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電線路 - 電力を輸送するためのケーブル。大電流・高電圧に対する要件が重要である。
通信線路 - 通信用に使用される電気回路の伝送路。高周波・減衰に対する要件が重要である。 | '''線路'''(せんろ)
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; 軌条
* [[鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]([[軌道 (鉄道)|軌道]])の構成要素。一般的な線路では、[[枕木]]上に棒状の[[鋼|鋼製品]]を二本平行に並べて敷設する。この鋼製品をレールと呼ぶ。レールの内側の間隔を[[軌間]](gauge)といい、各種の規格が用いられる。{{main|[[軌条]]}}
* 転じて、[[鉄道]]自身を指す。
; 設備
* 機器、装置を沿わせて[[ラック]]などの筐体に実装するためのガイド金具。<br>装置をラックから引き出しやすくするために伸縮式の構造を持つものをスライドレールという。
* 引き戸を戸車(引き戸側に取り付けた小型の[[軸受]]つき[[車輪]])を介して乗せて動かすための細長いガイド部材。戸レールあるいはドアレール。
; スポーツ
* [[スキー場]]に設置された、手すりを模した鉄製の棒。ハンドレールとも。雪面から30cm~1m程度上げて設置されており、この上を[[スキー]]や[[スノーボード]]でバランスを取りながら滑る。ハンドレールなどを滑走する行為をジブ(jibing)と呼ぶ。その形状によって、ストレートレール(地面と水平でまっすぐなレール)、キンクレール(斜度がついたレール)、カーブレールなど、様々ある。{{main|スキー|スノーボード}}
==関連項目==
*[[レイル]](曖昧さ回避)
; レールに関連する項目
* [[軌条]]、[[線路 (鉄道)]]、[[鉄道]]
* [[ラック]]、[[スライドレール]]
* [[引き戸]]、[[戸車]]、[[扉|ドア]]、[[カーテンレール]]
* [[パーク]]、[[ハーフパイプ]]、[[キッカー]]
* [[ピカティニー・レール]]
; レールを含む用語
* [[ガードレール]](道路にある[[防護柵 (道路)|防護柵]]の一種)
* [[Ruby_on_Rails|Ruby on Rails (ルビーオンレイルズ)]]
* [[レールガン|レールガン(電磁投射砲)]]
* [[Rail]]([[New Cinema 蜥蜴]]のアルバム)
* [[レール (HYの曲)]] ([[HY (バンド)|HY]]のシングル)
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5,243 | アントニオ・サリエリ | アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri [anˈtɔːnjo saˈljɛːri]、1750年8月18日 - 1825年5月7日)は、イタリアの作曲家。名前はアントーニオ・サリエーリと表記される場合もある。
神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。
彼はウィーンで作曲家として、特にイタリア・オペラ、室内楽それと宗教音楽において高い名声を博した。彼の43曲のオペラのうち、もっとも成功したのはパリのオペラ座で初演された『ダナオスの娘たち(Les Danaïdes)』(1784年)と『タラール(Tarare)』(1787年)だった。1778年、ミラノのスカラ座の開場を飾ったのも、彼の『見出されたエウローパ(Europa riconosciuta)』である。
死後はその名と作品を忘れられたが、ピーター・シェーファーによる戯曲『アマデウス』(1979年)、およびその映画版(1984年)の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。2003年に大メゾソプラノ歌手チェチーリア・バルトリがアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されている。
レニャーゴに生まれたサリエリは、幼少の頃からタルティーニの弟子であったヴァイオリニストの兄フランチェスコや、レニャーゴ大聖堂のオルガニストだったジュゼッペ・シモーニの音楽教育を受けた。1763年から翌年にかけて両親が相次いで死亡して孤児となり、はじめは兄のピエトロのいる北イタリアのパドヴァ、ついでヴェネツィアに住んで声楽と通奏低音を学んだ。
ウィーンで活躍していた作曲家フロリアン・レオポルト・ガスマンが1766年にヴェネツィアを訪れたときに当時15歳のサリエリの才能を評価し、彼をウィーンに連れていった。ガスマンはサリエリをウィーンの宮廷に紹介した。以後、サリエリはウィーンに留まり、ここでメタスタジオやグルックらの面識を得た。
サリエリは1768年に最初のオペラ『ヴェスタの処女(La Vestale)』を作曲した(上演されず、消失)。上演された最初のオペラはモリエールの戯曲『女学者』を原作とする同名のオペラ(Le donne letterate、リブレットはジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニによる)で、不在だった師のガスマンに代わって19歳のサリエリが作曲し、1770年1月10日にウィーンのブルク劇場で初演された。サリエリとボッケリーニはその後も協力してオペラを発表し続けたが、1772年の喜劇オペラ『ヴェネツィアの市(La fiera di Venezia)』で当たりを取り、サリエリの名声を確立した。
サリエリはグルックによるオペラ改革の支持者であり、早く1771年に最初のオペラ・セリア『アルミーダ(Armida)』(コルテッリーニのリブレット)を作曲しているが、非常にグルック的である。
1774年にガスマンが没すると、皇帝ヨーゼフ2世によってその後継者として宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督に任命された。ヨーゼフ2世が宮廷のイタリア・オペラ座を解散していた期間(1776-1783年)、サリエリはしばしばウィーンを離れて他のために作曲した。そのひとつ、1778-79年のヴェネツィアのカーニバルのために作曲した『やきもち焼きの学校(La scuola de' gelosi)』(マッツォーラのリブレット)は長くヨーロッパ各地で上演された。1780年にはウィーンに戻り、ドイツ語オペラ『煙突掃除人(Der Rauchfangkehrer)』(レオポルト・アウエンブルッガーのリブレット)を作曲して成功している。宮廷のイタリア・オペラ座が再開すると、サリエリは新たに宮廷詩人に任命されたロレンツォ・ダ・ポンテの台本作家としてのデビュー作となる『一日長者(Il ricco d'un giorno)』(1784年初演)を作曲したが失敗に終わった。ついでサリエリはジャンバッティスタ・カスティ (Giovanni Battista Casti) と組んでオペラ『トロフォーニオの洞窟(La grotta di Trofonio)』(1785年初演)を作曲したが、オフェーリア役のアンナ・ストラーチェ(ナンシー・ストレース)が病気で一時的に声を失ったために初演が延期された。このときに書かれた合作頌歌がカンタータ『オフェーリアの健康回復に寄せて』である。カスティとの共同作品としてサリエリはほかに『はじめに音楽、次に言葉(Prima la musica e poi le parole)』(1786年初演)、『タタールの大王フビライハーン(Cublai gran kan de' Tartari)』(当時のロシアを揶揄した内容で、政治的理由で上演されず)を作曲している。
当時、グルックは活動本拠をパリに移し、ウィーンの宮廷楽長であるジュゼッペ・ボンノは引退状態にあったため、サリエリが当時の宮廷でもっとも重要な作曲家になっていた。このために1778年のミラノ・スカラ座のこけら落としのためにオペラ『見出されたエウローパ(Europa riconosciuta)』(マッティア・ヴェラーツィ(英語版)のリブレット)を作曲する栄誉がサリエリに与えられた(ミラノは当時ハプスブルク帝国の支配下にあった)。1788年にボンノが没すると、その後継者として宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の1824年まで36年間その地位にあった。
サリエリはイタリアオペラの作曲家として成功したが、1784年から1787年にかけて3曲のフランス語オペラを作曲してパリで名声を得た。1784年に初演された『ダナオスの娘たち(Les Danaïdes)』は、はじめグルックとの共作として発表されたが、後にサリエリのみが作曲者であることが明らかにされた。次作『オラース兄弟(英語版)(Les Horaces)』(1786年)は失敗に終わったが、ボーマルシェの台本によって1787年に作曲したフランス語オペラ『タラール(Tarare)』では最大の成功を得た。ヨーゼフ2世の要望によって『タラール』はダ・ポンテによってイタリア語に翻案されて『オルムスの王アクスール(Axur, re d'Ormus)』として上演され、こちらも成功した。『タラール』に代表される後期の英雄喜劇あるいは英雄悲劇作品では、サリエリはオペラ・セリアとオペラ・ブッファ、あるいはイタリア・オペラとフランス・オペラという伝統的区分を融合して新しいジャンルの音楽を意図的に生み出している。
墺土戦争の勃発以降、宮廷でのオペラ活動は低調となった。サリエリは1790年を最後としてオペラから離れていたが、1795年以降ふたたび新作を発表するようになった。この時期の作品にはウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』を原作とするオペラ『ファルスタッフ(Falstaff, ossia Le tre burle)』(1799年上演)が含まれる。しかし1802年以降は新作を書かなくなった。その後は主に宮廷の教会用に宗教作品を書いた。1804年には大規模な『レクイエム ハ短調』を作曲し、1815年には最後の管弦楽作品である『スペインのラ・フォリアの主題による26の変奏曲 ニ短調』を作曲した。
1817年にはウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任し、また、ニューイヤーコンサートで有名なウィーン楽友協会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わっている。
亡くなる1年半ほど前からは認知症に苦しみ、1825年5月7日にウィーンで死去した。享年74歳。同年6月22日に行われたサリエリの追悼式では、1804年に作曲された自身の『レクイエム ハ短調』が初演された。
墓所はウイーン中央墓地、Oブロック(第2門を入って左側塀沿い)にある。イタリア出身のため、最後まで流暢なドイツ語が話せなかったといわれている。
サリエリは高い社会的地位を獲得し、しばしばフランツ・ヨーゼフ・ハイドンなどの著名な作曲家との交際があった。教育者としての評価も高く、彼の薫陶を受けた有名な生徒として、下記のような一流の作曲家が彼の指導の恩恵を受けた。
また、ベートーヴェンの『ウェリントンの勝利』初演に参加し、砲手や太鼓奏者のための副指揮者を担当していた。
サリエリに関する事柄で最も有名なのはモーツァルトと対立したことであり、1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいない。これはロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人のサリエリが標的にされたといわれている(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をするためだ」と主張していたという)。
但し、映画『アマデウス』などで描かれているような、彼が精神病院で余生を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは大きく異なる。実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは痛風と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えの無い噂に心を痛めていたらしく、弟子のイグナーツ・モシェレスにわざわざ自らの無実を訴えた所、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。
彼はそれ以前にも、ロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた事があり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。
実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。
また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を高く評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。一方、モーツァルトは1773年(17歳)にピアノのための『サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市」のアリア「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 ト長調 K. 180 (173a)』を作曲しており、ウィーンでの就職を狙って作られたと考えられている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してサリエリは葬儀に参列し、1793年1月2日、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼によりサリエリはモーツァルトの遺作『レクイエム ニ短調 K. 626』を初演した。
【演奏例】
これらの作品はどれもサリエリをモーツァルトに対し深い嫉妬を持ち、きわめて不誠実なことをした人物として描いている。しかし、映画『アマデウス』はサリエリへの新解釈としても知られる。なお『アマデウス』劇中でサリエリは大の甘党として描かれており、1冒頭の自殺未遂の直前、様子のおかしいサリエリに対して召使いが菓子を持参する。2宮中でモーツァルトを初めて目撃する直前、パーティー会場裏に準備された菓子をつまみ食いしようとする。3モーツァルトの妻コンスタンツェが相談に訪れた際に珍しい菓子を勧める。など菓子にまつわる描写が多々見られる。 | [
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"text": "これらの作品はどれもサリエリをモーツァルトに対し深い嫉妬を持ち、きわめて不誠実なことをした人物として描いている。しかし、映画『アマデウス』はサリエリへの新解釈としても知られる。なお『アマデウス』劇中でサリエリは大の甘党として描かれており、1冒頭の自殺未遂の直前、様子のおかしいサリエリに対して召使いが菓子を持参する。2宮中でモーツァルトを初めて目撃する直前、パーティー会場裏に準備された菓子をつまみ食いしようとする。3モーツァルトの妻コンスタンツェが相談に訪れた際に珍しい菓子を勧める。など菓子にまつわる描写が多々見られる。",
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}
] | アントニオ・サリエリは、イタリアの作曲家。名前はアントーニオ・サリエーリと表記される場合もある。 神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。 彼はウィーンで作曲家として、特にイタリア・オペラ、室内楽それと宗教音楽において高い名声を博した。彼の43曲のオペラのうち、もっとも成功したのはパリのオペラ座で初演された『ダナオスの娘たち』(1784年)と『タラール(Tarare)』(1787年)だった。1778年、ミラノのスカラ座の開場を飾ったのも、彼の『見出されたエウローパ』である。 死後はその名と作品を忘れられたが、ピーター・シェーファーによる戯曲『アマデウス』(1979年)、およびその映画版(1984年)の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。2003年に大メゾソプラノ歌手チェチーリア・バルトリがアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されている。 | {{出典の明記|date=2015年4月}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = アントニオ・サリエリ<br/>Antonio Salieri
| Img =Antonio Salieri painted by Joseph Willibrord Mähler.jpg
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| Background = classic
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
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{{Portal クラシック音楽}}
'''アントニオ・サリエリ'''(Antonio Salieri {{IPA-it|anˈtɔːnjo saˈljɛːri|}}、[[1750年]][[8月18日]] - [[1825年]][[5月7日]])は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。名前は'''アントーニオ・サリエーリ'''と表記される場合もある。
[[神聖ローマ皇帝]]・[[オーストリア皇帝]]に仕える[[宮廷楽長]]としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、また[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フランツ・リスト|リスト]]らを育てた名教育家でもあった。
彼はウィーンで作曲家として、特にイタリア・[[オペラ]]、[[室内楽]]それと[[宗教音楽]]において高い名声を博した。彼の43曲のオペラのうち、もっとも成功したのはパリのオペラ座で初演された『[[ダナオスの娘たち]]({{fr|''Les Danaïdes''}})』([[1784年]])と『[[タラール (サリエリ)|タラール]](''Tarare'')』([[1787年]])だった。[[1778年]]、[[ミラノ]]の[[スカラ座]]の開場を飾ったのも、彼の『見出されたエウローパ(''Europa riconosciuta'')』である。
死後はその名と作品を忘れられたが、[[ピーター・シェーファー]]による戯曲『[[アマデウス]]』([[1979年]])、およびその[[アマデウス_(映画)|映画版]]([[1984年]])の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。[[2003年]]に大[[メゾソプラノ]]歌手[[チェチーリア・バルトリ]]がアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、[[2009年]]からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭<ref>[http://www.teatrosalieri.it/index.asp?m0=cartellone&tipo=Salieri_Opera_Festival Salieri Opera Festival] {{it icon}}</ref>が毎年開催されている。
== 生涯 ==
[[レニャーゴ]]に生まれたサリエリは、幼少の頃から[[ジュゼッペ・タルティーニ|タルティーニ]]の弟子であった[[ヴァイオリニスト]]の兄フランチェスコや、レニャーゴ大聖堂のオルガニストだったジュゼッペ・シモーニの音楽教育を受けた{{sfnp|Blanchetti|2017}}。1763年から翌年にかけて両親が相次いで死亡して孤児となり、はじめは兄のピエトロのいる北イタリアの[[パドヴァ]]、ついで[[ヴェネツィア]]に住んで声楽と[[通奏低音]]を学んだ{{sfnp|Blanchetti|2017}}<ref name="naxos">{{citation|url=https://www.naxos.com/mainsite/blurbs_reviews.asp?item_code=8.554838&catNum=554838&filetype=About%20this%20Recording&language=English|title=SALIERI: Overtures|publisher=[[ナクソス (レコードレーベル)|Naxos]]}}</ref>。
[[ウィーン]]で活躍していた作曲家[[フロリアン・レオポルト・ガスマン]]が[[1766年]]にヴェネツィアを訪れたときに当時15歳のサリエリの才能を評価し、彼を[[ウィーン]]に連れていった。ガスマンはサリエリをウィーンの宮廷に紹介した。以後、サリエリはウィーンに留まり、ここで[[ピエトロ・メタスタージオ|メタスタジオ]]や[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]らの面識を得た<ref name="naxos"/><ref name="ndb">NDB</ref>。
サリエリは1768年に最初のオペラ『ヴェスタの処女(''La Vestale'')』を作曲した(上演されず、消失)。上演された最初のオペラは[[モリエール]]の戯曲『[[女学者]]』を原作とする同名のオペラ(''Le donne letterate''、[[リブレット (音楽)|リブレット]]は[[ジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニ]]による)で、不在だった師のガスマンに代わって19歳のサリエリが作曲し、1770年1月10日にウィーンの[[ブルク劇場]]で初演された<ref name="naxos"/><ref>{{cite journal|author=Daniel Heartz|year=1986-1987|title=Constructing 'Le nozze di Figaro|journal=Journal of the Royal Musical Association|volume=112|issue=1|page=82|jstor=766258}}</ref>{{sfnp|Heartz|1995|pp=425-428}}。サリエリとボッケリーニはその後も協力してオペラを発表し続けたが、1772年の喜劇オペラ『ヴェネツィアの市(''La fiera di Venezia'')』で当たりを取り、サリエリの名声を確立した{{sfnp|Heartz|1995|pp=428-432}}。
サリエリはグルックによるオペラ改革の支持者であり、早く1771年に最初のオペラ・セリア『アルミーダ(''Armida'')』([[マルコ・コルテッリーニ|コルテッリーニ]]のリブレット)を作曲しているが、非常にグルック的である<ref name="ndb"/>{{sfnp|Blanchetti|2017}}。
[[1774年]]にガスマンが没すると、皇帝[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]によってその後継者として宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督に任命された<ref name="naxos"/>{{sfnp|Heartz|1995|p=432}}。ヨーゼフ2世が宮廷のイタリア・オペラ座を解散していた期間(1776-1783年)、サリエリはしばしばウィーンを離れて他のために作曲した。そのひとつ、1778-79年のヴェネツィアのカーニバルのために作曲した『やきもち焼きの学校(''La scuola de' gelosi'')』(マッツォーラのリブレット)は長くヨーロッパ各地で上演された{{sfnp|Blanchetti|2017}}{{sfnp|Heartz|1995|pp=432-433}}。1780年にはウィーンに戻り、ドイツ語オペラ『煙突掃除人(''Der Rauchfangkehrer'')』([[レオポルト・アウエンブルッガー]]のリブレット)を作曲して成功している<ref name="ndb"/>{{sfnp|Blanchetti|2017}}。宮廷のイタリア・オペラ座が再開すると、サリエリは新たに宮廷詩人に任命された[[ロレンツォ・ダ・ポンテ]]の台本作家としてのデビュー作となる『一日長者(''Il ricco d'un giorno'')』(1784年初演)を作曲したが失敗に終わった{{sfnp|Blanchetti|2017}}。ついでサリエリはジャンバッティスタ・カスティ{{enlink|Giovanni Battista Casti}}と組んでオペラ『[[トロフォーニオの洞窟]](''La grotta di Trofonio'')』(1785年初演)を作曲したが、オフェーリア役の[[アンナ・ストラーチェ]](ナンシー・ストレース)が病気で一時的に声を失ったために初演が延期された。このときに書かれた合作頌歌がカンタータ『[[オフェーリアの健康回復に寄せて]]』である{{sfnp|Blanchetti|2017}}。カスティとの共同作品としてサリエリはほかに『[[はじめに音楽、次に言葉]](''Prima la musica e poi le parole'')』(1786年初演)、『タタールの大王フビライハーン(''Cublai gran kan de' Tartari'')』(当時のロシアを揶揄した内容で、政治的理由で上演されず)を作曲している{{sfnp|Blanchetti|2017}}。
当時、グルックは活動本拠を[[パリ]]に移し、ウィーンの[[宮廷楽長]]である[[ジュゼッペ・ボンノ]]は引退状態にあったため、サリエリが当時の宮廷でもっとも重要な作曲家になっていた。このために1778年のミラノ・[[スカラ座]]のこけら落としのためにオペラ『見出されたエウローパ(''Europa riconosciuta'')』({{仮リンク|マッティア・ヴェラーツィ|en|Mattia Verazi}}のリブレット)を作曲する栄誉がサリエリに与えられた(ミラノは当時[[ハプスブルク帝国]]の支配下にあった){{sfnp|Heartz|1995|p=433}}。[[1788年]]にボンノが没すると、その後継者として宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の[[1824年]]まで36年間その地位にあった<ref name="naxos"/>。
サリエリはイタリアオペラの作曲家として成功したが、1784年から1787年にかけて3曲のフランス語オペラを作曲して[[パリ]]で名声を得た。1784年に初演された『[[ダナオスの娘たち]](''Les Danaïdes'')』は、はじめグルックとの共作として発表されたが、後にサリエリのみが作曲者であることが明らかにされた{{sfnp|Blanchetti|2017}}。次作『{{仮リンク|オラース兄弟|en|Les Horaces}}(''Les Horaces'')』(1786年)は失敗に終わったが、[[カロン・ド・ボーマルシェ|ボーマルシェ]]の台本によって1787年に作曲したフランス語オペラ『[[タラール (サリエリ)|タラール]](''Tarare'')』では最大の成功を得た{{sfnp|Blanchetti|2017}}<ref name="naxos"/>。ヨーゼフ2世の要望によって『タラール』はダ・ポンテによってイタリア語に翻案されて『オルムスの王アクスール(''Axur, re d'Ormus'')』として上演され、こちらも成功した{{sfnp|Blanchetti|2017}}。『タラール』に代表される後期の英雄喜劇あるいは英雄悲劇作品では、サリエリは[[オペラ・セリア]]と[[オペラ・ブッファ]]、あるいはイタリア・オペラとフランス・オペラという伝統的区分を融合して新しいジャンルの音楽を意図的に生み出している<ref name="ndb"/>。
[[墺土戦争 (1787年-1791年)|墺土戦争]]の勃発以降、宮廷でのオペラ活動は低調となった。サリエリは1790年を最後としてオペラから離れていたが、1795年以降ふたたび新作を発表するようになった。この時期の作品には[[ウィリアム・シェイクスピア]]の戯曲『[[ウィンザーの陽気な女房たち]]』を原作とするオペラ『[[ファルスタッフ (サリエリ)|ファルスタッフ]](''Falstaff, ossia Le tre burle'')』(1799年上演)が含まれる。しかし1802年以降は新作を書かなくなった<ref name="dewit3">{{citation|url=http://www.salieri-online.com/bio3.php|title=Biography Part III|author=W. A. DeWit|publisher=salieri-online.com}}</ref>。その後は主に宮廷の教会用に宗教作品を書いた。1804年には大規模な『レクイエム ハ短調』を作曲し、1815年には最後の管弦楽作品である『スペインの[[フォリア|ラ・フォリア]]の主題による26の変奏曲 ニ短調』を作曲した<ref name="dewit3"/>。
[[1817年]]には[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン楽友協会音楽院]]の指導者に就任し、また、[[ニューイヤーコンサート]]で有名な[[ウィーン楽友協会]]の[[黄金ホール]]の設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わっている。
亡くなる1年半ほど前からは[[認知症]]に苦しみ、[[1825年]][[5月7日]]にウィーンで死去した。享年74歳。同年[[6月22日]]に行われたサリエリの追悼式では、1804年に作曲された自身の『レクイエム ハ短調』が初演された。
墓所はウイーン中央墓地、Oブロック(第2門を入って左側塀沿い)にある。{{要出典範囲|イタリア出身のため、最後まで流暢なドイツ語が話せなかったといわれている。|date=2020年12月}}
== 著名な作曲家への指導 ==
サリエリは高い社会的地位を獲得し、しばしば[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]などの著名な作曲家との交際があった。教育者としての評価も高く、彼の薫陶を受けた有名な生徒として、下記のような一流の作曲家が彼の指導の恩恵を受けた。
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]
* [[フランツ・シューベルト]]
* [[フランツ・リスト]]
* [[カール・チェルニー]]
* [[ヨハン・ネポムク・フンメル]]
* [[ジャコモ・マイアベーア]]
* [[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー]]
*: モーツァルトの遺作となった『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム ニ短調 K. 626]]』を完成させたことで知られる。
* [[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト]]
*: モーツァルトの息子。
また、ベートーヴェンの『[[ウェリントンの勝利]]』初演に参加し、砲手や太鼓奏者のための副指揮者を担当していた。
== モーツァルトとの対立 ==
サリエリに関する事柄で最も有名なのは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と対立したことであり、[[1820年代]]のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいない。これは[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]を担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人のサリエリが標的にされたといわれている(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をするためだ」と主張していたという)。
但し、映画『[[アマデウス_(映画)|アマデウス]]』などで描かれているような、彼が精神病院で余生を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは大きく異なる。実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは[[痛風]]と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えの無い噂に心を痛めていたらしく、弟子の[[イグナーツ・モシェレス]]にわざわざ自らの無実を訴えた所、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。
彼はそれ以前にも、ロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた事があり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。
実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。
また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『[[魔笛]]』を高く評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。一方、モーツァルトは1773年(17歳)にピアノのための『サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市」のアリア「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 ト長調 K. 180 (173a)』を作曲しており、ウィーンでの就職を狙って作られたと考えられている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してサリエリは葬儀に参列し、[[1793年]][[1月2日]]、[[ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン]]男爵の依頼によりサリエリはモーツァルトの遺作『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム ニ短調 K. 626]]』を初演した。
== 主要作品 ==
=== オペラ ===
* アルミーダ ''Armida'' ([[オペラ・セリア]]、初演:[[1771年]]6月2日 ウィーン)
* ヴェネツィアの市 ''La fiera di Venezia'' ([[オペラ・ブッファ]]、初演:[[1772年]]1月29日 ウィーン)
* 宿屋の女主人 ''La locandiera'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1773年]]6月8日 ウィーン)
* 見出されたエウローパ ''Europa riconosciuta'' (オペラ・セリア、初演:[[1778年]]8月3日 ミラノ)
* やきもち焼きの学校 ''La scuola de' gelosi'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1778年]]12月 ヴェネツィア)
* 護符 ''Il Talismano'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1779年]]8月21日 ミラノ、再演:[[1788年]]9月10日 ウィーン)
* セミラーミデ ''Semiramide'' (オペラ・セリア、初演:[[1782年]]1月14日 ミュンヘン)
* [[ダナオスの娘たち]] ''Les Danaïdes'' ([[トラジェディ・リリック]]、初演:[[1784年]]4月26日 パリ)
*: 当初は[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]]との合作として発表された。
* [[トロフォーニオの洞窟]] ''La grotta di Trofonio'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1785年]]10月12日 ウィーン)
* [[はじめに音楽、次に言葉]] ''Prima la musica e poi le parole'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1786年]]2月7日 ウィーン)
*: モーツァルトのオペラ『[[劇場支配人]]』と競作し、宮廷で初演された。
* {{仮リンク|オラース兄弟|en|Les Horaces}} ''Les Horaces'' (トラジェディ・リリック、初演:[[1786年]]12月2日 パリ)
* [[タラール (サリエリ)|タラール]] ''Tarare'' (トラジェディ・リリック、初演:[[1787年]]6月8日 パリ)
* オルムスの王アクスール ''Axur, re d'Ormus'' (オペラ・セリア、初演:[[1788年]]1月8日 ウィーン)【[http://www.youtube.com/watch?v=QKQZUW7Uf-8 演奏例]】
*: 『タラール』のイタリア語改訂版。アクスール王はタラールの主君にあたる。
* 花文字 ''La cifra'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1789年]]12月11日 ウィーン)
* ヘラクレイトスとデモクリトス ''Eraclito e Democrito'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1795年]]8月13日 ウィーン)
* ペルシャの女王パルミーラ ''Palmira, regina di Persia'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1795年]]10月14日 ウィーン)
* ムーア人 ''Il moro'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1796年]]8月7日 ウィーン)
* [[ファルスタッフ (サリエリ)|ファルスタッフ]] ''Falstaff, ossia Le tre burle'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1799年]]1月3日 ウィーン)
* ファルマクーザのチェーザレ ''Cesare in Farmacusa'' (オペラ・セリア、初演:[[1800年]]6月2日 ウィーン)
* アンジョリーナ ''L'Angiolina ossia Il matrimonio per Susurro'' (オペラ・ブッファ、初演:[[1800年]]10月22日 ウィーン)
* カプアのアンニーバレ ''Annibale in Capua'' (オペラ・セリア、初演:[[1801年]]5月19日 ウィーン)
=== 宗教作品 ===
* ミサ曲 ハ長調「Missa Stylo a Cappella」 (1767年)
* タントゥム・エルゴ ヘ長調 (1768年)
* ミサ曲 ニ長調『宮廷楽長のミサ(皇帝ミサ)』 (1788年)【[http://www.youtube.com/watch?v=YRZChoffh_Q 演奏例]】
* 戴冠式テ・デウム ニ長調 (1790年)
* ミサ曲 ハ長調「Proklamationsmesse」 (1799年)
* レクイエム ハ短調 (1804年) 【[http://www.youtube.com/watch?v=SEXFJPPWnhU 演奏例]】
* ミサ曲 ニ短調 (1805年)
* ミサ曲 変ロ長調 (1809年)
* キリエ ハ長調 (1812年、未完成)
* マニフィカト ハ長調 (1815年)
* マニフィカト ヘ長調 (1815年)
* レクイエム ニ短調 (1815~20年頃、断片のみ)
* インテ・ドミネ・スペラヴィ 変ホ長調 (1817年)
* キリエ ヘ長調 (断片のみ)
=== 管弦楽曲 ===
* 交響曲 ニ長調『[[聖名祝日]]』 (1775年)
*: 下記の『ヴェネツィア人』はサリエリ自身ではなく他者の手によるものなので、本作がサリエリが作曲した唯一の[[交響曲]]となっている。
* 交響曲 ニ長調『ヴェネツィア人』 (1778~79年) 【[http://www.youtube.com/watch?v=s1bRATRhSeA 演奏例]】
*: サリエリの作品を編集したイタリアの[[作曲家]]{{仮リンク|ルイージ・マレスカルキ|fr|Luigi Marescalchi}}が、『やきもち焼きの学校』(第1楽章)と『突然の出発』(第2、第3楽章)の序曲を組み合わせて演奏会用の3楽章形式の交響曲([[シンフォニア]])にしたものであり、サリエリ本人が3楽章形式で書いたわけではない。
* 11の行進曲 (1804年頃)
* 行進曲「[[ラントヴェーア (軍事)|ラントヴェーア]]」 (1809年)
* スペインのラ・フォリアによる26の変奏曲 ニ短調 (1815年)
=== 協奏曲 ===
* ピアノ協奏曲 ハ長調 (1773年) 【[http://www.youtube.com/watch?v=sjz6G7A6yvA 演奏例]】
* ピアノ協奏曲 変ロ長調 (1773年)
【[https://www.youtube.com/watch?v=xiDroZRF7YA 演奏例]】
* オルガン協奏曲 ハ長調 (1779年?) 【[http://www.youtube.com/watch?v=GC5lRtND9AA 演奏例]】
* フルートとオーボエのための協奏曲 ハ長調 (1774年) 【[http://www.youtube.com/watch?v=HnU-l0Zqwd4 演奏例]】
* オーボエ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲 ニ長調 (1770年) 【[http://www.youtube.com/watch?v=gHwvz5sM7JE 演奏例]】
* フルート(オーボエ)と弦楽のための室内協奏曲 ト長調 (作曲年不明) 【[http://www.youtube.com/watch?v=KUyBTNcUK58 演奏例]】
=== 室内楽曲 ===
* 2つのオーボエとファゴットのための三重奏曲 (作曲年不明)
** 第1番 ト長調
** 第2番 変ホ長調
** 第3番 ハ長調
* {{仮リンク|ピッコラ・セレナータ (サリエリ)|label=ピッコラ・セレナータ|en|Picciola serenata}} 変ロ長調 (1778年)
* フーガ ハ長調 (1818年)
=== 共作曲 ===
* カンタータ『[[オフェーリアの健康回復に寄せて]]』 (1785年)
*: モーツァルトらと共作したカンタータ。
== 関連作品 ==
*『[[モーツァルトとサリエリ]]』 - モーツァルトの対立というスキャンダルを元に、ロシアの大詩人[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]が劇詩を発表している。
**『[[モーツァルトとサリエリ (オペラ)|モーツァルトとサリエリ]]』 - 上記が原作の[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]によるオペラ
*『[[アマデウス]]』 - [[ピーター・シェーファー]]による戯曲([[1979年]])
**『[[アマデウス_(映画)|アマデウス]]』 - 上記の映画化作品で、[[第57回アカデミー賞|第57回]][[アカデミー作品賞]]を受賞([[1984年]]/[[2001年]]完全版)
これらの作品はどれもサリエリをモーツァルトに対し深い嫉妬を持ち、きわめて不誠実なことをした人物として描いている。しかし、映画『アマデウス』はサリエリへの新解釈としても知られる。なお『アマデウス』劇中でサリエリは大の[[甘党]]として描かれており、①冒頭の自殺未遂の直前、様子のおかしいサリエリに対して召使いが菓子を持参する。②宮中でモーツァルトを初めて目撃する直前、パーティー会場裏に準備された菓子をつまみ食いしようとする。③モーツァルトの妻コンスタンツェが相談に訪れた際に珍しい菓子を勧める。など菓子にまつわる描写が多々見られる。
== 関連文献 ==
*[[水谷彰良]]:『サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長(増補改訂新版)』、復刊ドットコム、ISBN 978-4835456249 (2019年1月19日)。
*[[遠藤雅司]]:『宮廷楽長サリエーリのお菓子な食卓 時空を超えて味わうオペラ飯』、[[春秋社]]、ISBN 978-4393485255 (2019年11月29日)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{citation|url=https://www.treccani.it/enciclopedia/antonio-salieri_(Dizionario-Biografico)|author=Blanchetti, Francesco|year=2017|chapter=SALIERI, Antonio|title=Dizionario Biografico degli Italiani|volume=82}}
* {{citation|first=Daniel|last=Heartz|year=1995|title=Haydn, Mozart, and the Viennese School, 1740-1780|publisher=W.W. Norton & Company|isbn=0393037126}}
* {{NDB|22|370|371|Salieri, Antonio|Niedermüller, Peter|118750909}}
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Salieri%2C_Antonio|cname=アントニオ・サリエリ}}
* {{Kotobank|サリエリ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さりえり あんとにお}}
[[Category:アントニオ・サリエリ|*]]
[[Category:イタリアの作曲家]]
[[Category:オーストリアの作曲家]]
[[Category:古典派の作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
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[[Category:ウィーン国立音楽大学の教員]]
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[[Category:19世紀イタリアの音楽家]]
[[Category:19世紀オーストリアの人物]]
[[Category:ウィーン中央墓地に埋葬された人物]]
[[Category:1750年生]]
[[Category:1825年没]] | null | 2023-07-19T10:40:43Z | false | false | false | [
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"Template:Cite journal"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AA |
5,245 | 黄檗宗 | 黄檗宗()は、日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする。本山は、隠元隆琦の開いた京都府宇治市の黄檗山()萬福寺。
黄檗宗の名は、中唐の僧の黄檗希運(? - 850年)の名に由来する。
教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる。黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる。
黄檗僧が伝える近世の中国文化は、医学・社会福祉・文人趣味の展開とも関係する。
日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。
承応3年(1654年)、中国臨済宗の僧の隠元隆琦により始まる。隠元隆琦の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202年 - 1280年)や無学祖元(1226年 - 1286年)等の師でもある無準師範(1177年 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630年 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めた。また元文5年(1740年)に第14代住持として和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33カ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
明治7年(1874年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年(1876年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
現在も臨済宗とは共同で財団法人を運営しており、公式ウェブサイトも両者合同で設置されている。
隠元隆琦の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元隆琦のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630年 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
黄檗宗に於ける読経は、現在も近世中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
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] | 黄檗宗は、日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦を開祖とする。本山は、隠元隆琦の開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺。 | {{出典の明記|date=2017年8月11日 (金) 08:32 (UTC)}}
{{読み仮名|'''黄檗宗'''|おうばくしゅう}}は、[[日本]]の三[[禅宗]]のうち、[[江戸時代]]開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派{{efn|三禅宗は他に臨済宗、曹洞宗。}}。江戸時代初期に来日した[[隠元隆琦]](1592 - 1673年)を開祖とする<ref name="ib109" /><ref name="コトバンク隠元">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9A%A0%E5%85%83-437284|title=隠元(インゲン)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-11}}</ref>。[[本山]]は、隠元隆琦の開いた[[京都府]][[宇治市]]の{{読み仮名|黄檗山|おうばくさん}}[[萬福寺]]<ref name="ib109">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=109 }}</ref>。
== 概要 ==
黄檗宗の名は、中[[唐]]の僧の[[黄檗希運]](? - 850年)の名に由来する<ref>{{要追加記述範囲|鎌田茂雄『中国仏教史』|date=2017-08-11|title=出版年、ページ番号が不明。}}</ref>{{efn|黄檗希運は唐の宣宗皇帝と[[臨済義玄]](? - 867年)の師である。}}。
[[教義]]・[[修行]]・[[儀礼]]・布教は日本[[臨済宗]]と異ならないとされる<ref name="ib109" />。黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]中期にかけて[[宋 (王朝)|宋]]と[[元 (王朝)|元]]の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、[[明]]末[[清]]初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して'''臨済正宗'''を名乗ったことによるとされる<ref name="ib109" />。
黄檗僧が伝える近世の中国文化は、[[医学]]・[[社会福祉]]・[[文人]]趣味の展開とも関係する<ref name="ib109" />。
== 歴史 ==
=== 時代背景 ===
日本の[[江戸時代]][[元和 (日本)|元和]]・[[寛永]]([[1615年]] - [[1644年]])のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、[[華僑]]が長崎に渡来して在住していた。とくに[[福州 (福建省)|福州]]出身者たちによって[[興福寺 (長崎市)|興福寺]]([[1624年]])、[[福済寺]]([[1628年]])、[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]([[1629年]])(いわゆる[[長崎三福寺]])が建てられ、明僧も多く招かれていた。
=== 創始 ===
[[承応]]3年([[1654年]])、中国臨済宗の僧の隠元隆琦により始まる。隠元隆琦の禅は、[[鎌倉時代]]の日本臨済宗の祖である[[円爾]](1202年 - 1280年)や[[無学祖元]](1226年 - 1286年)等の師でもある[[無準師範]](1177年 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で'''臨済正宗'''や'''臨済禅宗黄檗派'''を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である[[華厳宗|華厳]]、[[天台宗|天台]]、[[浄土宗|浄土]]等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
=== 隆盛 ===
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、[[鉄眼道光]](1630年 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めた。また[[元文]]5年([[1740年]])に第14代住持として和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33カ院に及び、[[1745年]]の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
明治7年([[1874年]])、明治政府[[教部省]]が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年([[1876年]])、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
現在も臨済宗とは共同で[[財団法人]]を運営しており、公式[[ウェブサイト]]も両者合同で設置されている。
== 鉄眼一切経 ==
隠元隆琦の法孫に当たる[[鉄眼道光]]は艱難辛苦の末に、隠元隆琦のもたらした明版[[大蔵経]]を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、[[了翁道覚]](1630年 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は[[重要文化財]]に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
[[画像:Obaku monks and priests.jpg|thumb|220px|萬福寺における新年法要]]
== 黄檗唐音 ==
黄檗宗に於ける読経は、現在も近世中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
== 黄檗法系略譜 ==
'''太字'''は渡来僧・<>は未顕法者・前置きの数字は萬福寺住持世代・''イタリック体''は渡来せず。
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== 寺院 ==
* [[萬福寺]] - 大本山。
* [[大年寺]] - [[仙台藩主]][[伊達氏]]の菩提寺。黄檗宗三大叢林。
* [[東光寺 (萩市)|東光寺]] - [[長州藩主]][[毛利氏]]の菩提寺。黄檗宗三大叢林。
* [[興禅寺 (鳥取市)|興禅寺]] - [[鳥取藩|鳥取藩主]][[池田氏]]の菩提寺。黄檗宗三大叢林。
* [[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]] - [[長崎三福寺]]。
* [[福済寺]] - 長崎三福寺。
* [[興福寺 (長崎市)|興福寺]] - 長崎三福寺。
* [[聖福寺 (長崎市)|聖福寺]] - 長崎三福寺に加えて長崎四福寺とする。
* [[祥應寺]] - 日本最大の柏樹([[コノテガシワ]])。
* [[弘福寺]] - 江戸における鳥取藩主池田氏の菩提寺。
* [[禅林寺 (三鷹市)|禅林寺]] - [[太宰治]]墓所。
* [[瑞聖寺]] - 黄檗宗系単立。 [[青木重兼]](開基)、[[木庵性瑫]](開山)。
* [[紹太寺]] - [[春日局]]墓所、[[小田原藩|小田原藩主]][[稲葉氏]]の菩提寺。
* [[正法寺 (岐阜市大仏町)|正法寺]] - 本尊の[[岐阜大仏]]で知られる。
* [[永慶寺]] - [[柳沢氏|柳沢吉保および柳沢氏]]の菩提寺。
* [[法雲寺 (堺市)|法雲寺]] - [[狭山藩|狭山藩主]][[後北条氏]]の菩提寺。
* [[仏日禅寺]] - [[麻田藩]][[青木氏]]の菩提寺。[[太田牛一]]菩提寺。
* [[福聚寺 (北九州市)|福聚寺]] - [[小倉藩|小倉藩主]][[小笠原氏]]の菩提寺。
* [[福厳寺 (柳川市)|福厳寺]] - [[柳川藩|柳川藩主]][[立花氏]]の菩提寺。
* [[普明寺 (鹿島市)|普明寺]] - [[佐賀藩]]の支藩鹿島藩主[[鍋島氏]]の菩提寺。
* [[宝林寺 (群馬県千代田町)|宝林寺]]
* [[少林山達磨寺]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 -->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
* 図録『黄檗の美術 江戸時代の文化を変えたもの』 [[京都国立博物館]]、1993年
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Buddhism portal}}
* [[普茶料理]](黄檗料理)
* [[煎茶道]]
* [[黄檗美術]]
* [[長崎派#黄檗派|長崎派]]
* [[インゲンマメ]]
* [[福清]]
* [[福州語]]
* [[河口慧海]]
== 外部リンク ==
* [http://www.rinnou.net/ 日本の禅 臨済宗・黄檗宗の公式サイト 臨黄ネット] - 臨黄寺院ネットワーク運営委員会
* [http://www.obakusan.or.jp/ 黄檗山大本山萬福寺]
* [http://www.hozen.or.jp/ 黄檗宗大本山塔頭宝善院(京都府宇治市)]
* [https://horinji.or.jp/ 黄檗宗眞福山宝林寺(群馬県邑楽郡)]
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* {{Kotobank|2=デジタル大辞泉}}
{{Buddhism-stub}}
{{禅}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おうはくしゆう}}
[[Category:黄檗宗|*]]
[[Category:禅宗]]
[[Category:仏教の宗派]]
[[Category:伝統宗派]]
[[Category:日本の仏教史|+おうはくしゆう]]<!--伝統宗派としての歴史の記述。-->
[[Category:江戸時代の中国系文化]]
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5,249 | 名古屋大学 | 名古屋大学(なごやだいがく、英語: Nagoya University)は、愛知県名古屋市千種区不老町1番に本部を置く日本の国立大学である。1939年創立、1939年大学設置。略称は名大(めいだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
名古屋大学は、1939年に創設された名古屋帝国大学を直接の母体とする国立大学である。前身の名古屋帝国大学は9番目(内地では7番目)に設立され、内地・外地を通じて「最後の帝国大学」であった。名古屋帝国大学創設当初は医学部と理工学部の2学部を設置し、1942年には理工学部を理学部と工学部に分離した。第二次世界大戦後の旧制学制残滓期間内に、法経学部と文学部の2学部を設置した。新制名古屋大学となった後も教育学部、農学部、情報文化学部等の学部や大学院研究科および附属研究教育施設を順次設置し続け、2018年時点、9学部・13研究科・3附置研究所を擁している。
大学の略称は「名大」であり、「めいだい」と発音する。この「名大」という略称は商標登録(登録商標日本第4861457号ほか)もされている。明治大学の略称である明大(めいだい)と発音が同じである等の理由から、一部では「なだい」や「なごだい(ナゴ大、名古大)」と発音する人もいるが、商標登録第4861457号の参考情報として付随している称呼が「メーダイ」である点からも窺えるように、公式には「めいだい」が正しい読みとされている。なお、明治大学の方は、東海地方周辺において「明治」または「明治大」あるいは明治大学(正式名)と呼ばれ、区別される場合がある。
名古屋大学の正式な創立年は、直接の母体である名古屋帝国大学が設置された1939年(昭和14年)である。
2009年(平成21年)には、名古屋県仮病院・仮医学校が設置された1871年(明治4年)を名古屋大学の「創基」とすることが創立70周年記念行事委員会において検討され、現在では「創立」とは別の概念として「創基」という言葉が用いられている。そのため、2019年(令和元年)は創立80周年、2021年(令和3年)は創基150周年として位置付けられていた。
創基という概念は北海道大学や山口大学、筑波大学など他の教育機関でも見られるが、その位置付けは各教育機関ごとに異なる。北海道大学は、前身の北海道帝国大学時代から創基という概念を使用しているが、同大学における創基は他大学における「開学」や「創立」と同じ概念である。一方で、大阪大学のように、創基と創立を分ける例も見受けられる。
関係者に7名のノーベル賞受賞者がいる。そのうち、名古屋大学を主たる研究教育の場として授与された者が3名(野依良治、赤﨑勇、天野浩)、名古屋大学より学士号が授与された卒業生は3名(小林誠、益川敏英、天野浩)。名古屋大学より博士号が授与され、後年ノーベル賞を受賞した者は5名(下村脩、小林誠、益川敏英、赤﨑勇、天野浩)である。2021年、真鍋淑郎元名大特別招へい教授が、ノーベル物理学賞を受賞した。
上海世界大学学術ランキング (ARWU) では、2019年は第90位、国内第3位である。
クアクアレリ・シモンズ社によるQS世界大学ランキング2020(2019年)では、第115位、国内6位である。
英誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』によるTHE世界大学ランキング2022-2023では、世界ランク第301-350位、アジア同点47位、国内同点5位(東京工業大学と同順位)である。
創立時に「建学の精神」などは明確に定められなかったものの、2000年に名古屋大学の基本理念の概要を示す『名古屋大学学術憲章』が定められた。この憲章において、自発性・創造性・先進性・国際性などの重視が示されており、「勇気ある知識人を育てる」ことが目標に掲げられている。なお、「勇気ある知識人」は国立大学法人名古屋大学によって商標登録(登録商標日本第4967427号)されている。
現在は、「自由・闊達・進取」を学風・特色としている。名古屋帝国大学が出来たばかりの頃は、初代総長が十七条憲法の一節で、自身の座右の銘であった「以和為貴」を大学全体の基本精神としていた。現在は『名古屋大学学術憲章』を定め、それを基に「3つの方針に基づく大学教育の質の向上」を公表している。
(沿革節の主要な出典は公式サイト)また、刊行物としては、名古屋大学史編集委員会編『名古屋大学五十年史』 通史1・2 (ISBN 481580270X); 部局史1・2 (ISBN 4815801266)名古屋大学出版会、 1989年-1995年 および 名古屋大学編『名古屋大学の歴史 1871~2019』上(ISBN 9784815810634)・下(ISBN 9784815810641) 名古屋大学出版会、2022年を参照。 なお、後者は2023年度以降、全学教育科目「現代教養科目」中の講義科目「名古屋大学の歴史」の公式テキストと位置づけられている。
尾張藩種痘所取締であった伊藤圭介・石井隆庵ら3名が、版籍奉還後の名古屋藩庁に提出した建議書を基に廃藩置県直後の1871年8月9日、「仮病院・仮医学校」が開設された。以後仮病院・仮医学校は名古屋県の行政運営上の事情や財政難から廃止・復興の繰り返しの後、公立病院・医学講習所という形で存続。その後1903年の専門学校令に基づき愛知県立医学専門学校となり、1920年には大学令に基づき大学に昇格し、県立愛知医科大学と改称する。1931年には国へ移管され官立名古屋医科大学となった。この官立大学誕生を契機として、同医科大の前身学校時代から既に同学校内および愛知県政財界を中心に展開されていた帝大誘致・設立運動が結実、1939年に官立名古屋医科大学を吸収させる形で名古屋帝国大学が創設される。同時に官立名古屋医科大学は名古屋帝国大学医学部へ改組された。ただし名古屋帝国大学の創設資金900万円(当時)は、地元愛知県が国庫へ全額寄付するという形での設立となった。こうした創設経緯から、名古屋帝国大学は創設時には文科系学部は存在せず、理工学部と医学部のみの学部編成であった。
第二次世界大戦後、まず帝国大学令等の旧制度廃止直前の1948年に「(旧制)名古屋(帝国)大学」の下、法経・文の2学部が設置されたことで、文科系理科系の両系統学部群が揃うこととなった。その上で、教育制度改革に伴う高等教育機関の一本化という行政施策に伴って、愛知県各地域に散在していた旧制官立学校が新制名古屋大学へ包括されて合流する。名古屋高等商業学校は法経学部経済経営両学科、第八高等学校および岡崎高等師範学校は旧教養部、それぞれ設立母体となった。
大学院は、名古屋帝国大学各学部に大学令に基づいた研究科が置かれた時点からの歴史がある。第二次世界大戦後、学校教育法に基づき新制大学院制度が発足すると1953年から1955年にかけて理学、工学、法学、経済学、文学、教育学、医学、農学の8研究科が設置される。しかし大学への予算配分や教官配置の基礎は学部内の講座 (chair) 制に置かれていた。1991年に当時の文部省が示した大学設置基準の大綱化を基に大学院の部局化を本格化する。これは事実上の大学院重点化であった。具体的には独立大学院の設置と教養部廃止を前提に大学院研究科を大学における研究・教育の基軸として再編するという2つの施策を実施している。前者は、1991年の国際開発研究科、1992年人間情報学研究科(後述する教養部改組措置を兼ねた研究科として誕生)、1995年の多元数理科学研究科、1998年の国際言語文化研究科の各研究科設置という形で実現した。また、後者は教養部を改組の上、前述した人間情報学研究科と情報文化学部(1993年)を創設、1993年に教養部を廃止すると全学一貫教育体制に移行した上で1996年に理、1997年に工、1999年に法、医、生命農学、2000年文、教、経済と各学問分野において大学院重点化を完了させることで実現している。
2001年に表明された文部科学省の方針に基づき、2004年に国立大学法人名古屋大学が発足し、名古屋大学は同法人が設置する大学となる。また同年、法科大学院として法学研究科に実務法曹養成専攻を設置している。
21世紀以降の通信手段の発達に伴い、情報・文化を包括的にとらえるため、2017年、情報文化学部、工学部電気電子・情報工学科を改組し、情報学部を設置。情報科学研究科を改組し、情報学研究科を設置。文学研究科、国際言語文化研究科などを統合し人文学研究科を設置した。
2018年3月、指定国立大学法人に指定される。
先の「大学(国立大学)の構造改革の方針」公表後、2002年9月に名古屋大学は評議会で豊橋技術科学大学と統合を前提とした協議の開始を決定したこと、および愛知教育大学からの統合の要請に対する協議の開始を各部局で検討するとの報道があった。2008年2月18日の名古屋大学役員会では「豊橋技術科学大学との再編・統合に関する協議について」が議題に挙がったが、豊橋技術科学大学との統合は実現しなかった。2018年12月には国立大学法人名古屋大学と国立大学法人岐阜大学が国立大学法人東海国立大学機構の設立に向けて合意し、2020年4月1日に東海国立大学機構が発足した。
シンボルマークは、Nagoya University の頭文字「nu」に篆書体の「名大」を合成したもので、通称「NUマーク」である。名古屋大学学章規程により正式に定められている。1958年に教養部2年の学生によるデザインが学内公募により選定され、それを基に作成された。
スクールカラーは濃緑である。『濃緑』は、名古屋大学体育会の機関紙の名称にもなっている。その機関紙によると、「濃は不屈・永遠を表し、緑は若さを表す」とされている。
名古屋大学には正式な校歌や大学歌は存在しないが、以下に示す歌が存在する。
以下、特記していない専攻は博士前期課程・博士後期課程である。一部、2016年度以前の情報を含む。
附属図書館は中央館、医学部分館、34の部局図書室がある。総蔵書数は約327万冊(2014年度時点)。年間利用者は中央館のみで延べ約68万6千人、貸出冊数は約16万冊(2014年度)である。
2000年4月、日本の大学が設置する5番目の総合大学博物館として、東山キャンパスの古川記念館内に開館された。名古屋大学所蔵の学術標本・資料、ならびに大学における研究成果のフィードバック・資源化・社会還元を総合的にかつ国際的に行うことを目的としている。
一般財団法人名古屋大学出版会は、正確には附属機関ではなく独立採算制を執る独立した機関であるが、名大東山キャンパス大学広報プラザ内に事務所があることや理事長は名大教授であり、名古屋大学はじめ中部地区大学関係者の書籍を発行することを目的としているため、本節にまとめた。主に学術書や大学の講義で使う教科書などを出している。
以下の14件のプロジェクトが採択された。
以下の7件のプロジェクトが採択されている。
大学祭は「名大祭」と呼ばれ、1960年から毎年、6月の第1木曜日から次の日曜日に掛けての4日間開催される。また、近年は秋季にも「秋革祭(しゅうかくさい)」と呼ばれるやや小規模なイベントも行われている。一般的には、大学祭は秋季に行われることが多いが、「名大祭」はその第一回開催時に伊勢湾台風の影響で延期となり、翌年の6月に第一回が行われたため、その後も6月に行われることとなった。
当時の名古屋大学は多くのキャンパスが市内や周辺市域に分散していた蛸足大学だったため、大学全体としての学生の結束が弱いとされた。しかしキャンパスが東山地区に統合されるとともに、安保闘争や伊勢湾台風復興を契機に学生運動が高揚すると、大学祭開催への機運が高まり、1960年に第一回名大祭の開催を見た。しかし各学部の学生団体がそれぞれ企画を催すなどのばらつきも見られた。
現在では教養部を除く各学部の団体が統合された名大祭本部実行委員会と呼ばれる団体が6月の名大祭を主催し、教養部の団体の名残である名大祭一・二年生実行委員会が秋季の秋革祭を主催している。特に名大祭は多くの研究室・部活・サークルの成果の発表の場として、また全学学生の団結力を示す場として位置付けられている。来場者は毎年約5万人程度であり、その規模は東海地方で最大を誇る。またバリアフリーとごみの再資源化に早くから取り組んでいる。
2008年に開催された第49回名大祭の模擬店において、大規模な食中毒が発生した。翌年の第50回名大祭においては原因調査と再発防止体制確立のため、飲食物を取り扱う企画の自粛対応がなされたが、第51回からは体制が整ったとして飲食物を取り扱う企画が再開された。
1956年に名古屋大学体育会が結成され、1961年に大学公認を受けている。同会に所属する部の中には、陸上競技部や漕艇部など旧愛知医学校や第八高等学校からの歴史がある部も存在する。また、全国の旧帝国大学と共に全国七大学総合体育大会に参加している。また、大阪大学との対抗戦として名古屋大学・大阪大学対抗競技大会(名阪戦)を行っている。
1964年からは毎年11月下旬に須賀杯争奪駅伝競走大会が開催されている。これは名古屋大学教授で陸上部顧問(当時)を務めていた須賀太郎が、1963年に豊田工業高等専門学校の初代校長に就任し、同校のスポーツ振興に力を注いだことに由来する。大学と高専が共催するスポーツ大会は日本国内では珍しい。
アメリカンフットボール部の愛称は「グランパス」である。名古屋グランパス創設以前から歴史があり、名古屋グランパスの関係者がグランパスの名前を使用する許可を求めて同部を訪れた逸話がある。
文化系のクラブ活動も盛んである。特に1984年に設立した名古屋大学クイズ研究会では、現役生やOB/OGを問わず、同会出身の解答者がテレビのクイズ番組で優秀な成績を残すなど、国立大学ではトップ級のクイズ研究会である。
その他にも、名古屋大学アニメ声優研究連は、中部地方唯一で、また日本の大学でも極めて少数派の声優専門サークルとしてイベントの運営を行っている。
旧帝国大学の出身者および学長、教授、助教授・准教授経験者で構成される団体として一般社団法人学士会があり、名古屋大学関係者も多数入会している。
上述のように施設が東山地区に統合されたのが1950年代であり、そのためキャンパス内に他の旧帝国大学に見られるような戦前に建てられた歴史的建造物はほとんど存在しない。下記の各キャンパスに加えて、産学官連携などを目的として、「名古屋大学オープンイノベーション拠点」を名古屋駅前のJRゲートタワー内に、東京オフィスを三菱ビルヂング(東京都千代田区丸の内)に持つ。
東山キャンパスは東西に長い長方形のような形をしており、キャンパスのほぼ中央を南北に貫く公道(山手グリーンロード)によって西地区と東地区に分けられる。そのためかこのキャンパスには正門が存在しない。東地区は丘陵となっており、山手グリーンロードと最高点で約30mの高低差がある。キャンパスの中心にはグリーンベルト(緑地帯)が東西に走っており、西地区のグリーンベルトには中央図書館、東地区のグリーンベルトには豊田講堂がある。西地区の南側が文系地区となっており、西地区の北側は工学研究科を中心とした理系地区および名古屋大学教育学部附属学校となっている。東地区は理系地区および野球場、サッカー兼陸上競技場、テニスコートなどのスポーツ施設などとなっている。また、大学を東西に貫くグリーンベルトは若宮大通(100メートル道路)の延長線上にある。名古屋市の都市計画では、若宮大通の東端を名古屋大学東山キャンパスへ接続するという想定が存在していたことが影響していたのではないかという説がある。
東山キャンパスは、地図上では名古屋市千種区にある複数の町区画にまたがっているが、郵便物を速く確実に届けるために郵便の宛先は「名古屋市千種区不老町」に統一され、構内各所に学内住所番号を割り振っている。(本部の所在地は、地図上では千種区仁座町。不老町は図書館や工学部1号館、2号館、3号館、7号館などがある場所)。不老町以外にも東山キャンパス内に完全に含まれるため郵便の宛先とする個所が存在しなくなった町がいくつかある。また、現在の千種区と昭和区の区界は大学のキャンパスに沿って引かれているが、この線引きのために区をまたいで分断され、両区にまたがって存在する町名もある。
キャンパスの真下に名古屋市営地下鉄名城線が通過しており、キャンパス内に名古屋大学駅がある。地下鉄の建設工事に伴い、精密測定機器の精度を守るために一部施設が東山キャンパス外に移転するなどした。また、東山キャンパス内を東西に通る地下鉄の新線(東部線)の構想があるが、新線自体について2009年に建設の凍結が提言されている。
FOREST(フォレスト)は、東山キャンパス北東部(理系地区)の理系中華食堂・理系カフェテリアを全面改築・改修して作られた、名大生協運営の福利厚生施設の総称。理系専門書店の Books Fronte、カフェの Cafe Fronte、食堂の Dining Forest から構成される。FOREST というネーミングは一般公募の結果、名大生協事務員の案が採用された。「FOREST」は「For Eat Study Talk」という意味が込められている。
理系中華食堂は2005年夏に取り壊され、新たに Fronte(フロンテ)が建てられた。この建物はこれまでの生協の剰余金(いわゆる利益)のみを利用して建設された。2006年5月に今まで理系書を取り扱ってきた北部書籍が移転する形で、Books Fronte、そして建物内で隣接する Cafe Fronte がオープンした。Books Fronte は2006年5月時点、日本の大学生協では最大の書籍を陳列している理系専門書店である。カフェにはパソコンを利用できるスペースがあり、名古屋大学無線ネットワーク実証実験 (nuwnet) を利用してインターネットへ接続することも可能となっている。
理系カフェテリアは2006年の夏季長期休暇中を中心に改修され、Dining Forestとして10月2日にオープンした。
鶴舞キャンパスは昭和区鶴舞町と千種区花田町にまたがっており、東山キャンパスの8分の1程度の広さを持つ。北部には研究棟や図書館の医学部分館などがあり、南部には附属病院(名大病院)の病棟や診療棟などがある。また、キャンパスの東側には名古屋工業大学、南側には名古屋市公会堂などがある鶴舞公園が隣接しており、北側は若宮大通に面している。なお、鶴舞キャンパスにはローソンが3店舗存在する。
大幸キャンパスは東区大幸南にあり、鶴舞キャンパスの半分強の広さを持つ。北部には保健学科本館・南館・別館、中心部には大幸医療センター、南部には運動場などがある。また、キャンパスの東には愛知教育大学附属名古屋小学校・愛知教育大学附属名古屋中学校、南西にはナゴヤドームがある。
山手キャンパス
留学生や海外からの研究生が住むインターナショナルレジデンス山手、日本人と留学生の寮である国際嚶鳴館(こくさいおうめいかん)がある。
東山キャンパスには大学生協の運営する北部食堂・南部食堂・フレンドリィ南部・Dining Forest・レストラン花の木・Cafe Fronte・IBカフェと、外部業者の運営するユニバーサルクラブなどがある。このうち工学部エリアに位置する北部食堂は定食を扱う「北部食堂」、ラーメン類を扱う「麺コーナー」、うどんやそば、丼ものを扱う「ゆ~どん」からなる。
さらに2010年、中央図書館2Fにスターバックスがオープンした。鶴舞キャンパスには医学部食堂が、大幸キャンパスには大幸食堂があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である。
東山キャンパスには北部購買、南部購買、南部書籍、パンだが屋、プランゾ、Books Fronte、理系ショップ、ラボショップがある。鶴舞キャンパスには医学部購買、医学部書籍が、大幸キャンパスには大幸購買書籍があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である。
東山キャンパスに2006年7月24日開店したファミリーマート名古屋大学店は、日本初となるコンビニエンスストアと国立大学の産学連携の試みの一環として設置された。店内では通常のコンビニエンスストアとしての機能を持つほか、研究発表用の「マルチスタディールーム」が設けられている。2012年1月5日には構内2号店となるファミリーマート名古屋大学IB館店も開店した。
学術研究・産学官連携推進本部を設けて、企業や地方自治体との産学官連携や大学発ベンチャー企業の支援に取り組んでいる。 | [
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"text": "大学院は、名古屋帝国大学各学部に大学令に基づいた研究科が置かれた時点からの歴史がある。第二次世界大戦後、学校教育法に基づき新制大学院制度が発足すると1953年から1955年にかけて理学、工学、法学、経済学、文学、教育学、医学、農学の8研究科が設置される。しかし大学への予算配分や教官配置の基礎は学部内の講座 (chair) 制に置かれていた。1991年に当時の文部省が示した大学設置基準の大綱化を基に大学院の部局化を本格化する。これは事実上の大学院重点化であった。具体的には独立大学院の設置と教養部廃止を前提に大学院研究科を大学における研究・教育の基軸として再編するという2つの施策を実施している。前者は、1991年の国際開発研究科、1992年人間情報学研究科(後述する教養部改組措置を兼ねた研究科として誕生)、1995年の多元数理科学研究科、1998年の国際言語文化研究科の各研究科設置という形で実現した。また、後者は教養部を改組の上、前述した人間情報学研究科と情報文化学部(1993年)を創設、1993年に教養部を廃止すると全学一貫教育体制に移行した上で1996年に理、1997年に工、1999年に法、医、生命農学、2000年文、教、経済と各学問分野において大学院重点化を完了させることで実現している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2001年に表明された文部科学省の方針に基づき、2004年に国立大学法人名古屋大学が発足し、名古屋大学は同法人が設置する大学となる。また同年、法科大学院として法学研究科に実務法曹養成専攻を設置している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "21世紀以降の通信手段の発達に伴い、情報・文化を包括的にとらえるため、2017年、情報文化学部、工学部電気電子・情報工学科を改組し、情報学部を設置。情報科学研究科を改組し、情報学研究科を設置。文学研究科、国際言語文化研究科などを統合し人文学研究科を設置した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2018年3月、指定国立大学法人に指定される。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "先の「大学(国立大学)の構造改革の方針」公表後、2002年9月に名古屋大学は評議会で豊橋技術科学大学と統合を前提とした協議の開始を決定したこと、および愛知教育大学からの統合の要請に対する協議の開始を各部局で検討するとの報道があった。2008年2月18日の名古屋大学役員会では「豊橋技術科学大学との再編・統合に関する協議について」が議題に挙がったが、豊橋技術科学大学との統合は実現しなかった。2018年12月には国立大学法人名古屋大学と国立大学法人岐阜大学が国立大学法人東海国立大学機構の設立に向けて合意し、2020年4月1日に東海国立大学機構が発足した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "シンボルマークは、Nagoya University の頭文字「nu」に篆書体の「名大」を合成したもので、通称「NUマーク」である。名古屋大学学章規程により正式に定められている。1958年に教養部2年の学生によるデザインが学内公募により選定され、それを基に作成された。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "スクールカラーは濃緑である。『濃緑』は、名古屋大学体育会の機関紙の名称にもなっている。その機関紙によると、「濃は不屈・永遠を表し、緑は若さを表す」とされている。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "名古屋大学には正式な校歌や大学歌は存在しないが、以下に示す歌が存在する。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "以下、特記していない専攻は博士前期課程・博士後期課程である。一部、2016年度以前の情報を含む。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "附属図書館は中央館、医学部分館、34の部局図書室がある。総蔵書数は約327万冊(2014年度時点)。年間利用者は中央館のみで延べ約68万6千人、貸出冊数は約16万冊(2014年度)である。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2000年4月、日本の大学が設置する5番目の総合大学博物館として、東山キャンパスの古川記念館内に開館された。名古屋大学所蔵の学術標本・資料、ならびに大学における研究成果のフィードバック・資源化・社会還元を総合的にかつ国際的に行うことを目的としている。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一般財団法人名古屋大学出版会は、正確には附属機関ではなく独立採算制を執る独立した機関であるが、名大東山キャンパス大学広報プラザ内に事務所があることや理事長は名大教授であり、名古屋大学はじめ中部地区大学関係者の書籍を発行することを目的としているため、本節にまとめた。主に学術書や大学の講義で使う教科書などを出している。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下の14件のプロジェクトが採択された。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "以下の7件のプロジェクトが採択されている。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "大学祭は「名大祭」と呼ばれ、1960年から毎年、6月の第1木曜日から次の日曜日に掛けての4日間開催される。また、近年は秋季にも「秋革祭(しゅうかくさい)」と呼ばれるやや小規模なイベントも行われている。一般的には、大学祭は秋季に行われることが多いが、「名大祭」はその第一回開催時に伊勢湾台風の影響で延期となり、翌年の6月に第一回が行われたため、その後も6月に行われることとなった。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "当時の名古屋大学は多くのキャンパスが市内や周辺市域に分散していた蛸足大学だったため、大学全体としての学生の結束が弱いとされた。しかしキャンパスが東山地区に統合されるとともに、安保闘争や伊勢湾台風復興を契機に学生運動が高揚すると、大学祭開催への機運が高まり、1960年に第一回名大祭の開催を見た。しかし各学部の学生団体がそれぞれ企画を催すなどのばらつきも見られた。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現在では教養部を除く各学部の団体が統合された名大祭本部実行委員会と呼ばれる団体が6月の名大祭を主催し、教養部の団体の名残である名大祭一・二年生実行委員会が秋季の秋革祭を主催している。特に名大祭は多くの研究室・部活・サークルの成果の発表の場として、また全学学生の団結力を示す場として位置付けられている。来場者は毎年約5万人程度であり、その規模は東海地方で最大を誇る。またバリアフリーとごみの再資源化に早くから取り組んでいる。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2008年に開催された第49回名大祭の模擬店において、大規模な食中毒が発生した。翌年の第50回名大祭においては原因調査と再発防止体制確立のため、飲食物を取り扱う企画の自粛対応がなされたが、第51回からは体制が整ったとして飲食物を取り扱う企画が再開された。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1956年に名古屋大学体育会が結成され、1961年に大学公認を受けている。同会に所属する部の中には、陸上競技部や漕艇部など旧愛知医学校や第八高等学校からの歴史がある部も存在する。また、全国の旧帝国大学と共に全国七大学総合体育大会に参加している。また、大阪大学との対抗戦として名古屋大学・大阪大学対抗競技大会(名阪戦)を行っている。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1964年からは毎年11月下旬に須賀杯争奪駅伝競走大会が開催されている。これは名古屋大学教授で陸上部顧問(当時)を務めていた須賀太郎が、1963年に豊田工業高等専門学校の初代校長に就任し、同校のスポーツ振興に力を注いだことに由来する。大学と高専が共催するスポーツ大会は日本国内では珍しい。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アメリカンフットボール部の愛称は「グランパス」である。名古屋グランパス創設以前から歴史があり、名古屋グランパスの関係者がグランパスの名前を使用する許可を求めて同部を訪れた逸話がある。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "文化系のクラブ活動も盛んである。特に1984年に設立した名古屋大学クイズ研究会では、現役生やOB/OGを問わず、同会出身の解答者がテレビのクイズ番組で優秀な成績を残すなど、国立大学ではトップ級のクイズ研究会である。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その他にも、名古屋大学アニメ声優研究連は、中部地方唯一で、また日本の大学でも極めて少数派の声優専門サークルとしてイベントの運営を行っている。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "旧帝国大学の出身者および学長、教授、助教授・准教授経験者で構成される団体として一般社団法人学士会があり、名古屋大学関係者も多数入会している。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "上述のように施設が東山地区に統合されたのが1950年代であり、そのためキャンパス内に他の旧帝国大学に見られるような戦前に建てられた歴史的建造物はほとんど存在しない。下記の各キャンパスに加えて、産学官連携などを目的として、「名古屋大学オープンイノベーション拠点」を名古屋駅前のJRゲートタワー内に、東京オフィスを三菱ビルヂング(東京都千代田区丸の内)に持つ。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "東山キャンパスは東西に長い長方形のような形をしており、キャンパスのほぼ中央を南北に貫く公道(山手グリーンロード)によって西地区と東地区に分けられる。そのためかこのキャンパスには正門が存在しない。東地区は丘陵となっており、山手グリーンロードと最高点で約30mの高低差がある。キャンパスの中心にはグリーンベルト(緑地帯)が東西に走っており、西地区のグリーンベルトには中央図書館、東地区のグリーンベルトには豊田講堂がある。西地区の南側が文系地区となっており、西地区の北側は工学研究科を中心とした理系地区および名古屋大学教育学部附属学校となっている。東地区は理系地区および野球場、サッカー兼陸上競技場、テニスコートなどのスポーツ施設などとなっている。また、大学を東西に貫くグリーンベルトは若宮大通(100メートル道路)の延長線上にある。名古屋市の都市計画では、若宮大通の東端を名古屋大学東山キャンパスへ接続するという想定が存在していたことが影響していたのではないかという説がある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "東山キャンパスは、地図上では名古屋市千種区にある複数の町区画にまたがっているが、郵便物を速く確実に届けるために郵便の宛先は「名古屋市千種区不老町」に統一され、構内各所に学内住所番号を割り振っている。(本部の所在地は、地図上では千種区仁座町。不老町は図書館や工学部1号館、2号館、3号館、7号館などがある場所)。不老町以外にも東山キャンパス内に完全に含まれるため郵便の宛先とする個所が存在しなくなった町がいくつかある。また、現在の千種区と昭和区の区界は大学のキャンパスに沿って引かれているが、この線引きのために区をまたいで分断され、両区にまたがって存在する町名もある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "キャンパスの真下に名古屋市営地下鉄名城線が通過しており、キャンパス内に名古屋大学駅がある。地下鉄の建設工事に伴い、精密測定機器の精度を守るために一部施設が東山キャンパス外に移転するなどした。また、東山キャンパス内を東西に通る地下鉄の新線(東部線)の構想があるが、新線自体について2009年に建設の凍結が提言されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "FOREST(フォレスト)は、東山キャンパス北東部(理系地区)の理系中華食堂・理系カフェテリアを全面改築・改修して作られた、名大生協運営の福利厚生施設の総称。理系専門書店の Books Fronte、カフェの Cafe Fronte、食堂の Dining Forest から構成される。FOREST というネーミングは一般公募の結果、名大生協事務員の案が採用された。「FOREST」は「For Eat Study Talk」という意味が込められている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "理系中華食堂は2005年夏に取り壊され、新たに Fronte(フロンテ)が建てられた。この建物はこれまでの生協の剰余金(いわゆる利益)のみを利用して建設された。2006年5月に今まで理系書を取り扱ってきた北部書籍が移転する形で、Books Fronte、そして建物内で隣接する Cafe Fronte がオープンした。Books Fronte は2006年5月時点、日本の大学生協では最大の書籍を陳列している理系専門書店である。カフェにはパソコンを利用できるスペースがあり、名古屋大学無線ネットワーク実証実験 (nuwnet) を利用してインターネットへ接続することも可能となっている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "理系カフェテリアは2006年の夏季長期休暇中を中心に改修され、Dining Forestとして10月2日にオープンした。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "鶴舞キャンパスは昭和区鶴舞町と千種区花田町にまたがっており、東山キャンパスの8分の1程度の広さを持つ。北部には研究棟や図書館の医学部分館などがあり、南部には附属病院(名大病院)の病棟や診療棟などがある。また、キャンパスの東側には名古屋工業大学、南側には名古屋市公会堂などがある鶴舞公園が隣接しており、北側は若宮大通に面している。なお、鶴舞キャンパスにはローソンが3店舗存在する。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "大幸キャンパスは東区大幸南にあり、鶴舞キャンパスの半分強の広さを持つ。北部には保健学科本館・南館・別館、中心部には大幸医療センター、南部には運動場などがある。また、キャンパスの東には愛知教育大学附属名古屋小学校・愛知教育大学附属名古屋中学校、南西にはナゴヤドームがある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "山手キャンパス",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "留学生や海外からの研究生が住むインターナショナルレジデンス山手、日本人と留学生の寮である国際嚶鳴館(こくさいおうめいかん)がある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "東山キャンパスには大学生協の運営する北部食堂・南部食堂・フレンドリィ南部・Dining Forest・レストラン花の木・Cafe Fronte・IBカフェと、外部業者の運営するユニバーサルクラブなどがある。このうち工学部エリアに位置する北部食堂は定食を扱う「北部食堂」、ラーメン類を扱う「麺コーナー」、うどんやそば、丼ものを扱う「ゆ~どん」からなる。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "さらに2010年、中央図書館2Fにスターバックスがオープンした。鶴舞キャンパスには医学部食堂が、大幸キャンパスには大幸食堂があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "東山キャンパスには北部購買、南部購買、南部書籍、パンだが屋、プランゾ、Books Fronte、理系ショップ、ラボショップがある。鶴舞キャンパスには医学部購買、医学部書籍が、大幸キャンパスには大幸購買書籍があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "東山キャンパスに2006年7月24日開店したファミリーマート名古屋大学店は、日本初となるコンビニエンスストアと国立大学の産学連携の試みの一環として設置された。店内では通常のコンビニエンスストアとしての機能を持つほか、研究発表用の「マルチスタディールーム」が設けられている。2012年1月5日には構内2号店となるファミリーマート名古屋大学IB館店も開店した。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "学術研究・産学官連携推進本部を設けて、企業や地方自治体との産学官連携や大学発ベンチャー企業の支援に取り組んでいる。",
"title": "対外関係"
}
] | 名古屋大学は、愛知県名古屋市千種区不老町1番に本部を置く日本の国立大学である。1939年創立、1939年大学設置。略称は名大(めいだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。 | {{日本の大学
|大学名 = 名古屋大学
|ロゴ =名古屋大学.svg
|画像 = Nagoya University dk4591.jpg
|pxl = 250
|画像説明 = [[名古屋大学豊田講堂]](東山キャンパス)
|大学設置年 = [[1939年]]
|創立年 = [[1939年]]
|創立者 =
|廃止年 =
|学校種別 = 国立
|設置者 = [[国立大学法人]][[東海国立大学機構]]
|本部所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]][[不老町 (名古屋市)|不老町]]1番
|緯度度 = 35 |緯度分 = 9 |緯度秒 = 9
|経度度 = 136 |経度分 = 58 |経度秒 = 7
|キャンパス = 東山(名古屋市千種区)<br />鶴舞(名古屋市[[昭和区]])<br />大幸(名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]])<br />豊川([[豊川市]]穂ノ原)
|学部 = [[名古屋大学大学院人文学研究科・文学部|文学部]]<br />[[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|教育学部]]<br />[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<br />[[名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<br />[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報学部]]<br />[[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<br />医学部<br />[[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]<br />[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|農学部]]
|研究科 = [[名古屋大学大学院人文学研究科・文学部|人文学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|教育発達科学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]<br />医学系研究科<br />[[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|生命農学研究科]]<br />[[名古屋大学大学院国際開発研究科|国際開発研究科]]<br />[[名古屋大学大学院多元数理科学研究科|多元数理科学研究科]]<br />環境学研究科<br />創薬科学研究科
|ウェブサイト = [https://www.nagoya-u.ac.jp/ 名古屋大学]
}}
'''名古屋大学'''(なごやだいがく、{{Lang-en|Nagoya University}})は、[[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]][[不老町 (名古屋市)|不老町]]1番に本部を置く[[日本]]の[[国立大学]]である。[[1939年]]創立、[[1939年]]大学設置。[[大学の略称|略称]]は'''名大'''(めいだい)。[[旧帝国大学]]7校の1つであり、[[文部科学省]]が実施している[[スーパーグローバル大学]]事業のトップ型指定校ならびに[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定されている。
== 概観 ==
{{建築物
|名称 = '''名古屋大学'''東山キャンパス
|旧名称 =
|画像 = [[画像:Nagoya University 00.jpg|Nagoya University Higashiyama Campus|250px]]
|用途 =
|旧用途 =
|設計者 =
|構造設計者 =
|施工 =
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 =
|構造形式 =
|敷地面積 = 696559 |敷地面積ref = |敷地面積備考 =
|建築面積 = |建築面積ref = |建築面積備考 =
|延床面積 = 424592 |延床面積ref = |延床面積備考 =
|階数 =
|高さ =
|着工 =
|竣工 =
|開館開所 =
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|所在地郵便番号 = 464-8601
|所在地= [[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]][[不老町 (名古屋市)|不老町]]
|文化財指定 =
|指定日 =
|備考 =
}}
{{建築物
|名称 = '''名古屋大学'''鶴舞キャンパス
|旧名称 =
|画像 = [[File:オアシスキューブ 名古屋大学鶴舞キャンパス.jpg|250px]]
|用途 =
|旧用途 =
|設計者 =
|構造設計者 =
|施工 =
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 =
|構造形式 =
|敷地面積 = 89100|敷地面積ref = |敷地面積備考 =
|建築面積 = |建築面積ref = |建築面積備考 =
|延床面積 = 212900|延床面積ref = |延床面積備考 =
|階数 =
|高さ =
|着工 =
|竣工 =
|開館開所 =
|改築 =
|所在地郵便番号 = 466-8550
|所在地= [[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]][[鶴舞 (名古屋市)|鶴舞町]]65
|文化財指定 =
|指定日 =
|備考 =
}}
=== 大学全体 ===
名古屋大学は、[[1939年]]に創設された'''名古屋帝国大学'''を直接の母体とする国立大学である。前身の名古屋帝国大学は9番目([[内地]]では7番目)に設立され、内地・[[外地]]を通じて「最後の[[帝国大学]]」であった。名古屋帝国大学創設当初は[[医学部]]と[[理工学部]]の2学部を設置し、[[1942年]]には理工学部を[[理学部]]と[[工学部]]に分離した。[[第二次世界大戦]]後の旧制[[学制]]残滓期間内に、法経学部と文学部の2学部を設置した。[[新制大学|新制]]名古屋大学となった後も[[教育学部]]、[[農学部]]、情報文化学部等の[[学部]]や[[大学院]][[研究科]]および附属研究教育施設を順次設置し続け、2018年時点、9学部・13研究科・3附置研究所を擁している。
==== 大学の略称 ====
大学の略称は「名大」であり、「めいだい」と発音する。この「名大」という略称は商標登録([[登録商標]]日本第4861457号ほか)もされている。[[明治大学]]の略称である明大(めいだい){{efn|同様に商標登録されており、称呼は'''メイダイ'''及び'''メーダイ'''。}}と発音が同じである等の理由から、一部では「なだい」や「なごだい(ナゴ大、名古大)」と発音する人もいる<ref>{{Cite book |author=三遊亭円丈 |title=雁道-名古屋禁断の書- 17ページ |year=1987 |publisher=海越出版社 |id=ISBN 4-906203-50-7}}</ref>が、商標登録第4861457号の参考情報として付随している称呼が「メーダイ」である点からも窺えるように、公式には「めいだい」が正しい読みとされている。なお、明治大学の方は、[[東海地方]]周辺において「明治」または「明治大」あるいは'''明治大学'''(正式名)と呼ばれ、区別される場合がある。
==== 創立・創基 ====
名古屋大学の正式な創立年は、直接の母体である名古屋帝国大学が設置された1939年([[昭和]]14年)である。
[[2009年]]([[平成]]21年)には、名古屋県仮病院・仮医学校が設置された[[1871年]]([[明治]]4年)を名古屋大学の「創基」とすることが創立70周年記念行事委員会において検討され、現在では「創立」とは別の概念として「創基」という言葉が用いられている<ref>[http://nua.jimu.nagoya-u.ac.jp/upload/meidaishi/83/090e145010041c96cbf9f65cf79a0559.pdf 名古屋大学の「創基」138年] 2019年6月18日閲覧</ref>。そのため、2019年(令和元年)は創立80周年、2021年(令和3年)は創基150周年として位置付けられていた。
創基という概念は[[北海道大学]]や[[山口大学]]、[[筑波大学]]など他の教育機関でも見られるが、その位置付けは各教育機関ごとに異なる。北海道大学は、前身の北海道帝国大学時代から創基という概念を使用しているが、同大学における創基は他大学における「開学」や「創立」と同じ概念である<ref>[https://www.hokudai.ac.jp/news/hokudai_kinmirai.pdf 北海道大学近未来戦略150] 2019年6月18日閲覧</ref><ref>[http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/032.html 北大ポプラ並木/札幌市北区] 2019年6月18日閲覧</ref>。一方で、[[大阪大学]]のように、創基と創立を分ける例も見受けられる<ref>[https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/history 大阪大学の歴史](2019年6月18日閲覧)</ref>。
==== ノーベル賞 ====
関係者に7名の[[ノーベル賞]]受賞者がいる。そのうち、名古屋大学を主たる研究教育の場として授与された者が3名([[野依良治]]、[[赤﨑勇]]、[[天野浩]])、名古屋大学より[[学士]]号が授与された卒業生は3名([[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[益川敏英]]、天野浩)。名古屋大学より[[博士]]号が授与され、後年ノーベル賞を受賞した者は5名([[下村脩]]、小林誠、益川敏英、赤﨑勇、天野浩)である<ref>{{Cite book |author=[[読売新聞]]編集局編 |title=ノーベル賞10人の日本人―創造の瞬間 |year=2001 |publisher=[[中央公論新社]] |id=ISBN 978-4121500304}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://dbr.nii.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000016GAKUI1 |title=博士論文書誌データベース |access-date=2008-10-12 |author=[https://www.nii.ac.jp/ 国立情報学研究所] |work=学術研究データベース・[[リポジトリ]] |publisher=[[国立情報学研究所]]}}{{リンク切れ|date=2022年3月}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=『[[朝日新聞]]』2008年10月8日朝刊、2008年10月9日朝刊 |date=2008-10-8、2008-10-9 |author=朝日新聞 |publisher=朝日新聞}}</ref>。2021年、[[真鍋淑郎]]元名大特別招へい教授が、ノーベル物理学賞を受賞した。<ref name="Nagoya University 2021">{{Cite web|和書|url=https://www.nagoya-u.ac.jp/info/20211005_jimu.html |title=真鍋 淑郎 元名古屋大学特別招へい教授が、2021年ノーベル物理学賞を受賞しました |access-date=2021-10-06 |date=2021-10-06 |website=Nagoya University}}</ref>
==== ランキング ====
[[上海]][[世界大学学術ランキング]] (ARWU) では、2019年は第90位、国内第3位である<ref group="WEB">[http://www.shanghairanking.com/ARWU2019.html <nowiki>ARWU World University Rankings 2019 | Academic Ranking of World Universities 2019 | Top 500 universities | Shanghai Ranking - 2019</nowiki>]</ref>。
クアクアレリ・シモンズ社による[[QS世界大学ランキング]]2020(2019年)では、第115位、国内6位である<ref group="WEB">[https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2020?utm_source=tu_house_banners&utm_medium=web_banner QS World University Rankings 2020 <nowiki>|</nowiki> Top Universities]</ref>。
英誌『[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]』による[[THE世界大学ランキング]]2022-2023では、世界ランク第301-350位、アジア同点47位、国内同点5位([[東京工業大学]]と同順位)である<ref group="WEB">[https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2023/world-ranking#!/page/0/length/-1/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats World University Rankings 2023 <nowiki>|</nowiki> Times Higher Education (THE)]</ref>。
=== 学術憲章 ===
創立時に「建学の精神」などは明確に定められなかったものの、[[2000年]]に名古屋大学の基本理念の概要を示す『'''名古屋大学学術憲章'''』が定められた。この憲章において、自発性・創造性・先進性・国際性などの重視が示されており、「'''勇気ある知識人を育てる'''」ことが目標に掲げられている。なお、「勇気ある知識人」は[[国立大学法人]]名古屋大学によって商標登録(登録商標日本第4967427号)されている。
=== 学風および特色 ===
現在は、「自由・闊達・進取」を学風・特色としている。名古屋帝国大学が出来たばかりの頃は、初代総長が[[十七条憲法]]の一節で、自身の座右の銘であった「以和為貴」を大学全体の基本精神としていた<ref>『名大史ブックレット』6 草創期の名古屋大学と初代総長渋沢元治</ref>。現在は『名古屋大学学術憲章』<ref group="WEB">[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/declaration/charter/ 学術憲章 <nowiki>|</nowiki> 大学の概要/学部・研究科] 名古屋大学</ref>を定め、それを基に「3つの方針に基づく大学教育の質の向上」<ref group="WEB">[http://www.nuqa.nagoya-u.ac.jp/policies/ 名古屋大学の教育を支える3つの方針│名古屋大学]</ref>を公表している。
== 沿革 ==
(沿革節の主要な出典は公式サイト<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/history-data/index.html |title=歴史/各種データ |access-date=2019-05-28 |publisher=名古屋大学}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/history-data/history/chart.html |title=沿革 {{!}} 名大の歴史 |access-date=2019-05-28 |publisher=名古屋大学}}</ref>)また、刊行物としては、名古屋大学史編集委員会編『名古屋大学五十年史』 通史1・2 (ISBN 481580270X); 部局史1・2 (ISBN 4815801266)名古屋大学出版会、 1989年-1995年 および
名古屋大学編『名古屋大学の歴史 1871~2019』上(ISBN 9784815810634)・下(ISBN 9784815810641) 名古屋大学出版会、2022年を参照。
なお、後者は2023年度以降、全学教育科目「現代教養科目」中の講義科目「名古屋大学の歴史」の公式テキストと位置づけられている<ref>東海国立大学機構大学文書資料室編集・発行『東海国立大学機構大学文書資料室ニュース』第40号、2023年3月31日。</ref>。
=== 略歴 ===
[[File:Nagoya Imperial University-old1.jpg|thumb|名古屋帝国大学]]
[[尾張藩]][[種痘]]所取締であった[[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]・[[石井隆庵]]ら3名が、[[版籍奉還]]後の[[名古屋藩]]庁に提出した建議書{{efn|「[[洋学医庠]]」設立建議書と呼ばれ、この建議書そのものが名大の直接の淵源とされる(鈴木要蔵家記『種痘所用留』。名古屋市史資料・鶴舞図書館所蔵。)。}}を基に[[廃藩置県]]直後の1871年8月9日{{efn|八月創立説と呼ばれる(明治四年『[[旧藩書類綴]]』。[[徳川林政史研究所]]所蔵他。)。これに対し、同仮病院が廃藩置県直前の5月に開設されたとする五月創立説がある。以前の通説的見解であったこともあり、現在でも名大は創立記念日を1871年5月1日に定めている(『愛知県公立病院及医学校第一報告』明治13年)。}}、「仮病院・仮医学校」が開設された。以後仮病院・仮医学校は[[名古屋県]]の行政運営上の事情や財政難から廃止・復興の繰り返しの後、公立病院・医学講習所という形で存続。その後1903年の[[専門学校令]]に基づき愛知県立医学専門学校となり、1920年には[[大学令]]に基づき大学に昇格し、県立愛知医科大学と改称する。1931年には国へ移管され官立名古屋医科大学となった。この官立大学誕生を契機として、同医科大の前身学校時代から既に同学校内および愛知県政財界を中心に展開されていた帝大誘致・設立運動が結実<ref>県史23『愛知県の歴史』[[三鬼清一郎]]編。山川出版社。308頁。</ref>、1939年に官立名古屋医科大学を吸収させる形で名古屋帝国大学が創設される。同時に官立名古屋医科大学は名古屋帝国大学医学部へ改組された。ただし名古屋帝国大学の創設資金900万円(当時)は、地元[[愛知県]]が国庫へ全額寄付するという形での設立となった<ref>『名古屋帝国大学創立概要』(昭和18年)、10頁 - 18頁。</ref>。こうした創設経緯から、名古屋帝国大学は創設時には文科系学部は存在せず、理工学部と医学部のみの学部編成であった。
[[第二次世界大戦]]後、まず[[帝国大学令]]等の旧制度廃止直前の1948年に「(旧制)名古屋(帝国)大学」の下、[[法経学部|法経]]・文の2学部が設置されたことで、文科系理科系の両系統学部群が揃うこととなった。その上で、教育制度改革に伴う高等教育機関の一本化という行政施策<ref group="WEB">[https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317571.htm 六 戦後の教育改革:文部科学省]『学制百年史』</ref>に伴って、愛知県各地域に散在していた旧制官立学校が新制名古屋大学へ包括されて合流する。[[名古屋高等商業学校]]は法経学部経済経営両学科、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]および[[岡崎高等師範学校]]は旧教養部、それぞれ設立母体となった。
[[大学院]]は、名古屋帝国大学各学部に大学令に基づいた[[研究科]]が置かれた時点からの歴史がある。第二次世界大戦後、[[学校教育法]]に基づき新制大学院制度が発足すると1953年から1955年にかけて理学、工学、法学、経済学、文学、教育学、医学、農学の8研究科が設置される。しかし大学への予算配分や教官配置の基礎は学部内の[[講座]] (chair) 制に置かれていた。1991年に当時の[[文部省]]が示した大学設置基準の大綱化を基に大学院の部局化を本格化する。これは事実上の[[大学院重点化]]であった。具体的には[[独立大学院]]の設置と教養部廃止を前提に大学院研究科を大学における研究・教育の基軸として再編するという2つの施策を実施している。前者は、1991年の国際開発研究科、1992年人間情報学研究科(後述する教養部改組措置を兼ねた研究科として誕生)、1995年の[[名古屋大学大学院多元数理科学研究科|多元数理科学研究科]]、1998年の国際言語文化研究科の各研究科設置という形で実現した。また、後者は教養部を改組の上、前述した人間情報学研究科と情報文化学部(1993年)を創設、1993年に教養部を廃止すると全学一貫教育体制に移行した上で[[1996年]]に理、1997年に工、[[1999年]]に法、医、[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|生命農学]]、2000年文、教、経済と各学問分野において大学院重点化を完了させることで実現している。
2001年に表明された[[文部科学省]]の方針に基づき<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11670228/www5.cao.go.jp/keizai-shimon/minutes/2001/0611/item3.pdf |title=大学(国立大学)の構造改革の方針 |access-date=2023-06-18 |publisher=文部科学省}}</ref>、2004年に[[国立大学法人]]名古屋大学が発足し、名古屋大学は同法人が設置する大学となる。また同年、[[法科大学院]]として法学研究科に実務法曹養成専攻を設置している。
[[21世紀]]以降の通信手段の発達に伴い、情報・文化を包括的にとらえるため<ref group="WEB">[http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20160401_a.html <nowiki>学部・研究科の設置、改組について | | 大学からのお知らせ</nowiki>]</ref>、[[2017年]]、情報文化学部、工学部電気電子・情報工学科を改組し、情報学部を設置。情報科学研究科を改組し、情報学研究科を設置。文学研究科、国際言語文化研究科などを統合し人文学研究科を設置した。
2018年3月、[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定される。
先の「大学(国立大学)の構造改革の方針」公表後、2002年9月に名古屋大学は評議会で[[豊橋技術科学大学]]と統合を前提とした協議の開始を決定したこと、および[[愛知教育大学]]からの統合の要請に対する協議の開始を各部局で検討するとの報道があった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shutoken-net.jp/2002/09/nethe4487.htm |title=豊橋技科大との統合前提に 名大が協議開始決める([[読売新聞]]中部版2002年9月18日付) |access-date=2023-06-18 |publisher=独行法反対首都圏ネットワーク}}</ref>。2008年2月18日の名古屋大学役員会では「豊橋技術科学大学との再編・統合に関する協議について」が議題に挙がったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nagoya-u.ac.jp/extra/record/cat315/172.html |title=第172回役員会 (2008年02月18日) |access-date=2023-06-18 |publisher=名古屋大学}}</ref>、豊橋技術科学大学との統合は実現しなかった。2018年12月には国立大学法人名古屋大学と国立大学法人[[岐阜大学]]が国立大学法人[[東海国立大学機構]]の設立に向けて合意し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20181225.html |title=東海国立大学機構設立に向けた基本合意について |access-date=2018-12-25 |publisher=名古屋大学}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20190517.html |title=国立大学法人東海国立大学機構設立について(学校教育法等の一部を改正する法律の成立を受けて) |access-date=2019-05-20 |publisher=名古屋大学}}</ref>、2020年4月1日に東海国立大学機構が発足した。
=== 年表 ===
* [[1869年]] - [[1870年]]頃(詳細年月日不明):[[尾張藩]]元[[奥医師]]等、「'''洋学医庠'''」設立建議書を名古屋藩庁に提出。
* [[1871年]][[8月9日]]:'''仮病院'''([[名古屋県]])・'''仮医学校'''開設。
* [[1878年]]([[明治]]11年):'''公立医学校'''となる。
* [[1881年]]:'''愛知医学校'''となる。
* [[1901年]]:'''愛知県立医学校'''となる。
* [[1903年]]:[[専門学校令]]に基づき'''愛知県立医学専門学校'''となる。
* [[1908年]]:[[高等学校令]]に基づき'''第八高等学校'''が設立される。
* [[1920年]]([[大正]]9年):大学令に基づき、'''愛知県立医学専門学校'''が'''愛知医科大学'''となり3年制の予科を創設。専門学校令に基づき'''名古屋高等商業学校'''が設立される。
* [[1922年]]:愛知医科大学本科を設置。
* [[1931年]](昭和6年)5月1日:愛知医科大学が官立移管され'''名古屋医科大学'''と改称。
* [[1939年]]4月1日:帝国大学令および名古屋帝国大学官制に基づいた'''名古屋帝国大学'''が創設され、名古屋医科大学を名古屋帝国大学医学部に改組。
* [[1940年]]:理工学部を新設。
* [[1942年]]:理工学部を理学部と工学部に分離。
* [[1943年]]:航空医学研究所を附置。[[研究生#旧制大学院における特別研究生|大学院特別研究生制度]]実施。
* [[1945年]]:[[師範教育令]]に基づき'''官立岡崎高等師範学校'''が設立される。航空医学研究所を廃止。
* [[1946年]]:環境医学研究所を附置。
* [[1947年]]:帝国大学令は[[国立総合大学令]]に改称され、大学名も'''名古屋大学'''と改称される。
* [[1948年]]:法経学部、文学部を設置。
* [[1949年]]:[[国立学校設置法]]に基づき旧制名古屋大学、同大学付属医学専門部、第八高等学校、名古屋経済専門学校(名古屋高等商業学校の後身)、岡崎高等師範学校を包括、教育学部を増設した'''新制名古屋大学'''が誕生する。空電研究所を附置。教養部を設置(学内措置)。
* [[1950年]]:法経学部を法学部と経済学部に分離。
* [[1951年]]:[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|農学部]]を設置。
* [[1953年]]:新制大学院発足。文学、教育学、法学、経済学、理学、工学の各研究科を設置。
* [[1955年]]:医学研究科、農学研究科を設置。
* [[1961年]]:[[プラズマ]]研究所を附置。
* [[1963年]]:[[名古屋大学教養部|教養部]]を正式に設置。
* [[1966年]]:農学部移転で、安城キャンパスから東山キャンパスへの統合移転完了。
* [[1969年]]:学生運動が激化<ref>「組合運動の立場から書かれた」名大職組大学問題検討委員会編『大学における民主主義運動』[[汐文社]]1970年には、「名大紛争」において「明らかとなった若干の主要な問題点」の理論的検討の結果が詳しい資料とともに示されている。</ref>。9月17日には学長が拉致監禁される<ref>「名大学長を監禁 反代々木系学生」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月18日朝刊、12版、15面</ref>。また、翌日から11月末にかけて学生により教養部が封鎖、授業が中止される<ref>「名大教養部授業再開」『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月1日夕刊、3版、11面</ref>。
* [[1971年]]:大型計算機センターを設置。
* [[1973年]]:[[水圏]]科学研究所を附置。
* [[1977年]]:医学部附属の看護学校等を改組、[[名古屋大学医療技術短期大学部|医療技術短期大学部]]を設置。
* [[1987年]]:2月5日全構成員(学生・院生・教職員・生協職員・病院医員)約15000名の過半数を超え、8500名に達する批准署名が実現し、名古屋大学平和憲章が制定される<ref>名古屋大学平和憲章制定実行委員会編著『平和への学問の道』あけび書房 1987年 ISBN 4-900423-27-0</ref>。
* [[1989年]](昭和64年/平成元年):プラズマ研究所を[[核融合科学研究所]]に改組し、[[大学共同利用機関]]に移行。
* [[1990年]]:空電研究所と理学部附属[[宇宙線]]望遠鏡研究施設を統合改組し、太陽地球環境研究所を附置。
* [[1991年]]:国際開発研究科を設置。
* [[1992年]]:人間情報学研究科を設置(教養部の改組措置)。
* [[1993年]]:情報文化学部を設置(教養部の改組措置)。教養部を廃止。水圏科学研究所を改組し、大気水圏科学研究所を附置。
* [[1995年]]:[[名古屋大学大学院多元数理科学研究科|多元数理科学研究科]]を設置。
* [[1997年]]:農学研究科を[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|生命農学研究科]]と改称。
* [[1998年]]:医療技術短期大学部を改組し、医学部保健学科を設置。国際言語文化研究科を設置。
* [[2000年]]:教育学研究科を教育発達科学研究科と改称。
* [[2001年]]:大気水圏科学研究所を廃止。環境学研究科、地球水循環研究センターを設置。
* [[2002年]]:医学研究科を医学系研究科と改称。大型計算機センターおよび関連施設を改組し、情報連携基盤センターを設置。
* [[2003年]]:人間情報学研究科と工学研究科情報工学専攻を統合改組して情報科学研究科を設置。
* [[2004年]]:[[国立大学法人法]]に基づき'''国立大学法人名古屋大学'''が設置する大学となる。法科大学院、エコトピア科学研究機構を設置。
* [[2005年]]:エコトピア科学研究機構を改組し、エコトピア科学研究所を設置(学内措置)。
* [[2006年]]:エコトピア科学研究所を正式に附置。
* [[2009年]]:情報基盤センターを設置。
* [[2010年]]:[[素粒子]]宇宙起源研究機構を設置。
* [[2012年]]:[[創薬]]科学研究科を設置。
* [[2013年]]:トランスフォーマティブ生命分子研究所を設置。
* [[2014年]]:未来社会創造機構を設置。
* [[2015年]]
** 4月:環境医学研究所附属近未来環境シミュレーションセンターを次世代創薬研究センターに改称。
** 10月:[[名古屋大学太陽地球環境研究所|太陽地球環境研究所]]、地球[[水循環]]研究センター、[[年代測定]]総合研究センターを統合・改組して[[名古屋大学宇宙地球環境研究所|宇宙地球環境研究所]]が発足。エコトピア科学研究所を未来材料・システム研究所に改組。
* [[2017年]]:情報文化学部、[[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]電気電子・情報工学科を改組し、[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報学部]]を設置。情報科学研究科を改組し、[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報学研究科]]を設置。文学研究科、国際言語文化研究科などを統合し人文学研究科を設置。理学研究科附属[[神経科学|ニューロサイエンス研究センター]]を設置。アジア共創教育研究機構を設置。
* [[2018年]]
** [[3月20日]]:[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定される。
** 4月:工学研究科附属フライト総合工学教育研究センターを設置。
** 11月:未来社会創造機構にマテリアル[[イノベーション]]研究所を設置<ref group="新聞">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37699900T11C18A1L91000/ 「先端材料開発へ産学共同研究所」]『[[日経産業新聞]]』11月21日(就活・大学面)2018年11月22日閲覧。</ref>。
* [[2019年]]
** 5月17日:[[国会 (日本)|国会]]において[[国立大学法人法]]の一部改正を規定する「[https://www.mext.go.jp/b_menu/houan/kakutei/detail/1415449.htm 学校教育法等の一部を改正する法律]」が成立したことにより、2020年4月1日をもって[[岐阜大学]]を設置する国立大学法人岐阜大学と統合し、'''国立大学法人[[東海国立大学機構]]'''を設立することを発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20181225.html |title=東海国立大学機構設立に向けた基本合意について |access-date=2018-12-25 |publisher=名古屋大学}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20190517.html |title=国立大学法人東海国立大学機構設立について(学校教育法等の一部を改正する法律の成立を受けて) |access-date=2019-05-20 |publisher=名古屋大学}}</ref>。
*[[2020年]]
** 4月1日:東海国立大学機構が発足し、同機構が設置する国立大学となる。
** 7月1日:「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」型 次世代[[スーパーコンピュータ]]「[[不老 (スーパーコンピュータ)|不老]]」運用開始<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/info/upload_images/20200203_jimu1.pdf スーパーコンピュータ「富岳」型スパコンの導入を決定 ~シミュレーション・人工知能研究を推進~]}}</ref><ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/info/upload_images/20200701_pc.pdf スーパーコンピュータ「不老」運用開始 ~スーパーコンピュータ「富岳」型システムの世界初運用~]名古屋大学(2020年7月1日)2020年7月2日閲覧。}}</ref>。
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===
<div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em">
* 東山キャンパス(愛知県名古屋市[[千種区]])
* 鶴舞キャンパス(愛知県名古屋市[[昭和区]])
* 山手キャンパス(愛知県名古屋市[[昭和区]])
</div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em">
* 大幸キャンパス(愛知県名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]])
* 豊川キャンパス(愛知県[[豊川市]]穂ノ原)
</div>{{clear}}
=== 象徴 ===
==== シンボルマーク ====
[[シンボルマーク]]は、Nagoya University の頭文字「nu」に[[篆書体]]の「名大」を合成したもので、通称「NUマーク」である。名古屋大学学章規程により正式に定められている。1958年に教養部2年の学生によるデザインが学内公募により選定され、それを基に作成された<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/publication/upload_images/no148.pdf 名大トピックス No.148(2005年9月)]}} ちょっと名大史41</ref>。
==== スクールカラー ====
[[スクールカラー]]は[[深緑|濃緑]]である。『濃緑』は、名古屋大学体育会の機関紙の名称にもなっている。その機関紙によると、「濃は不屈・永遠を表し、緑は若さを表す」とされている。
==== 学生歌等 ====
名古屋大学には正式な[[校歌]]や大学歌は存在しない<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/publication/upload_images/no154.pdf 名大トピックス No.154(2006年3月)]}} ちょっと名大史 47</ref>が、以下に示す歌が存在する。
; 学生歌
* 『若き我等』(1956年制定)
* 『若草もゆる』(1954年制定)
*: 現在主に歌われるのは前者である。
; 応援歌
* 『天にとどろく』
* 『大空に光はみてり』(1955年制定)
* 『この旗の下に』
; 寮歌
: 上記の他、運動部等の行事でよく歌われるものに、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]寮歌『[[伊吹おろし]]』がある。第八高等学校は名古屋大学の前身校の一つである。
== 教育および研究 ==
=== 組織 ===
==== 学部 ====
* [[名古屋大学大学院人文学研究科・文学部|文学部]]
** [[人文学科]]{{efn|プログラム、コース、分野・専門の構成は『名古屋大学文学部規程』による。}}
*** 言語文化学繋
**** 分野・専門:言語学、日本語学
*** 英語文化学繋
**** 分野・専門:英語学、英米文学
*** 文献思想学繋
**** 分野・専門:ドイツ語ドイツ文学、ドイツ語圏文化学、フランス語フランス文学、日本文学、中国語中国文学、哲学、西洋古典学、中国哲学、インド哲学
*** 歴史文化学繋
**** 分野・専門:日本史学、東洋史学、西洋史学、美学美術史学、考古学、[[文化人類学]]
*** 環境行動学繋
**** 分野・専門:社会学、心理学、地理学
:: (2016年度入学生まで)
::* 哲学・文明論コース
:::* 哲学専攻
:::* 西洋古典学専攻
:::* 中国哲学専攻
:::* 中国文学専攻
:::* インド文化学専攻
::* 歴史学・文化史学コース
:::* 日本史学専攻
:::* 東洋史学専攻
:::* 西洋史学専攻
:::* 美学美術史学専攻
:::* 考古学専攻
::* 文学・言語学コース
:::* 日本文学専攻
:::* 日本語学専攻
:::* 言語学専攻
:::* 英米文学専攻
:::* フランス文学専攻
:::* ドイツ文学専攻
:::* 英語学専攻
::* 環境・行動学コース
:::* 社会学専攻
:::* 心理学専攻
:::* 地理学専攻
::::: 注:2年時に専攻に配属
* [[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|教育学部]]
** 人間発達科学科{{efn|学科目には、生涯教育科学、学校教育科学、国際教育文化学、心理行動科学、発達臨床科学がある。}}
*** (教育学系)
**** 生涯教育開発コース
**** 学校教育情報コース
**** 国際社会文化コース
*** (心理学系)
**** 心理社会行動コース
**** 発達教育臨床コース
****: 注:3年次にコースに配属
* [[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]
** [[法政学科|法律・政治学科]]{{efn|学科目には、基礎実定法学、基礎政治学、現代基礎法学、紛争処理法制、企業経済法制、公共政策、国際関係、法政情報がある。}}
* [[名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<ref group="WEB">体系的な知識を修得するための典型的な履修例として、「モデルコース」を提示している。{{PDFlink|[http://www2.soec.nagoya-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/03/578670af60ece590cb129d46a99e41e8.pdf 2018 経済学部ハンドブック総則規定]}}</ref>
** [[経済学部|経済学科]]{{efn|学科目には、理論経済、応用経済がある。}}
*** 経済ジェネラリストコース
*** 理論・政策スペシャリストコース
*** 社会経済分析コース
** [[経営学科]]{{efn|学科目には、企業経営、情報会計がある。}}
*** 経営ジェネラリストコース
*** 経営スペシャリストコース
*** 会計スペシャリストコース
:::: 注:2年次に学科に配属
* [[情報文化学部]](2017年度に募集停止)
** [[自然情報学科]]
*** 複雑システム系
*** 数理情報系
*** 環境システム系
***: 注:3年次に教育系に配属
** [[社会システム情報学科]]
*** 環境法経システム系
*** 社会地域環境系
*** 心理システム系
*** メディア社会系
***: 注:3年次に教育系に配属
* [[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報学部]]
*: 情報文化学部と工学部情報工学コースが統合・改組して2017年度に設置された。
** [[自然情報学科]]
*** 数理情報系
*** 複雑システム系
** [[人間・社会情報学科]]
*** 社会情報系
*** 心理・認知科学系
** [[コンピュータ科学科]]
*** 情報システム系
*** 知能システム系
***: 注:3年次に系に配属
* [[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]
** [[数理学科]]{{efn|学科目は、数学のみ。}}
** [[物理学科]]{{efn|学科目は、物理学のみ。}}
** [[化学科]]{{efn|学科目は、化学のみ。}}
** [[生命理学科]]{{efn|学科目は、生物科学のみ。}}
** [[地球惑星科学科]]{{efn|学科目は、地球惑星科学のみ。}}
**: 注:2年次に学科に配属
* [[医学部]]
** [[医学部#医学科|医学科]]{{efn|学科目は、解剖学、生理学、生化学、病理学、微生物学、医動物学、免疫学、法医学、衛生学、公衆衛生学、予防医学、内科学・神経内科学、外科学・胸部外科学、整形外科学、産婦人科学、眼科学、精神医学、小児科学、皮膚科学、泌尿器科学、耳鼻咽喉科学、放射線医学、麻酔学、口腔外科学、脳神経外科学、老年科学、救急医学、臨床検査医学がある。}}(6年制)
** [[保健学科]]{{efn|学科目は、看護学、放射線技術科学、検査技術科学、理学療法学、作業療法学がある。}}
*** 看護学専攻
*** 放射線技術科学専攻
*** 検査技術科学専攻
*** [[理学療法]]学専攻
*** [[作業療法]]学専攻
* [[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]
** 化学生命工学科{{efn|学科目は、化学生命工学のみ。}}
** 物理工学科{{efn|学科目は、物理工学のみ。}}
** マテリアル工学科{{efn|学科目は、マテリアル工学のみ。}}
** 電気電子情報工学科{{efn|学科目は、電気電子情報工学のみ。}}
** 機械・航空宇宙工学科{{efn|学科目は、機械・航空宇宙工学のみ。}}
** エネルギー理工学科{{efn|学科目は、エネルギー理工学のみ。}}
** 環境土木・建築学科{{efn|学科目は、環境土木・建築学のみ。}}
* [[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|農学部]]
** [[生物環境科学科]]{{efn|学科目は、生物環境科学のみ。}}
** [[資源生物科学科]]{{efn|学科目は、資源生物科学のみ。}}
** [[応用生命科学科]]{{efn|学科目は、応用生命科学のみ。}}
==== 研究科 ====
以下、特記していない専攻は[[大学院#修士課程・博士前期課程|博士前期課程]]・[[大学院#博士後期課程・後期3年博士課程|博士後期課程]]である。一部、2016年度以前の情報を含む。
* [[名古屋大学大学院人文学研究科・文学部|人文学研究科]]{{efn|教員は、文芸言語学、哲学倫理学、歴史学・人類学、総合文化学のいずれかのコースに所属。学位プログラム、コース、専門分野の構成は『名古屋大学大学院人文学研究科規程』による。}}
*: 文学研究科、国際言語文化研究科、国際開発研究科国際コミュニケーション専攻を統合し2017年度発足。人文学専攻のみからなる。
** 言語文化系学位プログラム
*** 文芸言語学コース
***: 分野・専門:言語学、日本語学、日本文学、英語学、英米文学、ドイツ語ドイツ文学、フランス語フランス文学第1、フランス語フランス文学第2、中国語中国文学、日本語教育学、英語教育学、応用日本語学
*** 哲学倫理学コース
***: 分野・専門:哲学、西洋古典学、中国哲学、インド哲学
** 歴史文化系学位プログラム
*** 歴史学・人類学コース
***: 分野・専門:日本史学、東洋史学、西洋史学、美学美術史学、考古学、文化人類学
*** 総合文化学コース
***: 分野・専門:映像学、日本文化学、文化動態学、ジェンダー学
** 英語高度専門職業人学位プログラム
*** 英語高度専門職業人コース
** 多文化共生系学位プログラム
*** 国際・地域共生促進コース
** G30 国際プログラム
*** 言語学・文化研究プログラム
*** 「アジアの中の日本文化」プログラム
* [[文学研究科]](2017年度に募集停止)
** 人文学専攻{{efn|コースと専門は『名古屋大学大学院文学研究科規程』による。また、2014年度後期から前期課程に、グローバル30 (G30) プログラムの英語コースである「アジアの中の日本文化」を設置する。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、比較人文学、日本文化学、哲学、言語学、東洋学、日本史学、東洋史学、西洋史学、美術史学・考古学、日本文学・日本語学、西洋文学・西洋語学がある。}}
*** 総合人文学コース
***: 専門:文化人類学・宗教学・日本思想史、日本文化学
*** 基層人間学コース
***: 専門:哲学、西洋古典学、言語学、中国哲学、中国文学、インド文化学
*** 歴史文化学コース
***: 専門:日本史学、東洋史学、西洋史学、美学美術史学、考古学
*** 文芸言語学コース
***: 専門:日本文学、日本語学、英米文学、フランス文学、ドイツ文学、英語学
* [[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|教育発達学研究科]]{{efn|発達科学研究科のホームページ[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/]による。2015年度の学生募集要項でもこれに準拠し、組織構成が紹介されている。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では、教育科学専攻の「高等教育学」と「生涯スポーツ科学」、心理発達科学専攻の「スポーツ行動科学」は「協力講座等」と表記されている。}}
** 教育科学専攻
*** 講座:生涯発達教育学講座{{efn|教員の研究領域に、教育史、教育行政学、社会・生涯教育学、技術教育学、職業・キャリア教育学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}、学校情報環境学講座{{efn|教員の研究領域に、学校情報学、カリキュラム学、教育方法学、教育経営学、教師教育学(担当教員不在)がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}、相関教育科学講座{{efn|教員の研究領域に、人間形成学、教育人類学、比較教育学、教育社会学、大学論、グローバル教育論がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}、高等教育学講座{{efn|教員の研究領域に、高等教育学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}(協力講座)、生涯スポーツ科学講座{{efn|教員の研究領域に、生涯体力科学、健康運動科学(担当教員不在)、スポーツ教育学(担当教員不在)、スポーツマネージメント、スポーツバイオメカニクス(担当教員不在)、スポーツ生理学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}(協力講座)
*** 高度専門職業人養成コース(前期課程) - 職業経験や社会活動の経験がある者が対象
**** 生涯学習研究コース{{efn|分野は、2015年度入学生用の高度専門職業人養成コース学生募集要項による。[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/info/admission/H27_m1p.pdf]}}(生涯開発教育分野、学校科学臨床分野、高等教育マネジメント分野、生涯スポーツ科学分野)
*** 教育マネジメントコース(後期課程) - 社会人や社会経験のある学生が対象
**** 領域:生涯学習マネジメント、学校教育マネジメント、高等教育マネジメント
** 心理発達科学専攻
*** 講座:心理社会行動科学講座{{efn|教員の研究領域に、計量心理学、認知心理学、パーソナリティ心理学、社会心理学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}、精神発達臨床科学講座{{efn|教員の研究領域に、生涯発達心理学、臨床心理学、家族心理学、学校心理学、発達精神科学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}、スポーツ行動科学講座{{efn|教員の研究領域に、スポーツ心理、運動学習科学がある[http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/index.html]。}}(協力講座)
*** 高度専門職業人養成コース(前期課程)
**** 心理開発研究コース{{efn|分野は、2015年度入学生用の『高度専門職業人養成コース学生募集要項』による。}}(心理行動科学分野、スポーツ行動科学分野)
**** 心理臨床研究コース{{efn|分野は、2015年度入学生用の『高度専門職業人養成コース学生募集要項』による。}}(心理臨床科学分野)
*** 心理危機マネジメントコース(後期課程)- 社会人や社会経験のある学生が対象
* [[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]
** 総合法政専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、基幹法・政治学、現代法システム論、国際・比較法政、アジア法政(協力講座等)がある。}}
*** 研究者養成コース
*** 応用法政コース
*** 国際法政コース(留学生向け。途上国における近代法整備を担う人材育成が主な目的)
** 実務[[法曹]]養成専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、基幹法学、応用先端法学がある。}}([[専門職学位課程]]、[[法科大学院]])
* [[名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]
** 社会経済システム専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、市場・制度分析、社会経済分析、政策システム分析、社会環境システムがある。}}
** 産業経営システム専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、企業システム、経営革新、情報創造がある。}}
* [[情報学研究科]]
** 数理情報学専攻
** 複雑系科学専攻
** 社会情報学専攻
** 認知・心理科学専攻
** 情報システム学専攻
** 知能システム学専攻
* [[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]{{efn|「系」は理学研究科のホームページ[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/departments.html]による。}}
** 素粒子宇宙物理学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、物理学基礎論、宇宙構造論、星間物質学、素粒子物理学、ハドロン物理学、原子物理学、太陽地球相関理学(協力講座)、太陽地球系物理学(協力講座等)、太陽地球系化学(協力講座等)、素粒子宇宙基礎理論(協力講座等)、素粒子宇宙現象解析(協力講座等)がある。}}
*** 素粒子宇宙物理系{{efn|研究分野は大きく「理論」と「実験」に分かれ、さらにそれぞれに複数の分野を抱える。[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/faculty.html]}}
*** 宇宙地球物理系{{efn|研究分野は大きく「太陽地球系環境学」「太陽地球相関理学」「太陽地球系物理学」に分かれる。さらに、「太陽地球系環境学」以外は複数の分野を抱える。[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/faculty.html]}}
** 物質理学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、相関化学、分子物性学、無機・分析化学、有機・生物化学、物質物理化学、生体物理学、物性基礎論、電子物性学、相関物性学、物質科学(協力講座等)がある。}}
*** 物理系{{efn|研究分野は大きく「理論」と「実験」に分かれ、さらにそれぞれに複数の分野を抱える。[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/faculty.html]}}
*** 化学系{{efn|研究分野は大きく「有機化学」「生物化学」「物理化学」「無機・分析化学」に分かれ、さらに「生物化学」以外は複数の研究室・グループに分かれる。このほか、「Global 30 International Programs」の教員もいる。[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/faculty.html]}}
** 生命理学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、生体構築論、分子遺伝学、機能調節学、形態統御学、情報機構学、超分子機能学、生体調節論、生体システム論、環境生物学(協力講座等)、遺伝子解析学(協力講座等)、ゲノム学(協力講座等)、生殖遺伝学(協力講座等)がある。}}{{efn|研究分野は大きく「生体構築論」「分子遺伝学」「機能調節学」「形態統御学」「情報機構学」「超分子機能学」「生体調節論」「生体システム論」に分かれ、さらに「分子遺伝学」以外は複数の分野を抱える。このほか、臨海実験所、遺伝子実験施設、生物機能開発利用研究センター、物質理学専攻、テニュアトラックプログラム、グローバル30プログラム、トランスフォーマティブ生命分子研究所、計時機構、創薬研究科の教員もいる。[http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/about/faculty.html]}}
* [[医学研究科|医学系研究科]]
** 医科学専攻(修士課程)
** 総合医学専攻{{efn|[[4年制博士課程]]。2013年4月、分子総合医学専攻、細胞情報医学専攻、機能構築医学専攻、健康社会医学専攻を改組して発足。領域、講座、専門分野は「医学部 大学院医学研究科 プロフィールM. 2015」[http://www.med.nagoya-u.ac.jp/profile/2015/profileM2015_29p_42p.pdf]による。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では領域別に講座が分類されていないほか、連携講座の記載もない。}}
*** 基礎医学領域
***: 講座:生物化学{{efn|専門分野には、分子生物学、生体高分子学、分子細胞化学がある。}}、微生物・免疫学{{efn|専門分野には、分子病原細菌学、耐性菌制御学、分子細胞免疫学、免疫細胞動態学、ウイルス学がある。}}、先端応用医学{{efn|専門分野には、機能分子制御学、オミクス解析学、神経遺伝情報学、疾患モデル解析学、システム生物学、生物情報解析工学、分子診断ナノ工学がある。}}(協力講座)、実験動物科学{{efn|専門分野には、実験動物科学がある。}}(協力講座)、老化基礎科学{{efn|専門分野には、老化基礎科学がある。}}(連携講座)、免疫不全統御学{{efn|専門分野には、免疫不全統御学がある。}}(連携講座)、細胞科学{{efn|専門分野には、細胞生物物理学、イメージング生理学、細胞生理学、分子動態学、分子薬理学がある。}}、神経科学{{efn|専門分野には、神経情報薬理学がある。}}(協力講座)、腫瘍病態学{{efn|専門分野には、分子腫瘍学、腫瘍生物学がある。}}(協力講座)、高次神経統御学{{efn|専門分野には、視覚神経科学、神経免疫学がある。}}(協力講座)、器官系機能調節学{{efn|専門分野には、神経性調節学、心・血管学がある。}}(協力講座)、分子・細胞適応学{{efn|専門分野には、発生・遺伝学、病態神経科学がある。}}(協力講座)、神経生化学{{efn|専門分野には、神経生化学がある。}}(連携講座)、機能形態学{{efn|専門分野には、分子細胞学、機能組織学、細胞生物学、超微形態学がある。}}、病理病態学{{efn|専門分野には、生体反応病理学、分子病理診断学、腫瘍病理学、神経機能病理学がある。}}、発生・再生医学{{efn|専門分野には、分子病理学がある。}}(協力講座)、細胞工学{{efn|専門分野には、細胞工学、細胞腫瘍学がある。}}(連携講座)、社会生命科学{{efn|専門分野には、法医・生命倫理学、環境労働衛生学、予防医学、国際保健医療学・公衆衛生学、医療行政学がある。}}、健康増進医学{{efn|専門分野には、健康栄養医学、健康スポーツ医学、精神健康医学、健康運動科学がある。}}(協力講座)、疫学{{efn|専門分野には、疫学がある。}}(連携講座)
*** 臨床医学領域
***: 講座:病態内科学{{efn|専門分野には、血液・腫瘍内科学、循環器内科学、消化器内科学、呼吸器内科学、糖尿病・内分泌内科学、腎臓内科学がある。}}、高次医用科学{{efn|専門分野には、量子医学、量子介入治療学、放射線治療学、臓器病態診断学、病態構造解析学、がん薬物療法学がある。}}、脳神経病態制御学{{efn|専門分野には、神経内科学、精神医学、精神生物学、脳神経外科学、脳神経先端医療開発学、脳血管内治療学がある。}}、頭頸部・感覚器外科学{{efn|専門分野には、眼科学、感覚器障害制御学、耳鼻咽喉科学、認知・言語医学、顎顔面外科学、咀嚼障害制御学がある。}}、病態外科学{{efn|専門分野には、腫瘍外科学、血管外科学、消化器外科学、移植・内分泌外科学、心臓外科学、呼吸器外科学、小児外科学、泌尿器科学がある。}}、運動・形態外科学{{efn|専門分野には、整形外科学、リウマチ学、手の外科学、皮膚病態学、皮膚結合組織病態学、形成外科学がある。}}、生体管理医学{{efn|専門分野には、麻酔・蘇生医学、臨床感染統御学、救急・集中治療医学がある。}}、病態医療学{{efn|専門分野には、手術医療学、細胞治療医学、病理組織医学、光学医療学、放射線医療学、画像情報診断・工学がある。}}(協力講座)、発育・加齢医学{{efn|専門分野には、小児科学、成長発達医学、発達・老年精神医学、地域在宅医療学・老年科学、産婦人科学、生殖器腫瘍制御学、総合診療医学がある。}}、周産母子医学{{efn|専門分野には、周産母子医学がある。}}(協力講座)、親と子どもの精神医学{{efn|専門分野には、親と子どもの心療学がある。}}(協力講座)、総合管理医学{{efn|専門分野には、総合医学教育学、医療の質・患者安全学がある。}}(協力講座)
*** 統合医薬学領域
***: 講座:分子医薬学{{efn|専門分野には、薬物動態解析学(協力)、分子機能薬学(協力)、トキシコゲノミクスがある。}}、臨床医薬学{{efn|専門分野には、医療薬学(協力)、化学療法学(協力)、生物統計学、医薬品規制学がある。}}、医薬品開発学{{efn|専門分野には、実践医薬品開発学、応用医薬品開発学がある。}}(連携講座)、医薬品管理学{{efn|専門分野には、統計数理学がある。}}(連携講座)
** 看護学専攻
**: 講座{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』}}:基礎・臨床看護学{{efn|博士前期課程学生募集要項(2016年度入学生用)[http://www.met.nagoya-u.ac.jp/KYOUMU/PDF/ms.pdf]と博士後期課程学生募集要項(2016年度入学生用)によると、基礎看護学領域と臨床看護学領域がある。}}、健康発達看護学{{efn|前期課程と後期課程の学生募集要項(2015年度入学生用)によると、発達看護学領域と地域・在宅看護学領域がある。}}
** 医療技術学専攻
**: 講座{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によるが、「脳とこころの科学」は「医学部 大学院医学研究科 プロフィールM. 2015」[http://www.met.nagoya-u.ac.jp/KYOUMU/PDF/ms.pdf]と学生募集要項(2016年度入学生用)に記載がない。}}:医用量子科学、病態解析学、脳とこころの科学(協力講座等)
** リハビリテーション療法学専攻
**: 講座{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』}}:理学療法学、作業療法学
* [[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]{{efn|各専攻の分野は、工学研究科のホームページ[http://www.engg.nagoya-u.ac.jp/graduate/index.html]による。なお、2015年度入学生用の学生募集要項(前期課程・後期課程)も、この分類に従っている。}}
** 有機・高分子化学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、有機化学、高分子化学がある。}}
** 応用物質化学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、応用物理化学、固体化学がある。}}
** 生命分子工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、分子生命化学、生命システム工学がある。}}
** 応用物理学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、量子物理工学、構造物性物理学、複合系物性工学がある。}}
** 物質科学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、物質デバイス機能創成学、ナノ解析物質設計学がある。}}
** 材料デザイン工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、計算材料設計、先端計測分析、ナノ構造設計がある。}}
** 物質プロセス工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、先進プロセス工学、物質創成工学がある。}}
** 化学システム工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、先進化学工学システム、材料化学がある。}}
** 電気工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、電気エネルギー、先端エネルギー、宇宙電磁環境工学(協力講座等)がある。}}
** 電子工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、未来エレクトロニクス創造、情報デバイス工学、量子システム工学、ナノエレクトロニクス(協力講座等)がある。}}
** 情報・通信工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、情報通信、情報システムがある。}}
** 機械システム工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、機械理工学、機械知能学がある。}}
** マイクロ・ナノ機械理工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、マイクロ・ナノ機械科学、マイクロ・ナノシステムがある。}}
** 航空宇宙工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、空力・推進、構造・創製、飛行・制御がある。}}
** エネルギー理工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、エネルギー材料工学、エネルギー量子工学、エネルギー流体工学がある。}}
** 総合エネルギー工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、核融合工学、エネルギーシステム工学、エネルギー安全工学がある。}}
** 土木工学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、構造・材料工学、水工学、地盤工学、社会基盤機能学がある。}}
* [[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|生命農学研究科]]{{efn|講座は、前期課程学生募集要項(2015年度入学生用)[http://www.agr.nagoya-u.ac.jp/jukensei/j_daigakuin_ad-info2015-01.html]と、後期課程学生募集要項(2014年10月入学生用、一般入試)[http://www.agr.nagoya-u.ac.jp/jukensei/j_daigakuin_ad-info2014-05.html]による。なお『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では、連携講座の記載はない。}}
** 生物圏資源学専攻
**: 講座:循環資源学、資源生産生態学、地域資源管理学、生物材料科学、生態システム保全学{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、「協力講座等」とされている。}}
** 生物機構・機能科学専攻
**: 講座:バイオダイナミクス、分子細胞機構学、生物機能分化学、資源生物機能学
** 応用分子生命科学専攻
**: 講座:バイオモデリング、生命機能化学、応用生命化学、応用遺伝・生理学
** 生命技術科学専攻
**: 講座:生物機能技術科学、生命技術社会システム学、生物生産技術科学{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、「協力講座等」とされている。}}、植物機能開発学{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、「協力講座等」とされている。}}、分子細胞機能学{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、「協力講座等」とされている。}}、生命技術国際協力学{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、「協力講座等」とされている。}}、生命機能システム学([[理化学研究所]]環境資源科学研究センターとの連携講座、後期のみ)
* [[名古屋大学大学院国際開発研究科|国際開発研究科]]{{efn|コース、専攻、プログラム、講座は、{{PDFlink|[http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/global/general/doc/gsid_pamphlet2015.pdf 国際開発研究科のパンフレット (2015-2016)]}}による。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では、開発政策講座、経営開発講座、教育発展史講座、比較国際法政システム講座、国際文化協力講座は「協力講座等」とされている。}}
*: 2018年度から、国際開発専攻と国際協力専攻を一本化し、「国際開発協力専攻」となった。また、国際コミュニケーション専攻は所属が2017年度より人文学研究科に変更された。
** 国際開発協力専攻(2018年度以降)
*** 学位プログラム
**** 経済開発政策・マネジメント
**** 平和とガバナンス
**** 包摂的な社会と国家
**** 教育と人材開発
**** 貧困と社会政策
**** グローバルリーダー・キャリアコース(5つのプログラムから履修生を選抜)
**** グローバル人材育成特別課程(1年修了)
**: (2017年度まで)
*** 博士前期課程
**** 国際開発協力コース
***** 国際開発専攻
****** 「経済開発政策と開発マネジメント」プログラム
****** 「農村・地域開発マネジメント」プログラム
****** 「教育・人材開発」プログラム
***** 国際協力専攻
****** 「ガバナンスと法」プログラム
****** 「平和構築」プログラム
****** 「社会開発と文化」プログラム
**** 国際コミュニケーションコース
***** 国際コミュニケーション専攻
****** 「人の移動と異文化理解」プログラム
****** 「言語教育と言語情報」プログラム
*** 博士後期課程
**** 国際開発専攻
**** 国際協力専攻
**** 国際コミュニケーション専攻
** 教員組織
*** 国際開発専攻
**** 基幹講座:国際開発講座
**** 協力講座:開発政策講座、経営開発講座、教育発展史講座
*** 国際協力専攻
**** 基幹講座:国際協力講座
**** 協力講座:比較国際法政システム講座、国際文化協力講座
*** 国際コミュニケーション専攻
**** 基幹講座:国際コミュニケーション講座、言語情報システム講座、言語教育科学講座、国際言語文化学講座、コミュニケーション科学講座
* [[名古屋大学大学院多元数理科学研究科|多元数理科学研究科]]
** 多元数理科学専攻{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』によると、講座には、基幹数理、自然数理、社会数理、数理解析、高次位相がある。}}
* 国際言語文化研究科(2017年度に募集停止)
** 日本言語文化専攻
**: 講座{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』による。ただ、{{PDFlink|[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/prospectus/26-koki.pdf 2014年度 後期課程学生募集要項(4月入学)]}}のp.7「講座及びその内容」では、現代日本語学講座と日本語教育方法論講座について、「協力講座等」といった注釈を付けていない。}}:日本言語文化学講座、日本語教育学講座、応用言語学講座、比較日本文化学講座、現代日本語学講座(協力講座等)、日本語教育方法論講座(協力講座等)
** 国際多元文化専攻
*** 講座{{efn|『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』による。ただ、前期課程学生募集要項(2015年度入学生用)の「講座及びその内容」という項目では、「メディアプロフェッショナル論講座」という名称ではなく、「メディアプロフェッショナルコース」という名称で内容が紹介されている。}}:多元文化論講座、先端文化論講座、アメリカ言語文化講座、東アジア言語文化講座、ヨーロッパ言語文化講座、ジェンダー論講座、メディアプロフェッショナル論
** コース:メディアプロフェッショナルコース(定員は国際多元文化専攻の定員に含まれる)、英語高度専門職業人コース(前期のみ。定員は国際多元文化専攻の定員に含まれる)、比較言語文化プログラム(前期のみ。留学生向け)
* [[環境学研究科]]{{efn|系、講座は研究科のホームページ[http://www.env.nagoya-u.ac.jp/staff/dept.html]による。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では、系について定めていない。}}
** 地球環境科学専攻
*** 地球惑星科学系
***: 講座:地球環境システム学講座、地質・地球生物学講座、地球化学講座、地球惑星物理学講座、地球惑星ダイナミクス講座(協力講座)、地球史学講座(協力講座)
*** 大気水圏科学系
***: 講座:地球環境変動論講座、気候科学講座、物質循環科学講座、放射線・生命環境科学講座(協力講座)、地球水循環科学講座(協力講座)
** 都市環境学専攻{{efn|『名古屋大学大学院環境学研究科規程』では定められていないが、{{PDFlink|[http://www.env.nagoya-u.ac.jp/admission/doc/I-MC.pdf 『2019年度 環境学研究科 博士前期課程 学生募集要項』」]}}によると、空間環境学コース、物質環境学コース、建築学コースという3つの履修コースを設けている。}}
*** 空間・物質系
***: 講座:都市持続発展論講座、環境機能物質学講座、物質環境構造学講座、地圏空間環境学講座、地域・都市マネジメント講座
*** 建築学系
***: 講座:環境・安全マネジメント講座、建築・環境デザイン講座、建築構造システム講座
** 社会環境学専攻
**: 講座:環境政策論講座、経済環境論講座、環境法政論講座、社会学講座、心理学講座、地理学講座
* 創薬科学研究科
** 基盤創薬学専攻(前期課程は2012年度に、後期課程は2014年度に設置)
**: 講座{{efn|講座、分野は、研究科ホームページの研究室紹介[http://www.ps.nagoya-u.ac.jp/research]による。なお、『名古屋大学の講座,学科目及び研究部門に関する規程』では、産学協同研究講座である「実践創薬科学講座」について記載がない。}}:創薬有機化学講座(天然物化学分野、有機合成化学分野、分子設計化学分野)、創薬生物科学講座(分子微生物学分野、細胞生化学分野、細胞分子情報学分野、細胞薬効解析学)、創薬分子構造学講座(構造分子薬理学分野、構造生理学分野)、実践創薬科学講座(産学協同研究講座)
==== 附属機関 ====
*; 教養教育院
** 統括部
**: 自然科学部門、社会科学部門、人文学部門、言語文化部門、基盤科学部門、実験担当(物理学・化学)
** 教養教育推進室(2010年度設置)
**: 基盤開発部門、アカデミック・ライティング教育部門、
** 博士課程教育推進機構
*; アジア[[サテライトキャンパス]]学院
*: 日本国内から[[モンゴル]]、[[ウズベキスタン]]、[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]の現地学生に対する教育を提供<ref group="WEB">[http://asci.nagoya-u.ac.jp/japan/ 名古屋大学 アジアサテライトキャンパス学院](2018年11月22日閲覧)。</ref>。
*; 高等研究院
* '''トランスフォーマティブ生命分子研究所'''(2013年度設置)
*; [[名古屋大学附属図書館|附属図書館]]
** 中央図書館
** 医学部分館
** 研究開発室
*; 附置研究所
** 環境医学研究所
*** 研究部門:[[ストレス (生体)|ストレス]]受容・応答研究部門{{efn|環境医学研究所のホームページ[http://www.riem.nagoya-u.ac.jp/research.html]によると、研究分野に、神経系分野I(大学院医学系研究科協力講座:視覚神経科学)、神経系分野II(大学院医学系研究科協力講座:神経性調節学)、病態神経科学分野(大学院医学系研究科協力講座:病態神経科学)、分子代謝医学分野(大学院医学系研究科協力講座:免疫代謝学)がある。}}、生体適応・防御研究部門{{efn|環境医学研究所のホームページ[http://www.riem.nagoya-u.ac.jp/research.html]によると、研究分野に、脳機能分野(大学院医学系研究科協力講座:薬物動態解析学)、発生・遺伝分野(大学院医学系研究科協力講座:発生・遺伝学)、心・血管分野(大学院医学系研究科協力講座:心・血管学)、[[ゲノム]]動態制御分野(大学院医学系研究科協力講座:分子機能薬学) がある。}}
*** 附属次世代創薬研究センター(2015年度改称)、
** 未来材料・システム研究所
**: 2004年にエコトピア科学研究機構として設置。翌年エコトピア科学研究所に改称し、2015年10月に改組。
*** 研究部
***: 材料創製部門、システム創成部門
*** 施設
***: 超高圧[[電子顕微鏡]]施設、先端技術共同研究施設
*** 附属高度計測技術実践センター
***: 電子顕微鏡計測部、電磁波計測部、素粒子計測部、X線分光計測部、ナノ加工計測部
*** 附属未来エレクトロニクス集積研究センター
***: 未来デバイス部、[[マルチフィジックス]]シミュレーション部、先端物性解析部、システム応用部、国際客員部、産学協同研究部
** [[名古屋大学宇宙地球環境研究所|宇宙地球環境研究所]]
**: [[2015年]]10月、[[名古屋大学太陽地球環境研究所|太陽地球環境研究所]]、地球水循環研究センター、年代測定総合研究センターを統合して発足。
*** 基盤研究部門
***: 宇宙線研究部、太陽圏研究部、電磁気圏研究部、気象大気研究部、陸域海洋圏生態研究部、総合解析研究部、年代測定研究部
*** 国際連携研究センター
***: 母子里観測所(北海道[[幌加内町]])、陸別観測所(北海道[[陸別町]])、富士観測所(山梨県[[富士河口湖町]])、鹿児島観測所([[鹿児島県]][[垂水市]])
*** 総合[[データサイエンス]]センター
*** 飛翔体観測推進センター
*; 学内共同教育研究施設等
** [[放射性同位体|アイソトープ]]総合センター
** 遺伝子実験施設
**: 研究分野:遺伝子解析、植物ゲノム解析
** 物質科学国際研究センター
**: 研究組織:有機物質合成研究分野、無機物質合成研究分野、物質機能研究分野、生命物質研究分野、分子触媒研究分野、共同研究分野
** 高等教育研究センター
** 農学国際教育協力研究センター
** [[名古屋大学博物館|博物館]]
** 心の発達支援研究実践センター
**: 研究組織:こころの育ちと家族分野、こころと社会のつながり分野、こころの支援実践分野
** 法政国際教育研究研究センター
** 生物機能開発利用研究センター
**: 研究部門:基盤・育成部門、開発・展開部門
** [[シンクロトロン]]光研究センター
**: 研究部門:光源部門、ビームライン部門、計測・分析部門
** 基礎理論研究センター
*** [[素粒子物理学|素粒子論]]部門
*** [[宇宙論|宇宙理論]]部門
*** [[弦理論]]・数理構造部門
*** 理論計算物理室
** 現象解析研究センター(素粒子宇宙起源研究機構)
*** [[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]物理学部門
*** 時空構造起源部門
*** 実験観測機器開発室
*** [[レプトン (素粒子)|タウレプトン]]データ解析室
** [[減災]]連携研究センター
**: 研究教育組織:研究連携部門、社会連携部門
** 細胞生理学研究センター
**: 研究教育組織:基礎生物学研究部門、連携創薬研究部門、連携医学研究部門、産学連携部門
** 脳とこころの研究センター
**: 研究教育組織:基盤整備部門、研究開発部門
** ナショナル[[コンポジット]]センター
**: 研究教育組織:研究開発部門、産学官連携部門
** 予防早期医療創成センター
**: 研究教育組織:予防社会システム研究部門、早期医療研究部門
** 男女共同参画センター(2017年7月、男女共同参画室から改組)
** 学生相談総合センター
*; 共同利用・共同研究拠点
** 情報基盤センター
**: 研究開発部門:学術情報開発研究部門、情報基盤ネットワーク研究部門、大規模計算支援環境研究部門、教育情報メディア研究部門
*; 総合保健体育科学センター
* '''未来社会創造機構'''(2014年度設置)
** モビリティ領域
**: 教育研究組織:材料・エネルギー分野、機械・情報分野、交通・社会分野
** ナノライフシステム研究所
** マテリアルイノベーション研究所
** 社会イノベーションデザイン学センター
**: 研究組織:イノベーティブプロジェクト部門、対話型セッション部門、プロトタイピング部門、社会システム研究部門
* '''アジア共創教育研究機構'''(2017年度設置)
*; 素粒子宇宙起源研究機構
** 基礎理論研究センター(再掲)
** 現象解析研究センター(再掲)
*; 学部・研究科附属機関
** 人文学研究科
*** 附属人類文化遺産テクスト学研究センター
*** 附属超域文化社会センター
** 教育学部
*** [[名古屋大学教育学部附属中学校・高等学校|附属高等学校]]
*** [[名古屋大学教育学部附属中学校・高等学校|附属中学校]]
** 法学研究科
** 経済学研究科
*** 附属国際経済政策研究センター
***: 研究部門:アジア経済・地域連携研究部門、企業戦略・マネジメント研究部門、資源・環境政策研究部門、政策情報研究室
** 情報学研究科
*** 附属価値創造研究センター
*** [[名古屋大学大学院情報学研究科附属組込みシステム研究センター|附属組込みシステム研究センター]]
*** 附属グローバルメディア研究センター
** 理学研究科
*** 附属臨海実験所
**** 菅島臨海実験所([[三重県]][[鳥羽市]])
**** 臨海実験所東山分室
*** 附属[[南半球]]宇宙観測研究センター
***: 研究組織:[[サブミリ波]]研究部門、高エネルギー研究部門、地球・惑星系研究部門
*** 附属構造生物学研究センター
***: 教育研究組織:構造動態学部門、構造機能学部門、構造細胞学部門
*** 附属タウ・レプトン物理研究センター
***: 研究組織:タウ・レプトン物理部門、[[大型ハドロン衝突型加速器|LHC]]物理部門、理論部門
*** 附属ニューロサイエンス研究センター(2017年度設置)
***: 脳神経回路研究ユニット部門、産学協同研究部門、運営部門
** 医学部・医学系研究科
*** 医学系研究科附属医学教育研究支援センター
***: 教育研究支援組織:実験動物部門、分析機器部門、先端領域支援部門、特任研究部門
*** 医学系研究科附属神経疾患・腫瘍分子医学研究センター
***: 研究組織:腫瘍病態統御部門、神経疾患病態統御部門、先端応用医学部門
*** [[名古屋大学医学部附属病院|医学部附属病院]](名大病院)
[[画像:Nagoya University Hospital.jpg|220px|thumb|医学部附属病院]]
:* 工学研究科
:** 低温[[プラズマ]]科学研究センター(cLPS)<ref group="WEB">プラズマナノ工学研究センターとプラズマ医療科学国際イノベーションセンターを統合し、2019年4月1日設立。[https://www.plasma.nagoya-u.ac.jp/about/greeting/ 低温プラズマ科学研究センター ご挨拶](2019年9月25日閲覧)による。</ref>
:**: 教育研究組織:基幹研究部門、産学連携研究部門
:** 附属材料バックキャストテクノロジー研究センター
:**: 教育研究組織:産学連携部門、物質知略部門、エネルギー知略部門、プロセス知略部門、安全性知略部門
:** 附属計算科学連携教育研究センター
:**: 教育研究組織:[[データベース]]部門、超並列計算部門、[[流体力学]]部門、物性物理部門、生体科学部門、[[アルゴリズム]]部門、計算化学部門
:** 附属マイクロ・[[ナノテクノロジー|ナノ]]メカトロニクス研究センター
:**: 研究部門:ナノ制御学、ナノ計測学、ナノ設計・製造学、ナノ材料学
:** 附属フライト総合工学教育研究センター(2018年度設置)
:**: フライト総合工学教育部門、総合工学プロジェクト研究部門、人材育成・社会連携部門、
:* 生命農学研究科
:** 附属フィールド科学教育研究センター
:**: 教育研究組織:森林科学部門、植物生産科学部門、動物生産科学部門
:** 附属鳥類バイオサイエンス研究センター
:* 環境学研究科
:** 附属[[地震]][[火山]]研究センター
:**: 研究分野:[[地殻]]活動機構研究分野、地殻活動予測研究分野、観測手法開発研究分野
:** 附属持続的共発展教育研究センター
:**: 教育研究組織:交通・都市国際研究部門、臨床環境学コンサルティングファーム部門
===== 附属図書館 =====
附属図書館は中央館、医学部分館、34の部局図書室がある。総蔵書数は約327万冊(2014年度時点)<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/koho/gaiyo/2015gaiyo.pdf 名古屋大学附属図書館 2015年度概要]}}</ref>。年間利用者は中央館のみで延べ約68万6千人、貸出冊数は約16万冊(2014年度)である<ref name="riyozy14" group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/koho/tokei/riyozy14.pdf 平成26年度名古屋大学附属図書館(中央図書館分)統計]}}</ref>。
{{main|名古屋大学附属図書館}}
===== 名古屋大学博物館 =====
2000年4月、日本の大学が設置する5番目<ref group="WEB">[http://www.num.nagoya-u.ac.jp/outline/index.html 名古屋大学博物館 -The Nagoya University Museum- / 博物館概要]</ref>の総合大学博物館として、東山キャンパスの古川記念館内に開館された。名古屋大学所蔵の学術標本・資料、ならびに大学における研究成果のフィードバック・資源化・社会還元を総合的にかつ国際的に行うことを目的としている。
{{main|名古屋大学博物館}}
===== 名古屋大学出版会 =====
[[一般財団法人]]名古屋大学出版会は、正確には附属機関ではなく独立採算制を執る独立した機関であるが、名大東山キャンパス大学広報プラザ内に事務所があることや理事長は名大教授であり、名古屋大学はじめ中部地区大学関係者の書籍を発行することを目的としているため、本節にまとめた。主に学術書や大学の講義で使う教科書などを出している。
: ※名大生協の[http://www.nucoop.jp/print/ 印刷・情報サービス部]とは別組織。なお設立の際人員の移籍があった。
{{main|名古屋大学出版会}}
=== 研究 ===
==== 21世紀COEプログラム ====
{{See also|21世紀COEプログラム}}
以下の14件のプロジェクトが採択された。
* 2002年
*; 生命科学
** システム生命科学:分子シグナル系の統合
** 新世紀の食を担う植物バイオサイエンス
*; 化学・材料科学
** 物質科学の拠点形成:分子機能の解明と創造
** 自然に学ぶ材料プロセッシングの創成
*; 情報・電気・電子
** 先端プラズマ科学が拓くナノ情報デバイス
** 社会情報基盤のための音声映像の知的統合
*; 人文科学
** 統合テクスト科学の構築
* 2003年
*; 医学系
** 神経疾患・腫瘍の統合分子医学の拠点形成
*; 数学・物理学・地球科学
** 宇宙と物質の起源:宇宙史の物理学的解読
** 等式が生む数学の新概念(2005年9月に辞退)
** 太陽・地球・生命圏相互作用系の変動学
*; 機械・土木・建築・その他工学
** 情報社会を担うマイクロナノメカトロニクス
*; 学際・複合・新領域
** 同位体が拓く未来―同位体科学の基盤から応用まで―
* 2004年
*; 革新的な学術分野
** 計算科学フロンティア
==== グローバルCOEプログラム ====
{{See also|グローバルCOEプログラム}}
以下の7件のプロジェクトが採択されている。
* 2007年
*; 生命科学
** システム生命科学の展開:生命機能の設計
*; 化学・材料科学
** 分子性機能物質科学の国際教育研究拠点形成
*; 人文科学
** テクスト布置の解釈学的研究と教育
* 2008年
*; 医学系
** 機能分子医学への神経疾患・腫瘍の融合拠点
*; 数学、物理学、地球科学
** 宇宙基礎原理の探求
*; 機械、土木、建築、その他工学
** マイクロ・ナノメカトロニクス教育研究拠点
* 2009年
*; 学際、複合、新領域
** 地球学から基礎・臨床環境学への展開
=== 教育 ===
* [[特色ある大学教育支援プログラム]]
** 創成型工学教育支援プログラム
** 教員の自発的な授業改善の促進・支援―授業支援ツールを活用した授業デザイン力の形成―
** コアリッションによる工学教育の相乗的改革(複数大学による共同取組、主となる大学:[[東京工業大学]])
* [http://admissions.g30.nagoya-u.ac.jp/jp/ 名古屋大学グローバル30国際プログラム (International Programs){{ja icon}}]
== 学生生活 ==
=== 大学祭 ===
大学祭は「名大祭」と呼ばれ、1960年から毎年、6月の第1木曜日から次の日曜日に掛けての4日間開催される。また、近年は秋季にも「秋革祭(しゅうかくさい)」と呼ばれるやや小規模なイベントも行われている。一般的には、大学祭は秋季に行われることが多いが、「名大祭」はその第一回開催時に[[伊勢湾台風]]の影響で延期となり、翌年の6月に第一回が行われたため、その後も6月に行われることとなった。
当時の名古屋大学は多くのキャンパスが市内や周辺市域に分散していた[[蛸足大学]]だったため、大学全体としての学生の結束が弱いとされた{{efn|第一回名大祭実行委員会からもパンフレットにて指摘されている。{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/publication/upload_images/no145.pdf 『名大トピックス』 No.145(2005年06月15日)]}} ちょっと名大史38 第1回名大祭 [http://nua.jimu.nagoya-u.ac.jp/booklet/pdf/booklet07.pdf 名大史ブックレット7 名大祭 -四〇年の歩み-]参照。}}。しかしキャンパスが東山地区に統合されるとともに、[[安保闘争]]や伊勢湾台風復興を契機に学生運動が高揚すると、大学祭開催への機運が高まり、1960年に第一回名大祭の開催を見た<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://nua.jimu.nagoya-u.ac.jp/booklet/pdf/booklet07.pdf 名大史ブックレット7 名大祭 -四〇年の歩み-]}}</ref>。しかし各学部の学生団体がそれぞれ企画を催すなどのばらつきも見られた。
現在では教養部を除く各学部の団体が統合された名大祭本部実行委員会と呼ばれる団体が6月の名大祭を主催し、教養部の団体の名残である名大祭一・二年生実行委員会が秋季の秋革祭を主催している。特に名大祭は多くの研究室・部活・サークルの成果の発表の場として、また全学学生の団結力を示す場として位置付けられている。来場者は毎年約5万人程度であり、その規模は東海地方で最大を誇る。また[[バリアフリー]]とごみの再資源化に早くから取り組んでいる。
2008年に開催された第49回名大祭の模擬店において、大規模な[[食中毒]]が発生した。翌年の第50回名大祭においては原因調査と再発防止体制確立のため、飲食物を取り扱う企画の自粛対応がなされた<ref group="WEB">{{ウェブアーカイブ |deadlink=yes |title=「第49回名大祭」における食中毒の原因調査について |url=http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/info/20090331.html |archiveurl=https://archive.fo/UslVvhttp://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/info/20090331.html|archiveservice=archive.today webpage capture |archivedate=2013-10-12}} 「第49回名大祭」における食中毒の原因調査について(名古屋大学HP)</ref>が、第51回からは体制が整ったとして飲食物を取り扱う企画が再開された<ref group="WEB">[http://www2.jimu.nagoya-u.ac.jp/meidaisai/51th/about/mogi.html 「第51回名大祭」における模擬店及び食品を取り扱う企画について](名大祭本部実行委員会HP)</ref>。
=== 部活動・クラブ活動・サークル活動 ===
==== スポーツ ====
1956年に名古屋大学体育会が結成され、1961年に大学公認を受けている。同会に所属する部の中には、陸上競技部や漕艇部など旧愛知医学校や第八高等学校からの歴史がある部も存在する<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://nua.jimu.nagoya-u.ac.jp/booklet/pdf/booklet03.pdf 名古屋大学スポーツの歩み 名大史ブックレット3]}}</ref>。また、全国の旧[[帝国大学]]と共に[[全国七大学総合体育大会]]に参加している。また、[[大阪大学]]との対抗戦として[[名古屋大学・大阪大学対抗競技大会]](名阪戦)を行っている。
1964年からは毎年11月下旬に須賀杯争奪駅伝競走大会が開催されている。これは名古屋大学教授で陸上部顧問(当時)を務めていた須賀太郎が、1963年に[[豊田工業高等専門学校]]の初代校長に就任し、同校のスポーツ振興に力を注いだことに由来する。大学と[[高等専門学校|高専]]が共催するスポーツ大会は日本国内では珍しい<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/publication/upload_images/no141.pdf 名大トピックス No.141(2005年2月28日)]}} ちょっと名大史34須賀杯争奪駅伝競走大会</ref>。
[[名古屋大学グランパス|アメリカンフットボール部]]の愛称は「グランパス」である。[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]創設以前から歴史があり、名古屋グランパスの関係者がグランパスの名前を使用する許可を求めて同部を訪れた逸話がある<ref>名古屋大学アメリカンフットボール部『GRAMPAS OFFICIALBOOK 進化』、2008年、p34、および名古屋大学体育会『濃緑』、2007年、p94、に記載あり。</ref><ref group="WEB">[http://nu-grampus.com/team-history/ 名古屋大学アメリカンフットボール部GRAMPUS公式HP 歴史]</ref>。
==== 文化系 ====
文化系のクラブ活動も盛んである。特に1984年に設立した[[名古屋大学クイズ研究会]]では、現役生やOB/OGを問わず、同会出身の解答者がテレビのクイズ番組で優秀な成績を残すなど<ref group="新聞">[http://www.asahi.com/edu/university/kiwameru/TKY200903170175.html asahi.com(朝日新聞社):名古屋大「クイズ研究会」 裏読む力が正解への道 - 究める - 大学 - 教育] 2009年3月18日</ref>、国立大学ではトップ級のクイズ研究会である。
その他にも、名古屋大学アニメ声優研究連は、[[中部地方]]唯一で、また日本の大学でも極めて少数派の[[声優]]専門サークルとしてイベントの運営を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://nuvacircle.wixsite.com/nagoya |title=名古屋大学アニメ声優研究連|名大でアニメ |access-date=2018-12-11 |website=名古屋大学アニメ声優研究連|名大でアニメ}}</ref>。
== 大学関係者と組織 ==
=== 学士会 ===
旧[[帝国大学]]の出身者および学長、教授、助教授・准教授経験者で構成される団体として一般社団法人[[学士会]]があり、名古屋大学関係者も多数入会している。
{{main|学士会}}
=== 大学関係者一覧 ===
{{See|名古屋大学の人物一覧}}
== 施設 ==
上述のように施設が東山地区に統合されたのが1950年代であり、そのためキャンパス内に他の旧[[帝国大学]]に見られるような戦前に建てられた歴史的建造物はほとんど存在しない。下記の各キャンパスに加えて、[[産学連携|産学官連携]]などを目的として、「名古屋大学[[オープンイノベーション]]拠点」を[[名古屋駅]]前の[[JRゲートタワー]]内に<ref group="新聞">[https://www.nikkei.com/article/DGXLZO18283050Z20C17A6L91000/ 名大、学生ベンチャーの支援拠点、「JRゲートタワー」に『日本経済新聞』](2017年6月29日)2018年4月10日閲覧。</ref>、東京オフィスを[[三菱ビルヂング]]([[東京都]][[千代田区]][[丸の内]])に持つ<ref group="WEB">[http://www.aip.nagoya-u.ac.jp/ru/tokyo_office/detail/0000077.html <nowiki>東京オフィスの概要 | 東京オフィスの利用について | 名古屋大学研究大学強化促進事業</nowiki>]</ref>。
=== キャンパス ===
[[画像:Nagoya University 001.jpg|220px|thumb|正門がない東山キャンパス正面入口付近]]
[[画像:Nagoya University Higashiyama Campus 1987 001.jpg|220px|thumb|東山キャンパス(1987年)<br>{{国土航空写真}}]]
==== 東山キャンパス ====
* 使用学部:文学部、教育学部、法学部、経済学部、情報学部、理学部、工学部、農学部
* 使用研究科:人文学研究科、教育発達科学研究科、法学研究科、経済学研究科、理学研究科、工学研究科、生命農学研究科、国際開発研究科、多元数理科学研究科、環境学研究科、情報学研究科
* 使用附属施設:環境医学研究所、宇宙地球環境研究所、未来材料・システム研究所、情報基盤センター
* 交通アクセス:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]][[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] [[名古屋大学駅]]、[[名古屋市営バス]]「名古屋大学」バス停
東山キャンパスは東西に長い長方形のような形をしており、キャンパスのほぼ中央を南北に貫く公道([[山手グリーンロード]])によって西地区と東地区に分けられる<ref group="WEB">[https://www.city.nagoya.jp/kankyo/page/0000004242.html 名古屋市 5.美化推進重点区域「四谷通地区」(暮らしの情報)]</ref>。そのためかこのキャンパスには正門が存在しない。東地区は丘陵となっており、山手グリーンロードと最高点で約30mの高低差がある<ref group="WEB">[https://maps.gsi.go.jp/#15/35.152337/136.968741/ 地理院地図]</ref>。キャンパスの中心にはグリーンベルト(緑地帯)が東西に走っており、西地区のグリーンベルトには中央図書館、東地区のグリーンベルトには[[名古屋大学豊田講堂|豊田講堂]]がある。西地区の南側が文系地区となっており、西地区の北側は工学研究科を中心とした理系地区および名古屋大学教育学部附属学校となっている。東地区は理系地区および野球場、サッカー兼陸上競技場、テニスコートなどのスポーツ施設などとなっている<ref group="WEB">{{PDFlink|[http://www.nagoya-u.ac.jp/upload_images/campus_map_jp.pdf 名古屋大学東山キャンパス案内図]}}</ref>。また、大学を東西に貫くグリーンベルトは[[若宮大通]]([[100メートル道路]])の延長線上にある。名古屋市の[[都市計画]]では、若宮大通の東端を名古屋大学東山キャンパスへ接続するという想定が存在していたことが影響していたのではないかという説がある<ref group="新聞">加藤弘二「なごや特捜隊 名大に正門なぜない? 戦争挟み計画から消滅」『[[中日新聞]]』2008年9月29日付朝刊、市民版(第18面)<br>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/ntok0071/list/CK2008102702100006.html |title=中日新聞:名大に正門なぜない? 戦争挟み計画から消滅:愛知(CHUNICHI Web) |access-date=2008-10-13 |author=加藤弘二 |date=2008-09-29}}</ref>。
===== 町区画 =====
東山キャンパスは、地図上では名古屋市[[千種区]]にある複数の町区画にまたがっているが、郵便物を速く確実に届けるために郵便の宛先は「名古屋市千種区不老町」に統一され、構内各所に学内住所番号を割り振っている<ref group="WEB">[http://www.nagoya-u.ac.jp/info/20080124.html <nowiki>東山キャンパス内における新たな学内住所番号の付与について | | 大学からのお知らせ</nowiki>] 名古屋大学 2008年01月24日</ref><ref group="WEB">[http://www.nagoya-u.ac.jp/access/ 交通アクセス <nowiki>|</nowiki> 名古屋大学]</ref>。(本部の所在地は、地図上では千種区[[仁座町]]。不老町は図書館や工学部1号館、2号館、3号館、7号館などがある場所)。不老町以外にも東山キャンパス内に完全に含まれるため郵便の宛先とする個所が存在しなくなった町がいくつかある。また、現在の千種区と[[昭和区]]の区界は大学のキャンパスに沿って引かれているが、この線引きのために区をまたいで分断され、両区にまたがって存在する町名もある{{efn|宮東町、[[八雲町 (名古屋市)|八雲町]]、[[山手通 (名古屋市)|山手通]]はいずれも両区にまたがって存在する。昭和区には郵便番号が置かれているが、千種区側では郵便番号が存在しない。<ref group="WEB">[https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1231010&cmp=1 日本郵便 郵便番号検索 愛知県名古屋市千種区]</ref><ref group="WEB">[https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1231070&cmp=1 日本郵便 郵便番号検索 愛知県名古屋昭和区]</ref>}}。
===== 地下鉄 =====
キャンパスの真下に[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]が通過しており、キャンパス内に[[名古屋大学駅]]がある。[[地下鉄]]の建設工事に伴い、精密測定機器の精度を守るために一部施設が東山キャンパス外に移転するなどした。また、東山キャンパス内を東西に通る地下鉄の新線([[名古屋市営地下鉄東部線|東部線]])の構想があるが、新線自体について2009年に建設の凍結が提言されている<ref group="WEB">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/keiei_committee/090723teigenshuusei.pdf |title=名古屋市交通事業の経営健全化方策について |access-date=2022-01-11 |publisher=名古屋市交通局 |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1164679/www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/keiei_committee/090723teigenshuusei.pdf |deadlinkdate=2019-05-06 |author=名古屋市交通事業経営健全化検討委員会 |date=2009年7月23日 |archive-date=2010年8月14日 |language=日本語}}</ref>。
===== FOREST =====
FOREST(フォレスト)は、東山キャンパス北東部(理系地区)の理系中華食堂・理系カフェテリアを全面改築・改修して作られた、名大[[生活協同組合|生協]]運営の福利厚生施設の総称。理系専門書店の Books Fronte、カフェの Cafe Fronte、食堂の Dining Forest から構成される。FOREST というネーミングは一般公募の結果、名大生協事務員の案が採用された。「FOREST」は「For Eat Study Talk」という意味が込められている。
理系中華食堂は[[2005年]]夏に取り壊され、新たに Fronte(フロンテ)が建てられた。この建物はこれまでの生協の剰余金(いわゆる利益)のみを利用して建設された。[[2006年]]5月に今まで理系書を取り扱ってきた北部書籍が移転する形で、Books Fronte、そして建物内で隣接する Cafe Fronte がオープンした。Books Fronte は2006年5月時点、日本の大学[[生活協同組合|生協]]では最大の書籍を陳列している理系専門書店である。カフェにはパソコンを利用できるスペースがあり、名古屋大学無線ネットワーク実証実験 (nuwnet) を利用して[[インターネット]]へ接続することも可能となっている。
理系カフェテリアは2006年の夏季長期休暇中を中心に改修され、Dining Forestとして10月2日にオープンした。
==== 鶴舞キャンパス ====
* 使用学部:医学部医学科
* 使用研究科:医学系研究科
* 使用附属施設:医学部附属病院
* 交通アクセス:[[鶴舞駅]]({{JR海駅番号|CF}}[[東海旅客鉄道|JR]][[中央線 (名古屋地区)|中央本線]]・[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|20px]]名古屋市営地下鉄[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]])下車徒歩約5分、名古屋市営バス「[[名古屋市営バス猪高営業所#栄18号系統|名大病院]]」バス停
鶴舞キャンパスは昭和区鶴舞町と千種区花田町にまたがっており、東山キャンパスの8分の1程度の広さを持つ。北部には研究棟や図書館の医学部分館などがあり、南部には[[名古屋大学医学部附属病院|附属病院(名大病院)]]の病棟や診療棟などがある。また、キャンパスの東側には[[名古屋工業大学]]、南側には[[名古屋市公会堂]]などがある[[鶴舞公園]]が隣接しており、北側は[[若宮大通]]に面している。なお、鶴舞キャンパスには[[ローソン]]が3店舗存在する。
==== 大幸キャンパス ====
* 使用学部:医学部保健学科
* 使用研究科:医学系研究科
* 使用附属施設:大幸医療センター(2011年3月閉院)
* 交通アクセス:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]]名古屋市営地下鉄名城線 [[ナゴヤドーム前矢田駅]]・[[砂田橋駅]]、{{名鉄駅番号|ST}}名鉄[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]] [[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]]、{{color|#3c459a|■}}[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])ナゴヤドーム前矢田駅・砂田橋駅、{{JR海駅番号|CF}}JR中央本線 [[大曽根駅]]、名古屋市営バス「大幸三丁目」バス停
大幸キャンパスは[[東区 (名古屋市)|東区]]大幸南にあり、鶴舞キャンパスの半分強の広さを持つ。北部には保健学科本館・南館・別館、中心部には大幸医療センター、南部には運動場などがある。また、キャンパスの東には[[愛知教育大学附属名古屋小学校]]・[[愛知教育大学附属名古屋中学校]]、南西には[[ナゴヤドーム]]がある。
==== 豊川キャンパス ====
* 使用学部:なし
* 使用研究科:なし
* 使用附属施設:[[名古屋大学宇宙地球環境研究所|宇宙地球環境研究所]]豊川分室
* 交通アクセス:{{名鉄駅番号|TK}}名鉄[[名鉄豊川線|豊川線]][[諏訪町駅]]
'''山手キャンパス'''
* 使用学部:なし
* 使用研究科:なし
* 使用附属施設:なし
* 交通アクセス:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]][[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] [[名古屋大学駅]]・[[八事日赤駅]]、[[名古屋市営バス]]「名古屋大学」バス停
留学生や海外からの研究生が住むインターナショナルレジデンス山手、日本人と留学生の寮である国際嚶鳴館(こくさいおうめいかん)がある。
=== 学生食堂 ===
東山キャンパスには[[大学生協]]の運営する北部食堂・南部食堂・フレンドリィ南部・Dining Forest・レストラン花の木・Cafe Fronte・IBカフェと、外部業者の運営するユニバーサルクラブなどがある。このうち工学部エリアに位置する北部食堂は定食を扱う「北部食堂」、ラーメン類を扱う「麺コーナー」、うどんやそば、丼ものを扱う「ゆ~どん」からなる。
さらに2010年、中央図書館2Fに[[スターバックス]]がオープンした。鶴舞キャンパスには医学部食堂が、大幸キャンパスには大幸食堂があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である<ref name="seikyo" group="WEB">{{Cite web|和書|title=各店舗連絡先 |url=https://www.nucoop.jp/coop/coop_430.html |website=www.nucoop.jp |access-date=2023-01-11 |language=ja}}</ref>。
=== 購買・書籍 ===
東山キャンパスには北部購買、南部購買、南部書籍、パンだが屋{{efn|2016年10月にNUだが屋より改装・改称。{{Twitter status|nucoop_fn|793461072053219329}}}}、プランゾ、Books Fronte、理系ショップ、ラボショップがある。鶴舞キャンパスには医学部購買、医学部書籍が、大幸キャンパスには大幸購買書籍があり、いずれも名古屋大学消費生活協同組合の運営である<ref name="seikyo" group="WEB" />。
==== ファミリーマート名古屋大学店 ====
東山キャンパスに[[2006年]]7月24日開店した[[ファミリーマート]]名古屋大学店は、日本初となる[[コンビニエンスストア]]と国立大学の[[産学連携]]の試みの一環として設置された。店内では通常のコンビニエンスストアとしての機能を持つほか、研究発表用の「マルチスタディールーム」が設けられている<ref group="WEB">{{Cite web|和書|title=コンビニと国立大学初の産学連携しての研究も 「ファミリーマート名古屋大学店」開店 |url=https://www.family.co.jp/company/news_releases/2006/20060724_01.html |website=ファミリーマート公式ウェブサイト |access-date=2023-01-11 |language=ja}}</ref>。2012年1月5日には構内2号店となるファミリーマート名古屋大学IB館店も開店した<ref group="WEB">[http://www.family.co.jp/company/news_releases/2012/20120105_01.html 名古屋大学構内に2店舗目となる「ファミリーマート名古屋大学IB館店」を開店!|ニュースリリース|ファミリーマート]</ref>。
=== 講堂 ===
* [[名古屋大学豊田講堂]]
=== 寮 ===
* 国際嚶鳴館(名古屋市昭和区高峯町165-1) - 日本人学生と留学生が共用(日本人用232室、留学生用60室)。全個室。名古屋高等商業学校に起源を持つ「嚶鳴寮」に代わり、2002年に建設された。
* 留学生会館(名古屋市昭和区陶生町2‐23、留学生専用)
* インターナショナルレジデンス東山(名古屋市千種区不老町、留学生専用)
* インターナショナルレジデンス山手(名古屋市昭和区[[高峯町]]165-1、留学生専用)
* 石田記念名古屋大学インターナショナルレジデンス妙見(名古屋市昭和区[[妙見町 (名古屋市)|妙見町]]40、留学生専用)
== 対外関係 ==
=== 学術協定校 ===
<div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em">
; {{USA}}
* [[オバーリン大学]]
* [[ノースカロライナ州立大学]]
* [[ハーバード燕京研究所]]
* [[シンシナティ大学]]
* [[セントオラフ大学]]
* [[南イリノイ大学カーボンデール校]]
* [[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]
* [[ニューヨーク大学]]
* [[ケンタッキー大学]]
* [[ミネソタ大学ツインシティー校]]
* [[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]
* [[ノースカロライナ大学チャペルヒル校]]
* [[カリフォルニア大学デービス校]]
* [[カリフォルニア大学バークレー校]]
* [[フロリダ大学]]
* [[アイオワ州立大学]]
; {{GBR}}
* [[シェフィールド大学]]
* [[ウォーリック大学]]
* [[ブリストル大学]]
* [[ロンドン大学]][[東洋アフリカ研究学院]] (SOAS)
* [[リーズ大学]]
* [[エジンバラ大学]]
* [[ケンブリッジ大学]][[セント・ジョンズ・カレッジ]]
; {{FRA}}
* [[ストラスブール大学]]
* [[国立土木学校]]
* [[パリ第7大学|パリ・ディドロ大学]]
* [[リヨン第三大学]]
* [[グルノーブル大学]]
* [[パリ東大学]]
* [[リヨン高等師範学校]]
* [[フランス人間科学研究財団]]
* [[エクス=マルセイユ大学]]
; {{DEU}}
* [[ブラウンシュヴァイク工科大学]]
* [[ミュンヘン工科大学]]
* [[ケムニッツ工科大学]]
* [[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク]]
* [[アーヘン工科大学]]
; {{CHN}}
* [[南京大学]]
* [[吉林大学]]
* [[華中科技大学]]
* [[清華大学]]
* [[復旦大学]]
* [[西安交通大学]]
* [[浙江大学]]
* [[上海交通大学]]
* [[同済大学]]
* [[東北大学 (中国)|東北大学]]
* [[北京大学]]
* [[ハルビン工業大学]]
* [[中国科学技術大学]]
* [[中国科学院]]上海有機化学研究所
* [[香港中文大学]]
* [[香港大学]]
* [[大連理工大学]]
; {{ROC}}
* [[国立台湾大学]]
* [[国立政治大学]]
* [[国立清華大学]]
* [[国立中正大学]]
; {{KOR}}
* [[木浦大学校]]
* [[慶尚国立大学校]]
* [[梨花女子大学校]]
* [[漢陽大学校]]
* [[高麗大学校]]
* [[ソウル大学校]]
* [[慶熙大学校]]
* [[延世大学校]]
* [[成均館大学校]]
* [[浦項工科大学校]]
* [[韓国科学技術院]]
* [[韓国海洋大学校]]
; {{RUS}}
* [[ヨッフェ物理学技術研究所]]
* [[ロシア科学アカデミー]]シベリアブランチ
* [[ルジャーノフ半導体研究所]]
; {{CAN}}
* [[ヨーク大学]]
* [[トロント大学]]
* [[モントリオール大学]]
* [[アルバータ大学]]
* [[カルガリー大学]]
* [[オタワ大学 (カナダ)|オタワ大学]]
; {{AUS}}
* [[シドニー大学]]
* [[モナシュ大学]]
* [[フリンダース大学]]
* [[南オーストラリア大学]]
* [[アデレード大学]]
* [[オーストラリア国立大学]]
* [[西オーストラリア大学]]
</div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em">
; {{ITA}}
*[[イタリア国立核物理学研究所]] (INFN)
* [[カターニア大学]]
* [[ボローニャ大学]]
* [[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]]
; {{ESP}}
* [[バルセロナ大学]]
; {{BEL}}
* [[ルーヴァン・カトリック大学]]
; {{DNK}}
* [[コペンハーゲン大学]]
* [[オーフス大学]]
; {{NOR}}
* [[オスロ大学]]
; {{SWE}}
* [[ウプサラ大学]]
* [[スウェーデン王立工科大学]]
; {{AUT}}
* [[インスブルック大学]]
; {{POL}}
* [[ワルシャワ大学]]
* [[ポーランド科学アカデミー]]高圧研究所
; {{CHE}}
* [[ジュネーブ大学]]
; {{VNM}}
* [[ハノイ工科大学]]
* [[ベトナム国家大学ハノイ校]]
* [[ベトナム社会主義共和国司法省]]
; {{THA}}
* [[カセサート大学]]
* [[チュラーロンコーン大学]]
* [[チュラポーン研究所]]/[[チュラポーン大学院大学]]
* [[ラジャマンガラ工科大学]]タンヤブリ校
* [[バンコク病院]]
; {{SGP}}
* [[南洋理工大学]]
* [[シンガポール国立大学]]
; {{PHL}}
* [[フィリピン大学]]ロスバニョス校
* フィリピン大学機構
; {{IDN}}
* [[ガジャ・マダ大学]]
* [[スラバヤ国立大学]]
* [[バンドン工科大学]]
; {{KHM}}
* [[王立プノンペン大学]]
* [[カンボジア王立農業大学]]
* [[王立法経大学]]
; {{LAO}}
* [[ラオス国立大学]]
; {{MMR}}
* [[ヤンゴン大学]]
; {{IND}}
* [[プネー大学]]
* [[インド理科大学院]]
* [[タタ基礎科学研究所]]
; {{MNG}}
* [[モンゴル国立大学]]
* [[モンゴル科学技術大学]]
* [[モンゴル保健・スポーツ省]]
* [[モンゴル自然環境・観光省]]
; {{UZB}}
* [[タシケント国立法科大学]]
* [[世界経済外交大学]]
* [[タシケント工科大学]]
* [[ウズベキスタン共和国大統領直属国家行政アカデミー]]
* [[サマルカンド国立大学]]
; {{TUR}}
* [[ビルケント大学]]
; {{EGY}}
* [[カイロ大学]]
; {{KEN}}
* [[ナイロビ大学]]
; {{ZAF}}
* [[ステレンボッシュ大学]]
; {{ISL}}
* [[アイスランド大学]]
; {{BRA}}
* [[ブラジリア連邦大学]]
* [[サンパウロ大学]]
</div>{{clear}}
; 複数国
* [[チュラーロンコーン大学]]({{THA}})、[[ハノイ工科大学]]({{VNM}})、[[ラオス国立大学]]({{LAO}})
* [[タシケント工科大学]]({{UZB}})、[[筑波大学]]({{JPN}})
* 国際機関
* [[東南アジア地域農業教育研究センター]] (SEARCA)
* [[欧州原子核研究機構]] (CERN)
* [[国際連合地域開発センター]] (UNCRD)
=== 国内他大学との協定 ===
* 8大学工学系研究科長懇談会
=== 産学連携 ===
学術研究・産学官連携推進本部を設けて、企業や地方自治体との[[産学連携|産学官連携]]や大学発[[ベンチャー企業]]の支援に取り組んでいる<ref group="WEB">[https://www.aip.nagoya-u.ac.jp/ 名古屋大学 学術研究・産学官連携推進本部](2019年9月25日閲覧)</ref>。
== 附属学校 ==
* [[名古屋大学教育学部附属中学校・高等学校]]
== 企業からの評価 ==
=== 人事担当者からの評価 ===
*2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』 |access-date=2021-07-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |archive-date=2021-06-02 |url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、名古屋大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal |和書 |date=2021-04-01 |title=日本の大学数 2021年度は788大学 |url=http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf |journal=今月の視点 |issue=172 |publisher=旺文社 教育情報センター |accessdate=2021-07-18 |format=PDF}}</ref>中、第5位<ref name="日経HR" />にランキングされた。
=== 出世力 ===
*[[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、名古屋大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中、第15位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。
*『[[週刊エコノミスト]]』(2010年8月31日号)に掲載された、「卒業生数の割に役員・管理職の人数が多い度合い」で、名古屋大学は、2010年時点で存在する全国の778大学<ref name="reform">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai5/siryou1.pdf 日本の人口推移と大学数の推移|大学改革 参考資料 平成30年2月 内閣官房人生100年時代構想推進室 14/17頁]</ref>中、第12位にランキングされた<ref>[https://www.r-agent.com/guide/news/20120105_1_2.html 「有名大学卒ほど出世しやすい」はもはや昔の話?小樽商科、滋賀、大阪市立――地方の意外な実力校|週刊エコノミスト(2010年8月31日号)より]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
==== WEB ====
{{Reflist|group="WEB"|2}}
==== 新聞 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 文献 ====
{{Reflist|2}}
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|大学}}
{{Commonscat}}
{{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像 (帝国大学)}}
* [[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]]
** [[b:名古屋大対策|名古屋大対策]]
* [[s:メインページ|ウィキソース (Wikisource)]]
** [[s:名古屋大学平和憲章|名古屋大学平和憲章]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nagoya-u.ac.jp/ 国立大学法人東海国立大学機構 名古屋大学]
* [https://admissions.g30.nagoya-u.ac.jp/jp/ 名古屋大学グローバル30国際プログラム (Nagoya University International Programs){{ja icon}}]
{{名古屋大学}}
{{Navboxes|title=加盟コンソーシアムなど
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<!--全学連携-->
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[[Category:名古屋大学|*]]
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5,252 | 光源氏 | 光源氏()は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。
なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称である。
架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。モデルには最も有力候補で生い立ちや境遇が似ている源融説の他に、その父にあたる嵯峨天皇や醍醐源氏、敦慶親王、藤原道長、藤原伊周、源光、藤原実方など多くの人々の名前が挙げられている。その人物以外の他の平安貴族、(在原行平、在原業平、菅原道真など)の故事なども用いて脚色されていると考えられている。
桐壺帝の第二皇子として京都に生まれる。母は桐壺更衣。幼少の頃から輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君(ひかるきみ)」と綽名される。母は三歳のとき亡くなった。母に似る女性藤壺への思慕が初恋となり、その面影を求めて生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を東宮(皇太子)とすることを考えたが、実家の後援(後見)がないことを危ぶみ、また光る君が帝位につけば国は乱れると高麗人に予言されたこともあり、臣籍降下させ源氏の姓を与えた。
亡母に似ているとして父帝の後宮に入った藤壺を慕い、遂に一線を越えて子(後の冷泉帝)をなすが、密通の事実は世に知られることはなかった。この皇子の東宮時代から後見として支え、即位後に冷泉帝が事実を知り譲位を考えた時には固辞したが、後に臣下を越える准太上天皇を与えられた。以後、その邸宅の名を取って六条院と呼ばれる。
正妻は最初元服と同時に結婚した左大臣の娘葵の上、後に兄朱雀院の皇女・女三宮である。しかし源氏が理想の女性として育てた紫の上(若紫、紫の君とも呼ばれる)が葵の上の死後事実上の正妻であり、多くの夫人の中で彼女への愛が最も深かった。他、源氏の側室・愛人としては、六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方などが登場し、従姉妹の朝顔斎院や六条御息所の娘の前斎宮(秋好中宮)にも心を寄せた。
宿曜の占いによれば「3人の子供をなし、ひとりは帝、ひとりは中宮、真ん中の劣った者も太政大臣となる」と言われ(「澪標」)、これは藤壺の子冷泉帝、葵の上との間に生まれた長男の夕霧、明石の御方の娘である明石の姫君の三人により実現した。ただし冷泉帝の出生は秘事であり、また公的には女三宮の生んだ薫が源氏の子(次男)とされている(なおこの占いのためもあってか、源氏は始め女三宮が身篭ったと聞いてもすぐには信じず、後に柏木との密通を知り納得した)。この他、六条御息所の遺児秋好中宮と、頭中将と夕顔との娘玉鬘を養女とした。
兄の朱雀帝即位後、その外戚である右大臣・弘徽殿女御派の圧力や尚侍となっていた朧月夜との醜聞もあって須磨、後に明石へ隠退。この時、明石の御方と結ばれ、後の明石の中宮となる姫君が誕生する。帰京後は即位した冷泉帝の後見として復帰、秋好中宮を養女に迎えて冷泉帝の后とした。その後太政大臣となった源氏は、その栄華の象徴ともなる広大な四町の邸宅・六条院を造営した。西南の秋の町(六条御息所の旧邸)は秋好中宮の里邸に、自らは東南の春の町に紫の上や明石の姫君と住んだ。また東北の夏の町には花散里を(後に玉鬘もここに迎えられた)、西北の冬の町には明石の君を配し、さらに二条東院にもかつての愛人たちを引き取って世話をした。
40歳を迎えたのを機に、冷泉帝より准太上天皇の待遇を受ける。栄華の絶頂に至った源氏だったが、兄朱雀院の出家に際し、源氏の正室にふさわしい高貴で有力な後見ある妻がいない事にかこつけて、内親王の庇護者にと姪・女三宮の降嫁を打診される。藤壺亡き後も今なお彼女への思いおさえがたく、女三宮が紫の上同様に藤壺の姪であることにも心動かされた源氏は、これを断る事が出来なかった。しかし結婚してみればただ幼いだけの女三宮に源氏は失望し、また女三宮降嫁に衝撃を受けた紫の上も苦悩の末病に倒れて、六条院の栄華にも次第に影が射し始めた。
やがて源氏自身がかつて父桐壺帝を裏切ったように、女三宮の密通が発覚する。一度は女三宮とその愛人の柏木に怒りをつのらせた源氏であったが、生まれた子ども(薫)を見て、これが若い日の罪の報いであったことに気づかされる(因果応報)。その後女三宮の出家と柏木の死でさすがに怒りも和らぎ、また亡き父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎めなかったのではないかと思いを馳せて、源氏は生まれた子の秘密を誰にもいわず自分の子として育てる事になった。
最愛の紫の上の死後は、嵯峨に隠退して二、三年出家生活を送った後に死去したことが、後に「宿木」で述べられる。なお出家から死までは作中には描かれず、本文の存在しない「雲隠」が源氏の死を暗示するのみであるとも、また本文は失われたとも言われる。
現世の繁栄を享受しながら常に仏道を思い、にもかかわらず女性遍歴を繰り返すという人物造形は、次の世代の薫と匂宮にそれぞれ分割して受け継がれる。また、しばらく後に書かれた『狭衣物語』の主人公である狭衣大将にも影響を与えている。
堺屋太一は著書『日本を創った12人』(1996年、PHP新書全二巻、のちPHP文庫全一巻)において源頼朝・織田信長・徳川家康らと並んで光源氏を取り上げ、「平安貴族の典型としての光源氏は虚構の人物ながら後世の日本人に大きな影響を与えた」「光源氏は日本人が考える『貴族』『上品な人』の概念の原点」としている。また、堺屋は「日本には今なお『上品で名門で善人だが行財政の実務など現実の政治には能力も関心もない』という『光源氏型』の政治家が時々現れ、国民に支持される」として近衛文麿を例に挙げている。
国父になれる相を持ち、光り輝く美貌を持つ。文武に優れ、学問、詩歌、管弦、琴、舞楽、絵画、騎射の才も群を抜く。 京都の清涼寺に大きな阿弥陀仏があり、その説明書きによると阿弥陀仏は清涼寺に住んでいた源融の顔を模して作られたものであり、源融は光源氏のモデルと言われていることから光源氏の容姿はこの阿弥陀仏と同じであるという趣旨のことが書かれている。 | [
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"text": "国父になれる相を持ち、光り輝く美貌を持つ。文武に優れ、学問、詩歌、管弦、琴、舞楽、絵画、騎射の才も群を抜く。 京都の清涼寺に大きな阿弥陀仏があり、その説明書きによると阿弥陀仏は清涼寺に住んでいた源融の顔を模して作られたものであり、源融は光源氏のモデルと言われていることから光源氏の容姿はこの阿弥陀仏と同じであるという趣旨のことが書かれている。",
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] | 光源氏は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。 なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称である。 | {{Otheruses||日本のアイドルグループ|光GENJI}}
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なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称である。
==モデル==
架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。モデルには最も有力候補で生い立ちや境遇が似ている[[源融]]説の他に、その父にあたる[[嵯峨天皇]]や[[醍醐源氏]]、[[敦慶親王]]、[[藤原道長]]、[[藤原伊周]]、[[源光 (公卿)|源光]]、[[藤原実方]]など多くの人々の名前が挙げられている。その人物以外の他の[[平安貴族]]、([[在原行平]]、[[在原業平]]、[[菅原道真]]など)の故事なども用いて脚色されていると考えられている。
==略歴==
[[桐壺帝]]の第二皇子として[[京都]]に生まれる。母は[[桐壺更衣]]。幼少の頃から光り輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「'''光る君'''('''ひかるきみ''')」と綽名される。母は三歳のとき亡くなった。母に似る女性[[藤壺]]への思慕が初恋となり、その面影を求めて生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を[[皇太子|東宮]]([[皇太子]])とすることを考えたが、実家の後援([[後見 (歴史学)|後見]])がないことを危ぶみ、また光る君が帝位につけば国は乱れると[[高麗]]人に[[予言]]されたこともあり、[[臣籍降下]]させ[[源氏]]の姓を与えた。
亡母に似ているとして父帝の[[後宮]]に入った藤壺を慕い、遂に一線を越えて子(後の[[冷泉帝]])をなすが、[[密通]]の事実は世に知られることはなかった。この皇子の[[皇太子|東宮]]時代から後見として支え、[[即位]]後に冷泉帝が事実を知り譲位を考えた時には固辞したが、後に臣下を越える[[准太上天皇]]を与えられた。以後、その邸宅の名を取って'''[[六条院]]'''と呼ばれる。
[[正室|正妻]]は最初[[元服]]と同時に結婚した[[左大臣 (源氏物語)|左大臣]]の娘[[葵の上]]、後に兄[[朱雀帝|朱雀院]]の[[皇女]]・[[女三宮]]である。しかし源氏が理想の女性として育てた[[紫の上]](若紫、紫の君とも呼ばれる)が葵の上の死後事実上の正妻であり、多くの夫人の中で彼女への愛が最も深かった。他、源氏の[[側室]]・[[愛人]]としては、[[六条御息所]]、[[空蝉 (源氏物語)|空蝉]]、[[夕顔 (源氏物語)|夕顔]]、[[末摘花 (源氏物語)|末摘花]]、[[朧月夜 (源氏物語)|朧月夜]]、[[花散里]]、[[明石の御方]]などが登場し、従姉妹の[[朝顔 (源氏物語)|朝顔斎院]]や六条御息所の娘の前[[斎宮]]([[秋好中宮]])にも心を寄せた。
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40歳を迎えたのを機に、冷泉帝より[[准太上天皇]]の待遇を受ける。栄華の絶頂に至った源氏だったが、兄朱雀院の出家に際し、源氏の[[正室]]にふさわしい高貴で有力な後見ある妻がいない事にかこつけて、[[内親王]]の庇護者にと[[姪]]・女三宮の[[降嫁]]を打診される。藤壺亡き後も今なお彼女への思いおさえがたく、女三宮が紫の上同様に藤壺の姪であることにも心動かされた源氏は、これを断る事が出来なかった。しかし結婚してみればただ幼いだけの女三宮に源氏は失望し、また女三宮降嫁に衝撃を受けた紫の上も苦悩の末病に倒れて、六条院の栄華にも次第に影が射し始めた。
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現世の繁栄を享受しながら常に仏道を思い、にもかかわらず女性遍歴を繰り返すという人物造形は、次の世代の[[薫]]と[[匂宮]]にそれぞれ分割して受け継がれる。また、しばらく後に書かれた『[[狭衣物語]]』の[[主人公]]である狭衣大将にも影響を与えている。
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== 人物 ==
[[国父]]になれる相を持ち、光り輝く美貌を持つ。文武に優れ、[[学問]]、[[詩歌]]、管弦、[[琴]]、[[舞楽]]、絵画、[[騎射]]の才も群を抜く。
京都の[[清涼寺]]に大きな阿弥陀仏があり、その説明書きによると阿弥陀仏は清涼寺に住んでいた[[源融]]の顔を模して作られたものであり、[[源融]]は光源氏のモデルと言われていることから光源氏の容姿はこの阿弥陀仏と同じであるという趣旨のことが書かれている。
==系譜 ==
* 父:[[桐壺帝]]
* 母:[[桐壺更衣]] - [[按察使|按察]][[大納言]]の娘
* 妻:[[葵の上]] - [[左大臣 (源氏物語)|左大臣]]の娘。母は[[大宮 (源氏物語)|大宮]]。[[頭中将]]の妹。
** 長男:[[夕霧 (源氏物語)|夕霧]] - [[左大臣]]。東宮妃・二の宮妃・[[六の君]]([[匂宮]]妃)の父。
* 妻:[[紫の上]] - [[兵部卿宮]]の娘。母は按察使大納言の娘。[[明石の姫君]]の義母。
* 妻:[[女三宮]] - [[朱雀帝]]第三皇女。母は[[藤壺]]女御。
** 次男 : [[薫]] - [[権大納言]]兼[[右大将]]。実父は[[柏木 (源氏物語)|柏木衛門督]]。
* 妾 : [[花散里#人物|花散里]] - [[桐壺帝]][[麗景殿]][[女御]]の妹。
* 妾 : [[六条御息所]] - [[前坊|前東宮]]妃
** 養女 : [[秋好中宮]] - [[冷泉帝]]女御(号中宮)。[[前坊]]の娘。
* 妾 : [[明石の御方]] - 元[[三位]][[中将]]・[[播磨国|播磨]]守の娘。
** 長女 : [[明石の姫君]] - [[今上帝]]女御(号中宮)。東宮、[[匂宮]]の母。
* 妾 : [[夕顔 (源氏物語)|夕顔]]
** 養女 : [[玉鬘 (源氏物語)|玉鬘]] - [[太政大臣]][[髭黒]]の妻。実父は[[頭中将]]。侍従の君・冷泉院女御・今上帝尚侍の母。
* 他に[[藤壺|藤壺中宮]]との不義の子に[[冷泉帝]]がいる。
== 関連項目 ==
*[[あさきゆめみし]]
*[[大津市]] - 光源氏をモチーフとした[[マスコット|マスコットキャラクター]]を設定している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.otsu.lg.jp/kanko/hikaru/index.html|title=おおつ光ルくん|accessdate=2018-07-08|publisher=大津市}}</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{源氏物語}}
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[[Category:源氏物語の登場人物]]
[[Category:架空の王子]] | 2003-03-26T22:04:40Z | 2023-12-10T04:18:34Z | false | false | false | [
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5,254 | 大学入学資格検定 | 大学入学資格検定(だいがくにゅうがくしかくけんてい、英語: University Entrance Qualification Examination)とは、2004年度(平成16年度)以前の日本で実施されていた、日本の大学に入学する学力の有無を判定し、試験合格者は高校卒業者と同等の資格が得られる国家試験のことであった。大検(だいけん)と略称されていた。
2004年度(平成16年度)末に廃止され、2005年度(平成17年度)から高等学校卒業程度認定試験(高認)へ移行している。
この大学入学資格検定という制度は、大学入学資格を有しない者(高等学校を卒業していない人)に対して、「高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうか」を認定するために検定を行い、その合格者に対して大学入学資格を与えるためのものであった。
大学入学資格検定に合格した者は、中学校卒業程度認定試験(中検)にも合格したものとみなされる。合格時に18歳未満であった者(その年度中に18歳になる者は除く)は、18歳になる年度から大学入学資格が与えられる。また、大学入学資格検定に合格している者は、高等学校を卒業した者と「同等以上の学力」があると認められるので、大学受験や就職の際の扱いは高等学校卒業程度認定試験の合格者と同じで(高卒認定試験では、大検で合格した科目は免除扱いになる。)、公務員試験や、国・都道府県・地方自治体が主催する各種国家資格試験での学歴要件を満たすことが多い。ただし、合格した場合であっても、民間企業への応募に際しては応募者を高校卒業扱いとするかどうかは、文部科学省所管の高等学校以外の学校卒業者と同様に企業によって判断が分かれる場合もある。
出題は、主として多肢選択による客観式の検査方法で、解答はマークシート方式によっていた。1995年ころまでは合格難易度が高かったが、2000年代になって合格必要科目数が減ると同時に合格最低点が下がり、合格率は上昇した。
朝鮮学校などの卒業者は日本の学校教育法では高校卒業の資格とはならなかったので、これに対して大検を免除するべきかが議論となった。堤清二、橋爪大三郎等は、大学入学資格検定のかわりに「高等学校学力検定試験(高検)」を新設するべきだと主張していた。
履歴書の学歴欄記入例 「平成○○年○○月 大学入学資格検定合格」
以上のうち、どれかを満たす人が受検できた。かつては最後の条件が定められていなかったため、民族学校卒業者や就学免除者は、「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」に合格しない限り受検資格がなく、特に民族学校卒業者は「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」も受験資格がない場合もあった。
上記の条件を満たしていても、
のうちどれかを満たす人は、受検資格がなかった。
注意点としては、高等学校の定時制の課程・通信制の課程を卒業した者は受検できないが、在籍している者は受検できるということ、全日制の課程などに在籍する者であっても大学入学資格検定の試験日までに退学すれば受検できることである。
廃止時点において合格に必要な科目は以下の通りで、科目数は11(現代社会でなく、倫理と政治・経済を選択した場合は12)だった。選択科目は必須選択科目からの選択を除いて2科目を選択した。ただし、同一名称の科目は1つのみ。また、公民はどちらか1グループのみ。
第二次世界大戦前は、旧制専門学校進学のための「専門学校入学者検定試験(略称 専検)」(旧制中学校卒業同等資格とされた)や、「実業学校卒業程度検定試験(略称 実検)」や、「高等学校高等科入学資格試験(略称 高検)」「高等試験令第7条試験(略称 高資。高試七とも)」(前出の高検とは別資格で旧制中学4年修了と同等資格とされた。旧制高校の受験資格は中学4年修了であった)という試験があり、これらの資格試験を前身として、1951年に大学入学資格検定が始まった。
戦前において専検の合格は、「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判で、検定合格の為には、いかなる難関校でも合格ができるほどの実力を必要とした。
氏名五十音順。肩書きは当時のもの。 | [
{
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"text": "大学入学資格検定(だいがくにゅうがくしかくけんてい、英語: University Entrance Qualification Examination)とは、2004年度(平成16年度)以前の日本で実施されていた、日本の大学に入学する学力の有無を判定し、試験合格者は高校卒業者と同等の資格が得られる国家試験のことであった。大検(だいけん)と略称されていた。",
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"text": "この大学入学資格検定という制度は、大学入学資格を有しない者(高等学校を卒業していない人)に対して、「高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうか」を認定するために検定を行い、その合格者に対して大学入学資格を与えるためのものであった。",
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"text": "大学入学資格検定に合格した者は、中学校卒業程度認定試験(中検)にも合格したものとみなされる。合格時に18歳未満であった者(その年度中に18歳になる者は除く)は、18歳になる年度から大学入学資格が与えられる。また、大学入学資格検定に合格している者は、高等学校を卒業した者と「同等以上の学力」があると認められるので、大学受験や就職の際の扱いは高等学校卒業程度認定試験の合格者と同じで(高卒認定試験では、大検で合格した科目は免除扱いになる。)、公務員試験や、国・都道府県・地方自治体が主催する各種国家資格試験での学歴要件を満たすことが多い。ただし、合格した場合であっても、民間企業への応募に際しては応募者を高校卒業扱いとするかどうかは、文部科学省所管の高等学校以外の学校卒業者と同様に企業によって判断が分かれる場合もある。",
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"text": "出題は、主として多肢選択による客観式の検査方法で、解答はマークシート方式によっていた。1995年ころまでは合格難易度が高かったが、2000年代になって合格必要科目数が減ると同時に合格最低点が下がり、合格率は上昇した。",
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"text": "朝鮮学校などの卒業者は日本の学校教育法では高校卒業の資格とはならなかったので、これに対して大検を免除するべきかが議論となった。堤清二、橋爪大三郎等は、大学入学資格検定のかわりに「高等学校学力検定試験(高検)」を新設するべきだと主張していた。",
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"text": "履歴書の学歴欄記入例 「平成○○年○○月 大学入学資格検定合格」",
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"text": "以上のうち、どれかを満たす人が受検できた。かつては最後の条件が定められていなかったため、民族学校卒業者や就学免除者は、「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」に合格しない限り受検資格がなく、特に民族学校卒業者は「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」も受験資格がない場合もあった。",
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"text": "廃止時点において合格に必要な科目は以下の通りで、科目数は11(現代社会でなく、倫理と政治・経済を選択した場合は12)だった。選択科目は必須選択科目からの選択を除いて2科目を選択した。ただし、同一名称の科目は1つのみ。また、公民はどちらか1グループのみ。",
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"text": "第二次世界大戦前は、旧制専門学校進学のための「専門学校入学者検定試験(略称 専検)」(旧制中学校卒業同等資格とされた)や、「実業学校卒業程度検定試験(略称 実検)」や、「高等学校高等科入学資格試験(略称 高検)」「高等試験令第7条試験(略称 高資。高試七とも)」(前出の高検とは別資格で旧制中学4年修了と同等資格とされた。旧制高校の受験資格は中学4年修了であった)という試験があり、これらの資格試験を前身として、1951年に大学入学資格検定が始まった。",
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"text": "戦前において専検の合格は、「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判で、検定合格の為には、いかなる難関校でも合格ができるほどの実力を必要とした。",
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"text": "氏名五十音順。肩書きは当時のもの。",
"title": "大学入学資格検定(およびその前身に相当する試験)を受けた有名人"
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] | 大学入学資格検定とは、2004年度(平成16年度)以前の日本で実施されていた、日本の大学に入学する学力の有無を判定し、試験合格者は高校卒業者と同等の資格が得られる国家試験のことであった。大検(だいけん)と略称されていた。 2004年度(平成16年度)末に廃止され、2005年度(平成17年度)から高等学校卒業程度認定試験(高認)へ移行している。 | {{資格
|名称 = 大学入学資格検定
|英名 =
|英項名 =
|略称 = 大検
|実施国 = {{JPN}}
|分野 = 教育・教養
|資格種類 = 国家資格
|試験形式 = [[マークシート]]
|認定団体 = [[文部科学省]]
|後援 =
|認定開始年月日 = [[1951年]]
|認定終了年月日 = [[2004年]]
|等級・称号 =
|根拠法令 =
|公式サイト =
|特記事項 = [[2004年]]にこの資格は廃止され[[2005年]]に新設された[[高等学校卒業程度認定試験]]に移行した。
}}
'''大学入学資格検定'''(だいがくにゅうがくしかくけんてい、{{lang-en|University Entrance Qualification Examination}})とは、[[2004年]]度([[平成]]16年度)以前の[[日本]]で実施されていた、[[日本の高等教育#大学|日本の大学]]に入学する[[学力]]の有無を判定し、試験合格者は[[高等学校|高校]]卒業者と同等の資格が得られる[[国家試験]]のことであった。'''大検'''(だいけん)と略称されていた。
2004年度(平成16年度)末に廃止され、[[2005年]]度(平成17年度)から[[高等学校卒業程度認定試験]](高認)へ移行している。
== 概要 ==
この'''大学入学資格検定'''という制度は、[[大学]]入学資格を有しない者([[高等学校]]を卒業していない人)に対して、「[[高等学校]]を卒業した者と同等以上の学力があるかどうか」を認定するために検定を行い、その合格者に対して大学入学資格を与えるためのものであった。
大学入学資格検定に合格した者は、[[就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験|中学校卒業程度認定試験]](中検)にも合格したものとみなされる。合格時に18歳未満であった者(その年度中に18歳になる者は除く)は、18歳になる年度から大学入学資格が与えられる。また、大学入学資格検定に合格している者は、高等学校を卒業した者と「同等以上の学力」があると認められるので、大学受験や就職の際の扱いは[[高等学校卒業程度認定試験]]の合格者と同じで(高卒認定試験では、大検で合格した科目は免除扱いになる。)、[[公務員試験]]や、国・都道府県・地方自治体が主催する各種[[資格#国家資格|国家資格]]試験での学歴要件を満たすことが多い。ただし、合格した場合であっても、民間企業への応募に際しては応募者を高校卒業扱いとするかどうかは、文部科学省所管の高等学校以外の学校卒業者と同様に企業によって判断が分かれる場合もある<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/04/06042002/001.pdf 「高等学校卒業程度認定試験(高卒認定)に関する調査結果」(文部科学省)] </ref>。
出題は、主として多肢選択による客観式の検査方法で、解答は[[マークシート]]方式によっていた。1995年ころまでは合格難易度が高かったが、2000年代になって合格必要科目数が減ると同時に合格最低点が下がり、合格率は上昇した。
[[朝鮮学校]]などの卒業者は日本の[[学校教育法]]では高校卒業の資格とはならなかったので、これに対して大検を免除するべきかが議論となった。[[堤清二]]、[[橋爪大三郎]]等は、大学入学資格検定のかわりに「高等学校学力検定試験(高検)」を新設するべきだと主張していた。<ref>[http://www.populus.est.co.jp/asp/booksearch/detail.asp?isbn=ISBN4-326-29865-0 書籍]</ref>
[[履歴書]]の学歴欄記入例 「'''平成○○年○○月 大学入学資格検定合格'''」
== 受検資格 ==
* [[中学校]]を卒業した者
* [[中等教育学校]]の前期課程を修了した者
* [[盲学校]]の中学部・[[聾学校]]の中学部・[[養護学校]]の中学部(当時。いずれも現在は[[特別支援学校]]に改称)を卒業した者
* [[就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験]]に合格した者
* 中学校を卒業していない者<!-- や無認可校卒業者など -->で、受検年度内に16歳以上になる者
以上のうち、どれかを満たす人が受検できた。かつては最後の条件が定められていなかったため、民族学校卒業者や[[就学義務猶予免除|就学免除]]者は、「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」に合格しない限り受検資格がなく、特に民族学校卒業者は「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験」も受験資格がない場合もあった。
上記の条件を満たしていても、
* [[高等学校#全日制の課程|高等学校の全日制の課程]]に在籍している者
* [[高等専門学校]]に在籍している者
* 中等教育学校の後期課程に在籍している者
* 盲学校の高等部・聾学校の高等部・養護学校の高等部に在籍している者
* 高等学校を卒業した者
* 中等教育学校の後期課程を修了した者
* 高等専門学校の第3学年を修了した者
* 盲学校の高等部・聾学校の高等部・養護学校の高等部を卒業した者
* すでに大学入学資格検定の全科目について合格した者
のうちどれかを満たす人は、受検資格がなかった。<!--根拠が明瞭でない情報を百科事典に掲載するのはいかがなものでしょう(しかしながら実際には受検可能であったという話もある。)-->
注意点としては、高等学校の[[高等学校#定時制の課程|定時制の課程]]・[[高等学校#高等学校(通信制)|通信制の課程]]を卒業した者は受検できないが、在籍している者は受検できるということ、全日制の課程などに在籍する者であっても大学入学資格検定の試験日までに[[退学]]すれば受検できることである。
== 試験科目 ==
廃止時点において合格に必要な科目は以下の通りで、科目数は11([[公共 (科目)|現代社会]]でなく、[[倫理 (科目)|倫理]]と[[政治・経済 (科目)|政治・経済]]を選択した場合は12)だった。選択科目は必須選択科目からの選択を除いて2科目を選択した。ただし、同一名称の科目は1つのみ。また、公民はどちらか1グループのみ。
* [[国語 (教科)|国語]]
** 国語:必須
** 古典:選択
* [[地理歴史]]
** [[世界史 (科目)|世界史]]A / 世界史B:どちらか1科目必須
** [[日本史 (科目)|日本史]]A / 日本史B / [[地理 (科目)|地理]]A / 地理B:どれか1科目選択必須
* [[公民 (教科)|公民]]
** [[公共 (科目)|現代社会]] / [[倫理 (科目)|倫理]] / [[政治・経済 (科目)|政治・経済]]:現代社会1科目ないし倫理と政治・経済の2科目のどれか必須
* [[数学 (教科)|数学]]
** 数学Ⅰ:必須
** 数学Ⅱ・数学A:選択
* [[理科]]
** 総合理科 / [[1A科目|物理ⅠA]] / [[物理学|物理]]ⅠB / [[1A科目|化学ⅠA]] / [[化学]]ⅠB / [[1A科目|生物ⅠA]] / [[生物学|生物]]ⅠB/ [[1A科目|地学ⅠA]] / [[地球科学|地学]]ⅠB:どれか2科目選択必須
* [[家庭 (教科)|家庭]]
** 家庭:必須
* [[保健体育]]
** [[保健 (教科)|保健]]:選択
* 外国語
** [[英語 (教科)|英語]]:選択
* [[工業 (教科)|工業]]
** 工業数理:選択
* [[商業 (教科)|商業]]
** [[簿記]]・[[会計]]:選択
* [[情報 (教科)|職業訓練に関する科目]]
** 情報関係基礎:選択
== 制度の沿革 ==
=== 開始まで ===
[[第二次世界大戦]]前は、[[旧制専門学校]]進学のための「[[専門学校入学者検定試験]](略称 専検)」([[旧制中学校]]卒業同等資格とされた)や、「[[実業学校]]卒業程度検定試験(略称 実検)」や、「高等学校高等科入学資格試験(略称 高検)」「高等試験令第7条試験(略称 高資。高試七とも)」(前出の高検とは別資格で旧制中学4年修了と同等資格とされた。[[旧制高等学校|旧制高校]]の受験資格は中学4年修了であった)という試験があり、これらの資格試験を前身として、[[1951年]]に大学入学資格検定が始まった。
{{要出典範囲|戦前において専検の合格は、「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判で、検定合格の為には、いかなる難関校でも合格ができるほどの実力を必要とした|date=2023年8月}}。
=== 開始後の改訂<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/001/04062901/003/011.htm 大学入学資格検定(大検)の制度の変遷について(文部科学省)]</ref> ===
* [[1953年]] [[高等学校]]の定時制課程に在籍する者の受験が認められる。
* [[1965年]] 学習指導要領の改訂に伴い、合格に必要な科目数をそれまでの14科目から16科目に変更。
* [[1967年]] [[高等専門学校]]の1、2年次中退者に受検資格を認める。
* [[1975年]] 学習指導要領の改訂に伴い、合格に必要な科目数を原則15科目に変更(以降、学習指導要領の改定に応じて合格に必要な科目数を変更)。
* [[1986年]] 文部科学省認定の[[専修学校#高等課程|専修学校]]修了者の大学入学資格が認められたことなどにより、体育、保健等が必須受検科目から外され、合格に必要な科目数が11ないし12科目となった(そのうち必須受検科目は4ないし5科目)。
* [[1988年]] 通信制・定時制高校の修業年限を「3年以上」<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad198901/hpad198901_2_040.html 定時制通信制教育の振興(文部科学省)]</ref>と学校教育法を改正。これにより、通信制・定時制高校の生徒が3年間の在籍で卒業できるようになったため、高等学校通信制・定時制在学者に合格科目を既修得単位として認定できる改訂を実施(それまで、通信制・定時制在学者で3年以内に大検合格に必要な科目をすべて満たしても高校は中退扱いで、かつ一部合格科目も単位認定されることはなかった。)。
* [[1989年]] 全面的に[[マークシート]]を導入。
* [[1996年]] 必須受検科目が4ないし5科目から8ないし9科目へ増加。
* [[2001年]] この年より受検機会が年2回となり、それに加え合格に必要な科目数が従来の11ないし12科目から9ないし10科目に減少した。ただし、2度目の開催月は会場確保の観点などから年により変動していた。
* [[2004年]] 最後の大学入学資格検定を実施。
* [[2005年]] [[高等学校卒業程度認定試験]]を新設。従前の大学入学資格検定は廃止された。
== 大学入学資格検定(およびその前身に相当する試験)を受けた有名人 ==
氏名五十音順。肩書きは当時のもの。
=== 専検・高検など ===
* [[井上光晴]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E6%99%B4-31935 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説]</ref> - 作家。独学で合格したと自称していたが、[[原一男]]がドキュメンタリー映画「全身小説家」のため調査した結果詐称と判明、映画内でも説明している。
* [[大宅壮一]] - [[ジャーナリスト]]。旧制中学を放校処分となり、資格検定合格で旧制高校の入学資格を得て、第三高等学校に入学した。
* [[椎名麟三]]<ref>『椎名麟三全集』第20巻(冬樹社)所収「早稲田講義録で専検をパス」</ref> - 作家。
* {{要出典範囲|[[高木惣吉]] - 海軍少将。|date=2018年7月}}
* {{要出典範囲|[[中島知久平]] - 海軍機関大尉、政治家、経営者。|date=2018年7月}}
* [[中野孝次]] - 作家、独文学者。専検を経て、熊本の旧制第五高等学校に入学。
* {{要出典範囲|[[平林剛]] - 昭和期の政治家。衆議院議員、[[日本社会党]]書記長。|date=2018年7月}}
* [[舩坂弘]] - 軍人。
* [[益谷秀次]] - 昭和期の政治家。衆議院議員、衆議院議長、副総理。
* [[三井理峯]] - 政治活動家。通算6回の各種選挙に出馬し、いずれも落選。同氏の選挙姿勢は[[小林よしのり]]の著書ゴーマニズム宣言に影響を与える。
* [[南喜一]] - 昭和期の実業家。元[[国策パルプ]]([[日本製紙]]の前身の一つ)会長。[[ヤクルト本社]]会長。
* [[山下元利]] - 政治家、[[防衛庁]]長官。当時史上最年少の15歳で専検に合格し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学。
* [[和島岩吉]] - 弁護士、日弁連会長。
=== 大検 ===
* [[杏 (女優)|杏]] - 女優。
* [[家本賢太郎]] - 株式会社クララオンライン代表取締役社長。中学在学中に脳腫瘍摘出手術後、車椅子生活となるも同社を15歳で起業した。[[慶応義塾大学環境情報学部]]中退。のち18歳の時に奇跡的に障害も回復し自立。
* [[家入一真]] - 実業家、[[GMOペパボ]]、[[CAMPFIRE (企業)|CAMPFIRE]]の創業者。大検に合格し地元の美術大学にも合格するものの通わなかった。
* [[石堂淑朗]] - 脚本家、評論家。[[岡山県立岡山朝日高等学校]]を中退後、大検を経て、[[東京大学]][[文学部]]卒業。[[松竹]]へ就職。
<!--* 磯村懋(いそむら つとむ)の子女 - [[愛知県]][[豊橋市]]で私塾を経営する父・磯村懋が中学校での[[管理教育]]に疑問を抱き、子女に制服不着用等の行動をさせることで中学校に反抗。高等学校進学にあたっては、内申書重視の高校進学はしない方針とし、息子・娘が独自の学習法で大学入学資格検定に挑み16歳で合格、[[1982年]]長男が[[東京大学]]、[[1983年]]次男、[[1987年]]長女が[[京都大学]]に現役入学した。長男合格の際はあまり話題にならなかったが、次男が京大に合格すると新聞・雑誌で一気に話題になった。1983年に手記が書籍にまとめられ、『[[中卒・東大一直線 もう高校はいらない!|中卒・東大一直線]]』の名前でドラマ化もされたことで、大学入学資格検定の存在が一般に浸透される結果となった。--><!--wikipediaに記事なし-->
* [[稲泉連]] - [[ノンフィクション]][[作家]]。[[早稲田大学]][[第二文学部]]卒業。2005年、25歳の時に著書『ぼくもいくさに征くのだけれど』にて[[大宅壮一ノンフィクション賞]]受賞。
* [[井上悦子]] - プロ[[テニス]]選手。[[東洋英和女学院大学]]卒業。
* [[今枝仁]] - [[弁護士]]。高校を1年で中退後、大検を経て[[上智大学法学部]]へ進学。弁護士として活動する前に[[東京地方検察庁]][[検察官]]であった経歴があり、[[木村拓哉]]主演のドラマ「[[HERO_(テレビドラマ)|HERO]]」の主人公のモデルとも言われる。
* [[内田樹]] - [[思想家]]、[[神戸女学院大学]][[教授]]。[[東京都立日比谷高等学校]]を退学後、大検に合格。[[東京大学]]に進学。
* [[大西赤人]] - [[作家]]。[[血友病]]のため[[埼玉県立浦和高等学校]]から入学を拒まれ、独学で大検に合格。大学には進学せず。
* [[笠谷圭司]] - [[三田市]]議会議員。東大卒業後、[[時事通信社]]の記者を経て28歳で市議会議員となった。
* [[KABA_3|香葉村多望]] - [[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]]メンバー。大検に合格し大学に進学。大学では[[臨床心理学]]を専攻していたが、学費が払えず中退。
* [[川合達彦]] - [[日本中央競馬会]]所属騎手。大検を経て、[[立命館大学]]卒業。「[[騎手#「学士騎手」|学士騎手]]」。
* [[菅源太郎]] - 政治活動家。元総理大臣[[菅直人]]の長男。大検を経て、[[京都精華大学]][[人文学部]]卒業。
* [[栗原裕一郎]] - 評論家。小学校と中学校で登校拒否、東京都立日比谷高等学校中退、大検から駿台予備校を経て東京大学理科一類除籍。
* [[小飼弾]] - [[オープンソース]]開発者。[[VALU]]リードエンジニア。元[[オン・ザ・エッヂ]](後の[[ライブドア]])取締役。[[カリフォルニア大学バークレー校]]中退。
* [[紺野あさ美]] - 元[[テレビ東京]]アナウンサー。元[[モーニング娘。]]メンバー。[[慶應義塾大学環境情報学部]]卒業。中学生の時にオーディションに合格し、学校卒業後も芸能活動だけしていたので高校には通っていない。
* [[斉藤とも子]] - [[俳優|女優]]。大学入学資格検定合格後、[[東洋大学]]社会学部社会福祉学科に入学、卒業した。
* [[西原理恵子]] - 漫画家。土佐女子高を高3時に中退後、大学入学資格検定合格、[[武蔵野美術大学]]入学。
* [[ジェームス三木]] - [[脚本家]]。
* [[菊池良]] - [[作家]]。元[[ヤフージャパン]]社員。大検を経て、[[東洋大学]][[文学部]]卒業。
* [[直井由文]] - [[BUMP OF CHICKEN]]メンバー。中学時代からプロ入りを決意し、父に頼んだところ「18歳までに大検と調理師免許を取ったら好きにしていい」と言われ、高校へ行かずに調理専門学校へ通い、条件を満たした。よって、大検と調理師免許を所有している。
* [[中條寿子]] - [[ギャル系]]のヘアメイク&ファッション雑誌『[[小悪魔ageha]]』編集長。[[和光大学]]卒業。
* [[中村喜和]] - [[一橋大学]]名誉教授。ロシア文学者。[[ロモノーソフ金メダル]]、[[大佛次郎賞]]受賞。高校中退後大検合格。
* [[中森明夫]] - コラムニスト。[[三重県立明野高等学校]](自称では明治大学附属中野高等学校)を中退し、大検を経て{{要出典範囲|[[和光大学]]を卒業。|date=may 2017}}
* [[長谷直美]] - 女優。
* [[林高生]] - [[エイチーム]]創業者・社長。大学には行かず、中学卒業後起業し、[[マザーズ]]からの昇格最短記録で東京証券取引所市場第一部に上場を果たした。
* [[平田オリザ]] - 劇作家・演出家。[[東京藝術大学]]アートイノベーションセンター特任教授。大検を経て、[[国際基督教大学]]卒業。
* [[廣松渉]] - [[東京大学]]名誉教授。哲学者。
* [[福澤武]] - [[三菱地所]]名誉顧問。元社長。大検を経て、[[慶應義塾大学法学部]]卒業。
* [[藤田直哉]] - SF・文芸評論家。北嶺高等学校中退後、大検を経て早稲田大学第一文学部(文芸専修)卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。
* [[堀田純司]] - 作家。大検を経て、[[上智大学]][[文学部]]卒業。
* [[前田庸]] - [[学習院大学]]名誉教授。商法学者。元[[法制審議会]]会社法部会長。[[東京証券取引所]]社外取締役。[[東京大学]]卒業。
* [[三木正俊]] - 元[[日本弁護士連合会]]副会長。[[函館ラ・サール高等学校]]中退後大検に合格し、[[一橋大学法学部]]在学中に[[司法試験]]に合格。
* [[三矢直生]] - [[宝塚歌劇団]]卒業生。大学入学資格検定合格後、[[東京芸術大学]]入学。
* [[皆吉淳延]] - 教育評論家。早稲田ゼミナール講師。大検を経て、[[駒澤大学]][[文学部]]国文学科、[[千葉大学]]大学院教育学研究科修了。元[[高等学校教諭]](国語科)。
* [[三好春樹]] - [[介護]]、[[リハビリテーション]]([[理学療法士]])専門家。生活とリハビリ研究所代表。[[修道高等学校]]中退後、大検を経て、九州リハビリテーション大学校卒業。
* [[村田マリ]] - 起業家、元[[ディー・エヌ・エー]](DeNA)執行役員。[[愛知淑徳中学校・高等学校|愛知淑徳高校]]中退後、[[早稲田大学]]へ進学。
* [[銘苅美世]] - [[医師]]。元[[宝塚歌劇団]]花組娘役。大検を経て、[[東海大学]][[医学部]]卒業。
* [[安田成美]] - 女優。芸能活動多忙で高校を中退。後に大学入学資格検定に合格し、[[明治学院大学]]に進学するも、やはり芸能活動多忙のため、2年で中退。
* [[柳川範之]] - [[東京大学大学院経済学研究科]]教授。[[慶應義塾大学経済学部]]卒業。
* [[山田ルイ53世]] - 漫才コンビ「[[髭男爵]]」のツッコミ担当。プロフィール上は[[ソルボンヌ大学]]卒業となっているが、実際は[[六甲中学校・高等学校|六甲高等学校]]中退後に大検に合格し、[[愛媛大学]]法文学部に進学するも中退している。
* [[横田由美子]] - ルポライター。合同会社マグノリア代表社員。大検を経て、[[青山学院大学]][[文学部]]卒業。
* [[与沢翼]] - 起業家。投資家。[[ドバイ]]在住。大検を経て、[[早稲田大学社会科学部]]卒業。
* [[吉永小百合]] - 女優。高校時代にすでに日活の清純派女優であり多忙であったため高校を中退。大学入学資格検定に全科目合格することが出来なかったが、早稲田大学に高卒と同等の学力があると認められ推薦で[[早稲田大学]]夜間部に入学した。
== 大検を扱っているメディア ==
*[[ガチンコ!|ガチンコ大検ハイスクール]]-武道家の[[大和龍門]]が講師を担当。不良少年や引き籠もりの青年ら数人が生徒として出演し大検を受検していたが、全員不合格であった。
== 参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[子どもの貧困]]
* [[在日韓国・朝鮮人]] - [[朝鮮学校]] - [[中華学校]]
* [[高等学校]] - [[高等学校卒業程度認定試験]]
* [[土師政雄]] - 大検合格者を描いたエッセイ『高校無用の大学進学法』の著書がある。
* [[河合塾]](コスモコース)
* [[孫正義]]:[[久留米大学附設高等学校]]中退後、アメリカの高校に編入したが、アメリカの大検を受けて、すぐにカレッジに入学した。その後、[[カリフォルニア大学バークレー校]]へ編入。
{{入学}}
{{DEFAULTSORT:たいかくにゆうかくしかくけんてい}}
[[Category:中等教育における認定]]
[[Category:日本の大学]]
[[Category:国家試験]]
[[Category:日本の貧困]] | 2003-03-26T22:08:46Z | 2023-12-25T11:31:15Z | false | false | false | [
"Template:資格",
"Template:Lang-en",
"Template:要出典範囲",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:入学"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A5%E5%AD%A6%E8%B3%87%E6%A0%BC%E6%A4%9C%E5%AE%9A |
5,255 | ヴィルヘルム・レントゲン | ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen、1845年3月27日 – 1923年2月10日)は、ドイツの物理学者。1895年にX線の発見を報告し、この功績により、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
1845年3月27日にラインラント(プロイセン王国ライン州(ドイツ語版))のレンネップ(Lennep、現在はレムシャイトの一部)で生まれた。父はドイツ人で織物商のフリードリヒ・レントゲン、母はオランダ人のシャルロッテ・コンスタンツェ・フローウェインで、裕福な家庭の一人息子だった。1848年、一家はオランダのアペルドールンに移り住み、レントゲンはここで初等教育を受けた。しかし卒業目前の時期に教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できなかった。結局、1862年から2年半オランダのユトレヒト工業学校で学んだ後、1865年にチューリッヒ工科大学の機械工学科に進学している。1868年に機械技師の免状を取得したが、チューリッヒ工科大学でルドルフ・クラウジウスの工業物理の講義を聞き、物理への関心が高まったという。クラウジウスの後任のアウグスト・クントに師事し、1869年に『種々の気体の熱的性質に関する研究』で博士号を取得した。
1870年にクントが再びクラウジウスの後任としてヴュルツブルク大学の教授になると、その助手となった。1872年にはチューリッヒ時代から交際して在学中に婚約していた6歳年上のアンナ・ラディッグと結婚している。アンナは後に、有名な右手のX線写真のモデルを務めている。同年クントがストラスブール大学に移ったため、これに帯同して引き続き助手となった。この頃からレントゲンは独立して実験を行うようになる。
1874年に大学教授となる資格を得て、1875年から約1年間ホーエンハイム農業学校で数学と物理の教授を務めている。しかし、実験を行なう時間がないため助教授としてストラスブール大学に戻った。ストラスブール大学では主に物理定数の精密測定を行ない、気体や液体の圧縮率、旋光度などに関して15本の論文を発表している。これらの業績が評価され、1879年にはグスタフ・キルヒホフやヘルマン・フォン・ヘルムホルツの推薦を得てギーセン大学の物理学の正教授に就任した。ギーセン大学では、カー効果や圧電効果など、光学や電磁気学に関する研究を行なっている。また、実子がいなかったため1887年に妻の姪を養女とした。
1888年にクントがベルリン大学に移り、ストラスブール大学では後任としてフリードリヒ・コールラウシュをヴュルツブルク大学から迎えた。このためヴュルツブルク大学でもポストが空き、クントやコールラウシュの推薦もあってレントゲンが教授として招かれた。同年に発表した『均一電場内での誘電体の運動により生じる電気力学的な力』という論文ではマクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる現象(変位電流)を発見した。1894年には同大学の学長に選ばれている。ヴュルツブルク大学では圧力をかけた時の固体や液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めた。これが翌月のX線の発見へと繋がった。
当時、ハインリヒ・ヘルツやフィリップ・レーナルトらによって真空放電や陰極線の研究が進められていた。陰極線は電子の流れだが、金属を透過することから当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていた。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受けた。なおX線の発見に関する論文でこれに対する謝辞がなかったため、レーナルトから激しい怒りを買っている。
レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆った。さらに、アルミ窓はないが似た構造のクルックス管からも陰極線のようなものが出ているかもしれないとレントゲンは考えた。クルックス管は陰極、陽極ともに白金が使われており、これに20kV程度の電圧を印加するので、陰極から出た電子は陽極の核外電子を弾き出して遷移が起き、白金の特性X線が生じていたことが後にわかった。レントゲンは陰極線が出るならばクルックス管よりも弱いはずだと考え、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆った。さらに、検出のために蛍光紙(シアン化白金バリウムの紙)を用意した。
1895年11月8日、ヴュルツブルク大学においてクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒い紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目には見えないが光のようなものが装置から出ていることを発見した。後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって、以下のような性質が明らかになった。
また、検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いることで、鮮明な撮影が可能になった。
光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことからレントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知数を表す「X」の文字を用いて仮の名前としてX線と命名した。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年12月28日には早くも"Über eine neue Art von Strahlen"(『新種の放射線について』)という論文をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌1896年1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を論文に添付して著名な物理学者に送付した。
X線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果を伴っていたこと、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得ていたことから、発表は急速に受け入れられた。1896年1月14日には英語版が早くも『ネイチャー』(Nature)に、次いで1月24日には『エレクトリシアン』(Electrician)、2月14日には『サイエンス』(Science)に掲載された。フランス語版も2月8日に L'Eclairage Electrique に掲載された。また、同年1月13日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演をしている。1月23日に地元のヴュルツブルクでも講演会と実演を行なった。なお、レントゲンは発表を非常に嫌っていたため、これが唯一の講演会だったとされる。
国外にも情報は速く伝わり、発見から3か月後の3月25日には旧制第一高等学校の教授・水野敏之丞によって日本の科学雑誌でも紹介され、同年飯盛挺造は「Röntgen氏ノX放射線ニ就テ」という題で講演をした。また、アメリカでは透視への不安から「劇場でのX線オペラグラス禁止条例」がトレントンで2月9日に可決される騒ぎとなった。
X線に関する論文をさらに2報発表した後、1900年にレントゲンはミュンヘン大学に実験物理学の主任教授として移った。ここの物理教室での同僚にマックス・フォン・ラウエがおり、1912年にX線回折像の撮影を行なってX線が電磁波であることを初めて明らかにした。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用されたため、この功績に対し1901年最初のノーベル物理学賞が贈られている。ミュンヘン大学には1920年まで在籍していたが、この間に書いた7報の論文は結晶の圧電効果など全てX線に関係のないものであった。なお、1919年には妻が亡くなっている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許などによって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ドイツの破滅的インフレーションの中で癌のため1923年2月10日に逝去した。ノーベル賞の賞金についても、ヴュルツブルク大学に全額を寄付している。墓はギーセンの旧墓地 (Alter Friedhof) にある。
X線の発見は他の発見と同様にレントゲン一人でなしえたものではなく、各国の研究者たちが研究を重ねた末の、ある意味で必然的な発見だった。しかし、クルックス管から未知の電磁波が出る可能性を検討したことはレントゲンの独創的な発想によるものであり、現在X線の発見の功績は彼に対して与えられている。同僚の解剖学教授だったアルベルト・フォン・ケリカーの提案がきっかけでX線はレントゲン (Röntgen Rays) とも呼ばれるようになったが、当人はレントゲンと呼ばれることを好まず、自らが仮の名とした「X線」と常に呼んでいた。
2003年、『ライフ』誌は、レントゲンが初めて撮影したX線写真を「世界を変えた100枚の写真」の1枚に選んだ。
2004年には、原子番号111の元素が彼の名前にちなんでレントゲニウムと命名された。理由はレントゲンがX線を発見してからおよそ100年後にこの元素が発見されたためである。なお、ドイツの物理学者として広く知られるが、戸籍上はオランダ人である。ヨーロッパでは科学者の国籍への関心が低いため、特に議論の対象となっていないという。 | [
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'''ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン'''({{de|Wilhelm Conrad Röntgen}}、[[1845年]][[3月27日]] – [[1923年]][[2月10日]])は、[[ドイツ]]の[[物理学者]]。[[1895年]]に[[X線]]の発見を報告し<ref>{{Cite news|url=https://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka_g51.html|title=放射線研究の幕開け ~レントゲンによるX線の発見~|publisher=首相官邸ホームページ|accessdate=2020-02-28}}</ref>、この功績により、[[1901年]]、第1回[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。
== 生涯 ==
=== X線の発見まで ===
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[[1870年]]にクントが再びクラウジウスの後任として[[ヴュルツブルク大学]]の[[教授]]になると、その助手となった。[[1872年]]にはチューリッヒ時代から交際して在学中に婚約していた{{sfn|加藤|1995|p=286}}6歳年上のアンナ・ラディッグと結婚している。アンナは後に、有名な右手の[[X線写真]]のモデルを務めている。同年クントが[[ストラスブール大学]]に移ったため、これに帯同して引き続き助手となった。この頃からレントゲンは独立して実験を行うようになる。
[[1874年]]に大学教授となる資格を得て、[[1875年]]から約1年間[[ホーエンハイム大学|ホーエンハイム農業学校]]で[[数学]]と物理の教授を務めている{{sfn|西尾|p=254}}。しかし、実験を行なう時間がないため[[助教授]]としてストラスブール大学に戻った{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=91}}。ストラスブール大学では主に[[物理定数]]の精密測定を行ない、気体や液体の[[圧縮率]]、[[旋光|旋光度]]などに関して15本の論文を発表している{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=91}}。これらの業績が評価され、[[1879年]]には[[グスタフ・キルヒホフ]]や[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]の推薦を得て[[ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン|ギーセン大学]]の物理学の正教授に就任した{{sfn|西尾|p=254}}。ギーセン大学では、[[カー効果]]や[[圧電効果]]など、[[光学]]や[[電磁気学]]に関する研究を行なっている。また、実子がいなかったため[[1887年]]に妻の姪を養女とした{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=90}}。
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File:House-of birth of Wilhelm Conrad Roentgen.jpg|レントゲンの生家
File:Deutsches Roentgenmuseum.jpg|レントゲン博物館
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=== X線の発見 ===
[[File:X-ray by Wilhelm Röntgen of Albert von Kölliker's hand - 18960123-02.jpg|thumb|150px|1896年1月23日にレントゲンが撮影した[[アルベルト・フォン・ケリカー]]の手の[[X線写真]]]]
当時、[[ハインリヒ・ヘルツ]]や[[フィリップ・レーナルト]]らによって[[真空放電]]や[[陰極線]]の研究が進められていた。陰極線は[[電子]]の流れだが、[[金属]]を透過することから当時の物理学では[[粒子]]の流れではなく、[[電磁波]]の一種と考えられていた。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受けた。なおX線の発見に関する[[論文]]でこれに対する謝辞がなかったため、レーナルトから激しい怒りを買っている{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=99}}。
レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆った。さらに、アルミ窓はないが似た構造の[[クルックス管]]からも陰極線のようなものが出ているかもしれないとレントゲンは考えた。クルックス管は[[陰極]]、[[陽極]]ともに[[白金]]が使われており、これに20kV程度の[[電圧]]を[[印加]]するので、陰極から出た電子は陽極の核外電子を弾き出して遷移が起き、白金の[[特性X線]]が生じていたことが後にわかった。レントゲンは陰極線が出るならばクルックス管よりも弱いはずだと考え、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆った。さらに、検出のために蛍光紙([[シアン]]化[[白金]][[バリウム]]の紙)を用意した。
[[1895年]][[11月8日]]、[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク大学]]においてクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒い紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目には見えないが光のようなものが装置から出ていることを発見した。後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって、以下のような性質が明らかになった{{sfn|西尾|p=257}}。
*1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
*薄い[[金属箔]]を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
*[[鉛]]には遮蔽される
*蛍光物質を発光させる
*熱作用を示さない
また、検出に蛍光板ではなく[[写真乾板]]を用いることで、鮮明な撮影が可能になった。
光のようなものは[[電磁波]]であり、この電磁波は[[陰極線]]のように[[磁気]]を受けても曲がらないことからレントゲンは[[放射線]]の存在を確信し、[[数学]]の[[未知数]]を表す「X」の文字を用いて仮の名前として[[X線]]と命名した{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=102}}。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年[[12月28日]]には早くも"Über eine neue Art von Strahlen"(『新種の放射線について』)という論文をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌[[1896年]]1月には、妻の[[薬指]]に[[指輪]]をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚の[[X線写真]]を論文に添付して著名な[[物理学者]]に送付した。
=== 発表後の反響、その後 ===
X線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果を伴っていたこと、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得ていたことから、発表は急速に受け入れられた。1896年[[1月14日]]には英語版が早くも『[[ネイチャー]]』(''Nature'')に、次いで[[1月24日]]には『エレクトリシアン』(''Electrician'')、[[2月14日]]には『[[サイエンス]]』(''Science'')に掲載された。フランス語版も[[2月8日]]に ''L'Eclairage Electrique'' に掲載された。また、同年[[1月13日]]には[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の前でX線写真撮影の実演をしている。[[1月23日]]に地元のヴュルツブルクでも講演会と実演を行なった。なお、レントゲンは発表を非常に嫌っていたため、これが唯一の講演会だったとされる{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=106}}。
国外にも情報は速く伝わり、発見から3か月後の[[3月25日]]には[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]の教授・[[水野敏之丞]]によって日本の科学雑誌でも紹介され、同年[[飯盛挺造]]は「Röntgen氏ノX放射線ニ就テ」という題で講演をした<ref>{{cite journal|和書|author=飯盛挺造|year=1896|title=Rontgen氏ノX放射線ニ就テ|url=https://doi.org/10.1248/yakushi1881.1896.173_683|journal=薬學雑誌|volume=|number=173|page=|pages=683-699|accessdate=2020-04-07}}</ref>。また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では透視への不安から「劇場でのX線[[オペラグラス]]禁止条例」が[[トレントン (ニュージャージー州)|トレントン]]で[[2月9日]]に可決される騒ぎとなった。
X線に関する論文をさらに2報発表した後、[[1900年]]にレントゲンは[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に実験物理学の主任教授として移った{{sfn|加藤|1995|p=287}}。ここの物理教室での同僚に[[マックス・フォン・ラウエ]]がおり、[[1912年]]に[[X線回折]]像の撮影を行なってX線が[[電磁波]]であることを初めて明らかにした。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として[[医学]]に応用されたため、この功績に対し[[1901年]]最初の[[ノーベル物理学賞]]が贈られている。ミュンヘン大学には[[1920年]]まで在籍していたが、この間に書いた7報の論文は[[結晶]]の[[圧電効果]]など全てX線に関係のないものであった。なお、[[1919年]]には妻が亡くなっている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し[[特許]]などによって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ドイツの破滅的[[ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション|インフレーション]]の中で[[癌]]のため[[1923年]][[2月10日]]に逝去した{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=116}}。ノーベル賞の賞金についても、ヴュルツブルク大学に全額を寄付している{{sfn|西尾|p=254}}。墓は[[ギーセン]]の旧墓地 (Alter Friedhof) にある。
== その他 ==
X線の発見は他の発見と同様にレントゲン一人でなしえたものではなく、各国の研究者たちが研究を重ねた末の、ある意味で必然的な発見だった。しかし、[[クルックス管]]から未知の[[電磁波]]が出る可能性を検討したことはレントゲンの独創的な発想によるものであり、現在X線の発見の功績は彼に対して与えられている。同僚の[[解剖学]]教授だった[[アルベルト・フォン・ケリカー]]の提案がきっかけでX線はレントゲン (Röntgen Rays) とも呼ばれるようになったが、当人はレントゲンと呼ばれることを好まず、自らが仮の名とした「X線」と常に呼んでいた{{sfn|放射能発見における写真の役割 (上) |p=106}}。
[[2003年]]、『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌は、レントゲンが初めて撮影したX線写真を「[[世界を変えた100枚の写真]]」の1枚に選んだ<ref>{{cite web|url=http://digitaljournalist.org/issue0309/lm27.html|title=First Human X-ray 1896|publisher=The Digital Journalist|accessdate=2021-04-20}}</ref>。
[[2004年]]には、原子番号111の[[元素]]が彼の名前にちなんで[[レントゲニウム]]と命名された。理由はレントゲンがX線を発見してからおよそ100年後にこの元素が発見されたためである。なお、ドイツの物理学者として広く知られるが、戸籍上は[[オランダ人]]である{{sfn|加藤|1995|p=285}}。ヨーロッパでは科学者の国籍への関心が低いため、特に議論の対象となっていないという{{sfn|加藤|1995|p=285}}。
== 受賞歴 ==
*1896年 [[ランフォード・メダル]]、 [[マテウチ・メダル]]
*1897年 [[エリオット・クレッソン・メダル]]
*1900年 [[バーナード・メダル]]
*1901年 ノーベル物理学賞
*1918年 [[ヘルムホルツ・メダル]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
*{{cite journal|和書|author=西尾成子|title=ノーベル賞受賞者たち(1)レントゲン |journal=物理教育 |volume=50 |issue=4 |pages=253-258 |year=2002 |url=https://doi.org/10.20653/pesj.50.4_253 |doi=10.20653/pesj.50.4_253 |publisher=日本物理教育学会 |accessdate=2020-04-07 |ref={{sfnRef|西尾}}}}
*{{cite journal|和書|author=中崎昌雄|title=放射能発見における写真の役割 (上) : レントゲン線とベクレル線 |journal=中京大学教養論叢 |volume=37 |issue=1 |pages=87-127 |year=1996 |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00013200/ |accessdate=2020-04-07 |ref = {{sfnRef|放射能発見における写真の役割 (上) }}}}
*{{cite journal|和書|author=中崎昌雄|title=放射能発見における写真の役割 (下) : レントゲン線とベクレル線 |journal=中京大学教養論叢 |volume=37 |issue=2 |pages=205-290 |year=1996 |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00013212/ |accessdate=2020-04-07 |ref = {{sfnRef|放射能発見における写真の役割 (下) }}}}
*{{cite journal|和書|author=加藤範夫|title=私のレントゲン |journal=日本結晶学会誌 |volume=37|issue=6|year=1995|pages=285-290|doi=10.5940/jcrsj.37.285|ref = {{sfnRef|加藤|1995}}}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1901/rontgen/biographical/ Wilhelm Conrad Röntgen Biographical] - ノーベル財団のサイトにあるレントゲンの伝記。英語。
* X線写真発明の記事[{{NDLDC|1920400/218}} 明治29年3月14日時事新報『新聞集成明治編年史. 第九卷』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
{{Commons|Wilhelm Conrad Röntgen}}
{{ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)}}
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5,257 | ファイルフォーマット | ファイルフォーマット(英: file format、ファイル形式)は情報をファイルへ収納する形式である。
コンピュータにおいてメディア(文書、音声、画像、動画)やプログラムはファイルとして保存される。統一された順序・構造でこれらの情報がファイルとして保存されていれば、OSやアプリケーションは一貫した方法でファイルにアクセスし情報を利用できる。これを可能にする、ファイルへの情報格納規格がファイルフォーマット(ファイル形式)である。
通常「ファイルフォーマット」と呼ばれるが、MS-DOSやMicrosoft Windows、UNIX、Unix系などのオペレーティングシステムにおけるファイルはストリーミングデータ(データストリーム)形式であり、正確には「各ファイルに格納されたデータのフォーマット」の事である。
通常ファイルに格納されたデータは、テキストまたはバイナリファイルなので、ファイルの内容だけからはそのファイルフォーマットを知ることが困難な場合がある。このため、ファイル名に拡張子をつけて識別したり、ネットワークでの転送時にはMIMEヘッダ(メディアタイプ)等をあわせて送ったり、といった方法が採られる。このようなメタデータを付与する方法はファイルの内容自体に影響を与えず、またファイルを開くことなく種別を判定できる、という利点がある。しかし、拡張子は簡単に、しかも自由に編集できるため、信頼性は極めて低い。またMIMEタイプはIANAによって正式に登録・標準化されていない独自の文字列をアプリケーションやシステムが勝手に付与することもありうる。そのため、多くのファイルフォーマットは、ファイルの先頭にマジックナンバーと呼ばれる、より確実にファイル形式を識別するための情報を付加する。
さまざまなアプリケーションで扱える標準的なフォーマットもあるが、オペレーティングシステムやアプリケーションによりそのデータ形式は様々である。特定のアプリケーションで扱えるデータ形式に変換するためのファイルコンバータを利用できることがある。
テキストもバイナリの一種であるが、実際のビット列はエンコーディング時に採用する文字セットに左右される。テキストのデータストリームをデコードする際のヒントとして、ファイル先頭付近にバイト順マークや文字セット名を記載するフォーマットもある。
各種プログラミング言語のソースファイルも、構造化されたプレーンテキストファイルの一種である。
主なオフィススイート用のフォーマットには以下がある。
特定のファイルフォーマットと、それを開くアプリケーションソフトウェアを登録しておき、操作を行いたいファイルを選択した際にアプリケーションソフトウェアを選ぶ手間を省くための動作を関連づけ (association) という。関連づける手法はオペレーティングシステムなどの環境により異なる。例えばWindowsやOS/2では拡張子によって対応するアプリケーションを選択する(Windowsではレジストリに登録する。OS/2ではWPSの.INIファイルに情報が格納される)。
Mac OSでは、ファイルのメタデータとしてクリエータとタイプというデータがある。ファイルシステムのHFSとHFS+、ファイル転送プロトコルのAFPではこれらは保持されるが、FTP、HTTP、電子メール等を介してファイルをやりとりする場合は、クリエータとタイプを保持するフォーマット(Macバイナリ、AppleSingle、AppleDouble、BinHex等)に変換するか、Mac OS用のアーカイブフォーマット(StuffIt、MacLHA等)を用いる必要がある。 macOSではクリエータとタイプがあればそれを優先するが、なければ拡張子による対応づけが利用される。 | [
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] | ファイルフォーマットは情報をファイルへ収納する形式である。 | {{Redirect|ファイルタイプ|Mac OS 9以前に用いられたファイルのメタ情報|Finder}}
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'''ファイルフォーマット'''({{lang-en-short|file format}}、'''ファイル形式''')は情報をファイルへ収納する形式である<ref>"ファイルは、その中身が意味する内容や目的によって、情報の記録の仕方が変わります。これを「ファイルフォーマット」(file format) と言います。" ''[http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~hirai/text/files.html#fileformat ファイルとディレクトリの概念]''. 京都産業大学 - コンピュータ・リテラシ. 2022-12-27閲覧.</ref>。
== 概要 ==
コンピュータにおいて[[メディア (媒体)|メディア]]([[文書]]、[[音声]]、[[画像]]、[[動画]])や[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]として保存される。統一された順序・構造でこれらの情報がファイルとして保存されていれば、[[オペレーティングシステム|OS]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]は一貫した方法でファイルにアクセスし情報を利用できる。これを可能にする、ファイルへの情報格納規格がファイルフォーマット(ファイル形式)である。
通常「ファイルフォーマット」と呼ばれるが、[[MS-DOS]]や[[Microsoft Windows]]、[[UNIX]]、[[Unix系]]などの[[オペレーティングシステム]]におけるファイルはストリーミングデータ(データストリーム)形式であり、正確には「各ファイルに格納されたデータのフォーマット」の事である。
通常ファイルに格納されたデータは、テキストまたは[[バイナリ|バイナリファイル]]なので、ファイルの内容だけからはそのファイルフォーマットを知ることが困難な場合がある。このため、ファイル名に[[拡張子]]をつけて識別したり、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]での転送時には[[Multipurpose Internet Mail Extensions|MIME]]ヘッダ([[メディアタイプ]])等をあわせて送ったり、といった方法が採られる。このようなメタデータを付与する方法はファイルの内容自体に影響を与えず、またファイルを開くことなく種別を判定できる、という利点がある。しかし、拡張子は簡単に、しかも自由に編集できるため、信頼性は極めて低い。またMIMEタイプは[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]によって正式に登録・標準化されていない独自の文字列をアプリケーションやシステムが勝手に付与することもありうる。そのため、多くのファイルフォーマットは、ファイルの先頭に'''[[マジックナンバー (フォーマット識別子)|マジックナンバー]]'''と呼ばれる、より確実にファイル形式を識別するための情報を付加する。
さまざまな[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]で扱える標準的なフォーマットもあるが、[[オペレーティングシステム]]やアプリケーションによりそのデータ形式は様々である。特定のアプリケーションで扱えるデータ形式に変換するための[[ファイルコンバータ]]を利用できることがある。
== データの区切りの単位に注目した分類 ==
* [[ビット|bit]](ビット)をデータの区切りの単位とするデータ。例:圧縮されたデータ
* [[バイト (情報)|byte]](バイト、1byte = 8bit)を単位とするデータ。例:各種アプリケーションのデータファイル
* 文字を単位とするデータ。例:テキストファイル
** 特定の文字に意味を持たせ構造化したデータ。例:[[Comma-Separated Values|CSV]]、[[マークアップ言語]](HTML、XMLなど)
テキストもバイナリの一種であるが、実際のビット列はエンコーディング時に採用する文字セットに左右される。テキストのデータストリームをデコードする際のヒントとして、ファイル先頭付近に[[バイト順マーク]]や文字セット名を記載するフォーマットもある。
各種[[プログラミング言語]]の[[ソースファイル]]も、構造化されたプレーンテキストファイルの一種である。
== 汎用性に注目した分類 ==
;標準化されたフォーマット
: 国際的な機関で制定されたフォーマット。ファイルフォーマットの例としては、JPEG、MPEGなどがある。標準化機関の例としては、[[国際標準化機構]] (ISO)、[[日本産業規格]] (JIS)、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) などがある。
;事実上、業界標準となっているフォーマット
: 後述する「特定のオペレーティングシステム (OS) やアプリケーションに依存するフォーマット」に含まれるが、広く使用され事実上標準([[デファクトスタンダード]])となっているもの。例としては、[[Graphics Interchange Format|GIF]]や[[FBX]]、[[Portable Document Format|PDF]](米Adobe社、後にISO標準化)などがある。
;特定のオペレーティングシステム (OS) やアプリケーションに依存するフォーマット
: 各種OSやアプリケーションのデータファイル。例としては、BMP、RTF([[Microsoft Windows]])など多数ある。
== よく知られたファイルフォーマット一覧 ==
{{main|ファイルフォーマット一覧}}
=== テキスト、ハイパーテキスト、ドキュメント ===
* [[プレーンテキスト]]
* [[Rich Text Format|RTF]] (Rich Text Format)
* [[HyperText Markup Language|HTML]] (HyperText Markup Language)
* [[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]] (Extensible HyperText Markup Language)
* [[MHTML]] (MIME Encapsulation of Aggregate HTML Documents)
* [[TeX]]
* [[Portable Document Format|PDF]] (Portable Document Format)
* [[DjVu]]
* [[DVI (ファイルフォーマット)|DVI]] (DeVice Independent)
* [[Comma-Separated Values|CSV]] (Comma-Separated Values)
==== オフィススイート 用のフォーマット ====
主な[[オフィススイート]]用のフォーマットには以下がある。
*[[Lotus 1-2-3]]
** 123、wk3、wk4 など
*[[一太郎]]
** jtd (一太郎 V8 以降)
* [[Microsoft Office]]の独自フォーマット
**[[DOC (ファイルフォーマット)|doc]]([[Microsoft Word]]の独自フォーマットの[[拡張子]])
**xls([[Microsoft Excel]]の独自フォーマットの拡張子)
**ppt([[Microsoft PowerPoint]]の独自フォーマットの拡張子)
* [[Office Open XML]]([[Microsoft Office]] 2007で新たに採用された文書フォーマット)
**Office Open XML Document(文書用)
**Office Open XML Workbook(表計算用)
**Office Open XML Presentation(プレゼンテーション用)
* [[OpenDocument]]
**OpenDocument Text([[ワープロソフト|文書]]用)
**OpenDocument Spreadsheet([[表計算ソフト|表計算]]用)
**OpenDocument Presentation([[プレゼンテーションソフトウェア|プレゼンテーション]]用)
**OpenDocument Database([[データベース]]用)
**OpenDocument Formula([[数式]]用)
*[[Uniform Office Format]]
=== データ記述フォーマット ===
* [[Adobe Illustrator]] (AI)
* [[Adobe Photoshop]] (PSD)
* [[Cascading Style Sheets|CSS]]
* [[Comma-Separated Values|CSV]]
* [[Portable Document Format|PDF]]
* [[PostScript]]
* [[Standard Generalized Markup Language|SGML]]
* [[TOML]]
* [[Extensible Markup Language|XML]]
** [[Resource Description Framework|RDF]]
** [[RSS]]
=== 画像・図形 ===
<!-- {{WikipediaPage|「'''画像ファイル'''」・「'''イメージファイル'''」はここに[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。ウィキペディア上の画像については、「[[Wikipedia:FAQ 画像などのファイル]]」をご覧ください。}} -->
{{Main|画像ファイルフォーマット}}
=== 3D ===
* [[Standard Triangulated Language]] (STL)
* [[Wavefront .objファイル]] (OBJ)
* [[PLY (ファイル形式)]] (PLY)
* [[Additive Manufacturing File Format]] (AMF)
* [[3MF]] (3MF)
* [[X3D]] (X3D)
==== ラスターイメージ ====
{{Main|ラスターイメージ}}
* [[Windows bitmap|BMP]] (Windowsビットマップ)
* [[DPX]]
* {{仮リンク|FlashPix|en|FlashPix}}
* [[Graphics Interchange Format|GIF]]
* [[HD Photo]]
* [[JPEG]]
* [[JPEG 2000]]
* [[JPEG XR]]
* [[MAKIchan Graphic loader|MAG]]
* [[OpenEXR]]
* [[QuickDraw Picture|PICT]]
* [[Portable Network Graphics|PNG]]
* [[RAW画像]]
** [[DNG]]
* [[TGA]]
* [[Tagged Image File Format|TIFF]]
** [[XBM]] (X11ビットマップ)
==== ベクターイメージ ====
{{Main|ベクターイメージ}}
* [[DXF]]
* [[Encapsulated PostScript|EPS]]
* [[HP-GL]]
* [[Scalable Vector Graphics|SVG]]
* [[Windows Metafile]]
=== 音声 ===
{{Main|音声ファイルフォーマット}}
{{See also|コーデック}}
* [[MP3]] (MPEG-1 Audio Layer-3)
* [[mp3PRO]]
* [[AAC]] (Advanced Audio Coding)
* [[Apple Lossless|ALAC]] (Apple Lossless Audio Codec)
* [[WAV]] (RIFF Waveform Audio Format)
* [[Windows Media Audio|WMA]] (Windows Media Audio)
* [[AIFF]] (Audio Interchange File Format)
* [[Sunオーディオファイル|AU]]
* [[Ogg Vorbis]]
* [[RealAudio]]
* [[FLAC]] (Free Lossless Audio Codec)
* [[Monkey's Audio]]
=== 楽曲 ===
* [[Standard MIDI File]] (SMF)
* [[EUPHONY|EUP]] (EUPHONY) - [[FM TOWNS]]標準の楽曲フォーマット
* [[Music Macro Language|MML]] (Music Macro Language)
* [[SMAF]] (Synthetic music Mobile Application Format)
=== 動画 ===
{{See also|コンテナフォーマット}}
* [[Audio Video Interleave|AVI]] (Audio Video Interleave)
* [[Advanced Systems Format|ASF]] (Advanced Systems Format)
* [[Flash Video|FLV]] (Flash Video)
* [[Ogg Media|OGM]] (Ogg Media)
* [[Ogg Vorbis|OGG]] (Ogg file)
* [[Moving Picture Experts Group|MPEG]] (Moving Picture Experts Group)
** [[MPEG-1]]
** [[MPEG-2]]
** [[MPEG-4]]
* [[MP4]] (MPEG-4 Part 14)
* [[QuickTime|MOV]] (QuickTime Movie)
* [[RealVideo]]
* [[XVD|VG2]]
* [[DivX]] (DivX Media Format)
=== 時間軸を持つもの ===
* アニメーション[[Graphics Interchange Format|GIF]]
* [[Multiple-image Network Graphics|MNG]] (Multiple-image Network Graphics)
* [[Adobe Flash|SWF]] (Macromedia Shockwave Flash)
* [[Synchronized Multimedia Integration Language|SMIL]] (Synchronized Multimedia Integration Language)
=== ファイルアーカイブ(圧縮など) ===
* [[7z]]
* [[ACE_(ファイルフォーマット)|ACE]]
* [[AFA (ファイルフォーマット)|AFA]]
* [[bzip2]]
* [[DGCA]] (Digital G Codec Archiver)
* [[CAB]]
* [[tar]]
* [[GCA]] (G Compression Archiver)
* [[gzip]]
* [[LHA]] (LZH) / LHarc
* [[RAR]]
* [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]
* [[StuffIt]]
* [[Compact Pro]]
=== オブジェクトファイル ===
{{Main|オブジェクトファイル}}
* [[EXEフォーマット]]
** [[Portable Executable]]
* [[COMフォーマット]]
* [[A.outフォーマット|a.out]]
* [[Executable and Linkable Format|ELF]] (Executable and Linkable Format)
* [[Preferred Executable Format|PEF]] (Preferred Executable Format)
* [[Mach-O]]
* [[S-record]]
* [[dyld]]
=== 通信関連 ===
*[[MACフレーム]]
*[[PPPフレーム]]
*[[HDLCフレーム]]
*[[パケット]]
**IPパケット
***TCPパケット
****HTTPパケット
=== その他 ===
* [[EDIF]] (Electronic Design Interchange Format) - 電子設計データ
== ファイルフォーマットと関連づけ ==
特定のファイルフォーマットと、それを開く[[アプリケーションソフトウェア]]を登録しておき、操作を行いたいファイルを選択した際にアプリケーションソフトウェアを選ぶ手間を省くための動作を'''関連づけ''' (association) という。関連づける手法は[[オペレーティングシステム]]などの環境により異なる。例えば[[Microsoft Windows|Windows]]や[[OS/2]]では[[拡張子]]によって対応するアプリケーションを選択する(Windowsでは[[レジストリ]]に登録する。OS/2ではWPSの.INIファイルに情報が格納される)。
[[Mac OS]]では、ファイルのメタデータとして[[Finder|クリエータとタイプ]]というデータがある。ファイルシステムの[[Hierarchical File System|HFS]]と[[HFS Plus|HFS+]]、ファイル転送プロトコルの[[Apple Filing Protocol|AFP]]ではこれらは保持されるが、[[File Transfer Protocol|FTP]]、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]、電子メール等を介してファイルをやりとりする場合は、クリエータとタイプを保持するフォーマット([[Macバイナリ]]、[[AppleSingle]]、[[AppleSingle|AppleDouble]]、[[BinHex]]等)に変換するか、Mac OS用のアーカイブフォーマット([[StuffIt]]、[[LHA|MacLHA]]等)を用いる必要がある。
[[macOS]]ではクリエータとタイプがあればそれを優先するが、なければ拡張子による対応づけが利用される。
== 脚注 ==
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*[http://www.filetypes.jp/ FileTypes.jp] - ファイル拡張子とファイルの種類
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[[Category:ファイルフォーマット|*]] | 2003-03-26T23:03:54Z | 2023-09-24T13:39:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88 |
5,258 | 車輪 | 車輪(しゃりん、英: wheel)とは、車の輪。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。
小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。
車輪は最古の最重要な発明とされており、重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷くころから発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった。
車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、すべり摩擦よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。
一方、車輪にはたらく摩擦は「転がり摩擦」で、これはすべり摩擦よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。
たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。
また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して回転可能にした構造は、人類の発明の中でも偉大なものの一つであるといわれる。
一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地しているタイヤ(ゴムや軟質の鉄などで出来ている)やチューブまで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の空転を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説空飛ぶタイヤなど)。
Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーのHotWheels(ミニカーの商標)は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。
なおピラミッドの石材は、丸い材木(ころ。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したわけだが、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている。
車輪の起源は、古代メソポタミアのシュメール人にあり、時期としては(一説では)紀元前3500年ころとされる。シュメールの車輪は、木製の円板に軸を挿したものだった。発明の時期に関しては、メソポタミア・ウバイド期の遺跡から轆轤から発展した車輪が出土していたり、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する。
なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある乗り物」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 Bronocice pot に描かれたものだ』と主張された。
Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した、といい、中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車が存在していたことがわかっている、という。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。
ヌビアの古代遺跡では轆轤や水車が使われていた。ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている。またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている。
オルメカや他の西半球文化では、インカ文明まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの子供用の玩具と思われる岩石製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている。これはマヤ文明においても同じで、車輪付きの動物土偶が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった。新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている。
車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期である。やがて紀元前24世紀に入ると、ドン川やヴォルガ川流域でロバに代わり馬に荷車を引かせはじめるようになった。
車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では平安時代に牛車が使用されていたが、平安京のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する駄賃馬稼が一般的であったが、江戸時代に入ると人力による大八車やベカ車も使用されるようになった。馬車や人力車の普及は道路網が整備された明治以降だった。
初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。木材の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした。
地面からの衝撃を和らげるスポークのある車輪の発明に関しては、現在知られている最古の例はアンドロノヴォ文化のもので、紀元前2000年ごろである。そのすぐ後に、カフカース地方の騎馬民族が3世紀に渡ってスポークを使った車輪のチャリオットを馬に引かせるようになった。彼らはギリシア半島にも進出し、地中海の民族と交流した。ケルト人は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に鉄を巻きつけることを始めた。
19世紀に入ると車輪に変化が訪れた。蒸気機関車の発明とともにその重さを支えるための鉄の車輪が発明され、鉄道などに用いられるようになった。
1870年ごろには、空気入りのタイヤと針金スポークの車輪が発明された。これは最初、そのころ発展しはじめた自転車に使用されたのち、19世紀末より普及し始めた自動車に使用されるようになり、これにより車輪の性能は大幅に向上した。
車輪の発明は輸送手段以外のテクノロジー一般にとっても重要だった。例えば、水車、歯車(アンティキティラ島の機械参照)、糸車、アストロラーベ、トルクエタムなどが車輪と関係が深い。さらに最近では、プロペラ、ジェットエンジン、フライホイール(ジャイロスコープ)、タービンなどが車輪を基本要素として発展していった。
車輪は物体を地表に押し付ける力があるとき、その物体を地表に沿って効率的に動かすことを可能にする機械(機構)である。
車輪と軸は常に組み合わせて使われ、軸に対して車輪が回転するか、本体内で軸が(車輪と共に)回転する。どちらにしても機構的には同じである。
車輪と軸を使う際の抵抗力が単に物体を引きずった場合よりも小さくなるのは次のように説明できる(摩擦を参照):
摩擦面の摩擦を低減するのに軸受が使われる。最も単純な最古の軸受は単なる丸い穴で、そこに軸を通した(すべり軸受)。
例:
追加のエネルギーが車輪と地面の接触で失われる。これは主に変形損失であり、転がり抵抗と呼ばれる。
地面の凸凹に対して車輪の径が十分大きければ、不規則な地面の上を楽に移動出来るという利点もある。
車輪単体は機械とは言えないが、軸や軸受と組み合わせることで、輪軸という単純機械になる。車両の車輪も輪軸の一例である。
意匠分類上は以下のような形状に分類される。
一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。レーシングカーやポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、マクラーレンなどの中でも、極一部のスーパースポーツカー、ハイパーカーには迅速にタイヤ交換が可能なセンターロック仕様もある。
例えば「16×7J 5H PCD100 +38」と表記されていた場合
詳しくは、スチールホイール、アルミホイールを参照。
車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。
舗装された面、鉄道の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。
車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・湿地・泥道・砂漠・不整地・障害物がころがっている道、などである。
車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。
車輪には文化的な意味もあり、チャクラ、転生、陰陽などといった周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩という側面もある。そのため、地形が険しくて不向きということもあり、チベットではかつて車輪つきの乗り物が禁じられていた。
翼付きの車輪は進歩の象徴であり、パナマの国章や Ohio State Highway Patrol のロゴなど、様々な場面で見られる。
スポークのある車輪(チャリオット)は青銅器時代中期に登場し、一種の権威を象徴するようになった。太陽十字は原始宗教によく見られるが、これは太陽神がチャリオットに乗るようになったという技術革新を表したものと言われている。
インドの国旗に見られる車輪は糸車と言われているが、法(ダルマ)を表しているとも言われる。ロマの人々の旗にも車輪が使われているが、これは彼らがインドを起源とすることと、流浪の歴史を現しているという。
日本の家紋の一種に車輪を文様化した図案化した車紋(くるまもん)が存在する。 使用家の代表格としては徳川四天王として活躍した榊原家や同じく大名の生駒家の車紋が挙げられる。 | [
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"text": "車輪の発明は輸送手段以外のテクノロジー一般にとっても重要だった。例えば、水車、歯車(アンティキティラ島の機械参照)、糸車、アストロラーベ、トルクエタムなどが車輪と関係が深い。さらに最近では、プロペラ、ジェットエンジン、フライホイール(ジャイロスコープ)、タービンなどが車輪を基本要素として発展していった。",
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"text": "一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。レーシングカーやポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、マクラーレンなどの中でも、極一部のスーパースポーツカー、ハイパーカーには迅速にタイヤ交換が可能なセンターロック仕様もある。",
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] | 車輪とは、車の輪。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。 | {{Redirect|ホイール|コンピュータで用いるマウスのホイール|マウス (コンピュータ)#ホイール|その他の用法|ホイール (曖昧さ回避)}}
[[File:Roue primitive.png|thumb|right|プリミティブな(原型的、素朴な)車輪]]
[[File:Wheel of an old horse carriage.jpg|thumb|right|220 px|古い[[馬車]]の車輪。]]
[[File:JR-East Ms260-1 DT88.jpg|thumb|right|220 px|[[鉄道車両]]の車輪([[輪軸 (鉄道車両)|輪軸]])]]
[[File:Car wheel round.jpg|thumb|right|220 px|[[自動車]]の車輪]]
'''車輪'''(しゃりん、{{Lang-en-short|wheel}})とは、[[車]]の[[輪]]<ref>大辞泉【車輪】</ref>。乗り物類の下にある[[円形]]の物体で、[[軸]]のまわりを[[回転]]し、[[地面]]上を容易に移動することを可能にする目的のもの<ref>[https://www.lexico.com/definition/wheel Lexico, definition of wheel]</ref>。
== 概要 ==
小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。
車輪は最古の最重要な[[発明]]とされており、重量物を乗せて運ぶ[[橇]]と、その下に敷く[[ころ]]から発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p134-135 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。
車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、[[摩擦力|すべり摩擦]]よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。
一方、車輪にはたらく摩擦は「[[摩擦力|転がり摩擦]]」で、これは[[摩擦力|すべり摩擦]]よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。
たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。
また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して[[回転]]可能にした構造は、[[人類]]の[[発明]]の中でも偉大なものの一つであるといわれる。
一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地している[[タイヤ]](ゴムや軟質の鉄などで出来ている)や[[チューブ]]まで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の[[空転]]を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説[[空飛ぶタイヤ]]など)。
Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーの[[ホットウィール|HotWheels(ミニカーの商標)]]は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。
なお[[ピラミッド]]の[[石材]]は、丸い材木([[ころ]]。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したわけだが<!--ころの使用の起源は-->、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている<ref>[https://www.napac.jp/cms/images/publish/chap01.pdf ホイールの誕生、 そして進化と発展の歩み]</ref>。
== 歴史 ==
=== 起源と伝播 ===
車輪の起源は、古代[[メソポタミア]]の[[シュメール人]]にあり<ref name="citeco_invention_of_wheel">[https://www.citeco.fr/10000-years-history-economics/the-origins/invention-of-the-wheel 3500 BC, Invention of the wheel]</ref>、時期としては(一説では)[[紀元前3500年]]ころとされる<ref name="citeco_invention_of_wheel" />。シュメールの車輪は、木製の[[円板]]に[[軸]]を挿したものだった<ref name="citeco_invention_of_wheel" />。発明の時期に関しては、メソポタミア・[[ウバイド文化|ウバイド期]]の遺跡から[[轆轤]]から発展した車輪が出土していたり<ref name="名前なし-rKhF-1">「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p25 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する<ref name="名前なし-rKhF-1"/>。[[File:Bronocice drawn.png|thumb|200px|[[:en:Bronocice pot|Bronocice pot]]の図。ポーランドで出土、[[:en:Archaeological_Museum_of_Kraków|クラクフ考古学博物館]]蔵]]
なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある[[乗り物]]」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵{{要検証|date=2022年6月}}は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 [[:en:Bronocice pot|Bronocice pot]] に描かれたものだ』と主張された<ref>[http://www.bronocice.dzialoszyce.info/waza.htm Waza z Bronocic (in Polish)]</ref>。
Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀には[[ヨーロッパ]]や[[西南アジア]]に広まり、[[紀元前3千年紀]]には[[インダス文明]]にまで到達した、といい、[[中国]]では紀元前1200年ごろには車輪を使った[[チャリオット|戦車]]が存在していたことがわかっている、という<ref name="Dyer">Dyer, Gwynne, "War: the new edition", p. 159: Vintage Canada Edition, Randomhouse of Canada, Toronto, ON</ref>。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。
[[ヌビア]]の古代遺跡では轆轤や水車が使われていた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C00E5D71E3BF934A15751C0A962958260 CRAFTS; Uncovering Treasures of Ancient Nubia; New York Times]</ref><ref>[http://wysinger.homestead.com/kush.html Ancient Sudan: (aka Kush & Nubia) City of Meroe (4th B.C. to 325 A.D.)]</ref>。ヌビアの水車は[[水汲み水車]]であり、牛を使って回していたと見られている<ref>[http://discovermagazine.com/1994/jun/whatthenubiansat393 What the Nubians Ate]</ref>。またヌビアでは[[エジプト]]から馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=JAca1F3qG34C&pg=PA278&lpg=PA278&dq=Nubian+horse+chariots&source=web&ots=wWVGBxkwJD&sig=4wS7bIPBseMDkQJxC_7iT3oYyZo&hl=en&ei=fbmMSe2mKY60yQWF8a2_Bg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y The Cambridge History of Africa]</ref>。
[[File:Wheels_troughout_history.JPG|right|thumb|100px|車輪の歴史]]
[[オルメカ]]や他の[[西半球]][[文化_(代表的なトピック)|文化]]では、[[インカ文明]]まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの[[子供]]用の[[玩具]]と思われる[[岩石]]製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている<ref>{{cite journal|title=Wheeled Toys in Mexico|last=Ekholm|first=Gordon F|journal=American Antiquity|volume= 11|date=1945}}</ref>。これは[[マヤ文明]]においても同じで、車輪付きの動物[[土偶]]が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった<ref>「マヤ文明を知る事典」p46 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行</ref>。新大陸において車輪が実用化されなかったのは[[輓獣]]となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p137 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。
車輪付きの乗り物は[[家畜]]に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現は[[ロバ]]の[[家畜化]]とほぼ同時期である<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p158 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。やがて紀元前24世紀に入ると、[[ドン川]]や[[ヴォルガ川]]流域でロバに代わり[[馬]]に荷車を引かせはじめるようになった<ref>「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p26-27 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>。
車輪が広く使われるようになるには、平坦な[[道路]]が必要だった<ref>[http://successcircuit.com/is-the-end-of-originality-here/ How The Wheel Developed]</ref>。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では[[平安時代]]に[[牛車]]が使用されていたが、[[平安京]]のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する[[駄賃馬稼]]が一般的であったが、[[江戸時代]]に入ると人力による[[大八車]]や[[ベカ車]]も使用されるようになった<ref>「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p25-26 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>。[[馬車]]や[[人力車]]の普及は道路網が整備された明治以降だった。
[[ファイル:Standard of Ur chariots.jpg|thumb|left|250px|[[シュメール]]時代の[[アジアノロバ|オナガー]]に引かせた[[チャリオット|戦車]]の絵(紀元前2500年ごろ)]]
{{Gallery|width = 200px
|File:Chariot de type sumérien (Louvre, AO 2773).jpg|ブロンズ製のシュメール式[[チャリオット|戦車]]。([[紀元前2500年]]-2250年ころ。フランス、[[ルーブル美術館]]の展示品。)
}}
=== 車輪の発展 ===
初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。[[木材]]の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p135 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。
地面からの衝撃を和らげる[[スポーク]]のある車輪の発明に関しては、現在知られている最古の例は[[アンドロノヴォ文化]]のもので、紀元前2000年ごろである<ref>「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p27-29 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>。そのすぐ後に、[[カフカース]]地方の騎馬民族が3世紀に渡ってスポークを使った車輪の[[チャリオット]]を馬に引かせるようになった。彼らは[[ギリシア半島]]にも進出し、[[地中海]]の民族と交流した。[[ケルト人]]は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に[[鉄]]を巻きつけることを始めた。
[[19世紀]]に入ると車輪に変化が訪れた。[[蒸気機関車]]の発明とともにその重さを支えるための鉄の車輪が発明され、[[鉄道]]などに用いられるようになった。
[[1870年]]ごろには、空気入りの[[タイヤ]]と針金スポークの車輪が発明された<ref>[http://www.bookrags.com/research/wheel-and-axle-woi/ bookrags.com] - Wheel and axle</ref>。これは最初、そのころ発展しはじめた[[自転車]]に使用されたのち、19世紀末より普及し始めた[[自動車]]に使用されるようになり、これにより車輪の性能は大幅に向上した。
<!--画像:Australian cart.jpg|thumb|right|250px|荷車]]-->
{{Gallery|width = 200px
|ファイル:Wheel Iran.jpg|[[テヘラン]]の[[イラン国立博物館]]に展示されている、紀元前1000年以前のものと推定されている、スポーク式の車輪。([[チョガ・ザンビール]]で出土)
|画像:Columbia_High-wheeled_Bicycle,_circa_1886.jpg|[[ペニー・ファージング]]型自転車の車輪。前輪だけが大きい。
|File:Bicycle wheel 01.jpg|近年の自転車の車輪。前後同じサイズ。
}}
車輪の発明は輸送手段以外の[[テクノロジー]]一般にとっても重要だった。例えば、[[水車]]、[[歯車]]([[アンティキティラ島の機械]]参照)、[[糸車]]、[[アストロラーベ]]、[[トルクエタム]]などが車輪と関係が深い。さらに最近では、[[プロペラ]]、[[ジェットエンジン]]、[[フライホイール]]([[ジャイロスコープ]])、[[タービン]]などが車輪を基本要素として発展していった。
== 構造と機能 ==
車輪は物体を地表に押し付ける力があるとき、その物体を地表に沿って効率的に動かすことを可能にする機械(機構)である。
車輪と[[軸 (機械要素)|軸]]は常に組み合わせて使われ、軸に対して車輪が回転するか、本体内で軸が(車輪と共に)回転する。どちらにしても機構的には同じである。
車輪と軸を使う際の抵抗力が単に物体を引きずった場合よりも小さくなるのは次のように説明できる([[摩擦]]を参照):
* 摩擦を生じる接触部分にかかる垂直力は同じである。
* 軸が一回転することで車輪が一回転すると、軸の外周のぶんだけの摩擦距離で、車輪の外周のぶんだけ進むことになり、摩擦の生じる距離が大幅に小さくなる。
* 摩擦の生じる接触面が全て機構の中にあるため、地面との摩擦よりも摩擦係数をかなり低くできる。
摩擦面の摩擦を低減するのに[[軸受]]が使われる。最も単純な最古の軸受は単なる丸い穴で、そこに軸を通した([[すべり軸受]])。
例:
* 100 [[キログラム|kg]] の物体を 10 [[メートル|m]] 引っ張るとする。[[摩擦]]係数 ''μ'' = 0.5 で、[[垂直力]]は 981 [[ニュートン (単位)|N]] とすると、なされる[[仕事 (物理学)|仕事]](必要とされる[[エネルギー]])は「仕事 = 力 × 距離」なので、981 × 0.5 × 10 = 4905 [[ジュール]]である。
* ここで同じ物体に4つの車輪をつける。4輪と軸の間の垂直力は以前と(合計では)同じで 981 N である。車輪と軸が木製だとして、その摩擦係数を ''μ'' = 0.25 と仮定する。車輪の[[径]]を 1000 mm、軸の径を 50 mm とする。これを 10 m 移動させるとすると、摩擦面がこすられる距離は 0.5 m となる。したがってなされる仕事は 981 × 0.25 × 0.5 = 123 ジュールである。したがって、物体を直接ひきずる場合の 1/40 で済む。
追加のエネルギーが車輪と地面の接触で失われる。これは主に変形損失であり、[[転がり抵抗]]と呼ばれる。
地面の凸凹に対して車輪の径が十分大きければ、不規則な地面の上を楽に移動出来るという利点もある。
車輪単体は機械とは言えないが、[[軸 (機械要素)|軸]]や軸受と組み合わせることで、[[輪軸]]という[[単純機械]]になる。車両の車輪も輪軸の一例である。
== 車輪の素材 ==
* 木材
* 竹材
* 石材
* [[鋼]](鉄合金)
* [[アルミニウム合金]]
* [[マグネシウム合金]]
* [[チタン]]合金
* [[プラスチック]]
** [[ポリウレタン]]
<!--*[[スカンジウム]]合金--><!--アルミニウムに微量のスカンジウムを添加した合金のことだと思いますが、一般に「oo 合金」というときの「oo」は母材を表しますので、この場合では上記の「アルミニウム合金」に含まれるものでしょう。とりあえずコメントアウトとしました-->
* [[炭素繊維強化プラスチック]](カーボン)
== 車輪の要素 ==
* キャストホイール
** ディスクホイール
** コムスターホイール
* スポークホイール
** [[リム (機械)|リム]]
** [[スポーク]]
** [[ハブ (機械)|ハブ]]
;構成要素
* [[軸 (機械要素)|車軸]]
* [[リム (機械)]]
* [[車輪軸]]
* [[固定車軸]]
* [[輪軸]]
* [[ベアリング]]
* [[センターロックホイール]]
* ホイール - [[スチールホイール]]、[[アルミホイール]]、[[マグネシウムホイール]]
* [[サスペンション]] - [[車軸懸架]]、[[独立懸架]]、[[トーションビーム式サスペンション|可撓梁懸架]]
* [[ブレーキ]] - [[ドラムブレーキ]]、[[ディスクブレーキ]]
== 自動車用ホイール ==
=== 形状 ===
意匠分類上は以下のような形状に分類される<ref name="jpo-card-G2">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/G2.pdf 意匠分類定義カード(G2)] 特許庁</ref>。
* 放射状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分が放射状<ref name="jpo-card-G2"/>
* うず巻き状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分がうず巻き状<ref name="jpo-card-G2"/>
* ディスク状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分が平らかな板状<ref name="jpo-card-G2"/>
* メッシュ状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分がメッシュ状<ref name="jpo-card-G2"/>
=== 取り付け規格 ===
一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。[[レーシングカー]]や[[ポルシェ]]、[[フェラーリ]]、[[ランボルギーニ]]、[[マクラーレン・オートモーティブ|マクラーレン]]などの中でも、極一部のスーパー[[スポーツカー]]、[[ハイパーカー]]には迅速にタイヤ交換が可能な[[センターロックホイール|センターロック]]仕様もある。
=== サイズ表記・規格 ===
例えば「16×7J 5H PCD100 +38」と表記されていた場合
* 「16」外径…16[[インチ]]
** ビード当たり面の直径をインチで表す。
* 「7」リム幅…7インチ
* 「J」[[フランジ#ホイールとタイヤの嵌合部分|フランジ]]形状。リム面からフランジ頂部までの高さ、フランジの厚さ、フランジのビード当たり面の半径で分類。
** 乗用車で一般的な形状(高さ / 厚さ / 半径。単位 mm)<br />B = 14.0 / 10 / 7.5<br />J = 17.5 / 13 / 9.5<br />JJ = 18.0 / 13.0 / 9.0<br />K
** トラックで一般的な形状<ref>[https://www.topy-ep.co.jp/pdf/business/automobile_parts/truck/withtube.pdf ウィズチューブホイール] - [[トピー工業]](更新日不明)2018年1月26日閲覧</ref><br />B、F、E、GS、J、JJ、K、S、SW、SWA、T、V ※形状記号の後にSDCが付いた場合はサイドリング付き(Semi Drop Center rim)
** 特殊自動車・農機で一般的な形状<ref>[http://www.marunaka-rubber.co.jp/product/forklift-wheel.php 取扱商品] - 中丸ゴム工業(更新日不明)2018年1月26日閲覧</ref><br />A、B、D、E、F、G、I、J、JA、JJ、K、LB、MT、P、R、S、SP、SW、TG、V、W、WI
** バイクで一般的な形状<br />J、K、MT、W ※形状記号の後にDTが付いた場合は2つ割りリム(Divided Type rim)
** 自転車で一般的な形状<br />B/E、H/E、W/O
** その他<br /> Lなど
:: 乗用車用アルミホイールのフランジ形状には「J」が多いため、よく目にするこの記号をリム幅の単位だと勘違いし、例えば、フランジ形状「K」の純正スチールホイールを「14×5.0J」と呼んだり、幅広ホイールに対して「J数が大きい」と表現するなどは、すべて誤用である。
* 「5H」取付ボルト穴…5穴 3穴~12が用いられている。重量や負荷が大きい車両ほどボルト数が多く、直径が太くなる。
* 「PCD」[[ナット座ピッチ直径|取付穴間径]]…100 mm
**「PCD」とは「Pitch Circle Diameter」の略。(日本の乗用車では100 mm、110 mm、114.3 mm(4.5インチ)が一般的で、外国車には101.6 mm(4インチ)などもある。複数の径に対応したマルチPCDホイールもある。)
* 「+」インセット(日本国内での旧称はプラスオフセット)。ハブ面からリム(タイヤ幅)中心までの距離…プラス方向(車両内側)に38 mmの意味。ETと表記するメーカーもある(単位はmmで、ドイツ語の「Einpresstiefe」の略で英語のOffsetと同義)。
** リム中心がハブ面の内側に入ることをインセット、逆にリム中心がハブ面より外側に出ることをアウトセット(日本国内の旧称はマイナスオフセット)という。
詳しくは、[[スチールホイール]]、[[アルミホイール]]を参照。
{{Gallery|width = 250px
|File:Prius2004Wheel.JPG|[[トヨタ・プリウス]](2004)のリアホイール
|File:BMW Sauber F1.06 rear wheel - Bridgestone tire.jpg|F1のセンターロック式ホイール
|File:車のホイール.jpg|自動車用ホイール
|File:ハイゼットカーゴデラックス(2WD CVT)伊丹空港展示のフロントホイール.jpg|[[ダイハツ・ハイゼット]](2022)カーゴのフロントホイール
}}
== 様々な車輪 ==
{{節スタブ|section=1|date=2022年6月}}
{{Gallery|width = 250px
|File:0 Series Shinkansen Wheel.jpg|[[新幹線0系電車]]の車輪
|File:Curiosity rover's damaged left front wheel, sol 411.jpg|火星探査機[[キュリオシティ]]の車輪
|File:UranusOmniDirectionalRobotPodnar.png|{{ill2|メカナムホイール|en|Mecanum wheel}}を用いた移動ロボットURANUS
|File:Big Lizzie Red Cliffs Victoria.jpg|不整地を走るための{{ill2|ドレッドノートホイール|en|Dreadnaught wheel}}を用いたトラクター
|File:Pedrail wheel.jpg|{{ill2|Pedrail wheel|en|Pedrail wheel}}
|ファイル:CASE_STX480.jpg|[[無限軌道]]を用いたトラクター
|File:Set of wheel and cut brake - Boeing 747 (8458361481).jpg|[[ボーイング747]]の車輪の断面
}}
== 車輪が得意とする場所、苦手とする場所 ==
[[File:Rally_Dakar_2009_5.jpg|thumb|right|160px|[[砂漠]]での車輪の使用。([[ダカールラリー]])]]
車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。
[[舗装]]された面、[[鉄道]]の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。
車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・[[湿地]]・[[泥道]]・[[砂漠]]・[[不整地]]・障害物がころがっている道、などである。
車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。
* 不整地 : 徒歩、[[ウマ]]([[乗馬]])、[[無限軌道]](ただし実際には機構の一部として車輪が使われている)。[[ホバークラフト]]も。
** 近年では、四足歩行ロボットも(たとえばボストン・ダイナミクスの[[Spot (四肢ロボット)|Spot]]など)。あるいは[[二足歩行ロボット]]。
<!--リニアは車輪の苦手な場所で代用で使っているのではない。 別次元の話。リニアを挙げるくらいなら、それ以前に航空機を挙げたほうがよい。[[電磁気学|電磁気]]による浮上([[磁気浮上式鉄道]]など)-->
* 雪原 : [[ソリ]](手押しの[[橇]]、[[犬ぞり]]など)。スノーモビル(ただしゴムの[[無限軌道]]が使われていて、車輪も組み込まれている。)
== 象徴としての車輪 ==
車輪には[[文化的]]な意味もあり、[[チャクラ]]、[[転生]]、[[陰陽]]などといった周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩という側面もある。そのため、地形が険しくて不向きということもあり、[[チベット]]ではかつて車輪つきの乗り物が禁じられていた。
翼付きの車輪は進歩の象徴であり、[[パナマの国章]]や [[:en:Ohio State Highway Patrol|Ohio State Highway Patrol]] のロゴなど、様々な場面で見られる。
スポークのある車輪([[チャリオット]])は青銅器時代中期に登場し、一種の権威を象徴するようになった。[[太陽十字]]は[[原始宗教]]によく見られるが、これは[[太陽神]]がチャリオットに乗るようになったという技術革新を表したものと言われている。
[[インドの国旗]]に見られる車輪は[[糸車]]と言われているが、[[法 (仏教)|法]](ダルマ)を表しているとも言われる。[[ロマ]]の人々の旗にも車輪が使われているが、これは彼らがインドを起源とすることと、流浪の歴史を現しているという。
<gallery>
Roma flag.svg|[[ロマ]]の旗
</gallery>
=== 車紋 ===
[[日本]]の[[家紋]]の一種に車輪を文様化した図案化した'''車紋(くるまもん)'''が存在する。
使用家の代表格としては[[徳川四天王]]として活躍した[[榊原氏|榊原家]]や同じく[[大名]]の[[生駒氏|生駒家]]の車紋が挙げられる。
<gallery>
Japanese Crest Gennji kuruma.svg|源氏車
kuruma.png|榊原源氏車
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!--雑多 [[File:StolenBike-FrontWheel.jpg|thumb|right|220px|自転車本体が盗まれ、駐輪場にポツンと残された前輪。]]-->
* [[輪軸 (鉄道車両)]]
* [[駆動輪]]
* {{仮リンク|タイヤバランス|en|Tire balance}}
* [[転がり抵抗]]
* [[観覧車]]
* [[手押し車]]
* [[キャスター (移動用部品)]]
* 車輪に関する事象 - [[ホイール・オブ・フォーチュン]]、[[車裂きの刑]]、 [[車輪の再発明]]
* [[メス (工学)]]
* [[インド=ヨーロッパ語族]] - 車輪・車両に関する共通語彙があり、初期の発展と密接な関係があると考えられる。
* その他の地上移動方法:[[磁気浮上式鉄道]]、[[そり]]、[[ホバークラフト]]・[[空気浮上式鉄道]]、{{ill2|歩行機械|en|Walking vehicle}}、[[球体|球体駆動式全方向移動機構]]、{{ill2|スクリュー推進|en|Screw-propelled vehicle}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Kotobank}}
{{Clear}}
{{Car-stub}}
{{自動車部品}}
{{自動車}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやりん}}
[[Category:車輪|*]]
[[Category:機械要素]]
[[Category:技術史]]
[[Category:交通史]]
[[Category:回転機械]] | 2003-03-26T23:24:09Z | 2023-10-27T10:32:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E8%BC%AA |
5,259 | 人名 |
人名()は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。
その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに古代ギリシアなどにその形跡があるとされ、東方では周代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。
ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである (shall have the right from birth to a name)」と定めている。
日本の場合は民法により「氏+名(=氏名)」という体系をもつ。他に「姓+名(=姓名)」や「名字と名前」ともいう。「名前」は「氏名」「氏」「名」のいずれかを指すため、「氏」を「上の名前」、「名」を「下の名前」と呼ぶこともある(縦書きにしたとき「氏」は上部、「名」は下部になるため)。他者から呼称される場合は、「氏」のみ、「名」のみ、あだ名、敬称・職名などとの組み合わせ、同一の人名の世襲などがある。
後述するように、「氏+名」という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において氏と姓、さらには日本における名字は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は「氏(うじ)」「姓(本姓)」と「名字」は区別されていた。
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる(記号論)。多くの場合、戸籍など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の敬称が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、あだ名との組み合わせなどとなることが多い。
名前にはその主要な属性として、発音と表記がある。例えば日本人の個人名が外国の文字で表記されることがあるが、これは1つの名前の「別表記」と考えることができる。逆に、漢字名の場合、複数の読み・音と訓の組み合わせによって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である。
また、名は特定の個人を指し示す記号であることから、人名そのものが、自己、自我、アイデンティティ、自分というクオリアに大きく関係するという考え方がある。各国・各文化の歴史を見ても、霊的な人格と密接に結びついていると考えられていたり、真の名を他者が実際に口にして用いることに強いタブー意識を持っていたりする社会は多くあった。
たとえば日本では「諱」がこれにあたる。これは、元服前の「幼名」、「字(あざな)」、出家・死去の際に付ける「戒名」などと合わせて、名を単なる記号として扱おうとしない一つの文化である。この文化は近世・近代と「諱」を持つ層が減り、逆に「名字」を持つ層が増えるにしたがい(苗字帯刀御免、平民苗字必称義務令)、希薄化してきたと言える。
だが、21世紀初頭の日本においても、名付ける者が名付ける対象に特別な読みを与えることで特別な意味を見い出そうとして名付けたと解釈する限りでの難読名などに見られるように、名に特別な意味を与えようとする思いは、散見されるものである。
日本では現代社会の一般人の日常生活でもインターネットを用いたコミュニケーションが普及するにつれ、見ず知らずの相手には、名前は一切開示せず接触し、相手の素性を知ってから段階的に開示するということは、よく行われる。また、インターネット上のコミュニティなどでは、本名は出さず、ハンドルネームなどを示すのが一般的である。様々なことを考慮すると、やはり本名をあまりに安易に不特定多数に開示してしまうことはそれなりにリスクが伴う、という判断がある(関連する事象として、名誉毀損やプライバシーなどの項も参照可)。また、多少意味合いが異なることは多いが、芸術家・作家・評論家などで、ペンネーム・アーティスト名などを用いて、本名は開示しないことは多々見られる。
一方、個々の名前のアイデンティティの重要性は、幼名などが一般的だった江戸時代、養子などが一般的であった戦前などと異なり、増している。近年の選択的夫婦別姓を求める声などは、現代で、個々の名前のアイデンティティの重要性が増してきたことの表れである。
人の名前は多くの文化で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。
多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを"個人名"と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか1種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる(詳細は後述)。
分かりやすい例としては、その個人が属する「家(家族)の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。英語圏では、個人名(与えられた名 = given name)+ 家族名(family name)の順に表記されることが多い(配置に着目し、ファーストネーム = first name、ラストネーム = last name とも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、given nameという呼称を用いる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「山田 + 太郎」であり、この場合は「家族名 + 個人名」の並びとなる。家族名、個人名はそれぞれ、姓(せい)、名(めい)などと呼ばれる。家族名はまた苗字、名字とも呼ばれる。"個人名"の部分は「名(な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。
姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。アメリカ大陸の先住民族など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。サウジアラビアのように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。ブラジルのように一貫していない場合もある(これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる)。
また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らない。姓を持たない文化においては、一連の名と続柄の連続をフルネームとする場合もある。(たとえば安倍晋三が姓を持たない文化に生まれたとすると、「晋三、晋太郎の息子、寛の孫」といった名前になる。)インドでは逆に「taro、taichiroの父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名(taichiro)が含まれているものもある。
姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏・使われる場面などにより異なることが知られている。例えば、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では、日常的な文書や会話などでは、名前は名→姓の順をとることが多い。ただし、公的文書や学術文書などにおいては順序が逆転することがある。姓を前置することで検索性の向上や誤認の回避につながるためである。文献表においては第一著者については姓→名の順を取り、第二以下は名→姓で示す。この場合姓の後にカンマを付ける。日本、中国、韓国、ハンガリーなどでは名前は姓→名の順をとる。つまり、あえてフルネームで呼んだり記したりする場合には、その順で呼んだり記したりする、ということである。
名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。英語圏ではミドルネーム(middle name)はイニシャルだけが記されることが多くある。スペイン語圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。また古代ローマでは使われていた名の種類がとても少ないため、1~2文字に略して評することがあった。
基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分(姓)や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分(名)のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。
例えば、婚姻や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。
婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では洗礼に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。
また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。
日本人の苗字の種類は10万とも30万ともいわれ(推計値の為、様々な説がある。丹羽基二は30万姓としている)、世界でも特に苗字の種類が多い民族とされる。一方、中国人の姓は5000以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李 (7.4%)・王 (7.2%)・張 (6.8%) の3つで20%強(約3億人)を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で59%を占める(百家姓参照のこと)。韓国人の姓は、金(김)・李(이)・朴(박)・崔(최)・鄭(정)の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」「ソウルで金さんを探す(無用な努力の喩え)」などという成句もある。
韓国人は子の名を付ける際に、基本的に他の誰も持っていないオリジナルな名を与える(ただし、ある程度の流行はある)。これに対して、ドイツでは「すでに存在する名前」しか受理されない。フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。このため、既存の名前を組み合わせることが流行した(例えばルイ=ニコラ・ダヴーの名ルイ=ニコラは、聖人の名前ルイとニコラを組み合わせたものである)。
さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に愛称・敬称などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係(父と子など)を用いる場合もある。
人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。
また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。
明治維新以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、家の名である「名字」・「家名」、家が属する氏の名である「姓(本姓)」、そしてその姓の区別を示す「姓(カバネ)」と実名にあたる「諱」を持っていた。
上古では『物部麁鹿火大連』のように、氏の名・実名・カバネの順で表記されていたが、欽明天皇の頃から『蘇我大臣稲目』のように氏の名・カバネ・実名の順となり、氏の名の後に「の」をつけて「そがの おおおみ いなめ」のように読まれるようになった。
公式文書である朝廷の口宣案等に記される際は、「位階もしくは官職、その両方」「本姓」「カバネ」「諱」の順で書かれる。例えば『勧修寺家文書』にある徳川家康従二位叙位の際の口宣案には「正三位源朝臣家康(徳川家康)」「蔵人頭左近衛権中将藤原慶親(中山慶親)」の二人の名前が見られる。公式や公的な文書で用いられるのは本姓であり、徳川や中山といった名字は用いられなかった。
書状などで呼称する場合は官職名や通称である仮名を用いることがほとんどであった。また「道長朝臣」や「親房朝臣」のように名とカバネを連ねて呼ぶことは、特に「名字朝臣」と呼ばれ、四位の人物に対して用いられることが多かった。
家康が外交文書で「源家康」と署名したように、姓と諱をあわせる形式はあったものの、現代のような名字と諱だけを用いた「織田信長」という形式はあまり用いられなかった。『勢州軍記』の「織田上総守平信長」や、『新編武蔵風土記稿』の「熊谷次郎平直実」など、軍記物語や文芸等では本姓と名字・通称・諱などをつらねて書かれたものもあるが、正式なものではない。
大和朝廷(ヤマト王権)の成立前後、日本には「氏」と呼ばれる氏族集団が複数あり、氏族の長である氏上とその血縁者である氏人、それに属する奴婢である部曲(部民)も同じ「氏の名」を称していた。これら氏には、天皇から氏の階級や職掌を示す「カバネ(姓)」が授けられた。
やがて氏の名は天皇より報奨として授けられるものとなり、「カバネ」も同時に授けられるようになった。このように氏とカバネで秩序付けられた制度を「氏姓制度」と呼ぶ。
古代の律令国家の時代には、庶民も「氏の名」を称していた。養老5年(721年)に作成された戸籍では、戸に属するものは妻や妾にいたるまで同じ氏の名を称していた。
天武天皇の時代には20以上あったカバネが8つに再編成され、「八色の姓」と称されるようになった。この頃には「氏」と「姓(カバネ)」の区別は曖昧になり、『日本書紀』でも藤原鎌足が「藤原」の氏を受けた際には「賜姓」と表記される。奈良時代頃には氏を指して「姓」と称するようになっていた。また奈良時代から平安時代にかけては既存の氏族が賜姓を願い出て新たな氏の名に改めることもしばしばあった。土師氏の一部が菅原氏・秋篠氏を賜姓されたように、大和時代以来の氏の名はほとんど失われていった。また懲罰により氏の名を改名されることもあった。
本姓は基本的には父系の血統を示すため、養子に入っても変わらないのが原則であった。また女性が婚姻によって別姓の家に嫁いでも同様であった。平姓畠山氏の名跡を源氏の父を持つ畠山泰国が継いだため、以降の畠山氏は源姓を称したのはその例である。しかし、後世には養子となった場合にはその家の本姓に変わることも多くなった。例えば上杉謙信の場合、家系である長尾氏は平氏であるため「平景虎」を称していたが、藤姓上杉氏の名跡を継いだあとは藤原氏を称した。公家や社家においても同様で、近衛家や紀伊国造家などが皇室や他氏から養子を迎えても、姓は家本来のものから変更されなかった。
1200年頃には、「源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)」という代表的な4つの本姓を「四姓」と呼ぶことが行われるようになった。また島津氏が藤原氏から源氏を称するようになったように、情勢によって本姓を変更することもあった。豊臣政権期には多くの大名や家臣に対して豊臣氏の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、木下氏などごく一部が称するのみとなった。
「名字」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。鎌倉時代には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。
平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した。やがて平安時代末期に嫁取婚が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ。
東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた。これは荘園領主等にその地の権利を誇示する役割があったとみられる。足利荘を領した足利氏、三浦郡の三浦氏、北条郷の北条氏などがその例である。また藤原木工助の子孫が「工藤氏」、藤原加賀守の子孫が「加藤氏」を称するように、先祖の本姓と官職を合わせた名字や、「税所氏」や「留守氏」・「問註所氏」のように朝廷や幕府の官職や荘園内での職掌を示した名字も発生している。またこれらの名字は分割相続によってさらに多く派生していった。これらの分家は総領である一族の支配下に置かれ、分家の確立が過渡的な段階においては「佐々木京極」や「新田岩松」と総領家の名字を上に冠して称されることもあった。
また紀伊国隅田荘の隅田党のように、血縁ではない別々の家の集団が「隅田〇〇」という複合名字を名乗り、やがて「隅田」のみを家名としたように、同一の名字を名乗ることで結束を固めることもあった。
武士階級の間では「名字」を主君から授けることがしばしばあった。例えば織田信長は明智光秀に「惟任」、丹羽長秀に「惟住」の名字を名乗らせている。また、家臣に対して主君と同じ、もしくはゆかりのある「名字」を名乗らせ、擬制的な一門として扱うこともしばしば行われた。徳川氏が松平姓を有力大名や血縁のある大名に名乗らせた例はよく知られている(前田氏・島津氏などの有力外様大名や一部の譜代大名、鷹司松平家など)。豊臣秀吉は特に幅広くこの政策を行い、本姓である豊臣朝臣や名字の羽柴姓を多くの大名や家臣に称させた。また今川貞世が今川の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称したように、名字の使用を停止する懲罰も存在した。
庶民は平安時代頃までは氏の名もしくは名字を名乗っていたが、中世に入ると禁令が出されたわけでもないが、記録に残らなくなった。豊田武は村落内の上層部が下層民に対して名字の私称を禁じたことを指摘している。江戸時代には、「名字」は支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされ、武士階級も庶民に対して名字を称することを禁じていると認識するようになった。公式な場で「名字」を名乗るのは武士や公家などに限られていた。一方で時代が下ると領主層の武家は名主や有力商人に対し「苗字」の公称を許可し、その代償として冥加金等を収めさせる例が頻発した。
しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然ながら「家名」を有した。こうした百姓や町人の「家名」は私称の「名字」と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は「名字」を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。
町人には、大黒屋光太夫など屋号を「名字」のように使う例も見られた。東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の「名字」と組にして用いた。
中国、朝鮮、日本、ベトナムなど漢字文化圏では、人物の本名、実名である「諱(いみな)」はその人物の霊的な人格と強く結びつき、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられた。そのため「諱」で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の「諱」を呼ぶことは極めて無礼とされた(実名敬避俗)。これを貴人に対して実践したものが「避諱(ひき)」である。特に皇帝とその祖先の「諱」については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその「諱」あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。中国などでは「避諱」によって、使用する漢字を避けて別の漢字を充てる「偏諱」が行われた。
日本においては「通称」や「仮名(けみょう)」が発達した。一方で、律令期に遣唐使の菅原清公の進言によるとする「諱」への漢風の使用が進められ、これに貴人から臣下への恩恵の付与、血統を同じくする同族の証として「通字」も進んだ。後述の「諱」を参照。
男性の場合、こうした「通称」には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(輩行)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの「官職」の名がよく用いられた。後者は自らが官職に就いているときだけではなく、父祖の官職にちなんで名付けることが行われた。北条時頼の息子時輔は、父が相模守であることにちなんで「相模三郎」と称し、さらに「式部丞」の官職について「相模式部丞」となり、さらに式部丞を辞して叙爵されて「相模式部大夫」と称した。このような慣行に加えて、時代が下ると正式な任命を受けずに官職を僭称することが武士の間に一般化し、江戸時代には、武士の官職名は実際の官職とは分離された単なる名前となった。島津斉彬は正式には「松平薩摩守」を名乗ったが、当時は「薩摩守」はあくまで「通称」と捉えられ、斉彬の「官職」といえば「左近衛権中将」を指した。この趨勢は、ついには一見すると官職の名に似ているが明らかに異なる百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。
女性の名前は、庶民が氏を名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る凡下身分の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらのうじのにょ)などと記された。氏は中国と同様に父系の血統を表現する記号であったから、婚姻後も氏が変更されることは本来はありえなかった。官職を得て出仕するような地位を得たとしても「式部」(紫式部)や「少納言」(清少納言)のように「通称」で呼ばれた。これらは「女房名」と呼ばれる。「清少納言」という呼び名は、父清原元輔が少納言であったことにちなむ女房名「少納言」に、ほかの「少納言」と区別するために清原氏出身であることを示す「清」を添えたものである。
宮、御屋形様、大殿、大御所、政所、御台所や、上皇や女院の院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだことに由来する通称である(詳しくは仮名 (通称)の頁を参照)。
明確に「避諱」を目的とするのではなく、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:島津義久の「龍伯」、穴山信君の「梅雪」、細川藤孝の「幽斎」など)。この風習は芸能関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、大田南畝のような筆名も広く行われた。中には、曲亭馬琴や十返舎一九のように諱と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の芸名や俳名、源氏名などの習慣につながっている。
個人名である「諱(いみな)」は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する「先祖返り」という習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。
先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、市川團十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。
武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを「偏諱(へんき・かたいみな)」と言う。有名な例では足利高氏は北条高時の一字を拝領し、鎌倉幕府が滅んだ後に後醍醐天皇(名が尊治)の一字を拝領して足利尊氏に改名した。主君のほか、烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏の烏帽子親でもある)。
偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。
偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。
江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。
諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。
在家の者の諱に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。 出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字や諱を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。
歴史をさかのぼり、過去をひもとくと、封建時代のイエズス会士ロドリゲスの記録(日本語小文典)によれば、「高貴な人は仮名(かりな)の他、実名(名乗り)も命名されていた」という。ここで「仮名」とは、のちに官職を得て、その官職名(百官名、受領名)を名乗ることができるまでの間の仮の名である。 また、「実名」の命名にあたっては、「漢字2文字の4音節」で、上下の語ともに特定の82種の語中から選択されたという。 (官職者・人名一覧の記載された歴史書は、このような命名法の参考資料となると思われる。)
漢字には複数の読み方があり、「美」を「はる(美子(昭憲皇太后))」や「よし(三条公美)」・「とみ(三条実美)」と読んだりするような人名のみで用いられる特殊な読み方も多い。このため歴史上の人物の名の正しい読み方が不明であったり、議論となることもある。最上義光は当初、名は「よしみつ」もしくは「よしてる」と読まれていたが、妹の義姫に宛てた手紙が近年発見され、その手紙で自身の名を「よしあき」と平仮名で書いていたため、ようやく正しい読みが判明したという事例もある。また字が異なるが同じ読みの文字が当て字として使用されることや、同じ漢字を用いた親族などで読み方が類推されるなどの例もある。
しかしこのような類推できる史料がない人物も多い。藤原明子や藤原彰子、明石全登など、読み方に諸説ある人物も多い。僧侶の戒名(法名)は原則的に音読みであるため類推は行いやすいが、公暁(くぎょう・こうぎょう)のように異なる解釈が行われる例もある。近代の人物でも、徳川慶喜は将軍就位後に「よしひさ」と読むという布告を発しているが、現在でも主流となっている読まれ方は「よしのぶ」である。このため、徳川慶喜→「けいき」のように読み方が不明である人名を音読みすることもしばしば行われる。
和歌の世界では、藤原俊成(としなり・しゅんぜい)や藤原定家(さだいえ・ていか)、藤原家隆(いえたか・かりゅう)のように、本来訓読みである人名を符牒として音読みで読み慣わすことがあり、これは有職読み・故実読みなどと呼ばれる。
女性は諱が記録に残ることが少なく、後世でも通称でしか知られず実名が不明のままとなっている例が多い。源頼朝の正室である北条政子は正式な実名が明らかになっておらず、豊臣秀吉の正室高台院もその本名には論争がある。これらの高位に列した女性は、位記では本姓と諱を用いて「平政子」や「豊臣吉子」と表記されるが、父や夫の一字を用いたあくまで公式用の名前である。
朝廷や貴人に仕える女性は女房名で呼ばれる(祐子内親王家紀伊、今参局、春日局)。後世においては生家の名字や本姓を用いた呼称(三条の方)、在所などに由来する名(淀殿、築山殿)が用いられる。貴人の正室や生母に対しては大政所(摂関母)や北政所(摂関妻)、御台所(大臣・征夷大将軍正室)などの敬称が用いられ、側室や娘にたいしてもそれぞれの敬称が用いられることもあった。
江戸期の女性の名の例を大田南畝(蜀山人)の随筆「半日閑話・女藝者吟味落着」から引用する。(50音順にした。) (あ行)長助娘いと、助七娘いと、甚之助妹いね、孫兵衛姪いよ、平七娘うた。 (か行)寅吉娘かつ、小助娘かよ、十次郎従弟女きち、喜右衛門娘きち、藤五郎娘きの、五郎娘うた事こと。 (さ行)文六娘さと、藤兵衛娘しほ、長八娘せん、権右衛門娘そめ。 (た行)善蔵姉たか、藤助娘たみ、八右衛門娘たよ、十次郎従弟女ちよ、源八娘ちを、権右衛門姪つる、鉄次郎姉つる、 武兵衛娘でん、清九郎娘とき、新兵衛妹とみ、佐兵衛娘とみ、助八娘とよ。 (な行)磯治郎娘なみ、金次郎従弟女なみ、小三郎妹なを。 (は行)清八娘はつ、大吉娘はな、半兵衛娘はま。 (ま行)宇右衛門娘まさ、新右衛門姪みよ、半七姪みよ、伝兵衛妹みわ、平吉妹みを、藤次郎娘もよ。 (や行)新八姉よし。 (ら行)孫兵衛方に居候りう。
その他、現代ではあまり見聞きしなくなったものに、ても(熊本民謡の「おてもやん」)、うし(牛が食べ物ではなかった時代)、かめ(大田南畝のつると同様、長寿を意味する名前)、とら(寅年生まれか)、などがある。
北海道、樺太、北方領土、千島列島の先住民族であるアイヌは、今でこそ彼らが居住する地域の大勢を占める日本式の姓名を名乗っている。しかし、幕末までは民族の伝統に即した命名のもとに人生を送っていた。また、チュプカ諸島(新知郡・占守郡)の千島アイヌも伝統を保っていたが、18世紀にロシアに征服され支配下に置かれた後はロシア式の姓名を名乗っていた。 生まれて間もない赤子には正式の名前を付けず、泣き声から「アイアイ」、あるいは「テイネㇷ゚」(濡れたもの)、「ポイソン」(小さな古糞)、「ションタㇰ」(糞の固まり)など、わざと汚らしい名前で呼ぶ。死亡率が高い幼児を病魔から守るための配慮で、きれいなものを好み、汚いものを嫌がる病魔から嫌われるようにとの考えである。あるいは「レサク」(名無し)など、はじめから存在しないことにして病魔を欺く。
ある程度成長して、それぞれの個性が現れ始めると「本式」の名前がつけられる。「ハクマックㇽ」(あわて者)、「クーカㇽクㇽ」(弓を作る者)、「クーチンコㇿ」(弓と毛皮干しの枠を持つ者)、「ムイサシマッ」(掃く女)、「キナラブック」(蒲の節をいじる者)、「タネランケマッ」(種まき女)、「イウタニマッ」(杵の女)、「カクラ」(ナマコのように寝転ぶ)、「カムイマ」(熊の肉を焼く)など。
また、病弱な子供や並外れて容貌に優れた子供は、綺麗なものを好むという病魔から嫌われるよう、神に見込まれて天界に連れて行かれる=死ぬことのないよう、幼児と同じように汚らしい名前をつける。「トゥルシノ」(垢まみれ)、「エカシオトンプイ」(爺さんの肛門)などの例がある。このような例は、諸民族においても珍しい事例ではなく、例えば日本では牛若丸など武士の子の幼名に頻繁に使われた「丸」という字は、古来、糞を意味していた。また、中国でも前漢の武帝は、魔除けのために「彘(てい:ブタの意)」という幼名を付けられた。
妻は夫の名前を呼ぶことが許されず、すでに死んだ人間の名を命名することは不吉とされ、他人と似た名はその人に行くはずの不幸を呼び込むものとされていたので、とにかく人と違う、独創的な名前を命名するよう心がけていた。また、大きな災難に遭遇したり、似た名前の者が死んだりした場合は「名前が災難に好かれた」との考えから、すぐに改名した。そのためアイヌ民族には「太郎と花子」「ジョンとエリザベス」のような、「平凡な名前」「民族を代表する名前」が存在しない。
日本においては明治初期になると戸籍法や平民苗字必称義務令の浸透から、アイヌもそれまでの名前を意訳、あるいは漢字で音訳した「日本式の姓」を名乗るようになったが、「名前」は明治中期までは、それまでのアイヌ語式がかなりの例で受け継がれていた。戸籍に名を記入する際は、アイヌ語の名前を見ただけでは男女の区別がつきかねる和人のために、男性はカタカナで、女性はひらがなで記入されていた。
史料から見る限り、1392年に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、第一尚氏王統が成立するまでの王名を始めとする人名のほとんどは「琉球語/琉球方言」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。尚巴志王が三山を統一し明に朝貢すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名(からなー)」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。
これに対し、第二尚氏王統成立後、士族はその采地(国王より与えられた領地)の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」(前節の「諱」に相当、ただし全て音読みで読まれる)を持つことが普通になると、「采地名」+「位階称号」+「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名(やまとぅなー)」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」(苗字)の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった(王の世子は中城を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない)。また、それまでつけられていた「琉球語/琉球方言」による名は「童名(わらびなー)」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。
このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている(主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる)。例えば羽地朝秀(唐名:向象賢)は「大和名」が、蔡温(大和名:具志頭文若)は「唐名」の方が通用している。
薩摩藩の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名(したがって「采地名」)の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。
琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄県にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」(「采地名」+「名乗り」)を戸籍名としたが、尚泰王のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは(「采地名」をもっていても)「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家(伊江家、今帰仁家など)では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。
その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを標準語に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。
先島諸島においても、尚真王による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの(石垣島の平久保加那按司)、名だけが伝えられているもの(石垣島のオヤケアカハチ、与那国島のサンアイイソバなど)など、独特のものがある。
明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば夏目漱石の戸籍名である夏目金之助は通称系、野口英世は諱系の名である。
日本人の名前は、法律上、原則として「氏」(うじ)と「名」(な)との組み合わせから成る「氏名」(しめい)で呼称され、戸籍上「氏」「名」で記録される。「氏」は民法の規定によって定まり(民法750条、810条等)、「名」は戸籍法に定める出生届に際して定められる(戸籍法29条柱書、50条、57条2項等)。「氏」は現代においては姓(せい)または苗字・名字(みょうじ)とも呼ばれ、古くは一定の身分関係にある一団の、近代以降は家族の人間の共通の呼称として、個人がその集団に属することを示す。「名」はさらにその集団の中の個人を示す役割を果たしている。
日本人の氏名を含む身分関係(家族関係)は、戸籍に登録される。例外として、天皇及び皇族の身分関係は、戸籍ではなく皇統譜に登録される(皇室典範26条)。また、天皇及び皇族は、「氏」を持たない。これは歴史的に氏や姓が身分が上の者から与えられるものだったためである。
氏の種類は、30万種を超えるとされている。氏の多くは2文字の漢字から成っており、人数の多い上位10氏はすべて漢字2文字から成る。
また氏の多くは地名に由来するため、地名に関する漢字を含むものが多い。
海外からの移民を除き、基本的に日本人の氏は漢字である。
氏の大半は地名に基づいている(この理由を17世紀のイエズス会士ロドリゲスは「日本語小文典」のなかで、「名字(苗字のこと)は個々の家が本来の所有者として、所有している土地に因んでつける」と記述している。)。このため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎など、地形や地勢を表す漢字、植物や道に関するものなど及び方位を含む氏が多数を占める。色彩の一字のみで表される氏(白・黒・赤・青・黄など)はあまり存在しないが「緑」氏や「金」氏(ただし読みは「こん」)の例はあるほか在日コリアンに「白」氏がいる(緑健児、金易二郎、白仁天)。
現在、日本では氏の取得と変動は民法の規定によって定まる。夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する(民法750条)。嫡出である子は父母の氏を称し、嫡出でない子は母の氏を称する(民法790条)。また、養子は養親の氏を称する(民法810条)。
この法では、夫婦の「氏」は夫婦が互いの氏から自由に選べる。しかし慣習的に多くの夫婦は、夫の氏を選択している(2005年度(平成17年度)の1年間に婚姻した夫婦を対象とする調査によれば、全体の96.3%の夫婦が夫の氏を選択した)。これは1948年(昭和23年)の改正前民法(家族法)に見られるように、婚姻を妻が夫の「家」に入ると考える(家制度)と、全ての「家」の構成員が、夫を筆頭とする「家の氏」にまとめられるという、男系家制度の慣習を反映している。婚姻又は養子縁組によって氏が変更があると、もとの氏を「旧姓」という。
なお、夫婦同氏制(夫婦同姓)については、1996年(平成8年)に法制審議会が出した「民法改正案要綱」で、選択的夫婦別氏制度(夫婦別姓)が定められたことをきっかけに、その賛否が論じられている。東アジアにおける中国、朝鮮半島、インドでは、伝統的に夫婦別姓であった。タイは名字を用い始めたのは20世紀以降であり、その際には妻は夫の姓を称することが義務付けられていた。ドイツやタイでは夫婦同氏を義務としていたが、憲法違反であるとして改正されている。現在では、日本以外の国家はすべて夫婦別姓を取ることが可能であり、夫婦同姓のみを義務とする国家は日本のみとなっている。日本では、職業やその他の理由によって、夫婦の片方が旧姓を通称として名乗り続けることがある。2011年に最高裁判所は夫婦同姓義務は憲法違反ではないという判決を下しているが、別の姓を称することをまったく認めないことに合理性はないという少数意見も出された。
ヨーロッパでは姓を夫婦で共通する義務規定はなかったもの、夫の姓にあわせることが多数派であった。1995年の調査では、ドイツ、イギリス、オーストリア、フランス、アイルランドでの9割の既婚女性は夫の姓を称していた。フランスは、1794年の婚姻法で生まれた時の姓を称するよう定めているが、実際には婚姻後の女性は夫の姓を名乗ることが多かった。これは通称の姓(仏: nom d'usage)として名乗ることが慣例であった。現代のフランスでも、配偶者の姓(あるいは自分の姓と相手の姓をハイフンで合わせた複合姓)をnom d'usageとして称することができる。イタリアやスペインでは夫の姓を名乗る割合が低いが、イギリスでは14世紀頃から妻が夫の姓を称することが始まり、2014年の調査でも50%の女性が夫の姓を称している。
アメリカでは夫婦同姓を強制する法律はなかったが、結婚改姓しない女性は社会的に非難されていた。女性運動家であるルーシー・ストーン(英語版)は1855年に結婚した際、夫の同意を得て結婚後も夫の姓にしなかったが、土地購入の際には夫の姓でサインすることを求められたという。1920年にはルーシー・ストーン同盟(英語版)が結成され、自らの姓をアイデンティティとする活動を行い、1972年には女性が生来の姓を使用する権利が裁判所で認められた。1970年のニューヨーク・タイムズの調査では結婚改姓を行わない女性の割合は17%であり、1980年に14%、1990年に18%となっている。また別の調査では2000年に26%、2014年は29.5%となっているものもある。
日本と諸外国の違いは、選択の有無ではなく、家族の姓の統一を重視して夫婦と子を同姓にするかそれとも出生から死亡までの個人の姓を重視するか、あくまで本名の姓に関する考え方の違いである。これは、異なる文化・歴史的背景が国民の身分の在り方に影響しているといえる。またアメリカにおいては、結婚時に改姓をする女性は「人に依存する傾向があり、志が低く、あまり知的ではない」という逆の偏見が研究者や社会にもあるという指摘も行われている。
一方で、日本では通称としての旧姓に関して、旧姓使用の可否に関する明確な規範がまだないという課題が残っている。もっとも、およそ令和期に入ってからは旧姓を身分証(運転免許証、個人番号カード、パスポートなど)に併記することが可能になったことから、旧姓が通用しない日常的場面がすでに減ってきている。
新生児が生まれたときには、14日以内(国外で出生があったときは、3ヶ月以内)に届け出なければならず(戸籍法第49条)、事実上、新生児の名はこの出生届のときに定められる。子の命名において使用できる文字には制限が設けられている(戸籍法50条1項、戸籍法施行規則60条参照)。人名については固有の読み方をさせる場合があるが、法的な制限はない(→人名訓)。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものや当て字なども許容される(例:風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」など)。 また、文字数にも制限はない。皇族の場合、生後7日(御七夜)を迎えた時に命名の儀が行われ、命名される。
(同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名を付けることはできないが、同じ読み方の名を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない。)
氏・名のどちらも、比較的独自の語彙があるため、ある人の氏名を聞いて、それが人の氏名とわかるのが普通である。また、氏か名かいずれかを聞いた場合、「ゆうき」「しょうじ」「はやみ」「わかな」「はるな」「よしみ」「あいか」「まさき」「とみお」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい(これは、例えば英語でRyan, Douglas, Scottのように氏にも名にも用いられる語がかなり多くの人名に使われていることと対照的である)。
しかし、氏名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みの漢字がたくさん存在するという日本語の特徴のためである。また、漢字で書かれた氏名から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方(難読人名)であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい(例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある / 字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する)。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に振り仮名の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段は少ない。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためである。
人が互いを呼び合う際には、氏と名の全て(フルネーム)を呼ぶことは多くない。あだ名や、氏・名に「さん」「ちゃん」などの呼称を付け、あるいは、肩書きや続柄に関する呼称、二人称代名詞、まれに字(あざな)などを用いることが多い。また、親しくない相手に、名のみで呼びかけるのは失礼との考えを持つ人が少なくない。
一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。
2000年には国語審議会が「言語や文化の多様性を生かすため名字を先にするのが望ましい」とする答申を出したが、理工系の研究者の論文やサッカーの登録選手名などを除くと広まっておらず、政府機関でも名→姓の表記が続いていることから2019年には柴山昌彦文部科学大臣が関係機関に対し姓→名の表記を要請した。2019年10月25日、『公用文等における日本人の姓名のローマ字表記について』が首相官邸から交付され、2020年1月1日より公文書等における日本人の姓名のローマ字表記は姓→名となった。例えば、「安倍晋三」はローマ字表記で「Shinzo Abe」ではなく「Abe Shinzo」となる。
日本人の多くは、死亡すると、仏教式の葬儀を行い、戒名(法名)を付ける。戒名とは、仏門に帰依して授戒した出家・在家の者に与えられる名で、多くは僧侶が与える。戒名の形式はそれぞれの宗派によって異なる(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○など)。
中国人の名前は漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字(輩行字)」「子に特有の漢字」という順に表記される(現在では輩行字に従わない命名もある)。例えば毛沢東には2人の弟がおり、それぞれ毛沢民、毛沢覃という名であったが、この3人に共有されている「沢」が輩行字である。まれに輩行字と特有の漢字は逆になる場合もある(例えば蔣経国と蔣緯国)。漢字一文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の部首を持つ字のみを名付けることがある。たとえば「紅楼夢」の主人公賈宝玉の父の名は賈政であるが伯父の名は賈赦、賈政と同世代の親族の一人は賈敬である。元来姓は父系の血統を示すので原則としては夫婦別姓であるが、現代の中国や台湾では、男女平等の観点から、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗ることも選択可能なことが法律で保証されている。夫の姓に続けて自分の姓を書く(従って漢字四文字になる)場合もある。二文字の姓(複姓)もあり、諸葛・上官・欧陽・公孫・司馬などが有名である。
また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。周の代には王「「周」の一族は「姫」、太公望「呂尚」の子孫である「斉」公の一族は「姜」、後に始皇帝を出した「秦」公の一族は「嬴」といった姓を持ったが、これは漢族形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が氏であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった「韓」氏は「姫」姓であって周の族長層に出自するが、氏は「韓」であった。しかし戦国時代になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして「漢」の代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の皇帝を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。
さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名(「諱」とも言う)と別に同等者や目下の者が呼ぶ「字(あざな)」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。
香港や台湾のように、外国に支配されていた期間が長かった地域は、欧米や日本などの名前を模して、本名とは別の名前を持つ場合がある。特に香港は、近年までイギリスの支配下であったため、イギリス風の名前を持っている場合が多い(ジャッキー・チェン、アグネス・チャン、ブルース・リー)。台湾でも65歳以上の女性には日本式に「子」を止め字とする名前も少なからず見られる。中国では婚姻による名字の変更はなく、子供の名字は、父親の名字を名乗るのが通例である。香港では、イギリス風の名前はパスポートなどの身分証明書にも使用できるなど、広く使われている。名づけ方は、キリスト教徒の家系なら洗礼名という形で親が付ける場合もあるが、学校の先生が付けたり、本人が自分で付けたりする場合もある。名づけ方はかなり自由度が高く、英語圏には存在しない名前も多く、男性名が女性にも使用される事もある。
朝鮮半島の人名は中国の影響を受けて、典型的には漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなる。特に、金・李・朴・崔・鄭の姓を持つ人は非常に多く、この5つの姓だけで、国民の約54%を占める。同じ姓でもいくつかの氏族に別れており、金海金氏が最も多い。
統一新羅の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名(当時の百済・高句麗などの非朝鮮系の人々は現在の中国人名とは異なる名前であったため)ではなかったことからもわかる。
例えば、高句麗王朝末期の貴族、淵蓋蘇文は今日の韓国では漢語発音で「ヨン・ゲソムン」と呼ばれているが、『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られている。「イリ」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の万葉仮名に類似した表記方法と考えられる。
現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓(複姓)も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地(本貫)を持ち、同じ姓・同じ本貫(同姓同本)を持つ者を同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は法的に禁止されていた(大韓民国民法第809条(英語版))。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは金海金氏(釜山広域市付近の金海市を本貫とする「金」氏)である。族譜(족보)という先祖からの系譜を書いたものが作製・継承され、親族関係の象徴として尊重されるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は朝鮮王朝の時代に党争の激しくなったころから作られ始めた。日本の系図類と同様、族譜も初期の系譜は伝説に依拠していたり古代の偉人に仮託したものが多く、史料としての価値はさほど高くない。
名が漢字二文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する行列字(ko:항렬)という習慣がある。行列字は中国の輩行字と同様のもので、陰陽五行説に基づいて決められる。つまり「木・火・土・金・水」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で「木」の入った字(根、桓)、次の世代は「火」の入った字(煥、榮)、次の世代は「土」の入った字(圭、在)......と続く。十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。
現在の韓国においては、漢字がほとんど使われなくなっているため、姓名もハングルで表記される。金ハヌルや尹ビッガラムなど、若い世代では名の部分に関して固有語をそのまま用いる例もある。
子は、中国の氏と同様、姓が父系の血統を表現するものであることから、当然に父の姓を名乗るものとされていた。しかし、2005年の法改正により、子は、父母が婚姻届出の時に協議した場合には母の姓に従うこともできるようになった。
なお、在日コリアンは、民族名(朝鮮半島式の姓名)のほかに日本式の通名を持っている場合が多い。原因としては創氏改名の名残、あるいは戦後の混乱期の様々な事情などによるものとされるが、在日コリアンへの差別が公に非難されるようになった社会の意識の変化により、エスニックなアイデンティティへの見直しが進み、通名使用は減少しつつある。
ベトナム(越南)は漢字文化圏に属しており、人名も主要民族であるキン族(京族)を中心に、漢民族の人名に類似する。典型的な人名は、Nguyễn Văn Huệ(グエン・ヴァン・フエ、阮文恵)のように、漢姓である一音節のHọ(姓)と、一音節のTên đệm(間の名、直訳すると「苫の名」)、一音節のtên chính(称する名)からなる構造である。
相手が地位の高い人間であっても、人の呼称として使うのは姓ではなく「称する名」である。例えば「ゴ・ディン・ジエム大統領」は、姓が「ゴ(呉)」、間の名が「ディン(廷)」、称する名が「ジエム(琰)」であるため、「ゴ大統領」ではなく「ジエム大統領」と呼称する。姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限られ、これはHồ Chí Minh(ホー・チ・ミン、胡志明)を「ホーおじさん(Bác Hồ、伯胡)」と呼ぶような場合である。
モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、氏族(オボク)の名称が姓に近い役割を持ち、中国の内モンゴル自治区では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、チンギス・ハーン家のオボクはボルジギン氏族(孛児只斤氏)であるため、内モンゴル出身のチンギス・ハーンの子孫はボルジギン・某(孛児只斤某)と称する。
これに対し、モンゴル国ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く(父称)。例えば、朝青龍明徳の本名ドルゴルスレン・ダグワドルジは、ダグワドルジが本人の名、ドルゴルスレンが父の名である。また、夫婦別姓である。
漢字文化圏に属したベトナムを除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、ラオス、カンボジアでも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。
ミャンマーには家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。戸籍名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決め、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から名付けられることが多い。また成長につれ、隣近所で通用する幼名、学校内で通用する通称、大人になってからの自称など、複数の名をもつことが多い。外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められる情況)では、便宜的に敬称や尊称や謙称(社会的地位のある男性であれば「ウ」、若い男性であれば「マウン」、成人女性なら「ドー」など)を使って、苗字とする場合もある。例えば、元国連の事務総長ウ・タントの「ウ」は敬称である(しかし、本人は謙遜故か「マウン・タント」と署名することが多かった)。
タイに関しては、タイの人名を参照。
この両国でも姓は義務づける法はなく、例えばスハルトやスカルノは姓を持たないが1つのファーストネームのみで正式なフルネームである。スマトラ島のバタク人や、マルク諸島(モルッカ諸島)、フロレス島などでは氏族名を姓のように用いる。ジャワ島のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名の後ろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名の後ろにつけて姓のように使う場合もある。
フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例:グロリア・マカパガル・アロヨ)。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。
婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓を用い続け相手の姓をミドルネームとして加えるか、相手の姓を用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続けることも可能、との判断を下した。
アラブ人の伝統的な名前はクンヤ(「某の親」)、イスム(本人の名)、ナサブ(「某の子」)、ニスバ(出自由来名)、ラカブ(尊称・あだな)の要素から成り立っている。
以上から分かるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないがファミリーネームに相当する現代では西欧のファーストネーム、ラストネーム・ファミリーネームに影響された用法が普及してきており中世の人名録のような旧式の人名表記が適用できないケースもしばしば見受けられる。
家名についてはその由来や文法的用法により複数のパターンがあり一律ではない。家名の種類にも地域性がある。アラビア半島のように大半が大部族に帰属する地域ではは定冠詞と語尾を形容詞形にした「アル=◯◯イー」を用いるが、分家名を家名として用いる場合は「アール・某」「(アール)・アブー某」「(アール)・ビン某」などとなる。地中海沿岸地域には職業名由来の家名が多く、大工・陶工・鍛冶屋など実に多様である。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされているウサーマ・ビン=ラーディンのビン=ラーディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン=某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたるが、ビン=ラーディンの場合は近代になってビン=ラーディン財閥が形成されたことによりビン=ラーディンファミリーという家名で広く知られることとなった。(注;ビン某という家名はビン=ラーディン家出身のイエメンに多い方式。)
現代において人名はファーストネーム、ラストネームのみの2つだけを挙げる方式が広がっている。しかしながら国民登録においては4つの名の記載を求める国が多い。4つの名前の記載をする場合人によって異なり、サウジアラビアのように部族成員が多い地域では「本人の名+父の名+祖父の名+部族名由来形容詞等の家名」が多いが、姓の使用が少ないエジプトのような「本人の名+父の名+祖父の名+曽祖父の名」というパターンもありまちまちである。部族成員は家長名を用いたファミリーネームを名乗っていることも多いのでフルネームから出身部族を言い当てることは必ずしもできないが、出身大部族名を形容詞化したニスバ(家名)を使っている場合は出自が明確に示される。
ちなみにアラビア半島の元首ファミリーは部族名由来の形容詞形を名乗りに用いることは少なく、たいていが「アール某」という分家名を公的なファミリーネームとしている。サウジアラビア王国場合は元々の出身大部族(バヌー・ハニーファ)を示す形容詞アル=ハナフィーは名乗っておらず、分家・支族の家長名に由来する「アール・サウード」としている。サウジアラビア王国内において家名がアール・サウードとなっている人間は必ずサウード家の人間である。家名は生涯不変がアラブ人名の原則であり、生まれた子供は認知を受ける限り必ず父親の家名を継承する。このため外から嫁いできた女性らはアール・サウードではないが、王女らの家名は全てアール・サウードとなる。
イラクの場合は、元大統領サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー (Ṣaddām Ḥusayn ʿAbd al-Majīd al-Tikrītī) はティクリート出身のアブドゥルマジードの子フセインの子サッダームという意味である。アッ=ティクリーティーはアラブ人名の現代的用法により半ば家名のように使われており、本人がティクリートで生まれていなくとも子供らが継承して名乗っていた。長男ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Uday Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はウダイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Qusay Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はクサイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子クサイといった意味となる。
非アラブのイスラム教徒の間では、ペルシア語で「息子」を意味する「ザーデ」、トルコ語で「息子」を意味する「オウル(オグル、オール)」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、トルコとイランではそれぞれ1930年代に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人レジェップ・タイイップ・エルドアン (Recep Tayyip Erdoğan) はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人マフムード・アフマディーネジャード (Mahmūd Ahmadīnejād) はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。
また、旧ソ連のアゼルバイジャン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタン・カザフスタンやロシアに住むチェチェン人などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、スラブ語の父称を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓はアリエフ、ラフマーンから創られた姓はラフモノフと言い、ソビエト連邦解体後もそのまま使われている。
日本ではイスラム教に入信した者がハサン中田考のようにムスリム名を本名に繋げる例もある。イスラム教徒やイスラム教圏出身者と日本人の間に生まれた子供の場合は伝統的な名前、父姓+日本名、日本姓+イスムなどがある。ガーナ人の父親と日本人の母の間に生まれた陸上選手のサニブラウン・アブデル・ハキームは「アブデルハキーム(賢き者の僕)」という伝統的な命名であり、イラン人のダルビッシュセファット・ファルサと日本人の母の間に生まれたダルビッシュ・セファット・ファリード・有は「ファリード・有」の部分が「アリー・ファリード(比類なきアリー)」という伝統的な名前と漢字を組み合わせた名前となっている。
キリスト教圏では、姓についての慣習は各国語圏で異なるが、名については聖人・天使に由来する名前が好んで付けられる。例えば、「マイケル」(英語)・「ミヒャエル」(ドイツ語)・「ミシェル」(フランス語)・「ミケーレ」(イタリア語)・「ミゲル」(スペイン語)・「ミハイル」(ロシア語)・「ミカ」(フィンランド語)は、すべて大天使ミカエルに由来する名である。その他、聖書に登場する人物や、キリスト教の聖人に由来する名が多い。ポール・パウル・パオロ・パブロ・パヴェル(聖パウロ)、ジョン・ハンス・ヨハン・ヨハネス・ジャン・ジョヴァンニ・フアン・ジョアン・イヴァン・ヨアニス・ヤン・ショーン(使徒ヨハネ)、ルイス・ルートヴィヒ・ロドヴィコ・ルイージ・ルドヴィクス(聖ルイ)など。
また、古代ローマ人の名を由来とすることも多い(例:ジュリアス←ガイウス・ユリウス・カエサルの「ユリウス」の英語読み)。女性については、花などの名前を付けることも多い(例:ローズ←バラ)。
また、修道士は基本的に本名は呼ばれず、日本の僧侶などと同じく、修道名でのみで知られる事例が多い。
英語圏の姓名は多くの場合、3つの構成要素からなる。ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームである。ファーストネームはギブンネーム (given name) とも呼ばれ、ラストネームはサーネーム (surname)、ファミリーネーム (family name) などとも呼ばれる。
ラストネームは、日本における姓とほぼ同じもので、父系の家系を通じて受け継がれる。稀に、母のラストネームが父のラストネームとハイフンでつながれて子に受け継がれることなどもある。
ミドルネームはファーストネームと同時に親が、同姓同名の別人がいた場合に備えて名付けるもので(一般には洗礼名)、多くの場面でイニシャルだけの省略系が用いられる(ミドルイニシャルと呼ばれる)。稀にイニシャルのみで、略称でさえもない場合もある。好例がハリー・S・トルーマンで、このようにイニシャルだけを与えることはアメリカ南部に見られた風習だとされる(トルーマンは「“エス”というミドルネームだ」と冗談を言った)。なお、ミドルネームが無い場合もある。
西欧社会では女性は結婚と共にそれまでの姓を夫の姓に換えることが普通であったが、アメリカでは、20世紀中ごろから女性が結婚後も姓を変えない風習がひろまりつつある。また、両者の姓を併記するカップルもいる。ヒラリー・ローダム・クリントンのように旧姓と夫の姓を組み合わせて(「ローダム」はヒラリーの旧姓である)名前を作る例もある。
オランダでは前置詞 「van」(ファン)を含んだ姓 (surname) が多く見られる。van は英語 of あるいは from の意味を持ち、出身地を示すが、現代ではもとの意味はほとんど失われている。英語圏で見られるようなミドルネームは持たない。複数の個人名 (given name) を持つこともあるが、日常的に用いるのはそのうちの1つだけであり、ほとんどの場合はファーストネームを使う。そのため大部分の人はファーストネーム・サーネームの組み合わせで広く知られることになるが、フルネームで最も良く認識されている場合もある。貴族の家系では Huyssen van Kattendijke などの複合姓 (double surname) を持つこともあり、この場合 Huyssen はファーストネームではない。ナイトに対応する称号としては ridder が知られる。
ファーストネームが複雑な場合には省略した通称で呼ばれることもあり、例えば Hiëronymus(ヒエロニムス)(オランダ語版)は通称でJeroen(イェルン)(英語版) などと呼ばれる。大きな契約や結婚、IDカードなど以外には通称を用いるのが普通である。複数の個人名を持っている場合、通称も複数個からなるものを用いることがある。
結婚の際には、夫の氏は不変で、妻は夫の姓(同姓)または自己の姓(別姓)を称することを選択可能である。妻は自己の姓を後置することもできる。
18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった(必ず与えられたわけではない)。もしミドルネームが与えられた場合には、その人はそのミドルネームで知られることになり、ファーストネームは余り用いられなかった。しばしば教会の記録などでもファーストネームが省略され、ミドルネームとラストネームだけが用いられた。また、ある一家の男の子達が全員ヨハネスというファーストネームを持つ、というようなこともあった。この場合でも、洗礼と共に各人に別々の名前が与えられ、その名前が用いられるようになるため、問題がなかったとされる。
また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった(例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる)。また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。「花の咲く土地」を意味すると思われる姓Floryに、他にもFlori、Florea、Florey、Flurry、Flury、Florie、など似た姓が数多くある。これはその姓を持っていた人々が文字を書くことができず、名前を発音することはできても綴ることができなかったため、筆記を行った人によって異なる綴りになったと考えられる。貴族はその領地名や爵位名や城名などと「~の」を意味する「von」をつけて姓のように用いた(例:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)。
なお、現代ドイツでは選択的夫婦別姓が導入されており、婚姻時の夫婦の姓は、婚姻時に夫婦の姓を定める、あるいは定めない場合は別姓となる。 日本の夫婦同姓のお手本になったとされるが、ドイツ国内においては、伝統的には家族名としての姓を用い、1957年までのドイツ民法の条文は、妻は夫の氏を称するとされていた。
1957年、妻が出生氏を二重氏として付加できるとする法改正が行われ、1976年の改正では婚氏選択制を導入し、婚氏として妻の氏を選択する可能性を認めたが、決定されない場合は夫の氏を婚氏とするとされた。
しかし、1991年3月5日の連邦憲法裁判所の決定が両性の平等違反としてこの条文を無効とし、人間の出生氏が個性又は同一性の現れとして尊重され保護されるべきことを明言した。その結果、1993年の民法改正で、夫婦の姓を定めない場合は別姓になるという形で選択的夫婦別姓となった。
ロシア人の名前をフルネームで表記する時は、原語での順序は「名・ミドルネーム・姓」となる。但し公式文書等では「姓,名・ミドルネーム」と書かれる(例えば、在ユジノサハリンスク日本国総領事館のサイトの2022年10月の現地政治概況紹介ページではロシア側の政治家の名前は全て「姓・名・父称」の順となる)。公式な場(例えば大統領へのインタビュー等)での呼び掛け、あるいは目上の人に対する呼び掛けでは「名・ミドルネーム」が使用される。それ以外では、呼び掛けには専ら名の愛称形が使用される。ミドルネームは父称(ふしょう;Отчество)といい父親の名前を基にして作るので性別を同じくする同父兄弟のミドルネームと姓は必ず同一となる。性別を同じくすると特にことわるのは、ロシア語には文法上の性として男性、中性、女性の三性がありロシア人のミドルネーム・姓は殆ど全ての場合個人の生物学上の性に依って男性形・女性形の異なる語尾を採る為である。
父称は父親の名前にその語尾の音に応じた適切な語尾を付加して作られる(右表参照)。父称の男性形は男性のミドルネーム・女性形は女性のミドルネームに用いられる。
例えば父の名が1) "Илья"(Ilija、イリヤ)、2) Николай(Nikolaji、ニコライ)、3) Иван(Ivan、イヴァン)の三つの場合で父称男性形はそれぞれ、1) Ильич(Iliich、イリイチ)、2) Николаевич(Nikolajevich、ニコラエヴィチ)、3) Иванович(Ivanovich、イワノヴィチ)とそれぞれ変化し、一方父称女性形は、1) Ильинична(イリイニチナ)、2) Николаевна(Nikolajevna、ニコラエヴナ)、3) Ивановна(Ivanovna、イヴァノヴナ)となる。現代男性名では「---イチ」の形が父称に多くなってはいるが、中世までは「-ш、-シ」(「〜の息子」という意味合い)という語尾を採る父称が多かった。これらは南部スラヴ人種(ブルガリアなど)に一部残っている傾向がある.
姓の部分は形容詞の変化に準じて男性形・女性形となる。-ский (-skij)、-ин (-in)、-ев (-jev)、-ов (-ov) 等は地名などについてその場所に帰属する、又は出身である等を示してスラブ人の姓を造る接尾辞であるが、これらは形容詞男性形で対応する形容詞女性形語尾は、-ская (-skaja)、-ина (-ina)、-ева (-jeva)、-ова (-ova) 等となる(-in, -jev, -ovは姓に限らず一般に名詞に付けて物主形容詞を造る接尾辞である)。こうして自分の名がニコライ、姓がカレーニンで父の名がイヴァンという男性の場合はニコライ・イヴァノヴィチ・カレーニンが正式なフルネームとなる。この人の姉妹で、アンナという女性の場合は、アンナ・イヴァノヴナ・カレーニナがフルネームとなる。またストラヴィンスキーなどの姓は女性の場合ストラヴィンスカヤとなる。ロストフ (Rostov) というような姓は女性だとロストヴァ (Rostova) となる。なお注視すべきはウクライナ系の「~エンコ」(-енко)やグルジア系の「~シヴィリ」(-швили)などは男女とも中性名詞であり、性別関係無く無変化の場合や、「~イチ」(-ич)やアルメニア系の「~ヤン」(-ян)などのロシア人の姓名に付いては歴史的経緯から、同姓で男性のみ格変化を起こす場合があるなど、個々の相違点が見られる。
ウクライナ人の名前をフルネームで表記する時は、一般では「名・父称・姓」の順番だが、公式文書などでの順序は「姓・名・父称」となる。日本で言論活動を行っているウクライナ人のグレンコ・アンドリー、ナザレンコ・アンドリーは、いずれも「姓・名」の表記を用いている。
フランスではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が強制的に変わることはない(別姓)。
この名付けの制限は、1966年に僅かに緩和され、つづりが違う名前や外国風の名前も認められるようになった。そして、1993年、名前に関する制限はほぼ撤廃され、両親が子の名前を自由に選べるようになった。しかし、奇妙な名前については、司法当局が却下することがある。
スペイン本土では一般に「名、父の第一姓、母の第一姓」で構成される。これが繰り返されることにより母方の姓は孫の代には消えてしまうが、希望すれば母方の姓を第一姓にすることも可能である。また結婚しても名前が変わらない。つまり、生まれた時の名が一生続くのである。したがって、両親が再婚した場合など、兄弟同士でも姓が異なる。
中南米のスペイン語圏では、姓は他の多くの国と同じ様に、基本的に父方から子へと父系相続で伝えられるのが基本となるが、個人の姓名を構成する部分の数は人によって異なる。名が最初に来る点では共通で、それに続く部分は父方の姓と母方の姓の一部または全部からなる。例えば「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」と3つの部分からなる名前がある。あるいは「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓、父方の祖母の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」と4つまたは5つの部分からなる姓名を持つ場合もある。
名の場合は一つの名によって構成される単純名と、二つの名(それ以上の場合もある)によって構成される複合名もある。たとえば政治家のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロのホセ・ルイスは複合名である。複合名の人に対し、呼び掛ける場合は、フォーマルな場面では省略は通常しないが、親しい間柄、インフォーマルな場面では、どちらか一方を使用することが一般的で、どちらを使うかは自由で、呼ばれる側が希望する場合もあるし、同じ人に対して、ある人は第一要素のほうを、別の人は第二要素のほうを呼ぶということもある。また、多くの場合名前には決められた愛称形があり、それで呼ぶことも多い。また、複合名にはホセ・マリーアや、マリーア・ホセのようなものもあり、前者は男性名で、後者は女性名である。
例:
また、例としてはパブロ・ピカソ#名前も参照。
ポルトガル語圏では、姓名の構成はスペイン語圏によく似ているが、姓名に父方の姓と母方の姓を並称する場合は「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」の語順となり、スペイン語圏と反対である。
ポルトガルでは、婚姻の際は、姓を変更しないこと、または、従来の姓に相手の姓を加えることの、いずれかを選べる。ポルトガルでは、多くの場合は、ファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で呼ぶのが一般的である。
また、ブラジルでは、フルネームが長くなることと、名字で呼ぶ習慣がないことなどから、名前で呼ぶことが多いが、名前の種類が少ないため、特にサッカー選手の登録名などでは、一部を変化させた愛称(ロナウジーニョ)、出身地の地名などに由来する愛称(ジュニーニョ・パウリスタ、パウリスタは「サンパウロの」という意味)、その他の理由による愛称(ジーコ、「痩せっぽち」の意)などで呼称されることが多い。また、名字も含めて表記される場合もあるが、その場合多くはポルトガルと同様、基本的にファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で表記される。
古代ローマの自由人男性の氏名は多くの場合3〜4の部分からなっていた。個人の名前、氏族の名前、家族の名前、および添え名である。例えばガイウス・ユリウス・カエサルは、「ユリウス氏族のカエサル家のガイウス」という名であった。このうち個人名のバリエーションは少なく、20種類ほどに限られていた。そしてクィントゥスは日本語的には「五郎」といった感じで数字由来の名を付けることも多い。また個人名はバリエーションが少ないこともあって略して記されることも少なくない。以下はその対応。
長男は父の名前をそのまま受け継ぐことが多く、一族で同じ名前が頻出するため「マイヨル(大)」や「ミノル(小)」を付けて区別した。自由人女性には個人名はなく、父の名前のうち個人の名前を除く部分の女性形が用いられた。たとえば「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル」の娘は「コルネリア・スキピオニス・アフリカナ」と呼ばれた。この場合、氏族の名前が個人の名前の役割を果たした。またあだ名を用いることも多かった。娘が二人以上いる場合、ユリア・セクンダ(「二人目のユリア」)などというように数えられて呼ばれていた。
養子の場合にはもとの姓を家族名の後ろにつけた。例えば、オクタウィアヌスの場合「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」がカエサル家に養子となった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となった。
添え名は国家に功績のある場合などに元老院の決議などにより与えられた。多くアフリカヌス、ゲルマニクスなど勲功を上げた土地の名にちなんで与えられた。また出身地の名称からとられることもあった。こうした添え名は一代限りのものも多かったが世襲を許され、家族名として用いられるものもあった。
日本においては、戸籍法によって戸籍として使用できる漢字は、簡単な人名用漢字から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、アイスランド人の名前などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。 | [
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"text": "人名()は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。",
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"text": "その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。",
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"text": "名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに古代ギリシアなどにその形跡があるとされ、東方では周代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。",
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"text": "ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである (shall have the right from birth to a name)」と定めている。",
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"text": "後述するように、「氏+名」という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において氏と姓、さらには日本における名字は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は「氏(うじ)」「姓(本姓)」と「名字」は区別されていた。",
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"text": "人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる(記号論)。多くの場合、戸籍など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の敬称が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、あだ名との組み合わせなどとなることが多い。",
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"text": "名前にはその主要な属性として、発音と表記がある。例えば日本人の個人名が外国の文字で表記されることがあるが、これは1つの名前の「別表記」と考えることができる。逆に、漢字名の場合、複数の読み・音と訓の組み合わせによって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である。",
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"text": "また、名は特定の個人を指し示す記号であることから、人名そのものが、自己、自我、アイデンティティ、自分というクオリアに大きく関係するという考え方がある。各国・各文化の歴史を見ても、霊的な人格と密接に結びついていると考えられていたり、真の名を他者が実際に口にして用いることに強いタブー意識を持っていたりする社会は多くあった。",
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"text": "たとえば日本では「諱」がこれにあたる。これは、元服前の「幼名」、「字(あざな)」、出家・死去の際に付ける「戒名」などと合わせて、名を単なる記号として扱おうとしない一つの文化である。この文化は近世・近代と「諱」を持つ層が減り、逆に「名字」を持つ層が増えるにしたがい(苗字帯刀御免、平民苗字必称義務令)、希薄化してきたと言える。",
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"text": "だが、21世紀初頭の日本においても、名付ける者が名付ける対象に特別な読みを与えることで特別な意味を見い出そうとして名付けたと解釈する限りでの難読名などに見られるように、名に特別な意味を与えようとする思いは、散見されるものである。",
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"text": "日本では現代社会の一般人の日常生活でもインターネットを用いたコミュニケーションが普及するにつれ、見ず知らずの相手には、名前は一切開示せず接触し、相手の素性を知ってから段階的に開示するということは、よく行われる。また、インターネット上のコミュニティなどでは、本名は出さず、ハンドルネームなどを示すのが一般的である。様々なことを考慮すると、やはり本名をあまりに安易に不特定多数に開示してしまうことはそれなりにリスクが伴う、という判断がある(関連する事象として、名誉毀損やプライバシーなどの項も参照可)。また、多少意味合いが異なることは多いが、芸術家・作家・評論家などで、ペンネーム・アーティスト名などを用いて、本名は開示しないことは多々見られる。",
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"text": "一方、個々の名前のアイデンティティの重要性は、幼名などが一般的だった江戸時代、養子などが一般的であった戦前などと異なり、増している。近年の選択的夫婦別姓を求める声などは、現代で、個々の名前のアイデンティティの重要性が増してきたことの表れである。",
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"text": "人の名前は多くの文化で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。",
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"text": "多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを\"個人名\"と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか1種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる(詳細は後述)。",
"title": "人名の構造、使用とその多様性"
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"text": "分かりやすい例としては、その個人が属する「家(家族)の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。英語圏では、個人名(与えられた名 = given name)+ 家族名(family name)の順に表記されることが多い(配置に着目し、ファーストネーム = first name、ラストネーム = last name とも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、given nameという呼称を用いる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「山田 + 太郎」であり、この場合は「家族名 + 個人名」の並びとなる。家族名、個人名はそれぞれ、姓(せい)、名(めい)などと呼ばれる。家族名はまた苗字、名字とも呼ばれる。\"個人名\"の部分は「名(な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。",
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"text": "姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。アメリカ大陸の先住民族など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。サウジアラビアのように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。ブラジルのように一貫していない場合もある(これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる)。",
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"text": "また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らない。姓を持たない文化においては、一連の名と続柄の連続をフルネームとする場合もある。(たとえば安倍晋三が姓を持たない文化に生まれたとすると、「晋三、晋太郎の息子、寛の孫」といった名前になる。)インドでは逆に「taro、taichiroの父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名(taichiro)が含まれているものもある。",
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"text": "姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏・使われる場面などにより異なることが知られている。例えば、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では、日常的な文書や会話などでは、名前は名→姓の順をとることが多い。ただし、公的文書や学術文書などにおいては順序が逆転することがある。姓を前置することで検索性の向上や誤認の回避につながるためである。文献表においては第一著者については姓→名の順を取り、第二以下は名→姓で示す。この場合姓の後にカンマを付ける。日本、中国、韓国、ハンガリーなどでは名前は姓→名の順をとる。つまり、あえてフルネームで呼んだり記したりする場合には、その順で呼んだり記したりする、ということである。",
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"text": "名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。英語圏ではミドルネーム(middle name)はイニシャルだけが記されることが多くある。スペイン語圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。また古代ローマでは使われていた名の種類がとても少ないため、1~2文字に略して評することがあった。",
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"text": "基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分(姓)や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分(名)のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。",
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"text": "例えば、婚姻や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。",
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"text": "婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では洗礼に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。",
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"text": "また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "日本人の苗字の種類は10万とも30万ともいわれ(推計値の為、様々な説がある。丹羽基二は30万姓としている)、世界でも特に苗字の種類が多い民族とされる。一方、中国人の姓は5000以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李 (7.4%)・王 (7.2%)・張 (6.8%) の3つで20%強(約3億人)を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で59%を占める(百家姓参照のこと)。韓国人の姓は、金(김)・李(이)・朴(박)・崔(최)・鄭(정)の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」「ソウルで金さんを探す(無用な努力の喩え)」などという成句もある。",
"title": "人名の構造、使用とその多様性"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "韓国人は子の名を付ける際に、基本的に他の誰も持っていないオリジナルな名を与える(ただし、ある程度の流行はある)。これに対して、ドイツでは「すでに存在する名前」しか受理されない。フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。このため、既存の名前を組み合わせることが流行した(例えばルイ=ニコラ・ダヴーの名ルイ=ニコラは、聖人の名前ルイとニコラを組み合わせたものである)。",
"title": "人名の構造、使用とその多様性"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に愛称・敬称などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係(父と子など)を用いる場合もある。",
"title": "人名の構造、使用とその多様性"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。",
"title": "人名と文化、社会"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。",
"title": "人名と文化、社会"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "明治維新以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、家の名である「名字」・「家名」、家が属する氏の名である「姓(本姓)」、そしてその姓の区別を示す「姓(カバネ)」と実名にあたる「諱」を持っていた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "上古では『物部麁鹿火大連』のように、氏の名・実名・カバネの順で表記されていたが、欽明天皇の頃から『蘇我大臣稲目』のように氏の名・カバネ・実名の順となり、氏の名の後に「の」をつけて「そがの おおおみ いなめ」のように読まれるようになった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "公式文書である朝廷の口宣案等に記される際は、「位階もしくは官職、その両方」「本姓」「カバネ」「諱」の順で書かれる。例えば『勧修寺家文書』にある徳川家康従二位叙位の際の口宣案には「正三位源朝臣家康(徳川家康)」「蔵人頭左近衛権中将藤原慶親(中山慶親)」の二人の名前が見られる。公式や公的な文書で用いられるのは本姓であり、徳川や中山といった名字は用いられなかった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "書状などで呼称する場合は官職名や通称である仮名を用いることがほとんどであった。また「道長朝臣」や「親房朝臣」のように名とカバネを連ねて呼ぶことは、特に「名字朝臣」と呼ばれ、四位の人物に対して用いられることが多かった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "家康が外交文書で「源家康」と署名したように、姓と諱をあわせる形式はあったものの、現代のような名字と諱だけを用いた「織田信長」という形式はあまり用いられなかった。『勢州軍記』の「織田上総守平信長」や、『新編武蔵風土記稿』の「熊谷次郎平直実」など、軍記物語や文芸等では本姓と名字・通称・諱などをつらねて書かれたものもあるが、正式なものではない。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "大和朝廷(ヤマト王権)の成立前後、日本には「氏」と呼ばれる氏族集団が複数あり、氏族の長である氏上とその血縁者である氏人、それに属する奴婢である部曲(部民)も同じ「氏の名」を称していた。これら氏には、天皇から氏の階級や職掌を示す「カバネ(姓)」が授けられた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "やがて氏の名は天皇より報奨として授けられるものとなり、「カバネ」も同時に授けられるようになった。このように氏とカバネで秩序付けられた制度を「氏姓制度」と呼ぶ。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "古代の律令国家の時代には、庶民も「氏の名」を称していた。養老5年(721年)に作成された戸籍では、戸に属するものは妻や妾にいたるまで同じ氏の名を称していた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "天武天皇の時代には20以上あったカバネが8つに再編成され、「八色の姓」と称されるようになった。この頃には「氏」と「姓(カバネ)」の区別は曖昧になり、『日本書紀』でも藤原鎌足が「藤原」の氏を受けた際には「賜姓」と表記される。奈良時代頃には氏を指して「姓」と称するようになっていた。また奈良時代から平安時代にかけては既存の氏族が賜姓を願い出て新たな氏の名に改めることもしばしばあった。土師氏の一部が菅原氏・秋篠氏を賜姓されたように、大和時代以来の氏の名はほとんど失われていった。また懲罰により氏の名を改名されることもあった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "本姓は基本的には父系の血統を示すため、養子に入っても変わらないのが原則であった。また女性が婚姻によって別姓の家に嫁いでも同様であった。平姓畠山氏の名跡を源氏の父を持つ畠山泰国が継いだため、以降の畠山氏は源姓を称したのはその例である。しかし、後世には養子となった場合にはその家の本姓に変わることも多くなった。例えば上杉謙信の場合、家系である長尾氏は平氏であるため「平景虎」を称していたが、藤姓上杉氏の名跡を継いだあとは藤原氏を称した。公家や社家においても同様で、近衛家や紀伊国造家などが皇室や他氏から養子を迎えても、姓は家本来のものから変更されなかった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1200年頃には、「源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)」という代表的な4つの本姓を「四姓」と呼ぶことが行われるようになった。また島津氏が藤原氏から源氏を称するようになったように、情勢によって本姓を変更することもあった。豊臣政権期には多くの大名や家臣に対して豊臣氏の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、木下氏などごく一部が称するのみとなった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "「名字」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。鎌倉時代には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した。やがて平安時代末期に嫁取婚が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた。これは荘園領主等にその地の権利を誇示する役割があったとみられる。足利荘を領した足利氏、三浦郡の三浦氏、北条郷の北条氏などがその例である。また藤原木工助の子孫が「工藤氏」、藤原加賀守の子孫が「加藤氏」を称するように、先祖の本姓と官職を合わせた名字や、「税所氏」や「留守氏」・「問註所氏」のように朝廷や幕府の官職や荘園内での職掌を示した名字も発生している。またこれらの名字は分割相続によってさらに多く派生していった。これらの分家は総領である一族の支配下に置かれ、分家の確立が過渡的な段階においては「佐々木京極」や「新田岩松」と総領家の名字を上に冠して称されることもあった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また紀伊国隅田荘の隅田党のように、血縁ではない別々の家の集団が「隅田〇〇」という複合名字を名乗り、やがて「隅田」のみを家名としたように、同一の名字を名乗ることで結束を固めることもあった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "武士階級の間では「名字」を主君から授けることがしばしばあった。例えば織田信長は明智光秀に「惟任」、丹羽長秀に「惟住」の名字を名乗らせている。また、家臣に対して主君と同じ、もしくはゆかりのある「名字」を名乗らせ、擬制的な一門として扱うこともしばしば行われた。徳川氏が松平姓を有力大名や血縁のある大名に名乗らせた例はよく知られている(前田氏・島津氏などの有力外様大名や一部の譜代大名、鷹司松平家など)。豊臣秀吉は特に幅広くこの政策を行い、本姓である豊臣朝臣や名字の羽柴姓を多くの大名や家臣に称させた。また今川貞世が今川の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称したように、名字の使用を停止する懲罰も存在した。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "庶民は平安時代頃までは氏の名もしくは名字を名乗っていたが、中世に入ると禁令が出されたわけでもないが、記録に残らなくなった。豊田武は村落内の上層部が下層民に対して名字の私称を禁じたことを指摘している。江戸時代には、「名字」は支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされ、武士階級も庶民に対して名字を称することを禁じていると認識するようになった。公式な場で「名字」を名乗るのは武士や公家などに限られていた。一方で時代が下ると領主層の武家は名主や有力商人に対し「苗字」の公称を許可し、その代償として冥加金等を収めさせる例が頻発した。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然ながら「家名」を有した。こうした百姓や町人の「家名」は私称の「名字」と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は「名字」を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "町人には、大黒屋光太夫など屋号を「名字」のように使う例も見られた。東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の「名字」と組にして用いた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "中国、朝鮮、日本、ベトナムなど漢字文化圏では、人物の本名、実名である「諱(いみな)」はその人物の霊的な人格と強く結びつき、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられた。そのため「諱」で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の「諱」を呼ぶことは極めて無礼とされた(実名敬避俗)。これを貴人に対して実践したものが「避諱(ひき)」である。特に皇帝とその祖先の「諱」については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその「諱」あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。中国などでは「避諱」によって、使用する漢字を避けて別の漢字を充てる「偏諱」が行われた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本においては「通称」や「仮名(けみょう)」が発達した。一方で、律令期に遣唐使の菅原清公の進言によるとする「諱」への漢風の使用が進められ、これに貴人から臣下への恩恵の付与、血統を同じくする同族の証として「通字」も進んだ。後述の「諱」を参照。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "男性の場合、こうした「通称」には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(輩行)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの「官職」の名がよく用いられた。後者は自らが官職に就いているときだけではなく、父祖の官職にちなんで名付けることが行われた。北条時頼の息子時輔は、父が相模守であることにちなんで「相模三郎」と称し、さらに「式部丞」の官職について「相模式部丞」となり、さらに式部丞を辞して叙爵されて「相模式部大夫」と称した。このような慣行に加えて、時代が下ると正式な任命を受けずに官職を僭称することが武士の間に一般化し、江戸時代には、武士の官職名は実際の官職とは分離された単なる名前となった。島津斉彬は正式には「松平薩摩守」を名乗ったが、当時は「薩摩守」はあくまで「通称」と捉えられ、斉彬の「官職」といえば「左近衛権中将」を指した。この趨勢は、ついには一見すると官職の名に似ているが明らかに異なる百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "女性の名前は、庶民が氏を名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る凡下身分の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらのうじのにょ)などと記された。氏は中国と同様に父系の血統を表現する記号であったから、婚姻後も氏が変更されることは本来はありえなかった。官職を得て出仕するような地位を得たとしても「式部」(紫式部)や「少納言」(清少納言)のように「通称」で呼ばれた。これらは「女房名」と呼ばれる。「清少納言」という呼び名は、父清原元輔が少納言であったことにちなむ女房名「少納言」に、ほかの「少納言」と区別するために清原氏出身であることを示す「清」を添えたものである。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "宮、御屋形様、大殿、大御所、政所、御台所や、上皇や女院の院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだことに由来する通称である(詳しくは仮名 (通称)の頁を参照)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "明確に「避諱」を目的とするのではなく、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:島津義久の「龍伯」、穴山信君の「梅雪」、細川藤孝の「幽斎」など)。この風習は芸能関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、大田南畝のような筆名も広く行われた。中には、曲亭馬琴や十返舎一九のように諱と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の芸名や俳名、源氏名などの習慣につながっている。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "個人名である「諱(いみな)」は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する「先祖返り」という習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、市川團十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを「偏諱(へんき・かたいみな)」と言う。有名な例では足利高氏は北条高時の一字を拝領し、鎌倉幕府が滅んだ後に後醍醐天皇(名が尊治)の一字を拝領して足利尊氏に改名した。主君のほか、烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏の烏帽子親でもある)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "在家の者の諱に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。 出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字や諱を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "歴史をさかのぼり、過去をひもとくと、封建時代のイエズス会士ロドリゲスの記録(日本語小文典)によれば、「高貴な人は仮名(かりな)の他、実名(名乗り)も命名されていた」という。ここで「仮名」とは、のちに官職を得て、その官職名(百官名、受領名)を名乗ることができるまでの間の仮の名である。 また、「実名」の命名にあたっては、「漢字2文字の4音節」で、上下の語ともに特定の82種の語中から選択されたという。 (官職者・人名一覧の記載された歴史書は、このような命名法の参考資料となると思われる。)",
"title": "日本人の名前"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "漢字には複数の読み方があり、「美」を「はる(美子(昭憲皇太后))」や「よし(三条公美)」・「とみ(三条実美)」と読んだりするような人名のみで用いられる特殊な読み方も多い。このため歴史上の人物の名の正しい読み方が不明であったり、議論となることもある。最上義光は当初、名は「よしみつ」もしくは「よしてる」と読まれていたが、妹の義姫に宛てた手紙が近年発見され、その手紙で自身の名を「よしあき」と平仮名で書いていたため、ようやく正しい読みが判明したという事例もある。また字が異なるが同じ読みの文字が当て字として使用されることや、同じ漢字を用いた親族などで読み方が類推されるなどの例もある。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "しかしこのような類推できる史料がない人物も多い。藤原明子や藤原彰子、明石全登など、読み方に諸説ある人物も多い。僧侶の戒名(法名)は原則的に音読みであるため類推は行いやすいが、公暁(くぎょう・こうぎょう)のように異なる解釈が行われる例もある。近代の人物でも、徳川慶喜は将軍就位後に「よしひさ」と読むという布告を発しているが、現在でも主流となっている読まれ方は「よしのぶ」である。このため、徳川慶喜→「けいき」のように読み方が不明である人名を音読みすることもしばしば行われる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "和歌の世界では、藤原俊成(としなり・しゅんぜい)や藤原定家(さだいえ・ていか)、藤原家隆(いえたか・かりゅう)のように、本来訓読みである人名を符牒として音読みで読み慣わすことがあり、これは有職読み・故実読みなどと呼ばれる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "女性は諱が記録に残ることが少なく、後世でも通称でしか知られず実名が不明のままとなっている例が多い。源頼朝の正室である北条政子は正式な実名が明らかになっておらず、豊臣秀吉の正室高台院もその本名には論争がある。これらの高位に列した女性は、位記では本姓と諱を用いて「平政子」や「豊臣吉子」と表記されるが、父や夫の一字を用いたあくまで公式用の名前である。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "朝廷や貴人に仕える女性は女房名で呼ばれる(祐子内親王家紀伊、今参局、春日局)。後世においては生家の名字や本姓を用いた呼称(三条の方)、在所などに由来する名(淀殿、築山殿)が用いられる。貴人の正室や生母に対しては大政所(摂関母)や北政所(摂関妻)、御台所(大臣・征夷大将軍正室)などの敬称が用いられ、側室や娘にたいしてもそれぞれの敬称が用いられることもあった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "江戸期の女性の名の例を大田南畝(蜀山人)の随筆「半日閑話・女藝者吟味落着」から引用する。(50音順にした。) (あ行)長助娘いと、助七娘いと、甚之助妹いね、孫兵衛姪いよ、平七娘うた。 (か行)寅吉娘かつ、小助娘かよ、十次郎従弟女きち、喜右衛門娘きち、藤五郎娘きの、五郎娘うた事こと。 (さ行)文六娘さと、藤兵衛娘しほ、長八娘せん、権右衛門娘そめ。 (た行)善蔵姉たか、藤助娘たみ、八右衛門娘たよ、十次郎従弟女ちよ、源八娘ちを、権右衛門姪つる、鉄次郎姉つる、 武兵衛娘でん、清九郎娘とき、新兵衛妹とみ、佐兵衛娘とみ、助八娘とよ。 (な行)磯治郎娘なみ、金次郎従弟女なみ、小三郎妹なを。 (は行)清八娘はつ、大吉娘はな、半兵衛娘はま。 (ま行)宇右衛門娘まさ、新右衛門姪みよ、半七姪みよ、伝兵衛妹みわ、平吉妹みを、藤次郎娘もよ。 (や行)新八姉よし。 (ら行)孫兵衛方に居候りう。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "その他、現代ではあまり見聞きしなくなったものに、ても(熊本民謡の「おてもやん」)、うし(牛が食べ物ではなかった時代)、かめ(大田南畝のつると同様、長寿を意味する名前)、とら(寅年生まれか)、などがある。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "北海道、樺太、北方領土、千島列島の先住民族であるアイヌは、今でこそ彼らが居住する地域の大勢を占める日本式の姓名を名乗っている。しかし、幕末までは民族の伝統に即した命名のもとに人生を送っていた。また、チュプカ諸島(新知郡・占守郡)の千島アイヌも伝統を保っていたが、18世紀にロシアに征服され支配下に置かれた後はロシア式の姓名を名乗っていた。 生まれて間もない赤子には正式の名前を付けず、泣き声から「アイアイ」、あるいは「テイネㇷ゚」(濡れたもの)、「ポイソン」(小さな古糞)、「ションタㇰ」(糞の固まり)など、わざと汚らしい名前で呼ぶ。死亡率が高い幼児を病魔から守るための配慮で、きれいなものを好み、汚いものを嫌がる病魔から嫌われるようにとの考えである。あるいは「レサク」(名無し)など、はじめから存在しないことにして病魔を欺く。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ある程度成長して、それぞれの個性が現れ始めると「本式」の名前がつけられる。「ハクマックㇽ」(あわて者)、「クーカㇽクㇽ」(弓を作る者)、「クーチンコㇿ」(弓と毛皮干しの枠を持つ者)、「ムイサシマッ」(掃く女)、「キナラブック」(蒲の節をいじる者)、「タネランケマッ」(種まき女)、「イウタニマッ」(杵の女)、「カクラ」(ナマコのように寝転ぶ)、「カムイマ」(熊の肉を焼く)など。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "また、病弱な子供や並外れて容貌に優れた子供は、綺麗なものを好むという病魔から嫌われるよう、神に見込まれて天界に連れて行かれる=死ぬことのないよう、幼児と同じように汚らしい名前をつける。「トゥルシノ」(垢まみれ)、「エカシオトンプイ」(爺さんの肛門)などの例がある。このような例は、諸民族においても珍しい事例ではなく、例えば日本では牛若丸など武士の子の幼名に頻繁に使われた「丸」という字は、古来、糞を意味していた。また、中国でも前漢の武帝は、魔除けのために「彘(てい:ブタの意)」という幼名を付けられた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "妻は夫の名前を呼ぶことが許されず、すでに死んだ人間の名を命名することは不吉とされ、他人と似た名はその人に行くはずの不幸を呼び込むものとされていたので、とにかく人と違う、独創的な名前を命名するよう心がけていた。また、大きな災難に遭遇したり、似た名前の者が死んだりした場合は「名前が災難に好かれた」との考えから、すぐに改名した。そのためアイヌ民族には「太郎と花子」「ジョンとエリザベス」のような、「平凡な名前」「民族を代表する名前」が存在しない。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 75,
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"text": "日本においては明治初期になると戸籍法や平民苗字必称義務令の浸透から、アイヌもそれまでの名前を意訳、あるいは漢字で音訳した「日本式の姓」を名乗るようになったが、「名前」は明治中期までは、それまでのアイヌ語式がかなりの例で受け継がれていた。戸籍に名を記入する際は、アイヌ語の名前を見ただけでは男女の区別がつきかねる和人のために、男性はカタカナで、女性はひらがなで記入されていた。",
"title": "日本人の名前"
},
{
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"text": "史料から見る限り、1392年に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、第一尚氏王統が成立するまでの王名を始めとする人名のほとんどは「琉球語/琉球方言」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。尚巴志王が三山を統一し明に朝貢すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名(からなー)」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。",
"title": "日本人の名前"
},
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"text": "これに対し、第二尚氏王統成立後、士族はその采地(国王より与えられた領地)の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」(前節の「諱」に相当、ただし全て音読みで読まれる)を持つことが普通になると、「采地名」+「位階称号」+「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名(やまとぅなー)」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」(苗字)の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった(王の世子は中城を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない)。また、それまでつけられていた「琉球語/琉球方言」による名は「童名(わらびなー)」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。",
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},
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"text": "このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている(主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる)。例えば羽地朝秀(唐名:向象賢)は「大和名」が、蔡温(大和名:具志頭文若)は「唐名」の方が通用している。",
"title": "日本人の名前"
},
{
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"tag": "p",
"text": "薩摩藩の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名(したがって「采地名」)の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄県にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」(「采地名」+「名乗り」)を戸籍名としたが、尚泰王のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは(「采地名」をもっていても)「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家(伊江家、今帰仁家など)では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 81,
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"text": "その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを標準語に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。",
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},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "先島諸島においても、尚真王による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの(石垣島の平久保加那按司)、名だけが伝えられているもの(石垣島のオヤケアカハチ、与那国島のサンアイイソバなど)など、独特のものがある。",
"title": "日本人の名前"
},
{
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"text": "明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば夏目漱石の戸籍名である夏目金之助は通称系、野口英世は諱系の名である。",
"title": "日本人の名前"
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{
"paragraph_id": 84,
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"text": "日本人の名前は、法律上、原則として「氏」(うじ)と「名」(な)との組み合わせから成る「氏名」(しめい)で呼称され、戸籍上「氏」「名」で記録される。「氏」は民法の規定によって定まり(民法750条、810条等)、「名」は戸籍法に定める出生届に際して定められる(戸籍法29条柱書、50条、57条2項等)。「氏」は現代においては姓(せい)または苗字・名字(みょうじ)とも呼ばれ、古くは一定の身分関係にある一団の、近代以降は家族の人間の共通の呼称として、個人がその集団に属することを示す。「名」はさらにその集団の中の個人を示す役割を果たしている。",
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},
{
"paragraph_id": 85,
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"text": "日本人の氏名を含む身分関係(家族関係)は、戸籍に登録される。例外として、天皇及び皇族の身分関係は、戸籍ではなく皇統譜に登録される(皇室典範26条)。また、天皇及び皇族は、「氏」を持たない。これは歴史的に氏や姓が身分が上の者から与えられるものだったためである。",
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"paragraph_id": 86,
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"text": "氏の種類は、30万種を超えるとされている。氏の多くは2文字の漢字から成っており、人数の多い上位10氏はすべて漢字2文字から成る。",
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"paragraph_id": 87,
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"text": "また氏の多くは地名に由来するため、地名に関する漢字を含むものが多い。",
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},
{
"paragraph_id": 88,
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"text": "海外からの移民を除き、基本的に日本人の氏は漢字である。",
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},
{
"paragraph_id": 89,
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"text": "氏の大半は地名に基づいている(この理由を17世紀のイエズス会士ロドリゲスは「日本語小文典」のなかで、「名字(苗字のこと)は個々の家が本来の所有者として、所有している土地に因んでつける」と記述している。)。このため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎など、地形や地勢を表す漢字、植物や道に関するものなど及び方位を含む氏が多数を占める。色彩の一字のみで表される氏(白・黒・赤・青・黄など)はあまり存在しないが「緑」氏や「金」氏(ただし読みは「こん」)の例はあるほか在日コリアンに「白」氏がいる(緑健児、金易二郎、白仁天)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 90,
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"text": "現在、日本では氏の取得と変動は民法の規定によって定まる。夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する(民法750条)。嫡出である子は父母の氏を称し、嫡出でない子は母の氏を称する(民法790条)。また、養子は養親の氏を称する(民法810条)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 91,
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"text": "この法では、夫婦の「氏」は夫婦が互いの氏から自由に選べる。しかし慣習的に多くの夫婦は、夫の氏を選択している(2005年度(平成17年度)の1年間に婚姻した夫婦を対象とする調査によれば、全体の96.3%の夫婦が夫の氏を選択した)。これは1948年(昭和23年)の改正前民法(家族法)に見られるように、婚姻を妻が夫の「家」に入ると考える(家制度)と、全ての「家」の構成員が、夫を筆頭とする「家の氏」にまとめられるという、男系家制度の慣習を反映している。婚姻又は養子縁組によって氏が変更があると、もとの氏を「旧姓」という。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 92,
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"text": "なお、夫婦同氏制(夫婦同姓)については、1996年(平成8年)に法制審議会が出した「民法改正案要綱」で、選択的夫婦別氏制度(夫婦別姓)が定められたことをきっかけに、その賛否が論じられている。東アジアにおける中国、朝鮮半島、インドでは、伝統的に夫婦別姓であった。タイは名字を用い始めたのは20世紀以降であり、その際には妻は夫の姓を称することが義務付けられていた。ドイツやタイでは夫婦同氏を義務としていたが、憲法違反であるとして改正されている。現在では、日本以外の国家はすべて夫婦別姓を取ることが可能であり、夫婦同姓のみを義務とする国家は日本のみとなっている。日本では、職業やその他の理由によって、夫婦の片方が旧姓を通称として名乗り続けることがある。2011年に最高裁判所は夫婦同姓義務は憲法違反ではないという判決を下しているが、別の姓を称することをまったく認めないことに合理性はないという少数意見も出された。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは姓を夫婦で共通する義務規定はなかったもの、夫の姓にあわせることが多数派であった。1995年の調査では、ドイツ、イギリス、オーストリア、フランス、アイルランドでの9割の既婚女性は夫の姓を称していた。フランスは、1794年の婚姻法で生まれた時の姓を称するよう定めているが、実際には婚姻後の女性は夫の姓を名乗ることが多かった。これは通称の姓(仏: nom d'usage)として名乗ることが慣例であった。現代のフランスでも、配偶者の姓(あるいは自分の姓と相手の姓をハイフンで合わせた複合姓)をnom d'usageとして称することができる。イタリアやスペインでは夫の姓を名乗る割合が低いが、イギリスでは14世紀頃から妻が夫の姓を称することが始まり、2014年の調査でも50%の女性が夫の姓を称している。",
"title": "日本人の名前"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは夫婦同姓を強制する法律はなかったが、結婚改姓しない女性は社会的に非難されていた。女性運動家であるルーシー・ストーン(英語版)は1855年に結婚した際、夫の同意を得て結婚後も夫の姓にしなかったが、土地購入の際には夫の姓でサインすることを求められたという。1920年にはルーシー・ストーン同盟(英語版)が結成され、自らの姓をアイデンティティとする活動を行い、1972年には女性が生来の姓を使用する権利が裁判所で認められた。1970年のニューヨーク・タイムズの調査では結婚改姓を行わない女性の割合は17%であり、1980年に14%、1990年に18%となっている。また別の調査では2000年に26%、2014年は29.5%となっているものもある。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "日本と諸外国の違いは、選択の有無ではなく、家族の姓の統一を重視して夫婦と子を同姓にするかそれとも出生から死亡までの個人の姓を重視するか、あくまで本名の姓に関する考え方の違いである。これは、異なる文化・歴史的背景が国民の身分の在り方に影響しているといえる。またアメリカにおいては、結婚時に改姓をする女性は「人に依存する傾向があり、志が低く、あまり知的ではない」という逆の偏見が研究者や社会にもあるという指摘も行われている。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "一方で、日本では通称としての旧姓に関して、旧姓使用の可否に関する明確な規範がまだないという課題が残っている。もっとも、およそ令和期に入ってからは旧姓を身分証(運転免許証、個人番号カード、パスポートなど)に併記することが可能になったことから、旧姓が通用しない日常的場面がすでに減ってきている。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "新生児が生まれたときには、14日以内(国外で出生があったときは、3ヶ月以内)に届け出なければならず(戸籍法第49条)、事実上、新生児の名はこの出生届のときに定められる。子の命名において使用できる文字には制限が設けられている(戸籍法50条1項、戸籍法施行規則60条参照)。人名については固有の読み方をさせる場合があるが、法的な制限はない(→人名訓)。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものや当て字なども許容される(例:風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」など)。 また、文字数にも制限はない。皇族の場合、生後7日(御七夜)を迎えた時に命名の儀が行われ、命名される。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "(同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名を付けることはできないが、同じ読み方の名を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない。)",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 99,
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"text": "",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "氏・名のどちらも、比較的独自の語彙があるため、ある人の氏名を聞いて、それが人の氏名とわかるのが普通である。また、氏か名かいずれかを聞いた場合、「ゆうき」「しょうじ」「はやみ」「わかな」「はるな」「よしみ」「あいか」「まさき」「とみお」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい(これは、例えば英語でRyan, Douglas, Scottのように氏にも名にも用いられる語がかなり多くの人名に使われていることと対照的である)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "しかし、氏名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みの漢字がたくさん存在するという日本語の特徴のためである。また、漢字で書かれた氏名から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方(難読人名)であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい(例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある / 字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する)。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に振り仮名の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段は少ない。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためである。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "人が互いを呼び合う際には、氏と名の全て(フルネーム)を呼ぶことは多くない。あだ名や、氏・名に「さん」「ちゃん」などの呼称を付け、あるいは、肩書きや続柄に関する呼称、二人称代名詞、まれに字(あざな)などを用いることが多い。また、親しくない相手に、名のみで呼びかけるのは失礼との考えを持つ人が少なくない。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2000年には国語審議会が「言語や文化の多様性を生かすため名字を先にするのが望ましい」とする答申を出したが、理工系の研究者の論文やサッカーの登録選手名などを除くと広まっておらず、政府機関でも名→姓の表記が続いていることから2019年には柴山昌彦文部科学大臣が関係機関に対し姓→名の表記を要請した。2019年10月25日、『公用文等における日本人の姓名のローマ字表記について』が首相官邸から交付され、2020年1月1日より公文書等における日本人の姓名のローマ字表記は姓→名となった。例えば、「安倍晋三」はローマ字表記で「Shinzo Abe」ではなく「Abe Shinzo」となる。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "日本人の多くは、死亡すると、仏教式の葬儀を行い、戒名(法名)を付ける。戒名とは、仏門に帰依して授戒した出家・在家の者に与えられる名で、多くは僧侶が与える。戒名の形式はそれぞれの宗派によって異なる(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○など)。",
"title": "日本人の名前"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "中国人の名前は漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字(輩行字)」「子に特有の漢字」という順に表記される(現在では輩行字に従わない命名もある)。例えば毛沢東には2人の弟がおり、それぞれ毛沢民、毛沢覃という名であったが、この3人に共有されている「沢」が輩行字である。まれに輩行字と特有の漢字は逆になる場合もある(例えば蔣経国と蔣緯国)。漢字一文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の部首を持つ字のみを名付けることがある。たとえば「紅楼夢」の主人公賈宝玉の父の名は賈政であるが伯父の名は賈赦、賈政と同世代の親族の一人は賈敬である。元来姓は父系の血統を示すので原則としては夫婦別姓であるが、現代の中国や台湾では、男女平等の観点から、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗ることも選択可能なことが法律で保証されている。夫の姓に続けて自分の姓を書く(従って漢字四文字になる)場合もある。二文字の姓(複姓)もあり、諸葛・上官・欧陽・公孫・司馬などが有名である。",
"title": "漢字文化圏の名前"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。周の代には王「「周」の一族は「姫」、太公望「呂尚」の子孫である「斉」公の一族は「姜」、後に始皇帝を出した「秦」公の一族は「嬴」といった姓を持ったが、これは漢族形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が氏であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった「韓」氏は「姫」姓であって周の族長層に出自するが、氏は「韓」であった。しかし戦国時代になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして「漢」の代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の皇帝を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。",
"title": "漢字文化圏の名前"
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{
"paragraph_id": 108,
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"text": "さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名(「諱」とも言う)と別に同等者や目下の者が呼ぶ「字(あざな)」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "香港や台湾のように、外国に支配されていた期間が長かった地域は、欧米や日本などの名前を模して、本名とは別の名前を持つ場合がある。特に香港は、近年までイギリスの支配下であったため、イギリス風の名前を持っている場合が多い(ジャッキー・チェン、アグネス・チャン、ブルース・リー)。台湾でも65歳以上の女性には日本式に「子」を止め字とする名前も少なからず見られる。中国では婚姻による名字の変更はなく、子供の名字は、父親の名字を名乗るのが通例である。香港では、イギリス風の名前はパスポートなどの身分証明書にも使用できるなど、広く使われている。名づけ方は、キリスト教徒の家系なら洗礼名という形で親が付ける場合もあるが、学校の先生が付けたり、本人が自分で付けたりする場合もある。名づけ方はかなり自由度が高く、英語圏には存在しない名前も多く、男性名が女性にも使用される事もある。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "朝鮮半島の人名は中国の影響を受けて、典型的には漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなる。特に、金・李・朴・崔・鄭の姓を持つ人は非常に多く、この5つの姓だけで、国民の約54%を占める。同じ姓でもいくつかの氏族に別れており、金海金氏が最も多い。",
"title": "漢字文化圏の名前"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "統一新羅の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名(当時の百済・高句麗などの非朝鮮系の人々は現在の中国人名とは異なる名前であったため)ではなかったことからもわかる。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "例えば、高句麗王朝末期の貴族、淵蓋蘇文は今日の韓国では漢語発音で「ヨン・ゲソムン」と呼ばれているが、『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「イリ・カスミ」と発音したことが知られている。「イリ」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「カスミ」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の万葉仮名に類似した表記方法と考えられる。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓(複姓)も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地(本貫)を持ち、同じ姓・同じ本貫(同姓同本)を持つ者を同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は法的に禁止されていた(大韓民国民法第809条(英語版))。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは金海金氏(釜山広域市付近の金海市を本貫とする「金」氏)である。族譜(족보)という先祖からの系譜を書いたものが作製・継承され、親族関係の象徴として尊重されるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は朝鮮王朝の時代に党争の激しくなったころから作られ始めた。日本の系図類と同様、族譜も初期の系譜は伝説に依拠していたり古代の偉人に仮託したものが多く、史料としての価値はさほど高くない。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "名が漢字二文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する行列字(ko:항렬)という習慣がある。行列字は中国の輩行字と同様のもので、陰陽五行説に基づいて決められる。つまり「木・火・土・金・水」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で「木」の入った字(根、桓)、次の世代は「火」の入った字(煥、榮)、次の世代は「土」の入った字(圭、在)......と続く。十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。",
"title": "漢字文化圏の名前"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "現在の韓国においては、漢字がほとんど使われなくなっているため、姓名もハングルで表記される。金ハヌルや尹ビッガラムなど、若い世代では名の部分に関して固有語をそのまま用いる例もある。",
"title": "漢字文化圏の名前"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "子は、中国の氏と同様、姓が父系の血統を表現するものであることから、当然に父の姓を名乗るものとされていた。しかし、2005年の法改正により、子は、父母が婚姻届出の時に協議した場合には母の姓に従うこともできるようになった。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "なお、在日コリアンは、民族名(朝鮮半島式の姓名)のほかに日本式の通名を持っている場合が多い。原因としては創氏改名の名残、あるいは戦後の混乱期の様々な事情などによるものとされるが、在日コリアンへの差別が公に非難されるようになった社会の意識の変化により、エスニックなアイデンティティへの見直しが進み、通名使用は減少しつつある。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ベトナム(越南)は漢字文化圏に属しており、人名も主要民族であるキン族(京族)を中心に、漢民族の人名に類似する。典型的な人名は、Nguyễn Văn Huệ(グエン・ヴァン・フエ、阮文恵)のように、漢姓である一音節のHọ(姓)と、一音節のTên đệm(間の名、直訳すると「苫の名」)、一音節のtên chính(称する名)からなる構造である。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "相手が地位の高い人間であっても、人の呼称として使うのは姓ではなく「称する名」である。例えば「ゴ・ディン・ジエム大統領」は、姓が「ゴ(呉)」、間の名が「ディン(廷)」、称する名が「ジエム(琰)」であるため、「ゴ大統領」ではなく「ジエム大統領」と呼称する。姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限られ、これはHồ Chí Minh(ホー・チ・ミン、胡志明)を「ホーおじさん(Bác Hồ、伯胡)」と呼ぶような場合である。",
"title": "漢字文化圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、氏族(オボク)の名称が姓に近い役割を持ち、中国の内モンゴル自治区では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、チンギス・ハーン家のオボクはボルジギン氏族(孛児只斤氏)であるため、内モンゴル出身のチンギス・ハーンの子孫はボルジギン・某(孛児只斤某)と称する。",
"title": "モンゴル人の名前"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "これに対し、モンゴル国ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く(父称)。例えば、朝青龍明徳の本名ドルゴルスレン・ダグワドルジは、ダグワドルジが本人の名、ドルゴルスレンが父の名である。また、夫婦別姓である。",
"title": "モンゴル人の名前"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "漢字文化圏に属したベトナムを除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、ラオス、カンボジアでも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。",
"title": "インドシナ半島の名前"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "ミャンマーには家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。戸籍名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決め、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から名付けられることが多い。また成長につれ、隣近所で通用する幼名、学校内で通用する通称、大人になってからの自称など、複数の名をもつことが多い。外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められる情況)では、便宜的に敬称や尊称や謙称(社会的地位のある男性であれば「ウ」、若い男性であれば「マウン」、成人女性なら「ドー」など)を使って、苗字とする場合もある。例えば、元国連の事務総長ウ・タントの「ウ」は敬称である(しかし、本人は謙遜故か「マウン・タント」と署名することが多かった)。",
"title": "インドシナ半島の名前"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "タイに関しては、タイの人名を参照。",
"title": "インドシナ半島の名前"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "この両国でも姓は義務づける法はなく、例えばスハルトやスカルノは姓を持たないが1つのファーストネームのみで正式なフルネームである。スマトラ島のバタク人や、マルク諸島(モルッカ諸島)、フロレス島などでは氏族名を姓のように用いる。ジャワ島のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名の後ろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名の後ろにつけて姓のように使う場合もある。",
"title": "マレー・ポリネシア系の名前"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例:グロリア・マカパガル・アロヨ)。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。",
"title": "マレー・ポリネシア系の名前"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓を用い続け相手の姓をミドルネームとして加えるか、相手の姓を用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続けることも可能、との判断を下した。",
"title": "マレー・ポリネシア系の名前"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "アラブ人の伝統的な名前はクンヤ(「某の親」)、イスム(本人の名)、ナサブ(「某の子」)、ニスバ(出自由来名)、ラカブ(尊称・あだな)の要素から成り立っている。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "以上から分かるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないがファミリーネームに相当する現代では西欧のファーストネーム、ラストネーム・ファミリーネームに影響された用法が普及してきており中世の人名録のような旧式の人名表記が適用できないケースもしばしば見受けられる。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "家名についてはその由来や文法的用法により複数のパターンがあり一律ではない。家名の種類にも地域性がある。アラビア半島のように大半が大部族に帰属する地域ではは定冠詞と語尾を形容詞形にした「アル=◯◯イー」を用いるが、分家名を家名として用いる場合は「アール・某」「(アール)・アブー某」「(アール)・ビン某」などとなる。地中海沿岸地域には職業名由来の家名が多く、大工・陶工・鍛冶屋など実に多様である。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされているウサーマ・ビン=ラーディンのビン=ラーディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン=某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたるが、ビン=ラーディンの場合は近代になってビン=ラーディン財閥が形成されたことによりビン=ラーディンファミリーという家名で広く知られることとなった。(注;ビン某という家名はビン=ラーディン家出身のイエメンに多い方式。)",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "現代において人名はファーストネーム、ラストネームのみの2つだけを挙げる方式が広がっている。しかしながら国民登録においては4つの名の記載を求める国が多い。4つの名前の記載をする場合人によって異なり、サウジアラビアのように部族成員が多い地域では「本人の名+父の名+祖父の名+部族名由来形容詞等の家名」が多いが、姓の使用が少ないエジプトのような「本人の名+父の名+祖父の名+曽祖父の名」というパターンもありまちまちである。部族成員は家長名を用いたファミリーネームを名乗っていることも多いのでフルネームから出身部族を言い当てることは必ずしもできないが、出身大部族名を形容詞化したニスバ(家名)を使っている場合は出自が明確に示される。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ちなみにアラビア半島の元首ファミリーは部族名由来の形容詞形を名乗りに用いることは少なく、たいていが「アール某」という分家名を公的なファミリーネームとしている。サウジアラビア王国場合は元々の出身大部族(バヌー・ハニーファ)を示す形容詞アル=ハナフィーは名乗っておらず、分家・支族の家長名に由来する「アール・サウード」としている。サウジアラビア王国内において家名がアール・サウードとなっている人間は必ずサウード家の人間である。家名は生涯不変がアラブ人名の原則であり、生まれた子供は認知を受ける限り必ず父親の家名を継承する。このため外から嫁いできた女性らはアール・サウードではないが、王女らの家名は全てアール・サウードとなる。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "イラクの場合は、元大統領サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー (Ṣaddām Ḥusayn ʿAbd al-Majīd al-Tikrītī) はティクリート出身のアブドゥルマジードの子フセインの子サッダームという意味である。アッ=ティクリーティーはアラブ人名の現代的用法により半ば家名のように使われており、本人がティクリートで生まれていなくとも子供らが継承して名乗っていた。長男ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Uday Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はウダイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Qusay Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はクサイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子クサイといった意味となる。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "非アラブのイスラム教徒の間では、ペルシア語で「息子」を意味する「ザーデ」、トルコ語で「息子」を意味する「オウル(オグル、オール)」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、トルコとイランではそれぞれ1930年代に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人レジェップ・タイイップ・エルドアン (Recep Tayyip Erdoğan) はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人マフムード・アフマディーネジャード (Mahmūd Ahmadīnejād) はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "また、旧ソ連のアゼルバイジャン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタン・カザフスタンやロシアに住むチェチェン人などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、スラブ語の父称を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓はアリエフ、ラフマーンから創られた姓はラフモノフと言い、ソビエト連邦解体後もそのまま使われている。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "日本ではイスラム教に入信した者がハサン中田考のようにムスリム名を本名に繋げる例もある。イスラム教徒やイスラム教圏出身者と日本人の間に生まれた子供の場合は伝統的な名前、父姓+日本名、日本姓+イスムなどがある。ガーナ人の父親と日本人の母の間に生まれた陸上選手のサニブラウン・アブデル・ハキームは「アブデルハキーム(賢き者の僕)」という伝統的な命名であり、イラン人のダルビッシュセファット・ファルサと日本人の母の間に生まれたダルビッシュ・セファット・ファリード・有は「ファリード・有」の部分が「アリー・ファリード(比類なきアリー)」という伝統的な名前と漢字を組み合わせた名前となっている。",
"title": "イスラム教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "キリスト教圏では、姓についての慣習は各国語圏で異なるが、名については聖人・天使に由来する名前が好んで付けられる。例えば、「マイケル」(英語)・「ミヒャエル」(ドイツ語)・「ミシェル」(フランス語)・「ミケーレ」(イタリア語)・「ミゲル」(スペイン語)・「ミハイル」(ロシア語)・「ミカ」(フィンランド語)は、すべて大天使ミカエルに由来する名である。その他、聖書に登場する人物や、キリスト教の聖人に由来する名が多い。ポール・パウル・パオロ・パブロ・パヴェル(聖パウロ)、ジョン・ハンス・ヨハン・ヨハネス・ジャン・ジョヴァンニ・フアン・ジョアン・イヴァン・ヨアニス・ヤン・ショーン(使徒ヨハネ)、ルイス・ルートヴィヒ・ロドヴィコ・ルイージ・ルドヴィクス(聖ルイ)など。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "また、古代ローマ人の名を由来とすることも多い(例:ジュリアス←ガイウス・ユリウス・カエサルの「ユリウス」の英語読み)。女性については、花などの名前を付けることも多い(例:ローズ←バラ)。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "また、修道士は基本的に本名は呼ばれず、日本の僧侶などと同じく、修道名でのみで知られる事例が多い。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "英語圏の姓名は多くの場合、3つの構成要素からなる。ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームである。ファーストネームはギブンネーム (given name) とも呼ばれ、ラストネームはサーネーム (surname)、ファミリーネーム (family name) などとも呼ばれる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ラストネームは、日本における姓とほぼ同じもので、父系の家系を通じて受け継がれる。稀に、母のラストネームが父のラストネームとハイフンでつながれて子に受け継がれることなどもある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ミドルネームはファーストネームと同時に親が、同姓同名の別人がいた場合に備えて名付けるもので(一般には洗礼名)、多くの場面でイニシャルだけの省略系が用いられる(ミドルイニシャルと呼ばれる)。稀にイニシャルのみで、略称でさえもない場合もある。好例がハリー・S・トルーマンで、このようにイニシャルだけを与えることはアメリカ南部に見られた風習だとされる(トルーマンは「“エス”というミドルネームだ」と冗談を言った)。なお、ミドルネームが無い場合もある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "西欧社会では女性は結婚と共にそれまでの姓を夫の姓に換えることが普通であったが、アメリカでは、20世紀中ごろから女性が結婚後も姓を変えない風習がひろまりつつある。また、両者の姓を併記するカップルもいる。ヒラリー・ローダム・クリントンのように旧姓と夫の姓を組み合わせて(「ローダム」はヒラリーの旧姓である)名前を作る例もある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "オランダでは前置詞 「van」(ファン)を含んだ姓 (surname) が多く見られる。van は英語 of あるいは from の意味を持ち、出身地を示すが、現代ではもとの意味はほとんど失われている。英語圏で見られるようなミドルネームは持たない。複数の個人名 (given name) を持つこともあるが、日常的に用いるのはそのうちの1つだけであり、ほとんどの場合はファーストネームを使う。そのため大部分の人はファーストネーム・サーネームの組み合わせで広く知られることになるが、フルネームで最も良く認識されている場合もある。貴族の家系では Huyssen van Kattendijke などの複合姓 (double surname) を持つこともあり、この場合 Huyssen はファーストネームではない。ナイトに対応する称号としては ridder が知られる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "ファーストネームが複雑な場合には省略した通称で呼ばれることもあり、例えば Hiëronymus(ヒエロニムス)(オランダ語版)は通称でJeroen(イェルン)(英語版) などと呼ばれる。大きな契約や結婚、IDカードなど以外には通称を用いるのが普通である。複数の個人名を持っている場合、通称も複数個からなるものを用いることがある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "結婚の際には、夫の氏は不変で、妻は夫の姓(同姓)または自己の姓(別姓)を称することを選択可能である。妻は自己の姓を後置することもできる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった(必ず与えられたわけではない)。もしミドルネームが与えられた場合には、その人はそのミドルネームで知られることになり、ファーストネームは余り用いられなかった。しばしば教会の記録などでもファーストネームが省略され、ミドルネームとラストネームだけが用いられた。また、ある一家の男の子達が全員ヨハネスというファーストネームを持つ、というようなこともあった。この場合でも、洗礼と共に各人に別々の名前が与えられ、その名前が用いられるようになるため、問題がなかったとされる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった(例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる)。また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。「花の咲く土地」を意味すると思われる姓Floryに、他にもFlori、Florea、Florey、Flurry、Flury、Florie、など似た姓が数多くある。これはその姓を持っていた人々が文字を書くことができず、名前を発音することはできても綴ることができなかったため、筆記を行った人によって異なる綴りになったと考えられる。貴族はその領地名や爵位名や城名などと「~の」を意味する「von」をつけて姓のように用いた(例:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "なお、現代ドイツでは選択的夫婦別姓が導入されており、婚姻時の夫婦の姓は、婚姻時に夫婦の姓を定める、あるいは定めない場合は別姓となる。 日本の夫婦同姓のお手本になったとされるが、ドイツ国内においては、伝統的には家族名としての姓を用い、1957年までのドイツ民法の条文は、妻は夫の氏を称するとされていた。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "1957年、妻が出生氏を二重氏として付加できるとする法改正が行われ、1976年の改正では婚氏選択制を導入し、婚氏として妻の氏を選択する可能性を認めたが、決定されない場合は夫の氏を婚氏とするとされた。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "しかし、1991年3月5日の連邦憲法裁判所の決定が両性の平等違反としてこの条文を無効とし、人間の出生氏が個性又は同一性の現れとして尊重され保護されるべきことを明言した。その結果、1993年の民法改正で、夫婦の姓を定めない場合は別姓になるという形で選択的夫婦別姓となった。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "ロシア人の名前をフルネームで表記する時は、原語での順序は「名・ミドルネーム・姓」となる。但し公式文書等では「姓,名・ミドルネーム」と書かれる(例えば、在ユジノサハリンスク日本国総領事館のサイトの2022年10月の現地政治概況紹介ページではロシア側の政治家の名前は全て「姓・名・父称」の順となる)。公式な場(例えば大統領へのインタビュー等)での呼び掛け、あるいは目上の人に対する呼び掛けでは「名・ミドルネーム」が使用される。それ以外では、呼び掛けには専ら名の愛称形が使用される。ミドルネームは父称(ふしょう;Отчество)といい父親の名前を基にして作るので性別を同じくする同父兄弟のミドルネームと姓は必ず同一となる。性別を同じくすると特にことわるのは、ロシア語には文法上の性として男性、中性、女性の三性がありロシア人のミドルネーム・姓は殆ど全ての場合個人の生物学上の性に依って男性形・女性形の異なる語尾を採る為である。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "父称は父親の名前にその語尾の音に応じた適切な語尾を付加して作られる(右表参照)。父称の男性形は男性のミドルネーム・女性形は女性のミドルネームに用いられる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "例えば父の名が1) \"Илья\"(Ilija、イリヤ)、2) Николай(Nikolaji、ニコライ)、3) Иван(Ivan、イヴァン)の三つの場合で父称男性形はそれぞれ、1) Ильич(Iliich、イリイチ)、2) Николаевич(Nikolajevich、ニコラエヴィチ)、3) Иванович(Ivanovich、イワノヴィチ)とそれぞれ変化し、一方父称女性形は、1) Ильинична(イリイニチナ)、2) Николаевна(Nikolajevna、ニコラエヴナ)、3) Ивановна(Ivanovna、イヴァノヴナ)となる。現代男性名では「---イチ」の形が父称に多くなってはいるが、中世までは「-ш、-シ」(「〜の息子」という意味合い)という語尾を採る父称が多かった。これらは南部スラヴ人種(ブルガリアなど)に一部残っている傾向がある.",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "姓の部分は形容詞の変化に準じて男性形・女性形となる。-ский (-skij)、-ин (-in)、-ев (-jev)、-ов (-ov) 等は地名などについてその場所に帰属する、又は出身である等を示してスラブ人の姓を造る接尾辞であるが、これらは形容詞男性形で対応する形容詞女性形語尾は、-ская (-skaja)、-ина (-ina)、-ева (-jeva)、-ова (-ova) 等となる(-in, -jev, -ovは姓に限らず一般に名詞に付けて物主形容詞を造る接尾辞である)。こうして自分の名がニコライ、姓がカレーニンで父の名がイヴァンという男性の場合はニコライ・イヴァノヴィチ・カレーニンが正式なフルネームとなる。この人の姉妹で、アンナという女性の場合は、アンナ・イヴァノヴナ・カレーニナがフルネームとなる。またストラヴィンスキーなどの姓は女性の場合ストラヴィンスカヤとなる。ロストフ (Rostov) というような姓は女性だとロストヴァ (Rostova) となる。なお注視すべきはウクライナ系の「~エンコ」(-енко)やグルジア系の「~シヴィリ」(-швили)などは男女とも中性名詞であり、性別関係無く無変化の場合や、「~イチ」(-ич)やアルメニア系の「~ヤン」(-ян)などのロシア人の姓名に付いては歴史的経緯から、同姓で男性のみ格変化を起こす場合があるなど、個々の相違点が見られる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "ウクライナ人の名前をフルネームで表記する時は、一般では「名・父称・姓」の順番だが、公式文書などでの順序は「姓・名・父称」となる。日本で言論活動を行っているウクライナ人のグレンコ・アンドリー、ナザレンコ・アンドリーは、いずれも「姓・名」の表記を用いている。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "フランスではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が強制的に変わることはない(別姓)。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "この名付けの制限は、1966年に僅かに緩和され、つづりが違う名前や外国風の名前も認められるようになった。そして、1993年、名前に関する制限はほぼ撤廃され、両親が子の名前を自由に選べるようになった。しかし、奇妙な名前については、司法当局が却下することがある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "スペイン本土では一般に「名、父の第一姓、母の第一姓」で構成される。これが繰り返されることにより母方の姓は孫の代には消えてしまうが、希望すれば母方の姓を第一姓にすることも可能である。また結婚しても名前が変わらない。つまり、生まれた時の名が一生続くのである。したがって、両親が再婚した場合など、兄弟同士でも姓が異なる。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "中南米のスペイン語圏では、姓は他の多くの国と同じ様に、基本的に父方から子へと父系相続で伝えられるのが基本となるが、個人の姓名を構成する部分の数は人によって異なる。名が最初に来る点では共通で、それに続く部分は父方の姓と母方の姓の一部または全部からなる。例えば「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」と3つの部分からなる名前がある。あるいは「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓、父方の祖母の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」と4つまたは5つの部分からなる姓名を持つ場合もある。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "名の場合は一つの名によって構成される単純名と、二つの名(それ以上の場合もある)によって構成される複合名もある。たとえば政治家のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロのホセ・ルイスは複合名である。複合名の人に対し、呼び掛ける場合は、フォーマルな場面では省略は通常しないが、親しい間柄、インフォーマルな場面では、どちらか一方を使用することが一般的で、どちらを使うかは自由で、呼ばれる側が希望する場合もあるし、同じ人に対して、ある人は第一要素のほうを、別の人は第二要素のほうを呼ぶということもある。また、多くの場合名前には決められた愛称形があり、それで呼ぶことも多い。また、複合名にはホセ・マリーアや、マリーア・ホセのようなものもあり、前者は男性名で、後者は女性名である。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "例:",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "また、例としてはパブロ・ピカソ#名前も参照。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "ポルトガル語圏では、姓名の構成はスペイン語圏によく似ているが、姓名に父方の姓と母方の姓を並称する場合は「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」の語順となり、スペイン語圏と反対である。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "ポルトガルでは、婚姻の際は、姓を変更しないこと、または、従来の姓に相手の姓を加えることの、いずれかを選べる。ポルトガルでは、多くの場合は、ファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で呼ぶのが一般的である。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "また、ブラジルでは、フルネームが長くなることと、名字で呼ぶ習慣がないことなどから、名前で呼ぶことが多いが、名前の種類が少ないため、特にサッカー選手の登録名などでは、一部を変化させた愛称(ロナウジーニョ)、出身地の地名などに由来する愛称(ジュニーニョ・パウリスタ、パウリスタは「サンパウロの」という意味)、その他の理由による愛称(ジーコ、「痩せっぽち」の意)などで呼称されることが多い。また、名字も含めて表記される場合もあるが、その場合多くはポルトガルと同様、基本的にファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で表記される。",
"title": "キリスト教圏の名前"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "古代ローマの自由人男性の氏名は多くの場合3〜4の部分からなっていた。個人の名前、氏族の名前、家族の名前、および添え名である。例えばガイウス・ユリウス・カエサルは、「ユリウス氏族のカエサル家のガイウス」という名であった。このうち個人名のバリエーションは少なく、20種類ほどに限られていた。そしてクィントゥスは日本語的には「五郎」といった感じで数字由来の名を付けることも多い。また個人名はバリエーションが少ないこともあって略して記されることも少なくない。以下はその対応。",
"title": "古代ローマ人の名前"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "長男は父の名前をそのまま受け継ぐことが多く、一族で同じ名前が頻出するため「マイヨル(大)」や「ミノル(小)」を付けて区別した。自由人女性には個人名はなく、父の名前のうち個人の名前を除く部分の女性形が用いられた。たとえば「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル」の娘は「コルネリア・スキピオニス・アフリカナ」と呼ばれた。この場合、氏族の名前が個人の名前の役割を果たした。またあだ名を用いることも多かった。娘が二人以上いる場合、ユリア・セクンダ(「二人目のユリア」)などというように数えられて呼ばれていた。",
"title": "古代ローマ人の名前"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "養子の場合にはもとの姓を家族名の後ろにつけた。例えば、オクタウィアヌスの場合「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」がカエサル家に養子となった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となった。",
"title": "古代ローマ人の名前"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "添え名は国家に功績のある場合などに元老院の決議などにより与えられた。多くアフリカヌス、ゲルマニクスなど勲功を上げた土地の名にちなんで与えられた。また出身地の名称からとられることもあった。こうした添え名は一代限りのものも多かったが世襲を許され、家族名として用いられるものもあった。",
"title": "古代ローマ人の名前"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "日本においては、戸籍法によって戸籍として使用できる漢字は、簡単な人名用漢字から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、アイスランド人の名前などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。",
"title": "名前と法律"
}
] | 人名は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。 その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses|個人を特定する名称|江戸時代の制度・身分|人名 (江戸時代)}}
{{参照方法|date=2011年8月}}
[[ファイル:Yamada-vertical.svg|thumbnail|110px|right|[[山田太郎]]。典型的な形式の日本人の名前として、書類の記入例などに良く用いられる、または、本名が不明な男性個人を指すこと。なお「[[太郎]]」とは江戸期以前の、[[仮名]](けみょう)の内の[[輩行名]](はいこうめい)に由来する。]]
{{読み仮名|'''人名'''|じんめい}}は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。
その人物の[[家族]]や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、[[人間|人]](ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。
== 概説 ==
[[ファイル:Kendo-Swordsmanship-Nishiki-e-Tsukioka-Yoshitoshi-1873.png|thumb|300px|[[撃剣興行|榊原撃剣会]]絵図。[[月岡芳年|魁斎芳年]]筆。[[榊原鍵吉]]や、その弟子の[[松平康年]]などの名が見える。]]
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる<!--要出典-->。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに[[古代ギリシア]]などにその形跡があるとされ、東方では[[周]]代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。
ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、[[1989年]]に[[国際連合|国連]]総会で採択された[[児童の権利に関する条約]]7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである (shall have the right from birth to a name)」と定めている。
[[日本]]の場合は[[民法 (日本)|民法]]により「氏+[[名 (人名)|名]](=氏名)」という体系をもつ。他に「姓+名(=姓名)」や「名字と名前」ともいう。「名前」は「氏名」「氏」「[[名 (人名)|名]]」のいずれかを指すため、「氏」を「上の名前」、「名」を「下の名前」と呼ぶこともある(縦書きにしたとき「氏」は上部、「名」は下部になるため)。他者から呼称される場合は、「氏」のみ、「名」のみ、あだ名、敬称・職名などとの組み合わせ、同一の人名の世襲などがある。
後述するように、「氏+名」という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において氏と姓、さらには日本における名字は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、[[明治維新]]以前は「[[氏]](うじ)」「姓([[本姓]])」と「[[名字]]」は区別されていた。
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる([[フェルディナン・ド・ソシュール#ソシュールの言語理論|記号論]])。多くの場合、[[戸籍]]など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の[[敬称]]が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、[[愛称|あだ名]]との組み合わせなどとなることが多い。
名前にはその主要な属性として、発音と表記がある。例えば[[日本人]]の個人名が[[外国]]の[[文字]]で表記されることがあるが、これは1つの名前の「別表記」と考えることができる。逆に、漢字名の場合、複数の読み・音と訓の組み合わせによって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である{{efn|作家・安部公房は本名「きみふさ」だが、筆名「こうぼう」と読ませるなど、逆に使い分ける場合もある。}}。
また、名は特定の個人を指し示す記号であることから、人名そのものが、[[自己]]、[[自我]]、[[アイデンティティ]]、自分という[[クオリア]]に大きく関係するという考え方がある。各国・各文化の歴史を見ても、霊的な人格と密接に結びついていると考えられていたり、真の名を他者が実際に口にして用いることに強い[[タブー]]意識を持っていたりする社会は多くあった。
たとえば日本では「[[諱]]」がこれにあたる。これは、元服前の「[[幼名]]」、「[[字]](あざな)」、出家・死去の際に付ける「[[戒名]]」などと合わせて、名を単なる記号として扱おうとしない一つの文化である{{efn|[[言霊]]信仰が影響している可能性がある。}}。この文化は近世・近代と「諱」を持つ層が減り、逆に「名字」を持つ層が増えるにしたがい([[苗字帯刀]]御免、[[平民苗字必称義務令]])、希薄化してきたと言える。
だが、21世紀初頭の日本においても、名付ける者が名付ける対象に特別な読みを与えることで特別な意味を見い出そうとして名付けたと解釈する限りでの[[キラキラネーム|難読名]]などに見られるように、名に''特別な意味''を与えようとする思いは{{efn|日本では、[[寿限無]]の噺において、縁起のよい特別な名を付けようとする笑い話がある。縁起のよい名を重ねたものを名とする実例としては、[[洗礼名]]であるが、たとえば[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]のそれがある。すなわちヨハンネス・クリゾストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト (Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)。3人の聖人の名を冠する。}}、<!--時空を越えて-->散見されるものである。
=== 日本における状況 ===
[[日本]]では現代社会の一般人の日常生活でも[[インターネット]]を用いたコミュニケーションが普及するにつれ、見ず知らずの相手には、名前は一切開示せず接触し、相手の素性を知ってから段階的に開示するということは、よく行われる。また、インターネット上の[[コミュニティ]]などでは、本名は出さず、[[ハンドルネーム]]などを示すのが一般的である。様々なことを考慮すると、やはり本名をあまりに安易に不特定多数に開示してしまうことはそれなりに[[リスク]]が伴う、という判断がある(関連する事象として、[[名誉毀損]]や[[プライバシー]]などの項も参照可)。また、多少意味合いが異なることは多いが、[[芸術家]]・[[作家]]・[[評論家]]などで、ペンネーム・アーティスト名などを用いて、本名は開示しないことは多々見られる。
一方、個々の名前のアイデンティティの重要性は、幼名などが一般的だった江戸時代、養子などが一般的であった戦前などと異なり、増している。近年の選択的[[夫婦別姓]]を求める声などは、現代で、個々の名前のアイデンティティの重要性が増してきたことの表れである。
== 人名の構造、使用とその多様性 ==
人の名前は多くの[[文化 (代表的なトピック)|文化]]で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。
多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを"個人名"と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか1種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる(詳細は後述)。
分かりやすい例としては、その[[個人]]が属する「家([[家族]])の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。英語圏では、個人名(与えられた名 = ''given name'')+ 家族名(''family name'')の順に表記されることが多い(配置に着目し、ファーストネーム = ''first name、''ラストネーム = ''last name'' とも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、''given name''という呼称を用いる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「山田 + 太郎」であり、この場合は「家族名 + 個人名」の並びとなる。家族名、個人名はそれぞれ、[[姓|姓(せい)]]、[[名|名(めい)]]などと呼ばれる。家族名はまた[[苗字]]、[[名字]]とも呼ばれる。"個人名"の部分は「[[名]](な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。
:(注)日本語の人名では、英語の ''given name'' にあたる概念を、他の概念と明確に区別し、かつ肯定的に指し示す名称が成立していない。明治以前の今日より複合的で複雑な人名要素における「いみな(諱)(=忌み名)」などという名称には既に否定的な概念が含まれており(ただしそれ自体を忌避して否定的にとらえているのではなく、霊的人格との一体性という概念ゆえの神聖視により、みだりに用いるのを忌避しているのであるが)、その裏返しとして成立している「[[字]](あざな)」では正式の本名ではないという含意からのズレがあり、どちらも現代的な使用には向かない。また「[[名]](な、めい)」では、フルネームを指す可能性があり、明確な指示が困難になる。明治期に、法令によって人名の近代化を迅速に行った影響が今日も後を引いているとも、今日の日本人の人名構成様式が、まだ非常に浅い歴史しか持たないものだとも言える。そのため「下の名前」または「ファーストネーム」が使われる。以下の説明では「名」(な)という言葉で"個人名"を指している箇所があるので注意されたい。
=== 構成要素の数 ===
姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。[[アメリカ大陸の先住民族]]など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。[[サウジアラビア]]のように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。[[ブラジル]]のように一貫していない場合もある(これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる)。
また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らない。姓を持たない文化においては、一連の名と続柄の連続をフルネームとする場合もある。(たとえば[[安倍晋三]]が姓を持たない文化に生まれたとすると、「晋三、[[安倍晋太郎|晋太郎]]の息子、[[安倍寛|寛]]の孫」といった名前になる。)インドでは逆に「taro、taichiroの父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名(taichiro)が含まれているものもある。
=== 構成要素の順序 ===
姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏・使われる場面などにより異なることが知られている{{efn|基本的には、その文化の[[言語]]においての被修飾句と修飾句の順に沿うことが多い。これは、個人名が個人を表すものであり、姓はそれを修飾している関係にあたる、と解釈することも可能である。}}{{efn|また、名以外に姓が必要になってくる場面に関しては、「[[名前空間]]」の概念も参考になる。近しいグループや集団では(名前が重ならないようにあらかじめ注意して名づけることが多いので)、個人名だけを使って呼び合っても名前が衝突(同一名が現れてしまう)することは少ないが、他集団と接触した時や別の場所に移動した時に名前の衝突が起き、個人名・固体名以外の名称(姓など)を使用する必要性が高まる。}}。例えば、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では、日常的な文書や会話などでは、名前は名→姓の順をとることが多い。ただし、公的文書や学術文書などにおいては順序が逆転することがある。姓を前置することで検索性の向上や誤認の回避につながるためである。文献表においては第一著者については姓→名の順を取り、第二以下は名→姓で示す。この場合姓の後にカンマを付ける。[[日本]]、[[中国]]、[[韓国]]、[[ハンガリー]]などでは名前は姓→名の順をとる。つまり、あえてフルネームで呼んだり記したりする場合には、その順で呼んだり記したりする、ということである。
名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。[[英語]]圏では[[ミドルネーム]]([[:en:Middle name|middle name]])は[[イニシャル]]だけが記されることが多くある。[[スペイン語]]圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。また古代ローマでは使われていた名の種類がとても少ないため、1~2文字に略して評することがあった。
=== 名前の変更 ===
基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分(姓)や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分(名)のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。
例えば、[[結婚|婚姻]]や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。
婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では[[洗礼]]に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。
=== その他の多様性 ===
{{特殊文字|説明=[[韓国語]]の[[ハングル文字]]}}
また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。
{{see also|姓#姓の数、由来}}
日本人の苗字の種類は10万とも30万ともいわれ(推計値の為、様々な説がある。[[丹羽基二]]は30万姓としている)、世界でも特に苗字の種類が多い民族とされる。一方、中国人の姓は5000以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李 (7.4%)・王 (7.2%)・張 (6.8%) の3つで20%強(約3億人)を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で59%を占める<ref>{{cite book |title= Họ và tên người Việt Nam|author=Lê Trung Hoa |year= 2005|publisher= NXB Khoa học Xã hội (Social Sciences Publishing House)|location= Hà Nội, Việt Nam|isbn= |pages= }}</ref>([[百家姓]]参照のこと)。韓国人の姓は、金({{lang|ko|김}})・李({{lang|ko|이}})・朴({{lang|ko|박}})・崔({{lang|ko|최}})・鄭({{lang|ko|정}})の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」<ref>[https://inkan-reform.com/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%AD%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0/ 韓国の名字ランキング](2013.7、楽善堂 平澤東)</ref>「[[ソウル特別市|ソウル]]で金さんを探す(無用な努力の喩え)」<ref>[https://ameblo.jp/kankokunokurashi/entry-10014929754.html ソウレソ キムソバン チャッキ! | かんくら's ライフスタイル!!(韓国在住物語)](2006.7)</ref><ref>[https://korean.dict.naver.com/english/krenIdiom.nhn?sLn=kr&idiomId=bdbd72be59ae40ab9c999e027c001e2e](韓国語、[[NAVER]]韓英辞書)</ref>などという成句もある。
{{要検証範囲|韓国人は子の名を付ける際に、基本的に他の誰も持っていないオリジナルな名を与える(ただし、ある程度の流行はある)。これに対して、ドイツでは「すでに存在する名前」しか受理されない|date=2011年1月}}。フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。このため、既存の名前を組み合わせることが流行した(例えば[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]の名ルイ=ニコラは、聖人の名前ルイとニコラを組み合わせたものである)。
さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に[[愛称]]・[[敬称]]などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係(父と子など)を用いる場合もある。
== 人名と文化、社会 ==
人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。
* 個人・家族・帰属についての考え方(とりわけ姓をめぐる習慣や制度)
* 価値観。人にとって何がよい性質であるか(とりわけ名をめぐる習慣や制度)
また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。
* 歴史研究や家系図の作成などに際しての資料の解釈、記録された名前と個人の対応付け
* [[戸籍]]・名簿などの管理・作成。それに関連したコンピュータ・データベースの構築
== 日本人の名前 ==
{{出典の明記|date=2022年12月|section=1}}
{{see also|氏姓制度|古代日本の戸籍制度|家制度}}
=== 近世以前 ===
[[ファイル:Ronin, or masterless Samurai, lunging forward.jpg|thumb|江戸時代末から明治にかけて活躍した[[月岡芳年]]の[[錦絵]]。[[大石良金]]の名を「大石 主税 藤原 良金」と「名字、通称、姓、諱」の順で書いている。]]
[[明治維新]]以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、家の名である「[[名字]]」・「家名」、家が属する氏の名である「姓([[本姓]])」、そしてその姓の区別を示す「姓([[カバネ]])」と実名にあたる「[[諱]]」を持っていた。
上古では『[[物部麁鹿火]][[大連 (古代日本)|大連]]』のように、氏の名・実名・カバネの順で表記されていたが、[[欽明天皇]]の頃から『[[蘇我稲目|蘇我大臣稲目]]』のように氏の名・カバネ・実名の順となり、氏の名の後に「の」をつけて「そがの おおおみ いなめ」のように読まれるようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 13 / 7%}}。
公式文書である[[朝廷 (日本)|朝廷]]の口宣案等に記される際は、「[[位階]]もしくは[[官職]]、その両方」「本姓」「カバネ」「諱」の順で書かれる。例えば『勧修寺家文書』にある徳川家康従二位叙位の際の口宣案には「正三位源朝臣家康(徳川家康)」「蔵人頭左近衛権中将藤原慶親([[中山慶親]])」の二人の名前が見られる<ref>{{Cite journal|和書|title = <論説>徳川家康の叙位任官|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224846733056|publisher = 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)|journal = 史林|volume = 101|issue = 4|doi = 10.14989/shirin_101_663|naid = 120006598929|issn = 03869369|author = 藤井讓治|authorlink = 藤井讓治|year = 2018|ref=harv}}</ref>。公式や公的な文書で用いられるのは本姓であり、徳川や中山といった名字は用いられなかった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 113 / 63%}}。
書状などで呼称する場合は官職名や通称である[[仮名]]を用いることがほとんどであった。また「[[藤原道長|道長]]朝臣」や「[[北畠親房|親房]]朝臣」のように名とカバネを連ねて呼ぶことは、特に「名字朝臣」と呼ばれ、四位の人物に対して用いられることが多かった<ref>{{Cite Kotobank|word=名字朝臣(みょうじあそん)とは? 意味や使い方 - コトバンク|encyclopedia=精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉|accessdate=2023-1-16}}</ref>。
家康が外交文書で「源家康」と署名したように、姓と諱をあわせる形式はあったものの、現代のような名字と諱だけを用いた「織田信長」という形式はあまり用いられなかった。『[[勢州軍記]]』の「[[織田信長|織田上総守平信長]]」や、『[[新編武蔵風土記稿]]』の「[[熊谷直実|熊谷次郎平直実]]」など、[[軍記物語]]や文芸等では本姓と名字・通称・諱などをつらねて書かれたものもあるが、正式なものではない。
==== 氏・姓・本姓 ====
{{main|姓|本姓|氏|カバネ}}
[[ヤマト王権|大和朝廷(ヤマト王権)]]の成立前後、日本には「[[氏]]」と呼ばれる氏族集団が複数あり、氏族の長である[[氏上]]とその血縁者である氏人、それに属する[[奴婢]]である[[部曲]](部民)も同じ「氏の名」を称していた{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 9-10 / 5-6%}}。これら氏には、[[天皇]]から氏の階級や職掌を示す「カバネ(姓)」が授けられた{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 12 / 7%}}。
やがて氏の名は天皇より報奨として授けられるものとなり、「カバネ」も同時に授けられるようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 12 / 7%}}。このように氏とカバネで秩序付けられた制度を「[[氏姓制度]]」と呼ぶ{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 15 / 8%}}。
古代の[[律令]]国家の時代には、庶民も「氏の名」を称していた。養老5年(721年)に作成された[[戸籍]]では、戸に属するものは妻や妾にいたるまで同じ氏の名を称していた{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 39 / 22%}}。
[[天武天皇]]の時代には20以上あったカバネが8つに再編成され、「[[八色の姓]]」と称されるようになった。この頃には「氏」と「姓(カバネ)」の区別は曖昧になり、『[[日本書紀]]』でも[[藤原鎌足]]が「藤原」の氏を受けた際には「賜姓」と表記される{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 27 / 15%}}。奈良時代頃には氏を指して「姓」と称するようになっていた{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 41 / 23%}}。また奈良時代から平安時代にかけては既存の氏族が賜姓を願い出て新たな氏の名に改めることもしばしばあった。[[土師氏]]の一部が[[菅原氏]]・[[秋篠氏]]を賜姓されたように、大和時代以来の氏の名はほとんど失われていった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 108-110 / 60-61%}}。また懲罰により氏の名を改名されることもあった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 112 / 62%}}。
本姓は基本的には父系の血統を示すため、養子に入っても変わらないのが原則であった{{efn|[[奈良時代]]の[[橘氏]]は橘宿禰姓を受けた[[県犬養三千代]]の姓を子の[[橘諸兄]]・[[橘佐為]]が継承しており{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 43 / 24%}}、また[[藤原弟貞]]が母の藤原朝臣を[[臣籍降下]]後に賜姓されたように母親の姓を名乗る例がある。}}。また女性が婚姻によって別姓の家に嫁いでも同様であった。[[畠山氏 (平姓)|平姓畠山氏]]の名跡を源氏の父を持つ[[畠山泰国]]が継いだため、以降の[[畠山氏]]は源姓を称したのはその例である。しかし、後世には養子となった場合にはその家の本姓に変わることも多くなった。例えば[[上杉謙信]]の場合、家系である[[長尾氏]]は[[平氏]]であるため「平景虎」を称していたが、[[藤原氏|藤姓]][[上杉氏]]の名跡を継いだあとは藤原氏を称した。公家や社家においても同様で、[[近衛家]]や[[紀伊国造]]家などが皇室や他氏から養子を迎えても、姓は家本来のものから変更されなかった。
1200年頃には、「[[源平藤橘]]([[源氏]]・[[平氏]]・[[藤原氏]]・[[橘氏]])」という代表的な4つの本姓を「四姓」と呼ぶことが行われるようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 71 / 39%}}。また[[島津氏]]が藤原氏から[[源氏]]を称するようになったように、情勢によって本姓を変更することもあった。[[豊臣政権]]期には多くの大名や家臣に対して[[豊臣氏]]の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、[[木下氏]]などごく一部が称するのみとなった<ref>{{Cite journal|和書|title = 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜|publisher = 駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会|journal = 駒澤史学|volume = 49|naid = 110007003055 |issn = 04506928|author = 村川浩平|authorlink = 村川浩平|year = 1996}}</ref>。
==== 名字(苗字、家名) ====
{{main|名字|家名}}
「[[名字]]」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。[[鎌倉時代]]には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 74-79 / 41-44%}}。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 79-82 / 44-46%}}。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。
平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 79 / 44%}}。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 84 / 47%}}。やがて平安時代末期に[[嫁取婚]]が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 85 / 47%}}。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 85 / 47%}}。
東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 86 / 48%}}。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 79 / 44%}}。これは荘園領主等にその地の権利を誇示する役割があったとみられる{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 89 / 49%}}。[[足利荘]]を領した[[足利氏]]、[[三浦郡]]の[[三浦氏]]、北条郷の[[北条氏]]などがその例である{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 90 / 50%}}。また藤原木工助の子孫が「[[工藤氏]]」、藤原加賀守の子孫が「[[加藤氏]]」を称するように、先祖の本姓と官職を合わせた名字や{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 90-91 / 50-51%}}、「[[税所氏]]」や「[[留守氏]]」・「[[問註所氏]]」のように朝廷や幕府の官職や荘園内での職掌を示した名字も発生している{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 92 / 51%}}。またこれらの名字は分割相続によってさらに多く派生していった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 92 / 51%}}。これらの分家は総領である一族の支配下に置かれ、分家の確立が過渡的な段階においては「[[佐々木氏|佐々木]][[京極氏|京極]]」や「[[新田氏|新田]][[岩松氏|岩松]]」と総領家の名字を上に冠して称されることもあった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 100 / 56%}}。
また[[紀伊国]][[隅田荘]]の[[隅田党]]のように、血縁ではない別々の家の集団が「隅田〇〇」という複合名字を名乗り、やがて「隅田」のみを家名としたように、同一の名字を名乗ることで結束を固めることもあった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 123-124 / 68-69%}}。
武士階級の間では「名字」を主君から授けることがしばしばあった。例えば[[織田信長]]は[[明智光秀]]に「惟任」、[[丹羽長秀]]に「惟住」の名字を名乗らせている{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 125-127 / 69-71%}}。また、家臣に対して主君と同じ、もしくはゆかりのある「名字」を名乗らせ、擬制的な一門として扱うこともしばしば行われた。[[徳川氏]]が[[松平氏|松平姓]]を有力大名や血縁のある大名に名乗らせた例はよく知られている(前田氏・島津氏などの有力外様大名や一部の譜代大名、[[鷹司松平家]]など)。[[豊臣秀吉]]は特に幅広くこの政策を行い、本姓である[[豊臣氏|豊臣朝臣]]や名字の[[羽柴氏|羽柴姓]]を多くの大名や家臣に称させた。また[[今川貞世]]が[[今川氏|今川]]の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称したように、名字の使用を停止する懲罰も存在した{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 125-127 / 69-71%}}。
庶民は平安時代頃までは氏の名もしくは名字を名乗っていたが、中世に入ると禁令が出されたわけでもないが、記録に残らなくなった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 128- 129/ 76%}}。[[豊田武]]は村落内の上層部が下層民に対して名字の私称を禁じたことを指摘している{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 131/ 77%}}。[[江戸時代]]には、「名字」は支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされ、武士階級も庶民に対して名字を称することを禁じていると認識するようになった{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 131-132/ 78%}}。公式な場で「名字」を名乗るのは武士や[[公家]]などに限られていた。一方で時代が下ると領主層の武家は名主や有力商人に対し「苗字」の公称を許可し、その代償として冥加金等を収めさせる例が頻発した{{sfn|奥富敬之|2019|Kindle版、位置No.全180中 134-135/ 80%}}。
しかし、[[百姓]]身分や[[町人]]身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然ながら「家名」を有した。こうした百姓や町人の「家名」は私称の「名字」と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は「名字」を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。
町人には、[[大黒屋光太夫]]など[[屋号]]を「名字」のように使う例も見られた。東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった[[家長]]が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の「名字」と組にして用いた。
==== 通称(仮名、字、号、百官名、東百官、受領名) ====
{{main|通称|仮名 (通称)|字|号 (称号)}}
中国、[[朝鮮]]、日本、[[ベトナム]]など[[漢字文化圏]]では、人物の本名、[[実名]]である「[[諱]](いみな)」はその人物の霊的な人格と強く結びつき、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられた。そのため「諱」で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の「諱」を呼ぶことは極めて無礼とされた([[実名敬避俗]])。これを貴人に対して実践したものが「[[避諱]](ひき)」である。特に皇帝とその祖先の「諱」については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその「諱」あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。中国などでは「避諱」によって、使用する漢字を避けて別の漢字を充てる「[[偏諱]]」が行われた。
日本においては「[[通称]]」や「[[仮名 (通称)|仮名]](けみょう)」が発達した。一方で、律令期に遣唐使の[[菅原清公]]の進言によるとする「諱」への漢風の使用が進められ、これに貴人から臣下への恩恵の付与、血統を同じくする同族の証として「[[通字]]」も進んだ。後述の「諱」を参照。
男性の場合、こうした「通称」には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(輩行)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの「官職」の名がよく用いられた。後者は自らが官職に就いているときだけではなく、父祖の官職にちなんで名付けることが行われた。[[北条時頼]]の息子[[北条時輔|時輔]]は、父が相模守であることにちなんで「相模三郎」と称し、さらに「式部丞」の官職について「相模式部丞」となり、さらに式部丞を辞して[[叙爵]]されて「相模式部大夫」と称した。このような慣行に加えて、時代が下ると正式な任命を受けずに官職を僭称することが武士の間に一般化し、江戸時代には、武士の官職名は実際の官職とは分離された単なる名前となった。[[島津斉彬]]は正式には「松平薩摩守」を名乗ったが、当時は「薩摩守」はあくまで「通称」と捉えられ、斉彬の「官職」といえば「左近衛権中将」を指した。この趨勢は、ついには一見すると官職の名に似ているが明らかに異なる[[百官名]](ひゃっかんな)や[[東百官]](あずまひゃっかん)に発展した。
女性の名前は、庶民が[[氏]]を名乗っていた中世前期までは、[[清原氏]]を名乗る[[凡下]]身分の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらのうじのにょ)などと記された。氏は中国と同様に父系の血統を表現する記号であったから、婚姻後も氏が変更されることは本来はありえなかった。官職を得て出仕するような地位を得たとしても「式部」([[紫式部]])や「少納言」([[清少納言]])のように「通称」で呼ばれた。これらは「[[女房名]]」と呼ばれる。「清少納言」という呼び名は、父[[清原元輔]]が少納言であったことにちなむ女房名「少納言」に、ほかの「少納言」と区別するために清原氏出身であることを示す「清」を添えたものである。
宮、御屋形様、大殿、大御所、[[政所]]、[[御台所]]や、[[太上天皇|上皇]]や[[女院]]の院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだことに由来する通称である(詳しくは[[仮名 (通称)]]の頁を参照)。
明確に「避諱」を目的とするのではなく、[[隠居]]時や人生の転機などに、名を'''[[号 (称号)|号]]'''と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:[[島津義久]]の「龍伯」、[[穴山信君]]の「梅雪」、[[細川幽斎|細川藤孝]]の「幽斎」など)。この風習は芸能関係者にも広まり、画家・[[書家]]や文人の'''[[雅号]]'''も広く行われた。[[狩野永徳]]、[[円山応挙]]等の'''[[画号]]'''、[[松尾芭蕉]]、[[与謝蕪村]]のような'''[[俳号]]'''、[[上田秋成]]、[[大田南畝]]のような'''[[ペンネーム|筆名]]'''も広く行われた。中には、[[曲亭馬琴]]や[[十返舎一九]]のように諱と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の[[芸名]]や[[俳名]]、[[源氏名]]などの習慣につながっている。
==== 諱(本名、実名) ====
{{main|諱|実名}}
個人名である「[[諱]](いみな)」は、公家武家を問わず、[[通字]]を用いる習慣が見られる。鎌倉[[北条氏]]の「時」、[[足利氏]]の「義」、[[武田氏]]や[[織田氏]]の「信」、[[後北条氏]]の「氏」、[[徳川氏]]の「家」、[[伊達氏]]の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ諱を称する「先祖返り」という習慣もあった。これは[[伊達政宗]]が有名である。
先祖や創始者の諱を代々称する武家もあった。これは、[[市川團十郎]]・[[中村歌右衛門]]のような[[歌舞伎]]役者や[[笑福亭松鶴]]・[[柳家小さん]]などの[[落語家]]などで名人とされた人の名を[[襲名]]する習慣や、上記のような商人の屋号の継承([[茶屋四郎次郎]]など)という形で庶民にも広がった。
武家では、主君の諱の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを「[[偏諱]](へんき・かたいみな)」と言う。有名な例では[[足利尊氏|足利高氏]]は[[北条高時]]の一字を拝領し、鎌倉幕府が滅んだ後に[[後醍醐天皇]](名が尊治)の一字を拝領して足利尊氏に改名した。主君のほか、[[烏帽子親]]の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏の[[烏帽子親]]でもある)。
偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。[[豊臣秀吉]]の場合、前者に[[小早川秀秋]]、[[宇喜多秀家]]、後者に[[田中吉政]]、[[堀尾吉晴]]、[[大谷吉継]]がいる。
偏諱の授与によって、[[改名]]を繰り返した例もある。[[上杉謙信]]は、元服時の'''長尾景虎'''(景は[[長尾氏]]の通字)→'''上杉'''景虎([[関東管領]][[山内上杉家|山内上杉氏]]から姓を授かる)→上杉'''政'''虎([[上杉憲政]]の偏諱)→上杉'''輝'''虎([[足利義輝]]の偏諱)→上杉'''謙信'''(出家による[[戒名]])と目まぐるしい。
江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある([[島津氏]]、[[伊達氏]]など)。
諱は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が諱を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の[[吉井友実]]が父の諱「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、[[戸籍令]]以降は「[[西郷隆盛]]」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。
[[在家]]の者の諱に対し、僧侶や[[出家]]した者は'''[[戒名]]'''を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに'''[[法号]]'''を付けることもあった。[[一休宗純]]は、一休が法号、宗純が戒名である。<br />
出家するということは、[[俗世]]との[[縁]]を絶つということを意味したため、世俗の名字や諱を捨て、仏門の[[戒律]]を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。
==== 命名法と読み ====
[[ファイル:Azumakagami 04.jpg|thumb|『[[吾妻鏡]]』古活字本寛永版・[[林羅山]]の跋文。出家した後の号「道春(どうしゅん)」の名が書かれている]]
[[ファイル:minamotokiyomaro.JPG|thumb|宗福寺にある[[源清麿]]の墓。[[戒名]]が大きく刻まれ、その下に俗名として本名の「山浦環」が刻まれている。「源清麿」の名前は刀名として刻まれている。]]
歴史をさかのぼり、過去をひもとくと、封建時代の[[イエズス会]]士[[ロドリゲス]]の記録([[日本語]]小文典)によれば、「高貴な人は[[仮名]](かりな)の他、[[実名]]([[名乗り]])も命名されていた」という<ref>ロドリゲス『日本語小文典(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年140頁</ref>。ここで「仮名」とは、のちに[[官職]]を得て、その官職名([[百官名]]、[[受領名]])を名乗ることができるまでの間の仮の名である<ref>ロドリゲス『日本語小文典(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年129頁</ref>。
また、「[[実名]]」の命名にあたっては、「漢字2文字の4音節」で、上下の語ともに特定の82種の語中から選択されたという<ref>ロドリゲス『日本語小文典(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年143頁</ref>。
(官職者・人名一覧の記載された歴史書は、このような命名法の参考資料となると思われる<ref>一例を挙げれば東京学芸大学日本史研究室 編『日本史年表』東京堂出版、1984年、486~506頁、これには歴代の江戸幕府の老中や勘定奉行などの一覧表がある。
</ref>。)
漢字には複数の読み方があり、「美」を「はる([[昭憲皇太后|美子(昭憲皇太后)]])」や「よし([[三条公美]])」・「とみ([[三条実美]])」と読んだりするような人名のみで用いられる特殊な読み方も多い。このため歴史上の人物の名の正しい読み方が不明であったり、議論となることもある。[[最上義光]]は当初、名は「よしみつ」もしくは「よしてる」と読まれていたが、妹の[[義姫]]に宛てた手紙が近年発見され、その手紙で自身の名を「よしあき」と[[平仮名]]で書いていたため、ようやく正しい読みが判明したという事例もある。また字が異なるが同じ読みの文字が当て字として使用されることや、同じ漢字を用いた親族などで読み方が類推されるなどの例もある。
しかしこのような類推できる史料がない人物も多い。[[藤原明子]]や[[藤原彰子]]、[[明石全登]]など、読み方に諸説ある人物も多い。[[僧侶]]の戒名(法名)は原則的に音読みであるため類推は行いやすいが、[[公暁]](くぎょう・こうぎょう)のように異なる解釈が行われる例もある。近代の人物でも、[[徳川慶喜]]は将軍就位後に「よしひさ」と読むという布告を発しているが、現在でも主流となっている読まれ方は「よしのぶ」である。このため、徳川慶喜→「けいき」のように読み方が不明である人名を[[音読み]]することもしばしば行われる。
[[和歌]]の世界では、[[藤原俊成]](としなり・しゅんぜい)や[[藤原定家]](さだいえ・ていか)、[[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]](いえたか・かりゅう)のように、本来訓読みである人名を[[符牒]]として音読みで読み慣わすことがあり、これは[[有職読み]]・故実読みなどと呼ばれる。
==== 女性の名 ====
女性は諱が記録に残ることが少なく、後世でも通称でしか知られず実名が不明のままとなっている例が多い。[[源頼朝]]の正室である[[北条政子]]は正式な実名が明らかになっておらず、豊臣秀吉の正室[[高台院]]もその本名には論争がある。これらの高位に列した女性は、位記では本姓と諱を用いて「平政子」や「豊臣吉子」と表記されるが、父や夫の一字を用いたあくまで公式用の名前である。
朝廷や貴人に仕える女性は[[女房名]]で呼ばれる([[祐子内親王家紀伊]]、[[今参局]]、[[春日局]])。後世においては生家の名字や本姓を用いた呼称([[三条の方]])、在所などに由来する名([[淀殿]]、[[築山殿]])が用いられる。貴人の正室や生母に対しては[[大政所]](摂関母)や[[北政所]](摂関妻)、[[御台所]]([[大臣]]・[[征夷大将軍]]正室)などの敬称が用いられ、[[側室]]や娘にたいしてもそれぞれの敬称が用いられることもあった。
江戸期の女性の名の例を[[大田南畝]](蜀山人)の随筆「半日閑話・女藝者吟味落着」から引用する<ref>大田 覃「半日閑話」吉川弘文館(日本随筆大成 巻4)、1927年,725~727頁</ref>。(50音順にした。)
(あ行)長助娘いと、助七娘いと、甚之助妹いね、孫兵衛姪いよ、平七娘うた。
(か行)寅吉娘かつ、小助娘かよ、十次郎従弟女きち、喜右衛門娘きち、藤五郎娘きの、五郎娘うた事こと。
(さ行)文六娘さと、藤兵衛娘しほ、長八娘せん、権右衛門娘そめ。
(た行)善蔵姉たか、藤助娘たみ、八右衛門娘たよ、十次郎従弟女ちよ、源八娘ちを、権右衛門姪つる、鉄次郎姉つる、 武兵衛娘でん、清九郎娘とき、新兵衛妹とみ、佐兵衛娘とみ、助八娘とよ。
(な行)磯治郎娘なみ、金次郎従弟女なみ、小三郎妹なを。
(は行)清八娘はつ、大吉娘はな、半兵衛娘はま。
(ま行)宇右衛門娘まさ、新右衛門姪みよ、半七姪みよ、伝兵衛妹みわ、平吉妹みを、藤次郎娘もよ。
(や行)新八姉よし。
(ら行)孫兵衛方に居候りう。
その他、現代ではあまり見聞きしなくなったものに、ても(熊本民謡の「おてもやん」)、うし(牛が食べ物ではなかった時代)、かめ(大田南畝のつると同様、長寿を意味する名前)、とら(寅年生まれか)、などがある。
==== アイヌの人の名前 ====
{{see also|アイヌ名|アイヌの歴史|アイヌ文化|アイヌ語}}
[[北海道]]、[[樺太]]、[[北方地域|北方領土]]、[[千島列島]]の先住民族である[[アイヌ]]は、今でこそ彼らが居住する地域の大勢を占める日本式の姓名を名乗っている。しかし、[[幕末]]までは民族の伝統に即した命名のもとに人生を送っていた。また、チュプカ諸島([[新知郡]]・[[占守郡]])の[[千島アイヌ]]も伝統を保っていたが、[[18世紀]]にロシアに征服され支配下に置かれた後はロシア式の姓名を名乗っていた。
生まれて間もない赤子には正式の名前を付けず、泣き声から「{{lang|ain-Kana|アイアイ}}」、あるいは「{{lang|ain-Kana|テイネㇷ゚}}」(濡れたもの)、「{{lang|ain-Kana|ポイソン}}」(小さな古糞)、「{{lang|ain-Kana|ションタㇰ}}」(糞の固まり)など、わざと汚らしい名前で呼ぶ。死亡率が高い幼児を病魔から守るための配慮で、きれいなものを好み、汚いものを嫌がる病魔から嫌われるようにとの考えである。あるいは「{{lang|ain-Kana|レサク}}」(名無し)など、はじめから存在しないことにして病魔を欺く。
ある程度成長して、それぞれの個性が現れ始めると「本式」の名前がつけられる。「{{lang|ain-Kana|ハクマックㇽ}}」(あわて者)、「{{lang|ain-Kana|クーカㇽクㇽ}}」(弓を作る者)、「{{lang|ain-Kana|クーチンコㇿ}}」(弓と毛皮干しの枠を持つ者)、「{{lang|ain-Kana|ムイサシマッ}}」(掃く女)、「{{lang|ain-Kana|キナラブック}}」(蒲の節をいじる者)、「{{lang|ain-Kana|タネランケマッ}}」(種まき女)、「{{lang|ain-Kana|イウタニマッ}}」(杵の女)、「{{lang|ain-Kana|カクラ}}」(ナマコのように寝転ぶ)、「{{lang|ain-Kana|カムイマ}}」(熊の肉を焼く)など。
また、病弱な子供や並外れて容貌に優れた子供は、綺麗なものを好むという病魔から嫌われるよう、神に見込まれて天界に連れて行かれる=死ぬことのないよう、幼児と同じように汚らしい名前をつける。「{{lang|ain-Kana|トゥルシノ}}」(垢まみれ)、「{{lang|ain-Kana|エカシオトンプイ}}」(爺さんの肛門)などの例がある。このような例は、諸民族においても珍しい事例ではなく、例えば日本では[[源義経|牛若丸]]など武士の子の幼名に頻繁に使われた「丸」という字は、古来、糞を意味していた。また、中国でも[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]は、魔除けのために「彘(てい:[[ブタ]]の意)」という幼名を付けられた。
妻は夫の名前を呼ぶことが許されず、すでに死んだ人間の名を命名することは不吉とされ、他人と似た名はその人に行くはずの不幸を呼び込むものとされていたので、とにかく人と違う、独創的な名前を命名するよう心がけていた。また、大きな災難に遭遇したり、似た名前の者が死んだりした場合は「名前が災難に好かれた」との考えから、すぐに改名した。そのためアイヌ民族には「太郎と花子」「ジョンとエリザベス」のような、「平凡な名前」「民族を代表する名前」が存在しない。
日本においては明治初期になると[[戸籍法]]や[[平民苗字必称義務令]]の浸透から、アイヌもそれまでの名前を意訳、あるいは漢字で音訳した「日本式の姓」を名乗るようになったが、「名前」は明治中期までは、それまでのアイヌ語式がかなりの例で受け継がれていた。戸籍に名を記入する際は、アイヌ語の名前を見ただけでは男女の区別がつきかねる[[和人]]のために、男性は[[カタカナ]]で、女性は[[ひらがな]]で記入されていた。
==== 沖縄の人の名前 ====
[[ファイル:Letter of Kanamaru.jpg|thumb|300px|[[琉球王国|琉球国]][[尚円王|金丸]]世主書状(1471年)。左端に、尚円王の即位以前の名「金丸」が署名されている。]]
{{see also|沖縄県の名字|沖縄県の歴史|琉球の位階|第二尚氏#尚氏と向氏|奄美群島の名字}}
史料から見る限り、[[1392年]]に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、[[第一尚氏|第一尚氏王統]]が成立するまでの王名を始めとする人名のほとんどは「[[琉球語|琉球語/琉球方言]]」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。[[尚巴志王]]が[[三山時代|三山]]を統一し[[明]]に[[朝貢]]すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名(からなー)」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。
これに対し、[[第二尚氏|第二尚氏王統]]成立後、士族はその采地(国王より与えられた領地)の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」(前節の「諱」に相当、ただし全て[[音読み]]で読まれる)を持つことが普通になると、「采地名」+「位階称号」+「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名(やまとぅなー)」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」(苗字)の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった(王の[[世子]]は[[中城村|中城]]を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない)。また、それまでつけられていた「琉球語/琉球方言」による名は「童名(わらびなー)」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。
このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている(主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる)。例えば[[羽地朝秀]](唐名:向象賢)は「大和名」が、[[蔡温]](大和名:具志頭文若)は「唐名」の方が通用している。
[[薩摩藩]]の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名(したがって「采地名」)の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。
琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄県にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」(「采地名」+「名乗り」)を戸籍名としたが、[[尚泰王]]のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは(「采地名」をもっていても)「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家(伊江家、今帰仁家など)では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。
その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを[[標準語]]に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。
[[先島諸島]]においても、[[尚真王]]による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの([[石垣島]]の平久保加那按司)、名だけが伝えられているもの(石垣島の[[オヤケアカハチ]]、[[与那国島]]のサンアイイソバなど)など、独特のものがある。
<!-- === 稲取市 ===
静岡県、東伊豆の[[稲取]]地区では、お互いを(戸籍上の名前よりも)数代前の先祖の生業にちなんだ「コメヤ」「サカナヤ」などの[[屋号]]で日常的に呼ぶ文化があり、各家の玄関にもそれが掲げられている。戸籍上の名字は「太田」の人の割合が多くこれでは区別がつかないこともあり、この文化が根付いている。世代を重ねるうちに商売替えした家も多く、「サカナヤ」さんが米屋をやっていたり、「コメヤ」さんが床屋をやっている、という部外者からは紛らわしく可笑しいことも起きている<ref>「[[スクール革命!]]」調べ。2012年2月5日放送。</ref>。稲取市は存在しない上、このような風習は日本各地の農漁村部に見られる。一旦コメントアウト -->
=== 近現代 ===
{{Main2|現行の法制度における「氏名」についての法制度については[[氏名]]を}}
[[ファイル:Meiji Kenpo03.jpg|thumb|400px|[[大日本帝国憲法]]の[[上諭]]。右ページの[[御璽]]の上方に「睦仁」と、[[明治天皇]]の「名」(諱)が自署されている。また、左ページには、国務大臣の官名と爵位に続けて、「氏名」が自署されている。]]
[[ファイル:Imperial rescript of the Diet establishment.jpg|thumb|right|200px|[[国会開設の詔]]。[[太政大臣]][[三条実美]]の署名がある。]]
[[明治維新]]によって新政府が近代国家として[[国民]]を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば[[夏目漱石]]の戸籍名である夏目金之助は通称系、[[野口英世]]は諱系の名である。
日本人の名前は、法律上、原則として「[[氏]]」(うじ)と「名」(な)との組み合わせから成る「氏名」(しめい)で呼称され{{efn|多くの日本人は、[[ミドルネーム]]を持たない。そのため、ミドルネームは、「名」の一部とするか、[[通称]]としての使用にとどまる。}}、[[戸籍]]上「氏」「名」で記録される。「氏」は[[民法]]の規定によって定まり(民法750条、810条等)、「名」は[[戸籍法]]に定める[[出生届]]に際して定められる(戸籍法29条柱書、50条、57条2項等)。「氏」は現代においては姓(せい)または苗字・名字(みょうじ)とも呼ばれ、古くは一定の身分関係にある一団の、近代以降は[[家族]]の人間の共通の呼称として、個人がその集団に属することを示す。「名」はさらにその集団の中の個人を示す役割を果たしている<ref>金子宏・新堂幸司・平井宜雄編『法律学小辞典』(第4版補訂版)、有斐閣、2008年。</ref>。
日本人の氏名を含む身分関係(家族関係)は、戸籍に登録される。例外として、[[天皇]]及び[[皇族]]の身分関係は、戸籍ではなく[[皇統譜]]に登録される([[皇室典範]]26条)。また、天皇及び皇族は、「氏」を持たない。これは歴史的に氏や姓が身分が上の者から与えられるものだったためである。
==== 氏 ====
{{main|氏}}
===== 氏の種類 =====
氏の種類は、30万種を超えるとされている<ref>丹羽基二編『日本苗字大辞典』、芳文館出版部、1996年。</ref>。氏の多くは2文字の漢字から成っており、人数の多い上位10氏はすべて漢字2文字から成る<ref name=dousei>[http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/news/release/2008/pdf/20080924.pdf 全国同姓調査]、明治安田生命、2008年。</ref>。
また氏の多くは地名に由来するため、地名に関する漢字を含むものが多い。
* 1文字:[[林氏|林]]、[[森氏|森]]、[[原氏|原]]、[[関氏|関]]、[[東氏|東]]、[[辻 (人名)|辻]]、[[堀氏|堀]]、[[岡 (曖昧さ回避)|岡]]、[[南氏|南]]、[[西 (曖昧さ回避)|西]]など
* 2文字:[[佐藤氏|佐藤]]、[[鈴木氏|鈴木]]、[[齋藤氏|齋藤]]、[[高橋氏|高橋]]、[[田中氏|田中]]、[[渡辺氏|渡辺]]、[[伊藤氏|伊藤]]、[[中村氏|中村]]、[[小林 (曖昧さ回避)|小林]]、[[山本氏|山本]]、[[加藤氏|加藤]]など
* 3文字:[[佐々木氏|佐々木]]、[[長谷川氏|長谷川]]、[[五十嵐 (曖昧さ回避)|五十嵐]]、[[久保田 (曖昧さ回避)|久保田]]、[[大久保氏|大久保]]、[[小野寺氏|小野寺]]、[[佐久間氏|佐久間]]、[[小笠原氏|小笠原]]、[[宇佐見氏|宇佐見]]、[[大和田 (曖昧さ回避)|大和田]]など
* 4文字:[[勅使河原 (曖昧さ回避)|勅使河原]](てしがわら)、[[小比類巻 (曖昧さ回避)|小比類巻]](こひるいまき)、[[長宗我部氏|長宗我部]](ちょうそかべ)など
* 5文字:[[勘解由小路]](かでのこうじ)、[[左衛門三郎]](さえもんさぶろう)など
: ※1文字から3文字の氏は、人数の多い順<ref name=dousei/>。読み方は代表的なものを記載。
海外からの移民を除き、基本的に日本人の氏は漢字である。
氏の大半は[[地名]]に基づいている(この理由を17世紀の[[イエズス会]]士[[ロドリゲス]]は「[[日本語小文典]]」のなかで、「名字(苗字のこと)は個々の家が本来の所有者として、所有している土地に因んでつける」と記述している<ref>ロドリゲス『日本語小文典(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年155頁</ref>。)。このため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎など、地形や地勢を表す漢字、植物や道に関するものなど及び方位を含む氏が多数を占める。色彩の一字のみで表される氏(白・黒・赤・青・黄など)はあまり存在しないが「緑」氏や「金」氏(ただし読みは「こん」)の例はあるほか在日コリアンに「白」氏がいる([[緑健児]]、[[金易二郎]]、[[白仁天]])。
===== 氏の取得と変動 =====
{{see also|夫婦別姓}}
{{単一の出典|section=1|date=2023年3月}}<!-- お察しのとおり、字面通りの単一の出典ということではありません。この節の出典が、行政および議会と「笹川あゆみ」だけというのは、Wikipediaとして違和感があるということです。 -->
現在、日本では氏の取得と変動は民法の規定によって定まる。[[夫婦]]は、[[結婚|婚姻]]の際に定めるところに従い、[[夫]]又は[[妻]]の氏を称する(民法750条)。[[嫡出]]である子は父母の氏を称し、[[嫡出でない子]]は母の氏を称する(民法790条)。また、[[養子]]は養親の氏を称する(民法810条)。
この法では、夫婦の「氏」は夫婦が互いの氏から自由に選べる。しかし慣習的に多くの夫婦は、夫の氏を選択している(2005年度(平成17年度)の1年間に婚姻した夫婦を対象とする調査によれば、全体の96.3%の夫婦が夫の氏を選択した<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/konin06/konin06-2.html#2-8 平成18年度「婚姻に関する統計」の概況、「夫の氏・妻の氏別婚姻」]、厚生労働省、2007年。</ref>)。これは1948年(昭和23年)の改正前民法(家族法)に見られるように、婚姻を妻が夫の「家」に入ると考える([[家制度]])と、全ての「家」の構成員が、夫を筆頭とする「家の氏」にまとめられるという、男系家制度の慣習を反映している。婚姻又は養子縁組によって氏が変更があると、もとの氏を「[[旧姓]]」という{{efn|英語では、女性に限り結婚以前の姓を「[[:en:Married and maiden names|maiden name]]」と言う。}}。
なお、[[夫婦同氏]]制(夫婦同姓)については、1996年(平成8年)に[[法制審議会]]が出した「民法改正案要綱」<ref>[https://www.moj.go.jp/SHINGI/960226-1.html 民法の一部を改正する法律案要綱]、平成8年2月26日法制審議会総会決定。</ref>で、選択的夫婦別氏制度([[夫婦別姓]])が定められたことをきっかけに、その賛否が論じられている。東アジアにおける中国、朝鮮半島、インドでは、伝統的に夫婦別姓であった。タイは名字を用い始めたのは20世紀以降であり、その際には妻は夫の姓を称することが義務付けられていた{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=195}}。ドイツやタイでは夫婦同氏を義務としていたが、憲法違反であるとして改正されている{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=195}}。現在では、日本以外の国家はすべて夫婦別姓を取ることが可能であり、夫婦同姓のみを義務とする国家は日本のみとなっている。日本では、職業やその他の理由によって、夫婦の片方が旧姓を通称として名乗り続けることがある。2011年に[[最高裁判所]]は夫婦同姓義務は憲法違反ではないという判決を下しているが、別の姓を称することをまったく認めないことに合理性はないという少数意見も出された{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=191-192}}。
ヨーロッパでは姓を夫婦で共通する義務規定はなかったもの、夫の姓にあわせることが多数派であった{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=194}}。1995年の調査では、ドイツ、イギリス、オーストリア、フランス、アイルランドでの9割の既婚女性は夫の姓を称していた{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=194}}。フランスは、1794年の婚姻法で生まれた時の姓を称するよう定めているが、実際には婚姻後の女性は夫の姓を名乗ることが多かった{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=194}}。これは通称の姓({{Lang-fr-short|nom d'usage}})として名乗ることが慣例であった。現代のフランスでも、配偶者の姓(あるいは自分の姓と相手の姓をハイフンで合わせた複合姓)をnom d'usage{{efn|Nom marital(婚姻姓)とも呼ばれる。}}として称することができる。イタリアやスペインでは夫の姓を名乗る割合が低いが、イギリスでは14世紀頃から妻が夫の姓を称することが始まり、2014年の調査でも50%の女性が夫の姓を称している{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=194}}。
アメリカでは夫婦同姓を強制する法律はなかったが、結婚改姓しない女性は社会的に非難されていた。女性運動家である{{仮リンク|ルーシー・ストーン|en|Lucy Stone}}は1855年に結婚した際、夫の同意を得て結婚後も夫の姓にしなかったが、土地購入の際には夫の姓でサインすることを求められたという{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=193}}。1920年には{{仮リンク|ルーシー・ストーン同盟|en|Lucy Stone League}}が結成され、自らの姓をアイデンティティとする活動を行い、1972年には女性が生来の姓を使用する権利が裁判所で認められた{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=193-194}}。1970年の[[ニューヨーク・タイムズ]]の調査では結婚改姓を行わない女性の割合は17%であり、1980年に14%、1990年に18%となっている。また別の調査では2000年に26%、2014年は29.5%となっているものもある{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=194}}。
日本と諸外国の違いは、選択の有無ではなく、家族の姓の統一を重視して夫婦と子を同姓にするかそれとも出生から死亡までの個人の姓を重視するか、あくまで本名の姓に関する考え方の違いである。これは、異なる文化・歴史的背景が国民の身分の在り方に影響しているといえる。またアメリカにおいては、結婚時に改姓をする女性は「人に依存する傾向があり、志が低く、あまり知的ではない」という逆の偏見が研究者や社会にもあるという指摘も行われている{{sfn|笹川あゆみ|2019|p=195}}。
一方で、日本では通称としての旧姓に関して、旧姓使用の可否に関する明確な規範がまだないという課題が残っている。もっとも、およそ令和期に入ってからは旧姓を身分証(運転免許証、個人番号カード、パスポートなど)に併記することが可能になったことから、旧姓が通用しない日常的場面がすでに減ってきている。
==== 名 ====
新生児が生まれたときには、14日以内(国外で出生があったときは、3ヶ月以内)に届け出なければならず(戸籍法第49条)、事実上、新生児の名はこの[[出生届]]のときに定められる。子の命名において使用できる文字には制限が設けられている(戸籍法50条1項、戸籍法施行規則60条参照)。人名については固有の読み方をさせる場合があるが、法的な制限はない(→[[人名訓]])。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものや[[当て字]]なども許容される(例:風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」など)。 また、文字数にも制限はない。[[皇族]]の場合、生後7日(御七夜)を迎えた時に[[命名の儀]]が行われ、命名される。
(同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名を付けることはできないが、同じ読み方の名を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない。)
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男性の名には「健」「隆」「雄」「宏」「俊」など力強さや雄大さを連想させる文字がよく使われ、3文字では「~オ」「~キ」「~タ」「~シ」「~ジ」「~ト」「~マ」「~ヤ」「~ゴ」などと続く名前が多く、「~スケ」「~ヒロ」「~ユキ」「~アキ」「~ヒコ」「~ヘイ」「~ヒサ」「~ノリ」「~タカ」「~ノブ」「~フミ」「~タロウ」「~イチロウ」などのように平仮名で4文字以上になる名前も少なくない。漢字一文字の名前も多く、訓読みでは「ユタカ」「アキラ」「ヒロシ」「オサム」「サトル」「ハジメ」「マコト」などがあり、近年では音読みによる「リョウ」「ショウ」「ケン」などと言った名前が好まれている。尚、生まれた順番に、男性を意味する字である郎・朗を付けて「一郎(太郎)」「二郎(次郎)」「三郎」などとすることは昔に比べ少なくなったが、一番になって欲しいという願いから「~一」と名付けたり、[[姓名判断]]などから縁起を担ぎ、前の字に漢数字を付して「~二」などとすることは現在でも散見される。その一方で、「~衛門」「~兵衛」「~丸」「~吉」「~麿」といった名前は姿を消しつつある。
女性の名には「優」「恵」「愛」「友」「里」など優しさや可愛らしさを連想させる文字がよく使われ、「~コ」を筆頭に、「~ミ」「~カ」「~ナ」「~エ」「~ヨ」「~リ」と続く名前が多く、他に特徴的な語尾として「~イ」「~ノ」「~ホ」「~キ」「~サ」「~ネ」などが見られる。ただし、昨今は「~子」で終わる名前が少なくなってきているとも言われ、1990年の時点で20年前と比較して約19%減少したと報道されたとされる。特に[[新人類#特徴|新人類ジュニア]]以降は「〜子」が少なく、「~カ」「~ミ」「~ナ」「~リ」で終わる名前が多いという傾向がある。また、「桜」「桃」「梨」など花の名前も好んで使われる。そして、女性名では漢字の煩雑さを嫌い、平仮名の軟らかさを好んで名前が平仮名で登録される場合も多い(一方、男性では平仮名のみの名前は[[渋谷すばる]]([[関ジャニ∞]]メンバー)など、僅かながらあるものの普通は滅多に見られない)。また、名前が男性に比べて短く、仮名で4文字以上となるケースは極めて稀である。
一方で、『ユウキ』『ヒロミ』『カズミ』『カオル』『ヒカル』『トモ』『ユウ』など、男女両方に使われる名も少なからずある。最近では、旧来は女性名とされてきたものが男性に使用される場合や、『アキラ』『マコト』『ヤマト』『ミツル』のように男性名とされてきたものが女性に使われる場合もある。また、『レオナ』(ノーベル賞受賞者の[[江崎玲於奈]]の影響)『カオリ』『チヒロ』『チアキ』など女性的に見える名前が男性に付けられることもある。例えば、[[蘇我馬子]]・[[小野妹子]]・[[平国香]]・[[正親町三条実愛]]・[[一条忠香]]([[明治天皇]]の岳父)などの歴史上の人物、田沼則子([[三木のり平]]の本名。「ノリコ」ではなく「タダシ」と読む)・[[渡邉美樹]]([[ワタミ]]社長)や、[[吉田照美]](フリーアナウンサー)のように美」を付ける男性もいる(「ミ」ではなく「ヨシ」と読む場合も多い)。特に「〜美」は男女が非常に判り辛い(特に[[団塊の世代|団塊世代]]以上の年配者においては)。これら『子』や『美』が男性に使われることがあるのは、『子』の字が男性の美称でもあることに由来し(なお、現在も男性に使われている『彦(ヒコ)』は、男性の美称の一つである『日子(ヒコ)』に由来)、『美』の字が「大きな羊」という意味から作られた字であることに由来している。[[亀井静香]]や[[西松遙]]といった明らかに女性にしか付けないような名の例もある。
また、元々は外国の人名であるものに漢字を当てた名前も多い。『レオ』『サラ』などは近年になって使われ出した名前だが、『ジョウジ(ジョージ)』『ナオミ』『エリカ』『リサ』『マリ』などは、今や日本人名として広く定着している。
--><!--「最近」や「昔」などの表現は使わず具体的な時期を明記してください。また、男女の冒頭の「よく使われ、」は、「いつ以降」「いつ頃」なのかも明記してください。-->
==== 氏名の読み・表記・呼び方 ====
; 氏名の「読み」と表記
氏・名のどちらも、比較的独自の語彙があるため、ある人の氏名を聞いて、それが人の氏名とわかるのが普通である。また、氏か名かいずれかを聞いた場合、「ゆうき」「しょうじ」「はやみ」「わかな」「はるな」「よしみ」「あいか」「まさき」「とみお」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい(これは、例えば英語でRyan, Douglas, Scottのように氏にも名にも用いられる語がかなり多くの人名に使われていることと対照的である)。
しかし、氏名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みの漢字がたくさん存在するという日本語の特徴のためである。また、漢字で書かれた氏名から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方(難読人名)であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい(例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある / 字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する)。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に[[振り仮名]]の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段は少ない。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためである。
; 名前の呼び方
人が互いを呼び合う際には、氏と名の全て(フルネーム)を呼ぶことは多くない。あだ名や、氏・名に「さん」「ちゃん」などの呼称を付け、あるいは、肩書きや続柄に関する呼称、二人称代名詞、まれに'''[[あざな|字]]'''(あざな)などを用いることが多い。また、親しくない相手に、名のみで呼びかけるのは失礼との考えを持つ人が少なくない。
一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。
; 英語表記
2000年には[[国語審議会]]が「言語や文化の多様性を生かすため名字を先にするのが望ましい」とする答申を出したが、理工系の研究者の論文やサッカーの登録選手名などを除くと広まっておらず、政府機関でも名→姓の表記が続いていることから2019年には[[柴山昌彦]]文部科学大臣が関係機関に対し姓→名の表記を要請した<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190521/k10011923541000.html?utm_int=all_side_ranking-access_004 柴山文科相「氏名の英語表記は名字を先に」] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。2019年10月25日、『[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/seimei_romaji/pdf/moshiawase.pdf 公用文等における日本人の姓名のローマ字表記について]』が首相官邸から交付され、2020年1月1日より公文書等における日本人の姓名の[[ローマ字]]表記は姓→名となった。例えば、「安倍晋三」はローマ字表記で「Shinzo Abe」ではなく「Abe Shinzo」となる。
=== 戒名 ===
{{main|戒名}}
日本人の多くは、死亡すると、[[仏教]]式の[[葬儀]]を行い、[[戒名]](法名{{efn|[[浄土真宗]]では[[授戒]]がないため[[法名 (浄土真宗)|法名]]という。}})を付ける。戒名とは、仏門に帰依して[[授戒]]した出家・在家の者に与えられる名で、多くは僧侶が与える。戒名の形式はそれぞれの宗派によって異なる(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○など)。
== 漢字文化圏の名前 ==
{{see also|漢字文化圏|東アジア}}
=== 中国人の名前 ===
{{main|{{仮リンク|中国人の姓名|en|Chinese name|simple|Chinese name}}}}
[[ファイル:Yuan Shikai sign.jpg|thumb|[[袁世凱]]の署名]]
{{see also|漢姓|氏 (中国)|字}}
中国人の名前は漢字一字(まれに二字)の[[漢姓]]と、一字か二字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字([[輩行字]])」「子に特有の漢字」という順に表記される(現在では輩行字に従わない命名もある)。例えば{{lang|zh|[[毛沢東]]}}には2人の弟がおり、それぞれ{{lang|zh|毛沢民}}、{{lang|zh|毛沢覃}}という名であったが、この3人に共有されている「{{lang|zh|沢}}」が輩行字である。まれに輩行字と特有の漢字は逆になる場合もある(例えば{{lang|zh|[[蔣経国]]}}と{{lang|zh|[[蔣緯国]]}})。漢字一文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の[[部首]]を持つ字のみを名付けることがある。たとえば「[[紅楼夢]]」の主人公賈宝玉の父の名は賈政であるが伯父の名は賈赦、賈政と同世代の親族の一人は賈敬である。元来姓は父系の血統を示すので原則としては[[夫婦別姓]]であるが、現代の中国や台湾では、男女平等の観点から、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗ることも選択可能なことが法律で保証されている。夫の姓に続けて自分の姓を書く(従って漢字四文字になる)場合もある。二文字の姓('''複姓''')もあり、{{lang|zh|諸葛}}・{{lang|zh|上官}}・{{lang|zh|欧陽}}・{{lang|zh|公孫}}・{{lang|zh|司馬}}などが有名である。
また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。{{lang|zh|[[周]]}}の代には王「「{{lang|zh|周}}」の一族は「{{lang|zh|[[姫 (姓)|姫]]}}」、太公望「{{lang|zh|[[呂尚]]}}」の子孫である「{{lang|zh|[[斉 (春秋)|斉]]}}」公の一族は「{{lang|zh|姜}}」、後に[[始皇帝]]を出した「{{lang|zh|[[秦]]}}」公の一族は「{{lang|zh|嬴}}」といった姓を持ったが、これは[[漢族]]形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が氏であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった「{{lang|zh|[[韓 (戦国)|韓]]}}」氏は「{{lang|zh|姫}}」姓であって{{lang|zh|周}}の族長層に出自するが、氏は「{{lang|zh|韓}}」であった。しかし[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして「{{lang|zh|[[漢]]}}」の代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の[[皇帝]]を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。
さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名(「{{lang|zh|[[諱]]}}」とも言う)と別に同等者や目下の者が呼ぶ「[[字]](あざな)」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。
[[香港]]や[[台湾]]のように、外国に支配されていた期間が長かった地域は、欧米や日本などの名前を模して、本名とは別の名前を持つ場合がある。特に香港は、近年までイギリスの支配下であったため、イギリス風の名前を持っている場合が多い([[ジャッキー・チェン]]、[[アグネス・チャン]]、[[ブルース・リー]])。台湾でも65歳以上の女性には日本式に「{{lang|zh|子}}」を止め字とする名前も少なからず見られる。中国では婚姻による名字の変更はなく、子供の名字は、父親の名字を名乗るのが通例である。香港では、イギリス風の名前は[[パスポート]]などの[[身分証明書]]にも使用できるなど、広く使われている。名づけ方は、[[キリスト教徒]]の家系なら[[洗礼名]]という形で親が付ける場合もあるが、学校の先生が付けたり、本人が自分で付けたりする場合もある。名づけ方はかなり自由度が高く、英語圏には存在しない名前も多く、男性名が女性にも使用される事もある<ref>{{cite news |title=香港人とイングリッシュネーム |newspaper=[[地球の歩き方]] |date=2008-6-16|url=http://tokuhain.arukikata.co.jp/hongkong/2008/06/post_52.html |accessdate=2014-2-15|author = 大山夏美}}</ref><ref>{{cite news |title=中華圏のイングリッシュネーム、香港の役割とは?|newspaper=[[SBIサーチナ]] |date=2008-3-31|url=https://web.archive.org/web/20080412234038/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0331&f=column_0331_004.shtml |accessdate=2014-2-15|author = 田中素直}}</ref>。
=== 朝鮮半島の名前 ===
{{特殊文字|対象=[[朝鮮語]]の[[ハングル文字]]}}
{{see also|漢姓#朝鮮|朝鮮人の姓の一覧|朝鮮人の人名}}
[[ファイル:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|thumb|left|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。[[大韓帝国]]の内閣総理大臣[[李完用]]の名前や、最後の皇帝[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]の名である{{Lang|ko|坧}}の[[署名]]が見える。]]
[[ファイル:Distribution of South Korean family names.svg|thumb|right|韓国では、{{lang|ko|金}}・{{lang|ko|李}}・{{lang|ko|朴}}・{{lang|ko|崔}}・{{lang|ko|鄭}}の5つの姓だけで、国民の約54%を占める。
{{legend|#19578F|{{lang|ko|金(김)}}}}
{{legend|#419A43|{{lang|ko|李(이)}}}}
{{legend|#FB9F2C|{{lang|ko|朴(박)}}}}
{{legend|#DB1D2A|{{lang|ko|崔(최)}}}}
{{legend|#7D377B|{{lang|ko|鄭(정)}}}}]]
朝鮮半島の人名は中国の影響を受けて、典型的には漢字一字(まれに二字)の[[漢姓]]と、一字か二字の名からなる。特に、{{lang|ko|金}}・{{lang|ko|[[李氏|李]]}}・{{lang|ko|朴}}・{{lang|ko|崔}}・{{lang|ko|鄭}}の姓を持つ人は非常に多く、この5つの姓だけで、国民の約54%を占める。同じ姓でもいくつかの[[氏族]]に別れており、{{lang|ko|[[金海金氏]]}}が最も多い。
統一[[新羅]]の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名(当時の百済・高句麗などの非朝鮮系の人々は現在の中国人名とは異なる名前であったため)ではなかったことからもわかる。
例えば、[[高句麗]]王朝末期の貴族、[[淵蓋蘇文]]は今日の韓国では漢語発音で「{{lang|ko-Kana|ヨン・ゲソムン}}」と呼ばれているが、『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「{{lang|ko-Kana|イリ・カスミ}}」と発音したことが知られている。「{{lang|ko-Kana|イリ}}」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「{{lang|ko-Kana|カスミ}}」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の[[万葉仮名]]に類似した表記方法と考えられる。
現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓(複姓)も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地([[本貫]])を持ち、同じ姓・同じ本貫(同姓同本)を持つ者を同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は法的に禁止されていた({{仮リンク|大韓民国民法第809条|en|Article 809 of the Korean Civil Code}})。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは{{lang|ko|[[金海金氏]]}}([[釜山広域市]]付近の[[金海市]]を本貫とする「{{lang|ko|金}}」氏)である。[[族譜]]({{lang|ko|족보}})という先祖からの系譜を書いたものが作製・継承され、親族関係の象徴として尊重されるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]の時代に党争の激しくなったころから作られ始めた。日本の系図類と同様、族譜も初期の系譜は伝説に依拠していたり古代の偉人に仮託したものが多く、史料としての価値はさほど高くない。
名が漢字二文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する'''行列字'''([[:ko:항렬]])という習慣がある。行列字は中国の[[輩行字]]と同様のもので、[[陰陽五行説]]に基づいて決められる。つまり「{{lang|ko|木}}・{{lang|ko|火}}・{{lang|ko|土}}・{{lang|ko|金}}・{{lang|ko|水}}」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で「{{lang|ko|木}}」の入った字({{lang|ko|根}}、{{lang|ko|桓}})、次の世代は「{{lang|ko|火}}」の入った字({{lang|ko|煥}}、{{lang|ko|榮}})、次の世代は「{{lang|ko|土}}」の入った字({{lang|ko|圭}}、{{lang|ko|在}})……と続く。[[十干]]({{lang|ko|甲}}・{{lang|ko|乙}}・{{lang|ko|丙}}・{{lang|ko|丁}}・{{lang|ko|戊}}・{{lang|ko|己}}・{{lang|ko|庚}}・{{lang|ko|辛}}・{{lang|ko|壬}}・{{lang|ko|癸}})、[[十二支]]({{lang|ko|子}}・{{lang|ko|丑}}・{{lang|ko|寅}}・{{lang|ko|卯}}・{{lang|ko|辰}}・{{lang|ko|巳}}・{{lang|ko|午}}・{{lang|ko|未}}・{{lang|ko|申}}・{{lang|ko|酉}}・{{lang|ko|戌}}・{{lang|ko|亥}})を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。
現在の韓国においては、漢字がほとんど使われなくなっているため、姓名も[[ハングル]]で表記される。[[キム・ハヌル|金ハヌル]]や[[尹ビッガラム]]など、若い世代では名の部分に関して[[固有語]]をそのまま用いる例もある。
子は、中国の氏と同様、姓が父系の血統を表現するものであることから、当然に父の姓を名乗るものとされていた。しかし、2005年の法改正により、子は、父母が婚姻届出の時に協議した場合には母の姓に従うこともできるようになった<ref>柳淵馨「大韓民国における新しい家族関係登録制度の概要」『戸籍時報』特別増刊号640、2009年。</ref>。
なお、[[在日韓国・朝鮮人|在日コリアン]]は、民族名(朝鮮半島式の姓名)のほかに日本式の[[通名]]を持っている場合が多い。原因としては[[創氏改名]]の名残、あるいは戦後の混乱期の様々な事情などによるものとされるが、在日コリアンへの差別が公に非難されるようになった社会の意識の変化により、エスニックなアイデンティティへの見直しが進み、通名使用は減少しつつある。{{要出典|title=|date=2018年5月}}
=== ベトナムの人名 ===
{{特殊文字|説明=[[ベトナム語アルファベット]]}}
{{Main|ベトナムの人名}}
[[ファイル:Tên gọi người Việt Nam.png|thumb|ベトナム人(キン族)の名前は姓・間の名・称する名により構成される]]
[[ベトナム]](越南)は[[漢字文化圏]]に属しており、人名も主要民族である[[キン族]](京族)を中心に、[[漢民族]]の人名に類似する。典型的な人名は、{{lang|vi|Nguyễn Văn Huệ}}(グエン・ヴァン・フエ、[[阮文恵]])のように、[[漢姓]]である一[[音節]]の'''{{lang|vi|Họ}}'''('''姓''')と、一音節の'''{{lang|vi|Tên đệm}}'''('''間の名'''、直訳すると「'''苫の名'''」)、一音節の'''{{lang|vi|tên chính}}'''('''称する名''')からなる構造である。
相手が地位の高い人間であっても、人の呼称として使うのは姓ではなく「称する名」である。例えば「{{lang|vi-Kana|[[ゴ・ディン・ジエム]]}}大統領」は、姓が「ゴ(呉)」、間の名が「ディン(廷)」、称する名が「ジエム(琰)」であるため、「ゴ大統領」ではなく「ジエム大統領」と呼称する。姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限られ、これは{{lang|vi|Hồ Chí Minh}}([[ホー・チ・ミン]]、{{lang|vi|胡志明}})を「ホーおじさん({{lang|vi|Bác Hồ}}、伯胡)」と呼ぶような場合である。
== モンゴル人の名前 ==
{{main|モンゴル人の名前}}
モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、[[氏族]](オボク)の名称が姓に近い役割を持ち、中国の[[内モンゴル自治区]]では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、{{lang|mn-Kana|[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]}}家の{{lang|mn-Kana|オボク}}は{{lang|mn-Kana|[[ボルジギン氏|ボルジギン]]}}氏族(孛児只斤氏)であるため、内モンゴル出身の{{lang|mn-Kana|チンギス・ハーン}}の子孫は{{lang|mn-Kana|ボルジギン}}・{{lang|mn|某}}({{lang|mn|孛児只斤某}})と称する。
これに対し、[[モンゴル国]]ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く([[父称]])。例えば、[[朝青龍明徳]]の本名{{lang|mn-Kana|ドルゴルスレン・ダグワドルジ}}は、{{lang|mn-Kana|ダグワドルジ}}が本人の名、{{lang|mn-Kana|ドルゴルスレン}}が父の名である。また、[[夫婦別姓]]である。
== インドシナ半島の名前 ==
{{see also|チベット・ビルマ語派|ミャオ・ヤオ語族|タイ・カダイ語族|オーストロアジア語族|チャム族}}
漢字文化圏に属した[[ベトナム]]を除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、[[ラオス]]、[[カンボジア]]でも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。
[[ミャンマー]]には家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。戸籍名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決め、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から名付けられることが多い。また成長につれ、隣近所で通用する幼名、学校内で通用する通称、大人になってからの自称など、複数の名をもつことが多い。外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められる情況)では、便宜的に敬称や尊称や謙称(社会的地位のある男性であれば「ウ」、若い男性であれば「マウン」、成人女性なら「ドー」など)を使って、苗字とする場合もある。例えば、元国連の事務総長{{lang|my-Kana|[[ウ・タント]]}}の「{{lang|my-Kana|ウ}}」は敬称である(しかし、本人は謙遜故か「マウン・タント」と署名することが多かった)。
[[タイ王国|タイ]]に関しては、'''[[タイの人名]]'''を参照。
== マレー・ポリネシア系の名前 ==
{{see also|マレー・ポリネシア語派|オーストロネシア人}}
=== インドネシア・マレーシアの名前 ===
この両国でも姓は義務づける法はなく、例えば[[スハルト]]や[[スカルノ]]は姓を持たないが1つのファーストネームのみで正式なフルネームである。[[スマトラ島]]のバタク人や、[[マルク諸島]](モルッカ諸島)、[[フローレス島 (インドネシア)|フロレス島]]などでは氏族名を姓のように用いる。[[ジャワ島]]のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名の後ろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名の後ろにつけて姓のように使う場合もある。
=== フィリピンの名前 ===
フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例:{{lang|tl-Kana|[[グロリア・マカパガル・アロヨ]]}})。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。
婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓を用い続け相手の姓をミドルネームとして加えるか、相手の姓を用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、[[2010年]]に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続けることも可能、との判断を下した<ref>{{Cite web|title=Miss, Ms, or Mrs? Philippine laws on surname for a married woman|url=https://famli.blogspot.com/2008/04/miss-ms-or-mrs-philippine-law-on.html|website=Legal Updates on the Family Code Philippines and relevant matters|date=2010-05-03|accessdate=2021-12-17|first=Atty Gerry T.|last=Galacio}}</ref>。
== イスラム教圏の名前 ==
[[ファイル:Tugra Mahmuds II.gif|frame|[[オスマン帝国|オスマン朝]][[マフムト2世]]の[[トゥグラ]]による署名。「[[アブデュルハミト1世|アブデュルハミト]]の息子マフムト・ハン、永遠の勝利者」と読める]]
[[アラブ人]]の伝統的な名前は'''クンヤ'''(「某の親」)、'''イスム'''(本人の名)、'''ナサブ'''(「某の子」)、'''ニスバ'''(出自由来名)、'''ラカブ'''(尊称・あだな)の要素から成り立っている。
; クンヤ
: クンヤは「アブー・某」(某の父)、「ウンム・某」(某の母)という形を取る。アラブ圏では兄弟姉妹といった近親の名前が某部分に来るものもクンヤと呼ぶ。
:初代[[正統カリフ]]の[[アブー・バクル]]は本名がアブドゥッラー(改宗前はアブドゥルカアバ)だったが、ラクダが好きだったことからついたあだ名アブー・バクル(若ラクダの父)の方が後世まで定着。さらには彼への崇敬から一般的な男児名として使われるようにもなりイスムに転じた。
:エジプト女性歌手の[[ウム・クルスーム|ウンム・クルスーム]]という名前は預言者ムハンマドの娘の名前として元々有名だが、こちらはアブー・バクルの例と違い本名としてつけられたものでほほがふっくらしている愛らしさから「クルスーム(ほほがむちむちの男の子)の母」という複合名で呼ばれるに至ったケースである。(なお第三代正統カリフであるウスマーンの姉妹もウンム・クルスームという名だった。)
: このクンヤは職業名としても使われることがあり、アブーの後に品名を添えて「~屋」を意味するなどした。息子の名前を添えた基本的なクンヤも含め家名に転じたケースが多く、現代アラブ世界ではファミリーネーム、ラストネームとして用いられていることも少なくない。
: またクンヤは既婚未婚・子の有無に関係なくニックネームに使われる用法があり、本人のファーストネームから想起させる人名と結びつけて青年等を「アブー・某」と呼ぶ慣例が見られる。さらにはゲリラ名として用いられてきた経緯があり、実子の名前とは関係が無い「アブー・アンマール」(パレスチナのアラファト議長のあだ名)等が有名である。
; イスム
: イスムは本人の名である。男性には預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の本名やその別名(アフマド、マフムード、ムスタファー等)、[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]、[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]、[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]など正統カリフ、イブラーヒーム([[アブラハム]])、ムーサー([[モーゼ]])、イーサー([[イエス・キリスト|イエス]])といった[[預言者]]たち、[[アッラーフの99の美名|アッラーの持つ99の美名・属性名]]に「しもべ」を意味する「アブド」を繋げたアブドゥッラー(神の僕)、アブドゥッラフマーン(慈悲深き者のしもべ)などの名も好まれる。預言者ムハンマドと正統カリフアリーの子孫である[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]、[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]らの名前も広く命名に用いられるが、[[ジャアファル・サーディク|ジャアファル]]なども含めシーア派イマームとなった人物の名称についてはシーア派信徒に特に好まれる傾向があり宗派差が大きい。
: 女性には[[ハディージャ・ビント・フワイリド|ハディージャ]]、[[ファーティマ]]、[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]、[[ザイナブ・ビント・ジャフシュ|ザイナブ]]など預言者ムハンマドの親族に由来する名前やガゼル、花などにちなんだ美しさや愛らしさを意味する名前が好まれてきたが、現代では音感重視の命名傾向があり女児名については流行の影響が比較的強く見られる。
; ナサブ
: ナサブはその人物の系譜を示すもので「イブン・某」(某の息子)、「ビント・某」(某の娘)という形を取る。また、某(本人の名)・イブン・某・イブン・某・…と本人の名の後にナサブを連結して先祖をたどる表現もできるが基本的に現代アラブ人はそのようなフルネームは使わずアラビア半島の王族や部族民のフルネームで用いるのみとなっている。
:ナサブは日本語だとイブンで書くのが慣習となっているがアラビア語の文語では格に応じてブヌ、ブニ、ブナと発音が変わる。格母音を取り去った場合の発音に対応するのがブン、そして口語的な発音に近いカタカナ表記がビン(アラビア半島等)やベン(主に北アフリカ諸国)である。
:現代アラブ世界ではこのナサブの表記を用いる地域は少なく普段ナサブ抜きで本人のイスム・父の名前・祖父の名前/家名などと併記のみしているケースでも、本人の系譜を明示する場合にはイブンを用いて表記することもある。またアラビア半島地域ではフルネーム表記にイブンを入れて書くこともあるが、毎回そうした表記という訳ではなくイブン抜きの現代式フルネームを使うといった具合に、同一人物であってもイブン有り・無しの両バージョンを使い分けていることもある。
: アラブ諸国ではこのナサブが家名となっている例も少なくなく、代々引き継いで「イブン某家」「ビン某家」と呼ばれるなどしている。
; ニスバ
: ニスバは出身地・所属部族・所属宗派に形容詞形語尾「イー」を付けた形を取る。[[マグリブ]]出身ならばマグリビー、[[アフガニスタン]]出身なら[[アフガーニー]]となる。中世では本人や比較的近い父・祖父などの出身地をファーストネームに添えて表記していたが、現代ではファミリーネーム相当のものとして何代にもわたり継承する傾向が強く、遠い祖先の出身地・近代に祖先が所有していた荘園名・帰属する大部族名を示す場合が多い。
:また元々部族名由来のニスバを元々名乗っていた家系でも途中で職業名や家長名由来のファミリーネームに切り替えるケースも多く、家系をたどらないと何部族の末裔なのか分からない場合が多い。
; ラカブ
: ラカブは本人のもつ尊称・称号もしくはあだ名である。称号・尊称については中世以降功績あるに授与されていたもの、あだ名については身体的特徴等由来のものである。例えば[[アイユーブ朝]]の建設者ユースフ・ブン=アイユーブは[[サラーフッディーン]](転訛した「サラディン」の名でよく知られている)のラカブを持っていたがこれは称号に相当するものである。現代ではそうした称号の授与は行われておらず、基本的にファーストネームであるイスムとして使われている。
: また身体的特徴等に由来するラカブについては家長名として用いられていたケースが多いため、現代ではファミリーネームとして用いられていることがしばしばある。
以上から分かるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないがファミリーネームに相当する現代では西欧のファーストネーム、ラストネーム・ファミリーネームに影響された用法が普及してきており中世の人名録のような旧式の人名表記が適用できないケースもしばしば見受けられる。
家名についてはその由来や文法的用法により複数のパターンがあり一律ではない。家名の種類にも地域性がある。アラビア半島のように大半が大部族に帰属する地域ではは定冠詞と語尾を形容詞形にした「アル=◯◯イー」を用いるが、分家名を家名として用いる場合は「アール・某」「(アール)・アブー某」「(アール)・ビン某」などとなる。地中海沿岸地域には職業名由来の家名が多く、大工・陶工・鍛冶屋など実に多様である。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされている[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]のビン=ラーディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン=某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたるが、ビン=ラーディンの場合は近代になってビン=ラーディン財閥が形成されたことによりビン=ラーディンファミリーという家名で広く知られることとなった。(注;ビン某という家名はビン=ラーディン家出身のイエメンに多い方式。)
現代において人名はファーストネーム、ラストネームのみの2つだけを挙げる方式が広がっている。しかしながら国民登録においては4つの名の記載を求める国が多い。4つの名前の記載をする場合人によって異なり、サウジアラビアのように部族成員が多い地域では「本人の名+父の名+祖父の名+部族名由来形容詞等の家名」が多いが、姓の使用が少ないエジプトのような「本人の名+父の名+祖父の名+曽祖父の名」というパターンもありまちまちである。部族成員は家長名を用いたファミリーネームを名乗っていることも多いのでフルネームから出身部族を言い当てることは必ずしもできないが、出身大部族名を形容詞化したニスバ(家名)を使っている場合は出自が明確に示される。
ちなみにアラビア半島の元首ファミリーは部族名由来の形容詞形を名乗りに用いることは少なく、たいていが「アール某」という分家名を公的なファミリーネームとしている。サウジアラビア王国場合は元々の出身大部族(バヌー・ハニーファ)を示す形容詞アル=ハナフィーは名乗っておらず、分家・支族の家長名に由来する「アール・サウード」としている。サウジアラビア王国内において家名がアール・サウードとなっている人間は必ず[[サウード家]]の人間である。家名は生涯不変がアラブ人名の原則であり、生まれた子供は認知を受ける限り必ず父親の家名を継承する。このため外から嫁いできた女性らはアール・サウードではないが、王女らの家名は全てアール・サウードとなる。
[[イラク]]の場合は、元大統領[[サッダーム・フセイン|サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー]] (Ṣaddām Ḥusayn ʿAbd al-Majīd al-Tikrītī) は[[ティクリート]]出身のアブドゥルマジードの子フセインの子サッダームという意味である。アッ=ティクリーティーはアラブ人名の現代的用法により半ば家名のように使われており、本人がティクリートで生まれていなくとも子供らが継承して名乗っていた。長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー]] (Uday Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はウダイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー]] (Qusay Saddām Husayn al-Tikrītī、厳密なアラビア語発音はクサイイ)はティクリート出身家でフセインの子サッダームの子クサイといった意味となる。
非アラブのイスラム教徒の間では、[[ペルシア語]]で「息子」を意味する「ザーデ」、[[トルコ語]]で「息子」を意味する「オウル(オグル、オール)」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、[[トルコ]]と[[イラン]]ではそれぞれ[[1930年代]]に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]] (Recep Tayyip Erdoğan) はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人[[マフムード・アフマディーネジャード]] (Mahmūd Ahmadīnejād) はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。
* [[トルコ]]では、1934年に導入された創姓法によって、国民全員が姓を持つことが義務付けられた。
また、旧ソ連の[[アゼルバイジャン]]・[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]・[[タジキスタン]]・[[キルギスタン]]・[[カザフスタン]]や[[ロシア]]に住む[[チェチェン人]]などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、[[スラブ諸語|スラブ語]]の[[父称]]を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓は[[ヘイダル・アリエフ|アリエフ]]、ラフマーンから創られた姓は[[エモマリ・ラフモノフ|ラフモノフ]]と言い、[[ソビエト連邦]]解体後もそのまま使われている。
日本ではイスラム教に入信した者が[[中田考|ハサン中田考]]のようにムスリム名を本名に繋げる例もある。イスラム教徒やイスラム教圏出身者と日本人の間に生まれた子供の場合は伝統的な名前、父姓+日本名、日本姓+イスムなどがある。[[ガーナ]]人の父親と日本人の母の間に生まれた陸上選手の[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]は「アブデルハキーム(賢き者の僕)」という伝統的な命名であり、[[イラン]]人のダルビッシュセファット{{efn|「[[ダルヴィーシュ]]のような人」の意味}}・ファルサと日本人の母の間に生まれた[[ダルビッシュ有|ダルビッシュ・セファット・ファリード・有]]は「ファリード・有」の部分が「アリー・ファリード(比類なきアリー)」という伝統的な名前と漢字を組み合わせた名前となっている。
== キリスト教圏の名前 ==
{{see also|修道名}}
[[キリスト教]]圏では、姓についての慣習は各国語圏で異なるが、名については[[聖人]]・[[天使]]に由来する名前が好んで付けられる。例えば、「[[マイケル (曖昧さ回避)|マイケル]]」(英語)・「[[ミヒャエル (曖昧さ回避)|ミヒャエル]]」(ドイツ語)・「[[ミシェル (曖昧さ回避)|ミシェル]]」(フランス語)・「[[ミケーレ (曖昧さ回避)|ミケーレ]]」(イタリア語)・「[[ミゲル (曖昧さ回避)|ミゲル]]」(スペイン語)・「[[ミハイル (曖昧さ回避)|ミハイル]]」(ロシア語)・「[[ミカ (曖昧さ回避)|ミカ]]」(フィンランド語)は、すべて大天使[[ミカエル]]に由来する名である。その他、[[聖書]]に登場する人物や、キリスト教の聖人に由来する名が多い。ポール・パウル・パオロ・パブロ・パヴェル([[パウロ|聖パウロ]])、ジョン・ハンス・ヨハン・ヨハネス・ジャン・ジョヴァンニ・フアン・ジョアン・イヴァン・ヨアニス・ヤン・ショーン([[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]])、ルイス・ルートヴィヒ・ロドヴィコ・ルイージ・ルドヴィクス([[ルイ9世 (フランス王)|聖ルイ]])など。
また、古代ローマ人の名を由来とすることも多い(例:ジュリアス←[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の「ユリウス」の英語読み)。女性については、花などの名前を付けることも多い(例:ローズ←[[バラ]])。
また、[[修道士]]は基本的に本名は呼ばれず、日本の僧侶などと同じく、[[修道名]]でのみで知られる事例が多い。
* [[ギリシャ人]]は長男に父方の祖父の名をつける、などの習慣がある。(例:[[ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ]])また「〜の息子」を意味する「〜プーロス」という姓が用いられることも多い(例:「ステファノプーロス」=「ステファノスの息子」→ギリシャ系アメリカ人で米TVコメンテーターの[[ジョージ・ステファノポロス]]等が有名)。また[[古代ギリシャ]]人では姓は形跡があったものの、一般化しておらず、このため古代ギリシャの人物は「[[ハリカルナッソス]]の[[ヘロドトス]]」のように地名を冠して呼ばれることが多い。ギリシャ人に姓が普及したのは、有力貴族が成長してきた9世紀の[[東ローマ帝国]]時代以降のことである。
* [[ハンガリー]]については、[[ハンガリー人の姓名]]を参照。
=== ゲルマン系の名前 ===
{{see also|ゲルマン語派|ゲルマン人}}
* [[アイスランド]]では、家系に共通の姓はない。姓名は通常、子供の名と、父の名の語尾に接尾語を加えた名の2つの部分からなる。詳細は[[アイスランド人の名前]]を参照。
==== 英語圏の名前 ====
[[ファイル:JohnHancockSignature.jpg|thumb|right|250px|[[アメリカ独立宣言]]に記された[[ジョン・ハンコック]]の[[署名]]]]
{{see also|英語人名の短縮形}}
[[英語圏]]の姓名は多くの場合、3つの構成要素からなる。ファーストネーム、ミドルネーム、ラストネームである。ファーストネームはギブンネーム ({{lang|en|given name}}) とも呼ばれ、ラストネームはサーネーム ({{lang|en|surname}})、ファミリーネーム ({{lang|en|family name}}) などとも呼ばれる。
ラストネームは、[[日本]]における[[姓]]とほぼ同じもので、父系の家系を通じて受け継がれる。稀に、[[母]]のラストネームが[[父]]のラストネームと[[ハイフン]]でつながれて[[子]]に受け継がれることなどもある。
ミドルネームはファーストネームと同時に[[親]]が、[[同姓同名]]の別人がいた場合に備えて名付けるもので(一般には[[洗礼名]])、多くの場面で[[イニシャル]]だけの省略系が用いられる(ミドルイニシャルと呼ばれる)。稀にイニシャルのみで、略称でさえもない場合もある。好例が[[ハリー・S・トルーマン]]で、このようにイニシャルだけを与えることは[[アメリカ南部]]に見られた風習だとされる(トルーマンは「“エス”というミドルネームだ」と冗談を言った)。なお、ミドルネームが無い場合もある。
[[西欧]]社会では女性は結婚と共にそれまでの姓を夫の姓に換えることが普通であったが、アメリカでは、[[20世紀]]中ごろから女性が結婚後も姓を変えない風習がひろまりつつある。また、両者の姓を併記するカップルもいる。[[ヒラリー・クリントン|ヒラリー・ローダム・クリントン]]のように旧姓と夫の姓を組み合わせて(「ローダム」はヒラリーの旧姓である)名前を作る例もある。
==== オランダの名前 ====
[[オランダ]]では前置詞 「[[ファン (前置詞)|{{lang|nl|van}}]]」(ファン)を含んだ姓 ({{lang|en|surname}}) が多く見られる。{{lang|nl|van}} は英語 {{lang|en|of}} あるいは {{lang|en|from}} の意味を持ち、出身地を示すが、現代ではもとの意味はほとんど失われている。英語圏で見られるようなミドルネームは持たない。複数の個人名 ({{lang|en|given name}}) を持つこともあるが、日常的に用いるのはそのうちの1つだけであり、ほとんどの場合はファーストネームを使う。そのため大部分の人はファーストネーム・サーネームの組み合わせで広く知られることになるが、フルネームで最も良く認識されている場合もある。貴族の家系では {{lang|nl|Huyssen van Kattendijke}} などの[[複合姓]] ({{lang|en|double surname}}) を持つこともあり、この場合 {{lang|la|Huyssen}} はファーストネームではない。[[ナイト]]に対応する称号としては {{lang|nl|ridder}} が知られる。
ファーストネームが複雑な場合には省略した通称で呼ばれることもあり、例えば {{仮リンク|ヒエロニムス (人名)|nl|Hiëronymus|label=Hiëronymus(ヒエロニムス)}}は通称で{{仮リンク|イェルン (人名)|en|Jeroen|label=Jeroen(イェルン)}} などと呼ばれる。大きな契約や結婚、IDカードなど以外には通称を用いるのが普通である。複数の個人名を持っている場合、通称も複数個からなるものを用いることがある。
結婚の際には、夫の氏は不変で、妻は夫の姓(同姓)または自己の姓(別姓)を称することを選択可能である。妻は自己の姓を後置することもできる<ref name="chukanmatome">平成13年10月11日男女共同参画会議基本問題専調査会 [https://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/kihon/yousi/pdf/bessi-chukan.pdf 選択的夫婦別氏制度に関する審議の中間まとめ 資料15 夫婦の氏に関する各国法制]</ref>。
==== ドイツの名前 ====
[[ファイル:Otto vonBismarck Signature.svg|thumb|right|250px|[[オットー・フォン・ビスマルク]]の[[署名]]]]
18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった(必ず与えられたわけではない)。もしミドルネームが与えられた場合には、その人はそのミドルネームで知られることになり、ファーストネームは余り用いられなかった。しばしば教会の記録などでもファーストネームが省略され、ミドルネームとラストネームだけが用いられた。また、ある一家の男の子達が全員ヨハネスというファーストネームを持つ、というようなこともあった。この場合でも、洗礼と共に各人に別々の名前が与えられ、その名前が用いられるようになるため、問題がなかったとされる。
また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後にinを付す習慣があった(例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる)。また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。「花の咲く土地」を意味すると思われる姓Floryに、他にもFlori、Florea、Florey、Flurry、Flury、Florie、など似た姓が数多くある。これはその姓を持っていた人々が文字を書くことができず、名前を発音することはできても綴ることができなかったため、筆記を行った人によって異なる綴りになったと考えられる。貴族はその領地名や爵位名や城名などと「~の」を意味する「[[フォン (前置詞)|von]]」をつけて姓のように用いた(例:[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]])。
なお、現代ドイツでは選択的[[夫婦別姓]]が導入されており、婚姻時の夫婦の姓は、婚姻時に夫婦の姓を定める、あるいは定めない場合は別姓となる。
日本の夫婦同姓のお手本になったとされるが、ドイツ国内においては、伝統的には家族名としての姓を用い、1957年までのドイツ民法の条文は、妻は夫の氏を称するとされていた。<ref>これは1898年(明治31年)に制定された日本の明治民法案と全く同じであり、日本は同年まで夫婦別姓であった。</ref>
1957年、妻が出生氏を二重氏として付加できるとする法改正が行われ、1976年の改正では婚氏選択制を導入し、婚氏として妻の氏を選択する可能性を認めたが、決定されない場合は夫の氏を婚氏とするとされた。
しかし、1991年3月5日の連邦憲法裁判所の決定が両性の平等違反としてこの条文を無効とし、人間の出生氏が個性又は同一性の現れとして尊重され保護されるべきことを明言した。その結果、1993年の民法改正で<ref>富田哲『夫婦別姓の法的変遷 ドイツにおける立法化』八朔社。</ref>、夫婦の姓を定めない場合は別姓になるという形で選択的夫婦別姓となった<ref>[https://dejure.org/gesetze/BGB/1355.html ドイツ民法1355条] より。</ref>。
=== スラヴ系の名前 ===
[[ファイル:Unterschrift Lenins.svg|thumb|right|250px|[[ウラジーミル・レーニン]]の[[署名]]]]
{{see also|スラヴ語派|スラヴ人}}
==== ロシアの名前 ====
[[ロシア人]]の名前をフルネームで表記する時は、原語での順序は「名・ミドルネーム・姓」となる。但し公式文書等では「姓,名・ミドルネーム」と書かれる(例えば、[[在ユジノサハリンスク日本国総領事館]]のサイトの2022年10月の現地政治概況紹介ページではロシア側の政治家の名前は全て「姓・名・父称」の順となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sakhalin.ru.emb-japan.go.jp/itpr_ja/sakhalin_politics.htm |title=サハリン政治概況・日サハリン関係(2022年10月現在) |access-date=2023/10/06 |publisher=[[外務省]] |date=2022年10月15日 |website=在ユジノサハリンスク日本国総領事館}}</ref>)。公式な場(例えば大統領へのインタビュー等)での呼び掛け、あるいは目上の人に対する呼び掛けでは「名・ミドルネーム」が使用される。それ以外では、呼び掛けには専ら名の[[愛称形]]が使用される。ミドルネームは'''[[父称]]'''(ふしょう;{{lang|ru|Отчество}})といい父親の名前を基にして作るので性別を同じくする同父兄弟のミドルネームと姓は必ず同一となる。性別を同じくすると特にことわるのは、ロシア語には[[文法]]上の[[性 (文法)|性]]として男性、中性、女性の三性がありロシア人のミドルネーム・姓は殆ど全ての場合個人の生物学上の性に依って男性形・女性形の異なる語尾を採る為である{{efn|ただし、一般名詞に{{lang|ru|а}}や{{lang|ru|я}}で終わる名詞はほとんど女性名詞であることに対し、男性のファーストネームに'''[[イリヤ (曖昧さ回避)|イリヤ]]'''({{lang|ru|Илья}})、'''[[ニキータ (曖昧さ回避)|ニキータ]]'''({{lang|ru|Никита}})や'''[[サーシャ (曖昧さ回避)|サーシャ]]'''({{lang|ru|Саша}})など、{{lang|ru|а}}や{{lang|ru|я}}で終わるものも多い。なお、これらの人名の[[語形変化]]は文法上の語形の変化法則にのっとるが、修飾語はその人の性別の方で変化する。}}。
{| class="floatleft wikitable"
|+ ロシア人の父称の付け方
|-
! rowspan="2" | 父の名の語尾
! colspan="2" | 父称
|-
! style="text-align:center" | 男性形
! style="text-align:center" | 女性形
|-
| -a/-ja
| -ich
| -ichna/-inichna
|-
| -i/-ji
| -jevich
| -jevna
|-
| (子音)
| -ovich
| -ovna
|}
父称は父親の名前にその語尾の音に応じた適切な語尾を付加して作られる(右表参照)。父称の男性形は男性のミドルネーム・女性形は女性のミドルネームに用いられる。
例えば父の名が1) "{{lang|ru|Илья}}"(Ilija、イリヤ)、2) {{lang|ru|Николай}}(Nikolaji、ニコライ)、3) {{lang|ru|Иван}}(Ivan、イヴァン)の三つの場合で父称男性形はそれぞれ、1) {{lang|ru|Ильич}}(Iliich、イリイチ)、2) {{lang|ru|Николаевич}}(Nikolajevich、ニコラエヴィチ)、3) {{lang|ru|Иванович}}(Ivanovich、イワノヴィチ)とそれぞれ変化し、一方父称女性形は、1) {{lang|ru|Ильинична}}(イリイニチナ)、2) {{lang|ru|Николаевна}}(Nikolajevna、ニコラエヴナ)、3) {{lang|ru|Ивановна}}(Ivanovna、イヴァノヴナ)となる。現代男性名では「---イチ」の形が父称に多くなってはいるが、中世までは「{{lang|ru|-ш}}、-シ」(「〜の息子」という意味合い)という語尾を採る父称が多かった。これらは南部スラヴ人種([[ブルガリア]]など)に一部残っている傾向がある.
姓の部分は[[形容詞]]の変化に準じて男性形・女性形となる。{{lang|ru|-ский}} (-skij)、{{lang|ru|-ин}} (-in)、{{lang|ru|-ев}} (-jev)、{{lang|ru|-ов}} (-ov) 等は地名などについてその場所に帰属する、又は出身である等を示してスラブ人の姓を造る接尾辞であるが、これらは形容詞男性形で対応する形容詞女性形語尾は、{{lang|ru|-ская}} (-skaja)、{{lang|ru|-ина}} (-ina)、{{lang|ru|-ева}} (-jeva)、{{lang|ru|-ова}} (-ova) 等となる(-in, -jev, -ovは姓に限らず一般に名詞に付けて[[物主形容詞]]を造る接尾辞である)。こうして自分の名がニコライ、姓がカレーニンで父の名がイヴァンという男性の場合はニコライ・イヴァノヴィチ・カレーニンが正式なフルネームとなる。この人の姉妹で、アンナという女性の場合は、アンナ・イヴァノヴナ・カレーニナがフルネームとなる。またストラヴィンスキーなどの姓は女性の場合ストラヴィンスカヤとなる。ロストフ (Rostov) というような姓は女性だとロストヴァ (Rostova) となる。なお注視すべきは[[ウクライナ人|ウクライナ系]]の「~エンコ」({{lang|ru|-енко}})や[[グルジア人|グルジア系]]の「~シヴィリ」({{lang|ru|-швили}})などは男女とも中性名詞であり、性別関係無く無変化の場合や、「~イチ」({{lang|ru|-ич}})や[[アルメニア人|アルメニア系]]の「~ヤン」({{lang|ru|-ян}})などのロシア人の姓名に付いては歴史的経緯から、同姓で男性のみ格変化を起こす場合があるなど、個々の相違点が見られる。
==== ウクライナの名前 ====
{{see also|ウクライナ人の名前|ウクライナ人の名字}}
[[ウクライナ人]]の名前をフルネームで表記する時は、一般では「名・父称・姓」の順番だが<ref>{{Cite web |title={{lang|uk|Українські імена та прізвища}} |url=https://inlviv.in.ua/ukraine/ukrayinski-imena-ta-prizvyshha,%20https://inlviv.in.ua/ukraine/ukrayinski-imena-ta-prizvyshha |date=2019-07-13 |accessdate=2022-02-27 |language=uk-UA |publisher={{lang|uk|То є Львів.}}}}</ref>、公式文書などでの順序は「姓・名・父称」となる<ref>{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/nippon_ukuraina/status/1186288016047763456|website=|date=2019-10-21|accessdate=2019-10-30|language=ja|last=|publisher=[[Twitter]]|author=[[アンドリー・ナザレンコ|ナザレンコ・アンドリー]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191030073940/https:/twitter.com/nippon_ukuraina/status/1186288016047763456|archivedate=2019-10-30}}</ref>。日本で言論活動を行っているウクライナ人の[[アンドリー・グレンコ|グレンコ・アンドリー]]<ref>{{Citation|和書|author=グレンコ・アンドリー|authorlink=アンドリー・グレンコ|year=2019|title=ウクライナ人だから気づいた日本の危機 - ロシアと共産主義者が企む侵略のシナリオ|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[育鵬社]]|series=|ref=harv|isbn=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=グレンコ アンドリー(@Gurenko_Andrii)さん|url=https://twitter.com/gurenko_andrii|website=|accessdate=2019-10-30|language=ja|publisher=[[Twitter]]|author=グレンコ・アンドリー|authorlink=アンドリー・グレンコ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191030080712/https:/twitter.com/gurenko_andrii|archivedate=2019-10-30}}</ref>、[[アンドリー・ナザレンコ|ナザレンコ・アンドリー]]<ref>{{Citation|和書|author=ナザレンコ・アンドリー|authorlink=アンドリー・ナザレンコ|year=2019|title=自由を守る戦い - 日本よ、ウクライナの轍を踏むな!|edition=|publisher=[[明成社]]|series=|ref=harv|isbn=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ナザレンコ・アンドリー(@nippon_ukuraina)さん|url=https://twitter.com/nippon_ukuraina?lang=ja|website=|accessdate=2019-10-30|language=ja|publisher=[[Twitter]]|author=ナザレンコ・アンドリー|authorlink=アンドリー・ナザレンコ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191030081231/https:/twitter.com/nippon_ukuraina?lang=ja|archivedate=2019-10-30}}</ref>は、いずれも「姓・名」の表記を用いている。
=== ラテン系の名前 ===
{{see also|ロマンス諸語|ラテン民族}}
* [[イタリア人]]については、[[イタリア人の姓名]]を参照。
==== フランスの名前 ====
[[フランス]]ではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が強制的に変わることはない(別姓)。
この名付けの制限は、[[1966年]]に僅かに緩和され、つづりが違う名前や外国風の名前も認められるようになった。そして、[[1993年]]、名前に関する制限はほぼ撤廃され、両親が子の名前を自由に選べるようになった。しかし、[[キラキラネーム|奇妙な名前]]については、司法当局が却下することがある<ref>{{cite news |title=子どもにチョコ製品と同じ名前つけてはだめ、仏裁判所 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2015-1-27 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3037830 |accessdate=2015-01-31 }}</ref>。
==== スペイン語圏の名前 ====
スペイン本土では一般に「名、父の第一姓、母の第一姓」で構成される。これが繰り返されることにより母方の姓は孫の代には消えてしまうが、希望すれば母方の姓を第一姓にすることも可能である。また結婚しても名前が変わらない。つまり、生まれた時の名が一生続くのである。したがって、両親が再婚した場合など、兄弟同士でも姓が異なる。
中南米のスペイン語圏では、姓は他の多くの国と同じ様に、基本的に父方から子へと父系相続で伝えられるのが基本となるが、個人の姓名を構成する部分の数は人によって異なる。名が最初に来る点では共通で、それに続く部分は父方の姓と母方の姓の一部または全部からなる。例えば「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」と3つの部分からなる名前がある。あるいは「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓、父方の祖母の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓」「名、父方の祖父の姓、父方の祖母の姓、母方の祖父の姓、母方の祖母の姓」と4つまたは5つの部分からなる姓名を持つ場合もある。
名の場合は一つの名によって構成される単純名と、二つの名(それ以上の場合もある)によって構成される複合名もある。たとえば政治家の[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ]]のホセ・ルイスは複合名である。複合名の人に対し、呼び掛ける場合は、フォーマルな場面では省略は通常しないが、親しい間柄、インフォーマルな場面では、どちらか一方を使用することが一般的で、どちらを使うかは自由で、呼ばれる側が希望する場合もあるし、同じ人に対して、ある人は第一要素のほうを、別の人は第二要素のほうを呼ぶということもある。また、多くの場合名前には決められた愛称形があり、それで呼ぶことも多い。また、複合名にはホセ・マリーアや、マリーア・ホセのようなものもあり、前者は男性名で、後者は女性名である。
例:
:[[フアン・ラモン・ヒメネス|{{lang|es|Juan Ramón Jiménez Mantecón}}]]({{lang|es|Jiménez}}が父方の姓、{{lang|es|Mantecón}}が母方の姓で、{{lang|es|Juan Ramón}}は複合名)
:そしてその妻の[[:es:Zenobia Camprubí|{{lang|es|Zenobia Camprubí Aymar}}]]({{lang|es|Camprubí}}が父方の姓、{{lang|es|Aymar}}が母方の姓)は
:{{lang|es|Zenobia Camprubí Aymar de Jiménez}}が{{要出典範囲|公的な正式名|date=2014年7月}}となる。
また、例としては[[パブロ・ピカソ#名前]]も参照。
==== ポルトガル語圏の名前 ====
ポルトガル語圏では、姓名の構成はスペイン語圏によく似ているが、姓名に父方の姓と母方の姓を並称する場合は「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」の語順となり、スペイン語圏と反対である。
ポルトガルでは、婚姻の際は、姓を変更しないこと、または、従来の姓に相手の姓を加えることの、いずれかを選べる。ポルトガルでは、多くの場合は、ファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で呼ぶのが一般的である。
また、ブラジルでは、フルネームが長くなることと、名字で呼ぶ習慣がないことなどから、名前で呼ぶことが多いが、名前の種類が少ないため、特にサッカー選手の登録名などでは、一部を変化させた愛称([[ロナウジーニョ]])、出身地の地名などに由来する愛称([[ジュニーニョ・パウリスタ]]、[[パウリスタ]]は「[[サンパウロ]]の」という意味)、その他の理由による愛称([[ジーコ]]、「痩せっぽち」の意)などで呼称されることが多い。また、名字も含めて表記される場合もあるが、その場合多くはポルトガルと同様、基本的にファーストネーム - 第二姓(父方の姓)で表記される。
== 古代ローマ人の名前 ==
{{main|古代ローマの人名|ラテン語|ラテン人}}
[[古代ローマ]]の自由人男性の氏名は多くの場合3〜4の部分からなっていた。個人の名前、氏族の名前、家族の名前、および添え名である。例えば[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、「[[ユリウス氏族]]の[[カエサル家]]のガイウス」という名であった。このうち個人名のバリエーションは少なく、20種類ほどに限られていた。そしてクィントゥスは日本語的には「五郎」といった感じで数字由来の名を付けることも多い。また個人名はバリエーションが少ないこともあって略して記されることも少なくない。以下はその対応。
* [[ガイウス]] - C
* [[マルクス]] - M
* [[ルキウス]] - L
* [[ティトゥス]] - T
* [[ティベリウス (個人名)|ティベリウス]] - Ti
* [[プブリウス]] - P
* [[クィントゥス]] - Q
* [[デキムス]] - D
* [[グナエウス]] - Cn
* [[アウルス]] - A
* [[ヌメリウス]] - N(またはNum)
長男は父の名前をそのまま受け継ぐことが多く、一族で同じ名前が頻出するため「マイヨル(大)」や「ミノル(小)」を付けて区別した。自由人女性には個人名はなく、父の名前のうち個人の名前を除く部分の女性形が用いられた。たとえば「[[スキピオ・アフリカヌス|プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル]]」の娘は「[[コルネリア・アフリカナ|コルネリア・スキピオニス・アフリカナ]]」と呼ばれた。この場合、氏族の名前が個人の名前の役割を果たした。またあだ名を用いることも多かった。娘が二人以上いる場合、ユリア・セクンダ(「二人目のユリア」)などというように数えられて呼ばれていた。
養子の場合にはもとの姓を家族名の後ろにつけた。例えば、[[オクタウィアヌス]]の場合「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」がカエサル家に養子となった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス」となった。
添え名は国家に功績のある場合などに元老院の決議などにより与えられた。多くアフリカヌス、ゲルマニクスなど勲功を上げた土地の名にちなんで与えられた。また出身地の名称からとられることもあった。こうした添え名は一代限りのものも多かったが世襲を許され、家族名として用いられるものもあった。
== その他の文化圏における名前 ==
* [[インド]]については、[[インド人の名前]]を参照。
* [[メソポタミア]]の[[シュメール]]では記録上最古の個人名としてクシムという人名(組織説も有り)が会計記録の粘土板に登場する。
* [[ユダヤ人]]の名前については、[[ユダヤ人の姓名]]を参照。
* [[エチオピア]]人は、ベトナムを除くインドシナ半島やマレーシア、インドネシア同様に姓・氏・苗字に当る呼称がなく、「本人名+父親名(+祖父名)」が基本である。イスラム圏の名前に似るが、クンヤ・イサブ・ニスバ・ラカブなどに当たるものはない。「[[アベベ・ビキラ]]」はアベベが本人の名、ビキラが父の名である。日本では、1960年代に活躍したアベベや[[マモ・ウォルデ]]は本人名を略称として報道されていたが、1970年代以降の[[ミルツ・イフター]]、[[ベライン・デンシモ]]、[[ファツマ・ロバ]]、[[ハイレ・ゲブレセラシェ]]らは父親名をファミリーネームのように扱って略することが多い。「本人の特定」という意味ではこれは誤りである。
== 名前と法律 ==
{{main|{{ill2|人名命名法|en|Naming law}}|氏名権}}
日本においては、[[戸籍法]]によって[[戸籍]]として使用できる漢字は、簡単な[[人名用漢字]]から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、[[アイスランド人の名前]]などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。
* [[フランス]] - 1993年まで、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が制定に関わった[[フランス民法典]]によって付けられる名前に制限があった<ref>{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/1995/11/11/style/11iht-coco.t.html|work=[[New York Times]]|date=11 November 1995|author=Mary Blume|title=The Ins and Outs of French First Names|accessdate=2022-02-07}}</ref>。それ以降は、問題がない限り自由な名前が付けられる。
* [[ドイツ]] - {{ill2|人口動態統計局|de|Standesamt}}で許可される必要がある。ナチス時代には、ユダヤ人が名乗るべき名前と他の国民が名乗る名前のリストがあり、そこから付けるよう法律が制定された<ref>Hynning, Clifford J. (March 1944). Germany: Preliminary Compilation of Selected Laws, Decrees, and Regulations: Discriminatory Laws. Washington: Treasuy Department, Office of the General Council. p. E-70.</ref>。
* [[スウェーデン]] - 1901年12月5日に、貴族ではない者が貴族の名前を名乗るのを禁止するため、{{ill2|スウェーデンの命名規則|en|Naming law in Sweden}}が制定された。後に、宗教的な名称やキラキラネームに罰金が生じるよう改定された。
* [[ニュージーランド]] - ニュージーランド内務省が命名を承認する。名前が階級や肩書きに似ている(プリンセス、ロイヤル、裁判官を意味するジャスティスなど)、長すぎる(70文字以内)、数字や句読点やバックスラッシュなどの記号を使用している、または人に不快感を与える場合などに拒否される。毎年、拒否された名前のリストが公開される<ref>[https://www.nzherald.co.nz/nz/revealed-new-zealands-most-rejected-baby-names-of-2019/5AQ6HVX464HQ3QOUWUEOAKSGRA/ Revealed: New Zealand's most rejected baby names of 2019] [[ニュージーランド・ヘラルド]] 更新日:8 Jan, 2020</ref>。
* {{ill2|トルコの命名法|en|Surname Law (Turkey)}}。1934年6月21日までは苗字はなかった。この法律制定後、すべての国民は苗字を名乗る義務が発生した。使用言語はトルコ語でなければならない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 松本脩作・大岩川嫩 『第三世界の姓名 人の名前と文化』、明石書店、1994年 ISBN 4750305790
* 朝日ジャーナル編 『世界のことば』、朝日新聞社、1991年、125頁(アイスランド人の名前について) ISBN 4022595361
* 東京外国語大学語学研究所 『世界の言語ガイドブック』(2)「アジア・アフリカ地域」、三省堂、1998年、269頁(ミャンマー人の名前について) ISBN 438535815X
*"Names" The New Encyclopaedia Britannica (15th ed.) 2002. Chicago, IL: Encyclopaedia Britannica.
*"Naming" Encyclopedia of Marriage and the Family. David Levinson (editor in chief, 1995. New York, NY: Simon & Schuster Macmillan
*"Name" The World Book Encyclopedia. Chicago,IL:World Book Inc.
* 21世紀研究会 編『人名の世界地図』 文春新書 [[文藝春秋]] 2001年 ISBN 4166601547
* 梅田修 『世界人名ものがたり―名前でみるヨーロッパ文化』講談社現代新書 [[講談社]] 1999年 ISBN 4061494376
* 梅田修 『ヨーロッパ人名語源事典』[[大修館書店]] 2000年 ISBN 4469012645
* 辻原康夫『人名の世界史』[[平凡社]] 2005年 ISBN 4582852955
* 21世紀研究会『人名の世界地図』文藝春秋 2001年
*『アイヌ民俗誌』[[第一法規出版株式会社]] 1969年
*{{Cite book|和書|title = 名字の歴史学|series = 講談社学術文庫|asin = B07Q5SS7TZ|publisher = 講談社|date = 2019-4-12|author = 奥富敬之|origdate = 2004-3-20|authorlink = 奥富敬之|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title = 選択的夫婦別姓制度は何故実現しないのか : 「女性活躍推進」の陰で|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202569756416|publisher = 武蔵野大学教養教育リサーチセンター|journal = The Basis : 武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要 = The Basis : The annual bulletin of Research Center for Liberal Education, Musashino University|volume = 9|naid = 120006646602 |issn = 21888337|author = 笹川あゆみ|authorlink = 笹川あゆみ|year = 2019|ref=harv}}
== 関連書 ==
* 紀田順一郎 『名前の日本史』 [[文藝春秋]] ISBN 4166602675
* 阿辻哲次 『「名前」の漢字学』日本人の“名付けの由来”をひも解く [[青春出版社]] ISBN 4413041283
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
* [[愛称]]、[[ハンドルネーム]]、[[ラジオネーム]]、[[ペンネーム]]、[[ビジネスネーム]](例:[[レンタルのニッケン]])、[[通名]]、[[源氏名]]、[[芸名]]、[[登録名]]、[[二つ名]]
* [[子 (人名)]]
* {{ill2|人名学|en|Anthroponymy}}
* [[国別の多い姓名]]リスト - 英語版:[[:en:List of most common surnames|List of most common surnames]]
* [[戸籍法]]、[[夫婦別姓]]、[[改名]]、[[修姓]]、[[悪魔ちゃん命名騒動]]、[[キラキラネーム]]
* [[人名一覧]]
* [[人名訓]]
* [[人名の短縮形]]
* [[人名用漢字]]
* [[姓名判断]]
* [[洗礼名]]、[[戒名]]
* [[デッドネーミング]]
* [[同姓同名]]
* [[日本人のおなまえ]]
* [[ユダヤ人の姓名]]、[[漢姓]](漢名)
* [[Wikipedia:外来語表記法#人名]]
* [[Wikipedia:記事名の付け方#人名]]
* [[エポニム]] - 人名に由来する名称
== 外部リンク ==
=== 日本 ===
* [http://myouji.gozaru.jp/ 名字資料館] - [http://myouji.gozaru.jp/hy.html 都道府県別名字ランキング] や珍名字集など。
* [http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/shiro.html 静岡大学人文学部 城岡研究室] - 日本、静岡県、沖縄県、ドイツの姓についての資料。
* [http://www.meijiyasuda.co.jp/ 明治安田生命保険] - [https://www.meijiyasuda.co.jp/enjoy/ranking/index.html 名前ランキング] や旧明治生命による[[1912年]]以降の名前上位10位ランキングなど。
* [http://dqname.jp/ DQNネーム] - 珍しい名前、[[DQNネーム]]の一覧など
* [https://babyname.sirabe.net/ 赤ちゃんの名前 好感度ランキング] - 赤ちゃんの名前一覧 世代別・男女別の人気
* [http://name.causality.jp/ 女の子の名前辞書] - 名前一覧(女の子のみ)
*[[人名漢字辞典 - 読み方検索]] - 漢字の苗字/名前の読み方など
=== 日本以外 ===
* [https://badauk.com/nitijou/namae/ ミャンマー人の名前] - バダウ ~ミャンマーよもやま話~
* [https://web.archive.org/web/20030713201251/http://www.nhk.or.jp/dig/essay/morimoto/0002.html 流れにのってアニッサ・ミャンマー 0002.もう一度思いを確かめに] (2001.11.19、森本綾、dig、[[日本放送協会]]NHK))
* [https://megalodon.jp/2008-0424-2015-27/homepage2.nifty.com/zatsugaku/zatugaku/000625.html アメリカ人の姓](ウェブ魚拓) - 吉祥寺村立雑学大学通信
* [http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/pname/index.html 人名(CyberLibrarian)]
* [https://web.archive.org/web/20010819014951/http://www.laeff.esa.es/~jmaiz/longnames.html Why are some Spanish names so long?]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.com/SiliconValley/Heights/5445/sname.html |title=South Indian Naming Fundas |date=20010528215316}}
* [https://web.archive.org/web/20030308013546im_/http://www.mlprevention.homestead.com/files/Alert_-_KYC_Naming_Conventions.doc Alert_-_KYC_Naming_Conventions.doc]{{DOClink}} , James R. Richards in Money Laundering Prevention & Deterrence
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{{人名}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しんめい}}
[[Category:人名|*]]
[[Category:民族]]
[[Category:戸籍]] | 2003-03-26T23:59:31Z | 2023-12-18T02:19:32Z | false | false | false | [
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5,260 | 李氏朝鮮 | 李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。
正式には朝鮮國、または大朝鮮國であり、現在の大韓民国では朝鮮王朝(朝: 조선왕조、英: Joseon Dynasty)とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼ばれる場合がある。北朝鮮では朝鮮封建王朝(조선봉건왕조)と呼ばれる。(#国名を参照)
日本では李氏朝鮮と表記され、李家支配下の朝鮮の意味であり、過去に朝鮮という国号を使用した箕子朝鮮や衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。王朝名としては李朝(りちょう)。
1392年に高麗の武将李成桂太祖が高麗王・恭譲王を廃して、自ら権知高麗国事(高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。
前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で儒教が国教化された。
李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであった。しかし、権知高麗国事から正式に明に「朝鮮国王」として冊封を受けたのは第三代明皇帝の永楽帝と第3代権知朝鮮国事太宗の治世の1403年であった。
中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年に日本が清国に勝利して下関条約で「李氏朝鮮は独立国」と認めさせるまで中国大陸の支配王朝(明・清)の冊封体制下にあった。
李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な朱子学こそ至高とされた。
ポストを独占した士林派は、1575年に東人派や西人派に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中北人派と南人派に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。
西人派も1680年に老論派と少論派に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう士禍を繰り返した朝鮮王朝の政治を「朋党政治」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた。
1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、形式的な独立や独立国家の実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後中国大陸の影響下から離れたが、李氏朝鮮は露館播遷などロシア帝国の影響下に入ることを選んだため、南下政策を危惧してロシアと対立していた英米の日本支持が強まる結果をもたらした。
日露戦争が始まった1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年の日露戦争終結後の第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合された。
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名であったが、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する。
国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した。周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する「朝鮮」の国号を奏請したことが背景にあった。
日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年は大韓民国の意(後述)を汲んだ歴史学者を中心に「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。
大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされることと「朝鮮」「朝鮮人」と呼ばれることに差別的意味合いを感じること 、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と国家の正統性を争っているなど、複数の理由により「朝鮮」という呼称をこの時代に限定したいという意図から国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別し、他国、特に日本に対してもそのように呼ぶように求めている。また現在「朝鮮」という国号を使用している北朝鮮には「韓半島(朝鮮半島)の唯一合法的な政府」と主張する立場から北朝鮮を承認していないため「北韓」という呼称を使用している。北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」(조선봉건왕조)、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」(리왕조)あるいは「李朝」を用いる。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。
当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。
朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。
一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、丙子胡乱による敗北から下関条約による独立獲得まで清へ服属させられていた時代(1637年 - 1894年)、ロシア帝国の南下政策で日露が朝鮮半島に対する影響力をめぐって対立した末期(1894年 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。
第1の区分の末期には、日本の豊臣政権の侵攻による文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。
19世紀末期になると、清以外にも欧米列強や日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。
13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻して威化島回軍を起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになると正当化した。
王高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は王昌を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と王昌は殺された。家臣の中には李成桂を王位に即けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。
李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王位が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとしたのである。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、王昌を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したりしたことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。
明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。李自成の乱で明が滅亡し、女真族によって清が建国されると、明の文化の正当な後継者として「小中華」と称した。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だ、と嘆いている。
朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽への遷都を進めた。崇儒廃仏政策をとり、儒教の振興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。
明に対しては徹底的な親明政策を執った。そのため、先代らは「権知朝鮮国事(朝鮮国王代理)」以上の地位が与えられなかったが、太宗は1403年には明の永楽帝から正式に「朝鮮王」の地位に冊封された。以後は第三代朝鮮王と名乗るようになる。
太宗は1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した。
次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで李芳遠が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に政治制度を切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻して制圧し、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが発生する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。
世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになった。これに脅威を感じた勲旧派や外戚が士林派勢力との対立することとなったが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。このとき、成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。
成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、加えて勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(1431年 - 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・成希顔・柳順汀らのクーデター中宗反正により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。
次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中の1510年に、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。1545年に明宗が12歳で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・尹任の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。
1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に分かれて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。
東西に分かれた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の2つの派閥に分裂した。
その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は、1589年に対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべし、とする要求をし始めた。秀吉の意志は大陸への進出のためであったが、朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月に、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。
1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。
1592年4月13日に始まった文禄の役では、態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。
民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。
しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。
一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。
北島万次は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国のご都合主義」を指摘している。
朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗改善などがあったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。
明による「光海君」の世子認定拒絶以後
1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に分かれての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。
光海君の実利外交と国内政争
光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。彼の優れた外交政策は、公金(後の清国)との戦争を回避に成功させていた。
既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。1615年まで続く粛清はその範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだが、これにより大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ(サルフの戦い、1618年 - 1619年)、その後朝鮮は二極外交を展開することになる。
仁祖反正
しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになった。1623年2月12日、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、仁祖として即位させた。この事件を仁祖反正と言う。
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の1624年には、李适による反乱事件(李适の乱)が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された後金は、1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件をのんで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレより大砲を導入するなど軍事力を強化した。
1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に分かれての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。
丁丑約条が結ばれたが、この和議の内容は明元号利用停止、清への服従、明から送られた朝鮮王任命印の清への送付、明との断交と制圧協力命令、毎年清皇帝誕生日を祝う使者派遣、朝鮮王長男・次男と大臣の子女を人質として送ること、毎年莫大な賠償金、清の許可無き城郭の増築・修築禁止など11項目に及ぶ屈辱的内容であった。光海君時代の実利外交から転換し、力もないのに後金へ抵抗して敗北した朝鮮王の仁祖は、清皇帝ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をさせられる恥辱を味わった。ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満洲語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に大清皇帝功徳碑を建立させた。
清に約50万人の朝鮮人が連行された。中でも清に連れて行かれた朝鮮女性は清国の男性の性奴隷にされ、男性の本妻から虐待を受けたりもした。苦労して故国の李氏朝鮮に戻っても、「還郷女」という罵声を浴びた。。
李氏朝鮮が大清皇帝を中心とした冊封体制・清に対する服属関係なら離脱して独立出来たのは日清戦争で日本帝国が勝利して下関条約が締結された1895年まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。
政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。 仁祖は貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していたため、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。
次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシア・ツァーリ国が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の羅禅征伐)している。(清露国境紛争)
清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた(己亥礼訟) 。顕宗は終わりのないこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握するようになる(甲寅礼訟)。
次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うことで、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局(キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局(キサファングク)で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局(朝鮮語版)(カプスルファングク)で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂する。
粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。
1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍)。
景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治(朝鮮語版)を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐(朝鮮語版)の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用することで政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。
その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女の和緩翁主などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした僻派(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした時派(朝鮮語版)に分かれ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。
なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。
この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反することから、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄(朝鮮語版))が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治(朝鮮語版)は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入もあいまって、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。
1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平(朝鮮語版)支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄(朝鮮語版))。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年、1839年(己亥教獄(朝鮮語版))、1846年(丙午教獄(朝鮮語版))、1866年(丙寅教獄)など、断続的に行われた。
1802年、金祖淳(朝鮮語版)の娘が王妃純元王后になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱が頻発した(朝鮮後期の農民反乱)。1811年に起きた洪景来の乱は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。
18世紀後半から英仏は新たな植民地獲得を目的として、ラ・ペルーズやウィリアム・ロバート・ブロートン、バジル・ホール、カール・ギュツラフらが相次いで朝鮮半島付近を探索し、中国がアヘン戦争に敗れると、朝鮮半島進出を本格化させる。1845年にはエドワード・ベルチャー率いるイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入し、1846年には、フランス海軍が過去のカトリック弾圧に対する抗議行動に出るなど、西洋列強の干渉が始まる。一方、ロシアのプチャーチンは1854年に巨文島に上陸し、哲宗に宛てて開港を要請するニコライ1世の親書を送った。
安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。
興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。
大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全て(軍艦7隻、兵約1300名)を投入して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に文珠山城と鼎足山城で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾)。この2か月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。
大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。
1875年に江華島周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件(江華島事件)が発生し、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏一族らを主流派とする閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、1882年にアメリカ(米朝修好通商条約)、中国(中朝商民水陸貿易章程)、1883年にイギリス(英朝条約)、ドイツ、1884年にロシア(露朝修好通商条約)、イタリア、1886年にフランスと通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清の保定府に連行され幽閉された。
事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。高宗は李鴻章に外交顧問の推薦を依頼し、ドイツ人のメレンドルフが推挙された。清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立し、親日開化派は孤立した。また混乱から国内では反乱が生じる。1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、甲午改革は途中で挫折し、清国の影響力が増大した。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)。同年には袁世凱が駐箚朝鮮交渉通商事宜としてソウルに駐在し、朝鮮政府への監視を強化するようになった。
また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。
1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。」とした日清間の下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は日本によって清への服属関係を破棄し、独立国となった。しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。
糟谷憲一は、下関条約ではなく、朝鮮が宗属関係を廃棄したことで李氏朝鮮は『独立』したと主張している。「開国をもとめる欧米列強にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったとしている。
1904年2月、朝鮮半島などを巡って日露戦争が勃発し、日本が勝利する。敗北したロシア帝国は「日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない」など韓国における日本の優越権の承認などを含んだ ポーツマス条約を日本と締結する。翌1905年11月には第二次日韓協約が締結され、事実上保護国となった。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も第2回万国平和会議が開催される1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが、この主張は国際社会に拒絶されて、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった(ハーグ密使事件)。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。
1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が、一進会によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。
日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、清から援助を受けた両班を中心とする元朝鮮支配勢力は、統治による両班制度の破壊(=平等社会)に対しての不平不満のため、三・一独立運動と呼ばれる反日蜂起を起こすが、朝鮮総督府当局により鎮圧される。
朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・王妃・大妃の敬称に殿下を用いた。王位継承の第一順位の王子も「太子」という称号は使えず、王世子と呼ばれ、王世子・世子嬪(王世子の正室)の敬称には邸下が用いられた。1894年に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を陛下に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となり、大韓帝国成立後は国王は皇帝、王太子は皇太子となった。
李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり絶対的な権力を持ったのは国王であり、王は王位こそ継げる完全な世襲であったが、背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり外戚と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班であった、この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれた。さらにその外戚には党争が深くかかわっていた。
李氏朝鮮の歴史は党争の歴史でもあり、党争は朝鮮王朝期の最大の特色といわれるが、その原因については諸説があって一定した解釈はない。政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。主な理由は、王権が微弱で十分に官人たちを抑圧できなかったこと、党争においては相手の政策的能力の指摘よりも道徳的欠陥や問題点を叱責することに集中するなど当時国教的位置を占めていた儒教、特に朱子学のもつさまざまな性格が政争にからんで利用され、事態を一層複雑にしていることであろう。党争の前駆をなすものとして通常指摘されているのは燕山君4年(1498年)に起った戊午の士禍 (世祖の即位をめぐる史論問題から発展した官人・儒林の対立抗争) や甲子の士禍 (1504年) 、乙巳の士禍 (1546年) などという一連の士禍があげられる。いわゆる士禍時代は儒林内部の争いの性格が強いが、宣祖1年 (1568年) 宣祖が即位してから党争は政治色を深め、党派の対立も露骨になった。すなわち同8年沈義謙を中心とする西人派と金孝元を中心とする東人派が対立し、東人はさらに分れて南人、北人となり、これを西人と合せて三色 (色は種類という意味) と呼ぶにいたった。この党争は光海君14年(1622年)までは東人が、仁祖1 (1623年) 年から顕宗15年 (1674年)までは西人が、というように相互に他を排して政権を争った。東西に分れてからほぼ1世紀、粛宗 (在位1675~1720) 代には老論、小論、南人、北人の四色となり、粛宗6年(1680年)までは南人が主流を占め、同 20年以後は西人がこれに代り、さらに西人は老論、少論に分れて対立するという有様で、一時英祖1年(1725年)に改革を試みたが功なく、朝鮮王朝末期まで持越された。
木村誠は「つねに中国の外圧を受けながら民族的成長をとげた朝鮮諸国」を指摘しており、義江彰夫は、日本の公武二重王権と朝鮮を比較して、双方ほぼ同時期に武人が政権の中枢に登場しながら、朝鮮では武人が独自政権を構築することなく、中央政権内部において実権を掌握するにとどまったことを「不断の外圧の存在の有無がこの分岐の決定的な要因であった」と指摘している。
官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に分かれ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。
官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。
王朝に仕える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に地位が低く置かれていた。また中人階級が就ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。
王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一〜従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。
行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。
議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。
また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けなくても官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。
朝鮮八道という、大きく8つの道に分けて行政を行った。
現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都漢城と開城・江華・水原・広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、漢城は漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。
朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳、その中でも朱子学に基づく統治である。これは身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、数多くの派閥抗争を引き起こし、かつ対抗派閥への攻撃の大義名分などの手段として使われ、さらに技術・労働階級の蔑視による技術発展の阻害、軍事の弱体、愚民化や現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国・北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。
日本の統治下で育った韓国の朴正煕元大統領は自著『国家、民族、私』で、朝鮮について次の言葉を遺している。
「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
現在の韓国では、この考え方は当時の大日本帝国の教育体制の影響を受けた「植民地史観」であり、つまり当時の日本は自分の支配を正当化するため「宗主国の日本こそ、朝鮮半島の人々を苦痛や悲しみや奴隷状態から解放させた恩人だ」という思考を植民地人である朝鮮人に教えたとされ、歴史教科書等では「朝鮮時代は素晴らしかったが、それを日本が奪った」と記述されている。
当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。
李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高めるために半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可なく建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。
首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた(土幕民を参照)。
韓国政府と日本の皇太子嘉仁親王の寄付(日本側の税金)で、ようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物によって汚染されていた。開国後の李氏朝鮮を複数回にわたって訪れたイザベラ・バードは、漢陽(現在のソウル)を「世界でも指折りの不衛生な都市」と評した。これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。しかし、李氏朝鮮の後に成立した大韓帝国では、日本の助力のため都市部の衛生環境の改善に一定の対策を講じており、1897年にイザベラ・バード氏が再び漢陽を訪れた際には、「不潔さで並ぶもののなかったソウルはいまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」と評している。同氏によれば、一連の衛生環境の改善は、マクレヴィ・ブラウン氏の尽力によるものが大きいとしている。
かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさからオンドルに使う薪にすることや、伝統的な焼畑農業のために大量の樹木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林をほとんど行わなかったため、李氏朝鮮末期には多くの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な満州に移民した(間島)。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした(禁松令)。なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われ、現大韓民国においても計画的な植林事業が行われた結果、少なくとも韓国側では植生は大幅に回復している。
李成桂は明に「権知高麗国事(高麗国王代理、高麗国知事代理)」にしてもらった後に、新呼称「朝鮮」も選んでもらったが、李成桂は「朝鮮王」としては認めてもらえず、国号変更から死後まで「権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理)」のまま亡くなった。その後三代目である太宗在位時の1403年に永楽帝(明の第3代皇帝)によって「朝鮮王」の地位が漸く冊封された。以後、「権知朝鮮国事」から「朝鮮王」と名乗るようになった。
半島の北の満洲(マンチュリア)に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。
その後、日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、『淮南子』の一節から「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。
秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた。
事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった。
19世紀半ばのウエスタンインパクト以前の朝鮮にとって圧倒的に重要なのは中国である。それは、中国への外交使節の派遣回数を見れば歴然であり、燕京に派遣された燕行使は、冊封関係が終了するまで実に約500回に及び、それがウエスタンインパクト以後も派遣されている。朝鮮は中国を中心軸に置く歴史があまりに長く密度が濃いことから、ウエスタンインパクト以後、国際秩序の中心が欧米となり、中国が周辺に追いやられ、その対応に苦慮することになる。吉田光男は、「清との関係で言えば、初めは朝鮮は屈辱的な関係を強いられます。それまで明と安定的な関係を保っていましたが、南からの日本の攻撃による傷跡が癒えるまもなく、満洲族が興した清が北から攻めてきます。そして漢城陥落。国王は降伏の儀式を行わされ服従を誓わされます。それ以上に屈辱的だったことは、それまで野人と言って野蛮視していた満洲族の下に組み込まれたことでした。にも拘わらず、500回にも及ぶ使節を派遣する、しかも朝貢するというカタチで。心中は認めたくない、でもカタチとしては認める、そうしないと朝鮮の独立が保てない、といった苦衷を秘めながら。ところが100年も経つと、だいぶ認識が変わってきます。確かに支配者は変わったけれど、中国そのものは変わっていない。文化的には却って中華文明によって支配されている、というように。そして国内的にも、清朝から冊封されるということは正統な王朝であると国民が納得できる」と評している。
朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して三跪九叩頭の礼を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。
中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると(明清交替)、中原の中華文明は滅んだとみて朝鮮こそが中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の女真・琉球・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという差別外交である。
南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(昌原)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩は国書を偽造するなどして(柳川一件)、1609年には日朝が己酉約条を結び、釜山に倭館新設も認められた。日本使節の漢城上京は認めおらず、日本からも使節を送ってもいないが、征夷大将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使が江戸を訪問し、対馬藩による釜山貿易も江戸時代を通じて続いた。その朝鮮通信使の報告書を読むと、自国よりも発展している日本への嫉妬であふれている。日本側の記録では、通信使一行の犯罪行為による評判が悪く、のちの征韓論や韓国併合に繋がったとする説もある。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、室町時代に足利氏が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われ、それは併合まで続く。
西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。ただ、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』や、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』など、日本や中国で布教を許されたスペイン人やポルトガル人の宣教師が残した記録のほか、済州島に漂着したヘンドリック・ハメルの『朝鮮幽囚記』等により、朝鮮の事情が断片的に西洋世界に知られることとなった。アルヴァロ・セメドの『中国史』や、マルティノ・マルティニの『満州族の中国侵略史』では、17世紀初頭の朝鮮が明と清の板挟みになっている様子が描かれている。
18世紀後半には、さまざまな分野で西欧の影響を受けて、実学など新たな試みが見られた。19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。
19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を日本領土化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。
日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された下関条約によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての迎恩門も破壊され、代わりに独立門が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、自ら皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に1910年に朝鮮は日本に併合された。
朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。少数の特権階級(閔氏一族など)は互いに婚姻関係を持ち、それらが地主となり、要職に就くための科挙制度も支配することによって、富と権力を握っている社会であった。
戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢・白丁、妓生など)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。ただし、賤民は日本併合まで残り続け自らなくすことはなかった。
儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。
社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば科挙合格により中人から両班に上昇する一族もあったことが分かっている。しかし、李朝後期には身分制に対する社会統制自体が緩くなり、近代に近づくほど賤民層は激減し、両班層は激増している。これは身分の詐称や族譜の売買、朝鮮政府が富裕な農民や賤民に官位や官職を販売しそれが固定化されていったこと、また奴婢が良民の身分をあがなったり逃亡や両班の雇用人となることで身分転化が起こったものと考えられている。両班人口は17世紀の終わりには10%内外であったが、19世紀半ばには両班の占める割合が70%に達した地域もあったとする願望に近い説もある。だが、これはこの時代だけで国の人口を約半分に減らしたことに起因すると考えた方が自然だ。つまり常人以下の人口が飢餓によって極端に減った事を意味する。人口の倍増は日本併合まで待たねばならない。
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。
朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる。
朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーでは、商人に対しての人としての評価が低く、商品に対しての価値もなかった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着せず、物々交換か麻布・綿布・米などの現物貨幣で取引された。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。
第4代世宗(1397-1450年)の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉や清の侵攻でそれまでも構築できていたとは言い難い国内の産業基盤が崩壊し、意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はあまりにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。
このような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また両班が一般民衆に対して常に過酷な財産徴収を行っており資本蓄積や資本による投資が不可能な状態であったことや19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。何もしない上、「官災」と災害扱いされるほどの拷問すら伴う場合のある収奪を行う両班に対しての不満もあって、蓄財は危険な行為とされ自分達自ら何もしないという選択肢しかなかった。
李氏朝鮮末期に至っても物々交換が中心であり、貨幣の流通は都市部に限られていた。開国後には西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、対外交易を行う釜山などを中心とした港湾部で高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100ドル(本位銀貨で100枚)に相当する貨幣が朝鮮の銅貨では320,000枚となり、運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。かように中国の属国意識から自らを打開しようともしなかった。
また、李朝末期まで商店はわずかな両班の使うものであり、一般民衆が使うことのできるまともな商店は存在していなかったか、あったとしても商店にある品を全て集めても当時の10ドル程度にしかならないものであった。そのため多くの民衆は露天市で物を求めた。つまり20世紀直前のこの時代でさえあって、庶民は物々交換をしていたのであった。世界でここだけ中世時代にさえなっていなかった。
李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、貂皮、海獺皮、昆布、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に日本は自給体制を整えたために朝鮮からの輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。こうやって、どんどん衰退していくこととなる。
李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、代々中国の属国であったため、すべて中国文化の縮小版であった。
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。
ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。いまだに残る男尊女卑や差別意識、年齢信仰はこの儒教思想から来る。
正式な国教と呼べるものは儒教の朱子学ではあったが、土着・民間信仰としての巫俗は淫習とされ巫女であるムーダン(巫堂)が賎人とされるなど蔑視されたが根強く残った。祀られる神は朝鮮独自のものもあるが、道教や仏教、後にはキリスト教の影響も見られる。
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』には朝鮮社会が克明に記されており曰く、
「朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿が無い。家々には「神棚」が無く、村祭りには神輿も無ければ偶像を運ぶ行列も無く、婚礼葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりする事が無い。心からにせよ形だけにせよ、畏れ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず人心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られぬは非常に珍しい特徴である。」
各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。
李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の校書館が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった。ほぼすべての者が文盲だったため必要なかった。そのため当時個人の所有していた書籍は王から賜り先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。
公的な文化の中心となるのは中国語の文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成された。ハングルは朝鮮語の表記に適した合理的な文字体系であったが、中華思想に支配された両班ら男性知識人はこれを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。
しかし李朝を通して民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まった。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使う者が現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『春香伝』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。
但し長らく公式文書が漢文のみであった影響もあり、正書法が確立されていなかった。李朝最末期の1907年に国語研究所が設置されて正書法の整備を開始するも、最初の正書法である普通学校用諺文綴字法が完成したのは韓国併合後の1912年である。
李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「書堂」もあった。一方地域ごとには偉いソンビや功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。李氏朝鮮末期には王朝が独自の教科書を作るなどした。しかし、これらは「西洋人は中国人とは異なり禽獣の如き存在である」「ありとあらゆる文物は中国の伝統にかなわない」とする類の事大主義的な内容であった。
学校の数は朝鮮全土において5校だけだったことが、その後を統治した日本の朝鮮総督府によって確認されている。科挙制度によって両班になれた家系はおそらく天文学的に幸運だったに違いないが、その数は多かったそうだ。
李朝における絵画は、儒者達の中国文化への傾倒から前半期には中国山水画の模倣であり、宮廷においても中国の画院の制度を真似た図画署という機関を置き、中国絵画を模した肖像画や儀式の記録画の制作に当たらせた。後半期には、18世紀後半に至り金弘道と申潤福が出てようやく中国絵画の模倣から脱し、朝鮮の風景に基づいた山水画、朝鮮の民衆の生活に基づいた風俗画が描かれるようになり、朝鮮独自の絵画が成立した。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。また、朝鮮の民衆の中からは素朴ながら力強い民画が生まれた。
陶磁器では、前代の高麗青磁に比して、華麗さでは見劣りするが優美さをもつ李朝白磁と呼ばれる磁器が知られるが、それに至る過渡期のものとして14世紀後半に誕生した粉青沙器がある。李朝時代に白磁が尊ばれたのは朱子学で白が高貴な気高い色とされているためであるが、その白を求める過程で粉引(粉吹)が生み出された。粉引とは、赤土で成形された素地に化粧土という泥を塗って白化粧を施し、その上に透明の釉薬をかけ焼成する陶磁器である。李朝の粉引は日本では三島として知られる。この粉青沙器は16世紀末には廃れ、その後の李朝磁器の主流は15世紀前半から生産が軌道に乗り始めた白磁へと移った。白磁は17世紀後半から18世紀にかけて青花の全盛期を迎える。
他に、絵画同様、鉄絵の具で力強い文様が描かれた民窯の鉄砂の焼き物や、釜山の倭館窯で日本からの注文で焼かれた高麗茶碗がある。李朝の陶磁器はコバルト顔料と辰砂釉、鉄絵の具での彩色にとどまり、明や日本のような錦手、金襴手(英語版)と呼ばれる豪奢な色絵磁器が生み出されることはなかった。これは、儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別があったためだが、白磁は職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。
朝鮮における芸能は儒教の賤商思想ゆえに都市文化が抑制されたため、芸能は農村部で展開された。広大(クワンデ)やキーセンなどによるパンソリといった民話に題材を得た音楽と歌唱を伴う芸能が成立した。当初は農民の芸能として両班など知識人である支配者階層に賤しまれたが、その内容が文学的に洗練されるにつれ両班の間でも楽しまれるようになり、現在では韓国を代表する伝統芸能として保護されている。
歴史的に朝鮮では、タルチュムと呼ばれる仮面芝居のようなものはあったが、野外の広場や仮設舞台で行われたので、演劇のための劇場は20世紀になるまで全く存在しなかった。朝鮮史上初の劇場は1902年に建てられた協律社(ko:협률사)である。
医学分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「恵民署」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。男性の医師は女性を診察できず、女性を診察する医女という制度が作られたが、妓生との区別があいまいだった。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された許浚の『東医宝鑑』などがある。1894年に李済馬は「四象医学」(ko:사상의학)を主張した。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも韓医学界では通用している。 | [
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"text": "李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。",
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"text": "正式には朝鮮國、または大朝鮮國であり、現在の大韓民国では朝鮮王朝(朝: 조선왕조、英: Joseon Dynasty)とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼ばれる場合がある。北朝鮮では朝鮮封建王朝(조선봉건왕조)と呼ばれる。(#国名を参照)",
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"text": "日本では李氏朝鮮と表記され、李家支配下の朝鮮の意味であり、過去に朝鮮という国号を使用した箕子朝鮮や衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。王朝名としては李朝(りちょう)。",
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"text": "1392年に高麗の武将李成桂太祖が高麗王・恭譲王を廃して、自ら権知高麗国事(高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。",
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"text": "前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で儒教が国教化された。",
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"text": "李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであった。しかし、権知高麗国事から正式に明に「朝鮮国王」として冊封を受けたのは第三代明皇帝の永楽帝と第3代権知朝鮮国事太宗の治世の1403年であった。",
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"text": "中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年に日本が清国に勝利して下関条約で「李氏朝鮮は独立国」と認めさせるまで中国大陸の支配王朝(明・清)の冊封体制下にあった。",
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"text": "李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な朱子学こそ至高とされた。",
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"text": "ポストを独占した士林派は、1575年に東人派や西人派に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中北人派と南人派に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。",
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"text": "西人派も1680年に老論派と少論派に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう士禍を繰り返した朝鮮王朝の政治を「朋党政治」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた。",
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"text": "1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、形式的な独立や独立国家の実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後中国大陸の影響下から離れたが、李氏朝鮮は露館播遷などロシア帝国の影響下に入ることを選んだため、南下政策を危惧してロシアと対立していた英米の日本支持が強まる結果をもたらした。",
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"text": "日露戦争が始まった1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年の日露戦争終結後の第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合された。",
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"text": "高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名であったが、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する。",
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"text": "国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した。周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する「朝鮮」の国号を奏請したことが背景にあった。",
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"text": "日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年は大韓民国の意(後述)を汲んだ歴史学者を中心に「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。",
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"text": "大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされることと「朝鮮」「朝鮮人」と呼ばれることに差別的意味合いを感じること 、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と国家の正統性を争っているなど、複数の理由により「朝鮮」という呼称をこの時代に限定したいという意図から国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別し、他国、特に日本に対してもそのように呼ぶように求めている。また現在「朝鮮」という国号を使用している北朝鮮には「韓半島(朝鮮半島)の唯一合法的な政府」と主張する立場から北朝鮮を承認していないため「北韓」という呼称を使用している。北朝鮮では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および古朝鮮と区別するために「朝鮮封建王朝」(조선봉건왕조)、「李朝朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」と呼び、王朝名称として「李王朝」(리왕조)あるいは「李朝」を用いる。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。",
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"text": "当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。",
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"text": "朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。",
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"text": "一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、丙子胡乱による敗北から下関条約による独立獲得まで清へ服属させられていた時代(1637年 - 1894年)、ロシア帝国の南下政策で日露が朝鮮半島に対する影響力をめぐって対立した末期(1894年 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。",
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"text": "第1の区分の末期には、日本の豊臣政権の侵攻による文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。",
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"text": "19世紀末期になると、清以外にも欧米列強や日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。",
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"text": "13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻して威化島回軍を起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。",
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"text": "李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになると正当化した。",
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"text": "王高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は王昌を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と王昌は殺された。家臣の中には李成桂を王位に即けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。",
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"text": "李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王位が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとしたのである。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、王昌を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したりしたことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。",
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"text": "明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。李自成の乱で明が滅亡し、女真族によって清が建国されると、明の文化の正当な後継者として「小中華」と称した。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だ、と嘆いている。",
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"text": "朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽への遷都を進めた。崇儒廃仏政策をとり、儒教の振興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。",
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"text": "李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。",
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"text": "太宗は1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した。",
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"text": "次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで李芳遠が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に政治制度を切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻して制圧し、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。",
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"text": "第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが発生する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。",
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"text": "世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになった。これに脅威を感じた勲旧派や外戚が士林派勢力との対立することとなったが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。このとき、成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。",
"title": "歴史"
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"text": "成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、加えて勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(1431年 - 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・成希顔・柳順汀らのクーデター中宗反正により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。",
"title": "歴史"
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"text": "次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中の1510年に、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。1545年に明宗が12歳で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・尹任の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。",
"title": "歴史"
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"text": "1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に分かれて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。",
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"text": "東西に分かれた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の2つの派閥に分裂した。",
"title": "歴史"
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"text": "その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は、1589年に対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべし、とする要求をし始めた。秀吉の意志は大陸への進出のためであったが、朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月に、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。",
"title": "歴史"
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"text": "1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。",
"title": "歴史"
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"text": "1592年4月13日に始まった文禄の役では、態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。",
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"text": "一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。",
"title": "歴史"
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"text": "北島万次は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国のご都合主義」を指摘している。",
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"text": "朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗改善などがあったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。",
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"text": "明による「光海君」の世子認定拒絶以後",
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"text": "1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に分かれての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。",
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"text": "光海君の実利外交と国内政争",
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"text": "光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。彼の優れた外交政策は、公金(後の清国)との戦争を回避に成功させていた。",
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"text": "既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。1615年まで続く粛清はその範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだが、これにより大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ(サルフの戦い、1618年 - 1619年)、その後朝鮮は二極外交を展開することになる。",
"title": "歴史"
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"text": "仁祖反正",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになった。1623年2月12日、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、仁祖として即位させた。この事件を仁祖反正と言う。",
"title": "歴史"
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"text": "仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の1624年には、李适による反乱事件(李适の乱)が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された後金は、1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件をのんで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレより大砲を導入するなど軍事力を強化した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に分かれての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "丁丑約条が結ばれたが、この和議の内容は明元号利用停止、清への服従、明から送られた朝鮮王任命印の清への送付、明との断交と制圧協力命令、毎年清皇帝誕生日を祝う使者派遣、朝鮮王長男・次男と大臣の子女を人質として送ること、毎年莫大な賠償金、清の許可無き城郭の増築・修築禁止など11項目に及ぶ屈辱的内容であった。光海君時代の実利外交から転換し、力もないのに後金へ抵抗して敗北した朝鮮王の仁祖は、清皇帝ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をさせられる恥辱を味わった。ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満洲語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に大清皇帝功徳碑を建立させた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "清に約50万人の朝鮮人が連行された。中でも清に連れて行かれた朝鮮女性は清国の男性の性奴隷にされ、男性の本妻から虐待を受けたりもした。苦労して故国の李氏朝鮮に戻っても、「還郷女」という罵声を浴びた。。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "李氏朝鮮が大清皇帝を中心とした冊封体制・清に対する服属関係なら離脱して独立出来たのは日清戦争で日本帝国が勝利して下関条約が締結された1895年まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。 仁祖は貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していたため、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシア・ツァーリ国が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の羅禅征伐)している。(清露国境紛争)",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた(己亥礼訟) 。顕宗は終わりのないこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握するようになる(甲寅礼訟)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
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"text": "次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うことで、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局(キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局(キサファングク)で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局(朝鮮語版)(カプスルファングク)で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂する。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍)。",
"title": "歴史"
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"text": "景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治(朝鮮語版)を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐(朝鮮語版)の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用することで政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。",
"title": "歴史"
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"text": "その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女の和緩翁主などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした僻派(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした時派(朝鮮語版)に分かれ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。",
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"text": "英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。",
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"text": "この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反することから、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄(朝鮮語版))が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治(朝鮮語版)は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入もあいまって、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。",
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"paragraph_id": 69,
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"text": "1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平(朝鮮語版)支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄(朝鮮語版))。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年、1839年(己亥教獄(朝鮮語版))、1846年(丙午教獄(朝鮮語版))、1866年(丙寅教獄)など、断続的に行われた。",
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"paragraph_id": 70,
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"text": "1802年、金祖淳(朝鮮語版)の娘が王妃純元王后になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱が頻発した(朝鮮後期の農民反乱)。1811年に起きた洪景来の乱は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 71,
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"text": "18世紀後半から英仏は新たな植民地獲得を目的として、ラ・ペルーズやウィリアム・ロバート・ブロートン、バジル・ホール、カール・ギュツラフらが相次いで朝鮮半島付近を探索し、中国がアヘン戦争に敗れると、朝鮮半島進出を本格化させる。1845年にはエドワード・ベルチャー率いるイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入し、1846年には、フランス海軍が過去のカトリック弾圧に対する抗議行動に出るなど、西洋列強の干渉が始まる。一方、ロシアのプチャーチンは1854年に巨文島に上陸し、哲宗に宛てて開港を要請するニコライ1世の親書を送った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 74,
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"text": "大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全て(軍艦7隻、兵約1300名)を投入して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に文珠山城と鼎足山城で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾)。この2か月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1875年に江華島周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件(江華島事件)が発生し、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏一族らを主流派とする閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、1882年にアメリカ(米朝修好通商条約)、中国(中朝商民水陸貿易章程)、1883年にイギリス(英朝条約)、ドイツ、1884年にロシア(露朝修好通商条約)、イタリア、1886年にフランスと通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清の保定府に連行され幽閉された。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。高宗は李鴻章に外交顧問の推薦を依頼し、ドイツ人のメレンドルフが推挙された。清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立し、親日開化派は孤立した。また混乱から国内では反乱が生じる。1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、甲午改革は途中で挫折し、清国の影響力が増大した。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)。同年には袁世凱が駐箚朝鮮交渉通商事宜としてソウルに駐在し、朝鮮政府への監視を強化するようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。」とした日清間の下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は日本によって清への服属関係を破棄し、独立国となった。しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "糟谷憲一は、下関条約ではなく、朝鮮が宗属関係を廃棄したことで李氏朝鮮は『独立』したと主張している。「開国をもとめる欧米列強にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったとしている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1904年2月、朝鮮半島などを巡って日露戦争が勃発し、日本が勝利する。敗北したロシア帝国は「日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない」など韓国における日本の優越権の承認などを含んだ ポーツマス条約を日本と締結する。翌1905年11月には第二次日韓協約が締結され、事実上保護国となった。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も第2回万国平和会議が開催される1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが、この主張は国際社会に拒絶されて、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった(ハーグ密使事件)。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が、一進会によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、清から援助を受けた両班を中心とする元朝鮮支配勢力は、統治による両班制度の破壊(=平等社会)に対しての不平不満のため、三・一独立運動と呼ばれる反日蜂起を起こすが、朝鮮総督府当局により鎮圧される。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・王妃・大妃の敬称に殿下を用いた。王位継承の第一順位の王子も「太子」という称号は使えず、王世子と呼ばれ、王世子・世子嬪(王世子の正室)の敬称には邸下が用いられた。1894年に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を陛下に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となり、大韓帝国成立後は国王は皇帝、王太子は皇太子となった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり絶対的な権力を持ったのは国王であり、王は王位こそ継げる完全な世襲であったが、背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり外戚と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班であった、この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれた。さらにその外戚には党争が深くかかわっていた。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "李氏朝鮮の歴史は党争の歴史でもあり、党争は朝鮮王朝期の最大の特色といわれるが、その原因については諸説があって一定した解釈はない。政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。主な理由は、王権が微弱で十分に官人たちを抑圧できなかったこと、党争においては相手の政策的能力の指摘よりも道徳的欠陥や問題点を叱責することに集中するなど当時国教的位置を占めていた儒教、特に朱子学のもつさまざまな性格が政争にからんで利用され、事態を一層複雑にしていることであろう。党争の前駆をなすものとして通常指摘されているのは燕山君4年(1498年)に起った戊午の士禍 (世祖の即位をめぐる史論問題から発展した官人・儒林の対立抗争) や甲子の士禍 (1504年) 、乙巳の士禍 (1546年) などという一連の士禍があげられる。いわゆる士禍時代は儒林内部の争いの性格が強いが、宣祖1年 (1568年) 宣祖が即位してから党争は政治色を深め、党派の対立も露骨になった。すなわち同8年沈義謙を中心とする西人派と金孝元を中心とする東人派が対立し、東人はさらに分れて南人、北人となり、これを西人と合せて三色 (色は種類という意味) と呼ぶにいたった。この党争は光海君14年(1622年)までは東人が、仁祖1 (1623年) 年から顕宗15年 (1674年)までは西人が、というように相互に他を排して政権を争った。東西に分れてからほぼ1世紀、粛宗 (在位1675~1720) 代には老論、小論、南人、北人の四色となり、粛宗6年(1680年)までは南人が主流を占め、同 20年以後は西人がこれに代り、さらに西人は老論、少論に分れて対立するという有様で、一時英祖1年(1725年)に改革を試みたが功なく、朝鮮王朝末期まで持越された。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "木村誠は「つねに中国の外圧を受けながら民族的成長をとげた朝鮮諸国」を指摘しており、義江彰夫は、日本の公武二重王権と朝鮮を比較して、双方ほぼ同時期に武人が政権の中枢に登場しながら、朝鮮では武人が独自政権を構築することなく、中央政権内部において実権を掌握するにとどまったことを「不断の外圧の存在の有無がこの分岐の決定的な要因であった」と指摘している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に分かれ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "王朝に仕える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に地位が低く置かれていた。また中人階級が就ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一〜従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けなくても官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "朝鮮八道という、大きく8つの道に分けて行政を行った。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都漢城と開城・江華・水原・広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、漢城は漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳、その中でも朱子学に基づく統治である。これは身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、数多くの派閥抗争を引き起こし、かつ対抗派閥への攻撃の大義名分などの手段として使われ、さらに技術・労働階級の蔑視による技術発展の阻害、軍事の弱体、愚民化や現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国・北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "日本の統治下で育った韓国の朴正煕元大統領は自著『国家、民族、私』で、朝鮮について次の言葉を遺している。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 102,
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"text": "「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 104,
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"text": "現在の韓国では、この考え方は当時の大日本帝国の教育体制の影響を受けた「植民地史観」であり、つまり当時の日本は自分の支配を正当化するため「宗主国の日本こそ、朝鮮半島の人々を苦痛や悲しみや奴隷状態から解放させた恩人だ」という思考を植民地人である朝鮮人に教えたとされ、歴史教科書等では「朝鮮時代は素晴らしかったが、それを日本が奪った」と記述されている。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。",
"title": "都市"
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{
"paragraph_id": 106,
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"text": "李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高めるために半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可なく建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。",
"title": "都市"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた(土幕民を参照)。",
"title": "都市"
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"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "韓国政府と日本の皇太子嘉仁親王の寄付(日本側の税金)で、ようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物によって汚染されていた。開国後の李氏朝鮮を複数回にわたって訪れたイザベラ・バードは、漢陽(現在のソウル)を「世界でも指折りの不衛生な都市」と評した。これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。しかし、李氏朝鮮の後に成立した大韓帝国では、日本の助力のため都市部の衛生環境の改善に一定の対策を講じており、1897年にイザベラ・バード氏が再び漢陽を訪れた際には、「不潔さで並ぶもののなかったソウルはいまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」と評している。同氏によれば、一連の衛生環境の改善は、マクレヴィ・ブラウン氏の尽力によるものが大きいとしている。",
"title": "都市"
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさからオンドルに使う薪にすることや、伝統的な焼畑農業のために大量の樹木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林をほとんど行わなかったため、李氏朝鮮末期には多くの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な満州に移民した(間島)。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした(禁松令)。なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われ、現大韓民国においても計画的な植林事業が行われた結果、少なくとも韓国側では植生は大幅に回復している。",
"title": "都市"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "李成桂は明に「権知高麗国事(高麗国王代理、高麗国知事代理)」にしてもらった後に、新呼称「朝鮮」も選んでもらったが、李成桂は「朝鮮王」としては認めてもらえず、国号変更から死後まで「権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理)」のまま亡くなった。その後三代目である太宗在位時の1403年に永楽帝(明の第3代皇帝)によって「朝鮮王」の地位が漸く冊封された。以後、「権知朝鮮国事」から「朝鮮王」と名乗るようになった。",
"title": "対外関係"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "半島の北の満洲(マンチュリア)に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "その後、日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、『淮南子』の一節から「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "19世紀半ばのウエスタンインパクト以前の朝鮮にとって圧倒的に重要なのは中国である。それは、中国への外交使節の派遣回数を見れば歴然であり、燕京に派遣された燕行使は、冊封関係が終了するまで実に約500回に及び、それがウエスタンインパクト以後も派遣されている。朝鮮は中国を中心軸に置く歴史があまりに長く密度が濃いことから、ウエスタンインパクト以後、国際秩序の中心が欧米となり、中国が周辺に追いやられ、その対応に苦慮することになる。吉田光男は、「清との関係で言えば、初めは朝鮮は屈辱的な関係を強いられます。それまで明と安定的な関係を保っていましたが、南からの日本の攻撃による傷跡が癒えるまもなく、満洲族が興した清が北から攻めてきます。そして漢城陥落。国王は降伏の儀式を行わされ服従を誓わされます。それ以上に屈辱的だったことは、それまで野人と言って野蛮視していた満洲族の下に組み込まれたことでした。にも拘わらず、500回にも及ぶ使節を派遣する、しかも朝貢するというカタチで。心中は認めたくない、でもカタチとしては認める、そうしないと朝鮮の独立が保てない、といった苦衷を秘めながら。ところが100年も経つと、だいぶ認識が変わってきます。確かに支配者は変わったけれど、中国そのものは変わっていない。文化的には却って中華文明によって支配されている、というように。そして国内的にも、清朝から冊封されるということは正統な王朝であると国民が納得できる」と評している。",
"title": "対外関係"
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"text": "朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して三跪九叩頭の礼を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。",
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"text": "中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると(明清交替)、中原の中華文明は滅んだとみて朝鮮こそが中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の女真・琉球・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという差別外交である。",
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"text": "南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(昌原)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩は国書を偽造するなどして(柳川一件)、1609年には日朝が己酉約条を結び、釜山に倭館新設も認められた。日本使節の漢城上京は認めおらず、日本からも使節を送ってもいないが、征夷大将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使が江戸を訪問し、対馬藩による釜山貿易も江戸時代を通じて続いた。その朝鮮通信使の報告書を読むと、自国よりも発展している日本への嫉妬であふれている。日本側の記録では、通信使一行の犯罪行為による評判が悪く、のちの征韓論や韓国併合に繋がったとする説もある。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、室町時代に足利氏が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われ、それは併合まで続く。",
"title": "対外関係"
},
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"text": "西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。ただ、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』や、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』など、日本や中国で布教を許されたスペイン人やポルトガル人の宣教師が残した記録のほか、済州島に漂着したヘンドリック・ハメルの『朝鮮幽囚記』等により、朝鮮の事情が断片的に西洋世界に知られることとなった。アルヴァロ・セメドの『中国史』や、マルティノ・マルティニの『満州族の中国侵略史』では、17世紀初頭の朝鮮が明と清の板挟みになっている様子が描かれている。",
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"paragraph_id": 120,
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"text": "18世紀後半には、さまざまな分野で西欧の影響を受けて、実学など新たな試みが見られた。19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。",
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"text": "19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を日本領土化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。",
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"text": "日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された下関条約によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての迎恩門も破壊され、代わりに独立門が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、自ら皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に1910年に朝鮮は日本に併合された。",
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"text": "朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。少数の特権階級(閔氏一族など)は互いに婚姻関係を持ち、それらが地主となり、要職に就くための科挙制度も支配することによって、富と権力を握っている社会であった。",
"title": "社会階層"
},
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"paragraph_id": 124,
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"text": "戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢・白丁、妓生など)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。ただし、賤民は日本併合まで残り続け自らなくすことはなかった。",
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"paragraph_id": 125,
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"text": "儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。",
"title": "社会階層"
},
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"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば科挙合格により中人から両班に上昇する一族もあったことが分かっている。しかし、李朝後期には身分制に対する社会統制自体が緩くなり、近代に近づくほど賤民層は激減し、両班層は激増している。これは身分の詐称や族譜の売買、朝鮮政府が富裕な農民や賤民に官位や官職を販売しそれが固定化されていったこと、また奴婢が良民の身分をあがなったり逃亡や両班の雇用人となることで身分転化が起こったものと考えられている。両班人口は17世紀の終わりには10%内外であったが、19世紀半ばには両班の占める割合が70%に達した地域もあったとする願望に近い説もある。だが、これはこの時代だけで国の人口を約半分に減らしたことに起因すると考えた方が自然だ。つまり常人以下の人口が飢餓によって極端に減った事を意味する。人口の倍増は日本併合まで待たねばならない。",
"title": "社会階層"
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{
"paragraph_id": 127,
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"text": "民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。",
"title": "民族構成"
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"paragraph_id": 128,
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"text": "朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる。",
"title": "民族構成"
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"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーでは、商人に対しての人としての評価が低く、商品に対しての価値もなかった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着せず、物々交換か麻布・綿布・米などの現物貨幣で取引された。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "第4代世宗(1397-1450年)の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉や清の侵攻でそれまでも構築できていたとは言い難い国内の産業基盤が崩壊し、意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はあまりにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 131,
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"text": "このような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また両班が一般民衆に対して常に過酷な財産徴収を行っており資本蓄積や資本による投資が不可能な状態であったことや19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。何もしない上、「官災」と災害扱いされるほどの拷問すら伴う場合のある収奪を行う両班に対しての不満もあって、蓄財は危険な行為とされ自分達自ら何もしないという選択肢しかなかった。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 132,
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"text": "李氏朝鮮末期に至っても物々交換が中心であり、貨幣の流通は都市部に限られていた。開国後には西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、対外交易を行う釜山などを中心とした港湾部で高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100ドル(本位銀貨で100枚)に相当する貨幣が朝鮮の銅貨では320,000枚となり、運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。かように中国の属国意識から自らを打開しようともしなかった。",
"title": "経済"
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"text": "また、李朝末期まで商店はわずかな両班の使うものであり、一般民衆が使うことのできるまともな商店は存在していなかったか、あったとしても商店にある品を全て集めても当時の10ドル程度にしかならないものであった。そのため多くの民衆は露天市で物を求めた。つまり20世紀直前のこの時代でさえあって、庶民は物々交換をしていたのであった。世界でここだけ中世時代にさえなっていなかった。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 134,
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"text": "李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、貂皮、海獺皮、昆布、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に日本は自給体制を整えたために朝鮮からの輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。こうやって、どんどん衰退していくこととなる。",
"title": "経済"
},
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"paragraph_id": 135,
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"text": "李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、代々中国の属国であったため、すべて中国文化の縮小版であった。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。いまだに残る男尊女卑や差別意識、年齢信仰はこの儒教思想から来る。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 138,
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"text": "正式な国教と呼べるものは儒教の朱子学ではあったが、土着・民間信仰としての巫俗は淫習とされ巫女であるムーダン(巫堂)が賎人とされるなど蔑視されたが根強く残った。祀られる神は朝鮮独自のものもあるが、道教や仏教、後にはキリスト教の影響も見られる。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 139,
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"text": "イザベラ・バードの『朝鮮紀行』には朝鮮社会が克明に記されており曰く、",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "「朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿が無い。家々には「神棚」が無く、村祭りには神輿も無ければ偶像を運ぶ行列も無く、婚礼葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりする事が無い。心からにせよ形だけにせよ、畏れ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず人心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られぬは非常に珍しい特徴である。」",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 141,
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"text": "各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 142,
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"text": "李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の校書館が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった。ほぼすべての者が文盲だったため必要なかった。そのため当時個人の所有していた書籍は王から賜り先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "公的な文化の中心となるのは中国語の文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成された。ハングルは朝鮮語の表記に適した合理的な文字体系であったが、中華思想に支配された両班ら男性知識人はこれを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 144,
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"text": "しかし李朝を通して民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まった。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使う者が現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『春香伝』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "但し長らく公式文書が漢文のみであった影響もあり、正書法が確立されていなかった。李朝最末期の1907年に国語研究所が設置されて正書法の整備を開始するも、最初の正書法である普通学校用諺文綴字法が完成したのは韓国併合後の1912年である。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 146,
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"text": "李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「書堂」もあった。一方地域ごとには偉いソンビや功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。李氏朝鮮末期には王朝が独自の教科書を作るなどした。しかし、これらは「西洋人は中国人とは異なり禽獣の如き存在である」「ありとあらゆる文物は中国の伝統にかなわない」とする類の事大主義的な内容であった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 147,
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"text": "学校の数は朝鮮全土において5校だけだったことが、その後を統治した日本の朝鮮総督府によって確認されている。科挙制度によって両班になれた家系はおそらく天文学的に幸運だったに違いないが、その数は多かったそうだ。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "李朝における絵画は、儒者達の中国文化への傾倒から前半期には中国山水画の模倣であり、宮廷においても中国の画院の制度を真似た図画署という機関を置き、中国絵画を模した肖像画や儀式の記録画の制作に当たらせた。後半期には、18世紀後半に至り金弘道と申潤福が出てようやく中国絵画の模倣から脱し、朝鮮の風景に基づいた山水画、朝鮮の民衆の生活に基づいた風俗画が描かれるようになり、朝鮮独自の絵画が成立した。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。また、朝鮮の民衆の中からは素朴ながら力強い民画が生まれた。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 149,
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"text": "陶磁器では、前代の高麗青磁に比して、華麗さでは見劣りするが優美さをもつ李朝白磁と呼ばれる磁器が知られるが、それに至る過渡期のものとして14世紀後半に誕生した粉青沙器がある。李朝時代に白磁が尊ばれたのは朱子学で白が高貴な気高い色とされているためであるが、その白を求める過程で粉引(粉吹)が生み出された。粉引とは、赤土で成形された素地に化粧土という泥を塗って白化粧を施し、その上に透明の釉薬をかけ焼成する陶磁器である。李朝の粉引は日本では三島として知られる。この粉青沙器は16世紀末には廃れ、その後の李朝磁器の主流は15世紀前半から生産が軌道に乗り始めた白磁へと移った。白磁は17世紀後半から18世紀にかけて青花の全盛期を迎える。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 150,
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"text": "他に、絵画同様、鉄絵の具で力強い文様が描かれた民窯の鉄砂の焼き物や、釜山の倭館窯で日本からの注文で焼かれた高麗茶碗がある。李朝の陶磁器はコバルト顔料と辰砂釉、鉄絵の具での彩色にとどまり、明や日本のような錦手、金襴手(英語版)と呼ばれる豪奢な色絵磁器が生み出されることはなかった。これは、儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別があったためだが、白磁は職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "朝鮮における芸能は儒教の賤商思想ゆえに都市文化が抑制されたため、芸能は農村部で展開された。広大(クワンデ)やキーセンなどによるパンソリといった民話に題材を得た音楽と歌唱を伴う芸能が成立した。当初は農民の芸能として両班など知識人である支配者階層に賤しまれたが、その内容が文学的に洗練されるにつれ両班の間でも楽しまれるようになり、現在では韓国を代表する伝統芸能として保護されている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "歴史的に朝鮮では、タルチュムと呼ばれる仮面芝居のようなものはあったが、野外の広場や仮設舞台で行われたので、演劇のための劇場は20世紀になるまで全く存在しなかった。朝鮮史上初の劇場は1902年に建てられた協律社(ko:협률사)である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "医学分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「恵民署」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。男性の医師は女性を診察できず、女性を診察する医女という制度が作られたが、妓生との区別があいまいだった。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された許浚の『東医宝鑑』などがある。1894年に李済馬は「四象医学」(ko:사상의학)を主張した。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも韓医学界では通用している。",
"title": "文化"
}
] | 李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。 | {{基礎情報 過去の国
|略名 = 李氏朝鮮
|日本語国名 = {{lang|jp|李氏朝鮮}}
|公式国名 = '''{{lang|ko|朝鮮國}}'''
|建国時期 = [[1392年]]
|亡国時期 = [[1897年]]<ref group="*">朝鮮国として。李氏朝鮮は大韓帝国として1910年まで存続。</ref>
|先代1 = 高麗
|先旗1 = Royal flag of Goryeo (Bong-gi) (Fringeless).svg
|次代1 = 大韓帝国
|次旗1 = Flag of Korea (1899).svg
|国旗画像 = Flag of the king of Joseon.svg
|国旗リンク = [[太極旗|李氏朝鮮王の御旗]]
|国旗幅 =
|国旗縁 = no
|国章画像 = Coat of Arms of Joseon Korea.svg
|国章リンク = 李氏朝鮮王章
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|標語 = [[:zh:大明天地|大明天地]]([[1674年]]から){{efn|{{kor|k=대명천지|hanja=大明天地}}}}
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|国歌 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Korea (orthographic projection).svg
|位置画像説明 =
|位置画像幅 =
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|首都 = [[漢城府]]<ref group="*">[[1395年]](太祖4年)6月6日に漢陽府から改称。</ref>
|元首等肩書 = [[朝鮮の君主一覧|国王]]
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|元首等年代終1 = [[1398年]]
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|首相等肩書 = [[領議政]]<ref group="注釈">同国の[[首相]]格。1392年から1894年までは領議政、1894年から1897年まで内閣総理大臣。</ref>
|首相等年代始1 = [[1392年]]
|首相等年代終1 = 1392年
|首相等氏名1 = [[裴克廉]](初代)
|首相等年代始2 = [[1894年]]
|首相等年代終2 = [[1898年]]
|首相等氏名2 = [[金炳始]](最後)
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|人口値1 = 6,828,520
|変遷1 = 李成桂により建国
|変遷年月日1 = [[1392年]][[8月5日]]
|変遷2 = 明皇帝 [[永楽帝]]による「朝鮮王」の [[冊封]]
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|変遷年月日3 = [[1592年]]-[[1593年]]<br>[[1597年]]-[[1598年]]
|変遷4 = [[丙子胡乱]]敗北による[[清]]への服属開始([[丁丑約条]])
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|変遷5 = [[丙寅洋擾]]
|変遷年月日5 = [[1866年]]
|変遷6 = [[江華島事件]]
|変遷年月日6 = [[1875年]]
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|変遷年月日7 = [[1895年]]
|変遷8 = [[大韓帝国]]への国号改称宣言
|変遷年月日8 =[[1897年]][[10月12日]]
|変遷9 = [[ポーツマス条約]]による日本による保護国化(ロシア帝国による韓国における日本の優越権の承認)
|変遷年月日9 =[[1905年]]9月4日
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|注記 = <references group="*"/>
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{| class="infobox"
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! colspan="2" style="background-color:#ace1af; text-align:center;" | 李氏朝鮮/李朝/朝鮮王朝
|-
! colspan="2" | [[朝鮮語]]表記
|-
| style="text-align:right;" | [[ハングル]]:
| {{lang|ko|조선}}{{efn|[[中期朝鮮語]]:{{古韓文|됴ᇢ〯션〮}} または {{古韓文|됴ᇢ〯션〯}}<ref>『[[東国正韻]]』巻3([https://www.yeoju.go.kr//jnrepo/synap/jnBrdBoard/202007/712ab3f99ed7429d95f4930ac8433498_1593743317195.pdf.htm 「션」 12~13頁])、巻4([https://www.yeoju.go.kr//jnrepo/synap/jnBrdBoard/201701/415a1b121e454a76978de32411f75e9d_1485224609670.pdf.htm 「됴」 10頁])に参照</ref>、[[近世朝鮮語]]:조션/죠션/됴션<ref>{{ws|[[s:ko:독립신문/1896년/4월/7일|『独立新聞』1896年4月7日字(創刊號)]]}}第1面で示された三つの表記</ref>}}<br>{{lang|ko|조선왕조}}<br>{{lang|ko|조선봉건왕조}}<br>{{lang|ko|이씨조선}}
|-
| style="text-align:right;" | [[韓国における漢字|朝鮮の漢字]]:
| {{lang|ko|朝鮮}}<br>{{lang|ko|朝鮮王朝}}<br>{{lang|ko|朝鮮封建王朝}}<br>{{lang|ko|李氏朝鮮}}
|-
| style="text-align:right;" | 日本語読み:
| ちょうせん<br />ちょうせんおうちょう<br />ちょうせんほうけんおうちょう<br />りしちょうせん
|-
| style="text-align:right;" | [[片仮名]]転写:
| チョソン<br />チョソンワンジョ<br />チョソンボンゴンワンジョ<br />イシジョソン
|-
| style="text-align:right;" | [[ラテン文字]]転写:
| [[文化観光部2000年式|RR]]:Joseon wangjo<br />[[マッキューン=ライシャワー式|MR]]:Chosŏn wangjo
|-
! colspan="2" | [[中国語]]表記
|-
| style="text-align:right;" | [[繁体字]]:
| {{lang|zh-hant|李氏朝鮮}}<br />{{lang|zh-hant|李朝}}<br />{{lang|zh-hant|朝鮮王朝}}
|-
| style="text-align:right;" | [[簡体字]]:
| {{lang|zh-hans|李氏朝鲜}}<br />{{lang|zh-hans|李朝}}<br />{{lang|zh-hans|朝鲜王朝}}
|-
| style="text-align:right;" | [[ピンイン]]:
| {{lang|zh-latn|Lǐshì Cháoxiǎn}}<br />{{lang|zh-latn|Lǐcháo}}<br />{{lang|zh-latn|Cháoxiǎn wángcháo}}
|-
! colspan="2" | [[英語]]表記
|-
| style="text-align:right;" | [[アルファベット]]:
| Joseon Dynasty<br />Joseon<br />Chosŏn<br />Choson<br />Chosun
|}
{{朝鮮の歴史}}
'''李氏朝鮮'''(りしちょうせん)は、[[1392年]]8月から[[1897年]]10月<ref group="注釈">[[1910年]]8月まで[[大韓帝国]]として存続した。</ref>にかけて[[朝鮮半島]]に存在した[[国家|国]]。[[高麗]]の次の王朝にあたり、[[朝鮮の歴史]]における最後の統一王朝である<ref>{{Kotobank|李氏朝鮮|2=}}</ref>。
== 呼称 ==
正式には'''朝鮮國'''<ref>{{Cite book |author= |year=[[1876年]]12月17日([[太陰暦]]10月27日) |title=[[高宗実録|高宗實錄]] |publisher= |location= |volume = 13|language = |isbn= |page = |chapter = 부산항 조계 조약을 체결하다|chapterurl = http://sillok.history.go.kr/id/kza_11312017_002|accessdate=2020-07-18|quote=日本國管理官近藤眞鋤、會同'''朝鮮國'''東萊府伯洪祐昌。}}</ref>、または'''大朝鮮國'''<ref>{{Cite book |author= |year=[[1876年]]12月17日([[太陰暦]]10月27日) |title=[[高宗実録|高宗實錄]] |publisher= |location= |volume = 13|language = |isbn= |page = |chapter = 부산항 조계 조약을 체결하다|chapterurl = http://sillok.history.go.kr/id/kza_11312017_002|accessdate=2020-07-18|quote=竝錄副以地圖、互鈐印以防他日之紛拏如是。'''大朝鮮國'''丙子年十二月十七日。東萊府伯洪祐昌印。大日本國明治十年一月三十日。管理官近藤眞鋤印。}}</ref>であり、現在の[[大韓民国]]では'''朝鮮王朝'''({{lang-ko-short|조선왕조}}、{{lang-en-short|Joseon Dynasty}})とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼ばれる場合がある。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では'''朝鮮封建王朝'''({{lang|ko|조선봉건왕조}})と呼ばれる。([[#国名]]を参照)
日本では'''李氏朝鮮'''と表記され、李家支配下の朝鮮の意味であり、過去に朝鮮という国号を使用した[[箕子朝鮮]]や[[衛氏朝鮮]]などとの区別のため呼称される。王朝名としては'''李朝'''(りちょう)。
== 概説 ==
1392年に高麗の武将[[李成桂]]太祖が高麗王・[[恭譲王]]を廃して、自ら[[権知高麗国事]](高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。
前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で[[儒教]]が国教化された。
李成桂は翌[[1393年]]に[[中国]]の[[明]]から[[権知朝鮮国事]](朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という[[国号]]は李成桂が明の皇帝[[朱元璋|洪武帝]]から[[下賜]]されたものであった。しかし、権知高麗国事から正式に明に「朝鮮国王」として[[冊封]]を受けたのは第三代明皇帝の[[永楽帝]]と第3代権知朝鮮国事[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の治世の[[1403年]]であった<ref name=":1">韓国文化への誘い: 全羅北道の歴史と文化秋季特別展 - p39 石川県立歴史博物館</ref>。
中国の王朝が[[明]]から[[清]]に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年に日本が清国に勝利して下関条約で「李氏朝鮮は独立国」と認めさせるまで中国大陸の支配王朝(明・清)の[[冊封]]体制下にあった。
李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な[[朱子学]]こそ至高とされた。
ポストを独占した士林派は、1575年に[[東人派]]や[[西人派]]に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中[[北人|北人派]]と[[南人派]]に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、[[1623年]]3月13日、[[綾陽君]](仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷[[クーデター]]が起き([[仁祖#仁祖反正|仁祖反正]])、[[光海君]]が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。
西人派も1680年に[[老論派]]と[[少論派]]に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう[[士禍]]を繰り返した朝鮮王朝の政治を「[[朋党政治]]」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/04/20/2018042001778.html|title=【萬物相】21世紀韓国の「戊戌獄事」|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2018-04-22|archiveurl=https://archive.li/0TZYs|archivedate=2018-04-28}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b486dff3ddc032aa45e629961a4b5240780d51f7|title=【コラム】朝鮮王朝時代の朋党政治、華麗なる復活|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2020-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200614041142/https://news.yahoo.co.jp/articles/b486dff3ddc032aa45e629961a4b5240780d51f7|archivedate=2020-06-14}}</ref><ref>歴史物語 朝鮮半島p88 (朝日選書).姜 在彦 朝日新聞社</ref>。
1894年の[[日清戦争]]後に日本と清国との間で結ばれた[[下関条約]]によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした[[冊封|冊封体制]]から離脱し、形式的な独立や独立国家の実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は[[1897年]]に国号を'''[[大韓帝国]]'''(だいかんていこく)、[[君主]]の号を[[皇帝]]と改め、以後中国大陸の影響下から離れたが、李氏朝鮮は[[露館播遷]]など[[ロシア帝国]]の影響下に入ることを選んだため、[[南下政策]]を危惧してロシアと対立していた英米の日本支持が強まる結果をもたらした<ref>歴史物語 朝鮮半島p106 (朝日選書).姜 在彦 朝日新聞社</ref>。
日露戦争が始まった1904年の[[第一次日韓協約]]で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年の日露戦争終結後の[[第二次日韓協約]]によって日本の[[保護国]]となり、1907年の[[第三次日韓協約]]によって内政権を移管した。こうした過程を経て[[1910年]]8月の「[[韓国併合ニ関スル条約]]」調印によって大韓帝国は[[韓国併合|日本に併合]]された。
== 国名 ==
{{see also|朝鮮}}
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖[[李成桂]]は即位するとすぐに[[明]]に使節を送り、[[権知高麗国事]]としての地位を認められたが、[[洪武帝]]は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「'''朝鮮'''」と「'''和寧'''」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|矢木毅|2008|p=43}}</ref>。「和寧」は李成桂の出身地の名{{efn|当時は和寧府と呼称されていた。高麗時代の和州、後の[[永興府]]、現在は[[金野郡]]。}}であったが<ref name="名前なし-1"/>、[[北元]]の本拠地[[カラコルム]]の別名でもあったので、洪武帝は、むかし[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]にほろぼされた王朝([[衛氏朝鮮]])の名前であり、[[平壌直轄市|平壌]]付近の古名である「'''朝鮮'''」を選んだ。そして李成桂を[[権知朝鮮国事]]に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・[[箕子朝鮮]]・[[檀君朝鮮]]の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|矢木毅|2008|p=44}}</ref>。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の[[冊封体制]]に、新王朝の君主が[[臣下|外臣]]として参加して、一文字の国号を持つ[[内臣]]より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=40}}</ref>。
国号を洪武帝に選んでもらったことは、[[事大主義]]を象徴していると揶揄されるが<ref name="名前なし-1"/>、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=45}}</ref>、首都が[[漢城府|漢陽]]に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人[[箕子]]が、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=41}}</ref>、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した<ref name="名前なし-2"/>。周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する「朝鮮」の国号を奏請したことが背景にあった。
日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した[[朝鮮]]を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年は大韓民国の意(後述)を汲んだ歴史学者を中心に「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある{{efn|文部科学省は[[2002年]]の教科書検定において「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」という意見をつけた。意見をつけた理由を、日本における学術研究の成果を反映したため説明し、特に朝鮮史学界での呼び方にならったことを強調した<ref>『[[日本経済新聞]]』2002年4月10日朝刊</ref>。}}が、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。
[[大韓民国]]では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は[[植民地史観]]に基づくものとされることと「朝鮮」「朝鮮人」と呼ばれることに差別的意味合いを感じること<ref> https://repository.lib.tottori-u.ac.jp/files/public/0/1423/20190712103818311640/tujfersesh3(2)_113(1).pdf</ref> 、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と国家の正統性を争っているなど、複数の理由により「朝鮮」という呼称をこの時代に限定したいという意図から国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「'''朝鮮'''」、李氏朝鮮の王室は「'''朝鮮王朝'''」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は[[古朝鮮]]と呼び区別し、他国、特に日本に対してもそのように呼ぶように求めている。また現在「朝鮮」という国号を使用している北朝鮮には「韓半島(朝鮮半島)の唯一合法的な政府」と主張する立場から北朝鮮を承認していないため「北韓」という呼称を使用している。[[北朝鮮]]では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および[[古朝鮮]]と区別するために「'''朝鮮封建王朝'''」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naenara.com.kp/ja/history/period.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190701053822/http://www.naenara.com.kp/ja/history/period.php|archivedate=2019-07-01|title=朝鮮歴史時代区分表|website =[[ネナラ]]|access-date=2019-07-01}}</ref><ref>[http://www.dprktoday.com/index.php?type=103&g=1&no=261 조선봉건왕조] - 조선의 오늘</ref>({{lang|ko|조선봉건왕조}}<ref>{{cite web|url=http://www.naenara.com.kp/ko/history/period.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190701053405/http://www.naenara.com.kp/ko/history/period.php|archivedate=2019-07-01|title=조선력사 시대구분표|language={{ISO639言語名|ko}}|website =[[ネナラ]]|access-date=2019-07-01}}</ref>)、「'''李朝朝鮮'''」あるいは「'''李氏朝鮮'''」と呼び、王朝名称として「'''李王朝'''」({{lang|ko|리왕조}})<ref>{{cite web|url=http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=book&no=2354&pn=30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190701072525/http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=book&no=2354&pn=30|title=《동방의 성인》으로 불리운 세종대왕|archivedate=2019-07-01|website=[[わが民族同士]]|access-date=2019-07-01|language={{ISO639言語名|ko}}}}</ref>あるいは「'''李朝'''」を用いる<ref>『백과전서(2)』과학, 백과사전출판사、1983、547頁</ref>。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。
[[ファイル:大淸國屬 高麗國旗.png|thumb|left|250px|[[李鴻章]]編『通商章程成案彙編』(1886年)収録「大淸國屬 高麗國旗」]]
当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから'''大朝鮮国'''の国号も用いられた。また、[[李鴻章]]が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い[[大韓民国の国旗|太極旗]]が収録されているが、それには「大清国属'''高麗'''国旗」と書かれている<ref name=chosun20040126/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=UKMsAAAAYAAJ&pg=RA9-PA55&hl=ja&source=gbs_selected_pages#v=onepage&q&f=false 通商約章成案彙編] -[[Google ブックス]]</ref>。[[1897年]]、国号を'''[[大韓帝国]]'''(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。
== 歴史 ==
=== 時代区分 ===
====国内政治における区分====
朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]までの王道政治の時代([[1393年]] - [[1455年]])、[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]の[[勲旧派|王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる]]時代([[1455年]] - [[1567年]])、[[士林派]]による朋党政治([[1567年]] - [[1804年]])、[[洪国栄|洪氏]]・[[安東金氏]]・[[驪興閔氏|閔氏]]などの外戚による[[勢道政治]]([[1804年]] - [[1910年]])の区分に分けられる。
====対外関係における区分====
一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが[[明]]の[[朝貢]]国であった時代([[1393年]] - [[1637年]])と、[[丙子胡乱]]による敗北から[[下関条約]]による独立獲得まで[[清]]へ服属させられていた時代(1637年 - [[1894年]])、ロシア帝国の[[南下政策]]で日露が朝鮮半島に対する影響力をめぐって対立した末期(1894年 - [[1910年]])という3つの時代区分に大きく分けられる。
第1の区分の末期には、日本の[[豊臣政権]]の侵攻による[[文禄・慶長の役]]と胡乱([[後金]](のちの清)による侵攻)という大きな[[戦争]]が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、[[清]]の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え([[小中華思想]])や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想([[事大主義]])や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する[[中華思想]]などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮[[朱子学]]の発達が進んだ。その後は[[儒教]]内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。
19世紀末期になると、清以外にも[[欧米]][[列強]]や[[日本|日本(大日本帝国)]]の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親[[ロシア帝国|ロシア]]派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも[[親日派]]や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。[[日露戦争]]後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の[[李完用]]などは日本が大韓帝国を[[保護国]]化・併合する方針を採り、[[一進会]]は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の[[第二次日韓協約]]で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。[[1910年]]に日本と大韓帝国は[[韓国併合ニ関スル条約]]を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は[[李王家]]・[[朝鮮貴族]]として華族制度に統合された。
[[ファイル:Seoul Gyeongbokgung Throne.jpg|thumb|250px|景福宮の玉座と[[日月五峰図]]]]
=== 李成桂による建国 ===
{{see also|李成桂#朝鮮王朝建国までの道程}}
[[13世紀]]以来、[[元 (王朝)|元]]の属国となっていた[[高麗]]は、元の衰退に乗じて独立を図るが、[[北元]]と[[明]]の南北対立や[[倭寇]]の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、[[中国]][[遼東]]の[[ナガチュ|納哈出]]征討と元の干渉からの脱却、[[遼陽]]制圧、[[女真]]や[[倭寇]]討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、[[李成桂]]は[[1388年]]、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ[[鴨緑江]]に布陣したが、突如軍を翻して[[威化島回軍]]を起こし、高麗の首都[[開城]]を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の[[王禑|王]]に対してその不当性を主張し、これを廃して[[王昌 (高麗王)|昌王]]を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、[[事大主義]]だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
李成桂を支持した[[両班]]たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、[[漢民族]]の明こそ正統な[[天子]]であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになると正当化した<ref name="三田村泰助138">{{Cite book|和書|author=三田村泰助|authorlink=三田村泰助|date=1967|title=明帝国と倭寇|series=東洋の歴史|publisher=[[新人物往来社|人物往来社]]|page=138}}</ref>。
====親明政策====
王高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は王昌を廃位し、[[1389年]]に最後の王[[恭譲王]]を即位させた。その際、先々代と先代の{{lang|ko|禑}}王と王昌は殺された。家臣の中には李成桂を王位に即けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、[[1392年]]に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の[[1394年]]に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている{{efn|全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。}}。
[[ファイル:King Taejo Yi 02.jpg|240px|thumb|太祖李成桂]]
李は高麗王として即位後、明へ[[権知高麗国事]]と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。[[権知高麗国事]]を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の[[権大納言]]・[[権中納言]]と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である<ref>{{Cite book|和書|author=小島毅|authorlink=小島毅|date=2011-08-02|title=「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史|series=|publisher=[[亜紀書房]]|ISBN=4750511153|page=129}}</ref>。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との[[朝貢]]により、王位が与えられたため、高麗が[[宋 (王朝)|宋]]と[[元 (王朝)|元]]から王に認めてもらったように、李成桂も[[明]]から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとしたのである。[[小島毅]]は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している<ref>{{Cite book|和書|author=小島毅|authorlink=小島毅|date=2011-08-02|title=「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史|series=|publisher=[[亜紀書房]]|ISBN=4750511153|page=130}}</ref>。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の{{lang|ko|禑}}王、王昌を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の[[1393年]]2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を[[権知朝鮮国事]]に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したりしたことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、[[権知朝鮮国事]]のみが認められた。
明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。[[李自成|李自成の乱]]で明が滅亡し、[[女真|女真族]]によって[[清]]が建国されると、明の文化の正当な後継者として「小中華」と称した。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする<ref name="三田村泰助138"/>。この関係を[[陸奥宗光]]は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だ、と嘆いている<ref name="三田村泰助139">{{Cite book|和書|author=三田村泰助|authorlink=三田村泰助|date=1967|title=明帝国と倭寇|series=東洋の歴史|publisher=[[新人物往来社|人物往来社]]|page=139}}</ref>。
====仏教弾圧====
[[ファイル:Statue Sejong le Grand.jpg|thumb|240px|世宗(漢陽の石像)]]
'''朝鮮'''に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽への遷都を進めた。崇儒廃仏政策をとり、儒教の振興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
===王子同士の殺し合いと李成桂の隠居===
李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。[[1398年]]に起きた[[第一次王子の乱]]により跡継ぎ候補であった[[李芳碩]]が五男・[[李芳遠]]により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の[[李芳果]]に譲位した。これが第2代[[定宗 (朝鮮王)|定宗]]である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから[[1400年]]には四男・李芳幹により[[第二次王子の乱]]が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
===太宗即位と親明政策による「朝鮮王」冊封・対馬侵略===
一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]として即位する。太宗は内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の[[科挙]]制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。
明に対しては徹底的な親明政策を執った。そのため、先代らは「権知朝鮮国事(朝鮮国王代理)」以上の地位が与えられなかったが、太宗は1403年には明の永楽帝から正式に「'''朝鮮王」'''の地位に[[冊封]]された。以後は第三代朝鮮王と名乗るようになる<ref name=":1" />。
太宗は[[1418年]]に世宗に王位を譲り[[太上王|上王]]になったが、軍権はそのまま維持し、[[1419年]]の[[応永の外寇]]と呼ばれる[[対馬]]への侵攻を指示した<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10108005_003 朝鮮王朝実録世宗5卷1年(1419年)8月5日]</ref>。
===世宗即位と女真との戦争===
次代の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で[[1422年]]まで李芳遠が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず王の一極集中型から[[議政府]]を中心にした官僚主導の政治に政治制度を切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在の[[ハングル]]の元になる[[訓民正音]]の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に[[貨幣]]経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、[[1437年]]には[[豆満江]]以南の[[女真]]地域を侵攻して制圧し、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
=== 世祖の中央集権 ===
第6代の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]](第5代[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが発生する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、[[1455年]]に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった([[世祖 (朝鮮王)|世祖]])。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に[[職田法]]を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に[[勲旧派]]と呼ばれる様になる。また、[[儒者]]の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。[[1467年]]の[[李施愛の乱]]では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君[[李浚]]([[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の四男[[李璆 (朝鮮)|臨瀛大君]]の次男)ら王族が台頭した。
=== 勲旧派と士林派の対立と士禍 ===
世祖の死後、[[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]が即位したが19歳で逝去。[[1469年]]に13歳の幼い王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]が即位し、[[貞熹王后|貞熹大妃]]が[[垂簾聴政]]を行なったが国政は不安定になった。[[1470年]]、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の親政時代になると[[士林派]]勢力を取り入れるようになった。これに脅威を感じた勲旧派や外戚が士林派勢力との対立することとなったが、成宗の治世([[1469年]] - [[1494年]])では政治的には一応の安定を見た。このとき、成宗の母[[仁粋大妃]]と2番目の王妃[[廃妃尹氏|斉献王后]](廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。
成宗が亡くなり[[燕山君]]が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、[[1567年]]まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、加えて勲旧勢力による諫言などもあり、それが[[1498年]]の最初の[[士禍]]、'''[[戊午士禍]]'''と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・[[金宗直]]([[1431年]] - [[1492年]])の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母[[廃妃尹氏]]の死の経緯を知り、[[1504年]]の'''[[甲子士禍]]'''で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、[[1506年]]、[[朴元宗]]・[[成希顔]]・[[柳順汀]]らのクーデター[[中宗反正]]により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる[[章敬王后]]が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。
次代[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中の[[1510年]]に、朝鮮居住の対馬の民などによる[[三浦の乱]]が起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった[[趙光祖]]の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、[[1519年]]に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ('''[[己卯士禍]]''')、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。[[1545年]]に[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]が12歳で即位すると、[[文定王后]]が[[垂簾聴政]]を行なったが、同じ尹氏の[[仁宗 (朝鮮王)|仁宗]]の伯父・[[尹任]]の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・[[尹元衡]]の率いる小尹派による'''[[乙巳士禍]]'''で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。
=== 朋党政治:西人と東人 ===
[[ファイル:Injeongjeon (exterior), Changdeokgung - Seoul, Korea.JPG|thumb|250px|[[昌徳宮]]]]
[[1567年]]の[[宣祖]]の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は[[1575年]]には[[西人]]と[[東人]]と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に分かれて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。
東西に分かれた士林派は互いを牽制していたが、[[李珥]](李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。[[1584年]]に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、[[鄭汝立]]の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし[[1591年]]に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の[[李山海]]を中心とした[[北人]]と穏健派の[[禹性伝]]を中心にした[[南人 (李氏朝鮮)|南人]]の2つの派閥に分裂した。
=== 秀吉による朝鮮侵攻 ===
[[ファイル:Dong Rae Bu Sun Jaul Do.jpg|250px|thumb|right|東莱城の戦い]]
その頃、日本を統一([[天下統一]])した[[豊臣秀吉]]は、[[1589年]]に対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべし、とする要求をし始めた。秀吉の意志は大陸への進出のためであったが、朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため[[1590年]]3月に、[[西人]]の[[黄允吉]]を正使、[[東人]]の[[金誠一]]を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。
1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし[[1592年]]になり、朝鮮の倭館に居た[[日本人]]が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。
[[1592年]][[4月13日 (旧暦)|4月13日]]に始まった[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都[[漢城府|漢城]]を攻略し、数ヶ月で朝鮮の[[咸鏡道]]北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。
民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。
しかし、和議は失敗に終わり、[[1597年]][[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する([[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]])が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば[[両班]]になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。
一方、この戦争に[[明]]は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、[[女真]]族の勢力伸張をもたらし、後の[[胡乱]]や明滅亡の遠因になった。
[[北島万次]]は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国の[[ご都合主義]]」を指摘している<ref name="名前なし-3">{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅴ}}</ref>。
=== 宣祖の世継問題以後 ===
朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗改善などがあったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の[[1591年]]から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の[[臨海君]]は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、[[光海君]]を世子とすることに決まったが、[[1594年]]に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。
'''明による「光海君」の世子認定拒絶以後'''
[[1606年]]、正妃の[[仁穆王后]]が[[永昌大君]]を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に分かれての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。[[1608年]]、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。
'''光海君の実利外交と国内政争'''
光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。彼の優れた外交政策は、公金(後の清国)との戦争を回避に成功させていた<ref name=":0" />。
既に[[江戸時代]]に移行していた日本とは[[1609年]]に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた([[朝鮮通信使]])。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。[[1615年]]まで続く粛清はその範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだが、これにより大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では[[大同法]]を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた[[後金]](清)の間に挟まれ([[サルフの戦い]]、[[1618年]] - [[1619年]])、その後朝鮮は二極外交を展開することになる。
'''仁祖反正'''
しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的[[事大主義]]者などの恨みを買うことになった。[[1623年]][[2月12日 (旧暦)|2月12日]]、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、[[仁祖]]として即位させた。この事件を[[仁祖反正]]と言う。
=== 親明外交による裏目・清との戦争 ===
[[ファイル:Bifyu 8.jpg|thumb|220px|[[華城]]]]
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の[[1624年]]には、李适による反乱事件([[李适の乱]])が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された[[後金]]は、[[1627年]]、3万の兵力で朝鮮に侵入した([[丁卯胡乱]])。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時[[江華島]]へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件をのんで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、[[1628年]]に漂着した[[オランダ]]人[[ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー|ペルテブレ]]より大砲を導入するなど軍事力を強化した。
[[1636年]]、後金は[[清]]と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗([[ホンタイジ]])自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した([[丙子胡乱]])。朝鮮側は[[南漢山城]]に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に分かれての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。
===丁丑約条による清国への服属===
{{See also|[[迎恩門]]}}
丁丑約条が結ばれたが、この和議の内容は明元号利用停止、清への服従、明から送られた朝鮮王任命印の清への送付、明との断交と制圧協力命令、毎年清皇帝誕生日を祝う使者派遣、朝鮮王長男・次男と大臣の子女を人質として送ること、毎年莫大な賠償金、清の許可無き城郭の増築・修築禁止など11項目に及ぶ屈辱的内容であった<ref>{{Cite web |title=archive.ph |url=https://archive.ph/Yrph2 |website=archive.ph |access-date=2022-09-13}}</ref>。光海君時代の実利外交から転換し、力もないのに後金へ抵抗して敗北した朝鮮王の仁祖は、清皇帝ホンタイジに対し[[三跪九叩頭の礼]](三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をさせられる恥辱を味わった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【コラム】中国、我が歴史のトラウマ(1)=韓国 |url=https://japanese.joins.com/JArticle/142078?sectcode=120&servcode=100 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2022-09-13 |language=ja}}</ref>。ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満洲語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に[[大清皇帝功徳碑]]を建立させた。
{{See also|[[貢女]]}}
清に約50万人の朝鮮人が連行された。中でも清に連れて行かれた朝鮮女性は清国の男性の性奴隷にされ、男性の本妻から虐待を受けたりもした。苦労して故国の李氏朝鮮に戻っても、「還郷女」という罵声を浴びた。<ref name=":0" />。
李氏朝鮮が大清皇帝を中心とした冊封体制・清に対する服属関係なら離脱して独立出来たのは日清戦争で日本帝国が勝利して下関条約が締結された[[1895年]]まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。
政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、[[宋時烈]]・[[宋浚吉]]などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である[[性理学]]の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。
仁祖は[[貨幣経済]]の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である[[銅]]を日本に依存していたため、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは[[1678年]]の[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の時代に入ってからになる。
次代の[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]の時代に入ると反清論はさらに高まり、[[北伐計劃|北伐論]]が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、[[ロシア・ツァーリ国]]が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の[[羅禅征伐]])している。([[清露国境紛争]])
清の中国での覇権が確立した第18代[[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた([[礼訟#第1次礼訟(己亥礼訟)|己亥礼訟]]) 。顕宗は終わりのないこの論争を止めさせるため、[[1666年]]に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが[[1674年]]に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握するようになる([[礼訟#第2次礼訟(甲寅礼訟)|甲寅礼訟]])。
==== 粛宗による換局政治 ====
次代、[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うことで、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。[[1680年]]の[[庚申換局]](キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、[[1689年]]には、[[己巳換局]](キサファングク)で今度は[[南人 (李氏朝鮮)|南人]]の手に政権が移った。[[1694年]]の{{仮リンク|甲戌換局|ko|갑술환국}}(カプスルファングク)で再度[[西人]]に権力が移るという具合であった。その後西人は[[老論派|老論]]と[[少論派|少論]]に分裂する。
粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に[[鬱陵島]]とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。[[江戸幕府]]は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。{{要出典|date=2010年2月}}猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。
[[1720年]]に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。[[景宗 (朝鮮王)|景宗]]が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は[[1721年]]から[[1722年]]に渡って、老論の粛清を行った([[辛壬士禍]])。
==== 蕩平策による王権強化 ====
景宗は短命で亡くなり、[[1724年]]に第21代王として即位した[[英祖 (朝鮮王)|英祖]]は熾烈な党争を抑えるために、{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平政治}}を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、[[1728年]]には朝廷から追放された少論、南人派による'''{{仮リンク|李麟佐|ko|이인좌}}の乱'''が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用することで政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。
その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。[[1762年]]英祖が、健康上の理由で[[荘献世子]]に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の[[貞純王后]]や王女の[[和緩翁主]]などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした[[僻派]](時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした{{仮リンク|時派|ko|시파}}に分かれ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。
なお、この時代の[[1763年]]には日本へ赴いた朝鮮通信使が[[サツマイモ]]を持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の[[正祖]]の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、[[1776年]]、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が[[洪国栄]]であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし[[1780年]]王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。
==== キリスト教カトリックの伝来と弾圧 ====
この頃に中国を経由して[[カトリック教会|カトリック]]が流入してきており、そのカトリックの儀式が[[儒教]]の儀式と相反することから、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、[[1791年]]に最初のカトリック弾圧事件({{仮リンク|辛亥邪獄|ko|신해박해}})が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。[[1795年]]に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平政治}}は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入もあいまって、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。
[[1800年]]、[[純祖]]は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平}}支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、[[1801年]]、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した({{仮リンク|辛酉教獄|ko|신유박해}})。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も[[1815年]]、[[1827年]]、[[1838年]]、[[1839年]]({{仮リンク|己亥教獄|ko|기해박해}})、[[1846年]]({{仮リンク|丙午教獄|ko|병오박해}})、[[1866年]]([[丙寅教獄]])など、断続的に行われた。
=== 安東金氏の勢道政治から大院君へ ===
[[1802年]]、{{仮リンク|金祖淳|ko|김조순}}の娘が王妃[[純元王后]]になる。[[1804年]]、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。[[1805年]]貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の[[本貫]]である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する[[勢道政治]]の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された[[両班]]があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり([[三政の紊乱]])、農民反乱が頻発した([[朝鮮後期の農民反乱]])。[[1811年]]に起きた[[洪景来の乱]]は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、[[1812年]]に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]、次々代王[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。
[[ファイル:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|アメリカ軍によって占領された[[江華島]]の要塞(1871年)]]
[[ファイル:Imo Incident Flight of Japanese Legation from Korea by Utagawa Kunimatsu 1882.png|thumb|[[壬午事変]]で焼き討ちされた日本公使館から脱出する公使館員([[1882年]])]]
[[ファイル:Jeon Bong-jun.JPG|thumb|[[甲午農民戦争]]の首謀者として逮捕された[[全琫準]]([[1894年]])]]
[[ファイル:Une-Partie-De-Peche-Rus-Jpn-Qing-Dispute-Korea-Feb-15-1887.png|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー]]による当時の風刺画(1887年)<br />日本、中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]]
18世紀後半から英仏は新たな植民地獲得を目的として、[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー|ラ・ペルーズ]]や[[ウィリアム・ロバート・ブロートン]]、[[バジル・ホール]]、[[カール・ギュツラフ]]らが相次いで朝鮮半島付近を探索し、中国が[[アヘン戦争]]に敗れると、朝鮮半島進出を本格化させる。[[1845年]]には[[エドワード・ベルチャー]]率いる[[イギリス]]の軍艦が[[済州島]]付近の海域に侵入し、[[1846年]]には、[[フランス海軍]]が過去のカトリック弾圧に対する抗議行動に出るなど、西洋列強の干渉が始まる。一方、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]は[[1854年]]に[[巨文島]]に上陸し、[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]に宛てて開港を要請する[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の親書を送った。
安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。[[1863年]]に第26代王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と[[興宣大院君|{{lang|ko|李昰}}応]]({{lang|ko|昰}}は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。{{lang|ko|李昰}}応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を[[孝明世子]](翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ([[興宣大院君]])、[[摂政]]の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。
興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。
=== 攘夷と開国 ===
大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な[[鎖国]]・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、[[1866年]]から[[1872年]]までの間に8千人あまりの信徒を殺害した([[丙寅教獄]])。この折のフランス人神父殺害の報復として[[フランス第二帝政|フランス政府]]は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全て(軍艦7隻、兵約1300名)を投入して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に[[文珠山城]]と[[鼎足山城]]で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる([[丙寅洋擾]]{{efn|擾は手偏に憂。}})。この2か月前には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう([[ジェネラル・シャーマン号事件]])。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、[[1871年]]には軍船5隻を率いて交渉に赴いた([[辛未洋擾]])。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。
====閔妃一派によるクーデター====
大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、[[1866年]]になると王宮に入った[[閔妃]]の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。[[1873年]]、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。
[[1875年]]に[[江華島]]周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件([[江華島事件]])が発生し、翌[[1876年]]に[[日朝修好条規]](江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏一族らを主流派とする閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、[[1882年]]にアメリカ([[米朝修好通商条約]])、中国([[中朝商民水陸貿易章程]])、[[1883年]]に[[イギリス帝国|イギリス]]([[英朝条約]])、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[1884年]]に[[ロシア帝国|ロシア]]([[露朝修好通商条約]])、[[イタリア王国|イタリア]]、[[1886年]]に[[フランス第三共和政|フランス]]と通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
=== 攘夷派と揺れ動く閔氏政権 ===
また、[[大日本帝国|日本]]から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、[[興宣大院君|大院君]]・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、[[1882年]]に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた([[壬午事変]])。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の[[袁世凱]]に頼みこれらの軍を排除、大院君は清の[[保定府]]に連行され幽閉された<ref name=keio20070510/>。
事変後には[[済物浦条約]]が締結され<ref name=keio20070510>{{Cite web|和書|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|accessdate=2011-06|date=2007-05-10|title=時事新報史 第15回:朝鮮問題① 壬午事変の出兵論|url=http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html}}</ref>、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。高宗は[[李鴻章]]に外交顧問の推薦を依頼し、ドイツ人の[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]が推挙された。清と結ぶ保守的な[[事大党]]が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした[[開化派]](独立党。[[金玉均]]、[[朴泳孝]]ら)と対立し、親日[[開化派]]は孤立した<ref name=keio20070510/>。また混乱から国内では反乱が生じる。[[1884年]]12月、[[開化派]]がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され<ref name=keio20070621>{{Cite web|和書|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|accessdate=2011-06|date=2007-06-21|title=時事新報史 第16回:朝鮮問題② 「脱亜論」の周辺|url=http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/16.html}}</ref>、金玉均らは日本に亡命した([[甲申政変]])。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、[[甲午改革]]は途中で挫折し、清国の影響力が増大した<ref name=keio20070621/>。[[1885年]]にはイギリス軍によって[[巨文島]]が占領された([[ポート・ハミルトン事件]])<ref name=porthamilton>{{cite book|last=|first=|title=The Russo-Japanese war in global perspective: World War Zero|publisher= Brill Academic Pub|ISBN= 9004142843|page=448|url=https://books.google.co.jp/books?id=xlg0lM8f9Y4C&pg=PA448&dq=%22Port+Hamilton+Incident%22&hl=en&redir_esc=y#v=onepage&q=%22Port%20Hamilton%20Incident%22&f=false}}</ref>。同年には袁世凱が駐箚朝鮮交渉通商事宜としてソウルに駐在し、朝鮮政府への監視を強化するようになった。
また[[1894年]]には[[東学党の乱]]([[甲午農民戦争]])が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、[[淮軍]]と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は[[金弘集 (政治家)|金弘集]]が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、[[金玉均]]が[[上海市|上海]]で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。
=== 下関条約による清からの独立 ===
{{See also|大韓帝国}}
1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から[[日清戦争]]が勃発し、日本軍が勝利すると、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。」とした日清間の[[下関条約]]によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は日本によって清への服属関係を破棄し、独立国となった。しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、[[閔妃]]はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより[[1895年]]10月に閔妃が惨殺される([[乙未事変]])。自分の后が暗殺された高宗は[[1896年]]、ロシア領事館に退避する([[露館播遷]])。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。[[1897年]]、朝鮮は[[大韓帝国]]と国号を改称し、[[元号]]を光武とした。
[[糟谷憲一]]は、下関条約ではなく、朝鮮が宗属関係を廃棄したことで李氏朝鮮は『独立』したと主張している。「開国をもとめる[[欧米列強]]にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったとしている<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅵ}}</ref>。
=== 日露戦争後の日本による保護国化 ===
[[1904年]]2月、朝鮮半島などを巡って[[日露戦争]]が勃発し、日本が勝利する。敗北したロシア帝国は「日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない」など韓国における日本の優越権の承認などを含んだ [[ポーツマス条約]]を日本と締結する<ref>{{Kotobank|ポーツマス条約|2=}}</ref>。翌[[1905年]]11月には[[第二次日韓協約]]が締結され、事実上保護国となった。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは[[伊藤博文]]であった。一方、高宗も第2回万国平和会議が開催される[[1907年]]オランダの[[デン・ハーグ|ハーグ]]に密使を送り、[[列強]]に保護国化政策の無効化を訴え出るが、この主張は国際社会に拒絶されて、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になった([[ハーグ密使事件]])。これらの動きに対し[[李完用]]などの[[親日派]]勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が即位した。
[[1906年]]、日本は[[韓国統監府]]を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
#現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
#加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
[[ファイル:일진회 대형아치.jpg|thumb|250px|[[一進会]]によって漢城に建立された日本を奉迎する門([[1907年]])]]
===伊藤博文暗殺と朝鮮王朝の滅亡 ===
[[1909年]][[10月26日]]に伊藤博文が[[安重根]]によって[[暗殺]]される[[伊藤博文暗殺事件]]が起こると、[[韓日合邦を要求する声明書]]が、[[一進会]]によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、[[1910年]][[8月22日]]に[[韓国併合ニ関スル条約]]が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位([[王公族]])に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。
日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、清から援助を受けた両班を中心とする元朝鮮支配勢力は、統治による両班制度の破壊(=平等社会)に対しての不平不満のため、[[三・一独立運動]]と呼ばれる反日蜂起を起こすが、朝鮮総督府当局により鎮圧される。
== 政治 ==
=== 国王 ===
[[ファイル:Sejong tomb 1.jpg|thumb|right|250px|[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[朝鮮王陵|王陵]]]]
{{See also|朝鮮の君主一覧#李氏朝鮮}}
朝鮮の国王は、[[全州李氏]]の出自である初代国王李成桂の子孫([[李王家]])によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による[[中国の宰相|宰相]]の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある{{efn|李子春は吾魯思不花のようにモンゴル人の姓を用いている。李一族のモンゴル名は李朝太祖実録に完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていない。また李成桂は女真族の酋長の[[李之蘭]]と義兄弟の契りを結ぶなど、李一族は女真族の配下を多数抱えていた。}}。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・[[王妃 (朝鮮)|王妃]]・[[大妃]]の敬称に[[殿下]]を用いた。王位継承の第一順位の王子も「[[皇太子|太子]]」という称号は使えず、[[皇太子#朝鮮|王世子]]と呼ばれ、王世子・[[世子嬪]](王世子の[[正室]])の敬称には[[邸下]]が用いられた。[[1894年]]に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を[[陛下]]に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となり、大韓帝国成立後は国王は皇帝、王太子は皇太子となった。
=== 政権 ===
李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり絶対的な権力を持ったのは国王であり、王は王位こそ継げる完全な世襲であったが、背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり[[外戚]]と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班であった、この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれた。さらにその外戚には党争が深くかかわっていた。
李氏朝鮮の歴史は党争の歴史でもあり、党争は朝鮮王朝期の最大の特色といわれるが、その原因については諸説があって一定した解釈はない。政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。主な理由は、王権が微弱で十分に官人たちを抑圧できなかったこと、党争においては相手の政策的能力の指摘よりも道徳的欠陥や問題点を叱責することに集中するなど当時国教的位置を占めていた儒教、特に朱子学のもつさまざまな性格が政争にからんで利用され、事態を一層複雑にしていることであろう。党争の前駆をなすものとして通常指摘されているのは燕山君4年(1498年)に起った戊午の士禍 (世祖の即位をめぐる史論問題から発展した官人・儒林の対立抗争) や甲子の士禍 (1504年) 、乙巳の士禍 (1546年) などという一連の士禍があげられる。いわゆる士禍時代は儒林内部の争いの性格が強いが、宣祖1年 (1568年) 宣祖が即位してから党争は政治色を深め、党派の対立も露骨になった。すなわち同8年沈義謙を中心とする西人派と金孝元を中心とする東人派が対立し、東人はさらに分れて南人、北人となり、これを西人と合せて三色 (色は種類という意味) と呼ぶにいたった。この党争は光海君14年(1622年)までは東人が、仁祖1 (1623年) 年から顕宗15年 (1674年)までは西人が、というように相互に他を排して政権を争った。東西に分れてからほぼ1世紀、粛宗 (在位1675~1720) 代には老論、小論、南人、北人の四色となり、粛宗6年(1680年)までは南人が主流を占め、同 20年以後は西人がこれに代り、さらに西人は老論、少論に分れて対立するという有様で、一時英祖1年(1725年)に改革を試みたが功なく、朝鮮王朝末期まで持越された。
[[木村誠 (歴史学者)|木村誠]]は「つねに中国の外圧を受けながら民族的成長をとげた朝鮮諸国」を指摘しており<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅳ}}</ref>、[[義江彰夫]]は、日本の公武二重王権と朝鮮を比較して、双方ほぼ同時期に武人が政権の中枢に登場しながら、朝鮮では武人が独自政権を構築することなく、中央政権内部において実権を掌握するにとどまったことを「不断の外圧の存在の有無がこの分岐の決定的な要因であった」と指摘している<ref name="名前なし-3"/>。
=== 官制 ===
[[ファイル:Court of justice during Joseon dynasty.jpg|thumb|裁判風景]]
[[ファイル:Prison during Joseon dynasty in Gongju, Korea.jpg|thumb|監獄]]
官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に分かれ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『[[経国大典]]』による。
官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、[[宦官]]が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。
王朝に仕える諸官は科挙を通じて、[[文官]]は文科、[[武官]]は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に地位が低く置かれていた。また中人階級が就ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。
王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一〜従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。
行政の最高機関は[[議政府]]であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。
[[議政府]]の次に位置するのが正二品の判書であり[[曹#李氏朝鮮における六曹|六曹]]の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。
また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けなくても官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。
=== 地方行政 ===
[[ファイル:Administrative divisions of Late Joseon.png|thumb|right|200px|[[朝鮮八道]]]]
[[朝鮮八道]]という、大きく8つの道に分けて行政を行った。
* [[朝鮮八道]]
** [[咸鏡道]] ([[咸鏡北道]]・[[咸鏡南道]]・[[両江道]]の一部・[[羅先特別市]] 北朝鮮)
** [[平安道]] ([[慈江道]]・[[平安北道]]・[[平安南道]]・両江道の一部・[[平壌直轄市]]・[[新義州特別行政区]] 北朝鮮)
** [[黄海道]] ([[黄海南道]]・[[黄海北道]] 北朝鮮)
** [[江原道 (朝鮮八道)|江原道]] ([[江原特別自治道]] 韓国 / [[江原道 (朝鮮民主主義人民共和国)|江原道]]・[[金剛山観光地区]] 北朝鮮)
** [[京畿道 (朝鮮八道)|京畿道]] ([[京畿道]]・[[ソウル特別市]]・[[仁川広域市]] 韓国 / [[開城特別市]]・[[開城工業地区]] 北朝鮮)
** [[忠清道]] ([[忠清北道]]・[[忠清南道]]・[[大田広域市]]・[[世宗特別自治市]] 韓国)
** [[慶尚道]] ([[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]・[[釜山広域市]]・[[大邱広域市]]・[[蔚山広域市]] 韓国)
** [[全羅道]] ([[全羅北道]]・[[全羅南道]]・[[光州広域市]]・[[済州特別自治道]] 韓国)
現代の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]]の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都[[漢城府|漢城]]と[[開城特別市|開城]]・[[江華郡|江華]]・[[水原市|水原]]・[[広州市 (京畿道)|広州]]の4都は直轄地とされ京官府に属し、漢城は漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。
=== 統治の特徴 ===
{{Main|李氏朝鮮の身分制度}}
朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた[[儒教]]道徳、その中でも朱子学に基づく統治である。これは身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、数多くの派閥抗争を引き起こし、かつ対抗派閥への攻撃の[[大義名分]]などの手段として使われ、さらに技術・労働階級の蔑視による技術発展の阻害、軍事の弱体、愚民化や現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国・北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。
日本の統治下で育った韓国の[[朴正煕]]元[[大統領]]は自著『国家、民族、私』で、朝鮮について次の言葉を遺している。
「四色党争、[[事大主義]]、[[両班]]の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
現在の韓国では、この考え方は当時の大日本帝国の教育体制の影響を受けた「植民地史観」であり、つまり当時の日本は自分の支配を正当化するため「宗主国の日本こそ、朝鮮半島の人々を苦痛や悲しみや奴隷状態から解放させた恩人だ」という思考を植民地人である朝鮮人に教えたとされ、歴史教科書等では「朝鮮時代は素晴らしかったが、それを日本が奪った」と記述されている。
== 都市 ==
[[ファイル:1894 seoul.png|right|thumb|1894年の漢城]]
[[ファイル:1902 seoul.png|right|thumb|1903年の鍾路]]
当初は高麗を踏襲して[[開城]]を首都と定めていたが、間もなく[[漢陽]]([[漢城府|漢城]]、現在の[[ソウル特別市|ソウル]])へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]以降は漢陽に落ち着く。
李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。[[風水]]思想と[[オンドル]]の効果を高めるために半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可なく建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。
[[ファイル:Namdaemun in the Joseon Period.JPG|thumb|250px|南大門前を占拠する土幕、1890年代]]
首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた([[土幕民]]を参照)。
=== 衛生環境 ===
韓国政府と日本の[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]]の寄付(日本側の税金)で、ようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物によって汚染されていた。開国後の李氏朝鮮を複数回にわたって訪れた[[イザベラ・バード]]は、漢陽(現在のソウル)を「世界でも指折りの不衛生な都市」と評した<ref name="Isabella">[[イザベラ・バード]]『[[朝鮮紀行]]』</ref>。これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。しかし、李氏朝鮮の後に成立した大韓帝国では、日本の助力のため都市部の衛生環境の改善に一定の対策を講じており、1897年にイザベラ・バード氏が再び漢陽を訪れた際には、「不潔さで並ぶもののなかったソウルはいまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」と評している。<ref name="Isabella" />同氏によれば、一連の衛生環境の改善は、[[ジョン・マクレヴィ・ブラウン|マクレヴィ・ブラウン]]氏の尽力によるものが大きいとしている。<ref name="Isabella" />
=== 植生環境 ===
かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさから[[オンドル]]に使う薪にすることや、伝統的な[[焼畑農業]]のために大量の樹木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また[[植林活動|植林]]をほとんど行わなかったため、李氏朝鮮末期には多くの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な[[満州]]に移民した([[間島]])。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした(禁松令)。なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われ、現大韓民国においても計画的な植林事業が行われた結果、少なくとも韓国側では植生は大幅に回復している。
== 対外関係 ==
=== 明との関係 ===
李成桂は明に「[[権知高麗国事]](高麗国王代理、高麗国[[知事]]代理)」にしてもらった後に、新呼称「朝鮮」も選んでもらったが、李成桂は「朝鮮王」としては認めてもらえず、国号変更から死後まで「権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理)」のまま亡くなった。その後三代目である太宗在位時の1403年に[[永楽帝]](明の第3代皇帝)によって「'''朝鮮王'''」の地位が漸く冊封された。以後、「権知朝鮮国事」から「朝鮮王」と名乗るようになった<ref name=":1" />。
=== 清との関係 ===
[[ファイル:Korea Goryeo ensign.jpg|thumb|150px|清国の支配が強化されることとなった[[壬午事変]]直後に制定された朝鮮国旗には「大清国属'''高麗'''国旗」と明記されている([[1882年]])([[:commons:File:Flag of old Korea.jpg|実物]])<ref name=chosun20040126>{{Cite web|和書|publisher=[[朝鮮日報]]|accessdate=2007年07月05日|date=2004年1月26日|title=最古の太極旗の絵が発見|url=http://www.chosunonline.com/article/20040126000072|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070705102805/http://www.chosunonline.com/article/20040126000072|archivedate=2007-07-05}}</ref>]]
半島の北の[[満洲]](マンチュリア)に住んでいた[[女真]]人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に[[明]]に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「[[胡]]」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた[[後金]](のち[[清]])に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、'''小中華思想'''となって表れた。
その後、[[日清戦争]]に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の[[冊封体制]]の中にあり、中華王朝に[[事大主義|事大]]の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の[[天子]]として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、『[[淮南子]]』の一節から「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして[[儒教]]が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。
秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された[[諡号]]は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、[[朝鮮王朝実録]]を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた<ref>[https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち] 朝鮮日報 2007/09/16</ref>。
[[事大主義]]をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた<ref name=book>村井章介『中世倭人伝』</ref>。そのため[[倭寇#後期倭寇|後期倭寇]]最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wma_12107002_001&tabid=w 朝鮮王朝実録明宗 33卷, 21年(1566 丙寅 / 명 가정(嘉靖) 45年) 7月 2日(辛卯) 1번째기사](漢文)[[国史編纂委員会]]</ref>。
[[19世紀]]半ばの[[アヘン戦争|ウエスタンインパクト]]以前の朝鮮にとって圧倒的に重要なのは中国である<ref name="放送大学"/>。それは、中国への外交使節の派遣回数を見れば歴然であり、[[北京市|燕京]]に派遣された[[朝鮮燕行使|燕行使]]は、冊封関係が終了するまで実に約500回に及び、それがウエスタンインパクト以後も派遣されている。朝鮮は中国を中心軸に置く歴史があまりに長く密度が濃いことから、ウエスタンインパクト以後、[[世界秩序|国際秩序]]の中心が[[欧米]]となり、中国が[[周辺]]に追いやられ、その対応に苦慮することになる<ref name="放送大学"/>。[[吉田光男]]は、「清との関係で言えば、初めは朝鮮は屈辱的な関係を強いられます。それまで[[明]]と安定的な関係を保っていましたが、南からの日本の攻撃による傷跡が癒えるまもなく、[[満州民族|満洲族]]が興した清が北から攻めてきます。そして[[漢城府|漢城]]陥落。国王は降伏の儀式を行わされ服従を誓わされます。それ以上に屈辱的だったことは、それまで野人と言って[[野蛮|野蛮視]]していた満洲族の下に組み込まれたことでした。にも拘わらず、500回にも及ぶ使節を派遣する、しかも[[朝貢]]するというカタチで。心中は認めたくない、でもカタチとしては認める、そうしないと朝鮮の[[独立]]が保てない、といった苦衷を秘めながら。ところが100年も経つと、だいぶ認識が変わってきます。確かに支配者は変わったけれど、中国そのものは変わっていない。文化的には却って[[中国文明|中華文明]]によって支配されている、というように。そして国内的にも、清朝から[[冊封]]されるということは正統な王朝であると国民が納得できる」と評している<ref name="放送大学">{{Cite news|author=[[高橋和夫 (国際政治学者)|高橋和夫]]・[[吉田光男]]・[[西村成雄]]|date=2009-12|title=「歴史の光に浮かび上がる 東アジアの過去・現在・未来」|publisher=[[放送大学]]|newspaper=放送大学通信 オン・エア|url=http://www.ouj.ac.jp/hp/gaiyo/pdf/onair/onair96.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130515015048/http://www.ouj.ac.jp/hp/gaiyo/pdf/onair/onair96.pdf|archivedate=2013-05-15|format=PDF|page=7-8}}</ref>。
朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して[[三跪九叩頭の礼]]を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが[[慕華館]]・[[迎恩門]]であり、国王は使節が漢城に至ると[[慕華館]]で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。
=== 日本との関係 ===
[[ファイル:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg|thumb|300px|[[朝鮮通信使]]]]
中国以外の国や民族に対しては、自身を[[中華世界]]の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると([[明清交替]])、[[中原]]の中華文明は滅んだとみて朝鮮こそが中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる[[小中華思想]]である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の[[女真]]・[[琉球]]・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという差別外交である<ref name="三田村泰助139"/>。
南の日本人に対しては、[[倭寇]]を防ぐために、交易を認めた者も[[倭館]]と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦([[釜山広域市|釜山]])、乃而浦([[昌原市|昌原]])、塩浦([[蔚山広域市|蔚山]])の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、[[1509年]]に起こった[[三浦の乱]]やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また[[1592年]]に勃発した[[文禄・慶長の役]]によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた[[対馬藩]]は国書を偽造するなどして([[柳川一件]])、[[1609年]]には日朝が[[己酉約条]]を結び、釜山に[[倭館]]新設も認められた。日本使節の漢城上京は認めおらず、日本からも使節を送ってもいないが、[[征夷大将軍]]の代替わりを祝賀する[[朝鮮通信使]]が[[江戸]]を訪問し、対馬藩による釜山貿易も[[江戸時代]]を通じて続いた。その朝鮮通信使の報告書を読むと、自国よりも発展している日本への嫉妬であふれている。日本側の記録では、[[朝鮮通信使#日本の見た朝鮮通信使|通信使一行]]の犯罪行為による評判が悪く、のちの[[征韓論]]や[[韓国併合]]に繋がったとする説もある。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、[[室町時代]]に[[足利氏]]が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われ、それは併合まで続く。
{{Main|日朝関係史}}
=== 西欧との関係 ===
[[西洋|西欧人]]に対する反発はより強く、中国と日本、それに[[琉球王国]]などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった<ref name="Isabella"/>。ただ、[[ジョアン・ロドリゲス]]の『日本教会史』や、[[ルイス・フロイス]]の『[[フロイス日本史]]』など、日本や中国で布教を許されたスペイン人やポルトガル人の宣教師が残した記録のほか、[[済州島]]に漂着した[[ヘンドリック・ハメル]]の『朝鮮幽囚記』等により、朝鮮の事情が断片的に西洋世界に知られることとなった。[[アルヴァロ・セメド]]の『中国史』や、[[マルティノ・マルティニ]]の『満州族の中国侵略史』では、17世紀初頭の朝鮮が明と清の板挟みになっている様子が描かれている。
18世紀後半には、さまざまな分野で[[西ヨーロッパ|西欧]]の影響を受けて、[[実学 (朝鮮)|実学]]など新たな試みが見られた。19世紀初頭に[[キリスト教]]と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。
{{See also|韓国のキリスト教}}
=== 近代の外圧 ===
19世紀末期になると、朝鮮は[[西洋|西洋諸国]]や[[大日本帝国|日本]]からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を日本領土化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。
日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された[[下関条約]]によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての[[迎恩門]]も破壊され、代わりに[[独立門]]が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、自ら皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に[[1910年]]に朝鮮は日本に併合された。
== 社会階層 ==
[[ファイル:Middle Class in Joseon.jpg|thumb|300px|[[貴族|貴族階級]]である両班]]
朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。少数の特権階級(閔氏一族など)は互いに婚姻関係を持ち、それらが地主となり、要職に就くための科挙制度も支配することによって、富と権力を握っている社会であった<ref>カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』(草思社) ISBN 4794212755 </ref>。
[[ファイル:1910년대 조선 기생.jpg|thumb|right|妓生(1910)]]
戸籍上の身分は、当初は良民と賤民([[奴婢]]・[[白丁]]、[[妓生]]など)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は[[両班]](貴族および科挙官僚を輩出する階層)・[[中人_(朝鮮)|中人]](技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・[[常人]](一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。ただし、賤民は日本併合まで残り続け自らなくすことはなかった。
儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。
社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば科挙合格により中人から[[両班]]に上昇する一族もあったことが分かっている。しかし、李朝後期には身分制に対する社会統制自体が緩くなり、近代に近づくほど賤民層は激減し、両班層は激増している。これは身分の詐称や族譜の売買、朝鮮政府が富裕な農民や賤民に官位や官職を販売しそれが固定化されていったこと、また奴婢が良民の身分をあがなったり逃亡や両班の雇用人となることで身分転化が起こったものと考えられている<ref>[[四方博]]「李朝人口に関する身分階級別的観察」/『朝鮮社会経済史研究(中)』所載</ref>。両班人口は17世紀の終わりには10%内外であったが、19世紀半ばには両班の占める割合が70%に達した地域もあったとする願望に近い説もある。だが、これはこの時代だけで国の人口を約半分に減らしたことに起因すると考えた方が自然だ。つまり常人以下の人口が飢餓によって極端に減った事を意味する。人口の倍増は日本併合まで待たねばならない。
== 民族構成 ==
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の[[女真人]]が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。
朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは[[華僑]]のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしば[[ナショナリズム]]高揚のため、「[[単一民族国家]]」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる<ref>{{Cite news|author=|url=https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391|title=初等教科書、高麗時「23万帰化」言及もしない|newspaper=[[京郷新聞]]|publisher=|date=2007-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210730074749/https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391 |archivedate=2021-07-30}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://www.khan.co.kr/national/education/article/200708212359521|title=초등 4~6학년 교과서, 단일민족·혈통 지나치게 강조|newspaper=[[京郷新聞]]|publisher=|date=2007-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210730074305/https://www.khan.co.kr/national/education/article/200708212359521|archivedate=2021-07-30}}</ref>。
== 経済 ==
{{See also|李氏朝鮮の経済}}
[[ファイル:Korea ginsen field.jpg|thumb|250px|開城オタネニンジン]]
朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーでは、商人に対しての人としての評価が低く、商品に対しての価値もなかった。そのため本格的な[[貨幣]]制度がなかなか定着せず、物々交換か麻布・綿布・米などの現物貨幣で取引された。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。
第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]](1397-1450年)の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉や清の侵攻でそれまでも構築できていたとは言い難い国内の産業基盤が崩壊し、意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はあまりにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった<ref>[[シャルル・ダレ]]編 朝鮮事情 東洋文庫</ref>。
このような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また両班が一般民衆に対して常に過酷な財産徴収を行っており[[資本蓄積]]や資本による[[投資]]が不可能な状態であったことや19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。何もしない上、「官災」と災害扱いされるほどの[[拷問]]すら伴う場合のある収奪を行う両班に対しての不満もあって、蓄財は危険な行為とされ自分達自ら何もしないという選択肢しかなかった。
李氏朝鮮末期に至っても物々交換が中心であり、貨幣の流通は都市部に限られていた<ref name="Isabella"/>。開国後には西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、対外交易を行う釜山などを中心とした港湾部で高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100ドル([[本位銀貨]]で100枚)に相当する貨幣が朝鮮の銅貨では320,000枚となり、運搬するのに馬1頭を使わなければならない<ref name="Isabella"/>こともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。かように中国の属国意識から自らを打開しようともしなかった。
また、李朝末期まで商店はわずかな両班の使うものであり、一般民衆が使うことのできるまともな商店は存在していなかったか、あったとしても商店にある品を全て集めても当時の10ドル程度にしかならないものであった<ref name="Isabella"/>。そのため多くの民衆は露天市で物を求めた<ref>アジア時報 2009年4月号 [[古田博司]] 「韓国『正しい歴史認識』の虚構と戦略」</ref>。つまり20世紀直前のこの時代でさえあって、庶民は物々交換をしていたのであった。世界でここだけ中世時代にさえなっていなかった。
李氏朝鮮時代の交易は、中国との[[朝貢貿易]]、[[対馬]]を介した日本との交易、[[琉球]]との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は[[朝鮮人参]]、[[貂]]皮、[[海獺]]皮、[[コンブ|昆布]]、日本から輸入した[[銀]]などであり、代わりに[[塩]]・[[生糸]]・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、[[木綿]]、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに[[銀]]や[[銅]]を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に日本は自給体制を整えたために朝鮮からの輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。こうやって、どんどん衰退していくこととなる。
== 文化 ==
{{See also|朝鮮の文化}}
=== 廃仏崇儒 ===
李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、代々中国の属国であったため、すべて[[中国文化]]の縮小版であった<ref name="三田村泰助139"/>。
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば[[儒教]]の一派である[[朱子学]]を尊重し、[[仏教]]を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や[[奴婢]]の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。
ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代[[燕山君]]の時代に破壊され、[[妓生]]を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は[[仏教]]を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代[[仁祖]]の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。いまだに残る男尊女卑や差別意識、年齢信仰はこの儒教思想から来る。
=== シャーマニズム ===
{{See also|朝鮮神話#口伝神話}}
[[ファイル:Hyewon-Munyeo.sinmu.jpg|thumb|250px|[[1805年]]に[[申潤福]]によって描かれた巫堂の舞]]
正式な国教と呼べるものは儒教の朱子学ではあったが、土着・民間信仰としての[[巫俗]]は淫習とされ[[巫女]]であるムーダン(巫堂)が賎人とされるなど蔑視されたが根強く残った。祀られる神は朝鮮独自のものもあるが、道教や仏教、後にはキリスト教の影響も見られる。
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』には朝鮮社会が克明に記されており曰く、
「朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿が無い。家々には「神棚」が無く、村祭りには神輿も無ければ偶像を運ぶ行列も無く、婚礼葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりする事が無い。心からにせよ形だけにせよ、畏れ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず人心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られぬは非常に珍しい特徴である。」
=== 印刷事業の発展 ===
各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には[[活字]]を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、[[高麗]]時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。
李氏朝鮮は[[朱子学]]を社会的理念として採択しながら[[儒教]]的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。[[16世紀]]には[[士林派]]が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の[[校書館]]が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった。ほぼすべての者が文盲だったため必要なかった。そのため当時個人の所有していた書籍は王から賜り先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。
=== 訓民正音の制定 ===
[[ファイル:Hunminjeongum.jpg|thumb|250px|[[訓民正音]]]]
公的な文化の中心となるのは[[中国語]]の[[文語]]である[[漢文]]であり、[[朱子学]]を中心として[[陽明学]]などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。[[漢字]]のみでは[[朝鮮語]]をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために[[1443年]]に[[ハングル]]の起源になる[[訓民正音]]が作成された。ハングルは朝鮮語の表記に適した合理的な文字体系であったが、中華思想に支配された両班ら男性知識人はこれを[[諺文]](オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。
しかし李朝を通して民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まった。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使う者が現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『[[春香伝]]』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。
但し長らく公式文書が漢文のみであった影響もあり、[[朝鮮語の正書法|正書法]]が確立されていなかった。李朝最末期の1907年に国語研究所が設置されて正書法の整備を開始するも、最初の正書法である[[普通学校用諺文綴字法]]が完成したのは[[韓国併合]]後の1912年である。
[[ファイル:Korean celestial globe.jpg|thumb|right|荘英実によって制作された渾天儀]]
=== 教育 ===
李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「[[書堂]]」もあった。一方地域ごとには偉い[[ソンビ]]や功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。李氏朝鮮末期には王朝が独自の教科書を作るなどした。しかし、これらは「西洋人は中国人とは異なり禽獣の如き存在である」「ありとあらゆる文物は中国の伝統にかなわない」とする類の[[事大主義]]的な内容であった<ref name="Isabella"/>。
学校の数は朝鮮全土において5校だけだったことが、その後を統治した日本の朝鮮総督府によって確認されている。科挙制度によって両班になれた家系はおそらく天文学的に幸運だったに違いないが、その数は多かったそうだ。
=== 絵画 ===
李朝における[[絵画]]は、儒者達の中国文化への傾倒から前半期には中国山水画の模倣であり、宮廷においても中国の画院の制度を真似た図画署という機関を置き、中国絵画を模した肖像画や儀式の記録画の制作に当たらせた。後半期には、18世紀後半に至り[[金弘道]]と[[申潤福]]が出てようやく中国絵画の模倣から脱し、朝鮮の風景に基づいた山水画、朝鮮の民衆の生活に基づいた風俗画が描かれるようになり、朝鮮独自の絵画が成立した。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。また、朝鮮の民衆の中からは素朴ながら力強い[[朝鮮民画|民画]]が生まれた。
=== 磁器 ===
[[陶磁器]]では、前代の[[高麗青磁]]に比して、華麗さでは見劣りするが優美さをもつ[[李朝白磁]]と呼ばれる[[磁器]]が知られるが、それに至る過渡期のものとして14世紀後半に誕生した[[粉青沙器]]がある。李朝時代に[[白磁]]が尊ばれたのは[[朱子学]]で白が高貴な気高い色とされているためであるが、その白を求める過程で[[粉引]]([[粉吹]])が生み出された。粉引とは、赤土で成形された素地に化粧土という泥を塗って白化粧を施し、その上に透明の[[釉薬]]をかけ焼成する陶磁器である。李朝の粉引は日本では[[三島]]として知られる。この粉青沙器は16世紀末には廃れ、その後の李朝磁器の主流は15世紀前半から生産が軌道に乗り始めた白磁へと移った。白磁は17世紀後半から18世紀にかけて[[青花]]の全盛期を迎える。
他に、絵画同様、鉄絵の具で力強い文様が描かれた民窯の[[鉄砂]]の焼き物や、釜山の[[倭館]]窯で日本からの注文で焼かれた[[高麗茶碗]]がある。李朝の陶磁器はコバルト顔料と[[辰砂釉]]、鉄絵の具での彩色にとどまり、明や日本のような[[錦手]]、{{ill2|金襴手|en|Kinrande}}と呼ばれる豪奢な[[色絵磁器]]が生み出されることはなかった。これは、儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別があったためだが、白磁は職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。
=== 芸能 ===
朝鮮における芸能は儒教の賤商思想ゆえに都市文化が抑制されたため、芸能は農村部で展開された。[[広大]](クワンデ)や[[キーセン]]などによる[[パンソリ]]といった民話に題材を得た音楽と歌唱を伴う芸能が成立した。当初は農民の芸能として[[両班]]など知識人である支配者階層に賤しまれたが、その内容が文学的に洗練されるにつれ両班の間でも楽しまれるようになり、現在では韓国を代表する伝統芸能として保護されている。
歴史的に朝鮮では、[[タルチュム]]と呼ばれる仮面芝居のようなものはあったが、野外の広場や仮設舞台で行われたので、[[演劇]]のための劇場は20世紀になるまで全く存在しなかった。朝鮮史上初の劇場は1902年に建てられた協律社([[:ko:협률사]])である。
=== 医学 ===
[[医学]]分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「[[恵民署]]」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。男性の医師は女性を診察できず、女性を診察する[[医女]]という制度が作られたが、[[妓生]]との区別があいまいだった。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された[[許浚]]の『[[東医宝鑑]]』などがある。[[1894年]]に李済馬<ref>[[:ko:이제마]]</ref>は「四象医学」([[:ko:사상의학]])を主張した<ref group="注釈">著書に『東医寿世保元』([[:ko:동의수세보원]])。</ref>。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも[[韓医学]]界では通用している。
== 年表 ==
* [[1392年]]、[[李成桂]]が、高麗・恭譲王の王位を簒奪し、高麗王に即位。
=== 朝鮮国 1393年-1897年 ===
* [[1393年]]、明国の皇帝に次の国号として「朝鮮」と「和寧」の2つから選んでもらい、国号を朝鮮国に変更する。
* [[1398年]]、第一次王子の乱
* [[1400年]]、第二次王子の乱
* [[1401年]]、明より王を名乗る事を正式に認められる。
* [[1404年]]、[[室町幕府]]と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
* [[1419年]]、[[応永の外寇]] 李氏朝鮮軍による[[対馬国]]侵攻。
* [[1443年]]、[[訓民正音]]の制定([[1446年]]公布)。
* [[1498年]]、[[士林派]]に対する弾圧[[士禍]]が始まる([[戊午士禍]])。
* [[1504年]]、[[甲子士禍]]。
* [[1506年]]、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]により[[正音庁]]([[諺文庁]])閉鎖。
* [[1510年]]、[[三浦の乱]]。[[対馬]]の日本人による反乱。対馬との通行が一時途絶える。
* [[1512年]]、[[壬申約条]]。対馬との通行再開。
* [[1519年]]、[[己卯士禍]]。
* [[1545年]]、[[乙巳士禍]]。
* [[1555年]]、備辺司設置。
* [[1559年]] - [[1562年]]、黄海道で民衆反乱(林巨正の乱)。
* [[1567年]]、士禍が終わる。以後、士林派同士の対立が続く。
* [[1575年]]、士林派の[[東人]]と[[西人]]の対立始まる。
* [[1592年]] - [[1593年]]および[[1597年]] - [[1598年]]、[[豊臣秀吉]]の2度の朝鮮侵攻([[文禄・慶長の役]] - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。
* [[1607年]]、[[江戸幕府]]と日朝国交回復交渉始まる。
* [[1608年]]、[[北人]](東人の分派)の大北、[[光海君]]を擁立。北人政権が始まる。
* [[1609年]]、[[日朝通商条約]]。日本との通行回復。幕府との[[朝鮮通信使]]による交流。
* [[1619年]]、[[サルフの戦い]]で明との連合軍が[[後金]]軍に大敗。
* [[1623年]]、[[仁祖]]のクーデター。[[光海君]]廃される。大北粛清される。
* [[1627年]]、[[後金]]軍、朝鮮に侵攻([[丁卯胡乱]])。
* [[1636年]]、[[清国]]の皇帝[[ホンタイジ]]が朝鮮に親征([[丙子胡乱]])。仁祖、南漢山城に篭城。
* [[1637年]]、仁祖降伏し、清国に服属する。
* [[1654年]]、[[1658年]]、[[羅禅征伐]]。
* [[1660年]]、礼論(服喪期間に関する対立)により、[[西人]]と[[南人 (李氏朝鮮)|南人]](旧東人の分派)が対立する。
* [[1683年]]、西人、[[老論派|老論]]と[[少論派|少論]]に分裂する。
* [[1721年]] - [[1722年]]、[[辛壬士禍]]。
* [[1728年]]、李麟佐の乱。
* [[1784年]]、[[キリスト教]]の伝来。
* [[1791年]]、キリスト教の弾圧始まる。
* [[1796年]]、[[水原城]](華城)建設
* [[1801年]]、キリスト教への大規模な弾圧が続く。
* [[1804年]]、 士林派による政治の終焉。安東金氏による権勢政治 ( - [[1863年]])。
* [[1811年]]、[[洪景来の乱]](地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。
* [[1811年]]、第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。
* [[1861年]]、[[金正浩]]による朝鮮全図、[[大東輿地図]]の完成。
* [[1862年]]、[[壬戌民乱]](慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱)
* [[1863年]]、[[興宣大院君|大院君]]政権の成立。
* [[1866年]]、[[丙寅教獄|丙寅邪獄]]。[[ジェネラル・シャーマン号事件]]。[[丙寅洋擾]]。
* [[1871年]]、[[辛未洋擾]]
* [[1872年]]、朝鮮大飢饉
* [[1873年]]、大院君追放、閔氏政権の成立。
* [[1875年]]、[[江華島事件]]勃発。
* [[1876年]]、日本の明治政府と[[日朝修好条規]]締結。
* [[1882年]]、[[壬午事変]]おこる<ref name=keio20070510/>。[[済物浦条約]]締結<ref name=keio20070510/>。[[米朝修好通商条約]]締結。
* [[1883年]]、財政危機を補正し乱れた通貨政策を整備する目的から、造幣機関[[典圜局]]が設置される。
* [[1884年]]、[[甲申政変]]、開化派・[[金玉均]]のクーデターは失敗に終わる。
* [[1885年]]、[[ポート・ハミルトン事件]]<ref name=porthamilton/>、[[巨文島]]がイギリスに占領される。
* [[1888年]]、[[露朝陸路通商条約]]
* [[1894年]]、東学党の乱([[甲午農民戦争]])、大院君の政局復帰。大院君派と閔妃派の対立が深まる。[[金玉均]]、[[上海市|上海]]で暗殺される。反乱軍と政府が和解し、反乱平定の名目で駐留していた日清両軍の撤兵を求めるも両軍とも拒否し、[[日清戦争]]勃発。
* [[1895年]]、ロシア帝国の支援を受け閔妃復権するも暗殺される。日清戦争終結。[[下関条約]]により清国から独立。
=== 大韓帝国 1897年-1910年 ===
* [[1897年]]、[[大韓帝国]]に改称する。
* [[1904年]]、第一次日韓協約
* [[1905年]]、[[ポーツマス条約]]によりロシア帝国が日本による大韓帝国保護を認める。米英もフィリピン・インド領承認と交換に日本の韓国保護を承認。[[第二次日韓協約]](日韓保護条約)。
* [[1906年]]、[[韓国統監府]]設置
* [[1907年]]、[[ハーグ密使事件]]。[[第三次日韓協約]]。[[大韓帝国軍|韓国軍]]、一部を残し解散。
* [[1909年]]、韓国統監府初代統監[[伊藤博文]]が[[安重根]]により暗殺される。
* [[1910年]]、[[韓国併合ニ関スル条約]]に基づき日本に併合され消滅([[韓国併合]])。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=海野福寿|authorlink=海野福寿|date=1995-05|title=韓国併合|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430388-5}}
*[[梶村秀樹]]「朝鮮史の意味」、{{Cite book|和書|editor=梶村秀樹著作集刊行委員会・編集委員会|date=1992-11|title=梶村秀樹著作集|volume=第1巻|publisher=明石書店|isbn=4-7503-0467-0}}
*{{Cite book|和書|author=金泰俊|authorlink=金泰俊|date=1988-05|title=虚学から実学へ――十八世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行|publisher=東京大学出版会|isbn=4-13-016013-3}}
*{{Cite book|和書|author=旗田巍|authorlink=旗田巍|date=2008-02|title=朝鮮史|series=岩波全書セレクション|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-021901-3}}
*[[旗田巍]]「朝鮮の歴史」、{{Cite book|和書|author=旗田巍|year=1955|title=世界史講座|volume=第1巻|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}
*{{Cite book|和書|author=原田武夫|authorlink=原田武夫|date=2007-03|title=「日本封じ込め」の時代――日韓併合から読み解く日米同盟|series=PHP新書|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-69004-9}}
*[[藤永壯]]「「植民地支配は絶対悪」という真理」、{{Cite book|和書|author=太田修|authorlink=太田修|coauthors=[[朴一]]ほか|date=2006-05|title=マンガ嫌韓流のここがデタラメ|publisher=コモンズ|isbn=4-86187-023-2}}
*{{Cite book|和書|author=ブルース・カミングス|authorlink=ブルース・カミングス|others=[[横田安司]]・[[小林知子]]訳|date=2003-10|title=現代朝鮮の歴史 世界のなかの朝鮮|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1794-2}}
*{{Cite book|和書|author=宮嶋博史|authorlink=宮嶋博史|date=1995-08|title=両班――李朝社会の特権階層|publisher=中央公論社|isbn=4-12-101258-5}}
*{{Cite journal|和書|author=[[矢木毅]]|date=2008-12|title=近世朝鮮時代の古朝鮮認識 (特集 東アジア史の中での韓國・朝鮮史)|volume = 67|issue=3|pages=402-433|journal=東洋史研究|publisher=東洋史研究会|url=https://doi.org/10.14989/152116|
ref={{Harvid|矢木毅|2008}}}}
*{{Cite book|和書|editor1-first=泰典|editor1-last=荒野|editor1-link=荒野泰典|editor2-first=章介|editor2-last=村井|editor2-link=村井章介|editor3-first=正敏|editor3-last=石井|editor3-link=石井正敏|date=1992-07|title=アジアのなかの日本史 2 外交と戦争|publisher=[[東京大学出版会]]|url=|isbn=978-4130241229|
ref={{Harvid|アジアのなかの日本史|1992}}}}
== 関連項目 ==
* [[朝鮮の君主一覧#李氏朝鮮|朝鮮の君主]]
* [[朝鮮国王の廟号と諡号の一覧]]
* [[李氏朝鮮の身分制度]]
* [[李氏朝鮮の科挙制度]]
* [[李氏朝鮮の家族制度]]
* [[朝鮮の軍事]]
* [[朝鮮の民間療法]]
* [[朝鮮王室儀軌]]
* [[朝鮮燕行使]]
* [[儒教]]/[[小中華思想]]/[[迎恩門]]
* [[清史稿]]/[[中国朝鮮関係史]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Joseon Dynasty}}
* [http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp 朝鮮王朝実録] - [[国史編纂委員会]]{{ko icon}}
* [http://www.chosenshi.gr.jp/ 朝鮮史研究会]
{{先代次代|[[朝鮮の歴史]]|1392年 - 1897年|[[高麗]]|[[大韓帝国]]}}
{{李氏朝鮮}}
{{Normdaten}}
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[[Category:朝鮮史の国]]
[[Category:李氏朝鮮|*]]
[[Category:ユネスコ記憶遺産]]
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5,261 | 国際法 | 国際法(、英: International Law, Law of Nations、仏: Droit international, Droit des gens、西: Derecho Internacional)とは、国際社会(「国際共同体」英: the international community、仏: la communauté internationale、西: la comunidad internacional)を規律する法をいう。国際私法と対比させて国際公法(英: Public International Law、仏: Droit international public、西: Derecho Internacional Público)ともいわれるが、国内法制度における私法と公法の関係のように両者が対立的な関係にあるわけではない。条約、慣習国際法、法の一般原則が国際法の存在形式(形式的法源)とされる。かつては国家間の関係のみを規律する法と考えられてきたが、現代では国際組織や個人の関係や、これらと国家との関係を規律する法と考えられている。
朝貢を国際関係の主体とする華夷秩序や、江戸時代初期の朱印船貿易は、一般的には国際社会全体を拘束する国際法であるとは見做されていない。
国際法は、オッペンハイムが定義する文明諸国家相互間の関係で、国家行為を拘束する規則または原則の一体である、といわれる。そして国際法は成文化されたもの(条約)と慣習によって成り立つ不文のもの(慣習法)、法の一般原則によって成り立っており、国家および国際機構の行動、そして今日ではこれに加えて、個人の行動(特に、国際人道法、国際刑事法)や多国籍企業の行動(特に、国際投資法)も、これによって法的に規律される。
「国際法」という言葉は、1873年に箕作麟祥が「International Law」の訳語として考え出し、1881年の東京大学学科改正により正式採用されたものである。それ以前の幕末当時には、タウンゼント・ハリスが初代駐日公使となり、日米修好通商条約締結を求めた際に国際法は「万国普通之法」と訳されている。その後隣国清朝でヘンリー・ホイートンの Elements of International Law が『万国公法』と訳されるとそれが国境を越えて流布し、以後しばらく中国や日本では「万国公法」という訳語が「International Law」の訳語として使用された。また、他にも「列国交際法」、「宇内の公法」とも呼ばれていた。また、"Law of Nations"は、「国際法」と訳されることがあるが、「諸国家の法」「諸国民の法」などと訳されることもある。
フランス語では、「国際法」として、「Droit international public」(国際公法)と「Droit des gens」(万民法)という二つの用語がある。今日では前者が一般に用いられるが、ラテン語の「ius gentium」(ユス・ゲンティウム)つまり万民法に由来する後者は古典的な用語法で、現代では特に人々を念頭においたときに用いられる(例えば、ジェノサイドを"un crime de droit des gens"と表現するものとして、「ジェノサイド条約に対する留保」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1951, p.23)。ヨーロッパの大学における国際法の講義の名称として、"Droit des gens"を今日でも続けて用いている大学もある。
オランダ語では、 「internationaal publiekrecht」(国際公法)と「volkenrecht/volkerenrecht」(万民法)、「Internationaal recht」(国際法)という呼称がある。
ドイツ語では、「Internationales Öffentliches Recht」(国際公法)と「Völkerrecht」(万民法)という二つの呼称がある。
なお、「比較法/比較法学」は、国際法と全く異なる概念である。
国際法は国家主権の確立によって発展するが、それまでの国際法は「君主間の法」とも呼ばれ、国家を人格的に代表する君主は人間であるために自然法により規制されるという考えによる法体系となっていた。
国際法は16世紀から17世紀のヨーロッパにおける宗教戦争の混乱を経て、オランダの法学者グローティウスや、スペインの神学者であり法学者であったスアレス(Francisco Suárez)、ビトリア(Francisco de Vitoria)らが創始したと考えられている。スアレスによれば、万民法(jus gentium)は慣習法として成立し、それが実定法として国際社会全体を拘束すると考えた。また、グローティウスの『自由海論』は当時の国際法的思考に大きな影響を与えたといわれる。ウェストファリア条約以降、国家間の紛争、通商および外交関係を規律する法として成立、発展していった。
伝統的な「国際社会」(仏: la société internationale)は、主権国家の並列状態のみが想定されており、したがって国際法の主体となりうるものは国家のみであった。この基本的な構造はそのため従来的な国際法とは、国家間の合意もしくは不文律のことのみを意味していた。会社などの法人や個人は国際法の主体となりえず、せいぜい国家が国際法に関する権利を行使する過程で影響を受ける存在でしかなかった。これはそもそもかつての国際法で紛争を抑制するために定められた国内管轄権に関する事項を規定しない内政不干渉の原則がウェストファリア体制で確立されたことに起因している。
しかし現代では、国際人権法、国際人道法に見られるように、個人も国際法上の権利、義務の主体として位置づけられるようになった。また、国際環境法における「人類の共通の関心事」(common concern of humankind)あるいは「人類の共通利益」(common interests of humankind)概念のように、「人類」(仏: l'humanité)概念も登場するに至った。このように、今日では、従来の「国際社会」とは異なる、諸国家の相互依存性から自然発生的に形成された「国際共同体」(英: the international community、仏: la communauté internationale)という概念が、学説においてもまた実定法においても、徐々に浸透してきている。特に、フランスの国際法学者であるルネ=ジャン・デュピュイからは、「国際共同体」とは「国際社会」と「人類」の弁証法(la dialectique)であるとの主張がなされている。様々なとらえ方のある概念ではあるが、現代国際法は、そのような「国際共同体」を規律する法であると今日では言うことができる(cf.「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見ベジャウィ裁判長宣言、C.I.J.Recueil 1996 (I), pp.270-271, par.13)。
「国際法の法源」には、一般的に二つの意味がある。第一に、「形式的法源」(les sources formelles)であり、これは、国際法という法の存在のあり方をいう。「国際法の法源」と言った場合、通常、この意味が当てはまる。すなわち、国際法は、「条約」及び「国際慣習」という形で存在し、後述するように現代では「法の一般原則」も国際法の法源に含まれるとされている。また、「判例」や「学説」は、これら条約、慣習法、法の一般原則の内容を確定させるための補助的法源とされている。これらのことは、以下のように国際司法裁判所規程38条1項に規定されている。
さらに国際組織による決議などの国際法上の法源性についても論じられることがある。
最新の議論によれば、大沼保昭によって、「裁判規範」と「行為規範」の区別が主張されている。すなわち、国際司法裁判所規程38条に列挙された、条約、慣習法、法の一般原則は、あくまで裁判を行う時に適用される法源であり、国家が国際社会で行動するときに拘束される国際法は、これらに加えて他にもあり、例えば、全会一致またはコンセンサスで決められた国連総会決議も行為規範として、国家を拘束すると主張される。国際司法裁判所の確立した判例によれば、国連総会決議は、たとえ拘束的ではなくとも、法的確信(opinio juris)の発現を立証する重要な証拠を提供する、とされる(「核兵器の威嚇または使用の合法性」勧告的意見、I.C.J.Reports 1996, Vol.I, pp.254-255, para.70. 「ニカラグアにおける及びニカラグアに対する軍事的、準軍事的行動事件」判決、I.C.J.Reports 1986, pp.100-104.)。
第二に、「実質的法源」(les sources matérielles)を指す場合がある。これは、上記、「形式的法源」(特に、条約と慣習法)が成立するに至った原因である、歴史的、政治的、道徳的要素や事実を指す。このように、「実質的法源」は、法的拘束力を有する法そのものではなく、国際法成立の要因であり、特に、法社会学の対象分野であるといえる。国家による一方的行為/一方的措置は、慣習国際法を形成する要因として、実質的法源になりうる。
条約とは、一定の国際法主体(国家、国際組織等)がその同意をもとに形成する、加盟当事者間において拘束力を有する規範をいう。二国間条約と多数国間条約があり、ともに当事者の合意によって成立するが、後者はその成立に批准手続が取られることが多く、また特に多数の国が参加する場合には条約を管理する機関が置かれる場合がある。条約そのものの規律を対象とする国際法については1969年に国連国際法委員会によって法典化された条約法に関するウィーン条約がある。(条約法の項を参照。)
慣習国際法は、不文ではあるが、条約と同等の効力を有する法源である。もっとも、不文であるため、それぞれの慣習国際法がいつ成立したのかを一般的にいうことは難しいが、もはや慣習国際法として成立したとされれば、国際法として国家を拘束する。
その成立には、「法的確信(羅: opinio juris)」を伴う「一般慣行」が必要である。「一般慣行」が必要とされるため、長い年月をかけて多くの国が実践するようになったことによって成立したものがある一方、「大陸棚への国家の権利」のように発表からわずか20年足らずで成立したとされるものなど、その成立は様々である。国際司法裁判所は1969年の「北海大陸棚事件」判決において、ある条約の規則が一般法になっているための必要な要素について、「たとえ相当な期間の経過がなくとも」(even without the passage of any considerable period of time)、「非常に広範で代表的な参加」(a very widespread and representative participation)があれば十分であるとし、また、「たとえ短くとも、当該期間内において、特別の影響を受ける利害関係をもつ国々を含む、国家の慣行(State practice)が、広範でかつ実質上一様で(both extensive and virtually uniform)あったこと」を挙げた(I.C.J.Reports 1969, pp.42-43, paras.73-74; 皆川洸『国際法判例集』391頁)。
「一貫した反対国」(persistent objector) 、すなわち、ある慣習法が生成過程にあるときに常にそれに反対していた国家、への当該慣習法の拘束力については、学説上、議論がある。国際司法裁判所は、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)判決において、領海10マイル規則に対して、ノルウェーがその沿岸においてその規則を適用するあらゆる試みに反対の表明を常に行っていた([la Norvège] s'étant toujours élevée contre toute tentative de l'appliquer)ので、10マイル規則はノルウェーに対抗できない (inopposable) と判示した (C.J.I.Recueil 1951, p.131) 。
慣習法のみが一般国際法 (general international law) を形成する、という従来の理論に関して、小森光夫は疑問を提示し、慣習法の一般国際法化の際のその形成と適用について、それぞれ問題点を示している。すなわち、形成に関しては、慣習の一般化において、全ての国家の参加が必要とされずに、欧米諸国など影響力のある限られた数の国家の事実上の慣行のみでそれが認定されてきた点を挙げる。また、適用に関して、すでに一般化したとされる慣習法に、新独立国が自動的に拘束されるとする理論について、それが一貫した反対国と比べて差別的である点を挙げる。そうして、一般国際法の存在を慣習法に集約させて論じることを止め、別個に一般法秩序の条件の理論化を確立すべきだと主張する。
法の一般原則とは、国際司法裁判所規程第38条第1項(c)にあるように「文明国が認めた法の一般原則」であり、主要法系に属する世界の国々の国内法に共通して認められる原則の中で、国際法秩序にも適用可能と判断できるものを指す。19世紀には国際法の法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年の常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した。さらに現代では二国間の仲裁裁判条約や、多数国間条約に定められた裁判条項においても裁判基準として挙げられていることから、法の一般原則は国際司法裁判所の裁判基準であることを超えて「法の一般原則」も国際法秩序における独立した法源であるとする考えが、今日では広く認められている。
国際法秩序は、その根底に、一般原則(general principles; les principes généraux)を有する。これら一般原則を基盤として、またその内容を具現するために、各種条約及び慣習法規が存在しているといえる。一般諸原則の一部は、国際司法裁判所規程38条(c)の「文明国が認めた法の一般原則」(les principes généraux de droit reconnus par les nations civilisées; general principles of law recognized by civilized nations)として発現していると考えることができる。「法の一般原則」は、各国の国内法に共通に見られる法原則のうち国際関係に適用可能なもの、あるいは、あらゆる法体系に固有の法原則として、一般的にとらえられている。
国際裁判において適用された「法の一般原則」の例としては、信義誠実の原則(1974年「核実験事件(本案)」(オーストラリア対フランス、ニュージーランド対フランス)国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1974, p.268, para.46)、衡平原則(1986年「国境紛争事件」(ブルキナファソ/マリ)国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1986, p.567, par.27; 1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所・小法廷判決、C.I.J.Recueil 1984, p.292, par.89; 前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.46, para.83ほか)、義務違反は責任を伴うの原則(1928年「ホルジョウ工場事件(本案)」常設国際司法裁判所判決)、「既判力」の法理(1954年「賠償を与える国連行政裁判所の判決の効力」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1954, p.53)などが挙げられ、禁反言の法理(estoppel)のような英米法の概念も適用されるとされた場合もある(前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.26, para.30)。ただ、裁判所が、明示的に「法の一般原則」として援用することはまれである(一方が他方の義務履行を妨げた場合に、その義務違反を主張することはできないということを、「国際仲裁判例によって、また国内諸裁判所によって、一般的に認められる原則」とした例として、「ホルジョウ工場事件(管轄権)」常設国際司法裁判所判決、C.P.J.I., série A, 1927, n°9, p.31)。「国際法上の犯罪」(les crimes du droit des gens) において、第二次大戦中当時、「平和に対する罪」が必ずしも明確に犯罪行為として定まっていなかったにもかかわらず、「極東国際軍事裁判所」(極東国際軍事裁判)において、それが適用され処罰された事例があり、これが法の不遡及の原則に反するという批判がある。しかし、法の不遡及(non-rétroactivité; non-retroactivity)原則が、国際法、国内法共通の原則となり、特に刑事法の分野で確立されたのは、東京裁判が終了した1948年11月以降(1948年12月の「世界人権宣言」11条2項、1950年11月の欧州人権条約7条1項ほか、1966年12月の市民的及び政治的権利に関する国際規約15条1項)の事であった。加えて、1948年の世界人権宣言は単なる宣言に過ぎず法的拘束力のある「条約」ではなかったし、1950年の欧州人権条約では7条2項において、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約でも15条2項において、それぞれ法の不遡及の原則の例外を認めている。
これらのうち、「信義誠実原則(原理)」(the principle of good faith) と「衡平原則(原理)」(the principle of equity) は、国際法の解釈及び適用の際に、常に働く。
信義誠実原則は、正直、真摯という主体的(subjective)な意味と、相手側を尊重する、という客体的(objective)な意味に分かれる。それは主として、国際法の解釈において作用する。ウィーン条約法条約31条は、条約は誠実に解釈されなければならないと規定する。これは、自国の表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して条文を解釈しなければならない、という意味と解される。また、履行についても、国際義務は誠実に履行しなければならないとされている(国連憲章2条1項、条約法条約26条)。これも、自国が表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して義務を履行しなければならない、という意味と解される。
衡平原則は、関連するあらゆる事情を考慮して、法を適用することを意味する(cf.「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47.)。それは三つに分解される。「実定法規内の衡平」(equity infra legem)、「実定法規に反する衡平」(equity contra legem) 、「実定法規の外にある衡平」(equity praeter legem) である(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決アムーン判事個別意見、C.I.J.Recueil 1969, p.138; 「国境紛争事件」(ブルキナファソ/マリ)国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1986, pp.567-568, pars.27-28)。すなわち、「実定法規内の衡平」とは、適用可能な複数の法原則、法規則のうちから(「チュニジア・リビア大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1982, p.59, para.70)あるいは可能な複数の法解釈のうちから各当事国が納得がいく(当事国の利益の釣り合いによる; balancing of the interests of the parties)結果を導き出す選択をする、ということであり、「実定法規に反する衡平」は、国際司法裁判所規程38条2項にいう「衡平と善」(ex aequo et bono) もこの一種で、実定法規の適用が衡平な結果をもたらさない場合、関係当事国の合意の下、それらを除外してでも釣り合いのとれた解決を目指すものであり、「実定法規の外にある衡平」とは、法の論理的欠缺を埋める補助的なものであり、一般原則を用いてその欠缺を埋め(「コルフ海峡事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1949, p.22.)、具体的な解決をもたらすものである。
1968年「北海大陸棚事件」(ドイツ連邦共和国/デンマーク、ドイツ連邦共和国/オランダ)において、小田滋ドイツ連邦共和国弁護人は、本件では適用可能な慣習法規が存在しないので、法の一般諸原則が適用されるとし、そして、実在的正義(substantial justice)とは、紛争の各当事者が、あるちょうどよく衡平な分け前(a just and equitable share)を受け入れる状況を意味すると主張した。そしてそれゆえ、等距離線のような抽象的に思いついた技術的境界画定ではなく、石油資源の分配や「沿岸地帯」(façade)で表される基線の考えに基づく、善意(goodwill)と弾力性(flexibility)のある真に衡平な解決を提示した。
最も基礎的な原理として、「人道の初等的考慮」(elementary considerations of humanity; les considérations élémentaires d'humanité)が法の欠缺を埋めるために援用されるときがある(1949年「コルフ海峡事件(本案)」国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1949, p.22; 2000年1月14日「クプレスキッチ他事件」旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所第一審判決、IT-95-16-T, para.524ほか)。この原則は、人間という存在のための根源的な自然の欲求あるいは欠乏から生じる必要(les besoins fondamentaux)(例えば、生命、身体、心の安寧)の保護を目指した諸評価要素の総体をいう(1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」国際司法裁判所判決では、単なる「人道的考慮」(humanitarian considerations)は直ちには法的利益性を持ちえないとされた。I.C.J.Reports 1966, p.34, paras.50-51)。
例えば、1907年ハーグ陸戦規則第三款(42~56条、例えば43条の占領地の法律の尊重)は、人道の原理(the principle of humanity)に基づいているがゆえに、交戦状態においてのみならず、全般的休戦(general armistice)から平和条約の締結までの間においても適用されると解される。
これとは別に、国際法の一般原則(les principes généraux du droit international; general principles of international law)がある。これは、条約や慣習法の諸規則を通じて実定国際法に浸透した一般国際法上の原則である。
「友好関係原則宣言」(Declaration of Principles of International Law concerning Friendly Relations and Cooperation among States with the Charter of the United Nations)(国連総会決議2625 (XXV) 、1970年10月24日)に従えば、以下の原則が国際法の一般原則として確立しているといえる。
条約法は、国連国際法委員会 (ILC; International Law Commission) によって慣習法を漸進的発展とともに法典化した、1969年の「条約法に関するウィーン条約」(Vienna Convention on the Law of Treaties; VCLT)が主として機能する。しかし、同条約の批准国は100あまりにすぎず、米国やフランスなど有力な国も批准していないことから、ときおり、特定の条項について、その一般的効力が争われる。
条約法条約は、条約の締結 (conclusion) 、解釈 (interpretation) 、適用 (application) について定める。
同条約は、「国の間において文書の形式により締結され、国際法によって規律される国際的な合意」を対象としている(2条)。しかし、一般国際法上、文書によらない国家間の合意も拘束力があり、そのことを同条約は害しないとする(3条)。
条約の締結は、国家間の交渉(全権委任状、7条)、条約文の採択(9条)、国の同意の表明(署名 (signiture) 、批准 (ratification) 、加入 (admission) 、11条)により成る。最後の国家の同意については、単なる技術的、事務的な行政取極の場合は、署名だけで効力を発するが、通常の条約は、国内での承認(approbation、日本では国会の承認)を経ての認証である批准が必要とされる。
条約の締結について、今日、最も議論があるのが、留保である。留保とは、国家が、条約に署名、批准、加盟する際に、特定の条項の全部又は一部の適用を除外する旨の一方的宣言をいう。留保は、当該条約が禁止していない限り許される(19条)。当該条約で特別な定めがある場合はそれに従うが、特に規定されていない場合には、留保は、それに対して異議を表明しない国家に対して効力を有するが、留保の表明から12か月以内に異議を表明した国家に対しては、それを主張できない(20条)。なお、留保は、その条約の趣旨、目的に反しない限りにおいて、有効である(1951年「ジェノサイド条約に対する留保」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1951, p.24)。これに従って、現在、特に人権条約において留保が許されるかという問題が議論されている。ILCは、留保に関する慣習法の法典化作業を進めている(特別報告者、Alain Pellet)。2007年の第59会期ではガイドライン案3.1.5から3.1.13が採択され、3.1.12によれば、人権条約に対する留保の条約の趣旨目的との合致性は、条約で定められた権利の「不可分性」(indivisibility) 、「相互依存性」(interdependence) 、「相互関連性」(interrelatedness) を考慮に入れなければならないとされた(A/62/10)。
解釈に関しては、条約法条約31条が定めている。まず、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」そして、「文脈」とは、前文、付属書に加えて、当事国の後に生じた慣行や当時国間に適用される国際法の規則までも含む(31条3項)。近年、この規定に基づき、条約締結時の当事国の意思を離れて、現存する関係国際法規を考慮する「発展的解釈」(l'interprétation évolutive)が、特に環境法の分野において、さかんに行われている(例えば、1997年「ガブチコヴォ・ナジュマロシュ計画事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1997, pp.77-78, para.140)。
適用に関しては、特に、条約の第三国に対する効力が問題となる。条約法条約は、条約が第三国に権利または義務を設定する場合には、その第三国の同意が必要であるとし(34条)、義務を課す場合は、明示の同意が必要(35条)、権利を付与する場合は同意が推定される(36条)と規定する。しかし、これらの規定の例外として、「客観的制度」(objective régime) の理論が学説上、主張されることがある。その例として、南極条約体制は、人類全体の利益に資するとして、締約国以外の第三国にも対抗できる(特に、南極における海洋資源保護)と主張される場合がある(国際化領域の項目も参照)。また、「相前後する条約の効力」として、条約法条約は、「後法は前法を廃す」の原則を置いているが(30条)、例えば、1989年の「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」よりも後にできた、1994年の世界貿易機関 (WTO) を創設する「マラケッシュ協定」が定める自由貿易制度が優越するのか、といった疑問が提示されうる。
最後に、条約法条約は、強行法規(ユス・コーゲンス; jus cogens)に反する条約を無効とする(53条)。これまで、古典的学説の立場から、ユス・コーゲンスの存在に対して懐疑的な立場も根強く見られたが、2006年の「コンゴ領における武力行動事件(2002年新提訴)」(管轄権)(コンゴ民主共和国対ルワンダ)で国際司法裁判所としては初めて明示的にユス・コーゲンスの存在を認定し(arrêt, par.64)、この問題に決着がついたといえる(2007年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対セルビア及びモンテネグロ)判決でもユス・コーゲンスの存在を認定、Judgment, para.185)。
一般的に、国家機関は、立法機関、行政機関、司法機関に分類される。
立法機関、すなわち日本でいうところの国会は、自国の国内法秩序において、法を制定する機能を有する。国際法上の観点から見れば、立法機関は、国際法規範の国内的実施のために、法律を制定する役割を有する。特に、人権の分野においては、今日では、国際、国内の両秩序の透明性、浸透性の現象が見られ、国際法によって確立された人権を国内で実施したり、あるいは逆に、国内法で定められた人権規範が国際法に影響を与える、といった面が見られる。また、ときおり、立法機関による、域外適用を目指した国内法が制定されることがある。これは、人権、環境、経済の分野で顕著である。立法管轄権も、他の管轄権と同様に、他国の主権を害さない範囲で行われなければならない。米国が従来、主張していた「効果主義」(effect doctrine) に基づく域外管轄権の行使は、ECの対抗立法などに遭い、批判されている。
行政機関、すなわち政府/行政府は、条約の作成・締結の主体として重要である。また、国際平面において、国際法を履行する直接の主体である。行政機関の行動が、明らかにその国の憲法に反する場合を除いて、その国家の行動とみなされる。とくに、国家元首、政府の長、外務大臣の行動は、その国家を代表しての行動と見なされ、ときとして、国家自体を拘束する(「東部グリーンランドの地位事件」常設国際司法裁判所判決; P.C.I.J., Ser.A/B, 1933, No.53, pp.68-69)。
国家元首、政府の長、外務大臣に加えて、外交官は、他国と円滑な交流をすることを「外交関係法」によって保障されている。外交関係法は、1961年の「外交関係に関するウィーン条約」および1963年の「領事関係に関するウィーン条約」で構成される。これらの者は、他国との円滑な交流という共通利益を基礎として、「特権免除」を有する。公館の不可侵(「外交関係条約」22条)、身体の不可侵(同29条)、租税の免除(同34条)、そして「裁判権の免除」(31条)である。最後の裁判権の免除については、「2000年4月11日の逮捕状事件」において、国際司法裁判所は、たとえ外務大臣が国際法上の犯罪を犯したとしても、国家実行により、外務大臣はその職にある間は免除(immunity ratione personae; 「人的免除」の意味)を享受する、と判示した (C.I.J.Recueil 2002, pp.24-30, pars.58-71) 。ただし、外務大臣がその職を解かれた場合で、国家の公の行為ではない行為については、免除は認められなくなる(「事項的免除」immunity ratione materiaeの機能的性質、1999年4月24日「ピノチェト事件」英貴族院 (House of Lords) 判決、38 I.L.M.581 (1999) )。なお、免除は「免責」を意味しない。また、免除は外国の国内裁判所において認められるものであり、国際裁判所では通常、免除の適用が除外されている(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程7条2項、ルワンダ国際刑事裁判所規程6条2項、国際刑事裁判所規程27条)。
近年、領事関係条約36条1項が焦点となっている。同条(b)は、「接受国の権限ある当局は...派遣国の国民が逮捕された場合、留置された場合、裁判に付されるため拘留された場合...において、当該国民の要請があるときは、その旨を遅滞なく当該領事機関に通報する。...当該当局は、その者がこの(b)の規定に基づき有する権利について遅滞なくその者に告げる」と規定する。米国政府は、以前より、外国人を逮捕したときにこの「権利」を容疑者に告げないように通達していた。そして、そのことで、外国人の容疑者が、逮捕された後、領事館に通達されることなく裁判に付され、死刑判決を受けたことについて、1998年の「領事関係条約に関する事件」(「ブレアール事件」)(パラグアイ対米国)、1999-2001年の「ラグラン事件」(ドイツ対米国)、2003年から継続中の「アベナとその他のメキシコ人事件」(メキシコ対米国)に発展した。「ブレアール事件」と「ラグラン事件」では、それぞれ1998年、1999年に国際司法裁判所から、死刑執行を止めるように米国に仮保全措置命令が下されたが、米国はそれを破って死刑執行を行った。特に「ラグラン事件」(本案)判決においては、初めて国際司法裁判所の仮保全措置の法的拘束力が認められ、米国の義務違反と再発防止措置を命じる判決が下された。「アベナ事件」は、2004年に本案判決が出されたが、2008年6月にメキシコから緊急に同判決の解釈に関する新たな訴訟がなされ、予断を許さない状況となっている。2008年3月に、米最高裁判所は「メデジン事件」(Medellín v. Texas) において、ICJの「アベナ事件」判決が米国内において自動執行力(self-executing)がないという判決を下している(A.J.I.L., Vol.102, 2008, pp.635-638)。ICJは、2009年1月19日の判決で、アベナ判決は米国に判決の義務の履行手段を委ねており、ゆえにメキシコの請求はICJ規程60条にいう「判決の意義又は範囲」には当たらないとし、メキシコの解釈請求を退けた(Judgment, paras.43-46)。
司法機関、すなわち裁判所は、一般に国内法の履行を確保する機関であるが、同時に、国内法秩序に直接適用される国際法規範の履行確保としても、重要である。特に、人権の分野で、国際法の国内的実施に関する国内裁判所の役割は大きい。しかし、国際法上、確立している「免除規則」(immunity、「国家免除」あるいは「主権免除」)によれば、一国の国内裁判所が、他国や他国を代表する人物に対して裁判を行うことはできない。ただし、国家免除について、長らく「絶対免除主義」が妥当していたが、今日では、「制限免除主義」が確立しており、国家の「主権的行為」(acta jure imperii) と「業務管理的行為」(acta jure gestionis) を区別し、後者には国家免除は適用されないとされる。日本も、長らく「絶対免除主義」の立場がとられてきたが、2006年7月21日の最高裁判決によって、「制限免除主義」へと判例変更がなされた。
このように、国家機関は、第一に国内法秩序における機関として存在するが、同時に、国際機関として、国際法の実施や履行確保を行う側面を有するのであり、これを学説は、国家の「二重機能」(le dédoublement fonctionnel)として説明することがある。しかし、この理論は、大国の一方的行為/一方的措置を安易に正当化してしまう、という理由で、反対する学者も少なくない。
「国家管轄権」(les compétences de l'État; State jurisdiction) とは、国家が自然人、法人、物、活動に対して行使することができる、国際法によって与えられあるいは認められている権限をいう。これについては、国家管轄権が、国際法の存在以前からあるものなのか、あるいは国際法によって付与されたものなのか、という問題がある。いいかえれば、「ロチュス原則」すなわち、国際法で禁じられていない限り国家は自由に行動できる(「ロチュス号事件」常設司法裁判所判決; C.P.J.I., série A, n°10, 1927, p.19)という命題が今日でも妥当するのか、という問題である。学説上、いまだに見解は一致していないが、今日の「協力の国際法」(International Law of Co-operation)の分野においてはもはや同原則は認められない、とする見解も有力である(cf.「2000年4月11日の逮捕状に関する事件」国際司法裁判所判決ギヨーム裁判長個別意見、C.I.J. Recueil 2002, p.43, par.15)。
国家管轄権は、「属地主義」、「属人主義」、「保護主義」、「普遍主義」に分類される。
属地主義 (territorial principle; la compétence territoriale) とは、国家はその領域内(及び国際法によってそのようにみなされる場所。例えば、自国籍の船舶・航空機)にある人、物、活動に対して排他的に行使できる権限をいう。領域は、領土、領海、領空で構成される。ただし「領域使用の管理責任」といった国際法に服する。国家は、その領域内で私人により行われる違法行為から、他国、外国人、他国の領域を保護しなければならない(例えば、環境保護について、「トレイル溶鉱所事件」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決)。
属人主義 (nationality principle; la compétence personnelle) とは、その領域外においてなされた行為(特に犯罪)に関して、その行為者の国籍国という連結により(「能動的属人主義」; la compétence personnelle active)またはその被害者の国籍国という連結により(「受動的属人主義」; la compétence personnelle passive)、その行為を自国の法秩序に置きあるいは処罰する権限をいう。日本の刑法では、能動的属人主義として刑法3条が、日本国民の国外犯に対して日本の刑法が適用される犯罪を列挙している。また、受動的属人主義としては、刑法4条の二が、条約により日本国外において犯された犯罪でも罰すべきとするものについて、日本の刑法を適用する旨、規定している(「人質にとる行為に関する条約」5条ほか)。
保護主義 (protective principle; la compétence réelle) とは、外国で行われた犯罪行為で、特に自国の重大な国家法益を侵害するものを自国の法秩序の下に置く権限である。日本の刑法では、2条が保護主義を規定しており、内乱、外患誘致、通貨偽造等に日本の刑法が適用される旨、規定する。
普遍主義 (universality principle; la compétence universelle) あるいは世界主義(Weltrechtsprinzip)は、国際共同体全体の法益を害する犯罪について、それが行われた場所、犯罪の容疑者の国籍、被害者の国籍にかかわらず、いかなる国もこれを処罰する権限をいう。古くからは、海賊は「人類全体の敵」(hostis humani generis)としていかなる国も処罰できるとされてきた。近年は、多数国間条約によって、普遍主義に基づく処罰を義務づける場合が増えてきている(「航空機の不法な奪取の防止に関するハーグ条約」4条、「民間航空機の安全に対する不法な行為の防止に関するモントリオール条約」5条、「アパルトヘイト罪の撤廃と処罰に関する条約」4条ほか)。
今日、この分野で最も議論が行われているのが、「国際法上の犯罪」(les crimes du droit des gens) である、「ジェノサイド罪」(集団殺害罪)(crime of genocide; le crime de génocide) 、「人道に対する罪」(crimes against humanity, les crimes contre l'humanité)」、「戦争犯罪」(war crimes; les crimes de guerre)(ジュネーブ諸条約の「重大な違反行為」)に対する普遍主義の行使である。このうち、1949年のジュネーブ諸条約の「重大な違反行為」については、同条約が普遍主義に基づく国内法の整備を締約国に義務づけている(それぞれ、49条/50条/129条/146条)。ジェノサイド罪については、1948年の「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(「ジェノサイド条約」)6条が、犯罪行為地国と国際刑事裁判所のみに裁判権を付与しているが、その起草過程から、その他の場合の裁判権の行使も禁止しないと解されている(1961年「アイヒマン事件」イェルサレム地方裁判所判決、I.L.R., Vol.36, p.39; 「ピノチェト事件」スペイン全国管区裁判所(Audiencia nacional)判決、I.L.R., Vol.119, pp.335-336)。人道に対する罪については、国連総会決議3074(XXVIII)(「戦争犯罪及び人道に対する罪の容疑者の抑留、逮捕、引き渡し及び処罰における国際協力の原則」)に従えば、普遍主義の行使は認められる。ただし、普遍主義の行使は、予審と引き渡し要求の場合を除いて、容疑者が自国領域内にいることを条件とする(2005年万国国際法学会決議)。
「国家領域」(le territoire national)は、領土、領海、領空に分けられる。特に領土は、「人民」、「外交を行う能力」とともに国家を構成する基本的要素である。国家領域では、国家はその管轄権を排他的に行使ししうる。ただし、他国の主権も尊重しなければならない。
領土とは、一般にその自国民が住んでいる地理的領域をいい、地面および地下が含まれる。人が住んでいない領域(無人島など)もこれに含まれうる。領土の取得及び喪失については、「無主地」(terra nullius)に対する「先占」は国際法上、認められている領土取得の方式である。「パルマス島事件」仲裁判決で、マックス・フーバー裁判官は「継続的で平和的な領域主権の表示は権原の一つとして適切である」と判示した(U.N.R.I.A.A., Vol.II, p.839)。「西サハラ」に関しては、国際司法裁判所はその勧告的意見で、スペインの植民地であった西サハラには社会的にかつ政治的に組織された人々が民族としてそれを代表する長の権力の下に住んでいたのであり、無主地とはみなされない、と判示した(C.I.J.Recueil 1975, p.39, par.81)。今日では、無主地は存在しないとされる(南極大陸については、国際化領域の項を参照)。また、現在では、武力行使による領土取得は禁じられている。これに関して、イスラエルによるパレスチナの占領について、国連安保理決議242は、イスラエル軍の占領地からの(英:from occupied territories(無冠詞), 仏:des[de+les] territoires occupés(定冠詞))撤退の原則を確認し(affirms)、決議338では、決議242の履行を求める(calls upon)となっており、英語テキストに従う限りにおいて、必ずしもイスラエル軍が第三次中東戦争で占領した全ての領土からの撤退を義務づけていないと解する余地がある。この問題は、宗教的、政治的性質が濃い。
領海とは、今日では国連海洋法条約により、領土の基線より12海里を超えない範囲で沿岸国が決めることができる(海洋法の項目も参照)。領海には、沿岸国の主権が及ぶが他国の船舶の「無害通航権」(le droit de passage inoffensif)を認めなければならない。無害通航とは、「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない」ものをいう(19条)。違反する船舶に対しては、警察権を行使しうる(27条5項)。ただし、他国の軍艦および非商業目的で航行する政府船舶には「免除」が与えられる(32条)。
領空とは、領土及び領海の上空に接している大気圏の領域をいう。空域を規律する国際法は、「空法」(Droit aérien)と呼ばれる。空法は、1944年の「国際民間航空条約」(シカゴ条約)を基本とする。シカゴ条約は、1条で「各国がその領域上の空間において完全かつ排他的な主権を有する」としている。どの高さまで領空と認められるかは、条約上、明らかではない。また、領海における「無害通行権」と類似して、「五つの自由」が認められており、1919年のパリ条約では、(1)無着陸の通過の自由、(2)運輸以外の目的での着陸の自由が認められ、さらに「国際航空協定」1条では、これらに加えて、(3)自国領域内で積み込んだ貨客を他の締約国でおろす自由、(4)他の締約国で自国向けの貨客を積み込む自由、(5)第三国向けあるいは第三国からの運送の自由が認められている。ただし、これらの自由は、慣習法ではなく、厳格に条約的である。(今日の状況は、制限的な二国間協定の下に保護される航空企業間の「オープンスカイ協定」が空を網の目のように張りめぐらされている。)また、シカゴ条約に基づき、「国際民間航空機関」(ICAO)が設立されている。これは、総会や理事会、航空委員会などの固有の機関を有し、空の安全と発展を目的として活動している。2007年12月にEU理事会は、温暖化ガスの排出権取引を国際民間航空にまで拡張することを決定しており、米国はこれに反対している。2007年9月のモントリオールでのICAO総会では、当事国の合意がない限り排出権取引制度は適用されない旨、決議がなされているが、EUはこれに拘束されないとしている(A.J.I.L., Vol.102, 2008, pp.171-173)。
「国際機構法」あるいは「国際組織法」とは、国際組織(政府間国際組織)(international organizations)に関する国際法の一分野である。国際組織とは、条約によって設立され、共通の目的を有し、それを達成するための常設の機関を持ち、加盟国と独立した法人格を有する国家の集まりをいう(1975年「国家代表に関するウィーン条約」1条)。国際組織法の最大の特徴は、国際組織が生きた組織として変わりゆく国際情勢に対応するために、設立当初の創設者の意思から離れてでも、動態的な目的論的解釈がとられる点にある(「黙示的権能」implied powers)(「武力紛争中の国家による核兵器の使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1996(I), p.79, par.25)。
国際組織法は、内部法と外部法に分けられる。内部法とは、その国際組織の内部運営(表決制度や予算の決定など)を規律する法の総体をいい、外部法とは、その国際組織の対外的活動を規律する法の総体をいう。本項では、現代の主要な国際組織である国際連合を中心に述べる。
内部法として、まず、表決制度がある。決議成立の方式としては、一般に、全会一致、多数決、コンセンサスなどがある。国際連合総会の決議は、重要問題を除いて(出席し投票する加盟国の三分の二の多数)、出席し投票する加盟国の過半数で成立する(国際連合憲章18条)。国際連合安全保障理事会の決議は、「常任理事国の同意投票を含む九理事国の賛成投票」で成立する(27条)。慣例により、常任理事国の「棄権」は決議の成立を妨げないとされている。しかし、27条を文言通りに解釈すれば、棄権は「同意」ではないので、決議の成立を妨げるはずである。よって、これについては、法的には、棄権についての規定が欠缺していたとか、暗黙のうちに憲章が改正されたとか説明する他はない。EUでは「共同体法」(EU法)に属する分野について、加重投票の制度が行われている。また、世界銀行でも加重投票で議決される。
予算の決定については、国連総会によって派遣されたONUC(コンゴ国連軍)及びUNEF(国連緊急中東軍)(いわゆるPKO)への支出が国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に当たるのか争われた。国連憲章上、PKOは明示的には認められていない。これに関して、1962年「国際連合の特定経費(憲章17条2項)」として国際司法裁判所の勧告的意見が下された。裁判所は、17条2項の文言を憲章の全体構造と総会と安保理に与えられたそれぞれの機能に照らして解釈するとし、ONUCとUNEFの活動が国連の主要目的である国際の平和と安全の維持に合致することは、継続的に国連の諸機関によって認められてきたことによって示されているとし、当該支出は「この機構の経費」にあたると判示した(I.C.J.Reports 1962, pp.167-181)。この勧告的意見の理由付けに対しては、批判もある。
国際機構で働く人については、「国際公務員法」という特別の分野となっている。国連では、職員が関わる争いについては「国連行政裁判所」が国連総会決議によって設立され、活動している。
外部法としては、まず、国際組織の「国際法人格性」(international legal personality; la personnalité juridique internationale)が問題となる。国際司法裁判所は1949年の「国際連合の任務中に被った損害の賠償」に関する勧告的意見において、(当時としては)国際共同体の大多数の国家に相当する50か国は、国際法に従って、客観的国際法人格を持つ実体を創設する権能(power)を有していたのであり、同時に国際請求をする権能を有すると述べた(I.C.J.Reports 1949, p.185; 皆川『国際法判例集』137頁)。ECも、その設立条約であるEC条約においてECは国際法人格性を有すると規定し(EC条約281条)、国際社会はこれに一般的承認を与えており、現在、ECは京都議定書や世界貿易機関を設立する「マラケッシュ協定」の当事国となっている。
国連の対外的活動として最も重要なものは、「国際の平和及び安全の維持」に関する安保理の活動である。いわゆる「国連憲章第七章」に基づく行動である。七章に基づく安保理の行動は、冷戦が終結した1990/1991年以降、大変、活発になっている。その端緒は、1990年のイラクのクウェート侵攻の際の、1991年の安保理決議678に基づく多国籍軍の行動である。同決議は、憲章43条に基づく常備の「国連軍」がいまだ創設されていないことに鑑み、加盟国に「全ての必要な手段を用いることを許可する」(authorizes...to use all necessary means)とした。(米英仏サウジアラビアの集団的自衛権に基づく行動が、国連の強制行動へ転換したといえる。)これは、朝鮮戦争において、米国の指揮下にある軍に国連旗の使用を許可した1950年の安保理決議84に端を発すると考えられる。この安保理決議678以降、「全ての必要な手段を許可する」という方式は繰り返し使用され、現在では完全に定着したと言える。
「自衛権」(the right to self-defense)は、国連憲章51条で、個別的自衛(individual self-defense)、集団的自衛(collective self-defense)とも、「固有の権利」(inherent right; 仏語テキストでは「自然権」le droit naturel)と規定されている。特に「集団的自衛」が「固有の権利」とされている点について、この用語は国連憲章において初めて用いられたものだが、その先駆と言うべきものが戦間期における相互援助条約草案やラインラント協定の中に見られると指摘されうる。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件では、翌月に米国はアフガニスタンを攻撃した。学説上、これが国際法上の自衛権の行使であるとか(米国、英国の立場、A.J.I.L., Vol.96, 2002, pp.237-255.)、違法な武力行使であるとか、自衛概念が一時的に「伸長」したなど様々な議論が行われている。この事件に関連して出された安保理決議1368では、その前文で加盟国の自衛が固有の権利であること確認している。国連憲章51条によれば、自衛権を行使した国はすみやかに安保理に報告しなければならず、米国は、アフガニスタン攻撃後、安保理に報告している。
近年、安保理の活動は急速に拡大し、「旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所」(安保理決議827)、「ルワンダ国際刑事裁判所」(安保理決議955)に見られるad hocな刑事裁判所の設立から、テロ行為を支援するいかなる措置もとらないよう加盟国に一般的な義務を課す「立法行為」(安保理決議1373)まで及んでいる。
このような安保理の活動の拡大に対して、司法的制御が必要であるという議論が起こっている。1992年「ロッカービー上空での航空機事件から生じた1971年モントリオール条約の解釈、適用問題に関する事件」(社会主義人民リビア・アラブ国対イギリス王国、社会主義人民リビア・アラブ国対アメリカ合衆国)(「ロッカービー事件」)国際司法裁判所仮保全措置命令では、安保理決議748について、国連憲章103条が憲章上の義務の他の国際義務に対する優越性を規定していることから、モントリオール条約よりも同安保理決議が優越するとし、同条約に基づく「一見した」(prima facie)管轄権を否認し、リビアの仮保全措置申請を却下した(I.C.J.Reports 1992, p.15, para.39)。同事件の管轄権判決では、リビアの請求は、安保理決議748及び883が出される前になされているという理由から、管轄権を認めたが(I.C.J.Reports 1998, p.26, para.44)、リビアと米国、英国とで和解が成立し、本案判決が出されずに訴訟リストからはずれ、安保理の司法的コントロールの問題は結論がもちこされた。しかし、2005年9月21日に欧州共同体第一審裁判所が「Yusuf事件」において、オサマ・ビンラディンとその組織への制裁に関して個人に義務を課した安保理諸決議について、それらが国際法上の強行法規(jus cogens)、特に人権の普遍的保護を目的とした強行法規に反する場合には司法的コントロールが拡大されうる、と判示し(T-306/01, point 282)、大変注目されている(他にも同日の「Kadi事件」(T-315/01)第一審判決、「Hassan事件」(T-49/04)および「Ayadi事件」(T-253/02)2006年7月12日第一審判決)。
なお、EC(欧州共同体)やMercosur(南米南部共同市場)、CARICOM(カリブ共同体)、CAN(「アンデス共同体」; Comunidad andina)、SICA(「中米統合機構」; Sistema de la Integracion Centroamericana)は、域内に共同体をつくる「統合的組織」(les Organisations d'intégration)であり、通常の国際組織と区別する必要がある。
海洋法あるいは国際海洋法(International Law of the Sea; Droit international de la mer)とは、領海の幅、大陸棚の資源利用、公海の利用に関するものなど海洋にかかわる国際法規の総称をいう。その歴史は古く、植民地時代の「閉鎖された海」(mare claustrum)からグローティウス(グロティウス; Hugo Grotius)の「自由海論」へと発展した背景がある。1958年の一連の条約、いわゆる「ジュネーブ海洋法条約」を経て、第三次国連海洋法会議の成果である1982年の「国連海洋法条約」(英:United Nations Convention on the Law Of the Sea; UNCLOS, 仏:Convention de Montego Bay; CMB)が現在の主要な海洋法の条約となっている。同条約は、深海底の地位について先進国と途上国との対立から発効が遅れていたが、1994年の「国連海洋法条約第十一部実施協定」の成立によって、発効し動き出した。「国連海洋法条約」が、「海の憲法」として他の特別条約に対して優越性を有するか否かという問題は、近年、議論がさかんである(同条約282条を参照)。
領海については、国連海洋法条約は、沿岸国は12海里を越えない範囲で画定できるとする(3条)。領海は、領土と同じ地位にあり、沿岸国の主権が排他的に及ぶ。ただし、他国の船籍の無害通航権は保障されている(17条)。沿岸国の「基線」については、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)で、直線基線の方式が慣習法となっているか争われたが、国連海洋法条約では、直線基線を基本として、改めて詳細な規定がおかれている(7条)。
大陸棚の制度は、1945年の米国による「トルーマン宣言」に由来する。米国は、大規模開発から沿岸漁業資源を守るという目的で、当時の国際法を越える形で、その沿岸に隣接する海洋に保護領域を設け、そこでは沿岸国の主権が及ぶと一方的に宣言した。同宣言は、伝染性を有し、他国も次々と同様の宣言あるいは法令の設定を行い、その結果、大陸棚制度は一般慣習法となった。国連海洋法条約も、大陸棚の制度を認め、基線からその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外延に至る海底及びその下は、沿岸国の主権下にあると定めた(76条)。沿岸国は、大陸棚にある天然資源の開発について主権的権利を有する(77条)。しばしば、国家間で、大陸棚の境界画定問題が起こり、そのうちのいくつかは国際司法裁判所で争われており、近年、この種の訴訟が増加している。
排他的経済水域(EEZ; Economic Exclusive Zone)も、大陸棚と同様に、沿岸国の基線から200海里まで認められている(55,57条)。57条では、排他的経済水域の海底上部水域、海底およびその下の天然資源の開発や海洋環境の保護等のための沿岸国の管轄権が認められている。このように、排他的経済水域の制度と大陸棚の制度は、重なる部分があるため、今日では、両者の「単一境界画定」(single maritime delimitation)が行われることがよく見られる(1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所小法廷判決ほか)。また、沿岸国は、漁業資源の保存に関して「漁獲可能性」を決め、最良の科学的証拠によって生物資源のための適当な保存措置を執らなければならない(61条)。
公海(High Sea)は、今日の海洋法において、最も変動が激しい分野である。原則として、「公海自由の原則」に則り、全ての国は公海を自由に漁獲することが出来る(116条)。ただし、生物資源の保存のために必要な措置を執り、他国と協力する義務がある(117条)。この規定により、近年、沿岸国が排他的経済水域を越えて、自国に接する公海における一方的漁業制限措置・環境保護措置を執ることがしばしば見られる。例えば、カナダによる1970年の「北極海水域汚染保護法」や同国による1994年の「沿岸漁業保護法」(The Costal Fisheries Protection Act)である。後者について、1995年にスペイン船舶「エスタイ号」がカナダ政府の船舶によって拿捕されるという事件が起こった。同事件は、国際司法裁判所の「漁業管轄権事件」(スペイン対カナダ)として争われたが、裁判所はカナダの選択条項受諾宣言の留保を根拠に、管轄権がないと判示した。その後、カナダとECで和解が結ばれた(34 I.L.M. 1263(1995))。そして同年、1995年に公海における海洋資源保護を強化した「国連公海漁業実施協定」が成立するに至った。最近では、2003年にフランスが、自国の排他的経済水域を越えて、地中海にまで環境保護のための自国の管轄権を拡大する法律を制定し(Loi n°2003-346 du 15 avril 2003 relative à la création d'une zone de protection écologique au large des côtes du territoire de la République, R.G.D.I.P., 2004/1, pp.285-291)、議論になった。1999-2000年の「みなみまぐろ事件」(オーストラリア・ニュージーランド対日本)は、日本が実に100年ぶりに国際裁判に登場したことで話題となった。国際海洋法裁判所の仮保全措置命令では、日本に暫定的なみなみまぐろの漁獲の制限を命じたが(38 I.L.M.1624(1999))、続く、仲裁裁判所での管轄権判決では、「みなみまぐろ保存条約」(CCSBT)では当事国で選択された手段で紛争を解決すると規定されており、国連海洋法条約の下の義務的管轄権はないと判示し、前記仮保全措置を取り消し、日本の勝訴となった(39 I.L.M.1359(2000))。
深海底(The Area; la Zone)は、南極、宇宙とともに、「人類の共同遺産」(common heritage of mankind)と規定されている(136条)。そのため、深海底の自由な開発を主張する先進国と、「機構」(The Authority; l'Autorité)による管理を主張する途上国との対立が長引き、国連海洋法条約は発効できずにいた。しかし、1994年の前記「第十一部実施協定」は、先進国の技術移転を削減することで元の部分を和らげる形で成立するに至った。(国際化領域の項も参照。)
また、国連海洋法条約の下、1996年に国際海洋法裁判所(ITLOS; International Tribunal for the Law of the Sea)が設立され、活動している。すでにいくつかの拿捕事件などについて裁判が行われている。最近、日本の漁船がロシア当局に拿捕された事件である、「豊進丸号事件」(日本対ロシア)(No.14)と「富丸号事件」(日本対ロシア)(No.15)(ともに2007年8月6日判決)が争われた。前者では、日本の保釈金が大幅に減額されてロシアによる、漁獲物を含む豊進丸号の速やかな釈放(prompt release)及び乗組員の無条件の解放が示された(Judgment, para.102)。後者の事件は、すでにロシア最高裁判所で決定済みであり、日本はこれを争うことはできないと判示された(Judgment, para.79)。
「国際化領域」(les zones internationalisées)とは、国際的地位を与えられ、国際的管理の下におかれている領域をいう。古くからは国際河川(ライン川、ムーズ川など)、国際運河(スエズ運河、パナマ運河、キール運河など)があるが、ここでは、その特徴が最も現れている、南極、深海底、宇宙を扱う。これら三つは全て、全人類の利益の追求、領域権原取得の禁止、平和的利用の原則(非軍事化)という特徴を有する。
南極(Antarctica)は、現在、1959年の「南極条約」によって規律されている。2008年6月現在、当初、南極地域における領土権を主張していた国(イギリス、ニュージーランド、フランス、ノルウェー、オーストラリア、チリ、アルゼンチンの7か国; 「クレイマント」)も含めて、締約国数は46か国である。その第一の目的は、「南極地域は、平和的利用のみに利用する」(1条)にある。南極地域における軍事基地や軍事演習は禁止される。また、同条約は、科学的調査の自由(2条)とそれについての国際的協力(3条)を規定する。そして、いかなる国による領土権・請求権の凍結が定められている(4条)。また、南極地域は、「非核化」されており、核爆発と放射性廃棄物の処分は禁止される(5条)。南極地域の管理に関して、国際組織が存在するわけではないが、これを国際的に管理する制度として、「南極条約協議国会議」(Antarctic Treaty Consultative Meetings; ATCMs)が置かれ、それは「勧告」を行う(9条)。また査察制度も置かれており、締約国は、この条約の遵守を確保するために、協議国会議に出席できる「監視員」(observers)を指名する権利を有する(7条)。また、近年、ますます重要になっているのが、南極地域における「生物資源の保護」(9条(f))である。第四回協議国会議の結果を経て、1980年に「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」が成立した。また、1991年には「環境保護に関する南極議定書」が成立した。
「南極条約体制」が「客観的制度」(objective régime)として、条約の第三国も拘束するという主張がしばしばなされる。その根拠は、「南極条約」の「この機構は国連加盟国でない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない」(5条1項)、「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」22条および「環境保護に関する南極議定書」13条2項の、「各締約国は、いかなる者もこの議定書に反する活動を行わないようにするため、国際連合憲章に従った適当な努力をする」という規定にあると考えられる。これについては学説上争いがあり、仮に南極条約締約国が南極地域における排他的管轄権を有しているとしても、条約の第三国に対する効力は、いわゆる「第三国効力」ではなく、合法的に創設された法的状況を尊重する一般的義務があるにすぎないとする見解もある。
深海底は、国連海洋法条約133条から191条で規定されており、国家管轄権の外にあり、「人類の共同遺産」(common heritage of mankind; CHM)制度が適用される地域である。すなわち、「深海底及びその資源は、人類の共同遺産」(136条)であり、「いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張又は行使してはならず」(137条)、深海底における活動は「人類全体の利益のために行う」(140条)。また、「深海底は...全ての国による専ら平和的目的のための利用に開放する」(141条)とする。国際管理のための制度的メカニズムとしては、「深海底機構」(The Authority)が置かれる。「機構」は、総会、理事会、事務局を有し、「決定」(decisions)を下すことができる。総会は三分の二の多数決で「決定」を行うことができる(159条)と当初されていたが、しかし、1994年の「第十一部実施協定」で、「原則として、機構の意思決定は、コンセンサス方式によって行うべきである」(3節2項)と規定され、かつ理事会は、運営、予算、財政に関するあらゆる事項についての決定を妨げることができるようになっている(4項)。
宇宙は、1966年の「宇宙条約」(「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」)を宇宙基本法とする法体系の下にある。まず、その1条は、「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用は、全ての国の利益のために...全人類に認められる活動分野である」とし、「国際法に従って自由に探査し及び利用することができる」とする。2条では、いかなる国によっても領有権の主張は禁止され、4条では、大量破壊兵器の打ち上げを禁止し、宇宙は専ら平和的目的のために利用されるものとする、と規定する。また、この宇宙基本法を基礎として、「宇宙救助返還協定」、「宇宙損害責任条約」、「宇宙物体登録条約」、「月協定」が成立している。「月協定」11条によれば、「月及びその天然資源は、人類の共同遺産である」とされている。また、同条約7条で、月環境の保全が定められていることも、注目に値する。これにより、「環境」という概念が、宇宙空間まで拡張されたことを意味する。また、1963年の「部分的核実験禁止条約」により、宇宙空間も「非核化」されている。国家責任制度については、無過失責任が採用されている(前記「宇宙損害賠償責任条約」2条)。宇宙空間の国際的管理の制度に関しては、国連の下につくられた「宇宙空間平和利用委員会」が活動している。衛星など技術的な側面については「国際電気通信連合」にゆだねられている。
国家管轄権の項で述べたように、国家は、国際法上、個人の国籍に基づき、属人的管轄権を行使できる。ここでは、国籍の決定、取得について述べる。
国籍(nationality; la nationalité)は、個人と国家の連結を意味し、それには二つの側面がある。
まず、国籍決定は、国家の自由である。国家は、自決権に基づきその国民の構成を支配するものとして国籍決定の排他的権限を有する。国際司法裁判所は、1955年の「ノッテボーム事件」判決において、「国際法は、各国家にその固有の国籍の帰属を決定する管理を委ねている」と述べた(C.I.J.Recueil 1955, p.23)。日本も、「国籍法」という形で、日本国籍取得の条件を法律で定めている。国籍取得のあり方は各国が自由にその基準を決めることができ、「血統主義」(jus sanguinis)と「生地主義」(jus soli)がある。日本の国籍法は、血統主義を採用している。また、「帰化」(naturalisation)は、外国人がその国の国籍を有する個人と結婚した場合や、継続的にその国に居所を有することから認められる場合である。
各国家に、国籍決定の自由を委ねている故に、各国の国籍付与が競合することもあり得る(国籍の対抗力)。国籍は、国家の外交保護権の行使の基礎となる。前掲「ノッテボーム事件」では、ノッテボームが34年間にわたってグアテマラに住んでいたこと、彼がリヒテンシュタインへ帰化した後もたびたび戻り彼の利益と活動の中心をグアテマラに保持していること、などから、裁判所は、ノッテボームとグアテマラの「長年にわたる緊密な結び付きの関係」(un lien ancien et étroit de rattachement)を認め、リヒテンシュタインはその要請を不受理と宣告されなければならないと判示した(C.J.I.Recueil 1955, pp.25-26; 皆川『国際法判例集』489頁)。これを「実効国籍の原則」という。
他方、国籍取得は、個人の基本的人権であるという側面も有する。「世界人権宣言」15条は、「すべての者は、国籍を取得する権利を有する」と規定する。「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)24条は、児童の国籍取得の権利を認める。国籍は、その国内における人権保障を与えられる重要な要素である。ゆえに近年は、国籍取得の人権としての側面に重点が置かれ、特に国籍による差別の問題が議論される。
日本では、2008年6月4日の最高裁判決で、国籍法3条にある「準正」(legitimation)による国籍取得要件として、「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のものは、認知をした父又は母が子の出生時に日本国民であった場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき」、その子どもは日本国籍を取得すると規定している点につき、今日における社会情勢や家族のあり方の変化により、両親の婚姻を子の国籍取得の条件としているのは憲法14条の法の下の平等に反するとし、国籍法5条の憲法との「適合解釈」を行い、原告の日本国籍の取得を認めた。
最後に、法人の国籍について、連結要素としては、設立準拠法国、支配の場所、株主の国籍が考えられる。1970年の「バルセロナ・トラクション事件」(ベルギー対スペイン)では、ベルギーがその多数の株主の国籍国として外交保護権の行使を主張したが、裁判所は、外交保護権の領域では他の分野と同様に合理的適用が要求されているとし、法人の外交保護については一般に実効的連結に適用される絶対的基準は認められず、様々な結びつきのバランスをとらねばならないとし、「ノッテボーム」判決の適用を否認した。そして、当該法人がカナダで設立されそのカナダ国籍は一般的に認められていること、ベルギーもそれを認めてきたことなどから、ベルギーの訴えを退けた(C.I.J.Recueil 1970, pp.42-44, pars.70-76, pp.50-51, par.100、皆川『国際法判例集』521-527頁)。この判決については、種々の議論がある 。
「国際人権法」(International Human Rights Law; Droit international des droits de l'Homme)とは、国際法によって個人の人権を保障する、国際法の一分野をいい、第二次大戦後に急速に発展してきた分野である。第二次大戦前は、人権は国内問題として、国内問題不干渉義務(国際連盟規約15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。しかし、第二次大戦の反省から、国連憲章において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。その端緒は、1948年の国連総会において採択された「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)である。
国際人権法は、二つに分類することができる。普遍的保障と地域的保障である。
第一に、普遍的保障であるが、これは、国連システムと条約制度に分けられ、多くの場合が一般的に強制力をもった履行手続きを備えていない。
国連システムでは、国際連合経済社会理事会が創設した「国際連合人権委員会」の制度があった。2006年に、同委員会は「国際連合人権理事会」(the Human Rights Council)に発展した(国連総会決議60/251; A/RES/60/251, 3 April 2006)。しかし、基本的な性格や目的は、維持されているといえる。すなわち、国連人権理事会は、テーマ別人権問題について対話の場を提供したり(同決議、5項(a))、各国による人権に関する義務の履行の普遍的定期的審査を行ったり(同項(e))、法的拘束力のない「勧告」(recommendations)を行ったり(同項(i))するにとどまる。国連人権委員会での最大の問題点がその「政治性」であったが、人権理事会となった現状でも、独立した判断機関とはいえず、政治的組織の内部に属するものにとどまっているという他はない。国連システムにおける人権保護は、「1235手続き」及び「1503手続き」に基づく「国別手続き」、そして「テーマ別手続き」に分かれる。
条約制度として、世界人権宣言を条約化したといわれる経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)と市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約;ICCPR)があるが、特に発達している自由権規約の制度においても、自由権規約の第1選択議定書の下の個人通報制度では、自由権規約人権委員会 (the Human Rights Committee) は、法的拘束力のない「見解」(views)を述べる権限を有するにとどまる。他にも、国連の下で、人種差別撤廃条約、アパルトヘイトの防止と処罰に関する条約、女子差別撤廃条約、こどもの権利条約等の人権条約が作成され、実施されているが、同様に、拘束力のある決定を下す機関はない。
第二に、地域的保障は、欧州人権条約(正式名称、「人権と基本的自由の保護のための条約」)、米州人権条約、アフリカ人権憲章(正式名称、「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」)が非常に発達している。各制度は、独自の人権裁判所を有しており、強制的な法的拘束力のある判決を下して、その実効性を担保している点で、先の普遍的保障の制度と大きく異なる。なお、アジアにおいて、地域的人権条約を創設しようとする努力もなされたことがあるが、いまだ実現していない。
欧州人権条約は、「欧州評議会」(le Conseil de l'Europe; the Council of Europe)の下、基本的自由が世界における正義と平和の礎であるとして(前文)、1950年につくられた。加盟国は、広く、EU諸国から、ロシア、トルコまで含む。国家に加えて、個人や非政府団体も、ここに締約国の条約違反を直接訴えることができる(34条)「欧州人権裁判所」を有し、現在、大変活発に活動している。同裁判所の判決は強制力を有し(第46条)、加盟国を直接、法的に拘束する。
米州人権条約は、1969年に欧州人権条約にほぼ倣ってつくられた制度であり、同様に「米州人権裁判所」を有する。同裁判所も活発に活動しており、国際法の観点からは、例えば、1999年に国際司法裁判所で争われた「ラグラン事件」(メキシコ対米国)に関連して、独自に勧告的意見を出したことなどが、注目されている。
1981年に成立した人及び人民の権利に関するアフリカ憲章は、人権の保護を目指すと同時に、人民の平等(19条)や発展の権利(22条)も目的としている。同条約が設置していた「アフリカ人権委員会」は、その後、2006年に「アフリカ人権裁判所」(正式名称、「人及び人民の権利のアフリカ裁判所」; la Cour africaine des droits de l'homme et des peuples)に代わり、他の地域的制度と同様に司法機関を持つようになった。しかし、条約の実効性については、未だ発展段階にあるといえる。2008年7月1日に、「アフリカ司法人権裁判所規程に関する議定書」(Protocol on the Statute of the African Court of Justice and Human Rights)が成立し、これによれば、「アフリカ人権裁判所」と「アフリカ連合司法裁判所」の二つの裁判所が統一されることになっている(2020年6月18日現在、55ヶ国中、署名33ヶ国、批准8ヶ国。発効には15ヶ国の批准が必要)。この新たな裁判所は、条約、慣習法、アフリカ諸国に共通の一般原則を適用するとされ、勧告的意見も発することができることになっている。
国際人権法の最大の課題は、その国内的実施である。特に、各種人権条約の国内法秩序への直接適用性(direct applicability)が問題となる。日本において、自由権規約(ICCPR)については、国内判例では、1994年4月27日大阪地裁判決、1993年2月3日東京高裁判決、1997年3月27日札幌地裁判決ほかで関連条項の直接適用性が認められた。社会権規約(ICESCR)については、これが漸進的性格を有するゆえに、原則として直接適用性は認められず、1984年12月19日最高裁判決(「塩見事件」)でもICESCR第9条の直接適用性が否認されたが、社会権規約委員会(the Committee on Economic, Social and Cultural Rights)の一般注釈第3番(General Comment No.3)ではICESCR第2条の差別の禁止等、特定の条項は自動執行力があるとされている。
「国際経済法」(International Economic Law)とは、国家間の経済活動を規律する国際法の一分野であり、第二次大戦後に急速に発展した分野の一つである。1947年の「関税と貿易に関する一般協定」(GATT; General Agreement on Tariffs and Trades)により、経済的価値が国際法に導入された。GATTの目的は、自由貿易の促進にある。そのために、「自由」(貿易制限措置の関税化及び関税率の削減; 関税譲許(2条))、「無差別」(最恵国待遇(1条)および内国民待遇(3条))、「多角」(=ラウンド、交渉)の三原則が存在する。
そして、多角的貿易交渉・ウルグアイ・ラウンドの成果として、1994年に「マラケッシュ協定」が成立し、翌年、「世界貿易機関」(WTO; World Trade Organization)が設立に至り、単なる条約にすぎなかったGATT制度は、国際組織となった。そして、ウルグアイ・ラウンドで結ばれた数々の協定により、その対象領域は急速に拡大した。例えば、「サービスに関する一般協定」(GATS; General Agreement on Trade in Services)、「衛生植物検疫措置の適用に関する協定」(SPS協定; Agreement on the Application of Sanitary and Phytosanitary Measures)、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPs協定; Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)、「紛争解決に係わる規則及び手続きに関する了解」(Understanding on Rules and Procedures Governing the Settlement of Disputes)などである。
WTOによって設立された紛争解決機関(DSB; Dispute Settlement Body)は、その後のGATT/WTO法の実効性に大きく寄与することとなった。特に、米国によりたびたび適用されてきた「スーパー301条」による一方的措置がこれによって禁じられ、全ての紛争は、「小委員会」(Panel)及びその上訴機関の「上級委員会」(AB; Appellate Body)の「報告」(Report)に服することになった。GATT/WTO法は、自己完結的制度(self-contained regime; un régime se suffisant à lui-même)といえるだけの性格を保有するに至ったといわれることもある。
また近年、GATT/WTO法による環境保護が急速に発展している。GATT20条(b)は、「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」を、同条(g)は、「有限天然資源の保存に関する措置」を、締約国に認めている。ただし、20条前文は、「ただし、それらの措置を、...濫用的に(arbitrary)もしくは正当と認められない差別的待遇の手段となる方法で...適用しないことを条件とする」としている。WTOが出来る前の1991年の「第一マグロ・イルカ事件」(メキシコ対米国; Tuna/Dolphine Case I)において、パネルは、20条(b)または(g)によって域外管轄権の行使を認めると、GATTで保障されている他の締約国の権利を害することになってしまう、として、米国の海洋哺乳動物保護法(MMPA; Marine Mammal Protection Act)による措置は正当化できないとした(Report of the Panel, paras.5.27, 5.32, 30 I.L.M. 1594(1991))1994年の「第二マグロ・イルカ事件」(Tuna/Dolphine Case II)においても、本質的に同様の理由により、米国のMMPAに基づく措置は正当化できないとした(33 I.L.M. 839(1994))。しかし、1998年の「小エビ事件」において、上級委員会は、GATT20条(g)にある「有限天然資源」の文言について、他の環境条約も考慮した「発展的解釈」により、「生物天然資源及び非生物天然資源」も含むと解釈した(WT/DS58/AB/R, paras.129-130)。これにより、各国の天然資源保護を目的とした一方的措置の可能性が開けたといえる。
TRIPs協定については、2001年の「ドーハ宣言」によって、抗HIV薬の特許に関するモラトリアムを最貧国(LDCs)に対しては2012年まで延期する旨、決定されたことが注目される。その後、インドや南アフリカにおいて、ヨーロッパの製薬会社が、抗HIV薬の違法コピーを訴える事件が起こったが、南アフリカでは製薬会社が訴訟を取り下げ(Le Monde interactif, 19 avril 2001)、インドでは製薬会社の訴えを退ける判決が下されている(「Novatis vs.Union of India他事件」マドラス高等裁判所判決、2007年8月6日、W.P.Nos.24759 and 24760 of 2006)。
農業分野では、日本・EUと米国の対立が解けず、シアトル・ラウンドは不成功に終わった。現在も、農業分野の協議が続行されているが、日本は農業生産物の輸入関税の大幅な引き下げを余儀なくされることが危惧されている。
また、最近では、各国間で「自由貿易協定」(FTA; Free Trade Agreement)や「経済連携協定」(EPA; Economic Partnership Agreement)が活発に結ばれている。これは、GATT24条の、貿易の自由の拡大のための関税同盟(例えば、EC)または自由貿易協定を締結することを認める、という規定に基づく。日本は、2002年にシンガポールと初のFTA(日本・シンガポール新時代経済連携協定)を締結した。その後も、メキシコとFTAを締結、ASEAN諸国を中心にその他の国ともEPAを活発に結び、また結ぼうとしている。
日本は、環太平洋パートナーシップ協定を結び、これは2018年12月30日に発効した(TPP11)。
国際環境法とは、国際的な環境問題に対処するための国際法の一分野である。その特徴は、「持続可能な発展」(Sustainable Development; SD)概念として現れている。すなわち、従来の国際法が、現在の世代の利益のみを考慮していたのに対して、近年の国際環境法、特に地球環境保護を目的としたものは、現在のみならず将来世代の利益の保護を目指したものであり、過去、現在、未来世代という、時間を超越した「人類」(l'humanité)概念に結びついている。
確かに、20世紀半ばまでは、国際環境法も他分野と同じく、主権国家間の紛争の平和的解決の手段にすぎなかった。すなわち、当時は、「領域使用の管理責任」概念や「相当の注意義務」(due diligence)概念を適用する「共存の国際法」であった(1941年「トレイル溶鉱所事件」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決、A.J.I.L., Vol.35, 1941, p.716)。
しかし、1972年の「ストックホルム人間環境宣言」を契機に、地球環境保護が、「人間の福利および基本的人権ひいては生存権そのものの享有にとって不可欠である」(前文)と認められるに至った。このころの国際環境法は、海洋汚染対策(1973年の「航行による汚染に関するロンドン条約」)、特定の動植物の保護(1979年の「野生動物相に属する移動性の種の保護に関する条約」)、UNEPの下で採択された各種地域海洋に関する条約など、まだ「部門別アプローチ」の方式をとっていた(「第一世代の国際環境法」)。
その後、1980年代後半からは、国際共同体全体の利益を管理することを中心問題とした「第二世代の国際環境法」を設定する条約が次々と生まれるようになった。オゾン層の保護、地球温暖化への対処、生物多様性の保護、砂漠化への対処などである。1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された環境と開発に関する国際連合会議から生まれた、「気候変動枠組条約」、「生物多様性条約」、そして法的拘束力はないが「森林原則宣言」は、その典型的なものである。
現代の国際環境法の特徴は、(1)防止原則/予防原則、(2)共通だが差異のある責任、(3)私的アクターの三つが挙げられる。
第一に、「防止原則」(Preventive Principle; 「ストックホルム人間環境宣言」第21原則、「環境と開発に関するリオ宣言」第2原則)とは、科学的予測によって、自国の行為が環境を害する恐れがある場合には、前もってその行為を思いとどまらなければならない、という原則である。近年は、それよりさらに進んだ「予防原則」(precautionary principle; 「リオ宣言」第15原則)が確立し始めており、すでにいくつかの条約で採用されている(「気候変動枠組条約」3条3項、「生物多様性条約」前文および「カルタヘナ議定書」10条6項ほか)。それは、たとえ科学的データによって環境を害することが明らかではない場合でも、重大で回復不能な損害を与えるリスクの存在だけで、当該行為を規制しなければならないという原則である。ただ、「予防原則」が一般慣習法に成熟したかどうかは、争いがある。
1998年「EC・ホルモン肉事件」において世界貿易機関(WTO)上級委員会は、予防原則が一般または慣習国際法であると加盟国によって幅広く受け入れられているかはより明らかではなく、ただこの抽象的な問題には入り込む必要はないとした。そして、予防原則は小委員会を通常の条約解釈の義務から解放するものではなく、それはSPS協定5条1項及び5条2項をくつがえすものではないと判断した(WT/DS26/A/R, WT/DS48/A/R, 16 January 1998, pp.46-48, paras.120-125.)。
その後、2011年「深海底における活動に関連する国の責任と義務」国連海洋法裁判所海底紛争裁判部勧告的意見において、予防アプローチはますます多くの国際条約の中に取り込まれてきており、それらの多くはリオ宣言第15原則の形式を反映しているのであり、そのことにより同原則が慣習国際法の一部になる方向への傾向が始まったと示した(ITLOS Reports 2011, p.47, para.135.)。
第二に、「共通だが差異のある責任」(common but differentiated responsibility; 「リオ宣言」第7原則)は、精神的な結びつきである「国際共同体」概念がその基礎にあると考えられる。すなわち、十分な対応能力を有する先進国と比べて、技術力や資金力を有しない発展途上国を別に扱うことである。たとえ違反が行われてもその事実のみを指摘して制裁を科さない「不遵守手続き」(Non-Compliance Procedure; NCP)や先進国から途上国への技術移転、資金援助などを規定する国際条約が、今日では非常によくみられる。
第三に、私的アクター、すなわちNGO(非政府組織)が様々な条約作成や履行委員会などの国際会議に出席して発言したり、ロビー活動を通じて国家の意思決定に積極的に関わるという現象が見られる。
また法源としては、事態に敏速に対応するために、まず「枠組条約」(framework-convention; une convention-cadre)を設定した後、締約国会議(COP; Conference Of the Parties)を継続させ、その中で「議定書」(Protocol)、「附属書」(Annex)、「決定」(Decision)を追加していく、という方式がよく採られる(気候変動枠組条約のCOP3(1997年)で成立した「京都議定書」ほか)。また、ソフトロー的な法的拘束力のない文書を先行させて、後のハードローである条約や慣習法の成立を誘発させる、という形もとられている。
「紛争解決」については、紛争の平和的解決の義務が国際法上、確立している。国連憲章2条3項は、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と定める。これは、憲章2条4項の武力による威嚇または行使の禁止原則からも導かれ、武力によって紛争を解決してはならないことに帰着する。また、憲章33条1条は、「いかなる紛争でも...その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取決の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない」と規定する。すなわち、平和的解決の手段の当事者の自由選択性である。この33条で定められた原則は、慣習国際法になっているとされる(「ニカラグアにおける及びニカラグアに対する軍事的、準軍事的活動事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1986, p.145, para.290)。「国際紛争の平和的解決に関するマニラ宣言」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの迅速かつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする。
「交渉」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation in good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。
「審査」(enquiry; l'enquête)とは、紛争の解決の枠組みにおいて、争われている事実の公平な解明を目的とする手続きである。1907年の「国際紛争平和的処理条約」9条では、「締約国ハ、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ...之ヲシテ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当タラシムル」とされる。
「仲介」(mediation; la médiation)とは、紛争両当事者の合意によって求められる一又は複数の第三者(国家、機関、私人)が両当事者の間に入って話し合いを促進させるために両者の主張を融和させることをいう(cf.「国際紛争平和的処理条約」4条)。
「調停」(conciliation; la conciliation)とは、「固有の政治的権限のない機関が、係争にある当事者の信頼を享受し、係争の全ての面を検討し当事者に拘束的でない一つの解決を提案する任務で、国際紛争に介入することと定義されうる」。
「仲裁裁判」(arbitration; l'arbitrage)とは、広義には、当事者によって委ねられた第三者によってなされる法的拘束力のある決定によって紛争を解決する方法である(cf.「ローザンヌ条約第3条2項の解釈」常設国際司法裁判所勧告的意見、C.P.J.I., série B, n°12, 1925, p.26)。仲裁裁判判決に対しては、(1)裁判所の「権限踰越」、(2)裁判官の買収、(3)判決の理由の欠如または手続きの根本規則の重大な逸脱、(4)仲裁の合意または付託合意(コンプロミー)の無効を根拠に判決の無効を訴えることができるとされる(国連国際法委員会「仲裁手続きに関する規則モデル」35条)。1960年の国際司法裁判所における「1906年12月23日にスペイン王が下した仲裁判決に関する事件」はその例である。また、「エリトリア・エチオピア紛争」では、両国の合意で常設仲裁裁判所の下での「境界委員会」の設置が決まり、それは「最終的で拘束的」(final and binding)とされた。同委員会は、2002年4月13日に境界画定の決定を下したが、エチオピアはこの決定に対して、「解釈、修正、協議ための」請求を提示した。「境界委員会」は上訴は認められないとし、これを退けたが、両国の緊張は再び高まり、国連安保理が介入するに至り、2005年12月19日に両国の合意に基づいて設置された「賠償委員会」の決定が下され、2006年11月27日には、「境界委員会」は両国欠席のまま、緊急に境界画定に関する報告を発している(R.G.D.I.P., t.110, 2006/1, pp.195-202.)。
「司法的解決」(judicial settlement; le règlement judiciaire)とは、当事者の外部にある、法に基づいて法的拘束力のある決定を下すことのできる権限を有する機関(裁判所)によって紛争を解決することである。その典型例が、国際司法裁判所の判決による紛争の解決である。国際司法裁判所で裁判を開始するためには、両当事国による裁判付託の同意が必要である。ただし、国は裁判管轄権が義務的であるといつでも宣言することができ(選択条項受諾宣言; Optional Clause)、この宣言を行った国の間においてはその宣言が定める事項的、時間的範囲内で国際司法裁判所は管轄権を有する(国際司法裁判所規程36条2項)。特定の条約において、その条約の適用、解釈の問題が起こった場合には国際司法裁判所に付託することを締約国に義務づけている場合もある(「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」9条、「義務的紛争解決についての領事関係に関するウィーン条約第一選択議定書」1条ほか)。国際司法裁判所の判決は、「当時国間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する」(国際司法裁判所規程59条)。また、「判決は、終結とし、上訴を許さない」(同60条)。
1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」(エチオピア対南アフリカ、リベリア対南アフリカ)において、田中耕太郎判事は、裁判所は法体系、法制度、法規範から独立して法を創造することは許されていないが、それら法体系らの存在理由(raison d'être)から導き出したもので法の欠缺を埋めることは可能であるとした。そして、社会秩序及び個人の必要性(necessity)が法の発展の指導要素の一つであることは認めなければならないとし、必要性が当事国や関係国の意思から独立して法を創造しても、(国際組織の承継に関する)当事国の「合理的に仮定される(引き受けられる)意図」(reasonably assumed intention)による説明が意思主義と妥協しうると説いて、被告南アフリカは国際連盟規約22条及び委任状の国際義務を保持し続けている、と結論した(Dissenting Opinion of Judge Tanaka, I.C.J.Reports 1966, pp.277-278.)。
国際司法裁判所以外にも、常設仲裁裁判所(PCA)などがある。常設仲裁裁判所は、国際司法裁判所と違って、個人または団体も当事者となることができるのが最大の特徴である。また、特定の条約制度(レジーム)内において、紛争解決のための独自の司法制度を整えているものもある。例えば、国連海洋法条約における司法制度(287条)及び同附属書VIによる国際海洋法裁判所(ITLOS)、世界貿易機関(WTO)における紛争処理機構(DSB)(パネル(Panel)、上級委員会(AB)の報告及びその履行)である。企業と外国国家間の投資に関する紛争を解決するための「投資紛争解決国際センター」(ICSID)も設置され、現在、大変活発に活動している(「国際投資法」)。
このように、今日では、常設の司法機関が次々と創設され、「国際裁判所の増加」(la multiplication des juridictions internationales)の現象が起きている。このため、異なる裁判所間で、同一の事項につき異なる判断がなされる結果としての「国際法の断片化」(fragmentation)が議論されている。
上記のような紛争の平和的解決を経て、ある国の国際義務違反が確認、認定された場合には、その違法行為によって生じた損害を賠償(reparation)する義務が生じる。これは、「国家責任法」という、また別の大きな国際法の一分野である。国家責任法とは、「国家の国際違法行為から生じうる国際法上の新たな関係」(ILC条約草案1条コメンタリー; YbILC, 1973, Vol.II, Pt.2, p.176)を規律する法規則の総体をいう。2001年には、実に約50年をかけて、国連国際法委員会(ILC)による同法の慣習法の法典化として、「国際違法行為に対する国の責任」(Responsibility of States for Internationally Wrongful Acts)条約草案(「国家責任条約草案」、特別報告者James Crawford)が国連総会で採択された(2001年12月12日、国連総会決議56/83)。その第1条では、「国のすべての国際違法行為は、当該国の国際責任を伴う」とされている。これに従い、責任を負う国は、賠償として、「原状回復」(35条)を原則に、それでは十分に回復されないときには「金銭賠償」(36条)、「精神的満足」(satisfaction)(37条)を損害を被った国に対して行う義務がある。同条約草案は、一般国際法の強行規範(jus cogens)に基づく義務の重大な違反の法的帰結を定めており、諸国の合法的な手段によるその違反の終結のための協力義務とその違反によってもたらされた状態の不承認義務が規定されたことが特に注目される(41条)。
「武力紛争法」(Laws of War; Droit des conflits armés)とは、戦時に適用される国際法(戦争における法 jus in bello)の総称であり、武力行使の発動に関する法(戦争のための法 jus ad bellum)と対比をなすものである。その本質は、戦時における人間の保護にある。従来より「戦時国際法」とも呼ばれていたが、現代的には「国際人道法」(International Humanitarian Law; Droit international humanitaire)と称されることもある。しかし、武力紛争法の一部である「中立法」は、国際人道法から除かれる。また、国際人道法は、今日、その適用範囲を拡大し、戦時における非交戦の個人の保護のみならず、平時における非人道的行為から個人を保護することまでも含み、「国際人権法」の領域と重なるようになっている(「国際刑事裁判所規程」参照)。「国際刑事法」(International Criminal Law; Droit international pénal)は、重大な国際人道法の違反行為を処罰する法として存在するが、さらにハイジャックや海賊、テロ行為の処罰までも射程に入れており、その適用範囲は広い。
武力紛争法には、二つの法があるとされる。「ハーグ法」(Hague Law; Droit de La Haye)及び「ジュネーブ法」(Geneva Law; Droit de Genève)である(1996年「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、I.C.J.Reports 1996(I), p.256, para.75)。
「ハーグ法」とは、主として、1868年の「サンクトペテルブルク宣言」や、1899年から1907年にオランダのハーグにおいて慣習を法典化した国際条約、すなわち、「開戦に関する条約」、「陸戦の法規慣例に関する条約」(これに付属する「陸戦の法規慣例に関する規則」)、「陸戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」、「海戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」など一連のものを指す。それらの目的は、交戦国・交戦員の軍事作戦の行動の際の権利と義務を定め、国際武力紛争において敵を害する方法と手段を制約することにある。
「ジュネーブ法」とは、「ジュネーヴ諸条約 (1949年)」及びそれに付属する「ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)」(「第一追加議定書」、「第二追加議定書」)及び2005年の「第三追加議定書」で定められた規則の総体で、戦争犠牲者を保護し、戦闘不能になった要員や敵対行為に参加していない個人の保護を目的とするものである。
武力紛争法においては、締約国は、たとえ条約によって規定されていない場合においても、市民及び交戦団体が「文明国間で確立した慣例、人道の法、公の良心の要求」([les] usages établis entre nations civilisées, [les] lois d'humanité et [les] exigences de la conscience publique)に由来する国際法の諸原則の下にありかつ保護下にあることを確認するという(前掲「陸戦の法規慣例に関する条約」前文ほか)、いわゆる「マルテンス条項」(Martens Clause; la Clause de Martens)が極めて重要である。
ジュネーブ諸条約は、その遵守を確保するために、「重大な違反行為」(les violations graves)の処罰のための国内法(普遍主義)の整備を締約国に義務づけている。これに基づき、各国は、国際人道法違反行為を処罰する国内法を置き、近年、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダでのジェノサイドに関する訴追が行われている。最近では、「1993/1999年ベルギー法」、いわゆる「ベルギー人道法」が注目されていた(2003年8月に独立した法律としては廃止し、刑法典、刑事訴訟法典に挿入)。日本でも、2004年に、普遍主義を規定した「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」(平成16年法律第122号)が制定された。国際裁判所としては、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が国連安保理の決議によって設置され、上記二つの事件に関してそれぞれ活動している。普遍的なものとしては、1998年に初めて常設の国際的な刑事裁判所である「国際刑事裁判所」(ICC)のための「ローマ規程」が成立し、2003年に同裁判所が設置され、現在、コンゴの事件などで活動中である。
1996年「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見で、裁判所は、国際人道法の核となる原則が、第一に文民の保護、第二に戦闘員に不必要な苦痛を与えないこと、にあることを確認した。しかし一方、ある国々が、自衛権の行使として低エネルギー放射の戦略的核の使用は文民の被害を比較的出さないから必ずしも禁止されないと主張し、また他方、ある国々が、核兵器への訴えはあらゆる状況で決して国際人道法の原則と規則に合致しないと主張したことについて、いかなる国も、そのような「きれいな」使用を正当化する正確な諸状況が何なのか、また逆に、その限られた使用が高エネルギー放射の核兵器の使用にエスカレートするのかどうか、指摘しなかったとする。そして、それゆえ、各国家が生存する根本的権利とその自衛への訴え、及び、核抑止力の政策に言及する実践に鑑みると、そのような自衛の究極の状況では、裁判所は核兵器の使用の合法性、違法性について決定的な結論に至れなかったと述べた(I.C.J.Reports 1996 (I), pp.257-263.)。
裁判所は、同勧告的意見の最後に、核拡散防止条約6条の下の、厳格で実効的な国際管理の下の核軍縮への誠実かつ完結をもたらす話し合いをする義務が、今日の国際共同体全体にとって死活的に重要な(of vital importance to the whole of the international community today)目標であり続けているのは疑いない、と念を押している(Ibid., pp.265, 267.)。人道法の諸目的は、その発展のみならず、軍縮の実現なくしては達しえないものだといえる。
この問題は、古くは、「一元論」(monism)対「二元論」(dualism)として争われてきた。特に「一元論」の国際法優位主義は、国際法秩序が各国の国内法秩序を包合し、全体として国際法が優位するとする。しかし、国際判例や国家実行は、一貫して「二元論」の立場を支持してきている。「二元論」とは、国際法秩序と各国の国内法秩序は、独立した関係にあるとする立場である。ただし、これは、国内法秩序、国際法秩序がそれぞれ無視しあってよいということではなく、互いに尊重し調整しあうという「等位理論」を意味する。
まず、国際法秩序における国内法の地位を述べる。
国際判例は、一貫して「二元論」の立場をとる。国際司法裁判所は、1989年の「シシリー電子工業会社事件」判決において、公の機関の行為が国内法に違反するからといって、それが国際法における違反とは必ずしもならない、と判示した(I.C.J.Reports 1989, p.74, para.124)。さらに、ウィーン条約法条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することはできない」と規定する。
次に、国内法秩序における国際法の地位である。
各国は、それぞれ多様な国際法の国内法秩序への編入方式を採用している。一つの立場は、「編入一般的受容」(incorporation or adoption)方式であり、国際法はなんら国内的措置を経ずに、国内法秩序に直接適用されるとする方式である。第二のものは、「変形」(transformation)方式であり、国際法を国内法秩序に適用するには、国内法への変形が必要とする方式である。第三のものは、「執行指示」(Vollzungsbefehl)方式であり、国内の法適用機関に国際法を直接適用するように指示、命令をし、そのための権限を国内的措置により執るという方式である。
条約と慣習法によっても、各国においてそれぞれの扱われ方が異なる場合が少なくない。各国毎に詳しく述べるには余白がないので、ここでは、特に問題となる「自動執行力のある」(self-executing)条約の国内法秩序への直接適用性(l'applicabilité directe)について述べることにする。
米国では、米国のそのときの意図(the intention of the United States)により、ある合意が「自動執行力がある」か否かが判断されることになり、そうでない場合には立法か適切な執行または行政行為による履行を待たなければならない(Restatement of the Law Third. The Foreign Relations Law of the United States, Vol.1, §111, h.)。一方、イギリス及びコモンウェルス諸国の場合には、たとえ「自動執行力のある」条約でも、国内法に変形する必要があると判例で確立している(「変形」方式)。他のヨーロッパ各国では、「編入一般的受容」方式をとる国として、ベルギー(判例で確立)、スペイン(最高裁判例で確立、通常、公布が必要)、フランス(官報で公示が条件)、ギリシア(判例で確立)、ルクセンブルク(裁判所が判断する)、オランダ(改正憲法93条、公示が必要)、「変形」方式をとる国として、アイルランド(憲法29条5項)、デンマーク(憲法19節によれば国会の立法または行政命令が必要)、「執行指示」方式を採る国として、ドイツ(「承認法」による)、イタリア(執行命令)、十分な結論が確立していない国として、ポルトガル、スイスがある。日本の場合には、判例は一貫して、「自動執行力のある」条約は、天皇の公布によって、国内法秩序に直接適用されるという立場をとっており、「一般的受容方式」に分類される(日本国憲法第98条2項、7条1号)。ただし、国際法は法律には優位するが、国内では憲法が最高法規であるとする立場が通説である。なお、ドイツ連邦共和国基本法第24条は国際機関による主権の制約を認め、同第25条は国際法の規範が憲法と一体をなすことを明記している。
最新の動向によれば、特に国連安保理決議の国内への直接適用性が議論となっている。すなわち、テロ行為に荷担する行為を規制するために国内の私人や法人に直接、義務を課す安保理決議の妥当性が欧州司法裁判所(EC司法裁判所)によって審理され、同裁判所は、安保理決議が強行法規(jus cogens)に反する場合にはこれを無効とできると判示した(2005年7月21日「Yusuf事件」第一審判決(T-306/01))。同判決は、安保理の司法的コントロールの可能性に道を開いたことでも、大変注目されている。
EC法秩序と国内法秩序の関係は特殊である。EC法、特にその二次法規のうちの「規則」(le règlement)は、加盟国の国内法秩序に直接適用される(EC条約249条)。判例も、「規則」が加盟国の国内法秩序に直接適用され、かつその国内法に優位するという点で確立している(1964年「Costa対ENEL事件」欧州司法裁判所判決)。EU/EC各国も、その国内憲法において、「規則」の国内法秩序における直接適用性を認めている。しかし、「指令」(la directive)の直接適用性については、個別的に検討する必要がある。また、EC法と各国憲法との優位性については不明瞭であり、加盟国の立場では、ドイツ(1974年の「Solange I事件」および1986年の「Solange II事件」連邦憲法裁判所判決)、イタリア(1973年12月27日、憲法裁判所判決)などは、国内ではEC法より憲法が優位する立場をとっている。
国際法は、国内法のような立法・行政・司法の中央集権機関がなく、組織的な法の適用、執行の機構を欠いている。そのため、国際法の法としての性格を否定する学説が19世紀末から20世紀初頭に特に見られた。これは、すなわち、国際法の強制性の問題である。例えば、オースティン(J.Austin)は、実定法は「主権者の命令」であり、義務違反に対する制裁を予定しているものであるが、国際法にはそうした条件がなく、単なる「実定的な道徳」にすぎないとした。
日本は、江戸時代後期、米国との間に締結された1854年の日米修好通商条約によって「開国」し、続いてその他ヨーロッパ諸国とも条約を結んでいった。それらの条約は、領事裁判権その他の特権を欧米諸国に認めた「不平等条約」であったが、ともかく、それによって日本が「ヨーロッパ近代国際法」に接する機会が得られ、次第に国際的実践の規範としての国際法への自覚を高めていったことは注目されると説かれる。(一方、20世紀以前には、ヨーロッパの他に、中国圏、イスラム圏といった世界が存在し、それぞれ「法」・「儀」・「礼」や「シャーリア」(shari'a)といった法で規律されており、20世紀にそれらの文明とヨーロッパ文明が衝突した、と指摘されうる。)また、明治政府は、五箇条の御誓文で、万国公法を「天地の公道」としてその遵守を謳い、その後、歴代の政府がヨーロッパ国際法の知識の移入、教育、研究に大きな力を注いだ。
現代の国際法においては、その強制力は、国際法違反行為に対する被害国による「対抗措置」(countermeasures; les contre-mesures)(「国家責任条約草案」49条以下)や報復(retortions)(合法的な措置)といった形で存在する。特に、制度的にも整備されているものとして、GATT/WTO法違反と認定された行為についての世界貿易機関(WTO)紛争処理機構(DSB)の決定、その実施、DSBが承認する譲許その他の義務の停止がある。また実際、ほぼ全ての国が、国際法を法として認識し、その法務を扱う部門を外務省に設置し、かつこれを遵守しているため、現在では国際法の法的性質を肯定する学説が通説となっている。
しかし問題点もあり、例えば、国連安保理の表決制度には、常任理事国(米、英、仏、露、中)の拒否権があり、事実上、これら常任理事国への憲章七章に基づく強制措置はできない。国際司法裁判所の判決も、一方の当事国がそれを履行しない場合には他方の当事国は安保理に訴えることができるが(94条2項)、前者が常任理事国の場合には事実上、安保理の措置はなされない。そこで、今日でも、国際法は「原始法」(le droit primitif)であるという主張がなされる場合もあるが、対して、今日の国際世論の力(la force publique)を認めこれが国際法の実効性を支えているという指摘もある(近年、確立しつつある「国際市民社会」概念も参照)。
国際法の法的拘束力の基礎については、近代より議論されてきており、国家の基本権の理論や、国家が拘束されることに同意しているからとか、ケルゼンの根本規範の原理や、自然法から説明する立場など様々であるが、究極的には、人間が理性的な生き物として、その生きていく世界を支配する原理が秩序にあると信じることを強いられていることにある、とする見解が一つの有力な説明である。 | [
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"text": "国際法(、英: International Law, Law of Nations、仏: Droit international, Droit des gens、西: Derecho Internacional)とは、国際社会(「国際共同体」英: the international community、仏: la communauté internationale、西: la comunidad internacional)を規律する法をいう。国際私法と対比させて国際公法(英: Public International Law、仏: Droit international public、西: Derecho Internacional Público)ともいわれるが、国内法制度における私法と公法の関係のように両者が対立的な関係にあるわけではない。条約、慣習国際法、法の一般原則が国際法の存在形式(形式的法源)とされる。かつては国家間の関係のみを規律する法と考えられてきたが、現代では国際組織や個人の関係や、これらと国家との関係を規律する法と考えられている。",
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"text": "朝貢を国際関係の主体とする華夷秩序や、江戸時代初期の朱印船貿易は、一般的には国際社会全体を拘束する国際法であるとは見做されていない。",
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"text": "「国際法」という言葉は、1873年に箕作麟祥が「International Law」の訳語として考え出し、1881年の東京大学学科改正により正式採用されたものである。それ以前の幕末当時には、タウンゼント・ハリスが初代駐日公使となり、日米修好通商条約締結を求めた際に国際法は「万国普通之法」と訳されている。その後隣国清朝でヘンリー・ホイートンの Elements of International Law が『万国公法』と訳されるとそれが国境を越えて流布し、以後しばらく中国や日本では「万国公法」という訳語が「International Law」の訳語として使用された。また、他にも「列国交際法」、「宇内の公法」とも呼ばれていた。また、\"Law of Nations\"は、「国際法」と訳されることがあるが、「諸国家の法」「諸国民の法」などと訳されることもある。",
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"text": "フランス語では、「国際法」として、「Droit international public」(国際公法)と「Droit des gens」(万民法)という二つの用語がある。今日では前者が一般に用いられるが、ラテン語の「ius gentium」(ユス・ゲンティウム)つまり万民法に由来する後者は古典的な用語法で、現代では特に人々を念頭においたときに用いられる(例えば、ジェノサイドを\"un crime de droit des gens\"と表現するものとして、「ジェノサイド条約に対する留保」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1951, p.23)。ヨーロッパの大学における国際法の講義の名称として、\"Droit des gens\"を今日でも続けて用いている大学もある。",
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"text": "オランダ語では、 「internationaal publiekrecht」(国際公法)と「volkenrecht/volkerenrecht」(万民法)、「Internationaal recht」(国際法)という呼称がある。",
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"text": "「国際法の法源」には、一般的に二つの意味がある。第一に、「形式的法源」(les sources formelles)であり、これは、国際法という法の存在のあり方をいう。「国際法の法源」と言った場合、通常、この意味が当てはまる。すなわち、国際法は、「条約」及び「国際慣習」という形で存在し、後述するように現代では「法の一般原則」も国際法の法源に含まれるとされている。また、「判例」や「学説」は、これら条約、慣習法、法の一般原則の内容を確定させるための補助的法源とされている。これらのことは、以下のように国際司法裁判所規程38条1項に規定されている。",
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"text": "第二に、「実質的法源」(les sources matérielles)を指す場合がある。これは、上記、「形式的法源」(特に、条約と慣習法)が成立するに至った原因である、歴史的、政治的、道徳的要素や事実を指す。このように、「実質的法源」は、法的拘束力を有する法そのものではなく、国際法成立の要因であり、特に、法社会学の対象分野であるといえる。国家による一方的行為/一方的措置は、慣習国際法を形成する要因として、実質的法源になりうる。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "条約とは、一定の国際法主体(国家、国際組織等)がその同意をもとに形成する、加盟当事者間において拘束力を有する規範をいう。二国間条約と多数国間条約があり、ともに当事者の合意によって成立するが、後者はその成立に批准手続が取られることが多く、また特に多数の国が参加する場合には条約を管理する機関が置かれる場合がある。条約そのものの規律を対象とする国際法については1969年に国連国際法委員会によって法典化された条約法に関するウィーン条約がある。(条約法の項を参照。)",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "慣習国際法は、不文ではあるが、条約と同等の効力を有する法源である。もっとも、不文であるため、それぞれの慣習国際法がいつ成立したのかを一般的にいうことは難しいが、もはや慣習国際法として成立したとされれば、国際法として国家を拘束する。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "その成立には、「法的確信(羅: opinio juris)」を伴う「一般慣行」が必要である。「一般慣行」が必要とされるため、長い年月をかけて多くの国が実践するようになったことによって成立したものがある一方、「大陸棚への国家の権利」のように発表からわずか20年足らずで成立したとされるものなど、その成立は様々である。国際司法裁判所は1969年の「北海大陸棚事件」判決において、ある条約の規則が一般法になっているための必要な要素について、「たとえ相当な期間の経過がなくとも」(even without the passage of any considerable period of time)、「非常に広範で代表的な参加」(a very widespread and representative participation)があれば十分であるとし、また、「たとえ短くとも、当該期間内において、特別の影響を受ける利害関係をもつ国々を含む、国家の慣行(State practice)が、広範でかつ実質上一様で(both extensive and virtually uniform)あったこと」を挙げた(I.C.J.Reports 1969, pp.42-43, paras.73-74; 皆川洸『国際法判例集』391頁)。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "「一貫した反対国」(persistent objector) 、すなわち、ある慣習法が生成過程にあるときに常にそれに反対していた国家、への当該慣習法の拘束力については、学説上、議論がある。国際司法裁判所は、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)判決において、領海10マイル規則に対して、ノルウェーがその沿岸においてその規則を適用するあらゆる試みに反対の表明を常に行っていた([la Norvège] s'étant toujours élevée contre toute tentative de l'appliquer)ので、10マイル規則はノルウェーに対抗できない (inopposable) と判示した (C.J.I.Recueil 1951, p.131) 。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "慣習法のみが一般国際法 (general international law) を形成する、という従来の理論に関して、小森光夫は疑問を提示し、慣習法の一般国際法化の際のその形成と適用について、それぞれ問題点を示している。すなわち、形成に関しては、慣習の一般化において、全ての国家の参加が必要とされずに、欧米諸国など影響力のある限られた数の国家の事実上の慣行のみでそれが認定されてきた点を挙げる。また、適用に関して、すでに一般化したとされる慣習法に、新独立国が自動的に拘束されるとする理論について、それが一貫した反対国と比べて差別的である点を挙げる。そうして、一般国際法の存在を慣習法に集約させて論じることを止め、別個に一般法秩序の条件の理論化を確立すべきだと主張する。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "法の一般原則とは、国際司法裁判所規程第38条第1項(c)にあるように「文明国が認めた法の一般原則」であり、主要法系に属する世界の国々の国内法に共通して認められる原則の中で、国際法秩序にも適用可能と判断できるものを指す。19世紀には国際法の法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年の常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した。さらに現代では二国間の仲裁裁判条約や、多数国間条約に定められた裁判条項においても裁判基準として挙げられていることから、法の一般原則は国際司法裁判所の裁判基準であることを超えて「法の一般原則」も国際法秩序における独立した法源であるとする考えが、今日では広く認められている。",
"title": "法源"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "国際法秩序は、その根底に、一般原則(general principles; les principes généraux)を有する。これら一般原則を基盤として、またその内容を具現するために、各種条約及び慣習法規が存在しているといえる。一般諸原則の一部は、国際司法裁判所規程38条(c)の「文明国が認めた法の一般原則」(les principes généraux de droit reconnus par les nations civilisées; general principles of law recognized by civilized nations)として発現していると考えることができる。「法の一般原則」は、各国の国内法に共通に見られる法原則のうち国際関係に適用可能なもの、あるいは、あらゆる法体系に固有の法原則として、一般的にとらえられている。",
"title": "基本原理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "国際裁判において適用された「法の一般原則」の例としては、信義誠実の原則(1974年「核実験事件(本案)」(オーストラリア対フランス、ニュージーランド対フランス)国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1974, p.268, para.46)、衡平原則(1986年「国境紛争事件」(ブルキナファソ/マリ)国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1986, p.567, par.27; 1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所・小法廷判決、C.I.J.Recueil 1984, p.292, par.89; 前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.46, para.83ほか)、義務違反は責任を伴うの原則(1928年「ホルジョウ工場事件(本案)」常設国際司法裁判所判決)、「既判力」の法理(1954年「賠償を与える国連行政裁判所の判決の効力」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1954, p.53)などが挙げられ、禁反言の法理(estoppel)のような英米法の概念も適用されるとされた場合もある(前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.26, para.30)。ただ、裁判所が、明示的に「法の一般原則」として援用することはまれである(一方が他方の義務履行を妨げた場合に、その義務違反を主張することはできないということを、「国際仲裁判例によって、また国内諸裁判所によって、一般的に認められる原則」とした例として、「ホルジョウ工場事件(管轄権)」常設国際司法裁判所判決、C.P.J.I., série A, 1927, n°9, p.31)。「国際法上の犯罪」(les crimes du droit des gens) において、第二次大戦中当時、「平和に対する罪」が必ずしも明確に犯罪行為として定まっていなかったにもかかわらず、「極東国際軍事裁判所」(極東国際軍事裁判)において、それが適用され処罰された事例があり、これが法の不遡及の原則に反するという批判がある。しかし、法の不遡及(non-rétroactivité; non-retroactivity)原則が、国際法、国内法共通の原則となり、特に刑事法の分野で確立されたのは、東京裁判が終了した1948年11月以降(1948年12月の「世界人権宣言」11条2項、1950年11月の欧州人権条約7条1項ほか、1966年12月の市民的及び政治的権利に関する国際規約15条1項)の事であった。加えて、1948年の世界人権宣言は単なる宣言に過ぎず法的拘束力のある「条約」ではなかったし、1950年の欧州人権条約では7条2項において、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約でも15条2項において、それぞれ法の不遡及の原則の例外を認めている。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これらのうち、「信義誠実原則(原理)」(the principle of good faith) と「衡平原則(原理)」(the principle of equity) は、国際法の解釈及び適用の際に、常に働く。",
"title": "基本原理"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "信義誠実原則は、正直、真摯という主体的(subjective)な意味と、相手側を尊重する、という客体的(objective)な意味に分かれる。それは主として、国際法の解釈において作用する。ウィーン条約法条約31条は、条約は誠実に解釈されなければならないと規定する。これは、自国の表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して条文を解釈しなければならない、という意味と解される。また、履行についても、国際義務は誠実に履行しなければならないとされている(国連憲章2条1項、条約法条約26条)。これも、自国が表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して義務を履行しなければならない、という意味と解される。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "衡平原則は、関連するあらゆる事情を考慮して、法を適用することを意味する(cf.「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47.)。それは三つに分解される。「実定法規内の衡平」(equity infra legem)、「実定法規に反する衡平」(equity contra legem) 、「実定法規の外にある衡平」(equity praeter legem) である(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決アムーン判事個別意見、C.I.J.Recueil 1969, p.138; 「国境紛争事件」(ブルキナファソ/マリ)国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1986, pp.567-568, pars.27-28)。すなわち、「実定法規内の衡平」とは、適用可能な複数の法原則、法規則のうちから(「チュニジア・リビア大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1982, p.59, para.70)あるいは可能な複数の法解釈のうちから各当事国が納得がいく(当事国の利益の釣り合いによる; balancing of the interests of the parties)結果を導き出す選択をする、ということであり、「実定法規に反する衡平」は、国際司法裁判所規程38条2項にいう「衡平と善」(ex aequo et bono) もこの一種で、実定法規の適用が衡平な結果をもたらさない場合、関係当事国の合意の下、それらを除外してでも釣り合いのとれた解決を目指すものであり、「実定法規の外にある衡平」とは、法の論理的欠缺を埋める補助的なものであり、一般原則を用いてその欠缺を埋め(「コルフ海峡事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1949, p.22.)、具体的な解決をもたらすものである。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "1968年「北海大陸棚事件」(ドイツ連邦共和国/デンマーク、ドイツ連邦共和国/オランダ)において、小田滋ドイツ連邦共和国弁護人は、本件では適用可能な慣習法規が存在しないので、法の一般諸原則が適用されるとし、そして、実在的正義(substantial justice)とは、紛争の各当事者が、あるちょうどよく衡平な分け前(a just and equitable share)を受け入れる状況を意味すると主張した。そしてそれゆえ、等距離線のような抽象的に思いついた技術的境界画定ではなく、石油資源の分配や「沿岸地帯」(façade)で表される基線の考えに基づく、善意(goodwill)と弾力性(flexibility)のある真に衡平な解決を提示した。",
"title": "基本原理"
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{
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"tag": "p",
"text": "最も基礎的な原理として、「人道の初等的考慮」(elementary considerations of humanity; les considérations élémentaires d'humanité)が法の欠缺を埋めるために援用されるときがある(1949年「コルフ海峡事件(本案)」国際司法裁判所判決、C.I.J.Recueil 1949, p.22; 2000年1月14日「クプレスキッチ他事件」旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所第一審判決、IT-95-16-T, para.524ほか)。この原則は、人間という存在のための根源的な自然の欲求あるいは欠乏から生じる必要(les besoins fondamentaux)(例えば、生命、身体、心の安寧)の保護を目指した諸評価要素の総体をいう(1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」国際司法裁判所判決では、単なる「人道的考慮」(humanitarian considerations)は直ちには法的利益性を持ちえないとされた。I.C.J.Reports 1966, p.34, paras.50-51)。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "例えば、1907年ハーグ陸戦規則第三款(42~56条、例えば43条の占領地の法律の尊重)は、人道の原理(the principle of humanity)に基づいているがゆえに、交戦状態においてのみならず、全般的休戦(general armistice)から平和条約の締結までの間においても適用されると解される。",
"title": "基本原理"
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"text": "これとは別に、国際法の一般原則(les principes généraux du droit international; general principles of international law)がある。これは、条約や慣習法の諸規則を通じて実定国際法に浸透した一般国際法上の原則である。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "「友好関係原則宣言」(Declaration of Principles of International Law concerning Friendly Relations and Cooperation among States with the Charter of the United Nations)(国連総会決議2625 (XXV) 、1970年10月24日)に従えば、以下の原則が国際法の一般原則として確立しているといえる。",
"title": "基本原理"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "条約法は、国連国際法委員会 (ILC; International Law Commission) によって慣習法を漸進的発展とともに法典化した、1969年の「条約法に関するウィーン条約」(Vienna Convention on the Law of Treaties; VCLT)が主として機能する。しかし、同条約の批准国は100あまりにすぎず、米国やフランスなど有力な国も批准していないことから、ときおり、特定の条項について、その一般的効力が争われる。",
"title": "条約法"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "条約法条約は、条約の締結 (conclusion) 、解釈 (interpretation) 、適用 (application) について定める。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "同条約は、「国の間において文書の形式により締結され、国際法によって規律される国際的な合意」を対象としている(2条)。しかし、一般国際法上、文書によらない国家間の合意も拘束力があり、そのことを同条約は害しないとする(3条)。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "条約の締結は、国家間の交渉(全権委任状、7条)、条約文の採択(9条)、国の同意の表明(署名 (signiture) 、批准 (ratification) 、加入 (admission) 、11条)により成る。最後の国家の同意については、単なる技術的、事務的な行政取極の場合は、署名だけで効力を発するが、通常の条約は、国内での承認(approbation、日本では国会の承認)を経ての認証である批准が必要とされる。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "条約の締結について、今日、最も議論があるのが、留保である。留保とは、国家が、条約に署名、批准、加盟する際に、特定の条項の全部又は一部の適用を除外する旨の一方的宣言をいう。留保は、当該条約が禁止していない限り許される(19条)。当該条約で特別な定めがある場合はそれに従うが、特に規定されていない場合には、留保は、それに対して異議を表明しない国家に対して効力を有するが、留保の表明から12か月以内に異議を表明した国家に対しては、それを主張できない(20条)。なお、留保は、その条約の趣旨、目的に反しない限りにおいて、有効である(1951年「ジェノサイド条約に対する留保」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1951, p.24)。これに従って、現在、特に人権条約において留保が許されるかという問題が議論されている。ILCは、留保に関する慣習法の法典化作業を進めている(特別報告者、Alain Pellet)。2007年の第59会期ではガイドライン案3.1.5から3.1.13が採択され、3.1.12によれば、人権条約に対する留保の条約の趣旨目的との合致性は、条約で定められた権利の「不可分性」(indivisibility) 、「相互依存性」(interdependence) 、「相互関連性」(interrelatedness) を考慮に入れなければならないとされた(A/62/10)。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "解釈に関しては、条約法条約31条が定めている。まず、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」そして、「文脈」とは、前文、付属書に加えて、当事国の後に生じた慣行や当時国間に適用される国際法の規則までも含む(31条3項)。近年、この規定に基づき、条約締結時の当事国の意思を離れて、現存する関係国際法規を考慮する「発展的解釈」(l'interprétation évolutive)が、特に環境法の分野において、さかんに行われている(例えば、1997年「ガブチコヴォ・ナジュマロシュ計画事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1997, pp.77-78, para.140)。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "適用に関しては、特に、条約の第三国に対する効力が問題となる。条約法条約は、条約が第三国に権利または義務を設定する場合には、その第三国の同意が必要であるとし(34条)、義務を課す場合は、明示の同意が必要(35条)、権利を付与する場合は同意が推定される(36条)と規定する。しかし、これらの規定の例外として、「客観的制度」(objective régime) の理論が学説上、主張されることがある。その例として、南極条約体制は、人類全体の利益に資するとして、締約国以外の第三国にも対抗できる(特に、南極における海洋資源保護)と主張される場合がある(国際化領域の項目も参照)。また、「相前後する条約の効力」として、条約法条約は、「後法は前法を廃す」の原則を置いているが(30条)、例えば、1989年の「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」よりも後にできた、1994年の世界貿易機関 (WTO) を創設する「マラケッシュ協定」が定める自由貿易制度が優越するのか、といった疑問が提示されうる。",
"title": "条約法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "最後に、条約法条約は、強行法規(ユス・コーゲンス; jus cogens)に反する条約を無効とする(53条)。これまで、古典的学説の立場から、ユス・コーゲンスの存在に対して懐疑的な立場も根強く見られたが、2006年の「コンゴ領における武力行動事件(2002年新提訴)」(管轄権)(コンゴ民主共和国対ルワンダ)で国際司法裁判所としては初めて明示的にユス・コーゲンスの存在を認定し(arrêt, par.64)、この問題に決着がついたといえる(2007年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対セルビア及びモンテネグロ)判決でもユス・コーゲンスの存在を認定、Judgment, para.185)。",
"title": "条約法"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一般的に、国家機関は、立法機関、行政機関、司法機関に分類される。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "立法機関、すなわち日本でいうところの国会は、自国の国内法秩序において、法を制定する機能を有する。国際法上の観点から見れば、立法機関は、国際法規範の国内的実施のために、法律を制定する役割を有する。特に、人権の分野においては、今日では、国際、国内の両秩序の透明性、浸透性の現象が見られ、国際法によって確立された人権を国内で実施したり、あるいは逆に、国内法で定められた人権規範が国際法に影響を与える、といった面が見られる。また、ときおり、立法機関による、域外適用を目指した国内法が制定されることがある。これは、人権、環境、経済の分野で顕著である。立法管轄権も、他の管轄権と同様に、他国の主権を害さない範囲で行われなければならない。米国が従来、主張していた「効果主義」(effect doctrine) に基づく域外管轄権の行使は、ECの対抗立法などに遭い、批判されている。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "行政機関、すなわち政府/行政府は、条約の作成・締結の主体として重要である。また、国際平面において、国際法を履行する直接の主体である。行政機関の行動が、明らかにその国の憲法に反する場合を除いて、その国家の行動とみなされる。とくに、国家元首、政府の長、外務大臣の行動は、その国家を代表しての行動と見なされ、ときとして、国家自体を拘束する(「東部グリーンランドの地位事件」常設国際司法裁判所判決; P.C.I.J., Ser.A/B, 1933, No.53, pp.68-69)。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "国家元首、政府の長、外務大臣に加えて、外交官は、他国と円滑な交流をすることを「外交関係法」によって保障されている。外交関係法は、1961年の「外交関係に関するウィーン条約」および1963年の「領事関係に関するウィーン条約」で構成される。これらの者は、他国との円滑な交流という共通利益を基礎として、「特権免除」を有する。公館の不可侵(「外交関係条約」22条)、身体の不可侵(同29条)、租税の免除(同34条)、そして「裁判権の免除」(31条)である。最後の裁判権の免除については、「2000年4月11日の逮捕状事件」において、国際司法裁判所は、たとえ外務大臣が国際法上の犯罪を犯したとしても、国家実行により、外務大臣はその職にある間は免除(immunity ratione personae; 「人的免除」の意味)を享受する、と判示した (C.I.J.Recueil 2002, pp.24-30, pars.58-71) 。ただし、外務大臣がその職を解かれた場合で、国家の公の行為ではない行為については、免除は認められなくなる(「事項的免除」immunity ratione materiaeの機能的性質、1999年4月24日「ピノチェト事件」英貴族院 (House of Lords) 判決、38 I.L.M.581 (1999) )。なお、免除は「免責」を意味しない。また、免除は外国の国内裁判所において認められるものであり、国際裁判所では通常、免除の適用が除外されている(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程7条2項、ルワンダ国際刑事裁判所規程6条2項、国際刑事裁判所規程27条)。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "近年、領事関係条約36条1項が焦点となっている。同条(b)は、「接受国の権限ある当局は...派遣国の国民が逮捕された場合、留置された場合、裁判に付されるため拘留された場合...において、当該国民の要請があるときは、その旨を遅滞なく当該領事機関に通報する。...当該当局は、その者がこの(b)の規定に基づき有する権利について遅滞なくその者に告げる」と規定する。米国政府は、以前より、外国人を逮捕したときにこの「権利」を容疑者に告げないように通達していた。そして、そのことで、外国人の容疑者が、逮捕された後、領事館に通達されることなく裁判に付され、死刑判決を受けたことについて、1998年の「領事関係条約に関する事件」(「ブレアール事件」)(パラグアイ対米国)、1999-2001年の「ラグラン事件」(ドイツ対米国)、2003年から継続中の「アベナとその他のメキシコ人事件」(メキシコ対米国)に発展した。「ブレアール事件」と「ラグラン事件」では、それぞれ1998年、1999年に国際司法裁判所から、死刑執行を止めるように米国に仮保全措置命令が下されたが、米国はそれを破って死刑執行を行った。特に「ラグラン事件」(本案)判決においては、初めて国際司法裁判所の仮保全措置の法的拘束力が認められ、米国の義務違反と再発防止措置を命じる判決が下された。「アベナ事件」は、2004年に本案判決が出されたが、2008年6月にメキシコから緊急に同判決の解釈に関する新たな訴訟がなされ、予断を許さない状況となっている。2008年3月に、米最高裁判所は「メデジン事件」(Medellín v. Texas) において、ICJの「アベナ事件」判決が米国内において自動執行力(self-executing)がないという判決を下している(A.J.I.L., Vol.102, 2008, pp.635-638)。ICJは、2009年1月19日の判決で、アベナ判決は米国に判決の義務の履行手段を委ねており、ゆえにメキシコの請求はICJ規程60条にいう「判決の意義又は範囲」には当たらないとし、メキシコの解釈請求を退けた(Judgment, paras.43-46)。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "司法機関、すなわち裁判所は、一般に国内法の履行を確保する機関であるが、同時に、国内法秩序に直接適用される国際法規範の履行確保としても、重要である。特に、人権の分野で、国際法の国内的実施に関する国内裁判所の役割は大きい。しかし、国際法上、確立している「免除規則」(immunity、「国家免除」あるいは「主権免除」)によれば、一国の国内裁判所が、他国や他国を代表する人物に対して裁判を行うことはできない。ただし、国家免除について、長らく「絶対免除主義」が妥当していたが、今日では、「制限免除主義」が確立しており、国家の「主権的行為」(acta jure imperii) と「業務管理的行為」(acta jure gestionis) を区別し、後者には国家免除は適用されないとされる。日本も、長らく「絶対免除主義」の立場がとられてきたが、2006年7月21日の最高裁判決によって、「制限免除主義」へと判例変更がなされた。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このように、国家機関は、第一に国内法秩序における機関として存在するが、同時に、国際機関として、国際法の実施や履行確保を行う側面を有するのであり、これを学説は、国家の「二重機能」(le dédoublement fonctionnel)として説明することがある。しかし、この理論は、大国の一方的行為/一方的措置を安易に正当化してしまう、という理由で、反対する学者も少なくない。",
"title": "国家機関"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "「国家管轄権」(les compétences de l'État; State jurisdiction) とは、国家が自然人、法人、物、活動に対して行使することができる、国際法によって与えられあるいは認められている権限をいう。これについては、国家管轄権が、国際法の存在以前からあるものなのか、あるいは国際法によって付与されたものなのか、という問題がある。いいかえれば、「ロチュス原則」すなわち、国際法で禁じられていない限り国家は自由に行動できる(「ロチュス号事件」常設司法裁判所判決; C.P.J.I., série A, n°10, 1927, p.19)という命題が今日でも妥当するのか、という問題である。学説上、いまだに見解は一致していないが、今日の「協力の国際法」(International Law of Co-operation)の分野においてはもはや同原則は認められない、とする見解も有力である(cf.「2000年4月11日の逮捕状に関する事件」国際司法裁判所判決ギヨーム裁判長個別意見、C.I.J. Recueil 2002, p.43, par.15)。",
"title": "国家管轄権"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "国家管轄権は、「属地主義」、「属人主義」、「保護主義」、「普遍主義」に分類される。",
"title": "国家管轄権"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "属地主義 (territorial principle; la compétence territoriale) とは、国家はその領域内(及び国際法によってそのようにみなされる場所。例えば、自国籍の船舶・航空機)にある人、物、活動に対して排他的に行使できる権限をいう。領域は、領土、領海、領空で構成される。ただし「領域使用の管理責任」といった国際法に服する。国家は、その領域内で私人により行われる違法行為から、他国、外国人、他国の領域を保護しなければならない(例えば、環境保護について、「トレイル溶鉱所事件」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決)。",
"title": "国家管轄権"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "属人主義 (nationality principle; la compétence personnelle) とは、その領域外においてなされた行為(特に犯罪)に関して、その行為者の国籍国という連結により(「能動的属人主義」; la compétence personnelle active)またはその被害者の国籍国という連結により(「受動的属人主義」; la compétence personnelle passive)、その行為を自国の法秩序に置きあるいは処罰する権限をいう。日本の刑法では、能動的属人主義として刑法3条が、日本国民の国外犯に対して日本の刑法が適用される犯罪を列挙している。また、受動的属人主義としては、刑法4条の二が、条約により日本国外において犯された犯罪でも罰すべきとするものについて、日本の刑法を適用する旨、規定している(「人質にとる行為に関する条約」5条ほか)。",
"title": "国家管轄権"
},
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"tag": "p",
"text": "保護主義 (protective principle; la compétence réelle) とは、外国で行われた犯罪行為で、特に自国の重大な国家法益を侵害するものを自国の法秩序の下に置く権限である。日本の刑法では、2条が保護主義を規定しており、内乱、外患誘致、通貨偽造等に日本の刑法が適用される旨、規定する。",
"title": "国家管轄権"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "普遍主義 (universality principle; la compétence universelle) あるいは世界主義(Weltrechtsprinzip)は、国際共同体全体の法益を害する犯罪について、それが行われた場所、犯罪の容疑者の国籍、被害者の国籍にかかわらず、いかなる国もこれを処罰する権限をいう。古くからは、海賊は「人類全体の敵」(hostis humani generis)としていかなる国も処罰できるとされてきた。近年は、多数国間条約によって、普遍主義に基づく処罰を義務づける場合が増えてきている(「航空機の不法な奪取の防止に関するハーグ条約」4条、「民間航空機の安全に対する不法な行為の防止に関するモントリオール条約」5条、「アパルトヘイト罪の撤廃と処罰に関する条約」4条ほか)。",
"title": "国家管轄権"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "今日、この分野で最も議論が行われているのが、「国際法上の犯罪」(les crimes du droit des gens) である、「ジェノサイド罪」(集団殺害罪)(crime of genocide; le crime de génocide) 、「人道に対する罪」(crimes against humanity, les crimes contre l'humanité)」、「戦争犯罪」(war crimes; les crimes de guerre)(ジュネーブ諸条約の「重大な違反行為」)に対する普遍主義の行使である。このうち、1949年のジュネーブ諸条約の「重大な違反行為」については、同条約が普遍主義に基づく国内法の整備を締約国に義務づけている(それぞれ、49条/50条/129条/146条)。ジェノサイド罪については、1948年の「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」(「ジェノサイド条約」)6条が、犯罪行為地国と国際刑事裁判所のみに裁判権を付与しているが、その起草過程から、その他の場合の裁判権の行使も禁止しないと解されている(1961年「アイヒマン事件」イェルサレム地方裁判所判決、I.L.R., Vol.36, p.39; 「ピノチェト事件」スペイン全国管区裁判所(Audiencia nacional)判決、I.L.R., Vol.119, pp.335-336)。人道に対する罪については、国連総会決議3074(XXVIII)(「戦争犯罪及び人道に対する罪の容疑者の抑留、逮捕、引き渡し及び処罰における国際協力の原則」)に従えば、普遍主義の行使は認められる。ただし、普遍主義の行使は、予審と引き渡し要求の場合を除いて、容疑者が自国領域内にいることを条件とする(2005年万国国際法学会決議)。",
"title": "国家管轄権"
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"text": "「国家領域」(le territoire national)は、領土、領海、領空に分けられる。特に領土は、「人民」、「外交を行う能力」とともに国家を構成する基本的要素である。国家領域では、国家はその管轄権を排他的に行使ししうる。ただし、他国の主権も尊重しなければならない。",
"title": "国家領域"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "領土とは、一般にその自国民が住んでいる地理的領域をいい、地面および地下が含まれる。人が住んでいない領域(無人島など)もこれに含まれうる。領土の取得及び喪失については、「無主地」(terra nullius)に対する「先占」は国際法上、認められている領土取得の方式である。「パルマス島事件」仲裁判決で、マックス・フーバー裁判官は「継続的で平和的な領域主権の表示は権原の一つとして適切である」と判示した(U.N.R.I.A.A., Vol.II, p.839)。「西サハラ」に関しては、国際司法裁判所はその勧告的意見で、スペインの植民地であった西サハラには社会的にかつ政治的に組織された人々が民族としてそれを代表する長の権力の下に住んでいたのであり、無主地とはみなされない、と判示した(C.I.J.Recueil 1975, p.39, par.81)。今日では、無主地は存在しないとされる(南極大陸については、国際化領域の項を参照)。また、現在では、武力行使による領土取得は禁じられている。これに関して、イスラエルによるパレスチナの占領について、国連安保理決議242は、イスラエル軍の占領地からの(英:from occupied territories(無冠詞), 仏:des[de+les] territoires occupés(定冠詞))撤退の原則を確認し(affirms)、決議338では、決議242の履行を求める(calls upon)となっており、英語テキストに従う限りにおいて、必ずしもイスラエル軍が第三次中東戦争で占領した全ての領土からの撤退を義務づけていないと解する余地がある。この問題は、宗教的、政治的性質が濃い。",
"title": "国家領域"
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"text": "領海とは、今日では国連海洋法条約により、領土の基線より12海里を超えない範囲で沿岸国が決めることができる(海洋法の項目も参照)。領海には、沿岸国の主権が及ぶが他国の船舶の「無害通航権」(le droit de passage inoffensif)を認めなければならない。無害通航とは、「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない」ものをいう(19条)。違反する船舶に対しては、警察権を行使しうる(27条5項)。ただし、他国の軍艦および非商業目的で航行する政府船舶には「免除」が与えられる(32条)。",
"title": "国家領域"
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"text": "領空とは、領土及び領海の上空に接している大気圏の領域をいう。空域を規律する国際法は、「空法」(Droit aérien)と呼ばれる。空法は、1944年の「国際民間航空条約」(シカゴ条約)を基本とする。シカゴ条約は、1条で「各国がその領域上の空間において完全かつ排他的な主権を有する」としている。どの高さまで領空と認められるかは、条約上、明らかではない。また、領海における「無害通行権」と類似して、「五つの自由」が認められており、1919年のパリ条約では、(1)無着陸の通過の自由、(2)運輸以外の目的での着陸の自由が認められ、さらに「国際航空協定」1条では、これらに加えて、(3)自国領域内で積み込んだ貨客を他の締約国でおろす自由、(4)他の締約国で自国向けの貨客を積み込む自由、(5)第三国向けあるいは第三国からの運送の自由が認められている。ただし、これらの自由は、慣習法ではなく、厳格に条約的である。(今日の状況は、制限的な二国間協定の下に保護される航空企業間の「オープンスカイ協定」が空を網の目のように張りめぐらされている。)また、シカゴ条約に基づき、「国際民間航空機関」(ICAO)が設立されている。これは、総会や理事会、航空委員会などの固有の機関を有し、空の安全と発展を目的として活動している。2007年12月にEU理事会は、温暖化ガスの排出権取引を国際民間航空にまで拡張することを決定しており、米国はこれに反対している。2007年9月のモントリオールでのICAO総会では、当事国の合意がない限り排出権取引制度は適用されない旨、決議がなされているが、EUはこれに拘束されないとしている(A.J.I.L., Vol.102, 2008, pp.171-173)。",
"title": "国家領域"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "「国際機構法」あるいは「国際組織法」とは、国際組織(政府間国際組織)(international organizations)に関する国際法の一分野である。国際組織とは、条約によって設立され、共通の目的を有し、それを達成するための常設の機関を持ち、加盟国と独立した法人格を有する国家の集まりをいう(1975年「国家代表に関するウィーン条約」1条)。国際組織法の最大の特徴は、国際組織が生きた組織として変わりゆく国際情勢に対応するために、設立当初の創設者の意思から離れてでも、動態的な目的論的解釈がとられる点にある(「黙示的権能」implied powers)(「武力紛争中の国家による核兵器の使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、C.I.J.Recueil 1996(I), p.79, par.25)。",
"title": "国際機構法"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "国際組織法は、内部法と外部法に分けられる。内部法とは、その国際組織の内部運営(表決制度や予算の決定など)を規律する法の総体をいい、外部法とは、その国際組織の対外的活動を規律する法の総体をいう。本項では、現代の主要な国際組織である国際連合を中心に述べる。",
"title": "国際機構法"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "内部法として、まず、表決制度がある。決議成立の方式としては、一般に、全会一致、多数決、コンセンサスなどがある。国際連合総会の決議は、重要問題を除いて(出席し投票する加盟国の三分の二の多数)、出席し投票する加盟国の過半数で成立する(国際連合憲章18条)。国際連合安全保障理事会の決議は、「常任理事国の同意投票を含む九理事国の賛成投票」で成立する(27条)。慣例により、常任理事国の「棄権」は決議の成立を妨げないとされている。しかし、27条を文言通りに解釈すれば、棄権は「同意」ではないので、決議の成立を妨げるはずである。よって、これについては、法的には、棄権についての規定が欠缺していたとか、暗黙のうちに憲章が改正されたとか説明する他はない。EUでは「共同体法」(EU法)に属する分野について、加重投票の制度が行われている。また、世界銀行でも加重投票で議決される。",
"title": "国際機構法"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "予算の決定については、国連総会によって派遣されたONUC(コンゴ国連軍)及びUNEF(国連緊急中東軍)(いわゆるPKO)への支出が国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に当たるのか争われた。国連憲章上、PKOは明示的には認められていない。これに関して、1962年「国際連合の特定経費(憲章17条2項)」として国際司法裁判所の勧告的意見が下された。裁判所は、17条2項の文言を憲章の全体構造と総会と安保理に与えられたそれぞれの機能に照らして解釈するとし、ONUCとUNEFの活動が国連の主要目的である国際の平和と安全の維持に合致することは、継続的に国連の諸機関によって認められてきたことによって示されているとし、当該支出は「この機構の経費」にあたると判示した(I.C.J.Reports 1962, pp.167-181)。この勧告的意見の理由付けに対しては、批判もある。",
"title": "国際機構法"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "国際機構で働く人については、「国際公務員法」という特別の分野となっている。国連では、職員が関わる争いについては「国連行政裁判所」が国連総会決議によって設立され、活動している。",
"title": "国際機構法"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "外部法としては、まず、国際組織の「国際法人格性」(international legal personality; la personnalité juridique internationale)が問題となる。国際司法裁判所は1949年の「国際連合の任務中に被った損害の賠償」に関する勧告的意見において、(当時としては)国際共同体の大多数の国家に相当する50か国は、国際法に従って、客観的国際法人格を持つ実体を創設する権能(power)を有していたのであり、同時に国際請求をする権能を有すると述べた(I.C.J.Reports 1949, p.185; 皆川『国際法判例集』137頁)。ECも、その設立条約であるEC条約においてECは国際法人格性を有すると規定し(EC条約281条)、国際社会はこれに一般的承認を与えており、現在、ECは京都議定書や世界貿易機関を設立する「マラケッシュ協定」の当事国となっている。",
"title": "国際機構法"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "国連の対外的活動として最も重要なものは、「国際の平和及び安全の維持」に関する安保理の活動である。いわゆる「国連憲章第七章」に基づく行動である。七章に基づく安保理の行動は、冷戦が終結した1990/1991年以降、大変、活発になっている。その端緒は、1990年のイラクのクウェート侵攻の際の、1991年の安保理決議678に基づく多国籍軍の行動である。同決議は、憲章43条に基づく常備の「国連軍」がいまだ創設されていないことに鑑み、加盟国に「全ての必要な手段を用いることを許可する」(authorizes...to use all necessary means)とした。(米英仏サウジアラビアの集団的自衛権に基づく行動が、国連の強制行動へ転換したといえる。)これは、朝鮮戦争において、米国の指揮下にある軍に国連旗の使用を許可した1950年の安保理決議84に端を発すると考えられる。この安保理決議678以降、「全ての必要な手段を許可する」という方式は繰り返し使用され、現在では完全に定着したと言える。",
"title": "国際機構法"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "「自衛権」(the right to self-defense)は、国連憲章51条で、個別的自衛(individual self-defense)、集団的自衛(collective self-defense)とも、「固有の権利」(inherent right; 仏語テキストでは「自然権」le droit naturel)と規定されている。特に「集団的自衛」が「固有の権利」とされている点について、この用語は国連憲章において初めて用いられたものだが、その先駆と言うべきものが戦間期における相互援助条約草案やラインラント協定の中に見られると指摘されうる。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件では、翌月に米国はアフガニスタンを攻撃した。学説上、これが国際法上の自衛権の行使であるとか(米国、英国の立場、A.J.I.L., Vol.96, 2002, pp.237-255.)、違法な武力行使であるとか、自衛概念が一時的に「伸長」したなど様々な議論が行われている。この事件に関連して出された安保理決議1368では、その前文で加盟国の自衛が固有の権利であること確認している。国連憲章51条によれば、自衛権を行使した国はすみやかに安保理に報告しなければならず、米国は、アフガニスタン攻撃後、安保理に報告している。",
"title": "国際機構法"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "近年、安保理の活動は急速に拡大し、「旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所」(安保理決議827)、「ルワンダ国際刑事裁判所」(安保理決議955)に見られるad hocな刑事裁判所の設立から、テロ行為を支援するいかなる措置もとらないよう加盟国に一般的な義務を課す「立法行為」(安保理決議1373)まで及んでいる。",
"title": "国際機構法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "このような安保理の活動の拡大に対して、司法的制御が必要であるという議論が起こっている。1992年「ロッカービー上空での航空機事件から生じた1971年モントリオール条約の解釈、適用問題に関する事件」(社会主義人民リビア・アラブ国対イギリス王国、社会主義人民リビア・アラブ国対アメリカ合衆国)(「ロッカービー事件」)国際司法裁判所仮保全措置命令では、安保理決議748について、国連憲章103条が憲章上の義務の他の国際義務に対する優越性を規定していることから、モントリオール条約よりも同安保理決議が優越するとし、同条約に基づく「一見した」(prima facie)管轄権を否認し、リビアの仮保全措置申請を却下した(I.C.J.Reports 1992, p.15, para.39)。同事件の管轄権判決では、リビアの請求は、安保理決議748及び883が出される前になされているという理由から、管轄権を認めたが(I.C.J.Reports 1998, p.26, para.44)、リビアと米国、英国とで和解が成立し、本案判決が出されずに訴訟リストからはずれ、安保理の司法的コントロールの問題は結論がもちこされた。しかし、2005年9月21日に欧州共同体第一審裁判所が「Yusuf事件」において、オサマ・ビンラディンとその組織への制裁に関して個人に義務を課した安保理諸決議について、それらが国際法上の強行法規(jus cogens)、特に人権の普遍的保護を目的とした強行法規に反する場合には司法的コントロールが拡大されうる、と判示し(T-306/01, point 282)、大変注目されている(他にも同日の「Kadi事件」(T-315/01)第一審判決、「Hassan事件」(T-49/04)および「Ayadi事件」(T-253/02)2006年7月12日第一審判決)。",
"title": "国際機構法"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、EC(欧州共同体)やMercosur(南米南部共同市場)、CARICOM(カリブ共同体)、CAN(「アンデス共同体」; Comunidad andina)、SICA(「中米統合機構」; Sistema de la Integracion Centroamericana)は、域内に共同体をつくる「統合的組織」(les Organisations d'intégration)であり、通常の国際組織と区別する必要がある。",
"title": "国際機構法"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "海洋法あるいは国際海洋法(International Law of the Sea; Droit international de la mer)とは、領海の幅、大陸棚の資源利用、公海の利用に関するものなど海洋にかかわる国際法規の総称をいう。その歴史は古く、植民地時代の「閉鎖された海」(mare claustrum)からグローティウス(グロティウス; Hugo Grotius)の「自由海論」へと発展した背景がある。1958年の一連の条約、いわゆる「ジュネーブ海洋法条約」を経て、第三次国連海洋法会議の成果である1982年の「国連海洋法条約」(英:United Nations Convention on the Law Of the Sea; UNCLOS, 仏:Convention de Montego Bay; CMB)が現在の主要な海洋法の条約となっている。同条約は、深海底の地位について先進国と途上国との対立から発効が遅れていたが、1994年の「国連海洋法条約第十一部実施協定」の成立によって、発効し動き出した。「国連海洋法条約」が、「海の憲法」として他の特別条約に対して優越性を有するか否かという問題は、近年、議論がさかんである(同条約282条を参照)。",
"title": "海洋法"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "領海については、国連海洋法条約は、沿岸国は12海里を越えない範囲で画定できるとする(3条)。領海は、領土と同じ地位にあり、沿岸国の主権が排他的に及ぶ。ただし、他国の船籍の無害通航権は保障されている(17条)。沿岸国の「基線」については、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)で、直線基線の方式が慣習法となっているか争われたが、国連海洋法条約では、直線基線を基本として、改めて詳細な規定がおかれている(7条)。",
"title": "海洋法"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "大陸棚の制度は、1945年の米国による「トルーマン宣言」に由来する。米国は、大規模開発から沿岸漁業資源を守るという目的で、当時の国際法を越える形で、その沿岸に隣接する海洋に保護領域を設け、そこでは沿岸国の主権が及ぶと一方的に宣言した。同宣言は、伝染性を有し、他国も次々と同様の宣言あるいは法令の設定を行い、その結果、大陸棚制度は一般慣習法となった。国連海洋法条約も、大陸棚の制度を認め、基線からその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外延に至る海底及びその下は、沿岸国の主権下にあると定めた(76条)。沿岸国は、大陸棚にある天然資源の開発について主権的権利を有する(77条)。しばしば、国家間で、大陸棚の境界画定問題が起こり、そのうちのいくつかは国際司法裁判所で争われており、近年、この種の訴訟が増加している。",
"title": "海洋法"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "排他的経済水域(EEZ; Economic Exclusive Zone)も、大陸棚と同様に、沿岸国の基線から200海里まで認められている(55,57条)。57条では、排他的経済水域の海底上部水域、海底およびその下の天然資源の開発や海洋環境の保護等のための沿岸国の管轄権が認められている。このように、排他的経済水域の制度と大陸棚の制度は、重なる部分があるため、今日では、両者の「単一境界画定」(single maritime delimitation)が行われることがよく見られる(1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所小法廷判決ほか)。また、沿岸国は、漁業資源の保存に関して「漁獲可能性」を決め、最良の科学的証拠によって生物資源のための適当な保存措置を執らなければならない(61条)。",
"title": "海洋法"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "公海(High Sea)は、今日の海洋法において、最も変動が激しい分野である。原則として、「公海自由の原則」に則り、全ての国は公海を自由に漁獲することが出来る(116条)。ただし、生物資源の保存のために必要な措置を執り、他国と協力する義務がある(117条)。この規定により、近年、沿岸国が排他的経済水域を越えて、自国に接する公海における一方的漁業制限措置・環境保護措置を執ることがしばしば見られる。例えば、カナダによる1970年の「北極海水域汚染保護法」や同国による1994年の「沿岸漁業保護法」(The Costal Fisheries Protection Act)である。後者について、1995年にスペイン船舶「エスタイ号」がカナダ政府の船舶によって拿捕されるという事件が起こった。同事件は、国際司法裁判所の「漁業管轄権事件」(スペイン対カナダ)として争われたが、裁判所はカナダの選択条項受諾宣言の留保を根拠に、管轄権がないと判示した。その後、カナダとECで和解が結ばれた(34 I.L.M. 1263(1995))。そして同年、1995年に公海における海洋資源保護を強化した「国連公海漁業実施協定」が成立するに至った。最近では、2003年にフランスが、自国の排他的経済水域を越えて、地中海にまで環境保護のための自国の管轄権を拡大する法律を制定し(Loi n°2003-346 du 15 avril 2003 relative à la création d'une zone de protection écologique au large des côtes du territoire de la République, R.G.D.I.P., 2004/1, pp.285-291)、議論になった。1999-2000年の「みなみまぐろ事件」(オーストラリア・ニュージーランド対日本)は、日本が実に100年ぶりに国際裁判に登場したことで話題となった。国際海洋法裁判所の仮保全措置命令では、日本に暫定的なみなみまぐろの漁獲の制限を命じたが(38 I.L.M.1624(1999))、続く、仲裁裁判所での管轄権判決では、「みなみまぐろ保存条約」(CCSBT)では当事国で選択された手段で紛争を解決すると規定されており、国連海洋法条約の下の義務的管轄権はないと判示し、前記仮保全措置を取り消し、日本の勝訴となった(39 I.L.M.1359(2000))。",
"title": "海洋法"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "深海底(The Area; la Zone)は、南極、宇宙とともに、「人類の共同遺産」(common heritage of mankind)と規定されている(136条)。そのため、深海底の自由な開発を主張する先進国と、「機構」(The Authority; l'Autorité)による管理を主張する途上国との対立が長引き、国連海洋法条約は発効できずにいた。しかし、1994年の前記「第十一部実施協定」は、先進国の技術移転を削減することで元の部分を和らげる形で成立するに至った。(国際化領域の項も参照。)",
"title": "海洋法"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また、国連海洋法条約の下、1996年に国際海洋法裁判所(ITLOS; International Tribunal for the Law of the Sea)が設立され、活動している。すでにいくつかの拿捕事件などについて裁判が行われている。最近、日本の漁船がロシア当局に拿捕された事件である、「豊進丸号事件」(日本対ロシア)(No.14)と「富丸号事件」(日本対ロシア)(No.15)(ともに2007年8月6日判決)が争われた。前者では、日本の保釈金が大幅に減額されてロシアによる、漁獲物を含む豊進丸号の速やかな釈放(prompt release)及び乗組員の無条件の解放が示された(Judgment, para.102)。後者の事件は、すでにロシア最高裁判所で決定済みであり、日本はこれを争うことはできないと判示された(Judgment, para.79)。",
"title": "海洋法"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "「国際化領域」(les zones internationalisées)とは、国際的地位を与えられ、国際的管理の下におかれている領域をいう。古くからは国際河川(ライン川、ムーズ川など)、国際運河(スエズ運河、パナマ運河、キール運河など)があるが、ここでは、その特徴が最も現れている、南極、深海底、宇宙を扱う。これら三つは全て、全人類の利益の追求、領域権原取得の禁止、平和的利用の原則(非軍事化)という特徴を有する。",
"title": "国際化領域"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "南極(Antarctica)は、現在、1959年の「南極条約」によって規律されている。2008年6月現在、当初、南極地域における領土権を主張していた国(イギリス、ニュージーランド、フランス、ノルウェー、オーストラリア、チリ、アルゼンチンの7か国; 「クレイマント」)も含めて、締約国数は46か国である。その第一の目的は、「南極地域は、平和的利用のみに利用する」(1条)にある。南極地域における軍事基地や軍事演習は禁止される。また、同条約は、科学的調査の自由(2条)とそれについての国際的協力(3条)を規定する。そして、いかなる国による領土権・請求権の凍結が定められている(4条)。また、南極地域は、「非核化」されており、核爆発と放射性廃棄物の処分は禁止される(5条)。南極地域の管理に関して、国際組織が存在するわけではないが、これを国際的に管理する制度として、「南極条約協議国会議」(Antarctic Treaty Consultative Meetings; ATCMs)が置かれ、それは「勧告」を行う(9条)。また査察制度も置かれており、締約国は、この条約の遵守を確保するために、協議国会議に出席できる「監視員」(observers)を指名する権利を有する(7条)。また、近年、ますます重要になっているのが、南極地域における「生物資源の保護」(9条(f))である。第四回協議国会議の結果を経て、1980年に「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」が成立した。また、1991年には「環境保護に関する南極議定書」が成立した。",
"title": "国際化領域"
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"text": "「南極条約体制」が「客観的制度」(objective régime)として、条約の第三国も拘束するという主張がしばしばなされる。その根拠は、「南極条約」の「この機構は国連加盟国でない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない」(5条1項)、「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」22条および「環境保護に関する南極議定書」13条2項の、「各締約国は、いかなる者もこの議定書に反する活動を行わないようにするため、国際連合憲章に従った適当な努力をする」という規定にあると考えられる。これについては学説上争いがあり、仮に南極条約締約国が南極地域における排他的管轄権を有しているとしても、条約の第三国に対する効力は、いわゆる「第三国効力」ではなく、合法的に創設された法的状況を尊重する一般的義務があるにすぎないとする見解もある。",
"title": "国際化領域"
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"text": "深海底は、国連海洋法条約133条から191条で規定されており、国家管轄権の外にあり、「人類の共同遺産」(common heritage of mankind; CHM)制度が適用される地域である。すなわち、「深海底及びその資源は、人類の共同遺産」(136条)であり、「いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張又は行使してはならず」(137条)、深海底における活動は「人類全体の利益のために行う」(140条)。また、「深海底は...全ての国による専ら平和的目的のための利用に開放する」(141条)とする。国際管理のための制度的メカニズムとしては、「深海底機構」(The Authority)が置かれる。「機構」は、総会、理事会、事務局を有し、「決定」(decisions)を下すことができる。総会は三分の二の多数決で「決定」を行うことができる(159条)と当初されていたが、しかし、1994年の「第十一部実施協定」で、「原則として、機構の意思決定は、コンセンサス方式によって行うべきである」(3節2項)と規定され、かつ理事会は、運営、予算、財政に関するあらゆる事項についての決定を妨げることができるようになっている(4項)。",
"title": "国際化領域"
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"text": "宇宙は、1966年の「宇宙条約」(「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」)を宇宙基本法とする法体系の下にある。まず、その1条は、「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用は、全ての国の利益のために...全人類に認められる活動分野である」とし、「国際法に従って自由に探査し及び利用することができる」とする。2条では、いかなる国によっても領有権の主張は禁止され、4条では、大量破壊兵器の打ち上げを禁止し、宇宙は専ら平和的目的のために利用されるものとする、と規定する。また、この宇宙基本法を基礎として、「宇宙救助返還協定」、「宇宙損害責任条約」、「宇宙物体登録条約」、「月協定」が成立している。「月協定」11条によれば、「月及びその天然資源は、人類の共同遺産である」とされている。また、同条約7条で、月環境の保全が定められていることも、注目に値する。これにより、「環境」という概念が、宇宙空間まで拡張されたことを意味する。また、1963年の「部分的核実験禁止条約」により、宇宙空間も「非核化」されている。国家責任制度については、無過失責任が採用されている(前記「宇宙損害賠償責任条約」2条)。宇宙空間の国際的管理の制度に関しては、国連の下につくられた「宇宙空間平和利用委員会」が活動している。衛星など技術的な側面については「国際電気通信連合」にゆだねられている。",
"title": "国際化領域"
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"text": "国家管轄権の項で述べたように、国家は、国際法上、個人の国籍に基づき、属人的管轄権を行使できる。ここでは、国籍の決定、取得について述べる。",
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"text": "国籍(nationality; la nationalité)は、個人と国家の連結を意味し、それには二つの側面がある。",
"title": "個人管轄"
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"text": "まず、国籍決定は、国家の自由である。国家は、自決権に基づきその国民の構成を支配するものとして国籍決定の排他的権限を有する。国際司法裁判所は、1955年の「ノッテボーム事件」判決において、「国際法は、各国家にその固有の国籍の帰属を決定する管理を委ねている」と述べた(C.I.J.Recueil 1955, p.23)。日本も、「国籍法」という形で、日本国籍取得の条件を法律で定めている。国籍取得のあり方は各国が自由にその基準を決めることができ、「血統主義」(jus sanguinis)と「生地主義」(jus soli)がある。日本の国籍法は、血統主義を採用している。また、「帰化」(naturalisation)は、外国人がその国の国籍を有する個人と結婚した場合や、継続的にその国に居所を有することから認められる場合である。",
"title": "個人管轄"
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"text": "各国家に、国籍決定の自由を委ねている故に、各国の国籍付与が競合することもあり得る(国籍の対抗力)。国籍は、国家の外交保護権の行使の基礎となる。前掲「ノッテボーム事件」では、ノッテボームが34年間にわたってグアテマラに住んでいたこと、彼がリヒテンシュタインへ帰化した後もたびたび戻り彼の利益と活動の中心をグアテマラに保持していること、などから、裁判所は、ノッテボームとグアテマラの「長年にわたる緊密な結び付きの関係」(un lien ancien et étroit de rattachement)を認め、リヒテンシュタインはその要請を不受理と宣告されなければならないと判示した(C.J.I.Recueil 1955, pp.25-26; 皆川『国際法判例集』489頁)。これを「実効国籍の原則」という。",
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"text": "他方、国籍取得は、個人の基本的人権であるという側面も有する。「世界人権宣言」15条は、「すべての者は、国籍を取得する権利を有する」と規定する。「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)24条は、児童の国籍取得の権利を認める。国籍は、その国内における人権保障を与えられる重要な要素である。ゆえに近年は、国籍取得の人権としての側面に重点が置かれ、特に国籍による差別の問題が議論される。",
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"text": "日本では、2008年6月4日の最高裁判決で、国籍法3条にある「準正」(legitimation)による国籍取得要件として、「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のものは、認知をした父又は母が子の出生時に日本国民であった場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき」、その子どもは日本国籍を取得すると規定している点につき、今日における社会情勢や家族のあり方の変化により、両親の婚姻を子の国籍取得の条件としているのは憲法14条の法の下の平等に反するとし、国籍法5条の憲法との「適合解釈」を行い、原告の日本国籍の取得を認めた。",
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"text": "最後に、法人の国籍について、連結要素としては、設立準拠法国、支配の場所、株主の国籍が考えられる。1970年の「バルセロナ・トラクション事件」(ベルギー対スペイン)では、ベルギーがその多数の株主の国籍国として外交保護権の行使を主張したが、裁判所は、外交保護権の領域では他の分野と同様に合理的適用が要求されているとし、法人の外交保護については一般に実効的連結に適用される絶対的基準は認められず、様々な結びつきのバランスをとらねばならないとし、「ノッテボーム」判決の適用を否認した。そして、当該法人がカナダで設立されそのカナダ国籍は一般的に認められていること、ベルギーもそれを認めてきたことなどから、ベルギーの訴えを退けた(C.I.J.Recueil 1970, pp.42-44, pars.70-76, pp.50-51, par.100、皆川『国際法判例集』521-527頁)。この判決については、種々の議論がある 。",
"title": "個人管轄"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "「国際人権法」(International Human Rights Law; Droit international des droits de l'Homme)とは、国際法によって個人の人権を保障する、国際法の一分野をいい、第二次大戦後に急速に発展してきた分野である。第二次大戦前は、人権は国内問題として、国内問題不干渉義務(国際連盟規約15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。しかし、第二次大戦の反省から、国連憲章において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。その端緒は、1948年の国連総会において採択された「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)である。",
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"text": "国際人権法は、二つに分類することができる。普遍的保障と地域的保障である。",
"title": "国際人権法"
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"text": "第一に、普遍的保障であるが、これは、国連システムと条約制度に分けられ、多くの場合が一般的に強制力をもった履行手続きを備えていない。",
"title": "国際人権法"
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"text": "国連システムでは、国際連合経済社会理事会が創設した「国際連合人権委員会」の制度があった。2006年に、同委員会は「国際連合人権理事会」(the Human Rights Council)に発展した(国連総会決議60/251; A/RES/60/251, 3 April 2006)。しかし、基本的な性格や目的は、維持されているといえる。すなわち、国連人権理事会は、テーマ別人権問題について対話の場を提供したり(同決議、5項(a))、各国による人権に関する義務の履行の普遍的定期的審査を行ったり(同項(e))、法的拘束力のない「勧告」(recommendations)を行ったり(同項(i))するにとどまる。国連人権委員会での最大の問題点がその「政治性」であったが、人権理事会となった現状でも、独立した判断機関とはいえず、政治的組織の内部に属するものにとどまっているという他はない。国連システムにおける人権保護は、「1235手続き」及び「1503手続き」に基づく「国別手続き」、そして「テーマ別手続き」に分かれる。",
"title": "国際人権法"
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"paragraph_id": 92,
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"text": "条約制度として、世界人権宣言を条約化したといわれる経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)と市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約;ICCPR)があるが、特に発達している自由権規約の制度においても、自由権規約の第1選択議定書の下の個人通報制度では、自由権規約人権委員会 (the Human Rights Committee) は、法的拘束力のない「見解」(views)を述べる権限を有するにとどまる。他にも、国連の下で、人種差別撤廃条約、アパルトヘイトの防止と処罰に関する条約、女子差別撤廃条約、こどもの権利条約等の人権条約が作成され、実施されているが、同様に、拘束力のある決定を下す機関はない。",
"title": "国際人権法"
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"text": "第二に、地域的保障は、欧州人権条約(正式名称、「人権と基本的自由の保護のための条約」)、米州人権条約、アフリカ人権憲章(正式名称、「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」)が非常に発達している。各制度は、独自の人権裁判所を有しており、強制的な法的拘束力のある判決を下して、その実効性を担保している点で、先の普遍的保障の制度と大きく異なる。なお、アジアにおいて、地域的人権条約を創設しようとする努力もなされたことがあるが、いまだ実現していない。",
"title": "国際人権法"
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"text": "欧州人権条約は、「欧州評議会」(le Conseil de l'Europe; the Council of Europe)の下、基本的自由が世界における正義と平和の礎であるとして(前文)、1950年につくられた。加盟国は、広く、EU諸国から、ロシア、トルコまで含む。国家に加えて、個人や非政府団体も、ここに締約国の条約違反を直接訴えることができる(34条)「欧州人権裁判所」を有し、現在、大変活発に活動している。同裁判所の判決は強制力を有し(第46条)、加盟国を直接、法的に拘束する。",
"title": "国際人権法"
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"text": "米州人権条約は、1969年に欧州人権条約にほぼ倣ってつくられた制度であり、同様に「米州人権裁判所」を有する。同裁判所も活発に活動しており、国際法の観点からは、例えば、1999年に国際司法裁判所で争われた「ラグラン事件」(メキシコ対米国)に関連して、独自に勧告的意見を出したことなどが、注目されている。",
"title": "国際人権法"
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"text": "1981年に成立した人及び人民の権利に関するアフリカ憲章は、人権の保護を目指すと同時に、人民の平等(19条)や発展の権利(22条)も目的としている。同条約が設置していた「アフリカ人権委員会」は、その後、2006年に「アフリカ人権裁判所」(正式名称、「人及び人民の権利のアフリカ裁判所」; la Cour africaine des droits de l'homme et des peuples)に代わり、他の地域的制度と同様に司法機関を持つようになった。しかし、条約の実効性については、未だ発展段階にあるといえる。2008年7月1日に、「アフリカ司法人権裁判所規程に関する議定書」(Protocol on the Statute of the African Court of Justice and Human Rights)が成立し、これによれば、「アフリカ人権裁判所」と「アフリカ連合司法裁判所」の二つの裁判所が統一されることになっている(2020年6月18日現在、55ヶ国中、署名33ヶ国、批准8ヶ国。発効には15ヶ国の批准が必要)。この新たな裁判所は、条約、慣習法、アフリカ諸国に共通の一般原則を適用するとされ、勧告的意見も発することができることになっている。",
"title": "国際人権法"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "国際人権法の最大の課題は、その国内的実施である。特に、各種人権条約の国内法秩序への直接適用性(direct applicability)が問題となる。日本において、自由権規約(ICCPR)については、国内判例では、1994年4月27日大阪地裁判決、1993年2月3日東京高裁判決、1997年3月27日札幌地裁判決ほかで関連条項の直接適用性が認められた。社会権規約(ICESCR)については、これが漸進的性格を有するゆえに、原則として直接適用性は認められず、1984年12月19日最高裁判決(「塩見事件」)でもICESCR第9条の直接適用性が否認されたが、社会権規約委員会(the Committee on Economic, Social and Cultural Rights)の一般注釈第3番(General Comment No.3)ではICESCR第2条の差別の禁止等、特定の条項は自動執行力があるとされている。",
"title": "国際人権法"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "「国際経済法」(International Economic Law)とは、国家間の経済活動を規律する国際法の一分野であり、第二次大戦後に急速に発展した分野の一つである。1947年の「関税と貿易に関する一般協定」(GATT; General Agreement on Tariffs and Trades)により、経済的価値が国際法に導入された。GATTの目的は、自由貿易の促進にある。そのために、「自由」(貿易制限措置の関税化及び関税率の削減; 関税譲許(2条))、「無差別」(最恵国待遇(1条)および内国民待遇(3条))、「多角」(=ラウンド、交渉)の三原則が存在する。",
"title": "国際経済法"
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{
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"text": "そして、多角的貿易交渉・ウルグアイ・ラウンドの成果として、1994年に「マラケッシュ協定」が成立し、翌年、「世界貿易機関」(WTO; World Trade Organization)が設立に至り、単なる条約にすぎなかったGATT制度は、国際組織となった。そして、ウルグアイ・ラウンドで結ばれた数々の協定により、その対象領域は急速に拡大した。例えば、「サービスに関する一般協定」(GATS; General Agreement on Trade in Services)、「衛生植物検疫措置の適用に関する協定」(SPS協定; Agreement on the Application of Sanitary and Phytosanitary Measures)、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPs協定; Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)、「紛争解決に係わる規則及び手続きに関する了解」(Understanding on Rules and Procedures Governing the Settlement of Disputes)などである。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 100,
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"text": "WTOによって設立された紛争解決機関(DSB; Dispute Settlement Body)は、その後のGATT/WTO法の実効性に大きく寄与することとなった。特に、米国によりたびたび適用されてきた「スーパー301条」による一方的措置がこれによって禁じられ、全ての紛争は、「小委員会」(Panel)及びその上訴機関の「上級委員会」(AB; Appellate Body)の「報告」(Report)に服することになった。GATT/WTO法は、自己完結的制度(self-contained regime; un régime se suffisant à lui-même)といえるだけの性格を保有するに至ったといわれることもある。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 101,
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"text": "また近年、GATT/WTO法による環境保護が急速に発展している。GATT20条(b)は、「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」を、同条(g)は、「有限天然資源の保存に関する措置」を、締約国に認めている。ただし、20条前文は、「ただし、それらの措置を、...濫用的に(arbitrary)もしくは正当と認められない差別的待遇の手段となる方法で...適用しないことを条件とする」としている。WTOが出来る前の1991年の「第一マグロ・イルカ事件」(メキシコ対米国; Tuna/Dolphine Case I)において、パネルは、20条(b)または(g)によって域外管轄権の行使を認めると、GATTで保障されている他の締約国の権利を害することになってしまう、として、米国の海洋哺乳動物保護法(MMPA; Marine Mammal Protection Act)による措置は正当化できないとした(Report of the Panel, paras.5.27, 5.32, 30 I.L.M. 1594(1991))1994年の「第二マグロ・イルカ事件」(Tuna/Dolphine Case II)においても、本質的に同様の理由により、米国のMMPAに基づく措置は正当化できないとした(33 I.L.M. 839(1994))。しかし、1998年の「小エビ事件」において、上級委員会は、GATT20条(g)にある「有限天然資源」の文言について、他の環境条約も考慮した「発展的解釈」により、「生物天然資源及び非生物天然資源」も含むと解釈した(WT/DS58/AB/R, paras.129-130)。これにより、各国の天然資源保護を目的とした一方的措置の可能性が開けたといえる。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "TRIPs協定については、2001年の「ドーハ宣言」によって、抗HIV薬の特許に関するモラトリアムを最貧国(LDCs)に対しては2012年まで延期する旨、決定されたことが注目される。その後、インドや南アフリカにおいて、ヨーロッパの製薬会社が、抗HIV薬の違法コピーを訴える事件が起こったが、南アフリカでは製薬会社が訴訟を取り下げ(Le Monde interactif, 19 avril 2001)、インドでは製薬会社の訴えを退ける判決が下されている(「Novatis vs.Union of India他事件」マドラス高等裁判所判決、2007年8月6日、W.P.Nos.24759 and 24760 of 2006)。",
"title": "国際経済法"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "農業分野では、日本・EUと米国の対立が解けず、シアトル・ラウンドは不成功に終わった。現在も、農業分野の協議が続行されているが、日本は農業生産物の輸入関税の大幅な引き下げを余儀なくされることが危惧されている。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "また、最近では、各国間で「自由貿易協定」(FTA; Free Trade Agreement)や「経済連携協定」(EPA; Economic Partnership Agreement)が活発に結ばれている。これは、GATT24条の、貿易の自由の拡大のための関税同盟(例えば、EC)または自由貿易協定を締結することを認める、という規定に基づく。日本は、2002年にシンガポールと初のFTA(日本・シンガポール新時代経済連携協定)を締結した。その後も、メキシコとFTAを締結、ASEAN諸国を中心にその他の国ともEPAを活発に結び、また結ぼうとしている。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "日本は、環太平洋パートナーシップ協定を結び、これは2018年12月30日に発効した(TPP11)。",
"title": "国際経済法"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "国際環境法とは、国際的な環境問題に対処するための国際法の一分野である。その特徴は、「持続可能な発展」(Sustainable Development; SD)概念として現れている。すなわち、従来の国際法が、現在の世代の利益のみを考慮していたのに対して、近年の国際環境法、特に地球環境保護を目的としたものは、現在のみならず将来世代の利益の保護を目指したものであり、過去、現在、未来世代という、時間を超越した「人類」(l'humanité)概念に結びついている。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "確かに、20世紀半ばまでは、国際環境法も他分野と同じく、主権国家間の紛争の平和的解決の手段にすぎなかった。すなわち、当時は、「領域使用の管理責任」概念や「相当の注意義務」(due diligence)概念を適用する「共存の国際法」であった(1941年「トレイル溶鉱所事件」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決、A.J.I.L., Vol.35, 1941, p.716)。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "しかし、1972年の「ストックホルム人間環境宣言」を契機に、地球環境保護が、「人間の福利および基本的人権ひいては生存権そのものの享有にとって不可欠である」(前文)と認められるに至った。このころの国際環境法は、海洋汚染対策(1973年の「航行による汚染に関するロンドン条約」)、特定の動植物の保護(1979年の「野生動物相に属する移動性の種の保護に関する条約」)、UNEPの下で採択された各種地域海洋に関する条約など、まだ「部門別アプローチ」の方式をとっていた(「第一世代の国際環境法」)。",
"title": "国際環境法"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "その後、1980年代後半からは、国際共同体全体の利益を管理することを中心問題とした「第二世代の国際環境法」を設定する条約が次々と生まれるようになった。オゾン層の保護、地球温暖化への対処、生物多様性の保護、砂漠化への対処などである。1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された環境と開発に関する国際連合会議から生まれた、「気候変動枠組条約」、「生物多様性条約」、そして法的拘束力はないが「森林原則宣言」は、その典型的なものである。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "現代の国際環境法の特徴は、(1)防止原則/予防原則、(2)共通だが差異のある責任、(3)私的アクターの三つが挙げられる。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "第一に、「防止原則」(Preventive Principle; 「ストックホルム人間環境宣言」第21原則、「環境と開発に関するリオ宣言」第2原則)とは、科学的予測によって、自国の行為が環境を害する恐れがある場合には、前もってその行為を思いとどまらなければならない、という原則である。近年は、それよりさらに進んだ「予防原則」(precautionary principle; 「リオ宣言」第15原則)が確立し始めており、すでにいくつかの条約で採用されている(「気候変動枠組条約」3条3項、「生物多様性条約」前文および「カルタヘナ議定書」10条6項ほか)。それは、たとえ科学的データによって環境を害することが明らかではない場合でも、重大で回復不能な損害を与えるリスクの存在だけで、当該行為を規制しなければならないという原則である。ただ、「予防原則」が一般慣習法に成熟したかどうかは、争いがある。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "1998年「EC・ホルモン肉事件」において世界貿易機関(WTO)上級委員会は、予防原則が一般または慣習国際法であると加盟国によって幅広く受け入れられているかはより明らかではなく、ただこの抽象的な問題には入り込む必要はないとした。そして、予防原則は小委員会を通常の条約解釈の義務から解放するものではなく、それはSPS協定5条1項及び5条2項をくつがえすものではないと判断した(WT/DS26/A/R, WT/DS48/A/R, 16 January 1998, pp.46-48, paras.120-125.)。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "その後、2011年「深海底における活動に関連する国の責任と義務」国連海洋法裁判所海底紛争裁判部勧告的意見において、予防アプローチはますます多くの国際条約の中に取り込まれてきており、それらの多くはリオ宣言第15原則の形式を反映しているのであり、そのことにより同原則が慣習国際法の一部になる方向への傾向が始まったと示した(ITLOS Reports 2011, p.47, para.135.)。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "第二に、「共通だが差異のある責任」(common but differentiated responsibility; 「リオ宣言」第7原則)は、精神的な結びつきである「国際共同体」概念がその基礎にあると考えられる。すなわち、十分な対応能力を有する先進国と比べて、技術力や資金力を有しない発展途上国を別に扱うことである。たとえ違反が行われてもその事実のみを指摘して制裁を科さない「不遵守手続き」(Non-Compliance Procedure; NCP)や先進国から途上国への技術移転、資金援助などを規定する国際条約が、今日では非常によくみられる。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "第三に、私的アクター、すなわちNGO(非政府組織)が様々な条約作成や履行委員会などの国際会議に出席して発言したり、ロビー活動を通じて国家の意思決定に積極的に関わるという現象が見られる。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "また法源としては、事態に敏速に対応するために、まず「枠組条約」(framework-convention; une convention-cadre)を設定した後、締約国会議(COP; Conference Of the Parties)を継続させ、その中で「議定書」(Protocol)、「附属書」(Annex)、「決定」(Decision)を追加していく、という方式がよく採られる(気候変動枠組条約のCOP3(1997年)で成立した「京都議定書」ほか)。また、ソフトロー的な法的拘束力のない文書を先行させて、後のハードローである条約や慣習法の成立を誘発させる、という形もとられている。",
"title": "国際環境法"
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{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "「紛争解決」については、紛争の平和的解決の義務が国際法上、確立している。国連憲章2条3項は、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と定める。これは、憲章2条4項の武力による威嚇または行使の禁止原則からも導かれ、武力によって紛争を解決してはならないことに帰着する。また、憲章33条1条は、「いかなる紛争でも...その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取決の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない」と規定する。すなわち、平和的解決の手段の当事者の自由選択性である。この33条で定められた原則は、慣習国際法になっているとされる(「ニカラグアにおける及びニカラグアに対する軍事的、準軍事的活動事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1986, p.145, para.290)。「国際紛争の平和的解決に関するマニラ宣言」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの迅速かつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする。",
"title": "紛争解決"
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{
"paragraph_id": 118,
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"text": "「交渉」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation in good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。",
"title": "紛争解決"
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{
"paragraph_id": 119,
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"text": "「審査」(enquiry; l'enquête)とは、紛争の解決の枠組みにおいて、争われている事実の公平な解明を目的とする手続きである。1907年の「国際紛争平和的処理条約」9条では、「締約国ハ、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ...之ヲシテ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当タラシムル」とされる。",
"title": "紛争解決"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "「仲介」(mediation; la médiation)とは、紛争両当事者の合意によって求められる一又は複数の第三者(国家、機関、私人)が両当事者の間に入って話し合いを促進させるために両者の主張を融和させることをいう(cf.「国際紛争平和的処理条約」4条)。",
"title": "紛争解決"
},
{
"paragraph_id": 121,
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"text": "「調停」(conciliation; la conciliation)とは、「固有の政治的権限のない機関が、係争にある当事者の信頼を享受し、係争の全ての面を検討し当事者に拘束的でない一つの解決を提案する任務で、国際紛争に介入することと定義されうる」。",
"title": "紛争解決"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "「仲裁裁判」(arbitration; l'arbitrage)とは、広義には、当事者によって委ねられた第三者によってなされる法的拘束力のある決定によって紛争を解決する方法である(cf.「ローザンヌ条約第3条2項の解釈」常設国際司法裁判所勧告的意見、C.P.J.I., série B, n°12, 1925, p.26)。仲裁裁判判決に対しては、(1)裁判所の「権限踰越」、(2)裁判官の買収、(3)判決の理由の欠如または手続きの根本規則の重大な逸脱、(4)仲裁の合意または付託合意(コンプロミー)の無効を根拠に判決の無効を訴えることができるとされる(国連国際法委員会「仲裁手続きに関する規則モデル」35条)。1960年の国際司法裁判所における「1906年12月23日にスペイン王が下した仲裁判決に関する事件」はその例である。また、「エリトリア・エチオピア紛争」では、両国の合意で常設仲裁裁判所の下での「境界委員会」の設置が決まり、それは「最終的で拘束的」(final and binding)とされた。同委員会は、2002年4月13日に境界画定の決定を下したが、エチオピアはこの決定に対して、「解釈、修正、協議ための」請求を提示した。「境界委員会」は上訴は認められないとし、これを退けたが、両国の緊張は再び高まり、国連安保理が介入するに至り、2005年12月19日に両国の合意に基づいて設置された「賠償委員会」の決定が下され、2006年11月27日には、「境界委員会」は両国欠席のまま、緊急に境界画定に関する報告を発している(R.G.D.I.P., t.110, 2006/1, pp.195-202.)。",
"title": "紛争解決"
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "「司法的解決」(judicial settlement; le règlement judiciaire)とは、当事者の外部にある、法に基づいて法的拘束力のある決定を下すことのできる権限を有する機関(裁判所)によって紛争を解決することである。その典型例が、国際司法裁判所の判決による紛争の解決である。国際司法裁判所で裁判を開始するためには、両当事国による裁判付託の同意が必要である。ただし、国は裁判管轄権が義務的であるといつでも宣言することができ(選択条項受諾宣言; Optional Clause)、この宣言を行った国の間においてはその宣言が定める事項的、時間的範囲内で国際司法裁判所は管轄権を有する(国際司法裁判所規程36条2項)。特定の条約において、その条約の適用、解釈の問題が起こった場合には国際司法裁判所に付託することを締約国に義務づけている場合もある(「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」9条、「義務的紛争解決についての領事関係に関するウィーン条約第一選択議定書」1条ほか)。国際司法裁判所の判決は、「当時国間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する」(国際司法裁判所規程59条)。また、「判決は、終結とし、上訴を許さない」(同60条)。",
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"paragraph_id": 124,
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"text": "1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」(エチオピア対南アフリカ、リベリア対南アフリカ)において、田中耕太郎判事は、裁判所は法体系、法制度、法規範から独立して法を創造することは許されていないが、それら法体系らの存在理由(raison d'être)から導き出したもので法の欠缺を埋めることは可能であるとした。そして、社会秩序及び個人の必要性(necessity)が法の発展の指導要素の一つであることは認めなければならないとし、必要性が当事国や関係国の意思から独立して法を創造しても、(国際組織の承継に関する)当事国の「合理的に仮定される(引き受けられる)意図」(reasonably assumed intention)による説明が意思主義と妥協しうると説いて、被告南アフリカは国際連盟規約22条及び委任状の国際義務を保持し続けている、と結論した(Dissenting Opinion of Judge Tanaka, I.C.J.Reports 1966, pp.277-278.)。",
"title": "紛争解決"
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"text": "国際司法裁判所以外にも、常設仲裁裁判所(PCA)などがある。常設仲裁裁判所は、国際司法裁判所と違って、個人または団体も当事者となることができるのが最大の特徴である。また、特定の条約制度(レジーム)内において、紛争解決のための独自の司法制度を整えているものもある。例えば、国連海洋法条約における司法制度(287条)及び同附属書VIによる国際海洋法裁判所(ITLOS)、世界貿易機関(WTO)における紛争処理機構(DSB)(パネル(Panel)、上級委員会(AB)の報告及びその履行)である。企業と外国国家間の投資に関する紛争を解決するための「投資紛争解決国際センター」(ICSID)も設置され、現在、大変活発に活動している(「国際投資法」)。",
"title": "紛争解決"
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"text": "このように、今日では、常設の司法機関が次々と創設され、「国際裁判所の増加」(la multiplication des juridictions internationales)の現象が起きている。このため、異なる裁判所間で、同一の事項につき異なる判断がなされる結果としての「国際法の断片化」(fragmentation)が議論されている。",
"title": "紛争解決"
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"paragraph_id": 127,
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"text": "上記のような紛争の平和的解決を経て、ある国の国際義務違反が確認、認定された場合には、その違法行為によって生じた損害を賠償(reparation)する義務が生じる。これは、「国家責任法」という、また別の大きな国際法の一分野である。国家責任法とは、「国家の国際違法行為から生じうる国際法上の新たな関係」(ILC条約草案1条コメンタリー; YbILC, 1973, Vol.II, Pt.2, p.176)を規律する法規則の総体をいう。2001年には、実に約50年をかけて、国連国際法委員会(ILC)による同法の慣習法の法典化として、「国際違法行為に対する国の責任」(Responsibility of States for Internationally Wrongful Acts)条約草案(「国家責任条約草案」、特別報告者James Crawford)が国連総会で採択された(2001年12月12日、国連総会決議56/83)。その第1条では、「国のすべての国際違法行為は、当該国の国際責任を伴う」とされている。これに従い、責任を負う国は、賠償として、「原状回復」(35条)を原則に、それでは十分に回復されないときには「金銭賠償」(36条)、「精神的満足」(satisfaction)(37条)を損害を被った国に対して行う義務がある。同条約草案は、一般国際法の強行規範(jus cogens)に基づく義務の重大な違反の法的帰結を定めており、諸国の合法的な手段によるその違反の終結のための協力義務とその違反によってもたらされた状態の不承認義務が規定されたことが特に注目される(41条)。",
"title": "紛争解決"
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{
"paragraph_id": 128,
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"text": "「武力紛争法」(Laws of War; Droit des conflits armés)とは、戦時に適用される国際法(戦争における法 jus in bello)の総称であり、武力行使の発動に関する法(戦争のための法 jus ad bellum)と対比をなすものである。その本質は、戦時における人間の保護にある。従来より「戦時国際法」とも呼ばれていたが、現代的には「国際人道法」(International Humanitarian Law; Droit international humanitaire)と称されることもある。しかし、武力紛争法の一部である「中立法」は、国際人道法から除かれる。また、国際人道法は、今日、その適用範囲を拡大し、戦時における非交戦の個人の保護のみならず、平時における非人道的行為から個人を保護することまでも含み、「国際人権法」の領域と重なるようになっている(「国際刑事裁判所規程」参照)。「国際刑事法」(International Criminal Law; Droit international pénal)は、重大な国際人道法の違反行為を処罰する法として存在するが、さらにハイジャックや海賊、テロ行為の処罰までも射程に入れており、その適用範囲は広い。",
"title": "武力紛争法"
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{
"paragraph_id": 129,
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"text": "武力紛争法には、二つの法があるとされる。「ハーグ法」(Hague Law; Droit de La Haye)及び「ジュネーブ法」(Geneva Law; Droit de Genève)である(1996年「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、I.C.J.Reports 1996(I), p.256, para.75)。",
"title": "武力紛争法"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "「ハーグ法」とは、主として、1868年の「サンクトペテルブルク宣言」や、1899年から1907年にオランダのハーグにおいて慣習を法典化した国際条約、すなわち、「開戦に関する条約」、「陸戦の法規慣例に関する条約」(これに付属する「陸戦の法規慣例に関する規則」)、「陸戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」、「海戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」など一連のものを指す。それらの目的は、交戦国・交戦員の軍事作戦の行動の際の権利と義務を定め、国際武力紛争において敵を害する方法と手段を制約することにある。",
"title": "武力紛争法"
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{
"paragraph_id": 131,
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"text": "「ジュネーブ法」とは、「ジュネーヴ諸条約 (1949年)」及びそれに付属する「ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)」(「第一追加議定書」、「第二追加議定書」)及び2005年の「第三追加議定書」で定められた規則の総体で、戦争犠牲者を保護し、戦闘不能になった要員や敵対行為に参加していない個人の保護を目的とするものである。",
"title": "武力紛争法"
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{
"paragraph_id": 132,
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"text": "武力紛争法においては、締約国は、たとえ条約によって規定されていない場合においても、市民及び交戦団体が「文明国間で確立した慣例、人道の法、公の良心の要求」([les] usages établis entre nations civilisées, [les] lois d'humanité et [les] exigences de la conscience publique)に由来する国際法の諸原則の下にありかつ保護下にあることを確認するという(前掲「陸戦の法規慣例に関する条約」前文ほか)、いわゆる「マルテンス条項」(Martens Clause; la Clause de Martens)が極めて重要である。",
"title": "武力紛争法"
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"paragraph_id": 133,
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"text": "ジュネーブ諸条約は、その遵守を確保するために、「重大な違反行為」(les violations graves)の処罰のための国内法(普遍主義)の整備を締約国に義務づけている。これに基づき、各国は、国際人道法違反行為を処罰する国内法を置き、近年、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダでのジェノサイドに関する訴追が行われている。最近では、「1993/1999年ベルギー法」、いわゆる「ベルギー人道法」が注目されていた(2003年8月に独立した法律としては廃止し、刑法典、刑事訴訟法典に挿入)。日本でも、2004年に、普遍主義を規定した「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」(平成16年法律第122号)が制定された。国際裁判所としては、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が国連安保理の決議によって設置され、上記二つの事件に関してそれぞれ活動している。普遍的なものとしては、1998年に初めて常設の国際的な刑事裁判所である「国際刑事裁判所」(ICC)のための「ローマ規程」が成立し、2003年に同裁判所が設置され、現在、コンゴの事件などで活動中である。",
"title": "武力紛争法"
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{
"paragraph_id": 134,
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"text": "1996年「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見で、裁判所は、国際人道法の核となる原則が、第一に文民の保護、第二に戦闘員に不必要な苦痛を与えないこと、にあることを確認した。しかし一方、ある国々が、自衛権の行使として低エネルギー放射の戦略的核の使用は文民の被害を比較的出さないから必ずしも禁止されないと主張し、また他方、ある国々が、核兵器への訴えはあらゆる状況で決して国際人道法の原則と規則に合致しないと主張したことについて、いかなる国も、そのような「きれいな」使用を正当化する正確な諸状況が何なのか、また逆に、その限られた使用が高エネルギー放射の核兵器の使用にエスカレートするのかどうか、指摘しなかったとする。そして、それゆえ、各国家が生存する根本的権利とその自衛への訴え、及び、核抑止力の政策に言及する実践に鑑みると、そのような自衛の究極の状況では、裁判所は核兵器の使用の合法性、違法性について決定的な結論に至れなかったと述べた(I.C.J.Reports 1996 (I), pp.257-263.)。",
"title": "武力紛争法"
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"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "裁判所は、同勧告的意見の最後に、核拡散防止条約6条の下の、厳格で実効的な国際管理の下の核軍縮への誠実かつ完結をもたらす話し合いをする義務が、今日の国際共同体全体にとって死活的に重要な(of vital importance to the whole of the international community today)目標であり続けているのは疑いない、と念を押している(Ibid., pp.265, 267.)。人道法の諸目的は、その発展のみならず、軍縮の実現なくしては達しえないものだといえる。",
"title": "武力紛争法"
},
{
"paragraph_id": 136,
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"text": "この問題は、古くは、「一元論」(monism)対「二元論」(dualism)として争われてきた。特に「一元論」の国際法優位主義は、国際法秩序が各国の国内法秩序を包合し、全体として国際法が優位するとする。しかし、国際判例や国家実行は、一貫して「二元論」の立場を支持してきている。「二元論」とは、国際法秩序と各国の国内法秩序は、独立した関係にあるとする立場である。ただし、これは、国内法秩序、国際法秩序がそれぞれ無視しあってよいということではなく、互いに尊重し調整しあうという「等位理論」を意味する。",
"title": "国内法との関係"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "まず、国際法秩序における国内法の地位を述べる。",
"title": "国内法との関係"
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{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "国際判例は、一貫して「二元論」の立場をとる。国際司法裁判所は、1989年の「シシリー電子工業会社事件」判決において、公の機関の行為が国内法に違反するからといって、それが国際法における違反とは必ずしもならない、と判示した(I.C.J.Reports 1989, p.74, para.124)。さらに、ウィーン条約法条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することはできない」と規定する。",
"title": "国内法との関係"
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"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "次に、国内法秩序における国際法の地位である。",
"title": "国内法との関係"
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{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "各国は、それぞれ多様な国際法の国内法秩序への編入方式を採用している。一つの立場は、「編入一般的受容」(incorporation or adoption)方式であり、国際法はなんら国内的措置を経ずに、国内法秩序に直接適用されるとする方式である。第二のものは、「変形」(transformation)方式であり、国際法を国内法秩序に適用するには、国内法への変形が必要とする方式である。第三のものは、「執行指示」(Vollzungsbefehl)方式であり、国内の法適用機関に国際法を直接適用するように指示、命令をし、そのための権限を国内的措置により執るという方式である。",
"title": "国内法との関係"
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{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "条約と慣習法によっても、各国においてそれぞれの扱われ方が異なる場合が少なくない。各国毎に詳しく述べるには余白がないので、ここでは、特に問題となる「自動執行力のある」(self-executing)条約の国内法秩序への直接適用性(l'applicabilité directe)について述べることにする。",
"title": "国内法との関係"
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{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "米国では、米国のそのときの意図(the intention of the United States)により、ある合意が「自動執行力がある」か否かが判断されることになり、そうでない場合には立法か適切な執行または行政行為による履行を待たなければならない(Restatement of the Law Third. The Foreign Relations Law of the United States, Vol.1, §111, h.)。一方、イギリス及びコモンウェルス諸国の場合には、たとえ「自動執行力のある」条約でも、国内法に変形する必要があると判例で確立している(「変形」方式)。他のヨーロッパ各国では、「編入一般的受容」方式をとる国として、ベルギー(判例で確立)、スペイン(最高裁判例で確立、通常、公布が必要)、フランス(官報で公示が条件)、ギリシア(判例で確立)、ルクセンブルク(裁判所が判断する)、オランダ(改正憲法93条、公示が必要)、「変形」方式をとる国として、アイルランド(憲法29条5項)、デンマーク(憲法19節によれば国会の立法または行政命令が必要)、「執行指示」方式を採る国として、ドイツ(「承認法」による)、イタリア(執行命令)、十分な結論が確立していない国として、ポルトガル、スイスがある。日本の場合には、判例は一貫して、「自動執行力のある」条約は、天皇の公布によって、国内法秩序に直接適用されるという立場をとっており、「一般的受容方式」に分類される(日本国憲法第98条2項、7条1号)。ただし、国際法は法律には優位するが、国内では憲法が最高法規であるとする立場が通説である。なお、ドイツ連邦共和国基本法第24条は国際機関による主権の制約を認め、同第25条は国際法の規範が憲法と一体をなすことを明記している。",
"title": "国内法との関係"
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"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "最新の動向によれば、特に国連安保理決議の国内への直接適用性が議論となっている。すなわち、テロ行為に荷担する行為を規制するために国内の私人や法人に直接、義務を課す安保理決議の妥当性が欧州司法裁判所(EC司法裁判所)によって審理され、同裁判所は、安保理決議が強行法規(jus cogens)に反する場合にはこれを無効とできると判示した(2005年7月21日「Yusuf事件」第一審判決(T-306/01))。同判決は、安保理の司法的コントロールの可能性に道を開いたことでも、大変注目されている。",
"title": "国内法との関係"
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"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "EC法秩序と国内法秩序の関係は特殊である。EC法、特にその二次法規のうちの「規則」(le règlement)は、加盟国の国内法秩序に直接適用される(EC条約249条)。判例も、「規則」が加盟国の国内法秩序に直接適用され、かつその国内法に優位するという点で確立している(1964年「Costa対ENEL事件」欧州司法裁判所判決)。EU/EC各国も、その国内憲法において、「規則」の国内法秩序における直接適用性を認めている。しかし、「指令」(la directive)の直接適用性については、個別的に検討する必要がある。また、EC法と各国憲法との優位性については不明瞭であり、加盟国の立場では、ドイツ(1974年の「Solange I事件」および1986年の「Solange II事件」連邦憲法裁判所判決)、イタリア(1973年12月27日、憲法裁判所判決)などは、国内ではEC法より憲法が優位する立場をとっている。",
"title": "国内法との関係"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "国際法は、国内法のような立法・行政・司法の中央集権機関がなく、組織的な法の適用、執行の機構を欠いている。そのため、国際法の法としての性格を否定する学説が19世紀末から20世紀初頭に特に見られた。これは、すなわち、国際法の強制性の問題である。例えば、オースティン(J.Austin)は、実定法は「主権者の命令」であり、義務違反に対する制裁を予定しているものであるが、国際法にはそうした条件がなく、単なる「実定的な道徳」にすぎないとした。",
"title": "国際法は「法」であるか"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "日本は、江戸時代後期、米国との間に締結された1854年の日米修好通商条約によって「開国」し、続いてその他ヨーロッパ諸国とも条約を結んでいった。それらの条約は、領事裁判権その他の特権を欧米諸国に認めた「不平等条約」であったが、ともかく、それによって日本が「ヨーロッパ近代国際法」に接する機会が得られ、次第に国際的実践の規範としての国際法への自覚を高めていったことは注目されると説かれる。(一方、20世紀以前には、ヨーロッパの他に、中国圏、イスラム圏といった世界が存在し、それぞれ「法」・「儀」・「礼」や「シャーリア」(shari'a)といった法で規律されており、20世紀にそれらの文明とヨーロッパ文明が衝突した、と指摘されうる。)また、明治政府は、五箇条の御誓文で、万国公法を「天地の公道」としてその遵守を謳い、その後、歴代の政府がヨーロッパ国際法の知識の移入、教育、研究に大きな力を注いだ。",
"title": "国際法は「法」であるか"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "現代の国際法においては、その強制力は、国際法違反行為に対する被害国による「対抗措置」(countermeasures; les contre-mesures)(「国家責任条約草案」49条以下)や報復(retortions)(合法的な措置)といった形で存在する。特に、制度的にも整備されているものとして、GATT/WTO法違反と認定された行為についての世界貿易機関(WTO)紛争処理機構(DSB)の決定、その実施、DSBが承認する譲許その他の義務の停止がある。また実際、ほぼ全ての国が、国際法を法として認識し、その法務を扱う部門を外務省に設置し、かつこれを遵守しているため、現在では国際法の法的性質を肯定する学説が通説となっている。",
"title": "国際法は「法」であるか"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "しかし問題点もあり、例えば、国連安保理の表決制度には、常任理事国(米、英、仏、露、中)の拒否権があり、事実上、これら常任理事国への憲章七章に基づく強制措置はできない。国際司法裁判所の判決も、一方の当事国がそれを履行しない場合には他方の当事国は安保理に訴えることができるが(94条2項)、前者が常任理事国の場合には事実上、安保理の措置はなされない。そこで、今日でも、国際法は「原始法」(le droit primitif)であるという主張がなされる場合もあるが、対して、今日の国際世論の力(la force publique)を認めこれが国際法の実効性を支えているという指摘もある(近年、確立しつつある「国際市民社会」概念も参照)。",
"title": "国際法は「法」であるか"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "国際法の法的拘束力の基礎については、近代より議論されてきており、国家の基本権の理論や、国家が拘束されることに同意しているからとか、ケルゼンの根本規範の原理や、自然法から説明する立場など様々であるが、究極的には、人間が理性的な生き物として、その生きていく世界を支配する原理が秩序にあると信じることを強いられていることにある、とする見解が一つの有力な説明である。",
"title": "国際法は「法」であるか"
}
] | 国際法(こくさいほう、とは、国際社会を規律する法をいう。国際私法と対比させて国際公法ともいわれるが、国内法制度における私法と公法の関係のように両者が対立的な関係にあるわけではない。条約、慣習国際法、法の一般原則が国際法の存在形式とされる。かつては国家間の関係のみを規律する法と考えられてきたが、現代では国際組織や個人の関係や、これらと国家との関係を規律する法と考えられている。 朝貢を国際関係の主体とする華夷秩序や、江戸時代初期の朱印船貿易は、一般的には国際社会全体を拘束する国際法であるとは見做されていない。 | {{読み仮名|'''国際法'''|こくさいほう|{{lang-en-short|International Law, Law of Nations}}、{{lang-fr-short|Droit international, Droit des gens}}、{{lang-es-short|Derecho Internacional}}}}とは、[[国際社会]](「国際共同体」{{lang-en-short|the international community}}、{{lang-fr-short|la communauté internationale}}、{{lang-es-short|la comunidad internacional}})を規律する[[法 (法学)|法]]をいう<ref name="国際法辞典119-120">「国際法」、『国際法辞典』、119-120頁、筒井若水(2002)、有斐閣、ISBN 4-641-00012-3。</ref>。[[国際私法]]と対比させて'''国際公法'''({{lang-en-short|Public International Law}}、{{lang-fr-short|Droit international public}}、{{lang-es-short|Derecho Internacional Público}})ともいわれるが、国内法制度における[[私法]]と[[公法]]の関係のように両者が対立的な関係にあるわけではない<ref name="国際法辞典119-120"/>。[[条約]]、[[慣習国際法]]、[[法の一般原則]]が国際法の存在形式(形式的法源)とされる<ref name="杉原12-13">{{Cite book|和書|author=杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映|title=現代国際法講義|pages=12-13|year=2008|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-04640-5}}</ref>。かつては国家間の関係のみを規律する法と考えられてきたが、現代では[[国際機関|国際組織]]や個人の関係や、これらと国家との関係を規律する法と考えられている<ref name="国際法辞典119-120"/>。
[[朝貢]]を[[国際関係]]の主体とする[[中華思想|華夷秩序]]や、[[江戸時代]]初期の[[朱印船|朱印船貿易]]は、一般的には国際社会全体を拘束する国際法であるとは見做されていない。
== 概説 ==
国際法は、[[ラサ・オッペンハイム|オッペンハイム]]が定義する文明諸国家相互間の関係で、国家行為を拘束する規則または原則の一体である、といわれる。そして国際法は[[成文法|成文化]]されたもの(条約)と[[慣習]]によって成り立つ不文のもの([[慣習法#国際法における慣習法|慣習法]])、[[法の一般原則]]によって成り立っており、[[国家]]および[[国際機関|国際機構]]の行動、そして今日ではこれに加えて、[[個人]]の行動(特に、[[国際人道法]]、[[国際刑事法]])や[[多国籍企業]]の行動(特に、[[国際投資法]])も、これによって法的に規律される。
== 用語 ==
「国際法」という言葉は、[[1873年]]に[[箕作麟祥]]が「International Law」の訳語として考え出し、[[1881年]]の[[東京大学]]学科改正により正式採用されたものである。それ以前の[[幕末]]当時には、[[タウンゼント・ハリス]]が初代駐日公使となり、[[日米修好通商条約]]締結を求めた際に国際法は「万国普通之法」と訳されている。その後隣国[[清朝]]でヘンリー・ホイートンの ''Elements of International Law'' が『[[万国公法]]』と訳されるとそれが国境を越えて流布し、以後しばらく中国や日本では「万国公法」という訳語が「International Law」の訳語として使用された<ref>吉野作造「わが国近代史における政治意識の発生」『日本の名著48 吉野作造』(中央公論社、1972年)442-452頁、原載『小野塚教授在職二五年紀念政治学研究』第二巻所収(1927年); 落合淳隆「国際法からみた日本の近代化―国家主権を中心として―」『比較法学』1巻2号(1965年)87-114頁参照。</ref>。また、他にも「列国交際法」、「宇内の公法」とも呼ばれていた<ref>落合、同論文、96頁参照</ref>。また、"Law of Nations"は、「国際法」と訳されることがあるが、「諸国家の法」「諸国民の法」などと訳されることもある<ref>例えば、"Law of Nations"を「諸国民の法」と訳すものとして、ジェームズ・レスリー・ブライアリー(長谷川正国訳)『諸国民の法および緒論稿』(成文堂、2013年)。</ref>。
フランス語では、「国際法」として、「Droit international public」(国際公法)と「Droit des gens」(万民法)という二つの用語がある。今日では前者が一般に用いられるが、ラテン語の「ius gentium」(ユス・ゲンティウム)つまり[[万民法]]に由来する後者は古典的な用語法で、現代では特に人々を念頭においたときに用いられる(例えば、[[ジェノサイド]]を"un crime de droit des gens"と表現するものとして、「ジェノサイド条約に対する留保」[[国際司法裁判所]]勧告的意見、''C.I.J.Recueil 1951'', p.23)。ヨーロッパの大学における国際法の講義の名称として、"Droit des gens"を今日でも続けて用いている大学もある。
オランダ語では、 「internationaal publiekrecht」(国際公法)と「volkenrecht/volkerenrecht」(万民法)、「Internationaal recht」(国際法)という呼称がある。
ドイツ語では、「Internationales Öffentliches Recht」(国際公法)と「Völkerrecht」(万民法)という二つの呼称がある。
なお、「[[比較法学|比較法]]/[[比較法学]]」は、国際法と全く異なる概念である。
== 発達史 ==
=== 実定国際法の成立 ===
国際法は国家主権の確立によって発展するが、それまでの国際法は「君主間の法」とも呼ばれ、国家を人格的に代表する君主は人間であるために自然法により規制されるという考えによる法体系となっていた。
国際法は16世紀から17世紀のヨーロッパにおける[[宗教戦争]]の混乱を経て、[[オランダ]]の法学者[[フーゴー・グローティウス|グローティウス]]や、スペインの神学者であり法学者であった[[フランシスコ・スアレス|スアレス]]([[:en:Francisco Suárez|Francisco Suárez]])、[[フランシスコ・デ・ビトリア|ビトリア]]([[:en:Francisco de Vitoria|Francisco de Vitoria]])らが創始したと考えられている。スアレスによれば、万民法(jus gentium)は慣習法として成立し、それが実定法として国際社会全体を拘束すると考えた。また、グローティウスの『[[自由海論]]』は当時の国際法的思考に大きな影響を与えたといわれる。[[ヴェストファーレン条約|ウェストファリア条約]]以降、国家間の紛争、通商および[[外交]]関係を規律する法として成立、発展していった。
=== 近代国際法の発展 ===
伝統的な「'''国際社会'''」({{lang-fr-short|la société internationale}})は、[[主権国家体制|主権国家]]の並列状態のみが想定されており<ref>Dupuy,P.-M., ''Droit international public'', 7e éd., Paris, Dalloz, 2004, p.752.</ref>、したがって国際法の主体となりうるものは国家のみであった。この基本的な構造はそのため従来的な国際法とは、国家間の合意もしくは不文律のことのみを意味していた。[[会社]]などの[[法人]]や[[個人]]は国際法の主体となりえず、せいぜい国家が国際法に関する[[権利]]を行使する過程で影響を受ける存在でしかなかった。これはそもそもかつての国際法で紛争を抑制するために定められた国内管轄権に関する事項を規定しない[[内政不干渉の原則]]がウェストファリア体制で確立されたことに起因している。
=== 現代国際法への移行 ===
しかし現代では、[[国際人権法]]、国際人道法に見られるように、個人も国際法上の権利、[[義務]]の主体として位置づけられるようになった。また、[[国際環境法]]における「[[人類の共通の関心事]]」(common concern of humankind)あるいは「[[人類の共通利益]]」(common interests of humankind)概念のように、「[[人類]]」({{lang-fr-short|l'humanité}})概念も登場するに至った。このように、今日では、従来の「国際社会」とは異なる、'''諸国家の相互依存性<ref>Daillier,P./Forteau,M./Pellet,A., ''Droit international public Nguyen Quoc Dinh'', 8e éd., Paris, L.G.D.J., 2009, p.48.</ref>から自然発生的に形成された'''<ref>Ago,R., «Communauté internationale et organisation internationale», R.-J.Dupuy(dir.), ''Manuel sur les organisations internationales'', 2e éd., Dordrecht, Martinus Nijhoff, 1998, p.4.</ref>「'''国際共同体'''」({{lang-en-short|[[:en:international community|the international community]]}}、{{lang-fr-short|la communauté internationale}})という概念が、学説においてもまた実定法においても、徐々に浸透してきている。特に、フランスの国際法学者である[[ルネ・ジャン=デュピュイ|ルネ=ジャン・デュピュイ]]からは、「国際共同体」とは「国際社会」と「人類」の[[弁証法]](la dialectique)であるとの主張がなされている<ref>Dupuy,R.-J., ''La Communauté internationale entre le mythe et l'histoire'', Paris, Economica/UNESCO, 1986.</ref>。様々なとらえ方のある概念ではあるが、'''現代国際法は、そのような「国際共同体」を規律する法である'''と今日では言うことができる(''cf''.「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見ベジャウィ裁判長宣言、''C.I.J.Recueil 1996 (I)'', pp.270-271, par.13)。
== 法源 ==
「国際法の法源」には、一般的に二つの意味がある。第一に、「'''形式的法源'''」(les sources formelles)であり、これは、国際法という法の存在のあり方をいう。「国際法の法源」と言った場合、通常、この意味が当てはまる<ref name="国際法辞典122-123">「国際法の法源」、『国際法辞典』、119-120頁、筒井若水(2002)、有斐閣、ISBN 4-641-00012-3。</ref>。すなわち、国際法は、「'''条約'''」及び「'''国際慣習'''」という形で存在し、後述するように現代では「'''法の一般原則'''」も国際法の法源に含まれるとされている。また、「'''判例'''」や「'''学説'''」は、これら条約、慣習法、法の一般原則の内容を確定させるための補助的法源とされている<ref name="杉原12-13"/>。これらのことは、以下のように[[国際司法裁判所規程]]38条1項に規定されている。
{{quotation|
:(a)'''一般又は特別の国際条約'''で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの
:(b)'''法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習'''
:(c)'''文明国が認めた法の一般原則'''
:(d)'''法則決定の補助手段としての裁判上の判例及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説'''
|[[:s:国際司法裁判所規程#第38条|国際司法裁判所規程38条1項]]}}
さらに国際組織による決議などの国際法上の法源性についても論じられることがある<ref name="山本65-68">山本草二 『国際法【新版】』 有斐閣、65-68頁、2003年。ISBN 4-641-04593-3。</ref><ref name="杉原12-13"/>。
最新の議論によれば、[[大沼保昭]]によって、「'''裁判規範'''」と「'''行為規範'''」の区別が主張されている。すなわち、国際司法裁判所規程38条に列挙された、条約、慣習法、法の一般原則は、あくまで裁判を行う時に適用される法源であり、国家が国際社会で行動するときに拘束される国際法は、これらに加えて他にもあり、例えば、全会一致またはコンセンサスで決められた[[国連総会決議]]も行為規範として、国家を拘束すると主張される<ref>Onuma,Y., "The ICJ: An Emperor Without Clothes ? International Conflict Resolution, Article 38 of the ICJ Statute and the Sources of International Law", N.Ando/E.McWhinney/R.Wolfrum(eds), ''Liber Amicorum Judge Shigeru Oda'', 2002, pp.191-212.</ref>。国際司法裁判所の確立した判例によれば、国連総会決議は、たとえ拘束的ではなくとも、法的確信(''opinio juris'')の発現を立証する重要な証拠を提供する、とされる([[核兵器の威嚇または使用の合法性国際司法裁判所勧告的意見|「核兵器の威嚇または使用の合法性」勧告的意見]]、''I.C.J.Reports 1996'', Vol.I, pp.254-255, para.70. 「[[ニカラグア事件|ニカラグアにおける及びニカラグアに対する軍事的、準軍事的行動事件]]」判決、''I.C.J.Reports 1986'', pp.100-104.)。
第二に、「'''実質的法源'''」(les sources matérielles)を指す場合がある。これは、上記、「形式的法源」(特に、条約と慣習法)が成立するに至った原因である、歴史的、政治的、道徳的要素や事実を指す。このように、「実質的法源」は、法的拘束力を有する法そのものではなく、国際法成立の要因であり、特に、[[法社会学]]の対象分野であるといえる。国家による[[一方的行為]]/一方的措置は、慣習国際法を形成する要因として、実質的法源になりうる。
=== 条約 ===
{{main|条約}}
条約とは、一定の国際法主体(国家、国際組織等)がその同意をもとに形成する、加盟当事者間において拘束力を有する規範をいう。二国間条約と多数国間条約があり、ともに当事者の合意によって成立するが、後者はその成立に[[批准]]手続が取られることが多く、また特に多数の国が参加する場合には条約を管理する機関が置かれる場合がある。条約そのものの規律を対象とする国際法については[[1969年]]に国連国際法委員会によって法典化された[[条約法に関するウィーン条約]]がある。([[国際法#条約法|条約法]]の項を参照。)
=== 慣習国際法 ===
{{main|慣習国際法}}
慣習国際法は、不文ではあるが、条約と同等の効力を有する法源である。もっとも、不文であるため、それぞれの慣習国際法がいつ成立したのかを一般的にいうことは難しいが、もはや慣習国際法として成立したとされれば、国際法として国家を拘束する。
その成立には、「[[法的確信]]({{lang-la-short|opinio juris}})」を伴う「'''一般慣行'''」が必要である。「一般慣行」が必要とされるため、長い年月をかけて多くの国が実践するようになったことによって成立したものがある一方、「大陸棚への国家の権利」のように発表からわずか20年足らずで成立したとされるものなど、その成立は様々である。[[国際司法裁判所]]は1969年の「[[北海大陸棚事件]]」[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]において、ある条約の規則が一般法になっているための必要な要素について、「たとえ相当な期間の経過がなくとも」(even without the passage of any considerable period of time)、「非常に広範で代表的な参加」(a very widespread and representative participation)があれば十分であるとし、また、「たとえ短くとも、当該期間内において、特別の影響を受ける利害関係をもつ国々を含む、国家の慣行(State practice)が、広範でかつ実質上一様で(both extensive and virtually uniform)あったこと」を挙げた(''I.C.J.Reports 1969'', pp.42-43, paras.73-74; 皆川洸『国際法判例集』391頁)。
「'''一貫した反対国'''」(persistent objector) 、すなわち、ある慣習法が生成過程にあるときに常にそれに反対していた国家、への当該慣習法の拘束力については、学説上、議論がある。国際司法裁判所は、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)判決において、領海10マイル規則に対して、ノルウェーがその沿岸においてその規則を適用するあらゆる試みに反対の表明を常に行っていた([la Norvège] s'étant toujours élevée contre toute tentative de l'appliquer)ので、10マイル規則はノルウェーに対抗できない (inopposable) と判示した (''C.J.I.Recueil 1951'', p.131) 。
慣習法のみが'''一般国際法''' (general international law) を形成する、という従来の理論に関して、[[小森光夫]]は疑問を提示し、慣習法の一般国際法化の際のその形成と適用について、それぞれ問題点を示している。すなわち、形成に関しては、慣習の一般化において、全ての国家の参加が必要とされずに、欧米諸国など影響力のある限られた数の国家の事実上の慣行のみでそれが認定されてきた点を挙げる。また、適用に関して、すでに一般化したとされる慣習法に、新独立国が自動的に拘束されるとする理論について、それが一貫した反対国と比べて差別的である点を挙げる。そうして、一般国際法の存在を慣習法に集約させて論じることを止め、別個に一般法秩序の条件の理論化を確立すべきだと主張する<ref>小森光夫「一般国際法の法源の慣習法への限定とその理論的影響(一)」『千葉大学法学論集』8巻3号(1994年)12-13頁、「同(二)」同9巻1号(1994年)204-205、257-258頁。</ref>。
=== 法の一般原則 ===
法の一般原則とは、国際司法裁判所規程第38条第1項(c)にあるように「文明国が認めた法の一般原則」であり、主要法系に属する世界の国々の国内法に共通して認められる原則の中で、国際法秩序にも適用可能と判断できるものを指す<ref name="山本57">山本草二 『国際法【新版】』 有斐閣、57頁、2003年。ISBN 4-641-04593-3。</ref>。19世紀には国際法の法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年の[[常設国際司法裁判所規程]]は[[法の一般原則]]を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記[[国際司法裁判所規程]]38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した<ref name="山本58">山本、前掲書、58頁; Daillier/Forteau/Pellet, ''Droit international public'', ''supra'', pp.381-382.</ref><ref>杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、12-13頁、2008年。ISBN 978-4-641-04640-5。</ref>。さらに現代では二国間の仲裁裁判条約や、多数国間条約に定められた裁判条項においても裁判基準として挙げられていることから、法の一般原則は国際司法裁判所の裁判基準であることを超えて「法の一般原則」も国際法秩序における独立した法源であるとする考えが、今日では広く認められている<ref name="山本58"/><ref name="杉原12-13"/>。
== 基本原理 ==
'''国際法秩序'''は、その根底に、'''一般原則'''(general principles; les principes généraux)を有する。これら一般原則を基盤として、またその内容を具現するために、各種条約及び慣習法規が存在しているといえる。一般諸原則の一部は、国際司法裁判所規程38条(c)の「'''文明国が認めた法の一般原則'''」(les principes généraux de droit reconnus par les nations civilisées; general principles of law recognized by civilized nations)として発現していると考えることができる。「[[法の一般原則]]」は、各国の国内法に共通に見られる法原則のうち国際関係に適用可能なもの、あるいは、あらゆる法体系に固有の法原則として、一般的にとらえられている<ref>Jennings,R./Watts,A.(eds), ''Oppenheim’s International Law'', Vol.1 Peace, Harlow, Longman, 1992, p.36.</ref>。
国際裁判において適用された「法の一般原則」の例としては、[[信義誠実の原則]](1974年「[[核実験]]事件(本案)」(オーストラリア対フランス、ニュージーランド対フランス)[[判決 (国際司法裁判所)|国際司法裁判所判決]]、''I.C.J.Reports 1974'', p.268, para.46)、[[衡平原則]](1986年「[[国境]]紛争事件」([[ブルキナファソ]]/[[マリ共和国|マリ]])国際司法裁判所判決、''C.I.J.Recueil 1986'', p.567, par.27; 1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所・小法廷判決、''C.I.J.Recueil 1984'', p.292, par.89; 前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1969'', p.46, para.83ほか)、義務違反は責任を伴うの原則(1928年「[[ホジューフ|ホルジョウ]]工場事件(本案)」[[常設国際司法裁判所]]判決)、「[[既判力]]」の法理(1954年「賠償を与える国連行政裁判所の判決の効力」国際司法裁判所勧告的意見、''C.I.J.Recueil 1954'', p.53)などが挙げられ、[[禁反言の法理]](estoppel)のような英米法の概念も適用されるとされた場合もある(前記「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1969'', p.26, para.30)。ただ、裁判所が、明示的に「法の一般原則」として援用することはまれである(一方が他方の義務履行を妨げた場合に、その義務違反を主張することはできないということを、「国際仲裁判例によって、また国内諸裁判所によって、一般的に認められる原則」とした例として、「ホルジョウ工場事件(管轄権)」常設国際司法裁判所判決、''C.P.J.I''., série A, 1927, n°9, p.31)。「[[国際法上の犯罪]]」(les crimes du droit des gens) において、第二次大戦中当時、「[[平和に対する罪]]」が必ずしも明確に犯罪行為として定まっていなかった<ref>大沼保昭『戦争責任論序説-「平和に対する罪」の形成過程におけるイデオロギー性と拘束性』(東京大学出版会、1975年)。</ref>にもかかわらず、「[[極東国際軍事裁判所]]」([[極東国際軍事裁判]])において、それが適用され処罰された事例があり、これが法の不遡及の原則に反するという批判がある。しかし、[[法の不遡及]](non-rétroactivité; non-retroactivity)原則が、国際法、国内法共通の原則となり、特に刑事法の分野で確立されたのは、東京裁判が終了した1948年11月以降(1948年12月の「[[世界人権宣言]]」11条2項、1950年11月の[[欧州人権条約]]7条1項ほか、1966年12月の[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]15条1項)の事であった。加えて、1948年の[[世界人権宣言]]は単なる宣言に過ぎず法的拘束力のある「条約」ではなかったし、1950年の[[欧州人権条約]]では7条2項において、1966年の[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]でも15条2項において、それぞれ[[法の不遡及]]の原則の例外を認めている<ref>「国際刑法と罪刑法定主義」小寺初世子(広島平和科学1982)[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15128/20141016122800297595/hps_05_83.pdf][http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00015128]PDF-P.12</ref>。
これらのうち、「'''信義誠実原則(原理)'''」(the principle of good faith) と「'''衡平原則(原理)'''」(the principle of equity) は、国際法の[[解釈]]及び適用の際に、常に働く<ref>Bos,M., ''A Methodology of International Law'', Amsterdam, Elsevier Science Publishers, 1984, pp.16, 24-25.</ref>。
'''信義誠実原則'''は、正直、真摯という主体的(subjective)な意味と、相手側を尊重する、という客体的(objective)な意味に分かれる<ref>Zoller,E., «Article 2, paragraphe 2», J.-P.Cot et A.Pellet(dir.), ''La Charte des Nations Unies. Commentaire article par article'', 2e éd., Paris, Economica, 1991, p.97; 中原喜一郎/斉藤惠彦(監訳)『コマンテール国際連合憲章』(上)(東京書籍、1993年)165頁; Sicault,J.-D., «Du caractère obligatoire des engagements unilatéraux en droit international public», ''R.G.D.I.P.'', t.83, 1979, pp.684-686; Kolb,R., ''La bonne foi en droit international public'', Paris, P.U.F., 2000.</ref>。それは主として、国際法の解釈において作用する。ウィーン条約法条約31条は、条約は誠実に[[条約の解釈|解釈]]されなければならないと規定する。これは、自国の表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して条文を解釈しなければならない、という意味と解される。また、履行についても、国際義務は誠実に履行しなければならないとされている(国連憲章2条1項、条約法条約26条)。これも、自国が表明した意思に正直、真摯に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して義務を履行しなければならない、という意味と解される。
'''衡平原則'''は、関連するあらゆる事情を考慮して、法を適用することを意味する(''cf''.「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1969'', p.47.)。それは三つに分解される。「実定法規内の衡平」(equity ''infra legem'')、「実定法規に反する衡平」(equity ''contra legem'') 、「実定法規の外にある衡平」(equity ''praeter legem'') である(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決アムーン判事個別意見、''C.I.J.Recueil 1969'', p.138; 「国境紛争事件」(ブルキナファソ/マリ)国際司法裁判所判決、''C.I.J.Recueil 1986'', pp.567-568, pars.27-28)。すなわち、「実定法規内の衡平」とは、適用可能な複数の法原則、法規則のうちから(「チュニジア・リビア大陸棚事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1982'', p.59, para.70)あるいは可能な複数の法解釈のうちから<ref>Higgins,R., ''Problems & Process. International Law and How We Use It'', Oxford, Clarendon, 1994, p.219.</ref>各当事国が納得がいく(当事国の利益の釣り合いによる; balancing of the interests of the parties<ref>Higgins, ''ibid''., p.221.</ref>)結果を導き出す選択をする、ということであり、「実定法規に反する衡平」は、国際司法裁判所規程38条2項にいう「衡平と善」(''ex aequo et bono'') もこの一種で、実定法規の適用が衡平な結果をもたらさない場合、関係当事国の合意の下、それらを除外してでも釣り合いのとれた解決を目指すものであり<ref>山本草二『国際法』(新版)(有斐閣、1994年)71頁; voir également, Degan,V.D., ''L'équité et le droit international'', La Haye, Martinus Nijhoff, 1970, pp.33-35.</ref>、「実定法規の外にある衡平」とは、法の論理的欠缺を埋める補助的なものであり、一般原則を用いて<ref>Voir Virally, M., «Le rôle des "principes" dans le développement du droit international», ''En hommage à Paul GUGGENHEIM'', 1968, pp.533, 540, 543.</ref>その欠缺を埋め(「コルフ海峡事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1949'', p.22.)、具体的な解決をもたらすものである<ref>See Akehurst,M., “Equity and General Principles of Law”, ''I.C.L.Q.'', Vol.25, 1976, pp.801-807.</ref>。
1968年「北海大陸棚事件」(ドイツ連邦共和国/デンマーク、ドイツ連邦共和国/オランダ)において、[[小田滋]]ドイツ連邦共和国弁護人は、本件では適用可能な慣習法規が存在しないので、法の一般諸原則が適用されるとし、そして、実在的正義(substantial justice)とは、紛争の各当事者が、あるちょうどよく衡平な分け前(a just and equitable share)を受け入れる状況を意味すると主張した。そしてそれゆえ、等距離線のような抽象的に思いついた技術的境界画定ではなく、石油資源の分配や「沿岸地帯」(façade)で表される基線の考えに基づく、善意(goodwill)と弾力性(flexibility)のある真に衡平な解決を提示した<ref>Argument of Professor Oda, Third Public Hearing (25 X 68, 10 a.m.), ''I.C.J.Pleadings, Oral Arguments, Documents'', Vol.II, 1968, pp.53-63.</ref>。
最も基礎的な原理として、「'''人道<ref>Allott,Ph., ''Eunomia'', Oxford, Oxford University Press, 1990 (Reprinted 2004), pp.376-411; 尾﨑重義他訳『ユーノミア』(木鐸社、2007年)第18、19章。</ref>の初等的考慮'''」(elementary considerations of humanity; les considérations élémentaires d'humanité)が法の欠缺を埋めるために援用されるときがある(1949年「コルフ海峡事件(本案)」国際司法裁判所判決、''C.I.J.Recueil 1949'', p.22; 2000年1月14日「クプレスキッチ他事件」旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所第一審判決、IT-95-16-T, para.524ほか)<ref>江藤淳一『国際法における欠缺補充の法理』(有斐閣、2012年)283-285頁も参照。</ref>。この原則は、人間という存在のための根源的な自然の欲求あるいは欠乏から生じる必要(les besoins fondamentaux)(例えば、生命、身体、心の安寧)の保護を目指した諸評価要素の総体をいう<ref>Salmon,J.(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', Bruxelles, Bruylant/AUF, 2001, p.243.</ref>(1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」国際司法裁判所判決では、単なる「人道的考慮」(humanitarian considerations)は直ちには法的利益性を持ちえないとされた。''I.C.J.Reports 1966'', p.34, paras.50-51)。
例えば、1907年ハーグ陸戦規則第三款(42~56条、例えば43条の占領地の法律の尊重)は、人道の原理(the principle of humanity)に基づいているがゆえに、交戦状態においてのみならず、全般的休戦(general armistice)から平和条約の締結までの間においても適用されると解される<ref>Ando,N., ''Surrender, Occupation, and Private Property in International Law. An Evaluation of US Practice in Japan'', Oxford, Clarendon, 1991, pp.36,40-41,76-77,125.</ref>。
これとは別に、'''国際法の一般原則'''(les principes généraux du droit international; general principles of international law)がある。これは、条約や慣習法の諸規則を通じて実定国際法に浸透した'''<ref>Virally, «Le rôle des "principes" dans le développement du droit international», ''supra'', p.546.</ref>一般国際法上の原則'''である。
「[[友好関係原則宣言]]」(Declaration of Principles of International Law concerning Friendly Relations and Cooperation among States with the Charter of the United Nations)(国連総会決議2625 (XXV) 、1970年10月24日)に従えば、以下の原則が国際法の一般原則として確立しているといえる。
:(1)'''[[武力不行使原則|国際関係における武力の威嚇と行使の禁止の原則]](第一原則)'''
:(2)'''[[国際紛争の平和的解決|国際紛争の平和的解決の義務の原則]](第二原則)'''
:(3)'''[[内政不干渉の原則|国内管轄事項への不干渉義務の原則]](第三原則)'''
:(4)'''国々が相互に協力する義務(第四原則)'''
:(5)'''人民自決の原則(第五原則)'''
:(6)'''国の主権平等の原則(第六原則)'''
:(7)'''国連憲章の義務の誠実な履行の原則(第七原則)'''
== 条約法 ==
[[条約]]法は、[[国連国際法委員会]] (ILC; International Law Commission) によって慣習法を漸進的発展とともに法典化した、1969年の「[[条約法に関するウィーン条約]]」(Vienna Convention on the Law of Treaties; VCLT)が主として機能する。しかし、同条約の批准国は100あまりにすぎず、米国やフランスなど有力な国も批准していないことから、ときおり、特定の条項について、その一般的効力が争われる。
条約法条約は、条約の'''締結''' (conclusion) 、'''解釈''' (interpretation) 、'''適用''' (application) について定める。
同条約は、「国の間において文書の形式により締結され、国際法によって規律される国際的な合意」を対象としている(2条)。しかし、一般国際法上、文書によらない国家間の合意も拘束力があり、そのことを同条約は害しないとする(3条)。
条約の'''締結'''は、国家間の交渉(全権委任状、7条)、条約文の採択(9条)、国の同意の表明([[署名]] (signiture) 、[[批准]] (ratification) 、[[加入]] (admission) 、11条)により成る。最後の国家の同意については、単なる技術的、事務的な行政取極の場合は、署名だけで効力を発するが、通常の条約は、国内での承認(approbation、日本では国会の承認)を経ての認証である批准が必要とされる。
条約の締結について、今日、最も議論があるのが、[[留保]]である。留保とは、国家が、条約に署名、批准、加盟する際に、特定の条項の全部又は一部の適用を除外する旨の[[一方的宣言]]をいう。留保は、当該条約が禁止していない限り許される(19条)。当該条約で特別な定めがある場合はそれに従うが、特に規定されていない場合には、留保は、それに対して異議を表明しない国家に対して効力を有するが、留保の表明から12か月以内に異議を表明した国家に対しては、それを主張できない(20条)。なお、留保は、その条約の趣旨、目的に反しない限りにおいて、有効である(1951年「ジェノサイド条約に対する留保」国際司法裁判所勧告的意見、''C.I.J.Recueil 1951'', p.24)。これに従って、現在、特に人権条約において留保が許されるかという問題が議論されている。ILCは、留保に関する慣習法の法典化作業を進めている(特別報告者、Alain Pellet)。2007年の第59会期ではガイドライン案3.1.5から3.1.13が採択され、3.1.12によれば、人権条約に対する留保の条約の趣旨目的との合致性は、条約で定められた権利の「不可分性」(indivisibility) 、「相互依存性」(interdependence) 、「相互関連性」(interrelatedness) を考慮に入れなければならないとされた(A/62/10)。
'''解釈'''に関しては、条約法条約31条が定めている。まず、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」そして、「文脈」とは、前文、付属書に加えて、当事国の後に生じた慣行や当時国間に適用される国際法の規則までも含む(31条3項)。近年、この規定に基づき、条約締結時の当事国の意思を離れて、現存する関係国際法規を考慮する「発展的解釈」(l'interprétation évolutive)が、特に環境法の分野において、さかんに行われている(例えば、1997年「[[ガブチコヴォ・ナジュマロシュ計画事件]]」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1997'', pp.77-78, para.140)。
'''適用'''に関しては、特に、条約の第三国に対する効力が問題となる。条約法条約は、条約が第三国に権利または義務を設定する場合には、その第三国の同意が必要であるとし(34条)、義務を課す場合は、明示の同意が必要(35条)、権利を付与する場合は同意が推定される(36条)と規定する。しかし、これらの規定の例外として、「[[客観的制度]]」(objective régime) の理論が学説上、主張されることがある。その例として、[[南極条約]]体制は、人類全体の利益に資するとして、締約国以外の第三国にも対抗できる(特に、南極における海洋資源保護)と主張される場合がある([[国際法#国際化領域|国際化領域]]の項目も参照)。また、「相前後する条約の効力」として、条約法条約は、「後法は前法を廃す」の原則を置いているが(30条)、例えば、1989年の「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関する[[バーゼル条約]]」よりも後にできた、1994年の[[世界貿易機関]] (WTO) を創設する「マラケッシュ協定」が定める自由貿易制度が優越するのか、といった疑問が提示されうる。
最後に、条約法条約は、[[強行法規]]([[ユス・コーゲンス]]; ''jus cogens'')に反する条約を[[条約の無効|無効]]とする(53条)。これまで、古典的学説の立場から、ユス・コーゲンスの存在に対して懐疑的な立場も根強く見られたが<ref>Combacau,J./Sur,S., ''Droit international public'', 6e éd., Paris, Montchrestien, 2004, pp.156-159.</ref>、2006年の「コンゴ領における武力行動事件(2002年新提訴)」(管轄権)(コンゴ民主共和国対ルワンダ)で国際司法裁判所としては初めて明示的にユス・コーゲンスの存在を認定し(arrêt, par.64)、この問題に決着がついたといえる(2007年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対セルビア及びモンテネグロ)判決でもユス・コーゲンスの存在を認定、Judgment, para.185)。
== 国家機関 ==
一般的に、国家機関は、'''立法機関'''、'''行政機関'''、'''司法機関'''に分類される。
[[立法機関]]、すなわち日本でいうところの[[国会 (日本)|国会]]は、自国の国内法秩序において、法を制定する機能を有する。国際法上の観点から見れば、立法機関は、国際法規範の[[国内的実施]]のために、法律を制定する役割を有する。特に、人権の分野においては、今日では、国際、国内の両秩序の透明性、浸透性の現象が見られ、国際法によって確立された人権を国内で実施したり、あるいは逆に、国内法で定められた人権規範が国際法に影響を与える、といった面が見られる<ref>Sur,S., «Les phénomènes de mode en droit international», SFDI, ''Le droit international et le temps'', Colloque de Paris, Paris, Pedone, 2001, p.59.</ref>。また、ときおり、立法機関による、[[域外適用]]を目指した国内法が制定されることがある。これは、人権、環境、経済の分野で顕著である。立法管轄権も、他の管轄権と同様に、他国の主権を害さない範囲で行われなければならない。米国が従来、主張していた「[[効果主義]]」(effect doctrine) に基づく域外管轄権の行使は、ECの対抗立法などに遭い、批判されている。
[[行政機関]]、すなわち[[政府]]/行政府は、条約の作成・締結の主体として重要である。また、国際平面において、国際法を履行する直接の主体である。行政機関の行動が、明らかにその国の憲法に反する場合を除いて、その国家の行動とみなされる。とくに、[[元首|国家元首]]、[[政府の長]]、[[外務大臣]]の行動は、その国家を代表しての行動と見なされ、ときとして、国家自体を拘束する(「東部グリーンランドの地位事件」常設国際司法裁判所判決; ''P.C.I.J.'', Ser.A/B, 1933, No.53, pp.68-69)。
国家元首、政府の長、外務大臣に加えて、[[外交官]]は、他国と円滑な交流をすることを「[[外交関係法]]」によって保障されている。'''外交関係法'''は、1961年の「[[外交関係に関するウィーン条約]]」および1963年の「[[領事関係に関するウィーン条約]]」で構成される。これらの者は、他国との円滑な交流という共通利益を基礎として、「[[特権免除]]」を有する。公館の不可侵(「外交関係条約」22条)、身体の不可侵(同29条)、租税の免除(同34条)、そして「裁判権の免除」(31条)である。最後の[[裁判権の免除]]については、「2000年4月11日の逮捕状事件」において、国際司法裁判所は、たとえ外務大臣が国際法上の犯罪を犯したとしても、国家実行により、外務大臣はその職にある間は免除(immunity ''ratione personae''; 「人的免除」の意味)を享受する、と判示した (''C.I.J.Recueil 2002'', pp.24-30, pars.58-71) 。ただし、外務大臣がその職を解かれた場合で、国家の公の行為ではない行為については、免除は認められなくなる(「事項的免除」immunity ''ratione materiae''の機能的性質、1999年4月24日「[[ピノチェト]]事件」[[貴族院 (イギリス)|英貴族院]] (House of Lords) 判決、38 I.L.M.581 (1999) )。なお、免除は「免責」を意味しない。また、免除は外国の国内裁判所において認められるものであり、国際裁判所では通常、免除の適用が除外されている([[旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]]規程7条2項、[[ルワンダ国際刑事裁判所]]規程6条2項、[[国際刑事裁判所]]規程27条)。
近年、領事関係条約36条1項が焦点となっている。同条(b)は、「[[接受国]]の権限ある当局は…[[派遣国]]の国民が逮捕された場合、留置された場合、裁判に付されるため拘留された場合…において、当該国民の要請があるときは、その旨を遅滞なく当該領事機関に通報する。…当該当局は、その者がこの(b)の規定に基づき有する権利について遅滞なくその者に告げる」と規定する。米国政府は、以前より、外国人を逮捕したときにこの「権利」を容疑者に告げないように通達していた。そして、そのことで、外国人の容疑者が、逮捕された後、領事館に通達されることなく裁判に付され、死刑判決を受けたことについて、1998年の「領事関係条約に関する事件」(「ブレアール事件」)(パラグアイ対米国)、1999-2001年の「ラグラン事件」(ドイツ対米国)、2003年から継続中の「アベナとその他のメキシコ人事件」(メキシコ対米国)に発展した。「ブレアール事件」と「ラグラン事件」では、それぞれ1998年、1999年に国際司法裁判所から、死刑執行を止めるように米国に[[仮保全措置]]命令が下されたが、米国はそれを破って死刑執行を行った。特に「ラグラン事件」(本案)判決においては、初めて国際司法裁判所の仮保全措置の法的拘束力が認められ、米国の義務違反と再発防止措置を命じる判決が下された。「アベナ事件」は、2004年に本案判決が出されたが、2008年6月にメキシコから緊急に同判決の解釈に関する新たな訴訟がなされ、予断を許さない状況となっている。2008年3月に、米最高裁判所は「メデジン事件」(Medellín v. Texas) において、ICJの「アベナ事件」判決が米国内において自動執行力(self-executing)がないという判決を下している(''A.J.I.L.'', Vol.102, 2008, pp.635-638)。ICJは、2009年1月19日の判決で、アベナ判決は米国に判決の義務の履行手段を委ねており、ゆえにメキシコの請求はICJ規程60条にいう「判決の意義又は範囲」には当たらないとし、メキシコの解釈請求を退けた(Judgment, paras.43-46)。
[[司法機関]]、すなわち[[裁判所]]は、一般に国内法の履行を確保する機関であるが、同時に、国内法秩序に直接適用される国際法規範の履行確保としても、重要である。特に、人権の分野で、国際法の国内的実施に関する国内裁判所の役割は大きい。しかし、国際法上、確立している「[[免除]]規則」(immunity、「国家免除」あるいは「[[主権免除]]」)によれば、一国の国内裁判所が、他国や他国を代表する人物に対して裁判を行うことはできない。ただし、国家免除について、長らく「絶対免除主義」が妥当していたが、今日では、「制限免除主義」が確立しており、国家の「主権的行為」(''acta jure imperii'') と「業務管理的行為」(''acta jure gestionis'') を区別し、後者には国家免除は適用されないとされる。日本も、長らく「絶対免除主義」の立場がとられてきたが、2006年7月21日の最高裁判決によって、「制限免除主義」へと判例変更がなされた<ref>この判決については、水島朋則『主権免除の国際法』(名古屋大学出版会、2012年)41-49頁参照。</ref>。
このように、国家機関は、第一に国内法秩序における機関として存在するが、同時に、国際機関として、国際法の実施や履行確保を行う側面を有するのであり、これを学説は、国家の「[[二重機能]]」(le dédoublement fonctionnel)<ref>Scelle,G., ''Précis de droit des gens'', Première Partie, Paris, Sirey, 1932 (reproduit par CNRS, 1984) , pp.54-56.</ref>として説明することがある。しかし、この理論は、大国の[[一方的行為]]/一方的措置を安易に正当化してしまう、という理由で、反対する学者も少なくない<ref>例えば、国際法上の緊急避難を批判するものとして、Salmon,J., «Faut-il codifier l’état de nécessité en droit international?», ''Essays in International Law in Honour of Judge Manfred Lachs'', Martinus Nijhoff, 1984, pp.235-270.</ref>。
== 国家管轄権 ==
「[[国家管轄権]]」(les compétences de l'État; State jurisdiction) とは、国家が自然人、法人、物、活動に対して行使することができる、国際法によって与えられあるいは認められている権限をいう<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.210.</ref>。これについては、国家管轄権が、国際法の存在以前からあるものなのか、あるいは国際法によって付与されたものなのか、という問題がある。いいかえれば、「ロチュス原則」すなわち、国際法で禁じられていない限り国家は自由に行動できる(「ロチュス号事件」常設司法裁判所判決; ''C.P.J.I.'', série A, n°10, 1927, p.19)という命題が今日でも妥当するのか、という問題である。学説上、いまだに見解は一致していないが、今日の「協力の国際法」(International Law of Co-operation)<ref>Friedmann,W., ''The Changing Structure of International Law'', New York, Columbia University Press, 1964, pp.61-71.</ref>の分野においてはもはや同原則は認められない、とする見解も有力である(''cf''.「2000年4月11日の逮捕状に関する事件」国際司法裁判所判決ギヨーム裁判長個別意見、''C.I.J. Recueil 2002'', p.43, par.15)。
国家管轄権は、「[[属地主義]]」、「[[属人主義]]」、「[[保護主義]]」、「[[普遍主義]]」に分類される。
'''属地主義''' (territorial principle; la compétence territoriale) とは、国家はその領域内(及び国際法によってそのようにみなされる場所。例えば、自国籍の船舶・航空機)にある人、物、活動に対して排他的に行使できる権限をいう<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.210-211.</ref>。領域は、[[領土]]、[[領海]]、[[領空]]で構成される。ただし「領域使用の管理責任」といった国際法に服する。国家は、その領域内で私人により行われる違法行為から、他国、外国人、他国の領域を保護しなければならない(例えば、環境保護について、「[[トレイル溶鉱所事件]]」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決)。
'''属人主義''' (nationality principle; la compétence personnelle) とは、その領域外においてなされた行為(特に犯罪)に関して、その行為者の国籍国という連結により(「能動的属人主義」; la compétence personnelle active)またはその被害者の国籍国という連結により(「受動的属人主義」; la compétence personnelle passive)、その行為を自国の法秩序に置きあるいは処罰する権限をいう<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.211.</ref>。日本の[[刑法 (日本)|刑法]]では、能動的属人主義として刑法3条が、日本国民の国外犯に対して日本の刑法が適用される犯罪を列挙している。また、受動的属人主義としては、刑法4条の二が、条約により日本国外において犯された犯罪でも罰すべきとするものについて、日本の刑法を適用する旨、規定している(「[[人質にとる行為に関する条約]]」5条ほか)。
'''保護主義''' (protective principle; la compétence réelle) とは、外国で行われた犯罪行為で、特に自国の重大な国家法益を侵害するものを自国の法秩序の下に置く権限である<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.212.</ref>。日本の刑法では、2条が保護主義を規定しており、内乱、外患誘致、通貨偽造等に日本の刑法が適用される旨、規定する。
'''普遍主義''' (universality principle; la compétence universelle) あるいは'''世界主義'''(Weltrechtsprinzip)は、国際共同体全体の法益を害する犯罪について、それが行われた場所、犯罪の容疑者の国籍、被害者の国籍にかかわらず、いかなる国もこれを処罰する権限をいう。古くからは、海賊は「人類全体の敵」(''hostis humani generis'')としていかなる国も処罰'''できる'''とされてきた。近年は、多数国間条約によって、普遍主義に基づく処罰を'''義務づける'''場合が増えてきている(「[[航空機の不法な奪取の防止に関する条約|航空機の不法な奪取の防止に関するハーグ条約]]」4条、「民間航空機の安全に対する不法な行為の防止に関する[[モントリオール条約]]」5条、「[[アパルトヘイト]]罪の撤廃と処罰に関する条約」4条ほか)。
今日、この分野で最も議論が行われているのが、「[[国際法上の犯罪]]」(les crimes du droit des gens) である、「[[ジェノサイド]]罪」(集団殺害罪)(crime of genocide; le crime de génocide) 、「[[人道に対する罪]]」(crimes against humanity, les crimes contre l'humanité)」、「[[戦争犯罪]]」(war crimes; les crimes de guerre)([[ジュネーブ諸条約]]の「重大な違反行為」)に対する普遍主義の行使である。このうち、1949年のジュネーブ諸条約の「重大な違反行為」については、同条約が普遍主義に基づく国内法の整備を締約国に義務づけている(それぞれ、49条/50条/129条/146条)。ジェノサイド罪については、1948年の「[[集団殺害罪の防止および処罰に関する条約]]」(「[[ジェノサイド条約]]」)6条が、犯罪行為地国と国際刑事裁判所のみに裁判権を付与しているが、その起草過程から、その他の場合の裁判権の行使も禁止しないと解されている(1961年「[[アイヒマン事件]]」イェルサレム地方裁判所判決、''I.L.R.'', Vol.36, p.39; 「ピノチェト事件」スペイン全国管区裁判所(Audiencia nacional)判決、''I.L.R.'', Vol.119, pp.335-336)。人道に対する罪については、国連総会決議3074(XXVIII)(「戦争犯罪及び人道に対する罪の容疑者の抑留、逮捕、引き渡し及び処罰における国際協力の原則」)に従えば、普遍主義の行使は認められる。ただし、普遍主義の行使は、予審と引き渡し要求の場合を除いて、容疑者が自国領域内にいることを条件とする(2005年[[万国国際法学会]]決議)。
== 国家領域 ==
「[[領域 (国家)|国家領域]]」(le territoire national)は、[[領土]]、[[領海]]、[[領空]]に分けられる。特に領土は、「[[人民]]」、「[[外交]]を行う能力」とともに国家を構成する基本的要素である。国家領域では、国家はその管轄権を排他的に行使ししうる。ただし、他国の主権も尊重しなければならない。
'''領土'''とは、一般にその自国民が住んでいる地理的領域をいい、地面および地下が含まれる。人が住んでいない領域(無人島など)もこれに含まれうる<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.1076.</ref>。領土の取得及び喪失については、「[[無主地]]」(''terra nullius'')に対する「[[先占]]」は国際法上、認められている領土取得の方式である。「[[パルマス島事件]]」仲裁判決で、マックス・フーバー裁判官は「継続的で平和的な[[領域主権]]の表示は[[領域権原|権原]]の一つとして適切である」と判示した(''U.N.R.I.A.A.'', Vol.II, p.839)。「西サハラ」に関しては、国際司法裁判所はその勧告的意見で、スペインの植民地であった西サハラには社会的にかつ政治的に組織された人々が民族としてそれを代表する長の権力の下に住んでいたのであり、無主地とはみなされない、と判示した(''C.I.J.Recueil 1975'', p.39, par.81)。今日では、無主地は存在しないとされる([[南極大陸]]については、[[国際法#国際化領域|国際化領域]]の項を参照)。また、現在では、武力行使による領土取得は禁じられている。これに関して、イスラエルによる[[パレスチナ]]の占領について、[[国際連合安全保障理事会決議242|国連安保理決議242]]は、イスラエル軍の占領地からの(英:from occupied territories(無冠詞), 仏:des[de+les] territoires occupés(定冠詞))撤退の原則を確認し(affirms)、決議338では、決議242の履行を求める(calls upon)となっており、英語テキストに従う限りにおいて、必ずしもイスラエル軍が第三次中東戦争で占領した全ての領土からの撤退を義務づけていないと解する余地がある<ref>Guillaume,G., ''Les grandes crises internationales et le droit'', Paris, Éditions du Seuil, 1994, pp.164-165.</ref>。この問題は、宗教的、政治的性質が濃い。
'''領海'''とは、今日では[[国連海洋法条約]]により、領土の[[基線 (海)|基線]]より12海里を超えない範囲で沿岸国が決めることができる([[国際法#海洋法|海洋法]]の項目も参照)。領海には、沿岸国の主権が及ぶが他国の船舶の「[[無害通航権]]」(le droit de passage inoffensif)を認めなければならない。無害通航とは、「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない」ものをいう(19条)。違反する船舶に対しては、警察権を行使しうる(27条5項)。ただし、他国の軍艦および非商業目的で航行する政府船舶には「免除」が与えられる(32条)。
'''領空'''とは、領土及び領海の上空に接している大気圏の領域をいう。空域を規律する国際法は、「[[空法]]」(Droit aérien)と呼ばれる。空法は、1944年の「[[国際民間航空条約]]」(シカゴ条約)を基本とする。シカゴ条約は、1条で「各国がその領域上の空間において完全かつ排他的な主権を有する」としている。どの高さまで領空と認められるかは、条約上、明らかではない。また、領海における「無害通行権」と類似して、「五つの自由」が認められており、1919年のパリ条約では、(1)無着陸の通過の自由、(2)運輸以外の目的での着陸の自由が認められ、さらに「[[国際航空協定]]」1条では、これらに加えて、(3)自国領域内で積み込んだ貨客を他の締約国でおろす自由、(4)他の締約国で自国向けの貨客を積み込む自由、(5)第三国向けあるいは第三国からの運送の自由が認められている。ただし、これらの自由は、慣習法ではなく、厳格に条約的である<ref>Daillier/Forteau/Pellet, ''Droit international public'', ''supra'', pp.1392-1393.</ref>。(今日の状況は、制限的な二国間協定の下に保護される航空企業間の「[[オープンスカイ協定]]」が空を網の目のように張りめぐらされている。)また、シカゴ条約に基づき、「[[国際民間航空機関]]」(ICAO)が設立されている。これは、総会や理事会、航空委員会などの固有の機関を有し、空の安全と発展を目的として活動している。2007年12月にEU理事会は、温暖化ガスの排出権取引を国際民間航空にまで拡張することを決定しており、米国はこれに反対している。2007年9月のモントリオールでのICAO総会では、当事国の合意がない限り排出権取引制度は適用されない旨、決議がなされているが、EUはこれに拘束されないとしている(''A.J.I.L.'', Vol.102, 2008, pp.171-173)。
== 国際機構法 ==
「国際機構法」あるいは「[[国際組織法]]」とは、[[国際機関|国際組織(政府間国際組織)]](international organizations)に関する国際法の一分野である。国際組織とは、条約によって設立され、共通の目的を有し、それを達成するための常設の機関を持ち、加盟国と独立した法人格を有する国家の集まりをいう(1975年「国家代表に関するウィーン条約」1条)。'''国際組織法の最大の特徴は、国際組織が生きた組織として変わりゆく国際情勢に対応するために、設立当初の創設者の意思から離れてでも、動態的な[[目的論的解釈]]がとられる点にある<ref>Sato,T., ''Evolving Constitutions of International Organizations'', The Hague, Kluwer Law International, 1996.</ref>(「[[黙示的権能]]」implied powers)'''(「武力紛争中の国家による核兵器の使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、''C.I.J.Recueil 1996(I)'', p.79, par.25)。
国際組織法は、'''内部法'''と'''外部法'''に分けられる。内部法とは、その国際組織の内部運営(表決制度や予算の決定など)を規律する法の総体をいい、外部法とは、その国際組織の対外的活動を規律する法の総体をいう。本項では、現代の主要な国際組織である[[国際連合]]を中心に述べる。
'''内部法'''として、まず、'''表決制度'''がある。決議成立の方式としては、一般に、全会一致、多数決、コンセンサスなどがある。[[国際連合総会]]の決議は、重要問題を除いて(出席し投票する加盟国の三分の二の多数)、出席し投票する加盟国の過半数で成立する([[国際連合憲章]]18条)。[[国際連合安全保障理事会]]の決議は、「常任理事国の同意投票を含む九理事国の賛成投票」で成立する(27条)。慣例により、常任理事国の「棄権」は決議の成立を妨げないとされている。しかし、27条を文言通りに解釈すれば、棄権は「同意」ではないので、決議の成立を妨げるはずである。よって、これについては、法的には、棄権についての規定が欠缺していたとか、暗黙のうちに憲章が改正されたとか説明する他はない<ref>Tavernier,P., «Article 27», Cot/Pellet(dir.), ''La Charte des Nations Unies. Commentaire article par article'', ''supra'', p.502.</ref>。[[欧州連合|EU]]では「共同体法」([[EU法]])に属する分野について、[[加重投票]]の制度が行われている。また、[[世界銀行]]でも加重投票で議決される。
'''予算'''の決定については、国連総会によって派遣されたONUC(コンゴ国連軍)及びUNEF(国連緊急中東軍)(いわゆる[[PKO]])への支出が国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に当たるのか争われた。国連憲章上、PKOは明示的には認められていない。これに関して、1962年「国際連合の特定経費(憲章17条2項)」として国際司法裁判所の勧告的意見が下された。裁判所は、17条2項の文言を憲章の全体構造と総会と安保理に与えられたそれぞれの機能に照らして解釈するとし、ONUCとUNEFの活動が国連の主要目的である国際の平和と安全の維持に合致することは、継続的に国連の諸機関によって認められてきたことによって示されているとし、当該支出は「この機構の経費」にあたると判示した(''I.C.J.Reports 1962'', pp.167-181)。この勧告的意見の理由付けに対しては、批判もある<ref>各裁判官の個別、反対意見について、[[佐藤哲夫 (法学者)|佐藤哲夫]]『国際組織の創造的展開』(勁草書房、1993年)134-153頁参照。</ref>。
国際機構で働く人については、「[[国際公務員法]]」という特別の分野となっている。国連では、職員が関わる争いについては「[[国連行政裁判所]]」が国連総会決議によって設立され、活動している。
'''外部法'''としては、まず、国際組織の「[[国際法人格性]]」(international legal personality; la personnalité juridique internationale)が問題となる。国際司法裁判所は1949年の「国際連合の任務中に被った損害の賠償」に関する勧告的意見において、(当時としては)国際共同体の大多数の国家に相当する50か国は、国際法に従って、客観的国際法人格を持つ実体を創設する権能(power)を有していたのであり、同時に国際請求をする権能を有すると述べた(''I.C.J.Reports 1949'', p.185; 皆川『国際法判例集』137頁)。ECも、その設立条約である[[EC条約]]においてECは国際法人格性を有すると規定し(EC条約281条)、国際社会はこれに一般的承認を与えており、現在、ECは[[京都議定書]]や[[世界貿易機関]]を設立する「マラケッシュ協定」の当事国となっている。
国連の対外的活動として最も重要なものは、'''「国際の平和及び安全の維持」に関する安保理の活動'''である。いわゆる「[[国連憲章第七章]]」に基づく行動である。七章に基づく[[国際連合安全保障理事会|安保理]]の行動は、冷戦が終結した1990/1991年以降、大変、活発になっている。その端緒は、1990年のイラクのクウェート侵攻の際の、1991年の安保理決議678に基づく[[多国籍軍]]の行動である。同決議は、憲章43条に基づく常備の「国連軍」がいまだ創設されていないことに鑑み、加盟国に「全ての必要な手段を用いることを許可する」(authorizes...to use all necessary means)とした。(米英仏サウジアラビアの集団的自衛権に基づく行動が、国連の強制行動へ転換したといえる<ref>[[筒井若水]]『国連体制と自衛権』(東京大学出版会、1992年)134-135頁。</ref>。)これは、朝鮮戦争において、米国の指揮下にある軍に国連旗の使用を許可した1950年の安保理決議84に端を発すると考えられる。この安保理決議678以降、「全ての必要な手段を許可する」という方式は繰り返し使用され、現在では完全に定着したと言える。
「[[自衛権]]」(the right to self-defense)は、国連憲章51条で、個別的自衛(individual self-defense)、[[集団的自衛権|集団的自衛]](collective self-defense)とも、「固有の権利」(inherent right; 仏語テキストでは「自然権」le droit naturel)と規定されている。特に「集団的自衛」が「固有の権利」とされている点について、この用語は国連憲章において初めて用いられたものだが、その先駆と言うべきものが戦間期における[[相互援助条約草案]]や[[ラインラント協定]]の中に見られると指摘されうる<ref>森肇志『自衛権の基層』(東京大学出版会、2009年)146-159頁。</ref>。2001年9月11日の[[米国同時多発テロ事件]]では、翌月に米国はアフガニスタンを攻撃した。学説上、これが国際法上の自衛権の行使であるとか(米国、英国の立場、''A.J.I.L.'', Vol.96, 2002, pp.237-255.)、違法な武力行使であるとか<ref>[[松井芳郎]]『テロ、戦争、自衛』(東信堂、2002年)。</ref>、自衛概念が一時的に「伸長」した<ref>Verhoeven,J., «Les "étirements" de la légitime défense», ''A.F.D.I.'', 2002, pp.49-80.</ref>など様々な議論が行われている。この事件に関連して出された安保理決議1368では、その前文で加盟国の自衛が固有の権利であること確認している。国連憲章51条によれば、自衛権を行使した国はすみやかに安保理に報告しなければならず、米国は、アフガニスタン攻撃後、安保理に報告している。
近年、安保理の活動は急速に拡大し、「[[旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]]」(安保理決議827)、「[[ルワンダ国際刑事裁判所]]」(安保理決議955)に見られるad hocな刑事裁判所の設立から、テロ行為を支援するいかなる措置もとらないよう加盟国に一般的な義務を課す「立法行為」(安保理決議1373)まで及んでいる。
このような安保理の活動の拡大に対して、司法的制御が必要であるという議論が起こっている。1992年「ロッカービー上空での航空機事件から生じた1971年[[モントリオール条約]]の解釈、適用問題に関する事件」(社会主義人民リビア・アラブ国対イギリス王国、社会主義人民リビア・アラブ国対アメリカ合衆国)(「[[ロッカービー事件]]」)国際司法裁判所仮保全措置命令では、安保理決議748について、国連憲章103条が憲章上の義務の他の国際義務に対する優越性を規定していることから、モントリオール条約よりも同安保理決議が優越するとし、同条約に基づく「一見した」(''prima facie'')管轄権を否認し、リビアの仮保全措置申請を却下した(''I.C.J.Reports 1992'', p.15, para.39)。同事件の管轄権判決では、リビアの請求は、安保理決議748及び883が出される前になされているという理由から、管轄権を認めたが(''I.C.J.Reports 1998'', p.26, para.44)、リビアと米国、英国とで和解が成立し、本案判決が出されずに訴訟リストからはずれ、安保理の司法的コントロールの問題は結論がもちこされた。しかし、2005年9月21日に欧州共同体第一審裁判所が「Yusuf事件」において、オサマ・ビンラディンとその組織への制裁に関して個人に義務を課した安保理諸決議について、それらが国際法上の強行法規(''jus cogens'')、特に[[人権]]の普遍的保護を目的とした[[強行法規]]に反する場合には司法的コントロールが拡大されうる、と判示し(T-306/01, point 282)、大変注目されている(他にも同日の「Kadi事件」(T-315/01)第一審判決、「Hassan事件」(T-49/04)および「Ayadi事件」(T-253/02)2006年7月12日第一審判決)<ref>Vandepoorter,A., «L’application communautaire des décisions du Conseil de sécurité», ''A.F.D.I'', 2006, pp.102-136.</ref>。
なお、[[欧州共同体|EC]](欧州共同体)や[[Mercosur]](南米南部共同市場)、[[CARICOM]](カリブ共同体)、CAN(「[[アンデス共同体]]」; Comunidad andina)、SICA(「[[中米統合機構]]」; Sistema de la Integracion Centroamericana)は、域内に共同体をつくる「統合的組織」(les Organisations d'intégration)<ref>Daillier,P.(coord.), «La jurisprudence des tribunaux des organisations d’intégration latino-américaines», ''A.F.D.I.'', 2005, pp.633-673.</ref>であり、通常の国際組織と区別する必要がある。
== 海洋法 ==
[[海洋法]]あるいは[[国際海洋法]](International Law of the Sea; Droit international de la mer)とは、領海の幅、大陸棚の資源利用、公海の利用に関するものなど海洋にかかわる国際法規の総称をいう。その歴史は古く、植民地時代の「閉鎖された海」(''mare claustrum'')から[[グローティウス]](グロティウス; Hugo Grotius)の「[[自由海論]]」へと発展した背景がある。1958年の一連の条約、いわゆる「ジュネーブ海洋法条約」を経て、第三次[[国際連合海洋法会議|国連海洋法会議]]の成果である1982年の「[[国連海洋法条約]]」(英:United Nations Convention on the Law Of the Sea; UNCLOS, 仏:Convention de Montego Bay; CMB)が現在の主要な海洋法の条約となっている。同条約は、[[法的深海底|深海底]]の地位について先進国と途上国との対立から発効が遅れていたが、1994年の「[[国連海洋法条約第十一部実施協定]]」の成立によって、発効し動き出した。「国連海洋法条約」が、「'''海の憲法'''」として他の特別条約に対して優越性を有するか否かという問題<ref>Otani,Y., «Quelques réflexions sur la juridiction et la recevabilité vis-à-vis de l’Affaire du thon à nageoire bleue», ''Liber amicorum Judge Shigeru Oda'', 2002, p.740.</ref>は、近年、議論がさかんである(同条約282条を参照)。
[[領海]]については、国連海洋法条約は、沿岸国は12海里を越えない範囲で画定できるとする(3条)。領海は、[[領土]]と同じ地位にあり、沿岸国の主権が排他的に及ぶ。ただし、他国の船籍の[[無害通航権]]は保障されている(17条)。沿岸国の「[[基線 (海)|基線]]」については、1951年の「漁業事件」(イギリス対ノルウェー)で、直線基線の方式が慣習法となっているか争われたが、国連海洋法条約では、直線基線を基本として、改めて詳細な規定がおかれている(7条)。
[[大陸棚]]の制度は、1945年の米国による「[[トルーマン宣言]]」に由来する。米国は、大規模開発から沿岸漁業資源を守るという目的で、当時の国際法を越える形で、その沿岸に隣接する海洋に保護領域を設け、そこでは沿岸国の主権が及ぶと一方的に宣言した。同宣言は、伝染性を有し<ref>Dehaussy,J., «Les actes unilatéraux comme sources du droit international», ''Cours I.H.E.I.'', Paris, 1966-1967, p.76.</ref>、他国も次々と同様の宣言あるいは法令の設定を行い、その結果、大陸棚制度は一般慣習法となった。国連海洋法条約も、大陸棚の制度を認め、基線からその領土の自然の延長をたどって大陸縁辺部の外延に至る'''海底及びその下'''は、沿岸国の主権下にあると定めた(76条)。沿岸国は、大陸棚にある天然資源の開発について主権的権利を有する(77条)。しばしば、国家間で、大陸棚の境界画定問題が起こり、そのうちのいくつかは国際司法裁判所で争われており、近年、この種の訴訟が増加している。
[[排他的経済水域]](EEZ; Economic Exclusive Zone)も、大陸棚と同様に、沿岸国の基線から200海里まで認められている(55,57条)。57条では、排他的経済水域の'''海底上部水域、海底およびその下'''の天然資源の開発や海洋環境の保護等のための沿岸国の管轄権が認められている。このように、排他的経済水域の制度と大陸棚の制度は、重なる部分があるため、今日では、両者の「単一境界画定」(single maritime delimitation)が行われることがよく見られる(1984年「メイン湾における海洋境界画定事件」(カナダ/米国)国際司法裁判所小法廷判決ほか)<ref>Tanaka,Y., ''Predictability and Flexibility in the Law of Maritime Delimitation'', Oxford, Hart, 2006, pp.81-126.</ref>。また、沿岸国は、漁業資源の保存に関して「漁獲可能性」を決め、最良の科学的証拠によって生物資源のための適当な保存措置を執らなければならない(61条)。
[[公海]](High Sea)は、今日の海洋法において、最も変動が激しい分野である。原則として、「[[公海自由の原則]]」に則り、全ての国は公海を自由に漁獲することが出来る(116条)。ただし、生物資源の保存のために必要な措置を執り、他国と協力する義務がある(117条)。この規定により、近年、沿岸国が排他的経済水域を越えて、自国に接する公海における一方的漁業制限措置・環境保護措置を執ることがしばしば見られる。例えば、カナダによる1970年の「北極海水域汚染保護法」や同国による1994年の「沿岸漁業保護法」(The Costal Fisheries Protection Act)である。後者について、1995年にスペイン船舶「エスタイ号」がカナダ政府の船舶によって拿捕されるという事件が起こった。同事件は、国際司法裁判所の「漁業管轄権事件」(スペイン対カナダ)として争われたが、裁判所はカナダの選択条項受諾宣言の留保を根拠に、管轄権がないと判示した。その後、カナダとECで和解が結ばれた(34 I.L.M. 1263(1995))。そして同年、1995年に公海における海洋資源保護を強化した「国連公海漁業実施協定」が成立するに至った。最近では、2003年にフランスが、自国の排他的経済水域を越えて、地中海にまで環境保護のための自国の管轄権を拡大する法律を制定し(Loi n°2003-346 du 15 avril 2003 relative à la création d'une zone de protection écologique au large des côtes du territoire de la République, ''R.G.D.I.P.'', 2004/1, pp.285-291)、議論になった。1999-2000年の「[[みなみまぐろ事件]]」(オーストラリア・ニュージーランド対日本)は、日本が実に100年ぶりに国際裁判に登場したことで話題となった。国際海洋法裁判所の[[仮保全措置]]命令では、日本に暫定的なみなみまぐろの漁獲の制限を命じたが(38 I.L.M.1624(1999))、続く、仲裁裁判所での管轄権判決では、「みなみまぐろ保存条約」(CCSBT)では当事国で選択された手段で紛争を解決すると規定されており、国連海洋法条約の下の義務的管轄権はないと判示し、前記仮保全措置を取り消し、日本の勝訴となった(39 I.L.M.1359(2000))。
[[法的深海底|深海底]](The Area; la Zone)は、[[南極]]、[[宇宙]]とともに、「[[人類の共同遺産]]」(common heritage of mankind)と規定されている(136条)。そのため、深海底の自由な開発を主張する先進国と、「機構」(The Authority; l'Autorité)による管理を主張する途上国との対立が長引き、国連海洋法条約は発効できずにいた。しかし、1994年の前記「第十一部実施協定」は、先進国の技術移転を削減することで元の部分を和らげる形で成立するに至った<ref>Daillier/Forteau/Pellet, ''Droit international public'', ''supra'', pp.1356-1357.</ref>。([[国際法#国際化領域|国際化領域]]の項も参照。)
また、国連海洋法条約の下、1996年に[[国際海洋法裁判所]](ITLOS; International Tribunal for the Law of the Sea)が設立され、活動している。すでにいくつかの拿捕事件などについて裁判が行われている。最近、日本の漁船がロシア当局に拿捕された事件である、「豊進丸号事件」(日本対ロシア)(No.14)と「富丸号事件」(日本対ロシア)(No.15)(ともに2007年8月6日判決)が争われた。前者では、日本の保釈金が大幅に減額されてロシアによる、漁獲物を含む豊進丸号の速やかな釈放(prompt release)及び乗組員の無条件の解放が示された(Judgment, para.102)。後者の事件は、すでにロシア最高裁判所で決定済みであり、日本はこれを争うことはできないと判示された(Judgment, para.79)。
== 国際化領域 ==
「[[国際化領域]]」(les zones internationalisées)とは、国際的地位を与えられ、国際的管理の下におかれている領域をいう。古くからは[[国際河川]]([[ライン川]]、[[ムーズ川]]など)、[[国際運河]]([[スエズ運河]]、[[パナマ運河]]、[[キール運河]]など)があるが、ここでは、その特徴が最も現れている、[[南極]]、[[法的深海底|深海底]]、[[宇宙]]を扱う。これら三つは全て、'''全人類の利益の追求'''、'''領域権原取得の禁止'''、'''平和的利用の原則(非軍事化)'''という特徴を有する<ref>稲原泰平『宇宙開発の国際法構造』(信山社、1995年)29頁。</ref>。
'''南極'''(Antarctica)は、現在、1959年の「[[南極条約]]」によって規律されている。2008年6月現在、当初、南極地域における領土権を主張していた国(イギリス、ニュージーランド、フランス、ノルウェー、オーストラリア、チリ、アルゼンチンの7か国; 「[[クレイマント]]」)も含めて、締約国数は46か国である。その第一の目的は、「南極地域は、平和的利用のみに利用する」(1条)にある。南極地域における軍事基地や軍事演習は禁止される。また、同条約は、科学的調査の自由(2条)とそれについての国際的協力(3条)を規定する。そして、いかなる国による領土権・請求権の凍結が定められている(4条)。また、南極地域は、「[[非核化]]」されており、核爆発と放射性廃棄物の処分は禁止される(5条)。南極地域の管理に関して、国際組織が存在するわけではないが、これを国際的に管理する制度として、「南極条約協議国会議」(Antarctic Treaty Consultative Meetings; ATCMs)が置かれ<ref>池島大策『南極条約体制と国際法』(慶応大学出版会、2000年)139-154頁。</ref>、それは「勧告」を行う(9条)。また査察制度も置かれており、締約国は、この条約の遵守を確保するために、協議国会議に出席できる「監視員」(observers)を指名する権利を有する(7条)。また、近年、ますます重要になっているのが、南極地域における「生物資源の保護」(9条(f))である。第四回協議国会議の結果を経て、1980年に「[[南極の海洋生物資源の保存に関する条約]]」が成立した。また、1991年には「[[環境保護に関する南極議定書]]」が成立した。
「南極条約体制」が「[[客観的制度]]」(objective régime)として、条約の第三国も拘束するという主張がしばしばなされる。その根拠は、「南極条約」の「この機構は国連加盟国でない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない」(5条1項)、「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」22条および「環境保護に関する南極議定書」13条2項の、「各締約国は、いかなる者もこの議定書に反する活動を行わないようにするため、国際連合憲章に従った適当な努力をする」という規定にあると考えられる。これについては学説上争いがあり、仮に南極条約締約国が南極地域における排他的管轄権を有しているとしても、条約の第三国に対する効力は、いわゆる「第三国効力」ではなく、合法的に創設された法的状況を尊重する一般的義務があるにすぎないとする見解もある<ref>Cahier,Ph., «Le problème des effets des traités à l'égard des États tiers», ''Recueil des cours'', t.143, 1974-III, pp.664-665.</ref>。
'''深海底'''は、[[国連海洋法条約]]133条から191条で規定されており、国家管轄権の外にあり、「[[人類の共同遺産]]」(common heritage of mankind; CHM)制度が適用される地域である。すなわち、「深海底及びその資源は、人類の共同遺産」(136条)であり、「いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張又は行使してはならず」(137条)、深海底における活動は「人類全体の利益のために行う」(140条)。また、「深海底は…全ての国による専ら平和的目的のための利用に開放する」(141条)とする。国際管理のための制度的メカニズムとしては、「深海底機構」(The Authority)が置かれる。「機構」は、総会、理事会、事務局を有し、「決定」(decisions)を下すことができる。総会は三分の二の多数決で「決定」を行うことができる(159条)と当初されていたが、しかし、1994年の「第十一部実施協定」で、「原則として、機構の意思決定は、コンセンサス方式によって行うべきである」(3節2項)と規定され、かつ理事会は、運営、予算、財政に関するあらゆる事項についての決定を妨げることができるようになっている(4項)<ref>Voir Daillier/Forteau/Pellet, ''Droit international public'', ''supra'', p.1353.</ref>。
'''宇宙'''は、1966年の「[[宇宙条約]]」(「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」)を宇宙基本法とする法体系の下にある。まず、その1条は、「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用は、全ての国の利益のために…全人類に認められる活動分野である」とし、「国際法に従って自由に探査し及び利用することができる」とする。2条では、いかなる国によっても領有権の主張は禁止され、4条では、大量破壊兵器の打ち上げを禁止し、宇宙は専ら平和的目的のために利用されるものとする、と規定する。また、この宇宙基本法を基礎として、「[[宇宙救助返還協定]]」、「[[宇宙損害責任条約]]」、「[[宇宙物体登録条約]]」、「[[月協定]]」が成立している。「月協定」11条によれば、「月及びその天然資源は、人類の共同遺産である」とされている。また、同条約7条で、月環境の保全が定められていることも、注目に値する。これにより、「環境」という概念が、宇宙空間まで拡張されたことを意味する<ref>稲原、前掲書、57-59頁。</ref>。また、1963年の「[[部分的核実験禁止条約]]」により、宇宙空間も「非核化」されている。[[国家責任]]制度については、[[無過失責任]]が採用されている(前記「宇宙損害賠償責任条約」2条)。宇宙空間の国際的管理の制度に関しては、国連の下につくられた「[[宇宙空間平和利用委員会]]」が活動している。衛星など技術的な側面については「[[国際電気通信連合]]」にゆだねられている。
{{See also|宇宙法}}
== 個人管轄 ==
'''国家管轄権'''の項で述べたように、国家は、国際法上、個人の[[国籍]]に基づき、[[属人的管轄権]]を行使できる。ここでは、'''国籍の決定、取得'''について述べる。
国籍(nationality; la nationalité)は、個人と国家の連結を意味し、それには二つの側面がある。
まず、国籍決定は、'''国家の自由である'''。国家は、自決権に基づきその国民の構成を支配するものとして国籍決定の排他的権限を有する。国際司法裁判所は、1955年の「[[ノッテボーム事件]]」判決において、「国際法は、各国家にその固有の国籍の帰属を決定する管理を委ねている」と述べた(''C.I.J.Recueil 1955'', p.23)。日本も、「[[国籍法]]」という形で、日本国籍取得の条件を法律で定めている。国籍取得のあり方は各国が自由にその基準を決めることができ、「血統主義」(''jus sanguinis'')と「生地主義」(''jus soli'')がある。日本の国籍法は、血統主義を採用している。また、「[[帰化]]」(naturalisation)は、外国人がその国の国籍を有する個人と結婚した場合や、継続的にその国に居所を有することから認められる場合である。
各国家に、国籍決定の自由を委ねている故に、各国の国籍付与が競合することもあり得る(国籍の[[対抗力]])。国籍は、国家の[[外交保護権]]の行使の基礎となる。前掲「ノッテボーム事件」では、ノッテボームが34年間にわたってグアテマラに住んでいたこと、彼がリヒテンシュタインへ帰化した後もたびたび戻り彼の利益と活動の中心をグアテマラに保持していること、などから、裁判所は、ノッテボームとグアテマラの「長年にわたる緊密な結び付きの関係」(un lien ancien et étroit de rattachement)を認め、リヒテンシュタインはその要請を不受理と宣告されなければならないと判示した(''C.J.I.Recueil 1955'', pp.25-26; 皆川『国際法判例集』489頁)。これを「実効国籍の原則」という。
他方、国籍取得は、'''個人の基本的人権である'''という側面も有する。「[[世界人権宣言]]」15条は、「すべての者は、国籍を取得する権利を有する」と規定する。「[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]」(自由権規約)24条は、児童の国籍取得の権利を認める。国籍は、その国内における人権保障を与えられる重要な要素である。ゆえに近年は、国籍取得の人権としての側面に重点が置かれ、特に国籍による差別の問題が議論される。
日本では、2008年6月4日の最高裁判決で、国籍法3条にある「準正」(legitimation)による国籍取得要件として、「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のものは、認知をした父又は母が子の出生時に日本国民であった場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき」、その子どもは日本国籍を取得すると規定している点につき、今日における社会情勢や家族のあり方の変化により、両親の婚姻を子の国籍取得の条件としているのは憲法14条の法の下の平等に反するとし、国籍法5条の憲法との「適合解釈」を行い、原告の日本国籍の取得を認めた。
最後に、'''法人の国籍'''について、連結要素としては、設立準拠法国、支配の場所、株主の国籍が考えられる。1970年の「バルセロナ・トラクション事件」(ベルギー対スペイン)では、ベルギーがその多数の株主の国籍国として外交保護権の行使を主張したが、裁判所は、外交保護権の領域では他の分野と同様に合理的適用が要求されているとし、法人の外交保護については一般に実効的連結に適用される絶対的基準は認められず、様々な結びつきのバランスをとらねばならないとし、「ノッテボーム」判決の適用を否認した。そして、当該法人がカナダで設立されそのカナダ国籍は一般的に認められていること、ベルギーもそれを認めてきたことなどから、ベルギーの訴えを退けた(''C.I.J.Recueil 1970'', pp.42-44, pars.70-76, pp.50-51, par.100、皆川『国際法判例集』521-527頁)。この判決については、種々の議論がある<ref>対世的義務の性質について、Combacau/Sur, ''Droit international public'', ''supra'', p.529.</ref> 。
== 国際人権法 ==
「国際人権法」(International Human Rights Law; Droit international des droits de l'Homme)とは、国際法によって個人の[[人権]]を保障する、国際法の一分野をいい、第二次大戦後に急速に発展してきた分野である。第二次大戦前は、人権は国内問題として、[[国内問題不干渉義務]]([[国際連盟規約]]15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。しかし、第二次大戦の反省から、[[国連憲章]]において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。その端緒は、1948年の国連総会において採択された「[[世界人権宣言]]」(Universal Declaration of Human Rights)である。
国際人権法は、二つに分類することができる。'''普遍的保障'''と'''地域的保障'''である<ref>Sudre,F., ''Droit européen et international des droits de l’homme'', 11e éd.,Paris, P.U.F., 2012, pp.131 et s.</ref>。
第一に、普遍的保障であるが、これは、'''国連システム'''と'''条約制度'''に分けられ、多くの場合が一般的に強制力をもった履行手続きを備えていない。
国連システムでは、[[国際連合経済社会理事会]]が創設した「[[国際連合人権委員会]]」の制度があった。2006年に、同委員会は「[[国際連合人権理事会]]」(the Human Rights Council)に発展した(国連総会決議60/251; A/RES/60/251, 3 April 2006)。しかし、基本的な性格や目的は、維持されているといえる。すなわち、国連人権理事会は、テーマ別人権問題について対話の場を提供したり(同決議、5項(a))、各国による人権に関する義務の履行の普遍的定期的審査を行ったり(同項(e))、法的拘束力のない「勧告」(recommendations)を行ったり(同項(i))するにとどまる。国連人権委員会での最大の問題点がその「政治性」であったが、人権理事会となった現状でも、独立した判断機関とはいえず、政治的組織の内部に属するものにとどまっているという他はない<ref>Eudes,M., «De la Commission au Conseil des droits de l’homme. Vraie réforme ou faux semblant?», ''A.F.D.I.'', 2006, pp.599-616.</ref>。国連システムにおける人権保護は、「[[1235手続き]]」及び「[[1503手続き]]」に基づく「国別手続き」、そして「テーマ別手続き」に分かれる。
条約制度として、世界人権宣言を条約化したといわれる[[経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約]](社会権規約)と[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]](自由権規約;ICCPR)があるが、特に発達している自由権規約の制度においても、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書|自由権規約の第1選択議定書]]の下の[[個人通報制度]]では、[[自由権規約人権委員会]] (the Human Rights Committee) は、法的拘束力のない「見解」(views)を述べる権限を有するにとどまる。他にも、国連の下で、[[人種差別撤廃条約]]、[[アパルトヘイトの防止と処罰に関する条約]]、[[女子差別撤廃条約]]、[[こどもの権利条約]]等の人権条約が作成され、実施されているが、同様に、拘束力のある決定を下す機関はない。
第二に、地域的保障は、[[欧州人権条約]](正式名称、「[[人権と基本的自由の保護のための条約]]」)、[[米州人権条約]]、[[アフリカ人権憲章]](正式名称、「[[人及び人民の権利に関するアフリカ憲章]]」)が非常に発達している。各制度は、独自の'''人権裁判所'''を有しており、強制的な法的拘束力のある判決を下して、その実効性を担保している点で、先の普遍的保障の制度と大きく異なる。なお、アジアにおいて、地域的人権条約を創設しようとする努力もなされたことがあるが、いまだ実現していない。
[[欧州人権条約]]は、「[[欧州評議会]]」(le Conseil de l'Europe; the Council of Europe)の下、基本的自由が世界における正義と平和の礎であるとして(前文)、1950年につくられた。加盟国は、広く、EU諸国から、ロシア、トルコまで含む。国家に加えて、個人や非政府団体も、ここに締約国の条約違反を直接訴えることができる(34条)「[[欧州人権裁判所]]」を有し、現在、大変活発に活動している。同裁判所の判決は強制力を有し(第46条)、加盟国を直接、法的に拘束する。
[[米州人権条約]]は、1969年に欧州人権条約にほぼ倣ってつくられた制度であり、同様に「[[米州人権裁判所]]」を有する。同裁判所も活発に活動しており、国際法の観点からは、例えば、1999年に国際司法裁判所で争われた「ラグラン事件」(メキシコ対米国)に関連して、独自に勧告的意見を出したことなどが、注目されている。
1981年に成立した[[人及び人民の権利に関するアフリカ憲章]]は、人権の保護を目指すと同時に、人民の平等(19条)や発展の権利(22条)も目的としている。同条約が設置していた「[[アフリカ人権委員会]]」は、その後、2006年に「[[アフリカ人権裁判所]]」(正式名称、「人及び人民の権利のアフリカ裁判所」; la Cour africaine des droits de l'homme et des peuples)に代わり、他の地域的制度と同様に司法機関を持つようになった。しかし、条約の実効性については、未だ発展段階にあるといえる。2008年7月1日に、「[[アフリカ司法人権裁判所]]規程に関する議定書」(Protocol on the Statute of the African Court of Justice and Human Rights)が成立し、これによれば、「アフリカ人権裁判所」と「アフリカ連合司法裁判所」の二つの裁判所が統一されることになっている(2020年6月18日現在、55ヶ国中、署名33ヶ国、批准8ヶ国。発効には15ヶ国の批准が必要)。この新たな裁判所は、条約、慣習法、アフリカ諸国に共通の一般原則を適用するとされ、勧告的意見も発することができることになっている。
国際人権法の最大の課題は、その国内的実施である。特に、各種人権条約の国内法秩序への直接適用性(direct applicability)が問題となる。日本において、[[自由権規約]](ICCPR)については、国内判例では、1994年4月27日大阪地裁判決、1993年2月3日東京高裁判決、1997年3月27日札幌地裁判決ほかで関連条項の直接適用性が認められた。[[社会権規約]](ICESCR)については、これが漸進的性格を有するゆえに、原則として直接適用性は認められず、1984年12月19日最高裁判決(「塩見事件」)でもICESCR第9条の直接適用性が否認されたが、社会権規約委員会(the Committee on Economic, Social and Cultural Rights)の一般注釈第3番(General Comment No.3)ではICESCR第2条の差別の禁止等、特定の条項は自動執行力があるとされている<ref>Iwasawa,Y., ''International Law, Human Rights, and Japanese Law: The Impact of International Law on Japanese Law'', Oxford, Clarendon, 1998, pp.49-61.</ref>。
== 国際経済法 ==
「[[国際経済法]]」(International Economic Law)とは、国家間の経済活動を規律する国際法の一分野であり、第二次大戦後に急速に発展した分野の一つである。1947年の「[[関税と貿易に関する一般協定]]」(GATT; General Agreement on Tariffs and Trades)により、経済的価値が国際法に導入された。GATTの目的は、'''自由貿易の促進'''にある。そのために、「自由」(貿易制限措置の関税化及び関税率の削減; [[関税譲許]](2条))、「無差別」([[最恵国待遇]](1条)および[[内国民待遇]](3条))、「多角」(=ラウンド、交渉)の三原則が存在する。
そして、[[多角的貿易交渉]]・[[ウルグアイ・ラウンド]]の成果として、1994年に「[[マラケッシュ協定]]」が成立し、翌年、「[[世界貿易機関]]」(WTO; World Trade Organization)が設立に至り、単なる条約にすぎなかったGATT制度は、[[国際組織]]となった。そして、ウルグアイ・ラウンドで結ばれた数々の協定により、その対象領域は急速に拡大した。例えば、「[[サービスに関する一般協定]]」([[GATS]]; General Agreement on Trade in Services)、「[[衛生植物検疫措置の適用に関する協定]]」([[SPS協定]]; Agreement on the Application of Sanitary and Phytosanitary Measures)、「[[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]]」(TRIPs協定; Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)、「[[紛争解決に係わる規則及び手続きに関する了解]]」(Understanding on Rules and Procedures Governing the Settlement of Disputes)などである。
WTOによって設立された'''紛争解決機関'''(DSB; Dispute Settlement Body)は、その後のGATT/WTO法の実効性に大きく寄与することとなった。特に、米国によりたびたび適用されてきた「[[スーパー301条]]」による一方的措置がこれによって禁じられ、全ての紛争は、「'''小委員会'''」(Panel)及びその上訴機関の「'''上級委員会'''」(AB; Appellate Body)の「報告」(Report)に服することになった。GATT/WTO法は、[[自己完結的制度]](self-contained regime; un régime se suffisant à lui-même)といえるだけの性格を保有するに至ったといわれることもある<ref>肯定的な立場として、Boisson de Chazournes,L., ''Les contre-mesures dans les relations internationales économiques'', Institut universitaire de Hautes Etudes Internationales/Pedone, Genève/Paris, 1992, pp.182-186. 否定的な立場として、Arangio-Ruiz,G., “Fourth Report on State Responsibility Addendum”, A/CN.4/444/Add.2, pp.12-13.</ref>。
また近年、GATT/WTO法による'''環境保護'''が急速に発展している。GATT20条(b)は、「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」を、同条(g)は、「有限天然資源の保存に関する措置」を、締約国に認めている。ただし、20条前文は、「ただし、それらの措置を、…濫用的に(arbitrary)もしくは正当と認められない差別的待遇の手段となる方法で…適用しないことを条件とする」としている。WTOが出来る前の1991年の「第一マグロ・イルカ事件」(メキシコ対米国; Tuna/Dolphine Case I)において、パネルは、20条(b)または(g)によって域外管轄権の行使を認めると、GATTで保障されている他の締約国の権利を害することになってしまう、として、米国の海洋哺乳動物保護法(MMPA; Marine Mammal Protection Act)による措置は正当化できないとした(Report of the Panel, paras.5.27, 5.32, 30 I.L.M. 1594(1991))1994年の「第二マグロ・イルカ事件」(Tuna/Dolphine Case II)においても、本質的に同様の理由により、米国のMMPAに基づく措置は正当化できないとした(33 I.L.M. 839(1994))。しかし、1998年の「小エビ事件」において、上級委員会は、GATT20条(g)にある「有限天然資源」の文言について、他の環境条約も考慮した「発展的解釈」により、「生物天然資源及び非生物天然資源」も含むと解釈した(WT/DS58/AB/R, paras.129-130)。これにより、各国の天然資源保護を目的とした一方的措置の可能性が開けたといえる。
'''TRIPs協定'''については、2001年の「[[ドーハ宣言]]」によって、抗HIV薬の特許に関するモラトリアムを最貧国(LDCs)に対しては2012年まで延期する旨、決定されたことが注目される。その後、インドや南アフリカにおいて、ヨーロッパの製薬会社が、抗HIV薬の違法コピーを訴える事件が起こったが、南アフリカでは製薬会社が訴訟を取り下げ(''Le Monde interactif'', 19 avril 2001<ref>http://www.lemonde.fr</ref>)、インドでは製薬会社の訴えを退ける判決が下されている(「Novatis vs.Union of India他事件」マドラス高等裁判所判決、2007年8月6日、W.P.Nos.24759 and 24760 of 2006)。
'''農業分野'''では、日本・EUと米国の対立が解けず、[[シアトル・ラウンド]]は不成功に終わった。現在も、農業分野の協議が続行されているが、日本は農業生産物の輸入関税の大幅な引き下げを余儀なくされることが危惧されている。
また、最近では、各国間で「[[自由貿易協定]]」(FTA; Free Trade Agreement)や「[[経済連携協定]]」(EPA; Economic Partnership Agreement)が活発に結ばれている。これは、GATT24条の、貿易の自由の拡大のための関税同盟(例えば、[[欧州共同体|EC]])または自由貿易協定を締結することを認める、という規定に基づく。日本は、2002年にシンガポールと初のFTA([[日本・シンガポール新時代経済連携協定]])を締結した。その後も、メキシコとFTAを締結、ASEAN諸国を中心にその他の国ともEPAを活発に結び、また結ぼうとしている。
日本は、[[環太平洋パートナーシップ協定]]を結び、これは2018年12月30日に発効した(TPP11)。
== 国際環境法 ==
国際環境法とは、国際的な環境問題に対処するための国際法の一分野である。その特徴は、「[[持続可能な発展]]」(Sustainable Development; SD)概念として現れている。すなわち、従来の国際法が、現在の世代の利益のみを考慮していたのに対して、近年の国際環境法、特に[[地球環境]]保護を目的としたものは、現在のみならず'''将来世代の利益の保護'''を目指したものであり、過去、現在、未来世代という、時間を超越した「[[人類]]」(l'humanité)概念<ref>Dupuy,P.-M., ''Droit international public'', ''supra'', p.753.</ref>に結びついている。
確かに、20世紀半ばまでは、国際環境法も他分野と同じく、主権国家間の[[国際紛争の平和的解決|紛争の平和的解決]]の手段にすぎなかった。すなわち、当時は、「領域使用の管理責任」概念や「相当の注意義務」(due diligence)概念を適用する「共存の国際法」であった(1941年「[[トレイル溶鉱所事件]]」(米国/カナダ)仲裁裁判所判決、''A.J.I.L.'', Vol.35, 1941, p.716)。
しかし、1972年の「ストックホルム[[人間環境宣言]]」を契機に、地球環境保護が、「人間の福利および基本的人権ひいては生存権そのものの享有にとって不可欠である」(前文)と認められるに至った。このころの国際環境法は、[[海洋汚染]]対策(1973年の「航行による汚染に関するロンドン条約」)、特定の動植物の保護(1979年の「野生動物相に属する移動性の種の保護に関する条約」)、[[UNEP]]の下で採択された各種地域海洋に関する条約など、まだ「部門別アプローチ」の方式をとっていた(「'''第一世代の国際環境法'''」)。
その後、1980年代後半からは、国際共同体全体の利益を管理することを中心問題とした「'''第二世代の国際環境法'''」を設定する条約が次々と生まれるようになった。オゾン層の保護、地球温暖化への対処、生物多様性の保護、砂漠化への対処などである。1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された[[環境と開発に関する国際連合会議]]から生まれた、「[[気候変動枠組条約]]」、「[[生物多様性条約]]」、そして法的拘束力はないが「[[森林原則宣言]]」は、その典型的なものである<ref>Boisson de Chazournes,L., «Droit de l'environnement», D.Alland(dir.), ''Droit international public'', Paris, P.U.F., 2000, pp.731-732.</ref>。
現代の国際環境法の特徴は、(1)[[防止原則]]/[[予防原則]]、(2)[[共通だが差異のある責任]]、(3)私的アクターの三つが挙げられる<ref>''Cf''.Daillier/Forteau/Pellet, ''Droit international public'', ''supra'', pp.1417-1426.</ref>。
第一に、「防止原則」(Preventive Principle; 「ストックホルム[[人間環境宣言]]」第21原則、「[[環境と開発に関するリオ宣言]]」第2原則)とは、科学的予測によって、自国の行為が環境を害する恐れがある場合には、前もってその行為を思いとどまらなければならない、という原則である。近年は、それよりさらに進んだ「予防原則」(precautionary principle; 「リオ宣言」第15原則)が確立し始めており、すでにいくつかの条約で採用されている(「[[気候変動枠組条約]]」3条3項、「[[生物多様性条約]]」前文および「[[カルタヘナ議定書]]」10条6項ほか)。それは、たとえ科学的データによって環境を害することが明らかではない場合でも、重大で回復不能な損害を与えるリスクの存在だけで、当該行為を規制しなければならないという原則である。ただ、「予防原則」が一般慣習法に成熟したかどうかは、争いがある。
1998年「EC・ホルモン肉事件」において世界貿易機関(WTO)上級委員会は、予防原則が一般または慣習国際法であると加盟国によって幅広く受け入れられているかはより明らかではなく、ただこの抽象的な問題には入り込む必要はないとした。そして、予防原則は小委員会を通常の条約解釈の義務から解放するものではなく、それはSPS協定5条1項及び5条2項をくつがえすものではないと判断した(WT/DS26/A/R, WT/DS48/A/R, 16 January 1998, pp.46-48, paras.120-125.)。
その後、2011年「深海底における活動に関連する国の責任と義務」国連海洋法裁判所海底紛争裁判部勧告的意見において、予防アプローチはますます多くの国際条約の中に取り込まれてきており、それらの多くはリオ宣言第15原則の形式を反映しているのであり、そのことにより同原則が慣習国際法の一部になる方向への傾向が始まったと示した(''ITLOS Reports 2011'', p.47, para.135.)。
第二に、「[[共通だが差異のある責任]]」(common but differentiated responsibility; 「リオ宣言」第7原則)は、精神的な結びつき<ref>Daillier/Forteau/Pellet, ''ibid.'', p.48.</ref>である「国際共同体」概念がその基礎にあると考えられる<ref>「共通だが差異のある責任」について、Daillier/Forteau/Pellet, ''ibid.'', pp.1431-1433、国際共同体における「配分的正義」(la justice distributive)について、Dupuy,R.-J., ''La Communauté internationale entre le mythe et l'histoire'', ''supra'', pp.103-130.</ref>。すなわち、十分な対応能力を有する先進国と比べて、技術力や資金力を有しない発展途上国を別に扱うことである。たとえ違反が行われてもその事実のみを指摘して制裁を科さない「[[不遵守手続き]]」(Non-Compliance Procedure; NCP)や先進国から途上国への技術移転、資金援助などを規定する国際条約が、今日では非常によくみられる。
第三に、私的アクター、すなわちNGO([[非政府組織]])が様々な条約作成や履行委員会などの国際会議に出席して発言したり、ロビー活動を通じて国家の意思決定に積極的に関わるという現象が見られる。
また法源としては、事態に敏速に対応するために、まず「'''枠組条約'''」(framework-convention; une convention-cadre)を設定した後、締約国会議(COP; Conference Of the Parties)を継続させ、その中で「[[議定書]]」(Protocol)、「[[附属書]]」(Annex)、「決定」(Decision)を追加していく、という方式がよく採られる(気候変動枠組条約のCOP3(1997年)で成立した「[[京都議定書]]」ほか)。また、[[ソフトロー]]的な法的拘束力のない文書を先行させて、後のハードローである条約や慣習法の成立を誘発させる、という形もとられている。
== 紛争解決 ==
「紛争解決」については、'''[[国際紛争の平和的解決|紛争の平和的解決]]の義務'''が国際法上、確立している。国連憲章2条3項は、「すべての加盟国は、その[[国際紛争]]を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と定める。これは、憲章2条4項の[[武力不行使原則|武力による威嚇または行使の禁止原則]]からも導かれ、武力によって紛争を解決してはならないことに帰着する。また、憲章33条1条は、「いかなる紛争でも…その当事者は、まず第一に、[[交渉]]、[[審査]]、[[仲介]]、[[調停]]、[[仲裁裁判]]、[[司法的解決]]、地域的機関又は地域的取決の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない」と規定する。すなわち、'''平和的解決の手段の当事者の自由選択性'''である。この33条で定められた原則は、慣習国際法になっているとされる(「ニカラグアにおける及びニカラグアに対する軍事的、準軍事的活動事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1986'', p.145, para.290)。「国際紛争の平和的解決に関する[[マニラ宣言]]」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの迅速かつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.963.</ref>。
「'''交渉'''」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.734.</ref>。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation in good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、''I.C.J.Reports 1969'', p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。
「'''審査'''」(enquiry; l'enquête)とは、紛争の解決の枠組みにおいて、争われている事実の公平な解明を目的とする手続きである<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.428.</ref>。1907年の「国際紛争平和的処理条約」9条では、「締約国ハ、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ…之ヲシテ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当タラシムル」とされる。
「'''仲介'''」(mediation; la médiation)とは、紛争両当事者の合意によって求められる一又は複数の第三者(国家、機関、私人)が両当事者の間に入って話し合いを促進させるために両者の主張を融和させることをいう<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', pp.688-689.</ref>(''cf''.「国際紛争平和的処理条約」4条)。
「'''調停'''」(conciliation; la conciliation)とは、「固有の政治的権限のない機関が、係争にある当事者の信頼を享受し、係争の全ての面を検討し当事者に拘束的でない一つの解決を提案する任務で、国際紛争に介入することと定義されうる」<ref>Cot,J.-P., ''La conciliation internationale'', Paris, Pedone, 1969, p.8; cité dans Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.224.</ref>。
「'''仲裁裁判'''」(arbitration; l'arbitrage)とは、広義には、当事者によって委ねられた第三者によってなされる法的拘束力のある決定によって紛争を解決する方法である<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', p.76.</ref>(''cf.''「ローザンヌ条約第3条2項の解釈」常設国際司法裁判所勧告的意見、''C.P.J.I.'', série B, n°12, 1925, p.26)。仲裁裁判判決に対しては、(1)裁判所の「[[権限踰越]]」、(2)裁判官の買収、(3)判決の理由の欠如または手続きの根本規則の重大な逸脱、(4)仲裁の合意または付託合意([[コンプロミー]])の無効を根拠に[[判決の無効]]を訴えることができるとされる(国連国際法委員会「仲裁手続きに関する規則モデル」35条)。1960年の国際司法裁判所における「1906年12月23日にスペイン王が下した仲裁判決に関する事件」はその例である。また、「[[エリトリア・エチオピア紛争]]」では、両国の合意で常設仲裁裁判所の下での「境界委員会」の設置が決まり、それは「最終的で拘束的」(final and binding)とされた。同委員会は、2002年4月13日に境界画定の決定を下したが、エチオピアはこの決定に対して、「解釈、修正、協議ための」請求を提示した。「境界委員会」は上訴は認められないとし、これを退けたが、両国の緊張は再び高まり、国連安保理が介入するに至り、2005年12月19日に両国の合意に基づいて設置された「賠償委員会」の決定が下され、2006年11月27日には、「境界委員会」は両国欠席のまま、緊急に境界画定に関する報告を発している(''R.G.D.I.P.'', t.110, 2006/1, pp.195-202.)。
「'''司法的解決'''」(judicial settlement; le règlement judiciaire)とは、当事者の外部にある、法に基づいて法的拘束力のある決定を下すことのできる権限を有する機関(裁判所)によって紛争を解決することである<ref>Salmon(dir.), ''Dictionnaire de droit international public'', ''supra'', pp.962-963.</ref>。その典型例が、[[国際司法裁判所]]の判決による紛争の解決である。国際司法裁判所で裁判を開始するためには、両当事国による裁判付託の同意が必要である。ただし、国は裁判管轄権が義務的であるといつでも宣言することができ([[選択条項受諾宣言]]; Optional Clause)、この宣言を行った国の間においてはその宣言が定める事項的、時間的範囲内で国際司法裁判所は管轄権を有する(国際司法裁判所規程36条2項)。特定の条約において、その条約の適用、解釈の問題が起こった場合には国際司法裁判所に付託することを締約国に義務づけている場合もある(「[[集団殺害罪の防止および処罰に関する条約]]」9条、「義務的紛争解決についての[[領事関係に関するウィーン条約]]第一選択議定書」1条ほか)。国際司法裁判所の判決は、「当時国間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する」(国際司法裁判所規程59条)。また、「判決は、終結とし、上訴を許さない」(同60条)。
1966年「南西アフリカ事件(第二段階)」(エチオピア対南アフリカ、リベリア対南アフリカ)において、[[田中耕太郎]]判事は、裁判所は法体系、法制度、法規範から独立して法を創造することは許されていないが、それら法体系らの存在理由(raison d'être)から導き出したもので法の欠缺を埋めることは可能であるとした。そして、社会秩序及び個人の必要性(necessity)が法の発展の指導要素の一つであることは認めなければならないとし、必要性が当事国や関係国の意思から独立して法を創造しても、(国際組織の承継に関する)当事国の「合理的に仮定される(引き受けられる)意図」(reasonably assumed intention)<ref>Lauterpacht,H., ''Oppenheim's International Law'', Vol.I Peace, 8th ed., London, Longman, 1955, p.168.</ref>による説明が意思主義と妥協しうると説いて、被告南アフリカは国際連盟規約22条及び委任状の国際義務を保持し続けている、と結論した(Dissenting Opinion of Judge Tanaka, ''I.C.J.Reports 1966'', pp.277-278.)。
国際司法裁判所以外にも、[[常設仲裁裁判所]](PCA)などがある。常設仲裁裁判所は、国際司法裁判所と違って、個人または団体も当事者となることができるのが最大の特徴である。また、特定の条約制度(レジーム)内において、紛争解決のための独自の司法制度を整えているものもある。例えば、[[国連海洋法条約]]における司法制度(287条)及び同附属書VIによる国際海洋法裁判所(ITLOS)、[[世界貿易機関]](WTO)における[[紛争処理機構]](DSB)([[パネル]](Panel)、[[上級委員会]](AB)の報告及びその履行)である。企業と外国国家間の投資に関する紛争を解決するための「[[投資紛争解決国際センター]]」(ICSID)も設置され、現在、大変活発に活動している(「[[国際投資法]]」)。
このように、今日では、常設の司法機関が次々と創設され、「国際裁判所の増加」(la multiplication des juridictions internationales)の現象が起きている。このため、異なる裁判所間で、同一の事項につき異なる判断がなされる結果としての「[[国際法の断片化]]」(fragmentation)が議論されている。
上記のような紛争の平和的解決を経て、ある国の国際義務違反が確認、認定された場合には、その違法行為によって生じた損害を賠償(reparation)する義務が生じる。これは、「[[国家責任法]]」という、また別の大きな国際法の一分野である。'''国家責任法'''とは、「国家の国際違法行為から生じうる国際法上の新たな関係」(ILC条約草案1条コメンタリー; ''YbILC'', 1973, Vol.II, Pt.2, p.176)を規律する法規則の総体をいう。2001年には、実に約50年をかけて、国連国際法委員会(ILC)による同法の慣習法の法典化として、「国際違法行為に対する国の責任」(Responsibility of States for Internationally Wrongful Acts)条約草案(「[[国家責任条約草案]]」、特別報告者James Crawford)が国連総会で採択された(2001年12月12日、国連総会決議56/83)。その第1条では、「国のすべての国際違法行為は、当該国の国際責任を伴う」とされている。これに従い、責任を負う国は、賠償として、「原状回復」(35条)を原則に、それでは十分に回復されないときには「金銭賠償」(36条)、「精神的満足」(satisfaction)(37条)を損害を被った国に対して行う義務がある。同条約草案は、一般国際法の[[強行規範]](''jus cogens'')に基づく義務の重大な違反の法的帰結を定めており、諸国の合法的な手段によるその違反の終結のための協力義務とその違反によってもたらされた状態の不承認義務が規定されたことが特に注目される(41条)。
== 武力紛争法 ==
「[[武力紛争法]]」(Laws of War; Droit des conflits armés)とは、戦時に適用される国際法(戦争における法 ''jus in bello'')の総称であり、武力行使の発動に関する法(戦争のための法 ''jus ad bellum'')と対比をなすものである。その本質は、'''戦時における人間の保護'''にある。従来より「[[戦時国際法]]」とも呼ばれていたが、現代的には「国際人道法」(International Humanitarian Law; Droit international humanitaire)と称されることもある。しかし、武力紛争法の一部である「[[中立法]]」は、国際人道法から除かれる。また、国際人道法は、今日、その適用範囲を拡大し、戦時における非交戦の個人の保護のみならず、平時における非人道的行為から個人を保護することまでも含み、「国際人権法」の領域と重なるようになっている(「[[国際刑事裁判所]]規程」参照)。「国際刑事法」(International Criminal Law; Droit international pénal)は、重大な国際人道法の違反行為を処罰する法として存在するが、さらにハイジャックや海賊、テロ行為の処罰までも射程に入れており、その適用範囲は広い。
武力紛争法には、二つの法があるとされる。「'''ハーグ法'''」(Hague Law; Droit de La Haye)及び「'''ジュネーブ法'''」(Geneva Law; Droit de Genève)である(1996年[[核兵器の威嚇または使用の合法性国際司法裁判所勧告的意見|「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見]]、''I.C.J.Reports 1996(I)'', p.256, para.75)。
「[[ハーグ法]]」とは、主として、1868年の「サンクトペテルブルク宣言」や、1899年から1907年にオランダのハーグにおいて慣習を法典化した国際条約、すなわち、「[[開戦に関する条約]]」、「[[陸戦の法規慣例に関する条約]]」(これに付属する「[[陸戦の法規慣例に関する規則]]」)、「[[陸戦]]の場合に於ける[[中立国]]及び中立人の権利義務に関する条約」、「[[海戦]]の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」など一連のものを指す。それらの目的は、交戦国・交戦員の軍事作戦の行動の際の権利と義務を定め、国際武力紛争において敵を害する方法と手段を制約することにある。
「[[ジュネーブ法]]」とは、「[[ジュネーヴ諸条約 (1949年)]]」及びそれに付属する「[[ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)]]」(「第一追加議定書」、「第二追加議定書」)及び2005年の「[[第三追加議定書]]」で定められた規則の総体で、戦争犠牲者を保護し、戦闘不能になった要員や敵対行為に参加していない個人の保護を目的とするものである。
武力紛争法においては、締約国は、たとえ条約によって規定されていない場合においても、市民及び[[交戦団体]]が「文明国間で確立した慣例、人道の法、公の良心の要求」([les] usages établis entre nations civilisées, [les] lois d'humanité et [les] exigences de la conscience publique)に由来する国際法の諸原則の下にありかつ保護下にあることを確認するという(前掲「陸戦の法規慣例に関する条約」前文ほか)、いわゆる「[[マルテンス条項]]」(Martens Clause; la Clause de Martens)が極めて重要である。
ジュネーブ諸条約は、その遵守を確保するために、「重大な違反行為」(les violations graves)の処罰のための国内法([[普遍主義]])の整備を締約国に義務づけている。これに基づき、各国は、国際人道法違反行為を処罰する国内法を置き、近年、旧[[ユーゴスラビア紛争]]や[[ルワンダ]]での[[ジェノサイド]]に関する訴追が行われている。最近では、「1993/1999年ベルギー法」、いわゆる「[[ベルギー人道法]]」が注目されていた(2003年8月に独立した法律としては廃止し、刑法典、刑事訴訟法典に挿入)。日本でも、2004年に、普遍主義を規定した「[[国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律]]」(平成16年法律第122号)が制定された。国際裁判所としては、[[旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]](ICTY)、[[ルワンダ国際刑事裁判所]](ICTR)が国連安保理の決議によって設置され、上記二つの事件に関してそれぞれ活動している。普遍的なものとしては、1998年に初めて常設の国際的な刑事裁判所である「[[国際刑事裁判所]]」(ICC)のための「[[ローマ規程]]」が成立し、2003年に同裁判所が設置され、現在、コンゴの事件などで活動中である。
1996年[[核兵器の威嚇または使用の合法性国際司法裁判所勧告的意見|「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見]]で、裁判所は、国際人道法の核となる原則が、第一に文民の保護、第二に戦闘員に不必要な苦痛を与えないこと、にあることを確認した。しかし一方、ある国々が、自衛権の行使として低エネルギー放射の戦略的核の使用は文民の被害を比較的出さないから必ずしも禁止されないと主張し、また他方、ある国々が、核兵器への訴えはあらゆる状況で決して国際人道法の原則と規則に合致しないと主張したことについて、いかなる国も、そのような「きれいな」使用を正当化する正確な諸状況が何なのか、また逆に、その限られた使用が高エネルギー放射の核兵器の使用にエスカレートするのかどうか、指摘しなかったとする。そして、それゆえ、各国家が生存する根本的権利とその自衛への訴え、及び、核抑止力の政策に言及する実践に鑑みると、そのような自衛の究極の状況では、裁判所は核兵器の使用の合法性、違法性について決定的な結論に至れなかったと述べた(''I.C.J.Reports 1996 (I)'', pp.257-263.)。
裁判所は、同勧告的意見の最後に、[[核拡散防止条約]]6条の下の、厳格で実効的な国際管理の下の[[核軍縮]]への誠実かつ完結をもたらす話し合いをする義務が、今日の国際共同体全体にとって死活的に重要な(of vital importance to the whole of the international community today)目標であり続けているのは疑いない、と念を押している(''Ibid.'', pp.265, 267.)。人道法の諸目的は、その発展のみならず、軍縮の実現なくしては達しえないものだといえる<ref>藤田久一『国際人道法』(新版・再増補)(有信堂、2003年)319頁。</ref>。
{{See also|軍縮国際法}}
== 国内法との関係 ==
この問題は、古くは、「'''一元論'''」(monism)対「'''二元論'''」(dualism)として争われてきた。特に「一元論」の国際法優位主義は、国際法秩序が各国の国内法秩序を包合し、全体として国際法が優位するとする。しかし、国際判例や国家実行は、一貫して「二元論」の立場を支持してきている。「二元論」とは、国際法秩序と各国の国内法秩序は、独立した関係にあるとする立場である。ただし、これは、国内法秩序、国際法秩序がそれぞれ無視しあってよいということではなく、互いに尊重し調整しあうという「等位理論」を意味する<ref>山本草二『国際法』、
前掲書、85-86頁。</ref>。
まず、'''国際法秩序における国内法の地位'''を述べる。
国際判例は、一貫して「二元論」の立場をとる。国際司法裁判所は、1989年の「シシリー電子工業会社事件」判決において、公の機関の行為が国内法に違反するからといって、それが国際法における違反とは必ずしもならない、と判示した(''I.C.J.Reports 1989'', p.74, para.124)。さらに、ウィーン条約法条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することはできない」と規定する。
次に、'''国内法秩序における国際法の地位'''である。
各国は、それぞれ多様な国際法の国内法秩序への編入方式を採用している。一つの立場は、「編入一般的受容」(incorporation or adoption)方式であり、国際法はなんら国内的措置を経ずに、国内法秩序に直接適用されるとする方式である。第二のものは、「変形」(transformation)方式であり、国際法を国内法秩序に適用するには、国内法への変形が必要とする方式である。第三のものは、「執行指示」(Vollzungsbefehl)方式であり、国内の法適用機関に国際法を直接適用するように指示、命令をし、そのための権限を国内的措置により執るという方式である<ref>山本、前掲書、92頁。</ref>。
条約と慣習法によっても、各国においてそれぞれの扱われ方が異なる場合が少なくない。各国毎に詳しく述べるには余白がないので、ここでは、特に問題となる「自動執行力のある」(self-executing)条約の国内法秩序への[[直接適用性]](l'applicabilité directe)について述べることにする。
米国では、米国のそのときの意図(the intention of the United States)により、ある合意が「自動執行力がある」か否かが判断されることになり、そうでない場合には立法か適切な執行または行政行為による履行を待たなければならない(''Restatement of the Law Third. The Foreign Relations Law of the United States'', Vol.1, §111, h.)。一方、イギリス及びコモンウェルス諸国の場合には、たとえ「自動執行力のある」条約でも、国内法に変形する必要があると判例で確立している(「変形」方式)。他のヨーロッパ各国では、「編入一般的受容」方式をとる国として、ベルギー(判例で確立)、スペイン(最高裁判例で確立、通常、公布が必要)、フランス([[フランス共和国官報|官報]]で公示が条件)、ギリシア(判例で確立)、ルクセンブルク(裁判所が判断する)、オランダ(改正憲法93条、公示が必要)、「変形」方式をとる国として、アイルランド(憲法29条5項)、デンマーク(憲法19節によれば国会の立法または行政命令が必要)、「執行指示」方式を採る国として、ドイツ(「承認法」による)、イタリア(執行命令)、十分な結論が確立していない国として、ポルトガル、スイスがある<ref>Eisemann,P.M.(dir.), ''L'intégration du droit international et communautaire dans l'ordre juridique national. Étude de la pratique en Europe'', The Hague, Kluwer Law International, 1996, pp.81, 131, 160, 209, 258, 298, 332, 378-381, 414-415, 445, 474, 502, 548-549.</ref>。日本の場合には、判例は一貫して、「自動執行力のある」条約は、天皇の公布によって、国内法秩序に直接適用されるという立場をとっており、「一般的受容方式」に分類される([[日本国憲法第98条]]2項、7条1号)<ref>山本、前掲書、103-104頁。</ref>。ただし、国際法は法律には優位するが、国内では憲法が最高法規であるとする立場が通説である。なお、[[ドイツ連邦共和国基本法]]第24条は国際機関による[[主権]]の制約を認め、同第25条は国際法の規範が憲法と一体をなすことを明記している。
最新の動向によれば、特に[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]決議の国内への直接適用性が議論となっている。すなわち、テロ行為に荷担する行為を規制するために国内の私人や法人に直接、義務を課す安保理決議の妥当性が[[欧州司法裁判所]](EC司法裁判所)によって審理され、同裁判所は、安保理決議が強行法規(''jus cogens'')に反する場合にはこれを無効とできると判示した(2005年7月21日「Yusuf事件」第一審判決(T-306/01))。同判決は、安保理の司法的コントロールの可能性に道を開いたことでも、大変注目されている。
EC法秩序と国内法秩序の関係は特殊である。EC法、特にその二次法規のうちの「規則」(le règlement)は、加盟国の国内法秩序に直接適用される([[EC条約]]249条)。判例も、「規則」が加盟国の国内法秩序に直接適用され、かつその国内法に優位するという点で確立している(1964年「Costa対ENEL事件」欧州司法裁判所判決)<ref>大谷良雄『概説EC法』(有斐閣選書、1982年)100-102頁。</ref>。EU/EC各国も、その国内憲法において、「規則」の国内法秩序における直接適用性を認めている。しかし、「指令」(la directive)の直接適用性については、個別的に検討する必要がある。また、EC法と各国憲法との優位性については不明瞭であり、加盟国の立場では、ドイツ(1974年の「Solange I事件」および1986年の「Solange II事件」連邦憲法裁判所判決)、イタリア(1973年12月27日、憲法裁判所判決)などは、国内ではEC法より憲法が優位する立場をとっている<ref>Verhoeven,J., ''Droit de la Communauté européenne'', Bruxelles, Larcier, 1996, p.275.</ref>。
== 国際法は「法」であるか ==
国際法は、国内法のような[[立法]]・[[行政]]・[[司法]]の中央集権機関がなく、組織的な法の適用、執行の機構を欠いている。そのため、国際法の法としての性格を否定する学説が19世紀末から20世紀初頭に特に見られた。これは、すなわち、'''国際法の強制性'''の問題である。例えば、[[ジョン・L・オースティン|オースティン]](J.Austin)は、実定法は「主権者の命令」であり、義務違反に対する制裁を予定しているものであるが、国際法にはそうした条件がなく、単なる「実定的な道徳」にすぎないとした。
日本は、江戸時代後期、米国との間に締結された1854年の[[日米修好通商条約]]によって「[[開国]]」し、続いてその他ヨーロッパ諸国とも条約を結んでいった。それらの条約は、領事裁判権その他の特権を欧米諸国に認めた「[[不平等条約]]」であったが、ともかく、それによって日本が「ヨーロッパ近代国際法」に接する機会が得られ、次第に国際的実践の規範としての国際法への自覚を高めていったことは注目されると説かれる<ref>田畑茂二郎『国際法』(第2版)(岩波全書、1966年)75頁。</ref>。(一方、20世紀以前には、ヨーロッパの他に、中国圏、イスラム圏といった世界が存在し、それぞれ「[[法 (法学)|法]]」・「[[儀]]」・「[[礼]]」や「[[シャーリア]]」(shari'a)といった法で規律されており、20世紀にそれらの文明とヨーロッパ文明が衝突した、と指摘されうる<ref>Onuma,Y., ''A Transcivilizational Perspective on International Law: Questioning Prevalent Cognitive Frameworks in the Emerging Multi-polar and Multi-civilizational World of the Twenty-first Century'' (Pocketbooks of The Hague Academy of International Law), Leiden/Boston, Martinus Nijhoff, 2010, pp.320-348.</ref>。)また、明治政府は、[[五箇条の御誓文]]<ref>石井進/笠原一男/児玉幸多/笹山晴夫『詳説日本史』(山川出版社、2002年)237頁。</ref>で、'''万国公法'''を「天地の公道」として<ref>吉野作造、前掲論文、421-423、442-447頁参照。</ref>その遵守を謳い<ref>落合淳隆「国際法からみた日本の近代化―国家主権を中心として―」、前掲論文、95-96頁。</ref>、その後、歴代の政府がヨーロッパ国際法の知識の移入、教育、研究に大きな力を注いだ<ref>松井芳郎「社会科学としての国際法学―日本におけるその形成と展開―」、山手治之/香西茂(編集代表)『21世紀国際社会における人権と平和:国際法の新しい発展を目指して(上巻) 国際社会の法構造:その歴史と現状』(東信堂、2003年)5頁。</ref>。
現代の国際法においては、その強制力は、国際法違反行為に対する[[被害国]]による「[[対抗措置]]」(countermeasures; les contre-mesures)(「国家責任条約草案」49条以下)や[[報復]](retortions)(合法的な措置)といった形で存在する。特に、制度的にも整備されているものとして、GATT/WTO法違反と認定された行為についての[[世界貿易機関]](WTO)紛争処理機構(DSB)の決定、その実施、DSBが承認する譲許その他の義務の停止がある。また実際、ほぼ全ての国が、国際法を法として認識し、その法務を扱う部門を[[外務省]]に設置し、かつこれを遵守しているため、現在では国際法の法的性質を肯定する学説が通説となっている<ref>Carreau,D., ''Droit international'', 7e éd., Paris, Pedone, 2001, pp.37-38.</ref>。
しかし問題点もあり、例えば、[[国連安保理]]の表決制度には、[[常任理事国]](米、英、仏、露、中)の[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]があり、事実上、これら常任理事国への憲章七章に基づく強制措置はできない。[[国際司法裁判所]]の判決も、一方の当事国がそれを履行しない場合には他方の当事国は安保理に訴えることができるが(94条2項)、前者が常任理事国の場合には事実上、安保理の措置はなされない。そこで、今日でも、国際法は「原始法」(le droit primitif)であるという主張がなされる場合もあるが、対して、今日の国際[[世論]]の力(la force publique)を認めこれが国際法の実効性を支えているという指摘もある<ref>Virally,M., «Sur la prétendue "primitivité" du droit international», ''Le droit international en devenir'', Paris, P.U.F., 1990, p.94.</ref>(近年、確立しつつある「[[国際市民社会]]」概念<ref>Voir Gherari,H./Szurek,S.(dir.), ''L'émergence de la société civile internationale. Vers la privatisation du droit international?'', Paris, Pedone, 2003.</ref>も参照)。
'''国際法の法的拘束力の基礎'''については、近代より議論されてきており、国家の基本権の理論や、国家が拘束されることに同意しているからとか、[[ケルゼン]]の根本規範の原理や、[[自然法]]から説明する立場など様々であるが、究極的には、人間が理性的な生き物として、その生きていく世界を支配する原理が秩序にあると信じることを強いられていることにある、とする見解<ref>Brierly,J.L., ''The Law of Nations'', 6th ed. by C.H.M.Waldock, Oxford, Clarendon, 1963, p.56.</ref>が一つの有力な説明である。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
比較的最近のもので、入手しやすく、代表的なものを挙げる。
(日本語文献)
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* 中谷和弘/植木俊哉/河野真理子/森田章夫/山本良『国際法』(第2版)(有斐閣アルマ、2011年、389頁)
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* 国際法学会編(安藤仁介編集代表)『国際関係法辞典』(第2版)(三省堂、2005年、905頁)
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* 村瀬信也/奥脇直也/古川照美/田中忠『現代国際法の指標』(有斐閣、1994年、334頁)
*[[山本草二]]『国際法』(新版)(有斐閣、1994年、761頁)
* 藤田久一『国際法講義Ⅰ国家・国際社会』(東京大学出版会、1992年、376頁)、『国際法講義Ⅱ人権・平和』(同、1994年、459頁)
*[[松隈清]]『国際法概論』(酒井書店、1990年、370頁)
*[[小田滋]]『国際司法裁判所』(日本評論社、1987年、364頁)
* 真田芳憲『イスラーム法の精神』(中央大学出版部、1985年、433頁)
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== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Public international law}} -->
* [[ヴェストファーレン条約|ウェストファリア条約]]
* [[条約]]
*[[条約法条約]]
* [[日本国憲法第98条]]
* [[国際連合憲章]]
* [[国際組織法]]
* [[国際人権法]]
* [[国際人道法]]
* [[国際刑事法]]
* [[国際環境法]]
* [[国際海洋法]]
* [[国際経済法]]
* [[軍縮国際法]]
* [[宇宙法]]
* [[国際私法]]
== 外部リンク ==
* [https://www.icj-cij.org/ 国際司法裁判所]{{en icon}} (Cour internationale de Justice; International Court of Justice)
* [https://legal.un.org/ilc/ 国連国際法委員会]{{en icon}}(International Law Commission)
* [https://www.idi-iil.org/en/ 万国国際法学会]{{en icon}} (Institut de droit international)
* [https://jsil.jp/ 日本国際法学会]{{ja icon}}
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5,262 | 五大国 | 五大国()とは、ある範囲(通常は全世界だが例外もあり)を政治的・経済的・外交的・軍事的影響力などでリードする5つの大国のことである。五大国の内訳は時代や分野などによって変化してきた。現代においても、五大国といっても複数ある。
第二次世界大戦の戦勝国のうち、国際連合の設立に中心的な役割を果たし、なおかつ常任理事国である「Permanent 5」と呼ばれるアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦(ソビエト連邦の崩壊後は、ロシアに代わる)、中国(1971年に中華民国から中華人民共和国に代表権が代わった)。この常任理事国のいずれもが核拡散防止条約で特権的に核兵器の保有が認められており、軍事参謀委員会を構成する。また、これら常任理事国の国語である英語、フランス語、ロシア語、中国語は、国際連合の公用語である。第一次世界大戦後の列強のうち、敗戦国となった大日本帝国とドイツ、イタリアが脱落し、戦勝国となったソビエト連邦と中国を加えた5ヵ国が世界五大国と称された。
日本、ドイツ、インド、ブラジルには、自国が常任理事国に加わろうとする動きがある(G4諸国)。冷戦時代には、アメリカ合衆国とソビエト連邦が五大国の中でも抜きん出た存在であった。しかし、1989年の東欧革命・冷戦終結によりソビエト連邦の影響力は大きく低下し、更に1991年にソ連自体も崩壊したことから、2000年代初頭まではアメリカ合衆国による一極支配と言われる状態になっていた。
その後、アフガニスタン紛争やイラク戦争でアメリカ合衆国の国力は相対的に低下し、中華人民共和国の経済成長と急速な軍備拡大・海洋進出、ロシアの天然ガスを用いた資源外交・経済成長と軍備拡大によって、アメリカ合衆国による一極支配は弱まっている。
いずれも20世紀初頭以降に「列強」かつ「先進国」と称され、現在も国際社会に政治的・経済的影響を与えている国である。
第二次世界大戦前も先進工業国として認識され、さらに戦後も民主主義国として先進工業国としての地位を維持、もしくは回復したアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、日本を対象とした先進国首脳会議が1975年に計画され、その5ヵ国が先進5ヵ国(G5)と呼ばれる。実際の会議にはイタリアも参加し、さらに翌年にはカナダも加わった。この7ヵ国をもって「G7」と呼ばれる。1990年にはドイツ再統一により西ドイツが現在のドイツとなる。ソ連崩壊後に加入したロシアを入れると「G8」となるが、これに伴い先進国首脳会議は主要国首脳会議に名称が変更された(当時のロシアは1人あたり名目GDPが1000ドル台であり先進国とは言い難かったため)。
ナポレオン戦争後のウィーン体制下での五国同盟(1818年四国同盟より改称)加盟国(イギリス、フランス王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)を五大国としている。
第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約に基いたヴェルサイユ体制が国際関係の柱となった。戦前の列強のうち、敗戦国となったドイツ、オーストリアと、ロシア革命とその後の共産化によって国際社会から孤立したソビエト連邦が排除され、戦勝国となったアメリカ、大日本帝国、イタリアを加えた5ヶ国が世界五大国と称された。このうち、アメリカ合衆国を除く4ヶ国は、国際連盟発足時の常任理事国であった。アメリカは国際連盟の提唱国でありながら上院の承認を取れず国際連盟には参加しなかった。
ドイツとソビエトが国力を回復させて軍備を増強し、再び列強の一員に加わった1930年代後半になると、従来の「五大国」という括り方はされなくなっていった。
統一前のイタリアでは有力な都市国家をさして五大国と呼んでいた(フィレンツェ共和国(メディチ家)、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ(ローマ教皇領)、ナポリ王国)。 | [
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] | 五大国とは、ある範囲(通常は全世界だが例外もあり)を政治的・経済的・外交的・軍事的影響力などでリードする5つの大国のことである。五大国の内訳は時代や分野などによって変化してきた。現代においても、五大国といっても複数ある。 | {{読み仮名|'''五大国'''|ごたいこく}}とは、ある範囲(通常は全[[世界]]だが例外もあり)を[[政治]]的・[[経済]]的・[[外交]]的・[[軍事]]的影響力などでリードする5つの[[大国]]のことである。五大国の内訳は時代や分野などによって変化してきた。現代においても、五大国といっても複数ある。
== 世界の五大国 ==
=== 現在 ===
==== 国連における五大国([[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理常任理事国]]) ====
*{{USA}}
*{{GBR}}
*{{FRA}}
*{{CHN}}
*{{RUS}}
{| class="wikitable"
|- "
! 国
! 現在の国連大使
! 現在の代表国
! 元の代表国
! 国家元首
! 政府の長
|-
|{{flag|United States}}
|[[:en: Linda Thomas-Greenfield|トーマス・グリーンフィールド]]
|{{flag|United States}}(1946-現在)
|—
|align="center" colspan="2"|[[ジョー・バイデン]]大統領
|-
|{{flag|United Kingdom}}
|[[:en:Mark Lyall Grant|マーク・ライアル・グラント]]
|{{flag|United Kingdom}}(1946-現在)
|—
|[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]国王
|[[リシ・スナク]]([[イギリスの首相|首相]])
|-
|{{flag|France}}
|[[:en:Gérard Araud|ジェラール・アロー]]
|{{flag|France}}(1958–現在)
|{{flagicon|FRA}} [[フランス第四共和政]](1946-1958)
|[[エマニュエル・マクロン]]大統領
|[[エリザベット・ボルヌ]][[フランスの首相|首相]]
|-
|{{CHN}}
|張軍
|{{PRC}}(1971-現在)
|{{ROC}}(1946-1971)
|[[習近平]][[中華人民共和国主席|主席]]([[中国共産党中央委員会総書記|総書記]])<ref group="注釈">[[中国共産党]]が[[中華人民共和国]]を指導していくことが謳われているため、[[総書記]]は共産党と国家の[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]]とされる。</ref>
|[[李強 (政治家)|李強]][[国務院総理|総理]]
|-
|{{flag|Russia}}
|[[ピョートル・イリイチョフ]]
|{{flag|Russia}}(1992-現在)
|{{flag|USSR}}(1946-1991)
|[[ウラジーミル・プーチン]]大統領
|[[ミハイル・ミシュスティン]][[ロシアの首相|首相]]
|}
=== 現在の首脳 ===
<gallery class="center" widths="145">
ファイル:Joe Biden presidential portrait.jpg|'''{{USA}}'''<br />[[ジョー・バイデン]]([[アメリカ合衆国大統領|大統領]])
ファイル:Rishi Sunak Official Cabinet Portrait, September 2021 (cropped).jpg|'''{{GBR}}'''<br />[[リシ・スナク]]([[イギリスの首相|首相]])
ファイル:Emmanuel Macron in 2019.jpg|alt=フランスエマニュエル・マクロン(大統領)|'''{{flag|France}}'''<br />[[エマニュエル・マクロン]]([[共和国大統領 (フランス)|大統領]])
ファイル:Xi Jinping with Macron and Von der Leyen 2023.jpg|'''{{CHN}}'''<br />[[習近平]]([[中華人民共和国主席|主席]])
ファイル:Владимир Путин (10-01-2022) (cropped).jpg|'''{{RUS}}'''<br />[[ウラジーミル・プーチン]]([[ロシア連邦大統領|大統領]])
</gallery>
[[第二次世界大戦]]の戦勝国のうち、[[国際連合]]の設立に中心的な役割を果たし、なおかつ[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]である「Permanent 5」と呼ばれるアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦([[ソビエト連邦の崩壊]]後は、ロシアに代わる)、中国(1971年に中華民国から中華人民共和国に[[アルバニア決議|代表権が代わった]])。この常任理事国のいずれもが[[核拡散防止条約]]で特権的に[[核兵器]]の保有が認められており、[[軍事参謀委員会]]を構成する。また、これら常任理事国の国語である[[英語]]、[[フランス語]]、[[ロシア語]]、[[中国語]]は、国際連合の[[公用語]]である。[[第一次世界大戦]]後の[[列強]]のうち、敗戦国となった[[大日本帝国]]と[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[イタリア]]が脱落し、戦勝国となったソビエト連邦と中国を加えた5ヵ国が'''世界五大国'''と称された。
[[日本]]、[[ドイツ]]、[[インド]]、[[ブラジル]]には、自国が常任理事国に加わろうとする動きがある([[G4諸国]])。[[冷戦]]時代には、アメリカ合衆国とソビエト連邦が五大国の中でも抜きん出た存在であった。しかし、[[1989年]]の[[東欧革命]]・冷戦終結によりソビエト連邦の影響力は大きく低下し、更に[[1991年]]にソ連自体も崩壊したことから、2000年代初頭まではアメリカ合衆国による一極支配と言われる状態になっていた。
その後、{{要出典範囲|[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]や[[イラク戦争]]でアメリカ合衆国の国力は相対的に低下し|date=2021年4月3日}}、中華人民共和国の[[経済成長]]と急速な軍備拡大・海洋進出、ロシアの[[天然ガス]]を用いた資源外交・経済成長と軍備拡大によって、アメリカ合衆国による一極支配は弱まっている。
{{anchors|G5}}
==先進五大国(G5) ==
{{Main|主要国首脳会議}}
いずれも20世紀初頭以降に「[[列強]]」かつ「[[先進国]]」と称され、現在も国際社会に政治的・経済的影響を与えている国である。
* {{USA}}
* {{GBR}}
* {{FRA}}
* {{GER}}
* {{JPN}}
第二次世界大戦前も先進工業国として認識され、さらに戦後も[[民主主義]]国として先進工業国としての地位を維持、もしくは回復したアメリカ、イギリス、フランス、[[西ドイツ]]、日本を対象とした[[先進国首脳会議]]が1975年に計画され、その5ヵ国が先進5ヵ国(G5)と呼ばれる。実際の会議には[[イタリア]]も参加し、さらに翌年には[[カナダ]]も加わった。この7ヵ国をもって「[[G7]]」と呼ばれる。1990年には[[ドイツ再統一]]により[[西ドイツ]]が現在のドイツとなる。ソ連崩壊後に加入したロシアを入れると「[[主要国首脳会議|G8]]」となるが、これに伴い先進国首脳会議は主要国首脳会議に名称が変更された(当時のロシアは1人あたり名目GDPが1000ドル台であり先進国とは言い難かったため)。
== 過去の五大国 ==
=== ウィーン体制下 ===
* {{GBR3}}
* [[ファイル:Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg|25px|border|フランス王国の旗]] [[フランス復古王政|フランス]]
* {{Flagicon|AUT1804}} [[オーストリア帝国|オーストリア]]
*[[ファイル:Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg|25px|border|プロイセン王国の旗]] [[プロイセン王国|プロイセン]]
* {{Flagicon|RUS}} [[ロシア帝国|ロシア]]
[[ナポレオン戦争]]後の[[ウィーン体制]]下での[[五国同盟]](1818年[[四国同盟]]より改称)加盟国([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス復古王政|フランス王国]]、[[オーストリア帝国]]、[[プロイセン王国]]、[[ロシア帝国]])を五大国としている。
=== 国際連盟体制下 ===
* {{USA1912}}
* {{GBR3}}
* {{Flagicon|FRA}} [[フランス第三共和政|フランス]]
* {{Flagicon|JPN}} [[大日本帝国]]
* {{Flagicon|ITA1861}} [[イタリア王国|イタリア]]
[[第一次世界大戦]]後は[[ヴェルサイユ条約]]に基いたヴェルサイユ体制が国際関係の柱となった。[[戦前]]の[[列強]]のうち、敗戦国となった[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]と、[[十月革命|ロシア革命]]とその後の[[共産主義|共産化]]によって国際社会から孤立した[[ソビエト連邦]]が排除され、戦勝国となったアメリカ、大日本帝国、イタリアを加えた5ヶ国が'''世界五大国'''と称された。このうち、アメリカ合衆国を除く4ヶ国は、[[国際連盟]]発足時の[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]であった。アメリカは国際連盟の提唱国でありながら[[アメリカ合衆国上院|上院]]の承認を取れず国際連盟には参加しなかった。
ドイツとソビエトが国力を回復させて軍備を増強し、再び列強の一員に加わった[[1930年代]]後半になると、従来の「五大国」という括り方はされなくなっていった。
== 地域の五大国 ==
=== 統一前のイタリア ===
* [[ファイル:Flag of Florence.svg|25px|border]] [[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]
* [[ファイル:Flag of Milan.svg|25px|border]] [[ミラノ公国|ミラノ]]
* [[ファイル:Flag of Most Serene Republic of Venice.svg|25px|border]] [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]
* [[ファイル:Flag of the Papal States (1808-1870).svg|20px|border]] [[教皇領|ローマ]]
* [[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples.svg|25px|border]] [[ナポリ王国|ナポリ]]
[[イタリア統一|統一]]前の[[イタリア]]では有力な[[都市国家]]をさして五大国と呼んでいた([[フィレンツェ共和国]]([[メディチ家]])、[[ミラノ公国]]、[[ヴェネツィア共和国]]、[[ローマ]]([[教皇領|ローマ教皇領]])、[[ナポリ王国]])。
==注釈==
{{reflist|group="注釈"}}
== 関連項目 ==
* [[大国]]
* [[超大国]]
* [[神聖同盟]]
* [[列強]]
* [[主要国首脳会議|G8]]
* [[G7]]
* [[G20]]
* [[ヴェストファーレン体制]]
{{国際連合安全保障理事会常任理事国の首脳}}
{{国際連合}}
{{国際関係における大国}}
{{DEFAULTSORT:こたいこく}}
[[Category:国家の分類]]
[[Category:国際関係史]]
[[Category:国際連合]]
[[Category:五大|こく]] | 2003-03-27T02:25:25Z | 2023-12-19T14:23:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E5%9B%BD |
5,263 | 11月29日 | 11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。
長野県の「飯田下伊那食肉組合」と、飯田市の老舗みそメーカー「マルマン株式会社」が共同で制定。「い(1)い(1)だやきに(2)く(9)の語呂合せ。 | [
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"title": "記念日・年中行事"
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] | 11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。 | {{カレンダー 11月}}
'''11月29日'''(じゅういちがつにじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から333日目([[閏年]]では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。
== できごと ==
* [[1830年]] - [[ロシア帝国]]支配下の[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]・[[ワルシャワ]]で[[十一月蜂起]]が起こる。
* [[1850年]] - [[プロイセン王国]]・[[オーストリア帝国]]・[[ロシア帝国]]が[[オルミュッツ協定]]を締結。プロイセンによる[[ドイツ統一]]が頓挫。
* [[1864年]] - [[インディアン戦争]]・[[コロラド戦争]]: [[サンドクリークの虐殺]]。
* [[1872年]] - インディアン戦争・[[モードック戦争]]: [[モードック戦争#ロスト川の戦い|ロスト川の戦い]]。
* [[1875年]] - [[京都市]]に[[同志社英学校]]([[同志社大学]]の前身)が開学<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/neesima.html |title=建学の精神と新島襄 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[同志社大学]]}}</ref>。
* [[1877年]] - [[トーマス・エジソン]]が自身が発明した[[蓄音機]]を初めて公開。
* [[1890年]] - [[大日本帝国憲法]]施行。同日、第1回[[帝国議会]]が開会(翌[[1891年]][[3月7日]]まで)。
* [[1893年]] - [[武漢]]に自強学堂(後の[[武漢大学]])が設立される。
* [[1899年]] - [[FCバルセロナ]]設立。
* [[1913年]] - [[国際フェンシング連盟]]設立。
* [[1919年]] - [[ヤマト運輸|大和運輸]](現在の[[ヤマトホールディングス]])設立。
* [[1924年]] - [[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]全4楽章が日本で初めて上演される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/o3.html |title=東京音楽学校1924年 ベートーヴェン「第九」の本邦初演 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[東京藝術大学]]}}</ref>。
* [[1929年]] - [[リチャード・バード]]らが史上初めて[[南極点]]上空を飛行。
* [[1934年]] - 日本初の[[アメリカンフットボール]]試合を東京・[[明治神宮外苑競技場]]で開催。
* [[1943年]] - [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]が建国を宣言。
* 1943年 - [[ブーゲンビル島の戦い]]: [[ナボイの戦い]]で日本軍が勝利。
* [[1944年]] - [[ソ連軍]]による[[アルバニア]]の全土解放が行なわれ、アルバニアが[[イタリア]]軍からの独立を宣言。同日、アルバニア共産党を中心とする[[社会主義]]臨時政府が設立。
* [[1947年]] - [[国際連合総会|国連総会]]で[[パレスチナ分割決議]](国連決議181号)可決。
* 1947年 - [[第一次インドシナ戦争]]: [[ミーチャック村虐殺]]。
* [[1960年]] - ラジオ東京が「[[TBSホールディングス|東京放送]]」に社名変更。略称も「KRT」から「TBS」に変更。
* [[1963年]] - [[トランスカナダ航空831便墜落事故]]。
* [[1972年]] - [[アタリ (企業)|アタリ]]が[[ビデオゲーム]]『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』をリリース。
* [[1973年]] - [[大洋デパート火災]]。 買い物客と店員数千人が被害に遭い、犠牲者は103人。デパート火災としては史上最悪の惨事<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030123_00000 |title=熊本・大洋デパート火災 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。
* [[1976年]] - [[松任谷由実#デビュー|荒井由実]]と[[松任谷正隆]]が[[横浜市|横浜]]山手教会で結婚<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bunshun.jp/articles/-/9848 |title=危機を乗り越え、松任谷正隆&ユーミン夫婦が「戦友」になれた理由 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[文藝春秋]] |date=29 Nov 2018 |website=文春オンライン}}</ref>。
* [[1980年]] - [[川崎市]]で[[神奈川金属バット両親殺害事件|金属バット両親殺害事件]]発生。
* [[1985年]] - 国鉄民営化に反対する[[過激派]]による[[国電同時多発ゲリラ事件]]。総武線の[[浅草橋駅]]が放火されるなどして3,274本の電車や列車が止まり1000万人を超える乗客が影響を受けた<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030679_00000 |title=中核派が国鉄民営化に反対し多発ゲリラ |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。
* [[1987年]] - [[大韓航空機爆破事件]]。
* [[1990年]] - [[湾岸戦争]]: [[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]で[[国際連合安全保障理事会決議678|安保理決議678]](対[[イラク]]武力行使容認決議)を採択。
* [[1991年]] - [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現在の[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ南北線|南北線]][[駒込駅]] - [[赤羽岩淵駅]]間が開業。
* [[2003年]] - [[イラク日本人外交官射殺事件]]が発生。
* [[2016年]] - [[富山県]][[立山]]([[室堂]])にて[[雪崩]]が発生。[[東京工業大学]]の学生3人が巻き込まれ1人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |title=雪崩:北ア・室堂で大学生3人巻き込まれ1人意識不明 |url=https://mainichi.jp/articles/20161129/k00/00e/040/172000c |website=[[毎日新聞]] |access-date=2023-03-18 |date=29 Nov 2016}}</ref>。
* [[2017年]] - [[横綱]][[日馬富士]]が巡業中に起こした暴行事件への責任を取り引退<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201711290000248.html |title=日馬富士が引退会見「国民の皆様におわびします」 |publisher=[[日刊スポーツ]] |accessdate=18 Mar 2023 |date=29 Nov 2017}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=大相撲:横綱・日馬富士が引退 暴行問題で引責 午後会見 |url=https://mainichi.jp/articles/20171129/k00/00e/050/243000c |access-date=2023-03-18 |publisher=[[毎日新聞]] |date=29 Nov 2017}}</ref>。
* [[2023年]] - [[屋久島沖米軍オスプレイ墜落事故]]が発生。
== 誕生日 ==
* [[1427年]](宣徳2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[英宗 (明)|英宗]]、[[明]]の第6代、第8代[[皇帝]](+ [[1464年]])
* [[1624年]]([[寛永]]元年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[酒井忠清]]、[[江戸時代]]初期の[[譜代大名]]、[[老中]]、[[大老]](+ [[1681年]])
* [[1627年]] - [[ジョン・レイ (博物学者)|ジョン・レイ]]、[[博物学|博物学者]](+ [[1705年]])
* [[1679年]] - [[アントニオ・ファルネーゼ]]、[[ファルネーゼ家]]最後の[[パルマ]]及び[[ピアチェンツァ]]公 (+ [[1731年]])
* [[1690年]] - [[クリスティアン・アウグスト (アンハルト=ツェルプスト侯)|クリスティアン・アウグスト]]、アンハルト=ツェルプスト侯、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[女帝]][[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の父 (+ [[1747年]])
* [[1728年]] - [[ヨハン・ゲルハルト・ケーニヒ]]、[[医師]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1785年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]])- [[島津重豪]]、[[薩摩藩]]の第8代藩主 (+ [[1833年]])
* [[1797年]] - [[ガエターノ・ドニゼッティ]]、オペラ作曲家 (+ [[1848年]])
* [[1803年]] - [[ゴットフリート・ゼンパー]]、建築家 (+ [[1879年]])
* 1803年 - [[クリスチャン・ドップラー]]、[[物理学者]](+ [[1853年]])
* [[1813年]] - [[フランツ・ミクロシッチ]]、[[言語学者]](+ [[1881年]])
* [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]])- [[井伊直弼]]、[[江戸幕府]]の[[大老]]、[[彦根藩|彦根藩主]](+ [[1860年]])
* [[1832年]] - [[ルイーザ・メイ・オルコット]]、作家(+ [[1888年]])
* [[1835年]] - [[西太后]]、[[清朝]]皇帝[[咸豊帝]]の妃で[[同治帝]]生母(+ [[1908年]])
* [[1849年]] - [[ジョン・フレミング|ジョン・アンブローズ・フレミング]]、物理学者(+ [[1945年]])
* [[1856年]] - [[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]、[[政治家]]、5代[[ドイツ帝国|ドイツ]]宰相、27代[[プロイセン王国|プロイセン]]首相(+ [[1921年]])
* [[1876年]] - [[ネリー・ロス]]、政治家(+ [[1977年]])
* [[1882年]] - [[藤井浩佑]]、[[彫刻家]](+ [[1958年]])
* [[1895年]] - [[ウィリアム・タブマン]]、政治家、[[リベリア]]大統領 (+ [[1971年]])
* [[1898年]] - [[C・S・ルイス]]、作家 (+ [[1963年]])
* [[1899年]] - [[エンマ・モラーノ]]、長寿世界一(+ [[2017年]])
* [[1903年]] - [[手塚富雄]]、[[ドイツ文学者]](+ [[1983年]])
* [[1905年]] - [[マルセル・ルフェーブル]]、カトリック大司教(+ [[1991年]])
* [[1909年]] - [[田中絹代]]、[[俳優|女優]]、[[映画監督]](+ 1977年)
* [[1919年]] - [[木下政文]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1925年]] - [[アイヴァン・モリス]]、[[翻訳家]]、文学研究者(+ [[1976年]])
* 1925年 - [[ミニー・ミノーソ]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]])
* [[1927年]] - [[長谷川慶太郎]]、[[経済評論家]]、国際[[エコノミスト]](+ [[2019年]])
* 1927年 - [[古田足日]]、[[児童文学作家]]、[[評論家]](+ [[2014年]])
* [[1928年]] - [[尾崎秀樹]]、[[文芸評論家]](+ [[1999年]])
* [[1929年]] - [[實吉達郎]]、動物学者
* [[1930年]] - [[滝田裕介]]、[[俳優]](+ [[2015年]])
* [[1931年]] - [[勝新太郎]]、俳優(+ [[1997年]])
* 1931年 - [[武内和男]]、元プロ野球選手
* [[1932年]] - [[ジャック・シラク]]、政治家、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3246537?cx_amp=all&act=all |title=ジャック・シラク元仏大統領が死去、86歳 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=26 Sep 2019 |website=AFP BB News}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20190926-2YT3GUN2VRK73NQ22HMDRY2D4A/ |title=シラク元フランス大統領が死去 86歳 親日家 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=26 Sep 2019}}</ref>)
* [[1933年]] - [[ジェームス・ローゼンクイスト]]、[[美術家]](+ [[2017年]])
* 1933年 - [[ジョン・メイオール]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1934年]] - [[倉俣史朗]]、インテリアデザイナー(+ [[2006年]])
* [[1935年]] - [[小城ノ花正昭]]、元大相撲力士(+ [[2006年]])
* [[1938年]] - [[柏戸剛]]、[[大相撲]]第47代[[横綱]](+ [[1996年]])
* [[1940年]] - {{仮リンク|デニー・ドハーティ|en|Denny Doherty}}、歌手 ([[ママス&パパス]])(+ [[2007年]])
* [[1941年]] - [[林家ペー]]、[[コメディアン]]
* [[1942年]] - [[高橋長英]]、俳優
* [[1944年]] - [[大下剛史]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[岩本紘一]]、元[[野球選手]]
* [[1947年]] - [[沢木耕太郎]]、[[作家]]
* [[1948年]] - [[舛添要一]]、国際政治学会、政治家、元[[参議院議員]]、元[[東京都知事一覧|東京都知事]]
* [[1949年]] - [[宮沢吾朗]]、囲碁棋士
* [[1950年]] - [[リービ英雄]]、日本文学者、小説家
* 1950年 - [[マイク・イースラー]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[藤沢公也]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[ジョン・D・バロウ]]、天文学者、物理学者
* 1952年 - [[上温湯隆]]、[[冒険家]]、[[探検家]]
* [[1953年]] - [[小林麻美]]、[[歌手]]、女優、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1953年 - [[保坂英二]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[金島正彦]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[金原瑞人]]、[[法政大学]]教授、[[作家]]、[[翻訳家]]
* 1954年 - [[岡山恭崇]]、元[[バスケットボール]]選手
* [[1956年]] - [[定岡正二]]、元プロ野球選手、[[タレント]]
* [[1958年]] - [[三谷悦代]]、女優
* 1958年 - [[平阪佳久]]、ミュージシャン([[ウインズ平阪]])
* [[1959年]] - [[宇佐元恭一]]、シンガーソングライター
* [[1960年]] - [[ジル・ロマン]]、[[バレエ]]ダンサー
* 1960年 - [[野口裕美]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[キャシー・モリアーティ]]、女優
* 1960年 - [[ハワード・ジョンソン]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[高橋真理]]、元キャスター
* 1962年 - [[山下和彦]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[長尾敬]]、政治家
* [[1964年]] - [[愛華みれ]]、女優
* 1964年 - [[福間未紗]]、[[シンガーソングライター]]
* 1964年 - [[上杉裕世]]、[[マットペインター]]
* 1964年 - [[ドン・チードル]]、俳優
* 1964年 - [[愛本みずほ]]、漫画家
* [[1965年]] - [[尾崎豊]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/YutakaOzaki/profile/ |title=尾崎豊 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|Sony Music Entertainment (Japan) Inc.]]}}</ref>、歌手(+ [[1992年]])
* [[1966年]] - [[吉田修司]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[ジョン・レイフィールド]]、プロレスラー
* [[1969年]] - [[マリアノ・リベラ]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[ケイシー・ケラー]]、元[[サッカー選手]]
* 1969年 - [[ピエール・ファン・ホーイドンク]]、元サッカー選手
* 1970年 - [[リュ・スンリョン]]、俳優
* [[1972年]] - [[伊藤大士]]、[[調教師]]
* 1972年 - [[荻原秀樹]]、[[声優]]
* 1972年 - [[田中慎弥]]、小説家
* 1972年 - [[田中稔 (プロレスラー)|田中稔]]、プロレスラー
* 1972年 - [[早狩実紀]]、陸上選手
* [[1973年]] - [[ライアン・ギグス]]、サッカー選手
* 1973年 - [[村上和成]]、[[総合格闘家]]、プロレスラー
* 1973年 - [[ふなつ一輝]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://andsmile.tv/m/00278-m450.html |title=第150回ふなつ一輝さん 前編 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=GENIUS AT WORK |work=TV & Smile}}</ref>、漫画家
* 1973年 - [[桜野みねね]]、[[漫画家]]
* [[1974年]] - [[林志玲]]、モデル、女優
* 1974年 - [[鈴木浩介 (俳優)|鈴木浩介]]、俳優
* [[1975年]] - [[礒恒之]]、元プロ野球選手
* 1975年 - 隅田美保、女優、元お笑いタレント(元[[アジアン]])
* [[1976年]] - [[小笠原孝]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[マリア・ペトロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1978年]] - [[アレッサンドロ・フェイ]]、[[バレーボール]]選手
* [[1979年]] - [[山本拓司]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ミヒャエル・ラメイ]]、サッカー選手
* 1979年 - [[ゲーム (ラッパー)|ゲーム]]、[[ヒップホップMC]]
* [[1980年]] - [[ブライアン・ウルフ]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[イリアス・カシディアリス]]、政治家
* 1980年 - [[森田丈武]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[ライアン・マルハーン]]、プロ野球選手
* [[1981年]] - [[名雪佳代]]、女優
* 1981年 - [[岡野陽一]]、お笑い芸人(元[[巨匠 (お笑いコンビ)|巨匠]])
* [[1982年]] - [[ジョン・メンサー]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[内藤雄太]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[クレイグ・ジェントリー]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[小松美羽]]、銅[[版画家]]
* 1984年 - [[越川昌和]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[カトレゴ・ムフェラ]]、サッカー選手
* 1984年 - [[チ・ヒョヌ]]、俳優
* [[1985年]] - [[田口淳之介]]、タレント(元[[KAT-TUN]])
* 1985年 - [[佐藤弘祐]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[シャノン・ブラウン]]、バスケットボール選手
* [[1986年]] - [[林俊伍]]、社会起業家、実業家
* 1986年 - [[佐藤和沙]]、元タレント
* 1986年 - [[宮﨑祐樹]] 、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[マテウシュ・フルシチンスキー]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[白沢理恵]]、歌手
* 1987年 - [[武内久士]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[しもがまちあき]]、声優
* 1988年 - [[ラッセル・ウィルソン]]、アメリカンフットボール選手
* [[1989年]] - [[ステファン・ブラドル]]、オートバイレーサー
* 1989年 - [[田中佑典]]、体操選手
* [[1990年]] - [[イ・ミンヒョク]]、アイドル、俳優([[BTOB]])
* 1990年 - [[金恩貞]]、カーリング選手
* [[1991年]] - [[レベッカ・ジェイムス]]、自転車選手
* 1991年 - [[高柳明音]]、タレント、アイドル(元[[SKE48]])
* 1991年 - [[沢口けいこ]]、アイドル(元[[predia]])
* 1991年 - [[照ノ富士春雄]]、大相撲力士、第73代横綱
* [[1992年]] - [[池田駿]]、元プロ野球選手
* [[1993年]] - [[北原沙弥香]]、声優
* [[1994年]] - [[押田柊]]、ミュージカル俳優
* 1994年 - [[朱婷]]、バレーボール選手
* [[1995年]] - [[阿部マリア]]、アイドル(元[[AKB48]])
* 1995年 - [[菅井友香]]、タレント、アイドル(元[[櫻坂46]])
* 1995年 - [[愛原ありさ]]、声優(元[[アース・スター ドリーム]])
* 1995年 - [[光永祐也]]、サッカー選手
* 1995年 - [[東克樹]]、プロ野球選手
* [[1996年]] - [[田口真奈]]、野球選手
* [[1997年]] - [[小林れい]]、モデル、アイドル(元[[夢みるアドレセンス]])
* [[1998年]] - [[平野歩夢]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2022/a/hirano-ayumu/ |title=選手プロフィル 平野 歩夢 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[読売新聞]]}}</ref>、スノーボード選手
* [[2000年]] - [[黒宮れい]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000016662/ |title=黒宮れい |access-date=18 Mar 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、歌手、アイドル
* 2000年 - [[東藤なな子]]、バスケットボール選手
* [[2001年]] - SUZUKA、歌手([[新しい学校のリーダーズ]])
* [[2004年]] - [[大東立樹]]、俳優
* 生年不明 - [[霜風るみ]]、漫画家
* 生年不明 - [[西森千豊]]、声優
* 生年不明 - [[天野聡美 (声優)|天野聡美]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vims.co.jp/talent_profile_detail.php?id=127 |title=天野聡美 VIMS -ヴィムス- |accessdate=18 Mar 2023}}</ref>、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[728年]]([[神亀]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[義淵]]、[[法相宗]]の[[僧]]
* [[880年]] - [[カールマン (東フランク王)|カールマン]]、[[東フランク王国|東フランク王]](* [[830年]]頃)
* [[1268年]] - [[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1200年]]頃)
* [[1314年]] - [[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]、[[フランス王国|フランス王]](* [[1268年]])
* [[1318年]] - [[フラウエンロープ]]、[[詩人]](* [[1250年]] - [[1260年]]頃)
* [[1378年]] - [[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1316年]])
* [[1501年]] - [[フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ]]、[[彫刻家]]、[[画家]]、[[建築家]](* [[1439年]])
* [[1516年]] - [[ジョヴァンニ・ベリーニ]]、画家(* [[1430年]]頃)
* [[1530年]] - [[トマス・ウルジー]]、枢機卿、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の相談役(* [[1475年]])
* [[1543年]] - [[ハンス・ホルバイン]]、画家(* [[1497年]]?)
* [[1585年]]([[天正]]13年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[伊達輝宗]]、[[出羽国]]の[[戦国大名]](* [[1544年]])
* 1585年(天正13年10月8日) - [[二本松義継]]、[[陸奥国]]の戦国大名(* [[1552年]])
* [[1602年]] - [[アントニー・ホルボーン]]、[[作曲家]](* [[1545年]]頃)
* [[1632年]] - [[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1596年]])
* [[1641年]]([[寛永]]18年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[三浦正次]]、[[江戸幕府]]六人衆([[若年寄]])(* [[1599年]])
* [[1643年]] - [[クラウディオ・モンテヴェルディ]]、作曲家(* [[1567年]])
* [[1682年]] - [[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]、[[カンバーランド公]](* [[1619年]])
* [[1702年]]([[元禄]]15年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[南部行信]]、[[盛岡藩|盛岡藩主]](* [[1642年]])
* [[1717年]]([[享保]]2年10月27日) - [[松平定重]]、[[高田藩|高田藩主]](* [[1644年]])
* [[1762年]]([[宝暦]]12年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[安藤昌益]]、[[経世論|経世家]](* [[1703年]])
* [[1780年]] - [[マリア・テレジア]]、オーストリア女帝(* [[1717年]])
* [[1793年]] - [[アントワーヌ・バルナーヴ]]、[[フランス革命]]期の政治家(* [[1761年]])
* [[1838年]]([[天保]]9年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]) - [[松平定永]]、[[桑名藩|桑名藩主]](* [[1791年]])
* [[1861年]] - [[ニコライ・ドブロリューボフ]]、[[文芸評論|文芸評論家]](* [[1836年]])
* [[1868年]]([[明治]]元年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[鷹司政通]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](* [[1789年]])
* [[1872年]] - [[ホレス・グリーリー]]、[[ジャーナリスト]]、[[アメリカ合衆国下院|アメリカ合衆国下院議員]](* [[1811年]])
* [[1897年]] - [[箕作麟祥]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]](* [[1846年]])
* [[1905年]] - [[伊達宗徳]]、[[宇和島藩|宇和島藩主]](* [[1830年]])
* [[1924年]] - [[ジャコモ・プッチーニ]]、作曲家(* [[1858年]])
* [[1929年]] - [[佐分利貞男]]、[[外交官]](* [[1879年]])
* [[1930年]] - [[柳家小さん (3代目)]]、[[落語家]](* [[1855年]])
* 1930年 - [[田部シメ子]]、小説家[[太宰治]]の愛人(* [[1912年]])
* [[1935年]] - [[松本長]]、[[能楽師]](* [[1877年]])
* [[1944年]] - [[分部光謙]]、[[大溝藩|大溝藩主]](* [[1862年]])
* 1944年 - [[阿部俊雄]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[少将]](* [[1896年]])
* [[1950年]] - [[馬占山]]、軍人(* [[1885年]])
* 1950年 - [[ウオルター・ビーチ]]、[[ビーチクラフト]]創業者(* [[1891年]])
* [[1957年]] - [[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト]]、作曲家(* [[1897年]])
* 1957年 - [[徳川武定]]、[[松戸徳川家]]の初代当主(* [[1888年]])
* [[1958年]] - [[ハンス・ヘニー・ヤーン]]、[[作家]]、[[オルガン]]制作者(* [[1894年]])
* [[1959年]] - [[フリッツ・ブルン]]、作曲家(* [[1878年]])
* 1959年 - [[佐伯矩]]、[[栄養学|栄養学者]](* [[1886年]])
* [[1960年]] - [[フォルトゥナート・デペーロ]]、[[画家]]、[[デザイナー]]、[[彫刻家]](* [[1892年]])
* [[1963年]] - [[エルネスト・レクオーナ]]、作曲家(* [[1896年]])
* [[1971年]] - [[ハインツ・ティーセン]]、作曲家(* [[1887年]])
* [[1973年]] - [[一ノ瀬泰造]]、[[報道写真|報道写真家]](* [[1947年]])
* [[1974年]] - [[彭徳懐]]、政治家(* [[1898年]])
* 1974年 - [[ジェームス・J・ブラドック]]、[[プロボクサー]](* [[1905年]])
* [[1975年]] - [[グラハム・ヒル]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1929年]])
* 1975年 - [[トニー・ブライズ]]、F1レーサー(* [[1952年]])
* [[1979年]] - [[千葉三郎]]、[[労働大臣]]、[[宮城県知事一覧|宮城県知事]](* [[1894年]])
* [[1980年]] - [[ドロシー・ディ]]、社会運動家(* [[1897年]])
* [[1981年]] - [[ナタリー・ウッド]]、[[俳優|女優]](* [[1938年]])
* [[1982年]] - [[パーシー・ウィリアムズ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1908年]])
* [[1986年]] - [[ケーリー・グラント]]、俳優(* [[1904年]])
* [[1988年]] - [[福田昌久]]、元[[プロ野球選手]](* [[1934年]])
* [[1991年]] - [[ラルフ・ベラミー]]、俳優(* [[1904年]])
* 1991年 - [[河内忠吾]]、野球選手、野球監督(* [[1930年]])
* 1991年 - [[川口敬次郎]]、元プロ野球選手(* [[1919年]])
* [[1992年]] - [[ジャン・デュドネ]]、[[数学者]](* [[1906年]])
* 1992年 - [[エミリオ・プッチ]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1914年]])
* [[1999年]] - [[岩本薫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1902年]])
* 1999年 - [[キノトール]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](* [[1922年]])
* [[2000年]] - [[下元勉]]、俳優(* [[1917年]])
* [[2001年]] - [[ジョージ・ハリスン]]、[[音楽家|ミュージシャン]] (元[[ビートルズ]])(* [[1943年]])
* 2001年 - [[水谷則博]]、元プロ野球選手(* [[1950年]])
* [[2002年]] - [[家永三郎]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1913年]])
* [[2003年]] - [[奥克彦]]、[[外交官]](* [[1958年]])
* 2003年 - [[井ノ上正盛]]、外交官(* [[1973年]])
* [[2005年]] - [[辻英雄]]、政治家(* [[1919年]])
* [[2006年]] - [[アレン・カー]]、[[禁煙]]運動家(* [[1934年]])
* 2006年 - [[実相寺昭雄]]、[[映画監督]](* [[1937年]])
* 2006年 - [[レオン・ニェムチック]]、俳優(* [[1923年]])
* [[2008年]] - [[ヨーン・ウツソン]]、建築家(* [[1918年]])
* [[2010年]] - [[モーリス・ウィルクス]]、[[計算機科学|計算機科学者]](* [[1913年]])
* [[2016年]] - [[小川宏]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/05/kiji/K20161205013853320.html |title=小川宏さん死去、90歳 「小川宏ショー」司会でギネス記録 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>、アナウンサー、司会者(* [[1926年]])
* 2016年 - [[チャンス青木]]<ref>{{Cite web|和書 |title=チャンス青木さん死去 漫才協会理事 「ナイツ」トークネタでおなじみ |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/06/kiji/K20161206013857760.html |website=Sponichi Annex |access-date=18 Mar 2023 |language=ja |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=6 Dec 2016}}</ref>、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]
* [[2018年]] - [[赤木春恵]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/11/29/kiji/20181129s00041000039000c.html |title=赤木春恵さん 心不全のため死去 94歳 所属事務所「最期は眠るように」 おしん、渡鬼に出演 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=29 Nov 2018}}</ref>、[[俳優|女優]](* [[1924年]])
* [[2019年]] - [[中曽根康弘]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/discourse/20191129comment.html |title=内閣総理大臣の談話(中曽根元内閣総理大臣の逝去について) |access-date=18 Mar 2023 |publisher=首相官邸 |date=29 Nov 2019}}</ref>、政治家、第71-73代[[内閣総理大臣]](* [[1918年]])
* 2019年 - [[井上真樹夫]]<ref>{{Cite web|和書 |title=五ェ門死す…井上真樹夫さん80歳、急性心臓死 声優以外にもマルチな才能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/12/03/kiji/20191202s00041000509000c.html |website=Sponichi Annex |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=3 Dec 2019}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=声優・井上真樹夫さん死去、81歳 「ルパン三世」二代目・石川五ェ門役 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2150075/full/ |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=2 Dec 2019}}</ref>、声優(* [[1938年]])
* [[2020年]] - [[浜四津敏子]]、政治家、弁護士(* [[1945年]])
* [[2023年]] - [[ヘンリー・キッシンジャー]]、政治家、国際政治学者(* [[1923年]])<ref>{{Cite news2|title=Henry Kissinger, American diplomat and Nobel winner, dead at 100|newspaper= Reuters|date=2023-11-30|url=https://www.reuters.com/world/us/henry-kissinger-american-diplomat-nobel-winner-dead-100-2023-11-30/|agency=Thomson Reuters|accessdate=2023-11-30}}</ref>
* 2023年 - [[山田太一 (脚本家)|山田太一]]、脚本家、作家(* [[1934年]])<ref>{{Cite news2|df=ja|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20231201-OYT1T50052/|title=脚本家・作家の山田太一さん死去、89歳…「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」 |newspaper=讀賣新聞ONLINE|agency=読売新聞社 |date= 2023-12-01|accessdate= 2023-12-01}}</ref>
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2011年]] - [[まさお君#だいすけ君|だいすけ君]]、『[[ペット大集合!ポチたま#だいすけ君が行く!!ポチたま新ペットの旅|だいすけ君が行く!!ポチたま新ペットの旅]]』に出演していた[[ラブラドール・レトリバー]](* [[2005年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[パレスチナ人民連帯国際デー]]
*: [[1977年]]の国連総会で制定された[[国際デー]]。[[1947年]]のこの日、国連総会でパレスチナ分割に関する決議が採択されたことを記念。
* 解放記念日({{ALB}})
*: [[1944年]]のこの日、第二次大戦でドイツに占領されていたアルバニアが、{{仮リンク|アルバニアのパルチザン|en|Albanian resistance during World War II|label=パルチザン}}とソ連軍によって全土解放された。
* [[ウィリアム・タブマン]]誕生日({{LBR}})
*: 第19代リベリア大統領ウィリアム・タブマンの誕生日。
* 祖国統一の日({{VUT}})
* 議会開設記念日({{JPN}})
*: [[1890年]]11月29日に、初の[[帝国議会]]が開かれたことに由来。
* いい肉の日({{JPN}})
*: 宮崎県の「より良き宮崎牛作り対策協議会」が制定。「い(1)い(1)に(2)く(9)」の語呂合せ。
* ダンスの日({{JPN}})
*: 1883年11月29日、[[鹿鳴館]]が一般向けにも開館されたことを記念し、日本ボールルームダンス連盟が制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ytjp.jp/2019/11/29/kyouhanannohi/ |title=11月29日は「ダンスの日」 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=YOUTH TIME JAPAN project |date=29 Nov 2019}}</ref>。
* 飯田焼肉の日({{JPN}})
長野県の「飯田下伊那食肉組合」と、飯田市の老舗みそメーカー「[[マルマン (味噌製造)|マルマン]]株式会社」が共同で制定。「い(1)い(1)だやきに(2)く(9)の語呂合せ。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1129|date=2023年3月}}
* [[2006年]] - トータスイマジンが現れる。電王ロッドフォームとゼロノスベガフォームに倒される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/phantoms/440 |title=トータスイマジン カメ |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[石森プロ]]・[[テレビ朝日]]・ADK EM・[[東映]]・[[東映ビデオ]] |work=『仮面ライダー図鑑』}}</ref>。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1940年]] - 車寅次郎、映画『[[男はつらいよ]]』シリーズの主人公<ref>[[男はつらいよ 寅次郎かもめ歌|第26作]]で作成した入学願書の記載による</ref>
* [[2040年]] - シマダ、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=56|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 新西暦1992年 - 桜田ヒロム、『[[特命戦隊ゴーバスターズ]]』の主人公<ref group="注">『特命戦隊ゴーバスターズ超全集』では新西暦1992年と記載されている。</ref>
* 生年不明 - 玄奘三蔵、漫画・アニメ『[[最遊記]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kaz_minekura|1068136815532507139}}</ref>
* 生年不明 - 潮火ノ丸、漫画・アニメ『[[火ノ丸相撲]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hinomaru-zumou.com/character/潮火ノ丸 |title=潮日ノ丸 |access-date=2022-09-15 |publisher=[[川田 (漫画家)|川田]]/[[集英社]]・「火ノ丸相撲」製作委員会 |work=『火ノ丸相撲』}}</ref>
* 生年不明 - 上林鯨一郎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2019|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-882053-8|quote=|date=|volume=39巻|page=150}}</ref>
* 生年不明 - 勝生勇利、アニメ・映画『[[ユーリ!!! on ICE]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yurionice.com/index2.php#character |title=勝生勇利 |publisher=はせつ町民会/ユーリ!!! on ICE 製作委員会 |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ユーリ!!! on ICE』}}</ref>
* 生年不明 - 米屋陽介、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1200068111241756672}}</ref>
* 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#浦方うらら|浦方うらら]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year = 2020 |title = ゆらぎ荘の幽奈さん |volume = 24巻 |page = 154 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-882496-3 }}</ref>
* 生年不明 - [[鬼滅の刃#不死川実弥|不死川実弥]]、漫画・アニメ『[[鬼滅の刃]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kimetsu.com/anime/news/?id=55694 |title=2020.11.29 不死川実弥バースデーイラストを公開! |accessdate=2023-01-14 |publisher=[[アニプレックス]] |website=劇場版「鬼滅の刃」無限列車編公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - ドレファス、漫画・アニメ『[[七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://1st.7-taizai.net/special21.html |title=HAPPY BIRTHDAY to ドレファス!! |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[鈴木央]]・[[講談社]]/「七つの大罪」製作委員会・[[毎日放送|MBS]] |work=『七つの大罪』}}</ref>
* 生年不明 - 泉孝介、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=PASH!アニメーションファイル01「おおきく振りかぶって」|publisher=[[主婦と生活社]]|year=2008|page=16|isbn=978-4-391-62643-8}}</ref>
* 生年不明 - 巳屋本いろは、漫画・アニメ『[[すもももももも 地上最強のヨメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=すもももももも 〜地上最強のヨメ〜 GUIDE BOOK|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2006|page=82|isbn=4-7575-1771-8}}</ref>
* 生年不明 - シャチ、漫画・YouTubeアニメ『[[テイコウペンギン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teikoupenguin|1465274635331969027}}</ref>
* 生年不明 - 榎本虎太朗、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=榎本虎太朗 |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=2022-09-15 |work=『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』}}</ref>
* 生年不明 - 観島香月、ゲーム・アニメ『[[Memories Off #5 とぎれたフィルム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://memoriesoff.jp/psp/5/chara.html |title=観島香月(CV:桑谷夏子) |access-date=18 Mar 2023 |work=『Memories Off #5 とぎれたフィルム』 |publisher=5pb. / [[サイバーフロント|CYBERFRONT]]}}</ref>
* 生年不明 - 時谷小瑠璃、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|gf_kari_music|803252118173851648}}</ref>
* 生年不明 - 折笠アユム、ゲーム・アニメ『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://t7s.jp/character/chara/37.html |title=折笠アユム |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS Co. Ltd.]] |work=『Tokyo 7th シスターズ』}}</ref>
* 生年不明 - 王子しぐれ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1332844223561797633}}</ref>
* 生年不明 - 大島一千子、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-ichiko/ |title=大島一千子 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - 大島二以奈、ゲーム『ヘブンバーンズレッド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-niina/ |title=大島二以奈 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - 大島三野里、ゲーム『ヘブンバーンズレッド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-minori/ |title=大島三野里 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - 大島四ツ葉、ゲーム『ヘブンバーンズレッド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-yotsuha/ |title=大島四ツ葉 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - 大島五十鈴、ゲーム『ヘブンバーンズレッド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-isuzu/ |title=大島五十鈴 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - 大島六宇亜、ゲーム『ヘブンバーンズレッド』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31e/ohshima-muua/ |title=大島六宇亜 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=18 Mar 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* 2010年 - アルヴィン・H・ダヴェンポート、ゲーム『[[エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー|ACE COMBAT 5 THE UNSUNG WAR]]』に登場するキャラクター<ref>ゲーム本編内の日付より。</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8829%E6%97%A5 |
5,264 | マザー・テレサ | マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。
近年では生前からの批判も多いという歴史解釈をされる場合もある。一方で、それらの批判の多くはインドのヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体「民族義勇団(RSS)」により過剰な歴史修正が行われているという見方もある。
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、コソボ州・ユスキュプ(今の北マケドニア共和国・スコピエ)に生まれた。翌27日は彼女が幼児洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日である。母のドラナ(Drana)はアルバニア人であったが、父のニコ(Nikollë)はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。
父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、アルバニア独立運動の闘士でもあったが、1919年に45歳で急死した(政敵による毒殺説もある)。彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいた。姉や兄からは「ゴンジャ」(アルバニア語で「花のつぼみ」「小さな花」の意)と呼ばれていた。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。一家は裕福であったが父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。
18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入った。ロレト修道女会は女子教育に力を入れている修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズから取られている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。
1929年から1947年までテレサはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理と歴史を教えていた。彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったという。1944年には校長に任命されている。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。
1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。
「神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受ける。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。
活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた)。
ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラのココロテ市であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。
テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年、マルコム・マッグリッジによるBBCのTVドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)(英語版)』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。
1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章(1997年)、これらに加えて数多くの大学の名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。 こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。
1982年にはテレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。
1983年、高齢のテレサは当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1989年にはペースメーカーをつけた。1990年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される。1991年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。
1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた。1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去。満87歳没。
テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。独立の父マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目であった。遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られた。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババのみである。
1997年、テレサの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定だが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に逝去した当時の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。
マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。 1998年、モニカは34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいた。すぐに手術しなくてはならない危険な状態であったが、ひどい貧血症も患っていたために手術は不可能であった。彼女はマザー・テレサの死去した翌年の9月6日に、神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」の礼拝堂に赴いた。「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカは語っている。
その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言う。西ベンガル州シリグリのR.N .Bhattacharya医師は、腫瘍は7か月の胎児と同じ大きさだったと証言する。
列福のための正式な手続きは、2001年の8月にカルカッタ(現・コルカタ)司教区の特別委員会が報告書を取りまとめ、ローマ教皇庁列聖省に提出している。この報告書は重病や貧困に苦しむ人々に対するマザーの献身的活動や、列福に値することを示すため、マザーに対するとりなしの祈りによる奇跡的行為なども盛り込まれており、ページ数は35,000ページにも及ぶ。
列福・列聖には通常、対象者の死後数十年かかるが、マザーの献身的活動が生前から世界中の尊敬を集めてきたことなどにより、1999年、ヨハネ・パウロ2世は手続きを早める特例を認めた。
2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さであった。
2015年12月17日、ローマ教皇庁はフランシスコがテレサの二度目の奇跡を承認したと発表した。2008年、脳腫瘍を患い危篤状態だったブラジル人男性がテレサのとりなしによって回復された事例が奇跡と認定された。
2016年9月4日、フランシスコはテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した。この日はテレサの死後、満19年目を迎える前日であった。
テレサの施設「死を待つ人々の家」の医療水準の低さ、用途不明の資金、問題人物との交際などマザー・テレサの人格を疑問視する声は多い。
イギリス人ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズは1995年に『宣教師の立場』を刊行し、その中でマザー・テレサをきわめて否定的に扱った。またリチャード・ドーキンスは『神は妄想である』の中で、『宣教師の立場』の題を挙げてマザー・テレサを「彼女は聖人ではない」と批判した。
インド出身のアソシエイトエディター、クリティカ・ヴァラグールは2016年4月に『ハフィントン・ポスト』アメリカ版でマザー・テレサを批判した。「『特別で優秀な白人が有色人種を助けるのだ』というイメージをインド人や西洋人に植えつけた」と主張し、「マザー・テレサの崇高なイメージは、脆弱化したカトリック教会によって行われたメディア・キャンペーンの結果である」と述べている。 | [
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"text": "マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。",
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"text": "「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。",
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"text": "生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。",
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"text": "近年では生前からの批判も多いという歴史解釈をされる場合もある。一方で、それらの批判の多くはインドのヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体「民族義勇団(RSS)」により過剰な歴史修正が行われているという見方もある。",
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"text": "マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、コソボ州・ユスキュプ(今の北マケドニア共和国・スコピエ)に生まれた。翌27日は彼女が幼児洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日である。母のドラナ(Drana)はアルバニア人であったが、父のニコ(Nikollë)はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。",
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"text": "父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、アルバニア独立運動の闘士でもあったが、1919年に45歳で急死した(政敵による毒殺説もある)。彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいた。姉や兄からは「ゴンジャ」(アルバニア語で「花のつぼみ」「小さな花」の意)と呼ばれていた。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。一家は裕福であったが父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。",
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"text": "アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。",
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"text": "18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入った。ロレト修道女会は女子教育に力を入れている修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズから取られている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。",
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"text": "1929年から1947年までテレサはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理と歴史を教えていた。彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったという。1944年には校長に任命されている。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。",
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"text": "1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。",
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"text": "「神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受ける。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。",
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"text": "インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。",
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"text": "活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた)。",
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"text": "ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラのココロテ市であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。",
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"text": "テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年、マルコム・マッグリッジによるBBCのTVドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)(英語版)』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。",
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"text": "1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章(1997年)、これらに加えて数多くの大学の名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。 こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。",
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"text": "1982年にはテレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。",
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"text": "1983年、高齢のテレサは当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1989年にはペースメーカーをつけた。1990年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される。1991年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。",
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"text": "1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた。1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去。満87歳没。",
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"text": "テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。",
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"text": "宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。独立の父マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目であった。遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られた。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババのみである。",
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"text": "1997年、テレサの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定だが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に逝去した当時の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。",
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"text": "マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。 1998年、モニカは34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいた。すぐに手術しなくてはならない危険な状態であったが、ひどい貧血症も患っていたために手術は不可能であった。彼女はマザー・テレサの死去した翌年の9月6日に、神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」の礼拝堂に赴いた。「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカは語っている。",
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"text": "その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言う。西ベンガル州シリグリのR.N .Bhattacharya医師は、腫瘍は7か月の胎児と同じ大きさだったと証言する。",
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"text": "列福のための正式な手続きは、2001年の8月にカルカッタ(現・コルカタ)司教区の特別委員会が報告書を取りまとめ、ローマ教皇庁列聖省に提出している。この報告書は重病や貧困に苦しむ人々に対するマザーの献身的活動や、列福に値することを示すため、マザーに対するとりなしの祈りによる奇跡的行為なども盛り込まれており、ページ数は35,000ページにも及ぶ。",
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"text": "列福・列聖には通常、対象者の死後数十年かかるが、マザーの献身的活動が生前から世界中の尊敬を集めてきたことなどにより、1999年、ヨハネ・パウロ2世は手続きを早める特例を認めた。",
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"text": "2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さであった。",
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"text": "2015年12月17日、ローマ教皇庁はフランシスコがテレサの二度目の奇跡を承認したと発表した。2008年、脳腫瘍を患い危篤状態だったブラジル人男性がテレサのとりなしによって回復された事例が奇跡と認定された。",
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"text": "2016年9月4日、フランシスコはテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した。この日はテレサの死後、満19年目を迎える前日であった。",
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"text": "イギリス人ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズは1995年に『宣教師の立場』を刊行し、その中でマザー・テレサをきわめて否定的に扱った。またリチャード・ドーキンスは『神は妄想である』の中で、『宣教師の立場』の題を挙げてマザー・テレサを「彼女は聖人ではない」と批判した。",
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] | マザー・テレサ、あるいはコルカタの聖テレサは、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ。 「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。 生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。 近年では生前からの批判も多いという歴史解釈をされる場合もある。一方で、それらの批判の多くはインドのヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体「民族義勇団(RSS)」により過剰な歴史修正が行われているという見方もある。 | {{Infobox 聖人
|名前=コルカタの聖テレサ<br />(マザー・テレサ)
|画像=MotherTeresa 090.jpg
|画像サイズ=200px
|画像コメント=
|称号=
|他言語表記=
|生誕地={{OTT}}<br>{{仮リンク|コソボ州|en|Kosovo vilayet}}<br>ユスキュプ<br />(現在の[[北マケドニア]]<br>[[スコピエ]])
|生誕年(日)=[[1910年]][[8月26日]]
|死去地={{IND}}<br>[[西ベンガル州]]<br>[[コルカタ]]
|死去年(日)={{death date and age|1997|9|5|1910|8|26}}
|崇敬する教派= カトリック教会
|記念日= 9月5日
|列福日=[[2003年]][[10月19日]]
|列福場所={{VAT}}<br>[[サン・ピエトロ広場]]
|列福決定者=[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]
|列聖日=[[2016年]][[9月4日]]
|列聖場所={{VAT}}<br>[[サン・ピエトロ広場]]
|列聖決定者=[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]
|主要聖地=
|象徴=
|守護対象=
|論争=
|崇敬対象除外日=
|崇敬対象除外者=
}}
{{Thumbnail:begin}}
{{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1979年|ノーベル平和賞|長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした<ref>{{Cite web |url=https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1979/teresa/questions-and-answers/ |publisher=ノーベル財団 |title=Mother Teresa - Questions and answers |accessdate=2019-06-15}}"Question: マザー・テレサは、どうして1979年のノーベル平和賞を受賞したの?"に対するAnswer(英文)を意訳。 </ref>。}}
{{Thumbnail:end}}
'''マザー・テレサ'''(Mother Teresa, [[1910年]][[8月26日]] - [[1997年]][[9月5日]])、あるいは'''コルカタの聖テレサ'''(Saint Teresa of Calcutta)は、[[カトリック教会]]の[[修道女]]にして[[修道会]]「[[神の愛の宣教者会]]」の創立者。またカトリック教会の[[聖人]]である。本名は[[アルーマニア語]]でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、[[アルバニア語]]でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛した[[リジューのテレーズ]]にちなんだ[[修道名]]である。[[コルカタ]](カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され、[[1973年]]の[[テンプルトン賞]]、[[1979年]]の[[ノーベル平和賞]]、[[1980年]]の[[バーラト・ラトナ賞]](インドで国民に与えられる最高の賞)、[[1983年]]に[[エリザベス2世]]から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。[[1996年]]にはアメリカ合衆国史上5人目の[[アメリカ合衆国名誉市民|名誉市民]]に選ばれている。
近年では生前からの批判も多いという歴史解釈をされる場合もある。一方で、それらの批判の多くはインドの[[ヒンドゥー・ナショナリズム|ヒンドゥー至上主義]]の[[極右]]・[[ファシスト]]団体「[[民族義勇団]](RSS)」により過剰な[[歴史修正主義|歴史修正]]が行われているという見方もある<ref>{{Cite web |title=Withdraw Teresa’s Bharat Ratna, says RSS |url=https://www.indiatoday.in/mail-today/story/withdraw-teresa-s-bharat-ratna-says-rss-1284396-2018-07-12 |website=India Today |access-date=2023-09-24 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=India’s parliament disrupted over Hindu leader’s remarks about Mother Teresa |url=https://jp.reuters.com/article/idIN322661510520150227 |work=Reuters |date=2015-02-27 |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>。
{{main|マザー・テレサに対する批判|民族義勇団}}
== 生涯 ==
===生い立ち===
[[File:Memorial house of Mother Teresa.jpg|thumb|right|200px|マザー・テレサの地元[[スコピエ]]にある、彼女のメモリアル・ハウス]]
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、[[コソボ州]]・ユスキュプ(今の[[北マケドニア共和国]]・[[スコピエ]])に生まれた。翌27日は彼女が[[幼児洗礼]]を受けた[[キリスト教徒]]としての誕生日である。母のドラナ(Drana)は[[アルバニア人]]であったが、父のニコ({{lang|sq|Nikollë}})は[[ルーマニア人]]と同系の少数民族・[[アルーマニア人]]であった<ref>{{Cite web |url=http://www.romanialibera.ro/cultura/aldine/a-fost-maica-tereza-aromanca-213080.html |title=A fost Maica Tereza aromâncă? |website=Romania Libera |archiveurl=https://archive.is/rWrg |archivedate=2012-09-14 |accessdate=2019-06-15}}</ref>。
父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、[[アルバニア]][[独立運動家|独立運動の闘士]]でもあったが、1919年に45歳で急死した(政敵による毒殺説もある)。彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいた。姉や兄からは「ゴンジャ」([[アルバニア語]]で「[[花]]の[[蕾|つぼみ]]」「小さな花」の意)と呼ばれていた。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人には[[イスラム教]]徒が多く、マケドニア地方には[[正教徒]]が多かったことを考えると珍しい家族であった。一家は裕福であったが父母は[[信仰]]心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。
=== カルカッタの修道女===
18歳のとき、[[聖座]]の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入った。ロレト修道女会は[[女子教育]]に力を入れている[[修道会]]であった。アグネスは[[ダブリン]]で基礎教育を受けると修練女として[[1931年]]にインドの[[ダージリン]]に赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前は[[リジューのテレーズ]]から取られている。[[1937年]]に[[修道誓願|終生誓願]]を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。
[[1929年]]から[[1947年]]までテレサはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、[[地理学|地理]]と[[歴史学|歴史]]を教えていた。彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったという<ref>{{Cite book |和書 |author=やなぎやけいこ |title=マザー・テレサ キリストの渇きを癒すために |publisher=ドン・ボスコ社 |date=1990年4月 |page=13 |isbn=4886260462}}</ref>。[[1944年]]には校長に任命されている。[[上流階級]]の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると[[1946年]]の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という[[啓示]]を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、[[バチカン]]の修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。
[[1948年]]、ようやく[[教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタの[[スラム街]]の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素な[[サリー (民族衣装)|サリー]]を身にまとい、手始めに学校に行けない[[ホームレス]]の子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちが[[ボランティア]]として集まり始め、[[教会 (キリスト教)|教会]]や地域の名士たちからの[[寄付]]が寄せられるようになる。
=== 神の愛の宣教者会の創立 ===
「[[神の愛の宣教者会]]」は、[[1950年]]10月7日に[[ローマ教皇庁|教皇庁(ローマ教皇庁)]]によって認可を受け創立され、[[1965年]]2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受ける<ref name="cbcj">{{Cite web|和書|url=https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/mother/ |title=マザー・テレサ |publisher=宗教法人 カトリック中央協議会 |accessdate=2019-06-15}}</ref>。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる{{sfn|中井|2011|p=158-160}}。
インド政府の協力で[[ヒンドゥー教|ヒンズー教]]の廃[[寺院]]を譲り受けたテレサは「[[死を待つ人々の家]]」という[[ホスピス]]を開設した。以降、ホスピスや[[孤児院|児童養護施設]]を開設していく。
活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に[[改宗]]させようとしているという疑念を抱いていた。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒には[[ガンジス川]]の水を口に含ませてやり、[[ムスリム|イスラム教徒]]には[[クルアーン]]を読んで聞かせた){{sfn|中井|2011|p=42-53}}。
ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。[[1960年代]]までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。さらに[[1965年]]以降、教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは[[南アメリカ|南米]][[ベネズエラ]]のココロテ市であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。
テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」([[1963年]])、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。[[1969年]]、[[マルコム・マッグリッジ]]による[[BBC]]のTVドキュメンタリー映画『{{仮リンク|すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)|en|Something Beautiful for God}}』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。
[[1971年]]、教皇パウロ6世は、自らが制定した[[勲章]]「[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]賞([[1971年]])、[[アルベルト・シュヴァイツァー|アルベルト・シュバイツアー]]賞([[1975年]])、アメリカ合衆国[[大統領自由勲章]]([[1985年]])、[[アメリカ合衆国名誉市民]]([[1996年]])、[[議会名誉黄金勲章]]([[1997年]])、これらに加えて数多くの[[大学]]の[[名誉学位]]を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中は[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]に次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。
こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん[[1979年]]に受けた[[ノーベル平和賞]]であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿の[[サリー (民族衣装)|サリー]]と革製の[[サンダル]]という粗末な身なりで出席した。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための[[晩餐会]]は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した{{sfn|中井|2011|p=104-106}}。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつの[[パン]]が買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って[[家族]]を愛してあげてください」。
[[1982年]]にはテレサは[[イスラエル]]と[[パレスティナ]]の高官にかけあって[[武力衝突]]を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていた[[ベイルート]]の病院の患者たちを救出している{{sfn|中井|2011|p=88-90}}。
=== 晩年と死 ===
[[1983年|7年]]、高齢のテレサは当時のローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]との会見のために訪れた[[ローマ]]で[[心臓発作]]に見舞われた。[[1989年]]には[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]をつけた。[[1990年]]、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される<ref name="syougai">{{Cite web|和書|url=http://www.worldvalue.co.jp/volunteer/motherteresa.html |title=マザー・テレサの生涯 |publisher=ワールドバリュー株式会社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160817155030/http://www.worldvalue.co.jp:80/volunteer/motherteresa.html |archivedate=2013-08-17 |accessdate=2019-06-15}}</ref>。[[1991年]]、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。
[[1993年]]5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月には[[マラリア]]に罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた<ref name="syougai" />。1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。[[1997年]][[9月5日]]、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去<ref>「言葉でたどるマザーテレサの生涯」『カトリック生活』2016年9月号、ドン・ボスコ社、1-7頁。</ref>。満87歳没。
テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた<ref name="biography">{{Cite news|url=https://www.motherteresa.org/biography.html|title=Biography|publisher=Mother Teresa of Calcutta Center|date=|accessdate=2021-02-28}}</ref>。活動内容は[[ホスピス]]、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]患者のための家、[[ハンセン病]]者のための施設([[平和の村]])、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pauline.or.jp/specialarticles/200907_special-03.php |website=Laudate |title= 特集 |publisher=女子パウロ会 |accessdate=2019-06-15}}</ref>。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、[[1997年]]9月13日にインド政府によって[[国葬]]として荘厳に行われた<ref>「マザーテレサ 貧しい人に仕えた生涯」『カトリック生活』1997年11月号、ドン・ボスコ社、17-21頁。</ref><ref name="biography" />。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。独立の父[[マハトマ・ガンジー]]、初代[[ジャワハルラール・ネルー|ネール]]首相につづき、マザー・テレサは3人目であった<ref name="syougai" />。遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られた<ref>「貧しき人々の母 マザーテレサ帰天」『カトリック生活』1997年11月号、ドン・ボスコ社、11頁。</ref>。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは彼女と[[2011年]]4月に死去した[[サティヤ・サイ・ババ]]<ref>{{Cite news |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-20844320110427 |title=サイババ氏に数十万人が最後の別れ、インド南部で国葬 |newspaper=ロイター |date=2011-04-27}}</ref>のみである。
===列福までの道のり===
{{出典の明記|date=2019年6月14日 (金) 21:08 (UTC)|section=1 |title=脚注がないので出典が不明な文が多数あります。}}
1997年、テレサの死後すみやかに[[列福]]・[[列聖]]調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定だが、テレサの場合は生前から[[聖女]]の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、[[2005年]]4月に逝去した当時の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。
マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。
1998年、モニカは34歳の時、腹部の[[腫瘍]]を患い病んでいた。すぐに手術しなくてはならない危険な状態であったが、ひどい[[貧血]]症も患っていたために手術は不可能であった。彼女はマザー・テレサの死去した翌年の9月6日に、[[神の愛の宣教者会]]が経営する「死に行く人のための家」の[[礼拝堂]]に赴いた。「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカは語っている<ref>{{Cite news|url=http://www.nigawa.catholic.ne.jp/wp-content/uploads/2016/08/2cf7cbd7977d4210b7221be9375cc5a2.pdf|title=この9月、マザーテレサが帰天後、わずか19年で「列聖」される|publisher=カトリック仁川教会|date=2016-08|accessdate=2021-02-28}}</ref>。
その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言う。[[西ベンガル州]][[シリグリ]]のR.N .Bhattacharya医師は、腫瘍は7か月の[[胎児]]と同じ大きさだったと証言する。
列福のための正式な手続きは、2001年の8月にカルカッタ(現・コルカタ)司教区の特別委員会が報告書を取りまとめ、ローマ教皇庁列聖省に提出している。この報告書は重病や貧困に苦しむ人々に対するマザーの献身的活動や、列福に値することを示すため、マザーに対するとりなしの祈りによる奇跡的行為なども盛り込まれており、ページ数は35,000ページにも及ぶ。
列福・列聖には通常、対象者の死後数十年かかるが、マザーの献身的活動が生前から世界中の尊敬を集めてきたことなどにより、[[1999年]]、ヨハネ・パウロ2世は手続きを早める特例を認めた<ref>井上卓弥「福者、聖人に列する正式手続き開始へ 教皇庁」『毎日新聞』2001年8月17日。 </ref>。
[[2003年]][[10月19日]]、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、[[福者]]であると宣言した<ref>{{Cite web |url=http://www.vatican.va/news_services/liturgy/saints/ns_lit_doc_20031019_index_madre-teresa_en.html |title=Beatification Mother Teresa of Calcutta, 19 October 2003 |publisher= |accessdate=2019-06-15}}</ref>。通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さであった。
=== 列聖への道のり ===
[[2015年]][[12月17日]]、ローマ教皇庁は[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]がテレサの二度目の奇跡を承認したと発表した。[[2008年]]、脳腫瘍を患い危篤状態だった[[ブラジル人]]男性がテレサのとりなしによって回復された事例が奇跡と認定された<ref name = "asahi.com">{{Cite web|和書| title = マザー・テレサが「聖人」認定へ ローマ法王が承認 | url = http://www.asahi.com/sp/articles/ASHDL6JDNHDLUHBI01J.html | publisher = 朝日新聞 | date = 2015-12-19 | accessdate = 2016-1-29}}</ref>。
[[2016年]][[9月4日]]、フランシスコはテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160904-GZZLE634SRNY5E3PSJ3SFM7GDM/|title=マザー・テレサ「聖人」に認定 バチカンで列聖式…「コルカタの聖女」偉業讃える|accessdate=2016-9-4|author=宮下日出男|publisher=産経ニュース}}</ref>。この日はテレサの死後、満19年目を迎える前日であった。
== 受賞・受章歴 ==
* [[1962年]]:{{flagicon|PHL}} [[マグサイサイ賞]]平和・国際理解部門
* [[1971年]]:{{flagicon|VAT}} [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世教皇]]平和賞
* [[1972年]]:{{flagicon|USA}} [[ジョン・F・ケネディ]]賞
* [[1973年]]:{{flagicon|USA}} [[テンプルトン賞]]
* [[1975年]]:{{flagicon|DEU}} [[アルベルト・シュヴァイツァー]]賞
* [[1979年]]:{{flagicon|NOR}} [[ノーベル平和賞]]
* [[1980年]]:{{flagicon|IND}} [[バーラト・ラトナ賞]]
* [[1983年]]:{{flagicon|GBR}} 優秀修道会賞
* [[1985年]]:{{flagicon|USA}} [[大統領自由勲章]]
* [[1992年]]:{{flagicon|USA}} ガウデイム・エト・スペス賞
* [[1996年]]:{{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国名誉市民]]
* [[1997年]]:{{flagicon|USA}} [[議会名誉黄金勲章]]
== 批判 ==
{{main|マザー・テレサに対する批判}}
テレサの施設「[[死を待つ人々の家]]」の医療水準の低さ、用途不明の資金、問題人物との交際などマザー・テレサの人格を疑問視する声は多い。
イギリス人[[ジャーナリスト]]の[[クリストファー・ヒッチェンズ]]は1995年に『[[宣教師の立場]]』を刊行し、その中でマザー・テレサをきわめて否定的に扱った。また[[リチャード・ドーキンス]]は『[[神は妄想である]]』の中で、『宣教師の立場』の題を挙げてマザー・テレサを「彼女は聖人ではない」と批判した<ref> 垂水雄二訳『神は妄想である』早川書房、2007年、427頁</ref>。
インド出身のアソシエイトエディター、クリティカ・ヴァラグールは2016年4月に『[[ハフィントン・ポスト]]』アメリカ版でマザー・テレサを批判した。「『特別で優秀な白人が[[有色人種]]を助けるのだ』というイメージをインド人や西洋人に植えつけた」と主張し、「マザー・テレサの崇高なイメージは、脆弱化したカトリック教会によって行われたメディア・キャンペーンの結果である」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/krithika-varagur/mother-teresa-was-no-saint_b_9658658.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001 |title=マザー・テレサは聖人ではなかった |website=ハフポスト |accessdate=2019-06-15}}</ref>。
== 関連作品 ==
=== 書籍 ===
*『マザー・テレサ -神さまへのおくりもの-』マザー・テレサ著、半田基子訳、[[女子パウロ会]]、1976年
*『生命あるすべてのものに』マザー・テレサ、[[講談社現代新書]]、1982年
*『マザー・テレサ 愛を語る』ジョルジュ・ゴルレ、ジャン・バルビエ編著、支倉寿子訳、[[日本教文社]] 、1982年
*『ほほえみ -マザー・テレサのことば-』女子パウロ会編、江口まひろ絵、女子パウロ会、1989年
*『マザー・テレサ 愛のことば』女子パウロ会編、いもとようこ絵、女子パウロ会、1998年
*『マザー・テレサ 日々のことば』マザー・テレサ著、いなますみかこ訳、女子パウロ会、2000年
*『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』ホセ ルイス・ゴンザレス‐バラド編、渡辺和子訳、PHP文庫、2000年
*『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』マザー・テレサ、片柳弘史(写真)、[[サレジオ会|ドン・ボスコ社]]、2001年
*『マザー・テレサ書簡集』、片柳弘史編・訳、ドン・ボスコ社、2003年
*『マザー・テレサ -すばらしいことを神さまのために-』マルコム・マゲッリッジ、沢田和夫訳、女子パウロ会、1976年
*『マザー・テレサとその世界』千葉茂樹、[[女子パウロ会]]、1980年
*『マザー・テレサこんにちは』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年
*『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘、[[講談社文庫]]、1984年
*『ノーベル平和賞に輝く聖女 マザーテレサ』望月正子、[[講談社]]、1988年
*『愛にことばはいらないのよ』岩岡佳、女子パウロ会、1989年
*『こんにちわ地球家族 -マザー・テレサと国際養子-』千葉茂樹、女子パウロ会、1991年
*『マザー・テレサ 愛の軌跡』ナヴィン・チャウラ、三代川律子訳、日本教文社 、1995年、2001年増補改訂版
*『マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?』[[寮美千子]]、[[学研ホールディングス|学研]]、1997年
*『わたしはマザーに出会った -20人が語るマザー・テレサのすがた-』女子パウロ会編、女子パウロ会、2001年
*『愛 -マザー・テレサ日本人へのメッセージ-』女子パウロ会編、三保元訳、女子パウロ会、2003年
*『カルカッタ日記 マザー・テレサと出会って』片柳弘史、ドン・ボスコ社、2003年
*『マザー・テレサの真実』五十嵐薫著 《NPO法人レインボー国際協会理事長》、[[PHP研究所|PHP出版]]、2007年
*『大ヴァチカン展パンフレット』大ヴァチカン展実行委員会、1987年
*『[[AERA]]臨時増刊 人を助けたい 震災ボランティア/善意ネットワーク』 [[朝日新聞社]] 1995年3月
*『マザーテレサ「死の場面」』坂倉圭著、[[聖母の騎士社]]、2004年 ISBN 978-4882162537
*[http://www.asahi-net.or.jp/~pr4k-skkr/ 『マザーテレサ「死の場面」』] ウエブ版
*『マザー・テレサ 愛の花束』 [[中井俊已]]、PHP研究所 [[2007年]] ISBN 978-4569669465
*『マザーテレサの子と呼ばれて』 工藤朋子著、聖母の騎士社、[[2010年]] ISBN 978-4882163183
*『宣教師マザーテレサの生涯 スコピエからカルカッタへ』工藤裕美著、上智大学出版、[[2007年]] ISBN 978-4-324-08057-3 C3014
=== 漫画 ===
*学習まんが世界の伝記『マザー・テレサ 貧しい人のために生涯をささげた聖女』[[高瀬直子]]、沖守弘(集英社、1992年)ISBN 978-4082400248
*[[学習まんが人物館]]『マザー・テレサ 貧しい人びとに限りなき愛をそそいだ現代の聖女』滝田よしひろ、[[あべさより]](小学館、1997年) ISBN 978-4092700130
*コミック版世界の伝記『マザー・テレサ』[[谷沢直]]、沖守弘(ポプラ社、2011年)ISBN 978-4591126110
*学習まんが世界の伝記NEXT『マザー・テレサ 貧しい人々に尽くした愛と勇気の聖女』榊ゆうか、堀ノ内雅一(集英社、2016年)ISBN 978-4082400675
=== 映像作品 ===
*ドキュメンタリー映画“Something Beautiful for God”、1969年、アメリカ
*ドキュメンタリー映画『[[マザー・テレサとその世界]]』(55分)、1979年、[[女子パウロ会]]
*ドキュメンタリー映画『[[生命、それは愛]]』(マザー・テレサ来日の記録 30分)、1982年、女子パウロ会
*アニメ『[[みんなのおかあさん マザー・テレサ]]』(20分)、1993年、女子パウロ会
*アニメ『[[マザー・テレサ (アニメ)|マザー・テレサ]]』、2000年、学研、[[寮美千子]]脚本、[[金井肇]]監修
*テレビ映画『[[マザー・テレサ (映画)|マザー・テレサ]]』、2003年、[[ファブリツィオ・コスタ]]監督、[[オリヴィア・ハッセー]]主演
*ドキュメンタリー映画『[[マザーテレサ - 母なることの由来]]』(1986年/アメリカ映画/83分)製作・監督 [[アン・ペトリ]]、[[ジャネット・ペトリ]] 1988年日本公開。2007年デジタル復刻版製作、日本再公開。
*ドキュメンタリー映画『[[マザーテレサ - 母なるひとの言葉]]』(2004年/アメリカ映画/55分)製作・監督 アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ 2007年「母なることの由来-デジタル復刻版-」と同時に日本初公開。
*2008年12月10日(水)の[[日本放送協会|NHK]][[テレビ番組|テレビ]]『[[その時歴史が動いた]]』では、マザー・テレサの特集が組まれた。
*2010年マザー・テレサ映画祭開催<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.motherteresa.co.jp/ |title=マザー・テレサ映画祭 |publisher= |accessdate=2019-06-15}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
==参考文献==
*{{Cite book |和書 |author=中井俊巳 |title=マザー・テレサ愛の花束 |publisher=PHP研究所 |series=PHP文庫 |date=2011年8月 |edition=第1版 |isbn=978-4-569-66946-5 |ref={{SfnRef|中井|2011}} }}<!-- 第12刷 -->
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Mother Teresa|マザー・テレサ}}
*[[マザー・テレサ空港]](ティラナ国際空港)
*[[ACジャパン]] - [[公共広告機構]]時代、[[日本ユニセフ]]の支援キャンペーンCMにマザー・テレサ本人が出演。
== 外部リンク ==
<!-- ここに個人サイトなどのリンクを貼らないでください。-->
<!-- また、「Wikipedia:外部リンクの選び方」をよく読まれるようにお願いいたします。 -->
* [https://www.cbcj.catholic.jp/category/information/saintbeato/mother/ マザー・テレサ カトリック中央協議会]
*[http://www.motherteresa.co.jp/index.html マザー・テレサ・メモリアル] - ドキュメンタリー「母なることの由来」「母なるひとの言葉」劇場公開公式サイト
*[https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1979/summary/ ノーベル財団 The Nobel Peace Prize 1979] - マザー・テレサのノーベル賞受賞演説など
*[http://www.motherteresa.org/ Mother Teresa of Calcutta Center]
*[http://www.motherteresawomenuniv.ac.in/ Mother Teresa Women's University]
*[https://www.youtube.com/watch?v=86SemtwG6Lc/ Centro Televisivo Vaticano(マザー・テレサ列聖式、2016年)]{{リンク切れ |date=2019年6月14日 (金) 21:08 (UTC)}}
*{{NHK人物録|D0009072322_00000}}
{{ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年)}}
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[[Category:マザー・テレサ|*]]
[[Category:キリスト教の修道女]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5 |
5,265 | はてしない物語 | 『はてしない物語』(はてしないものがたり、Die unendliche Geschichte)は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる、児童向けファンタジー小説である。1979年刊。
前後半に分かれる2部構成。前半では主人公の少年・バスチアン(Bastian)がひょんなことから手にした本『はてしない物語』に描かれた世界「ファンタージエン」の崩壊を救い、後半ではバスチアン自身が「ファンタージエン」の世界に入り込み、そこでの旅を通じて本当の自分を探す。物語の本筋から反れた際に「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」という言葉で、本筋に戻ることが特徴。また、主に前半部分においては、バスチアンのいる現実世界ともう一人の主人公アトレーユが旅をする本の世界(ファンタージエン)の2つの世界を並行して描いており、現実世界でのストーリーは赤茶色の文字、ファンタージエンでのストーリーは緑色の文字で印刷されている(詳細後述)。
読書と空想が好きなバスチアン・バルタザール・ブックスは肥満体型やX脚、運動音痴を理由に学校のクラスメートからいじめを受けていた。また、母親を亡くしたことをきっかけに父親との間にも溝が出来てしまい、居場所を失っていた。
ある日、いじめっ子に追い回されたバスチアンはカール・コンラート・コレアンダーが経営する古本屋に逃げ込んだ。バスチアンはそこで、『はてしない物語』という風変わりな本を目にし興味を抱く。お金を持っていなかったバスチアンはコレアンダーの目を盗んで本を店から盗み出し、忍び込んだ学校の物置で読み始めるのだった。
本の世界では、幼ごころの君が支配する国「ファンタージエン」が「虚無」の拡大によって崩壊の危機に晒されていた。病に倒れた幼ごころの君と「ファンタージエン」を救うための方法を探す使者に指名された緑の肌族の少年・アトレーユは、女王の名代として「アウリン」を授けられ、「救い主」を求めて大いなる探索の旅に出る。
冒険を重ね、幸いの竜フッフールなどとの出会いや数々の試練を経て、「救い主」が人間のバスチアンであることに気づくアトレーユであったが、努力虚しく「ファンタージエン」は崩壊する。幼ごころの君は最後の手段としてさすらい山の古老のもとを訪れる。さすらい山の古老は「ファンタージエン」を取り巻く全ての出来事を本に記しており、そこから物語の内容もバスチアンのいる現実世界の話へと変わり始める。
現実と本の世界が交錯する中、バスチアンは幼ごころの君に「月の子(モンデンキント)」という新たな名前を授け、本の世界に飛び込む。そして持ち前の想像力と女王から授けられた「アウリン」の力によって、崩壊した「ファンタージエン」を新たに作り上げていく。
こうして自ら再建した新たな「ファンタージエン」の世界に入り込んだバスチアンは、その後アトレーユやフッフールと友達になったり、「ファンタージエン」の住人や場所に名を与え物語を作ったりして、「ファンタージエン」の世界を楽しんでいた。また、コンプレックスの塊であった自分の外見も、「アウリン」の力を使い容姿端麗で強く立派な勇者のような姿に変えていった。
しかし、バスチアンは「アウリン」の力を使い続けるうちに、次第に現実世界の記憶を失くしてしまう。そして、幼ごころの君に再び会いたいという気持ちが芽生えたバスチアンは、救世主バスチアンを慕う人々を引き連れ女王の居住地であるエルフェンバイン塔に行くが、そこに幼ごころの君はいなかった。
女魔術師・サイーデにそそのかされたバスチアンは「ファンタージエン」の新しい王になることを決意する。我を失い権力まで欲するようになったバスチアンを諭すアトレーユとフッフールであったが、バスチアンは口うるさい彼らを疎ましがるようになる。このままでは取り返しのつかないことになると考えたアトレーユはアウリンを盗み出そうとするが失敗。対立は決定的なものとなり、バスチアンは彼らを裏切り者と罵り一行から追放してしまう。
そして、バスチアンは「ファンタージエン」の帝王となったことを宣言するが、アトレーユは反対派を取りまとめその就任式を急襲。バスチアンの軍勢とアトレーユたちは戦争となり、バスチアンがアトレーユに重傷を負わせる。逃げたアトレーユたちを追ったバスチアンは「元帝王の都」に辿り着く。そこにはバスチアンと同じように現実世界から「ファンタージエン」に入り込み、「アウリン」によって願いを叶え続け、その果てに完全に記憶を失ってしまったかつての「ファンタージエン」の王たちが徘徊していた。ようやく自分の間違いに気づいたバスチアンは、残り少なくなった記憶を守りながら自分の世界に戻るための旅を始める。
そして旅の果て、目的地まであと少しのところまで来ながらバスチアンは、自らの名前以外のほとんど全ての記憶を失うが、アトレーユとフッフールの助けで無事現実世界に生還を果たす。
現実世界に戻ることができたバスチアンは、古書店へ本を返しに行く。そこで、コレアンダーもかつての「ファンタージエン」の「救い主」だったことを明かし、二人はそれぞれの体験を語り合うのであった。
父親が著名な画家だったエンデは自身も絵を描いており、本の装丁にもこだわりを持っていた。17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケは「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と語っており、出版された本はその言葉通り表紙に二匹の蛇が描かれた布張りの本として装丁され、物語に入り込む入り口としての装置となった。読者は自身が手にした本が、作中でバスチアンが読んでいるものと同じものであると悟り、主人公と一体化していくのである。
岩波書店発行の日本語版ハードカバーでも、本の中に登場する『はてしない物語』と同じく、ハードケースを外した中の書籍本体の装丁はあかがね色の布張りとなっており、二匹の蛇が互いの尾を咬んで楕円になった「アウリン」の文様があしらわれている。さらに、文字も現実世界の部分はあかがね色、「ファンタージエン」の部分は緑色と刷り分けられている。岩波書店は出版・装丁にあたり布を特注、そのため価格は税込みで3千円を超える。岩波少年文庫として文庫化された際には、上下巻の2分冊となり、文字色は黒色の1色刷りで、「ファンタージエン」の部分は本文の上部に装飾を施す形で表現されている。
『ネバーエンディング・ストーリー』として映画化され、シリーズにもなった。しかし、シリーズ第1作のラストはエンデの意図に沿っておらず、彼はこれを嫌い、訴訟を起こした。
3作目 は原作のストーリーとはほとんど関係がない。
2001年にカナダ・ドイツで制作され、日本で放送された海外ドラマ。
原題『Tales from the Neverending Story』
邦題『ネバーエンディング・ストーリー 遥かなる冒険』
全13話制作されたが、日本では6時間に渡る前後編形式のテレビ映画としてDVD化された。
やや改変気味ではあるが、前半は原作に忠実にしようとしていた作品である。ゲームボーイ好きの少年バスチアンは本屋の老人に無理矢理本を薦められ、ネバーエンディングストーリーの物語を読み始める。本の中の主人公アトレイユは最初こそ真面目に冒険をし女王を救う任務を果たすのだが、ここからテコ入れが入り始める。
バスチアンとアトレイユの接点は繋がる事もなく恋愛にしか関心がない様子。しかし現実の世界に飛び出したアトレイユはスケボーでバスチアンの前に現れ、ここから物語が動き出す・・・かと思われたが打ち切りになってしまった。
バスチアン ゲーム好きな現代人に。恋愛やラップに関心がある等映画版パート3の性格に近い。
アトレイユ バスチアンの親友だった筈が、フライガールとの恋愛の方に関心が移っている普通の高校生風の青年に。
幼心の君とザイーデ 姉妹と言う設定に。出番が増えてお互い気さくに。
ファルコン 幸運を呼ぶアトレイユのパートナーだったが、今回は牢屋の中に隔離されている。またアトレイユもフライガールの戦闘機を愛用しているためファルコンに乗るのはラストのみである。
コレアンダー 映画版パート3からの設定流用でファンタージエンと現実世界の両方に住んでいる。
学友の存在 苛められっ子と言う設定は消え、学友達とのラブコメが後半の物語の骨格になる。
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] | 『はてしない物語』は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる、児童向けファンタジー小説である。1979年刊。 | {{Expand language
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{{基礎情報 文学作品
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『'''はてしない物語'''』(はてしないものがたり、{{de|''Die unendliche Geschichte''}})は、[[ドイツ]]の[[作家]][[ミヒャエル・エンデ]]による、[[児童文学|児童向け]][[ファンタジー]]小説である。[[1979年]]刊。
==概要 ==
前後半に分かれる2部構成。前半では主人公の少年・バスチアン(Bastian)がひょんなことから手にした本『はてしない物語』に描かれた世界「ファンタージエン」の崩壊を救い、後半ではバスチアン自身が「ファンタージエン」の世界に入り込み、そこでの旅を通じて本当の自分を探す。物語の本筋から反れた際に「'''これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう'''」という言葉で、本筋に戻ることが特徴。また、主に前半部分においては、バスチアンのいる現実世界ともう一人の主人公アトレーユが旅をする本の世界(ファンタージエン)の2つの世界を並行して描いており、現実世界でのストーリーは赤茶色の文字、ファンタージエンでのストーリーは緑色の文字で印刷されている([[#エピソード|詳細]]後述)。
== あらすじ ==
=== 前半 ===
読書と空想が好きな'''バスチアン・バルタザール・ブックス'''は肥満体型やX脚、運動音痴を理由に学校のクラスメートからいじめを受けていた。また、母親を亡くしたことをきっかけに父親との間にも溝が出来てしまい、居場所を失っていた。
ある日、いじめっ子に追い回されたバスチアンは'''カール・コンラート・コレアンダー'''が経営する古本屋に逃げ込んだ。バスチアンはそこで、『'''はてしない物語'''』という風変わりな本を目にし興味を抱く。お金を持っていなかったバスチアンはコレアンダーの目を盗んで本を店から盗み出し、忍び込んだ学校の物置で読み始めるのだった。
本の世界では、'''幼ごころの君'''が支配する国「ファンタージエン」が「虚無」の拡大によって崩壊の危機に晒されていた。病に倒れた幼ごころの君と「ファンタージエン」を救うための方法を探す使者に指名された緑の肌族の少年・'''アトレーユ'''は、女王の名代として「アウリン」を授けられ、「救い主」を求めて大いなる探索の旅に出る。
冒険を重ね、'''幸いの竜フッフール'''などとの出会いや数々の試練を経て、「救い主」が人間のバスチアンであることに気づくアトレーユであったが、努力虚しく「ファンタージエン」は崩壊する。幼ごころの君は最後の手段として'''さすらい山の古老'''のもとを訪れる。さすらい山の古老は「ファンタージエン」を取り巻く全ての出来事を本に記しており、そこから物語の内容もバスチアンのいる現実世界の話へと変わり始める。
現実と本の世界が交錯する中、バスチアンは幼ごころの君に「'''月の子(モンデンキント)'''」という新たな名前を授け、本の世界に飛び込む。そして持ち前の想像力と女王から授けられた「アウリン」の力によって、崩壊した「ファンタージエン」を新たに作り上げていく。
=== 後半 ===
こうして自ら再建した新たな「ファンタージエン」の世界に入り込んだバスチアンは、その後アトレーユやフッフールと友達になったり、「ファンタージエン」の住人や場所に名を与え物語を作ったりして、「ファンタージエン」の世界を楽しんでいた。また、コンプレックスの塊であった自分の外見も、「アウリン」の力を使い容姿端麗で強く立派な勇者のような姿に変えていった。
しかし、バスチアンは「アウリン」の力を使い続けるうちに、次第に現実世界の記憶を失くしてしまう。そして、幼ごころの君に再び会いたいという気持ちが芽生えたバスチアンは、救世主バスチアンを慕う人々を引き連れ女王の居住地であるエルフェンバイン塔に行くが、そこに幼ごころの君はいなかった。
女魔術師・'''サイーデ'''にそそのかされたバスチアンは「ファンタージエン」の新しい王になることを決意する。我を失い権力まで欲するようになったバスチアンを諭すアトレーユとフッフールであったが、バスチアンは口うるさい彼らを疎ましがるようになる。このままでは取り返しのつかないことになると考えたアトレーユはアウリンを盗み出そうとするが失敗。対立は決定的なものとなり、バスチアンは彼らを裏切り者と罵り一行から追放してしまう。
そして、バスチアンは「ファンタージエン」の帝王となったことを宣言するが、アトレーユは反対派を取りまとめその就任式を急襲。バスチアンの軍勢とアトレーユたちは戦争となり、バスチアンがアトレーユに重傷を負わせる。逃げたアトレーユたちを追ったバスチアンは「元帝王の都」に辿り着く。そこにはバスチアンと同じように現実世界から「ファンタージエン」に入り込み、「アウリン」によって願いを叶え続け、その果てに完全に記憶を失ってしまったかつての「ファンタージエン」の王たちが徘徊していた。ようやく自分の間違いに気づいたバスチアンは、残り少なくなった記憶を守りながら自分の世界に戻るための旅を始める。
そして旅の果て、目的地まであと少しのところまで来ながらバスチアンは、自らの名前以外のほとんど全ての記憶を失うが、アトレーユとフッフールの助けで無事現実世界に生還を果たす。
現実世界に戻ることができたバスチアンは、古書店へ本を返しに行く。そこで、コレアンダーもかつての「ファンタージエン」の「救い主」だったことを明かし、二人はそれぞれの体験を語り合うのであった。
== 登場人物 ==
=== 主な登場人物 ===
;バスチアン・バルタザール・ブックス(Bastian Balthazar Bux)
:主人公。現実世界に住む、デブでチーズ色をしたX脚ののろまな少年。一度留年をして、いつもいじめに遭っている。イニシャルはBBB。
:本を読んだり、物語を作るのが好き。ファンタージエンでは東方の王子のような美少年になる。
;アトレーユ(Atréju)
:緑の肌族の少年。物語前半の主人公。「ファンタージエン」の危機を医師カイロンに告げられ、「救い主」を求めて大いなる探索の旅に出る。
;幸いの竜フッフール(Glücksdrache Fuchur)
:真珠貝色の鱗を持つ、[[龍|東洋の龍]]のような姿の[[ドラゴン|竜]]。常に希望と幸福と共にあり、青銅の鐘のような声を持つ。
;幼ごころの君(Die Kindliche Kaiserin)
:「ファンタージエン」の[[女王]]。「望みを統べたもう金の瞳の君」とも呼ばれている。
=== 現実世界の人物 ===
;カール・コンラート・コレアンダー(Karl Konrad Koreander)
:[[古書店|古本屋]]の店主。イニシャルはKKK。「本を汚すから」と子供を嫌っている。
:かつてバスチアンとは別の方法でファンタージエンに行き、幼ごころの君に名前を与えたという過去を持つ。
;バスチアンの父(Bastians Vater)
:[[歯科技工士]]。妻が死んでからバスチアンに対して無関心になり、落第にすら何も言わなくなってしまった。
;バスチアンの母
:物語前に既に他界している。彼女が死亡してからバスチアンの家庭が暗くなってしまった。
=== 「ファンタージエン」の住民 ===
==== 前半での登場人物 ====
;ブルッブ(Blubb)/ユックユック(Ückück)/ヴシュヴーズル(Wúschwusul)/ピョルンラハツァルク(Pjörnrachzarck)
:「ファンタージエン」の危機を幼ごころの君に伝えに行く使節たち。順に、[[鬼火]]・豆小人・[[コボルト|夜魔]]・岩喰い男。
;カイロン(Caíron)
:[[ケンタウロス]]。名高い医術の達人。幼ごころの君からアウリンを預かり、アトレーユに届ける。
;アルタクス(Artax)
:アトレーユの[[ウマ|馬]]。
;太古の媼モーラ(Morla, die Uralte)
:「ファンタージエン」のあらゆる生き物よりも年をとった生き物。「憂いの沼」に生息している。
;群集者イグラムール(Ygramul, die Viele)
:死の山脈にある奈落の裂け目に棲む無数の虫。群れて様々な姿をとる。1時間で死ぬ代わりに「ファンタージエン」国のどこでも望む所に瞬時に行けるようになる毒を持つ。
;南のお告げ所のウユララ(Uyulála, das südliche Orakel)
:「静寂の声」とも呼ばれる。声だけの存在であり、語りかける時は韻を踏んで詩にしなければならない。
;エンギウック(Engywuck)/ウーグル(Urgl)
:地霊小人の夫婦。夫のエンギウックはウユララについての研究をしており。妻のウーグルは薬草を扱うのが得意。
;リル(Lirr)/バウレオ(Baureo)/シルク(Schirk)/マエストリル(Mayestril)
:それぞれ北・東・南・西を勢力範囲とする、大風坊主。
;グモルク(Gmork)
:[[狼男|人狼]]。自分の世界を持たない者であり、「ファンタージエン」を破滅させようとする者に仕えていた。大いなる探索の旅に出たアトレーユを追跡する。
;さすらい山の古老(Der Alte vom Wandernden Berge)
:「ファンタージエン」のありとあらゆる事柄をあかがね色の本に記録する老人。幼ごころの君と対となる存在とされる。
==== 後半での登場人物 ====
;色のある死グラオーグラマーン(Graógramán, der Bunte Tod)
:色の砂漠ゴアプの王。夜になると石になり、朝になると甦るライオン。ゴアプの色に合わせて体の色が変化する。
;イハ(Jicha)
:牝[[ラバ]]。バスチアンのお手馬となる。走るのは遅いが乗り心地が良い。また、ある種の直感に優れている。
;勇士ヒンレック(Held Hynreck)/オグラマール姫(Prinzessin Oglámar)
:バスチアンがファンタージエンで初めて出会った人たち。姫は「すべての者を打ち負かした勇士でなければ結婚しない」という誓いを立てており、ヒンレックはその姫に恋心を抱いている。
;ヒクリオン(Hýkrion)/ヒスバルト(Hýsbald)/ヒドルン(Hýdorn)
:三人の騎士。ヒクリオンは黒い口ひげを生やした強力の持ち主、ヒスバルトは赤毛で華奢な迅速の持ち主、ヒドルンは背が高く痩せ形で粘りや持久力に長けている。バスチアンの親衛隊となる。
;銀翁ケルコバート(Silbergreis Quérquobad)
:銀の都アマルガントの長老。
;アッハライ(Acharai)
:種族名。「ファンタージエン」中で最も醜い生き物。その身の醜さを嘆いて絶えず涙を流しているので、「常泣虫(とこなきむし)」とも呼ばれている。
;シュラムッフェン(Schlamuffen)
:種族名。派手な色をした、常にふざけている生き物。「道化蛾」とも呼ばれる。
;イルアン(Illuán)
:青い魔鬼。
;サイーデ(Xayíde)
:「ファンタージエン」の中で最も邪悪な女魔術師。その意思の力で黒甲冑を動かすことができる。「アウリン」によって我を忘れたバスチアンを唆した。
;予感の母ウシュトゥー(Uschtu, die Mutter der Ahnung)/観照の父シルクリー(Schirkrie, der Vater der Schau)/怜悧の息子イージプー(Jisipu, der Sohn der Klugheit)
:星僧院の院長、沈思黙考師の三人。体つきは人間であるが、それぞれフクロウ、鷲、狐の頭を持っている。
;アーガックス(Argax)
:小さな灰色の猿。元帝王たちの管理者で、房の付いた黒い博士帽を被っている。飄々とした皮肉屋。
;イスカールナリ(Yskálnari)
:イスカールに住む人のことで、「いっしょ人」という意味をもつ。
;アイゥオーラおばさま(Dame Aiuóla)
:「変わる家」に住む。果物のなどの植物を着た風変わりな女性。
;ヨル(Yor)
:盲目の鉱夫。闇の中でのみ盲目ではなくなるらしい。絵の採掘場ミンロウド坑から人間世界の忘れられた夢を採掘している。
==道具==
;『はてしない物語』(Die unendliche Geschichte)
: バスチアンがコレアンダーの古本屋から盗み出した本。表紙はあかがね色の絹で装丁され、互いに相手の尾を咬んで楕円になった明暗二匹の蛇の文様があしらわれている。
;アウリン(AURYN)
:幼ごころの君の名代となる印。「おひかり」「宝のメダル」とも呼ばれる。
:明暗二匹の蛇が互いに相手の尾を咬んで楕円になった形状([[ウロボロス]])をしており、裏側には「汝の欲することを成せ」という言葉が刻印されている。授けられた者の願いを叶えることができるが、その一方で記憶を奪ってしまう。
;シカンダ(Sikánda)
:「ファンタージエン」において最も強力な魔法の剣。ひとりでに手の中に飛び込んでくる時のみ使用が可能で、成すべきことを自らの力で成すが、所有者の意思で鞘から抜くと、所有者自身と「ファンタージエン」に大きな災いがもたらされるという。
:「ファンタージエン」に入り込んだバスチアンが所有していたが、アトレーユとの戦いにおいてバスチアンの意思で引き抜かれてしまう。
;アル・ツァヒール(Al'Tsahir)
:透明なガラスのように見える石。ある扉を封印していて、その名を唱えることで石が光を取り戻すと共に、扉の封印が解ける。
:また、封印を解いたものがもう一度終わりから始めへとその名を唱えると、百年分の光を一瞬のうちに放つという。
;ゲマルの帯(Der Gürtel Gémmal)
:ガラスでできた、姿を見えなくする帯。サイーデがバスチアンに寄贈した。
== エピソード ==
父親が著名な画家だったエンデは自身も絵を描いており、本の装丁にもこだわりを持っていた。17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケは「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と語っており、出版された本はその言葉通り表紙に二匹の蛇が描かれた布張りの本として装丁され、物語に入り込む入り口としての装置となった。読者は自身が手にした本が、作中でバスチアンが読んでいるものと同じものであると悟り、主人公と一体化していくのである<ref name=biblio1>[https://www.asahi.com/articles/DA3S11784563.html (今こそミヒャエル・エンデ)あかがね色の本、物語にも登場] - [[朝日新聞]] [[2015年]]6月1日。</ref>。
岩波書店発行の日本語版ハードカバーでも、本の中に登場する『はてしない物語』と同じく、ハードケースを外した中の書籍本体の装丁はあかがね色の布張りとなっており、二匹の蛇が互いの尾を咬んで楕円になった「アウリン」の文様があしらわれている。さらに、文字も現実世界の部分はあかがね色、「ファンタージエン」の部分は緑色と刷り分けられている。岩波書店は出版・装丁にあたり布を特注、そのため価格は税込みで3千円を超える<ref name=biblio1/>。岩波少年文庫として文庫化された際には、上下巻の2分冊となり、文字色は黒色の1色刷りで、「ファンタージエン」の部分は本文の上部に装飾を施す形で表現されている。
== 日本語訳版 ==
* 『はてしない物語』 [[上田真而子]]、[[佐藤真理子 (翻訳家)|佐藤真理子]]訳、[[岩波書店]]、1982年
* 『はてしない物語』上下2巻、上田真而子、佐藤真理子訳、岩波書店、[[岩波少年文庫]]、2000年
== 派生作品 ==
=== 映画 ===
{{main|ネバーエンディング・ストーリー}}
『ネバーエンディング・ストーリー』として映画化され、シリーズにもなった。しかし、シリーズ第1作のラストはエンデの意図に沿っておらず、彼はこれを嫌い、訴訟を起こした。
[[ネバーエンディング・ストーリー3|3作目]] は原作のストーリーとはほとんど関係がない。
=== テレビドラマ ===
{{節スタブ}}
[[2001年]]に[[カナダ]]・ドイツで制作され、日本で放送された海外ドラマ。
原題『Tales from the Neverending Story』
邦題『ネバーエンディング・ストーリー 遥かなる冒険』
全13話制作されたが、日本では6時間に渡る前後編形式の[[テレビ映画]]としてDVD化された。
==== 概要 ====
{{節スタブ}}
やや改変気味ではあるが、前半は原作に忠実にしようとしていた作品である。[[ゲームボーイ]]好きの少年バスチアンは本屋の老人に無理矢理本を薦められ、ネバーエンディングストーリーの物語を読み始める。本の中の主人公アトレイユは最初こそ真面目に冒険をし女王を救う任務を果たすのだが、ここからテコ入れが入り始める。
バスチアンとアトレイユの接点は繋がる事もなく恋愛にしか関心がない様子。しかし現実の世界に飛び出したアトレイユはスケボーでバスチアンの前に現れ、ここから物語が動き出す・・・かと思われたが打ち切りになってしまった。
==== 変更点 ====
{{節スタブ}}
バスチアン ゲーム好きな現代人に。恋愛やラップに関心がある等映画版パート3の性格に近い。
アトレイユ バスチアンの親友だった筈が、フライガールとの恋愛の方に関心が移っている普通の高校生風の青年に。
幼心の君とザイーデ 姉妹と言う設定に。出番が増えてお互い気さくに。
ファルコン 幸運を呼ぶアトレイユのパートナーだったが、今回は牢屋の中に隔離されている。またアトレイユもフライガールの戦闘機を愛用しているためファルコンに乗るのはラストのみである。
コレアンダー 映画版パート3からの設定流用でファンタージエンと現実世界の両方に住んでいる。
学友の存在 苛められっ子と言う設定は消え、学友達とのラブコメが後半の物語の骨格になる。
==== スタッフ ====
{{節スタブ}}
*監督 - [[アダム・ワイズマン]]、[[ジャイルズ・ウォーカー]]
*脚本 - [[レイラ・ベーセン]]、[[カリン・ハワード]]、[[デヴィット・プレストン]]
*製作 - [[スティーブン・へウィット]]
*撮影 - [[ダニエル・ヴィレニューブ]]
==== キャスト ====
{{節スタブ}}
*バスチアン・バックス - [[マーク・レンドール]](吹替 - [[津村まこと]])
*アトレーユ - [[テイラー・ハインズ]]([[浪川大輔]])
*幼ごころの君(女王)、月の子 - [[オードリー・ガーディナー]]([[高橋理恵子]])
*ザイーデ - [[ヴィクトリア・サンチェス]]([[本田貴子]])
*コレアンダー - [[ジョン・ダンヒル]]([[青野武]])
*マイケル・バックス - [[ノエル・バートン]]([[石破義人]])
*ローラ・バックス - [[ジェーン・ウィーラー]]([[岡本章子]])
*フライ・ガール - [[ステファニー・バクストン]]([[川上とも子]])
*グモルク、ブランク先生 - [[エドワード・ヤンキー]]([[中田和宏]])
*イタチ - [[サイモン・ビーコック]]([[水島裕 (声優)|水島裕]])
*ファロン - [[ブリタニー・ドリスデル]]([[笠井律子]])
*コナー - [[ジョニー・グリフィン]]([[岡野浩介]])
*エイプリル - [[エマ・キャンベル]]([[唐沢潤]])
==== サブタイトル ====
*第1話 「Heart of Stone」
*第2話 「The Nothing」
*第3話 「The Luckdragon」
*第4話 「Deleting Mr. Blank」
*第5話 「The Gift of the Name」
*第6話 「Home Sweet Home」
*第7話 「The Sceptre」
*第8話 「The Luck Stops Here」
*第9話 「Badge of Courage」
*第10話 「Deus Ex Machina」
*第11話 「Stairway to Heaven」
*第12話 「he Visitor」
*第13話 「The Resurrection」
=== シェアワールド ===
{{main|ファンタージエン}}
『はてしない物語』を[[シェアワールド]]化した小説群『ファンタージエン』がある。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はてしないものかたり}}
[[Category:1979年の小説]]
[[Category:ドイツの児童文学]]
[[Category:ドイツのファンタジー小説]]
[[Category:書物を題材とした小説]]
[[Category:異世界への転生・転移を題材とした作品]]
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5,266 | モモ (児童文学) | 『モモ』(原題Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte)は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学作品。1973年刊。1974年にドイツ児童文学賞を受賞した。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。
1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化された。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。
日本では、1987年に女優・歌手の小泉今日子が朝日新聞のインタビュー記事で本作の大ファンであることを公言し、話題になった。
日本テレビのドラマ『35歳の少女』では、主人公が『モモ』の中での言葉を引用するシーンがしばしば登場した。
このあらすじは、岩波少年文庫版(大島かおり訳)を元に作成している。
物語の前にイギリスの詩人ジェイン・テイラー(en:Jane Taylor (poet))が1806年に発表した『ザ・スター』が引用されている。エンデはこれを「アイルランドの旧い子どもの歌」とし、テイラーの名は記していない。岩波書店版(大島かおり訳)の詩そのものは武鹿悦子による有名な日本語訳詩『きらきら星』ではなく独自の訳である。
ストーリーには、忙しさの中で生きることの意味を忘れてしまった人々に対する警鐘が読み取れる。『モモ』という物語の中は、灰色の男たちによって時間が奪われたという設定のため、多くの書評はこの物語は余裕を忘れた現代人に注意を促すことが目的であると受け止めた。編集者の松岡正剛は、「エンデはあきらかに時間を『貨幣』と同義とみなしたのである。『時は金なり』の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせた」と評した。
「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせるという側面もある。このことについて、エンデ本人に確認を取ったのはドイツの経済学者、ヴェルナー・オンケンである。
哲学者のDavid Loyと文学教授のLinda Goodhewは、「20世紀後半の最も注目すべき小説の一つ」であり、1973年出版されたにもかかわらず、見事に現在の悪夢的な状況を予言していると高く評価している。一方、寓意や思想が強すぎるという意見もあり、松岡正剛は、出版当時に最初に読んだときは「時間泥棒というアイディアにはなるほど感心したが、全体に寓意が勝ちすぎていておもしろくなかった」と評した。またファンタジー作家の上橋菜穂子、荻原規子はエンデ作品が苦手であると述べており、上橋は『モモ』について、思想やイデオロギーを語るために物語が奉仕してしまっており、自分の好きな物語ではないと述べている。
岩波書店刊、大島かおり訳
1975年にドイツの作曲家マーク・ロタール(ドイツ語版)のためにエンデ自身がオペラの台本を執筆している。これを収録したものは同年KARUSSELLレーベルからLPレコードとして発売された。その他にもミュージカル化されており、児童劇団などで『モモと時間どろぼう』のタイトルでの上演例も少なくない。
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] | 『モモ』は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学作品。1973年刊。1974年にドイツ児童文学賞を受賞した。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。 1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化された。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。 日本では、1987年に女優・歌手の小泉今日子が朝日新聞のインタビュー記事で本作の大ファンであることを公言し、話題になった。 日本テレビのドラマ『35歳の少女』では、主人公が『モモ』の中での言葉を引用するシーンがしばしば登場した。 | {{基礎情報 書籍
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[[File:Momo Figuur Hannover.jpg|thumb|170px|[[ハノーファー]]、ミヒャエル・エンデ広場にあるモモの像。Ulrike Enders作。]]
『'''モモ'''』(原題''Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte'')は、[[ドイツ]]の作家[[ミヒャエル・エンデ]]による[[児童文学]]作品。[[1973年]]刊。[[1974年]]に[[ドイツ児童文学賞]]を受賞した。各国で翻訳されている。特に[[日本]]では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。
[[1986年]]に[[西ドイツ]]・[[イタリア]]制作により映画化された。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。
日本では、[[1987年]]に女優・歌手の[[小泉今日子]]が[[朝日新聞]]のインタビュー記事で本作の大ファンであることを公言し<ref>「異才面談 小泉今日子 『モモ』の心のように」『[[朝日新聞]]』1987年3月26日付夕刊、15頁。</ref>、話題になった<ref>「童心が問う『現代』 映画『モモ』全国公開」『[[朝日新聞]]』1988年7月4日付夕刊、12頁。</ref>。
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のドラマ『[[35歳の少女]]』では、主人公が『モモ』の中での言葉を引用するシーンがしばしば登場した<ref>{{Cite web|和書|title=「35歳の少女」作中で名作『モモ』が鳴らす警鐘とは?台詞から読み解く|url=https://www.ntv.co.jp/shojo35/articles/19656u96cqhcjvmd22ef.html|website=日本テレビ|accessdate=2021-01-28|language=ja|last=日本テレビ放送網株式会社}}</ref>。
== あらすじ ==
このあらすじは、岩波少年文庫版(大島かおり訳)を元に作成している。
; モモとその友だち
: 大きな都会の町はずれに、松林に隠れるように忘れ去られた円形劇場の廃墟がある。この廃墟の舞台下の小部屋に、モモという女の子が住み着く。彼女はつぎはぎだらけのスカートと男物のだぶだぶの上着を着ている。近くの人たちがたずねると、モモは施設から逃げ出してきて、ここが自分の家だと話す。みんなは部屋に手を加え、モモが暮らしていけるようにする。子どもたちは食べ物のおすそ分けをもってきてくれる。その晩はモモの引っ越し祝いパーティのようになる。こうして小さなモモと近所の人たちの友情が始まる。
: モモにはみんなの話を本当に聞いてあげることのできる才能がある。モモに話を聞いてもらうと、勇気が出たり、希望や自己肯定感が生まれたりする。左官屋のニコラと居酒屋のニノの大げんかも、モモの前で言い合っているうちに仲直りする。モモがいることにより、子どもたちの頭の中にすてきな遊びが浮かんでくるようになり、今までになく楽しく遊べるようになる。航海ごっこはオバケクラゲと闘い、さまよえる台風の目に突入し、モモザン民族の古い歌により鎮めるという大冒険となる。航海ごっこをしているときに夕立となったが、小さな子どもたちも雷や稲妻も忘れて遊んでいる。
: 道路掃除夫のベッポと観光ガイドのジジはモモの特別の友だちである。ベッポはじっくり考える人で、答えるまで長い時間がかかるため、自分の考えをモモだけに伝えることができる。ベッポは長い道路を受け持つときは、次の一歩、次の一掃きのことだけを考えると、楽しくなってきて、気が付くとぜんぶが終わっていると話す。一方、ジジは口達者であり、いつか有名になり、お金持ちになる夢がある。ジジは観光客に口から出まかせの物語を話して、帽子にお金を入れてもらう。彼の物語は、モモと知り合いになってから、とても素晴らしいものになる。
; 灰色の男たち
: 灰色の男たちはある計画を企てる。彼らは都会の人たちに「時間貯蓄銀行」の口座を開き、人間関係にとられる時間や一人のお客にかける時間を節約し、貯蓄に回すと高額の利子が付くと勧める。だまされた人々は、灰色の男たちのことを忘れ、自分の時間がどんどん短くなっていくことに疑問をもたなくなる。人々は「時間節約」に励み、その標語が町中にあふれる。「時間貯蓄家」はお金を稼ぐが、ふきげんで、くたびれて、怒りっぽくなり、町の北側には無機質で、同じ形の高層住宅が立ち並ぶようになる。
: モモは古い友だちがだんだん来なくなったような気がするとジジとベッポに話す。ベッポは町がすっかり変わってしまい、円形劇場に来る子どもたちが増えているのは、かくれ場所が欲しいだけなんだと話す。子どもたちも高価なおもちゃを持ってくることが多く、そのようなおもちゃでは、空想を働かせる余地がない。子どもたちは、だれもが親から見放されたと感じているようだ。一人の男の子は、両親から時間を節約しない人たちのところへは遊びに行ってはいけないと言われたと話し、他の子も同じようだ。
: モモは左官屋のニコラを訪ねる。夜遅くに戻って来たニコラは、時代はどんどん変わり、まるで悪魔のようなスピードで良心に反する仕事をしていると話す。居酒屋のニノはおかみさんに、昔からの大事なお客を追い出そうとしていると責められている。おかみさんは、思いやりのないやり方でしかやれないなら、そのうち出て行くと口にする。ニノはモモにおれだっていやだったんだ、いったいどうしたらいいんだと問いかける。翌々日、ニノとおかみさんがモモを訪ねる。ニノは年寄りのところを回り、あやまって来たと話す。モモは他の古い友だちを訪ね、みんなモモのところに行くと約束してくれる。
: こうしてモモは知らずに灰色の男たちの邪魔をするようになる。円形劇場に灰色の男が現れ、大きな話す人形やたくさんの服やすてきな品物を取り出しモモに与えようとする。灰色の男は人生の成功や時間貯蓄銀行について話すが、モモは相手の心が理解できない。男はモモの説得に失敗し、自分の話したことは忘れてくれと言い残す。モモはジジとベッポに灰色の男のことを話す。ジジの提案で、子どもたちはデモ行進して、灰色の男たちの正体をあばき、町中の人たちに円形劇場で説明集会をすると呼びかける。しかし、町の人はデモ行進に気付かず、一人も円形劇場に来ない。
: ベッポはゴミの山の近くで灰色の男たちの裁判を目撃する。有罪となった被告の葉巻が奪い取られると、男は消えてなくなる。同じ頃、モモはカメと出会い、甲羅に浮かび上がる文字に導かれ、町に向かう。円形劇場は灰色の車に取り囲まれ、本部からすべての職員にモモを見つけ出すよう指示が出る。モモたちは時間の境界線の白い地区に入る。追っ手は全速力で追いかけるが、急に前に進まなくなる。モモたちはゆっくり歩いているのに、とても早く動いている。曲がり角の先は「さかさま小路」となる。モモはカメに教えられて後ろ向きに歩き、「どこにもない家」に到着する。カメはマイスター・ホラの部屋に案内する。
: 時間貯蓄銀行では幹部が招集される。テーブルに着いた灰色の男たちは、一様に鉛色の書類カバンをもち、灰色の葉巻を吸っている。彼らはモモの対応を議論し、モモの友だちのベッポとジジをモモから引き離し、友だちを取り戻すことを条件にあの道のことを聞き出す悪だくみを進める。
: 大広間には何千種類もの時計があり、それぞれ時を刻んでいる。銀髪の老人が現れ、マイスター・ホラと名乗り、カメをカシオペイアと呼ぶ。モモはホラの用意したおいしい朝食をいただき、すっかり元気を取り戻す。ホラは、灰色の男たちは人間の時間を盗んで生きていること、自分は一人一人に時間を配分していること、人間は自分の時間をどうするか自分で決めなければならないことを話す。ホラは時間の生まれるところに案内する。黒い水の上でゆっくりと振り子が動いており、振り子が池の縁に近づくと、水面から光り輝く美しい「時間の花」が浮かんでくる。振り子が池の中央に戻ると花は散り、水中に消えていく。
; 時間の花
: 目が覚めるとモモは円形劇場に戻り、足元にはカシオペイアがいる。すでに、こちらでは1年の時間が経過している。その間に、灰色の男たちはジジを物語の語り手として、有名人に仕立て上げ、忙しい大金持ちにしてしまう。ベッポは頭がおかしいとされ精神病院に隔離される。灰色の男たちはモモを返す条件として、総額10万時間を貯蓄することを約束させる。ベッポは時間を節約するため、ただひたすら働くようになる。モモの友だちの子どもたちは、それぞれの地区ごとに作られた「子どもの家」に入れられ、次第に小さな時間貯蓄家になっていく。こうして、モモの友だちは誰もモモのところに来なくなる。
: モモはカメと一緒にニノの酒場に行く。しかし、そこは「ファストフード・レストラン ニノ」となっている。店の中は不機嫌な人でいっぱいである。モモがニノに話しかけると、行列の人々が早くしろと叫び出す。モモはなんとかジジとベッポと「子どもの家」ついて聞き出す。モモは高級住宅街にあるジジの家を訪ねる。ジジの心は病んでおり、それには灰色の男たちが関与していることがよく分かるが、どうしてよいかが分からない。数か月たってもモモは一人ぼっちのままであり、深い孤独を感じる。そんなとき、灰色の男が現れる。
: モモは灰色の男を避け、あてもなく町の中を歩き、疲れて三輪トラックの荷台で寝込んでしまう。夢の中でベッポやジジが苦しんでおり、子どもたちも泣いている。モモは危険にさらされている友だちを助けようと勇気が湧いてくる。モモが「あたしはここよ!」と叫ぶと、たくさんの灰色の車が集まって来る。男たちは友だちを救うため、マイスター・ホラのところに案内させようとする。モモがホラに会ってどうするのとたずねると、人間の時間をそっくりまとめて渡してもらうのだと口にする。モモは知っているのはカシオペイアだけだと言うと、灰色の男たちはカメ探しに奔走する。
: モモが何時間もその場に立ち尽くしていると、カシオペイアが現れ、ホラのところに案内する。しかし、彼らの会話は灰色の男たちに聞かれ、灰色の男たちの集団が音もなく後を付ける。白い地区に入ると、カメの歩みは一層遅くなる。今回は灰色の男たちもカメの後をゆっくり付けている。「さかさま小路」に入り、モモが後ろ向きになると、見渡す限り灰色の男たちが集まっている。しかし、追っ手は時間が逆流する「さかさま小路」に入ると消滅してしまう。灰色の男たちは白い地区を隙間なく取り囲み、葉巻を吸い続ける。
: ホラは、彼らは「時間の花」を冷凍して貯蔵庫に保管し、葉巻に加工して吸うことにより存在できることを説明する。ホラは人間の時間を取り戻すため、モモに危険な仕事を依頼し、モモに1時間分の「時間の花」を渡す。モモは大扉を開ける。時間がゆれ、部屋の中の無数の時計が停止する。時間が停止したため灰色の男たちは「どこにもない家」になだれ込んでくる。彼らは時計が止まっていることに気付き、あわてて時間補給庫に駆け付けようとする。モモたちが外に出ると、あらゆるものが止まっている。灰色の男たちは葉巻を奪い合いながら消えていく。
: モモたちは町の北の外れに建設現場を見つける。モモたちは左官屋のニコラが指さす土管の中に中を滑り落ち、薄明るい地下道に出る。会議用テーブルのある広間では、貯蔵された時間の節約のため、議長がコイントスで半数づつ灰色の男たちを消していき、最後には6人が残る。モモが「時間の花」で貯蔵庫の扉に触れると、扉は閉まり施錠される。モモとカシオペイアは灰色の男たちから逃げ回り、全員が消滅する。
: モモが貯蔵庫の扉を「時間の花」で触れると、扉は開く。凍り付いた無数の「時間の花」が棚に並んでおり、暖かくなるとモモの周りで渦巻いて飛び去って行く。カシオペイアの指示でモモはこの春の嵐とともに地上に出る。「時間の花」はそれぞれ人間の心の中に戻り、時間は再び動き出す。人間はだれしも自分の時間がたっぷりあると感じるようになる。モモはベッポに再会し、泣き笑いの状態である。子どもたちは道路の真ん中で遊び、人々は足を止めて親し気に言葉を交わす。円形劇場にモモとすべての友だちが集まり、お祝いとなる。
== 登場人物 ==
; モモ
: 本作品の主人公。施設から逃げ出し、廃墟となった円形劇場の舞台下の小部屋に住み着いた10歳くらいの女の子。みんなの話を本当に聞いてあげることのできる才能がある。
; 道路掃除夫のベッポ
: モモの特別な友だち。じっくり考える人で、答えるまで長い時間がかかる。仕事はとてもていねい。
; 観光案内のジジ
: モモの特別な友だち。口達者であり、夢は有名になり、金持ちになること。観光客に口から出まかせの物語を話して、帽子にお金を入れてもらう。
; 左官屋のニコラ
: モモの古い友だち。モモが円形競技場に住み着いたとき、石のかまどを作り、煙突を取り付けてあげる。
; 居酒屋のニノ
: モモの古い友だち。町はずれに小さな店を借りて居酒屋を営んでいる。
; マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ(通称マイスター・ホラ)
: 「どこにもない家」に住み、一人一人に定められた時間を配分している。灰色の男たちに追われるモモを保護する。
; カシオペイア
: カメであるが時間の流れの外におり、30分後までを予見できる。甲羅に文字を浮かび上がらせ、モモを「どこにもない家」に案内する。
; 灰色の男たち
: 時間どろぼう。人間から盗んだ「時間の花」を冷凍して貯蔵庫に保管し、葉巻に加工して吸うことにより存在できる。葉巻が無くなると抵抗する間もなく消えてしまう。
==題辞==
物語の前にイギリスの詩人[[ジェイン・テイラー]]([[:en:Jane Taylor (poet)]])が1806年に発表した『ザ・スター』が引用されている<ref>Jane Taylor, ''The Star''. 『モモ』原著ではドイツ語訳が引用されている。</ref>。エンデはこれを「アイルランドの旧い子どもの歌」とし、テイラーの名は記していない<ref>英訳ではテイラー作とし、原詩("''Twinkle Twinkle Little Star...''")を載せている。なお英訳は二種類あり、旧訳は書名が異なる(''The Grey Gentlemen'', Burke, 1975, ISBN 0222003677 )。</ref>。岩波書店版(大島かおり訳)の詩そのものは[[武鹿悦子]]による有名な日本語訳詩『[[きらきら星]]』ではなく独自の訳である。
== 解釈 ==
ストーリーには、忙しさの中で生きることの意味を忘れてしまった人々に対する警鐘が読み取れる。『モモ』という物語の中は、灰色の男たちによって時間が奪われたという設定のため、多くの[[書評]]はこの物語は余裕を忘れた現代人に注意を促すことが目的であると受け止めた。編集者の[[松岡正剛]]は、「エンデはあきらかに時間を『貨幣』と同義とみなしたのである。『[[時は金なり]]』の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせた」と評した<ref name=seigo>[http://1000ya.isis.ne.jp/1377.html 1377夜『モモ』ミヒャエル・エンデ|松岡正剛の千夜千冊]</ref>。
「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせるという側面もある。このことについて、エンデ本人に確認を取ったのはドイツの経済学者、ヴェルナー・オンケンである<ref>[[河邑厚徳]]・グループ現代『エンデの遺言:根源からお金を問うこと』[[NHK出版]]、2000年、ISBN 4-14-080496-3 、45、46頁。</ref>。
==評価==
哲学者の[[:en:David Loy|David Loy]]と文学教授のLinda Goodhewは、「20世紀後半の最も注目すべき小説の一つ」であり、1973年出版されたにもかかわらず、見事に現在の悪夢的な状況を予言していると高く評価している<ref>[http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-MISC/101783.htm Momo, Dogen. and the Commodification of Time By Linda Goodhew and David Loy]</ref>。一方、寓意や思想が強すぎるという意見もあり、松岡正剛は、出版当時に最初に読んだときは「時間泥棒というアイディアにはなるほど感心したが、全体に寓意が勝ちすぎていておもしろくなかった」と評した<ref name=seigo/>。またファンタジー作家の[[上橋菜穂子]]、[[荻原規子]]はエンデ作品が苦手であると述べており、上橋は『モモ』について、思想やイデオロギーを語るために物語が奉仕してしまっており、自分の好きな物語ではないと述べている<ref>荻原規子 著、徳間文庫編集部 編集 『〈勾玉〉の世界 荻原規子読本』徳間書店、2010年 「荻原規子×上橋菜穂子『もう一つの世界』のにおいを求めて」(初出:『ユリイカ』2007年6月号)</ref>。
== 日本語版 ==
[[岩波書店]]刊、[[大島かおり]]訳
*『モモ』(通常版) ISBN 4-00-110687-6 C8097
*『モモ』(愛蔵版) ISBN 4-00-115567-2 C8097
*『モモ』([[岩波少年文庫]]127)ISBN 4-00-1141272
*『[[エンデ全集|ミヒャエル・エンデ全集]]3』ISBN 4-00-092043-X C0397
== 映像化 ==
;[[モモ (1986年の映画)|モモ]]
:([[1986年]] [[西ドイツ]]・[[イタリア]]) 監督:[[ヨハネス・シャーフ]] 主演:[[ラドスト・ボーケル]]
:国内発売 レーザーディスク ASAHI VIDEO LIBRARY CLV CX STEREO 105分 G75F5068 英語版 日本語字幕スーパー付き(税込¥7725 税抜¥7500)1986 RIALTO TOBIS FILM,SACIS.
: 文部省特選(少年・青年・成人・家族)
== 舞台化 ==
1975年にドイツの作曲家{{仮リンク|マーク・ロタール|de|Mark Lothar}}のためにエンデ自身がオペラの台本を執筆している。これを収録したものは同年KARUSSELLレーベルからLPレコードとして発売された。その他にもミュージカル化されており、児童劇団などで『モモと時間どろぼう』のタイトルでの上演例も少なくない。
;モモと時間泥棒
:[[劇団四季]]のファミリーミュージカル。1978年上演。
:
;モモ
:オペラ。[[一柳慧]]作曲。日本語。1995年初演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.schottjapan.com/composer/ichiyanagi/works/stage.html#Momo|title=一柳慧 作品情報〈上演作品〉|publisher=ショット・ミュージック株式会社|accessdate=2022-04-29}}</ref>。
:
;[[モモと時間どろぼう (アザロワのオペラ)|''Momo og tidstyvene'']]
:オペラ。[[スビトラーナ・アザロワ]]作曲。デンマーク語。2017年初演。
== 造形作品 ==
[[神奈川県]][[三浦市]]のホテル「マホロバマインズ三浦」<ref>京急三浦海岸駅下車、徒歩7分</ref>の本館入り口の脇に、[[藤原吉志子]]<ref>1942年 - 2006年、童話の動物を題材に物語性のある作品が多い。</ref>の「モモと亀のカシオペイア」(1992年、鋳造)がある。
== 脚注 ==
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5,269 | 孫悟空 | 孫 悟空(そん ごくう、スェン・ウーコン、繁体字: 孫悟空; 簡体字: 孙悟空; 拼音: Sūn Wùkōng; ウェード式: Sun1 Wu4- k'ung1; 粤拼: Syun1 ng6hung1)は、中国の四大奇書小説『西遊記』の主要登場キャラクターの一人である上仙。今も崇拝される道教の神でもあり、香港をはじめ、台湾や東南アジアでは一般に斉天大聖()の号で呼ばれ、信仰されている。彼は中国の民間信仰のなかで最も活躍する英雄の一人である。別名は孫行者。
元代の『西遊記』(最古とされる)のあらすじを収録した朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)には孫吾空として登場する。また、齊天大聖の登場する主な雑劇(説話)は以下のとおり。これら先行する各種作品をうけて明代に100回本としてまとめられ集大成したものが分量が多すぎたため、清代には整理簡略された簡本のうち康熙33年(1694年)刊行の『西遊真詮』が比較的よくみられる『西遊記』である。
『西遊記』の雑劇などの書作品での通称は猴行者、あるいは通天大聖などさまざまな名前で呼ばれているが、孫行者の名に落ち着いた。日本でよく知られた孫悟空は諱であり避諱により当時の中国では一般には使用されない。
以下、明、清の刊本の『西遊記』に基づく概略を記す。
昔々、東勝身洲(須弥山の周囲にある閻浮提の一つ)にある傲来国()付近の海にいる花果山の頂に一塊の仙石があった。天地開闢からずっと天地や日月の精華を感じ続けた故、その中に仙胞が形成した。この石が割れて卵を産み、卵は風にさらされて一匹の石猿が孵った。この石猿は、島に住む猿たちが、誰かが谷川の水源を見つけたら王様にするというので、勇を振るって滝壺に飛び込み、水簾洞という住み処を見つけてきたので、約束どおり猿たちに崇められ美猴王()と名乗ることになった。
数百年経った、ある日、限りある命に儚さを感じたことから不老不死の術を求めて旅に出て、十年以上かけて西牛賀洲に住む須菩提祖師()という仙人を探し出して弟子入りした。祖師は、姓を持たぬという美猴王に孫という姓を与え、孫悟空の法名を授ける。7年後、兄弟子を差し置いて、念願の長寿の妙道を密かに教わり、さらに3年後に地煞数()という七十二般の変化術を自然に悉く体得してしまった。さらに觔斗雲()の法も教わって自在に空の雲に乗れるようになる。ところが、他の弟子に術を見せびらかしたことから、祖師の怒りを買い故郷に帰るように命じられた。
花果山に帰郷すると、混世魔王という化け物が水簾洞を荒らしていたので身外身の術で退治したが、これをきっかけに傲来国に出かけて大量の武器を強奪して配下の猿たちに配って守りを固めさせ、配下の猿を軍隊にまとめ上げた。そうすると自分の武器も手に入れたくなり、海中の東海竜王敖廣の宮殿である龍宮にいき、悟空の意によって自在に伸縮する如意金箍棒を無理矢理譲ってもらう。さらに長く居すわって残りの三海の竜王たちからも武具を要求し、金の冠、金の鎧、歩雲履の防具一式を持ってこさせた。 牛魔王を含む6大魔王の妖仙と義兄弟となり、宴席で酔いつぶれていると、幽冥界から使いが2人きて魂を連れ去り、「寿命が尽きた」という。しかしそんなはずはないと抗弁して暴れ、閻魔帳を持ってこさせると、なるほど孫悟空の寿命が342歳とあるので、自分の名を墨で塗りつぶし、ついでに猿の名前もすべて消した。もうお前らの厄介にはならんと冥界十王を殴って帰ってきたところで、目が覚めたが、以後、悟空以外の山猿にも不老のものがふえたという。
こうして死籍を消すに至ったことから、天界からも危険視される存在になった。天上界の主宰者、天帝は石猿を討伐しようとするが、太白の意見で思い直し、官吏として天界に召すことで懐柔することにした。悟空は、天界の使者に喜び、弼馬温の官職に任命されたが、半月後にその身分が低いと知ってへそを曲げ、不意に脱走してしまう。地上ではすでに十数年経っていたが、帰還した美猴王を神としてかしずく猿たちに囲まれて気分がいいところに、独角鬼王という妖怪が訪ねてきて臣下となり、さらに褒めそやして煽てたので、有頂天になった悟空は斉天大聖と自ら号するようになった。これを聞いた天帝は身の程知らずの石猿だと怒り、托塔李天王を大将にする討伐軍に派遣したが、先鋒の巨霊神と哪吒太子()が敗れて歯が立たないと、悟空の神通力に恐れをなして退却した。
力で抑えるのが難しいとわかると、再び太白の意見で懐柔策をとることになり、二度目は悟空の希望通りの待遇とすることにして、新官職「斉天大聖」が創設され、正式に任命された。これは職務のない名目だけの官職であった。これでしばらくは悟空も満足していたが、天界では暇をもてあましていたので、新たに蟠桃園()の管理を任されることになる。ところが、不老は悟空の最も好むところであり、栽培されている仙桃が熟れるのを待って食べ尽くした。そこに美しい仙女たちが桃を摘みに来て宴会が催されるというので、悟空は仙女たちが歓談する宴席に忍び込んで酒番を眠らせ、仙酒仙肴を食べ荒らし、さらに酔ったはずみで兜率天宮に迷い込んだので、ついでに太上老君の金丹の全部を頬張って、再び天界を逃げ出した。
悟空が戻ると地上では百年経過していた。天帝は烈火のごとく怒り、天兵10万を派遣して包囲し、諸将を総動員して攻めかからせた。悟空の側は、七十二洞の妖怪たちと独角鬼王は生け捕られたが、猿たちはすべて逃げ延び、悟空は哪吒太子と四大天王、恵岸を打ち負かした。ところが恵岸がその師である観音菩薩に苦戦を報告したところ、菩薩は天帝に顕聖二郎真君を推薦する。二郎真君は梅山の六兄弟と共に悟空を遂に追い詰め、太上老君の投げた金剛琢で悟空が脳天を打たれてふらふらのところを捕まえた。
天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空の前では刀も斧も歯が立たず、火神の炎や雷神の雷すら効果が僅かもなかった。太上老君の解釈のよると、これは仙丹が三昧真火により悟空と一体化したので傷付けられない体となっていると言う。最終手段として太上老君の秘法八卦炉の前に差し出し押し込めて六丁神火で仙丹を分離させるとするも、火の回らない巽の隅に退避して無事を得る(代わりにいぶされて目が「火眼金睛」となった、つまり炎の煙に弱い眼病。その後あらゆる嵐の影響を無効化できる定風丹を食べたが、炎が巻き上げた煙に効かないかどうかは不明)。もう焼き尽くされたかと炉を開けると、勢い八卦炉から飛び出し、大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の釈迦如来に助けを求めることになる。如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に五百年間封印してしまった。
五百年後、観世音菩薩の救済によって三蔵法師の弟子となって功徳を積むことを許され、天竺までの取経の旅を助けることになる。三蔵法師からはおもに孫行者()と呼ばれている。弟子になってからも反抗的な態度は相変わらずで、納得できない時は相手が神々や如来、菩薩だろうと平気で文句は言うし反抗的態度に出る。乱暴な気質も相変わらずで、相手が人間であっても邪魔なものは力ずくで排除ないし従わせようと考えることがしばしばであり、それが原因で三蔵の怒りを買い、確執の原因となることが多い。しかし仁義や礼儀に精通しており、その他で無礼を働くことはない。初め三蔵法師に反発して脱走も試み、その後もいわれのない罪で破門されたりしているが、観世音菩薩や釈迦如来の導きもあり、結局はいつも三蔵法師の元に戻ってくる。旅では失敗を繰り返して学習し成長しながら、次第に行いが改まっていくが、不機嫌さや不満を露にすることが多い。三蔵との関係は師匠と弟子というよりも、無知無力な人間を庇う守護者のような損な役回りで、人使いの粗い三蔵には困らされることが多い。取経の旅の間、白骨夫人や霊感大王や、万聖竜王など多くの魔物や悪霊と戦いを繰り広げながら退治していき、多勢に及ぶ魔を降し遂に取経の旅に成功すると、三蔵法師を守り固め天竺から多くの経典を持ち返ったその抜群の功績を認められ、仏となった。
なお、ここで書いたとおり孫悟空は本篇や漢詩中で、各種の名前や肩書きで呼ばれている。ここに書いたほかにも、大聖翁、猴仔公、心猿、混元一気上方太乙金仙美猴王斉天大聖など、様々な名称で呼ばれている。
中国西部の陝西省やチベットなどに生息するキンシコウを研究する日本モンキーセンター世界サル類動物園長の小寺重孝が、NHKの動物の生態を紹介するテレビ番組『ウオッチング』で、「美猴王」を名乗った孫悟空のモデルにふさわしい美しいサルであり、もしかしたらこれがモデルなのかもしれないと紹介した。後に『アサヒグラフ』1985年3月29日号にて、小寺重孝本人も勘違いと認めているが世間に広まったためひっこみがつかなくなっているという旨の談話が掲載されている。『西遊記』そのものを研究している中国文学研究者は、作中描写から判断するとマカク属のアカゲザルである可能性が高いとする説を提唱しており、例えば同属のニホンザルと異なり水泳を好むアカゲザルの生態などが巧みに『西遊記』の中に描写されていることなどを指摘している。
また、中国起源説(岳亭丘山、魯迅など)は、中国神話に登場する水神「無支祁(巫支祁、無支奇)」に淵源を求める。
禹による無支祁退治の記録は『太平広記』に収められた説話(巻467「李湯」)に登場しており、唐の時代に楚州の知事であった李湯(りとう)が水中から引きあげた巨大な猿の妖怪の話を補うかたちで示されている。それによると禹による無支祁退治の記録は『古岳瀆経』というぼろぼろの古文書にあったものとされており、これが示されることで李湯の話(『古岳瀆経』の見つかる話は李湯の話から48年後の元和8年であるとされる)に登場した正体不明の大猿が無支祁であったのであろう、ということになっている。宋の時代からよく流布されるようになり戯曲などへの利用によって人々の知るところとなった。
猿のすがたや能力の高さ及び山の下に封じられること、水の属性との縁のある点から、『西遊記』に登場する孫悟空の原型のひとつになっているのではないかという考察が古くから存在している。石田英一郎は、猿と水の関係性からこれを説いているほか、無支祁が大索でつなぎとめられて封じられたとされていること自体も水に関する伝説の中で関連性の高い要素であると考察している。
孫悟空と無支祁を結びつけて考えるような点から、『西遊記』を素材とした雑劇には孫悟空の姉妹として、無枝祁聖母・亀山聖母という登場人物が設定されていたりもした。
これとはまた別に、インドの有名な叙事詩『ラーマーヤナ』の猿の神として登場するハヌマーンも黄金の肌と真紅の顔面そして長い尾を持つ姿として描かれているところから、ハヌマーンが孫悟空のモデルとする説も唱えられている。インドのヒンドゥー教寺院ではハヌマンラングールがハヌマーン神の使いとして手厚く扱われ、参詣者から餌などを与えられて闊歩している。ハヌマーンもまた孫悟空と同様に、超常的な神通力を使用し、空を飛んだり、体の大きさを変えたりした。また、場面によって猿軍団を率いる、山を持ち上げるなどの行為を行ったとされる。『ラーマーヤナ』の物語中でヴィシュヌの化身とされるラーマを助けて様々な局面で活躍する猿神の姿は、『西遊記』において猿妖である孫悟空が三蔵法師を護衛して活躍する姿と相似ている部分も多々見受けられ、『西遊記』の物語形成過程に『ラーマーヤナ』が少なからず影響を与えたことも考えられる。
また、中華人民共和国の安西地方に存在する楡林窟や東千仏洞などで発見された唐僧取経図には、玄奘三蔵のインドへの旅の様子が描かれているとされ、その中に出てくる案内人が孫悟空などの原型となっているのではないかとも言われている。
名の「悟空」については、唐代に実在し、インドまで赴いた僧侶・悟空(731年 - ?)の名をとったものではないかとする説がある。
泉州開元寺の仁壽塔(西塔、嘉熙元年(1237年)完成)浮彫には梁武帝、「唐三藏」、東海火龍太子、猴行者の4種あり、『西遊記』の孫悟空となる前の姿がかいまみえる。 | [
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"text": "天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空の前では刀も斧も歯が立たず、火神の炎や雷神の雷すら効果が僅かもなかった。太上老君の解釈のよると、これは仙丹が三昧真火により悟空と一体化したので傷付けられない体となっていると言う。最終手段として太上老君の秘法八卦炉の前に差し出し押し込めて六丁神火で仙丹を分離させるとするも、火の回らない巽の隅に退避して無事を得る(代わりにいぶされて目が「火眼金睛」となった、つまり炎の煙に弱い眼病。その後あらゆる嵐の影響を無効化できる定風丹を食べたが、炎が巻き上げた煙に効かないかどうかは不明)。もう焼き尽くされたかと炉を開けると、勢い八卦炉から飛び出し、大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の釈迦如来に助けを求めることになる。如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に五百年間封印してしまった。",
"title": "概要"
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"text": "五百年後、観世音菩薩の救済によって三蔵法師の弟子となって功徳を積むことを許され、天竺までの取経の旅を助けることになる。三蔵法師からはおもに孫行者()と呼ばれている。弟子になってからも反抗的な態度は相変わらずで、納得できない時は相手が神々や如来、菩薩だろうと平気で文句は言うし反抗的態度に出る。乱暴な気質も相変わらずで、相手が人間であっても邪魔なものは力ずくで排除ないし従わせようと考えることがしばしばであり、それが原因で三蔵の怒りを買い、確執の原因となることが多い。しかし仁義や礼儀に精通しており、その他で無礼を働くことはない。初め三蔵法師に反発して脱走も試み、その後もいわれのない罪で破門されたりしているが、観世音菩薩や釈迦如来の導きもあり、結局はいつも三蔵法師の元に戻ってくる。旅では失敗を繰り返して学習し成長しながら、次第に行いが改まっていくが、不機嫌さや不満を露にすることが多い。三蔵との関係は師匠と弟子というよりも、無知無力な人間を庇う守護者のような損な役回りで、人使いの粗い三蔵には困らされることが多い。取経の旅の間、白骨夫人や霊感大王や、万聖竜王など多くの魔物や悪霊と戦いを繰り広げながら退治していき、多勢に及ぶ魔を降し遂に取経の旅に成功すると、三蔵法師を守り固め天竺から多くの経典を持ち返ったその抜群の功績を認められ、仏となった。",
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"text": "なお、ここで書いたとおり孫悟空は本篇や漢詩中で、各種の名前や肩書きで呼ばれている。ここに書いたほかにも、大聖翁、猴仔公、心猿、混元一気上方太乙金仙美猴王斉天大聖など、様々な名称で呼ばれている。",
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"text": "中国西部の陝西省やチベットなどに生息するキンシコウを研究する日本モンキーセンター世界サル類動物園長の小寺重孝が、NHKの動物の生態を紹介するテレビ番組『ウオッチング』で、「美猴王」を名乗った孫悟空のモデルにふさわしい美しいサルであり、もしかしたらこれがモデルなのかもしれないと紹介した。後に『アサヒグラフ』1985年3月29日号にて、小寺重孝本人も勘違いと認めているが世間に広まったためひっこみがつかなくなっているという旨の談話が掲載されている。『西遊記』そのものを研究している中国文学研究者は、作中描写から判断するとマカク属のアカゲザルである可能性が高いとする説を提唱しており、例えば同属のニホンザルと異なり水泳を好むアカゲザルの生態などが巧みに『西遊記』の中に描写されていることなどを指摘している。",
"title": "孫悟空のモデル"
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"text": "また、中国起源説(岳亭丘山、魯迅など)は、中国神話に登場する水神「無支祁(巫支祁、無支奇)」に淵源を求める。",
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"text": "禹による無支祁退治の記録は『太平広記』に収められた説話(巻467「李湯」)に登場しており、唐の時代に楚州の知事であった李湯(りとう)が水中から引きあげた巨大な猿の妖怪の話を補うかたちで示されている。それによると禹による無支祁退治の記録は『古岳瀆経』というぼろぼろの古文書にあったものとされており、これが示されることで李湯の話(『古岳瀆経』の見つかる話は李湯の話から48年後の元和8年であるとされる)に登場した正体不明の大猿が無支祁であったのであろう、ということになっている。宋の時代からよく流布されるようになり戯曲などへの利用によって人々の知るところとなった。",
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"text": "猿のすがたや能力の高さ及び山の下に封じられること、水の属性との縁のある点から、『西遊記』に登場する孫悟空の原型のひとつになっているのではないかという考察が古くから存在している。石田英一郎は、猿と水の関係性からこれを説いているほか、無支祁が大索でつなぎとめられて封じられたとされていること自体も水に関する伝説の中で関連性の高い要素であると考察している。",
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"text": "孫悟空と無支祁を結びつけて考えるような点から、『西遊記』を素材とした雑劇には孫悟空の姉妹として、無枝祁聖母・亀山聖母という登場人物が設定されていたりもした。",
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"text": "これとはまた別に、インドの有名な叙事詩『ラーマーヤナ』の猿の神として登場するハヌマーンも黄金の肌と真紅の顔面そして長い尾を持つ姿として描かれているところから、ハヌマーンが孫悟空のモデルとする説も唱えられている。インドのヒンドゥー教寺院ではハヌマンラングールがハヌマーン神の使いとして手厚く扱われ、参詣者から餌などを与えられて闊歩している。ハヌマーンもまた孫悟空と同様に、超常的な神通力を使用し、空を飛んだり、体の大きさを変えたりした。また、場面によって猿軍団を率いる、山を持ち上げるなどの行為を行ったとされる。『ラーマーヤナ』の物語中でヴィシュヌの化身とされるラーマを助けて様々な局面で活躍する猿神の姿は、『西遊記』において猿妖である孫悟空が三蔵法師を護衛して活躍する姿と相似ている部分も多々見受けられ、『西遊記』の物語形成過程に『ラーマーヤナ』が少なからず影響を与えたことも考えられる。",
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"text": "また、中華人民共和国の安西地方に存在する楡林窟や東千仏洞などで発見された唐僧取経図には、玄奘三蔵のインドへの旅の様子が描かれているとされ、その中に出てくる案内人が孫悟空などの原型となっているのではないかとも言われている。",
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"text": "名の「悟空」については、唐代に実在し、インドまで赴いた僧侶・悟空(731年 - ?)の名をとったものではないかとする説がある。",
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"text": "泉州開元寺の仁壽塔(西塔、嘉熙元年(1237年)完成)浮彫には梁武帝、「唐三藏」、東海火龍太子、猴行者の4種あり、『西遊記』の孫悟空となる前の姿がかいまみえる。",
"title": "孫悟空のモデル"
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] | 孫 悟空は、中国の四大奇書小説『西遊記』の主要登場キャラクターの一人である上仙。今も崇拝される道教の神でもあり、香港をはじめ、台湾や東南アジアでは一般に斉天大聖の号で呼ばれ、信仰されている。彼は中国の民間信仰のなかで最も活躍する英雄の一人である。別名は孫行者。 元代の『西遊記』(最古とされる)のあらすじを収録した朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)には孫吾空として登場する。また、齊天大聖の登場する主な雑劇(説話)は以下のとおり。これら先行する各種作品をうけて明代に100回本としてまとめられ集大成したものが分量が多すぎたため、清代には整理簡略された簡本のうち康熙33年(1694年)刊行の『西遊真詮』が比較的よくみられる『西遊記』である。 西遊雑劇(戯曲)
斉天大聖(戯曲)
八仙過海 | {{Otheruses}}
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{{中華圏の事物
| タイトル = 孫悟空
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| 簡体字 = 孙悟空
| 繁体字 = 孫悟空
| ピン音 = Sūn Wùkōng
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| 広東語ピン音 = Syun¹ ng⁶hung¹
| 広東語 = Syun¹ Ng⁶hung¹
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| 台湾語 = Sun Ngō͘-khong
| カタカナ = スェン・ウーコン
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[[File:Xiyou.PNG|thumb|西遊原旨の挿絵より。]]
[[File:Sun Wukong and Jade Rabbit.jpg|thumb|『玉兎』([[月岡芳年]]『月百姿』)孫悟空と月の妖精。]]
[[File:Sun Wukong at Beijing opera - Journey to the West.jpg|thumb|[[京劇]]『西遊記』の孫悟空。]]
'''孫 悟空'''(そん ごくう、スェン・ウーコン、{{Lang-zh | t=孫悟空| s=孙悟空| hp=Sūn Wùkōng| w=Sun¹ Wu⁴- k'ung¹|j =Syun¹ ng⁶hung¹| first=t}})は、中国の[[四大奇書]]小説『[[西遊記]]』の主要登場[[キャラクター]]{{efn2|大鬧天宮の話などでは主人公であり、京劇などでは最も重要な役とされる。}}の一人である[[仙人|上仙]]。今も崇拝される[[道教]]の神でもあり、香港をはじめ、台湾や東南アジアでは一般に{{読み仮名|'''[[斉天大聖]]'''|せいてんたいせい}}の号で呼ばれ、信仰されている<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=http://tw.myblog.yahoo.com/jw!d0GiVJ6BBAAQKGZHarobbSTMY6Cp9Q--/archive?l=f&id=24 |title=-台南郎-@部落格 |website=Yahoo!奇摩部落格 |accessdate=2009-07-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060511055436/http://tw.myblog.yahoo.com/jw!d0GiVJ6BBAAQKGZHarobbSTMY6Cp9Q--/archive?l=f&id=24 |archivedate=2006-05-11 |language=zh-Hant-TW}}</ref>。彼は中国の民間信仰のなかで最も活躍する英雄の一人である。別名は'''孫行者'''。
元代の『西遊記』(最古とされる)のあらすじを収録した朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)には'''孫吾空'''として登場する。また、齊天大聖の登場する主な[[雑劇]](説話)は以下のとおり。これら先行する各種作品をうけて[[明]]代に100回本としてまとめられ集大成したもの{{efn2|100回本の作者として、中国では[[魯迅]]による呉承恩説があるが、日本の研究者(太田辰夫や[[中野美代子]]ら)は根拠に乏しいとして否定的である。中野は100回本を成立させた「作者」が複数存在する可能性も指摘している。}}が分量が多すぎたため、[[清]]代には整理簡略された簡本のうち[[康熙]]33年([[1694年]])刊行の『西遊真詮』が比較的よくみられる『西遊記』である。
* 西遊雑劇(戯曲)
* 斉天大聖(戯曲)
* 八仙過海
== 概要 ==
『西遊記』の雑劇などの書作品での通称は'''猴行者'''、あるいは'''通天大聖'''などさまざまな名前で呼ばれているが、'''孫行者'''の名に落ち着いた。日本でよく知られた'''孫悟空'''は[[諱]]であり[[避諱]]により当時の中国では一般には使用されない。
以下、明、清の刊本の『西遊記』に基づく概略を記す。
=== 生い立ち ===
昔々、東勝身洲([[須弥山]]の周囲にある[[閻浮提]]の一つ){{efn2|name="世界観"|『西遊記』における世界観では、世界は「{{読み仮名|'''東勝身洲'''|とうしょうしんしゅう}}」「{{読み仮名|'''西牛賀洲'''|せいごけしゅう}}」「{{読み仮名|'''南贍部洲'''|なんせんぶしゅう}}」「{{読み仮名|'''北倶盧洲'''|ほっくるしゅう}}」の四大陸に分かれているとされている。なお、これは仏教の[[四天王]]の統治する世界である。孫悟空の出身地・花果山は東勝身洲の近海に、中国(作中では[[唐]])は南贍部洲にあるとされている。また、[[三蔵]]一行の目的地である[[天竺]]は西牛賀州にあるとされており、中国からすると文字通り「西方浄土」ということになる。}}にある{{読み仮名|傲来国|ごうらいこく}}付近の海にいる花果山{{efn2|十洲の祖脈、三島の来龍だと言われ、天地開闢から形成した美しい仙山。}}の頂に一塊の仙石があった。天地開闢からずっと天地や日月の精華を感じ続けた故、その中に仙胞が形成した。この石が割れて卵を産み、卵は風にさらされて一匹の石猿が孵った{{efn2|孫悟空が生まれたのが、岩から生まれた卵であったことは有名。誕生まもなくその目から金色の光がほとばしって天界まで達したので、天帝を驚かせた。}}。この石猿は、島に住む猿たちが、誰かが谷川の水源を見つけたら王様にするというので、勇を振るって滝壺に飛び込み、水簾洞という住み処を見つけてきたので、約束どおり猿たちに崇められ{{読み仮名|'''美猴王'''|びこうおう}}と名乗ることになった。
数百年経った、ある日、限りある命に儚さを感じたことから[[不老不死]]の術を求めて旅に出て、十年以上かけて西牛賀洲{{efn2|name="世界観"}}に住む{{読み仮名|[[須菩提]]祖師|すぼだいそし}}という[[仙人]]を探し出して弟子入りした。祖師は、姓を持たぬという美猴王に孫という姓を与え、'''孫悟空'''の法名を授ける。7年後、兄弟子を差し置いて、念願の長寿の妙道を密かに教わり、さらに3年後に{{読み仮名|地煞数|ちさつすう}}という'''七十二般の[[変化]]術'''{{efn2|72とは地煞(ちさつ)の数で無尽の変化を意味する。八戒は悟空の頭を切られても芽生える術を解釈するために72の変化は72の頭だと言っていたが、猪八戒も36の変化をできるのに頭を再生することができないから見れば、信憑性低いセリフです。}}を自然に悉く体得してしまった。さらに{{読み仮名|'''[[觔斗雲]]'''|きんとうん}}の法も教わって自在に空の雲に乗れるようになる{{efn2|他には分身する術など。身外身の術という、にこ毛を噛み砕いて吹いた物を多数の猿に変化させて使役する術はよく使われる。}}。ところが、他の弟子に術{{efn2|[[仙術]]はすべて秘伝の技であり、術を見せれば見た者は自分も習いたくなってきっと邪心を起こすので、みだりに見せたりしてはならなかった。}}を見せびらかしたことから、祖師の怒りを買い故郷に帰るように命じられた{{efn2|祖師は、悟空がきっと禍を引き起こすだろうと予測し、決して誰から術を教わったか口外するなときつく言い渡した。}}。
花果山に帰郷すると、[[混世魔王]]という化け物が水簾洞を荒らしていたので身外身の術で退治したが、これをきっかけに傲来国に出かけて大量の武器を強奪して配下の猿たちに配って守りを固めさせ、配下の猿を軍隊にまとめ上げた。そうすると自分の武器も手に入れたくなり、海中の[[四海竜王|東海竜王]]敖廣の宮殿である[[龍宮]]にいき、悟空の意によって自在に伸縮する[[如意金箍棒]]{{efn2|これは重さ一万三千五百[[斤]]の「天河鎮底神珍鉄」という名で、両端に金のたががはまった黒い棒で、伸縮自在、すなわちまたの名を'''[[如意金箍棒|如意棒]]'''である。}}を無理矢理譲ってもらう。さらに長く居すわって残りの[[四海竜王|三海の竜王]]たちからも武具を要求し、金の冠、金の鎧、歩雲履の防具一式{{efn2|南海の敖欽は鳳翅飾りの紫金冠を、西海の敖閏は黄金の鎖編みの鎧を、北海の敖順は{{読み仮名|藕糸|はすいと}}で編んだ歩雲履を持ってきた。}}を持ってこさせた。
[[牛魔王]]を含む6大魔王{{efn2|残りは、{{読み仮名|蛟魔王|こうまおう}}、{{読み仮名|鵬魔王|ほうまおう}}、{{読み仮名|獅駝王|しだおう}}、{{読み仮名|獼猴王|びこうおう}}、{{読み仮名|𤟹狨王|ぐしゅうおう}}(𤟹は犭偏に禺)。を加えた7兄弟は、七大聖と呼ばれ、牛魔王が長兄。詳しくは[[斉天大聖]]で説明。}}の妖仙と義兄弟となり、宴席で酔いつぶれていると、[[天国|幽冥界]]から使いが2人きて魂を連れ去り、「寿命が尽きた」という。しかしそんなはずはないと抗弁して暴れ、[[鬼籍|閻魔帳]]を持ってこさせると、なるほど孫悟空の寿命が342歳とあるので、自分の名を墨で塗りつぶし、ついでに猿の名前もすべて消した。もうお前らの厄介にはならんと[[十王|冥界十王]]{{efn2|冥途の十人の王のことで、十殿冥王ともいう。秦広王、楚江王、宋帝王、仵官王、閻羅王、平等王、泰山王、都市王、卞城王、転輪王の十人。}}を殴って帰ってきたところで、目が覚めたが、以後、悟空以外の山猿にも不老のものがふえたという。
=== {{読み仮名|大鬧天宮|だいどうてんぐう}} ===
こうして死籍を消すに至ったことから、[[天|天界]]からも危険視される存在になった。天上界の主宰者、'''[[天帝]]'''は石猿を討伐しようとするが、[[太白]]の意見で思い直し、官吏として天界に召すことで懐柔することにした{{efn2|太白は穏健派で、外交官の神としても知られる。}}。悟空は、天界の使者に喜び、'''弼馬温'''{{efn2|'''弼馬温'''は中国語で「ピーマーウェン」と読み、日本語音は「ひつぱおん」。職務は天界の[[厩舎]]の管理人で、馬の飼育係という賤職であったので、のちのち悟空を罵倒する言葉としても使われる。なお、猿を厩の管理人とするとされたのは、弼馬温と同音の避馬瘟という[[サル]]はウマを守るものとの伝承がインドから中国に伝来したことによる<ref>{{Cite web2 |df=ja |author=萬遜樹 |url=http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-144.htm |title=水神の話-「河童駒引」をめぐる動物考―馬・牛・猿(3) |date=2003-07-19 |accessdate=2023-10-22}}</ref>。<br />同様の伝承は日本に伝わり、日本でも武家屋敷の厩でサルが飼育されていた様子が、鎌倉末期の[[13世紀]]末ころの絵巻である『男衾三郎絵詞』の図に見られる。}}の[[官職]]に任命されたが、半月後にその身分が低いと知ってへそを曲げ、不意に脱走してしまう。地上ではすでに十数年{{efn2|天界の一日は地上の一年に相当するため。}}経っていたが、帰還した美猴王を神としてかしずく猿たちに囲まれて気分がいいところに、[[獨角兕大王|独角鬼王]]という妖怪が訪ねてきて臣下となり、さらに褒めそやして煽てたので、[[有頂天]]になった悟空は'''斉天大聖'''{{efn2|「天にも等しい大聖人」の意。}}と自ら号するようになった。これを聞いた天帝は身の程知らずの石猿だと怒り、[[毘沙門天#托塔李天王|托塔李天王]]を大将にする討伐軍に派遣したが、先鋒の巨霊神と{{読み仮名|[[哪吒|哪吒太子]]|なたたいし}}が敗れて歯が立たないと、悟空の'''[[六神通|神通力]]'''に恐れをなして退却した。
力で抑えるのが難しいとわかると、再び太白の意見で懐柔策をとることになり、二度目は悟空の希望通りの待遇とすることにして、新官職'''「[[斉天大聖]]」'''が創設され、正式に任命された。これは職務のない名目だけの官職であった。これでしばらくは悟空も満足していたが、天界では暇をもてあましていたので、新たに{{読み仮名|[[蟠桃会|蟠桃園]]|ばんとうえん}}{{efn2|天界で供される桃を栽培する果樹園。蟠桃をはじめ数種類の桃が作られているが、いずれも食べることで不老長生を得ることのできる神聖な桃(仙桃)である。}}の管理を任されることになる。ところが、[[不老不死|不老]]は悟空の最も好むところであり、栽培されている[[仙桃]]が熟れるのを待って食べ尽くした。そこに美しい[[天女|仙女]]たちが桃を摘みに来て宴会が催されるというので、悟空は仙女たちが歓談する宴席に忍び込んで酒番を眠らせ、仙酒仙肴を食べ荒らし、さらに酔ったはずみで[[兜率天|兜率天宮]]に迷い込んだので、ついでに[[太上老君]]の[[錬丹術|金丹]]の全部を頬張って、再び天界を逃げ出した{{efn2|二度目の逃走はかなり確信犯的で、はっきりと悪事を働いた自覚を持って逃げ行く。}}。
悟空が戻ると地上では百年経過していた。天帝は烈火のごとく怒り、天兵10万を派遣して包囲し、諸将を総動員して攻めかからせた。悟空の側は、七十二洞の妖怪たちと独角鬼王は生け捕られたが、猿たちはすべて逃げ延び、悟空は{{補助漢字フォント|哪}}{{JIS2004フォント|吒}}太子と[[四天王|四大天王]]、恵岸を打ち負かした。ところが恵岸がその師である[[観音菩薩]]に苦戦を報告したところ、菩薩は天帝に[[顕聖二郎真君]]を推薦する。二郎真君は梅山の六兄弟と共に悟空を遂に追い詰め、太上老君の投げた[[獨角兕大王|金剛琢]]で悟空が脳天を打たれてふらふらのところを捕まえた。
天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空の前では刀も斧も歯が立たず、火神の炎や雷神の雷すら効果が僅かもなかった。太上老君の解釈のよると、これは[[錬丹術|仙丹]]が三昧真火により悟空と一体化したので傷付けられない体となっていると言う。最終手段として太上老君の秘法'''[[八卦]]炉'''の前に差し出し押し込めて六丁神火で仙丹を分離させるとするも、火の回らない巽の隅に退避して無事を得る(代わりにいぶされて目が「火眼金睛」となった、つまり炎の煙に弱い眼病。その後あらゆる嵐の影響を無効化できる定風丹を食べたが、炎が巻き上げた煙に効かないかどうかは不明)。もう焼き尽くされたかと炉を開けると、勢い八卦炉から飛び出し{{efn2|この時割れて地上に落ちた八卦炉の破片が[[火焔山]]となった。}}、大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の[[釈迦如来]]に助けを求めることになる。如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、'''[[五行思想|五行]]山'''{{efn2|別名「両界山」。この山が西遊記の中の唐の国境であり、ここから先は妖怪の住む多い領域。}}に五百年間封印してしまった。
=== 取経の旅へ ===
五百年後、[[観音菩薩|観世音菩薩]]の救済によって[[三蔵法師]]の弟子となって功徳を積むことを許され、[[天竺]]までの[[大唐西域記|取経の旅]]{{efn2|三蔵法師の旅は、大乗仏教の経典を授かることが目的であったため、「取経の旅」といった表現がなされる。}}を助けることになる。三蔵法師からはおもに{{読み仮名|'''孫行者'''|そんぎょうじゃ}}{{efn2|風貌が小坊主に似ているという理由である。このことから悟空は猿のなかでも毛の短い猿であることがわかる。}}と呼ばれている。弟子になってからも反抗的な態度は相変わらずで、納得できない時は相手が[[神の一覧|神々]]や[[如来]]、[[菩薩]]だろうと平気で文句は言うし反抗的態度に出る。乱暴な気質も相変わらずで、相手が人間であっても邪魔なものは力ずくで排除ないし従わせようと考えることがしばしばであり、それが原因で三蔵の怒りを買い、確執の原因となることが多い。しかし仁義や礼儀に精通しており、その他で無礼を働くことはない。初め三蔵法師に反発して脱走も試み、その後もいわれのない罪で破門されたりしているが、観世音菩薩や釈迦如来の導きもあり{{efn2|最初の脱走の際に、以後の脱走を防ぐ抑止力として頭にはめられたのが「'''緊箍児'''」(きんこじ、別称「金剛圏」)と呼ばれる輪っかである。これは「緊箍呪」という[[呪文]]を唱えることで輪が収縮し、頭が締めつけられるというものである。しかしこの後に三蔵法師は緊箍児によって直接的に脱走を防ごうとすることはほとんどなかった。悟空が妖怪を殺したのを人間が殺めたと誤解したり、実際に人間を殺めてしまったことを知った際の懲罰として用いている<ref>{{CRD|1000128702|孫悟空の頭にはまっている輪の名前を知りたい。}} ({{date|2013-03-10|ymd}}) {{accessdate|2023-10-22}}</ref>。}}、結局はいつも三蔵法師の元に戻ってくる。旅では失敗を繰り返して学習し成長しながら、次第に行いが改まっていくが、不機嫌さや不満を露にすることが多い。三蔵との関係は師匠と弟子というよりも、無知無力な人間を庇う守護者のような損な役回りで、人使いの粗い三蔵には困らされることが多い{{efn2|人間に化けすました[[妖魔]]を見破って相手にせずに無視したり、予め討ち取ろうとしても、妖魔を見抜くことのできない三蔵に慈悲を理由に咎められて制止され、結局、防ぎきれずに三蔵を攫われてしまったり、制止を振り切って倒した結果、三蔵の誤解を受けて勘当を言い渡されるなどの憂き目にあっている。}}。取経の旅の間、[[白骨夫人]]や[[霊感|霊感大王]]や、[[竜|万聖竜王]]など多くの[[妖怪|魔物]]や[[悪霊]]と戦いを繰り広げながら退治していき、多勢に及ぶ'''[[魔]]'''を降し遂に取経の旅に成功すると、三蔵法師を守り固め天竺から多くの経典を持ち返ったその抜群の功績を認められ、'''[[仏陀|仏]]となった{{efn2|仏としての名前は{{読み仮名|'''闘戦勝仏'''|とうせんしょうぶつ}}。なお、仏となったのちには緊箍児は消えていた。}}。
なお、ここで書いたとおり孫悟空は本篇や[[漢詩|漢詩中]]で、各種の名前や肩書きで呼ばれている。ここに書いたほかにも、大聖翁、猴仔公、心猿、'''混元一気上方太乙金仙美猴王斉天大聖'''など、様々な名称で呼ばれている。
== 孫悟空のモデル ==
[[中華人民共和国|中国]]西部の[[陝西省]]や[[チベット]]などに生息する[[キンシコウ]]を研究する[[日本モンキーセンター]]世界サル類動物園長の小寺重孝が、[[日本放送協会|NHK]]の動物の生態を紹介するテレビ番組『[[ウオッチング (テレビ番組)|ウオッチング]]』で、「美猴王」を名乗った孫悟空のモデルにふさわしい美しいサルであり、もしかしたらこれがモデルなのかもしれないと紹介した。後に『アサヒグラフ』1985年3月29日号にて、小寺重孝本人も勘違いと認めているが世間に広まったためひっこみがつかなくなっているという旨の談話が掲載されている。『西遊記』そのものを研究している中国文学研究者は、作中描写から判断すると[[マカク属]]の[[アカゲザル]]である可能性が高いとする説を提唱しており、例えば同属の[[ニホンザル]]と異なり水泳を好むアカゲザルの生態などが巧みに『西遊記』の中に描写されていることなどを指摘している。
また、中国起源説(岳亭丘山、[[魯迅]]など)は、中国神話に登場する水神「無支祁(巫支祁、無支奇)」に淵源を求める。
禹による無支祁退治の記録は『太平広記』に収められた説話(巻467「李湯」)に登場しており、唐の時代に楚州の知事であった李湯(りとう)が水中から引きあげた巨大な猿の妖怪の話を補うかたちで示されている。それによると禹による[[無支祁]]退治の記録は『古岳瀆経』というぼろぼろの古文書にあったものとされており、これが示されることで李湯の話(『古岳瀆経』の見つかる話は李湯の話から48年後の元和8年であるとされる)に登場した正体不明の大猿が[[無支祁]]であったのであろう、ということになっている。宋の時代からよく流布されるようになり戯曲などへの利用によって人々の知るところとなった。
猿のすがたや能力の高さ及び山の下に封じられること、水の属性との縁のある点から、『西遊記』に登場する孫悟空の原型のひとつになっているのではないかという考察が古くから存在している。石田英一郎は、猿と水の関係性からこれを説いているほか、無支祁が大索でつなぎとめられて封じられたとされていること自体も水に関する伝説の中で関連性の高い要素であると考察している。
孫悟空と無支祁を結びつけて考えるような点から、『西遊記』を素材とした雑劇には孫悟空の姉妹として、無枝祁聖母・亀山聖母という登場人物が設定されていたりもした。
これとはまた別に、インドの有名な[[叙事詩]]『[[ラーマーヤナ]]』の猿の神として登場する[[ハヌマーン]]も黄金の肌と真紅の顔面そして長い尾を持つ姿として描かれているところから、ハヌマーンが孫悟空のモデルとする説も唱えられている。インドの[[ヒンドゥー教]]寺院ではハヌマンラングールがハヌマーン神の使いとして手厚く扱われ、参詣者から餌などを与えられて闊歩している。ハヌマーンもまた孫悟空と同様に、超常的な[[神通力]]を使用し、空を飛んだり、体の大きさを変えたりした。また、場面によって猿軍団を率いる、山を持ち上げるなどの行為を行ったとされる。『ラーマーヤナ』の物語中で[[ヴィシュヌ]]の化身とされる[[ラーマ]]を助けて様々な局面で活躍する猿神の姿は、『西遊記』において猿妖である孫悟空が三蔵法師を護衛して活躍する姿と相似ている部分も多々見受けられ、『西遊記』の物語形成過程に『ラーマーヤナ』が少なからず影響を与えたことも考えられる。
また、[[中華人民共和国]]の安西地方に存在する[[楡林窟]]や[[東千仏洞]]などで発見された[[唐僧取経図]]には、玄奘三蔵の[[インド]]への旅の様子が描かれているとされ、その中に出てくる案内人が孫悟空などの原型となっているのではないかとも言われている。
名の「悟空」については、唐代に実在し、インドまで赴いた僧侶・[[悟空]]([[731年]] - ?)の名をとったものではないかとする説がある。
=== 泉州開元寺西塔浮彫 ===
泉州開元寺の仁壽塔(西塔、[[嘉熙]]元年(1237年)完成)浮彫には[[梁 (南朝)|梁]][[蕭衍|武帝]]、「唐三藏」、東海火龍太子、猴行者の4種あり、『西遊記』の孫悟空となる前の姿がかいまみえる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[中野美代子]]『西遊記の秘密 [[道教|タオ]]と[[錬丹術|煉丹術]]のシンボリズム』[[岩波現代文庫]]、{{ISBN2|978-4-00-602070-5}}
* 中野美代子『孫悟空はサルかな?』日本文芸社、{{ISBN2|978-4-537-05013-4}}
* 実吉達郎、東山鈴鹿『西遊記 孫悟空編』メタモル出版、1991年、{{ISBN2|978-4-895-95026-8}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sun Wukong}}
* [http://www.china-on-site.com/pages/comic/comiccatalog1.php Story of Sun Wukong with manhua]
* [http://www.innerjourneytothewest.com/jp/jp-monkey.html 孫悟空の内的な意味を説明するウェブページ]
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5,270 | 電車 | 電車(でんしゃ、英: train)は、鉄道車両のうち、電気を動力として自走する事が可能な客車や貨車の総称である。すなわち、客車や貨車そのものに動力が備わっており、機関車なしで自走可能な「電動客車」および「電動貨車」を指す。「電気列車」または「電動列車」とも呼ばれる。
電車のうち、動力を持つ車両は電動車(記号;M)、動力を持たず電動車と編成を組む車両は付随車(記号;T)。また、運転席のある付随車は制御車(記号;Tc)、電動車に運転席のある物は制御電動車(記号;Mc)と呼称する。
電動機を駆動する電力は、集電装置により外部から取り込む場合と、車載の蓄電池から供給する場合の2通りがある。車上の内燃機関で発電機を稼動させ、得られた電力で電動機を駆動する車両は電気式気動車と呼ばれ「電車」には含まれない。
また、電気を動力にする鉄道車両としては電気機関車もあるが、これも電車には含まれない。また、電気機関車に牽引される客車や貨車も電車には含まれない。
もともと「電車」は、自走式の電動機付き客車「電動客車」、および事業用車を含む電動機付き貨車「電動貨車など」の略称だったが、現在では一般名詞となり、各省庁をはじめ、運輸事業者や車両製造会社でも正式に用いられている。
なお、「電車」という語は電気機関車などの電気を動力とする列車全般や、電気以外の機関車、客車、貨車、気動車も含め、列車や鉄道路線、さらには鉄道そのものに対する一般名詞としても使用される。これについては後述する。
英名については本文#「EC」と「EMU」で詳述する。
世界最初の電車(電動車)は、ジーメンスが1879年にドイツのベルリン工業博覧会において、今で言う電気機関車が人の乗った客車を牽引して披露されたのが最初とされている。
その2年後の1881年、やはりベルリンにおいて世界最初の路面電車が営業運転を開始する。さらにその後1883年にフランスとイギリスで、1895年にアメリカで電車の営業運転が開始される。
現在の日本においては電車のほとんどが旅客用であり、貨物を積載する車両は事業用車と一部の貨車に限られている。事業用車については、自動車やモーターカーに転換され数が減りつつある。電動貨車はM250系の一系列のみである。かつては荷物車と郵便車が存在したが、現在はすべて廃止または旅客用に転用されている。 1941年、東京都電車は専用車を用意して三原橋 - 下板橋間で配給米の輸送を開始したが、これは戦時にトラックのガソリン使用量を減らすことが目的であり戦後は速やかに解消されている。
日本の旅客輸送では、電化区間では新幹線を始め、都市周辺の通勤路線や地方の在来線に至るまで電車主体の運行であり、非電化路線の気動車とともに動力分散方式が主流となっており、機関車牽引の旅客輸送列車は、全列車が機関車牽引の客車である大井川鐵道井川線及び黒部峡谷鉄道を除き、一部のジョイフルトレイン及びイベント列車などの臨時列車以外にはほとんど見られない。寝台列車(夜行列車)についても客車での定期運転は、2014年に終了している。
都道府県別では唯一徳島県のみ電車列車(電気機関車含む)が過去を遡っても存在しない(かつて「阿波電気軌道」という会社が存在したが、名前に反して非電化のまま国有化されている)。
東アジア諸国に関しては、国によって実情が異なるが、高速鉄道が整備されている国のうち、中華民国(台湾)(台湾高速鉄道)と中国(中華人民共和国の高速鉄道)については、電車方式が採用されている。また、台湾国鉄では、長距離列車も含めて電車での運行が主体となっている。
このほか、韓国や北朝鮮も含め、これらの国々の大都市では電車を使用した地下鉄や高架鉄道などの都市鉄道網が整備されている。
東南アジア諸国の国鉄に関しては、都市近郊線も含め主要幹線に非電化区間が多く、マレーシアのクアラルンプール近郊の電化区間におけるKTMコミューターと、インドネシアのジャカルタ首都圏におけるKRLジャボタベック以外は存在しない。一方で、タイのバンコク、シンガポールなどの大都市では、電車を使用した地下鉄や高架鉄道などの都市鉄道網が整備されている。
ヨーロッパ大陸各国では、長距離や主要路線の列車は機関車の牽引する客車列車が主体だったことから電車の採用例は少なかったが、近郊輸送においては、パリ・ベルリンなどの大都市周辺で日本同様の国鉄近郊電車網が構築されていた。
フランス・ドイツを始めほとんどの国の長距離列車や国際列車は、長らくのあいだ機関車牽引列車か気動車列車が中心だったが、勾配や急カーブの多い路線を有するということで日本と共通するイタリア国鉄では、1930年代半ばより高速電車列車の開発に力を注ぎ、1936年には、世界最初の本格的な長距離高速特急形電車であるETR200を製造した。この電車は流線型をした3両連接構造で、台車装荷の電動機(いわゆるカルダン駆動)を持ち、最高運転速度は160km/hだったが、1939年の高速度試験運転では203km/hの速度を出している。この電車の成功により、1953年には高名なETR300セッテベロ、1960年にはETR250アレッチーノが製造された。これらの特急用高速電車はカルダン駆動と連接構造を基本とし、通常の電車のALeという電車形式に対し、特急電車という意味のETRという独自の形式が付けられた。イタリアの電車は、その後ETR400/ETR450ペンドリーノ、ETR460/ETR480ユーロスターイタリア(イギリスのユーロスターインターナショナルより買う。)、ETR470チザルピーノなどに発展した。
また、国土が狭く路線の大半が電化されているベネルクスの鉄道(特に、NSオランダ鉄道、SNCB/NMBSベルギー国鉄)は、電車によるインターシティー網が国土中に張り巡らされており、JR九州や近鉄の特急電車網に近い姿である。ドイツやフランスでは、長らく中距離列車・地方都市圏の近郊列車では客車と機関車で固定編成を組んだプッシュプルトレインが主流だったが、近年はこういった列車でも急速に電車が増加している。こういった路線は、地方線向けの新型電車(中にはLRTのような電車もある)や大都市圏で使われた中古の通勤電車の転用が多い。
都市鉄道では、ホームの有効長に限りがあり高加速が必要な地下鉄、都市中心部の中量輸送手段であるピープルムーバー、近年急速に導入が進むLRTなどの例がある。LRTに関してはヨーロッパのメーカーが低床の技術に長けていることから、日本でもヨーロッパ製のLRVを購入している事業者が多い。
英国の電化区間においては、ヒースロー・エクスプレスをはじめとした短・中距離輸送において電車が積極的に用いられている。第三軌条を用いながら160km/hにも及ぶ高速運転を行うのもイギリスの電車の特徴である。
高速鉄道においては、ICEやTGVをはじめとした動力集中式が主流だったものの、ドイツでは近年の高速鉄道網拡大においては建設コストを低減するために急勾配の路線を採用する箇所があり、そのような線区ではICE3などの動力分散式車両を用いている。一方フランスでは高速試験に使用されたV150編成において機関車方式でありながら中間車にもモーターを搭載する準動力分散式を採用している。ヨーロッパでは今後の高速化・路線網の拡大につれて動力分散式の高速電車が普及していくと思われる。
現在のアムトラックの列車にあたる通常鉄道(ヘビーレール)の分野では、ニューヨーク・シカゴなどの大都市近郊輸送を除いて電車列車が使われてきたケースは極めて少ない(それ以前に、電化区間そのものが少ない)。西海岸の主要都市が集まるカリフォルニアでも、近郊列車はディーゼル機関車牽引の客車列車である。電化区間であるニューヨーク - ワシントンD.C.間を走る特急メトロライナーは、登場時日本の新幹線同様の200km/h対応の電車列車だったが、故障が頻発したために程なく電気機関車牽引列車に置き換えられた。過去から現在に至るまで、アメリカの幹線鉄道路線においては電車は主要な役割を担うことはなかったのである。
アメリカの電車で特筆すべきは、インターアーバン(都市間電気鉄道)の存在である。これは20世紀初頭のアメリカの至る所で敷設された高速運転を特徴とする都市間電気鉄道群である。インターアーバンは市街地中心部に併用軌道区間を設けて乗り入れるなど通常鉄道(ヘビーレール)とは独立した存在であり、アメリカの電車はこのインターアーバンで発達した。1930年代以降の急激なモータリゼーションの発展により、インターアーバンは激減し、アメリカでは現在わずか2本しか路線が残っていない。インターアーバンは現在のアメリカの鉄道界からはほぼ消え去った存在であるが、草創期の日本の電気鉄道の手本となった存在であった。また、第二次大戦にて技術導入が途絶えたものの、戦後の1950年代後半まで日本の電車の近代化は多くがアメリカのインターアーバンで採用された技術に基づいており、歴史上極めて重要な存在である。特に1941年にWH社の技術で開発されたWN駆動装置を搭載して登場した、シカゴ・ノースショアー線のエレクトロライナー型高速急行電車は、初の本格的な高性能高速電車として、アメリカ電車史上最高の傑作車両として現在でも高く評価されている。
地下鉄や路面電車/LRTの分野ではもちろん電車が主力である。LRTに関しては、インターアーバン激減期からあまりにも製造が途絶えたためにアメリカの電車製造技術が大幅に停滞し、これに伴い鉄道車両メーカーの解散や事業譲渡が相次ぎもはや電車を手掛ける国内メーカー自体皆無に等しいため、日本やドイツの技術を用いて作られた電車も多い。
中南米では、旅客鉄道は衰退傾向にあり、国鉄ではあまり電車は使われていない。各国の首都など人口規模の多い大都市が多いため、中南米には地下鉄が多い。フランス製のゴムタイヤ地下鉄の採用例が多い。アルゼンチンのブエノスアイレスの地下鉄は、日本の地下鉄と同じ規格だったことから、営団地下鉄(現在:東京メトロ)丸ノ内線や名古屋市営地下鉄の中古電車が輸出されて使われている。
電車は、2通りの英訳がなされる。
「Electric Car」は、通常、路面電車等で用いられる単行、もしくは2、3両程度の、軽便な軌道用の車両を指す。しかし、日本ではその導入の由来、発展の経緯から、すべての電車を「Electric Car」としている。
一方、「Electric Multiple-Unit」は、主に英語圏で使用される言葉である。「Multiple-Unit」は、動力分散方式と訳されることが多いが総括制御方式というような意味もあり、TGVとその派生車両や、ICE 1, ICE 2のように、無動力の客車を編成両端の機関車とも言える動力車ではさんだもの、またスイス国鉄のRAe1050TEEII型電車のように、逆に中央にのみ集中型の動力車を置くもの、さらにはスイスやオランダ国鉄のように、客車列車の一端の電気機関車にも若干の客席を設けたものなど、日本の電車の概念には当てはめ難いものも多く含む。
TGVやICE 1・2の中間車は、通常の機関車による牽引、推進運転には対応しておらず、必ず専用の動力車との固定編成が組まれるが、日本では通常、この形態は「電気機関車 + 客車」の、動力集中方式として認識される場合が多い。
なお、新幹線用電車は「Trunc line Electric Car」(略称:TEC)である。
黎明期の小型車や路面電車では、単車とも呼ばれる二軸式が普及したが、現在の高速電車では、連接式を含め、ほとんどが二軸のボギー式である。
バリアフリー化を目的とした超低床電車では、通しの車軸を持たない左右独立車輪で首を振らない台車や、一軸台車なども使われる。
直流電動機の直並列制御を用いるのが一般的な電車においては、電動機が偶数個である必要があり、動軸も偶数である。また駆動システムでモノモーター方式を採用する場合にも、空転を防ぐため二軸駆動とすることが求められる。このため、軽便鉄道の気動車などに見られる片ボギー式の採用例は、過去に栃尾電鉄で見られたように、気動車のエンジンを撤去し、そこに電動機を装架する、といった特殊なケースを除くと事実上皆無である。
線路上空に設けられた架線、または線路脇に設けられた第三軌条に接した集電装置(架線の場合は大半がパンタグラフで、ごくまれにトロリーポールまたはビューゲル、第三軌条方式の場合は集電靴)から、また、蓄電池式のものは蓄電池から電流を車両内の回路へと取り入れる。取り入れられた電流はまず断流器を通り、主制御器へと流れる。交直流型電車で交流電流を使用する場合は、主制御器に入る前に変圧器で特別高圧から高圧に電圧降下された後、整流器で交流を直流に整流する。交流型電車では、変圧器で特別高圧から高圧に電圧降下された後、主制御器であるVVVF制御やサイリスタ位相制御に送られる。半導体制御を用いない交流電車ではタップ制御のように降圧・整流の機構が主制御器と一体化している場合もある。
電流は続いて主制御器で電圧を制御した上で駆動系へと流れ、動力台車に装荷されている主電動機を駆動する。主電動機は、回転運動を歯車により車軸へ伝達し、車軸が回転する。地下鉄などの車上一次式リニアモーターを用いた電車は、動力台車内の電磁石と線路上の固定電磁石(リアクションプレート)の間に生じる力によって走行する。
複数車両が連結された場合、総括制御が行われる。すなわち、先頭車両の運転席に設けられたマスター・コントローラー(マスコン)を操作することにより、2両目以降の車両にも指令が電気信号によって送られ、編成中のすべての車両の電動機の駆動や電気ブレーキを操作する。直接制御方式の場合は2両目以降の車両にも運転士が乗り、先頭車の運転士からの指示に従い、協調運転を行う必要がある。
電気信号は、車両の連結面の下部に設けられているジャンパ栓や連結器下部に備わる電気連結器(電連)を介して送られる。
日本の鉄道車両は法規上、2系統以上のブレーキを装備することが義務付けられており、電車には鉄道車両で一般的な留置用の機械ブレーキと、制動用の空気ブレーキが備えられている。超低床電車の一部では、圧縮空気を利用した機構を一切用いないエアレス式のものがあり、その場合は電気ブレーキのみを常用して停車直前に機械式ブレーキを用いる(他に、例外的なものとして、動態保存された明治期の電車が手動の機械式ブレーキを常用している)。
電車の空気ブレーキは、単行電車では直通ブレーキ、連結運転では自動ブレーキが用いられる。大都市近郊の通勤電車などでは長編成で高密度運転をするために、一部では電磁自動ブレーキも用いられた。いわゆる高性能電車・新性能電車では電磁直通ブレーキが一般化し(日本では1950年代から)、その後電気指令式ブレーキに移行した。現役車両では主に後2者が用いられている。現在では、これらの常用ブレーキのほか、常用ブレーキの異常に備え、別系統の空気ブレーキである、直通予備ブレーキが設置されている。これは事業者によっては保安ブレーキなどの名称で呼ぶ場合がある。
その他に、走行用電動機を利用した電気ブレーキを持つものが多く、電動機の発生電流を車上の抵抗器で熱に換える「発電ブレーキ」と、架線や第三軌条に返す「電力回生ブレーキ」に大別できる。このほかの電気ブレーキには、電磁誘導を利用した「渦電流ブレーキ」、電磁石をレールに吸い付ける「電磁吸着ブレーキ」などがある。
電車には2通りの止まり方ある。高い段階のブレーキをかけて徐々に緩めて、低い段階のブレーキをかけた状態で止まる方法と(関東地方の私鉄に多く見られる止まり方なので通称「関東式」)と、高い段階のブレーキをかけてから中段階のブレーキを一定にかけて、停車寸前でブレーキを解放して止まる方法(近畿地方(関西)の私鉄の多く見られる止まり方なので通称「関西式」、または「余圧止め」)の2つである。
制御系機器の電源として、また室内灯や冷暖房などのサービス電源用として、架線から取り入れた電力により電動発電機または静止形インバータ装置を作動させる。
機関車が客車を牽引する列車の方式(動力集中方式)に比較して、以下のような特徴が挙げられる。
各個人の鉄道車両に対する認識の違いから、鉄道車両全体に対し非電化車両までも「電車」と呼んだり、逆に電化車両までも「汽車」と呼んだりする言葉の誤用は広く存在する。
日本では人口集中地域における鉄道車両がほぼ電車であることから、鉄道車両全般を電車と総称する誤用が多く見られる。例えば、目の前に停車している気動車や客車を指して、旅客が駅員や乗務員に「電車」と問い合わせることが該当する。また、電化されていない路線の駅で、駅員に列車について「電車」と問い合わせる事も同様である。滑稽な例として、蒸気機関車列車を指して「SL電車」とテレビ番組で表現しているケースもある。
逆に1980年代までは、蒸気機関車時代からの名残で国鉄やJRの電車を「汽車」と呼ぶ人もおり、現代でも年配者の一部に見受けられる。踏切の道路標識でも汽車および一般的な鉄道車両マークで定義している。
鉄道車両の種別が混同する事情もあるため鉄道事業者としては、電車以外で車両種別の運行があるJRグループ・第三セクター鉄道事業者・私鉄では「列車」と表現することが多く、駅ホームにおける鉄道車両が接近の際に「列車が到着します」等の表示設備のある鉄道駅や、列車種別や運行系統によって駅自動放送・電光掲示板の発車標で使い分けている所もある。ただし、人口集中地域や後述の私鉄でも主に「電車」「電気鉄道」「電鉄」と公式通称も含めて末尾表記されている鉄道事業者において、電車運行しかない鉄道駅の場合は「電車」を普遍的に駅放送や発車時刻表示の接近表示としている駅・事業者も存在する。他には電車線・列車線での区別、各駅で採時を取る「列車ダイヤ」と一部駅のみで採時を取る「電車ダイヤ」といった運用上の区別もある。
日本国外においては、高速鉄道や先進国の人口集中地域以外においての鉄道路線の電化が日本の次元で普及していない事情もある。また、外国語でも「列車」に当たる表現を英語を例に挙げると"train"が鉄道車両の意味に相当するため、鉄道車両を「電車」という表現で示すことは稀である。(「EC」と「EMU」も参照)
官営鉄道の電化が遅く、逆に私鉄の電化が盛んであった関西圏を中心に、私鉄の路線を「○○電車」と呼び替えることが定着しており、自社の鉄道事業およびその路線について、公式で「○○電車」と称する鉄道事業者がある。「阪神電車」(阪神電気鉄道)、「京阪電車」(京阪電気鉄道)、「山陽電車」(山陽電気鉄道)や、関西以外では「静鉄電車」( 静岡鉄道)、「遠鉄電車」(遠州鉄道)などが挙げられる。一畑電車(一畑電気鉄道)や岳南電車(岳南鉄道)のように、鉄道部門を運営する子会社名に「電車」を用いる事業者も現れている。
かつては阪急電鉄・京成電鉄・東武鉄道・京王電鉄などもこの呼称を使用していた。また、国有鉄道においても、鉄道省時代には「省線電車」や「省電」、国鉄時代には国電という用語があった。 | [
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"text": "また、国土が狭く路線の大半が電化されているベネルクスの鉄道(特に、NSオランダ鉄道、SNCB/NMBSベルギー国鉄)は、電車によるインターシティー網が国土中に張り巡らされており、JR九州や近鉄の特急電車網に近い姿である。ドイツやフランスでは、長らく中距離列車・地方都市圏の近郊列車では客車と機関車で固定編成を組んだプッシュプルトレインが主流だったが、近年はこういった列車でも急速に電車が増加している。こういった路線は、地方線向けの新型電車(中にはLRTのような電車もある)や大都市圏で使われた中古の通勤電車の転用が多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "都市鉄道では、ホームの有効長に限りがあり高加速が必要な地下鉄、都市中心部の中量輸送手段であるピープルムーバー、近年急速に導入が進むLRTなどの例がある。LRTに関してはヨーロッパのメーカーが低床の技術に長けていることから、日本でもヨーロッパ製のLRVを購入している事業者が多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "英国の電化区間においては、ヒースロー・エクスプレスをはじめとした短・中距離輸送において電車が積極的に用いられている。第三軌条を用いながら160km/hにも及ぶ高速運転を行うのもイギリスの電車の特徴である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "高速鉄道においては、ICEやTGVをはじめとした動力集中式が主流だったものの、ドイツでは近年の高速鉄道網拡大においては建設コストを低減するために急勾配の路線を採用する箇所があり、そのような線区ではICE3などの動力分散式車両を用いている。一方フランスでは高速試験に使用されたV150編成において機関車方式でありながら中間車にもモーターを搭載する準動力分散式を採用している。ヨーロッパでは今後の高速化・路線網の拡大につれて動力分散式の高速電車が普及していくと思われる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "現在のアムトラックの列車にあたる通常鉄道(ヘビーレール)の分野では、ニューヨーク・シカゴなどの大都市近郊輸送を除いて電車列車が使われてきたケースは極めて少ない(それ以前に、電化区間そのものが少ない)。西海岸の主要都市が集まるカリフォルニアでも、近郊列車はディーゼル機関車牽引の客車列車である。電化区間であるニューヨーク - ワシントンD.C.間を走る特急メトロライナーは、登場時日本の新幹線同様の200km/h対応の電車列車だったが、故障が頻発したために程なく電気機関車牽引列車に置き換えられた。過去から現在に至るまで、アメリカの幹線鉄道路線においては電車は主要な役割を担うことはなかったのである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アメリカの電車で特筆すべきは、インターアーバン(都市間電気鉄道)の存在である。これは20世紀初頭のアメリカの至る所で敷設された高速運転を特徴とする都市間電気鉄道群である。インターアーバンは市街地中心部に併用軌道区間を設けて乗り入れるなど通常鉄道(ヘビーレール)とは独立した存在であり、アメリカの電車はこのインターアーバンで発達した。1930年代以降の急激なモータリゼーションの発展により、インターアーバンは激減し、アメリカでは現在わずか2本しか路線が残っていない。インターアーバンは現在のアメリカの鉄道界からはほぼ消え去った存在であるが、草創期の日本の電気鉄道の手本となった存在であった。また、第二次大戦にて技術導入が途絶えたものの、戦後の1950年代後半まで日本の電車の近代化は多くがアメリカのインターアーバンで採用された技術に基づいており、歴史上極めて重要な存在である。特に1941年にWH社の技術で開発されたWN駆動装置を搭載して登場した、シカゴ・ノースショアー線のエレクトロライナー型高速急行電車は、初の本格的な高性能高速電車として、アメリカ電車史上最高の傑作車両として現在でも高く評価されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "地下鉄や路面電車/LRTの分野ではもちろん電車が主力である。LRTに関しては、インターアーバン激減期からあまりにも製造が途絶えたためにアメリカの電車製造技術が大幅に停滞し、これに伴い鉄道車両メーカーの解散や事業譲渡が相次ぎもはや電車を手掛ける国内メーカー自体皆無に等しいため、日本やドイツの技術を用いて作られた電車も多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "中南米では、旅客鉄道は衰退傾向にあり、国鉄ではあまり電車は使われていない。各国の首都など人口規模の多い大都市が多いため、中南米には地下鉄が多い。フランス製のゴムタイヤ地下鉄の採用例が多い。アルゼンチンのブエノスアイレスの地下鉄は、日本の地下鉄と同じ規格だったことから、営団地下鉄(現在:東京メトロ)丸ノ内線や名古屋市営地下鉄の中古電車が輸出されて使われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "電車は、2通りの英訳がなされる。",
"title": "「EC」と「EMU」"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「Electric Car」は、通常、路面電車等で用いられる単行、もしくは2、3両程度の、軽便な軌道用の車両を指す。しかし、日本ではその導入の由来、発展の経緯から、すべての電車を「Electric Car」としている。",
"title": "「EC」と「EMU」"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一方、「Electric Multiple-Unit」は、主に英語圏で使用される言葉である。「Multiple-Unit」は、動力分散方式と訳されることが多いが総括制御方式というような意味もあり、TGVとその派生車両や、ICE 1, ICE 2のように、無動力の客車を編成両端の機関車とも言える動力車ではさんだもの、またスイス国鉄のRAe1050TEEII型電車のように、逆に中央にのみ集中型の動力車を置くもの、さらにはスイスやオランダ国鉄のように、客車列車の一端の電気機関車にも若干の客席を設けたものなど、日本の電車の概念には当てはめ難いものも多く含む。",
"title": "「EC」と「EMU」"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "TGVやICE 1・2の中間車は、通常の機関車による牽引、推進運転には対応しておらず、必ず専用の動力車との固定編成が組まれるが、日本では通常、この形態は「電気機関車 + 客車」の、動力集中方式として認識される場合が多い。",
"title": "「EC」と「EMU」"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお、新幹線用電車は「Trunc line Electric Car」(略称:TEC)である。",
"title": "「EC」と「EMU」"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "黎明期の小型車や路面電車では、単車とも呼ばれる二軸式が普及したが、現在の高速電車では、連接式を含め、ほとんどが二軸のボギー式である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "バリアフリー化を目的とした超低床電車では、通しの車軸を持たない左右独立車輪で首を振らない台車や、一軸台車なども使われる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "直流電動機の直並列制御を用いるのが一般的な電車においては、電動機が偶数個である必要があり、動軸も偶数である。また駆動システムでモノモーター方式を採用する場合にも、空転を防ぐため二軸駆動とすることが求められる。このため、軽便鉄道の気動車などに見られる片ボギー式の採用例は、過去に栃尾電鉄で見られたように、気動車のエンジンを撤去し、そこに電動機を装架する、といった特殊なケースを除くと事実上皆無である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "線路上空に設けられた架線、または線路脇に設けられた第三軌条に接した集電装置(架線の場合は大半がパンタグラフで、ごくまれにトロリーポールまたはビューゲル、第三軌条方式の場合は集電靴)から、また、蓄電池式のものは蓄電池から電流を車両内の回路へと取り入れる。取り入れられた電流はまず断流器を通り、主制御器へと流れる。交直流型電車で交流電流を使用する場合は、主制御器に入る前に変圧器で特別高圧から高圧に電圧降下された後、整流器で交流を直流に整流する。交流型電車では、変圧器で特別高圧から高圧に電圧降下された後、主制御器であるVVVF制御やサイリスタ位相制御に送られる。半導体制御を用いない交流電車ではタップ制御のように降圧・整流の機構が主制御器と一体化している場合もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "電流は続いて主制御器で電圧を制御した上で駆動系へと流れ、動力台車に装荷されている主電動機を駆動する。主電動機は、回転運動を歯車により車軸へ伝達し、車軸が回転する。地下鉄などの車上一次式リニアモーターを用いた電車は、動力台車内の電磁石と線路上の固定電磁石(リアクションプレート)の間に生じる力によって走行する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "複数車両が連結された場合、総括制御が行われる。すなわち、先頭車両の運転席に設けられたマスター・コントローラー(マスコン)を操作することにより、2両目以降の車両にも指令が電気信号によって送られ、編成中のすべての車両の電動機の駆動や電気ブレーキを操作する。直接制御方式の場合は2両目以降の車両にも運転士が乗り、先頭車の運転士からの指示に従い、協調運転を行う必要がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "電気信号は、車両の連結面の下部に設けられているジャンパ栓や連結器下部に備わる電気連結器(電連)を介して送られる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本の鉄道車両は法規上、2系統以上のブレーキを装備することが義務付けられており、電車には鉄道車両で一般的な留置用の機械ブレーキと、制動用の空気ブレーキが備えられている。超低床電車の一部では、圧縮空気を利用した機構を一切用いないエアレス式のものがあり、その場合は電気ブレーキのみを常用して停車直前に機械式ブレーキを用いる(他に、例外的なものとして、動態保存された明治期の電車が手動の機械式ブレーキを常用している)。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "電車の空気ブレーキは、単行電車では直通ブレーキ、連結運転では自動ブレーキが用いられる。大都市近郊の通勤電車などでは長編成で高密度運転をするために、一部では電磁自動ブレーキも用いられた。いわゆる高性能電車・新性能電車では電磁直通ブレーキが一般化し(日本では1950年代から)、その後電気指令式ブレーキに移行した。現役車両では主に後2者が用いられている。現在では、これらの常用ブレーキのほか、常用ブレーキの異常に備え、別系統の空気ブレーキである、直通予備ブレーキが設置されている。これは事業者によっては保安ブレーキなどの名称で呼ぶ場合がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その他に、走行用電動機を利用した電気ブレーキを持つものが多く、電動機の発生電流を車上の抵抗器で熱に換える「発電ブレーキ」と、架線や第三軌条に返す「電力回生ブレーキ」に大別できる。このほかの電気ブレーキには、電磁誘導を利用した「渦電流ブレーキ」、電磁石をレールに吸い付ける「電磁吸着ブレーキ」などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "電車には2通りの止まり方ある。高い段階のブレーキをかけて徐々に緩めて、低い段階のブレーキをかけた状態で止まる方法と(関東地方の私鉄に多く見られる止まり方なので通称「関東式」)と、高い段階のブレーキをかけてから中段階のブレーキを一定にかけて、停車寸前でブレーキを解放して止まる方法(近畿地方(関西)の私鉄の多く見られる止まり方なので通称「関西式」、または「余圧止め」)の2つである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "制御系機器の電源として、また室内灯や冷暖房などのサービス電源用として、架線から取り入れた電力により電動発電機または静止形インバータ装置を作動させる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "機関車が客車を牽引する列車の方式(動力集中方式)に比較して、以下のような特徴が挙げられる。",
"title": "長所・短所"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "各個人の鉄道車両に対する認識の違いから、鉄道車両全体に対し非電化車両までも「電車」と呼んだり、逆に電化車両までも「汽車」と呼んだりする言葉の誤用は広く存在する。",
"title": "日本語における「電車」の誤用について"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では人口集中地域における鉄道車両がほぼ電車であることから、鉄道車両全般を電車と総称する誤用が多く見られる。例えば、目の前に停車している気動車や客車を指して、旅客が駅員や乗務員に「電車」と問い合わせることが該当する。また、電化されていない路線の駅で、駅員に列車について「電車」と問い合わせる事も同様である。滑稽な例として、蒸気機関車列車を指して「SL電車」とテレビ番組で表現しているケースもある。",
"title": "日本語における「電車」の誤用について"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "逆に1980年代までは、蒸気機関車時代からの名残で国鉄やJRの電車を「汽車」と呼ぶ人もおり、現代でも年配者の一部に見受けられる。踏切の道路標識でも汽車および一般的な鉄道車両マークで定義している。",
"title": "日本語における「電車」の誤用について"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の種別が混同する事情もあるため鉄道事業者としては、電車以外で車両種別の運行があるJRグループ・第三セクター鉄道事業者・私鉄では「列車」と表現することが多く、駅ホームにおける鉄道車両が接近の際に「列車が到着します」等の表示設備のある鉄道駅や、列車種別や運行系統によって駅自動放送・電光掲示板の発車標で使い分けている所もある。ただし、人口集中地域や後述の私鉄でも主に「電車」「電気鉄道」「電鉄」と公式通称も含めて末尾表記されている鉄道事業者において、電車運行しかない鉄道駅の場合は「電車」を普遍的に駅放送や発車時刻表示の接近表示としている駅・事業者も存在する。他には電車線・列車線での区別、各駅で採時を取る「列車ダイヤ」と一部駅のみで採時を取る「電車ダイヤ」といった運用上の区別もある。",
"title": "日本語における「電車」の誤用について"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本国外においては、高速鉄道や先進国の人口集中地域以外においての鉄道路線の電化が日本の次元で普及していない事情もある。また、外国語でも「列車」に当たる表現を英語を例に挙げると\"train\"が鉄道車両の意味に相当するため、鉄道車両を「電車」という表現で示すことは稀である。(「EC」と「EMU」も参照)",
"title": "日本語における「電車」の誤用について"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "官営鉄道の電化が遅く、逆に私鉄の電化が盛んであった関西圏を中心に、私鉄の路線を「○○電車」と呼び替えることが定着しており、自社の鉄道事業およびその路線について、公式で「○○電車」と称する鉄道事業者がある。「阪神電車」(阪神電気鉄道)、「京阪電車」(京阪電気鉄道)、「山陽電車」(山陽電気鉄道)や、関西以外では「静鉄電車」( 静岡鉄道)、「遠鉄電車」(遠州鉄道)などが挙げられる。一畑電車(一畑電気鉄道)や岳南電車(岳南鉄道)のように、鉄道部門を運営する子会社名に「電車」を用いる事業者も現れている。",
"title": "私鉄における「電車」"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "かつては阪急電鉄・京成電鉄・東武鉄道・京王電鉄などもこの呼称を使用していた。また、国有鉄道においても、鉄道省時代には「省線電車」や「省電」、国鉄時代には国電という用語があった。",
"title": "私鉄における「電車」"
}
] | 電車は、鉄道車両のうち、電気を動力として自走する事が可能な客車や貨車の総称である。すなわち、客車や貨車そのものに動力が備わっており、機関車なしで自走可能な「電動客車」および「電動貨車」を指す。「電気列車」または「電動列車」とも呼ばれる。 電車のうち、動力を持つ車両は電動車(記号;M)、動力を持たず電動車と編成を組む車両は付随車(記号;T)。また、運転席のある付随車は制御車(記号;Tc)、電動車に運転席のある物は制御電動車(記号;Mc)と呼称する。 電動機を駆動する電力は、集電装置により外部から取り込む場合と、車載の蓄電池から供給する場合の2通りがある。車上の内燃機関で発電機を稼動させ、得られた電力で電動機を駆動する車両は電気式気動車と呼ばれ「電車」には含まれない。 また、電気を動力にする鉄道車両としては電気機関車もあるが、これも電車には含まれない。また、電気機関車に牽引される客車や貨車も電車には含まれない。 もともと「電車」は、自走式の電動機付き客車「電動客車」、および事業用車を含む電動機付き貨車「電動貨車など」の略称だったが、現在では一般名詞となり、各省庁をはじめ、運輸事業者や車両製造会社でも正式に用いられている。 なお、「電車」という語は電気機関車などの電気を動力とする列車全般や、電気以外の機関車、客車、貨車、気動車も含め、列車や鉄道路線、さらには鉄道そのものに対する一般名詞としても使用される。これについては後述する。 英名については本文#「EC」と「EMU」で詳述する。 | {{Otheruses}}
{{Redirect|電動貨車|電動貨車の用途別の分類|貨車}}
{{Redirect|寝台電車|[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]として運行する電車列車|寝台列車}}
{{出典の明記|date=2011年1月}}
[[File:Tokyu8532 pantograph.jpg|thumb|250px|主に、屋根上の[[集電装置|パンタグラフ]]等で[[架線]]から取り入れるパワーを動力とする。]]
電車(でんしゃ、{{Lang-en-short|train}})は、[[鉄道車両]]のうち、[[電気]]を[[動力]]として自走する事が可能な[[客車]]や[[貨車]]の総称である。すなわち、客車や貨車そのものに動力が備わっており、機関車なしで自走可能な「電動客車」および「電動貨車」を指す。「'''電気列車'''」または「'''電動列車'''」とも呼ばれる。
電車のうち、動力を持つ車両は[[動力車|電動車]](記号;M)、動力を持たず電動車と編成を組む車両は[[付随車]](記号;T)。また、運転席のある付随車は制御車(記号;Tc)、電動車に運転席のある物は制御電動車(記号;Mc)と呼称する。
電動機を駆動する[[電力]]は、[[集電装置]]により外部から取り込む場合と、車載の[[二次電池|蓄電池]]から供給する場合の2通りがある。車上の[[内燃機関]]で[[発電機]]を稼動させ、得られた電力で電動機を駆動する車両は[[日本の電気式気動車|電気式気動車]]と呼ばれ「電車」には含まれない<ref group="注釈">充電や集電(給電)を必要とせず、燃料給油のみで自走できる事から電車とは区別される。同様の機構を持つハイブリッド自動車が電気自動車と区別されるのと同様。</ref>。
また、電気を動力にする鉄道車両としては[[電気機関車]]もあるが、これも電車には含まれない。また、電気機関車に牽引される[[客車]]や[[貨車]]も電車には含まれない。
もともと「電車」は、自走式の電動機付き客車「電動客車」、および[[事業用車]]を含む電動機付き貨車「電動貨車など」の略称だったが、現在では一般名詞となり、各省庁をはじめ、運輸事業者や車両製造会社でも正式に用いられている。<!--また、電車によって編成された[[列車]]も「電車」と呼ばれる。:動力分散式のこと?-->
なお、「電車」という語は電気機関車などの電気を動力とする列車全般や、電気以外の機関車、客車、貨車、気動車も含め、列車や鉄道路線、さらには鉄道そのものに対する一般名詞としても使用される。これについては後述する。
英名については本文[[#「EC」と「EMU」]]で詳述する。
== 歴史 ==
{{Main2|日本における電車の沿革については、[[日本の電車史]]も}}
[[File:Liverpool Overhead Railway carriage, Museum of Liverpool-2.jpg|thumb|1893年開業の[[:en:Liverpool Overhead Railway|リヴァプール高架鉄道]]]]
世界最初の電車(電動車)は、[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス|ジーメンス]]が[[1879年]]に[[ドイツ]]のベルリン工業博覧会において、今で言う[[電気機関車]]が人の乗った客車を牽引して披露されたのが最初とされている<ref name="densha_monogatari">{{Cite book|和書|author=福原俊一|authorlink=福原俊一 (電車発達史研究家)|year=2007|edition=|title=日本の電車物語 旧性能電車編|page=35|publisher=JTBパブリッシング|isbn=978-4533068676}}</ref>。
その2年後の[[1881年]]、やはり[[ベルリン]]において世界最初の路面電車が営業運転を開始する。さらにその後[[1883年]]に[[フランス]]と[[イギリス]]で、[[1895年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で電車の営業運転が開始される<ref name="densha_monogatari"/>。
== 概要 ==
=== 日本 ===
現在の[[日本]]においては電車のほとんどが旅客用であり、貨物を積載する車両は[[事業用車]]と一部の貨車に限られている。事業用車については、[[自動車]]や[[モーターカー]]に転換され数が減りつつある。電動貨車は[[JR貨物M250系電車|M250系]]の一系列のみである。かつては[[荷物車]]と[[郵便車]]が存在したが、現在はすべて廃止または旅客用に転用されている。<!--国鉄/JRグループ以外でもそうなのか? BS放送の「鉄道大百科」で叡山電鉄の「電動貨車デト1001形」と紹介しているが、これは事業用車の扱いか?-->
[[1941年]]、[[東京都電車]]は専用車を用意して三原橋 - 下板橋間で[[配給 (物資)|配給米]]の輸送を開始したが、これは戦時に[[貨物自動車|トラック]]の[[ガソリン]]使用量を減らすことが目的であり<ref>配給米運搬に市電利用の東京(昭和16年10月12日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p83 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>戦後は速やかに解消されている。
日本の旅客輸送では、電化区間では[[新幹線]]を始め、都市周辺の通勤路線や地方の[[在来線]]に至るまで電車主体の運行であり、[[非電化]]路線の[[気動車]]とともに動力分散方式が主流となっており、[[機関車]]牽引の旅客輸送列車は、全列車が機関車牽引の客車である[[大井川鐵道井川線]]及び[[黒部峡谷鉄道]]を除き、一部の[[ジョイフルトレイン]]及びイベント列車などの[[臨時列車]]以外にはほとんど見られない。[[寝台列車]]([[夜行列車]])についても客車での定期運転は、[[2014年]]に終了している。
都道府県別では唯一[[徳島県]]のみ電車列車([[電気機関車]]含む)が過去を遡っても存在しない(かつて「[[阿波電気軌道]]」という会社が存在したが、名前に反して非電化のまま国有化されている)。
<!--==== 日本における名称 ====
{{独自研究|section=1|date=2011年3月}}
電化路線では、運行される列車がほとんど電車となったことから、「'''電車'''」という言葉が「'''列車'''」と同義語として用いられることが多い。しかし、後述のとおり世代や地域・年代によって、列車を'''[[汽車]]'''と呼称する例もある。--><!--り、電車の登場とともにこのような誤用が生まれた訳ではない。しかしここ数年は鉄道ブームにより、多少は是正されつつある。:鉄道ブームだから是正されるとは?本当に是正されているのか?-->
<!--
[[ファイル:Change for the Nishitetsu line.jpg|180px|right|thumb|案内に見られる「電車」の表記<br />([[西日本鉄道|西鉄]][[大牟田駅]])]]
「電車」という概念が'''気軽に乗れる便利な移動手段'''という意味合いを持つ場合もある{{要出典|date=2011年3月}}。:独自研究--><!--私鉄路線や近距離運行の列車については「[[京浜急行電鉄|京急電車]]」・「[[阪急電鉄|阪急電車]]」・「[[湘南電車]]」などのように「電車」が路線名の代わりに用いられることがある。関東地区などの場合一部の看板以外ではあまり用いられないが、関西・福岡地区では案内表示板にも「〜電車」が用いられている。首都圏・近畿圏の[[日本国有鉄道|国鉄]]/[[JR]]では、主要駅のみに停車し比較的中・長距離を走るものを「列車」、短距離を走り各駅に停車するものを「電車」と呼んで区別することがある。かつて、前者は機関車が牽引する列車で、後者は比較的早い時期から電車により運転されたことの名残であるが、現在はどちらも電車で運転される。
国鉄が運行していた都市部の[[電車線]]の列車は、古くは[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]時代の「院電」、[[鉄道省]]時代の「省電」を経て、「[[国電]]」の通称で親しまれており、昭和30年代ごろまでは、中・長距離用の[[列車線]]に比べ、運転本数が多く便利なことから「便電」、また、職員を中心に「国鉄においても[[下駄]]のように気軽に乗れる」ことから「'''下駄電'''」の愛称も用いられていた{{要出典|date=2013年5月}}。[[国鉄分割民営化|国鉄民営化]]に際して[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]管内の「国電」に代わる名称として「[[E電]]」という言葉が作られたが定着せず、現在では元の「国電」という言葉も一般的にはほとんど使用されなくなっている。
[[島根県]][[出雲]]地域や[[札幌市]]など地方の中小[[私鉄]]や公営鉄道と国鉄/JRが並立している地方では、国鉄/JRを「汽車」・「列車」、私鉄や[[路面電車]]を「電車」として呼ぶことがある。[[東京都区部|東京]]でも古くは電車は、路面電車を指すことがあった。[[北海道]]・[[東北地方|東北]]・[[四国]]では現在でも、JRの列車については「'''汽車'''」「'''列車'''」「(単に)JR」とする呼称が一般的である{{要出典|date=2011年3月}}。JRによる通勤・通学は「汽車通」と呼ばれる。{{独自研究範囲|これらの地域でも、近年は在京テレビメディアの影響で「電車」と呼ばれる機会が増えている|date=2011年3月}}。
[[2006年]][[4月1日]]に[[一畑電気鉄道]]が鉄道事業を子会社の[[一畑電車]]に分離して、「電車」を社名に含む[[鉄道事業者]]が久々に復活した([[戦前]]には[[京阪石山坂本線|大津電車軌道]]など、「電車」を社名に含む鉄道会社がいくらか存在した)。-->
=== アジア ===
[[東アジア]]諸国に関しては、国によって実情が異なるが、高速鉄道が整備されている国のうち、[[中華民国]]([[台湾]])([[台湾高速鉄道]])と[[中華人民共和国|中国]]([[中華人民共和国の高速鉄道]])については、電車方式が採用されている。また、[[台湾鉄路管理局|台湾国鉄]]では、長距離列車も含めて電車での運行が主体となっている。
このほか、[[大韓民国|韓国]]や[[北朝鮮]]も含め、これらの国々の大都市では電車を使用した地下鉄や高架鉄道などの都市鉄道網が整備されている。
[[東南アジア]]諸国の国鉄に関しては、都市近郊線も含め主要幹線に非電化区間が多く、[[マレーシア]]の[[クアラルンプール]]近郊の電化区間における[[KTMコミューター]]と、[[インドネシア]]の[[ジャカルタ]]首都圏における[[KRLジャボタベック]]以外は存在しない。一方で、[[タイ王国|タイ]]の[[バンコク]]、[[シンガポール]]などの大都市では、電車を使用した地下鉄や高架鉄道などの都市鉄道網が整備されている。
=== ヨーロッパ ===
[[File:Lancaster Gate tube.jpg|thumb|[[地下鉄]]の一例 ([[ロンドン地下鉄]])]]
[[File:ICE 3 Oberhaider-Wald-Tunnel.jpg|thumb|[[高速鉄道]]の一例 ([[ICE]])]]
ヨーロッパ大陸各国では、長距離や主要路線の列車は機関車の牽引する客車列車が主体だったことから電車の採用例は少なかったが、近郊輸送においては、[[パリ]]・ベルリンなどの大都市周辺で日本同様の国鉄近郊電車網が構築されていた。
フランス・ドイツを始めほとんどの国の長距離列車や国際列車は、長らくのあいだ機関車牽引列車か気動車列車が中心だったが、勾配や急カーブの多い路線を有するということで日本と共通する[[トレニタリア|イタリア国鉄]]では、[[1930年代]]半ばより高速電車列車の開発に力を注ぎ、[[1936年]]には、世界最初の本格的な長距離高速特急形電車である[[イタリア国鉄ETR200電車|ETR200]]を製造した。この電車は流線型をした3両連接構造で、台車装荷の電動機(いわゆるカルダン駆動)を持ち、最高運転速度は160km/hだったが、[[1939年]]の高速度試験運転では203km/hの速度を出している。この電車の成功により、[[1953年]]には高名な[[イタリア国鉄ETR300電車|ETR300]]セッテベロ、[[1960年]]には[[イタリア国鉄ETR300電車#ETR250|ETR250]]アレッチーノが製造された。これらの特急用高速電車は[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]と連接構造を基本とし、通常の電車のALeという電車形式に対し、特急電車という意味のETRという独自の形式が付けられた。イタリアの電車は、その後ETR400/[[イタリア国鉄ETR450電車|ETR450]]ペンドリーノ、[[イタリア国鉄ETR460電車|ETR460]]/[[イタリア国鉄ETR480電車|ETR480]]ユーロスターイタリア(イギリスのユーロスターインターナショナルより買う。)、[[チザルピーノETR470電車|ETR470]]チザルピーノなどに発展した。
また、国土が狭く路線の大半が電化されている[[ベネルクス]]の鉄道(特に、NS[[オランダ鉄道]]、SNCB/NMBS[[ベルギー国鉄]])は、電車による[[インターシティー]]網が国土中に張り巡らされており、[[九州旅客鉄道|JR九州]]や[[近畿日本鉄道|近鉄]]の特急電車網に近い姿である。ドイツやフランスでは、長らく中距離列車・地方都市圏の近郊列車では客車と機関車で固定編成を組んだ[[プッシュプルトレイン]]が主流だったが、近年はこういった列車でも急速に電車が増加している。こういった路線は、地方線向けの新型電車(中にはLRTのような電車もある)や大都市圏で使われた中古の通勤電車の転用が多い。
都市鉄道では、ホームの有効長に限りがあり高加速が必要な[[地下鉄]]、都市中心部の中量輸送手段であるピープルムーバー、近年急速に導入が進むLRTなどの例がある。LRTに関してはヨーロッパのメーカーが低床の技術に長けていることから、日本でもヨーロッパ製のLRVを購入している事業者が多い。
英国の電化区間においては、[[ヒースロー・エクスプレス]]をはじめとした短・中距離輸送において電車が積極的に用いられている。[[第三軌条方式|第三軌条]]を用いながら160km/hにも及ぶ高速運転を行うのもイギリスの電車の特徴である。
[[高速鉄道]]においては、[[ICE]]や[[TGV]]をはじめとした動力集中式が主流だったものの、ドイツでは近年の高速鉄道網拡大においては建設コストを低減するために急勾配の路線を採用する箇所があり、そのような線区では[[ICE3]]などの動力分散式車両を用いている。一方フランスでは高速試験に使用されたV150編成において機関車方式でありながら中間車にもモーターを搭載する準動力分散式を採用している。ヨーロッパでは今後の高速化・路線網の拡大につれて動力分散式の高速電車が普及していくと思われる。
=== アメリカ ===
現在の[[アムトラック]]の列車にあたる通常鉄道(ヘビーレール)の分野では、[[ニューヨーク]]・[[シカゴ]]などの大都市近郊輸送を除いて電車列車が使われてきたケースは極めて少ない(それ以前に、電化区間そのものが少ない)。[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]の主要都市が集まる[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]でも、近郊列車はディーゼル機関車牽引の客車列車である。電化区間であるニューヨーク - [[ワシントンD.C.]]間を走る特急[[メトロライナー (列車)|メトロライナー]]は、登場時日本の新幹線同様の[[メトロライナー (電車)|200km/h対応の電車]]列車だったが、故障が頻発したために程なく電気機関車牽引列車に置き換えられた。過去から現在に至るまで、アメリカの幹線鉄道路線においては電車は主要な役割を担うことはなかったのである<ref group="注釈">動力集中方式を含めば、2000年に運行を開始したフランスのTGVを基にした高速列車[[アセラ・エクスプレス]]が、トラブルも発生しているものの一定の成功を収めている。</ref>。
[[File:Pacific Electric "Red Car" 1216 to Santa Ana, 1940s.jpg|thumb|かつて[[ロサンゼルス]]近郊地域に大規模な路線ネットワークを有していたインターアーバンである[[パシフィック電鉄]]の電車(1940年代に撮影)]]
[[File:07 21 09 006xRP - Flickr - drewj1946.jpg|thumb|現存するインターアーバン路線の1つであるサウスショアー線]]
アメリカの電車で特筆すべきは、[[インターアーバン]](都市間電気鉄道)の存在である。これは[[20世紀]]初頭のアメリカの至る所で敷設された高速運転を特徴とする都市間電気鉄道群である。インターアーバンは市街地中心部に[[併用軌道]]区間を設けて乗り入れるなど通常鉄道(ヘビーレール)とは独立した存在であり、アメリカの電車はこのインターアーバンで発達した。1930年代以降の急激なモータリゼーションの発展により、インターアーバンは激減し、アメリカでは現在わずか2本しか路線が残っていない<ref group="注釈">[[シカゴ]]と[[インディアナ州]][[サウスベンド (インディアナ州)|サウスベンド]]を結ぶ[[サウスショアー線]]と、[[フィラデルフィア]]と[[ノリスタウン (ペンシルベニア州)|ノリスタウン]]を結ぶ[[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]]の{{仮リンク|ノリスタウン高速線|en|Norristown High Speed Line}}。後者は1990年代に車両が小型の電車に置き換わっており、今日では[[ライトレール]]としても扱われている。</ref>。インターアーバンは現在のアメリカの鉄道界からはほぼ消え去った存在であるが、草創期の日本の電気鉄道の手本となった存在であった。また、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]にて技術導入が途絶えたものの、戦後の1950年代後半まで日本の電車の近代化は多くがアメリカのインターアーバンで採用された技術に基づいており、歴史上極めて重要な存在である。特に[[1941年]]に[[ウェスティングハウス・エレクトリック|WH社]]の技術で開発された[[WN平行カルダン駆動方式|WN駆動装置]]を搭載して登場した、[[シカゴ・ノースショアー・アンド・ミルウォーキー鉄道|シカゴ・ノースショアー線]]の[[エレクトロライナー]]型高速急行電車は、初の本格的な高性能高速電車として、アメリカ電車史上最高の傑作車両として現在でも高く評価されている。
地下鉄や路面電車/LRTの分野ではもちろん電車が主力である。LRTに関しては、インターアーバン激減期からあまりにも製造が途絶えたためにアメリカの電車製造技術が大幅に停滞し、これに伴い鉄道車両メーカーの解散や事業譲渡が相次ぎもはや電車を手掛ける国内メーカー自体皆無に等しいため、日本やドイツの技術を用いて作られた電車も多い。
=== 中南米 ===
中南米では、旅客鉄道は衰退傾向にあり、国鉄ではあまり電車は使われていない。各国の首都など人口規模の多い大都市が多いため、中南米には[[地下鉄]]が多い。フランス製のゴムタイヤ地下鉄の採用例が多い。[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス地下鉄|ブエノスアイレスの地下鉄]]は、日本の地下鉄と同じ規格だったことから、営団地下鉄(現在:[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]や[[名古屋市営地下鉄]]の中古電車が輸出されて使われている。
== 「EC」と「EMU」 ==
電車は、2通りの英訳がなされる。
#'''Electric Car''' 略称:'''EC'''
#'''Electric Multiple-Unit''' 略称:'''EMU'''
「Electric Car」は、通常、[[路面電車]]等で用いられる単行、もしくは2、3両程度の、軽便な軌道用の車両を指す。しかし、日本ではその導入の由来、発展の経緯から、すべての電車を「Electric Car」としている。
一方、「Electric Multiple-Unit」は、主に[[英語圏]]で使用される言葉である。「Multiple-Unit」は、[[動力分散方式]]と訳されることが多いが[[総括制御]]方式というような意味もあり、[[TGV]]とその派生車両や、ICE 1, ICE 2のように、無動力の[[客車]]を編成両端の[[機関車]]とも言える[[動力車]]ではさんだもの、また[[スイス連邦鉄道|スイス国鉄]]のRAe1050TEEⅡ型電車のように、逆に中央にのみ集中型の動力車を置くもの、さらには[[スイス]]や[[オランダ国鉄]]のように、客車列車の一端の電気機関車にも若干の客席を設けたものなど、日本の電車の概念には当てはめ難いものも多く含む。
TGVやICE 1・2の中間車は、通常の機関車による牽引、推進運転には対応しておらず、必ず専用の動力車との固定編成が組まれるが、日本では通常、この形態は「電気機関車 + 客車」の、[[動力集中方式]]として認識される場合が多い<ref group="注釈">[[:en:Push-pull train|英語版ウィキペディアなど]]、英語圏ではこの種類の列車は"Push-pull Train"と認識される。</ref><ref group="注釈">専用機関車と言う考え方は日本でもAREBブレーキ化後の[[国鉄20系客車]]のような例があるため、むしろそのように取られる。</ref>。
なお、[[新幹線]]用電車は「'''Trunc line Electric Car'''」(略称:'''TEC''')である。
== 構造 ==
{{Main2|ここでは、電車に共通的な内容についてのみ述べる。下記[[#電車の分類]]に掲載されている各記事も}}
=== 走り装置 ===
[[File:4trams vienna.jpg|thumb|[[路面電車]]の一例 ([[ウィーン市電]])]]
黎明期の小型車や[[路面電車]]では、[[単車]]とも呼ばれる[[二軸車 (鉄道)|二軸式]]が普及したが、現在の高速電車では、[[連接台車|連接式]]を含め、ほとんどが二軸の[[ボギー台車|ボギー式]]である。
[[バリアフリー]]化を目的とした[[超低床電車]]では、通しの[[軸 (機械要素)|車軸]]を持たない左右独立[[車輪]]で首を振らない台車や、[[一軸台車]]なども使われる。
直流電動機の直並列制御を用いるのが一般的な電車においては、電動機が偶数個である必要があり、動軸も偶数である。また駆動システムでモノモーター方式を採用する場合にも、[[空転]]を防ぐため二軸駆動とすることが求められる。このため、[[軽便鉄道]]の気動車などに見られる[[片ボギー]]式の採用例は、過去に栃尾電鉄で見られたように、気動車の[[機関 (機械)|エンジン]]を撤去し、そこに電動機を装架する、といった特殊なケースを除くと事実上皆無である。
=== 動力 ===
[[ファイル:515-rot.jpg|thumb|西ドイツ国鉄(当時)の蓄電池電車[[:en:DB Class ETA 150|ETA150]]]]
線路上空に設けられた[[架線]]、または線路脇に設けられた[[第三軌条方式|第三軌条]]に接した[[集電装置]](架線の場合は大半がパンタグラフで、ごくまれにトロリーポールまたはビューゲル、第三軌条方式の場合は集電靴)から、また、蓄電池式のものは蓄電池から電流を車両内の回路へと取り入れる。取り入れられた電流はまず断流器を通り、[[主制御器]]へと流れる。[[交直流型電車]]で[[交流]]電流を使用する場合は、主制御器に入る前に[[変圧器]]で[[特別高圧]]から[[高圧]]に電圧降下された後、[[整流器]]で交流を直流に整流する。[[交流型電車]]では、[[変圧器]]で[[特別高圧]]から[[高圧]]に電圧降下された後、主制御器である[[主変換装置|VVVF制御]]や[[サイリスタ位相制御]]に送られる。半導体制御を用いない交流電車では[[電気車の速度制御#タップ制御|タップ制御]]のように降圧・整流の機構が主制御器と一体化している場合もある。
電流は続いて主制御器で電圧を制御した上で駆動系へと流れ、[[鉄道車両の台車|動力台車]]に装荷されている[[主電動機]]を駆動する。主電動機は、回転運動を[[歯車]]により車軸へ伝達し、車軸が回転する。地下鉄などの車上一次式[[リニアモーター]]を用いた電車は、動力台車内の[[電磁石]]と線路上の固定電磁石(リアクションプレート)の間に生じる力によって走行する。
=== 制御 ===
複数車両が連結された場合、[[総括制御]]が行われる。すなわち、先頭車両の運転席に設けられた[[マスター・コントローラー]](マスコン)を操作することにより、2両目以降の車両にも指令が電気信号によって送られ、編成中のすべての車両の電動機の駆動や[[電気ブレーキ]]を操作する。[[直接制御方式]]の場合は2両目以降の車両にも運転士が乗り、先頭車の運転士からの指示に従い、協調運転を行う必要がある。
電気信号は、車両の連結面の下部に設けられている[[ジャンパ連結器|ジャンパ栓]]や連結器下部に備わる[[連結器#電気連結器|電気連結器]](電連)を介して送られる。
=== ブレーキ ===
日本の鉄道車両は法規上、2系統以上のブレーキを装備することが義務付けられており、電車には鉄道車両で一般的な留置用の機械ブレーキと、制動用の[[空気ブレーキ]]が備えられている。[[超低床電車]]の一部では、圧縮空気を利用した機構を一切用いないエアレス式のものがあり、その場合は[[電気ブレーキ]]のみを常用して停車直前に機械式ブレーキを用いる(他に、例外的なものとして、動態保存された明治期の電車が手動の機械式ブレーキを常用している)。
電車の空気ブレーキは、単行電車では[[直通ブレーキ]]、連結運転では[[自動空気ブレーキ|自動ブレーキ]]が用いられる。大都市近郊の通勤電車などでは長編成で高密度運転をするために、一部では電磁自動ブレーキも用いられた。いわゆる[[新性能電車|高性能電車・新性能電車]]では[[電磁直通ブレーキ]]が一般化し(日本では1950年代から)、その後[[電気指令式ブレーキ]]に移行した。現役車両では主に後2者が用いられている。現在では、これらの常用ブレーキのほか、常用ブレーキの異常に備え、別系統の空気ブレーキである、直通予備ブレーキが設置されている。これは事業者によっては保安ブレーキなどの名称で呼ぶ場合がある。
その他に、走行用電動機を利用した電気ブレーキを持つものが多く、電動機の発生電流を車上の抵抗器で熱に換える「[[発電ブレーキ]]」と、架線や第三軌条に返す「[[電力回生ブレーキ]]」に大別できる。このほかの電気ブレーキには、[[電磁誘導]]を利用した「[[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ]]」、[[電磁石]]を[[レール]]に吸い付ける「[[電磁吸着ブレーキ]]」などがある。
電車には2通りの止まり方ある。高い段階のブレーキをかけて徐々に緩めて、低い段階のブレーキをかけた状態で止まる方法と(関東地方の私鉄に多く見られる止まり方なので通称「関東式」)と、高い段階のブレーキをかけてから中段階のブレーキを一定にかけて、停車寸前でブレーキを解放して止まる方法(近畿地方(関西)の私鉄の多く見られる止まり方なので通称「関西式」、または「余圧止め」)の2つである。
=== 動力以外の電源 ===
制御系機器の電源として、また室内灯や冷暖房などのサービス電源用として、架線から取り入れた電力により[[電動発電機]]または[[静止形インバータ]]装置を作動させる。
== 長所・短所 ==
[[機関車]]が[[客車]]を牽引する列車の方式([[動力集中方式]])に比較して、以下のような特徴が挙げられる。
=== 主な長所 ===
*動輪など走行装置を多数分散させていることからのメリット。
**重量あたりの牽引力を大きくでき、加速性能が良い。
**[[MT比]]にもよるが、両数の増減による編成としての出力特性の変化が少ない。
**一部の電動車が故障しても、運転が続けられるため冗長性が高い。
**動力車の重量が分散するため、[[線路 (鉄道)|線路]]に掛かる軸重が抑えられ、軌道破壊力が低い。線路敷設や保線にかかるコストが低減できる(新幹線が欧米の主流である機関車牽引の客車方式ではなく、電車方式で計画されたのは[[島秀雄]]がこの点を推したためといわれている)。
*[[電動機]]を制動用発電機として使えるため、ブレーキシューやパッドの交換周期が延長でき、ブレーキダストも低減できる。また、[[回生ブレーキ]]とすることで、運動エネルギーの一部を回収できるため[[省エネルギー|省エネ]]効果が高い。
*自走でき、始発駅や終着駅で方向転換(折り返し)の際に[[機回し]]が不要なため、運行効率が高い<ref group="注釈">但しこの長所は、動力集中方式であってもプッシュプル方式を採用することで得ることができる。</ref>。
=== 主な短所 ===
*動力を客車の床下に搭載しているため騒音や振動が客車に比べ多い。
*機器類の分散配置は、特に長大編成の場合、動力集中方式に比してイニシャルコスト、メンテナンスコストともに大幅に増大する。
<!-- *機器搭載のために構造に制約を受け、客室の居住性が犠牲になる場合がある。 客室優先の設計をするのでは? 床置きクーラー? それとも二階建て車両? -->
*車両ごとに役割と搭載機器が決められたユニット方式の場合、需要に応じての増車、減車が難しい。
*現役の電車の空気ブレーキは、ほとんどが[[電気指令式ブレーキ|電気指令式]]か[[電磁直通ブレーキ]]であるが、両者が混在する場合には読み替え装置が必要である。また、電車以外では現在も一般的な[[自動空気ブレーキ]]の鉄道車両と電車([[国鉄203系電車|203系]]以前の国鉄型電車などを除く)とを連結する際も、読み替え装置を用いるか電車側に自動ブレーキ機器を仮設する必要がある。
*ブレーキ系以外に、制御回路やサービス系機器の引き通し線の規格が違っていると相互の連結が出来ないので、営業列車の分割・併合を頻繁に行なう事業者では、異系列の電車の間でこれらの規格を統一するか読み替え装置を搭載しておかないと、車両運用に大きな制約を受ける。
*電化されている必要があり、基本的には同一の電気方式による電化区間しか走行できない。多種の電源を使用可能にする車両もあるが、単一のものに比べてコストが高い。また、電車による直通運転を行う場合、コスト回収の期待が出来ない末端閑散線区まで電化されている必要がある。
== 電車の分類 ==
[[File:東京モノレール10000形.jpg|thumb|[[モノレール]]の一例 ([[東京モノレール]])]]
*サービス形態による分類
**[[客車]]を参照
*備えている機能によるもの
**[[制御車]](先頭車)
**[[動力車|電動車]]
**[[制御車|制御電動車]]
**[[付随車]]
*事業形態による特別な区分
**[[新幹線]]
**[[路面電車]]([[市電]]など)
**LRT([[ライトレール]]、Light Rail Transit)
**[[新交通システム]]車両
**[[モノレール]]車両
**[[トロリーバス]]車両(無軌条電車)
*駆動系による分類
**[[吊り掛け駆動方式]]
**[[カルダン駆動方式]]
***[[中空軸平行カルダン駆動方式]]
***[[WN駆動方式]]
***[[TD平行カルダン駆動方式]]
***[[直角カルダン駆動方式]]
**[[リニアモーターカー|リニアモーター駆動]]
***[[磁気浮上式鉄道|磁気浮上式]]([[HSST]]、[[トランスラピッド]]) - なお、[[超電導リニア]]は車両側に浮上用・走行用の電力を必要としない
***鉄輪式([[ミニ地下鉄]]、リニアメトロ) - [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]、[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|大阪メトロ長堀鶴見緑地線]]、[[Osaka Metro今里筋線|大阪メトロ今里筋線]]などが採用
*制御系による分類([[電気車の速度制御]])
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; margin-left: 2em;"
|- style="text-align: center;"
!rowspan="2" style="width: 10em;"|制御方式
!rowspan="2" style="width: 8em;"|電化方式
!rowspan="2" style="width: 6em;"|電動機
!colspan="2"|速度制御の方法
!rowspan="2" style="width: 8em;"|[[回生ブレーキ]]
!rowspan="2" style="width: 12em;"|摘要
|-
!style="width: 10em;"|定トルク制御域
!style="width: 10em;"|定出力制御域
|- style="text-align: center;"
![[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]
|rowspan="4"|[[直流電化|直流]]・(交流)*
|rowspan="2"|[[直巻整流子電動機|直巻]]
|抵抗制御<br />(+組合せ制御)
|rowspan="2"|分流回路による<br />[[電気車の速度制御#弱め界磁|弱め界磁]]
|style="background: #ccc;"|一般に不可
|rowspan="3"|
|- style="text-align: center;"
![[電機子チョッパ制御|チョッパ制御]]<br />(電機子チョッパ)
|チョッパ装置による<br />電圧制御
|可
|- style="text-align: center;"
![[界磁位相制御]]<br />[[界磁チョッパ制御]]
|[[複巻整流子電動機|複巻]]
|rowspan="2"|抵抗制御<br />(+組合せ制御)
|分巻界磁の制御<br />による弱め界磁
|可
|- style="text-align: center;"
![[界磁位相制御|直巻他励界磁制御]]<br />[[界磁添加励磁制御]]
|直巻
|界磁接触端子を用いた回路形成による<br />電流の添加による弱め界磁(※)
|可
|style="text-align: left; width: 12em;"|※界磁の位相制御に別途交流電源が必要<ref group="注釈">戦後の日本では電力用の低圧三相交流電源を使用しているが、原理上は単相交流でも問題ない。</ref>。
|- style="text-align: center;"
![[電気車の速度制御#タップ制御|タップ制御]]
|rowspan="2"|[[交流電化|交流]]
|rowspan="2"|直巻
|変圧器のタップ切換<br />による電圧制御
|rowspan="2"|分流回路による<br />弱め界磁(※)
|style="background: #ccc;"|不可
|rowspan="2" style="text-align: left; width: 12em;"|※定トルク制御のみとする場合もあり。
|- style="text-align: center;"
![[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]]
|位相制御による<br />電圧制御
|可<br />(要サイリスタ<br />インバータ)
|- style="text-align: center;"
![[可変電圧可変周波数制御|インバータ制御]]
|直流・(交流)
|[[かご形三相誘導電動機|かご形誘導]]
|可変電圧<br />可変周波数制御
|すべり周波数制御
|可
|
|}
* 電力(電化方式)による分類
** [[直流型電車]]
** [[交流型電車]]
** [[交直流電車]]
* 電源による分類
** [[集電装置#架空電車線方式|架空電車線方式]]
** [[集電装置#第三軌条集電方式|第三軌条]]・[[集電装置#四軌条方式|第四軌条方式]]
** [[二次電池|蓄電池]]式
** [[非接触電力伝送|非接触式]]
== 日本語における「電車」の誤用について ==
各個人の鉄道車両に対する認識の違いから、鉄道車両全体に対し非電化車両までも「電車」と呼んだり、逆に電化車両までも「汽車」と呼んだりする言葉の誤用は広く存在する。
日本では[[人口集中地区|人口集中地域]]における鉄道車両がほぼ電車であることから、鉄道車両全般を電車と総称する[[誤用]]が多く見られる<ref group="注釈">この誤用はかなり広まっており、[[司馬遼太郎]]の「[[街道をゆく]]」にも、オホーツク街道篇の[[札幌駅]]のくだりで「[[稚内駅|稚内]]ゆきの急行電車」という記述が登場する(司馬遼太郎全集64巻P127)。稚内へ通じている[[宗谷本線]]は2021年現在でもほとんどの部分が非電化で、もちろん「[[稚内駅|稚内]]ゆきの急行'''電車'''」が来ることはありえない。</ref>。例えば、目の前に停車している気動車や客車を指して、旅客が駅員や乗務員に「電車」と問い合わせることが該当する。また、電化されていない路線の[[鉄道駅|駅]]で、[[駅員]]に列車について「電車」と問い合わせる事も同様である<ref group="注釈">。また、若い職員を中心に、電車以外の車輌の案内に電車と言う職員も居り、知識としては考えれば正しく言うが、普通に話したりする時や、乗客への案内には電車と無意識に案内して居た。ただし、近年は非電化区間でも運行可能な[[二次電池|蓄電池]]電車が普及しつつあり、これら[[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]・[[JR東日本EV-E801系電車|EV-E801系]]・[[JR九州BEC819系電車|BEC819系]]を運行する路線では誤用とはいえない。また、クルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]](E001形電車)」においても電車定義で非電化区間を走行可能なので同様である。</ref>。滑稽な例として、蒸気機関車列車を指して「[[蒸気機関車|SL]]電車」とテレビ番組で表現しているケースもある<ref name="chuplus_omment_id=6799&comment_sub_id=0&category_id=264">{{Cite web|和書|work=[[中日新聞]]プラス |website=伊藤博康のテツな“ひろやす”の鉄道小咄 |date=2017年8月15日 |url=http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=6799&comment_sub_id=0&category_id=264 |title=鉄道“超”基礎知識(1)「汽車」「電車」「列車」の違いとは? |publisher=[[中日新聞社]] |accessdate=2018年8月26日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180128204240/http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=6799&comment_sub_id=0&category_id=264 |archivedate=2018年1月28日}}</ref>。
逆に1980年代までは、[[蒸気機関車]]時代からの名残で[[日本国有鉄道|国鉄]]や[[JR]]の電車を「[[汽車]]」と呼ぶ人もおり、現代でも年配者の一部に見受けられる。[[踏切]]の[[踏切#道路管理者の設置する標識|道路標識]]でも汽車および一般的な鉄道車両マークで定義している{{Efn|[[出雲市駅]]付近の踏切で[[一畑電車]]を「電車」とし、[[山陰本線]]を「汽車」と表現している例がある<ref name="chuplus_omment_id=6799&comment_sub_id=0&category_id=264" />。}}<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/sign/sign/douro/ichiran.pdf 道路標識一覧]}}、国土交通省。</ref>。
鉄道車両の種別が混同する事情もあるため鉄道事業者としては、電車以外で車両種別の運行がある[[JR]]グループ・[[第三セクター鉄道]]事業者・[[私鉄]]では'''「列車」'''と表現することが多く、駅ホームにおける鉄道車両が接近の際に「列車が到着します」等の表示設備のある[[鉄道駅]]や、[[列車種別]]や運行系統によって[[駅自動放送]]・[[発車標|電光掲示板の発車標]]で使い分けている所もある{{Efn|[[渋谷駅]]の[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]ホームでは、どちらも[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]の電車で運行される埼京線と[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]]系統について、前者は「電車」、後者は「列車」として案内している<ref>[https://trafficnews.jp/photo/107275#photo5 「列車がまいります」「電車がまいります」同じ駅で表記使い分け なぜ?(画像5枚目)] 乗りものニュース、2021年5月20日(2021年9月6日閲覧)。</ref>。}}。ただし、人口集中地域や後述の[[私鉄]]でも主に「電車」「電気鉄道」「電鉄」と公式通称も含めて末尾表記されている鉄道事業者において、電車運行しかない鉄道駅の場合は「電車」を普遍的に駅放送や発車時刻表示の接近表示としている駅・事業者も存在する。他には[[電車線・列車線]]での区別、各駅で採時を取る「列車ダイヤ」と一部駅のみで採時を取る「電車ダイヤ」といった運用上の区別もある。
日本国外においては、[[高速鉄道]]や[[先進国]]の人口集中地域以外においての鉄道路線の電化が日本の次元で普及していない事情もある。また、外国語でも「列車」に当たる表現を英語を例に挙げると"train"が鉄道車両の意味に相当するため、鉄道車両を「電車」という表現で示すことは稀である。([[#「EC」と「EMU」|「EC」と「EMU」]]も参照)
<gallery>
ファイル:トワイライトエクスプレスにおける大阪駅ホーム電光掲示板での接近表示.jpg|「列車」での列車接近表示例([[寝台列車|寝台特急]])<ref group="注釈">当該列車は行き先が「札幌」とある様に[[トワイライトエクスプレス]](「客車」列車)の接近表示である。</ref><br>([[大阪駅]]・2008年11月)
ファイル:長浜駅ホーム電光掲示板における列車接近表示.jpg|「電車」での列車接近表示例([[新快速]]列車)<br>([[長浜駅]]・2016年5月)
ファイル:近鉄京都駅・列車時刻表示(列車接近表示あり).jpg|「電車」での列車接近表示例(近鉄[[特別急行列車|特急]])<br>([[京都駅#近畿日本鉄道|近鉄京都駅]]・2017年4月)
</gallery>
== 私鉄における「電車」 ==
[[File:東武浅草駅 - panoramio.jpg|180px|right|thumb|駅舎改装まで[[東武鉄道]][[浅草駅]]入口に掲げられていた「東武電車」表記のネオン看板(2008年撮影)]]
官営鉄道の電化が遅く、逆に私鉄の電化が盛んであった関西圏を中心に、私鉄の路線を「'''○○電車'''」と呼び替えることが定着しており<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=私鉄の呼称 関西なぜ「○○電車」(とことんサーチ)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH30H09_S5A021C1AA2P00/|website=日本経済新聞|date=2015-10-31|accessdate=2021-08-06|author=岩井淳哉}}</ref>、自社の鉄道事業およびその路線について、公式で「○○電車」と称する鉄道事業者がある。「阪神電車」([[阪神電気鉄道]])、「京阪電車」([[京阪電気鉄道]]){{Efn|日経新聞の取材に対し、広報担当者は「京阪電車」の呼称の由来について「明快な理由はわからない」としながらも、「京阪は愛称として『電車』を大切にしている」と説明している<ref name=":0" />。}}、「山陽電車」([[山陽電気鉄道]])や、関西以外では「静鉄電車」( [[静岡鉄道]])、「遠鉄電車」([[遠州鉄道]])などが挙げられる。[[一畑電車]]([[一畑電気鉄道]])や[[岳南電車]]([[岳南鉄道]])のように、鉄道部門を運営する子会社名に「電車」を用いる事業者も現れている。
かつては[[阪急電鉄]]{{efn|[[阪急電鉄]]は「''阪急電車''」の呼称を長らく使用していたが、「わかりやすい告知」を目的として1990年代に車内アナウンスを含む社内での呼び方を「阪急電鉄」に統一した。ただし、小説『[[阪急電車 (小説)|阪急電車]]』のタイトルに見られるように、市井では未だにこの呼称が定着している<ref name=":0" />。}}・[[京成電鉄]]・[[東武鉄道]]・[[京王電鉄]]などもこの呼称を使用していた。また、国有鉄道においても、鉄道省時代には「省線電車」や「省電」、国鉄時代には[[国電]]という[[用語]]があった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Electric multiple units}}
* [[機関車]]
* [[気動車]]
* [[客車]]
* [[貨車]]
* [[鉄道の電化]]
* [[電気鉄道]]
* [[遮光幕]]
* [[前照灯]]
* [[尾灯]]
* [[ドラムスイッチ]]
* [[電車唱歌]]
* [[寝台列車]]([[夜行列車]])
* [[電車線・列車線]]
* [[電気車の速度制御]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{電気電力}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんしや}}
[[Category:電車|*]] | 2003-03-27T03:57:49Z | 2023-12-04T14:48:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%BB%8A |
5,271 | 普化宗 | 普化宗(ふけしゅう)は、日本仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
江戸時代には虚無僧の集団による特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装が決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
1950年、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された。
普化宗諸流には16派があると伝えられている。しかし、諸説がある。 | [
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] | 普化宗(ふけしゅう)は、日本仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。 | {{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 07:18 (UTC)}}
[[ファイル:Myoanji.jpg|thumb|普化正宗総本山 明暗寺]]
'''普化宗'''(ふけしゅう)は、[[日本の仏教|日本仏教]]の[[禅宗]]のひとつ。[[9世紀]]に[[中国]]で[[臨済義玄]]と交流のあった[[普化]]を始祖とするため、[[臨済宗]](禅宗)の一派ともされる。普化は'''神異'''の僧であり、[[神仙]]的な逸事も多く、伝説的要素が強い。'''虚無宗'''(こむしゅう)とも言い<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%99%AE%E5%8C%96%E5%AE%97 普化宗とは] - [[コトバンク]]/[[世界大百科事典]]</ref>、[[虚鐸]]([[尺八]])を吹きながら旅をする[[虚無僧]]で有名。
== 歴史 ==
[[1249年]](建長6年)日本から中国([[南宋]])に渡った'''[[心地覚心]]'''が、中国普化宗16代目[[張参]]の弟子である'''宝伏'''・'''国佐'''・'''理正'''・'''僧恕'''の4人の在家の居士を伴い、[[1254年]]に帰国することで、日本に伝わった。[[紀伊国|紀伊]]由良の[[興国寺 (和歌山県由良町)|興国寺]]山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を[[触頭]]として支配下に入り存続した。
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、[[北条経時]]の帰依を受け、[[下総国]]小金(現在の[[千葉県]][[松戸市]]小金)に金龍山梅林院[[一月寺]]を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の[[埼玉県]][[幸手市]])に廓嶺山虚空院[[鈴法寺公園|鈴法寺]]を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
[[江戸時代]]には虚無僧の集団による特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、[[尺八]]を法器と称して禅の修行や[[托鉢]]のために吹奏した。[[1614年]]([[慶長]]19年)に[[江戸幕府]]より与えられたとされる「[[慶長之掟書]]」により、虚無僧の入宗の資格や服装が決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
[[江戸幕府]]との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、[[明治]]になって政府により[[1871年]]に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は[[日蓮正宗]]の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし[[尺八]]や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、[[尺八]]楽の歴史上重要な存在である。
[[1950年]]、[[宗教法人]]として普化正宗[[明暗寺]]が再興された。
== 普化宗諸流 ==
普化宗諸流には16派があると伝えられている。しかし、諸説がある。
#金先・奇竹・梅土・不智・養沢・芝隣・義文・隠巴・宗和・錐南・短尺・野木・児派・括総・小菊・根笹
#金先・奇竹・梅土・不智・養沢・芝隣・義文・隠巴・宗和・錐南・短尺・野木・児派・火化・夏漂・司祖
==脚注・出典==
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== 参考文献 ==
*山下彌十郎著『虚無僧-普化宗鈴法寺の研究-』多摩郷土研究の会、[[1972年]](昭和47年)
*武田鏡村著『虚無僧-聖と俗の異形者たち-』三一書房、1997年12月
== 関連項目 ==
* [[楠木正勝]] - [[楠木正成]]の孫。高僧の虚無は、[[南朝 (日本)|南朝]]総大将の正勝が、南朝崩壊後に世を儚んで出家した身だったという伝説がある。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Fuke school}}
*[http://fuke-shakuhachi.com/ 普化宗尺八]
*{{Wayback|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~komuken/ronsetsu1.html |title=普化宗の「一音成仏」と「音声説経」について |date=20140424100452}}
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[[Category:現存しない日本の仏教宗派]] | 2003-03-27T04:02:38Z | 2023-10-16T18:36:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E5%8C%96%E5%AE%97 |
5,274 | 円覚寺 | 円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ 山号: 瑞鹿山)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。
鎌倉幕府8代執権北条時宗(1251年 - 1284年)は、仏法興隆とともに、元(蒙古)軍の襲来した文永、弘安の役の両軍戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年(1279年)に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。
山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。また寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘ったところ、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるという(『本朝高僧伝』等による)。
当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
円覚寺は弘安10年(1287年)以降たびたび火災に遭っている。中でも応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元禄16年(1703年)の震災などの被害は大きく、1923年(大正12年)の関東大震災でも仏殿などが倒壊する被害を受けている。
創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であった。永禄6年(1563年)の大火で古い建物は失われた(舎利殿は他所からの移築)。法堂は再建されていない。
塔頭の本義は、祖師や高僧の墓塔を守るために、師の徳を慕う弟子らが建立した小寺院を意味するが、転じて大寺院の境内周辺に建てられた小寺院を指す。円覚寺には最盛期には42か院の塔頭があったが、現在は19か院を残す。塔頭のうち常時公開されているのは佛日庵、黄梅院、桂昌庵(閻魔堂)のみ。松嶺院は春秋などに時期を限って公開。他の塔頭は原則非公開である。
上記の文化財のうち、国宝の梵鐘は常時見学可能。梵鐘、木造仏光国師坐像、須弥壇、東明禅師坐像(白雲庵)以外の重要文化財の大部分は鎌倉国宝館に寄託されており、同館の展示で順次公開されるほか、例年11月3日前後に3日間行われる「宝物風入れ」という行事の際、寺内で公開される。なお、近くの建長寺でも同時期に同様の「宝物風入れ」が実施される。
※典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
以上2件は旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されていたが、関東大震災時に続燈庵で火災が発生した際に焼失した。
円覚寺に伝来する、「開山箪笥」(かいさんたんす)と称される箪笥の引き出しに収納される染織品等の一括遺品で、寺では開山無学祖元所用の遺品と伝えて重視している。箪笥は平素は封印されており、年に一度、11月3日前後に行われる「宝物風入れ」の際にのみ、封が解かれ収納品が公開される。収納品には、中国及び日本の中世の染織品が含まれ、染織工芸史研究上、貴重な資料である。昭和54年(1979年)に重要文化財に指定された。指定品の明細は以下のとおりである。
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}
] | 円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。 JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。 | {{otheruses}}
{{日本の寺院
|名称 = 円覚寺
|画像 = [[画像:Engakuji Sanmon Kamakura.jpg|260px]]<br />円覚寺山門
|地図 = Japan Kanagawa#Japan
|地図2 = {{Maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=14|frame-align=center|frame-width=250|marker=place-of-worship}}
|所在地 = 神奈川県鎌倉市山ノ内409
|緯度度 = 35|緯度分 = 20|緯度秒 = 15.73
|経度度 = 139|経度分 = 32|経度秒 = 50.99
|山号 = 瑞鹿山(ずいろくさん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}
|院号 =
|寺号 = 円覚興聖禅寺
|宗旨 = [[臨済宗]]
|宗派 = [[臨済宗円覚寺派|円覚寺派]]
|寺格 = [[大本山]]<br />[[鎌倉五山]]二位{{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}
|本尊 = [[宝冠釈迦如来]]
|創建年 = [[弘安]]5年([[1282年]]){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}
|開山 = [[無学祖元]]{{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}
|開基 = [[北条時宗]]{{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}
|中興年 =
|中興 =
|正式名 = 瑞鹿山円覚興聖禅寺
|別称 =
|札所等 = [[鎌倉三十三観音霊場|鎌倉観音霊場]]第三十三番<br />[[鎌倉地蔵霊場]]十四番<br />[[東国花の寺百ヶ寺]] 鎌倉11番
|文化財 = 舎利殿、梵鐘(国宝)<br />絹本著色[[五百羅漢]]像33幅、絹本著色被帽地蔵菩薩像ほか(重文)
|公式HP = https://www.engakuji.or.jp/
|公式HP名 = engakuji.or.jp
}}
'''円覚寺'''(えんがくじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]][[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]にある[[寺院]]。正式には'''瑞鹿山円覚興聖禅寺'''(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ [[山号]]: '''瑞鹿山''')と号する。[[臨済宗円覚寺派]]の[[大本山]]であり、[[鎌倉五山]]第二位に列せられる。本尊は宝冠[[釈迦如来]]、開基は[[北条時宗]]、開山は[[無学祖元]]である。
[[鎌倉時代]]の[[弘安]]5年([[1282年]])に[[鎌倉幕府]][[執権]]・北条時宗が[[元寇]]の戦没者追悼のため中国僧の[[無学祖元]]を招いて創建した。[[得宗|北条得宗]]の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて[[北条氏]]に保護された。
JR[[北鎌倉駅]]の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日[[坐禅会]]が実施されている。かつて[[夏目漱石]]や[[島崎藤村]]、[[三木清]]<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46220_25754.html 読書遍歴]三木清、青空文庫</ref>もここに参禅したことが知られる。
== 歴史 ==
[[画像:Shinpen Kamakurashi Kita Kamakura.jpg|thumb|円覚寺の図([[新編鎌倉志]]){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=69}}]]
鎌倉幕府8代執権[[北条時宗]](1251年 - 1284年)は、仏法興隆とともに、元(蒙古)軍の襲来した文永、弘安の役の両軍戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した<ref>{{Cite book|和書 |title=鎌倉史跡散策 上 |date=平成24年12月9日 |publisher=鎌倉春秋社 |page=247}}</ref>。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に[[無学祖元]](仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧[[蘭渓道隆]]([[建長寺]]初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年([[1279年]])に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・[[北条時頼]]が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、[[官寺]]的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった<ref>(貫、1996)、p.</ref>。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる<ref name="名前なし-1">(三浦、2006)、p.</ref>。
山号の「'''瑞鹿山'''」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『[[元亨釈書]]』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「'''白鹿洞'''」がある。また寺号の「'''円覚'''」は、時宗と[[蘭渓道隆]]とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘ったところ、地中から石櫃(いしびつ)に入った'''円覚経'''という経典が発掘されたことによるという(『本朝高僧伝』等による)<ref name="名前なし-1"/>。
当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
円覚寺は弘安10年([[1287年]])以降たびたび火災に遭っている。中でも[[応安]]7年([[1374年]])の大火、[[大永]]6年([[1526年]])の[[里見義豊]]の兵火、[[永禄]]6年([[1563年]])の大火、[[元禄]]16年([[1703年]])の震災などの被害は大きく、[[1923年]]([[大正]]12年)の[[関東大震災]]でも仏殿などが倒壊する被害を受けている。
== 伽藍 ==
創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・[[法堂]](はっとう)<!--「ほうどう」等と誤読したまま読み進める可能性があるので、初出のみ読み仮名付す。-->・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であった。永禄6年(1563年)の大火で古い建物は失われた(舎利殿は他所からの移築)。法堂は再建されていない。
; 馬道(めどう、うまみち)
: 北鎌倉駅前の山ノ内交番付近で[[鎌倉街道]]に並行している小道。本来の円覚寺境内は鎌倉街道が通る位置も含み、鎌倉側、大船側の境内外境にそれぞれ門が設置されていたため、馬道が境内を通らない迂回路として形成された。馬道と鎌倉街道との間に円覚寺境界の[[土塁]]がある。なお、鎌倉街道にあった門は、関東大震災で倒壊した後再建されず、近年まで門柱の一部のみ残存していたが、これも撤去されている。
; 白鷺池(びゃくろち)
: 円覚寺総門の手前、横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部である。[[明治]]時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR[[横須賀線]])の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっている。「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、[[鶴岡八幡宮]]の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むという{{sfn|新編鎌倉志|1915|p=68}}。
; 総門
: 瑞鹿山の額が掲げられている{{sfn|新編鎌倉志|1915|p=68}}。
; 三門(山門)
: [[天明]]5年([[1785年]])、大用国師[[誠拙周樗]]が再建したものと言われる。「円覚興聖禅寺」の額字は[[伏見天皇|伏見上皇]]の勅筆とされる。楼上には[[十一面観音]]、十六羅漢像などを安置する。<gallery widths="240">
ファイル:円覚寺三門(山門).JPG|円覚寺三門(山門)
ファイル:円覚寺山門の扁額.jpg|山門に掲げられた扁額
ファイル:円覚寺山門.jpg|円覚寺山門
</gallery>
; 仏殿
:関東大震災で倒壊し、 [[1964年]]([[昭和]]39年)再建。鉄筋コンクリート造だが、[[元亀]]4年([[1573年]])の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられている。堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や[[梵天]]・[[帝釈天]]像などを安置する。天井画の「白龍図」は[[前田青邨]]の監修で日本画家[[守屋多々志]]が描いた。
; [[僧堂|選仏場]]
: 元禄12年([[1699年]])建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場である。内部には[[薬師如来]]立像([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])を安置する。仏殿が再建されるまで、この堂が仏殿を兼ねていた。
; 方丈
[[File:円覚寺方丈.JPG|thumb|<center>円覚寺方丈</center>]]
: [[方丈]]は元来は寺の住持の住む建物を指すが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっている。前庭のビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝える。
; 舎利殿(国宝)
: [[ファイル:円覚寺舎利殿(国宝)の外観.jpg|サムネイル|円覚寺舎利殿(国宝)]]神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する[[塔頭]]・正続院の中にある。「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る重要な塔頭である。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建に見えるが一重[[裳階]]付きである。堂内中央には[[源実朝]]が[[南宋]]から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右に[[地蔵菩薩]]像と[[観音菩薩]]像が立つ。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の[[垂木]]を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、典型的な[[禅宗様]]の特徴を持つ。かつては鎌倉時代の建築と考えられてきたが、規模・形式が近似する[[正福寺 (東村山市)|正福寺]]地蔵堂が室町時代の応永14年(1407年)の建立とされたことから、同じ頃(15世紀前半)の建築と考えられている。また、鎌倉市西御門にあった尼寺[[太平寺 (鎌倉市)|太平寺]](廃寺)の仏殿を移築したものと推定されている。鎌倉時代建立の[[善福院 (海南市)|善福院]]釈迦堂(国宝、[[和歌山県]][[海南市]])や[[功山寺]]仏殿(国宝、[[山口県]][[下関市]])とともに、禅宗様建築を代表するものと評価されている。通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開される。なお[[神奈川県立歴史博物館]]に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができる{{efn|ただし、厨子や前机は本物とは異なり、菩薩像はない。}}。
; [[ファイル:円覚寺妙香池(2022年11月).jpg|サムネイル|円覚寺妙香池]]妙香池(みょうこうち)
: [[夢窓疎石]]作と伝える庭園の遺構である。
; 弁天堂
: 三門向かって右の[[鳥居]]をくぐり、長い石段を登りきった先に位置する。[[江ノ島]][[弁天]]と関係が深く、近くには[[梵鐘|洪鐘]](梵鐘)がある。
== 塔頭 ==
塔頭の本義は、祖師や高僧の墓塔を守るために、師の徳を慕う弟子らが建立した小寺院を意味するが、転じて大寺院の境内周辺に建てられた小寺院を指す。円覚寺には最盛期には42か院の塔頭があったが、現在は19か院を残す{{efn|「17か院」とする資料もある。}}。塔頭のうち常時公開されているのは佛日庵、黄梅院、桂昌庵(閻魔堂)のみ。松嶺院は春秋などに時期を限って公開。他の塔頭は原則非公開である<ref>本節の記述は、特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝 七百二十年の歴史を語る禅の文化』(五島美術館、2006)、pp.132 - 144、および、貫達人『円覚寺』(円覚寺発行、1996)、pp.53 - 56、かまくら春秋社編、2001、『鎌倉の寺小事典』[[かまくら春秋社]] ISBN 4774001732<nowiki/>による。</ref>。
; 正続院(しょうぞくいん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=74}}
: 円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。山号は'''万年山'''。本尊は[[文殊菩薩]]。無学祖元は弘安9年(1286年)、建長寺で没した。祖元の遺骨は建長寺に葬られ、墓塔ははじめ建長寺に建立され、[[正続庵]]と称した。その後[[建武 (日本)|建武2年]]([[1335年]])、円覚寺15世で祖元の法孫にあたる[[夢窓疎石]]は、[[後醍醐天皇]]の勅命を奉じて、正続庵を円覚寺に移して正続院とし、祖元の墓塔も円覚寺の裏山に強制的に移された。天明元年(1781年)には円覚寺中興と称される誠拙周樗によって正続院内に坐禅道場が開かれ、今日に至っている。境内奥には無学祖元の木像を安置する開山堂があり、その手前に建つ[[仏舎利|舎利殿]](昭堂)は鎌倉時代の禅宗様建築の代表例として国宝に指定されている。舎利殿は鎌倉市西御門にあった尼寺・[[太平寺 (鎌倉市)|太平寺]](廃寺)から移築したものである。
; [[ファイル:仏日庵.jpg|サムネイル|仏日庵]]佛日庵(ぶつにちあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=75}}
: 8代執権北条時宗の[[廟|廟所]](開基廟。9代執権[[北条貞時|貞時]]・14代執権[[北条高時|高時]]も合葬されている。本尊は[[地蔵菩薩]]。北条氏滅亡後は衰退したが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭とした。本堂には[[地蔵菩薩]]坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置。開基廟には[[十一面観音]]坐像([[鎌倉三十三観音霊場|鎌倉観音霊場第三十三番]])と北条時宗・貞時・高時の木像を安置。境内の茶室烟足軒は、[[鶴隠周音]]の寮舎(隠居所)の名を継いだもので、[[川端康成]]の小説『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』に登場する茶室のモデルとなった。また、[[1933年]](昭和8年)に[[中国]]の小説家・[[魯迅]]より寄贈された[[ハクモクレン]]と[[タイサンボク]]がある<ref>{{Cite web|和書|title=白木蓮|url=http://www.butsunichian.com/annnai/146/|website=圓覚寺山内佛日庵|accessdate=2021-01-13|language=ja}}</ref>。
; [[ファイル:黄梅院の外観.jpg|サムネイル|黄梅院]]黄梅院(おうばいいん)
: 第15世[[夢窓疎石]](夢窓国師)の塔所。山号は'''伝衣山'''。本尊は[[千手観音]]。[[文和]]3年([[1354年]])、[[華厳塔]]([[三重塔]])の跡地に夢窓の弟子の方外宏遠が開創した。
; 続燈庵(ぞくとうあん)
: 第30世[[大喜法忻]](だいきほうきん)の塔所。山号は'''万富山'''。本尊は[[観音菩薩]]。
; 如意庵(にょいあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第36世[[無礙妙謙]](むげみょうけん)の塔所。本尊は[[釈迦如来|宝冠釈迦如来]]。開基は[[上杉憲顕]]で[[応安]]3年([[1370年]])の創建。
; 蔵六庵(ぞうろくあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 宗務本所の南側の竹林の中に位置する。第2世[[大休正念]]の塔所。本尊は[[釈迦如来]]。大休正念が寿福寺に[[寿塔]](生前に建てる墓)として開創したもので、大休の没後、門弟によって円覚寺境内に移された。
; 帰源院(きげんいん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第38世[[傑翁是英]]の塔所。本尊は仏慧禅師(傑翁是英)。夏目漱石や島崎藤村が参禅したことで知られ、漱石の小説『[[門 (小説)|門]]』に登場する一窓庵は当院がモデルである。境内には漱石の句碑がある。
; 臥龍庵(がりょうあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第17世[[大川道通]](だいせんどうつう)の塔所。大川道通の廟。
; 正伝庵(しょうでんあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第24世[[明巌正因]]の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
; 寿徳庵(じゅとくあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第66世[[月潭中円]](げったんちゅうえん)の塔所。山号は'''南山'''。本尊は[[聖観音]]。
; 済蔭庵(さいいんあん)([[居士林]])
: 第58世[[曇芳周応]](どんぽうしゅうおう)の塔所。本尊は[[不動明王]]。現在は居士林、すなわち[[在家]]信者のための坐禅道場となっている。建物は牛込([[東京都]][[新宿区]])にあった柳生流の剣道場を、昭和3年([[1928年]])柳生徹心居士より寄進され移築したものである。
; 龍隠庵(りょういんあん)
: 居士林の裏手、長い石段を上った先にある。第102世大雅省音の塔所。本尊は聖観音。
; 松嶺院(しょうれいいん)
: 第150世[[叔悦禅懌]](しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、[[開高健]](作家)、[[田中絹代]](女優)、[[佐田啓二]](俳優)、[[坂本堤]](弁護士)など著名人の墓があることでも知られる。[[有島武郎]]はこの寺にしばしば逗留し、『[[或る女]]』などを書いた。寺内は通常は非公開だが例年春と秋に期日を限って公開される。
; 桂昌庵(けいしょうあん)
: [[閻魔十王]]像を祀ることから、閻魔堂または十王堂とも呼ばれる。第49世承先道欽の塔所。本尊は地蔵菩薩([[矢柄地蔵]])。永禄9年([[1566年]])、[[大道寺資親]]の寄進により創建された{{sfn|新編相模国風土記稿 巻之80 鎌倉郡巻之12 山之内村 円覚寺 桂昌庵}}
; 富陽庵(ふようあん){{sfn|新編鎌倉志|1915|p=76}}
: 第61世[[東岳文昱]](とうがくぶんいく)の塔所。本尊は文殊菩薩。開基は[[上杉朝宗]]。東岳文昱が[[応永]]23年([[1416年]])に没しているため、その頃の創建と推測される。寺宝に東岳文昱坐像と円覚寺4世[[桃渓徳悟]](とうけいとくご)の坐像がある。古くは夢窓疎石の筆による額があったようだが、江戸時代の後期には失われている{{efn|新編相模国風土記稿巻八十 富陽庵の項に「普済国師筆による額があったが失われた」という記載あり{{sfn|新編相模国風土記稿 巻之80 鎌倉郡巻之12 山之内村 円覚寺 富陽庵}}。普済国師は夢窓疎石の諡号}} 。
; 伝宗庵(でんしゅうあん)
: 桂昌庵脇の道を西方向に進んだ先にある。第11世南山士雲の塔所。本尊は地蔵菩薩。境内は広く、一部は北鎌倉幼稚園となっている。
; 白雲庵(はくうんあん)
: 伝宗庵のさらに西に位置する。第10世[[東明慧日]](とうみんえにち)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
; 雲頂庵(うんちょうあん)
: 山号は'''大機山'''。山内のもっとも西に位置する。蘭渓道隆の法嗣である空山円印の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
; 昌清院(しょうせいいん)
: 鎌倉市[[山崎 (鎌倉市)|山﨑]]にある境外塔頭。如意庵の末寺{{sfn|新編相模国風土記稿 山崎村 昌清院}}。山号は'''山崎山'''。開山は如意庵8世の以足徳満{{sfn|新編相模国風土記稿 山崎村 昌清院}}。本尊は釈迦如来{{sfn|新編相模国風土記稿 山崎村 昌清院}}。
==祭礼==
*'''[[洪鐘弁天大祭]]'''(おおがねべんてんたいさい)、別称・洪鐘祭(おおがねまつり/こうしょうさい)。[[国宝]]の[[梵鐘]]「洪鐘」が[[1301年]]([[正安]]3年)に完成したのを祝い、[[江島神社]]と共同で60年周期で開催する祭礼。一般的な人間の寿命からみて、一生に1度か2度しか見ることが出来ない祭りといわれる<ref>[[鎌倉歴史文化交流館]]『特集展示 洪鐘祭(おおがねまつり/こうしょうさい)~60年に1度の祭礼の記憶~』(2023年)11ページ</ref>。直近の開催は2023年(令和5年)10月29日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.engakuji.or.jp/news/36767/|title=10月29日(日)洪鐘弁天祭について|website=円覚寺|accessdate=2023-10-31}}</ref>。
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
[[画像:瑞鹿山円覚寺洪鐘.JPG|thumb|梵鐘。寺では「洪鐘(おおがね/こうしょう)と呼ぶ。]]
; 建造物
* 円覚寺舎利殿 - 指定年月日:1951(昭和26年)6月9日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/603 |title=円覚寺舎利殿 / 国宝・重要文化財(建造物) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。 - (既述)
; 工芸品
* 梵鐘 - 指定年月日:1953年(昭和28年)11月14日<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/417 |title=梵鐘 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
:: 仏殿東方の石段を上った小高い場所にある鐘楼に架かる。「円覚寺鐘、正安三年八月、大檀那平貞時、住持宋西潤子曇、大工大和権守物部国光在銘」とある<ref name=":0" />。寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読ませている。北条貞時の寄進によるもので、[[正安]]3年([[1301年]])、[[鋳物師]]・物部国光の製作。高さ259.1センチメートル、口径142.4センチメートルの大作である<ref name=":0" />。[[弁財天]]を真体とし、60年に1度、[[洪鐘弁天大祭]]が開かれる。
=== 重要文化財 ===
[[File:Hooded Ksitigarbha (Engakuji Kamakura).jpg|thumb|被帽地蔵菩薩像(高麗)]]
[[File:Engakuji-Buddha.jpg|thumb|宝冠釈迦如来坐像]]
; 絵画
* 絹本著色五百羅漢像 33幅 - 指定年月日:1899年(明治32年)8月1日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1092 |title=絹本著色五百羅漢像 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 絹本著色被帽地蔵菩薩像 - 指定年月日:1908年(明治41年)4月23日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1094 |title=絹本著色被帽地蔵菩薩像 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 絹本著色仏光国師像 - 指定年月日:<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1095 |title=絹本著色仏光国師像 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref> - 弘安七年九月の自賛あり
* 紙本淡彩鍾馗図 山田道安筆 -指定年月日:1925年(大正14年)4月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1097 |title=紙本淡彩鍾馗図〈山田道安筆〉 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本淡彩跋陀婆羅像 宗淵筆 - 指定年月日:1913(大正2年)4月13日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1096 |title=紙本淡彩跋陀婆羅像〈宗淵筆〉 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 絹本著色虚空蔵菩薩像 - 指定年月日:1899年(明治32年)8月1日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1093 |title=絹本著色虚空蔵菩薩像 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 絹本著色仏涅槃図 - 指定年月日:<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1091 |title=絹本著色仏涅槃図 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>
; 彫刻
* 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 - 指定年月日:1927年(昭和2年)4月25日<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/2861 |title=銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
:: 中尊台座に「文永八年十月十九日鋳奉、鋳物師賀茂延時」の刻銘がある<ref name=":1" />。(文永8年は1271年)
* 木造仏光国師坐像(開山堂安置) - 指定年月日:1927年(昭和2年)4月25日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/2860 |title=木造仏光国師坐像(開山塔安置) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
; 工芸品
* 円覚寺開山箪笥収納品 (一括)- 指定年月日:1979年(昭和54年)6月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/7208 |title=円覚寺開山箪笥収納品 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。 - (細目は後述)
* 伝法衣 - 指定年月日:2011年(平成23年)6月27日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/00011460 |title=伝法衣 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
** 九条袈裟 田相海松色地小文様綾 条葉紅葉花唐草文綾 伝・[[無準師範]]所用
** 九条袈裟 田相浅葱地小牡丹文金紗 条葉黒地紗 伝・[[大休正念]]所用
** 九条袈裟 田相薄茶地四葉花々折枝文顕紋紗 条葉紺地四葉花々折枝文顕紋紗 伝・[[無象静照]]所用
** 九条袈裟 田相黄地平絹 条葉香色地平絹 伝・[[南山士雲]]所用
** 九条袈裟 田相白茶地団龍文顕紋紗 条葉茶地紗 伝・[[夢窓疎石]]所用
** 附:二十五条袈裟 1領、坐具 2枚、包裂 1枚
* 髹漆(須弥壇一基/前机一脚) - 指定年月日:1925年(大正14年)4月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/5234 |title=髹漆{須弥壇一基/前机一脚} / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-19 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 青磁袴腰香炉 - 指定年月日:1915年(大正4年)3月26日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/5233 |title=青磁袴腰香炉 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
; 古文書
* 紙本墨書円覚寺年中用米注進状 (弘安六年九月廿七日)- 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9263 |title=紙本墨書円覚寺年中用米注進状 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本墨書円覚寺制符(乾元二年二月十二日) - 指定年月日:1936年(昭和11年)5月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9265 |title=紙本墨書円覚寺制符(乾元二年二月十二日) / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本墨書円覚寺禁制(永仁二年正月日) - 指定年月日:1936年(昭和11年)5月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9264 |title=紙本墨書円覚寺禁制(永仁二年正月日) / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
:: 僧侶などの行動に対して、北条貞時が檀那として禅律寺院に規律を正すべく禁制を定めたもの。
* 紙本淡彩円覚寺境内絵図 - 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9258 |title=紙本淡彩円覚寺境内絵図 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 円覚寺文書(三百八十六通)20巻、57幅、1冊、279通 - 指定年月日:1985年(昭和60年)6月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9082 |title=円覚寺文書(三百八十六通) / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。 - 2004年度に20通が追加指定されている{{efn|追加指定は平成16年6月8日文部科学省告示第113号。文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」「文化遺産オンライン」に「(三百六十六通)19巻、55幅、1冊、266通」とあるのは誤りで、追加指定後の員数は「(三百八十六通)20巻、57幅、1冊、279通」が正当。}}。
* 紙本墨書北条時宗書状 (弘安元年十二月廿三日) - 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9260 |title=紙本墨書北条時宗書状 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本墨書北条時宗書状 (七月十八日) - 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9261 |title=紙本墨書北条時宗書状 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本墨書祖元書状 (七月十八日) - 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9262 |title=紙本墨書祖元書状 |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 印章「無學」2顆{{efn|「考古資料」から「古文書」に種別変更(平成7年6月15日文部省告示第96号)}} - 指定年月日:1936年(昭和11年)5月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9650 |title=印章〈無学〉 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本淡彩富田庄図 - 指定年月日:1905年(明治38年)4月4日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9259 |title=紙本淡彩富田庄図 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
* 紙本墨書仏日庵公物目録 - 指定年月日:1936年(昭和11年)5月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9266 |title=紙本墨書仏日庵公物目録 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref> - 「貞治二年同四年法清、崇珊、圭照」の裏書あり。
* 定額寺官符 - 指定年月日:1899年(明治32年)8月1日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9257 |title=定額寺官符 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref> - 円覚寺が定額寺となったさいに下された太政官符。
*[[寒山詩]]([[五山版]]) - 指定年月日:1959年(昭和34年)6月27日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/8478 |title=寒山詩(五山版) / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref> - 正中二年十月刊記
; 書跡・典籍
*足利義満筆額字 普現、宿竜、桂昌 3幅 - 指定年月日:1961年(昭和36年)2月17日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/8591 |title=足利義満筆額字〈普現・宿龍/桂昌〉 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-18 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
; 歴史資料
* 円覚寺仏殿造営図 - 指定年月日:2011年(平成23年)6月27日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/00011486 |title=円覚寺仏殿造営図 / 国宝・重要文化財(美術品) |access-date=2022-06-19 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
:: 鎌倉国宝館寄託。元亀4年(1573年)に円覚寺仏殿再興を目的に制作され、禅宗様の代表的建築である中世五山仏殿の構造形式を、指図(平面図)と建地割図(断面図)で表された精緻な建築設計図である。指図裏書に「瑞鹿山円覚寺仏殿差図/元亀四〈癸/酉〉年三月□日」とあり、建地割図裏書に「瑞鹿山円覚寺仏殿地割之図/元亀四〈癸/酉〉年三月廿三日/納所 徳満/棟梁弟子山井清三為定/棟梁 澁屋宗右衛門尉盛次/大工 高階大和守次泰/維那 文守/参暇 周璜/奉行 法葩/帰源庵頭是罕置旃」とある。
==== 文化財(子院所有分) ====
* ('''帰源院'''所有)
** 絹本著色之庵和尚像 元弘三年自賛
* ('''蔵六庵'''所有)
** 大休正念法語(弘安元年五月)
* ('''伝宗庵'''所有)
** 木造地蔵菩薩坐像
* ('''白雲庵'''所有)
** 木造東明禅師坐像
* ('''黄梅院'''所有)
** 絹本著色夢窓国師像 自賛あり
** 華厳塔勧縁疏
** 黄梅院文書(百一通)27巻、1冊、6幅、6通
* ('''続燈庵'''所有)
** 銅造仏応禅師骨壺 嘉暦二年夢窓疎石の銘あり
* ('''正伝庵'''所有)
** 木造明巌正因坐像 院応作 像底に明岩老師尊像、貞治四年、仏師院応等の朱書銘、像内に貞治四年、作者院応等の墨書銘がある<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/92093401.html|title=文化審議会答申 ~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について~|publisher=文化庁|accessdate=2020-03-20}}</ref><ref>令和2年9月30日文部科学省告示第118号</ref>
上記の文化財のうち、国宝の梵鐘は常時見学可能。梵鐘、木造仏光国師坐像、須弥壇、東明禅師坐像(白雲庵)以外の重要文化財の大部分は[[鎌倉国宝館]]に寄託されており、同館の展示で順次公開されるほか、例年11月3日前後に3日間行われる「宝物風入れ」という行事の際、寺内で公開される。なお、近くの建長寺でも同時期に同様の「宝物風入れ」が実施される。
※典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
=== 国の史跡 ===
* 円覚寺境内 - 指定年月日:[[1967年]](昭和42年)4月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/808 |title=円覚寺境内 / 史跡名勝天然記念物 |access-date=2022-06-19 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref>。
=== 国の史跡・名勝 ===
* [[円覚寺庭園]] - 指定年月日:[[1932年]](昭和7年)7月23日<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/788 |title=円覚寺庭園 / 史跡名勝天然記念物 |access-date=2022-06-19 |publisher=国指定文化財等データベース / 文化庁}}</ref> - 指定範囲は白鷺池付近と妙香池付近の2か所<ref>『図説日本の史跡 6 中世』(同朋舎、1991)p.279</ref>。
=== 神奈川県指定文化財 ===
; 建造物
* 円覚寺山門 附 棟札1枚 - 指定年月日:2002年(平成7年)2月14日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/29332/mokuroku.pdf |title=神奈川県文化財目録 種別順(令和3年5月1日現在) / 神奈川県の文化財 |access-date=2022-06-19 |publisher=神奈川県教育局生涯学習部文化遺産課 |format=PDF |page=7}}</ref> - 棟札は鎌倉国宝館寄託。
; 絵画
* 絹本著色 五百羅漢図 16幅 - 指定年月日:1953年(昭和28年)12月22日<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/29332/mokuroku.pdf |title=神奈川県文化財目録 種別順(令和3年5月1日現在) / 神奈川県の文化財 |access-date=2022-06-19 |publisher=神奈川県教育局生涯学習部文化遺産課 |format=PDF |page=14}}</ref> - 一幅に十羅漢ずつ描かれている。室町時代作。鎌倉国宝館寄託。
* 絹本著色 十六羅漢図 16幅 - 指定年月日:1953年(昭和28年)12月22日<ref name=":2" /> - 県立歴史博物館寄託。
* 絹本著色 仏鑑禅師像図 1幅 - 指定年月日:1954年(昭和29年)7月27日<ref name=":2" /> - 鎌倉国宝館寄託。
; 工芸
* 鰐口(円覚寺) - 指定年月日:1969年(昭和44年)12月2日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/29332/mokuroku.pdf |title=神奈川県文化財目録 種別順(令和3年5月1日現在) / 神奈川県の文化財 |access-date=2022-06-19 |publisher=神奈川県教育局生涯学習部文化遺産課 |format=PDF |page=38}}</ref> - 「天文九年」の銘あり。
* 屈輪文彫木朱漆大香合 - 指定年月日: 平成11年11月26日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/29332/mokuroku.pdf |title=神奈川県文化財目録 種別順(令和3年5月1日現在) / 神奈川県の文化財 |access-date=2022-06-19 |publisher=神奈川県教育局生涯学習部文化遺産課 |format=PDF |page=39}}</ref> - 鎌倉国宝館寄託。
=== 鎌倉市指定文化財 ===
; 絵画
* 絹本墨画 水月観音図 - 指定文化財:1997年(平成9年)10月13日<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/kaiga20200218-3.pdf |title=絵画 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=12}}</ref>。
* 絹本著色 羅漢図 - 指定年月日:2012年(平成24)2月17日<ref name=":3" />。
* 絹本著色 五百羅漢図 - 指定年月日:2019年(平成31年)2月20日<ref name=":3" />。
; 彫刻
* 木造 宝冠釈迦如来坐像 - 指定年月日:1971年(昭和46年)9月11日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/choukoku20200930.pdf |title=彫刻 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=16}}</ref>。
* 木造 文殊菩薩騎獅半跏像 - 指定年月日:1980年(昭和55年)6月11日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/choukoku20200930.pdf |title=彫刻 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=17}}</ref>。
* 木造 薬師如来立像 - 指定年月日:2007年(平成19年)11月22日<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/choukoku20200930.pdf |title=彫刻 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=18}}</ref>。
* 木造 観音菩薩立像・地蔵菩薩立像 2躯 - 指定年月日:2014年(平成26年)2月14日<ref name=":4" />。
* 木造 梵天・帝釈天立像 2躯 - 指定年月日:2018年(平成30年)2月15日<ref name=":4" />。
; 工芸
* 木造朱漆塗 前机 - 指定年月日:1971年(昭46年)9月11日<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/kougei20220215.pdf |title=工芸 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=24}}</ref>。
* 銅造 梵鐘 - 指定年月日:2002年(平成14年)11月15日<ref name=":5" />。
* 銅造 鏧子 - 指定年月日:2007年(平成19年)11月22日<ref name=":5" />。鎌倉国宝館寄託。
* 銅造 灌仏盤 - 指定年月日:2007年(平成19年)11月22日<ref name=":5" />。
; 天然記念物
* ビャクシン 1株 - 指定年月日:1963年(昭和38年)7月17日<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/tennenkinenbutsu20220215.pdf |title=天然記念物 / 鎌倉市指定文化財一覧表 |access-date=2022-06-19 |publisher=鎌倉市役所教育文化財部文化財課 |format=PDF |page=47}}</ref>。
* ウスキモクセイ 1株 - 指定年月日:1973年(昭和48年)4月11日<ref name=":6" />。
* ビャクシン 1株 - 指定年月日:1974年(昭49年)4月10日<ref name=":6" />。
=== 焼失した文化財 ===
* 法華経 足利尊氏筆(続燈庵旧蔵)
* 銅経筒 元亨3年銘(続燈庵旧蔵)
以上2件は旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されていたが、関東大震災時に続燈庵で火災が発生した際に焼失した<ref>文化庁編『新版 戦災等による焼失文化財 20世紀の文化財過去帳』、戎光祥出版、2003</ref>。
=== 開山箪笥収納品 ===
円覚寺に伝来する、「開山箪笥」(かいさんたんす)と称される箪笥の引き出しに収納される染織品等の一括遺品で、寺では開山無学祖元所用の遺品と伝えて重視している。箪笥は平素は封印されており、年に一度、11月3日前後に行われる「宝物風入れ」の際にのみ、封が解かれ収納品が公開される。収納品には、中国及び日本の中世の染織品が含まれ、染織工芸史研究上、貴重な資料である。昭和54年([[1979年]])に重要文化財に指定された。指定品の明細は以下のとおりである。
< >内は特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝』(五島美術館、2006)による表記。時代表記も同図録による。
* 丹地霊芝形雲文金襴九条袈裟 明時代
* 黄地片輪車文綾九条袈裟 坐具付<褪紅色葦手文綾九条袈裟> 南宋時代・鎌倉時代
* 香色地平絹九条袈裟 南宋 - 元時代
* 紺地宝尽雲文銀襴九条袈裟 坐具付<紺地霊芝雲文銀襴九条袈裟> 明時代
* 黄地牡丹文紗掛絡(から)<黄地牡丹折枝文羅大絡子> 南宋時代
* 黄地菱繋文綾直綴(じきとつ)<黄地入子菱文綾直綴> 元時代
* 黄地平絹直綴<金茶地平絹直綴> 鎌倉時代
* 白地平絹禅衣(ぜんね) 鎌倉時代
* 萌黄地平絹頭陀袋<萌黄地紬頭陀袋> 南宋時代・室町時代
* 石畳縫合地果蝶雲文刺繍袱子<緞子縫合編繍大袱紗> 明時代
* 酔翁亭図堆黒盆 南宋時代
* 椿梅竹文堆朱盆 南宋 - 元時代
* 孔雀牡丹文堆朱香合 南宋時代
* 尾長鳥椿文堆黒香合 南宋時代
* 念珠 3連 鎌倉時代
* 払子 2握 鎌倉時代
* 団扇(だんせん) 江戸時代
* 竹箆(しっぺい) 時代不詳
* 環 4箇 南宋 - 明時代
* 組紐残欠 2条 鎌倉時代
* 附:欝金地桐竹鳳凰文縫箔槌巾(ついきん) 桃山時代
* 附:染付合子 明時代
* 附:黒角製香合 南宋 - 元時代
== アクセス ==
* [[横須賀線]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[北鎌倉駅]]下車すぐ(駅改札を出たところが境内)
== ギャラリー ==
<gallery mode="packed">
円覚寺参道入口2.JPG|寺号標と総門(2011年1月撮影)
円覚寺選仏場.JPG|円覚寺選仏場(2011年1月撮影)
円覚寺仏殿.JPG|仏殿(2011年1月撮影)
円覚寺妙香池.JPG|妙香池(2011年1月撮影)
舎利殿軒1.JPG|舎利殿の軒下の組物(2011年1月撮影)
</gallery>
<gallery mode="packed">
円覚寺舎利殿門2.JPG|正続院唐門(舎利殿前)(2011年1月撮影)
円覚寺欄間1.JPG|正続院唐門の彫物(2011年1月撮影)
円覚寺居士林.JPG|円覚寺居士林(2011年1月撮影)
円覚寺鐘楼2.JPG|梵鐘(2011年1月撮影)
円覚寺鐘楼4.JPG|梵鐘の部分(銘文が確認できる)(2011年1月撮影)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
* [[新編相模国風土記稿]]
** {{cite book|和書|title=[[大日本地誌大系]]|volume=第39巻新編相模国風土記稿4巻之80村里部[[鎌倉郡]]巻之12|chapter=山之内庄山之内村3円覚寺下富陽庵|id={{NDLJP|1179229/103}}|ref={{sfnref|新編相模国風土記稿 巻之80 鎌倉郡巻之12 山之内村 円覚寺 富陽庵}}|publisher=[[雄山閣]]|date=1932-8}}
** {{cite book|和書|title=大日本地誌大系|volume=第39巻新編相模国風土記稿4巻之80村里部鎌倉郡巻之12|chapter=山之内庄山之内村3円覚寺下桂昌庵|id={{NDLJP|1179229/104}}|ref={{sfnref|新編相模国風土記稿 巻之80 鎌倉郡巻之12 山之内村 円覚寺 桂昌庵}}|publisher=雄山閣|date=1932-8}}
** {{cite book|和書|title=大日本地誌大系|volume=第40巻新編相模国風土記稿5巻之98村里部[[鎌倉郡]]巻之30|chapter=山之内庄山崎村昌清院|id={{NDLJP|1179240/40}}|ref={{sfnref|新編相模国風土記稿 山崎村 昌清院}}|publisher=雄山閣|date=1932-8|page=69}}
* 井上靖・佐和隆研監修、中里恒子・足立大進著『古寺巡礼東国4 円覚寺』、[[淡交社]]、1982
* 貫達人(著)・荒牧万佐行(写真)『円覚寺』、円覚寺発行、1996
* 『週刊朝日百科 日本の国宝』87号(称名寺ほか)、朝日新聞社、1998
* 特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝 七百二十年の歴史を語る禅の文化』、[[五島美術館]]、2006
** 三浦勝男「鎌倉円覚寺の歴史」
* 『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』、平凡社
* 『角川日本地名大辞典 神奈川県』、角川書店
* 『国史大辞典』、吉川弘文館
* {{cite book|和書|title=[[新編鎌倉志]]|editor=河井恒久 等編|publisher=大日本地誌大系刊行会|year=1915|series=大日本地誌大系|volume=第5冊|chapter=巻之三 圓覚寺|pages=68-76|id={{NDLJP|952770/49}}|ref={{sfnref|新編鎌倉志|1915}}}}
*[[鎌倉歴史文化交流館]] 『[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/tokushutennji.html 特集展示 洪鐘祭(おおがねまつり/こうしょうさい)~60年に1度の祭礼の記憶~]』2023年(令和5年)7月15日発行
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Commons|Category:Engaku-ji}}
* [[日本の寺院一覧]]
* [[国宝一覧]]
* [[関東地方の史跡一覧]]
* [[神奈川県の寺院一覧]]
* [[鎌倉市内の寺院一覧]]
* [[人間禅]]
* [[朝比奈宗源]]
* [[円覚寺 (那覇市)]]
* [[武藤山治 (実業家)|武藤山治]] - 書生とともに寺の近くで賊に襲われ死亡。二人を弔う観音堂「武山堂」が円覚寺にある
* [[六国見山]] - 近隣の山。
== 外部リンク ==
{{Osm box|n|724836064}}
* [https://www.engakuji.or.jp/ 臨済宗大本山 円覚寺(公式サイト) ]
* [http://www.rinnou.net/cont_03/06engaku/ 円覚寺:臨済・黄檗 禅の公式サイト]
* [http://www.ktmchi.com/idx-jisya/index_J01_EN.html 北鎌倉・円覚寺index]
* [https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/100sen/rekisi/47.html 円覚寺] - 鎌倉市役所
* [https://trip-kamakura.com/place/86.html 円覚寺(えんがくじ)] - 鎌倉観光公式ガイド / 公益社団法人鎌倉市観光協会
* [https://www.google.com/maps?f=q&source=embed&hl=en&geocode&q=%E5%86%86%E8%A6%9A%E5%AF%BA&aq&sll=35.337573,139.547283&sspn=0.002656,0.005504&g=35.337709,139.547782&ie=UTF8&layer=c&cbll=35.337571,139.547288&panoid=QWREKArFzNBzdy8n2H-hUA&cbp=12,59.69,,0,-8.6&ll=35.337608,139.547364&spn=0.002529,0.005504&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 円覚寺ストリートビュー]
* [http://www.kcn-net.org/kokenchiku/engakuji/shariden.html 円覚寺舎利殿 ‐ e-ざ鎌倉]
* [http://baystyle.net/archives/3181 円覚寺、旅の風景 - ベイスタイル]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%A6%9A%E5%AF%BA |
5,277 | 臨済宗建仁寺派 | 臨済宗建仁寺派(りんざいしゅうけんにんじは)は、臨済宗の宗派。大本山は建仁寺。
1191年(建久2年)に中国・宋から帰国した栄西により始まり、京都に建仁寺を創建し本山とした。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた人物として知られる。
創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、天台・真言・禅宗の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。 | [
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] | 臨済宗建仁寺派(りんざいしゅうけんにんじは)は、臨済宗の宗派。大本山は建仁寺。 | [[ファイル:150124 Kenninji Kyoto Japan01s3.jpg|thumb|240px|right|建仁寺]]
'''臨済宗建仁寺派'''(りんざいしゅうけんにんじは)は、[[臨済宗]]の[[宗派]]。大本山は[[建仁寺]]<ref>{{cite web|url=https://daijoji.net/rinzaisyu.html|title=臨済宗建仁寺派|publisher=大成寺|accessdate=2023-12-13}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1191年]]([[建久]]2年)に[[中国]]・[[南宋|宋]]から帰国した[[明菴栄西|栄西]]により始まり、京都に[[建仁寺]]を創建し本山とした。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた人物として知られる<ref>{{cite web|url=https://souda-kyoto.jp/guide/spot/kenninji.html|title=建仁寺|publisher=そうだ 京都|accessdate=2023-12-13}}</ref>。
創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、[[天台宗|天台]]・[[真言宗|真言]]・[[禅宗]]の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある<ref>{{cite web|url=https://www.kenninji.jp/know/|title=建仁寺の歴史|publisher=建仁寺|accessdate=2023-12-13}}</ref>。
== 主な寺院 ==
* [[建仁寺]]
* [[六道珍皇寺]]
* [[妙光寺 (京都市)|妙光寺]]
* [[高台寺]]
* [[法観寺]]
* [[普賢寺 (光市)|普賢寺]]
* [[圓徳院]]
* [[両足院]]
* [[禅居庵]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.kenninji.jp/ 建仁寺]
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5,278 | 臨済宗東福寺派 | 臨済宗東福寺派(りんざいしゅうとうふくじは)は、臨済宗の宗派。大本山は東福寺。
1236年(嘉禎2年)、宋に渡り帰国した円爾(弁円)が東福寺を開基したことが始まりである。東福寺は九条道家が九条家の菩提寺としてこの地に身の丈五丈(約15m)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願したことが創建のきっかけであり、寺名は奈良の東大寺と興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。
また戦国時代に毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が東福寺派であったことで知られている。 | [
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] | 臨済宗東福寺派(りんざいしゅうとうふくじは)は、臨済宗の宗派。大本山は東福寺。 | [[ファイル:TofukujiHondo.jpg|thumb|240px|right|東福寺]]
[[ファイル:毘沙門堂 勝林寺.jpeg|thumb|240px|right|勝林寺の花手水]]
'''臨済宗東福寺派'''(りんざいしゅうとうふくじは)は、[[臨済宗]]の[[宗派]]。大本山は[[東福寺]]<ref>{{cite web|url=https://www.e-ohaka.com/temple_detail/id036926.html|title=東福寺|publisher=いいお墓|accessdate=2023-11-20}}</ref>。
== 歴史 ==
{{seealso|聖一派}}
[[1236年]]([[嘉禎]]2年)、[[宋]]に渡り帰国した[[円爾]](弁円)が[[東福寺]]を開基したことが始まりである。東福寺は[[九条道家]]が[[九条家]]の菩提寺としてこの地に身の丈五丈(約15m)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願したことが創建のきっかけであり、寺名は奈良の[[東大寺]]と[[興福寺]]の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jbf.ne.jp/member?id=15669|title=臨済宗東福寺派|publisher=全日本仏教会|accessdate=2023-12-7}}</ref>。
また[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[毛利家]]の外交僧として活躍した[[安国寺恵瓊]]が東福寺派であったことで知られている<ref name=":0" /><ref>『日本寺院名鑑』([[1982年]]、名著普及会)</ref>。
== 主な寺院 ==
* [[東福寺]]
* [[承天寺]]
* [[万寿寺]]
* [[勝林寺 (京都市)|勝林寺]]
* [[興昌寺 (観音寺市)|興昌寺]]
* [[大安寺 (堺市)|大安寺]]
* [[海会寺 (堺市)|海会寺]]
* [[桃林寺 (鈴鹿市)|桃林寺]]
* [[保国寺]]
* [[茂松寺]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://tofukuji.jp/ 東福寺]
* [https://www.jbf.ne.jp/member?id=15669 臨済宗東福寺派] - 全日本仏教会
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5,280 | 臨済宗南禅寺派 | 臨済宗南禅寺派(りんざいしゅうなんぜんじは)は、臨済宗の宗派。大本山は南禅寺。
1291年(正応4年)に無関普門により始まり、京都に南禅寺を創建して本山とした。
南禅寺の創建より以前は、この地に亀山天皇が1264年(文永元年)に造営した離宮の禅林寺殿があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に隣接する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来している。
この離宮は「上の御所」(上の宮)と「下の御所」(下の宮)に分かれていたが、1287年(弘安10年)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「南禅院」と名付けた。これが南禅寺のそもそもの始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭・南禅院となっている。 | [
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] | 臨済宗南禅寺派(りんざいしゅうなんぜんじは)は、臨済宗の宗派。大本山は南禅寺。 | [[ファイル:Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg|thumb|240px|right|南禅寺]]
'''臨済宗南禅寺派'''(りんざいしゅうなんぜんじは)は、[[臨済宗]]の[[宗派]]。大本山は[[南禅寺]]<ref>{{cite web|url=https://nanzenji.or.jp/about_rinzaishu|title=寺院概要|publisher=南禅寺|accessdate=2023-11-20}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1291年]]([[正応]]4年)に[[無関普門]]により始まり、[[京都]]に[[南禅寺]]を創建して本山とした<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jbf.ne.jp/member?id=15640|title=臨済宗南禅寺派|publisher=全日本仏教会|accessdate=2023-12-7}}</ref>。
南禅寺の創建より以前は、この地に[[亀山天皇]]が[[1264年]]([[文永]]元年)に造営した離宮の禅林寺殿があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に隣接する[[浄土宗西山禅林寺派]]総本山の[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]](永観堂)に由来している<ref name=":0" />。
この離宮は「上の御所」(上の宮)と「下の御所」(下の宮)に分かれていたが、[[1287年]]([[弘安]]10年)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「[[南禅院]]」と名付けた。これが南禅寺のそもそもの始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の[[塔頭]]・南禅院となっている<ref>『日本寺院名鑑』([[1982年]]、名著普及会)</ref>。
== 主な寺院 ==
* [[南禅寺]]
* [[月洲寺]]
* [[二福寺]]
* [[正観寺 (菊池市)|正観寺]]
* [[真観寺 (八尾市)|真観寺]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.nanzenji.or.jp/ 南禅寺]
* [https://www.jbf.ne.jp/member?id=15640 臨済宗南禅寺派] - 全日本仏教会
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5,285 | 9月5日 | 9月5日(くがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から248日目(閏年では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。 | [
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] | 9月5日(くがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から248日目(閏年では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。 | {{カレンダー 9月}}
'''9月5日'''(くがついつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から248日目([[閏年]]では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。
== できごと ==
[[Image:Carpenter%27s_Hall_HABS_PA%2C51-PHILA%2C229-3.jpg|thumb|140px|北米の[[13植民地]]で[[大陸会議]]はじまる(1774)。画像は会場のカーペンターズホール]]
[[Image:BattleOfVirginiaCapes.jpg|thumb|[[アメリカ独立戦争]]、[[チェサピーク湾の海戦]](1781)。仏海軍の勝利により英海軍はアメリカへの増援が不可能となる]]
<!-- [[Image:The Alamo 1936 Issue-3c.jpg|thumb|240px|[[サミュエル・ヒューストン]]、[[テキサス共和国]]大統領に選出(1836)。画像は100周年の記念切手、左がヒューストン]] -->
[[Image:Labor_Day_New_York_1882.jpg|thumb|[[ニューヨーク]]で労働者がパレード(1882)。[[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|レイバー・デー]]のはじまり]]
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[[Image:French_soldiers_ditch_1914.jpg|thumb|[[第一次世界大戦]]、[[マルヌ会戦]](1914)。ドイツの進撃は喰い止められ、大戦は長期化へ]]
<!-- [[Image:Capa,_Death_of_a_Loyalist_Soldier.jpg|thumb|[[ロバート・キャパ]]が『[[崩れ落ちる兵士]]』を撮影(1936)]] この歴史的写真が貼れないとは…… -->
<!-- [[Image:Hoppo.png|thumb|ソ連がこの日までに[[北方領土問題|北方四島]]を占領(1945)]] 北方領土のただの地図です-->
<!-- [[Image:Hayato_Ikeda.jpg|thumb|175px|[[池田勇人]]首相、[[高度経済成長|高度成長]]・[[所得倍増計画|所得倍増]]などの新政策発表(1960)]] 日付要確認 -->
<!-- [[Image:FFB_Olympia-Denkmal_Fliegerhorst_.jpg|thumb|170px|[[ミュンヘンオリンピック事件]](1972)]] -->
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| footer = アメリカ合衆国の探査機[[ボイジャー1号]]打ち上げ(1977)。2025年頃までは地球との通信を維持できると期待されている
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[[Image:Sadat_Carter_Begin%2C_Camp_David_1978.gif|thumb|[[キャンプ・デービッド合意|キャンプ・デービッド会談]]はじまる(1978)。画像左から順に[[アンワル・アッ=サーダート|サダト]]、[[ジミー・カーター|カーター]]、[[メナヘム・ベギン|ベギン]]]]
<!-- [[Image:Gotthard_Road_Tunnel_Switzerland.jpg|thumb|スイスの[[ゴッタルド道路トンネル]]開通(1980)]] -->
* [[917年]]([[乾亨 (南漢)|乾亨]]元年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]) - [[五代十国時代|十国]][[南漢]]の初代[[皇帝]]劉龑が即位し同国が成立。
* [[1158年]]([[保元]]3年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - 在位3年の[[後白河天皇]]が守仁親王([[二条天皇]])に譲位し、上皇となって[[院政]]を開始。
* [[1205年]]([[元久]]2年閏[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - 鎌倉幕府初代執権・[[北条時政]]が、実子の[[北条政子]]・[[北条義時|義時]]によって執権を廃され出家させられる。義時が第2代執権に就任。
* [[1379年]] - [[ヘント|ゲント]]市で[[フランス王]]やフランドル伯に対する反乱<small>([[:en:Revolt_of_Ghent_(1379–1385)|英語版]]、[[:fr:Révolte_des_chaperons_blancs|フランス語版]])</small>がおきる。[[1385年]]に鎮圧され同市はフランス王などの王権を認め恩赦を得る。<!-- frに記載あり -->
* [[1494年]] - [[ポルトガル]]の[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]が[[トルデシリャス条約]]を批准。<!-- frに記載あり -->
* [[1595年]]([[文禄]]4年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]])- [[京都]]三条河原で[[関白]][[豊臣秀次]]の[[正室]]・[[側室]]・遺児ら39名が処刑される。
* [[1596年]]([[慶長]]元年閏[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[近畿地方]]で大地震([[慶長伏見地震]])が発生。[[伏見城]]の[[天守]]が大破する。
* [[1661年]] - [[ニコラ・フーケ]]が[[マスケット銃|マスケット銃士隊長]]の[[ダルタニャン]]の手で逮捕される。
* [[1666年]] - [[ロンドン大火]]が鎮火。
* [[1697年]] - [[大同盟戦争]]:[[ハドソン湾の戦い]]
* [[1725年]] - [[ルイ15世]]と[[マリー・レクザンスカ]]が結婚する。
* [[1774年]] - [[フィラデルフィア]]で第一次[[大陸会議]]が始まる。
* [[1781年]] - [[アメリカ独立戦争]]:[[チェサピーク湾の海戦]]が行われる。
* [[1791年]] - 『[[女性および女性市民の権利宣言]](女権宣言、[[:en:Declaration_of_the_Rights_of_Woman_and_of_the_Female_Citizen|Declaration of the Rights of Woman and of the Female Citizen]])』が[[オランプ・ド・グージュ]]により発表される。
* [[1793年]] - [[フランス革命]]:[[ジャック・ルー]]が逮捕・投獄される。
* 1793年 - フランス革命:この日の演説で[[ベルトラン・バレル]]([[:en:Bertrand_Barère|Bertrand Barère]])が「[[恐怖政治]]を時代の風潮としよう!」と宣言。一般的なフランスの恐怖政治(テルール)の開始と見なされる。<!-- en: Reign of Terrorによる -->
* [[1798年]] - フランス革命:[[ジュールダン=デルブレル法]]<small>([[:en:Jourdan_law|英語版]]、[[:fr:Loi_Jourdan-Delbrel|フランス語版]])</small>可決により、フランスで徴兵制が実施される。
* [[1816年]] - [[フランス復古王政|復古王政]]:[[またと見出しがたい議会]]が解散。
* [[1836年]] - [[サミュエル・ヒューストン]]が[[テキサス共和国]]大統領に選出。
* [[1864年]]([[元治]]元年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[下関戦争]]:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。
* [[1872年]]([[明治]]5年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]])- 日本で[[学制]]が公布。
* [[1877年]] - [[インディアン戦争]]:[[クレイジー・ホース]]が[[銃剣]]で刺殺される。
* [[1882年]] - [[ニューヨーク]]で労働者団体がパレードを行い、[[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|レイバー・デー]]のはじまりとなる。
* [[1887年]] - [[エクセター]]の[[王立劇場 (エクセター)|王立劇場]]([[:en:Theatre_Royal,_Exeter|Theatre Royal, Exeter]])で火災、186人が死亡。
* [[1905年]] - [[ポーツマス条約]]が締結され、[[日露戦争]]が終結。[[日比谷焼打事件]]発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。
* [[1913年]] - [[阿部守太郎暗殺事件]]発生。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]:[[マルヌ会戦]]が始まる。
* [[1915年]] - ツィンマーヴァルト会議が開催(~[[9月8日|8日]])、[[ツィンマーヴァルト運動]]の始まり。
* [[1918年]] - [[ロシア]]で[[ウラジーミル・レーニン]]が[[赤色テロ]]政令を布告し、[[白色テロ]]には赤色テロで応じることを宣言。
* [[1926年]] - [[万県事件]]、イギリス軍による中国への砲撃事件。
* [[1927年]] - ディズニー映画『''[[:en:Trolley_Troubles|Trolley Troubles]]''』公開。
* [[1929年]] - [[富山県]][[新湊市|新湊町]]で大火。住宅500余戸が全焼<ref>新湊町で火事、四百七十戸を焼く『東京日日新聞』(昭和16年4月17日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p554 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1932年]] - [[オートボルタ植民地]]が解散、[[1947年]]の復活まで[[コートジボワール]]、[[フランス領スーダン]]、[[ニジェール植民地]]に分割される。
* [[1936年]] - [[スペイン内戦]]:[[ロバート・キャパ]]が「[[崩れ落ちる兵士]]」を撮影。
* [[1938年]] - [[チリ]]で[[セグロ・オブレロ虐殺]]([[:en:Seguro_Obrero_massacre|Seguro Obrero massacre]])。
* [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]:[[アメリカ合衆国]]がヨーロッパ戦線での[[中立]]を表明。
* 1939年 - [[日本放送協会|NHK]]ラジオで[[徳川夢声]]の朗読による[[吉川英治]]の小説『[[宮本武蔵 (小説)|宮本武蔵]]』が放送開始。
* [[1941年]] - 第二次世界大戦:[[ドイツ]]が[[エストニア]]全土を占領。
* [[1942年]] - 第二次世界大戦:[[ラビの戦い]]:日本軍が撤退。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦:[[ラエ・サラモアの戦い]]:南西太平洋方面連合軍総司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将自ら[[B-17 (航空機)|B-17]]に搭乗して督戦する中、ラエ北西20キロのナザブ平原にアメリカ軍第503空挺連隊とオーストラリア軍第7師団の一部が空挺降下。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[ソ連対日参戦]]: この日までに[[ソビエト連邦|ソ連]]軍が[[北方領土問題|北方領土]]([[国後島]]、[[択捉島]]、[[色丹島]]、[[歯舞群島]])を占領。[[11月1日]]に北方領土のソ連軍不法占領に対し、米軍の占領下において治安の回復をはかる目的で、北海道附属島嶼復帰懇請委員会(仮称)結成の動きが根室町に起こる。([[北方領土問題]]の始まり)
* [[1945年]] - [[トロント]]のソビエト大使館の職員であるイゴーリ・グゼンコ([[:en:Igor_Gouzenko|Igor Gouzenko]])が亡命し、ソ連の北米での諜報活動を暴露。
* [[1946年]] - 第二次大戦後初の日本の[[国民学校]]用[[日本史 (科目)|国史]]教科書『くにのあゆみ』が発行。
* [[1948年]] - [[ロベール・シューマン]]がフランスの第115代閣僚評議会議長に就任。戦後の主要な条約の調印に関わることに。
* [[1957年]] - 初の交流電化区間である国鉄[[仙山線]]・[[仙台駅|仙台]] - [[作並駅|作並]]で交流電気機関車の営業運転を開始。
* 1957年 - [[フルヘンシオ・バティスタ]]が[[シエンフエーゴス]]で[[キューバ革命]]の反乱軍を爆撃。
* [[1960年]] - [[池田勇人]]首相が、[[高度経済成長|高度成長]]・[[所得倍増計画|所得倍増]]などの新政策を発表。
* 1960年 - [[レオポール・セダール・サンゴール]]が[[セネガル]]初代[[セネガルの大統領|大統領]]に指名される(翌日就任)。
* 1960年 - [[モハメド・アリ]]が[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]の[[1960年ローマオリンピックのボクシング競技|ボクシング競技]]のライトヘビー級で金メダルを獲得。当時はカシアス・クレイの名前で出場していた。
* [[1961年]] - [[ベオグラード]]で第1回[[非同盟諸国首脳会議]]が始まる。<!-- 9月1日か -->
* [[1962年]] - [[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]の[[金田正一]]が通算3509奪三振の世界記録(当時)を達成。
* [[1963年]] - [[草加次郎事件]]の最後の事件。[[東京メトロ銀座線|地下鉄銀座線]][[京橋駅 (東京都)|京橋駅]]で時限爆弾が爆発し10人が負傷。
* [[1966年]] - [[第2宮古島台風]]により沖縄・[[宮古島]]で日本の最大瞬間風速記録・85.3m/sを観測。
* [[1968年]] - [[フォーリーブス]]がシングル「オリビアの調べ」で[[歌手]]デビュー。
* [[1970年]] - [[ベトナム戦争]]:[[ジェファーソン・グレン作戦]]([[:en:Operation_Jefferson_Glenn|Operation Jefferson Glenn]])が開始。
* 1970年 - この年のF1ワールドグランプリにて第10戦の[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]予選での事故で死亡したヨッヘン・リントが死後に優勝。F1のドライバーズチャンピオンを死後追贈された唯一のレーサーとなる。
* [[1971年]] - [[欧陽菲菲]]がシングル「雨の御堂筋」で歌手デビュー。
* 1971年 - 東京都[[新川 (江戸川区)|新川]]の[[水門]]が故障して一時的に開放状態となる。折からの[[高潮]]、[[満潮]]が重なり[[船堀]]など新川一帯の約3000戸が床下浸水<ref>「寝耳に水 ゼロメートル地帯」『中國新聞』昭和46年9月6日 15面</ref>。
* [[1972年]] - [[ミュンヘンオリンピック事件]]。[[ミュンヘンオリンピック]]の[[選手村]]でパレスチナゲリラが[[イスラエル]]選手団を殺害。
* [[1975年]] - [[ジェラルド・フォード暗殺未遂事件]]([[:en:Attempted_assassination_of_Gerald_Ford_in_Sacramento|Attempted assassination of Gerald Ford in Sacramento]])、米大統領[[ジェラルド・R・フォード|ジェラルド・フォード]]がカリフォルニア州[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]で[[リネット・フロム]]([[:en:Lynette_Fromme|Lynette Fromme]])による攻撃を受ける。
* [[1977年]] - アメリカの惑星探査機「[[ボイジャー1号]]」打ち上げ。
* 1977年 - [[王貞治]]に初の[[国民栄誉賞]]が贈られる。
* [[1978年]] - [[ジミー・カーター]]米大統領、[[アンワル・アッ=サーダート]]エジプト大統領、[[メナヘム・ベギン]]イスラエル首相が[[キャンプ・デービッド]]に集結し三者会談が始まる。([[キャンプ・デービッド合意|キャンプ・デービッド会談]])
* [[1980年]] - [[スイス]]の[[ゴッタルド道路トンネル]]が開通。当時世界最長(現在第4位)の道路のトンネル。
* [[1981年]] - [[三和銀行]]茨木支店の行員が[[銀行のオンラインシステム|オンラインシステム]]を悪用して1億3千万円を詐取していたことが発覚。8日にマニラで行員を逮捕。
* [[1984年]] - [[サッポロビール]]が「ソラチエース」を品種登録。
* 1984年 - [[西オーストラリア州]]が死刑を廃止し[[オーストラリア]]全州での[[死刑廃止]]がなされる。
* [[1986年]] - [[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]の初来日公演が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[大阪城ホール]]からスタート。
* 1986年 - [[パンアメリカン航空73便ハイジャック事件]]。
* [[1987年]] - ナチスによって殺害された同性愛者を追悼する[[ホモモニュメント]]が[[アムステルダム]]に設立される。
* [[1991年]] - [[先住民および部族人民条約 (1989年)]]([[:en:Indigenous_and_Tribal_Peoples_Convention,_1989|Indigenous and Tribal Peoples Convention, 1989]])が発効。
* [[1995年]] - [[フランス]]が南太平洋・[[ムルロア環礁]]で地下[[核実験]]を実施。
* [[2000年]] - [[ツバル]]が[[国際連合|国連]]に加盟。
* [[2004年]] - [[紀伊半島南東沖地震]]が発生<ref>{{Cite web|和書|title=9月5日 紀伊半島南東沖の地震 |url=https://www.jishin.go.jp/main/chousa/04oct_kiihantou/p01.htm |website=地震本部|publisher=地震調査研究推進本部事務局|access-date=2022-10-22}}</ref>。
* [[2005年]] - [[マンダラ航空091便墜落事故]]が起こる。
* 2005年 - [[サンゲ・ゲドゥプ]]が第8代[[ブータンの首相|ブータン王国閣僚評議会議長]]に就任。
* [[2012年]] - [[イギリス]]、[[レスター]]の駐車場地下にあった修道院遺構で人骨を発見。後に[[DNA型鑑定]]の結果、[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の遺骨と判明<ref>{{cite web|url=https://www.le.ac.uk/richardiii/archaeology/5septembercont.html|title=Wednesday 5 September 2012 (continued)|publisher=University of Leicester|accessdate=2017-12-25|language=英語}}</ref>。
* [[2019年]] - 第66代[[イタリア]][[イタリアの首相|閣僚評議会議長]][[ジュゼッペ・コンテ]]が第2次内閣を組閣。
* 2019年 - 恐竜化石「むかわ竜」を新属新種の[[カムイサウルス]]とする研究が[[イギリス]]の[[科学雑誌]]である “''[[Scientific Reports]]''” に掲載される。(日本時間は6日)<ref>{{Cite web|和書|title=新着情報: むかわ竜を新属新種の恐竜として「カムイサウルス・ジャポニクス(Kamuysaurus japonicus)」と命名〜ハドロサウルス科の起源を示唆〜(総合博物館 教授 小林快次) |url=https://www.hokudai.ac.jp/news/2019/09/kamuysaurus-japonicus.html |publisher=北海道大学|date=2019年9月6日|access-date=2022-10-22}}</ref>
* 2019年 - [[京浜急行電鉄]][[神奈川新町駅|神奈川新町]]第1踏切で 踏切で立ち往生したトラックと[[青砥駅|青砥]]発[[三崎口駅|三崎口]]行き8両編成の下り[[快速特急|快特]]列車が衝突する事故が発生。1両目から3両目が脱線して大きく傾斜した。乗客75名と運転士および車掌が負傷、トラックの運転手は死亡した。([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故|京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故]])
* [[2021年]] - [[ギニア]]で[[クーデター]]。第4代[[ギニアの大統領|大統領]]の[[アルファ・コンデ]]が拘束され、軍の特殊部隊が憲法の停止や政府の解散を宣言<ref>{{Cite web|和書|title=ギニアでクーデター、大統領を拘束か 陸軍兵士らが国営放送で発表:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASP9603CKP95UHBI00W.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-09-06 |access-date=2022-10-22 |language=ja}}</ref>。
* 2021年 - [[サントメ・プリンシペ]]の[[サントメ・プリンシペの大統領|大統領]]に[[カルロス・ビーラ・ノヴァ]]([[:en:Carlos_Vila_Nova|Carlos Vila Nova]])が指名される。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
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[[Image:Date_Masamune.jpg|thumb|100px|戦国武将、[[伊達政宗]](1567-1636)]]
<!--
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| footer = 画家[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]](1774-1840)誕生。左画像は自画像、右は『霧の海を見下ろす散歩者』(1818)
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| caption1 = オペラ作曲家、[[ジャコモ・マイアベーア]](1791-1864)誕生。{{audio|Giacomo Meyerbeer - Hirtenlied.ogg|『羊飼いの笛』を聴く}}
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| caption2 = 「板画家」、[[棟方志功]](1903-1975) <!-- 作品貼れないと説得力ない… -->
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| caption3 = [[フレディー・マーキュリー]](1946-1991)。
}}
<!-- {{Squote|[[芸術]]の目的は、心を静め酔いを醒まし、起きることに調和するようにすることである。}} -->
<!-- WANTED:利根川進 -->
<!-- [[Image:Freddie_Mercury_performing_in_New_Haven%2C_CT%2C_November_1978.jpg|thumb|100px|シンガーソングライター、[[フレディ・マーキュリー]](1946-1991)]] -->
* [[699年]] - [[アブー・ハニーファ]]、[[イスラーム神学|神学者]]、[[イスラーム法学|法学者]](+ [[767年]])
* [[989年]]([[端拱]]2年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]) - [[范仲淹]]、[[北宋]]の[[文人]]・[[政治家]](+ [[1052年]])
* [[1187年]] - [[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]、フランス国王(+ [[1226年]])
* [[1319年]] - [[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペドロ4世]]、[[アラゴン王]](+ [[1387年]])
* [[1451年]] - [[イザベル・ネヴィル]]、[[クラレンス公]][[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|ジョージ]]の妻(+ [[1476年]])
* [[1533年]] - [[ヤコポ・ザバレラ]]([[:en:Jacopo_Zabarella|Jacopo Zabarella]])、哲学者(+ [[1589年]])
* [[1540年]] - [[マグヌス (ホルシュタイン公)|マグヌス]]([[:en:Magnus,_Duke_of_Holstein|Magnus, Duke of Holstein]])、[[ホルシュタイン公]](+ [[1583年]])
* [[1567年]]([[永禄]]10年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[伊達政宗]]、[[大名]](+ [[1636年]])
* [[1568年]] - [[トマソ・カンパネッラ]]、聖職者、哲学者(+ [[1639年]])
* [[1604年]]([[慶長]]9年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]])- [[松平定房]]、初代[[今治藩|今治藩主]](+ [[1676年]])
* [[1638年]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、フランス国王(+ [[1715年]])
* [[1641年]] - [[ロバート・スペンサー (第2代サンダーランド伯)|ロバート・スペンサー]]、第2代[[サンダーランド伯爵|サンダーランド伯]](+ [[1702年]])
* [[1642年]] - [[マリア・ファン・ナッサウ]]、オラニエ公[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]の娘(+ [[1688年]])
* [[1667年]] - [[ジョヴァンニ・ジェローラモ・サッケーリ]]、[[司祭]]、[[スコラ哲学|スコラ哲学者]]、[[数学者]](+ [[1733年]])
* [[1694年]] - [[フランティシェク・ヴァーツラフ・ミーチャ]]、オペラ[[指揮者]]、[[作曲家]](+ [[1744年]])
* [[1695年]] - [[カール・グスタフ・テッシン]]([[:en:Carl_Gustaf_Tessin|Carl Gustaf Tessin]])、政治家(+ [[1770年]])
* [[1704年]] - [[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]、画家(+ [[1788年]])
* [[1722年]] - [[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]](+ [[1763年]])
* [[1725年]] - [[ジャン=エティエンヌ・モントゥクラ]]<small>([[:en:Jean-Étienne_Montucla|英語版]])</small>、数学者(+ [[1799年]])
* [[1732年]]([[享保]]17年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]])- [[酒井忠温 (庄内藩主)|酒井忠温]]、第6代[[庄内藩|庄内藩主]](+ [[1767年]])
* [[1735年]] - [[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]、[[オペラ]]作曲家(+ [[1782年]])
* [[1737年]]([[元文]]2年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]])- [[松平信礼]]、第2代[[三河吉田藩|吉田藩主]](+ [[1770年]])
* [[1771年]] - [[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン]]、[[貴族]]、[[軍人]](+ [[1847年]])
* [[1772年]] - [[ファトフ・アリー・シャー]]、[[カージャール朝]][[シャー]](+ [[1834年]])
* [[1774年]] - [[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]、[[画家]](+ [[1840年]])
* [[1781年]] - [[アントン・ディアベリ]]、[[作曲家]](+ [[1858年]])
* [[1782年]]([[天明]]2年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[前田斉広]]、第12代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1824年]])
* [[1791年]] - [[ジャコモ・マイアベーア]]、[[作曲家]](+ [[1864年]])
* 1791年([[寛政]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]])- [[一柳末周]]、第8代[[小野藩|小野藩主]](+ [[1853年]])
* [[1792年]] - [[アルマン・デュフレノア]]、[[地質学者]]、[[鉱物学者]](+ [[1857年]])
* [[1797年]](寛政9年[[7月15日 (旧暦)|閏7月15日]])- [[伊東祐丕]]、第12代[[飫肥藩|飫肥藩主]](+ [[1814年]])
* [[1806年]] - [[ルイ・ジュショー・ド・ラモリシエール]]<small>([[:en:Louis_Juchault_de_Lamoricière|英語版]])</small>、[[軍人]]、政治家(+ [[1865年]])
* [[1817年]] - [[アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ]]、[[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1875年]])
* [[1827年]] - [[ゴッフレード・マメリ]]([[:en:Goffredo_Mameli|Goffredo Mameli]])、[[詩人]](+ [[1849年]])
* [[1829年]] - [[レスター・アラン・ペルトン]]、発明家(+ 1908年)
* [[1831年]] - [[ヴィクトリアン・サルドゥ]]([[:en:Victorien_Sardou|Victorien Sardou]])、作家(+ 1908年)
* [[1836年]] - [[ジャスティニアーノ・ボルゴニョ]]<small>([[:en:Justiniano_Borgoño|英語版]])</small>、政治家、[[ペルーの大統領の一覧|ペルー大統領]](+ [[1921年]])
* [[1839年]]([[天保]]10年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[酒井忠惇]]、第9代[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1907年]])
* [[1841年]](天保12年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]])- [[松平忠淳]]、第6代[[島原藩|島原藩主]](+ [[1860年]])
* [[1847年]] - [[ジェシー・ジェイムズ]]、[[ガンマン]]、[[無法者]](+ [[1882年]])
* [[1852年]] - [[ハンス・ロイシュ]]、[[地質学者]](+ [[1922年]])
* [[1867年]] - [[エイミー・ビーチ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1944年]])
* [[1872年]] - [[アル・オース]]、元プロ野球選手(+ [[1948年]])
* 1872年 - [[ホーレス・ライス]]、[[テニス選手]](+ [[1950年]])
* [[1873年]] - [[コーネリアス・ヴァンダービルト3世]]、陸軍軍人、[[発明家]]、技術者(+ [[1942年]])
* [[1874年]] - [[ナップ・ラジョイ]]、元プロ野球選手(+ [[1959年]])
* [[1876年]] - [[ヴィルヘルム・フォン・レープ]]、軍人(+ [[1956年]])
* [[1881年]] - [[オットー・バウアー]]、[[政治家]]、[[社会学者]]、[[哲学者]](+ [[1938年]])
* 1881年 - 初代[[ウィルソン男爵]][[ヘンリー・メイトランド・ウィルソン]]([[:en:Henry_Maitland_Wilson,_1st_Baron_Wilson|Henry Maitland Wilson, 1st Baron Wilson]])、軍人(+ [[1964年]])
* [[1883年]] - [[オットー・エーリヒ・ドイチュ]]、[[音楽学者]](+ [[1967年]])
* 1883年 - [[メルビン・シェパード]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]](+ [[1942年]])
* [[1888年]] - [[サルヴパッリー・ラーダークリシュナン]]、政治家、第2代[[インドの大統領|インド大統領]](+ [[1975年]])
* [[1889年]] - [[南原繁]]、[[東京大学|東京帝国大学]]総長、[[政治学者]](+ [[1974年]])
* [[1890年]] - [[永野護 (政治家)|永野護]]、[[実業家]]、政治家(+ [[1970年]])
* [[1892年]] - [[ヨーゼフ・シゲティ|ヨゼフ・シゲティ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1973年]])
* [[1897年]] - [[モリス・カルノフスキー]]([[:en:Morris_Carnovsky|Morris Carnovsky]])、俳優(+ [[1992年]])
* [[1901年]] - [[マリオ・シェルバ]]、[[イタリアの首相|イタリア閣僚評議会議長]](+ [[1991年]])
* 1901年 - [[フローレンス・エルドリッジ]]([[:en:Florence_Eldridge|Florence Eldridge]])、女優(+ [[1988年]])
* 1901年 - [[ピエール・ボスト]]、作家(+ [[1975年]])
* [[1902年]] - [[ダリル・F・ザナック]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]](+ [[1979年]])
* [[1903年]] - [[棟方志功]]、版画家(+ [[1975年]])
* 1903年 - [[グロリア・ホールデン]]([[:en:Gloria_Holden)、女優(+|Gloria Holden]])、女優(+ [[1991年]])
* [[1905年]] - [[モーリス・シャール]]、[[空軍軍人]](+ [[1979年]])
* 1905年 - [[アーサー・ケストラー]]、[[ジャーナリスト]]、[[小説家]]、政治活動家、[[哲学者]](+ [[1983年]])
* [[1906年]] - [[ペーター・ミーク]]、作曲家(+ [[1990年]])
* [[1906年]] - [[ジャン・セス]]、[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]](+ [[1969年]])
* [[1908年]] - [[ホアキン・ニン=クルメル]]、[[作曲家]](+ [[2004年]])
* 1908年 - [[ジョズ・デ・カストロ]]<small>([[:en:Josué_de_Castro|英語版]])</small>、医師(+ [[1973年]])
* [[1910年]] - [[レリア・マッキンリー]]([[:en:Leila_Mackinlay|Leila Mackinlay]])、作家(+ [[1981年]])
* [[1912年]] - [[ジョン・ケージ]]、作曲家(+ [[1992年]])
* 1912年 - [[フランク・トーマス (アニメーター)|フランク・トーマス]]、[[アニメーター]](+ [[2004年]])
* [[1914年]] - [[スチュアート・フリーボーン]]、[[メイクアップアーティスト]](+ [[2013年]])
* 1914年 - [[ゲイル・キュービック]]、作曲家(+ [[1984年]])
* 1914年 - [[ニカノール・パラ]]([[:en:Nicanor_Parra)|Nicanor Parra]])、物理学者(+ [[2018年]])
* [[1918年]] - [[ルイス・アルコリサ]]([[:en:Luis_Alcoriza|Luis Alcoriza]])、俳優(+ [[1992年]])
* [[1920年]] - [[三崎千恵子]]、[[俳優|女優]](+ [[2012年]])
* [[1922年]] - [[デニス・ウィルキンソン]]([[:en:Denys_Wilkinson)、物理学者(+|Denys Wilkinson]])、[[物理学者]](+ [[2016年]])
* [[1923年]] - [[西丸震哉]]、食[[生態学]]者、[[エッセイスト]]、[[探検家]](+ [[2012年]])
* [[1927年]] - [[ポール・ボルカー]]、[[経済学者]](+ [[2019年]])
* [[1928年]] - [[浜田幸一]]、政治家(+ [[2012年]])
* 1928年 - [[ジョイス・ハット]]、[[ピアニスト]](+ [[2006年]])
* 1928年 - [[アルベルト・マンゲルスドルフ]]、[[ジャズ]] [[トロンボーン]]奏者(+ [[2005年]])
* [[1929年]] - [[ボブ・ニューハート]]、[[コメディアン]]、[[俳優]]、[[声優]]
* 1929年 - [[アンドリアン・ニコラエフ]]、[[宇宙飛行士]](+ [[2004年]])
* [[1930年]] - [[長沼健]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[2008年]])
* 1930年 - [[外山高士]]、俳優、[[声優]]
* [[1932年]] - [[ロバート・デナード]]、[[電子工学]]者、[[発明家]]
* 1932年 - [[キャロル・ローレンス]]([[:en:Carol_Lawrence|Carol Lawrence]])、女優
* [[1933年]] - [[フランシスコ・ハビエル・エラズリス・オッサ]]([[:en:Francisco_Javier_Errázuriz_Ossa)|Francisco Javier Errázuriz Ossa]])、枢機卿
* [[1934年]] - [[桂本和夫]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1935年]] - [[ワーナー・エアハード]]、作家、「フォーラム」設立者
* [[1936年]] - [[ビル・マゼロスキー]]、元プロ野球選手
* 1936年 - [[ジョン・ダンフォース]]、[[国連大使]]
* 1936年 - [[ジョナサン・コゾル]]、[[教育者]]
* [[1937年]] - [[前川かずお (絵本作家、漫画家)|前川かずお]]、絵本作家、[[漫画家]](+ [[1993年]])
* [[1939年]] - [[利根川進]]、生物学者
* 1939年 - [[ジョージ・レーゼンビー]]、俳優
* 1939年 - [[ウィリアム・ディヴェイン]]、俳優
* 1939年 - [[若林豪]]、俳優
* [[1940年]] - [[ラクエル・ウェルチ]]、女優(+ 2023年)
* [[1941年]] - [[中杉弘]]、[[思想家]]、[[宗教家]]
* [[1942年]] - [[ヴェルナー・ヘルツォーク]]、[[映画監督]]
* 1942年 - [[井石礼司]]、元プロ野球選手
* [[1943年]] - [[広河隆一]]、[[フォトジャーナリスト]]
* [[1946年]] - [[フレディ・マーキュリー]]、[[歌手]](+ [[1991年]])
* 1946年 - [[鈴木照雄]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[木島日出夫]]、政治家
* [[1947年]] - [[メル・コリンズ]]、[[サクソフォーン]]奏者、[[フルート奏者]]
* 1947年 - [[武山百合子]]、政治家
* [[1951年]] - [[マイケル・キートン]]、俳優
* [[1952年]] - [[草刈正雄]]、俳優
* [[1953年]] - [[樋浦一帆]]、[[歌手]]
* [[1955年]] - [[大口善徳]]、政治家
* [[1958年]] - [[江藤博利]]、俳優(元[[ずうとるび]])
* [[1959年]] - [[松尾紀子]]、[[アナウンサー]]
* [[1960年]] - [[千之ナイフ]]、[[漫画家]]
* 1960年 - [[ウィリー・ゴールト]]、陸上選手、アメリカンフットボール選手
* 1960年 - [[ティム・バートサス]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[植村喜八郎]]、俳優、[[声優]]
* [[1961年]] - [[マルカンドレ・アムラン]]、[[ピアニスト]]、作曲家
* [[1962年]] - [[中島源陽]]、政治家
* [[1963年]] - [[大熊英司]]、アナウンサー
* [[1965年]] - [[仲村トオル]]、俳優
* [[1966年]] - [[中村あずさ]]、元女優
* [[1967年]] - [[久米田康治]]、漫画家
* 1967年 - [[村枝賢一]]、漫画家
* 1967年 - [[アーネル・ピネダ]]、ミュージシャン([[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]])
* [[1968年]] - [[松永博史]]、俳優
* 1968年 - [[成嶋竜]]、空手家
* [[1969年]] - [[國府田マリ子]]、声優
* 1969年 - [[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* [[1970年]] - [[丸山忠久]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* [[1971年]] - [[YOU THE ROCK★]]、ミュージシャン
* [[1974年]] - [[伊達みきお]]、お笑いタレント([[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]])
* 1974年 - [[ピーター・ウィルドアー]]、ミュージシャン、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア
* [[1975年]] - [[吉野公佳]]、女優、グラビアアイドル
* 1975年 - [[KiLa]]、マジシャン
* [[1976年]] - [[カリス・ファン・ハウテン]]、女優
* [[1977年]] - [[茶畑るり]]、漫画家
* 1977年 - [[押川善文]]、俳優
* 1977年 - [[阪口周平]]、声優
* [[1978年]] - [[山本博 (お笑い芸人)|山本博]]、お笑いタレント([[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]])
* 1978年 - カオル、お笑いタレント([[ダブルネーム]])
* 1978年 - [[マット・ワトソン]]、プロ野球選手
* 1978年 - [[クリス・ヒプキンス]]、政治家、[[ニュージーランドの首相|ニュージーランド首相]]
* [[1979年]] - [[山田耕平]]、歌手
* 1979年 - [[ライアン・スピルボーグス]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[橋本啓]]、元プロ野球選手
* [[1981年]] - [[新井利佳]]、タレント(元[[チェキッ娘]])
* 1981年 - [[カン・ハンナ]]、タレント
* [[1982年]] - [[古川麻耶]]、元[[ファッションモデル]]
* 1982年 - [[王心凌]]、歌手
* 1982年 - [[木村信]]、ファッションモデル
* 1982年 - [[いがわゆり蚊]]、お笑い芸人
* [[1983年]] - [[小林親弘]]、俳優、声優
* 1983年 - [[竹内和也 (投手)|竹内和也]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[永井秀昭]]、[[ノルディック複合]]選手
* 1983年 - [[クリス・ヤング (外野手)|クリス・ヤング]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[添田豪]]、テニス選手
* 1984年 - [[郭智博]]、俳優
* 1984年 - [[上條倫子]]、元アナウンサー
* [[1986年]] - [[加藤聡 (野球)|加藤聡]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[井上雄介]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[深江真登]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[加賀美希昇]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ヌリ・シャヒン]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[植田圭輔]]、[[俳優]]
* 1989年 - [[高木京介]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[駒田航]]、声優
* [[1990年]] - [[菊地亜美]]、タレント(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]16号)
* 1990年 - [[相坂優歌]]、声優
* 1990年 - [[笹川友里]]、アナウンサー
* 1990年 - [[井林章]]、サッカー選手
* 1990年 - [[金妍兒]]、元[[フィギュアスケート]]選手
* 1990年 - [[フランコ・スクリーニ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[岩貞祐太]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[和田雅成]]、俳優
* 1991年 - [[マイケル・ピープルズ]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[永瀬拓矢]]、将棋棋士
* [[1994年]] - [[鷲見友美ジェナ]]、声優、歌手
* [[1995年]] - [[細田羅夢]]、歌手、元[[子役]]
* 1995年 - [[工藤有生]]、元陸上選手
* [[1996年]] - [[古澤勝吾]]、元プロ野球選手
* 1996年 - [[リハイロ・ジヴコヴィッチ]]、サッカー選手
* 1996年 - 大倉明日香([[ASCA (歌手)|ASCA]])、歌手
* 1996年 - [[明璃奈]]、レースクイーン
* [[1997年]] - [[齊藤京子]]、アイドル([[日向坂46]])
* 1997年 - [[三浦獠太]]、俳優
* 1997年 - [[中山ふみか]]、AV女優
* 1997年 - [[リン・シャン]]、モデル、チアリーダー
* [[1998年]] - [[九鬼隆平]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/players/31735134.html|title=九鬼隆平|publisher=NPB.jp 日本野球機構|accessdate=2021-01-09}}</ref>、プロ野球選手
* 1998年 - [[小倉ゆうか]]、女優、モデル、元グラビアアイドル
* 1998年 - [[田原萌々]]、アナウンサー
* [[2000年]] - [[井川龍人]]、陸上選手
* 2000年 - [[五城せのん]]、グラビアアイドル
* [[2004年]] - 鈴木悠仁、アイドル([[ジャニーズJr.]]、少年忍者)
* 2004年 - [[上杉真央 (タレント)|上杉真央]]、タレント
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Emperor_Nijō.jpg
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| caption1 = 第78代天皇、[[二条天皇]](1143-1165)
| image2 = EmperorSuleiman.jpg
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| caption2 = [[オスマン帝国]]の最盛期を築いた第10代皇帝、[[スレイマン1世]](1494-1566)
}}
<!-- [[Image:Laclos.jpg|thumb|100px|小説家[[ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ]](1741-1803)]] -->
[[Image:Ftrob_ch.JPG|thumb|100px|{{仮リンク|オグララ族|en|Oglala Lakota}}の戦士[[クレイジー・ホース]](1840-1877)、白人に殺害される]]
{{multiple image
| image1 = Auguste_Comte.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 社会学者、[[オーギュスト・コント]](1798-1857)没。{{Squote|生者は常にますます死者によって支配されていく。――『実証政治学体系』}}
| image2 = Rudolf_Virchow.jpg
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| caption2 = 医師[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー]](1821-1902)没。[[白血病]]を発見
| image3 = Zentralfriedhof_Vienna_-_Boltzmann.JPG
| width3 = 100
| caption3 = 物理学者[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]](1844-1906)没。画像は[[エントロピー]]の公式が刻まれた墓
}}
<!-- [[Image:Charles_peguy.jpg|thumb|100px|詩人[[シャルル・ペギー]](1873-1914)]] -->
<!-- [[Image:Sazanami_Iwaya.jpg|thumb|100px|児童文学者、[[巌谷小波]](1870-1933)]] -->
<!-- [[Image:Kichiemon_Nakamura_I_1951.jpg|thumb|100px|歌舞伎役者、[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]](1886-1954)]] -->
{{multiple image
| footer = 修道女[[マザー・テレサ]](1910-1997)没。{{Squote|[[愛]]への飢えは[[パン]]への飢えより遥かに取り除くのが難しいのです。}}
| image1 = MotherTeresa_090.jpg
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| alt1 = マザー・テレサ
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| alt2 = チェコの記念プレート
}}
<!-- [[Image:Sir_George_Solti_Allan_Warren.jpg|thumb|100px|指揮者[[ゲオルク・ショルティ]](1912-1997)]] -->
<!-- WANTED: 堀田善衛 -->
* [[1010年]]([[寛弘]]7年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[大江以言]]、[[平安時代]]の文人(* [[955年]])
* [[1165年]]([[永万]]元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[二条天皇]]、第78代[[天皇]](* [[1143年]])
* [[1194年]]([[建久]]5年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]])- [[安田義定]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1134年]])
* [[1201年]] - [[コンスタンス・ド・ブルターニュ|コンスタンス]]、[[ブルターニュ|ブルターニュ女公]](* [[1161年]])
* [[1566年]] - [[スレイマン1世]]{{要出典|date=2021-03}}、第10代[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1494年]])
* [[1595年]]([[文禄]]4年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]])- [[駒姫]]、[[関白]][[豊臣秀次]]の[[側室]](* [[1580年]])
* 1595年(文禄4年8月2日)- [[豊臣仙千代丸]]、関白豊臣秀次の嫡男(* [[1590年]])
* 1595年(文禄4年8月2日)- [[豊臣土丸]]、関白豊臣秀次の四男
* [[1734年]] - [[ニコラ・ベルニエ]]、[[作曲家]](* [[1664年]])
* [[1803年]] - [[ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ]]、[[小説家]](* [[1741年]])
* 1803年 - [[フランソワ・ドヴィエンヌ]]、作曲家(* [[1759年]])
* [[1857年]] - [[オーギュスト・コント]]、[[哲学|哲学者]](* [[1798年]])
* [[1866年]] - [[ジュール・デュピュイ]]、[[経済学者]](* [[1804年]])
* [[1877年]] - [[クレイジー・ホース]]、[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民族]][[ラコタ]]の指導者(* [[1840年]])
* [[1902年]] - [[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー]]、[[医学者]]、[[政治家]](* [[1821年]])
* [[1906年]] - [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]、[[物理学者]](* [[1844年]])
* [[1914年]] - [[シャルル・ペギー]]、[[詩人]]、[[思想家]](* [[1873年]])
* [[1923年]] - [[ドッツ・ミラー]]、プロ野球選手(* [[1886年]])
* [[1926年]] - [[カール・ハラー]]、ドイツ労働者党(後の[[国家社会主義ドイツ労働者党]])共同創設者、初代議長(* [[1890年]])
* [[1933年]] - [[巖谷小波]]、[[児童文学]]作家(* [[1870年]])
* [[1954年]] - [[中村吉右衛門 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1886年]])
* [[1965年]] - [[飯塚盈延]]、[[特別高等警察]]の[[スパイ]] <!-- [[飯塚盈延]] 9/4 ですが日本人名大辞典に9/5とあり。 [https://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E5%A1%9A%E7%9B%88%E5%BB%B6-1052006] -->(* [[1902年]])
* [[1970年]] - [[ヨッヘン・リント]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1942年]])
* [[1973年]] - [[渡辺仁]]、[[建築家]](* [[1887年]])
* [[1975年]] - [[堂本印象]]、[[日本画家]](* [[1891年]])
* [[1976年]] - [[徳川義親]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[徳川黎明会]]創設者(* [[1886年]])
* [[1977年]] - [[吉田竜夫]]、[[漫画家]]、[[アニメーション]]原作者、アニメ制作会社[[タツノコプロ]]創設者(* [[1932年]])
* [[1978年]] - [[韓益洙]]、[[政治家]]、[[軍人]](* [[1912年]])
* [[1979年]] - [[勅使河原蒼風]]、[[華道]][[草月流]]創始者(* [[1900年]])
* [[1986年]] - [[笑福亭松鶴 (6代目)]]<ref>「朝日新聞」1986年9月6日朝刊。</ref>、[[落語家]](* [[1918年]])
* [[1987年]] - [[芥田武夫]]、[[アマチュア野球]]選手、[[プロ野球監督]](* [[1903年]])
* [[1988年]] - [[ゲルト・フレーベ]]、[[俳優]](* [[1913年]])
* [[1989年]] - [[入江徳郎]]、[[ジャーナリスト]](* [[1913年]])
* [[1992年]] - [[フリッツ・ライバー]]、[[SF作家]]、[[ファンタジー]]作家(* [[1910年]])
* 1992年 - [[森康二]]、[[アニメーター]]、[[絵本作家]](* [[1925年]])
* 1992年 - [[太田正男 (プロ野球審判員)|太田正男]]、プロ野球審判員(* [[1931年]])
* [[1996年]] - [[山村美紗]]、[[推理作家]](* [[1931年]])
* [[1997年]] - [[マザー・テレサ]]、修道女(* [[1910年]])
* 1997年 - [[ゲオルク・ショルティ]]、[[指揮者]](* [[1912年]])
* [[1998年]] - [[堀田善衛]]、小説家(* [[1918年]])
* [[2003年]] - [[青木雄二]]、漫画家、評論家(* [[1945年]])
* [[2004年]] - [[中野武彦]]、小説家(* [[1927年]])
* [[2006年]] - [[高柳敏夫]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1920年]])
* 2006年 - [[見良津健雄]]、[[作曲家]](* [[1960年]])
* [[2008年]] - [[ミラ・ショーン]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1918年]])
* 2008年 - [[辻一彦]]、[[政治家]](* [[1924年]])
* [[2009年]] - [[高林恒夫]]、[[プロ野球選手]](* [[1938年]])
* [[2010年]] - [[富沢祥也]]<ref>{{Cite web|和書|title=富沢祥也、レース中の事故で死亡 サンマリノGP |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2753558 |publisher=AFP通信|date=2010年9月6日|access-date=2022-10-22 |language=ja}}</ref>、[[オートバイ]]レーサー(* [[1990年]])
* [[2012年]] - [[堀川弘通]]、[[映画監督]](* [[1916年]])
* [[2014年]] - [[曽根陽一]]、[[写真家]](* [[1953年]])
* [[2015年]] - [[原節子]]、女優(* [[1920年]])
* 2015年 - [[竹内黎一]]、政治家(* [[1926年]])
* 2015年 - [[小林陽太郎]]、[[実業家]](* [[1933年]])
* [[2016年]] - [[フィリス・シュラフリー]]、憲法学者、著作家(* [[1924年]])
* [[2017年]] - [[ニコラス・ブルームバーゲン]]、[[物理学者]](* [[1920年]])
* 2017年 - [[ホルガー・シューカイ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[カン (バンド)|カン]])(* [[1938年]])
* [[2019年]] - [[金野昭次]]、[[スキージャンプ]]選手(* [[1944年]])
* [[2020年]] - [[神近義邦]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN956R5VN95TOLB002.html|title=神近義邦さん、78歳で死去 「ハウステンボス」創業者|newspaper=朝日新聞社|date=2020-09-05|accessdate=2020-11-26}}</ref>、実業家(* [[1942年]])
* [[2022年]] - [[おおたか静流]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20220906-0YT1T50175/ |title=「にほんごであそぼ」出演、歌手のおおたか静流さん死去…69歳 |website=読売新聞オンライン |publisher=読売新聞社|date=2022-09-06 |accessdate=2023-02-15}}</ref>、歌手(* [[1953年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[石炭]]の日
| direction = vertical
| image1 = Coal mine Wyoming.jpg
| width1 = 220
| caption1 = ワイオミングの炭鉱
| image2 = Peitz_kraftwerk_jaenschwalde_sommer_nah.jpg
| width2 = 220
| caption2 = {{仮リンク|イェンシュヴァルデ発電所|en|Jänschwalde Power Station}}
}}
<!-- [[Image:Radhakrishnan telugu signature.jpg|thumb|140px|哲学者・第2代インド大統領、[[サルヴパッリー・ラーダークリシュナン]]誕生(1888-1975)]] -->
[[Image:OLPC India Khairat.jpg|thumb|[[インド]]の教師と生徒たち<!--。画像のパソコン[[OLPC XO-1]]にはウィキペディアの記事が収録されている: 自己言及かな -->]]
* [[国民栄誉賞]]の日({{JPN}})
*:[[1977年]]のこの日、[[国民栄誉賞]]の第1号が[[王貞治]]に贈呈されたことを記念する。1977年9月3日、[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]の王貞治選手が、大リーグの[[ハンク・アーロン]]選手の持つ最多本塁打記録を更新する756号本塁打を達成。政府はこの偉業を表彰すべく、同年8月末に「国民栄誉賞」を創設していた。
* [[石炭]]の日/クリーン・コール・デー({{JPN}})
*: 「クリーン(9)・コール(5)」の語呂合せ。[[通商産業省]](現:[[経済産業省]])の呼びかけにより、[[日本鉄鋼連盟]]・[[電気事業連合会]]・日本石炭協会など石炭関係8団体で構成する「クリーン・コール・デー実行委員会」が[[1992年]]に制定。
*: 硫黄や窒素酸化物が除去され、石炭が大気を汚染しないクリーンエネルギーとなっていることをアピールし、エネルギー源としての石炭をPRするため、火力発電所の一般公開等が行われる。
* [[教師の日]]({{IND}})
*: 第2代インド大統領で、近代インドを代表する思想家でもある[[サルヴパッリー・ラーダークリシュナン]]の[[1888年]]の誕生日を記念。
* ライトニング・マックィーンデー({{JPN}})
*:映画「[[カーズ (映画)|カーズ]]」の魅力をより多くの人に知ってもらおうと、ウォルト・ディズニー・ジャパンが制定。ライトニング・マックィーンは「カーズ」に登場する天才レーサーで、彼のゼッケンが95であることからこの日を記念日とした<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=93|isbn=978-4422021157 }}</ref>。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0905|date=2011年7月}}
<!-- * [[2200年]] - [[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|宇宙戦艦ヤマト]]が[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル]]より地球へ帰還<ref>リメイク作の『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』では[[2199年]][[12月8日]]。</ref>。(アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』) http://www.bandaivisual.co.jp/yamato/data/history.html によると2200年9月6日 -->
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1930年]] - [[プルート (ディズニーキャラクター)|プルート]]、『[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|DISNEY]]』キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdrblog/detail/220905/ |title=9月5日はプルートのバースデー♪ |access-date=2022-09-22 |publisher=TOKYO DISNEY RESORT |date=2022-09-05}}</ref>
* [[2003年]] - 金田正太郎、漫画『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』に登場するキャラクター<ref group="注釈"> [https://v-storage.bnarts.jp/sp-site/akira/character/ 『AKIRA』4Kリマスター公式サイト]では、2003年9月15日生まれとなっている。</ref>
* 生年不明 - 北郷このみ、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/kitagoh_konomi |title=宮崎 北郷 このみ |access-date=2022-09-22 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - クロコダイル、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Crocodile.html |title=クロコダイル |access-date=2022-09-22 |publisher=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 銅橋正清、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://yowapeda.com/news/index_4.html |title=鳴子章吉&銅橋正清 2018年バースデーケーキ&マカロン発売!! |access-date=2022-09-22 |publisher=渡辺航([[週刊少年チャンピオン]])/弱虫ペダル05製作委 |work=弱虫ペダル LIMIT BREAK |date=2018-08-02}}</ref>
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物|ハンジ・ゾエ]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=進撃の巨人 OUTSIDE 攻|publisher=講談社|series=KCデラックス|date=2013-09-09|isbn=978-4-06-376873-2}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shingeki-sp.net/shindb/index/c_ha_024 |title=進撃データベース |publisher=進撃の巨人for auスマートパス |accessdate=2020-07-16}}</ref>
* 生年不明 - 早乙女聖也、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-09-22}}</ref>
* 生年不明 - [[ときめきメモリアルの登場人物#美樹原愛|美樹原愛]]、ゲーム『[[ときめきメモリアル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ときめきメモリアルオフィシャルイラスト集|page=70|publisher=[[徳間書店インターメディア]]|date=1996年4月|isbn=978-4-19-825112-3}}</ref>
* 生年不明 - 北条加蓮、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20143 |title=北条 加蓮(ほうじょう かれん) |access-date=2022-09-22 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 鳳京奏、ゲーム・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/houkyo-kanade/ |title=宮崎県 鳳京 奏 |access-date=2022-09-22 |publisher=MAGES. アイドル事変製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 伊達政宗、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1037173474849181696}}</ref>
* 生年不明 - ミサト、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1566607069146255360}}</ref>
* 生年不明 - 環はなび、ゲーム『[[アイ・アム・マジカミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.magicami.jp/character/10/ |title=環 はなび |access-date=2022-09-22 |publisher=Studio MGCM, Inc. |work=アイ・アム・マジカミ}}</ref>
<!--
* 生年不明 - 遠坂葵、小説『[[Fate/Zero]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年9月3日 (火) 14:48 (UTC)}}
=== 忌日(フィクション) ===
* [[2016年]] - [[綾里千尋]]、ゲーム『[[逆転裁判]]』の登場人物 (* [[1989年]]?){{要出典|date=2018年9月}}
2022年9月、3年以上要出典のためコメントアウト
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|September 5|5 September}}
{{新暦365日|9|4|9|6|[[8月5日]]|[[10月5日]]|[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]|0905|9|05}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-27T06:30:19Z | 2023-12-10T09:50:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%885%E6%97%A5 |
5,286 | 8月26日 | 8月26日(はちがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から238日目(閏年では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。 | [
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] | 8月26日(はちがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から238日目(閏年では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。 | {{カレンダー 8月}}
'''8月26日'''(はちがつにじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から238日目([[閏年]]では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。
== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:[[ジェームズ・クック]](地図に日付は入っている), [[特殊慰安施設協会]], [[ブリティッシュ・モーター・コーポレーション]]/[[ミニ (BMC)]], [[千住火力発電所]], [[奈良そごう]]/[[長屋王]], [[ビロード離婚]]/[[チェコスロバキア]], [[盧泰愚]], -->
[[Image:131 Bataille de Malazgirt.jpg|thumb|upright|[[マラズギルトの戦い]](1071)。東ローマ帝国皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]が捕虜となる]]
[[Image:Battle of crecy froissart.jpg|thumb|upright|[[百年戦争]]、[[クレシーの戦い]](1346)。イングランドの[[ロングボウ]]部隊がフランスの[[クロスボウ]]部隊を打ち破る]]
[[Image:Karte Cook Seereise nr1.png|thumb|{{仮リンク|ジェームズ・クックの初航海|en|First voyage of James Cook|label=ジェームズ・クックが初航海}}に出発(1768)]]
[[Image:Declaration of Human Rights.jpg|thumb|フランスで[[人間と市民の権利の宣言]]採択(1789)。{{Squote|人は権利として生まれながらにして[[平等]]であり平等であり続ける。社会的な区別は公益に基づくものしか認められない。――第1条 [[:fr:Déclaration_des_droits_de_l'homme_et_du_citoyen_de_1789|[:fr]]]}}]]
[[Image:Treaties of Amity and Commerce between Japan and Holland England France Russia and the United States 1858.jpg|thumb|[[日英修好通商条約]]締結(1858)]] <!-- 画像としては日米修好通商条約などと同じもの -->
[[File:Dmitry Medvedev address on 26 August 2008 regarding Abkhazia & South Ossetia.ogv|thumb|ロシアが[[南オセチア]]の独立を承認(2008)。[[Help:音声・動画の再生]]]]
[[File:LIGHTLINE HU300-301 First-train.jpg|thumb|宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線(ライトライン)開業(2023)。]]
* [[842年]]([[承和 (日本)|承和]]9年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[承和の変]]。
* [[1071年]] - [[マラズギルトの戦い]]。
* [[1308年]]([[延慶 (日本)|延慶]]元年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - 鎌倉幕府将軍・[[久明親王]]が京に送還されたのに伴い、久明親王の子で8歳の[[守邦親王]]が将軍に就任。
* [[1346年]] - [[百年戦争]]: [[クレシーの戦い]]。
* [[1600年]]([[慶長]]5年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])- [[伏見城の戦い]]が始まる。
* [[1768年]] - [[ジェームズ・クック]]が{{仮リンク|ジェームズ・クックの最初の航海|en|First voyage of James Cook|label=最初の航海}}に出発。
* [[1789年]] - [[フランス]]国民会議が[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言]]を採択。
* [[1813年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[ドレスデンの戦い]]がはじまる。
* [[1858年]]([[安政]]5年7月18日) - [[日英修好通商条約]]が調印される。
* [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[第二次ブルランの戦い]]が始まる。
* [[1920年]] - 日本初の[[海洋気象台]](神戸海洋気象台、現在は[[神戸地方気象台]])が観測事業を開始。
* [[1926年]] - [[イタリア]]のサッカークラブ「[[ACFフィオレンティーナ]]」が発足。<!-- 重要性? -->
* [[1936年]] - [[イギリス・エジプト同盟条約]]が締結。
* [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[パリの解放]]: [[シャルル・ド・ゴール]]が[[パリ]]に入城。
* [[1945年]] - [[軍需省]]・[[大東亜省]]を廃止。[[農商務省 (日本)|農商省]]を分割して[[農林水産省|農林省]]・[[商工省]]を再設置。
* 1945年 - [[特殊慰安施設協会]]設立。
* [[1950年]] - [[黒澤明]]監督による映画『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』封切り。
* [[1957年]] - [[タス通信]]が世界初の[[大陸間弾道ミサイル]] (ICBM) 「[[R-7 (ロケット)|R-7]]」の実験成功を配信。
* [[1958年]] - [[アサヒビール|朝日麦酒(アサヒビール)]]が日本で最初の[[缶|缶入り]][[ビール]]を発売。
* [[1962年]] - 昭和37年台風第14号が[[三重県]]に上陸。[[滋賀県]]、[[福井県]]を通過して[[日本海]]へ抜けた後に温帯低気圧となった。死者・行方不明者11人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=163 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1966年]] - [[ナミビア独立戦争]]はじまる。
* [[1967年]] - [[羽越豪雨]]。この日から[[8月29日]]にかけて羽越地方で豪雨。
* [[1970年]] - [[植村直己]]が北米大陸最高峰[[デナリ|マッキンリー山]]に単独初登頂。世界初の五大陸最高峰登頂者となる。
* [[1972年]] - 第20回[[夏季オリンピック]]、[[ミュンヘンオリンピック]]開催。[[9月11日]]まで。
* [[1976年]] - [[エボラウイルス属]]のザイールエボラウイルスによる[[エボラ出血熱]]の世界初の患者が[[コンゴ民主共和国]]で発生する。
* [[1978年]] - [[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]が[[ローマ教皇]]に選出。
* 1978年 - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ジークムント・イェーン]]がソ連のソユーズ31号に搭乗し、[[ドイツ人]]初の[[宇宙飛行士]]となる。
* 1978年 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』を放送。翌年から恒例化。
*[[1979年]] - [[東京スポーツ新聞社]]主催で当時のプロレス3団体の[[新日本プロレス]]、[[全日本プロレス]]、[[国際プロレス]]が参加の[[プロレス夢のオールスター戦]]開催。
* [[1985年]] - トヨタ自動車が「[[トヨタ・カリーナED|カリーナED]]」/「[[トヨタ・コロナクーペ|コロナクーペ]]」を発売。
* [[1988年]] - [[奈良市]]の[[奈良そごう]]建設予定地で大量の木簡([[長屋王家木簡]])が発見され、[[長屋王]]邸跡であることが判明。
* [[1992年]] - [[ビロード離婚]]: [[ヴァーツラフ・クラウス]]と[[ヴラジミール・メチアル]]が[[チェコスロバキア]]の連邦解体の合意に署名。
* [[1993年]] - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]に[[レインボーブリッジ]]が開通。
* [[1996年]] - [[全斗煥]]元大統領に死刑、[[盧泰愚]]元大統領に懲役22年6か月の判決。
* [[2002年]] - [[マツダ・RX-7]](FD3S型)生産終了。 <!-- 『ハイパーレブ RX-7マガジン №016』株式会社ニューズ出版(2002年12月) -->
* 2002年 - [[ヨハネスブルク]]で[[持続可能な開発に関する世界首脳会議]]が開幕。
* [[2008年]] - [[アフガニスタン日本人拉致事件]]が起こる。[[非政府組織|NGO組織]]「[[ペシャワール会]]」メンバーの[[日本人]]が[[ターリバーン]]によって殺害される。
* 2008年 - [[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]]: [[ロシア]]が[[南オセチア]]の[[独立]]を[[国家の承認|承認]]。
* [[2010年]] - [[福井県]][[敦賀市]]にある[[日本原子力研究開発機構]]の[[高速増殖炉]][[もんじゅ]]にて、原子炉容器内に筒型の炉内中継装置(重さ3.3トン)が落下。長期の運転休止となる。
* [[2015年]] - [[バージニア・テレビクルー射殺事件]]<ref>{{Cite news|title=Vester Lee Flanagan II, aka Bryce Williams, Named as Suspect in Live TV Shooting in Virginia|newspaper=NBC|date=2015-08-26|author=Erin McClam|url=http://www.nbcnews.com/news/us-news/vester-lee-flanagan-ii-named-suspect-live-tv-shootings-virginia-n416331}}</ref>。
* [[2016年]] - [[新海誠]]監督のアニメ映画「[[君の名は。]]」が封切り。[[スタジオジブリ]]以外の邦画のアニメ映画では初となる興行収入200億円を突破した大ヒット作となる。
* [[2023年]] - [[宇都宮ライトレール]][[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]](愛称:「LIGHTLINE(ライトライン)」<ref>{{Cite web |title=LRT車両の愛称が「ライトライン」に決定しました |url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/kotsu/lrt/1028857/1025819.html |website=宇都宮市公式Webサイト |access-date=2023-12-29 |language=ja |last=宇都宮市役所}}</ref><ref>{{Cite web |title=LRTの愛称、範囲拡大 路線や事業名も「ライトライン」|下野新聞 SOON |url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/796470 |website=下野新聞 SOON |access-date=2023-12-29 |language=ja}}</ref>)[[宇都宮駅東口停留場]] - [[芳賀・高根沢工業団地停留場]]間開業。日本国内での路面電車の新規開業は1948年の[[万葉線]]以来75年ぶり。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
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| image1 = Jean-Baptiste van Loo - Robert Walpole.jpg
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| caption1 = イギリス初代首相、[[ロバート・ウォルポール]](1676-1745)
| image2 = Yun Posun 1.jpg
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| caption2 = 大韓民国第4代大統領、[[尹潽善]](1897-1990)
}}
<!-- [[Image:Josephmontgolfier.jpg|thumb|100px|[[熱気球]]を発明した[[モンゴルフィエ兄弟]]の兄、[[ジョセフ・モンゴルフィエ]](1740-1810)]] -->
{{multiple image
| footer = 「現代化学の父」、化学者[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]](1743-1794)誕生。[[質量保存の法則]]などを発見。右画像は[[宇田川榕菴]]『舎密開宗』、[[蘭学]]として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験
| image1 = Antoine_lavoisier_color.jpg
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| alt1 = アントワーヌ・ラヴォアジエ
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| alt2 = 『舎密開宗』――日本に伝わったラヴォアジエの仕事
}} <!-- TODO: 記事本体加筆 -->
<!-- [[Image:Prince_Albert_1842.JPG|thumb|100px|[[ヴィクトリア (イギリス女王)|]]の王配、[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|]](1819-1861)]] -->
<!-- [[Image:%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%95%8F.jpg|thumb|100px|歌手、[[上原敏]](1908-1944)]] -->
{{multiple image
| footer = 修道女[[マザー・テレサ]](1910-1997)誕生。[[神の愛の宣教者会]]を設立。右画像はテレサがカルカッタに設立した「[[死を待つ人々の家]]」
| image1 = MotherTeresa_090.jpg
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| alt1 = マザー・テレサ
| image2 = Nirmal_Hriday.JPG
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| alt2 = 死を待つ人々の家
}}
<!-- [[Image:Cort%C3%A1zar.jpg|thumb|100px|アルゼンチンの作家、[[フリオ・コルタサル]](1914-1984)]] -->
<!-- [[Image:Sakai_Cockpit_A5M.jpg|thumb|100px|大日本帝国海軍の[[エース・パイロット]]、[[坂井三郎]](1916-2000)]] -->
* [[1598年]]([[慶長]]3年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[水野勝俊]]、[[備後国]][[備後福山藩|福山藩]]2代藩主(+ [[1655年]])
* [[1648年]]([[慶安]]元年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[松平隆政]]、[[出雲国]][[母里藩]]6代藩主(+ [[1673年]])
* [[1676年]] - [[ロバート・ウォルポール]]、[[イギリス]]初代首相(+ [[1745年]])
* [[1678年]]([[延宝]]6年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[徳大寺公全]]、[[公卿]](+ [[1720年]])
* [[1684年]]([[貞享]]元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[松浦篤信]]、[[肥前国]][[平戸藩]]6代藩主(+ [[1757年]])
* [[1698年]]([[元禄]]11年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[分部光忠]]、[[近江国]][[大溝藩]]5代藩主(+ [[1731年]])
* [[1721年]]([[享保]]6年閏[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]) - [[酒井忠与]]、[[若狭国]][[小浜藩]]8代藩主(+ [[1762年]])
* [[1728年]] - [[ヨハン・ハインリヒ・ランベルト]]、[[数学者]]・[[物理学者]]・[[化学者]]・[[天文学者]]・[[哲学者]](+ [[1777年]])
* [[1740年]] - [[ジョセフ・モンゴルフィエ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Montgolfier-brothers Joseph-Michel and Jacques-Étienne Montgolfier French aviators] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[発明家]](+ [[1810年]])
* [[1743年]] - [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]、[[化学者]](+ [[1794年]])
* [[1819年]] - [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]、[[イギリス]]の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の夫(+ [[1861年]])
* [[1820年]] - [[ジェイムズ・ハーラン (内務長官)|ジェイムズ・ハーラン]]、第8代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1899年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]3年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[一柳末徳]]、[[播磨国]][[小野藩]]11代藩主・[[子爵]](+ [[1922年]])
* [[1855年]]([[安政]]2年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[松平忠敬]]、[[武蔵国]][[忍藩]]5代藩主(+ [[1919年]])
* [[1857年]]([[安政]]4年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[麻生太吉]]、[[政治家]](+ [[1933年]])
* 1857年(安政4年7月7日) - [[内藤政養]]、[[陸奥国]][[湯長谷藩]]13代藩主(+ [[1911年]])
* [[1873年]] - [[新城新蔵]]、[[天文学者]](+ [[1938年]])
* 1873年 - [[リー・ド・フォレスト]]、[[発明家]]、技術者(+ [[1961年]])
* [[1885年]] - [[尾上菊五郎 (6代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1949年]])
* [[1895年]] - [[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]、[[野球の歴史|野球史]]と[[石川啄木]]の研究者(+ [[1960年]])
* [[1897年]] - [[尹潽善]]、[[大韓民国]]第4代[[大統領 (大韓民国)|大統領]](+ [[1990年]])
* [[1901年]] - [[陳毅]]、[[軍人]]、政治家、[[外交官]]、[[詩人]]、[[中華人民共和国外交部]]第2代外交部長(+ [[1972年]])
* [[1907年]] - [[藤林益三]]、第7代[[最高裁判所長官]](+ [[2007年]])
* [[1908年]] - [[上原敏]]、[[歌手]](+ [[1944年]])
* [[1910年]] - [[マザー・テレサ]]、[[修道士|修道女]](+ [[1997年]])
* [[1914年]] - [[フリオ・コルタサル]]、[[作家]](+ [[1984年]])
* [[1915年]] - [[下條正巳]]、[[俳優]](+ [[2004年]])
* [[1916年]] - [[坂井三郎]]、軍人、[[エース・パイロット]]、著者(+ [[2000年]])
* [[1923年]] - [[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]]、[[指揮者]](+ [[2013年]])
* 1923年 - [[鷹司平通]]、[[鷹司家]]27代目当主、鉄道研究家(+ [[1966年]])
* [[1928年]] - [[安藤三男]]、[[俳優]](+ 没年不明)
* [[1931年]] - [[太田正男 (プロ野球審判員)|太田正男]]、元プロ野球審判員(+ [[1992年]])
* [[1933年]] - [[イダ・ゴトコフスキー]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]
* [[1934年]] - [[武村正義]]、[[政治家]](+ [[2022年]])
* 1934年 - [[酒井田柿右衛門 (14代目)|14代目酒井田柿右衛門]]、[[陶芸家]](+ [[2013年]])
* 1934年 - [[桧垣忠]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1936年]] - [[大石尚子]]、政治家(+[[2012年]])
* 1936年 - [[近藤洲弘]]、[[テレビプロデューサー]](+ [[1990年]])
* [[1937年]] - [[内海賢二]]、[[声優]](+ [[2013年]])
* 1937年 - [[京建輔]]、作曲家
* 1937年 - [[ニナ・コンパネーズ]]、映画監督、[[脚本家]](+ [[2015年]])
* [[1940年]] - [[高松延次]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[吉田ヒロミ]]、[[ファッションデザイナー]]
* [[1946年]] - [[佐藤一郎 (画家)|佐藤一郎]] 、[[画家]]
* [[1947年]] - [[宮川俊二]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1949年]] - [[山口河童]]、俳優
* [[1950年]] - [[いがらしゆみこ]]、[[漫画家]]
* [[1951年]] - [[エドワード・ウィッテン]]、[[数学者]]
* [[1952年]] - [[上田正則]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[益山性旭]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[エフレン・レイズ]]、[[ビリヤード]]選手
* [[1956年]] - [[伊藤敏博]]、[[シンガーソングライター]]
* 1956年 - [[和田アキラ]]、ギタリスト(+ [[2021年]])
* 1956年 - [[サリー・ビーミッシュ]]、[[ヴィオラ]]奏者
* [[1957年]] - [[難波圭一]]、声優
* [[1959年]] - [[直枝政広]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1959年 - [[国府弘子]]、ピアニスト
* [[1961年]] - [[下成佐登子]]、歌手
* 1961年 - [[須田慎一郎]]、ジャーナリスト
* [[1962年]] - [[開出英之]]、[[官僚]]
* [[1963年]] - [[青山陽一]]、ミュージシャン
* [[1964年]] - [[つちやかおり]]、歌手、タレント
* [[1965年]] - [[石井明美]]、歌手
* 1965年 - [[村上隆行]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[小河麻衣子]]、女優
* [[1966年]] - [[アンドレア・シャーニー]]、陸上競技選手
* [[1967年]] - [[大塚光二]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[佐々岡真司]]、元プロ野球選手、監督
* 1967年 - [[国武万里]]、歌手
* 1967年 - [[レベッカ・アン・ラモス]]、[[プレイメイト]]
* 1967年 - [[ザホス・サモラダス]]、映画監督
* [[1968年]] - [[クリス・ボードマン]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手
* 1968年 - [[竹村延和]]、エレクトロニカミュージシャン
* [[1969年]] - [[中川敬輔]]、[[ミュージシャン]]
* 1969年 - [[ニコル・アレント]]、[[テニス]]選手
* 1969年 - [[マユミーヌ]]、歌手
* [[1970年]] - [[前田幸長]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[田口昌徳]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[稲富修二]]、政治家
* 1970年 - [[本田勝義]]、[[柔道家]]
* 1970年 - [[メリッサ・マッカーシー]]、女優
* [[1971年]] - [[中島知子]]、[[お笑いタレント]](元[[オセロ (お笑いコンビ)|オセロ]])
* 1971年 - [[曽我部恵一]]、ミュージシャン
* [[1972年]] - [[三土手大介]]、[[パワーリフティング]]選手
* [[1973年]] - [[佐藤アサト]]、[[ナレーター]]
* 1973年 - [[舩木聖士]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[田中優樹]]、俳優
* [[1974年]] - [[石塚啓次]]、元[[サッカー選手]]
* [[1975年]] - [[はいじぃ]]、お笑いタレント
* 1975年 - 石原祐美子、お笑いタレント([[チキチキジョニー]])
* 1975年 - [[藤島知子]]、[[自動車評論|モータージャーナリスト]]
* 1975年 - [[メイリー]]、歌手
* 1975年 - [[矢島弘一]]、脚本家、[[演出家]]、俳優
* [[1976年]] - [[諏訪雅]]、俳優
* 1976年 - [[アマイア・モンテロ]]、歌手
* [[1977年]] - [[千葉紗子]]、声優
* [[1978年]] - [[関本賢太郎]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[浅田好未]]、[[タレント]](元[[パイレーツ (お笑いコンビ)|パイレーツ]])
* 1979年 - [[田中敬人]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[松谷卓]]、ピアニスト、作曲家
* [[1980年]] - [[青柳碧人]]、小説家
* 1980年 - [[イ・チョングン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1980年 - [[マコーレー・カルキン]]、俳優
* 1980年 - [[クリス・パイン]]、俳優
* 1980年 - [[ブレンダン・ハリス]]、元プロ野球選手
<!-- 出典が不明 * 1980年 - [[福山晋司]]、フジテレビディレクター -->
* [[1981年]] - [[ジャスティン・ペカレック]]、フィギュアスケート選手
* [[1982年]] - [[高橋秀聡]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[吉田真弓 (声優)|吉田真弓]]、声優
* 1982年 - [[菊池亜希子]]、[[ファッションモデル]]、女優
* [[1983年]] - [[今江敏晃]]、元プロ野球選手、監督
* 1983年 - [[大城美和]]、元[[タレント]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1983年 - [[フェリペ・メロ]]、[[サッカー]]選手
* 1983年 - [[ニコル・デーヴィッド]]、[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]選手
* [[1984年]] - [[カイル・ケンドリック]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[関口雄大]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[クリストファー・メイビー]]、フィギュアスケート選手
* 1985年 - [[デビッド・プライス]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[エリック・フライヤー]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[Newwy]]、歌手
* 1986年 - [[コリン・カジム=リチャーズ]]、[[サッカー]]選手
* 1986年 - [[日菜太]]、キックボクサー
* [[1987年]] - [[大河元気]]、俳優
* 1987年 - [[ライアン・ブレイジア]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[佐藤賢治 (野球)|佐藤賢治]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[水野まい]]、タレント、アイドル(元[[predia]])
* 1988年 - [[坂ノ上朝美]]、元女優、元タレント、元グラビアモデル
* 1988年 - [[マリオ・ホランズ]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[エルビス・アンドラス]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[宇野なおみ]]、女優
* 1989年 - [[古川英利子]]、タレント、[[モデル (職業)|モデル]]
* [[1990年]] - [[マテオ・ムサッチオ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[イリーナ=カメリア・ベグ]]、テニスプレーヤー
* [[1991年]] - [[エカテリーナ・シェレメティエワ]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[マルクス・ソルバック]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[重岡大毅]]、タレント([[WEST.]])
* 1992年 - [[マイケル・フランコ]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[渡辺貴洋]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[土屋炎伽]]、タレント
* [[1993年]] - [[パーマ大佐]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]
* 1993年 - [[下仮屋カナエ]]、タレント、元アイドル (元[[風男塾]]・仮屋世来音)
* 1993年 - [[若林晃弘]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[夢乃あいか]]、[[AV女優]]
* 1994年 - [[平岡夏希]]、[[熊本放送|熊本放送(RKK)]]アナウンサー
* [[1996年]] - [[グレイシー・ドジーニー]]、女優
* 1996年 - [[川﨑玲奈]]、[[静岡エフエム放送]]アナウンサー
* [[2001年]] - [[826aska]]、[[エレクトーン]]奏者
* [[2002年]] - [[太田蒼生]]、陸上選手
* [[2003年]] - [[原菜乃華]]、女優、ファッションモデル
* [[2007年]] - [[高嶋琴羽]]<ref>{{Cite web|和書| url = http://news-enter.com/profile/kotoha_takashima/ | title = 公式プロフィール | publisher = NEWSエンターテインメント | accessdate = 2021-01-09}}</ref>、[[子役]]
* [[2008年]] - [[開心那]]、[[スケートボード]]選手
* 生年不詳 - [[喬林知]]、[[小説家]]、[[ライトノベル]]作家
* 生年不詳 - [[神出サヤ]]、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Ottokar_II_Premysl.jpg
<!-- Premyslnahrobek01.jpg 墓 -->
| width1 = 100
| caption1 = ボヘミア王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]](1230-1278)
| image2 = Jan2.JPG
| width2 = 100
| caption2 = ボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]](1296-1346)
| image3 = Franz_Xaver_Winterhalter_King_Louis_Philippe.jpg
| width3 = 100
| caption3 = フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]](1773-1850)
}}
<!-- [[Image:King_Sho_En.jpg|thumb|100px|琉球国王、[[尚円王|尚円]](1415-1476)]] 日付要確認-->
<!-- [[Image:Masanori_Fukushima.JPG|thumb|100px|武将、[[福島正則]](1561-1624)]] -->
<!--
{{multiple image
| footer = 画家[[フランス・ハルス]](1580頃-1666)没。右画像は『リュートを弾く道化師』(1623-24)
| image1 = Hals_-_Self-Portrait_copy.jpg
| width1 = 100
| alt1 = 自画像の模写
| image2 = Frans_Hals_-_Luitspelende_nar.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 『リュートを弾く道化師』
}}
-->
{{multiple image
| image1 = Jan_Verkolje_-_Antonie_van_Leeuwenhoek.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 「[[微生物学]]の父」、生物学者[[アントニ・ファン・レーウェンフック]](1632-1723)。史上はじめて微生物を顕微鏡で観察
<!-- Leeuwenhoek_Microscope.png レーウェンフックの顕微鏡のレプリカ -->
| image2 = Wm_james.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[プラグマティズム]]の哲学者、[[ウィリアム・ジェームズ]](1842-1910)<!--。{{Squote|生を恐れるな。生きるに値すると信じよ、その信念が事実を作るのを助けてくれるだろう。――『信ずる意志 ほか』(1897)}}-->
| image3 = Frederick_Reines.jpg
| width3 = 100
| caption3 = 物理学者[[フレデリック・ライネス]](1918-1998)。[[ニュートリノ]]を研究 <!-- TODO: 記事本体加筆(する時間が欲しい…) -->
}}
<!-- [[Image:Louis-Nicolas_Clerambault.jpg|thumb|100px|作曲家[[ルイ=ニコラ・クレランボー]](1676-1749)没。{{audio|BDT LNClerambault.ogg|『Basse et Dessus de Trompette』を聴く}}]] -->
{{multiple image
| image1 = Kenjiro_Ume.JPG
| width1 = 100
| caption1 = 法学者、[[梅謙次郎]](1860-1910)没。日本の[[民法典]]起草者の1人
| image2 = Osachi_Hamaguchi_and_lion.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 第27代日本国内閣総理大臣、[[濱口雄幸]](1870-1931)没
}}
<!-- [[Image:YoungSatow.jpg|thumb|100px|外交官[[アーネスト・サトウ]](1843-1929)]] -->
{{multiple image
| footer = 飛行家[[チャールズ・リンドバーグ]](1902-1974)没。{{Squote|どちらかを選ばねばならぬなら、[[飛行機]]よりも[[鳥類|鳥]]がいる方がいい。}}
| image1 = Col_Charles_Lindbergh.jpg
| width1 = 100
| alt1 = チャールズ・リンドバーグ
| image2 = Bourget-statue.jpg
| width2 = 100
| alt2 = リンドバーグを称えるモニュメント
}}
<!-- [[Image:Tex_3.jpg|thumb|100px|アニメーター、[[テックス・アヴェリー]](1908-1980)。{{Squote|[[カートゥーン]]の中ではあらゆることができる。}}]] -->
<!-- [[Image:Ed-Seidensticker-Ueno-Fall-2006.jpg|thumb|100px|日本学者、[[エドワード・G・サイデンステッカー]](1921-2007)]] -->
* [[1184年]]([[元暦]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[佐々木秀義]]、[[武将]](* [[1112年]])
* [[1278年]] - [[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]、[[ボヘミア|ボヘミア王]](* [[1230年]]?)
* [[1346年]] - [[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]、ボヘミア王および[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]](* [[1296年]])
* [[1476年]]([[成化]]12年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - [[尚円王|尚円]]、[[琉球国王]](* [[1415年]])<!-- ja,en:ともに記事に日付なし -->
* [[1551年]] - [[マルガレータ・エリクスドッテル]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]][[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]の妃(* [[1516年]])
* [[1595年]] - [[アントニオ・デ・ポルトゥガル]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[王位請求者]](* [[1531年]])
* [[1624年]]([[寛永]]元年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[福島正則]]、[[武将|戦国武将]]、[[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]の一人(* [[1561年]])
* [[1666年]] - [[フランス・ハルス]]、[[画家]](* [[1581年]]頃)
* [[1723年]] - [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]、[[生物学|生物学者]](* [[1632年]])
* [[1785年]] - [[ジョージ・ジャーメイン]]、[[イギリス]]植民地担当大臣(* [[1716年]])
* [[1786年]]([[天明]]6年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[中村富十郎 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1719年]])
* [[1850年]] - [[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ=フィリップ]]、[[フランス王国|フランス国王]](* [[1773年]])
* [[1857年]] - [[アドルフ・シュラーギントヴァイト]]、[[植物学者]]、[[探検家]](* [[1829年]])
* [[1858年]]([[安政]]5年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])- [[市河米庵]]、[[書道|書家]](* [[1779年]])
* [[1863年]] - [[ジョン・ブキャナン・フロイド]]、第24代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1806年]])
* [[1865年]] - [[ヨハン・フランツ・エンケ]]、[[天文学者]](* [[1791年]])
* [[1900年]] - [[飯田武郷]]、[[国学者]](* [[1828年]])
* [[1910年]] - [[ウィリアム・ジェームズ]]、[[思想家]](* [[1842年]])
* 1910年 - [[梅謙次郎]]、[[法学者]](* [[1860年]])
* [[1921年]] - [[マティアス・エルツベルガー]]、[[ドイツ国]]財務相(* [[1875年]])
* [[1929年]] - [[アーネスト・サトウ]]、[[イギリス]][[外交官]](* [[1843年]])
* [[1930年]] - [[ロン・チェイニー]]、[[俳優]](* [[1883年]])
* [[1931年]] - [[濱口雄幸]]、第27代[[内閣総理大臣]](* [[1870年]])
* [[1942年]] - [[平岡定太郎]]、[[樺太庁|樺太庁長官]]、[[福島県知事一覧|福島県知事]](* [[1863年]])
* [[1945年]] - [[倉場富三郎]]、[[実業家]]、[[水産学|水産学者]](* [[1871年]])
* 1945年 - [[フランツ・ヴェルフェル]]、[[小説家]](* [[1890年]])
* [[1950年]] - [[ランサム・E・オールズ]]、[[オールズモビル (自動車)|オールズモビル]]創業者(* [[1864年]])
* [[1955年]] - [[ソル・ホワイト]]、[[ニグロリーグ]]の[[野球選手]](* [[1868年]])
* [[1957年]] - [[ジョセフ・ティレル]]、[[地質学者]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1858年]])
* [[1958年]] - [[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]、[[作曲家]](* [[1872年]])
* 1958年 - [[小渕光平]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]](* [[1904年]])
* [[1961年]] - [[ヴラディーミル・ソフロニツキー]]、[[ピアニスト]](* [[1901年]])
* [[1970年]] - [[川合稔]]、レーシングドライバー(* [[1942年]])
* [[1974年]] - [[チャールズ・リンドバーグ]]、飛行家(* [[1902年]])
* [[1976年]] - [[ロッテ・レーマン]]、[[ソプラノ]][[歌手]](* [[1888年]])
* [[1977年]] - [[H・A・レイ]]、[[絵本作家]](* [[1898年]])
* [[1978年]] - [[シャルル・ボワイエ]]、俳優(* [[1897年]])
* [[1979年]] - [[ミカ・ワルタリ]]、小説家(* [[1908年]])
* [[1980年]] - [[テックス・アヴェリー]]、[[カートゥーン]]作家(* [[1908年]])
* [[1987年]] - [[ゲオルク・ウィッティヒ]]、[[化学者]](* [[1897年]])
* [[1990年]] - [[本田実]]、アマチュア[[天文学|天文家]](* [[1913年]])
* 1990年 - [[小倉朗]]、作曲家(* [[1916年]])
* [[1993年]] - [[桑原巨守]]、[[彫刻家]](* [[1927年]])
* [[1995年]] - [[ジョン・ブラナー]]、[[SF作家]](* [[1934年]])
* [[1998年]] - [[フレデリック・ライネス]]、[[物理学者]](* [[1918年]])
* [[2004年]] - [[ローラ・ブラニガン]]、[[歌手]](* [[1952年]])
* [[2006年]] - [[ライナー・バルツェル]]、[[ドイツキリスト教民主同盟]]・[[ドイツ連邦議会]]議長(* [[1924年]])
* [[2007年]] - [[エドワード・G・サイデンステッカー]]、[[翻訳家]](* [[1921年]])
* 2007年 - [[ガストン・トルン]]、第20代[[ルクセンブルクの首相|ルクセンブルク首相]]、第7代[[欧州委員会委員長]](* [[1928年]])
* [[2009年]] - [[徳田八十吉|三代徳田八十吉]]、[[陶芸家]]、[[人間国宝]](* [[1933年]])
* 2009年 - [[北重人]]、小説家(* [[1948年]])
* 2009年 - [[アブドゥルアズィーズ・ハキーム]]、[[イラク・イスラム革命最高評議会]]の指導者(* [[1953年]])
* [[2014年]] - [[米倉斉加年]]、[[俳優]](* [[1934年]])
* 2014年 - [[曽根中生]]、[[映画監督]](* [[1937年]])
* [[2017年]] - [[トビー・フーパー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3140615|title=『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー監督死去、74歳|publisher=AFPBB News|date=2017-08-28|accessdate=2020-12-16}}</ref><ref>{{cite web|url=https://variety.com/2017/film/news/tobe-hooper-dead-dies-texas-chain-saw-massacre-poltergeist-director-dies-1202539868/|title=Tobe Hooper, 'Texas Chain Saw Massacre' and 'Poltergeist' Director, Dies at 74|work=Variety|first=Pat|last=Saperstein|date=2017-08-26|accessdate=2020-11-11}}</ref>、[[映画監督]](* [[1943年]])
* [[2023年]] - [[ジョニー広瀬]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](* [[1948年]])
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[女性参政権]]を認める[[アメリカ合衆国憲法修正第19条]]発効(1920)。右画像は1912年、参政権を求める女性のデモ行進
| image1 = 19th_Amendment_Pg1of1_AC.jpg
| width1 = 100
| alt1 = アメリカ合衆国憲法修正第19条の文書 <!-- 法律は非常に重要なものでも画像としてはただの書類なんですよね… -->
| image2 = Youngest_parader_in_New_York_City_suffragist_parade_LCCN97500068_(cropped).jpg
| width2 = 220
| alt2 = 参政権を求める女性たち
}} <!-- 8/18からは画像セットは消した方がいいかな? -->
[[File:Yoshida Fire Festival, Mt.Fuji and Kanadorii.jpg|thumb|240px|吉田の火祭。富士吉田市金鳥居から富士山を望む(2012年8月26日撮影)]]
<!-- [[Image:DPAG 2009 Jugendherbergen.jpg|thumb|240px|ドイツで2009年に発行された[[ユースホステル]]100周年記念切手]] 記念日としてドイツその他で行われているかは要チェック -->
* {{仮リンク|男女平等の日|en|Women's Equality Day}}({{USA}})
*: [[1920年]]のこの日、アメリカ合衆国で[[女性参政権]]が認められたことを記念し1971年に連邦議会が制定した記念日。
* {{仮リンク|英雄の日 (ナミビア)|en|Heroes' Day (Namibia)|label=英雄の日}}({{NAM}})
*: [[1958年]]のこの日に[[南西アフリカ人民機構]] (SWAPO) が結成され、[[1966年]]のこの日にナミビア解放闘争が始まったことを記念する祝日。
* ナミビアの日({{World}})
*: 「英雄の日」に合わせ、国連が制定した[[国際デー]]の1つ。[[1990年]]3月に独立した、アフリカ南西部にある[[ナミビア]]の自立を援助する日。
* 人権宣言記念日 <!-- 大きなできごとですが、どこかの国で「記念日」にはなっているのでしょうか?仏語版にもありませんが… -->
*: [[1789年]]のこの日、[[フランス]]の[[憲法制定国民議会]]が[[人間と市民の権利の宣言]](人権宣言)を採択した。
* シルマンデー・[[ユースホステル]]の日
*: ユースホステルの創始者である[[リヒャルト・シルマン]]を記念する日。{{要検証範囲|date=2010年8月|世界中の|title=国外で記念日として何かが行われている形跡が発見できません}}ユースホステルで記念行事が行われる。
<!--
「世界中の」とありますが、"Schirrmann day", "hostel day",「hostel "26 august" schirrmann」,「hostel "26 august"」, "Schirrman(s)tag", "Jugendherberg(e)(s)tag", "Tag der Schirrman", "tag der jugendherbergen" などいずれもそれらしきものがヒットしません。英独仏語版の各記事にもそれらしき記述はありません。
国内では一部のホステルが「シルマンデー」を開催しているようですが、日本ユースホステル協会 http://www.jyh.or.jp/index2fr.html 内には一切記載がありません。ドイツで2009年にユースホステル100周年の祝賀はあったようです(画像参照)が、「シルマンデー・[[ユースホステル]]の日」が日本以外で行われている形跡は発見できませんでした。探し方が悪かっただけかもしれませんが… -->
*: ドイツの小学校教師であったシルマンは、[[1909年]]のこの日、生徒たちと遠足に出掛け、突然の大雨のために小学校で雨宿りをしたが、夜になっても雨は止まず、そこで一夜を明かすこととなった。これがユースホステルを創設するきっかけとなった。
* パワプロの日({{JPN}})
*:[[野球]]ゲーム「[[実況パワフルプロ野球]]」(略称「パワプロ」)を制作する[[コナミデジタルエンタテインメント]]が、「パワ(8)プロ(26)をパワ(8)フル(26)に楽しんでもらいたい」という願いから制定した記念日。
* [[吉田の火祭]]({{JPN}} 山梨県富士吉田市、 - [[8月27日|27日]])
*: [[日本三奇祭]]のひとつ。26日の「'''鎮火祭'''」と翌27日の「'''すすき祭り'''」で構成。[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]の夏山シーズンの終わりを告げる。
{{Clear}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0826|date=2011年6月}}
* [[1961年]] - プーチンの出所予定日であったが、キレネンコが壁と塀を破壊して脱獄したのについていったために脱獄。(アニメ『[[ウサビッチ]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 鳴子夏月、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/naruko_kazuki |title=宮城 鳴子 夏月 |access-date=2022-11-09 |publisher=ONSEN MSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|中島法子]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ |year = 1997 |title = 地獄先生ぬ~べ~大百科 |page = 44 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref>
* 生年不明 - シマ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1298273956592381952}}</ref>
* 生年不明 - ミモザ・ヴァーミリオン、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://bclover.jp/character/ |title=金色の夜明け ミモザ・ヴァーミリオン |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |accessdate=2022-11-09 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - ギルサンダー、漫画・アニメ 『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://1st.7-taizai.net/sp/special/sp19.html |title=HAPPY BIRTHDAY to ギルサンダー!! |access-date=2022-11-09 |publisher=[[鈴木央]]・[[講談社]]/「七つの大罪」製作委員会・[[毎日放送|MBS]] |work=『七つの大罪』}}</ref>
* 生年不明 - 更科瑠夏、漫画・アニメ・ドラマ 『[[彼女、お借りします]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kanokari_anime|1298273933054050304}}</ref>
* 生年不明 - 蜂矢聡、アニメ・漫画『[[スタミュ|スタミュ 高校星歌劇]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hstar-mu.com/character/hachiya.html |title=蜂矢 聡 |publisher=ひなた凛/スタミュ製作委員会 |accessdate=2022-11-09 |work=『スタミュ 高校星歌劇』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#クラリス|クラリス]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20056 |title=クラリス(くらりす) |access-date=2022-11-09 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 南風涼、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1430545511153610764}}</ref>
<!--
* 生年不明 - ベルゼーヴァ・ベルライン、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年8月25日 (日) 11:12 (UTC)}}
2022年11月、3年以上要出典のためコメントアウト
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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5,287 | 9月13日 | 9月13日(くがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から256日目(閏年では257日目)にあたり、年末まであと109日ある。 | [
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'''9月13日'''(くがつじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から256日目([[閏年]]では257日目)にあたり、年末まであと109日ある。
== できごと ==
[[Image:El escorial blick von oben.jpg|thumb|300px|[[エル・エスコリアル修道院]]竣工(1564)]]
<!-- [[Image:PlainsOfAbraham2007.jpg|thumb|[[フレンチ・インディアン戦争]]、フランスのヴィル・ド・ケベック陥落(1759)]] cf. [[fr:Bataille des Plaines d'Abraham]] -->
[[Image:Benjamin_West_005.jpg|thumb|[[フレンチ・インディアン戦争]]、フランスのヴィル・ド・ケベック陥落(1759)。イギリスの[[ジェームズ・ウルフ]]将軍(1727-1759)戦死(画像)]]
[[Image:Ft. Henry bombardement 1814.jpg|thumb|[[ボルティモアの戦い]]、米軍が[[フォートマクヘンリー]]の防衛に成功(1814)]]
[[Image:Count_Nogi_and_his_wife.JPG|thumb|[[明治天皇]]の大葬。[[乃木希典]](1849-1912)と妻[[乃木静子|静子]](1859-1912)が殉死。画像は殉死の朝の夫妻。{{Squote|うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり――乃木希典の辞世}}]]
[[Image:Bundesarchiv_Bild_102-09103%2C_Madrid%2C_Machtantritt_von_Primo_de_Revera.jpg|thumb|スペインで[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]がクーデターを起こす(1923)]]
[[Image:IBM_350_RAMAC.jpg|thumb|upright|世界初の[[ハードディスクドライブ|HDD]]「[[IBMのディスク記憶装置#IBM_350|IBM 350]]」、[[IBM 305 RAMAC]]の一部として発売(1956)]]
[[Image:Venda in South Africa.svg|thumb|120px|[[南アフリカ]]の[[バントゥースタン]]の1つ、[[ヴェンダ]]成立(1979)。1994年に再統合]]
* [[122年]] - [[ローマ帝国]]により[[ハドリアヌスの長城]]の建設が始まる{{要出典|date=2021-03}}。
* [[533年]] - [[アド・デキムムの戦い]]([[ヴァンダル戦争]]において[[東ローマ帝国]]と[[ヴァンダル王国]]との間で戦われた){{要出典|date=2021-03}}。
* [[1092年]]([[寛治]]6年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[越後国]]一帯に[[地震]]。[[親不知]]など日本海沿岸に[[津波]]{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1165年]] - ([[永万]]元年8月7日) - [[二条天皇]]の葬儀で延暦寺と興福寺の僧たちが争い、以降闘争が続く。
* [[1366年]]([[貞治]]2年/[[正平 (日本)|正平]]21年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]])- [[貞治の変]]勃発。
* [[1503年]] - [[ミケランジェロ]]が『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]』の制作を開始。
* [[1507年]]([[永正]]4年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - 越後守護代・[[長尾為景]]が守護・[[上杉房能]]を急襲。房能は国外に逃れ、為景が越後の実権を握る。
* [[1584年]] - [[マドリード]]の[[エル・エスコリアル修道院]]が竣工。
* [[1759年]] - [[フレンチ・インディアン戦争]]: フランスのヴィル・ド・ケベックがイギリス軍により陥落。
* [[1791年]] - [[フランス革命]]: フランス王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が[[1791年憲法]]を承認。
* [[1814年]] - [[米英戦争]]: 米軍が[[ボルチモア]]の[[フォートマクヘンリー]]砦の防衛に成功。これを題材に[[フランシス・スコット・キー]]が後にアメリカ国歌「[[星条旗 (国歌)|星条旗]]」の詩となる「マクヘンリー砦の防衛」を執筆。
* [[1843年]]([[天保]]14年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - 蘭学者・[[佐藤泰然]]が佐倉に病院兼蘭医学塾「順天堂」を創立。
* [[1871年]]([[明治]]4年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - 天津で[[日清修好条規]]に調印。日清間最初の条約。
* [[1899年]] - [[アフリカ]]第2位の高峰[[ケニア山]]にイギリス人地理学者[[ハルフォード・マッキンダー]]が初登頂。
* 1899年 - [[ヘンリー・H・ブリス]]が[[ニューヨーク]]の交差点で自動車と衝突し翌朝に死亡。アメリカ合衆国で初めて自動車事故により死亡した人物となった。
* [[1900年]] - [[米比戦争]]: {{仮リンク|プラン・ルパの戦い|en|Battle of Pulang Lupa}}。
* [[1912年]] - [[明治天皇]]の大葬が行われる。同日[[乃木希典]]大将が夫人とともに自宅で[[殉死]]。
* [[1923年]] - [[スペイン]]でバルセロナ総督[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]が軍事クーデター。軍事独裁政権を樹立。<!-- jaでは9/12、enでは9/13 -->
* [[1926年]] - [[明治ミルクチョコレート]]が発売。
* [[1927年]] - [[有明海台風]]が[[熊本県]]に襲来。
* [[1932年]] - [[広島県]][[音戸町]]と鍋桟橋(いずれも現[[呉市]])を結ぶ汽船が沈没。死者・行方不明者29人。定員23人の小型船に6倍近くの137人が乗ったことによる事故<ref>『呉市史 第5巻』pp.245 昭和63年3月31日 呉市史編纂委員会編</ref>。
* [[1935年]] - [[新潟県]][[新発田市]]で大火。8時間にわたり燃え続け全焼戸数780戸、半焼14戸<ref>新発田で大火、八百戸を焼失『新潟日報』昭和10年9月14日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p529 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1940年]] - 群馬県[[伊勢崎市]]が市制施行。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[スターリングラード攻防戦]]: [[ドイツ軍]]が総攻撃と[[スターリングラード]]市街地への突入を開始。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ニューギニアの戦い]]: [[ニューギニア島]]の日本軍[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]司令官[[安達二十三]]陸軍中将が[[ウォム岬|ウオム岬]]飛行場でオーストラリア陸軍第6師団への降伏文書に署名。
* 1945年 - [[第二次世界大戦]]・[[ビルマの戦い]]:日本軍[[緬甸方面軍]]参謀副長一田次郎陸軍少将が[[ヤンゴン|ラングーン]]で[[イギリス陸軍|英]]{{仮リンク|第12軍 (イギリス軍)|label=第12軍|en|Twelfth Army (United Kingdom)}}に対する降伏文書に署名する。
* 1945年 - 日本軍[[第29軍 (日本軍)|第29軍]]司令官[[石黒貞蔵]]陸軍中将が[[クアラルンプール]]{{仮リンク|ヴィクトリア学院|en|Victoria Institution}}で[[英印軍]]{{仮リンク|第34軍団|en|XXXIV Corps (British India)}}に対する降伏文書に署名する。
* 1945年 - [[ナウル|ナウル島]]の日本海軍[[第四艦隊 (日本海軍)#第四艦隊(三代目)|第四艦隊]][[海軍根拠地隊|第4根拠地隊]]第67警備隊司令副田久幸海軍大佐が[[オーストラリア海軍|豪]]フリゲート[[リバー級フリゲート|ダイアマンティナ]]上で[[オーストラリア陸軍|豪]]{{仮リンク|第11旅団 (オーストラリア軍)|label=第11旅団|en|11th Brigade (Australia)}}に対する降伏文書に署名する。
* [[1948年]] - [[昭和電工事件]]: [[東京地方検察庁|東京地検]]が[[福田赳夫]]大蔵主計局長を逮捕。
* [[1950年]] - [[大分県]]津久井市沖合で定期船が沈没。死者28人<ref>「乗客二十八名死亡 定期船、岸壁に激突して真っ二つ」『日本経済新聞』昭和25年9月15日3面</ref>。
* [[1955年]] - [[砂川事件]]: 立川基地拡張のための強制測量で、反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突。
* [[1956年]] - [[IBM]]が[[IBM 305 RAMAC]]の一部として世界初の[[ハードディスクドライブ]][[IBMのディスク記憶装置#IBM_350|IBM 350]]を発表。
* [[1959年]] - [[ハインリヒ・リュプケ]]が[[連邦大統領 (ドイツ)|西ドイツ大統領]]に就任。
* [[1968年]] - [[アルバニア]]が[[ワルシャワ条約機構]]を脱退。
* [[1970年]] - [[日本万国博覧会]](大阪万博)が閉幕。
* [[1971年]] - [[林彪事件]]: クーデターに失敗した[[林彪]]と家族・側近らが飛行機でソ連へ逃亡中に、[[モンゴル人民共和国]]内の砂漠で墜落死。
* [[1974年]] - [[ハーグ事件]]。[[日本赤軍]]がハーグでフランス大使館を占拠。
* [[1975年]] - [[警視庁]]が要人警護部隊([[セキュリティポリス]])を創設。
* [[1979年]] - [[アパルトヘイト]]: [[南アフリカ共和国]]の[[バントゥースタン]](ホームランド)の一つ[[ヴェンダ]]が成立。
* [[1985年]] - [[任天堂]]が[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ソフト「[[スーパーマリオブラザーズ]]」(ROMカセット版)を発売。
* [[1987年]] - [[ゴイアニア被曝事故]]: [[ブラジル]]・[[ゴイアニア]]市の廃病院に放置されていた[[放射線療法]]用の[[放射性物質]]格納容器が盗まれる。250人が被曝し4人が死亡する事故に。
* [[1997年]] - [[マザー・テレサ]]の[[インド]][[国葬]]が開催される。
* [[1998年]] - [[アジアン・スポーツ・プロモーション|アジアンプロレス]]が[[北海道]][[せたな町]]で旗揚げ。
* [[1999年]] - [[ロシア高層アパート連続爆破事件]]: [[モスクワ]]のアパートで第四の爆破事件、119名の死者を出す。
* [[2004年]] - [[金沢市夫婦強盗殺人事件]]: [[石川県]][[金沢市]]神野の民家に当時17歳の少年が侵入し、住人である60歳代の夫婦を殺害<ref>『[[北國新聞]]』2004年9月13日夕刊(第40132号)第12版一面1頁「金沢・神野 17歳少年 夫婦を刺殺 未明、窓割り侵入 盗み目的「気付かれ刺した」 西署逮捕」(北國新聞社) - 『北國新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 2004年(平成16年)9月号559頁。</ref>。
* [[2007年]] - [[国際連合総会|国連総会]]で[[先住民族の権利に関する国際連合宣言]]が採択される。
* [[2013年]] - プロ野球・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の[[田中将大]]が開幕から21回連続の[[勝利投手]]となり、日本プロ野球シーズン記録を更新すると同時に世界記録更新となる通算25連勝を達成。
* [[2022年]] - [[Apple]]が[[iOS 16]]をリリース。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
* [[1475年]] - [[チェーザレ・ボルジア]]、政治家、軍人(+ [[1507年]])
[[Image:%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%82%B3.jpg|thumb|100px|戯作者、[[山東京伝]](1761-1816)誕生]]
[[Image:Grandville_JJ_Selfportrait_02.gif|thumb|100px|風刺画家[[J・J・グランヴィル]](1803-1847)]]
{{multiple image
| image1 = E Bendemann - Clara Schumann (Kohlezeichnung 1859).jpg
| width1 = 100
| caption1 = 作曲家[[クララ・シューマン]](1819-1896)
| image2 = Arnold_Schoenberg_la_1948.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 作曲家[[アルノルト・シェーンベルク]](1874-1951)。{{audio|Schoenberg Quartet No. 2 4th movement.OGG|四重奏曲第2番作品10より第4楽章を聴く}}
}}
{{multiple image
| image1 = SaitoTakao_2.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 反軍部を貫いた弁護士・政治家、[[斎藤隆夫]](1870-1949)
| image2 =Prime_Minister_Kijūrō_Shidehara.jpg
| width2 = 100
| caption2 = 第44代日本国内閣総理大臣、[[幣原喜重郎]](1872-1951)
}}
[[Image:Roald_Dahl.jpg|thumb|100px|作家[[ロアルド・ダール]](1916-1990)]]
{{multiple image
| footer = 芸術家[[ロバート・インディアナ]](1928-2018)誕生。右画像は彫刻『LOVE』
| image1 = BobIndianaMaine.jpg
| width1 = 140
| alt1 = 制作するロバート・インディアナ
| image2 = LOVE_sculpture_NY.JPG
| width2 = 140
| alt2 = 『LOVE』。ニューヨークの街角に、赤い「LOVE」の立体的なブロック
}}
{{multiple image
| footer = 建築家、[[安藤忠雄]](1941-)誕生
| image1 = Ibaraki Kasugaoka Church light cross.jpg
| width1 = 140
| caption1 = 「[[茨木春日丘教会|光の教会]]」(1990)
| image2 = Nagaragawa_Convention_Center_1.JPG
| width2 = 140
| caption2 = 「[[長良川国際会議場]]」(1996)
}} <!-- WANTED: 肖像写真 -->
* [[1520年]] - 初代[[バーリー男爵]][[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]、[[政治家]](+ [[1598年]])
* [[1761年]]([[宝暦]]11年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[山東京伝]]、絵師、[[戯作|戯作者]](+ [[1816年]])
* [[1803年]] - [[J・J・グランヴィル]]、[[風刺画]]家(+ [[1847年]])
* [[1819年]] - [[クララ・シューマン]]、[[ピアニスト]](+ [[1896年]])
* [[1851年]] - [[シャルル・ルルー]]、[[作曲家]](+ [[1926年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[響舛市太郎]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[関脇]](+ [[1903年]])
* [[1870年]]([[明治]]3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[斎藤隆夫]]、[[衆議院議員]](+ [[1949年]])
* [[1872年]](明治5年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[幣原喜重郎]]、[[政治家]]、元[[内閣総理大臣]]、[[衆議院議長]](+ [[1951年]])
* [[1874年]] - [[アルノルト・シェーンベルク]]、[[作曲家]](+ [[1951年]])
* [[1877年]] - [[ヴィルヘルム・フィルヒナー]]、[[探検家]](+ [[1957年]])
* [[1894年]] - [[J・B・プリーストリー]]、[[著作家]]、[[劇作家]]、[[司会者]](+ [[1984年]])
* [[1895年]] - [[盛永俊太郎]]、[[農学者]](+ [[1980年]])
* [[1900年]] - [[大宅壮一]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1970年]])
* [[1901年]] - [[ジェームズ・マッコーブレー]]、世界の男性のうち2番目に高齢だった人物(+ [[2013年]])
* [[1903年]] - [[クローデット・コルベール]]、[[俳優|女優]](+ [[1996年]])
* [[1904年]] - [[海老原喜之助]]、[[洋画家]](+ 1970年)
* 1904年 - [[永沢富士雄]]、元プロ野球選手(+ [[1985年]])
* [[1911年]] - [[尾留川正平]]、[[地理学者]]<ref>地理学研究会 編(1975)"尾留川正平先生略歴・著作目録"[[東京教育大学]]地理学研究報告.'''XIX''':1-10.(1ページより)</ref>(+ [[1978年]]<ref>岸本実(1978)"尾留川正平教授の逝去を悼む"[[立正大学]]文学部論叢.'''61''':3-6.(3ページより)</ref>)
* [[1916年]] - [[ロアルド・ダール]]、[[小説家]](+ [[1990年]])
* [[1917年]] - [[ロバート・ウォード]]、作曲家(+ [[2016年]])
* [[1924年]] - [[黒田一博]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* [[1928年]] - [[ロバート・インディアナ]]、[[現代美術家]](+ [[2018年]])
* [[1929年]] - [[ニコライ・ギャウロフ]]、[[バス (声域)|バス]][[歌手]](+ [[2004年]])
* [[1930年]] - [[有馬朗人]]、[[物理学者]]、[[俳人]]、政治家 (+ [[2020年]])
* 1930年 - [[ジェームス・マクレーン]]、元[[競泳]]選手(+ [[2020年]])
* [[1931年]] - [[山田洋次]]、[[映画監督]]
* [[1932年]] - [[大久保英男]]、元プロ野球選手
* 1932年 - [[菊池孝]]、[[プロレス]][[評論家]](+ [[2012年]]<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20120904-1011305.html 最古参プロレス評論家菊池孝氏死去] 日刊スポーツ 2020年11月10日閲覧</ref>)
* [[1933年]] - [[小堀桂一郎]]、比較文学者
* [[1935年]] - [[宮内義彦]]、実業家、[[オリックス (企業)|オリックス]]元会長、球団オーナー
* [[1936年]] - [[光沢毅]]、[[野球選手]]
* [[1939年]] - [[リチャード・キール]]、[[俳優]](+ [[2014年]])
* [[1940年]] - [[黄仁植]]、[[武道家]]、俳優
* [[1941年]] - [[安藤忠雄]]、[[建築家]]
* 1941年 - [[井上大輔]]、ミュージシャン、作曲家(+ [[2000年]])
* 1941年 - [[片岡秀太郎 (2代目)|片岡秀太郎]](2代目)、[[歌舞伎役者]](+ [[2021年]])
* [[1942年]] - [[相川宗一]]、政治家(+ [[2021年]])
* 1942年 - [[溝手顕正]]、政治家(+[[2023年]])
* 1942年 - [[花田紀凱]]、編集者
* 1942年 - [[福浦健次]]、元プロ野球選手
* 1942年 - [[寺岡孝]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1944年]] - [[ピーター・セテラ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[シカゴ (バンド)|chicago]])
* 1944年 - [[ジャクリーン・ビセット]]、[[俳優|女優]]
* 1944年 - [[島木譲二]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](+ [[2016年]])
* [[1947年]] - [[志賀正浩]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、歌手、[[タレント]]
* 1947年 - [[古田肇]]、政治家、[[岐阜県知事一覧|岐阜県知事]]
* [[1948年]] - [[ネル・カーター]]、歌手、女優(+ [[2003年]])
* 1948年 - [[鳩山邦夫]]、[[政治家]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160622-UCJ7ZOVREJI7JBB4AW3FNGMKWQ/|title=鳩山邦夫元総務相が死去 67歳|publisher=産経ニュース|date=2016-06-22|accessdate=2020-11-14}}</ref>)
* 1948年 - [[中村均]]、元[[調教師]]
* [[1950年]] - [[小山田健一]]、元プロ野球選手(+ [[2001年]])
* [[1951年]] - [[吾羽七朗]]、俳優
* [[1952年]] - [[高木美智代]]、政治家
* [[1953年]] - [[谷村ひとし]]、[[漫画家]]
* [[1954年]] - [[三瓶啓二]]、[[空手道|空手家]]
* 1954年 - [[芦原すなお]]、[[小説家]]
* 1954年 - [[植木繁晴]]、元サッカー選手、監督
* [[1955年]] - [[藤野浩一]]、作曲家、音楽プロデューサー
* [[1956年]] - [[アラン・デュカス]]、[[シェフ]]
* [[1957年]] - [[山崎一]]、俳優
* [[1958年]] - [[玉置浩二]]、ミュージシャン([[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]])、俳優
* [[1959年]] - [[佐藤兼伊知]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[田中力 (野球)|田中力]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[長屋聡]]、[[総務省|総務]][[官僚]]
* [[1960年]] - [[SION]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1961年]] - [[デイヴ・ムステイン]]、ミュージシャン([[メガデス (バンド)|メガデス]])
* [[1962年]] - [[下村成二郎]]、ミュージシャン
* 1962年 - [[江川央生]]、[[声優]]
* 1962年 - [[松野博一]]、政治家、第85-86代[[内閣官房長官]]
* [[1964年]] - [[三原じゅん子]]、元[[俳優|女優]]、政治家
* [[1967年]] - [[マイケル・ジョンソン]]、[[陸上選手]]
* 1967年 - [[白鳥文平]]、[[SASUKEオールスターズ]]
* [[1968年]] - [[バーニー・ウィリアムス]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[ブラッド・ジョンソン (アメリカンフットボール)|ブラッド・ジョンソン]]、アメリカンフットボール選手
* [[1969年]] - [[砂原良徳]]、ミュージシャン(元[[電気グルーヴ]])
* 1969年 - [[伊藤博康]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[小田切千]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[1970年]] - [[北岡是樹]]、写真家
* 1970年 - [[サンコンJr.]]、[[ドラマー]]([[ウルフルズ]])
* 1970年 - [[松岡由貴]]、声優
* 1970年 - [[千葉進歩]]、声優
* [[1971年]] - [[ゴラン・イワニセビッチ]]、プロ[[テニス]]選手
* 1971年 - [[並木学]]、作曲家
* 1971年 - [[ステラ・マッカートニー]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1971年 - [[岩上智一郎]]、小説家
* [[1972年]] - [[陳慧琳|ケリー・チャン]]、歌手、女優
* [[1973年]] - [[クリスティーン・アーロン]]、[[陸上選手]]
* 1973年 - [[フィリップ・デュレボーン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1973年 - [[陳連宏]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[ファビオ・カンナヴァーロ]]、元サッカー選手
* [[1974年]] - [[木原丈裕]]、元バレーボール選手
* 1974年 - [[旭天鵬勝]]、元大相撲力士、年寄6代大島
* [[1975年]] - [[上条明峰]]、漫画家
* 1975年 - [[竹岡和範]]、[[お笑い芸人]]([[アマレス兄弟]])
* 1975年 - [[今野宏美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/今野宏美/|title=今野宏美(こんのひろみ)の解説|publisher=goo人名事典|accessdate=2020-12-01}}</ref>、[[声優]]
* [[1976年]] - [[大久保勝信]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[武田美保]]、元[[アーティスティックスイミング]]選手
* 1976年 - [[福元英恵]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1977年]] - [[フィオナ・アップル]]、ミュージシャン
* 1977年 - [[ダイスケはん]]、ミュージシャン([[マキシマムザホルモン]])
* 1977年 - [[荒木雅博]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[龍田梨恵]]、フリーアナウンサー
* [[1978年]] - [[松田大作]]、[[騎手]]
* 1978年 - [[和田昌之]]、[[ラジオパーソナリティ]]、実業家
* 1978年 - [[石橋奈美]]、女優
* 1978年 - [[赤平大]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1978年 - [[佐田正樹]]、お笑い芸人([[バッドボーイズ (お笑いコンビ)|バッドボーイズ]])
* 1978年 - [[タカマッチ]]、お笑い芸人
* [[1979年]] - [[イバン・ミリュコビッチ]]、[[バレーボール]]選手
* 1979年 - [[三木仁]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[小田エリカ]]、女優
* [[1980年]] - [[松坂大輔]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[市川みか]]、タレント
* [[1981年]] - [[鈴木優 (プロ雀士)|鈴木優]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]]
* [[1982年]] - [[出雲阿国 (お笑い芸人)|出雲阿国]]、お笑い芸人
* 1982年 - [[畠山和洋]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[マット・ロジェルスタッド]]、野球選手
* 1982年 - [[ハン・ジョンチョル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1983年]] - [[安達朋博]]、ピアニスト
* 1983年 - [[成海舞]]、元モデル
* 1983年 - [[梅原伸亮]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[ガオグライ・ゲーンノラシン]]、[[ムエタイ]]選手
* 1983年 - [[アンディ・ラローシュ]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[古川洋平]]、クイズ王
* [[1984年]] - [[澤屋敷純一]]、元格闘家
* 1984年 - [[パーカー・ペニングトン]]、フィギュアスケート選手
* 1984年 - FB777、ゲーム実況者 ([[M.S.S Project|M.S.S.Project]])
* [[1985年]] - [[鈴木えみ]]、[[タレント|モデル]]、歌手([[ジュエミリア]])
* 1985年 - [[平田香織]]、[[ファッションモデル]]、歌手
* 1985年 - [[吉田幸央]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[石川直樹 (サッカー選手)|石川直樹]]、元[[サッカー]]選手
* [[1986年]] - [[小林可夢偉]]、[[レーシングドライバー]]
* 1986年 - [[ショーン・ウィリアムス (バスケットボール)|ショーン・ウィリアムス]]、プロ[[バスケットボール選手]]
* 1986年 - [[谷正太]]、作曲家
* [[1987年]] - [[茅野愛衣]]、声優
* 1987年 - [[中上真亜子]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[山下まみ]]、声優
* 1987年 - [[G.NA]]、歌手
* [[1988年]] - [[木村文紀]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[辻井伸行]]、ピアニスト
* 1988年 - [[ヴィクトリア・ヘルゲソン]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[ユーリ・ポドラドチコフ]]、元スノーボーダー
* [[1989年]] - [[岡本奈月]]、元ファッションモデル、元[[俳優|女優]]
* 1989年 - [[兼子舜]]、元俳優
* 1989年 - [[桐村萌絵]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1989年 - [[中西里菜 (1989年生の歌手)|中西里菜]]、歌手([[スタイリッシュハート]])
* 1989年 - [[浦田延尚]]、サッカー選手
* 1989年 - [[トーマス・ミュラー]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[中別府葵]]、ファッションモデル
* 1990年 - [[中村充孝]]、サッカー選手
* 1990年 - [[奥谷侑加]]、ファッションモデル
* [[1991年]] - [[松田凌]]、俳優
* [[1992年]] - [[入矢麻衣]]、タレント
* 1992年 - [[せいや]]、お笑い芸人([[霜降り明星]])
* [[1993年]] - [[神野大地]]、陸上選手
* 1993年 - [[高畑裕太]]、俳優
* 1993年 - [[橋本梨菜]]、グラビアアイドル([[Sherbet (アイドルグループ)|sherbet]])
* 1993年 - [[ナイル・ホーラン]]、歌手([[ワン・ダイレクション]])
* 1993年 - [[渡邉啓太]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[ルイス・ロペス・フェルナンデス]]、サッカー選手
* [[1994年]] - [[大橋彩香]]、声優
* [[1995年]] - [[柴本優澄美]]、女優
* 1995年 - [[小清水一揮]]、元俳優
* 1995年 - [[海老原一佳]]、元プロ野球選手
* [[1996年]] - 石橋遼大、お笑い芸人([[四千頭身]])
* 1996年 - [[森田望智]]、女優
* 1996年 - [[関元彩水]]、女優
* 1996年 - [[中尾有伽]]、ファッションモデル
* 1996年 - [[さくらあや]]、プロレスラー、女優
* 1996年 - 濱田百華、サッカー選手
* 1996年 - [[横原悠毅]]、俳優、歌手(元[[IMPACTors]])
* [[1997年]] - ヒョンジェ、アイドル([[THE BOYZ|THE BOYS]])
* 1997年 - [[古賀颯人]]、柔道選手
* 1997年 - 舟山佑京、競輪選手
* 1997年 - [[鬼塚翔太]]、陸上選手
* [[1998年]] - 松下海、ハンドボール選手
* [[1999年]] - [[大園桃子]]、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1999年 - [[チェ・ヨンジュン]]、アイドル([[TOMORROW X TOGETHER]])
* 1999年 - [[木村風太]]、俳優
* [[2000年]] - [[古川奈穂]]、騎手
* 2000年 - [[我妻桃実]]、女優、アイドル(元[[ハコイリ♡ムスメ]])
* [[2001年]] - [[西純矢]]、プロ野球選手
* 2001年 - [[ソンチャン]]、ボーイズグループ(元[[NCT (音楽グループ)|NCT]]、現[[RIIZE]])
* [[2002年]] - [[日向未来]]、女優
* 2002年 - [[渡邊璃音]]、女優
* [[2004年]] - 中田歩実、サッカー選手
* 2004年 - [[イ・ジヌ]]、アイドル ([[TEEN TEEN]]、[[GHOST9]])
* [[2005年]] - 逢田珠里依、アイドル([[≒JOY]])
* 生年不明 - [[佐藤まりあ (女性アイドル)|佐藤まりあ]]、[[アイドル]]([[フィロソフィーのダンス]])
* 生年不明 - 宮谷里沙、[[アニメーター]]
* 生年不明 - [[上原あかり]]、声優
* 生年不明 - [[河野裕 (声優)|河野裕]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2008年]] - 梅浜、[[ジャイアントパンダ]]
* 2008年 - 永浜、ジャイアントパンダ
{{-}}
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Château de Versailles, galerie des glaces, buste d'empereur romain 03 (Titus).jpg
| width1 = 100
| caption1 = ローマ帝国皇帝、[[ティトゥス]](39-81)没
| image2 = Fujiwara-Fuhito.jpg
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| caption2 = 公卿、[[藤原不比等]](659-720)没
| image3 = Portrait of Philip II of Spain by Sofonisba Anguissola - 002b.jpg
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| caption3 = スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]](1527-1598)
}}
<!--
{{multiple image
| footer = [[ルネサンス]]の画家、[[アンドレア・マンテーニャ]](1431-1506)没
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| image1 = Andrea Mantegna - Lamentation of Christ - Pinacoteca di Brera (Milan).jpg
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| caption2 = [[モラリスト]]、[[ミシェル・ド・モンテーニュ]](1533-1592)没。{{Squote|人に死に方を教える者は、生き方を教えているのである。――『[[エセー]]』}}
<!-- {{Squote|私は何を知っているのか?(Que sais-je?)――『[[エセー]]』}} -->
<!-- {{Squote|私が猫と遊んでいる時、私が猫で暇潰しする以上に猫が私で暇潰ししているのではないのかと誰が知ろう?――『[[エセー]]』}} -->
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| caption1 = 泥棒、[[鼠小僧]](1797-1832)刑死
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| caption2 = 中国の政治家[[林彪]](1907-1971)、[[毛沢東]]の暗殺に失敗し逃走中に墜落死
}} <!-- 無茶な枠ですね… -->
<!-- [[Image:Danj%C5%ABr%C5%8D_Ichikawa_IX_as_Benkei_in_Kanjin-ch%C5%8D_%281894%29.jpg|thumb|100px|歌舞伎役者、9代目[[市川團十郎 (9代目)|]](1838-1903)没]] -->
<!-- [[Image:Shik%C5%8D_Munakata.jpg|thumb|100px|「板画家」、[[棟方志功]](1903-1975)没]] -->
<!-- [[Image:Stokowski_Leopold_grave.jpg|thumb|100px|指揮者[[レオポルド・ストコフスキー]](1882-1977)]] -->
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| caption1 = 生物学者[[アウグスト・クローグ]](1874-1949)
| image2 =
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| caption2 = 化学者[[ルイス・ミラモンテス]](1925-2004)没。[[経口避妊薬]]を開発
}}
* [[81年]] - [[ティトゥス]]、[[ローマ皇帝]](* [[39年]])
* [[531年]] - [[カワード1世]]、[[サーサーン朝]]の王(* [[473年]])
* [[720年]]([[養老]]4年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]])- [[藤原不比等]]、[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]の廷臣(* [[659年]])
* [[1506年]] - [[アンドレア・マンテーニャ]]、[[画家]](* [[1431年]])
* [[1592年]] - [[ミシェル・ド・モンテーニュ]]、[[哲学|哲学者]]、[[人文主義者]](* [[1533年]])
* [[1598年]] - [[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]、[[スペイン]]国王(* [[1527年]])
* [[1632年]] - [[レオポルト5世 (オーストリア大公)|レオポルト5世]]、前方オーストリア大公(* [[1586年]])
* [[1735年]] - [[フェルディナント・アルブレヒト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|フェルディナント・アルブレヒト2世]]、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(* [[1680年]])<!-- ja,en,es,fr,it:9/2 DE:9/13 要チェック -->
* [[1759年]] - [[ジェームズ・ウルフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/James-Wolfe James Wolfe British general] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[イギリス陸軍]]の[[将軍]](* [[1727年]])
* [[1832年]]([[天保]]3年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]])- [[鼠小僧]]、[[江戸時代]]の[[盗賊]](* [[1797年]])
* [[1847年]] - [[ニコラ・ウディノ]]、[[フランス帝国]][[元帥]](* [[1767年]])
* [[1853年]] - [[ゲオルク・アンドレアス・ガプラー]]、哲学者(* [[1786年]])
* [[1872年]] - [[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、哲学者(* [[1804年]])
* [[1881年]] - [[アンブローズ・バーンサイド]]、[[アメリカ陸軍]][[少将]]、[[ロードアイランド州知事]](* [[1824年]])
* [[1885年]] - [[フリードリヒ・キール]]、[[作曲家]](* [[1821年]])<!-- ja,DE,fr:9/13 en:9/14 enが間違い? -->
* [[1894年]] - [[エマニュエル・シャブリエ]]、作曲家(* [[1841年]])
* [[1903年]] - [[市川團十郎 (9代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1838年]])
* [[1906年]] - [[アルブレヒト・フォン・プロイセン (1837-1906)|アルブレヒト・フォン・プロイセン]]、[[ドイツ帝国|ドイツ]]の皇族(* [[1837年]])
* [[1912年]] - [[乃木希典]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大将]](* [[1849年]])
* 1912年 - [[乃木静子]]、乃木希典夫人(* [[1859年]])
* [[1927年]] - [[フランツ・バルツァー]]、鉄道技術者(* [[1857年]])
* [[1928年]] - [[イタロ・ズヴェーヴォ]]、[[小説家]](* [[1861年]])
* [[1937年]] - [[エリス・パーカー・バトラー]]、作家(* [[1869年]])
* [[1943年]] - [[歌川八重子]]、[[俳優|女優]](* [[1903年]])
* [[1944年]] - [[広瀬習一]]、[[プロ野球選手]](* [[1922年]])
* [[1945年]] - [[小泉親彦]]、[[厚生大臣]](* [[1884年]])
* [[1946年]] - [[アーモン・ゲート]]、[[ナチス・ドイツ]]の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]所長(* [[1908年]])
* [[1949年]] - [[アウグスト・クローグ]]、[[生物学|生物学者]](* [[1874年]])
* 1953年 - [[布施辰治]]、[[弁護士]]、社会運動家(* [[1880年]])
* [[1960年]] - [[レオ・ヴェイネル]]、作曲家(* [[1885年]])
* [[1971年]] - [[林彪]]、[[中華人民共和国元帥]](* [[1907年]])
* 1971年 - [[葉群]]、林彪の妻(* [[1917年]])
* 1971年 - [[林立果]]、林彪の長男(* [[1945年]])
* [[1974年]] - [[高野実]]、[[労働運動家]]、[[日本労働組合評議会|総評]]事務局長(* [[1901年]])
* [[1975年]] - [[棟方志功]]、[[版画家]](* [[1903年]])
* [[1977年]] - [[レオポルド・ストコフスキー]]、[[指揮者]](* [[1882年]])
* [[1982年]] - [[金原亭馬生 (10代目)|金原亭馬生]]、[[落語家]](* [[1928年]])
* [[1984年]] - [[ちばあきお]]、[[漫画家]](* [[1943年]])
* [[1987年]] - [[マーヴィン・ルロイ]]、[[映画監督]](* [[1900年]])
* [[1988年]] - [[堀江しのぶ]]、[[タレント]](* [[1965年]])
* [[1996年]] - [[2パック]]、[[ヒップホップ]][[MC (ヒップホップ)|MC]] (* [[1971年]])
* [[1998年]] - [[渡久地政信]]、[[作曲家]](* [[1916年]])
* 1998年 - [[岩野貞雄]]、[[ワイン]]醸造技術者(* [[1932年]])
* [[2001年]] - [[ドロシー・マクガイア]]、女優(* [[1913年]])
* 2001年 - [[ヤロスラフ・ドロブニー]]、[[テニス]]選手、[[アイスホッケー]]選手(* [[1921年]])
* [[2004年]] - [[ルイス・ミラモンテス]]、[[化学者]](* [[1925年]])
* [[2005年]] - [[中北千枝子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20050915000312|title=中北千枝子さん死去/女優|publisher=四国新聞社|date=2005-09-15|accessdate=2020-11-27}}</ref>、女優(* [[1926年]])
* 2005年 - [[トニ・フリッチュ]]、[[サッカー]]選手、[[アメリカンフットボール]]選手(* [[1945年]])
* [[2015年]] - [[モーゼス・マローン]]<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/09/14/moses-malone-idJPKCN0RE08T20150914 NBA=殿堂入りのマローン氏、60歳で死去] ロイター 2015年9月14日</ref>、バスケットボール選手(* [[1955年]])
* [[2022年]] - [[ジャン=リュック・ゴダール]]<ref>[https://eiga.com/news/20220913/26/ ジャン=リュック・ゴダール監督が死去 91歳] 映画.com 2022年9月13日 18:01</ref>、[[映画監督]](* [[1930年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:JMR-Memphis1.jpg|thumb|[[正義の女神]]。[[法 (法学)|法]]の象徴である秤、剣、目隠しを帯びている]]
* 世界の法の日
*:[[1965年]]9月13日から9月20日まで[[アメリカ合衆国]]の[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で「法による世界平和第2回世界会議」が開催され、そこで、何人も正式な法律以外に支配されることはないという「法の支配」を国際間で徹底させることで世界平和を確立しようという宣言が採択されたことを記念したもの。
* [[プログラマーの日]]({{RUS}}、[[平年]]の場合)
*: 一年の[[256]]日目の日であることから。([[閏年]]の場合は[[9月12日]])
*司法保護記念日({{JPN}}、[[1925年]] - [[1951年]])
*: 犯罪の予防と犯罪者の更生を見守る[[保護司|司法保護司]]や保護機関の働きについて多くの人に知ってもらうための日。[[明治天皇]]の大喪を記念して1912年9月26日に出された[[恩赦]]の詔勅が釈放者を保護する事業のきっかけとなったことから、これを記念日として1925年に「保護デー」として制定された。[[1937年]]に「司法保護記念日」に改称され、[[1952年]]に「少年保護記念日」([[4月17日]])と統合されて「[[更生保護]]記念日」([[11月27日]])となった。
* [[北斗の拳]]の日({{JPN}})
*: [[武論尊]]・[[原哲夫]]の漫画『北斗の拳』が1983年9月13日発売の『[[週刊少年ジャンプ]]』にて連載を開始した日。連載開始35周年となった2018年に現在同作品の著作権を管理している出版社[[コアミックス]]が日本記念日協会に申請し認定を受けた<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/1694 「北斗の拳の日」(9月13日)の記念日登録証授与式が東京・赤坂で行われ、原作者の武論尊氏と作画担当の漫画家原哲夫氏、ギタリストの布袋寅泰氏が登壇しました。],一般社団法人 日本記念日協会,2023年9月24日</ref>。
{{Clear}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0913|date=2011年7月}}
* [[1921年]] - 午後7時11分、ハンブルトン沖合にて豪華客船レディ=クリサニア号が沈没。(ゲーム『[[セプテントリオン]]』)
* [[1968年]] - クラリスと伯爵の結婚式が行われ、[[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]]が式場に乱入。(アニメ映画『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』)
* [[1999年]] - 月面の核廃棄物が突然連鎖的に爆発し、宇宙基地ムーンベースアルファを乗せたまま、月は地球の衛星軌道を離脱し、宇宙を放浪し始める。(特撮『[[スペース1999]]』)
* [[2000年]] - [[セカンドインパクト]]勃発により人類の半数が死に至る。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』)
* [[2006年]] - [[サッポロ ドラフトワン#ドラフトワン公国|ドラフトワン公国]]のアベール王子、[[サッポロ ドラフトワン]]に合う食材を求める旅に出かける。([[サッポロビール]]『サッポロドラフトワン』のコマーシャル)
* 2006年 - [[2007年]]に電王ソードフォームに倒されたパンダラビットイマジンが飛ぶはずだった日。ちなみに、[[バンダイ]]発売のライディングカードコレクションに収録されているパンダラビットイマジンのチケットには、この日付は入っていない。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* 時期不明(198X年または199X年。他にも1999年等、作品によって設定が異なる) - 午前3時、マグニチュード8.5以上、震源地は新宿駅地下5,000メートル付近と推定される、異常な都市部直下型大地震(後に<魔震>と呼称される)が発生。新宿区内は壊滅的な被害を受け、区の境界線上に発生した亀裂により、新宿は他の区から隔絶された。(小説『[[魔界都市〈新宿〉]]』他)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1973年]] - 模木完造、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=[[大場つぐみ]]、[[小畑健]]|title=DEATH NOTE|volume=13巻|publisher=[[集英社]]|year=2006|page=22|isbn=978-4-08-874095-9}}</ref>
* [[1982年]] - 東朔也、ドラマ『[[天国と地獄〜サイコな2人〜]]』に登場するキャラクター
* [[1986年]] - 園田真理、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダー555]]』の登場人物<ref>第7話の履歴書より</ref>
* [[2000年]] - [[渚カヲル]]、アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|evabf_official|1437355375750172674}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=特務機関調査プロジェクトチーム |year=1997 |title=新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説 |page=211 |publisher=[[青春出版社]] |isbn= 978-4-413-03073-1}}</ref>
* [[未来世紀]]33年 - アルゴ・ガルスキー、アニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |editor = 岸川靖 編 |year = 1994 |title = 機動武闘伝Gガンダム テクニカルマニュアル 奥義大全 |page = 22 |publisher = [[徳間書店]] |series = ロマンアルバム エクストラ }}</ref>
* 生年不明 - クラウディア・ブラフォード、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|sigururi|1304796916236967936}}</ref>
* 生年不明 - 藍原芽衣、漫画・アニメ『[[Citrus (漫画)|citrus]]』のもうひとりの主人公<ref>{{Twitter status|citrus_anime|1172379248939552768}}</ref>
* 生年不明 - 因幡月夜、漫画・アニメ『[[武装少女マキャヴェリズム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://machiavellism-anime.jp/character/?mode=tsukuyo |title=因幡月夜(Tsukiyo Inaba) |access-date=2023-02-01 |publisher=[[黒神遊夜]]・[[神崎かるな]]/[[KADOKAWA]]/「武装少女マキャヴェリズム」製作委員会 |work=『武装少女マキャヴェリズム』}}</ref>
* 生年不明 - [[戦姫絶唱シンフォギア#シンフォギア装者|立花響]]、アニメ・漫画『[[戦姫絶唱シンフォギア]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://symphogear.bushimo.jp/character/hibiki-tachibana |title=立花 響 |accessdate=2022-08-31 |publisher=『戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - ミケーレ・クリスピーノ、アニメ『[[ユーリ!!! on ICE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yurionice.com/special/birthday/michele/ |title=ミケーレ・クリスピーノ誕生日記念!プレゼントキャンペーン |access-date=2022-08-31 |publisher=はせつ町民会/ユーリ!!! on ICE 製作委員会 |work=『ユーリ!!! on ICE』}}</ref>
* 生年不明 - 水戸安登未、アニメ・小説『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-08-31}}</ref>
* 生年不明 - 伊達スバル、ゲーム『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.netrevo.net/products/tsuyokiss2/character/subaru.html |title=伊達 スバル |access-date=2022-08-31 |publisher=REVONET |work=『つよきす』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#南条光|南条光]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20116 |title=南条 光(なんじょう ひかる) |access-date=2022-08-31 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 笹原野々花、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130813_208079/ |title=【ガールフレンド(仮)通信91】おっとりお姉さんは巨乳グラマー 笹原野々花ちゃん(CV:戸松遥) |access-date=2022-08-31 |publisher=ファミ通App |date=2013-08-13}}</ref>
* 生年不明 - 湯ノ花菜乃、ゲーム『[[タユタマ2 -you're the only one-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lumpofsugar.co.jp/product/tayutama2/character/character003.html |title=湯ノ花菜乃 |accessdate=2022-08-31 |publisher=Lump of Sugar |work=『タユタマ2 -you're the only one-』}}</ref>
* 生年不明 - リュコス、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/houndsweeper/lykos/ |title=リュコス |access-date=2023-02-01 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - 小林抹茶、メディアミックス『[[project575]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|project575|1039968369007517696}}</ref>
* 生年不明 - 成宮すず、メディアミックス『[[IDOLY PRIDE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idolypride.jp/character/suzu-narumiya/ |title=成宮すず |access-date=2022-08-31 |publisher= |work=『IDPLY PRIDE』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8813%E6%97%A5 |
5,292 | 松尾芭蕉 | 松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。
元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。
芭蕉は、寛永21年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが、詳しい出生の月日は伝わっておらず、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。
明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句
が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。
延宝3年(1675年)初頭(諸説あり)に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。
延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった。
深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた
は、侘びへの共感が詠まれている。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた深川の居を「芭蕉庵」へ変えた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
しかし天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。
一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある。
その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる。
深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある。
貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した。
紀行の名は、出発の際に詠まれた
に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。
野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な
を詠んだ。和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった。
貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。
同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海・熱田・伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂・須磨・明石を旅して京都に入った。
京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津・岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科の姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った。
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺 五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江 義仲寺の無名庵で過ごした。
元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した。この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た。
元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った
に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。
芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。
元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。
9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日、「病中吟」と称して
を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った。享年50。
遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角・服部嵐雪・森川許六・向井去来・各務支考・内藤丈草・杉山杉風・立花北枝・志太野坡・越智越人や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良・広瀬惟然・服部土芳・天野桃隣、それ以外の弟子として万乎・野沢凡兆・蘆野資俊などがいる。
この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。
宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞・見立て・頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句
は、謡曲『鞍馬天狗』の一節から題材を得ている。2年後の作品
では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる。
天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる。
天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる。
貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、
が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている。後者では、
があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している。
さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、
を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している。
元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句
の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこととも言う。
この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である。
芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる。
「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている。
風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している。
芭蕉の家系は、伊賀の有力国人だった福地氏流松尾氏とされる。福地氏は柘植三方の一氏で、平宗清の子孫を称していた。
天正伊賀の乱の時、福地氏当主・福地伊予守宗隆は織田方に寝返った。この功で宗隆は所領経営の継続を許された。しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。
忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。
「松島やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと考えられている。
芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と側道間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。
45歳にして『おくのほそ道』の約450里(1768キロメートル)に及ぶ旅程を踏破した芭蕉について、江戸時代当時のこの年齢の人としては大変な健脚であるとする見方が生じ、さらにその出自に注目して、芭蕉は伊賀者(忍者)として藤堂家に仕えた無足人(準士分)であるとする説や母が伊賀忍者の百地氏と関連があるとする言説が唱えられ、『おくのほそ道』には江戸幕府の命を受けた芭蕉が隠密として東北諸藩の様子を調査するという裏の目的が隠されているとする解釈も現れた。
芭蕉忍者説を検証した三重大学准教授の吉丸雄哉(国際忍者学会所属)は、芭蕉の身分についてはすでに父の代で農民となっているため伊賀者ではなく、母も百地氏とは関連がないと指摘し、『おくのほそ道』の行程についても『曾良旅日記』の記述から分析した結果、芭蕉が一日に歩いた距離は長くても当時の平均的男性のそれより3割増しという程度で一般人と変わらず、大変な健脚だから忍者とする見方は成立しないと述べている。また、芭蕉はその死後半世紀にして神格化が進み逸話が多く創作されたが、速歩や隠形などの忍術を用いたエピソードは見当たらない点も重視すべきと注意を促している。
吉丸は、芭蕉忍者説が広まった過程も調査しており、その初出は昭和41年(1966年)に松本清張と樋口清之が発表した共著『東京の旅』(光文社)で、以降は文芸評論家の尾崎秀樹が芭蕉の母の血筋も取り上げながら同説を幾度も唱えたことが確認できるとし、昭和45年(1970年)の斎藤栄による推理小説『奧の細道殺人事件』(光文社)や昭和63年(1988年)〜平成元年(1989年)の連続テレビ時代劇『隠密・奥の細道』(テレビ東京)といったフィクションも手伝う形で、昭和戦後の忍者ブームと組み合わさって人口に膾炙したと考察する。吉丸は、芭蕉忍者説は結論ありきで反証可能性がなく、「証明できない幽霊のような存在」、「芭蕉にとっても忍者・忍術にとっても益のない発想である」と厳しい評価を下している。ただし、『おくのほそ道』の同行者である曾良こそが忍者であるとする説に対しては、証拠がないものの蓋然性はあるとする。
芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。 | [
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"text": "松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。",
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"text": "芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。",
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"text": "元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。",
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"text": "芭蕉は、寛永21年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが、詳しい出生の月日は伝わっておらず、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。",
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"text": "明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句",
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"text": "が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。",
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"text": "寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。",
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"text": "しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。",
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"text": "寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。",
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"text": "延宝3年(1675年)初頭(諸説あり)に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。",
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"text": "延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。",
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"text": "は、侘びへの共感が詠まれている。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた深川の居を「芭蕉庵」へ変えた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "しかし天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。",
"title": "生涯"
},
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"text": "一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した。",
"title": "生涯"
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"text": "紀行の名は、出発の際に詠まれた",
"title": "生涯"
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"text": "に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。",
"title": "生涯"
},
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"text": "野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "を詠んだ。和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。",
"title": "生涯"
},
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"text": "同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海・熱田・伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂・須磨・明石を旅して京都に入った。",
"title": "生涯"
},
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"text": "京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津・岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科の姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 28,
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"text": "閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺 五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江 義仲寺の無名庵で過ごした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した。この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日、「病中吟」と称して",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った。享年50。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角・服部嵐雪・森川許六・向井去来・各務支考・内藤丈草・杉山杉風・立花北枝・志太野坡・越智越人や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良・広瀬惟然・服部土芳・天野桃隣、それ以外の弟子として万乎・野沢凡兆・蘆野資俊などがいる。",
"title": "蕉門"
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"text": "この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。",
"title": "蕉門"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞・見立て・頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "は、謡曲『鞍馬天狗』の一節から題材を得ている。2年後の作品",
"title": "芭蕉の風"
},
{
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"text": "では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
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"text": "天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている。後者では、",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこととも言う。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している。",
"title": "芭蕉の風"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "芭蕉の家系は、伊賀の有力国人だった福地氏流松尾氏とされる。福地氏は柘植三方の一氏で、平宗清の子孫を称していた。",
"title": "家系"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "天正伊賀の乱の時、福地氏当主・福地伊予守宗隆は織田方に寝返った。この功で宗隆は所領経営の継続を許された。しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。",
"title": "家系"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "「松島やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと考えられている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と側道間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "45歳にして『おくのほそ道』の約450里(1768キロメートル)に及ぶ旅程を踏破した芭蕉について、江戸時代当時のこの年齢の人としては大変な健脚であるとする見方が生じ、さらにその出自に注目して、芭蕉は伊賀者(忍者)として藤堂家に仕えた無足人(準士分)であるとする説や母が伊賀忍者の百地氏と関連があるとする言説が唱えられ、『おくのほそ道』には江戸幕府の命を受けた芭蕉が隠密として東北諸藩の様子を調査するという裏の目的が隠されているとする解釈も現れた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "芭蕉忍者説を検証した三重大学准教授の吉丸雄哉(国際忍者学会所属)は、芭蕉の身分についてはすでに父の代で農民となっているため伊賀者ではなく、母も百地氏とは関連がないと指摘し、『おくのほそ道』の行程についても『曾良旅日記』の記述から分析した結果、芭蕉が一日に歩いた距離は長くても当時の平均的男性のそれより3割増しという程度で一般人と変わらず、大変な健脚だから忍者とする見方は成立しないと述べている。また、芭蕉はその死後半世紀にして神格化が進み逸話が多く創作されたが、速歩や隠形などの忍術を用いたエピソードは見当たらない点も重視すべきと注意を促している。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "吉丸は、芭蕉忍者説が広まった過程も調査しており、その初出は昭和41年(1966年)に松本清張と樋口清之が発表した共著『東京の旅』(光文社)で、以降は文芸評論家の尾崎秀樹が芭蕉の母の血筋も取り上げながら同説を幾度も唱えたことが確認できるとし、昭和45年(1970年)の斎藤栄による推理小説『奧の細道殺人事件』(光文社)や昭和63年(1988年)〜平成元年(1989年)の連続テレビ時代劇『隠密・奥の細道』(テレビ東京)といったフィクションも手伝う形で、昭和戦後の忍者ブームと組み合わさって人口に膾炙したと考察する。吉丸は、芭蕉忍者説は結論ありきで反証可能性がなく、「証明できない幽霊のような存在」、「芭蕉にとっても忍者・忍術にとっても益のない発想である」と厳しい評価を下している。ただし、『おくのほそ道』の同行者である曾良こそが忍者であるとする説に対しては、証拠がないものの蓋然性はあるとする。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。",
"title": "銅像・碑"
}
] | 松尾 芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。 | {{Infobox 作家
| name =松尾芭蕉
| image = Basho by Morikawa Kyoriku (1656-1715).jpg
| image_size = 230px
| caption = <small>「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と[[河合曾良|曾良]]([[森川許六]]作)</small>
| birth_date = [[寛永]]21年([[正保]]元年)([[1644年]])
| birth_place = [[伊賀国]][[阿拝郡]]
| death_date = [[元禄]]7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]<br/>([[1694年]][[11月28日]])
| death_place = [[摂津国]][[西成郡|西生郡]][[大阪|大坂]][[大坂三郷|南組]][[久太郎町|南久太郎町]]
| occupation = [[俳諧師]]
| genre = 俳句
| notable_works = 紀行文『[[おくのほそ道]]』<br>[[古池や蛙飛びこむ水の音]]<br>[[閑さや岩にしみ入る蝉の声]]
| movement =
| influences =
| influenced =
}}
'''松尾 芭蕉'''(まつお ばしょう、[[寛永]]21年([[正保]]元年)([[1644年]]) - [[元禄]]7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1694年]][[11月28日]])<ref name="SatoNen">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表]]</ref><ref name="Abe">[[#阿部1986|阿部(1986)、p.235-241 略年譜、p.1-34 誕生と身辺・郷党の秀才]]</ref>)は、[[江戸時代]]前期の[[俳諧師]]。[[伊賀国]][[阿拝郡]](現在の[[三重県]][[伊賀市]])出身。幼名は金作<ref name="Sato30">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)]]</ref>。通称は甚七郎、甚四郎<ref name="Sato30" />。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)<ref name="Takahashi">[[#高橋1993|高橋(1993)、p.303 略年譜、p.4-9 松尾忠右衛門宗房の寛文時代]]</ref>。[[俳号]]としては初め宗房(そうぼう)<ref name="Abe"/>を称し、次いで桃青(とうせい)、'''芭蕉'''(はせを)と改めた。[[北村季吟]]門下。
芭蕉は、[[和歌]]の[[余興]]の言捨ての[[滑稽]]から始まり、滑稽や[[諧謔]]を主としていた[[俳諧]]<ref>[[東明雅]]、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、[[岩波書店]]1997年、p.37参照及び引用</ref>を、'''[[正風俳諧|蕉風]]'''と呼ばれる芸術性の極めて高い句風<ref>東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』([[明治書院]]、2003年)、ISBN 4-625-44300-8。</ref>として確立し、後世では'''俳聖'''<ref name="Sato247">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.247、あとがき]]</ref>として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ<ref>[[東明雅]]、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、[[岩波書店]]1997年、p.1参照及び引用</ref>。
[[元禄]]2年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]](1689年5月16日)に弟子の[[河合曾良]]を伴い[[江戸]]を発ち、[[東北]]から[[北陸]]を経て[[美濃国]]の[[大垣市|大垣]]までを巡った旅を記した紀行文『[[おくのほそ道]]』が特に有名である。
== 生涯 ==
=== 伊賀国の宗房 ===
芭蕉は、寛永21年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の[[土豪]]一族出身の[[松尾与左衛門]]の次男として生まれるが<ref name="Sato30" />、詳しい出生の月日は伝わっておらず<ref name="Sato30" />、出生地についても、阿拝郡のうち[[上野城]]下の赤坂町(現在の伊賀市[[上野町 (三重県)|上野赤坂町]])説<ref name="Sato30" />と[[柘植町|上柘植村]](現在の伊賀市柘植町)説の2説がある<ref name="you">{{Cite web|和書|url=http://www.iga-younet.co.jp/gourmet/post.html|title=【俳聖 松尾芭蕉】第1章 若き日の芭蕉|author=北出楯夫|accessdate=2016-06-12|publisher=[[伊賀タウン情報YOU]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160612113543/http://www.iga-younet.co.jp/gourmet/post.html|archivedate=2016年6月12日|quote=上柘植村説は芭蕉の没後84年を経た[[安永]]7年(1778年)に、蓑笠庵梨一の『奥の細道菅菰抄』に「祖翁ハ伊賀国柘植郷の産にして...」と書かれたのが始まり。その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は[[平氏]]の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は[[武士]]ではなく[[農業|農民]]だった<ref name="Ae16">[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃]]</ref>。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた<ref name="Sato30" /><ref name="you"/>。
明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し<ref name="Sato30" />、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが[[寛文]]2年(1662年)に<ref name="Ae16" />若くして伊賀国上野の[[侍大将]]・[[藤堂良清|藤堂新七郎良清]]の嗣子・主計[[蝉吟|良忠]](俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである<ref name="Sato30" />。2歳年上の良忠とともに[[京都]]にいた[[北村季吟]]に師事して[[俳諧]]の道に入り<ref name="Sato30" />、寛文2年の年末に詠んだ句
{{Quotation|春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)}}
が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の[[立春]]の日に詠んだという<ref name="Ae16" />。寛文4年([[1664年]])には[[松江重頼]]撰『佐夜中山集』に、[[貞門派]]風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した<ref name="Sato30" />。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている<ref name="Sato30" />。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を[[高野山]][[報恩院 (高野山)|報恩院]]に納める一団に加わって<ref name="Ae16" />菩提を弔い<ref name="Sato30" />、仕官を退いた<ref name="Ae16" />。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』([[北村湖春|湖春]]編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる<ref name="Sato30" />。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した<ref name="Ae16" />。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『[[貝おほひ]]』を[[上野天神宮]](三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、[[談林派]]の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも[[小唄]]や[[六方詞]]など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった<ref name="Sato30" />。また[[延宝]]2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた<ref name="Sato30" />。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった<ref name="Sato30" />。
=== 江戸日本橋の桃青 ===
延宝3年(1675年)初頭(諸説あり<ref name="Sato30" />)に[[江戸]]へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[小沢卜尺]]の貸家<ref name="Sato34">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)]]</ref>、[[久居藩]]士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・[[杉山杉風]]の日本橋小田原町の宅に入ったともいう<ref name="Sato34" />。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える[[磐城平藩]]主・[[内藤義概]]のサロンにも出入りするようになった<ref name="Sato34" />。延宝3年5月には江戸へ下った[[西山宗因]]を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた<ref name="Sato34" />。ここで触れた宗因の[[談林派]]俳諧に、桃青は大きな影響をうけた<ref name="Sato34" />。
延宝5年(1677年)、[[水戸藩]]邸の防火用水に[[神田川 (東京都)|神田川]]を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる<ref name="Ae30">[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向]]</ref>。この期間、桃青は現在の[[文京区]]に住み、そこは[[関口芭蕉庵]]として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている<ref name="Sato34" />。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる<ref name="Sato34" />。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている<ref name="Sato34" />。
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に[[山口素堂]]らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた<ref name="Sato34" />。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、[[天和 (日本)|天和]]2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない<ref name="Sato34" />。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然[[深川 (江東区)|深川]]に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する[[点者]]生活に飽いたという意見、[[火事]]で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある<ref name="Sato38">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)]]</ref>。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて[[老荘思想]]のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった<ref name="Ae43">[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道]]</ref>。
=== 江戸深川の芭蕉 ===
深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた
{{Quotation|侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥 (わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた) }}
は、[[わび・さび|侘び]]への共感が詠まれている<ref name="Sato38" />。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から[[バショウ|芭蕉]]の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は[[杜甫]]の詩から採り「泊船堂」と読んでいた<ref name="Ae43" />深川の居を「芭蕉庵」へ変えた<ref name="Sato38" /><ref name="Sato14">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調]]</ref>。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
{{Quotation|芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 (ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)}}
しかし天和2年(1682年)12月28日、[[天和の大火]](いわゆる[[八百屋お七]]の火事)で庵を焼失し、[[甲斐国|甲斐]][[谷村藩]](山梨県[[都留市]])の国家老[[高山繁文]](通称・伝右衝門)に招かれ流寓した<ref name="Sato38" />。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが<ref name="Sato38" />、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた<ref name="Ae43" />。
一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある<ref>ミュージアム都留(2000)pp.114-117。</ref>。
その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、[[漢詩]]調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる<ref name="Sato38" />。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる<ref name="Ae43" />。
深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある<ref>[https://koto-kanko.jp/theme/detail.php?id=TH00003 松尾芭蕉ゆかりの地] 江東おでかけ情報局、2020年9月21日閲覧</ref>。
=== 蕉風の高まりと紀行 ===
[[貞享]]元年(1684年)8月、芭蕉は『[[野ざらし紀行]]』の旅に出る。[[東海道]]を西へ向かい、伊賀・[[大和国|大和]]・[[吉野]]・[[山城国|山城]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張・]][[大和国|甲斐]]を廻った。再び伊賀に入って越年すると、[[木曽路|木曽]]・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々[[美濃国]][[大垣市|大垣]]の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した<ref name="Sato41">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅]]</ref>。
紀行の名は、出発の際に詠まれた
{{Quotation|野ざらしを心に風のしむ身哉}}
に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する<ref name="Sato41" />。途中の[[名古屋市|名古屋]]で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる<ref name="Sato41" />。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ<ref name="Sato41" />。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる<ref name="Sato41" />。
野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した[[蛙]]の発句会で有名な
{{Quotation|[[古池や蛙飛びこむ水の音]] (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』}}
を詠んだ。[[和歌]]や[[連歌]]の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった<ref name="Sato44">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅]]</ref>。
貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の[[河合曾良]]と宗波を伴い『[[鹿島詣]]』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と[[月見]]の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。
{{Quotation|月はやし梢は雨を持ちながら}}
同年10月25日からは、[[伊勢国|伊勢]]へ向かう『[[笈の小文]]』の旅に出発した。東海道を下り、[[鳴海宿|鳴海]]・[[宮宿|熱田]]・[[伊良湖岬|伊良湖崎]]・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に[[伊勢神宮]]を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・[[紀伊国|紀伊]]と巡り、さらに[[大坂]]・[[須磨区|須磨]]・[[明石]]を旅して京都に入った<ref name="Sato44" />。
京都から江戸への復路は、『[[更科紀行]]』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は[[大津市|大津]]・[[岐阜]]・名古屋・鳴海を経由し、[[信濃国|信州]][[更級郡|更科]]の[[姨捨山]]で月を展望し、[[善光寺]]へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った<ref name="Sato44" />。
=== おくのほそ道 ===
[[ファイル:Kisakata byobu (Kisakata Historical Museum).jpg|200px|right|thumb|[[象潟地震]]で隆起する以前の、[[象潟]]の様子が描かれた屏風。芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠み、「[[松島]]は笑ふが如く、象潟は憾む(悲しむの意)が如し」と評した。]]
[[西行]]500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の[[河合曾良|曾良]]を伴い芭蕉は『[[おくのほそ道]]』の旅に出た。[[下野国|下野]]・[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽]]・[[越後国|越後]]・[[加賀国|加賀]]・[[越前国|越前]]など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や[[能因]]らの[[歌枕]]や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた<ref name="Sato47">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅]]</ref>。
{{Quotation|夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):[[岩手県]][[平泉町]]<br />
[[閑さや岩にしみ入る蝉の声]] (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):[[山形県]]・[[立石寺]]<br />
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県[[大石田町]]<br />
荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):[[新潟県]][[出雲崎町]]}}
この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に[[金沢市|金沢]]で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった<ref name="Sato47" />。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした<ref name="Sato47" />。
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600[[里 (尺貫法)|里]](約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し<ref name="Sato47" />、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は[[近江国|近江]] [[義仲寺]]の無名庵で過ごした<ref name="Sato49">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立]]</ref>。
=== 『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成 ===
[[File:Poet-Basho-and-Moon Festival-Tsukioka-Yoshitoshi-1891.png|thumb|『三日月の頃より待し今宵哉』([[月岡芳年]]『月百姿』)松尾芭蕉]]
元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・[[膳所藩]]士[[菅沼曲水|菅沼曲翠]]の勧めにしたがって、静養のため[[滋賀郡]]国分の[[幻住庵]]に7月23日まで滞在した<ref name="Sato49" />。この頃芭蕉は[[風邪]]に持病の[[痔]]に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た<ref name="Sato49" />。
元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り[[向井去来]]の別荘である[[落柿舎]]に滞在し、5月4日には京都の[[野沢凡兆]]宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『[[猿蓑]]』の編纂に取り組み始めた<ref name="Sato49" />。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った
{{Quotation|初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)}}
に由来する<ref name="Sato49" />。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている<ref name="Sato49" />。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった<ref name="Sato49" />。
芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、[[お盆|盆]]を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の[[手代]]である[[志太野坡]]、[[小泉孤屋]]、[[池田利牛]]らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した<ref name="Sato50">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向]]</ref>。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが<ref name="Sato52">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ]]</ref>、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した<ref name="Sato50" />。
=== 死去 ===
[[File:Basho by Hokusai-small.jpg|thumb|松尾芭蕉像([[葛飾北斎]]画)]]
元禄7年(1694年)5月、芭蕉は[[寿貞尼]]の息子である[[次郎兵衛]]を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中[[大井川]]の増水で[[島田市|島田]]に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った<ref name="Sato52" />。
9月に奈良そして生駒[[暗峠]]を経て大坂へ赴いた<ref name="Sato52" />。大坂行きの目的は、門人の之道と[[濱田洒堂|珍碩]]の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの<ref name="Ae206">[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉]]</ref>10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に[[真宗大谷派難波別院|南御堂]]の門前、[[久太郎町|南久太郎町]]6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた<ref name="Sato52" />。8日、「病中吟」と称して
{{Quotation|旅に病んで夢は枯野をかけ廻る}}
を詠んだ<ref name="Sato52" />。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した<ref name="Ae206" />。10日には[[遺書]]を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った<ref name="Sato52" />。享年50。
遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の[[義仲寺]]に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って[[源義仲|木曾義仲]]の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという<ref name="Sato52" />。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
== 蕉門 ==
門人に[[蕉門十哲]]と呼ばれる[[宝井其角]]<ref name="Sato61">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々]]</ref>・[[服部嵐雪]]<ref name="Sato61" />・[[森川許六]]<ref name="Sato66">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々]]</ref>・[[向井去来]]<ref name="Sato72">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人]]</ref>・[[各務支考]]<ref name="Sato66" />・[[内藤丈草]]<ref name="Sato66" />・[[杉山杉風]]<ref name="Sato61" />・[[立花北枝]]・[[志太野坡]]<ref name="Sato66" />・[[越智越人]]<ref name="Sato74">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに]]</ref>や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる[[河合曾良]]<ref name="Sato74" />・[[広瀬惟然]]<ref name="Sato66" />・[[服部土芳]]<ref name="Sato190">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論]]</ref>・[[天野桃隣]]、それ以外の弟子として[[万乎]]・[[野沢凡兆]]<ref name="Sato72" />・[[蘆野資俊]]などがいる。
この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した<ref name="Sato74" />。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは[[近江蕉門]]が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。
== 芭蕉の風 ==
=== 貞門・談林風 ===
宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、[[掛詞]]・[[見立て]]・[[頓知]]といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句
{{Quotation|月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)}}
は、[[謡曲]]『[[鞍馬天狗]]』の一節から題材を得ている<ref name="Sato14" />。2年後の作品
{{Quotation|霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』}}
では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている<ref name="Sato14" />。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である<ref name="Sato14" />。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる<ref name="Sato14" />。
=== 天和期の特徴 ===
天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは[[和歌]]における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる<ref name="Sato14" />。
天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる<ref name="Sato14" />。
=== 芭蕉発句 ===
貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、
{{Quotation|馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』}}
が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている<ref name="Sato17">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果]]</ref>。後者では、
{{Quotation|菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』}}
があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している<ref name="Sato17" />。
さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、
{{Quotation|蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』}}
を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している<ref name="Sato17" />。
=== かるみの境地 ===
元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句
{{Quotation|木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)}}
の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている<ref name="Sato216">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合]]</ref>。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている<ref name="Sato50" />。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと<ref name="Sato216" />、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと<ref name="Ae217">[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論]]</ref>とも言う。
この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である<ref name="Sato223">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句]]</ref>。
=== 俳評 ===
芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった<ref name="Sato190" />。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた<ref name="Sato223" />。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる<ref name="Sato190" />。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる<ref name="Sato190" />。
「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ<ref name="Sato192">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」]]</ref>。これは、[[宋学]]の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く<ref name="Sato192" />。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている<ref name="Sato192" />。
風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた<ref name="Sato195">[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論]]</ref>。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である<ref name="Sato195" />。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している<ref name="Sato195" />。
== 家系 ==
芭蕉の家系は、伊賀の[[国人|有力国人]]だった[[福地氏#桓武平氏流柘植氏族 福地氏(伊賀福地氏)|福地氏]]流松尾氏とされる。福地氏は柘植三方{{efn|「つげさんぽう」と読む。日置氏、北村氏、福地氏から成る。平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。}}の一氏で、[[平宗清]]の子孫を称していた。
[[天正伊賀の乱]]の時、福地氏当主・[[福地宗隆|福地伊予守宗隆]]は織田方に寝返った。この功で宗隆は所領経営の継続を許された。しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。
== その他 ==
[[ファイル:Haiseiden.jpg|thumb|200px|[[俳聖殿]]]]
忌日である10月12日(現在は[[新暦]]で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。[[時雨]]は[[旧暦]]十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。
「[[松島]]やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の[[狂歌]]師・[[田原坊]]の作ではないかと考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000204432 |title=レファレンス共同データベース |publisher =国立国会図書館 |accessdate=2019-12-09}}</ref>。
芭蕉の終焉地は、[[御堂筋]]の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[久太郎町]]3丁目5付近の御堂筋の本線と側道間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの[[真宗大谷派難波別院]](南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。
=== 芭蕉忍者説 ===
45歳にして『[[おくのほそ道]]』の約450里(1768キロメートル)に及ぶ旅程を踏破した芭蕉について、江戸時代当時のこの年齢の人としては大変な健脚であるとする見方が生じ<ref name=foot>[https://www.yomiuri.co.jp/local/mie/feature/CO031511/20181219-OYTAT50005/ 芭蕉の脚力普通だった] - 『読売新聞』2018年12月19日、2021年3月4日閲覧。</ref>、さらにその出自に注目して、芭蕉は伊賀者([[忍者]])として藤堂家に仕えた無足人(準士分)であるとする説や母が伊賀忍者の百地氏と関連があるとする言説が唱えられ<ref name=mieuniv>[https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-10.html 第4回「芭蕉忍者説の傾向と対策」(後期)] - 三重大学人文学部・人文社会科学研究科、2021年3月4日閲覧。</ref>、『おくのほそ道』には[[江戸幕府]]の命を受けた芭蕉が隠密として東北諸藩の様子を調査するという裏の目的が隠されているとする解釈も現れた<ref name=kensho>[https://www.sankei.com/article/20170129-U3VVHPRPJFNUDFEYUMWYN3W6QQ/ 「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説] - 『産経新聞』2017年1月29日、2021年3月4日閲覧。</ref>。
芭蕉忍者説を検証した[[三重大学]]准教授の[[吉丸雄哉]](国際忍者学会所属)は、芭蕉の身分についてはすでに父の代で農民となっているため伊賀者ではなく<ref name=kensho/>、母も百地氏とは関連がないと指摘し<ref name=mieuniv/>、『おくのほそ道』の行程についても『曾良旅日記』の記述から分析した結果、芭蕉が一日に歩いた距離は長くても当時の平均的男性のそれより3割増しという程度で一般人と変わらず、大変な健脚だから忍者とする見方は成立しないと述べている<ref name=foot/><ref name=mieuniv/>。また、芭蕉はその死後半世紀にして神格化が進み逸話が多く創作されたが、速歩や隠形などの忍術を用いたエピソードは見当たらない点も重視すべきと注意を促している<ref name=foot/>。
吉丸は、芭蕉忍者説が広まった過程も調査しており、その初出は昭和41年(1966年)に[[松本清張]]と[[樋口清之]]が発表した共著『東京の旅』(光文社)で、以降は文芸評論家の[[尾崎秀樹]]が芭蕉の母の血筋も取り上げながら同説を幾度も唱えたことが確認できるとし<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/mie/feature/CO031511/20180411-OYTAT50005/ 芭蕉忍者説尾崎広める] - 『読売新聞』2018年4月11日、2021年3月5日閲覧。</ref>、昭和45年(1970年)の[[斎藤栄]]による推理小説『奧の細道殺人事件』(光文社)や昭和63年(1988年)〜平成元年(1989年)の連続テレビ時代劇『[[隠密・奥の細道]]』(テレビ東京)といったフィクションも手伝う形で、昭和戦後の忍者ブームと組み合わさって人口に膾炙したと考察する<ref name=kensho/>。吉丸は、芭蕉忍者説は結論ありきで反証可能性がなく<ref name=mieuniv/>、「証明できない幽霊のような存在」<ref name=kensho/>、「芭蕉にとっても忍者・忍術にとっても益のない発想である」<ref name=mieuniv/>と厳しい評価を下している。ただし、『おくのほそ道』の同行者である曾良こそが忍者であるとする説に対しては、証拠がないものの蓋然性はあるとする<ref name=kensho/><ref>[http://ninjacenter.rscn.mie-u.ac.jp/blog/2020/0110/ (エッセイ)百地家系図の「芭蕉」に関する記述について (吉丸雄哉)] - 国際忍者研究センター、2021年3月4日閲覧。</ref>。
=== 日本以外での芭蕉像など ===
{{節スタブ}}
* [[ウクライナ]]の中学2年生の[[教科書]]には、2ページにわたって松尾芭蕉のことが書かれている<ref>[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK衛星ハイビジョン]]2009年1月11日16:00『[[地球特派員|地球特派員スペシャル]]』にて[[岡本行夫]]が[[ウクライナ]]から持ち帰った中学2年生の教科書を示して。</ref>。
* Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。
* W.C.フラナガン名義の[[小林信彦]]の著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡んでいたりなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。
* [[ロバート・クレイス]]の著作『モンキーズ・レインコート ロスの探偵エルヴィス・コール』(The Monkey's Raincoat) のタイトルは芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」や蕉門の発句・連句集『[[猿蓑]]』に由来する。
* 芭蕉の句の1つ、"花の雲 鐘は上野か浅草か"の英訳である"The clouds of flowers, Where is the bell from, Ueno or Asakusa?"を来日経験のない英語圏在住者に読ませると人の死を悼む葬式の情景をうたった句と解されたとする記述がある<ref>大谷泰照監修、堀内克明監修、朝尾幸次郎ほか編 『社会人のための英語百科』 大修館書店、2002年3月、181頁。</ref>。
== 著作 ==
* 『校本芭蕉全集』[[富士見書房]](全10巻別巻1)
* 『松尾芭蕉集』[[小学館]]〈[[日本古典文学全集|新編日本古典文学全集]]70・71〉
* 『芭蕉文集』、『芭蕉句集』 [[新潮社]]〈[[新潮日本古典集成]]〉、新装版
* [[岩波文庫]]版は 『おくのほそ道 付曾良旅日記』(奥の細道)、『芭蕉俳句集』
**『芭蕉俳文集』(上下)、『芭蕉紀行文集』、『芭蕉書簡集』、『芭蕉連句集』、『芭蕉七部集』
* [[角川ソフィア文庫]]版は 『おくのほそ道』、『芭蕉全句集 現代語訳付』([[雲英末雄]]ほか訳・校注)
* 『芭蕉書簡大成』、『芭蕉年譜大成』 [[今栄蔵]]編著、[[角川学芸出版]]
* 『全釈芭蕉書簡集』 田中善信、[[新典社]]注釈叢書11
* 『[[俳諧七部集]]』 白石悌三・[[上野洋三]]校注、[[岩波書店]]〈新[[日本古典文学大系]]70〉{{efn|「芭蕉七部集」の正式名は「[[俳諧七部集]]」。}}
=== 海外語訳 ===
*[[伊藤昌輝]]、アルベルト・シルバによる『野ざらし紀行』、『鹿島詣』、『笈の小文』、『更科紀行』、『おくのほそ道』および『嵯峨日記』6編のスペイン語訳
**{{Cite book |洋書 |translator=[[伊藤昌輝]] |title=Los cantos en el pequeño paraíso - Selecciones del Kanginshu |publisher=Fondo de Cultura Economica |isbn=978-987-719-089-2 |ref=harv |year=2015|date=|location=アルゼンチン}}
**日本版『スペイン語で旅するおくのほそ道』大盛堂書房、2018年
*[[ドナルド・キーン]]訳『英文収録 おくのほそ道』 講談社、1996年、講談社学術文庫、2007年
*ドロシー・ブリトン訳『奥の細道 A Haiku Journey』講談社インターナショナル、新版2002年
*[[タチアーナ・ソコロワ=デリューシナ]]によるロシア語訳がある。
== 銅像・碑 ==
芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。
<gallery>
|[[中尊寺]]境内にある銅像
画像:Kehi-jingu23s3872.jpg|[[氣比神宮]]にある銅像
画像:Basho in Ogaki.JPG|[[大垣市]]「奥の細道」結びの地
画像:Chidorizuka Monument, Narumi-cho Midori Ward Nagoya 2020.jpg|存命中唯一の翁塚である「千鳥塚」(愛知県名古屋市緑区)
画像:The Oldest Memorial Monument for Matsuo Basho in Seigan-ji Temple, Negoya Narumi-cho Midori Ward Nagoya 2020.jpg|誓願寺(愛知県名古屋市緑区)、芭蕉最古の供養塔
画像:Keiunkan14s3200.jpg|[[慶雲館]]、日本最大の芭蕉句碑
画像:Kokuho Jodoji Basho Haiku.jpg|[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]、芭蕉句碑
画像:芭蕉塚.jpg|[[新大仏寺]]の芭蕉塚
画像:Minomushi-an, Alias Sachû-an - A stone tablet inscribed with a haiku of Matsuo Bashô.jpg|蓑虫庵、芭蕉句碑([[三重県]][[伊賀市]])
画像:Matsuobasho-Minamisenju.JPG|[[南千住駅]]前の像
画像:Matsuo_Basho_-_Een_woedende_zee_-_Rapenburg_75,_Leiden.JPG|[[ライデン大学]]
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=松尾芭蕉|author=佐藤勝明 編|publisher=[[ひつじ書房]] |series = 21世紀日本文学ガイドブック(5) |edition=初版1刷|year=2011|oriyear=|isbn=978-4-89476-512-2 |ref=佐藤編2011}}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉|author=饗庭孝男|authorlink=饗庭孝男|publisher=[[集英社]] |series = 集英社新書|edition=第1刷|year=2001|oriyear=|isbn=4-08-720089-2 |ref=饗庭2001}}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉庵桃青の生涯|author=高橋庄次|publisher=[[春秋社]] |series = |edition=|year=1993|oriyear=|isbn=4-393-44115-X |ref=高橋1993}}
*{{Cite book|和書|title=松尾芭蕉|author=阿部喜三男|authorlink=阿部喜三男|publisher=[[吉川弘文館]] |series = 人物叢書|edition=日本歴史学会|year=1986|oriyear=|isbn=4-642-05031-0 |ref=阿部1986}}
*{{Cite book|和書|title=永遠の旅人 松尾芭蕉|author1=白石悌三|authorlink1=白石悌三|author2=田中喜信|publisher=[[新典社]] |series = 日本の作家 26|edition=|year=1991|oriyear=|isbn=4-7879-7026-7 |ref=旅人1991}}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉 二つの顔|author=田中喜信|publisher=[[講談社]] |series = [[講談社選書メチエ]] 134|edition=|year=1998|oriyear=|isbn=4-06-258134-5 |ref=田中1998}}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉の世界|author=山下一海|authorlink=山下一海|publisher=[[角川書店]] |series = [[角川選書]] 161|edition=|year=1985|oriyear=|isbn=4-04-703161-5 |ref=山下1985}}
* {{Cite web|和書|website=おくのほそ道文学館 | title = 松尾芭蕉の総合年譜と遺書 | publisher = LAP Edc. SOFT | date = 2009-11-18 | url = https://web.archive.org/web/20181231123046/http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm | accessdate = 2019-11-12 | ref={{Sfnref|LAP Edc. SOFT|2009}} }}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉・旅・甲州|author=ミュージアム都留 編|publisher=サンニチ印刷 |year=2000|oriyear=|ref=ミュージアム都留}}
*{{Cite book|和書|title=芭蕉年譜大成|author=今栄蔵|publisher=角川書店 |year=1994|oriyear=|isbn=4-04-865047-5 |ref=今著1994}}
*{{Cite book|和書|title=松尾芭蕉|author1=雲英末雄|authorlink1=雲英末雄|author2=高橋治|authorlink2=高橋治|publisher=新潮社 |series = 新潮古典文学アルバム 18|year=1990|oriyear=|isbn=4-10-620718-4 |ref=古典アルバム}}
*唐橋吉士『評釋 奥の細道』弘學社(配給・日本出版配給)、1941年、初版
*山本安三郎編『曾良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記』小川書房(発売・誠文堂新光社)、1947年、第四版
*[[東明雅]]『芭蕉の恋句』岩波書店、岩波新書黄版91、1979年、初版第一刷
*山下一海『見付けぬ花 知られざる芭蕉の佳句』小沢書店、1997年、ISBN 4-7551-0348-7
*[[金森敦子]]『カラー版 芭蕉「おくのほそ道」の旅』角川書店、角川ONEテーマ21 C-73、2004年、ISBN 4-04-704156-4
== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書|title=[[江戸名所図会]]|volume=4|author=斎藤幸雄|publisher=有朋堂書店|year=1927|chapter=巻之七 揺光之部 芭蕉庵舊址|pages=43,46-38|id={{NDLJP|1174161/26}}}}
== 関連項目 ==
{{Div col|cols=3}}
* [[逸翁美術館]]
* [[柿衞文庫]]
* [[俳人の一覧]]
* [[去来抄]]
* [[松岡青蘿]]
* [[曾良]]
* [[内藤義英]]
* [[日本の近世文学史]]
* [[軽み]]
* [[芭蕉翁記念館]]
* [[山寺芭蕉記念館]]
* [[明照寺 (彦根市)]]
* [[菅沼曲水]]
* [[菅原神社 (伊賀市)|菅原神社]]
* [[大島稲荷神社]]
* [[竜が丘俳人墓地]]
* [[日本の書家一覧]]
* [[バショウ]]
* [[隠密・奥の細道]]
* [[四寺廻廊]]
* [[小宮豊隆]] - 校訂に文暁『花屋日記 芭蕉臨終記』([[岩波文庫]]、1952年、復刊2017年)
* [[真鍋儀十]]
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== 外部リンク ==
* [https://www.city.iga.lg.jp/index.html 伊賀市公式ホームページ]
* [https://www.kcf.or.jp/basho/ 芭蕉記念館] - 江東区文化コミュニティ財団
* [https://www.ict.ne.jp/~basho/index.html 芭蕉と伊賀 - 芭蕉生誕360年]
* [http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm 芭蕉(bashoDB)]
* [http://yamadera-basho.jp/ 山寺芭蕉記念館]
* [https://shijikairou.com/ みちのく古寺巡礼 四寺廻廊]
* {{Kotobank}}
*{{Wikiquote-inline}}
*{{Commons&cat-inline}}
*{{Wikisource author-inline|wslanguage=ja}}
{{Normdaten}}
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[[Category:松尾芭蕉|*]]
[[Category:17世紀日本の俳人]]
[[Category:江戸時代の俳人]]
[[Category:伊賀国の人物]]
[[Category:1644年生]]
[[Category:1694年没]] | 2003-03-27T06:46:07Z | 2023-12-08T00:19:29Z | false | false | false | [
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5,295 | 複素数 | 数学における複素数(、英: complex number)とは、2つの実数 a, b と虚数単位 i = √−1 を用いて
と表すことのできる数のことである。1, i は実数体上線型独立であり、複素数は、係数体を実数とする、1, i の線型結合である。実数体 R 上の二次拡大環の元であるため、二元数の一つである。
複素数全体からなる集合を、太字の C あるいは黒板太字で C と表す。C は可換体である。体論の観点からは、複素数体 C は、実数体 R に √−1 を添加して得られる拡大体である。代数学の基本定理により、複素数体は代数的閉体である。
複素数体はケーリー=ディクソン代数(四元数、八元数、十六元数など)の基点となる体系であり、またさまざまな超複素数系の中で最もよく知られた例である。
複素数の概念は、一次元の実数直線を二次元の複素数平面に拡張する。複素数全体に通常の大小関係を入れることはできない。つまり、複素数体 C は順序体でない。
数学での分野、概念や構成において、考えている体構造が複素数体であるとき、それを、それらの概念等の名称に、多くは接頭辞「複素-」を付けることで反映させる。例えば、複素解析、複素行列、複素(係数)多項式、複素リー代数など。
i = −1 を満たす数 i を虚数単位という。実数 1 と i は実数体上で線型独立である。実数 a, b を係数として 1, i の線型結合で表される数 a + bi を複素数と呼ぶ。
任意の実数 a は a + 0i と表せるので複素数である(実数全体の複素数全体への埋め込みは、四則演算および絶対値を保つという意味で、位相体の埋め込みである)。bi = 0 + bi (b ≠ 0) の形の複素数を純虚数と呼ぶ。
複素数 z = a + bi (a, b ∈ R) に対して、
複素数 z = x + iy(x, y は実数)は実数の対 (x, y) に 1 : 1 に対応するから、複素数全体からなる集合 C は、z = x + iy を (x, y) と見なすことにより座標平面と考えることができる。この座標平面を複素数平面という。カール・フリードリヒ・ガウスに因んでガウス平面、ジャン゠ロベール・アルガン(英語版)に因んでアルガン図と呼ばれることもある。これと異なる語法として、C は複素数体上一次元のアフィン線型多様体であるので、複素直線とも呼ばれる。
複素数平面においては、x座標が実部、y座標が虚部に対応し、x軸(横軸)を実軸 (real axis)、y軸(縦軸)を虚軸 (imaginary axis) と呼ぶ。
複素数 z, w に対して
とすると、(C, d) は距離空間となる。この距離は、座標平面におけるユークリッド距離に対応する。複素数平面は複素数の計算を視覚化でき、数直線の概念そのものを拡張した。
複素関数論においては、複素数平面 C を考えるよりも、無限遠点を付け加えて1点コンパクト化した C ∪ {∞} を考える方が自然であり、議論が透明になることもある。複素数球面またはリーマン球面と呼ばれ、以下に示すように2次元球面 S と同相である。無限遠点にも幾何的な意味を与えることができる。
複素数平面 C を、xyz座標空間内の xy平面とみなし、z ≥ 0 に含まれ xy平面と原点で接する球面 x + y + (z − 1) = 1 を考える。この球における原点の対蹠点(英語版) (0, 0, 2) を北極と呼ぶことにする。任意の複素数 w に対し w と北極を結んだ線分はこの球面と、北極以外の一点で必ず交わり、それを f(w) と書けば f は単射、連続である。f の像は、球面から北極を除いた部分である。また、w → ∞ のとき f(w) → (0, 0, 2)(北極)である。そこで、f の定義域を C ∪ {∞} に拡張すると、f : C ∪ {∞} → S は同相写像になる。
この同相写像 f は、複素平面上の円を円に写し、複素平面上の直線を、無限遠点を通る円に写す。このことは、複素平面上の直線と円はほぼ同等であることを表している。
二つの複素数が等しいとは、それらの実部および虚部がそれぞれ等しいことである:
このことは、1, i が線型独立であることから示される。
n, m は整数とする。
複素数 a + bi に対して、虚部 b を反数にした複素数 a − bi を z の共役(きょうやく、conjugate, 本来は共軛)複素数といい、記号で z(または z*)と表す。
z と z を複素共役あるいは単に共役という。
複素数の共役をとる複素関数 ・ : C → C ; z ↦ z は環同型である。すなわち次が成り立つ。
複素共役は実数を変えない:
逆に、C 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、恒等写像か複素共役変換に限られる。
複素共役変換 ・ : C → C ; z ↦ z は、C の全ての点で複素微分不可能である。
以下の性質が成り立つ。
代数方程式の解について、次が成り立つ:
つまり、
このことは、複素共役変換が環準同型であることから容易に示せる。
複素数を実部と虚部で表すのとは別の方法として、複素数平面上での点 P を、原点 O(0) からの距離と、正の実軸(英語版)と線分 OP の見込む角を反時計回りに測ったものの対(P の極座標)で表す方法が挙げられる。これにより、複素数の極形式の概念が導入される。
複素数 z = x + yi(x, y は実数)の絶対値は
で定義される。これは 0 以上の実数である。z が実数(つまり y = 0)のとき |z| は実数の絶対値 |x| = max{x, −x} に一致する。
複素数の絶対値は、ピタゴラスの定理により、複素数平面における原点 O(0) とのユークリッド距離に等しい。そして次が成り立つ。
逆に、複素数の絶対値は、実数の絶対値を複素数に拡張した乗法的ノルムとして特徴付けられる。
複素数 z の絶対値 |z| は、z を極形式表示:
したときの動径 r に等しい。
共役複素数と自身の積は、絶対値の平方に等しい。すなわち複素数 z に対して
が成り立つ。
複素数 z の偏角(応用の場面ではしばしば「位相」とも呼ばれる)arg z とは、複素数平面上で、正の実軸から測った動径 OP の角度のことである。偏角 φ の値はラジアンで表すものとする。
角に 2π の任意の整数倍を加えてもそれが表す動径、複素数は同じであるから、偏角を与える関数は多価である。
そこで、偏角 arg z を一価関数として定義するには、主値を区間 (−π, π] とする場合、逆正接関数から次のようにして定義される(計算機言語では、y/x の逆正接関数を、二つの引数 x, y に対する atan2(y, x) として実装していることが多い):
複素数が 0 のときだけ偏角は不定 (indeterminate) となる。
上記の定義で、負となる偏角の値に対しては 2π を加えることにすると、主値は [0, 2π) となる。
複素数 z が主値の端の値の近傍を連続的に変化するならば、偏角の値もまたその近傍で連続的に変化するように枝をとるものとして、それを単に arg z = arctan y/x のように書く。
複素数 z = x + yi(x, y は実数)において、直交座標 (x, y) に対応する極座標を (r, φ) (r ≥ 0) とするとき、
と表すことができる。この表示式を極形式 (polar form) という。r は z の絶対値、φ は z の偏角である。0 を除いて、この表示は一意である。
極形式から元の直交座標を恢復するには、三角関数表示を展開すればよい。
オイラーの公式を用いれば、これを
と書くことができるし、cis函数を用いて
と書くこともある。
フェーザ表示
は電子工学において振幅 r と位相 φ を持つ正弦信号を表すのによく用いられる。
複素数の乗除・冪は、極形式表示をしてから行う方が、直交座標表示よりも、見通しがよくなる。2つの複素数の極形式を
とすると、積 z1 z2 は、三角関数の加法定理:
により
となる。すなわち、積の絶対値は絶対値の積であり、積の偏角は偏角の和である。
i = −1 より、虚数単位 i = √−1 を掛けること(作用)は、複素数平面上で原点中心に反時計回りに直角回転させることである。ゆえに、虚数単位 i は、複素数平面上では、直交座標で (0, 1) の位置にある。
同様にして、商は
になる。
偏角に関する等式 arg(zw) = arg(z) + arg(w) は、両辺の差が 2π の任意の整数倍であることを除いて成り立つ等式であることに注意しなければならない。
それを明示するために合同式の記法を流用してしばしば
などとも書く。このように mod 2π に関して合同であるという理解は重要である。しかし、先述のように(適当なリーマン面上で)偏角をとるものと仮定すれば、2π の整数倍を加える不定性無く実際に等号が成り立つ。すなわち、三つの複素数 zw, z, w のそれぞれに対して独立に偏角をとるのではなく、ひとたび arg(zw) = arg(z) + arg(w) を満たすように偏角を一組選べば(例えば右辺の各項の値を決め、それによって左辺の値を定義すれば)、z あるいは w を連続的に変化させるとき、arg(zw) も連続的に変化して、そのような三点の近傍において常に厳密な意味で等号が成立する。
この注意の下で以下が成り立つ:
偏角の計算法則は対数のそれとほぼ同じであるが、それは複素対数函数の虚部が偏角に等しいことに起因している。
実数 θ, 整数 n に対して、
が成り立つ(ド・モアブルの定理)。オイラーの公式より
と表現することもできる。n が整数でないとき一般には成り立たない。
複素数全体からなる集合 C は可換体になる。つまり、以下の事実が成り立つ。
これらの性質は、実数全体からなる集合 R が可換体であるという事実の下、先に与えた基本的な和と積の定義式から証明することができる。
実数と異なり、虚数に通常の大小関係 (z1 < z2) はない。つまり、複素数体 C は順序体にはならない。これは、自乗すると負である数(例えば虚数単位 i)が存在することによる。
代数学の基本定理より、複素数を係数とする代数方程式の解は存在しまた複素数になる。つまり、
は、少なくとも一つの複素根 z を持つ。
上記の多項式の複素根の一つを α1 とし、因数定理を帰納的に用いると、上記の多項式は
と複素数の範囲で因数分解される。これは、複素数が代数方程式による数の拡張の最大であることを意味している。つまり、C は代数的閉体である。
代数学の基本定理の証明にはさまざまな方法がある。例えばリウヴィルの定理などを用いる解析的な方法や、巻き数などを使う位相的な証明、あるいは奇数次の実係数多項式が少なくとも一つの実根を持つ事実にガロア理論を組み合わせた証明などがある。
この事実により、「任意の代数的閉体に対して成り立つ定理」を C にも適用できる。例えば、任意の空でない複素正方行列は少なくとも一つの複素固有値を持つ。
体 C は以下の三つの性質:
を満足する。この三つの性質を持つ任意の体は、体として C に同型であることが示せる。例えば Qp の代数的閉包はこれら三つを満たすので、C に同型となる。この代数的な C の特徴付けの帰結として、C は自身に同型な真の部分体を無数に含むことが分かる。
また C は複素ピュイズー級数(英語版)体に同型である(が、その同型を決めるには選択公理が必要となる)。
C には代数的側面のみならず、近傍や連続性などの解析学や位相空間論の分野で考慮の対象となる性質も備わっている。そのような位相的性質に関して C は、適当な意味で収束の概念を考えることのできる位相体を成すことに注意しよう。
C は以下の三条件を満たす部分集合 P を持つ。
この P はつまり正の実数全体の成す集合である。さらに言えば、C は非自明な対合的反自己同型(英語版)として複素共軛変換 x ↦ x* を持ち、任意の非零複素数 x に対して xx* ∈ P が成り立つ。
これらの性質を満たす任意の体 F には、任意の x ∈ F, p ∈ P に対する集合 B(x, p) = { y | p − (y − x)(y − x)* ∈ P} を開基とすることによって、位相を入れることができ、この位相に関して F は C に位相体として同型になる。
これとは別の位相的な特徴付けに、連結な局所コンパクト位相体は R および C に限ることが利用できる。実際このとき、非零複素数の全体 C ∖ {0} は連結だが、非零実数の全体 R ∖ {0} は連結でないという事実を併せれば、R と峻別することができる。
非零複素数の全体 C* = C ∖ {0} は、複素数体 C の乗法群 C であり、C における距離空間としての部分位相空間と見て、位相群を成す。また、絶対値 1 の複素数全体の成す群(円周群)U はその部分位相群であり、写像
および写像
は位相群としての同型である。ここに、R/Z は商位相群、R∗+ は正の実数の全体が乗法についてなす群であり、× は位相群の直積を表す。
1835年にハミルトンによって、負の数の平方根を用いない複素数の定義が与えられた。
実数の順序対 (a, b) および (c, d) に対して和と積を
により定めるとき、(a, b) を複素数という。実数 a は (a, 0) で表され、虚数単位 i は (0, 1) に当たる。このとき、R は +, × に関して体となり、零元は (0, 0)、単位元は (1, 0) である。
ハミルトンの代数的な見方に対するこだわりは、複素数をさらに拡張した四元数の発見へと結び付いた。
複素数体 C の代数的な構造は、体および多項式の概念により、自然に構成することができる。
体とは、四則演算ができてよく知られた計算法則を満たすものである(例えば有理数体など)。実数全体の成す集合 R は体である。また、係数体が R の多項式全体の成す集合 R[X] は、通常の加法、乗法に関して環を成す(多項式環と呼ばれる)ことに注意する。
剰余環 R[X]/(X + 1) は、R を含む体であることは示すことができる。この拡大体において、X, −X(の属する剰余類)は −1 の平方根である。この剰余環の任意の元は、多項式の除法の原理より、a + bX(a, b は実数)の形の多項式を代表元に一意に持つ。ゆえに、R[X]/(X + 1) は R 上の2次元ベクトル空間であり、(1, X)(が属する剰余類)はその基底である。
R[X]/(X + 1) の元(剰余類)a + bX(a, b は実数)を、実数の順序対 (a, b) に対応させると、前節で述べた体が得られる。この2つの体は体同型である。
複素数 α = a + bi を、C 上の(左からの)作用と見ると、それに対応する R 上での一次変換の表現行列を考えることができる。
対応
により、複素数は実二次正方行列で表現することができる。特に、実数単位 1, 虚数単位 i は
である。この対応により、複素数の加法および乗法は、この対応によって通常の行列の和(英語版)および行列の積に対応する。複素共役は行列の転置に対応している。
極形式表示を a + bi = r(cos θ + i sin θ) とすると、
は角度 θ の回転行列のスカラー r 倍であり、これは複素数の積が R 上で原点を中心とする相似拡大(英語版)と回転の合成を引き起こすことに対応する。
複素数 z = a + bi の表現行列を A とすると、A の行列式
は対応する複素数の絶対値の平方である。
複素数のこの行列表現はよく用いられる標準的なものだが、虚数単位 i に対応する行列 ( 0 − 1 1 0 ) {\displaystyle ({\begin{smallmatrix}0&-1\\1&0\end{smallmatrix}})} を例えば ( 1 1 − 2 − 1 ) {\displaystyle ({\begin{smallmatrix}1&1\\-2&-1\end{smallmatrix}})} に置き換えても、平方が単位行列の −1 倍であり、複素数の別の行列表現が無数に考えられる(後述、また実二次正方行列の項も参照)。
複素変数の函数の研究は複素函数論と呼ばれ、純粋数学の多くの分野のみならず応用数学においても広汎な応用がもたれる。実函数論や数論等における命題の最も自然な証明が、複素解析の手法によって為されることもしばしば起こる(例えば素数定理。あるいは代数学の基本定理のルーシェの定理による証明)。実函数が一般に実二次元のグラフとして視覚的に理解することができたのとは異なり、複素函数のグラフは実四次元となるから、その視覚化に際しては二次元や三次元グラフ(英語版)に色相(もしくは明度や彩度、輝度)による次元を加えたり、あるいは複素函数の引き起こす複素数平面の動的な変換をアニメーションで表したりすることが有効になる。
実解析における収斂級数や連続性などの概念は、いわゆるε-δ論法において実数の絶対値を用いたところを複素数の絶対値で置き換えることにより、複素解析においても自然に考えられる。例えば、複素数列が収束するための必要十分条件は、その実部および虚部の成す実数列がともに収束することである。もう少し抽象的な観点では、C は距離函数
を備える完備距離空間で、特に三角不等式
が成立する。実解析と同様に、収束の概念はいくらかの初等函数の構成において用いられる。
複素指数函数 exp z あるいは e は級数
で定義される。この級数の収束半径は ∞ であるから、複素指数函数は C 上正則(整関数)である。
任意の実数 φ に対して次の等式が成り立つ:
一般の複素変数 z に拡張した余弦函数 cos z, 正弦函数 sin z は次の式で定義できる:
余弦函数、正弦函数は整関数である。整関数であるような拡張の仕方は、一致の定理より一意である。
cosh, sinh などの双曲線函数も、同様に複素指数函数により定義できる。
実函数の場合と異なり、複素数 z に関する方程式
は任意の非零複素数 w に対して無限個の複素数解を持つ。そのような解 z、すなわち w の複素対数函数 log w は
と表すことができる。ただし、ln は実函数としての自然対数で、arg は上述の偏角である。この値は、偏角のときと同様に 2π の整数倍の差を除いて一意であるから、複素対数函数もまた多価函数である。主値としては、虚部 arg w を区間 (−π, π] にすることが多い。
複素数の複素数乗 z は
として定義される。対数函数は多価であったから、その結果として複素数の複素数乗も一般には多価になる。特に ω = 1/n(n は自然数)の形のときは、複素数 z の n乗根 √z を表し、値は一意に定まらない。
対数函数の適当な枝をとって一価函数として扱うとき、実数の実数乗に対して成立していた指数法則や対数法則は、複素数の複素数乗では一般に成り立たない。例えば、
は a, b, c が複素数である場合には一般には成立しない。この式の両辺を今述べたような多価の値を持つものと見なす場合、左辺の値の全体は右辺の値の全体の成す集合の部分集合になっていることに注意する。
D を複素数平面 C の領域とする。
複素函数 f : D → C が正則であるとは、定義域 D の各点で複素微分可能であることである。実部と虚部に分けて考えると、f が正則である必要十分条件は、Re f, Im f が微分可能で、コーシー・リーマンの方程式を満たすことである。例えば、複素函数
や
は正則でない。これらはコーシー・リーマンの方程式を満たさず複素微分可能でない。
複素解析には実解析に無いいくつかの特徴がある。
正則函数は解析関数である(正則関数の解析性)。したがって、正則函数は何回でも微分可能である。
2つの正則函数 f, g が D のある小さな、正則曲線上で一致するならば、それらは全体でも一致する(一致の定理、解析接続)。
有理型函数は、局所的には正則函数 f を用いて f(z)/(z − z0) で近似でき、正則函数といくつかの特徴が共通する。有理型でない函数は真性特異点をもつ(例えばsin 1/z は z = 0 で真性特異点を持つ)。
負の数の平方根について、いささかなりとも言及している最も古い文献は、数学者で発明家のアレクサンドリアのヘロンによる『測量術』(Stereometrica) である。そこで彼は、現実には不可能なピラミッドの錐台について考察しているものの、計算を誤り、不可能であることを見逃している。
16世紀にイタリアの数学者カルダノやボンベリによって三次方程式の解の公式が考察され、特に相異なる 3 個の実数解を持つ場合に解の公式を用いると、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かった。当時は、まだ、負の数でさえあまり認められておらず、回避しようと努力したが、それは不可能なことであった。
17世紀になりルネ・デカルトによって、虚 (imaginary) という言葉が用いられ、虚数と呼ばれるようになった。デカルトは作図の不可能性と結び付けて論じ、虚数に対して否定的な見方を強くさせた。
その後、ウォリスにより幾何学的な解釈が試みられ、ヨハン・ベルヌーイやオイラー、ダランベールらにより、虚数を用いた解析学、物理学に関する研究が多くなされた。
複素平面が世に出たのは、1797年にノルウェーの数学者カスパー・ベッセル(英語版) (Caspar Wessel) によって提出された論文が最初とされている。しかしこの論文はデンマーク語で書かれ、デンマーク以外では読まれずに1895年に発見されるまで日の目を見ることはなかった。1806年にジャン=ロベール・アルガン(英語版) (Jean-Robert Argand) によって出版された複素平面に関するパンフレットは、ルジャンドルを通して広まったものの、その後、特に進展は無く忘れられていった。
1814年にコーシーが複素関数論を始め、複素数を変数に取る解析関数や複素積分が論じられるようになった。
1831年に、機は熟したと見たガウスが、複素平面を論じ、複素平面はガウス平面として知られるようになった。ここに、虚数に対する否定的な視点は完全に取り除かれ、複素数が受け入れられていくようになる。実は、ガウスはベッセル(1797年)より前の1796年以前にすでに複素平面の考えに到達していた。1799年に提出されたガウスの学位論文は、今日、代数学の基本定理と呼ばれる定理の証明であり、複素数の重要な特徴付けを行うものだが、複素数の概念を表に出さずに巧妙に隠して論じている。
複素数 A と実数 ω により定まる、一変数 t の関数 Ae は時間 t に対して周期的に変化する量を表していると見なすことができる。周期的に変化し、ある種の微分方程式を満たすような量を示すこのような表示はフェーザ表示と呼ばれ、電気・電子工学における回路解析や、機械工学・ロボット工学における制御理論、土木・建築系における振動解析で用いられている。
物理における振動や波動など、互いに関係の深い2つの実数の物理量を複素数の形に組み合わせて表現すると便利な場面が多いため、よく用いられる。
量子力学では複素数が本質的である(数学的な定式化に用いられる)。物体の位置と運動量とはフーリエ変換を介して同等の扱いがなされ、波動関数たちのなす複素ヒルベルト空間とその上の作用素たちが理論の枠組みを与える。
複素数とは実数体上の、実数単位 1, 虚数単位 i の線形結合であるが、これに新たな単位を有限個加えて可換体(通常の四則演算ができる数の体系)を作ることはできない。実数体 R から拡張して C を得る過程はケーリー=ディクソンの構成法と呼ばれる。この過程を推し進めると、より高次元の四元数体 H, 八元数体 O が得られる。これらの、実数体上の線形空間としての次元はそれぞれ 4, 8 である。この文脈において複素数は「二元数」(binarions) とも呼ばれる。
注意すべき点として、実数体にケーリー=ディクソンの構成を施したことにより、順序に関する性質が失われていることである。より高次元へ進めば実数や複素数に関してよく知られた性質が失われていくことになる。四元数は唯一の非可換体であり(つまり、ある二つの四元数 x, y に対して x·y ≠ y·x となる)、八元数では(非可換なばかりでなく)乗法に関する結合法則も失われる(つまり、ある八元数 x, y, z に対して (x⋅y)⋅z ≠ x⋅(y⋅z) となる)。一般に、実数体 R 上のノルム多元体は、同型による違いを除いて、実数体 R, 複素数体 C, 四元数体 H, 八元数体 O の4種類しかない(フルヴィッツの定理(英語版))。ケーリー=ディクソン構成の次の段階で得られる十六元数環ではこの構造は無くなってしまう。
ケーリー=ディクソン構成は、C(を R-線型環、つまり乗法を持つ R-線型空間と見て)の正則表現と近しい関係にある。すなわち、複素数 w に対して、R-線型写像 fw を
とすると、fw の(順序付き)基底 (1, i) に関する表現行列は、実二次正方行列
である(つまり、#行列表現で述べた行列に他ならない)。これは C の標準的な線型表現だが、唯一の表現ではない。実際、
なる形の任意の行列はその平方が単位行列の −1 倍、すなわち J = −I を満たすから、行列の集合
もまた C に同型となり、R 上に別の複素構造を与える。これは線型複素構造(英語版)の概念によって一般化することができる。
超複素数は R, C, H, O もさらに一般化するもので、例えば分解型複素数環は剰余環 R[x]/(x − 1) である(複素数は剰余環 R[x]/(x + 1) であった)。この環において方程式 a = 1 は4つの解を持つ。
実数体 R は有理数体 Q の通常の絶対値による距離に関する完備化である。Q 上の別の距離函数をとれば、任意の素数 p に対して p 進数体 Qp が導かれる(つまりこれは実数体 R の類似対応物である)。オストロフスキーの定理によれば、この R と Qp 以外に Q の非自明な完備化は存在しない。Qp の代数的閉包 Qp にもノルムは伸びるが、C の場合と異なり、そのノルムに関して Qp は完備にならない。Qp の完備化 Cp は再び代数的閉体であり、C の類似対応物として p-進複素数体と呼ぶ。
体 R, Qp およびそれらの有限次拡大体は、すべて局所体である。 | [
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"text": "複素関数論においては、複素数平面 C を考えるよりも、無限遠点を付け加えて1点コンパクト化した C ∪ {∞} を考える方が自然であり、議論が透明になることもある。複素数球面またはリーマン球面と呼ばれ、以下に示すように2次元球面 S と同相である。無限遠点にも幾何的な意味を与えることができる。",
"title": "概観"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "複素数平面 C を、xyz座標空間内の xy平面とみなし、z ≥ 0 に含まれ xy平面と原点で接する球面 x + y + (z − 1) = 1 を考える。この球における原点の対蹠点(英語版) (0, 0, 2) を北極と呼ぶことにする。任意の複素数 w に対し w と北極を結んだ線分はこの球面と、北極以外の一点で必ず交わり、それを f(w) と書けば f は単射、連続である。f の像は、球面から北極を除いた部分である。また、w → ∞ のとき f(w) → (0, 0, 2)(北極)である。そこで、f の定義域を C ∪ {∞} に拡張すると、f : C ∪ {∞} → S は同相写像になる。",
"title": "概観"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "この同相写像 f は、複素平面上の円を円に写し、複素平面上の直線を、無限遠点を通る円に写す。このことは、複素平面上の直線と円はほぼ同等であることを表している。",
"title": "概観"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "二つの複素数が等しいとは、それらの実部および虚部がそれぞれ等しいことである:",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "このことは、1, i が線型独立であることから示される。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "n, m は整数とする。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "複素数 a + bi に対して、虚部 b を反数にした複素数 a − bi を z の共役(きょうやく、conjugate, 本来は共軛)複素数といい、記号で z(または z*)と表す。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "z と z を複素共役あるいは単に共役という。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "複素数の共役をとる複素関数 ・ : C → C ; z ↦ z は環同型である。すなわち次が成り立つ。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "複素共役は実数を変えない:",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "逆に、C 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、恒等写像か複素共役変換に限られる。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "複素共役変換 ・ : C → C ; z ↦ z は、C の全ての点で複素微分不可能である。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "以下の性質が成り立つ。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "代数方程式の解について、次が成り立つ:",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "つまり、",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このことは、複素共役変換が環準同型であることから容易に示せる。",
"title": "基本的な性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "複素数を実部と虚部で表すのとは別の方法として、複素数平面上での点 P を、原点 O(0) からの距離と、正の実軸(英語版)と線分 OP の見込む角を反時計回りに測ったものの対(P の極座標)で表す方法が挙げられる。これにより、複素数の極形式の概念が導入される。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "複素数 z = x + yi(x, y は実数)の絶対値は",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "で定義される。これは 0 以上の実数である。z が実数(つまり y = 0)のとき |z| は実数の絶対値 |x| = max{x, −x} に一致する。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "複素数の絶対値は、ピタゴラスの定理により、複素数平面における原点 O(0) とのユークリッド距離に等しい。そして次が成り立つ。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "逆に、複素数の絶対値は、実数の絶対値を複素数に拡張した乗法的ノルムとして特徴付けられる。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "複素数 z の絶対値 |z| は、z を極形式表示:",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "したときの動径 r に等しい。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "共役複素数と自身の積は、絶対値の平方に等しい。すなわち複素数 z に対して",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "複素数 z の偏角(応用の場面ではしばしば「位相」とも呼ばれる)arg z とは、複素数平面上で、正の実軸から測った動径 OP の角度のことである。偏角 φ の値はラジアンで表すものとする。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "角に 2π の任意の整数倍を加えてもそれが表す動径、複素数は同じであるから、偏角を与える関数は多価である。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "そこで、偏角 arg z を一価関数として定義するには、主値を区間 (−π, π] とする場合、逆正接関数から次のようにして定義される(計算機言語では、y/x の逆正接関数を、二つの引数 x, y に対する atan2(y, x) として実装していることが多い):",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "複素数が 0 のときだけ偏角は不定 (indeterminate) となる。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "上記の定義で、負となる偏角の値に対しては 2π を加えることにすると、主値は [0, 2π) となる。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "複素数 z が主値の端の値の近傍を連続的に変化するならば、偏角の値もまたその近傍で連続的に変化するように枝をとるものとして、それを単に arg z = arctan y/x のように書く。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "複素数 z = x + yi(x, y は実数)において、直交座標 (x, y) に対応する極座標を (r, φ) (r ≥ 0) とするとき、",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。この表示式を極形式 (polar form) という。r は z の絶対値、φ は z の偏角である。0 を除いて、この表示は一意である。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "極形式から元の直交座標を恢復するには、三角関数表示を展開すればよい。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "オイラーの公式を用いれば、これを",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "と書くことができるし、cis函数を用いて",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "と書くこともある。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "フェーザ表示",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "は電子工学において振幅 r と位相 φ を持つ正弦信号を表すのによく用いられる。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "複素数の乗除・冪は、極形式表示をしてから行う方が、直交座標表示よりも、見通しがよくなる。2つの複素数の極形式を",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "とすると、積 z1 z2 は、三角関数の加法定理:",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "により",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "となる。すなわち、積の絶対値は絶対値の積であり、積の偏角は偏角の和である。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "i = −1 より、虚数単位 i = √−1 を掛けること(作用)は、複素数平面上で原点中心に反時計回りに直角回転させることである。ゆえに、虚数単位 i は、複素数平面上では、直交座標で (0, 1) の位置にある。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "同様にして、商は",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "になる。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "偏角に関する等式 arg(zw) = arg(z) + arg(w) は、両辺の差が 2π の任意の整数倍であることを除いて成り立つ等式であることに注意しなければならない。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "それを明示するために合同式の記法を流用してしばしば",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "などとも書く。このように mod 2π に関して合同であるという理解は重要である。しかし、先述のように(適当なリーマン面上で)偏角をとるものと仮定すれば、2π の整数倍を加える不定性無く実際に等号が成り立つ。すなわち、三つの複素数 zw, z, w のそれぞれに対して独立に偏角をとるのではなく、ひとたび arg(zw) = arg(z) + arg(w) を満たすように偏角を一組選べば(例えば右辺の各項の値を決め、それによって左辺の値を定義すれば)、z あるいは w を連続的に変化させるとき、arg(zw) も連続的に変化して、そのような三点の近傍において常に厳密な意味で等号が成立する。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この注意の下で以下が成り立つ:",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "偏角の計算法則は対数のそれとほぼ同じであるが、それは複素対数函数の虚部が偏角に等しいことに起因している。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "実数 θ, 整数 n に対して、",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ(ド・モアブルの定理)。オイラーの公式より",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "と表現することもできる。n が整数でないとき一般には成り立たない。",
"title": "極形式"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "複素数全体からなる集合 C は可換体になる。つまり、以下の事実が成り立つ。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "これらの性質は、実数全体からなる集合 R が可換体であるという事実の下、先に与えた基本的な和と積の定義式から証明することができる。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "実数と異なり、虚数に通常の大小関係 (z1 < z2) はない。つまり、複素数体 C は順序体にはならない。これは、自乗すると負である数(例えば虚数単位 i)が存在することによる。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "代数学の基本定理より、複素数を係数とする代数方程式の解は存在しまた複素数になる。つまり、",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "は、少なくとも一つの複素根 z を持つ。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "上記の多項式の複素根の一つを α1 とし、因数定理を帰納的に用いると、上記の多項式は",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "と複素数の範囲で因数分解される。これは、複素数が代数方程式による数の拡張の最大であることを意味している。つまり、C は代数的閉体である。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "代数学の基本定理の証明にはさまざまな方法がある。例えばリウヴィルの定理などを用いる解析的な方法や、巻き数などを使う位相的な証明、あるいは奇数次の実係数多項式が少なくとも一つの実根を持つ事実にガロア理論を組み合わせた証明などがある。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "この事実により、「任意の代数的閉体に対して成り立つ定理」を C にも適用できる。例えば、任意の空でない複素正方行列は少なくとも一つの複素固有値を持つ。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "体 C は以下の三つの性質:",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "を満足する。この三つの性質を持つ任意の体は、体として C に同型であることが示せる。例えば Qp の代数的閉包はこれら三つを満たすので、C に同型となる。この代数的な C の特徴付けの帰結として、C は自身に同型な真の部分体を無数に含むことが分かる。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また C は複素ピュイズー級数(英語版)体に同型である(が、その同型を決めるには選択公理が必要となる)。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "C には代数的側面のみならず、近傍や連続性などの解析学や位相空間論の分野で考慮の対象となる性質も備わっている。そのような位相的性質に関して C は、適当な意味で収束の概念を考えることのできる位相体を成すことに注意しよう。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "C は以下の三条件を満たす部分集合 P を持つ。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "この P はつまり正の実数全体の成す集合である。さらに言えば、C は非自明な対合的反自己同型(英語版)として複素共軛変換 x ↦ x* を持ち、任意の非零複素数 x に対して xx* ∈ P が成り立つ。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "これらの性質を満たす任意の体 F には、任意の x ∈ F, p ∈ P に対する集合 B(x, p) = { y | p − (y − x)(y − x)* ∈ P} を開基とすることによって、位相を入れることができ、この位相に関して F は C に位相体として同型になる。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "これとは別の位相的な特徴付けに、連結な局所コンパクト位相体は R および C に限ることが利用できる。実際このとき、非零複素数の全体 C ∖ {0} は連結だが、非零実数の全体 R ∖ {0} は連結でないという事実を併せれば、R と峻別することができる。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "非零複素数の全体 C* = C ∖ {0} は、複素数体 C の乗法群 C であり、C における距離空間としての部分位相空間と見て、位相群を成す。また、絶対値 1 の複素数全体の成す群(円周群)U はその部分位相群であり、写像",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "および写像",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "は位相群としての同型である。ここに、R/Z は商位相群、R∗+ は正の実数の全体が乗法についてなす群であり、× は位相群の直積を表す。",
"title": "性質と特徴付け"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1835年にハミルトンによって、負の数の平方根を用いない複素数の定義が与えられた。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "実数の順序対 (a, b) および (c, d) に対して和と積を",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "により定めるとき、(a, b) を複素数という。実数 a は (a, 0) で表され、虚数単位 i は (0, 1) に当たる。このとき、R は +, × に関して体となり、零元は (0, 0)、単位元は (1, 0) である。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ハミルトンの代数的な見方に対するこだわりは、複素数をさらに拡張した四元数の発見へと結び付いた。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "複素数体 C の代数的な構造は、体および多項式の概念により、自然に構成することができる。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "体とは、四則演算ができてよく知られた計算法則を満たすものである(例えば有理数体など)。実数全体の成す集合 R は体である。また、係数体が R の多項式全体の成す集合 R[X] は、通常の加法、乗法に関して環を成す(多項式環と呼ばれる)ことに注意する。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "剰余環 R[X]/(X + 1) は、R を含む体であることは示すことができる。この拡大体において、X, −X(の属する剰余類)は −1 の平方根である。この剰余環の任意の元は、多項式の除法の原理より、a + bX(a, b は実数)の形の多項式を代表元に一意に持つ。ゆえに、R[X]/(X + 1) は R 上の2次元ベクトル空間であり、(1, X)(が属する剰余類)はその基底である。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "R[X]/(X + 1) の元(剰余類)a + bX(a, b は実数)を、実数の順序対 (a, b) に対応させると、前節で述べた体が得られる。この2つの体は体同型である。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "複素数 α = a + bi を、C 上の(左からの)作用と見ると、それに対応する R 上での一次変換の表現行列を考えることができる。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "対応",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "により、複素数は実二次正方行列で表現することができる。特に、実数単位 1, 虚数単位 i は",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "である。この対応により、複素数の加法および乗法は、この対応によって通常の行列の和(英語版)および行列の積に対応する。複素共役は行列の転置に対応している。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "極形式表示を a + bi = r(cos θ + i sin θ) とすると、",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "は角度 θ の回転行列のスカラー r 倍であり、これは複素数の積が R 上で原点を中心とする相似拡大(英語版)と回転の合成を引き起こすことに対応する。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "複素数 z = a + bi の表現行列を A とすると、A の行列式",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "は対応する複素数の絶対値の平方である。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "複素数のこの行列表現はよく用いられる標準的なものだが、虚数単位 i に対応する行列 ( 0 − 1 1 0 ) {\\displaystyle ({\\begin{smallmatrix}0&-1\\\\1&0\\end{smallmatrix}})} を例えば ( 1 1 − 2 − 1 ) {\\displaystyle ({\\begin{smallmatrix}1&1\\\\-2&-1\\end{smallmatrix}})} に置き換えても、平方が単位行列の −1 倍であり、複素数の別の行列表現が無数に考えられる(後述、また実二次正方行列の項も参照)。",
"title": "形式的構成"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "複素変数の函数の研究は複素函数論と呼ばれ、純粋数学の多くの分野のみならず応用数学においても広汎な応用がもたれる。実函数論や数論等における命題の最も自然な証明が、複素解析の手法によって為されることもしばしば起こる(例えば素数定理。あるいは代数学の基本定理のルーシェの定理による証明)。実函数が一般に実二次元のグラフとして視覚的に理解することができたのとは異なり、複素函数のグラフは実四次元となるから、その視覚化に際しては二次元や三次元グラフ(英語版)に色相(もしくは明度や彩度、輝度)による次元を加えたり、あるいは複素函数の引き起こす複素数平面の動的な変換をアニメーションで表したりすることが有効になる。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "実解析における収斂級数や連続性などの概念は、いわゆるε-δ論法において実数の絶対値を用いたところを複素数の絶対値で置き換えることにより、複素解析においても自然に考えられる。例えば、複素数列が収束するための必要十分条件は、その実部および虚部の成す実数列がともに収束することである。もう少し抽象的な観点では、C は距離函数",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "を備える完備距離空間で、特に三角不等式",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "が成立する。実解析と同様に、収束の概念はいくらかの初等函数の構成において用いられる。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "複素指数函数 exp z あるいは e は級数",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "で定義される。この級数の収束半径は ∞ であるから、複素指数函数は C 上正則(整関数)である。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "任意の実数 φ に対して次の等式が成り立つ:",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "一般の複素変数 z に拡張した余弦函数 cos z, 正弦函数 sin z は次の式で定義できる:",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "余弦函数、正弦函数は整関数である。整関数であるような拡張の仕方は、一致の定理より一意である。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "cosh, sinh などの双曲線函数も、同様に複素指数函数により定義できる。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "実函数の場合と異なり、複素数 z に関する方程式",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "は任意の非零複素数 w に対して無限個の複素数解を持つ。そのような解 z、すなわち w の複素対数函数 log w は",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。ただし、ln は実函数としての自然対数で、arg は上述の偏角である。この値は、偏角のときと同様に 2π の整数倍の差を除いて一意であるから、複素対数函数もまた多価函数である。主値としては、虚部 arg w を区間 (−π, π] にすることが多い。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "複素数の複素数乗 z は",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "として定義される。対数函数は多価であったから、その結果として複素数の複素数乗も一般には多価になる。特に ω = 1/n(n は自然数)の形のときは、複素数 z の n乗根 √z を表し、値は一意に定まらない。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "対数函数の適当な枝をとって一価函数として扱うとき、実数の実数乗に対して成立していた指数法則や対数法則は、複素数の複素数乗では一般に成り立たない。例えば、",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "は a, b, c が複素数である場合には一般には成立しない。この式の両辺を今述べたような多価の値を持つものと見なす場合、左辺の値の全体は右辺の値の全体の成す集合の部分集合になっていることに注意する。",
"title": "複素函数"
},
{
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"text": "D を複素数平面 C の領域とする。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "複素函数 f : D → C が正則であるとは、定義域 D の各点で複素微分可能であることである。実部と虚部に分けて考えると、f が正則である必要十分条件は、Re f, Im f が微分可能で、コーシー・リーマンの方程式を満たすことである。例えば、複素函数",
"title": "複素函数"
},
{
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"text": "や",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "は正則でない。これらはコーシー・リーマンの方程式を満たさず複素微分可能でない。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "複素解析には実解析に無いいくつかの特徴がある。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "正則函数は解析関数である(正則関数の解析性)。したがって、正則函数は何回でも微分可能である。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "2つの正則函数 f, g が D のある小さな、正則曲線上で一致するならば、それらは全体でも一致する(一致の定理、解析接続)。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "有理型函数は、局所的には正則函数 f を用いて f(z)/(z − z0) で近似でき、正則函数といくつかの特徴が共通する。有理型でない函数は真性特異点をもつ(例えばsin 1/z は z = 0 で真性特異点を持つ)。",
"title": "複素函数"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "負の数の平方根について、いささかなりとも言及している最も古い文献は、数学者で発明家のアレクサンドリアのヘロンによる『測量術』(Stereometrica) である。そこで彼は、現実には不可能なピラミッドの錐台について考察しているものの、計算を誤り、不可能であることを見逃している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "16世紀にイタリアの数学者カルダノやボンベリによって三次方程式の解の公式が考察され、特に相異なる 3 個の実数解を持つ場合に解の公式を用いると、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かった。当時は、まだ、負の数でさえあまり認められておらず、回避しようと努力したが、それは不可能なことであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 131,
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"text": "17世紀になりルネ・デカルトによって、虚 (imaginary) という言葉が用いられ、虚数と呼ばれるようになった。デカルトは作図の不可能性と結び付けて論じ、虚数に対して否定的な見方を強くさせた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "その後、ウォリスにより幾何学的な解釈が試みられ、ヨハン・ベルヌーイやオイラー、ダランベールらにより、虚数を用いた解析学、物理学に関する研究が多くなされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "複素平面が世に出たのは、1797年にノルウェーの数学者カスパー・ベッセル(英語版) (Caspar Wessel) によって提出された論文が最初とされている。しかしこの論文はデンマーク語で書かれ、デンマーク以外では読まれずに1895年に発見されるまで日の目を見ることはなかった。1806年にジャン=ロベール・アルガン(英語版) (Jean-Robert Argand) によって出版された複素平面に関するパンフレットは、ルジャンドルを通して広まったものの、その後、特に進展は無く忘れられていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "1814年にコーシーが複素関数論を始め、複素数を変数に取る解析関数や複素積分が論じられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "1831年に、機は熟したと見たガウスが、複素平面を論じ、複素平面はガウス平面として知られるようになった。ここに、虚数に対する否定的な視点は完全に取り除かれ、複素数が受け入れられていくようになる。実は、ガウスはベッセル(1797年)より前の1796年以前にすでに複素平面の考えに到達していた。1799年に提出されたガウスの学位論文は、今日、代数学の基本定理と呼ばれる定理の証明であり、複素数の重要な特徴付けを行うものだが、複素数の概念を表に出さずに巧妙に隠して論じている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "複素数 A と実数 ω により定まる、一変数 t の関数 Ae は時間 t に対して周期的に変化する量を表していると見なすことができる。周期的に変化し、ある種の微分方程式を満たすような量を示すこのような表示はフェーザ表示と呼ばれ、電気・電子工学における回路解析や、機械工学・ロボット工学における制御理論、土木・建築系における振動解析で用いられている。",
"title": "他分野における複素数の利用"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "物理における振動や波動など、互いに関係の深い2つの実数の物理量を複素数の形に組み合わせて表現すると便利な場面が多いため、よく用いられる。",
"title": "他分野における複素数の利用"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "量子力学では複素数が本質的である(数学的な定式化に用いられる)。物体の位置と運動量とはフーリエ変換を介して同等の扱いがなされ、波動関数たちのなす複素ヒルベルト空間とその上の作用素たちが理論の枠組みを与える。",
"title": "他分野における複素数の利用"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "複素数とは実数体上の、実数単位 1, 虚数単位 i の線形結合であるが、これに新たな単位を有限個加えて可換体(通常の四則演算ができる数の体系)を作ることはできない。実数体 R から拡張して C を得る過程はケーリー=ディクソンの構成法と呼ばれる。この過程を推し進めると、より高次元の四元数体 H, 八元数体 O が得られる。これらの、実数体上の線形空間としての次元はそれぞれ 4, 8 である。この文脈において複素数は「二元数」(binarions) とも呼ばれる。",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "注意すべき点として、実数体にケーリー=ディクソンの構成を施したことにより、順序に関する性質が失われていることである。より高次元へ進めば実数や複素数に関してよく知られた性質が失われていくことになる。四元数は唯一の非可換体であり(つまり、ある二つの四元数 x, y に対して x·y ≠ y·x となる)、八元数では(非可換なばかりでなく)乗法に関する結合法則も失われる(つまり、ある八元数 x, y, z に対して (x⋅y)⋅z ≠ x⋅(y⋅z) となる)。一般に、実数体 R 上のノルム多元体は、同型による違いを除いて、実数体 R, 複素数体 C, 四元数体 H, 八元数体 O の4種類しかない(フルヴィッツの定理(英語版))。ケーリー=ディクソン構成の次の段階で得られる十六元数環ではこの構造は無くなってしまう。",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ケーリー=ディクソン構成は、C(を R-線型環、つまり乗法を持つ R-線型空間と見て)の正則表現と近しい関係にある。すなわち、複素数 w に対して、R-線型写像 fw を",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "とすると、fw の(順序付き)基底 (1, i) に関する表現行列は、実二次正方行列",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "である(つまり、#行列表現で述べた行列に他ならない)。これは C の標準的な線型表現だが、唯一の表現ではない。実際、",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "なる形の任意の行列はその平方が単位行列の −1 倍、すなわち J = −I を満たすから、行列の集合",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "もまた C に同型となり、R 上に別の複素構造を与える。これは線型複素構造(英語版)の概念によって一般化することができる。",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "超複素数は R, C, H, O もさらに一般化するもので、例えば分解型複素数環は剰余環 R[x]/(x − 1) である(複素数は剰余環 R[x]/(x + 1) であった)。この環において方程式 a = 1 は4つの解を持つ。",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "実数体 R は有理数体 Q の通常の絶対値による距離に関する完備化である。Q 上の別の距離函数をとれば、任意の素数 p に対して p 進数体 Qp が導かれる(つまりこれは実数体 R の類似対応物である)。オストロフスキーの定理によれば、この R と Qp 以外に Q の非自明な完備化は存在しない。Qp の代数的閉包 Qp にもノルムは伸びるが、C の場合と異なり、そのノルムに関して Qp は完備にならない。Qp の完備化 Cp は再び代数的閉体であり、C の類似対応物として p-進複素数体と呼ぶ。",
"title": "複素数の拡張"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "体 R, Qp およびそれらの有限次拡大体は、すべて局所体である。",
"title": "複素数の拡張"
}
] | 数学における複素数(ふくそすう、とは、2つの実数 a, b と虚数単位 i = √−1 を用いて と表すことのできる数のことである。1, i は実数体上線型独立であり、複素数は、係数体を実数とする、1, i の線型結合である。実数体 R 上の二次拡大環の元であるため、二元数の一つである。 複素数全体からなる集合を、太字の C あるいは黒板太字で ℂ と表す。C は可換体である。体論の観点からは、複素数体 C は、実数体 R に √−1 を添加して得られる拡大体である。代数学の基本定理により、複素数体は代数的閉体である。 複素数体はケーリー=ディクソン代数の基点となる体系であり、またさまざまな超複素数系の中で最もよく知られた例である。 複素数の概念は、一次元の実数直線を二次元の複素数平面に拡張する。複素数全体に通常の大小関係を入れることはできない。つまり、複素数体 C は順序体でない。 数学での分野、概念や構成において、考えている体構造が複素数体であるとき、それを、それらの概念等の名称に、多くは接頭辞「複素-」を付けることで反映させる。例えば、複素解析、複素行列、複素多項式、複素リー代数など。 | [[画像:Complex number illustration.svg|thumb|複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''a'' + ''bi''}}({{math2|''a'', ''b''}} は実数)は、[[複素数平面]]では、直交座標 {{math|(''a'', ''b'')}} に対応し、それは'''アルガン図'''上の[[ベクトル空間|ベクトル]]である。"Re" は実軸、"Im" は虚軸を意味する符牒であり、{{mvar|i}} は[[虚数単位]]と呼ばれる {{math2|''i''{{sup|2}} {{=}} −1}} を満たす数である。]]
[[数学]]における{{読み仮名|'''複素数'''|ふくそすう|{{lang-en-short|complex number}}}}とは、2つの[[実数]] {{math2|''a'', ''b''}} と'''[[虚数単位]]''' {{math2|''i'' {{=}} {{sqrt|−1}}}} を用いて
:{{math|1=''z'' = ''a'' + ''bi''}}
と表すことのできる[[数]]のことである{{efn|[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]は、1831年<ref>[https://xseek-qm.net/Matrix_complex.htm#_Toc526806431 なぜ虚数単位iの2乗は-1になるのか?#6.3.3. 複素数の由来] x_seek</ref>に発表した論文で、複素数を {{lang-de-short|"Komplexe Zahl"}}(「複合的な数」)と表し、初めて複素数に名前を付けた<ref>{{PDFlink|[http://www.cc.miyazaki-u.ac.jp/yazaki/teaching/ca/ca-complex_num.pdf 複素数 2006/10/05]}} 矢崎成俊 p.3</ref><ref>{{PDFlink|[http://edupa.info/pdf/math/hm/hmb-3-01.pdf 複素平面の基本概念]}} p.3</ref>。<br />{{lang-en-short|"Complex number"}} を最初に「複素数」と訳したのは、日本の[[藤沢利喜太郎]]である<ref>{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25 |page=63}}</ref>。1889年の著書『数学用語英和対訳字書』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826493/4] p.7 による。(ただし、東京数学会社による、"Composite number"([[合成数]])の日本語訳「複素数」も見られる)}}。{{math2|1, ''i''}} は実数[[可換体|体]]上[[線型独立]]であり、複素数は、係数体を実数とする、{{math2|1, ''i''}} の[[線型結合]]である。実数体 {{mathbf|R}} 上の二次拡大環の元であるため、[[二元数]]の一つである。
複素数全体からなる集合を、太字の {{mathbf|C}} あるいは[[黒板太字]]で {{math|ℂ}} と表す。{{mathbf|C}} は[[可換体]]である。[[体論]]の観点からは、複素数体 {{mathbf|C}} は、実数体 {{mathbf|R}} に {{math|{{sqrt|−1}}}} を添加して得られる[[体の拡大|拡大体]]である。[[代数学の基本定理]]により、複素数体は[[代数的閉体]]である。
複素数体は[[ケーリー=ディクソンの構成法|ケーリー=ディクソン代数]]([[四元数]]、[[八元数]]、[[十六元数]]など)の基点となる体系であり、またさまざまな[[超複素数系]]の中で最もよく知られた例である。
複素数の概念は、一次元の[[実数直線]]を二次元の[[複素数平面]]に拡張する。複素数全体に通常の大小関係を入れることはできない<ref name="NEW_ACTION _2B">{{Cite book|和書 |title=NEW ACTION LEGEND数学2+B―思考と戦略 数列・ベクトル |author=ニューアクション編集委員会 |publisher=[[東京書籍]] ||edition=単行本 |date=2019-02-01 |isbn=978-4487379927 |page=53}}</ref><ref>{{Mathworld |urlname=ComplexNumber |title=Complex Number}}</ref>。つまり、複素数体 {{mathbf|C}} は[[順序体]]でない{{efn|[[辞書式順序]]は[[全順序]]であるが、複素数に入れると {{math2|+, ×}} と両立しない。
{{See|順序集合}}}}。
数学での分野、概念や構成において、考えている体構造が複素数体であるとき、それを、それらの概念等の名称に、多くは接頭辞「複素-」を付けることで反映させる。例えば、[[複素解析]]、複素[[行列 (数学)|行列]]、複素(係数)[[多項式]]、複素[[リー代数]]など。
== 概観 ==
=== 定義 ===
{{math|''i''{{sup|2}} {{=}} −1}} を満たす[[数]] {{mvar|i}} を[[虚数単位]]という。[[実数]] {{math|1}} と {{mvar|i}} は実数体上で[[線型独立]]である。実数 {{math2|''a'', ''b''}} を係数として {{math2|1, ''i''}} の[[線型結合]]で表される数 {{math|''a'' + ''bi''}} を'''複素数'''と呼ぶ{{efn|1 と<u>実数体上[[線型独立]]な</u>ベクトル {{mvar|u}} が {{math2|''u''{{sup|2}} {{=}} 1 or 0}} となるものとすれば、別の種類の[[二元数]]が得られる。}}。
任意の実数 {{mvar|a}} は {{math2|''a'' + 0''i''}} と表せるので複素数である(実数全体の複素数全体への[[埋め込み (数学)|埋め込み]]は、[[算術#四則演算|四則演算]]および[[絶対値]]を保つという意味で、[[位相体]]の埋め込みである)。{{math2|''bi'' {{=}} 0 + ''bi'' (''b'' ≠ 0)}} の形の複素数を純虚数と呼ぶ。
複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''a'' + ''bi'' (''a'', ''b'' ∈ '''R''')}} に対して、
:{{mvar|a}} を {{mvar|z}} の'''実部''' (''real part'') といい、{{math2|Re(''z''), ℜ(''z''), Re ''z'', ℜ ''z''}} などで表す。
:{{mvar|b}} を {{mvar|z}} の'''虚部''' (''imaginary part'') といい、{{math2|Im(''z''), ℑ(''z''), Im ''z'', ℑ ''z''}} などで表す。虚部とは実数「{{mvar|b}}」を指し複素数「{{mvar|bi}}」ではないことに注意<ref>{{Cite book|和書 |author=Murray Ralph Spiegel |title=複素解析 |translator=石原宗一 |publisher=[[オーム社]] |series=[[マグロウヒル・エデュケーション|マグロウヒル]]大学演習 |date=1995-05 |isbn=978-4274130106}}</ref><ref>{{Citation |title=College Algebra and Trigonometry |edition=6 |first1=Richard N. |last1=Aufmann |first2=Vernon C. |last2=Barker |first3=Richard D. |last3=Nation |publisher=Cengage Learning |year=2007 |isbn=0-618-82515-0 |page=66 |url=https://books.google.com/?id=g5j-cT-vg_wC&pg=PA66 |chapter=Chapter P}}</ref>。
* 虚部が {{math|0}} でない、すなわち実数でない複素数のことを[[虚数]]という。
* 実部、虚部がともに[[整数]]のとき[[ガウス整数]]といい、その全体を {{math|'''Z'''[''i'']}} と書く。
* 実部、虚部がともに[[有理数]]のとき'''ガウス有理数'''といい、その全体を {{math|'''Q'''(''i'')}} と表す。
=== 複素数平面 ===
{{main|複素平面}}
[[画像:ComplexPlane.png|right|複素数平面]]
複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''iy''}}({{math2|''x'', ''y''}} は実数)は実数の対 {{math|(''x'', ''y'')}} に [[全単射|1 : 1 に対応]]するから、複素数全体からなる集合 {{mathbf|C}} は、{{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''iy''}} を {{math|(''x'', ''y'')}} と見なすことにより座標平面と考えることができる。この座標平面を'''[[複素数平面]]'''という。[[カール・フリードリヒ・ガウス]]に因んで'''ガウス平面'''、{{仮リンク|ジャン゠ロベール・アルガン|en|Jean-Robert Argand}}に因んで'''アルガン図'''と呼ばれることもある。これと異なる語法として、{{mathbf|C}} は複素数体上一次元のアフィン線型多様体であるので、'''複素直線'''とも呼ばれる。
複素数平面においては、{{mvar|x}}座標が実部、{{mvar|y}}座標が虚部に対応し、{{mvar|x}}軸(横軸)を'''実軸''' (''real axis'')、{{mvar|y}}軸(縦軸)を'''虚軸''' (''imaginary axis'') と呼ぶ<ref name="omote"/>。
複素数 {{math|''z'', ''w''}} に対して
:{{math2|1=''d''(''z'', ''w'') = {{abs|''z'' − ''w''}}}}
とすると、{{math|('''C''', ''d'')}} は[[距離空間]]となる。この距離は、座標平面における[[ユークリッド距離]]に対応する。複素数平面は複素数の計算を視覚化でき、数直線の概念そのものを拡張した。
=== 複素数球面 ===
{{main|リーマン球面|射影直線}}
[[画像:Stereographic projection in 3D.png|thumb|リーマン球面の視覚化]]
複素関数論においては、複素数平面 {{mathbf|C}} を考えるよりも、[[無限遠点]]を付け加えて1点コンパクト化した {{math|'''C''' ∪ {{mset|∞}}}} を考える方が自然であり、議論が透明になることもある。'''複素数球面'''または[[リーマン球面]]と呼ばれ、以下に示すように[[球面|2次元球面 {{math|''S''{{sup|2}}}}]] と[[位相同型|同相]]である。無限遠点にも幾何的な意味を与えることができる。
複素数平面 {{mathbf|C}} を、{{mvar|xyz}}座標空間内の {{mvar|xy}}平面とみなし、{{math|''z'' ≥ 0}} に含まれ {{mvar|xy}}平面と原点で接する球面 {{math2|''x''{{sup|2}} + ''y''{{sup|2}} + (''z'' − 1){{sup|2}} {{=}} 1}} を考える。この球における原点の{{仮リンク|対蹠点 (数学)|label=対蹠点|en|Antipodal point}} {{math|(0, 0, 2)}} を北極と呼ぶことにする。任意の複素数 {{mvar|w}} に対し {{mvar|w}} と北極を結んだ線分はこの球面と、北極以外の一点で必ず交わり、それを {{math|''f''(''w'')}} と書けば {{mvar|f}} は[[単射]]、[[連続写像|連続]]である。{{mvar|f}} の[[像 (数学)|像]]は、球面から北極を除いた部分である。また、{{math|''w'' → ∞}} のとき {{math|''f''(''w'') → (0, 0, 2)}}(北極)である。そこで、{{mvar|f}} の定義域を {{math|'''C''' ∪ {{mset|∞}}}} に拡張すると、{{math|''f'' : '''C''' ∪ {{mset|∞}} → ''S''{{sup|2}}}} は[[位相同型|同相写像]]になる。
この同相写像 {{mvar|f}} は、複素平面上の円を円に写し、複素平面上の直線を、無限遠点を通る円に写す。このことは、複素平面上の直線と円はほぼ同等であることを表している。
== 基本的な性質 ==
=== 相等関係 ===
二つの複素数が'''等しい'''とは、それらの実部および虚部がそれぞれ等しいことである:
:<math>z_1 = z_2 \iff ( \operatorname{Re} z_1 = \operatorname{Re} z_2 ) \land ( \operatorname{Im} z_1 = \operatorname{Im} z_2 )</math>
このことは、{{math2|1, ''i''}} が[[線型独立]]であることから示される。
=== 四則演算 ===
[[画像:Vector Addition.svg|200px|thumb|二つの複素数の和は、複素数平面では、平行四辺形の対角線を作ることに当たる。]]
* {{math2|1=(''a'' + ''bi'') ± (''c'' + ''di'') = (''a'' ± ''c'') + (''b'' ± ''d'')''i''}}([[プラスマイナス記号|複号]]同順)
* {{math2|1=(''a'' + ''bi'')(''c'' + ''di'') = (''ac'' − ''bd'') + (''bc'' + ''ad'')''i''}}
* <math>\frac{a+bi}{c+di} =\frac{ac+bd}{c^2 +d^2} +\frac{bc-ad}{c^2 +d^2} i</math>
{{math|''n'', ''m''}} は整数とする。
* {{math2|1=''z{{sup|n}}z{{sup|m}}'' = ''z''{{sup|''n''+''m''}}}}
* {{math2|1=(''z{{sup|n}}'')''{{sup|m}}'' = ''z{{sup|nm}}''}}
* {{math2|1=(''zw''){{sup|''n''}} = ''z{{sup|n}}w{{sup|n}}''}}
=== 複素共役(共役複素数) ===
{{main|複素共役}}
[[画像:Complex conjugate picture.svg|thumb|複素数 {{mvar|z}} の共役複素数 {{mvar|{{overline|z}}}} を取る操作は、複素数平面では実軸[[線対称|対称]]変換に当たる。]]
複素数 {{math|''a'' + ''bi''}} に対して、虚部 {{mvar|b}} を[[反数]]にした複素数 {{math|''a'' − ''bi''}} を {{mvar|z}} の'''共役'''(きょうやく、''conjugate'', 本来は'''共軛''')'''複素数'''といい、記号で {{math|{{overline|''z''}}}}(または {{math|''z''*}})と表す<ref name="omote">{{Harvtxt|表|1988}}</ref>。
:{{math2|1={{overline|''z''}} = Re ''z'' − ''i'' Im ''z''}}
{{mvar|z}} と {{overline|''z''}} を'''[[複素共役]]'''あるいは単に'''共役'''という。
複素数の共役をとる複素関数 {{math2|{{overline|・}} : '''C''' → '''C''' ; ''z'' ↦ {{overline|''z''}}}} は[[環準同型|環同型]]である。すなわち次が成り立つ。
* {{math2|1={{overline|''z'' + ''w''}} = {{overline|''z''}} + {{overline|''w''}}}}
* {{math2|1={{overline|''zw''}} = {{overline|''z''}} {{overline|''w''}}}}
複素共役は[[実数]]を変えない:
* {{mvar|z}} が実数 {{math2|1=⇔ {{overline|''z''}} = ''z''}}
逆に、{{mathbf|C}} 上の環準同型写像で、実数を変えないものは、[[恒等写像]]か複素共役変換に限られる。
複素共役変換 {{math2|{{overline|・}} : '''C''' → '''C''' ; ''z'' ↦ {{overline|''z''}}}} は、{{math|C}} の全ての点で[[複素微分]]不可能である。
以下の性質が成り立つ。
* {{mvar|z}} が実数 ⇔ {{math2|1={{overline|''z''}} = ''z''}}
* {{mvar|z}} が純虚数 ⇔ {{math|1={{overline|''z''}} = −''z'' ≠ 0}}
* {{math2|1={{overline|''z'' ± ''w''}} = {{overline|''z''}} ± {{overline|''w''}}}}([[プラスマイナス記号|複号]]同順)
* {{math2|1={{overline|''zw''}} = {{overline|''z''}} {{overline|''w''}}}}
* <math>\overline{\left( \frac{z}{w} \right)} =\frac{\overline{z}}{\overline{w}}</math>
* <math>\overline{z^n} =\left( \overline{z} \right)^n</math>({{mvar|n}} は整数)
* <math>\overline{\overline{z}}=z</math>([[対合]])
* {{math2|1={{abs|''z''}} = {{abs|{{overline|z}}}}}}
* {{math2|1=''z''{{overline|''z''}} = {{abs|''z''}}{{sup|2}}}}
** {{math|0}} 以外の複素数の[[逆数]]は、絶対値と共役で表せる{{efn|複素数を拡張した[[四元数]]では、逆数はこの式で定義される<ref>{{高校数学の美しい物語|title=四元数と三次元空間における回転|urlname=quaternion}}</ref>。}}:
*: <math>\frac{1}{z} = \frac{\overline{z}}{|z|^2} \ (z \ne 0)</math>
* {{math2|1=''z'' + {{overline|''z''}} = 2 Re ''z''}}
* {{math2|1=''z'' − {{overline|''z''}} = 2''i'' Im ''z''}}
[[代数方程式]]の解について、次が成り立つ:
:「実係数[[多項式]] {{math|''P''(''x'')}} が虚数[[多項式の根|根]] {{mvar|α}} をもつならば、{{math|{{overline|''α''}}}} も {{math|''P''(''x'')}} の虚数根である」
つまり、
:実係数多項式 {{math|''P''(''x'')}} について、{{math2|1=''P''(''α'') = 0 ⇔ ''P''({{overline|''α''}}) = 0}}
:([[1746年]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]])
このことは、複素共役変換が環準同型であることから容易に示せる。
== 極形式 ==
{{See also|極座標系|{{仮リンク|極分解|en|polar decomposition}}}}
[[画像:Complex number illustration modarg.svg|thumb|複素数 {{mvar|z}} は、[[複素数平面]]における絶対値 {{mvar|r}}, 偏角 {{mvar|φ}} でも表される。すなわち、複素数 {{mvar|z}} の極形式が<br />{{math|1=''z'' {{=}} ''r''(cos ''φ'' + ''i'' sin ''φ'')}} あるいは {{mvar|re{{sup|iφ}}}}<br />で与えられる。]]
複素数を実部と虚部で表すのとは別の方法として、複素数平面上での点 {{math|P}} を、[[原点 (数学)|原点]] {{math|O(0)}} からの距離と、{{仮リンク|正の実数|en|Positive real numbers|label=正の実軸}}と線分 {{math|OP}} の見込む角を反時計回りに測ったものの対({{math|P}} の[[極座標系|極座標]])で表す方法が挙げられる。これにより、複素数の極形式の概念が導入される。
=== 絶対値 ===
{{main|複素数の絶対値}}
複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''yi''}}({{math2|''x'', ''y''}} は実数)の[[複素数の絶対値|絶対値]]は
:<math>|z| = \sqrt{x^2 + y^2}</math>
で定義される。これは {{math|0}} 以上の実数である。{{mvar|z}} が実数(つまり {{math2|''y'' {{=}} 0}})のとき {{math|{{abs|''z''}}}} は実数の[[絶対値]] {{math2|{{abs|''x''}} {{=}} max{{mset|''x'', −''x''}}}} に一致する。
複素数の絶対値は、[[ピタゴラスの定理]]により、[[複素数平面]]における原点 {{math|O(0)}} との[[ユークリッド距離]]に等しい。そして次が成り立つ。
* 非退化性:{{math2|1={{abs|''z''}} = 0 ⇔ ''z'' = 0}}
* [[三角不等式]]:{{math2|{{abs|''z'' + ''w''}} ≤ {{abs|''z''}} + {{abs|''w''}}}}([[劣加法性]]とも)
* [[ノルム代数|乗法性]]:{{math2|1={{abs|''zw''}} = {{abs|''z''}}{{abs|''w''}}}}
逆に、複素数の絶対値は、実数の絶対値を複素数に拡張した[[ノルム代数|乗法的ノルム]]として特徴付けられる。
複素数 {{mvar|z}} の絶対値 {{math|{{abs|''z''}}}} は、{{mvar|z}} を極形式表示:
:{{math2|1=''z'' = ''r''(cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ'')}}
したときの動径 {{mvar|r}} に等しい。
[[複素共役|共役複素数]]と自身の積は、絶対値の平方に等しい。すなわち複素数 {{mvar|z}} に対して
:<math>|z|^2 = z\overline{z} = x^2 + y^2</math>
が成り立つ。
=== 偏角 ===
{{main|複素数の偏角}}
複素数 {{mvar|z}} の[[複素数の偏角|偏角]](応用の場面ではしばしば「[[位相]]」とも呼ばれる){{math|arg ''z''}} とは、[[複素数平面]]上で、正の実軸から測った[[半径|動径]] {{math|OP}} の角度のことである。偏角 {{mvar|φ}} の値は[[ラジアン]]で表すものとする。
角に {{math|2''π''}} の任意の整数倍を加えてもそれが表す動径、複素数は同じであるから、偏角を与える関数は[[多価関数|多価]]である。
そこで、偏角 {{math|arg ''z''}} を一価関数として定義するには、'''[[主値]]'''を[[区間 (数学)|区間]] {{math|(−''π'', ''π'']}} とする場合、[[逆三角関数|逆正接関数]]から次のようにして定義される<ref>{{Citation |title=Complex Variables: Theory And Applications |edition=2nd |chapter=Chapter 1 |first1=H.S. |last1=Kasana |publisher=PHI Learning Pvt. Ltd |year=2005 |isbn=81-203-2641-5 |page=14 |url={{google books|plainurl=yes|id=rFhiJqkrALIC|page=14}}}}</ref>(計算機言語では、{{math|{{sfrac|''y''|''x''}}}} の逆正接関数を、二つの引数 {{math2|''x'', ''y''}} に対する [[atan2]]{{math|(''y'', ''x'')}} として実装していることが多い):
:<math>\arg z = \begin{cases}
\arctan \dfrac{y}{x} &\text{if } x > 0 \\
\arctan \dfrac{y}{x} + \pi &\text{if } x < 0 \text{ and } y \ge 0 \\
\arctan \dfrac{y}{x} - \pi &\text{if } x < 0 \text{ and } y < 0 \\
\dfrac{\pi}{2} &\text{if } x = 0 \text{ and } y > 0 \\
-\dfrac{\pi}{2} &\text{if } x = 0 \text{ and } y < 0 \\
\text{indeterminate} &\text{if } x = y = 0
\end{cases}</math>
複素数が {{math|[[0]]}} のときだけ偏角は不定 (indeterminate) となる。
上記の定義で、負となる偏角の値に対しては {{math|2''π''}} を加えることにすると、主値は {{math|[0, 2''π'')}} となる。
複素数 {{mvar|z}} が主値の端の値の近傍を連続的に変化するならば、偏角の値もまたその近傍で連続的に変化するように枝をとるものとして、それを単に {{math2|arg ''z'' {{=}} arctan ''{{sfrac|y|x}}''}} のように書く{{efn|これは正確には適当な[[リーマン面]]を考えるべきであろうけれども、直観的には {{math2|tan(arctan(''α'')) {{=}} ''α''}} かつ {{math2|arctan(tan(''β'')) {{=}} ''β''}} が常に成り立っているように枝を渡る(特定の一つの枝を固定したのでは不連続となる点の前後で、実際には隣の枝に遷る)と理解することができる。}}。
=== 極形式の表示と記法 ===
複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''yi''}}({{math2|''x'', ''y''}} は実数)において、[[直交座標系|直交座標]] {{math2|(''x'', ''y'')}} に対応する[[極座標系|極座標]]を {{math|(''r'', ''φ'')}} {{math2|(''r'' ≥ 0)}} とするとき、
:<math>z = r( \cos \varphi + i\sin \varphi )</math>([[三角関数]]表示)
と表すことができる。この表示式を'''極形式''' (''polar form'') という。{{mvar|r}} は {{mvar|z}} の絶対値、{{mvar|φ}} は {{mvar|z}} の偏角である。{{math|0}} を除いて、この表示は一意である。
極形式から元の直交座標を恢復するには、三角関数表示を展開すればよい。
[[オイラーの公式]]を用いれば、これを
:{{math2|1=''z'' = ''re{{sup|iφ}}''}}
と書くことができるし、[[cis函数]]を用いて
:{{math2|1=''z'' = ''r'' cis(''φ'')}}
と書くこともある。
[[フェーザ表示]]
:<math>z = r \angle \varphi</math>
は[[電子工学]]において振幅 {{mvar|r}} と位相 {{mvar|φ}} を持つ正弦信号を表すのによく用いられる<ref>{{Citation |title=Electric circuits |chapter=Chapter 9 |edition=8th |first1=James William |last1=Nilsson |first2=Susan A. |last2=Riedel |publisher=Prentice Hall |year=2008 |isbn=0-13-198925-1 |page=338 |url={{google books|plainurl=yes|id=sxmM8RFL99wC|page=338}}}}</ref>。
=== 極形式表示での乗除法 ===
[[画像:Complex multi.svg|thumb|{{math|2 + ''i''}}(青)と {{math|3 + ''i''}}(赤)の積の、[[複素数平面]]における位置。<br />赤三角は、青三角の偏角だけ回転され、青三角の[[斜辺]] ([[5の平方根|{{math|{{sqrt|5}}}}]]) は、赤三角の斜辺だけ拡大され<br />{{math2|(2 + ''i'')(3 + ''i'') {{=}} 5 + 5''i''}}<br />を表す三角(灰)になる。<br />{{math|5 + 5''i''}} の偏角は {{math|{{sfrac|''π''|4}}}}(ラジアン)であるから、偏角について<br />{{math2|{{sfrac|''π''|4}} {{=}} arctan {{sfrac|1|2}} + arctan {{sfrac|1|3}}}}<br />が成り立つ({{math|arctan}} は[[逆三角関数|逆正接関数]])。[[逆三角関数|逆正接関数]]は高効率で近似することができることに応じて、[[円周率|{{pi}}]] を高精度に近似するこのような式([[マチンの公式|マチン類似の公式]]と呼ばれる)に用いられる。]]
複素数の乗除・冪は、極形式表示をしてから行う方が、直交座標表示よりも、見通しがよくなる。2つの複素数の極形式を
:{{math2|1=''z''{{sub|1}} = ''r''{{sub|1}}(cos ''φ''{{sub|1}} + ''i'' sin ''φ''{{sub|1}})}},
:{{math2|1=''z''{{sub|2}} = ''r''{{sub|2}}(cos ''φ''{{sub|2}} + ''i'' sin ''φ''{{sub|2}})}}
とすると、積 {{math|''z''{{sub|1}} ''z''{{sub|2}}}} は、[[三角関数]]の加法定理:
:<math>\cos \alpha \cos \beta - \sin \alpha \sin \beta = \cos ( \alpha + \beta ),</math>
:<math>\cos \alpha \sin \beta + \sin \alpha \cos \beta = \sin ( \alpha + \beta )</math>
により
:<math>z_1 z_2 = r_1 r_2 ( \cos ( \varphi_1 + \varphi_2 ) + i \sin ( \varphi_1 + \varphi_2 ))</math>
となる。すなわち、積の絶対値は絶対値の積であり、積の偏角は偏角の和である。
{{math2|''i''{{sup|2}} {{=}} −1}} より、[[虚数単位]] {{math2|''i'' {{=}} {{sqrt|−1}}}} を掛けること([[作用 (数学)|作用]])は、複素数平面上で原点中心に反時計回りに直角回転させることである。ゆえに、虚数単位 {{mvar|i}} は、複素数平面上では、直交座標で {{math|(0, 1)}} の位置にある。
同様にして、商は
:<math>\frac{z_1}{z_2} = \frac{r_1}{r_2} \left( \cos ( \varphi_1 - \varphi_2 ) + i \sin( \varphi_1 - \varphi_2 ) \right)</math>
になる。
=== 偏角の計算規則 ===
偏角に関する等式 {{math2|arg(''zw'') {{=}} arg(''z'') + arg(''w'')}} は、両辺の差が {{math|2''π''}} の任意の整数倍であることを[[違いを除いて|除いて]]成り立つ等式であることに注意しなければならない。
:例えば
::{{math2|1=arg(''z''{{sup|2}}) = arg(''z'') + arg(''z'') = 2 arg(''z'')}}
:において、もし各項が任意の偏角をとるものとしてしまうと、
::{{math2|1=arg(''z'') = ''θ'' + 2''nπ''}}({{mvar|n}} は任意の整数)
:と書けば、右辺は {{math|2''θ'' + 4''nπ''}} だが左辺は {{math|2''θ'' + 2''mπ''}}({{mvar|m}} は任意の整数)となり厳密には等しくならない。
それを明示するために[[整数の合同|合同式]]の記法を流用してしばしば
:{{math2|arg(''zw'') ≡ arg(''z'') + arg(''w'') (mod 2''π'')}}
などとも書く。このように {{math|mod 2''π''}} に関して合同であるという理解は重要である。しかし、先述のように(適当な[[リーマン面]]上で)偏角をとるものと仮定すれば、{{math|2''π''}} の整数倍を加える不定性無く実際に等号が成り立つ。すなわち、三つの複素数 {{math2|''zw'', ''z'', ''w''}} のそれぞれに対して独立に偏角をとるのではなく、ひとたび {{math2|arg(''zw'') {{=}} arg(''z'') + arg(''w'')}} を満たすように偏角を一組選べば(例えば右辺の各項の値を決め、それによって左辺の値を定義すれば)、{{mvar|z}} あるいは {{mvar|w}} を連続的に変化させるとき、{{math|arg(''zw'')}} も連続的に変化して、そのような三点の近傍において常に厳密な意味で等号が成立する{{sfn|木村|高野|1991|p=4}}。
この注意の下で以下が成り立つ:
* {{math2|1=arg(''zw'') = arg(''z'') + arg(''w'')}}
* {{math2|1=arg(''{{sfrac|z|w}}'') = arg(''z'') − arg(''w'')}}
* {{math2|1=arg(''z{{sup|n}}'') = ''n'' arg(''z'')}}({{mvar|n}} は整数)
偏角の計算法則は[[対数]]のそれとほぼ同じであるが、それは[[複素対数函数]]の虚部が偏角に等しいことに起因している。
=== ド・モアブルの定理 ===
{{main|ド・モアブルの定理}}
実数 {{mvar|θ}}, 整数 {{mvar|n}} に対して、
:{{math2|1=(cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ''){{sup|''n''}} = cos ''nθ'' + ''i'' sin ''nθ''}}
が成り立つ([[ド・モアブルの定理]])。[[オイラーの公式]]より
:{{math2|1=(''e{{sup|iθ}}''){{sup|''n''}} = ''e{{sup|inθ}}''}}
:{{math2|1=(exp ''iθ''){{sup|''n''}} = exp ''inθ''}}
と表現することもできる。{{mvar|n}} が整数でないとき一般には成り立たない。
== 性質と特徴付け ==
{{出典の明記|date=2013-06|section=1}}
=== 体構造 ===
{{main|可換体}}
複素数全体からなる集合 {{mathbf|C}} は[[可換体]]になる。つまり、以下の事実が成り立つ。
* [[閉性|演算が閉じている]]:任意の二つの複素数の和および積は再び複素数になる。
* [[反数]]の存在:任意の複素数 {{mvar|z}} に加法逆元 {{math|−''z''}} が存在してそれもまた複素数である。
* [[逆数]]の存在:任意の非零複素数に対して乗法逆元 {{math|{{sfrac|1|''z''}}}} が存在する。
* さらにいくつかの法則を満足する。複素数 {{math2|''z''{{sub|1}}, ''z''{{sub|2}}, ''z''{{sub|3}}}} に対して
** 和の[[交換法則]]:{{math2|1=''z''{{sub|1}} + ''z''{{sub|2}} = ''z''{{sub|2}} + ''z''{{sub|1}}}}
** 和の[[結合法則]]:{{math2|1=(''z''{{sub|1}} + ''z''{{sub|2}}) + ''z''{{sub|3}} = ''z''{{sub|1}} + (''z''{{sub|2}} + ''z''{{sub|3}})}}
** 積の交換法則:{{math2|1=''z''{{sub|1}}''z''{{sub|2}} = ''z''{{sub|2}}''z''{{sub|1}}}}
** 積の結合法則:{{math2|1=(''z''{{sub|1}}''z''{{sub|2}})''z''{{sub|3}} = ''z''{{sub|1}}(''z''{{sub|2}}''z''{{sub|3}})}}
** [[分配法則]]:{{math2|1=''z''{{sub|1}}(''z''{{sub|2}} + ''z''{{sub|3}}) = ''z''{{sub|1}}''z''{{sub|2}} + ''z''{{sub|1}}''z''{{sub|3}}}}
これらの性質は、実数全体からなる集合 {{mathbf|R}} が可換体であるという事実の下、先に与えた基本的な和と積の定義式から証明することができる。
実数と異なり、[[虚数]]に通常の大小関係 ({{math2|''z''{{sub|1}} < ''z''{{sub|2}}}}) はない。つまり、複素数体 {{mathbf|C}} は[[順序体]]にはならない<ref name="NEW_ACTION _2B"/><ref name="omote"/>。これは、[[自乗]]すると負である数(例えば[[虚数単位]] {{mvar|i}})が存在することによる。
=== 代数的閉体 ===
{{main|代数学の基本定理|代数的閉体}}
[[代数学の基本定理]]より、複素数を係数とする[[代数方程式]]の解は存在しまた複素数になる。つまり、
:<math>a_n z^n + \cdots + a_1 z + a_0 \quad ( \, a_r \in \mathbb{C} , \ a_n \neq 0 \, )</math>
は、少なくとも一つの複素[[多項式の根|根]] {{mvar|z}} を持つ。
上記の多項式の複素根の一つを {{math|''α''{{sub|1}}}} とし、[[因数定理]]を帰納的に用いると、上記の多項式は
:<math>\textstyle \sum\limits_{r=0}^n a_r z^r = a_n \prod\limits_{k=1}^n (z- \alpha_k ) \quad ( \, \alpha_k \in \mathbb{C} \, )</math>
と複素数の範囲で[[因数分解]]される。これは、複素数が代数方程式による数の拡張の最大であることを意味している。つまり、{{mathbf|C}} は[[代数的閉体]]である。
代数学の基本定理の証明にはさまざまな方法がある。例えば[[リウヴィルの定理 (解析学)|リウヴィルの定理]]などを用いる解析的な方法や、[[回転数 (数学)|巻き数]]などを使う[[位相幾何学|位相的]]な証明、あるいは奇数次の実係数多項式が少なくとも一つの実根を持つ事実に[[ガロア理論]]を組み合わせた証明などがある。
この事実により、「任意の代数的閉体に対して成り立つ定理」を {{mathbf|C}} にも適用できる。例えば、任意の空でない複素[[正方行列]]は少なくとも一つの複素[[固有値]]を持つ。
=== 代数的特徴付け ===
体 {{mathbf|C}} は以下の三つの性質:
* [[標数]]は {{math|0}} である。これは {{math|1}} を何回足しても {{math2|1 + 1 + … + 1 ≠ 0}} となるという意味である。
* {{mathbf|C}} の[[素体 (数学)|素体]] {{mathbf|Q}} 上の[[超越次数]]は[[連続体濃度]]に等しい。
* [[代数的閉体]]である。([[#代数的閉体]]を参照)
を満足する。この三つの性質を持つ任意の体は、体として {{mathbf|C}} に同型であることが示せる。例えば [[p進数|{{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}}]] の[[代数的閉包]]はこれら三つを満たすので、{{mathbf|C}} に同型となる。この代数的な {{mathbf|C}} の特徴付けの帰結として、{{mathbf|C}} は自身に同型な真の部分体を無数に含むことが分かる。
また {{mathbf|C}} は複素{{仮リンク|ピュイズー級数|en|Puiseux series}}体に同型である(が、その同型を決めるには[[選択公理]]が必要となる)。
=== 位相体としての特徴付け ===
{{mathbf|C}} には代数的側面のみならず、[[近傍 (位相空間論)|近傍]]や[[連続写像|連続性]]などの[[解析学]]や[[位相空間論]]の分野で考慮の対象となる性質も備わっている。そのような位相的性質に関して {{mathbf|C}} は、適当な意味で収束の概念を考えることのできる[[位相体]]を成すことに注意しよう。
{{mathbf|C}} は以下の三条件を満たす部分集合 {{mvar|P}} を持つ。
* {{mvar|P}} は加法、乗法および[[逆元]]を取ることについて[[閉性|閉じている]]。
* {{mvar|P}} の異なる元 {{math2|''x'', ''y''}} に対して、{{math|''x'' − ''y''}} または {{math|''y'' − ''x''}} のうちの何れか一方のみが {{mvar|P}} に属する。
* {{mvar|S}} が {{mvar|P}} の空でない部分集合ならば、適当な {{math2|''x'' ∈ '''C'''}} に対して {{math2|''S'' + ''P'' {{=}} ''x'' + ''P''}} が成り立つ。
この {{mvar|P}} はつまり正の実数全体の成す集合である。さらに言えば、{{mathbf|C}} は非自明な[[対合]]的{{仮リンク|反自己同型|en|antiautomorphism}}として複素共軛変換 {{math2|''x'' ↦ ''x''*}} を持ち、任意の非零複素数 {{mvar|x}} に対して {{math2|''xx''* ∈ ''P''}} が成り立つ。
これらの性質を満たす任意の体 {{mvar|F}} には、任意の {{math2|''x'' ∈ ''F'', ''p'' ∈ ''P''}} に対する集合 {{math2|''B''(''x'', ''p'') {{=}} {{mset| ''y'' | ''p'' − (''y'' − ''x'')(''y'' − ''x'')* ∈ ''P''}}}} を[[基底 (位相空間論)|開基]]とすることによって、位相を入れることができ、この位相に関して {{mvar|F}} は {{mathbf|C}} に'''位相体として'''同型になる。
これとは別の位相的な特徴付けに、[[連結空間|連結]]な[[局所コンパクト空間|局所コンパクト]][[位相体]]は {{mathbf|R}} および {{mathbf|C}} に限ることが利用できる。実際このとき、非零複素数の全体 {{math|'''C''' {{setminus}} {{mset|0}}}} は連結だが、非零実数の全体 {{math|'''R''' {{setminus}} {{mset|0}}}} は連結でないという事実を併せれば、{{mathbf|R}} と峻別することができる。
=== 乗法群の構造 ===
非零複素数の全体 {{math2|'''C'''* {{=}} '''C''' {{setminus}} {{mset|0}}}} は、複素数体 {{mathbf|C}} の[[乗法群]] {{math|'''C'''{{sup|×}}}} であり、{{mathbf|C}} における[[距離空間]]としての[[相対位相|部分位相空間]]と見て、[[位相群]]を成す。また、絶対値 {{math|1}} の複素数全体の成す群([[円周群]]){{mathbf|U}} はその部分位相群であり、写像
:<math>\mathbb{R/Z} \to \mathbb{U};\; x + \mathbb{Z} \mapsto e^{2\pi ix}</math>
および写像
:<math>\mathbb{C}^* \to \mathbb{R}_+^* \times \mathbb{U};\; re^{i\theta} \mapsto (r,e^{i\theta})</math>
は位相群としての[[同型写像|同型]]である。ここに、{{math|'''R'''/'''Z'''}} は[[商群|商]]位相群、{{math|'''R'''{{subsup|2=+|3=∗}}}} は正の実数の全体が乗法についてなす群であり、{{math|×}} は位相[[群の直積]]を表す。
== 形式的構成 ==
=== 実数の対として ===
{{main|ケーリー=ディクソンの構成法}}
[[1835年]]に[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン|ハミルトン]]によって、負の数の平方根を用いない複素数の定義が与えられた。
実数の[[直積集合|順序対]] {{math|(''a'', ''b'')}} および {{math|(''c'', ''d'')}} に対して和と積を
:{{math2|1=(''a'', ''b'') + (''c'', ''d'') = (''a'' + ''c'', ''b'' + ''d'')}}
:{{math2|1=(''a'', ''b'') × (''c'', ''d'') = (''ac'' − ''bd'', ''ad'' + ''bc'')}}
により定めるとき、{{math|(''a'', ''b'')}} を'''複素数'''という。実数 {{mvar|a}} は {{math|(''a'', 0)}} で表され、虚数単位 {{mvar|i}} は {{math|(0, 1)}} に当たる。このとき、{{math|'''R'''{{sup|2}}}} は {{math|+, ×}} に関して[[可換体|体]]となり、[[加法単位元|零元]]は {{math|(0, 0)}}、[[単位元]]は {{math|(1, 0)}} である<ref>高木『解析概論』付録I, §10.</ref>。
ハミルトンの代数的な見方に対するこだわりは、複素数をさらに拡張した[[四元数]]の発見へと結び付いた。
=== 剰余環としての構成 ===
{{main|剰余環|体の拡大}}
{{See also|根体|分解体}}
複素数体 {{mathbf|C}} の代数的な構造は、体および多項式の概念により、自然に構成することができる。
[[可換体|体]]とは、四則演算ができてよく知られた計算法則を満たすものである(例えば[[有理数]]体など)。実数全体の成す集合 {{mathbf|R}} は体である。また、係数体が {{mathbf|R}} の多項式全体の成す集合 {{math|'''R'''[''X'']}} は、通常の加法、乗法に関して[[環 (数学)|環]]を成す([[多項式環]]と呼ばれる)ことに注意する。
[[剰余環]] {{math|'''R'''[''X'']/(''X''{{sup|2}} + 1)}} は、{{mathbf|R}} を含む体であることは示すことができる。この拡大体において、{{math2|''X'', −''X''}}(の属する剰余類)は {{math|−1}} の平方根である。この剰余環の任意の元は、多項式の[[除法の原理]]より、{{math|''a'' + ''bX''}}({{math2|''a'', ''b''}} は実数)の形の多項式を代表元に一意に持つ。ゆえに、{{math|'''R'''[''X'']/(''X''{{sup|2}} + 1)}} は {{mathbf|R}} 上の2次元[[ベクトル空間]]であり、{{math|(1, ''X'')}}(が属する剰余類)はその[[基底 (線型代数学)|基底]]である。
{{math|'''R'''[''X'']/(''X''{{sup|2}} + 1)}} の元(剰余類){{math|''a'' + ''bX''}}({{math2|''a'', ''b''}} は実数)を、実数の順序対 {{math|(''a'', ''b'')}} に対応させると、[[#実数の対として|前節]]で述べた体が得られる。この2つの体は体[[同型写像|同型]]である。
=== 行列表現 ===
{{See also|実二次正方行列}}
複素数 {{math2|''α'' {{=}} ''a'' + ''bi''}} を、{{mathbf|C}} 上の(左からの)[[作用 (数学)|作用]]と見ると、それに対応する {{math|'''R'''{{sup|2}}}} 上での[[線形写像|一次変換]]の[[線型写像#行列表現|表現行列]]を考えることができる。
対応
:<math>a+bi \leftrightarrow \begin{pmatrix}
a &-b \\
b &a
\end{pmatrix} \quad (a,b \in \mathbb{R})</math>
により、複素数は[[実二次正方行列]]で表現することができる。特に、実数単位 {{math|1}}, [[虚数単位]] {{mvar|i}} は
:<math>1\leftrightarrow \begin{pmatrix}
1 &0 \\
0 &1
\end{pmatrix} ,\quad i\leftrightarrow \begin{pmatrix}
0 &-1 \\
1 &0
\end{pmatrix}</math>
である。この対応により、複素数の加法および乗法は、この対応によって通常の{{仮リンク|行列の和|en|matrix addition}}および[[行列の乗法|行列の積]]に対応する。[[複素共役]]は[[転置行列|行列の転置]]に対応している。
[[#極刑式|極形式]]表示を {{math2|''a'' + ''bi'' {{=}} ''r''(cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ'')}} とすると、
:<math>\begin{pmatrix}
a &-b \\
b &a
\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}
r\cos \theta &-r\sin \theta \\
r\sin \theta &r\cos \theta
\end{pmatrix} =r \,\begin{pmatrix}
\cos \theta &-\sin \theta \\
\sin \theta &\cos \theta
\end{pmatrix}</math>
は角度 {{mvar|θ}} の[[回転行列]]のスカラー {{mvar|r}} 倍であり、これは複素数の積が {{math|'''R'''{{sup|2}}}} 上で原点を中心とする{{仮リンク|相似拡大|en|Homothetic transformation}}と[[回転 (数学)|回転]]の合成を引き起こすことに対応する。
複素数 {{math|''z'' {{=}} ''a'' + ''bi''}} の表現行列を {{mvar|A}} とすると、{{mvar|A}} の[[行列式]]
:{{math2|1=det ''A'' = ''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} = {{abs|''z''}}{{sup|2}}}}
は対応する[[複素数の絶対値]]の平方である。
複素数のこの行列表現はよく用いられる標準的なものだが、虚数単位 {{mvar|i}} に対応する行列 <math>( \begin{smallmatrix}
0 &-1 \\
1 &0
\end{smallmatrix})</math> を例えば <math>( \begin{smallmatrix}
1 &1 \\
-2 &-1
\end{smallmatrix})</math> に置き換えても、平方が[[単位行列]]の {{math|−1}} 倍であり、複素数の別の行列表現が無数に考えられる([[#複素数の拡張|後述]]、また[[実二次正方行列]]の項も参照)。
== 複素函数 ==
[[画像:Sin1perz.png|270px|thumb|{{math|sin {{sfrac|1|''z''}}}} の[[定義域の着色|色相環グラフ]]。内側の黒の部分は、とる値の絶対値が大きいことを表す。{{math|sin {{sfrac|1|''z''}}}} における {{math2|''z'' {{=}} 0}} は[[真性特異点]]である。]]
{{main|複素解析}}
複素変数の函数の研究は[[複素函数論]]と呼ばれ、純粋数学の多くの分野のみならず[[応用数学]]においても広汎な応用がもたれる。[[実函数論]]や[[数論]]等における命題の最も自然な証明が、複素解析の手法によって為されることもしばしば起こる(例えば[[素数定理]]。あるいは[[代数学の基本定理]]の[[ルーシェの定理]]による証明)。[[実函数]]が一般に実二次元のグラフとして視覚的に理解することができたのとは異なり、[[複素函数]]のグラフは実四次元となるから、その視覚化に際しては二次元や{{仮リンク|三次元グラフ|en|three-dimensional graph}}に色相(もしくは明度や彩度、輝度)による次元を加えたり、あるいは複素函数の引き起こす複素数平面の動的な変換をアニメーションで表したりすることが有効になる。
実解析における[[収斂級数]]や[[連続写像|連続性]]などの概念は、いわゆる[[イプシロン-デルタ論法|{{mvar|ε}}-{{mvar|δ}}論法]]において実数の絶対値を用いたところを複素数の絶対値で置き換えることにより、複素解析においても自然に考えられる。例えば、複素数列が収束するための必要十分条件は、その実部および虚部の成す実数列がともに収束することである。もう少し抽象的な観点では、{{mathbf|C}} は[[距離函数]]
:<math>d(z_1, z_2) = |z_1 - z_2|\quad (z_1,z_2\in \mathbb{C})</math>
を備える[[完備距離空間]]で、特に[[三角不等式]]
:<math>|z_1 + z_2| \le |z_1| + |z_2|</math>
が成立する。実解析と同様に、収束の概念はいくらかの[[初等函数]]の構成において用いられる。
=== 指数・対数 ===
==== 複素指数函数 ====
[[複素指数函数]] {{math|exp ''z''}} あるいは {{mvar|e{{sup|z}}}} は[[級数]]
:<math>\exp z:= \textstyle\sum\limits_{n=0}^{\infty} \displaystyle \frac{z^n}{n!} = 1 + z + \frac{z^2}{2} + \frac{z^3}{6} + \cdots</math>
で定義される。この級数の[[収束半径]]は {{math|∞}} であるから、複素指数函数は {{mathbf|C}} 上[[正則関数|正則]]([[整関数]])である。
任意の実数 {{mvar|φ}} に対して次の等式が成り立つ:
:<math>\exp i\varphi = \cos \varphi + i\sin \varphi</math>([[オイラーの公式]])
一般の複素変数 {{mvar|z}} に拡張した余弦函数 {{math|cos ''z''}}, 正弦函数 {{math|sin ''z''}} は次の式で定義できる:
:<math>\begin{align}
\cos z &= \frac{e^{iz} + e^{-iz}}{2} \\
\sin z &= \frac{e^{iz} - e^{-iz}}{2i}
\end{align}</math>
余弦函数、正弦函数は整関数である。整関数であるような拡張の仕方は、[[一致の定理]]より一意である。
{{math|cosh}}, {{math|sinh}} などの[[双曲線函数]]も、同様に複素指数函数により定義できる。
==== 複素対数函数 ====
{{main|複素対数函数}}
実函数の場合と異なり、複素数 {{mvar|z}} に関する方程式
:<math>\exp z = w</math>
は任意の非零複素数 {{mvar|w}} に対して無限個の複素数解を持つ。そのような解 {{mvar|z}}、すなわち {{mvar|w}} の[[複素対数函数]] {{math|log ''w''}} は
:<math>\log w = \ln|w| + i\arg w</math>
と表すことができる。ただし、{{math|ln}} は実函数としての[[自然対数]]で、{{math|arg}} は[[#偏角|上述]]の[[複素数の偏角|偏角]]である。この値は、偏角のときと同様に {{math|2''π''}} の整数倍の差[[違いを除いて|を除いて]]一意であるから、複素対数函数もまた[[多価函数]]である。[[主値]]としては、虚部 {{math|arg ''w''}} を[[区間 (数学)|区間]] {{math|(−''π'', ''π'']}} にすることが多い。
==== 複素数の複素数乗 ====
[[冪乗|複素数の複素数乗]] {{mvar|z{{sup|ω}}}} は
:<math>z^\omega = \exp(\omega \log z)</math>
として定義される。対数函数は多価であったから、その結果として複素数の複素数乗も一般には多価になる。特に {{math2|''ω'' {{=}} {{sfrac|1|''n''}}}}({{mvar|n}} は自然数)の形のときは、複素数 {{mvar|z}} の [[冪根|{{mvar|n}}乗根]] {{math|{{radic|''z''|''n''}}}} を表し、値は一意に定まらない。
対数函数の適当な枝をとって一価函数として扱うとき、実数の実数乗に対して成立していた指数法則や対数法則は、複素数の複素数乗では一般に成り立たない。例えば、
:<math>a^{bc} = (a^b)^c</math>
は {{math2|''a'', ''b'', ''c''}} が複素数である場合には一般には成立しない。この式の両辺を今述べたような多価の値を持つものと見なす場合、左辺の値の全体は右辺の値の全体の成す集合の部分集合になっていることに注意する。
=== 正則函数 ===
{{main|正則関数}}
{{mvar|D}} を複素数平面 {{mathbf|C}} の[[領域 (解析学)|領域]]とする。
複素函数 {{math2|''f'' : ''D'' → '''C'''}} が[[正則関数|正則]]であるとは、定義域 {{mvar|D}} の各点で[[複素微分]]可能であることである。実部と虚部に分けて考えると、{{mvar|f}} が正則である必要十分条件は、{{math|Re ''f''}}, {{math|Im ''f''}} が微分可能で、[[コーシー・リーマンの方程式]]を満たすことである。例えば、複素函数
:<math>f(z)=\overline{z}</math>
や
:<math>f(z)=|z|</math>
は正則でない。これらはコーシー・リーマンの方程式を満たさず複素微分可能でない。
複素解析には実解析に無いいくつかの特徴がある。
正則函数は[[解析関数]]である([[正則関数の解析性]])。したがって、正則函数は何回でも微分可能である。
2つの正則函数 {{math2|''f'', ''g''}} が {{mvar|D}} のある小さな、[[正則]][[曲線]]上で一致するならば、それらは全体でも一致する([[一致の定理]]、[[解析接続]])。
[[有理型函数]]は、局所的には正則函数 {{mvar|f}} を用いて {{math2|''f''(''z'')/(''z'' − ''z''{{sub|0}}){{sup|''n''}}}} で近似でき、正則函数といくつかの特徴が共通する。有理型でない函数は[[真性特異点]]をもつ(例えば{{math|sin {{sfrac|1|''z''}}}} は {{math2|''z'' {{=}} 0}} で真性特異点を持つ)。
== 歴史 ==
負の数の平方根について、いささかなりとも言及している最も古い文献は、数学者で発明家の[[アレクサンドリアのヘロン]]による『測量術』(''{{Lang|en|Stereometrica}}'') である。そこで彼は、現実には不可能なピラミッドの錐台について考察しているものの、計算を誤り、不可能であることを見逃している。
[[16世紀]]にイタリアの数学者[[ジェロラモ・カルダーノ|カルダノ]]や[[ラファエル・ボンベリ|ボンベリ]]によって[[三次方程式]]の解の公式が考察され、特に相異なる 3 個の実数解を持つ場合に解の公式を用いると、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かった。当時は、まだ、負の数でさえあまり認められておらず、回避しようと努力したが、それは不可能なことであった。
[[17世紀]]になり[[ルネ・デカルト]]によって、'''虚''' ({{Lang|en|imaginary}}) という言葉が用いられ、虚数と呼ばれるようになった。デカルトは作図の不可能性と結び付けて論じ、虚数に対して否定的な見方を強くさせた。
その後、[[ジョン・ウォリス|ウォリス]]により幾何学的な解釈が試みられ、[[ヨハン・ベルヌーイ]]や[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]らにより、虚数を用いた[[解析学]]、[[物理学]]に関する研究が多くなされた。
[[複素平面]]が世に出たのは、[[1797年]]に[[ノルウェー]]の数学者{{ill2|カスパー・ベッセル|en|Caspar Wessel}} (Caspar Wessel) によって提出された論文が最初とされている。しかしこの論文はデンマーク語で書かれ、デンマーク以外では読まれずに[[1895年]]に発見されるまで日の目を見ることはなかった。[[1806年]]に{{ill2|ジャン=ロベール・アルガン|en|Jean-Robert Argand}} (Jean-Robert Argand) によって出版された複素平面に関するパンフレットは、[[アドリアン=マリ・ルジャンドル|ルジャンドル]]を通して広まったものの、その後、特に進展は無く忘れられていった。
[[1814年]]に[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]が[[複素解析|複素関数論]]を始め、複素数を[[変数 (数学)|変数]]に取る[[解析関数]]や[[複素線積分|複素積分]]が論じられるようになった<ref name="takagi1996.pp=88-94">{{Harvtxt|高木|1996|loc=14. 函数論縁起}}</ref>。
[[1831年]]に、機は熟したと見た[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]が、複素平面を論じ、複素平面はガウス平面として知られるようになった<ref name="takagi1996.pp=94f">{{Harvtxt|高木|1996|pp=94f.}}</ref>。ここに、虚数に対する否定的な視点は完全に取り除かれ、複素数が受け入れられていくようになる。実は、ガウスはベッセル([[1797年]])より前の[[1796年]]以前にすでに複素平面の考えに到達していた。[[1799年]]に提出されたガウスの学位論文は、今日、[[代数学の基本定理]]と呼ばれる定理の証明であり<ref name="takagi1965.pp=48-52">{{Harvtxt|高木|1965|loc=§9. 代数学の基本定理}}</ref>、複素数の重要な特徴付けを行うものだが、複素数の概念を表に出さずに巧妙に隠して論じている<ref name="takagi1996.pp=94f"/>。
== 他分野における複素数の利用 ==
複素数 {{mvar|A}} と実数 {{mvar|ω}} により定まる、一変数 {{mvar|t}} の関数 {{mvar|Ae{{sup|iωt}}}} は時間 {{mvar|t}} に対して周期的に変化する量を表していると見なすことができる。周期的に変化し、ある種の微分方程式を満たすような量を示すこのような表示は[[フェーザ表示]]と呼ばれ、[[電気工学|電気]]・[[電子工学]]における回路解析や、[[機械工学]]・[[ロボット工学]]における[[制御理論]]、土木・建築系における[[振動解析]]で用いられている<ref>なお[[電気電子工学]]分野では虚数単位は「{{mvar|j}}」を用いることが多い(電流(の密度)「{{mvar|i}}」と混同を避けるため)。</ref>。
===物理学===
物理における振動や波動など、互いに関係の深い2つの実数の物理量を複素数の形に組み合わせて表現すると便利な場面が多いため、よく用いられる。
[[量子力学]]では複素数が本質的である([[量子力学の数学的定式化|数学的な定式化]]に用いられる)。物体の位置と[[運動量]]とは[[フーリエ変換]]を介して同等の扱いがなされ、波動関数たちのなす複素[[ヒルベルト空間]]とその上の[[作用素]]たちが理論の枠組みを与える。
== 複素数の拡張 ==
{{main|多元数}}
複素数とは[[実数]]体上の、実数単位 {{math|[[1]]}}, [[虚数単位]] {{mvar|i}} の[[線形結合]]であるが、これに新たな単位を有限個加えて[[可換体]](通常の四則演算ができる数の体系)を作ることはできない<ref name="shiga">{{Harvtxt|志賀|1989|pp=212–214}}</ref><ref name="takagi1996.pp=102-116">{{Harvtxt|高木|1996|pp=102–116}}</ref>。実数体 {{mathbf|R}} から拡張して {{mathbf|C}} を得る過程は[[ケーリー=ディクソンの構成法]]と呼ばれる。この過程を推し進めると、より高次元の[[四元数]]体 {{mathbf|H}}, [[八元数]]体 {{mathbf|O}} が得られる。これらの、実数体上の線形空間としての次元はそれぞれ {{math2|4, 8}} である。この文脈において複素数は「二元数」(''binarions'') とも呼ばれる<ref>Kevin McCrimmon (2004) ''A Taste of Jordan Algebras'', p.64, Universitext, Springer ISBN 0-387-95447-3 {{mr|id=2014924}}</ref>。
注意すべき点として、実数体にケーリー=ディクソンの構成を施したことにより、[[順序体|順序]]に関する性質が失われていることである。より高次元へ進めば実数や複素数に関してよく知られた性質が失われていくことになる。四元数は唯一の[[斜体 (数学)|非可換体]]であり<ref name="shiga"/><ref name="takagi1996.pp=102-116"/>(つまり、ある二つの四元数 {{math2|''x'', ''y''}} に対して {{math|''x''·''y'' ≠ ''y''·''x''}} となる)、八元数では(非可換なばかりでなく)乗法に関する[[結合法則]]も失われる(つまり、ある八元数 {{math2|''x'', ''y'', ''z''}} に対して {{math|(''x''⋅''y'')⋅''z'' ≠ ''x''⋅(''y''⋅''z'')}} となる)。一般に、実数体 {{mathbf|R}} 上の[[ノルム多元体]]は、[[同型]]による違いを除いて、実数体 {{mathbf|R}}, 複素数体 {{mathbf|C}}, 四元数体 {{mathbf|H}}, 八元数体 {{mathbf|O}} の4種類しかない({{仮リンク|フルヴィッツの定理 (代数学)|label=フルヴィッツの定理|en|Hurwitz's theorem (composition algebras)}})<ref>{{Harvtxt|エビングハウスほか|2012}}</ref>。ケーリー=ディクソン構成の次の段階で得られる[[十六元数]]環ではこの構造は無くなってしまう。
ケーリー=ディクソン構成は、{{mathbf|C}}(を {{mathbf|R}}-[[環上の多元環|線型環]]、つまり乗法を持つ {{mathbf|R}}-線型空間と見て)の[[正則表現 (数学)|正則表現]]と近しい関係にある。すなわち、複素数 {{mvar|w}} に対して、{{mathbf|R}}-[[線型写像]] {{mvar|f{{sub|w}}}} を
:<math>f_w : \mathbb{C} \to \mathbb{C};\; z \mapsto wz</math>
とすると、{{mvar|f{{sub|w}}}} の(順序付き)[[基底 (線型代数学)|基底]] {{math|(1, ''i'')}} に関する表現[[行列 (数学)|行列]]は、[[実二次正方行列]]
:<math>\begin{pmatrix}
\operatorname{Re}(w) &-\operatorname{Im}(w) \\
\operatorname{Im}(w) &\quad \operatorname{Re}(w)
\end{pmatrix}</math>
である(つまり、[[#行列表現]]で述べた行列に他ならない)。これは {{mathbf|C}} の標準的な[[表現論|線型表現]]だが、唯一の表現ではない。実際、
:<math>J = \begin{pmatrix}
p &q \\
r &-p
\end{pmatrix}, \quad (p^2 + qr + 1 = 0)</math>
なる形の任意の行列はその平方が[[単位行列]]の {{math|−1}} 倍、すなわち {{math|''J''{{sup|2}} {{=}} −''I''}} を満たすから、行列の集合
:<math>\{ z=aI+bJ : a,b \in \mathbb{R} \}</math>
もまた {{mathbf|C}} に同型となり、{{math|'''R'''{{sup|2}}}} 上に別の複素構造を与える。これは{{仮リンク|線型複素構造|en|linear complex structure}}の概念によって一般化することができる。
[[超複素数]]は {{math2|'''R''', '''C''', '''H''', '''O'''}} もさらに一般化するもので、例えば[[分解型複素数]]環は剰余環 {{math|'''R'''[''x'']/(''x''{{sup|2}} − 1)}} である(複素数は剰余環 {{math|'''R'''[''x'']/(''x''{{sup|2}} + 1)}} であった)。この環において方程式 {{math|''a''{{sup|2}} {{=}} 1}} は4つの解を持つ。
実数体 {{mathbf|R}} は[[有理数]]体 {{mathbf|Q}} の通常の[[絶対値]]による[[距離函数|距離]]に関する完備化である。{{mathbf|Q}} 上の別の距離函数をとれば、任意の[[素数]] {{mvar|p}} に対して [[p進数|{{mvar|p}} 進数]]体 {{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}} が導かれる(つまりこれは実数体 {{mathbf|R}} の類似対応物である)。[[オストロフスキーの定理]]によれば、この {{mathbf|R}} と {{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}} 以外に {{mathbf|Q}} の非自明な完備化は存在しない。{{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}} の[[代数的閉包]] {{math|{{overline|'''Q'''}}{{sub|''p''}}}} にもノルムは伸びるが、{{mathbf|C}} の場合と異なり、そのノルムに関して {{math|{{overline|'''Q'''}}{{sub|''p''}}}} は完備にならない。{{math|{{overline|'''Q'''}}{{sub|''p''}}}} の完備化 {{math|'''C'''{{sub|''p''}}}} は再び[[代数的閉体]]であり、{{mathbf|C}} の類似対応物として {{mvar|p}}-進複素数体と呼ぶ。
体 {{mathbf|R}}, {{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}} およびそれらの有限次拡大体は、すべて[[局所体]]である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=H.D.エビングハウス ほか|title=数|volume=下|translator=成木勇夫|publisher=[[丸善雄松堂|丸善出版]]|series=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|シュプリンガー]]数学リーディングス 7|date=2012-09|edition=新装版|isbn=978-4-621-06387-3|ref={{Harvid|エビングハウスほか|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=表実|title=複素関数|series=理工系の数学入門コース 5|publisher=[[岩波書店]]|date=1988-12-08|isbn=4-00-007775-9|ref={{Harvid|表|1988}}}}
*{{Cite book|和書|author=志賀浩二|authorlink=志賀浩二|title=複素数30講|publisher=[[朝倉書店]]|date=1989-04-10|isbn=978-4-254-11481-2|ref={{Harvid|志賀|1989}}}}
*{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|title=代数学講義|publisher=[[共立出版]]|date=1965-11-25|edition=改訂新版|isbn=978-4-320-01000-0|ref={{Harvid|高木|1965}}}}
*{{Cite book|和書|author=高木貞治|title=復刻版 近世数学史談・数学雑談|publisher=共立出版|date=1996-12-10|isbn=978-4-320-01551-7|ref={{Harvid|高木|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author1=木村俊房|authorlink1=木村俊房|author2=高野恭一|title=関数論|publisher=朝倉書店|series=新数学講座|date=1991-07-01|isbn=978-4-254-11437-9}}
== 関連項目 ==
<!--項目の50音順-->
{{Div col}}
*[[オイラーの等式]]
*[[虚数単位]]
*[[四元数]]
*[[実数]]
*[[等角写像]]
*[[ド・モアブルの定理]]
*[[二重数]]
*[[フェーザ表示]]
*[[複素解析]]
*[[複素数の絶対値]]
*[[複素数の偏角]]
*[[複素平面]]
*[[分解型複素数]]
*[[平方根]]
*[[マンデルブロ集合]]
*[[メビウス変換]]([[一次分数変換]])
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
*{{Kotobank|複素数}}
*{{MathWorld|title=Complex Number|urlname=ComplexNumber}}
{{数の体系}}<!--
{{複素数}}-->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふくそすう}}<!--カテゴリの50音順-->
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:複素数|*]] | 2003-03-27T07:31:35Z | 2023-10-26T10:39:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E7%B4%A0%E6%95%B0 |
5,296 | 国際連合監視検証査察委員会 | 国際連合監視検証査察委員会(、英: United Nations Monitoring,Verification and Inspection Commission)は、湾岸戦争の結果イラクに課せられた大量破壊兵器の破棄義務の履行を監視・検証する査察活動を行うことを目的に1999年に国連安全保障理事会によって設立された国際連合の機関である。略称はUNMOVIC(アンモヴィック)。
当初、査察活動は、国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)と国際原子力機関(IAEA)によって行われていたが、イラク側は1997年以来、度重なる査察の妨害などを行い、1998年にはUNSCOM再編などを要求し、その条件が満たされるまでの間は査察を拒否するとの態度を明らかにした。イラク側の批判には、UNSCOMがアメリカ主導であること、査察官の中にCIAのスパイが紛れ込んでいること、などが含まれていた。国連による交渉や非難決議、経済制裁なども功を奏せず、同年12月に米英軍による空爆(砂漠の狐作戦)が展開される。これをきっかけとして、査察活動は停止することになった。
安全保障理事会はこの状況を打開するための試みとして、1999年12月、決議1284を採択してUNSCOMに代わる組織としてUNMOVICを設置することになった。
委員長はハンス・ブリックス。スウェーデン出身で、1981年から1997年までIAEAの事務局長を務めた経歴を持つ。
委員長の選定に際しては上の決議に従ってコフィー・アナン国際連合事務総長と安全保障理事会のメンバーの交渉が行われた。当初、他に優れた候補が見つからなかったことから在米スウェーデン大使で、UNSCOMの委員長も務めたロルフ・エキュースが推薦された。だが、ロシアの反対に遭ってハンス・ブリックスになった。
16名からなる委員の中には、ブリックスからIAEA事務局長を引き継いだモハメド・エルバラダイ、日本人の数原孝憲(かずはらたかのり)も含まれる。彼は、ナイジェリアやアイルランドの大使などを務めた他にウィーンの日本政府代表部においてIAEAを担当した経験を持つ。
前身組織であるUNSCOMとは違い、スタッフは全て国際連合職員からなる。
組織は4部門からなる。
査察活動に対するイラクの協力が十分でないとするアメリカ、イギリスなどが2003年3月19日からイラク戦争に乗り出したため、査察活動は中断した。
3月29日には、ブリックス委員長は、6月末に辞任することを表明した。イラクを平和的に武装解除し、戦争を回避するためにあと数ヶ月の期間を与えられなかったことを残念に思うとのコメントを付した。
イラク戦争が終結した後は、暫定統治の主導権を握ったアメリカを中心に、UNMOVICを経由しない武器の探索活動が行われた。ただし、同委員会のイラク入りは比較的早い段階で承認されている。 | [
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] | 国際連合監視検証査察委員会(こくさいれんごうかんしけんしょうささついいんかい、は、湾岸戦争の結果イラクに課せられた大量破壊兵器の破棄義務の履行を監視・検証する査察活動を行うことを目的に1999年に国連安全保障理事会によって設立された国際連合の機関である。略称はUNMOVIC。 | {{読み仮名|'''国際連合監視検証査察委員会'''|こくさいれんごうかんしけんしょうささついいんかい|{{Lang-en-short|United Nations Monitoring,Verification and Inspection Commission}}}}は、[[湾岸戦争]]の結果[[イラク]]に課せられた[[大量破壊兵器]]の破棄義務の履行を監視・検証する査察活動を行うことを目的に[[1999年]]に[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]によって設立された[[国際連合]]の機関である。略称は'''UNMOVIC'''(アンモヴィック)。
== 設立までの経緯 ==
当初、査察活動は、[[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会]](UNSCOM)と[[国際原子力機関]](IAEA)によって行われていたが、イラク側は1997年以来、度重なる査察の妨害などを行い、1998年にはUNSCOM再編などを要求し、その条件が満たされるまでの間は査察を拒否するとの態度を明らかにした。イラク側の批判には、UNSCOMが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]主導であること、査察官の中に[[中央情報局|CIA]]の[[スパイ]]が紛れ込んでいること、などが含まれていた。国連による交渉や非難決議、[[経済制裁]]なども功を奏せず、同年12月に米英軍による空爆([[砂漠の狐作戦]])が展開される。これをきっかけとして、査察活動は停止することになった。
安全保障理事会はこの状況を打開するための試みとして、[[1999年]][[12月]]、[[国際連合安全保障理事会決議1284|決議1284]]を採択してUNSCOMに代わる組織としてUNMOVICを設置することになった。
== 構成 ==
委員長は[[ハンス・ブリックス]]。[[スウェーデン]]出身で、1981年から1997年までIAEAの事務局長を務めた経歴を持つ。
委員長の選定に際しては上の決議に従って[[コフィー・アナン]][[国際連合事務総長]]と安全保障理事会のメンバーの交渉が行われた。当初、他に優れた候補が見つからなかったことから在米スウェーデン大使で、UNSCOMの委員長も務めたロルフ・エキュースが推薦された。だが、ロシアの反対に遭ってハンス・ブリックスになった。
16名からなる委員の中には、ブリックスからIAEA事務局長を引き継いだ[[モハメド・エルバラダイ]]、[[日本人]]の数原孝憲(かずはらたかのり)も含まれる。彼は、[[ナイジェリア]]や[[アイルランド]]の大使などを務めた他に[[ウィーン]]の日本政府代表部においてIAEAを担当した経験を持つ。
前身組織であるUNSCOMとは違い、スタッフは全て国際連合職員からなる。
組織は4部門からなる。
*Planning and Operations(計画・運営部門)
*Analysis and Assessment(分析・評価部門)
*Information(情報部門)
*Technical Support and Training(技術サポート・トレーニング部門)
==活動の内容==
査察活動に対するイラクの協力が十分でないとするアメリカ、[[イギリス]]などが2003年3月19日から[[イラク戦争]]に乗り出したため、査察活動は中断した。
3月29日には、ブリックス委員長は、6月末に辞任することを表明した。イラクを平和的に武装解除し、[[戦争]]を回避するためにあと数ヶ月の期間を与えられなかったことを残念に思うとのコメントを付した。
イラク戦争が終結した後は、暫定統治の主導権を握ったアメリカを中心に、UNMOVICを経由しない[[武器]]の探索活動が行われた。ただし、同委員会のイラク入りは比較的早い段階で承認されている。
==参考文献==
*All eyes on the inspector. ''Time''. 2003/3/3, v.161, n.9, p.36-, 3p. - ハンス・ブリックスへのインタビュー
==関連項目==
*[[イラク武装解除問題]]
*[[国際連合安全保障理事会決議1284]]
*[[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会]]
==外部リンク==
*[http://www.unmovic.org/ 公式サイト]
*[http://www.un.org/Depts/unmovic/new/pages/chronology.asp UNMOVIC 主な出来事の年表]{{リンク切れ|date=2019年8月}}{{en icon}} - 国連
**{{Wayback |url=www.un.org/Depts/unmovic/new/pages/chronology.asp |date=20180928145713 }}
*[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/unmovic_gai.html イラク問題に関する国際連合監視検証査察委員会(UNMOVIC)の概要]{{リンク切れ|date=2019年8月}} - 外務省
**{{Wayback |url=www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/unmovic_gai.html |date=20150216035038 }}
*[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/98/kei.html イラクを巡る情勢の経緯及び現状(平成15年3月)] - 外務省
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5,297 | 電動機 | 電動機(でんどうき、英: Electric motor)とは、電気エネルギーを力学的エネルギーに変換する電力機器、原動機の総称。モーター、電気モーターとも呼ばれる。
一般に、磁場(磁界)と電流の相互作用(ローレンツ力)による力を利用して回転運動を出力するものが多いが、直線運動を得るリニアモーターや磁場を用いず超音波振動を利用する超音波モータなども実用化されている。静電気力を利用した静電モーターも古くから知られている。
なお、本来、「モータ(ー)」("moter")という言葉は「動力」を意味し、特に電動機に限定した用語ではない。それゆえ、何らかの動力の役割を果たす装置は、モーターと形容されることもよくある(ロケットモーターなど)。
以下では、電磁力により回転力を生み出す一般的な電動機を中心に説明し、それ以外のリニアモーターや超音波モータは末尾で簡単に説明する。
今日では、電気モーターは電気消費量の半分以上を占めている。
回転する電動機は、軸を持ち回転する回転子(ロータ: Rotor)と、回転子と相互作用して回転モーメントを発生させる固定子(ステータ: Stator)、回転子の回転を外部に伝える回転軸、回転軸を支える軸受、損失により発生した熱を冷却する冷却装置などから構成される。
回転子と固定子の磁界を発生させる部分を界磁という。ローターを囲むように配置した電磁石や磁界を導く強磁性体の鉄心に電線を巻いたものや永久磁石が用いられる。
整流子電動機 (Brush Motor)や同期電動機で、界磁と相互作用させトルクを得るための磁界を発生させるものを電機子という。 電線に電流が流れると、界磁の磁界によりローレンツ力がはたらきローターを回転させる。
負荷機器と接続するカップリング・回転数を下げて目的のトルクを得るための減速機などが付属装置として接続される。
整流子電動機は、整流子とブラシによって電機子に流れる電流をきりかえ回転方向を保つことで連続的使用を可能にしている。
固定子の磁界と回転子内の電流によって力が加わり軸が回転する。ローターに永久磁石を入れ、ステーターに導線を持たせるものもある。 ステーターとローターの間には、回転するための隙間(ギャップ)が必要である。ギャップ幅はモーターの電気的特性に大きく影響し、モーターの力率が低くなる主原因となっている。 ギャップが大きいと磁化電流が増加し、力率が低下するため、ギャップは狭い方が良いが小さいすぎると、騒音や損失、機械的な問題が発生する場合がある。
モーターの電磁回路のうちローターを囲む固定部分。強磁性体の鉄心に線を巻いた電磁石や永久磁石であるフィールドマグネットで構成される。 磁界が電機子を通過して巻線に力を発生させる。ステーターコアは、互いに絶縁された多数の薄い金属板を積層させたラミネーションと呼ばれる構成されている。積層させているのは、ソリッドコアを使用した場合に生じるエネルギー損失を低減するためである。 洗濯機やエアコンなどに使われている「樹脂積層型モーター」は、ステーターを樹脂で完全に包んでおり、樹脂の減衰特性を利用して騒音や振動を低減している。
積層された軟鉄製の磁性体コアに、電流を流したときに磁極を形成するように巻いた線のことである。
直列磁極型では、回転子と固定子の強磁性体コアに磁極と呼ばれる突起が向き合っており、磁極面の下には電線が巻かれていて、電線に電流が流れると磁界の北極または南極になるようになっている。 一方、非平行磁極型(分布磁界型)では、強磁性体のコアには磁極がなく、滑らかな円筒形で、巻線が円周上にスロット状に均等に配置されている。 巻き線に流れる交流電流によってコアに磁極が形成され、連続的に回転する。 隈取磁極型誘導電動機は磁極の一部に巻き線があり、その磁極の磁場の位相を遅らせる。
モーター内部には棒状や板状の金属(通常は銅やアルミニウム)など、厚みのある金属で構成された導体を入れ、電磁誘導によって駆動させる。
回転子に電流を供給する回転式電気スイッチのこと。電機子の上に、複数の金属接点で構成された円筒を設置している。 カーボンなどの柔らかい2つ以上の導電性「ブラシ」と呼ばれる電気接点が整流子に押し付けられ、回転しながら整流子の連続したセグメントと摺動接触し、回転子に電流を供給する。 回転子の巻線は整流子のセグメントに接続されている。コミュテータは半回転(180°)ごとにローターの巻線に流れる電流の方向を周期的に反転させ、ステーターの磁界がローターに与えるトルクが常に同じ方向になるようにしている。 この電流の反転がないと、ローターの各巻線にかかるトルクの方向が半回転ごとに反転してしまい、ローターが停止してしまう。 整流子は効率が悪く、整流子付きモーターはほとんどがブラシレス直流モーター、永久磁石モーター、誘導モーターに取って代わられている。
電動機にはいろいろな種類があるが、電動機は固定子と回転子があって、どちらかが回転変化する磁界を発生して、その磁界の変化によって、駆動力を得るものである。
整流子電動機以外の、固定子にコイルがあって、コイルに変化する電流を供給することによって、変動する磁界を発生させる電動機について述べると、回転子の種類に分類できる。
ある方向に連続的に駆動力を発生するために駆動側のコイルを複数設けて、磁気の位相を順番にずらして駆動力を発生させる配置にする。その方法もまた、いろいろな配置のものが実用化されている。
また回転子と固定子の内外位置関係でも、インナーローター式・アウターローター式・フラットローター式に分類でき、これをリニアモーターに当て嵌めれば、車上一次式・地上(軌道)一次式になる。
次に電機子や1次側巻線によって変動する磁界を発生するための電流の種類については次のようなものがある。
直流電動機、交流電動機の区分別は電動機の構造の区分でなく、使用法の区分と考えることができ、どちらでも回る電動機もありうる。
電動機の損失は、入力電力と出力仕事の差として定義される。
電動機の多くは電気によって磁界の変化を作り出し、その磁界の変化によって回転力を生み出すものが一般的であるが、以下のようにこれ以外の原理・構造を持つ特殊な電動機がある。
リニアモーターとは、回転式の電動モーターの固定子に相当する一直線に長く伸びた部分の上に、回転子に相当する部分を置いて、磁界の変化によって直線運動を得るものである。リニア誘導モータ(LIM)、リニア同期モータ(LSM)、リニア直流モータ(LDM)、リニアステッピングモータ、リニア圧電モータ、リニア静電モータ等がある。
1740年代、スコットランドの修道士アンドリュー・ゴードンとアメリカの実験家ベンジャミン・フランクリンが製作した単純な静電デバイスが最初の電気モーターであった。 現代の電磁モーターの前には、静電気の力で作動するモーター(静電モーター)の実験が行われていた。
1771年、ヘンリー・キャベンディッシュがその理論的原理を発見するも発表されず、1785年、クーロンが独自に発見し発表したため、クーロンの法則と呼ばれる。 実用に足るような大きさの力を発生させるためには高電圧が必要となるため、静電モーターは実用化されなかった。
1799年、アレッサンドロ・ボルタが化学電池を発明すると、持続的な電流を作り出すことが可能になった。
1820年、ハンス・クリスチャン・オルステッドは、電流が磁場を作り、磁石に力を与えることを発見した。 アンドレ・マリー・アンペールは、わずか数週間で電磁相互作用による機械的な力の発生を記述したアンペールの法則を発表した。
1821年、イギリスの科学者マイケル・ファラデーが電磁気的手段で電気エネルギーを運動エネルギーに変換する実験を行った。上から導線を吊るし、水銀のプールに少し浸しておき、その上に永久磁石を置く。その導線に電流を流すと、導線の周囲に丸い磁場が発生し、磁石の周りで導線が回転する。この実験は学校の物理学の授業でもよく実施されるが、毒性のある水銀の代わりに塩水を使うこともある。これは単極電動機と呼ばれる最も単純な形式の電動機である。後にこれを改良した Barlow's Wheel もある。これらは実演向けであり、動力源として実用できるものではなかった。
1827年、ハンガリーのイェドリク・アーニョシュは電磁作用で回転する装置の実験を開始し、それを "lightning-magnetic self-rotors" と呼んでいた。彼はそれを大学での教育用に使っており、1828年には実用的な直流モーターの3大要素である固定子と電機子と整流子を備えた世界初の実用的な直流電動機の実験に成功した。その固定部分も回転部分も電磁石になっていて、永久磁石は使っていない。この装置も実験用であり動力源として使えるものではなかった。
1832年、イギリスの科学者ウィリアム・スタージャンが、機械の動力源として使える世界初の整流子式直流電動機を発明した。
1837年、アメリカでトーマス・ダヴェンポートとその妻エミリーと共に商用利用可能なレベルの整流子式直流電動機を開発し、特許を取得した。 この電動機は毎分最大600回転で、印刷機などの機械を駆動した。当時電源としては電池しかなく、その電極用の亜鉛は非常に高価だった。そのためダヴェンポート夫妻は商業的には失敗し破産した。他にも直流電動機を開発した発明家が何人かいたが、いずれも電源コストの問題に直面した。当時、電力網はまだ存在しなかった。したがって、電源コストに見合うだけの電動機の市場は存在しなかった。
1834年、ロシアのモーリッツ・フォン・ヤコビが、比較的弱い回転・往復運動の装置を使って、初の本格的な回転式電気モーターを作った。このモーターは驚くべき機械的出力を持っていた。 このモーターは世界記録を樹立したが、さらに自身で1838年にその記録を更新した。後者を使って14人乗りのボートで広い川を渡ることができた。 1839年から40年にかけて、他の開発者も同様以上の性能のモーターを作ることに成功した。
1855年、イェドリクは electromagnetic self-rotors と同様の原理で役に立つ仕事をする装置を製作した。また同年、電動機で駆動する自動車の模型を作っている。
1864年、アントニオ・パチノッティがリング状の電機子を初めて発表した(当初は直流発電機(ダイナモ)として考案された)。 これは、コイルが左右対称で互いに閉じられて配置され、整流器のバーに接続し、ブラシからは実用上問題ないレベルで変動のない電流を供給する点が特徴的である。 1871年にパチノッティの設計の再発明やヴェルナー・シーメンスによるいくつかの解決策を採用したゼノベ・グラムの後で、直流モーターはようやく商業的に成功する。
1872年、ジーメンス・ウント・ハルスケ社のフリードリッヒ・フォン・ヘフナー・アルテンネックがパキノッティのリング電機子の代わりにドラムローターを導入し、機械効率を向上させた。 翌年には同社がラミネートローターを導入し、鉄損の低減と誘起電圧の向上させた。1880年、Jonas Wenströmはローターに巻線を収めるためのスロットを設け、効率をさらに高めた。
1873年、ゼノブ・グラムはウィーン万博で、彼のダイナモに偶然別のダイナモを接続して発電したところ、軸が回転し始めたのを発見した。これが世界初の電動機というわけではないが、実用的な電動機としては世界初の1つだった。
1886年、フランク・スプレイグは負荷が変化しても一定の回転速度を維持できる火花の出ない直流電動機を発明した。このころスプレイグは電動機の力を電力網に返す回生技術を発明しており、また路面電車用の架線から集電する方式も発明した。これらの技術を使い、1887年にバージニア州リッチモンドで路面電車を運用して成功を収め、1892年には電動エレベーターとその制御システム、さらにイリノイ州シカゴで集中制御方式の電動式地下鉄(通称シカゴ・L)を成功させた。スプレイグの電動機と関連発明を機に、産業における電動機需要は爆発的に増大し、他の発明家も同様のシステムを次々と発明していった。
電動機の効率向上は、固定子と回転子の隙間を小さくすることが重要だということがなかなか認識されず、進歩は数十年間遅れてしまった。初期の電動機ではその空隙が比較的大きく、磁気回路の磁気抵抗が非常に大きかった。このため、現代の効率的な電動機に比べると、同じ消費電力で発生できるトルクがかなり小さい。その原因は磁石や電磁石が近いほど引き付け合う力が強いため、ある程度離しておこうとしたためと考えられる。効率的な設計では、固定子と回転子の隙間をなるべく小さくし、トルクを発生しやすい磁束パターンにする。
1824年、フランスの物理学者フランソワ・アラゴが「アラゴーの円板」で知られる回転磁界を定式化した。 1879年、ウォルター・ベイリーが手動でスイッチをオン・オフすることで、原始的な誘導モーターを製作した。 1880年代、長距離の高電圧送電における交流の利点は認識されていたものの、交流でモーターを作動させることが課題となっていたため、実用的な交流モーターの開発が盛んに行われた。
1885年、ガリレオ・フェラリスによって最初の交流整流子レス誘導モーターが発明された。 1888年、トリノ王立科学アカデミーは、モータ動作の基礎を詳述したフェラリスの研究を発表したが、当時は「その原理に基づく装置は、モータとしての商業的重要性を持ち得ない」と結論づけられた。
1887年、ニコラ・テスラは初の実用的交流電動機と多相送電システムを発明し、1888年に特許を取得した。 同年、テスラはAIEEに論文「A New System for Alternating Current Motors and Transformers」を発表し、特許を取得した3種類の2相4極モータについて説明した。 4極のロータで非自己始動型のリラクタンスモータを形成するもの、巻線のロータで自己始動型の誘導モータを形成するもの、ロータ巻線に個別に励起された直流電源を供給する真の同期モータである。 この特許の中には、短絡巻線型ローターの誘導モーターも記載されていた。 既にフェラリスから権利を取得していたジョージ・ウェスティングハウスは、すぐにテスラの特許を買い取った。 定速交流誘導モーターは路面電車には適さなかったが、ウェスティングハウス社は1891年にコロラド州テルライドの鉱山事業の動力源として採用した。 同社は1892年に最初の実用的な誘導モーターを実現し、1893年には多相60ヘルツ誘導モーターのラインを開発したが、これら初期のウェスティングハウスのモーターは巻線ローターの二相モーターであった。 後にB.G.Lammeが回転棒巻線ローターを開発した。
1889年、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーが、ケージローターと巻線ローターの両方を備えた始動用レオスタット付き三相誘導モーターを、1890年には三肢変圧器を発明するなど、三相開発を着実に進めていった。 AEGとMaschinenfabrik Oerlikon社との合意を経て、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーとチャールズ・ユージン・ランスロット・ブラウンは、20馬力のリス・ケージ型と100馬力の始動レオスタット付き巻線型の大型モデルを開発した。 1889年以降、同様の三相機械の開発は、ウェンストロムが始めていた。 1891年のフランクフルト国際電気技術博覧会で、初の長距離三相システムの発表に成功した。これは定格15kVで、ネッカー川のラウフェンの滝から175kmにわたって延びていた。 ラウフェンの発電所には240kWの86V 40Hzの交流発電機と昇圧トランスがあり、展示会では降圧トランスから100馬力の三相誘導モーターに給電して人工の滝を動かし、元の電源の移動を表現した。 三相誘導は現在、大部分の商用モーターに使用されている。ドブロヴォルスキーは、テスラのモーターは二相の脈動があるため実用的ではないと主張し、それが彼の三相の研究に固執するきっかけとなった。
1891年、ゼネラル・エレクトリック社は三相誘導モーターの開発を開始した。 1896年には、ゼネラル・エレクトリック社とウェスティングハウス社が、後にリスケージ・ローターと呼ばれるバー・ワインディング・ローターの設計に関するクロスライセンス契約を締結した。 これらの発明や技術革新に伴う誘導モーターの改良により、現在、100馬力の誘導モーターは、1897年の7.5馬力のモーターと同じサイズになっている。
1895年(明治28年)、芝浦製作所(現在の東芝)が銅鉱山ポンプ用6極25馬力(18.5kW)の日本初の二相誘導電動機を誕生させた。
1901年(明治34年)、明電舎が1馬力(0.75kW)の三相誘導電動機を製造した。
1906年(明治39年)、明電舎が5馬力(3.8kW)以下の三相誘導電動機を独自の設計法をもって標準化し、汎用電動機として本格生産を開始した。
1906年(明治39年)、12月末時点の調査で、明電舎が東京市内の電動機シュアの約6割を占めていた。東京市内の電動機746台の内の463台が明電舎製で、残り283台の過半数は輸入品であった。
電動機メーカーの一つ、松下電器産業(現・パナソニック)の企画の下で、1963年に『力の技術-モートル-』と題された短編映画(約28分間)が製作されている。
当映画作品では、モーターの原理の説明から始まり、各種モーター製品各々の組み立て現場の光景や完成品の動作光景などが、城達也のナレーション入りで、紹介されている。
ここで、映画タイトルの中に見える「モートル」は、「モーター」のドイツ語表記“Motor”の20世紀前半まで模範とされていたドイツ語発音に基づく表記法である《ちなみにパナソニックでは、現在、「モートル」という表記法は用いられていない(一般産業向けモーター類の生産は継続)》。
当映画作品は東京シネマ(現・東京シネマ新社)により制作されており、現在は科学映像館(NPO法人・科学映像館を支える会)Webサイト内に於いて無料公開されている。 | [
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"text": "モーターの電磁回路のうちローターを囲む固定部分。強磁性体の鉄心に線を巻いた電磁石や永久磁石であるフィールドマグネットで構成される。 磁界が電機子を通過して巻線に力を発生させる。ステーターコアは、互いに絶縁された多数の薄い金属板を積層させたラミネーションと呼ばれる構成されている。積層させているのは、ソリッドコアを使用した場合に生じるエネルギー損失を低減するためである。 洗濯機やエアコンなどに使われている「樹脂積層型モーター」は、ステーターを樹脂で完全に包んでおり、樹脂の減衰特性を利用して騒音や振動を低減している。",
"title": "電動機の構成"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "積層された軟鉄製の磁性体コアに、電流を流したときに磁極を形成するように巻いた線のことである。",
"title": "電動機の構成"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "直列磁極型では、回転子と固定子の強磁性体コアに磁極と呼ばれる突起が向き合っており、磁極面の下には電線が巻かれていて、電線に電流が流れると磁界の北極または南極になるようになっている。 一方、非平行磁極型(分布磁界型)では、強磁性体のコアには磁極がなく、滑らかな円筒形で、巻線が円周上にスロット状に均等に配置されている。 巻き線に流れる交流電流によってコアに磁極が形成され、連続的に回転する。 隈取磁極型誘導電動機は磁極の一部に巻き線があり、その磁極の磁場の位相を遅らせる。",
"title": "電動機の構成"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "モーター内部には棒状や板状の金属(通常は銅やアルミニウム)など、厚みのある金属で構成された導体を入れ、電磁誘導によって駆動させる。",
"title": "電動機の構成"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "回転子に電流を供給する回転式電気スイッチのこと。電機子の上に、複数の金属接点で構成された円筒を設置している。 カーボンなどの柔らかい2つ以上の導電性「ブラシ」と呼ばれる電気接点が整流子に押し付けられ、回転しながら整流子の連続したセグメントと摺動接触し、回転子に電流を供給する。 回転子の巻線は整流子のセグメントに接続されている。コミュテータは半回転(180°)ごとにローターの巻線に流れる電流の方向を周期的に反転させ、ステーターの磁界がローターに与えるトルクが常に同じ方向になるようにしている。 この電流の反転がないと、ローターの各巻線にかかるトルクの方向が半回転ごとに反転してしまい、ローターが停止してしまう。 整流子は効率が悪く、整流子付きモーターはほとんどがブラシレス直流モーター、永久磁石モーター、誘導モーターに取って代わられている。",
"title": "電動機の構成"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "電動機にはいろいろな種類があるが、電動機は固定子と回転子があって、どちらかが回転変化する磁界を発生して、その磁界の変化によって、駆動力を得るものである。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "整流子電動機以外の、固定子にコイルがあって、コイルに変化する電流を供給することによって、変動する磁界を発生させる電動機について述べると、回転子の種類に分類できる。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ある方向に連続的に駆動力を発生するために駆動側のコイルを複数設けて、磁気の位相を順番にずらして駆動力を発生させる配置にする。その方法もまた、いろいろな配置のものが実用化されている。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また回転子と固定子の内外位置関係でも、インナーローター式・アウターローター式・フラットローター式に分類でき、これをリニアモーターに当て嵌めれば、車上一次式・地上(軌道)一次式になる。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "次に電機子や1次側巻線によって変動する磁界を発生するための電流の種類については次のようなものがある。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "直流電動機、交流電動機の区分別は電動機の構造の区分でなく、使用法の区分と考えることができ、どちらでも回る電動機もありうる。",
"title": "動作原理"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "電動機の損失は、入力電力と出力仕事の差として定義される。",
"title": "電動機の損失"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "電動機の多くは電気によって磁界の変化を作り出し、その磁界の変化によって回転力を生み出すものが一般的であるが、以下のようにこれ以外の原理・構造を持つ特殊な電動機がある。",
"title": "特殊な電動機"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "リニアモーターとは、回転式の電動モーターの固定子に相当する一直線に長く伸びた部分の上に、回転子に相当する部分を置いて、磁界の変化によって直線運動を得るものである。リニア誘導モータ(LIM)、リニア同期モータ(LSM)、リニア直流モータ(LDM)、リニアステッピングモータ、リニア圧電モータ、リニア静電モータ等がある。",
"title": "特殊な電動機"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1740年代、スコットランドの修道士アンドリュー・ゴードンとアメリカの実験家ベンジャミン・フランクリンが製作した単純な静電デバイスが最初の電気モーターであった。 現代の電磁モーターの前には、静電気の力で作動するモーター(静電モーター)の実験が行われていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1771年、ヘンリー・キャベンディッシュがその理論的原理を発見するも発表されず、1785年、クーロンが独自に発見し発表したため、クーロンの法則と呼ばれる。 実用に足るような大きさの力を発生させるためには高電圧が必要となるため、静電モーターは実用化されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1799年、アレッサンドロ・ボルタが化学電池を発明すると、持続的な電流を作り出すことが可能になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1820年、ハンス・クリスチャン・オルステッドは、電流が磁場を作り、磁石に力を与えることを発見した。 アンドレ・マリー・アンペールは、わずか数週間で電磁相互作用による機械的な力の発生を記述したアンペールの法則を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1821年、イギリスの科学者マイケル・ファラデーが電磁気的手段で電気エネルギーを運動エネルギーに変換する実験を行った。上から導線を吊るし、水銀のプールに少し浸しておき、その上に永久磁石を置く。その導線に電流を流すと、導線の周囲に丸い磁場が発生し、磁石の周りで導線が回転する。この実験は学校の物理学の授業でもよく実施されるが、毒性のある水銀の代わりに塩水を使うこともある。これは単極電動機と呼ばれる最も単純な形式の電動機である。後にこれを改良した Barlow's Wheel もある。これらは実演向けであり、動力源として実用できるものではなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1827年、ハンガリーのイェドリク・アーニョシュは電磁作用で回転する装置の実験を開始し、それを \"lightning-magnetic self-rotors\" と呼んでいた。彼はそれを大学での教育用に使っており、1828年には実用的な直流モーターの3大要素である固定子と電機子と整流子を備えた世界初の実用的な直流電動機の実験に成功した。その固定部分も回転部分も電磁石になっていて、永久磁石は使っていない。この装置も実験用であり動力源として使えるものではなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1832年、イギリスの科学者ウィリアム・スタージャンが、機械の動力源として使える世界初の整流子式直流電動機を発明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1837年、アメリカでトーマス・ダヴェンポートとその妻エミリーと共に商用利用可能なレベルの整流子式直流電動機を開発し、特許を取得した。 この電動機は毎分最大600回転で、印刷機などの機械を駆動した。当時電源としては電池しかなく、その電極用の亜鉛は非常に高価だった。そのためダヴェンポート夫妻は商業的には失敗し破産した。他にも直流電動機を開発した発明家が何人かいたが、いずれも電源コストの問題に直面した。当時、電力網はまだ存在しなかった。したがって、電源コストに見合うだけの電動機の市場は存在しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1834年、ロシアのモーリッツ・フォン・ヤコビが、比較的弱い回転・往復運動の装置を使って、初の本格的な回転式電気モーターを作った。このモーターは驚くべき機械的出力を持っていた。 このモーターは世界記録を樹立したが、さらに自身で1838年にその記録を更新した。後者を使って14人乗りのボートで広い川を渡ることができた。 1839年から40年にかけて、他の開発者も同様以上の性能のモーターを作ることに成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1855年、イェドリクは electromagnetic self-rotors と同様の原理で役に立つ仕事をする装置を製作した。また同年、電動機で駆動する自動車の模型を作っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1864年、アントニオ・パチノッティがリング状の電機子を初めて発表した(当初は直流発電機(ダイナモ)として考案された)。 これは、コイルが左右対称で互いに閉じられて配置され、整流器のバーに接続し、ブラシからは実用上問題ないレベルで変動のない電流を供給する点が特徴的である。 1871年にパチノッティの設計の再発明やヴェルナー・シーメンスによるいくつかの解決策を採用したゼノベ・グラムの後で、直流モーターはようやく商業的に成功する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1872年、ジーメンス・ウント・ハルスケ社のフリードリッヒ・フォン・ヘフナー・アルテンネックがパキノッティのリング電機子の代わりにドラムローターを導入し、機械効率を向上させた。 翌年には同社がラミネートローターを導入し、鉄損の低減と誘起電圧の向上させた。1880年、Jonas Wenströmはローターに巻線を収めるためのスロットを設け、効率をさらに高めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1873年、ゼノブ・グラムはウィーン万博で、彼のダイナモに偶然別のダイナモを接続して発電したところ、軸が回転し始めたのを発見した。これが世界初の電動機というわけではないが、実用的な電動機としては世界初の1つだった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1886年、フランク・スプレイグは負荷が変化しても一定の回転速度を維持できる火花の出ない直流電動機を発明した。このころスプレイグは電動機の力を電力網に返す回生技術を発明しており、また路面電車用の架線から集電する方式も発明した。これらの技術を使い、1887年にバージニア州リッチモンドで路面電車を運用して成功を収め、1892年には電動エレベーターとその制御システム、さらにイリノイ州シカゴで集中制御方式の電動式地下鉄(通称シカゴ・L)を成功させた。スプレイグの電動機と関連発明を機に、産業における電動機需要は爆発的に増大し、他の発明家も同様のシステムを次々と発明していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "電動機の効率向上は、固定子と回転子の隙間を小さくすることが重要だということがなかなか認識されず、進歩は数十年間遅れてしまった。初期の電動機ではその空隙が比較的大きく、磁気回路の磁気抵抗が非常に大きかった。このため、現代の効率的な電動機に比べると、同じ消費電力で発生できるトルクがかなり小さい。その原因は磁石や電磁石が近いほど引き付け合う力が強いため、ある程度離しておこうとしたためと考えられる。効率的な設計では、固定子と回転子の隙間をなるべく小さくし、トルクを発生しやすい磁束パターンにする。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1824年、フランスの物理学者フランソワ・アラゴが「アラゴーの円板」で知られる回転磁界を定式化した。 1879年、ウォルター・ベイリーが手動でスイッチをオン・オフすることで、原始的な誘導モーターを製作した。 1880年代、長距離の高電圧送電における交流の利点は認識されていたものの、交流でモーターを作動させることが課題となっていたため、実用的な交流モーターの開発が盛んに行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1885年、ガリレオ・フェラリスによって最初の交流整流子レス誘導モーターが発明された。 1888年、トリノ王立科学アカデミーは、モータ動作の基礎を詳述したフェラリスの研究を発表したが、当時は「その原理に基づく装置は、モータとしての商業的重要性を持ち得ない」と結論づけられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1887年、ニコラ・テスラは初の実用的交流電動機と多相送電システムを発明し、1888年に特許を取得した。 同年、テスラはAIEEに論文「A New System for Alternating Current Motors and Transformers」を発表し、特許を取得した3種類の2相4極モータについて説明した。 4極のロータで非自己始動型のリラクタンスモータを形成するもの、巻線のロータで自己始動型の誘導モータを形成するもの、ロータ巻線に個別に励起された直流電源を供給する真の同期モータである。 この特許の中には、短絡巻線型ローターの誘導モーターも記載されていた。 既にフェラリスから権利を取得していたジョージ・ウェスティングハウスは、すぐにテスラの特許を買い取った。 定速交流誘導モーターは路面電車には適さなかったが、ウェスティングハウス社は1891年にコロラド州テルライドの鉱山事業の動力源として採用した。 同社は1892年に最初の実用的な誘導モーターを実現し、1893年には多相60ヘルツ誘導モーターのラインを開発したが、これら初期のウェスティングハウスのモーターは巻線ローターの二相モーターであった。 後にB.G.Lammeが回転棒巻線ローターを開発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1889年、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーが、ケージローターと巻線ローターの両方を備えた始動用レオスタット付き三相誘導モーターを、1890年には三肢変圧器を発明するなど、三相開発を着実に進めていった。 AEGとMaschinenfabrik Oerlikon社との合意を経て、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーとチャールズ・ユージン・ランスロット・ブラウンは、20馬力のリス・ケージ型と100馬力の始動レオスタット付き巻線型の大型モデルを開発した。 1889年以降、同様の三相機械の開発は、ウェンストロムが始めていた。 1891年のフランクフルト国際電気技術博覧会で、初の長距離三相システムの発表に成功した。これは定格15kVで、ネッカー川のラウフェンの滝から175kmにわたって延びていた。 ラウフェンの発電所には240kWの86V 40Hzの交流発電機と昇圧トランスがあり、展示会では降圧トランスから100馬力の三相誘導モーターに給電して人工の滝を動かし、元の電源の移動を表現した。 三相誘導は現在、大部分の商用モーターに使用されている。ドブロヴォルスキーは、テスラのモーターは二相の脈動があるため実用的ではないと主張し、それが彼の三相の研究に固執するきっかけとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1891年、ゼネラル・エレクトリック社は三相誘導モーターの開発を開始した。 1896年には、ゼネラル・エレクトリック社とウェスティングハウス社が、後にリスケージ・ローターと呼ばれるバー・ワインディング・ローターの設計に関するクロスライセンス契約を締結した。 これらの発明や技術革新に伴う誘導モーターの改良により、現在、100馬力の誘導モーターは、1897年の7.5馬力のモーターと同じサイズになっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1895年(明治28年)、芝浦製作所(現在の東芝)が銅鉱山ポンプ用6極25馬力(18.5kW)の日本初の二相誘導電動機を誕生させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1901年(明治34年)、明電舎が1馬力(0.75kW)の三相誘導電動機を製造した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1906年(明治39年)、明電舎が5馬力(3.8kW)以下の三相誘導電動機を独自の設計法をもって標準化し、汎用電動機として本格生産を開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1906年(明治39年)、12月末時点の調査で、明電舎が東京市内の電動機シュアの約6割を占めていた。東京市内の電動機746台の内の463台が明電舎製で、残り283台の過半数は輸入品であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "電動機メーカーの一つ、松下電器産業(現・パナソニック)の企画の下で、1963年に『力の技術-モートル-』と題された短編映画(約28分間)が製作されている。",
"title": "電動機に関する短編映画"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "当映画作品では、モーターの原理の説明から始まり、各種モーター製品各々の組み立て現場の光景や完成品の動作光景などが、城達也のナレーション入りで、紹介されている。",
"title": "電動機に関する短編映画"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ここで、映画タイトルの中に見える「モートル」は、「モーター」のドイツ語表記“Motor”の20世紀前半まで模範とされていたドイツ語発音に基づく表記法である《ちなみにパナソニックでは、現在、「モートル」という表記法は用いられていない(一般産業向けモーター類の生産は継続)》。",
"title": "電動機に関する短編映画"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "当映画作品は東京シネマ(現・東京シネマ新社)により制作されており、現在は科学映像館(NPO法人・科学映像館を支える会)Webサイト内に於いて無料公開されている。",
"title": "電動機に関する短編映画"
}
] | 電動機とは、電気エネルギーを力学的エネルギーに変換する電力機器、原動機の総称。モーター、電気モーターとも呼ばれる。 一般に、磁場(磁界)と電流の相互作用(ローレンツ力)による力を利用して回転運動を出力するものが多いが、直線運動を得るリニアモーターや磁場を用いず超音波振動を利用する超音波モータなども実用化されている。静電気力を利用した静電モーターも古くから知られている。 なお、本来、「モータ(ー)」("moter")という言葉は「動力」を意味し、特に電動機に限定した用語ではない。それゆえ、何らかの動力の役割を果たす装置は、モーターと形容されることもよくある(ロケットモーターなど)。 以下では、電磁力により回転力を生み出す一般的な電動機を中心に説明し、それ以外のリニアモーターや超音波モータは末尾で簡単に説明する。 今日では、電気モーターは電気消費量の半分以上を占めている。 | [[File:Electric_motor.gif|thumb|right|ブラシ付きDC電気モーターの動作を示すアニメーション。]]
'''電動機'''(でんどうき、{{lang-en-short|Electric motor}})とは、電気エネルギーを[[力学的エネルギー]]に変換する[[電力機器]]、[[原動機]]の総称。'''モーター'''、'''電気モーター'''とも呼ばれる<ref group="注" name="motorspeaker">「モーター」というカタカナ表記に関して、[[電気学会]]に於いては「'''モータ'''」という表記法を定めている他、電動機メーカーによっては「モーター」の[[ドイツ語]]表記“Motor”の20世紀前半までドイツ語発音の模範とされた「[[ドイツ語音韻論#舞台発音|舞台発音]]」に基づいた発音方に倣って「'''モートル'''」(或いは「'''モトール'''」)という表記法を用いているところが見られる《[[ニデック (電機メーカー)|ニデック]]Webサイト内『[http://www.nidec.com/ja-JP/technology/motor/basic/00009/ モーターとは~1-3-6.超音波モーター]』ページ後半に掲載されているコラム『モーターの語源』より;なお「モートル」という表記は、現在、少なくとも[[日立グループ|日立]]系列の[[日立産機システム]]と[[東芝]]系列の東芝産業機器システムに於いて、主にブランド名の中で用いられている》</ref>。
一般に、[[磁場]]([[磁界]])と[[電流]]の相互作用([[ローレンツ力]])による力を利用して回転運動を出力するものが多いが、直線運動を得る[[リニアモーター]]や磁場を用いず超音波振動を利用する[[超音波モータ]]なども実用化されている。[[静電気力]]を利用した[[静電モーター]]も古くから知られている。
なお、本来、「モータ(ー)」("moter")という言葉は「動力」を意味し、特に電動機に限定した用語ではない。それゆえ、何らかの動力の役割を果たす装置は、モーターと形容されることもよくある([[ロケットモーター]]など)。
以下では、電磁力により回転力を生み出す一般的な電動機を中心に説明し、それ以外の[[リニアモーター]]や[[超音波モータ]]は末尾で簡単に説明する。
今日では、電気モーターは電気消費量の半分以上を占めている。
{{-}}
== 電動機の構成 ==
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| header = 電動機
| width = 240
| image1 = Ac-elektromotor-robuster-asynchronmotor.jpg
| caption1 = 工業用[[交流]]電動機の例。このようなモーターは[[ポンプ]]や[[ベルトコンベア]]に用いられる。
| alt1 = 工業用[[交流]]電動機の例。このようなモーターは[[ポンプ]]や[[ベルトコンベア]]に用いられる。
| image2 = Rotterdam Ahoy Europort 2011 (14).JPG
| caption2 = モーターの内部
| alt2 = モーターの内部
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回転する電動機は、軸を持ち回転する[[回転子]](ロータ: Rotor)と、回転子と相互作用して[[トルク|回転モーメント]]を発生させる[[固定子]](ステータ: Stator)、回転子の回転を外部に伝える回転[[軸 (機械要素)|軸]]、回転軸を支える[[軸受]]、損失により発生した[[熱]]を冷却する[[電気機器の冷却方式|冷却装置]]などから構成される。
回転子と固定子の磁界を発生させる部分を[[界磁]]という。ローターを囲むように配置した電磁石や磁界を導く強磁性体の鉄心に電線を巻いたものや永久磁石が用いられる。
[[整流子電動機]] (Brush Motor)や[[同期電動機]]で、界磁と相互作用させトルクを得るための磁界を発生させるものを[[電機子]]という。
電線に電流が流れると、界磁の磁界によりローレンツ力がはたらきローターを回転させる。
負荷機器と接続するカップリング・回転数を下げて目的の[[トルク]]を得るための[[減速機]]などが付属装置として接続される。
整流子電動機は、[[整流子]]と[[ブラシ]]によって電機子に流れる電流をきりかえ回転方向を保つことで連続的使用を可能にしている。
* 回転子
固定子の磁界と回転子内の電流によって力が加わり軸が回転する。ローターに永久磁石を入れ、ステーターに導線を持たせるものもある。
ステーターとローターの間には、回転するための隙間(ギャップ)が必要である。ギャップ幅はモーターの電気的特性に大きく影響し、モーターの[[力率]]が低くなる主原因となっている。
ギャップが大きいと磁化電流が増加し、力率が低下するため、ギャップは狭い方が良いが小さいすぎると、騒音や損失、機械的な問題が発生する場合がある。
* 固定子
モーターの電磁回路のうちローターを囲む固定部分。強磁性体の鉄心に線を巻いた電磁石や永久磁石であるフィールドマグネットで構成される。
磁界が電機子を通過して巻線に力を発生させる。ステーターコアは、互いに絶縁された多数の薄い金属板を積層させたラミネーションと呼ばれる構成されている。積層させているのは、ソリッドコアを使用した場合に生じるエネルギー損失を低減するためである。
洗濯機やエアコンなどに使われている「樹脂積層型モーター」は、ステーターを樹脂で完全に包んでおり、樹脂の減衰特性を利用して騒音や振動を低減している。
* コイル
積層された軟鉄製の磁性体コアに、電流を流したときに磁極を形成するように巻いた線のことである。
直列磁極型では、回転子と固定子の強磁性体コアに磁極と呼ばれる突起が向き合っており、磁極面の下には電線が巻かれていて、電線に電流が流れると磁界の北極または南極になるようになっている。
一方、非平行磁極型(分布磁界型)では、強磁性体のコアには磁極がなく、滑らかな円筒形で、巻線が円周上にスロット状に均等に配置されている。
巻き線に流れる交流電流によってコアに磁極が形成され、連続的に回転する。
[[隈取磁極型誘導電動機]]は磁極の一部に巻き線があり、その磁極の磁場の位相を遅らせる。
モーター内部には棒状や板状の金属(通常は銅やアルミニウム)など、厚みのある金属で構成された導体を入れ、電磁誘導によって駆動させる。
* 整流子
回転子に電流を供給する回転式電気スイッチのこと。電機子の上に、複数の金属接点で構成された円筒を設置している。
カーボンなどの柔らかい2つ以上の導電性「ブラシ」と呼ばれる電気接点が整流子に押し付けられ、回転しながら整流子の連続したセグメントと摺動接触し、回転子に電流を供給する。
回転子の巻線は整流子のセグメントに接続されている。コミュテータは半回転(180°)ごとにローターの巻線に流れる電流の方向を周期的に反転させ、ステーターの磁界がローターに与えるトルクが常に同じ方向になるようにしている。
この電流の反転がないと、ローターの各巻線にかかるトルクの方向が半回転ごとに反転してしまい、ローターが停止してしまう。
整流子は効率が悪く、整流子付きモーターはほとんどがブラシレス直流モーター、永久磁石モーター、誘導モーターに取って代わられている。
== 動作原理 ==
電動機にはいろいろな種類があるが、電動機は固定子と回転子があって、どちらかが回転変化する磁界を発生して、その磁界の変化によって、駆動力を得るものである。
===回転子による分類===
整流子電動機以外の、固定子にコイルがあって、コイルに変化する電流を供給することによって、変動する磁界を発生させる電動機について述べると、回転子の種類に分類できる。
# [[永久磁石]]界磁 (Permanent Magnet Type) : 永久磁石の極を円周方向に配置すれば、固定子の極の移動に伴って、駆動力が発生する。
# 電磁石界磁 : 回転子に磁界を持たせることは電磁石でも可能であるので、回転子・固定子とも電磁石とする構成である。
# 透磁率の差 (Variable Reluctance Type) : 磁性体に突起を設けるなどして、磁力線の通り易いところ通りにくいところを設ければ、駆動力が発生する。
# [[アラゴーの円板]] : 金属導体をおけば、磁場の変化により、渦電流が発生し、渦電流のつくる磁界との相互作用で、駆動力が発生する。
# [[巻線]]形[[誘導電動機]] : 導体のコイルをおけば、磁場の変化により、コイルに流れる電流が発生し、それによる磁界との相互作用で、駆動力が発生する。
ある方向に連続的に駆動力を発生するために駆動側のコイルを複数設けて、磁気の位相を順番にずらして駆動力を発生させる配置にする。その方法もまた、いろいろな配置のものが実用化されている。
また[[回転子]]と[[固定子]]の内外位置関係でも、インナーローター式・アウターローター式・フラットローター式に分類でき、これを[[リニアモーター]]に当て嵌めれば、[[リニアモーター#車上一次式リニアモーター|車上一次式]]・[[リニアモーター#地上(軌道)一次式リニアモーター|地上(軌道)一次式]]になる。
===界磁や電機子の電流の種類===
次に電機子や1次側巻線によって変動する磁界を発生するための電流の種類については次のようなものがある。
# [[三相交流]] : 商用の三相交流(120度ずつ位相のずれた正弦波)を3つまたはその倍数の数のコイルに供給することによって、回転する磁界を発生することができる。
# 単相交流 : [[コンデンサ]]を使って、位相をずらした、もう1相をつくることが多い。
# [[可変電圧可変周波数制御]][[インバータ]]による三相交流 : 商用の三相交流は周波数が一定なので、起動や速度を変えるためなどのために用いられる。
# [[直流]]パルス : 位相のちがうパルス電圧を、別々のコイルに供給する。いわゆる[[ステッピングモーター]]がこれにあたる。
# [[無整流子電動機]] (Brushless DC Motor) は、[[センサ]]により回転子位置を検出し、それによって直流電流の極性を切り替えるものである。
直流電動機、交流電動機の区分別は電動機の構造の区分でなく、使用法の区分と考えることができ、どちらでも回る電動機もありうる。
== 電動機の分類 ==
* [[整流子電動機]]
** [[永久磁石界磁形整流子電動機]]
** [[電磁石界磁形整流子電動機]]
*** [[直巻整流子電動機]]
*** [[分巻整流子電動機]]
*** [[複巻整流子電動機]]
** [[交流整流子電動機]]
* [[誘導電動機]]
** 三相誘導電動機
*** [[かご形三相誘導電動機]]
*** [[巻線形三相誘導電動機]]
** [[単相誘導電動機]]
* [[同期電動機]]
** [[永久磁石同期電動機]]
*** [[無整流子電動機]]
** [[ヒステリシス同期電動機]]
** [[電磁石同期電動機]]
** [[リラクタンスモータ]]
* [[ステッピングモーター]]
=== その他の分類 ===
* [[交流電動機]] - 交流を入力とする電動機
** [[誘導電動機]]
*** 三相誘導電動機
**** [[かご形三相誘導電動機]]
**** [[巻線形三相誘導電動機]]
*** [[単相誘導電動機]]
** [[同期電動機]]
*** [[永久磁石同期電動機]]
*** [[ヒステリシス同期電動機]]
*** [[電磁石同期電動機]]
** [[交流整流子電動機]]
* [[直流電動機]] - 直流を入力とする電動機
** [[直流整流子電動機]]
*** [[永久磁石界磁形整流子電動機]]
*** [[電磁石界磁形整流子電動機]]
**** [[直巻整流子電動機]]
**** [[分巻整流子電動機]]
**** [[複巻整流子電動機]]
** [[無整流子電動機]]
** [[ステッピングモーター]] :パルス電力
* 高効率電動機 - 高効率電動機の規格に適合したものである。普通型電動機より損失が少ない。
* [[超伝導電動機]] - [[界磁]]の励磁に[[超伝導]]を使用する電動機
== 電動機の仕様 ==
* [[出力]]
* [[回転数]]
* [[極数]]
* 電源の種類
** [[周波数]]
** [[電圧]]
** [[電流]]
* [[絶縁体#耐熱クラス|絶縁体の耐熱クラス]]
* [[絶縁階級]]
* [[電気機械器具の外郭による保護等級]]
== 電動機の損失 ==
電動機の損失は、入力電力と出力仕事の差として定義される。
* 全損失
** 固定損
*** [[鉄損]] : ヒステリシス損・渦電流損
*** [[機械損]] : 軸受・冷却装置の摩擦損・風損
** 負荷損 : 負荷の変動に比例して発生する損失
*** 抵抗損 ([[銅損]]) : [[電気抵抗]]のある[[電気伝導体]]に流れる[[電流]]によるジュール損
**** 一次抵抗損 : 固定子[[巻線]]によるもの
**** 二次抵抗損 : 回転子巻線によるもの
*** [[漂遊負荷損]] : 抵抗損以外の負荷損
== 特殊な電動機 ==
電動機の多くは電気によって磁界の変化を作り出し、その磁界の変化によって回転力を生み出すものが一般的であるが、以下のようにこれ以外の原理・構造を持つ特殊な電動機がある。
=== リニアモーター ===
[[リニアモーター]]とは、回転式の電動モーターの[[固定子]]に相当する一直線に長く伸びた部分の上に、[[回転子]]に相当する部分を置いて、磁界の変化によって直線運動を得るものである。リニア誘導モータ(LIM)、リニア同期モータ(LSM)、リニア直流モータ(LDM)、リニアステッピングモータ、リニア圧電モータ、リニア静電モータ等がある。
=== 振動モーター ===
; 超音波振動モーター
: [[超音波モータ|超音波モーター]]は振動体の変形による細かな位置変化を摩擦によって回転運動や直線運動に変える。[[ローレンツ力]]を使用する従来のモータと比較して効率が低い
:* [[圧電素子]]による圧電現象を利用しているものは、圧電モータと呼ばれることもある。カメラのフォーカス合わせのほか、[[ハイレゾリューションオーディオ]]向けイヤホンの超音波帯域を再生するスピーカードライバーなどに利用されている。
; 振動モーター
: [[振動モーター]]は携帯電話などでの着信を振動で知らせる目的で開発されたものがある。小型のものでは、回転子の重心が偏って作られ回転子自身が振動を作り出す重りとなっているものがある。
== 歴史 ==
[[ファイル:Faraday magnetic rotation.jpg|thumb|upright|200px|ファラデーの電磁実験(1821年ごろ)<ref>{{cite book | author = Faraday, Michael | title = Experimental Researches in Electricity | year = 1844 | volume = 2 }} See plate 4.</ref>]]
[[ファイル:Jedlik motor.jpg|thumb|200px|[[イェドリク・アーニョシュ|イェドリク]]の "lightning-magnetic self-rotor"(1827年、Museum of Applied Arts, ブダペスト)]]
=== モーター誕生の前に ===
1740年代、スコットランドの修道士アンドリュー・ゴードンとアメリカの実験家ベンジャミン・フランクリンが製作した単純な静電デバイスが最初の電気モーターであった。
現代の電磁モーターの前には、静電気の力で作動するモーター([[静電モーター]])の実験が行われていた。
1771年、[[ヘンリー・キャベンディッシュ]]がその理論的原理を発見するも発表されず、1785年、[[シャルル・ド・クーロン|クーロン]]が独自に発見し発表したため、[[クーロンの法則]]と呼ばれる。
実用に足るような大きさの力を発生させるためには高電圧が必要となるため、静電モーターは実用化されなかった。
1799年、[[アレッサンドロ・ボルタ]]が[[化学電池]]を発明すると、持続的な電流を作り出すことが可能になった。
1820年、ハンス・クリスチャン・オルステッドは、電流が磁場を作り、磁石に力を与えることを発見した。
[[アンドレ・マリー・アンペール]]は、わずか数週間で電磁相互作用による機械的な力の発生を記述した[[アンペールの法則]]を発表した。
1821年、イギリスの科学者[[マイケル・ファラデー]]が[[電磁気学|電磁気]]的手段で電気エネルギーを運動エネルギーに変換する実験を行った。上から導線を吊るし、[[水銀]]のプールに少し浸しておき、その上に永久磁石を置く。その導線に[[電流]]を流すと、導線の周囲に丸い磁場が発生し、磁石の周りで導線が回転する<ref>[http://www.sparkmuseum.com/MOTORS.HTM spark museum]</ref>。この実験は学校の物理学の授業でもよく実施されるが、毒性のある水銀の代わりに[[塩水]]を使うこともある。これは[[単極電動機]]と呼ばれる最も単純な形式の電動機である。後にこれを改良した [[:en:Barlow's Wheel|Barlow's Wheel]] もある。これらは実演向けであり、動力源として実用できるものではなかった。
1827年、ハンガリーの[[イェドリク・アーニョシュ]]は電磁作用で回転する装置の実験を開始し、それを "lightning-magnetic self-rotors" と呼んでいた。彼はそれを大学での教育用に使っており、1828年には実用的な直流モーターの3大要素である[[固定子]]と[[電機子]]と[[整流子]]を備えた世界初の実用的な[[直流]]電動機の実験に成功した。その固定部分も回転部分も電磁石になっていて、永久磁石は使っていない<ref name="ReferenceA">Electricity and magnetism, translated from the French of Amédée Guillemin. Rev. and ed. by Silvanus P. Thompson. London, MacMillan, 1891</ref><ref>Nature 53. (printed in 1896) page: 516</ref><ref name="mpoweruk.com">[http://www.mpoweruk.com/timeline.htm Battery and Technology History Timeline] Electropedia</ref><ref>http://www.fh-zwickau.de/mbk/kfz_ee/praesentationen/Elma-Gndl-Generator%20-%20Druckversion.pdf</ref><ref>http://www.uni-regensburg.de/Fakultaeten/phil_Fak_I/Philosophie/Wissenschaftsgeschichte/Termine/E-Maschinen-Lexikon/Chronologie.htm</ref><ref>[http://www.mpoweruk.com/history.htm Electrical Technology History] Electropedia</ref>。この装置も実験用であり動力源として使えるものではなかった。
===DCモーター===
1832年、イギリスの科学者[[ウィリアム・スタージャン]]が、機械の動力源として使える世界初の[[整流子]]式直流電動機を発明した<ref>{{cite book|last=Gee|first=William|others=|title=Oxford Dictionary of National Biography|publisher=Oxford University Press|location=Oxford, England|year=2004|chapter=Sturgeon, William (1783–1850)|doi=10.1093/ref:odnb/26748 }}</ref>。
1837年、アメリカで[[トーマス・ダヴェンポート]]とその妻エミリーと共に商用利用可能なレベルの整流子式直流電動機を開発し、特許を取得した。
この電動機は毎分最大600回転で、印刷機などの機械を駆動した<ref>Garrison, Ervan G., [https://books.google.co.jp/books?id=5mvVElGudyYC&pg=PA194&dq=davenport+motor+c&lr=&as_brr=0&as_pt=ALLTYPES&redir_esc=y&hl=ja "A history of engineering and technology"]. CRC Press, 1998. ISBN 084939810X, 9780849398100. Retrieved May 7, 2009.</ref>。当時電源としては[[電池]]しかなく、その電極用の[[亜鉛]]は非常に高価だった。そのためダヴェンポート夫妻は商業的には失敗し破産した。他にも直流電動機を開発した発明家が何人かいたが、いずれも電源コストの問題に直面した。当時、[[電力網]]はまだ存在しなかった。したがって、電源コストに見合うだけの電動機の市場は存在しなかった{{要出典|date=2010年3月}}。
1834年、ロシアの[[モーリッツ・フォン・ヤコビ]]が、比較的弱い回転・往復運動の装置を使って、初の本格的な回転式電気モーターを作った。このモーターは驚くべき機械的出力を持っていた。
このモーターは世界記録を樹立したが、さらに自身で1838年にその記録を更新した。後者を使って14人乗りのボートで広い川を渡ることができた。
1839年から40年にかけて、他の開発者も同様以上の性能のモーターを作ることに成功した。
1855年、イェドリクは electromagnetic self-rotors と同様の原理で役に立つ仕事をする装置を製作した<ref name="ReferenceA"/><ref name="mpoweruk.com"/>。また同年、[[電気自動車|電動機で駆動する自動車]]の模型を作っている<ref>http://www.frankfurt.matav.hu/angol/magytud.htm</ref>。
1864年、[[アントニオ・パチノッティ]]がリング状の電機子を初めて発表した(当初は[[直流発電機]](ダイナモ)として考案された)。
これは、コイルが左右対称で互いに閉じられて配置され、整流器のバーに接続し、ブラシからは実用上問題ないレベルで変動のない電流を供給する点が特徴的である。
1871年にパチノッティの設計の再発明やヴェルナー・シーメンスによるいくつかの解決策を採用したゼノベ・グラムの後で、直流モーターはようやく商業的に成功する。
1872年、[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]]社のフリードリッヒ・フォン・ヘフナー・アルテンネックがパキノッティのリング電機子の代わりにドラムローターを導入し、機械効率を向上させた。
翌年には同社がラミネートローターを導入し、鉄損の低減と誘起電圧の向上させた。1880年、Jonas Wenströmはローターに巻線を収めるためのスロットを設け、効率をさらに高めた。
1873年、[[ゼノブ・グラム]]は[[ウィーン万博]]で、彼の[[ダイナモ]]に偶然別のダイナモを接続して発電したところ、軸が回転し始めたのを発見した。これが世界初の電動機というわけではないが、実用的な電動機としては世界初の1つだった。
1886年、[[フランク・スプレイグ]]は負荷が変化しても一定の回転速度を維持できる火花の出ない直流電動機を発明した。このころスプレイグは電動機の力を電力網に返す[[運動エネルギー回生システム|回生]]技術を発明しており、また[[路面電車]]用の架線から集電する方式も発明した。これらの技術を使い、1887年に[[バージニア州]][[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]で路面電車を運用して成功を収め、1892年には電動エレベーターとその制御システム、さらに[[イリノイ州]][[シカゴ]]で集中制御方式の電動式地下鉄(通称[[シカゴ・L]])を成功させた。スプレイグの電動機と関連発明を機に、産業における電動機需要は爆発的に増大し、他の発明家も同様のシステムを次々と発明していった。
電動機の効率向上は、[[固定子]]と[[回転子]]の隙間を小さくすることが重要だということがなかなか認識されず、進歩は数十年間遅れてしまった。初期の電動機ではその空隙が比較的大きく、磁気回路の[[磁気抵抗]]が非常に大きかった。このため、現代の効率的な電動機に比べると、同じ消費電力で発生できるトルクがかなり小さい。その原因は磁石や電磁石が近いほど引き付け合う力が強いため、ある程度離しておこうとしたためと考えられる。効率的な設計では、固定子と回転子の隙間をなるべく小さくし、トルクを発生しやすい磁束パターンにする。
===ACモーター===
1824年、フランスの物理学者[[フランソワ・アラゴ]]が「[[アラゴーの円板]]」で知られる回転磁界を定式化した。
1879年、ウォルター・ベイリーが手動でスイッチをオン・オフすることで、原始的な[[誘導モーター]]を製作した。
1880年代、長距離の高電圧送電における交流の利点は認識されていたものの、交流でモーターを作動させることが課題となっていたため、実用的な交流モーターの開発が盛んに行われた。
1885年、[[ガリレオ・フェラリス]]によって最初の交流整流子レス[[誘導モーター]]が発明された。
1888年、トリノ王立科学アカデミーは、モータ動作の基礎を詳述したフェラリスの研究を発表したが、当時は「その原理に基づく装置は、モータとしての商業的重要性を持ち得ない」と結論づけられた。
1887年、[[ニコラ・テスラ]]は初の実用的[[交流電動機]]と[[多相交流|多相送電システム]]を発明し、1888年に特許を取得した。
同年、テスラはAIEEに論文「A New System for Alternating Current Motors and Transformers」を発表し、特許を取得した3種類の2相4極モータについて説明した。
4極のロータで非自己始動型の[[リラクタンスモータ]]を形成するもの、巻線のロータで自己始動型の誘導モータを形成するもの、ロータ巻線に個別に励起された直流電源を供給する真の同期モータである。
この特許の中には、短絡巻線型ローターの誘導モーターも記載されていた。
既にフェラリスから権利を取得していたジョージ・ウェスティングハウスは、すぐにテスラの特許を買い取った。
定速交流誘導モーターは路面電車には適さなかったが、ウェスティングハウス社は1891年にコロラド州テルライドの鉱山事業の動力源として採用した。
同社は1892年に最初の実用的な誘導モーターを実現し、1893年には多相60ヘルツ誘導モーターのラインを開発したが、これら初期のウェスティングハウスのモーターは巻線ローターの二相モーターであった。
後にB.G.Lammeが回転棒巻線ローターを開発した。
1889年、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーが、ケージローターと巻線ローターの両方を備えた始動用レオスタット付き[[三相誘導モーター]]を、1890年には三肢変圧器を発明するなど、三相開発を着実に進めていった。
[[AEG]]とMaschinenfabrik Oerlikon社との合意を経て、[[ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキー]]とチャールズ・ユージン・ランスロット・ブラウンは、20馬力のリス・ケージ型と100馬力の始動レオスタット付き巻線型の大型モデルを開発した。
1889年以降、同様の三相機械の開発は、ウェンストロムが始めていた。
1891年のフランクフルト国際電気技術博覧会で、初の長距離三相システムの発表に成功した。これは定格15kVで、ネッカー川のラウフェンの滝から175kmにわたって延びていた。
ラウフェンの発電所には240kWの86V 40Hzの交流発電機と昇圧トランスがあり、展示会では降圧トランスから100馬力の三相誘導モーターに給電して人工の滝を動かし、元の電源の移動を表現した。
三相誘導は現在、大部分の商用モーターに使用されている。ドブロヴォルスキーは、テスラのモーターは二相の脈動があるため実用的ではないと主張し、それが彼の三相の研究に固執するきっかけとなった。
1891年、[[ゼネラル・エレクトリック]]社は三相誘導モーターの開発を開始した。
1896年には、ゼネラル・エレクトリック社とウェスティングハウス社が、後にリスケージ・ローターと呼ばれるバー・ワインディング・ローターの設計に関するクロスライセンス契約を締結した。
これらの発明や技術革新に伴う誘導モーターの改良により、現在、100馬力の誘導モーターは、1897年の7.5馬力のモーターと同じサイズになっている。
=== 日本国内の電動機 ===
1895年(明治28年)、芝浦製作所(現在の[[東芝]])が銅鉱山ポンプ用6極25馬力(18.5kW)の日本初の二相誘導電動機を誕生させた。
1901年(明治34年)、[[明電舎]]が1馬力(0.75kW)の三相誘導電動機を製造した。
1906年(明治39年)、[[明電舎]]が5馬力(3.8kW)以下の三相誘導電動機を独自の設計法をもって標準化し、汎用電動機として本格生産を開始した。
1906年(明治39年)、12月末時点の調査で、[[明電舎]]が東京市内の電動機シュアの約6割を占めていた。東京市内の電動機746台の内の463台が明電舎製で、残り283台の過半数は輸入品であった<ref>「電気の友」(1906) |</ref>。
== 電動機に関する短編映画 ==
電動機メーカーの一つ、松下電器産業(現・[[パナソニック]])の企画の下で、1963年に『'''力の技術-モートル-'''』と題された短編映画(約28分間)が製作されている。
当映画作品では、モーターの原理の説明から始まり、各種モーター製品各々の組み立て現場の光景や完成品の動作光景などが、[[城達也]]の[[ナレーション]]入りで、紹介されている。
ここで、映画タイトルの中に見える「モートル」は、「モーター」のドイツ語表記“Motor”の20世紀前半まで模範とされていたドイツ語発音に基づく表記法である《ちなみにパナソニックでは、現在、「モートル」という表記法は用いられていない(一般産業向けモーター類の生産は継続)》<ref group="注" name="motorspeaker" />。
当映画作品は東京シネマ(現・東京シネマ新社)により制作されており、現在は[[科学映像館]](NPO法人・科学映像館を支える会)Webサイト内に於いて無料公開されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Donald G. Fink and H. Wayne Beaty, ''Standard Handbook for Electrical Engineers, Eleventh Edition'', McGraw-Hill, New York, 1978, ISBN 0-07-020974-X.
* [[エドウィン・J・ヒューストン|Edwin J. Houston]] and [[アーサー・エドウィン・ケネリー|Arthur Kennelly]], ''Recent Types of Dynamo-Electric Machinery'', copyright American Technical Book Company 1897, published by P.F. Collier and Sons New York, 1902
* {{cite book | last=Kuphaldt | first=Tony R. | title=Lessons In Electric Circuits — Volume II | accessdate=2006-04-11 | year=2000-2006 | chapter=Chapter 13 AC MOTORS | chapterurl= http://www.ibiblio.org/obp/electricCircuits/AC/AC_13.html }}
* {{cite web | title=A.O.Smith: The AC's and DC's of Electric Motors | url= http://www.aosmithmotors.com/uploadedFiles/AC-DC%20manual.pdf |format=PDF| accessdate=2009-12-07}}
* Resenblat & Frienman DC and AC machinery
* http://www.streetdirectory.com/travel_guide/115541/technology/understanding_electric_motors_and_their_uses.html
* Shanefield D. J., ''Industrial Electronics for Engineers, Chemists, and Technicians,''William Andrew Publishing, Norwich, NY, 2001.
* Fitzgerald/Kingsley/Kusko (Fitzgerald/Kingsley/Umans in later years), ''Electric Machinery'', classic text for junior and senior electrical engineering students. Originally published in 1952, 6th edition published in 2002.
* {{cite book | last = Bedford | first = B. D. | coauthors = Hoft, R. G. et al. | year = 1964 | title = Principles of Inverter Circuits | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | location = New York | isbn = 0 471 06134 4 }} (インバータ回路は[[可変電圧可変周波数制御]]に使われている)
* B. R. Pelly, "Thyristor Phase-Controlled Converters and Cycloconverters: Operation, Control, and Performance" (New York: John Wiley, 1971).
* John N. Chiasson, ''Modeling and High Performance Control of Electric Machines'', Wiley-IEEE Press, New York, 2005, ISBN 0-471-68449-X.
== 関連項目 ==
* [[発電機]]
* [[電気工学]]
* [[整流子]]
* [[ニコラ・テスラ]]
* [[サイリスタ位相制御]]
* [[スリップリング]]
* [[電動輸送機器]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| wikt = 電動機
| q = no
| n = no
}}
* [http://electojects.com/stepper-jp/ ステッピング・モータの動作原理]
* [http://www.phys.unsw.edu.au/~jw/HSCmotors.html Electric Motors and Generators], [[ニューサウスウェールズ大学]]
* [http://kevinsbrady.net/motors.pdf The Numbers Game: A Primer on Single-Phase A.C. Electric Motor Horsepower Ratings], Kevin S. Brady.
* [http://motor.iea-4e.org/ International Energy Agency (IEA) 4E Annex] 電動機のエネルギー効率に関するサイト
* [http://kmoddl.library.cornell.edu/index.php Kinematic Models for Design Digital Library (KMODDL)] - コーネル大学。様々な機械の動画や写真がある。
* [http://www.ipes.ethz.ch/ipes/2002Feldlinien/feld_dreh.html Javaによるアニメーション: The Rotating Magnetic Field]
* [http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/305/ 力の技術-モートル-] - 科学映像館Webサイトより
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[[Category:電動機|*てんとうき]]
[[Category:農業機械]] | 2003-03-27T08:47:05Z | 2023-07-27T20:14:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8B%95%E6%A9%9F |
5,300 | 東京大空襲 | 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」。Meetinghouse 2)を指す(78年前)。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
1942年にはナパームを使ったM69焼夷弾が開発され、1943年の国防研究委員会(NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した。
日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。
アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。
具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区・神田区・下谷区・荒川区・日本橋区・荏原区が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた郊外に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された。
アメリカ陸軍航空隊の伝統的なドクトリンは軍事目標に対しての精密爆撃であり、第二次世界大戦が始まった当時は航空機から投下する焼夷弾を保有していなかった。焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍はアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将自らイギリスに飛んでイギリス軍の焼夷弾と、イギリス軍がロンドン空襲において回収していたドイツ軍の不発弾(900gマグネシウム弾)を譲り受けて焼夷弾の開発を開始した。
日本に投下された主な焼夷弾
3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された。
連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補に挙がっていた。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビル(英語版)にあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である米やサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた。
人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した。
1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した。死者は39人。
1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。
1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した。
1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋、大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる。
1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー東京ローズに「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった。
11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は「サン・アントニオ1号作戦」と名付けられた。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220km/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちにジェット気流であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720km/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、ノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で、主要目標の工場施設の損害は軽微であった。主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた。
東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。
1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で神田区や日本橋区を爆撃し、火災は夜明けまで続いた。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった。
その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、杉並区、板橋区などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。
ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将は、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国成都基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた(漢口大空襲)。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった。
漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。
年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにも関わらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている。
1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。
戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた。
1945年1月27日、B-29は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である有楽町・銀座地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び有楽町駅は民間人の遺体で溢れるなど、死者539人、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった。
1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった。
作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。
ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた。
1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった。
1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。
アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された。
ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した。ルメイの作戦変更には漢口大空襲での成功体験も後押しとなった。
しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。
「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。東京大空襲・戦災資料センターによれば、大型の軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標で、住民の大量殺害により戦争継続意思を削ぐことが主目的だったとしている。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー(英語版)准将を代わりに出撃させることとした。
本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー超短波警戒機乙は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が勝浦市南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が房総半島沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の洲崎対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた第12方面軍 (日本軍)が情報を検討中の、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に
へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の海野十三は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという。
出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれることになる領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。これは50キロの大型焼夷弾で、目標地域に4か所の爆撃照準点を設定してこれを投下することで、大火災を起こして消火活動をまひさせ、その後の小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たすことを期待していたという。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった。
0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。
北風や西風の強風の影響もあり、火災は目標地域をこえ、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など下町の大部分を焼き尽くした。結局、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦が防空壕で誕生した日でもあった。
一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった。
誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った。
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。
人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。
また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。
この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した。
当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。また、空襲を避ける為各地で防空壕が設けられそこに避難した人々も多かったが、防空壕の換気が不十分の為酸欠状態となりそこで窒息死する人々も多かった。
日本の総理大臣小磯國昭(小磯内閣)はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた。ラジオ東京は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている。
房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、陸軍の高射砲部隊(高射第1師団)との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった。出撃時にルメイに不満を抱いていたB-29搭乗員らも予想外の損害の少なさに、ルメイの戦術変更が正しかったと感想を抱いている。
損失の内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認(lost to unknown reasons)とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空では合計7機のB-29が撃墜されたという報告があり、さらに行方不明とされていた1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにも関わらず、原因未確認の損失とされ、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器の損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。
この日は高射砲による戦果が目立っている。高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式七糎野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は高度8,000m以上で爆撃していたB-29に対しては射高不足であり、少しでも高度を稼ぐため、日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、なかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がったので、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができるようになった。高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。
ミーティングハウス2号の約1か月後となる4月13日に東京に大規模焼夷弾攻撃が計画された。今回は市街地への無差別爆撃ではなく、目標は東京第一陸軍造兵廠、東京第二陸軍造兵廠を含む兵器工場群とされたが、目標の中には「工場作業員の住居」も含むとされており、結局のところは市街地への無差別焼夷弾攻撃であった。作戦名は造兵廠群を含む目標区域の暗号名をとってパーディション作戦と名付けられた。327機のB-29が出撃して、3月10日の空襲を上回る2,119トンの爆弾が、今までの空襲で最長となる3時間にも渡って投下されたが、そのうち96.1パーセントが焼夷弾であり、11.4平方マイル(29.5 km)が焼失した。空襲により兵器工場群に大きな被害があったのに加えて、皇居の一部と大宮御所と明治神宮にも被害が出た。新宿御苑には火災から逃れようと市民が殺到したが、守衛が門を固く閉ざして御苑内に市民を入れなかった。市民のうちの1人がなぜ入れないのか問い詰めたところ、守衛は「天皇陛下の芋が植えてある」と答えたため激高した市民が門を打ち壊しにかかり、結局門は開放されて多くの市民が御苑内に避難している。
皇居などに被害が出たことについて、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎陸軍参謀総長が宮中に参内して昭和天皇にお詫びを言上したが、昭和天皇からは「41機の撃墜を報じていた戦果についての御嘉賞の言葉があった」という。この日のB-29の損失はアメリカ軍の記録によれば7機であった。
沖縄戦が開始されると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被ったので、アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、特攻機の出撃基地である九州の飛行場の爆撃任務に回された。特攻機出撃基地への爆撃は1か月以上行われたが、結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。その後、沖縄の飛行場が整備されて戦術作戦担当の爆撃機などが配備されたこともあり、5月11日にはB-29は本来の戦略爆撃任務に復帰したがその間は大都市圏に対する無差別焼夷弾攻撃は中止されていた。
戦略爆撃が中止されている間に、英領インドに展開していた第20爆撃集団の第58爆撃航空団がマリアナに合流し、第21爆撃機集団 は4個航空団となっていた。B-29の配備も順調で、5月から6月にかけて、常時400機のB-29が全力出撃できる十分な量の焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた。ルメイは充実した戦力で都市圏への無差別焼夷弾攻撃を強化し、5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機で名古屋を爆撃(名古屋大空襲)、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた。
ミーティングハウス2号とその後の爆撃により大損害を被っていた東京にも総仕上げとして最大規模の焼夷弾攻撃が計画されることになった。今まではミーティングハウスやパーディションなど目標区域の暗号名に則した作戦名が付されていたが、総仕上げの空襲という意味合いもあってか、目標区域は“東京市街地”とされ、暗号名で呼ばれることもなく、特別な作戦名も付されなかった。
5月24日未明にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という、3月10日のミーティングハウス2号を上回る大兵力が仕上げの焼夷弾攻撃に投入された。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月23日に3,645トン、5月25日に3,262トンが投下された。これは3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった。
1945年(昭和20年)4月13日以降の主要な空襲による東京都の被害状況
ミーティングハウス2号のときより死傷者が格段に少なかったのは、3月10日には警戒警報が解除されたあとに爆撃が開始され、空襲警報の発令が最初の爆弾投下から7分後と遅れたのに対して、4月13日は警戒警報発令が午後10時44分、B-29の爆撃開始が午後10時57分、空襲警報が午後11時と、警戒警報の解除はなかったものの前回に引き続き空襲警報が3分遅れていたが、その後の5月24日は警戒警報発令が午前1時5分、空襲警報が午前1時36分、B-29の爆撃開始が午前1時39分、5月25日は警戒警報発令が午後10時2分、空襲警報が10時22分、B-29の爆撃開始が午後10時38分と、空襲開始前に空襲警報が発令できたことや、疎開が進んだこと、市民が消火より避難を優先するようになったことが挙げられる。東京の人員疎開は1944年3月3日に東條内閣閣議決定した「一般疎開促進要綱」に基づき進められ、1944年2月に6,658,162人であった東京の人口は1945年2月には4,986,600人(1944年2月比75%)まで減少していた。3月10日の焼夷弾攻撃ののち、東京都はさらに疎開を進めることとし、3月13日から4月4日の約1か月で82万人、4月13日の空襲ののちにさらに60万人、5月25日の空襲ののちには77万人を地方に転出させた。そのため、1945年5月の人口は3,286,010人と1944年2月比で半減し、6月には2,537,848人(同39%)まで減っている。それでも残った都民は焼け野原に仮小屋を建てたり防空壕で生活する者もあった。
焼失面積は2日間で合計22.1平方マイル(57.2 km)に及び、1945年2月19日、2月25日、3月10日の3回の空襲で焼失した16.8平方マイル(43.5 km)を上回った。そしてこの2日間分を含めた東京の空襲での焼失面積は56.3平方マイル(145.8 km)となり、緑地や建物がまばらな地域を除いてアメリカ軍が東京市街地として判定していた110.8平方マイル(286.9 km)の50.8%を焼き払ったこととなった。すでに東京は、名古屋、大阪、横浜、川崎などの主要都市と同様に破壊されつくされたと判定されて、主要爆撃リストの目標から外されることとなった。
1945年5月25日の空襲では、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520 mのうち18,239 mを焼失して4時間後にようやく鎮火した。御文庫附属庫に避難していた昭和天皇と香淳皇后は無事であったが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出たが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている。皇居は1945年7月20日に、原子爆弾投下の演習として全国各地に投下されていたパンプキン爆弾の目標となっている。この日、パンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、昭和天皇を殺害するために攻撃が禁止されていた皇居を目標とすることにした。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は八重洲口側の皇居の堀に着弾して、死者1人と負傷者62人を出した。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。
日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している。戦後にアメリカ軍による戦略爆撃の効果を調査した米国戦略爆撃調査団が、日本の戦争指導者や一般国民に調査したところ、日本が戦争に敗北すると認識した国民の割合については、1944年6月まではわずか国民の2%に過ぎなかったが、1945年3月10日の空襲以降に19%、その後空襲が激化した1945年6月には46%に跳ね上がり、終戦直前に68%となっていた。
5月24日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになったが、アメリカ軍が日本軍に撃墜されたと記録しているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と、3月10日と同様に連絡つかずに行方不明となった20機は原因未確認の損失とされて、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない。
しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、原因未確認の損失の中の大部分は日本軍により撃墜したものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している。
日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めており、大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が作戦変更により夜間の爆撃が増加したため、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基 - 12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した。
アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆ方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、日本軍防空陣とB-29の間で激しい駆け引きが行われていた。
この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被った。ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念して対策を講じるように指示してきたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた。次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった。さらに、P-51がB-29の護衛として多数飛来する頃には、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとっている。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している。それでも、アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争(大東亜戦争)における延べ出撃数に対する戦闘損失率は1.32%とされているが、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となっており、首都圏で日本軍は奮戦していた。一方で、同じ枢軸国ドイツの首都ベルリン空襲におけるアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率で、B-29の高性能さと日本軍の防空戦闘能力の脆弱さを如実に表しており、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった。
身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災および東京大空襲についての展示がある。この他、大規模被災地域には、主に住民の手による慰霊碑が数多く設置されている。
東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2013年3月時点で79941名が登載)を納めている。2019年3月現在、81147名登載。2020年3月に81,273名登載。東京都は名簿への登載を受け付けている。(受付について 東京都生活文化局 東京空襲犠牲者名簿)
毎年、横網町公園は、大法要が行われる3月10日(東京都平和の日)と9月1日には東京空襲犠牲者名簿が納められている「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の内部を公開している。
2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴を行った。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法によって動員された民間人は補償が行われていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。法的根拠は、ハーグ陸戦条約3条違反の無差別攻撃であった東京大空襲を行ったアメリカ政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲被害について外交保護権を放棄した。これは憲法17条の公務員の不法行為に該当する、また戦時災害保護法によって国は救済義務を負っているが懈怠した、などというものだった。なお、2006年には日本軍による重慶爆撃に対する謝罪と賠償を求めた重慶大爆撃賠償請求訴訟が開始している。
2009年12月14日の1審判決で請求棄却 。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した。棄却理由の中で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会が立法で行うとした点について、敗訴した原告側弁護団も「国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだ」として評価した。
2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償を行う「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された
朝鮮人被害者については体験者の証言から当時の状況を記録する運動もあり、さらに、朝鮮人強制連行によって東京に強制連行された朝鮮人が東京大空襲の被害にあったと主張する朝鮮人強制連行被害者・遺族協会も2008年に報告書を発表している。報告書では、東京での朝鮮人強制労働犯罪、そして東京大空襲による朝鮮人強制連行被害者の惨状などが報告された。朝鮮新報は2008年6月6日記事で「日帝は、空襲があった後に天皇がこの地域を訪れるという口実を設けて、朝鮮人ら死者に対する身元調査すらしないまま、67カ所の公園と寺院、学校の運動場などに土葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息を引き取った朝鮮人の遺骨を自分勝手にむちゃくちゃに処理する反人倫的な蛮行を働いた」「東京大空襲で多数の朝鮮人が犠牲になったのは、全的に旧日本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因する」とし、日本政府は被害者の遺骨を遺族に送るべきだったし、さらに南北朝鮮を差別して北朝鮮には一切の遺骨が返還されておらず、これは国際人道法と日本の刑法に違反している重大な人権侵害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じるべきと主張している。
空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされた。第一次世界大戦後の1922年、ハーグ空戦規則が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた。
日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。
国内法でも軍人、軍属とその遺族への特別援護政策が採られた一方で、非軍人に対しては不十分な対策しか講じられていないとして議論がある。
1964年12月4日、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮した米空軍司令官カーチス・ルメイ大将に対し、第1次佐藤内閣が勲一等旭日章の叙勲を閣議決定する。理由は航空自衛隊育成の協力で、授与は7日に行われた。
当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた。
爆撃直後にルメイは「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と空襲の成果に胸をはったが、民間人の大量虐殺については、「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行ったとされる残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった...我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ...大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている。
また、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している。兵士に向けては「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。
日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任があるが、爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃(無差別爆撃)の枠組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行などルメイ就任前から進められていた。
2013年5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカ合衆国への直接的な批判は事実上避けている。
(東京大空襲・下町空襲)。死者10万人。負傷者100万人。
空襲による被害者の総数は不明であるが、1995年の東京新聞調査では全国で55万9197人、東京で11万6959人であった。8万3793名が死亡したとする説もある。
行方不明(死亡認定)
東京都内神社236〜326社が被災したとされる。
戦災で焼失したものは国の指定文化財だけでも170点に上る。
東京の市街地でも空襲を免れた区域がある(上図「戦災概況図」参照)。周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、神田区須田町(現在の千代田区神田須田町)や向島区(現在の墨田区京島)が挙げられる。須田町では神田川が、向島区では東武亀戸線沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。ただし、「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在に至るまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われているが、自動車が通れないがゆえに重大な交通事故の発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。中央区の佃島・月島地区も晴海運河が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった対岸部の深川区(現在の江東区)とは、明暗が分かれた形となった。
丸の内・有楽町付近では東京府庁と東京駅が空襲を受け全半壊したものの、内堀通り一帯の第一生命館や明治生命館などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。宮城は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。
東京帝国大学付近はロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。
また築地や神田神保町一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院や救世軍本営があったからとも言われるが定かではない。築地には木村屋總本店のパン工場があり、戦後の占領・駐留を見越して、食糧調達のため爆撃の対象から外したとされる。神保町を空襲しなかった理由に古書店街の蔵書の焼失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の名古屋大空襲で国宝名古屋城を焼いたり、ドイツのドレスデン爆撃などで文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお、日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ、現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された。
3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年のドーリットル空襲から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。
東京都江戸東京博物館やすみだ郷土文化資料館には東京大空襲に関する展示がある。2001年開館を目指して東京都平和祈念館の建設も計画されたが、実現していない。 | [
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"text": "東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。",
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"text": "東京都は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。",
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"text": "その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」。Meetinghouse 2)を指す(78年前)。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。",
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"text": "1942年にはナパームを使ったM69焼夷弾が開発され、1943年の国防研究委員会(NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した。",
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"text": "日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。",
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"text": "アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。",
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"text": "具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区・神田区・下谷区・荒川区・日本橋区・荏原区が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた郊外に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された。",
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"text": "アメリカ陸軍航空隊の伝統的なドクトリンは軍事目標に対しての精密爆撃であり、第二次世界大戦が始まった当時は航空機から投下する焼夷弾を保有していなかった。焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍はアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将自らイギリスに飛んでイギリス軍の焼夷弾と、イギリス軍がロンドン空襲において回収していたドイツ軍の不発弾(900gマグネシウム弾)を譲り受けて焼夷弾の開発を開始した。",
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"text": "3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された。",
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"text": "連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補に挙がっていた。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビル(英語版)にあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である米やサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた。",
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"text": "人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した。",
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"text": "1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した。死者は39人。",
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"text": "1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。",
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"text": "1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した。",
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"text": "1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋、大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる。",
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"text": "1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー東京ローズに「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった。",
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"text": "11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は「サン・アントニオ1号作戦」と名付けられた。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220km/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちにジェット気流であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720km/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、ノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で、主要目標の工場施設の損害は軽微であった。主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた。",
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"text": "東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。",
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"text": "1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で神田区や日本橋区を爆撃し、火災は夜明けまで続いた。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった。",
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"text": "その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、杉並区、板橋区などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。",
"title": "空襲の経過"
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"tag": "p",
"text": "ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将は、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国成都基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた(漢口大空襲)。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった。",
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"text": "漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。",
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"text": "年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにも関わらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。",
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"text": "戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた。",
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"text": "1945年1月27日、B-29は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である有楽町・銀座地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び有楽町駅は民間人の遺体で溢れるなど、死者539人、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった。",
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"text": "作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。",
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"text": "ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた。",
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"text": "1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった。",
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した。ルメイの作戦変更には漢口大空襲での成功体験も後押しとなった。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。東京大空襲・戦災資料センターによれば、大型の軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標で、住民の大量殺害により戦争継続意思を削ぐことが主目的だったとしている。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー(英語版)准将を代わりに出撃させることとした。",
"title": "空襲の経過"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー超短波警戒機乙は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が勝浦市南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が房総半島沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の洲崎対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた第12方面軍 (日本軍)が情報を検討中の、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の海野十三は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという。",
"title": "空襲の経過"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれることになる領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。これは50キロの大型焼夷弾で、目標地域に4か所の爆撃照準点を設定してこれを投下することで、大火災を起こして消火活動をまひさせ、その後の小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たすことを期待していたという。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった。",
"title": "空襲の経過"
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"tag": "p",
"text": "0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。",
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"text": "北風や西風の強風の影響もあり、火災は目標地域をこえ、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など下町の大部分を焼き尽くした。結局、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦が防空壕で誕生した日でもあった。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った。",
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"text": "当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。",
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"text": "また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した。",
"title": "空襲の経過"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。",
"title": "空襲の経過"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。また、空襲を避ける為各地で防空壕が設けられそこに避難した人々も多かったが、防空壕の換気が不十分の為酸欠状態となりそこで窒息死する人々も多かった。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "日本の総理大臣小磯國昭(小磯内閣)はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた。ラジオ東京は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、陸軍の高射砲部隊(高射第1師団)との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった。出撃時にルメイに不満を抱いていたB-29搭乗員らも予想外の損害の少なさに、ルメイの戦術変更が正しかったと感想を抱いている。",
"title": "空襲の経過"
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"text": "損失の内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認(lost to unknown reasons)とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空では合計7機のB-29が撃墜されたという報告があり、さらに行方不明とされていた1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにも関わらず、原因未確認の損失とされ、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器の損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。",
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"text": "この日は高射砲による戦果が目立っている。高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式七糎野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は高度8,000m以上で爆撃していたB-29に対しては射高不足であり、少しでも高度を稼ぐため、日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、なかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がったので、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができるようになった。高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。",
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"title": "空襲の経過"
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"text": "ミーティングハウス2号の約1か月後となる4月13日に東京に大規模焼夷弾攻撃が計画された。今回は市街地への無差別爆撃ではなく、目標は東京第一陸軍造兵廠、東京第二陸軍造兵廠を含む兵器工場群とされたが、目標の中には「工場作業員の住居」も含むとされており、結局のところは市街地への無差別焼夷弾攻撃であった。作戦名は造兵廠群を含む目標区域の暗号名をとってパーディション作戦と名付けられた。327機のB-29が出撃して、3月10日の空襲を上回る2,119トンの爆弾が、今までの空襲で最長となる3時間にも渡って投下されたが、そのうち96.1パーセントが焼夷弾であり、11.4平方マイル(29.5 km)が焼失した。空襲により兵器工場群に大きな被害があったのに加えて、皇居の一部と大宮御所と明治神宮にも被害が出た。新宿御苑には火災から逃れようと市民が殺到したが、守衛が門を固く閉ざして御苑内に市民を入れなかった。市民のうちの1人がなぜ入れないのか問い詰めたところ、守衛は「天皇陛下の芋が植えてある」と答えたため激高した市民が門を打ち壊しにかかり、結局門は開放されて多くの市民が御苑内に避難している。",
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"text": "皇居などに被害が出たことについて、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎陸軍参謀総長が宮中に参内して昭和天皇にお詫びを言上したが、昭和天皇からは「41機の撃墜を報じていた戦果についての御嘉賞の言葉があった」という。この日のB-29の損失はアメリカ軍の記録によれば7機であった。",
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"text": "沖縄戦が開始されると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被ったので、アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、特攻機の出撃基地である九州の飛行場の爆撃任務に回された。特攻機出撃基地への爆撃は1か月以上行われたが、結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。その後、沖縄の飛行場が整備されて戦術作戦担当の爆撃機などが配備されたこともあり、5月11日にはB-29は本来の戦略爆撃任務に復帰したがその間は大都市圏に対する無差別焼夷弾攻撃は中止されていた。",
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"text": "戦略爆撃が中止されている間に、英領インドに展開していた第20爆撃集団の第58爆撃航空団がマリアナに合流し、第21爆撃機集団 は4個航空団となっていた。B-29の配備も順調で、5月から6月にかけて、常時400機のB-29が全力出撃できる十分な量の焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた。ルメイは充実した戦力で都市圏への無差別焼夷弾攻撃を強化し、5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機で名古屋を爆撃(名古屋大空襲)、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた。",
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"paragraph_id": 58,
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"text": "ミーティングハウス2号とその後の爆撃により大損害を被っていた東京にも総仕上げとして最大規模の焼夷弾攻撃が計画されることになった。今まではミーティングハウスやパーディションなど目標区域の暗号名に則した作戦名が付されていたが、総仕上げの空襲という意味合いもあってか、目標区域は“東京市街地”とされ、暗号名で呼ばれることもなく、特別な作戦名も付されなかった。",
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"text": "5月24日未明にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という、3月10日のミーティングハウス2号を上回る大兵力が仕上げの焼夷弾攻撃に投入された。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月23日に3,645トン、5月25日に3,262トンが投下された。これは3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった。",
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"text": "1945年(昭和20年)4月13日以降の主要な空襲による東京都の被害状況",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "ミーティングハウス2号のときより死傷者が格段に少なかったのは、3月10日には警戒警報が解除されたあとに爆撃が開始され、空襲警報の発令が最初の爆弾投下から7分後と遅れたのに対して、4月13日は警戒警報発令が午後10時44分、B-29の爆撃開始が午後10時57分、空襲警報が午後11時と、警戒警報の解除はなかったものの前回に引き続き空襲警報が3分遅れていたが、その後の5月24日は警戒警報発令が午前1時5分、空襲警報が午前1時36分、B-29の爆撃開始が午前1時39分、5月25日は警戒警報発令が午後10時2分、空襲警報が10時22分、B-29の爆撃開始が午後10時38分と、空襲開始前に空襲警報が発令できたことや、疎開が進んだこと、市民が消火より避難を優先するようになったことが挙げられる。東京の人員疎開は1944年3月3日に東條内閣閣議決定した「一般疎開促進要綱」に基づき進められ、1944年2月に6,658,162人であった東京の人口は1945年2月には4,986,600人(1944年2月比75%)まで減少していた。3月10日の焼夷弾攻撃ののち、東京都はさらに疎開を進めることとし、3月13日から4月4日の約1か月で82万人、4月13日の空襲ののちにさらに60万人、5月25日の空襲ののちには77万人を地方に転出させた。そのため、1945年5月の人口は3,286,010人と1944年2月比で半減し、6月には2,537,848人(同39%)まで減っている。それでも残った都民は焼け野原に仮小屋を建てたり防空壕で生活する者もあった。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "焼失面積は2日間で合計22.1平方マイル(57.2 km)に及び、1945年2月19日、2月25日、3月10日の3回の空襲で焼失した16.8平方マイル(43.5 km)を上回った。そしてこの2日間分を含めた東京の空襲での焼失面積は56.3平方マイル(145.8 km)となり、緑地や建物がまばらな地域を除いてアメリカ軍が東京市街地として判定していた110.8平方マイル(286.9 km)の50.8%を焼き払ったこととなった。すでに東京は、名古屋、大阪、横浜、川崎などの主要都市と同様に破壊されつくされたと判定されて、主要爆撃リストの目標から外されることとなった。",
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1945年5月25日の空襲では、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520 mのうち18,239 mを焼失して4時間後にようやく鎮火した。御文庫附属庫に避難していた昭和天皇と香淳皇后は無事であったが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出たが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている。皇居は1945年7月20日に、原子爆弾投下の演習として全国各地に投下されていたパンプキン爆弾の目標となっている。この日、パンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、昭和天皇を殺害するために攻撃が禁止されていた皇居を目標とすることにした。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は八重洲口側の皇居の堀に着弾して、死者1人と負傷者62人を出した。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。",
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"paragraph_id": 64,
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"text": "日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している。戦後にアメリカ軍による戦略爆撃の効果を調査した米国戦略爆撃調査団が、日本の戦争指導者や一般国民に調査したところ、日本が戦争に敗北すると認識した国民の割合については、1944年6月まではわずか国民の2%に過ぎなかったが、1945年3月10日の空襲以降に19%、その後空襲が激化した1945年6月には46%に跳ね上がり、終戦直前に68%となっていた。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "5月24日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになったが、アメリカ軍が日本軍に撃墜されたと記録しているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と、3月10日と同様に連絡つかずに行方不明となった20機は原因未確認の損失とされて、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない。",
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"tag": "p",
"text": "しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、原因未確認の損失の中の大部分は日本軍により撃墜したものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 67,
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"text": "日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めており、大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が作戦変更により夜間の爆撃が増加したため、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基 - 12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆ方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、日本軍防空陣とB-29の間で激しい駆け引きが行われていた。",
"title": "空襲の経過"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被った。ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念して対策を講じるように指示してきたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた。次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった。さらに、P-51がB-29の護衛として多数飛来する頃には、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとっている。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している。それでも、アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争(大東亜戦争)における延べ出撃数に対する戦闘損失率は1.32%とされているが、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となっており、首都圏で日本軍は奮戦していた。一方で、同じ枢軸国ドイツの首都ベルリン空襲におけるアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率で、B-29の高性能さと日本軍の防空戦闘能力の脆弱さを如実に表しており、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった。",
"title": "空襲の経過"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災および東京大空襲についての展示がある。この他、大規模被災地域には、主に住民の手による慰霊碑が数多く設置されている。",
"title": "戦後"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2013年3月時点で79941名が登載)を納めている。2019年3月現在、81147名登載。2020年3月に81,273名登載。東京都は名簿への登載を受け付けている。(受付について 東京都生活文化局 東京空襲犠牲者名簿)",
"title": "戦後"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "毎年、横網町公園は、大法要が行われる3月10日(東京都平和の日)と9月1日には東京空襲犠牲者名簿が納められている「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の内部を公開している。",
"title": "戦後"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴を行った。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法によって動員された民間人は補償が行われていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。法的根拠は、ハーグ陸戦条約3条違反の無差別攻撃であった東京大空襲を行ったアメリカ政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲被害について外交保護権を放棄した。これは憲法17条の公務員の不法行為に該当する、また戦時災害保護法によって国は救済義務を負っているが懈怠した、などというものだった。なお、2006年には日本軍による重慶爆撃に対する謝罪と賠償を求めた重慶大爆撃賠償請求訴訟が開始している。",
"title": "戦後"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2009年12月14日の1審判決で請求棄却 。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した。棄却理由の中で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会が立法で行うとした点について、敗訴した原告側弁護団も「国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだ」として評価した。",
"title": "戦後"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償を行う「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された",
"title": "戦後"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "朝鮮人被害者については体験者の証言から当時の状況を記録する運動もあり、さらに、朝鮮人強制連行によって東京に強制連行された朝鮮人が東京大空襲の被害にあったと主張する朝鮮人強制連行被害者・遺族協会も2008年に報告書を発表している。報告書では、東京での朝鮮人強制労働犯罪、そして東京大空襲による朝鮮人強制連行被害者の惨状などが報告された。朝鮮新報は2008年6月6日記事で「日帝は、空襲があった後に天皇がこの地域を訪れるという口実を設けて、朝鮮人ら死者に対する身元調査すらしないまま、67カ所の公園と寺院、学校の運動場などに土葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息を引き取った朝鮮人の遺骨を自分勝手にむちゃくちゃに処理する反人倫的な蛮行を働いた」「東京大空襲で多数の朝鮮人が犠牲になったのは、全的に旧日本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因する」とし、日本政府は被害者の遺骨を遺族に送るべきだったし、さらに南北朝鮮を差別して北朝鮮には一切の遺骨が返還されておらず、これは国際人道法と日本の刑法に違反している重大な人権侵害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じるべきと主張している。",
"title": "戦後"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされた。第一次世界大戦後の1922年、ハーグ空戦規則が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた。",
"title": "戦後"
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"text": "日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。",
"title": "戦後"
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"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "国内法でも軍人、軍属とその遺族への特別援護政策が採られた一方で、非軍人に対しては不十分な対策しか講じられていないとして議論がある。",
"title": "戦後"
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"text": "1964年12月4日、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮した米空軍司令官カーチス・ルメイ大将に対し、第1次佐藤内閣が勲一等旭日章の叙勲を閣議決定する。理由は航空自衛隊育成の協力で、授与は7日に行われた。",
"title": "戦後"
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"text": "当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた。",
"title": "戦後"
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"text": "爆撃直後にルメイは「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と空襲の成果に胸をはったが、民間人の大量虐殺については、「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行ったとされる残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった...我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ...大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている。",
"title": "戦後"
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"text": "また、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している。兵士に向けては「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。",
"title": "戦後"
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"text": "日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任があるが、爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃(無差別爆撃)の枠組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行などルメイ就任前から進められていた。",
"title": "戦後"
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"text": "2013年5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカ合衆国への直接的な批判は事実上避けている。",
"title": "戦後"
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"text": "(東京大空襲・下町空襲)。死者10万人。負傷者100万人。",
"title": "空襲の一覧"
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"text": "空襲による被害者の総数は不明であるが、1995年の東京新聞調査では全国で55万9197人、東京で11万6959人であった。8万3793名が死亡したとする説もある。",
"title": "被害"
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"text": "行方不明(死亡認定)",
"title": "被害"
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"text": "東京都内神社236〜326社が被災したとされる。",
"title": "被害"
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"text": "戦災で焼失したものは国の指定文化財だけでも170点に上る。",
"title": "被害"
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"text": "東京の市街地でも空襲を免れた区域がある(上図「戦災概況図」参照)。周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、神田区須田町(現在の千代田区神田須田町)や向島区(現在の墨田区京島)が挙げられる。須田町では神田川が、向島区では東武亀戸線沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。ただし、「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在に至るまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われているが、自動車が通れないがゆえに重大な交通事故の発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。中央区の佃島・月島地区も晴海運河が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった対岸部の深川区(現在の江東区)とは、明暗が分かれた形となった。",
"title": "被害"
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"text": "丸の内・有楽町付近では東京府庁と東京駅が空襲を受け全半壊したものの、内堀通り一帯の第一生命館や明治生命館などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。宮城は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。",
"title": "被害"
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"text": "東京帝国大学付近はロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。",
"title": "被害"
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"text": "また築地や神田神保町一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院や救世軍本営があったからとも言われるが定かではない。築地には木村屋總本店のパン工場があり、戦後の占領・駐留を見越して、食糧調達のため爆撃の対象から外したとされる。神保町を空襲しなかった理由に古書店街の蔵書の焼失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の名古屋大空襲で国宝名古屋城を焼いたり、ドイツのドレスデン爆撃などで文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお、日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ、現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された。",
"title": "被害"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年のドーリットル空襲から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。",
"title": "記録"
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{
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"text": "東京都江戸東京博物館やすみだ郷土文化資料館には東京大空襲に関する展示がある。2001年開館を目指して東京都平和祈念館の建設も計画されたが、実現していない。",
"title": "記録"
}
] | 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。 | {{Redirect|東京空襲|東京初空襲|ドーリットル空襲}}
{{Otheruses||テレビドラマ|東京大空襲 (テレビドラマ)}}
{{Pathnav|第二次世界大戦|太平洋戦争|日本本土の戦い|日本本土空襲|frame=1}}
{{暴力的}}
[[ファイル:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|280px|焦土と化した[[東京]]。[[本所区]]松坂町、元町(現在の[[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]])付近で撮影されたもの。右側にある川は[[隅田川]]、手前の丸い屋根の建物は[[両国国技館]]。]]
[[ファイル:Tokyo-kushu-hikaku.jpg|thumb|280px|空襲前(左)と空襲後(右)の[[空中写真|航空写真]]。左の縦に流れる川が隅田川、右上の川が荒川]]
[[ファイル:Photo-TokyoAirRaids-1945-3-10-Destroyed Nakamise-3.png|right|280px|thumb|3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺]]
[[ファイル:B-29 bombing.jpg|thumb|280px|東京を空襲している[[B-29_(航空機)|B-29爆撃機]](1945年のものであるが詳細な日時は不明)]]
[[File:Sensai-tokyo lower reolsion.jpg|thumb|280px|東京市(当時)の空襲被害状況をまとめた地図(戦災概況図)<ref name="Sensai-tokyo">{{Cite web|和書|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0203000000_3/0000000113/00 |title=戦災概況図東京|accessdate=2019-09-17}}</ref>。空襲日ごとの罹災地域が分かる。1945年12月、戦災の概況を[[復員兵|復員帰還者]]に知らせるために[[第一復員省]]が作成した。]]
'''東京大空襲'''(とうきょうだいくうしゅう)は、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])末期に[[アメリカ合衆国]]により行われた、[[東京都区部]]に対する[[M69焼夷弾]]などの[[焼夷弾]]を用いた大規模な[[戦略爆撃]]の総称。日本各地に対する[[日本本土空襲]]、[[日本への原子爆弾投下|アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下]]、[[沖縄戦]]と並んで、東京の都市部を標的とした[[無差別爆撃]]によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上{{efn2|確認された死者の遺体数は約10万5400人である<ref>{{Cite web|和書|title=東京大空襲とは|url=https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/|website=東京大空襲・戦災資料センター|accessdate=November 29, 2020}}</ref>。}}{{efn2|[[疎開]]などによる住民避難などが始まる前の、[[1940年]]時点での[[東京市]]の人口は約680万人である<ref>{{Cite web|和書|title=35区の人口 1908年~1945年|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0714ku_jinkou.pdf|website=東京都総務局|accessdate=November 29, 2020}}</ref>。}}、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった{{Sfn|水間|2013|pp=142-146}}。
== 概要 ==
[[東京都]]は1944年([[昭和]]19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで<ref>[[内田百閒]]『東京焼盡』11 月 24 日、12 月 6 日分。筑摩書房〈ちくま文庫、内田百閒集成 22〉、2004年、19 ページ、23 ページ。</ref>合計106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日〜26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、'''死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」<ref>[[奥住善重]]・[[早乙女勝元]]『東京を爆撃せよ - 作戦任務報告書は語る - <三省堂新書 157>』[[三省堂]]、1990年6月20日 第1刷発行、ISBN 4-385-43157-4、57頁。</ref>。Meetinghouse 2<ref>Ronald Schaffer, ''Wings of Judgment - American Bombing in World War II'', 1988, [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]], {{ISBN2| 0-19-505640-X}} (PBK.), p. 238, Report of Operations 10 March 1945 (LeMay to Commanding General Twentieth Air force, Apr.15, 1945), folder Meetinghouse 2, Mission 40, Tokyo Urban Area, RG 18, NA.</ref>)'''を指す({{Years or months ago|1945|3}}){{efn2|『昭和37年警視庁史昭和前編』の記録で、死者は8万4千人に及んだとされる<ref>{{Cite web|和書|title=東京都における戦災の状況(東京)|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_11.html|website=総務省|accessdate=November 29, 2020}}</ref>。}}<ref>[[#奥住|奥住(1990年)]]、58頁。</ref>{{sfn|内藤光博|2009}}<ref>{{cite web|title= Hellfire on Earth: Operation MEETINGHOUSE|url= https://www.nationalww2museum.org/war/articles/hellfire-earth-operation-meetinghouse|date=2020-03-08|website=[[:en:The National WWII Museum|The National WWII Museum]]|accessdate=2021-03-08}}</ref>。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え{{sfn|内藤光博|2009}}、死者は9万5千人を超えたといわれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ |title=東京大空襲とは |access-date=2023-7-15 |publisher=東京大空襲・戦災資料センター}}</ref>。なお、当時の新聞報道では「'''東京大焼殺'''」と呼称されていた{{Sfn|水間|2013|pp=142-146}}。
== 対日戦略爆撃計画 ==
=== 焼夷弾爆撃有効度別地域 ===
[[ファイル:US Strategic Bombing of Tokyo 1944-1945.png|thumb|250px|アメリカ軍による空襲計画の地図(米軍報告「東京-川崎-横浜都市複合体に対する空襲攻撃の効果」)]]
1942年には[[ナパーム弾|ナパーム]]を使った[[M69焼夷弾]]が開発され、1943年の[[国防研究委員会]](NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については[[焼夷弾]]爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した<ref name="imai">今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧</ref><ref>E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年</ref>。
*最有効地域1:都市中心部商店街地域、密集地域、住宅工場混在地域で一マイル四方あたりの人口密度9万1000人、都市人口の25%を占める地域。この地域は一平方マイルあたり6トンの焼夷弾で焼き尽くすことが可能。
*有効地域2:港湾施設、倉庫、貨車操車場などもある住宅地域、住宅工場混在地域、工場地域で一マイル四方あたり人口密度5万4000人、都市人口の46%以上を占める地域。これは一平方マイルあたり10トンの焼夷弾で焼き尽くすことが可能。
*非有効地域:最有効地域1、有効地域2以外の郊外の住宅地域や防火設備の整ったオフィス街を含む工場地帯。
*空爆目標の日本全国20都市主要部はM69焼夷弾1700トンで焼き尽くすことが可能。
=== 大規模攻撃報告書 ===
[[日本本土空襲|日本本土に対する空襲作戦]]は、綿密な[[地勢|地勢調査]]と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。
アメリカ軍は早くから[[江戸時代]]に頻発した[[江戸の大火]]や1923年の[[関東大震災]]の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。
具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された<ref name="imai"/>。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は[[浅草区]]の13万5000人が最大で、これに[[本所区]]・[[神田区]]・[[下谷区]]・[[荒川区]]・[[日本橋区]]・[[荏原区]]が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた[[郊外]]に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の[[深川区]]の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された<ref name="imai"/>。<!--東京大空襲の被害地域・規模は[[関東大震災]]の延焼地域とほぼ一致しているのは偶然の一致ではなく、そして大震災時を大幅に上回った。--><!--諄々蛇足-->
==== 使用爆弾 ====
[[ファイル:British SBC WWII IWM CH 6267.jpg|thumb|200px|日本にも投下されたM50焼夷弾の原型であるイギリス軍の4ポンド焼夷弾(六角形をした金属製の棒状のもの)、この写真のように小型の焼夷弾を多数収束して投下した]]
[[File:M69 6-pound Napalm Incendiary Bomb, Niigata Prefectural Museum of History.jpg|thumb|200px| M69焼夷弾([[新潟県立歴史博物館]]蔵)]]
アメリカ陸軍航空隊の伝統的な[[ドクトリン]]は軍事目標に対しての精密爆撃であり、第二次世界大戦が始まった当時は航空機から投下する焼夷弾を保有していなかった。焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍は[[アメリカ陸軍航空軍]]司令官[[ヘンリー・アーノルド]]大将自らイギリスに飛んで[[イギリス軍]]の焼夷弾と、イギリス軍が[[ロンドン空襲]]において回収していた[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]軍の[[不発弾]](900g[[マグネシウム]]弾)を譲り受けて[[焼夷弾]]の開発を開始した{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。
日本に投下された主な焼夷弾
* [[焼夷弾|M47焼夷爆弾]](AN-M47A2)。100ポンド(45㎏)の[[ナパーム弾]](ゲル化ガソリン)でアメリカ軍最初の焼夷弾。鉄製の弾筒内にゼリー状に加工した油脂約18㎏を封入し、弾頭に火薬を装填した。屋根を突き破って屋内に入り爆発してナパーム剤を円錐状に飛散させた{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=219}}
* [[焼夷弾|M50焼夷弾]](AN-M50A2)。4ポンド(1.8㎏)のマグネシウム焼夷弾で、イギリス軍のM2焼夷弾をアメリカ陸軍が制式化したもので、[[アルミニウム]]粉末と[[酸化鉄]]を六角形の形をした筒状の金属製容器に充填している。直径5cm、長さ35cm、重量2㎏で小型の焼夷弾であり、34発が収束されていたが、一定の高度でバラバラになって落下した。元々はドイツのコンクリート建造物を破壊する目的で製造されたが、木造の家屋によく適していた{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=219}}<ref name="名前なし-1">平塚市博物館公式ページ ひらつか歴史紀行 『第38回 平塚空襲 その2(平塚空襲に投下された焼夷弾)』</ref>
* [[M69焼夷弾]](AN-M69)。6.2ポンド(2.7㎏)ナパーム弾。1942年に開発されたM56尾部点火式爆弾の改良型。直径8cm、長さ50㎝、でM50焼夷弾と同様に、六角形の金属製容器にゼリー状のナパーム剤とマグネシウムが充填されてあったが、通常38発が収束されてE46-500ポンド収束爆弾([[クラスター爆弾]])として投下された。一定の高度でバラバラになって落下したが、他の焼夷弾との相違点は[[水平安定板]]がなく、代わりに1.2mの「ストリーマー」と呼ばれる[[綿]]製のリボンが落下時に尾部から飛び出して、姿勢の安定と落下速度の調整を行った。[[日本の住宅|日本家屋]]の瓦屋根を貫通させるためには激突時の速度をあまり早くする必要はなく、ストリーマーによる減速で M50焼夷弾の1/4の速度に抑えられた。このストリーマーに火がついて燃えながら落下してくることが多かったので、あたかも“火の雨”が降ってくるように見えたという。六角形の金属製容器が建物の屋根を突き破ると、導火線が作動し5秒以内に[[TNT火薬]]が炸裂、その後に混入されたマグネシウム粒子によって、布袋に入ったナパーム剤を点火し、その推力で六角形の金属製容器を30m飛ばして半径27mもの火の輪を作り周囲を焼き尽くした{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=221}}<ref name="名前なし-1"/>。内部に詰められたゼリー状のナパーム剤から、この焼夷弾は「goop bomb」(ベトベト爆弾)と呼ばれていた{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=220}}。
<!--日本本土への焼夷弾攻撃に使用されたのは、新型の集束焼夷弾[[焼夷弾#M69|E46]] ([[焼夷弾#M69|M69]]) を中心とする[[油脂]][[焼夷弾]]、[[白リン弾|黄燐焼夷弾]]や[[エレクトロン焼夷弾]]、ゼリー状の[[ガソリン]]を約50センチメートルの筒状の容器に詰めたなどである。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「[[クラスター爆弾|クラスター焼夷弾]]」と呼ばれた。--><!--諄々蛇足-->
<!--使用された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構造のものだった。通常の航空爆弾では、瞬発または0.02–0.05秒の遅発[[信管]]が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の[[日本の住宅|日本家屋]]を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。都内では当時すでに、関東大震災を教訓にした燃えにくい素材で建物を補強する対策がなされていた。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させ、中から延焼させる仕組みのこれら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは--><!--出典皆無につきコメントアウト、ただし一部出典に沿った記述を使用-->
:アメリカ軍はM69焼夷弾の開発にあたって、1943年3月に[[ダグウェイ実験場]]([[ユタ州]])での実戦さながらの実験を行っている。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、[[日系人]]の多い[[ハワイ]]からわざわざ資材を取り寄せ、日本に18年在住した建築家が設計するといった凝りようであり、こうして建てられた日本家屋群には[[日本村]]という名前が付けられた{{Sfn|ルメイ|1991|p=200}}。M69焼夷弾のナパーム剤で炎上した日本式家屋は、日本の消防隊を正確に再現した消防隊の装備では容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=220}}。
3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、[[ロッキーマウンテン兵器工場]]で製造された<ref>{{cite web|title= Napalm in War|url= https://www.globalsecurity.org/military/systems/munitions/napalm-war.htm|website=[[:en:GlobalSecurity.org|GlobalSecurity.org]]|accessdate=2022-02-16}}</ref>。
=== 毒ガス散布計画案 ===
連合国は、[[東京市]]に効果的に[[化学兵器|毒ガス]]を散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、[[マスタードガス]]・[[ホスゲン]]などが候補に挙がっていた<ref>[http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article6579417.ece Britain considered chemical attack on Tokyo in 1944] Times June 26, 2009</ref>。[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]は「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=249}}。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年に{{仮リンク|メリーランド州ベルツビル|en|Beltsville, Maryland}}にある[[アメリカ合衆国農務省]]研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる[[生物兵器]]となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である[[米]]や[[サツマイモ]]などは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、[[2,4-ジクロロフェノキシ酢酸]]を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=251}}。
人間に対して使用する[[細菌兵器]]の開発も進められた。[[炭疽菌]]を充填するための爆弾容器100万個が発注され、[[ダウンフォール作戦]]までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月に[[ダグラス・マッカーサー]]大将たちとの作戦会議のため[[ハワイ]]へ向かう[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]を乗せた重巡洋艦[[ボルチモア (重巡洋艦)|ボルチモア]]艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]は「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=257}}。
== 空襲の経過 ==
=== 背景 ===
[[ファイル:Philippine Sea location.jpg|thumb|280px|[[フィリピン海]](図中央)の東に位置する[[マリアナ諸島]]。南端は[[グアム]]で、北には[[小笠原諸島]]があり、[[伊豆・小笠原・マリアナ島弧]]を形成している。]]
{{See|日本本土空襲|ドーリットル空襲}}
1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての[[日本本土空襲]]となる[[ドーリットル空襲]]が[[航空母艦]]からの[[B-25 (航空機)|B-25]]爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した<ref name="nissi">「東京都戦災史 戦災日誌」昭和28年。リーフレット「東京空襲犠牲者を追悼し平和を記念する碑」東京都生活文化局文化振興部文化事業課、平成25年3月。</ref>{{Sfn|水間|2013|pp=94-95}}。死者は39人<ref name="jijyu"/>。
{{See|マリアナ・パラオ諸島の戦い|サイパンの戦い}}
1943年8月27日、[[アメリカ陸軍航空軍]]司令官[[ヘンリー・アーノルド]]大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、[[焼夷弾]]([[ナパーム弾]])の使用に関しても言及{{sfn|荒井信一|2008|p=108}}。この時、アーノルドは科学研究開発局長官[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]から「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない{{sfn|荒井信一|2008|p=133-134}}。
1944年からの[[マリアナ・パラオ諸島の戦い]]で[[マリアナ諸島]]に進出したアメリカ軍は、6月15日に[[サイパンの戦い]]で[[サイパン島]]に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日には[[P-47 (航空機)|P-47]]戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んで[[サイパン国際空港|コンロイ・イズリー飛行場]](現在[[サイパン国際空港]])改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機[[B-29 (航空機)|B-29]]の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=208}}。同様に、[[グアム]]でも8月10日に[[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]でアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用して[[アンダーセン空軍基地]]など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領した[[テニアン島]]にも[[ハゴイ飛行場]](現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在[[テニアン国際空港]])が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設により[[B-29 (航空機)|B-29]]の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった<ref name="ysd154">[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]「アジア太平洋戦争」岩波書店2007,p154-5.</ref>。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した<ref name="ysd154"/>。
=== サン・アントニオ作戦 ===
[[ファイル:Briefing for attack on Tokyo November 1944.jpg|thumb|200px|1944年11月のブリーフィングで地図上の東京を指し示す第21爆撃機集団司令ヘイウッド・ハンセル准将]]
1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であった[[ヘイウッド・ハンセル]]准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=143}}。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、[[官営八幡製鐵所|八幡製鐵所]]などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、[[三菱重工業]]、[[中島飛行機]]、[[川崎重工業航空宇宙システムカンパニー|川崎航空機工業]]の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪市|大阪]]などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=208}}。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による[[絨毯爆撃]]も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=209}}。
1944年11月1日にB-29の偵察型F-13の[[Tokyo Rose|トウキョウローズ]]がドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は[[帝都]]初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった{{Sfn|渡辺|1982|p=202}}。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=403}}。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=210}}。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー[[東京ローズ]]に「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=146}}。
11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は'''「サン・アントニオ1号作戦」'''と名付けられた{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=169}}。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220㎞/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちに[[ジェット気流]]であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720㎞/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった{{Sfn|デイビッド|1983|p=106}}。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、[[ノルデン爆撃照準器]]を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で<ref name=nhk001>「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」</ref>、主要目標の工場施設の損害は軽微であった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=413}}。主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた<ref name="nissi"/>。
[[東部軍 (日本軍)|東部軍]]司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した{{Sfn|渡辺|1982|p=219}}。迎撃には陸軍航空隊のほか、[[第三〇二海軍航空隊]]も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため{{Sfn|マーシャル|2001|p=100}}、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=148}}。それでも日本軍は[[震天制空隊]]の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=413}}、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=148}}{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=211}}。
1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=169}}、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で[[神田区]]や[[日本橋区]]を爆撃し、火災は夜明けまで続いた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=417}}。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが<ref name="nissi"/>、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった{{Sfn|小山|2018|p=19}}。
[[File:B-29 bombers over Mount Fuji.jpg|thumb|right|280px|富士山を見下ろしながら飛行するB-29、東京侵入の第一の目印は富士山であった]]
その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、[[杉並区]]、[[板橋区]]などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが<ref name="nissi"/>、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し<ref name=nhk001>「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」</ref>、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが{{Sfn|小山|2018|p=21}}、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=150}}。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが{{Sfn|小山|2018|p=22}}、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=153}}。
ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官[[カーチス・ルメイ]]准将は、[[焼夷弾]]を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国[[成都]]基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた([[漢口大空襲]])。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した<ref>[http://www.chinaww2.com/2015/09/16/the-us-firebombing-of-wuhan-part-2/ "The US Firebombing of Wuhan"]</ref>。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。
漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=152}}。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった{{Sfn|柏木|1972|p=89}}。
年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=154}}。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにも関わらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=217}}、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=154}}。
1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=154}}。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った{{Sfn|ルメイ|1991|p=178}}。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=216}}。第20爆撃集団はルメイ離任後には[[クアラルンプール]]に司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している{{Sfn|ルメイ|1991|p=179}}。
戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な[[地域爆撃]](無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の[[罷免]]は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり<ref name="名前なし-2">東京都板橋区『板橋区平和祈念マップ』2017年4月</ref>、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた{{sfn|荒井信一|2008|p=128-129}}。
=== ミーティングハウス作戦 ===
==== 1号作戦 ====
[[ファイル:Tokyo Kushu 1945-1.jpg|thumb|280px|1945年1月27日の空襲で[[数寄屋橋]]上を逃げ惑う親子、この日の爆撃の主目標は中島飛行機武蔵製作所であったが、市街地も爆撃されて大きな損害が生じた]]
1945年1月27日、B-29は[[中島飛行機武蔵製作所]]を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である[[有楽町]]・[[銀座]]地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び[[有楽町駅]]は民間人の遺体で溢れるなど<ref name="okuzumi168"/>、死者539人<ref name="nissi"/>、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=413}}。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=412}}。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=168}}。
1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=32}}、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に[[焼夷弾]]が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった<ref name="okuzumi33"/>。
作戦名は'''ミーティングハウス1号'''(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=37}}。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、[[神田駅 (東京都)|神田駅]]を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった<ref name="nissi"/>。[[皇居|宮城]]も主馬寮厩仕合宿所が[[焼夷弾]]によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった<ref name="jijyu"/>。
ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=56}}、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった{{Sfn|マーシャル|2001|p=200}}。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=53}}、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=57}}。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=49}}。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=485}}。
1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながら[[ノルデン爆撃照準器]]による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空から[[レーダー]]照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部から[[ジェット気流]]に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった<ref name="okuzumi33">[[#奥住|奥住(1990年)]]、33頁。</ref>。
==== 2号作戦 ====
[[ファイル:USAAF photo of Tokyo after the 10 March air raid.jpg|thumb|280px|1945年3月10日、空襲直後の日中の東京]]
[[ファイル:Photo-TokyoAirRaids-1945-3-10-Honjo Salvage.png|thumb|280px|本所区菊川橋付近での水死者の遺体の引上(石川光陽撮影)]]
[[ファイル:Tokyo kushu 1945-4.jpg|thumb|280px|鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)]]
1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており<ref>According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 261 table165</ref>、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた{{Sfn|渡辺|1982|p=268}}。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=111}}。
アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された{{Sfn|ルメイ|1991|p=199}}。
# [[ジェット気流]]の影響を受けないこと。平均風速300㎞/h、最大時では500㎞/hに達するジェット気流は高度10,000mぐらいに一番強く吹いていたが、ちょうどその高度はB-29による高高度爆撃の高度にあたっていたため、ジェット気流に逆行するときには、ひどいときには対地速度が0になり、B-29が空中に浮かんでいる[[凧]]同然になっていることもあった{{Sfn|デイビッド|1983|p=154}}
# エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること
# 爆撃の精度が格段に向上すること。アメリカ軍は[[弾道学]]に基づいて精密に計算して作成したデーターブックを使用していたが、高高度爆撃ではジェット気流の影響もあって何の役にも立っておらず、精密爆撃の精度を低下させる最大要因となっていた{{Sfn|デイビッド|1983|p=154}}
# 高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることができた
ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した{{Sfn|デイビッド|1983|p=155}}。ルメイの作戦変更には漢口大空襲での成功体験も後押しとなった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。
しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず{{Sfn|ルメイ|1991|p=201}}、B-29[[尾部銃手|尾部銃座]]以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、[[編隊]]は防御重視の[[:en:Combat box|コンバット・ボックス]]ではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高い[[パスファインダー]]の爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル([[単縦陣]])に変更した{{Sfn|デイビッド|1983|p=156}}。
'''「ミーティングハウス2号作戦」'''と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する[[下町]]の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が[[軍需産業]]の生産拠点となっているためと理由付けしていた。東京大空襲・戦災資料センターによれば、大型の軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標で、住民の大量殺害により戦争継続意思を削ぐことが主目的だったとしている<ref name=":0" />。
アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである<ref>[[#奥住|奥住(1990年)]]、72頁。</ref>。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している{{Sfn|マーシャル|2001|p=228}}。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは[[葉巻きたばこ|葉巻]]を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している{{sfn|荒井信一|2008|p=136-137}}。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた{{Sfn|マーシャル|2001|p=211}}。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃[[航空団]]で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは[[原子爆弾]]の開発計画である[[マンハッタン計画]]の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた {{仮リンク|トーマス・パワー|en|Thomas S. Power}}准将を代わりに出撃させることとした{{Sfn|ルメイ|1991|p=203}}。
[[ファイル:Norstad, LeMay, Power.jpg|thumb|200px|出撃したトーマス・パワー准将(右)から「ミーティングハウス2号作戦」の報告を受ける第20空軍参謀長ローリス・ノースタッド准将(左)とカーチス・ルメイ少将(中央)]]
本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が[[房総海岸]]近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=77}}。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー[[超短波警戒機乙]]は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=487}}。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が[[勝浦市]]南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、[[日本標準時]]9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が[[房総半島]]沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった<ref name="okuzumi76">[[#奥住|奥住(1990年)]]、76-77頁。</ref>。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の[[館山市|洲崎]]対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた[[第12方面軍 |第12方面軍 (日本軍)]]が情報を検討中の{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=487}}、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し<ref name="okuzumi76"/>、0時7分に
*第一目標 - [[深川区]](現在の[[江東区]])
*第二目標 - [[本所区]](現在の[[墨田区]])
*第三目標 - [[浅草区]](現在の[[台東区]])
*第四目標 - [[日本橋区]](現在の[[中央区 (東京都)|中央区]])
へ初弾が投下されたのを皮切りに、[[城東区 (東京都)|城東区]](現在の江東区)にも爆撃が開始された。[[空襲警報]]は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の[[海野十三]]は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=77}}。
出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=78}}。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空から[[エレクトロン焼夷弾]]を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた{{Sfn|デイビッド|1983|p=156}}。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれることになる領域に向けて集束焼夷弾[[焼夷弾#M69|E46]]を集中的に投弾した。これは50キロの大型焼夷弾で、目標地域に4か所の爆撃照準点を設定してこれを投下することで、大火災を起こして消火活動をまひさせ、その後の小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たすことを期待していたという<ref name=":0" />。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=77}}。
0時20分には[[芝区]](現在の[[港区 (東京都)|港区]])に対する爆撃も開始された。
北風や西風の強風の影響もあり、火災は目標地域をこえ、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など下町の大部分を焼き尽くした<ref name=":0" />。結局、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった<ref name="nissi" />。災難の中で昭和天皇の初孫の[[東久邇信彦]]が[[防空壕]]で誕生した日でもあった。
一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する[[機銃掃射]]も行われた<ref>[[#奥住|奥住(1990年)]]、79-80頁。</ref>。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる<ref>[[#奥住|奥住(1990年)]]、73頁。</ref>。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=221}}。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという{{Sfn|マーシャル|2001|p=213}}。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は[[関東大震災]]のさいにも発生した[[火災旋風]]が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による[[乱気流]]に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた{{Sfn|マーシャル|2001|p=214}}。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている{{Sfn|デイビッド|1983|p=159}}。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった{{Sfn|マーシャル|2001|p=214}}。
誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空から[[スケッチ]]するため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは[[昭和天皇|天皇]]すら予想できぬ」と語った<ref name="yom18"/>。
===== 被害規模 =====
[[ファイル:Tokyo kushu 1945-3.jpg|thumb|200px|[[警防団]]と思われる焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人、民間の調査では10万人以上といわれている。([[石川光陽]]撮影)]]
[[ファイル:Tokyo kushu 1945-2.jpg|thumb|200px|母子と思われる2つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない。(石川光陽撮影)]]
[[ファイル:Photo-TokyoAirRaids-1945-3-10-Ueno Dead Bodies.png|thumb|200px|火葬が間に合わないので仮埋葬するため上野公園の両大師脇に下谷・浅草から運ばれた遺体]]
当時の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の調査での被害数は以下の通り。
*死亡:83,793人<ref name="nissi"/>
*負傷者:40,918人
*被災者:1,008,005人
*被災家屋:268,358戸<ref name="nissi"/>
人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は'''世界史上最大'''である。両親を失った[[戦災孤児]]が大量に発生した。外国人、および[[外地]]出身者の被害の詳細は不明。
また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている<ref name="chosip"/><ref>季刊「戦争責任研究」(日本の戦争責任資料センター)第53号</ref>。
この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による[[火災]]の煙は高度1万5000メートルの[[成層圏]]にまで達し、秒速100メートル以上という[[竜巻]]並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった<ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-20.html |title=THE PACIFIC: MATTERHORN TO NAGASAKI JUNE 1944 TO AUGUST 1945 Chapter 20 Urban Area Attacks P-616|language=English|accessdate=2019-05-12}}</ref>。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した<ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-20.html |title=THE PACIFIC: MATTERHORN TO NAGASAKI JUNE 1944 TO AUGUST 1945 Chapter 20 Urban Area Attacks P-617|language=English|accessdate=2019-05-12}}</ref>。
当夜の[[西高東低|冬型の気圧配置]]という気象条件による強い[[モンスーン|季節風]](いわゆる[[からっ風|空っ風]])は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった[[荒川 (関東)|荒川放水路]]周辺や、その外側の[[足立区]]や[[葛飾区]]、[[江戸川区]]の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた[[鉄筋コンクリート]]造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な[[火災旋風]]が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に[[酸素]]を奪われて[[窒息]]によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の[[隅田川]]・[[荒川放水路]]等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、[[日光街道]]・[[東武鉄道|東武]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]沿いに[[春日部市|春日部]]・[[古河市|古河]]方面へ脱出した人々には生存者が多かった。また、空襲を避ける為各地で[[防空壕]]が設けられそこに避難した人々も多かったが、防空壕の換気が不十分の為酸欠状態となりそこで[[窒息死]]する人々も多かった<ref>{{Cite book|和書|editor=[[野口悠紀雄]]|title=戦後経済史 私たちはどこで間違えたのか|year=2015|publisher=東洋経済新報社|id=ISBN 978-4-492-37118-3}} </ref>。
日本の総理大臣[[小磯國昭]]([[小磯内閣]])はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}}、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた<ref>1945年3月11日付読売報知新聞「一時の不幸に屈せず、断じて戦ひ抜け」</ref>。[[ラジオ東京]]は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝[[ネロ]]と比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝[[ネロ]]による[[ローマ大火]]の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた<ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-20.html |title=THE PACIFIC: MATTERHORN TO NAGASAKI JUNE 1944 TO AUGUST 1945 Chapter 20 Urban Area Attacks P-617|language=English|accessdate=2019-05-12}}</ref>。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で[[名古屋市|名古屋]]([[名古屋大空襲]])、3月13日、295機で[[大阪市|大阪]]([[大阪大空襲]])、3月16日、331機で[[神戸市|神戸]]([[神戸大空襲]])、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った{{Sfn|小山|2018|pp=41-44}}。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている<ref>朝日新聞 昭和20年6月7日2面「元凶ルメー、思ひ知れ」</ref>。
===== 日本軍による迎撃 =====
[[File:Wagner Book (15716774323).jpg|thumb|left|250px|日本本土と満州でB-29迎撃に活躍した[[二式単座戦闘機|二式単座戦闘機「鍾馗」]]]]
房総半島南端の[[洲崎]]監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった{{Sfn|渡辺|1982|p=282}}。それでも、第10飛行師団 の[[飛行第23戦隊]]([[一式戦闘機|一式戦「隼」]])、[[飛行第53戦隊]]([[二式複座戦闘機|二式複戦「屠龍」]])、[[飛行第70戦隊]]([[二式単座戦闘機|二式戦「鍾馗」]])の計42機と海軍の[[第三〇二海軍航空隊]]から[[月光 (航空機)|月光]]4機が出撃し、陸軍の[[高射砲]]部隊([[高射第1師団 (日本軍)|高射第1師団]])との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた{{Sfn|渡辺|1982|p=282}}。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ<ref>ゴードン・トマス, マックス・モーガン・ウイッツ 『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』 TBSブリタニカ151-152頁</ref>、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}}。出撃時にルメイに不満を抱いていたB-29搭乗員らも予想外の損害の少なさに、ルメイの戦術変更が正しかったと感想を抱いている{{Sfn|マーシャル|2001|p=215}}。
損失の内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認(lost to unknown reasons)とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=185}}、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空では合計7機のB-29が撃墜されたという報告があり{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=200}}、さらに行方不明とされていた1機については[[犬吠埼|銚子岬]]の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにも関わらず、原因未確認の損失とされ{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=185}}、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器の損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。
この日は高射砲による戦果が目立っている。高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの[[八八式七糎野戦高射砲]]と、10,000mの[[九九式八糎高射砲]]は高度8,000m以上で爆撃していたB-29に対しては射高不足であり、少しでも高度を稼ぐため、[[日本劇場]]や[[両国国技館]]の屋上などにも設置されたが、なかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がったので、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができるようになった<ref>{{Harvnb|図説アメリカ軍の日本焦土作戦|2003|p=120}}</ref>。高射第1師団にいた[[新井健之]]大尉(のち[[タムロン]]社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。[[代々木練兵場|代々木公園]]にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が[[青山 (東京都港区)|青山]]の上空ぐらいで爆発して四散していた{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた{{Sfn|ルメイ|1991|p=229}}。
===その後の東京都への空襲 ===
{{Anchors|その後の空襲}}
[[ファイル:Firebombing of Tokyo.jpg|thumb|300px|1945年5月25日夜間に空襲を受ける東京市街。画面中央は現在の[[東京女学館中学校・高等学校|東京女学館]]・日赤医療センター付近、画面下から右上に延びるのは[[渋谷川]]、画面下に[[山手線]]と[[東急東横線|東横線]]の交差と思しきものが見えることから[[広尾 (渋谷区)|広尾]]上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。]]
ミーティングハウス2号の約1か月後となる4月13日に東京に大規模焼夷弾攻撃が計画された。今回は市街地への無差別爆撃ではなく、目標は[[東京第一陸軍造兵廠]]、[[東京第二陸軍造兵廠]]を含む兵器工場群とされたが、目標の中には「工場作業員の住居」も含むとされており、結局のところは市街地への無差別焼夷弾攻撃であった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。作戦名は造兵廠群を含む目標区域の暗号名をとってパーディション作戦と名付けられた{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。327機のB-29が出撃して<ref>{{Cite web|url=https://www.pacificwrecks.com/date/1945/4-45.html |title=April 1945 Today in World War II Pacific History|publisher= Pacific Wrecks|language=English|accessdate=2019-05-06}}</ref>、3月10日の空襲を上回る2,119トンの爆弾が、今までの空襲で最長となる3時間にも渡って投下されたが、そのうち96.1パーセントが焼夷弾であり、11.4平方マイル(29.5 km<sup>2</sup>)が焼失した{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=158}}。空襲により兵器工場群に大きな被害があったのに加えて、[[皇居]]の一部と[[大宮御所]]と[[明治神宮]]にも被害が出た。[[新宿御苑]]には火災から逃れようと市民が殺到したが、守衛が門を固く閉ざして御苑内に市民を入れなかった。市民のうちの1人がなぜ入れないのか問い詰めたところ、守衛は「天皇陛下の芋が植えてある」と答えたため激高した市民が門を打ち壊しにかかり、結局門は開放されて多くの市民が御苑内に避難している{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=100}}。
[[皇居]]などに被害が出たことについて、[[阿南惟幾]]陸軍大臣と[[梅津美治郎]]陸軍参謀総長が宮中に参内して[[昭和天皇]]にお詫びを言上したが、昭和天皇からは「41機の撃墜を報じていた戦果についての御嘉賞の言葉があった」という{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=544}}。この日のB-29の損失はアメリカ軍の記録によれば7機であった<ref>{{Cite web|url=https://www.pacificwrecks.com/date/1945/4-45.html |title=April 1945 Today in World War II Pacific History|publisher= Pacific Wrecks|language=English|accessdate=2019-05-06}}</ref>。
[[沖縄戦]]が開始されると、九州の各航空基地から出撃した[[特攻機]]にアメリカ海軍は大きな損害を被ったので、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ太平洋艦隊]]司令長官兼太平洋戦域最高司令官の[[チェスター・ニミッツ]]元帥からの強い要請により、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、特攻機の出撃基地である九州の飛行場の爆撃任務に回された<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>。特攻機出撃基地への爆撃は1か月以上行われたが、結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。その後、沖縄の飛行場が整備されて戦術作戦担当の爆撃機などが配備されたこともあり、5月11日にはB-29は本来の戦略爆撃任務に復帰したがその間は大都市圏に対する無差別焼夷弾攻撃は中止されていた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=179}}。
戦略爆撃が中止されている間に、英領インドに展開していた第20爆撃集団の第58爆撃航空団がマリアナに合流し、[[第21爆撃集団|第21爆撃機集団]] は4個航空団となっていた{{Sfn|ルメイ|1991|p=179}}。B-29の配備も順調で、5月から6月にかけて、常時400機のB-29が全力出撃できる十分な量の焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた{{Sfn|ルメイ|1991|p=215}}。ルメイは充実した戦力で都市圏への無差別焼夷弾攻撃を強化し、5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機で名古屋を爆撃([[名古屋大空襲]])、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには[[名古屋城]]も含まれていた{{Sfn|柏木|1972|p=132}}。
ミーティングハウス2号とその後の爆撃により大損害を被っていた東京にも総仕上げとして最大規模の焼夷弾攻撃が計画されることになった。今まではミーティングハウスやパーディションなど目標区域の暗号名に則した作戦名が付されていたが、総仕上げの空襲という意味合いもあってか、目標区域は“東京市街地”とされ、暗号名で呼ばれることもなく、特別な作戦名も付されなかった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=127}}。
[[File:Aerial view of the Tokyo Imperial Palace, circa in late August 1945.jpg|thumb|right|300px|1945年8月下旬の終戦直後の皇居、建物の多くが焼失している。アメリカ軍重巡洋艦「[[クインシー (CA-71)|クインシー]]」の偵察機が撮影]]
5月24日未明にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という、3月10日のミーティングハウス2号を上回る大兵力が仕上げの焼夷弾攻撃に投入された{{Sfn|小山|2018|pp=130-131}}。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月23日に3,645トン{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=137}}、5月25日に3,262トンが投下された{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=137}}。これは3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=78}}。
'''1945年(昭和20年)4月13日以降の主要な空襲による東京都の被害状況'''{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=553}}<ref name="名前なし-2"/>
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!||4月13日(任務番号56番)||5月24日(任務番号181番)||5月25日(任務番号183番)
|-
!死者
||2,459人||762人||3,651人
|-
!負傷者
||4,746人||4,130人||17,899人
|-
!被害家屋
||200,277戸||64,487戸||165,545戸
|-
!罹災者
||666,986人||224,601人||620,125人
|}
[[File:Ebisu-woman-and-child-outside-bombed-home.jpg|thumb|left|250px|恵比寿で焼け野原の上の[[バラック]]小屋に住む親子]]
ミーティングハウス2号のときより死傷者が格段に少なかったのは、3月10日には警戒警報が解除されたあとに爆撃が開始され、空襲警報の発令が最初の爆弾投下から7分後と遅れたのに対して{{Sfn|渡辺|1982|p=282}}、4月13日は警戒警報発令が午後10時44分、B-29の爆撃開始が午後10時57分、空襲警報が午後11時と、警戒警報の解除はなかったものの前回に引き続き空襲警報が3分遅れていたが{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=96}}、その後の5月24日は警戒警報発令が午前1時5分、空襲警報が午前1時36分、B-29の爆撃開始が午前1時39分{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=136}}、5月25日は警戒警報発令が午後10時2分、空襲警報が10時22分、B-29の爆撃開始が午後10時38分と{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=153}}、空襲開始前に空襲警報が発令できたことや、[[疎開]]が進んだこと、市民が消火より避難を優先するようになったことが挙げられる<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-tokyoyamanote.htm "東京山の手空襲"], 2019・5・6閲覧</ref>。東京の人員疎開は1944年3月3日に[[東條内閣]]閣議決定した「一般疎開促進要綱」に基づき進められ、1944年2月に6,658,162人であった東京の人口は1945年2月には4,986,600人(1944年2月比75%)まで減少していた。3月10日の焼夷弾攻撃ののち、東京都はさらに疎開を進めることとし、3月13日から4月4日の約1か月で82万人、4月13日の空襲ののちにさらに60万人、5月25日の空襲ののちには77万人を地方に転出させた。そのため、1945年5月の人口は3,286,010人と1944年2月比で半減し、6月には2,537,848人(同39%)まで減っている。それでも残った都民は焼け野原に仮小屋を建てたり防空壕で生活する者もあった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=500}}。
焼失面積は2日間で合計22.1平方マイル(57.2 km<sup>2</sup>)に及び、1945年2月19日、2月25日、3月10日の3回の空襲で焼失した16.8平方マイル(43.5 km<sup>2</sup>)を上回った。そしてこの2日間分を含めた東京の空襲での焼失面積は56.3平方マイル(145.8 km<sup>2</sup>)となり、緑地や建物がまばらな地域を除いてアメリカ軍が東京市街地として判定していた110.8平方マイル(286.9 km<sup>2</sup>)の50.8%を焼き払ったこととなった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=158}}。すでに東京は、名古屋、大阪、横浜、川崎などの主要都市と同様に破壊されつくされたと判定されて、主要爆撃リストの目標から外されることとなった{{Sfn|デイビッド|1983|p=167}}。
1945年5月25日の空襲では、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた[[皇居]]の[[半蔵門]]に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は[[表宮殿]]から[[奥宮殿]]に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、[[近衛師団]]も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520 m<sup>2</sup>のうち18,239 m<sup>2</sup>を焼失して4時間後にようやく鎮火した。[[御文庫附属庫]]に避難していた[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]は無事であったが、[[宮内省]]の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には[[鈴木貫太郎]]首相の[[首相官邸]]も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している{{Sfn|クックス |1971|p=36}}。また、[[阿南惟幾]]陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出たが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=554}}。皇居は1945年7月20日に、[[原子爆弾]]投下の演習として全国各地に投下されていた[[パンプキン爆弾]]の目標となっている。この日、パンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していた[[クロード・イーザリー]]少佐操縦の[[ストレートフラッシュ (航空機)|ストレートフラッシュ]]号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、昭和天皇を殺害するために攻撃が禁止されていた皇居を目標とすることにした。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は[[八重洲口]]側の皇居の堀に着弾して、死者1人と負傷者62人を出した。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=117}}。
日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、[[鹿児島市|鹿児島]]、[[大牟田市|大牟田]]、[[浜松市|浜松]]、[[四日市市|四日市]]、[[豊橋市|豊橋]]、[[福岡市|福岡]]、[[静岡市|静岡]]、[[富山市|富山]]などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、[[上智大学]]の[[神父]]として日本に在住し、日本人との親交が深かった[[ブルーノ・ビッテル]]によれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=190}}。戦後にアメリカ軍による戦略爆撃の効果を調査した[[米国戦略爆撃調査団]]が、日本の戦争指導者や一般国民に調査したところ、日本が戦争に敗北すると認識した国民の割合については、1944年6月まではわずか国民の2%に過ぎなかったが、1945年3月10日の空襲以降に19%、その後空襲が激化した1945年6月には46%に跳ね上がり、終戦直前に68%となっていた<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War) Washington, 1 July 1946"]2019年5月6日閲覧</ref>。
==== 日本軍による迎撃 ====
[[File:I野戦重砲隊第7連隊①.jpg|thumb|left|230px|[[八八式七糎野戦高射砲]]。旧式で射高不足ながら、低空で爆撃するB-29には効果があった。写真は1940年満州のもの]]
5月24日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と[[横浜海軍航空隊]]が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった{{Sfn|渡辺|1982|p=326}}。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「[[加藤隼戦闘隊]]」)で中隊長として勇名をはせた[[黒江保彦]]少佐が[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]で3機のB-29撃墜を記録するなど{{Sfn|柏木|1972|p=136}}、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=564}}。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになったが{{Sfn|渡辺|1982|p=326}}、アメリカ軍が日本軍に撃墜されたと記録しているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と、3月10日と同様に連絡つかずに行方不明となった20機は原因未確認の損失とされて、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない{{Sfn|小山|2018|p=131}}。
しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、[[彗星 (航空機)|彗星]](斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し<ref>{{Harvnb|豊田穣|1979|loc=電子版, 位置No.4565}}</ref><ref>「第302海軍航空隊戦時日誌 自昭和20年5月1日至昭和20年5月31日」5月25日</ref>、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7㎝野戦高射砲7,316発、九九式8㎝高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=554}}、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、原因未確認の損失の中の大部分は日本軍により撃墜したものと推定される{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=157}}。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している{{Sfn|マーシャル|2001|p=262}}。
日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めており、大戦初期に[[シンガポール]]で鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー([[:en:GL Mk. I radar|英]])を[[デッドコピー]]したり、ドイツから[[ウルツブルグ (レーダー)|ウルツブルグレーダー]]の技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの[[電波標定機]]を開発して本土防空戦に投入している{{Sfn|渡辺|1982|p=71}}。B-29が作戦変更により夜間の爆撃が増加したため、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=89}}、6基 - 12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは[[聴音機]]が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=118}}。
アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29に[[ジャミング]]装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「[[レイヴン]]」([[ワタリガラス]])と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機を[[電子攻撃#電子対抗手段 (ECM)|ECM機]]に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆ方向にアンテナが突き出しており、その形状から「[[ヤマアラシ]]」と呼ばれることとなった{{Sfn|デイビッド|1983|p=205}}。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=117}}、日本軍防空陣とB-29の間で激しい駆け引きが行われていた。
この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被った。ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念して対策を講じるように指示してきたので、ルメイは5月29日の[[横浜市|横浜]]への大規模焼夷弾攻撃([[横浜大空襲]])のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開する[[P-51 (航空機)|P-51D]]101機を護衛につけた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=182}}。次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが{{Sfn|ルメイ|1991|p=232}}、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった{{Sfn|境田|高木|2004|p=101}}。さらに、P-51がB-29の護衛として多数飛来する頃には、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとっている{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=583}}。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=148}}。それでも、アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争(大東亜戦争)における延べ出撃数に対する戦闘損失率は1.32%とされているが<ref>According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 310, p. 261, p. 209</ref>、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となっており、首都圏で日本軍は奮戦していた。一方で、同じ[[枢軸国]]ドイツの首都[[ベルリン]]空襲におけるアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率で{{Sfn|柳澤|2008|p=98}}、B-29の高性能さと日本軍の防空戦闘能力の脆弱さを如実に表しており、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=181}}。
== 戦後 ==
=== 慰霊 ===
[[ファイル:Cenotaph-Taito Tokyo at Sumida Park-Bombing of Tokyo in World War II.png|thumb|250px|「戦災により亡くなられた方々の碑」<br>[[台東区]][[浅草]]七丁目一番]]
{{external media
|video1=[https://m.youtube.com/watch?v=tObiQYuuwQY 炎の記憶] - 東京都慰霊堂(ガイダンス映像) ([[YouTube]])}}
身元不明の犠牲者の遺骨は[[関東大震災]]の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年には、震災記念堂から[[東京都慰霊堂]]に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する[[東京都復興記念館]]に関東大震災および東京大空襲についての展示がある。この他、大規模被災地域には、主に住民の手による慰霊碑が数多く設置されている。
{{external media
|video1=[https://m.youtube.com/watch?v=H_HuSQkSlvU 利光はる子さんの空襲の記憶【東京大空襲】] - 全国空襲被害者連絡協議会 ([[YouTube]])}}
[[東京都]]は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを[[条例]]で定めた。東京都では[[墨田区]]の[[横網町公園]]に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2013年3月時点で79941名が登載)を納めている<ref name="nissi"/>。2019年3月現在、81147名登載[http://www.koho.metro.tokyo.jp/2019/03/documents/201903.pdf]。2020年3月に81,273名登載<ref name=list>{{Cite web|和書|title=慰霊供養の方 東京空襲犠牲者名簿 登載受付|url=https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html|accessdate=2021-03-08|website=都立横網町公園}}</ref>。東京都は名簿への登載を受け付けている。(受付について [https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000662.html 東京都生活文化局 東京空襲犠牲者名簿])
毎年、横網町公園は、[[法要|大法要]]が行われる3月10日(東京都平和の日)と[[防災の日|9月1日]]には東京空襲犠牲者名簿が納められている「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の内部を公開している<ref name=list/>。
====関連文献====
* {{Cite journal|和書|author=木村豊 |title=空襲の犠牲者・死者を想起する : 「せめて名前だけでも」という語りを通して |journal=慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 |ISSN=0912456X |publisher=慶應義塾大学大学院社会学研究科 |year=2010 |issue=69 |pages=15-33 |naid=120002791524 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN0006957X-00000069-0015 |ref=harv}}
=== 補償問題 ===
2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて[[東京地方裁判所]]に集団[[提訴]]を行った<ref>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20131202231625/http://www.47news.jp/CN/200703/CN2007030901000392.html
|title=東京大空襲、国を提訴 遺族ら12億円賠償請求
|agency=[[共同通信社]]
|publisher=[[47NEWS]]
|date=2007-03-09
|accessdate=2013-08-25
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202231625/http://www.47news.jp/CN/200703/CN2007030901000392.html
|archivedate=2013年12月2日
|deadlinkdate=2017年10月
}}</ref>。[[アメリカ軍]]の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して[[国家総動員法]]によって動員された民間人は補償が行われていないことを理由に、「東京空襲が[[国際法]]違反の無差別[[絨毯爆撃]]だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである{{sfn|内藤光博|2009}}。法的根拠は、[[ハーグ陸戦条約]]3条違反の無差別攻撃であった東京大空襲を行ったアメリカ政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲被害について外交保護権を放棄した。これは憲法17条の公務員の不法行為に該当する、また[[戦時災害保護法]]によって国は救済義務を負っているが懈怠した、などというものだった{{sfn|内藤光博|2009}}。なお、2006年には日本軍による[[重慶爆撃]]に対する謝罪と賠償を求めた[[重慶大爆撃賠償請求訴訟]]が開始している。
2009年12月14日の1審判決で請求棄却 <ref>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20131202230718/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121401000348.html
|title=東京大空襲の賠償認めず 「救済対象者の選別困難」
|agency=[[共同通信社]]
|publisher=[[47NEWS]]
|date=2009-12-14
|accessdate=2013-08-25
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202230718/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121401000348.html
|archivedate=2013年12月2日
|deadlinkdate=2017年10月
}}</ref>。原告側は[[控訴]]したが控訴棄却。2013年5月9日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した<ref>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20130611164421/http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050901001267.html
|title=東京大空襲で原告敗訴が確定 最高裁が上告退ける
|agency=[[共同通信社]]
|publisher=[[47NEWS]]
|date=2013-05-09
|accessdate=2013-08-25
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130611164421/http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050901001267.html
|archivedate=2013年6月11日
|deadlinkdate=2017年10月
}}</ref>。棄却理由の中で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、[[国会]]が[[立法]]で行うとした点について、敗訴した原告側弁護団も「国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだ」として評価した<ref>[https://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0817.html 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]</ref>。
2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償を行う「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成<ref>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20140722191903/http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000564.html
|title=空襲被害の補償求め全国組織 「援護法」制定を訴え
|agency=[[共同通信社]]
|publisher=[[47NEWS]]
|date=2010-08-14
|accessdate=2013-08-25
}}</ref>。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された<ref>{{Cite news
|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110705134650279_ja
|title=太平洋戦争の空襲被害 援護法制定へ動き加速 超党派議員連法案来年提出
|publisher=[[中国新聞]]
|date=2011-07-06
|accessdate=2013-08-25
}}</ref>
{{See|朝鮮人強制連行|日本の戦争賠償と戦後補償}}
[[朝鮮人]]被害者については体験者の証言から当時の状況を記録する運動もあり<ref>「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録する会」{{Cite news
|url=http://www4.ocn.ne.jp/~uil/45310.htm
|title=東京大空襲・朝鮮人罹災の記録
|accessdate=2013-11-22
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150430104410/http://www4.ocn.ne.jp/~uil/45310.htm
|archivedate=2015-04-30
}}</ref>、さらに、[[朝鮮人強制連行]]によって[[東京]]に[[強制連行]]された朝鮮人が東京大空襲の被害にあったと主張する朝鮮人強制連行被害者・遺族協会も2008年に報告書を発表している<ref>朝鮮人強制連行被害者・遺族協会「日本の東京に連行され、米軍の空襲によって犠牲になった朝鮮人強制連行被害者問題に関する調査報告書」2008年。「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」PARTIII「葬り去られる犠牲者」に光を、一粒出版・2010年</ref>。報告書では、東京での朝鮮人強制労働犯罪、そして東京大空襲による朝鮮人強制連行被害者の惨状などが報告された<ref name="chosip">朝鮮新報 2008.6.6</ref>。[[朝鮮新報]]は2008年6月6日記事で「日帝は、空襲があった後に天皇がこの地域を訪れるという口実を設けて、朝鮮人ら死者に対する身元調査すらしないまま、67カ所の公園と寺院、学校の運動場などに土葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息を引き取った朝鮮人の遺骨を自分勝手にむちゃくちゃに処理する反人倫的な蛮行を働いた」「東京大空襲で多数の朝鮮人が犠牲になったのは、全的に旧日本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因する」とし、日本政府は被害者の遺骨を遺族に送るべきだったし、さらに南北朝鮮を差別して[[北朝鮮]]には一切の遺骨が返還されておらず、これは国際人道法と日本の刑法に違反している重大な人権侵害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じるべきと主張している<ref name="chosip"/>。
=== 戦争犯罪問題 ===
{{See|戦争犯罪|人道に対する罪|連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)|アメリカ合衆国の戦争犯罪}}
空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、[[戦争犯罪]]ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃は[[ハーグ陸戦条約]]3条違反という主張がなされた{{sfn|内藤光博|2009}}。[[第一次世界大戦]]後の1922年、[[ハーグ空戦規則]]が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた{{sfn|内藤光博|2009}}。
日本政府は、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]により賠償請求権を放棄している。
国内法でも軍人、軍属とその遺族への特別援護政策が採られた一方で、非軍人に対しては不十分な対策しか講じられていないとして議論がある{{sfn|宍戸伴久|2008}}。
1964年12月4日、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮した米空軍司令官[[カーチス・ルメイ]]大将に対し、[[第1次佐藤内閣]]が[[旭日章|勲一等旭日章]]の叙勲を閣議決定する<ref>朝日新聞夕刊昭和39年12月4日</ref>。理由は[[航空自衛隊]]育成の協力で、授与は7日に行われた<ref>朝日新聞夕刊昭和39年12月7日</ref>。
当時非難の声があり国会で追及されたが、[[佐藤栄作]]首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。[[小泉純也]]防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている<ref>昭和39年12月7日 47回衆議院予算委員会 8号</ref>。勲一等の授与は天皇親授が通例だが、[[昭和天皇]]はルメイと面会することはなかった。NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた<ref>『[[NHK特集]] 東京大空襲』での[[日本放送協会|NHK]]の取材</ref>。
爆撃直後にルメイは「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と空襲の成果に胸をはったが、民間人の大量虐殺については、「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍が[[フィリピン]]でアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行ったとされる残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり{{Sfn|ルメイ|1991|p=207}}、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった…我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からも[[ボール盤]]が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ…大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=114}}。
また、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた<ref>[[鬼塚英昭]]『原爆の秘密「国内篇」昭和天皇は知っていた』成甲書房117頁</ref>。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している<ref name="yom18">「[[読売新聞]]」平成18年3月10日号社説より</ref>。兵士に向けては「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=110}}。
日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任があるが、爆撃は航空軍司令官[[ヘンリー・アーノルド]]に命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃(無差別爆撃)の枠組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行などルメイ就任前から進められていた{{sfn|荒井信一|2008|p=136,139}}<ref>NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲:発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社62-63頁</ref>。
2013年5月7日、[[第2次安倍内閣]]は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した<ref name="47news20130507">{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20130607030813/http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050701001318.html
|title=東京大空襲で答弁書「人道主義に合致せず」
|agency=[[共同通信社]]
|publisher=[[47NEWS]]
|date=2013-05-07
|accessdate=2013-05-09
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202221330/http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050701001318.html
|archivedate=2013年12月2日
|deadlinkdate=2017年10月
}}</ref>。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる[[人道主義]]に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカ合衆国への直接的な批判は事実上避けている<ref name="47news20130507"/>。
== 空襲の一覧 ==
=== 1944年 ===
==== 11月 ====
*1944年11月24日に111機のB-29による[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]の[[中島飛行機]]武蔵製作所、江戸川区、[[荏原区]]、[[品川区]]、[[杉並区]]、[[保谷市|保谷町]]、[[小金井町]]、[[東久留米市|久留米村]]、[[東京港]]などに対する初の[[戦略爆撃]]としての空襲(サン・アントニオ1号作戦)を行った<ref name="nissi"/><ref name="okuzumi168">[[#奥住|奥住(1990年)]]、168-169頁。</ref>。死者224人<ref name="nissi"/>。これ以降アメリカ軍は1945年2月まで各回70-80機程2、死者32人<ref name="nissi" />。当時[[軍用地]]だった[[浜離宮]]も空襲された<ref name="chuo">[https://web.archive.org/web/20141029171818/http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/kiroku/jyokyo/ 中央区空襲被害の状況]中央区平和記念バーチャルミュージアム、中央区。</ref>。
*1944年11月30日、[[芝区]]、[[麻布区]]、[[日本橋区]]、葛飾区空襲<ref name="nissi"/>。[[日本橋区]]への初めて空襲<ref name="chuo"/>。
==== 12月 ====
*1944年12月3日、杉並区、[[板橋区]]、江戸川区、[[滝野川区]]、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]空襲。死者184人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月6日、江戸川区空襲。死者3人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月10日、[[麹町区]]、城東区、[[浅草区]]、江戸川区空襲。死者1人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月11日、[[大森区]]、品川区空襲。死者1人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月12日、[[豊島区]]、[[小石川区]]、東京湾空襲。死者6人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月15日、江戸川区空襲<ref name="nissi"/>
*1944年12月20日、[[世田谷区]]空襲<ref name="nissi"/>
*1944年12月21日、江戸川区空襲、死者4人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月24日、江戸川区空襲<ref name="nissi"/>
*1944年12月27日、[[板橋区]]、[[中野区]]、杉並区、[[王子区]]、[[淀橋区]]、[[城東区]]、小石川区、深川区、品川区、世田谷区、葛飾区、麹町区、[[日本橋区]]、[[京橋区]]、[[芝区]]、麻布区、[[牛込区]]、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]、保谷町空襲。死者51人<ref name="nissi"/>。
*1944年12月30日、浅草区、本所区、日本橋区空襲<ref name="nissi"/>
*1944年12月31日、[[神田区]]、[[本郷区]]、下谷区、浅草区、本所区、[[向島区]]空襲、死者5人<ref name="nissi"/>。
=== 1945年 ===
==== 1月 ====
*1945年1月1日、下谷区、浅草区、本所区、[[向島区]]、江戸川区空襲、死者5人<ref name="nissi"/>。
*1945年1月5日、城東区空襲、死者3人<ref name="nissi"/>。
*1945年1月9日、麹町区、芝区、牛込区、深川区、大森区、杉並区、板橋区、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]、保谷町、[[田無市|田無町]]空襲、死者28人<ref name="nissi"/>。
*1945年1月11日、東京湾空襲<ref name="nissi"/>
*1945年1月27日、エンキンドル3号作戦<ref name="okuzumi168"/>。麹町区、日本橋区、京橋区、麻布区、[[赤坂区]]、牛込区、小石川区、[[荒川区]]、向島区、下谷区、本所区、深川区、王子区、葛飾区、江戸川区、[[足立区]]、本郷区、浅草区、[[板橋区]]、[[中野区]]、杉並区、[[荏原区]]、渋谷区、[[北多摩郡]][[小金井町]]、[[南多摩郡]][[元八王子村]]、[[恩方村]]空襲、死者539人<ref name="nissi"/>。エンキンドル3号作戦では、中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB-29のうち56機が[[有楽町]]・[[銀座]]地区へ目標を変更、[[有楽町駅]]は民間人の遺体であふれた(銀座空襲)<ref name="okuzumi168"/>。京橋区は大きな被害を受けた<ref name="chuo"/>。
*1945年1月28日、[[蒲田区]]、本郷区、浅草区、荒川区空襲、死者15人<ref name="nissi"/>。
*1945年1月29日、葛飾区、[[伊豆諸島]]空襲<ref name="nissi"/>
==== 2月 ====
*1945年2月2日、城東区、下谷区空襲、死者4人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月9日、深川区、王子区、京橋区、赤坂区、葛飾区、江戸川区、渋谷区空襲<ref name="nissi"/>
*1945年2月14日、[[向島区]]空襲、死者47人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月15日、[[八丈島]]、[[新島]]空襲<ref name="nissi"/>。米空母機動部隊艦載機による本土初空襲([[ジャンボリー作戦]])。関東の軍需工場が標的。
*1945年2月16日、大森区、渋谷区、中野区、杉並区、蒲田区、板橋区、世田谷区、葛飾区、牛込区、[[目黒区]]、[[北多摩郡]][[調布町]]、[[八丈島]]空襲、死者3人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月17日、赤坂区、大森区、淀橋区、中野区、杉並区、蒲田区、城東区、深川区、[[立川市]]、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]、[[三鷹市|三鷹町]]、[[保谷市|保谷町]]、[[神代町]]、[[東大和市|大和村]]、[[砂川町|砂川村]]、[[南多摩郡]][[日野市|日野町]]、[[由木村]]、堺村、[[西多摩郡]][[五日市町 (東京都)|五日市町]]空襲、死者196人<ref name="nissi"/>。城東区、深川区では死者15人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月19日、[[神田区]]、京橋区、[[赤坂区]]、[[四谷区]]、本郷区、本所区、深川区、蒲田区、江戸川区、荒川区、王子区、板橋区、世田谷区、足立区、渋谷区、城東区、葛飾区、[[北多摩郡]][[谷保村]]、[[神代町|神代村]]、西府村空襲、死者163人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月24日、浅草区、下谷区、神田区空襲、死者102人<ref name="nissi"/>。
*1945年2月25日、ミーティングハウス1号作戦。
*1945年2月26日、荒川区、足立区空襲<ref name="nissi"/>
==== 3月 ====
*1945年3月4日、[[豊島区]]、滝野川区、城東区、向島区、杉並区、本郷区、葛飾区、足立区、深川区、荒川区、下谷区、江戸川区、[[北多摩郡]]田無町、保谷町、府中町、久留米村空襲。死者650人、被害家屋4085戸<ref name="nissi"/>。
*1945年3月5日、江戸川区、城東区、目黒区、蒲田区空襲。死者2人<ref name="nissi"/>。
*1945年3月7日、[[八丈島]]空襲、死者1人<ref name="nissi"/>。
*'''1945年3月10日'''、'''ミーティングハウス2号作戦'''
(東京大空襲・下町空襲)。'''死者10万人'''。'''負傷者100万人'''。
[[ファイル:Togoshi-koen Station1945.jpg|thumb|250px|1945年の[[戸越公園駅]]。空襲で周囲が焼け野原と化している]]
*1945年3月14日、[[新島]]空襲、死者7人<ref name="nissi"/>。
*1945年3月18日、浅草区空襲、死者2人<ref name="nissi"/>。
*1945年3月30日、深川区空襲、死者6人<ref name="nissi"/>。
*1945年3月31日、四谷区、牛込区空襲、死者19人<ref name="nissi"/>。
==== 4月 ====
*1945年4月1日、淀橋区、豊島区空襲、死者17人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月2日、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]、板橋区、杉並区空襲、死者220人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月4日、淀橋区、下谷区、芝区、向島区、深川区、品川区、大森区、荏原区、蒲田区、江戸川区、世田谷区、立川市、[[北多摩郡]]府中町、[[武蔵野市|武蔵野町]]、田無町、東村山町、小平町、[[清瀬村]]、保谷村、久留米村、[[拝島村]]、[[村山村]]、国分寺町、三鷹町、昭和町、[[南多摩郡]][[日野市|日野町]]、加住村、川口村、[[西多摩郡]]福生村、西秋留村空襲、死者710人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月7日、[[新島]]、杉並区、四谷区、大森区、蒲田区、板橋区、世田谷区、[[北多摩郡]]調布町、武蔵野町空襲。死者44人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月12日、杉並区、板橋区、荒川区、滝野川区、[[北多摩郡]]武蔵野町、大和村、保谷町、田無町、[[南多摩郡]]七生町、新島、空襲。死者94人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月13日 - 4月14日、[[城北大空襲]]<ref name="tsm">[https://www.city.toshima.lg.jp/koho/hodo/29373/029464.html 4.13根津山小さな追悼会]、平成25年4月11日、豊島区政策経営部広報課。[http://www.com-support.co.jp/war_and_peace/after_johoku-daikusyu/index.html 灰の中からの脱出 城北大空襲後の暮らし]矢島勝昭、「戦争と平和」サイト。2014.10.29閲覧。『豊島区史』通史編2、3。『決定版 昭和史 第12巻 空襲・敗戦・占領』 毎日新聞社 1983年。</ref>。B29は330機。神田区、豊島区・渋谷区・向島区・深川区、淀橋区、小石川区、四谷区、麹町区、滝野川区、赤坂区、牛込区、荒川区、板橋区、中野区、[[王子区]](現在の[[北区 (東京都)|北区]]北部)、足立区、本郷区、下谷区、葛飾区、日本橋区、杉並区、江戸川区、城東区、浅草区空襲。死者2459人、焼失17万1370戸<ref name="nissi"/>。宮城御所も被害にあう<ref name="jijyu"/>。
*1945年4月15日 - 4月16日、八丈島、荏原区、大森区、品川区、目黒区、蒲田区、芝区、麻布区、世田谷区、渋谷区、向島区、日本橋区、江戸川区空襲<ref name="nissi"/>。B29・202機。死者841名。焼失5万874戸<ref name="nissi"/>。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた(城南京浜大空襲)。空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋を焼失した。
*1945年4月18日、[[北多摩郡]]府中町空襲<ref name="nissi"/>
*1945年4月19日、荏原区、目黒区、大森区、渋谷区、杉並区、世田谷区、立川市、[[北多摩郡]]府中町、昭和町、大和村、三鷹町、小平町空襲。死者8人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月24日、立川市、[[北多摩郡]]大和村、砂川村、小平町、東村山町、昭和町、[[西多摩郡]]三田村、古里村空襲。死者246人<ref name="nissi"/>。
*1945年4月25日、北多摩郡砂川村空襲<ref name="nissi"/>
*1945年4月28日 - 4月29日、北多摩郡昭和町空襲<ref name="nissi"/>
*1945年4月30日、立川市、北多摩郡昭和町、大和村、[[南多摩郡]]由井村、神津島空襲<ref name="nissi"/>
==== 5月 ====
[[ファイル:Square of Meiji Palace.JPG|thumb|300px|1945年5月25日の空襲で焼失した[[明治宮殿]]]]
[[ファイル:Houmei-Den of Meiji Palace.JPG|thumb|300px|[[明治宮殿]]豊明殿。跡地には1968年現在の宮殿が建設された。]]
[[ファイル:Tokyostation-japan-afterfirebombs-1945.jpg|thumb|300px|1945年5月25日の空襲を受けた東京駅]]
[[ファイル:Devastated Tokyo station building from platform.jpg|thumb|300px|東京駅のプラットホームの屋根も焼失した。]]
*1945年5月1日、八丈島、[[三宅島]]空襲<ref name="nissi"/>
*1945年5月7日、足立区、王子区空襲<ref name="nissi"/>
*1945年5月12日、足立区空襲。死者3人<ref name="nissi"/>。
*1945年5月19日、浅草区、荒川区、向島区空襲。死者10人<ref name="nissi"/>。
*1945年5月20日、東京湾羽田沖
*1945年5月23日、浅草区、麻布区
*1945年5月24日、B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。日本橋区、浅草区、麹町区、麻布区、牛込区、本郷区、品川区、中野区、板橋区、四谷区、江戸川区、京橋区、豊島区、蒲田区、荏原区、渋谷区、杉並区、赤坂区、世田谷区、目黒区、芝区、大森区、淀橋区空襲<ref name="nissi"/>。死者762人、被害家屋64,487戸<ref name="nissi"/>。
*'''1945年5月25日'''、[[山の手]]に470機ものB29が来襲('''山の手大空襲''')。'''死者3651名'''。'''焼失16万6千戸'''。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・麻布、芝、世田谷、渋谷区、[[青山通り]]方面。目黒区、杉並区、小石川区、本郷区、大森区、品川区、城東区、深川区、浅草区、葛飾区、荒川区、江戸川区、滝野川区、下谷区、京橋区、淀橋区、足立区、神田区、荏原区、豊島区、日本橋区、王子区、板橋区、向島区、立川市、[[北多摩郡]]国分寺町、調布町、三鷹町、田無町、小平町、谷保村、昭和町、砂川村、村山村、[[狛江村]]、[[多磨村]]、[[南多摩郡]]町田町、忠生村、鶴川村、稲城村、浅川町、[[西多摩郡]]大久野村、平井村、西多摩村、瑞穂町、調布村空襲<ref name="nissi"/>。死者3242人、被害家屋156,430戸<ref name="nissi"/>。[[国会議事堂]]周辺や[[東京駅の歴史|東京駅]]、[[皇居]]も被災し[[明治宮殿]]が焼失した<ref name="jijyu"/>。[[御文庫]]に避難していた[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]は無事だった。死傷者は7415人{{要出典|date=2014年10月}}となった。また東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死した([[東京陸軍刑務所飛行士焼死事件]])。
*1945年5月29日、大森区、蒲田区、芝区、品川区、目黒区、四谷区、牛込区空襲で死者41人<ref name="nissi"/>。
*1945年5月31日、[[伊豆大島|大島]]空襲<ref name="nissi"/>
==== 6月 ====
*1945年6月5日、新島空襲<ref name="nissi"/>。6月9日、八丈島空襲<ref name="nissi"/>。
*1945年6月10日、板橋区、立川市、北多摩郡大和村、村山村、国分寺町空襲<ref name="nissi"/>。死者291人<ref name="nissi"/>。同日の八丈島空襲では死者2人<ref name="nissi"/>。
*1945年6月11日、杉並区、世田谷区、北多摩郡昭和町、大和村、[[八王子市]]、西多摩郡西多摩村空襲<ref name="nissi"/>。
*1945年6月12日、6月15日神津島空襲、6月19日神津島と[[式根島]]空襲<ref name="nissi"/>。
*1945年6月20日、[[八丈島]]空襲<ref name="nissi"/>
==== 7月 ====
*1945年7月1日(死者5人)、7月3日、7月5日(死者3人)、[[八丈島]]空襲<ref name="nissi"/>。
*1945年7月6日、八王子市、[[南多摩郡]]加住村、元八王子村、北多摩郡村山村空襲<ref name="nissi"/>。死者4人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月8日、板橋区、立川市、[[北多摩郡]]久留米村、保谷村、昭和町、谷保村、[[南多摩郡]]元八王子村、浅川町空襲<ref name="nissi"/>。死者4人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月9日、北多摩郡空襲<ref name="nissi"/>
*1945年7月10日、下谷区、板橋区、立川市、北多摩郡東村山町、多磨村、調布町、[[西多摩郡]]福生町、[[新島]]空襲<ref name="nissi"/>。死者6人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月12日-7月13日、蒲田区空襲<ref name="nissi"/>。死者16人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月13日、新島空襲<ref name="nissi"/>。死者2人<ref name="nissi"/>。
*(1945年7月16日、米国ニューメキシコで最初の[[核実験]]成功<ref>[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]「アジア太平洋戦争」岩波書店2007,p214.</ref>)
*1945年7月19日、江戸川区、新島空襲<ref name="nissi"/>。死者1人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月20日、[[東京駅]]東側空襲<ref name="nissi"/>。死者1人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月27日、新島空襲<ref name="nissi"/>
*1945年7月28日、板橋区、渋谷区、城東区、三鷹町、南多摩郡横山村、元八王子村、西多摩郡西秋留村、東秋留村、霞村空襲<ref name="nissi"/>。死者4人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月29日、北多摩郡保谷村空襲<ref name="nissi"/>。死者3人<ref name="nissi"/>。
*1945年7月30日、西多摩郡西秋留村、新島空襲<ref name="nissi"/>。死者1人<ref name="nissi"/>。
==== 8月 ====
*1945年8月1日-8月2日、[[八王子空襲]] B29・169機。死者225<ref name="nissi"/> - 473人<ref>八王子市郷土資料館編『八王子の空襲と戦災の記録』</ref>。焼失家屋14,147戸<ref name="nissi"/>。八王子市、立川市、北多摩郡昭和町、砂川村、[[西多摩郡]]福生町、[[南多摩郡]][[日野市|日野町]]、浅川町、横山村、元八王子村、川口村、恩方村、由井村、江戸川区空襲<ref name="nissi"/>。
*1945年8月3日、杉並区、滝野川区、王子区、板橋区空襲<ref name="nissi"/>。死者2人<ref name="nissi"/>。
*1945年8月5日、八王子空襲<ref name="nissi"/>。死者52人<ref name="nissi"/>。[[P-51 (航空機)|P-51]]戦闘機が[[新宿駅|新宿]]発[[長野駅|長野]]行きの下り419列車に[[機銃掃射]]をかけ、多数の被害者が出た[[湯の花トンネル列車銃撃事件]]が発生。
*1945年8月7日、[[伊豆大島|大島]]空襲<ref name="nissi"/>
*1945年8月8日、足立区、板橋区、[[北多摩郡]][[武蔵野市|武蔵野町]]、新島空襲<ref name="nissi"/>。死者72人<ref name="nissi"/>。
*1945年8月10日、板橋区、王子区、滝野川区、足立区、西多摩郡霞村、多西村空襲<ref name="nissi"/>。死者195人<ref name="nissi"/>。
*1945年8月13日、京橋区、蒲田区、大森区、品川区、荏原区、芝区、下谷区空襲<ref name="nissi"/>。死者29人<ref name="nissi"/>。
*1945年8月15日、[[西多摩郡]]青梅町空襲<ref name="nissi"/>
== 被害 ==
=== 死傷者数 ===
空襲による被害者の総数は不明であるが、1995年の東京新聞調査では全国で55万9197人、東京で11万6959人であった{{sfn|宍戸伴久|2008}}。8万3793名が死亡したとする説もある<ref>「知恵蔵」朝日新聞出版</ref><ref>日本大百科全書(ニッポニカ) [[小学館]]</ref>。
=== 死亡した著名人 ===
[[ファイル:Tokyo_Prefectural_Office_and_Tokyo_City_Hall_1930s.jpg|thumb|300px|1945年5月25日の空襲で焼失した[[東京都庁舎#旧東京都庁舎・丸の内庁舎|東京府庁舎]](1930年代)。[[妻木頼黄]]設計で1894年完工。]]
[[ファイル:IJA General Staff HQ.jpg|right|300px|thumb|空襲で焼失した[[大日本帝国陸軍]]参謀本部(明治末期撮影]]
*3月10日の下町大空襲
**[[太田仲三郎 (実業家)|太田仲三郎]](実業家)
**[[立花家扇遊]]([[色物|色物芸人]])
**[[豊嶌雅男]](大相撲[[力士]])
**[[古屋慶隆]]([[衆議院議員]]・元[[内務省 (日本)|内務省]][[政務次官]])
**[[枩浦潟達也]]<sup>†</sup>(大相撲力士)
**[[琴ヶ浦善治郎]](元大相撲力士・世話人)
**[[射水川成吉|西岩成吉]](大相撲年寄)
**[[吉村操]](映画監督)
**[[徳三宝]](柔道家)
**[[増田勇]](医師・[[ハンセン病]]先覚者)
**[[一龍斎貞山#6代目|六代目一龍斎貞山]]([[講釈師]])
**[[吉慶堂李彩|初代吉慶堂李彩]]([[奇術師]])
**[[天野喜久代]]{{要出典|date=2011年11月}}([[歌手]]・[[俳優|女優]])
**[[山岸荷葉]](小説家・書家)
**[[河井荃廬]](篆刻家)
**[[増地庸治郎]](経営学者・[[東京商科大学]]教授兼[[東京帝国大学]]教授)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E5%9C%B0%E5%BA%B8%E6%B2%BB%E9%83%8E-136266 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」]</ref>
**[[寿家岩てこ]](大神楽・漫才師)
**[[三升家勝次郎#その他の勝次郎|柳亭左喬]](落語家・漫才師)
*5月25日の山手大空襲
**[[石井菊次郎]]<sup>†</sup>(元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]])
**[[織田萬]](法学者)
**[[柳家枝太郎#経歴|四代目柳家枝太郎]] (音曲師)
**[[柳瀬正夢]](画家)
**[[谷口恒二]](前[[大蔵次官]], [[日本銀行]]副総裁)
**[[安藤照]](彫刻家)
**[[加藤雄策]](実業家・[[馬主]] 空襲被害の翌日に死去)
**[[野村無名庵]](演芸・落語評論家)
<sup>†</sup> <small>行方不明(死亡認定)</small>
=== 建造物 ===
[[ファイル:Tokyo station disastrous scene of after Great Tokyo Air Raid.jpg|thumb|300px|1945年5月25日の空襲で焼失した[[東京駅]]の全景(1945年撮影)]]
;[[御所]]・[[御殿]]
*[[皇居|宮城]](1945年4月13日空襲<ref name="jijyu">[[小倉庫次]]侍従日記『文藝春秋』2007年4月号</ref>)
*賢所参集所(1945年4月13日空襲で焼失<ref name="jijyu"/>)
*賢所仮殿(1945年4月13日空襲で焼失<ref name="jijyu"/>)
*御羽車舎(1945年4月13日空襲で焼失<ref name="jijyu"/>)
*進修館(1945年4月13日空襲で焼失<ref name="jijyu"/>)
*[[明治宮殿]](1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*主馬寮厩仕合宿所(1945年2月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*[[赤坂御用地]]内にある各宮邸
*[[大宮御所]](1945年2月25日、5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*秩父宮御殿(1945年2月25日、5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*[[東宮御所]](1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*青山御殿(1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*三笠宮御殿(1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*伏見宮御殿(1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*閑院宮御殿(1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*梨本宮御殿(1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
*[[霞関離宮|霞ヶ関離宮]](1945年5月25日空襲<ref name="jijyu"/>)
;官公署
*[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]庁舎
*[[海軍省]]・[[軍令部]]合同庁舎
*[[外務省]]庁舎
*[[法務省旧本館|司法省庁舎]]
*[[大審院]]
*駐日[[ドイツ国]]大使館
*[[東京都庁舎#旧東京都庁舎・丸の内庁舎|東京府庁舎]](1945年5月25日の空襲で焼失)
;鉄道施設
*[[東京駅]] - 丸の内赤レンガ駅舎
*[[東京メトロ銀座線|帝都高速度交通営団]](現在の東京メトロ銀座線)
;宗教施設
[[File:Farsari Shiba.jpg|thumb|right|250px|空襲で焼失した[[徳川家継]]霊廟[[有章院霊廟]]]]
東京都内神社236〜326社が被災したとされる<ref>石井研士「戦後の東京都の神社にみる境内建物の高層化について-上-」神道学155号, 1992, p18.東京都神社庁「東神」昭和37年2月20日</ref>。
*[[明治神宮]] - 本殿・隔雲亭
*[[浅草寺]] - 本堂(観音堂)・[[五重塔]](1945年3月10日焼失)
*[[増上寺]] - 本堂(大殿)、開山堂、伽藍・[[増上寺五重塔|五重塔]]、徳川家霊廟<ref>[http://www.zojoji.or.jp/keidai/]増上寺公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>
*[[寛永寺]] - 弁天堂、徳川家霊廟
*[[徳川家霊廟]](旧国宝)
**増上寺内霊廟
***[[徳川家宣]]霊廟、[[文昭院霊廟]]([[増上寺]])(1945年3月10日焼失)
***[[徳川家継]]霊廟、[[有章院霊廟]](増上寺)(1945年3月10日焼失)
***[[芝東照宮]](1945年5月25日焼失<ref>[http://www.shibatoshogu.com/html/0001.html]芝東照宮公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>)
***[[徳川秀忠]]霊廟、[[台徳院霊廟]](1945年5月25日焼失)
***[[崇源院]]霊牌所(1945年5月25日焼失)
**寛永寺内霊廟
***[[徳川家綱]]霊廟、[[厳有院霊廟]]([[寛永寺]])(1945年3月10日焼失)
***[[徳川綱吉]]霊廟、[[常憲院霊廟]](寛永寺)(1945年3月10日焼失)
*[[善福寺 (東京都港区)|麻布山善福寺]] - 本堂
*[[池上本門寺]] - 仁王門・祖師堂・鐘楼・[[釈迦堂]](本殿)・御廟所(1945年4月15日焼失<ref>[http://honmonji.jp/01what/02keidai/keidai_index.html]池上本門寺公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>)
*[[伝通院]] - 山門・本堂
*法禅寺、安民寺(神田寺)- 全焼<ref>[http://kandadera.org/engi.html]神田寺公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>
*[[高岩寺]](とげぬき地蔵)- 全焼
*眞光寺 - 富元山瑞泉院 全焼<ref name="tendai">[http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/sinkoji/]天台宗東京教区公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>
*[[泉岳寺]] - 山門・義士館以外が焼失<ref>[http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/history.html 泉岳寺の歴史]泉岳寺公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>
*[[賢崇寺]]
*飛木山普門院圓通寺(円通寺)<ref name="tendai"/>
*医王山泉龍寺<ref name="tendai"/>
*東光山長命院薬王寺<ref name="tendai"/>
*熊野山高輪院安泰寺<ref name="tendai"/>
*神向山華光院常演寺
*善光寺東京別院
*常端寺(向山)
*[[日枝神社 (千代田区)|日枝神社]] - 本殿・幣殿・拝殿・中門・透塀など旧国宝
*[[愛宕神社 (東京都港区)|愛宕神社]] - 本殿・幣殿・拝殿・社務所
*[[穴八幡神社]] - 隨神門
*[[富岡八幡宮]]
*[[神田明神]] - 社殿(コンクリート製)を除く建造物<ref>[http://www.kandamyoujin.or.jp/profile/rekishi.html]、神田明神公式サイト、2015.4.1.閲覧</ref>
*[[築土神社]] - 1945年4月、空襲により社殿、社宝全焼<ref>[http://www.tsukudo.jp/gaiyou-rekisi.html]築土神社公式サイト、築土神社御由緒。2015.4.1.閲覧</ref>
*[[根津神社]]<ref>{{Cite journal|和書|author=益田兼房 |title=日本の文化財建造物の被災と修復に関する基礎的考察 |journal=歴史都市防災論文集 |ISSN=18821766 |publisher=立命館大学歴史都市防災研究センター |year=2007 |month=jun |volume=1 |pages=97-104 |naid=40016784964 |doi=10.34382/00008892 |url=https://doi.org/10.34382/00008892 |ref=harv}}</ref>
*[[東郷神社 (渋谷区)|東郷神社]]
*[[乃木神社 (東京都港区)|乃木神社]]
*[[松蔭神社]]
*[[靖国神社]] - [[遊就館]]、付属書庫<ref>小堀桂一郎「靖国神社と日本人」PHP新書</ref>
*須賀神社(台東区)<ref name="isige">{{Cite journal|和書|author=石井研士 |title=戦後の東京都の神社にみる境内建物の高層化について-上- |journal=神道学 |ISSN=05830680 |publisher=神道学会 |year=1992 |month=nov |issue=155 |pages=12-26 |naid=40001926552 |doi=10.11501/2263774 |id={{NDLJP|2263774}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2385640}} {{Cite journal|和書|author=石井研士 |title=戦後の東京都の神社にみる境内建物の高層化について-下- |journal=神道学 |ISSN=05830680 |publisher=神道学会 |year=1993 |month=may |issue=157 |pages=53-70 |naid=40001926556 |id={{NDLJP|2263776}} |doi=10.11501/2263776 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2385640}}</ref>
*馬込八幡神社<ref name="isige"/>
*[[芝大神宮]]<ref name="isige"/>
*[[穴守稲荷神社]] - 客殿・社務所
*[[カトリック関口教会|東京大司教座聖堂・カトリック関口教会]]
*[[聖イグナチオ教会|麹町聖テレジア教会]]
;教育・研究施設
[[File:Tokyo Bunrika University, 1945.jpg|thumb|200px|空襲で全焼した[[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]]]]
[[画像:Mita grand hall 1925.jpg|thumb|200px|1945年5月25日の空襲で焼失した[[慶應義塾大学]][[三田大講堂]]]]
[[画像:Hosei University First Building 2.png|thumb|200px|1945年5月25日の空襲で全焼した[[法政大学]]旧第一校舎]]
*[[東京大学|東京帝国大学]] - 懐徳館([[前田利為#ゆかりの地|旧前田邸]])
*[[東京高等学校 (旧制)|旧制東京高等学校]](現・[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東大教養学部]]および[[東京大学教育学部附属中等教育学校|東大教育学部附属中等教育学校]])
*[[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]]
*[[東京農業大学]]
*[[東京高等工芸学校]](現・[[千葉大学]])
*[[都立化学工業専門学校 (旧制)|都立化学工業専門学校]](現・[[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]])
*[[早稲田大学]] - 恩賜記念館・[[早稲田大学戸山キャンパス|第一高等学院]]・大隈会館(旧[[大隈重信]]邸)
*[[慶應義塾大学]] - [[慶應義塾図書館旧館|図書館旧館]]・[[三田大講堂]]・旧[[福澤諭吉]]邸(1945年5月25日の空襲で焼失)
*[[明治大学]] - [[明治大学駿河台キャンパス|駿河台]]体育館(4月13日の空襲による)<ref>{{Cite journal|和書|author=浮塚利夫 |title=戦時下の明治大学図書館 |journal=図書の譜 |ISSN=1342808X |publisher=明治大学図書館 |year=2006 |month=mar |volume=10 |pages=170-182 |naid=120001438379 |url=https://hdl.handle.net/10291/451}}</ref>・[[明治大学和泉キャンパス|和泉]]予科講堂
*[[法政大学]] - 旧第一校舎
*[[拓殖大学]] - 恩賜記念講堂
*[[日本医科大学]]
*[[東洋大学]]
*[[大倉高等商業学校|大倉経済専門学校]](現・[[東京経済大学]])
*[[高千穂大学|高千穂経済専門学校]](現・[[高千穂大学]])
*[[学校法人青山学院|青山学院工業専門学校]]
*[[善隣協会専門学校 (旧制)|善隣協会専門学校]]
*[[多摩美術大学|多摩帝国美術学校]]
*[[大成高等学校 (東京都)|大成學館尋常中学校]]
*[[順天中学校・高等学校|順天中学校]]
*[[成城学園初等学校]]
*[[学習院女子大学|女子学習院]]
*[[帝国音楽学校]]
*[[日比谷図書文化館|東京都立日比谷図書館]]
*[[法政大学大原社会問題研究所|大原社会問題研究所]](旧[[山内多門]]邸)
;医療施設
*[[東京大学医学部附属病院]]<ref>「[https://web.archive.org/web/20150924024440/http://www.h.u-tokyo.ac.jp/vcms_lf/dayori48.pdf 東京大空襲と東大病院]」「東大病院だより」NO.48,平成17年1月24日</ref>
*[[東京慈恵会医科大学附属病院]]
*[[江東病院]]
*[[慶應義塾大学病院]]<ref>慶應義塾百年史:別卷大学編 p147(745)</ref>
*[[日本大学医学部附属板橋病院|日大板橋病院]]
*[[三井記念病院]]
*東京都立深川病院
*城東病院
*同仁会東京病院(明和病院)
*[[神尾記念病院]]
*[[青山脳病院]]
*[[東京都立松沢病院|松沢病院]]
*右田病院(八王子)
;文化的建造物等
[[ファイル:Eka1005.jpg|thumb|240px|5月25日の空襲で焼失した歌舞伎座]]
*[[松江藩]][[松平家]]上屋敷(赤坂)の表門<ref name="kanayu"/>
*[[薩摩藩]][[島津家]]中屋敷(外桜田)<ref name="kanayu"/>
*[[岡山藩]][[池田家]]上屋敷の表門<ref name="kanayu">金行信輔「[http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Kaga/index.html 描かれた大名屋敷]」、「加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡] 」(東京大学コレクション)。 {{Cite book|和書|author=文化庁 |title=戦災等による焼失文化財 |publisher=便利堂 |year=1983 |edition=増訂版 |NCID=BN01036224 |ISBN=4653009473}} {{ISBN2|4653009481}}。 {{Cite book|和書|author=文化庁 |title=戦災等による焼失文化財 : 20世紀の文化財過去帳 |publisher=戎光祥出版 |year=2003 |edition=新版 |NCID=BA64240755 |ISBN=4900901342}}</ref>
*[[明治座]]
*[[歌舞伎座]]
*[[新橋演舞場]]
*[[国際劇場|浅草国際劇場]]
*両国の[[両国国技館#旧国技館|国技館]](のちの日大講堂、現在の[[両国国技館]]とは位置が異なる)
*[[帝国ホテル]](1945年3月10日空襲で被害)
*野々宮写真館アパート
*[[正岡子規|子規庵]] - 1945年4月14日の城北大空襲で焼失
*偏奇館 - [[永井荷風]]邸宅。膨大な蔵書も焼失。荷風は空襲恐怖症になったといわれる<ref>川本三郎「空襲による『恐怖症』」『荷風好日』岩波書店、2002年(岩波現代文庫、2007年)</ref>。
*[[東京海上日動ビルディング|東京海上ビルディング]]
*日本料亭幸楽(後の[[ホテルニュージャパン]]) - 撃墜されたB29が直撃し、大破焼失
*日本料亭[[星ヶ岡茶寮]]
*[[東日天文館]]
=== 美術工芸 ===
{{節スタブ}}
[[ファイル:Otegine spear edge with scabbard.jpg|thumb|200px|空襲で焼失した[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[大名]][[結城晴朝]]が作らせた[[御手杵]](復元)。全長約3.8m、重量は6[[貫]] (22.5kg) あったという。]]
戦災で焼失したものは国の指定文化財だけでも170点に上る<ref>『戦災等による焼失文化財―20世紀の文化財過去帳』戎光祥出版、2003年</ref>。
*[[松岡映丘]]『[[間宮林蔵]]肖像画』
*[[堀内唯生]]『郊外早春』『秋景』『横浜湾を望む』
*[[下岡蓮杖]]撮影による風景[[写真]]の乾板
*[[虎徹]]『燈籠斬』
*[[御手杵]]([[天下三名槍]]の一つ)
*池上本門寺本尊([[一尊四菩薩]]像[[鎌倉時代]]作、[[四天王]]像[[江戸時代]]作、[[法華経]]7巻[[平安時代]]作うち1巻は現存、文化財未指定)
=== 空襲を免れた地区 ===
東京の市街地でも空襲を免れた区域がある(上図「戦災概況図」参照<ref name="Sensai-tokyo"/>)。周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、[[神田区]]須田町(現在の[[千代田区]][[神田須田町]])や[[向島区]](現在の墨田区[[京島]])が挙げられる。須田町では[[神田川 (東京都)|神田川]]が、向島区では[[東武亀戸線]]沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい<ref group="注">二発が不発弾となったことは確実で、更に一発が不発弾となったと言われているが確定的ではない。</ref>、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも[[関東大震災]]の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、[[下町]]一帯の中では希有な地域である。ただし、「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では[[防災]]面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在に至るまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われているが<ref>{{Cite journal|和書|author=原啓介 |title=まちづくり・地域づくり(6)「こわれない」を目指す下町のまちづくり--東京都墨田区京島地区 |journal=地理 |ISSN=05779308 |publisher=古今書院 |year=2011 |month=oct |volume=56 |issue=10 |pages=20-32 |naid=40019003171 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I11250964-00}} {{Cite journal|和書|author=池田紗英子, 長谷見雄二, 安井昇, 中山葉月 |title=3012 耐震防火同時補強技術の木造密集市街地への適用可能性と延焼シミュレーションによる火災延焼抑制効果の検討 : 墨田区京島地区におけるケーススタディ(防火) |journal=日本建築学会関東支部研究報告集 |publisher=日本建築学会 |year=2011 |month=mar |issue=81 |pages=533-536 |naid=110008730350 |url=https://www.aij.or.jp/paper/detail.html?productId=393878}} {{要購読}}</ref>、自動車が通れないがゆえに重大な交通事故の発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。[[中央区 (東京都)|中央区]]の[[佃島]]・[[月島]]地区も[[晴海運河]]が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった対岸部の深川区(現在の江東区)とは、明暗が分かれた形となった。
[[丸の内]]・[[有楽町]]付近では[[東京都庁|東京府庁]]と[[東京駅]]が空襲を受け全半壊したものの、[[内堀通り]]一帯の[[第一生命館]]や[[明治生命館]]などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。[[皇居|宮城]]は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼{{要出典|date=2011年11月}}により[[明治宮殿]]<!--([[大日本帝国憲法|明治憲法]]の発布式が行われた建物)--><!--脱線トリビア-->が炎上した。このため、[[松平恒雄]][[宮内大臣]]が責任を取って辞任している。
[[東京大学|東京帝国大学]]付近は[[ロックフェラー財団]]の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。
また[[築地]]や[[神田神保町]]一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた[[聖路加国際病院]]や[[救世軍]]本営{{要出典|date=2011年11月}}があったからとも言われるが定かではない。築地には[[木村屋總本店]]のパン工場があり、戦後の占領・駐留を見越して、食糧調達のため爆撃の対象から外したとされる<ref>大山真人著『銀座木村屋あんぱん物語』190頁。</ref>。神保町を空襲しなかった理由に[[古書店街]]の蔵書の焼失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の[[名古屋大空襲]]で国宝[[名古屋城]]を焼いたり、[[ドイツ]]の[[ドレスデン爆撃]]などで[[文化財]]の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお、[[日本正教会]]の[[ニコライ堂]](東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ、現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された<ref>{{Cite book|和書|author=高井寿雄 |title=ギリシア正教入門 |publisher=教文館 |year=1980 |NCID=BN11209307 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I051555644-00}}</ref>。
== 記録 ==
3月10日の空襲の惨状は、[[警視総監]]より撮影の任務を受けた、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の[[石川光陽]]によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年の[[ドーリットル空襲]]から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。
[[東京都江戸東京博物館]]やすみだ郷土文化資料館には東京大空襲に関する展示がある。2001年開館を目指して[[東京都平和祈念館]]の建設も計画されたが、実現していない。
== 東京大空襲の描写が登場する作品 ==
;映像
*NHK特集「東京大空襲」([[日本放送協会|NHK]]制作)1978年3月9日放送<ref>{{NHK放送史|D0009010220_00000|NHK特集 東京大空襲}}</ref>。
*「[[3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実]]」([[TBSテレビ|TBS]]制作)、2008年3月10日放送。
**1945年3月10日の空襲(ミーティングハウス2号作戦)において初弾が投下された4カ所の地域(現在の地域)については、1978年のNHK特集では、深川区は現在の江東区[[深川 (江東区)|深川]][[木場]]、本所区は墨田区[[本所 (墨田区)|本所]]、浅草区は台東区[[浅草]]、日本橋区は中央区[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]と紹介され、2008年のTBS番組では、それぞれ江東区[[白河 (江東区)|白河]]4丁目、墨田区本所3丁目、台東区[[西浅草]][[合羽橋|かっぱ橋道具街]]、中央区日本橋小網町とされた。
;小説
*[[うしろの正面だあれ]] - [[海老名香葉子]]の自伝的児童書および、劇場版アニメーション作品
*[[ガラスのうさぎ]] - [[高木敏子]]の[[児童文学]]および、実写映画、テレビドラマ、劇場版アニメーション作品
*[[終りに見た街]] - 脚本家[[山田太一 (脚本家)|山田太一]]の小説および、テレビドラマ化作品。主人公一家が[[第二次世界大戦]]時、昭和19年(1944年)の東京にタイムスリップする。
*[[戦争と青春]] - [[早乙女勝元]]の小説および、映画化作品。
*[[ストックホルムの密使]] - [[佐々木譲]]の小説。劇中で山脇順三、真理子夫妻が東京大空襲に遭遇する。
;ラジオドラマ
*[[君の名は]] - 1952年に放送されたラジオドラマ、および、それを原作とした映画、舞台、テレビドラマ作品。序盤で東京大空襲が起こり、ヒロインの氏家真知子と後宮春樹が出会う。
;映画
*[[君の名は#映画|君の名は]] - 1953-1954年、[[大庭秀雄]]監督。詳細は上記を参照。
*[[ガラスのうさぎ#実写映画|東京大空襲 ガラスのうさぎ]] - 1979年、[[橘祐典]]監督。詳細は上記を参照。
*[[戦争と青春]] - 1991年、[[今井正]]監督。詳細は上記を参照。
*[[海賊とよばれた男]] - 2016年、[[山崎貴]]監督。 [[百田尚樹]]原作小説の映画化、序盤の1945年5月の東京大空襲のシーンで登場、日本軍の夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]が迎撃するも返り討ちにあって全滅している。しかし実際には、月光が迎撃に出撃した5月25日の夜間空襲において、[[横須賀海軍航空隊]]の夜間戦闘機隊[[黒鳥四朗]]少尉と倉本十三飛曹長が搭乗する月光がB-29を5機撃墜、1機撃破の戦果を挙げて無事に帰投している。
*[[あの日のオルガン]] - 2018年、[[平松恵美子]]監督
;テレビドラマ
*[[君の名は#1962年版|君の名は]] - 1962年、[[フジテレビ]]、詳細は上記を参照
*[[君の名は#1966年版|君の名は]] - 1966年、[[日本テレビ]]、詳細は上記を参照
*[[君の名は#1976年版|君の名は]] - 1976年、[[NETテレビ]]、詳細は上記を参照
*[[ガラスのうさぎ]] - 1980年、[[日本放送協会|NHK]]、詳細は上記を参照
*[[終りに見た街#1982年版|終りに見た街]] - 1982年、テレビ朝日、詳細は上記を参照
*[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]
**[[君の名は#1991年版(NHK連続テレビ小説)|君の名は]](1991年放映)- 詳細は上記を参照。
**[[おしん]] 主人公おしんの家は焼失を免れるものの、工場が焼失。その後満州から引き揚げてきた家主によっておしん一家は家を失ってしまう。
**[[すずらん (テレビドラマ)|すずらん]](1999年放映)- 萌が母親探しのため、生まれ故郷を離れ上京するが、東京大空襲に遭遇する(その後、長男・光太郎を連れて、北海道に疎開する)。
**[[純情きらり]](2006年放映)- 劇中で佳境に差し掛かった頃に東京大空襲が起こる。
**[[おひさま (テレビドラマ)|おひさま]](2011年放映)- 主人公の親友が東京大空襲に罹災、戦火の中で命の恩人に恋をするシーンが描かれている。
**[[花子とアン]](2014年放映)- 第1話序盤及び第24週後半で、1945年4月15日の東京大空襲に遭い大森の自宅兼印刷会社が焼失。
**[[なつぞら]](2019年放映) - 第1話序盤で主人公・なつが母とともに東京大空襲の戦火から逃げるも母とはぐれ、幼馴染に導かれて一緒に学校のプールに飛び込み命拾いしたシーンが、実写とアニメで描かれている。
*[[終りに見た街#2005年版|終りに見た街]] - 2005年、テレビ朝日、詳細は上記を参照
*[[東京大空襲 (テレビドラマ)|東京大空襲]] - 2008年、日本テレビ。監修[[海老名香葉子]]。
*[[3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実]] - 2008年、TBS
*[[オリンピックの身代金 (奥田英朗)#テレビドラマ|オリンピックの身代金]] - 2013年、[[テレビ朝日]]、[[奥田英朗]]原作。主人公の落合昌夫が15歳の時に、妹の有美と共に東京大空襲に遭遇し、母が亡くなるという回想場面が存在する(ちなみにこのエピソードはドラマオリジナル要素であり、原作では落合昌夫の過去について言及されていない)。
*[[東京が戦場になった日]] - 2014年、NHK
;アニメ
*[[ふたつの胡桃]] - 2007年、テレビ朝日
;絵本
*せんそう・1945年3月10日 東京大空襲のこと(2014年[[東京書籍]] / 塚本千恵子 / 文・[[塚本やすし]] / 作・絵)
;漫画
*[[3月のライオン]]昭和異聞 灼熱の時代([[白泉社]] / [[西川秀明]] / 原案・監修:[[羽海野チカ]]) - 第3巻(2016年10月5日発行)の回想シーンに、1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)の描写がある。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=奥住喜重 |author2=早乙女勝元|authorlink2=早乙女勝元|title=東京を爆撃せよ : 作戦任務報告書は語る 東京大空襲の本当の標的 (ターゲット) は何だったか? |publisher[[=三省堂]] |year=1990 |series=三省堂選書 |issue=157 |NCID=BN05142267 |ISBN=4385431574 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002048863-00 |ref=奥住}}
*E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年
*A・C・グレイリング(著)、[[鈴木主税]]・浅岡政子(訳)『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 [[河出書房新社]]、2007年。ISBN 978-4-309-22460-2
**A. C. Grayling, "''Among The Dead Cities:The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan,''" Walker & Company, March 20, 2007. ISBN 0802715656
* {{Cite book|和書|author=ロナルド・シェイファー |author2=深田民生 |title=アメリカの日本空襲にモラルはあったか : 戦略爆撃の道義的問題 |publisher=草思社 |year=2007 |edition=新装版 |NCID=BA82821374 |ISBN=9784794216021 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008571566-00 |ref=アメリカの日本空襲にモラルはあったか}}
*早乙女勝元 『図説 東京大空襲』 [[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、2003年。ISBN 4-309-76033-3
* {{Cite book |和書 |author1=奥住喜重|authorlink1=奥住喜重|author2=早乙女勝元|authorlink2=早乙女勝元|year=2007|title=新版 東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る|publisher=三省堂|isbn=978-4385363219 |ref={{SfnRef|奥住|早乙女|2017}} }}
* {{Cite journal|和書|author=宍戸伴久 |title=戦後処理の残された課題--日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償 |journal=レファレンス |ISSN=00342912 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |year=2008 |month=dec |volume=58 |issue=12 |pages=111-140 |naid=40016393501 |id={{NDLJP|999630}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/9753296 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[田中利幸 (歴史学者)|田中利幸]] |title=犯罪と責任 : 無差別爆撃と大量虐殺 |journal=現代社会研究 |ISSN=18842623 |publisher=京都女子大学現代社会学部 |year=2009 |month=dec |issue=12 |pages=209-215 |naid=120005303357 |url=https://hdl.handle.net/11173/431 |ref=harv}}
* [[東京都]](編) 『東京都戦災誌』 [[明元社]]、2005年。ISBN 4-902622-04-1
* {{Cite journal|和書|author=内藤光博 |title=空襲被災と憲法的補償 : 東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論 |journal=専修法学論集 |ISSN=03865800 |publisher=専修大学法学会 |year=2009 |month=jul |volume=106 |pages=1-51 |naid=120006793394 |doi=10.34360/00005830 |url=https://doi.org/10.34360/00005830 |ref=harv}}
*平塚柾緒(編・著) 『米軍が記録した日本空襲』 [[草思社]]、1995年。ISBN 4-7942-0610-0
*村上義人 『手拭いの旗 暁の風に翻る』 [[福音館書店]]〈福音館日曜日文庫〉、1977年。ISBN 4-8340-0549-6
*[[山本茂男]]ほか(著)『B29対陸軍戦闘隊―陸軍防空戦闘隊の記録』 [[今日の話題社]]、1985年、新版。ISBN 4-87565-304-2
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土防空作戦|volume=第19巻|year=1968|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書19|1968}}}}
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<6> {{small|昭和十八年六月まで}}|volume=第66巻|year=1973|month=06|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書66|1973}}}}
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* {{Cite book |和書 |author1=カーチス・ルメイ|authorlink1=カーチス・ルメイ|author2=ビル・イエーン | |others=[[渡辺洋二]](訳) |year=1991 |title=超・空の要塞:B‐29 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |isbn=978-4257172376 |ref={{SfnRef|ルメイ|1991}} }}
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* {{Cite book |和書 |author=樫出勇|authorlink=樫出勇 |year=2005|title=B29撃墜記―夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769822035|ref={{SfnRef|樫出|2005}} }}
* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎 |year=2013|title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769828020|ref={{SfnRef|木俣|2013}} }}
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* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2007 |title=特攻の海と空―個人としての航空戦史 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=978-4167249151|ref={{SfnRef|渡辺洋二|2007}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=米国戦略爆撃調査団|editor-link=米国戦略爆撃調査団 |others=[[大谷内和夫]](訳) |year=1996 |title=JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 |publisher=光人社 |isbn=4769807686 |ref={{SfnRef|米国戦略爆撃調査団|1996}} }}
*{{Cite book|和書|author=トーマス・B・ブュエル|others=小城正(訳)|title=提督スプルーアンス|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|date=2000|ISBN=4-05-401144-6|ref={{SfnRef|ブュエル|2000}} }}
* {{Cite book |和書 |author=E.B.ポッター |others=南郷 洋一郎 |year=1979 |title=提督ニミッツ |publisher=フジ出版社 |asin=B000J8HSSK |ref={{SfnRef|ポッター|1979}} }}
* {{Cite book |和書 |author=アービン・クックス |others=加藤 俊平(訳)|year=1971 |title=天皇の決断―昭和20年8月15日 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 21 |isbn=978-4383011266 |ref={{SfnRef|クックス |1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=柳澤潤 |year=2008 |title=戦史研究年報 第11号 日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末 |publisher=防衛研究所 |series=戦史研究年報 |naid=40016054421 |ref={{SfnRef|柳澤|2008}}}}
*{{Cite book |和書 |author=ヘンリー境田 |author2=高木晃治 |year=2004 |title=B‐29対日本陸軍戦闘機 |publisher=大日本絵画|series=オスプレイ軍用機シリーズ47 | isbn=9784499228503 |ref={{SfnRef|境田|高木|2004}} }}
*{{Cite book |和書 |author=水間政憲|authorlink=水間政憲 |year=2013-12 |title=ひと目でわかる「戦前日本」の真実 1936‐1945 |publisher=PHP研究所 |series=ひと目でわかる| isbn= 978-4569817040|ref={{SfnRef|水間|2013}}}}
* {{Cite book|和書|author=荒井信一 |title=空爆の歴史 : 終わらない大量虐殺 |publisher=岩波書店 |year=2008 |series=岩波新書、新赤版 1144 |NCID=BA8679199X |ISBN=9784004311447 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009517967-00 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bombing of Tokyo in 1945}}
* [[ジェノサイド]]
* [[チャールズ・ブロンソン]] - B-29の後部機関銃手として東京大空襲を戦った
* [[毒蝮三太夫]] - 疎開していなかったため5月24日の空襲に遭遇した。
* [[ドレスデン爆撃]]
* [[重慶爆撃]]
* [[ゲルニカ爆撃]]
* [[日本本土空襲]]
** [[名古屋大空襲]]
** [[大阪大空襲]]
** [[広島市への原子爆弾投下]]
** [[長崎市への原子爆弾投下]]
* [[門前仲町駅]] - 建設現場から空襲で被災した親子らの遺体6体が発見された。
* [[日本本土防空]]
* [[戦争犯罪]]
* [[極東国際軍事裁判]]
* [[日本の戦争賠償と戦後補償]]
* [[空襲下の日本]] - 1933年に刊行された[[海野十三]]の[[SF小説]]。東京への都市無差別爆撃を予見した。
* [[空軍力の勝利]] - 1943年に公開された[[アメリカ合衆国]]の[[ディズニー]]映画。[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ウォルト・ディズニー・プロダクション]])制作。[[実写]]・[[アニメーション|アニメ]]の合成。終盤、空襲で東京を焼き尽くすシーンがある(ただし、史実の[[サイパン島]]からではなく、[[アラスカ州]]から敵地の東京に向かう)。
* [[中山武敏]]
* [[防空法]]
* [[戦時災害保護法]] - 戦中の空襲被害者と遺族の補償法。戦後廃止。
* [[水野広徳]] - 著作で東京大空襲を予言した。
* [[林家木久扇]] - 当時住んでいた日本橋区久松町(現:[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋久松町]])の雑貨問屋を営んでいた実家が焼けた。
== 外部リンク ==
* [https://tokyo-sensai.net/ 東京大空襲・戦災資料センター]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/ |title=東京空襲犠牲者遺族会 |date=20160822110810}}
* [https://www.city.chuo.lg.jp/virtualmuseum/heiwazigyo/shiryoshitu/kikakutenjishitsu/h22_junkaiheiwaten/tokyodaikusyu/index.html 中央区 東京大空襲] - 中央区。
* [https://www.zenkuren.com/index.html 全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)] [https://zenkokukushuren.blogspot.com/?m=1 ブログ]
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/comic/index.html 一般戦災死没者の追悼 まんが子ども太平洋戦争物語] - 総務省
* [http://kushusensai.net/ 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議ブログ]
** {{Cite journal |和書|author=Sams Richard |title=3月10日の東京大空襲の際に民間人に対する機銃掃射はあったのか |journal=空襲通信 : 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議会報 |issn=2188-0743 |publisher=空襲・戦災を記録する会全国連絡会議 |year=2014 |issue=16 |pages=37-39 |naid=40020726732}}
{{太平洋戦争・詳細}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうきようたいくうしゆう}}
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5,304 | 大阪大空襲 | 大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が実施した、大阪府大阪市を中心とする地域への空襲である。
1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。
1945年3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、274機のB-29が襲来した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。
3月13日と14日の大空襲は深夜に行われていた。難波や心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には地下鉄は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに心斎橋駅や本町駅、大国町駅に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する。
この話は長く知られてこなかったが、1997年3月に朝日新聞の「声」欄に京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された。これを受けて大阪市交通局の労働組合(大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほぼなく、当時の証言を集めることとなった。この動きを知った毎日新聞大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は1998年3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した。
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「梅田の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは天王寺駅行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「憲兵が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。
この避難列車については、NHKが1998年3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送。それから9年後の2007年7月25日深夜にフジテレビがNONFIXで「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほぼないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、1997年の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、2009年の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている。
なお、この地下鉄での避難はNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』劇中(2014年3月4日放送分)にて描写された。また、『ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説スペシャル2015秋』 (2015年9月23日放送分)にてこの話題が取り上げられた。
1945年6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。大阪港と安治川右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。アメリカ軍の照準点は福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現在の八幡屋公園)、大正区福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺、北区南部と主に大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。またP51が初めて来襲し、機銃掃射をおこなっている。
1945年6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は、焼夷弾は都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近。また城東の大阪陸軍造兵廠をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市に被害を及ぼした。
大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた約400人の市民が犠牲になった。また柴島浄水場が破壊され、上水道供給機能が停止した。 新淀川橋梁から十三駅付近の爆撃被災により京阪神急行電鉄は新京阪線の梅田駅直通が休止、神戸線のみ夕方から運転を再開した。
また、旭区の城北公園には近くの繊維工場に四国から勤労動員で来ていた女学生を始めとして付近の多くの住民が避難していたが、機銃掃射を集中的に受け、数百人から千人ともいわれる犠牲者を出した。
1945年6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は阪神本線出屋敷駅(兵庫県尼崎市)付近、国鉄福知山線支線金楽寺駅(尼崎市)付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、堺市や布施市(現在の東大阪市)、豊中市、守口町(現在の守口市)などに被害を及ぼし、477人が死亡した。
1945年6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。アメリカ軍の照準点は此花区北港の住友金属(現在の日本製鉄)製鋼所、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。
1945年7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。
日米ともに堺市を標的とした堺大空襲と捉えているこの空襲は、大阪市を標的とした他の空襲とは主旨が異なる。第六次攻撃とみなすものとして、戦後すぐに作成された『戦災概況図大阪』があるが、「第六次ハ堺市攻撃」との注釈が付く。なお、大阪市を標的とした空襲とみなさない資料等もあり、その場合は7月24日の空襲を第6回空襲、8月14日の空襲を第7回空襲とカウントしているので注意が必要である。
前日の深夜から同日未明にわたって、堺大空襲にやや先行する時間帯で和歌山大空襲(テニアン島より出撃)も行われており、大阪湾岸の南部2つの主要地方都市(中小都市)が一夜にして焼け野原となった。
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3,000発(778.9トン)の爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方キロメートル(約5万5,000人)が被災し、1,370人の死者、1,472人の重軽傷者、3人の行方不明者、家屋の全半焼14,797戸という被害を出した。この空襲では、堺市に隣接する大阪市住吉区(現・住之江区を含む)や、堺市 - 和歌山市間に位置する泉大津市・岸和田市・貝塚市でも被害を出している。
1945年7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。
1945年8月14日に約150機のB29が大阪への空襲をおこなった。アメリカ軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅(大阪市都島区東野田町から城東区新喜多の周辺)で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大阪城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、立体交差する階下の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)とされている。
1955年から毎年8月14日に京橋駅南口(城東区新喜多)で慰霊祭が行われている。慰霊祭に当初から関わってきた大阪市旭区の妙見閣寺は後世に記憶を語り継ぐため空襲体験者や遺族の証言を映像に残す取り組みを始めた。
2008年12月8日、大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが、国は旧軍人・軍属には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、日本国憲法第14条法のもとの平等に違反するとして、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の損害賠償と謝罪などを求めて大阪地裁に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、2007年3月に東京地裁に起こされた東京大空襲を巡る訴訟に次ぎ2例目。2011年12月7日に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は国会の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した。2013年1月16日に大阪高裁の控訴判決は国民の受忍限度で棄却され、最高裁に上告。2014年9月16日までに最高裁は上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。決定は11日付け。これらは原告の敗訴ではあるが、大阪空襲訴訟・弁護団では、判決文中には「逃げずに火を消せ」とする防空法や「空襲は恐るるに足りず」とする情報統制によって国民が危険な状況に置かれたことなど、詳細な認定がされていると評している。 | [
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"text": "1945年7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。",
"title": "第7回大阪大空襲 - 7月24日"
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"title": "第8回大阪大空襲 - 8月14日"
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"text": "1945年8月14日に約150機のB29が大阪への空襲をおこなった。アメリカ軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅(大阪市都島区東野田町から城東区新喜多の周辺)で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。",
"title": "第8回大阪大空襲 - 8月14日"
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"text": "大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大阪城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。",
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"text": "京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、立体交差する階下の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)とされている。",
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"text": "1955年から毎年8月14日に京橋駅南口(城東区新喜多)で慰霊祭が行われている。慰霊祭に当初から関わってきた大阪市旭区の妙見閣寺は後世に記憶を語り継ぐため空襲体験者や遺族の証言を映像に残す取り組みを始めた。",
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"text": "2008年12月8日、大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが、国は旧軍人・軍属には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、日本国憲法第14条法のもとの平等に違反するとして、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の損害賠償と謝罪などを求めて大阪地裁に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、2007年3月に東京地裁に起こされた東京大空襲を巡る訴訟に次ぎ2例目。2011年12月7日に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は国会の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した。2013年1月16日に大阪高裁の控訴判決は国民の受忍限度で棄却され、最高裁に上告。2014年9月16日までに最高裁は上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。決定は11日付け。これらは原告の敗訴ではあるが、大阪空襲訴訟・弁護団では、判決文中には「逃げずに火を消せ」とする防空法や「空襲は恐るるに足りず」とする情報統制によって国民が危険な状況に置かれたことなど、詳細な認定がされていると評している。",
"title": "日本政府に対する訴訟"
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] | 大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が実施した、大阪府大阪市を中心とする地域への空襲である。 1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。 | [[File:Osaka after the 1945 air raid.JPG|thumb|300px|空襲後の大阪市街<br/><sub>左端は[[南海電気鉄道|南海]][[難波駅 (南海)|難波駅]]、右手前には松坂屋大阪店(現・[[髙島屋]]東別館)、中央に[[大阪歌舞伎座]]が認められる。</sub>]]
'''大阪大空襲'''(おおさかだいくうしゅう)は、[[第二次世界大戦]]末期に[[アメリカ軍]]が実施した、[[大阪府]][[大阪市]]を中心とする地域への[[空襲]]である。
[[1945年]][[3月13日]]深夜から翌日未明([[日本標準時|日本時間]]、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後、[[6月1日]]、[[6月7日]]、[[6月15日]]、[[6月26日]]、[[7月10日]]、[[7月24日]]、[[8月14日]]に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死亡したと言われている。
== 第1回大阪大空襲 - 3月13日・14日 ==
{{Anchors|第1回大阪大空襲}}
[[1945年]]3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、274機の[[B-29_(航空機)|B-29]]が襲来した。[[グアム]]からの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。アメリカ軍の照準点は、[[北区 (大阪市)|北区]][[扇町 (大阪市)|扇町]]、[[西区 (大阪市)|西区]][[阿波座]]、[[港区 (大阪市)|港区]][[市岡元町]]、[[浪速区]][[塩草]]で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機が[[ナパーム弾]](大型の[[焼夷弾]])を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いて[[テニアン島|テニアン]]から第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらに[[サイパン島|サイパン]]から第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ[[奈良県]]や[[亀岡盆地]]側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという<ref>[[東大寺]]長老の筒井寛英は「二月堂から見ると生駒山をシルエットに、大阪の空が真っ赤に染まっていました」と記している(『誰も知らない東大寺』小学館、2006年)。このとき東大寺は[[修二会]](お水取り)の期間中で、「お松明」は[[灯火管制]]のため扉を閉めて
おこなわれていた。</ref>。
=== 地下鉄による避難 ===
[[File:Near_Shinsaibashi_After_Osaka_Air_Raid_1945.png|thumb|大阪空襲後の心斎橋付近。後方右側には高島屋大阪店が見える]]
3月13日と14日の大空襲は深夜に行われていた。難波や心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には[[Osaka Metro御堂筋線|地下鉄]]は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに[[心斎橋駅]]や[[本町駅]]<ref>後述の毎日新聞記事によると、当時、大阪市の食糧倉庫として使用しており常時閉鎖されていた。</ref>、[[大国町駅]]に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する<ref>後述の毎日新聞記事によると、[[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]]から乗ったという証言は得られなかったという。</ref>。
この話は長く知られてこなかったが、[[1997年]]3月に[[朝日新聞]]の「声」欄に京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って[[梅田]]に逃れた体験談が掲載された<ref>村松が後に[[読売新聞]]に体験を語った記事がある[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/026/2.htm]。</ref>。これを受けて[[大阪市交通局]]の[[労働組合]](大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほぼなく、当時の証言を集めることとなった<ref>資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。</ref>。この動きを知った[[毎日新聞]]大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は[[1998年]]3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した<ref>公営交通研究所が[[1999年]]に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の[[大阪市立中央図書館]]レファレンス事例に紹介がある。
* {{CRD|1000039007|大阪空襲の時、大阪市交通局が地下鉄を封鎖したが、市民がその封鎖をやぶって救援電車を走らせたという毎日新聞の記事を見た。(2005年ごろ) この新聞記事を含めて関連する資料を見たい。|大阪市立中央図書館 }}</ref>。
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「[[梅田駅 (Osaka Metro) |梅田]]の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは[[天王寺駅]]行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた<ref>後述の連続テレビ小説『ごちそうさん』ではこの説を採用しており、主人公の西門め以子が門の開場に難色を示す職員に「この地下鉄はうちの旦那が作ったんや」と言って説き伏せてむりやり開けさせている。</ref>」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した<ref>「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の[[佐藤栄作]](後の首相)が大阪市電気局(後の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明である。</ref>。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。
この避難列車については、[[日本放送協会|NHK]]が[[1998年]]3月29日に「[[列島リレードキュメント]]」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送<ref>[http://www2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?recId=0001000000000000@000000000000000000000029-207700000000000000000000&hitCount=17&sort=&programPage=2&cornerPage=&=2&keyword=%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88&op=AND&keyword_not=&op_not=OR&year_1=1998&month_1=03&day_1=01&year_2=1998&month_2=03&day_2=31&from_hour=&from_minute=&to_hour=&to_minute=&lgenre1=&lgenre2=&lgenre3=&genre_op=AND&rec_count=10&cal_edit= 列島リレードキュメント 空襲の夜 地下鉄は走った~大阪・大阪市] NHKアーカイブス</ref>。それから9年後の[[2007年]]7月25日深夜に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が[[NONFIX]]で「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた<ref>[http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2007/550.html NONFIX 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか]。大空襲のあった地元の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]では[[2008年]]1月20日深夜に放送。</ref>。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車<ref>「大交」の記事によると、午前3時30分頃にNHKラジオで「警報解除後、電車を運転するので、防空要員は復旧に当たってほしい」と3度放送があったという(「[[鉄道ピクトリアル]]」[[1965年]]8月号掲載の「大阪市路面電車戦災の記」(宮本政幸)からの引用)。</ref>、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほぼないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、[[1997年]]の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、[[2009年]]の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html 「大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線」朝日新聞大阪版2009年12月26日]</ref>。
なお、この地下鉄での避難は[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[ごちそうさん (2013年のテレビドラマ)|ごちそうさん]]』劇中(2014年3月4日放送分)にて描写された。また、『[[やりすぎ都市伝説|ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説スペシャル2015秋]]』 (2015年9月23日放送分)にてこの話題が取り上げられた。
== 第2回大阪大空襲 - 6月1日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
[[File:Boeing B-29A-45-BN Superfortress 44-61784 6 BG 24 BS - Incendiary Journey.jpg|right|thumb|都島区の鐘紡淀川工場付近<br/>(右下は柴島浄水場と長柄橋)<!-- 画像説明には6月1日とあるが、罹災地域から考えて6月7日の第3回空襲かと思われる。-->]]
[[1945年]]6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。[[大阪港]]と[[旧淀川|安治川]]右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。アメリカ軍の照準点は[[福島駅 (大阪府)|福島駅]]近辺、福島区大開町、[[安治川口駅]]近辺、港区・[[大阪市立運動場]](現在の[[八幡屋公園]])、[[大正区]]福町(現在の鶴町5丁目)、[[東区 (大阪市)|東区]](現[[中央区 (大阪市)|中央区]])上町、東雲町、森之宮・玉造周辺、[[北区 (大阪市)|北区]]南部と主に大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。また[[P-51 (航空機)|P51]]が初めて来襲し、[[機銃掃射]]をおこなっている。
== 第3回大阪大空襲 - 6月7日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
[[1945年]]6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は、焼夷弾は[[都島区]]高倉町、[[鶴橋駅]]付近、[[天王寺駅]]付近。また城東の[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と[[兵庫県]][[尼崎市]]に被害を及ぼした。
大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では[[長柄橋]]に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた約400人の市民が犠牲になった。また[[大阪市水道局柴島浄水場|柴島浄水場]]が破壊され、上水道供給機能が停止した。 新淀川橋梁から[[十三駅]]付近の爆撃被災により[[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]]は[[阪急京都本線|新京阪線]]の[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田駅]]直通が休止、[[阪急神戸本線|神戸線]]のみ夕方から運転を再開した。<!---宝塚線は?(当時新京阪線の電車は十三以南は宝塚線の線路を使用)--->
また、[[旭区 (大阪市)|旭区]]の[[城北公園]]には近くの繊維工場に[[四国]]から[[勤労動員]]で来ていた女学生を始めとして付近の多くの住民が避難していたが、機銃掃射を集中的に受け、数百人から千人ともいわれる犠牲者を出した。
== 第4回大阪大空襲 - 6月15日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
[[1945年]]6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は[[阪神本線]][[出屋敷駅]]([[兵庫県]][[尼崎市]])付近、[[鉄道省|国鉄]][[福知山線]]支線[[金楽寺駅]](尼崎市)付近、[[西淀川区]]・[[神崎大橋]]南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、[[堺市]]や[[布施市]](現在の[[東大阪市]])、[[豊中市]]、守口町(現在の[[守口市]])などに被害を及ぼし、477人が死亡した。
== 第5回大阪大空襲 - 6月26日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
[[1945年]]6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。アメリカ軍の照準点は[[此花区]][[北港 (大阪市)|北港]]の[[住友金属]](現在の[[日本製鉄]])[[新日鐵住金製鋼所|製鋼所]]、および[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]](砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。
== 堺大空襲(第6回大阪大空襲) - 7月10日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
{{Anchors|堺大空襲}}
[[1945年]]7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。
日米ともに[[堺市]]を標的とした'''堺大空襲'''と捉えているこの空襲は、大阪市を標的とした他の空襲とは主旨が異なる。第六次攻撃とみなすものとして、戦後すぐに作成された『戦災概況図大阪』があるが、「第六次ハ堺市攻撃」との注釈が付く。なお、大阪市を標的とした空襲とみなさない資料等もあり、その場合は7月24日の空襲を第6回空襲、8月14日の空襲を第7回空襲とカウントしているので注意が必要である。
前日の深夜から同日未明にわたって、堺大空襲にやや先行する時間帯で[[和歌山大空襲]](テニアン島より出撃)も行われており、大阪湾岸の南部2つの主要地方都市(中小都市)が一夜にして焼け野原となった。
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3,000発(778.9トン)の爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方キロメートル(約5万5,000人)が被災し、1,370人の死者、1,472人の重軽傷者、3人の行方不明者、家屋の全半焼14,797戸という被害を出した。この空襲では、堺市に隣接する大阪市[[住吉区]](現・[[住之江区]]を含む)や、堺市 - [[和歌山市]]間に位置する[[泉大津市]]・[[岸和田市]]・[[貝塚市]]でも被害を出している。
== 第7回大阪大空襲 - 7月24日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
[[File:Morinomiya Station plat home after air raid.jpg|thumb|250px|空襲後の国鉄[[森ノ宮駅]]ホーム]]
[[1945年]]7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が[[木津川飛行場]]および伊丹飛行場(現在の[[大阪国際空港]])を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた[[三重県]][[桑名市]]へ向かい[[桑名空襲]]を起こしている。
== 第8回大阪大空襲 - 8月14日 ==
{{出典の明記|sectio=1|date=2018-04}}
{{Anchors|京橋駅空襲}}
[[画像:大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑.JPG|thumb|京橋駅南口の大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑(城東区新喜多)]]
[[File:Kyobashi Station Osaka in 1946.jpg|thumb|空襲から10ヶ月後の京橋駅(1946年6月)]]
[[1945年]][[8月14日]]に約150機のB29が大阪への空襲をおこなった。アメリカ軍機は[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]](大阪市[[都島区]][[東野田町]]から[[城東区]][[新喜多 (大阪市)|新喜多]]の周辺)で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「'''京橋駅空襲'''」ないしは「'''京橋空襲'''」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また[[大坂城|大阪城]]内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口[[多聞櫓]]を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の[[大阪環状線]])の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、立体交差する階下の[[片町線]]ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)とされている。
[[1955年]]から毎年8月14日に京橋駅南口(城東区新喜多)で慰霊祭が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220814/k00/00m/040/095000c |title=京橋大空襲から77年 「2度と繰り返してはいけない」遺族らが追悼 |publisher=毎日新聞 |date=2022-08-14 |accessdate=2022-08-15}}</ref>。慰霊祭に当初から関わってきた大阪市[[旭区_(大阪市)|旭区]]の妙見閣寺<ref>[https://www.myokenkakuji.com/kyobashiekiireisai] 妙見閣寺公式サイト</ref>は後世に記憶を語り継ぐため空襲体験者や遺族の証言を映像に残す取り組みを始めた<ref>{{Cite news|title= 終戦前日の悲劇、後世に 大阪・京橋駅空襲犠牲者悼む|url=https://www.sankei.com/article/20200814-ET4IYQZGGJOK3NPIOCMVARPTPU/|date=2020/8/14|accessdate=2020/8/14|newspaper=産経新聞}}</ref>。
== 日本政府に対する訴訟 ==
[[2008年]][[12月8日]]、大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが、国は旧[[軍人]]・[[軍属]]には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、[[日本国憲法第14条]]法のもとの平等に違反するとして<ref name="名前なし-1">[https://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0817.html 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]</ref>、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の[[損害賠償]]と謝罪などを求めて[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、[[2007年]][[3月]]に[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こされた[[東京大空襲]]を巡る訴訟に次ぎ2例目<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1208/OSK200812080069.html 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人] 朝日新聞 2008年12月8日</ref>。[[2011年]][[12月7日]]に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は[[国会 (日本)|国会]]の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1207/OSK201112070067.html 空襲被災者らの請求棄却 大阪など5空襲訴訟で地裁判決] 朝日新聞 2011年12月7日</ref>。[[2013年]][[1月16日]]に[[大阪高等裁判所|大阪高裁]]の控訴判決は国民の受忍限度で棄却され、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]に上告<ref name="名前なし-1"/>。[[2014年]][[9月16日]]までに最高裁は上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。決定は11日付け<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&rel=j7&k=2014091600576 被災者ら敗訴確定=大阪大空襲訴訟-最高裁] 時事ドットコム2014年9月16日</ref>。これらは原告の敗訴ではあるが、大阪空襲訴訟・弁護団では、判決文中には「逃げずに火を消せ」とする防空法や「空襲は恐るるに足りず」とする情報統制によって国民が危険な状況に置かれたことなど、詳細な認定がされていると評している<ref>[http://osakanet.web.fc2.com/osaka-kusyu/hanketsu.html この判決はスゴイ! 大阪空襲訴訟] 大阪空襲訴訟弁護団2014年10月</ref>。
== その他 ==
* [[大阪府]]下では、[[堺市#堺空襲|堺市]]、[[岸和田市]]、[[豊中市#戦争被害|豊中市]]、[[池田市]]、[[吹田市]]、[[布施市]]、[[高槻市]]、[[泉大津市]]、[[大正村]]などが空襲を受けた。
* 周辺地域では[[神戸大空襲|神戸市]]、[[京都空襲|京都市]]、[[奈良空襲|奈良市]]、[[和歌山大空襲|和歌山市]]などが空襲を受けた。
== 大阪大空襲に関連する作品 ==
* 『[[どついたれ]]』 - [[手塚治虫]]の自伝的漫画。自らの体験をもとに大阪大空襲を描いた。
* 『[[紙の砦]]』 - 手塚治虫の自伝的漫画。著者自身の姿を描いた作品。上の作品と同じく大阪大空襲を描いた。
* 『[[ぼんち (小説)|ぼんち]]』 - [[山崎豊子]]の[[長編小説]]。終盤あたりに大阪大空襲の描写がされている。
* 『[[砂の器]]』 - [[松本清張]]の小説。3月13〜14日の空襲で被害を受けた犯人の「戸籍の再製」手続きによる、出自の偽りが重要なトリックになっている。
* [[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]
** 『[[ごちそうさん (2013年のテレビドラマ)|ごちそうさん]]』 - 2013年下半期放送。劇中で大阪大空襲が起こり(2014年3月4日の第128話放送にて)、主人公め以子や市民達が、[[心斎橋駅]]から[[大阪市営地下鉄御堂筋線|地下鉄]]に乗り梅田方面へ避難する場面がある。
** 『[[わろてんか]]』 - 2017年下半期放送。物語終盤あたりで大阪大空襲が起こり(2018年3月26日にて)、主人公のてんが長年経営してきた寄席小屋『風鳥亭』が焼失する。
** 『[[おちょやん]]』 - 2020年下半期放送。劇中で大阪大空襲が起こり(2021年4月2日の第85回放送にて)、主人公の千代が懇意にしていた店舗『岡安』と『福富楽器店』が消失。福富楽器店の店主夫婦が命を落とす。
*『[[わが町・大阪ひがし]]』 - 演劇。京橋の商店街を舞台とし、京橋の砲兵工場に勤める女学生とその家族を中心に話が進んでいく。
* 『[[3月のライオン]]昭和異聞 灼熱の時代』<!-- タイトル全体をタグ付けすると飛ばないため、「3月のライオン」だけくくっています。 --> - [[西川秀明]](原案・監修:[[羽海野チカ]])の将棋漫画。第42話の回想(単行本第6巻のp.23 - 26)で、第1回大阪大空襲の描写がされている。
* 『大鞠家殺人事件』- [[芦辺拓]]の長編推理小説(2021年)。大阪[[船場 (大阪市)|船場]]が舞台で、第5から第6章にわたって、大阪空襲の事が詳しく述べられている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年4月|section=1}}
* 『[[大阪市史|新修大阪市史]]』第七巻、大阪市史編纂所、[[1994年]]
== 関連項目 ==
*[[日本本土空襲]]
*[[太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔]]
*[[防空法]]
*[[戦時災害保護法]] - 戦中の空襲被害者と遺族の補償法。戦後廃止
== 外部リンク ==
* [http://www.peace-osaka.or.jp/ 財団法人 大阪国際平和センター](ピースおおさか)
* [http://osakanet.web.fc2.com/osaka-kusyu/ 大阪空襲訴訟・弁護団(裁判書類、裁判の経過など)]
* [http://www.shinchosha.co.jp/book/135986/ 『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』] ([[秋尾沙戸子]]著 [[新潮文庫]] [[日本エッセイスト・クラブ賞]])
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5,306 | ルーク・スカイウォーカー | ルーク・スカイウォーカー(Luke Skywalker)は、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物。「エピソード4〜6」の主人公。エピソード7、8、9にも登場する。
青年に成長してからジェダイの騎士になった珍しい経歴のジェダイである。強力なフォースの使い手であり、強大な戦闘力を持つ。ライトセーバーを初めて扱った日からわずか数年でジャバ・ザ・ハットが組織するマフィアをほぼ単身の戦闘力で壊滅させ、実父であるダース・ベイダーと同等に剣を交えるなど長いジェダイの歴史の中で最も短期間で成長した人物である。またダース・ベイダーに「皇帝(ダース・シディアス)すら倒せる」と言わしめるほどの高い潜在能力を秘めるが、皇帝との戦闘では襲いかかったことはあるがルーク自身が皇帝を滅ぼすことはせずに拒絶に憤った皇帝の攻撃をなす術なく一方的に浴びせられた。
ジェダイになる前は反乱同盟軍の兵士であり、フォースによる優れた空間認識能力や父親譲りのパイロットの素質を活用しながら数々の戦闘で活躍しており、ホスの戦いでは新たに編成されたローグ中隊のリーダーでもあった。
師匠はオビ=ワン・ケノービとヨーダ。父は後のシスの暗黒卿ダース・ベイダーであるアナキン・スカイウォーカー。
ルークは幼少時代を奴隷として生活した父アナキンとは異なり普通の家庭において善良な養父母に育てられたごく普通の一般庶民である家庭環境の子供であるため純粋無垢な気質であり、性格は父親よりも温和である。また師であるオビ=ワンとヨーダからは父と同じ轍を踏まないようにと強力なバックアップを受け、レイア・オーガナ、ハン・ソロ、チューバッカ、ランド・カルリジアン、ビッグス・ダークライターなどの多くの友人や仲間、善良な家族の助けもあり心が負の感情に支配されることは無かった。
衣装の色が物語が進むごとに白(エピソード4/新たなる希望) → 灰色(エピソード5/帝国の逆襲) → 黒(エピソード6/ジェダイの帰還)へと変わっていく。これは“ルークが徐々にフォースの暗黒面に近づいている”ということを暗示している。なお父であるアナキン・スカイウォーカーも白(エピソード1/ファントム・メナス) → 茶色(エピソード2/クローンの攻撃) → 黒(エピソード3/シスの復讐)へと徐々に暗い色へと変化している。しかし結果は上記の通り皇帝の誘惑に屈した父親とは対照的に暗黒面に転落することはなく、父親を暗黒面の呪縛から解放することにも成功した。
ジェダイの騎士はブラスターを積極的に使うべきではない無粋な武器としておりオビ=ワン・ケノービもブラスターを「野蛮な武器」と評していたがルークは反乱軍兵士であり、またこの時はジェダイ騎士団の正規の訓練を受けていないこともありブラスターを使うことに抵抗がなかったようでライトセーバーと共に携行していた。だが雲の惑星ベスピンにあるクラウド・シティでのダース・ベイダーとの敗戦後、オビ=ワンの家に潜伏して書物を漁りジェダイの修行に打ち込み騎士として成長を遂げた後は戦況に応じて敵のブラスターを奪って利用することはあってもルーク自身がブラスターを携行することはなくなった。また『帝国の逆襲』では爆弾を用いた。
名前の「ルーク(Luke)」は監督のジョージ・ルーカス自身の愛称に因む。また企画段階での名前は「ルーク・スターキラー(Luke Starkiller)」であり、これは後にゲーム『スター・ウォーズ フォース アンリーシュド』の主人公・スターキラーや、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』に登場する「スターキラー基地(Starkiller Base)」の名前の由来となった。この他にもスター・ウォーズには多くの「スターキラー」が存在する。
アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)とパドメ・アミダラの息子であり、辺境の惑星ポリス・マサでレイア・オーガナと共に双子として生まれる。「ルーク」の名は生まれたその瞬間に母が名づけたものである。ジェダイ抹殺を企てる銀河皇帝パルパティーンの目を逃れるために誕生後すぐオビ=ワン・ケノービによって砂漠の惑星タトゥイーンに住む父の親戚筋に当たるラーズ夫妻に預けられて育てられた(正確には父方の祖母が奴隷から解放された後に結婚した父の義父の家族であり、ルークとは血縁関係はない)。
ルークは自分に双子の妹がいることも父親が銀河帝国軍を率いるダース・ベイダーであることも知らずに育った。ベン・ケノービ(オビ=ワン・ケノービ)からは自分の父親はベイダーに殺されたと聞かされていた。ヨーダの指示でオビ=ワン・ケノービはタトゥイーンに潜伏しつつ銀河の最後の希望であるルークの成長を見守った。
砂漠の惑星 タトゥイーンにて、叔父が営む水農場で働く傍ら、機械いじりとランドスピーダー(ソロスーブ社製X-34)やインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」の操縦が得意な若者に成長した。『エピソード4』の初期稿では、ルークはタトゥイーンに友人はいるものの、「ワーミー(芋虫)」などというあだ名をつけられるいじめられっこ(後に反乱軍の基地で再会するビッグス・ダークライターは良き親友であることは変わらない)であり、実際に撮影もされていた。冒頭の約20分間に主人公のルークが出ないことへ配給会社側からの注文を受けて、純朴な少年の成長をより強調した内容だったが、監督のジョージ・ルーカスは当初から使う気は全く無かったという。友人の多くが田舎であるタトゥイーンを出て行く中で年相応の焦りも感じており、ルークも憧れの宇宙戦闘機パイロットになるべく、アカデミー(帝国士官学校)への留学を希望していた。これは帝国に入りたい訳ではなく、憧れる親友ビッグスと同じく、帝国士官学校で戦闘技術を学んだ後で反乱同盟軍へと参加しようという考えからであった。しかし、収穫に人手が要るからなど様々な口実を毎年作ってはルークを引き止めるオーウェン・ラーズと、ルークの戦乱に巻き込まれる運命を心配するベル・ホワイトスンによって、不本意ながらも彼はタトゥイーンに留まっていた。ある時、オーウェンが農作業用にと廃品回収を生業とするジャワ族から購入した2体のドロイド(C-3POとR2-D2)をルークが整備していると、R2の中の映像データに「オビ=ワン・ケノービ」へのメッセージが入っているのを見つける。ルークが叔父のオーウェンに「オビ=ワン・ケノービとは郊外に住む老人ベン・ケノービのことでは?」と尋ねると、オーウェンは「オビ=ワンはルークの父親と同じ時期に死んだ」と言い、それ以上は語ろうとしなかった。
その夜、R2はメッセージを届けるため単身ラーズ家を脱走し、翌朝、追いかけたルークと3POがR2を発見するが、砂漠の盗賊サンドピープルの襲撃に遭う。気を失ったルークを助けたのはベン・ケノービだった。ルークがオビ=ワン・ケノービについて尋ねると、ベンは自分がオビ=ワンだと伝え、ルークを家に招く。
オビ=ワンは、自分がルークの父親と同じジェダイの騎士であることや、かつて自分の弟子だったダース・ベイダーが銀河帝国へ寝返り、ルークの父を含む多くのジェダイが殺されたことを語り、その父親が遺した物というライトセーバーをルークに渡した。R2からのメッセージは、「レイアがR2に入力したデス・スターの設計図を、オルデランにいるレイアの父ベイル・オーガナへ届けて欲しい」というものだった。オビ=ワンは、一緒にオルデランへ行き、反乱同盟軍に加わるようルークを誘う。だがルークは帝国は憎い気持ちはあるが、叔父が許してくれるはずがないと断り、オビ=ワンを宇宙港のあるアンカーヘッドの街まで送ろうとした。だがその道中、ルーク達にドロイドを売りにきたジャワ達が、帝国軍のストームトルーパーにより惨殺されているのを発見する。帝国軍の意図を察したルークは自宅へ急ぐが、そこで目にしたのは襲撃された農場とラーズ夫妻の無残な姿だった。全てを失ったルークは、父親と同じジェダイの騎士になることを決意し、オビ=ワンに同行することにした。
ルーク一行は、機密データを積んだR2が帝国軍の“お尋ね者”に当たるため、通常のオルデラン行きの定期便ではなく、銀河中のならず者のパイロットたちがたむろするモス・アイズリー宇宙港へと向かった。モス・アイズリーに到着すると航宙船のパイロットを探すために酒場に赴き、密輸業者のハン・ソロとチューバッカに出会う。その後 ソロの宇宙船ミレニアム・ファルコン号を破格の値段(ルーク曰く「船が買える」)に更にオビ=ワンが上積みした契約で雇う。ファルコン号は帝国軍の兵士達の襲撃に遭うも、なんとかハイパースペースにジャンプし、惑星オルデランへ向かう。その間、ルークはファルコン号の船内でオビ=ワンからフォースの手ほどきを受けていた。僅かな時間で潜在能力の片鱗を見せ始めるルーク。だが、到着前に惑星オルデランはデス・スターによって既に破壊されており、ファルコン号はデス・スターのトラクタービームにより拿捕されてしまう。
ルークとソロはストームトルーパーに変装し、ファルコン号の船内から脱出して発着場管制室を占拠した。オビ=ワンはトラクタービームのスイッチを切りに向かい、ルークとソロとチューバッカはレイア姫が処刑寸前であることを知る。当初は用件を知らなかったハン・ソロが救出に強く反対したが、オビ=ワンへのホログラムを見ていたルークは、レイア姫が反乱同盟軍のリーダーであり、オルデラン王室の要人であることを知っていたため、彼女が「金持ち」であることを特に強調してハン・ソロを何とか説得することに成功した。監房ブロックへと救出に向かったルーク達はレイア姫を発見するが、すぐに乗り込んできた追っ手に出口を塞がれたため、レイアの機転でダスト・シュートからゴミ処理区画へと逃れた。ゴミ処理場ではルークが怪物ダイアノーガに襲われた上、ゴミ圧縮装置が起動したため、危うく潰される寸前であったところを3POとR2に助けられる。何とかファルコン号が置かれている発着場まで辿り着いた4人と3PO、R2。その時、突然 見張りが移動を始めたため、好機とばかりファルコン号に乗り込もうとした瞬間、ベイダーと激しくライトセーバーを交えるオビ=ワンの姿を見つける。最後のジェダイ騎士と目される2人の実に約20年ぶりとなる決闘は、容易に決着が付くようには見えなかった。だが、ルークに気付いたオビ=ワンは安堵の笑みを浮かべると、突如、剣の構えを解いた。この機を見逃さなかったベイダーが斬りつけた瞬間、オビ=ワンは自分の肉体をフォースへと昇華させ消えてしまった。それを見たルークはショックを受けてベイダーとストームトルーパーごと撃ちまくろうとするが、オビ=ワンの声がルークに「逃げろ」と告げ、ルークはファルコン号に乗り込み、デス・スターから脱出した。
オビ=ワンの死を悲しむ暇も無く、すぐに追撃してきたTIEファイターを何とか撃退するとファルコン号はハイパースペースにジャンプし、反乱同盟軍の基地があるヤヴィン第4衛星に向かった。同盟軍はすぐにR2に入力されているデス・スターの設計図を調べ、デス・スターの弱点を中央原子炉の排熱口と断定、攻撃計画をスタートさせた。ルークは同盟軍に加わることになり、再会したタトゥイーンの親友ビッグス・ダークライターの推薦もあり、デス・スター攻撃に向かうレッド中隊の一員として長年の憧れであった宇宙戦闘機パイロットに選ばれる(コールサインは「レッド5」)。ビッグスとはタトゥーウィンでスピーダーを乗り回したストリートレーサー仲間であり、新米のルークを心配するレッド中隊長に「故郷タトゥイーンで一番のパイロット」と請け負っている。ルークに戦闘機の操縦経験は無いが、所有していたインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」が同じメーカーの練習機とも言える機体であったため(反乱軍の戦闘機Xウイングは「インコムT-65」)、操縦技能を認められた。デス・スターからの脱出行を通じて、ルークが兄のように慕うようになりだしていたソロが作戦に参加しないと知り憤るが、レイアは優しく彼を励ました。
デス・スター攻撃作戦が開始され、ルークとR2が搭乗するXウイングは善戦するが、同盟軍は迎撃に出たベイダー専用機TIEアドバンストX1の前に大苦戦する。最後の攻撃部隊となったルーク率いる小隊だが、ウェッジが被弾し離脱、ビッグスが撃墜され、攻撃部隊はルーク1機のみとなってしまう。ベイダー機が次の獲物をルークに定めた瞬間、フォースと一体になったオビ=ワンの声がルークに届く。
師の教えに従って照準コンピューターを切るとルークは迫る爆撃ポイントに向けて意識を集中させる。その時ルークが発揮した強いフォースは追撃するベイダーを驚愕させる程だった。しかし遂にベイダーはルーク機を照準に捉えた。R2が被弾し、あわや撃墜されるかと思われた時突如ファルコン号が援護に現われる。ソロがベイダーの小隊を蹴散らした次の瞬間フォースの赴くままにルークが放ったプロトン魚雷は直径わずか2mの排熱口に飛び込み、デス・スターは大爆発を起こして宇宙の塵となった。タトゥイーンで友人ビッグス・ダークライターと共にエアスピーダー「T-16 スカイホッパー」を操縦し、そのスタン・ブラスターでベガーズ渓谷の獰猛な獣ワンプ・ラットの狩りに興じるなど既にに飛行機の操縦経験が豊富だったとはいえデス・スターの2mほどしかない排熱口にミサイルを通すという神業をフォースと同化したオビ=ワン・ケノービとの交感による助言とフォースによる空間認識能力を用いて戦闘機での初陣にして照準機器の補助なしで成功させる武勲を挙げた。
帰還したルークと仲間達はレイア姫から勲章を授与され、同盟軍の英雄として迎えられる。
デス・スターの破壊から3年が経った。前作の活躍などからルークは一躍反乱同盟軍のヒーローとなっていた。この時点での階級は「中佐(Commander)」であり、前作でのレッド中隊から派生したローグ中隊の飛行隊長を務めていた。また、氷の惑星 ホスを発見して「反乱同盟軍 秘密基地の建設」に尽力している。
デス・スターを破壊された後、帝国軍はすぐさま反撃を開始し、反乱軍は惑星ヤヴィン第4衛星の秘密基地を追われ、氷の惑星ホスに逃げ延びると秘密基地を建設し、そこを新たな拠点としていた。一方、デス・スター攻防戦で辛くも生き残ったベイダーは、デス・スターを破壊したパイロットの名が「スカイウォーカー」であると知るや、銀河中に無数の探査ドロイド「プロボット」を放ち、血眼になってルークを捜索していた。
ある時、基地周辺で多発していた隕石の調査に出たルークは、突如ホスの原住生物ワンパの襲撃を受け昏倒してしまう。ワンパの洞窟にさらわれたルークは危うく喰い殺されるところであったが、フォースの力でワンパを退けると、命からがら洞窟から脱出した。だがホスの極寒の吹雪に巻き込まれ、雪の中で気を失って倒れてしまう。そこに霊体となったオビ=ワンが現れ、ルークに惑星ダゴバへ向かい、自らの師であるジェダイ・マスター「ヨーダ」からフォースを学ぶよう告げた。捜索に来たソロがルークを発見し、原住生物トーントーンですら耐えられない死の吹雪を即席のシェルターで凌ぐと、翌朝にローグ中隊によって救出され九死に一生を得た。ルークは傷の治療を受け回復したが、ついに帝国軍がホスの同盟軍基地を突き止め、AT-ATウォーカーなどの機械化部隊をもって総攻撃を開始。ルーク率いるローグ中隊は、味方の脱出の時間を稼ぐためスノースピーダーで迎撃に出る。しかし、ルークの後部砲手ダク・ラルターが戦死し、その後さらに被弾したルーク機はついに墜落。地上に降りたルークは単身の肉弾攻撃でAT-ATを1機破壊するも焼け石に水であり、ホスは陥落し、ルークはXウイングでR2-D2と共にホスを脱出した。
ルークはオビ=ワンの教えに従い、同盟軍艦隊には合流せずに沼とジャングルに覆われた謎の惑星ダゴバへと向かう。そこで出会ったヨーダに当初は面食らうものの、オビ=ワンの助言もあり、ルークは遅巻きながらジェダイの本格的な修行を始めようとする。フォースの強さだけでなく、気の短い性格も父から受け継いでいたルークは、父の話をしながら知らんぷりをするヨーダに幾度と無く憤るが、ヨーダがフォースと一体化しているオビ=ワンと話し合うのを目の当たりにしたルークは、ヨーダを偉大なるジェダイ・マスターと認め、修行に打ち込むようになる。しかし、修行によって強力になったフォースの力が、ルークにソロやレイアの未来の危機を予知させたことによって、ルークは二人の救出を決意。ヨーダとオビ=ワンの制止を振り切り、修行半ばでダゴバを後にすると、レイア達がいる雲の惑星ベスピンのクラウド・シティに向かう。その様子を見たヨーダは「我慢のない子だ」と嘆息した。ヨーダには、天賦の才能故に聞く耳を持たず、ジェダイの道を踏み外したベイダーと同じ危うさが、その姿に重なって見えたのである。
クラウド・シティではベイダーが待ち伏せており、ヨーダの懸念通りルークはベイダーとの一騎討ちに敗れライトセーバーを持った自身の右手を切り落とされてしまう。クラウド・シティの排気シャフト内に架かる連絡橋に追い詰められ、さらにジェダイを裏切って皆殺しにしたオビ=ワンの弟子であり父の仇であるはずのベイダーから「わしがお前の父だ(I am your father.)」という衝撃の事実を聞いたルークは絶望のあまり「嘘だ!」と絶叫する。必死に自身の父はベイダーであることを否定するルークだったがベイダーのフォースは無情にもそれが事実だと告げていた。ベイダーは「お前なら皇帝(ダース・シディアス)をも倒せる。仲間になれ、さすれば銀河系を父と子で共に支配することができる。」とルークをフォースの暗黒面(ダークサイド)に誘惑するがこれまで信じてきた全てを打ち砕かれ、絶望に支配されたルークには自ら死を選ぶ道しか残されていなかった。自決するよう排気シャフトに身を投げたルークは偶然にもクラウド・シティの最下層のアンテナに引っかかり、落っこちそうな自身の危機をレイアがフォースで遠くから感じ取ったことから駆け付けたミレニアム・ファルコン号に転落寸前で救出してもらった。なおもベイダーはルークを捕らえるべくハイパードライブ故障中のファルコン号を拿捕・制圧する準備を進めていたが間一髪R2の機転によってハイパードライブが回復したファルコン号はハイパースペースにジャンプし、ルークは再び同盟軍に合流を果たした。切られた右手首に機械の義手を装着したルークは賞金稼ぎのボバ・フェットによって悪名高いジャバ・ザ・ハットのもとに連れ去られたハン・ソロ救出に向かうランド・カルリジアンとチューバッカを、残ったレイアと共に見送った。
惑星ベスピンのクラウド・シティにてシスの暗黒卿ダース・ベイダーに敗れ、絶望に沈んだ日から約1年ほどが過ぎた。修行半ばでダース・ベイダーに苦戦を強いられた己の未熟さを痛感したルークは、この間に単身で故郷の惑星タトゥイーンに戻り、かつてのベン(オビ=ワン)・ケノービの隠れ家に篭り、自身の新たなライトセーバーの製作と、過酷なジェダイの修行に励んでいた。しかし、未ださらわれた親友ハン・ソロは取り返せないでいた。先にジャバ・ザ・ハットの本拠地に用心棒として潜入していたランド・カルリジアンに続き、交渉に赴いた相棒のC-3POとR2-D2、チューバッカを囮に賞金稼ぎに扮したレイア・オーガナからも連絡が途絶えたため、数週間後ついにルークは単身でジャバが支配する砂漠の宮殿に乗り込んだ。そこでは目を疑うような光景があった。レイアはジャバに奴隷として捕らわれていた。
過酷な修行を積み、高貴なジェダイとしての実力と威厳を備えたルークは、悪名高い宇宙マフィアの親玉であるジャバに対しても臆することなく交渉を進めていくが、ジャバも余裕の姿勢を崩さない。ジェダイのマインドトリック(心理操作)は、ハット族には通用しなかったのだ。一瞬の隙を突いて強硬手段に出たルークだったが、ジャバの方が一枚上手だった。罠にかかり、床下に突き落とされたルークは、そこでジャバのペットである巨大モンスター、ランコアに襲われる。ライトセーバーを持たず、あわや喰われる寸前だったルークだが、咄嗟の機転で怪物を仕留め、窮地を脱出する。だが、一息つく間も無くジャバに捕まったルークは、ソロとチューバッカともども、翌日の処刑を宣告される。それは砂漠に潜む怪物サルラックの穴に放り込まれ捕食された後、1000年続くという消化の苦しみを味わうというものであった。
翌朝、砂漠の巨大遊覧ヨット「セール・バージ」で処刑場であるサルラックの巣に繰り出すジャバ一行。炭素冷凍状態からの解凍から間もないせいか、いつもの威勢の良さも無く悪運もここまでと開き直るソロに対し、必ず助けると請け負うルーク。ソロは1年間、仮死状態で炭素冷凍されていたため意識がもうろうとしていて、ルークと会うのはホス脱出の前に言葉を交わした時以来だった。
いよいよ処刑の開始が宣言される中、事ここに及んでルークはジェダイの流儀にのっとり、ジャバに降伏を勧告した。この状況下では当然聞き入れられるはずもなく、サルラックの巣上の渡し板に乗せられるルーク。だが突き落とされる瞬間、華麗に身を翻すと、R2-D2に隠し持たせていた自身の新たなライトセーバーを受け取り、反撃を開始する。大混乱に陥るジャバのセール・バージ。ジェダイの騎士へと成長したルークを止められる者は無く、次々とジャバの手下をサルラックの餌食にしていく。ジャバの用心棒たちを次々に倒すルークの実力を目の当たりにし、この短期間でのジェダイの騎士としての成長ぶりに、ソロは驚かされる。その最中、ジャバはレイアの反撃で息の根を止められていた。ルーク達が脱出した瞬間、セール・バージは大爆発し、銀河に名を響かせたジャバのマフィア一派をほぼ一人で壊滅させたことでルークのその実力は誰からも認められるようになった。
その後ルークはかつてジェダイの修行を途中で切り上げてしまった惑星ダゴバのヨーダの下を訪れ、約束していた修行の再開を請うが、偉大なるジェダイ・マスターは老衰の身であった。ルークはヨーダにジェダイの修行の完成を申し出るもジェダイとして技術的なことはタトゥイーンですべて学び終え習得しており、もはや自分が教えることは何も無いとその成長を認められる。だが、真の意味でジェダイの騎士になるには、最後の試練として、実の父親であるダース・ベイダーとの対決は不可避であることも告げられる。それを告げると、ヨーダは死の間際にオビ=ワンと同じく肉体を捨て、フォースと一体となった。実の父であるベイダーは殺せないと悩むルークの前にオビ=ワンの霊体が現われ、もはやベイダーは悪の機械であり、救う術は無いと告げる。同時に、ルークとレイアが実の兄妹であり、妹を守るようにと告げられる。ルークは重い事実に苦悩するが、1年前クラウド・シティでの対決時に敗れたルークを殺さず、手を差し伸べて自分の下に来いと言ったベイダーの事を思い返し、父にはまだ善の心が残っているのではないかという希望を持ち、彼を暗黒面から救う決意をする。
第2デス・スター破壊のため作戦行動中の反乱同盟軍に合流したルークは、レイアに兄妹である事、そして自分達の父親がベイダーであることを告げると、単身帝国軍の捕虜になり、ベイダーの説得を試みる。だがベイダーは、息子が作り上げた新たなライトセイバーを手にして、その出来栄えを素直に称賛しながらも、もはや全てが手遅れであり、皇帝には逆らえないと答えるのみであった。ルークはベイダーによって銀河皇帝ダース・シディアスの謁見室に連れて行かれる。ルークは、これから滅ぶ同盟軍を捨て、強大なパワーを持つ暗黒面のフォースを学べと皇帝から誘惑を受ける。それはかつてアナキン・スカイウォーカーに道を踏み外させた言葉そのものであったが、ルークは静かに拒否する。だが、今回の同盟軍によるデス・スター攻略作戦、そのきっかけとなったデス・スターの弱点の漏洩が全て、反乱軍を一掃せんと皇帝が仕掛けた罠であると聞かされ、さしものルークも大きく動揺する。
ついに反乱同盟軍の総攻撃が開始された。だが皇帝の予見通り、罠にかかった同盟軍は苦境に陥る。仲間の危機を察知し、暗黒面の源である怒りに震えながらも必死に耐えるルークだったが、皇帝の「自分を討ち取れば全てが終わる」という挑発に負け、ついにライトセーバーを手に取り皇帝に襲いかかる。すかさずベイダーも剣を抜き再び父子の決闘が始まるが、ルークは戦いの最中においてもなおベイダーの説得を試みる。しかし妹レイアを弟子にしようとする言葉にルークは怒りにまかせた凄まじい爆発力を見せベイダーを圧倒、ついにはベイダーの右手を切り落して勝利した。ルークは湧き上る怒りと憎しみによって暗黒面に取りこまれつつあり、その状態を好機と見た皇帝はベイダーにとどめを刺して父に代わって皇帝の弟子になるようフォースの暗黒面へと誘い込もうとする。だが斬り落とした父の腕が自分と同じ機械の義手であったのを見た瞬間ルークは自らの精神が暗黒面に入りかけている事、否定していた父と自分がいかに似た存在であるのか、そして父もまた悲しい運命の犠牲者であった事に気付きジェダイの騎士として落ち着きを取り戻していく。
ルークは強靭な意志で自分の中に沸きあがろうとした暗黒面の感情を克服すると自ら自身のライトセーバーを投げ捨て「僕は暗黒面には入らない(I'll never join the dark side.)」と皇帝の甘言を拒絶し、「僕はジェダイだ。かつて父がそうだったように...(I'm a jedi. Like my father before me.)」との言葉を突き付ける。暗黒面に引き込めないルークは脅威以外の何者でもないと皇帝はルークにフォース・ライトニングを浴びせかける。なす術も無く皇帝から攻撃を受けルークは見る見る衰弱していくが、その最中も父であるベイダーの良心に必死に呼びかけ続け遂にベイダーの善の心を呼び戻す事に成功する。ベイダーは息子を守るために捨て身の覚悟で皇帝を抱え上げるとデス・スターの反応炉に続く中央動力ケーブル坑に投げ落とし、遂に皇帝を葬り去った。「クローン戦争」以来続いた銀河大戦はこれによって終止符が打たれ、ベイダーはフォースの暗黒面に囚われた「シスの暗黒卿」から「ジェダイの騎士」へと帰還した。だがベイダーの身体は皇帝が最後の抵抗に放った電撃で瀕死の重傷を負っていた。ルークは父の願いでベイダーの黒いマスクを外して父の素顔を見ると共に自身が間違っていたことをレイアへも告げるように頼まれ、満ち足りた穏やかな表情で息を引き取る父を看取った。ルークはベイダーの亡骸とと共にインペリアル・シャトルで崩壊するデス・スターから脱出した。
同盟軍の決死の攻撃によりデス・スターは破壊され、銀河系の各地は歓喜の叫びに包まれていた。緑の衛星エンドアにおいて同盟軍が勝利を祝う中、ルークはただ一人父の亡骸をその身に纏うベイダーの仮面や鎧と共に荼毘に付す。悲しみに包まれつつも勝利の祝賀会に姿を見せたルークは無事だった仲間達、そしてオビ=ワン、ヨーダの霊体、加えて同じく今や聖なるジェダイの霊体となった父アナキンとも再会し、遂に迎えた平和を共に喜び心安らがせた。
惑星タイソンでグローグーが行った呼びかけに応じて、愛機のXウィング・レッド5でモフ・ギデオンのクルーザーに乗り込む。船内のダーク・トルーパーを一掃し、管制室で追い詰められていたマンダロリアン(ディン=ジャリン)とグローグー一行を救出すると、グローグーにはフォースの訓練が必要だとディンに告げる。2人の別れを見届けるとルークはグローグーを連れ、その場を去る。
帝国軍の壊滅後に12人の新たなジェダイ候補生を育てていたが、カイロ・レンの裏切りによりその全てが水泡に帰す結果となり、自責の念から姿を晦ませたとされている。また何らかの目的でジェダイ最古の寺院を探す旅に出たとも言われている。
帝国軍の残党が結成した軍事組織ファースト・オーダーには帝国が滅びる最大の要因を作った“最後のジェダイ”として命を狙われ、妹のレイアが率いる私設軍隊レジスタンスには銀河唯一の希望として発見が切望されており、その行方が作品の手がかりとなっている。
また、このシリーズの新たな主役であるレイが劇中にルークのライトセーバーに触れフラッシュバックを体感する際にルーク・スカイウォーカーの声が挿入されている。
ジェダイの遺跡で隠遁生活を送っていたがレイに発見される。当初はジェダイの寂滅を受け入れ、修行を求めるレイを拒絶していたがレンと感応し合うレイに潜む強力なフォースと資質を認めてレイへのアドバイスを了解した。
そこでレイにフォースのなんたるかを説き、かつて自分がレンの暗殺に失敗しジェダイ・オーダー復活に挫折した経緯を語り、ジェダイの傲慢と誤ちを認めてジェダイを滅ぼすべきと訴える。しかしレイが暗黒面を受け入れる予兆を見せたことに慄き、指導を打ち切る。
やがてレイはレンを説得することを決意して自力で暗黒面を克服し遺跡を去るが、残されたルークの前にマスター・ヨーダが現れる。ヨーダは迷うルークに古いしがらみを断ち切るべきであること、自らが新しい者に克服されることがマスターの最大の使命であると説く。
レイアら反乱軍最後の残党が逃げ込んだ基地がレンの率いる部隊に制圧されようという瀬戸際にルークはレイアらの前に現れ、単身ファースト・オーダーの部隊の前に立ちはだかる。レンは部隊に一斉砲撃を命ずるがそれを受けてもルークはものともせず立っていた。それを見たレンはルークとの1対1の対決に臨む。
ルークは自分を倒してもジェダイは滅びないこと、自分がハン・ソロと共にレンの中に生き続けることを説く。やがてレンのライトセーバーを甘受するがそれは実体ではなく、ルークが遥か遠く遺跡から放っていた幻影だった。かくしてレイアらの脱出の時間を稼ぐために全ての力を使い果たし疲弊したルークはかつての師・オビ=ワンと同様にその命が尽きるとともに実体を消した。
カイロとの激戦の後、パルパティーンの孫として自身が暗黒面に堕ちることを恐れたレイは生前のルークと同じように惑星オク=トに身を沈めようとした。カイロの戦闘機TIEウィスパーを燃やし、自身のライトセーバーまでもその炎の中に投げ込もうとしたレイの前に霊体となったルークが現れる。
彼はレイに対し自身のライトセーバーと、そして亡きレイアが使っていたライトセーバーの二つを携えてパルパティーンを倒すように諭す。またルークは生前、自分がオク=トに来るのに使用して海底に隠してあったXウィング・レッド5をフォースの力で引き上げてレイに提供する。
その後パルパティーンに力を吸い取られ弱っているレイにルークは過去のジェダイと共にレイに話しかけて力を貸す。そしてレイは立ち上がり、スカイウォーカー兄妹のライトセーバーでパルパティーンの攻撃を跳ね返し何十年も銀河を脅かしてきたシス卿を見事倒すことに成功する。
そしてレイはかつてルークがジェダイになる前に育った場所であるラーズ夫妻の住居跡を訪れ、そこにスカイウォーカー兄妹のライトセーバーをフォースの力で埋める。通りがかりの老婆に名を聞かれたレイはルークとレイアの霊体が見守る中、自身を「レイ・スカイウォーカー」と名乗るのであった。 | [
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"text": "ルーク・スカイウォーカー(Luke Skywalker)は、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物。「エピソード4〜6」の主人公。エピソード7、8、9にも登場する。",
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"text": "青年に成長してからジェダイの騎士になった珍しい経歴のジェダイである。強力なフォースの使い手であり、強大な戦闘力を持つ。ライトセーバーを初めて扱った日からわずか数年でジャバ・ザ・ハットが組織するマフィアをほぼ単身の戦闘力で壊滅させ、実父であるダース・ベイダーと同等に剣を交えるなど長いジェダイの歴史の中で最も短期間で成長した人物である。またダース・ベイダーに「皇帝(ダース・シディアス)すら倒せる」と言わしめるほどの高い潜在能力を秘めるが、皇帝との戦闘では襲いかかったことはあるがルーク自身が皇帝を滅ぼすことはせずに拒絶に憤った皇帝の攻撃をなす術なく一方的に浴びせられた。",
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"text": "ジェダイになる前は反乱同盟軍の兵士であり、フォースによる優れた空間認識能力や父親譲りのパイロットの素質を活用しながら数々の戦闘で活躍しており、ホスの戦いでは新たに編成されたローグ中隊のリーダーでもあった。",
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"text": "師匠はオビ=ワン・ケノービとヨーダ。父は後のシスの暗黒卿ダース・ベイダーであるアナキン・スカイウォーカー。",
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"text": "ルークは幼少時代を奴隷として生活した父アナキンとは異なり普通の家庭において善良な養父母に育てられたごく普通の一般庶民である家庭環境の子供であるため純粋無垢な気質であり、性格は父親よりも温和である。また師であるオビ=ワンとヨーダからは父と同じ轍を踏まないようにと強力なバックアップを受け、レイア・オーガナ、ハン・ソロ、チューバッカ、ランド・カルリジアン、ビッグス・ダークライターなどの多くの友人や仲間、善良な家族の助けもあり心が負の感情に支配されることは無かった。",
"title": "概要"
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"text": "衣装の色が物語が進むごとに白(エピソード4/新たなる希望) → 灰色(エピソード5/帝国の逆襲) → 黒(エピソード6/ジェダイの帰還)へと変わっていく。これは“ルークが徐々にフォースの暗黒面に近づいている”ということを暗示している。なお父であるアナキン・スカイウォーカーも白(エピソード1/ファントム・メナス) → 茶色(エピソード2/クローンの攻撃) → 黒(エピソード3/シスの復讐)へと徐々に暗い色へと変化している。しかし結果は上記の通り皇帝の誘惑に屈した父親とは対照的に暗黒面に転落することはなく、父親を暗黒面の呪縛から解放することにも成功した。",
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"text": "ジェダイの騎士はブラスターを積極的に使うべきではない無粋な武器としておりオビ=ワン・ケノービもブラスターを「野蛮な武器」と評していたがルークは反乱軍兵士であり、またこの時はジェダイ騎士団の正規の訓練を受けていないこともありブラスターを使うことに抵抗がなかったようでライトセーバーと共に携行していた。だが雲の惑星ベスピンにあるクラウド・シティでのダース・ベイダーとの敗戦後、オビ=ワンの家に潜伏して書物を漁りジェダイの修行に打ち込み騎士として成長を遂げた後は戦況に応じて敵のブラスターを奪って利用することはあってもルーク自身がブラスターを携行することはなくなった。また『帝国の逆襲』では爆弾を用いた。",
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"text": "名前の「ルーク(Luke)」は監督のジョージ・ルーカス自身の愛称に因む。また企画段階での名前は「ルーク・スターキラー(Luke Starkiller)」であり、これは後にゲーム『スター・ウォーズ フォース アンリーシュド』の主人公・スターキラーや、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』に登場する「スターキラー基地(Starkiller Base)」の名前の由来となった。この他にもスター・ウォーズには多くの「スターキラー」が存在する。",
"title": "概要"
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"text": "アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)とパドメ・アミダラの息子であり、辺境の惑星ポリス・マサでレイア・オーガナと共に双子として生まれる。「ルーク」の名は生まれたその瞬間に母が名づけたものである。ジェダイ抹殺を企てる銀河皇帝パルパティーンの目を逃れるために誕生後すぐオビ=ワン・ケノービによって砂漠の惑星タトゥイーンに住む父の親戚筋に当たるラーズ夫妻に預けられて育てられた(正確には父方の祖母が奴隷から解放された後に結婚した父の義父の家族であり、ルークとは血縁関係はない)。",
"title": "経歴"
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"text": "ルークは自分に双子の妹がいることも父親が銀河帝国軍を率いるダース・ベイダーであることも知らずに育った。ベン・ケノービ(オビ=ワン・ケノービ)からは自分の父親はベイダーに殺されたと聞かされていた。ヨーダの指示でオビ=ワン・ケノービはタトゥイーンに潜伏しつつ銀河の最後の希望であるルークの成長を見守った。",
"title": "経歴"
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"text": "砂漠の惑星 タトゥイーンにて、叔父が営む水農場で働く傍ら、機械いじりとランドスピーダー(ソロスーブ社製X-34)やインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」の操縦が得意な若者に成長した。『エピソード4』の初期稿では、ルークはタトゥイーンに友人はいるものの、「ワーミー(芋虫)」などというあだ名をつけられるいじめられっこ(後に反乱軍の基地で再会するビッグス・ダークライターは良き親友であることは変わらない)であり、実際に撮影もされていた。冒頭の約20分間に主人公のルークが出ないことへ配給会社側からの注文を受けて、純朴な少年の成長をより強調した内容だったが、監督のジョージ・ルーカスは当初から使う気は全く無かったという。友人の多くが田舎であるタトゥイーンを出て行く中で年相応の焦りも感じており、ルークも憧れの宇宙戦闘機パイロットになるべく、アカデミー(帝国士官学校)への留学を希望していた。これは帝国に入りたい訳ではなく、憧れる親友ビッグスと同じく、帝国士官学校で戦闘技術を学んだ後で反乱同盟軍へと参加しようという考えからであった。しかし、収穫に人手が要るからなど様々な口実を毎年作ってはルークを引き止めるオーウェン・ラーズと、ルークの戦乱に巻き込まれる運命を心配するベル・ホワイトスンによって、不本意ながらも彼はタトゥイーンに留まっていた。ある時、オーウェンが農作業用にと廃品回収を生業とするジャワ族から購入した2体のドロイド(C-3POとR2-D2)をルークが整備していると、R2の中の映像データに「オビ=ワン・ケノービ」へのメッセージが入っているのを見つける。ルークが叔父のオーウェンに「オビ=ワン・ケノービとは郊外に住む老人ベン・ケノービのことでは?」と尋ねると、オーウェンは「オビ=ワンはルークの父親と同じ時期に死んだ」と言い、それ以上は語ろうとしなかった。",
"title": "経歴"
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"text": "その夜、R2はメッセージを届けるため単身ラーズ家を脱走し、翌朝、追いかけたルークと3POがR2を発見するが、砂漠の盗賊サンドピープルの襲撃に遭う。気を失ったルークを助けたのはベン・ケノービだった。ルークがオビ=ワン・ケノービについて尋ねると、ベンは自分がオビ=ワンだと伝え、ルークを家に招く。",
"title": "経歴"
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"text": "オビ=ワンは、自分がルークの父親と同じジェダイの騎士であることや、かつて自分の弟子だったダース・ベイダーが銀河帝国へ寝返り、ルークの父を含む多くのジェダイが殺されたことを語り、その父親が遺した物というライトセーバーをルークに渡した。R2からのメッセージは、「レイアがR2に入力したデス・スターの設計図を、オルデランにいるレイアの父ベイル・オーガナへ届けて欲しい」というものだった。オビ=ワンは、一緒にオルデランへ行き、反乱同盟軍に加わるようルークを誘う。だがルークは帝国は憎い気持ちはあるが、叔父が許してくれるはずがないと断り、オビ=ワンを宇宙港のあるアンカーヘッドの街まで送ろうとした。だがその道中、ルーク達にドロイドを売りにきたジャワ達が、帝国軍のストームトルーパーにより惨殺されているのを発見する。帝国軍の意図を察したルークは自宅へ急ぐが、そこで目にしたのは襲撃された農場とラーズ夫妻の無残な姿だった。全てを失ったルークは、父親と同じジェダイの騎士になることを決意し、オビ=ワンに同行することにした。",
"title": "経歴"
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"text": "ルーク一行は、機密データを積んだR2が帝国軍の“お尋ね者”に当たるため、通常のオルデラン行きの定期便ではなく、銀河中のならず者のパイロットたちがたむろするモス・アイズリー宇宙港へと向かった。モス・アイズリーに到着すると航宙船のパイロットを探すために酒場に赴き、密輸業者のハン・ソロとチューバッカに出会う。その後 ソロの宇宙船ミレニアム・ファルコン号を破格の値段(ルーク曰く「船が買える」)に更にオビ=ワンが上積みした契約で雇う。ファルコン号は帝国軍の兵士達の襲撃に遭うも、なんとかハイパースペースにジャンプし、惑星オルデランへ向かう。その間、ルークはファルコン号の船内でオビ=ワンからフォースの手ほどきを受けていた。僅かな時間で潜在能力の片鱗を見せ始めるルーク。だが、到着前に惑星オルデランはデス・スターによって既に破壊されており、ファルコン号はデス・スターのトラクタービームにより拿捕されてしまう。",
"title": "経歴"
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"text": "ルークとソロはストームトルーパーに変装し、ファルコン号の船内から脱出して発着場管制室を占拠した。オビ=ワンはトラクタービームのスイッチを切りに向かい、ルークとソロとチューバッカはレイア姫が処刑寸前であることを知る。当初は用件を知らなかったハン・ソロが救出に強く反対したが、オビ=ワンへのホログラムを見ていたルークは、レイア姫が反乱同盟軍のリーダーであり、オルデラン王室の要人であることを知っていたため、彼女が「金持ち」であることを特に強調してハン・ソロを何とか説得することに成功した。監房ブロックへと救出に向かったルーク達はレイア姫を発見するが、すぐに乗り込んできた追っ手に出口を塞がれたため、レイアの機転でダスト・シュートからゴミ処理区画へと逃れた。ゴミ処理場ではルークが怪物ダイアノーガに襲われた上、ゴミ圧縮装置が起動したため、危うく潰される寸前であったところを3POとR2に助けられる。何とかファルコン号が置かれている発着場まで辿り着いた4人と3PO、R2。その時、突然 見張りが移動を始めたため、好機とばかりファルコン号に乗り込もうとした瞬間、ベイダーと激しくライトセーバーを交えるオビ=ワンの姿を見つける。最後のジェダイ騎士と目される2人の実に約20年ぶりとなる決闘は、容易に決着が付くようには見えなかった。だが、ルークに気付いたオビ=ワンは安堵の笑みを浮かべると、突如、剣の構えを解いた。この機を見逃さなかったベイダーが斬りつけた瞬間、オビ=ワンは自分の肉体をフォースへと昇華させ消えてしまった。それを見たルークはショックを受けてベイダーとストームトルーパーごと撃ちまくろうとするが、オビ=ワンの声がルークに「逃げろ」と告げ、ルークはファルコン号に乗り込み、デス・スターから脱出した。",
"title": "経歴"
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"text": "オビ=ワンの死を悲しむ暇も無く、すぐに追撃してきたTIEファイターを何とか撃退するとファルコン号はハイパースペースにジャンプし、反乱同盟軍の基地があるヤヴィン第4衛星に向かった。同盟軍はすぐにR2に入力されているデス・スターの設計図を調べ、デス・スターの弱点を中央原子炉の排熱口と断定、攻撃計画をスタートさせた。ルークは同盟軍に加わることになり、再会したタトゥイーンの親友ビッグス・ダークライターの推薦もあり、デス・スター攻撃に向かうレッド中隊の一員として長年の憧れであった宇宙戦闘機パイロットに選ばれる(コールサインは「レッド5」)。ビッグスとはタトゥーウィンでスピーダーを乗り回したストリートレーサー仲間であり、新米のルークを心配するレッド中隊長に「故郷タトゥイーンで一番のパイロット」と請け負っている。ルークに戦闘機の操縦経験は無いが、所有していたインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」が同じメーカーの練習機とも言える機体であったため(反乱軍の戦闘機Xウイングは「インコムT-65」)、操縦技能を認められた。デス・スターからの脱出行を通じて、ルークが兄のように慕うようになりだしていたソロが作戦に参加しないと知り憤るが、レイアは優しく彼を励ました。",
"title": "経歴"
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"text": "デス・スター攻撃作戦が開始され、ルークとR2が搭乗するXウイングは善戦するが、同盟軍は迎撃に出たベイダー専用機TIEアドバンストX1の前に大苦戦する。最後の攻撃部隊となったルーク率いる小隊だが、ウェッジが被弾し離脱、ビッグスが撃墜され、攻撃部隊はルーク1機のみとなってしまう。ベイダー機が次の獲物をルークに定めた瞬間、フォースと一体になったオビ=ワンの声がルークに届く。",
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"text": "師の教えに従って照準コンピューターを切るとルークは迫る爆撃ポイントに向けて意識を集中させる。その時ルークが発揮した強いフォースは追撃するベイダーを驚愕させる程だった。しかし遂にベイダーはルーク機を照準に捉えた。R2が被弾し、あわや撃墜されるかと思われた時突如ファルコン号が援護に現われる。ソロがベイダーの小隊を蹴散らした次の瞬間フォースの赴くままにルークが放ったプロトン魚雷は直径わずか2mの排熱口に飛び込み、デス・スターは大爆発を起こして宇宙の塵となった。タトゥイーンで友人ビッグス・ダークライターと共にエアスピーダー「T-16 スカイホッパー」を操縦し、そのスタン・ブラスターでベガーズ渓谷の獰猛な獣ワンプ・ラットの狩りに興じるなど既にに飛行機の操縦経験が豊富だったとはいえデス・スターの2mほどしかない排熱口にミサイルを通すという神業をフォースと同化したオビ=ワン・ケノービとの交感による助言とフォースによる空間認識能力を用いて戦闘機での初陣にして照準機器の補助なしで成功させる武勲を挙げた。",
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"text": "帰還したルークと仲間達はレイア姫から勲章を授与され、同盟軍の英雄として迎えられる。",
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"text": "デス・スターの破壊から3年が経った。前作の活躍などからルークは一躍反乱同盟軍のヒーローとなっていた。この時点での階級は「中佐(Commander)」であり、前作でのレッド中隊から派生したローグ中隊の飛行隊長を務めていた。また、氷の惑星 ホスを発見して「反乱同盟軍 秘密基地の建設」に尽力している。",
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"text": "デス・スターを破壊された後、帝国軍はすぐさま反撃を開始し、反乱軍は惑星ヤヴィン第4衛星の秘密基地を追われ、氷の惑星ホスに逃げ延びると秘密基地を建設し、そこを新たな拠点としていた。一方、デス・スター攻防戦で辛くも生き残ったベイダーは、デス・スターを破壊したパイロットの名が「スカイウォーカー」であると知るや、銀河中に無数の探査ドロイド「プロボット」を放ち、血眼になってルークを捜索していた。",
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"text": "ある時、基地周辺で多発していた隕石の調査に出たルークは、突如ホスの原住生物ワンパの襲撃を受け昏倒してしまう。ワンパの洞窟にさらわれたルークは危うく喰い殺されるところであったが、フォースの力でワンパを退けると、命からがら洞窟から脱出した。だがホスの極寒の吹雪に巻き込まれ、雪の中で気を失って倒れてしまう。そこに霊体となったオビ=ワンが現れ、ルークに惑星ダゴバへ向かい、自らの師であるジェダイ・マスター「ヨーダ」からフォースを学ぶよう告げた。捜索に来たソロがルークを発見し、原住生物トーントーンですら耐えられない死の吹雪を即席のシェルターで凌ぐと、翌朝にローグ中隊によって救出され九死に一生を得た。ルークは傷の治療を受け回復したが、ついに帝国軍がホスの同盟軍基地を突き止め、AT-ATウォーカーなどの機械化部隊をもって総攻撃を開始。ルーク率いるローグ中隊は、味方の脱出の時間を稼ぐためスノースピーダーで迎撃に出る。しかし、ルークの後部砲手ダク・ラルターが戦死し、その後さらに被弾したルーク機はついに墜落。地上に降りたルークは単身の肉弾攻撃でAT-ATを1機破壊するも焼け石に水であり、ホスは陥落し、ルークはXウイングでR2-D2と共にホスを脱出した。",
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"text": "ルークはオビ=ワンの教えに従い、同盟軍艦隊には合流せずに沼とジャングルに覆われた謎の惑星ダゴバへと向かう。そこで出会ったヨーダに当初は面食らうものの、オビ=ワンの助言もあり、ルークは遅巻きながらジェダイの本格的な修行を始めようとする。フォースの強さだけでなく、気の短い性格も父から受け継いでいたルークは、父の話をしながら知らんぷりをするヨーダに幾度と無く憤るが、ヨーダがフォースと一体化しているオビ=ワンと話し合うのを目の当たりにしたルークは、ヨーダを偉大なるジェダイ・マスターと認め、修行に打ち込むようになる。しかし、修行によって強力になったフォースの力が、ルークにソロやレイアの未来の危機を予知させたことによって、ルークは二人の救出を決意。ヨーダとオビ=ワンの制止を振り切り、修行半ばでダゴバを後にすると、レイア達がいる雲の惑星ベスピンのクラウド・シティに向かう。その様子を見たヨーダは「我慢のない子だ」と嘆息した。ヨーダには、天賦の才能故に聞く耳を持たず、ジェダイの道を踏み外したベイダーと同じ危うさが、その姿に重なって見えたのである。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "クラウド・シティではベイダーが待ち伏せており、ヨーダの懸念通りルークはベイダーとの一騎討ちに敗れライトセーバーを持った自身の右手を切り落とされてしまう。クラウド・シティの排気シャフト内に架かる連絡橋に追い詰められ、さらにジェダイを裏切って皆殺しにしたオビ=ワンの弟子であり父の仇であるはずのベイダーから「わしがお前の父だ(I am your father.)」という衝撃の事実を聞いたルークは絶望のあまり「嘘だ!」と絶叫する。必死に自身の父はベイダーであることを否定するルークだったがベイダーのフォースは無情にもそれが事実だと告げていた。ベイダーは「お前なら皇帝(ダース・シディアス)をも倒せる。仲間になれ、さすれば銀河系を父と子で共に支配することができる。」とルークをフォースの暗黒面(ダークサイド)に誘惑するがこれまで信じてきた全てを打ち砕かれ、絶望に支配されたルークには自ら死を選ぶ道しか残されていなかった。自決するよう排気シャフトに身を投げたルークは偶然にもクラウド・シティの最下層のアンテナに引っかかり、落っこちそうな自身の危機をレイアがフォースで遠くから感じ取ったことから駆け付けたミレニアム・ファルコン号に転落寸前で救出してもらった。なおもベイダーはルークを捕らえるべくハイパードライブ故障中のファルコン号を拿捕・制圧する準備を進めていたが間一髪R2の機転によってハイパードライブが回復したファルコン号はハイパースペースにジャンプし、ルークは再び同盟軍に合流を果たした。切られた右手首に機械の義手を装着したルークは賞金稼ぎのボバ・フェットによって悪名高いジャバ・ザ・ハットのもとに連れ去られたハン・ソロ救出に向かうランド・カルリジアンとチューバッカを、残ったレイアと共に見送った。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "惑星ベスピンのクラウド・シティにてシスの暗黒卿ダース・ベイダーに敗れ、絶望に沈んだ日から約1年ほどが過ぎた。修行半ばでダース・ベイダーに苦戦を強いられた己の未熟さを痛感したルークは、この間に単身で故郷の惑星タトゥイーンに戻り、かつてのベン(オビ=ワン)・ケノービの隠れ家に篭り、自身の新たなライトセーバーの製作と、過酷なジェダイの修行に励んでいた。しかし、未ださらわれた親友ハン・ソロは取り返せないでいた。先にジャバ・ザ・ハットの本拠地に用心棒として潜入していたランド・カルリジアンに続き、交渉に赴いた相棒のC-3POとR2-D2、チューバッカを囮に賞金稼ぎに扮したレイア・オーガナからも連絡が途絶えたため、数週間後ついにルークは単身でジャバが支配する砂漠の宮殿に乗り込んだ。そこでは目を疑うような光景があった。レイアはジャバに奴隷として捕らわれていた。",
"title": "経歴"
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"text": "過酷な修行を積み、高貴なジェダイとしての実力と威厳を備えたルークは、悪名高い宇宙マフィアの親玉であるジャバに対しても臆することなく交渉を進めていくが、ジャバも余裕の姿勢を崩さない。ジェダイのマインドトリック(心理操作)は、ハット族には通用しなかったのだ。一瞬の隙を突いて強硬手段に出たルークだったが、ジャバの方が一枚上手だった。罠にかかり、床下に突き落とされたルークは、そこでジャバのペットである巨大モンスター、ランコアに襲われる。ライトセーバーを持たず、あわや喰われる寸前だったルークだが、咄嗟の機転で怪物を仕留め、窮地を脱出する。だが、一息つく間も無くジャバに捕まったルークは、ソロとチューバッカともども、翌日の処刑を宣告される。それは砂漠に潜む怪物サルラックの穴に放り込まれ捕食された後、1000年続くという消化の苦しみを味わうというものであった。",
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"text": "翌朝、砂漠の巨大遊覧ヨット「セール・バージ」で処刑場であるサルラックの巣に繰り出すジャバ一行。炭素冷凍状態からの解凍から間もないせいか、いつもの威勢の良さも無く悪運もここまでと開き直るソロに対し、必ず助けると請け負うルーク。ソロは1年間、仮死状態で炭素冷凍されていたため意識がもうろうとしていて、ルークと会うのはホス脱出の前に言葉を交わした時以来だった。",
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"text": "いよいよ処刑の開始が宣言される中、事ここに及んでルークはジェダイの流儀にのっとり、ジャバに降伏を勧告した。この状況下では当然聞き入れられるはずもなく、サルラックの巣上の渡し板に乗せられるルーク。だが突き落とされる瞬間、華麗に身を翻すと、R2-D2に隠し持たせていた自身の新たなライトセーバーを受け取り、反撃を開始する。大混乱に陥るジャバのセール・バージ。ジェダイの騎士へと成長したルークを止められる者は無く、次々とジャバの手下をサルラックの餌食にしていく。ジャバの用心棒たちを次々に倒すルークの実力を目の当たりにし、この短期間でのジェダイの騎士としての成長ぶりに、ソロは驚かされる。その最中、ジャバはレイアの反撃で息の根を止められていた。ルーク達が脱出した瞬間、セール・バージは大爆発し、銀河に名を響かせたジャバのマフィア一派をほぼ一人で壊滅させたことでルークのその実力は誰からも認められるようになった。",
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"text": "その後ルークはかつてジェダイの修行を途中で切り上げてしまった惑星ダゴバのヨーダの下を訪れ、約束していた修行の再開を請うが、偉大なるジェダイ・マスターは老衰の身であった。ルークはヨーダにジェダイの修行の完成を申し出るもジェダイとして技術的なことはタトゥイーンですべて学び終え習得しており、もはや自分が教えることは何も無いとその成長を認められる。だが、真の意味でジェダイの騎士になるには、最後の試練として、実の父親であるダース・ベイダーとの対決は不可避であることも告げられる。それを告げると、ヨーダは死の間際にオビ=ワンと同じく肉体を捨て、フォースと一体となった。実の父であるベイダーは殺せないと悩むルークの前にオビ=ワンの霊体が現われ、もはやベイダーは悪の機械であり、救う術は無いと告げる。同時に、ルークとレイアが実の兄妹であり、妹を守るようにと告げられる。ルークは重い事実に苦悩するが、1年前クラウド・シティでの対決時に敗れたルークを殺さず、手を差し伸べて自分の下に来いと言ったベイダーの事を思い返し、父にはまだ善の心が残っているのではないかという希望を持ち、彼を暗黒面から救う決意をする。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "第2デス・スター破壊のため作戦行動中の反乱同盟軍に合流したルークは、レイアに兄妹である事、そして自分達の父親がベイダーであることを告げると、単身帝国軍の捕虜になり、ベイダーの説得を試みる。だがベイダーは、息子が作り上げた新たなライトセイバーを手にして、その出来栄えを素直に称賛しながらも、もはや全てが手遅れであり、皇帝には逆らえないと答えるのみであった。ルークはベイダーによって銀河皇帝ダース・シディアスの謁見室に連れて行かれる。ルークは、これから滅ぶ同盟軍を捨て、強大なパワーを持つ暗黒面のフォースを学べと皇帝から誘惑を受ける。それはかつてアナキン・スカイウォーカーに道を踏み外させた言葉そのものであったが、ルークは静かに拒否する。だが、今回の同盟軍によるデス・スター攻略作戦、そのきっかけとなったデス・スターの弱点の漏洩が全て、反乱軍を一掃せんと皇帝が仕掛けた罠であると聞かされ、さしものルークも大きく動揺する。",
"title": "経歴"
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"text": "ついに反乱同盟軍の総攻撃が開始された。だが皇帝の予見通り、罠にかかった同盟軍は苦境に陥る。仲間の危機を察知し、暗黒面の源である怒りに震えながらも必死に耐えるルークだったが、皇帝の「自分を討ち取れば全てが終わる」という挑発に負け、ついにライトセーバーを手に取り皇帝に襲いかかる。すかさずベイダーも剣を抜き再び父子の決闘が始まるが、ルークは戦いの最中においてもなおベイダーの説得を試みる。しかし妹レイアを弟子にしようとする言葉にルークは怒りにまかせた凄まじい爆発力を見せベイダーを圧倒、ついにはベイダーの右手を切り落して勝利した。ルークは湧き上る怒りと憎しみによって暗黒面に取りこまれつつあり、その状態を好機と見た皇帝はベイダーにとどめを刺して父に代わって皇帝の弟子になるようフォースの暗黒面へと誘い込もうとする。だが斬り落とした父の腕が自分と同じ機械の義手であったのを見た瞬間ルークは自らの精神が暗黒面に入りかけている事、否定していた父と自分がいかに似た存在であるのか、そして父もまた悲しい運命の犠牲者であった事に気付きジェダイの騎士として落ち着きを取り戻していく。",
"title": "経歴"
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"text": "ルークは強靭な意志で自分の中に沸きあがろうとした暗黒面の感情を克服すると自ら自身のライトセーバーを投げ捨て「僕は暗黒面には入らない(I'll never join the dark side.)」と皇帝の甘言を拒絶し、「僕はジェダイだ。かつて父がそうだったように...(I'm a jedi. Like my father before me.)」との言葉を突き付ける。暗黒面に引き込めないルークは脅威以外の何者でもないと皇帝はルークにフォース・ライトニングを浴びせかける。なす術も無く皇帝から攻撃を受けルークは見る見る衰弱していくが、その最中も父であるベイダーの良心に必死に呼びかけ続け遂にベイダーの善の心を呼び戻す事に成功する。ベイダーは息子を守るために捨て身の覚悟で皇帝を抱え上げるとデス・スターの反応炉に続く中央動力ケーブル坑に投げ落とし、遂に皇帝を葬り去った。「クローン戦争」以来続いた銀河大戦はこれによって終止符が打たれ、ベイダーはフォースの暗黒面に囚われた「シスの暗黒卿」から「ジェダイの騎士」へと帰還した。だがベイダーの身体は皇帝が最後の抵抗に放った電撃で瀕死の重傷を負っていた。ルークは父の願いでベイダーの黒いマスクを外して父の素顔を見ると共に自身が間違っていたことをレイアへも告げるように頼まれ、満ち足りた穏やかな表情で息を引き取る父を看取った。ルークはベイダーの亡骸とと共にインペリアル・シャトルで崩壊するデス・スターから脱出した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "同盟軍の決死の攻撃によりデス・スターは破壊され、銀河系の各地は歓喜の叫びに包まれていた。緑の衛星エンドアにおいて同盟軍が勝利を祝う中、ルークはただ一人父の亡骸をその身に纏うベイダーの仮面や鎧と共に荼毘に付す。悲しみに包まれつつも勝利の祝賀会に姿を見せたルークは無事だった仲間達、そしてオビ=ワン、ヨーダの霊体、加えて同じく今や聖なるジェダイの霊体となった父アナキンとも再会し、遂に迎えた平和を共に喜び心安らがせた。",
"title": "経歴"
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"text": "惑星タイソンでグローグーが行った呼びかけに応じて、愛機のXウィング・レッド5でモフ・ギデオンのクルーザーに乗り込む。船内のダーク・トルーパーを一掃し、管制室で追い詰められていたマンダロリアン(ディン=ジャリン)とグローグー一行を救出すると、グローグーにはフォースの訓練が必要だとディンに告げる。2人の別れを見届けるとルークはグローグーを連れ、その場を去る。",
"title": "経歴"
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"text": "帝国軍の壊滅後に12人の新たなジェダイ候補生を育てていたが、カイロ・レンの裏切りによりその全てが水泡に帰す結果となり、自責の念から姿を晦ませたとされている。また何らかの目的でジェダイ最古の寺院を探す旅に出たとも言われている。",
"title": "経歴"
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"text": "帝国軍の残党が結成した軍事組織ファースト・オーダーには帝国が滅びる最大の要因を作った“最後のジェダイ”として命を狙われ、妹のレイアが率いる私設軍隊レジスタンスには銀河唯一の希望として発見が切望されており、その行方が作品の手がかりとなっている。",
"title": "経歴"
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"text": "また、このシリーズの新たな主役であるレイが劇中にルークのライトセーバーに触れフラッシュバックを体感する際にルーク・スカイウォーカーの声が挿入されている。",
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"text": "ジェダイの遺跡で隠遁生活を送っていたがレイに発見される。当初はジェダイの寂滅を受け入れ、修行を求めるレイを拒絶していたがレンと感応し合うレイに潜む強力なフォースと資質を認めてレイへのアドバイスを了解した。",
"title": "経歴"
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"text": "そこでレイにフォースのなんたるかを説き、かつて自分がレンの暗殺に失敗しジェダイ・オーダー復活に挫折した経緯を語り、ジェダイの傲慢と誤ちを認めてジェダイを滅ぼすべきと訴える。しかしレイが暗黒面を受け入れる予兆を見せたことに慄き、指導を打ち切る。",
"title": "経歴"
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"text": "やがてレイはレンを説得することを決意して自力で暗黒面を克服し遺跡を去るが、残されたルークの前にマスター・ヨーダが現れる。ヨーダは迷うルークに古いしがらみを断ち切るべきであること、自らが新しい者に克服されることがマスターの最大の使命であると説く。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "レイアら反乱軍最後の残党が逃げ込んだ基地がレンの率いる部隊に制圧されようという瀬戸際にルークはレイアらの前に現れ、単身ファースト・オーダーの部隊の前に立ちはだかる。レンは部隊に一斉砲撃を命ずるがそれを受けてもルークはものともせず立っていた。それを見たレンはルークとの1対1の対決に臨む。",
"title": "経歴"
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"text": "ルークは自分を倒してもジェダイは滅びないこと、自分がハン・ソロと共にレンの中に生き続けることを説く。やがてレンのライトセーバーを甘受するがそれは実体ではなく、ルークが遥か遠く遺跡から放っていた幻影だった。かくしてレイアらの脱出の時間を稼ぐために全ての力を使い果たし疲弊したルークはかつての師・オビ=ワンと同様にその命が尽きるとともに実体を消した。",
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"text": "カイロとの激戦の後、パルパティーンの孫として自身が暗黒面に堕ちることを恐れたレイは生前のルークと同じように惑星オク=トに身を沈めようとした。カイロの戦闘機TIEウィスパーを燃やし、自身のライトセーバーまでもその炎の中に投げ込もうとしたレイの前に霊体となったルークが現れる。",
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"text": "彼はレイに対し自身のライトセーバーと、そして亡きレイアが使っていたライトセーバーの二つを携えてパルパティーンを倒すように諭す。またルークは生前、自分がオク=トに来るのに使用して海底に隠してあったXウィング・レッド5をフォースの力で引き上げてレイに提供する。",
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"text": "その後パルパティーンに力を吸い取られ弱っているレイにルークは過去のジェダイと共にレイに話しかけて力を貸す。そしてレイは立ち上がり、スカイウォーカー兄妹のライトセーバーでパルパティーンの攻撃を跳ね返し何十年も銀河を脅かしてきたシス卿を見事倒すことに成功する。",
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},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "そしてレイはかつてルークがジェダイになる前に育った場所であるラーズ夫妻の住居跡を訪れ、そこにスカイウォーカー兄妹のライトセーバーをフォースの力で埋める。通りがかりの老婆に名を聞かれたレイはルークとレイアの霊体が見守る中、自身を「レイ・スカイウォーカー」と名乗るのであった。",
"title": "経歴"
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] | ルーク・スカイウォーカーは、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物。「エピソード4〜6」の主人公。エピソード7、8、9にも登場する。 | {{Pathnav|スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ登場人物一覧|frame=1}}
{{Infobox スターウォーズ登場人物
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|species = 人間
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|family = [[スター・ウォーズ登場人物一覧#シミ・スカイウォーカー|シミ・スカイウォーカー]](祖母)<br />[[アナキン・スカイウォーカー]](父)<br />[[パドメ・アミダラ]](母)<br />[[レイア・オーガナ|レイア・スカイウォーカー・オーガナ・ソロ]](妹)<br />[[ハン・ソロ]](義弟)<br />[[カイロ・レン]](ベン・ソロ)(甥)
<br />ジェイセン・ソロ(甥)レジェンズ
<br />マラ•ジェイド・スカイウォーカー(妻)レジェンズ
<br />[[スター・ウォーズ登場人物一覧#オーウェン・ラーズ|オーウェン・ラーズ]](叔父)<br />[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ベル・ホワイトスン|ベル・ホワイトスン]](叔母)<br />[[スター・ウォーズ登場人物一覧#クリーグ・ラーズ|クリーグ・ラーズ]](義祖父)
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}}
'''ルーク・スカイウォーカー'''('''Luke Skywalker''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[SF映画]][[スター・ウォーズシリーズ|『スター・ウォーズ』シリーズ]]に登場する架空の人物。「エピソード4〜6」の主人公。エピソード7、8、9にも登場する。
== 概要 ==
青年に成長してから[[ジェダイ]]の騎士になった珍しい経歴のジェダイである。強力な[[フォース (スター・ウォーズ)|フォース]]の使い手であり、強大な戦闘力を持つ。[[ライトセーバー]]を初めて扱った日からわずか数年で[[ジャバ・ザ・ハット]]が組織する[[マフィア]]をほぼ単身の戦闘力で壊滅させ、実父である[[ダース・ベイダー]]と同等に剣を交えるなど長いジェダイの歴史の中で最も短期間で成長した人物である。またダース・ベイダーに「皇帝([[ダース・シディアス]])すら倒せる」と言わしめるほどの高い潜在能力を秘めるが、皇帝との戦闘では襲いかかったことはあるがルーク自身が皇帝を滅ぼすことはせずに拒絶に憤った皇帝の攻撃をなす術なく一方的に浴びせられた。
ジェダイになる前は[[スター・ウォーズ登場組織一覧#反乱同盟軍|反乱同盟軍]]の兵士であり、フォースによる優れた空間認識能力や父親譲りのパイロットの素質を活用しながら数々の戦闘で活躍しており、[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#ホスの戦い|ホスの戦い]]では新たに編成された[[スター・ウォーズ登場組織一覧#ローグ中隊|ローグ中隊]]のリーダーでもあった。
師匠は[[オビ=ワン・ケノービ]]と[[ヨーダ]]。父は後の[[シス (スター・ウォーズ)|シス]]の暗黒卿ダース・ベイダーである[[アナキン・スカイウォーカー]]。
ルークは幼少時代を[[奴隷]]として生活した父アナキンとは異なり普通の家庭において善良な養父母に育てられたごく普通の一般庶民である家庭環境の子供であるため純粋無垢な気質であり、性格は父親よりも温和である。また師であるオビ=ワンとヨーダからは父と同じ轍を踏まないようにと強力なバックアップを受け、[[レイア・オーガナ]]、[[ハン・ソロ]]、[[チューバッカ]]、[[ランド・カルリジアン]]、[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ビッグス・ダークライター|ビッグス・ダークライター]]などの多くの友人や仲間、善良な家族の助けもあり心が負の感情に支配されることは無かった。
衣装の色が物語が進むごとに白(エピソード4/新たなる希望) → 灰色(エピソード5/[[帝国の逆襲]]) → 黒(エピソード6/[[ジェダイの帰還]])へと変わっていく。これは“ルークが徐々にフォースの暗黒面に近づいている”ということを暗示している。なお父であるアナキン・スカイウォーカーも白(エピソード1/[[ファントム・メナス]]) → 茶色(エピソード2/[[クローンの攻撃]]) → 黒(エピソード3/[[シスの復讐]])へと徐々に暗い色へと変化している。しかし結果は上記の通り皇帝の誘惑に屈した父親とは対照的に暗黒面に転落することはなく、父親を暗黒面の呪縛から解放することにも成功した。
[[ジェダイ#ジェダイ・ナイト|ジェダイの騎士]]は[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ブラスター|ブラスター]]を積極的に使うべきではない無粋な武器としておりオビ=ワン・ケノービもブラスターを「野蛮な武器」と評していたがルークは反乱軍兵士であり、またこの時はジェダイ騎士団の正規の訓練を受けていないこともありブラスターを使うことに抵抗がなかったようでライトセーバーと共に携行していた。だが雲の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ベスピン|ベスピン]]にあるクラウド・シティでのダース・ベイダーとの敗戦後、オビ=ワンの家に潜伏して書物を漁りジェダイの修行に打ち込み騎士として成長を遂げた後は戦況に応じて敵のブラスターを奪って利用することはあってもルーク自身がブラスターを携行することはなくなった。また『帝国の逆襲』では爆弾を用いた。
名前の「ルーク(Luke)」は監督のジョージ・ルーカス自身の愛称に因む。また企画段階での名前は「ルーク・スターキラー(Luke Starkiller)」であり、これは後にゲーム『[[スター・ウォーズ フォース アンリーシュド]]』の主人公・[[スターキラー]]や、『[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒]]』に登場する「[[デス・スター#スターキラー基地|スターキラー基地]](Starkiller Base)」の名前の由来となった<ref>{{cite web|url=http://www.ew.com/article/2015/11/13/star-wars-starkiller-base-general-hux|title=Starkiller Base and General Hux: New details on the dark side of The Force Awakens|publisher=Entertainment Weekly's EW.com|date=2015-11-13|accessdate=2016-07-21}}</ref>。この他にもスター・ウォーズには多くの「スターキラー」が存在する。
== 経歴 ==
=== エピソード3/シスの復讐 ===
[[アナキン・スカイウォーカー]]([[ダース・ベイダー]])と[[パドメ・アミダラ]]の息子であり、辺境の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ポリス・マサ|ポリス・マサ]]で[[レイア・オーガナ]]と共に双子として生まれる。「ルーク」の名は生まれたその瞬間に母が名づけたものである。[[ジェダイ]]抹殺を企てる銀河皇帝[[ダース・シディアス|パルパティーン]]の目を逃れるために誕生後すぐ[[オビ=ワン・ケノービ]]によって砂漠の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#タトゥイーン|タトゥイーン]]に住む父の親戚筋に当たるラーズ夫妻に預けられて育てられた(正確には父方の祖母が奴隷から解放された後に結婚した父の義父の家族であり、ルークとは血縁関係はない)。
ルークは自分に双子の妹がいることも父親が[[銀河帝国 (スター・ウォーズ)|銀河帝国軍]]を率いる[[ダース・ベイダー]]であることも知らずに育った。ベン・ケノービ([[オビ=ワン・ケノービ]])からは自分の父親はベイダーに殺されたと聞かされていた。ヨーダの指示でオビ=ワン・ケノービはタトゥイーンに潜伏しつつ銀河の最後の希望であるルークの成長を見守った。
=== エピソード4/新たなる希望 ===
砂漠の惑星 タトゥイーンにて、叔父が営む水農場で働く傍ら、機械いじりとランドスピーダー(ソロスーブ社製X-34<ref>『スター・ウォーズ完全基礎講座』扶桑社、p189</ref>)やインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」の操縦が得意な若者に成長した。『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|エピソード4]]』の初期稿では、ルークはタトゥイーンに友人はいるものの、「ワーミー(芋虫)」などというあだ名をつけられるいじめられっこ(後に反乱軍の基地で再会する[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ビッグス・ダークライター|ビッグス・ダークライター]]は良き親友であることは変わらない)であり、実際に撮影もされていた。冒頭の約20分間に主人公のルークが出ないことへ配給会社側からの注文を受けて、純朴な少年の成長をより強調した内容だったが、監督の[[ジョージ・ルーカス]]は当初から使う気は全く無かったという。友人の多くが田舎であるタトゥイーンを出て行く中で年相応の焦りも感じており、ルークも憧れの宇宙戦闘機パイロットになるべく、アカデミー([[銀河帝国 (スター・ウォーズ)|帝国士官学校]])への留学を希望していた。これは帝国に入りたい訳ではなく、憧れる親友ビッグスと同じく、帝国士官学校で戦闘技術を学んだ後で[[スター・ウォーズ登場組織一覧#反乱同盟軍|反乱同盟軍]]へと参加しようという考えからであった。しかし、収穫に人手が要るからなど様々な口実を毎年作ってはルークを引き止める[[スター・ウォーズ登場人物一覧#オーウェン・ラーズ|オーウェン・ラーズ]]と、ルークの戦乱に巻き込まれる運命を心配する[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ベル・ホワイトスン|ベル・ホワイトスン]]によって、不本意ながらも彼はタトゥイーンに留まっていた。ある時、オーウェンが農作業用にと廃品回収を生業とする[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|ジャワ]]族から購入した2体のドロイド([[C-3PO]]と[[R2-D2]])をルークが整備していると、R2の中の映像データに「オビ=ワン・ケノービ」へのメッセージが入っているのを見つける。ルークが叔父のオーウェンに「オビ=ワン・ケノービとは郊外に住む老人ベン・ケノービのことでは?」と尋ねると、オーウェンは「オビ=ワンはルークの父親と同じ時期に死んだ」と言い、それ以上は語ろうとしなかった。
その夜、R2はメッセージを届けるため単身ラーズ家を脱走し、翌朝、追いかけたルークと3POがR2を発見するが、砂漠の盗賊[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#タスケン・レイダー|サンドピープル]]の襲撃に遭う。気を失ったルークを助けたのはベン・ケノービだった。ルークがオビ=ワン・ケノービについて尋ねると、ベンは自分がオビ=ワンだと伝え、ルークを家に招く。
オビ=ワンは、自分がルークの父親と同じ[[ジェダイ]]の騎士であることや、かつて自分の弟子だった[[ダース・ベイダー]]が銀河帝国へ寝返り、ルークの父を含む多くのジェダイが殺されたことを語り、その父親が遺した物という[[ライトセーバー]]をルークに渡した。R2からのメッセージは、「レイアがR2に入力した[[デス・スター]]の設計図を、[[スター・ウォーズ惑星一覧#オルデラン|オルデラン]]にいるレイアの父[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ベイル・オーガナ|ベイル・オーガナ]]へ届けて欲しい」というものだった。オビ=ワンは、一緒に[[スター・ウォーズ惑星一覧#オルデラン|オルデラン]]へ行き、反乱同盟軍に加わるようルークを誘う。だがルークは帝国は憎い気持ちはあるが、叔父が許してくれるはずがないと断り、オビ=ワンを宇宙港のあるアンカーヘッドの街まで送ろうとした。だがその道中、ルーク達にドロイドを売りにきたジャワ達が、帝国軍の[[ストームトルーパー (スター・ウォーズ)|ストームトルーパー]]により惨殺されているのを発見する。帝国軍の意図を察したルークは自宅へ急ぐが、そこで目にしたのは襲撃された農場とラーズ夫妻の無残な姿だった。全てを失ったルークは、父親と同じジェダイの騎士になることを決意し、オビ=ワンに同行することにした。
ルーク一行は、機密データを積んだR2が帝国軍の“お尋ね者”に当たるため、通常のオルデラン行きの定期便ではなく、銀河中のならず者のパイロットたちがたむろするモス・アイズリー宇宙港へと向かった。モス・アイズリーに到着すると航宙船のパイロットを探すために酒場に赴き、密輸業者の[[ハン・ソロ]]と[[チューバッカ]]に出会う。その後 ソロの宇宙船[[ミレニアム・ファルコン]]号を破格の値段(ルーク曰く「船が買える」)に更にオビ=ワンが上積みした契約で雇う。ファルコン号は帝国軍の兵士達の襲撃に遭うも、なんとかハイパースペースにジャンプし、惑星オルデランへ向かう。その間、ルークはファルコン号の船内でオビ=ワンからフォースの手ほどきを受けていた。僅かな時間で潜在能力の片鱗を見せ始めるルーク。だが、到着前に惑星オルデランはデス・スターによって既に破壊されており、ファルコン号はデス・スターのトラクタービームにより拿捕されてしまう。
ルークとソロはストームトルーパーに変装し、ファルコン号の船内から脱出して発着場管制室を占拠した。オビ=ワンはトラクタービームのスイッチを切りに向かい、ルークとソロとチューバッカはレイア姫が処刑寸前であることを知る。当初は用件を知らなかったハン・ソロが救出に強く反対したが、オビ=ワンへのホログラムを見ていたルークは、レイア姫が反乱同盟軍のリーダーであり、オルデラン王室の要人であることを知っていたため、彼女が「金持ち」であることを特に強調してハン・ソロを何とか説得することに成功した。監房ブロックへと救出に向かったルーク達はレイア姫を発見するが、すぐに乗り込んできた追っ手に出口を塞がれたため、レイアの機転でダスト・シュートからゴミ処理区画へと逃れた。ゴミ処理場ではルークが怪物ダイアノーガに襲われた上、ゴミ圧縮装置が起動したため、危うく潰される寸前であったところを3POとR2に助けられる。何とかファルコン号が置かれている発着場まで辿り着いた4人と3PO、R2。その時、突然 見張りが移動を始めたため、好機とばかりファルコン号に乗り込もうとした瞬間、ベイダーと激しくライトセーバーを交えるオビ=ワンの姿を見つける。最後のジェダイ騎士と目される2人の実に約20年ぶりとなる決闘は、容易に決着が付くようには見えなかった。だが、ルークに気付いたオビ=ワンは安堵の笑みを浮かべると、突如、剣の構えを解いた。この機を見逃さなかったベイダーが斬りつけた瞬間、オビ=ワンは自分の肉体をフォースへと昇華させ消えてしまった。それを見たルークはショックを受けてベイダーとストームトルーパーごと撃ちまくろうとするが、オビ=ワンの声がルークに「逃げろ」と告げ、ルークはファルコン号に乗り込み、デス・スターから脱出した。
オビ=ワンの死を悲しむ暇も無く、すぐに追撃してきた[[TIEファイター]]を何とか撃退するとファルコン号はハイパースペースにジャンプし、反乱同盟軍の基地がある[[スター・ウォーズ惑星一覧#ヤヴィン第4衛星|ヤヴィン第4衛星]]に向かった。同盟軍はすぐにR2に入力されているデス・スターの設計図を調べ、デス・スターの弱点を中央原子炉の排熱口と断定、攻撃計画をスタートさせた。ルークは同盟軍に加わることになり、再会したタトゥイーンの親友[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ビッグス・ダークライター|ビッグス・ダークライター]]の推薦もあり、デス・スター攻撃に向かうレッド中隊の一員として長年の憧れであった宇宙戦闘機パイロットに選ばれる(コールサインは「レッド5」<ref>先任のレッド5は[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー|スカリフの戦い]]で戦死している。</ref>)。ビッグスとはタトゥーウィンでスピーダーを乗り回したストリートレーサー仲間であり、新米のルークを心配するレッド中隊長に「故郷タトゥイーンで一番のパイロット」と請け負っている<ref>脚本ではかつてルークの父アナキンと共に飛んだ事のある隊長がルークを小隊長に抜擢した事が語られているが編集でカットされ、現在のバージョンでも新三部作との整合から復活していない。</ref>。ルークに戦闘機の操縦経験は無いが、所有していたインコム社製エアスピーダー「T-16 スカイホッパー」が同じメーカーの練習機とも言える機体であったため(反乱軍の戦闘機[[Xウイング]]は「インコムT-65」)、操縦技能を認められた。デス・スターからの脱出行を通じて、ルークが兄のように慕うようになりだしていたソロが作戦に参加しないと知り憤るが、レイアは優しく彼を励ました。
デス・スター攻撃作戦が開始され、ルークとR2が搭乗する[[Xウイング]]は善戦するが、同盟軍は迎撃に出たベイダー専用機TIEアドバンストX1の前に大苦戦する。最後の攻撃部隊となったルーク率いる小隊だが、ウェッジが被弾し離脱、ビッグスが撃墜され、攻撃部隊はルーク1機のみとなってしまう。ベイダー機が次の獲物をルークに定めた瞬間、フォースと一体になったオビ=ワンの声がルークに届く。
師の教えに従って照準コンピューターを切るとルークは迫る爆撃ポイントに向けて意識を集中させる。その時ルークが発揮した強いフォースは追撃するベイダーを驚愕させる程だった。しかし遂にベイダーはルーク機を照準に捉えた。R2が被弾し、あわや撃墜されるかと思われた時突如ファルコン号が援護に現われる。ソロがベイダーの小隊を蹴散らした次の瞬間フォースの赴くままにルークが放ったプロトン魚雷は直径わずか2mの排熱口に飛び込み、デス・スターは大爆発を起こして宇宙の塵となった。タトゥイーンで友人[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ビッグス・ダークライター|ビッグス・ダークライター]]と共にエアスピーダー「T-16 スカイホッパー」を操縦し、そのスタン・ブラスターでベガーズ渓谷の獰猛な獣ワンプ・ラットの狩りに興じるなど既にに飛行機の操縦経験が豊富だったとはいえ[[デス・スター]]の2mほどしかない排熱口にミサイルを通すという神業をフォースと同化した[[オビ=ワン・ケノービ]]との交感による助言とフォースによる空間認識能力を用いて戦闘機での初陣にして照準機器の補助なしで成功させる武勲を挙げた。
帰還したルークと仲間達はレイア姫から勲章を授与され、同盟軍の英雄として迎えられる。
=== エピソード5/帝国の逆襲 ===
[[デス・スター]]の破壊から3年が経った。前作の活躍などからルークは一躍[[スター・ウォーズ登場組織一覧#反乱同盟軍|反乱同盟軍]]のヒーローとなっていた。この時点での階級は「[[中佐]](Commander)」であり、前作での[[スター・ウォーズ登場組織一覧#ローグ中隊|レッド中隊]]から派生した[[スター・ウォーズ登場組織一覧#ローグ中隊|ローグ中隊]]の飛行隊長を務めていた。また、氷の惑星 ホスを発見して「反乱同盟軍 秘密基地の建設」に尽力している。
デス・スターを破壊された後、[[銀河帝国 (スター・ウォーズ)|帝国軍]]はすぐさま反撃を開始し、反乱軍は惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ヤヴィン|ヤヴィン]]第4衛星の秘密基地を追われ、氷の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ホス|ホス]]に逃げ延びると秘密基地を建設し、そこを新たな拠点としていた。一方、デス・スター攻防戦で辛くも生き残った[[ダース・ベイダー|ベイダー]]は、デス・スターを破壊したパイロットの名が「スカイウォーカー」であると知るや、銀河中に無数の探査[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ドロイド|ドロイド]]「[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ドロイド|プロボット]]」を放ち、血眼になってルークを捜索していた。
ある時、基地周辺で多発していた隕石の調査に出たルークは、突如ホスの原住生物[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|ワンパ]]の襲撃を受け昏倒してしまう。ワンパの洞窟にさらわれたルークは危うく喰い殺されるところであったが、フォースの力でワンパを退けると、命からがら洞窟から脱出した。だがホスの極寒の吹雪に巻き込まれ、雪の中で気を失って倒れてしまう。そこに霊体となったオビ=ワンが現れ、ルークに惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ダゴバ|ダゴバ]]へ向かい、自らの師である[[ジェダイ#ジェダイ・マスター|ジェダイ・マスター]]「[[ヨーダ]]」からフォースを学ぶよう告げた。捜索に来たソロがルークを発見し、原住生物[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|トーントーン]]ですら耐えられない死の吹雪を即席のシェルターで凌ぐと、翌朝に[[スター・ウォーズ登場組織一覧#ローグ中隊|ローグ中隊]]によって救出され九死に一生を得た。ルークは傷の治療を受け回復したが、ついに帝国軍がホスの同盟軍基地を突き止め、[[AT-AT]]ウォーカーなどの機械化部隊をもって総攻撃を開始。ルーク率いるローグ中隊は、味方の脱出の時間を稼ぐため[[スノースピーダー]]で迎撃に出る。しかし、ルークの後部砲手ダク・ラルターが戦死し、その後さらに被弾したルーク機はついに墜落。地上に降りたルークは単身の肉弾攻撃でAT-ATを1機破壊するも焼け石に水であり、ホスは陥落し、ルークはXウイングでR2-D2と共にホスを脱出した。
ルークはオビ=ワンの教えに従い、同盟軍艦隊には合流せずに沼とジャングルに覆われた謎の惑星ダゴバへと向かう。そこで出会ったヨーダに当初は面食らうものの、オビ=ワンの助言もあり、ルークは遅巻きながらジェダイの本格的な修行を始めようとする。フォースの強さだけでなく、気の短い性格も父から受け継いでいたルークは、父の話をしながら知らんぷりをするヨーダに幾度と無く憤るが、ヨーダがフォースと一体化しているオビ=ワンと話し合うのを目の当たりにしたルークは、ヨーダを偉大なるジェダイ・マスターと認め、修行に打ち込むようになる。しかし、修行によって強力になったフォースの力が、ルークにソロやレイアの未来の危機を予知させたことによって、ルークは二人の救出を決意。ヨーダとオビ=ワンの制止を振り切り、修行半ばでダゴバを後にすると、レイア達がいる雲の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ベスピン|ベスピン]]のクラウド・シティに向かう。その様子を見たヨーダは「我慢のない子だ」と嘆息した。ヨーダには、天賦の才能故に聞く耳を持たず、ジェダイの道を踏み外したベイダーと同じ危うさが、その姿に重なって見えたのである。
クラウド・シティではベイダーが待ち伏せており、ヨーダの懸念通りルークはベイダーとの[[一騎討ち]]に敗れライトセーバーを持った自身の右手を切り落とされてしまう。クラウド・シティの排気シャフト内に架かる連絡橋に追い詰められ、さらにジェダイを裏切って皆殺しにしたオビ=ワンの弟子であり父の仇であるはずのベイダーから「わしがお前の父だ(I am your father.)」という衝撃の事実を聞いたルークは絶望のあまり「嘘だ!」と絶叫する。必死に自身の父はベイダーであることを否定するルークだったがベイダーのフォースは無情にもそれが事実だと告げていた。ベイダーは「お前なら皇帝([[ダース・シディアス]])をも倒せる。仲間になれ、さすれば銀河系を父と子で共に支配することができる。」とルークをフォースの暗黒面(ダークサイド)に誘惑するがこれまで信じてきた全てを打ち砕かれ、絶望に支配されたルークには自ら死を選ぶ道しか残されていなかった。自決するよう排気シャフトに身を投げたルークは偶然にもクラウド・シティの最下層のアンテナに引っかかり、落っこちそうな自身の危機をレイアがフォースで遠くから感じ取ったことから駆け付けた[[ミレニアム・ファルコン]]号に転落寸前で救出してもらった。なおもベイダーはルークを捕らえるべく[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ハイパードライブ|ハイパードライブ]]故障中のファルコン号を[[拿捕]]・制圧する準備を進めていたが間一髪R2の機転によってハイパードライブが回復したファルコン号はハイパースペースにジャンプし、ルークは再び同盟軍に合流を果たした。切られた右手首に機械の義手を装着したルークは賞金稼ぎの[[ボバ・フェット]]によって悪名高い[[ジャバ・ザ・ハット]]のもとに連れ去られたハン・ソロ救出に向かう[[ランド・カルリジアン]]と[[チューバッカ]]を、残ったレイアと共に見送った。
=== エピソード6/ジェダイの帰還 ===
惑星ベスピンのクラウド・シティにてシスの暗黒卿ダース・ベイダーに敗れ、絶望に沈んだ日から約1年ほどが過ぎた。修行半ばでダース・ベイダーに苦戦を強いられた己の未熟さを痛感したルークは、この間に単身で故郷の惑星タトゥイーンに戻り、かつてのベン(オビ=ワン)・ケノービの隠れ家に篭り、自身の新たなライトセーバーの製作と、過酷なジェダイの修行に励んでいた。しかし、未ださらわれた親友ハン・ソロは取り返せないでいた。先に[[ジャバ・ザ・ハット]]の本拠地に用心棒として潜入していた[[ランド・カルリジアン]]に続き、交渉に赴いた相棒のC-3POとR2-D2、チューバッカを囮に賞金稼ぎに扮したレイア・オーガナからも連絡が途絶えたため、数週間後ついにルークは単身でジャバが支配する砂漠の宮殿に乗り込んだ。そこでは目を疑うような光景があった。レイアはジャバに奴隷として捕らわれていた。
過酷な修行を積み、高貴なジェダイとしての実力と威厳を備えたルークは、悪名高い宇宙マフィアの親玉であるジャバに対しても臆することなく交渉を進めていくが、ジャバも余裕の姿勢を崩さない。ジェダイのマインドトリック(心理操作)は、[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|ハット族]]には通用しなかったのだ。一瞬の隙を突いて強硬手段に出たルークだったが、ジャバの方が一枚上手だった。罠にかかり、床下に突き落とされたルークは、そこでジャバのペットである巨大モンスター、[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|ランコア]]に襲われる。ライトセーバーを持たず、あわや喰われる寸前だったルークだが、咄嗟の機転で怪物を仕留め、窮地を脱出する。だが、一息つく間も無くジャバに捕まったルークは、ソロとチューバッカともども、翌日の処刑を宣告される。それは砂漠に潜む怪物[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|サルラック]]の穴に放り込まれ捕食された後、1000年続くという消化の苦しみを味わうというものであった。
翌朝、砂漠の巨大遊覧ヨット「セール・バージ」で処刑場であるサルラックの巣に繰り出すジャバ一行。炭素冷凍状態からの解凍から間もないせいか、いつもの威勢の良さも無く悪運もここまでと開き直るソロに対し、必ず助けると請け負うルーク。ソロは1年間、仮死状態で炭素冷凍されていたため意識がもうろうとしていて、ルークと会うのは[[スター・ウォーズ惑星一覧#ホス|ホス]]脱出の前に言葉を交わした時以来だった。
いよいよ処刑の開始が宣言される中、事ここに及んでルークはジェダイの流儀にのっとり、ジャバに降伏を勧告した。この状況下では当然聞き入れられるはずもなく、サルラックの巣上の渡し板に乗せられるルーク。だが突き落とされる瞬間、華麗に身を翻すと、R2-D2に隠し持たせていた自身の新たなライトセーバーを受け取り、反撃を開始する。大混乱に陥るジャバのセール・バージ。ジェダイの騎士へと成長したルークを止められる者は無く、次々とジャバの手下をサルラックの餌食にしていく。ジャバの用心棒たちを次々に倒すルークの実力を目の当たりにし、この短期間でのジェダイの騎士としての成長ぶりに、ソロは驚かされる。その最中、ジャバはレイアの反撃で息の根を止められていた。ルーク達が脱出した瞬間、セール・バージは大爆発し、銀河に名を響かせたジャバのマフィア一派をほぼ一人で壊滅させたことでルークのその実力は誰からも認められるようになった。
その後ルークはかつてジェダイの修行を途中で切り上げてしまった惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ダゴバ|ダゴバ]]の[[ヨーダ]]の下を訪れ、約束していた修行の再開を請うが、偉大なるジェダイ・マスターは老衰の身であった。ルークはヨーダにジェダイの修行の完成を申し出るもジェダイとして技術的なことはタトゥイーンですべて学び終え習得しており、もはや自分が教えることは何も無いとその成長を認められる。だが、真の意味でジェダイの騎士になるには、最後の試練として、実の父親であるダース・ベイダーとの対決は不可避であることも告げられる。それを告げると、ヨーダは死の間際にオビ=ワンと同じく肉体を捨て、フォースと一体となった。実の父であるベイダーは殺せないと悩むルークの前にオビ=ワンの霊体が現われ、もはやベイダーは悪の機械であり、救う術は無いと告げる。同時に、ルークとレイアが実の兄妹であり、妹を守るようにと告げられる。ルークは重い事実に苦悩するが、1年前クラウド・シティでの対決時に敗れたルークを殺さず、手を差し伸べて自分の下に来いと言ったベイダーの事を思い返し、父にはまだ善の心が残っているのではないかという希望を持ち、彼を暗黒面から救う決意をする。
第2[[デス・スター]]破壊のため作戦行動中の[[スター・ウォーズ登場組織一覧#反乱同盟軍|反乱同盟軍]]に合流したルークは、レイアに兄妹である事、そして自分達の父親がベイダーであることを告げると、単身帝国軍の捕虜になり、ベイダーの説得を試みる。だがベイダーは、息子が作り上げた新たなライトセイバーを手にして、その出来栄えを素直に称賛しながらも、もはや全てが手遅れであり、皇帝には逆らえないと答えるのみであった。ルークはベイダーによって銀河皇帝[[ダース・シディアス]]の謁見室に連れて行かれる。ルークは、これから滅ぶ同盟軍を捨て、強大なパワーを持つ暗黒面のフォースを学べと皇帝から誘惑を受ける。それはかつて[[アナキン・スカイウォーカー]]に道を踏み外させた言葉そのものであったが、ルークは静かに拒否する。だが、今回の同盟軍によるデス・スター攻略作戦、そのきっかけとなったデス・スターの弱点の漏洩が全て、反乱軍を一掃せんと皇帝が仕掛けた罠であると聞かされ、さしものルークも大きく動揺する。
ついに反乱同盟軍の総攻撃が開始された。だが皇帝の予見通り、罠にかかった同盟軍は苦境に陥る。仲間の危機を察知し、暗黒面の源である怒りに震えながらも必死に耐えるルークだったが、皇帝の「自分を討ち取れば全てが終わる」という挑発に負け、ついにライトセーバーを手に取り皇帝に襲いかかる。すかさずベイダーも剣を抜き再び父子の決闘が始まるが、ルークは戦いの最中においてもなおベイダーの説得を試みる。しかし妹レイアを弟子にしようとする言葉にルークは怒りにまかせた凄まじい爆発力を見せベイダーを圧倒、ついにはベイダーの右手を切り落して勝利した。ルークは湧き上る怒りと憎しみによって暗黒面に取りこまれつつあり、その状態を好機と見た皇帝はベイダーにとどめを刺して父に代わって皇帝の弟子になるようフォースの暗黒面へと誘い込もうとする。だが斬り落とした父の腕が自分と同じ機械の義手であったのを見た瞬間ルークは自らの精神が暗黒面に入りかけている事、否定していた父と自分がいかに似た存在であるのか、そして父もまた悲しい運命の犠牲者であった事に気付きジェダイの騎士として落ち着きを取り戻していく。
ルークは強靭な意志で自分の中に沸きあがろうとした暗黒面の感情を克服すると自ら自身のライトセーバーを投げ捨て「僕は暗黒面には入らない(I'll never join the dark side.)」と皇帝の甘言を拒絶し、「僕はジェダイだ。かつて父がそうだったように…(I'm a jedi. Like my father before me.)」との言葉を突き付ける。暗黒面に引き込めないルークは脅威以外の何者でもないと皇帝はルークに[[スター・ウォーズシリーズ#劇中用語|フォース・ライトニング]]を浴びせかける。なす術も無く皇帝から攻撃を受けルークは見る見る衰弱していくが、その最中も父であるベイダーの良心に必死に呼びかけ続け遂にベイダーの善の心を呼び戻す事に成功する。ベイダーは息子を守るために捨て身の覚悟で皇帝を抱え上げるとデス・スターの反応炉に続く中央動力ケーブル坑に投げ落とし、遂に皇帝を葬り去った。「クローン戦争」以来続いた銀河大戦はこれによって終止符が打たれ、ベイダーはフォースの暗黒面に囚われた「シスの暗黒卿」から「ジェダイの騎士」へと帰還した。だがベイダーの身体は皇帝が最後の抵抗に放った電撃で瀕死の重傷を負っていた。ルークは父の願いでベイダーの黒いマスクを外して父の素顔を見ると共に自身が間違っていたことをレイアへも告げるように頼まれ、満ち足りた穏やかな表情で息を引き取る父を看取った。ルークはベイダーの亡骸とと共にインペリアル・シャトルで崩壊するデス・スターから脱出した。
同盟軍の決死の攻撃によりデス・スターは破壊され、銀河系の各地は歓喜の叫びに包まれていた。緑の衛星[[スター・ウォーズ惑星一覧#エンドア|エンドア]]において同盟軍が勝利を祝う中、ルークはただ一人父の亡骸をその身に纏うベイダーの仮面や鎧と共に荼毘に付す。悲しみに包まれつつも勝利の祝賀会に姿を見せたルークは無事だった仲間達、そしてオビ=ワン、ヨーダの霊体、加えて同じく今や聖なるジェダイの霊体となった父アナキンとも再会し、遂に迎えた平和を共に喜び心安らがせた。
=== マンダロリアン ===
惑星タイソンでグローグーが行った呼びかけに応じて、愛機のXウィング・レッド5でモフ・ギデオンのクルーザーに乗り込む。船内のダーク・トルーパーを一掃し、管制室で追い詰められていたマンダロリアン(ディン=ジャリン)とグローグー一行を救出すると、グローグーにはフォースの訓練が必要だとディンに告げる。2人の別れを見届けるとルークはグローグーを連れ、その場を去る。
=== エピソード7/フォースの覚醒 ===
帝国軍の壊滅後に12人の新たなジェダイ候補生を育てていたが、[[カイロ・レン]]の裏切りによりその全てが水泡に帰す結果となり、自責の念から姿を晦ませたとされている。また何らかの目的でジェダイ最古の寺院を探す旅に出たとも言われている。
帝国軍の残党が結成した軍事組織'''[[ファースト・オーダー]]'''には帝国が滅びる最大の要因を作った“最後のジェダイ”として命を狙われ、妹のレイアが率いる私設軍隊'''[[スター・ウォーズ登場組織一覧#レジスタンス|レジスタンス]]'''には銀河唯一の希望として発見が切望されており、その行方が作品の手がかりとなっている。
また、このシリーズの新たな主役である[[レイ (スター・ウォーズ)|レイ]]が劇中にルークの[[ライトセーバー]]に触れフラッシュバックを体感する際にルーク・スカイウォーカーの声が挿入されている。
=== エピソード8/最後のジェダイ ===
ジェダイの遺跡で隠遁生活を送っていたがレイに発見される。当初はジェダイの寂滅を受け入れ、修行を求めるレイを拒絶していたがレンと感応し合うレイに潜む強力なフォースと資質を認めてレイへのアドバイスを了解した。
そこでレイにフォースのなんたるかを説き、かつて自分がレンの暗殺に失敗しジェダイ・オーダー復活に挫折した経緯を語り、ジェダイの傲慢と誤ちを認めてジェダイを滅ぼすべきと訴える。しかしレイが暗黒面を受け入れる予兆を見せたことに慄き、指導を打ち切る。
やがてレイはレンを説得することを決意して自力で暗黒面を克服し遺跡を去るが、残されたルークの前にマスター・ヨーダが現れる。ヨーダは迷うルークに古いしがらみを断ち切るべきであること、自らが新しい者に克服されることがマスターの最大の使命であると説く。
レイアら反乱軍最後の残党が逃げ込んだ基地がレンの率いる部隊に制圧されようという瀬戸際にルークはレイアらの前に現れ、単身ファースト・オーダーの部隊の前に立ちはだかる。レンは部隊に一斉砲撃を命ずるがそれを受けてもルークはものともせず立っていた。それを見たレンはルークとの1対1の対決に臨む。
ルークは自分を倒してもジェダイは滅びないこと、自分がハン・ソロと共にレンの中に生き続けることを説く。やがてレンのライトセーバーを甘受するがそれは実体ではなく、ルークが遥か遠く遺跡から放っていた幻影だった。かくしてレイアらの脱出の時間を稼ぐために全ての力を使い果たし疲弊したルークはかつての師・オビ=ワンと同様にその命が尽きるとともに実体を消した。
=== エピソード9/スカイウォーカーの夜明け ===
カイロとの激戦の後、パルパティーンの孫として自身が暗黒面に堕ちることを恐れたレイは生前のルークと同じように惑星オク=トに身を沈めようとした。カイロの戦闘機TIEウィスパーを燃やし、自身のライトセーバーまでもその炎の中に投げ込もうとしたレイの前に霊体となったルークが現れる。
彼はレイに対し自身のライトセーバーと、そして亡きレイアが使っていたライトセーバーの二つを携えてパルパティーンを倒すように諭す。またルークは生前、自分がオク=トに来るのに使用して海底に隠してあったXウィング・レッド5をフォースの力で引き上げてレイに提供する。
その後パルパティーンに力を吸い取られ弱っているレイにルークは過去のジェダイと共にレイに話しかけて力を貸す。そしてレイは立ち上がり、スカイウォーカー兄妹のライトセーバーでパルパティーンの攻撃を跳ね返し何十年も銀河を脅かしてきたシス卿を見事倒すことに成功する。
そしてレイはかつてルークがジェダイになる前に育った場所であるラーズ夫妻の住居跡を訪れ、そこにスカイウォーカー兄妹のライトセーバーをフォースの力で埋める。通りがかりの老婆に名を聞かれたレイはルークとレイアの霊体が見守る中、自身を「レイ・スカイウォーカー」と名乗るのであった。
== 配役 ==
*; [[マーク・ハミル]]
: 『エピソード4~9』、『ホリデースペシャル』、『[[スター・ウォーズ/フォース・オブ・デスティニー|フォース・オブ・デスティニー]]』、『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』
*; エイダン・バートン
: 『エピソード3』
*; [[グラント・フィーリー]]
: 『[[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ)|オビ=ワン・ケノービ]]』
*; [[マックス・ロイド=ジョーンズ]]
: 『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』([[ボディダブル]])
=== 日本語吹き替え ===
*; [[神谷明]]
: 『エピソード4』(レコード版)
*; [[奥田瑛二]]
: 『エピソード4~5』(劇場公開版)
*; [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]
: 『エピソード4』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]1983年版)
*; [[水島裕 (声優)|水島裕]]
: 『エピソード4』(日本テレビ1985年版)、『エピソード5~6』(日本テレビ版)
*; [[塩沢兼人]]
: 『エピソード5』([[テレビ朝日]]版)
*; [[島田敏]]
: 『エピソード4〜6』(ソフト版)、『[[スター・ウォーズシリーズ#パチンコ|ダース・ベイダー降臨]]』、『レゴ エンパイア・ストライクス・アウト』、『エピソード7〜9』、『[[レゴ スター・ウォーズ/フォースの覚醒|レゴ フォースの覚醒]]』、『[[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ/恐怖のハロウィーン|恐怖のハロウィーン]]』、『レゴ スカイウォーカー・サーガ』
*; [[飛田展男]]
: 『[[スター・ウォーズ ギャラクティック・バトルグラウンド|ギャラクティック・バトルグラウンド]]』、『[[スター・ウォーズ ローグ スコードロン II|スコードロン II]]』
*; [[石田彰]]
: 『エピソード4 特別篇』(日本テレビ版)、『[[スター・ウォーズ ローグ スコードロン III|ローグ スコードロン III]]』
*; [[浪川大輔]]
: 『ロボット・チキン』
*; [[成瀬誠]]
: 『[[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ:ヨーダ・クロニクル|ヨーダ・クロニクル]]』、『[[LEGO スター・ウォーズ:ドロイド・テイルズ|ドロイド・テイルズ]]』、『[[フィニアスとファーブ]]/スターウォーズ大作戦』
*; [[鈴木裕斗]]
: 『[[LEGO スター・ウォーズ/フリーメーカーの冒険|フリーメーカーの冒険]]』、『[[スター・ウォーズ/フォース・オブ・デスティニー|フォース・オブ・デスティニー]]』、『[[LEGO スター・ウォーズ/ホリデー・スペシャル|ホリデー・スペシャル]]』、『[[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ/恐怖のハロウィーン|恐怖のハロウィーン]]』、『[[LEGO スター・ウォーズ/サマー・バケーション|サマー・バケーション]]』
*; [[佐藤拓也 (声優)|佐藤拓也]]
: 『[[スター・ウォーズ バトルフロントII (2017)|バトルフロントII (2017)]]』
*; [[須田祐介]]
: 『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』、『 [[ボバ・フェット/The Book of Boba Fett]]』
*; [[古谷徹]]
:『The Making of STAR WARS』(1977) 日本放送版
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[スター・ウォーズ登場人物一覧]]
== 外部リンク ==
*{{Star Wars Databank |subject=luke-skywalker|text=Luke Skywalker}}
*{{Wookieepedia}}
*{{imdb character|0000273}}
{{スター・ウォーズシリーズ}}
{{塩沢兼人}}
{{神谷明}}
{{浪川大輔}}
{{Normdaten}}
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[[Category:スター・ウォーズの登場人物]]
[[Category:テレビドラマの登場人物]]
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[[Category:ジェダイ騎士団]]
[[Category:架空のパイロット]]
[[Category:架空の切断障害を持つ人物]] | 2003-03-27T09:56:31Z | 2023-12-13T07:06:49Z | false | false | false | [
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5,309 | アナキン・スカイウォーカー | アナキン・スカイウォーカー(Anakin Skywalker)は、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物。「エピソード1~3」の主人公。ニックネームは「アニー」。身長183cm。
クワイ=ガン・ジンが“選ばれし者(The Chosen one)”(フォースにバランスをもたらす者)として見出し、それに違わぬ非常に強いフォースを持っている。フォースを生み出すミディ・クロリアンも最強のジェダイ・マスターヨーダを超える値を記録した。 エピソード1~3では生い立ちとジェダイとなった経緯、成長してからの苦悩と葛藤からシスの暗黒卿ダース・ベイダーへと変貌した経緯が描かれ、エピソード4~6ではそのベイダーとして成立した銀河帝国の支配と恐怖の体現者としての活躍の様子と実の息子ルーク・スカイウォーカーとの邂逅からダークサイドからライトサイドへと返り咲くまでの経緯が描かれた。
『エピソード1』では無自覚にフォースを用いた空間認識能力と動体視力を持ち子供かつヒューマノイド(人間種)ながらポッドレーサーとして比類なき才能を見せ、それをフォースの力と見抜いたクワイ=ガンにジェダイの騎士としてスカウトされて運命が大きく動き出すこととなった。
『エピソード2』では青年に成長したジェダイの騎士として登場。戦闘では経験不足と過信から不用意かつ未熟な面も見られたが『エピソード3』ではクローン大戦での実戦経験を通じて成熟した実力者となる。師匠のオビ=ワン・ケノービやヨーダでさえ倒しきれなかったドゥークー伯爵を1人で倒した事からその高い実力が窺える。また9歳の時に部品をよせ集めてC-3POを作れるほどメカニックに精通しており、宇宙戦闘機、宇宙船等の操縦の腕も超一流である。将軍としても有能であり奇策を用いて集団を壊滅させるなどその手腕はクローン大戦によって大いに発揮され、多数の功績を上げジェダイ・ナイトへの昇進を早めた。
しかし善良で純粋な心を持っていると同時に奴隷という抑圧された境遇にあった為か生存への欲求や上昇志向も並外れており、これが強大な力を渇望する心へと繋がっている。幼少時代から奴隷として過ごしてきたために上から抑えつけられる事を根っから嫌う旺盛な反骨心を持つ故、師匠のオビ=ワンと意見が対立し反目する事も少なくないだけでなく特異な出自故に協調性に難があり集団行動が不得手で独断専行に走る事も多々あった。フォースの資質の高さから将来を期待されつつも激烈な気性から来る感情に振り回された戦い方はオビ=ワンだけでなくジェダイ評議会の上層部からも危険視されていた。
戦略に対する柔軟性や分け隔てない人間性など有り余る才能や優しさを持つ一方でその激しい感情に駆られやすく冷静な判断が取れないために物事を性急に独力で解決しようとしたり傲慢に陥りやすくダース・シディアスの様な奸智に長けた者に騙されやすい要因になっている。そして愛しい者への思い入れも激しい。最大の理解者で最愛の母シミ・スカイウォーカーの危機を察知しつつもタスケン・レイダーの手から救い出せずに亡くしてからは「二度と愛するものを失いたくない」と妻パドメ・アミダラなどに対する執着というジェダイとして致命的な弱点をさらに強めてしまった。
マスターとなるには年齢的に若かったこともあるが、精神的な脆さや権限を悪用させないように(ただでさえパダワン時代から好き勝手にやっていたのでマスターになれば尚更歯止めが効かなくなる恐れがあった)という理由で数多くの功績を上げながらもジェダイ・マスターに昇進できず、ジェダイ・オーダーへの不満と不信感を強めていく。その一方で親身に接してくれた元老院議長パルパティーン(=ダース・シディアス)に傾倒していき、妻パドメの死を予知する夢を見てからさらなる力を求めて最終的にダース・シディアスの誘惑に屈してダークサイドに堕ちてしまう。その際ダース・ベイダーというシスとしての名を与えられ、シスの暗黒卿としてジェダイ狩りにも加わる。火山の惑星ムスタファーに逃げていた分離主義勢力のトップらも全員殺害。そこで追って来たオビ=ワンと対決し、終始優位に戦闘を進めるも精神的な驕りを付かれ死闘の末に敗北した。 「地の利を得た」というオビ=ワンの挑発にのせられてしまい、手足を切断され溶岩流の付近に倒れたために、溶岩の熱により服に発火、全身を焼かれてしまい大火傷を負う。火傷の治療に加え半身を生命維持装置である機械で補うことで一命を取り留めたが、ダース・シディアスが期待していた「自身やヨーダをも超えるほどの可能性を秘めたフォースの潜在能力」は戦傷と火傷により生身の肉体の大半が失われたためにそのすべてを開花させることはできなくなってしまう。しかしそれを差し引いても依然他の騎士の追随を許さぬほどの実力を保持しており、そのため皇帝も新たな弟子を取ることもなく自身の右腕として利用して長きに渡り生き残ったジェダイや帝国への反乱勢力の一掃に辣腕を振るうようになる。
後に息子のルーク・スカイウォーカーと出会い対決する。だがパルパティーンのフォースの暗黒面の誘惑に屈しなかった姿を見てそれに激怒したパルパティーンの電撃に苦しむルークの姿や良心を信じ続けたルークの叫びを聞き、再びジェダイとしての心を思い出してパルパティーンを溶解炉に突き落とす。『エピソード6』の副題「ジェダイの帰還」は歴史の表舞台にジェダイが再び現れたこと(修行で成長したルーク)と、このアナキンの改心のことを意味している。エピソード1~6を通して見ると伝統と規則で硬直化していた上に大勢であったが故にライトサイドの力を薄く伸ばしてしまい弱めていたジェダイ騎士団と、師匠と弟子の二人だけでダークサイドの力を強大にしつつ影で暗躍を続けていたシスの両者を滅ぼした上で銀河に平和をもたらしたことにより「フォースにバランスをもたらす存在」という予言は成就された。
自分を見出したクワイ=ガン・ジンが師匠となる予定であったが、クワイ=ガンがダース・モールに殺害されたためにクワイ=ガンの弟子であったオビ=ワン・ケノービの弟子として修行を開始する。クローン大戦の最中にパダワンを卒業してジェダイ騎士となった後はアソーカ・タノを弟子に取る。オビ=ワンが戦闘で行方不明となった際にはキ=アディ=ムンディの指導を受けていた。
一方ダークサイドに転向後はダース・シディアスに師事している。シスとしての師弟関係ではないがフォースの才能を持つ者を帝国尋問官として鍛え、彼らをジェダイを抹殺できるだけの技量に引き上げている。
アニメ版の『スター・ウォーズ クローン大戦』では『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』から『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』の間に起こった事柄や戦いなどを取り扱っている。
このシリーズ、特にテレビ版の『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』では映画版ではやや突然に見えたアナキンの暗黒面への転向をより細かく描写しており、仲間を救うためとはいえフォースを使って捕虜を拷問し情報を引き出したり、感情に任せて行動したりするなどジェダイの騎士としては問題のある行為を時折行っている事が明かされる。さらに自分が暗黒面に堕ちる未来を見せられたことで、暗黒面に堕ちてしまった描写もある(後に記憶を消去され、光明面に帰還した)。また、自分の妻パドメ・アミダラが昔の恋人に迫られているのを目撃したときは、嫉妬のあまり彼に襲い掛かっており、パドメへの過剰な愛情、執着心を見せていた。戦争の終盤、彼の弟子アソーカ・タノもまたジェダイ評議会への不信感が原因でジェダイ聖堂を去っており、アナキンのジェダイ評議会への不満も増大していた。ジェダイ・マスターへの昇格条件の一つに「過去にパダワンをナイトに昇格させたことがある」があり、アソーカは物語の終幕で、紆余曲折を経て評議会から謝罪と尊敬をもって昇格を打診されたが、それを拒否して去った。しかし、戦争終結直前、マンダロアをダース・モールから解放するためにアソーカはアナキンと第501大隊に接触。アソーカに第501大隊の主要部隊を託し、アナキンはコルサントの戦いに赴いた。
また、映画版ではあまり見られなかった師や将軍としての姿が詳細に描かれており、弟子のアソーカとは兄妹のように喧嘩をしながらも互いを信頼し、ときには迷いながらも師としてアソーカをジェダイの道に導いている。副官であるクローン・トルーパー・キャプテンのレックスとは戦争を通して共にいることが多く友人関係を築いている。アソーカがジェダイ聖堂を去るきっかけとなった事件では、誰もがアソーカを殺人犯として疑う中、アナキンとレックスの二人はアソーカの無実を信じた。また、アナキンとパドメは関係者の中では唯一、レックスにのみ自分たちが夫婦であることを自ら打ち明けており、彼らが夫婦としての時間を過ごすためにジェダイ評議会や軍上層部に根回しをしたりアソーカの監督役を引き受けることもあったほか、「クローンウォーズ ファイナルシーズン」では、アナキンがパドメと通話している間、オビ=ワンの足止めをするシーンが描かれている。ある任務ではレックスが個人的執着を任務に抱いていることを心配しパドメに相談する場面が描かれ、共に戦ってきた3年間を通してアナキンが危険な作戦を決行するときには常にレックスが隣に立ち支えていたことがアナキンとパドメの会話で語られている。そのため、アナキンはレックスのことを真実を打ち明けられる数少ない理解者と感じており、自身も評議会の命令に逆らってでもレックスのことを信じる場面が描かれている。パドメもアナキンを支えるレックスのことを信頼していた。戦争終盤、アソーカに第501大隊を託す際にアナキンはレックスをコマンダーに昇進させ、彼女を守るために同行させている。
自身が指揮をする第501大隊のクローン兵のことを大事にしており、一時的に彼らを戦場に残してコルサントに帰還するように最高議長から命令が下ったときには反発の意を示した。また、第501大隊のクローン兵たちもアナキンのことを信頼しており、自分たちを物のように扱うことが無く共に最前線で戦うアナキンに尊敬の念を抱いていた。また、戦場でジョークを交わしたり、『エピソード1』でのナブーの戦いについて部下のクローンたちに話していたりと、互いに友好的な関係を築いている。
オーダー66発令時にはアソーカとレックスはアナキンと別行動をとっていた。そして、アソーカとレックス、第501大隊の主要メンバーを乗せたクルーザーは船内で起きた戦闘により破壊され墜落。公式の記録上は搭乗員全員が死亡したことになった(実際にはアソーカとレックスは死を装って脱出している)。この事故は、ダース・ヴェイダーがアナキンだった時代に心を許せた数少ない仲間たちをすべて失ったことを意味した。戦争終結から数年後、ダース・ヴェイダーが墜落現場を訪れると、そこには第501大隊のクローン兵たちの埋葬された墓と、そこに供えられたように置かれたアソーカ・タノのライトセーバーがあった。ヴェイダーはこのライトセイバーを回収している。
類い稀なフォースの持ち主だったアナキンはライトセーバーを用いた戦闘ではジェダイ騎士団の中でも最強クラスの実力を身につけた。クローン大戦では遺憾なくその才覚を発揮し、戦争下での実戦はアナキンの戦闘力をますます高めていった。大戦中盤には『エピソード2』では全く敵わなかったドゥークー伯爵に比肩するほどの実力に成長し、『エピソード3』では体術も織り交ぜドゥークー伯爵を見事討ち取るまでの実力を得た。大戦末期の暗黒面に堕ちた直後には本シリーズでも最強と言われるほどの実力者となっていた。
フォースを用いた攻撃では「フォース・チョーク」を得意としており、ライトセーバー戦の最中や犯罪者に対する尋問には頻繁にフォースを利用していた。彼の力はもし五体満足のまま訓練を積み続けたならジェダイやシスを超越するフォース使いの一族「ザ・ワンズ」さえ制御下に納められるほどの存在に成り得たと言われるほどである。
一方で感情に流され過ぎて冷静な判断力を失い、本来の力を発揮できなくなる場面も多く見受けられる。上述のエピソード2におけるドゥークー伯爵との初戦では直前に輸送艦から落下したパドメの救出の是非についてオビ=ワンと口論になり苛立っていたこともあって最初から無謀な突撃を行ってしまった末にドゥークーのフォース・ライトニングをまともに受けて気絶してしまい、師を呆れさせている。その後オビ=ワンが倒れた後のリターンマッチでは冷静さを取り戻し、実力が及ばないながらもそれなりに渡り合っていた。またエピソード3におけるオビ=ワンとの決闘では誤解によって妻や師への怒りと憎悪を滾らせていたことによる影響か、この時点でフォースの強さは当時の銀河では最強であったにもかかわらずオビ=ワンと同時に放ったフォース・プッシュ(斥力)で引き分ける場面があり、冷静さを欠いたことに加えて実力を十分に発揮できていなかったことが窺える。 | [
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'''アナキン・スカイウォーカー'''<ref group="注釈">「エピソード4~6」の《特別篇》の際に録音された吹き替え版では「'''アナーキン'''・スカイウォーカー」と呼ばれている。</ref>('''Anakin Skywalker''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[SF映画]][[スター・ウォーズシリーズ|『スター・ウォーズ』シリーズ]]に登場する架空の人物。「エピソード1~3」の主人公<ref group="注釈">キャスト順では、『エピソード1』においてはクワイ=ガン・ジン役の[[リーアム・ニーソン]]が、『2』『3』においてはオビ=ワン・ケノービ役の[[ユアン・マクレガー]]が筆頭に記されている。</ref>。ニックネームは「'''アニー'''」。身長183cm。
== 人物 ==
=== 概要 ===
[[クワイ=ガン・ジン]]が“選ばれし者(The Chosen one)”([[フォース (スター・ウォーズ)|フォース]]にバランスをもたらす者)として見出し、それに違わぬ非常に強いフォースを持っている。フォースを生み出すミディ・クロリアンも最強の[[ジェダイ#ジェダイ・マスター|ジェダイ・マスター]][[ヨーダ]]を超える値を記録した。
エピソード1~3では生い立ちとジェダイとなった経緯、成長してからの苦悩と葛藤からシスの暗黒卿[[ダース・ベイダー]]へと変貌した経緯が描かれ、エピソード4~6ではそのベイダーとして成立した銀河帝国の支配と恐怖の体現者としての活躍の様子と実の息子[[ルーク・スカイウォーカー]]との邂逅からダークサイドからライトサイドへと返り咲くまでの経緯が描かれた。
『エピソード1』では無自覚にフォースを用いた空間認識能力と動体視力を持ち子供かつヒューマノイド(人間種)ながらポッドレーサーとして比類なき才能を見せ、それをフォースの力と見抜いたクワイ=ガンに[[ジェダイ]]の騎士としてスカウトされて運命が大きく動き出すこととなった。
『エピソード2』では青年に成長したジェダイの騎士として登場。戦闘では経験不足と過信から不用意かつ未熟な面も見られたが『エピソード3』では[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#クローン戦争|クローン大戦]]での実戦経験を通じて成熟した実力者となる。師匠の[[オビ=ワン・ケノービ]]やヨーダでさえ倒しきれなかった[[ドゥークー伯爵]]を1人で倒した事からその高い実力が窺える。また9歳の時に部品をよせ集めて[[C-3PO]]を作れるほどメカニックに精通しており、宇宙戦闘機、宇宙船等の操縦の腕も超一流である。将軍としても有能であり奇策を用いて集団を壊滅させるなどその手腕はクローン大戦によって大いに発揮され、多数の功績を上げ[[ジェダイ#ジェダイ・ナイト|ジェダイ・ナイト]]への昇進を早めた。
しかし善良で純粋な心を持っていると同時に[[奴隷]]という抑圧された境遇にあった為か生存への欲求や上昇志向も並外れており、これが強大な力を渇望する心へと繋がっている。幼少時代から奴隷として過ごしてきたために上から抑えつけられる事を根っから嫌う旺盛な反骨心を持つ故、師匠のオビ=ワンと意見が対立し反目する事も少なくないだけでなく特異な[[出自]]故に協調性に難があり集団行動が不得手で独断専行に走る事も多々あった。フォースの資質の高さから将来を期待されつつも激烈な気性から来る感情に振り回された戦い方はオビ=ワンだけでなくジェダイ評議会の上層部からも危険視されていた。
戦略に対する柔軟性や分け隔てない人間性など有り余る才能や優しさを持つ一方でその激しい感情に駆られやすく冷静な判断が取れないために物事を性急に独力で解決しようとしたり傲慢に陥りやすく[[ダース・シディアス]]の様な奸智に長けた者に騙されやすい要因になっている。そして愛しい者への思い入れも激しい。最大の理解者で最愛の母[[スター・ウォーズ登場人物一覧#シミ・スカイウォーカー|シミ・スカイウォーカー]]の危機を察知しつつも[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#タスケン・レイダー|タスケン・レイダー]]の手から救い出せずに亡くしてからは「二度と愛するものを失いたくない」と妻[[パドメ・アミダラ]]などに対する執着というジェダイとして致命的な弱点をさらに強めてしまった。
マスターとなるには年齢的に若かったこともあるが、精神的な脆さや権限を悪用させないように(ただでさえパダワン時代から好き勝手にやっていたのでマスターになれば尚更歯止めが効かなくなる恐れがあった)という理由で数多くの功績を上げながらもジェダイ・マスターに昇進できず、ジェダイ・オーダーへの不満と不信感を強めていく。その一方で親身に接してくれた元老院議長パルパティーン(=ダース・シディアス)に傾倒していき、妻パドメの死を予知する夢を見てからさらなる力を求めて最終的にダース・シディアスの誘惑に屈してダークサイドに堕ちてしまう。その際'''[[ダース・ベイダー]]'''という[[シス (スター・ウォーズ)|シス]]としての名を与えられ、シスの暗黒卿としてジェダイ狩りにも加わる<ref group="注">名前を与えられた時点で事実上「ダース・ベイダー」となっており、後述の大火傷で瀕死の状態になり生命維持装置で体を包まれる以降のみがダース・ベイダーというわけではない</ref>。火山の惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ムスタファー|ムスタファー]]に逃げていた分離主義勢力のトップらも全員殺害。そこで追って来たオビ=ワンと対決し、終始優位に戦闘を進めるも精神的な驕りを付かれ死闘の末に敗北した。
「地の利を得た」というオビ=ワンの挑発にのせられてしまい、手足を切断され溶岩流の付近に倒れたために、溶岩の熱により服に発火、全身を焼かれてしまい大火傷を負う。火傷の治療に加え半身を生命維持装置である機械で補うことで一命を取り留めたが、ダース・シディアスが期待していた「自身やヨーダをも超えるほどの可能性を秘めたフォースの潜在能力」は戦傷と火傷により生身の肉体の大半が失われたためにそのすべてを開花させることはできなくなってしまう。しかしそれを差し引いても依然他の騎士の追随を許さぬほどの実力を保持しており、そのため皇帝も新たな弟子を取ることもなく自身の右腕として利用して長きに渡り生き残ったジェダイや帝国への反乱勢力の一掃に辣腕を振るうようになる。
後に息子の[[ルーク・スカイウォーカー]]と出会い対決する。だがパルパティーンのフォースの暗黒面の誘惑に屈しなかった姿を見てそれに激怒したパルパティーンの[[スター・ウォーズシリーズ#劇中用語|電撃]]に苦しむルークの姿や良心を信じ続けたルークの叫びを聞き、再びジェダイとしての心を思い出してパルパティーンを溶解炉に突き落とす。『エピソード6』の副題「ジェダイの帰還」は歴史の表舞台にジェダイが再び現れたこと(修行で成長したルーク)と、このアナキンの改心のことを意味している。エピソード1~6を通して見ると伝統と規則で硬直化していた上に大勢であったが故にライトサイドの力を薄く伸ばしてしまい弱めていたジェダイ騎士団と、師匠と弟子の二人だけでダークサイドの力を強大にしつつ影で暗躍を続けていたシスの両者を滅ぼした上で銀河に平和をもたらしたことにより「フォースにバランスをもたらす存在」という予言は成就された。
=== 師弟関係 ===
自分を見出したクワイ=ガン・ジンが師匠となる予定であったが、クワイ=ガンがダース・モールに殺害されたためにクワイ=ガンの弟子であったオビ=ワン・ケノービの弟子として修行を開始する。[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#クローン戦争|クローン大戦]]の最中にパダワンを卒業してジェダイ騎士となった後は[[アソーカ・タノ]]を弟子に取る。オビ=ワンが戦闘で行方不明となった際には[[スター・ウォーズ登場人物一覧#キ=アディ=ムンディ|キ=アディ=ムンディ]]の指導を受けていた。
一方ダークサイドに転向後はダース・シディアスに師事している。シスとしての師弟関係ではないがフォースの才能を持つ者を帝国尋問官として鍛え、彼らをジェダイを抹殺できるだけの技量に引き上げている。
== 略歴・各作品での活躍 ==
=== エピソード1・2・3 ===
; 『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]』
: 母[[スター・ウォーズ登場人物一覧#シミ・スカイウォーカー|シミ・スカイウォーカー]]と共に[[スター・ウォーズ惑星一覧#タトゥイーン|タトゥイーン]]でスクラップ屋の店主[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ワトー|ワトー]]の奴隷として暮らしていた。機械技術に長け、9歳という若さながら危険な[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#ポッドレース|ポッドレース]]の選手で、他の選手が才能溢れるエイリアンである中、唯一の人間であることを誇っていた。母親シミから「危険すぎる」と一度は出場を反対されたポッド・レースも、他の選手の妨害に遭いつつ抜群の反射神経と操縦技術で優勝を勝ち取る。ジェダイマスターのクワイ=ガン・ジンに見出され自由の身となるが、シミの解放は許されなかったため辛い別離を余儀なくされた。
: その後はクワイ=ガンの任務に随って[[スター・ウォーズ惑星一覧#ナブー|ナブー]]に赴き、ナブー・N-1スターファイターに乗って戦闘に参加。、ナブーを侵略していた[[スター・ウォーズ登場組織一覧#通商連合|通商連合]]の司令船を爆破して全てのドロイドを機能停止させ、見事にナブーを勝利に導いた。だが[[ダース・モール]]によってクワイ=ガンは殺されてしまう。
: オビ=ワンの活躍でダース・モールが倒された後はコルサントにてジェダイのテストを受けるが、別離した母親への思いや未練を見抜かれた事や「未来が曇っている」として一度は入門を断られる。しかし先述のナブーでの活躍を聞いたことや、クワイ=ガンの遺志を継ぐ形で弟子の[[オビ=ワン・ケノービ]]の弟子としてジェダイの修行を受ける事を認められ、オビ=ワンの[[ジェダイ#ジェダイ・パダワン|パダワン]]となり訓練を受ける。
; 『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]]』
: 青年に成長したアナキンはジェダイの一員として確実に才能を開花させつつあり、師オビ=ワンの良きパートナーとして銀河を駆けめぐっていた。オビ=ワンはアナキンを頼りにしながらも、若さゆえの無鉄砲と自信過剰に眉をひそめ、決して褒めようとはせず、頭ごなしに押さえつけてしまうことが多かった。アナキンは自らの能力が正当に評価されないことに苛立ち、オビ=ワンを父代わりと敬愛しつつも強い不満を抱いていた。また、上昇志向の強いアナキンは元老院議長のパルパティーンと交際するようになっていた。政治家に対する警戒心の強いオビ=ワンはこれにも難色を示す。この頃、元老院議会は[[衆愚政治]]に陥っておりジェダイ評議会は警戒感を強めていた。議員であるパドメさえも例外ではない。だが、パルパティーンを聡明で理知的な指導者として尊敬するアナキンは素直に聞き入れなかった。
: 共和国の首都星[[スター・ウォーズ惑星一覧#コルサント|コルサント]]で、アナキンは幼少期から憧れていたナブーの元女王[[パドメ・アミダラ]]議員と再会を果たす。暗殺の危機に晒されていたパドメを保護するため、[[ジェダイ#ジェダイ評議会|ジェダイ評議会]]はアナキンに護衛の任務を命じる。アナキンは初めての単独任務に不安を感じながらも、恋焦がれていたパドメの側にいられる喜びを感じずにはいられなかった。パドメの故郷ナブーで二人は恋に落ちてゆくが、これは恋愛感情が執着を生み、不安、恐れ、嫉妬、憎悪といったダークサイドへ繋がるとされるジェダイの掟に反するものだった。そのため、二人の恋は破滅を意味しているとして、アナキンの求愛も一度はパドメから拒まれる。
: ナブー滞在中、アナキンは故郷タトゥーインにいる母シミが苦しめられる悪夢にうなされるようになる。このアナキンの強力なフォースに裏打ちされた予知能力もまた、アナキンの運命を変転させる元となる。自分が予見した未来に平静で居られないアナキンがとった行動は<ref group="注釈">後のパドメの時と同様に</ref>ことごとく裏目に出て、アナキンを更に暗黒面へ引き寄せる結果となる。任務のためナブーを離れられないアナキンは思い悩むが、そんなアナキンを見かねたパドメは共にタトゥイーンに赴くことを提案する。かつて自らを使役していたワトーと再会したアナキンは、シミがモイスチャーファーム(水資源農場)を経営する[[スター・ウォーズ登場人物一覧#クリーグ・ラーズ|クリーグ・ラーズ]]に買い取られ、奴隷から解放されて彼と再婚したと聞かされる<ref group="注釈">
シミはアナキンを未婚のまま生んでいるため、これが初婚となる。</ref>。クリーグの元を訪れたアナキンは、シミが1か月前に[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#タスケン・レイダー|タスケン・レイダー]]に連れ去られ、仲間を募り30人ほどで救出に向かったが返り討ちに遭い、4人しか戻れず、クリーグ自身片足を失い、救出の試みも失敗したことを知らされる。アナキンは母を救出すべく単身タスケンの根城に潜入し、過酷な拷問に傷ついた無惨な姿のシミと再会する。シミは成長を遂げた息子との再会を心から喜ぶが、直後に息を引き取る。母の死に激高したアナキンは女子供を問わずにタスケンを虐殺してしまう。この時に感じた激しい怒りの感情や、アナキンの自立を認めようとしないオビ=ワンへの不満、そして大切な人を死から救いたいという強い力への渇望が、後に起きる悲劇へと繋がっていく。その直後、アナキンはオビ=ワンが窮地に陥ったことを知る。ジェダイ評議会はすぐさまオビ=ワン救出を決定するが、アナキンには護衛任務を続けるよう命じる。アナキンはパドメの同意もあって再び命令違反を犯し、オビ=ワン救出に向かう。
: 分離主義者達の潜伏する惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ジオノーシス|ジオノーシス]]に赴いたアナキンとパドメは、共に[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ドロイド|ドロイド]]工場に潜入するが、原住民[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#種族|ジオノーシアン]]達に気付かれ囚われてしまう。三人の処刑が決定され、刑場に引き出される間際にパドメはアナキンに愛を告白する。アナキン、オビ=ワン、パドメの三人は処刑の隙をつき、それぞれ持ち前の能力を発揮して奮闘。そこへ[[メイス・ウィンドゥ]]率いるジェダイ騎士団が到着し、通商連合のドロイド軍団と壮絶な戦いを繰り広げる。アナキンも死力を尽くして戦うが、数に勝るドロイドに圧倒されたジェダイ騎士団は絶体絶命の窮地に陥る。そこへ[[クローン・トルーパー|クローン]]部隊を引き連れたヨーダが到着。高い戦闘力を発揮するクローン部隊の助力を得たジェダイは劣勢を挽回し、逆にドロイド軍団を殲滅していく。アナキンとオビ=ワンはこの戦いの先頭に立ち、分離主義者達の黒幕である[[ドゥークー伯爵]]を追跡する。宇宙港でドゥークーに追いついた二人だったが、アナキンはオビ=ワンの諫めもきかずに単身ドゥークーに挑みかかり軽くあしらわれる。オビ=ワンもまた[[シス (スター・ウォーズ)|シスの暗黒卿]]ダース・ティラナスとしての実力を発揮したドゥークーにより倒れ、オビ=ワンのと自らのを使う[[ライトセーバー]]の二刀流で再度挑みかかったアナキンもドゥークーに「何も学んでいない」と言われたことで両方のライトセーバーと右腕を切り落とされオビ=ワンの側に倒れてしまう。二人の危機を救ったのはヨーダだった。ヨーダは巧みな体捌きと強大なフォースとライトセーバーを駆使してドゥークーと互角以上の戦いを繰り広げるが、傷つき倒れている二人を人質にされるような形でドゥークーの逃亡を許してしまう。ジオノーシスでのこの戦いの後、アナキンはジェダイの掟を破りパドメと密かに結婚した。
: [[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#クローン戦争|クローン大戦]]が始まるとオビ=ワンと共に各地で共和国軍を勝利に導き、ジェダイ評議会に功績を認められて弟子から騎士へと昇格する。戦時だったため優秀な騎士を必要としていたのも昇格の一因である<ref group="注釈">アニメ『[[スター・ウォーズ クローン大戦]]』では、オビ=ワン、[[スター・ウォーズ登場人物一覧#キット・フィストー|キット・フィストー]]、[[スター・ウォーズ登場人物一覧#キ=アディ=ムンディ|キ=アディ=ムンディ]]らが積極派、メイス・ウィンドウや[[シャク・ティ]]らが懐疑派と意見が分かれたが、ヨーダの鶴の一声で昇格を認められた。</ref><ref group="注釈">スピンオフ「ジェダイの試練」では、友人ネジャー・ハルシオンの後押しを受け、彼の補佐としてジェダイ・トライアルを兼ねた惑星解放作戦を成功させ、ナイトとしての実力を認められた。</ref>。その後も単独でオビ=ワンと共に分離主義者の侵攻に苦しむ多くの惑星を解放し続け、アナキンは何時しか人々から「恐れを知らない英雄」と呼ばれるようになった。
; 『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]]』
: [[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#コルサントの戦い|コルサントの戦い]]において誘拐されたパルパティーン議長救出の為にオビ=ワンと共に独立星系連合の[[旗艦]]に突入。そこで因縁のドゥークー伯爵と再戦する事になる。クローン大戦の修羅場を幾度も潜り抜けてきたアナキンの成長は著しく、ドゥークーを圧倒して両腕を切り落とし追い詰める。そして人質となっていたパルパティーンの強い命令に逡巡しながらも無抵抗のドゥークーを殺害し、タスケンの時と同じく無抵抗の者を殺すというジェダイとしての一線をまたも踏み越えてしまう。議長を無事救出し、強敵ドゥークー伯爵を倒したことでアナキンの功績はオビ=ワンからも称えられる。帰還を喜ぶ妻パドメの口から妊娠を告げられ、アナキンは幸福の絶頂にあった。しかし、そのパドメが出産によって死ぬという悪夢を見てしまい、パドメを死から救うための強大な力が欲しいという思いを募らせる。
: 悪夢のことをヨーダに相談したものの「執着を捨て、強い心を持て」との言葉をかけられるのみで、心の揺れを払拭できないアナキンに、パルパティーンはさらにその魔手を伸ばしていく。パルパティーンはアナキンに自分の私的なエージェントとして働いてくれと依頼し、[[ジェダイ#ジェダイ評議会|ジェダイ評議会]]のメンバーになるよう推挙する。任期を過ぎてもクローン大戦の早期終結を理由に権力の座に居座り、権限の強化を推し進めるパルパティーンに疑いの目を向け始めていたメイス・ウィンドゥらジェダイ評議会は、逆にアナキンにパルパティーンの動向を監視するスパイの働きをさせるため、評議会への参入を認めたが、マスターへの昇格は認めなかった。アナキンは通例に反するこの仕打ちに屈辱を募らせながらも渋々受け入れる<ref group ="注釈">『エピソード3』の小説版では、アナキンはパドメを死の予知から救うため、ジェダイ・マスターにしか閲覧が許されないアーカイブの資料からフォースの知識を得ようと考えていたが、これによりその望みは叶わなくなった。</ref>。その後オビ=ワンから、自分にパルパティーンへの逆スパイの役目が課せられている事を知らされる。議事に残らぬ形での内密な任務にオビ=ワンでさえためらいを隠せなかったが、アナキンも自ら評議会入りを望んだ訳ではないだけに、不公平な扱いをしながら、「清廉潔白で共和国の為に尽くしている」(とアナキンが盲信している)パルパティーンへの信義に背く任務を担わせる評議会に強い不信感を抱く。
: 再度パルパティーンと会ったアナキンは、パルパティーンがアナキンの立場を見透かしているのを知り、また、シスの伝説と命の摂理すら覆す暗黒面の力の魅力を吹き込まれる。その後、[[グリーヴァス将軍]]討伐へと向かうオビ=ワンを見送る際、オビ=ワンに忍耐も覚えろと諭され、それさえできれば「評議会」が彼をマスターに推挙するのもそう遠くはないと励まされる。そしてフォースと共にあるようにと互いに言葉を掛け合ったのが、友人同士、そして、本物の親子のような絆関係で結ばれていた師弟としての最後の会話となってしまった。
: 猜疑心の塊となりつつあるアナキンはオビ=ワンが暇乞いのためにパドメの元を訪れたことにさえ不快感を示した。オビ=ワンの戦況報告のため訪問したアナキンに、パルパティーンは自らの正体が暗黒卿[[ダース・シディアス]]であることを明かす。そしてジェダイ評議会がアナキンの力を恐れてシスの秘密を隠している事や、ジェダイと一部の議員が私利私欲の為に銀河元老院を牛耳ろうとしている事<ref group="注釈">事実、ウィンドゥやヨーダ達はシスから共和国を守るため止む無くであったとはいえ、戦後に共和国の腐敗が正されるまで、一時的に元老院を統治下に置こうとしていた。これもシディアスがこのような状況に仕向けたためである</ref>、シスとジェダイは解釈を変えれば同じ様な存在である事など詭弁を弄し、さらに愛するパドメが死の運命にあり自分はそれを救う力を授けてやれるとアナキンを誘惑する。パルパティーンの正体を知ったアナキンはライトセーバーの光刃を向けながらも動揺を隠せず、手を下すことなくその場を後にする。アナキンは迷いつつもパルパティーンの正体をウィンドゥに報告した。
: ウィンドゥ達は即座にパルパティーンの逮捕を決定。アナキンも同行を申し出るが、心中の動揺を見抜いたウィンドゥは会議室での待機を命じる。パルパティーンがシスであると知りながらその未知なる力の持つ誘惑に迷うアナキンは命令に反して現場に急行する。そこでアナキンが眼にしたのはウィンドゥが丸腰で必死に命乞いするパルパティーンを追い詰めている様子だった<ref group="注釈">もちろんこの降参するような姿も大嘘で、ダークサイドにアナキンを引きずり込む為のパルパティーンの演技だった</ref>。ウィンドゥがパルパティーンを「逮捕」でなく「殺害」しようとしている事にアナキンが抱いていたジェダイへの不信感は頂点に達する。止めを刺そうとするウィンドゥを制止しようとするあまり思わずライトセーバーを一閃させ、ウィンドゥの腕を切り落としてしまう。直後にウィンドゥは本性を表したダース・シディアスの電撃攻撃で街の彼方へと吹き飛ばされ、消息不明となっていった。ジェダイを手にかけてしまったアナキンはダース・シディアスに師弟の誓いを立てる事によって暗黒面に墜ち、シスの暗黒卿「'''[[ダース・ベイダー]]'''」となる。
: ウィンドゥの排除を好機とみたダース・シディアスは「[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#ジェダイ内乱|ジェダイの反乱]]」をでっちあげる。密かにジェダイ殲滅指令「[[スター・ウォーズ世界の用語一覧#その他|オーダー66]]」を発動してオビ=ワンを含めたジェダイの抹殺と自分に背いていた元老院の議員たちの弾圧を行う。アナキンは[[クローン・トルーパー#アポー|アポー]]指揮下の精鋭部隊・[[クローン・トルーパー#部隊|第501大隊]]を率いジェダイ聖堂を急襲。不意をつかれたジェダイ騎士達はアナキンに次々と倒されてゆき、幼いパダワン達も殺された。引き続きシディアス自身の命令で[[スター・ウォーズ惑星一覧#ムスタファー|ムスタファー]]に潜伏していた[[スター・ウォーズ登場組織一覧#独立星系連合|分離主義勢力]]の幹部達を用済みとして抹殺するため、シディアスはアナキンにムスタファー行きを命ずる。アナキンはジェダイが共和国に反乱を起こしたこと、また戦争終結の為にムスタファーに向かうことをパドメに告げる。
:「ジェダイの反乱」を口実にパルパティーンは元老院の同意を得て皇帝への即位と戦争終結を宣言、満場の拍手のもとに共和国は消滅する。事態の成り行きに心を痛めるパドメは「ジェダイ狩り」を逃れヨーダと共にコルサントに戻っていたオビ=ワンの口からアナキンが暗黒面に堕ちてジェダイを裏切り、パダワンの子供達をも虐殺した事を伝えられる。動揺するパドメはアナキンに真相を確かめるべく身重の体でムスタファーへと赴き、オビ=ワンはその宇宙船に密かに乗り込む。同じ頃、ムスタファーに到着したアナキンは[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ヌート・ガンレイ|ヌート・ガンレイ]]ら分離主義者の幹部達を皆殺しにしていた。
: その後、ムスタファーに到着したパドメがアナキンに真意を問いただす。アナキンはパドメに暗黒面に堕ちた経緯を告げ、皇帝を倒して二人で銀河を支配しようと持ちかけるが自分が原因で暗黒面に堕ちた事とアナキンのあまりの変貌ぶりにパドメは大きな衝撃を受ける。この時パドメの船から降りてくるオビ=ワンを見かけたアナキンはパドメが自身をオビ=ワンに殺させるために彼を連れて来たと誤解し、彼女を怒りの[[フォース (スター・ウォーズ)|フォース・チョーク]]で締め上げ昏倒させる<ref group="注釈">あくまで気絶させただけであり、この時パドメはまだ生きていたが、ダークサイドに転向したアナキンに絶望し、双子のルークとレイア出産の後に息絶える。</ref>。
: 師であり親代わりでもあったオビ=ワンをできることなら手にかけたくないアナキンは暗黒面への同行を求めるも決裂し、ついにかつての師弟の間で壮絶なる死闘が始まる。自分の才能への嫉妬から自らの名声を貶め続け、密かにパドメと通じていたと誤解するアナキンと、ジェダイを裏切って罪なき者達に手をかけ、果てはパドメまでも傷つけたアナキンに対して怒りと哀しみを内に秘めたオビ=ワンの決闘はいつ果てるとも知れず続いた。青と青のライトセーバーによる斬撃の応酬が暗い空の下、溶岩が流れ出る地表で繰り広げられた。ダークサイドの力を操り、戦いを圧倒的有利に進めていたアナキンだったがこれまでの行いによる罪悪感とパドメに拒絶されたショックで精神が不安定だったことと自分の戦い方を知り尽くしている師匠が相手だったことから決定打を与えられなかった。地の利をとったオビ=ワンに対し、自信と焦りをもって跳躍した隙に左腕と両足を斬り落とされ敗北し、溶岩流の手前で地面に伏す。
: アナキンに勝利したオビ=ワンは「選ばれし者だった!(You were the chosen one!)」と悲嘆し、アナキンは悪鬼の如き形相で「貴様が憎い!(I hate you!)」と大声で呪詛の言葉を吐きかける。オビ=ワンが返した最後の言葉は「愛していた(I loved you.)」だった。血の涙を流しながら動けないアナキンを、やがて灼熱の溶岩により発生した炎が容赦なく包む。焼かれて悶え苦しむアナキンに情を捨ててとどめを刺す事ができず、正視に耐えないオビ=ワンはアナキンが敗北して手放したライトセーバーを拾い悲憤の想いのままその場を去る。
: フォースによってアナキンの危機を察知したパルパティーンが駆けつけた時、アナキンは全身を焼き尽くされながらも恐るべき生命力で生き延びていたが、もはや自然に息を吸うことすらままならない状態であった。返す刀でコルサントへ運ばれると最新鋭の医療[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧#ドロイド|ドロイド]]によって機械の腕と脚、呼吸用マスクと人工肺([[生命維持装置]])を装着され、辛うじて一命を取り留めた。身体のほとんどをサイボーグ化して蘇ったアナキンは正気に戻り、真っ先にパドメの生存を確かめるが皇帝の口から「ベイダー卿自らの怒りが彼女を殺した」と伝えられる。パドメの死を告げられたアナキンはここでようやく自分が取り返しのつかないことをしてきたことに気づきながら悲嘆に暮れ、フォースで部屋と周囲にあった医療用ドロイドをほとんど破壊した。かつてはパルパティーンもアナキンが自身やヨーダを上回る強さになると確信していたが、これがアナキンの力の限界であった。こうしてパドメを自らの手で殺めたことに絶望し、サイボーグのシスであるダース・べイダーとして生きるしか道は無くなった彼は悔恨の雄叫びを上げるしかなかった。
: 銀河帝国成立と同時に皇帝の右腕となったアナキンはアウター・リムの名も無い宙域で密かに建造が進んでいる最終兵器を戦艦の艦橋から共に眺めていた。
=== エピソード4・5・6 ===
{{main|ダース・ベイダー}}
=== アニメシリーズ ===
アニメ版の『[[スター・ウォーズ クローン大戦]]』では『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]]』から『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]]』の間に起こった事柄や戦いなどを取り扱っている。
このシリーズ、特にテレビ版の『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』では映画版ではやや突然に見えたアナキンの暗黒面への転向をより細かく描写しており、仲間を救うためとはいえフォースを使って捕虜を拷問し情報を引き出したり、感情に任せて行動したりするなどジェダイの騎士としては問題のある行為を時折行っている事が明かされる。さらに自分が暗黒面に堕ちる未来を見せられたことで、暗黒面に堕ちてしまった描写もある(後に記憶を消去され、光明面に帰還した)。また、自分の妻[[パドメ・アミダラ]]が昔の恋人に迫られているのを目撃したときは、嫉妬のあまり彼に襲い掛かっており、パドメへの過剰な愛情、執着心を見せていた。戦争の終盤、彼の弟子[[アソーカ・タノ]]もまたジェダイ評議会への不信感が原因でジェダイ聖堂を去っており、アナキンのジェダイ評議会への不満も増大していた。ジェダイ・マスターへの昇格条件の一つに「過去にパダワンをナイトに昇格させたことがある」があり、アソーカは物語の終幕で、紆余曲折を経て評議会から謝罪と尊敬をもって昇格を打診されたが、それを拒否して去った。しかし、戦争終結直前、マンダロアをダース・モールから解放するためにアソーカはアナキンと[[クローン・トルーパー#部隊|第501大隊]]に接触。アソーカに第501大隊の主要部隊を託し、アナキンはコルサントの戦いに赴いた。
また、映画版ではあまり見られなかった師や将軍としての姿が詳細に描かれており、弟子のアソーカとは兄妹のように喧嘩をしながらも互いを信頼し、ときには迷いながらも師としてアソーカをジェダイの道に導いている。副官である[[クローン・トルーパー]]・キャプテンの[[クローン・トルーパー#レックス|レックス]]とは戦争を通して共にいることが多く友人関係を築いている。アソーカがジェダイ聖堂を去るきっかけとなった事件では、誰もがアソーカを殺人犯として疑う中、アナキンとレックスの二人はアソーカの無実を信じた。また、アナキンとパドメは関係者の中では唯一、レックスにのみ自分たちが夫婦であることを自ら打ち明けており、彼らが夫婦としての時間を過ごすためにジェダイ評議会や軍上層部に根回しをしたりアソーカの監督役を引き受けることもあったほか、「クローンウォーズ ファイナルシーズン」では、アナキンがパドメと通話している間、オビ=ワンの足止めをするシーンが描かれている。ある任務ではレックスが個人的執着を任務に抱いていることを心配しパドメに相談する場面が描かれ、共に戦ってきた3年間を通してアナキンが危険な作戦を決行するときには常にレックスが隣に立ち支えていたことがアナキンとパドメの会話で語られている。そのため、アナキンはレックスのことを真実を打ち明けられる数少ない理解者と感じており、自身も評議会の命令に逆らってでもレックスのことを信じる場面が描かれている。パドメもアナキンを支えるレックスのことを信頼していた。戦争終盤、アソーカに第501大隊を託す際にアナキンはレックスをコマンダーに昇進させ、彼女を守るために同行させている。
自身が指揮をする第501大隊のクローン兵のことを大事にしており、一時的に彼らを戦場に残して[[スター・ウォーズ惑星一覧#コルサント|コルサント]]に帰還するように最高議長から命令が下ったときには反発の意を示した。また、[[クローン・トルーパー#部隊|第501大隊]]のクローン兵たちもアナキンのことを信頼しており、自分たちを物のように扱うことが無く共に最前線で戦うアナキンに尊敬の念を抱いていた。また、戦場でジョークを交わしたり、『エピソード1』での[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#ナブーの戦い|ナブーの戦い]]について部下のクローンたちに話していたりと、互いに友好的な関係を築いている。
オーダー66発令時にはアソーカとレックスはアナキンと別行動をとっていた。そして、アソーカとレックス、第501大隊の主要メンバーを乗せたクルーザーは船内で起きた戦闘により破壊され墜落。公式の記録上は搭乗員全員が死亡したことになった(実際にはアソーカとレックスは死を装って脱出している)。この事故は、ダース・ヴェイダーがアナキンだった時代に心を許せた数少ない仲間たちをすべて失ったことを意味した。戦争終結から数年後、ダース・ヴェイダーが墜落現場を訪れると、そこには第501大隊のクローン兵たちの埋葬された墓と、そこに供えられたように置かれたアソーカ・タノのライトセーバーがあった。ヴェイダーはこのライトセイバーを回収している。
== 能力 ==
=== 戦闘能力 ===
類い稀な[[フォース (スター・ウォーズ)|フォース]]の持ち主だったアナキンは[[ライトセーバー]]を用いた戦闘ではジェダイ騎士団の中でも最強クラスの実力を身につけた。クローン大戦では遺憾なくその才覚を発揮し、戦争下での実戦はアナキンの戦闘力をますます高めていった。大戦中盤には『エピソード2』では全く敵わなかった[[ドゥークー伯爵]]に比肩するほどの実力に成長し<ref>『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』テレビシリーズ、シーズン4、第18話「狙われた祭典」。</ref>、『エピソード3』では体術も織り交ぜドゥークー伯爵を見事討ち取るまでの実力を得た。大戦末期の暗黒面に堕ちた直後には本シリーズでも最強と言われるほどの実力者となっていた。
フォースを用いた攻撃では「フォース・チョーク」を得意としており、ライトセーバー戦の最中や犯罪者に対する尋問には頻繁にフォースを利用していた。彼の力はもし五体満足のまま訓練を積み続けたなら[[ジェダイ]]や[[シス (スター・ウォーズ)|シス]]を超越するフォース使いの一族「ザ・ワンズ」さえ制御下に納められるほどの存在に成り得たと言われるほどである<ref> 『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』テレビシリーズ、シーズン3、第16話「光と闇」。</ref>。
一方で感情に流され過ぎて冷静な判断力を失い、本来の力を発揮できなくなる場面も多く見受けられる。上述のエピソード2におけるドゥークー伯爵との初戦では直前に輸送艦から落下したパドメの救出の是非についてオビ=ワンと口論になり苛立っていたこともあって最初から無謀な突撃を行ってしまった末にドゥークーのフォース・ライトニングをまともに受けて気絶してしまい、師を呆れさせている。その後オビ=ワンが倒れた後のリターンマッチでは冷静さを取り戻し、実力が及ばないながらもそれなりに渡り合っていた。またエピソード3におけるオビ=ワンとの決闘では誤解によって妻や師への怒りと憎悪を滾らせていたことによる影響か、この時点でフォースの強さは当時の銀河では最強であったにもかかわらずオビ=ワンと同時に放ったフォース・プッシュ(斥力)で引き分ける場面があり、冷静さを欠いたことに加えて実力を十分に発揮できていなかったことが窺える。
== 配役 ==
*; [[セバスチャン・ショウ]]
: 『エピソード6』
*; [[ジェイク・ロイド]]
: 『エピソード1』、『[[スター・ウォーズ ギャラクティック・バトルグラウンド|ギャラクティック・バトルグラウンド]]』
*; [[ヘイデン・クリステンセン]]
: 『エピソード2~3』、『エピソード6』(2004年版以降)、『エピソード9』(声の出演)、『[[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ)|オビ=ワン・ケノービ]]』<br>※[[ジョナサン・ブランディス]]も同役のオーディションを受けていたが、当時すでに20代半ばだったジョナサンは見送られた<ref>[https://www.moviejawn.com/home/2019/6/13/the-sudden-death-and-surprising-resurgence-of-jonathan-brandis The Sudden Death and Surprising Resurgence of Jonathan Brandis]R5.7.9閲覧</ref>。
*; [[マット・レビン]]
: 『ギャラクティック・バトルグラウンド』
*; [[w:en:Mat Lucas|マット・ルーカス]]
: 『[[スター・ウォーズ クローン大戦|クローン大戦]]』
*; [[マット・ランター]]
: 『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ|クローン・ウォーズ]]』、『[[スター・ウォーズ 反乱者たち|反乱者たち]]』
=== 日本語吹き替え ===
*; [[鈴木瑞穂]]
: 『エピソード6』(日本テレビ版)
*; [[大平透]]
: 『エピソード6』(ソフト版)
*; [[矢島晶子]]
: 『エピソード1』、『ギャラクティック・バトルグラウンド』、『クローン大戦』、『[[スター・ウォーズシリーズ#パチンコ|ダースベイダー降臨]]』
::『エピソード1』の日本語吹き替え版に際してアメリカ側からアナキン役をロイドと同年齢の子役を配役するよう要求が出されていたが、音響監督の[[佐藤敏夫 (音響監督)|佐藤敏夫]]は児童劇団を訪ねまわったものの芝居ができる子役はおらず、アメリカ側との交渉を経て、矢島をキャスティングすることに成功したと述べている<ref name = "宇宙船112">{{Cite journal |和書|date=2004-05-01 |author = 高貴準三|title=Lode of STAR WARS |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.112 |issue=(2004年5月号) |page=60 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>(佐藤は『クローン大戦』での[[スター・ウォーズ登場人物一覧#アサージ・ヴェントレス|アサージ・ヴェントレス]]役でも同様の苦労があったとしている<ref name = "宇宙船112" />)。
*; [[浪川大輔]]
: 『エピソード2~3』、『クローン大戦』、『クローン・ウォーズ』、『ダースベイダー降臨』、『[[ロボット・チキン]]』、『反乱者たち』、『エピソード9』、『ホリデー・スペシャル』、『オビ=ワン・ケノービ』、『サマー・バケーション』
*; [[櫻井孝宏]]
: 『ギャラクティック・バトルグラウンド』、『クローン戦争』([[:en:Star Wars: The Clone Wars (2002 video game)|en]])
*; [[ゆかな]]
: 『ロボット・チキン』
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ダース・ベイダー]]
* [[ヘイデン・クリステンセン]]
* [[ケン・アナキン]] - イギリスの映画監督。[[ジョージ・ルーカス]]の友人でもあり、アナキンは彼の名前が元になっている。<!---ケン・アナキンのページ内の記述及び没後に読売新聞に掲載された故人についての経歴が書かれた記事より--->
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[[Category:架空のパイロット]]
[[Category:ジェダイ騎士団]]
[[Category:架空の将軍]]
[[Category:架空の切断障害を持つ人物]] | 2003-03-27T10:02:27Z | 2023-12-13T06:58:25Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC |
5,310 | ハリー・ポッター (架空の人物) | ハリー・ジェームズ・ポッター(英: Harry James Potter)は、J・K・ローリングの小説『ハリー・ポッター』シリーズおよび、その派生作品に登場する架空の人物であり、同シリーズの主人公。
ホグワーツ魔法魔術学校グリフィンドール寮の男子生徒となる。孤児として母親の親類の伯母夫婦の家で不遇な暮らしをして育った。11歳を迎える年のある日突然、ホグワーツから入学許可証が届いたのをきっかけに、亡くなった両親が魔法使いであったこと、そして出生時に下された予言により、闇の魔法使いヴォルデモートを倒す宿命を自分が負っていると告げられる。マグル界では一介の少年に過ぎない生活を送っていたが、魔法界では本人が戸惑うほど重要な人物として、あまねく人々から知られている。
一人前の魔法使いになるべく、同級生のロン・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーらとともに、ホグワーツにて学生生活を送りつつ、宿敵のヴォルデモートなどの闇の魔法使いたちによる数々の陰謀に立ち向かう冒険の日々を通して、たくましく成長していく姿が物語で描かれている。
魔法界では「生き残った男の子 (The boy who lived) 」と呼ばれる。
髪の毛は黒い癖毛で、瞳は明るい緑色。小顔で細面で、近視のため丸眼鏡を着用。同年代に比べ小柄で痩せているが、第6巻『謎のプリンス』では前巻と比べて身長がかなり伸びたとされている。額にはヴォルデモートの強力な呪いによってつけられた稲妻の形をした傷があり、初対面の人には必ずと言っていいほどよく見られる。また両親を知る人物からは、外見は父の生き写しだが、アーモンド状の緑の目だけは母の目だと言われる。
1980年7月31日、ゴドリックの谷に住む魔法族のポッター家に、長男として生まれる。
1981年10月31日、ポッター家をヴォルデモートが襲撃する。これはハリーが生まれる少しまえ、シビル・トレローニーがアルバス・ダンブルドアに対して「ヴォルデモートを打ち破る者」の誕生を予言し、その予言の一部を盗み聞きしたセブルス・スネイプを通して自身を倒す可能性を秘めた者の存在を知ったヴォルデモートが不安因子を排除しようとしたすえの行動であった。
家を襲撃してきたヴォルデモートに対し、父ジェームズは家族を守るべく戦おうとするが死亡。その後、母リリーも息子を護ろうとして亡くなるが、この時、母の愛情にもとづいた自己犠牲が呪いに対する防御魔法として作用し、ハリーを襲ったヴォルデモートの「死の呪い」を跳ね返した。その結果、当時1歳だったハリーは額の傷ひとつだけで生き残り、逆に弱体化したヴォルデモートは失踪した。
魔法界はヴォルデモートの失踪を喜び、ハリーを「生き残った男の子」 として英雄視するようになる。一方で当のハリーは、母の血縁と同居すれば母の血の守りが継続するというダンブルドアの計らいで、伯母ペチュニア・ダーズリーの家に預けられ、以降、17歳(魔法界の成人年齢)になるまで伯母一家と同居することになる(住所はサレー州リトル・ウィンジング、プリベット通り四番地)。しかし、ダーズリー家は魔法に対して、かたくななまでに否定的な態度を取っており、ハリーは両親や自分が魔法使いであることを知らされないまま、伯母一家の冷遇と虐待を受けながら育った。
1991年7月31日(ハリーの11歳の誕生日)、ホグワーツ魔法魔術学校への入学案内書を手にやってきたルビウス・ハグリッドから自身が魔法使いであることを知らされる。そして9月1日、ホグワーツ魔法魔術学校に入学する。
その後は魔法大臣キングズリー・シャックルボルトの依頼により、魔法省の闇祓いとなる。2007年には、魔法省の闇祓い局の局長に史上最年少で就任し、たびたびホグワーツに出張し闇の魔術に対する防衛術の講義を行う。また、傷は最後まで消えることはないが、ヴォルデモートを倒してから19年間痛むことは一度もなかったという。
正義感が強く、優しさを持つ謙虚な少年である。他者からの評価として、セブルス・スネイプは「父親に似て傲慢(但し、これは彼の父親との確執の過去ゆえに、顔が瓜ふたつのハリーにジェームズの面影が否応なしに重なることからくる偏見によるところが大きい)」、リーマス・ルーピンは「父親に似て友達思い」と評する一方、シリウス・ブラックは「仲間思いは同じだが、基本的には父親似ではない」、アルバス・ダンブルドアは「母親の方に似ている」と評する。
実際に物語において、母リリーに似て正義感が強く謙虚で優しい少年であり、父ジェームズのように自身の才能を誇示するといった傲慢さは見せない。一方で、ハリーは幼少時に魔法界から隔絶され、叔母一家から長期間冷遇されながら育ったため、自分に自信がなくシャイで卑屈な面がある。また、悩みや不安を度々一人で抱え込み、自分だけで解決しようとする。陰湿な環境で育ったことを含め、スネイプとの共通性が多くある(詳細は後述)。
優しさや仲間思いの性格が裏目に出ることも多々あり、ヴォルデモートは「周りで他の奴がやられるのを見ておれぬ奴」と評してその性格を大きな欠陥としており、ロンやハーマイオニーにも同様の点を指摘される。第5巻『不死鳥の騎士団』ではこの友人への侠気を利用されたことが原因で、シリウスを神秘部へ来させる事態にもなる。
一方で頑固な面もあり、無鉄砲な行動を取ることもある。それゆえにやや規則を無視する傾向もあり(スネイプやルーピン曰く父親譲り)、基本的には真面目だが、ホグワーツ在学中は多くの罰則を経験している。激しい怒りを覚えると容赦なく許されざる呪文を使うこともあるが、死の呪文だけは絶対に使うことはない。14 - 15歳(第4 - 5巻)では思春期に加え、ヴォルデモートとの精神的な繋がりから情緒不安定となる。また、皆が闇の魔法使いを恐れて名指しせず「例のあの人」と指す中で、ハリーは恐れずヴォルデモートと呼称する。このハリーの大胆な習慣は、現実の危険を招くものであった。第7巻『死の秘宝』の探索の旅では、死喰い人に居場所を探知される名指しは禁忌であるとロンに注意されていたにもかかわらず、感情が高ぶって口に出し、一行が死喰い人に拉致されるきっかけとなる。
既述のようにグリフィンドールに所属することになり、両親もグリフィンドール出身であるが、ハリー自身はサラザール・スリザリンがスリザリン生に望んだ能力(臨機の才、巧妙さ、決断力、やや規則を無視する傾向、蛇語能力)も備えている。ハリーの持つ蛇語能力は「パーセルマウス」と呼ばれ、これはヴォルデモートがハリーを殺そうとした際、彼の魂の一部が分割を起こしてハリーの魂にしがみ付いたがためにもたらされた能力であり、ハリーの魂からヴォルデモートの魂が消失すると、それに伴いパーセルマウスではなくなった。作者のローリングによると、ハリー自身はこれを喜んでいるという。
さらにハリーの先祖は、何世紀にも前に姓名が絶えた純血の家系であるペベレル家の三男のイグノタス・ペベレルであり、スリザリン出身のヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男のカドマス・ペベレルである。つまりハリーとヴォルデモートのその先祖たちは兄弟同士であるので、この事からもハリーがスリザリンに関連していることがわかる。
組分け帽子にも「スリザリンに入れば君は大成する」と言われ、スリザリンに組分けされそうになるが、ロンからスリザリン出身者は闇の魔法使いが多いことを聞き、嫌悪するドラコ・マルフォイがスリザリンに入ったため、組分け帽子にスリザリンへの入寮拒否を希望し、グリフィンドール生となる。
学問はあまり好まないため教科によってむらがあるが、ほとんどで成績は平均よりも良好。また、低学年のころから実戦経験が多く、「闇の魔術に対する防衛術」に関してはひときわ優れた能力を持ち、O.W.L試験では学年一位を獲得し、一人前の魔法使いでも困難といわれる「守護霊の呪文」を13歳で成功させる(守護霊は牡鹿)。第5巻で結成されるダンブルドア軍団ではリーダーを務め、他のメンバーに「守護霊の呪文」や「盾の呪文」、「武装解除呪文」、「失神呪文」などの防衛術を教える。また、「『半純血のプリンス』の蔵書」の研究に没頭し、闇の呪文も使用できるようになる。
唯一「閉心術」については、ヴォルデモートの精神干渉を阻止すべく、5学年時にセブルス・スネイプから特別授業を受けることになるが、思いがけず彼のトラウマに触れたこともあり、中途で授業を止める。その後、作中で「閉心術」を使用する描写はないが、ドビーの死をきっかけに心を閉ざす方法を身につけ、ヴォルデモートの怒りをかわす術を得る。
箒(ほうき)の飛行についても父親に似て優れており、ミネルバ・マクゴナガルは「生まれつきそう(=クィディッチの優秀な選手)なのです」と評する。本人はクィディッチのことを唯一の特技だと思い、寮対抗クィディッチ試合では1年時からシーカーを務め、6年時ではキャプテンを兼任する。一年生でクィディッチの選手になるのは、100年ぶりであった。
父は旧家出身の魔法使いジェームズ・ポッター、母はマグル生まれの魔女リリー・ポッター(旧姓エヴァンズ)である。名付け親はシリウス・ブラック。兄弟姉妹はいない。のちにジニー・ウィーズリーと結婚しウィーズリー家と親戚関係になるが、ジニーとロンの父方の祖母セドレーラ・ウィーズリーとみずからがかつて敵対していたドラコ・マルフォイの母ナルシッサ・マルフォイもブラック家出身であるため、ウィーズリー家とマルフォイ家とはもともと血縁関係ということになる(ロンの妹ジニーと結婚したため、ロンとハーマイオニー夫妻はハリーから見て義兄・義姉にあたる姻戚になる)。
第7巻では、前述にもあるように何世紀も前に絶えたと言われた純血の一族ペベレル家の血を引いていたことも明らかになり、ペベレル家の三男のイグノタス・ペベレルがハリーの先祖で、ヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男のカドマス・ペベレルであり、ハリーとヴォルデモートの先祖たちは兄弟同士ということになるため、ハリーとヴォルデモートは遠い血縁関係にあたる。
母方はエヴァンズ家。親族には伯母ペチュニア・ダーズリー、ペチュニアの夫バーノン・ダーズリー、夫妻の息子である従兄ダドリー・ダーズリーがおり、三人ともマグルである。
以下は裏設定である(『ポッターモア』より)。
父方はポッター家。西イングランドの旧家であるが、子孫の多くが近所のマグルと結婚するなどしたためにマグルにもありふれた姓となったため、「聖28一族」には含まれなかった。ポッター家の系統は以下である。
マグル界では、ダドリーにいじめられていたために学校で孤立しており、友人はいない。一方、魔法界では友人を複数獲得し(とはいえホグワーツ内で孤立を経験することも多々あった)、そのなかでもとくにロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーのふたりは特別に仲の良い友人(親友)となる。ロンとはホグワーツ魔法魔術学校に入学するまえ、ホグワーツ特急のコンパートメントで一緒になって以来の付き合いであり、その関係でロンの実家であるウィーズリー家の面々とも親しくなる。ただ、4巻で一度仲違いした事もあった。ハーマイオニーへの当初の印象は好ましくなかったものの、トロールに襲われているところをロンとともに助けたことがきっかけで親しくなり、それ以来三人で行動することが多くなる(ただし、こちらも第3巻で一時仲違いする)。それ以外の友人については下記を参照。
恋愛には基本的に奥手である。第4巻でレイブンクロー寮のシーカーである美少女チョウ・チャンに一目惚れし、初恋を経験する。その後、5巻で2人は交際を始め、ハリーは初めてのキスをチョウと交わす。しかし、それから間もなく別れることになる(破局に至る経緯は、小説と映画で異なる)。
グリフィンドール寮のクィディッチチームとダンブルドア軍団に入ったロンの妹ジニー・ウィーズリーからは、彼女がホグワーツに入学する以前から憧れを抱かれていたが、ハリーの方も親しくなるうちジニーを異性として意識するようになり、いつしか真剣な恋に落ちる。第6巻では、ロンが開心術の使い手でないのを感謝するほどジニーの夢を頻繁に見るなど、ジニーへの思いが抑えられなくなる。しかしながら、ジニーには当時交際相手がいた上、ロンの手前もあって恋心を誰にも打ち明けられず、ハリーは逡巡する日々を強いられる。しかし、ハリーがひそかに起こしたある出来事を機に、ジニーは不仲だった交際相手ディーンと別れ、ジニーとの関係に進展の兆しが見え始める。
その後、クィディッチ対抗戦でグリフィンドール寮チームが優勝した夜、ハリーは駆け寄ってきたジニーと思わず抱き合い、他の寮生たちの見ているまえで、熱いキスを交わす。この夜を機に、2人は皆が公認のカップルとして交際を開始する。第6巻終盤、ヴォルデモートと決着をつけることを決意したハリーは、ジニーの安全を守るために彼女へ別れを告げるが、戦いの終結後に結婚し、三人の子供に恵まれる。
このほか、第2巻では嘆きのマートル、第6巻ではロミルダ・ベインにそれぞれ好意を寄せられる様子が描かれる。またパーバティ・パチルとは、第4巻のダンスパーティーのパートナーとなる。
同学年のスリザリン寮生のドラコ・マルフォイには最悪の第一印象を抱き、入学前から対立関係となる。劇中では、流血の決闘も繰り広げる。
ダーズリー一家に対しては表向きは服従しつつも、内心では強い憎しみを抱いている。一家の親戚であるマージョリー・ダーズリーとは特に折り合いが悪く、手ひどい侮辱を浴びせられ、無意識のうちに魔力を暴走させるほどの激しい怒りをあらわにする。彼らに関しては事情を知ったうえで、マージを除いて最終的には和解する。
ハリー最大の敵は両親の仇であるヴォルデモートであり、額の傷にある呪いを通じて精神的に繋がっている。またヴォルデモートの部下である死喰い人、その中でもシリウスを殺害したベラトリックス・レストレンジを憎悪するようになり、ハリーが初めて「許されざる呪文」のひとつである「磔の呪い」を使う相手となる。
自身が支持するダンブルドアを追放し、自分や友人達にも執拗な嫌がらせを行ったドローレス・アンブリッジの事も激しく嫌悪している。ホグワーツ追放後の彼女とも対峙しており、失神呪文をかけて無力化した。
父親もろとも自身を憎み、つらく当たるセブルス・スネイプのことも長らく嫌悪するが、第7巻でスネイプの過去を知り、考えを改めて尊敬するようになる。ただ、スネイプのほうはジェームズに対する憎しみの根が深く、内心では気に掛けながらも死の間際まで終始突き放した態度をとり、直接和解することはなく終わる。なお、ハリーとスネイプの共通点として、半純血であることや、幼少期に陰湿な環境で養育されたこと、不器用で口下手な性格であること、ホグワーツ在学中に明確に敵意を持った同級生がいたこと、極めて優秀な魔法使いであること、ヴォルデモート・不死鳥の騎士団両方と強い関係性があること、グリフィンドール・スリザリン両方に適性を持ち合わせている点などがある。また、三大魔法学校対抗試合ではスネイプの魔法薬の材料を使用し、スネイプから閉心術の個人授業を受けたり、スネイプの記述した「『半純血のプリンス』の蔵書」の研究に没頭したりもする。スネイプの最期を看取るのもハリーである。
ヴォルデモートとの決戦であるホグワーツの戦いの終結後はホグワーツには復学せず、ロンやネビルとともに魔法省に入省して闇祓いとなる。そしてジニー・ウィーズリーと結婚し、2男1女をもうける。子供たちはポッター家、ウィーズリー家、ブラック家、ペベレル家の血を引く。また、ルーピン夫妻の息子テディ・リーマス・ルーピンの後見人も務める。 | [
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"text": "正義感が強く、優しさを持つ謙虚な少年である。他者からの評価として、セブルス・スネイプは「父親に似て傲慢(但し、これは彼の父親との確執の過去ゆえに、顔が瓜ふたつのハリーにジェームズの面影が否応なしに重なることからくる偏見によるところが大きい)」、リーマス・ルーピンは「父親に似て友達思い」と評する一方、シリウス・ブラックは「仲間思いは同じだが、基本的には父親似ではない」、アルバス・ダンブルドアは「母親の方に似ている」と評する。",
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"text": "実際に物語において、母リリーに似て正義感が強く謙虚で優しい少年であり、父ジェームズのように自身の才能を誇示するといった傲慢さは見せない。一方で、ハリーは幼少時に魔法界から隔絶され、叔母一家から長期間冷遇されながら育ったため、自分に自信がなくシャイで卑屈な面がある。また、悩みや不安を度々一人で抱え込み、自分だけで解決しようとする。陰湿な環境で育ったことを含め、スネイプとの共通性が多くある(詳細は後述)。",
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"text": "優しさや仲間思いの性格が裏目に出ることも多々あり、ヴォルデモートは「周りで他の奴がやられるのを見ておれぬ奴」と評してその性格を大きな欠陥としており、ロンやハーマイオニーにも同様の点を指摘される。第5巻『不死鳥の騎士団』ではこの友人への侠気を利用されたことが原因で、シリウスを神秘部へ来させる事態にもなる。",
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"text": "一方で頑固な面もあり、無鉄砲な行動を取ることもある。それゆえにやや規則を無視する傾向もあり(スネイプやルーピン曰く父親譲り)、基本的には真面目だが、ホグワーツ在学中は多くの罰則を経験している。激しい怒りを覚えると容赦なく許されざる呪文を使うこともあるが、死の呪文だけは絶対に使うことはない。14 - 15歳(第4 - 5巻)では思春期に加え、ヴォルデモートとの精神的な繋がりから情緒不安定となる。また、皆が闇の魔法使いを恐れて名指しせず「例のあの人」と指す中で、ハリーは恐れずヴォルデモートと呼称する。このハリーの大胆な習慣は、現実の危険を招くものであった。第7巻『死の秘宝』の探索の旅では、死喰い人に居場所を探知される名指しは禁忌であるとロンに注意されていたにもかかわらず、感情が高ぶって口に出し、一行が死喰い人に拉致されるきっかけとなる。",
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"text": "既述のようにグリフィンドールに所属することになり、両親もグリフィンドール出身であるが、ハリー自身はサラザール・スリザリンがスリザリン生に望んだ能力(臨機の才、巧妙さ、決断力、やや規則を無視する傾向、蛇語能力)も備えている。ハリーの持つ蛇語能力は「パーセルマウス」と呼ばれ、これはヴォルデモートがハリーを殺そうとした際、彼の魂の一部が分割を起こしてハリーの魂にしがみ付いたがためにもたらされた能力であり、ハリーの魂からヴォルデモートの魂が消失すると、それに伴いパーセルマウスではなくなった。作者のローリングによると、ハリー自身はこれを喜んでいるという。",
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"text": "さらにハリーの先祖は、何世紀にも前に姓名が絶えた純血の家系であるペベレル家の三男のイグノタス・ペベレルであり、スリザリン出身のヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男のカドマス・ペベレルである。つまりハリーとヴォルデモートのその先祖たちは兄弟同士であるので、この事からもハリーがスリザリンに関連していることがわかる。",
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"text": "組分け帽子にも「スリザリンに入れば君は大成する」と言われ、スリザリンに組分けされそうになるが、ロンからスリザリン出身者は闇の魔法使いが多いことを聞き、嫌悪するドラコ・マルフォイがスリザリンに入ったため、組分け帽子にスリザリンへの入寮拒否を希望し、グリフィンドール生となる。",
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"text": "学問はあまり好まないため教科によってむらがあるが、ほとんどで成績は平均よりも良好。また、低学年のころから実戦経験が多く、「闇の魔術に対する防衛術」に関してはひときわ優れた能力を持ち、O.W.L試験では学年一位を獲得し、一人前の魔法使いでも困難といわれる「守護霊の呪文」を13歳で成功させる(守護霊は牡鹿)。第5巻で結成されるダンブルドア軍団ではリーダーを務め、他のメンバーに「守護霊の呪文」や「盾の呪文」、「武装解除呪文」、「失神呪文」などの防衛術を教える。また、「『半純血のプリンス』の蔵書」の研究に没頭し、闇の呪文も使用できるようになる。",
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"text": "唯一「閉心術」については、ヴォルデモートの精神干渉を阻止すべく、5学年時にセブルス・スネイプから特別授業を受けることになるが、思いがけず彼のトラウマに触れたこともあり、中途で授業を止める。その後、作中で「閉心術」を使用する描写はないが、ドビーの死をきっかけに心を閉ざす方法を身につけ、ヴォルデモートの怒りをかわす術を得る。",
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"text": "箒(ほうき)の飛行についても父親に似て優れており、ミネルバ・マクゴナガルは「生まれつきそう(=クィディッチの優秀な選手)なのです」と評する。本人はクィディッチのことを唯一の特技だと思い、寮対抗クィディッチ試合では1年時からシーカーを務め、6年時ではキャプテンを兼任する。一年生でクィディッチの選手になるのは、100年ぶりであった。",
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"text": "父は旧家出身の魔法使いジェームズ・ポッター、母はマグル生まれの魔女リリー・ポッター(旧姓エヴァンズ)である。名付け親はシリウス・ブラック。兄弟姉妹はいない。のちにジニー・ウィーズリーと結婚しウィーズリー家と親戚関係になるが、ジニーとロンの父方の祖母セドレーラ・ウィーズリーとみずからがかつて敵対していたドラコ・マルフォイの母ナルシッサ・マルフォイもブラック家出身であるため、ウィーズリー家とマルフォイ家とはもともと血縁関係ということになる(ロンの妹ジニーと結婚したため、ロンとハーマイオニー夫妻はハリーから見て義兄・義姉にあたる姻戚になる)。",
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"text": "第7巻では、前述にもあるように何世紀も前に絶えたと言われた純血の一族ペベレル家の血を引いていたことも明らかになり、ペベレル家の三男のイグノタス・ペベレルがハリーの先祖で、ヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男のカドマス・ペベレルであり、ハリーとヴォルデモートの先祖たちは兄弟同士ということになるため、ハリーとヴォルデモートは遠い血縁関係にあたる。",
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"text": "母方はエヴァンズ家。親族には伯母ペチュニア・ダーズリー、ペチュニアの夫バーノン・ダーズリー、夫妻の息子である従兄ダドリー・ダーズリーがおり、三人ともマグルである。",
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"text": "以下は裏設定である(『ポッターモア』より)。",
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"text": "父方はポッター家。西イングランドの旧家であるが、子孫の多くが近所のマグルと結婚するなどしたためにマグルにもありふれた姓となったため、「聖28一族」には含まれなかった。ポッター家の系統は以下である。",
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"text": "マグル界では、ダドリーにいじめられていたために学校で孤立しており、友人はいない。一方、魔法界では友人を複数獲得し(とはいえホグワーツ内で孤立を経験することも多々あった)、そのなかでもとくにロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーのふたりは特別に仲の良い友人(親友)となる。ロンとはホグワーツ魔法魔術学校に入学するまえ、ホグワーツ特急のコンパートメントで一緒になって以来の付き合いであり、その関係でロンの実家であるウィーズリー家の面々とも親しくなる。ただ、4巻で一度仲違いした事もあった。ハーマイオニーへの当初の印象は好ましくなかったものの、トロールに襲われているところをロンとともに助けたことがきっかけで親しくなり、それ以来三人で行動することが多くなる(ただし、こちらも第3巻で一時仲違いする)。それ以外の友人については下記を参照。",
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"text": "恋愛には基本的に奥手である。第4巻でレイブンクロー寮のシーカーである美少女チョウ・チャンに一目惚れし、初恋を経験する。その後、5巻で2人は交際を始め、ハリーは初めてのキスをチョウと交わす。しかし、それから間もなく別れることになる(破局に至る経緯は、小説と映画で異なる)。",
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"text": "グリフィンドール寮のクィディッチチームとダンブルドア軍団に入ったロンの妹ジニー・ウィーズリーからは、彼女がホグワーツに入学する以前から憧れを抱かれていたが、ハリーの方も親しくなるうちジニーを異性として意識するようになり、いつしか真剣な恋に落ちる。第6巻では、ロンが開心術の使い手でないのを感謝するほどジニーの夢を頻繁に見るなど、ジニーへの思いが抑えられなくなる。しかしながら、ジニーには当時交際相手がいた上、ロンの手前もあって恋心を誰にも打ち明けられず、ハリーは逡巡する日々を強いられる。しかし、ハリーがひそかに起こしたある出来事を機に、ジニーは不仲だった交際相手ディーンと別れ、ジニーとの関係に進展の兆しが見え始める。",
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"text": "その後、クィディッチ対抗戦でグリフィンドール寮チームが優勝した夜、ハリーは駆け寄ってきたジニーと思わず抱き合い、他の寮生たちの見ているまえで、熱いキスを交わす。この夜を機に、2人は皆が公認のカップルとして交際を開始する。第6巻終盤、ヴォルデモートと決着をつけることを決意したハリーは、ジニーの安全を守るために彼女へ別れを告げるが、戦いの終結後に結婚し、三人の子供に恵まれる。",
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"text": "このほか、第2巻では嘆きのマートル、第6巻ではロミルダ・ベインにそれぞれ好意を寄せられる様子が描かれる。またパーバティ・パチルとは、第4巻のダンスパーティーのパートナーとなる。",
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"text": "同学年のスリザリン寮生のドラコ・マルフォイには最悪の第一印象を抱き、入学前から対立関係となる。劇中では、流血の決闘も繰り広げる。",
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"text": "ダーズリー一家に対しては表向きは服従しつつも、内心では強い憎しみを抱いている。一家の親戚であるマージョリー・ダーズリーとは特に折り合いが悪く、手ひどい侮辱を浴びせられ、無意識のうちに魔力を暴走させるほどの激しい怒りをあらわにする。彼らに関しては事情を知ったうえで、マージを除いて最終的には和解する。",
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"text": "ハリー最大の敵は両親の仇であるヴォルデモートであり、額の傷にある呪いを通じて精神的に繋がっている。またヴォルデモートの部下である死喰い人、その中でもシリウスを殺害したベラトリックス・レストレンジを憎悪するようになり、ハリーが初めて「許されざる呪文」のひとつである「磔の呪い」を使う相手となる。",
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"text": "自身が支持するダンブルドアを追放し、自分や友人達にも執拗な嫌がらせを行ったドローレス・アンブリッジの事も激しく嫌悪している。ホグワーツ追放後の彼女とも対峙しており、失神呪文をかけて無力化した。",
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"text": "父親もろとも自身を憎み、つらく当たるセブルス・スネイプのことも長らく嫌悪するが、第7巻でスネイプの過去を知り、考えを改めて尊敬するようになる。ただ、スネイプのほうはジェームズに対する憎しみの根が深く、内心では気に掛けながらも死の間際まで終始突き放した態度をとり、直接和解することはなく終わる。なお、ハリーとスネイプの共通点として、半純血であることや、幼少期に陰湿な環境で養育されたこと、不器用で口下手な性格であること、ホグワーツ在学中に明確に敵意を持った同級生がいたこと、極めて優秀な魔法使いであること、ヴォルデモート・不死鳥の騎士団両方と強い関係性があること、グリフィンドール・スリザリン両方に適性を持ち合わせている点などがある。また、三大魔法学校対抗試合ではスネイプの魔法薬の材料を使用し、スネイプから閉心術の個人授業を受けたり、スネイプの記述した「『半純血のプリンス』の蔵書」の研究に没頭したりもする。スネイプの最期を看取るのもハリーである。",
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},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "ヴォルデモートとの決戦であるホグワーツの戦いの終結後はホグワーツには復学せず、ロンやネビルとともに魔法省に入省して闇祓いとなる。そしてジニー・ウィーズリーと結婚し、2男1女をもうける。子供たちはポッター家、ウィーズリー家、ブラック家、ペベレル家の血を引く。また、ルーピン夫妻の息子テディ・リーマス・ルーピンの後見人も務める。",
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] | ハリー・ジェームズ・ポッターは、J・K・ローリングの小説『ハリー・ポッター』シリーズおよび、その派生作品に登場する架空の人物であり、同シリーズの主人公。 ホグワーツ魔法魔術学校グリフィンドール寮の男子生徒となる。孤児として母親の親類の伯母夫婦の家で不遇な暮らしをして育った。11歳を迎える年のある日突然、ホグワーツから入学許可証が届いたのをきっかけに、亡くなった両親が魔法使いであったこと、そして出生時に下された予言により、闇の魔法使いヴォルデモートを倒す宿命を自分が負っていると告げられる。マグル界では一介の少年に過ぎない生活を送っていたが、魔法界では本人が戸惑うほど重要な人物として、あまねく人々から知られている。 一人前の魔法使いになるべく、同級生のロン・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーらとともに、ホグワーツにて学生生活を送りつつ、宿敵のヴォルデモートなどの闇の魔法使いたちによる数々の陰謀に立ち向かう冒険の日々を通して、たくましく成長していく姿が物語で描かれている。 | {{Pathnav|ハリー・ポッターシリーズ|ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧|frame=1}}
{{物語世界内の観点|date=2012年4月}}
{{ウィキプロジェクト ハリーポッターシリーズ}}
{{Infobox character
| colour = #DEDEE2
| colour text =
| name = ハリー・ポッター<br />Harry Potter
| series = 『[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリー・ポッター]]』シリーズ
| image = File:HPatDH - Panache - b&w Harry and camera.jpg
| caption = ハリー・ポッターを演じる[[ダニエル・ラドクリフ]](2009年、{{仮リンク|フレッシュウォーター・ウェスト|en|Freshwater West}}にて映画『[[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1]]』の撮影中)
| creator = [[J・K・ローリング]]
| portrayer = [[ダニエル・ラドクリフ]](映画版)<br />サンダース・トリプレットス(映画版第1作・赤ん坊)<br />トビー・パプワース(映画版第8作・赤ん坊)<br />{{仮リンク|ジェイミー・パーカー|en|Jamie Parker}}(舞台版・初演{{Efn2|name="CC_cast"|その他の公演におけるキャストについては「[[ハリー・ポッターと呪いの子#キャスト]]」を参照。}})
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| last = [[ハリー・ポッターと呪いの子]]
| voice = [[小野賢章]](映画版)<br />[[矢島晶子]](ゲーム版第1・第2作)<br />[[山口勝平]](ゲーム版『クィディッチワールドカップ』・第3作)<br />[[山本泰輔]](ゲーム版第4作)
| nickname =
| alias =
| species = [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#魔法族とマグル|魔法族(半純血)]]
| gender = [[男性]]
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| callsign =
| family = [[不死鳥の騎士団#ジェームズ・ポッター|ジェームズ・ポッター]](父)<br />[[不死鳥の騎士団#リリー・ポッター|リリー・ポッター]](母)<br />[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#バーノン・ダーズリー|バーノン・ダーズリー]](伯父)<br />[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ペチュニア・ダーズリー|ペチュニア・ダーズリー]](伯母)<br />[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ダドリー・ダーズリー|ダドリー・ダーズリー]](従兄)
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}}
'''ハリー・ジェームズ・ポッター'''({{lang-en-short|'''Harry James Potter'''}})は、[[J・K・ローリング]]の小説『[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリー・ポッター]]』シリーズおよび、その派生作品に登場する架空の人物であり、同シリーズの主人公。
[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ホグワーツ魔法魔術学校|ホグワーツ魔法魔術学校]][[ハリー・ポッターシリーズの地理#グリフィンドール|グリフィンドール]]寮の男子生徒となる。孤児として母親の親類の伯母夫婦の家で不遇な暮らしをして育った。11歳を迎える年のある日突然、ホグワーツから入学許可証が届いたのをきっかけに、亡くなった両親が[[魔法使い]]であったこと、そして出生時に下された予言により、闇の魔法使い[[ヴォルデモート]]を倒す宿命を自分が負っていると告げられる。[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#マグル|マグル]]界では一介の少年に過ぎない生活を送っていたが、魔法界では本人が戸惑うほど重要な人物として、あまねく人々から知られている。
一人前の魔法使いになるべく、同級生の[[ロン・ウィーズリー]]や[[ハーマイオニー・グレンジャー]]らとともに、ホグワーツにて学生生活を送りつつ、宿敵のヴォルデモートなどの闇の魔法使いたちによる数々の陰謀に立ち向かう冒険の日々を通して、たくましく成長していく姿が物語で描かれている。
== 人物 ==
=== 名前・外見 ===
魔法界では「'''生き残った男の子 (The boy who lived) '''」と呼ばれる。
髪の毛は黒い癖毛で、瞳は明るい緑色。小顔で細面で、近視のため丸眼鏡を着用。同年代に比べ小柄で痩せているが、第6巻『[[ハリー・ポッターと謎のプリンス|謎のプリンス]]』では前巻と比べて身長がかなり伸びたとされている。<!--第6巻では前巻と比べて30cm伸びたと日本語版では訳されているが(第5巻でも第4巻と比べて約10cm伸びており、第4巻時点と比較すると2年間で約40cm伸びている計算になる)、この記述については日本語版の誤解(誤訳)である可能性があります。-->額にはヴォルデモートの強力な呪いによってつけられた稲妻の形をした傷があり、初対面の人には必ずと言っていいほどよく見られる。また両親を知る人物からは、外見は父の生き写しだが、アーモンド状の緑の目だけは母の目だと言われる。
=== 来歴 ===
[[1980年]][[7月31日]]、[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ゴドリックの谷|ゴドリックの谷]]に住む魔法族のポッター家に、長男として生まれる。
1981年10月31日{{Efn2|『[[ハリー・ポッターと賢者の石]]』第1章。}}、ポッター家を[[ヴォルデモート]]が襲撃する。これはハリーが生まれる少しまえ、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#シビル・トレローニー|シビル・トレローニー]]が[[アルバス・ダンブルドア]]に対して「ヴォルデモートを打ち破る者」の誕生を予言し、その予言の一部を盗み聞きした[[セブルス・スネイプ]]を通して自身を倒す可能性を秘めた者の存在を知ったヴォルデモートが不安因子を排除しようとしたすえの行動であった。
家を襲撃してきたヴォルデモートに対し、父ジェームズは家族を守るべく戦おうとするが死亡。その後、母リリーも息子を護ろうとして亡くなるが、この時、母の愛情にもとづいた自己犠牲が呪いに対する防御魔法として作用し、ハリーを襲ったヴォルデモートの「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#アバダ・ケダブラ|死の呪い]]」を跳ね返した。その結果、当時1歳だったハリーは額の傷ひとつだけで生き残り、逆に弱体化したヴォルデモートは失踪した。
魔法界はヴォルデモートの失踪を喜び、ハリーを「生き残った男の子」 として英雄視するようになる。一方で当のハリーは、母の血縁と同居すれば母の血の守りが継続するというダンブルドアの計らいで、伯母[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ペチュニア・ダーズリー|ペチュニア・ダーズリー]]の家に預けられ、以降、17歳(魔法界の成人年齢)になるまで伯母一家と同居することになる(住所は[[サリー (イングランド)|サレー州]]リトル・ウィンジング{{Efn2|ロンドンへの通勤者が多く居住しているとされる架空の町で、実在しない。}}、プリベット通り四番地)。しかし、ダーズリー家は魔法に対して、かたくななまでに否定的な態度を取っており、ハリーは両親や自分が魔法使いであることを知らされないまま、伯母一家の冷遇と虐待を受けながら育った。
1991年7月31日(ハリーの11歳の誕生日)、[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ホグワーツ魔法魔術学校|ホグワーツ魔法魔術学校]]への入学案内書を手にやってきた[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ルビウス・ハグリッド|ルビウス・ハグリッド]]から自身が魔法使いであることを知らされる。そして9月1日、ホグワーツ魔法魔術学校に入学する{{Efn2|『ハリー・ポッターと賢者の石』第3章。}}。
; 1年生 - [[ハリー・ポッターと賢者の石]]
: [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#賢者の石|賢者の石]]の力による復活をもくろんだヴォルデモートから石を守る。
; 2年生 - [[ハリー・ポッターと秘密の部屋]]
: [[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#サラザール・スリザリンのバジリスク|スリザリンの怪物]]を退治し、「秘密の部屋」事件を解決に導く。その功績から、[[ロン・ウィーズリー]]とともにホグワーツ特別功労賞を贈られる。
; 3年生 - [[ハリー・ポッターとアズカバンの囚人]]
:[[ハリー・ポッターシリーズの地理#アズカバン|アズカバン]]から脱獄した[[不死鳥の騎士団#シリウス・ブラック|シリウス・ブラック]]に命を狙われる。しかし、のちにシリウス本人から両親の死についての真実を明かされ、誤解が解ける。
; 4年生 - [[ハリー・ポッターと炎のゴブレット]]
: 「[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#三大魔法学校対抗試合|三大魔法学校対抗試合]]」に、本来ならばありえない「4人目の代表者」として参加。ホグワーツ代表の[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#セドリック・ディゴリー|セドリック・ディゴリー]]と同時優勝を果たす。その後、ハリーとセドリックはヴォルデモートの復活を目撃する。ハリーは辛くも難を逃れるが、セドリックはヴォルデモート自身の手によって命を奪われる。
; 5年生 - [[ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団]]
: [[ハリー・ポッターシリーズの地理#イギリス魔法省本庁|魔法省]][[ハリー・ポッターシリーズの地理#神秘部|神秘部]]で、自身とヴォルデモートに関する「予言」を巡り、[[死喰い人]]と戦闘を繰り広げる。その後、ダンブルドアから予言の内容を知らされる。
; 6年生 - [[ハリー・ポッターと謎のプリンス]]
: ダンブルドアとの個人授業で、ヴォルデモートの過去と[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#ホークラックス|分霊箱]]の存在を知る。
; 7年生 - [[ハリー・ポッターと死の秘宝]]
: [[ロン・ウィーズリー]]、[[ハーマイオニー・グレンジャー]]とともに、学校に戻らずヴォルデモートの分霊箱を探す旅に出る。そして、最終的にホグワーツの戦いでヴォルデモートを打ち倒す。
その後は[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#魔法大臣|魔法大臣]][[不死鳥の騎士団#キングズリー・シャックルボルト|キングズリー・シャックルボルト]]の依頼により、魔法省の闇祓いとなる。2007年には、魔法省の闇祓い局の局長に史上最年少で就任し、たびたびホグワーツに出張し闇の魔術に対する防衛術の講義を行う。また、傷は最後まで消えることはないが、ヴォルデモートを倒してから19年間痛むことは一度もなかったという。
=== 性格 ===
正義感が強く、優しさを持つ謙虚な少年である。他者からの評価として、[[セブルス・スネイプ]]は「父親に似て傲慢(但し、これは彼の父親との確執の過去ゆえに、顔が瓜ふたつのハリーにジェームズの面影が否応なしに重なることからくる偏見によるところが大きい)」、[[不死鳥の騎士団#リーマス・ルーピン|リーマス・ルーピン]]は「父親に似て友達思い」と評する一方、[[不死鳥の騎士団#シリウス・ブラック|シリウス・ブラック]]は「仲間思いは同じだが、基本的には父親似ではない」、[[アルバス・ダンブルドア]]は「母親の方に似ている」と評する。
実際に物語において、母リリーに似て正義感が強く謙虚で優しい少年であり、父ジェームズのように自身の才能を誇示するといった傲慢さは見せない。一方で、ハリーは幼少時に魔法界から隔絶され、叔母一家から長期間冷遇されながら育ったため、自分に自信がなく[[人見知り|シャイ]]で卑屈な面がある。また、悩みや不安を度々一人で抱え込み、自分だけで解決しようとする。陰湿な環境で育ったことを含め、スネイプとの共通性が多くある(詳細は後述)。
優しさや仲間思いの性格が裏目に出ることも多々あり、ヴォルデモートは「周りで他の奴がやられるのを見ておれぬ奴」と評してその性格を大きな欠陥としており、ロンやハーマイオニーにも同様の点を指摘される。第5巻『不死鳥の騎士団』ではこの友人への侠気を利用されたことが原因で、シリウスを神秘部へ来させる事態にもなる。
一方で頑固な面もあり、無鉄砲な行動を取ることもある。それゆえにやや規則を無視する傾向もあり(スネイプやルーピン曰く父親譲り)、基本的には真面目だが、ホグワーツ在学中は多くの罰則を経験している。激しい怒りを覚えると容赦なく[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#許されざる呪文|許されざる呪文]]を使うこともあるが、死の呪文だけは絶対に使うことはない。14 - 15歳(第4 - 5巻)では思春期に加え、ヴォルデモートとの精神的な繋がりから情緒不安定となる。また、皆が闇の魔法使いを恐れて名指しせず「例のあの人」と指す中で、ハリーは恐れずヴォルデモートと呼称する。このハリーの大胆な習慣は、現実の危険を招くものであった。第7巻『死の秘宝』の探索の旅では、[[死喰い人]]に居場所を探知される名指しは禁忌であるとロンに注意されていたにもかかわらず、感情が高ぶって口に出し、一行が死喰い人に拉致されるきっかけとなる。
==== スリザリンとの相似的な気質 ====
既述のようにグリフィンドールに所属することになり、両親もグリフィンドール出身であるが、ハリー自身は[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#サラザール・スリザリン|サラザール・スリザリン]]が[[ハリー・ポッターシリーズの地理#スリザリン|スリザリン]]生に望んだ能力(臨機の才、巧妙さ、決断力、やや規則を無視する傾向、蛇語能力)も備えている。ハリーの持つ蛇語能力は「[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#言語|パーセルマウス]]」と呼ばれ、これはヴォルデモートがハリーを殺そうとした際、彼の魂の一部が分割を起こしてハリーの魂にしがみ付いたがためにもたらされた能力であり、ハリーの魂からヴォルデモートの魂が消失すると、それに伴い[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#パーセルマウス|パーセルマウス]]ではなくなった。作者のローリングによると{{要出典|date=2020年6月}}、ハリー自身はこれを喜んでいるという。
さらにハリーの先祖は、何世紀にも前に姓名が絶えた純血の家系である[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ペベレル家の三兄弟|ペベレル家]]の三男の[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#イグノタス・ペベレル|イグノタス・ペベレル]]であり、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#サラザール・スリザリン|スリザリン]]出身のヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男の[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#カドマス・ペベレル|カドマス・ペベレル]]である。つまりハリーとヴォルデモートのその先祖たちは兄弟同士であるので、この事からもハリーがスリザリンに関連していることがわかる{{Efn2|ヴォルデモートがスリザリンの子孫と判明する描写がある一方で、ハリーにそうした描写はなく、ペベレル家とスリザリンの関係も明示されていないため、ペベレル家の子孫がスリザリンの子孫とは限らない。}}。
[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#組分け帽子|組分け帽子]]にも「スリザリンに入れば君は大成する」と言われ、スリザリンに組分けされそうになるが{{Efn2|第2巻『秘密の部屋』において、組分け帽子がハリーをスリザリンに入れようとしたと明かす。}}、ロンからスリザリン出身者は闇の魔法使いが多いことを聞き、嫌悪する[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ドラコ・マルフォイ|ドラコ・マルフォイ]]がスリザリンに入ったため、組分け帽子にスリザリンへの入寮拒否を希望し、グリフィンドール生となる。
=== 才能 ===
学問はあまり好まないため教科によってむらがあるが、ほとんどで成績は平均よりも良好。また、低学年のころから実戦経験が多く、「闇の魔術に対する防衛術」に関してはひときわ優れた能力を持ち、[[ハリー・ポッターシリーズの地理#O.W.L試験|O.W.L試験]]では学年一位を獲得し、一人前の魔法使いでも困難といわれる「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#エクスペクト・パトローナム|守護霊の呪文]]」を13歳で成功させる(守護霊は牡鹿)。第5巻で結成される[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ダンブルドア軍団|ダンブルドア軍団]]ではリーダーを務め、他のメンバーに「守護霊の呪文」や「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#プロテゴ|盾の呪文]]」、「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#エクスペリアームス|武装解除呪文]]」、「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#ステューピファイ|失神呪文]]」などの防衛術を教える。また、「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#「半純血のプリンス」関連|『半純血のプリンス』の蔵書]]」の研究に没頭し、[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#セクタムセンプラ|闇の呪文]]も使用できるようになる。
唯一「閉心術」については、ヴォルデモートの精神干渉を阻止すべく、5学年時にセブルス・スネイプから特別授業を受けることになるが、思いがけず彼のトラウマに触れたこともあり、中途で授業を止める。その後、作中で「閉心術」を使用する描写はないが、[[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#ドビー|ドビー]]の死をきっかけに心を閉ざす方法を身につけ、ヴォルデモートの怒りをかわす術を得る。
[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#箒|箒(ほうき)]]の飛行についても父親に似て優れており、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ミネルバ・マクゴナガル|ミネルバ・マクゴナガル]]は「生まれつきそう(=クィディッチの優秀な選手)なのです」と評する。本人は[[クィディッチ]]のことを唯一の特技だと思い、寮対抗クィディッチ試合では1年時からシーカーを務め、6年時ではキャプテンを兼任する。一年生でクィディッチの選手になるのは、100年ぶりであった。
=== 人間関係 ===
==== 血縁・親族====
父は旧家出身の魔法使い[[不死鳥の騎士団#ジェームズ・ポッター|ジェームズ・ポッター]]、母は[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#マグル|マグル]]生まれの魔女[[不死鳥の騎士団#リリー・ポッター|リリー・ポッター]](旧姓エヴァンズ)である。名付け親は[[不死鳥の騎士団#シリウス・ブラック|シリウス・ブラック]]。兄弟姉妹はいない。のちに[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジニー・ウィーズリー|ジニー・ウィーズリー]]と結婚しウィーズリー家と親戚関係になるが、ジニーとロンの父方の祖母セドレーラ・ウィーズリーとみずからがかつて敵対していた[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ドラコ・マルフォイ|ドラコ・マルフォイ]]の母[[死喰い人#ナルシッサ・マルフォイ|ナルシッサ・マルフォイ]]もブラック家出身であるため、ウィーズリー家とマルフォイ家とはもともと血縁関係ということになる(ロンの妹ジニーと結婚したため、ロンとハーマイオニー夫妻はハリーから見て義兄・義姉にあたる姻戚になる)。
第7巻では、前述にもあるように何世紀も前に絶えたと言われた純血の一族ペベレル家の血を引いていたことも明らかになり、ペベレル家の三男のイグノタス・ペベレルがハリーの先祖で、ヴォルデモートの先祖はそのペベレル家の次男のカドマス・ペベレルであり、ハリーとヴォルデモートの先祖たちは兄弟同士ということになるため、ハリーとヴォルデモートは遠い血縁関係にあたる。
母方はエヴァンズ家。親族には伯母[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ペチュニア・ダーズリー|ペチュニア・ダーズリー]]、ペチュニアの夫[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#バーノン・ダーズリー|バーノン・ダーズリー]]、夫妻の息子である従兄[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ダドリー・ダーズリー|ダドリー・ダーズリー]]がおり、三人ともマグルである。
以下は裏設定である(『[[ポッターモア]]』より)。
父方はポッター家。西イングランドの旧家であるが、子孫の多くが近所のマグルと結婚するなどしたためにマグルにもありふれた姓となったため、「[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#聖28一族|聖28一族]]」には含まれなかった。ポッター家の系統は以下である。
* リンフレッド・ポッター - マグル相手に魔法界の薬草から作った良薬を売っていた。歴史家によれば現在でも使われる幾つかの良薬の開発者である。代表的な薬は、[[ハリー・ポッターシリーズの魔法薬一覧#骨生え薬|骨生え薬]]や[[ハリー・ポッターシリーズの魔法薬一覧#元気爆発薬|元気爆発薬]]などである。こうした薬の売上で、7人の子どもたちが生涯安泰なほど財を成した。
* ハードウィン・ポッター - リンフレッドの長男。アイオランシ・ペベレルと結婚し、[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#透明マント|透明マント]]を秘密にすることを了承し、伝承とともに継承する。
* アイオランシ・ポッター - ハードウィンの妻。旧姓ペベレル。イグノタス・ペベレルの孫娘。男子の系統がおらず、長女のため透明マントを継承。
* ラルストン・ポッター - ウィゼンガモット法廷メンバー(1612-1652)。機密保持法の支持者。
* ヘンリー・ポッター - ウィゼンガモット法廷メンバー(1913 - 1921)。ハードウィンとアイオランシの直系子孫。第一次世界大戦期にマグルの保護を訴えて魔法省と対立した。このことが、ポッター家が聖28一族から除外される原因の一つとなっている。
* フレモント・ポッター - ヘンリーの息子。スリーク・イージーの直毛薬(第4巻でハーマイオニーが使用)を発売、ポッター家の財産を四倍に増やした(引退する際に会社は売却)。ハリーの祖父。息子ジェームズの結婚を見届けた後、ハリーを見ることなく[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#龍痘|龍痘]]で相次いで死亡。
* ユーフェミア・ポッター - フレモントの妻。ハリーの祖母。ハリーが生まれるまえに[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#病気|龍痘]]で死亡。
* チャールズ・ポッター - シリウス・ブラックの義大叔父。情報公開前は彼の一人息子がジェームズ・ポッターなのではないかと推測されていた。
* ドレア・ポッター - チャールズの妻。旧姓ブラック。シリウス・ブラックの大叔母。ブラック家からポッター家に嫁いだ際、ブラック家の家系図から除外されなかったことが、ポッター家も純血家系であることの間接的な証明になっている。
==== 友人 ====
マグル界では、ダドリーにいじめられていたために学校で孤立しており、友人はいない。一方、魔法界では友人を複数獲得し(とはいえホグワーツ内で孤立を経験することも多々あった)、そのなかでもとくにロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーのふたりは特別に仲の良い友人(親友)となる。ロンとはホグワーツ魔法魔術学校に入学するまえ、[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ホグワーツ魔法魔術学校|ホグワーツ特急]]のコンパートメントで一緒になって以来の付き合いであり、その関係でロンの実家であるウィーズリー家の面々とも親しくなる。ただ、4巻で一度仲違いした事もあった。ハーマイオニーへの当初の印象は好ましくなかったものの、トロールに襲われているところをロンとともに助けたことがきっかけで親しくなり、それ以来三人で行動することが多くなる(ただし、こちらも第3巻で一時仲違いする)。それ以外の友人については下記を参照。
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ルビウス・ハグリッド|ルビウス・ハグリッド]](ハリーの魔法界および魔法族においての最初の知人・友人)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ネビル・ロングボトム|ネビル・ロングボトム]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#シェーマス・フィネガン|シェーマス・フィネガン]](第5巻で一時仲違いするが、のちに和解)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ディーン・トーマス|ディーン・トーマス]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#パーバティ・パチル|パーバティ・パチル]](第4巻で、クリスマス・ダンスパーティでハリーと一緒に踊る)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#パドマ・パチル|パドマ・パチル]](パーバティの双子の妹)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ラベンダー・ブラウン|ラベンダー・ブラウン]]
* [[不死鳥の騎士団#ビル・ウィーズリー|ビル・ウィーズリー]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#フラー・デラクール|フラー・デラクール]](第7巻でビルと結婚)
* [[不死鳥の騎士団#チャーリー・ウィーズリー|チャーリー・ウィーズリー]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#パーシー・ウィーズリー|パーシー・ウィーズリー]](第5巻から仲違い状態が続くが、第7巻で和解)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#フレッド・ウィーズリー|フレッドとジョージ・ウィーズリー]](悪戯専門店を経営)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#リー・ジョーダン|リー・ジョーダン]](フレッドとジョージの悪友)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#オリバー・ウッド|オリバー・ウッド]](ハリーが1年生のときのグリフィンドール・クィディッチ・チームのキャプテン)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#アンジェリーナ・ジョンソン|アンジェリーナ・ジョンソン]](第5巻でキャプテンを引き継ぐ)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#アリシア・スピネット|アリシ ア・スピネット]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ケイティ・ベル|ケイティ・ベル]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#グリフィンドール生|アンドリュー・カーク]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#グリフィンドール生|ジャック・スローパー]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#グリフィンドール生|デメルザ・ロビンズ]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#グリフィンドール生|ジミー・ピークス]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#グリフィンドール生|リッチー・クート]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#コリン・クリービー|コリン・クリービー]](ハリーの大ファン)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#デニス・クリービー|デニス・クリービー]](コリンの弟)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ナイジェル・ウォルパート|ナイジェル・ウォルパート]](映画版のみ登場)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#セドリック・ディゴリー|セドリック・ディゴリー]](三大魔法魔術学校対抗試合で、ハリーとともに最後の難関をクリアしたあと、[[死喰い人#ピーター・ペティグリュー|ピーター・ペティグリュー]]に殺害される)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ルーナ・ラブグッド|ルーナ・ラブグッド]](父は「ザ・クィブラー」の編集長、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ゼノフィリウス・ラブグッド|ゼノフィリウス・ラブグッド]])
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#アーニー・マクミラン|アーニー・マクミラン]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ハンナ・アボット|ハンナ・アボット]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#スーザン・ボーンズ|スーザン・ボーンズ]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジャスティン・フィンチ=フレッチリー|ジャスティン・フィンチ=フレッチリー]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#アンソニー・ゴールドスタイン|アンソニー・ゴールドスタイン]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#テリー・ブート|テリー・ブート]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#マイケル・コーナー|マイケル・コーナー]](ジニーの初めての交際相手)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ビクトール・クラム|ビクトール・クラム]]
* [[不死鳥の騎士団#リーマス・ルーピン|リーマス・ルーピン]](第3巻の「闇の魔術に対する防衛術」の教師)
* [[不死鳥の騎士団#ニンファドーラ・トンクス|ニンファドーラ・トンクス]]
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ホラス・スラグホーン|ホラス・スラグホーン]](スリザリン出身の友人はスラグホーンのみであり、スラグホーンからロンとともに友人と呼ばれる)
==== 好意====
恋愛には基本的に奥手である。第4巻で[[ハリー・ポッターシリーズの地理#レイブンクロー|レイブンクロー寮]]のシーカーである美少女[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#チョウ・チャン|チョウ・チャン]]に一目惚れし、初恋を経験する。その後、5巻で2人は交際を始め、ハリーは初めてのキスをチョウと交わす。しかし、それから間もなく別れることになる(破局に至る経緯は、小説と映画で異なる)。
グリフィンドール寮のクィディッチチームとダンブルドア軍団に入ったロンの妹[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジニー・ウィーズリー|ジニー・ウィーズリー]]からは、彼女がホグワーツに入学する以前から憧れを抱かれていたが、ハリーの方も親しくなるうちジニーを異性として意識するようになり、いつしか真剣な恋に落ちる。第6巻では、ロンが開心術の使い手でないのを感謝するほどジニーの夢を頻繁に見るなど、ジニーへの思いが抑えられなくなる。しかしながら、ジニーには当時交際相手がいた上、ロンの手前もあって恋心を誰にも打ち明けられず、ハリーは逡巡する日々を強いられる。しかし、ハリーがひそかに起こしたある出来事を機に、ジニーは不仲だった交際相手ディーンと別れ、ジニーとの関係に進展の兆しが見え始める。
その後、クィディッチ対抗戦でグリフィンドール寮チームが優勝した夜、ハリーは駆け寄ってきたジニーと思わず抱き合い、他の寮生たちの見ているまえで、熱いキスを交わす。この夜を機に、2人は皆が公認のカップルとして交際を開始する。第6巻終盤、ヴォルデモートと決着をつけることを決意したハリーは、ジニーの安全を守るために彼女へ別れを告げるが、戦いの終結後に結婚し、三人の子供に恵まれる。
このほか、第2巻では[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#嘆きのマートル|嘆きのマートル]]、第6巻では[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ロミルダ・ベイン|ロミルダ・ベイン]]にそれぞれ好意を寄せられる様子が描かれる。またパーバティ・パチルとは、第4巻のダンスパーティーのパートナーとなる。
==== 嫌悪 ====
同学年のスリザリン寮生の[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ドラコ・マルフォイ|ドラコ・マルフォイ]]には最悪の第一印象を抱き、入学前から対立関係となる。劇中では、流血の決闘も繰り広げる。
ダーズリー一家に対しては表向きは服従しつつも、内心では強い憎しみを抱いている。一家の親戚である[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#マージョリー・ダーズリー|マージョリー・ダーズリー]]とは特に折り合いが悪く、手ひどい侮辱を浴びせられ、無意識のうちに魔力を暴走させるほどの激しい怒りをあらわにする。彼らに関しては事情を知ったうえで、マージを除いて最終的には和解する。
ハリー最大の敵は両親の仇であるヴォルデモートであり、額の傷にある呪いを通じて精神的に繋がっている。またヴォルデモートの部下である[[死喰い人]]、その中でもシリウスを殺害した[[死喰い人#ベラトリックス・レストレンジ|ベラトリックス・レストレンジ]]を憎悪するようになり、ハリーが初めて「許されざる呪文」のひとつである「[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#クルーシオ|磔の呪い]]」を使う相手となる。
自身が支持するダンブルドアを追放し、自分や友人達にも執拗な嫌がらせを行った[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ドローレス・アンブリッジ|ドローレス・アンブリッジ]]の事も激しく嫌悪している。ホグワーツ追放後の彼女とも対峙しており、失神呪文をかけて無力化した。
父親もろとも自身を憎み、つらく当たるセブルス・スネイプのことも長らく嫌悪するが、第7巻でスネイプの過去を知り、考えを改めて尊敬するようになる。ただ、スネイプのほうはジェームズに対する憎しみの根が深く、内心では気に掛けながらも死の間際まで終始突き放した態度をとり、直接和解することはなく終わる。なお、ハリーとスネイプの共通点として、半純血であることや、幼少期に陰湿な環境で養育されたこと、不器用で口下手な性格であること、ホグワーツ在学中に明確に敵意を持った同級生がいたこと、極めて優秀な魔法使いであること、ヴォルデモート・不死鳥の騎士団両方と強い関係性があること、グリフィンドール・スリザリン両方に適性を持ち合わせている点などがある。また、三大魔法学校対抗試合ではスネイプの魔法薬の材料を使用し、スネイプから閉心術の個人授業を受けたり、スネイプの記述した「『半純血のプリンス』の蔵書」の研究に没頭したりもする。スネイプの最期を看取るのもハリーである。
==== ホグワーツの戦い終結後 ====
ヴォルデモートとの決戦であるホグワーツの戦いの終結後はホグワーツには復学せず、ロンやネビルとともに[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#魔法省|魔法省]]に入省して闇祓いとなる。そして[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジニー・ウィーズリー|ジニー・ウィーズリー]]と結婚し、2男1女をもうける。子供たちはポッター家、ウィーズリー家、ブラック家、ペベレル家の血を引く。また、ルーピン夫妻の息子[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#テディ・リーマス・ルーピン|テディ・リーマス・ルーピン]]の後見人も務める。
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジェームズ・シリウス・ポッター|ジェームズ・シリウス・ポッター]](長男)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#アルバス・セブルス・ポッター|アルバス・セブルス・ポッター]](次男)
* [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#リリー・ルーナ・ポッター|リリー・ルーナ・ポッター]](長女)
=== 財産・ペット ===
; 両親の遺産
: ハリーの両親は多額の遺産を残しており、それはすべて[[ハリー・ポッターシリーズの地理#グリンゴッツ魔法銀行|グリンゴッツ魔法銀行]]の金庫に預けられている。ハリーは夏休みに必要分の資金を下ろす。
; [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#杖|杖]]
: 作中でハリーが手に入れる[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#杖|杖]]は4本ある。
: 1本目は、ホグワーツ入学時に[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ギャリック・オリバンダー|オリバンダー老人]]から購入する杖(値段は7[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#ガリオン|ガリオン]])。本体は[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#柊|柊]]、[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#杖の芯材|芯]]は[[アルバス・ダンブルドア#財産・ペット|不死鳥]](ダンブルドアのペット・[[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#フォークス|フォークス]])の[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#不死鳥の尾羽根|尾羽根]]、28センチ。良質でしなやか。ヴォルデモートの杖とは芯が同じ(=兄弟杖)。7巻の中盤で折れるが、終盤ニワトコの杖を使って直す(映画版では、この描写はない)。
: 2本目は、分霊箱を探す旅から離脱したロンが「人さらい」から奪う杖。本体は[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#リンボク|リンボク]]。魔力はハーマイオニーが作った小さな火を、ひと振りで火炎放射器のような炎に変えるほどすさまじい。ロンが再合流した際に貰い受けるが、ハリーの手には馴染まない。第7巻後半で捕らえられていたマルフォイ邸から脱出する際に、持ち出せずに置いていく。
: 3本目は、マルフォイ邸から脱出する際にドラコから奪い取った杖。本体は[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#サンザシ|サンザシ]]、芯は[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#ユニコーンの毛|一角獣のたてがみ]]、25センチメートル。あるていど弾力性がある。この杖で、ハリーはヴォルデモートを倒す。
: 4本目は、ヴォルデモートがダンブルドアの墓から盗み出す[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#ニワトコの杖|ニワトコの杖]]。ヴォルデモートを倒したことで杖の本体を手に入れるが(忠誠心はそれ以前に得ていた)、ハリーはこの杖で[[ハリー・ポッターシリーズの魔法一覧#レパロ|自分の杖を直した]]後、ダンブルドアの墓に戻す(映画版では決戦後、杖をへし折って捨てる)。
; [[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#ペット|ペット]]
:; [[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#ヘドウィグ|ヘドウィグ]]
:: ハリーが初めてダイアゴン横丁を訪れた際に、ハグリッドに[[ハリー・ポッターシリーズの地理#イーロップのふくろう百貨店|イーロップのふくろう百貨店]]で誕生日プレゼントとして買ってもらい、飼うようになる白ふくろう。第7巻でダーズリー家から[[空飛ぶバイク]]で移動する際に、死喰い人の「死の呪い」に当たり絶命する。
:; 猫
:: ハリーが小さいころ、ポッター家で猫を飼っていたとされ、第7巻のリリーからシリウスへの手紙では「ハリーがおもちゃのほうきで飼い猫を轢きかけた」とある。この猫のその後についての記述はない。
:<!--この行は除去しないでください-->
; [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#クィディッチ|クィディッチ]]用箒
: 1年次、寮のクィディッチ代表チームに加入するため、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ミネルバ・マクゴナガル|ミネルバ・マクゴナガル]]から'''[[クィディッチ#箒|ニンバス2000]]'''を贈られる。この箒は3年次、暴れ柳に破壊される。
: その後、シリウスから'''[[クィディッチ#箒|ファイアボルト]]'''を贈られる。この箒は第7巻序盤、「[[ハリー・ポッターシリーズの地理#隠れ穴|隠れ穴]]」への移動作戦中に落とし、以降も拾う描写はない。
; [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#透明マント|透明マント]]
: [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#死の秘宝|死の秘宝]]のひとつ。もとは父ジェームズが所有していたものだが、ジェームズがダンブルドアに貸しているあいだにジェームズが亡くなり、以後ダンブルドアが保管していた。第1巻で、ダンブルドアからハリーに渡される。
; [[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#忍びの地図|忍びの地図]]
: [[不死鳥の騎士団#リーマス・ルーピン|ムーニー]]、[[死喰い人#ピーター・ペティグリュー|ワームテール]]、[[不死鳥の騎士団#シリウス・ブラック|パッドフット]]、[[不死鳥の騎士団#ジェームズ・ポッター|プロングズ]]の4名の手で作られた、ホグワーツ城と学校の敷地全体の地図。3年時に、[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#フレッド・ウィーズリー|フレッド]]と[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ジョージ・ウィーズリー|ジョージ・ウィーズリー]]から贈られる。
; {{Vanc|ブラック家の遺産}}
: シリウスの死後、その遺言により相続する。
:; {{Vanc|ブラック邸}}
:: ロンドン市グリモールド・プレイス12番地にある、ブラック家の屋敷。
:; [[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#クリーチャー|クリーチャー]]
:: ブラック家に仕える[[ハリー・ポッターシリーズの魔法生物一覧#屋敷しもべ妖精|屋敷しもべ妖精]]。相続された当初は互いに嫌悪するが、[[死喰い人#レギュラス・ブラック|レギュラス・ブラック]]のロケットをプレゼントしたところ、互いに嫌悪の気持ちはなくなり、従順になる(映画版では省略されている)。
:<!--この行は除去しないでください-->
; {{Vanc|金のスニッチ}}
: ハリーが初のクィディッチの試合で、飲み込みかける[[クィディッチ#スニッチ|スニッチ]]。ダンブルドアの死後、遺言により相続する品。
: スニッチのなかには'''[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#蘇りの石|蘇りの石]]'''が入っている。加えてダンブルドアはスニッチに魔法をかけ、「終わる時」にスニッチが開き、蘇りの石を手に入れられるよう仕組んでいた。
: またダンブルドアは、[[ハリー・ポッターシリーズの用語一覧#グリフィンドールの剣|グリフィンドールの剣]]もハリーに相続させようとするが、こちらは[[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#ルーファス・スクリムジョール|ルーファス・スクリムジョール]](魔法大臣)に阻止される。
; 腕時計
: 魔法界での成人年齢である17歳の誕生日に[[ハリー・ポッターシリーズの地理#隠れ穴|隠れ穴]]でモリーから贈られる品で、モリーの弟[[不死鳥の騎士団#フェービアン・プルウェット|フェービアン・プルウェット]]の遺品。
== ハリーを演じた人物 ==
[[File:Daniel Radcliffe, November 2010.jpg|thumb|170px|[[ダニエル・ラドクリフ]](2010年、『[[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1]]』のプレミアにて)]]
{{dl2
| 俳優 |
* [[ダニエル・ラドクリフ]] - 映画版
* サンダース・トリプレットス - 映画『賢者の石』(赤ん坊)
* トビー・パプワース - 映画『死の秘宝 PART2』(赤ん坊)
* {{仮リンク|ジェイミー・パーカー|en|Jamie Parker}} - 舞台『呪いの子』ロンドン公演<ref name=stage>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0079052|title=「ハリー・ポッター」続編舞台のキャスト発表!中年のハーマイオニーはアフリカ系に!|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-12-21|accessdate=2015-12-21}}</ref><ref group="注" name="CC_cast"/>
| 声優 |
* [[小野賢章]] - 映画版・日本語吹替、ゲーム『魔法同盟』<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ナターシャ|work=[[映画ナタリー]]|url=https://natalie.mu/eiga/news/333512|title=小野賢章、ゲームアプリ「ハリー・ポッター:魔法同盟」で8年ぶりにハリー演じる|date=2019-05-30|accessdate=2019-05-31}}</ref>
* [[矢島晶子]] - ゲーム版『賢者の石』『秘密の部屋』
* [[山口勝平]] - ゲーム版『クィディッチワールドカップ』『アズカバンの囚人』
* [[山本泰輔]] - ゲーム版『炎のゴブレット』
}}{{-}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Harry Potter (character)|ハリー・ポッター}}
{{ハリー・ポッターシリーズ}}
{{山口勝平}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ほつた はり}}
[[Category:ハリー・ポッターシリーズの登場人物]] | 2003-03-27T10:13:04Z | 2023-10-23T06:13:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9) |
5,313 | マンマシンインタフェース | マンマシンインタフェース(英: man machine interface)またはヒューマンマシンインタフェース(英: human machine interface、HMI)とは、人間と機械の間の伝達を行う、機器やコンピュータプログラム等といったインタフェースの総称である。
マンマシンインタフェースは、機械と人間の間で、人間の要求を機械に、あるいは機械の状態を人間に理解させるために伝達する手段を、多くの場合一定の思想の下、設計し実現された、または実現を図るものである。
人間側からは「操作」として機械に指令を出す際、人間の行う特定の行為を機械が検出できれば指令伝達は達成される。その手段を設計するのがマンマシンインタフェースの、“マンからマシン”側。 機械がその状態を人間に通知するのに人間の五感のいずれかあるいは複数に訴え、人間の感覚器でそれを検出できるようにする設計が“マシンからマン”側。 これらを総称してマンマシンインタフェースとしている。マシンの前後に"・"(中点、ドット)が入る場合や、「マンマシンインタフェイス」など表記が揺らぐ場合もある。
マンマシンインタフェースはコンピュータで主に用いられる用語であるが、機械と人間の接点として一般でも用いられる。 マンマシンインタフェースが定義されるとき、必ず積極性あるいは能動性を備えたものである。つまり「人間がAの指示(たとえば電源を入れる)のためにBの操作(電源のボタンを押す)をする」ことはAの積極性があり、「機械がCの状態を表す(たとえば電源が入っていることを通知する)ため、Dの現象を起こす(電源ランプを点灯する)」のも機械は能動的にDの現象を起こしている。 積極性あるいは能動性の伴わないものはマンマシンインタフェースとして定義されない。機械にとっては同じ現象でも、たとえば「指紋センサーに付いた指紋を読み取る」はマンマシンインタフェースとして定義できるが、「電源スイッチに指紋が残る」ことは事象としては発生してもマンマシンインタフェースではない。後者は指紋を読み取る積極性も、指紋が残ったことで起こる能動性もないからである。
機械の状態がすべてマンマシンインタフェースに含まれるわけではなく、たとえば「故障したらヒューズが切れる」はマンマシンインタフェースではない。ヒューズが切れて動作しないことで異常発生を人間は推測できるが、機械は単に火災等のさらに深刻な事態から保護しているだけで故障を積極的に人間に通知しているわけではない。しかしヒューズが切れたことを何らかの形で通知する方法を持っているならそれはマンマシンインタフェースとできる。(たとえばヒューズが操作面に露出しており、人がそれを容易に見て取れ、操作者に見て取る積極性を要求している場合など)
マンマシンインタフェースの設計は、人間にとって「指示可能で、理解可能で、効率的で、標準化されている」ことが主眼とされる。 機械にとっては「物理現象として機械に影響できる」が実現されなければならない。
似た概念に「ユーザーインタフェース」があるが、ユーザーインタフェースは人間を中心に据えた概念で、マンマシンインタフェースは機械と人間をともに考えた中立的なものである。 境界を設けるならマンマシンインタフェースはハードウェアにより近い概念とも言え、マンマシンインタフェースは「手段」を定義し、ユーザーインタフェースは「表現」を定義するとして差し支えない。 たとえば「エラーは表示画面に赤文字で表示する」という要件があるとき、マンマシンインタフェースとしては「表示画面が赤文字を表示できる能力」が定義され、ユーザーインタフェースでは「人間が気づきやすくするため赤文字で表現する」ことが定義される。いずれの概念でも、人間と機械の相互関係を表すものであり切り離したものとはできず、以下本稿においては双方を含めたものとしている。
コンピュータのプログラムが、1人間の指示を受け、2処理し、3結果を人間に知らせる。の構成を取る場合、このうち1と3の両方をマンマシンインタフェースとしている。 マンマシンインタフェースは、コンピュータプログラム全体のうち人間と関わる部分の処理機能の名称または実現するサブシステムの名称として用いられ、一般的には「マンマシンインタフェース」とは呼ばれず、「マンマシンのバグ」、「マンマシン部」など略された表現がされることが多い。
同一の目的のため設計されるマンマシンインタフェースは、機械が異なっていても統一されていることが望ましい。標準化されていることにより、ある機器の使用方法を一度覚えてしまえば、他の同種の機器も使用可能となる。たとえば自動車の操作において、右折するための操作が、メーカーAの自動車ではハンドルを右に回し、メーカーBの自動車ではハンドルを左に回すとなっていては混乱が生じる。実際にこのようなことは建設機械では存在し、操作員が誤操作する場合がある。
以下、標準化が達成されている例である。 | [
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] | マンマシンインタフェースまたはヒューマンマシンインタフェースとは、人間と機械の間の伝達を行う、機器やコンピュータプログラム等といったインタフェースの総称である。 | {{出典の明記|date=2021年8月}}
{{独自研究|date=2021年12月11日 (土) 21:25 (UTC)}}
[[ファイル:A Google Glass wearer.jpg|サムネイル|[[Google Glass|グーグルグラス]]を使用する人。目に投影される映像を見ながら、フレームのタッチパネルを触って操作している。この機器は、音声認識によるインタフェースも備えている。]]
'''マンマシンインタフェース'''({{lang-en-short|man machine interface}})または'''ヒューマンマシンインタフェース'''({{lang-en-short|human machine interface}}、HMI)とは、[[ヒト|人間]]と[[機械]]の間の伝達を行う、機器やコンピュータプログラム等といった[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の総称である。
== 概要 ==
マンマシンインタフェースは、機械と人間の間で、人間の要求を機械に、あるいは機械の状態を人間に理解させるために伝達する手段を、多くの場合一定の思想の下、設計し実現された、または実現を図るものである。
人間側からは「操作」として機械に指令を出す際、人間の行う特定の行為を機械が検出できれば指令伝達は達成される。その手段を設計するのがマンマシンインタフェースの、“マンからマシン”側。
機械がその状態を人間に通知するのに人間の五感のいずれかあるいは複数に訴え、人間の感覚器でそれを検出できるようにする設計が“マシンからマン”側。
これらを総称してマンマシンインタフェースとしている。マシンの前後に"[[・]]"(中点、ドット)が入る場合や、「マンマシンインタフェイス」など表記が揺らぐ場合もある。
マンマシンインタフェースはコンピュータで主に用いられる用語であるが、機械と人間の接点として一般でも用いられる。
マンマシンインタフェースが定義されるとき、必ず積極性あるいは能動性を備えたものである。つまり「人間がAの指示(たとえば電源を入れる)のためにBの操作(電源のボタンを押す)をする」ことはAの積極性があり、「機械がCの状態を表す(たとえば電源が入っていることを通知する)ため、Dの現象を起こす(電源ランプを点灯する)」のも機械は能動的にDの現象を起こしている。
積極性あるいは能動性の伴わないものはマンマシンインタフェースとして定義されない。機械にとっては同じ現象でも、たとえば「指紋センサーに付いた指紋を読み取る」はマンマシンインタフェースとして定義できるが、「電源スイッチに指紋が残る」ことは事象としては発生してもマンマシンインタフェースではない。後者は指紋を読み取る積極性も、指紋が残ったことで起こる能動性もないからである。
機械の状態がすべてマンマシンインタフェースに含まれるわけではなく、たとえば「故障したらヒューズが切れる」はマンマシンインタフェースではない。ヒューズが切れて動作しないことで異常発生を人間は推測できるが、機械は単に火災等のさらに深刻な事態から保護しているだけで故障を積極的に人間に通知しているわけではない。しかしヒューズが切れたことを何らかの形で通知する方法を持っているならそれはマンマシンインタフェースとできる。(たとえばヒューズが操作面に露出しており、人がそれを容易に見て取れ、操作者に見て取る積極性を要求している場合など)
{{要出典範囲|マンマシンインタフェースの設計は、人間にとって「指示可能で、理解可能で、効率的で、標準化されている」ことが主眼とされる。|date=2021年6月}}
機械にとっては「物理現象として機械に影響できる」が実現されなければならない。
似た概念に「ユーザーインタフェース」があるが、ユーザーインタフェースは人間を中心に据えた概念で、マンマシンインタフェースは機械と人間をともに考えた中立的なものである。
境界を設けるならマンマシンインタフェースはハードウェアにより近い概念とも言え、マンマシンインタフェースは「手段」を定義し、ユーザーインタフェースは「表現」を定義するとして差し支えない。
たとえば「エラーは表示画面に赤文字で表示する」という要件があるとき、マンマシンインタフェースとしては「表示画面が赤文字を表示できる能力」が定義され、ユーザーインタフェースでは「人間が気づきやすくするため赤文字で表現する」ことが定義される。いずれの概念でも、人間と機械の相互関係を表すものであり切り離したものとはできず、以下本稿においては双方を含めたものとしている。
== コンピュータプログラム ==
コンピュータのプログラムが、①人間の指示を受け、②処理し、③結果を人間に知らせる。の構成を取る場合、このうち①と③の両方をマンマシンインタフェースとしている。
マンマシンインタフェースは、コンピュータプログラム全体のうち人間と関わる部分の処理機能の名称または実現するサブシステムの名称として用いられ、{{要出典範囲|一般的には「マンマシンインタフェース」とは呼ばれず、「マンマシンのバグ」、「マンマシン部」など略された表現がされることが多い。|date=2021年6月}}
== 標準化の重要性 ==
同一の目的のため設計されるマンマシンインタフェースは、機械が異なっていても統一されていることが望ましい。標準化されていることにより、ある機器の使用方法を一度覚えてしまえば、他の同種の機器も使用可能となる。たとえば自動車の操作において、右折するための操作が、メーカーAの自動車ではハンドルを右に回し、メーカーBの自動車ではハンドルを左に回すとなっていては混乱が生じる。実際にこのようなことは建設機械では存在<ref>[[油圧ショベル#作業装置の操作]]</ref>し、操作員が誤操作する場合がある。
以下、標準化が達成されている例である。
* キーボードの配列はどのメーカーのコンピュータでもほぼ同じである。
* レコーダーは赤色で示されるスイッチを操作すれば録音・録画が始まる。
* 銀行ATMの操作は異なる銀行でも銀行ごとの操作学習を要せず行える。
* テレビのリモコンで音量調整などの基本的な操作はメーカーが異なっても共通である。
* 日本において、体温計の数値は自然に読み取れば摂氏として読み取れる。
; テンキーの計算機系配列と電話系配列
: [[電卓]]など計算機系のテンキーの配列と、[[押しボタン式電話機#ボタンの配置]]で、配列順が異なる。歴史は思うよりも古く(初期の電卓にテンキー式でないものがあったからといって、もっと古いテンキー配列の計算機が存在しないわけではない)、機械式計算機の時代に既に現代と同じ計算機系のテンキー配列があらわれている。一方電話では、プッシュ式以前のダイヤル式で「0回のパルス」は不可能なため、ダイヤルでは0が実は10であったので9に隣接していたことも遠因と思われるが、検討のうえであえて計算機とは異なった配列を選んだものが、今日まで引き継がれている。<ref>詳細は [http://srad.jp/~yasuoka/journal/601564 yasuokaの日記: 電卓と電話のテンキー配列は、なぜ異なっているのか] で示されている文献等を参照</ref>
; [[写真レンズ|カメラレンズ]]のフォーカスリング
: 機械的に操作していた時代に、ヘリコイドのどちら側を操作するメカになっているか、ということなども関連するが、どちらに回すとピント位置が遠くに移動するか、が、まちまちになってしまった(現代では、ディジタル化で直接操作するのではなく電子的になったため、設定で変更が可能になっている)。
<!--
; ワンハンドル式のマスコンレバー
: 電車の[[マスター・コントローラー|マスコン]]のワンハンドル式のレバーが、日本では「押すと力行、引くとブレーキ」と「押すとブレーキ、引くと力行」の2通りがあり、事業者ごとに異なっている。それぞれ「押す方向と発生する作用の方向が一致して直感的である」「人は危険を感じた時など咄嗟の場合に、押すという操作をする」という理由付けがあった。
-->
; 一人称ゲームにおけるジョイスティックや十字ボタン系の操作と対象の動作との対応
: 上を押せば上、下を押せば下、という動作が基本的には直感的なのだが、フライトシミュレータでは一般的な飛行機における操縦桿にジョイスティックをなぞらえて、「操縦桿を押す」という操作を上に、「操縦桿を引く」という操作を下に対応させることが多く、その結果、上を押すと下に、下を押すと上に向く、という操作であるため、それに慣れていると反射的には逆のほうに操作してしまう。ユーザの慣れや好みに合わせてカスタマイズできるようになっていることも多い。
== 代表的なマンマシンインタフェース ==
* [[機械]]・機器・器具
** [[開閉器|スイッチ]]・ボタン
** [[つまみ]]・[[ダイヤル]]
** [[ステアリング|ハンドル]]・[[ペダル]]
** [[レバー (操作機具)|レバー]]
** [[計量器|メーター]]
* [[電気機器の一覧|電気機器]]
** [[マイクロフォン|マイク]]・[[スピーカー]]
** [[遠隔操作機器|リモートコントローラ]]
** [[ランプ (光源)|ランプ]]・[[発光ダイオード|LED]]
** [[ブラウン管]]・[[液晶ディスプレイ]]
* コンピュータ
** [[ポインティングデバイス]]
** [[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]・[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]
** [[ウェアラブルコンピューティング]]
** [[音声認識]]・[[音声合成]]
** [[画像認識]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ユーザインタフェース]]
* [[ヒューマン・インタフェース・デバイス]]
* [[インタラクションデザイン]]、[[相互作用|インタラクション]]
* [[ブレイン・マシン・インタフェース]]
{{Computer-stub}}
{{DEFAULTSORT:まんましんいんたふえいす}}
[[Category:ユーザインタフェース]]
[[Category:人間工学]]
[[Category:人間とコンピュータの相互作用]] | null | 2023-01-03T19:47:09Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Computer-stub",
"Template:出典の明記",
"Template:独自研究",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9 |
5,320 | サービス | サービス(英: service)あるいは用役(ようえき)、役務(えきむ)とは、経済活動において、売買した後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない財を指す経済学の用語である。第三次産業が取り扱う商品である。
また、サービスの概念に含まれる公共サービスは社会(国家、自治体や組合)がその費用を負担する役務のことである。資源やスキル、創意、経験などを活かし、提供者が消費者、市民などに提供する。
以上の性質が全てに当てはまるわけではない。例えば、エンターテインメント産業(音楽、映像など)において、ライブパフォーマンス以外は同時性、不可分性を満たさない。修理、メンテナンス、クリーニングなどでは品質が標準化されることがある。情報産業ではサービスを形にして在庫にすることができる。
個人向けサービス業、事業所向けサービス業といった区分が用いられることもある。例えば、第3次産業活動指数では、
と分類している。
下記に順不同で列挙するが、まさに多様といえる。
日本においてサービスという言葉を最初に使ったのは、日本自動車会社の社長石沢愛三である。大正末期に米国を視察した際、米国の自動車販売に「サービス・ステーション」が大きな成果を上げていることを知り日本でもサービス・ステーションを広めようとする。帰国後、取引先関係各社にはがきをだす。文面は「今般、当社は完全なるサービス・ステーションに依り顧客本位の御便宜を計ることに相成り候」。これに対し、「サービス・ステーションという便利なものが到着した由、至急届けてもらいたい」との回答が多数返ってくる。これに困った石沢はサービス・ステーションの和訳を試みるが、辞書には、サービスとは奉仕的なるものとの記述のみであり、外国人にきいても要領を得なかったので、使うのをやめたという。
その後、1925年(大正14年)、フォード自動車が横浜に工場を置き操業を開始。米国フォード社自身が「サービス第一主義」を掲げ、フォード・モデルT全盛であったこともあり「サービス・エンジニヤー」を「プロダクション・エンジニヤー」以上に尊敬の対象としたほどで、全世界にサービス網を構築し安心して使用できることを訴求することが販売における重要なポイントであるとしていた。1927年(昭和2年)には日本GMが大阪工場の操業を開始。それぞれの会社が各府県に一箇所はディーラーを置き活動する。このような自動車関連海外資本の日本進出による諸活動が日本でのサービス概念の形成に大きく影響している。また特にGMは、英国資本のライジングサン石油と共に日本にガソリンスタンドを大量設置したことも欧米型サービスの地方への普及に貢献した。しかし、このようなサービスは当初より顧客本位を謳いながらも、海外現地法人下での活動では親会社本位が現実であり、ディーラーに多くのしわ寄せがなされ、原則各府県一箇所のディーラーが10年程で300程が契約されているところにその厳しさがあらわれている。
日本においては、「サービス」という語を「奉仕」、「無料」、「値引き」、「おまけ」というような意味で用いていることも多く、誤解を招く要因となっている。
かつては、生産技術、生産管理、商品の品質管理のレベルが低く、不良品の発生率も高かった。このため、メーカーや販売店は不良品を新品と交換する、修理・交換部品を無料にする、修理代金を無料にするといった活動や、販売後のケアを無償とせざるを得なかった。また、人件費が低かったこともあり、商品の販売による売り上げさえ確保できれば、こういった修理や販売後ケアを無料にしてもコスト面で折り合いが付いた。その後、販売競争が激しくなっても、販売価格は据え置きでサービスが無料という形態は続いた。むしろ、サービスが無料という点は、販促のための方策でもあった。製造業や流通業の立場からでも「顧客は値引きを求めている」という解釈を行い、顧客が実際に求めているか否かに関わりなく、各種サービスを無料にすることが行われていた。営業職側も、営業調査やマーケティング調査を怠り、安易な値引き路線やおまけ付与という営業活動が慣習化されていた。
100円均一の回転寿司や100円ショップ、1000円均一の理髪店などが優れたビジネスモデルとして顧客の人気を獲得している一方、技量の優れた職人が握る寿司屋や丁寧に対応する理髪店、美容院もまた同様に支持されていることから、顧客はサービスの差を理解しているとも判断されている。
サービス業(サービス産業)はサービスを取り扱う産業のことであるが、その範囲は、使用される状況や資料によって異なる。広義のサービス業は、第三次産業と同義である。例えば、第637回統計審議会では、「第一次産業、第二次産業に含まれないその他のもの全てを第三次産業として、サービス産業としている」とある。また、経済産業省産業構造審議会サービス政策部会の中間報告書では、「サービス産業は第三次産業と同義で、エネルギーや通信、運輸や卸・小売等も含む」とある。また、形のない財をサービスと呼ぶことから、形のある財を取引する卸売業・小売業を除いた第三次産業を指して、サービス業と呼ぶこともある。狭義のサービス業は、第三次産業をいくつかに分類したときに、その分類に当てはまらないもの全てを総称して呼ぶ。そのため、「○○以外」という表現を用いないで、狭義のサービス業を定義することは不可能である。日本標準産業分類では、第三次産業のうち、電気・ガス・熱供給・水道業、情報通信業、運輸業、卸売・小売業、金融・保険業、不動産業、飲食店、宿泊業、医療、福祉、教育、学習支援業、複合サービス事業、公務に分類されないものを指す。
学術団体については、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された。
2002年の日本標準産業分類改訂により、「サービス業」は見直しが行われ、分割や他の産業との統合が行われた。その結果、以前の分類とは内容が異なっており、時系列での比較には注意が必要となる。
大分類として新しく起こされたものを挙げると、
統計の産業分類は日本標準産業分類に準じるため、順次新分類に移行している。ただし、数年おきの大規模な調査では新分類で調査を行っていなかったり、自治体の統計では2002年改訂以前の分類によっているものもある。 | [
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"text": "サービス(英: service)あるいは用役(ようえき)、役務(えきむ)とは、経済活動において、売買した後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない財を指す経済学の用語である。第三次産業が取り扱う商品である。",
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"text": "日本においてサービスという言葉を最初に使ったのは、日本自動車会社の社長石沢愛三である。大正末期に米国を視察した際、米国の自動車販売に「サービス・ステーション」が大きな成果を上げていることを知り日本でもサービス・ステーションを広めようとする。帰国後、取引先関係各社にはがきをだす。文面は「今般、当社は完全なるサービス・ステーションに依り顧客本位の御便宜を計ることに相成り候」。これに対し、「サービス・ステーションという便利なものが到着した由、至急届けてもらいたい」との回答が多数返ってくる。これに困った石沢はサービス・ステーションの和訳を試みるが、辞書には、サービスとは奉仕的なるものとの記述のみであり、外国人にきいても要領を得なかったので、使うのをやめたという。",
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"text": "その後、1925年(大正14年)、フォード自動車が横浜に工場を置き操業を開始。米国フォード社自身が「サービス第一主義」を掲げ、フォード・モデルT全盛であったこともあり「サービス・エンジニヤー」を「プロダクション・エンジニヤー」以上に尊敬の対象としたほどで、全世界にサービス網を構築し安心して使用できることを訴求することが販売における重要なポイントであるとしていた。1927年(昭和2年)には日本GMが大阪工場の操業を開始。それぞれの会社が各府県に一箇所はディーラーを置き活動する。このような自動車関連海外資本の日本進出による諸活動が日本でのサービス概念の形成に大きく影響している。また特にGMは、英国資本のライジングサン石油と共に日本にガソリンスタンドを大量設置したことも欧米型サービスの地方への普及に貢献した。しかし、このようなサービスは当初より顧客本位を謳いながらも、海外現地法人下での活動では親会社本位が現実であり、ディーラーに多くのしわ寄せがなされ、原則各府県一箇所のディーラーが10年程で300程が契約されているところにその厳しさがあらわれている。",
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"text": "かつては、生産技術、生産管理、商品の品質管理のレベルが低く、不良品の発生率も高かった。このため、メーカーや販売店は不良品を新品と交換する、修理・交換部品を無料にする、修理代金を無料にするといった活動や、販売後のケアを無償とせざるを得なかった。また、人件費が低かったこともあり、商品の販売による売り上げさえ確保できれば、こういった修理や販売後ケアを無料にしてもコスト面で折り合いが付いた。その後、販売競争が激しくなっても、販売価格は据え置きでサービスが無料という形態は続いた。むしろ、サービスが無料という点は、販促のための方策でもあった。製造業や流通業の立場からでも「顧客は値引きを求めている」という解釈を行い、顧客が実際に求めているか否かに関わりなく、各種サービスを無料にすることが行われていた。営業職側も、営業調査やマーケティング調査を怠り、安易な値引き路線やおまけ付与という営業活動が慣習化されていた。",
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] | サービスあるいは用役(ようえき)、役務(えきむ)とは、経済活動において、売買した後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない財を指す経済学の用語である。第三次産業が取り扱う商品である。 また、サービスの概念に含まれる公共サービスは社会(国家、自治体や組合)がその費用を負担する役務のことである。資源やスキル、創意、経験などを活かし、提供者が消費者、市民などに提供する。 | {{Otheruses|主に経済用語}}
{{出典の明記|date=2021年3月}}
[[File:Lima waiter PUCPeru 2010.jpg|thumb|[[レストラン]]の[[ウェイター]]]]
'''サービス'''({{lang-en-short|service}})あるいは'''用役'''(ようえき)、'''役務'''(えきむ)とは、[[経済活動]]において、[[売買]]した後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない[[財]]を指す[[経済学]]の[[用語]]である。[[第三次産業]]が取り扱う[[商品]]である。
また、サービスの概念に含まれる[[公共サービス]]は[[社会]]([[国家]]、[[地方公共団体|自治体]]や[[組合]])がその費用を負担する役務のことである。[[資源]]や[[スキル]]、[[創意]]、[[経験]]などを活かし、提供者が[[消費者]]、[[市民]]などに提供する。
== 特性 ==
;同時性
:売り買いした後にモノが残らず、生産と同時に消費されていく。しかしながら、サービス労働の対象としての人に物質化されるのではないかとの異論もある。
;不可分性
:[[生産]]と[[消費]]を切り離すことは不可能である。
;不均質性/変動性
:品質は一定ではない。
;無形性/非有形性
:触ることができない、はっきりとした形がないため、商品を購入前に見たり試したりすることが不可能。
;消滅性
:形のないものゆえ、在庫にすることが不可能である。
以上の性質が全てに当てはまるわけではない<ref>{{Cite journal|和書|author=小宮路雅博 |date=2010-02 |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00002142/ |title=サービスの諸特性とサービス取引の諸課題 (木綿良行名誉教授古稀記念号) |journal=成城大學經濟研究 |volume=187 |pages=149-178 |id={{CRID|1050001337473516800}} |ref=harv}}</ref>。例えば、[[エンターテインメント]]産業(音楽、映像など)において、ライブパフォーマンス以外は同時性、不可分性を満たさない。修理、メンテナンス、クリーニングなどでは品質が標準化されることがある。情報産業ではサービスを形にして在庫にすることができる。
==個人向け・事業所向けの分類==
個人向けサービス業、事業所向けサービス業といった区分が用いられることもある。例えば、[[第3次産業活動指数]]では、
*個人向け
**理容美容
**旅行
**娯楽([[映画]]、[[サッカー]]、[[風俗]]など)
**自動車整備など
*事業所向け
**法務、税務
**[[エンジニアリング]]
**物品賃貸([[リース]])など
と分類している。
== 種類 ==
下記に順不同で列挙するが、まさに多様といえる。
* [[レジャー]]サービス
* [[宿泊]]サービス
* [[金融サービス]]
* [[教育]]サービス
* [[情報]]サービス
* [[医療]]サービス
* [[レンタル]]サービス
* 専門技術サービス
* [[アウトソーシング]]([[業務請負]])サービス<ref group="注釈">歴史的経緯などから、広義のアウトソーシングサービスに含まれる[[建設業]]は、一般に経済用語としてのサービスには含まれない。</ref>
* [[労働者派遣事業|人材派遣]]サービス
* [[職業紹介事業|職業紹介]]サービス
* [[郵便]]
* [[運輸業|運輸]]・[[倉庫業|倉庫]]([[物流]])
* [[交通]]
* [[通信]]
* [[外食産業|外食]]
* [[エネルギー]]
* [[エンターテインメント|エンターテイメント]]
* [[コンサルティング]]
==各国の状況==
===日本===
====歴史====
日本においてサービスという言葉を最初に使ったのは、[[日本自動車会社]]の社長[[石沢愛三]]である。大正末期に米国を視察した際、米国の自動車販売に「サービス・ステーション」が大きな成果を上げていることを知り日本でもサービス・ステーションを広めようとする。帰国後、取引先関係各社にはがきをだす。文面は「今般、当社は完全なるサービス・ステーションに依り顧客本位の御便宜を計ることに相成り候」。これに対し、「サービス・ステーションという便利なものが到着した由、至急届けてもらいたい」との回答が多数返ってくる。これに困った石沢はサービス・ステーションの和訳を試みるが、辞書には、サービスとは奉仕的なるものとの記述のみであり、外国人にきいても要領を得なかったので、使うのをやめたという<ref name="ozaki">{{Cite book|和書|author=尾崎政久 |title=自動車日本史 |publisher=自研社 |year=1955 |NCID=BN04404754 |id={{全国書誌番号|55012410}} |doi=10.11501/2476331 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2476331/1/1 |ref=harv}}</ref>。
その後、1925年(大正14年)、[[フォード・モーター|フォード自動車]]が横浜に工場を置き操業を開始。[[フォード・モーター|米国フォード社]]自身が「サービス第一主義」を掲げ、[[フォード・モデルT]]全盛であったこともあり「サービス・エンジニヤー」を「プロダクション・エンジニヤー」以上に尊敬の対象としたほどで、全世界にサービス網を構築し安心して使用できることを訴求することが販売における重要なポイントであるとしていた。1927年(昭和2年)には[[日本ゼネラル・モータース|日本GM]]が大阪工場の操業を開始。それぞれの会社が各府県に一箇所はディーラーを置き活動する。このような自動車関連海外資本の日本進出による諸活動が日本でのサービス概念の形成に大きく影響している。また特にGMは、英国資本の[[昭和シェル石油|ライジングサン石油]]と共に日本にガソリンスタンドを大量設置したことも欧米型サービスの地方への普及に貢献した。しかし、このようなサービスは当初より顧客本位を謳いながらも、海外現地法人下での活動では親会社本位が現実であり、ディーラーに多くのしわ寄せがなされ、原則各府県一箇所のディーラーが10年程で300程が契約されているところにその厳しさがあらわれている<ref name="ozaki"/>。
=====誤解=====
日本においては、「サービス」という語を「奉仕」、「無料」、「値引き」、「おまけ」というような意味で用いていることも多く、誤解を招く要因となっている<ref>{{cite book|和書|title=消費者教育|volume=第23巻|publisher=[[光生館]]|year=2003|page=141}}</ref><ref name="武田">{{cite book|和書|title=顧客に「感動以上」の喜びを提供するための 「サービス」の常識|author=武田哲男|publisher=[[PHP研究所]]|year=2008|isbn=9784569697505|chapter=6.「無料」はサービスになりえない}}</ref>。
かつては、[[生産技術]]、[[生産管理]]、商品の[[品質管理]]のレベルが低く、[[不良品]]の発生率も高かった。このため、メーカーや販売店は不良品を新品と交換する、修理・交換部品を無料にする、修理代金を無料にするといった活動や、販売後のケアを無償とせざるを得なかった。また、[[人件費]]が低かったこともあり、商品の販売による売り上げさえ確保できれば、こういった修理や販売後ケアを無料にしてもコスト面で折り合いが付いた{{R|武田}}。その後、販売競争が激しくなっても、販売価格は据え置きでサービスが無料という形態は続いた。むしろ、サービスが無料という点は、販促のための方策でもあった{{R|武田}}。製造業や流通業の立場からでも「顧客は値引きを求めている」という解釈を行い、顧客が実際に求めているか否かに関わりなく、各種サービスを無料にすることが行われていた{{R|武田}}。営業職側も、営業調査やマーケティング調査を怠り、安易な値引き路線やおまけ付与という営業活動が慣習化されていた{{R|武田}}。
100円均一の[[回転寿司]]や[[100円ショップ]]、1000円均一の理髪店などが優れたビジネスモデルとして顧客の人気を獲得している一方、技量の優れた職人が握る寿司屋や丁寧に対応する理髪店、美容院もまた同様に支持されていることから、顧客はサービスの差を理解しているとも判断されている{{R|武田}}。
====サービス業、サービス産業====
サービス業(サービス産業)はサービスを取り扱う産業のことであるが、その範囲は、使用される状況や資料によって異なる。広義のサービス業は、[[第三次産業]]と同義である。例えば、第637回統計審議会では、「第一次産業、第二次産業に含まれないその他のもの全てを第三次産業として、サービス産業としている」とある。また、[[経済産業省]][[産業構造審議会]]サービス政策部会の中間報告書では、「サービス産業は[[第三次産業]]と同義で、エネルギーや通信、運輸や卸・小売等も含む」とある。また、形のない財をサービスと呼ぶことから、形のある財を取引する卸売業・小売業を除いた第三次産業を指して、サービス業と呼ぶこともある。狭義のサービス業は、[[第三次産業]]をいくつかに分類したときに、その分類に当てはまらないもの全てを総称して呼ぶ。そのため、「○○以外」という表現を用いないで、狭義のサービス業を定義することは不可能である。[[日本標準産業分類]]では、[[第三次産業]]のうち、電気・ガス・熱供給・水道業、情報通信業、運輸業、卸売・小売業、金融・保険業、不動産業、飲食店、宿泊業、医療、福祉、教育、学習支援業、複合サービス事業、公務に分類されないものを指す。
学術団体については、1951年4月21日、[[日本商業学会]]が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された<ref name=hp>{{Cite web|和書|url=http://jsmd.jp/|title=学会HP|publisher=日本商業学会|date=|accessdate=2022-01-23}} 個人会員1,072名,賛助会員11社・団体,購読会員32件 (2019年7月現在)</ref>。
====2002年のサービス業の分類変更====
2002年の[[日本標準産業分類]]改訂により、「サービス業」は見直しが行われ、分割や他の産業との統合が行われた。その結果、以前の分類とは内容が異なっており、[[時系列]]での比較には注意が必要となる<ref>詳細は[https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/index.htm 総務省の産業分類のページ]参照。</ref>。
大分類として新しく起こされたものを挙げると、
*宿泊業が飲食業と統合され、「'''飲食店、宿泊業'''」となった。
*従来のサービス業から「'''医療、福祉'''」が分割、大分類となった。
*同じく、「'''[[教育、学習支援業]]'''」が分割、大分類となった。
*協同組合が郵便局と統合され、「'''複合サービス事業'''」となった。
[[統計]]の産業分類は日本標準産業分類に準じるため、順次新分類に移行している。ただし、数年おきの大規模な調査では新分類で調査を行っていなかったり、自治体の統計では2002年改訂以前の分類によっているものもある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|サービス|service}}
*[[日本の企業一覧 (サービス)]]
*[[サービス科学]]
* [[脱工業化社会]](サービス化)
* [[情報化社会]]
* [[感情労働]]
* [[便利屋]]
* [[貧困ビジネス]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:さひす}}
[[Category:サービス|*]] | 2003-03-27T13:35:50Z | 2023-10-16T07:56:07Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Otheruses",
"Template:Kotobank",
"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9 |
5,323 | アルフレート・アインシュタイン | アルフレート・アインシュタイン(Alfred Einstein, 1880年12月30日 - 1952年2月13日)は、アメリカへ帰化したドイツの音楽学者・音楽史家。
ミュンヘン生まれ。法律学を専攻していたが、やがて音楽学に転じ、後期ルネサンス音楽ならびに初期バロック音楽、特にヴィオラ・ダ・ガンバ音楽の研究で博士号を取得。1918年、"Zeitschrift für Musikwissenschaft"誌の主筆となり、次いで"Münchner Post"紙の音楽批評欄を担当。1927年、"Berliner Tageblatt"誌で音楽評論を担当。このころ、作曲家ハインリヒ・カスパール・シュミット(de:Heinrich Kaspar Schmid)と親交を結ぶ。
1933年にナチが台頭するとドイツからロンドンに亡命。次いでイタリアに移り、1939年にはアメリカ合衆国に亡命。スミス大学、コロンビア大学、プリンストン大学、ミシガン大学、ハートフォード大学ハート音楽院(en:University of Hartford Hartt School)で音楽学を教える。
専門は音楽史研究全般で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの音楽の研究、とりわけケッヘル目録の改訂やケッヘル・アインシュタイン番号、著書『モーツァルト、その人間と作品』などがよく知られている。ただし、アインシュタインの死後にモーツァルトの自筆譜などの新資料が発見され、メイナード・ソロモンらにより研究が進められているため、アインシュタインの著作の内容は今日では否定されているものがあり注意が必要である。
1952年にカリフォルニア州コントラコスタ郡エルサリートで死去し、同地のSunset View Cemeteryに埋葬された。
著名な物理学者であるアルベルト・アインシュタインの親族であるとされており、従弟とする資料 もあるが、無関係とする資料もある。モイゼス・アインシュタイン(Moyses Einstein)を7代前の共通の先祖とする説もある(これに従うなら両者は六従兄弟 sixth cousin、すなわち傍系14親等の関係になる)。一方、アルベルトの娘エーファは、アルベルト・アインシュタインの家系図にアルフレートの名は登場しないと主張している。ちなみに、アルベルトも音楽好きでヴァイオリンの演奏が趣味であった。
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"text": "日本語では「アルフレッド・アインシュタイン」という表記がされることもあるが、ドイツ語読みでは「アルフレート・アインシュタイン」、英語読みでは「アルフレッド・アインスタイン」となる。",
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] | アルフレート・アインシュタインは、アメリカへ帰化したドイツの音楽学者・音楽史家。 | [[File:Alfred Einstein (1880–1952) 1927 © Georg Fayer (1892–1950).jpg|thumb|アルフレート・アインシュタイン]]
'''アルフレート・アインシュタイン'''('''Alfred Einstein''', [[1880年]][[12月30日]] - [[1952年]][[2月13日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Alfred-Einstein Alfred Einstein German-American musicologist and critic] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ帰化した[[ドイツ]]の[[音楽学者]]・[[音楽史家]]。
==生涯==
[[ミュンヘン]]生まれ。[[法律学]]を専攻していたが、やがて[[音楽学]]に転じ、後期[[ルネサンス音楽]]ならびに初期[[バロック音楽]]、特に[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]音楽の研究で[[博士号]]を取得。[[1918年]]、"Zeitschrift für Musikwissenschaft"誌の主筆となり、次いで"Münchner Post"紙の音楽批評欄を担当。[[1927年]]、"Berliner Tageblatt"誌で音楽評論を担当。このころ、作曲家[[ハインリヒ・カスパール・シュミット]]([[:de:Heinrich Kaspar Schmid]])と親交を結ぶ。
[[1933年]]に[[ナチ]]が台頭すると[[ドイツ]]から[[ロンドン]]に亡命。次いで[[イタリア]]に移り、[[1939年]]には[[アメリカ合衆国]]に亡命。[[スミス大学]]、[[コロンビア大学]]、[[プリンストン大学]]、[[ミシガン大学]]、[[ハートフォード大学]]ハート音楽院([[:en:University of Hartford Hartt School]])で音楽学を教える。
専門は[[音楽史]]研究全般で、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の[[音楽]]の研究、とりわけ[[ケッヘル番号|ケッヘル目録]]の改訂やケッヘル・アインシュタイン番号、著書『モーツァルト、その人間と作品』などがよく知られている。<!--従兄のアルベルトともどもモーツァルト音楽の愛好者で、アルベルト(あるいはアルフレート本人?)が「[[死]]とは、モーツァルトを聴けなくなることだ」という名言を残している。-->ただし、アインシュタインの死後にモーツァルトの自筆譜などの新資料が発見され、[[メイナード・ソロモン]]らにより研究が進められているため、アインシュタインの著作の内容は今日では否定されているものがあり注意が必要である。
[[1952年]]に[[カリフォルニア州]][[コントラコスタ郡]][[エルサリート (コントラコスタ郡)|エルサリート]]で死去し、同地のSunset View Cemeteryに埋葬された<ref>[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Einstein&GSfn=Alfred+&GSbyrel=all&GSdyrel=all&GSob=n&GRid=6597988&df=all& Alfred Einstein]、[[Find a Grave]]</ref>。
==アルベルト・アインシュタインとの関係==
著名な物理学者である[[アルベルト・アインシュタイン]]の親族であるとされており、従弟とする資料<ref>''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', ed. Stanley Sadie. 20 vol. London, Macmillan Publishers Ltd., 1980. ISBN 1-56159-174-2 における "Alfred Einstein"の記事。</ref> もあるが、無関係とする資料<ref>''The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians'', 8th ed. Revised by Nicolas Slonimsky. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X</ref>もある。モイゼス・アインシュタイン(Moyses Einstein)を7代前の共通の先祖とする説<ref>[http://familytreemaker.genealogy.com/users/s/i/l/Gary-Silverstein/ODT4-0001.html Descendants of Baruch Moyses Einstein] at Family Tree Maker Online.</ref>もある(これに従うなら両者は六従兄弟 sixth cousin、すなわち傍系14親等の関係になる)。一方、アルベルトの娘エーファは、アルベルト・アインシュタインの家系図にアルフレートの名は登場しないと主張している<ref>Catherine Dower: ''Alfred Einstein on music: selected music criticisms'' 1991 Page 22 "35 According to Eva Einstein, Alfred and Albert Einstein were not related. Alfred's name does not appear on the Albert Einstein family tree."</ref>。ちなみに、アルベルトも音楽好きでヴァイオリンの演奏が趣味であった。
== 表記について ==
日本語では「アルフレッド・アインシュタイン」という表記がされることもあるが、ドイツ語読みでは「アルフレート・アインシュタイン」、英語読みでは「アルフレッド・アインスタイン」となる。
== 日本語訳 ==
*『[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]] その人間と作品』 [[白水社]] 1961、新装版1979・1997
*『[[フランツ・シューベルト|シューベルト]] 音楽的肖像』 白水社 1963、新装版1978・2009
*『音楽における偉大さ』 白水社 1966、新装版1978・2010
*『音楽と音楽家』 白水社 1968。共訳
*『音楽と文化』 白水社 1969。共訳 - 以上は各・'''[[浅井真男]]訳'''
*『音楽史 History of Music』 [[ダヴィッド社]]、1956。[[大宮真琴]]、[[寺西春雄]]、[[平島正郎]]、[[皆川達夫]]訳
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あいんしゆたいん あるふれと}}
[[Category:ドイツの音楽学者]]
[[Category:モーツァルト]]
[[Category:ドイツの音楽評論家]]
[[Category:ハートフォード大学の教員]]
[[Category:ミシガン大学の教員]]
[[Category:プリンストン大学の教員]]
[[Category:コロンビア大学の教員]]
[[Category:スミス大学の教員]]
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]
[[Category:ユダヤ系ドイツ人]]
[[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]]
[[Category:ナチス・ドイツから逃れたユダヤ人移民]]
[[Category:ドイツの亡命者]]
[[Category:ユダヤ人の著作家]]
[[Category:ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1952年没]] | 2003-03-27T14:42:06Z | 2023-10-22T13:55:35Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 |
5,328 | デザインパターン (ソフトウェア) | ソフトウェア開発におけるデザインパターンまたは設計パターン(英: design pattern)とは、過去のソフトウェア設計者が発見し編み出した設計ノウハウを蓄積し、名前をつけ、再利用しやすいように特定の規約に従ってカタログ化したものである。パターン(pattern)とは、型紙(かたがみ)やひな形を意味する。
本稿でのデザインは狭義の設計という意味であり、CSSやHTMLなどで使われる意匠デザインの定形を示す「デザインパターン」とは異なる。
書籍『オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン』において、GoF (Gang of Four) と呼ばれる4人の共著者は、デザインパターンという用語を初めてソフトウェア開発に導入した。GoFは、エーリヒ・ガンマ、リチャード・ヘルム、ラルフ・ジョンソン、ジョン・ブリシディースの4人である。彼らは、その書籍の中で23種類のパターンを取り上げた。
彼らはこう述べている。
コンピュータのプログラミングで、素人と達人の間では驚くほどの生産性の差があり、その差はかなりの部分が経験の違いからきている。達人は、さまざまな難局を、何度も何度も耐え忍んで乗り切ってきている。そのような達人たちが同じ問題に取り組んだ場合、典型的にはみな同じパターンの解決策に辿り着く。これがデザインパターンである (GoF)。
それぞれのパターンは、プログラマの間で何度も繰り返し考え出されてきた。したがって、それは最善の解決策ではないかもしれないが、その種の問題に対するトレードオフを考慮した、典型的な解決策ではある。さらに、コストがかかるかもしれない問題解決を実際に行う前の先行調査として、大変役に立つ。パターンに名前が付いていることが重要である。なぜなら、名前が付いていることで問題や解決策を記述したり、会話の中で取り上げたりすることができるようになるからである。
ソフトウェアに並行性・並列性を導入するためのマルチスレッドプログラミングは、難易度が比較的高いとされる。そのため、よく現れる問題に対して、汎用的に使用できる種々のパターンが考案されている。後発の高水準プログラミング言語や、並行・並列プログラミングのサポートを重視した言語では、標準ライブラリや言語構文・言語仕様に取り込まれているものも多い。
デザインパターンは、よく使われる設計を一般化された形でまとめたものに過ぎない。そのため、具体的な実装を提供するものではなく、あくまでもコンセプトとして参照されることが意図されている。つまり、サンプルコードは、実装例に過ぎない。
デザインパターンは、すべての状況における最善の設計ではない。『Code Complete』は、デザインパターンを紹介している書籍の1つであるが、デザインパターンをむやみに適用するのは不適切であり、不適切な使用はコードの複雑さを無意味に高めてしまうと注意している。
一部のデザインパターンは、プログラミング言語(例: Java, C++)の機能の欠損の印であると主張されることがある。計算機科学者のピーター・ノーヴィグは、GoFによるデザインパターン本の23パターンのうち16パターンは、言語によるサポートによって単純化または除去できることをLispやDylanを用いて実演した。 | [
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"text": "ソフトウェア開発におけるデザインパターンまたは設計パターン(英: design pattern)とは、過去のソフトウェア設計者が発見し編み出した設計ノウハウを蓄積し、名前をつけ、再利用しやすいように特定の規約に従ってカタログ化したものである。パターン(pattern)とは、型紙(かたがみ)やひな形を意味する。",
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"text": "本稿でのデザインは狭義の設計という意味であり、CSSやHTMLなどで使われる意匠デザインの定形を示す「デザインパターン」とは異なる。",
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"text": "書籍『オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン』において、GoF (Gang of Four) と呼ばれる4人の共著者は、デザインパターンという用語を初めてソフトウェア開発に導入した。GoFは、エーリヒ・ガンマ、リチャード・ヘルム、ラルフ・ジョンソン、ジョン・ブリシディースの4人である。彼らは、その書籍の中で23種類のパターンを取り上げた。",
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"text": "彼らはこう述べている。",
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"text": "コンピュータのプログラミングで、素人と達人の間では驚くほどの生産性の差があり、その差はかなりの部分が経験の違いからきている。達人は、さまざまな難局を、何度も何度も耐え忍んで乗り切ってきている。そのような達人たちが同じ問題に取り組んだ場合、典型的にはみな同じパターンの解決策に辿り着く。これがデザインパターンである (GoF)。",
"title": "概要"
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"text": "それぞれのパターンは、プログラマの間で何度も繰り返し考え出されてきた。したがって、それは最善の解決策ではないかもしれないが、その種の問題に対するトレードオフを考慮した、典型的な解決策ではある。さらに、コストがかかるかもしれない問題解決を実際に行う前の先行調査として、大変役に立つ。パターンに名前が付いていることが重要である。なぜなら、名前が付いていることで問題や解決策を記述したり、会話の中で取り上げたりすることができるようになるからである。",
"title": "概要"
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"text": "ソフトウェアに並行性・並列性を導入するためのマルチスレッドプログラミングは、難易度が比較的高いとされる。そのため、よく現れる問題に対して、汎用的に使用できる種々のパターンが考案されている。後発の高水準プログラミング言語や、並行・並列プログラミングのサポートを重視した言語では、標準ライブラリや言語構文・言語仕様に取り込まれているものも多い。",
"title": "主要なデザインパターンの一覧"
},
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"text": "デザインパターンは、よく使われる設計を一般化された形でまとめたものに過ぎない。そのため、具体的な実装を提供するものではなく、あくまでもコンセプトとして参照されることが意図されている。つまり、サンプルコードは、実装例に過ぎない。",
"title": "注意および批判"
},
{
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"text": "デザインパターンは、すべての状況における最善の設計ではない。『Code Complete』は、デザインパターンを紹介している書籍の1つであるが、デザインパターンをむやみに適用するのは不適切であり、不適切な使用はコードの複雑さを無意味に高めてしまうと注意している。",
"title": "注意および批判"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "一部のデザインパターンは、プログラミング言語(例: Java, C++)の機能の欠損の印であると主張されることがある。計算機科学者のピーター・ノーヴィグは、GoFによるデザインパターン本の23パターンのうち16パターンは、言語によるサポートによって単純化または除去できることをLispやDylanを用いて実演した。",
"title": "注意および批判"
}
] | ソフトウェア開発におけるデザインパターンまたは設計パターンとは、過去のソフトウェア設計者が発見し編み出した設計ノウハウを蓄積し、名前をつけ、再利用しやすいように特定の規約に従ってカタログ化したものである。パターン(pattern)とは、型紙(かたがみ)やひな形を意味する。 本稿でのデザインは狭義の設計という意味であり、CSSやHTMLなどで使われる意匠デザインの定形を示す「デザインパターン」とは異なる。 | [[ソフトウェア開発]]における'''デザインパターン'''または'''設計パターン'''({{lang-en-short|design pattern}})とは、過去の[[ソフトウェア設計者]]が発見し編み出した設計[[ノウハウ]]を蓄積し、名前をつけ、再利用しやすいように特定の規約に従ってカタログ化したものである。パターン({{lang|en|pattern}})とは、型紙(かたがみ)やひな形を意味する。
<!--
デザインパターンの古典的な例としては、[[Smalltalk]]システムで導入された [[Model View Controller]] (MVC) が挙げられる。 ← MVCは、より大規模な「アーキテクチャパターン」の例とされるのでは? -->
本稿でのデザインは狭義の設計という意味であり、[[Cascading Style Sheets|CSS]]や[[HyperText Markup Language|HTML]]などで使われる意匠デザインの定形を示す「デザインパターン」とは異なる。
== 概要 ==
書籍『[[オブジェクト指向]]における再利用のためのデザインパターン』において、[[ギャング・オブ・フォー (情報工学)|GoF]] (Gang of Four) と呼ばれる4人の共著者は、デザインパターンという用語を初めてソフトウェア開発に導入した。GoFは、[[エーリヒ・ガンマ]]、[[リチャード・ヘルム]]、[[ラルフ・ジョンソン]]、[[ジョン・ブリシディース]]の4人である。彼らは、その書籍の中で23種類のパターンを取り上げた。
彼らはこう述べている。
{{Cquote|[Design patterns] solve specific design problems and make object-oriented designs more flexible, elegant, and ultimately reusable. They help designers reuse successful designs by basing new designs on prior experience. A designer who is familiar with such patterns can apply them immediately to design problems without having to rediscover them.}}
[[コンピュータ]]の[[プログラミング]]で、[[素人]]と達人の間では驚くほどの生産性の差があり、その差はかなりの部分が経験の違いからきている。達人は、さまざまな難局を、何度も何度も耐え忍んで乗り切ってきている。そのような達人たちが同じ問題に取り組んだ場合、典型的にはみな同じパターンの解決策に辿り着く。これがデザインパターンである (GoF)。
それぞれのパターンは、[[プログラマ]]の間で何度も繰り返し考え出されてきた。したがって、それは最善の解決策ではないかもしれないが、その種の問題に対する[[トレードオフ]]を考慮した、典型的な解決策ではある。さらに、コストがかかるかもしれない問題解決を実際に行う前の先行調査として、大変役に立つ。パターンに名前が付いていることが重要である。なぜなら、名前が付いていることで問題や解決策を記述したり、会話の中で取り上げたりすることができるようになるからである。
==主要なデザインパターンの一覧==
===生成に関するパターン===
{| class = "wikitable"
! パターン名
! 概要
!GoF
!Code Complete<ref name = "McConnell2004">{{cite book
| title = [[Code Complete]]
| first = Steve
| last = McConnell
| authorlink = Steve McConnell
| month = June
| year = 2004
| publisher = [[Microsoft Press]]
| isbn = 978-0-7356-1967-8
| chapter = Design in Construction
| quote = Table 5.1 Popular Design Patterns
| edition = 2nd
| page = 104
}}</ref>
|-
|[[Abstract Factory パターン|Abstract Factory]]
|関連する一連の[[インスタンス]]を状況に応じて、適切に生成する方法を提供する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Builder パターン|Builder]]
|複合化されたインスタンスの生成過程を隠蔽する。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Factory Method パターン|Factory Method]]
|実際に生成されるインスタンスに依存しない、インスタンスの生成方法を提供する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Prototype パターン|Prototype]]
|同様のインスタンスを生成するために、原型のインスタンスを複製する。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Singleton パターン|Singleton]]
|ある[[クラス (コンピュータ)|クラス]]について、インスタンスが単一であることを保証する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|}
===構造に関するパターン===
{| class = "wikitable"
! パターン名
! 概要
!GoF
!Code Complete<ref name="McConnell2004"/>
|-
|[[Adapter パターン|Adapter]]
|元々関連性のない2つのクラスを接続するクラスを作る。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Bridge パターン|Bridge]]
|クラスなどの実装と、呼び出し側の間の橋渡しをするクラスを用意し、実装を隠蔽する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Composite パターン|Composite]]
|再帰的な構造を表現する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Decorator パターン|Decorator]]
|ある[[インスタンス]]に対し、動的に付加機能を追加する。Filterとも呼ばれる。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Facade パターン|Facade]]
|複数のサブシステムの窓口となる共通の[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を提供する。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Flyweight パターン|Flyweight]]
|多数のインスタンスを共有し、インスタンスの構築のための負荷を減らす。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Proxy パターン|Proxy]]
|共通のインタフェースを持つインスタンスを内包し、利用者からのアクセスを代理する。Wrapperとも呼ばれる。
|{{yes}}
|{{no}}
|}
===振る舞いに関するパターン===
{| class = "wikitable"
! パターン名
! 概要
!GoF
!Code Complete<ref name="McConnell2004"/>
|-
|[[Chain of Responsibility パターン|Chain of Responsibility]]
|イベントの送受信を行う複数のオブジェクトを鎖状につなぎ、それらの間をイベントが渡されていくようにする。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Command パターン|Command]]
|複数の異なる操作について、それぞれに対応するオブジェクトを用意し、オブジェクトを切り替えることで、操作の切り替えを実現する。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Interpreter パターン|Interpreter]]
|構文解析のために、文法規則を反映するクラス構造を作る。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Iterator パターン|Iterator]]
|複数の要素を内包するオブジェクトのすべての要素に対して、順番にアクセスする方法を提供する。[[反復子]]。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Mediator パターン|Mediator]]
|オブジェクト間の相互作用を仲介するオブジェクトを定義し、オブジェクト間の結合度を低くする。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Memento パターン|Memento]]
|データ構造に対する一連の操作のそれぞれを記録しておき、以前の状態の復帰または操作の再現が行えるようにする。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Observer パターン|Observer]] ([[出版-購読型モデル]])
|インスタンスの変化を他のインスタンスから監視できるようにする。Listenerとも呼ばれる。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[State パターン|State]]
|オブジェクトの状態を変化させることで、処理内容を変えられるようにする。
|{{yes}}
|{{no}}
|-
|[[Strategy パターン|Strategy]]
|[[データ構造]]に対して適用する一連の[[アルゴリズム]]を[[カプセル化]]し、アルゴリズムの切り替えを容易にする。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Template Method パターン|Template Method]]
|あるアルゴリズムの途中経過で必要な処理を抽象メソッドに委ね、その実装を変えることで処理内容を変えられるようにする。
|{{yes}}
|{{yes}}
|-
|[[Visitor パターン|Visitor]]
|データ構造を保持するクラスと、それに対して処理を行うクラスを分離する。
|{{yes}}
|{{no}}
|}
===マルチスレッドプログラミングに関するパターン===
ソフトウェアに[[並行性]]・[[並列性]]を導入するための[[マルチスレッド]]プログラミングは、難易度が比較的高いとされる。そのため、よく現れる問題に対して、汎用的に使用できる種々のパターンが考案されている。後発の高水準プログラミング言語や、並行・並列プログラミングのサポートを重視した言語では、標準ライブラリや言語構文・言語仕様に取り込まれているものも多い。
{| class = "wikitable"
!style="white-space:nowrap;min-width:12em"| パターン名
! 概要
|-
| {{仮リンク|Active object|en|Active object}} ([[アクターモデル|Actor]])
| メソッドの呼び出しとメソッドの実際の実行を分離することで、並行性を導入する。各オブジェクトは、利用者からの要求を管理するための[[メッセージキュー]]と[[スケジューリング|スケジューラ]]を持つ。
|-
| {{仮リンク|Balking|en|Balking pattern}}
| 前提条件が満たされていない場合は、(その時点での)処理の実行をあきらめる。
|-
| {{仮リンク|Double-checked locking|en|Double-checked locking pattern}}
| ロックの取得におけるオーバヘッドを削減するための技法。まずスレッドセーフでない方法で「ロックヒント」を調べて、それが成功したら実際のロックを試みる。
|-
| [[Future パターン|Future]]
| 「処理が完了しているかどうか分からない処理結果」を表すオブジェクトを作成することで同期を実現する。処理が完了していないうちに結果を取得しようとした場合は、処理が完了するまでロックされる。
|-
| {{仮リンク|Guarded suspension|en|Guarded suspension pattern}}
| 前提条件が満たされるまで待機するための機構。
|-
| [[ロック (情報工学)|Lock]]
| リソースに対して1つのスレッドが「ロック」をかけて、その間は他のスレッドがそのリソースにアクセスしたり変更を加えたりできないようにする。<ref>[http://c2.com/cgi/wiki?LockPattern Lock Pattern]</ref>
|-
| [[モニタ (同期)|Monitor]]
| 排他的に実行しなければならないメソッド群を持つオブジェクトをスレッドセーフに利用できるようにするための機構。[[Java]]は、これを言語レベルでサポートしている。
|-
| [[Producer-consumer パターン|Producer-consumer]]
| 「生産者」 (producer) スレッド群がデータを生成して「通信路」に追加し、「消費者」 (consumer) スレッド群がそのデータを「通信路」から取り出して処理するという構造。必要な同期はすべて「通信路」によって行なわれるため、生産者と消費者のルーチンは同期を意識せずに実装できる。この通信路は、[[メッセージキュー|同期キュー]]などで実現される(一部の言語はこれを標準ライブラリで提供している)。
|-
| {{仮リンク|Reactor|en|Reactor pattern}}
| 同期的に扱わなければならないリソース群に対する非同期的インタフェースを提供する。
|-
| {{仮リンク|Readers–writer lock|en|Readers–writer lock}}
| 書き込みは排他アクセスが必要だが、読み込みは並行に行えるようにしたい場合のためのロック機構。
|-
| {{仮リンク|Scheduler|en|Scheduler pattern}}
| シングルスレッドで実行される処理(例えばファイルへの書き込み)の実行を各スレッドに許可するタイミングを明確に制御する。
|-
| {{仮リンク|Thread pool|en|Thread pool pattern}}
| 多数のスレッドを作成して、それらに多数のタスクを処理させる。典型的な状況ではスレッド数よりもかなり多くのタスクが存在し、各スレッドは、あるタスクの処理が終わると次の処理待ちタスクの実行に取りかかる。一般に、Producer-consumerパターンを使って実現される。
|-
| [[スレッド局所記憶|Thread-specific storage]]
| 静的変数・グローバル変数のように扱えるがスレッドごとに異なる内容を格納できるメモリ領域を提供する。
|-
| [[Two-phase terminationパターン|Two-phase termination]]
| スレッドを安全に終了させる方法。スレッドは、終了要求を表すフラグを定期的に確認して、それがセットされたら終了処理を行う。
|}
==注意および批判==
デザインパターンは、よく使われる設計を一般化された形でまとめたものに過ぎない。そのため、具体的な実装を提供するものではなく、あくまでもコンセプトとして参照されることが意図されている。つまり、サンプルコードは、実装例に過ぎない。
デザインパターンは、すべての状況における最善の設計ではない。『Code Complete』は、デザインパターンを紹介している書籍の1つであるが、デザインパターンをむやみに適用するのは不適切であり、不適切な使用はコードの複雑さを無意味に高めてしまうと注意している<ref name="McConnell2004"/>。
一部のデザインパターンは、プログラミング言語(例: Java, [[C++]])の機能の欠損の印であると主張されることがある。[[計算機科学]]者の[[ピーター・ノーヴィグ]]は、GoFによるデザインパターン本の23パターンのうち16パターンは、言語によるサポートによって単純化または除去できることを[[Lisp]]や[[Dylan]]を用いて実演した<ref name = "Norvig1998">{{cite conference
| last = Norvig
| first = Peter
| title = Design Patterns in Dynamic Languages
| url = http://www.norvig.com/design-patterns/
| year = 1998}}
</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* [[エーリヒ・ガンマ|エリック・ガンマ]]、[[ラルフ・ジョンソン]]、[[リチャード・ヘルム]]、[[ジョン・ブリシディース]](著)、[[グラディ・ブーチ]](まえがき)、本位田真一、吉田和樹(監訳)、『オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン』、[[ソフトバンクパブリッシング]]、1995。ISBN 978-4797311129.
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Software design patterns|ソフトウェアのデザインパターン}}
*[[アンチパターン]]
*[[アナリシスパターン]] ([[マーティン・ファウラー]])
*[[開放/閉鎖原則]]
{{デザインパターン (ソフトウェア)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てさいんはたん}}
[[Category:デザインパターン (ソフトウェア)|*]]
[[Category:ソフトウェアパターン]]
[[Category:プログラミング]]
[[Category:ソフトウェア工学]]
[[Category:ソフトウェア開発]]
[[Category:コンピュータの文献]] | null | 2023-04-20T16:00:40Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Commonscat",
"Template:デザインパターン (ソフトウェア)",
"Template:Normdaten",
"Template:Lang",
"Template:Cquote",
"Template:Yes",
"Template:No",
"Template:Cite conference",
"Template:Lang-en-short",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2) |
5,329 | 西遊記 | 『西遊記』(さいゆうき、繁体字: 西遊記; 簡体字: 西游记; 拼音: Xī Yóu Jì; ウェード式: Hsi-yu chi; 粤拼: sai1 jau4 gei3、タイ語: ไซอิ๋ว、ベトナム語: Tây du ký)は、中国で16世紀の明の時代に大成した白話小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府志』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江南省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述(#原作者の謎)。
『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。
唐の時代に中国からインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大白話小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。
『西遊記』には人間の登場人物として玄奘三蔵や唐の太宗皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全にフィクションであり、史実とは一致しない。また、『西遊記』を映像化・舞台化する場合には主要な登場人物が男性のみとなってしまうことから、日本では、中心人物の一人である三蔵法師役には男性ではなく女性が当てられることもある。
現実の玄奘三蔵の取経の旅は西暦629年から645年に行われた。その事績が仏教徒の間で伝説化し神聖視された痕跡が各地に残されている。
敦煌莫高窟から発見された絹本、紙本の絵画及び壁画(9世紀から11世紀半ば)には、経巻を背負い虎を伴った徒歩の行脚僧の描かれたものがあり、伝説化した玄奘とする説がある。これらの中には宝勝如来を上隅に描き入れているものがあり、「寳勝如來一軀」と書き入れられたものもあることからこの取経者は宝勝如来に保護され、また宝勝如来と同一視されたと推定される。
莫高窟東方約 100 km の楡林窟、その更に東方約 30 km の東千仏洞の水月観音図、普賢変図(12世紀後半、西夏末)に含まれる玄奘取経図に描かれた玄奘は猴(マカカ属のサル)と馬を伴っており、また張世南『游宦紀聞』(1228年)所収の張聖者の詩(北宋末から南宋初、12世紀前半と推定される)には「幾生三藏往西天」「苦海波中猴行復」「沈毛江上馬馳前」の字句が見え、12世紀には玄奘の取経伝説には猴と馬が取り込まれていたことが分かる。1237年に建立された福建省泉州の開元寺の仁壽塔(西塔)第四層南面には「梁武帝」に向き合って経文を捧げる「唐三藏」、東北面には刀を手にした猴行者と金箍棒を手にした「東海火龍太子」の浮き彫りがあり、それぞれ「」内の文字が銘文にある(猴行者は銘文無し)。
宋代には原型となる説話「大唐三蔵取經詩話」(三蔵が猴行者 を連れ取経の旅をする)が存在していた。西遊記でいま残っている最古のものは元代の西遊記の逸話を収録したとみられる朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)によるものである。写本は科挙を目指す書生たちが息抜きに作成していったと思われ、書き写されるたびに詩文・薀蓄が追加され、拡張され、また、戯曲の雑劇「西遊雑劇」として好んで上演された。
明代には多数の西遊記版本があった。代表的なものは『西遊記傳』(楊至和本)、『唐三藏西遊傳』(朱鼎臣本)など三種のうちその最も膨らんだ姿が、万暦20年(1592年)金陵世徳堂の刊行した『新刻出像官板大字西遊記』(作者名なし 通称は世徳堂本)である。
明末期になると、蘇州刊本『李卓吾先生批評西遊記』があり、内閣文庫に収蔵されているが、むろん李卓吾の名は他の小説本と同様に、刊行元が価値をつけるために勝手に付けられたものである。本文は世徳堂本とほぼ同じである。
この版での全訳が、中野美代子訳 『西遊記』(岩波文庫全10巻)である。
これらは(繁本版には詞が多数入っているので)分量が多すぎたとみられ、清代には商業ベースを考慮したダイジェスト(簡本)が『西遊証道書』をはじめ、多くの版が刊行されたが、それらの内容を比較するとそれぞれ一長一短であるが、最もバランスよく整理されているのが、やや大部の簡本で康熙33年(1694年)刊行の『西遊真詮』である。この版での訳書が、太田辰夫・鳥居久靖訳 『西遊記』(平凡社) である。
前述のとおり、清代には、作者は長春真人丘処機と信じられており、ティモシー・リチャード による初の英訳本(上海・1919年刊行)においても、作者名は丘長春とされていた。
呉承恩作者説は、魯迅『中国小説史略』(1924年、訳書は平凡社東洋文庫全2巻)や「中国小説的歴史的変遷」などで提唱したもので、比較的新しい説である。それ以降、呉承恩が作者として扱われることが多いが、証拠はない。
日本では太田辰夫や中野美代子が、研究によりこの説を否定 しており、『世界文学事典』(集英社)でも、「小説『西遊記』の版本に、呉承恩の名前や別号を記したものがないため、呉承恩の『西遊記』が、小説の西天取経物語を指すのか、あるいはその戯曲、あるいは全く別の紀行文を指すのか、現在まだ定説はない」、「(呉承恩は西遊記の)最大限改編者であり得ても、<作者>ではない」と書かれている。日本訳では、現行の平凡社版(太田・鳥居訳)でも、岩波文庫版(中野美代子訳)でも原作者名は記載されていないが、福音館書店版(君島久子 校訂/リライト)など、呉承恩作と記載されている出版物も少なくなく、呉承恩作者説は未だ一般に広く流布している。21世紀に入った今日まで、西遊記の作者が誰なのかは決定的な確説は出ていない。
以下は世徳堂本の百回。
東勝神州()傲来国()花果山()の仙石から天地の霊気をまとった石猿が誕生する。猿はとてつもない度胸の持ち主で、山奥の滝壺にて洞天福地の水簾洞()を発見した功により、花果山の周辺の猿を従えて王となり、美猴王と名乗る。ある時、美猴王はこの世の森羅万象について考えていくうち、生きとし生ける物の生死に悲観し、不老不死を願うようになり、西牛賀州霊台方寸山まで仙術を身につけに行く。師匠須菩提祖師から孫悟空という法名を授かり、七十二般の術と觔斗雲の術を身につけるがまだ満たされず、とうとう四海竜王の竜宮ひいては天界にまで殴り込みに行き、天界を統べる玉帝より弼馬温()の位を授かる。当初悟空は弼馬温の実態も知らず喜んでいたが、後に弼馬温が只の馬飼いと知るや否やたちまち激怒し、自ら斉天大聖と名乗り、哪吒太子や顕聖二郎真君相手に天界で大暴れする。西王母の蟠桃を食らい、太上老君の金丹を平らげ、罰として八卦炉に入れられるも、悟空は「銅筋鐵骨 火眼金睛」の不死身の体となって生きのび飛び出した。ついには釈迦如来と「俺は地の果てまでも飛んでいってみせる」と賭けをする。地の果てらしき場所に立っていた5本の柱に到達したしるしとして悟空は一筆書き、柱に小便を引っかけて得意となって戻ってくるものの、実は釈迦の両手のなかをぐるりと周回しただけであった。釈迦が示した手に自分の署名を見て呆然とした悟空はその場を逃げようとしたものの、あっという間に五行山の下敷きにされてしまった。
悟空が五行山の下敷きにされてから五百年の時が流れた。時は唐代の太宗の御世であった。太宗は一時病のために死んで地獄を巡ったが、冥土の高官たちの目こぼしにより再び現世によみがえった。やがて太宗が閻魔の言い付け通りに水陸大会を催し、その時後に取経の僧に選ばれる玄奘を見出す。所変わって天界では観世音菩薩が弟子の恵岸とともに下界へ降り立ち、悟空を含む諸々の罪人達にある取り引きをした。天界にて罪を犯していたのは悟空だけではなかった。その罪人たちとは、天の川の水軍を統べる天蓬元帥であったが月の女神嫦娥をたぶらかしたために天界を追われ、妖仙と化して深山にて暴れていた猪八戒、天界の軍人であった捲簾大将が天界の宝である玻璃の器を壊して天界を追われ流沙河にて人を食らう妖仙となった沙悟浄、そして父竜王の竜宮で宝珠を焼き死罪を言い渡されその間中空に逆さ吊りにされて苦しんでいた西海竜王敖閏の子の玉龍である。観音はめいめいにいつか現れる取経の僧とともに天竺へ参り、贖罪を果たすことを約束させる。功によっては彼らを仏にしてもいいということを条件として。その取経の僧こそが、あらゆる経典を学び、人徳に優れ、多くの人々から聖僧と敬われていた玄奘三蔵であった。彼もまたかつて釈迦の二番弟子(金蝉子)であったのにもかかわらず、釈迦の説法を侮ったために罰として下界に転生させられていた。やがて貞観13年9月3日(639年)、三蔵は太宗と菩薩の命で天竺へ行くことを決意し、菩薩から教えられた、自分に従うことになる弟子たちを探して旅立ったのだった。最初に三蔵は五行山で悟空を助け出し、続いて鷹愁澗で玉龍を導き、さらに高老荘で八戒を、最後に流沙河で悟浄を弟子にした。
贖罪の旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する。三蔵の袈裟()が黒熊怪に奪われる、三蔵が黄風大王にさらわれる、太上老君(老子)の炉の番人の金角・銀角大王と戦う、牛魔王の子の紅孩児と争う、観世音菩薩が飼っていた金魚が逃げ出した霊感大王と戦う、太上老君の乗用牛の獨角兕大王と戦う、西梁女人国という女だらけの国で心ならずも三蔵と八戒が子を孕む(後に堕胎した)、三蔵が釈迦如来を刺したサソリの精に誘惑される、火焔山で悟空が紅孩児の母の羅刹女に芭蕉扇で吹き飛ばされる、その夫にして紅孩児の父の牛魔王と対決する、朱紫国で観世音菩薩の乗用金毛毛孔の賽太歳大王と戦う、獅駝嶺で文殊菩薩の乗用去勢青獅子の一大王・普賢菩薩乗用黄牙白象の二大王・大鵬金翅鵰の三大王と戦う、小子城で寿星(南極星)の乗用の鹿である比丘国国丈と対決する、鎮海寺で哪吒太子()を兄と慕う地湧夫人(正体はネズミ)と戦う...など、あまたの苦難が一行を待っていた。
旅の終盤、とうとう天竺にたどり着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。そのとき、上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わないため、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。通天河に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっつき、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、ついに五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏()、悟空は闘戦勝仏()、八戒は浄壇使者()、悟浄は金身羅漢()、玉龍は八部天竜()となる。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。
Category:西遊記を題材とした作品も参照。 | [
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"text": "『西遊記』(さいゆうき、繁体字: 西遊記; 簡体字: 西游记; 拼音: Xī Yóu Jì; ウェード式: Hsi-yu chi; 粤拼: sai1 jau4 gei3、タイ語: ไซอิ๋ว、ベトナム語: Tây du ký)は、中国で16世紀の明の時代に大成した白話小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府志』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江南省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述(#原作者の謎)。",
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"text": "『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。",
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"text": "唐の時代に中国からインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大白話小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。",
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"text": "『西遊記』には人間の登場人物として玄奘三蔵や唐の太宗皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全にフィクションであり、史実とは一致しない。また、『西遊記』を映像化・舞台化する場合には主要な登場人物が男性のみとなってしまうことから、日本では、中心人物の一人である三蔵法師役には男性ではなく女性が当てられることもある。",
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"text": "現実の玄奘三蔵の取経の旅は西暦629年から645年に行われた。その事績が仏教徒の間で伝説化し神聖視された痕跡が各地に残されている。",
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"text": "敦煌莫高窟から発見された絹本、紙本の絵画及び壁画(9世紀から11世紀半ば)には、経巻を背負い虎を伴った徒歩の行脚僧の描かれたものがあり、伝説化した玄奘とする説がある。これらの中には宝勝如来を上隅に描き入れているものがあり、「寳勝如來一軀」と書き入れられたものもあることからこの取経者は宝勝如来に保護され、また宝勝如来と同一視されたと推定される。",
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"text": "莫高窟東方約 100 km の楡林窟、その更に東方約 30 km の東千仏洞の水月観音図、普賢変図(12世紀後半、西夏末)に含まれる玄奘取経図に描かれた玄奘は猴(マカカ属のサル)と馬を伴っており、また張世南『游宦紀聞』(1228年)所収の張聖者の詩(北宋末から南宋初、12世紀前半と推定される)には「幾生三藏往西天」「苦海波中猴行復」「沈毛江上馬馳前」の字句が見え、12世紀には玄奘の取経伝説には猴と馬が取り込まれていたことが分かる。1237年に建立された福建省泉州の開元寺の仁壽塔(西塔)第四層南面には「梁武帝」に向き合って経文を捧げる「唐三藏」、東北面には刀を手にした猴行者と金箍棒を手にした「東海火龍太子」の浮き彫りがあり、それぞれ「」内の文字が銘文にある(猴行者は銘文無し)。",
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"text": "宋代には原型となる説話「大唐三蔵取經詩話」(三蔵が猴行者 を連れ取経の旅をする)が存在していた。西遊記でいま残っている最古のものは元代の西遊記の逸話を収録したとみられる朝鮮の書『朴通事諺解』(1677年)によるものである。写本は科挙を目指す書生たちが息抜きに作成していったと思われ、書き写されるたびに詩文・薀蓄が追加され、拡張され、また、戯曲の雑劇「西遊雑劇」として好んで上演された。",
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"text": "明代には多数の西遊記版本があった。代表的なものは『西遊記傳』(楊至和本)、『唐三藏西遊傳』(朱鼎臣本)など三種のうちその最も膨らんだ姿が、万暦20年(1592年)金陵世徳堂の刊行した『新刻出像官板大字西遊記』(作者名なし 通称は世徳堂本)である。",
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"text": "明末期になると、蘇州刊本『李卓吾先生批評西遊記』があり、内閣文庫に収蔵されているが、むろん李卓吾の名は他の小説本と同様に、刊行元が価値をつけるために勝手に付けられたものである。本文は世徳堂本とほぼ同じである。",
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"text": "この版での全訳が、中野美代子訳 『西遊記』(岩波文庫全10巻)である。",
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"text": "これらは(繁本版には詞が多数入っているので)分量が多すぎたとみられ、清代には商業ベースを考慮したダイジェスト(簡本)が『西遊証道書』をはじめ、多くの版が刊行されたが、それらの内容を比較するとそれぞれ一長一短であるが、最もバランスよく整理されているのが、やや大部の簡本で康熙33年(1694年)刊行の『西遊真詮』である。この版での訳書が、太田辰夫・鳥居久靖訳 『西遊記』(平凡社) である。",
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"text": "前述のとおり、清代には、作者は長春真人丘処機と信じられており、ティモシー・リチャード による初の英訳本(上海・1919年刊行)においても、作者名は丘長春とされていた。",
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"text": "呉承恩作者説は、魯迅『中国小説史略』(1924年、訳書は平凡社東洋文庫全2巻)や「中国小説的歴史的変遷」などで提唱したもので、比較的新しい説である。それ以降、呉承恩が作者として扱われることが多いが、証拠はない。",
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"text": "日本では太田辰夫や中野美代子が、研究によりこの説を否定 しており、『世界文学事典』(集英社)でも、「小説『西遊記』の版本に、呉承恩の名前や別号を記したものがないため、呉承恩の『西遊記』が、小説の西天取経物語を指すのか、あるいはその戯曲、あるいは全く別の紀行文を指すのか、現在まだ定説はない」、「(呉承恩は西遊記の)最大限改編者であり得ても、<作者>ではない」と書かれている。日本訳では、現行の平凡社版(太田・鳥居訳)でも、岩波文庫版(中野美代子訳)でも原作者名は記載されていないが、福音館書店版(君島久子 校訂/リライト)など、呉承恩作と記載されている出版物も少なくなく、呉承恩作者説は未だ一般に広く流布している。21世紀に入った今日まで、西遊記の作者が誰なのかは決定的な確説は出ていない。",
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"text": "以下は世徳堂本の百回。",
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"text": "東勝神州()傲来国()花果山()の仙石から天地の霊気をまとった石猿が誕生する。猿はとてつもない度胸の持ち主で、山奥の滝壺にて洞天福地の水簾洞()を発見した功により、花果山の周辺の猿を従えて王となり、美猴王と名乗る。ある時、美猴王はこの世の森羅万象について考えていくうち、生きとし生ける物の生死に悲観し、不老不死を願うようになり、西牛賀州霊台方寸山まで仙術を身につけに行く。師匠須菩提祖師から孫悟空という法名を授かり、七十二般の術と觔斗雲の術を身につけるがまだ満たされず、とうとう四海竜王の竜宮ひいては天界にまで殴り込みに行き、天界を統べる玉帝より弼馬温()の位を授かる。当初悟空は弼馬温の実態も知らず喜んでいたが、後に弼馬温が只の馬飼いと知るや否やたちまち激怒し、自ら斉天大聖と名乗り、哪吒太子や顕聖二郎真君相手に天界で大暴れする。西王母の蟠桃を食らい、太上老君の金丹を平らげ、罰として八卦炉に入れられるも、悟空は「銅筋鐵骨 火眼金睛」の不死身の体となって生きのび飛び出した。ついには釈迦如来と「俺は地の果てまでも飛んでいってみせる」と賭けをする。地の果てらしき場所に立っていた5本の柱に到達したしるしとして悟空は一筆書き、柱に小便を引っかけて得意となって戻ってくるものの、実は釈迦の両手のなかをぐるりと周回しただけであった。釈迦が示した手に自分の署名を見て呆然とした悟空はその場を逃げようとしたものの、あっという間に五行山の下敷きにされてしまった。",
"title": "内容"
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"text": "悟空が五行山の下敷きにされてから五百年の時が流れた。時は唐代の太宗の御世であった。太宗は一時病のために死んで地獄を巡ったが、冥土の高官たちの目こぼしにより再び現世によみがえった。やがて太宗が閻魔の言い付け通りに水陸大会を催し、その時後に取経の僧に選ばれる玄奘を見出す。所変わって天界では観世音菩薩が弟子の恵岸とともに下界へ降り立ち、悟空を含む諸々の罪人達にある取り引きをした。天界にて罪を犯していたのは悟空だけではなかった。その罪人たちとは、天の川の水軍を統べる天蓬元帥であったが月の女神嫦娥をたぶらかしたために天界を追われ、妖仙と化して深山にて暴れていた猪八戒、天界の軍人であった捲簾大将が天界の宝である玻璃の器を壊して天界を追われ流沙河にて人を食らう妖仙となった沙悟浄、そして父竜王の竜宮で宝珠を焼き死罪を言い渡されその間中空に逆さ吊りにされて苦しんでいた西海竜王敖閏の子の玉龍である。観音はめいめいにいつか現れる取経の僧とともに天竺へ参り、贖罪を果たすことを約束させる。功によっては彼らを仏にしてもいいということを条件として。その取経の僧こそが、あらゆる経典を学び、人徳に優れ、多くの人々から聖僧と敬われていた玄奘三蔵であった。彼もまたかつて釈迦の二番弟子(金蝉子)であったのにもかかわらず、釈迦の説法を侮ったために罰として下界に転生させられていた。やがて貞観13年9月3日(639年)、三蔵は太宗と菩薩の命で天竺へ行くことを決意し、菩薩から教えられた、自分に従うことになる弟子たちを探して旅立ったのだった。最初に三蔵は五行山で悟空を助け出し、続いて鷹愁澗で玉龍を導き、さらに高老荘で八戒を、最後に流沙河で悟浄を弟子にした。",
"title": "内容"
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"text": "贖罪の旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する。三蔵の袈裟()が黒熊怪に奪われる、三蔵が黄風大王にさらわれる、太上老君(老子)の炉の番人の金角・銀角大王と戦う、牛魔王の子の紅孩児と争う、観世音菩薩が飼っていた金魚が逃げ出した霊感大王と戦う、太上老君の乗用牛の獨角兕大王と戦う、西梁女人国という女だらけの国で心ならずも三蔵と八戒が子を孕む(後に堕胎した)、三蔵が釈迦如来を刺したサソリの精に誘惑される、火焔山で悟空が紅孩児の母の羅刹女に芭蕉扇で吹き飛ばされる、その夫にして紅孩児の父の牛魔王と対決する、朱紫国で観世音菩薩の乗用金毛毛孔の賽太歳大王と戦う、獅駝嶺で文殊菩薩の乗用去勢青獅子の一大王・普賢菩薩乗用黄牙白象の二大王・大鵬金翅鵰の三大王と戦う、小子城で寿星(南極星)の乗用の鹿である比丘国国丈と対決する、鎮海寺で哪吒太子()を兄と慕う地湧夫人(正体はネズミ)と戦う...など、あまたの苦難が一行を待っていた。",
"title": "内容"
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"text": "旅の終盤、とうとう天竺にたどり着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。そのとき、上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わないため、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。通天河に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっつき、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、ついに五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏()、悟空は闘戦勝仏()、八戒は浄壇使者()、悟浄は金身羅漢()、玉龍は八部天竜()となる。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。",
"title": "内容"
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"text": "Category:西遊記を題材とした作品も参照。",
"title": "翻案作品"
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] | 『西遊記』は、中国で16世紀の明の時代に大成した白話小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。
著者は、『淮安府志』(明、天啓年間成立)に、呉承恩の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述(#原作者の謎)。 『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。 | {{Otheruses|中国の白話小説|その他}}
[[ファイル:JourneytotheWest.jpg|right|thumb|330px|『西遊記』の登場人物を描いた絵画([[頤和園]])。]]
[[ファイル:Pekin przedstawienie tradycjnego teatru chinskiego 7.JPG|right|thumb|330px|[[京劇]]の『西遊記』。]]
{{Chinese|pic=Xi_you_ji_(Chinese_characters).svg|picsize=130px|t=西遊記|s=西游记|p=Xī Yóu Jì|w=Hsi-yu chi|mi={{IPAc-cmn|x|i|1|-|you|2|-|j|i|4}}|j=sai¹ jau⁴ gei³|wuu=Si yøʏ dzǐ|bpmf=ㄒㄧㄧㄡˊㄐㄧˋ|tl=Se iû kì|hangul=서유기|hanja=西遊記|vie=Tây du ký|hn=西遊記|tha=ไซอิ๋ว}}
『'''西遊記'''』(さいゆうき、{{Lang-zh | t=西遊記| s=西游记|p= Xī Yóu Jì||w =Hsi-yu chi|j =sai¹ jau⁴ gei³ | first=t}}、{{Lang-th|ไซอิ๋ว}}、{{Lang-vi|Tây du ký}})は、[[中国]]で[[16世紀]]の[[明]]の時代に大成した[[白話小説]]で、唐僧・[[玄奘三蔵|三蔵法師]]が白馬・[[玉龍]]に乗って三神仙(神通力を持った[[仙人]])、[[孫悟空]]、[[猪八戒]]、[[沙悟浄]]を供に従え、幾多の苦難を乗り越え[[インド|天竺]]へ取経を目指す物語、全100回。[[四大奇書|中国四大奇書]]に数えられる。
著者は、『淮安府志』([[明]]、[[天啓 (明)|天啓]]年間成立)に、[[呉承恩]]([[1504年]]頃 - [[1582年]]頃、[[江南省]]出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述([[#原作者の謎]])。
『西遊記』の流行を受けて、明代から[[清|清代]]にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、[[仏教]]と[[道教]]に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『[[東遊記 (小説)|東遊記]]』・『[[南遊記]]』・『[[北遊記]]』で『[[四遊記]]』と称される。
== 概要 ==
[[唐]]の時代に中国から[[インド]]へ渡り[[仏教]]の[[経典]]を持ち帰った[[玄奘三蔵]]の長年の旅を記した地誌『[[大唐西域記]]』を基に、[[道教]]、[[仏教]]の天界に仙界、神や[[竜|龍]]や妖怪や[[仙人]]など、虚実が入り乱れる一大白話小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。
『西遊記』には[[人間]]の登場人物として玄奘三蔵や唐の[[太宗 (唐)|太宗]]皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全に[[フィクション]]であり、史実とは一致しない。また、『西遊記』を映像化・舞台化する場合には主要な登場人物が男性のみとなってしまうことから、日本では、中心人物の一人である三蔵法師役には男性ではなく女性が当てられることもある。
== 成立 ==
=== 唐三蔵西天取経伝説 ===
[[File:Xuan Zang.jpg|right|thumb|敦煌の洞窟に残された9世紀頃の壁画]]
現実の玄奘三蔵の取経の旅は[[西暦]]629年から645年に行われた。その事績が仏教徒の間で伝説化し神聖視された痕跡が各地に残されている。
敦煌[[莫高窟]]から発見された絹本、紙本の絵画及び壁画(9世紀から11世紀半ば)には、経巻を背負い虎を伴った徒歩の行脚僧の描かれたものがあり、伝説化した玄奘とする説がある。これらの中には宝勝如来を上隅に描き入れているものがあり、「寳勝如來一軀」と書き入れられたものもあることからこの取経者は宝勝如来に保護され、また宝勝如来と同一視されたと推定される。
莫高窟東方約 100 km の楡林窟、その更に東方約 30 km の東千仏洞の水月観音図、普賢変図(12世紀後半、西夏末)に含まれる玄奘取経図に描かれた玄奘は猴(マカカ属のサル)と馬を伴っており、また張世南『游宦紀聞』(1228年)所収の張聖者の詩(北宋末から南宋初、12世紀前半と推定される)には「幾生三藏往西天」「苦海波中猴行復」「沈毛江上馬馳前」の字句が見え、12世紀には玄奘の取経伝説には猴と馬が取り込まれていたことが分かる。1237年に建立された福建省泉州の開元寺の仁壽塔(西塔)第四層南面には「梁武帝」に向き合って経文を捧げる「唐三藏」、東北面には刀を手にした猴行者と金箍棒を手にした「東海火龍太子」の浮き彫りがあり、それぞれ「」内の文字が銘文にある(猴行者は銘文無し)。
=== 西遊記の成立 ===
{{main|西遊記の成立史}}
[[File:Evl53201b pic.jpg|right|thumb|金陵世德堂版西遊記]]
[[宋 (王朝)|宋代]]には原型となる[[説話 (中国)|説話]]「大唐三蔵取經詩話」(三蔵が猴行者<ref group="注">{{読み仮名|猴|サル}} の[[行者]]。</ref> を連れ取経の旅をする)が存在していた。西遊記でいま残っている最古のものは[[元 (王朝)|元代]]の西遊記の逸話を収録したとみられる朝鮮の書『朴通事諺解』([[1677年]])によるものである。[[写本]]は[[科挙]]を目指す書生たちが息抜きに作成していったと思われ、書き写されるたびに詩文・薀蓄が追加され、拡張され、また、[[戯曲 (中国)|戯曲]]の[[雑劇]]「西遊雑劇」として好んで上演された。
[[明|明代]]には多数の西遊記版本があった。代表的なものは『西遊記傳』(楊至和本)、『唐三藏西遊傳』(朱鼎臣本)など三種のうちその最も膨らんだ姿が、[[万暦]]20年([[1592年]])[[南京|金陵]]世徳堂の刊行した『新刻出像官板大字西遊記』(作者名なし 通称は世徳堂本)である。
明末期になると、蘇州刊本『李卓吾先生批評西遊記』があり、[[内閣文庫]]に収蔵されているが、むろん[[李卓吾]]の名は他の小説本と同様に、刊行元が価値をつけるために勝手に付けられたものである。本文は世徳堂本とほぼ同じである。
この版での全訳が、'''[[中野美代子]]訳 『西遊記』([[岩波文庫]]全10巻)'''である<ref group="注">岩波文庫の旧訳は、[[小野忍]]訳(第1〜3巻、1977-80年)で、小野が急逝したことで中野が引き継ぎ、第4〜10巻を十数年かけ訳・刊行した。現行版は、再度全巻を改訳・新訳し2005年に刊行。ISBN 978-4002011165(10冊セット)</ref>。
これらは(繁本版には[[詞]]が多数入っているので)分量が多すぎたとみられ、[[清|清代]]には商業ベースを考慮したダイジェスト(簡本)が『西遊証道書』<ref group="注">[[康熙]]初年。その序には作者を長春真人[[丘長春|丘処機]]とされていたため、以降は、清代の西遊記の作者とみなされた。</ref>をはじめ、多くの版が刊行されたが、それらの内容を比較するとそれぞれ一長一短であるが、最もバランスよく整理されているのが、やや大部の簡本で康熙33年([[1694年]])刊行の『西遊真詮』である。この版での訳書が、'''[[太田辰夫]]・[[鳥居久靖]]訳 『西遊記』([[平凡社]])'''<ref group="注">平凡社版『西遊記』は、初訳は1960年に〈中国古典文学全集 13・14〉で、1971-72年に改訳され 「[[中国古典文学大系]] 31・32」が、<br />
1972年に「奇書シリーズ」(上下) (上)ISBN 978-4582327014 (下)ISBN 978-4582327021 が、<br />
1989-90年には選書版で「コンパクト版奇書シリーズ」(全7巻) (1)ISBN 4582327117 (2)ISBN 4-582-32712-5 (3)ISBN 978-4582327137 (4)ISBN 978-4582327144 (5)ISBN 978-4582327151 (6)ISBN 978-4582327168 (7)ISBN 978-4582327175 が刊行した。</ref> である。
==== 原作者の謎 ====
前述のとおり、[[清|清代]]には、作者は長春真人[[丘長春|丘処機]]と信じられており、ティモシー・リチャード<ref group="注">1845年-1919年。イギリスの宣教師で、中国古典を多数英訳した。([[:en:Timothy Richard|Timothy Richard]])</ref> による初の英訳本(上海・1919年刊行)においても、作者名は丘長春とされていた。
呉承恩作者説は、[[魯迅]]『中国小説史略』(1924年、訳書は[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]全2巻)や「中国小説的歴史的変遷」などで提唱したもので、比較的新しい説である。それ以降、呉承恩が作者として扱われることが多いが、証拠はない。
日本では太田辰夫や中野美代子が、研究によりこの説を否定<ref group="注">なお中野は、作者複数説を唱えている。</ref> しており、『世界文学事典』([[集英社]])でも、「小説『西遊記』の版本に、呉承恩の名前や別号を記したものがないため、呉承恩の『西遊記』が、小説の西天取経物語を指すのか、あるいはその戯曲、あるいは全く別の紀行文を指すのか、現在まだ定説はない」、「(呉承恩は西遊記の)最大限改編者であり得ても、<作者>ではない」と書かれている。日本訳では、現行の平凡社版(太田・鳥居訳)でも、岩波文庫版(中野美代子訳)でも原作者名は記載されていないが、福音館書店版([[君島久子]] 校訂/リライト<ref group="注">児童向けの訳本だが、『金陵世德堂版 西遊記』を定本に、清代での6種の版本に基づき、君島久子が校訂した。[[福音館書店]] 「福音館古典童話シリーズ」全2巻 1975 - 1976年。上) ISBN 978-4-8340-0451-9 下) ISBN 978-4-8340-0477-9、「福音館文庫」全3巻 2004年 (1) ISBN 978-4-8340-0992-7 (2) ISBN 978-4-8340-0993-4 (3) ISBN 978-4-8340-0994-1 </ref>)など、呉承恩作と記載されている出版物も少なくなく、呉承恩作者説は未だ一般に広く流布している。21世紀に入った今日まで、西遊記の作者が誰なのかは決定的な確説は出ていない。
== 主要登場キャラクター ==
[[File:Xyj-sun wukong.jpg|right|thumb|150px|西游真詮 图像6 孫行者(孫悟空)]]
[[File:Xyj-zhu.jpg|right|thumb|150px|西游真詮 图像7 猪八戒]]
[[File:Xyj-sha seng.jpg|right|thumb|150px|西游真詮 图像8 沙僧(沙悟浄)]]
[[File:Xyj-tang seng.jpg|right|thumb|150px|西游真詮 图像5 唐僧(三蔵法師)]]
; {{読み仮名|[[孫悟空]]|そん ごくう}}
: “悟空”は[[仙術]]の師匠・須菩提祖師からもらった法号であるため、「実名敬避俗」([[諱]]参照)に準じ“孫行者”と呼ばれる。孫悟空の孫は猿の昔の呼び方である「猢猻」から来ている(“猢”は「[[胡]]」という縁起が悪いため、子と系で釣り合いの良い“猻”の獣偏を取った“孫”を名前に取り入れ、悟空は十番目の弟子だった為“穎悟円覚”の悟の字から取り入れた)。
: はじめの通称は「美猴王」(びこうおう)、天界時の自称は「[[斉天大聖]]」(せいてんたいせい)。
: 天界の乗っ取りを目論み下界の妖怪を引き連れて反乱を起こすが、釈迦如来の策で五行山に五百年間拘束される。罪を償うべく三蔵の弟子として同行し、妖魔を下して取経の旅を支えた。西域に帰還の後、成仏して[[闘戦勝仏]]となっていた。
;{{読み仮名| [[猪八戒]]|ちょ はっかい}}
: “八戒”は「実名敬避俗」に準じた通称であり、観音菩薩からもらった法号は「猪悟能」(ちょごのう)。天界から地上へと落とされた際、雌豚の胎内に入ってしまったため、容姿が豚となってしまう。
: 天界時の官職は[[北極紫微大帝]]の配下・「[[天蓬元帥]]」(てんぽうげんすい)。
: 転生後は福梁山で悪事を重ね、高老荘で翠蘭という人間の女と結婚していたが、先んじて三蔵に同行していた悟空と[[一騎討ち]]をしたのち旅に加わった。西域に帰還の後、「浄壇使者」(じょうだんししゃ)となった。
; {{読み仮名|[[沙悟浄]]|さ ごじょう}}
: “悟浄”は観音菩薩からもらった法号であるため、「実名敬避俗」に準じ“沙和尚”と呼ばれる。悟空と八戒との間を取り持つ役。天界から流沙河に追放され、そこで人を襲う妖怪となり、赤い髪に青黒い肌となった。川に住む妖怪から、日本では[[河童]]の姿で表現される。
: 天界時の官職は「捲簾大将」(けんれんたいしょう)。
: 西域に帰還の後、「金身羅漢」(こんしんらかん)の位を与えられた。
; {{読み仮名|[[三蔵法師#西遊記の三蔵法師|三蔵法師]]|さんぞうほうし}}
: 俗名は陳江流<ref group="注">姓は陳であるが、江流は[[幼名]]であり、成人する前に出家したからか玄奘の[[諱]]や[[字]]の記述はない。あるいは史実と同じく褘が諱で、陳褘という姓名か</ref>。三蔵法師は尊称、法名は「[[玄奘三蔵]]」(げんじょうさんぞう)。この人物には実在のモデルがいるが、劇中の内容は史実とは全く異なる。
: 生まれる前に父を殺され<ref group="注">ただし父・陳光蕋は生前に鯉となった竜王を助けたおかげで、死後蘇る</ref>、母を奪われて、生まれてすぐに川に流されるが、金山寺<ref group="注">南京の近くを流れる鎮江の西北、金山にある実在の寺</ref> で拾われずっとそこで育てられる。観音菩薩の命を受けて天竺へと取経の旅へ遣わされる。その際、太宗皇帝と義兄弟となった。
: 前世で天界にいた時は釈迦の第二の弟子、「金蝉子」(こんぜんし)であったが、仏法を軽んじたため下界に落とされた。
: 西域に帰還の後、「[[旃檀功徳仏]]」(せんだんくどくぶつ)という仏となった。
; {{読み仮名|[[玉龍]]|ぎょくりゅう}}
: [[四海龍王]]の一人・西海龍王敖閏の第3太子であり三蔵が乗っている馬に化身している。
: 西域に帰還の後、「八部天竜」(はちぶてんりゅう)という位を与えられた。
; {{読み仮名|[[釈迦如来]]|しゃかにょらい}}
: 西方の霊山大雷音寺に住み、天帝の依頼で孫悟空を退治した。天界で暴れ、強者こそが尊いとして天帝に位を譲れという孫悟空を痛罵し、その力を見せてみよと挑発した。如来の右の手のひらから飛び出せるか賭けをすることになり、悟空は{{読み仮名|觔斗雲|きんとうん}}で飛び去るが、はたして最果ての天の柱は如来の指であった。まやかしの術だと抗弁しもう一度飛び出そうとしていた悟空を手で打ち据え、押さえつけて、五行山に閉じ込めて封印してしまう。
; {{読み仮名|[[観世音菩薩]]|かんぜおんぼさつ}}
: [[鳩摩羅什]]による訳語、観世音菩薩が[[唐]]の二代目[[皇帝]]、[[太宗 (唐)|李世民]]の名“世”から[[避諱]]により唐時代の中国では[[観音菩薩]]。玄奘三蔵の訳では観自在菩薩。落伽山に住んでいる。悟空が逃げないように、老婆の姿になって三蔵に緊箍児(僧頭巾)と、緊箍呪(定心真言)を教えた。
; {{読み仮名|[[哪吒|哪吒太子]]|なた たいし}}
: 天界軍を指揮する[[毘沙門天|托塔李天王]]の息子。 生まれながら両手の裏に『哪』と『吒』の字がいる。孫悟空を討伐しに行く時、玉皇大帝に『三壇海会大神』の神号を与えられた。三面六臂の神通を使い、斬妖剣・砍妖刀・縛妖索・降妖杵・綉毬・火輪という六種の武器で戦う。更にその武器を幾千万の数に変化し、兵器の雨みたいに相手を攻撃することができる。
: 『封神演義』では出身が一般的なナタの神話と異なり、神ではない存在になっているが、主役級のキャラクターとしてかなりの活躍をしており火尖槍や風火輪などを使う仙家の強者である。
; {{読み仮名|[[顕聖二郎真君]]|けんせいじろうしんくん}}
: 天界を治める最高神である[[玉皇大帝|玉帝]]の妹の子。孫悟空と同じく法天相地の神通を使える神。悟空が天界に対して反乱を起こした際に六兄弟と共に悟空を捕えることに成功する。
: 『[[封神演義]]』では楊戩と呼ばれている人間の道士がいて、哪{{JIS2004フォント|吒}}と並んで主役級のキャラクター。『西遊記』の楊二郎は神で楊戩という名も持っていませんが、原型は同じと思われているので現代ではその楊戩のイメージも混雑していた。
; {{読み仮名|[[牛魔王]]|ぎゅうまおう}}
: 牛の妖仙であり孫悟空の義兄弟。
; {{読み仮名|[[鉄扇公主]]|てっせんこうしゅ}}
: 牛魔王の妻。日本では種族名の{{読み仮名|羅刹女|らせつにょ/らせつじょ}}の名で呼ばれることが多い。[[火焔山]]の炎を消すことができる芭蕉扇を持つ。
; {{読み仮名|[[紅孩児]]|こうがいじ}}
: 牛魔王と羅刹女の息子。聖嬰大王と号する。牛魔王繋がりで孫悟空から見て甥ということになるが、紅孩児本人は甥呼ばわり(中国では人を馬鹿にする際に、相手を甥、姪と呼ぶことがある)されることを嫌う。三昧眞火と呼ばれる術を使い、その炎は悟空に効かないが煙で悟空の眼病に突き刺さって敗退させた、最後は観世音菩薩の宝器で降伏させられ、弟子となっている。
; {{読み仮名|[[金角・銀角|金角大王]]|きんかくだいおう}}
: 正体は太上老君の金炉の童子。銀角の兄。義母に[[九尾の狐]]がいる。
; {{読み仮名|[[金角・銀角|銀角大王]]|ぎんかくだいおう}}
: 正体は太上老君の銀炉の童子。金角の弟。移山倒海の術で悟空をおしつぶそうとするが、失敗する。
{{main2|その他の登場人物の一覧については[[西遊記の登場人物一覧]]}}
== 回目 ==
以下は世徳堂本の百回。
;第一回 霊根育孕源流出 心性修持大道生
:石から生まれた猿が長寿を求め、[[須菩提]]祖師から[[孫悟空]]の名をもらう。
;第二回 悟徹菩提真妙理 断魔帰本合元神
:悟空は変身の術や[[觔斗雲]]に乗る術を得た。
;第三回 四海千山皆拱伏 九幽十類盡除名
:悟空は竜王から[[如意棒]]をもらった。
;第四回 官封弼馬心何足 名注斉天意未寧
:悟空は[[斉天大聖]]と名乗り、[[玉帝]]からも承認された。
;第五回 乱蟠桃大聖偸丹 反天宮諸神捉怪
:悟空は[[兜率天]]に迷いこみ、その[[金丹]]をみな食べてしまい、征伐軍が下る。
;第六回 観音赴会問原因 小聖施威降大聖
:[[二郎真君]]が悟空をとらえる。
;第七回 八卦炉中逃大聖 五行山下定心猿
:[[釈迦如来]]が悟空を五行山に閉じこめる。
;第八回 我仏造経伝極楽 観音奉旨上長安
:釈迦如来は唐の誰かに[[三蔵]](経・律・論)を取りにこさせようと話す。
;第九回 袁守誠妙算無私曲 老龍王拙計犯天条
:水晶宮の竜王は雨がふる時間を変える罪を犯した。
:※『西遊真詮』などの清刊本ではこの第九回は第十回の中にくりこまれた。
;第十回 二将軍宮門鎮鬼 唐太宗地府還魂
:唐の[[太宗 (唐)|太宗]]は竜王を斬ったのろいで死んだ。
;第十一回 還受生唐王遵善果 度孤魂蕭禹正空門
:地獄の閻魔帳に20年寿命を足されて太宗は復活。
;第十二回 玄奘秉誠建大会 観音顕象化金蝉
:天竺から経を取ってくる命令を、[[玄奘]]は太宗から受けた。以後玄奘を三蔵と呼ぶ。
;第十三回 陥虎穴金星解厄 双叉嶺伯欽留僧
:三蔵は虎の精の妖怪に食われそうになったが、太白星老人に助けられる。
;第十四回 心猿帰正 六賊無踪
:五行山の悟空が三蔵の弟子になる。ただし頭に[[金環]]をはめられる。
;第十五回 蛇盤山諸神暗祐 鷹愁澗意馬収韁
:蛇盤山の谷川の[[玉龍]]が三蔵の馬を食った。[[観音菩薩]]は玉竜を代わりの馬に変える。
;第十六回 観音院僧謀宝貝 黒風山怪竊袈裟
:三蔵の袈裟がみごとなので、黒風怪に盗まれた。
;第十七回 孫行者大鬧黒風山 観世音收伏熊羆怪
:悟空は観音菩薩と協力し、黒風怪から袈裟を取り戻した。
;第十八回 観音院唐僧脱難 高老荘行者降魔
:烏斯蔵国に来た。高老荘で嫁入り前の娘にとりつく化け物を退治に行く。
;第十九回 雲棧洞悟空收八戒 浮屠山玄奘受心経
:口と耳がでかい豚の化け物は三蔵の弟子になる。名を[[猪八戒]]とした。
;第二十回 黄風嶺唐僧有難 半山中八戒争先
:悟空と八戒が虎の妖怪と戦ってる間に、三蔵が[[黄風大王]]にさらわれた。
;第二十一回 護法設荘留大聖 須弥霊吉定風魔
:霊吉菩薩に助けてもらい、三蔵を黄風大王から救い出した。貂(てん)の化け物だった。
;第二十二回 八戒大戦流沙河 木叉奉法收悟浄
:[[流沙河]]に八戒と対等に戦う妖怪がいた。名は[[沙悟浄]]。彼も三蔵の弟子になった。
;第二十三回 三蔵不忘本 四聖試禅心
:三人娘をもつ一家の家に泊まり、入り婿を勧められた。これは菩薩の試験だった。
;第二十四回 万寿山大仙留故友 五荘観行者竊人参
:五荘観で弟子3人は寿命が伸びる人参果を盗み食いする。
;第二十五回 鎮元仙趕捉取経僧 孫行者大鬧五荘観
:それがばれた。悟空ははらいせに人参果の木を根こそぎ倒した。
;第二十六回 孫悟空三島求方 観世音甘泉活樹
:観音菩薩の助けで、悟空は倒した人参果の木をよみがえらせた。
;第二十七回 屍魔三戯唐三蔵 聖僧恨逐美猴王
:死体にとりつく妖精[[白骨夫人]]を殺したが、人殺しと誤解されて悟空は破門された。
;第二十八回 花果山群妖聚義 黒松林三蔵逢魔
:八戒と悟浄が食宿を探す間に、三蔵が黄袍怪にさらわれた。
;第二十九回 脱難江流来国土 承恩八戒転山林
:黄袍怪の妻が三蔵をなぐさめる。彼女は宝象国の王女で、さらわれたのだった。
;第三十回 邪魔侵正法 意馬憶心猿
:三蔵が虎に変えられた。三蔵を助けるよう、八戒が悟空に頼みにいく。
;第三十一回 猪八戒義激猴王 孫行者智降妖怪
:黄袍怪の正体は二十八宿の星官だった。悟空の活躍で天に戻り、三蔵も人に戻った。
;第三十二回 平頂山功曹伝信 蓮花洞木母逢災
:蓮花洞の[[金角・銀角]]に八戒がつかまった。
;第三十三回 外道迷真性 元神助本心
:悟空は銀角に山の下敷きにされた。土地神が助けた。
;第三十四回 魔王巧算困心猿 大聖騰那騙宝貝
:金角・銀角は人をすいこむ瓢箪を持つ。悟空も吸い込まれた。
;第三十五回 外道施威欺正性 心猿獲宝伏邪魔
:悟空は逆に金角・銀角を瓢箪に吸い込んで退治した。二人は[[太上老君]]の弟子だった。
;第三十六回 心猿正処諸縁伏 劈破旁門見月明
:宝林寺に宿を三蔵がたのんだが泊めてくれず、悟空が脅して泊めさせた。
;第三十七回 鬼王夜謁唐三蔵 悟空神化引嬰児
:鳥鶏国王が三蔵の夢枕に立つ。国が道士にのっとられたと。
;第三十八回 嬰児問母知邪正 金木参玄見仮真
:鳥鶏国王の遺体を八戒が井戸から引き出した。
;第三十九回 一粒金丹天上得 三年故主世間生
:太上老君から還魂丹をもらい、鳥鶏国王を生きかえらせた。
;第四十回 嬰児戯化禅心乱 猿馬刀帰木母空
:つむじ風に三蔵がさらわれた。
;第四十一回 心猿遭火敗 木母被魔擒
:相手は[[牛魔王]]の子[[紅孩児]]。その火に悟空は焼死しかけた。
;第四十二回 大聖殷勤拝南海 観音慈善縛紅孩
:観音菩薩が紅孩児をとらえ、[[善財童子]]とした。
;第四十三回 黒河妖孽擒僧去 西洋龍子捉鼉回
:黒水河を船で渡ろうとして沈められた。西海竜王のおい摩昴太子の仕業だった。
;第四十四回 法身元運逢車力 心正妖邪度脊関
:車遅国に来た。道教の道士が国の実権をにぎっていた。
;第四十五回 三清観大聖留名 車遅国猴王顕法
:車遅国で悟空が雨乞いに成功してみせる。
;第四十六回 外道弄強欺正法 心猿聖顕滅諸邪
:悟空と道士は首切り術など道術比べをする。道士は虎の精だった。
;第四十七回 聖僧夜阻通天水 金木垂慈救小童
:車遅国の陳家荘では霊感大王へのいけにえがいる。身代わりを引き受ける。
;第四十八回 魔弄寒風飄大雪 僧思拝仏履層氷
:霊感大王は通天河を凍らせ、一行を歩いて渡らせ、途中で氷を割ってつかまえる。
;第四十九回 三蔵有災沈水宅 観音救難現魚籃
:魚藍観音が霊感大王をつかまえてくれた。一行は亀に乗り通天河を渡る。
;第五十回 情乱性从因愛欲 神昏心動遇魔頭
:楼閣に入ると[[獨角兕大王]]につかまった。悟空の如意棒もとられた。
;第五十一回 心猿空用千般計 水火無功難煉魔
:悟空は火や水で攻めるが、獨角兕大王の武器をすいつける輪(金剛琢)に苦戦。
;第五十二回 悟空大鬧金(山兜)洞 如来暗示主人公
:太上老君が助け、獨角兕大王は正体をあらわした。老君の乗る牛だった。
;第五十三回 禅主呑餐懐鬼孕 黄婆運水解邪胎
:三蔵は子母河の水を飲み懐妊。[[如意真仙|牛魔王の弟]]が占拠する落胎泉の水を飲んでなおった。
;第五十四回 法性西来逢女国 心猿定計脱煙花
:西梁女国に来た。その女王が三蔵を婿に迎えようとする。
;第五十五回 色邪淫戯唐三蔵 性正修持不壊身
:三蔵が女にさらわれた。その正体はさそりの化け物。昴日星官の助けで倒した。
;第五十六回 神狂誅草寇 道昧放心猿
:追いはぎを悟空が殺した。三蔵はまた悟空を破門する。
;第五十七回 真行者落伽山訴苦 仮猴王水簾洞謄文
:悟空が三蔵をなぐりたおした。悟浄は南海菩薩に相談。悟空はなんと2人いた。
;第五十八回 二心撹乱大乾坤 一体難修真寂滅
:如来がにせ悟空の正体を見抜いた。菩薩が仲介し悟空は一行に戻る。
;第五十九回 唐三蔵路阻火炎山 孫行者一調芭蕉扇
:[[火焔山]]の火を消して越えるには[[芭蕉扇]]が必要。持ち主は牛魔王の妻[[鉄扇公主|羅刹女]]。
;第六十回 牛魔王罷戦赴華筵 孫行者二調芭蕉扇
:悟空は牛魔王に化けて羅刹女から芭蕉扇を手に入れた。
;第六十一回 猪八戒助力敗魔王 孫行者三調芭蕉扇
:牛魔王に芭蕉扇をまたとられた。[[哪吒]]太子が助けて扇を再入手し、火を消した。
;第六十二回 滌垢洗心惟掃塔 縛魔帰正乃修身
:祭賽国に来た。塔にのぼる。何者かがこの国の宝を盗んだという。
;第六十三回 二僧蕩怪鬧龍宮 群聖除邪獲宝貝
:盗んだのは万聖竜王の婿、九頭虫だった。悟空と八戒で宝を取り返した。
;第六十四回 荊棘嶺悟能努力 木仙庵三蔵談詩
:三蔵は木仙庵で4人の老人たちと詩を談じた。老人たちは木の精だった。
;第六十五回 妖邪仮設小雷音 四衆皆遭大厄難
:黄眉大王が小雷音寺でにせ如来に化け、一行をたぶらかす。
;第六十六回 諸神遭毒手 弥勒縛妖魔
:[[弥勒菩薩]]が黄眉大王をつかまえた。
;第六十七回 拯救駝羅禅性穩 脱離穢汚道心清
:牛馬を食べる妖怪を悟空と八戒で退治。正体はうわばみだった。
;第六十八回 朱紫国唐僧論前世 孫行者施為三折肱
:朱紫国に来た。国王にもてなされた。悟空は医者のまねをし、国王の病気を診察。
;第六十九回 心主夜間修薬物 君王筵上論妖邪
:悟空は薬を作り国王の病をなおした。皇后をさらった妖怪がいるという。
;第七十回 妖魔宝放煙沙火 悟空計盗紫金鈴
:妖怪[[賽太歳]]の武器は、火煙砂を巻き起こす鈴。
;第七十一回 行者仮名降怪犼 観音現象伏妖王
:悟空は鈴を盗んで賽太歳に勝つ。賽太歳は観音菩薩が乗る狼だった。
;第七十二回 盤絲洞七情迷本 濯垢泉八戒忘形
:三蔵は盤糸洞で7人の美女につかまった。美女たちは蜘蛛の精だった。
;第七十三回 情因旧恨生災毒 心主遭魔幸破光
:一行は黄花観で毒茶を飲んだが、毘藍婆の薬でなおった。犯人はむかでの精だった。
;第七十四回 長庚伝報魔頭狠 行者施為変化能
:獅駝山に三蔵をねらう三人の大王がいる。
;第七十五回 心猿鑚透陰陽竅 魔王還帰大道真
:悟空は三番目の大王の瓶に入れられたが脱出。
;第七十六回 心神居舍魔帰性 木母同降怪体真
:三人の大王は降参したふりをして三蔵をとらえる。
;第七十七回 群魔欺本性 一体拝真如
:如来が三人の大王を退治した。青獅子と白象と[[鵬|大鵬]]だった。
;第七十八回 比丘怜子遣陰神 金殿認魔談道徳
:比丘国に来た。国王に娘を献じた道士が国丈(国王の岳父)と呼ばれている。
;第七十九回 尋洞擒妖逢老寿 当朝正主救嬰児
:比丘国の国丈は南極寿星の乗り物の白鹿だった。
;第八十回 姹女育陽求配偶 心猿護主識妖邪
:美女が縛られていた。悟空は妖怪だと言うが、三蔵は一行に加える。
;第八十一回 鎮海寺心猿知怪 黒松林三衆尋師
:三蔵がさらわれた。あの女がさらったんだと悟空。
;第八十二回 姹女求陽 元神護道
:妖怪地湧夫人は三蔵を夫にしようとする。悟空は地湧夫人の腹の中に入る。
;第八十三回 心猿識得丹頭 姹女還帰本性
:地湧夫人は[[李天王]]の娘だった。悟空は李天王にその身をあずけた。
;第八十四回 難滅伽持円大覚 法王成正体天然
:滅法国に来た。一行は長持の中で寝ていたら盗賊にさらわれた。
;第八十五回 心猿妒木母 魔主計呑禅
:一行は長持から出て国王と対面。三蔵は今度は南山大王にさらわれた。
;第八十六回 木母助威征怪物 金公施法滅妖邪
:妖怪たちを眠らせて三蔵を救出。八戒が南山大王を打ち殺した。
;第八十七回 鳳仙郡冒天止雨 孫大聖勧善施霖
:天竺の辺境に来た。日でりに困っていた。悟空は玉帝の怒りを解いて雨を降らせた。
;第八十八回 禅到玉華施法会 心猿木母授門人
:玉華州の三王子が一行に武芸を習う。
;第八十九回 黄獅精虚設釘鈀宴 金木土計鬧豹頭山
:一行の武器が盗まれたが取り返した。犯人は九霊元聖の孫。
;第九十回 師獅授受同帰一 盗道纏禅静九霊
:九霊元聖は太乙救苦天尊から逃げ出した獅子だった。太乙救苦天尊に返した。
;第九十一回 金平府元夜観灯 玄英洞唐僧供状
:金平府で仏に化けた妖怪に三蔵がさらわれた。妖怪は犀の精。
;第九十二回 三僧大戦青龍山 四星挟捉犀牛怪
:四木禽星の助けで3匹の犀の精と戦って殺した。
;第九十三回 給孤園問古談因 天竺国朝王遇偶
:天竺の都に到着。三蔵は公主(王女)から婿になるよう命じられる。
;第九十四回 四僧宴楽御花園 一怪空懐情欲喜
:結婚の祝儀。ただし3弟子は都の外に出される。
;第九十五回 仮合真形擒玉兎 真陰帰正会霊元
:公主は太陰星君に仕える[[月の兎|玉兎]]だった。本物の公主は布金寺に隠れていた。
;第九十六回 寇員外喜待高僧 唐長老不貪富貴
:一万人の僧をもてなす願をかけた寇員外が、一行をもてなす。
;第九十七回 金酬外護遭魔蟄 聖顕幽魂救本原
:寇家を盗賊が襲った。一行が盗賊と間違われた。
;第九十八回 猿熟馬馴方脱殻 功成行満見真如
:凌雲渡を渡り、[[霊鷲山|霊山]]に登り、釈迦如来と対面。経をもらった。
;第九十九回 九九数完魔滅盡 三三行満道帰根
:帰りに八大金剛の雲から落ちたのが81難目。一行は通天河の東、陳家荘に泊まる。
;第一百回 径回東土 五聖成真
:八大金剛の雲で長安に帰った。太宗に面会。5人は天竺の如来の元へ戻り、成仏。
;付録 陳光蕋赴任逢災 江流僧復讐報本
:『西遊真詮』などの清刊本では、この玄奘の出生物語が第9回とされている。
== 内容 ==
=== 大鬧天宮 (だいどうてんぐう) ===
{{読み仮名|東勝神州|とうしょうしんしゅう}}{{読み仮名|傲来国|ごうらいこく}}{{読み仮名|花果山|かかざん}}の仙石から天地の霊気をまとった石猿が誕生する。猿はとてつもない度胸の持ち主で、山奥の滝壺にて[[洞天福地]]の{{読み仮名|水簾洞|すいれんどう}}を発見した功により、花果山の周辺の猿を従えて王となり、美猴王と名乗る。ある時、美猴王はこの世の森羅万象について考えていくうち、生きとし生ける物の生死に悲観し、[[不老不死]]を願うようになり、西牛賀州霊台方寸山まで仙術を身につけに行く。師匠[[須菩提]]祖師から孫悟空という法名を授かり、七十二般の術と觔斗雲の術を身につけるがまだ満たされず、とうとう[[四海竜王]]の竜宮ひいては天界にまで殴り込みに行き、天界を統べる[[玉皇大帝|玉帝]]より{{読み仮名|弼馬温|ひつばおん}}の位を授かる。当初悟空は弼馬温の実態も知らず喜んでいたが、後に弼馬温が只の馬飼いと知るや否やたちまち激怒し、自ら斉天大聖と名乗り、哪{{JIS2004フォント|吒}}太子や顕聖二郎真君相手に天界で大暴れする。[[西王母]]の蟠桃を食らい、[[太上老君]]の金丹を平らげ、罰として八卦炉に入れられるも、悟空は「銅筋鐵骨 火眼金睛」の[[不死身]]の体となって生きのび飛び出した。ついには[[釈迦如来]]と「俺は地の果てまでも飛んでいってみせる」と賭けをする。地の果てらしき場所に立っていた5本の柱に到達したしるしとして悟空は一筆書き、柱に小便を引っかけて得意となって戻ってくるものの、実は釈迦の両手のなかをぐるりと周回しただけであった。釈迦が示した手に自分の署名を見て呆然とした悟空はその場を逃げようとしたものの、あっという間に五行山の下敷きにされてしまった。
=== 三蔵が取経に出るまで ===
悟空が五行山の下敷きにされてから五百年の時が流れた。時は唐代の[[太宗 (唐)|太宗]]の御世であった。太宗は一時病のために死んで地獄を巡ったが、冥土の高官たちの目こぼしにより再び現世によみがえった。やがて太宗が[[閻魔]]の言い付け通りに水陸大会を催し、その時後に取経の僧に選ばれる[[玄奘三蔵|玄奘]]を見出す。所変わって天界では観世音菩薩が弟子の恵岸とともに下界へ降り立ち、悟空を含む諸々の罪人達にある取り引きをした。天界にて罪を犯していたのは悟空だけではなかった。その罪人たちとは、[[天の川]]の水軍を統べる天蓬元帥であったが月の女神[[嫦娥]]をたぶらかしたために天界を追われ、妖仙と化して深山にて暴れていた猪八戒、天界の軍人であった捲簾大将が天界の宝である玻璃の器を壊して天界を追われ流沙河にて人を食らう妖仙となった沙悟浄、そして父竜王の竜宮で宝珠を焼き死罪を言い渡されその間中空に逆さ吊りにされて苦しんでいた西海竜王敖閏の子の玉龍である。観音はめいめいにいつか現れる取経の僧とともに天竺へ参り、贖罪を果たすことを約束させる。功によっては彼らを仏にしてもいいということを条件として。その取経の僧こそが、あらゆる経典を学び、人徳に優れ、多くの人々から聖僧と敬われていた玄奘三蔵であった。彼もまたかつて釈迦の二番弟子(金蝉子)であったのにもかかわらず、釈迦の説法を侮ったために罰として下界に[[転生]]させられていた。やがて[[貞観 (唐)|貞観]]13年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]](639年)、三蔵は太宗と菩薩の命で天竺へ行くことを決意し、菩薩から教えられた、自分に従うことになる弟子たちを探して旅立ったのだった。最初に三蔵は五行山で悟空を助け出し、続いて鷹愁澗で玉龍を導き、さらに高老荘で八戒を、最後に流沙河で悟浄を弟子にした。
=== 旅の途中での妖仙との戦い ===
贖罪の旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する。三蔵の{{読み仮名|袈裟|けさ}}が黒熊怪に奪われる、三蔵が黄風大王にさらわれる、太上老君(老子)の炉の番人の金角・銀角大王と戦う、牛魔王の子の紅孩児と争う、観世音菩薩が飼っていた金魚が逃げ出した霊感大王と戦う、太上老君の乗用牛の獨角兕大王と戦う、西梁女人国という女だらけの国で心ならずも三蔵と八戒が子を孕む(後に[[堕胎]]した)、三蔵が釈迦如来を刺したサソリの精に誘惑される、火焔山で悟空が紅孩児の母の羅刹女に芭蕉扇で吹き飛ばされる、その夫にして紅孩児の父の牛魔王と対決する、朱紫国で観世音菩薩の乗用金毛毛孔の賽太歳大王と戦う、獅駝嶺で[[文殊菩薩]]の乗用[[去勢]]青[[ライオン|獅子]]の一大王・[[普賢菩薩]]乗用黄牙白[[ゾウ|象]]の二大王・大鵬金翅鵰の三大王と戦う、小子城で寿星(南極星)の乗用の鹿である比丘国国丈と対決する、鎮海寺で{{読み仮名|[[哪吒|哪吒太子]]|なたたいし}}を兄と慕う地湧夫人(正体はネズミ)と戦う…など、あまたの苦難が一行を待っていた。
=== 西天取経 ===
旅の終盤、とうとう天竺にたどり着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。そのとき、上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わないため、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。[[長江#源流域と通天河|通天河]]に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっつき、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、ついに五人は罪を許され、三蔵は{{読み仮名|旃檀功徳仏|せんだんくどくぶつ}}、悟空は{{読み仮名|闘戦勝仏|とうせんしょうぶつ}}、八戒は{{読み仮名|浄壇使者|じょうだんししゃ}}、悟浄は{{読み仮名|金身羅漢|こんしんらかん}}、玉龍は{{読み仮名|八部天竜|はちぶてんりゅう}}となる。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。
== 日本語訳書 ==
*[[太田辰夫]]・[[鳥居久靖]]訳 『西遊記』 [[平凡社]]
:初訳「中国古典文学全集 13・14」1960年
:改訳「[[中国古典文学大系]] 31・32」1971-72年
:「奇書シリーズ」(上下)1972年<br/> (上)ISBN 978-4582327014 (下)ISBN 978-4582327021
:「コンパクト版 奇書シリーズ」(全7巻)1989-90年<br/> (1)ISBN 4582327117 (2)ISBN 4-582-32712-5 (3)ISBN 978-4582327137 (4)ISBN 978-4582327144 (5)ISBN 978-4582327151 (6)ISBN 978-4582327168 (7)ISBN 978-4582327175
* 『西遊記』 [[福音館書店]]
:[[君島久子]]訳
:福音館古典童話シリーズ 15・16、1975-1976年
:福音館文庫(全3巻)、2004年
*『西遊記』 [[岩波書店]]([[岩波文庫]])、1977-1998年
:[[小野忍]]訳(第1〜3巻)、[[中野美代子]]訳(第4〜10巻)
::小野が1980年に急逝し、中野が引き継ぎ長年かけ刊行した。
*中野美代子訳 『西遊記』 岩波書店(岩波文庫)
:上記の第1〜3巻を新訳、第4〜10巻を改版して、2005年に刊行<br/> ISBN 978-4002011165(10冊セット)
== 翻案作品 ==
[[:Category:西遊記を題材とした作品]]も参照。
<!--
脚色し易い為か、日本では[[翻案]]の派生作品が非常に多い作品である。三蔵法師は実在した男性の[[僧侶]]([[玄奘三蔵|玄奘]])であるが、日本における西遊記を元にした作品では、三蔵法師役に女性がなっている場合が多い。[[1978年]]から[[1980年]]にかけて[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送された[[ドラマ]]『[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]]』で三蔵法師役を[[俳優|女優]]である[[夏目雅子]]が演じた影響が大きい。
-->
=== 小説 ===
*{{仮リンク|西遊補|zh|西遊補}}({{仮リンク|董説|zh|董說}}) - 邦題『鏡の国の孫悟空』([[薫若雨]]著、[[荒井健]]・[[大平健一]]訳、平凡社〈東洋文庫〉)
*金比羅船利生纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)([[曲亭馬琴]])<ref>{{Cite journal|和書|author=篠塚富士男 |date=2006-11 |url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/1165 |title=<学内トピックス>図書館と展示会 : 平成18年度企画展「中国三大奇書の成立と受容」の開催 |journal=筑波フォーラム |ISSN=0385-1850 |publisher=筑波大学 |volume=74 |pages=164-167 |hdl=2241/18426 |CRID=1050282677534910080 |access-date=2023-09-19}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=阮毅 |date=2013-03 |url=https://soka.repo.nii.ac.jp/records/37105 |title=日本人と『西遊記』 |journal=日本語日本文学 |ISSN=09171762 |publisher=創価大学日本語日本文学会 |issue=23 |page=32 |hdl=10911/4031 |CRID=1050845762658476544}}</ref>
*西遊新記({{仮リンク|童恩正|zh|童恩正}})
*[[わが西遊記|悟浄出世]]([[中島敦]])
*[[わが西遊記|悟浄歎異]](中島敦)
*小説「西遊記」([[邱永漢]]著、[[藤城清治]]影絵)
*幻妖草子 西遊記([[七尾あきら]]) - [[コーエー]]から発売されたゲーム『[[西遊記 (ゲーム)|西遊記]]』のノベライズ
*魚籃観音記([[筒井康隆]])
*異本西遊記([[光瀬龍]])
*秘本西遊記([[宇能鴻一郎]])
*SF西遊記([[石川英輔]])
*西遊記プラスアルファ([[豊田有恒]])
*悪名西遊記([[尾鮭あさみ]])
*西方遊撃記 めざめよ運命の環([[漲月かりの]])
*斉藤洋の西遊記シリーズ([[斉藤洋]]文、[[広瀬弦]]画、理論社)
*小説「西遊記」([[吉本直志郎]]文、[[原ゆたか]]絵)
*新西遊記([[陳舜臣]]) - 紀行文やエッセイを交えたもの
*西遊記([[平岩弓枝]] / [[毎日新聞]]朝刊連載)
*魔界西遊記([[夢幻 (作家)|夢幻]])
*西遊記([[松枝茂夫]]訳、[[清水耕蔵]]画、[[講談社]]〈[[青い鳥文庫]]]〉)
**西遊記(新装版)([[小沢章友]]訳、[[山田章博]]画、講談社〈青い鳥文庫〉)
*西遊記 - 2006年版映画のノベライズ
*斉藤洋の西遊後記シリーズ([[斉藤洋]]文、広瀬弦画、理論社)
*西遊記(和田武司、山谷弘之訳)
=== 映画(アニメ以外) ===
* [[エノケンの孫悟空]](1940年、[[東宝]]、監督:[[山本嘉次郎]]、特技撮影:[[円谷英二]]、出演:[[榎本健一]] 他)
* [[西遊記 (1952年の映画)|西遊記]](1952年4月10日、[[大映]]、監督:冬島泰三、脚本:八尋不二、出演:[[坂東好太郎]]、[[花菱アチャコ]]、[[杉狂児]] 他)
** [[大あばれ孫悟空]](1952年9月4日、大映、監督:加戸敏、脚本:八尋不二、出演:坂東好太郎、[[伴淳三郎]]、[[柳家金語楼]] 他)
** [[殴り込み孫悟空]](1954年5月11日、大映、監督:田坂勝彦、脚本:八尋不二、出演: 坂東好太郎、[[灰田勝彦]]、[[益田喜頓]]〈益田キートン表記〉 他)
* [[孫悟空 (1959年の映画)|孫悟空]](1959年4月19日、[[東宝]]、監督:[[山本嘉次郎]]、[[三木のり平]]、市川福太郎、千葉信男、[[中村是好]]、[[由利徹]]、[[八千草薫]] 他)
* [[チャイニーズ・オデッセイ Part1 月光の恋]] / [[チャイニーズ・オデッセイ Part2 永遠の恋]](1995年、香港、監督:[[ジェフ・ラウ]]、出演:[[周星馳|チャウ・シンチー]] 他)
* [[モンキーキング 西遊記]](2001年、米国、監督:[[ピーター・マクドナルド]]、出演:[[トーマス・ギブソン]] 他)
* [[西遊記リローデッド]](2005年、香港、監督:ジェフ・ラウ、出演:[[ニコラス・ツェー]] 他)
* [[西遊記 (2007年の映画)|西遊記]](2007年、[[東宝]]、監督:[[澤田鎌作]]、出演:[[香取慎吾]]、[[深津絵里]]、[[内村光良]]、[[伊藤淳史]] 他)
* [[西遊記リターンズ]](2011年、韓国、監督:[[シン・ドンヨプ (映画監督)|シン・ドンヨプ]]、出演:[[キム・ビョンマン]] 他)
* [[西遊記〜はじまりのはじまり〜]](2013年、香港中国合作、監督:チャウ・シンチー、出演:[[ウェン・ジャン]]、[[スー・チー]] 他)
** {{仮リンク|西遊記2〜妖怪の逆襲〜|zh|西游伏妖篇}}(2017年、香港中国合作、監督:[[ツイ・ハーク]]、出演:[[ウー・イーファン]]、[[ケニー・リン]]、スー・チー、[[ヤン・イーウェイ]]、[[メンケ・バータル]] 他)
* [[モンキー・マジック 孫悟空誕生]](2014年、香港中国合作、監督:[[ソイ・チェン]]、出演:[[ドニー・イェン]]、[[チョウ・ユンファ]]、[[アーロン・クオック]] 他)
** [[西遊記 孫悟空vs白骨夫人]](2016年、香港中国合作、監督:ソイ・チェン、出演:アーロン・クオック、[[コン・リー]]、[[馮紹峰|ウィリアム・フォン]] 他)
** [[西遊記 女人国の戦い]](2018年、香港中国合作、監督:ソイ・チェン、出演:アーロン・クオック、ウィリアム・フォン、[[チャオ・リーイン]] 他)
* [[悟空伝]](2017年、中国、監督:[[郭子健|デレク・クォック]]、出演:[[エディ・ポン]]、[[ニー・ニー]]、[[余文楽|ショーン・ユー]] 他)
* [[西遊記 孫悟空vs7人の蜘蛛女]](2018年、中国、監督:[[スコット・マ]]、出演:[[シェー・ミャオ]]、[[ナンション・グーニャン]] 他)
* [[西遊記 孫悟空vsスパイダー・ウーマン]](2020年、中国、監督:[[王晶 (映画監督)|バリー・ウォン(王晶)]]、出演:[[ロー・カーイン]] 他)
* [[孫悟空vs猪八戒]](2020年、中国)
* [[西遊記 ゴッド・ウォリアー/戦神]](2020年、中国)
* [[超 西遊記]](2020年、中国)
* [[真・西遊記]](2021年、中国)
* [[モンキーキングvsレッドボーイ 西遊記]](2021年、中国)
* [[神・孫悟空 シン・ソンゴクウ]](2021年、中国)
* [[孫悟空伝 -MONKEY KING-]](2021年、中国)
=== ドラマ ===
* 孫悟空(1954年1月29日、日本テレビ)<ref name = "画報">{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=150 |chapter=BonusColumn 西遊記の映像化伝説|id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref>
* [[エノケンの孫悟空 (テレビドラマ)|エノケンの孫悟空]](1956年12月30日プロローグ、本編は1957年1月6日〜同年5月19日、全20回、[[榎本健一]]主演、[[長谷川待子]]等)
* 孫悟空西へ行く(1964年1月5日 - 7月19日、TBS、[[尾上鯉之助]]・[[林雄太郎]]・[[田中謙三]])<ref name = "画報" />
* [[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]]・[[西遊記II]] ([[堺正章]]主演、[[夏目雅子]]等)
*:日本テレビ開局25周年記念番組(1978年10月〜1979年4月、西遊記II:1979年11月〜1980年5月)
* [[西遊記 (1982年のテレビドラマ)|西遊記]](1982年、[[中国中央電視台]]製作)
* [[西遊記 (1993年のテレビドラマ)|西遊記]](1993年、日本テレビ開局40周年記念ドラマ、[[本木雅弘]]主演、[[宮沢りえ]]等)
* [[西遊記 (1994年のテレビドラマ)|西遊記]](1994年、日本テレビ、[[唐沢寿明]]主演、[[牧瀬里穂]]等)
* [[西遊記 (1996年のテレビドラマ)|西遊記]](1996年、香港[[無綫電視|TVB]]製作)
* [[続 西遊記]](1998年、香港TVB製作)
* [[西遊記 (2002年のテレビドラマ)|西遊記]](2002年、台湾香港合作、[[ディッキー・チョン]]、[[エドモンド・リョン]]、[[エリック・コット]]、[[サム・リー]]、[[林志穎|ジミー・リン]]、[[クリスティ・ヨン]]、[[ツインズ (香港のアイドルユニット)|ツインズ]]、[[飯島愛]]等)
* [[西遊記 (2006年のテレビドラマ)|西遊記]](フジテレビ2006年1月〜2006年3月、[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]枠、[[香取慎吾]]主演、[[深津絵里]]等)
* 西遊記(2010年、中国[[浙江永楽影視制作有限公司]]製作)
* 西遊記〜物語のはじまり〜(2011年、中国[[慈文伝媒集団]]製作)
* [[花遊記]](2017年、韓国JSピクチャーズ製作、[[イ・スンギ]]主演、[[オ・ヨンソ]]等)
=== 人形劇 ===
;映画
* [[西遊記 (1988年の映画)|西遊記]](1988年、監督:内田健太郎、声:[[中谷一郎]]、[[坂上二郎]]、[[研ナオコ]] 他、特撮SFX人形劇)
;テレビ
* [[ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空|飛べ!孫悟空]](1977年10月 - 1979年3月、[[TBSテレビ]]、主演:[[ザ・ドリフターズ]])
* [[モンキーパーマ]](2013年10月 - 12月・2014年4月 - 6月・2015年7月 - 9月、[[東名阪ネット6]]・[[5いっしょ3ちゃんねる]]他、主演:[[TEAM NACS]])
=== 舞台 ===
* 西友ファミリー劇場 [[マチャアキのそんごくうの大冒険]](1977年、主演:[[堺正章]])
* 西遊記GOCOO([[高平哲郎]]作・演出、[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]等)
* 仮名絵本西遊記(1992年、作:[[中島かずき]]、演出:[[いのうえひでのり]]、主演:[[渡辺いっけい]]、[[劇団☆新感線]])
* 西遊記 〜PSY U CHIC〜(1999年、作:中島かずき、演出:いのうえひでのり・主演[[筧利夫]]、劇団☆新感線、[[ホリプロ]]プロデュース)
* [[サクラ大戦シリーズ|サクラ大戦]] 第三回スーパー歌謡ショウ『新西遊記』(2004年、作 ・ 総合プロデューサー:[[広井王子]]、音楽監督:[[田中公平]]、演出:[[茅野イサム]]、出演:[[横山智佐]] / [[高乃麗]] / [[西原久美子]] / [[田中真弓]] / [[渕崎ゆり子]] / [[岡本麻弥]] / [[伊倉一恵]] / [[折笠愛]]他)
* Monkey: Journey to the West(2007~2008年、監修・台本(リブレット):チェン・シゼン、音楽:[[デーモン・アルバーン]]、音楽監督:デヴィッド・コルター、ビジュアルコンセプト/デザイン:[[ジェイミー・ヒューレット]])
* 新編西遊記 GO WEST!(2016年、監修:[[桐竹勘十郎]]、脚本:[[壤晴彦]]、作曲:鶴澤清介、美術:大田創)
* [[ぼくのそんごくう#舞台|GOKÛ]](2016年2月<!--16日 - 28日-->、原作:手塚治虫『ぼくの孫悟空』、脚本・演出:児玉明子、出演:[[喜矢武豊]]([[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]))
=== 漫画 ===
*あ行
** アクションシルクロード孫悟空(原作:[[小池一夫]] 漫画:[[小島剛夕]])
** [[アソボット戦記五九]](原作:[[亜樹直|有森丈時]] 漫画:[[葵ろむ]])
*か行
** きまぐれ悟空([[吾妻ひでお]])
** ギャハハ西遊記([[赤塚不二夫]]、[[藤子不二雄]]、[[つのだじろう]])
** 玄奘西域記([[諏訪緑]])
** GO! WEST([[巣田祐里子]])
** GO! GO! WEST([[田沼雄一郎]])- 成年向けから始まり、一般向けも描かれたが中断。
** West([[やがみだい]])- 成年向け。
** ごお・うえすと([[上條淳士]])
** ゴーゴー悟空([[成井紀郎]])
** [[ゴクウ]]([[寺沢武一]])
** [[悟空道]]([[山口貴由]])
*さ行
** 西遊記 地の巻、天の巻、悟の巻、円の巻([[藤原カムイ]])- 岩波文庫版を基にして漫画化。三蔵一行が勢ぞろいしたところまで描かれた。
** PSI遊記([[陽気婢]])- 成年向け。
** [[最遊記シリーズ|最遊記 / 最遊記RELOAD / 最遊記外伝]]([[峰倉かずや]])
** 西遊奇伝 大猿王([[寺田克也]])
** 西遊記 孫悟空の大冒険([[中島昌利]])
** 西遊記 孫悟空編、三蔵法師編([[實吉達郎]]/構成、東山鈴鹿/画)- 原典をほぼ忠実に漫画化しているが、元々似たようなエピソードを持つナタ三太子や二郎真君が、悟空の境遇や互いの腕前に対しての共感を感じている描写がある。
** 西遊記を読む([[黒田硫黄]]) - 短編集『[[大王 (漫画)|大王]]』所収。
** 西遊筋(OTOSAMA)
** [[西遊少女隊]]([[山本貴嗣]])
** 西遊聖魔録([[横山浩子]])
** [[西遊記ヒーローGo空伝!|西遊記ヒーローGo空伝! / ゴゴゴ西遊記 新悟空伝]]([[小西紀行]])
** [[西悠々記]]([[忍 (漫画家)|忍]])
** [[西遊妖猿伝]]([[諸星大二郎]])
** [[三獣士]]([[たなかかなこ|田中加奈子]])
** [[サン・ド・ホリー西へ!]]([[長谷川裕一]])
***{{マンガ図書館Z作品|72911|サン・ド・ホリー西へ!}}(外部リンク)
** 少年西遊記([[杉浦茂]])
** スーパー西遊記([[永井豪]])
** 孫悟空([[小池一夫]]/著、[[小島剛夕]]/画)
** そんごくん([[赤塚不二夫]])
** [[そんな御無題な!!]]([[後藤寿庵 (漫画家)|後藤寿庵]])
***{{マンガ図書館Z作品|57261|そんな御無題な!!}}(外部リンク)
*た行
** 中華一番([[真鍋譲治]]) - ほぼ同一デザインの主人公キャラが登場する読切作品『怒髪天エンマ』もあり。
** 中国劇画 西遊記([[村松暎]]・訳)
** [[珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-]]([[漫☆画太郎]])
** [[Dear Monkey 西遊記]]([[白井三二朗]])
***{{マンガ図書館Z作品|43941|Dear Monkey 西遊記}}(外部リンク)
** [[電撃テンジカーズ]]([[古賀亮一]])
** 天にひとしい([[宇野影宏]])
** [[東遊記 (漫画)|東遊記]]([[酒井ようへい]])
*は行
** [[破壊僧ジョドー]]([[椎名高志]])
** [[パタリロ西遊記!]]([[魔夜峰央]]、2006年にアニメ化)
** 八戒の大冒険([[唐沢なをき]])
** ビバ☆うさぎ小僧([[真鍋譲治]])
** 秘密指令0059(成井紀郎)
** FUNKY MONKEY READY! GO!!(FLATY・FLAT)
** [[ぼくのそんごくう]]([[手塚治虫]])
** [[熱烈台風娘|熱烈台風娘(ホットタイフーン)]]([[立川恵]])
** 煩悩☆西遊記(クリスタルな洋介)
*ま行
** 禍(MAGA)([[石川賢 (漫画家)|石川賢]])
** [[まんがで読破]] 西遊記
** ミラクルプッツン大冒険([[えんどコイチ]])
=== アニメ ===
* 西遊記孫悟空物語(1926年、自由映画研究所、劇場用アニメ)
* [[西遊記 鉄扇公主の巻]](1941年、中国、劇場用アニメ。1942年、日本公開。原題は「鉄扇公主」)
* [[西遊記 (1960年の映画)|西遊記]](1960年、[[東映アニメーション|東映動画]]、劇場用アニメ)
* [[大暴れ孫悟空]](1961年・1964年、[[上海美術映画製作所]]、劇場用アニメ)
* 中国アニメ西遊記(1964年、中国、上海電影製作庁、カラー作品)
* [[悟空の大冒険]](1967年、[[虫プロダクション]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、テレビアニメ)
* [[宇宙戦艦ヤマト]](1974年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、テレビアニメ) - 荒廃した地球(唐)を救う装置(経典)を長い旅を克服して取りに行くというストーリーは、西遊記を原案としている<ref>{{Cite book |和書 |author=[[豊田有恒]] |year=2000 |title=日本SFアニメ創世記 虫プロ、そしてTBS漫画ルーム |publisher=[[阪急コミュニケーションズ|TBSブリタニカ]] |isbn=4-484-00205-1}}</ref>。
* [[SF西遊記スタージンガー]](1978年 - 1979年、東映動画・フジテレビ、テレビアニメ)
* [[孫悟空シルクロードをとぶ!!]](1982年、[[東京ムービー|東京ムービー新社]]・フジテレビ、テレビアニメ)
* [[イタダキマン|タイムボカンシリーズ イタダキマン]](1983年、[[タツノコプロ]]・フジテレビ、テレビアニメ)
* [[西遊記 孫悟空対白骨婦人]](1985年、上海美術映画製作所、劇場用アニメ)
* [[ドラえもん のび太のパラレル西遊記]](1988年、原作:[[藤子・F・不二雄]]、制作:[[シンエイ動画]]、[[小学館]]・[[テレビ朝日]]、配給:[[東宝]]、劇場用アニメ)
* [[ぼくのそんごくう#アニメ化|手塚治虫物語 ぼくは孫悟空]](1989年、[[手塚プロダクション]]・日本テレビ、[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]内のテレビアニメ)
* [[ぽこぽん日記|ぽこぽんのゆかいな西遊記]](1990年、製作:[[サンリオ]]、配給:東宝)
* [[モンキーマジック (アニメ)|MONKEY MAGIC]](1997年、[[FOXネットワーク]]、テレビアニメ。日本では2000年、[[テレビ東京]]にて放映)
* 西遊記(1999年、中国中央電視台)
* [[マシュランボー]](2000年、[[東映アニメーション]]、テレビ朝日、テレビアニメ)
* [[アソボット戦記五九]](2002年、テレビ東京、テレビアニメ)
* [[魔女っ子モエりん]](2002年、[[鳥羽ジャングル]])
* [[ぼくの孫悟空 (2003年の映画)|ぼくの孫悟空]](2003年、原作:[[手塚治虫]]、制作:手塚プロダクション・アールビバン、制作協力:[[エイベックス]]、配給:[[松竹]]、劇場用アニメ)
* {{仮リンク|西遊記 ヒーロー・イズ・バック|zh|西游记之大圣归来}}(2015年、中国、劇場用3DCGアニメ)
=== 絵本 ===
* 孫悟空〈[[講談社の絵本]]〉([[宇野浩二]]・文 / [[本田庄太郎]]・絵)
* 孫悟空と八戒〈講談社の絵本〉(宇野浩二・文 / 本田庄太郎、[[宮尾しげを]]・絵)
* 東遊記(絵:[[原ゆたか]])
* 絵本西遊記([[太田大八]]・画 / 周鋭・編 / 中由美子・訳)
* 西遊記(唐亜明・文 / 于大武・画)
* 悟空、やっぱりきみがすき!(向華・作 / 馬玉・絵 / 施桂栄・訳)
=== ゲーム ===
* THE 西遊闘猿伝([[PlayStation 2]]:[[ディースリー・パブリッシャー]]の[[SIMPLEシリーズ]]の1本)
* [[西遊記 (ゲーム)|西遊記]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]:[[コーエー]])
* [[ふぁみこんむかし話 遊遊記]]([[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]])
* [[ソンソン]]([[アーケードゲーム|アーケード]]・[[ファミリーコンピュータ]]他:[[カプコン]])
* [[元祖西遊記スーパーモンキー大冒険]](ファミリーコンピュータ:[[バップ]])
* [[西遊記ワールド]](ファミリーコンピュータ:[[ジャレコ]])
* [[西遊降魔録 流棒妖技ノ章]](アーケード:[[テクノスジャパン]])- 縦画面の格闘アクションゲーム。
* [[THE悟空]](アーケード:[[KeyHolder|シグマ]])
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* [[プロフェッショナル麻雀悟空]]([[MSX2]]・ファミリーコンピュータ ディスクシステム・[[スーパーファミコン]]・[[PlayStation 2]]他:[[シャノアール (ゲーム会社)|シャノアール]]他)
* [[ぷろすちゅーでんとG]] ([[PC-9800シリーズ|PC-9801]]・[[Microsoft Windows|Windows]]:[[アリスソフト]])(18禁)
* 西遊記 金角・銀角の陰謀([[ニンテンドーDS]])- 西遊記(映画 2007年)のゲーム版。
* [[卍PSY幽記]](PC-9801:[[プライムシステム開発]] / [[手塚プロダクション]])
* [[S.Y.K 〜新説西遊記〜]](PlayStation 2:[[アイディアファクトリー]]〈[[オトメイト]]〉)
* [[西遊釋厄傳]]シリーズ(アーケード:[[IGS (台湾企業)|IGS]])
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*太田辰夫『西遊記の研究』[[研文出版]]、1984年、ISBN 4-86163-0401
*中野美代子『西遊記 トリック・ワールド探訪』[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉2000年、ISBN 400430666-3
*[[中野美代子]]『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』岩波書店〈[[岩波現代文庫]](新版)〉2003年、ISBN 4006020708
*[[井波律子]]『中国の五大小説〈上〉 三国志演義・西遊記』岩波書店〈岩波新書〉2008年、ISBN 978-4004311270
*[[岩波文庫]]版 『西遊記』 訳者中野による解説。第10巻ほか数巻。
=== 関連文献 ===
*[[磯部彰]]『「西遊記」形成史の研究』[[創文社]]東洋学叢書、1993年(平成5年)、ISBN 4-423-19241-1
*磯部彰『「西遊記」受容史の研究』多賀出版、1995年(平成7年)、ISBN 978-4811537313
*磯部彰『「西遊記」資料の研究』[[東北大学出版会]]、2007年(平成19年)、ISBN 4-86163-040-1
==関連項目==
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
{{ウィキポータルリンク|仏教|[[File:Dharma wheel 1.png]]}}
*[[天竺]]
*[[ガンダーラ]]
== 外部リンク ==
{{Wikisourcelang|zh|西遊記|西遊記}}
* {{Commons-inline|Journey to the West}}
* {{Commonscat-inline|Journey_to_the West|西遊記}}
* {{Cite thesis|和書|author=磯部彰 |url=https://doi.org/10.11501/3085780 |title=「西遊記」形成史の研究 |volume=東北大学 |series=文学博士 乙第5516号 |year=1991 |doi=10.11501/3085780 |id={{NDLJP|3085780}}}}
* [http://www1.ttcn.ne.jp/kozzy/saiyuki/saiyuki00.htm 孫悟空の「西遊記」]
* [http://www.innerjourneytothewest.com/jp/jp-index.html 「西遊記」の内的な意味についてウェブサイト]
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5,330 | 太平洋 | 太平洋()とは、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる世界最大の海洋のこと。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。
太平洋は地球表面のおよそ3分の1を占め、その面積はおよそ1億7970万平方キロメートルである。これは世界の海の総面積の46%を占め、また地球のすべての陸地を足した合計よりも広い。また、日本列島のおよそ473倍の面積である。
北極のベーリング海から南極海の北端である南緯60度(古い定義では南極大陸のロス海までだった)まで、およそ1万5500キロメートルある。太平洋は北緯5度ぐらい、つまりおおよそインドネシアからコロンビアとペルーの海岸線までの辺りで東西方向の幅が一番大きいおよそ1万9800キロメートルになる。これは地球の半周とほぼ同じ長さで、地球の衛星である月の直径の5倍以上の長さである。また、現在分かっているうちで地球上で一番深いところであるマリアナ海溝は太平洋にあり、その深さは海面下1万911メートルである。太平洋の平均深度は4028メートルから4188メートルである。
太平洋には2万5000もの島がある。これは、太平洋以外の海にある島をすべて合計した数よりも多い。大部分は赤道より南にある。部分的に沈んでいる島も含めて、その数は継続的に多くなっている。
太平洋は現在プレートテクトニクスによって、長さにして1年におよそ2から3センチずつ狭まっており、面積にして1年におよそ0.5平方キロメートルずつ狭まっている。その一方で大西洋は広がっている。
太平洋の西側のへりには不揃いな海が多くある。大きいものとしてはセレベス海、サンゴ海、東シナ海、南シナ海、フィリピン海、日本海、スールー海、タスマン海、黄海などがある。太平洋は、西部にあるマラッカ海峡でインド洋 とつながり、東南部にあるドレーク海峡およびマゼラン海峡で大西洋とつながり、北部のベーリング海峡で北極海とつながる。
太平洋は、ほぼ中央を通る180度経線を境に西半球と東半球とに分けられている。東半球にある部分を西太平洋といい、西半球にある部分を東太平洋という。180度経線は基本的には日付変更線と可能な限り同一になるように定められており、両者が異なる場合も海上を通るように設定されているため、太平洋は中央部で日付変更線に分断される形となっており、東西で日付が1日違う。
日本では、日本沿岸の海域で単に「太平洋」と表記する場合、国際水路機関が1953年(昭和28年)に定義した「太平洋」(図の濃い水色部分)ではなく、北太平洋及びフィリピン海を併せた海域を指すことが多い。即ち、日本海、オホーツク海、東シナ海及び瀬戸内海は「太平洋」には含まれないことが多い。
マゼランがマゼラン海峡からフィリピンまで航海した時、その旅程のほとんどは実に穏やかだった。しかし、太平洋は常に穏やかなわけではない。多くの熱帯低気圧が太平洋の島を襲う。環太平洋地域には火山が多い。また地震もよく起こり、それに伴ってしばしば津波も発生し、多くの街や島を破壊してきた。
探検家のフェルディナンド・マゼランが、1520年 - 1521年に、世界一周の航海の途上でマゼラン海峡を抜けて太平洋に入った時に、荒れ狂う大西洋と比べたその穏やかさに、"Mar Pacifico" (マレ・パシフィクム、平和な海)と表現したことに由来する。マゼランが太平洋に入りマリアナ諸島に至るまで暴風に遭わなかったことからこのように名付けたともいう。
明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものだが、太平洋全体に対する表記はなく、北海、南海、東南海、西南海、大東洋、小東洋、寧海という7つの海域名称を付けている。
マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』では北太平洋に「小東洋」と記されている。幕末になりパシフィック・オーシャンの日本語訳である「太平洋」が使われるようになった。
太平洋は赤道を境界として北太平洋、南太平洋と区別されることも多いが、この場合ガラパゴス諸島とギルバート諸島に関しては赤道を南北にまたぐものの南太平洋に属するものとして扱われる
付属海は、北からベーリング海、オホーツク海、日本海、黄海、フィリピン海、東シナ海、南シナ海、スールー海、セレベス海、ジャワ海、フロレス海、バンダ海、アラフラ海、サンゴ海、タスマン海。太平洋には大西洋のような大規模な対流はない。主な海流に黒潮、親潮、カリフォルニア海流、北赤道海流、ペルー海流(フンボルト海流)などがある。海流の作る渦は旋廻渦と呼ばれ、北太平洋旋廻の中心には太平洋ゴミベルトと呼ばれるゴミの海域が広がっている。
最深部はかつてマリアナ海溝のビチアス(ヴィチャージ)海淵 (11,034m) であるとされていたが、その後の測定の結果、この測定値には疑問がもたれており、現在では同じマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の10,920±10mが確実な値とされる。これは米国のスクリップス海洋研究所所属のトーマス・ワシントン号および海上保安庁海洋情報部所属の拓洋によって測量された水深値を元に、1992年4月英国で開催された第8回GEBCOオフィサー会議で報告・了承された値である。平均深度は4280メートル、総水量は7.1億立方キロメートルである。
太平洋全体で最も大きい陸塊はニューギニア島である。ニューギニア島は世界で2番目に大きい島でもある。太平洋のほぼすべての小さな島は北緯30°から南緯30°の間、およそ東南アジアからイースター島までの間にある。最終氷期の間、海水面が低くなっていた関係でニューギニア島はオーストラリア大陸の一部だったので、ボルネオ島とパラワン島のくっついたものが一番大きい陸塊だった。
太平洋中央部の島々は、大きくメラネシア、ポリネシア、ミクロネシアの三つに分けられる。
北端のハワイ諸島と東端のイースター島、南端のニュージーランドを結んでできる大きな三角形の中を占めるポリネシアは三つの海域中最も広く、クック諸島、マルキーズ諸島、サモア、ソシエテ諸島、トケラウ、トンガ、トゥアモトゥ諸島、ツバル、ウォリス・フツナ等の群島や島嶼がある。
赤道の北側かつ日付変更線の西側はミクロネシアといい、北西部のマリアナ諸島、中央部のカロリン諸島、西部のマーシャル諸島、南西部のギルバート諸島など、多くの島が存在する。
太平洋の南西角はメラネシアに属し、太平洋最大の島であるニューギニア島をはじめ、他にもビスマルク諸島、ソロモン諸島、フィジー、ニューカレドニア、バヌアツ等がある。
太平洋の島は基本的に4つのグループに分けられる。大陸島、High island (en) 、サンゴ礁の島、そして高くなったサンゴの台地 (uplifted coral platform) である。安山岩線の外側には大陸島(ニューギニア島、ニュージーランド、フィリピン含む)。これらの島のうち、いくつかは構造的に近くの大陸とくっついている。 High islands は火山が作った島で、たいてい今も活火山がある。例として、ブーゲンビル島、ハワイ諸島、ソロモン諸島などがある。
サンゴ礁の島のグループ、サンゴの台地のグループは、その名の通りどちらもサンゴによって作られた石灰岩質の島である。サンゴ礁とは、海面下の玄武岩の溶岩流に低く垂れこめるように作られる構造物である。オーストラリアの北東にあるグレートバリアリーフは最も大規模な物の1つとして知られている。後者のグループは、前者のグループより大抵やや大きい。例としてはバナバ島 (かつてはオーシャン島と呼ばれた)やフランス領ポリネシアのトゥアモトゥ諸島にあるマカテア島などがある。
南太平洋上には、陸地から最も離れた場所(到達不能極)であるポイント・ネモがあり、人工衛星を安全に落下させるための目標とされている。
太平洋の水の体積はおよそ7.14億立方キロメートルであり、世界の海水総量の50.1%を占める。水温は場所によって様々で、極付近では海水の凍りはじめる凝固点である-1.4度近くまで下がり、赤道付近では30°C近くにまで上がる。
塩分濃度も緯度によって様々である。赤道付近の海水は中緯度地域の海水よりも塩分濃度が低い。なぜなら熱帯性の熱帯特有の大雨が一年中降って希釈されるからである。温帯に近い高緯度地域の塩分濃度も、中緯度地域と比べると低い。なぜなら寒い地域では海水があまり蒸発しないからである。
太平洋の海水の動きは一般的に、北半球では時計回り、南半球では反時計回りの環流である。 北赤道海流は、北緯15度付近では貿易風により西に流れ、フィリピン沖で向きを北に変え黒潮になる。その後北緯45度付近で東に向きを変え、黒潮と一部の海水は北へ向かいアリューシャン海流になる。そうでない海水は南へ向かい、北赤道海流に戻る。アリューシャン海流は北米に近づくと、一部はベーリング海を反時計回りに回る基礎となる。南側の部分は南へ向かう遅い寒流、カリフォルニア海流になる.。
赤道に沿って西に流れる南赤道海流は、ニューギニアの東で南へ、南緯50度付近で東へと向きを変え、南極海を西から東へ流れ地球を一周する南極環流に合流する。チリの海岸に近づくと、南赤道海流は2つに分かれる。片方はホーン岬をまわり、片方は北へ向かうフンボルト海流になる。
安山岩線とは、太平洋と他を分ける最も重要なもので、太平洋の真ん中にある海盆の深いところにある有色鉱物火成岩と、太平洋の縁にある大陸性の部分的に沈んでいる無色鉱物火成岩でできた区域とを分ける。安山岩線はカリフォルニアの沖合の西側からアリューシャン列島の南を通り、以下の地域の東側を通る:カムチャツカ半島、千島列島、日本列島、マリアナ諸島、ソロモン諸島、北島 (ニュージーランド)。安山岩線という閉じた輪の中は、海底火山と環太平洋地域を特徴づける火山島を除いては水深の深い海である。
玄武岩質の溶岩は普通流れ出ると巨大なドーム型の火山、楯状火山を形作り、その浸食された頂上は島弧、列島、群島などになる。
安山岩線の外側にある環太平洋造山帯は、さまざまな沈み込み帯(プレートが横向きに押されて、別のプレートの下へ沈むところ)の上に何百もの活火山があることからその名がついた。太平洋は沈み込み帯にほぼ全てぐるりと囲まれている唯一の海である。南極とオーストラリアの海岸の近くだけが唯一沈み込み帯ではないところである。
太平洋はパンゲア大陸の分裂によって古代海洋パンサラッサから変化してできた海である。連続的に置き換わったので、いつパンサラッサが太平洋に切り替わったか、はっきりとしたことは言えない。その一方で当時を再現した地図ではたいてい大西洋が開き始めた頃のパンサラッサを太平洋と呼び始める (とを参照)。
パンサラッサは7億5000万年前のロディニア大陸の分裂により初めて開いた。しかし、海底は、海嶺で誕生した後、プレートテクトニクスによって常に動き続けており、海溝で沈み込むことによって更新されているため、現在確認されている最も古い太平洋の海底はおよそ1億8000万年前のものである。
太平洋にはホットスポットの作った長い海山列(海底にある山脈のこと)がいくつかある。天皇海山群やルイビル海山列などである。
有史以前、すでに太平洋の沿岸地域には人類が居住していた。しかし、太平洋中央部に点在する島々へと人々が移住するようになったのは、紀元前1500年ごろにニューギニアに居住していたラピタ人たちが、島伝いに沖へと乗り出していったものがはじまりと推測されている。彼らはまずニューギニアから近いメラネシアへと進出し、ビスマーク諸島には紀元前1300年、バヌアツには紀元前1000年、フィジーには紀元前900年、トンガには紀元前850年に到達した。この第一期の移住の波は、サモアでいったん停止した。その数百年後、サモアやフィジー、トンガといったポリネシア西部の島々から第二期の移住の波が起こり、ニュージーランド(アオテアロア)、マルケサス諸島、タヒチ、イースター島、ハワイなど残りの島々にすべて植民し、ヨーロッパ人が太平洋に到達する数百年前には、すでにポリネシア人は太平洋の隅々まで植民を終えていた。
16世紀初頭、ヨーロッパ人が太平洋に到達した。最初に太平洋に到達したヨーロッパ人は、1513年にパナマ地峡を渡ったバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアである。彼はMar del Sur (南の海という意味)と名付けた。この名がついたのは、バルボアが渡ったパナマ地峡は南北に短く、北岸のカリブ海側から南岸の太平洋側に到達したからである。そしてその後、ポルトガル人の探検家、フェルディナンド・マゼランが1519年から1521年の間に世界一周の過程で太平洋を航海するとき、マゼランは太平洋を "Pacífico" または "Pacific" とよんだ。この言葉は平和な、または太平な、という意味である。なぜなら航海の最中ずっと海が穏やかだったからである。
しかしマゼラン本人は1521年にフィリピンで死んでしまい、スペイン人航海士、フアン・セバスティアン・エルカーノが一隊を連れてインド洋を超え喜望峰をまわり、1522年にスペインへ帰国し世界一周を成し遂げた。1525年から1527年にかけては、ポルトガル人の探検隊がカロリン諸島とニューギニア島に到達した。
1564年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いるスペインの探検隊がメキシコからフィリピン諸島とマリアナ諸島へ海を渡った。16世紀のその後、スペインの影響は最も大きかった。スペインはメキシコとペルーから太平洋を越えてグアムを経由しフィリピンまで航行する、スペイン領東インドを作った。マニラ・ガレオンは250年間、マニラとアカプルコと結んだ。これは歴史上最も長い交易路の一つである。スペインの探検により南太平洋のツバル、マルキーズ諸島、ソロモン諸島が見つかった。
テラ・アウストラリスを捜す探検の中で、スペイン人の探検家たちは17世紀に南太平洋のピトケアン諸島とバヌアツ諸島を発見した。オランダ人探検家たちも南アフリカをまわり、発見と交易にかかわった。アベル・タスマンは1642年にタスマニア島とニュージーランドを発見した。18世紀にはいると、ロシア人がアラスカとアリューシャン列島の大規模な探検をおこなった。 スペインは北西太平洋へも探検家を送り、カナダおよびアラスカ南部のバンクーバー島まで達した。フランス人はポリネシアを探検し、植民した。イギリスはジェームズ・クックらを3回航海させ、南太平洋やオーストラリアやハワイや北米の太平洋岸北西部へ行かせた。このクックの航海により、太平洋中央部の島々のかなりが発見された。
19世紀中拡大した帝国主義により、太平洋の大部分がヨーロッパの列強に占領され、次にアメリカ合衆国と日本に占領された。1830年代にチャールズ・ダーウィンをのせ航海したビーグル号や1870年代に航海したチャレンジャー号(チャレンジャー号探検航海)などによって多くの海洋学的知識がもたらされた。
アメリカ合衆国はパリ条約によってグアムとフィリピンをスペインから1898年に得たが、その後日本が西太平洋のほとんどを1914年に、そして他の島を太平洋戦争中に占領した。しかし敗戦とともにアメリカ海軍の太平洋艦隊が太平洋を事実上占領した。第二次世界大戦の後、太平洋の多くの植民地が独立国家になった。
太平洋沿岸地域、とくに北アメリカ大陸および東アジアの経済成長に伴い、太平洋を取り巻くいわゆる環太平洋諸国の関係は深まりつつあり、これら諸国が多国間経済協力を進めるため、1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)が始まった。2014年にはこのAPECは21の国と地域が参加しており、とくにアメリカ・日本・中国・ロシアといった大国群が参加していることもあって、参加国の総計では世界のおよそ半分の人口・国富・貿易額を占めている。このため、APECは重要な国際機関の一つとなっている。
太平洋の鉱物資源の開発はその深さが障害になっている。オーストラリアとニュージーランドの大陸棚の浅瀬では、石油や天然ガスが採掘されている。また、オーストラリア、日本、パプアニューギニア、ニカラグア、パナマ、フィリピンの沿岸では真珠も取れる。しかし、取れる量がはっきりと減っている場合もある。
太平洋最大の価値は水産資源である。大陸の海岸付近の海域や温帯の島ではニシン、マスノスケ、イワシ、メカジキ、ツナ、貝類等がとれる。太平洋は、海域によって漁業生産力の差が激しい。太平洋で最も漁業生産力の高い地域は北太平洋にあり、日本近海からカムチャツカ半島、アリューシャン列島、アラスカ南岸を通って北アメリカ大陸の西岸にいたる地域である。この地域は黒潮が大きな流れを作っており、ここに親潮などの寒流やベーリング海などからの冷たい海水が接触することで潮目ができ、好漁場となっている。このほか、南アメリカ大陸沿岸も寒流であるペルー海流と周辺の温暖な海水との接触により好漁場となっている。逆に、太平洋の中央部は、赤道反流によって湧昇が起こり好漁場となる赤道周辺を除いては、漁業生産力は低い。
海洋汚染とは、有害な化学物質や細かいかけらが海に入ることを指す包括的な言葉である。最大の原因は川にゴミを捨てることである。
川は海に注ぐ。その時、農業用肥料として使われた化学物質なども一緒に注ぐ。その化学物質を分解するために多くの酸素が使われ、貧酸素水塊ができてしまう。海ゴミとも呼ばれる漂流ゴミは海で見つかった人間のゴミを指す言葉である。特にプラスチックなど生分解性に乏しい素材でできた水よりも比重の軽いゴミは長期間浮遊し続ける。比重が軽く水に浮きやすい海ゴミは渦の中心や海岸線に集まる傾向があり、しばしば浜辺にゴミが打ち上げられる。この他、海底に沈んでいるゴミの問題なども存在する。 | [
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"text": "明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものだが、太平洋全体に対する表記はなく、北海、南海、東南海、西南海、大東洋、小東洋、寧海という7つの海域名称を付けている。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』では北太平洋に「小東洋」と記されている。幕末になりパシフィック・オーシャンの日本語訳である「太平洋」が使われるようになった。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "太平洋は赤道を境界として北太平洋、南太平洋と区別されることも多いが、この場合ガラパゴス諸島とギルバート諸島に関しては赤道を南北にまたぐものの南太平洋に属するものとして扱われる",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "付属海は、北からベーリング海、オホーツク海、日本海、黄海、フィリピン海、東シナ海、南シナ海、スールー海、セレベス海、ジャワ海、フロレス海、バンダ海、アラフラ海、サンゴ海、タスマン海。太平洋には大西洋のような大規模な対流はない。主な海流に黒潮、親潮、カリフォルニア海流、北赤道海流、ペルー海流(フンボルト海流)などがある。海流の作る渦は旋廻渦と呼ばれ、北太平洋旋廻の中心には太平洋ゴミベルトと呼ばれるゴミの海域が広がっている。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "最深部はかつてマリアナ海溝のビチアス(ヴィチャージ)海淵 (11,034m) であるとされていたが、その後の測定の結果、この測定値には疑問がもたれており、現在では同じマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の10,920±10mが確実な値とされる。これは米国のスクリップス海洋研究所所属のトーマス・ワシントン号および海上保安庁海洋情報部所属の拓洋によって測量された水深値を元に、1992年4月英国で開催された第8回GEBCOオフィサー会議で報告・了承された値である。平均深度は4280メートル、総水量は7.1億立方キロメートルである。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "太平洋全体で最も大きい陸塊はニューギニア島である。ニューギニア島は世界で2番目に大きい島でもある。太平洋のほぼすべての小さな島は北緯30°から南緯30°の間、およそ東南アジアからイースター島までの間にある。最終氷期の間、海水面が低くなっていた関係でニューギニア島はオーストラリア大陸の一部だったので、ボルネオ島とパラワン島のくっついたものが一番大きい陸塊だった。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "太平洋中央部の島々は、大きくメラネシア、ポリネシア、ミクロネシアの三つに分けられる。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "北端のハワイ諸島と東端のイースター島、南端のニュージーランドを結んでできる大きな三角形の中を占めるポリネシアは三つの海域中最も広く、クック諸島、マルキーズ諸島、サモア、ソシエテ諸島、トケラウ、トンガ、トゥアモトゥ諸島、ツバル、ウォリス・フツナ等の群島や島嶼がある。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "赤道の北側かつ日付変更線の西側はミクロネシアといい、北西部のマリアナ諸島、中央部のカロリン諸島、西部のマーシャル諸島、南西部のギルバート諸島など、多くの島が存在する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "太平洋の南西角はメラネシアに属し、太平洋最大の島であるニューギニア島をはじめ、他にもビスマルク諸島、ソロモン諸島、フィジー、ニューカレドニア、バヌアツ等がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "太平洋の島は基本的に4つのグループに分けられる。大陸島、High island (en) 、サンゴ礁の島、そして高くなったサンゴの台地 (uplifted coral platform) である。安山岩線の外側には大陸島(ニューギニア島、ニュージーランド、フィリピン含む)。これらの島のうち、いくつかは構造的に近くの大陸とくっついている。 High islands は火山が作った島で、たいてい今も活火山がある。例として、ブーゲンビル島、ハワイ諸島、ソロモン諸島などがある。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "サンゴ礁の島のグループ、サンゴの台地のグループは、その名の通りどちらもサンゴによって作られた石灰岩質の島である。サンゴ礁とは、海面下の玄武岩の溶岩流に低く垂れこめるように作られる構造物である。オーストラリアの北東にあるグレートバリアリーフは最も大規模な物の1つとして知られている。後者のグループは、前者のグループより大抵やや大きい。例としてはバナバ島 (かつてはオーシャン島と呼ばれた)やフランス領ポリネシアのトゥアモトゥ諸島にあるマカテア島などがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "南太平洋上には、陸地から最も離れた場所(到達不能極)であるポイント・ネモがあり、人工衛星を安全に落下させるための目標とされている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "太平洋の水の体積はおよそ7.14億立方キロメートルであり、世界の海水総量の50.1%を占める。水温は場所によって様々で、極付近では海水の凍りはじめる凝固点である-1.4度近くまで下がり、赤道付近では30°C近くにまで上がる。",
"title": "海水の特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "塩分濃度も緯度によって様々である。赤道付近の海水は中緯度地域の海水よりも塩分濃度が低い。なぜなら熱帯性の熱帯特有の大雨が一年中降って希釈されるからである。温帯に近い高緯度地域の塩分濃度も、中緯度地域と比べると低い。なぜなら寒い地域では海水があまり蒸発しないからである。",
"title": "海水の特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "太平洋の海水の動きは一般的に、北半球では時計回り、南半球では反時計回りの環流である。 北赤道海流は、北緯15度付近では貿易風により西に流れ、フィリピン沖で向きを北に変え黒潮になる。その後北緯45度付近で東に向きを変え、黒潮と一部の海水は北へ向かいアリューシャン海流になる。そうでない海水は南へ向かい、北赤道海流に戻る。アリューシャン海流は北米に近づくと、一部はベーリング海を反時計回りに回る基礎となる。南側の部分は南へ向かう遅い寒流、カリフォルニア海流になる.。",
"title": "海水の特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "赤道に沿って西に流れる南赤道海流は、ニューギニアの東で南へ、南緯50度付近で東へと向きを変え、南極海を西から東へ流れ地球を一周する南極環流に合流する。チリの海岸に近づくと、南赤道海流は2つに分かれる。片方はホーン岬をまわり、片方は北へ向かうフンボルト海流になる。",
"title": "海水の特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "安山岩線とは、太平洋と他を分ける最も重要なもので、太平洋の真ん中にある海盆の深いところにある有色鉱物火成岩と、太平洋の縁にある大陸性の部分的に沈んでいる無色鉱物火成岩でできた区域とを分ける。安山岩線はカリフォルニアの沖合の西側からアリューシャン列島の南を通り、以下の地域の東側を通る:カムチャツカ半島、千島列島、日本列島、マリアナ諸島、ソロモン諸島、北島 (ニュージーランド)。安山岩線という閉じた輪の中は、海底火山と環太平洋地域を特徴づける火山島を除いては水深の深い海である。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "玄武岩質の溶岩は普通流れ出ると巨大なドーム型の火山、楯状火山を形作り、その浸食された頂上は島弧、列島、群島などになる。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "安山岩線の外側にある環太平洋造山帯は、さまざまな沈み込み帯(プレートが横向きに押されて、別のプレートの下へ沈むところ)の上に何百もの活火山があることからその名がついた。太平洋は沈み込み帯にほぼ全てぐるりと囲まれている唯一の海である。南極とオーストラリアの海岸の近くだけが唯一沈み込み帯ではないところである。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "太平洋はパンゲア大陸の分裂によって古代海洋パンサラッサから変化してできた海である。連続的に置き換わったので、いつパンサラッサが太平洋に切り替わったか、はっきりとしたことは言えない。その一方で当時を再現した地図ではたいてい大西洋が開き始めた頃のパンサラッサを太平洋と呼び始める (とを参照)。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "パンサラッサは7億5000万年前のロディニア大陸の分裂により初めて開いた。しかし、海底は、海嶺で誕生した後、プレートテクトニクスによって常に動き続けており、海溝で沈み込むことによって更新されているため、現在確認されている最も古い太平洋の海底はおよそ1億8000万年前のものである。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "太平洋にはホットスポットの作った長い海山列(海底にある山脈のこと)がいくつかある。天皇海山群やルイビル海山列などである。",
"title": "地質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "有史以前、すでに太平洋の沿岸地域には人類が居住していた。しかし、太平洋中央部に点在する島々へと人々が移住するようになったのは、紀元前1500年ごろにニューギニアに居住していたラピタ人たちが、島伝いに沖へと乗り出していったものがはじまりと推測されている。彼らはまずニューギニアから近いメラネシアへと進出し、ビスマーク諸島には紀元前1300年、バヌアツには紀元前1000年、フィジーには紀元前900年、トンガには紀元前850年に到達した。この第一期の移住の波は、サモアでいったん停止した。その数百年後、サモアやフィジー、トンガといったポリネシア西部の島々から第二期の移住の波が起こり、ニュージーランド(アオテアロア)、マルケサス諸島、タヒチ、イースター島、ハワイなど残りの島々にすべて植民し、ヨーロッパ人が太平洋に到達する数百年前には、すでにポリネシア人は太平洋の隅々まで植民を終えていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "16世紀初頭、ヨーロッパ人が太平洋に到達した。最初に太平洋に到達したヨーロッパ人は、1513年にパナマ地峡を渡ったバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアである。彼はMar del Sur (南の海という意味)と名付けた。この名がついたのは、バルボアが渡ったパナマ地峡は南北に短く、北岸のカリブ海側から南岸の太平洋側に到達したからである。そしてその後、ポルトガル人の探検家、フェルディナンド・マゼランが1519年から1521年の間に世界一周の過程で太平洋を航海するとき、マゼランは太平洋を \"Pacífico\" または \"Pacific\" とよんだ。この言葉は平和な、または太平な、という意味である。なぜなら航海の最中ずっと海が穏やかだったからである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかしマゼラン本人は1521年にフィリピンで死んでしまい、スペイン人航海士、フアン・セバスティアン・エルカーノが一隊を連れてインド洋を超え喜望峰をまわり、1522年にスペインへ帰国し世界一周を成し遂げた。1525年から1527年にかけては、ポルトガル人の探検隊がカロリン諸島とニューギニア島に到達した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1564年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いるスペインの探検隊がメキシコからフィリピン諸島とマリアナ諸島へ海を渡った。16世紀のその後、スペインの影響は最も大きかった。スペインはメキシコとペルーから太平洋を越えてグアムを経由しフィリピンまで航行する、スペイン領東インドを作った。マニラ・ガレオンは250年間、マニラとアカプルコと結んだ。これは歴史上最も長い交易路の一つである。スペインの探検により南太平洋のツバル、マルキーズ諸島、ソロモン諸島が見つかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "テラ・アウストラリスを捜す探検の中で、スペイン人の探検家たちは17世紀に南太平洋のピトケアン諸島とバヌアツ諸島を発見した。オランダ人探検家たちも南アフリカをまわり、発見と交易にかかわった。アベル・タスマンは1642年にタスマニア島とニュージーランドを発見した。18世紀にはいると、ロシア人がアラスカとアリューシャン列島の大規模な探検をおこなった。 スペインは北西太平洋へも探検家を送り、カナダおよびアラスカ南部のバンクーバー島まで達した。フランス人はポリネシアを探検し、植民した。イギリスはジェームズ・クックらを3回航海させ、南太平洋やオーストラリアやハワイや北米の太平洋岸北西部へ行かせた。このクックの航海により、太平洋中央部の島々のかなりが発見された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "19世紀中拡大した帝国主義により、太平洋の大部分がヨーロッパの列強に占領され、次にアメリカ合衆国と日本に占領された。1830年代にチャールズ・ダーウィンをのせ航海したビーグル号や1870年代に航海したチャレンジャー号(チャレンジャー号探検航海)などによって多くの海洋学的知識がもたらされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国はパリ条約によってグアムとフィリピンをスペインから1898年に得たが、その後日本が西太平洋のほとんどを1914年に、そして他の島を太平洋戦争中に占領した。しかし敗戦とともにアメリカ海軍の太平洋艦隊が太平洋を事実上占領した。第二次世界大戦の後、太平洋の多くの植民地が独立国家になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "太平洋沿岸地域、とくに北アメリカ大陸および東アジアの経済成長に伴い、太平洋を取り巻くいわゆる環太平洋諸国の関係は深まりつつあり、これら諸国が多国間経済協力を進めるため、1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)が始まった。2014年にはこのAPECは21の国と地域が参加しており、とくにアメリカ・日本・中国・ロシアといった大国群が参加していることもあって、参加国の総計では世界のおよそ半分の人口・国富・貿易額を占めている。このため、APECは重要な国際機関の一つとなっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "太平洋の鉱物資源の開発はその深さが障害になっている。オーストラリアとニュージーランドの大陸棚の浅瀬では、石油や天然ガスが採掘されている。また、オーストラリア、日本、パプアニューギニア、ニカラグア、パナマ、フィリピンの沿岸では真珠も取れる。しかし、取れる量がはっきりと減っている場合もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "太平洋最大の価値は水産資源である。大陸の海岸付近の海域や温帯の島ではニシン、マスノスケ、イワシ、メカジキ、ツナ、貝類等がとれる。太平洋は、海域によって漁業生産力の差が激しい。太平洋で最も漁業生産力の高い地域は北太平洋にあり、日本近海からカムチャツカ半島、アリューシャン列島、アラスカ南岸を通って北アメリカ大陸の西岸にいたる地域である。この地域は黒潮が大きな流れを作っており、ここに親潮などの寒流やベーリング海などからの冷たい海水が接触することで潮目ができ、好漁場となっている。このほか、南アメリカ大陸沿岸も寒流であるペルー海流と周辺の温暖な海水との接触により好漁場となっている。逆に、太平洋の中央部は、赤道反流によって湧昇が起こり好漁場となる赤道周辺を除いては、漁業生産力は低い。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "海洋汚染とは、有害な化学物質や細かいかけらが海に入ることを指す包括的な言葉である。最大の原因は川にゴミを捨てることである。",
"title": "環境問題"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "川は海に注ぐ。その時、農業用肥料として使われた化学物質なども一緒に注ぐ。その化学物質を分解するために多くの酸素が使われ、貧酸素水塊ができてしまう。海ゴミとも呼ばれる漂流ゴミは海で見つかった人間のゴミを指す言葉である。特にプラスチックなど生分解性に乏しい素材でできた水よりも比重の軽いゴミは長期間浮遊し続ける。比重が軽く水に浮きやすい海ゴミは渦の中心や海岸線に集まる傾向があり、しばしば浜辺にゴミが打ち上げられる。この他、海底に沈んでいるゴミの問題なども存在する。",
"title": "環境問題"
}
] | 太平洋とは、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる世界最大の海洋のこと。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャンとも日本語で表記されることもある。 | {{Otheruses}}
[[ファイル:Pacific Ocean.png|right|thumb|250px|太平洋の位置]]
{{五大洋}}
{{読み仮名|'''太平洋'''|たいへいよう}}とは、[[アジア]](あるいは[[ユーラシア]])、[[オーストラリア]]、[[南極]]、南北[[アメリカ大陸|アメリカ]]の各[[大陸]]に囲まれる世界最大の[[海洋]]のこと。[[大西洋]]や[[インド洋]]とともに、三[[大洋]]の1つに数えられる。[[日本列島]]も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン([[w:Pacific ocean|Pacific ocean]])とも日本語で表記されることもある。
== 概要 ==
太平洋は[[地球]]表面のおよそ3分の1を占め、その面積はおよそ1億7970万平方キロメートルである。これは世界の海の総面積の46%を占め、また地球のすべての陸地を足した合計よりも広い<ref name="ebc">[http://concise.britannica.com/ebc/article-9374340/Pacific-Ocean Pacific Ocean]". ''[[Encyclopædia Britannica|Britannica Concise]].'' 2006. Chicago: Encyclopædia Britannica, Inc.</ref>。また、日本列島のおよそ473倍の面積である。
[[北極]]の[[ベーリング海]]から[[南極海]]の北端である南緯60度(古い定義では[[南極大陸]]の[[ロス海]]までだった)まで、およそ1万5500キロメートルある。太平洋は北緯5度ぐらい、つまりおおよそ[[インドネシア]]から[[コロンビア]]と[[ペルー]]の海岸線までの辺りで東西方向の幅が一番大きいおよそ1万9800キロメートルになる。これは地球の半周とほぼ同じ長さで、地球の衛星である月の直径の5倍以上の長さである。また、現在分かっているうちで地球上で一番深いところである[[マリアナ海溝]]は太平洋にあり、その深さは海面下1万911メートルである。太平洋の平均深度は4028メートルから4188メートルである<ref name="ebc"/>。
太平洋には2万5000もの[[:Category:太平洋の島|島]]がある。これは、太平洋以外の海にある島をすべて合計した数よりも多い。大部分は[[赤道]]より南にある。部分的に沈んでいる島も含めて、その数は継続的に多くなっている。
太平洋は現在[[プレートテクトニクス]]によって、長さにして1年におよそ2から3センチずつ狭まっており、面積にして1年におよそ0.5平方キロメートルずつ狭まっている。その一方で[[大西洋]]は広がっている<ref>[http://www.bucknell.edu/x17758.xml "Plate Tectonics"], Bucknell University. Retrieved 9 June 2013.</ref><ref name="Young2009">{{cite book|last=Young|first=Greg|title=Plate Tectonics|url=https://books.google.co.jp/books?id=aqTxe74R5LwC&pg=PT9&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=2009|publisher=Capstone|isbn=978-0-7565-4232-0|pages=9–}}</ref>。
太平洋の西側のへりには不揃いな海が多くある。大きいものとしては[[セレベス海]]、[[サンゴ海]]、[[東シナ海]]、[[南シナ海]]、[[フィリピン海]]、[[日本海]]、[[スールー海]]、[[タスマン海]]、[[黄海]]などがある。太平洋は、西部にある[[マラッカ海峡]]で[[インド洋]] とつながり、東南部にある[[ドレーク海峡]]および[[マゼラン海峡]]で[[大西洋]]とつながり、北部の[[ベーリング海峡]]で[[北極海]]とつながる<ref name="Organization1953">{{cite book|author=International Hydrographic Organization|title=Limits of Oceans and Seas|url=https://books.google.co.jp/books?id=wD0dAQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=1953|publisher=International Hydrographic Organization}}</ref>。
太平洋は、ほぼ中央を通る[[180度経線]]を境に[[西半球]]と[[東半球]]とに分けられている。'''東'''半球にある部分を'''西'''太平洋といい、'''西'''半球にある部分を'''東'''太平洋という<ref name="Lydia">{{cite book|author=Agno, Lydia|title=Basic Geography|url=https://books.google.co.jp/books?id=HofX9zL4YQEC&pg=PA25&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=1998|publisher=Goodwill Trading Co., Inc.|isbn=978-971-11-0165-7|pages=25–}}</ref>。180度経線は基本的には[[日付変更線]]と可能な限り同一になるように定められており、両者が異なる場合も海上を通るように設定されているため、太平洋は中央部で日付変更線に分断される形となっており、東西で日付が1日違う。
日本では、日本沿岸の海域で単に「太平洋」と表記する場合、[[国際水路機関]]が[[1953年]](昭和28年)に定義した「太平洋<ref>[[国際水路機関]]「大洋と海の境界(第三版)」("Limits of Oceans and Seas, 3rd edition" Special Publication No.23)1953年</ref>」(図の濃い水色部分)ではなく、北太平洋及びフィリピン海を併せた海域を指すことが多い。即ち、日本海、オホーツク海、東シナ海及び[[瀬戸内海]]は「太平洋」には含まれないことが多い。
[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]が[[マゼラン海峡]]から[[フィリピン]]まで航海した時、その旅程のほとんどは実に穏やかだった。しかし、太平洋は常に穏やかなわけではない。多くの[[熱帯低気圧]]が太平洋の島を襲う<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/437703/Pacific-Ocean/36086/The-trade-winds "Pacific Ocean: The trade winds"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 9 June 2013.</ref>。[[環太平洋地域]]には[[火山]]が多い。また[[地震]]もよく起こり<ref name="Murphy1979">{{cite book|last=Murphy|first=Shirley Rousseau|title=The Ring of Fire|url=https://books.google.co.jp/books?id=xyJbAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=1979|publisher=Avon|isbn=978-0-380-47191-1}}</ref>、それに伴ってしばしば[[津波]]も発生し、多くの街や島を破壊してきた<ref name="Bryant2008">{{cite book|last=Bryant|first=Edward|title=Tsunami: The Underrated Hazard|url=https://books.google.co.jp/books?id=6lvl6i7r2CcC&pg=PR26&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=2008|publisher=Springer|isbn=978-3-540-74274-6|pages=26–}}</ref>。
== 名称 ==
[[探検家]]の[[フェルディナンド・マゼラン]]が、[[1520年]] - [[1521年]]に、世界一周の航海の途上で[[マゼラン海峡]]を抜けて太平洋に入った時に、荒れ狂う大西洋と比べたその穏やかさに、"{{lang|pt|Mar Pacifico}}" (マレ・パシフィクム、平和な海)と表現したことに由来する<ref>{{cite web|url=http://www.newadvent.org/cathen/09526b.htm |title=CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Ferdinand Magellan |publisher=Newadvent.org |date=1910-10-01 |accessdate=31 October 2010}}</ref>。マゼランが太平洋に入り[[マリアナ諸島]]に至るまで暴風に遭わなかったことからこのように名付けたともいう<ref name="sato" />。
明代末の中国では1602年にイエズス会士[[マテオ・リッチ]]が世界地図『坤輿万国全図』を作成した<ref name="sato">{{Cite web |author=佐藤正幸 |url=http://www.yamanashi-ken.ac.jp/wp-content/uploads/kgk2014003.pdf|title=明治初期の英語導入に伴う日本語概念表記の変容に関する研究|publisher=山梨県立大学 |accessdate=2020-01-18}}</ref>。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものだが、太平洋全体に対する表記はなく、北海、南海、東南海、西南海、大東洋、小東洋、寧海という7つの海域名称を付けている<ref name="sato" />。
マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた[[渋川春海]]の『世界図』では北太平洋に「小東洋」と記されている<ref name="sato" />。幕末になりパシフィック・オーシャンの日本語訳である「太平洋」が使われるようになった<ref name="sato" />。
== 地理 ==
[[ファイル:Trieste (23 Jan 1960).jpeg|thumb|right|200px|[[潜水艇]]の[[トリエステ (潜水艇)|トリエステ]]。1960年1月23日に[[マリアナ海溝]]の底へ潜った。]]
=== 海 ===
太平洋は赤道を境界として[[北太平洋]]、[[南太平洋]]と区別されることも多いが、この場合[[ガラパゴス諸島]]と[[ギルバート諸島]]に関しては赤道を南北にまたぐものの南太平洋に属するものとして扱われる<ref name="IHO1953">{{cite web
|author = International Hydrographic Organization
|year = 1953
|url = http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf
|title = Limits of Oceans and Seas, 3rd edition
|publisher = [http://www.iho.int/english/home/ International Hydrographic Organization]
|location = Monte Carlo, Monaco
|accessdate = 12 June 2010
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf
|archivedate = 2011年10月8日
|deadlinkdate = 2017年10月
}}</ref>
付属海は、北から[[ベーリング海]]、[[オホーツク海]]、[[日本海]]、[[黄海]]、[[フィリピン海]]、[[東シナ海]]、[[南シナ海]]、[[スールー海]]、[[セレベス海]]、[[ジャワ海]]、[[フロレス海]]、[[バンダ海]]、[[アラフラ海]]、[[サンゴ海]]、[[タスマン海]]。太平洋には大西洋のような大規模な対流はない。主な海流に[[黒潮]]、[[親潮]]、[[カリフォルニア海流]]、[[北赤道海流]]、[[ペルー海流]](フンボルト海流)などがある。海流の作る渦は旋廻渦と呼ばれ、[[北太平洋旋廻]]の中心には[[太平洋ゴミベルト]]と呼ばれるゴミの海域が広がっている。
=== 水深 ===
最深部はかつて[[マリアナ海溝]]のビチアス(ヴィチャージ)海淵 (11,034m) であるとされていたが、その後の測定の結果、この測定値には疑問がもたれており、現在では同じマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の10,920±10mが確実な値とされる。これは米国の[[スクリップス海洋研究所]]所属のトーマス・ワシントン号および[[海上保安庁]][[海洋情報部]]所属の拓洋によって測量された水深値を元に、1992年4月英国で開催された第8回GEBCOオフィサー会議で報告・了承された値である。平均深度は4280メートル、総水量は7.1億立方キロメートルである<ref name="ebc"/>。
=== 陸 ===
[[ファイル:Aliso Canyon mouth.JPG|thumb|left|185px|[[南カリフォルニア]]の海岸から太平洋を望む。]]
太平洋全体で最も大きい陸塊は[[ニューギニア島]]である。ニューギニア島は世界で2番目に大きい島でもある。太平洋のほぼすべての小さな島は北緯30°から南緯30°の間、およそ[[東南アジア]]から[[イースター島]]までの間にある。[[最終氷期]]の間、海水面が低くなっていた関係でニューギニア島はオーストラリア大陸の一部だったので、[[ボルネオ島]]と[[パラワン島]]のくっついたものが一番大きい陸塊だった。
太平洋中央部の島々は、大きく[[メラネシア]]、[[ポリネシア]]、[[ミクロネシア]]の三つに分けられる。
北端の[[ハワイ諸島]]と東端の[[イースター島]]、南端の[[ニュージーランド]]を結んでできる大きな三角形の中を占める[[ポリネシア]]は三つの海域中最も広く、[[クック諸島]]、[[マルキーズ諸島]]、[[サモア]]、[[ソシエテ諸島]]、[[トケラウ]]、[[トンガ]]、[[トゥアモトゥ諸島]]、[[ツバル]]、[[ウォリス・フツナ]]等の群島や島嶼がある<ref name="DunfordRidgell1996">{{cite book|last1=Dunford|first1=Betty|last2=Ridgell|first2=Reilly|title=Pacific Neighbors: The Islands of Micronesia, Melanesia, and Polynesia|url=https://books.google.co.jp/books?id=3n2z7E1zH3MC&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=14 June 2013|year=1996|publisher=Bess Press|isbn=978-1-57306-022-6|pages=125–}}</ref>。
赤道の北側かつ[[日付変更線]]の西側は[[ミクロネシア]]といい、北西部の[[マリアナ諸島]]、中央部の[[カロリン諸島]]、西部の[[マーシャル諸島]]、南西部の[[ギルバート諸島]]など、多くの島が存在する<ref name="AAE">{{cite book|title=Academic American encyclopedia|url=https://books.google.co.jp/books?id=cF8NAQAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=12 June 2013|year=1997|publisher=Grolier Incorporated|isbn=978-0-7172-2068-7|page=8}}</ref><ref name="LalFortune2000-P63">{{cite book|last1=Lal|first1=Brij Vilash|last2=Fortune|first2=Kate|title=The Pacific Islands: An Encyclopedia|url=https://books.google.co.jp/books?id=T5pPpJl8E5wC&pg=PA63&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=14 June 2013|year=2000|publisher=University of Hawaii Press|isbn=978-0-8248-2265-1|pages=63–}}</ref>。
太平洋の南西角は[[メラネシア]]に属し、太平洋最大の島である[[ニューギニア島]]をはじめ、他にも[[ビスマルク諸島]]、[[ソロモン諸島]]、[[フィジー]]、[[ニューカレドニア]]、[[バヌアツ]]等がある<ref name="West2009">{{cite book|last=West|first=Barbara A.|title=Encyclopedia of the Peoples of Asia and Oceania|url=https://books.google.co.jp/books?id=pCiNqFj3MQsC&pg=PA521&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=14 June 2013|year=2009|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-1-4381-1913-7|pages=521–}}</ref>。
太平洋の島は基本的に4つのグループに分けられる。[[大陸島]]、High island ([[:en:High island|en]]) 、[[サンゴ礁]]の島、そして高くなったサンゴの台地 (uplifted coral platform) である。[[安山岩線]]の外側には大陸島(ニューギニア島、ニュージーランド、[[フィリピン]]含む)。これらの島のうち、いくつかは構造的に近くの大陸とくっついている。 High islands は火山が作った島で、たいてい今も[[活火山]]がある。例として、[[ブーゲンビル島]]、ハワイ諸島、ソロモン諸島などがある<ref name="GillespieClague2009">{{cite book|last1=Gillespie|first1=Rosemary G.|last2=Clague|first2=David A.|title=Encyclopedia of Islands|url=https://books.google.co.jp/books?id=g9ZogGs_fz8C&pg=PA706&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=12 June 2013|year=2009|publisher=University of California Press|isbn=978-0-520-25649-1|page=706}}</ref>。
サンゴ礁の島のグループ、サンゴの台地のグループは、その名の通りどちらもサンゴによって作られた石灰岩質の島である。サンゴ礁とは、海面下の玄武岩の溶岩流に低く垂れこめるように作られる構造物である。オーストラリアの北東にある[[グレートバリアリーフ]]は最も大規模な物の1つとして知られている。後者のグループは、前者のグループより大抵やや大きい。例としては[[バナバ島]] (かつてはオーシャン島と呼ばれた)や[[フランス領ポリネシア]]の[[トゥアモトゥ諸島]]にある[[マカテア島]]などがある<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/137072/coral-island "Coral island"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 22 June 2013.</ref><ref>[http://www.abc.net.au/ra/pacific/places/country/nauru.htm "Nauru"], Charting the Pacific. Retrieved 22 June 2013.</ref>。
南太平洋上には、陸地から最も離れた場所([[到達不能極]])である[[ポイント・ネモ]]があり、[[人工衛星]]を安全に落下させるための目標とされている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018年4月2日 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3169744?cx_position=11|title= 陸から最も離れた海、宇宙施設の墓場「ポイント・ネモ」|publisher= AFP|accessdate=2018-04-07}}</ref>。
== 海水の特徴 ==
[[ファイル:Ocean current 2004.jpg|thumb|right|200px|2004年の時点での世界の海流の一覧。赤が暖流で青が寒流。]]
太平洋の水の体積はおよそ7.14億立方キロメートルであり、世界の海水総量の50.1%を占める<ref>{{cite web|url=http://www.pwlf.org/pacific.htm|title=PWLF.org - The Pacific WildLife Foundation - The Pacific Ocean|accessdate=23 August 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120421015555/http://www.pwlf.org/pacific.htm|archivedate=2012年4月21日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。水温は場所によって様々で、極付近では海水の凍りはじめる凝固点である-1.4度近くまで下がり、赤道付近では30℃近くにまで上がる<ref name="Mongillo2000">{{cite book|last=Mongillo|first=John F.|title=Encyclopedia of Environmental Science|url=https://books.google.co.jp/books?id=ozAN5vLbssgC&pg=PA255&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=9 June 2013|year=2000|publisher=University Rochester Press|isbn=978-1-57356-147-1|pages=255–}}</ref>。
[[塩分濃度]]も緯度によって様々である。赤道付近の海水は中緯度地域の海水よりも塩分濃度が低い。なぜなら熱帯性の熱帯特有の大雨が一年中降って希釈されるからである。温帯に近い高緯度地域の塩分濃度も、中緯度地域と比べると低い。なぜなら寒い地域では海水があまり蒸発しないからである。
=== 海流 ===
太平洋の海水の動きは一般的に、[[北半球]]では[[時計回り]]、[[南半球]]では反時計回りの[[環流]]である。
[[北赤道海流]]は、北緯15度付近では[[貿易風]]により西に流れ、フィリピン沖で向きを北に変え[[黒潮]]になる<ref>[http://oceanmotion.org/html/background/equatorial-currents.htm "Wind Driven Surface Currents: Equatorial Currents Background"], Ocean Motion. Retrieved 9 June 2013.</ref>。その後北緯45度付近で東に向きを変え、黒潮と一部の海水は北へ向かい[[アリューシャン海流]]になる。そうでない海水は南へ向かい、北赤道海流に戻る<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/325346/Kuroshio "Kuroshio"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 9 June 2013.</ref>。アリューシャン海流は北米に近づくと、一部はベーリング海を反時計回りに回る基礎となる。南側の部分は南へ向かう遅い寒流、[[カリフォルニア海流]]になる.<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/13933/Aleutian-Current "Aleutian Current"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 9 June 2013.</ref>。
赤道に沿って西に流れる[[南赤道海流]]は、ニューギニアの東で南へ、南緯50度付近で東へと向きを変え、南極海を西から東へ流れ地球を一周する[[南極環流]]に合流する。チリの海岸に近づくと、南赤道海流は2つに分かれる。片方は[[ホーン岬]]をまわり、片方は北へ向かう[[フンボルト海流]]になる<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/437770/Pacific-South-Equatorial-Current "South Equatorial Current"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 9 June 2013.</ref>。
== 地質 ==
{{Main|太平洋プレート}}
[[ファイル:Pacific elevation.jpg|thumb|280px|太平洋は多くの[[火山]]と[[海溝]]に囲まれている。[[標高]]を示した図。]]
[[安山岩線]]とは、太平洋と他を分ける最も重要なもので、太平洋の真ん中にある海盆の深いところにある[[有色鉱物]][[火成岩]]と、太平洋の縁にある大陸性の部分的に沈んでいる[[無色鉱物]]火成岩でできた区域とを分ける<ref name="TrentHazlett2010">{{cite book|last1=Trent|first1=D. D.|last2=Hazlett|first2=Richard|last3=Bierman|first3=Paul|title=Geology and the Environment|url=https://books.google.co.jp/books?id=TbGOhr9Po9IC&pg=PA133&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=10 June 2013|year=2010|publisher=Cengage Learning|isbn=978-0-538-73755-5|page=133}}</ref>。安山岩線は[[カリフォルニア]]の沖合の西側から[[アリューシャン列島]]の南を通り、以下の地域の東側を通る:[[カムチャツカ半島]]、[[千島列島]]、[[日本列島]]、[[マリアナ諸島]]、[[ソロモン諸島]]、[[北島 (ニュージーランド)]]<ref name="LalFortune2000-P4">{{cite book|last1=Lal|first1=Brij Vilash|last2=Fortune|first2=Kate|title=The Pacific Islands: An Encyclopedia|url=https://books.google.co.jp/books?id=T5pPpJl8E5wC&pg=PA4&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=10 June 2013|date=January 2000|publisher=University of Hawaii Press|isbn=978-0-8248-2265-1|page=4}}</ref><ref name="Mueller-Dombois1998">{{cite book|last=Mueller-Dombois|first=Dieter|title=Vegetation of the Tropical Pacific Islands|url=https://books.google.co.jp/books?id=7UB5d33i8WkC&pg=PA13&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=10 June 2013|year=1998|publisher=Springer|isbn=978-0-387-98313-4|page=13}}</ref>。安山岩線という閉じた輪の中は、海底火山と環太平洋地域を特徴づける火山島を除いては水深の深い海である。
[[玄武岩]]質の溶岩は普通流れ出ると巨大なドーム型の火山、[[楯状火山]]を形作り、その浸食された頂上は島弧、列島、群島などになる。
安山岩線の外側にある[[環太平洋造山帯]]は、さまざまな[[沈み込み帯]](プレートが横向きに押されて、別のプレートの下へ沈むところ)の上に何百もの活火山があることからその名がついた。太平洋は沈み込み帯にほぼ全てぐるりと囲まれている唯一の海である。南極とオーストラリアの海岸の近くだけが唯一沈み込み帯ではないところである。
=== 地質学的歴史 ===
太平洋は[[パンゲア大陸]]の分裂によって古代海洋[[パンサラッサ]]から変化してできた海である。連続的に置き換わったので、いつパンサラッサが太平洋に切り替わったか、はっきりとしたことは言えない。その一方で当時を再現した地図ではたいてい大西洋が開き始めた頃のパンサラッサを太平洋と呼び始める (<ref>http://www.scotese.com/newpage8.htm</ref>と<ref>http://www.scotese.com/late1.htm</ref><ref name="geol.umd.edu">http://www.geol.umd.edu/~tholtz/G102/102prot2.htm</ref>を参照)。
パンサラッサは7億5000万年前の[[ロディニア大陸]]の分裂により初めて開いた<ref name="geol.umd.edu" />。しかし、海底は、海嶺で誕生した後、プレートテクトニクスによって常に動き続けており、海溝で沈み込むことによって更新されているため、現在確認されている最も古い太平洋の海底はおよそ1億8000万年前のものである<ref>http://geology.about.com/library/bl/maps/blseafloorage.htm</ref>。
=== 海山列 ===
太平洋には[[ホットスポット]]の作った長い[[海山列]](海底にある山脈のこと)がいくつかある。[[天皇海山群]]や[[ルイビル海山列]]などである。
== 歴史 ==
=== ポリネシア人の移住 ===
{{See|オセアニア}}
[[ファイル:Ortelius - Maris Pacifici 1589.jpg|right|thumb|300px|[[アブラハム・オルテリウス]]が1589年に書いたMaris Pacifici([[:en:Maris Pacifici|en]])。初めてに太平洋を描いた地図の一つである。[[ヴァルトゼーミュラー地図]] (1507年)も参照<ref>[http://www.loc.gov/today/pr/2001/01-093.html LOC.gov]</ref>。]]
有史以前、すでに太平洋の沿岸地域には人類が居住していた。しかし、太平洋中央部に点在する島々へと人々が移住するようになったのは、[[紀元前1500年]]ごろにニューギニアに居住していた[[ラピタ人]]たちが、島伝いに沖へと乗り出していったものがはじまりと推測されている。彼らはまずニューギニアから近い[[メラネシア]]へと進出し、[[ビスマーク諸島]]には紀元前1300年、バヌアツには紀元前1000年、フィジーには紀元前900年、トンガには紀元前850年に到達した。この第一期の移住の波は、サモアでいったん停止した。その数百年後、サモアやフィジー、トンガといったポリネシア西部の島々から第二期の移住の波が起こり、ニュージーランド(アオテアロア)、マルケサス諸島、タヒチ、イースター島、ハワイなど残りの島々にすべて植民し、ヨーロッパ人が太平洋に到達する数百年前には、すでにポリネシア人は太平洋の隅々まで植民を終えていた。
{{See also|[[太平洋の諸島の歴史]]}}
=== ヨーロッパ人の到来 ===
16世紀初頭、ヨーロッパ人が太平洋に到達した。最初に太平洋に到達したヨーロッパ人は、[[1513年]]に[[パナマ地峡]]を渡った[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]である。彼は''Mar del Sur'' (南の海という意味)と名付けた<ref name="Ober">{{cite book|last=Ober|first=Frederick Albion|title=Vasco Nuñez de Balboa|url=https://books.google.co.jp/books?id=98zUIbdvAYgC&pg=PT129&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=12 June 2013|publisher=Library of Alexandria|isbn=978-1-4655-7034-5|page=129}}</ref>。この名がついたのは、バルボアが渡ったパナマ地峡は南北に短く、北岸のカリブ海側から南岸の太平洋側に到達したからである。そしてその後、[[ポルトガル人]]の[[探検家]]、[[フェルディナンド・マゼラン]]が[[1519年]]から[[1521年]]の間に[[世界一周]]の過程で太平洋を航海するとき、マゼランは太平洋を "Pacífico" または "Pacific" とよんだ。この言葉は平和な、または太平な、という意味である。なぜなら航海の最中ずっと海が穏やかだったからである。
しかしマゼラン本人は1521年に[[フィリピン]]で死んでしまい、[[スペイン人]][[航海士]]、[[フアン・セバスティアン・エルカーノ]]が一隊を連れて[[インド洋]]を超え[[喜望峰]]をまわり、1522年にスペインへ帰国し世界一周を成し遂げた<ref name="oceanario">[http://www.oceanario.pt/cms/1316/ "Life in the sea: Pacific Ocean"], Oceanário de Lisboa. Retrieved 9 June 2013.</ref>。[[1525年]]から[[1527年]]にかけては、ポルトガル人の探検隊が[[カロリン諸島]]<ref>{{cite book|last=Galvano|first=Antonio |title=The Discoveries of the World from Their First Original Unto the Year of Our Lord 1555, issued by the Hakluyt Society|publisher=Kessinger Publishing|year=1563–2004 reissue|url=https://books.google.com/?id=XivHTiZoMycC&lpg=1|isbn=0-7661-9022-6 |ref=Galvano 1563|authorlink=António Galvão|accessdate=2011-06-16|page=168}}</ref>と[[ニューギニア島]]<ref name="Whiteway">{{cite book
| last = Whiteway
| first = Richard Stephen
| title = The rise of Portuguese power in India, 1497–1550
| publisher = A. Constable
| year = 1899
| location = Westminster
| url = https://books.google.co.jp/books?id=jM4NAAAAIAAJ&pg=PA333&dq=Jorge+de+Menezes+New+Guinea&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false}}</ref>に到達した。
1564年、[[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]率いるスペインの探検隊がメキシコから[[フィリピン諸島]]と[[マリアナ諸島]]へ海を渡った<ref name="HendersonDelpar2000">{{cite book|last1=Henderson|first1=James D.|last2=Delpar|first2=Helen|last3=Brungardt|first3=Maurice Philip|coauthors=Weldon, Richard N. |title=A Reference Guide to Latin American History|url=https://books.google.co.jp/books?id=e2F7c0wW7g4C&pg=PA28&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=12 June 2013|date=January 2000|publisher=M.E. Sharpe|isbn=978-1-56324-744-6|page=28}}</ref>。16世紀のその後、スペインの影響は最も大きかった。スペインは[[メキシコ]]と[[ペルー]]から太平洋を越えて[[グアム]]を経由し[[フィリピン]]まで航行する、[[スペイン領東インド]]を作った。[[マニラ・ガレオン]]は250年間、[[マニラ]]と[[アカプルコ]]と結んだ。これは歴史上最も長い交易路の一つである。スペインの探検により南太平洋の[[ツバル]]、[[マルキーズ諸島]]、[[ソロモン諸島]]が見つかった<ref name="Fernandez-Armesto 2006 305–307">{{cite book |last= Fernandez-Armesto |first= Felipe |title= Pathfinders: A Global History of Exploration |year= 2006 |publisher= W.W. Norton & Company |isbn= 0-393-06259-7 |pages= 305–307}}</ref>。
[[テラ・アウストラリス]]を捜す探検の中で、スペイン人の探検家たちは17世紀に南太平洋の[[ピトケアン諸島]]と[[バヌアツ]]諸島を発見した。オランダ人探検家たちも南アフリカをまわり、発見と交易にかかわった。[[アベル・タスマン]]は1642年に[[タスマニア島]]と[[ニュージーランド]]を発見した<ref>{{cite book|title=Primary Australian History: Book F [B6] Ages 10-11|url=https://books.google.co.jp/books?id=_i98Pu5dDhkC&pg=PA6&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=12 June 2013|year=2008|publisher=R.I.C. Publications|isbn=978-1-74126-688-7|page=6}}</ref>。18世紀にはいると、ロシア人が[[アラスカ]]と[[アリューシャン列島]]の大規模な探検をおこなった。
スペインは北西太平洋へも探検家を送り、カナダおよびアラスカ南部の[[バンクーバー島]]まで達した。フランス人はポリネシアを探検し、植民した。イギリスは[[ジェームズ・クック]]らを3回航海させ、南太平洋や[[オーストラリア]]や[[ハワイ]]や北米の[[太平洋岸北西部]]へ行かせた。このクックの航海により、太平洋中央部の島々のかなりが発見された。
19世紀中拡大した[[帝国主義]]により、太平洋の大部分がヨーロッパの列強に占領され、次にアメリカ合衆国と日本に占領された。1830年代に[[チャールズ・ダーウィン]]をのせ航海した[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]や1870年代に航海した[[チャレンジャー (コルベット)|チャレンジャー号]]([[チャレンジャー号探検航海]])などによって多くの海洋学的知識がもたらされた。
[[アメリカ合衆国]]は[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]によって[[グアム]]とフィリピンをスペインから1898年に得たが、その後日本が西太平洋のほとんどを1914年に、そして他の島を[[太平洋戦争]]中に占領した。しかし敗戦とともに[[アメリカ海軍]]の太平洋艦隊が太平洋を事実上占領した。第二次世界大戦の後、太平洋の多くの植民地が独立[[国家]]になった。
== 政治 ==
太平洋沿岸地域、とくに北アメリカ大陸および東アジアの経済成長に伴い、太平洋を取り巻くいわゆる環太平洋諸国の関係は深まりつつあり、これら諸国が多国間経済協力を進めるため、[[1989年]]に[[アジア太平洋経済協力]](APEC)が始まった。[[2014年]]にはこのAPECは21の国と地域が参加しており、とくにアメリカ・日本・中国・ロシアといった大国群が参加していることもあって、参加国の総計では世界のおよそ半分の人口・国富・貿易額を占めている<ref>https://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/apec/ 経済産業省 APEC 2014年12月21日閲覧</ref>。このため、APECは重要な国際機関の一つとなっている。
== 経済 ==
太平洋の鉱物資源の開発はその深さが障害になっている。オーストラリアとニュージーランドの大陸棚の浅瀬では、[[石油]]や[[天然ガス]]が採掘されている。また、[[オーストラリア]]、[[日本]]、[[パプアニューギニア]]、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、[[フィリピン]]の沿岸では[[真珠]]も取れる。しかし、取れる量がはっきりと減っている場合もある<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/437703/Pacific-Ocean/36099/Fisheries "Pacific Ocean: Fisheries"], ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 12 June 2013.</ref>。
太平洋最大の価値は[[資源#水産資源|水産資源]]である。大陸の海岸付近の海域や温帯の島では[[ニシン属|ニシン]]、[[マスノスケ]]、[[イワシ]]、[[メカジキ]]、[[ツナ]]、[[貝類]]等がとれる<ref>[http://www.infoplease.com/encyclopedia/world/pacific-ocean-commerce-shipping.html "Pacific Ocean: Commerce and Shipping"], ''The Columbia Electronic Encyclopedia'', 6th edition. Retrieved 14 June 2013.</ref>。太平洋は、海域によって漁業生産力の差が激しい。太平洋で最も漁業生産力の高い地域は北太平洋にあり、日本近海から[[カムチャツカ半島]]、[[アリューシャン列島]]、[[アラスカ]]南岸を通って北アメリカ大陸の西岸にいたる地域である。この地域は黒潮が大きな流れを作っており、ここに親潮などの寒流やベーリング海などからの冷たい海水が接触することで[[潮目]]ができ、好漁場となっている。このほか、南アメリカ大陸沿岸も寒流であるペルー海流と周辺の温暖な海水との接触により好漁場となっている。逆に、太平洋の中央部は、赤道反流によって湧昇が起こり好漁場となる赤道周辺を除いては、漁業生産力は低い。
== 環境問題 ==
[[ファイル:Marine debris on Hawaiian coast.jpg|thumb|right|180px|[[ハワイ]]の海岸の[[漂流・漂着ごみ|海ゴミ]]]]
{{Main|海洋汚染}}{{See also|太平洋ゴミベルト}}
海洋汚染とは、有害な化学物質や細かいかけらが海に入ることを指す包括的な言葉である。最大の原因は川にゴミを捨てることである<ref name="news.nationalgeographic.com">http://news.nationalgeographic.com/news/2009/09/photogalleries/pacific-garbage-patch-pictures/</ref>。
川は海に注ぐ。その時、農業用[[肥料]]として使われた化学物質なども一緒に注ぐ。その化学物質を分解するために多くの酸素が使われ、[[貧酸素水塊]]ができてしまう<ref>Gerlach: Marine Pollution, Springer, Berlin (1975)</ref>。海ゴミとも呼ばれる漂流ゴミは海で見つかった人間のゴミを指す言葉である。特にプラスチックなど生分解性に乏しい素材でできた水よりも比重の軽いゴミは長期間浮遊し続ける。比重が軽く水に浮きやすい海ゴミは渦の中心や海岸線に集まる傾向があり、しばしば浜辺にゴミが打ち上げられる<ref name="news.nationalgeographic.com" />。この他、海底に沈んでいるゴミの問題なども存在する。
== 取り囲む国と地域 ==
{{See also|環太平洋地域}}
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* {{flag|American Samoa}}
* {{flag|Australia}}
* {{flag|Brunei}}
* {{flag|Cambodia}}
* {{flag|Canada}}
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* {{flag|Wallis and Futuna}}
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* [[ハワイ諸島]](米国領)
* [[合衆国領有小離島]](米国領)
* [[イースター島]](チリ領)
* [[ガラパゴス諸島]](エクアドル領)
* [[クリッパートン島]](フランス領)
* [[チャタム諸島]](ニュージーランド領)
== 主な港 ==
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* {{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア]]、[[タウンズビル]]
* {{Flagicon|AUS}}オーストラリア、[[ブリスベン]]
* {{Flagicon|AUS}}オーストラリア、[[ニューカッスル (ニューサウスウェールズ州)|ニューカッスル]]
* {{Flagicon|AUS}}オーストラリア、[[シドニー]]
* {{Flagicon|AUS}}オーストラリア、[[メルボルン]]
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* [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])
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== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』(集英社新書、2004年)ISBN 4087202739
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5,331 | 第一次世界大戦 | 第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I、略称:WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で戦われた世界規模の戦争である。
7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。
戦争が長引いたことにより各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。
戦争は全世界の経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。
諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟(日英同盟を参照)を結んでいた大日本帝国は連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する。
第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった。あるいは、欧州大戦 (War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end wars) という表現もあった。主に第一次世界戦争(First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である。
このうち「世界戦争」(ドイツ語: Weltkrieg) という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策」 (Weltpolitik) の存在などがあったという。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった。
「第一次世界戦争」(First World War) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争 (the first world war) 』となるだろう」と述べた時だった。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した。
一方、「大戦争」(英語: Great War, フランス語: la Grande Guerre) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌(英語版)が「大戦争」(Great War) とした。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという。
歴史家のガレス・グロヴァー(英語版)は著書の『100の物が語るウォータールー』(Waterloo in 100 Objects) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争とナポレオン戦争を意味した」と述べた。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』(William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。
木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという。
戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者(英語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエヴォ事件)だった。
これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。
まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。
ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月の第一次マルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻(英語版)を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。
ロシアでは1917年3月に二月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢(英語版)でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。
戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。
1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立されたが、この取り組みは失敗した。世界恐慌、民族主義の復活、後継国家の弱体化、敗戦国側(特にドイツ)の屈辱感は、やがて第二次世界大戦を引き起こすこととなった。
軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた(軍事技術も参照)。
19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にプロイセン王国がドイツ統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退(英語版)を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった。1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、イタリア王国が加入して三国同盟となった。またアジアにおいては、1902年に日本とイギリスが日英同盟を締結した。
ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと英仏協商を、1907年にロシアと英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた。
普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した。
その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した。
オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を沸騰させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った。
1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャ(英語版)をルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった。
列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。
1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエヴォを訪問した。
ユーゴスラヴ主義(英語版)組織青年ボスニア(英語版)からの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチ(英語版)、ガヴリロ・プリンツィプ、ムハメド・メフメドバシッチ(英語版)、ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)、トリフコ・グラベジュ、ヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版))はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。
フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエヴォ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公の妻ゾフィー・ホテクを射殺した。
オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマン(英語版)は後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」と。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けて、怯えた。
オーストリア=ハンガリー当局は、サラエヴォの反セルビア暴動(英語版)を煽動した。その結果、サラエヴォではボスニア系セルビア人(英語版)2人がボスニア系クロアチア人(英語版)とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。
セルビア人に対する暴力はサラエヴォ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「保護団体(英語版)」も設立され、セルビア人を迫害した。
暗殺事件により、七月危機と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。
オーストリア=ハンガリーはセルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした。7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアへ犯人の黒手組を調査させるべく10点の要求を突き付けた。セルビアは25日に総動員したが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第五条と、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条除いて最後通牒の要求を受諾した。
その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。
7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。
ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。
8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した(午後11時に発効)。
中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。
オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱によりオーストリア=ハンガリー陸軍(英語版)は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。
オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。ツェルの戦い(英語版)、続いてコルバラの戦い(英語版)でセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。
その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた。
セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった。
12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍のクラクフへの進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけてカルパティア山脈の冬季戦役(ドイツ語版)が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した。
ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、ドイツ第10軍団(英語版)はベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12要塞(英語版)はすぐには陥落しなかった。
ドイツはディッケ・ベルタという重砲を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾がロンサン砦(英語版)の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた。
第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くのヴィゼ、ダレム(英語版)、バティス(フランス語版)で起きたことだった。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由はフラン=ティルール(英語版)によるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナン(英語版)、タミーヌ(フランス語版)、アンデンヌ(英語版)、アールスコートで起きた。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり、またレーヴェンの破壊(ドイツ語版)でドイツは国際世論の非難を受けた。これらの戦争犯罪はイギリスのプロパガンダで真偽まじりで宣伝され、「ベルギーの強奪(英語版)」という語が生まれた。
ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17(英語版)を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、ロレーヌでの中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌの奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までにドラー川(英語版)沿岸とヴォージュ山脈の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮したルイ・ボノー(フランス語版)はジョフルに解任された。
ジョフルは当初プラン17の遂行に集中して、フランス兵170万を5個軍に編成、ドイツによるベルギー攻撃を顧みなかった。だがドイツ軍の行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、シャルル・ランレザック(英語版)率いるフランス第5軍(英語版)を北西部に派遣した。ちょうどフランスに上陸した、ジョン・フレンチ率いるイギリス海外派遣軍はモブージュの北でフランス軍と合流した。フランスの攻勢は8月14日に始まり、オーギュスタン・デュバイ(英語版)率いるフランス第1軍(英語版)とエドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー(英語版)率いるフランス第2軍(英語版)は国境を越えてサールブールに進軍、ループレヒト・フォン・バイエルン率いるドイツ第6軍(英語版)と第7軍(英語版)は戦闘を回避した。
8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くもブリュッセルとナミュールに押し寄せると、ベルギー軍の大半はアントウェルペンの要塞に退却、そこから2か月間にわたるアントウェルペン包囲戦(英語版)が始まった。20日、フランス軍は本命となるロレーヌとザールルイ地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。
こうして、ザールブルク、ロンウィ、アルデンヌの戦い、マース川、サンブル川とマース川の間、モンス(英語版)という長大な前線で国境の戦い(英語版)と呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出した。死傷者の多くは機関銃によるものだった。
フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかし、フランス軍は紀律を保ち、ロレーヌではムルト川の後ろ、ナンシー周辺の要塞群に退却。フランス北部でもマース川の後ろにあるヴェルダン要塞を保持したため、大部隊がドイツに包囲されて失われるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンはシュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう小モルトケに求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった。
左翼の英仏軍は大撤退(英語版)を開始、ル・カトーの戦い(英語版)(8月26日)やサン=カンタンの戦い(英語版)(8月29日)を間に挟んで撤退を続け、それを追撃するドイツ軍右翼はパリへと接近した。フランス政府は9月2日にパリからボルドーに疎開し、パリの守備は既に引退していたジョゼフ・ガリエニが現役復帰して担当した。フランス軍右翼と予備軍から兵士が引き抜かれてミシェル=ジョゼフ・モーヌリー(英語版)率いるフランス第6軍(英語版) に編成され、ドイツ軍への側面攻撃でその進軍を脅かした。フェルディナン・フォッシュ率いる第9軍(英語版)は中央部に投入された。ジョフルはマルヌ川を合流地点として撤退を停止、そこから反転してドイツ軍に攻撃するという計画を立てた。
迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍は進軍の速度を保ちながら南西と南に方向転換した。そのうち、アレクサンダー・フォン・クルック率いる第1軍は8月20日にブリュッセルを占領した後、フランス軍とイギリス海外派遣軍を追撃した。前線が拡大するにつれて、ドイツの攻勢の奇襲性が失われ、ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて、ドイツ軍の連絡線が伸び、フランス軍の連絡線が縮んだのだった。8月末にはドイツ軍の歪んだ前線が崩壊直前にまでなり、右翼も反撃を受けて南と南東に向けて方向転換した。そして、パリの包囲計画は8月30日に放棄され、その報せは9月3日にジョフルに届けられた。
当時ルクセンブルクにいたドイツ軍最高司令部には前線の情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線を使用した通信も技術が整っておらず、飛行隊からの報告はしばしば無視された。ドイツ第1軍(英語版)32万人は強行軍してイギリス海外派遣軍を封じ込もうとしたが、その過程で自軍の西側の守備を無視してしまった。東部戦線に2個軍団を割いたこと、アントウェルペン包囲戦(英語版)やモブージュ包囲戦(英語版)に軍を割いたこと、行軍と戦闘による損害、補給の不足により第1軍は停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた。
9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まった(第一次マルヌ会戦)。ドイツ第1軍は命令に違反して9月5日にマルヌ川の南側に進軍、パリ周辺のル・プレシ=ベルヴィル(英語版)、モルトフォンテーヌ(英語版)、モーまで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由はドイツ第1軍と第2軍の間に40kmの隙間が生じ、英仏軍が9月8日の正午近くにそこに雪崩れ込んだためであった。ドイツ前線の連絡はおぼつかず、ドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威が増大したため、第1軍と第2軍の視察を命じられていたリヒャルト・ヘンチュ(ドイツ語版)中佐は撤退を決定した。
撤退の必要性、特に第1軍の撤退は後に疑問視されたが、通説ではホルガー・アッフレルバッハ(ドイツ語版)が述べたように、「撤退は作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響は致命的だった」。シュリーフェン・プランは失敗に終わり、アルザス=ロレーヌでフランス軍を圧迫することも失敗した。9月9月、小モルトケは手紙でこう綴った:
モルトケは神経衰弱をきたし、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが後任の参謀総長となった。ドイツ第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ軍がエーヌ川の後ろに撤退したことで9月13日に第一次エーヌ会戦(英語版)が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ軍はエーヌ川の後ろに撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス軍が反撃したが、戦況が膠着した。ドイツ軍の撤退はフランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判を受けた。ファルケンハインは帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに対し、シュリーフェン・プランが失敗した後の軍事情勢をドイツ国民に説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。
ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの海への競争(英語版)において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から北海沿岸のニーウポールトまで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながらリール、ヘント、ブルッヘ、オーステンデを占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北のフランドルに移り、英仏海峡に面するカレーとダンケルクを経由するイギリスからの増援は中断された。
9月17日、イギリスの代表的作家53人が首都ロンドンにおいて声明『イギリスの戦争の擁護』を出した。10月4日、ドイツ大学人による『93人のマニフェスト(文化的世界へ訴える)』が出された。10月16日にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3千人が連名で『ドイツ帝国大学声明』を出して大戦を「ドイツ文化の防衛戦」として正当化した。イギリスなどの学者は10月21日に米紙『ニューヨーク・タイムズ』上でドイツ大学人への返答を出した。
10月20日から11月18日まで、イーペルで激しい戦闘が起こり(第一次イーペル会戦(英語版))、大急ぎで投入されたドイツの予備部隊はランゲマルク(英語版)とイーペルで大損害を受けた。訓練も経験も不足していた予備軍の士官が若い兵士(15歳の兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害を出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、ランゲマルクの神話(ドイツ語版)が作られ、軍事上の敗北を道徳上の勝利として解釈する、第一次世界大戦における初の事例となった。同盟軍はイギリスの補給港であるブローニュ=シュル=メールとカレー、および鉄道の中心地であるアミアンをドイツ軍から守ることに成功した。
行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な塹壕線を掘り、戦闘は塹壕戦に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海からスイス国境(第一次世界大戦下のスイス(ドイツ語版)も参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた。
ファルケンハインは11月18日にベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、三国協商との戦争は勝ち目がなくなったと通告して、外交を通じた終戦を求めた。彼はイギリスとの講和は不可能と考え、それ以外の交戦国と単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。ベートマン・ホルヴェークが拒否したのは占領地を手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。パウル・フォン・ヒンデンブルクもエーリヒ・ルーデンドルフも敵を全滅させるという立場を崩さず、勝利の平和を可能であると判断した。結局、首相と軍部は世間からマルヌ会戦とイーペル会戦の敗北を隠蔽して戦闘を継続したため、政治と軍事情勢が政治と経済のエリート層の戦争目標への望みと乖離していき、戦中と戦後の社会闘争につながった。
11月、イギリス海軍は北海全域を交戦地帯と定め、海上封鎖を敷いた(ドイツ封鎖)。中立国の旗を掲げる船舶でもイギリスに警告なしで攻撃される可能性が出たが、イギリス海軍のこの行動は1856年のパリ宣言に反するものだった。
ロシアの2個軍はシュリーフェン・プランの仮定と違って、開戦から2週間で東プロイセンへの侵攻を開始したため、東部戦線の情勢はドイツにとって厳しいものだった。ドイツはシュリーフェン・プランにより西部戦線に集中したため、東部戦線では守備態勢をとった。そのため、ドイツはロシア領ポーランドとの国境地帯にあるいくつかの町を占領したに留まり、1914年8月のカリシュの破壊(英語版)がその一環となった。8月20日のグンビンネンの戦い(英語版)の後、東プロイセンを守備するドイツ第8軍は撤退、東プロイセンの一部がロシアに占領された。
その結果、東部戦線のドイツ軍は増援され、新たにパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が司令官、エーリヒ・ルーデンドルフ少将が参謀長に就任した。2人は8月末のタンネンベルクの戦いに勝利、アレクサンドル・サムソノフ率いるロシア第2軍(英語版)をほぼ全滅させて東プロイセンを確保した。続く9月の第一次マズーリ湖攻勢でもパーヴェル・レンネンカンプ率いるロシア第1軍(英語版)が敗北したため、ロシア軍は東プロイセンの大半から撤退した。
8月24日から9月11日までのガリツィアの戦い(英語版)の後、ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領ガリツィア・ロドメリア王国を占領した。オーストリア=ハンガリー軍はガリツィアの首都レンベルクを攻撃した後、ロシア軍が人数で圧倒的に優位にあったため撤退を余儀なくされた(レンベルクの戦い(ドイツ語版)、8月26日 - 9月1日)。ロシアによる第一次プシェムィシル包囲は9月24日から10月11日まで続いた後、一旦解かれた。オーストリア=ハンガリー軍を救うべく、新しく編成されたドイツ第9軍(英語版)はポーランド南部攻勢(英語版)を開始したが失敗した。11月1日、ヒンデンブルクがドイツ軍総指揮官に任命された。11月9日、第二次プシェムィシル包囲が開始、オーストリア=ハンガリーの駐留軍は1915年3月22日まで耐えた末に降伏した。ドイツのウッチ地域における反攻(英語版)は11月11日に開始、12月5日まで続き、その後はロシア軍が守備に入った。
ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団(ドイツ語版)とバグダード鉄道の建設により、オスマン帝国はドイツに接近した。さらに、オスマン帝国はイギリスに戦艦スルタン・オスマン1世とレシャディエを注文しており、代金も支払っていたが、イギリスは開戦直後の1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権を握っていた青年トルコ人には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないことが明らかだった。最終的にはエンヴェル・パシャによりオスマン・ドイツ同盟(英語版)、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟が締結されたが、この同盟は内閣でも賛否両論だった。
ヴィルヘルム・スション(英語版)率いる、ドイツの地中海艦隊(英語版)の巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウがイギリスの地中海艦隊による追跡を振り切り、8月16日にオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに逃げ込んだ(ゲーベン追跡戦)。両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日に出撃して黒海沿岸のロシア都市を襲撃した(黒海襲撃(英語版))以降も両艦に残った。9月27日、ダーダネルス海峡が正式に封鎖され、国際船舶の航行が禁止された。
11月初頭、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。11月14日朝、シェイヒュルイスラームのウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ(トルコ語版)はスルタンのメフメト5世による勅令に従い、コンスタンティノープルのファティフ・モスク(英語版)の前で敵対国に対するジハードを宣言した。しかし、宣言に呼応したのはイギリスのアフガニスタン部隊の一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 (Singapur))であった。バーラクザイ朝アフガニスタン首長国でのイギリスに対する反感にも影響したが、それは1919年の第三次アングロ・アフガン戦争以降のことだった。
宣戦布告直後の11月6日、イギリスとインド軍はアングロ・ペルシア石油会社(英語版)の利権を守ろうとしてペルシア湾でアル=ファオ上陸戦を敢行、これによりメソポタミア戦役(英語版)が開始された。イギリス軍はオスマン軍を蹴散らした後(バスラの戦い(英語版))、11月23日にバスラを占領した。
カフカース戦役(英語版)ではロシア軍が11月にベルグマン攻勢(英語版)を開始した。ロシア軍の攻勢を撃退すると、オスマン第3軍(英語版)は反撃に転じたが、真冬の中で行われたサリカミシュの戦い(英語版)で大敗した。アルメニア人義勇軍がロシア側で戦ったため、オスマン帝国に残っていたアルメニア人に対する目が冷たくなったが、アルメニア人の大半はオスマン側についたままだった。ロシア軍は長らく占領していたペルシア北東部から進撃した(ペルシア戦役(英語版))。一方、シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)は1914年時点では大きな戦役はなかった。
欧州諸国により植民地化されていたアフリカ各地では、戦争初期よりイギリス、フランス、ドイツの植民地勢力が戦闘を行った。
8月6日から7日、フランスとイギリス部隊はドイツ領トーゴラントとドイツ保護領カメルーンに侵攻した。10日、ドイツ領南西アフリカのドイツ軍が南アフリカ連邦を攻撃して以降、終戦まで散発的ながら激しい戦闘が続いた。
ドイツ領東アフリカのパウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐率いる植民地軍はゲリラ戦を行い、1918年のヨーロッパでの停戦から2週間後まで降伏しなかった。
東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。
なお、首相である大隈重信は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。
また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモアを占領(英語版)した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍(英語版)がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦(英語版)でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。
ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府と、同じく近隣に植民地を持つアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。
このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって、ドイツ領の南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、当然日本の国民感情的には期待があった。
開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、先に日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊に恐れをなし逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り(ドレーク海峡経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。
日本をはじめとする連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った。本国帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。
また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」、同「出雲」に、輸送船や工作船などからなる支隊を「遣米支隊」としてカリフォルニア州南部からメキシコにかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリスの連合国と、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。
日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開した。また、「出雲」はその後第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。
11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。
オーストリア=ハンガリーの防護巡洋艦カイゼリン・エリザベート(英語版)が青島からの退去を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。カイゼリン・エリザベートは青島を守備した後、1914年11月に自沈した。
これらの中国戦線で連合国の捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員日本に送られ、その後徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所の日本国内の俘虜収容所に送られ、終戦後の1920年まで収容された。
特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。12月18日にスウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク・ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。
スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部でクリスマス休戦と呼ばれる非公式な休戦が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる。
1915年2月4日、ドイツは2月18日以降に商船に対する潜水艦作戦(英語版)を開始すると正式に発表した。ドイツは中立国の抗議をはねつけてイギリスとアイルランド周辺の海域を交戦地帯と定めたが、イギリスを海上封鎖するには潜水艦(Uボート)が足りなかった。潜水艦を対商船作戦に使用したことで、ドイツは軍事上でも国際法上でも「新しい道」を歩み出した。イギリスの商船が武装を強化したため、Uボートは安全が脅かされ、捕獲物(英語版)に関する戦時国際法を完全に順守することができなかった。さらに、潜水艦の指揮官への指示が不明確で、海軍は中立国船舶の航行を妨げるために無警告で攻撃する無制限潜水艦作戦であると仮定した。しかし、ドイツの発表に中立国が抗議したため、Uボート作戦(英語版)は中立国の船舶を攻撃しないよう限定された。
5月7日、ドイツの潜水艦U-20(英語版)がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈(英語版)、国際世論による抗議の波を引き起こした。ドイツ駐ワシントン大使館は新聞に警告文を掲載したが、ルシタニア号が5月1日にニューヨークを出港した時にはアメリカ人200人以上が乗船していた。「戦争物資と弾薬を載せた」というルシタニア号が5月7日に撃沈されると、子供100人近くとアメリカ人127人を含む合計1,198人が死亡した。アメリカの世論は憤慨した。米独間で覚書が交換され、ヴィルヘルム2世は6月1日と6日にドイツ最高司令部の支持を得た首相の要請を受け、潜水艦が中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しないことを約束した。しかし、この決定を聞くと、アルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥とグスタフ・バッハマン(英語版)提督が辞表を出した(2人の辞任は拒否された)。U-24(英語版)が客船のアラビックを撃沈、再びアメリカ人の死者を出してしまうと、ドイツ駐アメリカ大使ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフ(英語版)がアメリカ政府にヴィルヘルム2世の決定を通知した(アラビックの誓約、Arabic pledge)。8月末、ヴィルヘルム2世の決定がエルンスト・ツー・レーヴェントロー(英語版)やゲオルク・ベルンハルト(ドイツ語版)などドイツの新聞編集長に告知された。彼らは軍部の指示を受けて無制限潜水艦作戦と反米のキャンペーンを直ちに停止した。
東部戦線において、ドイツ軍は新しく到着したドイツ第10軍(英語版)の助力で2月7日から22日までの第二次マズーリ湖攻勢に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた。
1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。
ロシア軍はカルパティア山脈の冬季戦役(ドイツ語版)を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍はイゾンツォ川とカルパティア山脈の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアからサン川方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春にアウグスト・フォン・マッケンゼン率いるドイツ第11軍(英語版)が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、クラクフの東でゴルリッツ=タルヌフ攻勢が行われた。この攻勢において、ドイツとオーストリア=ハンガリー第4軍(英語版)は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった。
6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いてブク攻勢(ドイツ語版)を開始した。6月4日にプシェムィシルを、22日にレンベルクを再占領した後、ロシア領ポーランドに突起部(英語版)を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画がドイツ最高司令部(実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった)から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までのナレフ攻勢(ドイツ語版)はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退を強いることができた。
大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までにワルシャワ(8月4日)、ブレスト=リトフスク、ヴィリニュスなど重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドではルブリンを首都とするオーストリアのルブリン総督府(ドイツ語版)とワルシャワを首都とするドイツのポーランド総督府(英語版)が成立、中でもドイツの東部占領地(英語版)では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いるドイツ第10軍(英語版)がミンスクに、オーストリア=ハンガリー軍がリウネに進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった。
西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールとヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで第一次シャンパーニュ会戦(英語版)で消耗戦が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型弾幕を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威であるサン=ミーエル(英語版)への攻撃(イースターの戦い (Osterschlacht) または第一次ヴェーヴル会戦 (Erster Woëvre-Schlacht))も試みたが失敗に終わった。
第二次イーペル会戦の初日である4月22日に毒ガスが使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている。第一次世界大戦の化学兵器(英語版)の使用は連合国軍が催涙剤を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある塩素ガスであり、ハーグ陸戦条約に違反した行動であった。そのため、この行動はプロパガンダに使われた。ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月にイーペル近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45アルジェ師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、第一次世界大戦の塹壕戦(ドイツ語版)ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい(7万対3万5千)という現象が起こった。
5月9日、英仏は第二次アルトワ会戦(英語版)で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の砲兵は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った。
1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた第二次シャンパーニュ会戦(英語版)と第三次アルトワ会戦(英語版)だった。シャンパーニュ会戦とローの戦い(英語版)はともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。「連合国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」。
一方、英仏両軍はオスマン帝国に対しては本土侵攻を企図した。2月19日、連合国軍のダーダネルス作戦が始まり、英仏艦隊がダーダネルス海峡の沿岸要塞(オスマン帝国領)を艦砲射撃した。連合国軍の目的は首都コンスタンティノープルを脅かすことによってオスマン帝国を戦争から脱落させ、黒海を経由するロシアの補給路を回復することだった。3月18日、イギリスのジョン・デ・ロベック(英語版)提督率いる艦隊が突破を試みたが、戦艦3隻を喪失、ほか損傷した戦艦もあった。その結果、連合国は上陸作戦でダーダネルス海峡を開かせることを決定した。イギリスは既にアレクサンドレッタに上陸してオスマン帝国の南部地域を中枢のアナトリア半島から切り離すことを計画していた。
連合国軍はギリシャ王国の中立を侵犯して、エーゲ海のリムノス島をオスマン帝国攻撃の拠点として占領していた。そして、4月25日にはリムノス島から出撃して連合国軍はガリポリ半島とアジア側の対岸にあるクンカレ(英語版)に上陸した。戦艦11隻が援護についた船200隻がイギリスの地中海遠征軍(英語版)78,000人とフランスの東方遠征軍(英語版)17,000人を運んだ。イギリスの遠征軍にはオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) も含まれ、この戦闘がANZACの初戦となった。結局攻撃は失敗したが、その理由はオスマン軍の予想以上の抵抗であり、オットー・リーマン・フォン・ザンデルス率いるオスマン第5軍(英語版)が活躍した。中でもムスタファ・ケマル・ベイ率いる第19歩兵師団(英語版)が頭角を現し、ムスタファ・ケマルが国民的英雄としての名声を得るきっかけの一つとなった。連合国軍50万人以上が投入されたこの戦役は1916年1月9日に連合国軍が撤退したことで終結、死者は両軍の合計で11万人となっている。
5月23日、イタリア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。1月以降、ドイツはオーストリア=ハンガリーに要請して、トレンティーノなどの割譲に同意してイタリアを少なくとも中立に留まらせようとした。5月4月に三国同盟が解消された後もイタリアへの提案は段々と拡大し、10日にはトレンティーノ、イゾンツォ川沿岸の割譲、アルバニア公国における自由行動権などが提案された。一方、イタリアは連合国と交渉して4月26日にロンドン条約を締結した。条約ではイタリアが連合国側で参戦した場合、未回収のイタリアの獲得を約束した。イタリア首相アントニオ・サランドラ(英語版)と外相シドニー・ソンニーノ(英語版)は数か月かけて国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の同意を取り付け、対オーストリア宣戦を決定した。宣戦を支持したのは国民の間でも議会でも多数派ではなかったが、対オーストリア主戦派が遥かに活動的だったため、あらゆる政治路線の世論主導者を団結させることができ、宣戦の決定はこの世論に押された結果だった。政治面でのイッレデンティズモ(失地回復主義あるいは未回収地回復運動)は、例えばチェザーレ・バッティスティ(英語版)が支持していた。作家で後にファシズムの先駆者となったガブリエーレ・ダンヌンツィオは首都ローマで戦争を支持するデモやイベントなどを組織、当時は社会主義者ジャーナリストだったベニート・ムッソリーニも1914年10月以降参戦を訴えて、イタリア社会党から除名処分を受けていた。ムッソリーニは(おそらくフランスからの資金援助を受けて)新聞の『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊して、連合国側で参戦することを求めた。主戦派はフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティら未来派の支持も受けた。宣戦直前のイタリア議会は多数派の長で元首相のジョヴァンニ・ジョリッティの中立路線を支持した(ダンヌンツィオがジョリッティの暗殺予告を出したほどであった)が、実際に政治上の決定を下したのは議会ではなかった。5月20日に議会が戦争借款を審議したとき、借款に反対したのは社会主義者だけだった。ジョリッティ派やカトリック教会などは戦争に反対したが、愛国的であると証明しようと借款を受け入れた。
イタリア戦線の前線はスイス国境のステルヴィオ峠からドロミーティ山脈、カルニーチェ・アルプス(英語版)、イゾンツォ川、そしてアドリア海岸まで続く。オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア、ロシア、イタリア)を強いられ、中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった。しかも、イタリアが参戦した直後、オーストリアは十分な兵力でイタリアとの前線を守備することができなかった。一部地域では民兵、ラントヴェーア(英語版)、シュタントシュッツェン(英語版)3万人を含むラントシュトルム(英語版)などに頼っていた。イゾンツォ川沿いの戦闘は宣戦布告直後に行われ、第一次イゾンツォの戦いは6月23日に開始した(7月7日まで)。イタリアは人数で大きく優勢で、広大な領土を占領したにもかかわらず、第一次イゾンツォの戦いも第二次イゾンツォの戦いも(7月17日 - 8月3日)大きな突破にはならなかった。第三次(10月18日 - 11月3日)と第四次(11月10日 - 12月2日)は人命と資源が大量に失われたが、大局は全く変わらなかった。第一次ドロミーティ攻勢(ドイツ語版)(7月5日 - 8月4日)はアルプス山脈の戦役の始まりとなったが、軍事史上でも画期であった。すなわち、標高の高い山上で長期間戦闘が行われる初例となったのであった(オルトレス山(英語版)の標高は約3,900mだった)。
サリカミシュの戦い(英語版)以降、オスマン帝国の青年トルコ人政権はアルメニア人による妨害工作が行われていることを疑った。ロシア軍が4月中旬にヴァン湖に接近すると、オスマン帝国は現地のアルメニア人首領を5人処刑した。4月24日、コンスタンティノープルでアルメニア人知識層が多数逮捕された。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフは5月24日に(4月27日に準備された)抗議文を発表、アルメニア人の100集落以上でアルメニア人がオスマン政府によって系統的に虐殺されたと主張した。
翌日(5月25日)、オスマン内相タラート・パシャはアルメニア人を戦域からシリアとモースルに強制移送すると発表した。27日と30日にはオスマン政府が強制移送法を発表、系統的なアルメニア人虐殺とアッシリア人虐殺(英語版)が始まった。ドイツ大使ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム(英語版)は6月にドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに報告を行い、「世界大戦を利用して内部の敵、すなわちキリスト教徒を外国の外交介入なしに廃除する」というタラート・パシャの考えを伝えた。エルズルムにいたドイツ駐オスマン帝国副領事マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターも7月末に「アルメニア人に対する行動の最終的な目的はトルコにおける絶滅である」と報告した。ヴァンゲンハイムの後任パウル・ヴォルフ・メッテルニヒ(英語版)は1915年12月にアルメニア人側で介入しようとし、ドイツ政府にアルメニア人の強制移送と虐殺を発表するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは「戦争の最中、公的に同盟者と対決することは前代未聞だ。私たちの唯一の目的は、アルメニア人が滅ぶか滅ばないかにかかわらず、終戦までトルコを味方につけ続けることだ。」と拒否した。ローマ教皇ベネディクトゥス15世もオスマン帝国スルタンのメフメト5世に手紙を書いたが、時既に遅しであった。アルメニア人虐殺により終戦までに約100万人が死亡、同時代では1894年から1896年までのポグロムの虐殺(英語版)や1909年のアダナ虐殺(英語版)と比べてホロコースト(英語版)と呼ばれた。
1915年10月14日にブルガリア王国が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアがバルカン戦争で「ブルガリア民族の国」を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが第一次バルカン戦争で勝ち得た領土は1913年のブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ(英語版)率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして(連合国側での参戦が予想される)ルーマニア王国とギリシャ王国の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアにマケドニア、ドブロジャ、東トラキアの獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いるセルビア攻勢(ドイツ語版)が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国がテッサロニキの北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが(ギリシャ・セルビア同盟(英語版))、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した。ベオグラードが10月9日に、ニシュが11月5日に陥落すると、ラドミル・プトニク率いるセルビア軍(開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない)は捕虜約2万人を連れてアルバニア公国やモンテネグロ王国の山岳地帯に撤退した。セルビア軍はケルキラ島で再編された後、マケドニア戦線に投入された。占領されたセルビア(英語版)はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された。
カフカース戦線(英語版)のサリカミシュの戦い(英語版)は1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった。シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)ではフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版)率いるオスマン軍が1月末にスエズ運河に向けて攻勢に出たが失敗した(スエズ運河襲撃(英語版))。
1915年7月にはドイツ領南西アフリカの植民地守備隊 (Schutztruppe) が降伏し、南西アフリカ戦役(英語版)が終結した。
メソポタミア戦役(英語版)ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までのクテシフォンの戦い(英語版)で(実質的にはコルマール・フォン・デア・ゴルツ率いる)オスマン軍に阻止された。また、イギリス領インド軍の海外派遣部隊が12月7日にクートで包囲された。
12月にフランス軍の総指揮官に就任したジョゼフ・ジョフルは12月6日から8日まで連合国間のシャンティイ会議(英語版)を開催した。中央同盟国の内線(英語版)を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された。イギリスではガリポリの戦いの失敗により、ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣は5月に改造してそれまで野党であった保守党の入閣に同意せざるを得なかった。このアスキス挙国一致内閣(英語版)では1915年春の砲弾危機(英語版)に対応するために軍需大臣(英語版)が新設された。
10月と11月にはドイツでのグロサリー、配給所やフライバンク(ドイツ語版)に対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都ベルリンのウンター・デン・リンデンでデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、ポテトの値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と硝酸塩(化学肥料の生産に必要)の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、参議院(英語版)がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は闇市で取引するようになった。1915年末には「インフレが脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で『食料をくれ!それから、私の夫も!』という怒りの叫びをするようになった。」という観察もあったという。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。食料供給の政策に失敗した結果、1915年末までに「市民は国から疎遠になり、国の『非正当化』が始まるほど」となった。
ドイツ社会民主党の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼はフィリップ・シャイデマンの質問に対し、東部と西部の「安全」(併合)が平和に不可欠であるとしたが、外国では「覇権主義の演説」として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを「併合の主導者」としてこき下ろした声明を出した。
1月4日、オーストリア軍がモンテネグロ王国に侵攻。23日にはモンテネグロ王ニコラ1世が降伏し、フランスへ逃亡した(モンテネグロ戦役(英語版))。アルバニア公国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していたドゥラス(アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていたケルキラ島(元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの東方軍(英語版)とともにテッサロニキに移った)。ニコラ・パシッチ(英語版)率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍捕虜約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちはサルデーニャ北西部のアジナーラ島に移送され、うち約5千人が死亡した。イタリア軍はアルバニアの港湾都市ヴロラを維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日までヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウ(英語版)が軍政府を率いた。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官アウグスト・リッター・フォン・クラル(英語版)の指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された。オーストリア=ハンガリーはアルバニア人の統治への参加を許し、学校とインフラストラクチャーを建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした。
西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ(英語版)がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエル(英語版)と西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた。
ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ(英語版)(現代では消滅集落)で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞(英語版)を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路(神聖街道(英語版)と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムはノリア(ドイツ語版)と呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した。
第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム(英語版)(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」(Hölle von Verdun) の象徴とされている。
第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞(英語版)への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線(英語版)への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁(フランス語版)をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞(フランス語版)で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた。
1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ(英語版)海軍参謀総長(英語版)も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強(警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし無制限潜水艦作戦は不可)を決定した。
3月初、ドイツ帝国海軍省(英語版)がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった。ドイツ潜水艦による客船サセックス攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月にサセックスの誓約(英語版)を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。
5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外のユトランド沖海戦が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家のゴルヒ・フォック(英語版)もいた)。ドイツの大洋艦隊は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは北海の制海権を保った。
シャンティイ会議(英語版)での決定に基づき、連合国軍は1916年中に3つの攻勢を計画した。すなわち、ソンム会戦、ブルシーロフ攻勢、次のイゾンツォ川の戦いの3つだった。7月1日のソンム会戦は元はフランス主導の作戦だったが、ヴェルダンの戦いによる消耗があったためイギリス軍が大半を占めるに至った。イタリア戦線では2月のヴェルダンの戦いにより連合国はイタリアに要請して3月11日に攻撃を開始(第五次イゾンツォの戦い)、オーストリアも5月15日から南チロル攻勢を開始(6月18日に終結)したためロシアのブルシーロフ攻勢が6月4日に始まった。その後はイタリアによる第六次イゾンツォの戦いが8月4日に始まった
6月4日、ブルシーロフ攻勢が始まり、この時点の連合国にとって最大の勝利となった。3月にロシア南部軍の総指揮官に就任したアレクセイ・ブルシーロフはそれまでの失敗から戦術を反省した。まず、攻勢が最短距離400kmという長い前線で行われ、敵軍に一点突破を許さなかった。そして、ロシア軍は秘密裏にオーストリア軍の防衛線に忍び寄り、50m程度の距離まで近づいた(それまでの攻勢では両軍間の無人地帯が1,600mもあったため、大きな損害が出てしまう)。ブルシーロフの数的優勢は少なかった(一般的な攻勢に必要な数的優勢に及ばなかった)が、ロシア第8軍(英語版)は6月8日にコーヴェリでオーストリア=ハンガリー第4軍(英語版)をほぼ全滅させ、ロシア第9軍(英語版)も南部のドニエストル川とカルパティア山脈の間でオーストリア=ハンガリー第7軍(英語版)を撃破、チェルニウツィーやコロムィーヤ(英語版)など重要な都市(いずれも現ウクライナ領)を占領した。オーストリア=ハンガリーの損害は624,000人だった。ブルシーロフはルーマニア国境近くで最も多く前進(約120km)、ルーマニア王国が連合国側で参戦する決定的な要因となった。しかし、補給の問題でさらなる進軍ができず、前線のごく一部にあたるピンスク湿原(英語版)やバラーナヴィチで試みられた攻撃も交通の要衝コーヴェリ占領の試みも失敗した(コーヴェリの戦い(英語版))。「それでも、ブルシーロフ攻勢は、わずかな領土でも争われる第一次世界大戦の規模からすれば、エーヌ会戦(英語版)で塹壕戦が始まった以降の連合国軍が勝ち取った最大の勝利であった」。
ヴェルダンの戦いによりフランス軍の派遣軍が40個師団から11個師団に減ったため、ダグラス・ヘイグ率いるイギリス海外派遣軍が代わってソンムの戦いを主導した。連合国軍は8日間にわたって大砲1500門以上でドイツ軍の陣地を砲撃した後(合計で砲弾約150万発が発射された)、1916年7月1日にソンム川沿岸でドイツ軍の陣地を攻撃した。大規模な砲撃の直後にもかかわらず、ドイツ軍の塹壕は無事に残っており、ドイツ兵士は機関銃の砲火でイギリス軍に対抗した。ソンム会戦の初日(英語版)だけでイギリス軍は19,240人の死者を出し、うち8千人は攻撃が開始した直後の30分内に死亡した。夥しい損害にもかかわらず、ヘイグは攻勢の継続を命じた。9月15日にはイギリス軍が軍事史上初めて戦車の実戦投入を行った(マーク I 戦車)。11月25日まで続いた戦闘において、連合国軍は長さ30km攻撃線において8から10km前進したが、英仏軍の損害は少なくとも624,000人で、ドイツ軍も42万人の損害を出した。ドイツ軍の損害は文献によって違い、ドイツ側では335,688人としたが、イギリス側では軽傷者の数が多いとして最大で65万人とした。いずれにしても、ソンムの戦いは第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガン(英語版)は1998年に「イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった。」と述べた。1916年末にソンムの戦いでの損害が公表されたことで、12月にイギリス首相がハーバート・ヘンリー・アスキスからデイヴィッド・ロイド・ジョージに交代された。
5月から6月、南チロル地域のオーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍の陣地に対し攻勢に出たが、成果が限定的だった上に東部戦線でロシアがブルシーロフ攻勢を開始したため、すぐに攻撃を中止した。イタリア軍も3月から11月にかけてイゾンツォ川沿岸で大規模な攻勢をしばしば行い(第五次、第六次、第七次、第八次、第九次イゾンツォの戦い)、ゴリツィア市やドベルド・デル・ラーゴを占領したが、それ以上の成果に欠いた。オーストリア=ハンガリーの要請を受け、ドイツは1915年5月から11月にかけてアルペン軍団(英語版) (Alpenkorps) を南チロル戦線の支援に投入した。その後、イタリアは1916年8月28日にドイツに宣戦布告した。南アルプスの山岳戦の最中の12月13日、イタリアとオーストリア=ハンガリー軍数千人が雪崩により死亡する事故が起きた(白い金曜日(英語版))。
1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した(実際には数日前にルーマニア戦線を開いた)。ルーマニアは1883年に三国同盟に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相イオン・ブラティアヌ(英語版)率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王カロル1世だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによるトランシルヴァニアへの請求を認めることで合意していた。ルーマニアが第二次バルカン戦争後のブカレスト条約でブルガリアとオスマン帝国から南ドブロジャを獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、バナト、ブコビナを獲得する「大ルーマニア協定」という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日のブルシーロフ攻勢の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣るルーマニア軍はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いるドイツ第9軍(英語版)は9月26日から29日にかけてのシビウの戦い(ドイツ語版)でルーマニア軍を撃破した。ほかにもクロンシュタットにおいて第一次世界大戦では珍しい大規模な市街戦が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツのドナウ軍(英語版)が南西からドナウ川を渡河した。そして、ツェッペリン飛行船のLZ81、LZ97、LZ101と攻撃機も加わり、首都ブカレストが12月6日に陥落した(ブカレストの戦い)。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中にプロイェシュティの油田やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王フェルディナンド1世は政府とともにヤシに脱出した。
1916年夏に連合国軍が全戦線で攻勢に出てドイツ軍が危機に陥ると、ヴィルヘルム2世にエーリッヒ・フォン・ファルケンハインを解任させる圧力が日に日に高まっていった。ルーマニアが8月27日に参戦したことが解任のきっかけになり、29日に新しく就任したパウル・フォン・ヒンデンブルクはエーリヒ・ルーデンドルフとともにヴェルダン攻勢を中止。即座に経済動員を強化して総力戦を準備した。その経済動員の強化とは8月31日にプロイセン戦争省が提出した要求で後にヒンデンブルク綱領(英語版)と呼ばれたものであった。しかし、ヒンデンブルクとルーデンドルフの任命は実質的には軍事独裁への転向でもあった。「その威光により実質的には解任できないヒンデンブルクとルーデンドルフを任命したことによって、皇帝はさらに目立たなくなっただけでなく、政治的にも最高司令部に動かされるようになった。(中略)解任できない2人の将軍には(中略)軍事上の権力をはるかに超えて政治に介入、人事任免という帝国の権力中心にも皇帝に圧力をかけることで決定的な影響を及ぼす用意があった」。
フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された。
ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害(うち死者143,000人)を出し、フランス軍は377,000人の損害(うち死者162,000人)を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された。
フランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに第二次シャンパーニュ会戦(英語版)やソンムの戦いで大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日にロベール・ニヴェル将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、フィリップ・ペタンもヴェルダンでの守備に成功して「ヴェルダンの英雄」と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった。
1916年11月5日、中央同盟国によりロシア領ポーランドはポーランド摂政王国として建国した(11月5日勅令(英語版)も参照)。しかし、中央同盟国が予想したポーランドからの軍事支援は実現せず、少数のポーランド軍団(英語版)(7月までユゼフ・ピウスツキが率いた)が中央同盟国側で戦ったのみである。ポーランド軍団は翌年にポーランド軍(英語版)になった。ほかにもポーランド人数十万人が(独立ポーランドの国民ではなく)ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア国民として各々の軍に従軍した。
中央同盟国はルーマニアに勝利した後、12月12日に中央同盟国の講和案(ドイツ語版)を提出したが、30日に拒絶された。
1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた。ベルリーナー・ターゲブラット(英語版)の編集長テオドール・ヴォルフ(英語版)は1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ(オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。汎ゲルマン連盟(英語版)などの連中が大喜びした。連合国が絶滅戦争(ドイツ語版)を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した。
ウィルソンはアメリカ合衆国議会で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する十字軍に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でもアルフレート・フォン・ティルピッツのティルピッツ計画(英語版)が長期的にはモンロー主義におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の国という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、ブライス委員会(英語版)などでドイツの陰謀が報告され、さらにルシタニア号が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。1916年アメリカ合衆国大統領選挙(11月7日)の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。ロバート・ランシングやエドワード・M・ハウスなどウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、『ニューヨーク・タイムズ』がツィンメルマン電報を公表した。電報の内容はドイツがメキシコに資金援助を与えて、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。
このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。
1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出した。
その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。
また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している(アラブ級駆逐艦)。
ドイツでは1916年から1917年にかけての冬、天候による不作などが原因となってカブラの冬が起きた。最高価格の定められた状況ではポテトや穀物をそのまま売るより、飼料として使ったり、蒸留所に売ったりした方が利益が出たため、状況はさらに悪化した。2月、毎日の食料配給が1,000kcal分まで下がり(成人が必要な生理的熱量は平均で毎日2,410kcal)、食料不足がさらに厳しくなった。カブラの冬により、ドイツの社会が団結していない状況(生産者と消費者の対立)、そして国が食料を提供する能力の不足が浮き彫りになった。
工業力が重点になったこの戦争は、工業化が緒に就いたばかりで未だ農業が主であったロシア帝国の力を大きく超え、既に厳しい社会問題をさらに悪化させた。さらに、バルト海とダーダネルス海峡が海上封鎖を受けたことで、戦前には7割の輸入がバルト海経由で3割が黒海経由だったロシアは大きく疲弊した。戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらに厳しい食料不足により、労働者と兵士の妻、女性の農民たちが2月23日(ユリウス暦)/3月8日(グレゴリオ暦)に首都ペトログラードでデモ行進を行った。2月26日/3月11日にはデモがペトログラード駐留軍に広まり、やがて二月革命に発展した。1905年の革命と同じく、労働者たちはソビエトを結成、デモ参加者の要求を代弁してそれを政治的に実施しようとした。ソビエトの執行委員会は主にメンシェヴィキと社会革命党で構成された。3月1日(ユリウス暦)/3月14日(グレゴリオ暦)、ペトログラード・ソビエト(英語版)は命令第一号(英語版)を発令し、政府命令のうちソビエトの命令と矛盾しないもののみ遵守するよう命じた。ドゥーマで代表を持つブルジョワはゲオルギー・リヴォフ首相率いるロシア臨時政府を成立させ、2日後にニコライ2世を説得して退位させた。これによりロシア臨時政府とソビエトという「二重権力(英語版)」が成立した。ロシア民衆の大半が望んだのと違い、臨時政府は戦争継続を決定、当時のソビエトも継戦の決定を支持した。
連合国はロシア帝国が民主主義に反対したためプロパガンダに問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)にウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。ロシア社会民主労働党の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府はアレクサンドル・パルヴスを仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万マルクとされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に四月テーゼを発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど労働者の日(4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))にミリュコーフ通牒(英語版)を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って四月危機(英語版)を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した。
5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任したアレクサンドル・ケレンスキーはペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、ベレジャヌィ(英語版)、リヴィウ、ヴィリニュスを目標とした、後にケレンスキー攻勢と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まずスタニスラーウに対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日にカールシュ(英語版)まで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までにタルノーポリやチェルニウツィーまで進軍、東ガリツィアとブコビナを奪回した。ロシアでもボリシェヴィキが七月蜂起を起こしたが鎮圧された。レーニンはフィンランドに逃亡した。9月、ドイツ軍はリガを占領(リガ攻勢)。10月にはアルビオン作戦でバルト海のサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した。
9月末、ロシアのラーヴル・コルニーロフ将軍がクーデターを企図して失敗すると(コルニーロフ事件(英語版))、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に十月革命を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが平和に関する布告を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった。
12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日にはブレスト=リトフスクで講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結された。
3月、ドイツ軍は西部戦線でアルベリッヒ作戦を発動して、16日から19日にかけてソンム川からヒンデンブルク線(英語版)に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退はループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団(英語版)が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事であり、主に捕虜と強制労働に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は焦土作戦を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では地雷やブービートラップも設置した。バポーム(英語版)などの地域が完全に破壊され、サン=カンタンの住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の「影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた」ことで、国外の世論がドイツに不利になった。
フランス軍大本営があるシャンティイで行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、リールとヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の最高指揮官ロベール・ニヴェルはフランス北部のアラスを攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した(アラスの戦い(英語版))。直後にはフランス軍もエーヌ川とシャンパーニュで攻勢に出て(第二次エーヌ会戦(英語版)と第三次シャンパーニュ会戦(英語版))、シェマン・ド・ダーム(英語版)の占領を狙った。ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン(英語版)将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団はヴィミ・リッジの戦い(英語版)に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。フリッツ・フォン・ロスベルク(英語版)が縦深防御戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した。
シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で反乱がおきた(フランス軍200万のうち約4万が反乱)。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団はソワソンとランスの間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置されたロシア海外派遣軍(英語版)も同じような問題に遭った。反乱は前線では起きず、後方で休息をとっていて前線に戻る予定の兵士の間でおきた。兵士の要求は休暇を増やすこと、栄養状態を改善すること、兵士の家族の待遇を改善すること、「殺戮」の中止(戦略への反対を意味する)、そして「不正義」(戦争における正義(ドイツ語版)に関して)の中止、「平和」だった。「反乱した兵士の大半は戦争自体に異議を唱えたのではなく、無用の犠牲になることに反対しただけだった」。4月29日、ニヴェルは更迭され、ヴェルダンの守備を指揮したフィリップ・ペタン将軍が後任になった。攻勢から守備に切り替えることで、ペタンはフランス軍の不安を和らげた。ペタンはドイツ軍の縦深防御と似たような戦術を編み出した。8月のヴェルダンの戦い(フランス語版)と10月のラ・マルメゾンの戦い(英語版)で限定的ながら成功を収めた(ドイツ軍がエレット川(英語版)の後ろまで押された)ほか、フランス軍は1917年6月から1918年7月までの間、攻勢に出なかった。ペタンは更に兵士の給食と休暇を改善した。反乱兵士の約1割が起訴され、うち3,427人が有罪判決を受けた。軍法会議により554人が死刑判決を受け、うち49人の死刑が執行された。兵士の反乱が頂点となった5月から6月にかけて、連合国軍に大きな動きがなかったが、ドイツ軍はその連合国軍が不活発な理由が分からなかったことと、他の前線に手間取っていることから、大きな動きに出なかった。
5月21日から6月7日までのメッシーヌの戦い(英語版)において、イギリス軍はイーペルの南にある戦略的に重要な尾根を占領した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは1年半をかけてドイツ軍の陣地の下に巨大な地雷21個を敷設して爆破。戦争史における核爆発以外の大爆発で「最も効果を上げた」結果となった(死者10,000人)。尾根を占領したことで連合国軍は右翼が安定し、イギリス軍が主導する第三次イーペル会戦(7月31日 - 11月6日)での攻勢に出ることができた。攻勢の目標はドイツの潜水艦基地オーステンデとゼーブルッヘ(英語版)だった。しかし、いくらかの成功を収めた後、攻勢は10月9日にランゲマルク=プールカペレ(英語版)で膠着に陥り、戦力要地であるヘルフェルト高原 (Geluveld) への攻撃も失敗した。第二次パッシェンデールの戦い(英語版)でカナダ部隊が11月6日に廃墟と化していたパッシェンデールを占領した後、戦闘は自然と停止した。パッシェンデールでドイツ軍を押し返した連合国軍は前線を最大で8km前進したが、両軍の損害は合計で約585,000人だった。
11月20日から12月6日までのカンブレーの戦いで初めての大規模な機甲戦が行われた。短期間の予備砲撃の後、王立戦車連隊(英語版)の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、ヒンデンブルク線(英語版)上のアヴランクール(英語版)地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した。
イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「伊吹」がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」、「メルボルン」と共にアデンに向かった。航海途上で「エムデン」によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。
この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「矢矧」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。このような非礼を超えたオーストラリア軍の態度に大日本帝国海軍は激怒し、オーストラリア軍部隊の責任者は、「矢矧に乗り込んだ水先案内人が適切な信号を発しなかったため『注意喚起のため』実弾を発射した」と弁明したが、結果的に事件はオーストラリア総督とオーストラリア海軍司令官の謝罪により一応は決着した。
オーストラリアの日本人への人種差別を基にした、人命にさえ係わる差別的姿勢は戦争を通じて和らぐことがなく、また日英通商航海条約への加入拒否、赤道以北の南洋諸島の日本領有への反対など、一切妥協しないANZACの人種差別的態度は、アジア太平洋地域のみならず、第一次世界大戦全体を通じて日本の協力を必須なものと認識しているイギリス本国をも手こずらせた。
1917年初、イギリス軍はメソポタミア戦役(英語版)を再開してバグダードへの進軍を試み、2月23日にはクートに到着した(クートの戦い(英語版))。さらに雨季がはじまる前の3月11日にバグダードを占領(バグダード陥落(英語版))、オスマン軍はモースルに撤退した。バグダードが陥落したことで東方における計画(バグダード鉄道など)が危うくなり、オスマン帝国ら中央同盟国は打撃を受けた。その結果、ドイツ軍はファルケンハインを任命して、エンヴェル・パシャとともにジルデリム (Jilderim) をコードネームとするバグダード再占領計画を準備した。
1917年6月29日、ギリシャ王国が連合国側で参戦した。連合国軍が1915年末にギリシャに上陸した以降、ギリシャ政界は分裂して、連合国を支持するエレフテリオス・ヴェニゼロスの暫定革命政府と、ドイツを支持する国王コンスタンティノス1世の両派に分けた。英仏の介入が日に高まったことにより、ヴェニゼロス側が優勢になり、さらに首都アテネを含むギリシャ国内の全ての戦略要地が連合国軍に占領され、フランスのシャルル・ジョナール(英語版)から最後通牒が突き付けられるにあたって、コンスタンティノス1世は1917年6月に退位、亡命した。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還、1915年に選出された国会を召集、政府を組織してすぐに中央同盟国に宣戦布告した。コンスタンティノス1世の息子アレクサンドロス1世が国王に即位した。
イタリア戦線では8月17日から9月12日まで第十一次イゾンツォの戦いが起き、オーストリア=ハンガリー軍が間一髪で大敗を回避した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世はイタリアの次の攻勢に耐えられないことを危惧して、オーストリア軍最高司令部とともにドイツに支援を要請した。ドイツは第14軍(英語版)(アルペン軍団(英語版) (Alpenkorps) 含む)を再編成してオーストリア=ハンガリーに派遣した。こうして、中央同盟国は先制攻撃を仕掛け、10月24日にカポレットの戦いで攻勢に出た。中央同盟国は突破に成功して11日間で130km進み、ヴェネツィアまで後30kmのところまで進軍した。イタリア軍は305,000人以上を失い(うち265,000人は捕虜)、中央同盟国は7万人の損害を出した。中央同盟国の成功は主にドイツのエルヴィン・ロンメル、そして浸透戦術の功労だった。イタリア軍の戦線がようやく安定したのはピアーヴェ川とモンテ・グラッパまで撤退したときであり、連合国からもイギリス軍5個師団とフランス軍6個師団が援軍として派遣されてきた。イタリアではストライキや兵士の大量脱走などがおきたが、「侵略戦争が防衛戦争に変わった」ことで革命前夜のような情勢は解消された。カポレットの敗北により連合国は11月7日にラパッロで会議(英語版)を開き、またイタリアでは総指揮官のルイージ・カドルナが更迭され、アルマンド・ディアズが任命された。
1917年最後の大規模な攻勢はシナイ半島・パレスチナ戦役で行われ、軍事史上最後の大規模な騎兵突撃となった。1917年10月31日、エドマンド・アレンビー率いるオーストラリアの第4軽騎兵旅団(英語版)とイギリスの第5騎兵旅団(英語版)はオスマン軍とドイツ軍が占領していたベエルシェバに攻撃をかけ、占領に成功した(ベエルシェバの戦い(英語版))。ファルケンハインは11月5日にエルサレムに移って死守しようとしたが、最高司令部は聖地エルサレムが破壊された場合の世論への影響を鑑みて撤退を命じた。その結果、トーマス・エドワード・ロレンス率いるアラブ反乱軍の進撃は12月9日に終結し、イギリス軍によるエルサレムの無血占領に終わった。
4月7日、ヴィルヘルム2世はイースター勅語(ドイツ語版)で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、ロシア二月革命とドイツの四月ストライキ(ドイツ語版)によりドイツ社会民主党が城内平和政策を引き締めたため、ゴータでドイツ独立社会民主党が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党(ドイツ多数派社会民主党(英語版)と呼ばれるようになった)は平等な公民権利、議院内閣制への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した「無併合、無賠償、民族自決」の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が「社会民主党を支配下に置くことができなくなった」と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークはクロイツナハ会議(ドイツ語版)で軍部に押されて議事録に署名した。ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー(英語版)によると、その議事録は併合について「まったく貪欲な」文書であったという
1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている(シクストゥス事件)。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた。
7月6日、中央党のマティアス・エルツベルガーが国会で演説を行った。エルツベルガーは保守派の政治家であり、「勝利の平和」を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の進歩人民党が多党派委員会(ドイツ語版)で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは「革命の始まり」とされた。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで普通選挙を行う保証を受けた(プロイセンではそれまで選挙が3等級(英語版)に分けられて行われた)。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名なゲオルク・ミヒャエリスだった。
7月19日、ライヒスターク平和議案(英語版)が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義のドイツ祖国党(英語版)が結成されるなどの影響があった。8月1日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世はド・ル・デビュー(ドイツ語版)という使徒的勧告(英語版)を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動(負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など)、そして戦争を「無用な流血」だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった。
ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任したゲオルク・フォン・ヘルトリングだった。
12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日にはフィンランドがロシアからの独立を宣言した。
アメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンは、1月8日にアメリカ合衆国議会への基調講演で十四か条の平和原則を提示した。ウィルソンは自由主義の政治原則を世界中に適用しようとし、そのうち民族自決権を最重要事項とした。例えば、十四か条の平和原則にはベルギー、セルビア、モンテネグロからの撤退と独立の回復、アルザス=ロレーヌの撤退と放棄、ポーランドの再独立、公海の自由、軍備制限、オーストリア=ハンガリー国民による「自主発展」(民族自決)が盛り込まれた。ドイツとオーストリア=ハンガリーは1月24日に十四か条の平和原則を拒絶した。
1月14日、オーストリア=ハンガリーのウィーナー・ノイシュタットとその近くの兵器工場で一月ストライキ(ドイツ語版)が始まり、広まりを見せると1月23日に軍事鎮圧された。ドイツでは1月28日から2月2日までの間、ベルリンなど産業の中枢でデモやストライキが行われ、100万人以上の労働者が参加したが(一月ストライキ(ドイツ語版))、それ以前のストライキと違って主に政治に訴え、「万国平和」(allgemeinen Frieden) や「併合と貢献」(Annexionen und Kontributionen) などのスローガンを打ち出した。これらのスローガンはブレスト=リトフスク条約におけるドイツ最高司令部の拡張主義の態度に対するものであった。ドイツ多数派社会民主党(英語版)はフリードリヒ・エーベルト、オットー・ブラウン、フィリップ・シャイデマンをストライキの行動委員会に派遣して「行動の秩序を保つ」ことを試みたが、ドイツの一月ストライキはオーストリアのそれと同じく、軍事鎮圧でしか抑えられなかった。1月31日、ベルリン当局はストライキ委員会の委員を逮捕、ストライキに参加した労働者のうち5万人を前線に派遣した。その結果、2月3日までに大半の労働者がストライキを辞めて働くようになった。
ブレスト=リトフスクでの講和交渉において、ドイツは1月19日に最終要求としてロシアにポーランド、リトアニア、西ラトビアを放棄するよう求め、ロシア代表レフ・トロツキーは講和交渉の一時中断を求めた。ペトログラードで交渉の遅滞を提案したトロツキーに対し、政府と中央委員会は西欧のプロレタリアート蜂起を期待して提案を受け入れた。1月25日、非ボルシェヴィキのウクライナ中央ラーダはウクライナの独立を宣言、2月9日には中央同盟国がウクライナ人民共和国と単独講和した(ブレスト=リトフスク条約(英語版))。中央同盟国はウクライナ西部の領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物を大量に要求した。また同時にロシアに平和条件を受け入れるよう最後通牒を発したが、トロツキーはドイツでの革命に期待して、条約には署名せず一方的に動員解除を宣言した。その結果、ドイツは2月18日にファウストシュラーク作戦を発動、数週間でロシアのバルト海岸西部国境、ウクライナ西部、クリミア半島、ドネツ川とベラルーシの工業地帯を占領した。ドイツは講和条件をきつく変更したが、ロシア代表は交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結した。中央同盟国はリヴォニアを除く占領地から撤退したが、ロシアはポーランド、リトアニア、クールラントを放棄、さらにオスマン帝国が請求したカフカース地方の領土を放棄しなければならなかった。ドイツは3月にドイツと緊密な関係を保ったままリトアニアをリトアニア王国として独立させることに同意(リトアニア独立宣言自体は2月16日に発された)。また6月28日にはペトログラードに進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約を承認せずにロシア内戦に介入した諸国と違って(イデオロギー対立はあったが)ボルシェビズムを撲滅しないことを決定した。8月27日にはロシアとの追加条約が締結され、ロシアはリヴォニアを放棄し、フィンランドとウクライナの独立を承認した。ロシアはブレスト=リトフスク条約で人口の3分の1を放棄、工業と資源の大半を失う結果となった。しかし、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかも知れない、とする説もある。
東部戦線の終戦が見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日にモンスで西部戦線での攻勢を計画、米軍が到着する前に戦況を逆転させようとした。いくつかの計画が立てられ、ヒンデンブルクとルーデンドルフは1918年1月21日にそのうちの一つ、ミヒャエル作戦(英語版)を選んだ。ミヒャエル作戦ではドイツ軍がソンム川沿岸のサン=カンタン地域での攻勢を行い、その後に北西に転向してイギリス軍の包囲を試み、英軍に運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線の講和が成立したことで、西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しかなかった。ドイツ軍は1914年以降の西部戦線で初めて数的優位を奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日、ヒンデンブルクは21日に攻勢を開始するよう命じた。
1918年3月21日の早朝、ドイツの春季攻勢が始まった。今度は前回より短い(がそれでも5時間に渡った)砲撃の後、ドイツの突撃歩兵が浸透戦術を行い、イギリスとの前線で大きく前進した。しかし、ドイツ最高司令部はその後の数日間、攻撃の重点や方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点の強力な一撃という戦略を放棄して三点攻撃を選び、いずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果、攻勢が弱まり、ルーデンドルフが参謀本部で批判された:「1914年にパリに進軍したとき、ドイツ軍はどうやって事態の発展に応じて抵抗の最も少ない戦線を追撃、戦闘の常道に従わなかったのか」。これに加えて、ソンム地域が酷く破壊されたため、補給が追い付かず、ドイツ軍はイギリスの兵站を略奪しなければならなかった。また、連合国軍の物的優位は奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍の戦闘による損害は主に空襲による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日、事態の急変により連合国はフェルディナン・フォッシュを連合国軍総司令官に任命した。ドイツ軍は80kmにわたる前線(サン=カンタンから西のモンディディエまで)で60km前進したが、多大な損害を出して大きな突起部を作り出しただけに終わり、戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍がアミアン近くで反撃すると、ミヒャエル作戦は4月5日に終了した。
参謀本部で戦略ミスを指摘されたルーデンドルフはミヒャエル作戦の代案を採用した。代案とはゲオルク作戦 (Operation Georg) のことであり、フランドルのレイエ川で30kmの前線にわたって攻撃を行い、イーペルの西にある水道を目標とした(レイエ川の戦い(英語版))。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦は縮小を余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」(Georgette) と呼ばれた。4月25日に戦略要地のケンメルベルク(英語版)を占領するなど初期では成功を収めたが、やがて膠着に陥った。攻勢の一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが(第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦(英語版))、最も有名な出来事はマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの死であった。
さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊の命令不服従が増えてきた。ドイツ最高司令部は自軍の戦意低下に気づかず、直後の5月27日に新しい攻勢(第三次エーヌ会戦(英語版))を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200万発が発射された。ドイツ軍は5月29日にマルヌ川まで進軍、6月3日にはヴィレル=コッテレ(英語版)まで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリがパリ砲の射程圏内に入った。イギリス内閣はイギリス海外派遣軍の引き揚げを討議したが、6月5日にそれを却下した。アメリカ軍が到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ最高司令部は自軍の損害、補給の問題、連合国軍の反撃を理由に6月5日/6日から攻撃を停止した。続くベローの森の戦い(英語版)ではアメリカ海兵隊が参戦した。9日、ルーデンドルフはマ川(フランス語版)に対する攻撃を開始したが(グナイゼナウ作戦、Operation Gneisenau)、フランス軍とアメリカ軍の反撃により14日に中止した。直後にはイタリア戦線でオーストリア=ハンガリーが最後の攻勢を仕掛けた(6月15日から22日までの第二次ピアーヴェ川の戦い)が失敗した。
西部戦線の本当の転機は第二次マルヌ会戦(英語版)だった。ドイツ軍は7月15日に攻撃を開始、初期には成功を収めたが、18日にフランス軍とアメリカ軍が小型軽量のルノー FT-17 軽戦車を大量に投入して反撃に転じた。既に疲れ果てて装備も不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退した。ドイツ第7軍(英語版)は後方との連絡を脅かされ、またドイツ軍は5月と6月に占領した地域のほぼ全てから撤退した。7月18日は同時代の歴史文献で「戦争の転機となる瞬間」とされ、連合国軍はドイツ軍の進軍を停止させ、以降終戦までドイツ軍を押した。
「百日攻勢」として知られている連合国軍の反攻は1918年8月8日のアミアンの戦い(英語版)で始まった。この戦闘では戦車400台以上とイギリス軍、イギリス自治領軍、フランス軍合計12万人以上が参加、その1日目の終わりにはドイツ軍の戦線に長さ24kmの間隙が開かれた。ドイツ軍の士気は大きく低下して、エーリヒ・ルーデンドルフに「ドイツ陸軍暗黒の日」と言わしめた。連合国軍が23kmほど前進したのち、ドイツ軍の抵抗が強くなり、アミアンの戦いは8月12日には終結した。
それまでの戦闘では初期の成功をさらに推し進めることが常だったが、連合国軍はアミアンの戦いで勝利した後、そのまま攻撃を続けず、他の戦場に移った。連合国の首脳部は敵軍の抵抗が強化された後でも攻撃を続けるのはただ兵士を浪費するだけであり、敵の戦線を押し潰すよりも側面に回り込む方が有利であると気づいた。そのため、連合国軍は側面への素早い攻撃を行って、攻撃の勢いが低減するとすぐに攻撃をやめる、という戦術を繰り返し行った。
イギリスとイギリス自治領軍は8月21日のアルベールの戦いで戦役の次の段階に進んだ。その後の数日間、英仏軍は攻撃を拡大した。8月末には連合国軍の長さ110kmにわたる前線への圧力が重く、ドイツ側の記録では「毎日が強襲の止まない敵軍との血なまぐさい戦いに費やされ、新しい前線への撤退で夜は眠れないまま過ぎた。」としている。
これらの敗退により、ドイツの陸軍最高司令部は9月2日に南のヒンデンブルク線(英語版)への撤退を命じ、4月に奪取した突出部(英語版)を抵抗もなく放棄した形となった。ルーデンドルフによると、「前線全体をスカルプ川(英語版)からヴェール川(英語版)に後退することは簡単に決定できるものではなかったが、(中略)いくらかの犠牲を払っても利益のある決定である」という。
9月には連合国軍がヒンデンブルク線の北部と中央部に進軍した。ドイツ軍後衛は活発に戦い、失われた陣地への反攻もしたが、成功したものは少なく、成功した攻撃でも一時的な奪還にしかならなかった。ヒンデンブルク線の偵察陣地や哨戒地の町村、山、塹壕などは続々と連合国軍に占領され、イギリス海外派遣軍は9月最後の1週間だけで30,441人を捕虜にした。9月24日には英仏が突撃してサン=カンタンから3kmのところまで近づいた。ドイツ軍はヒンデンブルク線上とその後ろの陣地に撤退した。
8月8日から4週間の間、ドイツ軍10万人以上が捕虜になった。「ドイツ陸軍暗黒の日」の時点でドイツ軍部は戦争全体がもはや負け戦と気づき、ドイツにとって満足のいく終戦を模索した。暗黒の日の翌日、ルーデンドルフは「我らは戦争に勝てなくなった。しかし負けるわけにもいかない」と述べ、11日には辞表を出したが、ヴィルヘルム2世は「我らは妥協しなければならない。我らの抵抗の力は限界にきていた。戦争は終わらなければならない」と返答、ルーデンドルフの辞任を拒否した。
13日、ルーデンドルフ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング、参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク、外相パウル・フォン・ヒンツェ(英語版)はスパで討議し、軍事力で戦争を終結させることが不可能であるという結論を出した。翌日にはドイツ皇帝諮問委員会が戦場での勝利はほぼ不可能であると結論を出した。オーストリア=ハンガリーは12月までしか戦争を続けられないと警告、ルーデンドルフは講和交渉を即刻始めることを勧めた。ループレヒト・フォン・バイエルンはマクシミリアン・フォン・バーデンに「軍事情勢が悪化しすぎて、私は冬の間持ちこたえられることが信じられなくなった。災難はそれよりも早く訪れるかもしれません。」と警告した。9月10日、ヒンデンブルクはオーストリア皇帝カール1世に平和に向けた動きを迫り、ドイツはオランダに仲介を求めた。9月14日、オーストリアは全交戦国と中立国に覚書を送り、中立国での平和会議を提案した。15日、ドイツはベルギーに講和を申し入れた。しかし、いずれも拒絶され、9月24日にはドイツ軍部がベルリン政府に停戦交渉が不可避であると通告した。
ヒンデンブルク線に対する最後の攻撃は9月26日にフランスとアメリカ軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢で始まった。その後の1週間、フランスとアメリカ軍はブラン・モンの戦い(英語版)でシャンパーニュから突破、ドイツ軍はブラン・モンの山から撤退してフランス・ベルギー国境に向けて撤退せざるを得なかった。10月8日、ドイツ軍の防御線はカンブレーの戦い(英語版)でイギリスとイギリス自治領の軍に突破された。ドイツ軍は前線を短縮させて、オランダ国境を利用して後衛への攻撃を防ぎつつドイツに撤退した。
ブルガリアが9月29日に単独で停戦協定を結ぶと、既に数か月間巨大な圧力に苦しんでいたルーデンドルフは神経衰弱のような症状を来した。ドイツが守備に成功することはもはや不可能であった。
ドイツの敗北が近いことはドイツ軍に知れ渡り、兵士反乱の脅威が広まった。ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフはドイツ海軍の「勇気」を回復するための最後の賭けに出た。マクシミリアン・フォン・バーデン率いるドイツ政府が反対することは明らかだったため、ルーデンドルフは行動をマクシミリアンに報告しないことにした。しかし、攻撃の計画がキールの水兵の耳に入ってしまった。その多くが攻撃計画を自殺行為と考え、攻撃に参加したくなかったため反乱を起こして逮捕された。ルーデンドルフは責任を負って10月26日にヴィルヘルム2世に罷免された。バルカン戦線の崩壊はドイツが石油と食料の主な輸入先を失うことを意味した。さらに、アメリカ兵が平均して日1万人が到着する中、ドイツは既に予備軍を使い果たしていた。アメリカは連合国軍の石油を8割以上提供しており、しかも不足はなかった。
ドイツ軍が弱まっており、ヴィルヘルム2世も自信を失ったため、ドイツは降伏へと移った。マクシミリアン・フォン・バーデンは帝国宰相として新しい政府を率いて連合国と交渉した。交渉条件がイギリスとフランスよりも寛大とされるから、スパで開かれていたドイツ軍の大本営は9月28日にウィルソン米大統領への講和交渉要請を決定した。ウィルソンはドイツ軍部が議会の統制を受けることと、立憲君主制の施行を要求した。ドイツ社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国樹立を宣言した時、抵抗を受けなかった。ヴィルヘルム2世、ドイツ諸邦の国王などの世襲君主は全て権力の位を追われ、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。ドイツ帝国は滅亡して、代わりにヴァイマル共和国が成立した。
中央同盟国の崩壊はすぐに訪れた。まず停戦協定を締結したのは1918年9月29日にサロニカ休戦協定を締結したブルガリアだった。10月30日、オスマン帝国はムドロス休戦協定を締結して降伏した。
10月24日、イタリアは反攻を開始し、カポレットの戦いで失われた領土を素早く回復した。その頂点がヴィットリオ・ヴェネトの戦いであり、オーストリア=ハンガリー軍はこの戦闘で崩壊してほとんど戦力にならなくなった。この戦闘はオーストリア=ハンガリー帝国解体の起爆剤にもなり、10月末にはブダペスト、プラハ、ザグレブで独立宣言が出された。10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国はイタリアに停戦を求めたが、イタリア軍は進軍を続け、トレント、ウーディネ、トリエステに進んだ。11月3日、オーストリア=ハンガリー帝国は白旗を送り、休戦協定の締結に同意した。休戦協定はイタリアが電報でパリの連合国当局と交渉した後、オーストリア軍部に通告して受諾された。このヴィラ・ジュスティ休戦協定はパドヴァ近くのヴィラ・ジュスティ(英語版)で締結された。ハプスブルク帝国が転覆されたため、オーストリアとハンガリーは別々で休戦協定を締結した。その後、イタリア軍は兵士2万から22,000人でインスブルックと全チロルを占領した。
そして、1918年11月11日午前5時、コンピエーニュの森の列車にてドイツと連合国の休戦協定が締結され、同日午前11時に発効した。締結から発効までの6時間、西部戦線の軍はそれぞれ陣地からの撤退を開始したが、指揮官ができるだけ多くの領土を占領しようとしたため、多くの地域で戦闘が継続した。停戦の後、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー軍がラインラントを占領(英語版)した。
1918年11月時点の連合国軍はドイツに侵攻するための兵士と資源をふんだんに有していたが、停戦時点でドイツとの国境を越えた連合国軍はいなかった。西部戦線はまだベルリンから720kmの距離があり、ドイツ陸軍は撤退の時、規律を維持することができた。そのため、ヒンデンブルクなどドイツの首脳部はドイツ軍が本当は敗北していなかったという噂を流すことができた。この噂はやがて背後の一突きという伝説に発展した。この伝説によると、ドイツの敗北は戦闘継続が不可能になったわけではなく(1918年にスペインかぜが全世界に流行、100万人に上るドイツ人兵士が患って戦闘不能だったにもかかわらず)、大衆が「愛国へのよびかけ」に応じなかったことと、ユダヤ人、社会主義者、共産党員による妨害工作によるものだったとされた。
連合国が戦争に投入できる資金は中央同盟国よりもはるかに多く、1913年時点の米ドルに基づく試算では連合国が580億ドルを、中央同盟国が250億ドルを投入した。うちイギリスは210億、アメリカは170億、ドイツは200億であった。
戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊し、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家 、ロマノフ家がそれぞれ君主の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。1914年の開戦時にはフランス、ポルトガル、スイス、サンマリノの4か国しかなかったヨーロッパの共和制国家が、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、フィンランド、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルバニアと増加した(加えてオスマン帝国が廃されトルコ共和国が建国された)。またロシアは1917年のロシア革命によって帝政が打倒され、1922年に史上初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が建国されることになる。戦場となったベルギーとフランスは多大な損害を受けたほか、フランスでは死者だけで140万人もいた。ドイツとロシアも同程度の損害を受けた。
戦争状態は正式には休戦協定が締結された後も7か月続き、ドイツが1919年6月28日にヴェルサイユ条約に署名するまで続いた。大衆が支持したにもかかわらず、アメリカ合衆国上院は条約を批准せず、1921年7月2日にウォレン・ハーディング大統領がノックス=ポーター決議(英語版)に署名したことで、アメリカはようやく戦争から手を引いた。イギリスとその植民地については1918年の戦争終結定義法(英語版)の条項に基づき、1920年1月10日にドイツとの戦争状態を、7月16日にオーストリアとの戦争状態を、8月9日にブルガリアとの戦争状態を、1921年7月26日にハンガリーとの戦争状態を、1924年8月6日にトルコとの戦争状態を終結させた。
ヴェルサイユ条約が締結された後、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条約が締結された。しかし、オスマン帝国との講和交渉をめぐって紛争が起き、1923年7月24日のローザンヌ条約でようやく終結を見た。
戦争祈念施設の一部は、終戦の日をヴェルサイユ条約が締結された日と定めた。この日は外国に派遣された多くの兵士がようやく本国に復員した日であったが、多くの戦争記念施設は終戦の日を休戦協定が締結された1918年11月11日とした。法的な戦争状態は最後の講和条約であるローザンヌ条約が締結されるまで続いた。同条約に基づき、連合国軍は1923年8月23日にコンスタンティノープルから撤退した。
戦闘が終結した後、パリ講和会議は中央同盟国に講和条約の締結を強いて、戦争を正式に終結させた。1919年のヴェルサイユ条約ではドイツとの講和のみが処理され、同年6月28日の締結により、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン提唱の『十四か条の平和原則』は、翌1920年1月10日の「国際連盟」創設の実現をもって実質化した。しかし、国家元首かつ政府の長が提唱者であった肝心のアメリカ合衆国は連邦議会の否決により、設立当初から不参加となり、結局最後まで参加することはなかった。
中央同盟国は「連合国、その政府と国民が」中央同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。ヴェルサイユ条約では第231条(英語版)がそれであり、後に「戦争責任条項」として知られるようになった。ドイツでは国民の多くがこの条項に屈辱を感じ、報復を考えた。ドイツ人は「ヴェルサイユのディクタット(英語版)(絶対的命令)」に不当に扱われたと感じ、ドイツの歴史家ハーゲン・シュールゼ (Hagen Shulze) は条約によりドイツは「法的制裁を課され、軍事力を奪われ、経済的に破滅、政治的に侮辱された」と述べた。ベルギーの歴史家ローラン・ヴァン・イーペルセル (Laurence Van Ypersele) は「1920年代と1930年代のドイツ政治において戦争とヴェルサイユ条約の記憶が中心的な役割を果たした」と述べた:
一方、ドイツ帝国の統治から解放された新しい国々は、ヴェルサイユ条約を侵略的な隣国が小国に対して施した不当な行動を承認するものとしてみた。パリ講和会議ではあくまで全ての敗戦国に非戦闘員への損害を賠償することを強いたが、敗戦国のうち経済が崩壊しなかったのはドイツだけだったため、賠償責任は主にドイツ(敗戦による帝政崩壊後、ヴァイマル共和政)に負わされた。
オーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア共和国、ハンガリー王国、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国といった後継国家に分割された。分割は主に(ただし、単にではなく)民族分布に沿って行われた。トランシルヴァニアはハンガリーから大ルーマニアに割譲された。詳細はサン=ジェルマン条約とトリアノン条約で定められた。トリアノン条約により、ハンガリー人330万人が外国に統治された。戦争以前のハンガリー王国ではハンガリー人が国民の54パーセントを占めたが、戦後に残された領土はその32パーセントだけだった。1920年から1924年、ハンガリー人354,000人がルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラヴィアに割譲された元ハンガリー領から逃亡した。
1917年の十月革命の後に、単独講和を締結し戦争から脱落したロシア帝国はエストニア共和国、フィンランド共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ポーランド第二共和国の成立により西部国境の多くを喪失し、1918年4月にはルーマニアがベッサラビアを奪った。
オスマン帝国は解体し、レヴァントでの領地の大半が連合国に保護領として与えられた。アナトリア半島のトルコ本土はトルコ共和国として承認された。オスマン帝国は1920年のセーヴル条約で分割される予定だったが、メフメト6世には批准されず、トルコ国民運動(英語版)にも拒否された。結果的にはトルコが革命戦争と希土戦争 (1919年-1922年)に勝利。1923年のローザンヌ条約はセーヴル条約よりもはるかに寛大であり、トルコ共和国はヨーロッパ側にも領土(東トラキア)を維持した。
ポーランドはポーランド分割で消滅してから1世紀以上経った後、復活した。セルビア王国は「連合国の小国」、人口比で最も多く損害を出した国として、多民族国家である新生セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラヴィア王国に改名)の背骨になった。チェコスロバキアはボヘミア王国とハンガリー王国の一部を併合して独立した。ロシアはソビエト連邦になったが、フィンランドとバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)が独立した。オスマン帝国はトルコと中東のいくつかの国に取って代わられた。
イギリス帝国においては新しい国民意識が生まれた。オーストラリアとニュージーランドではガリポリの戦いが「砲火の洗礼」として知られるようになった。というのも、第一次世界大戦は両国の軍が初めて戦った大規模な戦争であり、オーストラリア軍がイギリス国王の臣下としてだけでなく、オーストラリア人としても戦った初の戦争であった。この日はオーストラリア・ニュージーランド軍団を記念するアンザック・デーとして祝われている。
カナダ師団が初めて独立部隊として戦ったヴィミ・リッジの戦い(英語版)の後、カナダ人はカナダを「火で鍛えられた」国と形容するようになった。「母国」がつまずいた戦場で勝利したことで、カナダ軍は初めてその貢献を国際的に認められた。カナダはイギリス帝国の自治領として参戦して、終戦まで同じ状態であったが、終戦の時点では独立性が高まった。1914年にイギリスが参戦したとき、自治領は自動的に戦争状態に入ったが、終戦時にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカがそれぞれ独自にヴェルサイユ条約に署名した。
オスマン帝国は第一次世界大戦までの数百年間、中東である程度の平和と安定を維持していた。しかし、オスマン政府が倒れたことで中東は権力の真空状態になり、領土と建国に関する様々な矛盾した主張がなされた。第一次世界大戦の戦勝国はすぐに国境線を策定したが、現地の住民には粗略な諮問しかしておらず、これらの国境は21世紀に入っても未解決のままである。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体したことで、中東戦争など現代の中東の政治情勢が形作られたほか、水などの天然資源をめぐる紛争も引き起こした。
また、1917年ロシア革命による社会不安と広範囲にわたる暴力、そしてその直後のロシア内戦により、元ロシア帝国領(主にロシア革命後のウクライナ(英語版))で2千以上のポグロムが起きた。その結果、ユダヤ人6万から20万人が殺害された。
ギリシャは第一次世界大戦直後の希土戦争でムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ国民軍と戦った後、ローザンヌ条約に基づき住民交換を行った。しかし、多くの文献によると、この時期のギリシャ人虐殺により数十万人のギリシャ人が死亡した。
戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6千万人のうち、800万人が戦死、700万人が永久的な身体障害者になり、1,500万人が重傷を負った。ドイツは男性労働人口の15.1%を、オーストリア=ハンガリーは17.1%、フランスは10.5%を失った。ドイツでは、一般市民の死亡者が平時よりも474,000人多かったが、主に食料の不足と栄養失調による餓死や病死が原因である。レバノンでは終戦までに飢饉により約10万人が死亡した。
1921年ロシア飢饉により500万から1,000万人が死亡した。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が孤児になった。反ソ連のロシア人(白系ロシア人)の多くがロシアから逃亡、1930年代の満洲国ハルビン市では10万人のロシア人が住んでいたという。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。
戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。寄生虫による発疹チフスで、1914年のセルビアだけでも20万人の死者(うち兵士は7万人)が出た。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した。1923年にはロシアで1,300万人がマラリアに感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった。さらに、1918年にはスペインかぜ(インフルエンザ)が大流行、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した。「スペインかぜ」の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で中立国のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている。
ハイム・ヴァイツマンによるロビー活動もあって、ユダヤ系アメリカ人がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年にバルフォア宣言を発してパレスチナにおけるユダヤ人国家(英語版)の建国を支持した。第一次世界大戦に参戦したユダヤ人兵士は合計1,172,000人以上であり、うち275,000人がオーストリア=ハンガリー軍、450,000人がロシア帝国軍に従軍した。
第一次世界大戦は空前の戦死傷率を記録して、社会に大きな傷跡を残した。第一次世界大戦が残した傷跡はしばしば議論される。ベル・エポックの楽天主義は崩れ去り、戦争に参加した世代は「失われた世代」と呼ばれた。戦後長年にわたり、21世紀に至っても人々は死者、行方不明者を哀悼し続け、障害を負った者を悲しみ続けた。
多くの兵士はシェルショック(現在の戦闘ストレス反応)(神経衰弱とも。心的外傷後ストレス障害の関連疾患)などの精神的外傷を負った。大半の兵士はそのような障害もなく故郷に戻ることができたが、戦争について語ろうともせず、結果的には「兵士の大半が精神的外傷を負った」という伝説が広まることになった。
実際には多くの兵士は戦闘に参加せず、または軍務をポジティブにとらえたが、苦しみとトラウマというイメージは根強く残った。歴史家のダン・トッドマン (Dan Todman)、ポール・フュッセル(英語版)、サミュエル・ヘインズ (Samuel Heyns) は1990年代以降、著作を出版してこのような見方が誤りであると指摘した。
第一次世界大戦後のナチズムとファシズムの広まりには、民族主義の復活と戦後の変革(民主化)に対する拒絶が含まれている。同じように、背後の一突き伝説が支持を得た背景には、敗戦国たるドイツの心理状態、および戦争責任の拒絶があった。この陰謀論は広く受け入れられ、ドイツ国民は自身を被害者とみなした。また、同じ理由により、ヴァイマル共和政はその正統性が揺らいで政局は常に不安定化し、左右両翼の勃興を許した。
ヨーロッパの共産主義とファシズム運動はこの陰謀論を利用して人気を得、特に戦争の影響を深く受けた地域で顕著だった。ナチス党首アドルフ・ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に対するドイツの不満を利用して人気を博した。そのため、第二次世界大戦は第一次世界大戦で解決されなかった権力闘争の継続という一面がある。さらに、1930年代のドイツは、第一次世界大戦の戦勝国に不公平に扱われたことを理由として、侵略を正当化した。
アメリカの歴史家ウィリアム・ルービンスタイン(英語版)は、「『全体主義の時代』は現代史上の悪名高いジェノサイドを全て含み、ユダヤ人に対するホロコーストがその筆頭であったが、共産主義諸国による大量殺人と追放、ドイツのナチ党とその同盟者によるほかの大量殺戮、そして1915年のアルメニア人虐殺も含む。ここで主張するのは、これらの殺戮の起因は全て同じであり、その起因とは第一次世界大戦によりエリート層の構造と中央、東、南ヨーロッパの政府の常態が崩壊したことであった。それがなければ、共産主義もファシズムも無名の扇動者や変わり者の頭の中にしか存在しないものとなっていたであろう。」と述べた。
第一次世界大戦の最も劇的な影響の一つは、イギリス、フランス、アメリカ、そしてイギリス帝国の自治領政府がその権力と義務を拡大させたことだった。戦争努力(英語版)を支援する新しい税が徴収され、法律が制定された。その一部は現代まで続いた。また、オーストリア=ハンガリーやドイツなどの大きく官僚的な政府はその能力を限界まで駆使した。
国内総生産は連合国のうち4か国(イギリス、イタリア、日本、アメリカ)では上昇したが、フランスとロシアでは下がり、ほかには中立国のオランダと主要な中央同盟国3か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国)でも下がった。中でも、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、オスマン帝国では30から40パーセントの下がり幅だった。例えば、オーストリアでは豚の大半が屠殺されたため、終戦のときには食肉がほとんどなかった。
国内総生産のうち、政府が占める比率は全ての国で上昇、ドイツとフランスでは50%を越え、イギリスでも50%に近い比率だった。アメリカからの物資購入代金を工面すべく、イギリスはそれまでのアメリカ鉄道に対する投資を現金化(売却)、続いてウォール街で大量に借り入れた。1916年末には米大統領ウィルソンが融資の打ち切りを決定する瀬戸際まできていたが、結局アメリカ政府から連合国への融資を大幅に増やした。1919年以降、アメリカが融資の償還を要求すると、連合国はドイツからの賠償金で資金の一部を賄ったが、ドイツからの賠償金はアメリカからドイツへの融資だった。このシステムは1931年に崩壊、融資の一部は償還されなかった。1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦に関するアメリカからの債務を44億ドルも残しており、全ての償還が終わったのは2015年だった。
第一次世界大戦はマクロ経済にもミクロ経済にも影響を与えた。家族レベルでは男性の多くが従軍・戦死したため稼ぎ手を失い、多数の女性が働くことを余儀なくされた。工場でも多くの労働者が従軍で失われ、サフラジェット運動(女性参政権)に弾みがついた。
オーストラリア首相ビリー・ヒューズは、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージに手紙を書き、「あなたはこれ以上良い条約を勝ち取ることができないと私たちに保証した。しかし、私たちは今でも、イギリス帝国とその同盟者が払った多大な犠牲と釣り合う賠償を確保する何らかの方法が見つかると信じている。」と述べた。オーストラリアは5,571,720ポンドの戦時賠償を受け取ったが、戦争の直接支出だけでも376,993,052ポンドに上り、1930年代中期までに賠償年金、戦争の給与金、利子と減債積立金の合計が831,280,947ポンドと賠償金の100倍以上に上った。参戦したオーストラリア軍416,000人のうち、約6万人が戦死、152,000人が負傷した。
第一次世界大戦は「余剰女性(英語版)」の問題を悪化させた。イギリスでは100万人近くの男性が戦死したことで余剰女性(女性と男性の人数差)が67万人から170万人に上昇した。そのため、仕事に就こうとした未婚女性の人数が大幅に上昇した。その上、兵士の復員と戦後の不況により失業率がうなぎ登りになった。戦争は確かに女性の社会進出を促進したが、兵士が復員したことと戦時工場が休業したことにより、却って多くの人が失業した。
イギリスでは1918年初頭にようやく配給制度が導入されたが、肉、砂糖、脂肪(バターとマーガリン)に限られ、パンは制限されなかった。また、労働組合の参加者数は1914年に400万を少し超えた程度だったのが、1918年には倍になり、800万人を超えるまでになった。
平時の輸入源から戦争物資を輸入することに困難が生じたため、イギリスは植民地に目を向けた。アルバート・アーネスト・キットソン(英語版)などの地質学者は、アフリカの植民地で貴金属の鉱層を見つけることを依頼された。キットソンは英領ゴールド・コーストで弾薬製造に必要なマンガンの鉱層を発見した。
ヴェルサイユ条約の第231条(英語版)(いわゆる「戦争責任」条項)において、ドイツは「連合国、その政府と国民が」ドイツとその同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。この条項は第一次世界大戦の賠償の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった。1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった。
賠償金は現金でも現物(石炭、木材、化学染料など)でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、ルーヴェンの図書館の修復なども算入された。1929年、世界恐慌が起き、世界中の政治を混乱させた。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。アドルフ・ヒトラーが権力を奪取すると、1920年代と1930年代初期に発行された債券は取り消された。しかし、デヴィッド・A・アンデルマン(英語版)は「支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する」と述べた。そのため、第二次世界大戦後の1953年、ロンドン会議(英語版)において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった。
ハーバー・ボッシュ法を考案した一人であるフリッツ・ハーバーは、賠償金の足しにするため1920年から海水から金を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。
戦後のドイツでは深刻な住宅不足に直面しており、賃貸集合住宅の数を増やすため、1920年代に様々な公営住宅計画が立てられた。この住宅は労働者階級にも家賃が払えるようにコストを重視した結果、室内の広さやデザインを限定することにした。この際に台所の設計として採用された能率重視のフランクフルト・キッチンは、現代のシステムキッチンの先駆けとされている。
軍の資金援助で無線機器の改良が進んだため、戦後にはフランスやイギリス、日本やアメリカのみならず、敗戦国のドイツでもラジオが流行し、新たなメディアとして広まった。
また、手で操作しなければならない懐中時計に代わり、当時は主に女性用アクセサリーとされていた腕時計が日用品の座を得た。
第一次世界大戦下では、大戦を題材とした戦争文学が広く読まれ、これらの作品の多くは作家自身の従軍経験をもとに戦場を描いたものだった。従軍中に詩作したことで「戦場詩人」と呼ばれ、休戦直前に戦死したイギリスのウィルフレッド・オーウェンはその代表的な作家である。フランスの権威ある文学賞のゴンクール賞も、大戦中の受賞作は全て戦争文学作品となった。受賞作のなかでも、特にアンリ・バルビュス『砲火(英語版)』(1916年)は、20万部の売上を記録し、以後の「戦争小説のモデル」となったとされる。フランス文学研究者の久保昭博によれば、『砲火』は兵士の死体や過酷な塹壕生活を口語・俗語文体を用いて描くことで、迫真的な大戦描写に成功したのである。
ドイツでも、自然主義や表現主義の戦争文学に続いて、戦間期にはハンス・カロッサ『ルーマニア日記』(1924年)や、エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』(1929年)に代表される新即物主義の戦争文学が登場した。これらの新即物主義の作品も、報告体を用いてより写実的に第一次世界大戦の戦場を描写したものだった。特に『西部戦線異状なし』は、刊行からほどなく25ヶ国語に翻訳され、計350万部の売上を記録した。
アメリカでは第一次世界大戦の影響の下、いわゆる「失われた世代」の作家たちが登場した。1926年、その代表的な作家であるアーネスト・ヘミングウェイと ウィリアム・フォークナーは、それぞれ初の長編作品を出版したが、両者の作品とも第一次世界大戦を背景としたものだった(ヘミングウェイ『日はまた昇る』、フォークナー『兵士の報酬(英語版)』)。
美術の分野でも、第一次世界大戦に多くの芸術家が従軍画家として参加し、プロパガンダのための戦争画を描いた。また、こうした伝統的な従軍画家だけでなく、装備のカモフラージュを行うためにキュビズムやヴォーティシズムの画家が動員された。さらに、徴兵されてあるいは志願して前線で兵士として戦う芸術家もいた。西洋近現代美術史研究者の河本真理によれば、戦場を体験した画家たちは、戦争の理念的側面を抽象的な様式で表現しようとする者と、戦場の人々の身体などを写実的な様式で表現しようとする者の二つの系統に分かれていった。大戦による西洋社会の動揺は、一方では、前衛的な芸術から古典的な芸術へという「秩序への回帰」につながる。しかし、その一方で、第一次世界大戦を近代合理主義の限界であるとみなし、これまでの芸術の在り方を否定する「反芸術」のダダイスムも登場することとなった。
また、第一次世界大戦では、これまでの戦争と異なり、ポスター、写真、映画といった新しい手段によっても戦争が描かれた。フランスをはじめとする参戦国政府は、写真部・映画部のような組織を設置し、プロパガンダの手段として写真・映画を活用しようとした。特に、1916年公開の無声記録映画『ソンムの戦い(英語版)』は、イギリスの戦争プロパガンダ局長チャールズ・マスターマン(英語版)の主導で作られ、当時の国内映画の最多観客動員数記録を更新するほどの人気を博したという。
第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ、1919年に米大統領ウィルソンの提唱により、人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約(1922年)、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)といった軍縮条約が締結された。
しかし、これら国際平和のための様々な努力も空しく、第一次世界大戦の原因と結果を巡る多くの戦後処理の失敗、戦後好景気の反動としての世界恐慌の発生とブロック経済化、社会主義の勢力拡大などで、それらに対抗する形でのイタリア王国のムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツのヒトラー率いるナチスと、ファシズムが台頭していった。
戦勝国の日本でも、日本のシベリア出兵や中華民国での排日とそれに対する日本軍の出兵拡大。また日英同盟の破棄やアメリカでの日本人移民の差別などが行われた末のナショナリズム台頭といった混乱が起きた。さらに1931年には関東軍主導により満洲事変が起こされ、数度にわたり軍事クーデターが起きたことで、第一次世界大戦後に日本に根付くかと思われた民主主義(大正デモクラシー、普通選挙)がわずか15年程度で途絶え、軍国主義が進むこととなった。
国際連盟は提唱国であるアメリカをはじめとした大国の不参加や脱退が相次いで十分な役目を果たせず、戦間期に発生した係争への介入を行うことがほとんどできなかった。ヴェルサイユ条約成立後、フランスのフェルディナン・フォッシュ陸軍元帥は、「これは講和ではない。20年間の休戦にすぎない」と予言していた。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、いつの日か必ず復讐されることになる」と条約を批判。アメリカのある上院議員も「この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した」と述べた。そして彼らの予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939年に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦が勃発することとなる。
この戦争における砲撃の数量は凄まじく、西部戦線の主戦場となったフランスの内務省によれば、国内で約14億発の砲弾が使用され、そのうち約1割が不発弾となったという。内務省の爆発物処理隊隊員が加盟している研究会では、その全ての不発弾を処理するためにかかる時間を約700年と試算している。
西部戦線の戦跡では、不発弾のほか廃棄された毒ガスを含む砲弾による土壌汚染が深刻なために、立ち入りが禁止されている土地が残っており、無害化のための調査・処理が続いている。また、戦地に放置・埋葬された戦死者の遺骨もいまだ多く残されており、その収集とDNA型鑑定などによる遺族捜し、納骨が21世紀以降も続けられている 。
従軍した軍人のうち、最後まで存命だった元イギリス海軍水兵クロード・チョールズが2011年5月5日、110歳で死去した。
現代にも大きな影響を与えており、2018年11月11日にパリで行われた終戦100年記念式典には、フランス、日本、イギリス、イタリア、アメリカなどの戦勝国や、ドイツなど敗戦国を含めて60カ国以上の首脳級要人約70人が参加した。
第一次世界大戦が始まると無煙火薬であるコルダイトが大量に必要となったが、原料となるアセトンは木材を乾留して製造されていたため、安定した大量供給は難しかった。当時マンチェスター大学で化学を教えていたハイム・ヴァイツマンは1910年頃にデンプンからアセトンを合成する手法を開発しており、イギリス政府と協力し工業化に成功したことで、年間3万トンのアセトンが供給可能となった。この功績によりウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージなどイギリス政府の要人に知己を得たことによりロビー活動での影響力が増すこととなった。
第一次世界大戦の初期では20世紀の技術と19世紀の戦術が混ざり合い、大きな損害は不可避であった。しかし、列強の軍は1917年末までにそれぞれ兵力を数百万人に増やしつつ現代化を進め、電話、無線通信、装甲車、戦車、飛行機を利用するようになった。歩兵の編成も変更され、それまで100人の中隊が部隊の行動単位だったのを下士官率いる10人程度の分隊に変更された。
大砲も革命を遂げた。1914年、大砲は前線に配置され、砲弾は標的に直接撃たれた。しかし、1917年までに大砲、臼砲、さらに機関銃による間接射撃が多用されるようになり、飛行機や(見落とされることも多い)野戦電話(英語版)といった新しい技術による測距や射弾観測が行われるようになった。また、大砲音源測距(英語版)と対砲兵射撃(英語版)が一般的になった。
重砲火による間接射撃についてはドイツの方が連合国軍よりもはるかに進んでいた。ドイツ陸軍は1914年時点で既に150mmと210mm榴弾砲を運用しており、一方フランス陸軍とイギリス陸軍の大砲は75mmと105mm程度だった。イギリス軍は6インチ (152mm) 榴弾砲を1門有していたが、重くてまともに運べず、分解して前線に運んだ後改めて組み立てなければならない代物であった。ドイツはさらにオーストリアの305mmと420mm大砲を使用、また開戦時点で既に塹壕戦に適する、様々な口径のミーネンヴェルファーを有していた。
1917年6月27日、ドイツ軍は当時世界最大の大砲バッテリー・ポンメルン(英語版)を使用した。クルップ社が製造したこの大砲は重さ750kgの砲弾をクケラーレ(英語版)から50km先のダンケルクに発射することができた。
戦闘の多くは塹壕戦であり、前線を1m前進させるために数百人が犠牲になるというものだった。歴史上死傷者の最も多い戦闘の中には第一次世界大戦の戦闘が多く含まれ、例としてはパッシェンデールの戦い、マルヌ会戦、カンブレーの戦い、ソンムの戦い、ヴェルダンの戦い、ガリポリの戦いがある。ドイツはハーバー・ボッシュ法による窒素固定を活用して、イギリスの海上封鎖にもかかわらず火薬を絶やさずに供給することができた。大砲の攻撃は最も多くの損害を出し、大量の爆発物を費やした。爆弾の爆発や破砕(英語版)により兵士の頭部損傷が続出したため、交戦諸国は現代も使われる鋼鉄製戦闘用ヘルメットを設計した。その端緒となったのはフランスが1915年に導入したアドリアンヘルメットであり、直後にイギリスとアメリカがブロディヘルメットを採用、1916年にはドイツがシュタールヘルムを導入した。シュタールヘルムはその後改良を経て現代まで使用されている。
化学兵器が広く使われたことも第一次世界大戦の特徴であった。攻撃に使われたガスは塩素、マスタードガス、ホスゲンなどだった。最初に使われた塩素に対する対策のガスマスクはすぐに配備され、以降より効果的な化学兵器の開発とその対策の開発がいたちごっこのように続き、終戦まで続いた。化学兵器の使用と小規模な戦略爆撃はいずれも1899年と1907年のハーグ陸戦条約で禁止され、両方とも効果が薄いことが証明されたが、大衆の注目を集めることには成功した。
陸戦兵器のうち戦闘力が最も強いのは1門数十トンの重さを有する列車砲である。ドイツが使用したのはディッケ・ベルタ(「太っちょベルタ」)というあだ名が付けられた。ドイツはまたパリ砲を開発、重さ256トン、砲弾の重量は94kgで、パリを約100km先から砲撃することができた。
塹壕、機関銃、空からの偵察、有刺鉄線、破砕砲弾を使用する現代化した大砲といった技術により、第一次世界大戦の戦線は膠着した。イギリスとフランスは戦車を開発して機甲戦に持ち込むことで戦線の膠着を解決しようとした。イギリス初の戦車であるマーク I 戦車はソンムの戦いの最中、1916年9月15日に使用された。この時は安定性に問題があったが、実戦に耐えうることを証明することができた。そして、1917年11月のカンブレーの戦いではヒンデンブルク線を突破する一方、諸兵科連合部隊が敵兵8千人を捕虜にし、大砲100門を鹵獲することができた。一方、フランスは旋回砲塔を持つルノー FT-17 軽戦車を開発、ルノー FT-17はフランスの勝利に大きく貢献した。ほかにもルイス軽機関銃、ブローニングM1918自動小銃、MP18など軽機関銃や短機関銃が導入された。
もう1つの新型武器である火炎放射器はまずドイツ陸軍によって使われ、続いて諸国の陸軍に採用された。戦術的には高い価値を有さなかったが、戦場上の恐慌を引き起こし、敵軍の士気を低下させる武器として有用であった。
塹壕戦には大量の食料、水、弾薬が必要であり、平時の交通システムが破壊される地域も多いため塹壕鉄道(英語版)が発展した。しかし、内燃機関の改良により、塹壕鉄道は廃れた。
ドイツは開戦の後、Uボート(潜水艦)を配備した。ドイツ帝国海軍はUボートを駆使して大西洋で制限付きと無制限潜水艦作戦を交互に遂行、イギリスの補給を断とうとした。イギリス商船の海員が死亡したことと、Uボートが無敵のように見えたことで爆雷(1916年)、ハイドロホン(パッシブソナーの一種、1917年)、軟式飛行船、攻撃型潜水艦(英語版)(R級潜水艦(英語版)、1917年)、前方攻撃用の対潜兵器、吊下式ハイドロホン(最後の2つは1918年に放棄された)などが次々と開発された。潜水艦をさらに活用すべく、ドイツでは1916年に補給潜水艦が提案された。
固定翼機が初めて軍事利用されたのは伊土戦争中の1911年10月23日、イタリア軍がリビアを偵察した時だった。翌年にはグレネード投下や空中写真撮影に使われるようになった。飛行機の軍事上の価値は1914年までに明らかになり、戦争初期には偵察や近接航空支援で使われた。敵機を撃ち落とすべく、対空砲や戦闘機が開発された。他にも戦略爆撃機が開発され、主にドイツとイギリスが使った。ドイツはツェッペリン(硬式飛行船の一種)や大型の複葉機で北海を渡り、ロンドンなどイギリス本土を空襲した。
戦争末期には航空母艦が初めて使われ、1918年にはイギリスのフューリアス号がトンデルンにあったツェッペリン飛行船のハンガーを破壊するためトンデルン襲撃(英語版)を敢行、ソッピース キャメルを飛ばせた。
塹壕の上空を飛ぶ有人観測気球は固定の偵察基地として使われ、敵軍の動きを報告したり、砲兵に指示を出したりした。気球の乗員は一般的には2名であり、2人ともパラシュートを装備していた。これは敵軍による対空攻撃に遭った場合でもパラシュートを使って安全に脱出できるようにするためであった。当時のパラシュートは重すぎて、積載量が既にぎりぎりの飛行機に搭載できず、小型化は戦争終結後に行われたことだった。またイギリスの首脳部でもパラシュートがパイロットの臆病さにつながるとしてその搭載に反対した。
偵察されることを防ぐため、気球は敵機にとって重要な標的である。敵機から身を守るため、気球には対空砲が搭載され、さらに自軍の飛行機がパトロールを行った。また空対空ロケット(英語版)といったより特殊な武器も試された。軟式飛行船や気球による偵察の結果、全種類の飛行機の間で行われる空対空戦闘(航空戦)が発展した。また、気づかれずに大軍を動かすことが不可能になったため、塹壕戦が膠着する一因となった。ドイツは1915年と1916年にイングランド空襲を行い、イギリスの士気を低下させるとともに飛行機を前線から引き起こそうとし、実際に恐慌が起こったため数個飛行隊の戦闘機がフランスから急遽イギリスに派遣された。
1914年にイギリスがドイツの海底通信ケーブルを切断した結果、国際通信ケーブルと無線しか使えなくなったドイツは傍受を防ぐために通信を暗号化した。
しかし、ドイツは戦争初期に多くの不幸に見舞われ、暗号を悉く解読された。まず、イギリス海軍がオーストラリア沖でドイツの商船からHandelsverkehrsbuch (HVB) というコードブックを奪取、続いてエストニアで座礁したドイツ船からドイツ海軍用のSignalbuch der Kaiserlichen Marine (SKM) がロシアに奪われ、さらにVerkehrsbuch (VB) もオランダ沖でイギリスに取得された。
これらのコードブックを得たイギリスは傍受した通信量が膨大だったこともあり、海軍本部で暗号解読部門であるルーム40を設立した。ルーム40は後にツィンメルマン電報の解読に成功、アメリカを連合国側で参戦させることに成功した。
第一次世界大戦では約800万人が降伏して捕虜収容所に収容された。全参戦国がハーグ陸戦条約に基づき捕虜を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は赤十字社や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。
例としては、ガリツィアの戦い(英語版)でロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、タンネンベルクの戦いでロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月のプシャスニシュの戦い(ドイツ語版)でドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月にカウナス駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また第一次マルヌ会戦ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害(戦死、負傷、捕虜)のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人(その大半がロシア軍への降伏だった)。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。
日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビール、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった。
反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も飢餓が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した。またオスマン帝国では国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。これはオスマン帝国がムスリム国家(キリスト教国ではない)であるゆえと西欧中心主義的視点から言われることがあるが社会学的な正確性が欠けた偏見である。1916年4月のクート包囲戦の後、イギリス兵士約11,800人(主に英領インドの兵士)が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進してアナトリア半島まで行くよう命じた。生還者の一人は「獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった」と述べた。その後、生還した捕虜はトロス山脈を通る鉄道の建設に駆り出された。
第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが強制労働に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。
オーストリア=ハンガリー帝国の出身でクロアチア人の亡命政治家アンテ・トルムビッチ(英語版)などユーゴスラヴィア主義者(英語版)は、南スラヴ統一国家の建国を望んだため、戦争を強く支持した。1915年4月30日、トルムビッチ率いるユーゴスラヴィア委員会(英語版)がパリで成立、直後にロンドンに移った。1918年4月にはローマで「圧迫された民族の会議」(Congress of Oppressed Nationalities) が行われ、チェコスロバキア人、イタリア人、ポーランド人、トランシルヴァニア、南スラヴの代表が連合国にオーストリア=ハンガリーの住民による民族自決を支持するよう求めた。
中東ではトルコの民族主義と呼応してアラブ民族主義も高揚、汎アラブ国家の建国が叫ばれるようになった。1916年、アラブ反乱がオスマン帝国の中東領で起こり、独立を目指した。
東アフリカではダラーウィーシュ国がソマリランド戦役(英語版)でイギリスと戦っていたが、エチオピア帝国のイヤス5世はダラーウィーシュ国を支持した。ドイツ駐アディスアベバ大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シルベルク(ドイツ語版)は「エチオピアがイタリア人を追い出して紅海沿岸を奪回、帝国を以前の規模に回復する時が来た」と述べた。エチオピア帝国は中央同盟国側で参戦する瀬戸際まできたが、同盟国がエチオピアにおける独裁について圧力をかけたことでイヤス5世が廃位されたため参戦が取り止めとなった。
社会主義政党の一部は1914年8月の開戦時点では戦争を支持した。ヨーロッパの社会主義者は民族主義についての意見が分かれたが、愛国心による戦争への支持がマルクス主義者などの急進派が持つ階級闘争の概念、そして労働組合主義を圧倒した。開戦すると、イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ロシアの社会主義者は民族主義の時流に従って自国の参戦を支持した。
当時アメリカで活躍していたイギリス人のチャーリー・チャップリンや日本人の早川雪洲は、アメリカの戦時公債発売委員に推薦され、特に早川は日本の同盟国のアメリカの国債を6万ドルも買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、1918年には『バンザイ』(Banzai) という公債販売促進のための映画まで撮って、アメリカを助けた。
イタリア民族主義(英語版)は戦争により高揚、初期には様々な政治会派からの支持を受けた。最も活動的で支持を受けたイタリア民族主義者の一人はガブリエーレ・ダンヌンツィオであり、彼はイタリア民族統一主義を宣伝、イタリア大衆を参戦支持に動かした。イタリア自由党のパオロ・ボセッリ(英語版)は連合国側で参戦することを支持してそれを宣伝、ダンテ・アリギエーリ協会をイタリア民族主義の宣伝に利用した。
イタリアの社会主義者は戦争を支持すべきか反対すべきかで意見が分かれた。ベニート・ムッソリーニやレオニーダ・ビッソラティ(英語版)などは支持したが、イタリア社会党は反軍国主義の抗議を行った者が殺害されると戦争反対の方針を決定、6月に赤い一週間(英語版)と呼ばれるゼネラル・ストライキを行った。社会党はムッソリーニなどの参戦を支持した党員を除名した。労働組合主義者だったムッソリーニはイタリア民族統一主義に基づき、オーストリア=ハンガリーのイタリア人地域の併合を支持、1914年10月に『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊し、国際行動のための革命ファッシ(イタリア語版)を設立。後に1919年のイタリア戦闘者ファッシに発展し、ファシズムの起源となった。ムッソリーニが民族主義を支持したことで、彼はアンサルド(軍備会社)などの会社から募金して『イル・ポポロ・ディタリア』の創刊に必要な資金を集めた。彼はこの新聞で社会主義者などを説得して戦争を支持させた。
開戦直後には多くの社会主義者や労働組合が政府を支持したが、ボリシェヴィキ、アメリカ社会党、イタリア社会党、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクなどの例外もあった。
開戦から3か月も満たない1914年9月にローマ教皇に就任したベネディクトゥス15世は第一次世界大戦とその影響を在位期間の初期の焦点とした。前任のピウス10世と違い、彼は選出から5日後に平和のために手を尽くすと宣言した。彼の初の回勅で1914年11月1日に公布されたアド・ベアティッシミ・アポストロルム(英語版)も第一次世界大戦に関するものだった。しかし、ベネディクトゥス15世は教皇の立場から平和の使者として振舞ったものの参戦各国に無視された。1915年にイタリアと三国協商の間で締結されたロンドン条約でも教皇による平和への動きを無視する条項が盛り込まれ、またベネディクトゥス15世が1917年に提案した平和案もオーストリア=ハンガリーを除いて無視された。
1914年、イギリスのパブリックスクールの将校訓練課程(英語版)の年度キャンプがソールズベリー平原(英語版)近くのティッドワース・ペンニングス (Tidworth Pennings) で行われた。陸軍総司令官ホレイショ・ハーバート・キッチナーが士官候補生を閲兵する予定だったが開戦により出席できなくなったため代わりにホレス・スミス=ドリアン(英語版)が派遣された。バミューダ諸島出身の士官候補生ドナルド・クリストファー・スミス (Donald Christopher Smith) の述懐によると、スミス=ドリアンのスピーチは出席した下士官候補生2,000-3,000名を驚かした。
彼は戦争は何としても避けなければならない、戦争は何も解決しない、全ヨーロッパや多くの地域が廃墟に化する、人命の損失が大きすぎて全人類の人口が絶滅する、などと述べた。そのような憂鬱で愛国的でない感情を述べるイギリスの将軍に、私、そして私達の多くが、無知なことに彼を恥じた。しかし、その後の4年間にわたり、私達のうち大虐殺を生き残った者(おそらく4分の1を越えないだろう)は将軍の予想の正しさを知り、彼がそれを述べるのにどれだけの勇気が要るかを知った。
多くの国は戦争に反対した者を投獄した。例としてはアメリカのユージン・V・デブスとイギリスのバートランド・ラッセルがいる。アメリカでは1917年スパイ活動法と1918年扇動罪法(英語版)により募兵反対や「愛国的ではない」主張が犯罪であると定められた。政府を批判する出版物は郵便での検閲により流通できないようにされ、多くの人々が愛国的でない主張をした廉で長期間投獄された。
民族主義者の一部は、特にその民族主義者が敵対した国において戦争への介入に反対した。アイルランド人の大半は1914年と1915年時点では参戦に同意したが、少数のアイルランド民族主義者は参戦に反対した。1912年にアイルランド自治危機(英語版)が再び浮上した後、世界大戦が勃発した1914年7月にはアイルランドがあたかも内戦前夜のようになっていた。アイルランド民族主義者とマルクス主義者はアイルランド独立を求め、1916年にイースター蜂起を決行した。ドイツはイギリスを不安定にすべくライフル2万丁をアイルランドに送った。イギリスはアイルランドの戒厳を発令したが、革命の脅威が去ると、イギリスはアイルランド民族主義者に譲歩した。しかし、アイルランドでの反戦世論が高じた結果、1918年徴兵危機(英語版)が起こった。
ほかにも良心的兵役拒否者(社会主義者や信仰を理由に兵役を拒否する者)が戦闘への参加を拒否した。イギリスでは1万6千人が良心的兵役拒否者として扱われることを申請した。スティーヴン・ホブハウス(英語版)など一部の平和活動家は兵役と代替役の両方を拒否した。
1916年夏、ロシア帝国政府がムスリムの兵役免除を廃止したため中央アジア反乱が起きた。また1917年には一連のフランス軍反乱が起き、多くの兵士が処刑、投獄などされた。1917年9月、フランスにおけるロシア海外派遣軍(英語版)はフランスのために戦う理由に疑義を呈して反乱した。
イタリアでは1917年5月、共産主義者がミラノで暴動を扇動して、終戦を訴えた。共産主義者は工場を操業停止に追い込み、公共交通機関も運休に追い込まれた。イタリア軍は戦車や機関銃などの武器を抱えてミラノに入城し、共産主義者と無政府主義者と対峙した。イタリア軍は5月23日にミラノを支配下に置いたが、イタリア兵3人を含む約50人が死亡、800人以上が逮捕された。
ドイツ北部では1918年10月末にドイツ革命が勃発した。ドイツ海軍の水兵が、敗北必至の状況下で最後の大規模な戦役への出征を拒否して反乱した。軍港のヴィルヘルムスハーフェンとキールで勃発した水兵反乱(英語版)は数日で全国に飛び火し、1918年11月9日の共和国建国宣言、直後のヴィルヘルム2世退位につながった。
徴兵は当時ヨーロッパ諸国で行われたが、英語圏では賛否両論だった。特にアイルランドのカトリック信者など少数派の間では不人気だった。
カナダでは徴兵問題が1917年徴兵危機(英語版)という大きな政治危機に発展、カナダの英語話者とフランス語話者が仲違いするきっかけとなった。というのも、フランス系カナダ人がイギリス帝国ではなくカナダという国を愛したのに対し、多数派である英語話者はルーツがイギリス人だったため戦争を義務として扱ったという違いがあった。
オーストラリアでは首相ビリー・ヒューズが徴兵支持運動を組織した結果、オーストラリア労働党の分裂を招き、ヒューズは1917年に民族主義党(英語版)を結成して運動を継続した。しかし、農民、労働運動、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票(英語版)は否決された。
イギリスでは兵役に適する男子1千万人のうち600万人が招集され、そのうち75万人が戦争で命を落とした。死者の多くが若い未婚者だったが、16万人が妻帯者であり、子女がいる者も多く子供30万人が父を失った。第一次世界大戦中の徴兵は1916年兵役法(英語版)で始まった。兵役法では聖職者、子供のいる未亡人を除き、18歳から40歳までの独身男性の徴兵を定めた。兵役裁判所(英語版)という、健康、良心的兵役拒否などを理由とした兵役免除申請を審査する制度もあった。1月に成立した兵役法では既婚男性を除外したが、6月にはその条項が撤廃された。年齢の上限も後に51歳に引き上げられた。兵役裁判所の審査も徐々に厳しくなり、1918年には聖職者の徴兵も一定の支持を受けるようになった。徴兵は1919年中まで続いた。また、アイルランドでは政情不安により徴兵が施行されることはなく、徴兵はイングランド、スコットランド、ウェールズでのみ行われた。
アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3千人と目標の100万人を大きく下回ったため、政府は徴兵を決定した。アメリカの徴兵は1917年に開始され、一部の農村部を除いて受け入れられた。
オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上がスラヴ人だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった。
参戦諸国の外交とプロパガンダは自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと(戦況の悪化につき)再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国(イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア)を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族(チェコ人、ポーランド人、アラブ人)運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった。
同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が「ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した」と宣伝した。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が「ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した」に変わった。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して「連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った」と宣伝した。
開戦直後から、ドイツ、イギリス、ロシア、フランスといった交戦国の政府は、自国の正当性を主張するためのプロパガンダの一環として、外交資料集を編纂・発表した。こうした流れは、終戦後、大戦開戦の責任はどの国家にあるのかという戦争責任論争につながり、第一次世界大戦の研究の焦点は、まず、開戦直前の外交政策に当てられることとなった。また、1922年以降、交戦国では軍事関係者の手による公式の戦史の刊行も始まった。
1920年代後半には、より長期的なスパンで大戦の原因を探るべきだとする大戦起源論研究が主流となった。大戦起源論研究は、単なる外交史研究にとどまらず、帝国主義政策や軍備拡張競争といった面にも着目したものだった。こうした研究を通して、1930年代後半までに「第一次世界大戦の戦争責任は特定の国家にはない」という定説が形成されるに至った。
しかし、第二次世界大戦後、西ドイツの歴史学者フリッツ・フィッシャーは、ドイツ政府関係史料に拠る実証研究をもとに、大戦開戦の責任はドイツにあるとし、再びドイツ単独責任論を唱えた。この説は西ドイツ内の歴史学者からの激しい批判を受けた(フィッシャー論争(ドイツ語版))が、最終的には国内を含め欧米の歴史学界で広く支持されるようになった。
1960年代になると、経済史研究や人口統計学のような数量化による研究も行われるようになった。そして、第一次世界大戦研究は、大戦の原因をめぐる論争ではなく、大戦期の革命運動や各国の国内事情を主な対象とするようになっていった。アメリカの歴史学者ジェラルド・フェルドマン(英語版)は、大戦中の国内の権力構造の変化を論じ、ドイツの歴史学者ユルゲン・コッカ(英語版)は、マックス・ウェーバーの理論を応用して大戦研究を行った。
こうした研究は、軍の指導者ではなく兵士の動向や銃後の社会に焦点を当てる「下からの」歴史研究につながっていく(社会史)。さらに90年代以降は、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの提唱した「短い20世紀」のように、第一次世界大戦を現代の起点であるとし、その意義を強調する議論も盛んとなった。
一方、ドイツ近現代史研究者の木村靖二によれば、こうした歴史学者による第一次世界大戦の政治史・社会史研究と、軍事史家による伝統的な戦史研究は、いずれも相互の研究成果を十分に取り入れておらず、分断された状況にあり、第一次世界大戦史の総合的な研究を難しくしているという。 | [
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"text": "第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I、略称:WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で戦われた世界規模の戦争である。",
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"text": "7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。",
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"text": "戦争が長引いたことにより各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。",
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"text": "戦争は全世界の経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。",
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"text": "諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟(日英同盟を参照)を結んでいた大日本帝国は連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する。",
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"text": "第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった。あるいは、欧州大戦 (War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end wars) という表現もあった。主に第一次世界戦争(First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である。",
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"text": "このうち「世界戦争」(ドイツ語: Weltkrieg) という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策」 (Weltpolitik) の存在などがあったという。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった。",
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"text": "「第一次世界戦争」(First World War) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争 (the first world war) 』となるだろう」と述べた時だった。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した。",
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"text": "一方、「大戦争」(英語: Great War, フランス語: la Grande Guerre) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌(英語版)が「大戦争」(Great War) とした。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという。",
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"text": "歴史家のガレス・グロヴァー(英語版)は著書の『100の物が語るウォータールー』(Waterloo in 100 Objects) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争とナポレオン戦争を意味した」と述べた。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』(William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。",
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"text": "木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという。",
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"text": "戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者(英語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエヴォ事件)だった。",
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"text": "これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。",
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"text": "まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。",
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"text": "ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月の第一次マルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻(英語版)を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。",
"title": "略史"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ロシアでは1917年3月に二月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢(英語版)でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。",
"title": "略史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。",
"title": "略史"
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"text": "1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立されたが、この取り組みは失敗した。世界恐慌、民族主義の復活、後継国家の弱体化、敗戦国側(特にドイツ)の屈辱感は、やがて第二次世界大戦を引き起こすこととなった。",
"title": "略史"
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"text": "軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた(軍事技術も参照)。",
"title": "略史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にプロイセン王国がドイツ統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退(英語版)を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった。1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、イタリア王国が加入して三国同盟となった。またアジアにおいては、1902年に日本とイギリスが日英同盟を締結した。",
"title": "背景"
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{
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"tag": "p",
"text": "ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと英仏協商を、1907年にロシアと英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を沸騰させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャ(英語版)をルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。",
"title": "背景"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエヴォを訪問した。",
"title": "開戦"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ユーゴスラヴ主義(英語版)組織青年ボスニア(英語版)からの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチ(英語版)、ガヴリロ・プリンツィプ、ムハメド・メフメドバシッチ(英語版)、ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)、トリフコ・グラベジュ、ヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版))はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。",
"title": "開戦"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエヴォ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公の妻ゾフィー・ホテクを射殺した。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマン(英語版)は後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」と。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けて、怯えた。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリー当局は、サラエヴォの反セルビア暴動(英語版)を煽動した。その結果、サラエヴォではボスニア系セルビア人(英語版)2人がボスニア系クロアチア人(英語版)とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "セルビア人に対する暴力はサラエヴォ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「保護団体(英語版)」も設立され、セルビア人を迫害した。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "暗殺事件により、七月危機と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリーはセルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした。7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアへ犯人の黒手組を調査させるべく10点の要求を突き付けた。セルビアは25日に総動員したが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第五条と、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条除いて最後通牒の要求を受諾した。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した(午後11時に発効)。",
"title": "開戦"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱によりオーストリア=ハンガリー陸軍(英語版)は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。ツェルの戦い(英語版)、続いてコルバラの戦い(英語版)でセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍のクラクフへの進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけてカルパティア山脈の冬季戦役(ドイツ語版)が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、ドイツ第10軍団(英語版)はベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12要塞(英語版)はすぐには陥落しなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ドイツはディッケ・ベルタという重砲を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾がロンサン砦(英語版)の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くのヴィゼ、ダレム(英語版)、バティス(フランス語版)で起きたことだった。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由はフラン=ティルール(英語版)によるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナン(英語版)、タミーヌ(フランス語版)、アンデンヌ(英語版)、アールスコートで起きた。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり、またレーヴェンの破壊(ドイツ語版)でドイツは国際世論の非難を受けた。これらの戦争犯罪はイギリスのプロパガンダで真偽まじりで宣伝され、「ベルギーの強奪(英語版)」という語が生まれた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17(英語版)を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、ロレーヌでの中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌの奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までにドラー川(英語版)沿岸とヴォージュ山脈の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮したルイ・ボノー(フランス語版)はジョフルに解任された。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ジョフルは当初プラン17の遂行に集中して、フランス兵170万を5個軍に編成、ドイツによるベルギー攻撃を顧みなかった。だがドイツ軍の行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、シャルル・ランレザック(英語版)率いるフランス第5軍(英語版)を北西部に派遣した。ちょうどフランスに上陸した、ジョン・フレンチ率いるイギリス海外派遣軍はモブージュの北でフランス軍と合流した。フランスの攻勢は8月14日に始まり、オーギュスタン・デュバイ(英語版)率いるフランス第1軍(英語版)とエドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー(英語版)率いるフランス第2軍(英語版)は国境を越えてサールブールに進軍、ループレヒト・フォン・バイエルン率いるドイツ第6軍(英語版)と第7軍(英語版)は戦闘を回避した。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くもブリュッセルとナミュールに押し寄せると、ベルギー軍の大半はアントウェルペンの要塞に退却、そこから2か月間にわたるアントウェルペン包囲戦(英語版)が始まった。20日、フランス軍は本命となるロレーヌとザールルイ地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "こうして、ザールブルク、ロンウィ、アルデンヌの戦い、マース川、サンブル川とマース川の間、モンス(英語版)という長大な前線で国境の戦い(英語版)と呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出した。死傷者の多くは機関銃によるものだった。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかし、フランス軍は紀律を保ち、ロレーヌではムルト川の後ろ、ナンシー周辺の要塞群に退却。フランス北部でもマース川の後ろにあるヴェルダン要塞を保持したため、大部隊がドイツに包囲されて失われるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンはシュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう小モルトケに求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "左翼の英仏軍は大撤退(英語版)を開始、ル・カトーの戦い(英語版)(8月26日)やサン=カンタンの戦い(英語版)(8月29日)を間に挟んで撤退を続け、それを追撃するドイツ軍右翼はパリへと接近した。フランス政府は9月2日にパリからボルドーに疎開し、パリの守備は既に引退していたジョゼフ・ガリエニが現役復帰して担当した。フランス軍右翼と予備軍から兵士が引き抜かれてミシェル=ジョゼフ・モーヌリー(英語版)率いるフランス第6軍(英語版) に編成され、ドイツ軍への側面攻撃でその進軍を脅かした。フェルディナン・フォッシュ率いる第9軍(英語版)は中央部に投入された。ジョフルはマルヌ川を合流地点として撤退を停止、そこから反転してドイツ軍に攻撃するという計画を立てた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍は進軍の速度を保ちながら南西と南に方向転換した。そのうち、アレクサンダー・フォン・クルック率いる第1軍は8月20日にブリュッセルを占領した後、フランス軍とイギリス海外派遣軍を追撃した。前線が拡大するにつれて、ドイツの攻勢の奇襲性が失われ、ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて、ドイツ軍の連絡線が伸び、フランス軍の連絡線が縮んだのだった。8月末にはドイツ軍の歪んだ前線が崩壊直前にまでなり、右翼も反撃を受けて南と南東に向けて方向転換した。そして、パリの包囲計画は8月30日に放棄され、その報せは9月3日にジョフルに届けられた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "当時ルクセンブルクにいたドイツ軍最高司令部には前線の情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線を使用した通信も技術が整っておらず、飛行隊からの報告はしばしば無視された。ドイツ第1軍(英語版)32万人は強行軍してイギリス海外派遣軍を封じ込もうとしたが、その過程で自軍の西側の守備を無視してしまった。東部戦線に2個軍団を割いたこと、アントウェルペン包囲戦(英語版)やモブージュ包囲戦(英語版)に軍を割いたこと、行軍と戦闘による損害、補給の不足により第1軍は停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まった(第一次マルヌ会戦)。ドイツ第1軍は命令に違反して9月5日にマルヌ川の南側に進軍、パリ周辺のル・プレシ=ベルヴィル(英語版)、モルトフォンテーヌ(英語版)、モーまで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由はドイツ第1軍と第2軍の間に40kmの隙間が生じ、英仏軍が9月8日の正午近くにそこに雪崩れ込んだためであった。ドイツ前線の連絡はおぼつかず、ドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威が増大したため、第1軍と第2軍の視察を命じられていたリヒャルト・ヘンチュ(ドイツ語版)中佐は撤退を決定した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "撤退の必要性、特に第1軍の撤退は後に疑問視されたが、通説ではホルガー・アッフレルバッハ(ドイツ語版)が述べたように、「撤退は作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響は致命的だった」。シュリーフェン・プランは失敗に終わり、アルザス=ロレーヌでフランス軍を圧迫することも失敗した。9月9月、小モルトケは手紙でこう綴った:",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "モルトケは神経衰弱をきたし、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが後任の参謀総長となった。ドイツ第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ軍がエーヌ川の後ろに撤退したことで9月13日に第一次エーヌ会戦(英語版)が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ軍はエーヌ川の後ろに撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス軍が反撃したが、戦況が膠着した。ドイツ軍の撤退はフランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判を受けた。ファルケンハインは帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに対し、シュリーフェン・プランが失敗した後の軍事情勢をドイツ国民に説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの海への競争(英語版)において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から北海沿岸のニーウポールトまで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながらリール、ヘント、ブルッヘ、オーステンデを占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北のフランドルに移り、英仏海峡に面するカレーとダンケルクを経由するイギリスからの増援は中断された。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "9月17日、イギリスの代表的作家53人が首都ロンドンにおいて声明『イギリスの戦争の擁護』を出した。10月4日、ドイツ大学人による『93人のマニフェスト(文化的世界へ訴える)』が出された。10月16日にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3千人が連名で『ドイツ帝国大学声明』を出して大戦を「ドイツ文化の防衛戦」として正当化した。イギリスなどの学者は10月21日に米紙『ニューヨーク・タイムズ』上でドイツ大学人への返答を出した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "10月20日から11月18日まで、イーペルで激しい戦闘が起こり(第一次イーペル会戦(英語版))、大急ぎで投入されたドイツの予備部隊はランゲマルク(英語版)とイーペルで大損害を受けた。訓練も経験も不足していた予備軍の士官が若い兵士(15歳の兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害を出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、ランゲマルクの神話(ドイツ語版)が作られ、軍事上の敗北を道徳上の勝利として解釈する、第一次世界大戦における初の事例となった。同盟軍はイギリスの補給港であるブローニュ=シュル=メールとカレー、および鉄道の中心地であるアミアンをドイツ軍から守ることに成功した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な塹壕線を掘り、戦闘は塹壕戦に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海からスイス国境(第一次世界大戦下のスイス(ドイツ語版)も参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた。",
"title": "1914年の戦闘"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ファルケンハインは11月18日にベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、三国協商との戦争は勝ち目がなくなったと通告して、外交を通じた終戦を求めた。彼はイギリスとの講和は不可能と考え、それ以外の交戦国と単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。ベートマン・ホルヴェークが拒否したのは占領地を手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。パウル・フォン・ヒンデンブルクもエーリヒ・ルーデンドルフも敵を全滅させるという立場を崩さず、勝利の平和を可能であると判断した。結局、首相と軍部は世間からマルヌ会戦とイーペル会戦の敗北を隠蔽して戦闘を継続したため、政治と軍事情勢が政治と経済のエリート層の戦争目標への望みと乖離していき、戦中と戦後の社会闘争につながった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "11月、イギリス海軍は北海全域を交戦地帯と定め、海上封鎖を敷いた(ドイツ封鎖)。中立国の旗を掲げる船舶でもイギリスに警告なしで攻撃される可能性が出たが、イギリス海軍のこの行動は1856年のパリ宣言に反するものだった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ロシアの2個軍はシュリーフェン・プランの仮定と違って、開戦から2週間で東プロイセンへの侵攻を開始したため、東部戦線の情勢はドイツにとって厳しいものだった。ドイツはシュリーフェン・プランにより西部戦線に集中したため、東部戦線では守備態勢をとった。そのため、ドイツはロシア領ポーランドとの国境地帯にあるいくつかの町を占領したに留まり、1914年8月のカリシュの破壊(英語版)がその一環となった。8月20日のグンビンネンの戦い(英語版)の後、東プロイセンを守備するドイツ第8軍は撤退、東プロイセンの一部がロシアに占領された。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "その結果、東部戦線のドイツ軍は増援され、新たにパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が司令官、エーリヒ・ルーデンドルフ少将が参謀長に就任した。2人は8月末のタンネンベルクの戦いに勝利、アレクサンドル・サムソノフ率いるロシア第2軍(英語版)をほぼ全滅させて東プロイセンを確保した。続く9月の第一次マズーリ湖攻勢でもパーヴェル・レンネンカンプ率いるロシア第1軍(英語版)が敗北したため、ロシア軍は東プロイセンの大半から撤退した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "8月24日から9月11日までのガリツィアの戦い(英語版)の後、ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領ガリツィア・ロドメリア王国を占領した。オーストリア=ハンガリー軍はガリツィアの首都レンベルクを攻撃した後、ロシア軍が人数で圧倒的に優位にあったため撤退を余儀なくされた(レンベルクの戦い(ドイツ語版)、8月26日 - 9月1日)。ロシアによる第一次プシェムィシル包囲は9月24日から10月11日まで続いた後、一旦解かれた。オーストリア=ハンガリー軍を救うべく、新しく編成されたドイツ第9軍(英語版)はポーランド南部攻勢(英語版)を開始したが失敗した。11月1日、ヒンデンブルクがドイツ軍総指揮官に任命された。11月9日、第二次プシェムィシル包囲が開始、オーストリア=ハンガリーの駐留軍は1915年3月22日まで耐えた末に降伏した。ドイツのウッチ地域における反攻(英語版)は11月11日に開始、12月5日まで続き、その後はロシア軍が守備に入った。",
"title": "1914年の戦闘"
},
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団(ドイツ語版)とバグダード鉄道の建設により、オスマン帝国はドイツに接近した。さらに、オスマン帝国はイギリスに戦艦スルタン・オスマン1世とレシャディエを注文しており、代金も支払っていたが、イギリスは開戦直後の1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権を握っていた青年トルコ人には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないことが明らかだった。最終的にはエンヴェル・パシャによりオスマン・ドイツ同盟(英語版)、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟が締結されたが、この同盟は内閣でも賛否両論だった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ヴィルヘルム・スション(英語版)率いる、ドイツの地中海艦隊(英語版)の巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウがイギリスの地中海艦隊による追跡を振り切り、8月16日にオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに逃げ込んだ(ゲーベン追跡戦)。両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日に出撃して黒海沿岸のロシア都市を襲撃した(黒海襲撃(英語版))以降も両艦に残った。9月27日、ダーダネルス海峡が正式に封鎖され、国際船舶の航行が禁止された。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "11月初頭、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。11月14日朝、シェイヒュルイスラームのウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ(トルコ語版)はスルタンのメフメト5世による勅令に従い、コンスタンティノープルのファティフ・モスク(英語版)の前で敵対国に対するジハードを宣言した。しかし、宣言に呼応したのはイギリスのアフガニスタン部隊の一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 (Singapur))であった。バーラクザイ朝アフガニスタン首長国でのイギリスに対する反感にも影響したが、それは1919年の第三次アングロ・アフガン戦争以降のことだった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "宣戦布告直後の11月6日、イギリスとインド軍はアングロ・ペルシア石油会社(英語版)の利権を守ろうとしてペルシア湾でアル=ファオ上陸戦を敢行、これによりメソポタミア戦役(英語版)が開始された。イギリス軍はオスマン軍を蹴散らした後(バスラの戦い(英語版))、11月23日にバスラを占領した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "カフカース戦役(英語版)ではロシア軍が11月にベルグマン攻勢(英語版)を開始した。ロシア軍の攻勢を撃退すると、オスマン第3軍(英語版)は反撃に転じたが、真冬の中で行われたサリカミシュの戦い(英語版)で大敗した。アルメニア人義勇軍がロシア側で戦ったため、オスマン帝国に残っていたアルメニア人に対する目が冷たくなったが、アルメニア人の大半はオスマン側についたままだった。ロシア軍は長らく占領していたペルシア北東部から進撃した(ペルシア戦役(英語版))。一方、シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)は1914年時点では大きな戦役はなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "欧州諸国により植民地化されていたアフリカ各地では、戦争初期よりイギリス、フランス、ドイツの植民地勢力が戦闘を行った。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "8月6日から7日、フランスとイギリス部隊はドイツ領トーゴラントとドイツ保護領カメルーンに侵攻した。10日、ドイツ領南西アフリカのドイツ軍が南アフリカ連邦を攻撃して以降、終戦まで散発的ながら激しい戦闘が続いた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ドイツ領東アフリカのパウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐率いる植民地軍はゲリラ戦を行い、1918年のヨーロッパでの停戦から2週間後まで降伏しなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "なお、首相である大隈重信は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモアを占領(英語版)した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍(英語版)がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦(英語版)でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府と、同じく近隣に植民地を持つアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって、ドイツ領の南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、当然日本の国民感情的には期待があった。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、先に日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊に恐れをなし逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り(ドレーク海峡経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日本をはじめとする連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った。本国帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」、同「出雲」に、輸送船や工作船などからなる支隊を「遣米支隊」としてカリフォルニア州南部からメキシコにかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリスの連合国と、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。",
"title": "1914年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開した。また、「出雲」はその後第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリーの防護巡洋艦カイゼリン・エリザベート(英語版)が青島からの退去を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。カイゼリン・エリザベートは青島を守備した後、1914年11月に自沈した。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "これらの中国戦線で連合国の捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員日本に送られ、その後徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所の日本国内の俘虜収容所に送られ、終戦後の1920年まで収容された。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。12月18日にスウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク・ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部でクリスマス休戦と呼ばれる非公式な休戦が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる。",
"title": "1914年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1915年2月4日、ドイツは2月18日以降に商船に対する潜水艦作戦(英語版)を開始すると正式に発表した。ドイツは中立国の抗議をはねつけてイギリスとアイルランド周辺の海域を交戦地帯と定めたが、イギリスを海上封鎖するには潜水艦(Uボート)が足りなかった。潜水艦を対商船作戦に使用したことで、ドイツは軍事上でも国際法上でも「新しい道」を歩み出した。イギリスの商船が武装を強化したため、Uボートは安全が脅かされ、捕獲物(英語版)に関する戦時国際法を完全に順守することができなかった。さらに、潜水艦の指揮官への指示が不明確で、海軍は中立国船舶の航行を妨げるために無警告で攻撃する無制限潜水艦作戦であると仮定した。しかし、ドイツの発表に中立国が抗議したため、Uボート作戦(英語版)は中立国の船舶を攻撃しないよう限定された。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "5月7日、ドイツの潜水艦U-20(英語版)がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈(英語版)、国際世論による抗議の波を引き起こした。ドイツ駐ワシントン大使館は新聞に警告文を掲載したが、ルシタニア号が5月1日にニューヨークを出港した時にはアメリカ人200人以上が乗船していた。「戦争物資と弾薬を載せた」というルシタニア号が5月7日に撃沈されると、子供100人近くとアメリカ人127人を含む合計1,198人が死亡した。アメリカの世論は憤慨した。米独間で覚書が交換され、ヴィルヘルム2世は6月1日と6日にドイツ最高司令部の支持を得た首相の要請を受け、潜水艦が中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しないことを約束した。しかし、この決定を聞くと、アルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥とグスタフ・バッハマン(英語版)提督が辞表を出した(2人の辞任は拒否された)。U-24(英語版)が客船のアラビックを撃沈、再びアメリカ人の死者を出してしまうと、ドイツ駐アメリカ大使ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフ(英語版)がアメリカ政府にヴィルヘルム2世の決定を通知した(アラビックの誓約、Arabic pledge)。8月末、ヴィルヘルム2世の決定がエルンスト・ツー・レーヴェントロー(英語版)やゲオルク・ベルンハルト(ドイツ語版)などドイツの新聞編集長に告知された。彼らは軍部の指示を受けて無制限潜水艦作戦と反米のキャンペーンを直ちに停止した。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "東部戦線において、ドイツ軍は新しく到着したドイツ第10軍(英語版)の助力で2月7日から22日までの第二次マズーリ湖攻勢に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた。",
"title": "1915年の戦闘"
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"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ロシア軍はカルパティア山脈の冬季戦役(ドイツ語版)を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍はイゾンツォ川とカルパティア山脈の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアからサン川方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春にアウグスト・フォン・マッケンゼン率いるドイツ第11軍(英語版)が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、クラクフの東でゴルリッツ=タルヌフ攻勢が行われた。この攻勢において、ドイツとオーストリア=ハンガリー第4軍(英語版)は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いてブク攻勢(ドイツ語版)を開始した。6月4日にプシェムィシルを、22日にレンベルクを再占領した後、ロシア領ポーランドに突起部(英語版)を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画がドイツ最高司令部(実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった)から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までのナレフ攻勢(ドイツ語版)はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退を強いることができた。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 97,
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"text": "大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までにワルシャワ(8月4日)、ブレスト=リトフスク、ヴィリニュスなど重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドではルブリンを首都とするオーストリアのルブリン総督府(ドイツ語版)とワルシャワを首都とするドイツのポーランド総督府(英語版)が成立、中でもドイツの東部占領地(英語版)では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いるドイツ第10軍(英語版)がミンスクに、オーストリア=ハンガリー軍がリウネに進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールとヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで第一次シャンパーニュ会戦(英語版)で消耗戦が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型弾幕を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威であるサン=ミーエル(英語版)への攻撃(イースターの戦い (Osterschlacht) または第一次ヴェーヴル会戦 (Erster Woëvre-Schlacht))も試みたが失敗に終わった。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "第二次イーペル会戦の初日である4月22日に毒ガスが使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている。第一次世界大戦の化学兵器(英語版)の使用は連合国軍が催涙剤を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある塩素ガスであり、ハーグ陸戦条約に違反した行動であった。そのため、この行動はプロパガンダに使われた。ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月にイーペル近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45アルジェ師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、第一次世界大戦の塹壕戦(ドイツ語版)ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい(7万対3万5千)という現象が起こった。",
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "5月9日、英仏は第二次アルトワ会戦(英語版)で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の砲兵は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた第二次シャンパーニュ会戦(英語版)と第三次アルトワ会戦(英語版)だった。シャンパーニュ会戦とローの戦い(英語版)はともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。「連合国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」。",
"title": "1915年の戦闘"
},
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"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "一方、英仏両軍はオスマン帝国に対しては本土侵攻を企図した。2月19日、連合国軍のダーダネルス作戦が始まり、英仏艦隊がダーダネルス海峡の沿岸要塞(オスマン帝国領)を艦砲射撃した。連合国軍の目的は首都コンスタンティノープルを脅かすことによってオスマン帝国を戦争から脱落させ、黒海を経由するロシアの補給路を回復することだった。3月18日、イギリスのジョン・デ・ロベック(英語版)提督率いる艦隊が突破を試みたが、戦艦3隻を喪失、ほか損傷した戦艦もあった。その結果、連合国は上陸作戦でダーダネルス海峡を開かせることを決定した。イギリスは既にアレクサンドレッタに上陸してオスマン帝国の南部地域を中枢のアナトリア半島から切り離すことを計画していた。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "連合国軍はギリシャ王国の中立を侵犯して、エーゲ海のリムノス島をオスマン帝国攻撃の拠点として占領していた。そして、4月25日にはリムノス島から出撃して連合国軍はガリポリ半島とアジア側の対岸にあるクンカレ(英語版)に上陸した。戦艦11隻が援護についた船200隻がイギリスの地中海遠征軍(英語版)78,000人とフランスの東方遠征軍(英語版)17,000人を運んだ。イギリスの遠征軍にはオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) も含まれ、この戦闘がANZACの初戦となった。結局攻撃は失敗したが、その理由はオスマン軍の予想以上の抵抗であり、オットー・リーマン・フォン・ザンデルス率いるオスマン第5軍(英語版)が活躍した。中でもムスタファ・ケマル・ベイ率いる第19歩兵師団(英語版)が頭角を現し、ムスタファ・ケマルが国民的英雄としての名声を得るきっかけの一つとなった。連合国軍50万人以上が投入されたこの戦役は1916年1月9日に連合国軍が撤退したことで終結、死者は両軍の合計で11万人となっている。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "5月23日、イタリア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。1月以降、ドイツはオーストリア=ハンガリーに要請して、トレンティーノなどの割譲に同意してイタリアを少なくとも中立に留まらせようとした。5月4月に三国同盟が解消された後もイタリアへの提案は段々と拡大し、10日にはトレンティーノ、イゾンツォ川沿岸の割譲、アルバニア公国における自由行動権などが提案された。一方、イタリアは連合国と交渉して4月26日にロンドン条約を締結した。条約ではイタリアが連合国側で参戦した場合、未回収のイタリアの獲得を約束した。イタリア首相アントニオ・サランドラ(英語版)と外相シドニー・ソンニーノ(英語版)は数か月かけて国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の同意を取り付け、対オーストリア宣戦を決定した。宣戦を支持したのは国民の間でも議会でも多数派ではなかったが、対オーストリア主戦派が遥かに活動的だったため、あらゆる政治路線の世論主導者を団結させることができ、宣戦の決定はこの世論に押された結果だった。政治面でのイッレデンティズモ(失地回復主義あるいは未回収地回復運動)は、例えばチェザーレ・バッティスティ(英語版)が支持していた。作家で後にファシズムの先駆者となったガブリエーレ・ダンヌンツィオは首都ローマで戦争を支持するデモやイベントなどを組織、当時は社会主義者ジャーナリストだったベニート・ムッソリーニも1914年10月以降参戦を訴えて、イタリア社会党から除名処分を受けていた。ムッソリーニは(おそらくフランスからの資金援助を受けて)新聞の『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊して、連合国側で参戦することを求めた。主戦派はフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティら未来派の支持も受けた。宣戦直前のイタリア議会は多数派の長で元首相のジョヴァンニ・ジョリッティの中立路線を支持した(ダンヌンツィオがジョリッティの暗殺予告を出したほどであった)が、実際に政治上の決定を下したのは議会ではなかった。5月20日に議会が戦争借款を審議したとき、借款に反対したのは社会主義者だけだった。ジョリッティ派やカトリック教会などは戦争に反対したが、愛国的であると証明しようと借款を受け入れた。",
"title": "1915年の戦闘"
},
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "イタリア戦線の前線はスイス国境のステルヴィオ峠からドロミーティ山脈、カルニーチェ・アルプス(英語版)、イゾンツォ川、そしてアドリア海岸まで続く。オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア、ロシア、イタリア)を強いられ、中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった。しかも、イタリアが参戦した直後、オーストリアは十分な兵力でイタリアとの前線を守備することができなかった。一部地域では民兵、ラントヴェーア(英語版)、シュタントシュッツェン(英語版)3万人を含むラントシュトルム(英語版)などに頼っていた。イゾンツォ川沿いの戦闘は宣戦布告直後に行われ、第一次イゾンツォの戦いは6月23日に開始した(7月7日まで)。イタリアは人数で大きく優勢で、広大な領土を占領したにもかかわらず、第一次イゾンツォの戦いも第二次イゾンツォの戦いも(7月17日 - 8月3日)大きな突破にはならなかった。第三次(10月18日 - 11月3日)と第四次(11月10日 - 12月2日)は人命と資源が大量に失われたが、大局は全く変わらなかった。第一次ドロミーティ攻勢(ドイツ語版)(7月5日 - 8月4日)はアルプス山脈の戦役の始まりとなったが、軍事史上でも画期であった。すなわち、標高の高い山上で長期間戦闘が行われる初例となったのであった(オルトレス山(英語版)の標高は約3,900mだった)。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 106,
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"text": "サリカミシュの戦い(英語版)以降、オスマン帝国の青年トルコ人政権はアルメニア人による妨害工作が行われていることを疑った。ロシア軍が4月中旬にヴァン湖に接近すると、オスマン帝国は現地のアルメニア人首領を5人処刑した。4月24日、コンスタンティノープルでアルメニア人知識層が多数逮捕された。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフは5月24日に(4月27日に準備された)抗議文を発表、アルメニア人の100集落以上でアルメニア人がオスマン政府によって系統的に虐殺されたと主張した。",
"title": "1915年の戦闘"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "翌日(5月25日)、オスマン内相タラート・パシャはアルメニア人を戦域からシリアとモースルに強制移送すると発表した。27日と30日にはオスマン政府が強制移送法を発表、系統的なアルメニア人虐殺とアッシリア人虐殺(英語版)が始まった。ドイツ大使ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム(英語版)は6月にドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに報告を行い、「世界大戦を利用して内部の敵、すなわちキリスト教徒を外国の外交介入なしに廃除する」というタラート・パシャの考えを伝えた。エルズルムにいたドイツ駐オスマン帝国副領事マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターも7月末に「アルメニア人に対する行動の最終的な目的はトルコにおける絶滅である」と報告した。ヴァンゲンハイムの後任パウル・ヴォルフ・メッテルニヒ(英語版)は1915年12月にアルメニア人側で介入しようとし、ドイツ政府にアルメニア人の強制移送と虐殺を発表するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは「戦争の最中、公的に同盟者と対決することは前代未聞だ。私たちの唯一の目的は、アルメニア人が滅ぶか滅ばないかにかかわらず、終戦までトルコを味方につけ続けることだ。」と拒否した。ローマ教皇ベネディクトゥス15世もオスマン帝国スルタンのメフメト5世に手紙を書いたが、時既に遅しであった。アルメニア人虐殺により終戦までに約100万人が死亡、同時代では1894年から1896年までのポグロムの虐殺(英語版)や1909年のアダナ虐殺(英語版)と比べてホロコースト(英語版)と呼ばれた。",
"title": "1915年の戦闘"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "1915年10月14日にブルガリア王国が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアがバルカン戦争で「ブルガリア民族の国」を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが第一次バルカン戦争で勝ち得た領土は1913年のブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ(英語版)率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして(連合国側での参戦が予想される)ルーマニア王国とギリシャ王国の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアにマケドニア、ドブロジャ、東トラキアの獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いるセルビア攻勢(ドイツ語版)が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国がテッサロニキの北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが(ギリシャ・セルビア同盟(英語版))、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した。ベオグラードが10月9日に、ニシュが11月5日に陥落すると、ラドミル・プトニク率いるセルビア軍(開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない)は捕虜約2万人を連れてアルバニア公国やモンテネグロ王国の山岳地帯に撤退した。セルビア軍はケルキラ島で再編された後、マケドニア戦線に投入された。占領されたセルビア(英語版)はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "カフカース戦線(英語版)のサリカミシュの戦い(英語版)は1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった。シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)ではフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版)率いるオスマン軍が1月末にスエズ運河に向けて攻勢に出たが失敗した(スエズ運河襲撃(英語版))。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "1915年7月にはドイツ領南西アフリカの植民地守備隊 (Schutztruppe) が降伏し、南西アフリカ戦役(英語版)が終結した。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "メソポタミア戦役(英語版)ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までのクテシフォンの戦い(英語版)で(実質的にはコルマール・フォン・デア・ゴルツ率いる)オスマン軍に阻止された。また、イギリス領インド軍の海外派遣部隊が12月7日にクートで包囲された。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "12月にフランス軍の総指揮官に就任したジョゼフ・ジョフルは12月6日から8日まで連合国間のシャンティイ会議(英語版)を開催した。中央同盟国の内線(英語版)を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された。イギリスではガリポリの戦いの失敗により、ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣は5月に改造してそれまで野党であった保守党の入閣に同意せざるを得なかった。このアスキス挙国一致内閣(英語版)では1915年春の砲弾危機(英語版)に対応するために軍需大臣(英語版)が新設された。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "10月と11月にはドイツでのグロサリー、配給所やフライバンク(ドイツ語版)に対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都ベルリンのウンター・デン・リンデンでデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、ポテトの値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と硝酸塩(化学肥料の生産に必要)の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、参議院(英語版)がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は闇市で取引するようになった。1915年末には「インフレが脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で『食料をくれ!それから、私の夫も!』という怒りの叫びをするようになった。」という観察もあったという。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。食料供給の政策に失敗した結果、1915年末までに「市民は国から疎遠になり、国の『非正当化』が始まるほど」となった。",
"title": "1915年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ドイツ社会民主党の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼はフィリップ・シャイデマンの質問に対し、東部と西部の「安全」(併合)が平和に不可欠であるとしたが、外国では「覇権主義の演説」として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを「併合の主導者」としてこき下ろした声明を出した。",
"title": "1915年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "1月4日、オーストリア軍がモンテネグロ王国に侵攻。23日にはモンテネグロ王ニコラ1世が降伏し、フランスへ逃亡した(モンテネグロ戦役(英語版))。アルバニア公国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していたドゥラス(アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていたケルキラ島(元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの東方軍(英語版)とともにテッサロニキに移った)。ニコラ・パシッチ(英語版)率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍捕虜約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちはサルデーニャ北西部のアジナーラ島に移送され、うち約5千人が死亡した。イタリア軍はアルバニアの港湾都市ヴロラを維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日までヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウ(英語版)が軍政府を率いた。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官アウグスト・リッター・フォン・クラル(英語版)の指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された。オーストリア=ハンガリーはアルバニア人の統治への参加を許し、学校とインフラストラクチャーを建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした。",
"title": "1916年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ(英語版)がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエル(英語版)と西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ(英語版)(現代では消滅集落)で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞(英語版)を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路(神聖街道(英語版)と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムはノリア(ドイツ語版)と呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した。",
"title": "1916年の戦闘"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム(英語版)(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」(Hölle von Verdun) の象徴とされている。",
"title": "1916年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞(英語版)への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線(英語版)への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁(フランス語版)をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞(フランス語版)で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた。",
"title": "1916年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ(英語版)海軍参謀総長(英語版)も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強(警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし無制限潜水艦作戦は不可)を決定した。",
"title": "1916年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "3月初、ドイツ帝国海軍省(英語版)がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった。ドイツ潜水艦による客船サセックス攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月にサセックスの誓約(英語版)を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。",
"title": "1916年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外のユトランド沖海戦が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家のゴルヒ・フォック(英語版)もいた)。ドイツの大洋艦隊は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは北海の制海権を保った。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "シャンティイ会議(英語版)での決定に基づき、連合国軍は1916年中に3つの攻勢を計画した。すなわち、ソンム会戦、ブルシーロフ攻勢、次のイゾンツォ川の戦いの3つだった。7月1日のソンム会戦は元はフランス主導の作戦だったが、ヴェルダンの戦いによる消耗があったためイギリス軍が大半を占めるに至った。イタリア戦線では2月のヴェルダンの戦いにより連合国はイタリアに要請して3月11日に攻撃を開始(第五次イゾンツォの戦い)、オーストリアも5月15日から南チロル攻勢を開始(6月18日に終結)したためロシアのブルシーロフ攻勢が6月4日に始まった。その後はイタリアによる第六次イゾンツォの戦いが8月4日に始まった",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "6月4日、ブルシーロフ攻勢が始まり、この時点の連合国にとって最大の勝利となった。3月にロシア南部軍の総指揮官に就任したアレクセイ・ブルシーロフはそれまでの失敗から戦術を反省した。まず、攻勢が最短距離400kmという長い前線で行われ、敵軍に一点突破を許さなかった。そして、ロシア軍は秘密裏にオーストリア軍の防衛線に忍び寄り、50m程度の距離まで近づいた(それまでの攻勢では両軍間の無人地帯が1,600mもあったため、大きな損害が出てしまう)。ブルシーロフの数的優勢は少なかった(一般的な攻勢に必要な数的優勢に及ばなかった)が、ロシア第8軍(英語版)は6月8日にコーヴェリでオーストリア=ハンガリー第4軍(英語版)をほぼ全滅させ、ロシア第9軍(英語版)も南部のドニエストル川とカルパティア山脈の間でオーストリア=ハンガリー第7軍(英語版)を撃破、チェルニウツィーやコロムィーヤ(英語版)など重要な都市(いずれも現ウクライナ領)を占領した。オーストリア=ハンガリーの損害は624,000人だった。ブルシーロフはルーマニア国境近くで最も多く前進(約120km)、ルーマニア王国が連合国側で参戦する決定的な要因となった。しかし、補給の問題でさらなる進軍ができず、前線のごく一部にあたるピンスク湿原(英語版)やバラーナヴィチで試みられた攻撃も交通の要衝コーヴェリ占領の試みも失敗した(コーヴェリの戦い(英語版))。「それでも、ブルシーロフ攻勢は、わずかな領土でも争われる第一次世界大戦の規模からすれば、エーヌ会戦(英語版)で塹壕戦が始まった以降の連合国軍が勝ち取った最大の勝利であった」。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ヴェルダンの戦いによりフランス軍の派遣軍が40個師団から11個師団に減ったため、ダグラス・ヘイグ率いるイギリス海外派遣軍が代わってソンムの戦いを主導した。連合国軍は8日間にわたって大砲1500門以上でドイツ軍の陣地を砲撃した後(合計で砲弾約150万発が発射された)、1916年7月1日にソンム川沿岸でドイツ軍の陣地を攻撃した。大規模な砲撃の直後にもかかわらず、ドイツ軍の塹壕は無事に残っており、ドイツ兵士は機関銃の砲火でイギリス軍に対抗した。ソンム会戦の初日(英語版)だけでイギリス軍は19,240人の死者を出し、うち8千人は攻撃が開始した直後の30分内に死亡した。夥しい損害にもかかわらず、ヘイグは攻勢の継続を命じた。9月15日にはイギリス軍が軍事史上初めて戦車の実戦投入を行った(マーク I 戦車)。11月25日まで続いた戦闘において、連合国軍は長さ30km攻撃線において8から10km前進したが、英仏軍の損害は少なくとも624,000人で、ドイツ軍も42万人の損害を出した。ドイツ軍の損害は文献によって違い、ドイツ側では335,688人としたが、イギリス側では軽傷者の数が多いとして最大で65万人とした。いずれにしても、ソンムの戦いは第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガン(英語版)は1998年に「イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった。」と述べた。1916年末にソンムの戦いでの損害が公表されたことで、12月にイギリス首相がハーバート・ヘンリー・アスキスからデイヴィッド・ロイド・ジョージに交代された。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "5月から6月、南チロル地域のオーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍の陣地に対し攻勢に出たが、成果が限定的だった上に東部戦線でロシアがブルシーロフ攻勢を開始したため、すぐに攻撃を中止した。イタリア軍も3月から11月にかけてイゾンツォ川沿岸で大規模な攻勢をしばしば行い(第五次、第六次、第七次、第八次、第九次イゾンツォの戦い)、ゴリツィア市やドベルド・デル・ラーゴを占領したが、それ以上の成果に欠いた。オーストリア=ハンガリーの要請を受け、ドイツは1915年5月から11月にかけてアルペン軍団(英語版) (Alpenkorps) を南チロル戦線の支援に投入した。その後、イタリアは1916年8月28日にドイツに宣戦布告した。南アルプスの山岳戦の最中の12月13日、イタリアとオーストリア=ハンガリー軍数千人が雪崩により死亡する事故が起きた(白い金曜日(英語版))。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した(実際には数日前にルーマニア戦線を開いた)。ルーマニアは1883年に三国同盟に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相イオン・ブラティアヌ(英語版)率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王カロル1世だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによるトランシルヴァニアへの請求を認めることで合意していた。ルーマニアが第二次バルカン戦争後のブカレスト条約でブルガリアとオスマン帝国から南ドブロジャを獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、バナト、ブコビナを獲得する「大ルーマニア協定」という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日のブルシーロフ攻勢の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣るルーマニア軍はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いるドイツ第9軍(英語版)は9月26日から29日にかけてのシビウの戦い(ドイツ語版)でルーマニア軍を撃破した。ほかにもクロンシュタットにおいて第一次世界大戦では珍しい大規模な市街戦が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツのドナウ軍(英語版)が南西からドナウ川を渡河した。そして、ツェッペリン飛行船のLZ81、LZ97、LZ101と攻撃機も加わり、首都ブカレストが12月6日に陥落した(ブカレストの戦い)。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中にプロイェシュティの油田やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王フェルディナンド1世は政府とともにヤシに脱出した。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "1916年夏に連合国軍が全戦線で攻勢に出てドイツ軍が危機に陥ると、ヴィルヘルム2世にエーリッヒ・フォン・ファルケンハインを解任させる圧力が日に日に高まっていった。ルーマニアが8月27日に参戦したことが解任のきっかけになり、29日に新しく就任したパウル・フォン・ヒンデンブルクはエーリヒ・ルーデンドルフとともにヴェルダン攻勢を中止。即座に経済動員を強化して総力戦を準備した。その経済動員の強化とは8月31日にプロイセン戦争省が提出した要求で後にヒンデンブルク綱領(英語版)と呼ばれたものであった。しかし、ヒンデンブルクとルーデンドルフの任命は実質的には軍事独裁への転向でもあった。「その威光により実質的には解任できないヒンデンブルクとルーデンドルフを任命したことによって、皇帝はさらに目立たなくなっただけでなく、政治的にも最高司令部に動かされるようになった。(中略)解任できない2人の将軍には(中略)軍事上の権力をはるかに超えて政治に介入、人事任免という帝国の権力中心にも皇帝に圧力をかけることで決定的な影響を及ぼす用意があった」。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害(うち死者143,000人)を出し、フランス軍は377,000人の損害(うち死者162,000人)を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "フランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに第二次シャンパーニュ会戦(英語版)やソンムの戦いで大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日にロベール・ニヴェル将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、フィリップ・ペタンもヴェルダンでの守備に成功して「ヴェルダンの英雄」と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "1916年11月5日、中央同盟国によりロシア領ポーランドはポーランド摂政王国として建国した(11月5日勅令(英語版)も参照)。しかし、中央同盟国が予想したポーランドからの軍事支援は実現せず、少数のポーランド軍団(英語版)(7月までユゼフ・ピウスツキが率いた)が中央同盟国側で戦ったのみである。ポーランド軍団は翌年にポーランド軍(英語版)になった。ほかにもポーランド人数十万人が(独立ポーランドの国民ではなく)ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア国民として各々の軍に従軍した。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "中央同盟国はルーマニアに勝利した後、12月12日に中央同盟国の講和案(ドイツ語版)を提出したが、30日に拒絶された。",
"title": "1916年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた。ベルリーナー・ターゲブラット(英語版)の編集長テオドール・ヴォルフ(英語版)は1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ(オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。汎ゲルマン連盟(英語版)などの連中が大喜びした。連合国が絶滅戦争(ドイツ語版)を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "ウィルソンはアメリカ合衆国議会で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する十字軍に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でもアルフレート・フォン・ティルピッツのティルピッツ計画(英語版)が長期的にはモンロー主義におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の国という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、ブライス委員会(英語版)などでドイツの陰謀が報告され、さらにルシタニア号が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。1916年アメリカ合衆国大統領選挙(11月7日)の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。ロバート・ランシングやエドワード・M・ハウスなどウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、『ニューヨーク・タイムズ』がツィンメルマン電報を公表した。電報の内容はドイツがメキシコに資金援助を与えて、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している(アラブ級駆逐艦)。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ドイツでは1916年から1917年にかけての冬、天候による不作などが原因となってカブラの冬が起きた。最高価格の定められた状況ではポテトや穀物をそのまま売るより、飼料として使ったり、蒸留所に売ったりした方が利益が出たため、状況はさらに悪化した。2月、毎日の食料配給が1,000kcal分まで下がり(成人が必要な生理的熱量は平均で毎日2,410kcal)、食料不足がさらに厳しくなった。カブラの冬により、ドイツの社会が団結していない状況(生産者と消費者の対立)、そして国が食料を提供する能力の不足が浮き彫りになった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "工業力が重点になったこの戦争は、工業化が緒に就いたばかりで未だ農業が主であったロシア帝国の力を大きく超え、既に厳しい社会問題をさらに悪化させた。さらに、バルト海とダーダネルス海峡が海上封鎖を受けたことで、戦前には7割の輸入がバルト海経由で3割が黒海経由だったロシアは大きく疲弊した。戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらに厳しい食料不足により、労働者と兵士の妻、女性の農民たちが2月23日(ユリウス暦)/3月8日(グレゴリオ暦)に首都ペトログラードでデモ行進を行った。2月26日/3月11日にはデモがペトログラード駐留軍に広まり、やがて二月革命に発展した。1905年の革命と同じく、労働者たちはソビエトを結成、デモ参加者の要求を代弁してそれを政治的に実施しようとした。ソビエトの執行委員会は主にメンシェヴィキと社会革命党で構成された。3月1日(ユリウス暦)/3月14日(グレゴリオ暦)、ペトログラード・ソビエト(英語版)は命令第一号(英語版)を発令し、政府命令のうちソビエトの命令と矛盾しないもののみ遵守するよう命じた。ドゥーマで代表を持つブルジョワはゲオルギー・リヴォフ首相率いるロシア臨時政府を成立させ、2日後にニコライ2世を説得して退位させた。これによりロシア臨時政府とソビエトという「二重権力(英語版)」が成立した。ロシア民衆の大半が望んだのと違い、臨時政府は戦争継続を決定、当時のソビエトも継戦の決定を支持した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "連合国はロシア帝国が民主主義に反対したためプロパガンダに問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)にウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。ロシア社会民主労働党の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府はアレクサンドル・パルヴスを仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万マルクとされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に四月テーゼを発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど労働者の日(4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))にミリュコーフ通牒(英語版)を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って四月危機(英語版)を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任したアレクサンドル・ケレンスキーはペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、ベレジャヌィ(英語版)、リヴィウ、ヴィリニュスを目標とした、後にケレンスキー攻勢と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まずスタニスラーウに対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日にカールシュ(英語版)まで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までにタルノーポリやチェルニウツィーまで進軍、東ガリツィアとブコビナを奪回した。ロシアでもボリシェヴィキが七月蜂起を起こしたが鎮圧された。レーニンはフィンランドに逃亡した。9月、ドイツ軍はリガを占領(リガ攻勢)。10月にはアルビオン作戦でバルト海のサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "9月末、ロシアのラーヴル・コルニーロフ将軍がクーデターを企図して失敗すると(コルニーロフ事件(英語版))、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に十月革命を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが平和に関する布告を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日にはブレスト=リトフスクで講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結された。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "3月、ドイツ軍は西部戦線でアルベリッヒ作戦を発動して、16日から19日にかけてソンム川からヒンデンブルク線(英語版)に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退はループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団(英語版)が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事であり、主に捕虜と強制労働に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は焦土作戦を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では地雷やブービートラップも設置した。バポーム(英語版)などの地域が完全に破壊され、サン=カンタンの住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の「影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた」ことで、国外の世論がドイツに不利になった。",
"title": "1917年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "フランス軍大本営があるシャンティイで行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、リールとヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の最高指揮官ロベール・ニヴェルはフランス北部のアラスを攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した(アラスの戦い(英語版))。直後にはフランス軍もエーヌ川とシャンパーニュで攻勢に出て(第二次エーヌ会戦(英語版)と第三次シャンパーニュ会戦(英語版))、シェマン・ド・ダーム(英語版)の占領を狙った。ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン(英語版)将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団はヴィミ・リッジの戦い(英語版)に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。フリッツ・フォン・ロスベルク(英語版)が縦深防御戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で反乱がおきた(フランス軍200万のうち約4万が反乱)。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団はソワソンとランスの間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置されたロシア海外派遣軍(英語版)も同じような問題に遭った。反乱は前線では起きず、後方で休息をとっていて前線に戻る予定の兵士の間でおきた。兵士の要求は休暇を増やすこと、栄養状態を改善すること、兵士の家族の待遇を改善すること、「殺戮」の中止(戦略への反対を意味する)、そして「不正義」(戦争における正義(ドイツ語版)に関して)の中止、「平和」だった。「反乱した兵士の大半は戦争自体に異議を唱えたのではなく、無用の犠牲になることに反対しただけだった」。4月29日、ニヴェルは更迭され、ヴェルダンの守備を指揮したフィリップ・ペタン将軍が後任になった。攻勢から守備に切り替えることで、ペタンはフランス軍の不安を和らげた。ペタンはドイツ軍の縦深防御と似たような戦術を編み出した。8月のヴェルダンの戦い(フランス語版)と10月のラ・マルメゾンの戦い(英語版)で限定的ながら成功を収めた(ドイツ軍がエレット川(英語版)の後ろまで押された)ほか、フランス軍は1917年6月から1918年7月までの間、攻勢に出なかった。ペタンは更に兵士の給食と休暇を改善した。反乱兵士の約1割が起訴され、うち3,427人が有罪判決を受けた。軍法会議により554人が死刑判決を受け、うち49人の死刑が執行された。兵士の反乱が頂点となった5月から6月にかけて、連合国軍に大きな動きがなかったが、ドイツ軍はその連合国軍が不活発な理由が分からなかったことと、他の前線に手間取っていることから、大きな動きに出なかった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "5月21日から6月7日までのメッシーヌの戦い(英語版)において、イギリス軍はイーペルの南にある戦略的に重要な尾根を占領した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは1年半をかけてドイツ軍の陣地の下に巨大な地雷21個を敷設して爆破。戦争史における核爆発以外の大爆発で「最も効果を上げた」結果となった(死者10,000人)。尾根を占領したことで連合国軍は右翼が安定し、イギリス軍が主導する第三次イーペル会戦(7月31日 - 11月6日)での攻勢に出ることができた。攻勢の目標はドイツの潜水艦基地オーステンデとゼーブルッヘ(英語版)だった。しかし、いくらかの成功を収めた後、攻勢は10月9日にランゲマルク=プールカペレ(英語版)で膠着に陥り、戦力要地であるヘルフェルト高原 (Geluveld) への攻撃も失敗した。第二次パッシェンデールの戦い(英語版)でカナダ部隊が11月6日に廃墟と化していたパッシェンデールを占領した後、戦闘は自然と停止した。パッシェンデールでドイツ軍を押し返した連合国軍は前線を最大で8km前進したが、両軍の損害は合計で約585,000人だった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "11月20日から12月6日までのカンブレーの戦いで初めての大規模な機甲戦が行われた。短期間の予備砲撃の後、王立戦車連隊(英語版)の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、ヒンデンブルク線(英語版)上のアヴランクール(英語版)地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「伊吹」がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」、「メルボルン」と共にアデンに向かった。航海途上で「エムデン」によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「矢矧」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。このような非礼を超えたオーストラリア軍の態度に大日本帝国海軍は激怒し、オーストラリア軍部隊の責任者は、「矢矧に乗り込んだ水先案内人が適切な信号を発しなかったため『注意喚起のため』実弾を発射した」と弁明したが、結果的に事件はオーストラリア総督とオーストラリア海軍司令官の謝罪により一応は決着した。",
"title": "1917年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "オーストラリアの日本人への人種差別を基にした、人命にさえ係わる差別的姿勢は戦争を通じて和らぐことがなく、また日英通商航海条約への加入拒否、赤道以北の南洋諸島の日本領有への反対など、一切妥協しないANZACの人種差別的態度は、アジア太平洋地域のみならず、第一次世界大戦全体を通じて日本の協力を必須なものと認識しているイギリス本国をも手こずらせた。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "1917年初、イギリス軍はメソポタミア戦役(英語版)を再開してバグダードへの進軍を試み、2月23日にはクートに到着した(クートの戦い(英語版))。さらに雨季がはじまる前の3月11日にバグダードを占領(バグダード陥落(英語版))、オスマン軍はモースルに撤退した。バグダードが陥落したことで東方における計画(バグダード鉄道など)が危うくなり、オスマン帝国ら中央同盟国は打撃を受けた。その結果、ドイツ軍はファルケンハインを任命して、エンヴェル・パシャとともにジルデリム (Jilderim) をコードネームとするバグダード再占領計画を準備した。",
"title": "1917年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "1917年6月29日、ギリシャ王国が連合国側で参戦した。連合国軍が1915年末にギリシャに上陸した以降、ギリシャ政界は分裂して、連合国を支持するエレフテリオス・ヴェニゼロスの暫定革命政府と、ドイツを支持する国王コンスタンティノス1世の両派に分けた。英仏の介入が日に高まったことにより、ヴェニゼロス側が優勢になり、さらに首都アテネを含むギリシャ国内の全ての戦略要地が連合国軍に占領され、フランスのシャルル・ジョナール(英語版)から最後通牒が突き付けられるにあたって、コンスタンティノス1世は1917年6月に退位、亡命した。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還、1915年に選出された国会を召集、政府を組織してすぐに中央同盟国に宣戦布告した。コンスタンティノス1世の息子アレクサンドロス1世が国王に即位した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "イタリア戦線では8月17日から9月12日まで第十一次イゾンツォの戦いが起き、オーストリア=ハンガリー軍が間一髪で大敗を回避した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世はイタリアの次の攻勢に耐えられないことを危惧して、オーストリア軍最高司令部とともにドイツに支援を要請した。ドイツは第14軍(英語版)(アルペン軍団(英語版) (Alpenkorps) 含む)を再編成してオーストリア=ハンガリーに派遣した。こうして、中央同盟国は先制攻撃を仕掛け、10月24日にカポレットの戦いで攻勢に出た。中央同盟国は突破に成功して11日間で130km進み、ヴェネツィアまで後30kmのところまで進軍した。イタリア軍は305,000人以上を失い(うち265,000人は捕虜)、中央同盟国は7万人の損害を出した。中央同盟国の成功は主にドイツのエルヴィン・ロンメル、そして浸透戦術の功労だった。イタリア軍の戦線がようやく安定したのはピアーヴェ川とモンテ・グラッパまで撤退したときであり、連合国からもイギリス軍5個師団とフランス軍6個師団が援軍として派遣されてきた。イタリアではストライキや兵士の大量脱走などがおきたが、「侵略戦争が防衛戦争に変わった」ことで革命前夜のような情勢は解消された。カポレットの敗北により連合国は11月7日にラパッロで会議(英語版)を開き、またイタリアでは総指揮官のルイージ・カドルナが更迭され、アルマンド・ディアズが任命された。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "1917年最後の大規模な攻勢はシナイ半島・パレスチナ戦役で行われ、軍事史上最後の大規模な騎兵突撃となった。1917年10月31日、エドマンド・アレンビー率いるオーストラリアの第4軽騎兵旅団(英語版)とイギリスの第5騎兵旅団(英語版)はオスマン軍とドイツ軍が占領していたベエルシェバに攻撃をかけ、占領に成功した(ベエルシェバの戦い(英語版))。ファルケンハインは11月5日にエルサレムに移って死守しようとしたが、最高司令部は聖地エルサレムが破壊された場合の世論への影響を鑑みて撤退を命じた。その結果、トーマス・エドワード・ロレンス率いるアラブ反乱軍の進撃は12月9日に終結し、イギリス軍によるエルサレムの無血占領に終わった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "4月7日、ヴィルヘルム2世はイースター勅語(ドイツ語版)で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、ロシア二月革命とドイツの四月ストライキ(ドイツ語版)によりドイツ社会民主党が城内平和政策を引き締めたため、ゴータでドイツ独立社会民主党が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党(ドイツ多数派社会民主党(英語版)と呼ばれるようになった)は平等な公民権利、議院内閣制への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した「無併合、無賠償、民族自決」の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が「社会民主党を支配下に置くことができなくなった」と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークはクロイツナハ会議(ドイツ語版)で軍部に押されて議事録に署名した。ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー(英語版)によると、その議事録は併合について「まったく貪欲な」文書であったという",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている(シクストゥス事件)。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "7月6日、中央党のマティアス・エルツベルガーが国会で演説を行った。エルツベルガーは保守派の政治家であり、「勝利の平和」を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の進歩人民党が多党派委員会(ドイツ語版)で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは「革命の始まり」とされた。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで普通選挙を行う保証を受けた(プロイセンではそれまで選挙が3等級(英語版)に分けられて行われた)。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名なゲオルク・ミヒャエリスだった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "7月19日、ライヒスターク平和議案(英語版)が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義のドイツ祖国党(英語版)が結成されるなどの影響があった。8月1日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世はド・ル・デビュー(ドイツ語版)という使徒的勧告(英語版)を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動(負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など)、そして戦争を「無用な流血」だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任したゲオルク・フォン・ヘルトリングだった。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日にはフィンランドがロシアからの独立を宣言した。",
"title": "1917年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "アメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンは、1月8日にアメリカ合衆国議会への基調講演で十四か条の平和原則を提示した。ウィルソンは自由主義の政治原則を世界中に適用しようとし、そのうち民族自決権を最重要事項とした。例えば、十四か条の平和原則にはベルギー、セルビア、モンテネグロからの撤退と独立の回復、アルザス=ロレーヌの撤退と放棄、ポーランドの再独立、公海の自由、軍備制限、オーストリア=ハンガリー国民による「自主発展」(民族自決)が盛り込まれた。ドイツとオーストリア=ハンガリーは1月24日に十四か条の平和原則を拒絶した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "1月14日、オーストリア=ハンガリーのウィーナー・ノイシュタットとその近くの兵器工場で一月ストライキ(ドイツ語版)が始まり、広まりを見せると1月23日に軍事鎮圧された。ドイツでは1月28日から2月2日までの間、ベルリンなど産業の中枢でデモやストライキが行われ、100万人以上の労働者が参加したが(一月ストライキ(ドイツ語版))、それ以前のストライキと違って主に政治に訴え、「万国平和」(allgemeinen Frieden) や「併合と貢献」(Annexionen und Kontributionen) などのスローガンを打ち出した。これらのスローガンはブレスト=リトフスク条約におけるドイツ最高司令部の拡張主義の態度に対するものであった。ドイツ多数派社会民主党(英語版)はフリードリヒ・エーベルト、オットー・ブラウン、フィリップ・シャイデマンをストライキの行動委員会に派遣して「行動の秩序を保つ」ことを試みたが、ドイツの一月ストライキはオーストリアのそれと同じく、軍事鎮圧でしか抑えられなかった。1月31日、ベルリン当局はストライキ委員会の委員を逮捕、ストライキに参加した労働者のうち5万人を前線に派遣した。その結果、2月3日までに大半の労働者がストライキを辞めて働くようになった。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "ブレスト=リトフスクでの講和交渉において、ドイツは1月19日に最終要求としてロシアにポーランド、リトアニア、西ラトビアを放棄するよう求め、ロシア代表レフ・トロツキーは講和交渉の一時中断を求めた。ペトログラードで交渉の遅滞を提案したトロツキーに対し、政府と中央委員会は西欧のプロレタリアート蜂起を期待して提案を受け入れた。1月25日、非ボルシェヴィキのウクライナ中央ラーダはウクライナの独立を宣言、2月9日には中央同盟国がウクライナ人民共和国と単独講和した(ブレスト=リトフスク条約(英語版))。中央同盟国はウクライナ西部の領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物を大量に要求した。また同時にロシアに平和条件を受け入れるよう最後通牒を発したが、トロツキーはドイツでの革命に期待して、条約には署名せず一方的に動員解除を宣言した。その結果、ドイツは2月18日にファウストシュラーク作戦を発動、数週間でロシアのバルト海岸西部国境、ウクライナ西部、クリミア半島、ドネツ川とベラルーシの工業地帯を占領した。ドイツは講和条件をきつく変更したが、ロシア代表は交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結した。中央同盟国はリヴォニアを除く占領地から撤退したが、ロシアはポーランド、リトアニア、クールラントを放棄、さらにオスマン帝国が請求したカフカース地方の領土を放棄しなければならなかった。ドイツは3月にドイツと緊密な関係を保ったままリトアニアをリトアニア王国として独立させることに同意(リトアニア独立宣言自体は2月16日に発された)。また6月28日にはペトログラードに進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約を承認せずにロシア内戦に介入した諸国と違って(イデオロギー対立はあったが)ボルシェビズムを撲滅しないことを決定した。8月27日にはロシアとの追加条約が締結され、ロシアはリヴォニアを放棄し、フィンランドとウクライナの独立を承認した。ロシアはブレスト=リトフスク条約で人口の3分の1を放棄、工業と資源の大半を失う結果となった。しかし、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかも知れない、とする説もある。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "東部戦線の終戦が見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日にモンスで西部戦線での攻勢を計画、米軍が到着する前に戦況を逆転させようとした。いくつかの計画が立てられ、ヒンデンブルクとルーデンドルフは1918年1月21日にそのうちの一つ、ミヒャエル作戦(英語版)を選んだ。ミヒャエル作戦ではドイツ軍がソンム川沿岸のサン=カンタン地域での攻勢を行い、その後に北西に転向してイギリス軍の包囲を試み、英軍に運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線の講和が成立したことで、西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しかなかった。ドイツ軍は1914年以降の西部戦線で初めて数的優位を奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日、ヒンデンブルクは21日に攻勢を開始するよう命じた。",
"title": "1918年の戦闘"
},
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"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "1918年3月21日の早朝、ドイツの春季攻勢が始まった。今度は前回より短い(がそれでも5時間に渡った)砲撃の後、ドイツの突撃歩兵が浸透戦術を行い、イギリスとの前線で大きく前進した。しかし、ドイツ最高司令部はその後の数日間、攻撃の重点や方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点の強力な一撃という戦略を放棄して三点攻撃を選び、いずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果、攻勢が弱まり、ルーデンドルフが参謀本部で批判された:「1914年にパリに進軍したとき、ドイツ軍はどうやって事態の発展に応じて抵抗の最も少ない戦線を追撃、戦闘の常道に従わなかったのか」。これに加えて、ソンム地域が酷く破壊されたため、補給が追い付かず、ドイツ軍はイギリスの兵站を略奪しなければならなかった。また、連合国軍の物的優位は奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍の戦闘による損害は主に空襲による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日、事態の急変により連合国はフェルディナン・フォッシュを連合国軍総司令官に任命した。ドイツ軍は80kmにわたる前線(サン=カンタンから西のモンディディエまで)で60km前進したが、多大な損害を出して大きな突起部を作り出しただけに終わり、戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍がアミアン近くで反撃すると、ミヒャエル作戦は4月5日に終了した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "参謀本部で戦略ミスを指摘されたルーデンドルフはミヒャエル作戦の代案を採用した。代案とはゲオルク作戦 (Operation Georg) のことであり、フランドルのレイエ川で30kmの前線にわたって攻撃を行い、イーペルの西にある水道を目標とした(レイエ川の戦い(英語版))。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦は縮小を余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」(Georgette) と呼ばれた。4月25日に戦略要地のケンメルベルク(英語版)を占領するなど初期では成功を収めたが、やがて膠着に陥った。攻勢の一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが(第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦(英語版))、最も有名な出来事はマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの死であった。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊の命令不服従が増えてきた。ドイツ最高司令部は自軍の戦意低下に気づかず、直後の5月27日に新しい攻勢(第三次エーヌ会戦(英語版))を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200万発が発射された。ドイツ軍は5月29日にマルヌ川まで進軍、6月3日にはヴィレル=コッテレ(英語版)まで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリがパリ砲の射程圏内に入った。イギリス内閣はイギリス海外派遣軍の引き揚げを討議したが、6月5日にそれを却下した。アメリカ軍が到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ最高司令部は自軍の損害、補給の問題、連合国軍の反撃を理由に6月5日/6日から攻撃を停止した。続くベローの森の戦い(英語版)ではアメリカ海兵隊が参戦した。9日、ルーデンドルフはマ川(フランス語版)に対する攻撃を開始したが(グナイゼナウ作戦、Operation Gneisenau)、フランス軍とアメリカ軍の反撃により14日に中止した。直後にはイタリア戦線でオーストリア=ハンガリーが最後の攻勢を仕掛けた(6月15日から22日までの第二次ピアーヴェ川の戦い)が失敗した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "西部戦線の本当の転機は第二次マルヌ会戦(英語版)だった。ドイツ軍は7月15日に攻撃を開始、初期には成功を収めたが、18日にフランス軍とアメリカ軍が小型軽量のルノー FT-17 軽戦車を大量に投入して反撃に転じた。既に疲れ果てて装備も不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退した。ドイツ第7軍(英語版)は後方との連絡を脅かされ、またドイツ軍は5月と6月に占領した地域のほぼ全てから撤退した。7月18日は同時代の歴史文献で「戦争の転機となる瞬間」とされ、連合国軍はドイツ軍の進軍を停止させ、以降終戦までドイツ軍を押した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "「百日攻勢」として知られている連合国軍の反攻は1918年8月8日のアミアンの戦い(英語版)で始まった。この戦闘では戦車400台以上とイギリス軍、イギリス自治領軍、フランス軍合計12万人以上が参加、その1日目の終わりにはドイツ軍の戦線に長さ24kmの間隙が開かれた。ドイツ軍の士気は大きく低下して、エーリヒ・ルーデンドルフに「ドイツ陸軍暗黒の日」と言わしめた。連合国軍が23kmほど前進したのち、ドイツ軍の抵抗が強くなり、アミアンの戦いは8月12日には終結した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "それまでの戦闘では初期の成功をさらに推し進めることが常だったが、連合国軍はアミアンの戦いで勝利した後、そのまま攻撃を続けず、他の戦場に移った。連合国の首脳部は敵軍の抵抗が強化された後でも攻撃を続けるのはただ兵士を浪費するだけであり、敵の戦線を押し潰すよりも側面に回り込む方が有利であると気づいた。そのため、連合国軍は側面への素早い攻撃を行って、攻撃の勢いが低減するとすぐに攻撃をやめる、という戦術を繰り返し行った。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "イギリスとイギリス自治領軍は8月21日のアルベールの戦いで戦役の次の段階に進んだ。その後の数日間、英仏軍は攻撃を拡大した。8月末には連合国軍の長さ110kmにわたる前線への圧力が重く、ドイツ側の記録では「毎日が強襲の止まない敵軍との血なまぐさい戦いに費やされ、新しい前線への撤退で夜は眠れないまま過ぎた。」としている。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "これらの敗退により、ドイツの陸軍最高司令部は9月2日に南のヒンデンブルク線(英語版)への撤退を命じ、4月に奪取した突出部(英語版)を抵抗もなく放棄した形となった。ルーデンドルフによると、「前線全体をスカルプ川(英語版)からヴェール川(英語版)に後退することは簡単に決定できるものではなかったが、(中略)いくらかの犠牲を払っても利益のある決定である」という。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "9月には連合国軍がヒンデンブルク線の北部と中央部に進軍した。ドイツ軍後衛は活発に戦い、失われた陣地への反攻もしたが、成功したものは少なく、成功した攻撃でも一時的な奪還にしかならなかった。ヒンデンブルク線の偵察陣地や哨戒地の町村、山、塹壕などは続々と連合国軍に占領され、イギリス海外派遣軍は9月最後の1週間だけで30,441人を捕虜にした。9月24日には英仏が突撃してサン=カンタンから3kmのところまで近づいた。ドイツ軍はヒンデンブルク線上とその後ろの陣地に撤退した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "8月8日から4週間の間、ドイツ軍10万人以上が捕虜になった。「ドイツ陸軍暗黒の日」の時点でドイツ軍部は戦争全体がもはや負け戦と気づき、ドイツにとって満足のいく終戦を模索した。暗黒の日の翌日、ルーデンドルフは「我らは戦争に勝てなくなった。しかし負けるわけにもいかない」と述べ、11日には辞表を出したが、ヴィルヘルム2世は「我らは妥協しなければならない。我らの抵抗の力は限界にきていた。戦争は終わらなければならない」と返答、ルーデンドルフの辞任を拒否した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "13日、ルーデンドルフ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング、参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク、外相パウル・フォン・ヒンツェ(英語版)はスパで討議し、軍事力で戦争を終結させることが不可能であるという結論を出した。翌日にはドイツ皇帝諮問委員会が戦場での勝利はほぼ不可能であると結論を出した。オーストリア=ハンガリーは12月までしか戦争を続けられないと警告、ルーデンドルフは講和交渉を即刻始めることを勧めた。ループレヒト・フォン・バイエルンはマクシミリアン・フォン・バーデンに「軍事情勢が悪化しすぎて、私は冬の間持ちこたえられることが信じられなくなった。災難はそれよりも早く訪れるかもしれません。」と警告した。9月10日、ヒンデンブルクはオーストリア皇帝カール1世に平和に向けた動きを迫り、ドイツはオランダに仲介を求めた。9月14日、オーストリアは全交戦国と中立国に覚書を送り、中立国での平和会議を提案した。15日、ドイツはベルギーに講和を申し入れた。しかし、いずれも拒絶され、9月24日にはドイツ軍部がベルリン政府に停戦交渉が不可避であると通告した。",
"title": "1918年の戦闘"
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{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "ヒンデンブルク線に対する最後の攻撃は9月26日にフランスとアメリカ軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢で始まった。その後の1週間、フランスとアメリカ軍はブラン・モンの戦い(英語版)でシャンパーニュから突破、ドイツ軍はブラン・モンの山から撤退してフランス・ベルギー国境に向けて撤退せざるを得なかった。10月8日、ドイツ軍の防御線はカンブレーの戦い(英語版)でイギリスとイギリス自治領の軍に突破された。ドイツ軍は前線を短縮させて、オランダ国境を利用して後衛への攻撃を防ぎつつドイツに撤退した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "ブルガリアが9月29日に単独で停戦協定を結ぶと、既に数か月間巨大な圧力に苦しんでいたルーデンドルフは神経衰弱のような症状を来した。ドイツが守備に成功することはもはや不可能であった。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "ドイツの敗北が近いことはドイツ軍に知れ渡り、兵士反乱の脅威が広まった。ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフはドイツ海軍の「勇気」を回復するための最後の賭けに出た。マクシミリアン・フォン・バーデン率いるドイツ政府が反対することは明らかだったため、ルーデンドルフは行動をマクシミリアンに報告しないことにした。しかし、攻撃の計画がキールの水兵の耳に入ってしまった。その多くが攻撃計画を自殺行為と考え、攻撃に参加したくなかったため反乱を起こして逮捕された。ルーデンドルフは責任を負って10月26日にヴィルヘルム2世に罷免された。バルカン戦線の崩壊はドイツが石油と食料の主な輸入先を失うことを意味した。さらに、アメリカ兵が平均して日1万人が到着する中、ドイツは既に予備軍を使い果たしていた。アメリカは連合国軍の石油を8割以上提供しており、しかも不足はなかった。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "ドイツ軍が弱まっており、ヴィルヘルム2世も自信を失ったため、ドイツは降伏へと移った。マクシミリアン・フォン・バーデンは帝国宰相として新しい政府を率いて連合国と交渉した。交渉条件がイギリスとフランスよりも寛大とされるから、スパで開かれていたドイツ軍の大本営は9月28日にウィルソン米大統領への講和交渉要請を決定した。ウィルソンはドイツ軍部が議会の統制を受けることと、立憲君主制の施行を要求した。ドイツ社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国樹立を宣言した時、抵抗を受けなかった。ヴィルヘルム2世、ドイツ諸邦の国王などの世襲君主は全て権力の位を追われ、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。ドイツ帝国は滅亡して、代わりにヴァイマル共和国が成立した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "中央同盟国の崩壊はすぐに訪れた。まず停戦協定を締結したのは1918年9月29日にサロニカ休戦協定を締結したブルガリアだった。10月30日、オスマン帝国はムドロス休戦協定を締結して降伏した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "10月24日、イタリアは反攻を開始し、カポレットの戦いで失われた領土を素早く回復した。その頂点がヴィットリオ・ヴェネトの戦いであり、オーストリア=ハンガリー軍はこの戦闘で崩壊してほとんど戦力にならなくなった。この戦闘はオーストリア=ハンガリー帝国解体の起爆剤にもなり、10月末にはブダペスト、プラハ、ザグレブで独立宣言が出された。10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国はイタリアに停戦を求めたが、イタリア軍は進軍を続け、トレント、ウーディネ、トリエステに進んだ。11月3日、オーストリア=ハンガリー帝国は白旗を送り、休戦協定の締結に同意した。休戦協定はイタリアが電報でパリの連合国当局と交渉した後、オーストリア軍部に通告して受諾された。このヴィラ・ジュスティ休戦協定はパドヴァ近くのヴィラ・ジュスティ(英語版)で締結された。ハプスブルク帝国が転覆されたため、オーストリアとハンガリーは別々で休戦協定を締結した。その後、イタリア軍は兵士2万から22,000人でインスブルックと全チロルを占領した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "そして、1918年11月11日午前5時、コンピエーニュの森の列車にてドイツと連合国の休戦協定が締結され、同日午前11時に発効した。締結から発効までの6時間、西部戦線の軍はそれぞれ陣地からの撤退を開始したが、指揮官ができるだけ多くの領土を占領しようとしたため、多くの地域で戦闘が継続した。停戦の後、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー軍がラインラントを占領(英語版)した。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "1918年11月時点の連合国軍はドイツに侵攻するための兵士と資源をふんだんに有していたが、停戦時点でドイツとの国境を越えた連合国軍はいなかった。西部戦線はまだベルリンから720kmの距離があり、ドイツ陸軍は撤退の時、規律を維持することができた。そのため、ヒンデンブルクなどドイツの首脳部はドイツ軍が本当は敗北していなかったという噂を流すことができた。この噂はやがて背後の一突きという伝説に発展した。この伝説によると、ドイツの敗北は戦闘継続が不可能になったわけではなく(1918年にスペインかぜが全世界に流行、100万人に上るドイツ人兵士が患って戦闘不能だったにもかかわらず)、大衆が「愛国へのよびかけ」に応じなかったことと、ユダヤ人、社会主義者、共産党員による妨害工作によるものだったとされた。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "連合国が戦争に投入できる資金は中央同盟国よりもはるかに多く、1913年時点の米ドルに基づく試算では連合国が580億ドルを、中央同盟国が250億ドルを投入した。うちイギリスは210億、アメリカは170億、ドイツは200億であった。",
"title": "1918年の戦闘"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊し、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家 、ロマノフ家がそれぞれ君主の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。1914年の開戦時にはフランス、ポルトガル、スイス、サンマリノの4か国しかなかったヨーロッパの共和制国家が、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、フィンランド、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルバニアと増加した(加えてオスマン帝国が廃されトルコ共和国が建国された)。またロシアは1917年のロシア革命によって帝政が打倒され、1922年に史上初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が建国されることになる。戦場となったベルギーとフランスは多大な損害を受けたほか、フランスでは死者だけで140万人もいた。ドイツとロシアも同程度の損害を受けた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "戦争状態は正式には休戦協定が締結された後も7か月続き、ドイツが1919年6月28日にヴェルサイユ条約に署名するまで続いた。大衆が支持したにもかかわらず、アメリカ合衆国上院は条約を批准せず、1921年7月2日にウォレン・ハーディング大統領がノックス=ポーター決議(英語版)に署名したことで、アメリカはようやく戦争から手を引いた。イギリスとその植民地については1918年の戦争終結定義法(英語版)の条項に基づき、1920年1月10日にドイツとの戦争状態を、7月16日にオーストリアとの戦争状態を、8月9日にブルガリアとの戦争状態を、1921年7月26日にハンガリーとの戦争状態を、1924年8月6日にトルコとの戦争状態を終結させた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "ヴェルサイユ条約が締結された後、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条約が締結された。しかし、オスマン帝国との講和交渉をめぐって紛争が起き、1923年7月24日のローザンヌ条約でようやく終結を見た。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "戦争祈念施設の一部は、終戦の日をヴェルサイユ条約が締結された日と定めた。この日は外国に派遣された多くの兵士がようやく本国に復員した日であったが、多くの戦争記念施設は終戦の日を休戦協定が締結された1918年11月11日とした。法的な戦争状態は最後の講和条約であるローザンヌ条約が締結されるまで続いた。同条約に基づき、連合国軍は1923年8月23日にコンスタンティノープルから撤退した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "戦闘が終結した後、パリ講和会議は中央同盟国に講和条約の締結を強いて、戦争を正式に終結させた。1919年のヴェルサイユ条約ではドイツとの講和のみが処理され、同年6月28日の締結により、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン提唱の『十四か条の平和原則』は、翌1920年1月10日の「国際連盟」創設の実現をもって実質化した。しかし、国家元首かつ政府の長が提唱者であった肝心のアメリカ合衆国は連邦議会の否決により、設立当初から不参加となり、結局最後まで参加することはなかった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "中央同盟国は「連合国、その政府と国民が」中央同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。ヴェルサイユ条約では第231条(英語版)がそれであり、後に「戦争責任条項」として知られるようになった。ドイツでは国民の多くがこの条項に屈辱を感じ、報復を考えた。ドイツ人は「ヴェルサイユのディクタット(英語版)(絶対的命令)」に不当に扱われたと感じ、ドイツの歴史家ハーゲン・シュールゼ (Hagen Shulze) は条約によりドイツは「法的制裁を課され、軍事力を奪われ、経済的に破滅、政治的に侮辱された」と述べた。ベルギーの歴史家ローラン・ヴァン・イーペルセル (Laurence Van Ypersele) は「1920年代と1930年代のドイツ政治において戦争とヴェルサイユ条約の記憶が中心的な役割を果たした」と述べた:",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "一方、ドイツ帝国の統治から解放された新しい国々は、ヴェルサイユ条約を侵略的な隣国が小国に対して施した不当な行動を承認するものとしてみた。パリ講和会議ではあくまで全ての敗戦国に非戦闘員への損害を賠償することを強いたが、敗戦国のうち経済が崩壊しなかったのはドイツだけだったため、賠償責任は主にドイツ(敗戦による帝政崩壊後、ヴァイマル共和政)に負わされた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア共和国、ハンガリー王国、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国といった後継国家に分割された。分割は主に(ただし、単にではなく)民族分布に沿って行われた。トランシルヴァニアはハンガリーから大ルーマニアに割譲された。詳細はサン=ジェルマン条約とトリアノン条約で定められた。トリアノン条約により、ハンガリー人330万人が外国に統治された。戦争以前のハンガリー王国ではハンガリー人が国民の54パーセントを占めたが、戦後に残された領土はその32パーセントだけだった。1920年から1924年、ハンガリー人354,000人がルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラヴィアに割譲された元ハンガリー領から逃亡した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 199,
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"text": "1917年の十月革命の後に、単独講和を締結し戦争から脱落したロシア帝国はエストニア共和国、フィンランド共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ポーランド第二共和国の成立により西部国境の多くを喪失し、1918年4月にはルーマニアがベッサラビアを奪った。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国は解体し、レヴァントでの領地の大半が連合国に保護領として与えられた。アナトリア半島のトルコ本土はトルコ共和国として承認された。オスマン帝国は1920年のセーヴル条約で分割される予定だったが、メフメト6世には批准されず、トルコ国民運動(英語版)にも拒否された。結果的にはトルコが革命戦争と希土戦争 (1919年-1922年)に勝利。1923年のローザンヌ条約はセーヴル条約よりもはるかに寛大であり、トルコ共和国はヨーロッパ側にも領土(東トラキア)を維持した。",
"title": "余波"
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{
"paragraph_id": 201,
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"text": "ポーランドはポーランド分割で消滅してから1世紀以上経った後、復活した。セルビア王国は「連合国の小国」、人口比で最も多く損害を出した国として、多民族国家である新生セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラヴィア王国に改名)の背骨になった。チェコスロバキアはボヘミア王国とハンガリー王国の一部を併合して独立した。ロシアはソビエト連邦になったが、フィンランドとバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)が独立した。オスマン帝国はトルコと中東のいくつかの国に取って代わられた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "イギリス帝国においては新しい国民意識が生まれた。オーストラリアとニュージーランドではガリポリの戦いが「砲火の洗礼」として知られるようになった。というのも、第一次世界大戦は両国の軍が初めて戦った大規模な戦争であり、オーストラリア軍がイギリス国王の臣下としてだけでなく、オーストラリア人としても戦った初の戦争であった。この日はオーストラリア・ニュージーランド軍団を記念するアンザック・デーとして祝われている。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "カナダ師団が初めて独立部隊として戦ったヴィミ・リッジの戦い(英語版)の後、カナダ人はカナダを「火で鍛えられた」国と形容するようになった。「母国」がつまずいた戦場で勝利したことで、カナダ軍は初めてその貢献を国際的に認められた。カナダはイギリス帝国の自治領として参戦して、終戦まで同じ状態であったが、終戦の時点では独立性が高まった。1914年にイギリスが参戦したとき、自治領は自動的に戦争状態に入ったが、終戦時にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカがそれぞれ独自にヴェルサイユ条約に署名した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "オスマン帝国は第一次世界大戦までの数百年間、中東である程度の平和と安定を維持していた。しかし、オスマン政府が倒れたことで中東は権力の真空状態になり、領土と建国に関する様々な矛盾した主張がなされた。第一次世界大戦の戦勝国はすぐに国境線を策定したが、現地の住民には粗略な諮問しかしておらず、これらの国境は21世紀に入っても未解決のままである。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体したことで、中東戦争など現代の中東の政治情勢が形作られたほか、水などの天然資源をめぐる紛争も引き起こした。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "また、1917年ロシア革命による社会不安と広範囲にわたる暴力、そしてその直後のロシア内戦により、元ロシア帝国領(主にロシア革命後のウクライナ(英語版))で2千以上のポグロムが起きた。その結果、ユダヤ人6万から20万人が殺害された。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "ギリシャは第一次世界大戦直後の希土戦争でムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ国民軍と戦った後、ローザンヌ条約に基づき住民交換を行った。しかし、多くの文献によると、この時期のギリシャ人虐殺により数十万人のギリシャ人が死亡した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6千万人のうち、800万人が戦死、700万人が永久的な身体障害者になり、1,500万人が重傷を負った。ドイツは男性労働人口の15.1%を、オーストリア=ハンガリーは17.1%、フランスは10.5%を失った。ドイツでは、一般市民の死亡者が平時よりも474,000人多かったが、主に食料の不足と栄養失調による餓死や病死が原因である。レバノンでは終戦までに飢饉により約10万人が死亡した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "1921年ロシア飢饉により500万から1,000万人が死亡した。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が孤児になった。反ソ連のロシア人(白系ロシア人)の多くがロシアから逃亡、1930年代の満洲国ハルビン市では10万人のロシア人が住んでいたという。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。寄生虫による発疹チフスで、1914年のセルビアだけでも20万人の死者(うち兵士は7万人)が出た。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した。1923年にはロシアで1,300万人がマラリアに感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった。さらに、1918年にはスペインかぜ(インフルエンザ)が大流行、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した。「スペインかぜ」の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で中立国のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 210,
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"text": "ハイム・ヴァイツマンによるロビー活動もあって、ユダヤ系アメリカ人がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年にバルフォア宣言を発してパレスチナにおけるユダヤ人国家(英語版)の建国を支持した。第一次世界大戦に参戦したユダヤ人兵士は合計1,172,000人以上であり、うち275,000人がオーストリア=ハンガリー軍、450,000人がロシア帝国軍に従軍した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦は空前の戦死傷率を記録して、社会に大きな傷跡を残した。第一次世界大戦が残した傷跡はしばしば議論される。ベル・エポックの楽天主義は崩れ去り、戦争に参加した世代は「失われた世代」と呼ばれた。戦後長年にわたり、21世紀に至っても人々は死者、行方不明者を哀悼し続け、障害を負った者を悲しみ続けた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "多くの兵士はシェルショック(現在の戦闘ストレス反応)(神経衰弱とも。心的外傷後ストレス障害の関連疾患)などの精神的外傷を負った。大半の兵士はそのような障害もなく故郷に戻ることができたが、戦争について語ろうともせず、結果的には「兵士の大半が精神的外傷を負った」という伝説が広まることになった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "実際には多くの兵士は戦闘に参加せず、または軍務をポジティブにとらえたが、苦しみとトラウマというイメージは根強く残った。歴史家のダン・トッドマン (Dan Todman)、ポール・フュッセル(英語版)、サミュエル・ヘインズ (Samuel Heyns) は1990年代以降、著作を出版してこのような見方が誤りであると指摘した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦後のナチズムとファシズムの広まりには、民族主義の復活と戦後の変革(民主化)に対する拒絶が含まれている。同じように、背後の一突き伝説が支持を得た背景には、敗戦国たるドイツの心理状態、および戦争責任の拒絶があった。この陰謀論は広く受け入れられ、ドイツ国民は自身を被害者とみなした。また、同じ理由により、ヴァイマル共和政はその正統性が揺らいで政局は常に不安定化し、左右両翼の勃興を許した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパの共産主義とファシズム運動はこの陰謀論を利用して人気を得、特に戦争の影響を深く受けた地域で顕著だった。ナチス党首アドルフ・ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に対するドイツの不満を利用して人気を博した。そのため、第二次世界大戦は第一次世界大戦で解決されなかった権力闘争の継続という一面がある。さらに、1930年代のドイツは、第一次世界大戦の戦勝国に不公平に扱われたことを理由として、侵略を正当化した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "アメリカの歴史家ウィリアム・ルービンスタイン(英語版)は、「『全体主義の時代』は現代史上の悪名高いジェノサイドを全て含み、ユダヤ人に対するホロコーストがその筆頭であったが、共産主義諸国による大量殺人と追放、ドイツのナチ党とその同盟者によるほかの大量殺戮、そして1915年のアルメニア人虐殺も含む。ここで主張するのは、これらの殺戮の起因は全て同じであり、その起因とは第一次世界大戦によりエリート層の構造と中央、東、南ヨーロッパの政府の常態が崩壊したことであった。それがなければ、共産主義もファシズムも無名の扇動者や変わり者の頭の中にしか存在しないものとなっていたであろう。」と述べた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の最も劇的な影響の一つは、イギリス、フランス、アメリカ、そしてイギリス帝国の自治領政府がその権力と義務を拡大させたことだった。戦争努力(英語版)を支援する新しい税が徴収され、法律が制定された。その一部は現代まで続いた。また、オーストリア=ハンガリーやドイツなどの大きく官僚的な政府はその能力を限界まで駆使した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "国内総生産は連合国のうち4か国(イギリス、イタリア、日本、アメリカ)では上昇したが、フランスとロシアでは下がり、ほかには中立国のオランダと主要な中央同盟国3か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国)でも下がった。中でも、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、オスマン帝国では30から40パーセントの下がり幅だった。例えば、オーストリアでは豚の大半が屠殺されたため、終戦のときには食肉がほとんどなかった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "国内総生産のうち、政府が占める比率は全ての国で上昇、ドイツとフランスでは50%を越え、イギリスでも50%に近い比率だった。アメリカからの物資購入代金を工面すべく、イギリスはそれまでのアメリカ鉄道に対する投資を現金化(売却)、続いてウォール街で大量に借り入れた。1916年末には米大統領ウィルソンが融資の打ち切りを決定する瀬戸際まできていたが、結局アメリカ政府から連合国への融資を大幅に増やした。1919年以降、アメリカが融資の償還を要求すると、連合国はドイツからの賠償金で資金の一部を賄ったが、ドイツからの賠償金はアメリカからドイツへの融資だった。このシステムは1931年に崩壊、融資の一部は償還されなかった。1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦に関するアメリカからの債務を44億ドルも残しており、全ての償還が終わったのは2015年だった。",
"title": "余波"
},
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"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦はマクロ経済にもミクロ経済にも影響を与えた。家族レベルでは男性の多くが従軍・戦死したため稼ぎ手を失い、多数の女性が働くことを余儀なくされた。工場でも多くの労働者が従軍で失われ、サフラジェット運動(女性参政権)に弾みがついた。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "オーストラリア首相ビリー・ヒューズは、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージに手紙を書き、「あなたはこれ以上良い条約を勝ち取ることができないと私たちに保証した。しかし、私たちは今でも、イギリス帝国とその同盟者が払った多大な犠牲と釣り合う賠償を確保する何らかの方法が見つかると信じている。」と述べた。オーストラリアは5,571,720ポンドの戦時賠償を受け取ったが、戦争の直接支出だけでも376,993,052ポンドに上り、1930年代中期までに賠償年金、戦争の給与金、利子と減債積立金の合計が831,280,947ポンドと賠償金の100倍以上に上った。参戦したオーストラリア軍416,000人のうち、約6万人が戦死、152,000人が負傷した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦は「余剰女性(英語版)」の問題を悪化させた。イギリスでは100万人近くの男性が戦死したことで余剰女性(女性と男性の人数差)が67万人から170万人に上昇した。そのため、仕事に就こうとした未婚女性の人数が大幅に上昇した。その上、兵士の復員と戦後の不況により失業率がうなぎ登りになった。戦争は確かに女性の社会進出を促進したが、兵士が復員したことと戦時工場が休業したことにより、却って多くの人が失業した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは1918年初頭にようやく配給制度が導入されたが、肉、砂糖、脂肪(バターとマーガリン)に限られ、パンは制限されなかった。また、労働組合の参加者数は1914年に400万を少し超えた程度だったのが、1918年には倍になり、800万人を超えるまでになった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "平時の輸入源から戦争物資を輸入することに困難が生じたため、イギリスは植民地に目を向けた。アルバート・アーネスト・キットソン(英語版)などの地質学者は、アフリカの植民地で貴金属の鉱層を見つけることを依頼された。キットソンは英領ゴールド・コーストで弾薬製造に必要なマンガンの鉱層を発見した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "ヴェルサイユ条約の第231条(英語版)(いわゆる「戦争責任」条項)において、ドイツは「連合国、その政府と国民が」ドイツとその同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。この条項は第一次世界大戦の賠償の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった。1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "賠償金は現金でも現物(石炭、木材、化学染料など)でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、ルーヴェンの図書館の修復なども算入された。1929年、世界恐慌が起き、世界中の政治を混乱させた。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。アドルフ・ヒトラーが権力を奪取すると、1920年代と1930年代初期に発行された債券は取り消された。しかし、デヴィッド・A・アンデルマン(英語版)は「支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する」と述べた。そのため、第二次世界大戦後の1953年、ロンドン会議(英語版)において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "ハーバー・ボッシュ法を考案した一人であるフリッツ・ハーバーは、賠償金の足しにするため1920年から海水から金を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "戦後のドイツでは深刻な住宅不足に直面しており、賃貸集合住宅の数を増やすため、1920年代に様々な公営住宅計画が立てられた。この住宅は労働者階級にも家賃が払えるようにコストを重視した結果、室内の広さやデザインを限定することにした。この際に台所の設計として採用された能率重視のフランクフルト・キッチンは、現代のシステムキッチンの先駆けとされている。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "軍の資金援助で無線機器の改良が進んだため、戦後にはフランスやイギリス、日本やアメリカのみならず、敗戦国のドイツでもラジオが流行し、新たなメディアとして広まった。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "また、手で操作しなければならない懐中時計に代わり、当時は主に女性用アクセサリーとされていた腕時計が日用品の座を得た。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦下では、大戦を題材とした戦争文学が広く読まれ、これらの作品の多くは作家自身の従軍経験をもとに戦場を描いたものだった。従軍中に詩作したことで「戦場詩人」と呼ばれ、休戦直前に戦死したイギリスのウィルフレッド・オーウェンはその代表的な作家である。フランスの権威ある文学賞のゴンクール賞も、大戦中の受賞作は全て戦争文学作品となった。受賞作のなかでも、特にアンリ・バルビュス『砲火(英語版)』(1916年)は、20万部の売上を記録し、以後の「戦争小説のモデル」となったとされる。フランス文学研究者の久保昭博によれば、『砲火』は兵士の死体や過酷な塹壕生活を口語・俗語文体を用いて描くことで、迫真的な大戦描写に成功したのである。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "ドイツでも、自然主義や表現主義の戦争文学に続いて、戦間期にはハンス・カロッサ『ルーマニア日記』(1924年)や、エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』(1929年)に代表される新即物主義の戦争文学が登場した。これらの新即物主義の作品も、報告体を用いてより写実的に第一次世界大戦の戦場を描写したものだった。特に『西部戦線異状なし』は、刊行からほどなく25ヶ国語に翻訳され、計350万部の売上を記録した。",
"title": "余波"
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{
"paragraph_id": 233,
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"text": "アメリカでは第一次世界大戦の影響の下、いわゆる「失われた世代」の作家たちが登場した。1926年、その代表的な作家であるアーネスト・ヘミングウェイと ウィリアム・フォークナーは、それぞれ初の長編作品を出版したが、両者の作品とも第一次世界大戦を背景としたものだった(ヘミングウェイ『日はまた昇る』、フォークナー『兵士の報酬(英語版)』)。",
"title": "余波"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "美術の分野でも、第一次世界大戦に多くの芸術家が従軍画家として参加し、プロパガンダのための戦争画を描いた。また、こうした伝統的な従軍画家だけでなく、装備のカモフラージュを行うためにキュビズムやヴォーティシズムの画家が動員された。さらに、徴兵されてあるいは志願して前線で兵士として戦う芸術家もいた。西洋近現代美術史研究者の河本真理によれば、戦場を体験した画家たちは、戦争の理念的側面を抽象的な様式で表現しようとする者と、戦場の人々の身体などを写実的な様式で表現しようとする者の二つの系統に分かれていった。大戦による西洋社会の動揺は、一方では、前衛的な芸術から古典的な芸術へという「秩序への回帰」につながる。しかし、その一方で、第一次世界大戦を近代合理主義の限界であるとみなし、これまでの芸術の在り方を否定する「反芸術」のダダイスムも登場することとなった。",
"title": "余波"
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"tag": "p",
"text": "また、第一次世界大戦では、これまでの戦争と異なり、ポスター、写真、映画といった新しい手段によっても戦争が描かれた。フランスをはじめとする参戦国政府は、写真部・映画部のような組織を設置し、プロパガンダの手段として写真・映画を活用しようとした。特に、1916年公開の無声記録映画『ソンムの戦い(英語版)』は、イギリスの戦争プロパガンダ局長チャールズ・マスターマン(英語版)の主導で作られ、当時の国内映画の最多観客動員数記録を更新するほどの人気を博したという。",
"title": "余波"
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"text": "第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ、1919年に米大統領ウィルソンの提唱により、人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約(1922年)、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)といった軍縮条約が締結された。",
"title": "余波"
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"text": "しかし、これら国際平和のための様々な努力も空しく、第一次世界大戦の原因と結果を巡る多くの戦後処理の失敗、戦後好景気の反動としての世界恐慌の発生とブロック経済化、社会主義の勢力拡大などで、それらに対抗する形でのイタリア王国のムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツのヒトラー率いるナチスと、ファシズムが台頭していった。",
"title": "余波"
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"tag": "p",
"text": "戦勝国の日本でも、日本のシベリア出兵や中華民国での排日とそれに対する日本軍の出兵拡大。また日英同盟の破棄やアメリカでの日本人移民の差別などが行われた末のナショナリズム台頭といった混乱が起きた。さらに1931年には関東軍主導により満洲事変が起こされ、数度にわたり軍事クーデターが起きたことで、第一次世界大戦後に日本に根付くかと思われた民主主義(大正デモクラシー、普通選挙)がわずか15年程度で途絶え、軍国主義が進むこととなった。",
"title": "余波"
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"tag": "p",
"text": "国際連盟は提唱国であるアメリカをはじめとした大国の不参加や脱退が相次いで十分な役目を果たせず、戦間期に発生した係争への介入を行うことがほとんどできなかった。ヴェルサイユ条約成立後、フランスのフェルディナン・フォッシュ陸軍元帥は、「これは講和ではない。20年間の休戦にすぎない」と予言していた。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、いつの日か必ず復讐されることになる」と条約を批判。アメリカのある上院議員も「この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した」と述べた。そして彼らの予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939年に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦が勃発することとなる。",
"title": "余波"
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"text": "この戦争における砲撃の数量は凄まじく、西部戦線の主戦場となったフランスの内務省によれば、国内で約14億発の砲弾が使用され、そのうち約1割が不発弾となったという。内務省の爆発物処理隊隊員が加盟している研究会では、その全ての不発弾を処理するためにかかる時間を約700年と試算している。",
"title": "余波"
},
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"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "西部戦線の戦跡では、不発弾のほか廃棄された毒ガスを含む砲弾による土壌汚染が深刻なために、立ち入りが禁止されている土地が残っており、無害化のための調査・処理が続いている。また、戦地に放置・埋葬された戦死者の遺骨もいまだ多く残されており、その収集とDNA型鑑定などによる遺族捜し、納骨が21世紀以降も続けられている 。",
"title": "余波"
},
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"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "従軍した軍人のうち、最後まで存命だった元イギリス海軍水兵クロード・チョールズが2011年5月5日、110歳で死去した。",
"title": "余波"
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"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "現代にも大きな影響を与えており、2018年11月11日にパリで行われた終戦100年記念式典には、フランス、日本、イギリス、イタリア、アメリカなどの戦勝国や、ドイツなど敗戦国を含めて60カ国以上の首脳級要人約70人が参加した。",
"title": "余波"
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"paragraph_id": 244,
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"text": "第一次世界大戦が始まると無煙火薬であるコルダイトが大量に必要となったが、原料となるアセトンは木材を乾留して製造されていたため、安定した大量供給は難しかった。当時マンチェスター大学で化学を教えていたハイム・ヴァイツマンは1910年頃にデンプンからアセトンを合成する手法を開発しており、イギリス政府と協力し工業化に成功したことで、年間3万トンのアセトンが供給可能となった。この功績によりウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージなどイギリス政府の要人に知己を得たことによりロビー活動での影響力が増すこととなった。",
"title": "軍事技術"
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{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の初期では20世紀の技術と19世紀の戦術が混ざり合い、大きな損害は不可避であった。しかし、列強の軍は1917年末までにそれぞれ兵力を数百万人に増やしつつ現代化を進め、電話、無線通信、装甲車、戦車、飛行機を利用するようになった。歩兵の編成も変更され、それまで100人の中隊が部隊の行動単位だったのを下士官率いる10人程度の分隊に変更された。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 246,
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"text": "大砲も革命を遂げた。1914年、大砲は前線に配置され、砲弾は標的に直接撃たれた。しかし、1917年までに大砲、臼砲、さらに機関銃による間接射撃が多用されるようになり、飛行機や(見落とされることも多い)野戦電話(英語版)といった新しい技術による測距や射弾観測が行われるようになった。また、大砲音源測距(英語版)と対砲兵射撃(英語版)が一般的になった。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "重砲火による間接射撃についてはドイツの方が連合国軍よりもはるかに進んでいた。ドイツ陸軍は1914年時点で既に150mmと210mm榴弾砲を運用しており、一方フランス陸軍とイギリス陸軍の大砲は75mmと105mm程度だった。イギリス軍は6インチ (152mm) 榴弾砲を1門有していたが、重くてまともに運べず、分解して前線に運んだ後改めて組み立てなければならない代物であった。ドイツはさらにオーストリアの305mmと420mm大砲を使用、また開戦時点で既に塹壕戦に適する、様々な口径のミーネンヴェルファーを有していた。",
"title": "軍事技術"
},
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"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "1917年6月27日、ドイツ軍は当時世界最大の大砲バッテリー・ポンメルン(英語版)を使用した。クルップ社が製造したこの大砲は重さ750kgの砲弾をクケラーレ(英語版)から50km先のダンケルクに発射することができた。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "戦闘の多くは塹壕戦であり、前線を1m前進させるために数百人が犠牲になるというものだった。歴史上死傷者の最も多い戦闘の中には第一次世界大戦の戦闘が多く含まれ、例としてはパッシェンデールの戦い、マルヌ会戦、カンブレーの戦い、ソンムの戦い、ヴェルダンの戦い、ガリポリの戦いがある。ドイツはハーバー・ボッシュ法による窒素固定を活用して、イギリスの海上封鎖にもかかわらず火薬を絶やさずに供給することができた。大砲の攻撃は最も多くの損害を出し、大量の爆発物を費やした。爆弾の爆発や破砕(英語版)により兵士の頭部損傷が続出したため、交戦諸国は現代も使われる鋼鉄製戦闘用ヘルメットを設計した。その端緒となったのはフランスが1915年に導入したアドリアンヘルメットであり、直後にイギリスとアメリカがブロディヘルメットを採用、1916年にはドイツがシュタールヘルムを導入した。シュタールヘルムはその後改良を経て現代まで使用されている。",
"title": "軍事技術"
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"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "化学兵器が広く使われたことも第一次世界大戦の特徴であった。攻撃に使われたガスは塩素、マスタードガス、ホスゲンなどだった。最初に使われた塩素に対する対策のガスマスクはすぐに配備され、以降より効果的な化学兵器の開発とその対策の開発がいたちごっこのように続き、終戦まで続いた。化学兵器の使用と小規模な戦略爆撃はいずれも1899年と1907年のハーグ陸戦条約で禁止され、両方とも効果が薄いことが証明されたが、大衆の注目を集めることには成功した。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "陸戦兵器のうち戦闘力が最も強いのは1門数十トンの重さを有する列車砲である。ドイツが使用したのはディッケ・ベルタ(「太っちょベルタ」)というあだ名が付けられた。ドイツはまたパリ砲を開発、重さ256トン、砲弾の重量は94kgで、パリを約100km先から砲撃することができた。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 252,
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"text": "塹壕、機関銃、空からの偵察、有刺鉄線、破砕砲弾を使用する現代化した大砲といった技術により、第一次世界大戦の戦線は膠着した。イギリスとフランスは戦車を開発して機甲戦に持ち込むことで戦線の膠着を解決しようとした。イギリス初の戦車であるマーク I 戦車はソンムの戦いの最中、1916年9月15日に使用された。この時は安定性に問題があったが、実戦に耐えうることを証明することができた。そして、1917年11月のカンブレーの戦いではヒンデンブルク線を突破する一方、諸兵科連合部隊が敵兵8千人を捕虜にし、大砲100門を鹵獲することができた。一方、フランスは旋回砲塔を持つルノー FT-17 軽戦車を開発、ルノー FT-17はフランスの勝利に大きく貢献した。ほかにもルイス軽機関銃、ブローニングM1918自動小銃、MP18など軽機関銃や短機関銃が導入された。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "もう1つの新型武器である火炎放射器はまずドイツ陸軍によって使われ、続いて諸国の陸軍に採用された。戦術的には高い価値を有さなかったが、戦場上の恐慌を引き起こし、敵軍の士気を低下させる武器として有用であった。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "塹壕戦には大量の食料、水、弾薬が必要であり、平時の交通システムが破壊される地域も多いため塹壕鉄道(英語版)が発展した。しかし、内燃機関の改良により、塹壕鉄道は廃れた。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "ドイツは開戦の後、Uボート(潜水艦)を配備した。ドイツ帝国海軍はUボートを駆使して大西洋で制限付きと無制限潜水艦作戦を交互に遂行、イギリスの補給を断とうとした。イギリス商船の海員が死亡したことと、Uボートが無敵のように見えたことで爆雷(1916年)、ハイドロホン(パッシブソナーの一種、1917年)、軟式飛行船、攻撃型潜水艦(英語版)(R級潜水艦(英語版)、1917年)、前方攻撃用の対潜兵器、吊下式ハイドロホン(最後の2つは1918年に放棄された)などが次々と開発された。潜水艦をさらに活用すべく、ドイツでは1916年に補給潜水艦が提案された。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 256,
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"text": "固定翼機が初めて軍事利用されたのは伊土戦争中の1911年10月23日、イタリア軍がリビアを偵察した時だった。翌年にはグレネード投下や空中写真撮影に使われるようになった。飛行機の軍事上の価値は1914年までに明らかになり、戦争初期には偵察や近接航空支援で使われた。敵機を撃ち落とすべく、対空砲や戦闘機が開発された。他にも戦略爆撃機が開発され、主にドイツとイギリスが使った。ドイツはツェッペリン(硬式飛行船の一種)や大型の複葉機で北海を渡り、ロンドンなどイギリス本土を空襲した。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "戦争末期には航空母艦が初めて使われ、1918年にはイギリスのフューリアス号がトンデルンにあったツェッペリン飛行船のハンガーを破壊するためトンデルン襲撃(英語版)を敢行、ソッピース キャメルを飛ばせた。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "塹壕の上空を飛ぶ有人観測気球は固定の偵察基地として使われ、敵軍の動きを報告したり、砲兵に指示を出したりした。気球の乗員は一般的には2名であり、2人ともパラシュートを装備していた。これは敵軍による対空攻撃に遭った場合でもパラシュートを使って安全に脱出できるようにするためであった。当時のパラシュートは重すぎて、積載量が既にぎりぎりの飛行機に搭載できず、小型化は戦争終結後に行われたことだった。またイギリスの首脳部でもパラシュートがパイロットの臆病さにつながるとしてその搭載に反対した。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "偵察されることを防ぐため、気球は敵機にとって重要な標的である。敵機から身を守るため、気球には対空砲が搭載され、さらに自軍の飛行機がパトロールを行った。また空対空ロケット(英語版)といったより特殊な武器も試された。軟式飛行船や気球による偵察の結果、全種類の飛行機の間で行われる空対空戦闘(航空戦)が発展した。また、気づかれずに大軍を動かすことが不可能になったため、塹壕戦が膠着する一因となった。ドイツは1915年と1916年にイングランド空襲を行い、イギリスの士気を低下させるとともに飛行機を前線から引き起こそうとし、実際に恐慌が起こったため数個飛行隊の戦闘機がフランスから急遽イギリスに派遣された。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "1914年にイギリスがドイツの海底通信ケーブルを切断した結果、国際通信ケーブルと無線しか使えなくなったドイツは傍受を防ぐために通信を暗号化した。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "しかし、ドイツは戦争初期に多くの不幸に見舞われ、暗号を悉く解読された。まず、イギリス海軍がオーストラリア沖でドイツの商船からHandelsverkehrsbuch (HVB) というコードブックを奪取、続いてエストニアで座礁したドイツ船からドイツ海軍用のSignalbuch der Kaiserlichen Marine (SKM) がロシアに奪われ、さらにVerkehrsbuch (VB) もオランダ沖でイギリスに取得された。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "これらのコードブックを得たイギリスは傍受した通信量が膨大だったこともあり、海軍本部で暗号解読部門であるルーム40を設立した。ルーム40は後にツィンメルマン電報の解読に成功、アメリカを連合国側で参戦させることに成功した。",
"title": "軍事技術"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦では約800万人が降伏して捕虜収容所に収容された。全参戦国がハーグ陸戦条約に基づき捕虜を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は赤十字社や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "例としては、ガリツィアの戦い(英語版)でロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、タンネンベルクの戦いでロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月のプシャスニシュの戦い(ドイツ語版)でドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月にカウナス駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また第一次マルヌ会戦ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害(戦死、負傷、捕虜)のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人(その大半がロシア軍への降伏だった)。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビール、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も飢餓が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した。またオスマン帝国では国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。これはオスマン帝国がムスリム国家(キリスト教国ではない)であるゆえと西欧中心主義的視点から言われることがあるが社会学的な正確性が欠けた偏見である。1916年4月のクート包囲戦の後、イギリス兵士約11,800人(主に英領インドの兵士)が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進してアナトリア半島まで行くよう命じた。生還者の一人は「獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった」と述べた。その後、生還した捕虜はトロス山脈を通る鉄道の建設に駆り出された。",
"title": "戦時下の社会"
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{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが強制労働に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "オーストリア=ハンガリー帝国の出身でクロアチア人の亡命政治家アンテ・トルムビッチ(英語版)などユーゴスラヴィア主義者(英語版)は、南スラヴ統一国家の建国を望んだため、戦争を強く支持した。1915年4月30日、トルムビッチ率いるユーゴスラヴィア委員会(英語版)がパリで成立、直後にロンドンに移った。1918年4月にはローマで「圧迫された民族の会議」(Congress of Oppressed Nationalities) が行われ、チェコスロバキア人、イタリア人、ポーランド人、トランシルヴァニア、南スラヴの代表が連合国にオーストリア=ハンガリーの住民による民族自決を支持するよう求めた。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "中東ではトルコの民族主義と呼応してアラブ民族主義も高揚、汎アラブ国家の建国が叫ばれるようになった。1916年、アラブ反乱がオスマン帝国の中東領で起こり、独立を目指した。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "東アフリカではダラーウィーシュ国がソマリランド戦役(英語版)でイギリスと戦っていたが、エチオピア帝国のイヤス5世はダラーウィーシュ国を支持した。ドイツ駐アディスアベバ大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シルベルク(ドイツ語版)は「エチオピアがイタリア人を追い出して紅海沿岸を奪回、帝国を以前の規模に回復する時が来た」と述べた。エチオピア帝国は中央同盟国側で参戦する瀬戸際まできたが、同盟国がエチオピアにおける独裁について圧力をかけたことでイヤス5世が廃位されたため参戦が取り止めとなった。",
"title": "戦時下の社会"
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{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "社会主義政党の一部は1914年8月の開戦時点では戦争を支持した。ヨーロッパの社会主義者は民族主義についての意見が分かれたが、愛国心による戦争への支持がマルクス主義者などの急進派が持つ階級闘争の概念、そして労働組合主義を圧倒した。開戦すると、イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ロシアの社会主義者は民族主義の時流に従って自国の参戦を支持した。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "当時アメリカで活躍していたイギリス人のチャーリー・チャップリンや日本人の早川雪洲は、アメリカの戦時公債発売委員に推薦され、特に早川は日本の同盟国のアメリカの国債を6万ドルも買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、1918年には『バンザイ』(Banzai) という公債販売促進のための映画まで撮って、アメリカを助けた。",
"title": "戦時下の社会"
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{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "イタリア民族主義(英語版)は戦争により高揚、初期には様々な政治会派からの支持を受けた。最も活動的で支持を受けたイタリア民族主義者の一人はガブリエーレ・ダンヌンツィオであり、彼はイタリア民族統一主義を宣伝、イタリア大衆を参戦支持に動かした。イタリア自由党のパオロ・ボセッリ(英語版)は連合国側で参戦することを支持してそれを宣伝、ダンテ・アリギエーリ協会をイタリア民族主義の宣伝に利用した。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "イタリアの社会主義者は戦争を支持すべきか反対すべきかで意見が分かれた。ベニート・ムッソリーニやレオニーダ・ビッソラティ(英語版)などは支持したが、イタリア社会党は反軍国主義の抗議を行った者が殺害されると戦争反対の方針を決定、6月に赤い一週間(英語版)と呼ばれるゼネラル・ストライキを行った。社会党はムッソリーニなどの参戦を支持した党員を除名した。労働組合主義者だったムッソリーニはイタリア民族統一主義に基づき、オーストリア=ハンガリーのイタリア人地域の併合を支持、1914年10月に『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊し、国際行動のための革命ファッシ(イタリア語版)を設立。後に1919年のイタリア戦闘者ファッシに発展し、ファシズムの起源となった。ムッソリーニが民族主義を支持したことで、彼はアンサルド(軍備会社)などの会社から募金して『イル・ポポロ・ディタリア』の創刊に必要な資金を集めた。彼はこの新聞で社会主義者などを説得して戦争を支持させた。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "開戦直後には多くの社会主義者や労働組合が政府を支持したが、ボリシェヴィキ、アメリカ社会党、イタリア社会党、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクなどの例外もあった。",
"title": "戦時下の社会"
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{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "開戦から3か月も満たない1914年9月にローマ教皇に就任したベネディクトゥス15世は第一次世界大戦とその影響を在位期間の初期の焦点とした。前任のピウス10世と違い、彼は選出から5日後に平和のために手を尽くすと宣言した。彼の初の回勅で1914年11月1日に公布されたアド・ベアティッシミ・アポストロルム(英語版)も第一次世界大戦に関するものだった。しかし、ベネディクトゥス15世は教皇の立場から平和の使者として振舞ったものの参戦各国に無視された。1915年にイタリアと三国協商の間で締結されたロンドン条約でも教皇による平和への動きを無視する条項が盛り込まれ、またベネディクトゥス15世が1917年に提案した平和案もオーストリア=ハンガリーを除いて無視された。",
"title": "戦時下の社会"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "1914年、イギリスのパブリックスクールの将校訓練課程(英語版)の年度キャンプがソールズベリー平原(英語版)近くのティッドワース・ペンニングス (Tidworth Pennings) で行われた。陸軍総司令官ホレイショ・ハーバート・キッチナーが士官候補生を閲兵する予定だったが開戦により出席できなくなったため代わりにホレス・スミス=ドリアン(英語版)が派遣された。バミューダ諸島出身の士官候補生ドナルド・クリストファー・スミス (Donald Christopher Smith) の述懐によると、スミス=ドリアンのスピーチは出席した下士官候補生2,000-3,000名を驚かした。",
"title": "戦時下の社会"
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{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "彼は戦争は何としても避けなければならない、戦争は何も解決しない、全ヨーロッパや多くの地域が廃墟に化する、人命の損失が大きすぎて全人類の人口が絶滅する、などと述べた。そのような憂鬱で愛国的でない感情を述べるイギリスの将軍に、私、そして私達の多くが、無知なことに彼を恥じた。しかし、その後の4年間にわたり、私達のうち大虐殺を生き残った者(おそらく4分の1を越えないだろう)は将軍の予想の正しさを知り、彼がそれを述べるのにどれだけの勇気が要るかを知った。",
"title": "戦時下の社会"
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"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "多くの国は戦争に反対した者を投獄した。例としてはアメリカのユージン・V・デブスとイギリスのバートランド・ラッセルがいる。アメリカでは1917年スパイ活動法と1918年扇動罪法(英語版)により募兵反対や「愛国的ではない」主張が犯罪であると定められた。政府を批判する出版物は郵便での検閲により流通できないようにされ、多くの人々が愛国的でない主張をした廉で長期間投獄された。",
"title": "戦時下の社会"
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"paragraph_id": 280,
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"text": "民族主義者の一部は、特にその民族主義者が敵対した国において戦争への介入に反対した。アイルランド人の大半は1914年と1915年時点では参戦に同意したが、少数のアイルランド民族主義者は参戦に反対した。1912年にアイルランド自治危機(英語版)が再び浮上した後、世界大戦が勃発した1914年7月にはアイルランドがあたかも内戦前夜のようになっていた。アイルランド民族主義者とマルクス主義者はアイルランド独立を求め、1916年にイースター蜂起を決行した。ドイツはイギリスを不安定にすべくライフル2万丁をアイルランドに送った。イギリスはアイルランドの戒厳を発令したが、革命の脅威が去ると、イギリスはアイルランド民族主義者に譲歩した。しかし、アイルランドでの反戦世論が高じた結果、1918年徴兵危機(英語版)が起こった。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "ほかにも良心的兵役拒否者(社会主義者や信仰を理由に兵役を拒否する者)が戦闘への参加を拒否した。イギリスでは1万6千人が良心的兵役拒否者として扱われることを申請した。スティーヴン・ホブハウス(英語版)など一部の平和活動家は兵役と代替役の両方を拒否した。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "1916年夏、ロシア帝国政府がムスリムの兵役免除を廃止したため中央アジア反乱が起きた。また1917年には一連のフランス軍反乱が起き、多くの兵士が処刑、投獄などされた。1917年9月、フランスにおけるロシア海外派遣軍(英語版)はフランスのために戦う理由に疑義を呈して反乱した。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "イタリアでは1917年5月、共産主義者がミラノで暴動を扇動して、終戦を訴えた。共産主義者は工場を操業停止に追い込み、公共交通機関も運休に追い込まれた。イタリア軍は戦車や機関銃などの武器を抱えてミラノに入城し、共産主義者と無政府主義者と対峙した。イタリア軍は5月23日にミラノを支配下に置いたが、イタリア兵3人を含む約50人が死亡、800人以上が逮捕された。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "ドイツ北部では1918年10月末にドイツ革命が勃発した。ドイツ海軍の水兵が、敗北必至の状況下で最後の大規模な戦役への出征を拒否して反乱した。軍港のヴィルヘルムスハーフェンとキールで勃発した水兵反乱(英語版)は数日で全国に飛び火し、1918年11月9日の共和国建国宣言、直後のヴィルヘルム2世退位につながった。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "徴兵は当時ヨーロッパ諸国で行われたが、英語圏では賛否両論だった。特にアイルランドのカトリック信者など少数派の間では不人気だった。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "カナダでは徴兵問題が1917年徴兵危機(英語版)という大きな政治危機に発展、カナダの英語話者とフランス語話者が仲違いするきっかけとなった。というのも、フランス系カナダ人がイギリス帝国ではなくカナダという国を愛したのに対し、多数派である英語話者はルーツがイギリス人だったため戦争を義務として扱ったという違いがあった。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "オーストラリアでは首相ビリー・ヒューズが徴兵支持運動を組織した結果、オーストラリア労働党の分裂を招き、ヒューズは1917年に民族主義党(英語版)を結成して運動を継続した。しかし、農民、労働運動、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票(英語版)は否決された。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "イギリスでは兵役に適する男子1千万人のうち600万人が招集され、そのうち75万人が戦争で命を落とした。死者の多くが若い未婚者だったが、16万人が妻帯者であり、子女がいる者も多く子供30万人が父を失った。第一次世界大戦中の徴兵は1916年兵役法(英語版)で始まった。兵役法では聖職者、子供のいる未亡人を除き、18歳から40歳までの独身男性の徴兵を定めた。兵役裁判所(英語版)という、健康、良心的兵役拒否などを理由とした兵役免除申請を審査する制度もあった。1月に成立した兵役法では既婚男性を除外したが、6月にはその条項が撤廃された。年齢の上限も後に51歳に引き上げられた。兵役裁判所の審査も徐々に厳しくなり、1918年には聖職者の徴兵も一定の支持を受けるようになった。徴兵は1919年中まで続いた。また、アイルランドでは政情不安により徴兵が施行されることはなく、徴兵はイングランド、スコットランド、ウェールズでのみ行われた。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3千人と目標の100万人を大きく下回ったため、政府は徴兵を決定した。アメリカの徴兵は1917年に開始され、一部の農村部を除いて受け入れられた。",
"title": "戦時下の社会"
},
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"text": "オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上がスラヴ人だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった。",
"title": "戦時下の社会"
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"text": "参戦諸国の外交とプロパガンダは自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと(戦況の悪化につき)再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国(イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア)を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族(チェコ人、ポーランド人、アラブ人)運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった。",
"title": "戦時下の社会"
},
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"paragraph_id": 292,
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"text": "同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が「ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した」と宣伝した。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が「ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した」に変わった。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して「連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った」と宣伝した。",
"title": "戦時下の社会"
},
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"text": "開戦直後から、ドイツ、イギリス、ロシア、フランスといった交戦国の政府は、自国の正当性を主張するためのプロパガンダの一環として、外交資料集を編纂・発表した。こうした流れは、終戦後、大戦開戦の責任はどの国家にあるのかという戦争責任論争につながり、第一次世界大戦の研究の焦点は、まず、開戦直前の外交政策に当てられることとなった。また、1922年以降、交戦国では軍事関係者の手による公式の戦史の刊行も始まった。",
"title": "研究史"
},
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"text": "1920年代後半には、より長期的なスパンで大戦の原因を探るべきだとする大戦起源論研究が主流となった。大戦起源論研究は、単なる外交史研究にとどまらず、帝国主義政策や軍備拡張競争といった面にも着目したものだった。こうした研究を通して、1930年代後半までに「第一次世界大戦の戦争責任は特定の国家にはない」という定説が形成されるに至った。",
"title": "研究史"
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"text": "しかし、第二次世界大戦後、西ドイツの歴史学者フリッツ・フィッシャーは、ドイツ政府関係史料に拠る実証研究をもとに、大戦開戦の責任はドイツにあるとし、再びドイツ単独責任論を唱えた。この説は西ドイツ内の歴史学者からの激しい批判を受けた(フィッシャー論争(ドイツ語版))が、最終的には国内を含め欧米の歴史学界で広く支持されるようになった。",
"title": "研究史"
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"text": "1960年代になると、経済史研究や人口統計学のような数量化による研究も行われるようになった。そして、第一次世界大戦研究は、大戦の原因をめぐる論争ではなく、大戦期の革命運動や各国の国内事情を主な対象とするようになっていった。アメリカの歴史学者ジェラルド・フェルドマン(英語版)は、大戦中の国内の権力構造の変化を論じ、ドイツの歴史学者ユルゲン・コッカ(英語版)は、マックス・ウェーバーの理論を応用して大戦研究を行った。",
"title": "研究史"
},
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"text": "こうした研究は、軍の指導者ではなく兵士の動向や銃後の社会に焦点を当てる「下からの」歴史研究につながっていく(社会史)。さらに90年代以降は、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの提唱した「短い20世紀」のように、第一次世界大戦を現代の起点であるとし、その意義を強調する議論も盛んとなった。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 298,
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"text": "一方、ドイツ近現代史研究者の木村靖二によれば、こうした歴史学者による第一次世界大戦の政治史・社会史研究と、軍事史家による伝統的な戦史研究は、いずれも相互の研究成果を十分に取り入れておらず、分断された状況にあり、第一次世界大戦史の総合的な研究を難しくしているという。",
"title": "研究史"
}
] | 第一次世界大戦は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で戦われた世界規模の戦争である。 7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。 戦争が長引いたことにより各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。 戦争は全世界の経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。 諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟(日英同盟を参照)を結んでいた大日本帝国は連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する。 | {{Otheruses|実際に行われた第一次世界大戦|その他の名称|第一次世界大戦 (曖昧さ回避)}}{{翻訳直後|1=[https://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Erster_Weltkrieg&oldid=173272248 ドイツ語版&oldid=173272248]、[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=World_War_I&oldid=821659949 英語版&oldid=821659949]|date=2018-05}}
{{出典の明記|date=2021-01}}
{{Battlebox
| battle_name = 第一次世界大戦
| campaign = 第一次世界大戦
| colour_scheme = background:#ffccaa
| image = [[File:WWImontage.jpg|300px]]
| caption = 左上から時計回りに、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]の戦場、英軍の[[戦車]]、[[ガリポリの戦い]]で沈む英軍の[[戦艦]]、[[ソンムの戦い]]で[[ガスマスク]]を着けて戦う英軍兵士、独軍の[[戦闘機]]
| conflict = 第一次世界大戦
| date = [[1914年]][[7月28日]] - [[1918年]][[11月11日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6-90775 |title=第1次世界大戦とは |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2022-12-07}}</ref>
| place = 主戦場は[[ヨーロッパ]]。他に[[東アジア]]、[[中東]]など。
| result = 連合国側の勝利、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ体制]]の成立。
| combatant1 = '''[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]'''<br/>{{GBR5}}<br/>{{FRA1870}}<br/>{{RUS1883}}<br/>{{ITA1861}}<br/>{{JPN1889}}<br>{{USA1912}}
| combatant2 = '''[[中央同盟国]]'''<br/>{{DEU1871}}<br/>{{AUT1867}}<br/>{{OTT}}<br/>{{BGR1908}}
| commander1 = {{Flagicon|GBR}} [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[デビッド・ロイド・ジョージ]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[レイモン・ポアンカレ]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[:en:René Viviani|ルネ・ヴィヴィアニ]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[アリスティード・ブリアン]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[:en:Alexandre Ribot|アレクサンドル・リボ]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[ポール・パンルヴェ]]<br/>{{Flagicon|FRA1794}} [[ジョルジュ・クレマンソー]]<br/>{{Flagicon|RUS1883}} [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]<br/>{{Flagicon|SRB1882}} [[ペータル1世 (セルビア王)|ペータル1世]]<br/>{{Flagicon|SRB1882}} [[:en:Nikola Pašić|ニコラ・パシッチ]]<br/>[[File:Flag of Montenegro (1905–1918).svg|25x20px|border]] [[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]<br/>[[File:Flag of Montenegro (1905–1918).svg|25x20px|border]] [[ヤンコ・ヴコティッチ]]<br/>{{Flagicon|BEL}} [[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]<br/>{{Flagicon|BEL}} [[:en:Charles de Broqueville|シャルル・ド・ブロクヴィル]]<br/>{{Flagicon|ITA1861}} [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]<br/>{{Flagicon|ITA1861}} [[:en:Antonio Salandra|アントニオ・サランドラ]]<br/>{{Flagicon|ITA1861}} [[:en:Paolo Boselli|パオロ・ボセッリ]]<br/>{{Flagicon|ITA1861}} [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]<br/>{{Flagicon|ROM1881}} [[フェルディナンド1世 (ルーマニア王)|フェルディナンド1世]]<br/>{{Flagicon|ROM1881}} [[:en:Ion I. C. Brătianu|イオン・ブラティアヌ]]<br/>{{Flagicon|ROM1881}} [[アレクサンドル・アヴェレスク]]<br/>{{Flagicon|ROM1881}} [[:en:Alexandru Marghiloman|アレクサンドル・マルギロマン]]<br/>{{Flagicon|PRT}} [[:en:Bernardino Machado|ベルナルディノ・マシャド]]<br/>{{Flagicon|PRT}} [[シドニオ・パイス]]<br/>{{Flagicon|GRC1828}} [[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[大正天皇]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[大隈重信]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[寺内正毅]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[原敬]]<br/>{{Flagicon|CHN1912}} [[段祺瑞]]<br/>{{Flagicon|THA}} [[ラーマ6世]]<br/>[[File:Flag of Hejaz 1917.svg|25x20px|border]] [[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]<br/>{{Flagicon|USA1912}} [[ウッドロウ・ウィルソン]]
| commander2 = {{Flagicon|DEU1871}} [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]<br/>{{Flagicon|DEU1871}} [[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]<br/>{{Flagicon|DEU1871}} [[ゲオルク・ミヒャエリス]]<br/>{{Flagicon|DEU1871}} [[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]<br/>{{Flagicon|DEU1871}} [[エーリヒ・ルーデンドルフ]]<br/>{{Flagicon|AUT1804}} [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]<br/>{{Flagicon|AUT1804}} [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]<br/>{{Flagicon|AUT1804}} [[レオポルト・ベルヒトルト]]<br/>{{Flagicon|AUT1804}} [[シュテファン・ブリアン]]<br/>{{Flagicon|AUT1804}} [[:en:Ottokar Czernin|オトカル・フォン・チェルニン]]<br/>[[File:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|25x20px|border]] [[メフメト5世]]<br/>[[File:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|25x20px|border]] [[メフメト6世]]<br/>[[File:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|25x20px|border]] [[エンヴェル・パシャ]]<br/>[[File:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|25x20px|border]] [[タラート・パシャ]]<br/>[[File:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|25x20px|border]] [[ジェマル・パシャ]]<br/>{{Flagicon|BGR1878}} [[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]<br/>{{Flagicon|BGR1878}} [[:en:Vasil Radoslavov|ヴァシル・ラドスラホフ]]<br/>{{Flagicon|BGR1878}} [[アレクサンドル・マリノフ]]
| strength1 = {{Flagicon|RUS}} 12,000,000<br/>{{Flagicon|GBR}} 8,841,541<ref>{{Cite web |url=http://www.1914-1918.net/faq.htm |title=British Army statistics of the Great War |publisher=1914-1918.net |accessdate=2011-12-13}}</ref><ref group="注釈">イギリス帝国の合計</ref><br/>{{Flagicon|FRA1794}} 8,660,000<ref group="注釈">植民地との合算</ref><br/>{{Flagicon|ITA1861}} 5,615,140<br/>{{Flagicon|USA1912}} 4,743,826<br/>{{Flagicon|ROM}} 1,234,000<br/>{{Flagicon|JPN1889}} 800,000<br/>{{Flagicon|SRB1882}} 707,343<br/>{{Flagicon|BEL}} 380,000<br/>{{Flagicon|GRC1828}} 250,000<br/>{{Flagicon|Kingdom of Montenegro}} 50,000<br/>''合計:42,959,850''<ref name="Tucker 2005 273">{{harvnb|Tucker|Roberts|2005|p=273}}</ref>
| strength2 = {{Flagicon|DEU1871}} 13,250,000<br/>{{Flagicon|AUT1804}} 7,800,000<br/>{{Flagicon|TUR}} 2,998,321<br/>{{Flagicon|BGR}} 1,200,000<br/>''合計:25,248,321
| casualties1 = 戦死者 553万人<br/>戦傷者 1283万人<br/>行方不明 412万人
| casualties2 = 戦死者 439万人<br/>戦傷者 839万人<br/>行方不明 363万人<ref>Evans, David. ''Teach yourself, the First World War'', Hodder Arnold, 2004, p.188.</ref>
}}
'''第一次世界大戦'''(だいいちじせかいたいせん、{{lang-en-short|World War I}}、略称:'''WWI''')は、[[1914年]][[7月28日]]から[[1918年]][[11月11日]]にかけて、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[中央同盟国]]間で戦われた世界規模の[[戦争]]である。
7000万以上の[[軍人]](うち[[ヨーロッパ人]]は6000万)が動員され、[[世界史]]上最大の戦争の一つとなった{{Sfn|Keegan|1998|p=8}}{{Sfn|Bade|Brown|2003|pp=167-168}}。[[第二次産業革命]]による技術革新と[[塹壕戦]]による[[戦線]]の膠着で[[死亡率]]が大幅に上昇し、[[ジェノサイド]]の犠牲者を含めた[[戦闘員]]900万人以上と[[非戦闘員]]700万人以上が[[第一次世界大戦の犠牲者|死亡した]]。[[人為的な要因による死者数一覧|史上死亡者数の最も多い戦争]]の一つである。
戦争が長引いたことにより各地で革命が勃発し、4つの帝国([[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[ロシア帝国]])が崩壊した。終戦後([[戦間期]])も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年には[[第二次世界大戦]]が勃発した{{Sfn|Willmott|2003|p=307}}。
戦争は全世界の[[経済大国]]を巻き込み{{Sfn|Willmott|2003|pp=10-11}}、それらを[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]([[ロシア帝国]]、[[フランス第三共和政]]、[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]の[[三国協商]]に基づく)と[[中央同盟国]](主に[[ドイツ帝国]]と[[オーストリア=ハンガリー帝国]])の両陣営に二分した。[[イタリア王国]]は[[ドイツ帝国]]およびオーストリア=ハンガリー帝国と[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を締結していたが、[[未回収のイタリア]]を巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した<ref name="Willmott15">{{harvnb|Willmott|2003|p=15}}</ref>。
諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟([[日英同盟]]を参照)を結んでいた[[大日本帝国]]は連合国として、ドイツと同盟を結んでいた[[オスマン帝国]]は中央同盟国側について参戦した{{Sfn|牧野雅彦|2009|凡例。}}。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、[[2018年]]時点の[[国家]]に当てはめると約50カ国に達する<ref>大戦終結100年の2018年11月11日、[[ベルギー]]の[[アールスコート]]に平和を祈る[[カリヨン]]が設けられた。これに組み込まれた[[鐘]]は51個で、参戦国や戦争に巻き込まれた国・地域の数を表している。[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018111201001854.html 第1次大戦終結から100年/平和を願う ベルギー「平和の鐘」]『東京新聞』夕刊2018年11月21日(7面)掲載の[[共同通信]]配信記事</ref>。
== 名称 ==
第一次世界大戦は、[[第二次世界大戦]]が勃発するまで、'''世界戦争''' ({{lang|en|World War}}) または'''大戦争''' ({{lang|en|Great War}}) と呼ぶのが一般であった<ref>もとより、第二次世界大戦が勃発する前も、当然ながら、「最初」の世界大戦 (First World War) という観念はあり(本文のエルンスト・ヘッケルの用例)、また、「次の世界大戦」の勃発することを想定し、「第一次世界大戦」という言い方をすることもあった(例:[[石丸藤太]]「共産ロシア抹殺論」、1938年、142頁、131頁)。</ref>。あるいは、'''欧州大戦''' ({{lang|en|War in Europe}})、'''[[戦争を終わらせるための戦争]]''' ({{lang|en|the war to end wars}}<ref name="WarToEndAllWars">{{Cite news |date=1998-11-10 |title=The war to end all wars |publisher=BBC News |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/10/98/world_war_i/198172.stm}}</ref>) という表現もあった<ref name="WarToEndAllWars"/><ref>山室信一『複合戦争と総力戦の断層』―日本にとっての第一次世界大戦(レクチャー第一次世界大戦を考える)p.17、人文書院、2011年</ref>。主に'''第一次世界戦争'''({{lang|en|First World War}}または{{lang|en|World War I}})と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である<ref>{{Cite web |title=Were they always called World War I and World War II? |url=http://www.history.com/news/ask-history/were-they-always-called-world-war-i-and-world-war-ii |work=Ask History |accessdate=2013-10-24}}</ref>{{Sfn|Braybon|2004|p=8}}。
このうち「世界戦争」({{lang-de|Weltkrieg}}) という用語が初めて使われたのは[[ドイツ帝国]]であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「[[世界政策]]」 ({{lang|de|Weltpolitik}}) の存在などがあったという{{Sfn|木村靖二|2014|pp=20-22}}。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった{{Sfn|木村靖二|2014|pp=20-22}}。
「第一次世界戦争」({{lang|en|First World War}}) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者である[[エルンスト・ヘッケル]]が「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争 ({{lang|en|the first world war}}) 』となるだろう」と述べた時だった<ref group="注釈">ただし日本語訳の通り、「第一次世界戦争」({{lang|en|First World War}}) ではなく「初の世界戦争」({{lang|en|first world war}}) という意味である。</ref>{{Sfn|Shapiro|Epstein|2006|p=329}}。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスと[[カナダ]]の歴史家は{{lang|en|First World War}}を、アメリカの歴史家は{{lang|en|World War I}}を多用した<ref>{{Cite book |last1=Fee|first1=Margery |last2=McAlpine|first2=Janice |title=Guide to Canadian English Usage |publisher=[[オックスフォード大学]] Press |year=1997 |page=210}}</ref>。
一方、「大戦争」({{lang-en|Great War}}, {{lang-fr|la Grande Guerre}}) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた{{Sfn|木村靖二|2014|pp=20-22}}。カナダでも1914年10月号の{{仮リンク|マクリーンズ (雑誌)|en|Maclean's|label=マクリーンズ誌}}が「大戦争」({{lang|en|Great War}}) とした<ref>{{Cite web |url=http://www.macleans.ca/patricia-treble/the-start-of-the-great-war/ |title=Maclean’s named the Great War |last=Treble |first=Patricia |date=2014-08-02 |accessdate=2018-01-22 |publisher={{仮リンク|マクリーンズ (雑誌)|en|Maclean's|label=マクリーンズ}}}}</ref>。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという{{Sfn|木村靖二|2014|pp=20-22}}。
歴史家の{{仮リンク|ガレス・グロヴァー|en|Gareth Glover}}は著書の『100の物が語る[[ワーテルローの戦い|ウォータールー]]』({{lang|en|Waterloo in 100 Objects}}) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った[[フランス革命戦争|革命戦争]]と[[ナポレオン戦争]]を意味した」と述べた<ref>{{Cite web |url=http://www.thehistorypress.co.uk/articles/waterloo-the-great-war/ |title=Waterloo: The Great War |publisher=The History Press |accessdate=2017-10-14}}</ref>。例えば、歴史家の[[ジョン・ホランド・ローズ]]は1911年に『[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]と大戦争』({{lang|en|William Pitt and the Great War}}) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。
[[木村靖二]]によれば、日本で定着した名称「'''世界大戦'''」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという{{Sfn|木村靖二|2014|pp=20-22}}。
== 略史 ==
戦争の引き金となったのは1914年6月28日、{{仮リンク|ユーゴスラヴィア主義|en|Yugoslavism|label=ユーゴスラヴィア民族主義者}}の青年[[ガヴリロ・プリンツィプ]]が、[[サラエヴォ]]への視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を暗殺した事件([[サラエボ事件|サラエヴォ事件]])だった。
これにより、オーストリア=ハンガリーは[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]に[[最後通牒]]を発するという[[オーストリア最後通牒|七月危機]]が起こった<ref name="AJPT2">{{harvnb|Taylor|1998|pp=80-93}}</ref>{{Sfn|Djokić|2003|p=24}}。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる<ref>タックマン『八月の砲声』</ref>。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の[[同盟]]網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州[[列強]]が全て参戦することとなった。
まず7月24日から25日にはロシアが一部[[動員]]を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに[[宣戦布告]]すると、ロシアは30日に総動員を命じた<ref name="Levy">{{harvnb|Levy|Vasquez|2014|p=250}}</ref>。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の[[普仏戦争]]の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも[[要塞]]化されていたため、ドイツは[[シュリーフェン・プラン]]に基づき[[ベルギー]]と[[ルクセンブルク]]に侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの[[中立]]を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した{{Sfn|Evans|2004|p=12}}{{Sfn|Martel|2003|p=xii ff}}。イギリスと[[日英同盟|同盟]]を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。
ドイツ陸軍の[[パリ]]進軍が1914年9月の[[マルヌ会戦|第一次マルヌ会戦]]で食い止められると、この[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は[[消耗戦]]の様相を呈し、1917年まで[[塹壕戦|塹壕線]]がほとんど動かない状況となった。[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツは[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]と[[第一次マズーリ湖攻勢]]で{{仮リンク|ロシアによる東プロイセン侵攻 (1914年)|en|Russian invasion of East Prussia (1914)|label=ロシアによる東プロイセン侵攻}}を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、[[カフカース]]と[[中東]]([[メソポタミア]]や[[シナイ半島]])の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。[[ルーマニア王国]]とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。
ロシアでは1917年3月に[[2月革命 (1917年)|二月革命]]によって帝政が崩壊し、代わって成立した[[ロシア臨時政府]]も[[十月革命]]で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国と[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で[[1918年春季攻勢|春季攻勢]]を仕掛けたが、連合国軍は{{仮リンク|百日攻勢|en|Hundred Days Offensive}}でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーは[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を締結。ドイツも[[ドイツ革命|革命]]が起こったため[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]を締結し、戦争は連合国の勝利となった。
戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。[[国境]]線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した<ref>{{Cite web|url=https://www.quora.com/What-new-countries-were-created-after-World-War-I|title=What new countries were created after World War I? - Updated|website=www.quora.com|language=英語|accessdate=2017-12-15}}</ref>。また、[[ドイツ植民地帝国]]は戦勝国の間で分割された。
1919年の[[パリ講和会議]]においては「[[五大国]]」(イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って[[国際連盟]]が設立されたが、この取り組みは失敗した。[[世界恐慌]]、[[民族主義]]の復活、後継国家の弱体化、敗戦国側(特にドイツ)の屈辱感は、やがて[[第二次世界大戦]]を引き起こすこととなった。
軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する[[国家総力戦]]であった。航空機や[[化学兵器]]([[毒ガス]])、[[潜水艦]]、[[戦車]]といった新兵器が大規模または史上初めて使われた<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201808/CK2018081902000131.html <第1次世界大戦終結100年>戦場の理屈 大量殺害]『[[東京新聞]]』朝刊2018年8月19日(2018年11月18日閲覧)。</ref>([[#軍事技術|軍事技術]]も参照)。
== 背景 ==
{{Main|第一次世界大戦の原因}}
[[画像:Map Europe alliances 1914-en.svg|thumb|upright=1.4|1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ。緑は[[三国協商]]で茶色は[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]である。]]
=== 政治と軍事同盟 ===
19世紀の間、ヨーロッパ列強は[[勢力均衡]]を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた{{Sfn|Clark|2014|pp=121-152}}。その端緒となったのは1815年に[[プロイセン王国]]、ロシア帝国、[[オーストリア帝国]]の間で締結された[[神聖同盟]]であった。1871年にプロイセン王国が[[ドイツ統一]]を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ[[ドイツ国首相|首相]][[オットー・フォン・ビスマルク]]は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での[[三帝同盟]]を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアが[[バルカン半島]]政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で[[独墺同盟]]を締結した。これはオスマン帝国が{{仮リンク|オスマン帝国の衰退と近代化|en|Decline and modernization of the Ottoman Empire|label=衰退}}を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった<ref name="Willmott15"/>。1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、[[イタリア王国]]が加入して[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]となった{{Sfn|Keegan|1998|p=52}}。また[[アジア]]においては、[[1902年]]に[[日本]]と[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]が[[日英同盟]]を締結した。
ビスマルクはフランスおよびロシアとの[[二正面作戦]]を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が[[ドイツ皇帝]]に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの[[独露再保障条約]]の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと[[露仏同盟]]を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと[[英仏協商]]を、1907年にロシアと[[英露協商]]を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に[[三国協商]]と呼ばれた<ref name="Willmott15"/>。
=== 軍備拡張競争 ===
{{See also|{{仮リンク|英独建艦競争|en|Anglo-German naval arms race}}}}
[[画像:Bundesarchiv DVM 10 Bild-23-61-23, Linienschiff "SMS Rheinland".jpg|thumb|left|ドイツがイギリスの[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]への対抗として建造した[[ナッサウ級戦艦]][[ラインラント (戦艦)|ラインラント]]]]
[[File:Winston Churchill - 1914 Cartoon - Project Gutenberg eText 12536.png|200px|thumb|後にイギリス首相となる[[ウィンストン・チャーチル]]が、第一次世界大戦前に海軍大臣に就いていた時、ドイツの軍拡に対抗するため、海軍予算の増額を主張し、与党ではなく野党保守党(TORY)から支持を受けたことを風刺した絵(1914年1月14日『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌)。]]
[[普仏戦争]]後の1871年に[[ドイツ統一]]が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督率いる[[ドイツ帝国海軍]]を設立して、海軍の優越をめぐって[[イギリス海軍]]と競争した<ref name="willmott21"/>。
その結果、両国は[[主力艦]]の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスの[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]が竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた<ref name="willmott21">{{harvnb|Willmott|2003|p=21}}</ref>。英独間の[[軍備拡張競争]]は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した{{Sfn|Prior|1999|p=18}}。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した{{Sfn|Fromkin|2004|p=94}}。
{{-}}
=== バルカン半島の紛争 ===
[[ファイル:1908-10-07 - Moritz Schiller's Delicatessen.jpg|thumb|1908年の[[ボスニア危機|オーストリアによるボスニア併合]]宣言を読む[[サラエヴォ]]の住民(1908年10月)]]
オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを[[オーストリアによるボスニアでの戦闘 (1878年)|占領した]]が、1908年にそれを[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|正式に併合]]して、1908年から1909年にかけての[[ボスニア危機]]を引き起こした。これは[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]とその後援国で[[汎スラヴ主義]]を支持していたロシア帝国を沸騰させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「[[ヨーロッパの火薬庫]]」と呼ばれるに至った{{Sfn|Keegan|1998|pp=48-49}}。
1912年から1913年にかけて、[[バルカン同盟]]と徐々に解体していったオスマン帝国の間で[[第一次バルカン戦争]]が勃発。その講和条約である[[ロンドン条約 (1913年)|ロンドン条約]]では[[アルバニア公国]]が独立した一方、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、セルビア王国、[[モンテネグロ王国]]、[[ギリシャ王国]]は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して[[第二次バルカン戦争]]が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。[[マケドニア]]の大半をセルビアとギリシャに、{{仮リンク|南ドブルジャ|en|Southern Dobruja}}を[[ルーマニア王国]]に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった{{Sfn|Willmott|2003|pp=2-23}}。
列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。
== 開戦 ==
=== サラエヴォ事件 ===
{{Main|サラエヴォ事件}}
[[画像:Gavrilo Princip captured in Sarajevo 1914.jpg|thumb|この写真は一般的には[[ガヴリロ・プリンツィプ]]が逮捕される瞬間とされているが、一部の文献<ref name="FinestoneMassie">{{Cite book |first1=Jeffrey|last1=Finestone |first2=Robert K.|last2=Massie |title=The last courts of Europe |url={{google books|plainurl=y|id=-1cvAAAAMAAJ|page=247}} |year=1981 |publisher=Dent |page=247}}</ref>{{Sfn|Smith|2010|p=210}}では見物人の一人であるフェルディナント・ベール ({{lang|de|Ferdinand Behr}}) としている。]]
1914年6月28日、オーストリアの[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]の州都[[サラエヴォ]]を訪問した。
{{仮リンク|ユーゴスラヴ主義|en|Yugoslavism}}組織{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}からの暗殺者6人({{仮リンク|クヴジェトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}、[[ガヴリロ・プリンツィプ]]、{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}、{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}、[[トリフコ・グラベジュ]]、{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}})はセルビア[[黒手組]]の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは[[手榴弾]]を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。
フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエヴォ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプは[[ピストル]]で大公と大公の妻[[ゾフィー・ホテク]]を射殺した。
オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家の{{仮リンク|ズビニェク・ゼマン|en|Zbyněk Zeman}}は後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」と<ref name="history">{{Cite web |url=http://www.history.com/this-day-in-history/european-powers-maintain-focus-despite-killings-in-sarajevo |title=European powers maintain focus despite killings in Sarajevo — History.com This Day in History |date=1914-06-30 |publisher=History.com |accessdate=2013-12-26}}</ref>{{Sfn|Willmott|2003|p=26}}。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「[[アメリカ同時多発テロ事件|9月11日効果]]」と形容するものもある<ref name="Christopher Clark 2014">{{Cite AV media |title=Month of Madness |first=Christopher|last=Clark |publisher=BBC Radio 4 |date=2014-06-25 |url=http://www.bbc.co.uk/programmes/b03t7p27}}</ref>。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]は衝撃を受けて、怯えた。
=== ボスニア・ヘルツェゴヴィナの騒動 ===
オーストリア=ハンガリー当局は、{{仮リンク|サラエヴォの反セルビア暴動|en|Anti-Serb riots in Sarajevo}}を煽動した。その結果、サラエヴォでは{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人|en|Serbs of Bosnia and Herzegovina|label=ボスニア系セルビア人}}2人が{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴヴィナのクロアチア人|en|Croats of Bosnia and Herzegovina|label=ボスニア系クロアチア人}}と[[ボシュニャク人]]により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた<ref name="DjordjevićSpence1992">{{Cite book |first1=Dimitrije|last1=Djordjević|first2=Richard B.|last2=Spence |title=Scholar, patriot, mentor: historical essays in honor of Dimitrije Djordjević |url={{google books |plainurl=y |id=CDJpAAAAMAAJ|page=313}} |year=1992 |publisher=East European Monographs |isbn=978-0-88033-217-0 |page=313 |quote=Following the assassination of Franz Ferdinand in June 1914, Croats and Muslims in Sarajevo joined forces in an anti-Serb pogrom.}}</ref><ref>{{Cite book |title=Reports Service: Southeast Europe series |url={{google books|plainurl=y|id=QGtWAAAAMAAJ}} |accessdate=2013-12-07 |year=1964 |publisher=American Universities Field Staff. |page=44 |quote=... the assassination was followed by officially encouraged anti-Serb riots in Sarajevo ...}}</ref>。
セルビア人に対する暴力はサラエヴォ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、[[クロアチア]]、[[スロベニア]]などで起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「{{仮リンク|Schutzkorps|en|Schutzkorps|label=保護団体}}」も設立され、セルビア人を迫害した<ref name="Kröll2008">{{Cite book |first=Herbert|last=Kröll |title=Austrian-Greek encounters over the centuries: history, diplomacy, politics, arts, economics |url={{google books|plainurl=y|id=uJRnAAAAMAAJ}} |accessdate=2013-09-01 |date=2008-02-28 |publisher=Studienverlag |isbn=978-3-7065-4526-6 |page=55 |quote=... arrested and interned some 5.500 prominent Serbs and sentenced to death some 460 persons, a new Schutzkorps, an auxiliary militia, widened the anti-Serb repression.}}</ref>{{Sfn|Tomasevich|2001|p=485}}<ref name="Schindler2007">{{Cite book |first=John R. |last=Schindler |title=Unholy Terror: Bosnia, Al-Qa'ida, and the Rise of Global Jihad |url={{google books|plainurl=y|id=c8Xb6x2XYvIC|page=29}} |year=2007 |publisher=Zenith Imprint |isbn=978-1-61673-964-5 |page=29}}</ref>{{Sfn|Velikonja|2003|p=141}}。
=== 七月危機 ===
{{Main|[[オーストリア最後通牒|七月危機]]}}
[[画像:1914-06-29 - Aftermath of attacks against Serbs in Sarajevo.png|thumb|left|{{仮リンク|サラエヴォの反セルビア暴動|en|Anti-Serb riots in Sarajevo}}の後、通りに集まった群衆、1914年6月29日。]]
[[画像:Austria Hungary ethnic.svg|thumb|1910年時点のオーストリア=ハンガリー、色分けは民族と母語による。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは1908年に併合された領地である。]]
暗殺事件により、[[オーストリア最後通牒|七月危機]]と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。
オーストリア=ハンガリーはセルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした。{{Sfn|Stevenson|1996|p=12}}7月23日にセルビアに対し[[最後通牒]]を発し、セルビアへ犯人の黒手組を調査させるべく10点の要求を突き付けた{{Sfn|Willmott|2003|p=27}}。セルビアは25日に総動員したが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第五条と、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条除いて最後通牒の要求を受諾した<ref>Fromkin, David; ''Europe's Last Summer: Why the World Went to War in 1914'', Heinemann, 2004; pp.196-197.</ref>。
その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。
7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが<ref name="Levy"/>、翌30日には[[動員|総動員]]に切り替えた。ヴィルヘルム2世は[[いとこ]]にあたるロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]は31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。
[[画像:Schlieffen Plan fr.svg|280px|thumb|シュリーフェン・プランによるドイツ軍の進行路]]
ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツの[[シュリーフェン・プラン]]では軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト ({{lang|de|Aufmarsch II West}}) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト ({{lang|de|Aufmarsch I Ost}}) とアウフマーシュ・II・オスト ({{lang|de|Aufmarsch II Ost}}) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、[[東プロイセン]]の[[鉄道]]の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。
8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]に「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍が[[ルクセンブルク]]に進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた<ref>{{Cite news |url=http://www.telegraph.co.uk/history/world-war-one/11002644/First-World-War-centenary-how-events-unfolded-on-August-1-1914.html |title=First World War centenary: how the events of August 1 1914 unfolded |date=2014-08-01 |last=Preston |first=Richard |newspaper=The Telegraph |language=en |accessdate=2018-01-28}}</ref><ref>{{Cite book |last=McMeekin|first=Sean |title=July 1914: Countdown to War |publisher=Basic Books |year=2014 |isbn=978-0465060740 |pages=342,349}}</ref>。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した{{Sfn|Crowe|2001|pp=4-5}}<ref>{{Cite book |last=Dell|first=Pamela |title=A World War I Timeline (Smithsonian War Timelines Series) |year=2013 |publisher=Capstone |isbn=978-1-4765-4159-4 |pages=10-12}}</ref>{{Sfn|Willmott|2003|p=29}}。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに[[イギリスの対独宣戦布告 (1914年)|宣戦布告]]した(午後11時に発効)<ref>{{Cite web |url=http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwone/mirror01_01.shtml |publisher=BBC |title=Daily Mirror Headlines: The Declaration of War, Published 4 August 1914 |language=英語 |accessdate=2010-02-09}}</ref>。
== 1914年の戦闘 ==
=== 中央同盟国の緒戦での混乱 ===
[[画像:World War I 1914 08 04.png|350px|thumb|1914年8月4日時点の両陣営
{{legend|#59be6e|連合国}}
{{legend|#a9da7f|連合国の植民地・占領地域}}
{{legend|#f7b433|同盟国}}
{{legend|#f2db76|同盟国の植民地・占領地域}}]]
中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。
オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが{{Sfn|Strachan|2003|pp=292-296, 343-354}}、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱により{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー陸軍|en|Austro-Hungarian Army}}は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。
=== 1914年のセルビア戦役 ===
[[画像:FirstSerbianArmedPlane1915.jpg|thumb|セルビア軍の[[ブレリオ XI]]機、1915年。]]
{{Main|{{仮リンク|セルビア戦役|en|Serbian Campaign of World War I}}}}
オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。{{仮リンク|ツェルの戦い|en|Battle of Cer}}、続いて{{仮リンク|コルバラの戦い|en|Battle of Kolubara}}でセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。
その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった{{Sfn|Tucker|Roberts|2005|p=172}}。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた<ref>{{Cite web |first=John R.|last=Schindler |url=http://wih.sagepub.com/content/9/2/159.abstract |title=Disaster on the Drina: The Austro-Hungarian Army in Serbia, 1914 |publisher=Wih.sagepub.com |date=2002-04-01 |accessdate=2013-03-13}}</ref>。
[[画像:Flüchtlingstransport Leibnitz - k.k. Innenministerium - 1914.jpg|thumb|セルビアから脱出した難民、1914年の[[ライプニッツ (シュタイアーマルク州)|ライプニッツ]]にて。]]
セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.834 f.</ref>。
12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍の[[クラクフ]]への進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけて{{仮リンク|カルパティアの戦い|de|Schlacht in den Karpaten|label=カルパティア山脈の冬季戦役}}が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.108 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.606; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.242 ff.</ref>。
=== 西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行 ===
{{Main|西部戦線 (第一次世界大戦)}}
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R25206, Berlin, Erster Sold nach der Mobilmachung.jpg|thumb|動員以降の初給料支払い、1914年、[[ベルリン]]にて。]]
ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、{{仮リンク|第10軍団 (ドイツ帝国)|en|X Corps (German Empire)|label=ドイツ第10軍団}}はベルギーの[[リエージュ]]要塞への攻撃を開始した([[リエージュの戦い]])。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造された{{仮リンク|リエージュ要塞群|en|Fortified position of Liège|label=リエージュの12要塞}}はすぐには陥落しなかった。
ドイツは[[ディッケ・ベルタ]]という[[攻城砲|重砲]]を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾が{{仮リンク|ロンサン砦|en|Fort de Loncin}}の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた<ref>Wolfdieter Bihl: ''Der Erste Weltkrieg. 1914-1918.'' Böhlau, Wien 2010, ISBN 978-3-205-78379-4, p.90; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.45, p.686 f.</ref>。
[[画像:AnDasDeutscheVolkWilhelm1914.jpg|thumb|left|[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]による「ドイツ人民へ!」({{lang|de|An das deutsche Volk!}}) の宣言、1914年8月6日。]]
第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くの[[ヴィゼ]]、{{仮リンク|ダレム|en|Dalhem}}、{{仮リンク|バティス (フランス)|fr|Battice|label=バティス}}で起きたことだった<ref>John Horne, Alan Kramer: ''Deutsche Kriegsgreuel 1914. Die umstrittene Wahrheit.'' Hamburger Edition, Hamburg 2004, ISBN 3-930908-94-8, p.24 f.</ref>。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由は{{仮リンク|フラン=ティルール|en|Francs-tireurs}}によるドイツ軍への[[ゲリラ]]攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い[[戦争犯罪]]については{{仮リンク|ディナンの戦い|en|Battle of Dinant|label=ディナン}}、{{仮リンク|タミーヌの虐殺|fr|Massacre de Tamines|label=タミーヌ}}、{{仮リンク|アンデンヌ|en|Andenne}}、[[アールスコート]]で起きた<ref>John Horne, Alan Kramer: ''Deutsche Kriegsgreuel 1914. Die umstrittene Wahrheit.'' Hamburger Edition, Hamburg 2004, ISBN 3-930908-94-8, p.25 ff., p.120 ff., p.137 ff. Ulrich Keller: ''Schuldfragen: Belgischer Untergrundkrieg und deutsche Vergeltung im August 1914''. Mit einem Vorwort von Gerd Krumeich. Schöningh, Paderborn 2017, ISBN 978-3-506-78744-6, p.131 ff., 169 ff.</ref>。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり<ref>Spencer Tucker (Hrsg.): ''The Encyclopedia of World War I. A Political, Social and Military History''. Verlag ABC-Clio, Santa Barbara 2005, ISBN 1-85109-420-2, p.192. Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.46 f.</ref>、また{{仮リンク|レーヴェンの破壊|de|Zerstörung Löwens im Ersten Weltkrieg}}でドイツは国際世論の非難を受けた<ref>John Horne, Alan Kramer: ''Deutsche Kriegsgreuel 1914. Die umstrittene Wahrheit.'' Hamburger Edition, Hamburg 2004, ISBN 3-930908-94-8, p.21 ff. Ulrich Keller: ''Schuldfragen: Belgischer Untergrundkrieg und deutsche Vergeltung im August 1914''. Mit einem Vorwort von Gerd Krumeich. Schöningh, Paderborn 2017, ISBN 978-3-506-78744-6, p.43 ff.</ref>。これらの[[戦争犯罪]]はイギリスの[[プロパガンダ]]で真偽まじりで宣伝され、「{{仮リンク|ベルギーの強奪|en|Rape of Belgium}}」という語が生まれた。
[[画像:German infantry 1914 HD-SN-99-02296.JPEG|300px|thumb|前進するドイツ軍、1914年8月7日]]
ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側では{{仮リンク|プラン17|en|Plan XVII}}を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、[[ロレーヌ]]での中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、[[ミュルーズ]]への攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官[[ジョゼフ・ジョフル]]はドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていた[[アルザス=ロレーヌ]]の奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までに{{仮リンク|ドラー川 (フランス)|en|Doller (river)|label=ドラー川}}沿岸と[[ヴォージュ山脈]]の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮した{{仮リンク|ルイ・ボノー|fr|Louis Bonneau}}はジョフルに解任された<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.202 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.136 ff.</ref>。
[[Image:Photo portrait of Gen Joffre (darker).jpg|thumb|140px|left|フランス軍総司令官[[ジョゼフ・ジョフル]]]]
ジョフルは当初プラン17の遂行に集中して、フランス兵170万を5個軍に編成、ドイツによるベルギー攻撃を顧みなかった。だがドイツ軍の行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、{{仮リンク|シャルル・ランレザック|en|Charles Lanrezac}}率いる{{仮リンク|第5軍 (フランス)|en|Fifth Army (France)|label=フランス第5軍}}を北西部に派遣した。ちょうどフランスに上陸した、[[ジョン・フレンチ]]率いる[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|イギリス海外派遣軍]]は[[モブージュ]]の北でフランス軍と合流した。フランスの攻勢は8月14日に始まり、{{仮リンク|オーギュスタン・デュバイ|en|Augustin Dubail}}率いる{{仮リンク|第1軍 (フランス)|en|First Army (France)|label=フランス第1軍}}と{{仮リンク|エドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー|en|Noël Édouard, vicomte de Curières de Castelnau}}率いる{{仮リンク|第2軍 (フランス)|en|Second Army (France)|label=フランス第2軍}}は国境を越えて[[サールブール]]に進軍、[[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト・フォン・バイエルン]]率いるドイツ{{仮リンク|第6軍 (ドイツ帝国)|en|6th Army (German Empire)|label=第6軍}}と{{仮リンク|第7軍 (ドイツ帝国)|en|7th Army (German Empire)|label=第7軍}}は戦闘を回避した。
[[画像:Battle of Frontiers - Map.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|国境の戦い|en|Battle of the Frontiers}}の情勢、1914年8月3日から26日まで。この時点でフランスの{{仮リンク|プラン17|en|Plan XVII}}の失敗が明らかになった。]]
8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くも[[ブリュッセル]]と[[ナミュール]]に押し寄せると、ベルギー軍の大半は[[アントウェルペン]]の要塞に退却、そこから2か月間にわたる{{仮リンク|アントウェルペン包囲戦 (1914年)|en|Siege of Antwerp (1914)|label=アントウェルペン包囲戦}}が始まった。20日、フランス軍は本命となる[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]と[[ザールルイ]]地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。
こうして、[[ザールブルク]]、[[ロンウィ]]、[[バルジの戦い#名称|アルデンヌの戦い]]、[[マース川]]、[[サンブル川]]とマース川の間、{{仮リンク|モンスの戦い|en|Battle of Mons|label=モンス}}という長大な前線で{{仮リンク|国境の戦い|en|Battle of the Frontiers}}と呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出した。死傷者の多くは[[機関銃]]によるものだった。
フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかし、フランス軍は紀律を保ち、ロレーヌでは[[ムルト川]]の後ろ、[[ナンシー]]周辺の要塞群に退却。フランス北部でも[[マース川]]の後ろにある[[ヴェルダン]]要塞を保持したため、大部隊がドイツに包囲されて失われるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンはシュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]に求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.202 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.138 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.533 f.</ref>。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R05939, Westfront, Bauern auf der Flucht.jpg|thumb|逃亡するフランス人家族、1914年。]]
左翼の英仏軍は{{仮リンク|大撤退 (西部戦線)|en|Great Retreat|label=大撤退}}を開始、{{仮リンク|ル・カトーの戦い (1914年)|en|Battle of Le Cateau|label=ル・カトーの戦い}}(8月26日)や{{仮リンク|サン=カンタンの戦い (1914年)|en|Battle of St. Quentin (1914)|label=サン=カンタンの戦い}}(8月29日)を間に挟んで撤退を続け、それを追撃するドイツ軍右翼はパリへと接近した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.144 ff.</ref>。フランス政府は9月2日にパリから[[ボルドー]]に[[疎開]]し、パリの守備は既に引退していた[[ジョゼフ・ガリエニ]]が現役復帰して担当した。フランス軍右翼と予備軍から兵士が引き抜かれて{{仮リンク|ミシェル=ジョゼフ・モーヌリー|en|Michel-Joseph Maunoury}}率いる{{仮リンク|第6軍 (フランス)|en|Sixth Army (France)|label=フランス第6軍}} に編成され、ドイツ軍への側面攻撃でその進軍を脅かした。[[フェルディナン・フォッシュ]]率いる{{仮リンク|第9軍 (フランス)|en|Ninth Army (France)|label=第9軍}}は中央部に投入された。ジョフルは[[マルヌ川]]を合流地点として撤退を停止、そこから反転してドイツ軍に攻撃するという計画を立てた<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.208 f.</ref>。
[[画像:Battle of the Marne - Map.jpg|250px|thumb|1914年9月8日に連合国軍がドイツ第1軍と第2軍の間隙を突いたことで、シュリーフェン・プランは失敗に終わった。]]
[[画像:Taxi Renault G7 Paris FRA 001.jpg|280px|thumb|マルヌ戦でフランス兵を輸送したタクシー(写真は模型)]]
迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍は進軍の速度を保ちながら南西と南に方向転換した。そのうち、[[アレクサンダー・フォン・クルック]]率いる[[第1軍 (ドイツ軍)|第1軍]]は8月20日に[[ブリュッセル]]を占領した後、フランス軍とイギリス海外派遣軍を追撃した。前線が拡大するにつれて、ドイツの攻勢の[[奇襲]]性が失われ、ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて、ドイツ軍の連絡線が伸び、フランス軍の連絡線が縮んだのだった。8月末にはドイツ軍の歪んだ前線が崩壊直前にまでなり、右翼も反撃を受けて南と南東に向けて方向転換した。そして、パリの包囲計画は8月30日に放棄され、その報せは9月3日にジョフルに届けられた<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.59 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.209.</ref>。
当時[[ルクセンブルク]]にいたドイツ軍最高司令部には前線の情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線を使用した通信も技術が整っておらず、飛行隊からの報告はしばしば無視された。{{仮リンク|第1軍 (ドイツ帝国)|en|1st Army (German Empire)|label=ドイツ第1軍}}32万人は強行軍してイギリス海外派遣軍を封じ込もうとしたが、その過程で自軍の西側の守備を無視してしまった。東部戦線に2個軍団を割いたこと、{{仮リンク|アントウェルペン包囲戦 (1914年)|en|Siege of Antwerp (1914)|label=アントウェルペン包囲戦}}や{{仮リンク|モブージュ包囲戦|en|Siege of Maubeuge}}に軍を割いたこと、行軍と戦闘による損害、補給の不足により第1軍は停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.61 f.</ref>。
9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まった([[マルヌ会戦|第一次マルヌ会戦]])。ドイツ第1軍は命令に違反して9月5日に[[マルヌ川]]の南側に進軍、パリ周辺の{{仮リンク|ル・プレシ=ベルヴィル|en|Le Plessis-Belleville}}、{{仮リンク|モルトフォンテーヌ (オワーズ県)|en|Mortefontaine, Oise|label=モルトフォンテーヌ}}、[[モー (フランス)|モー]]まで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由はドイツ第1軍と[[第2軍 (ドイツ軍)|第2軍]]の間に40kmの隙間が生じ、英仏軍が9月8日の正午近くにそこに雪崩れ込んだためであった。ドイツ前線の連絡はおぼつかず、ドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威が増大したため、第1軍と第2軍の視察を命じられていた{{仮リンク|リヒャルト・ヘンチュ|de|Richard Hentsch}}中佐は撤退を決定した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.168 ff.; Holger Afflerbach: ''Die militärische Planung im Deutschen Reich.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.286.</ref>。
撤退の必要性、特に第1軍の撤退<ref>Reinhold Dahlmann, Alfred Stenger: ''Die Schlacht vor Paris. Das Marnedrama 1914''. 4. Teil (= ''Schlachten des Weltkrieges''. In Einzeldarstellungen bearbeitet und herausgegeben im Auftrage des Reichsarchivs. Band 26). Gerhard Stalling Verlag, Oldenburg i.O./Berlin 1928, p.324 ff.</ref>は後に疑問視されたが、通説では{{仮リンク|ホルガー・アッフレルバッハ|de|Holger Afflerbach}}が述べたように、「撤退は作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響は致命的だった」<ref>Holger Afflerbach: ''Die militärische Planung im Deutschen Reich.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.286.</ref>。シュリーフェン・プランは失敗に終わり、アルザス=ロレーヌでフランス軍を圧迫することも失敗した。9月9月、小モルトケは手紙でこう綴った:
{{Quote|これは良くない。[...]希望に満ちた開戦が正反対に変わった。[...]わずか数週間前の見事な戦役とはどんなに違うだろう。[...]私は、人民が勝利を渇望したがためにこの不幸に耐えられないことを恐れている<ref>Zit. nach Fritz Fischer: ''Krieg der Illusionen. Die Deutsche Politik von 1911-1914.'' 2. Auflage. デュッセルドルフ 1970, ISBN 3-7700-0913-4, p.776.</ref>。}}
モルトケは[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]をきたし、[[エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン]]が後任の[[プロイセン参謀本部#歴代参謀総長|参謀総長]]となった。ドイツ第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ軍が[[エーヌ川]]の後ろに撤退したことで9月13日に{{仮リンク|エーヌ川の戦い (1914年)|en|First Battle of the Aisne|label=第一次エーヌ会戦}}が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ軍はエーヌ川の後ろに撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス軍が反撃したが、戦況が膠着した。ドイツ軍の撤退はフランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判を受けた。ファルケンハインは[[ドイツ国首相|帝国宰相]][[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]に対し、シュリーフェン・プランが失敗した後の軍事情勢をドイツ国民に説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した<ref>Holger Afflerbach: ''Die militärische Planung im Deutschen Reich.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.286; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.697 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.185 ff.</ref>。
[[画像:Race to the Sea 1914.png|thumb|left|{{仮リンク|海への競争|en|Race to the Sea}}において、両軍はお互いを側面から叩こうとしたが失敗した。]]
[[画像:Bundesarchiv Bild 115-2087, Frankreich, Maubeuge, deutsche Besatzung.jpg|thumb|[[モブージュ]]占領中のドイツ兵士、1914年。]]
ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの{{仮リンク|海への競争|en|Race to the Sea}}において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から[[北海]]沿岸の[[ニーウポールト]]まで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながら[[リール (フランス)|リール]]、[[ヘント]]、[[ブルッヘ]]、[[オーステンデ]]を占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北の[[フランドル]]に移り、[[英仏海峡]]に面する[[カレー (フランス)|カレー]]と[[ダンケルク]]を経由するイギリスからの増援は中断された<ref>Holger Afflerbach: ''Die militärische Planung im Deutschen Reich.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.287; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.187 ff.</ref>。
[[9月17日]]、イギリスの代表的作家53人が首都[[ロンドン]]において声明『[[イギリスの戦争の擁護]]』を出した<ref>[[#NYTimes Current History|NYTimes Current History]],p.83.</ref>。[[10月4日]]、ドイツ大学人による『[[93人のマニフェスト]](文化的世界へ訴える)』が出された<ref name="nych">[[#NYTimes Current History|NYTimes Current History]], pp.185-189.</ref>。[[10月16日]]にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3千人が連名で『[[ドイツ帝国大学声明]]』を出して大戦を「ドイツ文化の防衛戦」として正当化した<ref name="nych"/>。イギリスなどの学者は10月21日に米紙『[[ニューヨーク・タイムズ]]』上で[[ドイツ大学人への返答]]を出した<ref name="nych"/>。
[[画像:Australian infantry small box respirators Ypres 1917.jpg|thumb|[[ガスマスク]]を着用し[[塹壕]]に隠れる[[オーストラリア]]兵。[[イーペル]]、1917年。]]
10月20日から11月18日まで、[[イーペル]]で激しい戦闘が起こり({{仮リンク|第一次イーペル会戦|en|First Battle of Ypres}})、大急ぎで投入されたドイツの予備部隊は{{仮リンク|ランゲマルク|en|Langemark}}とイーペルで大損害を受けた。訓練も経験も不足していた予備軍の士官が若い兵士(15歳の兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害を出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、{{仮リンク|ランゲマルクの神話|de|Mythos von Langemarck}}が作られ、軍事上の敗北を道徳上の勝利として解釈する、第一次世界大戦における初の事例となった。同盟軍はイギリスの補給港である[[ブローニュ=シュル=メール]]と[[カレー (フランス)|カレー]]、および鉄道の中心地である[[アミアン]]をドイツ軍から守ることに成功した<ref>Bernd Hüppauf: ''Schlachtenmythen und die Konstruktion des „Neuen Menschen“.'' In: Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich, Irina Renz (Hrsg.): ''„Keiner fühlt sich hier mehr als Mensch...“ Erlebnis und Wirkung des Ersten Weltkrieges''. Essen 1993, ISBN 3-596-13096-4, p.47, 56 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.189 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.216 f.</ref>。
行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な[[塹壕]]線を掘り、戦闘は[[塹壕戦]]に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海から[[スイス]]国境({{仮リンク|第一次世界大戦下のスイス|de|Schweiz im Ersten Weltkrieg}}も参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.249 ff.</ref>。
ファルケンハインは11月18日にベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、[[三国協商]]との戦争は勝ち目がなくなったと通告して、外交を通じた終戦を求めた。彼はイギリスとの講和は不可能と考え、それ以外の交戦国と単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した<ref>Holger Afflerbach: ''Falkenhayn: Politisches Denken und Handeln im Kaiserreich.'' 2. Auflage. Oldenbourg Verlag, ミュンヘン、ISBN 3-486-56184-7, p.198 ff., 204 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.468.; Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.227.</ref>。ベートマン・ホルヴェークが拒否したのは占領地を手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]も[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]も敵を全滅させるという立場を崩さず、勝利の平和を可能であると判断した。結局、首相と軍部は世間からマルヌ会戦とイーペル会戦の敗北を隠蔽して戦闘を継続したため、政治と軍事情勢が政治と経済のエリート層の戦争目標への望みと乖離していき、戦中と戦後の社会闘争につながった<ref>Fritz Fischer: ''Krieg der Illusionen. Die Deutsche Politik von 1911-1914.'' 2. Auflage. Düsseldorf 1970, ISBN 3-7700-0913-4, p.779, 783; Holger Afflerbach: ''Die militärische Planung im Deutschen Reich.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.287 f.</ref>。
11月、[[イギリス海軍]]は北海全域を交戦地帯と定め、[[海上封鎖]]を敷いた([[ドイツ封鎖]])。[[中立国]]の旗を掲げる船舶でもイギリスに警告なしで攻撃される可能性が出たが、イギリス海軍のこの行動は1856年の[[パリ宣言]]に反するものだった<ref>Jürgen Mirow: ''Der Seekrieg 1914-1918 in Umrissen.'' Musterschmidt, Göttingen 1976, ISBN 3-7881-1682-X, p.22 f.; David Stevenson: ''1914-1918. Der Erste Weltkrieg.'' Aus dem Englischen von Harald Ehrhardt und Ursula Vones-Leibenstein. Patmos Verlag, Düsseldorf 2010, ISBN 978-3-491-96274-3, p.298 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.1002 ff.</ref>。
=== 1914年の東部戦線 ===
[[ファイル:Hindenburg and Ludendorff.jpg|thumb|160px|left|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]](左)と[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]](右)]]
ロシアの2個軍は[[シュリーフェン・プラン]]の仮定と違って、開戦から2週間で[[東プロイセン]]への侵攻を開始したため、[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]の情勢はドイツにとって厳しいものだった。ドイツはシュリーフェン・プランにより西部戦線に集中したため、東部戦線では守備態勢をとった。そのため、ドイツはロシア領[[ポーランド]]との国境地帯にあるいくつかの町を占領したに留まり、1914年8月の{{仮リンク|カリシュの破壊|en|Destruction of Kalisz}}がその一環となった。8月20日の{{仮リンク|グンビンネンの戦い|en|Battle of Gumbinnen}}の後、東プロイセンを守備する[[第8軍 (ドイツ軍)|ドイツ第8軍]]は撤退、東プロイセンの一部がロシアに占領された。
その結果、東部戦線のドイツ軍は増援され、新たに[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大将が司令官、[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]少将が参謀長に就任した。2人は8月末の[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]に勝利、[[アレクサンドル・サムソノフ]]率いる{{仮リンク|第2軍 (ロシア帝国)|en|2nd Army (Russian Empire)|label=ロシア第2軍}}をほぼ全滅させて東プロイセンを確保した。続く9月の[[第一次マズーリ湖攻勢]]でも[[パーヴェル・レンネンカンプ]]率いる{{仮リンク|第1軍 (ロシア帝国)|en|1st Army (Russian Empire)|label=ロシア第1軍}}が敗北したため、ロシア軍は東プロイセンの大半から撤退した<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.93 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.762 ff., 919 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.203 ff.</ref>。
8月24日から9月11日までの{{仮リンク|ガリツィアの戦い|en|Battle of Galicia}}の後、ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領[[ガリツィア・ロドメリア王国]]を占領した。オーストリア=ハンガリー軍はガリツィアの首都[[リヴィウ|レンベルク]]を攻撃した後、ロシア軍が人数で圧倒的に優位にあったため撤退を余儀なくされた({{仮リンク|レンベルクの戦い|de|Schlacht von Lemberg}}、8月26日 - 9月1日)。ロシアによる[[プシェムィシル包囲戦|第一次プシェムィシル包囲]]は9月24日から10月11日まで続いた後、一旦解かれた。オーストリア=ハンガリー軍を救うべく、新しく編成された{{仮リンク|第9軍 (ドイツ帝国)|en|9th Army (German Empire)|label=ドイツ第9軍}}は{{仮リンク|ヴィスワ川の戦い|en|Battle of the Vistula River|label=ポーランド南部攻勢}}を開始したが失敗した。11月1日、ヒンデンブルクがドイツ軍総指揮官に任命された。11月9日、第二次プシェムィシル包囲が開始、オーストリア=ハンガリーの駐留軍は1915年3月22日まで耐えた末に降伏した。ドイツの{{仮リンク|ウッチの戦い (1914年)|en|Battle of Łódź (1914)|label=ウッチ地域における反攻}}は11月11日に開始、12月5日まで続き、その後はロシア軍が守備に入った<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.102 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.701 ff., 762 ff., 777, 783 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.219 ff.</ref>。
=== オスマン帝国の参戦 ===
[[画像:Ottoman Empire declaration of war during WWI-2.png|thumb|1914年11月14日、「オスマン帝国の敵」に対する[[ジハード]]を宣言した[[シェイヒュルイスラーム]]の{{仮リンク|ウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ|tr|Ürgüplü Mustafa Hayri Efendi}}。]]
{{仮リンク|ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団|de|Deutsche Militärmissionen im Osmanischen Reich}}と[[バグダード鉄道]]の建設により、オスマン帝国はドイツに接近した。さらに、オスマン帝国はイギリスに[[戦艦]][[エジンコート (戦艦)|スルタン・オスマン1世]]と[[エリン (戦艦)|レシャディエ]]を注文しており、代金も支払っていたが、イギリスは開戦直後の1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権を握っていた[[青年トルコ人]]には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないことが明らかだった。最終的には[[エンヴェル・パシャ]]により{{仮リンク|オスマン・ドイツ同盟|en|Ottoman-German alliance}}、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟が締結されたが、この同盟は内閣でも賛否両論だった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.309 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.758; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.133 ff.</ref>。
{{仮リンク|ヴィルヘルム・スション|en|Wilhelm Souchon}}率いる、ドイツの{{仮リンク|地中海艦隊 (ドイツ)|en|Mediterranean Division|label=地中海艦隊}}の[[巡洋戦艦]][[ゲーベン (巡洋戦艦)|ゲーベン]]と[[マクデブルク級小型巡洋艦|マクデブルク級軽巡洋艦]][[ブレスラウ (軽巡洋艦)|ブレスラウ]]がイギリスの[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]による追跡を振り切り、8月16日にオスマン帝国の首都[[イスタンブール|コンスタンティノープル]]に逃げ込んだ([[ゲーベン追跡戦]])。両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日に出撃して[[黒海]]沿岸のロシア都市を襲撃した({{仮リンク|黒海襲撃|en|Black Sea Raid}})以降も両艦に残った。9月27日、[[ダーダネルス海峡]]が正式に封鎖され、国際船舶の航行が禁止された。
11月初頭、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。11月14日朝、[[シェイヒュルイスラーム]]の{{仮リンク|ウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ|tr|Ürgüplü Mustafa Hayri Efendi}}は[[スルタン]]の[[メフメト5世]]による[[勅令]]に従い、コンスタンティノープルの{{仮リンク|ファティフ・モスク (イスタンブール)|en|Fatih Mosque, Istanbul|label=ファティフ・モスク}}の前で敵対国に対する[[ジハード]]を宣言した。しかし、宣言に呼応したのはイギリスの[[アフガニスタン]]部隊の一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 ({{lang|en|Singapur}}))であった。[[バーラクザイ朝]]アフガニスタン首長国でのイギリスに対する反感にも影響したが、それは1919年の{{仮リンク|第三次アングロ・アフガン戦争|en|Third Anglo-Afghan War}}以降のことだった<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, S, 159 f.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.127 f., 136 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.309 f.</ref>。
宣戦布告直後の11月6日、イギリスとインド軍は{{仮リンク|アングロ・ペルシア石油会社|en|Anglo-Persian Oil Company}}の利権を守ろうとして[[ペルシア湾]]で[[アル=ファオ上陸戦]]を敢行、これにより{{仮リンク|メソポタミア戦役|en|Mesopotamian campaign}}が開始された。イギリス軍はオスマン軍を蹴散らした後({{仮リンク|バスラの戦い (1914年)|en|Battle of Basra (1914)|label=バスラの戦い}})、11月23日に[[バスラ]]を占領した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.309, 312; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.163 ff.</ref>。
{{仮リンク|カフカース戦役 (第一次世界大戦)|en|Caucasus Campaign|label=カフカース戦役}}ではロシア軍が11月に{{仮リンク|ベルグマン攻勢|en|Bergmann Offensive}}を開始した。ロシア軍の攻勢を撃退すると、{{仮リンク|第3軍 (オスマン帝国)|en|Third Army (Ottoman Empire)|label=オスマン第3軍}}は反撃に転じたが、真冬の中で行われた{{仮リンク|サリカミシュの戦い|en|Battle of Sarikamish}}で大敗した。[[アルメニア人]]義勇軍がロシア側で戦ったため、オスマン帝国に残っていたアルメニア人に対する目が冷たくなったが、アルメニア人の大半はオスマン側についたままだった。ロシア軍は長らく占領していたペルシア北東部から進撃した({{仮リンク|ペルシア戦役|en|Persian Campaign}})。一方、{{仮リンク|シナイ半島とパレスチナ戦役|en|Sinai and Palestine Campaign}}は1914年時点では大きな戦役はなかった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.316 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.608 f., 768 f.</ref>。
=== アフリカ戦役 ===
{{Main|アフリカ戦線 (第一次世界大戦)}}
[[画像:Recruiting for the Holy War near Tiberias 1914.jpg|thumb|[[オスマン帝国]]の[[ティベリア]]近くで行われた募兵、1914年。]]
[[アフリカ分割|欧州諸国により植民地化されていたアフリカ]]各地では、戦争初期よりイギリス、フランス、ドイツの植民地勢力が戦闘を行った。
8月6日から7日、フランスとイギリス部隊は[[ドイツ領トーゴラント]]と[[ドイツ保護領カメルーン]]に侵攻した。10日、[[ドイツ領南西アフリカ]]のドイツ軍が[[南アフリカ連邦]]を攻撃して以降、終戦まで散発的ながら激しい戦闘が続いた。
[[ドイツ領東アフリカ]]の[[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]大佐率いる植民地軍はゲリラ戦を行い、1918年のヨーロッパでの停戦から2週間後まで降伏しなかった{{Sfn|Farwell|1989|p=353}}。
=== 日本の参戦と太平洋戦役 ===
{{Main|{{仮リンク|アジア・太平洋戦役 (第一次世界大戦)|en|Asian and Pacific theatre of World War I}}}}
{{See also|第一次世界大戦下の日本}}
[[File:Takaaki_Kato_suit.jpg|thumb|参戦を強く主張した[[加藤高明]]外相]]
[[File:Japanese cruiser Kurama.jpg|thumb|日本海軍の巡洋戦艦「鞍馬」]]
東洋で唯一の大国である[[大日本帝国|日本]]は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し[[最後通牒]]を行った{{Sfn|我部|1982|p=75}}。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は[[8月23日]]に宣戦布告した。
なお、[[内閣総理大臣|首相]]である[[大隈重信]]は[[御前会議]]を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。
また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国など[[イギリス帝国]]各地から兵を動員した。8月30日、[[ニュージーランド]]は[[ドイツ領サモア]]を{{仮リンク|ドイツ領サモア占領|en|Occupation of German Samoa|label=占領}}した。9月11日、{{仮リンク|オーストラリア海陸遠征軍|en|Australian Naval and Military Expeditionary Force}}が[[ドイツ領ニューギニア]]の[[ニューブリテン島|ノイポンメルン島]]に上陸した。10月28日、ドイツの[[軽巡洋艦]][[エムデン (軽巡洋艦・初代)|エムデン]]が{{仮リンク|ペナンの海戦|en|Battle of Penang}}でロシアの[[防護巡洋艦]][[ジェムチュク (防護巡洋艦)|ジェムチュク]]を撃沈した。
ドイツ領[[南洋諸島]]を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した[[加藤高明]]外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府と、同じく近隣に植民地を持つアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦[[ケーニヒスベルク (軽巡洋艦・初代)|ケーニヒスベルグ]]による[[アフリカ]]東岸での英艦[[ペガサス (防護巡洋艦)|ペガサス]]撃沈、エムデンによる[[通商破壊]]などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。
このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「[[鞍馬 (巡洋戦艦)|鞍馬]]」「[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]」「[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]」「[[薩摩 (戦艦)|薩摩]]」「[[矢矧 (防護巡洋艦)|矢矧]]」「[[香取 (戦艦)|香取]]」によって、ドイツ領の南洋諸島のうち[[赤道]]以北の島々([[マリアナ諸島]]、[[カロリン諸島]]、[[マーシャル諸島]])が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、当然日本の国民感情的には期待があった。
開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、先に[[日露戦争]]で[[バルチック艦隊]]を壊滅させた日本艦隊に恐れをなし逃亡し、[[パガン島]]付近で[[補給艦]]からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端の[[ホーン岬]]廻り([[ドレーク海峡]]経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。
日本をはじめとする連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った{{Sfn|Keegan|1998|pp=224-232}}{{Sfn|Falls|1960|pp=79-80}}。本国帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋における[[コロネル沖海戦]](11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋の[[フォークランド沖海戦]](12月8日 )に敗れて壊滅した。
=== 日本海軍のアメリカ西海岸派遣 ===
また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年[[10月1日]]に戦艦「[[レトヴィザン (戦艦)|肥前]]」と巡洋艦「[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]」、同「[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]」に、輸送船や工作船などからなる支隊を「[[遣米支隊]]」として[[カリフォルニア州]]南部から[[メキシコ]]にかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリスの連合国と、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。
日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍や[[カナダ海軍]]、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追って[[ガラパゴス諸島]]にも展開した。また、「出雲」はその後[[特務艦隊|第二特務艦隊]]の増援部隊として[[地中海]]の[[マルタ島]]に派遣された。
=== 青島の戦い ===
[[画像:Wn21-19.jpg|thumb|[[四五式二十糎榴弾砲]]で青島要塞を砲撃する日本陸軍]]
11月7日に[[大日本帝国陸軍]]と[[イギリス軍]]の連合軍は、[[東洋艦隊 (ドイツ)|ドイツ東洋艦隊]]の根拠地だった[[中華民国]][[山東省]]の[[租借地]]である[[青島市|青島]]と[[膠州湾租借地|膠州湾]]の要塞を攻略した([[青島の戦い]]、1914年10月31日 - 11月7日)。
オーストリア=ハンガリーの防護巡洋艦{{仮リンク|カイゼリン・エリザベート (防護巡洋艦)|en|SMS Kaiserin Elisabeth|label=カイゼリン・エリザベート}}が青島からの退去を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。カイゼリン・エリザベートは青島を守備した後、1914年11月に自沈した<ref>DONKO, Wilhelm M.: "A Brief History of the Austrian Navy" epubli GmbH, ベルリン、2012, p.79.</ref>。
これらの中国戦線で連合国の捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵([[日独戦ドイツ兵捕虜]])と民間人約5,000人は全員日本に送られ、その後[[徳島県]]の[[板東俘虜収容所]]、[[千葉県]]の[[習志野俘虜収容所]]、[[広島県]]の[[似島検疫所]]俘虜収容所など全国12か所の日本国内の俘虜収容所に送られ、終戦後の[[1920年]]まで収容された<ref>「どこにいようとそこがドイツだ」ドイツ館資料研究会編、鳴門市ドイツ館、2000年、P4.</ref>。
特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた<ref>「どこにいようとそこがドイツだ」ドイツ館資料研究会編、鳴門市ドイツ館、2000年、P13.</ref>。このときにドイツ料理や[[ビール]]をはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。また、[[敷島製パン]]の創業者[[盛田善平]]は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。
=== 北欧の中立宣言 ===
北欧諸国は大戦中一貫して[[中立]]を貫いた。12月18日に[[スウェーデン]]国王[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]は、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]の両国王を[[マルメ]]に招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。
スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただし[[ロシア革命]]後の[[フィンランド内戦]]において、スウェーデン政府はフィンランドへの[[義勇軍]]派遣を黙認している<ref>『北欧の外交』、pp.27-35。少数のスウェーデン[[士官]]のフィンランド[[白軍]]への参加を黙認している。</ref><ref>『北欧史』、pp.310-313。大戦中、様々な妨害を受けつつも、中立は維持された。1917年にも[[オスロ|クリスチャニア]]で再び中立の維持を確認した。</ref>。
=== クリスマス休戦 ===
12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部で[[クリスマス休戦]]と呼ばれる非公式な[[休戦]]が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる<ref>Michael Jürgs: ''Der kleine Frieden im Großen Krieg. Westfront 1914: Als Deutsche, Franzosen und Briten gemeinsam Weihnachten feierten.'' C. Bertelsmann Verlag, München 2003, ISBN 3-570-00745-6; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.957 ff.</ref>。
== 1915年の戦闘 ==
=== Uボート作戦 ===
{{Main|{{仮リンク|Uボート作戦 (第一次世界大戦)|en|U-boat Campaign (World War I)|label=Uボート作戦}}}}
1915年2月4日、ドイツは2月18日以降に商船に対する{{仮リンク|潜水艦作戦|en|Submarine warfare}}を開始すると正式に発表した。ドイツは中立国の抗議をはねつけてイギリスと[[アイルランド]]周辺の海域を交戦地帯と定めたが、イギリスを海上封鎖するには[[潜水艦]]([[Uボート]])が足りなかった。潜水艦を対商船作戦に使用したことで、ドイツは軍事上でも国際法上でも「新しい道」を歩み出した。イギリスの商船が武装を強化したため、Uボート<ref group="注釈">Uボート ({{lang|de|U-Boot}}) はドイツ語で「潜水艦」({{lang|de|Unterseeboot}}) の略語である。</ref>は安全が脅かされ、{{仮リンク|捕獲物 (法律)|en|Prize (law)|label=捕獲物}}に関する[[戦時国際法]]を完全に順守することができなかった。さらに、潜水艦の指揮官への指示が不明確で、海軍は中立国船舶の航行を妨げるために無警告で攻撃する[[無制限潜水艦作戦]]であると仮定した。しかし、ドイツの発表に中立国が抗議したため、{{仮リンク|Uボート作戦 (第一次世界大戦)|en|U-boat Campaign (World War I)|label=Uボート作戦}}は中立国の船舶を攻撃しないよう限定された<ref>Jürgen Mirow: ''Der Seekrieg 1914-1918 in Umrissen.'' Musterschmidt, Göttingen 1976, ISBN 3-7881-1682-X, p.130 ff., 163; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.266; Werner Rahn: ''Strategische Probleme der deutschen Seekriegführung 1914-1918.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.354 f.</ref>。
5月7日、ドイツの潜水艦{{仮リンク|U-20 (U19型潜水艦)|en|SM U-20 (Germany)|label=U-20}}がイギリスの客船[[ルシタニア (客船)|ルシタニア号]]を{{仮リンク|ルシタニアの撃沈|en|Sinking of the RMS Lusitania|label=撃沈}}、国際世論による抗議の波を引き起こした。ドイツ駐[[ワシントンD.C.|ワシントン]]大使館は新聞に警告文を掲載したが、ルシタニア号が5月1日に[[ニューヨーク]]を出港した時にはアメリカ人200人以上が乗船していた。「戦争物資と弾薬を載せた」というルシタニア号<ref>''Der Große Ploetz''. Freiburg i. B. 2008, p.774; Patrick O’Sullivan: ''Die Lusitania - Mythos und Wirklichkeit.'' Verlag E. S. Mittler & Sohn, Hamburg/ Berlin/ Bonn 1999, p.97 ff.</ref>が5月7日に撃沈されると、子供100人近くとアメリカ人127人を含む合計1,198人が死亡した<ref>Patrick O’Sullivan: ''Die Lusitania. Mythos und Wirklichkeit.'' Verlag E. S. Mittler & Sohn, Hamburg/ Berlin/ Bonn 1999, p.85; Diana Preston: ''Wurden torpediert, schickt Hilfe - Der Untergang der Lusitania 1915''. DVA, ミュンヘン 2004, ISBN 3-421-05408-8, p.318.</ref>。アメリカの世論は憤慨した。米独間で覚書が交換され、ヴィルヘルム2世は6月1日と6日に[[陸軍最高司令部|ドイツ最高司令部]]の支持を得た首相の要請を受け、潜水艦が中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しないことを約束した。しかし、この決定を聞くと、[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]][[元帥 (ドイツ)#海軍元帥|海軍元帥]]と{{仮リンク|グスタフ・バッハマン|en|Gustav Bachmann}}[[提督]]が辞表を出した(2人の辞任は拒否された)。{{仮リンク|U-24 (U23型潜水艦)|en|SM U-24|label=U-24}}が客船の[[アラビック (客船)|アラビック]]を撃沈、再びアメリカ人の死者を出してしまうと、ドイツ駐アメリカ大使{{仮リンク|ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフ|en|Johann Heinrich von Bernstorff}}がアメリカ政府にヴィルヘルム2世の決定を通知した(アラビックの誓約、{{lang|en|Arabic pledge}})<ref>Justus D. Doenecke: ''Nothing Less Than War: A New History of America's Entry into World War I.'' University Press of Kentucky, 2011, ISBN 978-0-8131-4027-8, p.116 ff.</ref>。8月末、ヴィルヘルム2世の決定が{{仮リンク|エルンスト・ツー・レーヴェントロー|en|Ernst Graf zu Reventlow}}や{{仮リンク|ゲオルク・ベルンハルト|de|Georg Bernhard}}などドイツの新聞編集長に告知された。彼らは軍部の指示を受けて[[無制限潜水艦作戦]]と反米のキャンペーンを直ちに停止した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.689 f., 931; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.273 ff.; Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.276 ff.; Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.277 ff.</ref>。
=== 東部戦線決着への試み ===
[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]において、ドイツ軍は新しく到着した{{仮リンク|第10軍 (ドイツ帝国)|en|10th Army (German Empire)|label=ドイツ第10軍}}の助力で2月7日から22日までの[[第二次マズーリ湖攻勢]]に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.246 f.</ref>。
[[画像:EasternFront1915b.jpg|250px|thumb|ロシア軍との前線、1915年5月時点(青線)と9月時点(青破線)。]]
1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた<ref>Münkler: ''Der Große Krieg.'' 2013, pp.292-295, 302-306.</ref>。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。
ロシア軍は{{仮リンク|カルパティアの戦い|de|Schlacht in den Karpaten|label=カルパティア山脈の冬季戦役}}を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍は[[イゾンツォ川]]と[[カルパティア山脈]]の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアから[[サン川]]方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春に[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]率いる{{仮リンク|第11軍 (ドイツ帝国)|en|11th Army (German Empire)|label=ドイツ第11軍}}が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、[[クラクフ]]の東で[[ゴルリッツ=タルヌフ攻勢]]が行われた。この攻勢において、ドイツと{{仮リンク|第4軍 (オーストリア=ハンガリー帝国)|en|4th Army (Austria-Hungary)|label=オーストリア=ハンガリー第4軍}}は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.247, 324 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.531 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.221 ff.</ref>。
6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いて{{仮リンク|ブク攻勢|de|Bug-Offensive}}を開始した。6月4日に[[プシェムィシル]]を、22日に[[リヴィウ|レンベルク]]を再占領した後、ロシア領ポーランドに{{仮リンク|突起部 (軍事)|en|Salient (military)|label=突起部}}を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画が[[陸軍最高司令部|ドイツ最高司令部]](実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった)から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までの{{仮リンク|ナレフ攻勢|de|Narew-Offensive}}はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、[[リトアニア]]、そして[[クールラント]]の大半からの[[大撤退]]を強いることができた。
大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までに[[ワルシャワ]](8月4日)、[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト=リトフスク]]、[[ヴィリニュス]]など重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドでは[[ルブリン]]を首都とするオーストリアの{{仮リンク|ルブリン総督府|de|Generalgouvernement Lublin}}とワルシャワを首都とするドイツの{{仮リンク|ポーランド総督府 (第一次世界大戦)|en|Government General of Warsaw|label=ポーランド総督府}}が成立、中でもドイツの{{仮リンク|東部占領地|en|Ober Ost}}では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いる{{仮リンク|第10軍 (ドイツ帝国)|en|10th Army (German Empire)|label=ドイツ第10軍}}が[[ミンスク]]に、オーストリア=ハンガリー軍が[[リウネ]]に進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.398 f., 531 f., 730, 753 f., 783 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.329 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.225 ff.</ref>。
=== 1915年の西部戦線 ===
[[画像:Western front 1915-16.jpg|thumb|1915年の連合国軍はリールとヴェルダンの間にあるドイツ軍の突起部を攻撃しようとした。]]
西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけて[[リール (フランス)|リール]]と[[ヴェルダン]]の間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで{{仮リンク|第一次シャンパーニュ会戦|en|First Battle of Champagne}}で[[消耗戦]]が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型[[弾幕]]を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威である{{仮リンク|サン=ミーエル|en|Saint-Mihiel}}への攻撃(イースターの戦い ({{lang|de|Osterschlacht}}) または第一次ヴェーヴル会戦 ({{lang|de|Erster Woëvre-Schlacht}}))も試みたが失敗に終わった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.409 f., 964; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.272 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.188 f.</ref>。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-F0313-0208-007, Gaskrieg (Luftbild).jpg|thumb|東部戦線のガス攻撃。右側は後続攻撃を準備している歩兵。]]
[[第二次イーペル会戦]]の初日である4月22日に[[化学兵器|毒ガス]]が使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.519.</ref>。{{仮リンク|第一次世界大戦の化学兵器|en|Chemical weapons in World War I}}の使用は連合国軍が[[催涙剤]]を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある[[塩素]]ガスであり、[[ハーグ陸戦条約]]に違反した行動であった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.288.</ref>。そのため、この行動は[[プロパガンダ]]に使われた。ドイツの化学者[[フリッツ・ハーバー]]が計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月に[[イーペル]]近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45[[アルジェリア|アルジェ]]師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、{{仮リンク|第一次世界大戦の塹壕戦|de|Grabenkrieg im Ersten Weltkrieg}}ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい(7万対3万5千)という現象が起こった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.489 ff., 519 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.280 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.94 f.; Werner Bernhard Sendker: ''Auf Flanderns Feldern gefallen: Deutsche und ihr Verhältnis zum Ersten Weltkrieg.'' 2. Auflage. Der Andere Verlag, Tönningen 2005, ISBN 3-89959-366-9, p.79 ff.; Dieter Martinetz: ''Der Gaskrieg 1914/18. Entwicklung, Herstellung und Einsatz chemischer Kampfstoffe. Das Zusammenwirken von militärischer Führung, Wissenschaft und Industrie.'' Bernard & Graefe Verlag, Bonn 1996, ISBN 3-7637-5952-2, p.23 ff.</ref>。
[[画像:Bundesarchiv Bild 104-0158, Argonnen, zerschossener Wald.jpg|thumb|left|秋季の戦闘で破壊された[[アルゴンヌの森]]]]
5月9日、英仏は{{仮リンク|第二次アルトワ会戦|en|Second Battle of Artois}}で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の[[砲兵]]は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.223; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.283 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.195 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.349, 964.</ref>。
1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた{{仮リンク|第二次シャンパーニュ会戦|en|Second Battle of Champagne}}と{{仮リンク|第三次アルトワ会戦|en|Third Battle of Artois}}だった。シャンパーニュ会戦と{{仮リンク|ローの戦い|en|Battle of Loos}}はともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。「連合国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.223.</ref><ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.349 f., 410 f., 589; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.285 ff., 323 f.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.221 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.203 ff., 258 f.; Ian Westwell: ''Der 1. Weltkrieg. Eine Chronik.'' Aus dem Englischen von Heiko Nonnenmann. Gondrom Verlag, Bindlach 2000, ISBN 3-8112-1748-8, p.76 ff.</ref>。
=== ガリポリの戦い ===
[[画像:Royal Naval Division trench.jpg|thumb|[[ギリシャ王国]]の[[リムノス島]]で演習を行うイギリス兵士。{{仮リンク|アーネスト・ブルックス (写真家)|en|Ernest Brooks (photographer)|label=アーネスト・ブルックス}}撮影、1915年。]]
{{Main|ガリポリの戦い}}
一方、英仏両軍はオスマン帝国に対しては本土侵攻を企図した。2月19日、連合国軍の[[ダーダネルス海峡|ダーダネルス]]作戦が始まり、英仏艦隊がダーダネルス海峡の沿岸要塞(オスマン帝国領)を[[艦砲射撃]]した。連合国軍の目的は首都[[イスタンブール|コンスタンティノープル]]を脅かすことによってオスマン帝国を戦争から脱落させ、[[黒海]]を経由するロシアの補給路を回復することだった。3月18日、イギリスの{{仮リンク|ジョン・デ・ロベック|en|John de Robeck}}提督率いる艦隊が突破を試みたが、戦艦3隻を喪失、ほか損傷した戦艦もあった。その結果、連合国は上陸作戦でダーダネルス海峡を開かせることを決定した。イギリスは既に[[イスケンデルン|アレクサンドレッタ]]に上陸してオスマン帝国の南部地域を中枢の[[アナトリア半島]]から切り離すことを計画していた。
連合国軍は[[ギリシャ王国]]の中立を侵犯して、[[エーゲ海]]の[[リムノス島]]をオスマン帝国攻撃の拠点として占領していた。そして、4月25日にはリムノス島から出撃して連合国軍は[[ガリポリ半島]]とアジア側の対岸にある{{仮リンク|クンカレ|en|Kumkale, Çanakkale}}に上陸した。戦艦11隻が援護についた船200隻がイギリスの{{仮リンク|地中海遠征軍|en|Mediterranean Expeditionary Force}}78,000人とフランスの{{仮リンク|東方遠征軍|en|Corps expéditionnaire d'Orient}}17,000人を運んだ。イギリスの遠征軍には[[オーストラリア・ニュージーランド軍団]] ([[ANZAC]]) も含まれ、この戦闘がANZACの初戦となった。結局攻撃は失敗したが、その理由はオスマン軍の予想以上の抵抗であり、[[オットー・リーマン・フォン・ザンデルス]]率いる{{仮リンク|第5軍 (オスマン帝国)|en|Fifth Army (Ottoman Empire)|label=オスマン第5軍}}が活躍した。中でも[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・ベイ]]率いる{{仮リンク|第19歩兵師団 (オスマン帝国)|en|19th Infantry Division (Ottoman Empire)|label=第19歩兵師団}}が頭角を現し、ムスタファ・ケマルが国民的英雄としての名声を得るきっかけの一つとなった。連合国軍50万人以上が投入されたこの戦役は1916年1月9日に連合国軍が撤退したことで終結、死者は両軍の合計で11万人となっている<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.146 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.331 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.317 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.424 f., 517 f.</ref>。
=== イタリア王国の参戦 ===
[[画像:Italian Front 1915-1917.jpg|thumb|1915年から1917年までのイタリア戦線。青はイタリア軍の占領地。]]
5月23日、イタリア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。1月以降、ドイツはオーストリア=ハンガリーに要請して、[[トレント自治県|トレンティーノ]]などの割譲に同意してイタリアを少なくとも中立に留まらせようとした。5月4月に三国同盟が解消された後もイタリアへの提案は段々と拡大し、10日にはトレンティーノ、[[イゾンツォ川]]沿岸の割譲、[[アルバニア公国]]における自由行動権などが提案された<ref>Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.239 f., 241, 256 f., 261 f., 272 ff.</ref>。一方、イタリアは連合国と交渉して4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン条約]]を締結した。条約ではイタリアが連合国側で参戦した場合、[[未回収のイタリア]]の獲得を約束した。イタリア首相{{仮リンク|アントニオ・サランドラ|en|Antonio Salandra}}と外相{{仮リンク|シドニー・ソンニーノ|en|Sidney Sonnino}}は数か月かけて国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]の同意を取り付け、対オーストリア宣戦を決定した。宣戦を支持したのは国民の間でも議会でも多数派ではなかったが、対オーストリア主戦派が遥かに活動的だったため、あらゆる政治路線の世論主導者を団結させることができ、宣戦の決定はこの世論に押された結果だった。政治面でのイッレデンティズモ(失地回復主義あるいは未回収地回復運動)は、例えば{{仮リンク|チェザーレ・バッティスティ (政治家)|en|Cesare Battisti (politician)|label=チェザーレ・バッティスティ}}が支持していた。作家で後に[[ファシズム]]の先駆者となった[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]は首都[[ローマ]]で戦争を支持するデモやイベントなどを組織<ref>Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.273.</ref>、当時は[[社会主義]]者ジャーナリストだった[[ベニート・ムッソリーニ]]も1914年10月以降参戦を訴えて、[[イタリア社会党]]から除名処分を受けていた。ムッソリーニは(おそらくフランスからの資金援助を受けて)新聞の『{{仮リンク|イル・ポポロ・ディタリア|en|Il Popolo d'Italia}}』を創刊して、連合国側で参戦することを求めた。主戦派は[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]ら[[未来派]]の支持も受けた。宣戦直前のイタリア議会は多数派の長で元首相の[[ジョヴァンニ・ジョリッティ]]の中立路線を支持した(ダンヌンツィオがジョリッティの暗殺予告を出したほどであった)が、実際に政治上の決定を下したのは議会ではなかった。5月20日に議会が戦争借款を審議したとき、借款に反対したのは社会主義者だけだった。ジョリッティ派や[[カトリック]]教会などは戦争に反対したが、愛国的であると証明しようと借款を受け入れた<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.97 ff., 424, 515, 728, 810, 855 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.318 ff.</ref>。
[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]の前線はスイス国境の[[ステルヴィオ峠]]から[[ドロミーティ|ドロミーティ山脈]]、{{仮リンク|カルニーチェ・アルプス|en|Carnic Alps}}、[[イゾンツォ川]]、そして[[アドリア海]]岸まで続く。オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア、ロシア、イタリア)を強いられ、中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった。しかも、イタリアが参戦した直後、オーストリアは十分な兵力でイタリアとの前線を守備することができなかった。一部地域では[[民兵]]、{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー帝国のラントヴェーア|en|Imperial-Royal Landwehr|label=ラントヴェーア}}、{{仮リンク|シュタントシュッツェン|en|Standschützen}}3万人を含む{{仮リンク|ラントシュトルム|en|Landsturm}}などに頼っていた。イゾンツォ川沿いの戦闘は宣戦布告直後に行われ、[[第一次イゾンツォの戦い]]は6月23日に開始した(7月7日まで)。イタリアは人数で大きく優勢で、広大な領土を占領したにもかかわらず、第一次イゾンツォの戦いも[[第二次イゾンツォの戦い]]も(7月17日 - 8月3日)大きな突破にはならなかった。[[第三次イゾンツォの戦い|第三次]](10月18日 - 11月3日)と[[第四次イゾンツォの戦い|第四次]](11月10日 - 12月2日)は人命と資源が大量に失われたが、大局は全く変わらなかった。{{仮リンク|第一次ドロミーティ攻勢|de|Erste Dolomitenoffensive}}(7月5日 - 8月4日)は[[アルプス山脈]]の戦役の始まりとなったが、[[軍事史]]上でも画期であった。すなわち、標高の高い山上で長期間戦闘が行われる初例となったのであった({{仮リンク|オルトレス山|en|Ortler}}の標高は約3,900mだった)<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.100, 331 ff., 442 ff., 589 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.322 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.249 ff.</ref>。
=== アルメニア人虐殺 ===
{{仮リンク|サリカミシュの戦い|en|Battle of Sarikamish}}以降、オスマン帝国の[[青年トルコ人]]政権は[[アルメニア人]]による妨害工作が行われていることを疑った。ロシア軍が4月中旬に[[ヴァン湖]]に接近すると、オスマン帝国は現地のアルメニア人首領を5人処刑した。4月24日、[[イスタンブール|コンスタンティノープル]]でアルメニア人知識層が多数逮捕された<ref group="注釈">4月24日は後に{{仮リンク|アルメニア人虐殺記念日|en|Armenian Genocide Remembrance Day}}として祝日となっている。</ref>。ロシア外相[[セルゲイ・サゾーノフ]]は5月24日に(4月27日に準備された)抗議文を発表、アルメニア人の100集落以上でアルメニア人がオスマン政府によって系統的に虐殺されたと主張した。
翌日(5月25日)、オスマン内相[[タラート・パシャ]]はアルメニア人を戦域からシリアと[[モースル]]に強制移送すると発表した。27日と30日にはオスマン政府が強制移送法を発表、系統的な[[アルメニア人虐殺]]と{{仮リンク|アッシリア人虐殺|en|Assyrian genocide}}が始まった。ドイツ大使{{仮リンク|ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム|en|Hans Freiherr von Wangenheim}}は6月にドイツ首相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]に報告を行い、「世界大戦を利用して内部の敵、すなわち[[キリスト教徒]]を外国の外交介入なしに廃除する」というタラート・パシャの考えを伝えた<ref>Wolfgang Gust (Hrsg.): ''Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes''. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.170 f. (online: [http://www.armenocide.de/armenocide/armgende.nsf/fcdf51bb2368582cc1256d00003c4572/ecd802ded50a4089c12568f30059b196?OpenDocument Bericht von Botschafter Wangenheim an Reichskanzler Bethmann Hollweg vom 17. Juni 1915]).</ref>。[[エルズルム]]にいたドイツ駐オスマン帝国副領事[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]も7月末に「アルメニア人に対する行動の最終的な目的はトルコにおける絶滅である」と報告した<ref>Wolfgang Gust (Hrsg.): ''Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes''. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.219; (online: [http://www.armenocide.de/armenocide/armgende.nsf/e6b76f959bbba2fec1256d060042df1c/6ab9a19135ff7f2dc12568f30059b1d2?OpenDocument Bericht von Vizekonsul Scheubner-Richter an Botschafter Wangenheim vom 28. Juli 1915]).</ref>。ヴァンゲンハイムの後任{{仮リンク|パウル・ヴォルフ・メッテルニヒ|en|Paul Wolff Metternich}}は1915年12月にアルメニア人側で介入しようとし、ドイツ政府にアルメニア人の強制移送と虐殺を発表するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは「戦争の最中、公的に同盟者と対決することは前代未聞だ。私たちの唯一の目的は、アルメニア人が滅ぶか滅ばないかにかかわらず、終戦までトルコを味方につけ続けることだ。」と拒否した<ref>Wolfgang Gust (Hrsg.): ''Der Völkermord an den Armeniern 1915/16. Dokumente aus dem Politischen Archiv des deutschen Auswärtigen Amtes''. Zu Klampen Verlag, Springe, 2005, ISBN 3-934920-59-4, p.395 (online: [http://www.armenocide.net/armenocide/armgende.nsf/$$AllDocs/1915-12-07-DE-001 Bericht von Botschafter Metternich an Reichskanzler Bethmann Hollweg]).</ref>。[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]もオスマン帝国スルタンの[[メフメト5世]]に手紙を書いたが、時既に遅しであった。アルメニア人虐殺により終戦までに約100万人が死亡、同時代では1894年から1896年までの{{仮リンク|アルメニア人虐殺 (1894年-1896年)|en|Hamidian massacres|label=ポグロムの虐殺}}や1909年の{{仮リンク|アダナ虐殺|en|Adana massacre}}と比べて{{仮リンク|ホロコーストの名称|en|Names of the Holocaust|label=ホロコースト}}と呼ばれた<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.342 f.; Gunnar Heinsohn: ''Lexikon der Völkermorde''. Rowohlt Taschenbuch Verlag, Reinbek bei Hamburg 1998, ISBN 3-499-22338-4, p.77 ff., 174; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.142 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.316 f.; Ernesti: ''Benedikt XV.'' 2016, p.260 f.</ref>。
=== ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役 ===
[[画像:FerdinandOfBulgariaAndKaiserWilhelmII.jpg|thumb|[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、[[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]とドイツの[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]元帥。[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の[[ニシュ]]にて、1915年。]]
[[画像:Bulgarische Soldaten.jpg|thumb|ブルガリア人兵士、1916年。]]
1915年10月14日に[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアが[[バルカン戦争]]で「[[ブルガリア人|ブルガリア民族]]の国」を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが[[第一次バルカン戦争]]で勝ち得た領土は1913年の[[ブカレスト条約 (1913年)|ブカレスト条約]]でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相{{仮リンク|ヴァシル・ラドスラホフ|en|Vasil Radoslavov}}率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして(連合国側での参戦が予想される)[[ルーマニア王国]]と[[ギリシャ王国]]の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアに[[マケドニア]]、[[ドブロジャ]]、[[東トラキア]]の獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]元帥率いる{{仮リンク|中央同盟国のセルビア攻勢|de|Serbienfeldzug der Mittelmächte|label=セルビア攻勢}}が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国が[[テッサロニキ]]の北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが({{仮リンク|ギリシャ・セルビア同盟 (1913年-1924年)|en|Greek-Serbian Alliance of 1913|label=ギリシャ・セルビア同盟}})、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した<ref>Richard C. Hall: ''The Balkan Wars, 1912-1913: Prelude to the First World War''. Routledge, New York 2000, ISBN 0-415-22946-4, p.100.</ref>。[[ベオグラード]]が10月9日に、[[ニシュ]]が11月5日に陥落すると、[[ラドミル・プトニク]]率いるセルビア軍(開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない)は捕虜約2万人を連れて[[アルバニア公国]]や[[モンテネグロ王国]]の山岳地帯に撤退した。セルビア軍は[[ケルキラ島]]で再編された後、[[マケドニア戦線]]に投入された。{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー占領期のセルビア|en|Imperial and Royal Military Administration in Serbia|label=占領されたセルビア}}はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.399 f., 535 f., 834 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.351 ff.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.193 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.236 ff.</ref>。
=== その他の戦線 ===
{{仮リンク|カフカース戦線 (第一次世界大戦)|en|Caucasus Campaign|label=カフカース戦線}}の{{仮リンク|サリカミシュの戦い|en|Battle of Sarikamish}}は1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.316.</ref>。{{仮リンク|シナイ半島とパレスチナ戦役|en|Sinai and Palestine Campaign}}では{{仮リンク|フリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン|en|Friedrich Freiherr Kress von Kressenstein}}率いるオスマン軍が1月末に[[スエズ運河]]に向けて攻勢に出たが失敗した({{仮リンク|スエズ運河襲撃|en|Raid on the Suez Canal}})<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.768 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.312 f.</ref>。
1915年7月には[[ドイツ領南西アフリカ]]の植民地守備隊 ([[:en:Schutztruppe|Schutztruppe]]) が降伏し、{{仮リンク|南西アフリカ戦役|en|South West Africa campaign}}が終結した。
{{仮リンク|メソポタミア戦役|en|Mesopotamian campaign}}ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までの{{仮リンク|クテシフォンの戦い (1915年)|en|Battle of Ctesiphon (1915)|label=クテシフォンの戦い}}で(実質的には[[コルマール・フォン・デア・ゴルツ]]率いる)オスマン軍に阻止された。また、[[英印軍|イギリス領インド軍]]の海外派遣部隊が12月7日に[[クート]]で[[クートの戦い|包囲された]]<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.709; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.418 f.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.158 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.324 f.</ref>。
=== 1915年の社会と政治 ===
[[画像:Red Cross nurses & doctors from Japan going to Europe LCCN2014681829.tif|thumb|欧州に向かう日本赤十字の救護団。1915年]]
[[画像:Japanese in Siberia LCCN2014708766.jpg|thumb|ロシア支援にあたる日本陸軍。シベリア、1915年]]
12月にフランス軍の総指揮官に就任した[[ジョゼフ・ジョフル]]は12月6日から8日まで連合国間の{{仮リンク|シャンティイ会議|en|Chantilly Conferences}}を開催した<ref group="注釈">{{仮リンク|フランス軍参謀本部 (1914年-1919年)|en|Grand Quartier Général (1914-1919)|label=フランス軍参謀本部}}は1914年10月以降、シャンティイを大本営としていた。</ref>。中央同盟国の{{仮リンク|内線 (軍事)|en|Interior lines|label=内線}}を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.624 f.; François Cochet: ''6-8 décembre 1915, Chantilly : la Grande Guerre change de rythme.'' In: ''Revue historique des armées.'' Nr. 242, 2006 [http://rha.revues.org//index4062.html (online)]</ref>。イギリスでは[[ガリポリの戦い]]の失敗により、[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]内閣は5月に改造してそれまで野党であった[[保守党 (イギリス)|保守党]]の入閣に同意せざるを得なかった。この{{仮リンク|アスキス挙国一致内閣|en|Asquith coalition ministry}}では1915年春の{{仮リンク|1915年砲弾危機|en|Shell Crisis of 1915|label=砲弾危機}}に対応するために{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}が新設された。
10月と11月にはドイツでの[[グロサリー]]、配給所や{{仮リンク|フライバンク|de|Freibank}}<ref group="注釈">ドイツの安売り肉店。品質が下級であるが食用に適する肉を販売する。</ref>に対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都[[ベルリン]]の[[ウンター・デン・リンデン]]でデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.315.</ref>。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、[[ジャガイモ|ポテト]]の値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった<ref>Alexander Mayer: ''Fürth 1911-1914. Krieg der Illusionen - die lokale Sicht.'' Fürth 2000, ISBN 3-927347-44-2, p.94 f., 99.</ref>。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と[[硝酸塩]]([[化学肥料]]の生産に必要)の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、{{仮リンク|参議院 (ドイツ帝国)|en|Bundesrat (German Empire)|label=参議院}}がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は[[闇市]]で取引するようになった。1915年末には「[[インフレーション|インフレ]]が脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で『食料をくれ!それから、私の夫も!』という怒りの叫びをするようになった。」という観察もあったという<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.299, 315.</ref>。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。食料供給の政策に失敗した結果、1915年末までに「市民は国から疎遠になり、国の『非正当化』が始まるほど」となった<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.117 ff. (Zitat: p.121.); Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.267 ff.</ref>。
[[ドイツ社会民主党]]の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼は[[フィリップ・シャイデマン]]の質問に対し、東部と西部の「安全」(併合)が平和に不可欠であるとしたが、外国では「[[覇権主義]]の演説」として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを「併合の主導者」としてこき下ろした声明を出した<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Zwei Teile. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.314 f., 318 f., 323; Susanne Miller, Heinrich Potthoff: ''Kleine Geschichte der SPD. Darstellung und Dokumentation 1848-1990.'' Verlag J.H.W. Dietz Nachfolger, Bonn 1991, ISBN 3-87831-350-0, p.76; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.856.</ref>。
== 1916年の戦闘 ==
[[画像:Georg thiel erster werlkrieg verdun 1916.jpg|thumb|第一次世界大戦中、[[エミール・デープラー]]による[[リトグラフ]]。]]
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R05148, Westfront, deutscher Soldat.jpg|thumb|ドイツの[[突撃大隊|突撃歩兵]]、1916年の西部戦線にて。]]
[[画像:ErsterWeltkriegSoldatengraeberOstfront.jpg|thumb|東部戦線の軍人墓地、1916年。]]
=== モンテネグロとアルバニアの占領 ===
[[画像:Kikeriki 6-2-1916 oesterreichische Besetzung Albaniens.jpg|thumb|オーストリアが発行したプロパガンダ。オーストリア兵がアルバニア女性に迎えられ、背景ではイタリア兵が逃げ出している。下端には「やっと正義の味方がやって来た」とある。1916年2月。]]
{{Main|{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー占領期のモンテネグロ|de|Österreichisch-Ungarische Besetzung Montenegros 1916-1918}}|{{仮リンク|第一次世界大戦下のアルバニア|en|Albania during World War I}}}}
1月4日、オーストリア軍が[[モンテネグロ王国]]に侵攻。23日にはモンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]が降伏し、フランスへ逃亡した({{仮リンク|モンテネグロ戦役 (第一次世界大戦)|en|Montenegrin Campaign of World War I|label=モンテネグロ戦役}})。[[アルバニア公国]]も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していた[[ドゥラス]](アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていた[[ケルキラ島]](元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの{{仮リンク|東方軍 (1915年-1919年)|en|Armée d'Orient (1915-19)|label=東方軍}}とともに[[テッサロニキ]]に移った)。{{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍[[捕虜]]約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちは[[サルデーニャ]]北西部の[[アジナーラ島]]に移送され、うち約5千人が死亡した<ref>{{Cite web |url=http://www.stintino.net/Eng_Asinara.htm |title=The Asinara Island |archivedate=2012-03-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120326024757/http://www.stintino.net/Eng_Asinara.htm |language=en |website=Stintino.net |accessdate=2018-05-19}}</ref>。イタリア軍はアルバニアの港湾都市[[ヴロラ]]を維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日まで{{仮リンク|ヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウ|en|Viktor Weber Edler von Webenau}}が軍政府を率いた<ref name="Duthel347">{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=qdGLBgAAQBAJ&pg=PA347 |language=de |title=Weltwirtschafts & Finanzcrash 2015 - I |page=347 |last=Duthel |first=Heinz |year=2015}}</ref>。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官{{仮リンク|アウグスト・リッター・フォン・クラル|en|August Ritter von Kral}}の指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された<ref name="Duthel347"/>。オーストリア=ハンガリーは[[アルバニア人]]の統治への参加を許し、学校と[[インフラストラクチャー]]を建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした<ref>{{Cite book |title=The First World War and the End of the Habsburg Monarchy, 1914-1918 |url=https://books.google.com.hk/books?id=ZEpLBAAAQBAJ&pg=PA737 |page=737 |language=en |last=Rauchensteiner |first=Manfried |year=2014}}</ref>。
=== ヴェルダンの戦い ===
[[画像:Western front 1914.jpg|250px|thumb|1914年時点の西部戦線。ヴェルダンが突起部になっている。]]
西部戦線では2月21日、[[ヴェルダンの戦い]]が始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると<ref>Erich von Falkenhayn: ''Die Oberste Heeresleitung 1914-1916 in ihren wichtigsten Entscheidungen''. Berlin 1920, pp.176-184 (Reprint z. B. von Kessinger Publishing, Whitefish 2010, ISBN 978-1-160-86957-7).</ref>、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのは[[第5軍 (ドイツ軍)#第一次世界大戦|ドイツ第5軍]]の指揮官[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム皇太子]]で、参謀{{仮リンク|コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ|en|Konstantin Schmidt von Knobelsdorf}}がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東の{{仮リンク|サン=ミーエル|en|Saint-Mihiel}}と西の[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ|ヴァレンヌ]]に挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた<ref name="Verdun">Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.225 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.445 f., 942 ff., 959; Kurt Fischer, Stephan Klink: ''Spurensuche bei Verdun. Ein Führer über die Schlachtfelder''. Bernard & Graefe Verlag, ISBN 3-7637-6203-5, p.20 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.390 ff.; Holger Afflerbach: ''Falkenhayn. Politisches Denken und Handeln im Kaiserreich.'' Oldenbourg, München 1996, ISBN 3-486-56184-7, p.360 ff., 543 ff.</ref>。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、[[マース川]]東岸の台地を占領することで<!--1904年の[[旅順攻囲戦]]と同じように 訳注:疑問があるのでコメントアウト-->大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた<ref>Holger Afflerbach: ''Falkenhayn. Politisches Denken und Handeln im Kaiserreich.'' Oldenbourg, München 1996, ISBN 3-486-56184-7, p.363.</ref>。
[[画像:Fort Douaumont Ende 1916.jpg|thumb|{{仮リンク|ドゥオモン要塞|en|Fort Douaumont}}にある爆発の跡、1916年。]]
ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にある{{仮リンク|オルヌ (ムーズ県)|en|Ornes, Meuse|label=オルヌ}}(現代では[[消滅集落]])で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日に{{仮リンク|ドゥオモン要塞|en|Fort Douaumont}}を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった<ref group="注釈">訳注:ドゥオモン要塞がヴェルダンの東北にあるため、要塞の東は既にドイツ軍に占領されている。ドゥオモン要塞の位置については[[:画像:Fort Douaumont location map 300px.jpg]]の地図を参照。</ref>。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備に[[フィリップ・ペタン]]将軍を任命した。フランスは[[バル=ル=デュック]]とヴェルダンを繋ぐ唯一の道路({{仮リンク|神聖街道|en|Voie Sacrée}}と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムは{{仮リンク|ノリア (ヴェルダン)|de|Noria (Verdun)|label=ノリア}}と呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した<ref name="Verdun"/>。
第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍は{{仮リンク|ル=モルトーム|en|Le Mort Homme}}(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」({{lang|de|Hölle von Verdun}}) の象徴とされている<ref name="Verdun"/>。
第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日に{{仮リンク|ヴォー要塞|en|Fort Vaux}}への強襲を開始した。23日には兵士7万8千で{{仮リンク|フルーリー=デヴァン=ドゥオモン|en|Fleury-devant-Douaumont|label=ヴォー=フルーリー線}}への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にある{{仮リンク|ティオモン堡塁|fr|Ouvrage de Thiaumont}}をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmの{{仮リンク|スーヴィル要塞|fr|Fort de Souville}}で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出て[[ソンムの戦い]]が開始したことを理由に攻勢の停止を命じた<ref name="Verdun"/>。
=== ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦 ===
1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。{{仮リンク|ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ|en|Henning von Holtzendorff}}{{仮リンク|海軍参謀本部 (ドイツ帝国)|en|German Imperial Admiralty Staff|label=海軍参謀総長}}も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強(警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし[[無制限潜水艦作戦]]は不可)を決定した<ref>Vgl. Bernd Stegemann: ''Die Deutsche Marinepolitik, 1916-1918'' (= Historische Forschungen. Band 4). Duncker & Humblot, Berlin 1970, p.32 ff. sowie M. Raffael Scheck: ''Alfred von Tirpitz and German Right-Wing Politics, 1914-1930'' (= ''Studies in Central European Histories;'' 11). Humanities Press, Boston 1998, ISBN 0-391-04043-X, p.29 ff.</ref>。
3月初、{{仮リンク|ドイツ帝国海軍省|en|German Imperial Naval Office}}がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め<!--引用文は不要と判断-->、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった<ref>Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.342, p.338 f. Fn. 11.</ref>。ドイツ潜水艦による客船[[サセックス (客船)|サセックス]]攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月に{{仮リンク|サセックスの誓約|en|Sussex pledge}}を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。
5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外の[[ユトランド沖海戦]]が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家の{{仮リンク|ゴルヒ・フォック (作家)|en|Gorch Fock (author)|label=ゴルヒ・フォック}}もいた)。ドイツの[[大洋艦隊]]は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは[[北海]]の[[制海権]]を保った<ref>Michael Epkenhans, Jörg Hillmann, Frank Nägler (Hrsg.): ''Skagerrakschlacht - Vorgeschichte - Ereignis - Verarbeitung.'' Oldenbourg, München 2011, ISBN 978-3-486-70270-5, p.139 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.50, 839 ff.; Jürgen Mirow: ''Der Seekrieg 1914-1918 in Umrissen''. Göttingen 1976, ISBN 3-7881-1682-X, p.82 ff.; Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.341 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.379 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.403 ff.</ref>。
=== ブルシーロフ攻勢とソンムの戦い ===
{{仮リンク|シャンティイ会議|en|Chantilly Conferences}}での決定に基づき、連合国軍は1916年中に3つの攻勢を計画した。すなわち、[[ソンムの戦い|ソンム会戦]]、[[ブルシーロフ攻勢]]、次の[[イゾンツォ川]]の戦いの3つだった。7月1日のソンム会戦は元はフランス主導の作戦だったが、ヴェルダンの戦いによる消耗があったためイギリス軍が大半を占めるに至った。イタリア戦線では2月のヴェルダンの戦いにより連合国はイタリアに要請して3月11日に攻撃を開始([[第五次イゾンツォの戦い]])、オーストリアも5月15日から[[アジアーゴの戦い|南チロル攻勢]]を開始(6月18日に終結)したためロシアのブルシーロフ攻勢が6月4日に始まった。その後はイタリアによる[[第六次イゾンツォの戦い]]が8月4日に始まった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.276, 624 f.</ref>
6月4日、ブルシーロフ攻勢が始まり、この時点の連合国にとって最大の勝利となった。3月にロシア南部軍の総指揮官に就任した[[アレクセイ・ブルシーロフ]]はそれまでの失敗から戦術を反省した。まず、攻勢が最短距離400kmという長い前線で行われ、敵軍に一点突破を許さなかった。そして、ロシア軍は秘密裏にオーストリア軍の防衛線に忍び寄り、50m程度の距離まで近づいた(それまでの攻勢では両軍間の[[無人地帯]]が1,600mもあったため、大きな損害が出てしまう)。ブルシーロフの数的優勢は少なかった(一般的な攻勢に必要な数的優勢に及ばなかった)が、{{仮リンク|第8軍 (ロシア帝国)|en|8th Army (Russian Empire)|label=ロシア第8軍}}は6月8日に[[コーヴェリ]]で{{仮リンク|第4軍 (オーストリア=ハンガリー帝国)|en|4th Army (Austria-Hungary)|label=オーストリア=ハンガリー第4軍}}をほぼ全滅させ、{{仮リンク|第9軍 (ロシア帝国)|en|9th Army (Russian Empire)|label=ロシア第9軍}}も南部の[[ドニエストル川]]と[[カルパティア山脈]]の間で{{仮リンク|第7軍 (オーストリア=ハンガリー帝国)|en|7th Army (Austria-Hungary)|label=オーストリア=ハンガリー第7軍}}を撃破、[[チェルニウツィー]]や{{仮リンク|コロムィーヤ|en|Kolomyia}}など重要な都市(いずれも現[[ウクライナ]]領)を占領した。オーストリア=ハンガリーの損害は624,000人だった。ブルシーロフはルーマニア国境近くで最も多く前進(約120km)、[[ルーマニア王国]]が連合国側で参戦する決定的な要因となった。しかし、補給の問題でさらなる進軍ができず、前線のごく一部にあたる{{仮リンク|ピンスク湿原|en|Pinsk Marshes}}や[[バラーナヴィチ]]で試みられた攻撃も交通の要衝[[コーヴェリ]]占領の試みも失敗した({{仮リンク|コーヴェリの戦い|en|Battle of Kowel}})。「それでも、ブルシーロフ攻勢は、わずかな領土でも争われる第一次世界大戦の規模からすれば、{{仮リンク|第一次エーヌ会戦|en|First Battle of the Aisne|label=エーヌ会戦}}で塹壕戦が始まった以降の連合国軍が勝ち取った最大の勝利であった」<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.400 ff. (Zitat: p.425); Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.393 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.378 ff.</ref>。
ヴェルダンの戦いによりフランス軍の派遣軍が40個師団から11個師団に減ったため、[[ダグラス・ヘイグ]]率いる[[イギリス海外派遣軍]]が代わって[[ソンムの戦い]]を主導した。連合国軍は8日間にわたって大砲1500門以上でドイツ軍の陣地を砲撃した後(合計で砲弾約150万発が発射された)、1916年7月1日に[[ソンム川]]沿岸でドイツ軍の陣地を攻撃した。大規模な砲撃の直後にもかかわらず、ドイツ軍の塹壕は無事に残っており、ドイツ兵士は機関銃の砲火でイギリス軍に対抗した。{{仮リンク|ソンム会戦の初日|en|First day on the Somme}}だけでイギリス軍は19,240人の死者を出し、うち8千人は攻撃が開始した直後の30分内に死亡した。夥しい損害にもかかわらず、ヘイグは攻勢の継続を命じた。9月15日にはイギリス軍が軍事史上初めて[[戦車]]の実戦投入を行った([[マーク I 戦車]])。11月25日まで続いた戦闘において、連合国軍は長さ30km攻撃線において8から10km前進したが、英仏軍の損害は少なくとも624,000人で、ドイツ軍も42万人の損害を出した。ドイツ軍の損害は文献によって違い、ドイツ側では335,688人としたが、イギリス側では軽傷者の数が多いとして最大で65万人とした<ref>Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich, Irina Renz (Hrsg.): ''Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde''. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.87; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.240 f.</ref>。いずれにしても、ソンムの戦いは第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家{{仮リンク|ジョン・キーガン|en|John Keegan}}は1998年に「イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった。」と述べた<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.400 ff. (Zitat: p.417); Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich und Irina Renz (Hrsg.): ''Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde''. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.79 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.851 ff.</ref>。1916年末にソンムの戦いでの損害が公表されたことで、12月にイギリス首相が[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]から[[デビッド・ロイド・ジョージ|デイヴィッド・ロイド・ジョージ]]に交代された。
=== 南チロル攻勢とイゾンツォの戦い ===
5月から6月、[[ボルツァーノ自治県|南チロル]]地域のオーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍の陣地に対し[[アジアーゴの戦い|攻勢]]に出たが、成果が限定的だった上に東部戦線でロシアが[[ブルシーロフ攻勢]]を開始したため、すぐに攻撃を中止した。イタリア軍も3月から11月にかけてイゾンツォ川沿岸で大規模な攻勢をしばしば行い([[第五次イゾンツォの戦い|第五次]]、[[第六次イゾンツォの戦い|第六次]]、[[第七次イゾンツォの戦い|第七次]]、[[第八次イゾンツォの戦い|第八次]]、[[第九次イゾンツォの戦い|第九次]]イゾンツォの戦い)、[[ゴリツィア]]市や[[ドベルド・デル・ラーゴ]]を占領したが、それ以上の成果に欠いた。オーストリア=ハンガリーの要請を受け、ドイツは1915年5月から11月にかけて{{仮リンク|アルペン軍団 (ドイツ帝国)|en|Alpenkorps (German Empire)|label=アルペン軍団}} (Alpenkorps) を南チロル戦線の支援に投入した。その後、イタリアは1916年8月28日にドイツに宣戦布告した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.332, 442 ff., 589 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.419 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.391 ff.</ref>。[[南アルプス (ヨーロッパ)|南アルプス]]の山岳戦の最中の12月13日、イタリアとオーストリア=ハンガリー軍数千人が[[雪崩]]により死亡する事故が起きた({{仮リンク|白い金曜日 (1916年)|en|White Friday (1916)|label=白い金曜日}})。
=== ルーマニア王国の参戦と敗北 ===
{{main|ルーマニア戦線|トランシルヴァニアの戦い}}
1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した(実際には数日前に[[ルーマニア戦線]]を開いた)。ルーマニアは1883年に[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相{{仮リンク|イオン・ブラティアヌ|en|Ion I. C. Brătianu}}率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王[[カロル1世 (ルーマニア王)|カロル1世]]だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによる[[トランシルヴァニア]]への請求を認めることで合意していた。ルーマニアが[[第二次バルカン戦争]]後の[[ブカレスト条約 (1913年)|ブカレスト条約]]でブルガリアとオスマン帝国から[[ドブロジャ#ブルガリア|南ドブロジャ]]を獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、[[バナト]]、[[ブコビナ]]を獲得する「大ルーマニア協定」という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日の[[ブルシーロフ攻勢]]の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣る[[ルーマニア軍]]はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いる{{仮リンク|第9軍 (ドイツ帝国)|en|9th Army (German Empire)|label=ドイツ第9軍}}は9月26日から29日にかけての{{仮リンク|シビウの戦い|de|Schlacht bei Hermannstadt}}でルーマニア軍を撃破した。ほかにも[[ブラショヴ|クロンシュタット]]において第一次世界大戦では珍しい大規模な[[市街戦]]が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツの{{仮リンク|第52軍団 (ドイツ帝国)|en|52nd Corps (German Empire)|label=ドナウ軍}}が南西から[[ドナウ川]]を渡河した。そして、[[ツェッペリン飛行船一覧|ツェッペリン飛行船]]のLZ81、LZ97、LZ101と[[攻撃機]]も加わり、首都[[ブカレスト]]が12月6日に陥落した([[ブカレストの戦い]])。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中に[[プロイェシュティ]]の[[油田]]やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王[[フェルディナンド1世 (ルーマニア王)|フェルディナンド1世]]は政府とともに[[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]に脱出した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.425 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.260, 399, 669 f., 804 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.387 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.247.</ref>。
[[ファイル:Hindenburg Kaiser Ludendorff.jpg|250px|right|thumb|プレス城における独軍最高統帥(左から参謀総長ヒンデンブルク、皇帝ヴィルヘルム2世、参謀次長ルーデンドルフ)]]
=== ファルケンハインの更迭とヒンデンブルクの任命 ===
1916年夏に連合国軍が全戦線で攻勢に出てドイツ軍が危機に陥ると、ヴィルヘルム2世に[[エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン]]を解任させる圧力が日に日に高まっていった。ルーマニアが8月27日に参戦したことが解任のきっかけになり、29日に新しく就任した[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]は[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]とともにヴェルダン攻勢を中止。即座に経済動員を強化して[[総力戦]]を準備した。その経済動員の強化とは8月31日にプロイセン戦争省が提出した要求で後に{{仮リンク|ヒンデンブルク綱領|en|Hindenburg Programme}}と呼ばれたものであった。しかし、ヒンデンブルクとルーデンドルフの任命は実質的には軍事独裁への転向でもあった。「その威光により実質的には解任できないヒンデンブルクとルーデンドルフを任命したことによって、皇帝はさらに目立たなくなっただけでなく、政治的にも[[陸軍最高司令部|最高司令部]]に動かされるようになった。(中略)解任できない2人の将軍には(中略)軍事上の権力をはるかに超えて政治に介入、人事任免という帝国の権力中心にも皇帝に圧力をかけることで決定的な影響を及ぼす用意があった」<ref>John C. G. Röhl: ''Wilhelm II. - Der Weg in den Abgrund, 1900-1941.'' 2. Auflage. C.H. Beck, München 2009, ISBN 978-3-406-57779-6, p.1187 ff. (Zitat: p.1190); Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.468, 556 ff., 685, 755.</ref>。
=== ヴェルダンの反攻とジョフルの辞任 ===
フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.369 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.400; Kurt Fischer, Stephan Klink; ''Spurensuche bei Verdun. Ein Führer über die Schlachtfelder''. Bernard & Graefe Verlag, ISBN 3-7637-6203-5, p.38 ff.</ref>。
ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害(うち死者143,000人)を出し、フランス軍は377,000人の損害(うち死者162,000人)を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.232; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.371.</ref>。
フランス軍最高司令官[[ジョゼフ・ジョフル]]はドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに{{仮リンク|第二次シャンパーニュ会戦|en|Second Battle of Champagne}}や[[ソンムの戦い]]で大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日に[[ロベール・ニヴェル]]将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、[[フィリップ・ペタン]]もヴェルダンでの守備に成功して「ヴェルダンの英雄」と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.597 f., 743 f., 771 f.</ref>。
=== ポーランド摂政王国と中央同盟国の講和案 ===
1916年11月5日、中央同盟国によりロシア領ポーランドは[[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド摂政王国]]として建国した({{仮リンク|11月5日勅令|en|Act of 5th November}}も参照)。しかし、中央同盟国が予想したポーランドからの軍事支援は実現せず、少数の{{仮リンク|第一次世界大戦におけるポーランド軍団|en|Polish Legions in World War I|label=ポーランド軍団}}(7月まで[[ユゼフ・ピウスツキ]]が率いた)が中央同盟国側で戦ったのみである。ポーランド軍団は翌年に{{仮リンク|ポーランド軍 (第一次世界大戦)|en|Polska Siła Zbrojna|label=ポーランド軍}}になった。ほかにもポーランド人数十万人が(独立ポーランドの国民ではなく)ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア国民として各々の軍に従軍した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.778.</ref>。
中央同盟国はルーマニアに勝利した後、12月12日に{{仮リンク|中央同盟国の講和案|de|Friedensangebot der Mittelmächte}}を提出したが、30日に拒絶された<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.510; Sönke Neitzel: ''Weltkrieg und Revolution. 1914-1918/19''. Be.bra verlag, Berlin 2008, ISBN 978-3-89809-403-0, p.98 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.258 f.</ref>。
== 1917年の戦闘 ==
=== 潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦 ===
[[画像:Bundesarchiv Bild 102-00159, U-Bootkrieg, britisches Schiff "Maplewood".jpg|thumb|1917年春、[[地中海]]でイギリスの貨物船に砲撃するドイツの潜水艦[[U35 (潜水艦・初代)|U-35]]。U-35は少なくとも船226隻を撃沈しており、史上最も「成功」した軍艦とされている。]]
1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]が連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.258 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.444 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.510, 933.; Karl Dietrich Erdmann (Hrsg.): ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2, p.324 ff., 387 ff.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.276 f.; Jürgen Mirow: ''Der Seekrieg 1914-1918 in Umrissen.'' Göttingen 1976, ISBN 3-7881-1682-X, p.131 f.</ref>。{{仮リンク|ベルリーナー・ターゲブラット|en|Berliner Tageblatt}}の編集長{{仮リンク|テオドール・ヴォルフ|en|Theodor Wolff}}は1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、[[民族自決]]に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、[[トルコ]](オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。{{仮リンク|汎ゲルマン連盟|en|Pan-German League}}などの連中が大喜びした。連合国が{{仮リンク|絶滅戦争|de|Vernichtungskrieg}}を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.471 f.</ref>。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.933.</ref>。
[[画像:USA bryter de diplomatiska förbindelserna med Tyskland 3 februari 1917.jpg|220px|thumb|アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]の演説<br />ドイツとの外交関係断絶を発表している]]
{{Wikisourcelang|en|Formal U.S. Declaration of War with Germany, 6 April 1917}}
ウィルソンは[[アメリカ合衆国議会]]で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する[[十字軍]]に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに[[アメリカ合衆国の対独宣戦布告 (1917年)|宣戦布告]]した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した<ref>Woodrow Wilson: ''War Messages, 65th Cong., 1st Sess. Senate Doc. No. 5, Serial No. 7264.'' Washington, D.C. 1917, pp.3-8, passim.</ref>。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でも[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]の{{仮リンク|ティルピッツ計画|en|Tirpitz Plan}}が長期的には[[モンロー主義]]におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の[[国]]という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、{{仮リンク|ブライス委員会|en|Committee on Alleged German Outrages}}などでドイツの陰謀が報告され、さらに[[ルシタニア (客船)|ルシタニア号]]が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。[[1916年アメリカ合衆国大統領選挙]](11月7日)の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。[[ロバート・ランシング]]や[[エドワード・M・ハウス]]などウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が[[ツィンメルマン電報]]を公表した。電報の内容はドイツが[[メキシコ]]に資金援助を与えて、[[テキサス州|テキサス]]、[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]、[[アリゾナ州|アリゾナ]]の領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも[[アメリカ合衆国の対墺洪宣戦布告|宣戦布告]]した<ref>Ragnhild Fiebig-von Hase: ''Der Anfang vom Ende des Krieges: Deutschland, die USA und die Hintergründe des amerikanischen Kriegseintritts am 6. April.'' In: Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.125 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.105 ff., 972; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.277 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.276 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.487 ff.</ref>。
=== 日本海軍艦隊の欧州派遣 ===
{{main|特務艦隊#第一次世界大戦}}
[[画像:Destroyer Sakaki.jpg|thumb|イギリスの兵員輸送船「[[トランシルヴァニア (客船)|トランシルヴァニア]]」から救出された乗員であふれる[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]「[[榊 (樺型駆逐艦)|榊]]」(1917年5月4日撮影)]]
[[ファイル:Japanese_sailors_with_boxes_containing_cremated_remains_of_Japanese_crew_of_Japanese_Destroyer_Sakaki.png|サムネイル|Uボートの攻撃により戦死した駆逐艦「榊」乗員の遺骨が入った箱を持つ水兵たち(1917年12月2日)]]
このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。
1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、[[山東半島]]および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて大日本帝国海軍は、[[インド洋]]に[[特務艦隊#第一特務艦隊|第一特務艦隊]]を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける[[植民地]]からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「[[明石 (防護巡洋艦)|明石]]」および[[樺型駆逐艦]]計8隻からなる[[特務艦隊#第二特務艦隊|第二特務艦隊]]をインド洋経由で[[地中海]]に派遣した。さらに[[桃型駆逐艦]]などを増派し、地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始した[[アレクサンドリア]]から[[マルセイユ]]へ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出<ref name="sankei14080318000002">{{Cite news |title=「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2014-08-03 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/erp14080318000002-n1.htm |accessdate=2014-08-04 |author=内藤泰朗 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160820235040/http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html |archivedate=2016-08-20}}</ref>した。
その結果、連合国側の[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていた[[インド洋]]と[[地中海]]で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した<ref name="sankei14080318000002"/>。
また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によって[[ポートサイド]]まで回航された上でフランス海軍に輸出している([[アラブ級駆逐艦]])。
=== カブラの冬 ===
{{Main|カブラの冬}}
ドイツでは1916年から1917年にかけての冬、天候による不作などが原因となって[[カブラの冬]]が起きた。最高価格の定められた状況ではポテトや穀物をそのまま売るより、飼料として使ったり、蒸留所に売ったりした方が利益が出たため、状況はさらに悪化した。2月、毎日の食料配給が1,000kcal分まで下がり(成人が必要な[[生理的熱量]]は平均で毎日2,410kcal)、食料不足がさらに厳しくなった。カブラの冬により、ドイツの社会が団結していない状況(生産者と消費者の対立)、そして国が食料を提供する能力の不足が浮き彫りになった<ref>Hew Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.266 ff.; Gerhard Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.461 ff., 565 f., 616, 787 ff.; Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.483 f.</ref><ref>[http://bazonline.ch/wetter/allgemeinelage/ein-verhaengnisvolles-jahr/story/21446388 ''Ein verhängnisvolles Jahr.''] In: ''Basler Zeitung.'' 2016年8月17日。</ref>。
=== ロシア革命 ===
[[画像:Демострация работниц Путиловского завода в первый день Февральской революции 1917.jpg|thumb|[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の民衆デモにより[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発した。]]
工業力が重点になったこの戦争は、[[工業化]]が緒に就いたばかりで未だ農業が主であったロシア帝国の力を大きく超え、既に厳しい[[社会問題]]をさらに悪化させた。さらに、[[バルト海]]と[[ダーダネルス海峡]]が海上封鎖を受けたことで、戦前には7割の輸入がバルト海経由で3割が[[黒海]]経由だったロシアは大きく疲弊した。戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらに厳しい食料不足により、[[労働者]]と兵士の妻、女性の農民たちが2月23日([[ユリウス暦]])/3月8日([[グレゴリオ暦]])に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で[[デモ活動|デモ行進]]を行った<ref group="注釈">女性の農民がこのようなデモ行進に参加したのはロシアでは初めてのことで、この事件を記念して3月8日が[[国際女性デー]]になっている。</ref>。2月26日/3月11日にはデモがペトログラード駐留軍に広まり、やがて[[2月革命 (1917年)|二月革命]]に発展した。[[ロシア第一革命|1905年の革命]]と同じく、労働者たちは[[ソビエト]]を結成、デモ参加者の要求を代弁してそれを政治的に実施しようとした。ソビエトの執行委員会は主に[[メンシェヴィキ]]と[[社会革命党]]で構成された。3月1日(ユリウス暦)/3月14日(グレゴリオ暦)、{{仮リンク|ペトログラード・ソビエト|en|Petrograd Soviet}}は{{仮リンク|ペトログラード・ソビエト命令第一号|en|Petrograd Soviet Order No. 1|label=命令第一号}}を発令し、政府命令のうちソビエトの命令と矛盾しないもののみ遵守するよう命じた。[[ドゥーマ]]で代表を持つ[[ブルジョワ]]は[[ゲオルギー・リヴォフ]][[ロシアの首相|首相]]率いる[[ロシア臨時政府]]を成立させ、2日後に[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]を説得して退位させた。これによりロシア臨時政府とソビエトという「{{仮リンク|二重権力|en|Dual power (Russian Revolution)}}」が成立した。ロシア民衆の大半が望んだのと違い、臨時政府は戦争継続を決定、当時のソビエトも継戦の決定を支持した。
連合国はロシア帝国が民主主義に反対したため[[プロパガンダ]]に問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)に[[ウラジーミル・レーニン]]ら[[ボリシェヴィキ]]約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。[[ロシア社会民主労働党]]の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」<ref>Heinrich August Winkler: ''Geschichte des Westens: Von den Anfängen in der Antike bis zum 20. Jahrhundert.'' C.H. Beck, 2011, p.1180.</ref>転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府は[[アレクサンドル・パルヴス]]を仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万[[金マルク|マルク]]とされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした<ref>Dimitri Wolkogonow: ''Lenin. Utopie und Terror''. Econ, Düsseldorf 1994, ISBN 3-430-19828-3, p.110 ff.; Robert Service: ''Lenin. Eine Biographie.'' Beck, München 2000, ISBN 3-406-46641-9, p.387 f.</ref>。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に[[四月テーゼ]]を発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど[[メーデー|労働者の日]](4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))に{{仮リンク|ミリュコーフ通牒|en|Milyukov note}}を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って{{仮リンク|四月危機|en|April Crisis}}を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.807 ff.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.289 ff.; Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.265 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.462 ff.; Manfred Hildermeier: ''Russische Revolution.'' S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2004, ISBN 3-596-15352-2, p.17 ff., 28 f.</ref>。
[[File:RJB23 – Friede 1917 1.jpg|thumb|[[無人地帯]]にいる両軍の兵士。]]
[[File:RJB23 – Friede 1917 2.jpg|thumb|両軍の兵士、1917年。]]
5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任した[[アレクサンドル・ケレンスキー]]はペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、{{仮リンク|ベレジャヌィ|en|Berezhany}}、[[リヴィウ]]、[[ヴィリニュス]]を目標とした、後に[[ケレンスキー攻勢]]と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まず[[イヴァーノ=フランキーウシク|スタニスラーウ]]に対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日に{{仮リンク|カールシュ|en|Kalush, Ukraine}}まで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までに[[テルノーピリ|タルノーポリ]]や[[チェルニウツィー]]まで進軍、東ガリツィアと[[ブコビナ]]を奪回した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.612 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.470; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.483 ff.</ref>。ロシアでもボリシェヴィキが[[七月蜂起]]を起こしたが鎮圧された。レーニンは[[フィンランド大公国|フィンランド]]に逃亡した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.808; Dimitri Wolkogonow: ''Lenin. Utopie und Terror''. Econ, Düsseldorf 1994, ISBN 3-430-19828-3, p.142 ff.</ref>。9月、ドイツ軍は[[リガ]]を占領([[リガ攻勢]])。10月には[[アルビオン作戦]]でバルト海の[[サーレマー島]]、[[ヒーウマー島]]、[[ムフ島]]を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.472 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.487 ff.</ref>。
9月末、ロシアの[[ラーヴル・コルニーロフ]]将軍が[[クーデター]]を企図して失敗すると({{仮リンク|コルニーロフ事件|en|Kornilov affair}})、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に[[十月革命]]を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが[[平和に関する布告]]を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった<ref>Robert Service: ''Lenin. Eine Biographie.'' Beck, München 2000, ISBN 3-406-46641-9, p.405 ff.; Manfred Hildermeier: ''Russische Revolution.'' S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2004, ISBN 3-596-15352-2, p.31 ff.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.474 f.</ref>。
12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日には[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト=リトフスク]]で講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日に[[ブレスト=リトフスク条約]]が締結された<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.506 ff.</ref>。
=== ドイツ、西部戦線で守勢に ===
[[画像:Flandern 1917.jpg|thumb|フランス軍による、ドイツ軍への突撃が失敗した一幕。1917年のフランドル。]]
[[画像:The Way to the Front.jpg|thumb|爆撃を受けた森、[[イーペル]]付近、1917年。]]
3月、ドイツ軍は西部戦線で[[アルベリッヒ作戦]]を発動して、16日から19日にかけて[[ソンム川]]から{{仮リンク|ヒンデンブルク線|en|Hindenburg Line}}に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退は{{仮リンク|ループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団|en|Army Group Rupprecht of Bavaria}}が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事<!--Baumaßnahme. 「野戦築城」の方が良いかもしれません-->であり、主に捕虜と[[強制労働]]に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は[[焦土作戦]]を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では[[地雷]]や[[ブービートラップ]]も設置した。{{仮リンク|バポーム|en|Bapaume}}などの地域が完全に破壊され、[[サン=カンタン]]の住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の「影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた」ことで、国外の世論がドイツに不利になった<ref>Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich, Irina Renz (Hrsg.): ''Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde''. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.163 ff. (Zitat: p.178); Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.326 ff., 838 f., 1007 f.</ref>。
フランス軍大本営がある[[シャンティイ]]で行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、[[リール (フランス)|リール]]とヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の[[最高指揮官]][[ロベール・ニヴェル]]はフランス北部の[[アラス]]を攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した({{仮リンク|アラスの戦い (1917年)|en|Battle of Arras (1917)|label=アラスの戦い}})。直後にはフランス軍も[[エーヌ川]]と[[シャンパーニュ]]で攻勢に出て({{仮リンク|第二次エーヌ会戦|en|Second Battle of the Aisne}}と{{仮リンク|第三次シャンパーニュ会戦|en|Battle of the Hills}})、{{仮リンク|シェマン・ド・ダーム|en|Chemin des Dames}}の占領を狙った。{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン|en|Ludwig von Falkenhausen}}将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った<ref>Ville d´Arras (Hrsg.): ''La carrière Wellington. Mémorial de la Bataille d´Arras. 9 Avril 1917.'' Arras 2008, ISBN 978-2-9520615-1-3, p.12 ff.</ref><ref>Angelika Franz: ''[http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,547483,00.html Tunnelstadt unter der Hölle].'' In: Der Spiegel vom 16. 2008年4月
。</ref>。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団は{{仮リンク|ヴィミ・リッジの戦い|en|Battle of Vimy Ridge}}に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。{{仮リンク|フリッツ・フォン・ロスベルク|en|Fritz von Loßberg}}が[[縦深防御]]戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した<!--ガスボンベが化学砲弾に置換されるようになった GasgranateとBlasverfahrenの訳語に疑問があるので一旦コメントアウト--><ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.448 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.411 f., 744 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.464 ff.</ref>。
シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で[[反乱]]がおきた(フランス軍200万のうち約4万が反乱)。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団は[[ソワソン]]と[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置された{{仮リンク|フランスにおけるロシア海外派遣軍|en|Russian Expeditionary Force in France|label=ロシア海外派遣軍}}も同じような問題に遭った。反乱は前線では起きず、後方で休息をとっていて前線に戻る予定の兵士の間でおきた。兵士の要求は休暇を増やすこと、栄養状態を改善すること、兵士の家族の待遇を改善すること、「殺戮」の中止(戦略への反対を意味する)、そして「不正義」({{仮リンク|戦争正義|de|Wehrgerechtigkeit|label=戦争における正義}}に関して)の中止、「平和」だった。「反乱した兵士の大半は戦争自体に異議を唱えたのではなく、無用の犠牲になることに反対しただけだった」<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.242.</ref>。4月29日、ニヴェルは更迭され、ヴェルダンの守備を指揮した[[フィリップ・ペタン]]将軍が後任になった。攻勢から守備に切り替えることで、ペタンはフランス軍の不安を和らげた。ペタンはドイツ軍の縦深防御と似たような戦術を編み出した。8月の{{仮リンク|ヴェルダンの戦い (1917年)|fr|Bataille de Verdun (1917)|label=ヴェルダンの戦い}}と10月の{{仮リンク|ラ・マルメゾンの戦い|en|Battle of La Malmaison}}で限定的ながら成功を収めた(ドイツ軍が{{仮リンク|エレット川|en|Ailette (river)}}の後ろまで押された)ほか、フランス軍は1917年6月から1918年7月までの間、攻勢に出なかった。ペタンは更に兵士の給食と休暇を改善した。反乱兵士の約1割が起訴され、うち3,427人が有罪判決を受けた。軍法会議により554人が死刑判決を受け、うち49人の死刑が執行された。兵士の反乱が頂点となった5月から6月にかけて、連合国軍に大きな動きがなかったが、ドイツ軍はその連合国軍が不活発な理由が分からなかったことと、他の前線に手間取っていることから、大きな動きに出なかった<ref>Becker, Krumeich: ''Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918.'' 2010, p.242 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.458 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.710 f.; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.300 ff.</ref>。
[[画像:The Wipers Times 1916-03-20 p10.jpg|left|thumb|イーペルの塹壕でイギリス軍兵士が発行していた定期刊行物『[[ワイパーズ・タイムズ]]』。]]
5月21日から6月7日までの{{仮リンク|メッシーヌの戦い (1917年)|en|Battle of Messines (1917)|label=メッシーヌの戦い}}において、イギリス軍はイーペルの南にある戦略的に重要な[[尾根]]を占領した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは1年半をかけてドイツ軍の陣地の下に巨大な[[地雷]]21個を敷設して爆破。戦争史における[[人によって引き起こされた核爆発以外の大爆発一覧|核爆発以外の大爆発]]で「最も効果を上げた」結果となった(死者10,000人)。尾根を占領したことで連合国軍は右翼が安定し、イギリス軍が主導する[[パッシェンデールの戦い|第三次イーペル会戦]](7月31日 - 11月6日)での攻勢に出ることができた。攻勢の目標はドイツの潜水艦基地[[オーステンデ]]と{{仮リンク|ゼーブルッヘ|en|Zeebrugge}}だった。しかし、いくらかの成功を収めた後、攻勢は10月9日に{{仮リンク|ランゲマルク=プールカペレ|en|Langemark-Poelkapelle}}で膠着に陥り、戦力要地であるヘルフェルト高原 ({{lang|nl|Geluveld}}) への攻撃も失敗した。{{仮リンク|第二次パッシェンデールの戦い|en|Second Battle of Passchendaele}}でカナダ部隊が11月6日に廃墟と化していたパッシェンデールを占領した後、戦闘は自然と停止した。パッシェンデールでドイツ軍を押し返した連合国軍は前線を最大で8km前進したが、両軍の損害は合計で約585,000人だった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.495 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.492 ff., 721; Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.308 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.468 ff.</ref>。
11月20日から12月6日までの[[カンブレーの戦い]]で初めての大規模な[[機甲戦]]が行われた<ref>Viscount Montgomery of Alamein: ''Kriegsgeschichte: Weltgeschichte der Schlachten und Kriegszüge''. Aus dem Englischen von Hans Jürgen Baron von Koskull. Komet, Frechen 1999, ISBN 3-933366-16-X, p.479.</ref>。短期間の予備砲撃の後、{{仮リンク|王立戦車連隊|en|Royal Tank Regiment}}の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、{{仮リンク|ヒンデンブルク線|en|Hindenburg Line}}上の{{仮リンク|アヴランクール|en|Havrincourt}}地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.512 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.403 f.</ref>。
=== 日本のオーストラリア警備と人種差別 ===
[[画像:Japanese cruiser Ibuki ca 1910.jpg|thumb|ANZAC欧州派遣を護衛した伊吹]]
[[画像:StateLibQld 1 120860 Sydney (ship).jpg|thumb|シドニー]]
イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「[[伊吹 (巡洋戦艦)|伊吹]]」が[[ANZAC]]軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹は[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリーマントル]]を経て[[ウェリントン]]に寄港し[[ニュージーランド]]の兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「[[シドニー (軽巡洋艦・初代)|シドニー]]」、「[[メルボルン (軽巡洋艦)|メルボルン]]」と共に[[アデン]]に向かった。航海途上で「[[エムデン (軽巡洋艦・初代)|エムデン]]」による[[ココス諸島|ココス島]]砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。
この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の[[加藤寛治]]は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の[[太平洋]]と[[インド洋]]における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「[[矢矧 (防護巡洋艦)|矢矧]]」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。このような非礼を超えたオーストラリア軍の態度に大日本帝国海軍は激怒し、オーストラリア軍部隊の責任者は、「矢矧に乗り込んだ水先案内人が適切な信号を発しなかったため『注意喚起のため』実弾を発射した」と弁明したが、結果的に事件はオーストラリア総督とオーストラリア海軍司令官の謝罪により一応は決着した。
オーストラリアの日本人への人種差別を基にした、人命にさえ係わる差別的姿勢は戦争を通じて和らぐことがなく、また[[日英通商航海条約]]への加入拒否、[[赤道]]以北の[[南洋諸島]]の日本領有への反対など、一切妥協しないANZACの人種差別的態度は、アジア太平洋地域のみならず、第一次世界大戦全体を通じて日本の協力を必須なものと認識しているイギリス本国をも手こずらせた。
=== その他の戦線 ===
[[画像:Ottoman 15th Corps.jpg|thumb|left|ガリツィア戦線の{{仮リンク|タルノーポリ攻勢|de|Tarnopol-Offensive}}に参加したオスマン軍を視察するヴィルヘルム2世]]
1917年初、イギリス軍は{{仮リンク|メソポタミア戦役|en|Mesopotamian campaign}}を再開して[[バグダード]]への進軍を試み、2月23日には[[クート]]に到着した({{仮リンク|クートの戦い (1917年)|en|Second Battle of Kut|label=クートの戦い}})。さらに雨季がはじまる前の3月11日にバグダードを占領({{仮リンク|バグダード陥落 (1917年)|en|Fall of Baghdad (1917)|label=バグダード陥落}})、オスマン軍は[[モースル]]に撤退した。バグダードが陥落したことで東方における計画([[バグダード鉄道]]など)が危うくなり、オスマン帝国ら中央同盟国は打撃を受けた。その結果、ドイツ軍はファルケンハインを任命して、[[エンヴェル・パシャ]]とともにジルデリム ({{lang|en|Jilderim}}) をコードネームとするバグダード再占領計画を準備した<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.341 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.709, 760; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.527 ff.</ref>。
1917年6月29日、[[ギリシャ王国]]が連合国側で参戦した。連合国軍が1915年末にギリシャに上陸した以降、ギリシャ政界は分裂して、連合国を支持する[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]の暫定革命政府と、ドイツを支持する国王[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]の両派に分けた。英仏の介入が日に高まったことにより、ヴェニゼロス側が優勢になり、さらに首都[[アテネ]]を含むギリシャ国内の全ての戦略要地が連合国軍に占領され、フランスの{{仮リンク|シャルル・ジョナール|en|Charles Jonnart}}から最後通牒が突き付けられるにあたって、コンスタンティノス1世は1917年6月に退位、亡命した。ヴェニゼロスは[[テッサロニキ]]からアテネに帰還、1915年に選出された国会を召集、政府を組織してすぐに中央同盟国に宣戦布告した。コンスタンティノス1世の息子[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]が国王に即位した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.534 ff.</ref>。
イタリア戦線では8月17日から9月12日まで[[第十一次イゾンツォの戦い]]が起き、オーストリア=ハンガリー軍が間一髪で大敗を回避した。オーストリア=ハンガリー皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]はイタリアの次の攻勢に耐えられないことを危惧して、オーストリア軍最高司令部とともにドイツに支援を要請した。ドイツは{{仮リンク|第14軍 (ドイツ帝国)|en|14th Army (German Empire)|label=第14軍}}({{仮リンク|アルペン軍団 (ドイツ帝国)|en|Alpenkorps (German Empire)|label=アルペン軍団}} (Alpenkorps) 含む)を再編成してオーストリア=ハンガリーに派遣した。こうして、中央同盟国は先制攻撃を仕掛け、10月24日に[[カポレットの戦い]]で攻勢に出た。中央同盟国は突破に成功して11日間で130km進み、[[ヴェネツィア]]まで後30kmのところまで進軍した。イタリア軍は305,000人以上を失い(うち265,000人は捕虜)、中央同盟国は7万人の損害を出した。中央同盟国の成功は主にドイツの[[エルヴィン・ロンメル]]、そして[[浸透戦術]]の功労だった。イタリア軍の戦線がようやく安定したのは[[ピアーヴェ川]]と[[モンテ・グラッパ]]まで撤退したときであり、連合国からもイギリス軍5個師団とフランス軍6個師団が援軍として派遣されてきた。イタリアではストライキや兵士の大量脱走などがおきたが、「侵略戦争が防衛戦争に変わった」ことで革命前夜のような情勢は解消された<ref>Strachan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine neue illustrierte Geschichte.'' 2006, p.315.</ref>。カポレットの敗北により連合国は11月7日に[[ラパッロ]]で{{仮リンク|ラパッロ会議|en|Rapallo Conference|label=会議}}を開き、またイタリアでは総指揮官の[[ルイージ・カドルナ]]が更迭され、[[アルマンド・ディアズ]]が任命された<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.405 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.481 ff.</ref>。
[[画像:Turkish howitzer 10.5cm leFH 98 09 LOC 00121.jpg|thumb|パレスチナ戦役におけるオスマン軍、1917年。]]
[[画像:Sultan Mehmed V of Turkey greeting Kaiser Wilhelm II on his arrival at Constantinople.jpg|thumb|left|1917年10月15日、イスタンブールに到着したヴィルヘルム2世と挨拶を交わすスルタンのメフメト5世。メフメト5世の左はオスマン駐ベルリン大使{{仮リンク|イブラヒム・ハッキ・パシャ|en|Ibrahim Hakki Pasha}}。]]
[[画像:Bundesarchiv Bild 146-1977-101-36, Deutsche Soldaten in Jerusalem.jpg|thumb|エルサレム城内のドイツ兵、1917年11月。]]
1917年最後の大規模な攻勢はシナイ半島・[[パレスチナ]]戦役で行われ、軍事史上最後の大規模な[[騎兵]]突撃となった。1917年10月31日、[[エドマンド・アレンビー (初代アレンビー子爵)|エドマンド・アレンビー]]率いるオーストラリアの{{仮リンク|第4軽騎兵旅団|en|4th Light Horse Brigade}}とイギリスの{{仮リンク|第13騎兵旅団 (イギリス領インド陸軍)|en|13th Cavalry Brigade (British Indian Army)|label=第5騎兵旅団}}はオスマン軍とドイツ軍が占領していた[[ベエルシェバ]]に攻撃をかけ、占領に成功した({{仮リンク|ベエルシェバの戦い (1917年)|en|Battle of Beersheba (1917)|label=ベエルシェバの戦い}})。ファルケンハインは11月5日に[[エルサレム]]に移って死守しようとしたが、最高司令部は[[聖地]]エルサレムが破壊された場合の世論への影響を鑑みて撤退を命じた。その結果、[[トーマス・エドワード・ロレンス]]率いる[[アラブ反乱]]軍の進撃は12月9日に終結し、イギリス軍によるエルサレムの無血占領に終わった<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.578 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.523, 768 f.; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.575 f.; Stephan Bergdorff: ''Bratpfanne des Teufels. Wie ein preußischer General für die Türken Bagdad zurückerobern sollte und dabei Jerusalem verlor.'' In: Annette Großbongardt, Dietmar Pieper (Hrsg.): ''Jerusalem. Die Geschichte einer heiligen Stadt.'' Goldmann Verlag, München 2011, ISBN 978-3-442-10230-3, p.125 ff.</ref>。
=== 1917年の政治と講和の試み ===
[[画像:9 Sammlung Eybl Borilli Parlano di pace e nascondono il pugnale! (Sie reden über Frieden und verheimlichen den Dolch!). 1918. 100 x 70 cm. (Slg.Nr. 2437).jpg|thumb|{{lang|it|Parlano di pace e nascondono il pugnale!}}(「彼らは平和を言い、短剣を隠す!」)、1918年のイタリアのプロパガンダ。]]
4月7日、ヴィルヘルム2世は{{仮リンク|イースター勅語|de|Osterbotschaft}}で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、[[2月革命 (1917年)|ロシア二月革命]]とドイツの{{仮リンク|四月ストライキ (1917年)|de|Aprilstreiks 1917|label=四月ストライキ}}により[[ドイツ社会民主党]]が[[城内平和]]政策を引き締めたため、[[ゴータ]]で[[ドイツ独立社会民主党]]が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党({{仮リンク|ドイツ多数派社会民主党|en|Majority Social Democratic Party of Germany}}と呼ばれるようになった)は平等な公民権利、[[議院内閣制]]への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した「無併合、無[[戦争賠償|賠償]]、民族自決」の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が「社会民主党を支配下に置くことができなくなった」と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークは{{仮リンク|クロイツナハ会議|de|Kreuznacher Kriegszielkonferenz}}で軍部に押されて議事録に署名した。{{仮リンク|ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー|en|Georg Alexander von Müller}}によると、その議事録は併合について「まったく貪欲な」文書であったという<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.514 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.400 ff., 667 f., 856 f.</ref>
1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている{{Sfn|木村靖二|2014|p=147-148}}([[シクストゥス事件]])。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.511.</ref>。
7月6日、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[マティアス・エルツベルガー]]が国会で演説を行った<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.509.</ref>。エルツベルガーは保守派の政治家であり、「勝利の平和」を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の[[進歩人民党 (ドイツ)|進歩人民党]]が{{仮リンク|多党派委員会|de|Interfraktioneller Ausschuss}}で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは「革命の始まり」とされた<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.511.</ref>。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで[[普通選挙]]を行う保証を受けた(プロイセンではそれまで選挙が{{仮リンク|プロイセン三等制|en|Prussian three-class franchise|label=3等級}}に分けられて行われた)。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名な[[ゲオルク・ミヒャエリス]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.522 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.385, 465, 581 f., 711 f., 770 f.</ref>。
7月19日、{{仮リンク|ライヒスターク平和議案|en|Reichstag Peace Resolution}}が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義の{{仮リンク|ドイツ祖国党|en|German Fatherland Party}}が結成されるなどの影響があった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.528; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.376, 437, 511.</ref>。8月1日、[[ローマ教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]は{{仮リンク|ド・ル・デビュー|de|Dès le début}}という{{仮リンク|使徒的勧告|en|Apostolic exhortation}}を出して、無併合無賠償の講和、[[公海]]の自由通航、[[国際法]]に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動(負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など)、そして戦争を「無用な流血」だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった<ref>Ernesti: ''Benedikt XV. - Papst zwischen den Fronten.'' 2016, pp.114-149.</ref>。
ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任した[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.529; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.552 f.</ref>。
12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日には[[フィンランド]]がロシアからの独立を[[フィンランド独立宣言|宣言した]]<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.486, 506.</ref>。
== 1918年の戦闘 ==
=== ゼネストとウィルソンの十四か条の平和原則 ===
アメリカの大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]は、1月8日に[[アメリカ合衆国議会]]への基調講演で[[十四か条の平和原則]]を提示した。ウィルソンは自由主義の政治原則を世界中に適用しようとし、そのうち[[民族自決|民族自決権]]を最重要事項とした。例えば、十四か条の平和原則にはベルギー、セルビア、モンテネグロからの撤退と独立の回復、[[アルザス=ロレーヌ]]の撤退と放棄、ポーランドの再独立、公海の自由、軍備制限、オーストリア=ハンガリー国民による「自主発展」(民族自決)が盛り込まれた。ドイツとオーストリア=ハンガリーは1月24日に十四か条の平和原則を拒絶した<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.949 f.</ref>。
1月14日、オーストリア=ハンガリーの[[ウィーナー・ノイシュタット]]とその近くの兵器工場で{{仮リンク|一月ストライキ (オーストリア=ハンガリー)|de|Jännerstreik|label=一月ストライキ}}が始まり、広まりを見せると1月23日に軍事鎮圧された。ドイツでは1月28日から2月2日までの間、[[ベルリン]]など産業の中枢でデモやストライキが行われ、100万人以上の労働者が参加したが({{仮リンク|一月ストライキ (ドイツ)|de|Januarstreik|label=一月ストライキ}})<ref>Hans-Peter Ullman ''Politik im deutschen Kaiserreich 1871-1918''. R. Oldenbourg Verlag, München 2005, ISBN 3-486-57707-7, p.49.</ref>、それ以前のストライキと違って主に政治に訴え、「万国平和」({{lang|de|allgemeinen Frieden}}) や「併合と貢献」({{lang|de|Annexionen und Kontributionen}}) などのスローガンを打ち出した。これらのスローガンは[[ブレスト=リトフスク条約]]における[[陸軍最高司令部|ドイツ最高司令部]]の拡張主義の態度に対するものであった。{{仮リンク|ドイツ多数派社会民主党|en|Majority Social Democratic Party of Germany}}は[[フリードリヒ・エーベルト]]、[[オットー・ブラウン]]、[[フィリップ・シャイデマン]]をストライキの行動委員会に派遣して「行動の秩序を保つ」ことを試みたが、ドイツの一月ストライキはオーストリアのそれと同じく、軍事鎮圧でしか抑えられなかった。1月31日、ベルリン当局はストライキ委員会の委員を逮捕、ストライキに参加した労働者のうち5万人を前線に派遣した。その結果、2月3日までに大半の労働者がストライキを辞めて働くようになった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.530 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.591 f.</ref>。
=== ロシアとの講和とドイツの春季攻勢 ===
[[画像:Leon Trotsky Lev Kamenev Brest-Litovsk negotiations.jpg|thumb|180px|left|中央同盟国との和平交渉に臨む[[レフ・トロツキー|トロツキー]](左から2人目)]]
[[画像:Map Treaty of Brest-Litovsk-de.svg|thumb|1918年3月までに喪失したロシアの領土。]]
[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト=リトフスク]]での講和交渉において、ドイツは1月19日に最終要求としてロシアにポーランド、リトアニア、西ラトビアを放棄するよう求め、ロシア代表[[レフ・トロツキー]]は講和交渉の一時中断を求めた。[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で交渉の遅滞を提案したトロツキーに対し、政府と[[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会]]は西欧のプロレタリアート蜂起を期待して提案を受け入れた。1月25日、非ボルシェヴィキの[[ウクライナ中央ラーダ]]はウクライナの独立を宣言、2月9日には中央同盟国が[[ウクライナ人民共和国]]と単独講和した({{仮リンク|ブレスト=リトフスク条約 (ウクライナ)|en|Treaty of Brest-Litovsk (Ukraine-Central Powers)|label=ブレスト=リトフスク条約}})。中央同盟国はウクライナ西部の領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物を大量に要求した。また同時にロシアに平和条件を受け入れるよう最後通牒を発したが、トロツキーはドイツでの革命に期待して、条約には署名せず一方的に動員解除を宣言した。その結果、ドイツは2月18日に[[11日戦争|ファウストシュラーク作戦]]を発動、数週間でロシアのバルト海岸西部国境、ウクライナ西部、[[クリミア半島]]、[[ドネツ川]]と[[ベラルーシ]]の工業地帯を占領した。ドイツは講和条件をきつく変更したが、ロシア代表は交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日に[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結した。中央同盟国は[[リヴォニア]]を除く占領地から撤退したが、ロシアはポーランド、リトアニア、クールラントを放棄、さらにオスマン帝国が請求したカフカース地方の領土を放棄しなければならなかった。ドイツは3月にドイツと緊密な関係を保ったままリトアニアを[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]として独立させることに同意([[リトアニア独立宣言]]自体は2月16日に発された)。また6月28日にはペトログラードに進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約を承認せずに[[ロシア内戦]]に介入した諸国と違って(イデオロギー対立はあったが)ボルシェビズムを撲滅しないことを決定した。8月27日にはロシアとの追加条約が締結され、ロシアはリヴォニアを放棄し、[[フィンランド]]とウクライナの独立を承認した。ロシアは[[ブレスト=リトフスク条約]]で人口の3分の1を放棄、工業と資源の大半を失う結果となった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.526 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.94 f., 368 ff., 506 ff., 762 ff.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.549 ff.</ref>。しかし、[[ブレスト=リトフスク条約]]で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかも知れない、とする説もある<ref>瀬戸利春『[[歴史群像]]』No.77「カイザーシュラハト」pp.66-68。ドイツがロシアとの早期講和をしなかったため訓練中だったアメリカ軍の実戦投入を許し、また広大な占領地に28個師団(約100万人)を駐屯させる羽目になったために西部戦線への転出兵力が少なくなったと述べている。</ref>。
東部戦線の終戦が見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日に[[モンス]]で西部戦線での攻勢を計画、米軍が到着する前に戦況を逆転させようとした。いくつかの計画が立てられ、ヒンデンブルクとルーデンドルフは1918年1月21日にそのうちの一つ、{{仮リンク|ミヒャエル作戦|en|Operation Michael}}を選んだ。ミヒャエル作戦ではドイツ軍が[[ソンム川]]沿岸の[[サン=カンタン]]地域での攻勢を行い、その後に北西に転向してイギリス軍の包囲を試み、英軍に運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線の講和が成立したことで、西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しかなかった。ドイツ軍は1914年以降の西部戦線で初めて数的優位を奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日、ヒンデンブルクは21日に攻勢を開始するよう命じた<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.547 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.712 ff.; David Stevenson: ''1914-1918. Der Erste Weltkrieg.'' Patmos Verlag, Mannheim 2010, ISBN 978-3-491-96274-3, p.472 ff.</ref>。
[[Image:Maarschalk Ferdinand Foch (1851-1929), Bestanddeelnr 158-1095 (cropped).jpg|thumb|140px|left|[[フェルディナン・フォッシュ|フォッシュ]]]]
1918年3月21日の早朝、ドイツの[[1918年春季攻勢|春季攻勢]]が始まった。今度は前回より短い(がそれでも5時間に渡った)砲撃の後、ドイツの[[突撃歩兵]]が[[浸透戦術]]を行い、イギリスとの前線で大きく前進した。しかし、ドイツ最高司令部はその後の数日間、攻撃の重点や方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点の強力な一撃という戦略を放棄して三点攻撃を選び、いずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果、攻勢が弱まり、ルーデンドルフが参謀本部で批判された:「1914年にパリに進軍したとき、ドイツ軍はどうやって事態の発展に応じて抵抗の最も少ない戦線を追撃、戦闘の常道に従わなかったのか」<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.561.</ref>。これに加えて、ソンム地域が酷く破壊されたため、補給が追い付かず、ドイツ軍はイギリスの兵站を略奪しなければならなかった。また、連合国軍の物的優位は奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍の戦闘による損害は主に[[空襲]]による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日、事態の急変により連合国は[[フェルディナン・フォッシュ]]を連合国軍総司令官に任命した。ドイツ軍は80kmにわたる前線(サン=カンタンから西の[[モンディディエ]]まで)で60km前進したが、多大な損害を出して大きな突起部を作り出しただけに終わり、戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍が[[アミアン]]近くで反撃すると、ミヒャエル作戦は4月5日に終了した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.549 ff; Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich und Irina Renz (Hrsg.): ''Die Deutschen an der Somme 1914-1918. Krieg, Besatzung, Verbrannte Erde''. Klartext Verlag, Essen 2006, ISBN 3-89861-567-7, p.203 ff.; David Stevenson: ''1914-1918. Der Erste Weltkrieg.'' Aus dem Englischen von Harald Ehrhardt und Ursula Vones-Leibenstein. Patmos Verlag, Düsseldorf 2010, ISBN 978-3-491-96274-3, p.484 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.712 ff.</ref>。
[[画像:Riflemen-1918-Western-Front.jpg|200px|thumb|1918年4月から11月までの西部戦線の両軍歩兵数グラフ。連合国軍は増え、ドイツ軍は半減した{{Sfn|Ayers|1919|p=104}}。]]
[[画像:World War I 1918 05.png|350px|thumb|1918年5月時点の両陣営
{{legend|#59be6e|連合国}}
{{legend|#a9da7f|連合国の植民地・占領地域}}
{{legend|#f7b433|同盟国}}
{{legend|#f2db76|同盟国の植民地・占領地域}}]]
参謀本部で戦略ミスを指摘されたルーデンドルフはミヒャエル作戦の代案を採用した。代案とはゲオルク作戦 ({{lang|de|Operation Georg}}) のことであり、フランドルの[[レイエ川]]で30kmの前線にわたって攻撃を行い、[[イーペル]]の西にある水道を目標とした({{仮リンク|レイエ川の戦い (1918年)|en|Battle of the Lys (1918)|label=レイエ川の戦い}})。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦は縮小を余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」({{lang|de|Georgette}}) と呼ばれた。4月25日に戦略要地の{{仮リンク|ケンメルベルク|en|Kemmelberg}}を占領するなど初期では成功を収めたが、やがて膠着に陥った。攻勢の一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが({{仮リンク|第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦|en|Second Battle of Villers-Bretonneux}})、最も有名な出来事は[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン]]の死であった。
さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊の命令不服従が増えてきた。ドイツ最高司令部は自軍の戦意低下に気づかず、直後の5月27日に新しい攻勢({{仮リンク|第三次エーヌ会戦|en|Third Battle of the Aisne}})を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200万発が発射された。ドイツ軍は5月29日にマルヌ川まで進軍、6月3日には{{仮リンク|ヴィレル=コッテレ|en|Villers-Cotterêts}}まで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリが[[パリ砲]]の射程圏内に入った。イギリス内閣はイギリス海外派遣軍の引き揚げを討議したが、6月5日にそれを却下した。[[アメリカ外征軍|アメリカ軍]]が到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ最高司令部は自軍の損害、補給の問題、連合国軍の反撃を理由に6月5日/6日から攻撃を停止した。続く{{仮リンク|ベローの森の戦い|en|Battle of Belleau Wood}}では[[アメリカ海兵隊]]が参戦した。9日、ルーデンドルフは{{仮リンク|マ川|fr|Matz}}に対する攻撃を開始したが(グナイゼナウ作戦、{{lang|en|Operation Gneisenau}})、フランス軍とアメリカ軍の反撃により14日に中止した。直後にはイタリア戦線でオーストリア=ハンガリーが最後の攻勢を仕掛けた(6月15日から22日までの[[ピアーヴェ川の戦い|第二次ピアーヴェ川の戦い]])が失敗した。
西部戦線の本当の転機は{{仮リンク|第二次マルヌ会戦|en|Second Battle of the Marne}}だった。ドイツ軍は7月15日に攻撃を開始、初期には成功を収めたが、18日にフランス軍とアメリカ軍が小型軽量の[[ルノー FT-17 軽戦車]]を大量に投入して反撃に転じた。既に疲れ果てて装備も不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退した。{{仮リンク|第7軍 (ドイツ帝国)|en|7th Army (German Empire)|label=ドイツ第7軍}}は後方との連絡を脅かされ、またドイツ軍は5月と6月に占領した地域のほぼ全てから撤退した。7月18日は同時代の歴史文献で「戦争の転機となる瞬間」とされ、連合国軍はドイツ軍の進軍を停止させ、以降終戦までドイツ軍を押した<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.562 ff; David Stevenson: ''1914-1918. Der Erste Weltkrieg.'' Aus dem Englischen von Harald Ehrhardt und Ursula Vones-Leibenstein. Patmos Verlag, Düsseldorf 2010, ISBN 978-3-491-96274-3, p.489 ff.; Manfred Vasold: ''Die Spanische Grippe. Die Seuche und der Erste Weltkrieg''. Primus Verlag, Darmstadt 2009, ISBN 978-3-89678-394-3, p.46, 58 f.; Manfried Rauchensteiner: ''Der Erste Weltkrieg und das Ende der Habsburgermonarchie 1914-1918.'' Böhlau Verlag, Wien 2013, ISBN 978-3-205-78283-4, p.956 ff.; Alfred Stenger: ''Schicksalswende. Von Marne bis zur Vesle 1918.'' (Schlachten des Weltkrieges. In Einzeldarstellungen bearbeitet und herausgegeben im Auftrage des Reichsarchivs. Volume 35), Gerhard Stalling Verlag, Oldenburg i.O./Berlin 1930, p.220 ff., (Zitate, p.226).</ref>。
=== 百日攻勢 ===
{{Main|{{仮リンク|百日攻勢|en|Hundred Days Offensive}}|ヴァイマル共和政}}
[[画像:Aerial view of ruins of Vaux, France, 1918, ca. 03-1918 - ca. 11-1918 - NARA - 512862.jpg|thumb|left|廃墟と化した{{仮リンク|ヴォー=ドヴァン=ダンループ|en|Vaux-devant-Damloup}}の航空写真、1918年。]]
「百日攻勢」として知られている連合国軍の反攻は1918年8月8日の{{仮リンク|アミアンの戦い (1918年)|en|Battle of Amiens (1918)|label=アミアンの戦い}}で始まった。この戦闘では戦車400台以上とイギリス軍、イギリス[[自治領]]軍、フランス軍合計12万人以上が参加、その1日目の終わりにはドイツ軍の戦線に長さ24kmの間隙が開かれた。ドイツ軍の士気は大きく低下して、[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]に「ドイツ陸軍暗黒の日」と言わしめた<ref>{{Cite book |publisher=Vanwell |origyear=1977|year=2004|title=Shock Army of the British Empire: The Canadian Corps in the Last 100 Days of the Great War|last=Schreiber|first=Shane B|place=St. Catharines, ON |isbn=1-55125-096-9 |oclc=57063659}}</ref>{{Sfn|Rickard|2001}}<ref>{{Cite book |publisher=Pan |origyear=1998 |year=1999 |title=1918: Year of Victory |last=Brown|first=Malcolm |place=London |isbn=0-330-37672-1|page=190}}</ref>。連合国軍が23kmほど前進したのち、ドイツ軍の抵抗が強くなり、アミアンの戦いは8月12日には終結した。
それまでの戦闘では初期の成功をさらに推し進めることが常だったが、連合国軍はアミアンの戦いで勝利した後、そのまま攻撃を続けず、他の戦場に移った。連合国の首脳部は敵軍の抵抗が強化された後でも攻撃を続けるのはただ兵士を浪費するだけであり、敵の戦線を押し潰すよりも側面に回り込む方が有利であると気づいた。そのため、連合国軍は側面への素早い攻撃を行って、攻撃の勢いが低減するとすぐに攻撃をやめる、という戦術を繰り返し行った{{Sfn|Pitt|2014|p=198}}。
[[画像:Canadian Scottish at Canal du Nord Sept 1918 IWM CO 3289.jpg|thumb|left|1918年9月の{{仮リンク|ノール運河の戦い|en|Battle of the Canal du Nord}}にて前進していた{{仮リンク|第16大隊 (カナダ海外派遣軍)|en|16th Battalion (Canadian Scottish), CEF|label=カナディアン・スコッティシュ}}部隊。]]
イギリスとイギリス自治領軍は8月21日の[[アルベールの戦い (1918年)|アルベールの戦い]]で戦役の次の段階に進んだ{{Sfn|Terraine|1963|p=461}}。その後の数日間、英仏軍は攻撃を拡大した。8月末には連合国軍の長さ110kmにわたる前線への圧力が重く、ドイツ側の記録では「毎日が強襲の止まない敵軍との血なまぐさい戦いに費やされ、新しい前線への撤退で夜は眠れないまま過ぎた。」としている{{Sfn|Pitt|2014|p=203}}。
これらの敗退により、ドイツの[[陸軍最高司令部]]は9月2日に南の{{仮リンク|ヒンデンブルク線|en|Hindenburg Line}}への撤退を命じ、4月に奪取した{{仮リンク|突出部 (軍事)|en|Salient (military)|label=突出部}}を抵抗もなく放棄した形となった{{Sfn|Nicholson|1962|p=413}}。ルーデンドルフによると、「前線全体を{{仮リンク|スカルプ川|en|Scarpe (river)}}から{{仮リンク|ヴェール川|en|Vesle}}に後退することは簡単に決定できるものではなかったが、(中略)いくらかの犠牲を払っても利益のある決定である」という{{Sfn|Ludendorff|1919|p=696}}。
9月には連合国軍がヒンデンブルク線の北部と中央部に進軍した。ドイツ軍後衛は活発に戦い、失われた陣地への反攻もしたが、成功したものは少なく、成功した攻撃でも一時的な奪還にしかならなかった。ヒンデンブルク線の偵察陣地や哨戒地の町村、山、塹壕などは続々と連合国軍に占領され、[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|イギリス海外派遣軍]]は9月最後の1週間だけで30,441人を捕虜にした。9月24日には英仏が突撃して[[サン=カンタン]]から3kmのところまで近づいた<ref name="Chron-FWW">{{harvnb|Gray|Argyle|1990}}</ref>。ドイツ軍はヒンデンブルク線上とその後ろの陣地に撤退した。
[[画像:World War I Observation Balloon HD-SN-99-02269.JPEG|thumb|前線近くで[[観測気球]]に乗っているアメリカ軍の少佐、1918年。]]
8月8日から4週間の間、ドイツ軍10万人以上が捕虜になった。「ドイツ陸軍暗黒の日」の時点でドイツ軍部は戦争全体がもはや負け戦と気づき、ドイツにとって満足のいく終戦を模索した。暗黒の日の翌日、ルーデンドルフは「我らは戦争に勝てなくなった。しかし負けるわけにもいかない」と述べ、11日には辞表を出したが、ヴィルヘルム2世は「我らは妥協しなければならない。我らの抵抗の力は限界にきていた。戦争は終わらなければならない」と返答、ルーデンドルフの辞任を拒否した。
13日、ルーデンドルフ、[[ドイツ国首相|帝国宰相]][[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]、参謀総長[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、外相{{仮リンク|パウル・フォン・ヒンツェ|en|Paul von Hintze}}は[[スパ (ベルギー)|スパ]]で討議し、軍事力で戦争を終結させることが不可能であるという結論を出した。翌日にはドイツ皇帝諮問委員会が戦場での勝利はほぼ不可能であると結論を出した。オーストリア=ハンガリーは12月までしか戦争を続けられないと警告、ルーデンドルフは講和交渉を即刻始めることを勧めた。[[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト・フォン・バイエルン]]は[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]に「軍事情勢が悪化しすぎて、私は冬の間持ちこたえられることが信じられなくなった。災難はそれよりも早く訪れるかもしれません。」と警告した。9月10日、ヒンデンブルクはオーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]に平和に向けた動きを迫り、ドイツはオランダに仲介を求めた。9月14日、オーストリアは全交戦国と中立国に覚書を送り、中立国での平和会議を提案した。15日、ドイツはベルギーに講和を申し入れた。しかし、いずれも拒絶され、9月24日にはドイツ軍部がベルリン政府に停戦交渉が不可避であると通告した<ref name="Chron-FWW" />。
ヒンデンブルク線に対する最後の攻撃は9月26日にフランスとアメリカ軍による[[ムーズ・アルゴンヌ攻勢]]で始まった。その後の1週間、フランスとアメリカ軍は{{仮リンク|ブラン・モンの戦い|en|Battle of Blanc Mont Ridge}}で[[シャンパーニュ]]から突破、ドイツ軍はブラン・モンの山から撤退してフランス・ベルギー国境に向けて撤退せざるを得なかった{{Sfn|McLellan|p=49}}。10月8日、ドイツ軍の防御線は{{仮リンク|カンブレーの戦い (1918年)|en|Battle of Cambrai (1918)|label=カンブレーの戦い}}でイギリスとイギリス自治領の軍に突破された<ref>{{Cite book |series=For King and Empire: A Social History and Battlefield Tour |title=The Canadians at Cambrai and the Canal du Nord, August-September 1918 |publisher=CEF Books |year=1997 |last=Christie|first=Norm M |isbn=1-896979-18-1 |oclc=166099767}}</ref>。ドイツ軍は前線を短縮させて、オランダ国境を利用して後衛への攻撃を防ぎつつドイツに撤退した。
ブルガリアが9月29日に単独で停戦協定を結ぶと、既に数か月間巨大な圧力に苦しんでいたルーデンドルフは神経衰弱のような症状を来した。ドイツが守備に成功することはもはや不可能であった{{Sfn|Stevenson|2004|p=380}}{{Sfn|Hull|2006|pp=307-10}}。
[[画像:US 64th regiment celebrate the Armistice.jpg|thumb|left|1918年11月11日、停戦を祝うアメリカ[[第7歩兵師団 (アメリカ陸軍)|第7歩兵師団]]第64連隊の兵士。]]
ドイツの敗北が近いことはドイツ軍に知れ渡り、兵士反乱の脅威が広まった。[[ラインハルト・シェア]]海軍大将とルーデンドルフはドイツ海軍の「勇気」を回復するための最後の賭けに出た。[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]率いるドイツ政府が反対することは明らかだったため、ルーデンドルフは行動をマクシミリアンに報告しないことにした。しかし、攻撃の計画が[[キール (ドイツ)|キール]]の水兵の耳に入ってしまった。その多くが攻撃計画を自殺行為と考え、攻撃に参加したくなかったため反乱を起こして逮捕された。ルーデンドルフは責任を負って10月26日にヴィルヘルム2世に罷免された。バルカン戦線の崩壊はドイツが石油と食料の主な輸入先を失うことを意味した。さらに、アメリカ兵が平均して日1万人が到着する中、ドイツは既に予備軍を使い果たしていた{{Sfn|Stevenson|2004|p=383}}。アメリカは連合国軍の石油を8割以上提供しており、しかも不足はなかった{{Sfn|Painter|2012|p=25|ps=. Quote: Over the course of the war the United States supplied more than 80 percent of Allied oil requirements, and after US entry into the war, the United States helped provide and protect tankers transporting oil to Europe. US oil resources meant that insufficient energy supplies did not hamper the Allies, as they did the Central Powers.}}。
ドイツ軍が弱まっており、ヴィルヘルム2世も自信を失ったため、ドイツは[[降伏]]へと移った。マクシミリアン・フォン・バーデンは帝国宰相として新しい政府を率いて連合国と交渉した。交渉条件がイギリスとフランスよりも寛大とされるから、[[スパ (ベルギー)|スパ]]で開かれていたドイツ軍の大本営は9月28日にウィルソン米大統領への講和交渉要請を決定した{{Sfn|牧野雅彦|2009|pp=43}}。ウィルソンはドイツ軍部が議会の統制を受けることと、[[立憲君主制]]の施行を要求した{{Sfn|Stevenson|2004|p=385}}。[[ドイツ社会民主党]]の[[フィリップ・シャイデマン]]が共和国樹立を宣言した時、抵抗を受けなかった。ヴィルヘルム2世、ドイツ諸邦の国王などの世襲君主は全て権力の位を追われ、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。ドイツ帝国は滅亡して、代わりに[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]が成立した{{Sfn|Stevenson|2004|loc=Chapter 17}}。
=== 停戦と降伏 ===
{{Main|[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|1918年11月11日の休戦協定]]}}
[[画像:NYTimes-Page1-11-11-1918.jpg|left|thumb|1918年11月11日付[[ニューヨーク・タイムズ]]]]
[[画像:Armisticetrain.jpg|thumb|[[コンピエーニュ]]で休戦協定に署名した[[フェルディナン・フォッシュ]](右から2番目)。この時に締結場所となった列車([[休戦の客車]])は1940年6月に[[ナチス・ドイツ]]が[[フィリップ・ペタン]]と休戦協定を結んだ際、再び使用された<ref>{{Cite web |url=http://www.compiegne.fr/decouvrir/clairierearmistice.asp |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070827142334/http://www.compiegne.fr/decouvrir/clairierearmistice.asp |archivedate=2007-08-27 |title=Clairière de l'Armistice |publisher=Ville de Compiègne|language=fr |accessdate=2018-01-20}}</ref>。]]
中央同盟国の崩壊はすぐに訪れた。まず停戦協定を締結したのは1918年9月29日に[[サロニカ休戦協定]]を締結したブルガリアだった<ref name="indiana.edu-1918">{{Cite web |url=http://www.indiana.edu/~league/1918.htm |work=League of Nations Photo Archive |title=1918 Timeline |accessdate=2009-11-20}}</ref>。10月30日、オスマン帝国は[[ムドロス休戦協定]]を締結して降伏した<ref name="indiana.edu-1918"/>。
10月24日、イタリアは反攻を開始し、[[カポレットの戦い]]で失われた領土を素早く回復した。その頂点が[[ヴィットリオ・ヴェネトの戦い]]であり、オーストリア=ハンガリー軍はこの戦闘で崩壊してほとんど戦力にならなくなった。この戦闘はオーストリア=ハンガリー帝国解体の起爆剤にもなり、10月末には[[ブダペスト]]、[[プラハ]]、[[ザグレブ]]で独立宣言が出された。10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国はイタリアに停戦を求めたが、イタリア軍は進軍を続け、[[トレント (イタリア)|トレント]]、[[ウーディネ]]、[[トリエステ]]に進んだ。11月3日、オーストリア=ハンガリー帝国は[[白旗]]を送り、休戦協定の締結に同意した。休戦協定はイタリアが電報でパリの連合国当局と交渉した後、オーストリア軍部に通告して受諾された。この[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]は[[パドヴァ]]近くの{{仮リンク|ヴィラ・ジュスティ|en|Villa Giusti}}で締結された。[[ハプスブルク帝国]]が転覆されたため、オーストリアとハンガリーは別々で休戦協定を締結した。その後、イタリア軍は兵士2万から22,000人で[[インスブルック]]と全[[チロル]]を占領した<ref>{{Cite journal |author=Andrea Di Michele |year=2014 |title=Trento, Bolzano E Innsbruck: L'occupazione Militare Italiana Del Tirolo (1918-1920) |url=http://www.agiati.it/UploadDocs/12255_Art_20_di_michele.pdf |journal=Trento e Trieste. Percorsi degli italiani d'Austria dal '48 all'annessione |pages=436-437 |publisher=Accademia Roveretana degli Agiati |language=it |trans-title=Trento, Bolzano and Innsbruck: The Italian Military Occupation of Tyrol (1918-1920) |quote=La forza numerica del contingente italiano variò con il passare dei mesi e al suo culmine raggiunse i 20-22.000 uomini. [The numerical strength of the Italian contingent varied with the passing of months and at its peak reached 20-22,000 men.]}}<!-- see http://www.agiati.it/ara_context.jsp?ID_LINK=113344&area=196 for metadata --></ref>。
そして、1918年11月11日午前5時、[[コンピエーニュの森]]の[[休戦の客車|列車]]にて[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|ドイツと連合国の休戦協定]]が締結され、同日午前11時に発効した。締結から発効までの6時間、西部戦線の軍はそれぞれ陣地からの撤退を開始したが、指揮官ができるだけ多くの領土を占領しようとしたため、多くの地域で戦闘が継続した。停戦の後、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー軍が{{仮リンク|ラインラント占領|label=ラインラントを占領|en|Occupation of the Rhineland}}した。
1918年11月時点の連合国軍はドイツに侵攻するための兵士と資源をふんだんに有していたが、停戦時点でドイツとの国境を越えた連合国軍はいなかった。西部戦線はまだベルリンから720kmの距離があり、ドイツ陸軍は撤退の時、規律を維持することができた。そのため、ヒンデンブルクなどドイツの首脳部はドイツ軍が本当は敗北していなかったという噂を流すことができた。この噂はやがて[[背後の一突き]]という伝説に発展した{{Sfn|Baker|2006}}{{Sfn|Chickering|2004|pp=185-188}}。この伝説によると、ドイツの敗北は戦闘継続が不可能になったわけではなく(1918年に[[スペインかぜ]]が全世界に流行、100万人に上るドイツ人兵士が患って戦闘不能だったにもかかわらず)、大衆が「愛国へのよびかけ」に応じなかったことと、[[ユダヤ人]]、社会主義者、[[ドイツ共産党|共産党員]]による妨害工作によるものだったとされた。
連合国が戦争に投入できる資金は中央同盟国よりもはるかに多く、1913年時点の米ドルに基づく試算では連合国が580億ドルを、中央同盟国が250億ドルを投入した。うちイギリスは210億、アメリカは170億、ドイツは200億であった<ref>Gerd Hardach, ''The First World War, 1914-1918'' (1977), p.153, using estimated made by H. Menderhausen, ''The Economics of War'' (1941), p.305.</ref>。
== 余波 ==
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦の余波|en|Aftermath of World War I}}}}
[[画像:VERDUN-OSSUAIRE DE DOUAUMONT5.JPG|thumb|{{仮リンク|ドゥーオーモン納骨堂|en|Douaumont Ossuary}}のフランス軍人墓地。ここには身元不明の兵士が13万人以上埋葬されている。]]
戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊し、[[ホーエンツォレルン家]]、[[ハプスブルク家]]、[[オスマン家]] 、[[ロマノフ家]]がそれぞれ君主の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。1914年の開戦時にはフランス、[[ポルトガル]]、スイス、[[サンマリノ]]の4か国しかなかったヨーロッパの共和制国家が、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、フィンランド、ポーランド、リトアニア、ラトビア、[[エストニア]]、アルバニアと増加した(加えてオスマン帝国が廃され[[トルコ共和国]]が建国された)。またロシアは1917年のロシア革命によって帝政が打倒され、1922年に史上初の社会主義国家、[[ソビエト社会主義共和国連邦]]が建国されることになる。戦場となったベルギーとフランスは多大な損害を受けたほか、フランスでは死者だけで140万人もいた<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7199127.stm "France's oldest WWI veteran dies"] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20161028021340/http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7199127.stm |date=2016-10-28}}, ''BBC News'', 2008年1月20日。</ref>。ドイツとロシアも同程度の損害を受けた<ref>{{Cite book|url={{google books|plainurl=yes|id=2YqjfHLyyj8C|page=273}} |first=Spencer |last=Tucker |year=2005 |title=Encyclopedia of World War I |publisher=ABC-CLIO |p=273 |isbn=1-85109-420-2}}</ref>。
=== 正式な終戦 ===
戦争状態は正式には休戦協定が締結された後も7か月続き、ドイツが1919年6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]に署名するまで続いた。大衆が支持したにもかかわらず、[[アメリカ合衆国上院]]は条約を批准せず<ref>{{Cite book |last=Hastedt|first=Glenn P. |title=Encyclopedia of American Foreign Policy |publisher=Infobase Publishing |year=2009 |page=483 |isbn=1-4381-0989-X}}</ref><ref>{{Cite book |last=Murrin|first=John |last2=Johnson|first2=Paul |last3=McPherson|first3=James |last4=Gerstle|first4=Gary |last5=Fahs|first5=Alice |title=Liberty, Equality, Power: A History of the American People |publisher=Cengage Learning |volume=II |year=2010 |page=622 |isbn=0-495-90383-3}}</ref>、1921年7月2日に[[ウォレン・ハーディング]]大統領が{{仮リンク|ノックス=ポーター決議|en|Knox-Porter Resolution}}に署名したことで、アメリカはようやく戦争から手を引いた<ref>{{Cite news |last=Staff |title=Harding Ends War; Signs Peace Decree at Senator's Home. Thirty Persons Witness Momentous Act in Frelinghuysen Living Room at Raritan. |url=https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10B13F63C5D14738DDDAA0894DF405B818EF1D3 |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=1921-07-03}}</ref>。イギリスとその植民地については1918年の{{仮リンク|戦争終結定義法|en|Termination of the Present War (Definition) Act 1918}}の条項に基づき、1920年1月10日にドイツとの戦争状態を<ref>{{LondonGazette |issue= 31773 |date=1920-02-10 |page=1671}}</ref>、7月16日にオーストリアとの戦争状態を<ref>{{LondonGazette |issue= 31991 |date=1920-07-23 |pages=7765-7766}}</ref>、8月9日にブルガリアとの戦争状態を<ref>{{LondonGazette |issue=13627 |date=1920-08-27 |city=e |page=1924}}</ref>、1921年7月26日にハンガリーとの戦争状態を<ref>{{LondonGazette |issue=32421 |date=1921-08-12 |pages=6371-6372}}</ref>、1924年8月6日にトルコとの戦争状態を<ref>{{LondonGazette |issue=32964 |date=1924-08-12 |pages=6030-6031}}</ref>終結させた。
ヴェルサイユ条約が締結された後、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条約が締結された。しかし、オスマン帝国との講和交渉をめぐって紛争が起き、1923年7月24日の[[ローザンヌ条約]]でようやく終結を見た。
[[戦争祈念施設]]の一部は、終戦の日をヴェルサイユ条約が締結された日と定めた。この日は外国に派遣された多くの兵士がようやく本国に復員した日であったが、多くの戦争記念施設は終戦の日を休戦協定が締結された1918年11月11日とした。法的な戦争状態は最後の講和条約であるローザンヌ条約が締結されるまで続いた。同条約に基づき、連合国軍は1923年8月23日に[[イスタンブール|コンスタンティノープル]]から撤退した。
=== 講和条約 ===
[[画像:William Orpen - The Signing of Peace in the Hall of Mirrors, Versailles.jpg|thumb|1919年6月28日、ヴェルサイユ条約が締結された{{仮リンク|鏡の間|en|Hall of Mirrors}}]]
[[画像:Council of Four Versailles.jpg|thumb|パリ講和会議にて。左から[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]、[[ジョルジュ・クレマンソー]]、[[ウッドロウ・ウィルソン]]]]
戦闘が終結した後、[[パリ講和会議]]は中央同盟国に講和条約の締結を強いて、戦争を正式に終結させた。[[1919年]]のヴェルサイユ条約ではドイツとの講和のみが処理され、同年[[6月28日]]の締結により、アメリカ合衆国大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]提唱の『[[十四か条の平和原則]]』は、翌[[1920年]][[1月10日]]の「[[国際連盟]]」創設の実現をもって実質化した{{Sfn|Magliveras|1999|pp=8-12}}{{Sfn|Northedge|1986|pp=35-36}}。しかし、国家元首かつ政府の長が提唱者であった肝心のアメリカ合衆国は連邦議会の否決により、設立当初から不参加となり、結局最後まで参加することはなかった。
中央同盟国は「連合国、その政府と国民が」中央同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。ヴェルサイユ条約では{{仮リンク|ヴェルサイユ条約第231条|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=第231条}}がそれであり、後に「戦争責任条項」として知られるようになった。ドイツでは国民の多くがこの条項に屈辱を感じ、報復を考えた<ref>{{Cite book2|first=John H.|last=Morrow|title=The Great War: An Imperial History|publisher=Routledge|location=London|year=2005|isbn=978-0-415-20440-8|name-list-style=amp|page=290}}</ref>。ドイツ人は「ヴェルサイユの{{仮リンク|ディクタット (命令)|label=ディクタット|en|Diktat}}(絶対的命令)」に不当に扱われたと感じ、ドイツの歴史家ハーゲン・シュールゼ ({{lang|de|Hagen Shulze}}) は条約によりドイツは「法的制裁を課され、軍事力を奪われ、経済的に破滅、政治的に侮辱された」と述べた<ref>{{Cite book |first=Hagen|last=Schulze |title=Germany: A New History |url={{google books|plainurl=y |id=B84ZaAdGbS4C |page=204}} |year=1998 |publisher=Harvard U.P. |page=204}}</ref>。ベルギーの歴史家ローラン・ヴァン・イーペルセル ({{lang|fr|Laurence Van Ypersele}}) は「[[1920年代]]と[[1930年代]]のドイツ政治において戦争とヴェルサイユ条約の記憶が中心的な役割を果たした」と述べた:
{{Quote|ドイツが積極的に戦争責任を否定したことと、賠償と連合国の[[ラインラント]]占領継続への不満により、戦争の記憶と戦争の意味したことを大幅に書き換えることが問題になっていた。「[[背後の一突き]]」の伝説、「ヴェルサイユのディクタット」を改正する願望、そして諸国がドイツ国を消滅させたがっているという信念はドイツの政治の中心であり続けた。[[グスタフ・シュトレーゼマン|シュトレーゼマン]]のような平和の男でもドイツの罪を公的に否定した。[[ナチス]]党は国内の反逆と国際の陰謀を旗印として、ドイツ国中で復讐の心を刺激しようとした。[[ファシスト党]]のイタリアと同じく、[[ナチス・ドイツ]]は戦争の記憶を自身の政策のために利用した<ref>{{Cite book |first=Laurence Van |last=Ypersele| title=Mourning and Memory, 1919 - 45 |editor-first=John |editor-last=Horne|work=A Companion to World War I |url={{google books|plainurl=y|id=EjZHLXRKjtEC|page=584}} |year=2012 |publisher=Wiley |page=584}}</ref>。}}
一方、ドイツ帝国の統治から解放された新しい国々は、ヴェルサイユ条約を侵略的な隣国が小国に対して施した不当な行動を承認するものとしてみた<ref>{{Cite web |title=The Surrogate Hegemon in Polish Postcolonial Discourse Ewa Thompson, Rice University |url=http://www.owlnet.rice.edu/~ethomp/The%20Surrogate%20Hegemon.pdf |accessdate=2018-01-21}}</ref>。パリ講和会議ではあくまで全ての敗戦国に非戦闘員への損害を[[第一次世界大戦の賠償|賠償]]することを強いたが、敗戦国のうち経済が崩壊しなかったのはドイツだけだったため、賠償責任は主にドイツ(敗戦による帝政崩壊後、[[ヴァイマル共和政]])に負わされた。
[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]、[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア王国]]といった後継国家に分割された。分割は主に(ただし、単にではなく)[[民族]]分布に沿って行われた。トランシルヴァニアはハンガリーから[[大ルーマニア]]に割譲された。詳細は[[サン=ジェルマン条約]]と[[トリアノン条約]]で定められた。トリアノン条約により、[[ハンガリー人]]330万人が外国に統治された。戦争以前の[[ハンガリー王国]]ではハンガリー人が国民の54パーセントを占めたが、戦後に残された領土はその32パーセントだけだった。[[1920年]]から[[1924年]]、ハンガリー人354,000人が[[ルーマニア]]、[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラヴィア]]に割譲された元[[ハンガリー]]領から逃亡した<ref>{{Cite book |first1=Károly|last1=Kocsis |first2=Eszter Kocsisné|last2=Hodosi |title=Ethnic Geography of the Hungarian Minorities in the Carpathian Basin |year=1998 |isbn=978-963-7395-84-0 |page=19}}</ref>。
[[1917年]]の[[十月革命]]の後に、単独講和を締結し戦争から脱落した[[ロシア帝国]]は[[エストニア共和国 (1918年-1940年)|エストニア共和国]]、[[フィンランド|フィンランド共和国]]、[[ラトビア共和国 (1918年-1940年)|ラトビア共和国]]、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア共和国]]、[[ポーランド第二共和国]]の成立により西部国境の多くを喪失し、[[1918年]][[4月]]にはルーマニアが[[ベッサラビア]]を奪った{{Sfn|Clark|1927|loc=Chapter 17}}。
[[画像:Venizelos signing the Treaty of Sevres.jpeg|thumb|left|[[セーヴル条約]]に署名するギリシャ首相[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]]]
[[オスマン帝国]]は解体し、[[レバント|レヴァント]]での領地の大半が連合国に保護領として与えられた。[[アナトリア半島]]のトルコ本土は[[トルコ|トルコ共和国]]として承認された。オスマン帝国は1920年の[[セーヴル条約]]で分割される予定だったが、[[メフメト6世]]には批准されず、{{仮リンク|トルコ国民運動|en|Turkish National Movement}}にも拒否された。結果的にはトルコが[[トルコ革命|革命戦争]]と[[希土戦争 (1919年-1922年)]]に勝利。[[1923年]]の[[ローザンヌ条約]]は[[セーヴル条約]]よりもはるかに寛大であり、トルコ共和国はヨーロッパ側にも領土([[東トラキア]])を維持した。
=== 国民意識 ===
{{Main|サイクス・ピコ協定}}
[[画像:Map Europe 1923-en.svg|250px|thumb|第一次世界大戦戦後の領土変更(1923年時点)]]
[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]は[[ポーランド分割]]で消滅してから1世紀以上経った後、復活した。[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]は「連合国の小国」、人口比で最も多く損害を出した国として<ref>{{Cite news |title=Appeals to Americans to Pray for Serbians |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=1918-07-27 |url=https://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9406E4D8143EE433A25754C2A9619C946996D6CF}}</ref><ref>{{Cite news |title=Serbia Restored |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=1918-11-05 |url=https://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=990CEFDC113BEE3ABC4D53DFB7678383609EDE}}</ref><ref>{{Cite web |title=The Minor Powers During World War One - Serbia |first=Matt|last=Simpson |publisher=firstworldwar.com |date=2009-08-22 |url=http://www.firstworldwar.com/features/minorpowers_serbia.htm |accessdate=2018-01-21}}</ref>、多民族国家である新生[[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]](後にユーゴスラヴィア王国に改名)の背骨になった。チェコスロバキアは[[ボヘミア王国]]と[[ハンガリー王国]]の一部を併合して独立した。ロシアは[[ソビエト連邦]]になったが、フィンランドと[[バルト三国]](エストニア、リトアニア、ラトビア)が独立した。[[オスマン帝国]]はトルコと[[中東]]のいくつかの国に取って代わられた。
イギリス帝国においては新しい国民意識が生まれた。オーストラリアとニュージーランドでは[[ガリポリの戦い]]が「砲火の洗礼」として知られるようになった。というのも、第一次世界大戦は両国の軍が初めて戦った大規模な戦争であり、オーストラリア軍が[[国王 (法人)|イギリス国王]]の臣下としてだけでなく、オーストラリア人としても戦った初の戦争であった。この日は[[オーストラリア・ニュージーランド軍団]]を記念する[[ANZACの日|アンザック・デー]]として祝われている<ref>{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9400E1DD113FE233A25755C2A9629C946796D6CF&scp=12&sq=New+Zealand+anzac&st=p |title='ANZAC Day' in London; King, Queen, and General Birdwood at Services in Abbey |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=1916-04-26}}</ref><ref name="awmtradition">{{Cite web |url=http://www.awm.gov.au/commemoration/anzac/anzac_tradition.asp |title=The ANZAC Day tradition |publisher=Australian War Memorial |accessdate=2008-05-02 |author=Australian War Memorial}}</ref>。
カナダ師団が初めて独立部隊として戦った{{仮リンク|ヴィミ・リッジの戦い|en|Battle of Vimy Ridge}}の後、カナダ人はカナダを「火で鍛えられた」国と形容するようになった<ref>{{Cite web |url=http://www.warmuseum.ca/cwm/exhibitions/guerre/vimy-ridge-e.aspx |publisher=Canadian War Museum |title=Vimy Ridge |accessdate=2008-10-22 |author=Canadian War Museum}}</ref>。「母国」がつまずいた戦場で勝利したことで、カナダ軍は初めてその貢献を国際的に認められた。カナダはイギリス帝国の[[自治領#イギリスの自治領(ドミニオン)|自治領]]として参戦して、終戦まで同じ状態であったが、終戦の時点では独立性が高まった<ref>{{Cite web |url=http://www.warmuseum.ca/cwm/exhibitions/guerre/war-impact-e.aspx|title=The War's Impact on Canada |publisher=Canadian War Museum |accessdate=2008-10-22}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.cbc.ca/canada/ottawa/story/2008/05/09/babcock-citizen.html |title=Canada's last WW1 vet gets his citizenship back |publisher=CBC News |date=2008-05-09 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080511014947/http://www.cbc.ca/canada/ottawa/story/2008/05/09/babcock-citizen.html |archivedate=2008-05-11}}</ref>。1914年にイギリスが参戦したとき、自治領は自動的に戦争状態に入ったが、終戦時にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカがそれぞれ独自に[[ヴェルサイユ条約]]に署名した<ref>[http://foundingdocs.gov.au/item-did-23.html Documenting Democracy] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160520203624/http://foundingdocs.gov.au/item-did-23.html |date=2016-05-20}}. Retrieved 31 March 2012</ref>。
オスマン帝国は第一次世界大戦までの数百年間、中東である程度の平和と安定を維持していた<ref>{{Cite news |last=Shariatmadari|first=David |url=https://www.theguardian.com/commentisfree/2013/oct/06/middle-east-turmoil-nostalgia-ottomans |date=2013-10-06 |title=Middle East turmoil is fuelling Ottoman nostalgia. But it's a dead end |accessdate=2018-02-10 |language=en |newspaper=The Guardian}}</ref>。しかし、オスマン政府が倒れたことで中東は[[権力の真空]]状態になり、領土と建国に関する様々な矛盾した主張がなされた{{Sfn|Muller|2008}}。第一次世界大戦の戦勝国はすぐに国境線を策定したが、現地の住民には粗略な諮問しかしておらず、これらの国境は21世紀に入っても未解決のままである{{Sfn|Kaplan|1993}}{{Sfn|Salibi|1993}}。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体したことで、[[中東戦争]]など現代の中東の政治情勢が形作られたほか{{Sfn|Evans|2005}}{{Sfn|Israeli Foreign Ministry}}{{Sfn|Gelvin|2005|pp=77-79}}、水などの天然資源をめぐる紛争も引き起こした{{Sfn|Isaac|Hosh|1992}}。
また、1917年ロシア革命による社会不安と広範囲にわたる暴力、そしてその直後の[[ロシア内戦]]により、元ロシア帝国領(主に{{仮リンク|ロシア革命後のウクライナ|en|Ukraine after the Russian Revolution}})で2千以上の[[ポグロム]]が起きた<ref>{{Cite web |url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/judaica/ejud_0002_0016_0_15895.html |title=Pogroms |work=Encyclopaedia Judaica |accessdate=2009-11-17 |publisher=American-Israeli Cooperative Enterprise}}</ref>。その結果、ユダヤ人6万から20万人が殺害された<ref>{{Cite web |url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/modtimeline.html |title=Jewish Modern and Contemporary Periods (ca. 1700-1917) |work=Jewish Virtual Library |accessdate=2009-11-17 |publisher=American-Israeli Cooperative Enterprise}}</ref>。
ギリシャは第一次世界大戦直後の[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]で[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]率いるトルコ国民軍と戦った後、[[ローザンヌ条約]]に基づき[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換]]を行った<ref>[http://www.spiegel.de/international/0,1518,451140,00.html "The Diaspora Welcomes the Pope"] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120604185021/http://www.spiegel.de/international/0%2C1518%2C451140%2C00.html |date=2012-06-04}}, ''Der Spiegel'' Online. 2006年11月28日。</ref>。しかし、多くの文献によると<ref>R. J. Rummel, "The Holocaust in Comparative and Historical Perspective", 1998, ''Idea Journal of Social Issues'', Vol. 3 no. 2.</ref>、この時期の[[ギリシア人虐殺|ギリシャ人虐殺]]により数十万人のギリシャ人が死亡した<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2000/09/17/nyregion/a-few-words-in-greek-tell-of-a-homeland-lost.html |first=Chris|last=Hedges |title=A Few Words in Greek Tell of a Homeland Lost |work=The New York Times |date=2000-09-17}}</ref>。
=== 疫病の問題 ===
[[画像:Transporting Ottoman injured at Sirkedji.jpg|thumb|left|{{仮リンク|シルケジ|en|Sirkeci}}で負傷して搬送されるトルコ兵士(1915年)]]
[[画像:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603.jpg|thumb|[[スペインかぜ]]大流行の最中の緊急{{仮リンク|軍事病院|en|Military hospital}}、1918年の[[カンザス州]]{{仮リンク|キャンプ・ファンストン|en|Camp Funston}}にて。スペインかぜにより、アメリカだけで675,000人が死亡した。]]
戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6千万人のうち、800万人が[[第一次世界大戦の犠牲者|戦死]]、700万人が永久的な[[身体障害者]]になり、1,500万人が重傷を負った。ドイツは男性労働人口の15.1%を、オーストリア=ハンガリーは17.1%、フランスは10.5%を失った{{Sfn|Kitchen|2000|p=22}}。ドイツでは、一般市民の死亡者が平時よりも474,000人多かったが、主に食料の不足と[[栄養失調]]による餓死や病死が原因である<ref>{{Cite book |first=N.P.|last=Howard |title=The Social and Political Consequences of the Allied Food Blockade of Germany, 1918-19 |work=German History |year=1993 |volume=11 |issue=2 |pages=161-88 |url=http://libcom.org/files/blockade%20Germany_0.pdf}} table p 166, with 271,000 excess deaths in 1918 and 71,000 in the first half of 1919 while the blockade was still in effect.</ref>。レバノンでは終戦までに飢饉により約10万人が死亡した{{Sfn|Saadi|2009}}。
[[ロシア飢饉 (1921年-1922年)|1921年ロシア飢饉]]により500万から1,000万人が死亡した<ref>{{Cite web |url=http://www.hoover.org/publications/digest/6731711.html |publisher=Hoover Institution |work=Hoover Digest |date=2007-01-30 |title=Food as a Weapon |first=Bertrand M.|last=Patenaude |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080719190529/http://www.hoover.org/publications/digest/6731711.html |archivedate=2008-07-19 |accessdate=2014-08-14}}</ref>。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が[[孤児]]になった{{Sfn|Ball|1996|pp=16, 211}}。反ソ連のロシア人([[白系ロシア人]])の多くがロシアから逃亡、1930年代の[[満洲国]][[ハルビン市]]では10万人のロシア人が住んでいたという<ref>{{Cite news |url=http://www.highbeam.com/doc/1G1-16051029.html |title=The Russians are coming (Russian influence in Harbin, Manchuria, China; economic relations) |work=The Economist (US) |date=1995-01-14}} (via Highbeam.com)</ref>。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。
戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。[[寄生虫]]による[[発疹チフス]]で、1914年のセルビアだけでも20万人の死者(うち兵士は7万人)が出た{{Sfn|Tschanz}}。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した{{Sfn|Conlon|p=15}}。1923年にはロシアで1,300万人が[[マラリア]]に感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった<ref>{{Cite book |last=Taliaferro|first=William Hay |title=Medicine and the War |url={{google books|plainurl=y|id=HcOAnAINJZAC|page=65}} |year=1972 |pages=65 |isbn=0-8369-2629-3}}</ref>。さらに、[[1918年]]には[[スペインかぜ]]([[インフルエンザ]])が[[パンデミック|大流行]]、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した{{Sfn|Knobler|2005|p=256}}<ref>{{Cite book |last1=Kamps|first1=Bernd Sebastian |last2=Reyes-Terán|first2=Gustavo |title=Influenza |url=http://www.influenzareport.com/ir/overview.htm |series=Influenza Report |publisher=Flying Publisher |isbn=3-924774-51-X |accessdate=2009-11-17}}</ref>。「スペインかぜ」の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で[[中立国]]のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する<ref name="isl">{{Cite web|和書|url=https://www.isl.or.jp/service/influenza-jp1918.html|title=1918-19スペイン風邪の流行状況(労研図書館資料から) |publisher=財団法人 労働科学研究所 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091231003554/https://www.isl.or.jp/service/influenza-jp1918.html|archivedate=2009-12-31||accessdate=2020-02-09}}</ref>。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている<ref>[http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php 20世紀のパンデミック(スペインかぜ)] [[中外製薬]]</ref>。
[[ハイム・ヴァイツマン]]によるロビー活動もあって、[[ユダヤ系アメリカ人]]がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年に[[バルフォア宣言]]を発してパレスチナにおける{{仮リンク|ユダヤ人の母国|en|Homeland for the Jewish people|label=ユダヤ人国家}}の建国を支持した<ref>{{Cite encyclopedia |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/50162/Balfour-Declaration |title=Balfour Declaration (United Kingdom 1917) |encyclopedia=Encyclopædia Britannica}}</ref>。第一次世界大戦に参戦したユダヤ人兵士は合計1,172,000人以上であり、うち275,000人がオーストリア=ハンガリー軍、450,000人がロシア帝国軍に従軍した<ref>{{Cite web |url=http://www.jewishagency.org/JewishAgency/English/Jewish+Education/Compelling+Content/Jewish+History/Zionist+Institutions/JAFI+Timeline/1917-1919.htm |title=Timeline of The Jewish Agency for Israel:1917-1919 |publisher=The Jewish Agency for Israel |accessdate=2013-08-29 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130520072856/http://www.jewishagency.org/JewishAgency/English/Jewish%20Education/Compelling%20Content/Jewish%20History/Zionist%20Institutions/JAFI%20Timeline/1917-1919.htm |archivedate=2013-05-20}}</ref>。
=== 社会の傷跡 ===
[[画像:Cover-of-book-for-WWI-veterans-by-William-Brown-Meloney-born-1878.jpg|200px|thumb|[[アメリカ合衆国旧陸軍省|アメリカ合衆国戦争省]]による、[[退役軍人]]のための冊子(1919年)]]
第一次世界大戦は空前の戦死傷率を記録して、社会に大きな傷跡を残した。第一次世界大戦が残した傷跡はしばしば議論される{{Sfn|Todman|2005|p=xi-xv}}。[[ベル・エポック]]の[[楽天主義]]は崩れ去り、戦争に参加した世代は「[[失われた世代]]」と呼ばれた{{Sfn|Roden}}。戦後長年にわたり、[[21世紀]]に至っても人々は死者、行方不明者を哀悼し続け、障害を負った者を悲しみ続けた。
多くの兵士は[[シェルショック]](現在の[[戦闘ストレス反応]])([[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]とも。[[心的外傷後ストレス障害]]の関連疾患)などの精神的外傷を負った{{Sfn|Tucker|Roberts|2005|pp=1080-1086}}。大半の兵士はそのような障害もなく故郷に戻ることができたが、戦争について語ろうともせず、結果的には「兵士の大半が精神的外傷を負った」という伝説が広まることになった。
実際には多くの兵士は戦闘に参加せず、または軍務をポジティブにとらえたが、苦しみとトラウマというイメージは根強く残った。歴史家のダン・トッドマン ({{lang|en|Dan Todman}})、{{仮リンク|ポール・フュッセル|en|Paul Fussell}}、サミュエル・ヘインズ ({{lang|en|Samuel Heyns}}) は1990年代以降、著作を出版してこのような見方が誤りであると指摘した{{Sfn|Todman|2005|p=xi-xv}}。
=== ドイツでの不満 ===
第一次世界大戦後の[[ナチズム]]と[[ファシズム]]の広まりには、民族主義の復活と戦後の変革(民主化)に対する拒絶が含まれている。同じように、[[背後の一突き]]伝説が支持を得た背景には、敗戦国たるドイツの心理状態、および戦争責任の拒絶があった。この陰謀論は広く受け入れられ、ドイツ国民は自身を被害者とみなした。また、同じ理由により、ヴァイマル共和政はその正統性が揺らいで政局は常に不安定化し、左右両翼の勃興を許した。
ヨーロッパの共産主義とファシズム運動はこの陰謀論を利用して人気を得、特に戦争の影響を深く受けた地域で顕著だった。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]党首[[アドルフ・ヒトラー]]は、ヴェルサイユ条約に対するドイツの不満を利用して人気を博した<ref>{{Cite web |url=http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwone/war_end_01.shtml |publisher=BBC |title=The Ending of World War One, and the Legacy of Peace |first=Martin|last=Kitchen |accessdate=2018-01-23}}</ref>。そのため、第二次世界大戦は第一次世界大戦で解決されなかった権力闘争の継続という一面がある。さらに、1930年代のドイツは、第一次世界大戦の戦勝国に不公平に扱われたことを理由として、侵略を正当化した<ref>{{Cite encyclopedia |url=http://www.britannica.com/eb/article-9110199/World-War-II |archive-url=https://web.archive.org/web/20080624163832/http://www.britannica.com/eb/article-9110199/World-War-II#53532.toc |archive-date=2008-06-24 |title=World War II |encyclopedia=Britannica Online Encyclopedia |access-date=2009-11-12 |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc. |url-status=dead}}</ref><ref>{{Cite journal |last=Baker|first=Kevin |url=http://www.harpers.org/StabbedInTheBack.html |title=Stabbed in the Back! The past and future of a right-wing myth |periodical=Harper's Magazine |date=2006-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060715174503/http://www.harpers.org/StabbedInTheBack.html |archivedate=2006-07-15 |url-status=dead}}</ref>。
アメリカの歴史家{{仮リンク|ウィリアム・ルービンスタイン|en|William Rubinstein}}は、「『全体主義の時代』は現代史上の悪名高い[[ジェノサイド]]を全て含み、ユダヤ人に対する[[ホロコースト]]がその筆頭であったが、共産主義諸国による大量殺人と追放、ドイツのナチ党とその同盟者によるほかの大量殺戮、そして1915年の[[アルメニア人虐殺]]も含む。ここで主張するのは、これらの殺戮の起因は全て同じであり、その起因とは第一次世界大戦によりエリート層の構造と中央、東、南ヨーロッパの政府の常態が崩壊したことであった。それがなければ、共産主義もファシズムも無名の扇動者や変わり者の頭の中にしか存在しないものとなっていたであろう。」と述べた<ref>{{Cite book |last=Rubinstein|first=W. D. |year=2004 |url={{google books|plainurl=y|id=nMMAk4VwLLwC}} |title=Genocide: a history |publisher=Pearson Education |page=7 |isbn=0-582-50601-8}}</ref>。
=== 経済への影響 ===
{{See also|{{仮リンク|第一次世界大戦の経済史|en|Economic history of World War I}}}}
[[画像:The Girl Behind the Gun 1915.jpg|200px|thumb|女性労働者を示しているポスター(1915年)]]
[[画像:Ruins ypres.jpg|200px|thumb|戦災で廃墟となった[[イーペル]]]]
[[画像:High Wood cemetery, France.jpg|200px|thumb|戦死者を葬るフランスのハイウッド墓地。イギリスでは赤い[[ヒナゲシ|ポピー]]が第一次世界大戦における犠牲の象徴とされている。]]
第一次世界大戦の最も劇的な影響の一つは、イギリス、フランス、アメリカ、そしてイギリス帝国の自治領政府がその権力と義務を拡大させたことだった。{{仮リンク|戦争努力|en|War effort}}を支援する新しい税が徴収され、法律が制定された。その一部は現代まで続いた。また、オーストリア=ハンガリーやドイツなどの大きく官僚的な政府はその能力を限界まで駆使した。
[[国内総生産]]は連合国のうち4か国(イギリス、イタリア、日本、アメリカ)では上昇したが、フランスとロシアでは下がり、ほかには中立国のオランダと主要な中央同盟国3か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国)でも下がった。中でも、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、オスマン帝国では30から40パーセントの下がり幅だった。例えば、オーストリアでは豚の大半が屠殺されたため、終戦のときには食肉がほとんどなかった。
国内総生産のうち、政府が占める比率は全ての国で上昇、ドイツとフランスでは50%を越え、イギリスでも50%に近い比率だった。アメリカからの物資購入代金を工面すべく、イギリスはそれまでのアメリカ鉄道に対する投資を現金化(売却)、続いて[[ウォール街]]で大量に借り入れた。1916年末には米大統領ウィルソンが融資の打ち切りを決定する瀬戸際まできていたが、結局アメリカ政府から連合国への融資を大幅に増やした。1919年以降、アメリカが融資の償還を要求すると、連合国はドイツからの賠償金で資金の一部を賄ったが、ドイツからの賠償金はアメリカからドイツへの融資だった。このシステムは[[1931年]]に崩壊、融資の一部は償還されなかった。1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦に関するアメリカからの債務を44億ドルも残しており、全ての償還が終わったのは[[2015年]]だった<ref>{{Cite news |url=https://www.express.co.uk/news/uk/562830/First-World-War-debt-paid-off |title=Britain FINALLY pays off last of First World War debt as George Osborne redeems £1.9bn |last=Henn|first=Peter |date=2015-03-09 |accessdate=2018-01-23 |language=en |newspaper=[[デイリー・エクスプレス|Express]]}}</ref>。
第一次世界大戦は[[マクロ経済学|マクロ経済]]にも[[ミクロ経済学|ミクロ経済]]にも影響を与えた。家族レベルでは男性の多くが従軍・戦死したため稼ぎ手を失い、多数の女性が働くことを余儀なくされた。工場でも多くの労働者が従軍で失われ、[[サフラジェット]]運動([[女性参政権]])に弾みがついた<ref>{{Cite book |last=Noakes|first=Lucy |title=Women in the British Army: War and the Gentle Sex, 1907-1948 |year=2006 |publisher=Routledge |location=Abingdon, England |isbn=0-415-39056-7 |page=48}}</ref>。
[[画像:1915-1916 - Femme au travail dans une usine d'obus.jpg|200px|thumb|工場で弾薬を作る労働者。総力戦の体制では女性や子供も戦争に動員された。]]
オーストラリア首相[[ビリー・ヒューズ]]は、イギリス首相[[デビッド・ロイド・ジョージ]]に手紙を書き、「あなたはこれ以上良い条約を勝ち取ることができないと私たちに保証した。しかし、私たちは今でも、イギリス帝国とその同盟者が払った多大な犠牲と釣り合う賠償を確保する何らかの方法が見つかると信じている。」と述べた。オーストラリアは5,571,720ポンドの戦時賠償を受け取ったが、戦争の直接支出だけでも376,993,052ポンドに上り、1930年代中期までに賠償年金、戦争の給与金、利子と減債積立金の合計が831,280,947ポンドと賠償金の100倍以上に上った{{Sfn|Souter|2000|p=354}}。参戦したオーストラリア軍416,000人のうち、約6万人が戦死、152,000人が負傷した<ref>{{Cite book |last=Tucker|first=Spencer |title=Encyclopedia of World War I |publisher=ABC-CLIO |location=Santa Barbara, CA |year=2005 |page=273 |isbn=1-85109-420-2 |url={{google books|plainurl=y|id=2YqjfHLyyj8C|page=273}} |accessdate=2010-05-07}}</ref>。
第一次世界大戦は「{{仮リンク|余剰女性|en|Surplus women}}」の問題を悪化させた。イギリスでは100万人近くの男性が戦死したことで余剰女性(女性と男性の人数差)が67万人から170万人に上昇した。そのため、仕事に就こうとした未婚女性の人数が大幅に上昇した。その上、兵士の復員と戦後の不況により[[失業率]]がうなぎ登りになった。戦争は確かに女性の[[働く女性|社会進出]]を促進したが、兵士が復員したことと戦時工場が休業したことにより、却って多くの人が失業した。
イギリスでは1918年初頭にようやく[[配給 (物資)|配給]]制度が導入されたが、肉、砂糖、脂肪([[バター]]と[[マーガリン]])に限られ、パンは制限されなかった。また、[[労働組合]]の参加者数は1914年に400万を少し超えた程度だったのが、1918年には倍になり、800万人を超えるまでになった。
平時の輸入源から戦争物資を輸入することに困難が生じたため、イギリスは植民地に目を向けた。{{仮リンク|アルバート・アーネスト・キットソン|en|Albert Ernest Kitson}}などの[[地質学者]]は、アフリカの植民地で[[貴金属]]の鉱層を見つけることを依頼された。キットソンは[[英領ゴールド・コースト]]で弾薬製造に必要な[[マンガン]]の鉱層を発見した{{Sfn|Green|1938|pp=CXXVI}}。
ヴェルサイユ条約の{{仮リンク|ヴェルサイユ条約第231条|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=第231条}}(いわゆる「戦争責任」条項)において、ドイツは「連合国、その政府と国民が」ドイツとその同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった<ref>{{Cite book |author=Anton Kaes et al., eds. |title=The Weimar Republic Sourcebook |url=https://books.google.com/books?id=J4A1gt4-VCsC&pg=PA8 |year=1994 |publisher=[[カリフォルニア大学]] Press |page=8}}</ref>。この条項は[[第一次世界大戦の賠償]]の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった{{Sfn|Marks|1978|pp=231-232}}。1921年、賠償の総額が1,320億[[金マルク]]に定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった{{Sfn|Marks|1978|p=237}}。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった{{Sfn|Marks|1978|p=237}}。
賠償金は現金でも現物([[石炭]]、木材、化学[[染料]]など)でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、[[ルーヴェン]]の図書館の修復なども算入された{{Sfn|Marks|1978|pp=223-234}}。1929年、[[世界恐慌]]が起き、世界中の政治を混乱させた<ref>{{Cite book|title=World War One: A Short History |last=Stone |first=Norman |publisher=Penguin Adult |language=en |year=2008 |isbn=9780141031569}}</ref>。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった{{Sfn|Marks|1978|p=233}}。[[アドルフ・ヒトラー]]が[[ナチ党の権力掌握|権力を奪取]]すると、1920年代と1930年代初期に発行された[[債券]]は取り消された。しかし、{{仮リンク|デヴィッド・A・アンデルマン|en|David A. Andelman}}は「支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する」と述べた。そのため、[[第二次世界大戦]]後の1953年、{{仮リンク|ドイツの対外債務に関するロンドン合意|en|London Agreement on German External Debts|label=ロンドン会議}}において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった<ref>{{Cite web |title=First World War officially ends |url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/germany/8029948/First-World-War-officially-ends.html |work=The Telegraph |accessdate=2017-03-15 |quote=The final payment of £59.5 million, writes off the crippling debt that was the price for one world war and laid the foundations for another.|first=Allan|last=Hall |date=2010-09-28 |location=Berlin}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.time.com/time/world/article/0,8599,2023140,00.html |title=Why Did World War I Just End? |last1=Suddath|first1=Claire |date=2010-10-04 |work=Time |accessdate=2013-07-01 |quote=World War I ended over the weekend. Germany made its final reparations-related payment for the Great War on Oct. 3, nearly 92 years after the country's defeat by the Allies.}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://news.blogs.cnn.com/2010/09/30/world-war-i-to-finally-end-this-weekend/ |title=World War I to finally end for Germany this weekend |date=2010-09-30 |work=CNN |accessdate=2017-03-15 |quote=Germany and the Allies can call it even on World War I this weekend.}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2010/12/26/opinion/26macmillan.html |title=Ending the War to End All Wars |date=2010-10-25 |work=The New York Times |accessdate=2017-03-15 |quote=NOT many people noticed at the time, but World War I ended this year. |first=Margaret|last=MacMillan}}</ref>。
[[ハーバー・ボッシュ法]]を考案した一人である[[フリッツ・ハーバー]]は、賠償金の足しにするため1920年から[[海水]]から[[金]]を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。
戦後のドイツでは深刻な住宅不足に直面しており、賃貸集合住宅の数を増やすため、1920年代に様々な公営住宅計画が立てられた。この住宅は労働者階級にも家賃が払えるようにコストを重視した結果、室内の広さやデザインを限定することにした。この際に[[台所]]の設計として採用された能率重視の[[フランクフルト・キッチン]]は、現代の[[システムキッチン]]の先駆けとされている。
軍の資金援助で無線機器の改良が進んだため、戦後にはフランスやイギリス、日本やアメリカのみならず、敗戦国のドイツでも[[ラジオ]]が流行し、新たなメディアとして広まった<ref name="npr"/>。
また、手で操作しなければならない[[懐中時計]]に代わり、当時は主に女性用アクセサリーとされていた[[腕時計]]が日用品の座を得た<ref name="npr">{{Cite web |url=http://www.npr.org/templates/transcript/transcript.php?storyId=521792062 |title=From Wristwatches To Radio, How World War I Ushered In The Modern World |publisher=NPR |accessdate=2018-01-23}}</ref>。
=== 文化への影響 ===
[[画像:We are Making a New World Art.IWMART1146.jpg|200px|thumb|left|『{{仮リンク|我々は新しい世界を創造している|en|We are Making a New World}}』(1918年)。イギリス公式戦争画家[[ポール・ナッシュ]]の作品。]]
{{See also|第一次世界大戦を題材とした作品一覧}}
第一次世界大戦下では、大戦を題材とした[[戦争文学]]が広く読まれ、これらの作品の多くは作家自身の従軍経験をもとに戦場を描いたものだった{{Sfn|久保昭博|2011|pp=56-59}}。従軍中に詩作したことで「戦場詩人」と呼ばれ、休戦直前に戦死したイギリスの[[ウィルフレッド・オーウェン]]はその代表的な作家である。フランスの権威ある文学賞の[[ゴンクール賞]]も、大戦中の受賞作は全て戦争文学作品となった{{Sfn|久保昭博|2011|pp=56-59}}。受賞作のなかでも、特に[[アンリ・バルビュス]]『{{仮リンク|砲火|en|Under Fire (Barbusse novel)}}』(1916年)は、20万部の売上を記録し、以後の「戦争小説のモデル」となったとされる{{Sfn|久保昭博|2011|pp=56-59}}。フランス文学研究者の久保昭博によれば、『砲火』は兵士の死体や過酷な塹壕生活を口語・俗語文体を用いて描くことで、迫真的な大戦描写に成功したのである{{Sfn|久保昭博|2011|pp=62-78}}。
ドイツでも、[[自然主義]]や[[表現主義]]の戦争文学に続いて、戦間期には[[ハンス・カロッサ]]『ルーマニア日記』(1924年)や、[[エーリヒ・マリア・レマルク]]『[[西部戦線異状なし]]』(1929年)に代表される[[新即物主義]]の戦争文学が登場した{{Sfn|古賀保夫|1974|pp=112-113}}。これらの新即物主義の作品も、報告体を用いてより写実的に第一次世界大戦の戦場を描写したものだった{{Sfn|古賀保夫|1974|pp=112-113}}。特に『西部戦線異状なし』は、刊行からほどなく25ヶ国語に翻訳され、計350万部の売上を記録した{{Sfn|古賀保夫|1974|pp=112-113}}。
アメリカでは第一次世界大戦の影響の下、いわゆる「失われた世代」の作家たちが登場した{{Sfn|林文代|1993|pp=57-59}}。1926年、その代表的な作家である[[アーネスト・ヘミングウェイ]]と [[ウィリアム・フォークナー]]は、それぞれ初の長編作品を出版したが、両者の作品とも第一次世界大戦を背景としたものだった(ヘミングウェイ『[[日はまた昇る]]』、フォークナー『{{仮リンク|兵士の報酬|en|Soldiers' Pay}}』){{Sfn|林文代|1993|pp=57-59}}。
美術の分野でも、第一次世界大戦に多くの芸術家が従軍画家として参加し、[[プロパガンダ]]のための[[戦争画]]を描いた{{Sfn|河本真理|2011|pp=9-12}}。また、こうした伝統的な従軍画家だけでなく、装備のカモフラージュを行うために[[キュビズム]]や[[ヴォーティシズム]]の画家が動員された{{Sfn|河本真理|2011|pp=9-12}}。さらに、徴兵されてあるいは志願して前線で兵士として戦う芸術家もいた{{Sfn|河本真理|2011|pp=9-12}}。西洋近現代美術史研究者の河本真理によれば、戦場を体験した画家たちは、戦争の理念的側面を抽象的な様式で表現しようとする者と、戦場の人々の身体などを写実的な様式で表現しようとする者の二つの系統に分かれていった{{Sfn|河本真理|2011|pp=102-104}}。大戦による西洋社会の動揺は、一方では、前衛的な芸術から古典的な芸術へという「秩序への回帰」につながる{{Sfn|河本真理|2011|pp=106-115}}。しかし、その一方で、第一次世界大戦を近代合理主義の限界であるとみなし、これまでの芸術の在り方を否定する「反芸術」の[[ダダイスム]]も登場することとなった{{Sfn|河本真理|2011|pp=115-117}}。
また、第一次世界大戦では、これまでの戦争と異なり、[[ポスター]]、[[写真]]、[[映画]]といった新しい手段によっても戦争が描かれた{{Sfn|河本真理|2011|pp=28-38}}。フランスをはじめとする参戦国政府は、写真部・映画部のような組織を設置し、[[プロパガンダ]]の手段として写真・映画を活用しようとした{{Sfn|河本真理|2011|pp=28-38}}。特に、1916年公開の[[無声映画|無声]][[記録映画]]『{{仮リンク|ソンムの戦い (映画)|label=ソンムの戦い|en|The Battle of the Somme (film)}}』は、イギリスの戦争プロパガンダ局長{{仮リンク|チャールズ・マスターマン|en|Charles Masterman}}の主導で作られ、当時の国内映画の最多観客動員数記録を更新するほどの人気を博したという{{Sfn|河本真理|2011|pp=28-38}}。
=== 国際平和への努力 ===
[[画像:UncleSamwantsYouforarmy.jpg|200px|thumb|[[アンクル・サム]]が描かれたアメリカ陸軍の募兵ポスター<br />欧州における悲惨な戦状が伝えられているにも関わらず、多くの若者が入隊した。]]
第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ、[[1919年]]に米大統領ウィルソンの提唱により、人類史上初の国際平和機構である[[国際連盟]]が設立され、[[1925年]]には[[ロカルノ条約]]、[[1928年]]には主要国間で[[不戦条約]](ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間において[[ワシントン海軍軍縮条約]](1922年)、[[ロンドン海軍軍縮条約]](1930年)といった軍縮条約が締結された。
しかし、これら国際平和のための様々な努力も空しく、第一次世界大戦の原因と結果を巡る多くの戦後処理の失敗、戦後好景気の反動としての[[世界恐慌]]の発生と[[ブロック経済]]化、[[社会主義]]の勢力拡大などで、それらに対抗する形での[[イタリア王国]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]率いる[[ファシスト党]]、[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]のヒトラー率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と、[[ファシズム]]が台頭していった。
戦勝国の日本でも、日本の[[シベリア出兵]]や中華民国での[[排日]]とそれに対する日本軍の出兵拡大。また日英同盟の破棄やアメリカでの日本人移民の差別などが行われた末のナショナリズム台頭といった混乱が起きた。さらに[[1931年]]には[[関東軍]]主導により[[満洲事変]]が起こされ、数度にわたり軍事クーデターが起きたことで、第一次世界大戦後に日本に根付くかと思われた民主主義([[大正デモクラシー]]、[[普通選挙]])がわずか15年程度で途絶え、軍国主義が進むこととなった。
国際連盟は提唱国であるアメリカをはじめとした大国の不参加や脱退が相次いで十分な役目を果たせず、戦間期に発生した係争への介入を行うことがほとんどできなかった。ヴェルサイユ条約成立後、フランスの[[フェルディナン・フォッシュ]]陸軍[[元帥]]は、「これは講和ではない。20年間の休戦にすぎない」と予言していた。イギリスの経済学者[[ジョン・メイナード・ケインズ]]は、「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、いつの日か必ず復讐されることになる」と条約を批判。アメリカのある上院議員も「この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した」と述べた。そして彼らの予言通り、条約調印のほぼ20年後の[[1939年]]に、再び全世界規模の戦争となる[[第二次世界大戦]]が勃発することとなる。
=== 戦場跡に残る不発弾と遺骨 ===
この戦争における砲撃の数量は凄まじく、西部戦線の主戦場となった[[内務省 (フランス)|フランスの内務省]]によれば、国内で約14億発の砲弾が使用され、そのうち約1割が[[不発弾]]となったという。内務省の[[爆発物処理]]隊隊員が加盟している研究会では、その全ての不発弾を処理するためにかかる時間を約700年と試算している<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/graph/2014/08/02/20140802k0000m030087000c/001.html |title=第一次世界大戦:不発弾1億発、処理に700年…フランス |accessdate=2014-09-07 |date=2014-08-01 |publisher=『毎日新聞』}}</ref>。
西部戦線の戦跡では、不発弾のほか廃棄された毒ガスを含む砲弾による[[土壌汚染]]が深刻なために、立ち入りが禁止されている土地が残っており、無害化のための調査・処理が続いている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201811/CK2018112602000123.html <第一次世界大戦終結100年>毒ガス弾 世紀超え汚染]『[[東京新聞]]』朝刊2018年11月26日(2018年12月7日閲覧)</ref>。また、戦地に放置・埋葬された戦死者の遺骨もいまだ多く残されており、その収集と[[DNA型鑑定]]などによる遺族捜し、[[納骨堂|納骨]]が21世紀以降も続けられている
<ref>[https://special.sankei.com/f/international/article/20181102/0001.html 「第一次大戦から1世紀 激戦地・仏ベルダン/祖父の遺骨と対面 戦争は終わらない」] 『[[産経新聞]]』朝刊2018年11月3日(国際面)2019年1月11日閲覧。</ref>。
=== 21世紀 ===
従軍した軍人のうち、最後まで存命だった元イギリス海軍水兵クロード・チョールズが2011年5月5日、110歳で死去した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2798467?act=all 「クロード・チョールズ氏死去、第1次世界大戦で戦闘に参加した最後の生存者 110歳」][[フランス通信社]](2011年5月6日)2018年11月18日閲覧。</ref>。
現代にも大きな影響を与えており、2018年11月11日にパリで行われた終戦100年記念式典には、フランス、日本、イギリス、イタリア、アメリカなどの戦勝国や、ドイツなど敗戦国を含めて60カ国以上の首脳級要人<ref>「第1次大戦100年式典/仏大統領演説 排他主義に警鐘」『読売新聞』夕刊2018年11月12日(3面)。日本政府は[[麻生太郎]][[副総理]]を派遣した。</ref>約70人が参加した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37635000R11C18A1000000/ 第1次大戦終結から100年 マクロン氏「悪魔再び」]『日本経済新聞』ニュースサイト(2018年11月11日)2018年11月18日閲覧。</ref>。
== 軍事技術 ==
{{See also|{{仮リンク|第一次世界大戦の軍事技術|en|Technology during World War I}}|{{仮リンク|第一次世界大戦の武器|en|Weapons of World War I}}}}
=== 火薬 ===
第一次世界大戦が始まると[[無煙火薬]]である[[コルダイト]]が大量に必要となったが、原料となる[[アセトン]]は木材を乾留して製造されていたため、安定した大量供給は難しかった。当時[[マンチェスター大学]]で化学を教えていた[[ハイム・ヴァイツマン]]は1910年頃に[[デンプン]]からアセトンを合成する手法を開発しており、イギリス政府と協力し工業化に成功したことで、年間3万トンのアセトンが供給可能となった。この功績により[[ウィンストン・チャーチル]]や[[ロイド・ジョージ]]などイギリス政府の要人に知己を得たことにより[[ロビー活動]]での影響力が増すこととなった。
=== 陸上戦 ===
{{See also|{{仮リンク|第一次世界大戦の戦車|en|Tanks in World War I}}}}
[[画像:Tanks on parade in London at the end of World War I, 1918 (3056450509).jpg|200px|thumb|left|第一次世界大戦が終結した時、ロンドンで行われた[[観兵式]]における戦車]]
[[画像:Austin21.jpg|200px|thumb|ロシアの[[オースチン装甲車]]、1919年。]]
第一次世界大戦の初期では20世紀の技術と19世紀の[[戦術]]が混ざり合い、大きな損害は不可避であった。しかし、列強の軍は1917年末までにそれぞれ兵力を数百万人に増やしつつ現代化を進め、[[電話]]、[[無線通信]]{{Sfn|Hartcup|1988|p=154}}、[[装甲車]]、[[戦車]]{{Sfn|Hartcup|1988|pp=82-86}}、飛行機を利用するようになった。[[歩兵]]の編成も変更され、それまで100人の[[中隊]]が部隊の行動単位だったのを[[下士官]]率いる10人程度の[[分隊]]に変更された。
大砲も革命を遂げた。1914年、大砲は前線に配置され、砲弾は標的に直接撃たれた。しかし、1917年までに大砲、[[臼砲]]、さらに[[機関銃]]による[[間接射撃]]が多用されるようになり、飛行機や(見落とされることも多い){{仮リンク|野戦電話|en|Field telephone}}といった新しい技術による測距や射弾観測が行われるようになった<ref>Sterling, Christopher H.; Military Communications: From Ancient Times to the 21st Century (2008). Santa Barbara: ABC-CLIO. {{ISBN2|978-1-85109-732-6}}. p.444.</ref>。また、{{仮リンク|大砲音源測距|en|Artillery sound ranging}}と{{仮リンク|対砲兵射撃|en|Counter-battery fire}}が一般的になった。
[[画像:Dump of 18 pounder shell cases.jpg|200px|thumb|第一次世界大戦ではそれまでの戦争とは比較にならないほど大量の弾薬が消費された<br />ソンム(フランス)、1916年。]]
重砲火による間接射撃についてはドイツの方が連合国軍よりもはるかに進んでいた。ドイツ陸軍は1914年時点で既に150mmと210mm[[榴弾砲]]を運用しており、一方フランス陸軍とイギリス陸軍の大砲は75mmと105mm程度だった。イギリス軍は6インチ (152mm) 榴弾砲を1門有していたが、重くてまともに運べず、分解して前線に運んだ後改めて組み立てなければならない代物であった。ドイツはさらにオーストリアの305mmと420mm大砲を使用、また開戦時点で既に塹壕戦に適する、様々な口径の[[ミーネンヴェルファー]]を有していた{{Sfn|Mosier|2001|pp=42-48}}<ref>{{Cite book |last=Jager|first=Herbert |title=German Artillery of World War One|publisher=Crowood Press |year=2001 |page=224 |isbn=978-1861264039}}</ref>。
[[画像:38cmBttrPommern.jpg|thumb|1917年時点で世界最大の大砲、{{仮リンク|クケラーレ|en|Koekelare}}の38cm{{仮リンク|バッテリー・ポンメルン|en|Batterie Pommern}}。]]
1917年6月27日、ドイツ軍は当時世界最大の大砲{{仮リンク|バッテリー・ポンメルン|en|Batterie Pommern}}を使用した。[[クルップ]]社が製造したこの大砲は重さ750kgの砲弾を{{仮リンク|クケラーレ|en|Koekelare}}から50km先の[[ダンケルク]]に発射することができた。
戦闘の多くは[[塹壕戦]]であり、前線を1m前進させるために数百人が犠牲になるというものだった。歴史上死傷者の最も多い戦闘の中には第一次世界大戦の戦闘が多く含まれ、例としては[[パッシェンデールの戦い]]、[[マルヌ会戦]]、[[カンブレーの戦い]]、[[ソンムの戦い]]、[[ヴェルダンの戦い]]、[[ガリポリの戦い]]がある。ドイツは[[ハーバー・ボッシュ法]]による[[窒素固定]]を活用して、イギリスの海上封鎖にもかかわらず火薬を絶やさずに供給することができた{{Sfn|Hartcup|1988|p=105}}。大砲の攻撃は最も多くの損害を出し{{Sfn|Raudzens|1990|p=421}}、大量の爆発物を費やした。爆弾の爆発や{{仮リンク|破砕 (爆弾)|en|Fragmentation (weaponry)|label=破砕}}により兵士の頭部損傷が続出したため、交戦諸国は現代も使われる鋼鉄製[[戦闘用ヘルメット]]を設計した。その端緒となったのはフランスが1915年に導入した[[アドリアンヘルメット]]であり、直後にイギリスとアメリカが[[ブロディヘルメット]]を採用、1916年にはドイツが[[ヘルメット (ドイツ軍)|シュタールヘルム]]を導入した。シュタールヘルムはその後改良を経て現代まで使用されている。
[[画像:mustard gas burns.jpg|thumb|[[マスタードガス]]により皮膚が爛れたカナダ人兵士、1917年から1918年頃。]]
[[化学兵器]]が広く使われたことも第一次世界大戦の特徴であった。攻撃に使われたガスは[[塩素]]、[[マスタードガス]]、[[ホスゲン]]などだった。最初に使われた塩素に対する対策の[[ガスマスク]]はすぐに配備され、以降より効果的な化学兵器の開発とその対策の開発が[[いたちごっこ]]のように続き、終戦まで続いた{{Sfn|Edmonds|Wynne|1927|p=217}}。化学兵器の使用と小規模な[[戦略爆撃]]はいずれも1899年と1907年の[[ハーグ陸戦条約]]で禁止され、両方とも効果が薄いことが証明されたが{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 1}}、大衆の注目を集めることには成功した<ref>戦間期には未来の「ガス戦争」に対する想像としてReginald Glossopが1932年に出版した''Ghastly Dew''とNeil Bellが1931年に出版した''The Gas War of 1940''といった小説がある。</ref>。
陸戦兵器のうち戦闘力が最も強いのは1門数十トンの重さを有する[[列車砲]]である<ref>{{YouTube|Hl4jJJ9b9MA|"Heavy Railroad Artillery"}}</ref>。ドイツが使用したのは[[ディッケ・ベルタ]](「太っちょベルタ」)というあだ名が付けられた。ドイツはまた[[パリ砲]]を開発、重さ256トン、砲弾の重量は94kgで、パリを約100km先から砲撃することができた。
[[画像:Vickers machine gun in the Battle of Passchendaele - September 1917.jpg|thumb|イギリスの[[ヴィッカース重機関銃]]、1917年。]]
塹壕、機関銃、空からの偵察、[[有刺鉄線]]、破砕[[砲弾]]を使用する現代化した大砲といった技術により、第一次世界大戦の戦線は膠着した。イギリスとフランスは戦車を開発して[[機甲戦]]に持ち込むことで戦線の膠着を解決しようとした。イギリス初の戦車である[[マーク I 戦車]]は[[ソンムの戦い]]の最中、1916年9月15日に使用された。この時は安定性に問題があったが、実戦に耐えうることを証明することができた。そして、1917年11月の[[カンブレーの戦い]]ではヒンデンブルク線を突破する一方、[[諸兵科連合]]部隊が敵兵8千人を捕虜にし、大砲100門を鹵獲することができた。一方、フランスは旋回[[砲塔]]を持つ[[ルノー FT-17 軽戦車]]を開発、ルノー FT-17はフランスの勝利に大きく貢献した。ほかにも[[ルイス軽機関銃]]、[[ブローニングM1918自動小銃]]、[[MP18]]など[[軽機関銃]]や[[短機関銃]]が導入された。
もう1つの新型武器である[[火炎放射器]]はまずドイツ陸軍によって使われ、続いて諸国の陸軍に採用された<ref>{{Cite encyclopedia |title=Flamethrower |year=2016 |last=Cornish|first=Paul |url=https://encyclopedia.1914-1918-online.net/article/flamethrower |language=en}}</ref>。戦術的には高い価値を有さなかったが、戦場上の恐慌を引き起こし、敵軍の士気を低下させる武器として有用であった{{Sfn|Saunders|1999|p=145}}。
塹壕戦には大量の食料、水、弾薬が必要であり、平時の交通システムが破壊される地域も多いため{{仮リンク|塹壕鉄道|en|Trench railways}}が発展した{{Sfn|Lepage|2017|pp=66-67}}。しかし、[[内燃機関]]の改良により、塹壕鉄道は廃れた<ref>{{Cite book |title=Proceedings of the Annual Convention of the International Railway Fuel Association |author=International Railway Fuel Association |language=en |year=1919 |page=383 |url=https://books.google.com/books?id=LMsYAQAAIAAJ}}</ref>。
=== 海戦 ===
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦の海戦|en|Naval warfare of World War I}}}}
[[画像:Bundesarchiv DVM 10 Bild-23-61-15, Panzerkreuzer "SMS Goeben".jpg|thumb|[[モルトケ級巡洋戦艦]][[ゲーベン (巡洋戦艦)|ヤウズ・スルタン・セリム]]]]
ドイツは開戦の後、[[Uボート]]([[潜水艦]])を配備した。[[ドイツ帝国海軍]]はUボートを駆使して[[大西洋]]で制限付きと[[無制限潜水艦作戦]]を交互に遂行、イギリスの補給を断とうとした。イギリス商船の海員が死亡したことと、Uボートが無敵のように見えたことで[[爆雷]](1916年<ref>{{Cite book |last=Henry|first=Chris |language=en |title=Depth Charge!: Mines, Depth Charges and Underwater Weapons, 1914-1945 |page=26 |year=2005 |isbn=9781844151745}}</ref>)、[[ハイドロホン]](パッシブ[[ソナー]]の一種、1917年<ref>{{Cite book |last=Marder|first=Arthur J |title=From the Dreadnought to Scapa Flow: Volume IV 1917, Year of Crisis |page=76 |language=en|year=2014 |publisher=Seaforth |isbn=9781848322011}}</ref>)、[[軟式飛行船]]、{{仮リンク|攻撃型潜水艦|en|Attack submarine}}({{仮リンク|R級潜水艦 (イギリス海軍)|en| British R-class submarine|label=R級潜水艦}}、1917年)、前方攻撃用の[[対潜兵器]]、吊下式ハイドロホン(最後の2つは1918年に放棄された)などが次々と開発された。潜水艦をさらに活用すべく、ドイツでは1916年に補給潜水艦が提案された<ref>{{Cite book |last=Akermann|first=Paul |title=Encyclopedia of British Submarines 1901-1955 |language=en |page=66 |year=2002 |publisher=Periscope |isbn=9781904381051}}</ref>。
=== 空戦 ===
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦における航空|en|Aviation in World War I}}}}
[[画像:Sopwith F-1 Camel.jpg|thumb|left|[[イギリス空軍]]の[[ソッピース キャメル]]。1917年4月時点では西部戦線におけるイギリスの[[パイロット (航空)|パイロット]]の平均寿命は93[[飛行時間]]だった<ref>{{Cite book |first1=Eric|last1=Lawson |first2=Jane|last2=Lawson |year=2002 |url={{google books |plainurl=y|id=9PGHckhHiX0C}}pg=PT123 |title=The First Air Campaign: August 1914- November 1918 |publisher=Da Capo Press |p=123 |isbn=0-306-81213-4}}</ref>。]]
[[固定翼機]]が初めて軍事利用されたのは[[伊土戦争]]中の1911年10月23日、イタリア軍がリビアを[[偵察]]した時だった。翌年には[[グレネード]]投下や[[空中写真]]撮影に使われるようになった。飛行機の軍事上の価値は1914年までに明らかになり、戦争初期には偵察や[[近接航空支援]]で使われた。敵機を撃ち落とすべく、[[対空砲]]や[[戦闘機]]が開発された。他にも[[戦略爆撃機]]が開発され、主にドイツとイギリスが使った。ドイツは[[ツェッペリン]]([[硬式飛行船]]の一種)<ref>{{Cite book |last=White|first=Jerry|title=Zeppelin Nights: London in the First World War |language=en |page=127 |year=2014 |publisher=Random House |isbn=9781448191932}}</ref>や大型の複葉機で北海を渡り、ロンドンなどイギリス本土を空襲した。
{{See|ドイツによる戦略爆撃 (第一次世界大戦)}}
戦争末期には[[航空母艦]]が初めて使われ、1918年にはイギリスの[[フューリアス (空母)|フューリアス]]号が[[トゥナー|トンデルン]]にあったツェッペリン飛行船のハンガーを破壊するため{{仮リンク|トンデルン襲撃|en|Tondern raid}}を敢行、[[ソッピース キャメル]]を飛ばせた{{Sfn|Cross|1991|pp=56-57}}。
塹壕の上空を飛ぶ有人[[気球#軍事用気球(偵察用気球、着弾観測気球、阻害気球など)|観測気球]]は固定の[[偵察]]基地として使われ、敵軍の動きを報告したり、砲兵に指示を出したりした。気球の乗員は一般的には2名であり、2人とも[[パラシュート]]を装備していた{{Sfn|Winter|1983}}。これは敵軍による対空攻撃に遭った場合でもパラシュートを使って安全に脱出できるようにするためであった。当時のパラシュートは重すぎて、積載量が既にぎりぎりの飛行機に搭載できず、小型化は戦争終結後に行われたことだった。またイギリスの首脳部でもパラシュートがパイロットの臆病さにつながるとしてその搭載に反対した<ref name="FullCircle">{{harvnb|Johnson|2001}}</ref>。
偵察されることを防ぐため、気球は敵機にとって重要な標的である。敵機から身を守るため、気球には対空砲が搭載され、さらに自軍の飛行機がパトロールを行った。また{{仮リンク|空対空ロケット|en|Air-to-air rocket}}といったより特殊な武器も試された。軟式飛行船や気球による偵察の結果、全種類の飛行機の間で行われる空対空戦闘(航空戦)が発展した。また、気づかれずに大軍を動かすことが不可能になったため、塹壕戦が膠着する一因となった。ドイツは1915年と1916年に[[ドイツによる戦略爆撃 (第一次世界大戦)|イングランド空襲]]を行い、イギリスの士気を低下させるとともに飛行機を前線から引き起こそうとし{{Sfn|Simpson|2015|loc=Chapter 9}}、実際に恐慌が起こったため数個[[飛行隊]]の戦闘機がフランスから急遽イギリスに派遣された。
=== 暗号 ===
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦における暗号|en|World War I cryptography}}}}
[[画像:Zimmermann Telegram.jpeg|200px|thumb|[[ツィンメルマン電報]]]]
1914年にイギリスがドイツの[[海底ケーブル|海底通信ケーブル]]を切断した結果、国際通信ケーブルと無線しか使えなくなったドイツは傍受を防ぐために通信を[[暗号]]化した<ref name="Mitsubishi">{{Cite web|和書|url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/security/learn/info/misty/stage3.html |accessdate=2018-02-12 |title=暗号の歴史 STAGE3 第一次世界大戦 |publisher=三菱電機}}</ref>。
しかし、ドイツは戦争初期に多くの不幸に見舞われ、暗号を悉く解読された。まず、イギリス海軍がオーストラリア沖でドイツの商船から{{lang|de|Handelsverkehrsbuch}} ({{lang|de|HVB}}) というコードブックを奪取、続いてエストニアで座礁したドイツ船からドイツ海軍用の{{lang|de|Signalbuch der Kaiserlichen Marine}} ({{lang|de|SKM}}) がロシアに奪われ、さらに{{lang|de|Verkehrsbuch}} ({{lang|de|VB}}) もオランダ沖でイギリスに取得された{{Sfn|Czak|2016}}。
これらのコードブックを得たイギリスは[[傍受]]した通信量が膨大だったこともあり、海軍本部で[[暗号解読]]部門である[[ルーム40]]を設立した{{Sfn|Czak|2016}}。ルーム40は後に[[ツィンメルマン電報]]の解読に成功、アメリカを連合国側で参戦させることに成功した{{Sfn|Czak|2016}}<ref name="Mitsubishi"/>。
== 戦時下の社会 ==
=== 捕虜の処遇 ===
{{Main|[[日独戦ドイツ兵捕虜]]}}
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦におけるドイツの捕虜|en|World War I prisoners of war in Germany}}}}
[[画像:German prisoners in a French prison camp. French Pictorial Service., 1917 - 1919 - NARA - 533724.tif|thumb|left|戦争後期のフランス捕虜収容所にいるドイツ人捕虜。]]
第一次世界大戦では約800万人が降伏して[[捕虜収容所]]に収容された。全参戦国が[[ハーグ陸戦条約]]に基づき[[捕虜]]を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった{{sfn|Phillimore|Bellot|1919|pp=4-64}}。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった{{sfn|Cook|2006|pp=637-665}}。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は[[赤十字社]]や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。
例としては、{{仮リンク|ガリツィアの戦い|en|Battle of Galicia}}でロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、[[ブルシーロフ攻勢]]でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]でロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月の{{仮リンク|プシャスニシュの戦い|de|Schlacht um Przasnysz}}でドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月に[[カウナス]]駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また[[マルヌ会戦|第一次マルヌ会戦]]ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害(戦死、負傷、捕虜)のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人(その大半がロシア軍への降伏だった){{sfn|Ferguson|1999|pp=368-9}}。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。
日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、[[徳島県]]の[[板東俘虜収容所]]、[[千葉県]]の[[習志野俘虜収容所]]、[[広島県]]の[[似島検疫所]]俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理や[[ビール]]、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった{{sfn|Ferguson|1999|loc=Chapter 13}}。
[[画像:1stGazaBritishPrisoners00118v.jpg|thumb|1917年の{{仮リンク|第一次ガザ会戦|en|First Battle of Gaza}}の後、オスマン軍の捕虜になったイギリス兵士。]]
反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も[[飢餓]]が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した<ref>{{Cite web |url=http://profismart.ru/web/bookreader-115250-24.php |archive-url=https://archive.is/20130417092302/http://profismart.ru/web/bookreader-115250-24.php |dead-url=yes |archive-date=2013-04-17 |title=Максим Оськин - Неизвестные трагедии Первой мировой Пленные Дезертиры Беженцы - стр 24 - Читаем онлайн |publisher=Profismart.ru |accessdate=2013-03-13}}</ref>。またオスマン帝国では国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。これはオスマン帝国が[[ムスリム]]国家([[キリスト教]]国ではない)であるゆえと[[白人至上主義|西欧中心主義]]的視点から言われることがある{{sfn|Bass|2002|p=107}}が社会学的な正確性が欠けた偏見である。1916年4月の[[クートの戦い|クート包囲戦]]の後、イギリス兵士約11,800人(主に[[英印軍|英領インドの兵士]])が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した<ref>{{Cite web |publisher=British National Archives |title=The Mesopotamia campaign |url=http://www.nationalarchives.gov.uk/pathways/firstworldwar/battles/mesopotamia.htm |accessdate=2007-03-10}}</ref>。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進して[[アナトリア半島]]まで行くよう命じた。生還者の一人は「獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった」と述べた<ref>{{Cite web |url=http://www.awm.gov.au/stolenyears/ww1/turkey/story2.asp |publisher=Australian War Memorial |work=Stolen Years: Australian Prisoners of War |title=Prisoners of Turkey: Men of Kut ''Driven along like beasts''|accessdate=2008-12-10 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090108200459/http://www.awm.gov.au/stolenyears/ww1/turkey/story2.asp |archivedate=2009-01-08}}</ref>。その後、生還した捕虜は[[トロス山脈]]を通る鉄道の建設に駆り出された。
第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが[[強制労働]]に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた<ref>{{Cite web |url=http://www.icrc.org/Web/Eng/siteeng0.nsf/html/57JQGQ |title=ICRC in WWI: overview of activities |publisher=Icrc.org |accessdate=2010-06-15 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100719030032/http://www.icrc.org/web/eng/siteeng0.nsf/html/57JQGQ |archivedate=2010-07-19}}</ref>。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた<ref>{{Cite news |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,768983,00.html |title=GERMANY: Notes, Sep. 1, 1924 |work=Time |date=1924-09-01 |accessdate=2010-06-15}}</ref>。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。
=== 戦争への支持 ===
[[画像:Affiche-guerre Femmes-au-travail.jpg|thumb|[[キリスト教女子青年会]]による、女性戦時基金への支援を求めるポスター。1915年。]]
オーストリア=ハンガリー帝国の出身で[[クロアチア人]]の[[亡命]]政治家{{仮リンク|アンテ・トルムビッチ|en|Ante Trumbić}}など{{仮リンク|ユーゴスラヴィア主義|en|Yugoslavism|label=ユーゴスラヴィア主義者}}は、[[南スラヴ]]統一国家の建国を望んだため、戦争を強く支持した。1915年4月30日、トルムビッチ率いる{{仮リンク|ユーゴスラヴィア委員会|en|Yugoslav Committee}}がパリで成立、直後にロンドンに移った{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=1189}}。1918年4月には[[ローマ]]で「圧迫された民族の会議」({{lang|en|Congress of Oppressed Nationalities}}) が行われ、[[チェコスロバキア人]]、[[イタリア人]]、[[ポーランド人]]、[[トランシルヴァニア]]、南スラヴの代表が連合国にオーストリア=ハンガリーの住民による[[民族自決]]を支持するよう求めた<ref name="autogenerated3"/>。
中東ではトルコの民族主義と呼応して[[汎アラブ主義|アラブ民族主義]]も高揚、[[汎アラブ主義|汎アラブ]]国家の建国が叫ばれるようになった。1916年、[[アラブ反乱]]がオスマン帝国の中東領で起こり、独立を目指した{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=117}}。
東アフリカでは[[ダラーウィーシュ国]]が{{仮リンク|ソマリランド戦役|en|Somaliland Campaign}}でイギリスと戦っていたが、[[エチオピア帝国]]の[[リジ・イヤス|イヤス5世]]はダラーウィーシュ国を支持した<ref>{{Cite book |last=Mukhtar|first=Mohammed |title=Historical Dictionary of Somalia |date=2003-02-25 |publisher=Scarecrow Press |page=126 |url=https://books.google.com/books?id=DPwOsOcNy5YC&pg=PA126&dq=iyasu+dervish&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjJjrCxr7LSAhVG4YMKHTEkDgwQ6AEIGjAA#v=onepage&q=iyasu%20dervish&f=false |accessdate=2017-02-28}}</ref>。ドイツ駐[[アディスアベバ]]大使{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シルベルク|de|Friedrich Wilhelm Karl von Syburg}}は「エチオピアがイタリア人を追い出して[[紅海]]沿岸を奪回、帝国を以前の規模に回復する時が来た」と述べた。エチオピア帝国は中央同盟国側で参戦する瀬戸際まできたが、同盟国がエチオピアにおける独裁について圧力をかけたことでイヤス5世が廃位されたため参戦が取り止めとなった<ref>{{Cite news |title=How Ethiopian prince scuppered Germany's WW1 plans |url=http://www.bbc.com/news/world-37428682 |accessdate=2017-02-28 |agency=BBC News |date=2016-09-25}}</ref>。
社会主義政党の一部は1914年8月の開戦時点では戦争を支持した<ref name="autogenerated3">{{harvnb|Tucker|Roberts|2005|p=1001}}</ref>。ヨーロッパの社会主義者は民族主義についての意見が分かれたが、愛国心による戦争への支持が[[マルクス主義]]者などの急進派が持つ[[階級闘争]]の概念、そして[[サンディカリスム|労働組合主義]]を圧倒した{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=1069}}。開戦すると、イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ロシアの社会主義者は民族主義の時流に従って自国の参戦を支持した{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=884}}。
当時アメリカで活躍していたイギリス人の[[チャーリー・チャップリン]]や日本人の[[早川雪洲]]は、アメリカの戦時公債発売委員に推薦され、特に早川は日本の同盟国のアメリカの国債を6万ドルも買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、1918年には『バンザイ』(Banzai) という公債販売促進のための映画まで撮って、アメリカを助けた。
{{仮リンク|イタリア民族主義|en|Italian nationalism}}は戦争により高揚、初期には様々な政治会派からの支持を受けた。最も活動的で支持を受けたイタリア民族主義者の一人は[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]であり、彼は[[未回収のイタリア|イタリア民族統一主義]]を宣伝、イタリア大衆を参戦支持に動かした{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=335}}。[[イタリア自由党]]の{{仮リンク|パオロ・ボセッリ|en|Paolo Boselli}}は連合国側で参戦することを支持してそれを宣伝、[[ダンテ・アリギエーリ協会]]をイタリア民族主義の宣伝に利用した{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=219}}。
イタリアの社会主義者は戦争を支持すべきか反対すべきかで意見が分かれた。[[ベニート・ムッソリーニ]]や{{仮リンク|レオニーダ・ビッソラティ|en|Leonida Bissolati}}などは支持したが{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=209}}、[[イタリア社会党]]は反[[軍国主義]]の抗議を行った者が殺害されると戦争反対の方針を決定、6月に{{仮リンク|赤い一週間|en|Red Week (Italy)}}と呼ばれる[[ゼネラル・ストライキ]]を行った<ref name="autogenerated6">{{harvnb|Tucker|Roberts|2005|p=596}}</ref>。社会党はムッソリーニなどの参戦を支持した党員を除名した<ref name="autogenerated6"/>。労働組合主義者だったムッソリーニはイタリア民族統一主義に基づき、オーストリア=ハンガリーのイタリア人地域の併合を支持、1914年10月に『{{仮リンク|イル・ポポロ・ディタリア|en|Il Popolo d'Italia}}』を創刊し、{{仮リンク|国際行動のための革命ファッシ|it|Fascio rivoluzionario d'azione internazionalista}}を設立。後に1919年の[[イタリア戦闘者ファッシ]]に発展し、[[ファシズム]]の起源となった{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=826}}。ムッソリーニが民族主義を支持したことで、彼は[[アンサルド]](軍備会社)などの会社から募金して『イル・ポポロ・ディタリア』の創刊に必要な資金を集めた。彼はこの新聞で社会主義者などを説得して戦争を支持させた<ref>Dennis Mack Smith. 1997. ''Modern Italy; A Political History''. Ann Arbor: The University of Michigan Press. p.284.</ref>。
=== 反戦運動 ===
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦に対する反戦運動|en|Opposition to World War I}}|フランス軍反乱}}
[[画像:Sackville Street (Dublin) after the 1916 Easter Rising.JPG|thumb|left|1916年の[[イースター蜂起]]の後に撮影された、[[ダブリン]]の{{仮リンク|オコンネル通り (ダブリン)|en|O'Connell Street|label=サックヴィル通り}}。]]
開戦直後には多くの社会主義者や労働組合が政府を支持したが、[[ボリシェヴィキ]]、[[アメリカ社会党]]、[[イタリア社会党]]、[[カール・リープクネヒト]]、[[ローザ・ルクセンブルク]]などの例外もあった。
開戦から3か月も満たない1914年9月に[[ローマ教皇]]に就任した[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]は第一次世界大戦とその影響を在位期間の初期の焦点とした。前任の[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]と違い<ref>{{Cite book |title=History of the Church |year=1981 |publisher=Burns & Oates|location=London |isbn=0-86012-091-0 |translator-first=Margit|translator-last=Resch |volume=9 |series=The Church in the industrial age |first=Roger|last=Aubert |editor=Hubert Jedin |editor2=John Dolan |page=521 |chapter=Chapter 37: The Outbreak of World War I}}</ref>、彼は選出から5日後に平和のために手を尽くすと宣言した。彼の初の[[回勅]]で1914年11月1日に公布された{{仮リンク|アド・ベアティッシミ・アポストロルム|en|Ad beatissimi Apostolorum}}も第一次世界大戦に関するものだった。しかし、ベネディクトゥス15世は教皇の立場から平和の使者として振舞ったものの参戦各国に無視された。1915年にイタリアと[[三国協商]]の間で締結された[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン条約]]でも教皇による平和への動きを無視する条項が盛り込まれ、またベネディクトゥス15世が1917年に提案した平和案もオーストリア=ハンガリーを除いて無視された<ref>{{Cite web |title=Who's Who — Pope Benedict XV |publisher=firstworldwar.com |date=2009-08-22 |url=http://www.firstworldwar.com/bio/popebenedict.htm |accessdate=2018-02-10}}</ref>。
[[画像:The Deserter.jpg|thumb|''脱走者''、1916年。ヨーロッパ5か国の兵士が[[イエス・キリスト]]を[[銃殺刑]]に処するシーンを描いている。]]
1914年、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[パブリックスクール]]の{{仮リンク|将校訓練課程|en|Officers' Training Corps}}の年度キャンプが{{仮リンク|ソールズベリー平原|en|Salisbury Plain}}近くのティッドワース・ペンニングス ({{lang|en|Tidworth Pennings}}) で行われた。陸軍総司令官[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー]]が[[士官候補生]]を閲兵する予定だったが開戦により出席できなくなったため代わりに{{仮リンク|ホレス・スミス=ドリアン|en|Horace Smith-Dorrien}}が派遣された。[[バミューダ諸島]]出身の士官候補生ドナルド・クリストファー・スミス ({{lang|en|Donald Christopher Smith}}) の述懐によると、スミス=ドリアンのスピーチは出席した下士官候補生2,000-3,000名を驚かした。
<blockquote>彼は戦争は何としても避けなければならない、戦争は何も解決しない、全ヨーロッパや多くの地域が廃墟に化する、人命の損失が大きすぎて全人類の人口が絶滅する、などと述べた。そのような憂鬱で愛国的でない感情を述べるイギリスの将軍に、私、そして私達の多くが、無知なことに彼を恥じた。しかし、その後の4年間にわたり、私達のうち大虐殺を生き残った者(おそらく4分の1を越えないだろう)は将軍の予想の正しさを知り、彼がそれを述べるのにどれだけの勇気が要るかを知った<ref>''"Merely For the Record": The Memoirs of Donald Christopher Smith 1894-1980''. By Donald Christopher Smith. Edited by John William Cox, Jr. Bermuda.</ref>。</blockquote>
[[画像:1917 - Execution à Verdun lors des mutineries.jpg|thumb|left|兵士1人が処刑される場面。処刑の時期は、1917年にフランス軍で反乱が起こった時に[[ヴェルダン]]で行われたとする説と、1914年/1915年にスパイが処刑されたとする説がある。]]
多くの国は戦争に反対した者を投獄した。例としてはアメリカの[[ユージン・V・デブス]]とイギリスの[[バートランド・ラッセル]]がいる。アメリカでは[[1917年のスパイ活動法|1917年スパイ活動法]]と{{仮リンク|1918年扇動罪法|en|Sedition Act of 1918}}により募兵反対や「愛国的ではない」主張が犯罪であると定められた{{Sfn|Newton-Matza|2017|loc=Timeline}}。政府を批判する出版物は郵便での検閲により流通できないようにされ、多くの人々が愛国的でない主張をした廉で長期間投獄された。
民族主義者の一部は、特にその民族主義者が敵対した国において戦争への介入に反対した。アイルランド人の大半は1914年と1915年時点では参戦に同意したが、少数の[[アイルランド民族主義|アイルランド民族主義者]]は参戦に反対した<ref>{{Cite book |last=Pennell|first=Catriona |title=A Kingdom United: Popular Responses to the Outbreak of the First World War in Britain and Ireland |year=2012 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=978-0-19-959058-2}}</ref>。1912年に{{仮リンク|自治危機|en|Home Rule Crisis|label=アイルランド自治危機}}が再び浮上した後、世界大戦が勃発した1914年7月にはアイルランドがあたかも内戦前夜のようになっていた。アイルランド民族主義者とマルクス主義者はアイルランド独立を求め、1916年に[[イースター蜂起]]を決行した。ドイツはイギリスを不安定にすべくライフル2万丁をアイルランドに送った{{sfn|Tucker|Roberts|2005|p=584}}。イギリスはアイルランドの[[戒厳]]を発令したが、革命の脅威が去ると、イギリスはアイルランド民族主義者に譲歩した<ref>O'Halpin, Eunan, ''The Decline of the Union: British Government in Ireland, 1892-1920''(ダブリン、1987)</ref>。しかし、アイルランドでの反戦世論が高じた結果、{{仮リンク|1918年徴兵危機|en|Conscription Crisis of 1918}}が起こった。
ほかにも[[良心的兵役拒否|良心的兵役拒否者]](社会主義者や信仰を理由に兵役を拒否する者)が戦闘への参加を拒否した。イギリスでは1万6千人が良心的兵役拒否者として扱われることを申請した{{sfn|Lehmann|van der Veer|1999|p=62}}。{{仮リンク|スティーヴン・ホブハウス|en|Stephen Hobhouse}}など一部の平和活動家は兵役と[[代替役]]の両方を拒否した<ref>Brock, Peter, ''These Strange Criminals: An Anthology of Prison Memoirs by Conscientious Objectors to Military Service from the Great War to the Cold War'', p.14, Toronto: University of Toronto Press, 2004, {{ISBN2|0-8020-8707-8}}</ref>。
==== 反乱 ====
1916年夏、[[ロシア帝国]]政府が[[ムスリム]]の兵役免除を廃止したため[[バスマチ蜂起|中央アジア反乱]]が起きた<ref>{{Cite web |url=http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-12499.html |title=Soviet Union - Uzbeks |publisher=Country-data.com |accessdate=2013-03-13}}</ref>。また1917年には一連の[[フランス軍反乱]]が起き、多くの兵士が処刑、投獄などされた。1917年9月、{{仮リンク|フランスにおけるロシア海外派遣軍|en|Russian Expeditionary Force in France}}はフランスのために戦う理由に疑義を呈して反乱した{{sfn|Cockfield|1997|pp=171-237}}。
イタリアでは1917年5月、共産主義者が[[ミラノ]]で暴動を扇動して、終戦を訴えた。共産主義者は工場を操業停止に追い込み、公共交通機関も運休に追い込まれた<ref name="Seton_6">Seton-Watson, Christopher. 1967. ''Italy from Liberalism to Fascism: 1870 to 1925''. London: Methuen & Co. Ltd. p.471</ref>。イタリア軍は戦車や機関銃などの武器を抱えてミラノに入城し、共産主義者と[[アナキズム|無政府主義者]]と対峙した。イタリア軍は5月23日にミラノを支配下に置いたが、イタリア兵3人を含む約50人が死亡、800人以上が逮捕された<ref name="Seton_6"/>。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R72520, Kiel, Novemberrevolution, Matrosenaufstand.jpg|thumb|[[ドイツ革命]]、[[キール (ドイツ)|キール]]、1918年。]]
ドイツ北部では1918年10月末に[[ドイツ革命]]が勃発した。ドイツ海軍の[[水兵]]が、敗北必至の状況下で最後の大規模な戦役への出征を拒否して反乱した。[[軍港]]の[[ヴィルヘルムスハーフェン]]と[[キール (ドイツ)|キール]]で勃発した{{仮リンク|キールの反乱|en|Kiel mutiny|label=水兵反乱}}は数日で全国に飛び火し、1918年11月9日の共和国建国宣言、直後のヴィルヘルム2世退位につながった。
==== 徴兵 ====
[[画像:Young men registering for military conscription, New York City, June 5, 1917.jpg|thumb|徴兵に応じる若者たち、[[ニューヨーク]]市、1917年6月5日。]]
{{Main|{{仮リンク|1917年徴兵危機|en|Conscription Crisis of 1917}}}}
[[徴兵]]は当時ヨーロッパ諸国で行われたが、英語圏では賛否両論だった。特にアイルランドのカトリック信者など少数派の間では不人気だった<ref>Alan J. Ward, "Lloyd George and the 1918 Irish conscription crisis". ''Historical Journal'' (1974) 17#1 pp.107-129.</ref>。
カナダでは徴兵問題が{{仮リンク|1917年徴兵危機|en|Conscription Crisis of 1917}}という大きな政治危機に発展、カナダの英語話者とフランス語話者が仲違いするきっかけとなった。というのも、[[フランス系カナダ人]]がイギリス帝国ではなくカナダという国を愛したのに対し、多数派である英語話者はルーツがイギリス人だったため戦争を義務として扱ったという違いがあった<ref>{{Cite web |url=http://www.cbc.ca/history/EPISCONTENTSE1EP12CH2PA3LE.html |title=The Conscription Crisis |publisher=CBC |year=2001 |accessdate=2018-02-10}}</ref>。
オーストラリアでは首相[[ビリー・ヒューズ]]が徴兵支持運動を組織した結果、[[オーストラリア労働党]]の分裂を招き、ヒューズは1917年に{{仮リンク|民族主義党 (オーストラリア)|en|Nationalist Party (Australia)|label=民族主義党}}を結成して運動を継続した。しかし、農民、[[労働運動]]、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、{{仮リンク|1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票|en|Australian conscription referendum, 1917}}は否決された<ref>J. M. Main, ''Conscription: the Australian debate, 1901-1970'' (1970) [http://espace.library.uq.edu.au/view/UQ:338722 abstract] {{webarchive |url=https://archive.is/20150707113023/http://espace.library.uq.edu.au/view/UQ:338722 |date=2015-07-07}}</ref>。
イギリスでは兵役に適する男子1千万人のうち600万人が招集され、そのうち75万人が戦争で命を落とした。死者の多くが若い未婚者だったが、16万人が妻帯者であり、子女がいる者も多く子供30万人が父を失った{{sfn|Havighurst|1985|p=131}}。第一次世界大戦中の徴兵は{{仮リンク|1916年兵役法|en|Military Service Act 1916}}で始まった。兵役法では聖職者、子供のいる未亡人を除き、18歳から40歳までの独身男性の徴兵を定めた。{{仮リンク|兵役裁判所|en|Military Service Tribunals}}という、健康、[[良心的兵役拒否]]などを理由とした兵役免除申請を審査する制度もあった。1月に成立した兵役法では既婚男性を除外したが、6月にはその条項が撤廃された。年齢の上限も後に51歳に引き上げられた。兵役裁判所の審査も徐々に厳しくなり、1918年には聖職者の徴兵も一定の支持を受けるようになった<ref>Chelmsford, J. E. "Clergy and Man-Power", ''The Times'' 1918年4月15日。p.12.</ref>。徴兵は1919年中まで続いた。また、アイルランドでは政情不安により徴兵が施行されることはなく、徴兵は[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]でのみ行われた。
アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3千人と目標の100万人を大きく下回ったため、政府は徴兵を決定した<ref>Howard Zinn, ''People's History of the United States''. (Harper Collins, 2003): 134</ref>。アメリカの徴兵は1917年に開始され、一部の農村部を除いて受け入れられた<ref>John Whiteclay Chambers, ''To raise an army: The draft comes to modern America'' (1987).</ref>。
オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上が[[スラヴ人]]だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった<ref>{{Cite book |title=Catastrophe: Europe goes to War 1914 |last=Hastings|first=Max |publisher=Collins |year=2013 |isbn=978-0-00-746764-8 |location=London |pages=30, 140}}</ref>。
=== 外交とプロパガンダ ===
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦の外交史|en|Diplomatic history of World War I}}}}
参戦諸国の[[外交]]と[[プロパガンダ]]は自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと(戦況の悪化につき)再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国(イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア)を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族(チェコ人、ポーランド人、アラブ人)運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった<ref>David Stevenson, ''The First World War and International Politics'' (1988).</ref><ref>Z.A.B. Zeman, ''Diplomatic History of the First World War'' (1971)</ref><ref>See * Carnegie Endowment for International Peace. ''Official Statements of War Aims and Peace Proposals: December 1916 to November 1918'', edited by James Brown Scott. (1921) 515pp [https://archive.org/details/cu31924016943106 online free]</ref>。
同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が「ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した」と宣伝した{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が「ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した」に変わった{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して「連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った」と宣伝した{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。
== 研究史 ==
開戦直後から、ドイツ、イギリス、ロシア、フランスといった交戦国の政府は、自国の正当性を主張するためのプロパガンダの一環として、外交資料集を編纂・発表した{{Sfn|木村靖二|2014||pp=22-25}}。こうした流れは、終戦後、大戦開戦の責任はどの国家にあるのかという戦争責任論争につながり、第一次世界大戦の研究の焦点は、まず、開戦直前の外交政策に当てられることとなった{{Sfn|木村靖二|2014|pp=22-25}}。また、1922年以降、交戦国では軍事関係者の手による公式の戦史の刊行も始まった{{Sfn|木村靖二|2014||p=26}}。
1920年代後半には、より長期的なスパンで大戦の原因を探るべきだとする大戦起源論研究が主流となった{{Sfn|木村靖二|2014|pp=25-27}}。大戦起源論研究は、単なる外交史研究にとどまらず、帝国主義政策や軍備拡張競争といった面にも着目したものだった{{Sfn|木村靖二|2014||pp=25-27}}。こうした研究を通して、1930年代後半までに「第一次世界大戦の戦争責任は特定の国家にはない」という定説が形成されるに至った{{Sfn|木村靖二|2014||pp=25-27}}。
しかし、第二次世界大戦後、[[西ドイツ]]の歴史学者[[フリッツ・フィッシャー (歴史学者)|フリッツ・フィッシャー]]は、ドイツ政府関係史料に拠る実証研究をもとに、大戦開戦の責任はドイツにあるとし、再びドイツ単独責任論を唱えた{{Sfn|木村靖二|2014||pp=27-29}}。この説は西ドイツ内の歴史学者からの激しい批判を受けた({{仮リンク|フィッシャー論争|de|Fischer-Kontroverse}})が、最終的には国内を含め欧米の歴史学界で広く支持されるようになった{{Sfn|木村靖二|2014||pp=27-29}}。
1960年代になると、経済史研究や人口統計学のような数量化による研究も行われるようになった{{Sfn|フォルカー・ベルクハーン|2014|pp=12-15}}。そして、第一次世界大戦研究は、大戦の原因をめぐる論争ではなく、大戦期の革命運動や各国の国内事情を主な対象とするようになっていった{{Sfn|木村靖二|2014||pp=29-30}}。アメリカの歴史学者{{仮リンク|ジェラルド・フェルドマン|en|Gerald Feldman}}は、大戦中の国内の権力構造の変化を論じ、ドイツの歴史学者{{仮リンク|ユルゲン・コッカ|en|Jürgen Kocka}}は、[[マックス・ウェーバー]]の理論を応用して大戦研究を行った{{Sfn|フォルカー・ベルクハーン|2014|pp=12-15}}。
こうした研究は、軍の指導者ではなく兵士の動向や銃後の社会に焦点を当てる「下からの」歴史研究につながっていく([[社会史]]){{Sfn|木村靖二|2014|pp=29-30}}{{Sfn|フォルカー・ベルクハーン|2014|pp=12-15}}。さらに90年代以降は、イギリスの歴史学者[[エリック・ホブズボーム]]の提唱した「[[短い20世紀]]」のように、第一次世界大戦を現代の起点であるとし、その意義を強調する議論も盛んとなった{{Sfn|木村靖二|2014|pp=30-31}}。
一方、ドイツ近現代史研究者の[[木村靖二]]によれば、こうした歴史学者による第一次世界大戦の政治史・社会史研究と、軍事史家による伝統的な戦史研究は、いずれも相互の研究成果を十分に取り入れておらず、分断された状況にあり、第一次世界大戦史の総合的な研究を難しくしているという{{Sfn|木村靖二|2014||p=26}}。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 脚注 ===
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== 参考文献 ==
{{Refbegin|2}}
*{{Cite book|last=Ayers|first=Leonard Porter|title=The War with Germany: A Statistical Summary|publisher=Government Printing Office|year=1919|url={{google books|plainurl=y|id=OCLC01187647|page=1111}} |ref=harv}}
*{{Cite book|last=Bade|first=Klaus J|last2=Brown|first2=Allison (tr.)|title=Migration in European History|series=The making of Europe|location=Oxford|publisher=Blackwell|year=2003|isbn=0-631-18939-4|oclc=52695573|ref=harv}}
*{{Cite journal|last=Baker|first=Kevin|url=http://www.harpers.org/StabbedInTheBack.html|title=Stabbed in the Back! The past and future of a right-wing myth|periodical=Harper's Magazine|date=2006-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060715174503/http://www.harpers.org/StabbedInTheBack.html|archivedate=2006-07-15|url-status=dead|ref=harv}}
*{{Cite book|last=Ball|first=Alan M|title=And Now My Soul Is Hardened: Abandoned Children in Soviet Russia, 1918-1930|location=Berkeley|publisher=University of California Press|year=1996|isbn=978-0-520-20694-6|ref=harv}}
*{{Cite book|last=Bass|first=Gary Jonathan|title=Stay the Hand of Vengeance: The Politics of War Crimes Tribunals|publisher=Princeton University Press|location=Princeton, New Jersey|year=2002|isbn=0-691-09278-8|oclc=248021790|ref=harv}}
*{{Cite book|last1=Becker|first1=Jean-Jacques|last2=Krumeich|first2=Gerd|title=Der große Krieg. Deutschland und Frankreich 1914-1918|publisher=Klartext-Verlag|location=Essen|year=2010|isbn=978-3-8375-0171-1|language=de}}
*{{Cite book|last=Bihl|first=Wolfdieter|title=Der Erste Weltkrieg 1914-1918: Chronik - Daten - Fakten |publisher=Böhlau|location=Vienna|year=2010|isbn=978-3-205-78379-4 |language=de}}
*{{Cite book|last=Braybon|first=Gail|title=Evidence, History, and the Great War: Historians and the Impact of 1914-18|url={{google books|plainurl=y|id=hFqZcQmlOBsC|page=8}}|year=2004|publisher=Berghahn Books|page=8 |isbn=978-1-57181-801-0|ref=harv}}
*{{Cite book|last=Chickering|first=Rodger|title=Imperial Germany and the Great War, 1914-1918|location=Cambridge|publisher=Cambridge University Press|year=2004|isbn=0-521-83908-4|oclc=55523473|ref=harv}}
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:和訳:『夢遊病者たち』全2巻、小原淳・訳、みすず書房、2017年。
*{{Cite book|last=Cockfield|first=Jamie H|year=1997|title=With snow on their boots : The tragic odyssey of the Russian Expeditionary Force in France during World War I|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=0-312-22082-0|ref=harv}}
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*Erdmann, Karl Dietrich (Hrsg.). ''Kurt Riezler. Tagebücher-Aufsätze-Dokumente. Eingeleitet und herausgegeben von Karl Dietrich Erdmann.'' Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, ISBN 3-525-35817-2. (Wichtiges Quellenwerk, Riezler war Mitarbeiter und Vertrauter von Reichskanzler Bethmann Hollweg.)
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*[[ピエール・ルヌーヴァン]](西海太郎編訳)『ドイツ軍敗れたり』(白水社、1987年)ISBN 4-560-02946-6
*[[江口朴郎]]『帝国主義の時代』(岩波書店、1969年)
*[[片岡覚太郎]]、[[C・W・ニコル]]『日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(河出書房新社、2001年)ISBN 4-309-22372-9
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*{{Cite book|和書|author=木村靖二|authorlink=木村靖二|title=第一次世界大戦|publisher=筑摩書房||year=2014|isbn=978-4480067869|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=久保昭博|authorlink=久保昭博|title=表象の傷 第一次世界大戦からみるフランス文学史|publisher=人文書院|year=2011|isbn=978-4409511152|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=[[古賀保夫]]|year=1974|journal=[[中京大学]]教養論叢|volume=15|issue=1|title=レマルク「西部戦線異状なし」と戦争文学|url=http://id.nii.ac.jp/1217/00011647/|ref=harv}}
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*[[室潔]]『ドイツ軍部の政治史 1914~1933』(早稲田大学出版部、1989年)ISBN 4-657-89030-1
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*[[義井博]]『カイザーの世界政策と第一次世界大戦』(清水書院、1984年)ISBN 4-389-44048-9
*[[歴史群像]]編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・上 1914-16 開戦と塹壕戦』(学習研究社、2008年)ISBN 978-4-05-605023-3
*歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』(学習研究社、2008年)ISBN 978-4-05-605051-6
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== 関連図書 ==
*{{Cite book|和書|title=総力戦とデモクラシー|author=小林啓治|publisher=吉川弘文館|series=戦争の日本史 21|year=2008|isbn=978-4-642-06331-9}}
*{{Cite book|和書|author=加藤陽子|authorlink=加藤陽子|title=それでも、日本人は「戦争」を選んだ|date=2009-07|publisher=[[朝日出版社]] |isbn = 978-4255004853}}
*{{Cite book|和書|title=第一次世界大戦|author=ジャン=ジャック・ベッケー|translator=幸田礼雅|publisher=白水社 <クセジュ文庫>|year=2015|isbn=978-4-560-51001-8|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=日英同盟|author=平間洋一|publisher=角川書店 <角川ソフィア文庫>|year=2015|isbn=978-4-04-409223-8}}
*{{Cite book|和書|title=第一次世界大戦史|author=飯倉章|publisher=中央公論新社 <中公新書>|year=2016|isbn=978-4-12-102368-1}}
*{{Cite book|和書|title=1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか|author=飯倉章|publisher=文藝春秋 <文春新書>|year=2017|isbn=978-4-16-661149-2}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|World War I|World War I}}
* [[第一次世界大戦の犠牲者]]
* [[第一次世界大戦下の日本]]
** [[大戦景気 (日本)|日本の大戦景気]]
* [[戦間期]]
* [[第二次世界大戦]]
* [[ロシア内戦]]
* [[シベリア出兵]]
* [[ウクライナ・ソビエト戦争]]
* [[ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)]]
* [[ポーランド・ソビエト戦争]]
* [[ハンガリー・ルーマニア戦争]]
* [[希土戦争 (1919年-1922年)]]
* [[トレンチコート]]
* [[:Category:第一次世界大戦期の政治家]]
* [[:Category:第一次世界大戦期の軍人]]
* [[第一次世界大戦を題材とした作品一覧]]
*[[第一次世界大戦下の宣戦布告]]
== 外部リンク ==
* [http://www.1914-1918-online.net/ 1914-1918-online International Encyclopedia of the First World War]{{en icon}}
* {{Kotobank}}
* {{NHK for School clip|D0005403082_00000|第一次世界大戦}}
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[[Category:第一次世界大戦|*]]
[[Category:ロシア・オスマン帝国間の戦争]]
[[Category:パリ講和会議]] | 2003-03-27T16:44:12Z | 2023-12-16T02:07:33Z | false | false | false | [
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[安永]]2年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]] - 安永3年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]
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* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1187年 - 1188年
* [[ユダヤ暦]] : 5534年 - 5535年
* [[ユリウス暦]] : 1773年12月21日 - 1774年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1774}}
== できごと ==
* [[8月1日]] - イギリスの科学者、[[ジョゼフ・プリーストリー]]が[[酸素]]を発見。
* [[10月5日]]-[[11月10日]] - イギリスで[[1774年イギリス総選挙|総選挙]]。
* [[杉田玄白]]・[[前野良沢]]ら、[[解体新書]]を出版。
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]にて[[第1回大陸会議]]
* [[フランス]]にて[[テュルゴー]]、[[財務総監]]となる(-[[1776年]])
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、『[[若きウェルテルの悩み]]』刊行。
* 露土間で[[キュチュク・カイナルジャ条約]]締結。
* 初代[[ベンガル地方|ベンガル]]総督[[ウォーレン・ヘースティングズ|ヘースティングズ]]就任(-[[1785年]])
*7月、日本の[[中国地方|中国]]から[[近畿]]・[[関東]]にかけての各地が[[暴風雨]]に襲われ、[[大阪]]では[[高潮]]が発生<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=24}}</ref>。死者1,200人。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1774年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]]([[安永]]2年[[11月25日 (旧暦)|11月15日]]) - [[銭屋五兵衛]]、[[加賀藩]]の[[御用商人]]として知られた人物(+ [[1852年]])
* [[1月17日]](安永2年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[島津斉宣]]、[[薩摩藩|薩摩藩主]](+ [[1841年]])
* [[2月6日]] - [[ピエール・ロード]]、[[作曲家]](+ [[1830年]])
* [[3月16日]] - [[マシュー・フリンダース]]、[[探検家]](+ [[1814年]])
* [[3月29日]](安永3年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[藤田幽谷]]、[[儒学者]]・水戸学者(+ [[1826年]])
* [[4月17日]] - [[ヤン・ヴァーツラフ・トマーシェク]]、作曲家(+ [[1850年]])
* [[4月21日]] - [[ジャン=バティスト・ビオ]]、[[物理学者]]・[[数学者]](+ [[1862年]])
* [[4月24日]] - [[ジャン・イタール]]、[[医師]](+ [[1838年]])
* [[4月28日]] - [[フランシス・ベイリー]]、[[天文学者]](+ [[1844年]])
* [[6月21日]] - [[ダニエル・トンプキンズ]]、第6代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1825年]])
* [[7月20日]] - [[オーギュスト・マルモン]]、[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス]]軍人(+ [[1852年]])
* [[8月18日]] - [[メリウェザー・ルイス]]、[[探検家]](+ [[1809年]])
* [[9月5日]] - [[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]、[[画家]](+ [[1840年]])
* [[11月14日]] - [[ガスパーレ・スポンティーニ]]、作曲家(+ [[1851年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月4日]] - [[シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ]]、[[地理学者]]・[[数学者]](* [[1701年]])
* [[4月28日]]([[安永]]3年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[建部綾足]]、[[俳人]]・[[国学者]]・[[南画|南画家]](* [[1719年]])
* [[5月10日]] - [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]、[[フランス王国|フランス]]王(* [[1710年]])
* [[8月25日]] - [[ニコロ・ヨンメッリ]]、[[作曲家]](* [[1714年]])
* [[9月4日]](安永3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[冷泉為村]]、[[江戸時代]]の[[公卿]]・[[歌人]](* [[1712年]])
* [[9月22日]] - [[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1705年]])
* [[10月12日]](安永3年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[徳川治察]]、第2代[[田安徳川家]]当主(* [[1753年]])
* [[11月22日]] - [[ロバート・クライヴ]]、[[ベンガル地方|ベンガル]]州知事を務めた[[イギリス]]の軍人・政治家(* [[1725年]])
* [[12月16日]] - [[フランソワ・ケネー]]、[[経済学者]](* [[1694年]])
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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5,334 | ヨーダ | ヨーダ(Yoda)は、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物(クリーチャー)である。性別は男性。
生ける伝説と称されるジェダイ・マスター。ダース・ベイダーやR2-D2と並ぶ『スター・ウォーズ』のシンボル的キャラクターである。
「マスター・オブ・ジ・オーダー(ジェダイ評議会の長)」とジェダイ・オーダーの指導者である「グランド・マスター」を兼任しており、その権威の前では同じ「マスター・オブ・ジ・オーダー」であったジェダイ・マスターのメイス・ウィンドゥでさえヨーダに意見を伺う一評議員の立場に過ぎなかった。
身長は66cmで短い白髪と皺とを蓄えた緑色の肌に質素な衣服と杖を持った小柄な老人の姿をしている。銀河系最高の剣士として知られ、とりわけ脚力は格段に発達しており戦闘に於いてはライトセーバーを手に縦横無尽に跳ね回る体術(フォームIV「アタール/アタロ(Ataru)」)を駆使する。その実力はジェダイの中でも屈指のものであり、卓越したライトセーバーの技術とその強力なフォースにより史上最強と讃えられかつての弟子であるドゥークー伯爵や宿敵ダース・シディアスら強大なシスとも互角以上に戦う上に彼らを逃げ腰にさせる程である。このフォースを操る術は晩年になっても殆ど衰えず、大型の戦闘機を持ち上げて動かしてもいる。
種族に関しては『エピソード1』でジェダイ評議員の一人として登場していたヤドルという女性のジェダイ・マスターと、ドラマ『マンダロリアン』に登場するグローグー(ザ・チャイルド)がヨーダと同じ種族である事しか知られておらず彼らの出身地及び種族名は今の所公式には明かされていない。
劇中では高齢により衰えた体力をカバーする為にフォースを自らに対して用いることでアクロバティックな動作を可能としている。また体が非常に小さい為ライトセーバーも小型サイズである。ライトセーバーの色は緑。
ただしヨーダ級のジェダイ・マスターは最早ライトセーバーを使わずとも十分に戦闘可能であるといわれている。実際ドゥークー伯爵との決闘の時ヨーダは約数十年振りにライトセーバーを握ったとされている。
およそ9世紀にも亘る永い生涯の内約800年以上をフォースの導き手として後進の育成に努め、主に年少のパダワン(弟子)の指導に携わっていた。更にジェダイ評議会の最長老として誰よりも深い洞察力を以て多くのジェダイ達をあるべき方向へと導いた。
主な弟子にルーク・スカイウォーカー、ドゥークー伯爵(ダース・ティラナス)、キ=アディ=ムンディらがいる他、ジェダイ候補生達がパダワンになる前の幼年クラスを教えており全てのジェダイの師とも言える。このため劇中でも二人称として「我が弟子」を使うほか、オビ=ワン・ケノービは直接の師弟関係は無いものの実質的には直弟子同様の扱いを受けている。
銀河共和国末期、古の予言にある「選ばれし者」の可能性を秘めた少年アナキン・スカイウォーカーと初めて対面した時ヨーダはこの少年がジェダイの修行を始めるには余りにも年を取り過ぎているという判断を下す。ヨーダにはアナキンの曇った未来が十分に予見出来ず、彼を訓練するには大変大きな危険が伴うと判断したのである。しかしナブーの戦いに於けるアナキンの活躍を知った評議会は後に彼の訓練に賛成し、ヨーダも他の評議員の総意に押されて止む無く以前の判断を撤回した。結果としてこの判断は銀河の歴史を闇が覆い尽す暗黒の時代へと変えてしまうこととなった。
銀河の平和と秩序の維持に生涯の殆どを捧げたヨーダだったが、彼を以てさえしてもシスの暗黒卿ダース・シディアス(パルパティーン元老院最高議長)の野望を阻止することは出来なかった。パルパティーンの正体がシスであることさえ完全には見抜けなかったのである。ダース・ベイダーとなったアナキン・スカイウォーカーとシディアスの発したオーダー66によるクローン・トルーパーの反乱によって多くのジェダイが非業の死を遂げる中、フォースの察知力とチューバッカらの助けによって難を逃れたヨーダは銀河皇帝となったシディアスに一騎討ちを挑む。一進一退の激しい攻防が続くが次第に地の利を無くし勝ち目が無いと悟ったヨーダはベイル・プレスター・オーガナの助けで辛くも逃げ延びる。その後銀河帝国によるジェダイ狩りから逃れる為に薄暗い未開のジャングルの広がる惑星ダゴバの湿地帯で隠遁生活を送ることを決めた。やがて銀河帝国に反旗を翻すべき時が訪れるまで僅かに生き残ったジェダイ達はその時代の到来を待つこととなる。またその間にヨーダとオビ=ワンは既にこの世を去っていたクワイ=ガン・ジンから新たなフォースの術を学ぶのであった。『エピソード3』のラストシーンではヨーダはクワイ=ガン・ジンと交信しており、小説版では「君のアプレンティス(弟子)になる」という台詞がある。
その後は長く孤独な隠遁生活が続くことになるが、帝国誕生の22年後アナキンの才能を受け継いだ息子・ルークが遙々ヨーダを訪ねて来た。ヨーダはアナキンに対してのアドバイスが失敗したことで現在の状況を作ってしまった過去と、その息子であるルークも同じ性情を持っていたことから弟子にすることに消極的であり、簡単に弟子にしようとは思わなかった。オビ=ワンの助言で生涯の最後の務めとしてルークをジェダイとして鍛えることを決意するもののルークはあまり彼の助言を聞こうとはせず、それどころか危機に陥る仲間を助けようとしてヨーダの制止も聞かずに修行を中断して飛び出してしまう。しかし失敗を乗り越えて心を入れ替えたルークは自分を戒めて逞しく成長し、ヨーダも教えることは何もないと認めるほどとなった。重い病によって衰弱し切ったヨーダは一年ぶりに訪れたルークに全ての事実を打ち明けると自ら肉体を消滅させ、静かに900年の永い生涯を終えた。
旧ジェダイ・オーダーの時代には一貫して荘厳にして厳格であったのに対し、隠棲の後の彼は長い孤独や自責の念からか幾分角の取れた性格になっている。それ故にジェダイの素質の一つである忍耐力を見極めるために自らルークを試した際には終始滑稽な道化を演じ切って見せるなどオーダー時代には見せなかった意外な一面も見せている。晩年には咳き込む場面が増え、自身も悟っていた通りに病で没するも死してなお霊体となりルークを後押しし続けた。
やがてエンドアの戦いでルークはベイダーに打ち勝ち、父を改心させることに成功する。善の心を取り戻したアナキンは遂にパルパティーンを滅ぼし、ここに「選ばれし者」の予言を成就させた。この戦いの祝賀会の最中ルークは自分を見守るヨーダとオビ=ワン、そしてアナキンの霊体を垣間見るのであった。
エンドアの戦いの30年後、ファースト・オーダーとレジスタンスによる戦いが激化する中でヨーダは惑星オク=トーに隠遁していたルークの元に霊体として再び現れる。ルークは過去のベン・ソロに対する失敗がきっかけで周囲から距離を置いていたがヨーダは失敗から立ち直り、それも含めた自らの経験を弟子に伝えるよう促した。このやり取りがルークの心を動かし、レジスタンスやレイへの手助けに繋がることとなる。
ヨーダのモデルについてはデザインをしたスチュアート・フリーボーンが自分自身を基にして目をアルベルト・アインシュタインとミックスしたとDVD-BOX「STAR WARS TRILOGY」の特典ディスクで証言している。
また、黒澤明監督の代表作「姿三四郎」のさいづち和尚とよく似た部分が多いこともよく指摘されている。
瀬戸川猛資は著書『夢想の研究―活字と映像の想像力』の中でヨーダのイメージには老子が元にあり、またアメリカで公開された映画『宮本武蔵』の沢庵も影響している可能性があると指摘した。
名前の由来に関しては諸説あるが、明確な答えは公式には提示されていない。
溝口健二監督の中期から後期の脚本を手がけた大阪芸術大学元映像学科長の依田義賢であるという説は有名である。論拠としては、ルーカスが溝口健二監督のファンであり、ルーカスからヨーダのぬいぐるみが依田義賢に届けられたという話があること、ルーカスは「あなたの耳は面白い形をしている」と依田教授に言ったこと、取材時に「ヨーダのモデルはあなたですか?」の問いに依田教授が笑って答えを返さなかったこと、などが挙げられている。
イギリスの映画評論家トニー・レインズは「日本の脚本家・依田義賢が、ヨーダのモデルである」と発言している。レインズは、「依田がサンフランシスコのフィルムアーカイブで講演した際、フランシス・F・コッポラが聴講したのち、依田をルーカスに紹介したのが、依田とルーカスとの出会いである」としている。この件に関しては、ルーカスも認めているとレインズは語っている。つまりこの講演会がルーカスと依田を結び付けたという。この講演会については、依田の実の息子であり現大阪芸術大学芸術学部教養課程主任教授である依田義右も、その事実を認めている。
なお、ルーカス本人は1999年6月2日の来日時の記者会見で糸井重里の発した「ヨーダの元は依田さんですか?」との質問に対して「NO」と明確に否定している。
また、ヨダ(Yoda)という姓の日本人女性が「ヨーダ」と間違われ、実名が原則のSNSサイト「Facebook」の登録を拒否されたという事例が発生している。
『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』の製作は、1979年より始まっていたが、スチュアート・フリーボーンによるデザインのみが決まっていたヨーダを現実化する方策を、ルーカス・フィルムは持っていなかった。この問題の解決にあたったのが、製作者ゲイリー・カーツだが、彼はマペット映画で知られるジム・ヘンソンのもとを訪ね、ヘンソン社の協力を取り付けた。
ジム・ヘンソンは当時、『セサミストリート』、『マペットショー』などのテレビ番組制作に並行して、マペットを使用した本格的なファンタジー映画の製作を準備中で、この製作チームの中から、フランク・オズやウェンディ・ミッドナー、キャスリン・ミュレンを始めとする人形製作チームがルーカス・フィルムの撮影現場に加わり、ヨーダのキャラクターを実現することとなった。ヨーダはラテックスの皮膚を持つリアルな人形キャラクターの原型となったが、これらヘンソン社の造形・操演チームの努力は後に映画『ダーククリスタル』として、結実することとなる。
なおヨーダの声の担当として、多くの候補がオーディションを受けたが、最終的にヨーダを操演した本人であるフランク・オズが担当することとなったことについて、「極めて個性的な声ながら、彼以上にヨーダの本質を捉えている人はいなかった」とゲイリー・カーツが語っている。日本語吹き替えは『エピソード1~3』では永井一郎が演じているが、『エピソード4 - 6』は度々キャストが変更されている。オリジナル劇場公開時(『エピソード5』のみ)こそ、『エピソード1 - 3』と同じ永井の吹き替えであったが、現在発売されているDVDでは辻村真人へと変更されている。
CGキャラクターが跋扈した『エピソード1』でも一部を除いてパペットで演じられたが(パペットは一度リテイクされ、NG版はヤドルに流用されている)、『エピソード2』、『3』では遂にヨーダもフルCG化され、半透明の材質を表現する新技術「サブサーフェイス・スキャタリング」によりリアルな肌の表現がなされた。特に『エピソード2』終盤の、従来のヨーダの印象を完全に覆したダイナミックなライトセーバー戦はCGならではの物であった。一方、ライトセーバー戦の相手にとっては難しい演技を要求されるようになったらしく、『エピソード3』でヨーダと対決したパルパティーン役のイアン・マクダーミドは「相手が見えないので非常に難しかった」と語っている。なお『エピソード2』ラスト近くでヨーダがクローン戦争の始まりを告げるシーンは、ヨーダの表情になかなかルーカスのOKが出ず、ILMのCGスタッフの間では担当者がなかなか家に帰れないということで「家庭不和製造ショット」と呼ばれていた。2011年に発売されたブルーレイ版では、『エピソード1』のヨーダも全てCGに置き換えられている。
『エピソード8/最後のジェダイ』では、『エピソード5』当時の型を用いて再びパペットが製作され、同作に登場している。
バンダイナムコゲームスから発売された対戦型格闘ゲーム『ソウルキャリバーIV』に操作キャラクターとしてヨーダとダース・ベイダーが特別出演している。デフォルト状態ではヨーダはXbox 360版、ダース・ベイダーはプレイステーション3版のみでしか使用できないが、ダウンロード販売でキャラクターを追加購入することで直接対決が可能となる。
エレクトロニック・アーツから2017年に発売されたアクションシューティングゲーム「Star Wars BATTLE FRONT 2」では銀河共和国のヒーローキャラクターとして使用可能である。
スター・ウォーズのヒットと共にヨーダも人気キャラクターとなったため、アメリカでは指導的な立場にある人格的に優れた高齢者が「ヨーダ」の渾名で呼ばれることがある。
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] | ヨーダ(Yoda)は、アメリカ合衆国のSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物(クリーチャー)である。性別は男性。 | {{Infobox スターウォーズ登場人物
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}}
'''ヨーダ'''('''Yoda''')は、[[アメリカ合衆国]]の[[SF映画]][[スター・ウォーズシリーズ|『スター・ウォーズ』シリーズ]]に登場する[[架空]]の人物([[クリーチャー]])である。性別は男性。
== 概要 ==
生ける伝説と称される[[ジェダイ|ジェダイ・マスター]]。[[ダース・ベイダー]]や[[R2-D2]]と並ぶ『[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]』のシンボル的キャラクターである。
「マスター・オブ・ジ・オーダー(ジェダイ評議会の長)」と[[ジェダイ#旧共和国時代|ジェダイ・オーダー]]の指導者である「[[グランドマスター (騎士団)|グランド・マスター]]」を兼任しており、その権威の前では同じ「マスター・オブ・ジ・オーダー」であったジェダイ・マスターの[[メイス・ウィンドゥ]]でさえヨーダに意見を伺う一評議員の立場に過ぎなかった<ref>2015年9月4日発行『Star Wars: Absolutely Everything You Need to Know』</ref>。
身長は66cmで短い白髪と皺とを蓄えた緑色の肌に質素な衣服と杖を持った小柄な老人の姿をしている。銀河系最高の剣士として知られ、とりわけ脚力は格段に発達しており戦闘に於いては[[ライトセーバー]]を手に縦横無尽に跳ね回る体術(フォームIV「アタール/アタロ(Ataru)」)を駆使する。その実力はジェダイの中でも屈指のものであり、卓越したライトセーバーの技術とその強力な[[フォース (スター・ウォーズ)|フォース]]により史上最強と讃えられかつての弟子である[[ドゥークー伯爵]]や宿敵[[ダース・シディアス]]ら強大なシスとも互角以上に戦う上に彼らを逃げ腰にさせる程である。このフォースを操る術は晩年になっても殆ど衰えず、大型の戦闘機を持ち上げて動かしてもいる。
種族に関しては『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|エピソード1]]』でジェダイ評議員の一人として登場していた[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ヤドル|ヤドル]]という女性のジェダイ・マスターと、ドラマ『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』に登場するグローグー(ザ・チャイルド)がヨーダと同じ種族である事しか知られておらず彼らの出身地及び種族名は今の所公式には明かされていない。
劇中では高齢により衰えた体力をカバーする為にフォースを自らに対して用いることでアクロバティックな動作を可能としている。また体が非常に小さい為ライトセーバーも小型サイズである。ライトセーバーの色は緑。
ただしヨーダ級のジェダイ・マスターは最早ライトセーバーを使わずとも十分に戦闘可能であるといわれている。実際ドゥークー伯爵との決闘の時ヨーダは約数十年振りにライトセーバーを握ったとされている。
およそ9世紀にも亘る永い生涯の内約800年以上をフォースの導き手として後進の育成に努め、主に年少のパダワン(弟子)の指導に携わっていた。更にジェダイ評議会の最長老として誰よりも深い洞察力を以て多くのジェダイ達をあるべき方向へと導いた。
主な弟子に[[ルーク・スカイウォーカー]]、ドゥークー伯爵(ダース・ティラナス)、[[スター・ウォーズ登場人物一覧#キ=アディ=ムンディ|キ=アディ=ムンディ]]らがいる他、ジェダイ候補生達がパダワンになる前の幼年クラスを教えており全てのジェダイの師とも言える。このため劇中でも二人称として「我が弟子」を使うほか、[[オビ=ワン・ケノービ]]は直接の師弟関係は無いものの実質的には直弟子同様の扱いを受けている。
[[銀河共和国]]末期、古の予言にある「選ばれし者」の可能性を秘めた少年[[アナキン・スカイウォーカー]]と初めて対面した時ヨーダはこの少年がジェダイの修行を始めるには余りにも年を取り過ぎているという判断を下す。ヨーダにはアナキンの曇った未来が十分に予見出来ず、彼を訓練するには大変大きな危険が伴うと判断したのである。しかし[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#ナブーの戦い|ナブーの戦い]]に於けるアナキンの活躍を知った評議会は後に彼の訓練に賛成し、ヨーダも他の評議員の総意に押されて止む無く以前の判断を撤回した。結果としてこの判断は銀河の歴史を闇が覆い尽す暗黒の時代へと変えてしまうこととなった。
銀河の平和と秩序の維持に生涯の殆どを捧げたヨーダだったが、彼を以てさえしても[[シス (スター・ウォーズ)|シスの暗黒卿]]ダース・シディアス(パルパティーン元老院最高議長)の野望を阻止することは出来なかった。パルパティーンの正体がシスであることさえ完全には見抜けなかったのである。[[ダース・ベイダー]]となったアナキン・スカイウォーカーとシディアスの発したオーダー66による[[クローン・トルーパー]]の反乱によって多くのジェダイが非業の死を遂げる中、フォースの察知力と[[チューバッカ]]らの助けによって難を逃れたヨーダは銀河皇帝となったシディアスに[[一騎討ち]]を挑む。一進一退の激しい攻防が続くが次第に地の利を無くし勝ち目が無いと悟ったヨーダは[[スター・ウォーズ登場人物一覧#ベイル・オーガナ|ベイル・プレスター・オーガナ]]の助けで辛くも逃げ延びる。その後[[銀河帝国 (スター・ウォーズ)|銀河帝国]]によるジェダイ狩りから逃れる為に薄暗い未開のジャングルの広がる惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧#ダゴバ|ダゴバ]]の湿地帯で隠遁生活を送ることを決めた。やがて[[銀河帝国 (スター・ウォーズ)|銀河帝国]]に反旗を翻すべき時が訪れるまで僅かに生き残ったジェダイ達はその時代の到来を待つこととなる。またその間にヨーダとオビ=ワンは既にこの世を去っていた[[クワイ=ガン・ジン]]から新たなフォースの術を学ぶのであった。『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|エピソード3]]』のラストシーンではヨーダはクワイ=ガン・ジンと交信しており、小説版では「君のアプレンティス(弟子)になる」という台詞がある。
その後は長く孤独な隠遁生活が続くことになるが、帝国誕生の22年後アナキンの才能を受け継いだ息子・ルークが遙々ヨーダを訪ねて来た。ヨーダはアナキンに対してのアドバイスが失敗したことで現在の状況を作ってしまった過去と、その息子であるルークも同じ性情を持っていたことから弟子にすることに消極的であり、簡単に弟子にしようとは思わなかった。オビ=ワンの助言で生涯の最後の務めとしてルークをジェダイとして鍛えることを決意するもののルークはあまり彼の助言を聞こうとはせず、それどころか危機に陥る仲間を助けようとしてヨーダの制止も聞かずに修行を中断して飛び出してしまう。しかし失敗を乗り越えて心を入れ替えたルークは自分を戒めて逞しく成長し、ヨーダも教えることは何もないと認めるほどとなった。重い病によって衰弱し切ったヨーダは一年ぶりに訪れたルークに全ての事実を打ち明けると自ら肉体を消滅させ、静かに900年の永い生涯を終えた。
旧ジェダイ・オーダーの時代には一貫して荘厳にして厳格であったのに対し、隠棲の後の彼は長い孤独や自責の念からか幾分角の取れた性格になっている。それ故にジェダイの素質の一つである忍耐力を見極めるために自らルークを試した際には終始滑稽な道化を演じ切って見せるなどオーダー時代には見せなかった意外な一面も見せている。晩年には咳き込む場面が増え、自身も悟っていた通りに病で没するも死してなお霊体となりルークを後押しし続けた。
やがて[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧#エンドアの戦い|エンドアの戦い]]でルークはベイダーに打ち勝ち、父を改心させることに成功する。善の心を取り戻したアナキンは遂にパルパティーンを滅ぼし、ここに「選ばれし者」の予言を成就させた。この戦いの祝賀会の最中ルークは自分を見守るヨーダとオビ=ワン、そしてアナキンの霊体を垣間見るのであった。
エンドアの戦いの30年後、[[ファースト・オーダー]]とレジスタンスによる戦いが激化する中でヨーダは惑星オク=トーに隠遁していたルークの元に霊体として再び現れる。ルークは過去の[[カイロ・レン|ベン・ソロ]]に対する失敗がきっかけで周囲から距離を置いていたがヨーダは失敗から立ち直り、それも含めた自らの経験を弟子に伝えるよう促した。このやり取りがルークの心を動かし、レジスタンスや[[レイ (スター・ウォーズ)|レイ]]への手助けに繋がることとなる。
== ヨーダのモデル ==
ヨーダのモデルについてはデザインをした[[スチュアート・フリーボーン]]が自分自身を基にして目を[[アルベルト・アインシュタイン]]とミックスしたとDVD-BOX「STAR WARS TRILOGY」の特典ディスクで証言している。
また、[[黒澤明]]監督の代表作「[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]]」のさいづち和尚とよく似た部分が多いこともよく指摘されている<ref>[[内田樹]]著 「下流志向」</ref>。
[[瀬戸川猛資]]は著書『夢想の研究―活字と映像の想像力』の中でヨーダのイメージには[[老子]]が元にあり、またアメリカで公開された映画『[[宮本武蔵_(1954年の映画)|宮本武蔵]]』の[[沢庵宗彭|沢庵]]も影響している可能性があると指摘した。
=== 名前とモデル説 ===
名前の由来に関しては諸説あるが、明確な答えは公式には提示されていない。
[[溝口健二]]監督の中期から後期の脚本を手がけた[[大阪芸術大学]]元映像学科長の[[依田義賢]]であるという説は有名である。論拠としては、ルーカスが溝口健二監督のファンであり、ルーカスからヨーダのぬいぐるみが依田義賢に届けられたという話があること、ルーカスは「あなたの耳は面白い形をしている」と依田教授に言ったこと、取材時に「ヨーダのモデルはあなたですか?」の問いに依田教授が笑って答えを返さなかったこと、などが挙げられている<ref>『スター・ウォーズ完全基礎講座』[[扶桑社]]、1999年、pp.158-163。宮川昌己執筆「ヨーダについて知っている二、三の事柄」。</ref>。
イギリスの映画評論家トニー・レインズは「日本の脚本家・依田義賢が、ヨーダのモデルである」と発言している。レインズは、「依田が[[サンフランシスコ]]のフィルムアーカイブで講演した際、[[フランシス・フォード・コッポラ|フランシス・F・コッポラ]]が聴講したのち、依田をルーカスに紹介したのが、依田とルーカスとの出会いである」としている。この件に関しては、ルーカスも認めているとレインズは語っている。つまりこの講演会がルーカスと依田を結び付けたという。この講演会については、依田の実の息子であり現大阪芸術大学芸術学部教養課程主任教授である[[依田義右]]も、その事実を認めている<ref>轟夕起夫「ヨーダとは何者か? 『悪名』サーガ考」『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』[[河出書房新社]]、2002年、pp.47-49.</ref>。
なお、ルーカス本人は[[1999年]][[6月2日]]の来日時の記者会見で[[糸井重里]]の発した「ヨーダの元は依田さんですか?」との質問に対して「NO」と明確に否定している<ref>「GEORGE LUCAS 来日記者会見 '99.06.02/東京・新宿」『GaZO』VOL.4、[[徳間書店]]、1999年、p.93</ref>。
また、ヨダ(Yoda)という姓の日本人女性が「ヨーダ」と間違われ、実名が原則の[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]サイト「[[Facebook]]」の登録を拒否されたという事例が発生している<ref>{{Cite news|author=Matthew Moore|date=2008-08-27|url=http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/howaboutthat/2632170/Woman-called-Yoda-blocked-from-Facebook.html|title=Woman called Yoda blocked from Facebook|newspaper=Telegraph|accessdate=2010-12-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080829144134/https://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/howaboutthat/2632170/Woman-called-Yoda-blocked-from-Facebook.html|archivedate=2008-08-29}}</ref>。
== キャラクター制作 ==
『[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲]]』の製作は、[[1979年]]より始まっていたが、スチュアート・フリーボーンによるデザインのみが決まっていたヨーダを現実化する方策を、ルーカス・フィルムは持っていなかった。この問題の解決にあたったのが、製作者[[ゲイリー・カーツ]]だが、彼はマペット映画で知られる[[ジム・ヘンソン]]のもとを訪ね、ヘンソン社の協力を取り付けた。
ジム・ヘンソンは当時、『[[セサミストリート]]』、『[[マペットショー]]』などのテレビ番組制作に並行して、マペットを使用した本格的なファンタジー映画の製作を準備中で、この製作チームの中から、[[フランク・オズ]]やウェンディ・ミッドナー、キャスリン・ミュレンを始めとする人形製作チームがルーカス・フィルムの撮影現場に加わり、ヨーダのキャラクターを実現することとなった。ヨーダはラテックスの皮膚を持つリアルな人形キャラクターの原型となったが、これらヘンソン社の造形・操演チームの努力は後に映画『[[ダーククリスタル]]』として、結実することとなる。
なおヨーダの声の担当として、多くの候補がオーディションを受けたが、最終的にヨーダを操演した本人であるフランク・オズが担当することとなったことについて、「極めて個性的な声ながら、彼以上にヨーダの本質を捉えている人はいなかった」とゲイリー・カーツが語っている。日本語吹き替えは『エピソード1~3』では[[永井一郎]]が演じているが、『エピソード4 - 6』は度々キャストが変更されている。オリジナル劇場公開時(『エピソード5』のみ)こそ、『エピソード1 - 3』と同じ永井の吹き替えであったが、現在発売されているDVDでは[[辻村真人]]へと変更されている。
[[コンピュータグラフィックス|CG]]キャラクターが跋扈した『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|エピソード1]]』でも一部を除いてパペットで演じられたが(パペットは一度リテイクされ、NG版は[[ヤドル]]に流用されている)<ref>『エピソード1』でアナキン・スカイウォーカーの受け入れをめぐってオビ=ワンと会話するシーンでCGが使用されているが、これはシリコン製のヨーダのパペットが歩けなかったためである。扶桑社『スター・ウォーズ完全基礎講座 エピソード1篇』52頁。</ref>、『エピソード2』、『3』では遂にヨーダもフルCG化され、半透明の材質を表現する新技術「[[サブサーフェイス・スキャタリング]]」によりリアルな肌の表現がなされた。特に『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃|エピソード2]]』終盤の、従来のヨーダの印象を完全に覆したダイナミックなライトセーバー戦はCGならではの物であった。一方、ライトセーバー戦の相手にとっては難しい演技を要求されるようになったらしく、『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|エピソード3]]』でヨーダと対決した[[ダース・シディアス|パルパティーン]]役の[[イアン・マクダーミド]]は「相手が見えないので非常に難しかった」と語っている。なお『エピソード2』ラスト近くでヨーダが[[クローン戦争]]の始まりを告げるシーンは、ヨーダの表情になかなかルーカスのOKが出ず、[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]]のCGスタッフの間では担当者がなかなか家に帰れないということで「家庭不和製造ショット」と呼ばれていた。[[2011年]]に発売されたブルーレイ版では、『エピソード1』のヨーダも全てCGに置き換えられている。
『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ|エピソード8/最後のジェダイ]]』では、『エピソード5』当時の型を用いて再びパペットが製作され、同作に登場している。
== 日本語吹き替え ==
* [[永井一郎]] - 劇場公開版『エピソード5』、新三部作からクローン・ウォーズまでの全作品、パチンコ『[[スター・ウォーズシリーズ#パチンコ|CRフィーバースター・ウォーズ ダース・ベイダー降臨]]』、[[東京ディズニーランド]]『[[スター・ツアーズ:ザ・アドベンチャーズ・コンティニュー]]』、『[[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ)|オビ=ワン・ケノービ]]』※初代専属
* [[多田野曜平]] - 『[[スター・ウォーズ 反乱者たち|反乱者たち]]』以降の各種作品※2代目専属
* [[辻村真人]] - ソフト版『エピソード5~6』、ゲーム『[[スター・ウォーズ ローグ スコードロン III]]』『[[スター・ウォーズ リパブリック・コマンド]]』
* [[高木均]] - 日本テレビ版『エピソード5~6』
* [[内田稔]] - テレビ朝日版『エピソード5』
* [[塾一久]] - アニメ『[[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ:ヨーダ・クロニクル|ヨーダ・クロニクル]]』『[[LEGO スター・ウォーズ:ドロイド・テイルズ|ドロイド・テイルズ]]』
* [[石井康嗣]] - アニメ『[[ロボット・チキン]]』
* [[落合弘治]] - 『[[マペットのメリー・クリスマス]]』
== ゲーム ==
[[バンダイナムコゲームス]]から発売された対戦型格闘ゲーム『[[ソウルキャリバーIV]]』に操作キャラクターとしてヨーダとダース・ベイダーが特別出演している。デフォルト状態ではヨーダはXbox 360版、ダース・ベイダーはプレイステーション3版のみでしか使用できないが、ダウンロード販売でキャラクターを追加購入することで直接対決が可能となる。
[[エレクトロニック・アーツ]]から[[2017年]]に発売されたアクションシューティングゲーム「[[Star Wars BATTLE FRONT 2]]」では銀河共和国のヒーローキャラクターとして使用可能である。
== 通称として ==
スター・ウォーズのヒットと共にヨーダも人気キャラクターとなったため、アメリカでは指導的な立場にある人格的に優れた高齢者が「ヨーダ」の渾名で呼ばれることがある。
例として、90代ながら現役の国防官僚だった[[アンドリュー・マーシャル]]は「[[アメリカ国防総省|国防総省]]のヨーダ」と呼ばれていた<ref name="whitlock20131204">Craig Whitlock, "Yoda still standing: Office of Pentagon futurist Andrew Marshall, 92, survives budget ax", ''[http://www.washingtonpost.com/world/national-security/yoda-still-standing-office-of-pentagon-futurist-andrew-marshall-92-survives-budget-ax/2013/12/04/df99b3c6-5d24-11e3-be07-006c776266ed_story.html Yoda still standing: Office of Pentagon futurist Andrew Marshall, 92, survives budget ax - The Washington Post]'', [[ワシントン・ポスト|WP Company]], [[12月4日|December 4]], [[2013年|2013]].</ref>。
== 出典 ==
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[スター・ウォーズシリーズ]]
* [[スター・ウォーズ登場人物一覧]]
* [[ジェダイ]]
* [[E.T.]]
* [[赤間直哉]]-アイドル時代のニックネームがヨーダ
== 外部リンク ==
{{wiktionarylang|en|Yoda}}
*[http://www.vegetarianfriends.net/issue13.html#3 Article by Urrutia: "Interview with Master Yoda."]
*{{Star Wars Databank |subject=yoda|text=Yoda}}
*{{Wookieepedia}}
*{{IMDb character|0000015}}
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[[Category:ジェダイ騎士団]]
[[Category:架空の将軍]]
[[Category:架空の地球外生命体の個体]] | 2003-03-27T17:01:42Z | 2023-12-13T07:04:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%80 |
5,337 | 12月31日 |
12月31日(じゅうにがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦において年始・1月1日から365日目(閏年においては366日目)にあたり、12月の末日、1年の末日(大晦日)である。この日の23時59分を過ぎると翌日0時0分から翌年1月1日となる。また、平年の場合には1月1日と同じ曜日になる。 | [
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'''12月31日'''(じゅうにがつさんじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]において年始・[[1月1日]]から365日目([[閏年]]においては366日目)にあたり、12月の[[月末|末日]]、1年の末日([[大晦日]])である。この日の23時59分を過ぎると翌日0時0分から翌年1月1日となる。また、[[平年]]の場合には1月1日と同じ[[曜日]]になる。
== できごと ==
[[File:Canadian militiamen and British soldiers repulse the American assault at Sault-au-Matelot.jpg|thumb|180x180px|[[アメリカ独立戦争]]における[[ケベックの戦い (1775年)|ケベックの戦い]]。(1775年)]]
[[File:Geihinkan Akasaka Palace Front 2010.jpg|thumb|180x180px|[[赤坂迎賓館]]新しい[[東宮御所]](現在の[[迎賓館]])が完成。(1906年)]]
[[File:The Battle of the Barents Sea.jpg|thumb|180x180px|[[バレンツ海海戦]]が発生。(1942年)]]
[[File:Boris Yeltsin-2.jpg|thumb|269x269px|[[ロシア]]の[[ボリス・エリツィン]]大統領が辞任。(1999年)]]
* [[1600年]] - [[イギリス東インド会社]]設立<ref>{{Cite web |url=https://jcgr.org/column/2237/ |title=株式会社考-株式会社の歴史- |access-date=2 Dec 2023 |publisher=JCGR 日本コーポレートガバナンス研究所 |date=22 May 2020}}</ref>。
* [[1703年]]([[元禄]]16年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]) - [[元禄地震]]。南[[関東]]に大きな被害。
* [[1775年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ケベックの戦い (1775年)|ケベックの戦い]]
* [[1858年]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]英女王が[[オタワ]]を[[カナダ]]の[[首都]]と定める。
* [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[ストーンズリバーの戦い]]
* [[1889年]] - 新国立銀行券5円が廃止。
* [[1899年]] - 「政府発行紙幣通用廃止ニ関スル法律」発効により[[改造紙幣]]が使えなくなる。
* [[1900年]] - [[福澤諭吉]]の提案で、翌年の幕開けにかけて[[慶應義塾]]生らと「[[慶應義塾#世紀送迎会|19世紀・20世紀送迎会]]」を開催。
* [[1906年]] - [[赤坂御用地|紀州徳川家中屋敷跡地]]に新しい[[東宮御所]](現在の[[迎賓館]])が完成。
* [[1909年]] - [[ニューヨーク]]の[[マンハッタン島]]と[[ブルックリン区|ブルックリン]]を結ぶ[[マンハッタン橋]]が完成。
* [[1927年]] - [[除夜の鐘]](寛永寺)が初めて中継放送される。
* [[1931年]] - [[新宿]]に軽演劇の[[劇場]]「[[ムーランルージュ新宿座]]」が開場する<ref>{{Cite web |url=https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/wp-content/uploads/2023/08/121d947e31c47d84f21f60125843f7d1.pdf |title=昭和初期の新宿 新宿歴史博物館 常設展示解説シート22 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=公益財団法人新宿未来創造財団 |format=[[PDF]]}}</ref>。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ガダルカナル島の戦い]]: [[大本営]]がガダルカナル島からの撤退を決定。
* 1942年 - 第二次世界大戦: [[バレンツ海海戦]]が行なわれる。
* 1942年 - [[香川県]][[苗羽村]](現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。死者・行方不明者72人(推定)<ref>内海汽船の客船・錦丸が沈没(昭和18年1月1日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[ハンガリー]]が[[ドイツ]]に宣戦布告。
* [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が「[[修身]]・[[日本史 (科目)|日本史]]および[[地理 (科目)|地理]]の授業停止と[[教科書]]回収に関する覚書」を提示。
* [[1947年]] - [[内務省 (日本)|内務省]]が廃止される。
* [[1953年]] - [[第4回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]が初の公開放送。この年から大晦日の放送となる。
* 1953年 - 「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により、1円未満の紙幣や貨幣が使えなくなる<ref>{{Cite web |url=https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/money/c24.htm |title=1円未満のお金が使えなくなったのはいつからですか? |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[日本銀行]]}}</ref>。
* [[1963年]] - イギリス保護領[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]が解体され、[[北ローデシア]](現 [[ザンビア]])・[[南ローデシア]](現 [[ジンバブエ]])・[[ニヤサランド]](現 [[マラウイ]])に分裂。
* 1963年 - [[第14回NHK紅白歌合戦]]で最高[[視聴率]]81.4%を記録。
* [[1965年]] - [[中央アフリカ]]の国軍参謀総長[[ジャン=ベデル・ボカサ]]が軍事クーデターを開始。
* [[1966年]] - 日本初の長編連続テレビ[[アニメーション|アニメ]]『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』が放送終了<ref>{{Cite web |url=https://japanmasterpiececlub.ponycanyon.co.jp/works/45/ |title=手塚治虫の世界が伝統工芸とコラボ!「fusumart」の屏風で手塚ワールドを楽しもう! |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[ポニーキャニオン]] |website=日本名作倶楽部 |date=3 Apr 2018}}</ref>。
* 1966年 - [[核拡散防止条約]]は、この日までに[[核実験]]を成功させた国のみに[[核武装]]の権利を認める。
* [[1968年]] - 海面[[気圧]]世界最高記録 ({{Val|1083.8|ul=hPa}}) を記録。[[ロシア]]、[[中央シベリア高原]]の[[アガタ気象観測所|アガタ]](Agata/北緯67度、東経93度)
* [[1977年]] - [[民主カンプチア|カンボジア]]が[[ベトナム]]軍の国境侵略を理由としてベトナムと断交。
* [[1981年]] - [[ガーナ]]で[[ジェリー・ローリングス]]が2度目の軍事クーデターを起こし[[ヒラ・リマン]]政権を打倒。
* [[1983年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]・[[リトアニア]]で[[イグナリナ原子力発電所]]の運転開始。
* [[1986年]] - [[プエルトリコ]]・[[サンフアン]]にて[[デュポン・プラザ・ホテル放火事件]]が発生し、多くの犠牲者を出した。
* [[1987年]] - 大相撲の横綱[[双羽黒]]が廃業。
* [[1988年]] - [[今給黎教子]]が女性初の[[太平洋]]単独往復航海に成功し、[[鹿児島港]]に帰港<ref>{{Cite web |url=https://blog.canpan.info/funenokagakukan/archive/182 |title=1988(昭和63)年12月31日、今給黎教子が日本人女性初のヨットでの太平洋単独往復に成功。彼女を海洋冒険に導いたのは一冊の冒険記だった |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[船の科学館]] |date=31 Dec 2022}}</ref>。
* [[1990年]] - [[下津井電鉄線]]がこの日限りで営業終了。翌1月1日全線廃止。
* [[1992年]] - この年の営業をもって、[[銀行]]などの[[金融機関]]や多くの[[郵便局]](主に[[特定郵便局]])において、大晦日([[平日]]となる場合)の窓口営業を終了する。
* [[1994年]] - [[キリバス]]の[[フェニックス諸島]]と[[ライン諸島]]で[[標準時]]が[[UTC-11]]・[[UTC-10]]から[[UTC+13]]・[[UTC+14]]に変更され、12月30日の翌日が1月1日となる。
* [[1999年]] - [[ボリス・エリツィン]]が[[ロシア連邦大統領]]を辞任し、後任に[[ウラジーミル・プーチン]]首相を指名。
* 1999年 - [[アメリカ合衆国]]が[[パナマ運河]]と[[パナマ運河地帯]]を[[パナマ]]に返還。
* 1999年 - ロックバンド[[聖飢魔II]]がデビュー当時からの公約通り解散。ラストミサを[[東京ベイNKホール]]で行った。
* [[2000年]] - [[インターネット博覧会]](インパク)が開幕。
* [[2001年]] - [[Microsoft Windows 95]] のサポートが終了。
* [[2002年]] - [[有田鉄道線]]がこの日限りで営業終了。翌1月1日全線廃止。
* [[2008年]] - [[倉敷チボリ公園]]がこの日限りで閉園。
* 2008年 - [[新宿コマ劇場]]がこの日限りで閉館<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/news/61691/full/ |title=“演歌の殿堂”新宿コマ劇場、惜しまれつつ本日閉館 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=31 Dec 2018}}</ref>。
* [[2009年]] - [[リトアニア]]で[[イグナリナ原子力発電所]]の運転終了。
* 2009年 - この日をもって[[ハンバーガー]]チェーンの[[ウェンディーズ]]が日本国内の全店閉店。
* [[2011年]] - [[オウム真理教事件]]: [[オウム真理教]]の一連の事件で指名手配されていた[[平田信]]が警視庁に出頭<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0301G_T00C12A1000000/ |title=平田容疑者「警察に電話かからず」 出頭先求め転々 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=3 Jan 2012}}</ref>。
* [[2014年]] - [[2014年上海外灘雑踏事故]]: [[中華人民共和国]]・[[上海市]]の[[外灘]]で年越しを迎えようとした市民が、広場の階段で転倒し[[群集事故]]に。36人が死亡、47人が負傷した。
* 2014年 - [[新宿TOKYU MILANO]]がこの日限りで閉館。
* 2014年 - [[毎日新聞]][[朝刊]]に連載されていた[[東海林さだお]]作の[[4コマ漫画]]『[[アサッテ君]]』が、連載終了時点で過去最長となる13,749回で終了。
* [[2015年]] - [[ケルン大晦日集団性暴行事件]]。
* 2015年 - [[国際純正・応用化学連合]] (IUPAC) は、発表報告がある4つの[[元素]]([[ニホニウム|113番]]、[[ウンウンペンチウム|115番]]、[[ウンウンセプチウム|117番]]、[[ウンウンオクチウム|118番]])についていずれも認定すると発表。113番元素は日本の[[理化学研究所]]のグループが発見者として認定され[[アジア]]では初の新元素発見となり、また[[周期表]]の[[第7周期元素|第7周期]]までは全て埋まることとなる(「[[未発見元素の一覧]]」も参照)。
* [[2016年]] - [[プランタン銀座]]がこの日限りで閉店<ref name="asahi201711">{{Cite news | title = プランタン銀座、32年の歴史に幕 名称改め3月開業 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2017-01-01 | author = | publisher = [[朝日新聞社]] | page = 朝刊 東京四域版 }}</ref>。32年の歴史に幕を下ろす<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ31H27_R31C16A2TJC000/ |title=プランタン銀座、32年の歴史に幕 1000人が列 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=31 Dec 2016}}</ref>。
* 2016年 - [[SMAP]]がこの日限りで解散<ref>{{Cite web |title=SMAPのメンバー、プロフィール |url=https://www.oricon.co.jp/prof/22180/ |date=4 Jan 2017 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>。25年<ref group="注">CDデビューから解散までの年数。結成からCDデビュー前までも含むと28年。</ref>の活動に終止符を打つ。
* [[2017年]] - [[北九州市]][[八幡東区]]の[[テーマパーク]]、[[スペースワールド]]が27年間の営業に幕を閉じる。閉園は翌1月1日午前2時<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25274230R31C17A2ACYZ00/ |title=スペースワールド、27年の営業に幕 惜別の列 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=31 Dec 2017}}</ref>。
*[[2021年]] - トヨタの体験型テーマパーク 「[[MEGAWEB]]」が22年間の営業に幕を閉じる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.megaweb.gr.jp/thanks.html |title=MEGA WEB 閉館のお知らせ |accessdate=2 Dec 2023 |publisher=MEGA WEB(メガウェブ)}}</ref>。
*[[2023年]] - 翌日の[[行政区]]再編に伴い、[[浜松市]]の[[中区 (浜松市)|中区]]、[[南区 (浜松市)|南区]]、[[西区 (浜松市)|西区]]、[[東区 (浜松市)|東区]]、[[北区 (浜松市)|北区]]、[[浜北区]]はこの日限りで廃止<ref>[https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/kikaku/kuseido/index.html 行政区の再編について] 浜松市、2023年12月15日</ref>。
== 誕生日 ==
[[image:Vesalius Fabrica portrait.jpg|thumb|250x250px|近代解剖学および医学の創始者、[[アンドレアス・ヴェサリウス]](1514-1564)]]
[[Image:Bartolomé Esteban Perez Murillo 005.jpg|thumb|258x258px|[[スペイン]]の[[画家]]、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]](1617-1682)。画像は『無原罪のお宿り』(1678頃 プラド美術館)]]
[[ファイル:Herman Boerhaave by J Champan.jpg|thumb|221x221px|[[臨床医学]]教育、ベッドサイド教育の創始者、[[ヘルマン・ブールハーフェ]](1668-1738)。]]
[[ファイル:Portrait of Henri Matisse 1933 May 20.jpg|180px|thumb|20世紀を代表する画家、[[アンリ・マティス]](1869-1954)]]
[[Image:Tsuda Umeko Portrait c1900.png|thumb|236x236px|津田塾大学創設者、女子教育の先駆者[[津田梅子]](1864-1929)誕生。]]
* [[1491年]] - [[ジャック・カルティエ]]、[[探検家]](+ [[1557年]])
* [[1514年]] - [[アンドレアス・ヴェサリウス]]、[[解剖学者]]、近代解剖学の創始者(+ [[1564年]])
* [[1571年]]([[元亀]]2年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[後陽成天皇]]、第107代[[天皇]](+ [[1617年]])
* [[1585年]]([[天正]]13年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[住友政友]]、[[住友財閥]]創業者(+ [[1652年]])
* [[1617年]] - [[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]、[[画家]](+ [[1682年]])
* [[1658年]]([[万治]]元年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[柳沢吉保]]、[[側用人]]、[[譜代大名]](+ [[1714年]])
* [[1668年]] - [[ヘルマン・ブールハーフェ]]、[[医学者]](+ [[1738年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[平田鐵胤]]、[[国学|国学者]](+ [[1880年]])
* [[1819年]]([[文政]]2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[宮地常磐]]、潮江天満宮神主(+ [[1890年]])
* [[1857年]] - [[キング・ケリー]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1894年]])
* [[1862年]]([[文久2年]][[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[渡瀬庄三郎]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1929年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[長瀬富郎]]、[[花王]][[株式会社]]創業者(+ [[1911年]])
* [[1864年]]([[元治]]元年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[津田梅子]]、[[津田塾大学]]創設者、女子教育の先駆者(+ [[1929年]])
* 1864年 - [[ロバート・グラント・エイトケン]]、[[天文学者]](+ [[1951年]])
* [[1865年]] - [[エミール・ファブリ]]、[[美術家]](+ [[1966年]])
* [[1869年]] - [[アンリ・マティス]]、[[画家]](+ [[1954年]])
* [[1870年]] - [[トム・コナリー]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1961年]])
* [[1871年]] - [[深井英五]]、[[経済学者]]、第13代[[日本銀行]]総裁(+ [[1945年]])
* [[1877年]] - [[ヴィクトル・ダイク]] - [[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[政治家]]、[[弁護士]](+ [[1931年]])
* [[1878年]] - [[エリザベス・アーデン]]、[[実業家]](+ [[1966年]])
* [[1880年]] - [[ジョージ・C・マーシャル]]、政治家、軍人(+ [[1959年]])
* [[1894年]] - [[アーネスト・ジョン・モーラン]]、[[作曲家]](+ [[1950年]])
* [[1896年]] - [[カール・ジーゲル]]、[[数学者]](+ [[1981年]])
* [[1903年]] - [[林芙美子]]、[[小説家]](+ [[1951年]])
* [[1908年]] - [[サイモン・ヴィーゼンタール]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]戦犯追跡家(+ [[2005年]])
* [[1923年]] - [[沼波輝枝]]、[[声優]]、[[俳優|女優]] (+ [[2013年]])
* [[1929年]] - [[ヴォー・クイー]]、[[動物学|動物学者]](+ [[2017年]])
* [[1931年]] - [[坂田藤十郎 (4代目)|四代目坂田藤十郎]]、[[歌舞伎役者]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web |url=https://this.kiji.is/700326513320166497 |title=上方歌舞伎の坂田藤十郎さん死去、88歳 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[共同通信社|KYODO]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20201114124829/https://this.kiji.is/700326513320166497 |archive-date=14 Nov 2014}}</ref>)
* [[1934年]] - [[倉本聰]]、[[脚本家]]、[[劇作家]]、[[演出家]] ※実際の出生日。戸籍上の生年月日は[[1935年]][[1月1日]]
* [[1937年]] - [[アンソニー・ホプキンス]]、[[俳優]]
* [[1937年]] - [[アブラム・ハーシュコ]]、[[生物学者]]
* 1937年 - [[日枝久]]、[[フジテレビジョン]]代表取締役会長
* [[1941年]] - [[アレックス・ファーガソン]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]監督
* [[1942年]] - [[アンディ・サマーズ]]、[[ギタリスト]]([[ポリス (バンド)|ポリス]])
* [[1943年]] - [[ジョン・デンバー]]、[[シンガーソングライター]](+ [[1997年]])
* 1943年 - [[ベン・キングズレー]]、俳優
* [[1945年]] - [[レオナルド・エーデルマン]]、[[理論計算機科学|理論計算機科学者]]
* 1945年 - [[コニー・ウィリス]]、[[SF作家]]
* [[1948年]] - [[ドナ・サマー]]、[[歌手]](+ [[2012年]])
* [[1949年]] - [[佐伯啓思]]、[[経済学者]]
* 1949年 - [[ビートきよし]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]
* [[1951年]] - [[ケニー・ロバーツ]]、[[モーターサイクル]]、レーシングライダー
* [[1952年]] - [[ヴォーン・ジョーンズ]]、[[数学者]](+ 2020年)
* [[1953年]] - [[マイケル・ヘッジス]]、[[音楽家|ミュージシャン]] (+[[1997年]])
* [[1954年]] - [[いわしげ孝]]、[[漫画家]](+ [[2013年]])
* [[1955年]] - [[ジム・トレーシー]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[望月智充]]、[[アニメーション監督]]
* [[1959年]] - [[高樹澪]]、女優
* [[1960年]] - [[井上晃二]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[リック・アギレラ]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[俵万智]]、[[歌人]]
* 1962年 - [[ジェニファー・ヒグドン]]、[[作曲家]]、[[フルート奏者]]
* [[1963年]] - [[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]、歌手、[[タレント]]、元[[大相撲]][[力士]]
* [[1964年]] - [[秋山エリカ]]、元[[新体操]]選手
* [[1965年]] - [[ニコラス・スパークス]]、小説家
* 1965年 - [[コン・リー]]、女優
* [[1966年]] - [[石井克人]]、[[映画監督]]、[[CMディレクター]]
* [[1967年]] - [[江口洋介]]、俳優
* 1967年 - [[猫乃都|児嶋都]]、[[漫画家]]
* [[1968年]] - [[林まゆみ]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]]
* 1968年 - [[まこと (ミュージシャン)|まこと]]、ミュージシャン([[シャ乱Q]])
* [[1969年]] - [[大黒摩季]]、ミュージシャン
* 1969年 - [[東貴博]]、[[お笑いタレント]]([[Take2]])
* [[1970年]] - [[鈴木秀範]]、元野球選手
* [[1971年]] - [[浜野由起子]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1972年]] - [[グレゴリー・クーペ]]、元サッカー選手
* [[1973年]] - [[カイ・ハフト]]、ヘヴィメタル・ミュージシャン
* [[1974年]] - [[薬師寺容子]]、元アイドル
* [[1975年]] - [[平尾博嗣]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[山崎渉]]、漫画家
* 1975年 - [[岡崎雪]]、ミュージシャン
* [[1977年]] - [[PSY]]、[[シンガーソングライター]]
* 1977年 - [[かみじょうたけし]]、お笑いタレント
* [[1979年]] - [[中越典子]]、女優
* 1979年 - [[幸田尚子]]、女優
* [[1980年]] - [[村主章枝]]、元[[フィギュアスケート]]選手
* 1980年 - [[武英智]]、元[[騎手]]、調教助手
* 1980年 - [[リッチー・マコウ]]、ラグビー選手
* 1980年 - [[林ゆうき]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]
* [[1981年]] - [[水野麗奈]]、女優、タレント
* [[1982年]] - [[ジョシュア (ファッションモデル)|ジョシュア]]、[[ファッションモデル]](+ [[2008年]])
* 1982年 - [[ロナルド・ベリサリオ]]、プロ野球選手
* [[1983年]] - [[市井紗耶香]]、歌手、政治家(元[[モーニング娘。]])
* 1983年 - [[三遊亭とむ]]、落語家
* 1983年 - [[椎名実果]]、元[[AV女優]]、元[[ストリッパー一覧|ストリッパー]]
* 1983年 - [[辛鍾吉]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[大網亜矢乃]]、女優、タレント
* 1984年 - [[吉田ちか]]、[[YouTuber]]
* [[1985年]] - [[島野亜希子]]、元グラビアアイドル
* 1985年 - [[坂本佳子]]、[[アナウンサー]]
* [[1986年]] - [[ネイト・フレイマン]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[ジャバリス・クリッテントン]]、元バスケットボール選手
* [[1989年]] - [[AKINO (歌手)|AKINO]]、歌手([[bless4]])
* 1989年 - [[ケルビン・ヘレーラ]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[福原綾香]]<ref name="profile">{{Cite web |url=https://across-ent.com/talent/women/ayaka_fukuhara.html |title=福原 綾香 |publisher=[[アクロス エンタテインメント]] |accessdate=2 Dec 2023}}</ref>、声優
* [[1990年]] - [[パトリック・チャン]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[キム・ソンチョル]]、俳優
* 1991年 - [[ボヤナ・ヨバノフスキ]]、テニス選手
* 1991年 - [[ライアン・ヤーブロー]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[宇佐美なな (AV女優)|宇佐美なな]]、元AV女優
* 1992年 - [[白石糸]]、女優
* 1992年 - [[浅利ありさ]]、ローカルタレント
* [[1993年]] - [[羽田千尋]]、声優
* 1993年 - [[橋本祥平]]、俳優
* [[1994年]] - [[矢崎拓也]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[河瀬茉希]]、声優
* 1995年 - [[西村拳]]、[[空手家]]
* [[1996年]] - [[高嶋菜七]]<ref>{{Cite web |url=https://www.cubeinc.co.jp/archives/artist/takashimanana |title=高嶋菜七 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=株式会社キューブ}}</ref>、歌手、女優([[東京パフォーマンスドール]])
* 1996年 - [[小俣凌雅]]、声優
* 1996年 - [[太田里織菜]]、グラビアアイドル(元[[NMB48]]、元[[愛乙女☆DOLL]])
* [[1997年]] - [[熊代珠琳]]、歌手(元[[ONE CHANCE]]、元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]])
* [[2000年]] - 石安伊、アイドル(元[[HKT48]])
* [[2001年]] - [[本多灯]]、[[競泳]]選手
* 2001年 - [[金谷鞠杏]]、モデル、歌手([[GENIC]])
* [[2002年]] - [[河内桜雪]]、[[競輪選手]]
* [[2004年]] - 山井飛翔、アイドル([[ジャニーズJr.|ジュニア]]、少年忍者)
* 生年不明 - [[有賀由樹子]]、声優
* 生年不明 - [[安齋由香里]]<ref>{{Cite web |url=https://thetv.jp/person/2000030566/ |title=安齋由香里 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[杉山里穂]]、声優
== 忌日 ==
* [[192年]] - [[コンモドゥス]]<ref>{{Cite web |title=Commodus {{!}} Roman emperor |url=https://www.britannica.com/biography/Commodus |access-date=2 Dec 2023 |website=Britannica}}</ref>、[[ローマ皇帝]](* [[161年]])
* [[335年]] - [[シルウェステル1世 (ローマ教皇)|シルウェステル1世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* 生年不明)
* [[1793年]] - [[ジャック・ピエール・ブリッソー]]、[[フランス革命]]期の政治家(* [[1754年]])
* [[1864年]] - [[ジョージ・ダラス]]、第11代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1792年]])
* [[1877年]] - [[ギュスターヴ・クールベ]]、画家(* [[1819年]])
* [[1915年]] - [[ティップ・オニール (野球)|ティップ・オニール]]、元[[プロ野球選手]](* [[1858年]])
* [[1932年]] - [[蜂須賀正韶]]、[[侯爵]](* [[1871年]])
* [[1935年]] - [[寺田寅彦]]、[[物理学者]](* [[1878年]])
* [[1936年]] - [[ミゲル・デ・ウナムーノ]]、[[哲学|哲学者]]、[[文学者]]、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1864年]])
* [[1940年]] - [[大島宇吉]]、[[実業家]]、[[政治家]](* [[1852年]])
* [[1952年]] - [[久坂葉子]]、作家(* [[1931年]])
* [[1957年]] - [[オスカー・ドミンゲス]]、[[画家]]・[[美術家]](* [[1906年]])
* [[1972年]] - [[ロベルト・クレメンテ]]、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[1979年]] - [[引田天功 (初代)|初代・引田天功]]、奇術師(* [[1934年]])
* [[1985年]] - [[立川清登]]、[[バリトン]]歌手(* [[1929年]])
* [[1990年]] - [[水島あやめ]]、[[脚本家]]・[[児童文学作家]](* [[1903年]])
* [[1991年]] - [[フェリシア・ブルメンタール]]、[[ピアニスト]](* [[1908年]])
* [[1993年]] - [[織田隆弘]]、[[高野山]][[真言宗]][[大僧正]](* [[1913年]])
* [[1994年]] - [[多岐川恭]]、[[推理作家]](* [[1920年]])
* [[1999年]] - [[渡辺はま子]]、[[歌手]](* [[1910年]])
* [[2006年]] - [[磯部琇三]]、[[天文学者]](* [[1942年]])
* 2006年 - [[シーモア・M・リプセット]]、[[社会学|社会学者]]、[[政治学者]](* [[1922年]])
* [[2007年]] - [[鈴木理雄]]、[[演出家]](* [[1946年]])
* [[2011年]] - [[宮下トモヤ]]、[[格闘家]](* [[1981年]])
* 2011年 - [[松平康隆]]、元バレーボール選手、監督(* [[1930年]])
* [[2015年]] - [[ナタリー・コール]]、[[シンガーソングライター]](* [[1950年]])
* [[2016年]] - [[清元榮三]]、[[清元節]]三味線奏者、[[人間国宝]](* [[1936年]])
* [[2019年]] - [[井上善夫]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001030000881.html |title=元西鉄・井上善夫さん死去 64年ノーヒッター - プロ野球 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=3 Jan 2020 |accessdate=2 Dec 2023}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1941年]])
* [[2020年]] - [[ロベール・オッセン]]、[[俳優]]、[[映画監督]](* [[1927年]])
* 2020年 - [[中村五木]]、政治家、[[熊本県]][[天草市]]長(* [[1949年]])
* [[2021年]] - [[ストロング小林]]、元[[プロレスラー]]、元俳優、元[[タレント]](* [[1940年]])
* [[2022年]] - [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]、ローマ[[名誉教皇]] (* [[1927年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[大晦日]]
*: [[年|1年]]の終りの[[日]]。[[年越し蕎麦]]を食べる習慣は[[江戸時代]]中期から始まったものである。
* [[年越し]]
** [[年越し蕎麦]]
** [[除夜の鐘]]
* [[カトリック教会]]における[[シルウェステル1世 (ローマ教皇)|聖シルウェステル]]の日。
*: そのため、[[ヨーロッパ]]ではこの日を「ジルヴェスター」と呼ぶ地域も多い。
* 音楽イベント
** [[NHK紅白歌合戦]]
** [[にっぽんの歌|年忘れにっぽんの歌]] [[2015年]]以降は録画放送
** [[日本レコード大賞]]([[1969年]] - [[2005年]])[[2006年]]以降は[[12月30日]]に開催
** [[東急ジルベスターコンサート]]
** [[ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会]]
** [[ウィーン国立歌劇場]][[ジルベスターコンサート]](演目:[[ヨハン・シュトラウス2世]]作の[[喜歌劇]]「[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]」)
** [[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリンフィル]]ジルベスターコンサート
* [[ゆく年くる年]]
* [[カウントダウン]][[演奏会|ライブ]]
**[[カウントダウン]][[イベント]]
**[[ジャニーズカウントダウンライブ]]
**[[COUNT DOWN TV|CDTV]]
* 寅彦忌(冬彦忌)
** [[寺田寅彦]](吉村冬彦、物理学者・随筆家)の忌日。
* 一碧楼忌
** [[中塚一碧楼]](俳人)の忌日。
* [[著作権法]]上の[[著作権の保護期間]]の最終日。当該著作物は同日まで保護される。(映画作品は公開年から70年後・その他の著作の著作者の著作権は没年70年後の翌日[[1月1日]]をもって消滅する)
* [[スーパースター王座決定戦]]([[オートレース]]・[[2008年]]から大晦日開催)
* [[東京2歳優駿牝馬]](年末最後の競馬重賞)
* [[賞金女王決定戦競走]]([[競艇]]・[[2014年]]から大晦日開催)
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1231|date=Dec 2023}}
* [[1874年]] - オルロフスキー公爵邸で舞踏会が開催される。([[ヨハン・シュトラウス2世]]作の[[オペレッタ|喜歌劇]]『[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]』)
* [[1899年]] - [[ホテルハイタワー]]のエレベーターで、ホテルの創設者[[ハリソン・ハイタワー三世]]がシリキ・ウトゥンドゥの呪いによって行方不明になる。([[東京ディズニーシーのアトラクション]]、『[[タワー・オブ・テラー (TDS)|タワー・オブ・テラー]]』のバックグラウンドストーリー)
* 19世紀後半<ref group="注">[[オペラ座の怪人 (1986年のミュージカル)|ミュージカル版]]では[[1881年]](書籍「The Complete Phantom of the Opera」)、[[オペラ座の怪人 (2004年の映画)|2004年の映画版]]では[[1870年]](書籍「Andrew Lloyd Webber's The Phantom of the Opera COMPANION」)。</ref> - [[ガルニエ宮|パリ・オペラ座]]での仮面舞踏会にファントムが出現。自作のオペラ『ドン・ファンの勝利』の上演を要求する。(『[[オペラ座の怪人]]』)
* [[1988年]] - 「いなり商店街」で、「味将軍グループ」七包丁の1人・武智村正と陽一たちによる「[[年越しそば]]出前合戦」が行われる。怪傑味頭巾が初登場。(アニメ『[[ミスター味っ子]]』第62話「年越しそば出前合戦! 謎の怪傑味頭巾見参」)
* [[1995年]] - クーデター軍「国境なき世界」のミサイル基地、アヴァロンダム攻略作戦開始。その最中に弾道ミサイル「V2」が発射されるも、ミサイル管制を担っていた「ADFX-02」が撃墜された事によりV2は暴発、ミサイル攻撃は阻止された。(ゲーム『[[エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー|エースコンバット・ゼロ]]』)
* [[1999年]] - [[ロサンゼルス]]で「REAL RACING ROOTS'99」(RRR'99)の最終戦(決勝、オーバル)が開催される。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)<ref>ゲーム内のレース前より</ref>
* 1999年 - 南米[[クスコ]]の遺跡から「グラドスの刻印」が浮上。レイズナーを伴って宇宙へ去る。(アニメ『[[蒼き流星SPTレイズナー]]』)
* [[2000年]] - 「血の大みそか」が起こる。世界各地では殺人ウイルスによるテロ、東京では巨大ロボットによる破壊活動で約15万人の犠牲者が出る。(漫画・映画『[[20世紀少年]]』)
* [[2004年]] - ISAF(独立国家連合軍)が[[ユージア|ユージア大陸]]コモナ諸島のロケット発射基地から[[偵察衛星]]を打ち上げようとするが、それを察知した[[エルジア王国|エルジア共和国]]軍が打ち上げを阻止すべく大規模な航空部隊を送り込み、基地を防衛しようとするISAF部隊との間で戦闘が発生する。最終的にISAFは基地防衛に成功し、また偵察衛星の打ち上げにも成功する。(ゲーム『[[エースコンバット04 シャッタードスカイ|エースコンバット04]]』)
* [[2010年]] - 軍事衛星「SOLG」が[[オーシア連邦]]首都オーレッドに落下するも、ラーズグリーズ隊の活躍により地表到達前に破壊することに成功。名実ともに[[環太平洋戦争]]が終結する。(ゲーム『[[エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー|エースコンバット5]]』)
* [[2015年]]-[[新世紀エヴァンゲリオン]]において、サードインパクトが発生し、人類(サードインパクトを起こした本人である碇シンジと、補完を拒否した惣流・アスカ・ラングレーを除く)がLCLに還元される。
* [[2015年]] - 戦略自衛隊によりネルフが接収され人類補完計画が発動、サードインパクトが起こり人類がLCLに還元される。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』)
* [[2016年]] - 天真=ガヴリール=ホワイトが酔っぱらってしまったあまり、天使の羽を出して飛行してしまう。(漫画・アニメ『[[ガヴリールドロップアウト]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[ア・バオア・クー]]攻略戦。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』ほか)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1908年]] - 立花夕月 、漫画・アニメ『[[大正処女御伽話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://taisho-otome.com/character/ |title=登場人物 立花夕月 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[桐丘さな]]/[[集英社]]・大正オトメ御伽話製作委員会 |work=『大正オトメ御伽話』}}</ref>
* [[1926年]] - [[ヴォルデモート|トム・マールヴォロ・リドル(ヴォルデモート卿)]]、『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://warnerbros.co.jp/franchise/wizardingworld/special/characters/lord-voldemort.html |title=ヴォルデモート卿 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[ワーナー ブラザース ジャパン|Warner Bros. Japan]] |website=魔法ワールド}}</ref>
* [[1974年]] - [[DEATH NOTEの登場人物#FBI|レイ・ペンバー]]、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]]|year = 2006|title = DEATH NOTE|volume = 13|publisher = [[集英社]]|isbn = 978-4-08-874095-9|page = 25}}</ref>
* [[1977年]] - 三橋貴志、漫画・アニメ・ドラマ『[[今日から俺は!!]]』の主人公<ref>OVA第5巻「名もなく 貧しく ズルッこく」のバイトの履歴書より。</ref>
* [[1984年]] - 不破大地、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|whistle_24|1476800897632313348}}</ref>
* [[1985年]] - 朝日奈椿、小説・ゲーム・アニメ『[[BROTHERS CONFLICT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bc-anime.com/contents/hp0005/index00040000.html |title=CHARACTER 五男・椿 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=ウダジョ/エム・ツー/[[アスキー・メディアワークス]]/ブラコン製作委員会 |work=『BROTHERS CONFLICT』}}</ref>
* 1985年 - 朝日奈梓、小説・ゲーム・アニメ『BROTHERS CONFLICT』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bc-anime.com/contents/hp0005/index00040000.html |title=CHARACTER 六男・梓 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=ウダジョ/エム・ツー/[[アスキー・メディアワークス]]/ブラコン製作委員会 |work=『BROTHERS CONFLICT』}}</ref>
* [[1994年]] - 澤村大地、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870453-1|quote=|date=|volume=1巻|page=150}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]748年 - アルベル・ノックス、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=56|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 黒沼爽子、漫画・アニメ『[[君に届け]]』の主人公<ref>アニメ第1期第23話、実写映画版での描写から。</ref>
* 生年不明 - 大神零、漫画・アニメ『[[CØDE:BREAKER]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kamijyo_akimine|236554744120889344}}</ref>
* 生年不明 - クラウス・V・ラインヘルツ、漫画・アニメ『[[血界戦線]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kekkai_pr|1608840465104703491}}</ref>
* 生年不明 - 北白川たまこ、アニメ『[[たまこまーけっと]]』の主人公<ref>第1話での描写から。</ref>
* 生年不明 - 松坂さとう、漫画・アニメ『[[ハッピーシュガーライフ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|gangan_joker|1079562008167538688}}</ref>
* 生年不明 - 花小泉杏、漫画・アニメ『[[あんハピ♪]]』の主人公<ref>{{Twitter status|annehappy_anime|682358015673016320}}</ref>
* 生年不明 - 先輩さん(奥墨マイコ)、漫画・アニメ『[[がんばれ同期ちゃん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 白鳥歌野、ゲーム・小説・漫画・アニメ『[[乃木若葉は勇者である|白鳥歌野は勇者である]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yuyuyui.jp/character/character14.html |title=白鳥 歌野 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=Project 2H [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] [[オルトプラス|AltPlus Inc.]] |work=『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』}}</ref>
* 生年不明 - パトリシア・オブ・エンド、ゲーム・アニメ『[[ノラと皇女と野良猫ハート]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nora-anime.net/nora1cs/ |title=パトリシア・オブ・エンド |access-date=2 Dec 2023 |publisher=HARUKAZE |work=『ノラと皇女と野良猫ハート』(PS Vita/PS4/Switch)}}</ref>
* 生年不明 - 向井直也、漫画・アニメ『[[カノジョも彼女]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書 |author=ヒロユキ |authorlink=ヒロユキ |date=2021 |title=カノジョも彼女 |volume=4巻 |page=2 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社コミックス]] |isbn=978-4-06-521960-7}}</ref>
* 生年不明 - まめた、キャラクターコンテンツ『[[ちびまる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/chibimaru/ |title=お友だち まめた |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『ちびまる』}}</ref>
* 生年不明 - [[こちら葛飾区亀有公園前派出所の登場人物#亀有署・葛飾署・新葛飾署|左近寺竜之介]]、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)74頁</ref>
* 生年不明 - [[こちら葛飾区亀有公園前派出所の登場人物#亀有署・葛飾署・新葛飾署|ボルボ西郷]]、漫画・アニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)73頁</ref>
* 生年不明 - ゴール・D・ロジャー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Gold_Roger.html |title=ゴール・D・ロジャー |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - 千歳千里、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1344298458916790280}}</ref>
* 生年不明 - 金田一郎、漫画・アニメ『テニスの王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1476570029994950661}}</ref>
* 生年不明 - [[浦原喜助]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=久保帯人 |authorlink=久保帯人 |year=2008 |title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |publisher=集英社 |isbn=4-08-874079-3 |pages=46,162}}</ref>
* 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#ネメシス|ネメシス]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- ダークネス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year=2014|title=To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page=42|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-880260-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|year=2015|title=To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|page=72|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-880576-4}}</ref>
* 生年不明 - 伏黒甚爾、漫画・アニメ『[[呪術廻戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jujutsu_pr|1476757754811346946}}</ref>
* 生年不明 - 丸尾末男、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tweet_maruko|1344448368190214146}}</ref>
* 生年不明 - ジィリオ=ヴェルスーン、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=東まゆみ(監修) |authorlink=東まゆみ |year=2009 |title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド |publisher=[[マッグガーデン]] |isbn=978-4-86127-616-3 |page=94}}</ref>
* 生年不明 - マサキ、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場するキャラクター<ref>[http://family.shogakukan.co.jp/kids/netkun/pokemon/official/ ポケットモンスターSPECIAL オフィシャルウェブサイト]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>
* 生年不明 - アンジェラ、漫画・ドラマCD『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=鳴見なる|authorlink=鳴見なる|year=2008|title=東京★イノセント|volume=4|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|isbn=978-4-7575-2286-2|page=38}}</ref>
* 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#オーフィス|オーフィス]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|1079578635021869058}}</ref>
* 生年不明 - ヴィリディアナ、アニメ『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1608840336217980929}}</ref>
* 生年不明 - [[イーグル (ストリートファイター)|イーグル]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/100882 |title=キャラ図鑑015:イーグル |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]] |work=シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* 生年不明 - [[七枷社]]、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-xv/characters/characters_yashiro.php |title=七枷 社 |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[SNK (1978年設立の企業)|SNK CORPORATION]] |work=『THE KING OF FIGHTERS ⅩⅤ』}}</ref>
* 生年不明 - ことぶき、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m12.html |title=住民名簿 12月 コトブキ|access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - もんじゃ、ゲーム『どうぶつの森』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m12.html |title=住民名簿 12月 もんじゃ|access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - [[ジヴァートマ]]、ゲーム『[[KOF MAXIMUM IMPACT]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof-mi-ra/character/chara_jivatma.html |title=ジヴァートマ |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[SNK (2001年設立の企業)|SNK PLAYMORE]] |work=『KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION "A"』}}</ref>
* 生年不明 - 霧夜エリカ、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.netrevo.net/products/tsuyokiss2/character/kiriya.html |title=霧夜エリカ |access-date=2 Dec 2023 |publisher=REVONET |work=『つよきす』}}</ref>
* 生年不明 - ν -No.13-、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/nu.html |title=ν -No.13-(ニュー・サーティーン) |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |accessdate=2 Dec 2023 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref>
* 生年不明 - 山田一二三、ゲーム『[[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sp_kiboukoubai|1344509644245372928}}</ref>
* 生年不明 - 桐島さくら、ゲーム『[[さくらさくら (ゲーム)|さくらさくら]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.entergram.co.jp/sakurasakura/character/#chara2 |title=桐島 さくら |access-date=2 Dec 2023 |publisher=ハイクオソフト/だいだい/ENTERGRAM |work=『さくらさくら』}}</ref>
* 生年不明 - 空栗ヒトハ/フタバ、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場する双子のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://t7s.jp/character/chara/42.html |title=空栗ヒトハ/フタバ |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]] |work=『Tokyo 7th シスターズ』}}</ref>
* 生年不明 - アインツ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=0&cate=name&cont=Eins |title=アインツ |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 加賀谷しおん、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/kagaya-shion/ |title=秋田県 加賀谷 しおん |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - 雪泉(ゆみ)、ゲーム『[[シノビマスター 閃乱カグラ NEW LINK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?yumi&mode=1 |title=雪泉(ゆみ) |access-date=2 Dec 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] HONEY PARADE GAMES Inc. |work=『閃乱カグラシリーズ』シノビ少女図鑑}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[1969年]]<ref group="注">[[華麗なる一族 (2007年のテレビドラマ)|2007年のドラマ版]]では[[1968年]]。</ref> - 万俵鉄平、小説『[[華麗なる一族]]』に登場するキャラクター
* [[1976年]] - 東リコ、ゲーム『[[SIREN]]』に登場するキャラクター
* [[1999年]] - 堀上篤志、ドラマ『[[君といた未来のために 〜I'll be back〜]]』の主人公
* 1999年 - 黛裕介、ドラマ『君といた未来のために 〜I'll be back〜』に登場するキャラクター
* 1999年 - 室井蒔、ドラマ『君といた未来のために 〜I'll be back〜』に登場するキャラクター
* [[2002年]] - 及川悠紀夫、アニメ『[[デジモンアドベンチャー02]]』に登場するキャラクター
* 1914年([[紀年法]]不明) - マース・ヒューズ、漫画・アニメ『[[鋼の錬金術師]]』に登場するキャラクター
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - 上記ア・バオア・クー攻防戦における死亡者<ref>いずれも各作品本編中での描写から。</ref>
** [[ザビ家#ギレン・ザビ|ギレン・ザビ]]、アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』に登場するキャラクター(* U.C.0044年<ref group="注">『[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN|THE ORIGIN]]』ではU.C.0034年生まれ。</ref>)
** [[ザビ家#キシリア・ザビ|キシリア・ザビ]]、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場するキャラクター(* U.C.0055年<ref group="注">『THE ORIGIN』ではU.C.0044年生まれ。</ref>)
** [[機動戦士ガンダム MS IGLOOの登場人物#ヘルベルト・フォン・カスペン|ヘルベルト・フォン・カスペン]]、アニメ『[[機動戦士ガンダム MS IGLOO|機動戦士ガンダム MS IGLOO 黙示録0079]]』に登場するキャラクター
* 1995年 - PJ/パトリック・ジェームズ・ベケット、ゲーム「[[エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー]]」に登場するキャラクター<ref group="注">上記「アヴァロンダム攻略作戦」の戦死者。</ref>
* 没年不明 - 童話『[[マッチ売りの少女]]』の主人公の少女<ref group="注">作品の時間軸が大晦日となっている。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|31 December}}
{{新暦365日|12|30|1|1|無し|[[1月31日]]|無し|1231|12|31}}
* [[1月0日]]
* [[世間胸算用]]
* [[てっぺんとったんで!]] - [[NMB48]]の音楽アルバム。9曲目に「12月31日」という曲が収録されている。
{{1年の月と日}} | 2003-03-27T17:19:28Z | 2023-12-31T10:59:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8831%E6%97%A5 |
5,338 | 12月30日 | 12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。 | [
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] | 12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。 | {{カレンダー 12月}}
'''12月30日'''(じゅうにがつさんじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から364日目([[閏年]]では365日目)にあたり、年末まであと1日ある([[晦日|小晦日]])。
== できごと ==
[[ファイル:TRT-1001-Tokyo-Metro-Museum.jpg|thumb|日本初の地下鉄開業(1927)画像は1001号車]]
* [[1370年]] - [[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]が[[ローマ教皇]]に即位。
* [[1460年]] - [[薔薇戦争]]: [[ウェイクフィールドの戦い]]。ランカスター派勝利、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが殺害される。
* [[1853年]] - [[アメリカ合衆国]]が現在の[[アリゾナ州]]南部および[[ニューメキシコ州]]にあたる地域を[[メキシコ]]から購入することで両国が合意([[ガズデン購入]])。
* [[1877年]] - [[ヨハネス・ブラームス]]の『[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]』が初演。
<!-- 確認できず * [[1880年]] - [[パウルス・クルーガー]]が[[トランスヴァール共和国]]大統領に就任。 -->
* [[1884年]] - [[アントン・ブルックナー]]の『[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]』が初演。
* [[1889年]] - 日本で[[決闘罪ニ関スル件]]公布。
* [[1896年]] - [[フィリピン]]の独立運動家・[[ホセ・リサール]]が処刑される。
* [[1901年]] - [[相馬愛蔵]]・[[相馬黒光|黒光]]夫妻がパン屋・[[中村屋]]を創業。
* [[1903年]] - [[シカゴ]]・イロコイ劇場火災。避難時の混乱により死者602人・負傷者250人の大惨事となる。
* [[1905年]] - [[フランツ・レハール]]の[[オペレッタ]]『[[メリー・ウィドウ]]』が初演。
* [[1906年]] - [[全インド・ムスリム連盟]]結成。
* [[1921年]] - [[セルゲイ・プロコフィエフ]]の歌劇『[[三つのオレンジへの恋]]』が初演。
* [[1922年]] - [[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]が建国。
* [[1924年]] - [[エドウィン・ハッブル]]が系外[[銀河]]の発見を論文で発表。
* [[1927年]] - [[東京地下鉄道]]・[[浅草駅]] - [[上野駅]]間(現在の[[東京メトロ銀座線]])が開業。日本初の[[地下鉄]]。
* [[1944年]] - 日本海軍の潜水艦「[[伊号第四〇〇潜水艦]]」が竣工。
* [[1946年]] - [[文部省]](現・[[文部科学省]])が「[[6・3制|6・3・3・4制]]」の[[教育制度]]採用を発表。
* 1946年 - カリフォルニア州で円盤型UFOが目撃される<ref>{{Cite web |date=2013-06-24 |url=http://kevinrandle.blogspot.com/2013/06/pre-arnold-ufo-sightings.html |title=A Different Perspective: Pre-Arnold UFO Sightings |publisher= |accessdate=2019-08-11}}</ref>。
* [[1947年]] - [[ルーマニア]]で、王制を廃止し人民共和国を宣言。
* [[1948年]] - 熊本県人吉市で[[祈祷師]]夫婦が殺害される([[免田事件]])。
* 1948年 - [[コール・ポーター]]の[[ミュージカル]]『[[キス・ミー・ケイト]]』が初演。
* [[1949年]] - [[インド]]が[[中華人民共和国]]を[[国家の承認|承認]]。
* <!-- 確認できず * [[1965年]] - [[南極観測船]]「[[ふじ (砕氷艦)|]]」が定着氷への接岸に成功、[[昭和基地]]へ4年ぶりの空輸開始。 -->
* [[1965年]] - [[フェルディナンド・マルコス]]が[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]]に就任。
* [[1977年]] - 連続殺人で逮捕され第2審の準備中の[[テッド・バンディ]]が収監中の刑務所から逃亡。
* [[1985年]] - 東京都[[大田区]]で[[コンビニエンスストア|コンビニ]]強盗。犯人を追跡した大学生が刺殺される。
* [[1988年]] - 神戸市の[[太陽神戸銀行]]須磨支店前に停車していた現金輸送車が乗り逃げされ、3億2250万円が持ち去られる。7年後の[[1995年]]に[[公訴時効]]が成立。[[未解決事件]]となる。
* 1988年 - [[長谷川峻]][[法務大臣]]が[[リクルート事件]]に関連して、[[リクルートホールディングス|リクルート]]からの政治献金発覚をうけて辞任。わずか4日で辞任という戦後最短の[[閣僚]]となる。
* [[1993年]] - [[イスラエル]]と[[バチカン]]が[[国交]]樹立の合意書に調印。
* [[2000年]] - [[世田谷一家殺害事件]]発生。
* 2000年 - 午前9時、平成12年台風23号 (Soulik) 発生。最も発生の遅い[[台風]]。
<!-- * [[2004年]] - [[奈良小1女児殺害事件]]容疑者逮捕。 -->
* [[2006年]] - [[サッダーム・フセイン]]元[[イラク共和国]][[大統領]]の[[死刑]]執行。
* [[2011年]] - [[サモア]]と[[トケラウ]]が標準時を[[UTC-11]]から[[UTC+13]](夏時間は[[UTC-10]] から [[UTC+14]])に変更。2011年12月29日の翌日が同31日となる。
* [[2013年]] - [[2013年12月キンシャサ攻撃|コンゴ民主共和国のキンシャサの政府機関が攻撃]]を受ける。
* [[2018年]] - [[環太平洋パートナーシップ協定]] (TPP) が日本を含む6カ国で発動<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/trade-tpp-idJPKCN1OU097|title=TPP、日本含む6カ国で発効 アジア太平洋地域に巨大自由貿易圏|newspaper=ロイター|date=2018-12-31|accessdate=2019-01-01}}</ref>。
* 2018年 - [[バングラデシュ]]で総選挙。[[与党]]の[[アワミ連盟]]が小選挙区の300議席中、288議席以上を獲得し圧勝<ref>{{Cite news |date= 2018-12-31|url= https://www.cnn.co.jp/world/35130812.html|title= バングラ総選挙で与党大勝、ハシナ首相連続3期目に 衝突で死者|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate=2020-10-22}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Tiger_Woods_2018.jpg|thumb|120px|[[タイガー・ウッズ]](1975-)誕生。]]
* [[1744年]]([[延享]]10年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[森川俊孝]]、第7代[[生実藩|生実藩主]](+ [[1788年]])
* [[1776年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[中川久持]]、第9代[[岡藩|岡藩主]](+ [[1798年]])
* [[1810年]]([[文化 (元号)|文化]]7年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[内藤政優]]、第5代[[挙母藩|挙母藩主]](+ [[1851年]])
* [[1850年]] - [[ジョン・ミルン]]、[[地震学|地震学者]](+ [[1913年]])
* [[1865年]] - [[ラドヤード・キップリング]]、[[詩人]](+ [[1936年]]<ref>[http://www.literarytraveler.com/literary_articles/kipling_browns_hotel.aspx Rudyard Kipling's Waltzing Ghost: The Literary Heritage of Brown's Hotel], Sandra Jackson-Opoku, Literary Traveler</ref>)
* [[1869年]]([[明治]]2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[大砲万右エ門]]、[[大相撲]]第18代[[横綱]](+ [[1918年]])
*[[1879年]] - [[ラマナ・マハルシ]]、聖者(+ [[1950年]])
* [[1880年]] - [[アルフレート・アインシュタイン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Alfred-Einstein Alfred Einstein German-American musicologist and critic] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、音楽学者(+ [[1952年]])
* [[1881年]] - [[小杉放庵]]、[[洋画家]](+ [[1964年]])
* [[1884年]] - [[東條英機]]<ref group="注">戸籍上の誕生日。実際の日にちは7月30日。</ref>、政治家、第40代[[内閣総理大臣]](+ [[1948年]])
* [[1886年]] - [[オースティン・オスマン・スパー]]、[[画家]](+ [[1956年]])
* [[1889年]] - [[メーライ=ホルヴァート・ジョーフィア]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1977年]])
* [[1896年]] - [[大川博]]、[[実業家]]、映画製作者(+ [[1971年]])
* [[1902年]] - [[加賀山之雄]]、第2代[[日本国有鉄道]]総裁(+ [[1970年]])
* [[1903年]] - [[天知俊一]]、元[[野球選手]]・[[プロ野球監督|監督]](+ [[1976年]])
* [[1904年]] - [[ドミトリー・カバレフスキー]]、[[作曲家]](+ [[1987年]])
* [[1905年]] - [[稲垣浩]]、映画監督(+ [[1980年]])
* 1905年 - [[ダニイル・ハルムス]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1942年]])
<!-- ユリウス暦、1月12日に移動* [[1906年]] - [[セルゲイ・コロリョフ]]、[[ロケット]]開発指導者(+ [[1966年]])-->
* [[1906年]] - [[キャロル・リード]]、[[映画監督]](+ [[1976年]])
* [[1918年]] - [[ユージン・スミス]]、[[写真家]](+ [[1978年]])
* [[1919年]] - [[西村進一]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2006年]])
* [[1922年]] - [[ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ]]、[[ピアニスト]](+ [[2001年]])
* [[1927年]] - [[ロベール・オッセン]]、[[俳優]]、[[映画監督]] (+ [[2020年]])
* [[1930年]] - [[開高健]]、[[小説家]](+ [[1989年]])
* 1930年 - [[デュンダル・アリ・オスマン]]、[[トルコ]]の[[王位請求者|帝位請求者]]、[[オスマン家]]第45代家長(+ [[2021年]])
* [[1933年]] - [[伊藤芳明]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[ジョン・バーコール]]、[[天体物理学|天体物理学者]](+ [[2005年]])
* 1934年 - [[デル・シャノン]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[1990年]])
* [[1935年]] - [[サンディー・コーファックス]]、元プロ野球選手
* [[1937年]] - [[ゴードン・バンクス]]、[[サッカー選手]](+ [[2019年]])
* [[1941年]] - [[ブルーノ・パルマ]]、[[チェス]]選手
* [[1942年]] - [[マイク・ネスミス]]、ミュージシャン(元[[モンキーズ]])(+ [[2021年]])
* [[1944年]] - [[角淳一]]、アナウンサー、司会者 ※実際の出生日。戸籍上の生年月日は1945年[[1月1日]]
* [[1945年]] - [[デイビー・ジョーンズ]]、ミュージシャン(元モンキーズ)(+ [[2012年]])
* [[1946年]] - [[パティ・スミス]]、ミュージシャン
* [[1947年]] - [[ジェフ・リン]]、[[シンガー・ソング・ライター]]、[[音楽プロデューサー]]、[[マルチプレイヤー (音楽)|マルチプレイヤー]]
* [[1949年]] - [[木場勝己]]、[[俳優]]
* 1949年 - [[ウィリアム・フォーサイス (バレエダンサー)|ウィリアム・フォーサイス]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付師]]
* 1949年 - [[山本潤子]]、シンガーソングライター
* [[1950年]] - [[ビャーネ・ストロヴストルップ]]、[[コンピュータ科学|コンピュータ科学者]]、[[C++]]の設計者
* [[1956年]] - [[井上公造]]、元[[芸能リポーター]]
* [[1957年]] - [[岡原正幸]]、[[社会学者]]
* [[1957年]] - [[タクマ (タレント)|タクマ]]、[[タレント]]
* [[1959年]] - [[浜崎博嗣]]、[[アニメーション監督]]
* [[1960年]] - [[鶴田法男]]、[[映画監督]]
* 1960年 - [[セーラ・ロウエル]]、タレント、モデル(+[[2011年]])
* [[1961年]] - [[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]、[[陸上選手]]
* [[1962年]] - [[小川菜摘]]、[[タレント]]
* 1962年 - [[アレッサンドラ・ムッソリーニ]]、政治家
* 1962年 - [[崎谷健次郎]]、ミュージシャン
* [[1963年]] - [[マイク・ポンペオ]]、第70代[[アメリカ合衆国国務長官]]
* [[1964年]] - [[SEELA]]、ミュージシャン
* [[1967年]] - [[フェルナンド・ダニエル・モネール]]、[[サッカー選手]]
* [[1968年]] - [[坊西浩嗣]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[ギャルマト・ボグダン]]、[[東映アニメーション]]プロデューサー
* [[1969年]] - [[ジェイソン・ケイ]]、ミュージシャン([[ジャミロクワイ]])
* [[1970年]] - [[坂本博之]]、[[プロボクサー]]
* 1970年 - [[石井麻由子]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]
* 1970年 - [[本田聖嗣]]、[[ピアニスト]]
* [[1971年]] - [[元木大介]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[小野礼子]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1973年]] - [[平野貴大]]、[[俳優]]
* 1973年 - [[行方尚史]]、[[将棋棋士]]
* [[1974年]] - [[小松奈央 (歌手)|小松奈央]]、歌手(元[[BeForU]])
* [[1975年]] - [[椎名慶治]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[タイガー・ウッズ]]、[[プロゴルファー]]
* 1975年 - [[岩渕健輔]]、[[ラグビーユニオン]]選手
* 1975年 - [[藤田憲右]]、お笑いタレント([[トータルテンボス]])
* 1975年 - [[Ryohei]]、[[ボーカリスト]]、[[音楽家]]
* [[1976年]] - [[A・J・ピアジンスキー]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[ブラッド・ボイルズ]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[白倉麻]]、[[声優]]
* 1977年 - [[戸田和幸]]、元[[サッカー選手]]
* [[1979年]] - [[ノブ (お笑い芸人)|ノブ]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[千鳥 (お笑いコンビ)|千鳥]])
* [[1980年]] - [[立花かおり]]、元[[グラビアアイドル]]
* [[1981年]] - [[大友みなみ]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1981年 - [[K.Will]]、歌手
* [[1982年]] - [[藤森エレナ]]、元[[AV女優]]
* 1982年 - 荒井智之、ミュージシャン([[sumika]])
* 1982年 - [[馬場ゆかり]]、プロゴルファー
* [[1984年]] - [[レブロン・ジェームズ]]、[[バスケットボール|バスケット]]選手
* [[1985年]] - [[ニーナ南]]、グラビアアイドル
* 1985年 - [[KenKen]]、[[ベーシスト]]([[RIZE]]など)
* 1985年 - [[小島太一]]、元[[騎手]]、調教助手
* 1985年 - [[パヴク・ヴィクトーリア]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1986年]] - [[エリー・ゴールディング]]、[[シンガーソングライター]]
* 1986年 - [[ラウール・レイエス]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - ハン・ギウン、俳優
* [[1988年]] - [[レオン・ジャクソン]]、歌手
* 1988年 - [[ドリュー・ルチンスキー]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[ダニー・ブラワ]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[オクサナ・ゴゼワ]]、フィギュアスケート選手
* 1989年 - ユン・ボラ、アイドル([[SISTAR]])
* 1989年 - [[小尾渚沙]]、アナウンサー
* [[1990年]] - [[中村朝佳]]、女優
* 1990年 - [[藤岡茜]]、タレント
* [[1991年]] - [[奈良くるみ]]、テニス選手
* 1991年 - [[ディーン元気]]、やり投選手
* 1991年 - [[ジョー・ガンケル]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[野澤祐樹]]、タレント、俳優(元[[ジャニーズJr.]])
* 1992年 - ユナ、アイドル(元[[AOA (音楽グループ)|AOA]])
* [[1993年]] - [[しばゆー]]、[[YouTuber]]([[東海オンエア]])
* [[1995年]] - [[V (歌手)|キム・テヒョン]]、アイドル、俳優([[BTS (音楽グループ)|BTS]])
* 1995年 - ジョシュア、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* 1995年 - [[神谷里彩]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* 1995年 - [[藤原さくら]]、シンガーソングライター
* [[1997年]] - 髙橋彩音、アイドル([[AKB48]])
* [[1998年]] - [[植村あかり]]、歌手([[Juice=Juice]])
* 1998年 - [[今井悠貴]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M07-0199 |title=今井 悠貴 |publisher=[[日本タレント名鑑]] |accessdate=2021-01-30}}</ref>、俳優
* 1998年 - EASTA、ラッパー
* [[1999年]] - [[三浦銀二]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - Nardo Wick、ラッパー
* 生年不明 - [[宇和川恵美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/宇和川恵美/|title=宇和川恵美(うわがわえみ)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2021-01-20}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[上田のりこ]]、声優
* 生年不明 - [[貫井柚佳]]<ref name="prof">{{Cite web|和書|url=https://www.air-agency.co.jp/talent/woman/yuka_nukui|title=貫井 柚佳|AIR AGENCY 声優プロダクション|accessdate=2021-01-15}}</ref>、声優
== 忌日 ==
[[ファイル:Saddam Hussein at trial, July 2004.JPEG|thumb|120px|元イラク大統領[[サッダーム・フセイン]](1937-2006)死刑執行。]]
* [[274年]] - [[フェリクス1世 (ローマ教皇)|フェリクス1世]]、[[教皇|ローマ教皇]]
* [[643年]]([[斉明天皇|皇極天皇]]2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[山背大兄王]]、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]、[[聖徳太子]]の子
* [[728年]]([[神亀]]5年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[山代真作]]、[[官人]]
* [[1331年]] - [[ベルナール・ギー]]、[[異端審問|異端審問官]](* [[1261年]]?)
* [[1436年]] - [[ルートヴィヒ3世 (プファルツ選帝侯)|ルートヴィヒ3世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1378年]])
* [[1460年]] - [[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード・プランタジネット]]、[[ヨーク公]](* [[1411年]])
* [[1525年]] - [[ヤーコプ・フッガー]]、[[フッガー家]]の[[商人]] (* [[1459年]])
* [[1591年]] - [[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]]、ローマ教皇(* [[1519年]])
* [[1644年]] - [[ヤン・ファン・ヘルモント]]、[[化学者]]、[[錬金術|錬金術師]]、[[医学|医学者]](* [[1579年]])
* [[1691年]] - [[ロバート・ボイル]]、[[物理学者]](* [[1627年]])
* [[1777年]] - [[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]](* [[1727年]])
* [[1877年]] - [[松平頼胤]]、[[高松藩|高松藩主]](* [[1811年]])
* [[1886年]] - [[ジョージ・フレッチャー・モー]]、[[探検家]]、[[著述家]](* [[1798年]])
* [[1889年]] - [[ヘンリー・ユール]]、東洋学者(* [[1820年]])
* [[1894年]] - [[アメリア・ジェンクス・ブルーマー]]、[[フェミニズム|女性解放運動家]](* [[1818年]])
* 1894年 - [[松平光則]]、[[松本藩|松本藩主]](* [[1828年]])
* [[1896年]] - [[ホセ・リサール]]、[[フィリピン]]独立の英雄(* [[1861年]])
* [[1914年]] - [[笹尾鉄三郎]]、[[キリスト教]]伝道者(* [[1868年]])
* [[1920年]] - [[大場茂馬]]、[[法学者]](* [[1869年]])
* [[1926年]] - [[海山太郎 (友綱)|海山太郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1854年]])
* [[1938年]] - [[アレクサンデル・カコフスキ]]、[[ローマ教皇庁]][[枢機卿]](* [[1862年]])
* [[1941年]] - [[エル・リシツキー]]、[[美術家]](* [[1890年]])
* [[1944年]] - [[ロマン・ロラン]]、小説家(* [[1866年]])
* [[1945年]] - [[宋鎮禹]]、[[朝鮮]]の[[独立運動家]](* [[1890年]])
* [[1946年]] - [[チャールズ・カドマン]]、[[作曲家]](* [[1881年]])
* [[1947年]] - [[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、哲学者、数学者(* [[1861年]])
* 1947年 - [[ハン・ファン・メーヘレン]]、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]の[[贋作|贋作家]](* [[1889年]])
* 1947年 - [[横光利一]]、[[作家]](* [[1898年]])
* [[1952年]] - [[中山晋平]]、作曲家(* [[1887年]])
* [[1954年]] - [[ギュンター・クヴァント]]、[[実業家]](* [[1881年]])
* [[1957年]] - [[黒瀬川浪之助]]、大相撲力士(* [[1885年]])
* [[1960年]] - [[芦乃家雁玉]]、[[漫才師]](* [[1894年]])
* [[1964年]] - [[太郎山勇吉]]、元大相撲力士(* [[1901年]])
* [[1966年]] - [[クリスティアン・アーチボルド・ハーター]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1895年]])
* [[1968年]] - [[原龍三郎]]、化学者(* [[1888年]])
* 1968年 - [[トリグブ・リー]]、初代[[国際連合事務総長|国連事務総長]](* [[1896年]])
* 1968年 - [[キリル・メレツコフ]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1897年]])
* [[1969年]] - [[由起しげ子]]、[[小説家]](* [[1900年]])
* 1969年 - [[岡本利之]]、元[[プロ野球選手]](* [[1916年]])
* [[1970年]] - [[ソニー・リストン]]、[[プロボクサー]](* [[1932年]])
* [[1973年]] - [[アンリ・ビュッセル]]、作曲家、[[指揮者]](* [[1872年]])
* [[1974年]] - [[尾上鯉三郎 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1897年]])
* 1974年 - [[藤野天光]]、[[彫刻家]](* [[1903年]])
* [[1977年]] - [[久野寧]]、[[医学者]](* [[1882年]])
* 1977年 - [[塚田正夫]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1914年]])
* [[1979年]] - [[平櫛田中]]、[[彫刻家]](* [[1872年]])
* 1979年 - [[リチャード・ロジャース (作曲家)|リチャード・ロジャース]]、[[ミュージカル]]作曲家(* [[1902年]])
* [[1980年]] - [[堅山南風]]、[[日本画家]](* [[1887年]])
* [[1982年]] - [[若浪義光]]、元大相撲力士(* [[1914年]])
* [[1983年]] - [[川上四郎]]、[[童画]][[画家]](* [[1889年]])
* 1983年 - [[彌永貞三]]、[[歴史学者]](* [[1915年]])
* [[1985年]] - [[羽生三七]]、[[日本社会党]][[参議院議員]](* [[1904年]])
* [[1988年]] - [[イサム・ノグチ]]、彫刻家(* [[1904年]])
* [[1991年]] - [[スタンリー・ボッグス]]、[[考古学者]](* [[1914年]])
* [[1993年]] - [[ジュセッペ・オキャリーニ]]、物理学者(* [[1907年]])
* [[1994年]] - [[巖金四郎]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1911年]])
* [[1995年]] - [[ハイナー・ミュラー]]、[[劇作家]]、[[演出家]](* [[1929年]])
* [[1996年]] - [[リュー・エアーズ]]、俳優(* [[1908年]])
* 1996年 - [[ジャック・ナンス]]、俳優(* [[1943年]])
* [[1997年]] - [[星新一]]、[[SF作家]](* [[1926年]])
* [[1998年]] - [[木下惠介]]、[[映画監督]](* [[1912年]])
* [[1999年]] - [[小林與三次]]、[[実業家]]、[[読売新聞社]]元会長、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]元社長(* [[1913年]])
* 1999年 - [[天保義夫]]、元プロ野球選手(* [[1924年]])
* [[2003年]] - [[アニタ・ムイ]]、歌手(* [[1963年]])
* [[2004年]] - [[加藤正夫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1947年]])
* [[2006年]] - [[サッダーム・フセイン]]、[[イラクの大統領|イラク大統領]](* [[1937年]])
* [[2007年]] - [[バート・ボリン]]、[[気象学者の一覧|気象学者]]、[[気候変動に関する政府間パネル]](IPCC)初代議長(* [[1925年]])
* [[2008年]] - [[永井陽之助]]、[[政治学者]](* [[1924年]])
* 2008年 - [[山口開生]]、実業家(* [[1925年]])
* [[2009年]] - [[白柳誠一]]、ローマ教皇庁枢機卿(* [[1928年]])
* 2009年 - [[アブドゥルラフマン・ワヒド]]、[[インドネシアの大統領一覧|インドネシア大統領]](* [[1940年]])
* [[2013年]] - [[大瀧詠一]]、音楽作家(* [[1948年]])
* [[2014年]] - [[ルイーゼ・ライナー]]、[[俳優|女優]](* [[1910年]])
* 2014年 - [[宮尾登美子]]、[[小説家]](* [[1926年]])
* 2014年 - [[青木稔 (野球)|青木稔]]、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[2015年]] - [[田村錦人]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1928年]])
* 2015年 - [[奥原敏雄]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/bl/news/national/okuyami-detail.aspx?kid=20160107000407|title=奥原敏雄氏死去|publisher=BUSINESS LIVE|date=2016-01-07|accessdate=2020-11-21}}</ref>、教育者、国士舘大名誉教授(* [[1932年]])
* [[2017年]] - [[深水三章]]<ref name="sponichi_20180103">{{Cite news |title=深水三章さん急死 70歳、映画「楢山節考」「うなぎ」で名脇役 |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |date=2018-01-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/03/kiji/20180103s00041000040000c.html|accessdate=2020-11-07}}</ref>、[[俳優]](* [[1947年]])
* [[2019年]] - [[シド・ミード]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14313866.html|title=シド・ミードさん死去|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-01-01|accessdate=2020-12-11}}</ref><ref name="itmedia_20191231">{{Cite news |title = 未来を描いたデザイナー、巨匠シド・ミード氏、死去 |newspaper = ITmedia NEWS |date = 2019-12-31 |url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1912/31/news018.html |accessdate = 2020-10-30}}</ref>、[[工業デザイナー]](* [[1933年]])
* [[2020年]] - [[綿引勝彦]]<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2021/01/13/0014002629.shtml 俳優・綿引勝彦さん死去、75歳 膵臓がん] - デイリースポーツ online 2021年1月13日</ref>、俳優(* [[1945年]])
* 2020年 - [[ドーン・ウェルズ]]、[[俳優|女優]](* [[1938年]])<ref>{{Cite news|title=米女優のドーン・ウェルズさんがコロナ感染で死去 82歳 「ギリガン君SOS」に出演|newspaper=Sponichi Annex|date=2020-12-31|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/31/kiji/20201231s00041000102000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2021-01-28}}</ref>
* 2020年 - [[サミュエル・リトル]]、[[シリアルキラー]](* [[1940年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3324063|title=93人の殺害自白 「米史上最悪の連続殺人犯」死亡 80歳|newspaper=AFPBB NEWS|date=2020-12-31|accessdate=2021-01-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「米史上最悪の殺人犯」死亡 93人の殺害自供:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20201231055750/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020123100322&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-02-02|language=ja}}</ref>
* [[2023年]] - [[トム・ウィルキンソン]]、俳優(* [[1948年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[証券取引所]]の[[大発会・大納会|大納会]]、[[金融機関]]の最終営業日(土曜日・日曜日の場合は直近の平日)
* [[ホセ・リサール|リサール]]の日({{PHL}})
*: [[1896年]]のこの日、フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑されたことを記念。
* [[地下鉄]]記念日({{JPN}})
*: [[1927年]]のこの日、[[上野駅|上野]] - [[浅草駅|浅草]]間に[[日本]]初の[[地下鉄]](現・[[東京メトロ銀座線]])が開通したことを記念。
<!-- 現在はこの日ではない模様
* [[建国記念日]]({{ROU}})
*: [[1947年]]のこの日、王政を廃止し[[ルーマニア人民共和国]]が成立したことを記念。
-->
* [[KEIRINグランプリ]]
* [[東京シンデレラマイル]]
* [[日本レコード大賞]]([[2006年]]から)
* [[全日本大学女子選抜駅伝競走大会|富士山女子駅伝]]([[2015年]]から)
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1230|date=2011年7月}}
* [[2018年]] - [[インド]]のカリャンコットで300人以上が集団自殺し、後にSCP-3519と命名される自殺[[ミーム]]に関連付けられる<ref>{{Cite web|url=http://scp-jp.wikidot.com/scp-3519 |title=SCP-3519 |accessdate=2021-01-27 |website=[[SCP財団]]}}</ref>。
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 子獅子星座の蛮、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=9 |title=子獅子星座(ライオネット)の蛮(ばん) |access-date=2023-01-05 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』}}</ref>
* 生年不明 - 猿飛木ノ葉丸、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author= 岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002|title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher = 集英社|series = ジャンプ・コミックス|isbn = 4-08-873288-X|page = 70}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=85|isbn=4-08-873734-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|pae=73|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref>
* 生年不明 - [[コン (BLEACH)|コン]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=久保帯人 |authorlink=久保帯人 |year=2006 |title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |isbn=4-08-874079-3 |pages=48-49}}</ref>
* 生年不明 - ノゼル・シルヴァ、漫画、アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/bclover/chara/cat03/ |title=銀翼の大鷲 ノゼル・シルヴァ |access-date=2023-01-05 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - ロシア、漫画、アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWERSヘタリア2 |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=15 |author=日丸屋秀和 |isbn=978-4-344-81514-8}}</ref>
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#ベルトルト|ベルトルト・フーバー]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.shingeki-sp.net/shindb/index/c_ha_013 |title=進撃データベース |publisher=進撃の巨人for auスマートパス |accessdate=2020-07-16}}{{リンク切れ|date=2023年1月}}</ref>
* 生年不明 - 新開悠人、漫画、アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|1599628899369250820}}</ref>
* 生年不明 - 水守ゆめ莉、漫画、アニメ『[[推しが武道館いってくれたら死ぬ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.comic-ryu.jp/blog/2022/12/yumeriseitan_project2022/ |title=『推し武道』【水守 ゆめ莉生誕プロジェクト2022】開催のお知らせ‼ |access-date=2023-01-05 |publisher=[[徳間書店]] |date=2022-12-22}}</ref>
* 生年不明 - ロイド・ブレーム、アニメ『[[マクロスΔ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|macrossD|1344116051982884866}}</ref>
* 生年不明 - 周防克哉、ゲーム『[[ペルソナ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1476206377139941376}}</ref>
* 生年不明 - ベルンヘイム、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-1911 |title=ベルンヘイム|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2023-01-05|archiveurl= https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=1911|archivedate=2022-07-24}}</ref>
* 生年不明 - 黒川亜理紗、Web音楽配信企画『[[バンめし♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=白兎団『みんなおぼえて欲しいのですっ!』 |url=https://ameblo.jp/shirousagidan/entry-12549143740.html |website=白兎団活動報告 |accessdate=2023-01-05 |publisher=白兎団公式ブログ Powered by Ameba |date=2019-11-26}}</ref>
* 生年不明 - 蜂屋鉄、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_pos|814486210961776640}}</ref>
<!--
* 生年不明 - 日比野文、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ボーマン・ジーン、ゲーム『[[スターオーシャン セカンドストーリー]]』に登場するキャラクター-->
=== 忌日(フィクション) ===
* [[2014年]] - [[岡倉大吉]]、ドラマ『[[渡る世間は鬼ばかり]]』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|30 December}}
{{新暦365日|12|29|12|31|[[11月30日]]|[[1月30日]]|[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]|1230|12|30}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-27T17:24:03Z | 2023-12-31T04:57:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8830%E6%97%A5 |
5,339 | 1851年 | 1851年(1851 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
※皇紀は1873年、太陽暦採用と共に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 | [
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] | 1851年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1851}}
{{year-definition|1851}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[辛亥]]
* 日本([[天保暦]])
** 嘉永3年11月29日 - [[嘉永]]4年12月9日
** [[皇紀]]2511年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[咸豊]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
<!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし-->
** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]] 4184年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嗣徳]]4年
* [[仏滅紀元]]:2393年 - 2394年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1267年2月27日 - 1268年3月7日
* [[ユダヤ暦]]:5611年4月27日 - 5612年4月8日
* [[修正ユリウス日]](MJD):-2877 - -2513
* [[リリウス日]](LD):97964 - 98328
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は[[1873年]]、太陽暦採用と共に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1851}}
== できごと ==
* [[1月11日]]([[道光]]30年12月10日) - [[清]]の[[洪秀全]]が[[太平天国の乱]]を起こす。
* [[4月10日]]([[旧暦3月9日]]) - [[日本]]で[[株仲間再興令]]。
* [[5月1日]] - 第1回[[国際博覧会|万国博覧会]]である[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]が[[ロンドン]]の[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]で開幕(〜10月15日)
* [[7月25日]] - 露清間に[[イリ通商条約]]成立。
* [[8月12日]] - [[アイザック・メリット・シンガー]]が[[ミシン]]の特許を取得。
* [[9月18日]] - ヘンリ・レイモンドを編集者として、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙が創刊される。
* [[12月2日]] - フランス大統領[[ナポレオン3世|ルイ=ナポレオン・ボナパルト]](後の皇帝ナポレオン3世)、議会に対して[[1851年12月2日のクーデター|クーデター]]を起こし、独裁権力掌握。
* [[12月19日]] - 英外相第3代[[パーマストン子爵]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]、独断でルイ・ナポレオンのクーデタを支持表明した廉で罷免。以降[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]はラッセル派とパーマストン派に分裂。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1851年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]]([[嘉永]]3年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[矢野龍渓]]、[[ジャーナリスト]]・[[著作家]]・民権運動家(+ [[1931年]])
* [[1月19日]] - [[ヨハン・エイクマン]]、[[薬学者]]・[[化学者]](+ [[1915年]])
* [[2月6日]](嘉永4年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[那珂通世]]、[[歴史学者]](+ [[1908年]])
* [[2月8日]](嘉永4年[[1月8日 (旧暦)|1月6日]]) - [[岩崎弥之助]]、[[実業家]](+ [[1908年]])
* [[2月27日]] - [[ジェームズ・チャーチワード]]、[[作家]] [[ムー大陸]]説を唱えた人物。(+ [[1936年]])
* [[3月21日]] - [[アドルフ・ブロツキー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1929年]])
* [[4月4日]](嘉永4年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[荻野吟子]]、[[フェミニスト|女性運動家]]、女医第1号(+ [[1913年]])
* [[5月20日]](嘉永4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[山葉寅楠]]、[[ヤマハ]]創業者(+ [[1916年]])
* 5月20日 - [[エミール・ベルリナー]]、発明家(+ 1929年)
* [[6月13日]] - [[ジム・マトリー]]、[[メジャーリーグ]]監督(+ [[1938年]])
* [[6月16日]] - [[ゲオルグ・イェリネック]]、公法学者(+ [[1911年]])
* [[6月30日]](嘉永4年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])- [[伊沢修二]]、[[教育者]]・[[教育学者]](+ [[1917年]])
* [[7月10日]] - [[フリードリヒ・フォン・ヴィーザー]]、[[経済学者]](+ [[1926年]])
* [[9月13日]] - [[シャルル・ルルー]]、[[作曲家]](+ 1926年)
* [[10月13日]]([[嘉永]]4年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]) - [[矢田部良吉]]、[[植物学者]]・[[詩人]] (+ [[1899年]])
* [[11月5日]](嘉永4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[浅田信興]]、陸軍軍人(+ [[1927年]])
* [[11月6日]] - [[チャールズ・ダウ]]、ジャーナリスト・[[経済]][[アナリスト]](+ [[1902年]])
* [[11月7日]] - [[クリス・フォン・デア・アーエ]]、[[メジャーリーグ]]監督、オーナー(+ 1913年)
* [[11月19日]] - [[ウィリアム・ブルックス]]、[[農学者]](+ [[1938年]])
* [[11月21日]] - [[ボビー・マシューズ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1898年]])
* [[11月30日]](嘉永4年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[井上光]]、陸軍軍人(+ [[1908年]])
* [[12月8日]] - [[エミール・シェフネッケル]]、[[画家]](+ [[1934年]])
* [[12月20日]] - [[クヌート・ヴィクセル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Knut-Wicksell Knut Wicksell Swedish economist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、経済学者(+ 1926年)
* 生年不詳 - [[オレーター・シェーファー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1922年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1851年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月22日]]([[嘉永]]3年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[国定忠治]]、[[侠客]](* [[1810年]])
* [[1月27日]] - [[ジョン・ジェームズ・オーデュボン]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[画家]]・[[鳥類]]研究家(* [[1785年]])
* [[2月1日]] - [[メアリー・シェリー]]、[[イギリス]]の[[小説家]]、『[[フランケンシュタイン]]』著者(* [[1797年]])
* [[3月9日]] - [[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]、[[デンマーク]]の[[物理学]]者、[[化学]]者(* [[1777年]])
* [[3月12日]](嘉永4年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[水野忠邦]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1794年]])
* [[6月7日]](嘉永4年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]] )- [[篠崎小竹]]、[[儒教|儒学者]]・[[書家]](* [[1781年]])
* [[6月10日]] - [[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール]]、[[フランス]]の[[画家]]・[[写真家]](* [[1787年]])
* [[8月9日]] - [[カール・ギュツラフ]]、[[中国]]で活躍した[[ドイツ人]][[宣教師]](* [[1803年]])
* [[9月2日]] - [[ウィリアム・ニコル]]、[[スコットランド]]の物理学者(* [[1770年]])
* [[9月14日]] - [[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]]、アメリカの[[作家]]・[[批評家]]、『[[モヒカン族の最後]]』著者(* [[1789年]])
* [[12月19日]] - [[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]、イギリスの[[ロマン主義]]の画家(* [[1775年]])
== フィクションのできごと ==
* [[サイバーマン]]がサイバーキングを創り上げる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』){{要出典|date=2021-03}}
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1851}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:1851ねん}}
[[Category:1851年|*]] | 2003-03-27T17:26:49Z | 2023-11-12T11:58:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1851%E5%B9%B4 |
5,341 | 12月28日 | 12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。 | [
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] | 12月28日(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から362日目(閏年では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。 | {{カレンダー 12月}}
'''12月28日'''(じゅうにがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から362日目([[閏年]]では363日目)にあたり、年末まであと3日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Amarube Viaduct 1978-01.jpg|サムネイル|餘部鉄橋列車転落事故(1986)(写真は事故現場を走るキハ82系)|180x180ピクセル]]
* [[1065年]] - [[ロンドン]]の[[ウェストミンスター寺院]]が竣工し、[[聖別]]される。
* [[1321年]]([[元亨]]元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[後醍醐天皇]]が、[[後宇多天皇|後宇多法皇]]の[[院政]]を廃して[[親政]]を敷く。
* [[1767年]] - [[タイ王国|タイ]]の[[トンブリー王朝]]初代国王[[タークシン]]が戴冠。
* [[1832年]] - [[アメリカ合衆国副大統領]][[ジョン・カルフーン]]が上院議員に転出するため、史上初めて副大統領を辞任。
* [[1836年]] - [[スペイン]]が{{仮リンク|サンタマリア・カラトラバ条約|en|Santa María–Calatrava Treaty}}に調印し、[[メキシコ]]の独立を承認。これによりメキシコは、主権を宣言したスペインの最初の植民地になる<ref>{{Cite web |url=https://www.worldatlas.com/articles/when-did-mexico-gain-independence.html |title=When Did Mexico Gain Independence? |date=August 13 2019 |accessdate=8 Apr 2023 |publisher=WorldAtlas}}</ref>。
* [[1846年]] - [[アイオワ準州]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]29番目の州・[[アイオワ州]]となる。
* [[1857年]] - [[アロー戦争]]: [[広州の戦い (1857年)|広州の戦い]]はじまる。
* [[1885年]] - [[イギリス領インド帝国]]で[[インド国民会議]]結成。
* [[1888年]] - 文部省がすべての学校に対し、毎年4月に生徒の活力検査(身体検査)を実施するよう訓令する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/151375 |title=きょうは何の日 12月28日 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=28 Dec 2021}}</ref>。
* [[1890年]] - [[ウンデット・ニーの虐殺]] [[スー族]]インディアンのバンドに対して、米軍の[[第7騎兵連隊 (アメリカ軍)|第7騎兵連隊]]が行った[[民族浄化]]。
* [[1895年]] - パリで[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]を初めて商業公開。
* [[1908年]] - [[メッシーナ地震]]。地震と[[津波]]で死者推定8万2000人。
* [[1912年]] - [[サンフランシスコ市営鉄道]]が発足。
* [[1925年]] - 東京大角力協会が[[財団法人]]に改組し、大日本相撲協会(現 [[日本相撲協会]])を設立<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/today/?date=1228 |title=今日の蔵出しNHK 昭和23年(1948年) 寒中相撲 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。
* [[1941年]] - 「[[ターニャ・サヴィチェワ#ターニャの日記|ターニャの日記]]」の最初のページが書かれる。
* [[1945年]] - 旧宗教団体法を廃止し、勅令「[[宗教法人法#戦後|宗教法人令]]」を公布・施行。
* [[1950年]] - 日本輸出入銀行([[国際協力銀行]]の前身の一つ)が発足。
* [[1963年]] - 旧国鉄通勤型電車の主力となった、[[国鉄103系電車|103系]]がデビュー。
* [[1964年]] - [[京都タワー]]展望室が開業<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kyoto-tower.jp/about/ |title=京都タワーの歴史 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=KYOTO TOWER.}}</ref>。
* [[1965年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が、全車指定席の新幹線および在来線特急の1・2等車に対し、立席特急券の発売を開始。
* [[1972年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]で前日に制定された[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法|新憲法]]に基づき、[[金日成]]が新設の[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]に就任。
* [[1973年]] - アメリカで[[絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律]]施行。
* [[1974年]] - [[雇用保険法]]公布。
* [[1986年]] - [[余部橋梁#余部鉄橋列車転落事故|余部鉄橋列車転落事故]]: 鉄橋を通過中の香住発浜坂行きの下り回送列車が、日本海からの突風を受けて転落し、直下の水産加工場などを直撃。車掌と水産加工場の従業員5人の計6人が死亡。従業員と水産加工場の従業員計6人が重傷を負った<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20161128-JRSBHMW5YBNBFH74JNCLKVJCQI/2/ |title=鉄道史に残る惨事から30年、変わる「余部鉄橋」の風景…豪華寝台列車の撮影で人気 空の駅にはエレベーター |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=28 Nov 2016}}</ref>。
* [[1989年]] - [[ニューカッスル地震]]: マグニチュード5.6の地震が発生し、死者13人、160人以上の負傷者が発生<ref>{{Cite web|和書 |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/370/ |title=豪ニューカッスル地震(1989年) |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]]}}</ref>。
* [[1994年]] - [[三陸はるか沖地震]]: 三陸はるか沖を震源とするマグニチュード7.5の地震が発生。青森県を中心に、3人が死亡、788人が負傷、家屋損壊は9,522棟。また、約76,000軒で停電、42,000軒で断水被害<ref>{{Cite web|和書 |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/132/ |title=三陸はるか沖地震(1994年) |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]]}}</ref>。
* 1994年 - [[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]]が終了。
* [[1995年]] - 前日の[[新進党]]党首選挙で[[羽田孜]]を破った[[小沢一郎]]が第2代党首に就任。
* [[2009年]] - [[小学館]]より発行されていた[[少女漫画]]誌『[[ChuChu]]』ならびに児童雑誌『[[小学六年生]]』が休刊。
* [[2012年]] - [[松井秀喜]]が現役引退を表明する。
* [[2015年]] - 日本の外相[[岸田文雄]]と韓国外相の[[尹炳世]]が、[[日本の慰安婦|日本軍慰安婦問題]]で「最終的かつ不可逆的に解決」として合意<ref>{{Cite web|和書 |title=日韓慰安婦問題合意:外相会談「最終かつ不可逆的に」解決 |format={{pay}} |website=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2015-12-29 |url=https://mainichi.jp/articles/20151229/k00/00m/010/175000c |accessdate=8 Apr 2023}}</ref>。
* [[2020年]] - 同年[[10月16日]]に公開された映画『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編|劇場版「鬼滅の刃」無限列車編]]』の興行収入が324億円を突破。『[[千と千尋の神隠し]]』の約316億円を更新し、歴代1位の興行収入を記録した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.famitsu.com/news/202012/28212103.html |title=映画『鬼滅の刃 無限列車編』興行収入が324億円を突破。11週で『千と千尋の神隠し』を抜き歴代1位に |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |website=ファミ通.com |date=28 Dec 2020}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1164年]]([[長寛]]2年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[六条天皇]]、第79代[[天皇]](+ [[1176年]])
* [[1720年]] ([[享保]]5年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[松平頼済]]、第6代[[常陸府中藩|府中藩主]](+ [[1784年]])
* [[1728年]] (享保13年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[牧野惟成]]、第5代[[丹後田辺藩|田辺藩主]](+ [[1783年]])
* [[1789年]] - [[トマス・ユーイング]]、第14代[[アメリカ合衆国財務長官]]、初代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1871年]])
* [[1793年]] ([[寛政]]5年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]) - [[黒田直侯]]、第6代[[久留里藩|久留里藩主]](+ [[1850年]])
* [[1812年]] - [[ユリウス・リーツ]]<ref>{{Cite web |url=https://librariesaustralia.nla.gov.au/search/display?dbid=auth&id=36141596 |title=Rietz, August Wilhelm Julius, 1812-1877 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=National Library of Australia}}</ref>、[[指揮者]]、[[チェリスト]]、[[作曲家]](+ [[1877年]])
* [[1851年]] ([[嘉永]]4年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[堀田正倫]]、第6代[[佐倉藩|佐倉藩主]]・[[伯爵]](+ [[1911年]])
* [[1856年]] - [[ウッドロウ・ウィルソン]]<ref>{{Cite web |title=Woodrow Wilson {{!}} Biography, Presidency, & Accomplishments |url=https://www.britannica.com/biography/Woodrow-Wilson |website=Britannica |access-date=8 Apr 2023}}</ref>、第28代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1924年]])
* [[1858年]] - [[リッカルド・ベリ]]、[[画家]](+ [[1919年]])
* [[1860年]]([[万延]]元年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[郡司成忠]]、[[海軍軍人]]、[[探検家]](+ [[1924年]])
* [[1865年]] - [[フェリックス・ヴァロットン]]、画家(+ [[1925年]])
* [[1874年]] - [[田澤稲舟]]、[[小説家]](+ [[1896年]])
* [[1878年]] - [[ウィリアム・ミッチェル]]、[[軍人]](+ [[1936年]])
* [[1881年]] - [[森恪]]、[[政治家]](+ [[1932年]])
* [[1882年]] - [[倉橋惣三]]、教育者(+[[1955年]])
* 1882年 - [[アーサー・エディントン]]、[[天文学者]](+ [[1944年]])
* 1882年 - [[リリー・エルベ]]、画家、イラストレータ (+ [[1931年]])
* [[1885年]] - [[ウラジーミル・タトリン]]、画家、[[彫刻家]]、[[建築家]]、[[デザイナー]]、[[舞台美術|舞台美術家]](+ [[1953年]])
* [[1900年]] - [[カール・フォン・ガラグリ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](+ [[1984年]]<ref>Booklet of "Stockholm Philharmonic Orchestra 75 years 1914-1989"<BIS CD-421/424></ref>)
* 1900年 - [[久保栄]]、[[劇作家]]、[[演出家]](+ [[1958年]])
* 1900年 - [[テッド・ライオンズ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1986年]])
* [[1902年]] - [[井植歳男]]、[[三洋電機]]創業者(+ [[1969年]])
* [[1903年]] - [[ジョン・フォン・ノイマン]]、[[数学者]](+ [[1957年]])
* [[1904年]] - [[堀辰雄]]、[[作家]](+ [[1953年]])
* [[1908年]] - [[フェリシア・ブルメンタール]]、[[ピアニスト]](+ [[1991年]])
* [[1914年]] - [[上原げんと]]、[[作曲家]](+ [[1965年]])
* [[1916年]] - [[伊藤健太郎 (野球)|伊藤健太郎]]、元プロ野球選手(+ [[1944年]])
* [[1919年]] - [[茂山千作 (4世)]]、狂言師(+ [[2013年]])
* [[1922年]] - [[スタン・リー]]、[[漫画家]] (+ [[2018年]])
* [[1923年]] - [[ヨーゼフ・ハシッド]]、ヴァイオリニスト(+ [[1950年]])
* [[1932年]] - [[ディルバイ・アンバニ]]、[[実業家]]、[[リライアンス・インダストリーズ]]創業者(+ [[2002年]])
* 1932年 - [[マヌエル・プイグ]]、[[作家]](+ [[1990年]])
* 1932年 - [[ニシェル・ニコルズ]]、[[俳優|女優]](+ [[2022年]])
* [[1934年]] - [[石原裕次郎]]、[[俳優]] 、[[歌手]] ※戸籍上の生年月日は[[1935年]][[1月3日]](+ [[1987年]])
* 1934年 - [[マギー・スミス]]、女優
* 1934年 - [[アラスター・グレイ]]、小説家、画家、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[2019年]])
* 1934年 - [[相生千恵子]]、女優、[[声優]](+ [[2013年]])
* 1934年 - [[山下登]]、元プロ野球選手(+ [[1976年]])
* [[1935年]] - [[松尾聰 (実業家)|松尾聰]]、実業家、元[[カルビー]][[代表取締役]][[社長]](+[[2020年]])
* [[1936年]] - [[添島義和]]、歯科医師(+[[2010年]])
* [[1937年]] - [[ラタン・タタ]]、実業家、[[タタ・グループ]]会長
* [[1938年]] - [[高屋俊夫]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[渡哲也]]、俳優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=俳優の渡哲也さんが死去 肺炎、78歳、家族葬…故人の遺志によりお別れ会なし |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=2020-08-14 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2020/08/14/0013603987.shtml |accessdate=8 Apr 2023}}</ref>)
* [[1942年]] - [[市田忠義]]、政治家
* [[1943年]] - {{仮リンク|リチャード・ホワイトリー|en|Richard Whiteley}}、司会者、ジャーナリスト(+ [[2005年]])
* [[1944年]] - [[キャリー・マリス]]、[[化学者]](+ 2019年)
* [[1949年]] - [[北村薫]]、作家
* 1949年 - [[佐々木恭介]]、元プロ野球選手、監督
* 1949年 - [[辻博司]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[リチャード・クレイダーマン]]、ピアニスト
* 1953年 - [[藤波辰爾]]、[[プロレスラー]]
* 1953年 - [[シクスト・レスカーノ]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[デンゼル・ワシントン]]、俳優
* [[1955年]] - [[村木厚子]]、元厚生労働省事務次官
* [[1956年]] - [[ナイジェル・ケネディ]]、ヴァイオリニスト
* [[1957年]] - [[当山ひとみ]]、歌手
* 1957年 - [[イー・トンシン]]、俳優、映画監督
* [[1958年]] - [[藤山直美]]、女優
* [[1959年]] - [[武田美穂]]、絵本作家、イラストレーター、児童文学作家
* 1959年 - [[黒木真由美]]、女優
* 1959年 - [[友利正]]、元プロボクサー
* [[1960年]] - [[渡部潤一]]、[[天文学者]]
* 1960年 - [[一ノ矢充]]、元大相撲力士
* 1960年 - [[森下申一]]、[[サッカー選手]]、指導者
* [[1961年]] - [[吉田学 (厚生労働官僚)|吉田学]]、官僚
* [[1962年]] - [[ミシェル・ペトルチアーニ]]、[[ジャズ]]ピアニスト(+ [[1999年]])
* [[1964年]] - [[山口香]]、柔道指導者、元[[柔道]]選手
* [[1966年]] - [[高井麻巳子]]、元歌手、元[[タレント]](元[[おニャン子クラブ]])
* 1966年 - [[トータス松本]]、歌手([[ウルフルズ]])
* [[1967年]] - [[高井美紀]]、[[アナウンサー]](+ [[2023年]])
* [[1968年]] - [[星出彰彦]]、[[宇宙飛行士]]
* 1968年 - [[亀井猛斗]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[田野めぐみ]]、声優
* [[1969年]] - [[リーナス・トーバルズ]]、[[Linuxカーネル]]開発者
* 1969年 - [[ロドニー・ペドラザ]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[井上嘉浩]]、元[[オウム真理教]]幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]])
* [[1970年]] - [[雨宮塔子]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1970年 - [[富永美樹]]、フリーアナウンサー
* 1970年 - [[細川和彦]]、[[プロゴルファー]]
* 1970年 - [[山原和敏]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[北田暁大]]、[[社会学者]]
* 1971年 - [[豊嶋真千子]]、声優
* 1971年 - {{仮リンク|フランク・セペ|en|Frank Sepe}}、ボディビルダー
* 1971年 - [[ベニー・アグバヤニ]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[メルビン・ニエベス]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[寺島しのぶ]]、女優
* 1972年 - [[大隅智子]]、気象予報士、防災士
* 1972年 - [[加藤えり]]、フリーアナウンサー
* 1972年 - [[三宅藤九郎 (10世)]]、狂言師
* 1972年 - [[スパコン・ギッスワーン]]、俳優
* 1972年 - {{仮リンク|ロベルト・パラシオス|en|Roberto Palacios}}、元サッカー選手
* 1972年 - [[アダム・ビナティエリ]]、アメリカンフットボール選手
* [[1973年]] - [[朝比奈まり]]、タレント、[[グラビアアイドル]]
* 1973年 - 小牧芽美<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2090006473/ |title=小牧芽美 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref>、女優
* 1973年 - 桜木駿、[[AV男優]]
* 1973年 - {{仮リンク|イツ・ポストマ|en|Ids Postma}}、元スピードスケート選手
* 1973年 - [[セス・マイヤーズ]]、俳優、コメディアン
* [[1974年]] - {{仮リンク|ロブ・ニーダーマイヤー|en|Rob Niedermayer}}、アイスホッケー選手
* 1974年 - [[海老川兼武]]、[[メカニックデザイナー]]
* [[1975年]] - [[村井かずさ]]、声優
* 1975年 - [[北浜健介]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* 1975年 - [[玉ノ国光国]]、元大相撲力士
* 1975年 - [[B・J・ライアン]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[重野なおき]]、[[4コマ漫画|4コマ]][[漫画家]]
* 1976年 - [[福原忍]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[井戸伸年]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[ジョン・レジェンド]]、[[ソウルミュージック]]歌手
* [[1979年]] - [[太田芳文]]、ハンドボール選手
* 1979年 - [[高橋梨香]]、競輪選手
* 1979年 - 永沢たかし、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[磁石 (お笑いコンビ)|磁石]])
* 1979年 - [[倉持茜]]、元[[AV女優]]
* 1979年 - [[ビル・ホール]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ジェームズ・ブレーク (テニス選手)|ジェームズ・ブレーク]]、テニス選手
* 1979年 - {{仮リンク|ダニエル・フォルファン|en|Daniel Forfang}}、スキージャンプ選手
* 1979年 - {{仮リンク|クラウディア・プレサカン|en|Claudia Presecan}}、体操選手
* 1979年 - {{仮リンク|ビー・タイト|en|B-Tight}}、ラッパー
* [[1980年]] - [[村田修一]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[ヴァネッサ・フェルリト]]、女優
* 1980年 - [[ロマノ・ルア=ルア]]、サッカー選手
* [[1981年]] - [[ハリド・ブラールズ]]、元サッカー選手
* 1981年 - [[ミカ・ヴァイリネン]]、サッカー選手
* 1981年 - [[シエナ・ミラー]]、モデル、女優、ファッションデザイナー
* [[1982年]] - 瀬戸洋祐、お笑い芸人([[スマイル (お笑いコンビ)|スマイル]])
* 1982年 - [[椎名千里]]、フィギュアスケート選手
* 1982年 - {{仮リンク|セドリック・ベンソン|en|Cedric Benson}}、元アメリカンフットボール選手 (+ [[2019年]])
* [[1983年]] - [[中村藍子]]、プロテニス選手
* 1983年 - [[賀軍翔]]、俳優
* [[1984年]] - [[岩﨑達郎]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[增菘瑋]]、プロ野球選手
* 1984年 - 吉本大、お笑い芸人([[ダイタク]])
* 1984年 - 吉本拓、お笑い芸人(ダイタク)
* 1984年 - [[リロイ・リタ]]、サッカー選手
* 1984年 - TEEDA、ミュージシャン([[BACK-ON]])
* 1984年 - [[今成佳奈]]、シンガーソングライター
* 1984年 - [[キンバリー・ミックル]]、陸上競技選手
* 1984年 - [[稲田直樹]]、お笑い芸人([[アインシュタイン (お笑いコンビ)|アインシュタイン]])
* [[1985年]] - [[江波戸ミロ]]、元女優
* [[1986年]] - [[石田スイ]]、漫画家
* 1986年 - [[和田兼輔]]、競艇選手
* 1986年 - [[高橋良太]]、元サッカー選手
* 1986年 - [[トム・ハドルストーン]]、サッカー選手
* 1986年 - [[渡辺マナミ|Aimmy]]、歌手([[樹海 (音楽ユニット)|樹海]])
* [[1987年]] - [[岡田唯]]、元歌手、元タレント(元[[美勇伝]])
* 1987年 - [[室たつき]]、タレント
* 1987年 - [[トーマス・ポールソン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1988年]] - [[倉里麻未]]、グラビアアイドル
* 1988年 - [[桐江杏奈]]、声優、女優
* 1988年 - [[豊田裕也]]、元俳優
* [[1989年]] - [[臼井理恵]]、元サッカー選手
* 1989年 - [[森本華江]]、元サッカー選手
* 1989年 - {{仮リンク|マッケンジー・ロスマン|en|Mackenzie Rosman}}、女優
* [[1990年]] - [[鎌田章吾]]、歌手
* 1990年 - [[デヴィッド・アーチュレッタ]]、歌手
* 1990年 - [[マルコス・アロンソ・メンドーサ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[アエレ・アブシェロ]]、陸上選手
* 1990年 - [[藤井翼 (陸上選手)|藤井翼]]、陸上選手
* [[1991年]] - [[大家志津香]]、タレント(元[[AKB48]])
* 1991年 - [[副島萌生]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* 1991年 - [[高野圭佑]]、元プロ野球選手
* [[1992年]] - [[数原龍友]]、[[ボーカル]]、[[パフォーマー]] ([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* 1992年 - [[吉田菫]]、ミュージシャン([[SILENT SIREN]])
* [[1993年]] - [[新川優愛]]、女優、ファッションモデル
* 1993年 - [[松村龍之介]]、俳優
* 1993年 - [[三浦優奈]]、タレント、キャスター
* 1993年 - [[京川舞]]、サッカー選手
* 1993年 - [[石塚弘章]]、ラグビー選手
* 1993年 - [[越田勝利]]、元ラグビー選手
* [[1994年]] - [[志村玲那]]、女優、歌手(元[[キグルミ]])
* 1994年 - [[前田憂佳]]、元歌手、元[[アイドル]](元[[スマイレージ]])
* 1994年 - [[左澤優]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[ロベルト・ラモス]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[宇賀神メグ]]、アナウンサー
* 1995年 - [[萩原京平]]、総合格闘家
* [[1996年]] - [[藤田奈那]]、女優、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1996年 - [[吉本実憂]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/08/22/kiji/K20120822003951360.html |title=国民的美少女コンテスト 10年ぶりWグランプリ |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>、女優、元アイドル(元[[X21]])
* 1996年 - [[大山海]]、漫画家
* [[1997年]] - [[片岡尚之]]、プロゴルファー
* 1997年 - [[横山楓]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[鈴木茜音]]、女優、モデル
* 1998年 - [[架乃ゆら]]、AV女優、タレント
* 1998年 - [[加藤蓮]]、サッカー選手
* 1998年 - [[猫はるな]]、[[プロレスラー]]
* [[1999年]] - [[小西聖也]]、バスケットボール選手
* 1999年 - 前田星奈<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ray-web.jp/members/1020 |title=前田星奈 |access-date=4 Aug 2023 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS Co., Ltd.]] |website=Ray}}</ref>、モデル、レースクィーン
* [[2000年]] - ハナエモンスター、アイドル(元[[豆柴の大群]])
* 2000年 - [[宮川愛李]]<ref>{{Twitter status|imoko_____|946372842207174656}}</ref>、歌手
* 2000年 - [[佐久間乃愛]]、ファッションモデル
* [[2001年]] - [[田中龍馬]]、柔道家
* 生年不明 - [[中島千晶]]、アナウンサー
* 生年不明 - [[大清水さち]]、漫画家
* 生年不明 - [[藤本彩花]]<ref>{{Cite web|和書 |publisher=EARLY WING |url=http://www.earlywing.co.jp/pretalent_w/fujimotoayaka.html |title=藤本 彩花 |accessdate=8 Apr 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[下山田綾華]]、声優
== 忌日 ==
* [[1367年]]([[正平 (日本)|正平]]22年/[[貞治]]6年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[足利義詮]]、[[室町幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1330年]])
* [[1503年]] - [[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ共和国]]の指導者(* [[1472年]])
* [[1561年]]([[永禄]]4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[長野業正]]、[[武将|戦国武将]](* [[1491年]])
* [[1570年]]([[元亀]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[織田信興]]、戦国武将
* [[1582年]]([[天正]]10年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[土岐頼芸]]、[[美濃国]]の[[戦国大名]](* [[1502年]])
* [[1622年]] - [[フランシスコ・サレジオ]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1567年]])
* [[1663年]] - [[フランチェスコ・マリア・グリマルディ]]、[[数学者]]、[[物理学者]](* [[1618年]])
* [[1694年]] - [[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]、[[イングランド王国|イングランド]]女王(* [[1662年]])
* [[1703年]] - [[ムスタファ2世]]、[[オスマン帝国]]の[[スルターン]](* [[1664年]])
* [[1728年]]([[享保]]13年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[一平安代]]、[[刀工]](* [[1680年]])
* [[1736年]] - [[アントニオ・カルダーラ]]、[[作曲家]](* [[1670年]])
* [[1772年]]([[安永 (元号)|安永]]元年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]])- [[浄岸院]]、[[島津継豊]]の[[継室]](* [[1705年]])
* [[1829年]] - [[ジャン=バティスト・ラマルク]]、[[博物学|博物学者]](* [[1744年]])
* [[1850年]] - [[ハインリッヒ・シューマッハ]]、[[天文学者]](* [[1780年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]) - [[坂東三津五郎 (4代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1800年]])
* [[1892年]] - [[山本覚馬]]、[[会津藩|会津藩士]]、[[教育者]](* [[1828年]])
* [[1903年]] - [[ジョージ・ギッシング]]、[[小説家]](* [[1857年]])
* [[1916年]] - [[エドゥアルト・シュトラウス1世]]、作曲家、指揮者(* [[1835年]])
* [[1919年]] - [[ヨハネス・リュードベリ]]、物理学者(* [[1854年]])
* [[1924年]] - [[レオン・バクスト]]、[[画家]]、舞台美術家(* [[1866年]])
* [[1932年]] - [[マルコム・ホイットマン]]、[[テニス]]選手(* [[1877年]])
* [[1934年]] - [[安達峰一郎]]、[[外交官]]、[[常設国際司法裁判所]]所長(* [[1869年]])
* [[1937年]] - [[モーリス・ラヴェル]]、作曲家(* [[1875年]])
* [[1938年]] - [[益田孝]]、[[実業家]]、[[中外商業新報|中外物価新報]]([[日本経済新聞]])創業者(* [[1848年]])
* 1938年 - [[坂東彦三郎 (6代目)]]、歌舞伎役者(* [[1886年]])
* [[1945年]] - [[セオドア・ドライサー]]、小説家(* [[1871年]])
* [[1946年]] - [[エリー・ナーデルマン]]、[[彫刻家]](* [[1882年]])
* [[1947年]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、[[イタリア王国|イタリア王]](* [[1869年]])
* [[1949年]] - [[ジャック・ラブロック]]、[[陸上競技]]選手(* [[1910年]])
* [[1950年]] - [[マックス・ベックマン]]、[[画家]](* [[1884年]])
* [[1955年]] - 3代目[[柳亭市馬]]、[[落語家]](* [[1902年]])
* [[1959年]] - [[アンテ・パヴェリッチ]]、[[クロアチア独立国]]の指導者(* [[1889年]])
* [[1963年]] - [[パウル・ヒンデミット]]、作曲家(* [[1895年]])
* 1963年 - [[ジョゼフ・マリオッコ]]、[[マフィア]]の[[ボス]](* [[1898年]])
* [[1968年]] - [[北村サヨ]](大神様)、[[宗教家]]、[[天照皇大神宮教]]教祖(* [[1900年]])
* [[1971年]] - [[マックス・スタイナー]]、作曲家(* [[1888年]])
* 1971年 - [[飯野矢住代]]、[[1968年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]](* [[1950年]])
* [[1974年]] - [[三島海雲]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.calpis.info/knowledge/developer/ |title=カルピスの生みの親 三島海雲 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[アサヒ飲料|ASAHI SOFT DRINKS Co.,LTD.]]}}</ref>、実業家、[[カルピス]]創業者(* [[1878年]])
* 1974年 - [[高木卓]]、小説家(* [[1907年]])
* [[1976年]] - [[伊波南哲]]、詩人(* [[1902年]])
* 1976年 - [[フレディ・キング]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](* [[1934年]])
* [[1977年]] - [[呉茂一]]、[[西洋古典学|西洋古典学者]](* [[1897年]])
* [[1978年]] - [[田宮二郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2016/03010500/?all=1 |title=「田宮二郎」謎の猟銃自殺の真相は英国ロンドンで秘密手術 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[新潮社]] |website=デイリー新潮 |date=1 Mar 2016}}</ref>、俳優(* [[1935年]])
* [[1980年]] - [[等松農夫蔵]]、[[監査法人トーマツ]]創業者(* [[1896年]])
* [[1981年]] - [[横溝正史]]、[[推理作家]](* [[1902年]])
* [[1982年]] - [[岸田森]]、俳優(* [[1939年]])
* [[1983年]] - [[デニス・ウィルソン]]、[[ロック (音楽)|ロック]][[ドラマー]]([[ザ・ビーチ・ボーイズ]])(* [[1944年]])
* [[1984年]] - [[糸居五郎]]、元[[ニッポン放送]][[アナウンサー]]、日本の[[ディスクジョッキー|DJ]]の元祖(* [[1921年]])
* 1984年 - [[サム・ペキンパー]]、[[映画監督]](* [[1925年]])
* [[1986年]] - [[佐々木孝丸]]、[[俳優]]、[[プロレタリア作家]]、[[演出家]](* [[1898年]])
* [[1989年]] - [[ヘルマン・オーベルト]]、[[ロケット]][[技術者]](* [[1894年]])
* [[1991年]] - [[カサンドラ・ハリス]]、[[俳優|女優]]・[[ボンドガール]](* [[1952年]])
* [[1992年]] - [[清水達夫]]、雑誌[[編集者]]、[[マガジンハウス]]創業者(* [[1913年]])
* 1992年 - [[サル・マグリー]]、元プロ野球選手(* [[1917年]])
* [[1998年]] - [[坪内寿夫]]、実業家(* [[1914年]])
* 1998年 - [[ロバート・ローゼン]]、[[理論生物学|理論生物学者]](* [[1934年]])
* [[1999年]] - [[簑原宏]]、元[[プロ野球選手]](* [[1929年]])
* [[2000年]] - [[斎藤十一]]、雑誌編集者(* [[1914年]])
* [[2002年]] - [[蔵原惟繕]]、映画監督(* [[1927年]])
* 2002年 - [[安西郷子]]、女優(* [[1934年]])
* [[2004年]] - [[今村泰二]]、[[動物学|動物学者]]、[[ミズダニ]]研究の世界的権威(* [[1913年]])
* 2004年 - [[スーザン・ソンタグ]]、作家(* [[1933年]])
* [[2005年]] - [[永谷嘉男]]、実業家、[[永谷園]]創業者(* [[1923年]])
* [[2006年]] - [[安部幸明]]、作曲家(* [[1911年]])
* [[2007年]] - [[嵯峨逸平]]、実業家(* [[1927年]])
* 2007年 - [[服部幸雄]]、歌舞伎研究家(* [[1932年]])
* 2007年 - [[アイディン・ニックハ・バーラミ]]、[[バスケットボール]]選手(* [[1982年]])
* [[2010年]] - [[高峰秀子]]、女優(* [[1924年]])
* 2010年 - [[竜鉄也]]、[[歌手]](* [[1936年]])
* [[2011年]] - [[杉原輝雄]]、[[プロゴルファー]](* [[1937年]])
* 2011年 - [[内藤陳]]、俳優(* [[1936年]])
* [[2012年]] - [[岡本敦郎]]、[[歌手]](* [[1924年]])
* [[2013年]] - [[紀野一義]]、[[仏教学者]]、[[宗教家]](* [[1922年]])
* [[2015年]] - [[レミー・キルミスター]]、[[ミュージシャン]]([[モーターヘッド]])(* [[1945年]])
* [[2016年]] - [[デビー・レイノルズ]]、女優、歌手(* [[1932年]])
* 2016年 - [[ピエール・バルー]]、音楽家、俳優(* [[1934年]])
* [[2017年]] - [[真屋順子]]、女優(* [[1942年]])
* [[2018年]] - [[高梨英夫]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20181229/ddm/035/060/077000c |title=訃報 高梨英夫さん 76歳=大昭和製紙北海道元監督 |publisher=[[毎日新聞]] |date=29 Dec 2018 |accessdate=8 Apr 2023}}</ref>、[[野球選手]](* [[1942年]])
* 2018年 - [[藤田淑子]]<ref name="CDジャーナル">{{Cite web|和書 |url=https://artist.cdjournal.com/a/fujita-toshiko/801198 |title=藤田淑子 |work=CDJournal |publisher=株式会社 シーディージャーナル [[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |accessdate=8 Apr 2023}}</ref>、[[声優]](* [[1950年]])
* [[2020年]] - [[鈴木登紀子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210108-OYT1T50180/ |title=料理研究家の鈴木登紀子さん死去…96歳、「きょうの料理」に長年出演 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[讀賣新聞オンライン]] |date=8 Jan 2021}}</ref>、[[料理研究家]](* [[1924年]])
* 2020年 - [[森川倶志]]、[[バンドネオン]]奏者(* [[1936年]])
* 2020年 - [[浜口末男]]、[[カトリック教会]][[聖職者]](* [[1948年]])
* 2020年 - [[パウル=ハインツ・ディートリヒ]]、作曲家(* [[1930年]])
* 2020年 - [[フー・ツォン]]、[[ピアニスト]](* [[1934年]])
* 2020年 - [[アルマンド・マンサネーロ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3323774 |title=「アドロ」のメキシコ歌手マンサネーロさん、コロナで死去 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News}}</ref>、作曲家・歌手(* [[1935年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2015年]] - [[フジキセキ]]、[[競走馬]](* [[1992年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[官公庁]][[御用納め]]・[[仕事納め]]({{JPN}})
*: [[1873年]]から、[[公務員]]による官公庁の仕事は、[[12月29日]]から翌[[1月3日]]までを[[休暇]]とすることが[[法 (法学)|法]]で定められており、28日が仕事納め(例:[[東京都庁]]や[[大阪府庁]]など)となる(翌[[12月29日]]~[[1月3日]]までは、[[年末年始]]閉庁の期間に入る)。通常は[[12月]]28日であるが、土・日曜日の場合は直前の[[金曜日]]となる。[[1869年]]から改暦前までは[[12月29日 (旧暦)|旧12月29日]](年によっては[[大晦日]])から[[1月3日 (旧暦)|旧1月3日]]まであった。
* 多くの地域ではこの日に[[鏡餅]]をつく。({{JPN}})
* [[ディスクジョッキー]]の日({{JPN}})
*: 日本で最初の本格的なディスクジョッキーとして活躍した[[糸居五郎]]を称え、DJ界の発展を願い、[[ラヂオプレス]]の[[上野修 (ラジオプロデューサー)|上野修]]が制定。日付は糸井氏の命日[[1984年]]12月28日に由来<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=248|isbn=978-4422021157}}</ref>。
* [[身体検査]]の日({{JPN}})
*: [[1888年]]のこの日、[[文部省]](現・[[文部科学省]])がすべての[[学校]]に[[在籍者 (学習者)|生徒]]の身体検査の実施を[[訓令]]した。
* [[シネマトグラフ]]の日
*: [[1895年]]のこの日、パリで[[リュミエール兄弟]]が発明した世界初の映画であるシネマトグラフの[[工場の出口|初の商業公開が行われた]]。
* [[幼児虐殺|幼子殉教者]]の記念日 (Childmas, Innocents' Day)([[カトリック教会]])
*: [[イエス・キリスト]]誕生の3日後、[[ヘロデ大王|ヘロデ王]]は[[ベツレヘム]]周辺の2歳以下の男の子を全て殺害するように命令した。キリストの身代わりとして罪なく殺された幼な子のためにミサが行われる。
* 納め不動({{JPN}})
** [[不動明王]]の年内最後の[[縁日]]。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1228|date=Apr 2023}}
* [[2000年]] - 国会議事堂が爆破され、多数の議員が死亡する。(映画『[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年 第1章 終わりの始まり]]』)
* [[2001年]] - DL6号事件が発生。御剣信弁護士が殺害される。(ゲーム『[[逆転裁判]]』)
* [[2016年]] - [[狩魔豪]]がDL6号事件の真犯人として逮捕され、公訴時効寸前で事件が終結する。(ゲーム『逆転裁判』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 2078年 - ドモン、特撮『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 牧野つくし、漫画・アニメ『[[花より男子]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://futaman.futabanet.jp/articles/-/121334?page=1 |title=『花より男子』主人公・牧野つくしの誕生日! 究極の難題…道明寺司と花沢類「つきあいたいのは2人のどっち」女性読者が選ぶのは? |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[双葉社]] |date=28 Dec 2021 |website=ふたまん+}}</ref>
* 生年不明 - [[朝倉純一]]、ゲーム・アニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜|D.C. ~ダ・カーポ~]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc2ps/character/jun.html |title=朝倉純一 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.II P.S.~ダ・カーポII~プラスシチュエーション』}}</ref>
* 生年不明 - 朝倉音夢、ゲーム・アニメ『D.C. ~ダ・カーポ~』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc_heroine_details.html |title=朝倉 音夢 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ~ プラスシチュエーション』}}</ref>
* 生年不明 - トト、童話『[[魔女の宅急便]]』に登場するキャラクター<ref name="kiki">{{Cite book |和書|author=角野栄子|authorlink=角野栄子|ilusto=佐竹美保|date=2009-10-15|title=魔女の宅急便 〈その6〉それぞれの旅立ち|publisher=[[福音館]]|series=福音館創作童話シリーズ|isbn=978-4834024661}}</ref>
* 生年不明 - ニニ、童話『魔女の宅急便』に登場するキャラクター<ref name="kiki"/>
* 生年不明 - 湯平燈華、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/yunohira_touka |title=大分 湯平燈華 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - ビリー・アンダーソン、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ブラックスワン、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=58 |title=ブラックスワン |access-date=8 Apr 2023 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』}}</ref>
* 生年不明 - 靴木白糖、漫画『[[バリハケン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 中西秀二、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジャンゴ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Django.html |title=ジャンゴ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=8 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 漆間恒、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー|ワールド・トリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1475482854524002306}}</ref>
* 生年不明 - ホークス(鷹見啓悟)、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-26/ |title=ホークス |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=8 Apr 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - [[竈門禰豆子|竈門禰󠄀豆子]]、漫画・アニメ『[[鬼滅の刃]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kimetsu.com/anime/news/?id=55949#:~:text=竈門禰豆子バースデーイラスト,を公開いたしました! |title=2020.12.28 竈門禰豆子バースデーイラストを公開! |accessdate=8 Apr 2023 |publisher=[[アニプレックス]] |work=『鬼滅の刃』}}</ref>
* 生年不明 - 桐須真冬、漫画・アニメ『[[ぼくたちは勉強ができない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=筒井大志|authorlink=筒井大志|date=2019-11-01 |title = ぼくたちは勉強ができない |volume = 14巻 |page = 155 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn=978-4088820835 }}</ref>
* 生年不明 - 武田勝利、漫画・アニメ『[[電波教師]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 言葉・S・サリンジャー、漫画『[[なのは洋菓子店のいい仕事]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://blog.wakakitamiki.coolblog.jp/?eid=1311322 |title=7/16:単行本告知+なの菓子第9-12話「理論派女子と65℃の紅茶 |date=2015-07-16 |accessdate=8 Apr 2023 |publisher=[[若木民喜]]}}</ref>
* 生年不明 - 霞ヶ谷翠、漫画・アニメ『[[天使とアクト!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[東谷小雪]]、漫画・アニメ『[[ケロロ軍曹]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アーナ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERADアルティメットガイド|series=BLADE COMICS|page=55|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861276163}}</ref>
* 生年不明 - 緋山蘇芳 、漫画・アニメ『[[恋愛暴君]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 言峰綺礼、小説・アニメ『[[Fate/Zero|Fate]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ufotable|1207593966977183744}}</ref>
* 生年不明 - 結城千夏、アニメ『[[元気爆発ガンバルガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.eldran.net/gambaruger/chara/02.html |title=キャラ 結城千夏 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] |work=『元気爆発ガンバルガー』}}</ref>
* 生年不明 - フェルト・グレイス、アニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 雪音クリス、アニメ『[[戦姫絶唱シンフォギア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.symphogear-gx.com/characters/chris.php |title=雪音 クリス(CV:高垣 彩陽) |access-date=8 Apr 2023 |publisher=Project シンフォギアGX |work=『戦姫絶唱シンフォギアGX』}}</ref>
* 生年不明 - ガルドラン・イムタック、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 新田シン、ゲーム・アニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vanguard_zero_|1607753305731600384}}</ref>
* 生年不明 - 松原早耶、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20151 |title=松原 早耶(まつばら さや) |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 未来、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?mirai&mode=1 |title=未来 |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |work=『閃乱カグラ』シリーズ シノビ少女図鑑}}</ref>
* 生年不明 - 夜木沼伊緒、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/io.html |title=夜木沼 伊緒 |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=4 Aug 2023 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]]}}</ref>
* 生年不明 - 風早巽、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/kazehaya_tatsumi/ |title=風早 巽 |accessdate=8 Apr 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |website=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - ツヴァイ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=97&cate=name&cont=Zwei |title=ツヴァイ |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 月岡紬、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=キャラクター|冬組 月岡 紬 |accessdate=8 Apr 2023 |work=『A3!』 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - ランファ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://priconne-redive.jp/ele-wp/wp-content/themes/redive/character/77.php |title=ランファ |access-date=8 Apr 2023 |publisher=[[Cygames]] |work=『プリンセスコネクト!Re:Dive』}}</ref>
* 生年不明 - 鬼塚冬毬、アニメ『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター
=== 忌日(フィクション) ===
* [[1882年]] - ゆうぎり、アニメ『[[ゾンビランドサガ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://zombielandsaga.com/character/6.php |title=ゆうぎり |access-date=8 Apr 2023 |publisher=ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会 |work=『ゾンビランドサガ』}}</ref>
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|28 December}}
{{新暦365日|12|27|12|29|[[11月28日]]|[[1月28日]]|[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]|1228|12|28}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-27T17:30:22Z | 2023-12-27T21:02:20Z | false | false | false | [
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"Template:新暦365日",
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"Template:Cite book",
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"Template:カレンダー 12月",
"Template:フィクションの出典明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8828%E6%97%A5 |
5,343 | 1891年 | 1891年(1891 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治24年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 | [
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] | 1891年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治24年。 | {{年代ナビ|1891}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 19
| 年代 = 1890
| 年 = 1891
}}
{{year-definition|1891}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[辛卯]]
* 日本(月日は一致)
** [[明治]]24年
** [[皇紀]]2551年
* [[清]]:[[光緒]]16年11月21日 - 光緒17年12月1日
* [[朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮)|高宗]]28年
** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]500年
** [[檀君紀元|檀紀]]4224年
* [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[成泰]]2年11月21日 - 成泰3年12月1日
* [[仏滅紀元]]:2433年 - 2434年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1308年5月20日 - 1309年5月29日
* [[ユダヤ暦]]:5651年4月21日 - 5652年3月30日
* [[修正ユリウス日]](MJD):11733 - 12097
* [[リリウス日]](LD):112574 - 112938
<div style="font-size:smaller">
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1891}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月9日]] - [[内村鑑三]][[不敬事件]]
* [[1月19日]] - 明治火災保険(後の[[東京海上日動火災保険|東京海上保険]])設立
* [[1月20日]] - [[国会議事堂#歴史|帝国議会議事堂]]が漏電により全焼
* [[1月29日]] - [[ハワイ王国]]で[[リリウオカラニ]]女王が即位
=== 3月 ===
* [[3月8日]] - [[ニコライ堂]]開堂式
* [[3月18日]] - [[ロンドン]]・[[パリ]]間で[[電話機|電話]]開通
* [[3月24日]] - [[度量衡法]]公布(施行1893年1月1日)
* [[3月28日]] - 第1回[[ウエイトリフティング世界選手権]]([[ロンドン]])
=== 4月 ===
* [[4月22日]] - [[大槻文彦]]著の国語辞典『言海』全4巻が完結。
* [[4月23日]] - [[ユダヤ人]]が[[モスクワ]]から追放される
=== 5月 ===
* [[5月5日]] - [[カーネギー・ホール]]開場演奏会
* [[5月6日]] - [[第1次山縣内閣]]総辞職・[[第1次松方内閣]]成立
* [[5月11日]] - [[大津事件]]
* [[5月15日]] - 英国がニヤサランド(後の[[マラウイ]])を保護国化
* [[5月20日]] - [[トーマス・エジソン]]が[[キネトスコープ]]を公開
* [[5月31日]] - [[シベリア鉄道]]起工
=== 6月 ===
* [[6月17日]] - [[世界大百科事典|小学校祝日大祭日儀式規程の言及]]制定([[御真影]]拝礼・[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]奉読などを規定)
* [[6月23日]] - 「[[言海]]」([[大槻文彦]])完成祝賀会([[紅葉館]])
=== 7月 ===
* [[7月11日]] - 卒業式で[[君が代]]が歌われる([[東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校|東京音楽学校]])
=== 8月 ===
* [[8月5日]] - 世界初の[[トラベラーズ・チェック]]発行([[アメリカン・エキスプレス]])
* [[8月11日]]- 體(体)育會・翌年日本體(体)育會と改称(日本體育會体操練習所のちの[[学校法人日本体育大学]])創立
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - [[日本鉄道]][[上野駅|上野]]・[[青森駅|青森]]間開通
* [[9月10日]] - [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]・[[北硫黄島]]・[[南硫黄島]]が[[東京府]]に所属
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[スタンフォード大学]]創立
* [[10月15日]] - [[御茶ノ水橋]]落成
* [[10月20日]] - [[国会議事堂#歴史|帝国議会第二回仮議事堂]]竣工
* [[10月28日]] - [[濃尾地震]]発生(死者7,273名)
* [[早稲田文学]]創刊([[坪内逍遥]])
=== 11月 ===
* [[11月21日]] - [[帝国議会|第2議会]]召集
=== 12月 ===
* [[12月15日]] - [[ジェームズ・ネイスミス]]が[[バスケットボール]]を考案
* [[12月18日]] - [[田中正造]]が衆議院にて[[足尾銅山鉱毒事件]]に関する質問を行う
* [[12月21日]] - ジェームズ・ネイスミスが考案したバスケットボールの試合が初めて行われる。
* [[12月22日]] - [[帝国議会]]で[[樺山資紀]]海相がいわゆる「[[蛮勇演説]]」を行う
* [[12月25日]] - 日本初の[[衆議院解散]]
* [[12月29日]] - [[トーマス・エジソン|エジソン]]が電気的な信号伝送([[ラジオ]])に関する米国特許を取得
=== 日付未詳 ===
* [[露仏同盟|露仏協商]]締結
* [[インドネシア]]の[[ジャワ島]]のトリニール付近で[[ジャワ原人]]の[[頭蓋骨]]と大腿骨が発見
<!-- * 田和うと渋く川の間でイギリス・オランダの勢力圏確定(東マレーシア、ブルネイ、インドネシア領カリマンタンの国境)-->
== 誕生 ==
{{see also|Category:1891年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月5日]] - [[浅沼誉夫]]、プロ野球監督(+ [[1944年]])
* [[1月8日]] - [[ブロニスラヴァ・ニジンスカ]]、[[舞踏家]]・[[振付師]](+ [[1972年]])
* [[1月9日]] - [[朝比奈宗源]]、[[比丘|僧侶]]、[[臨済宗]][[円覚寺]]派管長(+ [[1979年]])
* [[1月10日]] - [[小野清一郎]]、[[法学者]](+ [[1986年]])
* [[1月15日]] - [[レイ・チャップマン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1920年]])
* [[1月20日]] - [[ミッシャ・エルマン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1967年]])
* [[1月21日]] - [[片野重脩]]、[[政治家]]・[[実業家]](+ [[1978年]])
* [[1月22日]] - [[モイズ・キスリング]]、[[画家]](+ [[1953年]])
* [[1月23日]] - [[アントニオ・グラムシ]]、[[マルクス主義]][[思想家]](+ 1937年)
* [[1月26日]] - [[フランク・コステロ]]、アメリカ・[[マフィア]]の有力者(+ [[1973年]])
* 1月26日 - [[甘粕正彦]]、[[陸軍軍人]](+ [[1945年]])
* [[1月27日]] - [[イリヤ・エレンブルグ]]、ソ連の[[作家]](+ [[1967年]])
* [[1月30日]] - [[ウオルター・ビーチ]]、[[ビーチクラフト]]設立者(+ [[1950年]])
* [[2月2日]] - [[アントニオ・セーニ]]、第4代[[イタリア]][[大統領]](+ [[1972年]])
* [[2月4日]] - [[三上於菟吉]]、[[小説家]](+ [[1944年]])
* [[2月5日]] - [[ロジャー・ペキンポー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1977年]])
* [[2月12日]] - [[直木三十五]]、小説家(+ [[1934年]])
* [[2月13日]] - [[グラント・ウッド]]、[[画家]](+ [[1942年]])
* 2月13日 - [[河合栄治郎]]、社会[[思想家]]・[[経済学者]](+ [[1944年]])
* [[2月14日]] - [[徳川實枝子]]、皇族・華族、[[徳川慶久]]の妻(+ [[1933年]])
* [[2月23日]] - [[倉田百三]]、[[劇作家]]・[[評論家]](+ [[1943年]])
* [[2月24日]] - [[滝川幸辰]]、[[法学者]](+ [[1962年]])
* [[3月3日]] - [[フェデリコ・モレーノ・トローバ]]、[[作曲家]]・[[指揮者]](+ [[1982年]])
* [[3月4日]] - [[ホセ・アコスタ (1891年生の投手)|ホセ・アコスタ]]、メジャーリーガー(+ [[1977年]])
* 3月4日 - [[ダジー・ヴァンス]]、メジャーリーガー(+ [[1961年]])
* [[3月18日]] - [[瀬藤象二]]、電気工学者(+ [[1977年]])
* [[3月19日]] - [[アール・ウォーレン]]、[[カリフォルニア州]]知事・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]最高裁長官(+ [[1974年]])
* [[3月25日]] - [[清水善造]]、[[テニス]]選手(+ [[1977年]])
* [[3月28日]] - [[西尾末広]]、政治家(+ [[1981年]])
* [[4月2日]] - [[マックス・エルンスト]]、画家(+ [[1976年]])
* [[4月8日]] - [[オーレ・キアク・クリスチャンセン]]、[[レゴ]]創立者(+ [[1958年]])
* [[4月20日]] - [[デイブ・バンクロフト]]、メジャーリーガー(+ [[1972年]])
* [[4月23日]] - [[セルゲイ・プロコフィエフ]]、[[作曲家]](+ [[1953年]])
* [[5月3日]] - [[エッパ・リクシー]]、メジャーリーガー(+ [[1963年]])
* [[5月13日]] - [[保田龍門]]、[[画家]]・[[彫刻家]](+ [[1965年]])
* [[5月15日]] - [[村野藤吾]]、[[建築家]](+ [[1984年]])
* 5月15日 - [[ミハイル・ブルガーコフ]]、[[小説家]](+ [[1940年]])
* [[5月23日]] - [[ペール・ラーゲルクヴィスト]]、[[作家]]・[[詩人]](+ [[1974年]])
* [[5月24日]] - [[ウィリアム・オルブライト]]、[[言語学者]]・[[考古学者]](+ [[1971年]])
* [[6月2日]] - [[大西瀧治郎]]、[[海軍軍人]](+ [[1945年]])
* [[6月4日]] - [[:en:Leopold Vietoris|レオポルド・ヴィートリス]]、[[数学者]](+ [[2002年]])
* [[6月9日]] - [[コール・ポーター]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[作曲家]]・[[作詞家]](+ [[1964年]])
* [[6月15日]] - [[山本卯太郎]]、[[橋梁]]技術者(+ [[1934年]])
* 6月15日 - [[古畑種基]]、法医学者(+ [[1975年]])
* [[6月21日]] - [[ヘルマン・シェルヘン]]、指揮者・作曲家(+ [[1966年]])
* [[6月23日]] - [[岸田劉生]]、画家(+ [[1929年]])
* [[7月2日]] - [[恩地孝四郎]]、[[木版]]の[[画家]](+ [[1955年]])
* [[7月7日]] - [[栗林忠道]]、[[陸軍軍人]](+ [[1945年]])
* [[7月14日]] - [[ヴェルナー・リットベルガー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1975年]])
* [[7月26日]] - [[宇野浩二]]、[[小説家]](+ [[1961年]])
* [[8月6日]] - [[レオナード・ホークス]]、[[地質学者]](+ [[1981年]])
* [[8月8日]] - [[アドルフ・ブッシュ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1951年]])
* [[8月15日]] - [[トール・ベルシェロン]]、[[気象学者]](+ [[1977年]])
* [[8月20日]] - [[金栗四三]]、[[マラソン]]選手(+ [[1983年]])
* [[8月21日]] - [[デイビッド・カーティス・スティーブンソン]]、[[クー・クラックス・クラン]]幹部(+ [[1966年]])
* 8月21日 - [[エミリアーノ・メルカド・デル・トロ]]、亡くなる直前の一時期世界最高齢だった男性(+ [[2007年]])
* [[9月1日]] - [[呂運弘]]、[[政治家]](+ [[1973年]])
* [[9月26日]] - [[シャルル・ミュンシュ]]、指揮者(+ [[1968年]])
* [[10月5日]] - [[大濱信泉]]、[[法学者]]・[[教育者]](+ [[1976年]])
* [[10月12日]] - [[エーディト・シュタイン]]、[[修道女]]・[[聖人]]・[[ホロコースト]]犠牲者 (+ [[1942年]])
* [[10月12日]] - [[近衛文麿]]、第34・38・39代[[内閣総理大臣]](+ 1945年)
* [[10月24日]] - [[ラファエル・トルヒーヨ]]、ドミニカ共和国の[[政治家]]・[[軍人]](+ [[1961年]])
* [[11月1日]] - [[ヤン・ムカジョフスキー]]、[[美学者]]・[[文学者]]・[[言語学者]](+ [[1975年]])
* [[11月2日]] - [[許百錬]]、[[南画]]家(+ [[1977年]])
* [[11月11日]] - [[ラビット・モランビル]]、メジャーリーガー(+ [[1954年]])
* [[11月12日]] - [[カール・メイズ]]、メジャーリーガー(+ [[1971年]])
* [[11月15日]] - [[エルヴィン・ロンメル]]、軍人(+ [[1944年]])
* 11月15日 - [[市岡忠男]]、[[野球選手]](+ [[1964年]])
* [[11月23日]] - [[久米正雄]]、[[小説家]]・[[劇作家]](+ [[1952年]])
* [[11月25日]] - [[米川正夫]]、[[ロシア文学者]](+ [[1965年]])
* [[12月2日]] - [[オットー・ディクス]]、[[画家]](+ [[1965年]])
* [[12月5日]] - [[アレクサンドル・ロトチェンコ]]、[[芸術家]](+ [[1956年]])
* 12月5日 - [[広津和郎]]、小説家・[[文芸評論家]](+ [[1968年]])
* [[12月6日]] - [[木村昌福]]、海軍軍人(+ [[1960年]])
* [[12月9日]] - [[長谷川潔]]、[[版画家]](+ [[1980年]])
* [[12月10日]] - [[ネリー・ザックス]]、[[詩人]]・作家(+ [[1970年]])
* [[12月13日]] - [[サミュエル・ドゥシュキン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1976年]])
* [[12月25日]] - [[堂本印象]]、[[日本画家]](+ [[1975年]])
* [[12月26日]] - [[ヘンリー・ミラー]]、[[小説家]](+ [[1980年]])
* 日付不詳 - [[謝花凡太郎]]、[[漫画家]](+ [[1963年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1891年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[愛新覚羅奕譞]]、[[清|清朝]]の皇族(* [[1840年]])
* [[1月6日]] - [[レオ・ドリーブ]]、[[作曲家]](* [[1836年]])
* [[1月11日]] - [[ジョルジュ・オスマン]]、[[パリ]]の都市改造を主導した事で有名な[[フランス]]の政治家(* [[1809年]])
* [[1月12日]] - [[伊達邦直]]、[[北海道]]開拓に身を投じた元[[仙台藩]]岩出山領主(* [[1835年]])
* [[1月20日]] - [[カラカウア]]、[[ハワイ王国]]国王(* [[1836年]])
* [[1月22日]] - [[元田永孚]]、[[儒学者]](* [[1818年]])
* [[1月24日]] - [[九鬼隆義]]、元[[三田藩|三田藩主]](* [[1837年]])
* [[1月25日]] - [[小笠原長行]]、元[[江戸幕府]][[老中]](* [[1822年]])
* [[1月26日]] - [[ニコラウス・オットー]]、ドイツの[[発明家]](* [[1832年]])
* [[1月29日]] - [[ウィリアム・ウィンダム (財務長官)|ウィリアム・ウィンダム]]、第33代および第39代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1827年]])
* [[2月3日]] - [[織田信学]]、元[[天童藩|天童藩主]](* [[1819年]])
* 2月3日 - [[松平親良]]、元[[杵築藩|杵築藩主]](* [[1810年]])
* [[2月8日]] - [[チャールズ・ワーグマン]]、[[画家]]・[[漫画家]](* [[1832年]])
* [[2月9日]] - [[ヨハン・ヨンキント]]、[[画家]](* [[1819年]])
* [[2月10日]] - [[ソフィア・コワレフスカヤ]]、[[数学者]](* [[1850年]])
* [[2月13日]] - [[アレクサンダー・ヒュー・ホームズ・スチュアート]]、第3代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1807年]])
* [[2月14日]] - [[ウィリアム・シャーマン]]、[[南北戦争]]期の米陸軍少将(* [[1820年]])
* [[2月15日]] - [[新井忠雄]]、元[[新選組]]隊士(* [[1835年]])
* [[2月18日]] - [[三条実美]]、[[公卿]](* [[1837年]])
* [[3月1日]] - [[エドゥアルト・シェーンフェルト]]、[[天文学者]](* [[1828年]])
* [[3月13日]] - [[テオドール・ド・バンヴィル]]、[[詩人]]・[[劇作家]]・[[批評家]](* [[1823年]])
* [[3月23日]] - [[松平斉民]]、元[[津山藩|津山藩主]](* [[1814年]])
* [[3月25日]] - [[斉藤きち]]、「唐人お吉」の名で知られる[[芸者]](* [[1841年]])
* [[3月29日]] - [[ジョルジュ・スーラ]]、[[画家]](* [[1859年]])
* [[4月1日]] - [[上田馬之助]]、[[剣術|剣術家]](* [[1834年]])
* [[4月7日]] - [[P・T・バーナム]]、興行師(* [[1810年]])
* [[4月22日]] - [[吉井友実]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]などを務めた政治家(* [[1828年]])
* [[4月24日]] - [[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]、『大モルトケ』として有名な[[プロイセン王国]]の軍人(* [[1800年]])
* [[5月4日]] - [[チャールズ・プラット]]、[[実業家]](* [[1830年]])
* [[5月8日]] - [[ブラヴァツキー夫人]]、[[オカルティスト]](* [[1831年]])
* [[5月10日]] - [[吉田一士]]、自由民権運動家、[[関西法律学校]]初代校主(* [[1858年]])
* [[5月11日]] - [[カール・ネーゲリ]]、[[植物学者]](* [[1817年]])
* [[5月20日]] - [[畠山勇子]]、[[大津事件]]の際ロシア皇太子宛の遺書を残し自害した女性(* [[1865年]])
* [[5月21日]] - [[アルフォンソ・タフト]]、第31代[[アメリカ合衆国陸軍長官]]、第33代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1810年]])
* 5月21日 - [[ジム・ホイットニー]]、[[メジャーリーガー]](* [[1857年]])
* [[6月7日]] - [[中村正直]]、[[思想家]](* [[1832年]])
* [[6月23日]] - [[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]、[[物理学者]](* [[1804年]])
* 6月23日 - [[ノーマン・ポグソン]]、[[天文学者]](* [[1829年]])
* [[7月1日]] - [[永井尚志]]、元江戸幕府の[[若年寄]]・[[蝦夷共和国]]箱館奉行(* [[1816年]])
* [[7月4日]] - [[ハンニバル・ハムリン]]、第15代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1809年]])
* [[8月5日]] - [[アンリ・リトルフ]]、[[ピアニスト]]・作曲家(* [[1818年]])
* [[8月16日]] - [[ソラキチ・マツダ]]、日本人初の[[プロレスラー]](* [[1859年]])
* [[8月21日]] - [[ハリー・ポウレット (第4代クリーヴランド公爵)|ハリー・ポウレット]]、英国[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]所属の政治家・第4代[[クリーヴランド公爵]](* [[1803年]])
* [[8月27日]] - [[中御門経之]]、公卿(* [[1821年]])
* [[9月7日]] - [[ハインリヒ・グレーツ]]、[[歴史家]](* [[1817年]])
* [[9月27日]] - [[イワン・ゴンチャロフ]]、[[小説家]](* [[1812年]])
* [[9月28日]] - [[ハーマン・メルヴィル]]、小説家(* [[1819年]])
* [[9月29日]] - [[津田三蔵]]、元滋賀県警[[巡査]]・[[大津事件]]実行犯(* [[1855年]])
* [[9月30日]] - [[ジョルジュ・ブーランジェ]]、ブーランジェ事件の主役として知られるフランスの政治家(* [[1837年]])
* [[10月6日]] - [[カール1世 (ヴュルテンベルク王)|カール1世]]、[[ヴュルテンベルク王国]]第3代国王(* [[1823年]])
* 10月6日 - [[チャールズ・スチュワート・パーネル]]、[[アイルランド]]の政治指導者(* [[1846年]])
* [[10月14日]] - [[ラリー・コーコラン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1859年]])
* [[10月15日]] - [[トーマス・ブラキストン]]、[[軍人]]・貿易商・[[探検家]]・[[博物学者]](* [[1832年]])
* [[10月24日]] - [[織田信愛]]、元江戸幕府の[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]](* [[1814年]])
* [[10月25日]] - [[久邇宮朝彦親王]]、日本の[[皇族]](* [[1824年]])
* [[11月10日]] - [[アルチュール・ランボー]]、[[詩人]](* [[1854年]])
* [[12月5日]] - [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]、[[ブラジル]]皇帝(*[[1825年]])
* [[12月11日]] - [[青山景通]]、[[復古神道|復古神道家]](* [[1819年]])
* [[12月23日]] - [[ジョン・クレスウェル]]、第26代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1828年]])
* [[12月29日]] - [[レオポルト・クロネッカー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Leopold-Kronecker Leopold Kronecker German mathematician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[数学者]](* 1823年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1891}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1891ねん}}
[[Category:1891年|*]] | null | 2023-01-01T16:22:30Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1891%E5%B9%B4 |
5,344 | 12月26日 | 12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。
[Alexandros] - 12月26日以降の年末ソング | [
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] | 12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。 | {{カレンダー 12月}}
'''12月26日'''(じゅうにがつにじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から360日目([[閏年]]では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。
== できごと ==
* [[1251年]] - スコットランド王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]とイングランド王女[[マーガレット・オブ・イングランド|マーガレット]]が結婚{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1606年]] - [[ウィリアム・シェイクスピア]]の悲劇『[[リア王]]』が初演。
* [[1634年]]([[寛永]]11年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[鍵屋の辻の決闘]]。
* [[1776年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[トレントンの戦い]]。
* [[1793年]] - [[ルートヴィヒ・フォン・プロイセン]]と[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ]]が結婚。
* [[1805年]] - [[フランス]]と[[オーストリア]]が[[プレスブルクの和約]]に調印。
* [[1825年]]([[ユリウス暦]][[12月14日]]) - [[デカブリストの乱]]。
* [[1848年]] - {{仮リンク|ファイ・デルタ・シータ|en|Phi Delta Theta}}創設。
* [[1854年]]([[嘉永]]7年/[[安政]]元年11月7日)- [[豊予海峡地震]]。
* [[1871年]] - 初の[[アルプス山脈]]を貫くトンネルである[[フレジュス鉄道トンネル]]が開通。
<!-- * [[1871年]] - 日本初の[[裁判所]]・東京裁判所設置。 日附まで確認できず。 -->
* [[1887年]] - [[保安条例]]が公布・施行。28日までに[[中江兆民]]ら570人に東京市外への退去を命令。
* [[1889年]] - 両毛鉄道(現在の[[両毛線]])が全通。
* [[1898年]] - [[マリ・キュリー]]が[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]の研究報告で[[ラジウム]]の単離に成功したと発表。
* [[1909年]] - 日本初のループ線駅かつ日本唯一のループ線・スイッチバックを併せ持つ駅である[[大畑駅]]が開業。
* [[1925年]] - [[トルコ]]で[[グレゴリオ暦]]を導入。
* [[1933年]] - 横浜に自動車製造株式会社(現・[[日産自動車]])設立。
* 1933年 - [[FMラジオ]]の特許が取られる。
* [[1934年]] - 日本初の[[プロ野球]]球団「大日本東京野球倶楽部」設立。[[読売ジャイアンツ]]の前身。
<!-- * [[1938年]] - [[中谷宇吉郎]]らが人工的に[[雪]]の結晶を作ることに成功。←[[中谷宇吉郎]]によれば1936年3月12日。だが、1938年12月26日としている本も多くある。 -->
* [[1943年]] - [[北岬沖海戦]]がドイツ海軍とイギリス海軍との間で起こる、ドイツの戦艦[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]が、イギリスの戦艦[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]を主力としたイギリス艦隊に捕捉撃沈される。
* [[1944年]] - [[ミンドロ島沖海戦]]が大日本帝国海軍とアメリカ海軍との間で起こる。大日本帝国軍の作戦名は[[礼号作戦]]。
* [[1945年]] - フランスの海外領土で新しい通貨[[CFPフラン]]・[[CFAフラン]]を創設。
* [[1949年]] - [[栃木県]]を震源とする[[今市地震]]発生。被害の大きかった今市市、日光町と合わせて死者・行方不明者10人、重軽傷者162人、家屋全半壊3369戸<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=75 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1951年]] - 第3次吉田茂内閣が[[第3次吉田内閣 (第3次改造)|第3次内閣改造]]を実施。
* 1951年 - [[練馬事件]]。
* [[1956年]] - [[シベリア抑留]]からの[[引揚者|引揚げ]]船・[[興安丸]]最後の一便が[[舞鶴港]]に入港。
* [[1959年]] - [[砂川事件]]に関して、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が検察からの[[跳躍上告]]をうけて原審(いわゆる伊達判決)を破棄差し戻しとする判決を下す。
* [[1965年]] - [[シンザン]]が[[競馬]]・[[有馬記念]]を制し、初の五冠馬に。
* [[1969年]] - [[栃木県]][[日光白根山]]で[[雪崩]]が発生。最初の雪崩に巻き込まれた[[群馬工業高等専門学校]]の学生および救助中に二重遭難した[[玉川大学]]の学生3人が死亡、2人が重軽傷<ref>「二重遭難、二人死ぬ 救助中の玉川大隊 新雪表層なだれ」『朝日新聞』1969年12月27日 12版 15面</ref>。
* [[1970年]] - 日本初の5ドア鉄道車両、[[京阪5000系電車|京阪電気鉄道5000系]]デビュー。
* [[1974年]] - [[インドネシア]]・[[モロタイ島]]で台湾出身の[[中村輝夫 (軍人)|中村輝夫]](李光輝)元陸軍一等兵を救出。
* [[1978年]] - [[ネパール共産党マルクス・レーニン主義派]]設立。
* [[1980年]] - [[イギリス]][[サフォーク州]]内のアメリカ空軍基地近くの森でUFO着陸事件が発生。いわゆる「[[レンデルシャムの森事件]]」。
* 1980年 - [[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]が公布される。
* [[1982年]] - 『[[タイム (雑誌)|タイム]]』の[[パーソン・オブ・ザ・イヤー]]に、初めて人間以外の物として[[コンピュータ]]が選ばれる。
* [[1986年]] - [[プロ野球]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]から[[中日ドラゴンズ]]に移籍した[[落合博満]]が日本人野球選手初の1億円プレイヤーに。
* [[1989年]] - [[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]: 共産党政権が崩壊し、[[救国戦線]]が政権を樹立。
* [[1990年]] - [[静岡県]][[浜松アリーナ]]で74歳の[[ルー・テーズ]]が[[蝶野正洋]]と対戦して敗れる。テーズはこの試合で引退。
* [[1991年]] - [[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦最高会議|最高会議]]が[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦の消滅]]を宣言。
* [[1996年]] - [[羽田孜]]らが[[太陽党]]を結成。
* 1996年 - [[ジョンベネ殺害事件]]。
* [[2003年]] - [[イラン]]、[[ケルマン州]][[バム]]でマグニチュード6.3の[[バム地震|地震]]。約3万人が死亡。要塞都市遺跡[[アルゲ・バム]]が損傷を受ける。
* [[2004年]] - マグニチュード9.1-9.3の[[スマトラ島沖地震 (2004年)|インドネシア・スマトラ島沖地震・津波]]が発生。
* [[2006年]] - [[台湾]]南部で[[恒春地震 (2006年)|地震]]発生。
* [[2011年]] - [[靖国神社・日本大使館放火事件]]。
* [[2012年]] - [[安倍晋三]]が第96代[[内閣総理大臣]]に選出され、[[第2次安倍内閣]]が成立。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]による[[自公連立政権]]となる。
* [[2013年]] - 安倍晋三首相が[[靖国神社]]を参拝、[[中華人民共和国|中国]]と[[大韓民国|韓国]]が強く反発。
* [[2016年]] - この日を以て「[[SMAP×SMAP]]」が放送を終了<ref name="c94473-9160339">{{Cite news |date=2016-12-28 |url=http://j.people.com.cn/n3/2016/1228/c94473-9160339.html |title=日本の国民的アイドルグループのSMAPが正式に解散 |work=人民網日本語版 |publisher=人民日報 |accessdate=2018-03-12}}</ref>。20年9か月の歴史に幕{{R|c94473-9160339}}。
* 2016年 - [[アメリカ合衆国]]各地、10か所以上で若者を中心とした乱闘事件が発生<ref>{{Cite news|url=http://www.cnn.co.jp/usa/35094418.html|title=全米各地のモールで乱闘騒ぎ ソーシャルメディアで呼び掛けか|newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]].co.jp|date=2016-12-28|accessdate=2016-12-31}}</ref>。
* [[2018年]] - アメリカの冒険家、{{仮リンク|コリン・オブレディ|en|Colin O'Brady}}が世界初の単独・無支援での[[南極大陸]]横断を達成<ref>{{Cite news|url=https://gigazine.net/news/20181227-colin-obrady-completes-crossing-antarctica/|title=33歳の冒険家が単独無支援での南極大陸横断に成功、ラスト120kmは32時間ぶっ通しで踏破|newspaper=[[Gigazine]]|publisher=OSA|date=2018-12-27|accessdate=2019-01-01}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1194年]] - [[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1250年]])
* [[1536年]] - [[李珥]]、[[李氏朝鮮]]の[[儒学者]](+ [[1584年]])
* [[1643年]]([[寛永]]20年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]])- [[前田綱紀]]、第5代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1724年]])
* [[1687年]] - [[ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル]]、[[作曲家]](+ [[1755年]])
* [[1716年]] - [[トマス・グレイ]]、[[詩人]](+ [[1771年]])
* [[1734年]] - [[ジョージ・ロムニー (画家)|ジョージ・ロムニー]]、肖像画家(+ [[1802年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[内藤貞幹]]、第6代[[湯長谷藩|湯長谷藩主]](+ [[1778年]])
* [[1752年]]([[宝暦]]2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[酒井忠貫]]、第9代[[小浜藩|小浜藩主]](+ [[1806年]])
* [[1769年]] - [[エルンスト・アルント]]、[[歴史家]](+ [[1860年]])
* 1769年([[明和]]6年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[土屋英直]]、第7代[[土浦藩|土浦藩主]](+ [[1803年]])
* [[1770年]] - [[ピエール・カンブロンヌ]]、[[軍人]](+ [[1842年]])
* [[1771年]] - [[ジュリー・クラリー]]、[[ジョゼフ・ボナパルト]]の妻(+ [[1845年]])
* [[1777年]] - [[ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ2世]]、[[ヘッセン大公国]]の第2代[[大公]](+ [[1848年]])
* [[1785年]] - [[ローラン・クレーク]]、聾[[教育者]](+ [[1869年]])
* [[1791年]] - [[チャールズ・バベッジ]]、[[数学者]](+ [[1871年]])
* [[1792年]] - [[フランツ・ヒュンテン]]、[[作曲家]](+ [[1878年]])
* [[1803年]] - [[フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト]]、[[作家]](+ [[1882年]])
* [[1825年]] - [[フェリクス・ホッペ=ザイラー]]、[[生理学者]](+ [[1895年]])
* [[1827年]] - [[エティエンヌ・レオポール・トルーヴェロ]]、[[天文学者]](+ [[1895年]])
* 1827年([[文政]]10年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[毛利元周]]、第13代[[長府藩|長府藩主]](+ [[1868年]])
* [[1837年]] - [[ジョージ・デューイ]]、軍人(+ [[1917年]])
* 1837年 - [[モーガン・バークリー]]、[[政治家]]、[[ナショナルリーグ]]会長(+ [[1922年]])
* [[1838年]] - [[クレメンス・ヴィンクラー]]、[[化学者]](+ [[1904年]])
* [[1841年]] - [[リチャード・ブラントン]]、[[建築家]](+ [[1901年]])
* [[1851年]] - [[サミュエル・フォン・ハツァイ]]、軍人(+ [[1942年]])
* [[1855年]] - [[アルノルト・メンデルスゾーン]]、作曲家(+ [[1933年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[片山潜]]、[[思想家]]、労働運動家(+ [[1933年]])
* [[1867年]] - [[ファン・ボイ・チャウ]]、[[革命家]](+ [[1940年]])
* [[1872年]] - [[ラルフ・ノーマン・エンジェル]]、[[政治家]](+ [[1967年]])
* [[1878年]] - [[イザイア・ボウマン]]、[[地理学者]](+ [[1950年]])
* [[1880年]] - [[エルトン・メイヨー]]、[[社会学|社会学者]]、[[経営学|経営学者]](+ [[1949年]])
* [[1881年]] - [[ヴェルト・ヘンリク]]、軍人(+ [[1952年]])
* [[1883年]] - [[モーリス・ユトリロ]]、[[画家]](+ [[1955年]])
* [[1886年]] - [[ゲンベシュ・ジュラ]]、政治家、[[ハンガリーの首相一覧|ハンガリー首相]](+ [[1936年]])
* 1886年 - [[ゴットハルト・ハインリツィ]]、軍人(+ [[1971年]])
* [[1887年]] - [[アーサー・アーネスト・パーシバル]]、軍人(+ [[1966年]])
* [[1888年]] - [[菊池寛]]、作家(+ [[1948年]])
* [[1890年]] - [[パーシー・ホッジ]]、陸上競技選手(+ [[1967年]])
* [[1891年]] - [[ヘンリー・ミラー]]、[[小説家]](+ [[1980年]])
* [[1893年]] - [[毛沢東]]、[[政治家]]、[[軍人]]、[[思想家]]、[[中国共産党]][[中国共産党中央委員会主席|主席]]、[[中華人民共和国]]初代[[中華人民共和国主席|国家主席]](+ [[1976年]])
* [[1897年]] - [[海野十三]]、作家(+ [[1949年]])
* [[1900年]] - [[稲垣足穂]]、作家(+ [[1977年]])
* [[1901年]] - [[ピート・ファンデカンプ]]、[[天文学者]](+ [[1995年]])
* [[1904年]] - [[アレホ・カルペンティエル]]、小説家(+ [[1980年]])
* [[1906年]] - [[ベルト・レーリンク]]、法学者(+ [[1985年]])
* [[1907年]] - [[アルバート・ゴア・シニア]]、政治家(+ [[1998年]])
* [[1911年]] - [[宣仁親王妃喜久子]]、[[高松宮宣仁親王]]妃、[[徳川慶喜]]の孫(+ [[2004年]])
* [[1914年]] - [[リチャード・ウィドマーク]]、[[俳優]](+ [[2008年]])
* [[1918年]] - [[ヌツ・モヘレ]]、政治家(+ [[1999年]])
* 1918年 - [[ゲオルギオス・ラリス]]、[[ギリシャの首相|ギリシャ共和国首相]](+ [[2006年]])
* [[1920年]] - [[モーリス・ジャンドロン]]、[[チェリスト]](+ [[1990年]])
* [[1923年]] - [[太宰久雄]]、俳優(+ [[1998年]])
* [[1926年]] - [[アール・ブラウン]]、作曲家(+ [[2002年]])
* 1926年 - [[メリー喜多川]]、[[実業家]]、芸能プロモーター(+ [[2021年]])
* [[1927年]] - [[藤沢周平]]、[[時代小説]]作家(+ [[1997年]])
* [[1930年]] - [[ドナルド・モファット]]、俳優(+ [[2018年]])
* [[1933年]] - [[児玉清]]、俳優、司会者 ※実際の出生日。戸籍上の生年月日は[[1934年]][[1月1日]](+ [[2011年]])
* [[1937年]] - [[ジョン・ホートン・コンウェイ]]、数学者(+ [[2020年]])
* 1937年 - [[ニャシンベ・エヤデマ]]、政治家、[[トーゴの大統領一覧|トーゴ大統領]](+ [[2005年]])
* [[1939年]] - [[フレッド・スケピシ]]、映画監督
* [[1940年]] - [[エドワード・プレスコット]]、経済学者(+ [[2022年]])
* 1940年 - [[フィル・スペクター]]、[[音楽プロデューサー]](+ [[2021年]])
* 1940年 - [[フリオ・リナレス]]、元プロ野球選手
* 1940年 - [[宮本輝紀]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[2000年]])
* [[1941年]] - [[ダニエル・シュミット]]、映画監督(+ [[2006年]])
* [[1942年]] - [[西川公也]]、政治家
* [[1945年]] - [[デイヴィッド・R・ホルジンガー]]、作曲家
* [[1947年]] - [[カールトン・フィスク]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[ジョージ・ポーターJr.]]、[[ベーシスト]]
* 1947年 - [[大河原邦男]]、[[メカニックデザイン|メカニックデザイナー]]
* 1947年 - [[ジャン・エシュノーズ]]、小説家
* [[1949年]] - [[ジョゼ・ラモス=ホルタ]]、政治家、[[東ティモールの大統領|東ティモール大統領]]
* 1949年 - [[音無美紀子]]、[[俳優|女優]]
* [[1951年]] - [[シュターッレル・イロナ]]、俳優、政治家
* [[1952年]] - [[アレクサンドル・アンクヴァブ]]、政治家、[[アブハジア]]首相
* 1952年 - [[セルジオ・アサド]]、作曲家
* [[1953年]] - [[トーマス・イルヴェス]]、政治家、[[エストニア]]大統領
* 1953年 - [[レオネル・フェルナンデス]]、政治家、[[ドミニカ共和国]]大統領
* [[1954年]] - [[オジー・スミス]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[菊地恭一]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[エヴァン・バイ]]、政治家
* [[1958年]] - [[エイドリアン・ニューウェイ]]、[[フォーミュラ1|F1]]テクニカルディレクター
* 1958年 - [[グレート義太夫]]、お笑い芸人
* 1958年 - [[原田美枝子]]、女優
* [[1959年]] - [[森本晃司 (アニメーター)|森本晃司]]、[[アニメーター]]
* [[1960年]] - [[エスパー伊東]]<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131113-00000069-spnannex-ent エスパー伊東、泣き寝入りの理由 「1回10~20万円で済むなら」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131113042653/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131113-00000069-spnannex-ent |date=2013年11月13日 }}</ref>、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[画家]]
* 1960年 - [[高槻真裕]]、作曲家
* 1960年 - [[金石昭人]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[ジム・トレーバー]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[仁村徹]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[堤大二郎]]、俳優
* 1961年 - [[川原和久]]、俳優
* [[1963年]] - [[ラーズ・ウルリッヒ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[メタリカ]])
* [[1965年]] - [[バルデマール・アウレリアーノ・デ・オリベイラ・フィリョ|マジーニョ]]、[[サッカー選手]]
* [[1966年]] - [[西炯子]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]
* 1966年 - [[カネコアツシ]]、漫画家
* [[1967年]] - [[石野卓球]]、ミュージシャン([[電気グルーヴ]])、[[ディスクジョッキー|DJ]]
* 1967年 - [[猪久保吾一]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[トーマス・リンケ]]、サッカー選手
* [[1971年]] - [[ジャレッド・レト]]、俳優
* [[1972年]] - [[ジェロム・レ・バンナ]]、[[格闘家]]
* 1972年 - [[半井小絵]]、[[気象予報士]]
* 1972年 - [[森田和明]]、[[キャラクターデザイナー]]、[[アニメーター]]
* [[1973年]] - [[中江有里]]、女優、[[歌手]]
* 1973年 - [[松中信彦]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[松岡みやび]]、[[ハープ]]奏者
* [[1974年]] - [[コリー・リー]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[イー☆ちゃん]]、お笑いタレント([[マリア (お笑いコンビ)|マリア]])
* [[1975年]] - [[マルセロ・リオス]]、[[テニス]]選手
* 1975年 - [[建山義紀]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[高瀬耕造]]、[[アナウンサー]]
* [[1976年]] - [[アレックス・スティーブリング]]、[[総合格闘家]]
* 1976年 - [[リア・デ・メイ]]、女優
* [[1977年]] - [[石井希和]]、アナウンサー
* 1977年 - [[エディ・アハーン]]、[[騎手]]
* 1977年 - [[フレデリック・ダンビエ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1978年]] - [[菅山かおる]]、[[ビーチバレーボール]]選手
* 1978年 - [[藤森祥平]]、アナウンサー
* 1978年 - [[緒沢凛]]、女優
* 1978年 - [[中川里江]]、声優
* 1978年 - [[並河健]]、政治家
* [[1979年]] - [[クリス・ドートリー]]、ミュージシャン
* 1979年 - [[ファビアン・カリーニ]]、[[サッカー選手]]
* 1979年 - [[J.C.ボスカン]]、プロ野球選手
* [[1980年]] - [[田畑智子]]、女優
* 1980年 - [[nishi-ken]]、ミュージシャン
* [[1981年]] - [[宇都宮まき]]、お笑いタレント
* 1981年 - [[オマー・インファンテ]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[アクセル・ルンド・スヴィンダル]]、[[スキー]]選手
* 1982年 - [[小栗旬]]、俳優
* 1982年 - クラウディオ・コリオーニ([[:en:Claudio Corioni|Claudio Corioni]])、[[自転車]]選手
* 1982年 - [[藤澤恵麻]]、女優、元[[モデル (職業)|モデル]]
* [[1983年]] - 石井元気、お笑いタレント([[あきげん]])
* 1983年 - [[ジョン・サットン]]、サッカー選手
* 1983年 - [[高橋優]]、歌手
* 1983年 - [[山田充人]]、ミュージカル俳優、演出家
* [[1984年]] - [[アレックス・シュバーツァー]]、[[陸上選手]]
* 1984年 - [[小島くるみ]]、[[タレント]]
* 1984年 - {{仮リンク|崔恩景|en|Choi Eun-kyung}}、[[スケート]]選手
* 1984年 - [[RiRiKA]]、歌手、女優
* 1984年 - [[ベリー・ファンドリエル]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[城田優]]、俳優
<!-- 年の出典が不明 * [[1985年]] - [[アンジェリカ (タレント)|アンジェリカ]]、[[タレント]]、[[シンガーソングライター]] -->
* [[1986年]] - [[ウーゴ・ロリス]]、サッカー選手
* 1986年 - [[安座間美優]]、タレント、[[ファッションモデル]]
<!-- 年の出典が不明 * [[1988年]] - [[杏樹璃香]]、[[歌手]] -->
* 1986年 - [[イリヤ・トカチェンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1986年 - [[三門雄大]]、[[サッカー]]選手
* 1986年 - [[サンジャール・トゥルスノフ ]]、サッカー選手
* 1986年 - [[キット・ハリントン]]、俳優
* 1986年 - [[岡村明奈]]、元アイドル(元[[predia]])
* [[1988年]] - [[森田彩華]]、女優
* 1988年 - [[能登有沙]]、声優、タレント(元[[音楽ガッタス]]、[[StylipS]])
* 1988年 - [[佐藤かよ]]、モデル
* 1988年 - [[松本亜弥華]]、バレーボール選手
* 1988年 - [[阿久津ゆりえ]]、ファッションモデル、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1988年 - [[古谷静佳]]、声優
* [[1989年]] - [[徳井青空]]、声優、漫画家<ref>{{Cite web |url=https://artist.cdjournal.com/a/tokui-sora/188018|title=徳井 青空 - CDJournal |work=CDジャーナル |publisher=[[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |accessdate=2023-11-09}}</ref>
* 1989年 - [[城南海]]、歌手
* 1989年 - [[秋山依里]]、モデル、歌手
* 1989年 - [[仙台幸子 (プロレスラー)|仙台幸子]]、元[[プロレスラー]]
* 1989年 - [[ショーン・ノリン]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[川原一馬]]、俳優
* 1990年 - [[松島庄汰]]、俳優
* 1990年 - [[坂田彩]]、元ファッションモデル
* 1990年 - [[富山貴光]]、サッカー選手
* 1990年 - [[アーロン・ラムジー]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[西原信裕]]、俳優
* 1991年 - [[佐香智久]]、歌手
* 1991年 - [[信樂晃史]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[森原康平]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[中塚駿太]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[奥谷知弘]]、俳優
* [[1995年]] - 阪田ベーカリー、お笑いタレント(元[[赤もみじ]])
* 1995年 - [[川村虹花]]、タレント、元プロレスラー(元[[仮面女子]])
* [[1996年]] - [[荒木次元]]、俳優
* 1996年 - [[松井愛莉]]、ファッションモデル、女優
* 1996年 - [[水希蒼]]、元声優、元アイドル(元[[A応P]]、元[[放課後プリンセス]])
* 1996年 - [[山谷花純]]、ファッションモデル、女優
* [[1997年]] - [[潮紗理菜]]、アイドル([[日向坂46]])
* [[1998年]] - [[渡部健人]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[青島妃菜]]、ファッションモデル、[[YouTuber]]
* 2001年 - [[小栗有以]]<ref>[https://www.akb48.co.jp/about/members/detail.php?mid=180 小栗 有以].メンバープロフィール、AKB48公式サイト</ref>、アイドル([[AKB48]])
* [[2006年]] - [[菱田未渚美]]、女優、歌手、パフォーマー([[Girls2]])
* 生年不明 - [[レトルト (ゲーム実況者)|レトルト]]、[[ゲーム実況者]]
* 生年不明 - [[石村恵美]]、声優
* 生年不明 - [[景山聖子]]、声優
* 生年不明 - [[山中千尋]]、[[ジャズ]]・[[ピアニスト]]
== 忌日 ==
* [[268年]] - [[ディオニュシウス (ローマ教皇)|ディオニュシウス]]、[[教皇|ローマ教皇]]
* [[418年]] - [[ゾシムス (ローマ教皇)|ゾシムス]]、ローマ教皇
* [[1205年]]([[元久]]2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[相馬師常]]、[[武将]]、[[相馬氏]]初代当主(* [[1139年]])
* [[1302年]]([[乾元 (日本)|乾元]]元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[北条実政]]、武将、[[鎮西探題]](* [[1249年]])
* [[1458年]] - [[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ公]](* [[1393年]])
* [[1476年]] - [[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ]]、[[ミラノ公]](* [[1444年]])
* [[1530年]] - [[バーブル]]、[[ムガル帝国]]初代[[皇帝]](* [[1483年]])
* [[1624年]] - [[シモン・マリウス]]、[[天文学者]](* [[1573年]])
* [[1634年]]([[寛永]]11年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[河合甚左衛門]]、[[剣術|剣術家]](* [[1583年]])
* 1634年(寛永11年11月7日) - [[桜井半兵衛]]、[[尼崎藩]][[槍術]]指南役(* [[1609年]])
* 1634年(寛永11年11月7日) - [[河合又五郎]]、[[岡山藩|岡山藩士]](* [[1615年]])
* [[1771年]] - [[クロード・エイドリアン・エルベシウス]] ([[:en:Claude Adrien Helvétius|Claude Adrien Helvétius]])、[[哲学者]](* [[1715年]])
* [[1869年]] - [[ジャン・ポアズイユ]]、[[物理学者]]、[[生理学者]](* [[1797年]])
* [[1886年]] - [[テオドール・オッポルツァー]]、天文学者(* [[1841年]])
* [[1890年]] - [[ハインリヒ・シュリーマン]]、[[考古学|考古学者]](* [[1822年]])
* 1890年 - [[ウィリアム・ダンロップ・シンプソン]]、[[政治家]](* [[1823年]])
* [[1897年]] - [[島津忠義]]、第12代[[薩摩藩|薩摩藩主]](* [[1840年]])
* [[1919年]] - [[小松原英太郎]]、[[文部大臣]]、[[農商務省 (日本)|農商務大臣]](* [[1852年]])
* [[1920年]] - [[モンク・イーストマン]]、[[ギャング]](* [[1873年]]頃)
* [[1923年]] - [[ディートリヒ・エッカート]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の活動家(* [[1868年]])
* [[1925年]] - [[ヤン・レッツェル]]、[[建築家]](* [[1880年]])
* [[1931年]] - [[メルヴィル・デューイ]]、[[図書館学|図書館学者]](* [[1851年]])
* [[1933年]] - [[アナトリー・ルナチャルスキー]]、[[政治家]]、[[評論家]](* [[1875年]])
* [[1937年]] - [[アイヴァー・ガーニー]]、[[作曲家]]、[[詩人]](* [[1890年]])
* [[1945年]] - [[維新帝]]、[[ベトナム]][[阮朝]]第11代皇帝(* [[1900年]])
* [[1956年]] - [[青山杉作]]、俳優、[[演出家]]、[[映画監督]](* [[1889年]])
* [[1960年]] - [[和辻哲郎]]、[[哲学|哲学者]]、倫理学者(* [[1889年]])
* [[1963年]] - [[ゴージャス・ジョージ]]、[[プロレスラー]](* [[1915年]])
* [[1970年]] - [[リリアン・ボード]]、陸上競技選手(* [[1948年]])
* [[1972年]] - [[杉本京太]]、[[発明家]]、[[和文タイプライター]]開発者(* [[1882年]])
* 1972年 - [[ハリー・S・トルーマン]]、第33代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1884年]])
* 1972年 - [[飯田蝶子]]、[[俳優|女優]](* [[1897年]])
* [[1974年]] - [[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア]]、[[銀行家]](* [[1894年]])
* 1974年 - [[ジャック・ベニー]]、[[コメディアン]]、[[ヴォードヴィリアン]]、[[俳優]](* [[1894年]])
* [[1977年]] - [[ハワード・ホークス]]、映画監督(* [[1896年]])
* [[1981年]] - [[ヘンリー・アイリング]]、[[化学者]](* [[1901年]])
* [[1985年]] - [[ダイアン・フォッシー]]、[[生物学者]](* [[1932年]])
* [[1986年]] - [[エルザ・ランチェスター]]、女優(* [[1902年]])
* [[1988年]] - [[パブロ・ソロサバル]]、作曲家(* [[1897年]])
* 1988年 - [[信欣三]]、[[俳優]](* [[1910年]])
* 1988年 - [[マッシモ・ミラ]]、音楽学者(* [[1910年]])
* [[1989年]] - [[レノックス・バークリー]]、作曲家(* [[1903年]])
* 1989年 - [[加藤守雄]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1913年]])
* [[1992年]] - [[ニキタ・マガロフ]]、[[ピアニスト]](* [[1912年]])
* [[1994年]] - [[シルヴァ・コシナ]]、俳優(* [[1933年]])
* [[1995年]] - [[島秀之助]] 、[[野球選手]]・[[プロ野球監督|監督]]・[[プロ野球審判員|審判員]](* [[1908年]])
* [[1996年]] - [[竹内昭夫]]、[[法学者]](* [[1929年]])
* [[1997年]] - [[甲斐文融]]、[[画家]]、[[僧]](* [[1920年]])
* [[1998年]] - [[白洲正子]]、[[随筆家]](* [[1910年]])
* [[1999年]] - [[阿部保夫]]、[[ギタリスト]](* [[1925年]])
* 1999年 - [[カーティス・メイフィールド]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[ミュージシャン]](* [[1942年]])
* [[2000年]] - [[ジェイソン・ロバーズ]]、[[俳優]](* [[1922年]])
* [[2001年]] - [[大橋俊雄]]、[[仏教学者]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1925年]])
* 2001年 - [[ナイジェル・ホーソーン]]、俳優(* [[1929年]])
* [[2002年]] - [[田邊朋之]]、[[京都市長]](* [[1924年]])
* 2002年 - [[ハーブ・リッツ]]、[[写真家]](* [[1952年]])
* [[2003年]] - [[白井義男]]、[[プロボクサー]](* [[1923年]])
* 2003年 - [[チョーンシー・ハリス]]、[[地理学者]](* [[1914年]])
* [[2004年]] - [[石垣りん]]、詩人(* [[1920年]])
* 2004年 - ミエツコ・タラーツィク ([[:en:Mieszko Talarczyk|Mieszko Talarczyk]])、ミュージシャン([[ナザム]])(* [[1974年]])
* 2004年 - [[プム・ジェンセン]]、[[タイ王国|タイ]]王室の外戚(* [[1983年]])
* 2004年 - [[レジー・ホワイト]]、[[アメリカンフットボール]]選手(* [[1961年]])
* [[2005年]] - [[白羽大介]]、[[喜劇俳優]](* [[1923年]])
* 2005年 - [[尾上松助 (6代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1946年]])
* 2005年 - [[ヴィンセント・スキャヴェリ]]、俳優(* [[1948年]])
* [[2006年]] - [[ジェラルド・R・フォード]]、第38代アメリカ合衆国大統領(* [[1913年]])
* [[2007年]] - [[掛川源一郎]]、写真家(* 1913年)
* [[2008年]] - [[ジャスティン・エイラーズ]]、[[総合格闘家]](* [[1978年]])
* [[2012年]] - [[ジェリー・アンダーソン]]<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-oxfordshire-20845407 Thunderbirds creator Gerry Anderson dies] BBC News 2012年12月27日閲覧</ref>、映像作品[[プロデューサー]](+ [[1929年]])
* 2012年 - [[渡辺大剛 (冒険家)|渡辺大剛]]、[[冒険家]]、[[登山家]](+ [[1981年]])
* [[2016年]] - [[加藤暠]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20161227/k00/00m/040/029000c|title=訃報:公判中の仕手集団元代表の加藤被告が死亡|publisher=毎日新聞|date=2016-12-26|accessdate=2020-10-30}}</ref>、[[相場師]](* [[1941年]])
* [[2020年]] - [[ジョージ・ブレイク]]<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3323523|title=冷戦時代の英国人二重スパイ、ブレイク氏死去 98歳|newspaper=AFPBB NEWS|date=2020-12-26|accessdate=2021-01-28}}</ref> 、[[外交官]]、[[スパイ]](* [[1922年]])
* 2020年 - [[金子太郎_(大蔵官僚)|金子太郎]]<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210109195231/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021010400931&g=obt|title=金子太郎氏死去 元丸三証券会長、元環境庁(現環境省)事務次官|agency=時事通信社|date=2021-01-04|accessdate=2021-01-28}}</ref> 、[[実業家]]、元[[環境庁]]事務次官(* [[1925年]])
* 2020年 - [[フィル・ニークロ]]<ref>{{Cite news2|title=「Mr.ナックルボーラー」フィル・ニークロ氏死去|url=https://hochi.news/articles/20201228-OHT1T50027.html|newspaper=スポーツ報知|date=2020-12-28|accessdate=2021-01-28|publisher=報知新聞社}}</ref> 、[[プロ野球選手]](* [[1939年]])
* 2020年 - [[ジョン・フーバー]]<ref>{{Cite news|url=https://wrestlingnews.co/aew-news/aew-star-brodie-lee-has-passed-away/|title=AEW star Brodie Lee has passed away|newspaper=Wrestling News|date=2020-12-26|accessdate=2021-01-28}}</ref><ref>[https://twitter.com/AEW/status/1343006487988342786?s=20 RipBrodieLee]</ref>、[[プロレスラー]](* [[1979年]])
* [[2021年]] - [[井川成正]]<ref>{{Cite news|url=https://kumanichi.com/articles/509303|title井川成正氏死去 前山口県下松市長|agency=熊本日日新聞社|date=2021-12-千葉県千葉市美浜区中瀬 (株) 日産フィナンシャルサービス|accessdate=2021-12-27}}</ref> 、[[政治家]]、元[[山口県]][[下松市]]市長(*[[1930年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[ボクシング・デー]]
*: [[イギリス]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[スイス]]の公休日。なお、[[ドイツ]]では、25日・26日の両日がクリスマスの休日である。
* [[聖ステファノの日]]
*: キリスト教の最初の殉教者・聖ステファノの[[聖名祝日]]。[[アイルランド]]、[[イタリア]]、[[オーストリア]]、[[クロアチア]]、[[フィンランド]]の公休日。
* [[独立記念日]]({{SVN}})
*: [[1990年]]のこの日、国民投票によりスロベニアが[[ユーゴスラビア]]から独立することが決定した。
* プロ野球誕生の日/ジャイアンツの日({{JPN}})
*: [[1934年]]12月26日に、アメリカのプロ野球との対戦のため、現在のプロ野球リーグでは最古の[[プロ野球]]チーム・大日本東京野球倶楽部(後の[[読売ジャイアンツ]])が創立されたことに由来。なお、これより前の[[1920年]]に日本初のプロ野球球団である[[宝塚運動協会#日本運動協会|日本運動協会]]が設立されているが、1929年に解散しており、現在のプロ野球リーグとのつながりはない。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1226|date=2011年7月}}
* [[1988年]] - ガオウライナーキバが街を襲撃。(『[[劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!]]』)
* [[1999年]] - あおくび大根、東京に出現。(『あおくび大根』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1988年]] - 野上良太郎、特撮『[[仮面ライダー電王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/characters/738 |title=野上良太郎 |access-date=2023-01-03 |publisher=[[石森プロ]]・[[テレビ朝日]]・ADK EM・[[東映]]・[[東映ビデオ]] |work=『仮面ライダー図鑑 』}}</ref>
* [[1995年]] - 縁下力、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870482-1|quote=|date=|volume=2巻|page=134}}</ref>
* [[2001年]] - 鈴原トウジ、アニメ・漫画『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |author=特務機関調査プロジェクトチーム |year=1997 |title=新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説 |page=207 |publisher=[[青春出版社]] |isbn= 978-4-413-03073-1}}。</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]753年 - フェイト・ラインゴッド、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=51|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 野上葵、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|zetchil_kousiki|1077581044696735747}}</ref>
* 生年不明 - 汐宮栞、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=若木民喜|authorlink=若木民喜|title=神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック|year=2013|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-124451-2|page=38}}</ref>
* 生年不明 - グレアム・クレーマー(サーザ・グレアム・ダルトン)、漫画『[[はみだしっ子]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://natalie.mu/comic/news/361076 |title=今日はグレアムの誕生日!「はみだしっ子」グレアムペンギンがLINEスタンプに |access-date=2023-01-03 |publisher=コミックナタリー |date=2019-12-26}}</ref>
* 生年不明 - 藤堂ユリカ、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=アイカツ! アイドル名鑑|author1=サンライズ(企画・原作)|authorlink1=サンライズ (アニメ制作ブランド)|author2=バンダイ(原案)|authorlink2=バンダイ|author3=サンライズ|author4=バンダイ(監修)|publisher=[[小学館]]|year=2014|page=32|isbn=978-4-09-280501-9}}</ref>
* 生年不明 - 影片みか、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/kagehira_mika/ |title=影片 みか |accessdate=2019年12月29日 |publisher= |website=あんさんぶるスターズ!!}}</ref>
* 生年不明 - エスカー、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kings-raid.com/characters/#character-178 |title=エスカー |publisher=【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2023-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=178 |archivedate=2022-07-24}}</ref>
* 生年不明 - [[烏丸玲司]]、ゲーム・アニメ『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aaside_info|1342485252573331458}}</ref>
* 生年不明 - 真鍋和、漫画・アニメ・ゲーム『[[けいおん!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桜衣ココミ、特撮『[[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]]』の主人公
<!--
* 生年不明 - 徳川家康、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 高尾部長、漫画・アニメ『[[ディーふらぐ!]]』に登場するキャラクター
-->
== 歌 ==
[[[Alexandros]]] - 12月26日以降の年末ソング
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|26 December}}
{{新暦365日|12|25|12|27|[[11月26日]]|[[1月26日]]|[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]|1226|12|26}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-27T17:34:01Z | 2023-12-25T21:09:10Z | false | false | false | [
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5,345 | 12月25日 | 12月25日(じゅうにがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から359日目(閏年では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日はクリスマスである。 | [
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'''12月25日'''(じゅうにがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から359日目([[閏年]]では360日目)にあたり、年末まであと6日ある。この日は[[クリスマス]]である。
== できごと ==
[[ファイル:Bayeux_Tapestry_William.jpg|thumb|292x292px|ウィリアム1世、イングランド王に即位(1066)]]
{{multiple image
| footer = [[志賀潔]]、[[赤痢菌]]発見(1897)。右画像は赤痢菌(×1000)
| image1 = Kiyoshi Shiga.jpg
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| alt1 = 志賀潔
| image2 = Shigella flexneri Gram.jpg
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| alt2 = 赤痢菌
}}
* [[36年]] - [[呉漢]]の指揮下にある[[後漢]]の[[光武帝]]の軍隊が成家の帝国を征服し、中国を再統一した。
* [[274年]] - [[ソル・インウィクトゥス]]の寺院が[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス帝]]によって献上される。
* [[333年]] - ローマ皇帝[[コンスタンティヌス1世]]が、末子の[[コンスタンス1世]]を[[カエサル (称号)|カエサル]]の称号に昇格させる。
* [[508年]] - フランク王国の[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]が、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で[[レミギウス]]によってキリスト教の洗礼を受ける。
* [[597年]] - [[カンタベリーのアウグスティヌス]]とその仲間の労働者が、[[ケント王国]]で10000人以上の[[アングロ・サクソン人]]に洗礼を授ける。
* [[800年]] - ローマ教皇・レオ3世が[[フランク王国|フランク]]王[[カール大帝|カール]]に[[西ローマ帝国|西ローマ]]皇帝として戴冠。
* [[1000年]] - [[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]がローマ教皇[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]から授かった冠([[聖イシュトヴァーンの王冠]])を用いて戴冠。[[ハンガリー王国]]が正式に成立。([[1001年]][[1月1日]]とも)
* [[1013年]] - [[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]が[[デーンロウ]]を支配し、イングランドの王と宣言。
* [[1025年]] - ポーランド国王[[ミェシュコ2世 (ポーランド王)|ミェシュコ2世]]の戴冠式。
* [[1066年]] - [[ノルマン・コンクエスト]]: [[イングランド]]を征服した[[ノルマンディー公]]ギヨーム2世が、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]としてイングランド王に即位。
* [[1076年]] - ポーランド国王[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]の戴冠式。
* [[1100年]] - [[第1回十字軍]]の指導者の1人[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードゥアン]]が初代[[エルサレム王国|エルサレム王]]に即位。
* [[1130年]] - シチリアの[[ルッジェーロ2世|ロジャー2世伯爵]]がシチリアの最初の王に選ばれる。
* [[1146年]] - 中世フランスの諸侯[[ブロワ家]]の貴族[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]]が{{仮リンク|ブローニュ伯|en|Count of Boulogne}}に就任した。
* [[1261年]] - 東ローマ帝国の11歳の[[ヨハネス4世ラスカリス]]が、彼の共同支配者である[[ミカエル8世パレオロゴス]]の命令によって追放され盲目になる。
* [[1492年]] - [[クリストファー・コロンブス]]が指揮する[[キャラック船]]の[[サンタ・マリア号]]が、見張りの失敗でハイチ沖の珊瑚礁にぶつかる。
* [[1553年]] - {{仮リンク|トゥカペルの戦い|en|Battle of Tucapel}}:[[ラウタロ]]の下の[[マプチェ族]]の反乱軍が、スペインの征服者を打ち負かし、チリの知事[[ペドロ・デ・バルディビア]]を処刑。
* [[1559年]] - 前任者の死から4ヶ月で[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]が選出される。
* [[1643年]] - [[イギリス東インド会社]]のウィリアム・マイノースが現在の[[クリスマス島 (オーストラリア)|クリスマス島]]に到達し、クリスマス島と命名。
* [[1758年]] - 1705年に[[エドモンド・ハレー]]が、ニュートンの法則によって予測した[[ハレー彗星]]の回帰を、ドイツのアマチュア天文学者[[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]が確認<ref>{{Cite web |url=https://blogs.otago.ac.nz/emxphi/author/walki303/ |title=Halley’s Comet and Christmas Day |access-date=25 Dec 2023 |publisher=University of Otago |date=23 Dec 2013}}</ref>。
* [[1766年]] - チリの[[マプチェ族]]がスペイン人に対して一連の奇襲攻撃を開始。
* [[1776年]] - [[ジョージ・ワシントン]]と大陸軍が夜に[[デラウェア川]]を渡り、翌日[[ニュージャージー州]][[トレントン (ニュージャージー州)|トレントン]]でイギリスに仕えるヘッセン軍を攻撃。
* [[1809年]] - [[エフライム・マクドウェル]]博士が初の卵巣摘出術を行う。
* [[1818年]] - [[クリスマス・キャロル]]「[[きよしこの夜]]」が[[オーストリア帝国]]オーベルンドルフの教会にて初披露。
* [[1878年]] - [[東京]]・両国の[[風月堂|米津風月堂]]が日本で初めて[[チョコレート]](貯古齢糖)を発売。
* [[1891年]] - 野党主張の予算削減案が可決されたことを受け、[[第1次松方内閣]]が日本で初めて[[衆議院解散|衆議院を解散]]。
* [[1897年]] - [[志賀潔]]が[[赤痢]]の[[病原体]]発見の第一報を「細菌学雑誌」で発表。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[クリスマス休戦]]が始まる。
* [[1918年]] - 第41議会召集。
* [[1926年]] - [[大正天皇]]の[[崩御]]に伴い裕仁親王([[昭和天皇]])が[[皇位継承|皇位を継承]]。[[大正]]から[[昭和]]に[[改元]]。
* 1926年 - [[浜松高等工業学校]]の[[高柳健次郎]]が機械・電子折衷式[[テレビ受像機]]を開発。「イ」の字を表示させる。
* [[1927年]] - [[ベトナム国民党]]結成。
* [[1931年]] - 東京駅前に[[東京中央郵便局]]の新局舎が完成。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[香港]]のイギリス軍が日本軍に降伏し[[香港の戦い]]が終結。[[日本占領時期の香港|香港の日本統治]]が始まる。
* [[1946年]] - 制憲国民大会で[[中華民国憲法]]が制定。
* [[1947年]] - 中華民国憲法が発効。
* [[1949年]] - [[ハバロフスク裁判]]はじまる。
* [[1950年]] - [[スコットランド]]人学生によってロンドンの[[ウェストミンスター寺院]]の[[スクーンの石]]が持ち去られる。
* [[1951年]] - [[東京都|東京]]で初の[[民間放送]][[ラジオ局]]、[[TBSホールディングス|ラジオ東京]](JOKR、現・[[TBSラジオ]])開局。
* [[1952年]] - [[ラジオ関西|神戸放送(現・ラジオ関西)]]が日本の放送局では初めての[[電リク|電話リクエスト]]番組を[[クリスマス]]特番として実施。
* [[1953年]] - 返還済みの[[トカラ列島]]を除く[[奄美群島]]が7年10か月ぶりにアメリカから日本に返還される。
* 1953年 - [[IBC岩手放送|ラジオ岩手(現・IBC岩手放送)]]開局。
* [[1958年]] - [[東海テレビ放送|東海テレビ]]開局。
* [[1964年]] - 日本初の交直両用特急形電車[[国鉄485系電車|481系]]がデビューし、それを使用した「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」が運行開始。
* [[1964年]] - [[立山黒部貫光]]設立。
* [[1971年]] - 国鉄[[臼ノ浦線]]・[[世知原線]]がこの日の運行限りで廃止。
* [[1975年]] - [[子門真人]]の「[[およげ!たいやきくん]]」発売、空前の[[ヒット曲|ヒット]]に。
* [[1977年]] - [[イスラエル]]首相[[メナヘム・ベギン]]と[[エジプト]]大統領[[アンワル・アッ=サーダート]]が会談。
* [[1988年]] - [[オリエント・エクスプレス '88]]が[[大阪駅|大阪]]発[[上野駅|上野]]行きの列車で日本国内での営業運行を終える。
* [[1989年]] - [[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]: [[ルーマニア社会主義共和国]]の[[ニコラエ・チャウシェスク|チャウシェスク]]前大統領夫妻が[[救国戦線]]による[[軍事裁判]]で[[死刑]]を宣告。即日執行される。
* [[1991年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: [[ソビエト連邦|ソ連]][[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]][[大統領]]が、自身の辞任と[[ソビエト連邦]]の解体を表明。
* [[2001年]] - 第1回[[M-1グランプリ]]決勝戦開催。[[中川家]]が初代王者となる。
* [[2003年]] - [[欧州宇宙機関]]の火星探査機「[[マーズ・エクスプレス]]」が火星の軌道に投入。同日、マーズ・エクスプレスから分離された着陸船「ビーグル2」の火星表面への着陸が行われたが、通信が途絶。
* [[2004年]] - 欧州宇宙機関の土星探査機「[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]」から小型探査機「[[ホイヘンス・プローブ]]」が分離され、衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]に着陸。
* [[2005年]] - [[JR羽越本線脱線事故]]: [[山形県]][[東田川郡]][[庄内町]]の[[羽越本線|JR羽越本線]]の特急いなほ14号が突風に煽られ脱線転覆し、乗客5人が死亡、乗員乗客33人が重軽傷を負った<ref>{{Cite web |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tuy/252568 |title=JR羽越線脱線事故から17年 関係者が発生時間に合わせ黙とう |publisher=[[テレビユー山形|TV-U YAMAGATA INC.]] |accessdate=25 Dec 2023 |date=26 Dec 2022}}</ref>。
* [[2009年]] - [[デルタ航空機爆破テロ未遂事件]]: オランダ・アムステルダムからデトロイトに向かっていたノースウエスト航空253便の機内で、テロリスト爆発物を爆破させようとしたが未遂に終わる<ref>{{Cite web|和書 |date=17 Feb 2017 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2858797 |title=NW航空機爆破未遂事件、ナイジェリア人被告に終身刑 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |accessdate=25 Dec 2023}}</ref>。
* [[2016年]] - [[1967年]]から放送されていた[[テレビ東京]]の長寿番組「[[話題の医学]]」が放送を終了。49年8か月の歴史に幕を下ろす。
* [[2019年]] - [[特別捜査部|東京地検特捜部]]が、統合型リゾート施設(IR)事業への参入を巡る収賄容疑で[[秋元司]]衆院議員を逮捕した<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/japanese/50914385 |title=秋元司衆院議員、カジノめぐり収賄の疑いで逮捕 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=26 Dec 2019}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Sir Isaac Newton by Sir Godfrey Kneller, Bt.jpg|thumb|218x218px|物理学者・数学者[[アイザック・ニュートン]](1642年)]]
[[ファイル:Popepiusvi.jpg|thumb|251x251px|第250代ローマ法王[[ピウス6世]](1717年)]]
[[ファイル:Maresuke Nogi.jpg|thumb|267x267px|大日本帝国陸軍元帥[[乃木希典]](1849年)]]
[[ファイル:Anwar Sadat cropped.jpg|thumb|266x266px|元エジプト大統領[[アンワル・アッ=サーダート]](1918年)]]
[[ファイル:Ram Narayan 2009 crop.jpg|thumb|180x180px|音楽家[[ラム・ナラヤン]](1927年)]]
[[ファイル:Annie lennox nemahziz.jpg|thumb|312x312px|ミュージシャン[[アニー・レノックス]](1954年)]]
[[ファイル:Justin Trudeau in Lima, Peru - 2018 (41507133581) (cropped) (cropped).jpg|代替文=|サムネイル|274x274px|第29代カナダ首相、[[ジャスティン・トルドー]](1971年)]]
* [[1250年]] - [[ヨハネス4世ラスカリス]]、[[ニカイア帝国]]の最後の[[皇帝]](+ [[1305年]])
* [[1424年]] - [[マーガレット・ステュアート]]、[[フランス王国|フランス]]王太子ルイ(のちの[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]])の妃(+ [[1445年]])
* [[1461年]] - [[クリスティーナ・フォン・ザクセン (1461-1521)|クリスティーナ・フォン・ザクセン]]、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]・[[スウェーデン]]王[[ハンス (デンマーク王)|ハンス]]の王妃(+ [[1521年]])
* [[1458年]]([[長禄]]2年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[尼子経久]]、[[武将|戦国武将]](+ [[1541年]])
* [[1494年]] - [[アントワネット・ド・ブルボン=ヴァンドーム]]、[[フランス王国|フランス]]の貴族[[ギーズ公]][[クロード (ギーズ公)|クロード]]の妻(+ [[1583年]])
* [[1505年]] - [[クリスティーナ・フォン・ザクセン (1505-1549)|クリスティーナ・フォン・ザクセン]]、[[ドイツ]]のザクセン公爵家([[アルベルティン家]])の公女で、[[ヘッセンの統治者一覧|ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]の(最初の)妻(+ [[1549年]])
* [[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]])- [[九条兼孝]]、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の[[公卿]](+ [[1636年]])
* [[1590年]]([[天正]]18年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[亀井政矩]]、初代[[石見国]][[津和野藩]]主(+ [[1619年]])
* [[1601年]] - [[エルンスト1世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)|エルンスト1世]]、[[ザクセン=ゴータ]]公(在位:[[1640年]] - 1675年)(+ [[1675年]])
* [[1628年]] - [[ノエル・コワペル]]、[[フランス]]の画家(+ [[1707年]])
* [[1642年]] - [[アイザック・ニュートン]]、[[物理学者]]、[[数学者]](+ [[1727年]])
* [[1717年]] - [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]、[[ローマ教皇]](+ [[1799年]])
* [[1724年]] - [[ジョン・ミッチェル (天文学者)|ジョン・ミッチェル]]、[[天文学者]]、[[科学者]](+ [[1793年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]])- [[柳原紀光]]、[[江戸時代]]中期の[[公卿]](+ [[1800年]])
* [[1802年]]([[享和]]2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]])- [[万里小路正房]]、[[江戸時代]]後期の[[公卿]](+ [[1859年]])
* [[1815年]] - [[テミストークレ・ソレーラ]]、[[オペラ]][[台本]]作家(+ [[1878年]])
* [[1821年]] - [[クララ・バートン]]、[[アメリカ赤十字社]]の設立者で、看護師のパイオニア(+ [[1912年]])
* [[1828年]] - [[フェリックス・ツー・ザルム=ザルム]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の貴族[[ザルム家 #上ザルム諸家(1163年 - 1794年)|ザルム=ザルム家]]出身の軍人、[[傭兵]](+ [[1870年]])
* [[1849年]]([[嘉永]]2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]])- [[乃木希典]]、[[軍人]](+ [[1912年]])
* [[1856年]] - [[パッド・ガルヴィン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1902年]])
* [[1861年]] - [[ウォルター・ウェストン]]、登山家、宣教師(+ [[1840年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[志賀重昂]]、[[地理学者]](+ [[1927年]])
* [[1864年]] - [[ジョー・クイン]]、プロ野球選手(+ [[1940年]])
* [[1872年]](明治5年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[添田唖蝉坊]]、[[演歌]]師(+ [[1944年]])
* 1872年 - [[ヘレナ・ルビンスタイン]]、実業家(+ [[1965年]])
* [[1876年]] - [[ムハンマド・アリー・ジンナー]]、[[パキスタン]]建国の父、[[インド・ムスリム連盟]]指導者(+ [[1948年]])
* [[1876年]] - [[アドルフ・ヴィンダウス]]、化学者 (+ [[1959年]])
* [[1877年]] - [[ポール・フラマリエ]]、[[地質学者]](+ [[1970年]])
* [[1886年]] - [[キッド・オリー]]、[[ジャズ]]の[[トロンボーン]][[演奏者|奏者]]、[[バンドマスター|バンドリーダー]](+ [[1973年]])
* 1886年 - [[ルイ・シボレー]]、[[レーシングドライバー]](+ [[1941年]])
* 1886年 - [[ノエル・レズリー (ロシズ伯爵夫人)|ノエル・レズリー]]、[[イギリス]]の[[スコットランド貴族]]第19代[[ロシズ伯爵]]{{仮リンク|ノーマン・レズリー (第19代ロシズ伯爵)|label=ノーマン・レズリー|en|Norman Leslie, 19th Earl of Rothes}}の妻(+ [[1956年]])
* [[1887年]] - [[高木八尺]]、アメリカ研究者(+ [[1984年]])
* 1887年 - [[コンラッド・ヒルトン]]、[[実業家]](+ [[1979年]])
* [[1891年]] - [[堂本印象]]、画家(+ [[1975年]])
* 1891年 - [[E・A・デュポン]]、[[映画監督]](+ [[1956年]])
* [[1895年]] - [[金子光晴]]、[[詩人]](+ [[1975年]])
* [[1899年]] - [[ハンフリー・ボガート]]、[[映画俳優]](+ [[1957年]])
* 1899年 - [[尾崎一雄]]、[[小説家]](+ [[1983年]])
* [[1901年]] - [[アリス (グロスター公爵夫人)]]、[[イギリス王室]](+ [[2004年]])
* [[1902年]] - [[フランソワーズ・ドルレアン (1902-1953)|フランソワーズ・ドルレアン]]、フランスの[[オルレアン家]]の王族(+ [[1953年]])
* [[1904年]] - [[舟橋聖一]]、小説家(+ [[1976年]])
* 1904年 - [[ゲルハルト・ヘルツベルク]]、物理化学者(+ [[1999年]])
* [[1905年]] - [[オルドリッヒ・ネイエドリー]]、[[サッカー選手]](+ [[1990年]])
* [[1906年]] - [[エルンスト・ルスカ]]、[[物理学者]](+ [[1988年]])
* 1906年 - [[クラーク・クリフォード]]、[[弁護士]]、[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]](+ [[1998年]])
* [[1907年]] - [[キャブ・キャロウェイ]]、[[ジャズ]]・[[歌手|シンガー]]、バンドリーダー(+ [[1994年]])
* 1907年 - [[クリスティアン・ヨハンソン]]、[[スキージャンプ]]選手(+ [[1984年]])
* [[1909年]] - [[メアリー・シェパード]]、[[イラストレーター]](+ [[2000年]])
* 1909年 - [[ルイ・ヴァン・リント]]、[[画家]](+ [[1986年]])
* [[1910年]]<ref group="注">[[GOSICK -ゴシック-]]の登場人物より借用。</ref> - [[優希クロエ]]、[[グラビアアイドル]](元[[純情のアフィリア]])
* [[1911年]] - [[ルイーズ・ブルジョワ]]、[[彫刻家]](+ [[2010年]])
* 1911年 - [[バーン・ホガース]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、美術教育者、美術理論家(+ [[1996年]])
* [[1912年]] - [[阿部光子]]、小説家(+ [[2008年]])
* [[1913年]] - [[キャンディ・キャンディード]]、[[声優]](+ [[1999年]])
* 1913年 - [[ジョルジュ・コワリ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の諜報員(+ [[2006年]])
* 1913年 - [[トニー・マーティン]]、俳優、歌手(+ [[2012年]])
* [[1914年]] - [[原智恵子]]、[[ピアニスト]](+ [[2001年]])
* [[1915年]] - [[ダヴィッド・アシュケナージ]]、ピアニスト、[[コンサートマスター]]、[[作曲家]](+ [[1997年]])
* 1915年 - [[逢初夢子]]、[[俳優|女優]](+ [[2002年]])
* [[1916年]] - [[福田孝]]、[[フクダ電子]]創業者(+ [[1998年]])
* 1916年 - [[ベン・ベラ]]、政治家、[[アルジェリア|アルジェリア民主人民共和国]]初代大統領(+ [[2012年]])
* [[1918年]] - [[アンワル・アッ=サーダート]]、[[近代エジプトの国家元首の一覧|エジプト大統領]](+ [[1981年]])
* [[1920年]] - [[ノエル・ハワード]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]](+ [[1987年]])
* [[1921年]] - [[宮田輝]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]](+ 1990年)
* [[1923年]] - [[山本正美 (作曲家)|山本正美]]、作曲家(+ [[2003年]])
* 1923年 - [[谷川雁]]、[[詩人]]、[[評論家]](+ [[1995年]])
* 1923年 - [[ルネ・ジラール]]、[[文芸評論家]]、思想家 (+ [[2015年]])
* [[1924年]] - [[ノエル・リー]]、ピアニスト、作曲家 (+ [[2013年]])
* 1924年 - [[岡本敦郎]]、[[歌手]](+ [[2012年]])
* 1924年 - [[ロッド・サーリング]]、[[脚本家]](+ [[1975年]])
* [[1926年]] - [[植木等]]、[[コメディアン]]、俳優 ※戸籍上は1927年[[2月25日]](+ [[2007年]])
* 1926年 - [[関根潤三]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]] ※戸籍上は1927年[[3月15日]](+ [[2020年]])
* [[1927年]] - [[花原照子]]、女優
* 1927年 - [[ラム・ナラヤン]]、音楽家
* [[1928年]] - [[福永令三]]、児童文学作家(+ [[2012年]])
* [[1932年]] - [[江藤淳]]、[[文学評論家]](+ [[1999年]])
* 1932年 - [[小沢通宏]]、元サッカー選手、指導者
* [[1933年]] - [[安西孝之]]、[[実業家]]
* 1933年 - [[岸田秀]]、[[心理学者]]
* [[1935年]] - [[ドナルド・ノーマン]]、[[認知科学|認知科学者]]
* [[1939年]] - [[夏八木勲]]、俳優(+ [[2013年]]<ref>{{Cite web |title=夏八木勲さん死去 映画ドラマで名脇役 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20130512-1125872.html |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=12 May 2013}}</ref>)
* [[1939年]] - [[ボブ・ジェームス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1941年]] - [[レナート・グリーン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* [[1943年]] - [[白田山秀敏]]、[[大相撲]][[力士]]、[[年寄]]10代[[谷川 (相撲)|谷川]]
* 1943年 - [[ウィルソン・フィッティパルディ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー、F1チームオーナー
* [[1945年]] - [[ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム]]、[[ドバイ]]首長国の副首長、[[オーナーブリーダー]](+ [[2021年]])
* 1945年 - [[ケン・ステイブラー]]、[[アメリカンフットボール]]選手(+ [[2015年]])
* [[1947年]] - [[加藤純子 (児童作家)|加藤純子]]、[[児童文学作家]]
* [[1948年]] - [[阿部憲一]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[大和なでしこ]]、女優
* 1949年 - [[山口和雄]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[山本功児]]、プロ野球選手、監督(+ [[2016年]])
* [[1953年]] - [[角川博]]、[[歌手]]
* [[1954年]] - [[アニー・レノックス]]、歌手
* [[1956年]] - [[小椋冬美]]、[[漫画家]]
* [[1957年]] - [[森園みるく]]、漫画家、[[写真家]]
* [[1958年]] - [[リッキー・ヘンダーソン]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[乾はるか]]、漫画家
* 1959年 - [[ジョン・キムラ・パーカー]]、ピアニスト
* 1959年 - [[宮本岳志]]、政治家
* [[1960年]] - [[西澤保彦]]、[[作家]]
* 1960年 - [[トーマス・オマリー]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[タイ・ゲイニー]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[中村大樹]]、[[声優]]
* 1962年 - [[チョン・ミスク]]、声優
* 1962年 - [[ジョナサン・ノット]]、指揮者
* [[1964年]] - [[イアン・ボストリッジ]]、歌手
* [[1965年]] - 桐島ノエル、[[タレント]]
* [[1966年]] - [[谷中敦]]、ミュージシャン([[東京スカパラダイスオーケストラ]])
* 1966年 - [[蒲谷和茂]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[新井敏弘]]、ラリードライバー
* [[1967年]] - [[田中美和子]]、タレント、[[フリーアナウンサー]]
* [[1968年]] - [[緒方孝市]]、元プロ野球選手、監督
* 1968年 - [[スコット・ブレット]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[ヘレナ・クリステンセン]]、[[スーパーモデル]]
* [[1970年]] - [[羽生生純]]、漫画家
* 1970年 - [[千代丸亮彦]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[白石ひとみ]]、元[[AV女優]]
* 1971年 - [[ジャスティン・トルドー]]、政治家、第29代[[カナダ首相]]
* [[1972年]] - [[アニータ・アルバラード]]、女優、[[エッセイスト]]、歌手
* 1972年 - [[山岸敬和]]、[[政治学者]]
* 1972年 - [[ジョニー志村]]、[[ものまねタレント]]
* [[1973年]] - [[三浦大輔]]、元プロ野球選手、監督
* 1973年 - [[佐藤貞治]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[増田忠俊]]、サッカー選手
* 1973年 - [[小手伸也]]、俳優
* [[1974年]] - [[貝塚政秀]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[春日由実]]、アナウンサー
* 1974年 - [[哲夫]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[笑い飯]])
* [[1975年]] - [[岡島秀樹]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[香林ゆうき]]、漫画家
* 1975年 - [[中岡由佳]]、タレント、フリーアナウンサー
* 1975年 - [[岩村敬士]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - 猿橋英之、放送作家、元お笑いタレント(元[[5番6番]])
* 1976年 - [[ツォーマス・ホロパイネン]]、[[キーボーディスト]]([[ナイトウィッシュ]])
* 1976年 - [[増山麗奈]]、[[画家]]、[[政治活動家]]、[[ジャーナリスト]]、[[映画監督]]、[[パフォーマー]]、[[作家]]
* [[1977年]] - [[鈴木里沙]]、[[舞台]]女優
* 1977年 - [[プリヤ・ラーイ]]、[[ポルノ女優]]
* [[1978年]] - [[高橋みゆき]]、[[バレーボール]]選手
* 1978年 - [[上野裕平]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[王偉 (野球)|王偉]]、プロ野球選手
* [[1979年]] - [[石川竜也]]、元サッカー選手
* [[1980年]] - [[杉山直久]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[橋本麗香]]、女優、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1980年 - [[朝倉みず希]]、タレント
* 1980年 - [[ジョアンナ・エンジェル]]、ポルノ女優
* [[1981年]] - [[ウィリー・タベラス]]、プロ野球選手
* 1981年 - [[北田瑠衣]]、プロゴルファー
* 1981年 - すぐる、ミュージシャン([[All Japan Goith]])
* 1981年 - [[ヴィクトリア・ボルゼンコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1982年]] - サムソン・ラマダニ、マラソン選手
* [[1983年]] - [[トリスタン・ソード]]、フィギュアスケート選手
* 1983年 - [[グイ・ルンメイ]]、女優
* 1983年 - [[遠藤要 (俳優)|遠藤要]]、俳優
* 1983年 - [[安藤聖]]、女優
* [[1984年]] - [[市野瀬瞳]]、アナウンサー
* 1984年 - [[佐田の富士哲博]]、元大相撲力士
* 1984年 - [[古川枝里子]]、[[CBCテレビ]]アナウンサー
* [[1985年]] - [[粕谷雄太]]、声優
* 1985年 - [[枡田絵理奈]]、アナウンサー
* [[1986年]] - [[洲崎綾]]、声優
* 1986年 - [[瀬間友里加]]、テニス選手
* 1986年 - [[メクボ・ジョブ・モグス]]、[[陸上競技]]選手
* 1986年 - [[吉岡亜衣加]]、[[シンガーソングライター]]
* 1986年 - [[鈴江彬]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[大成安代]]、元アナウンサー
* [[1987年]] - [[つぼみ (AV女優)|つぼみ]]、元AV女優
* [[1988年]] - [[マリ・ヴァルトマン]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - エリコ、歌手([[The Do-Nuts]])
* 1988年 - [[エリック・ゴードン]]、バスケットボール選手
* 1988年 - [[浜中俊]]、[[騎手]]
* 1988年 - [[中山麻聖]]、俳優
* [[1989年]] - [[野村香菜子]]、声優
* 1989年 - [[丸山葵]]、タレント
* [[1991年]] - [[黒瀬真奈美]]、女優
* 1991年 - [[愛美]]、声優、歌手
* [[1992年]] - [[御嶽海久司]]、大相撲力士
* 1992年 - [[安宅晃樹]]、フジテレビアナウンサー
* [[1993年]] - [[武井咲]]、女優、ファッションモデル
* 1993年 - [[アンドレア・ドルーズ]]、バレーボール選手
* 1993年 - [[マドレーヌ・マロンガ]]、柔道家
* [[1995年]] - [[徳原旅行]]、お笑いタレント
* 1995年 - [[たっくーTVれいでぃお|たっくー]]、[[YouTuber]]
* [[2000年]] - [[浅野杏奈]]、アイドル(元[[マジカル・パンチライン]])
* [[2001年]] - [[青木滉平]]、アイドル([[ジャニーズJr.|ジュニア]]、少年忍者)
* 生年不明 - [[ユッコ・ミラー]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者
* 生年不明 - [[影山灯]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.iam-agency.jp/actor/kageyama-akari/ |title=影山 灯 |accessdate=25 Dec 2023 |publisher=IAMエージェンシー}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[酒井敬幸]]、声優
* 生年不明 - [[佐藤ゆうこ (声優)|佐藤ゆうこ]]、声優
* 生年不明 - [[下村基治]]、声優
* 生年不明 - [[なりた雛糸]]、声優
* 生年不明 - [[渡辺とおる]]、漫画家
== 忌日 ==
[[ファイル:Kikkawa Motoharu02.jpg|thumb|199x199px|戦国大名[[吉川元春]](1530年)]]
[[ファイル:大正天皇大葬.jpg|thumb|180x180px|[[大正天皇]]崩御(1926年)<br />画像は翌年執り行われた大喪の礼]]
[[ファイル:Charles-chaplin 1920.jpg|thumb|279x279px|喜劇俳優・映画監督[[チャールズ・チャップリン]](1977年)]]
* [[紀元前310年代|紀元前317年]] - [[ピリッポス3世]]、[[マケドニア王国|マケドニア王]](* [[紀元前350年代|紀元前359年]])
* [[820年]] - [[レオーン5世]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]
* [[977年]]([[貞元 (日本)|貞元]]2年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]])- [[藤原兼通]]、[[公卿]](* [[925年]])
* [[1586年]]([[天正]]14年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]])- [[吉川元春]]、[[武将|戦国武将]]、[[毛利元就]]の次男(* [[1530年]])
* [[1614年]]([[慶長]]19年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]])- [[近衛信尹]]、公卿(* [[1565年]])
* [[1635年]] - [[サミュエル・ド・シャンプラン]]、[[地理学者]]、[[探検家]]、[[ケベック・シティー]]創設者(* [[1567年]]もしくは[[1570年]])
* [[1820年]] - [[ジョゼフ・フーシェ]]、[[政治家]](* [[1759年]])
* [[1834年]] - [[ダーヴィト・フリートレンダー]]、教育家、作家(* [[1750年]])
* [[1845年]] - [[ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ]]、[[作曲家]](* [[1759年]])
* [[1914年]] - [[ベルンハルト・シュターフェンハーゲン]]、[[音楽家]](* [[1862年]])
* [[1921年]] - [[ハンス・フーバー]]、作曲家(* [[1852年]])
* [[1922年]] - [[鈴木馬左也]]、[[実業家]](* [[1861年]])
* [[1926年]] - [[大正天皇]]、第123代[[天皇]](* [[1879年]])
* [[1928年]] - [[小山内薫]]、[[作家]](* [[1881年]])
* [[1938年]] - [[カレル・チャペック]]、[[劇作家]](* [[1890年]])
* [[1961年]] - [[オットー・レーヴィ]]、[[生理学|生理学者]](* [[1873年]])
* 1961年 - [[オーウェン・ブリュスター]]、元[[メイン州知事]](* [[1888年]])
* 1961年 - [[矢内原忠雄]]、[[経済学者]](* [[1893年]])
* [[1973年]] - [[ガブリエル・ヴォアザン]]、[[航空機]]開発者(* [[1880年]])
* [[1973年]] - [[イスメト・イノニュ]]、第2代[[トルコの大統領|トルコ共和国大統領]](* [[1884年]])
* [[1977年]] - [[チャーリー・チャップリン|チャールズ・チャップリン]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](* [[1889年]])
* [[1979年]] - [[富木謙治]]、[[合気道]]、[[柔道|柔道家]](* [[1900年]])
* 1979年 - [[マリオ・フィリッペスキ]]、[[テノール]]歌手(* [[1907年]])
* [[1983年]] - [[ジョアン・ミロ]]、[[画家]](* [[1893年]])
* [[1986年]] - [[梅沢浜夫]]、[[医学者]](* [[1914年]])
* [[1988年]] - [[大岡昇平]]、作家(* [[1909年]])
* 1988年 - [[エフゲニー・ゴルベフ]]、作曲家(* [[1910年]])
* [[1989年]] - [[ニコラエ・チャウシェスク]]、政治家、[[ルーマニアの大統領|ルーマニア大統領]](* [[1918年]])
* 1989年 - [[エレナ・チャウシェスク]]、ニコラエ・チャウシェスクの妻(* [[1919年]])
* [[1993年]] - [[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]]、[[数学者]](* [[1912年]])
* 1993年 - [[藤村隆男]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]])
* 1993年 - [[逸見政孝]]、[[アナウンサー]](* [[1945年]])
* 1993年 - [[ピエール・オージェ]]、[[物理学者]](* [[1899年]])
* [[1995年]] - [[エマニュエル・レヴィナス]]、[[哲学|哲学者]](* [[1906年]])
* 1995年 - [[ディーン・マーティン]]、俳優、歌手(* [[1917年]])
* [[1997年]] - [[中村真一郎]]、[[小説家]](* [[1918年]])
* [[1999年]] - [[池田貴族]]、[[ミュージシャン]](* [[1963年]])
* [[2000年]] - [[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]、哲学者(* [[1908年]])
* 2000年 - [[浜口陽三]]、[[版画家]](* [[1909年]])
* 2000年 - [[田村勲]]、元プロ野球選手(* [[1957年]])
* [[2001年]] - [[鴨井達比古]]、[[脚本家]](* [[1943年]])
* [[2002年]] - [[ガブリエル・アーモンド]]、[[政治学者]](* [[1911年]])
* [[2005年]] - [[ビルギット・ニルソン]]、[[ソプラノ]]歌手(* [[1918年]])
* 2005年 - [[佐々木丸美]]、小説家(* [[1949年]])
* [[2006年]] - [[ジェームス・ブラウン]]、ミュージシャン(* [[1933年]])
* [[2007年]] - [[ダン池田]]、[[バンドマスター]](* [[1935年]])
* [[2008年]] - [[アン・サヴェージ]]、女優(* [[1921年]])
* [[2011年]] - [[岩井半四郎 (10代目)|10代目岩井半四郎]]、[[歌舞伎俳優]](* [[1927年]])
* [[2015年]] - [[仁杉巌]]、第9代[[日本国有鉄道]]総裁(* [[1915年]])
* 2015年 - [[加島祥造]]、[[詩人]](* [[1923年]])
* [[2016年]] - [[ジョージ・マイケル]]、[[シンガーソングライター]](元[[ワム!]])(* [[1963年]])
* [[2018年]] - [[鴻池祥肇]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/12593.html |title=鴻池祥肇 参院議員が死去 小泉内閣で防災担当大臣 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=26 Dec 2018}}</ref>、政治家(* [[1940年]])
* [[2019年]] - [[村岡兼造]]<ref>{{Cite web|和書 |title=村岡兼造氏が死去 元官房長官 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53811570V21C19A2CC1000/ |date=25 Dec 2019 |accessdate=25 Dec 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>、政治家(* [[1931年]])
* [[2020年]] - [[K・C・ジョーンズ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3323478 |title=K.C.ジョーンズ氏が死去、88歳 NBAセルティックスのレジェンド |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=26 Dec 2020}}</ref>、[[バスケットボール]]選手、指導者(* [[1932年]])
* 2020年 - [[ダニー・ホッジ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.daily.co.jp/ring/2020/12/27/0013968391.shtml |title=“最強プロレスラー”ダニー・ホッジさん死去 テーズ、BI砲にも勝利 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=27 Dec 2020}}</ref>、[[プロレスラー]](* 1932年)
* 2020年 - [[トニー・ライス]]<ref>{{Cite web |url=https://amass.jp/142878/ |title=最も影響力のあるブルーグラス・ギタリストの一人、トニー・ライスが死去 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=amass.jp |date=27 Dec 2020}}</ref>、ミュージシャン(* [[1951年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[File:Gerard van Honthorst 001.jpg|thumb|150px|クリスマス<br />イエス・キリストの降誕を描いた宗教画]]
* [[クリスマス]]({{World}})
*: [[イエス・キリスト]]の[[キリストの降誕|降誕]]を[[記念日|記念する日]]。[[聖書]]にはキリストの[[誕生日]]についての記述はなく(4月から9月の間とされ、確定できているのは12月の寒い時期ではないということである)、各宗派がそれぞれに日付を定めてキリストの生誕を祝っていたが、元々太陽信仰の[[ミトラ教]]の信者でキリスト教に改宗したローマ皇帝[[コンスタンティヌス1世]]が、[[336年]]にミトラ教の祭である[[冬至]]祭の日であったこの日をイエス・キリストの降誕の日と定めた。
* [[憲法記念日]]({{ROC-TW}})
*: [[1946年]]のこの日に制憲国民大会で[[中華民国憲法]]が制定され、翌[[1947年]]に発効したことを記念。
* ジンナー誕生日({{PAK}})
*: パキスタンの建国の父[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]の[[1876年]]の誕生日。
* 終い天神・ 納め天神({{JPN}})
*: 1年で最後の[[天満宮]]の[[縁日]]。
* [[スケート]]の日({{JPN}})
*: 日本スケート場協会が[[1982年]]に制定。各地のスケート場への入場料が安くなるところが多い。[[1861年]]のこの日、函館に滞在していたイギリスの探検家[[トーマス・ブラキストン|トーマス・ライト・ブラキストン]]が、日本で初めてスケートをしたのが由来である。
* [[大正天皇祭]]({{JPN}}、[[1926年]] - [[1947年]])
*: [[大正天皇]][[崩御]]の日。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1225|date=Dec 2023}}
* [[1823年]] - 徒刑囚ジャン・ヴァルジャン、フランスの[[モンフェルメイユ]]にあるテナルディエの宿屋にて、今は亡きファンティーヌの娘コゼット(本名:ユーフラジー)を引き取る。(『[[レ・ミゼラブル]]』)
* [[1979年]] - JX-1「隼号」の遭難が報じられる。(映画『[[妖星ゴラス]]』)
* [[2005年]] - 東京卍會と{{ruby| 黒龍 |ブラックドラゴン}}による抗争「{{ruby| [[東京卍リベンジャーズ#聖夜決戦|聖夜決戦]]|クリスマス}}」が起こる<ref>{{Cite book|和書 |author=和久井健 |authorlink=和久井健 |title=東京卍リベンジャーズ |publisher=[[講談社]] |date=15 Mar 2019 |isbn=978-4-06-514445-9 |url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000319483 |pages=67- |volume=11}}</ref>。(漫画『[[東京卍リベンジャーズ]]』)
* [[2006年]] - R☆S(ライジングスター)オーケストラのクリスマス公演が[[サントリーホール]]で開催<ref>劇中に登場する公演のポスターとチケットの表記から。</ref>。(ドラマ『[[のだめカンタービレ (テレビドラマ)|のだめカンタービレ]]』)
* 2006年 - シコラックスの宇宙船が[[ロンドン]]上空に到達。ブラッドコントロールで数十億人の地球人を操作し人質とする。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* 2006年 - 神代剣/スコルピオワームと天道総司/仮面ライダーカブトの最終決戦。(特撮ドラマ『[[仮面ライダーカブト]]』)
* [[2008年]] - 宇宙船タイタニック号が[[バッキンガム宮殿]]に墜落しかける。[[10代目ドクター]]とアロンゾが間一髪で回避する。(ドラマ『ドクター・フー』)
* [[2020年]] - 宇宙空港に18年前[[火星]]へ逃亡し、時効を迎えた凶悪犯ユダ・ペーターが帰還。逃亡中にエスパーとなったユダは、[[手塚漫画のキャラクター一覧#中村課長|中村課長]]と[[手塚漫画のキャラクター一覧#田鷲警部|田鷲警部]]の同僚私服警官([[手塚漫画のキャラクター一覧#下田警部|下田警部]])を超能力で心臓発作を起こさせて抹殺。部下に連れられて「お茶の水小学校」に赴くと、かつてのメイドロボットで、現在は同小学校で教師をしている井之頭を超能力で抹殺。そこへ現れた同小学校教師(および私立探偵)[[ヒゲオヤジ|伴俊作]]を返り討ちにしようとしたが、アトムに邪魔される。(原作版『[[鉄腕アトム]]』「火星から帰ってきた男の巻」)
* 2021年 - 「オッドタクシー作戦」決行。(アニメ『[[オッドタクシー]]』)
* 新西暦2012年 - ゴーバスターズがメサイアをシャットダウンする。(TV特撮『[[特命戦隊ゴーバスターズ]]』)
* 年不明 - 「クリスマスオペレーション」発動、各地でゾンビのようなロボット達による世界制圧事件勃発。(アニメ『[[勇者特急マイトガイン]]』)
* 年不明 - パラダイム・シティを支配する巨大企業「パラダイム社」の創立記念日。現実世界のクリスマスと同様の催し物が行われる。(アニメ『[[THE ビッグオー]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1755年]] - オスカル・フランソワ・ド ジャルジェ、漫画・アニメ『[[ベルサイユのばら]]』の主人公のひとり<ref>{{Kotobank|オスカル・フランソワ・ド ジャルジェ}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://magmix.jp/post/71957 |title=『ベルサイユのばら』オスカル様は「こじらせ系」!? 不意打ちキスに成功した4人の男性とは |access-date=25 Dec 2023 |publisher=mediavague Co., Ltd. |date=25 Dec 2021 |website=マグミクス}}</ref>
* [[1926年]] - [[バカボンのパパ]]、漫画・アニメ『[[天才バカボン]]』の主人公<ref>バカ田大学後援会『天才バカボンの大神秘―バカボンのパパの知能指数は12500なのだ!?』ベストセラーズ、1993年、12頁。{{ISBN2|4584181543}}</ref><ref group="注">原作のエピソード『パパの誕生秘話』において、本人は「昭和元年12月元日のクリスマスの夜」を誕生日としているが、昭和元年は12月25日より始まっており、この日が誕生日であると解釈される。</ref>
* [[1966年]] - [[ビリー・カーン]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/billy.php |title=ビリー・カーン |access-date=25 Dec 2023|publisher=[[ SNK (2001年設立の企業)|SNK PLAYMORE]] |work=『餓狼伝説』}}</ref>
* [[1984年]](アニメでは[[1987年]]<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2= 小畑健|authorlink2=小畑健 |year = 2007 |title = DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |page = 8 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4-08-874197-0 }}</ref>) - [[弥海砂]]、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>[[大場つぐみ]]、[[小畑健]]『[[DEATH NOTE]]』13巻、[[集英社]]、2006年、16頁、{{ISBN2|978-4-08-874095-9}}。</ref>(+ [[2011年]]〈原作〉、アニメでは不明)
* 2125年 - ミニドラえもん、映画『[[2112年 ドラえもん誕生|2112年ドラえもん誕生]]』に登場するキャラクター
* 2500年代 - アドルフ・ラインハルト、漫画・アニメ『[[テラフォーマーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=貴家悠|authorlink1=貴家悠|author2=橘賢一|authorlink2=橘賢一|title= テラフォーマーズ|origyear= 2013|accessdate= 2016-03-13|publisher= 集英社|isbn= 978-4-08-879523-2|volume= 4巻}}</ref>
* 生年不明 - パディントン・ブラウン、児童文学『[[くまのパディントン]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hugkum.sho.jp/28672 |title=実はクリスマスが誕生日!イギリス生まれの「くまのパディントン」の魅力って? |access-date=25 Dec 2023 |publisher=HugKum(はぐくむ)・[[小学館]] |date=27 Nov 2018}}</ref><ref group="注">誕生日は、6月25日と12月25日の2回ある。</ref>
* 生年不明 - 音城ノエル、ゲーム・アニメ『[[アイカツオンパレード!]]』ドリームストーリーの主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsuonparade/webanime/#character |title=音城 ノエル |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツオンパレード!』}}</ref>
* 生年不明 - [[アレン・ウォーカー]]、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author=星野桂|authorlink=星野桂|year = 2008 |title = D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page = 22 |publisher = 集英社 |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874248-9 }}</ref><ref>星野桂 『D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2011年、36、43頁、{{ISBN2|978-4-08-870268-1}}</ref>(正確には拾われた日)
* 生年不明 - 古見硝子、漫画・アニメ『[[古見さんは、コミュ症です。]]』の主人公<ref>{{Twitter status|comisanvote|1473850859045806080}}</ref>
* 生年不明 - 天満そら、漫画『[[初恋*れ~るとりっぷ]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=初恋*れ~るとりっぷ 3|date=2021-11-26|publisher=[[芳文社]]|page=111|author=永山ゆうのん|isbn=978-4-8322-7323-8}}</ref>
* 生年不明 - サイボーグ005 / ジェロニモ・ジュニア、漫画・アニメ『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishimoripro|1342122874329387008}}</ref>
* 生年不明 - 箱根彩耶、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/hakone_saya |title=神奈川 箱根彩耶 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#教職員|黒井まみ]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|aut特別|authorlink=週刊少年ジャンプ|year=1997|title=地獄先生ぬ~べ~大百科|page=106|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス デラックス]]|isbn=4-08-858883-5}}</ref>
* 生年不明 - イナリ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002 |title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page = 23 |publisher = 集英社 | series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X }}</ref>
* 生年不明 - 加古望、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1342124139491033088}}</ref>
* 生年不明 ‐ 鶴見篤四郎、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kamuy_official|1474575843339141123}}</ref>
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#リヴァイ|リヴァイ/リヴァイ・アッカーマン]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_shingeki|945130542529363968}}</ref>
* 生年不明 - 月城雪兎、漫画・アニメ『[[カードキャプターさくら]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|FansClamp|1732958176562278624}}</ref>
* 生年不明 - シスカ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=[[東まゆみ]](監修)|year=2005|title=EREMENTAR GERAD オフィシャルガイド|page=24|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|isbn=4-86127-152-5}}</ref><ref>東まゆみ監修 『エレメンタルジェレイド アルティメットガイド』 マッグガーデン〈ブレイドコミックス〉、2009年、22頁、{{ISBN2|978-4-86127-616-3}}。</ref>
* 生年不明 - 村上椎奈、漫画・アニメ『[[ステラのまほう]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|magicofstella_a|945081667122810880}}</ref>
* 生年不明 - 日代千鶴、漫画・アニメ『[[ReLIFE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://relife-anime.com/character/ |title=CHARACTER 日代千鶴 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[夜宵草]]/comico/リライフ研究所 |work=『ReLIFE』}}</ref>
* 生年不明 - 白鷺城ルイ、漫画・アニメ『[[ベイブレードバースト]]』に登場するキャラクター<ref name="profile_2">『ベイブレードバースト 9』小学館〈コロコロコミックス〉、2018年5月2日、172頁。</ref>
* 生年不明 - 安藤りえ、漫画『旅する海とアトリエ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=旅する海とアトリエ |year=2019 |publisher=[[芳文社]] |volume=1 |author=森永ミキ |isbn=978-4832271401 |page=2}}</ref>
* 生年不明 - エリス、小説・アニメ『[[この素晴らしい世界に祝福を!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|konosubaanime|1077508085676032000}}</ref>
* 生年不明 - クリス、小説・アニメ『[[この素晴らしい世界に祝福を!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - 石動美緒、小説・アニメ『[[えむえむっ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1291008529 |title=TVアニメ『えむえむっ!』“美緒様聖誕祭”チケット発売中! |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[アニメイト|ANIMATE CORPORATION]] |date=29 Nov 2010 |website=animate Times}}</ref>
* 生年不明 - 田中あすか、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム|響け!ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eupho|1474575637025148929}}</ref>
* 生年不明 - シマ、アニメ『[[アイラちゃん|でびどる!]]』『[[アイラちゃん|コチンPa!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aira.moe/character/ |title=キャラクター紹介 シマ |work=『ISLAND 看板娘アイラ(AIRA)』 |accessdate=25 Dec 2023 |publisher=PACHINKO&SLOT ISLAND}}</ref>
* 生年不明 - 佐藤シゲル、アニメ『[[せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ|せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|seizei_kurumi|1342302296206524417}}</ref>
* 生年不明 - 郷倉虎徹、アニメ『[[リーマンズクラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://rymansclub.com/character/tomari/ |title=トマリ運輸 Character 郷倉虎徹 |access-date=25 Dec 2023 |publisher=Team RMC/サンライトビバレッジ広報部 |work=『リーマンズクラブ』}}</ref>
* 生年不明 - 聖クリス、キャラクターCD『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://tsukino-pro.com/tsukiuta/character/kurisu |title=12 聖クリス |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[ムービック]]/TSUKIUTA |work=『ツキウタ。』}}</ref>
* 生年不明 - ロバート・ガルシア、ゲーム『[[龍虎の拳]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|KOF_ALLSTAR|1077232437074280449}}</ref>
* 生年不明 - 如月影二、ゲーム『[[龍虎の拳|龍虎の拳2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|KOF_ALLSTAR|1209496453502193664}}</ref>
* 生年不明 - アルクェイド・ブリュンスタッド、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=月姫読本PlusPeriod|author=[[武内崇]]、[[奈須きのこ]]|year=2004|publisher=宙出版|page=49|isbn=4776790378}}</ref>
* 生年不明 - ノエル=ヴァーミリオン、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/noel.html |title=ノエル=ヴァーミリオン |publisher=[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |accessdate=25 Dec 2023 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref>
* 生年不明 - 柊志乃、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20130 |title=柊 志乃(ひいらぎ しの) |access-date=25 Dec 2023|publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER™』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#望月聖|望月聖]]、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20170 |title=望月 聖(もちづき ひじり) |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER™』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 白水六花、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1342122865592737794}}</ref>
* 生年不明 - アキノ、ゲーム・アニメ『[[WIXOSS|WIXROSS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.takaratomy.co.jp/products/wixoss/chara/lrig.php?lrig=2 |title=アキノ |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[タカラトミー|株式会社タカラトミー]] |work=『WIXOSS』}}</ref>
* 生年不明 - レイヴン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=179&cate=name&cont=Raven |title=レイヴン |access-date=25 Dec 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ジョナサン・サイズモア、ゲーム・アニメ『[[ガンスリンガー ストラトス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|gunsPR|809309834864709632}}</ref>
*生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#大崎甘奈|大崎甘奈]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/unit3/amana.html |title=大崎甘奈 (おおさきあまな) |accessdate=25 Dec 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] enza |work=『アイドルマスター シャイニーカラーズ』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#大崎甜花|大崎甜花]]、ゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/unit3/tenka.html |title=大崎甜花 (おおさきてんか) |accessdate=25 Dec 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] enza |work=『アイドルマスター シャイニーカラーズ』}}</ref>
* 生年不明 - 菅原千恵、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://heaven-burns-red.com/character/30g/sugawara-chie/ |title=菅原千恵 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=25 Dec 2023}}</ref>
* 生年不明 - 猫足蕾、ゲーム・アニメ『[[ワールドダイスター 夢のステラリウム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|wds_game|1738937578265428249}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[1996年]] - 永井秀一、ドラマ『[[星の金貨]]』及び『続・星の金貨』の登場人物<ref>『続・星の金貨』最終回に登場した永井家の墓碑より。</ref>
* [[2001年]] - 伊隅みちる、ゲーム『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』に登場するキャラクター<ref name="MUVLUVALTE26">{{Cite book |和書 |year = 2010 |title = 『マブラヴ オルタネイティヴ』公式メカ設定資料集 |page = 26 |publisher = [[エンターブレイン]] |isbn = 9784047262232 }}</ref>
* 2001年 - 柏木晴子、ゲーム『マブラヴ オルタネイティヴ』に登場するキャラクター<ref name="MUVLUVALTE26" />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{commonscat|25 December}}
{{新暦365日|12|24|12|26|[[11月25日]]|[[1月25日]]|[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]|1225|12|25}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8825%E6%97%A5 |
5,350 | 1689年 | 1689年(1689 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | [
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] | 1689年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1689}}
{{year-definition|1689}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2349年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]28年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]4022年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]10年
* [[仏滅紀元]] : 2231年 - 2232年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1100年 - 1101年
* [[ユダヤ暦]] : 5449年 - 5450年
* [[ユリウス暦]] : 1688年12月22日 - 1689年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1689}}
== できごと ==
* [[ウィリアム王戦争]]勃発(-[[1697年]]){{要出典|date=2021-03}}。
* [[イングランド王国|イングランド]]で[[権利宣言|権利の宣言]]、[[権利の章典]]制定。議会の王権に対する優位が確立される{{要出典|date=2021-04}}。
* 9月6日 - [[ロシア・ツァーリ国]]、[[清]]間で[[ネルチンスク条約]]締結。
* イングランドで{{仮リンク|1695年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election 1689}}
=== 日本 ===
* 4月 - [[出島|長崎]]に[[唐人屋敷]]設立。
* [[渋川春海]]、[[江戸本所]]邸内に[[天文台]]設置。
* [[松尾芭蕉]]が[[奥の細道]]の旅を始める。
* 日本最古の造船所、[[藤永田造船所|兵庫屋]]創業。
* 八つ橋発祥。
* 糀ブームの火付け役、[[糀屋本店]]創業
== 誕生 ==
{{see also|Category:1689年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]] - [[シャルル・ド・モンテスキュー]]<ref>{{Kotobank|モンテスキュー}}</ref>、フランスの[[哲学者]]・[[政治思想家]](+ [[1755年]])
* [[3月23日]] - [[ヨハン・アダム・クルムス]]、[[解剖学者]](+ [[1745年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1689年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月11日]] - [[サンバージー|サンバージー・ボーンスレー]]、第2代[[マラーター王]](+[[1657年]])
* [[8月12日]] - [[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]、第240代[[ローマ教皇]](* [[1611年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1689}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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5,352 | 道元 | 道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月26日) - 建長5年8月28日(1253年9月29日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている。
道元は、正治2年(1200年)、京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」、「文殊丸」とされるが、定かでは無い。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣の源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣の松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘にて生まれたとされているが、根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義も持たれており、上記説では養父とされていた源通親の子である大納言の堀川通具を実父とする説もある。四国地方には道元の出生に関して「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承もあるが、キリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子となった。
4歳にして漢詩『百詠』、7歳で『春秋左氏伝』、9歳にて『阿毘達磨倶舎論』を読んだ神童であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として「誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」とある。 | [
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] | 道元は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている。 | {{Infobox Buddhist
|名前=道元
|生没年=[[正治]]2年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]] - [[建長]]5年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[旧暦]])<br/><small>([[1200年]][[1月26日]] - [[1253年]][[9月29日]]([[グレゴリオ暦]])</small><br/><small>([[1200年]][[1月19日]] - [[1253年]][[9月22日]]([[ユリウス暦]]))</small>
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|没地=京都
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|宗旨=[[曹洞宗]]
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'''道元'''(どうげん、[[正治]]2年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1200年]][[1月26日]]) - [[建長]]5年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1253年]][[9月29日]])<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.soto-kinki.net/about/dogen.php |title=道元禅師のご生涯 |access-date=26 Oct 2023 |publisher=曹洞宗近畿管区教化センター}}</ref>)は、[[鎌倉時代]]初期の[[禅僧]]<ref name="ib752">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |pages=752-753 }}</ref>。[[曹洞宗|日本における曹洞宗]]の開祖<ref name="ib752" />。晩年には、'''希玄'''という異称も用いた。宗門では'''高祖承陽大師'''と尊称される。[[諡|諡号]]は仏性伝東[[国師]]、承陽[[大師 (僧)|大師]]。[[諱]]は希玄<ref name="ib752" />。'''道元禅師'''とも呼ばれる。主著・『[[正法眼蔵]]』は、[[和辻哲郎]]や[[スティーブ・ジョブズ]]ら後世に亘って影響を与えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/59_dougen/index.html |title=名著59 道元「正法眼蔵」100分de名著 |publisher =日本放送協会 |accessdate=2023-05-26}}</ref>。
== 生い立ち ==
道元は、正治2年(1200年)、[[京都]]の[[公卿]]の[[久我家|久我家(村上源氏)]]に生まれた。幼名は「信子丸」{{要出典|date=2023年5月}}、「文殊丸」<ref>{{Cite web|和書|url=https://acrobat.adobe.com/link/review?uri=urn:aaid:scds:US:4cd232e8-6ea9-3e1b-b5d4-0dfcd9c60567 |title=ご本山だより 初春 |format=PDF |publisher =大本山永平寺 |accessdate=2023-05-25}}</ref>とされるが、定かでは無い<ref>「道元の号と諱について」[[東隆眞]]・[[1978年]]</ref>。両親については諸説あり、仏教学者の[[大久保道舟]]が提唱した説では、父は[[内大臣]]の[[源通親]](久我通親または土御門通親とも称される)、母は[[太政大臣]]の[[松殿基房]](藤原基房)の娘の[[藤原伊子]]で、[[京都]][[木幡]]の木幡山荘<ref>「[[松殿山荘]]」参照。</ref>にて生まれたとされているが、根拠とされた[[面山瑞方]]による訂補本『[[建撕記]]』の記載の信用性に疑義も持たれており、上記説では養父とされていた源通親の子である[[大納言]]の[[堀川通具]]を実父とする説もある<ref>『孤高の禅師 道元 日本の名僧』([[中尾良信]]編、[[吉川弘文館]],2003)50頁以下参照。</ref>。四国地方には道元の出生に関して「稚児のころに[[藤原氏]]の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので[[神童]]として保護された」との[[民間伝承]]もあるが、[[イエス・キリスト|キリスト]]や[[聖徳太子]]の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って<ref name="ib752" />、異母兄である[[堀川通具]]の養子となった。
4歳にして[[漢詩]]『百詠』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kairinji.com/04_soutoushu/index.html |title=曹洞宗の歩み |publisher =曹洞宗嶋田山快林寺 |accessdate=2023-05-25}}</ref>、7歳で『[[春秋]]左氏伝』、9歳にて『[[阿毘達磨倶舎論]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://wp1.fuchu.jp/~zenshoji/dogen_1.html |title=道元禅師物語 |publisher = |accessdate=2023-05-25}}</ref>を読んだ[[神童]]であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である[[松殿師家]](元[[摂政]]内大臣)から[[松殿家]]の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として「誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」とある。
== 主な活動 ==
[[File:誕生寺(京都市伏見区久我).jpg|thumb|曹洞宗宗祖 道元禅師 誕生寺]]
[[画像:道元禅師示寂の地.jpg|thumb|200px|right|道元禅師示寂の地]]
*[[建暦]]2年([[1212年]])、[[比叡山]]にいる母方の叔父の[[良顕]]を訪ねる<ref>岩波仏教辞典第二版752頁では、13歳のときに比叡山に訪ねた相手は「良観」となっている。</ref>。
*建暦3年([[1213年]])、天台[[座主]][[公円]]について[[出家]]し<ref name="ib752" />、仏法房道元と名乗る。
*[[建保]]3年([[1215年]])、[[園城寺]](三井寺)の[[公胤]]の元で[[天台宗|天台]]教学を修める<ref name="ib752" />。
*建保5年([[1217年]])、[[建仁寺]]にて[[明菴栄西|栄西]]の弟子の[[明全]]に師事<ref name="ib752" />。
*[[貞応]]2年([[1223年]])、明全とともに[[博多]]から[[南宋]]に渡って諸山を巡る<ref name="ib752" />。
*南宋の[[宝慶]]元年([[1225年]])、[[天童如浄]]の「身心脱落」の語を聞いて得悟<ref name="ib752" />。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ<ref name="ib752" />。その際の問答記録が『[[寶慶記]]』(題名は当時の南宋の[[年号]]に由来)である。
*[[安貞]]元年([[1227年]])、帰国{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=605}}{{sfn|ひろ|2013|p=14}}。帰国前夜『[[碧巌録]]』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また、同年『[[普勧坐禅儀]]』を著す{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=605}}。
*[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])、[[京都]][[深草]]に[[興聖寺 (宇治市)|興聖寺]]を開く<ref name="ib752" />。「[[正法眼蔵]]」の最初の巻である「現成公案」を、[[鎮西]][[太宰府]]の俗弟子、楊光秀のために執筆する{{sfn|ひろ|2013|p=14~15、26}}。
*天福2年([[1234年]])、[[孤雲懐奘]]が入門<ref name="ib752" />。続いて、[[日本達磨宗|達磨宗]]からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した<ref name="ib752" />。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。
*[[寛元]]元年([[1243年]])、[[越前国]]の[[地頭]][[波多野義重]]の招きで越前志比荘に移転<ref name="ib752" />。途中、[[朽木村|朽木]]の領主[[佐々木信綱]]の招きに応じ、[[朽木村|朽木]]に立ち寄る([[興聖寺 (高島市)|興聖寺]]の由来)。
*寛元2年([[1244年]])、傘松に大佛寺を開く。
*寛元4年([[1246年]])、大佛寺を[[永平寺]]に改め、自身の号も'''希玄'''と改める。
*[[宝治]]元年-3年([[1247年]]-[[1249年]])頃<ref>岩波仏教辞典第二版753頁では、時頼の招きによる鎌倉下向は1247年、宝治1年に行われた(下向の終了年は未記載)となっている。</ref>、[[執権]][[北条時頼]]、[[波多野義重]]らの招請により教化のため[[鎌倉]]に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
*[[建長]]5年([[1253年]])、病により[[永平寺]]の住職を、弟子[[孤雲懐奘]]{{efn|懐奘は『[[正法眼蔵随聞記]]』を記した<ref name="コトバンク正法眼蔵随聞記">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5%E9%9A%8F%E8%81%9E%E8%A8%98-79834|title=正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-31}}</ref>。}}に譲り、没す。享年54(満53歳没)。死因は[[悪性腫瘍|瘍]]とされている。
*[[嘉永]]7年([[1854年]])、[[孝明天皇]]より「仏性伝東国師」の国師号を宣下される。
*[[明治]]12年([[1879年]])、[[明治天皇]]より「承陽大師」の大師号を宣下される。
== 教義・思想 ==
* ひたすら[[坐禅]]するところに[[悟り]]が顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる<ref name="ib752" />。道元のこの立場は'''修証一等'''や'''本証妙証'''と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「[[正法眼蔵]]」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「[[正法眼蔵]]」においては[[因果]]の重視や[[出家]]主義の強調がなされるようになった<ref name="ib752" />。
* [[成仏]]とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり('''修証一等''')、[[釈迦]]に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である('''[[只管打坐]]''')と主張した。
* [[鎌倉仏教]]の多くは[[末法思想]]を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。[[不可思議]]に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は[[方便]]説に過ぎないとして、末法を否定した。
* [[南宋]]で師事していた[[天童如浄]]が、ある日、坐禅中に居眠りしている僧に向かって「参禅はすべからく'''身心脱落'''(しんじんだつらく)なるべし』と一喝するのを聞いて大悟した{{sfn|禅の本|1992|p=44}}。身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることである{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=465}}。道元の得法の機縁となった「身心脱落」の語は、曹洞禅の極意をあらわしている{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=465}}。
* 道元は易行道([[浄土教]]教義の一つ)には、否定的な見解を述べている{{efn|「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり、太だ佛道に合はず。…好道の士は易行に志すことなかれ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか<ref>『永平初祖學道用心集』の「第六、参禅に知るべき事」より。</ref>」。}}。
* 道元は『[[法華経]]』を特に重視した。『正法眼蔵随聞記』で最も多く引用されている経典は『法華経』である<ref>[[植木雅俊]]『梵漢和対照・現代語訳 法華経(下)』p.587</ref>。道元は晩年、不治の病となり、永平寺を出て在家の弟子の住宅に移り、自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けた。死期をさとった道元は、亡くなる直前、『法華経』のいわゆる「道場観」の経文(『法華経』如来神力品第二十一の中の「若於園中」から「諸仏於此而般涅槃」まで)を低い声で口ずさみながら室内を歩きまわり、柱にその経文を書き付けたあと、「妙法蓮華経庵」と書き添えた<ref>道元の最期の様子を書いた史料『建撕記・坤巻』(永平開山道元禅師行状建撕記)には「或日一旦、室内を経行し、低声に誦して言く『'''若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舎、若在殿堂、若山谷曠野、 是中皆応起塔供養、所以者何。当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転于法輪、諸仏於此而般涅槃'''』と。 誦し了て後、此文を頓て面前の柱に書付たまふ。亦『'''妙法蓮華経庵'''』と書とどめたまふなり。この法華経の文を、あそばしたる心は、今俗家にて、入滅あるほどに、昔の諸仏も是くの如しとの玉ふなり。」とある。『建撕記・坤巻』の、道元の臨終を記したくだりは、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952819/123 でも読める。</ref>。
* 徒(いたずら)に[[見性]]を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるという禅を伝えた。
{{Wikiquote|道元}}
== 著書 ==
*『[[正法眼蔵]]』(しょうぼうげんぞう、七十五巻本+十二巻本+補遺){{efn|[[和辻哲郎]]など[[西洋哲学]]の研究家からも注目を集めた。なお、[[ハイデガー]]に言及する論調もあるが、これを裏付ける一次資料は見出されていない。[[ヤスパース]]についても同様である。}}
**『[[日本思想大系]]12・13 道元 正法眼蔵』([[寺田透]]・[[水野弥穂子]]<ref>旧版に『[[日本古典文学大系]]81 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記』([[西尾実]]・[[鏡島元隆]]・[[酒井得元]]・水野弥穂子校注、岩波書店、1965年)</ref> 校注、[[岩波書店]]、1970-1972年)
*:新装版『原典日本仏教の思想7・8 道元 正法眼蔵』(岩波書店、1990-1991年)
**『現代語訳正法眼蔵』(全12巻、[[西嶋和夫]]訳 [[金沢文庫]]、1970年)
**『全巻現代訳正法眼蔵』(全2巻、[[高橋賢陳]]訳 [[理想社]]、1971年)
**『正法眼蔵』(全4巻、[[水野弥穂子]]校注、[[岩波文庫]]、1990-1993年、ワイド版1993年)
**『現代語訳 正法眼蔵』([[石井恭二]]訓読・注釈・訳、[[河出書房新社]](普及版も刊)/[[河出文庫]]、2004年)
*『[[永平廣録]]』(えいへいこうろく、全十巻)
**『永平廣録』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年)
**『永平廣録 道元禅師の語録』([[篠原寿雄]]、[[大東出版社]] 全3巻、1998年)
**『永平廣録提唱』(西嶋和夫訳、[[金沢文庫]]11分冊、1997年)
**『道元和尚廣録』([[寺田透]]訳、[[筑摩書房]] 上下、1995年)
**『道元禅師語録』([[鏡島元隆]]編、講談社学術文庫、1990年)- 文庫判は各抄版
**『道元「永平広録・上堂」選』([[大谷哲夫]]全訳注、[[講談社]]学術文庫)
**『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上)
**『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(大谷哲夫全訳注、同上、2005-2014年)
*『[[普勧坐禅儀]]』-『永平広録』巻八
**『道元「小参・法語・普勧坐禅儀」』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫、2006年)
*『永平清規 (典座教訓、対大己法、弁道法、知事清規、赴粥飯法、衆寮箴規)』
*: 読みは(えいへいしんぎ(てんぞきょうくん、たいたいこほう、べんどうほう、ちじしんぎ、ふしゅくはんほう、しゅうりょうしんぎ))
**『永平清規 典座教訓提唱』、『赴粥飯法提唱』(各・西嶋和夫、[[金沢文庫]]、1991-1992年)
**『道元禅師の『典座教訓』を読む』([[秋月龍珉]]、[[ちくま学芸文庫]]、2015年)
**『道元・日々の生きかた 典座教訓・赴粥飯法・衆寮箴規』([[佐藤達全]]、[[大法輪閣]]、2001年)
**『典座教訓 赴粥飯法』([[中村璋八]]・[[石川力山]]・[[中村信幸]]訳注、第一出版、1980年/[[講談社学術文庫]]、1991年)
*『[[正法眼蔵随聞記]]』(しょうぼうげんぞうずいもんき) - [[懐奘]]編で道元の言行録。
**『正法眼蔵随聞記 新校註解』([[大久保道舟]]校註 [[山喜房仏書林]]、1958年)
**『正法眼蔵随聞記』([[古田紹欽]]訳注 角川文庫、1960年)
**『正法眼蔵随聞記』([[和辻哲郎]]校訂・[[中村元 (哲学者)|中村元]]改訂解説、岩波文庫、改版1982年、ワイド版1991年)
**『正法眼蔵随聞記』([[篠原寿雄|篠原壽雄]]訳著、[[大東出版社]]〈大東名著選〉、1987年)
**『正法眼蔵随聞記』([[水野弥穂子]]訳、[[ちくま学芸文庫]](新版)、1992年)
**『正法眼蔵随聞記 現代語訳』([[池田魯参]]訳、[[大蔵出版]]、1993年)
**『正法眼蔵随聞記』([[山崎正一]]全訳注、講談社学術文庫(新版)、2003年)
*『[[寶慶記]]』(ほうきょうき、在宋中の道元が師とかわした問答の記録)
**『宝慶記-道元の入宋参学ノート』(池田魯参、[[大東出版社]]、1989年、新装版2004年)
**『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、[[大法輪閣]]、2012年)
**『道元「宝慶記」全訳注』([[大谷哲夫]]、講談社学術文庫、2017年)
*『'''道元禅師全集'''』(全7巻、春秋社、1988-93年)、[[河村孝道]]、鏡島元隆、[[鈴木格禅]]ほか校註
*『'''道元禅師全集''' 原文対照現代語訳』(全17巻、[[春秋社]]、1999-2013年)、鏡島元隆監修、[[水野弥穂子]]・[[石井修道]]・[[角田泰隆]]ほか訳註
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|25em}}
== 参考文献 ==
*[[里見弴]]『道元禅師の話』([[岩波書店]]、1954年/[[岩波文庫]](解説[[水上勉]])、1994年)
*[[竹内道雄 (歴史学者)|竹内道雄]]『道元』([[吉川弘文館]]「[[人物叢書]]」、1962年、新版1992年ほか)
*[[高橋新吉]]『道元禅師の生涯』(宝文館、1963年)
*圭室諦成『道元』([[新人物往来社]]、1971年/新版「道元伝」[[書肆心水]]、2018年)
*[[柴田道賢]]『禅師道元の思想―伝法沙門の自覚と発展』([[公論社]]、1975年)
*[[今枝愛真]]『道元 坐禅ひとすじの沙門』([[NHK出版|日本放送出版協会]]「[[NHKブックス]]」、1976年)
*[[菅沼晃]]『道元辞典』([[東京堂出版]]、1977年)
*[[平野雅章]]『道元の食事禅』〈日本料理探求全書第十三巻〉(東京書房社、1979年)
*:「典座教訓」と「赴粥飯法」の全文および現代語訳・解説
*[[鏡島元隆]]・玉城康四郎編『講座道元』(全6巻 [[春秋社]]、1979-1981年)
*Osho『道元 Dogen The Zen Master』A Serch and Fulfillment 和尚エンタープライズジャパン 翻訳ガタサンサ 1992年
*水野弥穂子『道元禅師の人間像』([[岩波書店]]〈岩波セミナーブックス〉、1995年)
*[[玉城康四郎]]『道元』([[春秋社]](上下)、1996年)
*鏡島元隆『道元禅師』(春秋社、1997年)
*[[大谷哲夫]]『永平の風 道元の生涯』([[文芸社]]、2001年)
*[[立松和平]]『道元禅師』、上・大宋国の空/下・永平寺への道([[東京書籍]](上下)、2007年/新潮文庫(上中下)、2010年)
*『道元禅師と永平寺〜CD版』(日本音声保存)
* Dogen ''"Shobogenzo"'' Ausgewaehlte Schriften.
*:ロルフ・エルバーフェルト、大橋良介編でドイツ語訳
*:〈井筒ライブラリー・東洋哲学3〉([[慶應義塾大学出版会]]、2006年)
*{{Cite book|和書|author= ひろさちや|authorlink=ひろさちや|year = 2013|title = 新訳 正法眼蔵|publisher = PHP研究所|isbn = 978-4-569-81270-0|ref = {{SfnRef|ひろ|2013}} }}
*{{Cite book|和書|year = 1992|title = 禅の本|publisher = [[学習研究社]]|ref = {{SfnRef|禅の本|1992}} }}
**「道元」(同所収)49-61頁。
**「山中の宗僧」(同所収)63-76頁。
**「寶慶寺の雲水」(同所収)77-89頁。
**「[[寂円]]の画像」(同所収)91-104頁。
== 関連項目 ==
*[[禅宗]]
*[[道元 (小惑星)]]
*[[明菴栄西]]-[[明全]]
*[[永平寺]]
*[[總持寺]]
*[[誕生寺 (京都市)]]
*[[孤雲懐奘]]-[[徹通義介]]-[[瑩山紹瑾]]
*[[禅 ZEN]] - 2009年公開の日本映画。道元の生涯を描く。[[中村勘九郎 (6代目)|中村勘太郎]]が演ずる。
*[[森田療法]] - 道元の思想と親和性が高いとされる[[心理療法]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.sotozen-net.or.jp/ 曹洞禅ネット(曹洞宗公式ホームページ)]
* {{Kotobank}}
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5,353 | 金丸信 | 金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第35代)、副総理、民間活力導入担当大臣、建設大臣(第34代)。
1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。金丸家は、多くの使用人を抱えている裕福な家柄だった。
西野小学校を卒業の後、旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学するも素行不良により退学となり、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)に入学したという(甲府中の受験に失敗し、身延中に入学したとも)。
1933年に東京農業大学農学部へ入学し、柔道に明け暮れる。卒業論文は「桜桃栽培の進化」。
農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長を務めていた旧制韮崎中学校(現山梨県立韮崎高等学校)で博物(生物学)の教諭となる。また、柔道を教えたり野球部の監督もした。
1938年、徴兵により日本軍に入営する。軍隊では関東軍電信三連隊第二中隊に配属されて満洲に渡った。しかし、塹壕で過ごすうちに風邪をこじらせて胸膜炎となり、新京(現長春)の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった。
帰国後は茨城県久慈郡(現常陸太田市)の姉夫婦のもとでしばらく静養をした後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、果樹園経営も行った。
1941年には大政翼賛会山梨県支部の発足に伴い大日本翼賛壮年団が結成されると翼壮団郡世話人として活躍し、翼壮団長で戦後には山梨中央銀行頭取として県政財界に影響力を持っていた名取忠彦の知遇を得ている。1943年には山梨県酒造組合常務理事に就任したが、戦局の悪化に伴い造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、自ら造酒屋を廃業し、同業者にも命令に従うよう促した。その後、軍需産業の溶接に使う酸素をつくる「日東工業」(後の日東物産)を設立した。
戦後には家業の酒造業において焼酎を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功をおさめる。また、戦前から知遇を得ていた名取忠彦に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった「福泉醸造工業」のワイン工場を買収するとともに、会社名を「太平醸造」に改め、このワイン事業でも大きな成功をおさめる。
造酒屋時代、税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという。
戦後、翼壮団長や在郷軍人会分会長のため、父の康三とともに公職追放となり、同じく公職追放となった名取忠彦は台頭する左翼勢力に対して翼壮団時代の同志を集めて「脈々会」を結成し、金丸もこれに参加する。1951年(昭和26年)の公選第2回となる山梨県知事選挙においては、保革連合の推薦を受けた天野久が当選するが、名取や金丸は天野を容共分子として敵対する。
知事就任後に、名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると、金丸も天野に接近し、1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙では、名取の実兄で天野の推薦を受けた広瀬久忠の陣営の裏選対に際して、選挙活動に従事する。選挙後金丸は、山梨県警察の取り調べを受けるが、買収の証拠となる名刺5枚をとっさに飲み込み、起訴を免れたという。
このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出される。その際、「佐藤栄作は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」と広瀬に勧められ、佐藤のもとを訪ねる。しかし、このときは佐藤に「キミのような中途半端は使いものにならない」とけんもほろろに追い返された。金丸は激怒したが、広瀬の取り成しで再び佐藤を訪ね、無事自由民主党保守本流の佐藤派に入る。
1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に、自由民主党公認で山梨県全県区から出馬。トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をする(これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。なおこの選挙活動中佐藤は1回だけ応援に来て北巨摩、韮崎、長坂、白根、櫛形、鰍沢、市川大門、身延にて、応援の選挙運動をした。また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。5月22日の投開票で69,354票を得て、トップ当選を果たしたが、直後の6月24日に、妻の玲子を狭心症で亡くす。
同期当選には竹下登、安倍晋太郎、倉成正らがおり、彼らと親交を深めた(特に竹下とは、自分の長男の康信と竹下の長女の一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。
1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、衆議院議長清瀬一郎を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。なお、この際に撮影された写真がアメリカ合衆国の『ライフ』誌に掲載され、後のアメリカ合衆国連邦政府との交渉の際に役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。
1961年に再婚した際に媒酌人を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。1963年に郵政政務次官に就任。
1972年1月、金丸は幹事長となった保利の強い後押しを受け、労働大臣に就任した塚原俊郎の後任として自民党国会対策委員長の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は異例中の異例であった)。
だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。これは、金丸が田中を大変評価していたことに由来する。なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。
田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「君には建設大臣をやる」と言っていたが、第1次田中角栄内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったものの(金丸は国対委員長に留任)、第2次田中角栄内閣で念願の初入閣を果たす。その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。しかし立花隆の明らかにした田中金脈問題で田中は首相を辞任に追い込まれる。
続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任。また「三木おろし」の気運が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。金丸は三木への対抗馬を一本化しなければ三木を下せない以上は福田赳夫でまとめるしかないと考え、仲がこじれていた保利と福田の関係修復を周旋する。三木退陣後は、福田の総裁任期は1期2年のみでその後は大平に禅譲するという「大福密約」の保証人となったとも言われる。
1976年12月、福田政権のもと衆議院議院運営委員長に就任。同時に保利が衆議院議長となり、師弟で衆議院の表のトップと裏方調整役を担当した。
1977年11月、福田改造内閣の防衛庁長官に転じる。長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。また、統幕議長栗栖弘臣の「現状の法制では、有事の際に自衛隊は超法規的行動をとらざるを得ない」という発言に対して、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している。
長官在任中の1978年、在日米軍基地で働く日本人従業員に対する負担を表明。反発が予想されたため、金丸は「思いやりの気持ちで行うべき」と発言、これが現在に至る「思いやり予算」である。
この年、福田派が総裁再選への流れを作るために「解散風」を吹かせるが、金丸は「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する。」と公言。福田赳夫は金丸を注意するが、結局解散できぬまま総裁選が行われ、田中派と同盟関係にある大平が福田を下し、総理総裁の地位に就く。
大平政権では2度目の国対委員長に就任。伯仲国会の当時、与党は竹下が委員長を務める衆議院予算委員会において半数を割っていたことから、予算案可決のため金丸は野党の公明党と民社党から修正合意を取り付ける。しかし大平首相は予算組み替えを拒否し、委員会では否決させて本会議で原案通り可決させることを指示したため、金丸ら国対委員の面目が潰されることとなった。このさなかの1979年3月に保利が死去している。
1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱える。これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する(その本心は、後述する理由により中曽根康弘の政権樹立を阻止するためだったとされる)。これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下と親密な関係を築いていく。
保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界風見鶏と呼ばれた中曽根康弘の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していたが、中曽根政権では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。鈴木善幸内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。
1984年、側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。この動きが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知った田中は猛烈な切り崩しをかけるが、創政会発足直後に田中が脳梗塞で倒れたことで創政会の優勢が固まる。反対派や中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派の大多数をまとめて1987年7月に独立派閥の「経世会」(竹下派)を発足させる。竹下の総理就任後は金丸が経世会会長に就任したが、当時はこのような場合に派閥の通称が変更されず、「竹下派の金丸会長」という形であった。
同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だったが、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮して、その後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。
1989年、消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し、後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評した。
とはいえ、宇野政権が1989年参院選の過半数割れの大敗により2か月あまりで倒れると、最大派閥の会長である金丸は大きな力を持つようになる。宇野の退陣後、ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し出馬を辞退させた。日本社会党のマドンナブームに関し「バーのマダム(長谷百合子のこと)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。
結局、河本派の海部俊樹が総理総裁に選出されたが、参議院の自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
長く国会対策委員長を務めて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。1980年代末から、自民党と社会党を解体、再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。
1990年8月、中華人民共和国を訪問して北朝鮮訪問に向けた協力を要請した。同年9月には日本社会党の田邊誠らと訪朝団を団長として編成した(金丸訪朝団)。金丸と金日成は、日本語を用いて差しで対談を行った。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。重村智計によれば、この会談の冒頭、金日成は金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた という。
このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。このとき、1983年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人船長紅粉勇と機関長栗浦好雄の2名の釈放、帰国についても合意し、こちらは実行された。
1991年10月の自民党総裁選では、当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞し、他派の領袖を擁立することとした。派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持した。なお、金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。「心情はミッちゃんだが、常識的判断になるとミッちゃんというわけにはいかない。宮沢で行こう。」と述べた。東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていた。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会が長年の蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持に転じた。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮澤支持に移行した。とはいえ、宮澤を支持するという金丸の報告を派の集会で拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸が叱りつけてようやく拍手が増えるというぎくしゃくした状況であった。宮澤は自派の増岡博之を国会対策委員長に起用したが、増岡は国対の経験に乏しく野党とのパイプもなく、宮澤はPKO協力法案の成立と政治改革の実現を目指したがPKO協力法案は継続審議になり政治改革は進まなかった。そこで宮沢は金丸の担ぎ出しに直接動き出す、自民党副総裁への就任だったが、宮沢はアメリカの大統領ジョージ・H・W・ブッシュを使った。宮沢は次のようなエピソードを明かしている。「92年のお正月にブッシュが日本に訪れることがあったので・・・私はブッシュに「ちょっと手伝ってくれよ。この人(金丸)の協力が党内で必要なんだ。あなたのディナーにも来るから、僕がその時サインするから、ひとこと声をかけてくれよ」と頼んだんです。そうしたらブッシュは、「いいよ、そういうことなら得意とするところだ。」と言う。それで金丸さんに対してブッシュが「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれ」というようなことを言ってくれたんです。それがあって金丸さん副総裁になってくれました。」。金丸はブッシュとの夕食会のあった1992年1月8日、自民党副総裁を受諾し、政権は安定し、宮澤政権の支柱となり、天皇の訪中決定を躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」 と発破をかけるなど暗躍した。
1992年3月、栃木県足利市で山岡賢次の応援演説中に右翼の銃撃を受けるが、弾丸は全て外れ、金丸は助かる。同年3月25日に世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した。アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で田原隆法務大臣から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。同年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り、公示直前で土屋義彦の支持を撤回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた(結果として土屋は埼玉県知事に当選した)。また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎を強く批判している。
1992年8月、東京佐川急便事件に絡んで東京佐川急便から5億円の闇献金が発覚した。金丸は副総裁を辞任し、東京地方検察庁に政治資金規正法違反を認める上申書を提出した。9月に東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員の辞職願を提出し、10月21日付で辞職した。竹下派会長も辞任した。
1993年3月6日、金丸は政治資金を流用して個人資産を蓄財し脱税したとして東京地方検察庁に逮捕された。検察は金丸が1987年から1989年にかけて約18億4230万円の所得を隠し、10億3775万円を脱税したとされた(1987年と1989年は金丸単独の犯行、1988年は金丸と第一秘書の生原正久との共同の犯行とされた)。金丸は捜査段階では罪を認めていたが、保釈後は「政界再編のための資金」として無罪を主張するようになった。だが、金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、最後まで裁判を続けるつもりで1ヶ月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月21日に公判は停止した。
その1週間後の3月28日に脳梗塞で死去した。81歳没。このため、公訴棄却となった。
没後10年目の命日の2006年(平成18年)3月28日、「金丸信先生を偲ぶ会」が、金丸の後援会である「久親会」の元会員を中心に設立された。
また、同年4月2日には、南アルプス市飯野に、高さ約7メートル、幅約2メートルの「金丸信先生顕彰碑」の石碑が設置され、同日には、自由民主党国会議員を始め、山梨県知事、山梨県議会議員、山梨県内の市町村長など、360人が出席し、式典が行われた。
島根県選出の竹下登とは年齢が10歳違うが、衆議院同期当選で、多くの共通点があり、次第に盟友となっていった。金丸の長男と竹下の長女は結婚し共通の孫までいる関係なのは有名である。
これらの共通点から田中派内では「金丸・竹下」と常にセットで呼ばれていた。当初から竹下は総理大臣、金丸は衆議院議長を目指していたとも言われる。新人議員の頃は、東京から選挙区が近い金丸の地元山梨から来る多くの陳情客を待たせるのに、竹下の議員事務所を使っていたこともある。竹下の選挙区は東京から遠い島根ということで、陣笠議員の頃は陳情客も少なかった。
月刊誌『文藝春秋』1998年6月号によれば、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言によって捜査が開始された「李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案」に関連して、韓国側からの情報提供を得た警察庁は、警備局審議官をトップに十数名からなる「李恩恵身元割出調査班」を設置し、警視庁公安部でも通称「ウネ・チーム」を設け、さらに、各都道府県警察警備部外事課でも同様のチームが設置されて全国規模の大がかりな捜査活動が展開された。その結果、朝鮮総連幹部で北朝鮮に高額の献金をし、訪朝の際には国賓待遇を受ける大物商工人、その配下の2名、1人は偽装転向して多数の偽造旅券を隠し持った北朝鮮工作員、もう1人は海岸での拉致犯罪を補助する「沿岸徘徊人」、いずれも在日朝鮮人実業家の計3名が、田口八重子(朝鮮名、李恩恵)の拉致にかかわった人物として浮かびあがった。この資料は「むかご」リストと称されている。1990年5月初め、警視庁に警察庁、検察庁、警視庁公安部外事第二課など関係各所の幹部約150名が集められ、5月10日付の大物商工人(朝鮮総連幹部)の捜索令状と、5月14日付の多数の偽造パスポートを保有する工作員の逮捕状が用意された。さらに、朝鮮総連本部や朝鮮大学校にも捜索令状が出され、機動隊も動員されて総勢450名体制で捜査に着手する予定であったが、突如、直前の5月9日に中止させられた。この件については緘口令がしかれたが、同年9月の金丸訪朝によって握り潰されたという伝聞情報がある。
同事件については、2001年12月16日付『産経新聞』が「朝鮮総連元幹部の外国人登録法違反-故金丸氏捜査に圧力」という見出しで報じた。それは、以下のような内容である。
平成2年(1990年)5月に警視庁公安部が摘発した朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、日朝関係への影響を懸念した自民党の金丸信元副総裁が捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。金丸氏は同年9月に訪朝した。
田口八重子拉致事件の真相を解明しようという試みは、金丸信の圧力で大きく妨害された疑いがもたれている。 | [
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"text": "1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。金丸家は、多くの使用人を抱えている裕福な家柄だった。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "西野小学校を卒業の後、旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学するも素行不良により退学となり、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)に入学したという(甲府中の受験に失敗し、身延中に入学したとも)。",
"title": "来歴・人物"
},
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"text": "1933年に東京農業大学農学部へ入学し、柔道に明け暮れる。卒業論文は「桜桃栽培の進化」。",
"title": "来歴・人物"
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"tag": "p",
"text": "農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長を務めていた旧制韮崎中学校(現山梨県立韮崎高等学校)で博物(生物学)の教諭となる。また、柔道を教えたり野球部の監督もした。",
"title": "来歴・人物"
},
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"text": "1938年、徴兵により日本軍に入営する。軍隊では関東軍電信三連隊第二中隊に配属されて満洲に渡った。しかし、塹壕で過ごすうちに風邪をこじらせて胸膜炎となり、新京(現長春)の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "帰国後は茨城県久慈郡(現常陸太田市)の姉夫婦のもとでしばらく静養をした後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、果樹園経営も行った。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1941年には大政翼賛会山梨県支部の発足に伴い大日本翼賛壮年団が結成されると翼壮団郡世話人として活躍し、翼壮団長で戦後には山梨中央銀行頭取として県政財界に影響力を持っていた名取忠彦の知遇を得ている。1943年には山梨県酒造組合常務理事に就任したが、戦局の悪化に伴い造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、自ら造酒屋を廃業し、同業者にも命令に従うよう促した。その後、軍需産業の溶接に使う酸素をつくる「日東工業」(後の日東物産)を設立した。",
"title": "来歴・人物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "戦後には家業の酒造業において焼酎を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功をおさめる。また、戦前から知遇を得ていた名取忠彦に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった「福泉醸造工業」のワイン工場を買収するとともに、会社名を「太平醸造」に改め、このワイン事業でも大きな成功をおさめる。",
"title": "来歴・人物"
},
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"tag": "p",
"text": "造酒屋時代、税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという。",
"title": "来歴・人物"
},
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"tag": "p",
"text": "戦後、翼壮団長や在郷軍人会分会長のため、父の康三とともに公職追放となり、同じく公職追放となった名取忠彦は台頭する左翼勢力に対して翼壮団時代の同志を集めて「脈々会」を結成し、金丸もこれに参加する。1951年(昭和26年)の公選第2回となる山梨県知事選挙においては、保革連合の推薦を受けた天野久が当選するが、名取や金丸は天野を容共分子として敵対する。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "知事就任後に、名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると、金丸も天野に接近し、1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙では、名取の実兄で天野の推薦を受けた広瀬久忠の陣営の裏選対に際して、選挙活動に従事する。選挙後金丸は、山梨県警察の取り調べを受けるが、買収の証拠となる名刺5枚をとっさに飲み込み、起訴を免れたという。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出される。その際、「佐藤栄作は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」と広瀬に勧められ、佐藤のもとを訪ねる。しかし、このときは佐藤に「キミのような中途半端は使いものにならない」とけんもほろろに追い返された。金丸は激怒したが、広瀬の取り成しで再び佐藤を訪ね、無事自由民主党保守本流の佐藤派に入る。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に、自由民主党公認で山梨県全県区から出馬。トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をする(これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。なおこの選挙活動中佐藤は1回だけ応援に来て北巨摩、韮崎、長坂、白根、櫛形、鰍沢、市川大門、身延にて、応援の選挙運動をした。また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。5月22日の投開票で69,354票を得て、トップ当選を果たしたが、直後の6月24日に、妻の玲子を狭心症で亡くす。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "同期当選には竹下登、安倍晋太郎、倉成正らがおり、彼らと親交を深めた(特に竹下とは、自分の長男の康信と竹下の長女の一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、衆議院議長清瀬一郎を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。なお、この際に撮影された写真がアメリカ合衆国の『ライフ』誌に掲載され、後のアメリカ合衆国連邦政府との交渉の際に役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。",
"title": "来歴・人物"
},
{
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"text": "1961年に再婚した際に媒酌人を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。1963年に郵政政務次官に就任。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "1972年1月、金丸は幹事長となった保利の強い後押しを受け、労働大臣に就任した塚原俊郎の後任として自民党国会対策委員長の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は異例中の異例であった)。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。これは、金丸が田中を大変評価していたことに由来する。なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。",
"title": "来歴・人物"
},
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"paragraph_id": 19,
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"text": "田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「君には建設大臣をやる」と言っていたが、第1次田中角栄内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったものの(金丸は国対委員長に留任)、第2次田中角栄内閣で念願の初入閣を果たす。その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。しかし立花隆の明らかにした田中金脈問題で田中は首相を辞任に追い込まれる。",
"title": "来歴・人物"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任。また「三木おろし」の気運が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。金丸は三木への対抗馬を一本化しなければ三木を下せない以上は福田赳夫でまとめるしかないと考え、仲がこじれていた保利と福田の関係修復を周旋する。三木退陣後は、福田の総裁任期は1期2年のみでその後は大平に禅譲するという「大福密約」の保証人となったとも言われる。",
"title": "来歴・人物"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1976年12月、福田政権のもと衆議院議院運営委員長に就任。同時に保利が衆議院議長となり、師弟で衆議院の表のトップと裏方調整役を担当した。",
"title": "来歴・人物"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1977年11月、福田改造内閣の防衛庁長官に転じる。長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。また、統幕議長栗栖弘臣の「現状の法制では、有事の際に自衛隊は超法規的行動をとらざるを得ない」という発言に対して、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している。",
"title": "来歴・人物"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "長官在任中の1978年、在日米軍基地で働く日本人従業員に対する負担を表明。反発が予想されたため、金丸は「思いやりの気持ちで行うべき」と発言、これが現在に至る「思いやり予算」である。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "この年、福田派が総裁再選への流れを作るために「解散風」を吹かせるが、金丸は「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する。」と公言。福田赳夫は金丸を注意するが、結局解散できぬまま総裁選が行われ、田中派と同盟関係にある大平が福田を下し、総理総裁の地位に就く。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "大平政権では2度目の国対委員長に就任。伯仲国会の当時、与党は竹下が委員長を務める衆議院予算委員会において半数を割っていたことから、予算案可決のため金丸は野党の公明党と民社党から修正合意を取り付ける。しかし大平首相は予算組み替えを拒否し、委員会では否決させて本会議で原案通り可決させることを指示したため、金丸ら国対委員の面目が潰されることとなった。このさなかの1979年3月に保利が死去している。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱える。これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する(その本心は、後述する理由により中曽根康弘の政権樹立を阻止するためだったとされる)。これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下と親密な関係を築いていく。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界風見鶏と呼ばれた中曽根康弘の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していたが、中曽根政権では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。鈴木善幸内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1984年、側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。この動きが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知った田中は猛烈な切り崩しをかけるが、創政会発足直後に田中が脳梗塞で倒れたことで創政会の優勢が固まる。反対派や中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派の大多数をまとめて1987年7月に独立派閥の「経世会」(竹下派)を発足させる。竹下の総理就任後は金丸が経世会会長に就任したが、当時はこのような場合に派閥の通称が変更されず、「竹下派の金丸会長」という形であった。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だったが、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮して、その後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1989年、消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し、後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評した。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、宇野政権が1989年参院選の過半数割れの大敗により2か月あまりで倒れると、最大派閥の会長である金丸は大きな力を持つようになる。宇野の退陣後、ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し出馬を辞退させた。日本社会党のマドンナブームに関し「バーのマダム(長谷百合子のこと)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "結局、河本派の海部俊樹が総理総裁に選出されたが、参議院の自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "長く国会対策委員長を務めて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。1980年代末から、自民党と社会党を解体、再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。",
"title": "来歴・人物"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1990年8月、中華人民共和国を訪問して北朝鮮訪問に向けた協力を要請した。同年9月には日本社会党の田邊誠らと訪朝団を団長として編成した(金丸訪朝団)。金丸と金日成は、日本語を用いて差しで対談を行った。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。重村智計によれば、この会談の冒頭、金日成は金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた という。",
"title": "来歴・人物"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。このとき、1983年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人船長紅粉勇と機関長栗浦好雄の2名の釈放、帰国についても合意し、こちらは実行された。",
"title": "来歴・人物"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1991年10月の自民党総裁選では、当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞し、他派の領袖を擁立することとした。派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持した。なお、金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。「心情はミッちゃんだが、常識的判断になるとミッちゃんというわけにはいかない。宮沢で行こう。」と述べた。東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていた。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会が長年の蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持に転じた。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮澤支持に移行した。とはいえ、宮澤を支持するという金丸の報告を派の集会で拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸が叱りつけてようやく拍手が増えるというぎくしゃくした状況であった。宮澤は自派の増岡博之を国会対策委員長に起用したが、増岡は国対の経験に乏しく野党とのパイプもなく、宮澤はPKO協力法案の成立と政治改革の実現を目指したがPKO協力法案は継続審議になり政治改革は進まなかった。そこで宮沢は金丸の担ぎ出しに直接動き出す、自民党副総裁への就任だったが、宮沢はアメリカの大統領ジョージ・H・W・ブッシュを使った。宮沢は次のようなエピソードを明かしている。「92年のお正月にブッシュが日本に訪れることがあったので・・・私はブッシュに「ちょっと手伝ってくれよ。この人(金丸)の協力が党内で必要なんだ。あなたのディナーにも来るから、僕がその時サインするから、ひとこと声をかけてくれよ」と頼んだんです。そうしたらブッシュは、「いいよ、そういうことなら得意とするところだ。」と言う。それで金丸さんに対してブッシュが「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれ」というようなことを言ってくれたんです。それがあって金丸さん副総裁になってくれました。」。金丸はブッシュとの夕食会のあった1992年1月8日、自民党副総裁を受諾し、政権は安定し、宮澤政権の支柱となり、天皇の訪中決定を躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」 と発破をかけるなど暗躍した。",
"title": "来歴・人物"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1992年3月、栃木県足利市で山岡賢次の応援演説中に右翼の銃撃を受けるが、弾丸は全て外れ、金丸は助かる。同年3月25日に世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した。アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で田原隆法務大臣から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。同年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り、公示直前で土屋義彦の支持を撤回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた(結果として土屋は埼玉県知事に当選した)。また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎を強く批判している。",
"title": "来歴・人物"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1992年8月、東京佐川急便事件に絡んで東京佐川急便から5億円の闇献金が発覚した。金丸は副総裁を辞任し、東京地方検察庁に政治資金規正法違反を認める上申書を提出した。9月に東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員の辞職願を提出し、10月21日付で辞職した。竹下派会長も辞任した。",
"title": "来歴・人物"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1993年3月6日、金丸は政治資金を流用して個人資産を蓄財し脱税したとして東京地方検察庁に逮捕された。検察は金丸が1987年から1989年にかけて約18億4230万円の所得を隠し、10億3775万円を脱税したとされた(1987年と1989年は金丸単独の犯行、1988年は金丸と第一秘書の生原正久との共同の犯行とされた)。金丸は捜査段階では罪を認めていたが、保釈後は「政界再編のための資金」として無罪を主張するようになった。だが、金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、最後まで裁判を続けるつもりで1ヶ月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月21日に公判は停止した。",
"title": "来歴・人物"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "その1週間後の3月28日に脳梗塞で死去した。81歳没。このため、公訴棄却となった。",
"title": "来歴・人物"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "没後10年目の命日の2006年(平成18年)3月28日、「金丸信先生を偲ぶ会」が、金丸の後援会である「久親会」の元会員を中心に設立された。",
"title": "死後"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、同年4月2日には、南アルプス市飯野に、高さ約7メートル、幅約2メートルの「金丸信先生顕彰碑」の石碑が設置され、同日には、自由民主党国会議員を始め、山梨県知事、山梨県議会議員、山梨県内の市町村長など、360人が出席し、式典が行われた。",
"title": "死後"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "島根県選出の竹下登とは年齢が10歳違うが、衆議院同期当選で、多くの共通点があり、次第に盟友となっていった。金丸の長男と竹下の長女は結婚し共通の孫までいる関係なのは有名である。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これらの共通点から田中派内では「金丸・竹下」と常にセットで呼ばれていた。当初から竹下は総理大臣、金丸は衆議院議長を目指していたとも言われる。新人議員の頃は、東京から選挙区が近い金丸の地元山梨から来る多くの陳情客を待たせるのに、竹下の議員事務所を使っていたこともある。竹下の選挙区は東京から遠い島根ということで、陣笠議員の頃は陳情客も少なかった。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "月刊誌『文藝春秋』1998年6月号によれば、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言によって捜査が開始された「李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案」に関連して、韓国側からの情報提供を得た警察庁は、警備局審議官をトップに十数名からなる「李恩恵身元割出調査班」を設置し、警視庁公安部でも通称「ウネ・チーム」を設け、さらに、各都道府県警察警備部外事課でも同様のチームが設置されて全国規模の大がかりな捜査活動が展開された。その結果、朝鮮総連幹部で北朝鮮に高額の献金をし、訪朝の際には国賓待遇を受ける大物商工人、その配下の2名、1人は偽装転向して多数の偽造旅券を隠し持った北朝鮮工作員、もう1人は海岸での拉致犯罪を補助する「沿岸徘徊人」、いずれも在日朝鮮人実業家の計3名が、田口八重子(朝鮮名、李恩恵)の拉致にかかわった人物として浮かびあがった。この資料は「むかご」リストと称されている。1990年5月初め、警視庁に警察庁、検察庁、警視庁公安部外事第二課など関係各所の幹部約150名が集められ、5月10日付の大物商工人(朝鮮総連幹部)の捜索令状と、5月14日付の多数の偽造パスポートを保有する工作員の逮捕状が用意された。さらに、朝鮮総連本部や朝鮮大学校にも捜索令状が出され、機動隊も動員されて総勢450名体制で捜査に着手する予定であったが、突如、直前の5月9日に中止させられた。この件については緘口令がしかれたが、同年9月の金丸訪朝によって握り潰されたという伝聞情報がある。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "同事件については、2001年12月16日付『産経新聞』が「朝鮮総連元幹部の外国人登録法違反-故金丸氏捜査に圧力」という見出しで報じた。それは、以下のような内容である。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "平成2年(1990年)5月に警視庁公安部が摘発した朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、日朝関係への影響を懸念した自民党の金丸信元副総裁が捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。金丸氏は同年9月に訪朝した。",
"title": "エピソード"
},
{
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"text": "田口八重子拉致事件の真相を解明しようという試みは、金丸信の圧力で大きく妨害された疑いがもたれている。",
"title": "エピソード"
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] | 金丸 信は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第35代)、副総理、民間活力導入担当大臣、建設大臣(第34代)。 | {{出典の明記|date=2013年8月}}
{{政治家
| 人名 = 金丸 信
| 各国語表記 = かねまる しん
| 画像 = Shin Kanemaru, circa 1966.jpg
| 画像説明 = [[森本靖]]『逓信人物論・上巻』野村書店、1966年
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1914年]][[9月17日]]
| 出生地 = {{JPN}} [[山梨県]][[中巨摩郡]][[今諏訪村]]<br/>(現[[南アルプス市]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1914|9|17|1996|3|28}}
| 死没地 = {{JPN}}
| 出身校 = [[東京農業大学]]専門部
| 所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
| 称号・勲章 = [[褒章|紺綬褒章]]
| 配偶者 = 前妻・金丸玲子(-1958年)<br/>後妻・金丸悦子(1961-1991年)
| 国旗 = 日本
| 職名 = [[副総理]]<br/>[[無任所大臣 (日本)|民間活力導入担当大臣]]
| 内閣 = [[第3次中曽根内閣]]
| 就任日 = [[1986年]][[7月22日]]
| 退任日 = [[1987年]][[11月6日]]
| 国旗2 = 日本
| 職名2 = 第35代 [[防衛大臣|防衛庁長官]]
| 内閣2 = [[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]
| 就任日2 = [[1977年]][[11月28日]]
| 退任日2 = [[1978年]][[12月7日]]
| 国旗3 = 日本
| 職名3 = 第3代 [[国土庁#歴代の国土庁長官など|国土庁長官]]
| 内閣3 = [[三木内閣]]
| 就任日3 = [[1974年]][[12月9日]]
| 退任日3 = [[1976年]][[9月15日]]
| 国旗4 = 日本
| 職名4 = 第34代 [[建設大臣]] <br/>第14代 [[近畿圏整備本部|近畿圏整備長官]] <br/>第10代 [[中部圏開発整備本部|中部圏開発整備長官]] <br/>第23代 [[首都圏整備委員会|首都圏整備委員会委員長]]
| 内閣4 = [[第2次田中角栄内閣]]
| 就任日4 = [[1972年]][[12月22日]]
| 退任日4 = [[1973年]][[11月25日]]
| 国旗5 = 日本
| 職名5 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
| 選挙区5 = [[山梨県全県区]]
| 当選回数5 = 12回
| 就任日5 = [[1958年]][[5月23日]]
| 退任日5 = [[1992年]][[10月21日]]
| その他職歴1 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] [[自由民主党副総裁]] <br /> '''(総裁: [[宮澤喜一]])''' '' ''
| 就任日6 = [[1992年]][[1月]]
| 退任日6 = [[1992年]][[8月]]
| その他職歴2 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第26代 [[自由民主党幹事長]] <br /> '''(総裁: [[中曽根康弘]])''' '' ''
| 就任日7 = [[1984年]][[10月]]
| 退任日7 = [[1986年]][[7月]]
| その他職歴3 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第27代 [[自由民主党総務会|自由民主党総務会長]] <br /> '''(総裁: [[中曽根康弘]])''' '' ''
| 就任日8 = [[1983年]]
| 退任日8 = [[1984年]]
| その他職歴4 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第24代 [[自由民主党国会対策委員会#国会対策委員長|自由民主党国会対策委員長]]<br /> '''(総裁: [[大平正芳]])''' '' ''
| 就任日9 = [[1978年]]
| 退任日9 = [[1980年]]
| その他職歴5 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第16代 [[自由民主党国会対策委員会#国会対策委員長|自由民主党国会対策委員長]]<br /> '''(総裁: [[佐藤栄作]]、[[田中角栄]])''' '' ''
| 就任日10 = [[1971年]]
| 退任日10 = [[1972年]]
}}
'''金丸 信'''(かねまる しん、[[1914年]]〈[[大正]]3年〉[[9月17日]] - [[1996年]]〈[[平成]]8年〉[[3月28日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](12期)、[[防衛大臣|防衛庁長官]](第35代)、[[副総理]]、[[無任所大臣 (日本)|民間活力導入担当大臣]]、[[建設大臣]](第34代)。
== 来歴・人物 ==
=== 生い立ちから政治家への道 ===
1914年9月17日、[[山梨県]][[中巨摩郡]][[今諏訪村]](後の[[白根町]]、現在の[[南アルプス市]])の[[造り酒屋]]を営む地主の家に長男として生まれる。父は[[金丸康三]]、母はとくで信は長男{{Refnest|group="注"|金丸家は子どもの名を『[[南総里見八犬伝]]』にちなんだ命名を行っており、3番目に生まれた長男は「信」と名づけられた。なお、兄弟は上から、禮(礼)、悌、信、仁、忠、智義と付けられている。}}。祖父は[[山梨交通電車線]]のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=柔道・実業家…「政界のドン」金丸信の青年期(政客列伝)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1903C_X20C11A7000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2019-02-12|date=2011-07-31}}</ref>。叔父には県会議長などを務めた[[小宮山清三]]がいる。金丸家は、多くの使用人を抱えている裕福な家柄だった。
西野小学校を卒業の後、[[山梨県立甲府第一高等学校|旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)]]に入学するも素行不良により退学となり、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現[[山梨県立身延高等学校]])に入学したという(甲府中の受験に失敗し、身延中に入学したとも<ref name=":0" />){{Refnest|group="注"|旧制身延中では、父の友人が[[剣道]]の師範をしていたことから剣道をはじめるが、試合で頭を叩かれたことから剣道嫌いとなり、[[柔道]]に精進するようになったという。東京農大時代には「農大に金丸信あり」として知られ、日本代表の「柔道使節団」として2度[[満洲国|満洲]]に渡っている。}}。
[[1933年]]に[[東京農業大学]][[農学部]]へ入学し、柔道に明け暮れる<ref name=":0" />。[[卒業論文]]は「[[サクランボ|桜桃]]栽培の進化」{{Refnest|group="注"|[[サクランボ|桜桃]]は山梨県の名産であるが、金丸の卒業論文は[[太平洋戦争]]による空襲で農大が被災した際に焼失している。}}。
農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長を務めていた旧制韮崎中学校(現[[山梨県立韮崎高等学校]])で博物([[生物学]])の教諭となる。また、柔道を教えたり[[野球]]部の監督もした<ref name=":0" />。
[[1938年]]、[[徴兵制度|徴兵]]により[[日本軍]]に入営する{{Refnest|group="注"|柔道をしていたことから、体格がよく、自分のサイズに合う軍服がなかったという。}}。軍隊では[[関東軍]]電信三連隊第二中隊に配属されて[[満洲]]に渡った。しかし、[[塹壕]]で過ごすうちに[[風邪]]をこじらせて[[胸膜炎]]となり、[[新京]](現[[長春市|長春]])の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった<ref name=":0" />。
帰国後は[[茨城県]][[久慈郡]](現[[常陸太田市]])の姉夫婦のもとでしばらく静養をした後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、[[果樹園]]経営も行った<ref name=":0" />。
[[1941年]]には[[大政翼賛会]]山梨県支部の発足に伴い[[大日本翼賛壮年団]]が結成されると翼壮団郡世話人として活躍し、翼壮団長で戦後には[[山梨中央銀行]]頭取として県政財界に影響力を持っていた[[名取忠彦]]の知遇を得ている<ref>翼賛壮年団については[[雨宮昭一]]「翼賛壮年団の結成」『山梨県史』通史編6近現代2</ref>。[[1943年]]には山梨県酒造組合常務理事に就任したが、戦局の悪化に伴い造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、自ら造酒屋を廃業し、同業者にも命令に従うよう促した。その後、[[軍需産業]]の[[溶接]]に使う酸素をつくる「日東工業」(後の日東物産)を設立した<ref name=":0" />。
戦後には家業の酒造業において[[焼酎]]を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功をおさめる。また、戦前から知遇を得ていた名取忠彦に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった「福泉醸造工業」の[[ワイン]]工場を買収するとともに、会社名を「[[サントネージュワイン|太平醸造]]」に改め、このワイン事業でも大きな成功をおさめる<ref name=":0" />{{Refnest|group="注"|金丸のワイン工場には[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]の工場視察を迎えている。なお、このワイン工場は現在の[[サントネージュワイン]]の工場となっている。}}。
造酒屋時代、[[税務署]]の「造酒屋は、[[酒]]を[[密造酒|密造]]し、[[酒税|税]]をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという。
=== 政界への進出 ===
戦後、翼壮団長や[[在郷軍人会]]分会長のため、父の康三とともに[[公職追放]]となり<ref>{{citation
| 和書
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿
| editor = 総理庁官房監査課
| publisher = 日比谷政経会
| year = 1949
| id = {{NDLJP|1276156}}
| page = [{{NDLDC|1276156/424}} 210]
| ref = harv
}}</ref>、同じく公職追放となった名取忠彦は台頭する左翼勢力に対して翼壮団時代の同志を集めて「脈々会」を結成し、金丸もこれに参加する。[[1951年]](昭和26年)の公選第2回となる[[山梨県知事一覧|山梨県知事]]選挙においては、保革連合の推薦を受けた[[天野久]]が当選するが、名取や金丸は天野を容共分子として敵対する。
知事就任後に、名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると、金丸も天野に接近し、[[1953年]](昭和28年)の[[第3回参議院議員通常選挙]]では、名取の実兄で天野の推薦を受けた[[広瀬久忠]]の陣営の裏選対に際して、選挙活動に従事する。選挙後金丸は、[[山梨県警察]]の取り調べを受けるが、買収の証拠となる[[名刺]]5枚をとっさに飲み込み、起訴を免れたという<ref name=":0" />。
このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出される。その際、「[[佐藤栄作]]は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」と広瀬に勧められ、佐藤のもとを訪ねる。しかし、このときは佐藤に「キミのような中途半端は使いものにならない」とけんもほろろに追い返された。金丸は激怒したが、広瀬の取り成しで再び佐藤を訪ね、無事[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[保守本流]]の[[周山会|佐藤派]]に入る<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=身代わり出馬でトップ当選(政客列伝 金丸信)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1903D_R00C11A8000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2019-02-12|date=2011-08-07}}</ref>。
[[1958年]][[5月]]の[[第28回衆議院議員総選挙]]に、自由民主党公認で[[山梨県全県区]]から出馬。[[貨物自動車|トラック]]の荷台を舞台とする[[街宣車|選挙カー]]で[[選挙運動]]をする(これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。なおこの選挙活動中佐藤は1回だけ応援に来て北巨摩、韮崎、長坂、白根、櫛形、鰍沢、市川大門、身延にて、応援の選挙運動をした。また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。[[5月22日]]の投開票で69,354票を得て、トップ当選を果たしたが、直後の6月24日に、妻の玲子を[[狭心症]]で亡くす<ref name=":2" />。
同期当選には[[竹下登]]、[[安倍晋太郎]]、[[倉成正]]らがおり、彼らと親交を深めた(特に竹下とは、自分の長男の康信と竹下の長女の一子を[[政略結婚|結婚させ親戚関係を結ぶ]]までになった)。
[[1960年]]の[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約改定]]に関する一連の騒動の際、混乱する[[国会 (日本)|国会]]の中、[[衆議院議長]][[清瀬一郎]]を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる<ref name=":2" />。なお、この際に撮影された写真が[[アメリカ合衆国]]の『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌に掲載され、後の[[アメリカ合衆国連邦政府]]との交渉の際に役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。
[[File:1960 Protests against the United States-Japan Security Treaty 01.jpg|thumb|right|250px|衆議院における強行採決(中央マイクを持つ清瀬衆議院議長の左後ろで守る金丸)]]
[[1961年]]に再婚した際に[[仲人|媒酌人]]を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の[[保利茂]]を「政治の師匠」とした<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=保利茂に師事、田中内閣実現に奔走(政客列伝 金丸信)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK08018_Q1A810C1000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2019-02-12|publisher=|date=2011-08-14}}</ref>(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。[[1963年]]に郵政政務次官に就任<ref name=":3" />。
[[1972年]][[1月]]、金丸は幹事長となった保利の強い後押しを受け、[[労働大臣]]に就任した[[塚原俊郎]]の後任として[[自由民主党国会対策委員会|自民党国会対策委員長]]の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は異例中の異例であった)<ref name=":3" />。
だが、その後に行われた[[自由民主党総裁選挙]]の際、[[官僚]]出身の[[福田赳夫]]を支持していた保利の意向に反し、同じ[[党人派]]の[[田中角栄]]を支持し、田中派結成に奔走した。これは、金丸が田中を大変評価していたことに由来する。なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった<ref name=":3" />。
田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「君には[[建設大臣]]をやる」と言っていたが、[[第1次田中角栄内閣]]では、[[木村武雄]]に持っていかれてしまったものの(金丸は国対委員長に留任)、[[第2次田中角栄内閣]]で念願の初入閣を果たす<ref name=":3" />。その際、[[迎賓館]]の改修や[[中央自動車道]]の工事着手を行った。しかし[[立花隆]]の明らかにした[[田中金脈問題]]で田中は首相を辞任に追い込まれる。
続く[[三木内閣|三木武夫内閣]]では[[国土庁]]長官に就任。また「[[三木おろし]]」の気運が高まった際、金丸は三木に[[衆議院解散]]を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。金丸は三木への対抗馬を一本化しなければ三木を下せない以上は[[福田赳夫]]でまとめるしかないと考え、仲がこじれていた保利と福田の関係修復を周旋する。三木退陣後は、福田の総裁任期は1期2年のみでその後は大平に禅譲するという「[[大福密約]]」の保証人となったとも言われる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0801D_Y1A810C1000000/?df=2 世代交代論を唱える 「政界のドン」金丸信 (4) :日本経済新聞]</ref>。
[[1976年]][[12月]]、福田政権のもと[[衆議院]][[議院運営委員会|議院運営委員長]]に就任。同時に保利が[[衆議院議長]]となり、師弟で衆議院の表のトップと裏方調整役を担当した。
[[1977年]]11月、[[福田赳夫内閣 (改造)|福田改造内閣]]の[[防衛大臣|防衛庁長官]]に転じる。長官時代、「[[自衛隊]]が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。また、[[統合幕僚長|統幕議長]][[栗栖弘臣]]の「現状の法制では、有事の際に自衛隊は[[超法規的措置|超法規的行動]]をとらざるを得ない」という発言に対して、[[文民統制]]に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]の横暴である。[[シビリアン・コントロール]]がいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している<ref>坂本龍彦『風成の人―[[宇都宮徳馬]]の歳月』[[岩波書店]]、p168</ref>。
長官在任中の[[1978年]]、[[在日米軍]]基地で働く日本人従業員に対する負担を表明。反発が予想されたため、金丸は「思いやりの気持ちで行うべき」と発言、これが現在に至る「[[思いやり予算]]」である。
この年、福田派が総裁再選への流れを作るために「[[衆議院解散|解散風]]」を吹かせるが、金丸は「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する。」と公言<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/txt/108404889X02219780606 衆議院会議録情報 第084回国会 内閣委員会 第22号] 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録</ref>。福田赳夫は金丸を注意するが、結局解散できぬまま[[1978年自由民主党総裁選挙|総裁選]]が行われ、田中派と同盟関係にある大平が福田を下し、総理総裁の地位に就く。
大平政権では2度目の国対委員長に就任。[[伯仲国会]]の当時、与党は竹下が委員長を務める衆議院[[予算委員会]]において半数を割っていたことから、予算案可決のため金丸は野党の[[公明党]]と[[民社党]]から修正合意を取り付ける。しかし大平首相は予算組み替えを拒否し、委員会では否決させて本会議で原案通り可決させることを指示したため、金丸ら国対委員の面目が潰されることとなった。このさなかの[[1979年]]3月に保利が死去している。
[[1980年]][[5月]]、憲政史上初の[[衆参同日選挙]]が行われた際、「世代交代論」を唱える。これは、[[四十日抗争]]を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する(その本心は、後述する理由により[[中曽根康弘]]の政権樹立を阻止するためだったとされる)。これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下と親密な関係を築いていく。
=== 政界のドン ===
保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界[[風見鶏]]と呼ばれた[[中曽根康弘]]の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ[[神輿]]」とまで批判していたが、中曽根政権では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。[[鈴木善幸内閣 (改造)|鈴木善幸内閣]]の末期に開かれた[[政策科学研究所|中曽根派]]と[[木曜クラブ|田中派]]の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、[[三木武吉]]以来の大物だ」と金丸を評している。
[[1984年]]、側近の[[小沢辰男]]を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を[[自由民主党幹事長|幹事長]]に指名した。翌[[1985年]]、田中派内に勉強会「[[創政会]]」を結成する。この動きが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知った田中は猛烈な切り崩しをかけるが、創政会発足直後に田中が[[脳梗塞]]で倒れたことで創政会の優勢が固まる。反対派や中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派の大多数をまとめて[[1987年]]7月に独立派閥の「[[平成研究会|経世会]]」(竹下派)を発足させる。竹下の総理就任後は金丸が経世会会長に就任したが、当時はこのような場合に派閥の通称が変更されず、「竹下派の金丸会長」という形であった。
同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だったが、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮して、その後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。
[[1989年]]、[[消費税]]導入による不人気と[[リクルート事件]]が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し、後継総裁には[[宇野宗佑]]が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われ[[お上#女将|マダム]]」と評した。
とはいえ、宇野政権が[[第15回参議院議員通常選挙|1989年参院選]]の過半数割れの大敗により2か月あまりで倒れると、最大派閥の会長である金丸は大きな力を持つようになる。宇野の退陣後、[[安竹宮|ニューリーダー]]が[[リクルート事件]]の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった[[河本敏夫]]に電話し出馬を辞退させた。[[日本社会党]]の[[土井たか子|マドンナブーム]]に関し「[[バー (酒場)|バー]]のマダム<small>([[長谷百合子]]のこと)</small>が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。
結局、河本派の[[海部俊樹]]が総理総裁に選出されたが、[[参議院]]の自民党過半数割れによる[[ねじれ国会]]において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、[[国会対策委員会|国対族]]のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]の[[小沢一郎]]{{Refnest|group="注"|金丸、竹下、小沢は三重の縁戚関係であり、竹下の弟、[[竹下亘|亘]]の妻と小沢の妻は姉妹であった}}の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、[[金竹小]]と称された。金丸は[[竹下派七奉行]]の中でも特に小沢に目をかけ、[[1989年]]8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は[[橋本龍太郎]]や[[梶山静六]]ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
長く[[国会対策委員長]]を務めて[[日本社会党]]議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。[[1980年代]]末から、自民党と社会党を解体、再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった{{Refnest|group="注"|野中広務の著書によると、金丸は野中に「社会党との連立は俺が最初に考えていた。しかし、田辺は何らかの事情があってできなかった」と語っていたという(実際、社会党は[[社会党再統一|左右再統一]]後も左派が優位に立ち、右派出身の[[田邊誠]]がリーダーシップを発揮することはできなかった)。}}。特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は'''金丸国対'''とまで評されるほど絶妙なものであった。
[[1990年]]8月、[[中華人民共和国]]を訪問して[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]訪問に向けた協力を要請した<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20191006070356/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100500380 | title = 岸と金丸、対日政界工作=親台派取り込み-中国建国70年秘史 | work = | publisher = [[時事通信]] | date = 2019-10-06 | accessdate = 2019-10-06}}</ref>。同年9月には日本社会党の[[田邊誠]]らと訪朝団を団長として編成した(金丸訪朝団)。金丸と[[金日成]]は、[[日本語]]を用いて差しで対談を行った。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。[[重村智計]]によれば、この会談の冒頭、金日成は金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた<ref>{{Cite book|author=重村智計|title=外交敗北|date=|year=2006|accessdate=|publisher=講談社|page=94|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref> という。
このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、[[朝鮮労働党]]の3党で交した。この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。このとき、[[1983年]]に北朝鮮兵士[[閔洪九]]の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「[[第十八富士山丸事件|第十八富士山丸]]」の日本人船長[[紅粉勇]]と機関長[[栗浦好雄]]の2名の釈放、帰国についても合意し、こちらは実行された。
[[1991年]][[10月]]の自民党総裁選では、当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞し{{Sfn|『平成政治史 1』|p=102}}、他派の領袖を擁立することとした。派内の[[橋本龍太郎]]が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って[[宮澤喜一]]を支持した。なお、金丸本人は[[渡辺美智雄]]支持に最後まで拘った。「心情はミッちゃんだが、常識的判断になるとミッちゃんというわけにはいかない。宮沢で行こう。」<ref name="平成政権史">[[芹川洋一]]著、平成政権史、日経プレミアシリーズ、2018年、43-45頁、[[日本経済新聞出版社]]</ref>と述べた。[[東京大学|東大]]出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていた。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と[[宏池会]]が長年の蜜月関係にあったことから{{Refnest|group="注"|元々経世会と宏池会は自由党[[吉田茂]]派の流れを汲む兄弟派閥であり、自民党の派閥では友好関係が深かった。}}、渋々宮澤支持に転じた。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮澤支持に移行した。とはいえ、宮澤を支持するという金丸の報告を派の集会で拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸が叱りつけてようやく拍手が増えるというぎくしゃくした状況であった。宮澤は自派の[[増岡博之]]を国会対策委員長に起用したが、増岡は国対の経験に乏しく野党とのパイプもなく、宮澤はPKO協力法案の成立と政治改革の実現を目指したがPKO協力法案は継続審議になり政治改革は進まなかった<ref name="平成政権史" />。そこで宮沢は金丸の担ぎ出しに直接動き出す、自民党副総裁への就任だったが、宮沢は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]を使った<ref name="平成政権史" />。宮沢は次のようなエピソードを明かしている。「92年のお正月にブッシュが日本に訪れることがあったので・・・私はブッシュに「ちょっと手伝ってくれよ。この人(金丸)の協力が党内で必要なんだ。あなたのディナーにも来るから、僕がその時サインするから、ひとこと声をかけてくれよ」と頼んだんです。そうしたらブッシュは、「いいよ、そういうことなら得意とするところだ。」と言う。それで金丸さんに対してブッシュが「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれ」というようなことを言ってくれたんです。それがあって金丸さん副総裁になってくれました。」<ref>『聞き書 宮澤喜一回顧録』聞き手[[御厨貴]]・[[中村隆英]]、岩波書店、2005年、308頁</ref>。金丸はブッシュとの夕食会のあった[[1992年]]1月8日、自民党副総裁を受諾し、政権は安定し<ref name="平成政権史" />、宮澤政権の支柱となり、[[明仁|天皇]]の訪中決定を躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』p127、文春新書、平成21年</ref> と発破をかけるなど暗躍した。
1992年3月、[[栃木県]][[足利市]]で[[山岡賢次]]の応援演説中に右翼の銃撃を受けるが、弾丸は全て外れ、金丸は助かる<ref>[https://www.sankei.com/article/20151026-QYRFBL4TFBLLTMHPGM22DJYKSY/ 【栃木の戦後70年】「パーン、パーン、パーン」 銃声3発 2000人の聴衆騒然 金丸副総裁狙撃事件] 産経新聞(2015年10月26日)</ref>。同年[[3月25日]]に[[世界平和統一家庭連合|世界基督教統一神霊協会]]教祖、[[文鮮明]]が特例措置で14年ぶりに日本に入国した。アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで[[出入国管理及び難民認定法]]の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で[[田原隆]][[法務大臣]]から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った<ref>[http://www.chojin.com/history/920331.htm Sunday世界日報 1992.4.5]([[世界日報 (日本)|世界日報社]])</ref>。同年の[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]選挙では[[畑和]]の後継を巡り、公示直前で[[土屋義彦]]の支持を撤回し[[山口敏夫]]を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた(結果として土屋は埼玉県知事に当選した)。また金丸は[[首都機能移転]]の推進論者であったといい、反対派の[[石原慎太郎]]を強く批判している。
=== 失脚・晩年 ===
{{main|金丸事件}}
[[1992年]]8月、[[東京佐川急便事件]]に絡んで[[東京佐川急便]]から5億円の闇献金が発覚した。金丸は副総裁を辞任し、[[東京地方検察庁]]に[[政治資金規正法]]違反を認める上申書を提出した。9月に[[東京地方裁判所|東京簡易裁判所]]から罰金20万円の略式命令を受けた。刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員の辞職願を提出し、10月21日付で辞職した<ref>『官報』第1022号11ページ「国会事項 衆議院 議員辞職」、1992年(平成4年)10月23日</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112404024X00319921021 | title= 第124回国会 衆議院 議院運営委員会 第3号 平成4年10月21日 | publisher= 国会会議録検索システム | date= | accessdate = 2020-8-23 }}</ref>{{Sfn|『平成政治史 1』|pp=152-153}}。竹下派会長も辞任した。
1993年3月6日、金丸は政治資金を流用して個人資産を蓄財し脱税したとして東京地方検察庁に逮捕された。検察は金丸が1987年から1989年にかけて約18億4230万円の所得を隠し、10億3775万円を脱税したとされた(1987年と1989年は金丸単独の犯行、1988年は金丸と第一秘書の生原正久との共同の犯行とされた)。金丸は捜査段階では罪を認めていたが、保釈後は「政界再編のための資金」として無罪を主張するようになった。だが、金丸の体調は持病の[[糖尿病]]により悪化し、左目は[[白内障]]によりほぼ[[失明]]しながらも、最後まで裁判を続けるつもりで1ヶ月に1度から2度、裁判のために[[甲府市]]から[[東京地方裁判所]]へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月21日に公判は停止した。
その1週間後の[[3月28日]]に<ref>『官報』第1864号9ページ「国会事項 衆議院 弔詞」、1996年(平成8年)4月3日</ref>[[脳梗塞]]で死去した。{{没年齢|1914|9|17|1996|3|28}}。このため、公訴棄却となった<ref>金丸信吾「金丸信 政界のドン晩年の日々」『[[文藝春秋]]』2008年2月号、文藝春秋社。</ref>。
== 死後 ==
没後10年目の命日の[[2006年]]([[平成]]18年)[[3月28日]]、「金丸信先生を偲ぶ会」が、金丸の後援会である「久親会」の元会員を中心に設立された。
また、同年[[4月2日]]には、[[南アルプス市]]飯野に、高さ約7メートル、幅約2メートルの「金丸信先生顕彰碑」の[[石碑]]が設置され、同日には、自由民主党国会議員を始め、山梨県知事、山梨県議会議員、山梨県内の市町村長など、360人が出席し、式典が行われた。
== エピソード ==
*大雑把な性格であるとみなされることが多かった。そのため竹下登は金丸を「アバウトスキイ」と呼んだ{{要出典|date=2021年2月}}。
*北朝鮮を支持の在日朝鮮人団体[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]と親しく、総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる[[許宗萬]]と社会党の田邊誠、自民党の[[野中広務]]、[[山崎拓]]、[[加藤紘一]]と共に日本の政治家の中で北朝鮮と特に親しかった<ref>{{Cite web|title=[ニュース分析]許宗萬議長・家宅捜索は朝鮮総連没落の劇的な象徴|url=http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20760.html|website=japan.hani.co.kr|accessdate=2019-02-12|publisher=ハンギョレ新聞|date=2015-05-23}}</ref>。
* 身長は170cm、体重は最盛期で90kg。[[日本軍]]徴兵の際に行われた兵役検査では甲種合格であった{{要出典|date=2021年2月}}。
* 地元山梨県の支持者からは「かねまるの信ちゃん」や「信ちゃん」と呼ばれていた。
*田中角栄が自民党幹事長であったとき、幹事長室の職員が[[ジョニー・ウォーカー]]黒ラベルの中身を別物に差し替えて出すことがあった(当時の「ジョニ黒」は、[[物品税]]と[[ウイスキー]]等級制の[[酒税法]]上、かなり高価であり、「高級酒」のブランドイメージが強かった)。田中を含め酒を出された者の多くは、その正体に気づかなかったが、金丸は一口含むなり「ありゃー、こりゃジョニ黒じゃねえな」と見抜いた{{Sfn|奥島|p=20}}。
* [[テレビ朝日]]の金丸番記者だった[[三反園訓]](後の衆議院議員、[[鹿児島県知事]])によると、[[リニアモーターカー]]を「リビア」、[[パラボラアンテナ]]を「バラバラ」と呼ぶなど、非常に独特な言い回しをすることがあり、その言葉の意味を訊ねると「君も学がないね」と返したという。三反園はそれらの言い回しを「金丸語」としている<ref>[[三反園訓]]『ニュースステーション政治記者奮闘記』ダイヤモンド社、2003年、pp.76-82。</ref>。
* 長年、自由民主党道路調査会の会長(建設族のドン)として、全国の道路整備に精通し、地元の「[[中部横断自動車道]]」の建設など、地元への利益誘導し自身も闇で財を成すという、古い型の政治家だった。とりわけ「中部横断道路」は、「山梨県には[[内陸県|海がない]]。山梨県民は[[太平洋]]の海を見たい。」ということで力をいれており、中部横断道路の[[双葉ジャンクション]]〜[[白根インターチェンジ]]間は「金丸道路」と[[日本道路公団]]内では言われていた。なお、白根インターチェンジは、金丸のお膝元である<ref>[[読売新聞]]、[[2002年]][[11月12日]]</ref>。
* 甲府盆地で恐れられていた[[地方病 (日本住血吸虫症)|日本住血吸虫症]]撲滅のため、水路コンクリート化において、ネックとなっていた[[日本国有鉄道]]用地内([[中央本線]]および[[身延線]])溝渠のコンクリート化は、金丸が[[縦割り行政]]の垣根を越えた各方面へ働きかけた結果、実現した。
* 竹下内閣時代、当時の[[運輸大臣]][[石原慎太郎]]の元を訪ね、金丸が「[[中央新幹線|中央リニア新幹線]]の着工と[[甲府市|甲府]]付近への駅設置」を求めた際、石原から「[[東京都区部|東京]]からそんな近く(甲府のことを指す)に作っても仕方がないでしょう。([[国鉄分割民営化|民営化]]されたばかりの)[[東海旅客鉄道|JR東海]]の社長にお願いしてくださいよ」と言われた。当時は[[リニア実験線]]の誘致を巡り、山梨県と[[北海道]]が争っており、石原は北海道に肩入れしていたが、結局は金丸の推した山梨県に軍配が上がった。
* 同じ田中派の[[塩島大]]が1期目中に病死した際、異常に悔しがったため、側近が理由を尋ねると「あいつを議員にするために何億も使った。それがすべて水の泡だ」と答えたという。
* 長男の<span id="金丸康信">康信</span>は竹下登の長女を妻に迎え、[[テレビ山梨]]の相談役、[[エフエム富士]]の取締役を務めている。竹下との間には共通の孫、幽木遊貴がおり、過去に同人活動を行っていた。また、シンガーソングライター、タレントの[[DAIGO]]は康信の義理の甥、漫画家の[[影木栄貴]]は康信の義理の姪であり、影木栄貴は幽木遊貴の影響を受けて漫画を描き始めた。
* 金丸の次男である信吾によると、金丸自身は[[世襲政治家|政治家の世襲]]を嫌っていたという。金丸は自分の3人の息子たち(金丸家は3兄弟だった)に「俺は絶対にお前たちを政治家にはしないからな」と語っていたことを信吾が証言している<ref>『週刊新潮』 2011年2月24日号 60頁(新潮社)『金権「金丸信」元副総理遺族が「老人ホーム園長」で「かっぱ寿司」』文中参照</ref>。
* [[大下英治]]は、日本で[[内閣総理大臣|総理大臣]]になることを断った人物として、金丸を挙げている。政治家であれば総理大臣を目指したいのではないかとの問いに、「ぼくは総理大臣で苦労するよりも、陰で総理大臣を操っていたほうがおもしろいんだ」と語り、[[1980年代]]後半当時の金丸の立場を象徴するコメントとして話題になった。インタビュアーだったアナウンサーの[[吉川美代子]]も、印象的なインタビューとして回想している<ref>[[吉川美代子]]『アナウンサーが教える 愛される話し方』[[朝日新書]]、[[2013年]]、185頁。</ref>。
* 上記のトラックの荷台で演説するエピソードに加えて地縁、血縁や[[無尽]]を巧みに取り込み、揺るぎなき組織戦術を行なうなど常に有利な選挙戦を行なっていた。のちにこの戦術は[[甲州選挙]]と言われるようになり、山梨県選出の国会議員や県知事なども、この戦術を行なうようになった。
*1978年9月、同月18日に進水予定であった[[海上自衛隊]]「[[しらね型護衛艦|5200トン型護衛艦(50DDH)]]」の1番艦の名称は当初、気象や山岳名を基準とする自衛隊の命名規則に照らしたうえで「[[はるな (護衛艦)|はるな]]」、「[[ひえい (護衛艦)|ひえい]]」に続いて、旧海軍で戦艦に使用されていた「山岳名」から取るのがセオリーとなりつつあったことから、1番艦を「こんごう」、同じく2番艦「きりしま」とする予定であった。しかし金丸が、自らの選挙区にある[[白峰三山]]北岳の俗称、[[北岳|白根山]]からとって、「[[しらね (護衛艦)|しらね]]」とすることを強硬に推し、最終的に「しらね」と命名された<ref>志岐叡彦『[投稿]護衛艦「しらね」の改名を要望する』[[軍事研究 (雑誌)|軍事研究]] 1993年6月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー</ref>。政治家の一存で自衛艦名が決められたのは、後にも先にもこのときだけである。
* 1981年7月、義姉(金丸の先妻の兄弟の妻)が山梨県職員の男に身代金目的で誘拐され殺害された。彼女の遺体確認に金丸も立ち会った<ref>事件・犯罪研究会 村野薫「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」821頁、[[東京法経学院|東京法経学院出版]]、[[2002年]] ISBN 4808940035。なお、犯人は無期懲役判決が言い渡されている。</ref>。
* 1992年2月、[[バブル崩壊]]後の不況に際して「[[日本銀行|日銀総裁]]の[[解雇|首を切って]]でも[[政策金利|公定歩合]]を下げさせろ」と発言した。これを紹介した経済評論家の[[原田泰]]は「これは十年後に[[連邦準備制度|アメリカ連銀]]の優秀なスタッフが到達した結論と同じである。一体、金融の専門家とは何なのだろうか」「(金丸は金融の素人だろうが)この時点では間違いなく素人が正しかった」と述べて、金丸の「政治的な直感」を称えている<ref>原田泰「奇妙な経済学を語る人々」日本経済新聞社、P220</ref>。
* 同郷出身で宗教学者の[[中沢新一]]が叔父で歴史学者の[[網野善彦]]との思い出を記した『僕の叔父さん 網野善彦』のなかに金丸信と彼が経営する醸造業に関する記述がある。
* 竹下派全盛期時代は絶大な権力を持ち、「[[キングメーカー]]」と呼ばれた。しかし、ポスト竹下やポスト海部においては、不本意な総理総裁擁立を強いられるケースもあった。
* 外交官、外交評論家の[[岡崎久彦]]は「捕まった時に秘書や側近に罪を着せようとしなかった」という理由で金丸を評価しているという。岡崎が[[タイ王国]][[特命全権大使]]として在任していた、1991年に起こったクーデターに際して、たまたまタイを訪れた金丸が「『他国のクーデターとは違う、ただの政権交代』と本質を突いた発言をし、日タイ関係の継続に大きく貢献した」経緯が述べられている<ref>[[岡崎久彦]]「クーデターの政治学」p.76-78 [[中公新書]]</ref>。
* [[鈴木宗男]]は、代議士となった当初金丸を師と仰いだ(金丸の失脚後、鈴木は金丸側近だった[[野中広務]]を師と仰ぐようになる)。
* 漫画『[[美味しんぼ]]』には、金丸をモデルにしたとおぼしい「学生時代柔道三昧だった」角丸豊介副総理がたびたび登場する。
* 昔の政治家の中では、リッチなところを見せ付けるためか、釣りは[[チップ (サービス)|チップ]]として受け取らない人もいた。盟友の竹下登は、県議時代からいつもポチ袋に小銭を入れており、ホテルのボーイなどにサービスを受けた際に、周囲には分からないようにサッと渡していた。それに対して金丸自身は金銭面で非常にシビアであり、日々の細々とした出費(食費や散髪代など)では、必ず定価通りの支払いしかせず、釣りもしっかりもらっていたという。
* [[亀井静香]]は「あれは[[1984年|84年]]ごろだ。俺は[[平沼赳夫]]たちと内戦が続いていた[[カンボジア]]に義援金を届けようと、自民党の実力者らにカンパを募った。当時幹事長の金丸先生も共感してくれた。事務所を訪ねると背広のポケットからぽんと金を出した。「これでは足りないな」と棚や机の引き出しをごそごそやり、積み上がったのは500万円。あれには驚かされた。」と述べている<ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=616968&comment_sub_id=0&category_id=1205 <16> 政治とカネ 屈指の「集金力」 派閥運営 生きて 元自民党政調会長 亀井静香さん(1936年~)] [[中国新聞]]、2020/2/27</ref>。
=== 盟友・竹下登 ===
島根県選出の[[竹下登]]とは年齢が10歳違うが、衆議院同期当選で、多くの共通点があり、次第に盟友となっていった。金丸の長男と竹下の長女は結婚し共通の孫までいる関係なのは有名である。
*共に造り酒屋の生まれである。
*共に父親は県会議員である(竹下は本人も県会議員経験者)。ちなみに父親は両方とも入り婿である。
*共に学校の教員を経験している(金丸は旧制中学の「博物」、竹下は新制中学の「英語」)。
*共に学生時代は柔道をしており、有段者である(金丸も竹下も柔道五段)。
*共に私立大学(旧制)卒である(金丸は[[東京農業大学]]、竹下は[[早稲田大学]])。
*共に前妻と死別し、再婚経験がある(竹下はあまり公にはしていないが、前妻を戦争中に亡くし、戦後改めて後妻を迎えている)。
これらの共通点から田中派内では「金丸・竹下」と常にセットで呼ばれていた。当初から竹下は総理大臣、金丸は[[衆議院議長]]を目指していたとも言われる。新人議員の頃は、東京から選挙区が近い金丸の地元山梨から来る多くの陳情客を待たせるのに、竹下の議員事務所を使っていたこともある。竹下の選挙区は東京から遠い[[島根県|島根]]ということで、陣笠議員の頃は陳情客も少なかった。
=== 拉致問題捜査の妨害行為 ===
月刊誌『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』[[1998年]]6月号によれば、[[1987年]]の[[大韓航空機爆破事件]]の実行犯[[金賢姫]]の証言によって捜査が開始された「[[北朝鮮による日本人拉致問題#李恩恵(リ・ウネ)拉致事案|李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案]]」に関連して、韓国側からの情報提供を得た[[警察庁]]は、[[警備局]]審議官をトップに十数名からなる「李恩恵身元割出調査班」を設置し、[[警視庁公安部]]でも通称「ウネ・チーム」を設け、さらに、各都道府県警察[[警備部]][[外事課]]でも同様のチームが設置されて全国規模の大がかりな捜査活動が展開された<ref name="sukuukai2013">{{Cite web|和書|url=http://www.sukuukai.jp/mailnews/item_3328.html|title=田口八重子さんを救うぞ!」-東京連続集会71報告5(2013/02/07)|accessdate=2022-01-03|website=救う会全国協議会ニュース|publisher=[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]]}}</ref>。その結果、朝鮮総連幹部で北朝鮮に高額の献金をし、訪朝の際には国賓待遇を受ける大物商工人、その配下の2名、1人は偽装転向して多数の偽造[[パスポート|旅券]]を隠し持った[[北朝鮮工作員]]、もう1人は海岸での拉致犯罪を補助する「沿岸徘徊人」、いずれも[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]実業家の計3名が、[[田口八重子]](朝鮮名、李恩恵)の拉致にかかわった人物として浮かびあがった<ref name="sukuukai2013" />。この資料は「むかご」リストと称されている<ref name="sukuukai2013" />{{Refnest|group="注"|この「大物商工人」とは、朝鮮総連の副議長で東海商事という貿易会社の会長をしていた[[安商宅]]だと考えられている<ref name="sukuukai2013" />。}}。[[1990年]]5月初め、警視庁に警察庁、[[検察庁]]、警視庁公安部外事第二課など関係各所の幹部約150名が集められ、[[5月10日]]付の大物商工人(朝鮮総連幹部)の捜索[[令状]]と、[[5月14日]]付の多数の偽造パスポートを保有する工作員の[[逮捕]]状が用意された<ref name="sukuukai2013" />。さらに、朝鮮総連本部や[[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学校]]にも捜索令状が出され、[[機動隊]]も動員されて総勢450名体制で捜査に着手する予定であったが、突如、直前の[[5月9日]]に中止させられた<ref name="sukuukai2013" />。この件については緘口令がしかれたが、同年9月の金丸訪朝によって握り潰されたという伝聞情報がある<ref name="sukuukai2013" />。
同事件については、[[2001年]][[12月16日]]付『[[産経新聞]]』が「朝鮮総連元幹部の[[外国人登録法]]違反-故金丸氏捜査に圧力」という見出しで報じた<ref name="sukuukai2013" />。それは、以下のような内容である<ref name="sukuukai2013" />。
{{quotation|
平成2年(1990年)5月に警視庁公安部が摘発した朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、日朝関係への影響を懸念した自民党の金丸信元副総裁が捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。金丸氏は同年9月に訪朝した<ref name="sukuukai2013" />。
}}
[[田口八重子]]拉致事件の真相を解明しようという試みは、金丸信の圧力で大きく妨害された疑いがもたれている<ref name="sukuukai2013" />。
== 年譜 ==
=== 略歴 ===
* [[1936年]]
** [[東京農業大学]][[農学部]]卒業
* その後、山梨県立[[中学校]]教員となりつつ、実家の醸造業を継ぐ
* [[1959年]]
**[[1月14日]] [[1958年]]8月、山梨県社会事業共同募金へ50万円寄付により[[褒章|紺綬褒章]]受章、寄付の功績顕著として木杯一組台付を併せて賜った<ref>『官報』第9617号187-188頁 昭和34年1月16日号</ref>。
* [[1962年]]
** [[3月31日]] [[1960年]]10月、山梨県中巨摩郡白根町公民館兼屋内運動場建設資金として10万円を寄付により紺綬褒章受章(飾版)<ref>『官報』第10584号39-42頁 昭和37年4月3日号</ref>。
* [[1969年]]
** 株式会社[[テレビ山梨]]初代代表取締役会長に就任。
* [[1990年]]
** [[9月24日]] [[田邊誠]]らと共に、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問する。
** [[9月26日]] [[妙香山]]で[[金日成]]と会談する。
*[[1992年]]
** [[9月28日]] 政治資金規正法違反で略式起訴。
** [[9月29日]] 同法違反で罰金20万円。
*[[1993年]]
** [[3月6日]] 脱税容疑で逮捕。
* [[1996年]]
** [[3月28日]] [[糖尿病]]悪化に伴う[[脳梗塞]]のため死去、81歳。
=== 政歴 ===
* [[1958年]]
** [[5月22日]] [[第28回衆議院議員総選挙]](山梨全県区、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認)当選。
* [[1971年]]
** 9月 党山梨県支部連合会会長就任。
* [[1972年]]
** 1月 党[[自由民主党国会対策委員会|国会対策委員長]]就任。
** [[12月22日]] [[建設大臣]]【近畿圏整備長官兼中部圏開発整備長官兼[[首都圏整備委員会]]委員長兼任】([[第2次田中角栄内閣]])就任。
* [[1974年]]
** [[12月9日]] [[国土庁|国土庁長官]]([[三木内閣]])就任。
* [[1976年]]
** [[12月]] [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]就任。
* [[1977年]]
** [[11月28日]] 防衛庁長官([[福田赳夫内閣 (改造)|福田内閣改造内閣]])就任。
* [[1978年]]
** 12月 党国会対策委員長就任。
* [[1983年]]
** 12月 党総務会長就任。
* [[1984年]]
** 10月 党幹事長就任。
* [[1985年]]
** [[2月7日]] 勉強会「創政会」結成
* [[1986年]]
** [[7月22日]] [[無任所大臣 (日本)|国務大臣]]【[[副総理]]兼民間活力導入担当】([[第3次中曽根内閣]])就任。
*[[1987年]]
** [[6月3日]] [[平成研究会|経世会]](竹下派)結成。
** 11月 経世会会長就任。
* [[1992年]]
** [[1月8日]] 党副総裁就任。
** [[8月27日]] 党副総裁辞任。
** [[10月14日]] 衆議院議員辞職。経世会会長辞任。
== 政治語録 ==
*「保革連合勢力には主義も主張もない。水と油が一緒になっている。'''水と油で天ぷらが揚がるか。'''」(1967年1月30日)
*「列島改造もさることながら、何よりも人づくりを先にやらなければならない。'''ぐうたら人間を育てていては列島改造も砂上の楼閣になる。'''」(1972年12月10日)
*「一般消費税は悪税だと言わざるを得ない。富士山の五合目以下の人から徴税するのではなく、'''中間ベルト地帯を太くすることが今日の政治だ。'''」(1979年2月3日)
*「このシャバは君たちの思うようなシャバではない。'''親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。'''親分が右と言うのにいやだというなら、この派閥を出て行くほかない。」(1982年10月22日)
*「中曽根嫌いは日本一の金丸信だ。みんなの言っていることも分からんじゃあないが、いまさらどうするわけにもいかん。'''オヤジ(田中角栄)の声は天の声だ。'''オヤジも義理人情があるから中曽根といっているんだ。二度も中曽根を持ち出す気持ちもわからんわけじゃない。好き嫌いじゃない。義理人情も政治のうちだ。私はオヤジが中曽根でいく以上、中曽根でいく。嫌な人は田中派を出ていくしかない。」(1984年10月26日)
*「民主主義の基本は妥協である」<ref>『立ち技寝技 : [[私の履歴書]]』日本経済新聞社</ref>
== 家族 ==
{{節スタブ}}
*先妻:玲子(1958年死別)、後妻:悦子(1961年再婚。1991年11月にゴルフ場で倒れ約2週間後に死去)
*長男:康信(甲府商工会議所名誉会頭<ref>{{Cite web|和書|title=甲府商工会議所、新会頭に進藤中・山梨中央銀行会長|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51705720R01C19A1L83000/|website=日本経済新聞|date=2019-11-01|accessdate=2021-12-07|language=ja}}</ref><ref name=":1" />、前[[テレビ山梨]]社長、[[エフエム富士]][[取締役]]、山梨県教育委員長、[[日本放送協会|NHK]]記者<ref name=":1" />。竹下登の娘婿)
*次男:信吾<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=金丸信氏の没後20年、山梨に残したもの|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFK17H1V_Y6A310C1000000/|website=日本経済新聞|date=2016-03-26|accessdate=2021-12-07|language=ja}}</ref>(境川カントリー倶楽部社長)。[[2022年]]3月死去。
*:信吾の妻は[[西松建設]]の元社長令嬢である。
*三男:吉宗(境川専務)
== 著書 ==
* {{Cite book|和書|title=わが体験的防衛論 : 思いやりの日米安保新時代|series=Yell books|publisher=エール出版社|date=1979-07-25|id={{NDLJP|12015681}}}}
* {{Cite book|和書|title=人は城・人は石垣・人は堀 : ありのままの政界25年|publisher=エール出版社|date=1983-04-01|id={{NDLJP|12262966}}}}
* {{Cite book|和書|editor=末木幸一郎|title=行き過ぎれば刺し違える : 金丸信語録 27年間の足あと|publisher=ユニバース出版社|date=1985-03-01|id={{NDLJP|11923874}}}}
* 『立ち技寝技 : 私の履歴書』日本経済新聞社、1988年8月。ISBN 4532094666。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[麻生幾]]
|date = 1999-9-1
|title = 戦慄―昭和・平成裏面史の光芒
|publisher = [[日経ビジネス]]
|isbn =
|ref = {{SfnRef|戦慄}}
}}
* {{Cite book |和書
|author = [[奥島貞雄]]
|title = 自民党幹事長室の30年
|date = 2005年9月25日
|publisher = [[中公文庫]]
|isbn = 978-4122045934
|ref = {{SfnRef|奥島}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[後藤謙次]]
|date = 2014-4-17
|title = ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 978-4000281676
|ref = {{SfnRef|『平成政治史 1』}}
}}
== 関連項目 ==
* [[国対政治]]
* [[国際興業]] - 金丸信の東京佐川急便事件などを解明するために[[東京地検]]が[[1993年]]親密企業であった国際興業に家宅捜索を行う
* [[吉田博美]] - 秘書を務めていた
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E4%BF%A1 |
5,357 | モーツァルト (曖昧さ回避) | モーツァルト(Mozart)
単独で呼称される場合は通常ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指す。 | [
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] | モーツァルト(Mozart) 単独で呼称される場合は通常ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指す。 モーツァルト家
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト - 古典派音楽を代表する作曲家。
レオポルト・モーツァルト - ヴォルフガングの父で宮廷作曲家。
アンナ・マリア・モーツァルト - ヴォルフガングの母。
マリア・アンナ・モーツァルト - ヴォルフガングの姉。通称ナンネルもしくはナンネルル。
マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト - ヴォルフガングの従妹。通称ベーズレ。
コンスタンツェ・モーツァルト - ヴォルフガングの妻。
カール・トーマス・モーツァルト - ヴォルフガングの次男。
フランツ・クサーヴァー・モーツァルト - ヴォルフガングの四男で音楽家。
モーツァルト! - ヴォルフガングを取り上げたミュージカル。
Mozartプログラミングシステム - プログラミング言語Ozの実装。
モザルト・カマルゴ・グアルニエリ - ブラジルの作曲家。
モザルト・サントス・バティスタ・ジュニオール - ブラジルのサッカー選手。ふつう単にモザルトと呼ばれる。
モーツアルト - 洋菓子・喫茶チェーン。日本レストランシステムを参照。
バッケンモーツアルト - 広島にある洋菓子店。
モーツァルト (競走馬) - アイルランド産の競走馬。ジェライカップ・ナンソープステークス等を勝利し短距離路線で活躍した。
ピンクのモーツァルト - 松田聖子のシングル。 | '''モーツァルト'''(Mozart)
単独で呼称される場合は通常[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]を指す。
*[[モーツァルト家]]
** [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]] - [[古典派音楽]]を代表する[[作曲家]]。
** [[レオポルト・モーツァルト]] - ヴォルフガングの父で宮廷[[作曲家]]。
** [[アンナ・マリア・モーツァルト]] - ヴォルフガングの母。
** [[マリア・アンナ・モーツァルト]] - ヴォルフガングの姉。通称ナンネルもしくはナンネルル。
** {{仮リンク|マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト|en|Maria Anna Thekla Mozart}} - ヴォルフガングの従妹。通称ベーズレ。
** [[コンスタンツェ・モーツァルト]] - ヴォルフガングの妻。
** [[カール・トーマス・モーツァルト]] - ヴォルフガングの次男。
** [[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト]] - ヴォルフガングの四男で[[音楽家]]。
*[[モーツァルト!]] - ヴォルフガングを取り上げたミュージカル。
*[[Mozartプログラミングシステム]] - [[プログラミング言語]][[Oz (プログラミング言語)|Oz]]の実装。
*[[カマルゴ・グアルニエリ|モザルト・カマルゴ・グアルニエリ]](Mozart Camargo Guarnieri) - [[ブラジル]]の作曲家。
*{{仮リンク|モザルト・サントス・バティスタ・ジュニオール|en|Mozart Santos Batista Júnior}}(Mozart Santos Batista Júnior) - ブラジルの[[サッカー]]選手。ふつう単にモザルトと呼ばれる[http://calcio.main.jp/player/archives/2004/09/ug.html]。
* モーツアルト - 洋菓子・喫茶チェーン。[[日本レストランシステム]]を参照。
* [[バッケンモーツアルト]] - 広島にある洋菓子店。
* [[モーツァルト (競走馬)]] - アイルランド産の競走馬。ジェライカップ・ナンソープステークス等を勝利し短距離路線で活躍した。
* [[ピンクのモーツァルト]] - [[松田聖子]]の[[シングル]]。
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[[Category:ドイツ語の姓]] | null | 2019-03-29T09:58:37Z | true | false | false | [
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5,361 | ヘルタ・ドイブラー=グメリン | ヘルタ・ドイブラー=グメリン(Herta Däubler-Gmelin、1943年8月12日‐)は、ドイツの女性政治家(ドイツ社会民主党)。1998年‐2002年、第一次ゲアハルト・シュレーダー政権において法務大臣を務めた。
ナチス・ドイツの駐スロバキア公使の娘として、任地のブラチスラヴァに生まれる。戦後父親が市長を務めたバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲンで育ち、テュービンゲン大学とベルリン自由大学で歴史学、法学、政治学を学ぶ。1974年、国家司法試験合格。翌年博士号取得。弁護士としてシュトゥットガルト次いでベルリンで法律事務所を開く。1995年、母校ベルリン自由大学の名誉教授となり、政治学研究所で教鞭をとる。専門は労働法。在学中の1969年に結婚し二児をもうける。夫のヴォルフガング・ドイプラーは大学教授。
1965年、ドイツ社会民主党(SPD)に入党。1972年、ドイツ連邦議会選挙で初当選。1980年及び83年にSPDの法務委員会委員長、1983年から93年まで連邦院内副総務。1988‐97年、SPD連邦副党首。1994年‐98年、SPD連邦議会議員団法制研究会広報担当。1993年には連邦憲法裁判所副長官に立候補するが、「政治的過ぎる」と与党キリスト教民主同盟(CDU)の激しい抵抗を受け、長い交渉の末に立候補を撤回した。
1998年の連邦議会選挙の結果、SPDが与党となりゲアハルト・シュレーダー政権が発足すると、ドイブラー=グメリンは法務大臣に任命される。大臣在任中に民法の債権法が改正され、2002年1月1日に施行された。この法律の改定は実に102年ぶりのことだった。また同性愛者同士のパートナーシップの権利保護にも尽力。
2002年の連邦議会選挙の選挙戦の最中の9月18日、「グローバリゼーションと労働」と題した選挙演説で、記者がその場にいることに気付かないまま、「イラク攻撃を狙うブッシュ米大統領は、外敵との戦いを煽って内政の問題から国民の目を逸らせたマーガレット・サッチャー、さらにはアドルフ・ヒトラーに似ている」と発言。集会参加者に不同意の意を示されると、これは個人の比較ではなく政策の類似を指摘しただけだと弁明した。このやりとりは翌日の新聞に載り、コンドリーザ・ライス大統領補佐官や駐独アメリカ大使など、アメリカ政府の強い反発を招いた。SPDはイラク戦争に対する明確な反対意志表明が功を奏したのか連邦議会選挙に辛勝したが、ドイブラー=グメリンはアメリカとの不和を考慮して第二次シュレーダー内閣には留任しないと表明し、慰留されることなく10月22日に離任した。
2002年‐2005年に連邦議会の消費者保護・食品・農業委員会委員長。2005年から同じく人権・人道支援委員会委員長を務める。2009年の総選挙に出馬せず、政界を引退した。 | [
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] | ヘルタ・ドイブラー=グメリンは、ドイツの女性政治家(ドイツ社会民主党)。1998年‐2002年、第一次ゲアハルト・シュレーダー政権において法務大臣を務めた。 | [[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F079284-0023, Münster, SPD-Parteitag, Deubler-Gmelin.jpg|thumb|1988年のSPD党大会でのドイブラー=グメリン]]
'''ヘルタ・ドイブラー=グメリン'''(Herta Däubler-Gmelin、[[1943年]][[8月12日]]‐)は、[[ドイツ]]の[[女性]][[政治家]]([[ドイツ社会民主党]])。1998年‐2002年、第一次[[ゲアハルト・シュレーダー]]政権において[[法務大臣]]を務めた。
== 経歴 ==
[[ナチス・ドイツ]]の駐[[スロバキア]]公使の娘として、任地の[[ブラチスラヴァ]]に生まれる。戦後父親が市長を務めた[[バーデン=ヴュルテンベルク州]][[テュービンゲン]]で育ち、[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]と[[ベルリン自由大学]]で[[歴史学]]、[[法学]]、[[政治学]]を学ぶ。1974年、国家[[司法試験]]合格。翌年博士号取得。[[弁護士]]として[[シュトゥットガルト]]次いで[[ベルリン]]で法律事務所を開く。1995年、母校ベルリン自由大学の名誉教授となり、政治学研究所で教鞭をとる。専門は[[労働法]]。在学中の1969年に結婚し二児をもうける。夫のヴォルフガング・ドイプラーは大学教授。
1965年、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党。1972年、[[ドイツ連邦議会]]選挙で初当選。1980年及び83年にSPDの法務委員会委員長、1983年から93年まで連邦院内副総務。1988‐97年、SPD連邦副党首。1994年‐98年、SPD連邦議会議員団法制研究会広報担当。1993年には[[連邦憲法裁判所]]副長官に立候補するが、「政治的過ぎる」と与党[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)の激しい抵抗を受け、長い交渉の末に立候補を撤回した。
=== 法務大臣就任と舌禍事件 ===
[[ファイル:Herta Däubler-Gmelin 1009.jpg|thumb|2008年ベルリンにて]]
1998年の連邦議会選挙の結果、SPDが与党となり[[ゲアハルト・シュレーダー]]政権が発足すると、ドイブラー=グメリンは法務大臣に任命される。大臣在任中に民法の債権法が改正され、2002年1月1日に施行された。この法律の改定は実に102年ぶりのことだった。また[[同性愛]]者同士のパートナーシップの権利保護にも尽力。
[[2002年]]の連邦議会選挙の選挙戦の最中の9月18日、「[[グローバリゼーション]]と労働」と題した選挙演説で、記者がその場にいることに気付かないまま、「[[イラク戦争|イラク攻撃]]を狙う[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領は、外敵との戦いを煽って内政の問題から国民の目を逸らせた[[マーガレット・サッチャー]]、さらには[[アドルフ・ヒトラー]]に似ている」と発言。集会参加者に不同意の意を示されると、これは個人の比較ではなく政策の類似を指摘しただけだと弁明した。このやりとりは翌日の新聞に載り、[[コンドリーザ・ライス]]大統領補佐官や駐独アメリカ大使など、[[アメリカ政府]]の強い反発を招いた。SPDはイラク戦争に対する明確な反対意志表明が功を奏したのか連邦議会選挙に辛勝したが、ドイブラー=グメリンはアメリカとの不和を考慮して第二次シュレーダー内閣には留任しないと表明し、慰留されることなく10月22日に離任した。
2002年‐2005年に連邦議会の消費者保護・食品・農業委員会委員長。2005年から同じく人権・人道支援委員会委員長を務める。2009年の総選挙に出馬せず、政界を引退した。
== 外部リンク ==
* [http://www.daeubler-gmelin.de/ Personal website] {{de icon}}
{{ドイツ連邦共和国法務大臣|1998年‐2002年}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:といふらくめりん へるた}}
[[Category:西ドイツの政治家]]
[[Category:ドイツの法相]]
[[Category:ドイツ社会民主党の政治家]]
[[Category:ベルリン自由大学の教員]]
[[Category:ブラチスラヴァ出身の人物]]
[[Category:1943年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:労働法学者]] | null | 2018-08-28T22:58:53Z | false | false | false | [
"Template:De icon",
"Template:ドイツ連邦共和国法務大臣",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%82%B0%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%B3 |
5,362 | ロシア共和国 | ロシア共和国(ロシアきょうわこく) | [
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"text": "ロシア共和国(ロシアきょうわこく)",
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}
] | ロシア共和国(ロシアきょうわこく) ロシア臨時政府の国号。
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 - ソビエト連邦の構成共和国のひとつ。
現行の国家(ロシアまたはロシア連邦)もその政体からロシア共和国と呼ばれることがあるが、あくまでも俗称に過ぎない。 | '''ロシア共和国'''(ロシアきょうわこく)
* [[ロシア臨時政府]]の国号。
* [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] - [[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦構成共和国|構成共和国]]のひとつ。
* 現行の国家([[ロシア|'''ロシア'''または'''ロシア連邦''']])もその政体からロシア共和国と呼ばれることがあるが、あくまでも俗称に過ぎない。
== 関連項目 ==
* [[ロシアの共和国]] - ロシア連邦下の構成共和国についての記事。
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5,363 | 1789年 | 1789年(1789 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | [
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] | 1789年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1789}}
{{year-definition|1789}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天明]]9年、[[寛政]]元年1月25日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2449年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]54年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]4122年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[昭統]]3年(旧10月まで)
** [[西山朝]] : [[光中]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2331年 - 2332年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1203年 - 1204年
* [[ユダヤ暦]] : 5549年 - 5550年
* [[ユリウス暦]] : 1788年12月21日 - 1789年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1789}}
== できごと ==
* [[1月23日]] - [[ジョージタウン大学]]創立([[アメリカ合衆国|米国]]初のカトリック系大学)
* [[2月19日]]([[天明]]9年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - 日本、改元して[[寛政]]元年
* [[4月28日]] - [[バウンティ号の反乱]]
* [[4月30日]] - [[ジョージ・ワシントン]]が初代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202304290001878.html|title=ジョージ・ワシントンが米国初代大統領に就任/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2023-04-30|accessdate=2023-04-30}}</ref>
* [[5月5日]] - [[フランス]]で175年ぶりに[[三部会]]召集
* [[6月17日]] - フランスで三部会の第三身分代表が[[憲法制定国民議会|国民議会]]を形成
* [[6月20日]] - フランスで[[球戯場の誓い|テニスコートの誓い]]
* [[7月14日]] - パリ民衆の[[バスティーユ襲撃]]により[[フランス革命]]が始まる
* [[7月27日]] - 米国で外務省設立(9月15日に[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]と改名)
* [[8月4日]] - 封建的特権廃止の宣言
* [[8月7日]] - 米国で[[アメリカ合衆国旧陸軍省|陸軍省]]設立
* [[8月26日]] - フランスで[[人間と市民の権利の宣言|人権宣言]]採択
* [[8月28日]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[土星]]の[[衛星]]「[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]」を発見
* [[9月2日]] - 米国で[[アメリカ合衆国財務省|財務省]]設立
* [[9月17日]] - ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星「[[ミマス (衛星)|ミマス]]」を発見
* [[9月24日]] - ワシントンが[[連邦保安官]]を任命
* [[11月21日]] - 米国で[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]が12番目の州となる
* [[12月11日]] - [[ノースカロライナ大学]]創立(米国初の公立大学)
== 誕生 ==
{{see also|Category:1789年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月16日]] - [[シャルル・リヴィエル=エラール]]、[[ハイチ]]大統領(+ [[1850年]])
* [[3月16日]] - [[ゲオルク・オーム]]、[[物理学者]](+ [[1854年]])
* [[6月15日]]([[寛政]]元年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]])- [[土井利位]]、[[江戸幕府]][[老中]]・[[古河藩|古河藩主]](+ [[1848年]])
* [[7月4日]] - [[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]、[[画家]](+ [[1869年]])
* [[7月6日]] - [[マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ]]、[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|両シチリア王フランチェスコ1世]]の妃(+ [[1848年]])
* [[7月10日]](寛政元年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[梁川星巌]]、[[漢詩|漢詩人]](+ [[1858年]])
* [[8月6日]] - [[フリードリッヒ・リスト]]、[[経済学者]](+ [[1846年]])
* [[8月9日]] - [[ニコラ=シャルル・ボクサ]]、[[作曲家]](+ [[1856年]])
* [[8月16日]] - [[エイモス・ケンドール]]、第11代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1869年]])
* [[8月21日]] - [[オーギュスタン=ルイ・コーシー]]、[[数学者]](+ [[1857年]])
* [[8月28日]](寛政元年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]])- [[立花鑑賢]]、第9代[[柳河藩|柳河藩主]](+ [[1830年]])
* 8月28日 - [[ステファニー・ド・ボアルネ]]、[[カール (バーデン大公)|バーデン大公カール]]の妃(+ [[1860年]])
* [[9月7日]] - [[パルム・ボグスラフスキー]]、[[天文学者]](+ [[1851年]])
* [[9月9日]] - [[ウィリアム・クランチ・ボンド]]、天文学者(+ [[1859年]])
* [[9月15日]] - [[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]]、[[小説家]](+ [[1851年]])
* [[9月28日]] - [[リチャード・ブライト]]、[[医学者]](+ [[1858年]])
* [[10月16日]](寛政元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]])- [[三上景文]]、[[江戸時代]]の[[北面武士]]・[[地下家伝]]編者
* [[10月25日]] - [[ハインリッヒ・シュワーベ]]、天文学者(+ [[1875年]])
* [[12月22日]] - [[レヴィ・ウッドベリー]]、第13代[[アメリカ合衆国財務長官]](+ [[1851年]])
* [[12月28日]] - [[トマス・ユーイング]]、第14代アメリカ合衆国財務長官、初代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1871年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1789年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月26日]] - [[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]、[[イギリス]]の大[[競走馬]]、[[サラブレッド]][[三大始祖]]の一頭(* [[1764年]])
* [[3月22日]](寛政元年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[井伊直幸]]、[[大老]]、[[近江国|近江]][[彦根藩]]第10代藩主(* [[1729年]])
* [[4月9日]](寛政元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[三浦梅園]]、[[儒学者]](* [[1723年]])
* [[8月27日]](寛政元年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[恋川春町]]、[[戯作]]者・[[浮世絵師]](* [[1744年]])
* [[11月9日]](寛政元年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]) - [[開明門院]]、[[桜町天皇]]の[[典侍]]で[[桃園天皇]]の母(* [[1717年]])
* [[11月23日]](寛政元年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]) - [[毛利重就]]、第7代[[長州藩|長州藩主]](* [[1725年]])
== フィクションのできごと ==
=== 誕生 ===
* 1789年某月某日 - フランソワ・シャトレ - [[ベルナール・シャトレ]]と[[ロザリー・ラ・モリエール|ロザリー]]の若夫婦に男児誕生、オスカルのミドルネーム「[[フランソワ]]」を命名された。(『[[ベルサイユのばら]]』『[[栄光のナポレオン-エロイカ]]』)
=== 死去 ===
* 1789年7月13日 - [[アンドレ・グランディエ]] - オスカルやフランス衛兵隊の仲間と共に民衆側について戦い、結核の発作に見舞われたオスカルを庇って銃弾に倒れた。(『ベルサイユのばら』)
* 1789年7月14日 - [[オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ]] - [[バスティーユ襲撃]]の際、民衆を援護すべく参戦してバスティーユ牢獄を砲撃するも指揮官を潰そうと狙撃されて白旗が揚がるのを見届けて絶命した。(『ベルサイユのばら』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--'''注釈'''
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===出典===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1789}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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5,364 | 1766年 | 1766年(1766 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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] | 1766年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1766}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明和]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2426年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]31年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]42年
** [[檀君紀元|檀紀]]4099年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]27年
* [[仏滅紀元]] : 2308年 - 2309年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1179年 - 1180年
* [[ユダヤ暦]] : 5526年 - 5527年
* [[ユリウス暦]] : 1765年12月21日 - 1766年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1766}}
== できごと ==
* 7月30日、イギリスで[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]内閣が成立(-[[1768年]]){{要出典|date=2021-03}}
* 月日不明 - [[水素]]の発見([[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]){{要出典|date=2021-03}}。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1766年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月16日]] - [[ジャン=フレデリック・ワルデック]]、古物研究家・[[地図学]]者・[[芸術家]]・[[探検家]](+ [[1875年]])
* [[4月22日]] - [[アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール|スタール夫人]]、[[批評家]]・[[小説家]](+ [[1817年]])
* [[9月6日]] - [[ジョン・ドルトン]]、[[化学者]]・[[物理学者]](+ [[1844年]])
* [[11月16日]] - [[ロドルフ・クレゼール]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]]・[[作曲家]](+ [[1831年]])
* 日付不詳 - [[アダム・ラクスマン]]、[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])の[[軍人]](+ [[1806年]]?)
== 死去 ==
{{see also|Category:1766年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月10日]] - [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]]、[[宣教師]](* [[1688年]])
* [[11月7日]] - [[ジャン=マルク・ナティエ]]、[[画家]] (* [[1685年]])
* [[12月12日]] - [[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート]]、[[文学者]](* [[1700年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1766}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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5,365 | デビットカード | デビットカード(英: debit card)は、預金口座と紐付けられた決済用カードである。金融機関(一般的に銀行)が発行し、このカードで決済すると代金が即時に口座から引き落とされる仕組み。「デビット」は英語で「借方」の意味。
あらかじめ設定した銀行等の預金口座から代金をリアルタイムで引き落としを行う。キャッシュカードを決済カードとして利用するタイプのものと別途決済専用カードを発行する2種類がある。
クレジットカードと異なり、原則として口座残高を超えない範囲で使用できるが、当座貸越やカードローンと組み合わせて残高以上の決済承認を求められた場合に自動借入できるサービスを行っている金融機関もある。
原則として発行に際して審査を行わないカードが多い(一部の立替を利用できるJCBブランドは審査あり)。
そのため、デビットカードのほとんどは、自己破産者や未成年者、無職の者などの本来はクレジットカードの与信が通らない者でも、発行することができる。
口座の預金額以上には使用できないことから、子どもの小遣い用にデビットカードを持たせる事例もあり、発行可能年齢もクレジットカードよりも低く設定されていることが多い。なお、使用可能な店舗を保護者が指定、管理できる小遣い用デビットカードのサービスを提供するフィンテックベンチャーも存在している。
デビットカードによっては、クレジットカードと同様に決済額に応じてポイント付与がされることがある。
楽天ペイなどの各種QRコード決済サービスにおける支払い元にデビットカードを設定することができ、銀行口座から自動的に支払うことでチャージする手間を省くことができる。
また、QRコード決済にデビットカードを紐付けることで、ポイントの二重取りが可能となる。(例:楽天ペイにイオン銀行デビットカードを登録することで、楽天ポイントとWAON POINTが同時に付与される。)
VisaやMastercardなどの国際ブランドは、クレジットカードだけではなくデビット・プリペイドカード発行各社にも広く自社ブランドと決済機構を提供している。そのため、各ブランドの加盟店であれば原則としてクレジットとの区別なく決済ができる。ただし、利用の都度残高照会(クレジットカードでいう信用照会)が必要なため、残高照会を行わない形態での取引(インプリンタによる決済、有料道路の料金所やガソリンスタンドでの支払い、公共料金の月額利用料の支払い)では利用できない。
北米・欧州・オーストラリアなどでは、キャッシュカード(英:ATM card、Bank card)の大半にVisaやMastercardといった国際ブランドの決済機能が標準で搭載されており、デビットカードとして利用できる。
日本でも、ネット系銀行や一部の都市銀行を中心にキャッシュカードにVISA・JCBデビットカード機能を持たせたものを発行している。
そのため、こうした国々ではデビットカードの普及や利用が進んでいる。アメリカ合衆国を例にすると、カード決済(国際ブランドがついたプリペイド、デビット、もしくはクレジットカードによる決済)のうち、決済件数ベースでもっとも普及しているのはデビットカードであり、非現金決済の35%に達する(クレジットは20%、プリペイドは5%)
これらには、サブプライム問題でクレジットカードが使えなくなった経済的な困窮者層がデビットカードを積極的に利用しているという背景がある。
また、こうしたデビットカードで決済を行う際、レジで自分の口座から現金を引き出す(キャッシュアウト)サービスが提供されている国もある。
キャッシュアウトサービスでは、手数料が高額にはなるが、日本発行のデビットカードでも現地ATMで日本国内の口座から両替する形で現地通貨を引き出すことができる。
オーストラリアなど一部の国では、デビットカードでの支払い時に利用者が自ら普通預金・当座預金・クレジットのどれを利用して支払うのかを選択する形態を取っている。
ちなみに、店舗やオンライン通販などでクレジットカード等と表記されているところでも、国際ブランドのデビットカードは利用可能である。
ただし、一部の定期購入等を要する商品やサービスにはデビットカードの番号を入力してとエラーが出て利用することができない。
2005年に「実利」が開始されたもののその後に登場したプリペイド主体の電子マネー「ナレ」(朝鮮民主主義人民共和国貿易銀行発行)が高度に普及しており、実利は主要な決済手段になっていない。ナレにも銀行口座紐付けカードがあるとみられるが実態は不明。かつては国際ブランドの加盟店も見受けられたが(ホテル、百貨店等)、1990年代以降、理由は不明ながら使えなくなっている。
21世紀に入って、国際ブランドのデビット機能つきキャッシュカードの提供が増えている。個人向け、法人および個人事業主向けに区別を設けているものがある。 ブランド別の発行銀行一覧
1999年に富士銀行が代表幹事となり、NTTデータ・ジェイティービー・郵便貯金・大垣共立銀行・東京相和銀行などと共同で日本デビットカード推進協議会が設立され、2000年3月より「J-Debit(ジェイデビット)」が提供されている。同協議会に加盟する金融機関のキャッシュカード(2011年時点で約4億枚)をデビットカードとみなし、Maestroなどと同じく、PINパッドにキャッシュカードの暗証番号を入力することで預金口座から資金が即時引落される仕組みである。引落時の科目欄には「カード」「Jデビット」「JD」・摘要欄には「加盟店のカナ表記」が記帳される。
金融ビッグバンの一つとして普及が期待され、ジェイティービー・家電量販店各社・マツモトキヨシ・eコレクト・国内生保(初回保険料支払い)・クレピコ(タクシー車載の信用照会端末)や、郵便貯金・すべての都市銀行・第二地方銀行・信用金庫・労働金庫・JAバンク、殆どの地方銀行・信託銀行で2000年より順次利用可能となっているが、大手行のうち東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行とあおぞら銀行は当初は参加せず利用不可であった(2016年時点で三菱UFJ銀行はセキュリティタイプICカードおよびディズニーデザイン以外は利用可能、三菱UFJ信託銀行とあおぞら銀行は利用不可。また、北海道全域と徳島県の一部の農業協同組合や小規模な漁業協同組合、職域・民族系信用協同組合、2000年以降設立された新たな形態の銀行(ネット系や流通系)で利用できない機関が多い)。
利用金融機関によってはJ-Debit取引歴を優遇サービスに加点したり、不正使用保険を付帯しているところもある。
CAFISを使用するため、対応する信用照会端末を有するクレジットカード加盟店は、J-Debitの加盟店を契約締結することで同時に取り扱うことが可能となっている。また、引落口座→金融機関間決済→売上金入金までが最短3営業日であり、アクワイアラーを経由するクレジットカードやブランドデビットカードより入金が早く加盟店手数料が抑えられている傾向から、ポイントカードでは現金払いに準じた還元率としているケースが多い。
利用可能時間は各金融機関に委ねられており、利用者側の利用時間はおおむねコンビニATMの引出可能時間と同一となっている。利用にあたっては、コアタイムが設けられており、基本的には最低限使える時間帯の取り決めはなされているため、通常は、全国キャッシュサービスの稼働時間帯は最低限利用可能であるが、引落口座もしくは加盟店一方の金融機関がメンテナンスで勘定系システムを停止すると日中でも利用不可となることがある。
対応するキャッシュカードをそのままデビットカードとしているため、利用者の年齢・属性に制約がない(家族以外の第三者が使用すると不正引出とみなされる)。ただし、2006年ごろより不正引出抑制から1日の引出限度額(50-100万円程度)にJ-Debitの利用可能額が内包されるようになったため、保険料支払いなどクレジットカードでは扱えない高額決済を希望する場合は金融機関の窓口で引出限度額の引き上げで対応する必要がある。また、このときより日本でもブランドデビットカードが上市し始めたことで、取扱総額は2005年の8016億円を頂点に減少傾向にある。
日本デビットカード推進協議会では定期的にキャンペーンを実施しているが、加盟店数は約45万店で頭打ちとなっている。クレジットカードや電子マネーに比べ利用率は低い。
コンビニエンスストアのローソンでは、もともとJ-Debit加盟店として日本デビットカード推進協議会加盟の全金融機関発行のキャッシュカードを扱うつもりだったが、加盟金融機関へ支払う手数料率などの諸問題で実現せず、その手数料率などの問題をクリアした以下の金融機関と個別に提携し、2001年のPOSレジ更新時よりPINパッドを備えつけて取扱を開始している。そのためローソンでは単にデビットカードと案内している。
2015年には、おさいふPontaの名称で、JCBプリペイドカードを発行している。
中国本土(いわゆる大陸地区)ではデビットカードがほぼ全人口に普及している。銀聯はクレジットとデビットの2つを提供、世界各地に加盟店を増やしており、そのネットワークと取扱高から「新たな国際ブランド」との呼び声が高い。ただ、日常場面における支払い手段という点ではQRコード決済が世界でもっとも普及しており、Alipay、微信支付の発展がめざましい。 | [
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"text": "ちなみに、店舗やオンライン通販などでクレジットカード等と表記されているところでも、国際ブランドのデビットカードは利用可能である。",
"title": "デビットカードの種類"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ただし、一部の定期購入等を要する商品やサービスにはデビットカードの番号を入力してとエラーが出て利用することができない。",
"title": "デビットカードの種類"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2005年に「実利」が開始されたもののその後に登場したプリペイド主体の電子マネー「ナレ」(朝鮮民主主義人民共和国貿易銀行発行)が高度に普及しており、実利は主要な決済手段になっていない。ナレにも銀行口座紐付けカードがあるとみられるが実態は不明。かつては国際ブランドの加盟店も見受けられたが(ホテル、百貨店等)、1990年代以降、理由は不明ながら使えなくなっている。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "21世紀に入って、国際ブランドのデビット機能つきキャッシュカードの提供が増えている。個人向け、法人および個人事業主向けに区別を設けているものがある。 ブランド別の発行銀行一覧",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1999年に富士銀行が代表幹事となり、NTTデータ・ジェイティービー・郵便貯金・大垣共立銀行・東京相和銀行などと共同で日本デビットカード推進協議会が設立され、2000年3月より「J-Debit(ジェイデビット)」が提供されている。同協議会に加盟する金融機関のキャッシュカード(2011年時点で約4億枚)をデビットカードとみなし、Maestroなどと同じく、PINパッドにキャッシュカードの暗証番号を入力することで預金口座から資金が即時引落される仕組みである。引落時の科目欄には「カード」「Jデビット」「JD」・摘要欄には「加盟店のカナ表記」が記帳される。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "金融ビッグバンの一つとして普及が期待され、ジェイティービー・家電量販店各社・マツモトキヨシ・eコレクト・国内生保(初回保険料支払い)・クレピコ(タクシー車載の信用照会端末)や、郵便貯金・すべての都市銀行・第二地方銀行・信用金庫・労働金庫・JAバンク、殆どの地方銀行・信託銀行で2000年より順次利用可能となっているが、大手行のうち東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行とあおぞら銀行は当初は参加せず利用不可であった(2016年時点で三菱UFJ銀行はセキュリティタイプICカードおよびディズニーデザイン以外は利用可能、三菱UFJ信託銀行とあおぞら銀行は利用不可。また、北海道全域と徳島県の一部の農業協同組合や小規模な漁業協同組合、職域・民族系信用協同組合、2000年以降設立された新たな形態の銀行(ネット系や流通系)で利用できない機関が多い)。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "利用金融機関によってはJ-Debit取引歴を優遇サービスに加点したり、不正使用保険を付帯しているところもある。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "CAFISを使用するため、対応する信用照会端末を有するクレジットカード加盟店は、J-Debitの加盟店を契約締結することで同時に取り扱うことが可能となっている。また、引落口座→金融機関間決済→売上金入金までが最短3営業日であり、アクワイアラーを経由するクレジットカードやブランドデビットカードより入金が早く加盟店手数料が抑えられている傾向から、ポイントカードでは現金払いに準じた還元率としているケースが多い。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "利用可能時間は各金融機関に委ねられており、利用者側の利用時間はおおむねコンビニATMの引出可能時間と同一となっている。利用にあたっては、コアタイムが設けられており、基本的には最低限使える時間帯の取り決めはなされているため、通常は、全国キャッシュサービスの稼働時間帯は最低限利用可能であるが、引落口座もしくは加盟店一方の金融機関がメンテナンスで勘定系システムを停止すると日中でも利用不可となることがある。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "対応するキャッシュカードをそのままデビットカードとしているため、利用者の年齢・属性に制約がない(家族以外の第三者が使用すると不正引出とみなされる)。ただし、2006年ごろより不正引出抑制から1日の引出限度額(50-100万円程度)にJ-Debitの利用可能額が内包されるようになったため、保険料支払いなどクレジットカードでは扱えない高額決済を希望する場合は金融機関の窓口で引出限度額の引き上げで対応する必要がある。また、このときより日本でもブランドデビットカードが上市し始めたことで、取扱総額は2005年の8016億円を頂点に減少傾向にある。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本デビットカード推進協議会では定期的にキャンペーンを実施しているが、加盟店数は約45万店で頭打ちとなっている。クレジットカードや電子マネーに比べ利用率は低い。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "コンビニエンスストアのローソンでは、もともとJ-Debit加盟店として日本デビットカード推進協議会加盟の全金融機関発行のキャッシュカードを扱うつもりだったが、加盟金融機関へ支払う手数料率などの諸問題で実現せず、その手数料率などの問題をクリアした以下の金融機関と個別に提携し、2001年のPOSレジ更新時よりPINパッドを備えつけて取扱を開始している。そのためローソンでは単にデビットカードと案内している。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2015年には、おさいふPontaの名称で、JCBプリペイドカードを発行している。",
"title": "国別状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "中国本土(いわゆる大陸地区)ではデビットカードがほぼ全人口に普及している。銀聯はクレジットとデビットの2つを提供、世界各地に加盟店を増やしており、そのネットワークと取扱高から「新たな国際ブランド」との呼び声が高い。ただ、日常場面における支払い手段という点ではQRコード決済が世界でもっとも普及しており、Alipay、微信支付の発展がめざましい。",
"title": "国別状況"
}
] | デビットカードは、預金口座と紐付けられた決済用カードである。金融機関(一般的に銀行)が発行し、このカードで決済すると代金が即時に口座から引き落とされる仕組み。「デビット」は英語で「借方」の意味。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2016年12月
| 更新 = 2021年3月
}}
{{銀行業}}
'''デビットカード'''({{lang-en-short|''debit card''}})は、[[預金口座]]と紐付けられた決済用カードである<ref>{{Cite web|和書|title=デビットカードとは : 三井住友銀行 |url=https://www.smbc.co.jp/kojin/debit/about/ |website=www.smbc.co.jp |access-date=2023-02-16}}</ref>。[[金融機関]](一般的に[[銀行]])が発行し、このカードで決済すると代金が即時に口座から引き落とされる仕組み。「デビット」は英語で「[[借方]]」の意味。
== 概要 ==
あらかじめ設定した銀行等の預金口座から代金をリアルタイムで引き落としを行う。[[キャッシュカード]]を決済カードとして利用するタイプのものと別途決済専用カードを発行する2種類がある。
クレジットカードと異なり、原則として口座残高を超えない範囲で使用できるが、[[当座貸越]]や[[カードローン]]と組み合わせて残高以上の決済承認を求められた場合に自動借入できるサービスを行っている金融機関もある。
原則として発行に際して審査を行わないカードが多い(一部の立替を利用できるJCBブランドは審査あり)。
そのため、デビットカードのほとんどは、自己破産者や未成年者、無職の者などの本来はクレジットカードの与信が通らない者でも、発行することができる。
{| class=wikitable style="text-align:left;"
!カードの種類
!決済種別
!備考
|-
|[[クレジットカード]]
|事後決済
|要審査
|-style="background-color:#ffcccc"
|デビットカード
|即時決済
|無審査とするカードが多い
|-
|[[プリペイドカード]]
|事前決済
|無審査・口座不要
|}
口座の預金額以上には使用できないことから、子どもの小遣い用にデビットカードを持たせる事例もあり、発行可能年齢もクレジットカードよりも低く設定されていることが多い。なお、使用可能な店舗を保護者が指定、管理できる小遣い用デビットカードのサービスを提供する[[フィンテック]][[ベンチャー]]も存在している<ref>{{Cite web|和書|url=http://digital-innovation-lab.jp/greenlight/|title=米GreenLightの子ども用デビットカード、使えるお店限定でお小遣いをキャッシュレスに|date=2017-11-22|publisher=Digital Innovation Lab|accessdate=2018-12-13}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24581840T11C17A2EE9000/|title=子供用デビットカード お小遣いもキャッシュレス化|date=2017-12-13|newspaper=[[日本経済新聞]]|accessdate=2018-12-13}}</ref>。
デビットカードによっては、クレジットカードと同様に決済額に応じてポイント付与がされることがある。
楽天ペイなどの各種QRコード決済サービスにおける支払い元にデビットカードを設定することができ、銀行口座から自動的に支払うことでチャージする手間を省くことができる。
また、QRコード決済にデビットカードを紐付けることで、ポイントの二重取りが可能となる。(例:楽天ペイにイオン銀行デビットカードを登録することで、楽天ポイントとWAON POINTが同時に付与される。)
== デビットカードの種類 ==
=== 比較表 ===
{| class=wikitable style="text-align:left;"
|-
!colspan="2"|デビットカードの種類
!決済機構
!地域・加盟店数
!備考
|-
|rowspan="4"|国際ブランドデビット
|[[Visa]]
|Visa
|世界3,800万か所
|「VISA ELECTRON」や「[[PLUS (ATMネットワーク)|PLUS]]」は姉妹ブランド
|-
|[[マスターカード|Mastercard]]
|Mastercard
|世界3,810万か所
|「[[Maestro]]」や「[[Cirrus]]」は姉妹ブランド
|-
|[[アメリカンエキスプレス|AMEX]]
|AMEX
|
|「[[JCB]]」ネットワークにも接続されている。
|-
|[[ジェーシービー|JCB]]
|JCB
|世界2,700万か所
|「Cirrus」ネットワークにも接続されているが、[[2020年]]以降発行の場合は、裏面にCirrusマークが表示されない場合があり、その場合は非対応。
|-
|rowspan="4"|その他の主なデビット
|銀聯 (UnionPay)
|[[中国銀聯]]
|世界5,000万か所(うち[[中華人民共和国]]に300万か所)
|[[ディスカバーカード]]と加盟店相互解放
|-
|EFTPOS
|加盟金融機関
|[[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]]に約82万か所
|
|-
|Interac
|加盟金融機関
|[[カナダ]]に45万か所
|「[[Google Pay]]」と「[[Apple Pay]]」、「[[Samsung Pay]]」でも使用可能
|-
|J-Debit
|加盟金融機関
|[[日本]]に45万か所
|利用可能時間に制限あり
|}
VisaやMastercardなどの国際ブランドは、[[クレジットカード]]だけではなくデビット・プリペイドカード発行各社にも広く自社ブランドと決済機構を提供している。そのため、各ブランドの加盟店であれば原則としてクレジットとの区別なく決済ができる。ただし、利用の都度残高照会(クレジットカードでいう[[信用照会]])が必要なため、残高照会を行わない形態での取引([[インプリンタ]]による決済、[[有料道路]]の料金所や[[ガソリンスタンド]]での支払い、公共料金の月額利用料の支払い)では利用できない。
=== 国際ブランド(Visa・Mastercardなど) ===
北米・欧州・オーストラリアなどでは、[[キャッシュカード]](英:ATM card、Bank card)の大半にVisaやMastercardといった国際ブランドの決済機能が標準で搭載されており、デビットカードとして利用できる。
日本でも、ネット系銀行や一部の都市銀行を中心にキャッシュカードにVISA・JCBデビットカード機能を持たせたものを発行している。
そのため、こうした国々ではデビットカードの普及や利用が進んでいる。[[アメリカ合衆国]]を例にすると、カード決済(国際ブランドがついたプリペイド、デビット、もしくはクレジットカードによる決済)のうち、決済件数ベースでもっとも普及しているのはデビットカードであり、非現金決済の35%に達する(クレジットは20%、プリペイドは5%)
これらには、サブプライム問題でクレジットカードが使えなくなった経済的な困窮者層がデビットカードを積極的に利用しているという背景がある<ref>{{PDFlink|[https://frbservices.org/files/communications/pdf/press/2010_payments_study.pdf]}}</ref>。
また、こうしたデビットカードで決済を行う際、レジで自分の口座から現金を引き出す([[キャッシュアウト]])サービスが提供されている国もある。
キャッシュアウトサービスでは、手数料が高額にはなるが、日本発行のデビットカードでも現地ATMで日本国内の口座から両替する形で現地通貨を引き出すことができる。
オーストラリアなど一部の国では、デビットカードでの支払い時に利用者が自ら普通預金・当座預金・クレジットのどれを利用して支払うのかを選択する形態を取っている。
ちなみに、店舗やオンライン通販などでクレジットカード等と表記されているところでも、国際ブランドのデビットカードは利用可能である。
ただし、一部の定期購入等を要する商品やサービスにはデビットカードの番号を入力してとエラーが出て利用することができない。
== 国別状況 ==
=== オーストラリア ===
* {{仮リンク|EFTPOS|en|EFTPOS}}
=== カナダ ===
* {{仮リンク|Interac|en|Interac}}
=== 韓国===
* 直払カード
=== 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) ===
2005年に「実利」が開始されたもののその後に登場したプリペイド主体の電子マネー「[[ナレ]]」(朝鮮民主主義人民共和国貿易銀行発行)が高度に普及しており<ref>[https://wirelesswire.jp/2016/01/49521/ 日本円で買える電子決済カード、Surface Bookのような脱着式キーボードのパソコン-北朝鮮最新IT事情を視察]</ref>、実利は主要な決済手段になっていない。ナレにも銀行口座紐付けカードがあるとみられるが実態は不明。かつては国際ブランドの加盟店も見受けられたが(ホテル、百貨店等)、1990年代以降、理由は不明ながら使えなくなっている。
* [[実利銀行|実利]](東北アジア銀行、2005年)
=== デンマーク ===
* [[Dankort]]
=== 日本 ===
[[21世紀]]に入って、国際ブランドのデビット機能つきキャッシュカードの提供が増えている。個人向け、法人および個人事業主向けに区別を設けているものがある。<br />
'''ブランド別の発行銀行一覧'''
* [https://www.visa.co.jp/pay-with-visa/find-a-card/debit-cards-application.html Visaデビット]
* [https://www.mastercard.co.jp/ja-jp/personal/find-a-card/debit-cards.html デビット Mastercard]
* [https://www.jcb.jp/products/jcbdebit/?link_id=jp_debit_navi#ticket_wrap JCBデビット]
* [https://www.unionpayintl.com/jp/faceToIndividual/localCardInformation/ UnionPay]
{|class="wikitable sortable" style="font-size:small"
|-
!発行者
!ブランド(決済機構)
!カード名称
<!--! 発行開始<wbr>年月日-->
!年会費(円)
!国外取扱事務<wbr>手数料(%)<ref group="注" name="名前なし-rK5R-1">JCBについては、指定料率 (1.6%) に追加する率</ref>
![[3Dセキュア]]
!審査
!その他
|-
|[[スルガ銀行]] ([[VJA]])
|Visa
|[[SURUGA VISAデビットカード]]
<!--|2006年1月16日-->
|無料
|3.000
|あり
|あり
|JR東海、JR西日本、JR九州のスマートEXの決済手段に対応。三井住友カードにカード業務を委託。
|-
|[[楽天銀行]]
|Visa
|楽天銀行VISAデビットカード<wbr>(旧・楽天銀行デビットカード)
<!--|2007年6月16日-->
|無料/2,160/5,400
|3.080
|あり
|なし
|[[ゴールドカード]]が存在する。<wbr>VISA/JCB 重複契約時は<ref group="注">後年発行開始された、JCBデビットを申し込んだ場合は、JCBに差し替えとされ、有効期限に関わらず、既存のVISAデビットは経過をおいてから使用中止となる。逆に、JCBデビット利用者が、当カードを申し込んだ場合も、同様にJCBデビットが使用できなくなる。</ref>、先に申し込んだカードが無効になる。2018年3月より、[[Visa|Visaのタッチ決済(Visa Contactless)]]搭載
|-
|[[PayPay銀行]]
|Visa
|Visaデビットカード
<!--|2010年2月25日-->
|無料
|3.020
|あり
|なし
|<ref>{{Cite web|和書
| title = JNBスタープログラム
| publisher = ジャパンネット銀行
| url = http://www.japannetbank.co.jp/jnbstar/index.html
| accessdate = 2016-08-02 }}</ref>個人口座でファミマTカード以外の決済時、JNBスターを付与。JR東海、JR西日本のスマートEXの決済手段に対応。
2018年11月13日以降口座開設申込分からVisa Contactless搭載
|-
|[[りそな銀行]]
|Visa
|りそなデビットカード(オリジナル / JMB / プレミアム)
<!--|2011年5月25日-->
|無料<ref group="注" name="resona">JMB付きの場合、2年目以降かつ1年間利用実績がなかった場合は1,000+税。プレミアムの場合、700(税込。年会費ではなく、月会費である。2023年9月まで無料)</ref>
|2.500
|あり
|なし
|2017年10月発行分よりVisa Contactless搭載
|-
|[[あおぞら銀行]]
|Visa
|あおぞらキャッシュカード・プラス
<!--|2013年3月4日-->
|無料
|2.570
|あり
|なし
|キャッシュカードとしてはIC非対応
|-
|[[埼玉りそな銀行]]
|Visa
|りそなデビットカード(オリジナル / JMB / プレミアム)
<!--|2013年9月24日-->
|無料<ref group="注" name="resona"/>
|2.500
|あり
|なし
|2017年10月発行分よりVisa Contactless搭載
|-
|[[三菱UFJ銀行]]
|Visa
|三菱UFJデビット(VISA)
<!--|2013年11月20日-->
|無料
|3.000
|あり
|なし
|JR東海、JR西日本、JR九州のスマートEXの決済手段に対応
|-
|[[関西みらい銀行]]
|Visa
|りそなデビットカード(オリジナル / JMB / プレミアム)
<!--|2013年12月9日-->
|無料<ref group="注" name="resona"/>
|2.500
|あり
|なし
|2017年10月発行分よりVisa Contactless搭載
|-
|[[イオン銀行]]
|Visa
|イオンデビットカード
<!--|2014年1月-->
|無料
|1.600
|あり
|あり
|銀行システム停止時や、預金口座残高が不足している場合に、10万円を限度に利用金額を立て替えるバックアップサービスあり。Visa Contactless搭載
|-
|[[琉球銀行]]
|Visa
|りゅうぎんVisaデビットカード
<!--|2015年10月1日-->
|<ref group="注">初年度無料。2年目以降、年間5万円の利用で翌年無料。{{Cite web|和書
| title = りゅうぎん VISA デビットカードの概要
| publisher = 琉球銀行
| url = http://www.ryugin.co.jp/admin/news/wp-content/uploads/2015/09/20150914_2.pdf
| format = PDF
| accessdate = 2016-03-20 }}</ref>500+税
|不明
|あり
|なし
|
|-
|[[ソニー銀行]]
|Visa
|Sony Bank WALLET
<!--|2016年1月4日-->
|無料
|1.760<ref group="注">外貨口座開設者がVISA加盟店でショッピングをした場合で、円からアシスト(海外のショッピングや海外ATMの引き出しで外貨普通預金口座の残高が足りない場合に、円普通預金口座から自動的に不足分の充当して引き落とすサービス)を利用できる場合は、1.760%ではなくソニー銀行所定の為替コストがかかる(例:1米ドルあたり15銭)。</ref>
|あり
|なし
|<ref>{{Cite web|和書
| title = Sony Bank WALLET(Visaデビットカード)
| publisher = ソニー銀行
| url = http://moneykit.net/visitor/sbw/
| accessdate = 2016-08-02 }}</ref>外貨預金(10 通貨)決済対応。VISA加盟店でショッピングをした場合で、外貨普通預金口座から全額支払う場合は手数料はかからない。「タカシマヤプラチナデビットカード(年会費30,000+税)」を2017年10月9日から会員募集を開始。2019年9月19日からVisa Contactless搭載。JR東海、JR西日本、JR九州のスマートEXの決済手段に対応
|-
|[[住信SBIネット銀行]]
|Visa
|Visaデビット付キャッシュカード
<!--|2016年1月27日-->
|無料
|<ref>{{Cite web|和書
| title = Visaデビット付キャッシュカード - 商品概要説明書
| publisher = 住信SBIネット銀行
| url = https://www.netbk.co.jp/wpl/NBGate/i900500CT/PD/debit_gaiyo
| accessdate = 2016-03-20 }}</ref>決済方法による
|あり
|なし
|<ref>{{Cite web|和書
| title = Visaデビット付キャッシュカード - 海外でのご利用
| publisher = 住信SBIネット銀行
| url = https://www.netbk.co.jp/wpl/NBGate/i900500CT/PD/debit_howtouse_f
| accessdate = 2016-08-02 }}</ref>外貨預金(米ドル)決済対応。<wbr>Visa Contactless搭載
|-
|[[北國銀行]]
|Visa
|北國Visaデビットカード
<!--|2016年4月1日-->
|<ref>{{Cite web|和書
| title = 商品のご案内|北國Visaデビットカード|便利に使う|北國銀行
| publisher = 北國銀行
| url = http://www.hokkokubank.co.jp/customer/use/visadebit/detail/index.html
| accessdate = 2016-05-28 }}</ref>契約による
|3.0(税込)
|
|なし
|Visa Contactless搭載。北國ETCカードの発行が可能。
|-
|[[三井住友銀行]]、[[三井住友カード]]
|Visa
|SMBCデビット<wbr>(国際ブランド(Visa)付きデビットカード)
<!--|2016年10月21日-->
|無料
|3.05
|あり
|なし
|[[国際キャッシュカードサービス]]対応のカードを発行している口座に対しては発行できない。この場合は、これらのサービスを解除するか、別途の普通預金口座に対して発行するかの方法をとる必要がある。2017年7月10日にVisa Contactlessおよび「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」の非接触IC決済サービスが搭載された「SMBC デビット」を発行。2018年3月1日からVISAデビット一体型キャッシュカードの取扱開始。Google Payに対応しており、「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」が利用できる。ただし、iDデビットでの利用となるため注意。JR東海、JR西日本のスマートEXの決済手段に『非対応』なので注意を要する
|-
|[[三井住友銀行]]、[[三井住友カード]]
|Visa
|[[Olive (金融サービス)|Oliveフレキシブルペイ]]
<!--|2016年10月21日-->
|一般 無料/ゴールド 5,500/プラチナP 33,000 <wbr>(ゴールドとプラチナプリファードは初年度無料)
|クレジット 2.20<wbr>デビット 3.05<wbr>ポイント 4.07
|あり
|クレジットモードはあり
|クレジット、デビット、ポイント払いを切り替えて決済が可能。[[国際キャッシュカードサービス]]対応のカードを発行している口座に対しては発行できない。この場合は、これらのサービスを解除するか、別途の普通預金口座に対して発行するかの方法をとる必要がある。クレジットモードの審査が否決された場合でも選んだランクのデビットカードとして発行されて、ゴールドやプラチナPの場合は年会費が必要となる。物理カードにVisa Contactless搭載。Google Pay及びApple Payに対応しており、Visa Contactlessおよび「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」が利用できる。ただし、iDの部分に関しては強制的にデビット決済となるので、注意が必要である。JR東海、JR西日本のスマートEXの決済手段に対応している。プラチナPはVPCC並びに空港ラウンジ等を利用可能。
|-
|[[西日本シティ銀行]]、[[九州カード]]
|Visa
|NCBデビット(Visa)
<!--|2016年12月-->
|<ref group="注">初年度無料、次年度以降1,000円(税別)。前年1年間の利用金額10万円以上で翌年の年会費も無料</ref>利用金額による
|無料
|不明
|不明
|Google Payに対応しており、「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」が利用できる。ただし、iDデビットでの利用となるため注意。
|-
|[[常陽銀行]]([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|JOYO CARD Debit(Visa デビットカード)
<!--|2017年3月10日-->
|<ref group="注" name="初無">初年度および条件を満たせば無料になる</ref>1,080
|3.000
|あり
|あり
|DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[北陸銀行]]、[[北陸カード]]
|Visa
|ほくぎんVisaデビット
<!--|2017年5月15日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,080
|不明
|不明
|なし
| Google Payに対応しており、「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」が利用できる。ただし、iDデビットでの利用となるため注意。
|-
|[[北國銀行]]
|Visa
|北國 Visa 法人デビットカード<ref name="hokkoku_bank 20171124 press">{{Cite press release|和書|
url=http://www.hokkokubank.co.jp/other/news/2017/pdf/20171124.pdf|format=PDF|publisher=北國銀行|
title=北國 Visa 法人デビットカードの取扱開始について|date=2017-11-24|accessdate=2017-11-25}}</ref>
<!--|2017年12月1日-->
|クラシック 無料/ゴールド1枚目5,400円、2枚目以降無料
|不明
|不明
|なし
|年会費無料の「北國 ETC カード」の発行も可能
|-
|[[みずほ銀行]]
|Visa
|みずほビジネスデビット
<!--|2018年1月29日-->
|無料
|不明
|○
|なし
|法人・個人事業主・任意団体が対象。カードは最大10枚まで発行可能。カード発行手数料は1枚目無料(2枚目以降1,000円+税)。Visa Contactless搭載
|-
|[[滋賀銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|『しがぎん』Visaデビットカード
<!--|2018年1月22日-->
| {{R|group="注"|初無}}1,250+税
|不明
|不明
|不明
|申込時の年齢が15歳以上の滋賀銀行普通預金口座を保有している個人または個人事業主であることが条件。DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[福井銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|ふくぎんVisaデビットカード
<!--|2018年4月23日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|なし
|DCカードのシステムを使用している。
|-
|りそな銀行
|Visa
|りそなビジネスデビットカード
<!--|2018年4月27日-->
|<ref group="注" name="resona-biz1">メインカード:1,000+税(初年度無料)、サブカード:500+税、カードごとに年1回以上の利用で翌年度年会費無料</ref>利用状況による
|不明
|あり
|なし
|Visa Contactless搭載。法人および個人事業主向けデビットカード
|-
|埼玉りそな銀行
|Visa
|りそなビジネスデビットカード
<!--|2018年4月27日-->
|{{R|group="注"|resona-biz1}}利用状況による
|不明
|あり
|なし
|Visa Contactless搭載。法人および個人事業主向けデビットカード
|-
|関西みらい銀行
|Visa
|りそなビジネスデビットカード
<!--|2018年4月27日-->
|{{R|group="注"|resona-biz1}}利用状況による
|不明
|あり
|なし
|Visa Contactless搭載。法人および個人事業主向けデビットカード
|-
|[[北海道銀行]]、[[道銀カード]]
|Visa
|道銀Visaデビット
<!--|2017年10月30日-->
|{{R|group="注"|初無}}540+税
|不明
|不明
|なし
| Google Payに対応しており、「[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]」が利用できる。ただし、iDデビットでの利用となるため注意。
|-
|[[GMOあおぞらネット銀行]]
|Visa
|Visaデビット付キャッシュカード
<!--|2018年7月17日-->
|無料
|3.02
|あり
|なし
|Visa Contactless搭載
|-
|[[愛知銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|愛銀Visaデビット
<!--|2018年11月26日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|なし
|Visa Contactless搭載。DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[大光銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|大光Visaデビットカード
<!--|2019年8月26日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|なし
|Visa Contactless搭載。DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[中京銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|中京Visaデビットカード
<!--|2019年8月26日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|なし
|DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[岩手銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|いわぎんデビットカードSakuSaku!
<!--|2019年8月19日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|なし
|DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[SMBC信託銀行]] ([[VJA]])
|Visa
|GLOBAL PASS®<wbr>(多通貨Visaデビット一体型キャッシュカード)
<!--|2019年10月1日-->
|無料
|不明
|不明
|なし
|18通貨対応。Visa Contactlessおよび「iD」の非接触IC決済サービスが搭載。三井住友カードにカード業務を委託。
|-
|三菱UFJ銀行
|Visa
|三菱UFJ-VISAビジネスデビット
<!--|2020年4月2日-->
|無料
|不明
|不明
|なし
|
|-
|[[山梨中央銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|My Debit(山梨中銀Visa デビット)
<!--|2020年6月1日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,100
|不明
|不明
|なし
|DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[千葉銀行]]
|Visa
|TSUBASAちばぎん<wbr>Visaデビットカード
<!--|2020年10月1日-->
|一般 無料/ゴールド 11,000/プラチナ 110,000
|不明
|不明
|なし
|Visa Contactless搭載。
|-
|[[伊予銀行]] ([[三菱UFJニコス]])
|Visa
|伊予銀行Visaデビット
<!--|2021年10月25日-->
|<ref group="注" name="iyo-bank">初年度無料、2年目以降は1,375円(税込)。ただし、翌年以降も22歳以下および年間利用額10万円以上の場合は年会費無料</ref>利用状況による
|不明
|不明
|不明
|12歳以上の伊予銀行口座保有者向け。Visa Contactless搭載。DCカードのシステムを使用している。
|-
|[[みなと銀行]]
|Visa
|りそなデビットカード(Visa)
<!--|2022年2月14日-->
|無料
|不明
|不明
|不明
|Visa Contactless搭載
|-
|みなと銀行
|Visa
|りそなビジネスデビットカード
<!--|2022年2月14日-->
|{{R|group="注"|resona-biz1}}利用状況による
|不明
|不明
|不明
|Visa Contactless搭載
|-
|[[ゆうちょ銀行]] ([[VJA]])
|Visa
|ゆうちょデビット
<!--|2022年5月6日-->
|<ref>[https://www.jp-bank.japanpost.jp/kojin/cashless/yuchodebit/kj_cl_yd_index.html ゆうちょデビット] - ゆうちょ銀行</ref>無料
|3.0
|あり
|なし
|Visa Contactless搭載。三井住友カードにカード業務を委託。
|-
|[[足利銀行]]
|Visa
|あしぎんVisaデビット
<!--|2023年4月3日-->
|<ref group="注">1,100(税込)。条件を満たすと次年度無料</ref>利用状況による
|不明
|不明
|不明
|Visa Contactless搭載
|-
|style="white-space:nowrap"|千葉銀行
|JCB
|ちばぎん<wbr>スーパーカード<デビット>
<!--|2014年10月1日-->
|{{R|group="注"|初無}}432/1,350/10,800
|3.000
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[大垣共立銀行]]、OKBペイメントフラット
|JCB
|OKBデビットカード(JCB)
<!--|2014年10月27日-->
|1,080
|3.000
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[北洋銀行]]
|JCB
|北洋 - JCBデビット
<!--|2015年3月9日-->
|<ref group="注">初年度は無料</ref>540
|3.000
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|楽天銀行
|JCB
|楽天銀行デビットカード(JCB)
<!--|2015年4月20日-->
|無料
|3.080
|あり
|
|2015年4月よりデビットカード未精算で支払いが完了しない場合は株式会社[[日本信用情報機構]] (JICC) に信用情報が登録される
|-
|楽天銀行
|JCB
|楽天銀行ビジネスデビットカード(JCB)<ref name="rakuten-bank 20160328 press">{{Cite press release|和書|
url=https://www.rakuten-bank.co.jp/press/2016/160328.html|format=HTML|publisher=楽天銀行|title=楽天銀行ビジネスデビットカード(JCB)発行開始のお知らせ|date=2016-03-28|accessdate=2017-11-25}}</ref>
<!--|2016年3月28日-->
|1,080
|3.080
|あり
|
|
<!--|2017年11月20日より、楽天銀行の個人ビジネス口座を開設している個人事業主向けにも楽天銀行ビジネスデビットカード(JCB)の発行を開始-->
<ref name="rakuten-bank 20171120 press">{{Cite press release|和書|
url=https://www.rakuten-bank.co.jp/press/2017/171120.html|format=HTML|publisher=楽天銀行|
title=個人事業主さま向けJCBブランド付きデビットカード発行開始|date=2017-11-20|accessdate=2017-11-25}}</ref>
|-
|[[山口銀行]]
|JCB
|ワイエムデビットJCB
<!--|2016年3月30日-->
|1,250+税/10,000+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[もみじ銀行]]
|JCB
|ワイエムデビットJCB
<!--|2016年3月30日-->
|1,250+税/10,000+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[北九州銀行]]
|JCB
|ワイエムデビットJCB
<!--|2016年3月30日-->
|1,250+税/10,000+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[東邦銀行]]
|JCB
|東邦銀行<wbr />Alwaysデビットカード(JCB)
<!--|2016年4月1日-->
|無料
|不明
|あり
|
|2017年10月2日より、「JCB見守りメール」サービスの募集を開始。[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|イオン銀行
|JCB
|イオン銀行CASH+DEBIT
<!--|2016年7月25日-->
|無料
|1.600
|あり
|
|[[WAON]] 標準搭載。イオンカードの一種として扱われており、ポイントや会員特典等が共通になっている。
|-
|[[福岡銀行]]
|JCB
|{{Bulleted list|Debit+nimoca|Debit+SUGOCA|Debit+}}
<!--|2016年10月11日-->
|<ref group="注">一般カード初年度無料、2年目以降は1,250円+税。携帯電話料金の引き落とし口座に設定するなどの条件によっては無料となる。ゴールドカードは10,000円+税</ref>契約や利用状況による
|不明
|不明
|
|[[nimoca]] 搭載の有無を選択可能。<wbr>申し込み時点で、紐付けするキャッシュカードの発行がされた口座必要だが、インターネット支店の口座でも利用可能。2017年8月10日より、Debit+[[SUGOCA]]の募集を開始。[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[セブン銀行]]
|JCB
|セブン銀行<wbr>デビット付きキャッシュカード
<!--|2016年10月17日-->
|無料
|3.000
|あり
|
|JCBにカード業務全般を委託。My JCBが利用可能。nanaco 搭載型と非搭載型の選択が可能。
|-
|[[愛媛銀行]]
|JCB
|ひめぎんJCBデビット
<!--|2016年10月17日-->
|<ref group="注">年会費初年度無料</ref>1,350
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
| [[西日本シティ銀行]] 、[[九州カード]]
|JCB
|NCBデビット(JCB)
<!--|2016年10月-->
|<ref group="注">初年度無料、次年度以降1,000円+税。前年1年間の利用金額10万円以上で翌年の年会費も無料</ref>利用金額による
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|みずほ銀行
|JCB
|みずほJCBデビット
<!--|2016年12月26日-->
|無料
|3.4
|あり
|
|単体型とキャッシュカード一体型がある。一体型の取り扱い開始とともに年会費無料に改定。[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[紀陽銀行]]
|JCB
|紀陽JCBデビットカード
<!--|2017年2月20日-->
|<ref group="注">初年度年会費は無料。次年度も所定の条件を満たせば、年会費が無料</ref>一般1,000+税/家族500+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
| [[北陸銀行]] 、[[北陸カード]]
|JCB
|ほくぎんJCBデビット
<!--|2017年3月22日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,080
|不明
|不明
|なし
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[七十七銀行]]
|JCB
|七十七JCBデビット
<!--|2017年4月3日-->
|一般1,250+税/ゴールド10,000+税<wbr>
|4.6
|あり
|なし
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
* 一般カードは、利用状況などにより年会費の減免を行う。
* 海外ATMでの現地通貨による現金引出手数料は、当行が設定する事務手数料の108円(税込)に、利用するATMの設置元所定の手数料の合算額となる
|-
|[[秋田銀行]]
|JCB
|Only Oneデビット<JCB>
<!--|2017年7月3日-->
|1,080(税込)、家族カード発行者は1枚あたり432円(税込)加算
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
* 初年度の年会費は無料
* 一般カードは、利用状況などにより年会費の減免を行う
|-
|[[沖縄銀行]]
|JCB
|おきぎんJCB デビット
<!--|2017年8月1日-->
|<ref group="注" name="初2">初年度の年会費は無料。2年目以降は条件つきで無料</ref>本会員500(家族会員250)
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[名古屋銀行]] 、名古屋カード
|JCB
|めいぎんJCBデビット
<!--|2017年10月2日-->
|{{R|group="注"|初2}}本会員1,080(家族会員540)
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[熊本銀行]]
|JCB
|Debit+
<!--|2017年10月-->
|<ref group="注" name="一般">一般カードは、初年度の年会費は無料。2年目以降は条件つきで無料</ref>一般本会員1,350(家族会員432)/ゴールド10,800
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[十八親和銀行]]
|JCB
|Debit+
<!--|2017年10月-->
|{{R|group="注"|一般}}一般1,250+税/ゴールド10,000+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|三菱UFJ銀行
|JCB
|三菱UFJデビット(JCB)
<!--|2017年11月-->
|無料
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[京都銀行]]
|JCB
|京銀JCBデビット
<!--|2018年3月20日-->
|<ref group="注">初年度の年会費は無料。条件つきで翌年の年会費が無料</ref>本会員1,250+税/家族会員400+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[十六銀行]]
|JCB
|じゅうろくJCBデビット
<!--|2018年4月9日-->
|{{R|group="注"|初2}}1,080
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[池田泉州銀行]] 、池田泉州JCB
|JCB
|池田泉州デビット(JCB)
<!--|2018年9月3日-->
|{{R|group="注"|初2}}本会員1,000/家族会員400
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]
|JCB
|ドリーミーデビットカード<JCB>
<!--|2018年10月1日-->
|{{R|group="注"|初2}}本会員1,250/家族会員400
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[広島銀行]]
|JCB
|HIROGIN Debit
<!--|2019年4月15日-->
|<ref group="注">一般カードは、初年度の年会費は無料。2年目以降は条件つきで無料</ref>一般1,250/ゴールド10,000
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[八十二銀行]]
|JCB
|82Debit<JCB>
<!--|2019年4月1日-->
|{{R|group="注"|初2}}本会員1,350
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[鹿児島銀行]]
|JCB
|かぎんJCBデビット
<!--|2019年5月7日-->
|{{R|group="注"|初2}}本会員1,250/家族会員400
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[阿波銀行]]
|JCB
|あわぎんJCBデビット
<!--|2019年7月22日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|北陸銀行、北陸カード
|JCB
|ほくぎんJCBビジネスデビット
<!--|2019年9月17日-->
|不明
|不明
|不明
|
|
|-
|[[栃木銀行]]
|JCB
|とちぎんJCBデビット
<!--|2019年9月17日-->
|不明
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[肥後銀行]]
|JCB
|肥後銀行JCBデビットカード
<!--|2020年9月23日-->
|<ref group="注">一般 初年度無料、2年目以降(本人1,375、家族440)無料になる条件あり/ゴールド 11,000 家族 1名無料(2人目より1名につき1,100)</ref>契約や条件による
|不明
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[佐賀銀行]]
|JCB
|さぎんJCBデビット
<!--|2021年1月7日-->
|<ref group="注" name="名前なし-1">一般 初年度無料、2年目以降(1,375)無料になる条件あり</ref>契約や条件による
|3.000
|不明
|
|[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[みんなの銀行]]
|JCB
|Debit Card
<!--|2021年5月28日-->
|無料
|不明
|不明
|
|みんなの銀行スマートフォンアプリから発行できるカードレスのデビットカード。プラスチックカードの発行なし。[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[auじぶん銀行]]
|JCB
|じぶん銀行スマホデビット
<!--|不明-->
|無料
|3.000
|あり
|
|じぶん銀行スマートフォンアプリから発行できるカードレスのデビットカード。プラスチックカードの発行なし。[[Apple Pay]]対応。[[Google Pay]]対応。
|-
|[[山形銀行]]
|JCB
|<やまぎん>デビットJCB
<!--|2022年1月27日-->
|<ref group="注" name="名前なし-1"/>契約や条件による
|不明
|不明
|
|
|-
|住信SBIネット銀行
|Mastercard
|デビットカード(Mastercard)
<!--|2019年4月1日-->
|<ref group="注">一般カード無料。PLATINUM 10,800(税込)</ref>契約による
|不明
|あり
|
|[[MasterCardコンタクトレス]]機能搭載。法人口座の場合でも申し込み可能。JR東海、JR西日本、JR九州のスマートEXの決済手段に対応。Apple Pay対応。Google Pay対応。
|-
|[[トマト銀行]]
|Mastercard
|トマト Mastercardデビット
<!--|2019年7月31日-->
|{{R|group="注"|初無}}1,000+税
|不明
|不明
|
|MasterCardコンタクトレス機能搭載
|-
|楽天銀行
|Mastercard
|楽天銀行デビットカード(Mastercard)
<!--|2020年5月11日-->
|無料
|不明
|不明
|
|MasterCardコンタクトレス機能搭載
|-
|[[GMOあおぞらネット銀行]]
|Mastercard
|Masterプラチナデビット付キャッシュカード
<!--|2022年10月17日-->
|3,300
|3.02
|あり
|なし
|MasterCardコンタクトレス機能搭載
|-
|[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]](在日拠点)
|[[中国銀聯|銀聯(Union Pay)]]
|銀聯デビットカード
<!--|2021年6月29日-->
|1,100円
|1.0(中国大陸)<br />2.0(他の国、地域)
|不明
|
|
|-
|[[中国建設銀行]]東京支店
|銀聯(Union Pay)
|建設銀行UnionPayデビットカード
<!--|2021年6月29日-->
|1,000円
|不明
|不明
|
|
|}
==== サービス提供終了した日本の国際ブランドのデビットカード ====
{|class="wikitable sortable" style="font-size:small"
|-
!発行者
!ブランド(決済機構)
!カード名称
<!--! 発行開始<wbr>年月日-->
!年会費(円)
!国外取扱事務<wbr>手数料(%)<ref group="注" name="名前なし-rK5R-1"/>
![[3Dセキュア]]
!審査
!その他
|-
|[[東京スター銀行]]
|MasterCard
|東京スター MasterCard デビットカード
<!--|年月日-->
|無料
|
|
|なし
|
|-
|[[ゆうちょ銀行]]
|Visa
|ゆうちょ Visa デビットカード(プリペイド機能つき)<br />mijica
<!--|2019年1月28日-->
|無料
|4.0
|あり
|なし
|プリペイドカードmijicaに、2019年1月28日からデビットチャージ機能・Visa Contactless・1回あたりの利用上限額設定・ICチップ・海外ATM出金が追加される。Google Playやニンテンドープリペイドなどのネット上の電子マネーのチャージには使えない場合があることには注意を要する。2022年7月31日、サービス終了<ref>[https://www.jp-bank.japanpost.jp/kojin/card/mijica/kj_crd_mij_index.html Visaデビットカード・プリペイドカード(mijica)] - ゆうちょ銀行</ref>
|}
==== J-Debit ====
1999年に[[富士銀行]]が代表幹事となり、[[NTTデータ]]・[[JTB|ジェイティービー]]・[[郵便貯金]]・[[大垣共立銀行]]・[[東京相和銀行]]などと共同で日本デビットカード推進協議会が設立され、2000年3月より「'''J-Debit'''(ジェイデビット)」が提供されている。同協議会に加盟する金融機関の[[キャッシュカード]](2011年時点で約4億枚)をデビットカードとみなし、Maestroなどと同じく、PINパッドにキャッシュカードの暗証番号を入力することで預金口座から資金が即時引落される仕組みである。引落時の科目欄には「カード」「Jデビット」「JD」・摘要欄には「加盟店のカナ表記」が記帳される。
[[金融ビッグバン]]の一つとして普及が期待され、[[JTB|ジェイティービー]]・[[家電量販店]]各社・[[マツモトキヨシ]]・[[佐川フィナンシャル|eコレクト]]・国内[[生命保険会社|生保]](初回保険料支払い)・クレピコ([[タクシー]]車載の[[信用照会端末]])や、[[郵便貯金]]・すべての[[都市銀行]]・[[第二地方銀行]]・[[信用金庫]]・[[労働金庫]]・[[JAバンク]]、殆どの[[地方銀行]]・[[信託銀行]]で2000年より順次利用可能となっているが、大手行のうち[[東京三菱銀行]]・[[三菱信託銀行]]・[[日本信託銀行]]と[[あおぞら銀行]]は当初は参加せず利用不可であった(2016年時点で[[三菱UFJ銀行]]はセキュリティタイプICカードおよびディズニーデザイン<ref group="注">新規発行ないしは一旦使用不可に切り替えたものないしは、新システム稼働以降の当面の間に使用可能にする手続きをしなかった場合</ref>以外は利用可能<ref>{{Cite web|和書
| title = "J-Debitナビ 三菱UFJ銀行
| publisher = 日本デビットカード推進協議会
| url = http://jdebit.jp/pc/bank/499?a=jp~http://www.debitcard.gr.jp/
| accessdate = 2016-08-21}}</ref>、[[三菱UFJ信託銀行]]とあおぞら銀行は利用不可<ref>{{Cite web|和書
| title = "J-Debitナビ 金融機関検索結果一覧 その他金融機関 1
| publisher = 日本デビットカード推進協議会
| url = http://jdebit.jp/pc/bank/search?gcode_id=4%2C5%2C9%2C11&a=jp~http://www.debitcard.gr.jp/
| accessdate = 2016-08-21}}</ref>。また、[[北海道信用農業協同組合連合会|北海道全域]]と徳島県の一部の[[農業協同組合]]や小規模な[[漁業協同組合]]、職域・民族系[[信用協同組合]]、2000年以降設立された[[新たな形態の銀行]](ネット系や流通系)で利用できない機関が多い)。
利用金融機関によってはJ-Debit取引歴を優遇サービスに加点したり、不正使用保険を付帯しているところもある。
[[CAFIS]]を使用するため、対応する[[信用照会端末]]を有するクレジットカード加盟店は、J-Debitの加盟店を契約締結することで同時に取り扱うことが可能となっている。また、引落口座→金融機関間決済→売上金入金までが最短3営業日であり、アクワイアラーを経由するクレジットカードやブランドデビットカードより入金が早く加盟店手数料が抑えられている傾向から、[[ポイントカード]]では現金払いに準じた還元率としているケースが多い。
利用可能時間は各金融機関に委ねられており、利用者側の利用時間はおおむね[[コンビニATM]]の引出可能時間と同一となっている。利用にあたっては、コアタイムが設けられており、基本的には最低限使える時間帯の取り決めはなされているため、通常は、[[全国キャッシュサービス]]の稼働時間帯は最低限利用可能であるが、引落口座もしくは加盟店一方の金融機関がメンテナンスで[[勘定系システム]]を停止すると日中でも利用不可となることがある。
対応するキャッシュカードをそのままデビットカードとしているため、利用者の年齢・属性に制約がない(家族以外の第三者が使用すると不正引出とみなされる)。ただし、2006年ごろより不正引出抑制から1日の引出限度額(50-100万円程度)にJ-Debitの利用可能額が内包されるようになったため、保険料支払いなどクレジットカードでは扱えない高額決済を希望する場合は金融機関の窓口で引出限度額の引き上げで対応する必要がある。また、このときより日本でもブランドデビットカードが上市し始めたことで、取扱総額は2005年の8016億円を頂点に減少傾向にある。
日本デビットカード推進協議会では定期的にキャンペーンを実施しているが、加盟店数は約45万店で頭打ちとなっている。クレジットカードや電子マネーに比べ利用率は低い<ref>{{Cite web|和書|date=2011-12-15 |url=https://www.boj.or.jp/announcements/release_2011/data/rel111222a7.pdf|format=PDF |title=J-Debitサービスの最近の状況について |publisher=日本電子決済推進機構、日本デビットカード推進協議会 |accessdate=2019-10-08}}</ref>。
==== ローソン ====
[[コンビニエンスストア]]の[[ローソン]]では、もともとJ-Debit加盟店として日本デビットカード推進協議会加盟の全金融機関発行のキャッシュカードを扱うつもりだったが、加盟金融機関へ支払う手数料率などの諸問題で実現せず、その手数料率などの問題をクリアした以下の金融機関と個別に提携し、2001年の[[キャッシュレジスター|POSレジ]]更新時よりPINパッドを備えつけて取扱を開始している。そのためローソンでは単にデビットカードと案内している。
* ゆうちょ銀行、大垣共立銀行([[2017年]][[2月28日]]に取扱終了)、東和銀行、島根銀行、西京銀行(2018年11月末日現在で取扱終了済)、全国の信用金庫<ref>{{Cite web|和書|title=デビットカード |publisher=ローソン |url=http://www.lawson.co.jp/service/finance/debit/ |accessdate=2022-11-30}}</ref>
[[2015年]]には、おさいふ[[Ponta]]の名称で、[[ジェーシービー|JCB]][[プリペイドカード]]を発行している。
=== フィリピン ===
* {{仮リンク|EON|en|EON}} - VISAエレクトロンと提携
=== 中国 ===
中国本土(いわゆる大陸地区)ではデビットカードがほぼ全人口に普及している。銀聯はクレジットとデビットの2つを提供、世界各地に加盟店を増やしており、そのネットワークと取扱高から「新たな国際ブランド」との呼び声が高い。ただ、日常場面における支払い手段という点では[[QRコード決済]]が世界でもっとも普及しており、[[Alipay]]、[[微信支付]]の発展がめざましい。
*[[中国銀聯|銀聯]](Union Pay) - デビットだけで本土人口を遥かに超える57億枚を発行(2016年12月末)。中国内取扱高72兆9,000億[[人民元]](約9兆2,665億ユーロ)(クレジットを含む)<ref>[https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/shoryu/credit_carddata/pdf/007_06_00.pdf 中国におけるキャッシュレス化の現状] - 中国銀聯</ref><ref>[http://japanese.china.org.cn/business/txt/2018-05/23/content_51498362.htm 「銀行カード産業発展報告」発表 銀聯カード66億枚] - 「人民網日本語版」2018年5月23日</ref>。
=== (台湾) ===
* Smart Pay - [[北海道銀行]]との提携により、日本の一部加盟店、ATMでも利用可能。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[キャッシュカード]] - [[キャッシュアウト]] - [[口座振替]]
* [[電子マネー]] - [[電子決済]] - [[QRコード決済]]
* [[販売時点情報管理]] - [[ポイントサービス]] - [[ブロックチェーン]]
== 外部リンク ==
* [https://jeppo.jp/ 日本電子決済推進機構]
* [https://tantaka.co.jp/creditcard/archives/278 デビットカードとは?クレジットカードとの違いは?どっちがおすすめ?] - 株式会社タンタカ
* [https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8830476_po_f0102fo1.pdf?contentNo=1&alternativeNo= デビットカードの利用動向(イギリスと日本)] - 農林中金総合研究所
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:てひつとかあと}}
[[Category:決済手段]]
[[Category:デビットカード|*てひとかと]]
[[Category:電子商取引]]
[[Category:組み込みシステム]] | 2003-03-28T00:40:28Z | 2023-11-15T04:30:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
5,366 | カード | カード(card)とは、紙、プラスチック、金属などでできた、手に持てる大きさと薄さを持った物質に、なんらかの情報を物理的ないし電気的に記録し、それらを交換・確認するために用いる道具として使うものの名称。
本来は簡単な識別子、伝文など、文字を記録するためのものだったが、その形が持ち運びなどに便利なものだったために、さまざまな用途に使われるようになった。
「カルタ」や「カルテ」は、カードを意味する他の言語(ポルトガル語: carta / ドイツ語: Karte)に由来する。
カードは長方形の形状をしたものが多い。角に丸みを持たせたものや、情報の区別(ソートなど)の目的のために手で触るだけで区別できるように端に切り欠きをつけたカードもある。
情報内容を機械で読み込むために、カードの大きさや厚みは国際標準化機構(ISO)や日本産業規格(JIS)等で規格化されている(後述)。機械処理の場合でも、非接触式の情報読み取りの場合には形状の自由度は比較的高い。
日本社会における標準的サイズには、クレジットカード等で広く使われるものと、定期乗車券等で広く使われるものとの2種類がある。
カードには、大きく次の4つの用途があり、特に前者3つは組み合わさっている。
カードの材質には、以下のものがある。センターコア部分とコーティング部分で異なる場合もある。
カードには何らかの情報が記録される。人間による判読か、機械による判読かによってその記録方法は以下さまざまに異なる。
用途によっては、偽造・変造防止のための以下のような各種技術が用いられる。
国際標準化機構 (ISO)/国際電気標準会議 (IEC) が制定した国際規格 (IS) で、カードに関するものには次のものがある。
日本産業標準調査会 (JISC) が制定した日本産業規格 (JIS) のうち、カードに関するものには次のものがある。
カードの詳細は各項目を参照。その他記載にないカードに関する記事は、category:カード を参照。
フィクション作品には、上記の分類で伝達または遊戯用に属するカードを手裏剣の様に投げ、武器やメッセージとして使うキャラクターが多数存在する(無論、携帯や蓄積に属するカードは紛失や破損のリスクからして投げるには不向き)。
日本では1990年代より「カード(型)社会」と呼ばれ、運転免許証のサイズ小型化(1994年 - 現行)、会員カード、ポイントカード、磁気式プリペイドカード、金融関連カードなど日本社会に多数のカードが普及した。1人あたりの所持枚数は、10枚以上ともいわれる。
また、現金決済よりもクレジットカードなどのカード決済が選好される状況も「カード社会」と言い、アメリカ合衆国などは1950 - 1960年代から普及している。
上記に転じ、カードのような形状をした機器等を「カード」「カード型○○」と呼ぶ例がある。 | [
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"text": "フィクション作品には、上記の分類で伝達または遊戯用に属するカードを手裏剣の様に投げ、武器やメッセージとして使うキャラクターが多数存在する(無論、携帯や蓄積に属するカードは紛失や破損のリスクからして投げるには不向き)。",
"title": "カードの一覧"
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"text": "日本では1990年代より「カード(型)社会」と呼ばれ、運転免許証のサイズ小型化(1994年 - 現行)、会員カード、ポイントカード、磁気式プリペイドカード、金融関連カードなど日本社会に多数のカードが普及した。1人あたりの所持枚数は、10枚以上ともいわれる。",
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"text": "また、現金決済よりもクレジットカードなどのカード決済が選好される状況も「カード社会」と言い、アメリカ合衆国などは1950 - 1960年代から普及している。",
"title": "カード社会"
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"text": "上記に転じ、カードのような形状をした機器等を「カード」「カード型○○」と呼ぶ例がある。",
"title": "語の転用"
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] | カード(card)とは、紙、プラスチック、金属などでできた、手に持てる大きさと薄さを持った物質に、なんらかの情報を物理的ないし電気的に記録し、それらを交換・確認するために用いる道具として使うものの名称。 本来は簡単な識別子、伝文など、文字を記録するためのものだったが、その形が持ち運びなどに便利なものだったために、さまざまな用途に使われるようになった。 「カルタ」や「カルテ」は、カードを意味する他の言語に由来する。 | {{otheruses}}
{{出典の明記|date=2020年12月16日 (水) 01:09 (UTC)}}
[[Image:Credit-cards.jpg|thumb|[[クレジットカード]]]]
'''カード'''(card)とは、[[紙]]、[[合成樹脂|プラスチック]]、[[金属]]などでできた、手に持てる大きさと薄さを持った物質に、なんらかの[[情報]]を物理的ないし電気的に記録し、それらを交換・確認するために用いる道具として使うものの名称。
本来は簡単な識別子、伝文など、文字を記録するためのものだったが、その形が持ち運びなどに便利なものだったために、さまざまな用途に使われるようになった。
「[[カルタ]]」や、診療録を意味する「[[カルテ]]」は、カードを意味する他の言語({{lang-pt|carta}} / {{lang-de|Karte}})に由来する。
== カードの形状 ==
カードは[[長方形]]の形状をしたものが多い。角に丸みを持たせたものや、情報の区別([[ソート]]など)の目的のために手で触るだけで区別できるように端に切り欠きをつけたカードもある。
情報内容を機械で読み込むために、カードの大きさや厚みは[[国際標準化機構]](ISO)や[[日本産業規格]](JIS)等で規格化されている(後述)。機械処理の場合でも、非接触式の情報読み取りの場合には形状の自由度は比較的高い。
日本社会における標準的サイズには、[[クレジットカード]]等で広く使われるものと、[[定期乗車券]]等で広く使われるものとの2種類がある。
== カードの用途 ==
カードには、大きく次の4つの用途があり、特に前者3つは組み合わさっている。
* 記録 - 情報の蓄積、分類、検索のために、情報を記載する。
* 携帯 - 発行者が情報を記載して発行したカードを、利用者が持ち歩き、必要に応じて提示する。
* 伝達 - メッセージの伝達のために、利用者がメッセージを記入、あるいはあらかじめ記入されたカードを選択して、相手に提示する。
* 遊戯 - [[ゲーム]]など[[遊び]]に用いるカード。複数枚が1セットになっていることが多い。
== カードの材質 ==
カードの材質には、以下のものがある。センターコア部分と[[コーティング]]部分で異なる場合もある。
* 紙
** 天然紙 - [[上質紙]]、[[塗工紙|コート紙・アート紙]](天然紙に白色[[顔料]]等を塗布)など
** [[合成紙]] - [[ユポ]]、ピーチコート([[ポリプロピレン]]等に表面塗装)、クリスパー、カルレ、タフパーなど
<!-- ** パウチ、ラミネート、フィルム -->
* プラスチック
** [[ポリ塩化ビニル]](PVC) - プラスチック素材で最も多く利用されていている。下記のPET-Gに代替される傾向にある。
** [[ポリエチレンテレフタラート]](PET)、[[ポリエステル]]
** [[非結晶性ポリエステル]](PET-G) - 環境にやさしい。[[エンボス]]などの加工が容易。
== カードの記録方式と内容 ==
カードには何らかの情報が記録される。人間による判読か、機械による判読かによってその記録方法は以下さまざまに異なる。
; 物理的な記録
: [[文字]]、図形、[[写真]]や、バーコードのような機械判読のための[[符号]]などを用いる。
:* 筆記(手書き)
:* 形状記録
:** [[エンボス]]・[[デボス]](凸・凹をつける)
:** 切り欠き
:** 穴
:*** [[パンチカード]]
:* [[印刷]]、[[サーマルプリンター|サーマル印刷]]、[[リライト印刷]]
:** [[活字]]、図像
:** [[バーコード]]
; 電気的な記録([[データ]])
:* 磁性
:** 磁気コード、[[磁気ストライプカード|磁気ストライプ]]
:* [[半導体メモリ]]・光メモリ
:** ICチップ、[[ICカード]]、[[Javaカード]]
:** [[光メモリカード]]
用途によっては、[[偽造]]・[[変造]]防止のための以下のような各種技術が用いられる。
* 識別器を用いて判別する - [[発光インク]]、隠し磁気コード
* 複製を難しくする - [[マイクロ文字]]、複製防止画線
* 偽造を難しくする - 偽造防止ラベル([[ホログラム]]など)
* 変造を難しくする - 保護[[ラミネート]]層
== カードの規格 ==
=== ISO ===
[[国際標準化機構]] (ISO)/[[国際電気標準会議]] (IEC) が制定した[[国際規格]] (IS) で、カードに関するものには次のものがある。
* [[ISO/IEC 7810]]:2003 Identification cards -- Physical characteristics
*: 日本で広く用いられる規格のひとつ(後述)。
* [[ISO/IEC 7811]]
** ISO/IEC 7811-1:2002 Identification cards -- Recording technique -- Part 1: Embossing
** ISO/IEC 7811-2:2001 Identification cards -- Recording technique -- Part 2: Magnetic stripe -- Low coercivity
** ISO/IEC 7811-6:2001 Identification cards -- Recording technique -- Part 6: Magnetic stripe -- High coercivity
** ISO/IEC 7811-7:2004 Identification cards -- Recording technique -- Part 7: Magnetic stripe -- High coercivity, high density
* [[ISO/IEC 7812]]
** ISO/IEC 7812-1:2000 Identification cards -- Identification of issuers -- Part 1: Numbering system
** ISO/IEC 7812-2:2000 Identification cards -- Identification of issuers -- Part 2: Application and registration procedures
* [[ISO/IEC 7816]]
** ISO/IEC 7816-1:2011 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 1: Cards with contacts - Physical characteristics
** ISO/IEC 7816-2:2007 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 2: Cards with contacts - Dimensions and location of the contacts
** ISO/IEC 7816-3:2006 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 3: Cards with contacts — Electrical interface and transmission protocols
** ISO/IEC 7816-4:2013 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 4: Organization, security and commands for interchange
** ISO/IEC 7816-5:1994 Identification cards -- Integrated circuit(s) cards with contacts -- Part 5: Numbering system and registration procedure for application identifiers
** ISO/IEC 7816-6:2004 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 6: Interindustry data elements for interchange
** ISO/IEC 7816-7:1999 Identification cards -- Integrated circuit(s) cards with contacts -- Part 7: Interindustry commands for Structured Card Query Language (SCQL)
** ISO/IEC 7816-8:2004 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 8: Commands for security operations
** ISO/IEC 7816-9:2004 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 9: Commands for card management
** ISO/IEC 7816-15:2004 Identification cards -- Integrated circuit cards -- Part 15: Cryptographic information application
* ISO 13491-2:2000 Banking -- Secure cryptographic devices (retail) -- Part 2: Security compliance checklists for devices used in magnetic stripe card systems
* ISO/IEC 14443
** ISO/IEC 14443-1:2000 Identification cards -- Contactless integrated circuit(s) cards -- Proximity cards -- Part 1: Physical characteristics
** ISO/IEC 14443-2:2001 Identification cards -- Contactless integrated circuit(s) cards -- Proximity cards -- Part 2: Radio frequency power and signal interface
** ISO/IEC 14443-3:2001 Identification cards -- Contactless integrated circuit(s) cards -- Proximity cards -- Part 3: Initialization and anticollision
** ISO/IEC 14443-4:2001 Identification cards -- Contactless integrated circuit(s) cards -- Proximity cards -- Part 4: Transmission protocol
* ISO/IEC 15457
** ISO/IEC 15457-1:2001 Identification cards -- Thin flexible cards -- Part 1: Physical characteristics
** ISO/IEC 15457-2:2001 Identification cards -- Thin flexible cards -- Part 2: Magnetic recording techniques
** ISO/IEC 15457-3:2002 Identification cards -- Thin flexible cards -- Part 3: Test methods
=== JISC ===
[[日本産業標準調査会]] (JISC) が制定した[[日本産業規格]] (JIS) のうち、カードに関するものには次のものがある。
; 識別カード (630X)
:* JIS X 6301:1998 改 識別カード - 物理的特性
:*: 次節で詳述。
:* JIS X 6302:1998 廃 識別カード - 記録技術
:* JIS X 6302-1:2005 制 識別カード - 記録技術 - 第1部:エンボス
:* JIS X 6302-2:2005 制 識別カード - 記録技術 - 第2部:磁気ストライプ-低保磁力
:* JIS X 6302-6:2011 改 識別カード - 記録技術 - 第6部:磁気ストライプ-高保磁力
:* JIS X 6302-9:2012 制 識別カード - 記録技術 - 第9部:触ってカードを区別するための凸記号
; 試験方法 (6305-X)
:* JIS X 6305:1995 廃 識別カード - 試験方法
:* JIS X 6305-1:2003 制 識別カードの試験方法 第1部:一般的特性の試験
:* JIS X 6305-2:2003 制 識別カードの試験方法 第2部:磁気ストライプカード
:* JIS X 6305-3:2002 制 識別カードの試験方法 第3部:外部端子付きICカード及び接続装置
:* JIS X 6305-5:2003 制 識別カードの試験方法 第5部:光メモリーカード
:* JIS X 6305-6:2001 制 識別カードの試験方法 第6部:外部端子なしICカード-近接型-
:* JIS X 6305-7:2001 制 識別カードの試験方法 第7部:外部端子なしICカード-近傍型-
; プリペイドカード (631X)
:* JIS X 6310:1996 制 プリペイドカード - 一般通則
:* JIS X 6311:1996 改 プリペイドカード - 買物用カード - 物理的特性及び形状・寸法
:* JIS X 6312:1991 廃 プリペイドカード - 表示
:* JIS X 6313:1996 改 プリペイドカード - 買物用カード - 磁気的特性及び情報記録様式
:* JIS X 6314:1996 改 プリペイドカード - 買物用カード - 磁気記録フォーマット
; 外部端子付きICカード (6320-X)
:* JIS X 6320-1:2010 制 識別カード - ICカード - 第1部:外部端子付きICカードの物理的特性
:* JIS X 6320-2:2009 制 識別カード - ICカード - 第2部:外部端子付きICカードの端子の寸法及び位置
:* JIS X 6320-3:2009 制 識別カード - ICカード - 第3部:外部端子付きICカードの電気的インタフェース及び伝送プロトコル
:* JIS X 6320-4:2009 制 識別カード - ICカード - 第4部:交換のための構成,セキュリティ及びコマンド
:* JIS X 6320-5:2006 制 ICカード - 第5部:アプリケーション提供者識別子の登録
:* JIS X 6320-6:2006 制 ICカード - 第6部:交換のための産業間共通データ要素
:* JIS X 6320-8:2006 制 ICカード - 第8部:セキュリティ処理コマンド
:* JIS X 6320-9:2006 制 ICカード - 第9部:カード管理共通コマンド
; 外部端子なしカード (632X)
:* '''密着型ICカード''' (6321)
:** JIS X 6321-1:2002 廃 外部端子なしICカード - 密着型 - 第1部:物理的特性
:** JIS X 6321-2:1998 廃 外部端子なしICカード - 密着型 - 第2部:結合領域の寸法及び位置
:** JIS X 6321-3:1998 廃 外部端子なしICカード - 密着型 - 第3部:電気信号及びリセット手順
:* '''近接型ICカード''' (6322)
:** JIS X 6322-1:2001 外部端子なしICカード - 近接型 - 第1部:物理的特性
:** JIS X 6322-2:2001 外部端子なしICカード - 近接型 - 第2部:電力伝送及び信号インタフェース
:** JIS X 6322-3:2001 外部端子なしICカード - 近接型 - 第3部:初期化及び衝突防止
:** JIS X 6322-4:2002 外部端子なしICカード - 近接型 - 第4部:伝送プロトコル
:* '''近傍型ICカード''' (6323)
:** JIS X 6323-1:2001 外部端子なしICカード - 近傍型 - 第1部:物理的特性
:** JIS X 6323-2:2001 外部端子なしICカード - 近傍型 - 第2部:電波インタフェース及び初期化
:** JIS X 6323-3:2001 外部端子なしICカード - 近傍型 - 第3部:衝突防止及び伝送プロトコル
; 光カード (633X)
:* JIS X 6330:2001 光メモリカード - 直線記録方式 - 物理的特性
:* JIS X 6331:1998 光メモリカード - 直線記録方式 - 論理データ構造
:* JIS X 6332:1999 光メモリカード - 直線記録方式 - 情報交換用データ様式
; 用語 (690X)
:* JIS X 6901:2003 カード及びカードシステム用語
; 磁気カード
:* JIS B 9560:1979 廃 磁気ストライプ付きクレジットカード
:* JIS B 9561:1979 廃 磁気ストライプ付きクレジットカードの磁気的情報記録様式
; 特定用途カード
:* 保険医療カード
<!-- CDだから
*** ISO/CD 21549 Health Informattics --- Patient healthcard data
-->
=== 日本の諸規格 ===
* 85.60 × 53.98 × 0.76 mm ([[ISO/IEC_7810#ID-1|ISO/IEC 7810:2003 ID-1]], JIS X 6301:2005 ID-1) -- クレジットカード、[[キャッシュカード]]、IC式乗車カードの一部([[Suica]]・[[ICOCA]])など
* 85.0 × 57.5 × 0.25 mm ([[サイバネ規格]]) -- 定期券、[[パスネット]]、JR乗車券などの[[磁気カード]]
* [[NTTグループ]]の[[テレホンカード]]規格 - 磁気カードとICカードとで少しサイズが異なる。
** 86.0 × 54.0 × 0.28 mm -- [[テレホンカード#磁気テレホンカード|テレカ]]
** 85.6 × 54.0 × 0.45 mm -- [[テレホンカード#ICテレホンカード|ICテレカ]]
== カードの一覧 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2021年10月}}
カードの詳細は各項目を参照。その他記載にないカードに関する記事は、[[:category:カード]] を参照。
=== 支払いを行うもの、支払いを証明するもの ===
* [[キャッシュカード]]、[[バンクカード]]、[[現金自動支払機]]で使うCDカード、[[銀行振込|振込]]カード
** [[デビットカード]]
* [[プリペイドカード]]
** [[乗車カード]]
*** [[ストアードフェアカード]](SFカード)
**** [[日本]]の[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]([[Suica]]、[[PASMO]]、[[ICOCA]]、[[manaca]]、[[TOICA]]など)
**** 旧[[Jスルーカード]]、[[パスネット]]のカード、[[スルッとKANSAI]]カード、関東地区の[[バス共通カード]](すべて終了)など
** 利用カード
*** [[テレホンカード]]、各社の[[パチンコカード]]([[パチンコ]]で使う玉数や残額を記録)、各社の[[テレビカード]]、[[ハイウェイカード]](終了)、[[モバイラーズチェック]](終了)
*** エントリーカード([[e-AMUSEMENT]]等の[[アーケードゲーム]]機にて使用される)
** 買物カード
*** [[クオカード]]、[[全国共通図書券#全国共通図書カード|図書カード]]、[[ギフトカード]]、[[楽天Edy]]、[[オレンジカード]](発売終了)、[[ふみカード]](終了)、
* [[ポストペイ]]ドカード
** [[クレジットカード]]、[[ETC#ETCカード|ETCカード]]
** [[PiTaPa]]
** [[SIMカード]]、[[FOMAカード]]、[[UIMカード]]
* 店舗等の利用を証明するためのカード
** [[ポイントプログラム|ポイントカード]]、[[印章|スタンプ]]カード、[[商店街]]カード
=== 身元を示すもの ===
* [[名刺]]、ネームカード、ビジネスカード
* [[身分証明書]] / IDカード
** [[個人番号カード|マイナンバーカード(個人番号カード)]]、[[住民基本台帳カード]]
** [[パスポート]]、[[EDカード]]
* 所属を示すカード
** [[学生証|学生証カード]]
** [[社員証|社員証カード]]
** [[会員カード]](会員証)
* [[ライセンスカード]](免許証・資格証・許可証)
** [[運転免許証]]
** [[グリーンカード]](米国、抽選式永住権)
* 認定証
** [[スクーバダイビング#Cカード|Cカード]](レジャーダイビング認定カード)
* 施設等を利用するためのカード
** 入館証(入館カード)
** [[図書館]]利用カード(図書館カード、貸出カード)
** 診察カード(診察券)
** 保険医療カード(保険証)、福祉カード、[[げんきカード]]
** 印鑑カード(印鑑証明交付用)
** 市民カード
** [[B-CAS|B-CASカード]]
=== 何らかの情報を他者に示すもの ===
* 相手に渡すもの
** [[はがき]](ポストカード)
** [[グリーティングカード]]
*** [[クリスマス・カード]]、[[誕生日|バースデーカード]]
** [[QSLカード]](交信証明書)、[[ベリカード]](受信証)
* 相手に渡さないもの
** 情報の表示・提示
*** プライスカード([[値札]])、[[POP広告|POPカード]]
*** [[テロップ|テロップカード]]
*** スポーツの審判のカード
**** [[レッドカード]]、[[イエローカード]]、[[グリーンカード (サッカー)|グリーンカード]]
** 個人の意思表示
*** [[緊急医療カード]](医療関係者へのメッセージカード)
*** [[臓器提供意思表示カード]](ドナーカード)
=== 情報自体を蓄積・分類するためのもの ===
* 情報カード
** [[図書目録|図書目録カード]]、文献カード
** 歌詞カード
** 献立カード(レシピ)
** [[医療カード]]、[[カルテ]](医療情報)
** [[単語帳|暗記カード、単語カード]]
** [[京大式カード]]
* メモ用カード
** [[ダンスカード]]
=== 遊戯のためのもの ===
* カード自体で遊ぶもの
*: 特定の商標などについては[[:Category:カードゲーム]]参照。
** [[トランプ]](プレイングカード)
** [[タロット]](タロー)
** [[紙牌]]
** [[花札]]
** [[かるた]](歌留多)、[[百人一首]]
** [[めんこ]]
** [[トレーディングカード]](トレカ)
*** [[トレーディングカードゲーム]] (TCG)
* [[ワイルドカード (トランプ)|ワイルドカード]] - トランプやUNOなどの多数のカードを用いるゲームにおいて、どのカードにも置き換えることが許される、特別な役割のカードの名称。トランプでは[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]や点数表が書かれたカードが代用される。オールマイティとも。
=== その他 ===
フィクション作品には、上記の分類で伝達または遊戯用に属するカードを[[手裏剣]]の様に投げ、武器やメッセージとして使うキャラクターが多数存在する(無論、携帯や蓄積に属するカードは紛失や破損のリスクからして投げるには不向き)。
== カード社会 ==
{{要出典範囲|日本では1990年代より「'''カード(型)社会'''」と呼ばれ|date=2020年12月}}、[[運転免許証]]のサイズ小型化(1994年 - 現行)、会員カード、ポイントカード、磁気式プリペイドカード、金融関連カードなど日本社会に多数のカードが普及した。1人あたりの所持枚数は、10枚以上ともいわれる{{誰2|date=2020年12月}}。
また、{{独自研究範囲|現金決済よりも[[クレジットカード]]などのカード決済が選好される状況も「カード社会」と言い|date=2020年12月}}、アメリカ合衆国などは1950 - 1960年代から普及している。
== 語の転用 ==
上記に転じ、カードのような形状をした機器等を「カード」「カード型○○」と呼ぶ例がある。
* キーカード、[[カードキー]] - この場合はカード型の[[鍵]]のようなものの意味。
* [[拡張カード]]
** [[PCカード]]
** [[グラフィックカード]]、[[ネットワークカード]]
* [[メモリーカード]]
** [[SRAMカード]]、[[SDメモリーカード]]、[[xDピクチャーカード]]
* [[SIMカード]]、[[PHS|PHSカード]]
* カード型[[電卓]]、[[カード型データモデル]]
* カード型[[コンパクトディスク]]([[CD]])、[[CD-DA]]
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|カード|card}}
* [[札]](ふだ) - [[シート]] - [[タグ]]
* [[券]] - [[チケット]]
* [[名刺]]
* {{intitle}}
{{DEFAULTSORT:かあと}}
[[category:カード|*かあと]]
[[Category:情報技術史]] | 2003-03-28T00:44:51Z | 2023-11-26T08:51:00Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
5,367 | 神の愛の宣教者会 | 神の愛の宣教者会(かみのあいのせんきょうしゃかい、ミッショナリーズ・オブ・チャリティ(英語: Missionaries of Charity))は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受けたカトリックの修道会である。厳しい清貧を守り「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。世界各国に拠点を置き、2007年9月現在、145の国と地域で活動し、4800人以上の修道女(シスター)が所属している。
2018年7月5日、神の愛の宣教者会の修道女と女性職員が人身売買の容疑で逮捕されている。二人は未婚の女性が生んだ男児一名を隣のウッタル・プラデーシュ州の家族に1700ドル(約19万円)で売ったとされ、余罪も認めていると報じられている。
日本国内では、1978年4月、東京都・山谷に修道士達の支部が開設される。東京都・日本管区本部と山谷修道院(1981年-)、愛知県・名古屋修道院(1986年-)、大分県・別府修道院(1993年-)の支部修道院が置かれている。
〒123-0845 東京都足立区西新井本町3-5-24 | [
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] | 神の愛の宣教者会(かみのあいのせんきょうしゃかい、ミッショナリーズ・オブ・チャリティ)は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受けたカトリックの修道会である。厳しい清貧を守り「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。世界各国に拠点を置き、2007年9月現在、145の国と地域で活動し、4800人以上の修道女(シスター)が所属している。 | {{Infobox organization
| name = 神の愛の宣教者会
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'''神の愛の宣教者会'''(かみのあいのせんきょうしゃかい、ミッショナリーズ・オブ・チャリティ({{lang-en|Missionaries of Charity}}))は、[[1950年]][[10月7日]]に教皇庁([[ローマ教皇庁]])によって認可を受け創立され、[[1965年]]2月1日には教皇庁立の[[修道会]]の認可を受けた[[カトリック教会|カトリック]]の修道会である<ref name=cbcj>[https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/mother/ マザー・テレサ カトリック中央協議会]</ref>。厳しい清貧を守り「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。世界各国に拠点を置き、2007年9月現在、145の国と地域で活動し、4800人以上の[[修道女]](シスター)が所属している。
== 設立の経緯と活動 ==
[[File:Missionaries of Charity Mother House.jpg|thumb|マザー・ハウス([[死を待つ人々の家]])]]
[[File:Sisters of Charity.jpg|thumb|神の愛の宣教者会の修道女達]]
:[[1946年]][[9月10日]]、ロレト修道会の[[コルカタ]]の聖マリア学院で裕福な子女たちを教えていたシスター・テレサ(後の[[マザー・テレサ]])はコルカタから[[ダージリン]]に向かう列車の中で、「もっとも貧しい人のために働くように」という神の招きを受ける体験をした。
:[[1948年]]に[[ローマ教皇]]から修道院を離れて暮らす許可を得ると、[[インド]]国内で医療訓練を終え、マザー・テレサは一人でコルカタの街に入った。そこで彼女は死に行く人々、誰からも見捨てられた人々の世話を始めたのである。そんな彼女のもとへやってきて、その活動を助けたのはかつての教え子たちであった。[[1950年]]10月7日に「神の愛の宣教者会」は教皇庁によって認可を受け創立された。最初はマザー・テレサを含む12人の修道女達で始まった。[[1952年]]には「[[死を待つ人々の家]]」が開設された。[[1963年]]3月25日、「神の愛の宣教者兄弟会」[[修道士]](ブラザー)の会が創立される。
:[[1965年]]2月1日には「神の愛の宣教者会」が教皇庁立の認可を受ける。同年、[[ベネズエラ]]を皮切りにインド国外での活動を開始。[[日本]]や[[アメリカ合衆国]]を含め、全世界の国に活動が広がっている。[[1969年]]3月26日、「マザー・テレサ共労者会」が設立され、教皇パウロ六世の認可を受ける。
:[[1976年]]に「神の愛の宣教者会」女子観想会が、[[1984年]]には「神の愛の宣教者会」司祭の会が創立された。
:[[1990年]]、創立者のマザー・テレサは体力の衰えから総長職の辞任を申し出たが、修道女達の強い希望によって再任された。2代目総長としてシスター・ニルマラ・ジョシーが選ばれたのは[[1997年]][[3月13日]]のことである。マザー・テレサは半年後の1997年9月5日に87歳で死去<ref name=cbcj/>。なお、カトリックの女子修道会の総長は「マザー」と呼ばれるのが通例であるが、ニルマラは「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人である」という理由により、総長職を継いだ後もマザーを名乗ることはなく、2015年6月23日に亡くなるまでずっとシスターを名乗り続けていた。これは3代目総長のシスター・メアリー・プレマも同様である。
:[[2007年]][[9月5日]]にはマザーの没後10年を記念し[[東京カテドラル聖マリア大聖堂]]でミサが行われ、500人を超える参拝者が訪れ祈りを捧げたほか、バチカン大使館より教皇大使と参事官も共同司式で参加した<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokyo.catholic.jp/info/news/15537/|title=東京教区ニュース第246号「マザー・テレサを追悼」|publisher=[[カトリック東京大司教区]]|accessdate=2017-02-04}}</ref>。
:[[2010年]][[8月26日]]にはマザー・テレサ生誕100周年を記念したミサ説教が東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokyo.catholic.jp/archbishop/message/14619/ |title=マザー・テレサ生誕100周年ミサ説教(カテドラル)|publisher=[[カトリック東京大司教区]]|accessdate=2016-09-04}}</ref>。
:[[2016年]][[9月4日]]、教皇フランシスコはマザー・テレサを列聖し、聖人であると宣言した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20160904-GZZLE634SRNY5E3PSJ3SFM7GDM/|title=マザー・テレサ「聖人」に認定 バチカンで列聖式…「コルカタの聖女」偉業讃える|date=2016-09-04|author=宮下日出男|publisher=産経ニュース}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cbcj.catholic.jp/2016/08/31/7119/|title=9月4日、マザー・テレサ列聖式の生中継|publisher=カトリック中央協議会|accessdate=2016-09-04}}</ref>。
== 不祥事 ==
2018年7月5日、神の愛の宣教者会の修道女と女性職員が人身売買の容疑で逮捕されている。二人は未婚の女性が生んだ男児一名を隣の[[ウッタル・プラデーシュ州]]の家族に1700ドル(約19万円)で売ったとされ、余罪も認めていると報じられている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3181432|title=マザー・テレサの修道会で赤ちゃんの売買か、修道女と職員を逮捕 インド|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-07-06|accessdate=2020-08-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3181564?cx_part=outbrain|title=マザー・テレサの修道会、赤ちゃん売買で修道女ら逮捕に「遺憾」 インド|work=AFPBB News|agency=フランス通信社|date=2018-07-07|accessdate=2018-08-18}}</ref>。
== 日本での活動 ==
日本国内では、[[1978年]]4月、東京都・[[山谷 (東京都)|山谷]]に修道士達の支部が開設される。東京都・日本管区本部と山谷修道院(1981年-)、愛知県・[[名古屋市|名古屋]]修道院(1986年-)、大分県・[[別府市|別府]]修道院(1993年-)の支部修道院が置かれている。
== 日本管区本部 所在地 ==
〒123-0845 東京都足立区西新井本町3-5-24<ref>カトリック中央協議会出版部編「住所録 女子修道会等 本部一覧」『カトリック教会ハンドブック2015』カトリック中央協議会、2014年11月10日。p. 108-114. ISBN 978-4-87750-556-1。</ref>
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.motherteresa.org/ 神の愛の宣教者会 公式]{{en icon}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:かみのあいのせんきようしやかい}}
[[Category:カトリック教会の修道会]]
[[Category:マザー・テレサ]]
[[Category:1950年設立の組織]]
[[Category:20世紀のインド]] | 2003-03-28T01:37:31Z | 2023-11-29T10:44:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%AE%A3%E6%95%99%E8%80%85%E4%BC%9A |
5,369 | 死を待つ人々の家 | 死を待つ人々の家(しをまつひとびとのいえ)は、1952年にマザー・テレサにより、インドのカルカッタに設立された、貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設。ヒンドゥー教のカーリー神を祭る寺院であったが、長く放置され荒れ果てていたものをリニューアルして病院にしたもの。この施設は、マザー・テレサの49回目の誕生日を記念して開所したものである。
ここで死を迎える人々は、生命のあるうちに本人の信仰している宗教を尋ねられ、亡くなった後はその人の宗教のやり方で葬儀が行われる。なお、ここに収容された人々の全てがそのまま死を迎えるわけではなく、約半数の人々は無事に回復して施設から出ているという。 | [
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] | 死を待つ人々の家(しをまつひとびとのいえ)は、1952年にマザー・テレサにより、インドのカルカッタに設立された、貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設。ヒンドゥー教のカーリー神を祭る寺院であったが、長く放置され荒れ果てていたものをリニューアルして病院にしたもの。この施設は、マザー・テレサの49回目の誕生日を記念して開所したものである。 ここで死を迎える人々は、生命のあるうちに本人の信仰している宗教を尋ねられ、亡くなった後はその人の宗教のやり方で葬儀が行われる。なお、ここに収容された人々の全てがそのまま死を迎えるわけではなく、約半数の人々は無事に回復して施設から出ているという。 | [[画像:Nirmal Hriday.JPG|right|thumb|200px|死を待つ人々の家]]
'''死を待つ人々の家'''(しをまつひとびとのいえ)は、[[1952年]]に[[マザー・テレサ]]により、[[インド]]の[[コルカタ|カルカッタ]]に設立された、[[貧困]]や[[病気]]で死にそうになっている人の最期を看取るための施設。[[ヒンドゥー教]]の[[カーリー]]神を祭る寺院であったが、長く放置され荒れ果てていたものをリニューアルして病院にしたもの。この施設は、マザー・テレサの49回目の誕生日を記念して開所したものである。
ここで死を迎える人々は、生命のあるうちに本人の信仰している宗教を尋ねられ、亡くなった後はその人の宗教のやり方で葬儀が行われる。なお、ここに収容された人々の全てがそのまま死を迎えるわけではなく、約半数の人々は無事に回復して施設から出ているという。
== 関連項目 ==
* [[ターミナルケア]]
* [[ホスピス]]
* [[神の愛の宣教者会]]
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{{DEFAULTSORT:しをまつひとひとのいえ}}
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[[Category:コルカタ]]
[[Category:ホスピス]]
[[Category:マザー・テレサ]] | null | 2022-01-05T07:43:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%82%92%E5%BE%85%E3%81%A4%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%AE%E5%AE%B6 |
5,370 | 1607年 | 1607年(1607 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 | [
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] | 1607年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1607}}
{{year-definition|1607}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[慶長]]12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2267年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]35年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]40年
** [[檀君紀元|檀紀]]3940年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]8年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]15年
* [[仏滅紀元]] : 2149年 - 2150年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1015年9月2日 - 1016年
* [[ユダヤ暦]] : 5367年4月2日 - 5368年
* [[ユリウス暦]] : 1606年12月22日 - 1607年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1607}}
== できごと ==
* [[イギリス]]が[[北アメリカ大陸]]に[[バージニア植民地]]を設立{{要出典|date=2021-04}}。(首府は[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]])
*『幾何原本』が完成。[[エウクレイデス]]『[[ユークリッド原論|原論]]』の前半を[[マテオ・リッチ]]が口訳し、[[徐光啓]]が筆記。
=== 日本 ===
* [[江戸時代]]になって最初の[[朝鮮通信使]]が日本に来る。
** [[6月18日]](慶長12年[[4月24日 (旧暦)|閏4月24日]]) - [[江戸]]に入る。
** [[6月29日]](慶長12年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[江戸城]]に登り、[[徳川家康]]に拝謁する。
* 徳川家康が[[銃]]の製造および使用を禁止した。
* [[徳川秀忠]]が世界最初の禁煙令を発布した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1607年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月24日]] - [[ミヒール・デ・ロイテル|ミヒール・ロイテル]]、[[オランダ海軍]][[提督]] (+ [[1676年]])
* [[11月23日]](慶長12年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[徳川和子|徳川和子(東福門院)]]、[[後水尾天皇]]の[[中宮]](+ [[1678年]])
* [[11月25日]](慶長12年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[狩野尚信]]、[[狩野派]]の[[絵師]]。[[狩野探幽]]の弟(+ [[1650年]])
* [[ピエール・ド・フェルマー]]、[[フランス]]の[[数学]]者(+ [[1665年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1607年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月2日]](慶長12年[[4月8日 (旧暦)|閏4月8日]]) - [[結城秀康]]<ref>{{Kotobank|結城秀康}}</ref>、[[武将]]、[[大名]]。[[越前国]][[福井藩|北ノ庄藩]]([[福井藩]])初代藩主(* [[1574年]])
* [[6月30日]] - [[カエサル・バロニウス]]、[[イタリア]]の[[枢機卿]]、[[歴史家]] (* [[1538年]])
== フィクションの出来事 ==
* [[後宮小説]] - 腹英34年、素乾国の第17代皇帝が急死<ref>「腹英」は架空の元号。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1607}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
{{デフォルトソート:1607ねん}}
[[Category:1607年|*]] | null | 2023-05-14T17:10:23Z | false | false | false | [
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"Template:要出典"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1607%E5%B9%B4 |
5,372 | 平和の村 | 平和の村(へいわのむら、Hospice Shanti Nagar または City of Peace)は、1968年にマザー・テレサがインドの西ベンガル州に、ハンセン病患者のためのコミューンとして設立した施設。1964年、インド滞在を終えた教皇パウロ6世は滞在中に儀礼用車両として使用していたリンカーン・コンチネンタルをマザー・テレサに寄贈した。そこで、これを賞品とする宝くじを販売することで建設費用を賄った 。 | [
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] | 平和の村は、1968年にマザー・テレサがインドの西ベンガル州に、ハンセン病患者のためのコミューンとして設立した施設。1964年、インド滞在を終えた教皇パウロ6世は滞在中に儀礼用車両として使用していたリンカーン・コンチネンタルをマザー・テレサに寄贈した。そこで、これを賞品とする宝くじを販売することで建設費用を賄った。 | '''平和の村'''(へいわのむら、Hospice Shanti Nagar または City of Peace)は、[[1968年]]に[[マザー・テレサ]]が[[インド]]の[[西ベンガル州]]に、[[ハンセン病]]患者のための[[コミューン]]として設立した施設。1964年、インド滞在を終えた[[教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は滞在中に儀礼用車両として使用していた[[リンカーン・コンチネンタル]]をマザー・テレサに寄贈した。そこで、これを賞品とする宝くじを販売することで建設費用を賄った<ref>{{Cite web |url=https://hawaiicatholicherald.com/2016/08/24/witness-to-sanctity/ |title=Witness to sanctity |access-date=2022-10-25 |publisher=Hawaii Catholic Herald |date=2016-08-24 |language=en}}</ref> <ref>{{Cite book|title=マザー・テレサ 愛の花束: 身近な小さなことに誠実に、親切に|publisher=PHP研究所|year=2014|author=中井俊已|url=https://books.google.co.jp/books?id=b79UBAAAQBAJ&pg=PA17-IA1|quote=村のメインストリートは、資金源となった「人民の車」の贈り主にちなんで「パウロ六世通り」と名づけられました|chapter=「平和の村」のスタート}}</ref>。
== 関連事項 ==
*[[死を待つ人々の家]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{India-stub}}
{{Welfare-stub}}
{{DEFAULTSORT:へいわのむら}}
[[Category:1957年設立]]
[[Category:差別]]
[[Category:ハンセン病]]
[[Category:西ベンガル]]
[[Category:マザー・テレサ]] | null | 2022-10-25T09:34:47Z | false | false | false | [
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"Template:Welfare-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%9D%91 |
5,374 | 福者 | 福者(ふくしゃ、ラテン語: beātus (男性形), beāta (女性形), 英語: Blessed)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた者に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。
選考には二段階の審査を経る。まず第一段階では、管区大司教により生前の功績や残された著書が調査される。殉教者以外は、功績の中に奇跡の取次ぎがあった方が望ましい。第二段階では、列聖省で調査が行われ、最終的にローマ教皇によって列福宣言がされる。通例、これらの手続きには早くても本人の死後数十年を要する。ただし、生前から聖女とたたえられたマザー・テレサ、長期にわたる在位で全世界を司牧し、信徒のあいだで圧倒的な人気のあったヨハネ・パウロ2世など、死後数年にして列福された例もあり、この点は生前の人望や人気に左右される性質のものである。ヨハネ・パウロ2世の列福の手続きが異例の早さで進められたのは、後継教皇のベネディクト16世の意向が強く働いていた。
福者に対する信心は、殊に関係の深い地域の教会での典礼において許可されている。ただし全世界の教会の典礼で公的に記念する義務はない。
すべての福者はその記念日を持っており、通常は当人が死去した日をそれに当てる。
正教会での至福者・至福女(the Blessed) は聖人の称号のひとつであり、ローマ・カトリックで言う福者とは意味が異なる。たとえば正教ではアウグスティヌスを「福アウグスティン」と呼ぶが、この「福」はカトリック教会におけるような福者の意ではなく、聖人の称号の一つである。正教には「列福」「列聖」といった段階も存在しない。 | [
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] | 福者は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた者に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。 | '''福者'''(ふくしゃ、{{lang-la|beātus {{fontsize|small|(男性形)}}, beāta {{fontsize|small|(女性形)}}}}, {{lang-en|Blessed}})は、[[カトリック教会]]において、死後その徳と聖性を認められた者に与えられる[[称号]]{{refnest|name="ブリタニカ_福者"|[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E8%80%85-124012#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「福者」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014 Britannica Japan}}。この称号を受けることを[[列福]]という{{refnest|name="ブリタニカ_福者"}}。その後、さらに[[列聖]]調査がおこなわれて[[聖人]]に列せられることもある{{refnest|name="ブリタニカ_福者"}}。
== 福者とされるまで ==
選考には二段階の審査を経る。まず第一段階では、[[首都大司教|管区大司教]]により生前の功績や残された著書が調査される。[[殉教者]]以外は、功績の中に[[奇跡]]の取次ぎがあった方が望ましい。第二段階では、列聖省で調査が行われ、最終的に[[ローマ教皇]]によって[[列福]]宣言がされる。通例、これらの手続きには早くても本人の死後数十年を要する。ただし、生前から聖女とたたえられた[[マザー・テレサ]]、長期にわたる在位で全世界を司牧し、信徒のあいだで圧倒的な人気のあった[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]など、死後数年にして列福された例もあり、この点は生前の人望や人気に左右される性質のものである。ヨハネ・パウロ2世の列福の手続きが異例の早さで進められたのは、後継教皇の[[ベネディクト16世]]の意向が強く働いていた<ref>http://www.cnn.co.jp/world/30001519.html</ref>。
福者に対する信心は、殊に関係の深い地域の教会での[[典礼]]において許可されている。ただし全世界の教会の典礼で公的に記念する義務はない。
すべての福者はその記念日を持っており、通常は当人が死去した日をそれに当てる。
== カトリック教会以外での用法 ==
[[正教会]]での[[至福者]]・[[至福女]](the Blessed) は[[:Category:正教会の聖人の称号|聖人の称号]]のひとつであり、ローマ・カトリックで言う福者とは意味が異なる。たとえば正教では[[アウグスティヌス]]を「福アウグスティン」と呼ぶが、この「福」はカトリック教会におけるような福者の意ではなく、聖人の称号の一つである。正教には「列福」「列聖」といった段階も存在しない。
== 著名な福者 ==
{{see|{{仮リンク|福者一覧|en|List of beatified people}}}}
*[[ドゥンス・スコトゥス]]:哲学者・神学者
*[[フラ・アンジェリコ|アンジェリコ]]
*[[ヤコブス・デ・ウォラギネ]]
*[[ペトロ岐部と187殉教者]]:日本人殉教者
*[[中浦ジュリアン]]:司祭、日本人殉教者
*[[ディオゴ結城]]:司祭、日本人殉教者
*[[ペトロ岐部と187殉教者|ニコラオ永原ケイアン]]:日本人殉教者
*[[カール1世 (オーストリア皇帝)]]
*[[ニコラウス・ステノ]]
*[[アンナ・カタリナ・エンメリック]]
*[[高山右近]]:日本人殉教者
*[[アルバロ・デル・ポルティーリョ]]:司教
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[聖者の一覧]]
== 外部リンク ==
*[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/sonsha.htm カトリック中央協議会 尊者・福者・聖人]
*[http://www.newadvent.org/cathen/02597b.htm CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: The Blessed] {{en icon}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E8%80%85 |
5,375 | 可算集合 | 可算集合(かさんしゅうごう、英語: countable set または denumerable set)または可付番集合とは、おおまかには、自然数全体と同じ程度多くの元を持つ集合のことである。各々の元に 1, 2, 3, ... と番号を付けることのできる、すなわち元を全て数え上げることのできる無限集合と表現してもよい。
有限集合も、数え上げることができる集合という意味で、可算集合の一種とみなすことがある。そのため、はっきりと区別を付ける必要がある場合には、冒頭の意味での集合を可算無限集合 (countably infinite set) と呼び、可算無限集合と有限集合を合わせて高々可算 (at most countable) の集合と呼ぶ。可算でない無限集合を非可算集合 (uncountable set) という。非可算集合は可算集合よりも「多く」の元を持ち、全ての元に番号を付けることができない。そのような集合の存在は、カントールによって初めて示された。
可算集合とは N と濃度が等しい集合のことである。すなわち、集合 S が可算であるとは、自然数全体の集合 N との間に全単射が存在することをいう。
また、高々可算な集合とは、N の濃度以下の濃度を持つ集合のことである。すなわち、集合 S が高々可算であるとは、S から N へ単射が存在することをいう。これは、N から S へ全射が存在することと同値である。
慣例では、可算集合の濃度を א 0 {\displaystyle \aleph _{0}} (アレフゼロ、aleph-null)で表す。例えば、N の濃度が可算であることを | N | = א 0 {\displaystyle |\mathbb {N} |=\aleph _{0}} などと表す。
無限集合においては、その真部分集合と濃度が等しいことがあり得る。例えば、偶数の自然数全体の集合 2N は N との間に次の全単射が存在する。
よって、2N は可算集合である。また、整数全体の集合 Z や有理数全体の集合 Q も可算である。しかし、実数全体の集合 R は非可算である。この事実はカントールの対角線論法によって示される。R の濃度は連続体濃度と呼ばれ、 א {\displaystyle \aleph } または c {\displaystyle {\mathfrak {c}}} で表される。
選択公理を認めるならば、可算濃度は無限集合の濃度のうち最小のものであることが示される。可算濃度と連続体濃度の間に他の濃度が存在するか否かは、ZFC とは独立であり、通常は存在しないと仮定する。この仮定を連続体仮説という。
可算個の可算集合の和集合や、有限個の可算集合の直積集合はまた可算である。これより、代数的数全体の集合 Q は可算であることが従う。しかし、可算個の可算集合の直積集合や、可算集合の冪集合は非可算であり、その濃度は連続体濃度である。
可算個の可算集合の直積集合の濃度は、濃度不等式
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] | 可算集合または可付番集合とは、おおまかには、自然数全体と同じ程度多くの元を持つ集合のことである。各々の元に 1, 2, 3, … と番号を付けることのできる、すなわち元を全て数え上げることのできる無限集合と表現してもよい。 有限集合も、数え上げることができる集合という意味で、可算集合の一種とみなすことがある。そのため、はっきりと区別を付ける必要がある場合には、冒頭の意味での集合を可算無限集合 と呼び、可算無限集合と有限集合を合わせて高々可算 の集合と呼ぶ。可算でない無限集合を非可算集合 という。非可算集合は可算集合よりも「多く」の元を持ち、全ての元に番号を付けることができない。そのような集合の存在は、カントールによって初めて示された。 | {{出典の明記|date=2015年10月}}
'''可算集合'''(かさんしゅうごう、{{lang-en|countable set または denumerable set}})または'''可付番集合'''とは、おおまかには、[[自然数]]全体と同じ程度多くの[[元_(数学)|元]]を持つ[[集合]]のことである。各々の元に 1, 2, 3, … と番号を付けることのできる、すなわち元を全て数え上げることのできる[[無限]]集合と表現してもよい<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~cs/lecture/2008/prelim.pdf |title=「コンピュータサイエンス入門」講義資料 |access-date=2022-07-27 |publisher=京都大学数理解析研究所}}</ref>。
[[有限集合]]も、数え上げることができる集合という意味で、可算集合の一種とみなすことがある<ref name=":0" />。そのため、はっきりと区別を付ける必要がある場合には、冒頭の意味での集合を'''可算無限集合''' (countably infinite set) と呼び、可算無限集合と有限集合を合わせて'''高々可算''' (at most countable) の集合と呼ぶ<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.math.is.tohoku.ac.jp/~obata/student/subject/file/2018-7_kasan.pdf |title=第7章 可算集合 |access-date=2022-07-27 |publisher=Computer Science, RIMS, Kyoto University}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www4.math.sci.osaka-u.ac.jp/~matsumoto/courses/2016-fs2/docs/2016-fs2-B-mod-20161027.pdf |title=数学の楽しみ 2D 集合の濃度 |access-date=2022-07-27 |publisher=大阪大学大学院理学研究科数学専攻・理学部数学科 松本佳彦}}</ref>。可算でない無限集合を'''[[非可算集合]]''' (uncountable set) という<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.u.dendai.ac.jp/~ochi/suen2B_1.pdf |title=可算集合と非可算集合 |access-date=2022-07-27 |publisher=東京電機大学理工学部理学系数学コース 越智 禎宏}}</ref>。非可算集合は可算集合よりも「多く」の元を持ち、全ての元に番号を付けることができない。そのような集合の存在は、[[ゲオルク・カントール|カントール]]によって初めて示された。
== 定義 ==
可算集合とは '''N''' と[[濃度 (数学)|濃度]]が等しい集合のことである<ref name=":0" />。すなわち、集合 ''S'' が'''可算'''であるとは、自然数全体の集合 '''N''' との間に[[全単射]]が存在することをいう<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
また、高々可算な集合とは、'''N''' の濃度以下の濃度を持つ集合のことである。すなわち、集合 ''S'' が'''高々可算'''であるとは、''S'' から '''N''' へ[[単射]]が存在することをいう。これは、'''N''' から ''S'' へ[[全射]]が存在することと[[同値]]である。
慣例では、可算集合の濃度を <math>\aleph_0</math>([[アレフ数|アレフゼロ]]、aleph-null)で表す。例えば、'''N''' の濃度が可算であることを <math>|\mathbb{N}|=\aleph_0</math> などと表す。
== 例と性質 ==
[[無限集合]]においては、その真部分集合と濃度が等しいことがあり得る。<ref name=":2" />例えば、[[偶数]]の自然数全体の集合 2'''N''' は '''N''' との間に次の全単射が存在する。
:<math>f\colon\mathbb{N} \ni n \mapsto 2n \in 2\mathbb{N}.</math>
よって、2'''N''' は可算集合である。また、[[整数]]全体の集合 '''Z''' や[[有理数]]全体の集合 '''Q''' も可算である<ref name=":0" /><ref name=":3" />。しかし、[[実数]]全体の集合 '''R''' は非可算である。この事実は[[カントールの対角線論法]]によって示される<ref name=":0" /><ref name=":3" />。'''R''' の濃度は'''[[連続体濃度]]'''と呼ばれ、<math>\aleph</math> または <math>\mathfrak{c}</math> で表される。
[[選択公理]]を認めるならば、可算濃度は無限集合の濃度のうち最小のものであることが示される。可算濃度と連続体濃度の間に他の濃度が存在するか否かは、[[公理的集合論|ZFC]] とは独立であり、通常は存在しないと仮定する。この仮定を[[連続体仮説]]という。
可算個の可算集合の[[合併 (集合論)|和集合]]や、有限個の可算集合の[[直積集合]]はまた可算である<ref name=":2" />。これより、[[代数的数]]全体の集合 <span style="text-decoration:overline">'''Q'''</span> は可算であることが従う。しかし、可算個の可算集合の直積集合や、可算集合の[[冪集合]]は非可算であり、その濃度は連続体濃度である<ref name=":3" />。
可算個の可算集合の直積集合の濃度は、濃度[[不等式]]
:<math>2^{\aleph_0} \le \aleph_0^{\aleph_0} \le (2^{\aleph_0})^{\aleph_0} = 2^{\aleph_0}</math>
によって、<math>\aleph</math> と等しいことが示される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[濃度 (数学)]]
*[[連続体仮説]]
*[[ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス]]
{{集合論}}
{{Settheory-stub}}
{{DEFAULTSORT:かさんしゆうこう}}
[[Category:無限]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-03-28T03:31:42Z | 2023-11-15T23:04:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E7%AE%97%E9%9B%86%E5%90%88 |
5,376 | 濃度 | 濃度()は、従来、「溶液中の溶質の割合を濃度という、いろいろな表し方がある。質量パーセント濃度、モル濃度等」(日本化学会編 第2版標準化学用語辞典)と定義されている。しかし、濃度をより狭く「特に混合物中の物質を対象に、量を全体積で除した商を示すための量の名称に追加する用語」(日本工業規格(JIS))と定義している場合がある。
後者に従えば「質量モル濃度」と訳されているMolarityは「濃度」ではない。しかし、MolarityやMolalityにそれぞれ「質量モル濃度」等「~濃度」以外の訳語は見られない。
「濃度」は、計量法体系における根本的概念である89種の「物象の状態の量」(おおまかには物理量と考えてよい。)の一つであり、濃度の法定計量単位は次のように、18種に限られている。このうちSI単位 であるものは最初のモル毎立方メートル、キログラム毎立方メートル、グラム毎立方メートル の3種だけであり、それ以外の15種は非SI単位である(リットルは非SI単位である。ただしSIと併用できる)。
上記の18種以外の様々な濃度の計量単位は、すべて非法定計量単位であり、取引・証明に用いることは禁止されている(取引・証明に用いると50万円以下の罰金がある(計量法第173条第1号))。
なお、規定度(計量法上は、規定)は、1997年10月1日以降は非法定計量単位となったので、取引・証明に用いることは禁止されている。
国際純正応用化学連合(IUPAC)は明らかに先のJISの立場であり IUPACが発行しているGold Bookでは次の四つの量、質量濃度(mass concentration)、量濃度(amount concentration)、体積濃度(volume concentration)、数濃度(number concentration)のグループのことであり、これは混合物の組成の特徴を表す量であると定義している。また、concentrationは、amount (of substance) concentrationの略としても使われるとしている。この立場では、Molalityは日本では「質量モル濃度」と訳されているが"concentration"ではない。
質量濃度 ρ B {\displaystyle \rho _{\mathrm {B} }} は成分の 質量 m B {\displaystyle m_{\mathrm {B} }} を混合物の体積 V {\displaystyle V} で除することによって得られる:
SI単位 は、 k g / m 3 {\displaystyle \mathrm {kg/m^{3}} } である。
物質量濃度 c B {\displaystyle c_{\rm {B}}} は成分の物質量(モル数) n B {\displaystyle n_{\rm {B}}} を混合物の体積 V {\displaystyle V} で除することによって得られる:
c B = n B V {\displaystyle c_{\rm {B}}={\frac {n_{\rm {B}}}{V}}}
SI単位 は、 m o l / m 3 {\displaystyle \mathrm {mol/m^{3}} } である。
体積濃度 φ i {\displaystyle \phi _{i}} (体積分率とは異なる)は、混合物の体積 V {\displaystyle V} で成分の体積 V i {\displaystyle V_{i}} を除することによって得られる
SI単位 は、m/m=1である。
数濃度 C B {\displaystyle C_{\rm {B}}} は成分の個数 N B {\displaystyle N_{\rm {B}}} を混合物の体積 V {\displaystyle V} で除することによって得られる:
C B = N B V {\displaystyle C_{\rm {B}}={\frac {N_{\rm {B}}}{V}}}
SI単位 は、 m − 3 {\displaystyle \mathrm {m^{-3}} } である。
質量モル濃度 b B {\displaystyle b_{\rm {B}}} は成分の物質量(モル数) n B {\displaystyle n_{\rm {B}}} を溶媒の質量 m A {\displaystyle m_{\rm {A}}} で除することによって得られる:
b B = n B m A {\displaystyle b_{\rm {B}}={\frac {n_{\rm {B}}}{m_{\rm {A}}}}}
SI単位 は、 m o l / k g {\displaystyle \mathrm {mol/kg} } である。
比体積 v {\displaystyle v} は体積 V {\displaystyle V} を質量 m {\displaystyle m} で除することによって得られる:
v = V m {\displaystyle v={\frac {V}{m}}}
SI単位 は、 m 3 / k g {\displaystyle \mathrm {m^{3}/kg} } である。
質量分率 w B {\displaystyle w_{\rm {B}}} は成分の質量 m B {\displaystyle m_{\rm {B}}} を混合物の質量 m {\displaystyle m} で除することによって得られる:
w B = m B m {\displaystyle w_{\rm {B}}={\frac {m_{\rm {B}}}{m}}}
* 日本語訳は「IUPAC 物理化学で用いられる量・単位・記号」第3版から採用した。
濃度はいかなる混合物にも適用できるが、最もよく使われるのが溶液に対してであり、この場合、濃度はある溶質 (solute) が溶媒 (solvent) に対してどの程度溶けているかを示す。
成分量および全体量を計量する値の種別により濃度は次のように呼称される。
質量濃度といった場合は全体量は質量で計測し、体積濃度といった場合は全体量を体積で計測する。
特に断らない限りは「混合物の成分を計量する対象」と「混合物全体を計量する対象」の値と種類は同一であるが、利用目的に応じて異なる種類の計量値の比をもって濃度とする場合も多い。一般には w/w や w/v などと記号で表記される場合が多い。この符号はweight, volumeの頭文字で、分子が成分の計量方法、分母が全体の計量方法を示している。
単純な体積の比率を示す「体積(容量)パーセント濃度」では「vol%」の記号を用いるなど、濃度の単位を表す項にvolumeを略したvolの語を付けるのが一般である。
質量濃度(英語: mass concentration)は、成分の質量を全体の質量で割った値である。次元は ML である。たとえば空気中の粉塵の量を表すのに用いられる。
このような、質量/質量の濃度では、質量パーセント濃度が利用されることが多い。質量パーセント濃度とは、質量濃度の単位「w/w」の代わりに100分率記号にweightを略したwtをつけ、「wt%」を用いて表す単位を使う。単に「%」を使うことがあるが、容量パーセント濃度と混同されかねないため、正式ではない。質量パーセント濃度は、その指数を使って簡単に溶質の量を計算できるほか、濃度の大きさを直感的に扱うことができるため、大まかな濃度を示したいときなど、多くの場面で見られる。質量分率ともいう。
「%」とは直訳すると「100あたり」となり、全体を100とした場合どのくらい溶質が含まれるかを表す。質量パーセント濃度の場合その数字の基準となる単位が質量単位ということである。
例として濃度 0.32 g/g のメタノール水溶液で説明する。今、この濃度は水溶液1 gあたりに含まれるメタノール(溶質)の濃度を示している。
これをパーセント濃度(100あたり)に変換するため100倍にする。すると32 g/100 gとなる。これは100 gあたりに32 gの溶質が含まれていることを示す。ここで、濃度を示す単位を g/100 g(100 gあたり{x} g)から質量パーセント(%つまり、質量100 gあたり{x} g)に置き換えると32 wt%と質量パーセント濃度が求められる。
また、質量パーセント濃度は次の式から直接導くこともできる。
質量パーセント濃度 = {溶質(例ではメタノールの質量)/ 全体量(例では水溶液)} × 100 wt%
また、きわめて希薄な溶液に対しては百万分率や十億分率の単位が用いられる。
次に例示する分量を示すSI接頭語と組み合わせた補助単位で希薄度にあわせて濃度が表される。
これらと同じように、含まれる混合物(例ではメタノール)の単位として物質量を用いたものが使われる。
例の文章より100 gの液体には、32 gのメタノールが含まれていることがわかるが、メタノールの分子量から算出される物質量(モル)は、C = 12.0 - , H = 1.00 - , O = 16.0 -とすると、メタノールの分子量はCH3OH = 12.0 - + 4 × 1.00 - +16.0 - = 32.0 -となり、物質量は32 g/(32.0 g/mol) = 1.0 molとなる。
※「-」とは、単位がない(無次元である)ことを表す記号であり、書かなくてもよい。分子量にg/molという単位をつけるだけで、モル質量となる。
質量モル濃度 (英語: molality)上記と同じく、濃度とは全体に対する混合物の比率であり、1.0 molのメタノールが100 gの液体の中に存在すると考えれば、1.0 mol / 100 g = 10 mol/kgとなる。
上項と同じ単位を用いながら、その内容の示す所は異なる。沸点上昇や凝固点降下の計算に用いられる。単位は溶質の物質量÷溶媒の質量つまり、mol/kgを用いる。
定義は単位溶媒質量あたりの溶質の物質量。溶液全体に占める物質量でないことに注意されたい。この記事の例では、32 gのメタノールが1.0 molであり、考える溶媒は 100 − 32 g = 68 g となるから、1.0 mol/68 g = 14.7 mol/kgとなる。
体積濃度(容量濃度)とは、全体量を体積単位で計測し、算出する濃度で、基本単位がL(リットル)の場合と立方メートルの場合がある。混合されている試料を計測する単位は、質量や物質量であることが多い。化学の場面において、ある濃度の水溶液を調整する場合、試料を正確な量測り取り、メスフラスコなどの器具を用いて正確な体積に希釈し調整することが多く、主な化学薬品なども「体積モル濃度」で示されるのが普通である。実験操作では主に溶液の体積測定が問題となるため、溶液の体積を基にした濃度方式は便利であり、最もよく使われる濃度単位である。
ここでも簡単のため、
例、メタノール32.0 gを水で希釈し、100 Lとした水溶液(基本単位はリットルを用いる)。
を例として以下に説明する。
上記の例では、100 Lの溶液には32 gの試料(メタノール)が混合していることが読み取れる。
一般的には単位体積あたりの濃度を示すのが普通である。つまり、基本単位であるLあたりのgの濃度を示すことである。
全体量を1Lと調整すると、0.32 g/Lとなる。
規定(計量法上の用語)または規定度は、主に定量分析に用いられる単位体積 (1 L) に含まれるグラム当量数を表す。グラム当量数は反応物質の反応に要する物質量、酸塩基反応などの化学反応を1 mol分の反応を完結させるために必要な物質の質量である。詳しくは化学当量を参照されたい。
規定は1997年10月1日以降は、計量法上の法定計量単位ではなくなっており、取引・証明に用いることは禁止されている。また、工場排水試験方法のJIS規格(JIS K 0102)では1993年の改正で廃止されている。なお、義務教育における学習指導要領でも扱われない。このように、現在ではほぼ使われなくなって、モル濃度(mol/L)に統一されている。
質量/体積濃度に類似するが、それぞれの試料の種類によって、グラム当量が異なるため同質量でも、化学種によって規定濃度は異なる。
式では、規定 = グラム当量 / 体積 と表される。
尚、質量/体積の濃度では、パーセント濃度が使われることは少ない。
体積モル濃度は最もよく使われる濃度であり、単にモル濃度といえば、この体積モル濃度を指す。
そのため、体積モル濃度の単位「mol/L」を、Mol (あるいはM) と表記し、「モーラー」(またはモル)と発音する場合がある。また、実験室レベルのごく少量の溶液を用いる場合はSI接頭語のミリをあわせ「mmol(ミリモル)」単位を用いることが慣習となっている。Molという濃度単位は国際単位系 (SI) では認められておらず、将来的には「mol/L」に統一されるべきである。ただ、Mという表記は現在でも多くの学術誌で暫定的に使用が容認されており、現状では併用されている。また、計量法では従来使用が認められていた規定度から体積モル濃度に置き換える様に勧告している。
以下に体積モル濃度の求め方を示す。
例では、100 Lの試料溶液には32 gのメタノールが混合している。32 gのメタノールの物質量は分子量から約1 molと算出できる。
つまり、100 Lの溶液には1 molのメタノールが混合しており、1 mol/100 Lと濃度を示すことができる。
これを単位体積あたりの濃度に調節すると、0.01 mol/Lとなり、体積モル濃度が求められる。
式で表すと、 M=n/V(M=体積モル濃度、n=物質量、V=体積)である。
以上を簡単にまとめると以下になる。
CH3OH = 32.0 -とすると、(32.0 g/(32.0 g/mol))/100 L = 1.00×10 mol/L
このように体積モル濃度は物質量を全体量の体積で除したものである。物質量は溶質の質量から分子量を使って求められるため、「質量パーセント濃度」などの一般的な濃度単位から「体積モル濃度」へ変換する場合、密度などから溶質の質量を算出した後、物質量を決定し、体積で割ることで変換できる。
仮に、密度1000 g/Lである質量パーセント濃度32 wt%のメタノール水溶液が与えられた場合、体積1 Lの水溶液に含まれるメタノールの質量は密度と質量パーセント濃度から320 gと求められる。このときの物質量は分子量から10 molと算出でき、それより体積モル濃度を10 mol/Lと決定することができる。
式量濃度は体積濃度の一つで、単位体積中に含まれる混合物のグラム式量数で定義され分析濃度や全濃度と呼ばれることもある。体積モル濃度に似るが、酸や等の解離性の化学種や錯体形成反応等、溶液中で物質量が変化する場合ではこのような濃度が用いられる。
式量濃度は含まれる化学種すべての濃度の総和であり、化学種の平衡濃度(溶液中で化学反応が見かけ上起こらなくなった状態の濃度)を解離定数や溶解度定数等の平衡定数から簡単に求めることができる。詳しくは規定度なども参照されたい。
ここでは例として、解離性の化学種(A)32 gを水で希釈し、100Lとした水溶液を用いる。尚、この化学種(A)の分子量は32であり、水溶液中で40 %解離し、化学種(B)を生じるとする。
この化学種(A)の物質量は1 molであり、式量濃度は体積モル濃度と同じように0.01 mol/Lと算出できる。ここで、水溶液中の体積モル濃度を式量濃度から求めることができる。
水中で化学種(A)は40 %解離し化学種(B)を生じている。つまり、式量濃度(全濃度)0.01 mol/Lの40 %が化学種(B)の体積モル濃度である。つまり0.01×0.4 mol/L=0.004 mol/Lと簡単に計算できる。また同じように化学種(A)は60 %存在するため、0.006 mol/Lと求めることができる。
このように系の中に含まれる物質の式量濃度(全濃度)を求めることは、さらに複雑な解離、錯形成反応を起こす化学種のモル濃度を求める際にも非常に有用である。
モル分率は、全体量と混合試料ともに物質量を基準とし、算出する単位である。体積などのように温度に依存することがないため、物性の異なる多成分を含んだ系に使われることが多い。混合物の物質量/全体の物質量で表される。このため含まれるすべての物質のモル分率の総和や純物質のモル分率は1である。
ここでは次の例を用いる。
例、メタノール32 gを水で希釈し、100 gとした水溶液。
この溶液にはメタノールが32 g(1 mol)含まれる、全体量からの差から求めると、このとき水は68 g含まれている。68 gの水は分子量から求めると3.8 molと算出できる。
つまり、このときこの溶液にはメタノール1.0 molと水3.8 mol、あわせて4.8 molが含まれている。モル分率は混合物の物質量/全体の物質量であるから、メタノールを混合物とすると1.0 mol/4.8 mol=0.21と算出できる。同じように、水のモル分率は約0.79となる。
溶液の濃度を表す単位として、力価 (タイター) というものが用いられることとなる。これは化学において主にmmol/Lの単位が主に慣習として用いられることから使用される単位である。
力価の単位は、それらと同じように単位体積あたりの質量であるが、基準となる試薬とちょうど反応しあうだけの試薬の質量を示す。
簡単のため、次の例を用いる。
例、基準として5 mgの水酸化ナトリウム試薬がある。これを塩酸溶液1 mLで中和したとする。
このとき、塩酸水溶液1 mLには5 mgの水酸化ナトリウムを中和する力があると考えることができる。このことから、力価は基準となる水酸化ナトリウム試薬5 mgを1 mLで中和する塩酸の濃度と考えることができ、塩酸の濃度は水酸化ナトリウム力価5 mg/mLと表すことができる。
力価はグラム当量に関係するため、規定度に容易に換算することができる。二つを表す式を比較すると、力価=mg/mL 規定度=mg/mL×グラム当量 であり、すなわち 力価=規定度×グラム当量 である。
定量分析などにおいては、力価を正確に測定するため、いくつかの基準試薬(シュウ酸など)から何回かの滴定を行い決定する。
体積は溶液の密度が混合比により変化したり、溶液の熱膨張により密度が変化する為、体積を用いる濃度は正確な計量には使いにくい指標である。
一方、定量分析の滴定では試薬量を体積で測る場合が多い為に、全体量は体積とするが成分量は物質量で計った体積モル濃度(mol/L)や試薬のモル当量で計った規定濃度が利用される。前述の様に体積が持つ不確かさを相殺する為に、各測定実験毎に逆滴定で濃度のファクター(補正係数)を決定する必要がある。 | [
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"text": "濃度()は、従来、「溶液中の溶質の割合を濃度という、いろいろな表し方がある。質量パーセント濃度、モル濃度等」(日本化学会編 第2版標準化学用語辞典)と定義されている。しかし、濃度をより狭く「特に混合物中の物質を対象に、量を全体積で除した商を示すための量の名称に追加する用語」(日本工業規格(JIS))と定義している場合がある。",
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"text": "後者に従えば「質量モル濃度」と訳されているMolarityは「濃度」ではない。しかし、MolarityやMolalityにそれぞれ「質量モル濃度」等「~濃度」以外の訳語は見られない。",
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"text": "「濃度」は、計量法体系における根本的概念である89種の「物象の状態の量」(おおまかには物理量と考えてよい。)の一つであり、濃度の法定計量単位は次のように、18種に限られている。このうちSI単位 であるものは最初のモル毎立方メートル、キログラム毎立方メートル、グラム毎立方メートル の3種だけであり、それ以外の15種は非SI単位である(リットルは非SI単位である。ただしSIと併用できる)。",
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"text": "上記の18種以外の様々な濃度の計量単位は、すべて非法定計量単位であり、取引・証明に用いることは禁止されている(取引・証明に用いると50万円以下の罰金がある(計量法第173条第1号))。",
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"text": "なお、規定度(計量法上は、規定)は、1997年10月1日以降は非法定計量単位となったので、取引・証明に用いることは禁止されている。",
"title": "計量法における規定"
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"text": "国際純正応用化学連合(IUPAC)は明らかに先のJISの立場であり IUPACが発行しているGold Bookでは次の四つの量、質量濃度(mass concentration)、量濃度(amount concentration)、体積濃度(volume concentration)、数濃度(number concentration)のグループのことであり、これは混合物の組成の特徴を表す量であると定義している。また、concentrationは、amount (of substance) concentrationの略としても使われるとしている。この立場では、Molalityは日本では「質量モル濃度」と訳されているが\"concentration\"ではない。",
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"text": "質量濃度 ρ B {\\displaystyle \\rho _{\\mathrm {B} }} は成分の 質量 m B {\\displaystyle m_{\\mathrm {B} }} を混合物の体積 V {\\displaystyle V} で除することによって得られる:",
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"text": "SI単位 は、 k g / m 3 {\\displaystyle \\mathrm {kg/m^{3}} } である。",
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"text": "物質量濃度 c B {\\displaystyle c_{\\rm {B}}} は成分の物質量(モル数) n B {\\displaystyle n_{\\rm {B}}} を混合物の体積 V {\\displaystyle V} で除することによって得られる:",
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"text": "体積濃度 φ i {\\displaystyle \\phi _{i}} (体積分率とは異なる)は、混合物の体積 V {\\displaystyle V} で成分の体積 V i {\\displaystyle V_{i}} を除することによって得られる",
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"text": "濃度はいかなる混合物にも適用できるが、最もよく使われるのが溶液に対してであり、この場合、濃度はある溶質 (solute) が溶媒 (solvent) に対してどの程度溶けているかを示す。",
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"text": "成分量および全体量を計量する値の種別により濃度は次のように呼称される。",
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"text": "質量濃度といった場合は全体量は質量で計測し、体積濃度といった場合は全体量を体積で計測する。",
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"text": "特に断らない限りは「混合物の成分を計量する対象」と「混合物全体を計量する対象」の値と種類は同一であるが、利用目的に応じて異なる種類の計量値の比をもって濃度とする場合も多い。一般には w/w や w/v などと記号で表記される場合が多い。この符号はweight, volumeの頭文字で、分子が成分の計量方法、分母が全体の計量方法を示している。",
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"text": "単純な体積の比率を示す「体積(容量)パーセント濃度」では「vol%」の記号を用いるなど、濃度の単位を表す項にvolumeを略したvolの語を付けるのが一般である。",
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"text": "質量濃度(英語: mass concentration)は、成分の質量を全体の質量で割った値である。次元は ML である。たとえば空気中の粉塵の量を表すのに用いられる。",
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"text": "このような、質量/質量の濃度では、質量パーセント濃度が利用されることが多い。質量パーセント濃度とは、質量濃度の単位「w/w」の代わりに100分率記号にweightを略したwtをつけ、「wt%」を用いて表す単位を使う。単に「%」を使うことがあるが、容量パーセント濃度と混同されかねないため、正式ではない。質量パーセント濃度は、その指数を使って簡単に溶質の量を計算できるほか、濃度の大きさを直感的に扱うことができるため、大まかな濃度を示したいときなど、多くの場面で見られる。質量分率ともいう。",
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"text": "規定(計量法上の用語)または規定度は、主に定量分析に用いられる単位体積 (1 L) に含まれるグラム当量数を表す。グラム当量数は反応物質の反応に要する物質量、酸塩基反応などの化学反応を1 mol分の反応を完結させるために必要な物質の質量である。詳しくは化学当量を参照されたい。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "規定は1997年10月1日以降は、計量法上の法定計量単位ではなくなっており、取引・証明に用いることは禁止されている。また、工場排水試験方法のJIS規格(JIS K 0102)では1993年の改正で廃止されている。なお、義務教育における学習指導要領でも扱われない。このように、現在ではほぼ使われなくなって、モル濃度(mol/L)に統一されている。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "質量/体積濃度に類似するが、それぞれの試料の種類によって、グラム当量が異なるため同質量でも、化学種によって規定濃度は異なる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "式では、規定 = グラム当量 / 体積 と表される。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "尚、質量/体積の濃度では、パーセント濃度が使われることは少ない。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "体積モル濃度は最もよく使われる濃度であり、単にモル濃度といえば、この体積モル濃度を指す。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "そのため、体積モル濃度の単位「mol/L」を、Mol (あるいはM) と表記し、「モーラー」(またはモル)と発音する場合がある。また、実験室レベルのごく少量の溶液を用いる場合はSI接頭語のミリをあわせ「mmol(ミリモル)」単位を用いることが慣習となっている。Molという濃度単位は国際単位系 (SI) では認められておらず、将来的には「mol/L」に統一されるべきである。ただ、Mという表記は現在でも多くの学術誌で暫定的に使用が容認されており、現状では併用されている。また、計量法では従来使用が認められていた規定度から体積モル濃度に置き換える様に勧告している。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "以下に体積モル濃度の求め方を示す。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "例では、100 Lの試料溶液には32 gのメタノールが混合している。32 gのメタノールの物質量は分子量から約1 molと算出できる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "つまり、100 Lの溶液には1 molのメタノールが混合しており、1 mol/100 Lと濃度を示すことができる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "これを単位体積あたりの濃度に調節すると、0.01 mol/Lとなり、体積モル濃度が求められる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "式で表すと、 M=n/V(M=体積モル濃度、n=物質量、V=体積)である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "以上を簡単にまとめると以下になる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "CH3OH = 32.0 -とすると、(32.0 g/(32.0 g/mol))/100 L = 1.00×10 mol/L",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "このように体積モル濃度は物質量を全体量の体積で除したものである。物質量は溶質の質量から分子量を使って求められるため、「質量パーセント濃度」などの一般的な濃度単位から「体積モル濃度」へ変換する場合、密度などから溶質の質量を算出した後、物質量を決定し、体積で割ることで変換できる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "仮に、密度1000 g/Lである質量パーセント濃度32 wt%のメタノール水溶液が与えられた場合、体積1 Lの水溶液に含まれるメタノールの質量は密度と質量パーセント濃度から320 gと求められる。このときの物質量は分子量から10 molと算出でき、それより体積モル濃度を10 mol/Lと決定することができる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "式量濃度は体積濃度の一つで、単位体積中に含まれる混合物のグラム式量数で定義され分析濃度や全濃度と呼ばれることもある。体積モル濃度に似るが、酸や等の解離性の化学種や錯体形成反応等、溶液中で物質量が変化する場合ではこのような濃度が用いられる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "式量濃度は含まれる化学種すべての濃度の総和であり、化学種の平衡濃度(溶液中で化学反応が見かけ上起こらなくなった状態の濃度)を解離定数や溶解度定数等の平衡定数から簡単に求めることができる。詳しくは規定度なども参照されたい。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ここでは例として、解離性の化学種(A)32 gを水で希釈し、100Lとした水溶液を用いる。尚、この化学種(A)の分子量は32であり、水溶液中で40 %解離し、化学種(B)を生じるとする。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "この化学種(A)の物質量は1 molであり、式量濃度は体積モル濃度と同じように0.01 mol/Lと算出できる。ここで、水溶液中の体積モル濃度を式量濃度から求めることができる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "水中で化学種(A)は40 %解離し化学種(B)を生じている。つまり、式量濃度(全濃度)0.01 mol/Lの40 %が化学種(B)の体積モル濃度である。つまり0.01×0.4 mol/L=0.004 mol/Lと簡単に計算できる。また同じように化学種(A)は60 %存在するため、0.006 mol/Lと求めることができる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "このように系の中に含まれる物質の式量濃度(全濃度)を求めることは、さらに複雑な解離、錯形成反応を起こす化学種のモル濃度を求める際にも非常に有用である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "モル分率は、全体量と混合試料ともに物質量を基準とし、算出する単位である。体積などのように温度に依存することがないため、物性の異なる多成分を含んだ系に使われることが多い。混合物の物質量/全体の物質量で表される。このため含まれるすべての物質のモル分率の総和や純物質のモル分率は1である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ここでは次の例を用いる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "例、メタノール32 gを水で希釈し、100 gとした水溶液。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "この溶液にはメタノールが32 g(1 mol)含まれる、全体量からの差から求めると、このとき水は68 g含まれている。68 gの水は分子量から求めると3.8 molと算出できる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "つまり、このときこの溶液にはメタノール1.0 molと水3.8 mol、あわせて4.8 molが含まれている。モル分率は混合物の物質量/全体の物質量であるから、メタノールを混合物とすると1.0 mol/4.8 mol=0.21と算出できる。同じように、水のモル分率は約0.79となる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "溶液の濃度を表す単位として、力価 (タイター) というものが用いられることとなる。これは化学において主にmmol/Lの単位が主に慣習として用いられることから使用される単位である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "力価の単位は、それらと同じように単位体積あたりの質量であるが、基準となる試薬とちょうど反応しあうだけの試薬の質量を示す。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "簡単のため、次の例を用いる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "例、基準として5 mgの水酸化ナトリウム試薬がある。これを塩酸溶液1 mLで中和したとする。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "このとき、塩酸水溶液1 mLには5 mgの水酸化ナトリウムを中和する力があると考えることができる。このことから、力価は基準となる水酸化ナトリウム試薬5 mgを1 mLで中和する塩酸の濃度と考えることができ、塩酸の濃度は水酸化ナトリウム力価5 mg/mLと表すことができる。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "力価はグラム当量に関係するため、規定度に容易に換算することができる。二つを表す式を比較すると、力価=mg/mL 規定度=mg/mL×グラム当量 であり、すなわち 力価=規定度×グラム当量 である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "定量分析などにおいては、力価を正確に測定するため、いくつかの基準試薬(シュウ酸など)から何回かの滴定を行い決定する。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "体積は溶液の密度が混合比により変化したり、溶液の熱膨張により密度が変化する為、体積を用いる濃度は正確な計量には使いにくい指標である。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "一方、定量分析の滴定では試薬量を体積で測る場合が多い為に、全体量は体積とするが成分量は物質量で計った体積モル濃度(mol/L)や試薬のモル当量で計った規定濃度が利用される。前述の様に体積が持つ不確かさを相殺する為に、各測定実験毎に逆滴定で濃度のファクター(補正係数)を決定する必要がある。",
"title": "従来の濃度の定義に基づく分類"
}
] | 濃度は、従来、「溶液中の溶質の割合を濃度という、いろいろな表し方がある。質量パーセント濃度、モル濃度等」と定義されている。しかし、濃度をより狭く「特に混合物中の物質を対象に、量を全体積で除した商を示すための量の名称に追加する用語」(日本工業規格)と定義している場合がある。 後者に従えば「質量モル濃度」と訳されているMolarityは「濃度」ではない。しかし、MolarityやMolalityにそれぞれ「質量モル濃度」等「~濃度」以外の訳語は見られない。 | {{Otheruses|化学用語|数学用語|濃度 (数学)}}
{{読み仮名|'''濃度'''|のうど}}は、従来、「[[溶液]]中の[[溶質]]の割合を濃度という、いろいろな表し方がある。質量パーセント濃度、[[モル]]濃度等」([[#標準化学用語辞典|日本化学会編 第2版標準化学用語辞典]])と定義されている。しかし、濃度をより狭く「特に[[混合物]]中の物質を対象に、[[量]]を'''全[[体積]]'''で除した商を示すための[[量]]の名称に追加する用語」([[日本産業規格]](JIS))<ref name="JISハンドブック49 化学分析 2008">
{{Cite book|和書|author1=日本規格協会|authorlink1=日本規格協会 |authorlink= |coauthors= |translator= |editor= |others= |title=JISハンドブック 49 化学分析 |origdate= |origyear= |edition= |date= |year=2008 |ref=JISハンドブック49 化学分析 2008}}</ref>と定義している場合がある。
後者に従えば「質量モル濃度」と訳されているMolarityは「濃度」ではない{{Refnest|group="注"|[[#IUPAC Green Book 第2版|IUPAC Green Book 第2版]] p.50の表では平衡定数にはmolality bsisとconcentration basisと(pressure basisと)があり、区別している。したがって、molalityはconcentrationとは違うものと位置づけていると判断できる}}{{Refnest|group="注"|[[#GoldBook_concentration|Webサイト「IUPAC Gold Book」のconcentrationのページ]]ではNormalityが入っていない}}。しかし、MolarityやMolalityにそれぞれ「質量モル濃度」等「~濃度」以外の訳語は見られない{{Refnest|group="注"|[[#EnglishWikipedia|英語版Wikipedia]]はmolalityなどの量はconcentrationと呼ぶべきでないとしている。}}。
== 計量法における規定 ==
「濃度」は、[[計量法]]体系における根本的概念である89種の「[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]」(おおまかには[[物理量]]と考えてよい。)の一つであり、濃度の[[法定計量単位]]は次のように、18種に限られている。このうち[[SI単位]] であるものは最初の[[モル毎立方メートル]]、[[キログラム毎立方メートル]]、[[グラム毎立方メートル]] の3種だけであり、それ以外の15種は[[非SI単位]]である([[リットル]]は非SI単位である。ただしSIと併用できる)。
{|class="wikitable"
|+ 濃度の法定計量単位
|-
!分類!!計量単位(SI単位)!!計量単位(非SI単位)
|-
|いわゆるSIに係る単位 || [[モル毎立方メートル]] [[キログラム毎立方メートル]]<ref group="注">[[密度]]の単位でもある。</ref> [[グラム毎立方メートル]]<ref group="注">[[密度]]の単位でもある。</ref> || [[モル毎リットル]] [[グラム毎リットル]]<ref group="注">[[密度]]の単位でもある。</ref>
|-
|SI単位のある量についての非SI単位|| || [[質量百分率]] [[質量千分率]] [[質量百万分率]] [[質量十億分率]] [[質量一兆分率]] [[質量千兆分率]] [[体積百分率]] [[体積千分率]] [[体積百万分率]] [[体積十億分率]] [[体積一兆分率]] [[体積千兆分率]] [[ピーエッチ]]
|}
上記の18種以外の様々な濃度の[[計量単位]]は、すべて非[[法定計量単位]]であり、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることは禁止されている(取引・証明に用いると50万円以下の罰金がある(計量法第173条第1号)<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/11_gaiyou_tani2.html 2.取引又は証明における規制] 経済産業省</ref>)。
なお、[[規定度]](計量法上は、[[規定]])は、1997年10月1日以降は非法定計量単位となったので、取引・証明に用いることは禁止されている。
==IUPACによる濃度の定義に基づく分類==
[[国際純正応用化学連合]](IUPAC)は明らかに先のJISの立場であり IUPACが発行しているGold Bookでは次の四つの量、質量濃度(mass concentration)、量濃度(amount concentration)、体積濃度(volume concentration)、数濃度(number concentration)のグループのことであり、これは混合物の組成の特徴を表す量であると定義している<ref name="GoldBook_concentration"/>。また、concentrationは、amount (of substance) concentrationの略としても使われるとしている{{Refnest|group="注"| 臨床化学ではsubstance concentrationとも言う<ref name="GoldBook_concentration"/>}}。この立場では、Molalityは日本では「質量モル濃度」と訳されているが"concentration"ではない。
===質量濃度===
{{main|質量濃度}}
質量濃度 <math>\rho_\mathrm{B}</math> は成分の [[質量]] <math>m_\mathrm{B}</math>を[[混合物]]の体積<math>V</math>で除することによって得られる:
:<math>\rho_\mathrm{B} = \frac {m_\mathrm{B}}{V} </math>
[[SI基本単位|SI単位]] は、<math>\mathrm{kg/m^3}</math>である。
===物質量濃度===
{{節スタブ}}
物質量濃度<span style="size:large""><math>c_{\rm B}</math></span>は成分の[[物質量|物質量(モル数)]]<span style="size:large""><math>n_{\rm B}</math></span>を混合物の体積<math>V</math>で除することによって得られる:
<span style="size:large""> <math>c_{\rm B} = \frac{n_{\rm B}}{V}</math></span>
[[SI基本単位|SI単位]] は、<math>\mathrm{mol/m^3}</math>である。
===体積濃度===
{{main|体積濃度}}
体積濃度 <math>\phi_i</math>([[体積分率]]とは異なる)は、混合物の体積<math>V</math> で成分の体積<math>V_i</math>を除することによって得られる<ref name="GoldBook_concentration"/>
:<math>\phi_i = \frac {V_i}{V}</math>
[[SI基本単位|SI単位]] は、m<sup>3</sup>/m<sup>3</sup>=1である<ref name="NIST_SI_Guide_08">[http://physics.nist.gov/Pubs/SP811/sec08.html NIST SI Guide Section 8.6.2]</ref>。
===数濃度===
数濃度<span style="size:large""><math>C_{\rm B}</math></span>は成分の個数<span style="size:large""><math>N_{\rm B}</math></span>を混合物の体積<math>V</math>で除することによって得られる:
<span style="size:large""> <math>C_{\rm B} = \frac{N_{\rm B}}{V}</math></span>
[[SI基本単位|SI単位]] は、<math>\mathrm{m^{-3}}</math>である。
{{節スタブ}}
== 濃度に関係するその他の単位 ==
=== 質量モル濃度 ===
質量モル濃度<span style="size:large""><math>b_{\rm B}</math></span>は成分の[[物質量|物質量(モル数)]]<span style="size:large""><math>n_{\rm B}</math></span>を溶媒の質量<span style="size:large""><math>m_{\rm A}</math></span>で除することによって得られる:
<span style="size:large""> <math>b_{\rm B} = \frac{n_{\rm B}}{m_{\rm A}}</math></span>
[[SI基本単位|SI単位]] は、<math>\mathrm{mol/kg}</math>である。{{節スタブ}}
=== 比体積 ===
比体積<span style="size:large""><math>v</math></span>は体積<span style="size:large""><math>V</math></span>を質量<span style="size:large""><math>m</math></span>で除することによって得られる:
<span style="size:large""> <math>v = \frac{V}{m}</math></span>
[[SI基本単位|SI単位]] は、<math>\mathrm{m^3/kg}</math>である。{{節スタブ}}
=== 質量分率 ===
質量分率<span style="size:large""><math>w_{\rm B}</math></span>は成分の質量<span style="size:large""><math>m_{\rm B}</math></span>を混合物の質量<span style="size:large""><math>m</math></span>で除することによって得られる:
<span style="size:large""><math>w_{\rm B} = \frac{m_{\rm B}}{m}</math></span>{{節スタブ}}
== 濃度と濃度に関係するその他の単位の要約 ==
===SI基本単位の内、物質量、体積、質量に関係する商である9つの量の要約===
{| class="wikitable" style="text-align:center;width=100%;font-family:'Times New Roman','MS Pゴシック',sans-serif"
| rowspan="2" colspan="4" style="width:31%"| <ref>[http://physics.nist.gov/Pubs/SP811/sec08.html NIST Guide to the SI 8 いくつかの量とその単位についての注]</ref><!--空白-->
| colspan="9" | '''Quantity in numerator<br>(分数の)分子の量'''
|-
| colspan="3" style="width:23%"| '''Amount of substance''' 物質量*<br>'''Symbol''' 記号: <math>n</math><br>SI単位: <math>\mathrm{mol}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''Volume''' 体積*<br>'''Symbol''' 記号: <math>V</math><br>SI単位: <math>\mathrm{m^3}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''Mass''' 質量*<br>'''Symbol''' 記号: <math>m</math><br>SI単位: <math>\mathrm{kg}</math>
|-
<!--一行目-->
| rowspan="3" colspan="1" style="width:8%"| '''Quantity in denominator <br> 分母の量'''
| colspan="3" style="width:23%"| '''Amount of substance''' 物質量*<br>'''Symbol''' 記号: <math>n</math><br>SI単位: <math>\mathrm{mol}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''amount-of-substance fraction''' 物質量分率*<br><span style="size:large"><math>x_{\rm B} = \frac{n_{\rm B}}{n}</math></span><br>SI単位: <math>{\rm {mol/mol}} = 1</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''molar volume''' モル体積*<br><span style="large"><math>V_{\rm m} = \frac{V}{n} </math></span><br>SI単位: <math>\rm{m^3/mol}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''molar mass''' モル質量*<br> <span style="size:large"><math>M = \frac{m}{n}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{kg/mol}</math>
|-
<!--二行目-->
| colspan="3" style="width:23%"| '''Volume''' 体積<br>'''Symbol''' 記号: <math>V</math><br>SI単位: <math>\mathrm{m^3}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''amount-of-substance concentration''' 物質量濃度*<br><span style=size:large"><math>c_{\rm B} = \frac{n_{\rm B}}{V}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{mol/m^3}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''volume fraction''' 体積分率*<br><span style="size:large"><math>\varphi_{\rm B} = \frac{x_{\rm B} V_{\rm m,B}^* }{\Sigma x_{\rm A} V_{\rm m,A}^*}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{m^3/m^3 = 1}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''mass density''' 質量密度*<br><span size="large"><math>\rho = \frac{m}{V}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{kg/m^3}</math>
|-
<!--三行目-->
| colspan="3" style="width:23%"| '''Mass''' 質量<br>'''Symbol''' 記号: <math>m</math><br>SI単位: <math>\rm{kg}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''molality''' 質量モル濃度*<br><span style="size:large"><math>b_{\rm B} = \frac{n_{\rm B}}{m_{\rm A}}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{mol/kg}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''specific volume''' 比体積*<br><span style="size:large"><math>v=\frac{V}{m}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{m^3/kg}</math>
| colspan="3" style="width:23%"| '''mass fraction''' 質量分率*<br><span style="size:large"><math>w_\mathrm{B} = \frac{m_\mathrm{B}}{m}</math></span><br>SI単位: <math>\rm{kg/kg=1}</math>
|-
|}
* 日本語訳は[[#nine_quantities|「IUPAC 物理化学で用いられる量・単位・記号」第3版]]から採用した。
==従来の濃度の定義に基づく分類==
濃度はいかなる混合物にも適用できるが、最もよく使われるのが[[溶液]]に対してであり、この場合、濃度はある[[溶質]] (solute) が[[溶媒]] (solvent) に対してどの程度溶けているかを示す。
成分量および全体量を計量する値の種別により濃度は次のように呼称される。
*[[質量]] - '''質量濃度'''
*[[体積]] - '''体積濃度(容量濃度)'''
*[[物質量]] - '''モル分率'''
質量濃度といった場合は全体量は質量で計測し、体積濃度といった場合は全体量を体積で計測する。
特に断らない限りは「混合物の成分を計量する対象」と「混合物全体を計量する対象」の値と種類は同一であるが、利用目的に応じて異なる種類の計量値の比をもって濃度とする場合も多い。一般には '''w/w''' や '''w/v''' などと記号で表記される場合が多い。この符号は'''w'''eight, '''v'''olumeの頭文字で、分子が成分の計量方法、分母が全体の計量方法を示している。
{{Anchors|体積パーセント濃度|容量パーセント濃度|体積パーセント|容量パーセント|vol%}}単純な体積の比率を示す「体積(容量)パーセント濃度」では「'''vol%'''」の記号を用いるなど、濃度の単位を表す項にvolumeを略した'''vol'''の語を付けるのが一般である。
=== 質量濃度 ===
'''質量濃度'''({{lang-en|mass concentration}})は、成分の質量を全体の質量で割った値である。次元は ML<sup>−3</sup> である<ref>{{Cite web |url=http://goldbook.iupac.org/M03713.html |title=mass concentration |trans-title= |accessdate=2019-05-14 |author=IUPAC |authorlink= |date= |website=IUPAC Gold Book |language=英語 |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=GoldBook_concentration}}</ref>。たとえば空気中の粉塵の量を表すのに用いられる<ref>http://www9.ocn.ne.jp/~thcl/s27.htm </ref>。
==== 質量パーセント濃度(質量分率) ====
このような、質量/質量の濃度では、'''質量パーセント濃度'''が利用されることが多い。質量パーセント濃度とは、質量濃度の単位「w/w」の代わりに100分率記号にweightを略したwtをつけ、「'''wt%'''」を用いて表す単位を使う。単に「%」を使うことがあるが、容量パーセント濃度と混同されかねないため、正式ではない。質量パーセント濃度は、その指数を使って簡単に溶質の量を計算できるほか、濃度の大きさを直感的に扱うことができるため、大まかな濃度を示したいときなど、多くの場面で見られる。質量分率ともいう<ref name="CITAC GUIDE">{{Cite web|和書|url=http://www.citac.cc/CITAC%20GUIDE%20JPN.pdf |title=化学測定におけるトレーサビリティ 化学測定において相互に比較できる結果を得るためのガイド(JCLA PR-24テクニカルノート(3) 附属書B)|trans-title= |accessdate=2019-05-14|author=日本化学試験所認定機構(JCLA) |date= |year=2003 |month= |format=PDF |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=CITAC GUIDE}}</ref>。
「%」とは直訳すると「100あたり」となり、全体を100とした場合どのくらい溶質が含まれるかを表す。質量パーセント濃度の場合その数字の基準となる単位が質量単位ということである。
例として濃度 0.32 g/g のメタノール水溶液で説明する。今、この濃度は水溶液1 gあたりに含まれる[[メタノール]](溶質)の濃度を示している。
これをパーセント濃度(100あたり)に変換するため100倍にする。すると32 g/100 gとなる。これは100 gあたりに32 gの溶質が含まれていることを示す。ここで、濃度を示す単位を g/100 g(100 gあたり{''x''} g)から質量パーセント(%つまり、質量100 gあたり{''x''} g)に置き換えると32 wt%と質量パーセント濃度が求められる。
また、質量パーセント濃度は次の式から直接導くこともできる。
'''質量パーセント濃度 = {溶質(例ではメタノールの質量)/ 全体量(例では水溶液)} × 100 wt%'''
また、きわめて希薄な溶液に対しては百万分率や十億分率の単位が用いられる。
次に例示する分量を示す[[SI接頭語]]と組み合わせた補助単位で希薄度にあわせて濃度が表される。
; 百分率 ([[パーセント|%]]) 濃度
: 比の絶対値に10<sup>2</sup>を乗じて値とする。
; 千分率 ([[パーミル|‰]]) 濃度
: 比の絶対値に10<sup>3</sup>を乗じて値とする。
; 百万分率 ([[ppm]]) 濃度
: 比の絶対値に10<sup>6</sup>を乗じて値とする。
; 十億分率 ([[ppb]]) 濃度
: 比の絶対値に10<sup>9</sup>を乗じて値とする。
; 一兆分率 ([[ppt]]) 濃度
: 比の絶対値に10<sup>12</sup>を乗じて値とする。
==== 物質量/質量 ====
これらと同じように、含まれる[[混合物]](例ではメタノール)の単位として物質量を用いたものが使われる。
例の文章より100 gの液体には、32 gのメタノールが含まれていることがわかるが、メタノールの分子量から算出される物質量(モル)は、'''C = 12.0 - , H = 1.00 - , O = 16.0 -'''とすると、メタノールの分子量は'''CH<sub>3</sub>OH = 12.0 - + 4 × 1.00 - +16.0 - = 32.0 -'''となり、物質量は'''32 g/(32.0 g/mol) = 1.0 mol'''となる。
※「-」とは、単位がない(無次元である)ことを表す記号であり、書かなくてもよい。分子量にg/molという単位をつけるだけで、モル質量となる。
質量モル濃度 ({{lang-en|molality}})上記と同じく、濃度とは全体に対する[[混合物]]の比率であり、1.0 molのメタノールが100 gの液体の中に存在すると考えれば、'''1.0 mol / 100 g = 10 mol/kg'''となる。
上項と同じ単位を用いながら、その内容の示す所は異なる。[[沸点上昇]]や[[凝固点降下]]の計算に用いられる。単位は'''溶質の物質量÷溶媒の質量'''つまり、mol/kgを用いる。
定義は単位'''溶媒'''質量あたりの溶質の物質量。溶液全体に占める物質量でないことに注意されたい。この記事の例では、32 gのメタノールが1.0 molであり、考える溶媒は 100 − 32 g = 68 g となるから、1.0 mol/68 g = 14.7 mol/kgとなる。
=== 体積濃度(容量濃度) ===
体積濃度(容量濃度)とは、全体量を体積単位で計測し、算出する濃度で、基本単位が[[リットル|L(リットル)]]の場合と[[立方メートル]]の場合がある。混合されている試料を計測する単位は、質量や物質量であることが多い。化学の場面において、ある濃度の水溶液を調整する場合、試料を正確な量測り取り、[[メスフラスコ]]などの器具を用いて正確な体積に希釈し調整することが多く、主な化学薬品なども「体積モル濃度」で示されるのが普通である。[[実験|実験操作]]では主に溶液の体積測定が問題となるため、溶液の体積を基にした濃度方式は便利であり、最もよく使われる濃度単位である。
ここでも簡単のため、
'''例、メタノール32.0 gを水で希釈し、100 Lとした[[水溶液]](基本単位はリットルを用いる)。'''
を例として以下に説明する。
==== 質量/体積 ====
上記の例では、100 Lの溶液には32 gの試料(メタノール)が混合していることが読み取れる。
一般的には単位体積あたりの濃度を示すのが普通である。つまり、基本単位であるLあたりのgの濃度を示すことである。
全体量を1Lと調整すると、0.32 g/Lとなる。
規定([[計量法]]上の用語)または[[規定度]]は、主に定量分析に用いられる単位体積 (1 L) に含まれる[[グラム当量]]数を表す。グラム当量数は反応物質の反応に要する物質量、酸塩基反応などの化学反応を1 mol分の反応を完結させるために必要な物質の質量である。詳しくは'''[[化学当量]]'''を参照されたい。
規定は1997年10月1日以降は、[[計量法]]上の[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]ではなくなっており、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることは禁止されている。また、[[工場排水]]試験方法の[[JIS規格]]([[JIS K 0102]])では1993年の改正で廃止されている。なお、[[義務教育]]における[[学習指導要領]]でも扱われない。このように、現在ではほぼ使われなくなって、モル濃度(mol/L)に統一されている。
質量/体積濃度に類似するが、それぞれの試料の種類によって、グラム当量が異なるため同質量でも、[[化学種]]によって規定濃度は異なる。
式では、'''規定 = グラム当量 / 体積''' と表される。
尚、質量/体積の濃度では、パーセント濃度が使われることは少ない。
==== 体積モル濃度(物質量/体積)====
体積モル濃度は最もよく使われる濃度であり、単に'''[[モル濃度]]'''といえば、この体積モル濃度を指す。
そのため、体積[[モル濃度]]の単位「'''mol/L'''」を、'''Mol''' (あるいは'''M''') と表記し、「モーラー」(またはモル)と発音する場合がある。また、実験室レベルのごく少量の溶液を用いる場合は[[SI接頭語]]のミリをあわせ「mmol(ミリモル)」単位を用いることが慣習となっている。Molという濃度単位は[[国際単位系]] (SI) では認められておらず、将来的には「mol/L」に統一されるべきである。ただ、Mという表記は現在でも多くの学術誌で暫定的に使用が容認されており、現状では併用されている。また、[[計量法]]では従来使用が認められていた[[規定度]]から体積モル濃度に置き換える様に勧告している。
以下に体積モル濃度の求め方を示す。
例では、100 Lの試料溶液には32 gのメタノールが混合している。32 gのメタノールの物質量は分子量から約1 molと算出できる。
つまり、100 Lの溶液には1 molのメタノールが混合しており、1 mol/100 Lと濃度を示すことができる。
これを単位体積あたりの濃度に調節すると、0.01 mol/Lとなり、体積モル濃度が求められる。
式で表すと、''' ''M''=''n''/''V''(''M''=体積モル濃度、''n''=物質量、''V''=体積)'''である。
以上を簡単にまとめると以下になる。
'''CH<sub>3</sub>OH = 32.0 -とすると、(32.0 g/(32.0 g/mol))/100 L = {{val|1.00|e=-2|u=mol/L}}'''
このように体積モル濃度は物質量を全体量の体積で除したものである。物質量は溶質の質量から分子量を使って求められるため、「質量パーセント濃度」などの一般的な濃度単位から「体積モル濃度」へ変換する場合、密度などから溶質の質量を算出した後、物質量を決定し、体積で割ることで変換できる。
仮に、密度1000 g/Lである質量パーセント濃度32 wt%のメタノール水溶液が与えられた場合、体積1 Lの水溶液に含まれるメタノールの質量は密度と質量パーセント濃度から320 gと求められる。このときの物質量は分子量から10 molと算出でき、それより体積モル濃度を10 mol/Lと決定することができる。
==== 式量濃度 ====
式量濃度は体積濃度の一つで、単位体積中に含まれる混合物の[[式量|グラム式量数]]で定義され'''分析濃度'''や'''全濃度'''と呼ばれることもある。体積モル濃度に似るが、酸や等の解離性の化学種や錯体形成反応等、溶液中で物質量が変化する場合ではこのような濃度が用いられる。
式量濃度は含まれる化学種すべての濃度の総和であり、化学種の平衡濃度(溶液中で化学反応が見かけ上起こらなくなった状態の濃度)を[[解離定数]]や[[溶解度定数]]等の[[平衡定数]]から簡単に求めることができる。詳しくは'''[[規定度]]'''なども参照されたい。
'''ここでは例として、解離性の化学種(A)32 gを水で希釈し、100Lとした水溶液を用いる。尚、この化学種(A)の分子量は32であり、水溶液中で40 %解離し、化学種(B)を生じるとする。'''
この化学種(A)の物質量は1 molであり、式量濃度は体積モル濃度と同じように0.01 mol/Lと算出できる。ここで、水溶液中の体積モル濃度を式量濃度から求めることができる。
水中で化学種(A)は40 %解離し化学種(B)を生じている。つまり、式量濃度(全濃度)0.01 mol/Lの40 %が化学種(B)の体積モル濃度である。つまり0.01×0.4 mol/L=0.004 mol/Lと簡単に計算できる。また同じように化学種(A)は60 %存在するため、0.006 mol/Lと求めることができる。
このように系の中に含まれる物質の式量濃度(全濃度)を求めることは、さらに複雑な解離、錯形成反応を起こす化学種のモル濃度を求める際にも非常に有用である。
=== モル分率 ===
モル分率は、全体量と混合試料ともに物質量を基準とし、算出する単位である。体積などのように[[温度]]に依存することがないため、[[物性]]の異なる多成分を含んだ系に使われることが多い。混合物の物質量/全体の物質量で表される。このため含まれるすべての物質のモル分率の総和や純物質のモル分率は1である。
ここでは次の例を用いる。
'''例、メタノール32 gを水で希釈し、100 gとした水溶液。'''
この溶液にはメタノールが32 g(1 mol)含まれる、全体量からの差から求めると、このとき水は68 g含まれている。68 gの水は分子量から求めると3.8 molと算出できる。
つまり、このときこの溶液にはメタノール1.0 molと水3.8 mol、あわせて4.8 molが含まれている。モル分率は混合物の物質量/全体の物質量であるから、メタノールを混合物とすると'''1.0 mol/4.8 mol=0.21'''と算出できる。同じように、水のモル分率は約0.79となる。
=== 力価 ===
溶液の濃度を表す単位として、[[力価]] (タイター) というものが用いられることとなる。これは化学において主にmmol/Lの単位が主に慣習として用いられることから使用される単位である。
力価の単位は、それらと同じように単位体積あたりの質量であるが、'''基準となる試薬とちょうど反応しあうだけの試薬の質量'''を示す。
簡単のため、次の例を用いる。
'''例、基準として5 mgの[[水酸化ナトリウム]]試薬がある。これを[[塩酸]]溶液1 mLで[[中和]]したとする。'''
このとき、塩酸水溶液1 mLには5 mgの水酸化ナトリウムを中和する力があると考えることができる。このことから、力価は基準となる水酸化ナトリウム試薬5 mgを1 mLで中和する塩酸の濃度と考えることができ、塩酸の濃度は水酸化ナトリウム力価5 mg/mLと表すことができる。
力価はグラム当量に関係するため、規定度に容易に換算することができる。二つを表す式を比較すると、'''力価=mg/mL 規定度=mg/mL×グラム当量''' であり、すなわち '''力価=規定度×グラム当量''' である。
[[定量分析]]などにおいては、力価を正確に測定するため、いくつかの基準試薬([[シュウ酸]]など)から何回かの[[滴定]]を行い決定する。
=== その他 ===
体積は溶液の密度が混合比により変化したり、溶液の熱膨張により密度が変化する為、体積を用いる濃度は正確な計量には使いにくい指標である{{要出典|date=2017年6月}}。
一方、定量分析の滴定では試薬量を体積で測る場合が多い為に、全体量は体積とするが成分量は物質量で計った'''体積モル濃度'''(mol/L)や試薬のモル当量で計った規定濃度が利用される。前述の様に体積が持つ不確かさを相殺する為に、各測定実験毎に[[逆滴定]]で濃度のファクター(補正係数)を決定する必要がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="GoldBook_concentration">IUPAC.''“concentration”''. IUPAC Gold Book.</ref>
}}
== 参考資料 ==
* {{Cite book|和書|author=IUPAC |authorlink= |translator=[[産業技術総合研究所]]計量標準総合センター |editor= |others=[[日本化学会]]監修 |title=物理化学で用いられる量・単位・記号 |origdate= |origyear= |url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/translation/IUPAC/iupac/iupac_green_book_jp.pdf |accessdate=2019-05-14 |edition=3 |date= |year= |publisher=[[講談社]] |ref=nine_quantities}}
* {{Cite book|author=IUPAC |authorlink= |translator= |editor= |others= |title=IUPAC Green Book |origdate= |origyear= |url=http://old.iupac.org/publications/books/gbook/green_book_2ed.pdf |format=PDF |accessdate=2019-05-14 |edition=2 |date= |year= |publisher=RSC Publishing |chapterurl= |quote= |language=英語|ref=IUPAC Green Book 第2版}}
* {{Cite web |url=http://goldbook.iupac.org/html/C/C01222.html |title=concentration |trans-title= |accessdate=2019-05-14 |author=IUPAC |authorlink= |date= |website=IUPAC Gold Book |language=英語 |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=GoldBook_concentration}}
* {{Cite book|和書|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |translator= |editor=日本化学会 |others= |title=標準化学用語辞典 |origdate= |origyear= |url=http://pub.maruzen.co.jp/shop/4621075314.html |format= |accessdate= |edition=2 |date= |year=2005 |publisher=[[丸善雄松堂|丸善]] |location= |series= |language= |id= |isbn= |oclc= |doi= |volume= |page= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref=標準化学用語辞典}}
== 関連項目 ==
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{{ウィキプロジェクトリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキプロジェクト 化学]]}}
* [[計量法]]
* [[法定計量単位]]
* [[SI単位]]
* [[非SI単位]]
* [[物質量]]
* [[規定度]]
* [[化学当量]]
* [[水素イオン指数]]
* [[モル濃度]]
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[[Category:物理量]] | 2003-03-28T03:33:41Z | 2023-12-15T22:01:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%BA%A6 |
5,377 | 瀬名秀明 | 瀬名 秀明(せな ひであき、Hideaki Sena、1968年1月17日 - )は、日本の小説家、薬剤師。学位は博士(薬学)(東北大学・1996年)。瀬名秀明事務所代表。本名は鈴木 秀明(すずき ひであき)。
宮城大学看護学部講師、東北大学大学院工学研究科特任教授、日本SF作家クラブ会長(第16代)などを歴任した。
静岡県出身のSF作家、ホラー作家である。『パラサイト・イヴ』でデビューし、『BRAIN VALLEY』で日本ホラー小説大賞を受賞した。近年はロボット関係の著述活動に力を入れている。博士(薬学)の学位を持ち、薬剤師の免許を取得している。日本SF作家クラブでは第16代会長に就任した。
東北大学大学院薬学研究科在学中に『パラサイト・イヴ』で作家デビューした。高校時代に創刊されたハヤカワ文庫モダンホラー・セレクションを全て読み、大学・大学院進学後は(大学がある)宮城県仙台市の丸善でモダンホラー小説の原書を購入して愛読し、日本ホラー小説大賞への応募を決めた後は国産ホラー小説も読むようになった。
大学院修了後、宮城大学看護学部の講師を経て、東北大学大学院工学研究科の特任教授(SF機械工学企画担当)に就任。講義などは行わず、大学の広報活動やロボット工学に関する作品の執筆、一般向けの講演活動を行い、文芸誌や科学誌で科学と人間に関したコラムや対談を多くこなした。本人のウェブサイトによると、2006年に航空機の操縦免許を取得したという。
映画監督押井守のファンで、『機動警察パトレイバー the Movie』と『機動警察パトレイバー2 the Movie』を好きな作品に挙げる。
父は静岡県立大学名誉教授でインフルエンザウイルスの研究を行っている鈴木康夫である。瀬名の著書『インフルエンザ21世紀』の監修を行った。
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] | 瀬名 秀明は、日本の小説家、薬剤師。学位は博士(薬学)(東北大学・1996年)。瀬名秀明事務所代表。本名は鈴木 秀明。 宮城大学看護学部講師、東北大学大学院工学研究科特任教授、日本SF作家クラブ会長(第16代)などを歴任した。 | {{複数の問題|一次資料=2015年9月6日 (日) 15:55 (UTC)|脚注の不足=2015年9月6日 (日) 15:55 (UTC)}}
{{Infobox 作家
| name = <!-- 氏名記入欄。 日本人国籍者で姓と名がある場合は間に半角スペースを入れ、名の後に<br />をつけた後(姓と名のふりがなをつける。)と記入する。 -->瀬名 秀明<br />(せな ひであき)
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| influenced = <!-- 影響を与えた作家名 -->
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'''瀬名 秀明'''(せな ひであき、{{スペル|Hideaki Sena|lang=ja-Latn}}、1968年1月17日 - )は、[[日本]]の[[小説家]]、[[薬剤師]]。[[学位]]は[[博士(薬学)]]([[東北大学]]・1996年)。瀬名秀明事務所[[代表]]。[[本名]]は'''鈴木 秀明'''(すずき ひであき)。
[[宮城大学]][[看護学部]][[講師 (教育)|講師]]、東北大学大学院[[工学研究科]][[特任教授]]、[[日本SF作家クラブ]]会長(第16代)などを歴任した。
== 概要 ==
[[静岡県]]出身の[[SF作家]]、[[ホラー作家]]である。『[[パラサイト・イヴ]]』でデビューし、『[[BRAIN VALLEY]]』で[[日本ホラー小説大賞]]を受賞した。近年は[[ロボット]]関係の著述活動に力を入れている。[[博士(薬学)]]の[[学位]]を持ち、[[薬剤師]]の免許を取得している。[[日本SF作家クラブ]]では第16代[[会長]]に就任した。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[東北大学]][[大学院]][[東北大学大学院薬学研究科|薬学研究科]]在学中に『パラサイト・イヴ』で作家デビューした。高校時代に創刊された[[ハヤカワ文庫]]モダンホラー・セレクションを全て読み、大学・大学院進学後は(大学がある)[[宮城県]][[仙台市]]の[[丸善ジュンク堂書店|丸善]]でモダンホラー小説の原書を購入して愛読し、日本ホラー小説大賞への応募を決めた後は国産ホラー小説も読むようになった<ref name="読売20200617"/>。
=== 小説家、大学教員として ===
大学院修了後、[[宮城大学]][[看護学部]]の[[講師 (教育)|講師]]を経て、[[東北大学]][[大学院]][[工学研究科]]の特任教授(SF機械工学企画担当)に就任。講義などは行わず、大学の広報活動や[[ロボット工学]]に関する作品の執筆、一般向けの講演活動を行い、文芸誌や科学誌で科学と人間に関したコラムや対談を多くこなした。本人のウェブサイトによると、2006年に航空機の操縦免許を取得したという。
== 人物 ==
映画監督[[押井守]]のファンで、『[[機動警察パトレイバー the Movie]]』と『[[機動警察パトレイバー2 the Movie]]』を好きな作品に挙げる。
== 家族・親族 ==
父は[[静岡県立大学]][[名誉教授]]で[[インフルエンザウイルス]]の研究を行っている[[鈴木康夫]]である。瀬名の著書『インフルエンザ21世紀』の監修を行った。
== 略歴 ==
* [[1986年]]([[昭和]]61年) - [[静岡県立静岡高等学校]]卒業。
* [[1990年]]([[平成]]2年) - [[東北大学薬学部]]卒業。
* [[1993年]](平成5年) - 正月に[[日本ホラー小説大賞]]創設の新聞広告を見て応募を決意。同年創刊の[[角川ホラー文庫]]作品を読みまくる。[[折原一]]の影響を受けて書いた叙述[[ミステリ]]風味の作品で応募。3次予選で落選するも「次回も応募を」との手紙を受け取る<ref name="読売20200617">【始まりの1冊】『パラサイト・イヴ』1995年 瀬名秀明さん 大学院の研究をホラーに『[[読売新聞]]』朝刊2020年5月17日</ref>。
* [[1995年]](平成7年) - 『[[パラサイト・イヴ]]』で第2回日本ホラー小説大賞を受賞し、作家デビュー(同作は、[[三上博史]]主演で映画化され、また[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]によってゲーム化もされた。2005年9月に全米で英訳本出版)<ref>{{Cite web|和書|url=https://awards.kadobun.jp/yokomizo/winners/ |title=日本ホラー小説大賞 受賞作品 |accessdate=2020-02-27}}</ref>。自分が研究している[[ミトコンドリア]]をテーマにすることは、[[NHKスペシャル]]『[[生命40億年はるかな旅]]』を見て着想した<ref name="読売20200617"/>。
* [[1996年]](平成8年) - [[東北大学大学院薬学研究科]]博士課程修了。
* [[1997年]](平成9年)
** [[宮城大学]][[看護学部]]常勤講師となる。
** 『[[BRAIN VALLEY]]』で第19回[[日本SF大賞]]受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://sfwj.jp/awards/winners/ |title=日本SF大賞 |accessdate=2020-02-27}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年) - 宮城大学を離職。
* [[2006年]](平成18年) - 東北大学工学研究科機械系の特任教授(SF機械工学企画担当)に就任。
* [[2009年]](平成21年)3月31日 - 同特任教授退任。
* [[2011年]](平成23年)10月 - 第16代[[日本SF作家クラブ]]会長就任<ref name="sfwj_about">{{Cite web|和書|url=http://sfwj.jp/about/ |title=歴代会長・事務局長 |accessdate=2020-02-27}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)3月1日 - 日本SF作家クラブ会長職を辞任し、同時に日本SF作家クラブを退会<ref name="sfwj_about" />。
* [[2021年]](令和3年) - 『NHK 100分de名著『アーサー・C・クラークスペシャル ただの「空想」ではない』』で第52回[[星雲賞]]ノンフィクション部門受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sf-fan.gr.jp/awards/2021result.html|title=2021年 第52回星雲賞|accessdate=2021-7-23|publisher=日本SFファングループ連合会議}}</ref>。
== 著作 ==
=== 小説 ===
* [[パラサイト・イヴ]](1995年4月30日 [[角川書店]] / 1996年12月10日 角川ホラー文庫 / 2007年2月1日 [[新潮文庫]])
* [[BRAIN VALLEY]] (1997年12月5日 角川書店【上・下】 / 2000年12月25日 [[角川文庫]]【上・下】 / 2005年10月1日 新潮文庫【上・下】)
* 八月の博物館(2000年10月30日 角川書店 / 2003年6月25日 角川文庫 / 2006年10月1日 新潮文庫)
* 虹の天象儀(2001年11月10日 [[祥伝社文庫]]) - ([[天文博物館五島プラネタリウム|五島プラネタリウム]]、[[東日天文館]]を舞台にしている)
* あしたのロボット(2002年10月15日 [[文藝春秋]])
** 【改題】ハル(2005年10月10日 [[文春文庫]])
* デカルトの密室 (2005年8月30日 [[新潮社]] / 2008年6月1日 新潮文庫)
* 第九の日 The Tragedy of Joy(2006年6月25日 [[光文社]] / 2008年12月20日 [[光文社文庫]])
* ゴッサマー・スカイ(2007年12月14日 e-novels)
* Every Breath エヴリブレス(2008年3月25日 [[TOKYO FM出版]])
** 【改題】エヴリブレス (2012年11月15日 [[徳間文庫]])
* [[小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団]](2011年3月2日 [[小学館]] / 2022年3月4日 小学館文庫)
* 希望(2011年7月15日 [[ハヤカワ文庫]]JA)
* 大空のドロテ I(2012年10月10日 [[双葉社]])
* 大空のドロテ II(2012年11月25日 双葉社)
* 大空のドロテ III(2012年12月23日 双葉社)
** 大空のドロテ (2015年11月15日 [[双葉文庫]]【上・下】)
* 月と太陽(2013年10月28日 [[講談社]] / 2015年10月15日 [[講談社文庫]])
* 夜の虹彩(2014年1月25日 [[出版芸術社]])
* 新生(2014年2月28日 [[河出書房新社]])
* この青い空で君をつつもう(2016年10月23日 双葉社 / 2020年3月15日 双葉文庫)
* 魔法を召し上がれ(2019年5月14日 講談社)
* 小説 [[ブラック・ジャック]](2019年7月26日 [[誠文堂新光社]])
* ポロック生命体 (2020年2月25日 新潮社 / 2022年10月28日 新潮文庫 )
=== ノンフィクション ===
* 小説と科学 文理を超えて創造する(1999年4月23日 [[岩波書店]])
** 【増補・改題】ハートのタイムマシン! 瀬名秀明の小説 / 理科倶楽部(2002年11月25日 角川文庫)
* ロボット21世紀(2001年7月20日 [[文春新書]])
* おとぎの国の科学(2006年6月30日 [[晶文社]])
* 瀬名秀明ロボット学論集(2008年12月20日 [[勁草書房]])
* 大空の夢と大地の旅 ぼくは空の小説家(2009年9月25日 光文社)
* インフルエンザ21世紀(2009年12月20日 文春新書)
* ロボットとの付き合い方、おしえます(2010年10月30日 [[河出書房新社]])
* 世界一敷居が低い最新医学教室(2011年4月15日 [[ポプラ社]])
* 科学の栞 世界とつながる本棚(2011年12月30日 [[朝日新書]])
* SF作家 瀬名秀明が説く! さあ今から未来についてはなそう(2012年11月5日 [[技術評論社]])
* [[100分de名著]]「[[アーサー・C・クラーク]]」スペシャル 2020年3月(2020年3月1日 [[NHK出版]])<ref>2020年2月25日発売。https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231092020.html</ref>
=== 共著 ===
* 「神」に迫るサイエンス──BRAIN VALLEY 研究序説──(1998年3月5日 角川書店 / 2000年12月25日 角川文庫) - 共著:[[澤口俊之]]、[[山元大輔]]、[[佐倉統]]、[[金沢創]]、[[山田整]]、[[志水一夫 (作家)|志水一夫]]
* エンパラ―旬な作家15人の素顔に迫るトーク・バトル(1998年6月 光文社文庫)
* ミトコンドリアと生きる(2000年12月1日 角川Oneテーマ21) - 共著:[[太田成男]]
** 【増補・改題】ミトコンドリアのちから(2007年9月1日 新潮文庫)
* 瀬名秀明 奇石博物館物語 課外授業ようこそ先輩別冊(2001年9月20日 [[KTC中央出版]])
* ホラーを書く!(2002年6月 小学館文庫)
* ハイテク社会を生きる(2003年3月 [[北樹出版]]) - 共著:[[塚原東吾]]、[[菊池聡]]、[[矢部史郎]]
* 岩波講座ロボット学1 ロボット学創成(2004年9月17日 岩波書店) - 共著:[[井上博允]]、[[金出武雄]]、[[安西祐一郎]]
* 知能の謎 認知発達ロボティクスの挑戦(2004年12月20日 [[講談社ブルーバックス]])
* シンポジウム・ライヴ 総合科学!?(2005年3月25日 [[丸善雄松堂|丸善]]) - 共著:[[阿部謹也]]、[[長谷川真理子]]、[[佐藤正樹]]、[[加藤徹]]
* 心と脳の正体に迫る 成長・進化する意識、遍在する知性(2005年9月30日 [[PHP研究所]]) - 共著:[[天外伺朗]]
* 境界知のダイナミズム(2006年12月15日 岩波書店) - 共著:[[橋本敬]]、[[梅田聡]]
* ロボットのおへそ(2009年1月30日 丸善ライブラリー) - 共著:[[稲邑哲也]]、[[池谷瑠絵]]
* パンデミックとたたかう(2009年11月20日 [[岩波新書]]) - 共著:[[押谷仁]]
* 未来への周遊券(2010年3月2日 [[ミシマ社]]) - 共著:[[最相葉月]]
* 東大博士が語る理系という生き方(2010年10月5日 PHPサイエンス・ワールド新書) - 共著:[[池谷裕二]]
* 貢献する心 ヒトはなぜ助け合うのか(2012年2月10日 [[工作舎]]) - 共著:[[上田紀行]]、[[大武美保子]]、[[谷川多佳子]]、[[長谷川眞理子]]、[[大橋力]]
* [[100分de名著]] for ティーンズ 2018年8月(2018年8月1日 [[NHK出版]])<ref>2018年7月25日発売。https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062230892018.html</ref> - 共著:[[ヤマザキマリ]]、[[若松英輔]]、木下裕一
*ウイルスVS人類 (2020/6/19、文春新書) - 共著 [[押谷仁]], [[五箇公一]], [[岡部信彦]], [[河岡義裕]], [[大曲貴夫]]
=== アンソロジー ===
「」内が瀬名秀明の作品
* 絆(1996年8月 角川書店)「Gene」
** 【改題】ゆがんだ闇(1998年4月 角川文庫)
* 逆想コンチェルト 奏の2 イラスト先行・競作小説[[アンソロジー]](2010年8月 [[徳間書店]])「For a breath I tarry」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 3 書き下ろし日本SFコレクション]](2010年12月 [[河出文庫]])「希望」
* [[鉄人28号]] THE NOVELS(2012年11月 [[小学館クリエイティブ]])「プロメテウスの悪夢」
* SF JACK(2013年3月 角川書店)「不死の市」
* NOVA 10 書き下ろし日本SFコレクション(2013年7月 河出文庫)「ミシェル」
* 2030年の旅(2017年10月 [[中公文庫]])「144C」
* 謎々 [[将棋]] [[囲碁]](2018年2月 角川春樹事務所)「負ける」
=== 編著 ===
* 贈る物語 Wonder(2002年11月25日 光文社)
** 【改題】贈る物語 Wonder すこしふしぎの驚きをあなたに(2006年11月20日 光文社文庫)
* ロボット・オペラ(2004年6月25日 光文社)
* 科学の最前線で研究者は何を見ているのか(2004年7月20日 [[日本経済新聞社]])
* サイエンス・イマジネーション 科学とSFの最前線、そして未来へ(2008年8月3日 [[NTT出版]])
=== 解説 ===
* 瀬名秀明解説全集+α(2008年2月1日 e-novels)
* [[藤子・F・不二雄]]大全集『[[ドラえもん]]』7巻(2010年4月28日 [[小学館]])
* [[星新一]]『星新一 すこしふしぎ傑作選』(2013年11月10日 [[集英社]])
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://senahideaki.com/ 瀬名秀明公式ページ] - 公式ウェブサイト
* {{Wayback|url=http://www.senahideaki.com/|title=瀬名秀明の博物館-senahideaki.com|date=20140726185410}}(公式ウェブサイト)
* {{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~fx2h-szk/katharine/|title=瀬名秀明の博物館|date=20011004130805}}(旧公式ウェブサイト)
* {{Wayback|url=http://www.mech.tohoku.ac.jp/sena/|title=東北大学工学部・工学研究科 <nowiki>|</nowiki> 瀬名秀明がゆく!東北大学工学部機械系|date=20200219091358}}(瀬名を紹介する東北大学機械系のページ)
{{パラサイト・イヴ}}
{{日本SF大賞|第19回}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:せな ひてあき}}
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本のホラー作家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:日本の薬剤師]]
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[[Category:博士(薬学)取得者]]
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[[Category:静岡県立静岡高等学校出身の人物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%90%8D%E7%A7%80%E6%98%8E |
5,379 | トロール | トロールまたはトロル(丁: trold、典: troll)とは、北欧の国、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種である。
北欧ではトロルド、トロールド、トラウ、トゥローと呼ばれる。当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として描かれている。変身能力があるのでどんな姿でも変身できる。
どのような存在であるかについては様々な描写があり、一定しない。ただし、鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。別格のトロールたちには二つまたは三つの頭がある。
ノルド語の「Troll」は、怪物や妖精を指す一般名詞で、『巫女の予言』ではスコッルについて「トロッルの姿」をしていると表現され、『エッダ』の詩語法67章にひかれる『老ブラギの歌』でも「トロッルは天の輪を呑みこむ」とある。また民話におけるトロールは、『エッダ』での「ヨトゥン」と互換性のある語として使われることから巨人とされる。
魔術は「トロッルの審判」と呼ばれ、魔女、魔術師は、トロッル的な属性を備えているとされるが、神話の時代に魔術を使うとされた女性の巨人ギューグの末裔で女性のトロール「トロールコナ」は、一応腕力も持つとされるほか、魔術を使うとされる。
一般的なトロールについてのイメージは、巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せる。醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くない。凶暴、もしくは粗暴で大雑把、というものである。
彼らと他種族との間にできる混血児は、ハールヴトロールと呼ばれ、『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』に登場するアルングリムArngrímr(英語版記事)の他、エギル・スカラグリームスソンなどアイスランドの豪傑の祖にしてトロール女を母に持つグリム・ロッデンキンドなどが著名である。
『幻獣大全』によれば、トロールが非ゲルマン系のフィンランドにもいる点とその生息域について、ヨトゥンのモデルと思われるサプメラシュ(サーミ人)の生活圏、いわゆるラップランドと重なる点が指摘される。またサプメラシュの中では、トロールの亜種と考えられる、怪力で人を食う人型の怪物スターッル(Stallu)が言い伝えられている。こちらも各地へ伝播しフィンランド語でスターロ(Staalo)、スウェーデン語でスタッロ(Stallo(英語版記事))と言われている。
基本的に丘や塚に住むため「丘の民(Haugfolk)」とも呼ばれる彼らは、地下に金銀財宝を蓄え、類縁である大地の精を繰り鉱石や宝石を集める、太陽光あるいはライムギで出来たパンを食べると死ぬ、十字架またはその印には触れられない、ビールの醸造は得意、人間を食べる、人間の子供を攫い、自種族の子供を置く「取り替え子」を行うと言った共通した特徴がある。
キャロル・ローズによれば、各地によって若干違うトロール伝承がある。
女のトロルは美しく長い赤毛をしているとされた。
ペテル・クリスティン・アスビョルンセンとヨルゲン・モー(英語版)の『ノルウェー民話集』所収の『ヘダルの森でトロールに出会った少年たち』では、1つの目を3人で共有するトロールが登場する。
ノルウェーの人の中では、日常生活でふっと物が無くなった際には「トロールのいたずら」と言われる。
また、ほとんどの御土産物屋にトロールの人形が販売されており高い人気を博している。陶器製、マグネット製、紙製、キーホルダー製など実に様々なものがあり、トロールの姿も男性、女性、子供、老人、中にはヴァイキング姿、サッカー姿、サーファー姿、スキーヤー姿など実に様々なものがあり、中にはアンティークコレクションとして評価の高いものも数多く存在する。
デンマークではTroldと呼ばれ、白く長いあごひげの老人として、赤い帽子、革エプロン姿で描かれる。
エブレトフトのトロルは背中にこぶがあり大きな鉤鼻、灰色ジャケット、とがった赤い帽子を着ている。グドマンストルップのトロルは背が高く黒く長い服を着ている。
また、よく「ヒキガエル」の姿をしているとされる、スコーブ・トロルデ(木のトロール)、ベルクフォルク、ビュルク・トロルデと呼ばれる小さなトロールが知られている。。
スカンジナビア半島では小人の妖精とされる。
トロルは丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作り暮らすためスウェーデンではベルグフォルク(丘の人々)と呼ばれた。彼等の住処は財宝でいっぱいで夜になると光り輝くと言われた。彼らは騒音を嫌い鐘や教会からは離れて暮らした。気に入った人間には富と幸運をもたらし、気に入らないものには不運と破壊をもたらした。また女子供をさらい財宝を盗む。さらわれないためには人も動物もヤドリギの枝を身に着ける。金属工芸にも秀で、薬草や魔法を使った治療にも秀でていると言う。日の光に当たると石に変わるため、夕暮れ時から明け方までしか姿を見せない。
デンマーク領フェロー諸島ではフォッデン・スケマエンドと呼ばれる。彼らは「うつろな人々」、「地下の人々」であり人をさらって何年も捕らえておくと言う。。
アイスランドでは一つ目の邪悪な巨人である。。
フィンランドでは池にすむ邪悪なシェートロールとして知られ、霧が出たり嵐が来ると人々はトロールが池から出てきて人を溺れさせると言う。。またサプメラシュ(Sapmelas)の間で恐れられているスターッルと同系のフィンランド語で言われるスターロと呼ばれるものが言い伝えられているが、彼らは「月明りだけで歩ける夜」に子供を悪いものに掴まらぬよう守ってくれるといわれる。
シェットランド諸島やオークニー諸島ではトロールと同系の語「トロー(Trow)」と呼ばれる小さなトロールが言い伝えられている。彼らは善なるものランド・トロー、その一般的な種ピーリー・トロー、海に住むシー・トローの種に分かれると言う。彼らは緑が覆う日当たりのよい丘の斜面の地下に出口と入り口のある住居を構え、壁を金銀で飾り奇妙な形の家具を揃えているとされる。それを掘り起こすと罰を与えられるといわれるほか、姿を見るのも運が悪いとされる。ただ声を聴くのは運のいいこととされ、さらに彼らの音楽はスコットランド、アイルランド双方の音楽的特性を持ち、彼らから習ったあるいは聞いた人間の奏でる音楽はフェルリ―テューンズと呼ばれる。
トローあるいはトロウは、灰色または灰緑色の衣服をまとっているため「灰色のお隣さん(the grey neighbours)」と呼ばれる。彼らは音楽を好み、バイオリンかフィドルをよく奏で、複雑なステップを踏みながら踊り「妖精の輪」を作る。この内、goosedanceと呼ばれるダンスを行う「ヘンキー(Henkies)」と呼ばれる者が知られている。
太陽光は苦手で、日にあたると動けなくなる。いわゆるユールの期間には夜が長くなるため活動期間が長くなり、人間は気を付けなければならないとされる。
盗癖があり、特に銀を狙うほか、牛などを奪う際にはエルヴンボルトと呼ばれるもので倒した後、「事故死」したような偽物を置いていく、出産したばかりの母親、洗礼を受けていない子供を奪い、子供には代わりにチェンジリングを置くとされ、また仲間内での窃盗は追放される程度の罪とされる一方で、好みの人間には祝福を与えるとされる伝承や、ブーナーと呼ばれる「人間の仕事を手伝う」ものも伝えられている。
クナル・トロウ(Kunal Trow)と呼ばれる王トロウは人間に似ているが、陰気で、男性しかいない。後継者は人間の女性との交配によるが、配偶者の女性は出産後死亡するといわれる。
オークニー諸島のトロウは主に海や湖の水辺に住むといわれるが、他の地域での海のトロウは、海底に自分の領地を作り、上質な海産物で住居を拵える。彼らは海底で特別な空気を呼吸する上、水中へ出る際は、魚の皮を下半身に穿いていわゆる人魚となるが、アザラシの皮を着たものはセルキーと呼ばれる。
キャロル・ローズはグリーンランド、カナダのイヌイット、イハルシュミット族に伝わる「邪悪な巨人」について、丘陵地に住み毛の生えていない腹を地面へ引きずり指には鉤爪が生え物陰に潜み人を襲い肉を引き裂く機会をうかがっているといわれる描写がトロールに似ると指摘している。
J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』では、モルゴスの被造物として登場する。エントを模したものとされる。通常の武器が通じないほど堅い皮膚を持つが、太陽光を浴びると石化するとされた。続編の『指輪物語』では、サウロンによって生み出された凶暴な上位種「オログ=ハイ(Olog-hai)」が登場。その身を巨大な剣や鎧で武装しており、知能、戦闘能力も向上。また太陽光を浴びても石化しない。サウロン配下の中でも単純な近接戦闘においては無類の強さをみせ、兵士というより洗脳された生物兵器として運用され、前線突破や城壁破壊などに投入された。「一つの指輪」が破壊され力の源泉たるサウロンが滅びると、共に滅んだ。
主に英語圏で、ゲームや電子掲示板において否定的な書き込みなどの荒らしを行う人の事を「インターネット・トロル」と呼ぶ。もしくはただ単に「トロール」ということもある。転じて、「パテント・トロール」のように普遍的な迷惑行為を行う人物を指すこともある。元々、英語圏では「厄介者」を指して、稀に「トロール」と呼ぶ事からインターネットミームの一つとして成立した。 | [
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"text": "フィンランドでは池にすむ邪悪なシェートロールとして知られ、霧が出たり嵐が来ると人々はトロールが池から出てきて人を溺れさせると言う。。またサプメラシュ(Sapmelas)の間で恐れられているスターッルと同系のフィンランド語で言われるスターロと呼ばれるものが言い伝えられているが、彼らは「月明りだけで歩ける夜」に子供を悪いものに掴まらぬよう守ってくれるといわれる。",
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"text": "シェットランド諸島やオークニー諸島ではトロールと同系の語「トロー(Trow)」と呼ばれる小さなトロールが言い伝えられている。彼らは善なるものランド・トロー、その一般的な種ピーリー・トロー、海に住むシー・トローの種に分かれると言う。彼らは緑が覆う日当たりのよい丘の斜面の地下に出口と入り口のある住居を構え、壁を金銀で飾り奇妙な形の家具を揃えているとされる。それを掘り起こすと罰を与えられるといわれるほか、姿を見るのも運が悪いとされる。ただ声を聴くのは運のいいこととされ、さらに彼らの音楽はスコットランド、アイルランド双方の音楽的特性を持ち、彼らから習ったあるいは聞いた人間の奏でる音楽はフェルリ―テューンズと呼ばれる。",
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"text": "オークニー諸島のトロウは主に海や湖の水辺に住むといわれるが、他の地域での海のトロウは、海底に自分の領地を作り、上質な海産物で住居を拵える。彼らは海底で特別な空気を呼吸する上、水中へ出る際は、魚の皮を下半身に穿いていわゆる人魚となるが、アザラシの皮を着たものはセルキーと呼ばれる。",
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"text": "キャロル・ローズはグリーンランド、カナダのイヌイット、イハルシュミット族に伝わる「邪悪な巨人」について、丘陵地に住み毛の生えていない腹を地面へ引きずり指には鉤爪が生え物陰に潜み人を襲い肉を引き裂く機会をうかがっているといわれる描写がトロールに似ると指摘している。",
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"text": "J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』では、モルゴスの被造物として登場する。エントを模したものとされる。通常の武器が通じないほど堅い皮膚を持つが、太陽光を浴びると石化するとされた。続編の『指輪物語』では、サウロンによって生み出された凶暴な上位種「オログ=ハイ(Olog-hai)」が登場。その身を巨大な剣や鎧で武装しており、知能、戦闘能力も向上。また太陽光を浴びても石化しない。サウロン配下の中でも単純な近接戦闘においては無類の強さをみせ、兵士というより洗脳された生物兵器として運用され、前線突破や城壁破壊などに投入された。「一つの指輪」が破壊され力の源泉たるサウロンが滅びると、共に滅んだ。",
"title": "フィクション作品のトロール"
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"text": "主に英語圏で、ゲームや電子掲示板において否定的な書き込みなどの荒らしを行う人の事を「インターネット・トロル」と呼ぶ。もしくはただ単に「トロール」ということもある。転じて、「パテント・トロール」のように普遍的な迷惑行為を行う人物を指すこともある。元々、英語圏では「厄介者」を指して、稀に「トロール」と呼ぶ事からインターネットミームの一つとして成立した。",
"title": "インターネット・トロル"
}
] | トロールまたはトロルとは、北欧の国、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種である。 | {{Otheruses|北欧の妖精|その他|トロール (曖昧さ回避)}}
[[Image:Theodor Kittelsen - Skogtroll, 1906 (Forest Troll).jpg|thumb|right|220px|森のトロール ([[テオドール・キッテルセン]], 1906).]]
[[画像:Troll mag2.JPG|thumb|right|220px|ノルウェー国旗の盾を持つバイキング姿のトロール(マグネット製)]]
'''トロール'''または'''トロル'''({{lang-da-short|trold}}、{{lang-sv-short|troll}})とは、[[スカンジナビア|北欧]]の国、特に[[ノルウェー]]の[[伝承]]に登場する[[妖精]]<ref>英語版WikipediaではCategory:Fairiesの中にはなMythic humanoidsなどに分類されている。</ref>の一種である。
== 概要 ==
北欧では'''トロルド'''、'''トロールド'''、'''トラウ'''、'''トゥロー'''と呼ばれる。当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として描かれている。変身能力があるのでどんな姿でも変身できる。
どのような存在であるかについては様々な描写があり、一定しない。ただし、鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。別格のトロールたちには二つまたは三つの頭がある<ref>ボルヘス『幻獣辞典』203頁。</ref>。
[[ノルド語]]の「Troll」は、怪物や妖精を指す一般名詞で、『[[巫女の予言]]』では[[スコッル]]について「トロッルの姿」をしていると表現され、『[[エッダ]]』の詩語法67章にひかれる『老ブラギの歌』でも「トロッルは天の輪を呑みこむ」とある。また民話におけるトロールは、『エッダ』での「[[霜の巨人|ヨトゥン]]」と互換性のある語として使われることから巨人とされる<ref>健部伸明編『幻獣大全』148頁。</ref>。
魔術は「トロッルの審判」と呼ばれ、[[魔女]]、[[魔術師]]は、トロッル的な属性を備えているとされるが、神話の時代に魔術を使うとされた女性の巨人ギューグの末裔で女性のトロール「トロールコナ」は、一応腕力も持つとされるほか、魔術を使うとされる<ref>健部伸明編『幻獣大全』158頁。</ref>。
一般的なトロールについてのイメージは、巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せる。醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くない。凶暴、もしくは粗暴で大雑把、というものである。
彼らと他種族との間にできる混血児は、ハールヴトロールと呼ばれ、『[[ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ]]』に登場するアルングリム[[:en:Arngrim|Arngrímr(英語版記事)]]の他、[[エギル・スカラグリームスソン]]など[[アイスランド]]の豪傑の祖にしてトロール女を母に持つグリム・ロッデンキンドなどが著名である<ref>健部伸明編『幻獣大全』176頁。</ref>。
== 地域別の伝承 ==
『幻獣大全』によれば、トロールが非ゲルマン系のフィンランドにもいる点とその生息域について、ヨトゥンのモデルと思われるサプメラシュ([[サーミ人]])の生活圏、いわゆるラップランドと重なる点が指摘される<ref>健部伸明編『幻獣大全』148頁。</ref>。またサプメラシュの中では、トロールの亜種と考えられる、怪力で人を食う人型の怪物スターッル(Stallu)が言い伝えられている。こちらも各地へ伝播し[[フィンランド語]]でスターロ(Staalo)、[[スウェーデン語]]でスタッロ(Stallo[[:en:Stallo|(英語版記事)]])と言われている<ref>健部伸明編『幻獣大全』181頁。</ref>。
基本的に丘や塚に住むため「丘の民(Haugfolk)」とも呼ばれる彼らは、地下に金銀財宝を蓄え、類縁である大地の精を繰り鉱石や宝石を集める、太陽光あるいは[[ライムギ]]で出来た[[パン]]を食べると死ぬ、[[十字架]]またはその印には触れられない、[[ビール]]の醸造は得意<ref>健部伸明編『幻獣大全』153頁。</ref>、人間を食べる<ref>健部伸明編『幻獣大全』155頁。</ref>、人間の子供を攫い、自種族の子供を置く「[[取り替え子]]」を行うと言った共通した特徴がある<ref>健部伸明編『幻獣大全』156頁。</ref>。
キャロル・ローズによれば、各地によって若干違うトロール伝承がある。
=== ノルウェー ===
女のトロルは美しく長い赤毛をしているとされた<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』255頁。</ref>。
[[ペテル・クリスティン・アスビョルンセン]]と{{仮リンク|ヨルゲン・モー|en|Jørgen Moe}}の『[[ノルウェー民話集]]』所収の『ヘダルの森でトロールに出会った少年たち』では、1つの目を3人で共有するトロールが登場する。
[[ノルウェー]]の人の中では、日常生活でふっと物が無くなった際には「トロールのいたずら」と言われる。
また、ほとんどの御土産物屋にトロールの人形が販売されており高い人気を博している。[[陶磁器|陶器]]製、[[磁石|マグネット]]製、[[紙]]製、[[キーホルダー]]製など実に様々なものがあり、トロールの姿も[[男性]]、[[女性]]、[[子供]]、[[老人]]、中には[[ヴァイキング]]姿、サッカー姿、サーファー姿、スキーヤー姿など実に様々なものがあり、中には[[骨董品|アンティーク]]コレクションとして評価の高いものも数多く存在する。
=== デンマーク ===
[[デンマーク]]ではTroldと呼ばれ、白く長いあごひげの老人として、赤い帽子、革エプロン姿で描かれる。
エブレトフトのトロルは背中にこぶがあり大きな鉤鼻、灰色ジャケット、とがった赤い帽子を着ている。グドマンストルップのトロルは背が高く黒く長い服を着ている<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』255頁。</ref>。
また、よく「[[ヒキガエル]]」の姿をしているとされる、スコーブ・トロルデ(木のトロール)、ベルクフォルク、ビュルク・トロルデと呼ばれる小さなトロールが知られている<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』361頁。</ref>。。
=== スカンジナビア半島 ===
[[スカンジナビア半島]]では[[小人 (伝説の生物)|小人]]の妖精とされる。
トロルは丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作り暮らすため[[スウェーデン]]では'''ベルグフォルク'''(丘の人々)と呼ばれた。彼等の住処は財宝でいっぱいで夜になると光り輝くと言われた。彼らは騒音を嫌い鐘や教会からは離れて暮らした。気に入った人間には富と幸運をもたらし、気に入らないものには不運と破壊をもたらした。また女子供をさらい財宝を盗む。さらわれないためには人も動物も[[ヤドリギ]]の枝を身に着ける。金属工芸にも秀で、薬草や魔法を使った治療にも秀でていると言う。日の光に当たると石に変わるため、夕暮れ時から明け方までしか姿を見せない。
=== フェロー諸島 ===
デンマーク領[[フェロー諸島]]では'''フォッデン・スケマエンド'''と呼ばれる。彼らは「うつろな人々」、「地下の人々」であり人をさらって何年も捕らえておくと言う<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』256頁。</ref>。。
=== アイスランド ===
[[アイスランド]]では一つ目の邪悪な巨人である<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』256頁。</ref>。。
=== フィンランド ===
[[フィンランド]]では池にすむ邪悪な'''シェートロール'''として知られ、霧が出たり嵐が来ると人々はトロールが池から出てきて人を溺れさせると言う<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』256頁。</ref>。。またサプメラシュ(Sapmelas)の間で恐れられているスターッルと同系の[[フィンランド語]]で言われるスターロと呼ばれるものが言い伝えられているが、彼らは「月明りだけで歩ける夜」に子供を悪いものに掴まらぬよう守ってくれるといわれる<ref>健部伸明編『幻獣大全』181頁。</ref>。
=== シェットランド諸島・オークニー諸島 ===
[[シェットランド諸島]]や[[オークニー諸島]]ではトロールと同系の語「トロー([https://en.m.wikipedia.org/wiki/Trow_(folklore) Trow])」と呼ばれる小さなトロールが言い伝えられている。彼らは善なるものランド・トロー、その一般的な種ピーリー・トロー、海に住むシー・トローの種に分かれると言う<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』256頁。</ref>。彼らは緑が覆う日当たりのよい丘の斜面の地下に出口と入り口のある住居を構え、壁を金銀で飾り奇妙な形の家具を揃えているとされる。それを掘り起こすと罰を与えられるといわれるほか、姿を見るのも運が悪いとされる。ただ声を聴くのは運のいいこととされ<ref>健部伸明編『幻獣大全』191頁。</ref>、さらに彼らの音楽はスコットランド、アイルランド双方の音楽的特性を持ち、彼らから習ったあるいは聞いた人間の奏でる音楽はフェルリ―テューンズと呼ばれる。
トローあるいはトロウは、灰色または灰緑色の衣服をまとっているため「灰色のお隣さん(the grey neighbours)」と呼ばれる。彼らは音楽を好み、[[バイオリン]]か[[フィドル]]をよく奏で、複雑なステップを踏みながら踊り「妖精の輪」を作る。この内、goosedanceと呼ばれるダンスを行う「ヘンキー(Henkies)」と呼ばれる者が知られている<ref>健部伸明編『幻獣大全』190頁。</ref>。
太陽光は苦手で、日にあたると動けなくなる。いわゆる[[ユール]]の期間には夜が長くなるため活動期間が長くなり、人間は気を付けなければならないとされる。
盗癖があり、特に銀を狙うほか、牛などを奪う際にはエルヴンボルトと呼ばれるもので倒した後、「事故死」したような偽物を置いていく、出産したばかりの母親、[[洗礼]]を受けていない子供を奪い、子供には代わりに[[チェンジリング]]を置くとされ、また仲間内での窃盗は追放される程度の罪とされる一方で、好みの人間には祝福を与えるとされる伝承や、ブーナーと呼ばれる「人間の仕事を手伝う」ものも伝えられている<ref>健部伸明編『幻獣大全』194頁。</ref>。
クナル・トロウ(Kunal Trow)と呼ばれる王トロウは人間に似ているが、陰気で、男性しかいない。後継者は人間の女性との交配によるが、配偶者の女性は出産後死亡するといわれる<ref>健部伸明編『幻獣大全』195頁。</ref>。
オークニー諸島のトロウは主に海や湖の水辺に住むといわれるが、他の地域での海のトロウは、海底に自分の領地を作り、上質な海産物で住居を拵える。彼らは海底で特別な空気を呼吸する上、水中へ出る際は、[[魚]]の皮を下半身に穿いていわゆる[[人魚]]となるが、[[アザラシ]]の皮を着たものは[[セルキー]]<ref>健部伸明編『幻獣大全』196頁。</ref>と呼ばれる。
=== グリーンランド・カナダ ===
キャロル・ローズは[[グリーンランド]]、[[カナダ]]の[[イヌイット]]、イハルシュミット族に伝わる「邪悪な巨人」について、丘陵地に住み毛の生えていない腹を地面へ引きずり指には鉤爪が生え物陰に潜み人を襲い肉を引き裂く機会をうかがっているといわれる描写がトロールに似ると指摘している<ref>C・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』256頁。</ref>。
== フィクション作品のトロール ==
[[J・R・R・トールキン]]の『[[ホビットの冒険]]』では、[[モルゴス]]の被造物として登場する。[[エント]]を模したものとされる。通常の武器が通じないほど堅い皮膚を持つが、太陽光を浴びると石化するとされた。続編の『[[指輪物語]]』では、[[サウロン]]によって生み出された凶暴な上位種「'''オログ=ハイ'''('''Olog-hai''')」が登場。その身を巨大な剣や鎧で武装しており、知能、戦闘能力も向上。また太陽光を浴びても石化しない。サウロン配下の中でも単純な近接戦闘においては無類の強さをみせ、兵士というより洗脳された生物兵器として運用され、前線突破や城壁破壊などに投入された。「[[一つの指輪]]」が破壊され力の源泉たるサウロンが滅びると、共に滅んだ。
<!--この「Ettendale」「Ettenmoore」にトロルが住むという設定をした人が、古英詩『ベオウルフ』を訳したやつの邦訳版『トールキンのベーオウルフ物語<注釈版> 』2017年原書房刊ではグレンデルに連なるカインの末裔「Eoten」は岡本千晶訳で「オーガー」なおエテン、エティンは多頭の巨人-->
{{main|トロル (トールキン)}}
* [[J・K・ローリング]]の『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』でも巨漢の一種族として登場し、[[悪臭]]を放つとされる。彼らは山トロル(禿頭で怪力)、森トロル(緑色の皮膚をしている)、川トロル(橋の下に住み、頭部は頭髪と2本の短い角を持つ)の3亜種に分かれる。
* [[ヘンリック・イプセン]]の劇詩『[[ペール・ギュント]]』に登場するトロールは不死で、自分たちの国を愛する者として描かれている。
* [[テーブルトークRPG]]の『[[ルーンクエスト]]』では「トロウル」と呼ばれ、多数の亜種、架空の学名、骨格標本、進化樹形図、宗教、食や生活文化などが詳細に設定され、その背景世界「[[グローランサ]]」最強の種族と表現されることもある。
* [[コンピュータRPG]]の『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』でも「'''トロル'''」、「'''ボストロール'''<ref>トロル系統は初登場の『ドラゴンクエスト3』から基本的に「トロル(○○トロル・トロル○○)」と長音なしの表記だが、ボストロールのみ「トロ'''ー'''ル」と長音あり。</ref>」、「'''トロルキング'''」、「'''トロルボンバー'''」、「'''ダークトロル'''」など、毛皮を羽織って棍棒をもった大柄で獰猛なモンスターとして現れる。
* [[宮崎駿]]原作、監督の[[アニメーション]]映画『[[となりのトトロ]]』では、森の主の妖精と接触した幼女草壁メイはそれが「'''絵本に出てくる[[トトロ]]'''」と名乗ったと主張、それを聞いた彼女の姉、草壁サツキはトロルであると判断した。映画のエンディングでサツキとメイの姉妹が布団の中で母親にトロルが登場する絵本「[[三びきのやぎのがらがらどん]]」を読んでもらっている描写がある。
* ガンヒルド・セーリンの児童文学『きょうだいトロルのぼうけん』では、石橋に住む善良な小人としてのトロルと、毛むくじゃらで赤い肌の悪いトロルの双方が描かれる。
* 挿絵付き小説『[[ムーミン]]』の作者で[[スウェーデン系フィンランド人]][[トーベ・ヤンソン]]は、作品に登場する[[ムーミントロール]]について、名前にトロールと付いてはいるものの、妖精のトロールとは違うバーレルセル(Varelser)と呼ばれる生き物としている。<br>なお、同シリーズではムーミントロールを指す語で当初出ていた「Smatrollen(小さなトロールを指す[[スウェーデン語]])」は後に「クニット(Knyttet)」という小人(小説版では「はい虫」として訳されている)の呼称として、外伝絵本『さびしがりやのクニット<ref>トーベ・ヤンソン 作、『さびしがりやのクニット』、渡部翠 訳、講談社、1991年、ISBN 978-4061878723。</ref>』で使っている他、ムーミントロールの祖先種で大きな鼻と尾を持つ「山のトロール」、民家のタイルストーブに住み着く「家住みトロール」海を徘徊する「海のトロール」、などが登場する上に、願いを叶えてくれる「飛行おに」の原語「Trollkarl」は原義が「トロールの人」である。
* [[2022年]]にノルウェイでNetflix映画「[[トロール (2022年の映画)|トロール]]」(Troll)が制作された。ローアル・ユートハウグ監督作品。山脈を貫通するトンネルを掘削する爆破によって目覚めたトロールが自分たちの王宮のあったオスロに向かい、人類と対立する。
* [[1986年]]にジョン・カール・[[:en:John_Carl_Buechler|ビュークラー(英語版記事)]]監督の映画『[[:en:Troll_(film)|トロル(英語版記事)]]』が発表されている。
* 話集『[[トロールものがたり]]』イングリ&エドガー・[[:en:Ingri_and_Edgar_Parin_d'Aulaire|ドーレア(英語版記事)]]作による絵本の形式でトロールの多様な種族とその生態を描いたもの。大きな家畜を飼い巨大な体躯に鼻、尾を持つトロールは類縁である「[[ノーム]]」を操って自宅に金銀財宝を蓄える。また同様に大地の精霊を従え牛の牧畜を行う「[[フルドラ]]」と呼ばれる人間の大きさのものに対する説明と生態の紹介によってトロール側への悲劇が展開する。同作者は『トロールのばけものどり』という作品も著している。
* [[ポール・アンダーソン]]『折れた魔剣[[:en:The_Broken_Sword|英語版記事]]』では、エルフ王とトロールの女性の間に生まれ、人間界へ追放された子ヴァルガルドが、主要な人物として登場する。
* [[クリフォード・D・シマック]]『小鬼の居留地[[:en:The_Goblin_Reservation|英語版記事]]』では、[[ジュラ紀]]に地球へ宇宙から来た小さなトロールが登場する。
<!--* 獣鬼(トロール)(漫画『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』[[三浦建太郎]])
* マイクル・ムアコック『[[紅衣の公子コルム]]』に出てくるナドラー族とそれの変形したものみたいなダルジ族はトロールぽいと『幻獣大全』(新紀元社刊)にある。
* 『[[トンネルズ&トロールズ]](T&T)』 - 米国製の[[テーブルトークRPG]]。ただし、特にトロールが主要な役割を果たしているというよりは、『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]](D&D)』を意識したタイトルである。-->
<gallery>
Image:Theodor Kittelsen - Sjøtrollet, 1887 (The Sea Troll).jpg|<!--The sea troll-->海のトロール ([[テオドール・キッテルセン]], 1887).
Image:The changeling, John Bauer, 1913.jpg|The changeling ([[ヨン・バウエル]], 1913).
Image:God kväll, farbror! Hälsade pojken.jpg|<!--Good evening, old man! the boy greeted-->こんばんわ! ([[ヨン・バウエル]], 1915).
Image:Troll1.JPG|<!--Norwegian road sign - Troll Crossing-->トロール横断注意! の道路標識(ノルウェー)
Image:Senjatrollet.jpg|<!--Senjatrollet, the largest troll in the world.-->世界最大のトロール
Image:Troll mag1.JPG|ノルウェー国旗を持つトロール(マグネット製)
</gallery>
== インターネット・トロル ==
{{See also|荒らし}}
主に[[英語圏]]で、ゲームや[[電子掲示板]]において否定的な書き込みなどの[[荒らし]]を行う人の事を「'''インターネット・トロル'''<ref>{{lang-en-short|Internet-troll}}</ref>」と呼ぶ。もしくはただ単に「'''トロール'''」ということもある。{{要出典|範囲=転じて、「[[パテント・トロール]]」のように普遍的な迷惑行為を行う人物を指すこともある。|date=2021年2月|title=独自研究の恐れあり。「インターネット・トロール」という言葉が成立する前から、「パテント・トロール」という言葉は確立されています}}元々、英語圏では「厄介者」を指して、稀に「トロール」と呼ぶ事から[[インターネットミーム]]の一つとして成立した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[キャロル・ローズ]]『世界の妖精・妖怪事典』[[原書房]] [[2003年]]
* [[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]『幻獣辞典』 [[晶文社]]、[[1974年]]
* 健部伸明編『幻獣大全』[[新紀元社]] [[2008年]]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Trolls}}
* [[伝説の生物一覧]]
* [[テオドール・キッテルセン]] - トロールの絵画・イラストで著名な[[ノルウェー]]の[[画家]]。
* [[パテント・トロール]] - 特許を買い取って大手企業に使用料を請求する開発製造を行わない集団のこと。
* [[トロルトゥンガ]] - 「トロールの舌」と名付けられた、絶壁から大きく横に突き出す奇岩。
* [[ムーミン]]
* [[ノルウェー民話集]]
* 昔話『[[三びきのやぎのがらがらどん]]』ノルウェーの民話を再話したもの。
* 『[[しっかり者のスズの兵隊]]』[[デンマーク]]の作家[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]の童話。小さなトロールが重要なキャラクターとして登場する。同作者の作品で、トロールの作った「いいものが映らず悪いものが誇張されて映る鏡」が登場する『[[雪の女王]]』、ノルウェー中央部の山ドヴレ山の主で左利きのトロールを統括するドヴレトロール(Dovre Trold)という、酒はあまり飲めないが話し上手で飾り気のないノルウェー気質のトロールに関する話『妖精の丘』、魔術を使い大勢の部下を連れるトロールが登場する『旅の道連れ』がある。
*[[小人 (伝説の生物)]]
{{北欧神話}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とろる}}
[[Category:妖精]]
[[Category:北欧神話の巨人]]
[[Category:ゲルマンの伝説の生物]]
[[Category:スカンジナビアの伝説の生物]] | 2003-03-28T03:39:37Z | 2023-12-30T03:53:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB |
5,380 | 上遠野浩平 | 上遠野 浩平(かどの こうへい、1968年12月12日 -)は、日本の小説家。千葉県出身。
1968年千葉県生まれ、神奈川県育ち。神奈川県立野庭高等学校、法政大学第二経済学部商業学科卒業。大学卒業後にビル整備会社へ勤めたものの、すぐに退社。作家としてデビューする以前には、日本ファンタジーノベル大賞、コバルト・ノベル大賞などの公募新人賞へ投稿を続けると同時にモデラーとしての活動も行っていた。落語家の古今亭ぎん志は従兄弟にあたる。
1991年、「朱金色の死神」で第3回ファンタジア長編小説大賞で最終候補作に選ばれず落選。1996年に「スーパーマジック・ハイパーマシン」が第1回ソノラマ文庫大賞最終候補作となる。1997年、『ブギーポップは笑わない』で第4回電撃ゲーム小説大賞を受賞し、同作で1998年にデビューした。同作は発売から数年間、電撃文庫で最高の発行部数を誇る作品となり、アニメ化・実写映画化などもされ、西尾維新や奈須きのこが「上遠野浩平の作品に影響された」と語っているほか、佐藤友哉も影響を受けた事を明かしている など、後進の作家たちに大きな影響を与えている。
デビュー後しばらくは電撃文庫でライトノベルを執筆し、90年代後半に始まったライトノベルブームの礎を築いた重要人物の一人であるとされる。その後、講談社や徳間書店、祥伝社、富士見書房など多くの出版社やレーベルでも作品を発表するようになり、ライトノベル以外でも活躍を見せている。2019年からは、バンダイのデジタルカードゲーム『ゼノンザード』で原案と世界観設定を担当。
作風としては「ブギーポップシリーズ」を中心に、SF作品としての傾向が強く、「戦地調停士シリーズ」や「ソウルドロップシリーズ」のように、ファンタジーやSFとミステリの融合を試みたものも多く見られる。本格ミステリに近い推理小説としては『しずるさんシリーズ』などが挙げられる。また、青春を感じさせる若者の心理的要因や社会や組織に有って生きる人間など、場所も時系列も違う複数の登場人物をそれぞれの視点で進行していく、独特の描き方をする。
全作品に共通する登場人物の性格付けとして、国内メディア作品の青少年キャラクターには多い「若さ故の無鉄砲さ」や「若さの象徴としての、実態のない体制への理由無き反骨心や反逆心」(上遠野自身曰く「身の程知らず」な人間)を書く事がないのも特徴で、多くの登場人物は体制の仕組みの中に取り込まれている事を皆理解しながら、そのまま諦観しているか、それでも大切な何かを持っているかを描いている。
全ての作品とシリーズが世界観を共有をしている。しかし、巻単位では完結させて、どのシリーズのどの巻からでも読む事が出来るスタイルを取っている。そのため、深く読み込むことで、他作品間との登場人物や出来事、影響力などの裏側での繋がりを読み解くことが可能である。
難解な設定を使用することもあるが、文体は平易な言葉を使用し、世代を問わず読みやすい小説が多い。
本人は漫画家の荒木飛呂彦に影響を受け、インタビューでも荒木について受けた影響を語っている。代表作「ブギーポップシリーズ」では荒木と同様に、作中に登場する固有名詞等が海外のミュージシャンや曲名を元にしているが、洋楽を聴き始めたのは『ジョジョの奇妙な冒険』の影響と述べている。好むジャンルはパンクをはじめ、ファンク、ニュー・ウェイヴ、ヒップ・ホップなど。また鑑賞が主で、楽器に苦手意識があるため自身で演奏に興味を持つ事はなかったと述べている。
小説ではアーサー・C・クラークやロバート・A・ハインライン、アントン・チェーホフ、フィリップ・K・ディック、太宰治、筒井康隆、山田正紀、島田荘司などの有名作家の作品を始め、特にSF作品は勉強の為に数多く読み込んだ事を語っている。また、先述した視点ずらしの技法は氷室冴子が得意としていたものであった旨を話している。
出版社やレーベルを問わず、独特なあとがきを書く。これは上遠野がデビュー作において、あとがきを執筆する際に、当時の風潮としてライトノベルのデビュー作では、関係者に対する礼に終始したあとがき(私信)が多かった事に「小説家としては何か違うな」と疑念を抱いたため、と答えている。あとがきの内容としては、本編に関連したテーマに沿った自身の考えを述べ、最後にそのテーマについて自問自答した後、(まあいいじゃん)と締めくくることが多い。
雑誌『アニメージュオリジナル』(徳間書店)では編集者との対談形式による、アニメ作品批評と解説の連載を持っており、古典の名作から新規のヒット作まで幅広く作品を語る。自身の作風と同様、必ず作品をまず広く肯定した上で独自の解釈や視点から分析を行い、語るスタンスをとっている。
既刊24巻、イラスト:緒方剛志
既刊6巻、イラスト:金子一馬(講談社ノベルス 1 - 4作目)、やまさきもへじ(講談社ノベルス 5作目)、獅子猿(講談社ノベルス 6作目)
全3巻+外伝1編、イラスト:中澤一登(徳間デュアル文庫)、イラスト:serori(星海社文庫)
『電撃hp』連載/2000年 - 2005年、全4巻、イラスト:緒方剛志
既刊4巻+外伝1巻、イラスト:椋本夏夜(富士見ミステリー文庫)、国道12号(星海社文庫)
既刊7巻、イラスト:斎藤岬
『電撃hp』連載/2005年 - 2007年/『電撃文庫MAGAZINE』連載/2007年 - 2011年、全4巻、イラスト:緒方剛志
『電撃文庫MAGAZINE』連載/2011年 - 2016年、全4巻、イラスト:巖本英利
既刊2巻、イラスト:サマミヤアカザ
いずれも荒木飛呂彦原作の『ジョジョの奇妙な冒険』のノベライズドスピンオフ。
「」内が上遠野浩平の作品
先述したように、上遠野作品の各シリーズは『ブギーポップシリーズ』を中心にそれぞれ何らかの繋がりを持っており、シリーズ間ないし世界間に重複して登場する(もしくは作中で直接的・間接的に言及される)人物・事象等が複数存在している。東浩紀はこの世界観を「上遠野サーガ」と評した。
短編作品も含めると莫大な作品数がリンクしているが、以下では書籍が単行本化されているものを中心に解説する。 | [
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"text": "1968年千葉県生まれ、神奈川県育ち。神奈川県立野庭高等学校、法政大学第二経済学部商業学科卒業。大学卒業後にビル整備会社へ勤めたものの、すぐに退社。作家としてデビューする以前には、日本ファンタジーノベル大賞、コバルト・ノベル大賞などの公募新人賞へ投稿を続けると同時にモデラーとしての活動も行っていた。落語家の古今亭ぎん志は従兄弟にあたる。",
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"text": "1991年、「朱金色の死神」で第3回ファンタジア長編小説大賞で最終候補作に選ばれず落選。1996年に「スーパーマジック・ハイパーマシン」が第1回ソノラマ文庫大賞最終候補作となる。1997年、『ブギーポップは笑わない』で第4回電撃ゲーム小説大賞を受賞し、同作で1998年にデビューした。同作は発売から数年間、電撃文庫で最高の発行部数を誇る作品となり、アニメ化・実写映画化などもされ、西尾維新や奈須きのこが「上遠野浩平の作品に影響された」と語っているほか、佐藤友哉も影響を受けた事を明かしている など、後進の作家たちに大きな影響を与えている。",
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"text": "デビュー後しばらくは電撃文庫でライトノベルを執筆し、90年代後半に始まったライトノベルブームの礎を築いた重要人物の一人であるとされる。その後、講談社や徳間書店、祥伝社、富士見書房など多くの出版社やレーベルでも作品を発表するようになり、ライトノベル以外でも活躍を見せている。2019年からは、バンダイのデジタルカードゲーム『ゼノンザード』で原案と世界観設定を担当。",
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"text": "作風としては「ブギーポップシリーズ」を中心に、SF作品としての傾向が強く、「戦地調停士シリーズ」や「ソウルドロップシリーズ」のように、ファンタジーやSFとミステリの融合を試みたものも多く見られる。本格ミステリに近い推理小説としては『しずるさんシリーズ』などが挙げられる。また、青春を感じさせる若者の心理的要因や社会や組織に有って生きる人間など、場所も時系列も違う複数の登場人物をそれぞれの視点で進行していく、独特の描き方をする。",
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"text": "全作品に共通する登場人物の性格付けとして、国内メディア作品の青少年キャラクターには多い「若さ故の無鉄砲さ」や「若さの象徴としての、実態のない体制への理由無き反骨心や反逆心」(上遠野自身曰く「身の程知らず」な人間)を書く事がないのも特徴で、多くの登場人物は体制の仕組みの中に取り込まれている事を皆理解しながら、そのまま諦観しているか、それでも大切な何かを持っているかを描いている。",
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"text": "全ての作品とシリーズが世界観を共有をしている。しかし、巻単位では完結させて、どのシリーズのどの巻からでも読む事が出来るスタイルを取っている。そのため、深く読み込むことで、他作品間との登場人物や出来事、影響力などの裏側での繋がりを読み解くことが可能である。",
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"text": "本人は漫画家の荒木飛呂彦に影響を受け、インタビューでも荒木について受けた影響を語っている。代表作「ブギーポップシリーズ」では荒木と同様に、作中に登場する固有名詞等が海外のミュージシャンや曲名を元にしているが、洋楽を聴き始めたのは『ジョジョの奇妙な冒険』の影響と述べている。好むジャンルはパンクをはじめ、ファンク、ニュー・ウェイヴ、ヒップ・ホップなど。また鑑賞が主で、楽器に苦手意識があるため自身で演奏に興味を持つ事はなかったと述べている。",
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"text": "小説ではアーサー・C・クラークやロバート・A・ハインライン、アントン・チェーホフ、フィリップ・K・ディック、太宰治、筒井康隆、山田正紀、島田荘司などの有名作家の作品を始め、特にSF作品は勉強の為に数多く読み込んだ事を語っている。また、先述した視点ずらしの技法は氷室冴子が得意としていたものであった旨を話している。",
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"text": "出版社やレーベルを問わず、独特なあとがきを書く。これは上遠野がデビュー作において、あとがきを執筆する際に、当時の風潮としてライトノベルのデビュー作では、関係者に対する礼に終始したあとがき(私信)が多かった事に「小説家としては何か違うな」と疑念を抱いたため、と答えている。あとがきの内容としては、本編に関連したテーマに沿った自身の考えを述べ、最後にそのテーマについて自問自答した後、(まあいいじゃん)と締めくくることが多い。",
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"text": "雑誌『アニメージュオリジナル』(徳間書店)では編集者との対談形式による、アニメ作品批評と解説の連載を持っており、古典の名作から新規のヒット作まで幅広く作品を語る。自身の作風と同様、必ず作品をまず広く肯定した上で独自の解釈や視点から分析を行い、語るスタンスをとっている。",
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] | 上遠野 浩平は、日本の小説家。千葉県出身。 | {{Infobox 作家
|name=上遠野 浩平<br />(かどの こうへい)
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|influences={{Plainlist|
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|awards=[[電撃小説大賞|電撃ゲーム小説大賞]](1997年)
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{{読み仮名_ruby不使用|'''上遠野 浩平'''|かどの こうへい|[[1968年]][[12月12日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]。[[千葉県]]出身。
== 来歴 ==
1968年[[千葉県]]生まれ、[[神奈川県]]育ち。[[神奈川県立野庭高等学校]]、[[法政大学]]第二経済学部商業学科卒業。大学卒業後にビル整備会社へ勤めたものの、すぐに退社<ref name="sffan-interview">{{cite web|title=上遠野浩平先生インタビュー|url=http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/011001.shtml|publisher=[http://www.sf-fantasy.com/magazine/index.shtml Anima Solaris]|accessdate=2007年9月21日}}</ref>。作家としてデビューする以前には、[[日本ファンタジーノベル大賞]]、[[ノベル大賞|コバルト・ノベル大賞]]などの公募新人賞へ投稿を続けると同時に[[モデラー (模型)|モデラー]]としての活動も行っていた<ref name="hajou-9a">{{cite web|title=波状言論 09-a号|publisher=[[東浩紀]]|url=http://www.hajou.org/hajou/|accessdate=2008年8月8日}}</ref>。[[落語家]]の[[古今亭ぎん志]]は従兄弟にあたる<ref>{{Cite tweet|author=金原亭小駒 |user=@kingente11thNo5 |number=1176784155813670913 |title=そしてお知らせです!ただ今人気急上昇中!!一門の先輩、左吉改め古今亭ぎん志兄さんが真打昇進披露興行が開催中です!後ろ幕はではなんとブギーポップが笑ってます!!!作者の上遠野浩平さんは兄さんの従兄弟だそうです。 披露興行はまだまだ始まったばかり、ご来場お待ちしております!!!—|date=2019-09-25 |accessdate=2019-09-27 }}</ref>。
1991年、「朱金色の死神」で第3回[[ファンタジア長編小説大賞]]で最終候補作に選ばれず落選<ref>第一次選考通過、第二次選考で落選、『ドラゴンマガジン』平成3年/1991年10月号「選考経過」</ref>。1996年に「スーパーマジック・ハイパーマシン」が第1回[[ソノラマ文庫]]大賞最終候補作となる<ref>本作はソノラマ文庫での出版は見送られたものの、電撃文庫からデビューした後、「虚無を心に蛇と唱えよ」、『機械仕掛けの蛇奇使い』としてその構想は日の目を見ることになった。他に5つほどのバージョンがあったという。(『機械仕掛けの蛇奇使い』「著者近影」の文より)</ref>。1997年、『[[ブギーポップシリーズ|ブギーポップは笑わない]]』で第4回[[電撃小説大賞|電撃ゲーム小説大賞]]を受賞し、同作で1998年にデビューした。同作は発売から数年間、[[電撃文庫]]で最高の発行部数を誇る作品となり、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化・実写[[映画]]化などもされ、[[西尾維新]]や[[奈須きのこ]]が「上遠野浩平の作品に影響された」と語っているほか、[[佐藤友哉]]も影響を受けた事を明かしている<ref name="AB">[[講談社]]刊 『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』2005 SPRING Vol.5 「スーパートークセッション」。</ref> など、後進の作家たちに大きな影響を与えている。
デビュー後しばらくは電撃文庫でライトノベルを執筆し、90年代後半に始まったライトノベルブームの礎を築いた重要人物の一人であるとされる<ref>[[講談社]]刊 『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』 2005 SPRING Vol.5 [[東浩紀]] 『波状言論』 序文</ref>。その後、[[講談社]]や[[徳間書店]]、[[祥伝社]]、[[富士見書房]]など多くの出版社やレーベルでも作品を発表するようになり、ライトノベル以外でも活躍を見せている。2019年からは、[[バンダイ]]のデジタルカードゲーム『[[ゼノンザード]]』で原案と世界観設定を担当。
== 作風 ==
{{出典の明記|date=2013年7月9日 (火) 09:10 (UTC)|section=1|ソートキー=人}}
作風としては「ブギーポップシリーズ」を中心に、[[サイエンス・フィクション|SF]]作品としての傾向が強く、「戦地調停士シリーズ」や「[[ソウルドロップシリーズ]]」のように、[[ファンタジー]]やSFと[[ミステリ]]の融合を試みたものも多く見られる。本格ミステリに近い[[推理小説]]としては『しずるさんシリーズ』などが挙げられる。また、青春を感じさせる若者の心理的要因や社会や組織に有って生きる人間など、場所も時系列も違う複数の登場人物をそれぞれの視点で進行していく、独特の描き方をする。
全作品に共通する登場人物の性格付けとして、国内メディア作品の青少年キャラクターには多い「若さ故の無鉄砲さ」や「若さの象徴としての、実態のない体制への理由無き反骨心や反逆心」(上遠野自身曰く「身の程知らず」な人間)を書く事がないのも特徴で、多くの登場人物は体制の仕組みの中に取り込まれている事を皆理解しながら、そのまま諦観しているか、それでも大切な何かを持っているかを描いている。
全ての作品とシリーズが世界観を共有をしている。しかし、巻単位では完結させて、どのシリーズのどの巻からでも読む事が出来るスタイルを取っている。そのため、深く読み込むことで、他作品間との登場人物や出来事、影響力などの裏側での繋がりを読み解くことが可能である。
難解な設定を使用することもあるが、文体は平易な言葉を使用し、世代を問わず読みやすい小説が多い。
== 人物 ==
本人は[[漫画家]]の[[荒木飛呂彦]]に影響を受け、インタビューでも荒木について受けた影響を語っている。代表作「ブギーポップシリーズ」では荒木と同様に、作中に登場する固有名詞等が海外の[[ミュージシャン]]や曲名を元にしているが、[[洋楽]]を聴き始めたのは『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の影響と述べている<ref name="hajou-10a">{{cite web|title=波状言論 10-a号|publisher=[[東浩紀]]|url=http://www.hajou.org/hajou/|accessdate=2008年8月8日}}</ref>。好むジャンルは[[パンク・ロック|パンク]]をはじめ、[[ファンク]]、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]、[[ヒップ・ホップ]]など。また鑑賞が主で、楽器に苦手意識があるため自身で演奏に興味を持つ事はなかったと述べている。
小説では[[アーサー・C・クラーク]]や[[ロバート・A・ハインライン]]、[[アントン・チェーホフ]]、[[フィリップ・K・ディック]]、[[太宰治]]、[[筒井康隆]]、[[山田正紀]]、[[島田荘司]]などの有名作家の作品を始め、特にSF作品は勉強の為に数多く読み込んだ事を語っている<ref name="Faust">[[講談社]]刊 『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』 2005 SPRING Vol.5 [[東浩紀]] 『波状言論』</ref>。また、先述した視点ずらしの技法は[[氷室冴子]]が得意としていたものであった旨を話している{{R|Faust}}。
出版社やレーベルを問わず、独特なあとがきを書く。これは上遠野がデビュー作において、あとがきを執筆する際に、当時の風潮としてライトノベルのデビュー作では、関係者に対する礼に終始したあとがき(私信)が多かった事に「小説家としては何か違うな」と疑念を抱いたため、と答えている。あとがきの内容としては、本編に関連したテーマに沿った自身の考えを述べ、最後にそのテーマについて自問自答した後、(まあいいじゃん)と締めくくることが多い。
雑誌『[[アニメージュ|アニメージュオリジナル]]』(徳間書店)では編集者との対談形式による、アニメ作品批評と解説の連載を持っており、古典の名作から新規のヒット作まで幅広く作品を語る。自身の作風と同様、必ず作品をまず広く肯定した上で独自の解釈や視点から分析を行い、語るスタンスをとっている。
== 作品リスト ==
=== ブギーポップシリーズ ===
既刊24巻、イラスト:[[緒方剛志]]
{{Main|ブギーポップシリーズ}}
=== 戦地調停士シリーズ ===
既刊6巻、イラスト:[[金子一馬]]([[講談社ノベルス]] 1 - 4作目)、[[やまさきもへじ]](講談社ノベルス 5作目)、[[獅子猿]](講談社ノベルス 6作目)
* 殺竜事件 a case of dragonslayer(2000年6月 講談社ノベルス {{ISBN2|4-06-182135-0}} / 2018年4月 [[講談社タイガ]] {{ISBN2|978-4-06-294115-0}})
* 紫骸城事件 inside the apocalypse castle(2001年6月 講談社ノベルス {{ISBN2|4-06-182184-9}} / 2018年9月 講談社タイガ {{ISBN2|978-4-06-512890-9}})
* 海賊島事件 the man in pirate's island(2002年12月 講談社ノベルス {{ISBN2|4-06-182282-9}} / 2018年12月 講談社タイガ {{ISBN2|978-4-06-513963-9}})
* 禁涙境事件 some tragedies of no-tear land(2005年1月 講談社ノベルス {{ISBN2|4-06-182404-X}})
* 残酷号事件 the cruel tale of ZANKOKU-GO(2009年3月 講談社ノベルス {{ISBN2|978-4-06-182636-6}})
* 無傷姫事件 injustice of innocent princess(2016年1月 講談社ノベルス {{ISBN2|978-4-06-299064-6}})
=== ナイトウォッチシリーズ ===
全3巻+外伝1編、イラスト:[[中澤一登]]([[徳間デュアル文庫]])、イラスト:[[serori]]([[星海社文庫]])
* ぼくらは虚空に夜を視る(2000年8月 徳間デュアル文庫 {{ISBN2|4-19-905002-7}} / 2012年8月 星海社文庫 {{ISBN2|978-4-06-138936-6}})
* わたしは虚夢を月に聴く(2001年8月 徳間デュアル文庫 {{ISBN2|4-19-905067-1}} / 2012年11月 星海社文庫 {{ISBN2|978-4-06-138940-3}})
* あなたは虚人と星に舞う(2002年9月 徳間デュアル文庫 {{ISBN2|4-19-905119-8}} / 2013年1月 星海社文庫 {{ISBN2|978-4-06-138942-7}})
* 鉄仮面をめぐる論議(短篇作品、以下のアンソロジーに収録)
** (『ノベル21 少年の時間』所収。2001年1月、{{ISBN2|4-19-905034-5}})
** ([[創元SF文庫]]刊、『ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成<S>』所収。2010年10月、{{ISBN2|4-48-873801-X}})
=== ビートのディシプリン ===
『[[電撃hp]]』連載/2000年 - 2005年、全4巻、イラスト:緒方剛志
{{Main|ビートのディシプリン}}
=== しずるさんシリーズ ===
既刊4巻+外伝1巻、イラスト:[[椋本夏夜]]([[富士見ミステリー文庫]])、国道12号(星海社文庫)
{{Main|しずるさんシリーズ}}
=== ソウルドロップシリーズ ===
既刊7巻、イラスト:[[斎藤岬]]
{{Main|ソウルドロップシリーズ}}
=== ヴァルプルギスの後悔 ===
『電撃hp』連載/2005年 - 2007年/『[[電撃文庫MAGAZINE]]』連載/2007年 - 2011年、全4巻、イラスト:緒方剛志
* ヴァルプルギスの後悔 Fire 1 [Warning Witch](2008年8月 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-867171-2}})
* ヴァルプルギスの後悔 Fire 2 [Spitting Witch](2009年8月 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-867938-1}})
* ヴァルプルギスの後悔 Fire 3 [Dozing Witch](2010年8月 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-868767-6}})
* ヴァルプルギスの後悔 Fire 4 [freezing witch](2011年12月 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-886187-8}})
=== 螺旋のエンペロイダー ===
『[[電撃文庫MAGAZINE]]』連載/2011年 - 2016年、全4巻、イラスト:[[巖本英利]]
* 螺旋のエンペロイダー Spin1.(2013年4月10日発売 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-891414-7}})
* 螺旋のエンペロイダー Spin2.(2014年6月10日発売 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-866638-1}})
* 螺旋のエンペロイダー Spin3.(2015年12月10日発売 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-865590-3}})
* 螺旋のエンペロイダー Spin4.(2017年1月10日発売 電撃文庫 {{ISBN2|978-4-04-892602-7}})
=== 製造人間シリーズ ===
既刊2巻、イラスト:[[サマミヤアカザ]]
* 製造人間は頭が固い(2017年6月 [[ハヤカワ文庫JA]] {{ISBN2|978-4-15-031279-4}})
** 製造人間は頭が固い "The Institutional Man"(『[[S-Fマガジン]]』2015年2月号掲載)
** 無能人間は涙を見せない "The Incompetent Boy"(『S-Fマガジン』2015年10月号掲載)
** 双極人間は同情を嫌う "The Injured Girls"(『S-Fマガジン』2016年6月号掲載)
** 最強人間は機嫌が悪い "The Invincible Man"(『S-Fマガジン』2016年12月号掲載)
** 交換人間は平静を欠く〈前篇〉 "The Interchangeable Man"(『S-Fマガジン』2017年2月号掲載)
** 製造人間は主張しない "The Industrial Man"(「交換人間は平静を欠く〈後篇〉」)(『S-Fマガジン』2017年4月号掲載)
** 奇蹟人間は気が滅入る The Incomparable Lady(書き下ろし)
* 憎悪人間は怒らない(2020年8月 ハヤカワ文庫JA {{ISBN2|978-4-15-031445-3}})
** 憎悪人間は怒らない "The Hatemonger"(『S-Fマガジン』2018年4月号掲載)
** 悪魔人間は悼まない VS Imaginator Part VI "The Satanic Majesty"(『S-Fマガジン』2018年8月号掲載)
** 変身人間は裏切らない "The Transformer"(『S-Fマガジン』2019年8月号掲載)
** 相殺人間は計算しない "The No Blues Man"(『S-Fマガジン』2019年12月号掲載)
** 緊急人間は焦らない "The Emergency Man"(『S-Fマガジン』2020年4月号掲載)
** 憎悪人間は逆らわない "The Rageless Man"(『S-Fマガジン』2020年6月号掲載)
** 憎悪人間は肯定しない No-Man Like Yes-Man(書き下ろし)
=== 単発作品 ===
* 冥王と獣のダンス(2000年8月 電撃文庫 {{ISBN2|4-8402-1597-9}}) - イラスト:緒方剛志
* [[機械仕掛けの蛇奇使い]](2004年4月 電撃文庫 {{ISBN2|4-8402-2639-3}}) - イラスト:緒方剛志
* 酸素は鏡に映らない No Oxygen, Not To Be Mirrored(2007年3月 [[ミステリーランド]] {{ISBN2|978-4-06-270582-0}} / 2011年5月 講談社ノベルス {{ISBN2|978-4-06-182767-7}}) - イラスト:[[toi8]]
* 私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100(2010年10月 [[講談社]] {{ISBN2|978-4-06-216548-8}} / 2013年10月 講談社ノベルス {{ISBN2|978-4-06-182892-6}}) - イラスト:[[ウエダハジメ]]
* 戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers(2012年7月 講談社 {{ISBN2|978-4-06-217793-1}}) - イラスト:ウエダハジメ
* 彼方に竜がいるならば(2016年2月 講談社ノベルス {{ISBN2|978-4-06-299065-3}}) - イラスト:獅子猿 ※ブギーポップシリーズと戦地調停士シリーズのクロスオーバー
** ドラゴンフライの空 “Dragonfly in the Sky with Gold”(『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』2000年5月号掲載)
** ギニョールアイの城 “Eyes of Guignol, or Outside the Castle”(『メフィスト』2001年1月号掲載)
** ジャックポットの匙 “A Spoon of Jackpot”(『メフィスト』2003年5月号掲載)
** アウトランドスの戀 “Outlandos d'amour”(『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』Vol.5掲載)
** ヴェイルドマンの貌 “Masque of Veiled Man”(『メフィスト』2007年5月号掲載)
** ドラゴンティスの雪 “Snows in Dragon's Teeth”(『メフィスト』2013 VOL.3掲載)
** パイプドリームの影 “The Shadow of Pipe Dream”(書き下ろし)
* パンゲアの零兆遊戯(2016年11月 [[祥伝社]] {{ISBN2|978-4-396-63512-1}}) - イラスト:[[ミキワカコ]]
=== ノベライズ作品 ===
いずれも[[荒木飛呂彦]]原作の『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の[[小説化|ノベライズド]][[スピンオフ]]。
* [[恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-]](2011年9月 [[集英社]] {{ISBN2|978-4-08-780616-8}} / 2014年3月 [[ジャンプ ジェイ ブックス|JUMP j BOOKS]] {{ISBN2|978-4-08-703310-6}} / 2017年6月 [[集英社文庫]] {{ISBN2|978-4-08-745598-4}})
** JUMP j BOOKS・集英社文庫版には短編「トリッシュ、花を手向ける」を追加収録
* [[ジョジョの奇妙な冒険#スピンオフ作品|クレイジーDの悪霊的失恋-ジョジョの奇妙な冒険より-]](2023年6月 集英社 {{ISBN2|978-4-08-790118-4}})
=== アンソロジー収録 ===
「」内が上遠野浩平の作品
* NOVEL21 少年の時間 text.BLUE(2001年1月 徳間デュアル文庫)「鉄仮面をめぐる論議」
* ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成〈S〉(2010年10月 創元SF文庫)「鉄仮面をめぐる論議」
* [[年刊日本SF傑作選|アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選]](2016年6月 創元SF文庫)「製造人間は頭が固い」
* STORY MARKET 恋愛小説編(2021年3月 集英社文庫)「しずるさんとうろこ雲」
* 非接触の恋愛事情(2021年12月 集英社文庫)「しずるさんと見えない妖怪」
=== 漫画原作 ===
* [[ジョジョの奇妙な冒険#スピンオフ作品|ジョジョの奇妙な冒険 クレイジー・Dの悪霊的失恋]](漫画:[[烏丸匡|カラスマタスク]]、Original Concept:荒木飛呂彦)
** 『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ。『[[ウルトラジャンプ]]』2022年1月号から2023年6月号まで連載(全3巻)。
=== 単行本未収録 ===
* ブギーポップシリーズの外伝短編
** メタル・グゥルー(『電撃hp』3号掲載)
** ロンドン・コーリング(『電撃hp』4号掲載)
** 死神を待ちながら(『電撃hp』5号掲載)
** チャリオット・チューグル(『電撃hp』6号掲載)
** ブギートーク・ポップライフ(CD『ニュルンベルクのマイスタージンガー第1幕への前奏曲ブギーポップ・ヴァージョン』掲載)
** 天使篇(『電撃ヴんこ』掲載)
** イラストノベル「Girl's Life 彼女の生活」(『電撃hpSPECIAL』2002秋 掲載)
** ブギーポップ もし宮下藤花が『炎の魔女』だったら(『電撃AprilFool』掲載)
** ブギーポップは終わらない!?(『電撃h&p』掲載)
** 希望について――代筆、魔術師。(『電撃スマイル文庫』掲載)
** 彼女たちが誰かを殺さないですむ二十の視点(『電撃文庫20 de 20!!』掲載)
** 不気味な泡VS炎の魔女 ~あるいは、VSイマジネーター人情紙風船編~(『電撃VS』掲載)
** 濡れた彼女が思うこと "She Says All Right"(『電撃すぷらっしゅ!』掲載)
* 機械仕掛けの蛇奇使い のアナザーストーリー
** 虚無を心に蛇と唱えよ(『電撃hpSPECIAL』2002秋 掲載)
* 冥王と獣のダンス の外伝短編
** 枢機王狙撃(『電撃hp』8号掲載)
* 螺旋のエンペロイダーの外伝短編
** 室井梢×風洞楓×御堂璃央 "Girls In The Emperoider"(『電撃すぷらっしゅ!』掲載)
* しずるさんシリーズ
** しずるさんとうろこ雲(JUMP j BOOKS公式サイト掲載 <ref>{{Cite web|url=https://j-books.shueisha.co.jp/prize/renai/index04.html|title=第4回ジャンプ恋愛小説大賞|JUMP j BOOKS|publisher=[[集英社]]|accessdate=2020-09-08}}</ref>)
** しずるさんと見えない妖怪 〜あるいは、恐怖と脅威について〜(JUMP j BOOKS公式note掲載<ref>{{Cite web|url=https://note.com/jump_j_books/n/n0bc89563529e|title=【アフターコロナの恋愛事情】『しずるさんと見えない妖怪 ~あるいは、恐怖と脅威について~』上遠野浩平|JUMP j BOOKS|website=note|date=2020-11-06|accessdate=2020-11-06}}</ref>)
<!--* しずるさんシリーズ
** しずるさんと不死蝶(『月刊ドラゴンマガジン』2007年2月号増刊ファンタジアバトルロイヤル掲載)
** しずるさんと蝉時雨(『月刊ドラゴンマガジン』2009年9月号掲載)
** しずるさんと雷蜘蛛(『月刊ドラゴンマガジン』2010年5月号掲載)-->
* 製造人間シリーズ
** 悲観人間は心配しない "The Pessimistic Man"(『S-Fマガジン』2021年6月号掲載)
** 従属人間は容認しない "The Subordinated Man" (『S-Fマガジン』2021年10月号掲載)
** 聖痕人間は自覚しない "Careful With The Stigmata, Eugene" (『S-Fマガジン』2022年2月号掲載)
** 凡庸人間は安心しない "The Unstable Mediocrity" (『S-Fマガジン』2022年4月号掲載)
** 製造人間は省みない "The Heedless Fate" (『S-Fマガジン』2022年8月号掲載)
** 無能人間は明日を待つ "The Institutional Mankind For Future" (『S-Fマガジン』2022年10月号掲載)
* ノベライズ作品
** マーズの方程式(『[[コミックファウスト]]』掲載) - [[横山光輝]]原作のSF漫画『[[マーズ (漫画)|マーズ]]』のノベライズ作品。
== 作品間リンク ==
先述したように、上遠野作品の各シリーズは『ブギーポップシリーズ』を中心にそれぞれ何らかの繋がりを持っており、シリーズ間ないし世界間に重複して登場する(もしくは作中で直接的・間接的に言及される)人物・事象等が複数存在している。[[東浩紀]]はこの世界観を「上遠野サーガ」と評した{{R|Faust}}。
短編作品も含めると莫大な作品数がリンクしているが、以下では書籍が単行本化されているものを中心に解説する。
*『ビートのディシプリンシリーズ』、『ヴァルプルギスの後悔シリーズ』はそれぞれ『ブギーポップシリーズ』に登場する合成人間ピート・ビート(本編では名前のみ)や炎の魔女、霧間凪に焦点を当てたスピン・オフ的作品 。『ブギーポップシリーズ』に登場する数々の謎、核心に迫る物語。
*『ヴァルプルギスの後悔』は上述二作の他にも『ペイパーカットシリーズ』『冥王と獣のダンス』『ナイトウォッチ三部作』『酸素は鏡に映らない』との関連性が書かれている。
*『ナイトウォッチ三部作』は『ブギーポップシリーズ』の遥か未来の世界の地球圏外の物語。
*『しずるさんシリーズ』、『ペイパーカットシリーズ』、『酸素は鏡に映らない』は、『ブギーポップシリーズ』と同世界・同時代の物語。
*『騎士は恋情の血を流す』は『しずるさんシリーズ』と『ブギーポップシリーズ』のクロスオーバー作品。
*『冥王と獣のダンス』、『機械仕掛けの蛇奇使い』は『ナイトウォッチ三部作』と同時代、あるいはその後の時代の地球の物語。
*『戦地調停士シリーズ』は『ブギーポップシリーズ』の世界とは平行世界の関係にあり、互いに影響を及ぼしている。
*『冥王と獣のダンス』は『ブギーポップシリーズ』の未来の可能性のひとつ。
*『機械仕掛けの蛇奇使い』はシミュレータ内で再現された、未来で『虚無を心に蛇と唱えよ』の世界に辿り着いていたかも知れない可能性世界のひとつ。
*『私と悪魔の100の問答』では、統和機構の合成人間である久嵐舞惟(『すずめばちがサヨナラというとき』に登場)が主人公の葛羽紅葉を監視し、尋問のために[[ブギーポップシリーズの登場人物#リィ舞阪 / フォルテッシモ|フォルテッシモ]]が登場する。
== 関連文献 ==
;雑誌特集号
*『[[かつくら|活字倶楽部]]』05' 春号([[雑草社]])(巻頭大特集「上遠野浩平」を始めよう)
*『ファウスト』vol.5(講談社Mook、2005年5月)(第一特集「上遠野浩平をめぐる冒険」)
*『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』2019年4月号(特集=上遠野浩平)
;関連論文
*[[小松史生子]]「『[[キノの旅]]』と『ブギーポップは笑わない』」 - 『闇のファンタジー』(ナイトメア叢書7、[[青弓社]]、2010年8月)
*[[井上乃武]]「「物語」の誕生 上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズにおける「幻想」の問題」 - 『ライトノベル・スタディーズ』(青弓社、2013年10月)
*橋迫瑞穂「繭墨あざかはなぜゴシックロリータを着るのか 衣装で読み解くライトノベルのジェンダー」 - 『小説の生存戦略 ライトノベル・メディア・ジェンダー』[[大橋崇行]]・山中智省/編(青弓社、2020年4月)<ref>ブギーポップの衣装について論じている。</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://dengekitaisho.jp/novel_interview_30.html 電撃大賞出身作家インタビュー 第30回 上遠野浩平「私説――矛盾と肝心について」]
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[[Category:20世紀日本の小説家]]
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5,381 | エントロピー | エントロピー(英: entropy)は、熱力学および統計力学において定義される示量性の状態量である。熱力学において断熱条件下での不可逆性を表す指標として導入され、統計力学において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。統計力学での結果から、系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。物理学者のエドウィン・ジェインズ(英語版)のようにむしろ物理学におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者もいる。
エントロピーはエネルギーを温度で割った次元を持ち、SIにおける単位はジュール毎ケルビン(記号: J/K)である。エントロピーと同じ次元を持つ量として熱容量がある。エントロピーはサディ・カルノーにちなんで一般に記号 S を用いて表される。
エントロピーは、熱力学、統計力学、情報理論など様々な分野で使われている。しかし分野によって、その定義や意味付けは異なる。よってエントロピーを一言で説明することは難しいが、大まかに「何をすることができて、何をすることができないかを、その大小で表すような量」であると言える。
エントロピーに関わる有名な性質として、熱力学におけるエントロピー増大則がある。エントロピー増大則は、断熱条件の下で系がある平衡状態から別の平衡状態へ移るとき、遷移の前後で系のエントロピーが減少せず、殆ど必ず増加することを主張する。断熱条件の下で系の平衡状態が A から B への遷移が可能な場合、系のそれぞれの平衡状態におけるエントロピーの間には
S ( A ) ≤ S ( B ) {\displaystyle S({\text{A}})\leq S({\text{B}})}
の関係が成り立つ。等号が成り立ち、状態を移る前後でエントロピーが変化しない場合には、逆向きの B から A への遷移が可能である。逆向きの遷移が可能なのは準静的な断熱過程だけである。逆向きの断熱過程が存在しないならば、状態の遷移に伴ってエントロピーが必ず増加する。 エントロピー増大則は熱力学の特徴である可逆性と不可逆性を特徴付ける法則であり、エントロピーは熱力学における最も基本的な量である。
エントロピーに関する法則としてもう一つよく知られるものに、統計力学におけるボルツマンの原理がある。ボルツマンの原理は、ある巨視的な系のエントロピーを、その系が取り得る微視的な状態の数と関係づける。微視的な状態数が W のときのエントロピーは
S = k ln W {\displaystyle S=k\ln W}
で表される。比例係数 k はボルツマン定数と呼ばれる。系の巨視的な状態は、系のエネルギーや体積、物質量などの巨視的な物理量の組によって定められるが、それらの巨視的な物理量を定めたとしても系の微視的状態は完全には定まらず、いくつかの状態を取り得る。状態数とは巨視的な拘束条件の下で可能な微視的状態の数を見積もったものである。ボルツマンの原理から、可能な微視的状態の数が増えるほどにエントロピーが大きいことが解る(対数は狭義の単調増加関数である)。逆に、微視的状態が確定する W = 1 の状況ではエントロピーが S = 0 となる。可能な微視的状態の数が増えるということは、巨視的な情報しか知り得ないとすれば、それだけ微視的世界に関する情報が欠如していると捉えることができ、この意味でボルツマンの原理はエントロピーの微視的乱雑さを表す指標としての性格を示している。
エントロピーは、ドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスが、カルノーサイクルの研究をする中で、移動する熱を温度で割ったQ/Tという形で導入され、当初は熱力学における可逆性と不可逆性を研究するための概念であった。後に原子の実在性を強く確信したオーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンによって、エントロピーが原子や分子の「乱雑さの尺度」であることが論証された。
クラウジウスは1854年にクラウジウスの不等式として熱力学第二法則を表現していたが、彼自身によって「エントロピー」の概念が明確化されるまでにはそれから11年を要した。不可逆サイクルでゼロとならないこの量をクラウジウスは仕事と熱の間の「変換」で補償されない量として、1865年の論文においてエントロピーと名付けた。エントロピーという言葉は「変換」を意味するギリシア語: τροπή(トロペー)に由来している。
その後ボルツマンやギブスによって統計力学的な取り扱いが始まった。情報理論(直接的には通信の理論)における情報量の定式化が行われたのは、クロード・シャノンの1948年『通信の数学的理論』である。シャノンは熱統計力学とは独立に定式化にたどり着き、エントロピーという命名はフォン・ノイマンの勧めによる、と言われることがあるが、シャノンはフォン・ノイマンの関与を否定している。
エントロピーは、熱力学における断熱過程の不可逆性を特徴付ける量として位置付けられる。熱力学では、系のすべての熱力学的な性質が、一つの関数によってまとめて表現される。そのような関数は完全な熱力学関数と呼ばれる。エントロピーは完全な熱力学関数の一つでもある。
エントロピーの定義の方法には、いくつかのスタイルがある。
以下のエントロピーの説明は、クラウジウスが1865年の論文の中で行ったものを基にしている。クラウジウスは熱を用いてエントロピーを定義した。この方法による説明は多くの文献で採用されている。
温度 T1 の吸熱源から Q1 の熱を得て、温度 T2 の排熱源に Q2 の熱を捨てる熱機関(サイクル)を考える。この熱機関が外部に行う仕事はエネルギー保存則から W = Q1 − Q2 であり、熱機関の熱効率 η は
η = W Q 1 = 1 − Q 2 Q 1 {\displaystyle \eta ={\frac {W}{Q_{1}}}=1-{\frac {Q_{2}}{Q_{1}}}}
で与えられる。 カルノーの定理によれば、熱機関の熱効率には二つの熱源の温度によって決まる上限の存在が導かれ、その上限は
η ≤ η m a x = 1 − T 2 T 1 {\displaystyle \eta \leq \eta _{\mathrm {max} }=1-{\frac {T_{2}}{T_{1}}}}
で表される。 これら2本の式を整理することで、
Q 1 T 1 ≤ Q 2 T 2 {\displaystyle {\frac {Q_{1}}{T_{1}}}\leq {\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}
が成立することが分かる。
可逆な熱機関の熱効率は ηmax と等しく、このため可逆な熱機関では(*) 式は等号
Q 1 T 1 = Q 2 T 2 {\displaystyle {\frac {Q_{1}}{T_{1}}}={\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}
が成り立つ。すなわち、可逆な過程で高熱源に接している状態から低熱源に接している状態に変化させたとしても Q/T という量は不変となる。クラウジウスはこの不変量をエントロピーと呼んだ。
可逆でない熱機関は熱効率が ηmax よりも悪いことが知られており、このため可逆でない熱機関では(*) 式は等号ではなく不等式
Q 1 T 1 < Q 2 T 2 {\displaystyle {\frac {Q_{1}}{T_{1}}}<{\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}
が成り立つ。すなわち、可逆でない過程で高熱源で熱を得た後、低熱源でその熱を捨てるとエントロピーは増大する(エントロピー増大則)。
上では話を簡単にするため、高熱源と低熱源の2つしか熱源がない場合を考えたが、より一般にn個の熱源がある状況を考えると(*) 式は
∑ i = 1 n Q i T i ≤ 0 {\displaystyle \sum _{i=1}^{n}{\frac {Q_{i}}{T_{i}}}\leq 0}
となる(クラウジウスの不等式)。ただし上の不等式では(*) 式と違いQiは全て温度Tiの熱源から得る熱であり、熱を捨てる場合は負の値としている。
可逆なサイクルでは等号
∑ i = 1 n Q i T i = 0 {\displaystyle \sum _{i=1}^{n}{\frac {Q_{i}}{T_{i}}}=0}
が成り立ち、この式でn→∞とすると、
∮ d ′ Q T = 0 {\displaystyle \oint {\frac {d'Q}{T}}=0}
となる 。状態Aから状態Bへと移る任意の可逆過程C,C'を考え、−CをCの逆過程とする。このとき、C'と−Cを連結させた過程C'−Cは可逆なサイクルとなり
∮ C ′ − C d ′ Q T = ∫ C ′ d ′ Q T + ∫ − C d ′ Q T = ∫ C ′ d ′ Q T − ∫ C d ′ Q T = 0 {\displaystyle \oint _{C'-C}{\frac {d'Q}{T}}=\int _{C'}{\frac {d'Q}{T}}+\int _{-C}{\frac {d'Q}{T}}=\int _{C'}{\frac {d'Q}{T}}-\int _{C}{\frac {d'Q}{T}}=0}
∫ C ′ d ′ Q T = ∫ C d ′ Q T {\displaystyle \int _{C'}{\frac {d'Q}{T}}=\int _{C}{\frac {d'Q}{T}}}
が成り立つ。つまり、この積分の値は始状態と終状態が同じならば可逆過程の選び方によらない。
そこで、適当に基準となる状態Oと、そのときの基準値S0を決めると、状態AにおけるエントロピーS(A)を
S ( A ) = S 0 + ∫ Γ ( A ) d ′ Q T {\displaystyle S({\text{A}})=S_{0}+\int _{\Gamma ({\text{A}})}{\frac {d'Q}{T}}}
と定義することができる。ここでΓ(A)は基準状態Oから状態Aへと変化する可逆な過程である。(**) 式からエントロピーの定義は可逆過程Γ(A)の選び方によらない。
基準状態Oから状態Aへと移る可逆過程Γ(A)と、状態Aから状態Bへと移るある可逆過程Cを連結させた過程Γ(A)+Cは基準状態Oから状態Bへと移る可逆過程である。したがって、
∫ Γ ( A ) d ′ Q T + ∫ C d ′ Q T = ∫ Γ ( A ) + C d ′ Q T = ∫ Γ ( B ) d ′ Q T {\displaystyle \int _{\Gamma ({\text{A}})}{\frac {d'Q}{T}}+\int _{C}{\frac {d'Q}{T}}=\int _{\Gamma (A)+C}{\frac {d'Q}{T}}=\int _{\Gamma ({\text{B}})}{\frac {d'Q}{T}}}
あるいは
Δ S = S ( B ) − S ( A ) = ∫ C d ′ Q T {\displaystyle \Delta S=S({\text{B}})-S({\text{A}})=\int _{C}{\frac {d'Q}{T}}}
となる。
状態Aから状態Bへと移る任意の過程Xと、同じく状態Aから状態Bへと移る可逆過程Cを考え、−CをCの逆過程とする。このときXと−Cを連結させた過程X−Cはサイクルとなる。
このサイクルについて、導出と同様にクラウジウスの不等式から
∮ X − C d ′ Q T ex = ∫ X d ′ Q T ex + ∫ − C d ′ Q T ex = ∫ X d ′ Q T ex − ∫ C d ′ Q T ex ≤ 0 {\displaystyle \oint _{X-C}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}=\int _{X}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}+\int _{-C}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}=\int _{X}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}-\int _{C}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}\leq 0}
∫ X d ′ Q T ex ≤ ∫ C d ′ Q T ex {\displaystyle \int _{X}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}\leq \int _{C}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}}
が導かれる。ここでTexは熱源の温度であり、一般には系の温度Tとは一致しない。しかし、可逆過程Cの間においては、系は常に平衡状態にあるとみなされるから、熱源の温度Texは系の温度Tに一致する。したがって
∫ X d ′ Q T ex ≤ ∫ C d ′ Q T = Δ S {\displaystyle \int _{X}{\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}\leq \int _{C}{\frac {d'Q}{T}}=\Delta S}
となる。
特に断熱系(外から仕事が加えられても良い)においてはd'Q = 0なので、
Δ S ≥ 0 {\displaystyle \Delta S\geq 0}
という結果が得られる。これがエントロピー増大則である。熱力学第二法則と同値なクラウジウスの不等式からこれが求められたことにより、熱力学第一法則がエネルギー保存則と対応するのになぞらえて熱力学第二法則とエントロピー増大則を対応させることもある。なお、この導出から明らかなように、熱の出入りがある系ではエントロピーが減少することも当然起こり得る。
エントロピーが増加するために、熱エネルギーのすべてを他のエネルギーに変換することはできない。したがって、熱エネルギーは低品質のエネルギーとも呼ばれる。
熱力学第一法則から、ある熱力学過程の間に系が外部から得る熱Qは、その過程の前後での系の内部エネルギーUの変化ΔUと、その過程の間に系が外部になす仕事Wにより
Q = Δ U + W {\displaystyle Q=\Delta U+W}
と表すことができる。無限小の変化で考えると
d ′ Q = d U + d ′ W {\displaystyle d'Q=dU+d'W}
となる。クラウジウスの不等式とエントロピーの定義式から無限小変化に対して
d S ≥ d ′ Q T ex {\displaystyle dS\geq {\frac {d'Q}{T_{\text{ex}}}}}
となる。系が体積Vの変化dVを通してのみ外部に仕事をなす場合には、外部の圧力をpexとして
d ′ W = p ex d V {\displaystyle d'W=p_{\text{ex}}dV}
となる。これらをまとめると
d S ≥ 1 T ex ( d U + p ex d V ) {\displaystyle dS\geq {\frac {1}{T_{\text{ex}}}}(dU+p_{\text{ex}}dV)}
が成り立つことがわかる。可逆過程では等号
d S = 1 T ex ( d U + p ex d V ) {\displaystyle dS={\frac {1}{T_{\text{ex}}}}(dU+p_{\text{ex}}dV)}
が成り立ち、さらに準静的過程では系と外部が熱平衡および力学的平衡にあるので、外部の温度Texは系の温度Tに等しく、外部の圧力pexは系の圧力pに等しい。すなわち、(U,V)で表される平衡状態から(U+dU,V+dV)で表される平衡状態への準静的な無限小変化では
d S = 1 T ( d U + p d V ) {\displaystyle dS={\frac {1}{T}}(dU+pdV)}
となる。
系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないときには、平衡状態にある系の温度と圧力は、(U,V)の関数として一意に定まることが経験的に知られている。系の温度と圧力がそれぞれT(U,V)とp(U,V)で表されるとき、不可逆過程においても、(U,V)で表される平衡状態から(U+dU,V+dV)で表される平衡状態への無限小変化で、準静的過程と同じ式
d S = 1 T ( U , V ) ( d U + p ( U , V ) d V ) {\displaystyle dS={\frac {1}{T(U,V)}}(dU+p(U,V)dV)}
が成り立つ。なぜなら、左辺のdSが状態量Sの変化量なので、右辺もまた途中の過程に依らないからである。この式をS(U,V)の全微分dSと比べると、直ちに偏微分
( ∂ S ∂ U ) V = 1 T , ( ∂ S ∂ V ) U = p T {\displaystyle \left({\frac {\partial S}{\partial U}}\right)_{V}={\frac {1}{T}},~\left({\frac {\partial S}{\partial V}}\right)_{U}={\frac {p}{T}}}
が得られる。 特に前者は、統計力学において熱力学温度Tを導入する際に用いられる関係式である(エントロピーの存在を公理的に与える論理展開の場合は、熱力学においてもこの式が熱力学温度の定義式である)。
系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、T(U,V)とp(U,V)の両方の関数形が知られていれば、これら二つの関数から、熱容量やエントロピーなどの、系の全ての状態量を計算することができる。しかし、どちらか一方の関数形が不明な場合は、これが不可能になる。例えば、p(U,V)だけから系の熱容量を計算することは不可能である。また、T(U,V)だけからでは、体積変化に伴うエントロピー変化を求めることはできない。一方、S(U,V)が知られていれば、この関数ひとつだけから、系の全ての状態量を計算することができる。すなわち、系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、S(U,V)は完全な熱力学関数となる。
エントロピーは内部エネルギーや体積などの示量性状態量を変数に持つとき、完全な熱力学関数となる。系が化学反応など物質の増減によってエネルギーの移動が生じるときは
d S = 1 T ( d U + p d V − μ d N ) {\displaystyle dS={\frac {1}{T}}(dU+pdV-\mu dN)}
となる。 ここで、Nは物質量、μは化学ポテンシャルである。さらに他の示量性状態量の変化dXによるエネルギーの移動があるときは、それに対応する示強性状態量xとして
d S = 1 T ( d U + p d V − μ d N − x d X ) {\displaystyle dS={\frac {1}{T}}(dU+pdV-\mu dN-xdX)}
となる。 Xとxの組としては
などがある。
エントロピーを完全な熱力学関数として用いる場合の系の平衡状態を表す変数は内部エネルギーと体積などの示量性変数である。しかし、温度は測定が容易なため、系の平衡状態を表す変数として温度を選ぶ場合がある。 閉鎖系で物質量の変化を考えない場合に、温度 T と体積 V の関数としてのエントロピー S(T,V) の温度 T による偏微分は
( ∂ S ∂ T ) V = 1 T ( ∂ U ∂ T ) V = C V ( T , V ) T {\displaystyle \left({\frac {\partial S}{\partial T}}\right)_{V}={\frac {1}{T}}\left({\frac {\partial U}{\partial T}}\right)_{V}={\frac {C_{V}(T,V)}{T}}}
で与えられる。ここで CV 定積熱容量である。 また、エントロピー S(T,V) の体積 V による偏微分はMaxwellの関係式より
( ∂ S ∂ V ) T = ( ∂ p ∂ T ) V {\displaystyle \left({\frac {\partial S}{\partial V}}\right)_{T}=\left({\frac {\partial p}{\partial T}}\right)_{V}}
で与えられる。これは熱膨張係数 α と等温圧縮率 κT で表せば
( ∂ S ∂ V ) T = α κ T {\displaystyle \left({\frac {\partial S}{\partial V}}\right)_{T}={\frac {\alpha }{\kappa _{T}}}}
となる。
従って、T-V 表示によるエントロピーの全微分は
d S = C V T d T + ( ∂ p ∂ T ) V d V = C V T d T + α κ T d V {\displaystyle {\begin{aligned}dS&={\frac {C_{V}}{T}}\,dT+\left({\frac {\partial p}{\partial T}}\right)_{V}dV\\&={\frac {C_{V}}{T}}\,dT+{\frac {\alpha }{\kappa _{T}}}\,dV\\\end{aligned}}}
となる。
さらに体積に変えて圧力 p を変数に用いれば、体積 V(T,p) の全微分が
d V = V ( α d T − κ T d p ) {\displaystyle dV=V(\alpha \,dT-\kappa _{T}dp)}
であることを用いれば、T-p 表示によるエントロピーの全微分は
d S = C p T d T − V α d p {\displaystyle dS={\frac {C_{p}}{T}}\,dT-V\alpha \,dp}
となる。
低圧領域において実在気体の状態方程式をビリアル展開
V m ( T , p ) = R T p + B V ( T ) + O ( p 1 ) {\displaystyle V_{\text{m}}(T,p)={\frac {RT}{p}}+B_{V}(T)+O(p^{1})}
の形で書くと、モルエントロピー Sm の圧力による偏微分は、マクスウェルの関係式より
( ∂ S m ∂ p ) T = − ( ∂ V m ∂ T ) p = − R p − d B V d T + O ( p 1 ) {\displaystyle \left({\frac {\partial S_{\text{m}}}{\partial p}}\right)_{T}=-\left({\frac {\partial V_{\text{m}}}{\partial T}}\right)_{p}=-{\frac {R}{p}}-{\frac {dB_{V}}{dT}}+O(p^{1})}
となる。従って、低圧領域においてモルエントロピーは
S m ( T , p ) = S m ∘ ( T ) − R ln p p ∘ − p d B V d T + O ( p 2 ) {\displaystyle S_{\text{m}}(T,p)=S_{\text{m}}^{\circ }(T)-R\ln {\frac {p}{p^{\circ }}}-p\,{\frac {dB_{V}}{dT}}+O(p^{2})}
で表される。ここで
S m ∘ ( T ) = lim p → 0 { S m ( T , p ) + R ln p p ∘ } {\displaystyle S_{\text{m}}^{\circ }(T)=\lim _{p\to 0}\left\{S_{\text{m}}(T,p)+R\ln {\frac {p}{p^{\circ }}}\right\}}
で定義される S°m(T) は、温度 T における標準モルエントロピーであり、この実在気体が理想気体の状態方程式に従うと仮定した時の、圧力 p°におけるモルエントロピーに相当する。
1999年にエリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンは、「断熱的到達可能性」という概念を導入して熱力学を再構築した。「状態Yが状態Xから断熱操作で到達可能である」ことを X ≺ Y {\displaystyle X\prec Y} と表記し、この ≺ {\displaystyle \prec } の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている。
ある巨視的状態(例えば、圧力と体積を指定した状態)に対して、それを与える微視的状態(例えば、各分子の位置および運動量)は多数存在すると考えられる。そこで仮想的にアンサンブルを考える。つまり、ある巨視的状態に対応する微視的状態の集合を考え、その各々の元が与えられた巨視的状態の下で実現する確率分布を与えることにする。
系の微視的状態(例えば量子系であればエネルギー固有状態)ωを考え、微視的状態ωが実現される確率分布p(ω)が与えられているとき、ボルツマン定数をkとして、エントロピーSを
S = k ⟨ ln 1 p ( ω ) ⟩ = − k ∑ ω p ( ω ) ln p ( ω ) {\displaystyle S=k\left\langle \ln {\frac {1}{p(\omega )}}\right\rangle =-k\sum _{\omega }p(\omega )\ln p(\omega )}
により定義する。これはギブズエントロピー(英: Gibbs entropy)とも呼ばれる。
すなわち、統計力学におけるエントロピーは情報理論におけるエントロピー(無次元量)と定数倍を除いて一致する。
例えば、エネルギーEの状態にある孤立系に対応して、小正準集団を用いるとする。すなわち、微視的状態ωにあるときのエネルギーをE(ω)としたときに、系のエネルギーEにある微視的状態のみに有限の確率を等しく
p ( ω ) = { 1 / Ω ( E ) if E ( ω ) = E 0 if E ( ω ) ≠ E {\displaystyle p(\omega )={\begin{cases}1/\Omega (E)&{\text{if }}E(\omega )=E\\0&{\text{if }}E(\omega )\neq E\end{cases}}}
として与える(等重率の原理)。ここで、規格化定数Ω(E)は状態数と呼ばれ、系がエネルギーEにあるときに実現しうる微視的状態の数を意味する。このとき、エントロピーはボルツマンの公式としてよく知られる
S ( E ) = k ln Ω ( E ) {\displaystyle S(E)=k\ln \Omega (E)}
で与えられる。
このように小正準集団により与えられたエントロピーが、先に見た熱力学のエントロピーと整合していることを確認する。エネルギーE、小正準集団によるエントロピーSの系を、透熱壁を入れることにより 2 つの部分系に分離する。それぞれの系にエネルギーがE1, E2と分配されるとしよう。この場合、系全体の状態数か、あるいはその対数であるエントロピーが最大になるように部分系のエネルギーが決定されると考えるのは自然であろう。系全体の状態数は 2 つの部分系の状態数の積であり、すなわち系全体のエントロピーSは 2 つの部分系のエントロピーS1, S2の和である。条件E2 = E − E1の下で全体のエントロピーを最大とする条件を考えると、
d S d E 1 = d S 1 d E 1 + d S 2 d E 1 = d S 1 d E 1 − d S 2 d E 2 = 0 {\displaystyle {\frac {dS}{dE_{1}}}={\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}+{\frac {dS_{2}}{dE_{1}}}={\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}-{\frac {dS_{2}}{dE_{2}}}=0}
すなわち
d S 1 d E 1 = d S 2 d E 2 {\displaystyle {\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}={\frac {dS_{2}}{dE_{2}}}}
となる。ここで、このエントロピーを熱力学のものと同一視すると、dS/dE = 1/Tが成立するのであった(部分系の体積は固定しておくことにする)。透熱壁を用いて 2 つの系を接触させた場合、平衡状態では当然 2 つの系の温度は等しくなることと、ここで確認した事実は確かに整合している。
熱力学と整合するアンサンブルは、ここで例示した小正準集団の他にも、正準分布や大正準分布がある。
情報理論においてエントロピーは確率変数が持つ情報の量を表す尺度で、それゆえ情報量とも呼ばれる。 確率変数Xに対し、XのエントロピーH(X)は
で定義されており、これは統計力学におけるエントロピーと定数倍を除いて一致する。この定式化を行ったのはクロード・シャノンである。
これは単なる数式上の一致ではなく、統計力学的な現象に対して情報理論的な意味づけを与える事ができることを示唆する。情報量は確率変数Xが数多くの値をとればとるほど大きくなる傾向があり、したがって情報量はXの取る値の「乱雑さ」を表す尺度であると再解釈できる。よって情報量の概念は、原子や分子の「乱雑さの尺度」を表す統計力学のエントロピーと概念的にも一致する。
しかし、情報のエントロピーと物理現象の結びつきは、シャノンによる研究の時点では詳らかではなかった。この結びつきは、マクスウェルの悪魔の問題が解決される際に決定的な役割を果たした。シラードは、悪魔が分子について情報を得る事が熱力学的エントロピーの増大を招くと考えたが、これはベネットにより可逆な(エントロピーの変化ない)観測が可能である、と反例が示された。最終的な決着は1980年代にまで持ち越された。ランダウアーがランダウアーの原理として示していたことであったのだが、悪魔が繰り返し働く際に必要となる、分子についての以前の情報を忘れる事が熱力学的エントロピーの増大を招く、として、ベネットによりマクスウェルの悪魔の問題は解決された。
この原理によれば、コンピュータがデータを消去するときに熱力学的なエントロピーが発生するので、通常の(可逆でない=非可逆な)コンピュータが計算に伴って消費するエネルギーには下限があることが知られている(ランダウアーの原理。ただし現実の一般的なコンピュータの発熱とは比べるべくもない規模である)。また理論的には可逆計算はいくらでも少ない消費エネルギーで行うことができる。
さらにエドウィン・ジェインズ(英語版)は統計力学におけるギブズの手法を抽象することで、統計学・情報理論における最大エントロピー原理を打ち立てた。この結果、ギブズの手法は統計学・情報理論の統計力学への一応用例として再解釈されることになった。
統計力学と情報理論の関係は量子力学においても成立しており、量子統計力学におけるフォン・ノイマンエントロピーは量子情報の情報量を表していると再解釈された上で、量子情報や量子計算機の研究で使われている。
ブラックホールのエントロピーは表面積に比例する。
S = A k c 3 4 ħ G . {\displaystyle S={\frac {Akc^{3}}{4\hbar G}}.}
ここでSはエントロピー、Aはブラックホールの事象の地平面の面積、ħはディラック定数(換算プランク定数)、kはボルツマン定数、Gは重力定数、cは光速度である。
エルヴィン・シュレーディンガーは、生命をネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。負のエントロピー自体は後に否定されたが、非平衡系の学問の発展に寄与した。 | [
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"text": "エントロピー(英: entropy)は、熱力学および統計力学において定義される示量性の状態量である。熱力学において断熱条件下での不可逆性を表す指標として導入され、統計力学において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。統計力学での結果から、系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。物理学者のエドウィン・ジェインズ(英語版)のようにむしろ物理学におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者もいる。",
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"text": "エントロピーはエネルギーを温度で割った次元を持ち、SIにおける単位はジュール毎ケルビン(記号: J/K)である。エントロピーと同じ次元を持つ量として熱容量がある。エントロピーはサディ・カルノーにちなんで一般に記号 S を用いて表される。",
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"text": "エントロピーは、熱力学、統計力学、情報理論など様々な分野で使われている。しかし分野によって、その定義や意味付けは異なる。よってエントロピーを一言で説明することは難しいが、大まかに「何をすることができて、何をすることができないかを、その大小で表すような量」であると言える。",
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"text": "エントロピーに関わる有名な性質として、熱力学におけるエントロピー増大則がある。エントロピー増大則は、断熱条件の下で系がある平衡状態から別の平衡状態へ移るとき、遷移の前後で系のエントロピーが減少せず、殆ど必ず増加することを主張する。断熱条件の下で系の平衡状態が A から B への遷移が可能な場合、系のそれぞれの平衡状態におけるエントロピーの間には",
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"text": "S ( A ) ≤ S ( B ) {\\displaystyle S({\\text{A}})\\leq S({\\text{B}})}",
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"text": "の関係が成り立つ。等号が成り立ち、状態を移る前後でエントロピーが変化しない場合には、逆向きの B から A への遷移が可能である。逆向きの遷移が可能なのは準静的な断熱過程だけである。逆向きの断熱過程が存在しないならば、状態の遷移に伴ってエントロピーが必ず増加する。 エントロピー増大則は熱力学の特徴である可逆性と不可逆性を特徴付ける法則であり、エントロピーは熱力学における最も基本的な量である。",
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"text": "エントロピーに関する法則としてもう一つよく知られるものに、統計力学におけるボルツマンの原理がある。ボルツマンの原理は、ある巨視的な系のエントロピーを、その系が取り得る微視的な状態の数と関係づける。微視的な状態数が W のときのエントロピーは",
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"text": "S = k ln W {\\displaystyle S=k\\ln W}",
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"text": "で表される。比例係数 k はボルツマン定数と呼ばれる。系の巨視的な状態は、系のエネルギーや体積、物質量などの巨視的な物理量の組によって定められるが、それらの巨視的な物理量を定めたとしても系の微視的状態は完全には定まらず、いくつかの状態を取り得る。状態数とは巨視的な拘束条件の下で可能な微視的状態の数を見積もったものである。ボルツマンの原理から、可能な微視的状態の数が増えるほどにエントロピーが大きいことが解る(対数は狭義の単調増加関数である)。逆に、微視的状態が確定する W = 1 の状況ではエントロピーが S = 0 となる。可能な微視的状態の数が増えるということは、巨視的な情報しか知り得ないとすれば、それだけ微視的世界に関する情報が欠如していると捉えることができ、この意味でボルツマンの原理はエントロピーの微視的乱雑さを表す指標としての性格を示している。",
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"text": "エントロピーは、ドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスが、カルノーサイクルの研究をする中で、移動する熱を温度で割ったQ/Tという形で導入され、当初は熱力学における可逆性と不可逆性を研究するための概念であった。後に原子の実在性を強く確信したオーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンによって、エントロピーが原子や分子の「乱雑さの尺度」であることが論証された。",
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"text": "クラウジウスは1854年にクラウジウスの不等式として熱力学第二法則を表現していたが、彼自身によって「エントロピー」の概念が明確化されるまでにはそれから11年を要した。不可逆サイクルでゼロとならないこの量をクラウジウスは仕事と熱の間の「変換」で補償されない量として、1865年の論文においてエントロピーと名付けた。エントロピーという言葉は「変換」を意味するギリシア語: τροπή(トロペー)に由来している。",
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"text": "その後ボルツマンやギブスによって統計力学的な取り扱いが始まった。情報理論(直接的には通信の理論)における情報量の定式化が行われたのは、クロード・シャノンの1948年『通信の数学的理論』である。シャノンは熱統計力学とは独立に定式化にたどり着き、エントロピーという命名はフォン・ノイマンの勧めによる、と言われることがあるが、シャノンはフォン・ノイマンの関与を否定している。",
"title": "歴史"
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"text": "エントロピーは、熱力学における断熱過程の不可逆性を特徴付ける量として位置付けられる。熱力学では、系のすべての熱力学的な性質が、一つの関数によってまとめて表現される。そのような関数は完全な熱力学関数と呼ばれる。エントロピーは完全な熱力学関数の一つでもある。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
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"text": "エントロピーの定義の方法には、いくつかのスタイルがある。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
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{
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"text": "以下のエントロピーの説明は、クラウジウスが1865年の論文の中で行ったものを基にしている。クラウジウスは熱を用いてエントロピーを定義した。この方法による説明は多くの文献で採用されている。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
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"text": "温度 T1 の吸熱源から Q1 の熱を得て、温度 T2 の排熱源に Q2 の熱を捨てる熱機関(サイクル)を考える。この熱機関が外部に行う仕事はエネルギー保存則から W = Q1 − Q2 であり、熱機関の熱効率 η は",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
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"text": "η = W Q 1 = 1 − Q 2 Q 1 {\\displaystyle \\eta ={\\frac {W}{Q_{1}}}=1-{\\frac {Q_{2}}{Q_{1}}}}",
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},
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"tag": "p",
"text": "で与えられる。 カルノーの定理によれば、熱機関の熱効率には二つの熱源の温度によって決まる上限の存在が導かれ、その上限は",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
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"text": "η ≤ η m a x = 1 − T 2 T 1 {\\displaystyle \\eta \\leq \\eta _{\\mathrm {max} }=1-{\\frac {T_{2}}{T_{1}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
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"text": "で表される。 これら2本の式を整理することで、",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
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"text": "Q 1 T 1 ≤ Q 2 T 2 {\\displaystyle {\\frac {Q_{1}}{T_{1}}}\\leq {\\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
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"text": "が成立することが分かる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
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"text": "可逆な熱機関の熱効率は ηmax と等しく、このため可逆な熱機関では(*) 式は等号",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
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{
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"text": "Q 1 T 1 = Q 2 T 2 {\\displaystyle {\\frac {Q_{1}}{T_{1}}}={\\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}",
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},
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"tag": "p",
"text": "が成り立つ。すなわち、可逆な過程で高熱源に接している状態から低熱源に接している状態に変化させたとしても Q/T という量は不変となる。クラウジウスはこの不変量をエントロピーと呼んだ。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
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"tag": "p",
"text": "可逆でない熱機関は熱効率が ηmax よりも悪いことが知られており、このため可逆でない熱機関では(*) 式は等号ではなく不等式",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
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"text": "Q 1 T 1 < Q 2 T 2 {\\displaystyle {\\frac {Q_{1}}{T_{1}}}<{\\frac {Q_{2}}{T_{2}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
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"text": "が成り立つ。すなわち、可逆でない過程で高熱源で熱を得た後、低熱源でその熱を捨てるとエントロピーは増大する(エントロピー増大則)。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
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"text": "上では話を簡単にするため、高熱源と低熱源の2つしか熱源がない場合を考えたが、より一般にn個の熱源がある状況を考えると(*) 式は",
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"text": "∑ i = 1 n Q i T i ≤ 0 {\\displaystyle \\sum _{i=1}^{n}{\\frac {Q_{i}}{T_{i}}}\\leq 0}",
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{
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"text": "となる(クラウジウスの不等式)。ただし上の不等式では(*) 式と違いQiは全て温度Tiの熱源から得る熱であり、熱を捨てる場合は負の値としている。",
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"text": "可逆なサイクルでは等号",
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"text": "∑ i = 1 n Q i T i = 0 {\\displaystyle \\sum _{i=1}^{n}{\\frac {Q_{i}}{T_{i}}}=0}",
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"text": "が成り立ち、この式でn→∞とすると、",
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"text": "∮ d ′ Q T = 0 {\\displaystyle \\oint {\\frac {d'Q}{T}}=0}",
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"text": "となる 。状態Aから状態Bへと移る任意の可逆過程C,C'を考え、−CをCの逆過程とする。このとき、C'と−Cを連結させた過程C'−Cは可逆なサイクルとなり",
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"text": "∮ C ′ − C d ′ Q T = ∫ C ′ d ′ Q T + ∫ − C d ′ Q T = ∫ C ′ d ′ Q T − ∫ C d ′ Q T = 0 {\\displaystyle \\oint _{C'-C}{\\frac {d'Q}{T}}=\\int _{C'}{\\frac {d'Q}{T}}+\\int _{-C}{\\frac {d'Q}{T}}=\\int _{C'}{\\frac {d'Q}{T}}-\\int _{C}{\\frac {d'Q}{T}}=0}",
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"text": "∫ C ′ d ′ Q T = ∫ C d ′ Q T {\\displaystyle \\int _{C'}{\\frac {d'Q}{T}}=\\int _{C}{\\frac {d'Q}{T}}}",
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"text": "が成り立つ。つまり、この積分の値は始状態と終状態が同じならば可逆過程の選び方によらない。",
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"text": "そこで、適当に基準となる状態Oと、そのときの基準値S0を決めると、状態AにおけるエントロピーS(A)を",
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"text": "S ( A ) = S 0 + ∫ Γ ( A ) d ′ Q T {\\displaystyle S({\\text{A}})=S_{0}+\\int _{\\Gamma ({\\text{A}})}{\\frac {d'Q}{T}}}",
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "と定義することができる。ここでΓ(A)は基準状態Oから状態Aへと変化する可逆な過程である。(**) 式からエントロピーの定義は可逆過程Γ(A)の選び方によらない。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "基準状態Oから状態Aへと移る可逆過程Γ(A)と、状態Aから状態Bへと移るある可逆過程Cを連結させた過程Γ(A)+Cは基準状態Oから状態Bへと移る可逆過程である。したがって、",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "∫ Γ ( A ) d ′ Q T + ∫ C d ′ Q T = ∫ Γ ( A ) + C d ′ Q T = ∫ Γ ( B ) d ′ Q T {\\displaystyle \\int _{\\Gamma ({\\text{A}})}{\\frac {d'Q}{T}}+\\int _{C}{\\frac {d'Q}{T}}=\\int _{\\Gamma (A)+C}{\\frac {d'Q}{T}}=\\int _{\\Gamma ({\\text{B}})}{\\frac {d'Q}{T}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "あるいは",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "Δ S = S ( B ) − S ( A ) = ∫ C d ′ Q T {\\displaystyle \\Delta S=S({\\text{B}})-S({\\text{A}})=\\int _{C}{\\frac {d'Q}{T}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "状態Aから状態Bへと移る任意の過程Xと、同じく状態Aから状態Bへと移る可逆過程Cを考え、−CをCの逆過程とする。このときXと−Cを連結させた過程X−Cはサイクルとなる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "このサイクルについて、導出と同様にクラウジウスの不等式から",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "∮ X − C d ′ Q T ex = ∫ X d ′ Q T ex + ∫ − C d ′ Q T ex = ∫ X d ′ Q T ex − ∫ C d ′ Q T ex ≤ 0 {\\displaystyle \\oint _{X-C}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}=\\int _{X}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}+\\int _{-C}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}=\\int _{X}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}-\\int _{C}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}\\leq 0}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "∫ X d ′ Q T ex ≤ ∫ C d ′ Q T ex {\\displaystyle \\int _{X}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}\\leq \\int _{C}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "が導かれる。ここでTexは熱源の温度であり、一般には系の温度Tとは一致しない。しかし、可逆過程Cの間においては、系は常に平衡状態にあるとみなされるから、熱源の温度Texは系の温度Tに一致する。したがって",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "∫ X d ′ Q T ex ≤ ∫ C d ′ Q T = Δ S {\\displaystyle \\int _{X}{\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}\\leq \\int _{C}{\\frac {d'Q}{T}}=\\Delta S}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "特に断熱系(外から仕事が加えられても良い)においてはd'Q = 0なので、",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "Δ S ≥ 0 {\\displaystyle \\Delta S\\geq 0}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "という結果が得られる。これがエントロピー増大則である。熱力学第二法則と同値なクラウジウスの不等式からこれが求められたことにより、熱力学第一法則がエネルギー保存則と対応するのになぞらえて熱力学第二法則とエントロピー増大則を対応させることもある。なお、この導出から明らかなように、熱の出入りがある系ではエントロピーが減少することも当然起こり得る。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "エントロピーが増加するために、熱エネルギーのすべてを他のエネルギーに変換することはできない。したがって、熱エネルギーは低品質のエネルギーとも呼ばれる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "熱力学第一法則から、ある熱力学過程の間に系が外部から得る熱Qは、その過程の前後での系の内部エネルギーUの変化ΔUと、その過程の間に系が外部になす仕事Wにより",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "Q = Δ U + W {\\displaystyle Q=\\Delta U+W}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。無限小の変化で考えると",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "d ′ Q = d U + d ′ W {\\displaystyle d'Q=dU+d'W}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "となる。クラウジウスの不等式とエントロピーの定義式から無限小変化に対して",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "d S ≥ d ′ Q T ex {\\displaystyle dS\\geq {\\frac {d'Q}{T_{\\text{ex}}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "となる。系が体積Vの変化dVを通してのみ外部に仕事をなす場合には、外部の圧力をpexとして",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "d ′ W = p ex d V {\\displaystyle d'W=p_{\\text{ex}}dV}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "となる。これらをまとめると",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "d S ≥ 1 T ex ( d U + p ex d V ) {\\displaystyle dS\\geq {\\frac {1}{T_{\\text{ex}}}}(dU+p_{\\text{ex}}dV)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "が成り立つことがわかる。可逆過程では等号",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 T ex ( d U + p ex d V ) {\\displaystyle dS={\\frac {1}{T_{\\text{ex}}}}(dU+p_{\\text{ex}}dV)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "が成り立ち、さらに準静的過程では系と外部が熱平衡および力学的平衡にあるので、外部の温度Texは系の温度Tに等しく、外部の圧力pexは系の圧力pに等しい。すなわち、(U,V)で表される平衡状態から(U+dU,V+dV)で表される平衡状態への準静的な無限小変化では",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 T ( d U + p d V ) {\\displaystyle dS={\\frac {1}{T}}(dU+pdV)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないときには、平衡状態にある系の温度と圧力は、(U,V)の関数として一意に定まることが経験的に知られている。系の温度と圧力がそれぞれT(U,V)とp(U,V)で表されるとき、不可逆過程においても、(U,V)で表される平衡状態から(U+dU,V+dV)で表される平衡状態への無限小変化で、準静的過程と同じ式",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 T ( U , V ) ( d U + p ( U , V ) d V ) {\\displaystyle dS={\\frac {1}{T(U,V)}}(dU+p(U,V)dV)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。なぜなら、左辺のdSが状態量Sの変化量なので、右辺もまた途中の過程に依らないからである。この式をS(U,V)の全微分dSと比べると、直ちに偏微分",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "( ∂ S ∂ U ) V = 1 T , ( ∂ S ∂ V ) U = p T {\\displaystyle \\left({\\frac {\\partial S}{\\partial U}}\\right)_{V}={\\frac {1}{T}},~\\left({\\frac {\\partial S}{\\partial V}}\\right)_{U}={\\frac {p}{T}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "が得られる。 特に前者は、統計力学において熱力学温度Tを導入する際に用いられる関係式である(エントロピーの存在を公理的に与える論理展開の場合は、熱力学においてもこの式が熱力学温度の定義式である)。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、T(U,V)とp(U,V)の両方の関数形が知られていれば、これら二つの関数から、熱容量やエントロピーなどの、系の全ての状態量を計算することができる。しかし、どちらか一方の関数形が不明な場合は、これが不可能になる。例えば、p(U,V)だけから系の熱容量を計算することは不可能である。また、T(U,V)だけからでは、体積変化に伴うエントロピー変化を求めることはできない。一方、S(U,V)が知られていれば、この関数ひとつだけから、系の全ての状態量を計算することができる。すなわち、系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、S(U,V)は完全な熱力学関数となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "エントロピーは内部エネルギーや体積などの示量性状態量を変数に持つとき、完全な熱力学関数となる。系が化学反応など物質の増減によってエネルギーの移動が生じるときは",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 T ( d U + p d V − μ d N ) {\\displaystyle dS={\\frac {1}{T}}(dU+pdV-\\mu dN)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "となる。 ここで、Nは物質量、μは化学ポテンシャルである。さらに他の示量性状態量の変化dXによるエネルギーの移動があるときは、それに対応する示強性状態量xとして",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 T ( d U + p d V − μ d N − x d X ) {\\displaystyle dS={\\frac {1}{T}}(dU+pdV-\\mu dN-xdX)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "となる。 Xとxの組としては",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "エントロピーを完全な熱力学関数として用いる場合の系の平衡状態を表す変数は内部エネルギーと体積などの示量性変数である。しかし、温度は測定が容易なため、系の平衡状態を表す変数として温度を選ぶ場合がある。 閉鎖系で物質量の変化を考えない場合に、温度 T と体積 V の関数としてのエントロピー S(T,V) の温度 T による偏微分は",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "( ∂ S ∂ T ) V = 1 T ( ∂ U ∂ T ) V = C V ( T , V ) T {\\displaystyle \\left({\\frac {\\partial S}{\\partial T}}\\right)_{V}={\\frac {1}{T}}\\left({\\frac {\\partial U}{\\partial T}}\\right)_{V}={\\frac {C_{V}(T,V)}{T}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。ここで CV 定積熱容量である。 また、エントロピー S(T,V) の体積 V による偏微分はMaxwellの関係式より",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "( ∂ S ∂ V ) T = ( ∂ p ∂ T ) V {\\displaystyle \\left({\\frac {\\partial S}{\\partial V}}\\right)_{T}=\\left({\\frac {\\partial p}{\\partial T}}\\right)_{V}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。これは熱膨張係数 α と等温圧縮率 κT で表せば",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "( ∂ S ∂ V ) T = α κ T {\\displaystyle \\left({\\frac {\\partial S}{\\partial V}}\\right)_{T}={\\frac {\\alpha }{\\kappa _{T}}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "従って、T-V 表示によるエントロピーの全微分は",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "d S = C V T d T + ( ∂ p ∂ T ) V d V = C V T d T + α κ T d V {\\displaystyle {\\begin{aligned}dS&={\\frac {C_{V}}{T}}\\,dT+\\left({\\frac {\\partial p}{\\partial T}}\\right)_{V}dV\\\\&={\\frac {C_{V}}{T}}\\,dT+{\\frac {\\alpha }{\\kappa _{T}}}\\,dV\\\\\\end{aligned}}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "さらに体積に変えて圧力 p を変数に用いれば、体積 V(T,p) の全微分が",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "d V = V ( α d T − κ T d p ) {\\displaystyle dV=V(\\alpha \\,dT-\\kappa _{T}dp)}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "であることを用いれば、T-p 表示によるエントロピーの全微分は",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "d S = C p T d T − V α d p {\\displaystyle dS={\\frac {C_{p}}{T}}\\,dT-V\\alpha \\,dp}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "低圧領域において実在気体の状態方程式をビリアル展開",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "V m ( T , p ) = R T p + B V ( T ) + O ( p 1 ) {\\displaystyle V_{\\text{m}}(T,p)={\\frac {RT}{p}}+B_{V}(T)+O(p^{1})}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "の形で書くと、モルエントロピー Sm の圧力による偏微分は、マクスウェルの関係式より",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "( ∂ S m ∂ p ) T = − ( ∂ V m ∂ T ) p = − R p − d B V d T + O ( p 1 ) {\\displaystyle \\left({\\frac {\\partial S_{\\text{m}}}{\\partial p}}\\right)_{T}=-\\left({\\frac {\\partial V_{\\text{m}}}{\\partial T}}\\right)_{p}=-{\\frac {R}{p}}-{\\frac {dB_{V}}{dT}}+O(p^{1})}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "となる。従って、低圧領域においてモルエントロピーは",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "S m ( T , p ) = S m ∘ ( T ) − R ln p p ∘ − p d B V d T + O ( p 2 ) {\\displaystyle S_{\\text{m}}(T,p)=S_{\\text{m}}^{\\circ }(T)-R\\ln {\\frac {p}{p^{\\circ }}}-p\\,{\\frac {dB_{V}}{dT}}+O(p^{2})}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "で表される。ここで",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "S m ∘ ( T ) = lim p → 0 { S m ( T , p ) + R ln p p ∘ } {\\displaystyle S_{\\text{m}}^{\\circ }(T)=\\lim _{p\\to 0}\\left\\{S_{\\text{m}}(T,p)+R\\ln {\\frac {p}{p^{\\circ }}}\\right\\}}",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "で定義される S°m(T) は、温度 T における標準モルエントロピーであり、この実在気体が理想気体の状態方程式に従うと仮定した時の、圧力 p°におけるモルエントロピーに相当する。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1999年にエリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンは、「断熱的到達可能性」という概念を導入して熱力学を再構築した。「状態Yが状態Xから断熱操作で到達可能である」ことを X ≺ Y {\\displaystyle X\\prec Y} と表記し、この ≺ {\\displaystyle \\prec } の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている。",
"title": "熱力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ある巨視的状態(例えば、圧力と体積を指定した状態)に対して、それを与える微視的状態(例えば、各分子の位置および運動量)は多数存在すると考えられる。そこで仮想的にアンサンブルを考える。つまり、ある巨視的状態に対応する微視的状態の集合を考え、その各々の元が与えられた巨視的状態の下で実現する確率分布を与えることにする。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "系の微視的状態(例えば量子系であればエネルギー固有状態)ωを考え、微視的状態ωが実現される確率分布p(ω)が与えられているとき、ボルツマン定数をkとして、エントロピーSを",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "S = k ⟨ ln 1 p ( ω ) ⟩ = − k ∑ ω p ( ω ) ln p ( ω ) {\\displaystyle S=k\\left\\langle \\ln {\\frac {1}{p(\\omega )}}\\right\\rangle =-k\\sum _{\\omega }p(\\omega )\\ln p(\\omega )}",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "により定義する。これはギブズエントロピー(英: Gibbs entropy)とも呼ばれる。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "すなわち、統計力学におけるエントロピーは情報理論におけるエントロピー(無次元量)と定数倍を除いて一致する。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "例えば、エネルギーEの状態にある孤立系に対応して、小正準集団を用いるとする。すなわち、微視的状態ωにあるときのエネルギーをE(ω)としたときに、系のエネルギーEにある微視的状態のみに有限の確率を等しく",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "p ( ω ) = { 1 / Ω ( E ) if E ( ω ) = E 0 if E ( ω ) ≠ E {\\displaystyle p(\\omega )={\\begin{cases}1/\\Omega (E)&{\\text{if }}E(\\omega )=E\\\\0&{\\text{if }}E(\\omega )\\neq E\\end{cases}}}",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "として与える(等重率の原理)。ここで、規格化定数Ω(E)は状態数と呼ばれ、系がエネルギーEにあるときに実現しうる微視的状態の数を意味する。このとき、エントロピーはボルツマンの公式としてよく知られる",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "S ( E ) = k ln Ω ( E ) {\\displaystyle S(E)=k\\ln \\Omega (E)}",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "このように小正準集団により与えられたエントロピーが、先に見た熱力学のエントロピーと整合していることを確認する。エネルギーE、小正準集団によるエントロピーSの系を、透熱壁を入れることにより 2 つの部分系に分離する。それぞれの系にエネルギーがE1, E2と分配されるとしよう。この場合、系全体の状態数か、あるいはその対数であるエントロピーが最大になるように部分系のエネルギーが決定されると考えるのは自然であろう。系全体の状態数は 2 つの部分系の状態数の積であり、すなわち系全体のエントロピーSは 2 つの部分系のエントロピーS1, S2の和である。条件E2 = E − E1の下で全体のエントロピーを最大とする条件を考えると、",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "d S d E 1 = d S 1 d E 1 + d S 2 d E 1 = d S 1 d E 1 − d S 2 d E 2 = 0 {\\displaystyle {\\frac {dS}{dE_{1}}}={\\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}+{\\frac {dS_{2}}{dE_{1}}}={\\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}-{\\frac {dS_{2}}{dE_{2}}}=0}",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "すなわち",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "d S 1 d E 1 = d S 2 d E 2 {\\displaystyle {\\frac {dS_{1}}{dE_{1}}}={\\frac {dS_{2}}{dE_{2}}}}",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで、このエントロピーを熱力学のものと同一視すると、dS/dE = 1/Tが成立するのであった(部分系の体積は固定しておくことにする)。透熱壁を用いて 2 つの系を接触させた場合、平衡状態では当然 2 つの系の温度は等しくなることと、ここで確認した事実は確かに整合している。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "熱力学と整合するアンサンブルは、ここで例示した小正準集団の他にも、正準分布や大正準分布がある。",
"title": "統計力学におけるエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "情報理論においてエントロピーは確率変数が持つ情報の量を表す尺度で、それゆえ情報量とも呼ばれる。 確率変数Xに対し、XのエントロピーH(X)は",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "で定義されており、これは統計力学におけるエントロピーと定数倍を除いて一致する。この定式化を行ったのはクロード・シャノンである。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "これは単なる数式上の一致ではなく、統計力学的な現象に対して情報理論的な意味づけを与える事ができることを示唆する。情報量は確率変数Xが数多くの値をとればとるほど大きくなる傾向があり、したがって情報量はXの取る値の「乱雑さ」を表す尺度であると再解釈できる。よって情報量の概念は、原子や分子の「乱雑さの尺度」を表す統計力学のエントロピーと概念的にも一致する。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "しかし、情報のエントロピーと物理現象の結びつきは、シャノンによる研究の時点では詳らかではなかった。この結びつきは、マクスウェルの悪魔の問題が解決される際に決定的な役割を果たした。シラードは、悪魔が分子について情報を得る事が熱力学的エントロピーの増大を招くと考えたが、これはベネットにより可逆な(エントロピーの変化ない)観測が可能である、と反例が示された。最終的な決着は1980年代にまで持ち越された。ランダウアーがランダウアーの原理として示していたことであったのだが、悪魔が繰り返し働く際に必要となる、分子についての以前の情報を忘れる事が熱力学的エントロピーの増大を招く、として、ベネットによりマクスウェルの悪魔の問題は解決された。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "この原理によれば、コンピュータがデータを消去するときに熱力学的なエントロピーが発生するので、通常の(可逆でない=非可逆な)コンピュータが計算に伴って消費するエネルギーには下限があることが知られている(ランダウアーの原理。ただし現実の一般的なコンピュータの発熱とは比べるべくもない規模である)。また理論的には可逆計算はいくらでも少ない消費エネルギーで行うことができる。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "さらにエドウィン・ジェインズ(英語版)は統計力学におけるギブズの手法を抽象することで、統計学・情報理論における最大エントロピー原理を打ち立てた。この結果、ギブズの手法は統計学・情報理論の統計力学への一応用例として再解釈されることになった。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "統計力学と情報理論の関係は量子力学においても成立しており、量子統計力学におけるフォン・ノイマンエントロピーは量子情報の情報量を表していると再解釈された上で、量子情報や量子計算機の研究で使われている。",
"title": "情報理論におけるエントロピーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "ブラックホールのエントロピーは表面積に比例する。",
"title": "ブラックホールのエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "S = A k c 3 4 ħ G . {\\displaystyle S={\\frac {Akc^{3}}{4\\hbar G}}.}",
"title": "ブラックホールのエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "ここでSはエントロピー、Aはブラックホールの事象の地平面の面積、ħはディラック定数(換算プランク定数)、kはボルツマン定数、Gは重力定数、cは光速度である。",
"title": "ブラックホールのエントロピー"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "エルヴィン・シュレーディンガーは、生命をネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。負のエントロピー自体は後に否定されたが、非平衡系の学問の発展に寄与した。",
"title": "生物学におけるエントロピー"
}
] | エントロピーは、熱力学および統計力学において定義される示量性の状態量である。熱力学において断熱条件下での不可逆性を表す指標として導入され、統計力学において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。統計力学での結果から、系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。物理学者のエドウィン・ジェインズのようにむしろ物理学におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者もいる。 エントロピーはエネルギーを温度で割った次元を持ち、SIにおける単位はジュール毎ケルビンである。エントロピーと同じ次元を持つ量として熱容量がある。エントロピーはサディ・カルノーにちなんで一般に記号 S を用いて表される。 | {{Distinguish|エンタルピー}}
{{Otheruses|[[熱力学]]的、[[統計力学]]的な側面|[[情報理論]]的な側面|情報量}}
{{物理量
|英語 = entropy
|記号 = {{mvar|S}}
|M = 1
|L = 2
|T = −2
|Θ = −1
|階 = [[テンソル|スカラー]]
|SI = [[ジュール]]毎[[ケルビン]] (J/K)
|CGS = [[エルグ]]毎ケルビン (erg/K)
|プランク = [[ボルツマン定数]] ({{mvar|k}})
}}
{{Thermodynamics sidebar}}
{{統計力学}}
'''エントロピー'''({{lang-en-short|entropy}})は、[[熱力学]]および[[統計力学]]において定義される[[示量性]]の[[状態量]]である。熱力学において[[断熱過程|断熱条件下]]での[[可逆|不可逆性]]を表す指標として導入され、統計力学において[[系 (自然科学)|系]]の[[微視的]]な「乱雑さ」<ref group="注">「でたらめさ」と表現されることもある。ここでいう「でたらめ」とは、矛盾や誤りを含んでいたり、的外れであるという意味ではなく、相関がなくランダムであるという意味である。</ref>を表す物理量という意味付けがなされた。統計力学での結果から、系から得られる[[情報]]に関係があることが指摘され、[[情報理論]]にも応用されるようになった。[[物理学者]]の{{仮リンク|エドウィン・トンプソン・ジェインズ|label=エドウィン・ジェインズ|en|Edwin Thompson Jaynes}}のようにむしろ[[物理学]]におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者{{誰|date=2023年11月}}もいる。
エントロピーは[[エネルギー]]を[[熱力学温度|温度]]で割った[[量の次元|次元]]を持ち、[[国際単位系|SI]]における[[単位]]は[[ジュール]]毎[[ケルビン]](記号: J/K)である。エントロピーと同じ次元を持つ量として[[熱容量]]がある。エントロピーは[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]にちなんで一般に記号 {{mvar|S}} を用いて表される。
== 概要 ==
エントロピーは、[[熱力学]]、[[統計力学]]、[[情報理論]]など様々な分野で使われている。しかし分野によって、その定義や意味付けは異なる。よってエントロピーを一言で説明することは難しいが、大まかに「何をすることができて、何をすることができないかを、その大小で表すような量」であると言える{{sfn|田崎|田崎|2010|loc=『RikaTan』10-12月号}}。
エントロピーに関わる有名な性質として、熱力学における[[#エントロピー増大則|エントロピー増大則]]がある。エントロピー増大則は、[[断熱過程|断熱条件]]の下で[[系 (自然科学)|系]]がある[[熱力学的平衡|平衡状態]]から別の平衡状態へ移るとき、遷移の前後で系のエントロピーが減少せず、殆ど必ず増加することを主張する。断熱条件の下で系の平衡状態が {{math|A}} から {{math|B}} への遷移が可能な場合、系のそれぞれの平衡状態におけるエントロピーの間には
{{Indent|
<math>S(\text{A}) \le S(\text{B})</math>
}}
の関係が成り立つ。等号が成り立ち、状態を移る前後でエントロピーが変化しない場合には、逆向きの {{math|B}} から {{math|A}} への遷移が可能である。逆向きの遷移が可能なのは[[準静的過程|準静的]]な断熱過程だけである。逆向きの断熱過程が存在しないならば、状態の遷移に伴ってエントロピーが必ず増加する。
エントロピー増大則は熱力学の特徴である可逆性と不可逆性を特徴付ける法則であり、エントロピーは熱力学における最も基本的な量である。
{| class="wikitable" style="width: 400px; float: right"
! 固体の模式図
! 液体や気体の模式図
|-
! [[ファイル:CC Vaste stof.svg|150px]]
! [[ファイル:CC Gas.svg|150px]]
|-
| colspan="2" | [[氷]]のような[[結晶|結晶性]]の[[固体]]は、結晶構造に従って分子が配列される。
一方、[[水]]のような[[液体]]や[[水蒸気]]のような[[気体]]は、自由な分子配置をとれる。
このため、液体や気体が取り得る状態の数が固体に比べて大きく、エントロピーも大きい。
|-
|}
エントロピーに関する法則としてもう一つよく知られるものに、統計力学における[[ボルツマンの公式|ボルツマンの原理]]がある。ボルツマンの原理は、ある巨視的な系のエントロピーを、その系が取り得る微視的な[[状態数|状態の数]]と関係づける。微視的な状態数が {{mvar|W}} のときのエントロピーは
{{Indent|
<math>S=k \ln W</math>
}}
で表される。比例係数 {{mvar|k}} は[[ボルツマン定数]]と呼ばれる<ref>[[#iupac|IUPAC Gold Book]]</ref>。系の巨視的な状態は、系の[[エネルギー]]や[[体積]]、[[物質量]]などの巨視的な物理量の組によって定められるが、それらの巨視的な物理量を定めたとしても系の微視的状態は完全には定まらず、いくつかの状態を取り得る。状態数とは巨視的な拘束条件の下で可能な微視的状態の数を見積もったものである。ボルツマンの原理から、可能な微視的状態の数が増えるほどにエントロピーが大きいことが解る([[対数]]は狭義の[[単調増加関数]]である)。逆に、微視的状態が確定する<ref group="注">ここでいう「微視的状態が確定する」ということは、あらゆる物理量の値が確定するという意味ではなく、なんらかの[[固有状態]]に定まるという意味である。従って[[量子力学]]的な[[不確定性原理|不確定性]]は残る。</ref> {{math|1=''W'' = 1}} の状況ではエントロピーが {{math|1=''S'' = 0}} となる。可能な微視的状態の数が増えるということは、巨視的な情報しか知り得ないとすれば、それだけ微視的世界に関する情報が欠如していると捉えることができ、この意味でボルツマンの原理はエントロピーの微視的乱雑さを表す指標としての性格を示している。
== 歴史 ==
[[ファイル:Clausius.jpg|thumb|ルドルフ・クラウジウス]]
エントロピーは、ドイツの物理学者[[ルドルフ・クラウジウス]]が、[[カルノーサイクル]]の研究をする中で、移動する熱を温度で割った{{math|''Q''/''T''}}という形で導入され、当初は[[熱力学]]における可逆性と不可逆性を研究するための概念であった。後に原子の実在性を強く確信したオーストリアの物理学者[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]によって、エントロピーが原子や分子の「乱雑さの尺度」であることが論証された。
クラウジウスは[[1854年]]にクラウジウスの不等式として[[熱力学第二法則]]を表現していたが、彼自身によって「エントロピー」の概念が明確化されるまでにはそれから11年を要した。不可逆サイクルでゼロとならないこの量をクラウジウスは仕事と熱の間の「変換」で補償されない量として、[[1865年]]の論文においてエントロピーと名付けた。エントロピーという言葉は「変換」を意味する{{lang-el|τροπή}}(トロペー)に由来している。
その後ボルツマンやギブスによって統計力学的な取り扱いが始まった。[[情報理論]](直接的には[[通信]]の理論)における[[情報量]]の定式化が行われたのは、[[クロード・シャノン]]の[[1948年]]『[[通信の数学的理論]]』である。シャノンは熱統計力学とは独立に定式化にたどり着き、エントロピーという命名は[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]の勧めによる、と言われることがあるが、シャノンはフォン・ノイマンの関与を否定している<ref>出典は[[情報量#歴史]]を参照</ref>。
== 熱力学におけるエントロピー ==
[[ファイル:熱エントロピーの説明用の図.svg|thumb|400px|熱エントロピーの説明用の図。]]
エントロピーは、熱力学における[[断熱過程]]の[[可逆性|不可逆性]]を特徴付ける量として位置付けられる。熱力学では、系のすべての熱力学的な性質が、一つの関数によってまとめて表現される。そのような関数は[[完全な熱力学関数]]と呼ばれる。エントロピーは完全な熱力学関数の一つでもある。
=== エントロピーの定義 ===
エントロピーの定義の方法には、いくつかのスタイルがある。
* [[熱]]を用いてエントロピーを定義する方法{{sfn|フェルミ|1973}}{{sfn|佐々|2000}}。
* [[断熱過程]]と[[等温過程]]で系がする[[仕事 (物理学)|仕事]]の最大値([[内部エネルギー]]と[[ヘルムホルツの自由エネルギー]])の差からエントロピーを定義する方法{{sfn|田崎|2000}}。
* 最初にエントロピーの存在と[[完全な熱力学関数]]としてのエントロピーが満たすべき性質を認め、熱力学を出発させる方法{{sfn|清水|2007}}。
以下のエントロピーの説明は、クラウジウスが[[1865年]]の論文{{sfn|Clausius|1865}}の中で行ったものを基にしている{{sfn|田崎|2000|pp=16; 107-110|loc=1-3 本書の内容について; 6-4 エントロピーと熱}}。クラウジウスは[[熱]]を用いてエントロピーを定義した。この方法による説明は多くの文献で採用されている{{sfn|田崎|2000|p=16|loc=1-3 本書の内容について}}。
==== 簡単な状況下での説明 ====
温度 {{math|''T''{{sub|1}}}} の吸熱源から {{math|''Q''{{sub|1}}}} の[[熱]]を得て、温度 {{math|''T''{{sub|2}}}} の排熱源に {{math|''Q''{{sub|2}}}} の熱を捨てる[[熱力学サイクル|熱機関]](サイクル)を考える。この熱機関が外部に行う[[仕事 (物理学)|仕事]]は[[エネルギー保存則]]から {{math|1=''W'' = ''Q''{{sub|1}} − ''Q''{{sub|2}}}} であり、熱機関の[[熱効率]] {{mvar|η}} は
{{Indent|
<math>\eta = \frac{W}{Q_1} = 1-\frac{Q_2}{Q_1}</math>
}}
で与えられる。
[[カルノーの定理 (熱力学)|カルノーの定理]]によれば、熱機関の熱効率には二つの熱源の温度によって決まる上限の存在が導かれ、その上限は
{{Indent|
<math>\eta \le \eta_\mathrm{max} = 1-\frac{T_2}{T_1}</math>
}}
で表される<ref name="temperature" group="注">カルノーの定理においては一般には熱効率の上限は {{math|1=''η''{{sub|max}} = ''f''(''T''{{sub|1}}, ''T''{{sub|2}})}} の形で証明されている。この表式が成り立つように、[[熱力学温度]]([[絶対温度]]){{mvar|T}} を定義する。たとえば、[[セルシウス度]]や[[ファーレンハイト度]]を使った場合には、熱効率の式はやや複雑な形になる。</ref>。
これら2本の式を整理することで、
{{NumBlk|::|
<math>\frac{Q_1}{T_1} \le \frac{Q_2}{T_2}</math>
|{{EquationRef|3|{{Nowiki|*}}}}
}}
が成立することが分かる。
可逆な熱機関の熱効率は {{math|''η''{{sub|max}}}} と等しく、このため可逆な熱機関では{{EquationNote|3|(*) 式}}は等号
{{NumBlk|::|
<math>\frac{Q_1}{T_1} = \frac{Q_2}{T_2}</math>
|{{EquationRef|4|†}}
}}
が成り立つ。すなわち、可逆な過程で高熱源に接している状態から低熱源に接している状態に変化させたとしても {{math|''Q''/''T''}} という量は不変となる。クラウジウスはこの不変量を'''エントロピー'''と呼んだ。
可逆でない熱機関は熱効率が {{math|''η''{{sub|max}}}} よりも悪いことが知られており、このため可逆でない熱機関では{{EquationNote|3|(*) 式}}は等号ではなく不等式
{{Indent|
<math>\frac{Q_1}{T_1} < \frac{Q_2}{T_2}</math>
}}
が成り立つ。すなわち、可逆でない過程で高熱源で熱を得た後、低熱源でその熱を捨てるとエントロピーは増大する([[エントロピー増大則]])。
==== 一般の場合 ====
上では話を簡単にするため、高熱源と低熱源の2つしか熱源がない場合を考えたが、より一般に{{mvar|n}}個の熱源がある状況を考えると{{EquationNote|3|(*) 式}}は
{{Indent|
<math>\sum_{i=1}^n\frac{Q_i}{T_i} \le 0</math>
}}
となる([[熱力学第二法則#法則の表現|クラウジウスの不等式]])。ただし上の不等式では{{EquationNote|3|(*) 式}}と違い{{mvar|Q{{sub|i}}}}は全て温度{{mvar|T{{sub|i}}}}の熱源から'''得る'''熱であり、熱を捨てる場合は負の値としている。
可逆なサイクルでは等号
{{Indent|
<math>\sum_{i=1}^n\frac{Q_i}{T_i} = 0</math>
}}
が成り立ち、この式で{{math|''n''→∞}}とすると、
{{Indent|
<math>\oint\frac{d'Q}{T}=0</math>
}}
となる<ref name="d-prime" group="注">{{math|d{{'}}}}は状態量でない量の微小量ないし微小変化量を表す。文献によってしばしば同様の意味で{{math|δ}}が用いられる。</ref> 。状態{{math|A}}から状態{{math|B}}へと移る任意の可逆過程{{mvar|C}},{{mvar|C'}}を考え、{{math|−''C''}}を{{mvar|C}}の逆過程とする。このとき、{{mvar|C'}}と{{math|−''C''}}を連結させた過程{{math|''C{{'}}''−''C''}}は可逆なサイクルとなり
{{Indent|
<math>\oint_{C'-C} \frac{d'Q}{T}=\int_{C'} \frac{d'Q}{T} +\int_{-C} \frac{d'Q}{T}
=\int_{C'} \frac{d'Q}{T} -\int_C \frac{d'Q}{T} =0</math>
}}
{{NumBlk|::|
<math>\int_{C'} \frac{d'Q}{T} =\int_C \frac{d'Q}{T}</math>
|{{EquationRef|8|{{Nowiki|**}}}}
}}
が成り立つ。つまり、この積分の値は始状態と終状態が同じならば可逆過程の選び方によらない。
そこで、適当に基準となる状態{{math|O}}と、そのときの基準値{{math|''S''{{sub|0}}}}を決めると、状態{{math|A}}における'''エントロピー'''{{math|''S''(A)}}を
{{Indent|
<math>S(\text{A})=S_0+\int_{\Gamma(\text{A})}\frac{d'Q}{T}</math>
}}
と定義することができる。ここで{{math|Γ(A)}}は基準状態{{math|O}}から状態{{math|A}}へと変化する'''可逆な'''過程である。{{EquationNote|8|(**) 式}}からエントロピーの定義は可逆過程{{math|Γ(A)}}の選び方によらない。
基準状態{{math|O}}から状態{{math|A}}へと移る可逆過程{{math|Γ(A)}}と、状態{{math|A}}から状態{{math|B}}へと移るある可逆過程{{mvar|C}}を連結させた過程{{math|Γ(A)+''C''}}は基準状態{{math|O}}から状態{{math|B}}へと移る可逆過程である。したがって、
{{Indent|
<math>\int_{\Gamma(\text{A})} \frac{d'Q}{T} +\int_C \frac{d'Q}{T}
=\int_{\Gamma(A) +C} \frac{d'Q}{T} =\int_{\Gamma(\text{B})} \frac{d'Q}{T}</math>
}}
あるいは
{{Indent|
<math>\Delta S =S(\text{B}) -S(\text{A}) =\int_C \frac{d'Q}{T}</math>
}}
となる。
=== エントロピー増大則 ===
状態{{math|A}}から状態{{math|B}}へと移る任意の過程{{mvar|X}}と、同じく状態{{math|A}}から状態{{math|B}}へと移る可逆過程{{mvar|C}}を考え、{{math|−''C''}}を{{mvar|C}}の逆過程とする。このとき{{mvar|X}}と{{math|−''C''}}を連結させた過程{{math|''X''−''C''}}はサイクルとなる。
このサイクルについて、[[#一般の場合|導出]]と同様にクラウジウスの不等式から
{{Indent|
<math>\oint_{X-C} \frac{d'Q}{T_\text{ex}}
=\int_X \frac{d'Q}{T_\text{ex}}+\int_{-C} \frac{d'Q}{T_\text{ex}}
=\int_X \frac{d'Q}{T_\text{ex}}-\int_C \frac{d'Q}{T_\text{ex}}\le 0</math>
}}
{{Indent|
<math>\int_X\frac{d'Q}{T_\text{ex}}\le \int_C \frac{d'Q}{T_\text{ex}}</math>
}}
が導かれる。ここで{{math|''T''{{sub|ex}}}}は熱源の温度であり、一般には系の温度{{mvar|T}}とは一致しない。しかし、可逆過程{{mvar|C}}の間においては、系は常に平衡状態にあるとみなされるから、熱源の温度{{math|''T''{{sub|ex}}}}は系の温度{{mvar|T}}に一致する。したがって
{{Indent|
<math>\int_X \frac{d'Q}{T_\text{ex}}\le \int_C \frac{d'Q}{T} =\Delta S</math>
}}
となる。
特に断熱系(外から仕事が加えられても良い)においては{{math|1=d{{'}}''Q'' = 0}}なので、
{{Indent|
<math>\Delta S\geq 0</math>
}}
という結果が得られる。これが'''エントロピー増大則'''である。[[熱力学第二法則]]と同値なクラウジウスの不等式からこれが求められたことにより、[[エネルギー保存の法則|熱力学第一法則]]が[[エネルギー保存の法則|エネルギー保存則]]と対応するのになぞらえて熱力学第二法則とエントロピー増大則を対応させることもある。なお、この導出から明らかなように、熱の出入りがある系ではエントロピーが減少することも当然起こり得る。
エントロピーが増加するために、熱エネルギーのすべてを他のエネルギーに変換することはできない。したがって、熱エネルギーは低品質のエネルギーとも呼ばれる。
=== 完全な熱力学関数 ===
[[熱力学第一法則]]から、ある熱力学過程の間に系が外部から得る[[熱]]{{mvar|Q}}は、その過程の前後での系の[[内部エネルギー]]{{mvar|U}}の変化{{mvar|ΔU}}と、その過程の間に系が外部になす[[仕事 (物理学)|仕事]]{{mvar|W}}により
{{Indent|
<math>Q =\Delta U +W</math>
}}
と表すことができる。無限小の変化で考えると
{{Indent|
<math>d'Q =dU +d'W</math>
}}
となる<ref name="d-prime" group="注" />。クラウジウスの不等式とエントロピーの定義式から無限小変化に対して
{{Indent|
<math>dS \geq \frac{d'Q}{T_\text{ex}}</math>
}}
となる。系が体積{{mvar|V}}の変化{{mvar|dV}}を通してのみ外部に仕事をなす場合には、外部の圧力を{{math|''p''{{sub|ex}}}}として
{{Indent|
<math>d'W = p_\text{ex}dV</math>
}}
となる。これらをまとめると
{{Indent|
<math>dS \geq \frac{1}{T_\text{ex}} (dU + p_\text{ex}dV)</math>
}}
が成り立つことがわかる。可逆過程では等号
{{Indent|
<math>dS = \frac{1}{T_\text{ex}} (dU + p_\text{ex}dV)</math>
}}
が成り立ち、さらに[[準静的過程]]では系と外部が[[熱平衡]]および[[力学的平衡]]にあるので、外部の温度{{math|''T''{{sub|ex}}}}は系の温度{{mvar|T}}に等しく、外部の圧力{{math|''p''{{sub|ex}}}}は系の圧力{{mvar|p}}に等しい。すなわち、{{math|(''U'',''V'')}}で表される平衡状態から{{math|(''U''+''dU'',''V''+''dV'')}}で表される平衡状態への準静的な無限小変化では
{{Indent|
<math>dS = \frac{1}{T} (dU + pdV)</math>
}}
となる。
系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないときには、平衡状態にある系の温度と圧力は、{{math|(''U'',''V'')}}の関数として一意に定まることが経験的に知られている。系の温度と圧力がそれぞれ{{math|''T''(''U'',''V'')}}と{{math|''p''(''U'',''V'')}}で表されるとき、不可逆過程においても、{{math|(''U'',''V'')}}で表される平衡状態から{{math|(''U''+''dU'',''V''+''dV'')}}で表される平衡状態への無限小変化で、準静的過程と同じ式
{{Indent|
<math>dS = \frac{1}{T(U,V)} (dU + p(U,V)dV)</math>
}}
が成り立つ。なぜなら、左辺の{{mvar|dS}}が状態量{{mvar|S}}の変化量なので、右辺もまた途中の過程に依らないからである。この式を{{math|''S''(''U'',''V'')}}の全微分{{mvar|dS}}と比べると、直ちに偏微分
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial S}{\partial U} \right)_V =\frac{1}{T},~
\left( \frac{\partial S}{\partial V} \right)_U =\frac{p}{T}</math>
}}
が得られる。
特に前者は、統計力学において熱力学温度{{mvar|T}}を導入する際に用いられる関係式である(エントロピーの存在を公理的に与える論理展開の場合は、熱力学においてもこの式が熱力学温度の定義式である)。
系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、{{math|''T''(''U'',''V'')}}と{{math|''p''(''U'',''V'')}}の両方の関数形が知られていれば、これら二つの関数から、[[熱容量]]やエントロピーなどの、系の全ての状態量を計算することができる。しかし、どちらか一方の関数形が不明な場合は、これが不可能になる。例えば、{{math|''p''(''U'',''V'')}}だけから系の熱容量を計算することは不可能である。また、{{math|''T''(''U'',''V'')}}だけからでは、体積変化に伴うエントロピー変化を求めることはできない。一方、{{math|''S''(''U'',''V'')}}が知られていれば、この関数ひとつだけから、系の全ての状態量を計算することができる。すなわち、系と外部の間で物質の出入りがなく、外場の作用も受けていないとき、{{math|''S''(''U'',''V'')}}は[[完全な熱力学関数]]となる。
エントロピーは内部エネルギーや体積などの[[示量性]][[状態量]]を変数に持つとき、完全な熱力学関数となる。系が化学反応など物質の増減によってエネルギーの移動が生じるときは
{{Indent|
<math>dS =\frac{1}{T}(dU +pdV -\mu dN)</math>
}}
となる。
ここで、{{mvar|N}}は[[物質量]]、{{mvar|μ}}は[[化学ポテンシャル]]である。さらに他の示量性状態量の変化{{mvar|dX}}によるエネルギーの移動があるときは、それに対応する示強性状態量{{mvar|x}}として
{{Indent|
<math>dS =\frac{1}{T}(dU +pdV -\mu dN -xdX)</math>
}}
となる。
{{mvar|X}}と{{mvar|x}}の組としては
* [[誘電体]]の理論における[[誘電分極]]{{mvar|P}}と[[電場|外部電場]]{{mvar|E}}
* [[磁性体]]の理論における[[磁化]]{{mvar|M}}と[[磁場|外部磁場]]{{mvar|H}}
などがある。
=== 温度による表示 ===
エントロピーを完全な熱力学関数として用いる場合の系の平衡状態を表す変数は内部エネルギーと体積などの示量性変数である。しかし、温度は測定が容易なため、系の平衡状態を表す変数として温度を選ぶ場合がある。
閉鎖系で物質量の変化を考えない場合に、温度 {{mvar|T}} と体積 {{mvar|V}} の関数としてのエントロピー {{math|''S''(''T'',''V'')}} の温度 {{mvar|T}} による偏微分は
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial S}{\partial T} \right)_V
=\frac{1}{T} \left( \frac{\partial U}{\partial T} \right)_V
=\frac{C_V(T,V)}{T}</math>
}}
で与えられる。ここで {{mvar|C{{sub|V}}}} [[熱容量#定積熱容量|定積熱容量]]である。
また、エントロピー {{math|''S''(''T'',''V'')}} の体積 {{mvar|V}} による偏微分はMaxwellの関係式より
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial S}{\partial V} \right)_T
=\left( \frac{\partial p}{\partial T} \right)_V</math>
}}
で与えられる。これは[[熱膨張係数]] {{mvar|α}} と[[圧縮率|等温圧縮率]] {{mvar|κ{{sub|T}}}} で表せば
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial S}{\partial V} \right)_T =\frac{\alpha}{\kappa_T}</math>
}}
となる。
従って、{{math|''T''-''V''}} 表示によるエントロピーの全微分は
{{Indent|
<math>\begin{align}
dS &=\frac{C_V}{T}\, dT +\left( \frac{\partial p}{\partial T} \right)_V dV \\
&=\frac{C_V}{T}\, dT +\frac{\alpha}{\kappa_T}\, dV \\
\end{align}</math>
}}
となる。
さらに体積に変えて圧力 {{mvar|p}} を変数に用いれば、体積 {{math|''V''(''T'',''p'')}} の全微分が
{{Indent|
<math>dV =V(\alpha\, dT -\kappa_T dp)</math>
}}
であることを用いれば、{{math|''T''-''p''}} 表示によるエントロピーの全微分は
{{Indent|
<math>dS =\frac{C_p}{T}\, dT -V\alpha\, dp</math>
}}
となる。
==== 気体のエントロピー ====
低圧領域において[[実在気体]]の状態方程式を[[ビリアル展開]]
{{Indent|
<math>V_\text{m}(T,p) =\frac{RT}{p} +B_V (T) +O(p^1)</math>
}}
の形で書くと、モルエントロピー {{math|''S''<sub>m</sub>}} の圧力による偏微分は、[[マクスウェルの関係式]]より
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial S_\text{m}}{\partial p} \right)_T
=-\left( \frac{\partial V_\text{m}}{\partial T} \right)_p
=-\frac{R}{p} -\frac{dB_V}{dT} +O(p^1)</math>
}}
となる。従って、低圧領域においてモルエントロピーは
{{Indent|
<math>S_\text{m}(T,p) =S_\text{m}^\circ(T) - R\ln\frac{p}{p^\circ} -p\, \frac{dB_V}{dT} +O(p^2)</math>
}}
で表される。ここで
{{Indent|
<math>S_\text{m}^\circ(T) =\lim_{p\to 0} \left\{ S_\text{m}(T,p) +R\ln\frac{p}{p^\circ} \right\}</math>
}}
で定義される {{math|''S''°<sub>m</sub>(''T'')}} は、温度 {{mvar|T}} における[[標準モルエントロピー]]であり、この実在気体が理想気体の状態方程式に従うと仮定した時の、圧力 {{mvar|p}}°におけるモルエントロピーに相当する。
=== リーブとイングヴァソンによる再構築 ===
[[1999年]]に[[エリオット・リーブ]]と[[ヤコブ・イングヴァソン]]は、「[[断熱的到達可能性]]」という概念を導入して熱力学を再構築した{{sfn|Lieb|Yngvason1999}}{{sfn|リーブ|イングヴァソン|2001|loc=『[[パリティ (雑誌) |パリティ]]』Vol. 16, No. 08|pp=4-12}}。「状態{{mvar|Y}}が状態{{mvar|X}}から断熱操作で到達可能である」ことを <math>X \prec Y</math> と表記し、この <math>\prec </math> の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。
この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている<ref>{{harvnb|佐々|2000}}、{{harvnb|田崎|2000}}、{{harvnb|清水|2007}}などを参照。</ref>。
== 統計力学におけるエントロピー ==
ある巨視的状態(例えば、圧力と体積を指定した状態)に対して、それを与える微視的状態(例えば、各分子の位置および運動量)は多数存在すると考えられる。そこで仮想的にアンサンブルを考える。つまり、ある巨視的状態に対応する微視的状態の集合を考え、その各々の元が与えられた巨視的状態の下で実現する確率分布を与えることにする。
系の微視的状態(例えば量子系であればエネルギー固有状態){{mvar|ω}}を考え、微視的状態{{mvar|ω}}が実現される確率分布{{math|''p''(''ω'')}}が与えられているとき、[[ボルツマン定数]]を{{mvar|k}}として、エントロピー{{mvar|S}}を
{{Indent|
<math>S = k \left\langle \ln\frac{1}{p(\omega)} \right\rangle
= -k \sum_\omega p(\omega) \ln p(\omega)</math>
}}
により定義する<ref group="注">古典系の場合は状態を可算個として扱えない。したがって、例えば自由度{{mvar|f}}の古典系であれば、[[位相空間 (物理学)|位相空間]]上の一点を{{math|Γ {{=}} (''Q''{{sub|1}}, ''Q''{{sub|2}}, …, ''Q{{sub|f}}'', ''P''{{sub|1}}, ''P''{{sub|2}}, …, ''P{{sub|f}}'')}}と表し、ここに一様な[[測度論|確率測度]]{{math|dΓ/''h{{sup|f}}''}}を導入する(ここで{{mvar|P{{sub|•}}, Q{{sub|•}}}}は[[正準変数]]、{{mvar|h}}は[[プランク定数]])。こうすることにより、積分
{{Indent|
<math>\scriptstyle S = k \left\langle \ln\frac{1}{p(\Gamma)} \right\rangle
= -k \int \frac{d\Gamma}{h^f}\, p(\Gamma)\ln p(\Gamma)</math>
}}
でエントロピーを定義できる。</ref>。これは'''ギブズエントロピー'''({{lang-en-short|Gibbs entropy}})とも呼ばれる。
すなわち、統計力学におけるエントロピーは[[情報量|情報理論におけるエントロピー]]([[無次元量]])と定数倍を除いて一致する<ref group="注">ボルツマン定数を1とする単位系を取れば、エントロピーは情報理論におけるエントロピー([[自然対数]]を用いたもの)と完全に一致し、無次元量となる。簡便なので、理論計算などではこの単位系が用いられることも多い。なお、この単位系では温度は独立な次元を持たず、エネルギーと同じ次元となる。</ref>。
===小正準集団===
例えば、エネルギー{{mvar|E}}の状態にある孤立系に対応して、[[小正準集団]]を用いるとする。すなわち、微視的状態{{mvar|ω}}にあるときのエネルギーを{{math|''E''(''ω'')}}としたときに、系のエネルギー{{mvar|E}}にある微視的状態のみに有限の確率を等しく
{{Indent|
<math>p(\omega) = \begin{cases}
1/\Omega(E) & \text{if } E(\omega) = E\\
0 & \text{if } E(\omega) \ne E
\end{cases} </math>
}}
として与える<ref group="注">量子系では厳密には、エネルギーが量子化されているため、[[ほとんど (数学)#ほとんど至るところ|ほとんど至るところ]]の{{mvar|E}}において{{math|''E'' {{=}} ''E{{sub|i}}''}}は満たされない。そのため、その間に十分多くのエネルギー固有状態が入るエネルギー間隔{{math|Δ''E''}}を定義し、条件を{{math|{{!}}''E'' − ''E{{sub|i}}''{{!}}< Δ''E''}}と緩めることにする。</ref>('''[[等重率の原理]]''')。ここで、[[規格化|規格化定数]]{{math|Ω(''E'')}}は'''[[状態数]]'''と呼ばれ、系がエネルギー{{mvar|E}}にあるときに実現しうる微視的状態の数を意味する。このとき、エントロピーは'''ボルツマンの公式'''としてよく知られる
{{Indent|
<math>S(E) = k \ln \Omega(E)</math>
}}
で与えられる。
=== 熱力学との整合性 ===
このように小正準集団により与えられたエントロピーが、先に見た熱力学のエントロピーと整合していることを確認する。エネルギー{{mvar|E}}、小正準集団によるエントロピー{{mvar|S}}の系を、透熱壁を入れることにより 2 つの部分系に分離する。それぞれの系にエネルギーが{{math|''E''{{sub|1}}, ''E''{{sub|2}}}}と分配されるとしよう。この場合、系全体の状態数か、あるいはその対数であるエントロピーが最大になるように部分系のエネルギーが決定されると考えるのは自然であろう。系全体の状態数は 2 つの部分系の状態数の積であり、すなわち系全体のエントロピー{{mvar|S}}は 2 つの部分系のエントロピー{{math|''S''{{sub|1}}, ''S''{{sub|2}}}}の和である。条件{{math|''E''{{sub|2}} {{=}} ''E'' − ''E''{{sub|1}}}}の下で全体のエントロピーを最大とする条件を考えると、
{{Indent|<math>\frac{d S}{d E_1}=\frac{d S_1}{d E_1}+\frac{d S_2}{d E_1}=\frac{d S_1}{d E_1}-\frac{d S_2}{d E_2}=0</math>}}
すなわち
{{Indent|<math>\frac{d S_1}{d E_1}=\frac{d S_2}{d E_2}</math>}}
となる。ここで、このエントロピーを熱力学のものと同一視すると、{{math|d''S''/d''E'' {{=}} 1/''T''}}が成立するのであった(部分系の体積は固定しておくことにする)。透熱壁を用いて 2 つの系を接触させた場合、平衡状態では当然 2 つの系の温度は等しくなることと、ここで確認した事実は確かに整合している。
熱力学と整合するアンサンブルは、ここで例示した小正準集団の他にも、[[正準分布]]や[[大正準分布]]がある。
== 情報理論におけるエントロピーとの関係 ==
{{see also|情報量}}
[[情報理論]]において'''エントロピー'''は[[確率変数]]が持つ情報の量を表す尺度で、それゆえ'''[[情報量]]'''とも呼ばれる。
確率変数{{mvar|X}}に対し、{{mvar|X}}のエントロピー{{math|''H''(''X'')}}は
: <math>H(X) = -\sum_i P_i \ln P_i\,</math> (ここで{{mvar|P{{sub|i}}}}は{{math|''X'' {{=}} ''i''}}となる確率)
で定義されており、これは統計力学におけるエントロピーと定数倍を除いて一致する。この定式化を行ったのは[[クロード・シャノン]]である。
これは単なる数式上の一致ではなく、統計力学的な現象に対して[[情報理論]]的な意味づけを与える事ができることを示唆する。情報量は確率変数{{mvar|X}}が数多くの値をとればとるほど大きくなる傾向があり、したがって情報量は{{mvar|X}}の取る値の「乱雑さ」を表す尺度であると再解釈できる。よって情報量の概念は、原子や分子の「乱雑さの尺度」を表す統計力学のエントロピーと概念的にも一致する。
しかし、情報のエントロピーと物理現象の結びつきは、シャノンによる研究の時点では詳らかではなかった。この結びつきは、[[マクスウェルの悪魔]]の問題が解決される際に決定的な役割を果たした。シラードは、悪魔が分子について情報を得る事が熱力学的エントロピーの増大を招くと考えたが、これはベネットにより可逆な(エントロピーの変化ない)観測が可能である、と反例が示された。最終的な決着は1980年代にまで持ち越された。ランダウアーが[[ランダウアーの原理]]として示していたことであったのだが、悪魔が繰り返し働く際に必要となる、分子についての以前の情報を忘れる事が熱力学的エントロピーの増大を招く、として、ベネットによりマクスウェルの悪魔の問題は解決された。
この原理によれば、コンピュータがデータを消去するときに熱力学的なエントロピーが発生するので、通常の(可逆でない=非可逆な)コンピュータが計算に伴って消費するエネルギーには下限があることが知られている([[ランダウアーの原理]]。ただし現実の一般的なコンピュータの発熱とは比べるべくもない規模である)。また理論的には[[可逆計算]]はいくらでも少ない消費エネルギーで行うことができる。
さらに{{仮リンク|エドウィン・トンプソン・ジェインズ|label=エドウィン・ジェインズ|en|Edwin Thompson Jaynes}}は統計力学における[[ウィラード・ギブズ|ギブズ]]の手法を抽象することで、[[統計学]]・[[情報理論]]における[[最大エントロピー原理]]を打ち立てた。この結果、ギブズの手法は[[統計学]]・[[情報理論]]の統計力学への一応用例として再解釈されることになった。
統計力学と情報理論の関係は[[量子力学]]においても成立しており、[[量子統計力学]]における[[フォン・ノイマンエントロピー]]は[[量子情報]]の情報量を表していると再解釈された上で、[[量子情報]]や[[量子計算機]]の研究で使われている。
== ブラックホールのエントロピー ==
{{see also|ホログラフィック原理}}
[[ブラックホール]]のエントロピーは表面積に比例する。
{{Indent|<math>S = \frac{Akc^3}{4\hbar G}.</math>}}
ここで{{mvar|S}}はエントロピー、{{mvar|A}}はブラックホールの[[事象の地平面]]の面積、{{math|ℏ}}は[[ディラック定数]](換算[[プランク定数]])、{{mvar|k}}は[[ボルツマン定数]]、{{mvar|G}}は[[重力定数]]、{{mvar|c}}は[[光速度]]である。
== 生物学におけるエントロピー ==
{{see also|散逸構造}}
[[エルヴィン・シュレーディンガー]]は、生命を[[ネゲントロピー]](負のエントロピー)を取り入れエントロピーの増大を相殺することで[[定常状態]]を保持している[[開放定常系]]とした。負のエントロピー自体は後に否定されたが、[[非平衡熱力学|非平衡系]]の学問の発展に寄与した。
== 脚注 ==
===出典===
{{Reflist}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
== 参考文献 ==
; 論文
*{{Cite journal
|first=R.
|last=Clausius
|title=Ueber verschiedene für die Anwendung bequeme Formen der Hauptgleichungen der mechanischen Wärmetheorie
|url=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k152107/f369.table
|journal=Annalen der Physik
|volume=125
|pages=353–400
|date=1865
|doi=10.1002/andp.18652010702
|bibcode = 1865AnP...201..353C
|ref=harv
}}
*{{Cite journal
|first1=E. H.
|last1=Lieb
|authorlink1=エリオット・リーブ
|first2=J.
|last2=Yngvason
|authorlink2=ヤコブ・イングヴァソン
|title=The Physics and mathematics of the second law of thermodynamics
|journal=Phys. Rept.
|volume=310
|pages=1
|date=1999
|url=http://de.arxiv.org/abs/cond-mat/9708200
|ref=harv
}}
; 書籍
*{{Cite book|和書
|author=エンリコ・フェルミ
|authorlink=エンリコ・フェルミ
|title=フェルミ熱力学
|publisher=[[三省堂]]
|date=1973
|isbn=978-4385306599
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=佐々真一
|authorlink=佐々真一
|date=2000
|title=熱力学入門
|publisher=[[共立出版]]
|isbn=978-4320033474
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=田崎晴明
|authorlink=田崎晴明
|title=熱力学―現代的な視点から
|publisher=[[培風館]]
|series=新物理学シリーズ
|date=2000
|isbn=978-4-563-02432-1
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=清水明
|authorlink=清水明
|title=熱力学の基礎
|publisher=[[東大出版会]]
|date=2007
|isbn=978-4-13-062609-5
|ref=harv
}}
*{{Cite book|和書
|author=田崎晴明
|title=統計力学 I
|publisher=[[培風館]]
|series=新物理学シリーズ
|date=2008
|isbn=978-4-563-02437-6
|ref=harv
}}
*{{cite journal|和書
|author1=田崎晴明
|author2=田崎真理子
|title=リカ先生の10分サイエンス エントロピーって何?
|journal=RikaTan
|date=2010
|issue=10, 11, 12月号
|ref=harv
}}
*{{cite journal|和書
|author1=エリオット・リーブ
|author2=ヤコブ・イングヴァソン
|title=エントロピー再考
|others=田崎晴明 訳
|journal=[[パリティ (雑誌) |パリティ]]
|publisher=[[丸善]]
|volume=16
|issue=No. 08
|pages=4-12
|date=2001
|ref=harv
}}
== 関連項目 ==
{{div col}}
* [[熱力学ポテンシャル]](完全な熱力学関数)
* [[自由エネルギー]]
* [[カルノーサイクル]]
* [[ギブズのパラドックス]]
* [[気体分子運動論]]
* [[散逸構造]]
* [[ネゲントロピー]]
* [[情報量|情報理論におけるエントロピー(情報量)]]
* [[最大エントロピー原理]]
* [[ルドルフ・クラウジウス]]
* [[配置エントロピー]]
* [[配座エントロピー]]
* [[エントロピー的な力]]
* [[エントロピー弾性]]
{{div col end}}
== 外部リンク ==
* {{Spedia|Entropy|Entropy}}
* {{Cite web
|url=http://goldbook.iupac.org/E02149.html
|title=IUPAC Gold Book - entropy, S
|accessdate=2014-09-20
|ref=iupac
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えんとろひい}}
[[Category:物理量]]
[[Category:統計力学]]
[[Category:熱力学]]
[[Category:自然科学の法則]]
[[Category:エントロピー|*]]
[[Category:状態量]] | 2003-03-28T03:47:17Z | 2023-12-29T19:44:16Z | false | false | false | [
"Template:Otheruses",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC |
5,384 | 北野勇作 | 北野 勇作(きたの ゆうさく、1962年3月22日 -)は、日本の小説家、SF作家、落語作家。劇団「虚航船団パラメトリックオーケストラ」所属の役者でもある。兵庫県高砂市曽根町生まれ。大阪市生野区在住。血液型はB型。
1980年に甲南大学理学部応用物理学科入学、在籍中は落語研究会に所属していた。卒業後は神戸市に移住し、会社勤務の傍らSF短編や創作落語の台本などを執筆する。『S-Fマガジン』誌や、『SFアドベンチャー』誌の「森下一仁のショートノベル塾」などへの投稿を経たのち、1992年に『昔、火星のあった場所』で第4回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞し、作家デビュー。同年、落語台本「天動説」で第1回桂雀三郎新作落語〈やぐら杯〉最優秀賞受賞。2001年、『かめくん』で第22回日本SF大賞を受賞。
妻の森川弘子はイラストレーター・漫画家で、『年収150万円一家』など節約をテーマにしたコミックエッセイを執筆している。
日本SF作家クラブ会員だったが、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。
動物をテーマとし、動物が登場人物の1人として人間のようにしゃべったり振舞ったりする作品が多い。 | [
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] | 北野 勇作は、日本の小説家、SF作家、落語作家。劇団「虚航船団パラメトリックオーケストラ」所属の役者でもある。兵庫県高砂市曽根町生まれ。大阪市生野区在住。血液型はB型。 | {{存命人物の出典皆無|date=2017-04-17}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''北野 勇作'''|きたの ゆうさく|[[1962年]][[3月22日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[SF作家]]、落語作家。劇団「虚航船団パラメトリックオーケストラ」所属の役者でもある。[[兵庫県]][[高砂市]][[曽根町]]生まれ。[[大阪市]][[生野区]]在住。血液型は[[ABO式血液型|B型]]。
== 人物 ==
1980年に[[甲南大学]]理学部応用物理学科入学、在籍中は落語研究会に所属していた。卒業後は[[神戸市]]に移住し、会社勤務の傍らSF短編や創作落語の台本などを執筆する。『[[S-Fマガジン]]』誌や、『[[SFアドベンチャー]]』誌の「[[森下一仁]]のショートノベル塾」などへの投稿を経たのち、[[1992年]]に『昔、火星のあった場所』で第4回[[日本ファンタジーノベル大賞]]優秀賞を受賞し、作家デビュー。同年、落語台本「天動説」で第1回[[桂雀三郎]]新作落語〈やぐら杯〉最優秀賞受賞。[[2001年]]、『[[かめくん]]』で第22回[[日本SF大賞]]を受賞。
妻の[[森川弘子]]は[[イラストレーター]]・[[漫画家]]で、『年収150万円一家』など[[節約]]をテーマにした[[コミックエッセイ]]を執筆している。
[[日本SF作家クラブ]]会員だったが<REF>日本SF作家クラブ編『SF入門』(早川書房、2001年)巻末名簿</REF>、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。
== 作風 ==
動物をテーマとし、動物が登場人物の1人として人間のようにしゃべったり振舞ったりする作品が多い。
== 作品 ==
=== 小説 ===
==== 単行本 ====
* 昔、火星のあった場所(1992年12月 [[新潮社]] / 2001年5月 [[徳間デュアル文庫]])
* クラゲの海に浮かぶ舟(1994年12月 [[角川書店]] / 2001年9月 徳間デュアル文庫)
* かめくん(2001年1月 徳間デュアル文庫 / 2012年8月 [[河出文庫]])
* ザリガニマン(2001年10月 徳間デュアル文庫)
* どーなつ(2002年4月 [[早川書房]] / 2005年7月 [[ハヤカワ文庫JA]])
* イカ星人(2002年8月 徳間デュアル文庫)
* ハグルマ(2003年3月 [[角川ホラー文庫]])
* 北野勇作どうぶつ図鑑(2003年4月 – 6月 ハヤカワ文庫JA 全6巻)
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その1〉かめ(2003年4月)
*** 収録作品:カメ天国の話 / カメリ第一話 カメリ、リボンをもらう / かめさん / 生き物カレンダー 一月~四月 / ふろく かめの折り方
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その2〉とんぼ(2003年4月)
*** 収録作品:新しいキカイ / トンボの眼鏡 / 西瓜の国の戦争 / ふろく とんぼの折り方
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる(2003年5月)
*** 収録作品:螺旋階段 / 楽屋で語られた四つの話 / 怖いは狐 / カメリ第二話 カメリ、行列のできるケーキ屋に並ぶ / 生き物カレンダー 五月~八月 / ふろく かえるの折り方
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その4〉ねこ(2003年5月)
*** 収録作品:手のひらの東京タワー / 蛇を飼う / シズカの海 / ふろく ねこの折り方
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その5〉ざりがに(2003年6月)
*** 収録作品:押し入れのヒト / ヒトデナシの海 / ペットを飼うヒト / 生き物カレンダー 九月~十二月
** 北野勇作どうぶつ図鑑〈その6〉いもり(2003年6月)
*** 収録作品:曖昧な旅 / イモリの歯車 / カメリ第三話 カメリ、ハワイ旅行を当てる
* 人面町四丁目(2004年7月 角川ホラー文庫)
* 空獏(2005年8月 早川書房)
* 恐怖記録器(2007年3月 角川ホラー文庫)
* ウニバーサル・スタジオ(2007年8月 ハヤカワ文庫JA)
* レイコちゃんと蒲鉾工場(2008年7月 [[光文社文庫]])
* メイド・ロード・リロード(2010年4月 [[メディアワークス文庫]])
* [[恐怖 (2010年の映画)|恐怖]](2010年6月 角川ホラー文庫) - 同名映画の[[ノベライズ]]作品。
* どろんころんど(2010年8月 [[福音館書店]])
* かめ探偵K(2011年5月 メディアワークス文庫)
* きつねのつき(2011年8月 [[河出書房新社]] / 2014年6月 河出文庫)
* ヒトデの星(2013年1月 河出書房新社)
* かめくんのこと(2013年7月 [[岩崎書店]] 21世紀空想科学小説)
* 社員たち(2013年10月 河出書房新社 NOVAコレクション)
** 収録作品:社員たち / 大卒ポンプ / 妻の誕生 / 肉食 / 味噌樽の中のカブト虫 / 家族の肖像 / みんなの会社 / お誕生会 / 社員食堂の恐怖 / 社内肝試し大会に関するメモ / 南の島のハッピーエンド / 社員の星
* 水から水まで(2017年11月 惑星と口笛ブックス シングルカットシリーズ) - 電子書籍
* カメリ(2016年6月 河出文庫)
* 大怪獣記(2017年4月 [[創土社]] クトゥルー・ミュトス・ファイルズ)
* その先には何が!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説(2018年8月 [[キノブックス]])
* 温泉と城壁(2018年10月 惑星と口笛ブックス) - 電子書籍
** 収録作品:路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日 / 壁の中の街
* その正体は何だ!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説(2018年12月 キノブックス)
* ねこたま(2018年12月 惑星と口笛ブックス) - 電子書籍
** 収録作品:タマモン / 船と猫と宿と星
* ななつの娘と夜の旅(2019年2月 - 2020年2月 惑星と口笛ブックス) - 電子書籍
** ななつの娘と夜の旅 月の巻(2019年2月)
** ななつの娘と夜の旅 水の巻(2019年4月)
** ななつの娘と夜の旅 石の巻(2020年2月)
* この世界は何だ!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説(2019年3月 キノブックス)
* 雨の国、夜の国(2019年7月 惑星と口笛ブックス) - 電子書籍
** 収録作品:雨の国で / 騒がしい夜
* 100文字SF(2020年6月 ハヤカワ文庫JA)
==== 短編・ショートショート ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! タイトル !! 掲載媒体
|-
| 職人
| 1983年、[[早川書房]]『[[S-Fマガジン]]』5月号に掲載。「リーダーズ・ストーリイ」入選作。
|-
| 温かい夜の柔らかい蛹
| 1987年、[[徳間書店]]『[[SFアドベンチャー]]』8月号に掲載。
|-
| 北見原発電所第四号炉の暴走
| 1987年、徳間書店『SFアドベンチャー』9月号に掲載。
|-
| あやとりすとKの告白
| 1988年、徳間書店『SFアドベンチャー』1月号に掲載。
|-
| 手のひらの東京タワー
| 1994年、[[早川書房]]『S-Fマガジン』2月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その4〉ねこ』に収録。ISBN 4-15-030719-9
|-
| インテリジェント・コンビニエンス
| 1994年、[[角川書店]]『[[小説王]]』2月号に掲載。
|-
| 昔の実験
| 1994年、角川書店『小説王』4月号に掲載。
|-
| 押し入れのヒト
| 1994年、早川書房『S-Fマガジン』8月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その5〉ざりがに』に収録。ISBN 4-15-030724-5
|-
| ホテルさくらのみや
| 1994年、徳間書店『[[日本SFの大逆襲!]]』に収録。ISBN 4-19-860197-6
|-
| 西瓜の国の戦争(原題西瓜頭の戦争)
| 1994年、角川書店『小説王』12月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その2〉とんぼ』に収録。ISBN 4-15-030717-2
|-
| ヒトデナシの海
| 1995年、早川書房『S-Fマガジン』3月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その5〉ざりがに』に収録。ISBN 4-15-030724-5
|-
| カメ天国の話
| 1995年、早川書房『S-Fマガジン』5月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その1〉かめ』に収録。ISBN 4-15-030716-4
|-
| ペットを飼うヒト
| 1996年、早川書房『S-Fマガジン』6月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その5〉ざりがに』に収録。ISBN 4-15-030724-5
|-
| 新しいキカイ
| 1997年、早川書房『S-Fマガジン』3月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その2〉とんぼ』に収録。ISBN 4-15-030717-2
|-
| 虫歯治療
| 1998年、早川書房『S-Fマガジン』7月号に掲載。
|-
| 肉食
| 1998年、[[広済堂文庫]]『[[異形コレクション]]6 屍者の行進』に収録。ISBN 4-331-60684-8
|-
| シズカの海
| 1998年、広済堂文庫『異形コレクション8 月の物語』に収録。ISBN 4-331-60716-X<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その4〉ねこ』に再録。ISBN 4-15-030719-9
|-
| 螺旋階段
| 1999年、広済堂文庫『異形コレクション9 グランドホテル』に収録。ISBN 4-331-60734-8<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる』に再録。ISBN 4-15-030718-0
|-
| 楽屋で語られた四つの話
| 1999年、広済堂文庫『異形コレクション13 俳優』に収録。ISBN 4-331-60785-2<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる』に再収録。ISBN 4-15-030718-0
|-
| 蛇を飼う
| 1999年、早川書房『S-Fマガジン』12月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その4〉ねこ』に収録。ISBN 4-15-030719-9
|-
| 曖昧な旅
| 2000年、早川書房『S-Fマガジン』6月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その6〉いもり』に収録。ISBN 4-15-030725-3
|-
| よくある話
| 2000年、早川書房『S-Fマガジン』12月号に掲載。
|-
| 蛇腹と電気のダンス
| 2001年、[[メディアファクトリー]]『[[SFバカ本]]人類復活篇』に収録。ISBN 4-8401-0322-4<br />2007年、[[小学館文庫]]『笑止 SFバカ本シュール集』に再録。ISBN 978-4-09-408178-7
|-
| 雨の国で
| 2001年、早川書房『S-Fマガジン』5月号に掲載。
|-
| 夜走曲
| 2001年、ウェブ・マガジン『[[Anima Solaris]]』第016号に掲載
|-
| イモリの歯車
| 2002年、早川書房『S-Fマガジン』4月号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その6〉いもり』に収録。ISBN 4-15-030725-3
|-
| かめさん
| 2002年、徳間書店『[[SF JAPAN]]』Vol.04 2002年春季号に掲載。<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その1〉かめ』に収録。ISBN 4-15-030716-4
|-
| 怖いは狐
| 2002年、[[光文社文庫]]『恐怖症 [[異形コレクション]]』に収録。ISBN 4-334-73324-7<br />2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる』に再録。ISBN 4-15-030718-0
|-
| 壁のなかの街
| 2002年、[[光文社]]『[[小説宝石]]』7月号に掲載。
|-
| 観音モナカ
| 2002年、徳間書店『[[SF JAPAN]]』Vol.05 2002年夏季号に掲載。
|-
| カメリ、リボンをもらう(カメリ第1話)
| 2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その1〉かめ』に収録。ISBN 4-15-030716-4
|-
| トンボの眼鏡
| 2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その2〉とんぼ』に収録。ISBN 4-15-030717-2
|-
| カメリ、行列のできるケーキ屋に並ぶ(カメリ第2話)
| 2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる』に収録。ISBN 4-15-030718-0
|-
| カメリ、ハワイ旅行を当てる(カメリ第3話)
| 2003年、早川文庫『北野勇作どうぶつ図鑑〈その6〉いもり』に収録。ISBN 4-15-030725-3
|-
| あの穴
| 2003年、[[講談社]]『[[小説現代]]』9月号に掲載。<br />2004年、講談社『[[eRotica]](エロチカ)』に収録。ISBN 4-06-212289-8
|-
| 蛹の夜
| 2003年、[[集英社]]『[[小説すばる]]』11月号に掲載。
|-
| カメリ、エスカルゴを作る(カメリ第4話)
| 2004年、早川書房『S-Fマガジン』3月号に掲載。
|-
| カメリ、テレビに出る(カメリ第5話)
| 2006年、早川書房『S-Fマガジン』4月号に掲載。
|-
| 寄席の怪談
| 2007年、講談社『[[ハナシをノベル!!|ハナシをノベル!! 花見の巻]]』に収録。ISBN 978-4-06-214396-7
|-
| 白昼
| 2007年、光文社文庫『ひとにぎりの異形』に収録。ISBN 978-4-334-74355-0
|-
| カメリ、子守りをする(カメリ第6話)
| 2008年、早川書房『S-Fマガジン』12月号に掲載。
|-
| 抜け穴の噺
| 2009年、早川書房『S-Fマガジン』5月増刊号に掲載。
|-
| はじめての駅で
| 2009年、WEBアンソロジー[http://homepage3.nifty.com/dog-and-me/eki/eki_top.html はじめて降りた駅]に掲載。
|-
| 観覧車
| 2009年、WEBアンソロジー[http://homepage3.nifty.com/dog-and-me/eki/eki_top.html はじめて降りた駅]に掲載。
|-
| 社員たち
| 2009年、[[河出文庫]]『[[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 1 書き下ろし日本SFコレクション]]』に掲載。ISBN 978-4309409948
|-
| 第二箱船荘の悲劇
| 2009年、光文社文庫『喜劇綺劇 異形コレクション』に収録。ISBN 978-4334746988<br />2010年、創元SF文庫『逃げゆく物語の話 ゼロ年代日本SFベスト集成〈F〉』に収録。ISBN 978-4-488-73802-0
|-
| 路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日
| 2010年、早川書房『S-Fマガジン』2月号に掲載。
|-
| カメリ、掘り出し物を探す
| 2010年、早川書房『S-Fマガジン』7月号に掲載。
|-
| 社員食堂の恐怖
| 2011年、河出文庫『NOVA 4 書き下ろし日本SFコレクション』に掲載。ISBN 978-4-309-41077-7
|-
| 役
| 2011年、Project allez!『月刊アレ!』10月号に掲載。
|-
| とんがりとその周辺
| 2011年、河出文庫『NOVA 6 書き下ろし日本SFコレクション』に掲載。ISBN 978-4-309-41113-2
|-
| 天国
| 2011年、光文社文庫『物語のルミナリエ 異形コレクション』に収録。ISBN 978-4-334-76344-2
|-
| 五丁目の穴ぼこ
| 2011年、イースト・プレス『[http://www.matogrosso.jp/ マトグロッソ]』に掲載。
|-
| カメリ、山があるから登る
| 2012年、早川書房『S-Fマガジン』1月号に掲載。
|-
| 虚象
| 2012年、Project allez!『月刊アレ!』1月号に掲載。
|-
| 社内肝試し大会に関するメモ
| 2012年、河出文庫『NOVA 7 書き下ろし日本SFコレクション』に掲載。ISBN 978-4-309-41136-1
|-
| 大卒ポンプ
| 2012年、河出文庫『NOVA 8 書き下ろし日本SFコレクション』に掲載。ISBN 978-4-309-41162-0
|}
==== 連載ショートショート ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! 連載タイトル !! サブタイトル !! colspan="2" | 掲載媒体
|-
| rowspan="12" | 生き物カレンダー
| 桜に亀
| [[産経新聞]]関西版夕刊 1997年4月25日付
| rowspan="12" | 『北野勇作どうぶつ図鑑』<br/>1,3,5巻
|-
| 鯉のぼり
| 産経新聞関西版夕刊 1997年5月23日付
|-
| カエル通信システム
| 産経新聞関西版夕刊 1997年6月27日付
|-
| 蝉時雨
| 産経新聞関西版夕刊 1997年7月25日付
|-
| クラゲの夏
| 産経新聞関西版夕刊 1997年8月22日付
|-
| ラッパ犬の話
| 産経新聞関西版夕刊 1997年9月26日付
|-
| ザリガニさま
| 産経新聞関西版夕刊 1997年10月24日付
|-
| 豆狸祭
| 産経新聞関西版夕刊 1997年11月28日付
|-
| 卵の記憶
| 産経新聞関西版夕刊 1997年12月26日付
|-
| お猿電車
| 産経新聞関西版夕刊 1998年1月26日付<br />再録:『[[自選ショート・ミステリー]] 2』ISBN 4-06-273253-X
|-
| 蛍雪
| 産経新聞関西版夕刊 1998年2月27日付
|-
| 蟻の行列
| 産経新聞関西版夕刊 1998年3月27日付<br />再録:『[[贈る物語 Wonder]]』ISBN 4-334-92377-1<br />再録:『贈る物語 Wonder』(文庫)ISBN 4-334-74157-6
|-
| 大阪夢現地図
| -
| colspan="2" | 1998年、[[大阪市都市工学情報センター]]『[[大阪人]]』1月号~12月号に全12回連載
|-
| ?
| -
| colspan="2" | [[毎日中学生新聞]]、2003年4月~9月、週一連載
|-
| 夢みる旅を旅する夢
| -
| colspan="2" | 2005年、『[[週刊アスキー]]』04/5号~07/12日号に全12回連載
|}
=== 原作・脚本など ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! 役職 !! タイトル !! 媒体種類 !! 発表年 !! 媒体等 !! 共作者
|-
| 脚本 || 昔、火星のあった場所 || ラジオドラマ || 1994年放送<br/>1998年再放送 || [[NHK-FM]]『[[青春アドベンチャー]]』
|-
| 脚本 || 勤務時間内戦争 || ラジオドラマ || 1995年放送 || NHK-FM『[[FMシアター]]』
|-
| 脚本<br/>声優(製品役) || 日常生活の冒険 || ラジオドラマ || 1997年放送<br/>2003年再放送 || NHK-FM『青春アドベンチャー』
|-
| 脚本<br/>声優(ロボット役) || 路地裏のエイリアン || ラジオドラマ || 1998年放送 || NHK-FM『青春アドベンチャー』
|-
| 出演(アニメおたく役) || [[燃えよピンポン]]<br/>LEGEND OF Blood Sweat & Tears || 映画 || 1999年 || 配給・[[IndEx/Office]]
|-
| 原案(共同) || [[あしたはきっと…]] || 映画 || 2000年<br/>2001年 || 配給・[[東映]]<br/>[[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]出品 || 原案:北野勇作・[[三原光尋]]
|-
| 出演(殺人犯役) || [[絵里に首ったけ]] || 映画 || 2000年 || 配給・[[シネロケット]]
|-
| 脚本 || 弁天座版・浦島太郎 || ラジオドラマ || 2001年放送 || [[MBSラジオ]]『[[ドラマの風]]』
|-
| 文章 || お誕生会 || イラスト・ストーリー || 2002年2月号掲載 || [[S-Fマガジン]] || 画:[[藤原ヨウコウ]]
|-
| 原作 || THE かめくん || 漫画 || 2002年春季号掲載 || [[SF JAPAN]] || 画:[[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]
|-
| 脚本 || ふぶきのなつやすみ || アニメ || 2021年配信 || Webアニメ『[[POKÉTOON]]』 || 監督:平岡政展、総監督:山下清悟
|}
=== 創作落語 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! 題名 !! 講演
|-
| 天動説
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第2回
|-
| 寄席の怪談
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第2回, 第27回
|-
| カエル通信システム
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第8回
|-
| みんなの会社
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第9回
|-
| グルメ研究会の陰謀
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第13回
|-
| 浦島さんのゲーム
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第15回
|-
| 地獄八百景
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第19回
|-
| 天職
| 落語再生公開堂「ハナシをノベル」第25回
|}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20180621050726/http://www.jali.or.jp/ktn/hakoniwa/ 北野勇作的箱庭] - 本人によるホームページ。
* {{Twitter|yuusakukitano|北野勇作 (yuusakukitano)}}
{{日本SF大賞|第22回}}
{{Normdaten}}
{{Writer-stub}}
{{DEFAULTSORT:きたの ゆうさく}}
[[Category:日本の小説家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:1962年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:甲南大学出身の人物]] | null | 2023-05-18T09:24:46Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%8B%87%E4%BD%9C |
5,386 | JXTA | JXTA (ジャクスタ) は、Sunがオープンソースで推進するPeer-to-Peer基盤。
オープンソースかつフリーソフトウェアであるが、コピーレフトではない。ライセンスは、Apacheソフトウェア・ライセンス1.1 を基本に作られたJIXAソフトウェア・ライセンスである。Apacheソフトウェアライセンスと同じ働きで、若干の違いとして、JXTAプロジェクトの名前と、オリジナルの貢献者の名前がサン・マイクロシステムズになっている。
また、Apacheソフトウェア・ライセンスはオリジナルのBSDライセンスを基本に作られている。このライセンスはフリーソフトウェアであるが、GNU GPLとは矛盾するライセンス。なお、現在使われている新しいBSDライセンスはGNU GPLと矛盾しない。 | [
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] | JXTA (ジャクスタ) は、Sunがオープンソースで推進するPeer-to-Peer基盤。 | '''JXTA''' (ジャクスタ) は、[[サン・マイクロシステムズ|Sun]]が[[オープンソース]]で推進する[[Peer to Peer|Peer-to-Peer]]基盤。
== ライセンス ==
[[オープンソース]]かつ[[フリーソフトウェア]]であるが、[[コピーレフト]]ではない。ライセンスは、[[Apache License|Apacheソフトウェア・ライセンス]]1.1 を基本に作られたJIXAソフトウェア・ライセンスである。Apacheソフトウェアライセンスと同じ働きで、若干の違いとして、JXTAプロジェクトの名前と、オリジナルの貢献者の名前がサン・マイクロシステムズになっている。
また、Apacheソフトウェア・ライセンスはオリジナルの[[BSDライセンス]]を基本に作られている。このライセンスはフリーソフトウェアであるが、GNU GPLとは矛盾するライセンス<ref>http://www.gnu.org/licenses/license-list.ja.html#GPLIncompatibleLicenses</ref>。なお、現在使われている新しいBSDライセンスは[[GNU GPL]]と矛盾しない。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://jxta.kenai.com/ JXTA](英語)
*{{cite web
| url = http://www.jxta.org
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20070406175558/http://www.jxta.org/
| title = Project JXTA
| accessdate = 2003-3-28
| archivedate = 2007-4-6
| deadlinkdate = 2022年5月13日 }}
*{{Cite web|和書
| url = http://translation.jxta.org/ja/
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20041010034820/translation.jxta.org/ja/
| title = JXTA日本語での情報
| accessdate = 2003-3-28
| archivedate = 2004-10-10
| deadlinkdate = 2022年5月13日 }}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやくすた}}
[[Category:Javaプラットフォーム]]
[[Category:P2P]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
{{software-stub}} | 2003-03-28T04:15:01Z | 2023-09-27T07:38:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JXTA |
5,388 | 日本料理 | 日本料理(にほんりょうり/にっぽんりょうり)は、日本の風土と社会で発達した料理をいう。洋食に対して「和食(わしょく)」とも呼ぶ。食品本来の味を利用し、旬などの季節感を大切にする特徴がある。
日本産の農林水産物・食品の輸出も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7,502億円と2012年の4,497億円から1.7倍に増え、2017年は8,000億円台に乗せた。日本国政府(農林水産省)は1兆円を目標としており、海外における日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している。また、国内においては和食文化の保護・継承を図っている。
広義には、日本に由来して日常作り食べている食事を含む。
狭義には、精進料理や懐石料理などの形式を踏まえたものや、御節料理や彼岸のぼたもち、花見や月見における団子、冬至のカボチャなど伝統的な行事によるものである。
日本語の「料理」を意味するところは、家庭の台所や飲食店の厨房などで行われる「食品加工の最終段階」を指すことが多い。
現在では食品工場などで広く行われる脱穀・精米・豆腐・かまぼこの製造なども、地域・時代・集団によっては料理の範疇である。米の量をはかりどれだけ食べてどれだけ種籾とするかなど、家庭や国家の献立や食料計画をも意味する。また焼けた獣骨の遺物の発見から北京原人などと呼ばれるホモ・エレクトスの火の利用や、宮崎県幸島のニホンザルの群れがサツマイモを海水で洗い味つけして食べるということも、料理と考える場合もある。
尚、料理の概念は言語や国によって大きな異なりがある。中国語では「烹飪」と「菜餚」が料理の意味を表し、採集した野菜を烹で煮ることを意味する。英語でも「cooking」と「dish」二つの言葉がある。cookingは加熱することを意味し、加熱しない生のものを「raw」と区別している一方、dishは一つのお皿に盛り込みのことを表す。フランス語の「cuisine」は台所や厨房をあらわし、また調理や食品の料理もあらわす。また、ユネスコによる世界無形文化遺産登録以降、中国での簡体字ネット環境を中心に、「日本料理と和食の基本は中国の陰陽五行思想にあり」と言った何の一次史料や論理的な根拠を伴わない、文化の包摂活動が展開されている。この「陰陽五行説」は日本語環境下でも拡散が進んでいており、自明の前提として語られ始めている。
「料」は「米と斗の会意」で、米などの体積を斗などの計量器ではかる意味を持つ。加えて食料など食品の意味も持つようになり、また料理という言葉ができてからはその略ともなる。
「理」は「玉が意符で里を声符とする形声」で、宝玉のすじやきめを美しく磨くことから物事の筋道やおさめるという意味を持つ。平安時代に登場する「料理」という言葉は物事をはかりおさめる、うまく処理するという意味である。現在に通じる調理やそれによってできる食品を意味するようになる。
『世界大百科事典』によれば、原始時代の日本料理は米と魚を中心とし、獣肉と油脂の使用がきわめて少ないという特徴がある。平安時代にまでさかのぼると、大饗料理では椅子と円卓に散蓮華と言った大陸文化の影響があったが、平安時代の中盤以降は急速に和風化が進み、消えていった。鎌倉・室町時代に入ると、天ぷらのような西洋伝来した技術も取り入れ、ダシの旨味も重視し、ご飯を中心に日本料理としての形が作られた。特に御持て成し料理としての二汁五菜が定着していて、日本の家庭料理はご飯を中心にした一汁三菜の日常の食にある。これ以降には日本料理の基礎が固まり、江戸時代後期にほぼ完成に至ったものである。
和食の起源は諸説があり、「米と魚を中心とした食文化」が発達していることから、その原型は神へのおもてなしにある説が有名である。
『古事記』や『日本書紀』における火闌降命たちの神話や、その3代後の神武天皇紀などにあるとしている。ユネスコへの登録に関して出版された和食文化国民会議のブックレットによれば、和食には自然の中の神が年中行事の中で食と結ばれたという特徴を持つ。
東京家政学院の『ユネスコに登録された和食』によれば、和食の基本形は飯・汁・菜・香の物であり、白米・大根・ナスのような伝来した食材が使われ、魚介・海藻の豊富さ、蒸し・茹で・煮るといった調理法の簡単さ、昆布・鰹節・煮干しといった出汁文化、味噌・醤油・日本酒・味醂・酢・塩・砂糖といった調味料の多さ、平安時代から現代の日本まで継承された七夕のような節供の年間行事との関わりを挙げている。
京料理の料理人側から和食に見れば、「取り肴・造り・御椀・焼き物・揚げ物・焚合わせ・香の物」といった献立を成立させ、日によってこうした中から組み合わせその日の献立を作る。
「日本料理」と「和食」という言葉は文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」への対義語という形で誕生されていた。
「日本料理」には料亭で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は高級食も家庭食も含む日本の食文化全体をあらわす言葉として、より相応しいとする意見もある。
20世紀初頭では、日本料理の用例は早くて1881年の『朝野新聞』5月20日にみられる。ある調査では明治、大正時代にかけて日本料理を書名に持つ書籍は4点しか見つからず、1904年の『和洋 家庭料理法』では日本料理は家庭料理を指しており、現在とイメージが異なっていた。1903年の村井弦斎の『食道楽』には日本料理、西洋料理が対比して解説されており、『食道楽 秋の巻』では米料理百種として、日本料理の部では油揚飯・大根飯・栗飯など50種のご飯を紹介している。
20世紀の中盤、「日本料理」は石井泰次郎による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると看做されている。
21世紀の日本権威辞書『広辞苑』や『大辞泉』にて、「和食」の項をひくと「日本風の食事、日本料理。」のように端的に書かれており、「日本料理」の項には冒頭の第一段落に説明したようなもう少し長い説明がある。
日本では、野菜・果物・魚介類・海藻などの食材が量も種類も非常に豊富である。これは日本が置かれている幾つかの地理条件が関係している。
ほとんどの料理は、ご飯に対するおかずという位置づけであり、米と酒に調和する。
歴史的に肉食が禁止され、長きにわたり乳製品等の家畜製品は普及しなかった(乳製品には蘇と醍醐が例外的にあるだけで欠如した)。食用油の使用も中世までは発展せず、例外的に唐菓子があり、南蛮料理に由来する天ぷらによって、油の使用が急速に普及していった。このため、肉や油脂に代わる味つけとしてだしが発達した。こうした背景が淡白な味つけを生んでいる。強い香辛料はあまり使われず、旬の味、素材の持ち味が生かされる。主要な調味料である味噌や醤油は大豆を発酵させた調味料で、これもうま味を伴う。甘みづけには水飴・みりんが使われ、現在は砂糖が多用される。
現在の日本では流通が発達したため世界中の食品や調味料が入手でき、日本料理への応用も行われている。
漬物は日本にざっと600種はあり、日本の食生活とともにあった。奈良時代の天平年間(710年から794年)の木簡にウリの塩漬けの記録があり、平安時代に成立した『延喜式』には酢漬け、醤漬け、粕漬けなどの記載がある。室町時代から江戸時代にかけて全国に漬物屋ができ、江戸時代には種類を増やし各地方の名物となった。
納豆は大陸から伝来してから日本人の技術で改良され、古くは納豆菌ではない奈良時代の発酵大豆「くさ」があった。納豆は京都の大徳寺、天竜寺で作られ寺納豆、浜名湖の大福寺の浜納豆とも言われ、糸引き納豆は室町時代中期に生まれている。
ダシは、鰹節・昆布・椎茸が三大である。煮干しも使われる。
日本国外では味は、五味として甘辛酸苦鹹と説明してきたが、日本人は鰹節のうま味を加えて六味としてきた。日本料理以外の鶏ガラなどのように油脂が浮くことがない。こうしたダシは、日本料理の方向を決定する要因となり、粋、優雅、上品さ、質素で格調高い、淡白で奥深い味が精進、懐石、侘び寂び料理を生み出してきた。鰹節の原型は、平安時代『延喜式』に素干しの保存食の堅魚(かたうお)があるが、今のように燻したのは江戸時代の1674年である。
調味料については、塩(食塩)は20世紀末に自由化されると非常に多様な種類が流通するようになった。日本列島は親潮・黒潮が流れる5つの海域に囲まれている。6世紀ごろになると海藻を焼いてその灰を使った灰塩ではなく、海藻を煮詰める藻塩が生まれ、『万葉集』に詠まれた。奈良時代になると塩田や釜が製塩に使われるようになり、揚浜式(8世紀)、入浜式(中世)の塩田が各地に海浜に造られた。1952年からイオン交換膜式を用いた塩専売法による食塩事業を国が始めたことで塩田は消滅した。昔ながらの塩田を求めて起こった1971年からの自然塩運動により、1997年に新たに塩事業法が施行され、製塩は自由となった。イオン交換膜式では塩化ナトリウム99%以上となり塩辛さだけが際立つが、それ以外の製法ではマグネシウムの苦味、カリウムの酸味、カルシウムの甘味が複雑な味を醸し出す。料理の基本は、塩梅、ダシ、火加減とされ、多様な調味料がない昔には、塩と梅干しのサジ加減が重要であった。日本では基本的に岩塩は取れないとされる。
酢は、酸味とともに抗菌作用があり重宝されてきた。古くは『万葉集』に醤酢(ひしおす)の記述がみられ、奈良時代にはナスの酢漬けがあり、中世には酢飯が開発された。歴史的には米酢が使われてきた。
醤油は、伝来したものを日本人が独自に作りあげた。大豆と小麦と塩を発酵させたもので、中国の醤(じゃん)など大陸のものとは微生物、製法が大きく異なる。アジアが起源と言われるが確認はされておらず、その元となった比之保(ひしお)は弥生時代から大和時代に日本に伝来したとされ、平安時代には広く浸透し魚を使ったものがもっとも普及し、魚醤のようなものとして伝来したと考えられる。
味噌は、701年の『大宝令』には未醤(みしょう)が記載され、日本で造られた「噌」の字を後に当てたとされ、生産地の名をつけ各地の気候や風土、農産物、土地の者の嗜好を反映している。
飴は、もち米などのデンプンを糖化したもので、『日本書紀』『延喜式』にも記載がある甘味料である。砂糖は奈良時代にも薬として伝来し、室町時代には菓子にも使われたが、輸入量が大きく増加するのは江戸時代である。18世紀前後になると輸入された砂糖が菓子に広く使われるようになり、次第に調味料となっていった。砂糖・塩・酢・醤油・味噌で「さしすせそ」とする近代の語呂合わせがある。
薬味には、ワサビ・生姜・唐辛子・山椒・ネギ・シソなどがある。
季節感が重視される。旬の食品は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなるため、味を楽しむ好機と考えられている。七草がゆのように、野草特有の自然なあく強さや苦味も味わう。また初鰹のような季節を先取りする「走り」、落ち鮎のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、同じ食品でも走り、旬、名残と3度の季節感が楽しまれる。
季節の表現は切り方や色でも表現される。春は淡いウドなどをサクラの花びらに見立てて切る。夏は青みのシロウリやキュウリを雷や蛇腹に切る。秋は鮮やかなニンジンなどをモミジやイチョウの葉に切る。冬や新年はユズを松葉に切ったり、ニンジンを梅の花に切ったり、ダイコンとニンジンで紅白を表現したりする。
また山水盛りや吹き寄せ盛りのように、自然そのものを表した盛りつけもなされる。
調理場を「板場」、料理人や料理長を「板前」とまな板と関連づけて呼び、切ること自体を煮炊きから独立した調理のひとつとしている。「切る」ことを重視する姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが主で、「烹る(火を使う)」ことが従とされ、食品そのものの味を重視することにつながる。また「割主烹従」から「割烹」という言葉も生まれ、日本料理そのものやそれを提供する店を表す。
日本料理の椀物(吸物)と刺身は、合わせて「椀刺」や「椀差」と呼ばれ、重視される。その味によって腕前を確かめられるともされる。
日本料理の献立やメニューは、米を中心とした穀物に生理的熱量や栄養を依存するものであった。穀物は飯などに料理されて食事の主たる主食として扱われる。主食に対する副食の惣菜は、飯を食べるための食欲刺激として用いられ、御飯の友などという概念もある。また飯の代わりに米による日本酒伴う宴会などでは、惣菜がそのまま肴(さかな)としても用いられる。飯と汁物に惣菜からなる、一汁一菜や一汁三菜など複数の料理から成ることが多い。伝統的に左を上位とする風習があるため、主たる飯を左側に置いたり、魚の頭を左向きに置いたりして配膳することが多い。日常の食事などでは、これらの料理は一度にまとめて配膳されることが多いが、懐石料理などでは、一品(あるいは一膳)ずつ順番に配膳される。
食器は、漆器、陶器、磁器など。家庭では、ご飯茶碗・箸は、各人専用のもの(属人器)を用いる習慣がある。暖かい時期には、薄手で浅めの磁器を主に、暑くなるとガラスの器なども使われる。涼しい時期には、厚めで深手の陶器を主に、寒くなると蓋つきの器なども使われる。また漆器では、蒔絵や沈金などの絵柄で季節を表現することがある。
日本料理は各家庭のほかに、蕎麦屋や寿司屋などの専門店、居酒屋や料亭や割烹、また待合やお茶屋、行楽地、さらに現代では宇宙食など、さまざまな場所で食事ができる。
大乗仏教では肉を食べることおよび一部のネギ属の植物が忌避されており(禁葷食)、この戒律を守るため精進料理がある。江戸時代まで、仏教の考え方から獣肉食は一部の地域を除いて一般的ではなかったが、明治時代以降に獣肉食は国内で広く広がった。現在の日本料理は精進料理を除いて食のタブーは弱いと思われるが、羊肉やアヒル肉など普及の問題であまり一般的ではない肉がある。
群馬県の岩宿遺跡で更新世のローム層から旧石器時代の石器が発見された。岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ、オーロックス、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は石器で切るなどした解体痕がある。また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。また長野県の野尻湖湖底に位置する立が鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から100個ほど1か所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。また木器や樹皮などによる容器に水や食品とともに礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっており、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの動物はフグなどの毒のあるものが少なく、内臓や筋肉、皮膚や脂肪や血液、骨髄や脳髄など、骨や毛などを除けば、大部分が可食部である。寄生虫や微生物など病原体の問題もあるが、生でも食べることができる。レバ刺しや膾、カルパッチョやユッケやタルタルステーキのような料理や、火が使える状況であれば礫石などを利用して、石焼や蒸し焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。またさいぼしやジャーキーなどのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。
約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナやナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシやシイ、クスノキなどの照葉樹林が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなどの大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカやイノシシなど中小哺乳類が増える。また、海面の上昇にともない対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側とともに暖流と寒流の交わる良漁場となる。このような風土の変化にともない縄文時代が始まり、磨製石器とともに縄文土器が用いられる。世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕や牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟や漁撈を主とする生活である。
土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。クルミ、ドングリ、クリ、トチなどの堅果類を竪穴建物の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。クルミは脂質を多く含み生でも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含み、生のベータデンプンは消化されにくいため、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿と磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮ることで灰汁抜きをした。またクズやワラビ、ヤマノイモやウバユリ、ヒガンバナなど野生の芋類も、アルカロイドなどの毒を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の遺物による調査と、遺骨コラーゲンの同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのにともない、従来の食肉やレバーや血液などから摂取していた塩の必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。また栽培作物であるソバやオオムギやアワ、エゴマやリョクトウやヒョウタンなどが、少ないながら出土している。
狩猟による食肉は大半がイノシシとニホンジカによるもので、その他カモシカやエゾヒグマやツキノワグマ、タヌキやアナグマなどさまざまである。またキジやカモ、ガンなどの鳥類も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、罠や落とし穴なども用いた。またイヌは飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。北海道ではアザラシやトド、オットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されており、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。
漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリやアサリ、カキやシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキやボラ、クロダイやコチなどを対象とし、骨角器によるヤスや石錘を利用した漁網も用いた。またイワシやサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。東北地方の三陸沿岸では外洋性のマグロやカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。九州北西部でも外洋性のマグロやサワラ、シイラやサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸河川でのサケやマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。
料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのような縄文クッキーが出土している。また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のような羹や、鍋料理のようなものが考えられている。
採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。宮城県の里浜貝塚における調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジやサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史的や社会的な文化にもより異なる。沖縄諸島や奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期とも呼び、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土しており、このころ先島諸島では漁撈とともにイモやアワの畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、台湾や中国大陸江南の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、さまざまな定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年のまで続いたとされる。
稲作と栽培種イネは、アフリカのニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。中国大陸の長江流域では、紀元前1万年ごろのイネの資料の発見、紀元前6000年ごろの湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年ごろの浙江省河姆渡遺跡が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、鋤や臼と杵なども伴うほぼ完成された水田稲作が行われた。紀元前3000年ごろの浙江省銭山漾遺跡などの良渚文化に続き、紀元前1000年ごろの江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。また黄河流域では、紀元前1万年ごろにアワやキビの利用があり、紀元前6000年ごろに中流域でアワと農具が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年ごろに長江流域からのイネと西アジアからのムギが伝来し、紀元前2000年ごろにマメの栽培で五穀が揃うことになる。
朝鮮半島では紀元前4000年ごろの黄海北道知塔里遺跡から炭化したアワもしくはヒエの粒の発見、紀元前2000年ごろの京畿道欣岩里遺跡から陸稲と思われる粒がオオムギやアワなど畑作物とともに発見、紀元前8世紀ごろには忠清南道松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7世紀から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている。
中国大陸東北部とロシア東部では、紀元前1000年ごろのアムール州や黒竜江省のアムール川沿いや沿海地方では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの栽培とブタを飼育する農耕が行われた。
日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡からヒエ類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡からオオムギとアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する穀物類は、沿海地方などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、稲や大麦、小麦、アワ、ヒエ、キビなどが発見され、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などで、用水路や畦が整備された縄文水田が、木製の鍬や石包丁などの農具を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではない。紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化前期の完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海から直接に、九州北部に移民とともに伝わったと考えられている。
九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受容しやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に不適であったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた鉄製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた弥生土器を伴い、弥生時代と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年ごろに始まり紀元後400年ごろまで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、続縄文時代と呼ばれ紀元1000年ごろまで続いた。また沖縄など南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年ごろまで続いた。
弥生時代の日本列島の様子は、漢書地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。『魏志』倭人伝では紀元後239年に複数の首長国がある中卑弥呼の統治した邪馬台国が魏に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある。
アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。またインディカ種とジャパニカ種とともに、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、糯(もち)と粳(うるち)とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯や餅が登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であることなどから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある。
水田稲作が普及しても農耕のみを基盤としたわけではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。またプラント・オパールの調査から、全面的に稲を長期にわたって栽培したわけではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも雑穀などと呼ばれるアワやヒエ、キビそして麦などの穀物や、豆やソバなどの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類は稲を超えて多く出土する。猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられている。また鹿に対する猪の割合が増え、頭蓋骨の変化から猪が家畜化され豚となったものも含まれていると考えられている。豚に加えて牛や馬、鶏が持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象ではなかった。イヌは猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。豚や牛、馬などの飼育は、農耕の傍らの小規模なもので乳の利用などを目的としたものではなく牧畜ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイやフナ、ナマズやドジョウ、タニシなどを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている。
料理は米などの穀物を炊いた飯がある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒がついたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は臼と竪杵による精米で、現在販売されている籾殻を外し果皮に覆われた玄米とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を唾液により糖化した口噛み酒や麹を利用したりして酒を醸造した。フナなどで塩辛や魚醤やなれずしなども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、食器の形状のものも出土する。
遺跡からはドングリがもっとも多く出土するが、農耕が普及し米や粟を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜を副食にするという日本食の基本ができあがってきた。家畜として導入された豚を食べることは忌避され、鶏も時告鳥(ときつげどり)として別格にあり、卵すら食用にしなかった。次第に食事は、神事の御饌(しんせん/みけ)として供えられ、神事の後に直会(なおらい)にて神主や村人が一緒に食べ、神人供食の文化が起こった。
3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳などの古墳は、各地に広がり古墳時代と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型鋤先や曲刃鎌、6世紀後半に登場し代掻きに用いる馬鋤や7世紀に登場し耕起に用いる犂による牛馬の利用、7世紀初頭の大阪府狭山池などため池の築造や長大な堤防による河川の制御、7世紀後半の条里制の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた埴輪には、鹿や猪、犬などの狩猟を描いたもの、馬や鶏を形取ったものなど、支配者による狩猟や乗馬があった。朝鮮半島から伝わった須恵器には甑が多数発見されることから、米を蒸しておこわにしていたと考えられている。また従来の炉に変わって竈が住居に設けられる。
『古事記』には豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、稲穂が実る国と記され、720年の『日本書紀』ではウケモチのお腹から稲が生まれたという神話が書かれている。平安時代末期には強飯に代わり、現代の炊飯されたご飯と同じような姫飯(ひめいい)も食されるが普及はもっと後である。
『日本書紀』に料理の記述がある。主食と副食による食事構成が定着し、米や麦・アワなどをおこわや飯、粥にして食べていた。副食に用いる食品は、野菜・海藻・魚介類が用いられた。獣肉等は天武天皇の675年に、牛・馬・犬・猿・鶏の殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。また猪と鹿は殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物・焼物・煮物に加えて、茹物・羹・和え物・炒り物などがある。加工法としては干物・塩辛・漬物・寿司などがあった。遣唐使による唐の影響から、料理も影響を受ける。大饗(だいきょう/おおあえ)では、飯に膾や干物に加えて、干物や揚げ物を含む唐菓子、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。箸とともに匙も使われた。調味は食べる際に塩や酢・醤(ひしお)・酒で味をつけた。
鎌倉時代には、武士の支持を受けた禅宗とともに精進料理が伝わり、煮染や酒煎など調味の技法が発達する。茶に加えて、豆腐、金山寺味噌など食品加工技術が伝わった。寺院の点心からうどんや饅頭、羊羹などが民間に広まった。
現代の炊飯ご飯と同じような、姫飯(ひめいい)が広く普及する。
大饗料理から派生した本膳料理が確立した。のちの懐石料理や会席料理にも影響を与えており、出汁と合わせて日本料理の基礎が確立されたと評する論もある。醤油が作られ用いられた。鰹や昆布を使い、火を使った焼き物、煮物、汁物がたくさん出されるようになり、武家特有の料理が整い日本料理が誕生する。
室町時代に料理書『四条流包丁書』や『大草家料理書』が書かれたとされる。精進料理が発達し、出汁の概念が生まれた。安土桃山時代に来日したジョアン・ロドリゲスは著書『日本教会史』の中で「能」(実践的な教養)として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。
懐石料理が成立する。茶の湯の発達に伴うものであり、千利休の影響が大きい。南蛮船によりてんぷらやがんもどきなどの南蛮料理や、南蛮菓子(カステラやコンペイトウなど)が伝わった。唐辛子の伝来もこのころである。
日本の料理文化の基本的な形は、古代から中世にかけての貴族が伝えてきた魚・鳥を軸とした料理に、寺院で発達した精進料理が結びつき、それに武家上層の食事様式の影響を受け、室町時代から江戸初期にかけて成立し、江戸後期に成熟した。その特徴は、個人膳であること、皿数が多いのをご馳走とすることから少量ずつを配膳すること(何汁何菜)、片付け食いではなく選んで食べること(残すことが当然)、獣肉が極端に少ない、酒席膳を第一とするなどがある。
江戸料理と呼ばれる地元の材料を使用した料理が発展した。
『絵本江戸風俗往来』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし」と焼き芋屋が大人気であった。初ガツオ・初ナスなど縁起を担ぐこともあった。ダシは鰹節を使い、醤油は濃口醤油が使われた。コショウなど香辛料も利用され、芳飯も鶏飯なども取り入れられ、おじや、ねぎぞうすいも食べられるようになった。
外食産業も栄えていた。文化8年(1811年)に江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、煮売居酒屋(1,808軒)、団子汁粉(1,680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1,186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、蒲焼屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)という記録が残っている。煮売り屋は惣菜の持ち帰りすなわちの中食の役割も担っていた。
京都、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。北前船で北海道産の昆布が輸送された。瀬戸内の魚介類や近郊の野菜に加えて、全国の産物も集められたため「諸国之台所」と評された。
それまで公家や武家などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡った。『料理切形秘伝抄』や『料理物語』などさまざまな料理本が出版された。本格的な外食産業に関しては江戸時代初期には寺院が金銭を受取り料理を提供していたが江戸中期にかけて料理茶屋・料理屋が市中に数多く出現した。
江戸後期には会席料理が登場する。本膳料理を簡略化し、酒の席で楽しむ料理として成り立った。
明治には、肉食が公に解禁され、江戸期には細々と食べられていた牛鍋などが流行した。
柳田國男は『明治大正史 世相篇』の中で「明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである」という。
明治には海外と交渉のある階層を中心に西洋料理が食べられるようになった。各地の西洋料理店(洋食店)では、西洋料理のほかに、日本人の手で日本風に作り変えた料理が生み出された。家庭では銘々膳の風習にかわり、ちゃぶ台が使われるようになった。
第二次世界大戦後で物資不足の中、アメリカ合衆国からの食糧援助(ララ物資)として小麦粉が大量に輸入され、安価に大量供給された小麦粉により、お好み焼きなど小麦の粉食による鉄板焼き料理も発達した。
現在の日本料理は、寿司の一種であるカリフォルニアロールのように、世界で発展するものもある。日本でも刺身や寿司に真空調理法や低温調理法を取り入れたり、食肉の応用で大型の魚類であるマグロやブリなどを対象に熟成させて用いるなど、世界や歴史、科学などの知見などを取り入れて発展しているものもある。
2013年にユネスコの無形文化遺産に登録された和食は、「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」である。日本は「和食」を「いただきます」や「もったいない」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案、年末年始における餅つきや御節料理、食育教育を中心にプレゼンテーションを行った。
伝統的な形式が現在に伝わる料理を挙げる。
年中行事や冠婚葬祭など行事と結びついた日本料理も多い。餅や赤飯、団子や寿司など、季節や地域によらず広く共通するものもある。また色や姿形からタイやエビなどもよく用いられる。
日常生活の汁物や惣菜においては、豆腐や麩、コンニャクやワカメなど広く共通して用いられる。春のフキ味噌やニシン、夏の麦飯やはったい粉、秋の芋茎や干柿、冬の煮こごりや凍豆腐、新年の鏡餅や初竈、餅花など、料理の季語もある。
かて飯やかてものなどの救荒食物がある。
郷土料理は日本の地方で古くから食べられてきた料理である。アイヌ料理や沖縄料理や奄美料理、くさやや島寿司、皿鉢料理などもある。
特定の地域で太平洋戦争後に新たに食べられるようになったり、21世紀にかけて地域おこしを目的に開発されたりしたご当地グルメもある。
かつては生魚やゴボウの根など世界的には少数派の食材を使用するため、直江津捕虜収容所事件のような誤解も発生していた。現代では日本食の普及にともない解消されつつある。
2007年に発刊された高級レストランガイド『ミシュラン』の東京版では、150軒の掲載店舗のうち、約6割が日本料理店であり、日本料理店も含めて、掲載されたすべての店舗に1つ以上の星がついた(ミシュランの掲載店舗の中には星がつかない店もあり、全ての店舗に星がついたのは、ミシュランでは初めてのことである)。また、150軒の掲載店舗に合計190以上の星がつき、それ自体も過去最高であった。
2011年、日本はフランスを抜いて、ミシュランの3つ星レストランが最も多い国になった。
2017年に来日した、当時FAO事務局長だったジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバは、日本は先進国の中でも肥満率は4%と低く、日本の伝統的な食事である和食は、健康の改善と長寿に貢献しているとし。「Japan is a global model for healthy diets(日本は健康的な食事と栄養の世界的なモデルである)」と述べている。
一方、英語学者の視点から論ぜられた文化論においては「日本人の多くがスシやサシミを好みますが、生の魚をそのままぺろぺろと食べて、うまいうまいといっている民族の方が、この地球上で絶対少数派であるという自覚はしっかりもつべきでしょう」「我々日本人だけが、世界60億人の味覚の優劣を測るモノサシを一手に独占していると考えることほど、恐ろしい思い上がりはありません」という意見もある。実際、中学・高校時代をアメリカで過ごしていた実業家の松田公太は、刺身を食べていることを指して現地民から野蛮人扱いされた(当時アメリカは寿司ブーム到来前であったため、無理からぬことであった)というエピソードを明かしている。
2022年、非常に厳密な学術誌『Nutrients』のメタ分析によれば、日本食は当然ながら世界から見て健康的である。
食事を通じて健康などに働きかけるマクロビオティック(正食)を通じて紹介された日本料理や調味料が多く、ヨーロッパやアメリカの一部で正食が評価された地域では、日本では一般に使われていない特殊な調理法や食品が使われている場合がある(味噌はパンに塗って食べる場合もある)。企業の大量生産品も一般的であるが、醤油、味噌、豆腐などは古来の製法で作られることも多く、日本で市販されるものとは風味や栄養価が異なる場合もある。アメリカではたまりも流通している。
農林水産省と外務省の調査・集計によると、海外にある日本食を提供するレストランの総数は約11万8,000店(2017年10月時点)である。2013年1月時点調査に比べ2倍以上である。和食だけでなく、ラーメン店や日本風カレー店なども含む。2019年には約15万6,000店とさらに増えた。現地の企業などが運営する(本来の日本食と異なる)「なんちゃって日本食」と評しうる店が多いが、一方で日本滞在経験で日本食のよさを知った外国人向けに本物・高級志向の日本食店も増えている。
2007年に、正統的な日本料理店に認証を与える「日本食レストラン推奨制度」を日本貿易振興機構(JETRO)がフランスで始められた。制度の目的として、道標の提供と日本食文化の認知度向上・普及・浸透、正統的日本料理レストランにチャレンジする機会の提供、日本の食品などジャパン・ブランド輸出促進を挙げている。制度の対象は、日本で一般に「和食」のカテゴリーに入る食事がメニューのほぼすべてを占めるレストランで、その料理は懐石、寿司、天ぷら、うなぎ、焼き鳥、そば、うどん、丼物、その他伝統の日本食(フランスで創作されたそれに準拠するものも含む)としている。 | [
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"text": "日本料理(にほんりょうり/にっぽんりょうり)は、日本の風土と社会で発達した料理をいう。洋食に対して「和食(わしょく)」とも呼ぶ。食品本来の味を利用し、旬などの季節感を大切にする特徴がある。",
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"text": "日本産の農林水産物・食品の輸出も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7,502億円と2012年の4,497億円から1.7倍に増え、2017年は8,000億円台に乗せた。日本国政府(農林水産省)は1兆円を目標としており、海外における日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している。また、国内においては和食文化の保護・継承を図っている。",
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"text": "広義には、日本に由来して日常作り食べている食事を含む。",
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"text": "狭義には、精進料理や懐石料理などの形式を踏まえたものや、御節料理や彼岸のぼたもち、花見や月見における団子、冬至のカボチャなど伝統的な行事によるものである。",
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"text": "日本語の「料理」を意味するところは、家庭の台所や飲食店の厨房などで行われる「食品加工の最終段階」を指すことが多い。",
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"text": "現在では食品工場などで広く行われる脱穀・精米・豆腐・かまぼこの製造なども、地域・時代・集団によっては料理の範疇である。米の量をはかりどれだけ食べてどれだけ種籾とするかなど、家庭や国家の献立や食料計画をも意味する。また焼けた獣骨の遺物の発見から北京原人などと呼ばれるホモ・エレクトスの火の利用や、宮崎県幸島のニホンザルの群れがサツマイモを海水で洗い味つけして食べるということも、料理と考える場合もある。",
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"text": "尚、料理の概念は言語や国によって大きな異なりがある。中国語では「烹飪」と「菜餚」が料理の意味を表し、採集した野菜を烹で煮ることを意味する。英語でも「cooking」と「dish」二つの言葉がある。cookingは加熱することを意味し、加熱しない生のものを「raw」と区別している一方、dishは一つのお皿に盛り込みのことを表す。フランス語の「cuisine」は台所や厨房をあらわし、また調理や食品の料理もあらわす。また、ユネスコによる世界無形文化遺産登録以降、中国での簡体字ネット環境を中心に、「日本料理と和食の基本は中国の陰陽五行思想にあり」と言った何の一次史料や論理的な根拠を伴わない、文化の包摂活動が展開されている。この「陰陽五行説」は日本語環境下でも拡散が進んでいており、自明の前提として語られ始めている。",
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"text": "「料」は「米と斗の会意」で、米などの体積を斗などの計量器ではかる意味を持つ。加えて食料など食品の意味も持つようになり、また料理という言葉ができてからはその略ともなる。",
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"text": "「理」は「玉が意符で里を声符とする形声」で、宝玉のすじやきめを美しく磨くことから物事の筋道やおさめるという意味を持つ。平安時代に登場する「料理」という言葉は物事をはかりおさめる、うまく処理するという意味である。現在に通じる調理やそれによってできる食品を意味するようになる。",
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"text": "『世界大百科事典』によれば、原始時代の日本料理は米と魚を中心とし、獣肉と油脂の使用がきわめて少ないという特徴がある。平安時代にまでさかのぼると、大饗料理では椅子と円卓に散蓮華と言った大陸文化の影響があったが、平安時代の中盤以降は急速に和風化が進み、消えていった。鎌倉・室町時代に入ると、天ぷらのような西洋伝来した技術も取り入れ、ダシの旨味も重視し、ご飯を中心に日本料理としての形が作られた。特に御持て成し料理としての二汁五菜が定着していて、日本の家庭料理はご飯を中心にした一汁三菜の日常の食にある。これ以降には日本料理の基礎が固まり、江戸時代後期にほぼ完成に至ったものである。",
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"text": "和食の起源は諸説があり、「米と魚を中心とした食文化」が発達していることから、その原型は神へのおもてなしにある説が有名である。",
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"text": "『古事記』や『日本書紀』における火闌降命たちの神話や、その3代後の神武天皇紀などにあるとしている。ユネスコへの登録に関して出版された和食文化国民会議のブックレットによれば、和食には自然の中の神が年中行事の中で食と結ばれたという特徴を持つ。",
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"text": "東京家政学院の『ユネスコに登録された和食』によれば、和食の基本形は飯・汁・菜・香の物であり、白米・大根・ナスのような伝来した食材が使われ、魚介・海藻の豊富さ、蒸し・茹で・煮るといった調理法の簡単さ、昆布・鰹節・煮干しといった出汁文化、味噌・醤油・日本酒・味醂・酢・塩・砂糖といった調味料の多さ、平安時代から現代の日本まで継承された七夕のような節供の年間行事との関わりを挙げている。",
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"text": "京料理の料理人側から和食に見れば、「取り肴・造り・御椀・焼き物・揚げ物・焚合わせ・香の物」といった献立を成立させ、日によってこうした中から組み合わせその日の献立を作る。",
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"text": "「日本料理」と「和食」という言葉は文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」への対義語という形で誕生されていた。",
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"text": "「日本料理」には料亭で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は高級食も家庭食も含む日本の食文化全体をあらわす言葉として、より相応しいとする意見もある。",
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"text": "20世紀初頭では、日本料理の用例は早くて1881年の『朝野新聞』5月20日にみられる。ある調査では明治、大正時代にかけて日本料理を書名に持つ書籍は4点しか見つからず、1904年の『和洋 家庭料理法』では日本料理は家庭料理を指しており、現在とイメージが異なっていた。1903年の村井弦斎の『食道楽』には日本料理、西洋料理が対比して解説されており、『食道楽 秋の巻』では米料理百種として、日本料理の部では油揚飯・大根飯・栗飯など50種のご飯を紹介している。",
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"text": "20世紀の中盤、「日本料理」は石井泰次郎による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると看做されている。",
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"text": "21世紀の日本権威辞書『広辞苑』や『大辞泉』にて、「和食」の項をひくと「日本風の食事、日本料理。」のように端的に書かれており、「日本料理」の項には冒頭の第一段落に説明したようなもう少し長い説明がある。",
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"text": "日本では、野菜・果物・魚介類・海藻などの食材が量も種類も非常に豊富である。これは日本が置かれている幾つかの地理条件が関係している。",
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"text": "ほとんどの料理は、ご飯に対するおかずという位置づけであり、米と酒に調和する。",
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"text": "歴史的に肉食が禁止され、長きにわたり乳製品等の家畜製品は普及しなかった(乳製品には蘇と醍醐が例外的にあるだけで欠如した)。食用油の使用も中世までは発展せず、例外的に唐菓子があり、南蛮料理に由来する天ぷらによって、油の使用が急速に普及していった。このため、肉や油脂に代わる味つけとしてだしが発達した。こうした背景が淡白な味つけを生んでいる。強い香辛料はあまり使われず、旬の味、素材の持ち味が生かされる。主要な調味料である味噌や醤油は大豆を発酵させた調味料で、これもうま味を伴う。甘みづけには水飴・みりんが使われ、現在は砂糖が多用される。",
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"text": "現在の日本では流通が発達したため世界中の食品や調味料が入手でき、日本料理への応用も行われている。",
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"text": "漬物は日本にざっと600種はあり、日本の食生活とともにあった。奈良時代の天平年間(710年から794年)の木簡にウリの塩漬けの記録があり、平安時代に成立した『延喜式』には酢漬け、醤漬け、粕漬けなどの記載がある。室町時代から江戸時代にかけて全国に漬物屋ができ、江戸時代には種類を増やし各地方の名物となった。",
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"text": "納豆は大陸から伝来してから日本人の技術で改良され、古くは納豆菌ではない奈良時代の発酵大豆「くさ」があった。納豆は京都の大徳寺、天竜寺で作られ寺納豆、浜名湖の大福寺の浜納豆とも言われ、糸引き納豆は室町時代中期に生まれている。",
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"text": "ダシは、鰹節・昆布・椎茸が三大である。煮干しも使われる。",
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"text": "日本国外では味は、五味として甘辛酸苦鹹と説明してきたが、日本人は鰹節のうま味を加えて六味としてきた。日本料理以外の鶏ガラなどのように油脂が浮くことがない。こうしたダシは、日本料理の方向を決定する要因となり、粋、優雅、上品さ、質素で格調高い、淡白で奥深い味が精進、懐石、侘び寂び料理を生み出してきた。鰹節の原型は、平安時代『延喜式』に素干しの保存食の堅魚(かたうお)があるが、今のように燻したのは江戸時代の1674年である。",
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"text": "調味料については、塩(食塩)は20世紀末に自由化されると非常に多様な種類が流通するようになった。日本列島は親潮・黒潮が流れる5つの海域に囲まれている。6世紀ごろになると海藻を焼いてその灰を使った灰塩ではなく、海藻を煮詰める藻塩が生まれ、『万葉集』に詠まれた。奈良時代になると塩田や釜が製塩に使われるようになり、揚浜式(8世紀)、入浜式(中世)の塩田が各地に海浜に造られた。1952年からイオン交換膜式を用いた塩専売法による食塩事業を国が始めたことで塩田は消滅した。昔ながらの塩田を求めて起こった1971年からの自然塩運動により、1997年に新たに塩事業法が施行され、製塩は自由となった。イオン交換膜式では塩化ナトリウム99%以上となり塩辛さだけが際立つが、それ以外の製法ではマグネシウムの苦味、カリウムの酸味、カルシウムの甘味が複雑な味を醸し出す。料理の基本は、塩梅、ダシ、火加減とされ、多様な調味料がない昔には、塩と梅干しのサジ加減が重要であった。日本では基本的に岩塩は取れないとされる。",
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"text": "酢は、酸味とともに抗菌作用があり重宝されてきた。古くは『万葉集』に醤酢(ひしおす)の記述がみられ、奈良時代にはナスの酢漬けがあり、中世には酢飯が開発された。歴史的には米酢が使われてきた。",
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"text": "醤油は、伝来したものを日本人が独自に作りあげた。大豆と小麦と塩を発酵させたもので、中国の醤(じゃん)など大陸のものとは微生物、製法が大きく異なる。アジアが起源と言われるが確認はされておらず、その元となった比之保(ひしお)は弥生時代から大和時代に日本に伝来したとされ、平安時代には広く浸透し魚を使ったものがもっとも普及し、魚醤のようなものとして伝来したと考えられる。",
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"text": "味噌は、701年の『大宝令』には未醤(みしょう)が記載され、日本で造られた「噌」の字を後に当てたとされ、生産地の名をつけ各地の気候や風土、農産物、土地の者の嗜好を反映している。",
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"text": "飴は、もち米などのデンプンを糖化したもので、『日本書紀』『延喜式』にも記載がある甘味料である。砂糖は奈良時代にも薬として伝来し、室町時代には菓子にも使われたが、輸入量が大きく増加するのは江戸時代である。18世紀前後になると輸入された砂糖が菓子に広く使われるようになり、次第に調味料となっていった。砂糖・塩・酢・醤油・味噌で「さしすせそ」とする近代の語呂合わせがある。",
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"text": "薬味には、ワサビ・生姜・唐辛子・山椒・ネギ・シソなどがある。",
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"text": "季節感が重視される。旬の食品は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなるため、味を楽しむ好機と考えられている。七草がゆのように、野草特有の自然なあく強さや苦味も味わう。また初鰹のような季節を先取りする「走り」、落ち鮎のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、同じ食品でも走り、旬、名残と3度の季節感が楽しまれる。",
"title": "特徴"
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"text": "季節の表現は切り方や色でも表現される。春は淡いウドなどをサクラの花びらに見立てて切る。夏は青みのシロウリやキュウリを雷や蛇腹に切る。秋は鮮やかなニンジンなどをモミジやイチョウの葉に切る。冬や新年はユズを松葉に切ったり、ニンジンを梅の花に切ったり、ダイコンとニンジンで紅白を表現したりする。",
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"text": "また山水盛りや吹き寄せ盛りのように、自然そのものを表した盛りつけもなされる。",
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"text": "調理場を「板場」、料理人や料理長を「板前」とまな板と関連づけて呼び、切ること自体を煮炊きから独立した調理のひとつとしている。「切る」ことを重視する姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが主で、「烹る(火を使う)」ことが従とされ、食品そのものの味を重視することにつながる。また「割主烹従」から「割烹」という言葉も生まれ、日本料理そのものやそれを提供する店を表す。",
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"text": "日本料理の椀物(吸物)と刺身は、合わせて「椀刺」や「椀差」と呼ばれ、重視される。その味によって腕前を確かめられるともされる。",
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"text": "日本料理の献立やメニューは、米を中心とした穀物に生理的熱量や栄養を依存するものであった。穀物は飯などに料理されて食事の主たる主食として扱われる。主食に対する副食の惣菜は、飯を食べるための食欲刺激として用いられ、御飯の友などという概念もある。また飯の代わりに米による日本酒伴う宴会などでは、惣菜がそのまま肴(さかな)としても用いられる。飯と汁物に惣菜からなる、一汁一菜や一汁三菜など複数の料理から成ることが多い。伝統的に左を上位とする風習があるため、主たる飯を左側に置いたり、魚の頭を左向きに置いたりして配膳することが多い。日常の食事などでは、これらの料理は一度にまとめて配膳されることが多いが、懐石料理などでは、一品(あるいは一膳)ずつ順番に配膳される。",
"title": "特徴"
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"text": "食器は、漆器、陶器、磁器など。家庭では、ご飯茶碗・箸は、各人専用のもの(属人器)を用いる習慣がある。暖かい時期には、薄手で浅めの磁器を主に、暑くなるとガラスの器なども使われる。涼しい時期には、厚めで深手の陶器を主に、寒くなると蓋つきの器なども使われる。また漆器では、蒔絵や沈金などの絵柄で季節を表現することがある。",
"title": "特徴"
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"text": "日本料理は各家庭のほかに、蕎麦屋や寿司屋などの専門店、居酒屋や料亭や割烹、また待合やお茶屋、行楽地、さらに現代では宇宙食など、さまざまな場所で食事ができる。",
"title": "特徴"
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"text": "大乗仏教では肉を食べることおよび一部のネギ属の植物が忌避されており(禁葷食)、この戒律を守るため精進料理がある。江戸時代まで、仏教の考え方から獣肉食は一部の地域を除いて一般的ではなかったが、明治時代以降に獣肉食は国内で広く広がった。現在の日本料理は精進料理を除いて食のタブーは弱いと思われるが、羊肉やアヒル肉など普及の問題であまり一般的ではない肉がある。",
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"text": "群馬県の岩宿遺跡で更新世のローム層から旧石器時代の石器が発見された。岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ、オーロックス、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は石器で切るなどした解体痕がある。また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。また長野県の野尻湖湖底に位置する立が鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から100個ほど1か所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。また木器や樹皮などによる容器に水や食品とともに礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっており、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの動物はフグなどの毒のあるものが少なく、内臓や筋肉、皮膚や脂肪や血液、骨髄や脳髄など、骨や毛などを除けば、大部分が可食部である。寄生虫や微生物など病原体の問題もあるが、生でも食べることができる。レバ刺しや膾、カルパッチョやユッケやタルタルステーキのような料理や、火が使える状況であれば礫石などを利用して、石焼や蒸し焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。またさいぼしやジャーキーなどのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。",
"title": "歴史"
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"text": "約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナやナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシやシイ、クスノキなどの照葉樹林が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなどの大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカやイノシシなど中小哺乳類が増える。また、海面の上昇にともない対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側とともに暖流と寒流の交わる良漁場となる。このような風土の変化にともない縄文時代が始まり、磨製石器とともに縄文土器が用いられる。世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕や牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟や漁撈を主とする生活である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。クルミ、ドングリ、クリ、トチなどの堅果類を竪穴建物の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。クルミは脂質を多く含み生でも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含み、生のベータデンプンは消化されにくいため、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿と磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮ることで灰汁抜きをした。またクズやワラビ、ヤマノイモやウバユリ、ヒガンバナなど野生の芋類も、アルカロイドなどの毒を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の遺物による調査と、遺骨コラーゲンの同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのにともない、従来の食肉やレバーや血液などから摂取していた塩の必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。また栽培作物であるソバやオオムギやアワ、エゴマやリョクトウやヒョウタンなどが、少ないながら出土している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "狩猟による食肉は大半がイノシシとニホンジカによるもので、その他カモシカやエゾヒグマやツキノワグマ、タヌキやアナグマなどさまざまである。またキジやカモ、ガンなどの鳥類も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、罠や落とし穴なども用いた。またイヌは飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。北海道ではアザラシやトド、オットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されており、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリやアサリ、カキやシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキやボラ、クロダイやコチなどを対象とし、骨角器によるヤスや石錘を利用した漁網も用いた。またイワシやサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。東北地方の三陸沿岸では外洋性のマグロやカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。九州北西部でも外洋性のマグロやサワラ、シイラやサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸河川でのサケやマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのような縄文クッキーが出土している。また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のような羹や、鍋料理のようなものが考えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。宮城県の里浜貝塚における調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジやサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史的や社会的な文化にもより異なる。沖縄諸島や奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期とも呼び、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土しており、このころ先島諸島では漁撈とともにイモやアワの畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、台湾や中国大陸江南の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、さまざまな定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年のまで続いたとされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "稲作と栽培種イネは、アフリカのニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。中国大陸の長江流域では、紀元前1万年ごろのイネの資料の発見、紀元前6000年ごろの湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年ごろの浙江省河姆渡遺跡が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、鋤や臼と杵なども伴うほぼ完成された水田稲作が行われた。紀元前3000年ごろの浙江省銭山漾遺跡などの良渚文化に続き、紀元前1000年ごろの江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。また黄河流域では、紀元前1万年ごろにアワやキビの利用があり、紀元前6000年ごろに中流域でアワと農具が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年ごろに長江流域からのイネと西アジアからのムギが伝来し、紀元前2000年ごろにマメの栽培で五穀が揃うことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "朝鮮半島では紀元前4000年ごろの黄海北道知塔里遺跡から炭化したアワもしくはヒエの粒の発見、紀元前2000年ごろの京畿道欣岩里遺跡から陸稲と思われる粒がオオムギやアワなど畑作物とともに発見、紀元前8世紀ごろには忠清南道松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7世紀から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "中国大陸東北部とロシア東部では、紀元前1000年ごろのアムール州や黒竜江省のアムール川沿いや沿海地方では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの栽培とブタを飼育する農耕が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡からヒエ類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡からオオムギとアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する穀物類は、沿海地方などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、稲や大麦、小麦、アワ、ヒエ、キビなどが発見され、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などで、用水路や畦が整備された縄文水田が、木製の鍬や石包丁などの農具を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではない。紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化前期の完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海から直接に、九州北部に移民とともに伝わったと考えられている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受容しやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に不適であったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた鉄製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた弥生土器を伴い、弥生時代と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年ごろに始まり紀元後400年ごろまで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、続縄文時代と呼ばれ紀元1000年ごろまで続いた。また沖縄など南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年ごろまで続いた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "弥生時代の日本列島の様子は、漢書地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。『魏志』倭人伝では紀元後239年に複数の首長国がある中卑弥呼の統治した邪馬台国が魏に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。またインディカ種とジャパニカ種とともに、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、糯(もち)と粳(うるち)とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯や餅が登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であることなどから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "水田稲作が普及しても農耕のみを基盤としたわけではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。またプラント・オパールの調査から、全面的に稲を長期にわたって栽培したわけではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも雑穀などと呼ばれるアワやヒエ、キビそして麦などの穀物や、豆やソバなどの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類は稲を超えて多く出土する。猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられている。また鹿に対する猪の割合が増え、頭蓋骨の変化から猪が家畜化され豚となったものも含まれていると考えられている。豚に加えて牛や馬、鶏が持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象ではなかった。イヌは猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。豚や牛、馬などの飼育は、農耕の傍らの小規模なもので乳の利用などを目的としたものではなく牧畜ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイやフナ、ナマズやドジョウ、タニシなどを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "料理は米などの穀物を炊いた飯がある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒がついたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は臼と竪杵による精米で、現在販売されている籾殻を外し果皮に覆われた玄米とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を唾液により糖化した口噛み酒や麹を利用したりして酒を醸造した。フナなどで塩辛や魚醤やなれずしなども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、食器の形状のものも出土する。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "遺跡からはドングリがもっとも多く出土するが、農耕が普及し米や粟を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜を副食にするという日本食の基本ができあがってきた。家畜として導入された豚を食べることは忌避され、鶏も時告鳥(ときつげどり)として別格にあり、卵すら食用にしなかった。次第に食事は、神事の御饌(しんせん/みけ)として供えられ、神事の後に直会(なおらい)にて神主や村人が一緒に食べ、神人供食の文化が起こった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳などの古墳は、各地に広がり古墳時代と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型鋤先や曲刃鎌、6世紀後半に登場し代掻きに用いる馬鋤や7世紀に登場し耕起に用いる犂による牛馬の利用、7世紀初頭の大阪府狭山池などため池の築造や長大な堤防による河川の制御、7世紀後半の条里制の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた埴輪には、鹿や猪、犬などの狩猟を描いたもの、馬や鶏を形取ったものなど、支配者による狩猟や乗馬があった。朝鮮半島から伝わった須恵器には甑が多数発見されることから、米を蒸しておこわにしていたと考えられている。また従来の炉に変わって竈が住居に設けられる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "『古事記』には豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、稲穂が実る国と記され、720年の『日本書紀』ではウケモチのお腹から稲が生まれたという神話が書かれている。平安時代末期には強飯に代わり、現代の炊飯されたご飯と同じような姫飯(ひめいい)も食されるが普及はもっと後である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "『日本書紀』に料理の記述がある。主食と副食による食事構成が定着し、米や麦・アワなどをおこわや飯、粥にして食べていた。副食に用いる食品は、野菜・海藻・魚介類が用いられた。獣肉等は天武天皇の675年に、牛・馬・犬・猿・鶏の殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。また猪と鹿は殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物・焼物・煮物に加えて、茹物・羹・和え物・炒り物などがある。加工法としては干物・塩辛・漬物・寿司などがあった。遣唐使による唐の影響から、料理も影響を受ける。大饗(だいきょう/おおあえ)では、飯に膾や干物に加えて、干物や揚げ物を含む唐菓子、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。箸とともに匙も使われた。調味は食べる際に塩や酢・醤(ひしお)・酒で味をつけた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代には、武士の支持を受けた禅宗とともに精進料理が伝わり、煮染や酒煎など調味の技法が発達する。茶に加えて、豆腐、金山寺味噌など食品加工技術が伝わった。寺院の点心からうどんや饅頭、羊羹などが民間に広まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "現代の炊飯ご飯と同じような、姫飯(ひめいい)が広く普及する。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 64,
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"text": "大饗料理から派生した本膳料理が確立した。のちの懐石料理や会席料理にも影響を与えており、出汁と合わせて日本料理の基礎が確立されたと評する論もある。醤油が作られ用いられた。鰹や昆布を使い、火を使った焼き物、煮物、汁物がたくさん出されるようになり、武家特有の料理が整い日本料理が誕生する。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 65,
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"text": "室町時代に料理書『四条流包丁書』や『大草家料理書』が書かれたとされる。精進料理が発達し、出汁の概念が生まれた。安土桃山時代に来日したジョアン・ロドリゲスは著書『日本教会史』の中で「能」(実践的な教養)として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "懐石料理が成立する。茶の湯の発達に伴うものであり、千利休の影響が大きい。南蛮船によりてんぷらやがんもどきなどの南蛮料理や、南蛮菓子(カステラやコンペイトウなど)が伝わった。唐辛子の伝来もこのころである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "日本の料理文化の基本的な形は、古代から中世にかけての貴族が伝えてきた魚・鳥を軸とした料理に、寺院で発達した精進料理が結びつき、それに武家上層の食事様式の影響を受け、室町時代から江戸初期にかけて成立し、江戸後期に成熟した。その特徴は、個人膳であること、皿数が多いのをご馳走とすることから少量ずつを配膳すること(何汁何菜)、片付け食いではなく選んで食べること(残すことが当然)、獣肉が極端に少ない、酒席膳を第一とするなどがある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "江戸料理と呼ばれる地元の材料を使用した料理が発展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "『絵本江戸風俗往来』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし」と焼き芋屋が大人気であった。初ガツオ・初ナスなど縁起を担ぐこともあった。ダシは鰹節を使い、醤油は濃口醤油が使われた。コショウなど香辛料も利用され、芳飯も鶏飯なども取り入れられ、おじや、ねぎぞうすいも食べられるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "外食産業も栄えていた。文化8年(1811年)に江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、煮売居酒屋(1,808軒)、団子汁粉(1,680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1,186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、蒲焼屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)という記録が残っている。煮売り屋は惣菜の持ち帰りすなわちの中食の役割も担っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "京都、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。北前船で北海道産の昆布が輸送された。瀬戸内の魚介類や近郊の野菜に加えて、全国の産物も集められたため「諸国之台所」と評された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "それまで公家や武家などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡った。『料理切形秘伝抄』や『料理物語』などさまざまな料理本が出版された。本格的な外食産業に関しては江戸時代初期には寺院が金銭を受取り料理を提供していたが江戸中期にかけて料理茶屋・料理屋が市中に数多く出現した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 73,
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"text": "江戸後期には会席料理が登場する。本膳料理を簡略化し、酒の席で楽しむ料理として成り立った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "明治には、肉食が公に解禁され、江戸期には細々と食べられていた牛鍋などが流行した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "柳田國男は『明治大正史 世相篇』の中で「明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである」という。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "明治には海外と交渉のある階層を中心に西洋料理が食べられるようになった。各地の西洋料理店(洋食店)では、西洋料理のほかに、日本人の手で日本風に作り変えた料理が生み出された。家庭では銘々膳の風習にかわり、ちゃぶ台が使われるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後で物資不足の中、アメリカ合衆国からの食糧援助(ララ物資)として小麦粉が大量に輸入され、安価に大量供給された小麦粉により、お好み焼きなど小麦の粉食による鉄板焼き料理も発達した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "現在の日本料理は、寿司の一種であるカリフォルニアロールのように、世界で発展するものもある。日本でも刺身や寿司に真空調理法や低温調理法を取り入れたり、食肉の応用で大型の魚類であるマグロやブリなどを対象に熟成させて用いるなど、世界や歴史、科学などの知見などを取り入れて発展しているものもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2013年にユネスコの無形文化遺産に登録された和食は、「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」である。日本は「和食」を「いただきます」や「もったいない」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案、年末年始における餅つきや御節料理、食育教育を中心にプレゼンテーションを行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "伝統的な形式が現在に伝わる料理を挙げる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "年中行事や冠婚葬祭など行事と結びついた日本料理も多い。餅や赤飯、団子や寿司など、季節や地域によらず広く共通するものもある。また色や姿形からタイやエビなどもよく用いられる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "日常生活の汁物や惣菜においては、豆腐や麩、コンニャクやワカメなど広く共通して用いられる。春のフキ味噌やニシン、夏の麦飯やはったい粉、秋の芋茎や干柿、冬の煮こごりや凍豆腐、新年の鏡餅や初竈、餅花など、料理の季語もある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "かて飯やかてものなどの救荒食物がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "郷土料理は日本の地方で古くから食べられてきた料理である。アイヌ料理や沖縄料理や奄美料理、くさやや島寿司、皿鉢料理などもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "特定の地域で太平洋戦争後に新たに食べられるようになったり、21世紀にかけて地域おこしを目的に開発されたりしたご当地グルメもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "かつては生魚やゴボウの根など世界的には少数派の食材を使用するため、直江津捕虜収容所事件のような誤解も発生していた。現代では日本食の普及にともない解消されつつある。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2007年に発刊された高級レストランガイド『ミシュラン』の東京版では、150軒の掲載店舗のうち、約6割が日本料理店であり、日本料理店も含めて、掲載されたすべての店舗に1つ以上の星がついた(ミシュランの掲載店舗の中には星がつかない店もあり、全ての店舗に星がついたのは、ミシュランでは初めてのことである)。また、150軒の掲載店舗に合計190以上の星がつき、それ自体も過去最高であった。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2011年、日本はフランスを抜いて、ミシュランの3つ星レストランが最も多い国になった。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2017年に来日した、当時FAO事務局長だったジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバは、日本は先進国の中でも肥満率は4%と低く、日本の伝統的な食事である和食は、健康の改善と長寿に貢献しているとし。「Japan is a global model for healthy diets(日本は健康的な食事と栄養の世界的なモデルである)」と述べている。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "一方、英語学者の視点から論ぜられた文化論においては「日本人の多くがスシやサシミを好みますが、生の魚をそのままぺろぺろと食べて、うまいうまいといっている民族の方が、この地球上で絶対少数派であるという自覚はしっかりもつべきでしょう」「我々日本人だけが、世界60億人の味覚の優劣を測るモノサシを一手に独占していると考えることほど、恐ろしい思い上がりはありません」という意見もある。実際、中学・高校時代をアメリカで過ごしていた実業家の松田公太は、刺身を食べていることを指して現地民から野蛮人扱いされた(当時アメリカは寿司ブーム到来前であったため、無理からぬことであった)というエピソードを明かしている。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 91,
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"text": "2022年、非常に厳密な学術誌『Nutrients』のメタ分析によれば、日本食は当然ながら世界から見て健康的である。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "食事を通じて健康などに働きかけるマクロビオティック(正食)を通じて紹介された日本料理や調味料が多く、ヨーロッパやアメリカの一部で正食が評価された地域では、日本では一般に使われていない特殊な調理法や食品が使われている場合がある(味噌はパンに塗って食べる場合もある)。企業の大量生産品も一般的であるが、醤油、味噌、豆腐などは古来の製法で作られることも多く、日本で市販されるものとは風味や栄養価が異なる場合もある。アメリカではたまりも流通している。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "農林水産省と外務省の調査・集計によると、海外にある日本食を提供するレストランの総数は約11万8,000店(2017年10月時点)である。2013年1月時点調査に比べ2倍以上である。和食だけでなく、ラーメン店や日本風カレー店なども含む。2019年には約15万6,000店とさらに増えた。現地の企業などが運営する(本来の日本食と異なる)「なんちゃって日本食」と評しうる店が多いが、一方で日本滞在経験で日本食のよさを知った外国人向けに本物・高級志向の日本食店も増えている。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "2007年に、正統的な日本料理店に認証を与える「日本食レストラン推奨制度」を日本貿易振興機構(JETRO)がフランスで始められた。制度の目的として、道標の提供と日本食文化の認知度向上・普及・浸透、正統的日本料理レストランにチャレンジする機会の提供、日本の食品などジャパン・ブランド輸出促進を挙げている。制度の対象は、日本で一般に「和食」のカテゴリーに入る食事がメニューのほぼすべてを占めるレストランで、その料理は懐石、寿司、天ぷら、うなぎ、焼き鳥、そば、うどん、丼物、その他伝統の日本食(フランスで創作されたそれに準拠するものも含む)としている。",
"title": "海外からの評価や国際的普及"
}
] | 日本料理(にほんりょうり/にっぽんりょうり)は、日本の風土と社会で発達した料理をいう。洋食に対して「和食(わしょく)」とも呼ぶ。食品本来の味を利用し、旬などの季節感を大切にする特徴がある。 日本産の農林水産物・食品の輸出も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7,502億円と2012年の4,497億円から1.7倍に増え、2017年は8,000億円台に乗せた。日本国政府(農林水産省)は1兆円を目標としており、海外における日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している。また、国内においては和食文化の保護・継承を図っている。 | {{redirect|和食|その他}}
{{Infobox intangible heritage
| Image = [[File:Osechi_001.jpg|250px]]
| Caption = 『和食:日本の伝統的な[[食文化]]、特に新年祝賀』によれば、和食は魚・野菜・食用野草など地域の食材を使った自然を尊ぶ心との結びつきは、天然資源の持続可能な利用にも通じる。特に新年祝賀では餅をつき、意味のこもった美しい料理を用意し共同体で分けられている。<!--出典リンク先-->
| ICH = 和食
| Criteria = R1, R2, R3, R4, R5 <ref>[https://ich.unesco.org/en/decisions/8.COM/8.17 Decision] (unesco)</ref>
| ID = 869
| Year= 2013
| Link = https://ich.unesco.org/en/RL/washoku-traditional-dietary-cultures-of-the-japanese-notably-for-the-celebration-of-new-year-00869
}}
'''日本料理'''(にほんりょうり/にっぽんりょうり)は、[[日本]]の[[風土]]と[[社会]]で発達した[[料理]]をいう<ref name="kojien">[[広辞苑]]第5版</ref><ref name="nihondaihyakka">[[日本大百科全書]]</ref><ref name="sekaidaihyakka">[[世界大百科事典]]</ref>。[[洋食]]に対して「'''和食'''(わしょく)」とも呼ぶ<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E9%A3%9F 和食] コトバンク</ref>。食品本来の味を利用し、[[旬]]などの[[季節]]感を大切にする特徴がある<ref name="kojien"/>。
日本産の農林水産物・食品の[[輸出]]も2013年から右肩上がりに伸びている。2016年は7,502億円と2012年の4,497億円から1.7倍に増え、2017年は8,000億円台に乗せた。[[日本国政府]]([[農林水産省]])は1兆円を目標としており<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/nousui/dai21/siryou4.pdf 農林水産物・食品の輸出額1兆円目標に向けた主な取組](2018年4月8日閲覧)</ref>、海外における日本食レストランの増加と日本食材輸出を推進している<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180103-00000014-mai-soci <和食>日本食、世界を席巻 訪日客増加が後押し]『毎日新聞』朝刊2018年1月3日</ref>。また、国内においては和食文化の保護・継承を図っている<ref>[https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/ 和食文化の保護・継承:農林水産省](2019年12月5日閲覧)</ref>。
== 定義 ==
広義には、日本に由来して日常作り食べている[[食事]]を含む。
狭義には、[[精進料理]]や[[懐石|懐石料理]]などの形式を踏まえたものや、[[御節料理]]や[[彼岸]]の[[ぼたもち]]、[[花見]]や[[月見]]における[[団子]]、[[冬至]]の[[カボチャ]]など伝統的な行事によるものである<ref name="haru"/><ref name="aki"/>。
== 名称 ==
=== 料理の概念 ===
{{See also|料理}}
[[File:Tempura, sashimi, pickles, ris og misosuppe (6289116752).jpg|thumb|日本の[[定食]]。[[茶碗蒸し]]・[[汁物]]・[[惣菜]]・[[漬物]]などがバランス良く並べている。]]
日本語の「料理」を意味するところは、[[家庭]]の[[台所]]や[[飲食店]]の[[厨房]]などで行われる「食品加工の最終段階」を指すことが多い。
現在では食品工場などで広く行われる[[脱穀]]・[[精米]]・[[豆腐]]・[[かまぼこ]]の製造なども、地域・時代・集団によっては料理の範疇である。米の量をはかりどれだけ食べてどれだけ[[籾|種籾]]とするかなど、家庭や国家の[[献立]]や食料計画をも意味する。また焼けた獣骨の遺物の発見から[[北京原人]]などと呼ばれる[[ホモ・エレクトス]]の火の利用や、[[宮崎県]][[幸島]]の[[ニホンザル]]の群れが[[サツマイモ]]を[[海水]]で洗い味つけして食べるということも、料理と考える場合もある<ref name="nihondaihyakka">[[日本大百科全書]]</ref><ref name="sekaidaihyakka">[[世界大百科事典]]</ref>。
尚、料理の概念は言語や国によって大きな異なりがある。[[中国語]]では「[[:zh:烹饪|烹飪]]」と「[[:zh:菜餚|菜餚]]」が料理の意味を表し、採集した野菜を烹で煮ることを意味する。[[英語]]でも「[[:en:Cooking|cooking]]」と「[[:en:Dish (food)|dish]]」二つの言葉がある。cookingは加熱することを意味し、加熱しない生のものを「[[:en:Raw material|raw]]」と区別している一方、dishは一つのお皿に盛り込みのことを表す。[[フランス語]]の「[[:fr:Cuisine|cuisine]]」は台所や厨房をあらわし、また[[調理]]や食品の料理もあらわす<ref name="nichuu">『日中辞典』([[小学館]])</ref><ref name="readers">[[リーダーズ英和辞典]]第2版</ref><ref name="robert">『小学館ロベール仏和大辞典』[[小学館]]</ref>。また、ユネスコによる世界無形文化遺産登録以降、[[中華人民共和国|中国]]での[[簡体字]]ネット環境を中心に、「日本料理と和食の基本は中国の陰陽五行思想にあり」と言った何の一次史料や論理的な根拠を伴わない、[[文化の包摂活動]]が展開されている。この「陰陽五行説」は日本語環境下でも拡散が進んでいており、自明の前提として語られ始めている<ref>{{Cite web|title=『日本飲食文化史中兩類「出鱈目」』|url=https://ec.ltn.com.tw/article/breakingnews/3359586|website=自由時報、2020年11月23日|accessdate=2020-12-02|last=戸倉恒信|publisher=}}</ref>。
=== 料理の語源 ===
[[File:Kaiseki 001.jpg|thumb|220px|日本料理の一例、[[懐石料理]]。食材本来の美しさを生かして、日本の[[旬]]や季節感を表現する。]]
「'''料'''」は「[[米]]と[[柄杓|斗]]の[[会意]]」で、米などの[[体積]]を斗などの[[計量器]]ではかる意味を持つ。加えて食料など[[食品]]の意味も持つようになり、また料理という言葉ができてからはその略ともなる。
「'''理'''」は「[[宝石|玉]]が意符で[[:wikt:里|里]]を声符とする[[形声]]」で、[[宝玉]]のすじやきめを美しく磨くことから物事の筋道やおさめるという意味を持つ。[[平安時代]]に登場する「料理」という言葉は物事をはかりおさめる、うまく処理するという意味である。現在に通じる[[調理]]やそれによってできる[[食品]]を意味するようになる<ref name="kojien">[[広辞苑]]第5版</ref><ref name="nihonkokugodai">[[日本国語大辞典]]</ref>。
『世界大百科事典』によれば、原始時代の日本料理は米と魚を中心とし、獣肉と油脂の使用がきわめて少ないという特徴がある。平安時代にまでさかのぼると、[[大饗料理]]では椅子と円卓に[[散蓮華]]と言った大陸文化の影響があったが、平安時代の中盤以降は急速に和風化が進み、消えていった。鎌倉・室町時代に入ると、天ぷらのような西洋伝来した技術も取り入れ、ダシの[[旨味]]も重視し、[[ご飯]]を中心に日本料理としての形が作られた。特に[[御持て成し料理]]としての二汁五菜が定着していて、日本の家庭料理はご飯を中心にした[[一汁三菜]]の日常の食にある<ref name="naid110007505246">{{Cite journal |和書|author=熊倉功夫 |date=2009 |title=和食の伝統・日本料理から学ぶもの(日本料理からの提言-揺れる現代の食へのメッセージ,平成21年度大会 公開学術講演会) |journal=日本調理科学会誌 |volume=42 |issue=6 |pages=A73 |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10815636_po_ART0009336178.pdf?contentNo=1&alternativeNo=}}</ref>。これ以降には日本料理の基礎が固まり、[[江戸時代]]後期にほぼ完成に至ったものである。
=== 和食の起源 ===
[[File:Breakfast at Tamahan Ryokan, Kyoto.jpg|thumb|220px|和食の一例、[[京料理]]。京都の[[旅館]]で提供された薄味の[[朝食]]セット。]]
和食の起源は諸説があり、「米と魚を中心とした食文化」が発達していることから、その原型は神へのおもてなしにある説が有名である<ref name="角川和食とは"/>。
『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』における[[ホデリ|火闌降命]]たちの神話や、その3代後の[[神武天皇]]紀などにあるとしている。[[ユネスコ]]への登録に関して出版された和食文化国民会議のブックレットによれば、和食には自然の中の神が年中行事の中で食と結ばれたという特徴を持つ<ref name="和食文化">{{Cite book|和書|author=熊倉功夫、江原絢子|title=和食とは何か |series=和食文化ブックレット1|publisher=思文閣出版|date=2015|isbn=978-4784218257|page=}}</ref>。
東京家政学院の『ユネスコに登録された和食』によれば、和食の基本形は飯・汁・菜・香の物であり、[[白米]]・[[ダイコン|大根]]・[[ナス]]のような伝来した食材が使われ、魚介・海藻の豊富さ、蒸し・茹で・煮るといった調理法の簡単さ、[[コンブ|昆布]]・[[鰹節]]・[[煮干し]]といった[[出汁]]文化、[[味噌]]・[[醤油]]・[[日本酒]]・[[みりん|味醂]]・[[酢]]・[[塩]]・[[砂糖]]といった調味料の多さ、[[平安時代]]から現代の日本まで継承された七夕のような節供の[[年中行事|年間行事]]との関わりを挙げている<ref name="naid130005097654">{{Cite journal |和書|author=江原絢子 |date=2015 |title=ユネスコ無形文化遺産に登録された和食文化とその保護と継承 |journal=日本調理科学会誌 |volume=48 |issue=4 |pages=320-324 |doi=10.11402/cookeryscience.48.320 |url=https://doi.org/10.11402/cookeryscience.48.320}}</ref><ref name="naid130005893134">{{Cite journal |和書|author=江原絢子 |date=2017 |title=ユネスコに登録された「和食」とは何か |journal=日本食生活学会誌 |volume=28 |issue=1 |pages=3-5 |doi=10.2740/jisdh.28.1_3 |url=https://doi.org/10.2740/jisdh.28.1_3}}</ref>。
[[京料理]]の料理人側から和食に見れば、「取り肴・造り・御椀・焼き物・揚げ物・焚合わせ・香の物」といった献立を成立させ、日によってこうした中から組み合わせその日の献立を作る<ref name="naid130005628515">{{Cite journal |和書|author=髙橋拓児 |date=2017 |title=料理人から見る和食の魅力 |journal=日本食生活学会誌 |volume=27 |issue=4 |pages=231-236 |doi=10.2740/jisdh.27.4_231 |url=https://doi.org/10.2740/jisdh.27.4_231}}</ref>。
* 「取り肴」ではちょうど口に入る大きさの1寸という型があり、和食はその大きさに切られ、[[四季]]の季節感を入れ込んでいく<ref name="naid130005628515" />。
* 「[[造り]]」とは生魚を切ることを指す。造りは手作りの「作り」ではなく、建造の「造り」という漢字表記のことから、食材を美しい建物を建造するような感覚で調理すること。
* 「[[御椀]]」は日本料理を成立させるために不可欠な献立であり、[[鰹節]]と[[昆布]]だしを使い、[[カニ]]や魚の[[すり身]]など主となる食材が入っており、その器も口をつけて食べることができるようになっている。
* 「[[焼き物 (料理)|焼き物]]」は腕を問われるものであり、魚を焼くという技術を高度化し、焼く火には炭火を使い客席に届くまでに余熱で中まで火が通るように仕上げる。
* 「[[焚合わせ]]」は日本の[[野菜]]で作った一皿料理のことを指す。歴史に見れば、[[奈良時代]]に伝来した[[ナス|茄子]]・[[カブ|蕪]]・[[ネギ|葱]]、[[室町時代]]の大根、[[江戸時代]]の[[インゲン豆]]・[[レンコン|蓮根]]・[[キャベツ]]・[[ゴボウ|牛蒡]]・[[サツマイモ]]・[[筍|竹の子]]・[[トマト]]、[[明治時代]]には[[タマネギ|玉葱]]・[[オクラ]]、[[昭和]]時代には[[ハクサイ|白菜]]・[[ピーマン]]といったものが使われるようになっている。
* 「[[香の物]]」は香りの濃い漬物のことを指す。香の物は単独の料理より、煮物・蒸し物・煎り物などの料理と合わせて、副菜としてじっくり食べることが多い<ref name="naid130005628515" />。
=== 日本料理と和食の違い ===
[[File:Oseti.jpg|thumb|220px|節会や節句に作られる[[御節料理]]。豪華絢爛な食材・食器を使って[[視覚]]を刺激する。]]
「日本料理」と「和食」という言葉は[[文明開化]]の時代に日本に入ってきた「[[西洋料理]]」や「[[洋食]]」への対義語という形で誕生されていた。
「日本料理」には[[料亭]]で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は高級食も家庭食も含む日本の食文化全体をあらわす言葉として、より相応しいとする意見もある<ref name=日本食文化研究会chap1>{{Cite book|和書|author=熊倉功夫|authorlink=熊倉功夫 |editor1=日本食文化テキスト作成共同研究会|editor2=熊倉功夫|editor2-link=熊倉功夫 |title=和食;日本人の伝統的な食文化 |url=https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/pdf/all.pdf |format=pdf|accessdate=|date=2012-3 |publisher=農林水産省|pages=3-12 |chapter=1.日本の伝統的食文化としての和食 |chapterurl=}}</ref>。
20世紀初頭では、日本料理の用例は早くて1881年の『朝野新聞』5月20日にみられる<ref name="naid120005990058">{{Cite journal |和書|author=余田弘実 |date=2016-02-01 |title=書名から見た近世料理書と近代料理書 : 「日本料理」「西洋料理」「支那料理」 |journal=國文學論叢 |issue=61 |pages=269 |url=https://hdl.handle.net/10519/7078 |issn=02887770 }}</ref>。ある調査では明治、大正時代にかけて日本料理を書名に持つ書籍は4点しか見つからず、1904年の『和洋 家庭料理法』では日本料理は家庭料理を指しており、現在とイメージが異なっていた<ref name="naid120005990058"/>。1903年の[[村井弦斎]]の『[[食道楽 (村井弦斎)|食道楽]]』には日本料理、西洋料理が対比して解説されており、『食道楽 秋の巻』では米料理百種として、日本料理の部では油揚飯・大根飯・栗飯など50種のご飯を紹介している。
20世紀の中盤、「日本料理」は[[石井泰次郎]]<ref group="注">著者は1923年(大正12年)に{{Cite book|和書 |author=石井泰次郎 |authorlink= |year=1923 |title=日本料理法大成 |publisher=[[大倉書店]] |page= |id= |oclc=673989417 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000584906-00}}を著した四条流九代目家元[[石井泰次郎]]ではなく、八代目家元[[石井治兵衛]]({{Cite book|和書 |author=石井治兵衛 |authorlink= |coauthors= |year=1898 |title=日本料理法大全 |publisher=[[博文館]] |page= |id= |oclc=40587513 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000486670-00}})とみられる。</ref>による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると看做されている<ref name=washoku-chap1>{{Cite book|和書|author=熊倉功夫|authorlink=熊倉功夫 |editor1=日本食文化テキスト作成共同研究会|editor2=熊倉功夫|editor2-link=熊倉功夫 |title=和食;日本人の伝統的な食文化 |url=https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/pdf/all.pdf |format=pdf|accessdate=|date=2012-3 |publisher=農林水産省|pages=3-12 |chapter=1.日本の伝統的食文化としての和食 |chapterurl=}}</ref>。
21世紀の日本権威辞書『[[広辞苑]]』や<ref name="kojien">[[広辞苑]]第5版</ref>『[[大辞泉]]』にて、「和食」の項をひくと「日本風の食事、日本料理。」のように端的に書かれており、「日本料理」の項には冒頭の第一段落に説明したようなもう少し長い説明がある。
== 特徴 ==
日本では、野菜・[[果物]]・魚介類・[[海藻]]などの食材が量も種類も非常に豊富である<ref name=maff>『[http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/wasyoku.html 日本の伝統的食文化としての和食]』農林水産省</ref>。これは日本が置かれている幾つかの[[地理]]条件が関係している。
*周囲を[[プランクトン]]が豊富な[[海洋]]に囲まれている。特に[[三陸沖]]・[[オホーツク海]]沿岸を中心とする北西[[太平洋]]海域は、[[寒流]]の[[親潮]]と[[暖流]]の[[黒潮]]が合流する世界有数の大規模な[[漁場]]である。
*[[島嶼]]や[[リアス海岸]]が多いため海岸線が複雑で長い([[国の海岸線の長さ順リスト|世界第6位]])。また海岸は[[砂浜]]が少なく岩場が多い。結果、[[魚類]]が産卵しやすい環境となっている。
*国土の大半が[[温帯湿潤気候]]に属する。[[四季]]による気温差、昼夜の寒暖差が大きく、年間を通して降水量が多いため[[植物]]が育ちやすい。
*国土が細長く、さらにその7割が[[山岳]]地帯であるため[[河川]]は[[水源]]から[[河口]]までの距離が短く、また急勾配を流れるため水流が速い。結果として[[水循環]]が生まれやすい。
*山地の大部分が[[広葉樹林]]に覆われていることで、[[水]]・[[土壌]]の養分が豊富である。
*国土が南北に広く、[[亜寒帯]]から[[亜熱帯]]までを含む。
ほとんどの料理は、ご飯に対する[[おかず]]という位置づけであり、米と[[酒]]に調和する<ref name="nihondaihyakka"/>。
歴史的に[[肉食]]が禁止され、長きにわたり[[乳製品]]等の家畜製品は普及しなかった<ref name="世界大百科">『[[世界大百科事典]]』</ref>(乳製品には[[蘇]]と[[醍醐]]が例外的にあるだけで欠如した)。[[食用油]]の使用も中世までは発展せず、例外的に[[唐菓子]]があり、南蛮料理に由来する[[天ぷら]]によって、油の使用が急速に普及していった<ref name="nihondaihyakka">[[日本大百科全書]]</ref>。このため、肉や油脂に代わる味つけとして[[出汁|だし]]が発達した<ref name="世界大百科"/>。こうした背景が淡白な味つけを生んでいる<ref name="nihondaihyakka"/>。強い[[香辛料]]はあまり使われず、[[旬]]の味、素材の持ち味が生かされる<ref name="nihondaihyakka"/>。主要な調味料である[[味噌]]や[[醤油]]は[[大豆]]を発酵させた調味料で、これも[[うま味]]を伴う。甘みづけには[[水飴]]・[[みりん]]が使われ、現在は[[砂糖]]が多用される。
現在の日本では流通が発達したため世界中の食品や調味料が入手でき、日本料理への応用も行われている<ref name="sashimi_hyakka">『刺身百科』[[柴田書店]]、2007年。ISBN 978-4-388-06020-7</ref>。
=== 食品 ===
* [[穀物]]:[[米]]と[[コムギ|小麦]]や[[オオムギ|大麦]]などの[[ムギ|麦]]類、[[アワ]](粟)や[[キビ]](黍)や[[ヒエ]](稗)、[[豆]]などを[[五穀]]と呼ぶ<ref name="kojien">[[広辞苑]]第5版</ref>。また穀物に準じて、[[ソバ|蕎麦]]や[[サトイモ|里芋]]、[[ヤマノイモ]](山芋)などの[[芋]]も用いる。米は[[ジャポニカ米]]が主。
* [[大豆]]:[[食肉|肉]]を食べない日本人にとって、[[大豆]]は貴重な[[タンパク質]]であった。[[味噌]]・[[納豆]]・[[豆腐]]・[[油揚げ]]・五目豆・五目ひじき。
* [[野菜]]:日本原産とされるのは[[フキ]]、[[セリ]]、[[ミツバ]]、[[ウド]]、[[ジュンサイ]]である<ref name="kanpon_kigen">[[川上行蔵]]、小出昌洋『完本 日本料理事物起源』[[岩波書店]]、2006年。ISBN 4-00-024240-7</ref>。大根や[[ゴボウ|牛蒡]]、[[レンコン|蓮根]]といった[[根菜]]、茄子や[[ウリ|瓜]]なども用いる<ref name="shun_harunatsu">『旬の食材 春・夏の野菜』講談社、2004年。ISBN 4-06-270135-9</ref><ref name="shun_akifuyu">『旬の食材 秋・冬の野菜』講談社、2004年。ISBN 4-06-270136-7</ref>。
* [[山菜]]、[[キノコ]]:[[ワラビ]]や[[ゼンマイ]]、[[タケノコ]](筍)や[[ヨモギ]]や[[コシアブラ]]、[[シイタケ]]や[[ナメコ]]や[[ヒラタケ]]などを用いる<ref name=shun_akifuyu/>。
* [[果物]]、[[種実類]]:[[ウメ|梅]]や[[カキノキ|柿]]、[[ビワ]](枇杷)、[[ユズ|柚子]]、[[クリ|栗]]、[[トチノキ]]、[[クルミ|胡桃]]、[[イチョウ]]([[銀杏]])などを用いる<ref name="shun_shiki">『旬の食材 四季の果物』講談社、2004年。ISBN 4-06-270137-5</ref>。
* [[海藻]]:[[コンブ|昆布]]や[[ワカメ]](和布・若布)、[[海苔]]、[[テングサ]]などを用いる。
* [[魚介類]]:[[淡水魚]]では[[コイ|鯉]]や[[フナ|鮒]]、[[アユ|鮎]]、海の魚介類では[[鯛]]や[[ヒラメ]]、[[カツオ]]、[[ニシン]]、[[イワシ]]、[[アワビ]]や[[シジミ]]や[[カキ (貝)|カキ]]、[[イセエビ]]や[[タコ]]などを用いる<ref name="shun_haru">『旬の食材 春の魚』講談社、2004年。ISBN 4-06-270131-6</ref><ref name="shun_natsu">『旬の食材 夏の魚』講談社、2004年。ISBN 4-06-270132-4</ref><ref name="shun_aki">『旬の食材 秋の魚』講談社、2004年。ISBN 4-06-270133-2</ref><ref name="shun_fuyu">『旬の食材 冬の魚』講談社、2004年。ISBN 4-06-270134-0</ref>。[[ウナギ]]や[[ドジョウ]]、[[ウグイ]]などのほか[[サケ]]・マス類も、高地の湖や渓流に棲む[[イワナ]]、[[ヤマメ]]、[[アマゴ]]や移入種([[ニジマス]]など)を含めて重要な食材となっている。貝類としては他に[[ホタテガイ]]、[[アサリ]]、[[ハマグリ]]、[[アカガイ]]、[[イガイ]]、[[サザエ]]、[[バイ]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本には、どんな貝がいますか。:農林水産省 |url=https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/08.html |website=www.maff.go.jp |access-date=2023-11-22}}</ref>。海洋哺乳類として[[クジラ]]([[鯨肉]])。
* [[鶏肉]]:[[仏教]]での[[肉食]]禁止は[[四肢動物]]で、中国、韓国とは違って日本ではそれが守られたとされ、2つ足の[[鳥]]は食べられていた。[[焼き鳥]]、[[鶏飯]]、[[親子丼]]、[[そぼろ]]([[あんかけ]]・弁当・三食丼)。
{{要出典範囲|漬物は日本にざっと600種はあり|date=2018年11月}}、日本の食生活とともにあった。奈良時代の[[天平]]年間(710年から794年)の[[木簡]]にウリの[[塩漬け]]の記録があり、平安時代に成立した『[[延喜式]]』には酢漬け、醤漬け、[[粕漬け]]などの記載がある。室町時代から江戸時代にかけて全国に漬物屋ができ、江戸時代には種類を増やし各地方の名物となった{{sfn|小泉武夫|1999|pp=95-98}}。
[[納豆]]は大陸から伝来してから日本人の技術で改良され、古くは納豆菌ではない奈良時代の[[発酵]]大豆「くさ」があった。納豆は京都の大徳寺、天竜寺で作られ寺納豆、浜名湖の大福寺の浜納豆とも言われ、糸引き納豆は室町時代中期に生まれている{{sfn|小泉武夫|1999|pp=62-64}}。
=== 明治以降に普及した食品 ===
* [[食肉]]([[日本の獣肉食の歴史]]を参照)。[[猪肉]]や[[鹿肉]]など[[狩猟]]による[[動物]]もある。
* [[ハクサイ|白菜]]、[[キャベツ]]、[[タマネギ]]、[[ブロッコリー]]、玉[[レタス]]、[[カリフラワー]]など。
* [[乳製品]]([[牛乳]]、[[コンデンスミルク]]、[[バター]]、[[チーズ]]) - 現在でも和食にはあまり使われない。かつて[[蘇]]、[[醍醐]]といった乳製品が存在した。
* [[ニジマス]]、[[ホキ]]、[[ギンダラ]]、[[ウシエビ]]、[[バナメイエビ]]など。
=== 調味料・薬味 ===
[[File:JapaneseKatsuobushiAndKombu.jpg|thumb|鰹節と昆布]]
[[出汁|ダシ]]は、[[鰹節]]・[[昆布]]・[[椎茸]]が三大である{{sfn|小泉武夫|1999|pp=48-50}}。[[煮干し]]も使われる。
日本国外では味は、[[五味]]として甘辛酸苦鹹と説明してきたが、日本人は鰹節の[[うま味]]を加えて六味としてきた{{sfn|小泉武夫|1999|pp=48-50}}。日本料理以外の鶏ガラなどのように油脂が浮くことがない{{sfn|小泉武夫|1999|pp=48-50}}。こうしたダシは、日本料理の方向を決定する要因となり、粋、優雅、上品さ、質素で格調高い、淡白で奥深い味が精進、懐石、侘び寂び料理を生み出してきた{{sfn|小泉武夫|1999|pp=48-50}}。鰹節の原型は、平安時代『[[延喜式]]』に素干しの保存食の堅魚(かたうお)があるが、今のように燻したのは江戸時代の1674年である{{sfn|小泉武夫|1999|pp=48-50}}。
[[調味料]]については、[[塩]](食塩)は20世紀末に自由化されると非常に多様な種類が流通するようになった。日本列島は[[親潮]]・[[黒潮]]が流れる5つの海域に囲まれている<ref name="塩100選"/>。6世紀ごろになると海藻を焼いてその灰を使った灰塩ではなく、海藻を煮詰める藻塩が生まれ、『万葉集』に詠まれた。奈良時代になると[[塩田]]や釜が製塩に使われるようになり、揚浜式(8世紀)、入浜式(中世)の塩田が各地に海浜に造られた。1952年からイオン交換膜式を用いた[[塩専売法]]による食塩事業を国が始めたことで塩田は消滅した。昔ながらの塩田を求めて起こった1971年からの自然塩運動により、1997年に新たに塩事業法が施行され、製塩は自由となった<ref name="塩100選">{{Cite book|和書|author=玉井 恵|title=日本の塩100選―海からの贈りもの|publisher=旭屋出版|date=2002|isbn=4751103407|pages=19-28,48}}</ref>。イオン交換膜式では塩化ナトリウム99%以上となり塩辛さだけが際立つが、それ以外の製法では[[マグネシウム]]の苦味、[[カリウム]]の酸味、[[カルシウム]]の甘味が複雑な味を醸し出す<ref name="塩100選"/>。料理の基本は、塩梅、ダシ、火加減とされ、多様な調味料がない昔には、塩と梅干しのサジ加減が重要であった<ref name="塩100選"/>。日本では基本的に[[岩塩]]は取れないとされる。
[[酢]]は、酸味とともに抗菌作用があり重宝されてきた{{sfn|小泉武夫|1999|pp=85-86}}。古くは『[[万葉集]]』に醤酢(ひしおす)の記述がみられ、奈良時代にはナスの酢漬けがあり、中世には酢飯が開発された{{sfn|小泉武夫|1999|pp=85-86}}。歴史的には[[酢|米酢]]が使われてきた。
[[醤油]]は、伝来したものを日本人が独自に作りあげた。大豆と小麦と塩を発酵させたもので、中国の醤(じゃん)など大陸のものとは微生物、製法が大きく異なる。アジアが起源と言われるが確認はされておらず、その元となった比之保(ひしお)は弥生時代から大和時代に日本に伝来したとされ、平安時代には広く浸透し魚を使ったものがもっとも普及し、[[魚醤]]のようなものとして伝来したと考えられる{{sfn|小泉武夫|1999|pp=114-118}}。
[[味噌]]は、701年の『[[大宝律令|大宝令]]』には未醤(みしょう)が記載され、日本で造られた「噌」の字を後に当てたとされ、生産地の名をつけ各地の気候や風土、農産物、土地の者の嗜好を反映している{{sfn|小泉武夫|1999|pp=114-118}}。
[[飴]]は、[[もち米]]などの[[デンプン]]を[[糖化]]したもので、『日本書紀』『延喜式』にも記載がある甘味料である<ref name="江戸砂糖"/>。[[砂糖]]は奈良時代にも薬として伝来し、室町時代には菓子にも使われたが、輸入量が大きく増加するのは江戸時代である<ref name="食物史"/>。18世紀前後になると輸入された砂糖が菓子に広く使われるようになり<ref name="江戸砂糖">八百啓介「[https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html 江戸時代の砂糖食文化]」農畜産業振興機構、2011年4月</ref>、次第に調味料となっていった。砂糖・塩・酢・醤油・味噌で「[[さしすせそ (調味料)|さしすせそ]]」とする近代の語呂合わせがある。
[[薬味]]には、[[ワサビ]]・[[ショウガ|生姜]]・[[トウガラシ|唐辛子]]・[[山椒]]・[[ネギ]]・[[シソ]]などがある。
=== 明治以降に普及した調味料など ===
* [[コショウ|胡椒]]、[[ウスターソース]]、[[マヨネーズ]]、[[マーガリン]]、[[カレー粉]]、[[和風ドレッシング]]
=== 旬・季節感・自然の表現 ===
<gallery>
ファイル:The seven herbs.jpg|[[新年]]の[[七草]]
ファイル:Bamboo sprouts in basket.jpg|[[春]]の[[タケノコ]]
ファイル:Ayu (8363435035).jpg|[[夏]]の[[アユ]]
ファイル:Matsutake.jpg|[[秋]]の[[マツタケ]]
ファイル:Fugu.Tsukiji.CR.jpg|[[冬]]の[[フグ]]
</gallery>
{{Main|旬}}
季節感が重視される。旬の食品は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなるため、味を楽しむ好機と考えられている。[[七草がゆ]]のように、野草特有の自然なあく強さや苦味も味わう。また[[カツオ#文化|初鰹]]のような季節を先取りする「走り」、[[アユ#食材|落ち鮎]]のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、同じ食品でも走り、旬、名残と3度の季節感が楽しまれる。
季節の表現は[[食材の切り方一覧|切り方]]や色でも表現される。春は淡い[[ウド]]などを[[サクラ]]の花びらに見立てて切る。夏は青みの[[シロウリ]]や[[キュウリ]]を雷や蛇腹に切る。秋は鮮やかな[[ニンジン]]などを[[モミジ]]や[[イチョウ]]の葉に切る。冬や新年は[[ユズ]]を[[マツ|松葉]]に切ったり、ニンジンを[[ウメ|梅の花]]に切ったり、[[ダイコン]]とニンジンで紅白を表現したりする<ref name="haru">『四季日本の料理 春』講談社、1998年。ISBN 4-06-267451-3</ref><ref name="aki">『四季日本の料理 秋』講談社、1998年。ISBN 4-06-267453-X</ref><ref name="natsu">『四季日本の料理 夏』講談社、1998年。ISBN 4-06-267452-1</ref><ref name="fuyu">『四季日本の料理 冬』講談社、1998年。ISBN 4-06-267454-8</ref>。
また山水盛りや吹き寄せ盛りのように、自然そのものを表した盛りつけもなされる<ref name="haru"/><ref name="aki"/>。
=== 割主烹従 ===
調理場を「[[板場]]」、料理人や料理長を「[[板前]]」<ref name="kojien"/>と[[まな板]]と関連づけて呼び、切ること自体を煮炊きから独立した調理のひとつとしている。「切る」ことを重視する姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが主で、「烹る(火を使う)」ことが従とされ<ref name=tsuji20060720>{{Cite web|和書|author=|date=2006-7-20 |url=http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/j_food/ichinensei/taiorosu.html |title=4時間目 鯛をおろす |work=日本料理一年生 |publisher=[[辻調グループ校]] |accessdate=2013-11-10}}</ref>、食品そのものの味を重視することにつながる。また「割主烹従」から「[[割烹]]」という言葉も生まれ、日本料理そのものやそれを提供する店を表す<ref name="kojien"/>。
=== 椀刺(椀差) ===
日本料理の椀物([[吸物]])と[[刺身]]は、合わせて「椀刺」や「椀差」と呼ばれ、重視される<ref>阿部孤柳「第二章 さしみは日本料理のメインディッシュ」『日本料理の真髄』講談社+α新書、2006年、53-81頁。ISBN 978-4062723923</ref><ref>[[特定非営利活動法人]][[四条流庖丁道|四條司家]]食文化協会監修 [http://syokubunken.jp/texts.html 通信教育講座用 公式テキスト 「第1回 日本料理とは 第3項 日本料理の特色 1 椀差」], [[日本食文化検定]]協会, accessdate=20110127.</ref><ref>『粋』第80回 [http://www.home-tv.co.jp/j_station/2010/07/post_1052.html 半べえ 料理長 川村 満(かわむら みつる)さん], [[広島ホームテレビ]], 2010年07月29日.</ref><ref>國府田宏行 [http://www.kikusui-sake.com/home/syudo_8.html 酒道第八話 酒席の礼『刺身は淡白のものから』], [[菊水酒造 (新潟県)|菊水酒造株式会社]], accessdate=20110127.</ref><ref>別冊専門料理 [http://www.shibatashoten.co.jp/detail.php?bid=08075400 『日本料理の四季』 第41号 【特集】献立の華、椀ものと刺身の技術], [[柴田書店]], 2010. ISBN 978-4-388-80754-3</ref>。その味によって腕前を確かめられるともされる<ref name=tsuji20060720 />。
=== 献立とメニュー ===
[[ファイル:Wajimanurie.JPG|thumb|right|[[膳]]と[[食器]]]]
日本料理の[[献立]]やメニューは、[[米]]を中心とした[[穀物]]に[[生理的熱量]]や[[栄養]]を依存するものであった。穀物は[[飯]]などに料理されて食事の主たる[[主食]]として扱われる。主食に対する副食の[[惣菜]]は、飯を食べるための食欲刺激として用いられ、[[御飯の友]]などという概念もある。また飯の代わりに米による[[日本酒]]伴う[[宴会]]などでは、惣菜がそのまま[[肴]](さかな)としても用いられる。飯と[[汁物]]に[[惣菜]]からなる、[[一汁一菜]]や[[一汁三菜]]など複数の料理から成ることが多い。<ref name="nihondaihyakka"/><ref name="世界大百科"/>伝統的に左を上位とする風習があるため、主たる飯を左側に置いたり、魚の頭を左向きに置いたりして配膳することが多い。日常の食事などでは、これらの料理は一度にまとめて配膳されることが多いが、[[懐石|懐石料理]]などでは、一品(あるいは一膳)ずつ順番に配膳される。
=== 食器 ===
食器は、[[漆器]]、[[陶磁器|陶器]]、[[陶磁器|磁器]]など。家庭では、ご飯茶碗・箸は、各人専用のもの([[属人器]])を用いる習慣がある。暖かい時期には、薄手で浅めの[[磁器]]を主に、暑くなると[[ガラス]]の器なども使われる。涼しい時期には、厚めで深手の[[陶器]]を主に、寒くなると蓋つきの器なども使われる。また[[漆器]]では、[[蒔絵]]や[[沈金]]などの絵柄で季節を表現することがある<ref name="haru"/><ref name="aki"/><ref name="natsu"/><ref name="fuyu"/>。
=== 提供場所 ===
日本料理は各家庭のほかに、[[蕎麦|蕎麦屋]]や[[寿司|寿司屋]]などの専門店、[[居酒屋]]や[[料亭]]や[[割烹]]、また[[待合]]や[[お茶屋]]、[[リゾート|行楽地]]、さらに現代では[[宇宙食]]など、さまざまな場所で食事ができる<ref name=natsu />。
=== 宗教 ===
[[大乗仏教]]では肉を食べることおよび一部のネギ属の植物が忌避されており([[禁葷食]])、この戒律を守るため[[精進料理]]がある。江戸時代まで、仏教の考え方から獣肉食は一部の地域を除いて一般的ではなかったが、[[明治|明治時代]]以降に獣肉食は国内で広く広がった。現在の日本料理は精進料理を除いて[[食のタブー]]は弱いと思われるが、[[羊肉]]や[[アヒル|アヒル肉]]など普及の問題であまり一般的ではない肉がある。
== 歴史 ==
=== 旧石器時代 ===
[[File:JapanesePaleolithic HeatedGravelsGroup.jpg|thumb|日本の旧石器時代に調理に用いられたとされる礫群]]
[[群馬県]]の[[岩宿遺跡]]で[[更新世]]の[[ローム (土壌)|ローム層]]から[[旧石器時代]]の[[石器]]が発見された。[[岩手県]]の[[花泉遺跡]]では約2万年前の[[ハナイズミモリウシ]]、[[オーロックス]]、[[ヤベオオツノジカ]]、[[ヘラジカ]]、ナツメジカ、[[ナウマンゾウ]]、[[ノウサギ属|ノウサギ]]などの[[化石]]が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は[[石器]]で[[切る]]などした解体痕がある。また[[研磨]]して先端を尖らせた[[骨角器]]と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は[[狩猟]]による動物を解体し[[食肉]]を得たキルサイトと考えられている。また[[長野県]]の[[野尻湖]]湖底に位置する[[立が鼻遺跡]]も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。[[東京都]]の野川遺跡などからは[[礫群]]や[[配石]](置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から100個ほど1か所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は[[食肉]]を[[焼き物 (料理)|焼く]]のに用いたと考えられている。また[[木器]]や[[樹皮]]などによる[[容器]]に水や食品とともに礫群の焼け石を入れ[[煮物|煮る]]のに用いたとも考えられている。当時の[[日本列島]]は大部分が[[亜寒帯]]性の[[針葉樹林]]が広がっており、[[植物]]性の食品は乏しく[[漁撈]]も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型[[哺乳類]]を主とした[[狩猟]]に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの[[動物]]は[[フグ]]などの[[毒]]のあるものが少なく、[[もつ|内臓]]や[[食肉|筋肉]]、[[皮膚]]や[[脂肪]]や[[血液]]、[[骨髄]]や[[脳|脳髄]]など、[[骨]]や[[毛 (動物)|毛]]などを除けば、大部分が可食部である。[[寄生虫]]や[[微生物]]など[[病原体]]の問題もあるが、[[生]]でも食べることができる。[[レバー (食材)|レバ刺し]]や[[膾]]、[[カルパッチョ]]や[[ユッケ]]や[[タルタルステーキ]]のような料理や、[[火]]が使える状況であれば礫石などを利用して、[[鉄板焼き|石焼]]や[[バーベキュー|蒸し焼き]]などの[[焼肉]]のような料理が考えられている。また[[さいぼし]]や[[ジャーキー]]などのように[[乾物|干肉]]にして[[保存食]]にしたとも考えられている<ref name="syokubunkashi">[[石毛直道]]『日本の食文化史』[[岩波書店]] ISBN 978-4-00-061088-9</ref><ref name="nihonshi_tanjou">[[佐々木高明]]『日本の歴史1 日本史誕生』[[集英社]] ISBN 4-08-195001-6</ref><ref name="hito_doubutsu">[[西本豊弘]]編『人と動物の日本史1 動物の考古学』[[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-06275-6</ref><ref name="kyusekki">[[竹岡俊樹]]『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』[[講談社]] ISBN 978-4-06-258496-8</ref><ref name="shokunobunka_jinrui">『講座 食の文化 人類の食文化』 [[味の素食の文化センター]] ISBN 4-540-98052-1</ref>。
=== 縄文時代 ===
[[File:JapaneseJomonPottery SprayStyle.jpg|thumb|日本の縄文時代に用いられた水煙土器]]
約1万年前に地球規模の気候変動で[[最終氷期|氷期]]から間氷期に変わり[[完新世]]が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は[[北海道]]や[[亜高山帯針葉樹林|高山帯]]に限られ、[[本州]]の東側に[[ブナ]]や[[ナラ]]、[[クリ]]や[[クルミ]]などの[[落葉広葉樹林]]が、本州の西側と[[四国]]、[[九州]]、[[南西諸島]]には[[カシ]]や[[シイ]]、[[クスノキ]]などの[[照葉樹林]]が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなどの大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、[[ニホンジカ]]や[[イノシシ]]など中小哺乳類が増える。また、海面の上昇にともない[[対馬海流]]の流量も増え、[[日本海]]側も[[太平洋]]側とともに[[海流|暖流]]と[[海流|寒流]]の交わる良[[漁場]]となる。このような[[風土]]の変化にともない[[縄文時代]]が始まり、[[磨製石器]]とともに[[縄文土器]]が用いられる。世界的には[[中石器時代]]あるいは[[新石器時代]]に相当するが、[[農耕]]や[[牧畜]]は普及せず、採集に加えて[[狩猟]]や[[漁撈]]を主とする生活である<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="hito_doubutsu"/><ref name="nihon_nougyou">[[木村茂光]]編『日本農業史』[[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-08046-0</ref>。
土器を用いて[[煮物|煮る]]ことが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。[[クルミ]]、[[ドングリ]]、[[クリ]]、[[トチノキ|トチ]]などの[[種実類|堅果類]]を[[竪穴建物]]の近くに穴を掘り[[備蓄]]したものが多く出土している。クルミは[[脂質]]を多く含み[[生]]でも食べられるが、クリやドングリやトチは[[デンプン]]を多く含み、生のベータデンプンは[[消化]]されにくいため、[[水]]と[[熱]]とで[[結晶構造]]を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリは[[タンニン]]を含む種類が多く、[[石皿]]と[[磨石]]で潰したり粉にし、水に晒したり[[茹で物|茹で]]たりして[[灰汁]]抜きをした。トチは非水溶性の[[サポニン]]やアロインを含み、[[灰]]を加えて煮ることで灰汁抜きをした。また[[クズ]]や[[ワラビ]]、[[ヤマノイモ]]や[[ウバユリ]]、[[ヒガンバナ]]など野生の[[芋]]類も、[[アルカロイド]]などの[[毒]]を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の[[遺物]]による調査と、[[遺骨]][[コラーゲン]]の[[同位体]]比による調査から、これら植物性のデンプンから[[生理的熱量|熱量]]の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのにともない、従来の[[食肉]]や[[レバー (食材)|レバー]]や[[血液]]などから摂取していた塩の必要性が生じ、[[海水]]を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の[[香辛料]]である[[サンショウ]]を入れた土器も発見されている。また栽培作物である[[ソバ]]や[[オオムギ]]や[[アワ]]、[[エゴマ]]や[[リョクトウ]]や[[ヒョウタン]]などが、少ないながら出土している<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="shokunobunka_jinrui"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
[[狩猟]]による[[食肉]]は大半が[[イノシシ]]と[[ニホンジカ]]によるもので、その他[[カモシカ]]や[[エゾヒグマ]]や[[ツキノワグマ]]、[[タヌキ]]や[[アナグマ]]などさまざまである。また[[キジ]]や[[カモ]]、[[雁|ガン]]などの[[鳥類]]も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した[[弓矢]]によるものを主とし、[[罠]]や[[落とし穴]]なども用いた。また[[イヌ]]は[[飼育]]されており、[[猟犬]]として用いたと考えられている。北海道では[[アザラシ]]や[[トド]]、[[オットセイ]]などの[[海獣]]などを対象とし、[[銛|回転式離頭銛]]が用いられた。イノシシは[[伊豆諸島]]や北海道から遺物が発見されており、移動や[[飼育]]、動物[[儀礼]]などについて議論されている<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="hito_doubutsu"/>。
[[漁撈]]による[[魚介類]]は、[[貝塚]]を主に形成する[[ハマグリ]]や[[アサリ]]、[[カキ (貝)|カキ]]や[[シジミ]]などの[[二枚貝]]が多い。内湾性の[[スズキ (魚)|スズキ]]や[[ボラ]]、[[クロダイ]]や[[コチ]]などを対象とし、[[骨角器]]による[[銛|ヤス]]や[[石錘]]を利用した[[漁網]]も用いた。また[[イワシ]]や[[サバ]]など小魚を対象とし、漁網によるものもある。[[東北地方]]の[[三陸]]沿岸では外洋性の[[マグロ]]や[[カジキ]]を対象とし、骨角器による[[釣り針]]や、回転式離頭銛を用いた。[[九州]]北西部でも外洋性のマグロや[[サワラ]]、[[シイラ]]や[[サメ]]を対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸[[川|河川]]での[[サケ]]や[[マス]]も、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="hito_doubutsu"/>。
料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いた[[ビスケット]]や[[クッキー]]のような[[縄文クッキー]]が出土している。また土器の利用により、デンプンを[[団子]]状にして煮た[[すいとん]]のようなものや、水で溶いて煮て[[粥]]状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、[[汁物]]や[[吸い物|吸物]]のような[[スープ|羹]]や、[[鍋料理]]のようなものが考えられている<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="shokunobunka_jinrui"/><ref name="shokunobunka_nihon">『講座 食の文化 日本の食事文化』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4540980882</ref>。
採集や狩猟や漁撈は[[自然]]によるもので、[[四季]]のある日本列島では[[季節]]性が表れる。[[宮城県]]の[[里浜貝塚]]における調査では、春には[[アサリ]]や木の芽や若草などの[[山菜]]を採集し、夏にはマグロや[[アジ]]や[[サンマ]]などの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく[[人口密度]]なども含めた[[生態学]]的条件でも異なり、さらに北海道[[礼文島]]の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の[[歴史]]的や[[社会]]的な[[文化 (代表的なトピック)|文化]]にもより異なる。[[沖縄諸島]]や[[奄美諸島]]ではこの時代を[[沖縄貝塚時代|貝塚時代]]の前期とも呼び、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県[[波照間島]]の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土しており、このころ[[先島諸島]]では漁撈とともにイモや[[アワ]]の[[畑|畑作]][[農耕]]やイノシシの[[飼育]]が行われていたと考えられている。この文化は、九州や[[沖縄本島]]などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、[[台湾]]や[[中国大陸]][[江南]]の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な[[食文化]]を伴う縄文時代は、さまざまな定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から[[沖縄県]]まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、[[紀元前]]900年から紀元前400年のまで続いたとされる<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="hito_doubutsu"/>。
=== 弥生時代 ===
[[File:Toro site 1.JPG|thumb|日本の弥生時代の遺跡に水田を復元したもの([[登呂遺跡]])]]
{{seealso|イネ}}
{{seealso|稲作}}
[[稲作]]と栽培種[[イネ]]は、[[アフリカ]]の[[ニジェール川]]周辺に起源する[[アフリカイネ]]と、[[アジア]]に起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。[[中国大陸]]の[[長江]]流域では、紀元前1万年ごろのイネの資料の発見、紀元前6000年ごろの[[湖南省]][[彭頭山文化|彭頭山遺跡]]から[[籾|籾殻]]の混じった土器の発見、紀元前5000年ごろの[[浙江省]][[河姆渡文化|河姆渡遺跡]]が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、[[鋤]]や[[臼]]と[[杵]]なども伴うほぼ完成された[[田|水田]]稲作が行われた。紀元前3000年ごろの浙江省銭山漾遺跡などの[[良渚文化]]に続き、紀元前1000年ごろの江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。また[[黄河]]流域では、紀元前1万年ごろに[[アワ]]や[[キビ]]の利用があり、紀元前6000年ごろに中流域でアワと[[農具]]が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年ごろに長江流域からのイネと[[西アジア]]からの[[ムギ]]が伝来し、紀元前2000年ごろに[[豆|マメ]]の栽培で[[五穀]]が揃うことになる<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
[[朝鮮半島]]では紀元前4000年ごろの[[黄海北道]]知塔里遺跡から炭化したアワもしくは[[ヒエ]]の粒の発見、紀元前2000年ごろの[[京畿道]]欣岩里遺跡から[[陸稲]]と思われる粒が[[オオムギ]]やアワなど[[畑]]作物とともに発見、紀元前8世紀ごろには[[忠清南道]]松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7世紀から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
中国大陸東北部と[[ロシア]]東部では、紀元前1000年ごろの[[アムール州]]や[[黒竜江省]]の[[アムール川]]沿いや[[沿海地方]]では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの[[栽培]]と[[ブタ]]を[[飼育]]する[[農耕]]が行われた<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡から[[ヒエ]]類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡から[[オオムギ]]とアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する[[穀物]]類は、[[沿海地方]]などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、稲や大麦、小麦、アワ、ヒエ、キビなどが発見され、[[福岡県]]のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の[[板付遺跡]]や佐賀県の[[菜畑遺跡]]などで、[[用水路]]や[[畦]]が整備された縄文[[田|水田]]が、木製の[[鍬]]や[[石包丁]]などの[[農具]]を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではない。紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化前期の完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは[[東シナ海]]から直接に、九州北部に[[移民]]とともに伝わったと考えられている<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に[[近畿地方]]まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受容しやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に不適であったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の[[青森県]]まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた[[鉄]]製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた[[弥生土器]]を伴い、[[弥生時代]]と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年ごろに始まり紀元後400年ごろまで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、[[続縄文時代]]と呼ばれ紀元1000年ごろまで続いた。また沖縄など南西諸島では、[[沖縄貝塚時代|貝塚時代]]の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年ごろまで続いた<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
弥生時代の日本列島の様子は、[[漢書]]地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。『[[魏志]]』[[倭人伝]]では紀元後239年に複数の首長国がある中[[卑弥呼]]の統治した[[邪馬台国]]が[[魏 (三国)|魏]]に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ない[[インディカ米|インディカ種]]と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多い[[ジャポニカ米|ジャポニカ種]]とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。またインディカ種とジャパニカ種とともに、[[デンプン]]のひとつである[[アミロース]]の含有量で、[[もち米|糯(もち)]]と[[米|粳(うるち)]]とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯や[[餅]]が登場しないこと、糯という字が[[奈良時代]]の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であることなどから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や[[東南アジア]]から糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihon_nougyou"/><ref name="mochi">[[渡部忠世]]、深澤小百合『もち(糯・餅)ものと人間の文化史89』法政大学出版局 1998 ISBN 4-588-20891-8</ref>。
水田稲作が普及しても農耕のみを基盤としたわけではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。また[[プラント・オパール]]の調査から、全面的に稲を長期にわたって栽培したわけではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも[[雑穀]]などと呼ばれる[[アワ]]や[[ヒエ]]、[[キビ]]そして麦などの[[穀物]]や、豆や[[ソバ]]などの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類は稲を超えて多く出土する。猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす[[防除|害獣駆除]]の側面もあったと考えられている。また鹿に対する猪の割合が増え、[[頭蓋骨]]の変化から猪が[[家畜]]化され[[ブタ|豚]]となったものも含まれていると考えられている。豚に加えて[[ウシ|牛]]や[[ウマ|馬]]、[[ニワトリ|鶏]]が持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象ではなかった。[[イヌ]]は猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。豚や牛、馬などの飼育は、農耕の傍らの小規模なもので[[乳]]の利用などを目的としたものではなく[[牧畜]]ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などで[[コイ]]や[[フナ]]、[[ナマズ]]や[[ドジョウ]]、[[タニシ]]などを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や[[蛸壺]]漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている<ref name="syokubunkashi"/><ref name="nihonshi_tanjou"/><ref name="hito_doubutsu"/><ref name="nihon_nougyou"/>。
料理は米などの穀物を炊いた飯がある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒がついたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は[[臼]]と[[杵|竪杵]]による精米で、現在販売されている[[籾殻]]を外し[[果皮]]に覆われた[[玄米]]とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を[[唾液]]により糖化した口噛み酒や[[麹]]を利用したりして[[酒]]を醸造した。フナなどで[[塩辛]]や[[魚醤]]や[[なれずし]]なども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、[[食器]]の形状のものも出土する<ref name="syokubunkashi"/><ref name="hito_doubutsu"/><ref name="nihon_nougyou"/><ref name="shokunobunka_nihon"/>。
遺跡からはドングリがもっとも多く出土するが、農耕が普及し米や粟を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜を副食にするという日本食の基本ができあがってきた<ref name="日本食の伝統文化">{{Cite book|和書|author=橋本直樹|title=日本食の伝統文化とは何か―明日の日本食を語るために (生活文化史選書)|publisher=雄山閣|date=2013|isbn=978-4639022923|pages=10-15,49-50}}</ref>。家畜として導入された豚を食べることは忌避され、鶏も時告鳥(ときつげどり)として別格にあり、卵すら食用にしなかった<ref name="原田信男 2014 7-13、33、48">{{Cite book|和書|author=原田信男|title=和食とはなにか 旨みの文化をさぐる |series=角川ソフィア文庫|publisher=KADOKAWA/角川学芸出版|date=2014|isbn=978-4044094638|pages=7-13,33,48}}</ref>。次第に食事は、神事の[[御饌]](しんせん/みけ)として供えられ、神事の後に直会(なおらい)にて神主や村人が一緒に食べ、神人供食の文化が起こった<ref name="角川和食とは"/>。
=== 古墳時代 ===
3世紀に[[奈良県]][[纒向遺跡]]に登場した巨大な王墓[[前方後円墳]]などの[[古墳]]は、各地に広がり[[古墳時代]]と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型[[鋤]]先や曲刃[[鎌]]、6世紀後半に登場し[[代掻き]]に用いる[[鋤|馬鋤]]や7世紀に登場し[[耕起]]に用いる[[プラウ|犂]]による[[ウシ|牛]][[ウマ|馬]]の利用、7世紀初頭の[[大阪府]][[狭山池 (大阪府)|狭山池]]など[[ため池]]の築造や長大な[[堤防]]による[[川|河川]]の制御、7世紀後半の[[条里制]]の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた[[埴輪]]には、鹿や猪、犬などの狩猟を描いたもの、馬や鶏を形取ったものなど、支配者による狩猟や[[乗馬]]があった。朝鮮半島から伝わった[[須恵器]]には[[甑]]が多数発見されることから、米を[[蒸す|蒸し]]て[[おこわ]]にしていたと考えられている。また従来の[[炉]]に変わって[[竈]]が住居に設けられる<ref name="syokubunkashi"/><ref name="hito_doubutsu" /><ref name="nihon_nougyou" /><ref name="kouza3">{{Cite book|和書|author=石毛直道、杉田浩一|title=調理とたべもの (講座食の文化;第3巻)|publisher=味の素食の文化センター|date=1999|isbn= 4-540-98218-4|page=}}</ref>。
=== 飛鳥時代・奈良時代・平安時代 ===
『[[古事記]]』には豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、稲穂が実る国と記され、720年の『[[日本書紀]]』では[[保食神|ウケモチ]]のお腹から稲が生まれたという神話が書かれている<ref>{{Cite book|和書|author=秋場龍一|title=天皇家の食卓―和食が育てた日本人の心 |series=角川ソフィア文庫 |publisher=角川書店|date=2000|isbn=4043550014|pages=88-89,108-109}}</ref>。平安時代末期には強飯に代わり、現代の炊飯されたご飯と同じような姫飯(ひめいい)も食されるが普及はもっと後である<ref name="日本食の伝統文化"/>。
『日本書紀』に料理の記述がある。[[主食]]と[[惣菜|副食]]による食事構成が定着し、[[米]]や[[麦]]・[[アワ]]などを[[おこわ]]や飯、[[粥]]にして食べていた。副食に用いる食品は、野菜・海藻・魚介類が用いられた。[[食肉|獣肉]]等は[[天武天皇]]の675年に、牛・馬・犬・[[サル|猿]]・鶏の殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。また猪と鹿は殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物・[[焼き物 (料理)|焼物]]・[[煮る|煮物]]に加えて、[[茹でる|茹物]]・[[羹]]・[[和え物]]・炒り物などがある。加工法としては[[干物]]・[[塩辛]]・[[漬物]]・[[寿司]]などがあった。[[遣唐使]]による[[唐]]の影響から、料理も影響を受ける。[[大饗]](だいきょう/おおあえ)では、飯に[[膾]]や干物に加えて、干物や[[揚げる|揚げ物]]を含む[[唐菓子]]、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。[[箸]]とともに匙も使われた。調味は食べる際に塩や酢・[[醤]](ひしお)・酒で味をつけた<ref name="kouza3"/>。
=== 鎌倉時代 ===
[[鎌倉時代]]には、武士の支持を受けた[[禅宗]]とともに[[精進料理]]が伝わり、煮染や酒煎など調味の技法が発達する。[[茶]]に加えて、[[豆腐]]、[[金山寺味噌]]など食品加工技術が伝わった。寺院の[[点心]]から[[うどん]]や[[まんじゅう|饅頭]]、[[羊羹]]などが民間に広まった<ref name="kouza3"/>。
=== 室町時代 ===
[[File:Houchounin in 71 shokunin utaawase.png|thumb|right|[[室町時代]]の[[料理人]]]]
[[File:Kanō Osanobu 71 utaiawase.jpg|thumb|right|[[室町時代]]の「一服一銭」での[[抹茶]]]]
現代の炊飯ご飯と同じような、姫飯(ひめいい)が広く普及する<ref name="日本食の伝統文化"/>。
[[大饗料理]]から派生した[[本膳料理]]が確立した。のちの懐石料理や会席料理にも影響を与えており、出汁と合わせて日本料理の基礎が確立されたと評する論もある<ref>『[http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html 日本食の歴史]』農林水産省、2016年5月14日閲覧</ref>。[[醤油]]が作られ用いられた<ref name="kouza3"/>。鰹や昆布を使い、火を使った焼き物、煮物、汁物がたくさん出されるようになり、武家特有の料理が整い日本料理が誕生する<ref name="食物史">{{Cite book|和書|author1=江原絢子|authorlink1=江原絢子|author2=石川尚子|author3=東四柳祥子|authorlink3=東四柳祥子|title=日本食物史|publisher=吉川弘文館|date=2009|isbn=978-4642080231|pages=91-93,110-111}}</ref>。
[[室町時代]]に[[料理書]]『[[四条流包丁書]]』や『[[大草流庖丁道|大草家料理書]]』が書かれたとされる。[[精進料理]]が発達し、[[出汁]]の概念が生まれた。[[安土桃山時代]]に来日した[[ジョアン・ロドリゲス]]は著書『日本教会史』の中で「能」(実践的な教養)として「弓術・蹴鞠・[[庖丁式|庖丁]]」を挙げている。
=== 安土桃山時代 ===
[[懐石料理]]が成立する。[[茶道|茶の湯]]の発達に伴うものであり、[[千利休]]の影響が大きい。[[南蛮]]船により[[天ぷら|てんぷら]]や[[がんもどき]]などの南蛮料理や、[[南蛮菓子]]([[カステラ]]や[[コンペイトウ]]など)が伝わった<ref name="kouza3"/>。唐辛子の伝来もこのころである。
=== 江戸時代 ===
[[File:Nihonbashi-Fish-Market-Prosperity-Ukiyoe-Utagawa-Kuniyasu.png|thumb|right|300px|日本橋魚市繁栄図([[江戸時代]])]]
日本の料理文化の基本的な形は、古代から中世にかけての貴族が伝えてきた魚・鳥を軸とした料理に、寺院で発達した精進料理が結びつき、それに武家上層の食事様式の影響を受け、室町時代から江戸初期にかけて成立し、江戸後期に成熟した<ref name=nobi>『食肉の部落史』のびしょうじ、明石書店、1998年、p21</ref>。その特徴は、個人膳であること、皿数が多いのをご馳走とすることから少量ずつを配膳すること(何汁何菜)、片付け食いではなく選んで食べること(残すことが当然)、獣肉が極端に少ない、酒席膳を第一とするなどがある<ref name=nobi/>。
==== 関東の料理 ====
[[江戸料理]]と呼ばれる<ref name="cl12">高橋達郎「[http://cleanup.jp/life/edo/12.shtml 第12回 江戸っ子は、毎日旬のものを食べていた]」クリナップ</ref>地元の材料を使用した料理が発展した<ref>『江戸料理百選』1983年。</ref>。
『絵本江戸風俗往来<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767856 国立国会図書館デジタルコレクション『江戸府内絵本風俗往来. 上編]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857 中編(2コマ~)、下編(86コマ~)]』[[歌川広重 (4代目)|菊池貴一郎(蘆乃葉散人)]]著 [[吾妻健三郎|東陽堂(東陽堂支店)]] [[明治]]38年(1905年)12月25日発行</ref>』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857/78 国立国会図書館デジタルコレクション『江戸府内絵本風俗往来. 中編』巻之七、十二月「焼いも」] 菊池貴一郎(蘆乃葉散人、四代目歌川広重)著 東陽堂(東陽堂支店) 明治38年(1905年)12月25日発行</ref>」と焼き芋屋が大人気<ref group="注">[[川柳]]:''花嫁の閑談さつま芋のこと''</ref>であった。初ガツオ・初[[ナス]]など縁起を担ぐこともあった<ref name="cl12" />。ダシは鰹節を使い、醤油は濃口醤油<ref name="ki9">[https://web.archive.org/web/20021016080918/http://www.kikkoman.co.jp/magazine/talk/no09/talk/index.html 裏話 色が濃いほどにうま味成分は多くなる](2002年10月16日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - キッコーマン</ref>が使われた。コショウなど[[香辛料]]も利用され<ref name="edrh">『江戸時代の料理書』に見る私たちの食卓</ref>、[[芳飯]]も鶏飯なども取り入れられ<ref name="edrh" />、おじや、ねぎぞうすい<ref>『[[守貞漫稿]]』</ref>も食べられるようになった。
外食産業も栄えていた。文化8年(1811年)に江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、[[煮売屋|煮売]]居酒屋(1,808軒)、団子汁粉(1,680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1,186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、[[蒲焼]]屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)という記録が残っている。煮売り屋は惣菜の持ち帰りすなわちの[[中食]]の役割も担っていた。
==== 関西の料理 ====
{{See also|京料理}}
[[京都]]、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。[[北前船]]で北海道産の昆布が輸送された。[[瀬戸内]]の魚介類や近郊の野菜に加えて、全国の産物も集められたため「諸国之台所」と評された。
==== その他 ====
それまで[[公家]]や[[武家]]などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡った。『[[料理切形秘伝抄]]』や『[[料理物語]]』などさまざまな料理本が出版された。本格的な外食産業に関しては江戸時代初期には寺院が金銭を受取り料理を提供していたが江戸中期にかけて料理[[茶屋]]・料理屋が市中に数多く出現した<ref>[http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html 農林水産省/日本食の歴史 2017年6月1日 閲覧]</ref>。
江戸後期には[[会席料理]]が登場する。本膳料理を簡略化し、酒の席で楽しむ料理として成り立った。
=== 明治時代以降 ===
<!---[[ファイル:Brainsed pork and potatoes (3089327692).jpg|サムネイル|肉じゃが]]--->
[[ファイル:Cookingsukiyaki.jpg|サムネイル|[[すき焼き]]]]
[[明治]]には、[[肉食]]が公に解禁され、江戸期には細々と食べられていた[[すき焼き|牛鍋]]などが流行した。
[[柳田國男]]は『明治大正史 世相篇』の中で「明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである」という<ref>柳田國男『明治大正史 世相篇』新装版、[[講談社学術文庫]]、1993年、63頁。</ref>。
明治には海外と交渉のある階層を中心に[[西洋料理]]が食べられるようになった。各地の西洋料理店([[洋食]]店)では、西洋料理のほかに、日本人の手で日本風に作り変えた料理が生み出された。家庭では銘々膳の風習にかわり、[[ちゃぶ台]]が使われるようになった。
[[第二次世界大戦]]後で物資不足の中、[[アメリカ合衆国]]からの食糧援助([[ララ物資]])として[[小麦粉]]が大量に輸入され、安価に大量供給された小麦粉により、[[お好み焼き]]など小麦の粉食による[[鉄板焼き]]料理も発達した。
現在の日本料理は、[[寿司]]の一種である[[カリフォルニアロール]]のように、[[世界]]で発展するものもある。日本でも刺身や寿司に[[真空調理法]]や低温調理法を取り入れたり、食肉の応用で大型の魚類である[[マグロ]]や[[ブリ]]などを対象に[[乾燥熟成肉|熟成]]させて用いるなど、世界や歴史、科学などの知見などを取り入れて発展しているものもある<ref name="sashimi_hyakka"/>。
==== 無形文化遺産への登録 ====
2013年に[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された和食は<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/feature/CO064396/20230525-OYTAT50058/ <14>地域の食継承 支援加速/京料理 歴史触れ刺激に]</ref>、「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」である<ref name=nousui>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/index.html |title=日本食文化を、ユネスコ、無形文化遺産に。|publisher=農林水産省 |accessdate=2013-12-26}}</ref>。日本は「和食」を「[[いただきます]]」や「[[もったいない]]」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案<ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=http://www.maff.go.jp/j/study/syoku_vision/gaiyo2.html |title=「和食;日本人の伝統的な食文化」の内容 |work=|publisher=農林水産省 |accessdate=2013-11-24}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|author=|date=2013-10-22 |url=http://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/kihyo02/131022_1.html |title=「和食;日本人の伝統的な食文化」のユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(代表一覧表)」への記載に関する補助機関による勧告について |work=|publisher=農林水産省 |accessdate=2013-11-24}}</ref><ref name=maffpdf>{{Cite web|和書|author=日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会 |date=2012-2 |url=https://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/kihyo02/pdf/120217-01.pdf |title=日本食文化の無形文化遺産記載提案書の概要 |work=|publisher=農林水産省 |accessdate=2013-11-24}}</ref>、[[年末年始]]における[[餅#つき餅(搗き餅)|餅つき]]や[[御節料理]]、[[食育]]教育を中心にプレゼンテーションを行った<ref>{{Cite web |author=|date=|url=http://www.unesco.org/culture/ich/index.php?lg=en&pg=665#8.17 |title=Draft decision No.8.17. Washoku, traditional dietary cultures of the Japanese, notably for the celebration of New Year |work=Evaluation of nominations for inscription in 2013 on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity (item 8 on the agenda) |publisher=[[国際連合教育科学文化機関]] |language={{en icon}}{{fr icon}}|accessdate=2013-11-24}}</ref>。
== 分類 ==
=== 伝統形式と料理 ===
[[File:JapaneseBuddhistCuisineInSpring ShojinRyouri.jpg|thumb|禅寺での精進料理]]
[[File:Beginning to eat,okuisome,katori-city,japan.JPG|thumb|[[百日祝い]]の[[儀式]]における日本料理]]
伝統的な形式が現在に伝わる料理を挙げる。
*'''[[御節料理]]''' - [[節会]]や[[節句]]のための料理で、特に[[正月]]の料理<ref name="fuyu"/>。
*'''[[有職料理]]''' - 節会などの宴会における儀式料理<ref name=aki />。
*'''[[本膳料理]]''' - 脚つきの膳に一人分の料理をのせて、本膳、二の膳、三の膳などと組み合わせた料理<ref name=haru />。
*'''[[精進料理]]''' - 中国の寺院から伝わった、植物性の食品や調味料で作る料理<ref name=haru />。
*'''[[懐石料理]]''' - 茶の湯の食事で、お茶をおいしく飲むための料理<ref name=haru />。
*'''[[会席料理]]''' - 宴会や会食のためのコース料理<ref name=haru />。
*'''[[普茶料理]]''' - [[隠元隆琦|隠元]]が[[中国]]から伝えとされる[[精進料理]]<ref name=aki />。
*'''[[卓袱料理]]''' - [[長崎市|長崎]]の[[出島]]により発展した料理<ref name=aki />。
=== 行事と料理 ===
[[File:Japanese zoni and osechi.jpg|thumb|[[正月]]に食べる[[雑煮]]と[[御節料理]]]]
{{See also|ハレとケ}}
[[年中行事]]や[[冠婚葬祭]]など行事と結びついた日本料理も多い。[[餅]]や[[赤飯]]、[[団子]]や[[寿司]]など、季節や地域によらず広く共通するものもある。また色や姿形から[[鯛|タイ]]や[[エビ]]などもよく用いられる<ref name=aki />。
日常生活の[[汁物]]や[[惣菜]]においては、[[豆腐]]や[[麩]]、[[コンニャク]]や[[ワカメ]]など広く共通して用いられる<ref name="natsu"/><ref name="fuyu"/>。春の[[フキ]]味噌や[[ニシン]]、夏の[[麦飯]]や[[はったい粉]]、秋の[[芋茎]]や[[干し柿|干柿]]、冬の[[煮こごり]]や[[高野豆腐|凍豆腐]]、新年の[[鏡餅]]や初[[かまど|竈]]、[[餅花]]など、料理の[[季語]]もある<ref name="kojien"/><ref name="haiku">『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5</ref>。
[[かて飯]]や[[かてもの]]などの[[救荒食物]]がある<ref name="kojien"/>。
[[File:Nanakusa gayu on Nanakusa no sekku.jpg|thumb|right|220px|[[七草粥]]]]
*1月 - [[御節料理]]、[[雑煮]]、[[七草粥]]、[[小豆粥]]<ref name="kojien"/>
*2月 - 炒り[[ダイズ|大豆]]、[[イワシ]]<ref name=aki />
*3月 - [[草餅]]、[[ぼたもち]]<ref name="kojien"/><ref name=aki />
*4月 - [[団子]]、[[甘茶]]<ref name="kojien"/>
*5月 - [[ちまき]]、[[柏餅]]<ref name="kojien"/>
*6月 - [[炊き込みご飯|豆ごはん]]、[[味噌田楽]]、[[カツオ]]、[[アユ]]<ref name=haru /><ref name=natsu />
*7月 - [[素麺]]<ref name=aki />
*8月 - [[すいとん]]<ref>[http://www.city.kita.tokyo.jp/koho/kuse/koho/hodo/press-releases/h2708/150804.html 東京都北区]</ref>
* 9月 - [[団子]]、[[サトイモ]]、[[菊酒]]<ref name="kojien"/>
*10月 - [[団子]]、[[クリ]]、[[豆]]<ref name="kojien"/>
*11月 - [[千歳飴]]、[[サツマイモ]]<ref name="kojien"/>
*12月 - [[カボチャ]]、[[年越しそば]]<ref name=aki />
=== 郷土料理 ===
{{See also|日本の郷土料理}}
{{See also|en:Global cuisine}}
[[郷土料理]]は日本の地方で古くから食べられてきた料理である。[[アイヌ料理]]や[[沖縄料理]]や[[奄美料理]]、[[くさや]]や[[島寿司]]、[[皿鉢料理]]などもある。
特定の地域で[[太平洋戦争]]後に新たに食べられるようになったり、21世紀にかけて[[地域おこし]]を目的に開発されたりした[[ご当地グルメ]]もある。
=== 様々な一品料理 ===
[[File:Kenchinjiru soy sauce flavor 2009.JPG|thumb|right|[[けんちん汁]]]]
[[File:Obanzai yasai.JPG|thumb|right|[[芋]]の[[炊き合せ]]]]
[[File:Hourensougomaae001.jpg|thumb|right|[[ホウレンソウ]]の[[ゴマ]][[和える|和え]]]]
=== 主食 ===
* [[米]]−[[飯|白米]]、[[赤飯]]、[[おこわ]]、[[玄米]]、[[麦飯]]、[[粥]]、[[雑炊]]、[[おじや]]、[[茶漬け]]
* [[寿司]] - [[にぎり寿司]]、[[巻き寿司|巻寿司]]、[[江戸前寿司|生寿司]]、[[軍艦巻]]、[[ちらし寿司]]、[[稲荷寿司]] 、[[寿司|押し寿司]]、
* [[丼物]] - [[鰻丼]]、[[天丼]]、[[牛丼]]、[[豚丼]]、[[親子丼]]、[[海鮮丼]]、[[鉄火丼]]、[[しらす丼]]
* [[麺類]]-[[饂飩]]、[[蕎麦]]、[[素麺]]、[[冷麦]]
* [[練り物 (祭り)|練り物]]−[[餅]]、[[団子]]、[[饅頭]]、[[煎餅]]
* [[炊き込みご飯|炊込飯]]−[[栗飯]]、[[深川飯]]、[[鯛飯]]、[[五目飯]]、[[混ぜご飯]]
=== 汁物 ===
* [[汁物]]−[[味噌汁]]、[[粕汁]]、[[けんちん汁]]、[[潮汁]]、[[擂り流し]]、[[呉汁]]、[[お汁粉]]
* [[吸物]]−[[雑煮]]、[[すいとん]]
=== 主菜 ===
* [[刺身]]: - [[たたき]]、[[づけ]]、[[ルイベ]]、[[馬刺し]]、[[鶏刺し]]
* [[煮物]] - [[煮魚]]、[[煮しめ]]、[[甘露煮]]、[[佃煮]]、[[大和煮]]、[[風呂吹き]]、[[炊き合せ]]、[[若竹煮]]、[[昆布巻き]]
* [[鍋料理]] - [[おでん]]、[[寄せ鍋]]、[[ちり鍋]]
* [[揚げ物]]: - [[天ぷら]]、[[掻き揚げ]]、[[から揚げ]]、[[薩摩揚げ]]、[[油揚げ]]、[[がんもどき]]
* [[焼く (調理)|焼き物]] - [[焼き魚]]、[[照り焼き]]、[[焼き鳥]]、[[蒲焼]]、[[塩焼き]]、[[幽庵焼き]]、[[味噌田楽]]、[[奉書紙|奉書焼き]]
* [[炒め物]] - [[金平]]、[[チャンプルー]]、[[野菜炒め]]
=== 副菜 ===
* [[蒸し物]]−[[茶碗蒸し]]、[[玉子豆腐]]、[[飯蒸し]]
* [[練り物]]−[[魚肉練り製品]]、[[蒲鉾]]、[[竹輪]]、[[半片|はんぺん]]、[[つくね]]、[[がんもどき]]
* [[和える|和え物]]−[[おひたし]]、[[膾]]、[[ぬた]]、ワサビ和え、カラシ和え、[[胡麻和え]]、梅和え、白和え
* [[干し物]]−[[煮干し]]、[[梅干し]]、アジの開き
* [[漬物]]− [[沢庵漬け]]、[[梅干し]]、[[柴漬]]、[[味噌漬け]]、[[粕漬け]]、[[糠漬け]]、[[味噌漬け]]
* [[発酵食品]]−[[納豆]]
=== 飲物 ===
*[[酒]]−[[日本酒]]、[[焼酎]]、[[泡盛]]、[[梅酒]]、[[甘酒]]、[[トノト]]、[[味醂]]、[[本直し]]、[[白酒 (日本酒)|白酒]]
*[[茶]]−[[日本茶]]、[[緑茶]]、[[煎茶]]、[[玉露]]、[[玄米茶]]、[[かぶせ茶]]、[[番茶]]、[[ほうじ茶]]、[[抹茶]]、[[麦茶]]、[[甘茶]]
*その他−[[葛湯]]、[[桜湯]]、[[生姜湯]]、[[豆乳]]、[[白湯]]、[[水]]<gallery>
ファイル:Sake set.jpg|[[日本酒]]
ファイル:Wagashi closeup 09.jpg|[[和菓子]]
ファイル:Threekakifruit-cutopen.jpg|水菓子の[[カキノキ|柿]]
ファイル:Tea time お茶の時間.jpg|[[日本茶]]
</gallery>
=== 外国で変化した日本料理 ===
[[image:Flamingonionvolcano1.jpg|thumb|right|200px|''Hibachi''での玉ねぎ火山]]
*'''[[寿司]]''' - [[カリフォルニアロール]]、スパイダーロール、スパイシーツナロールなど、果物や日本では使わない食品、調理法で構成された新しい寿司。酢飯が使われない例も多い。
*'''[[照り焼き]]''' - 多くの場合、焼き方の一種のことではなく、醤油味を基本とした「テリヤキソースを使った付け焼きグリル料理」のことをテリヤキと称する。
*'''[[魚肉練り製品]]''' - Surimi([[すり身]])の名称で、[[カニカマ]]を中心にして欧米の消費量が急上昇している。
*'''[[鉄板焼き]]''' - 「焼きごて捌き」や「玉ねぎ火山」といった調理人の演出要素がふんだんに盛り込まれた鉄板焼き。
*'''[[味噌汁]]''' - チーズやカリフラワー、レモンの輪切りといった日本ではあまり使用されない食品で構成された新しい味噌汁が生まれている。
== 海外からの評価や国際的普及 ==
かつては[[生魚]]や[[ゴボウ]]の根など世界的には少数派の食材を使用するため、[[直江津捕虜収容所事件]]のような誤解も発生していた。現代では日本食の普及にともない解消されつつある。
2007年に発刊された高級レストランガイド『[[ミシュラン]]』の東京版では、150軒の掲載店舗のうち、約6割が日本料理店であり、日本料理店も含めて、掲載されたすべての店舗に1つ以上の星がついた(ミシュランの掲載店舗の中には星がつかない店もあり、全ての店舗に星がついたのは、ミシュランでは初めてのことである)。また、150軒の掲載店舗に合計190以上の星がつき、それ自体も過去最高であった。
2011年、日本はフランスを抜いて、ミシュランの3つ星レストランが最も多い国になった。<ref>[https://www.telegraph.co.uk/foodanddrink/foodanddrinknews/8835949/Japan-relishes-status-as-country-with-most-three-starred-Michelin-restaurants.html Japan relishes status as country with most three-starred Michelin restaurants] The Daily Telegraph 2011年10月19日</ref>
2017年に来日した、当時FAO事務局長だった[[ジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバ]]は、日本は先進国の中でも肥満率は4%と低く、日本の伝統的な食事である和食は、健康の改善と長寿に貢献しているとし。「Japan is a global model for healthy diets(日本は健康的な食事と栄養の世界的なモデルである<ref group=注>引用者翻訳</ref>)」と述べている<ref>{{Cite web | url = https://www.fao.org/asiapacific/news/detail-events/en/c/885365/ | title = Japan is a global model for healthy diets, FAO Director-General says | publisher = FAO | accessdate = 2022-04-07 }}</ref><ref>{{Cite web | url = https://www.fao.org/director-general/former-dg/da-silva/my-articles/detail/en/c/885325/ | title = An opinion article by FAO-Director General José Graziano da Silva | publisher = FAO | accessdate = 2022-04-07 }}</ref>。
一方、英語学者の視点から論ぜられた文化論においては「日本人の多くがスシやサシミを好みますが、生の魚をそのままぺろぺろと食べて、うまいうまいといっている民族の方が、この地球上で絶対少数派であるという自覚はしっかりもつべきでしょう」「我々日本人だけが、世界60億人の味覚の優劣を測るモノサシを一手に独占していると考えることほど、恐ろしい思い上がりはありません」という意見もある<ref>堀内 克明 (監修), 大谷 泰照『社会人のための英語百科』大修館書店(2002年)</ref>。実際、中学・高校時代をアメリカで過ごしていた実業家の[[松田公太]]は、刺身を食べていることを指して現地民から野蛮人扱いされた(当時アメリカは寿司ブーム到来前であったため、無理からぬことであった)というエピソードを明かしている<ref name="getemono">[https://logmi.jp/business/articles/326734 日本の高級食材が、海外では「ゲテモノ」扱いされた苦しみ 5歳からの海外生活で芽生えた、松田公太氏の「食」への思] logmi Biz 2022-06-27 21:30 (2022年10月20日閲覧)</ref>。
2022年、非常に厳密な学術誌『Nutrients』のメタ分析によれば、日本食は当然ながら世界から見て健康的である<ref>{{Cite journal|last=Shirota|first=Masayuki|last2=Watanabe|first2=Norikazu|last3=Suzuki|first3=Masataka|last4=Kobori|first4=Masuko|date=2022-05-10|title=Japanese-Style Diet and Cardiovascular Disease Mortality: A Systematic Review and Meta-Analysis of Prospective Cohort Studies|url=https://www.mdpi.com/2072-6643/14/10/2008|journal=Nutrients|volume=14|issue=10|pages=2008|language=en|doi=10.3390/nu14102008|issn=2072-6643|pmc=PMC9147868|pmid=35631146}}</ref>。
=== 正食という日本料理 ===
食事を通じて健康などに働きかける[[マクロビオティック]](正食)を通じて紹介された日本料理や調味料が多く、ヨーロッパやアメリカの一部で正食が評価された地域では、日本では一般に使われていない特殊な調理法や食品が使われている場合がある(味噌はパンに塗って食べる場合もある)。企業の大量生産品も一般的であるが、醤油、味噌、豆腐などは古来の製法で作られることも多く、日本で市販されるものとは風味や栄養価が異なる場合もある。アメリカでは[[醤油#主な種類|たまり]]も流通している。
=== 海外の日本食レストラン数 ===
農林水産省と外務省の調査・集計によると、海外にある日本食を提供するレストランの総数は約11万8,000店(2017年10月時点)である<ref>[http://www.maff.go.jp/j/press/shokusan/service/171107.html 海外日本食レストラン数の調査結果の公表について] 農林水産省プレスリリース(2017年11月7日)2018年4月8日閲覧。</ref>。2013年1月時点調査に比べ2倍以上である。和食だけでなく、[[ラーメン]]店や日本風[[カレー (代表的なトピック)|カレー]]店なども含む<ref>「日本食レストラン5年で倍以上に」『[[読売新聞]]』朝刊2018年4月3日(くらし面)。</ref>。2019年には約15万6,000店とさらに増えた<ref>[https://www.agrinews.co.jp/p49637.html 「日本食レストラン3割増 魅力発信拠点に/中国、台湾、インドネシア アジアで急伸/食材輸送強化が課題」]『[[日本農業新聞]]』2020年1月4日(1面)2020年1月12日閲覧。</ref>。現地の企業などが運営する(本来の日本食と異なる)「なんちゃって日本食」と評しうる店が多いが、一方で日本滞在経験で日本食のよさを知った外国人向けに本物・高級志向の日本食店も増えている<ref>各国で「本物」需要/広がる訪日、舌を肥やす『[[日経MJ]]』2019年7月8日(1面)。</ref>。
=== 日本食レストラン推奨制度 ===
2007年に、正統的な日本料理店に認証を与える「日本食レストラン推奨制度」を[[日本貿易振興機構]](JETRO)がフランスで始められた。制度の目的として、道標の提供と日本食文化の認知度向上・普及・浸透、正統的日本料理レストランにチャレンジする機会の提供、日本の食品などジャパン・ブランド輸出促進を挙げている。制度の対象は、日本で一般に「和食」のカテゴリーに入る食事が[[メニュー (料理)|メニュー]]のほぼすべてを占めるレストランで、その料理は懐石、寿司、天ぷら、うなぎ、焼き鳥、そば、うどん、丼物、その他伝統の日本食(フランスで創作されたそれに準拠するものも含む)としている<ref name=JETRO>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.maff.go.jp/j/shokusan/sanki/easia/e_sesaku/japanese_food/kaigi/02/pdf/hear_data2.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A3%9F%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%8E%A8%E5%A5%A8%E5%88%B6%E5%BA%A6 |title=日本食レストラン推奨制度(pdfファイル) |work=|publisher=[[日本貿易振興機構]] |accessdate=2013-12-03}}</ref>。
=== 競技 ===
* 日本料理コンペティション<ref>[http://culinary-academy.jp/jpn/compe/ 日本料理コンペティション公式サイト]</ref>
* 和食ワールドチャレンジ - 日本人以外の調理師による日本料理コンテスト<ref>[http://washoku-worldchallenge.jp/2015/ 和食ワールドチャレンジ2015公式サイト]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="角川和食とは">{{Cite book|和書|author=原田信男|title=和食とはなにか 旨みの文化をさぐる |series=角川ソフィア文庫|publisher=KADOKAWA/角川学芸出版|date=2014|isbn=978-4044094638|pages=7-13,33,45,48}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*[[広辞苑]]第5版
*『四季日本の料理 春』講談社 ISBN 4-06-267451-3
*『四季日本の料理 夏』講談社 ISBN 4-06-267452-1
*『四季日本の料理 秋』講談社 ISBN 4-06-267453-X
*『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8
*[[石毛直道]]『日本の食文化史』[[岩波書店]] ISBN 978-4-00-061088-9
*[[渡辺実 (歴史学者)|渡辺実]] 『日本食生活氏』 [[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-06341-8
*『講座 食の文化 人類の食文化』 [[味の素食の文化センター]] ISBN 4-540-98052-1
*『講座 食の文化 日本の食事文化』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4540980882
*『講座 食の文化 調理とたべもの』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4-540-98218-4
*『講座 食の文化 食の情報化』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4540982192
*『講座 食の文化 家庭の食事空間』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4540990233
*『講座 食の文化 食の思想と行動』[[味の素食の文化センター]] ISBN 4540990241
*[[川上行蔵]]、小出昌洋『完本 日本料理事物起源』[[岩波書店]] ISBN 9784000242400
*[[西本豊弘]]編『人と動物の日本史1 動物の考古学』[[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-06275-6
*[[木村茂光]]編『日本農業史』[[吉川弘文館]] ISBN 978-4-642-08046-0
== 関連項目 ==
* [[料亭]]
* [[和菓子]] - 日本独自のお菓子。
* [[日本の郷土料理]]
* [[四条流庖丁道]]
* [[大草流庖丁道]]
* [[珍味]]
* [[五味五色]]
* [[日本の食事作法]]
* [[日本食ブーム]]
* [[日式]]
* [[日本の獣肉食の歴史]]
* [[日本のブランド牛一覧]]
* [[和食検定]]
== 外部リンク ==
{{Commons
|ページ名=Category:Cuisine of Japan
|タイトル=日本料理
|追加1=Category:Food of Japan
|タイトル1=日本の食べ物
}}
* [https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/index.html 農林水産省/食文化]
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917183/46 和食についての心得] - 『Don't : …なす勿れ』太田柏露、文僊堂、1926
* [https://www.jica.go.jp/jomm/kiyo/pdf/pdf8/kiyo201401.pdf ペルー日系社会における「和食」とアイデンティティ] - 柳田利夫、海外移住資料館研究紀要第8号
* [https://washokujapan.jp/ 一般社団法人和食文化国民会議|Washoku Japan ]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%99%E7%90%86 |
5,390 | ウィクショナリー | ウィクショナリー (Wiktionary) は、コピーレフトなライセンス・オープンコンテントの辞書兼シソーラス(類語辞典)を作成し、配布することを目的としたウィキメディア財団によるプロジェクトである。GNU Free Documentation License (GFDL) およびクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0) のデュアルライセンスで公開される。2002年12月12日に活動を開始した。
「ウィクショナリー」はウィキ (Wiki) と辞書を意味するディクショナリー (dictionary) からの合成語である。ウィキペディアと同じくウィキ (MediaWiki)を使用しており、誰でも編集することが可能である。またインターウィキリンクとよばれるウィキ文法による簡便な記法を用いて、ウィキペディアを始めとするウィキメディアプロジェクトのページから各言語版にリンクすることが可能である(詳細はHelp:ページの編集、Help:言語間リンクなどを参照)。
ウィクショナリーは発足当初は英語ベースの各国語の辞典であり、すべての説明は英語で行われた。英語版の開始から約1年後の2004年3月22日に初めて英語版以外のウィクショナリーであるフランス語版及びポーランド語版が作成された。2004年5月1日には、ウィキペディアが存在する各言語の版が作成されて、新たに143言語のウィクショナリーが誕生した。
2018年12月現在、174言語で展開されている。ただし、実際に項目が作成されているのは153言語である。英語版(約589万 2018年12月現在。以下も同様。)が最も項目数が多く、それに次ぐ規模のものとして、マダガスカル語版(約546万)、フランス語版(約339万)、ロシア語版(約100万)、セルビア・クロアチア語版(約91万)、スペイン語版(約89万)、中国語版(約84万)がある。詳細は下表に記されている。 | [
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{{WikipediaPage|ウィクショナリーにリンクするテンプレートについては、[[Template:ウィクショナリーにリンクするテンプレート共通文書]]をご覧ください。}}
{{出典の明記|date=2021年8月}}
{{Infobox オンライン情報源
| サイト名=ウィクショナリー
| 画像=[[ファイル:WiktionaryEn - DP_Derivative.svg|100ピクセル|ウィクショナリー英語版のロゴマーク]][[ファイル:Wiktionary-logo.svg|100ピクセル|ウィクショナリー日本語版のロゴマーク]]<br>ウィクショナリーのロゴマークの例<br>(左{{efn|スマホなど一部の端末では上}}:英語版等、右{{efn|スマホなど一部の端末では下}}:日本語版等)
| URL=全体のトップページ<br>https://www.wiktionary.org/<br>日本語版<br>https://ja.wiktionary.org/
| タイプ=[[辞書]]兼[[シソーラス]]
| 分野=限定なし
| 使用言語=183言語<ref name="Meta">2021年1月23日時点での数字。メタウィキ [http://meta.wikimedia.org/wiki/Wiktionary Wiktionary] の"List of Wiktionaries"セクションより。</ref>
| 項目数=全言語版総計{{thinsp}}3102万6737本{{r|Meta}}<br>日本語版合計{{thinsp}}{{00}}28万3592本{{r|Meta}}
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}}
'''ウィクショナリー''' ({{en|Wiktionary}}) は、[[コピーレフト]]な[[ライセンス]]・[[オープンコンテント]]の[[辞典|辞書]]兼[[シソーラス]]([[類語辞典]])を作成し、配布することを目的とした[[ウィキメディア財団]]によるプロジェクトである。[[GNU Free Documentation License]] (GFDL) および[[クリエイティブ・コモンズ]] 表示 - 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0) の[[デュアルライセンス]]で公開される。[[2002年]][[12月12日]]{{r|Meta2}}に活動を開始した。
「ウィクショナリー」はウィキ ('''Wik'''i) と辞書を意味するディクショナリー (dic'''tionary''') からの合成語である。ウィキペディアと同じく[[ウィキ]] ([[MediaWiki]])を使用しており、誰でも編集することが可能である。また[[インターウィキ|インターウィキリンク]]とよばれるウィキ文法による簡便な記法を用いて、ウィキペディアを始めとするウィキメディアプロジェクトのページから各言語版にリンクすることが可能である(詳細は[[Help:ページの編集#言語間リンク・他プロジェクトへのリンク|Help:ページの編集]]、[[Help:言語間リンク]]などを参照)。
ウィクショナリーは発足当初は英語ベースの各国語の辞典であり、すべての説明は英語で行われた。英語版の開始から約1年後の[[2004年]][[3月22日]]に初めて英語版以外のウィクショナリーであるフランス語版及びポーランド語版が作成された。[[2004年]][[5月1日]]{{r|Meta2}}には、ウィキペディアが存在する各言語の版が作成されて、新たに143言語のウィクショナリーが誕生した。
2018年12月現在、174言語で展開されている。ただし、実際に項目が作成されているのは153言語である。[[英語]]版([[wiktionary:en:Special:Statistics|約589万]] 2018年12月現在。以下も同様。)が最も項目数が多く、それに次ぐ規模のものとして、[[マダガスカル語]]版([[wiktionary:mg:manokana:Statistika|約546万]]{{efn|ただし、ほとんどがボットによって作成されたスタブ記事}})、[[フランス語]]版([[wiktionary:fr:spéciale:Statistiques|約339万]])、[[ロシア語]]版([[wiktionary:ru:Special:Статистика|約100万]])、[[セルビア・クロアチア語]]版([[wiktionary:sh:Posebno:Statistike|約91万]])、[[スペイン語]]版([[wiktionary:es:Especial:Estadísticas|約89万]])、[[中国語]]版([[Wiktionary:zh:特殊:统计|約84万]])がある{{r|Meta}}。詳細は下表に記されている。
==統計==
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 80%"
|+ ウィクショナリーの総項目数ランキング<br>(2021年8月28日現在、20万項目以上{{r|Meta}})
! 順位 !! 言語 !! 項目数 !! [[ISO 639|ISO639]]言語コード
|-
! 1
| [[英語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:en:Special:Statistics|6,924,771]]
| style="text-align:center"| [[wikt:en:|en]]
|-
! 2
| [[フランス語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:fr:Special:Statistics|4,304,105]]
| style="text-align:center"| [[wikt:fr:|fr]]
|-
! 3
| [[マダガスカル語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:mg:manokana:Statistics|1,741,250]]
| style="text-align:center"| [[wikt:mg:|mg]]
|-
! 4
| [[ロシア語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:ru:Special:Statistics|1,163,299]]
| style="text-align:center"| [[wikt:ru:|ru]]
|-
! 5
| [[中国語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:zh:Special:Statistics|1,125,691]]
| style="text-align:center"| [[wikt:zh:|zh]]
|-
! 6
| [[ドイツ語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:de:Special:Statistics|1,025,768]]
| style="text-align:center"| [[wikt:de:|de]]
|-
! 7
| [[セルビア・クロアチア語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:sh:Special:Statistics|911,568]]
| style="text-align:center"| [[wikt:sh:|sh]]
|-
! 8
| [[スペイン語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:es:Special:Statistics|909,267]]
| style="text-align:center"| [[wikt:es:|es]]
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! 9
| [[スウェーデン語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:sv:Special:Statistics|821,417]]
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! 10
| [[ギリシャ語]]
| style="text-align:right" | [[wikt:el:Special:Statistics|801,610]]
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! 11
| [[オランダ語]]
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! 12
| [[ポーランド語]]
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! 13
| [[クルド語]]
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! 14
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| [[朝鮮語]]
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|}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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5,393 | キキ | キキ、きき | [
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] | キキ、きき 危機
記紀 - 歴史書。
機器 - Category:機器を参照。 | {{Wiktionary|きき}}
'''キキ'''、'''きき'''
* [[危機]]
* [[記紀]] - 歴史書。
* [[機器]] - [[:Category:機器]]を参照。
== 人物 ==
* [[アリス・プラン]] - フランスの歌手・女優・モデル・画家。「モンパルナスのキキ」として知られる。
* [[キキ・ラーマース]] - オランダ出身の女流画家。
* [[キエラ・キキ・シェアード]] - アメリカ出身のゴスペルシンガー。
* [[キキ・パーマー]] - アメリカ合衆国の歌手、女優、声優。
* [[キキ・ベルテンス]] - 女子プロテニス選手。
* [[キキ・リン]] - 香港生まれの女性歌手、女優。
* [[祐真キキ]] - 日本の女優。
* [[輝&輝]](きき) - 奏者。
* [[木々]] - 日本の漫画家。
* [[水兵きき]] - 日本の漫画家。
* 窺基(きき) - [[基 (僧)]]の通称。
* [[浅倉樹々]] - 日本のアイドル・女優。
* [[杉野希妃]] - 日本の女優、映画監督。
=== 架空の人物・キャラクター ===
* キキ (魔女の宅急便) - 児童書『[[魔女の宅急便]]』シリーズの主人公。
* [[キキとララ]] - [[サンリオ]]のキャラクター。
* キキ・ロジータ - [[機動戦士ガンダム 第08MS小隊の登場人物#キキ・ロジータ|OVA『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』の登場人物]]。
* [[キキ (マスコット)]] - デジタルマスコット
== 鉄道関連 ==
*[[北茅ケ崎駅]]と[[喜々津駅]]の電報略号。
* 鉄道車両を分類する記号。[[長崎電気軌道150形電車]]など参照。
*[[木岐駅]] - 四国旅客鉄道の牟岐線にある駅。
== その他 ==
* [[嬉々♥]] - [[柴咲コウ]]の3枚目のアルバム([[2007年]])。
*キキ - [[山﨑彩音]]のEP([[2017年]])
*[[木岐川]] - 徳島県を流れる二級河川。
* [[美波町立木岐小学校]]
== 関連項目 ==
* [[KIKI (曖昧さ回避)]]
* {{Prefix|キキ}}
* {{Intitle|キキ}}
* [[Wikipedia:索引 きき#きき]]
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:きき}}
[[Category:英語の女性名]]
[[Category:日本語の女性名]] | null | 2021-10-17T09:43:20Z | true | false | false | [
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5,395 | ゴンドワナ大陸 | ゴンドワナ大陸 (ゴンドワナたいりく、Gondwana)は、プレートテクトニクスにおいて、過去に存在したと考えられている超大陸。名前の由来はインド中央北部の地域名で、サンスクリット語で「ゴンド族の森」を意味する。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸や、アラビア半島、マダガスカル島を含んだ、巨大な大陸であった。
ゴンドワナ大陸は、今から約2億年ほど前から分裂を始め、中生代白亜紀末(6500万年前)にはアフリカから南米、南極、インド、オーストラリアの各プレートが離れたと考えられている。
ゴンドワナ大陸は、約6億年前に、パノティア大陸が分裂して誕生した。北半球の低緯度地域から、南極まで広がっていた。石炭紀に当たる、約3億5000万年前から3億年前には、地球が寒冷化したため南極とその周辺に大規模な氷河が発達した。しかし、それ以外の時期はおおむね暖かかったため、氷河は存在しなかった(逆の言い方をすれば、ゴンドワナ大陸南部が南極にあったことで氷河が発達して寒冷化をより進行させ、後にゴンドワナ大陸が北に移動して南極から離れたことなどもあって氷河が消え、温暖化をより決定づけたとも言える)。
石炭紀の後期には、ゴンドワナ大陸は北上して、赤道付近にあったユーラメリカ大陸と衝突し、パンゲア大陸の一部となった。さらに数千万年後のペルム紀にはパンゲア大陸はシベリア大陸とも衝突し、地球上のほぼ全ての陸地が1つの超大陸となった。
しかし、ジュラ紀中期の1億8000万年前頃になると、パンゲアは再びローラシア大陸とゴンドワナ大陸に分裂した。
さらに、ゴンドワナは現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸などを含む西ゴンドワナ大陸と、南極大陸、インド亜大陸、オーストラリア大陸を含む東ゴンドワナ大陸へと分裂した。
白亜紀に入ると、西ゴンドワナ大陸はアフリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、その間に大西洋が成立した。また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸及びマダガスカル島と、南極大陸及びオーストラリア大陸の2つに分裂した。白亜紀後期には、インド亜大陸とマダガスカル島が分かれ、インド亜大陸はユーラシア大陸に向けて急速に北上を開始した。
恐竜絶滅後、新生代に入ると、南極大陸からオーストラリア大陸が分裂し、北上を始めた。インド亜大陸は北上を続け、およそ4500万年前にユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成した。その証拠として、ヒマラヤ山脈の山頂付近には、海洋生物の化石が多数発見されている。また、大西洋は広がり続けた。こうして、現在の大陸配置が成立した。
古生代ペルム紀の植物であるグロッソプテリスはゴンドワナ大陸に生育していたことで知られ、その化石は南アメリカ、アフリカ、インド、南極、オーストラリアの各地で発見される。また、この地域に分布域を持つ生物をゴンドワナ要素という。たとえば肺魚はアフリカとオーストラリア、それに南アメリカにそれぞれ別属が分布し、典型的なゴンドワナ要素である。この他、植物ではバオバブがアフリカ、マダガスカル、オーストラリアに分布している。このようにゴンドワナ要素は現在の南半球の大陸に隔離分布する。それらは新生代初期までに出現した陸上生物と考えられる。
逆に、ゴンドワナでは見られない生物群も存在する。かつて齧歯類と哺乳類の覇権を争って繁栄していた多丘歯類は2億年前のジュラ紀中期頃に出現しているが南半球で生息した痕跡が見つかっていない。 | [
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}
] | ゴンドワナ大陸 (ゴンドワナたいりく、Gondwana)は、プレートテクトニクスにおいて、過去に存在したと考えられている超大陸。名前の由来はインド中央北部の地域名で、サンスクリット語で「ゴンド族の森」を意味する。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸や、アラビア半島、マダガスカル島を含んだ、巨大な大陸であった。 ゴンドワナ大陸は、今から約2億年ほど前から分裂を始め、中生代白亜紀末(6500万年前)にはアフリカから南米、南極、インド、オーストラリアの各プレートが離れたと考えられている。 | {{redirect|ゴンドワナ|[[トリスタン・ミュライユ]]が作曲した音楽|ゴンドワナ (ミュライユ)}}
[[File:Laurasia-Gondwana.svg|right|250px|thumb|2億年前(三畳紀)の世界図 : ゴンドワナ大陸は南半球を中心に広がっていた。北方は[[ローラシア大陸]]]]
'''ゴンドワナ大陸''' (ゴンドワナたいりく、Gondwana)は、[[プレートテクトニクス]]において、過去に存在したと考えられている[[超大陸]]。名前の由来はインド中央北部の地域名で、[[サンスクリット語]]で「[[ゴンド族|ゴンド人]]の森」を意味する。現在の[[アフリカ大陸]]、[[南アメリカ大陸]]、[[インド亜大陸]]、[[南極大陸]]、[[オーストラリア大陸]]や、[[アラビア半島]]、[[マダガスカル島]]を含んだ、巨大な大陸であった。
ゴンドワナ大陸は、今から約2億年ほど前から分裂を始め、中生代白亜紀末(6500万年前)にはアフリカから南米、南極、インド、オーストラリアの各プレートが離れたと考えられている<ref>足立 守、「[https://doi.org/10.11619/africa1964.1974.14 ケニア東部 Mombasa 付近の中生層、ゴンドワナ大陸復元によせて]」、『アフリカ研究』Vol. 1974 (1974) No. 14 P 14-20</ref>。
== 歴史 ==
=== ゴンドワナ大陸の誕生 ===
ゴンドワナ大陸は、約6億年前に、[[パノティア大陸]]が分裂して誕生した。[[北半球]]の低緯度地域から、南極まで広がっていた。[[石炭紀]]に当たる、約3億5000万年前から3億年前には、[[地球]]が[[寒冷化]]したため[[南極]]とその周辺に大規模な[[氷河]]が発達した。しかし、それ以外の時期はおおむね暖かかったため、氷河は存在しなかった(逆の言い方をすれば、ゴンドワナ大陸南部が南極にあったことで氷河が発達して寒冷化をより進行させ、後にゴンドワナ大陸が北に移動して南極から離れたことなどもあって氷河が消え、温暖化をより決定づけたとも言える)。
=== 超大陸の一部へ ===
石炭紀の後期には、ゴンドワナ大陸は北上して、赤道付近にあった[[ユーラメリカ大陸]]と衝突し、[[パンゲア大陸]]の一部となった。さらに数千万年後の[[ペルム紀]]にはパンゲア大陸は[[シベリア大陸]]とも衝突し、地球上のほぼ全ての陸地が1つの超大陸となった。
=== ゴンドワナ大陸の再成立と分裂 ===
しかし、[[ジュラ紀]]中期の1億8000万年前頃になると、パンゲアは再び[[ローラシア大陸]]とゴンドワナ大陸に分裂した。
さらに、ゴンドワナは現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸などを含む'''西ゴンドワナ大陸'''と、南極大陸、インド亜大陸、オーストラリア大陸を含む'''東ゴンドワナ大陸'''へと分裂した。
[[白亜紀]]に入ると、西ゴンドワナ大陸はアフリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、その間に[[大西洋]]が成立した。また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸及びマダガスカル島と、南極大陸及びオーストラリア大陸の2つに分裂した。白亜紀後期には、インド亜大陸とマダガスカル島が分かれ、インド亜大陸は[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]に向けて急速に北上を開始した。
[[恐竜]]絶滅後、[[新生代]]に入ると、南極大陸からオーストラリア大陸が分裂し、北上を始めた。インド亜大陸は北上を続け、およそ4500万年前にユーラシア大陸に衝突し、[[ヒマラヤ山脈]]を形成した。その証拠として、ヒマラヤ山脈の山頂付近には、海洋生物の化石が多数発見されている。また、大西洋は広がり続けた。こうして、現在の大陸配置が成立した。
== 生物の分布との関連 ==
古生代[[ペルム紀]]の植物である[[グロッソプテリス]]はゴンドワナ大陸に生育していたことで知られ、その[[化石]]は南アメリカ、アフリカ、インド、南極、オーストラリアの各地で発見される。また、この地域に分布域を持つ生物をゴンドワナ要素という。たとえば[[肺魚]]はアフリカとオーストラリア、それに南アメリカにそれぞれ別属が分布し、典型的なゴンドワナ要素である。この他、植物では[[バオバブ]]がアフリカ、マダガスカル、オーストラリアに分布している。このようにゴンドワナ要素は現在の南半球の大陸に[[隔離分布]]する。それらは新生代初期までに出現した陸上生物と考えられる。
逆に、ゴンドワナでは見られない生物群も存在する。かつて[[齧歯類]]と[[哺乳類]]の覇権を争って繁栄していた[[多丘歯目|多丘歯類]]は2億年前の[[ジュラ紀]]中期頃に出現しているが南半球で生息した痕跡が見つかっていない。
=== ゴンドワナ系の生物の例 ===
* [[ツノガエル類]] : [[マダガスカル島]]でツノガエル類の一種[[ベールゼブフォ]]の化石が発見されたことから。
* [[ピパ|ピパ類]]
* [[カラシン目|カラシン類]]
* [[曲頸亜目]]([[カメ類]])
* [[平胸類]](別称:走鳥類)
* [[アベリサウルス類]]
* [[アロワナ亜科]]
* [[ナンキョクブナ科]]
* [[パイナップル科]]
* [[シキミモドキ科]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Laurasia and Gondwana|ローラシア大陸とゴンドワナ大陸}}
* [[エドアルト・ジュース]]
{{世界の地理}}
{{プレートテクトニクス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こんとわなたいりく}}
[[Category:古大陸]]
[[Category:超大陸]]
[[Category:インドの地質学]]
[[Category:アフリカの地質学]]
[[Category:オーストラリアの地質学]]
[[Category:南アメリカの自然史]]
[[Category:エドアルト・ジュース]]
[[Category:先史時代の南アメリカ]] | 2003-03-28T06:38:11Z | 2023-10-05T02:25:00Z | false | false | false | [
"Template:プレートテクトニクス",
"Template:Normdaten",
"Template:Redirect",
"Template:Commonscat",
"Template:世界の地理"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%8A%E5%A4%A7%E9%99%B8 |
5,396 | 紫の上 | 紫の上()は、『源氏物語』の登場人物。光源氏の妻のひとり。光源氏に次ぐ主要な人物である。容姿とともに知性・性格・才芸などでも理想的な女性として描かれる。
初め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」にちなみ、源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
『源氏物語』について語る時、幼少時の紫の上を初登場する巻名を借りて若紫と呼ぶ事がある。
『源氏物語』は、古くは「紫の物語」などの名称で呼ばれることもあり、これは紫の上に由来すると思われる。
さらには作者の通称の「紫式部」も、「紫の物語」等に由来すると一般に考えられている。
父は兵部卿宮(後に式部卿宮、藤壺中宮の兄)、母は、宮の正妻ではない按察使大納言の娘。藤壺の姪にあたる。「若紫」の帖に初めて登場し、以後「御法」まで登場する。
正妻による圧力のために父兵部卿宮の訪問は間遠で、生まれてすぐ母は亡くなり、その後は母方の祖母である北山の尼君に育てられた。大伯父僧都によると母親が亡くなって10余年たち、北山に病気療養に来ていた光源氏に垣間見られる。このとき源氏は、幼いながらもその藤壺と生き写しの容姿に一目で惹かれ、さらに藤壺の姪であることを知り執着をもつようになる。祖母の死後、父に引き取られるはずであった若紫を略取した源氏は、自邸の二条院において、周囲には彼女の素性を隠しながら理想の女性に育てる(「若紫」)。源氏の最初の正妻である葵の上の没後に、源氏と初床となり、以後公に正妻同様に扱われる(「葵」)。以後は光源氏の須磨退隠時期を除き、常に源氏の傍らにあった。
紫の上が妻として扱われるようになって初めて、父兵部卿宮にも、行方不明であった娘が源氏のもとにいることが知らされた。兵部卿宮は始めこれを歓迎したが、源氏が須磨に隠棲したときには右大臣の権勢を恐れて紫の上を支援しなかった。このため源氏は帰京後は兵部卿宮を冷遇することになる。紫の上には子供がなかったため、源氏は明石の君が生んだ女の子(のちの明石中宮)を紫の上の養女とし、将来の后候補として育てさせた(「薄雲」)。また明石中宮の入内後には、中宮の産んだ女一宮と三の宮(匂宮)を養育しており、特に愛した匂宮には遺言で二条院を遺した。
源氏の最愛の妻である一方、源氏の子を産んだ明石の御方にはたびたび嫉妬し、また朝顔斎院と源氏の結婚の噂が立った時には動揺もしたが、六条院の春の町に移って以降は名実ともに源氏の正夫人として「春の上」「北の方」等と呼ばれ、容貌も心ばせも完璧な女性と謳われて本人もそれを誇りに思っていた。しかし実子を持たず確かな後見ある正妻でもなかったため、朱雀院の女三宮の降嫁が決まった時には衝撃を受け、自分の身の不安定さに改めて気付かされ、苦しんだ。紫の上の悩みに気づかぬ源氏と次第にすれ違いを重ね、その心労から37歳の厄年に(以下の年齢の項も参照)重病にかかり、療養のために二条院に移り(「若菜」)、その後数年生きるも完全な回復を見る事はなかった。しかし結局は女三宮の至らなさなどもあり、他の妻たちよりもはるかな優位を失う事は無く、だんだん明石を始め他の妻たちとの関係も穏やかになる。晩年はさかんに出家したい心境を訴えたが、最後までそれを許されぬまま、源氏に先立って病没した(「御法」)。彼女の完璧さを頼りに安堵しきっていた源氏は、悲嘆の中で改めて彼女が隠してきた苦悩と孤独を痛感し、その後の一年あまり紫の上を偲び続けたことが「幻」巻で綴られ、源氏物語の第二部は閉じる。
紫の上の年齢にはやや不審もあるが、源氏より8歳程度から10歳年下である。
若菜巻において、37歳の厄年と明記される箇所があり、これに従うと10歳年下となる。一方、若紫巻で登場した際に、「十余年前に実母が病で亡くなっている」と説明があり、満10~11歳、数え年で12歳ほど(源氏より6歳程度年下)だったことになる。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「紫の上」は、北山の庵にいたときを「10歳の頃」としている。 | [
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] | 紫の上は、『源氏物語』の登場人物。光源氏の妻のひとり。光源氏に次ぐ主要な人物である。容姿とともに知性・性格・才芸などでも理想的な女性として描かれる。 | {{Pathnav|源氏物語|源氏物語の登場人物|frame=1}}
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{{読み仮名|'''紫の上'''|むらさきのうえ}}は、『[[源氏物語]]』の登場人物。[[光源氏]]の妻のひとり。光源氏に次ぐ主要な人物である。容姿とともに知性・性格・才芸などでも理想的な女性として描かれる<ref name="kotobank-britannica">{{Cite Kotobank|word=紫の上|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|access-date=2020年7月9日}}</ref>。
== 名前 ==
初め'''紫の君'''、後に[[光源氏]]の妻となって'''紫の上'''と呼ばれる。「紫」の名は[[古今和歌集|古今集]]の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」にちなみ、源氏の「永遠の女性」である[[藤壺]]の縁者('''紫のゆかり''')であることを婉曲に表す。また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
『源氏物語』について語る時、幼少時の紫の上を[[若紫|初登場する巻]]名を借りて'''若紫'''と呼ぶ事がある。
=== 影響 ===
『源氏物語』は、古くは「紫の物語」などの名称で呼ばれることもあり、これは紫の上に由来すると思われる。
さらには作者の通称の「[[紫式部]]」も、「紫の物語」等に由来すると一般に考えられている。
== 人物 ==
父は[[兵部卿宮]](後に式部卿宮、藤壺中宮の兄)、母は、宮の正妻ではない[[按察使]][[大納言]]の娘。藤壺の姪にあたる<ref name="kotobank-britannica" />。「若紫」の帖に初めて登場し、以後「[[御法]]」まで登場する。
正妻による圧力のために父兵部卿宮の訪問は間遠で、生まれてすぐ母は亡くなり、その後は母方の祖母である[[北山の尼君]]に育てられた。大伯父僧都によると母親が亡くなって10余年たち、北山に病気療養に来ていた光源氏に垣間見られる。このとき源氏は、幼いながらもその藤壺と生き写しの容姿に一目で惹かれ、さらに藤壺の姪であることを知り執着をもつようになる。祖母の死後、父に引き取られるはずであった若紫を略取した源氏は、自邸の二条院において、周囲には彼女の素性を隠しながら理想の女性に育てる(「[[若紫]]」)。源氏の最初の正妻である[[葵の上]]の没後に、源氏と初床となり、以後公に正妻同様に扱われる(「[[葵_(源氏物語)|葵]]」)。以後は光源氏の須磨退隠時期を除き、常に源氏の傍らにあった。
紫の上が妻として扱われるようになって初めて、父兵部卿宮にも、行方不明であった娘が源氏のもとにいることが知らされた。兵部卿宮は始めこれを歓迎したが、源氏が須磨に隠棲したときには[[右大臣 (源氏物語)|右大臣]]の権勢を恐れて紫の上を支援しなかった。このため源氏は帰京後は兵部卿宮を冷遇することになる。紫の上には子供がなかったため、源氏は[[明石の御方|明石の君]]が生んだ女の子(のちの[[明石の姫君|明石中宮]])を紫の上の養女とし、将来の后候補として育てさせた(「[[薄雲 (源氏物語)|薄雲]]」)。また明石中宮の入内後には、中宮の産んだ女一宮と三の宮([[匂宮]])を養育しており、特に愛した匂宮には遺言で二条院を遺した。
源氏の最愛の妻である一方、源氏の子を産んだ明石の御方にはたびたび嫉妬し、また[[朝顔 (源氏物語)|朝顔斎院]]と源氏の結婚の噂が立った時には動揺もしたが、[[六条院]]の春の町に移って以降は名実ともに源氏の正夫人として「春の上」「北の方」等と呼ばれ、容貌も心ばせも完璧な女性と謳われて本人もそれを誇りに思っていた。しかし実子を持たず確かな後見ある正妻でもなかったため、[[朱雀帝|朱雀院]]の[[女三宮]]の降嫁が決まった時には衝撃を受け、自分の身の不安定さに改めて気付かされ、苦しんだ。紫の上の悩みに気づかぬ源氏と次第にすれ違いを重ね、その心労から37歳の厄年に(以下の年齢の項も参照)重病にかかり、療養のために二条院に移り(「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」)、その後数年生きるも完全な回復を見る事はなかった。しかし結局は女三宮の至らなさなどもあり、他の妻たちよりもはるかな優位を失う事は無く、だんだん明石を始め他の妻たちとの関係も穏やかになる。晩年はさかんに出家したい心境を訴えたが、最後までそれを許されぬまま、源氏に先立って病没した(「[[御法]]」)。彼女の完璧さを頼りに安堵しきっていた源氏は、悲嘆の中で改めて彼女が隠してきた苦悩と孤独を痛感し、その後の一年あまり紫の上を偲び続けたことが「[[幻 (源氏物語)|幻]]」巻で綴られ、源氏物語の第二部は閉じる。
=== 年齢 ===
紫の上の年齢にはやや不審もあるが、源氏より8歳程度から10歳年下である。
[[若菜 (源氏物語)|若菜]]巻において、37歳の厄年と明記される箇所があり、これに従うと10歳年下となる。一方、[[若紫]]巻で登場した際に、「十余年前に実母が病で亡くなっている」と説明があり、満10~11歳、数え年で12歳ほど(源氏より6歳程度年下)だったことになる。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「紫の上」は、北山の庵にいたときを「10歳の頃」としている<ref name="kotobank-britannica" />。
== 演じた女優 ==
* [[叶和貴子]] 『源氏物語』TBS テレビドラマ(1980年)
* [[大原麗子]] 『[[源氏物語 上の巻・下の巻]]』(1991年 - 1992年)
* [[常盤貴子]] 『[[千年の恋 ひかる源氏物語]]』
* 紺野彩夏 『いいね! 光源氏くん し~ずん2』(2021年)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[後深草院二条]] - 日記文学『[[とはずがたり]]』の作者・主人公。作中では[[後深草天皇|後深草上皇]]の寵姫を自称し、幼少から後深草に育てられたという自身をしばしば紫の上に喩えるが、『とはずがたり』の内容の真偽については諸説ある。
* [[姈子内親王]] - [[後宇多天皇|後宇多上皇]]に盗み出されて妃となった歴史上の人物
* [[西園寺禧子]] - [[皇太子]]尊治親王(のちの[[後醍醐天皇]])に盗み出されて妃([[中宮]]のち[[皇太后]])となった歴史上の人物、紫の上とは違いどちらかといえば[[駆け落ち]]に近かったようである
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[[Category:源氏物語の登場人物]]
[[Category:架空の王族]] | 2003-03-28T06:53:51Z | 2023-10-22T14:24:42Z | false | false | false | [
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5,397 | エネルギー | 物理学において、エネルギー(独: Energie)またはエナジー(英: energy)は、仕事をすることのできる能力のことを指す。物体や系が持っている仕事をする能力の総称。エネルギーのSI単位は、ジュール(記号:J)である。
現在用いられているようなエネルギーという概念が確立したのは19世紀後半のことであるが、概念の確固たる成立はともかくとして、「エネルギー」という用語は、19世紀のはじめ、トマス・ヤングが1807年に著書『自然哲学講義』(英: A Course of Lectures on Natural Philosophy) の中で、従来使われていた「力」を意味するラテン語 vis の代わりとして提案された。
「エネルギー」の語源となったギリシア語の ἐνέργεια (ギリシア語ラテン翻字: energeia) は、ἐνεργός(ギリシア語ラテン翻字: energos) に由来する。これは、ἐν(エン)と ἔργον(エルゴン)を組み合わせた語で、ἐν は前置詞、ἔργον (ギリシア語ラテン翻字: ergon) は「仕事」を意味する語である。つまり、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という意味の語である。エネルギーという概念は「仕事」という概念と深い関わりがあるのである。
このようにエネルギーという語・概念は「物体が仕事をなし得る能力」を意味したが、その後、自然科学の説明体系が変化し、熱・光・電磁気もエネルギーを持つことが知られるようになり、さらに、質量までがエネルギーの一形態である、と理解されるようになった。
国際単位系におけるエネルギー、仕事 (物理学)および熱量の単位はジュール (J) である。日本の計量法においても、仕事、熱量、電力量の法定計量単位は、ジュール、ワット秒またはワット時である。
計量法は、栄養学や食品の分野における熱量の計量に限ってカロリー (cal) の使用を認めている。1999年10月以降、カロリーは正確に 4.184 J である。
国際単位系は、カロリーの使用を全く認めていない。1948年の第9回国際度量衡総会は、「熱測定の実験結果は、できるだけジュールで表すこと、やむなくカロリーで表す場合は、ジュールとの換算値を示すこと」を要請したが、日本では依然としてカロリーが頻繁に使われている。
エネルギーの単位とその分類は国際単位系国際文書および計量法の規定によれば、次のようになっている。
現代において「エネルギー」という語で呼ばれている概念には、ひな形(あるいは萌芽と呼んでもよいもの)があり、その概念は、ヨーロッパ近世においては「エネルギー」とは呼ばれておらず、ラテン語 で vis(ウィス、力の意)と呼ばれていた。この概念が様々な経緯を経て、現在の「エネルギー」という概念に似たものに変化してゆくことになった。
1600年頃のこと、ガリレオ・ガリレイは、釘の頭に(金づちよりもはるかに)重い物(石など)をのせても、釘は木の中にめりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆく、ということを、ひとつの問題として取り上げ、運動する物体には何らかの固有の「ちから」がある、との考え方を示した。
デカルトは、1644年に出版された著書において、衝突という現象においては、物体の重さと速さの積(現在の式で言えば、おおよそ mv に相当するような量)が保存されるとし、この量こそが物体の持つ「ちから」である、と述べ、この量は保存されている、と主張した。
ライプニッツは、重さと速さの二乗の積(現在の式で言えば、おおよそ mv に相当する量)こそが「ちから」である、とし、この量が保存されている、と主張した。なお当時、静力学の分野では、vis mortua(死んだ力)という概念があったが、その概念と対比ししつつ、ライプニッツはその力 mv を vis viva(生きている力、活力)と呼んだ。
デカルトの考え方とライプニッツの考え方では、数式上異なった結論が導き出される。デカルト派の人々とライプニッツ派の人々の間で「ちから」の解釈に関する論争が起き、この論争は実に50年ほども続いた。この論争を活力論争と言う。
この問題についてレオンハルト・オイラーは、1745-50年頃執筆された手稿「自然哲学序説」の中で (1) 両主張の差異は運動と力の関係を同一時間で比較するのか( m v {\displaystyle mv} )または同一距離で比較するのか( m v 2 {\displaystyle mv^{2}} )の違いであること、(2) 慣性を物体に内在する「力」に置き換えることが誤りであること、を示している。
その後、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが、活力が m v 2 / 2 {\displaystyle mv^{2}/2} であることを示した。これは、今日で言うところの「運動エネルギー」に相当することになる。
一方、1840年代に入るとロベルト・マイヤーやジェームズ・プレスコット・ジュールがエネルギー保存の法則の存在に気づき、1847年にヘルマン・フォン・ヘルムホルツがこれを熱力学の第一法則とし、1850年にはルドルフ・クラウジウスが熱力学の第一法則の定式化を行った。また、1824年にはサディ・カルノーが熱力学第二法則につながる発見をし、1850年代にはクラウジウスとウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がそれぞれ独自に熱力学第二法則を導きだした。
熱力学において、ある条件の元で仕事として取り出すことのできるエネルギーとして自由エネルギーが定義される。自由エネルギーには、ヘルムホルツの自由エネルギーとギブズの自由エネルギーの 2 つがある。ヘルムホルツの自由エネルギーは等温操作によって熱力学系から得られる仕事の最大値として定義される。ギブズの自由エネルギーは等温等圧操作によって得られる仕事の最大値を与える。
自由エネルギーは、適切な変数の下では平衡状態の熱力学系のすべての情報を持った関数、すなわち熱力学ポテンシャルとなる。また、平衡状態は自由エネルギーが極小である状態として実現する。このように、自由エネルギーは理論的な道具として良い性質を持った量である。
一方、工学などの応用領域においては、熱力学系で仕事に寄与する有効エネルギーのみに意味があり、それを評価する量としてエクセルギーが考案されている。反対に、熱力学系の仕事に寄与せず捨てられる無効エネルギーをアネルギーと呼ぶ。カルノー効率によれば、エクセルギーとアネルギーの発生割合は、高温側の熱源と低温側の熱源の温度比のみで規定されている。
力学においては、質点の持つエネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーに分類される。運動エネルギーは粒子の運動量に依存するエネルギーで、ニュートン力学では
と定義される。ここで K は運動エネルギー、p は運動量、m は質量、v は速度である。また、|·| は絶対値を表し、太字の量はベクトル量を表す。 位置エネルギーは質点の位置に依存するエネルギーで、特に質点が持つ位置エネルギーは、その質点の位置を変数とする関数として定義される。 位置エネルギーを表す文字としては、しばしば V や U、Φ や φ が用いられる。
粒子の持つエネルギーを一般化して、1 つの力学系に対してエネルギーを定義できる。 運動エネルギーに関しては、各粒子が持つ運動エネルギーの和が系の運動エネルギーに対応する。
ここで N は系の粒子数であり、pi は i 番目の粒子の運動量、mi は i 番目の粒子の質量である。 位置エネルギーは、各粒子の位置を変数とする関数として定義される。多くの場合、位置エネルギーは 1 体のポテンシャルと 2 体のポテンシャルを用いて、
と書き表すことができる。ここで Φ は系の位置エネルギー、φ1 は 1 体のポテンシャル、φ2 は 2 体のポテンシャルであり、ri は i 番目の粒子の位置を表す。
力学において定義されるこれらのエネルギーの総和は、熱力学における定義と対比して、しばしば力学的エネルギーと呼ばれる。 力学的エネルギーの変化量が、系が外界に対してなした仕事に等しい場合、「力学的エネルギーは保存している」と言い、これを力学的エネルギー保存則と呼ぶ。力学的エネルギーが保存しない系は、たとえば粒子に対して摩擦力が働く系や粒子が非弾性衝突をする系である。還元主義の立場では、このエネルギーの損失は、粒子やそれが運動する媒質などの内部自由度を記述し切れていないことに起因すると考えられている。
アインシュタインによる相対性理論において、物体が持つ運動エネルギーは下の式である。
量子力学において、物理量や可観測量は通常の実数を用いては必ずしも表現できず、演算子を用いて表現される。系の力学的なエネルギーは、古典論における解析力学と同様に系全体のハミルトニアンによって表されるが、量子力学ではハミルトニアンは状態ベクトルに作用する演算子となる。測定によって得られる値は、そのハミルトニアンの固有状態に対応した固有値として与えられる。ある系について、エネルギーを測定できる限りにおいて、エネルギー固有値は実数に限られるため、系全体のハミルトニアンはエルミート演算子でなければならない。
非相対論的な量子力学では、正準交換関係を通じて運動量を演算子に置き換えることで、運動エネルギーは、
と定義される。ここで ˆK は運動エネルギー演算子、ˆp は運動量演算子である。運動エネルギーを表す文字としてはしばしば K や T が用いられる。
位置エネルギーも同様に位置演算子の関数に置き換えられる。
ここで V, ˆV は位置エネルギーおよび位置エネルギー演算子、r, ˆr は粒子の位置および位置演算子である。
1 粒子系のハミルトニアン ˆH は運動エネルギーと位置エネルギーの和として与えられる。
量子力学においては、古典力学とは異なり、定常状態でとり得るエネルギー固有値 E は非負でなければならず、固有値は必ずしも連続的ではなくなる。エネルギーの値がこのように離散的になることの効果が、特に低温での熱的な性質に顕著に現れる。
電磁気学において、電磁場のエネルギーは、現象論的なマクスウェルの方程式から
と与えられる。ここで E は電場、D は電束密度、H は磁場、B は磁束密度である。また、· はベクトルの内積、V は空間全体およびその体積を表す。特に、真空中では電束密度 D および磁場 H はそれぞれ電場 E と磁束密度 B で置き換えられ、国際単位系を用いれば、真空中の誘電率 ε0 および真空中の透磁率 μ0 を用いて、
と表すことができる。また、被積分関数である、電場と電束密度の内積 E · D、および磁場と磁束密度の内積 H · B の和は、電磁場のエネルギー密度を与える。
真空中のエネルギー密度は、
である。すなわち、電磁場のエネルギー密度は電磁場の大きさの二乗に比例する。
ある空間における電磁場のエネルギーについて、その時間的変化は電場が電荷に対してなす力学的な仕事と、電磁波として運ばれるものに分けられる。前者の電荷に対する電磁場がなす仕事やそれによって生じる熱はジュール熱と呼ばれる。
ここで j は電流密度、A は領域 V の表面およびその面積を表す。また、rA は表面 A 上の点を、n は表面に垂直で領域の外を向いた単位ベクトルを表している。右辺の第 1 項がジュール熱、つまり電磁場と電荷の相互作用によるエネルギーの移動を表し、第 2 項が電磁場の変形によって外部へ流出するエネルギーの流量を表している。第 2 項の被積分関数はポインティング・ベクトルとして次のように定義される。
上の複数の節において、運動エネルギー、位置エネルギー、電磁場のエネルギーなど、物理学で扱うエネルギー概念を挙げた。
そのような物理学的で厳密な分類もあるが、他方で、人々が慣習的に行う やや曖昧な分類もある。熱機関と熱浴との温度の差を利用して取り出されるエネルギーは、ときに熱エネルギーと呼ばれる。また化学ポテンシャルの差を利用して取り出されるエネルギーは化学エネルギーと呼ばれる。他にも、電流によって運ばれるエネルギーは電気エネルギー、電磁波の持つエネルギーや電磁波によって得られるエネルギーは光エネルギー、原子核分裂や原子核融合などの原子核反応によって生じるエネルギーは原子エネルギーなどと呼ばれることがある。これらの呼称は慣習的なもので、物理学とも異なる何らかの視点で分類されたもので、必ずしも厳格に用いられているわけではなく、また一般に通用する厳密な定義も存在しない。
「エネルギー」はエネルギー資源を指していることもある。産業・運輸・消費生活などに必要な動力の源のことをエネルギー資源と呼んでいる。
人類が最初に利用したエネルギー源は火である。メソポタミア文明の時代にはすでに水のエネルギー(水力)を利用するために水車が作られており、また風のエネルギーを使用する帆船も移動手段として古代から存在していた。やがて風車が作られることで、移動以外の動力にも風が利用できるようになった。18世紀までは主要なエネルギー源はこういった自然のエネルギーのほか、薪、炭、鯨油などといったものが主であったが、18世紀に入るとイギリスで石炭の利用法の改良が行われ、次いで1765年、ジェームズ・ワットが蒸気機関の改良を行った。これは人類の利用できるエネルギーに革新をもたらし、産業革命の原動力となった。その後、電気エネルギーの実用化が始まり、20世紀に入ると石炭に変わって石油が主に用いられるようになり、また核燃料を利用する原子力エネルギーが実用化された。
2018年には世界のエネルギー消費量は138.6億トンに達し、石油が34%、石炭が27%、天然ガスが24%を占め、8割以上が化石燃料由来のエネルギーとなっている。
エネルギー消費の構成が急激に大きく変化すること、特に第二次世界大戦後の石炭から石油への急激なエネルギー源の転換などを指して、エネルギー革命と言う。
エネルギーは「資源」の観点では、石炭や石油のように地球に埋蔵されていて使用すると減少する枯渇性エネルギーと、太陽光・水力・風力など主に太陽の放射エネルギーに基づくもので人間の時間尺度内では半永久的に減ることなく再生される再生可能エネルギーに分類される。
エネルギー資源はその利用形態による分類としては、自然界に存在する状態のままの1次エネルギー(石炭、原油、水力など)と、それを使用や取り扱いに便利なように変換した2次エネルギー(ガソリン、都市ガス、電力など)に分類される。
「省エネ」とはエネルギーの無駄を省いて効率的に使うこと、「創エネ」とは、主として電気を自ら創ること(自家発電すること)、「蓄エネ」とはエネルギーを蓄えること、の総称である。 | [
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"text": "物理学において、エネルギー(独: Energie)またはエナジー(英: energy)は、仕事をすることのできる能力のことを指す。物体や系が持っている仕事をする能力の総称。エネルギーのSI単位は、ジュール(記号:J)である。",
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"text": "「エネルギー」の語源となったギリシア語の ἐνέργεια (ギリシア語ラテン翻字: energeia) は、ἐνεργός(ギリシア語ラテン翻字: energos) に由来する。これは、ἐν(エン)と ἔργον(エルゴン)を組み合わせた語で、ἐν は前置詞、ἔργον (ギリシア語ラテン翻字: ergon) は「仕事」を意味する語である。つまり、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という意味の語である。エネルギーという概念は「仕事」という概念と深い関わりがあるのである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "このようにエネルギーという語・概念は「物体が仕事をなし得る能力」を意味したが、その後、自然科学の説明体系が変化し、熱・光・電磁気もエネルギーを持つことが知られるようになり、さらに、質量までがエネルギーの一形態である、と理解されるようになった。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "国際単位系におけるエネルギー、仕事 (物理学)および熱量の単位はジュール (J) である。日本の計量法においても、仕事、熱量、電力量の法定計量単位は、ジュール、ワット秒またはワット時である。",
"title": "エネルギーの単位"
},
{
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"text": "計量法は、栄養学や食品の分野における熱量の計量に限ってカロリー (cal) の使用を認めている。1999年10月以降、カロリーは正確に 4.184 J である。",
"title": "エネルギーの単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "国際単位系は、カロリーの使用を全く認めていない。1948年の第9回国際度量衡総会は、「熱測定の実験結果は、できるだけジュールで表すこと、やむなくカロリーで表す場合は、ジュールとの換算値を示すこと」を要請したが、日本では依然としてカロリーが頻繁に使われている。",
"title": "エネルギーの単位"
},
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"text": "エネルギーの単位とその分類は国際単位系国際文書および計量法の規定によれば、次のようになっている。",
"title": "エネルギーの単位"
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{
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"text": "現代において「エネルギー」という語で呼ばれている概念には、ひな形(あるいは萌芽と呼んでもよいもの)があり、その概念は、ヨーロッパ近世においては「エネルギー」とは呼ばれておらず、ラテン語 で vis(ウィス、力の意)と呼ばれていた。この概念が様々な経緯を経て、現在の「エネルギー」という概念に似たものに変化してゆくことになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1600年頃のこと、ガリレオ・ガリレイは、釘の頭に(金づちよりもはるかに)重い物(石など)をのせても、釘は木の中にめりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆく、ということを、ひとつの問題として取り上げ、運動する物体には何らかの固有の「ちから」がある、との考え方を示した。",
"title": "歴史"
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"text": "デカルトは、1644年に出版された著書において、衝突という現象においては、物体の重さと速さの積(現在の式で言えば、おおよそ mv に相当するような量)が保存されるとし、この量こそが物体の持つ「ちから」である、と述べ、この量は保存されている、と主張した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ライプニッツは、重さと速さの二乗の積(現在の式で言えば、おおよそ mv に相当する量)こそが「ちから」である、とし、この量が保存されている、と主張した。なお当時、静力学の分野では、vis mortua(死んだ力)という概念があったが、その概念と対比ししつつ、ライプニッツはその力 mv を vis viva(生きている力、活力)と呼んだ。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "デカルトの考え方とライプニッツの考え方では、数式上異なった結論が導き出される。デカルト派の人々とライプニッツ派の人々の間で「ちから」の解釈に関する論争が起き、この論争は実に50年ほども続いた。この論争を活力論争と言う。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この問題についてレオンハルト・オイラーは、1745-50年頃執筆された手稿「自然哲学序説」の中で (1) 両主張の差異は運動と力の関係を同一時間で比較するのか( m v {\\displaystyle mv} )または同一距離で比較するのか( m v 2 {\\displaystyle mv^{2}} )の違いであること、(2) 慣性を物体に内在する「力」に置き換えることが誤りであること、を示している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "その後、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリが、活力が m v 2 / 2 {\\displaystyle mv^{2}/2} であることを示した。これは、今日で言うところの「運動エネルギー」に相当することになる。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "一方、1840年代に入るとロベルト・マイヤーやジェームズ・プレスコット・ジュールがエネルギー保存の法則の存在に気づき、1847年にヘルマン・フォン・ヘルムホルツがこれを熱力学の第一法則とし、1850年にはルドルフ・クラウジウスが熱力学の第一法則の定式化を行った。また、1824年にはサディ・カルノーが熱力学第二法則につながる発見をし、1850年代にはクラウジウスとウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がそれぞれ独自に熱力学第二法則を導きだした。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "熱力学において、ある条件の元で仕事として取り出すことのできるエネルギーとして自由エネルギーが定義される。自由エネルギーには、ヘルムホルツの自由エネルギーとギブズの自由エネルギーの 2 つがある。ヘルムホルツの自由エネルギーは等温操作によって熱力学系から得られる仕事の最大値として定義される。ギブズの自由エネルギーは等温等圧操作によって得られる仕事の最大値を与える。",
"title": "熱力学"
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{
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"tag": "p",
"text": "自由エネルギーは、適切な変数の下では平衡状態の熱力学系のすべての情報を持った関数、すなわち熱力学ポテンシャルとなる。また、平衡状態は自由エネルギーが極小である状態として実現する。このように、自由エネルギーは理論的な道具として良い性質を持った量である。",
"title": "熱力学"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方、工学などの応用領域においては、熱力学系で仕事に寄与する有効エネルギーのみに意味があり、それを評価する量としてエクセルギーが考案されている。反対に、熱力学系の仕事に寄与せず捨てられる無効エネルギーをアネルギーと呼ぶ。カルノー効率によれば、エクセルギーとアネルギーの発生割合は、高温側の熱源と低温側の熱源の温度比のみで規定されている。",
"title": "熱力学"
},
{
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"tag": "p",
"text": "力学においては、質点の持つエネルギーは運動エネルギーと位置エネルギーに分類される。運動エネルギーは粒子の運動量に依存するエネルギーで、ニュートン力学では",
"title": "古典力学"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "と定義される。ここで K は運動エネルギー、p は運動量、m は質量、v は速度である。また、|·| は絶対値を表し、太字の量はベクトル量を表す。 位置エネルギーは質点の位置に依存するエネルギーで、特に質点が持つ位置エネルギーは、その質点の位置を変数とする関数として定義される。 位置エネルギーを表す文字としては、しばしば V や U、Φ や φ が用いられる。",
"title": "古典力学"
},
{
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"tag": "p",
"text": "粒子の持つエネルギーを一般化して、1 つの力学系に対してエネルギーを定義できる。 運動エネルギーに関しては、各粒子が持つ運動エネルギーの和が系の運動エネルギーに対応する。",
"title": "古典力学"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ここで N は系の粒子数であり、pi は i 番目の粒子の運動量、mi は i 番目の粒子の質量である。 位置エネルギーは、各粒子の位置を変数とする関数として定義される。多くの場合、位置エネルギーは 1 体のポテンシャルと 2 体のポテンシャルを用いて、",
"title": "古典力学"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "と書き表すことができる。ここで Φ は系の位置エネルギー、φ1 は 1 体のポテンシャル、φ2 は 2 体のポテンシャルであり、ri は i 番目の粒子の位置を表す。",
"title": "古典力学"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "力学において定義されるこれらのエネルギーの総和は、熱力学における定義と対比して、しばしば力学的エネルギーと呼ばれる。 力学的エネルギーの変化量が、系が外界に対してなした仕事に等しい場合、「力学的エネルギーは保存している」と言い、これを力学的エネルギー保存則と呼ぶ。力学的エネルギーが保存しない系は、たとえば粒子に対して摩擦力が働く系や粒子が非弾性衝突をする系である。還元主義の立場では、このエネルギーの損失は、粒子やそれが運動する媒質などの内部自由度を記述し切れていないことに起因すると考えられている。",
"title": "古典力学"
},
{
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"text": "アインシュタインによる相対性理論において、物体が持つ運動エネルギーは下の式である。",
"title": "相対理論"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "量子力学において、物理量や可観測量は通常の実数を用いては必ずしも表現できず、演算子を用いて表現される。系の力学的なエネルギーは、古典論における解析力学と同様に系全体のハミルトニアンによって表されるが、量子力学ではハミルトニアンは状態ベクトルに作用する演算子となる。測定によって得られる値は、そのハミルトニアンの固有状態に対応した固有値として与えられる。ある系について、エネルギーを測定できる限りにおいて、エネルギー固有値は実数に限られるため、系全体のハミルトニアンはエルミート演算子でなければならない。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "非相対論的な量子力学では、正準交換関係を通じて運動量を演算子に置き換えることで、運動エネルギーは、",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "と定義される。ここで ˆK は運動エネルギー演算子、ˆp は運動量演算子である。運動エネルギーを表す文字としてはしばしば K や T が用いられる。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "位置エネルギーも同様に位置演算子の関数に置き換えられる。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ここで V, ˆV は位置エネルギーおよび位置エネルギー演算子、r, ˆr は粒子の位置および位置演算子である。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1 粒子系のハミルトニアン ˆH は運動エネルギーと位置エネルギーの和として与えられる。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "量子力学においては、古典力学とは異なり、定常状態でとり得るエネルギー固有値 E は非負でなければならず、固有値は必ずしも連続的ではなくなる。エネルギーの値がこのように離散的になることの効果が、特に低温での熱的な性質に顕著に現れる。",
"title": "量子力学"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "電磁気学において、電磁場のエネルギーは、現象論的なマクスウェルの方程式から",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "と与えられる。ここで E は電場、D は電束密度、H は磁場、B は磁束密度である。また、· はベクトルの内積、V は空間全体およびその体積を表す。特に、真空中では電束密度 D および磁場 H はそれぞれ電場 E と磁束密度 B で置き換えられ、国際単位系を用いれば、真空中の誘電率 ε0 および真空中の透磁率 μ0 を用いて、",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。また、被積分関数である、電場と電束密度の内積 E · D、および磁場と磁束密度の内積 H · B の和は、電磁場のエネルギー密度を与える。",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "真空中のエネルギー密度は、",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "である。すなわち、電磁場のエネルギー密度は電磁場の大きさの二乗に比例する。",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ある空間における電磁場のエネルギーについて、その時間的変化は電場が電荷に対してなす力学的な仕事と、電磁波として運ばれるものに分けられる。前者の電荷に対する電磁場がなす仕事やそれによって生じる熱はジュール熱と呼ばれる。",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ここで j は電流密度、A は領域 V の表面およびその面積を表す。また、rA は表面 A 上の点を、n は表面に垂直で領域の外を向いた単位ベクトルを表している。右辺の第 1 項がジュール熱、つまり電磁場と電荷の相互作用によるエネルギーの移動を表し、第 2 項が電磁場の変形によって外部へ流出するエネルギーの流量を表している。第 2 項の被積分関数はポインティング・ベクトルとして次のように定義される。",
"title": "電磁気学"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "上の複数の節において、運動エネルギー、位置エネルギー、電磁場のエネルギーなど、物理学で扱うエネルギー概念を挙げた。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そのような物理学的で厳密な分類もあるが、他方で、人々が慣習的に行う やや曖昧な分類もある。熱機関と熱浴との温度の差を利用して取り出されるエネルギーは、ときに熱エネルギーと呼ばれる。また化学ポテンシャルの差を利用して取り出されるエネルギーは化学エネルギーと呼ばれる。他にも、電流によって運ばれるエネルギーは電気エネルギー、電磁波の持つエネルギーや電磁波によって得られるエネルギーは光エネルギー、原子核分裂や原子核融合などの原子核反応によって生じるエネルギーは原子エネルギーなどと呼ばれることがある。これらの呼称は慣習的なもので、物理学とも異なる何らかの視点で分類されたもので、必ずしも厳格に用いられているわけではなく、また一般に通用する厳密な定義も存在しない。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "「エネルギー」はエネルギー資源を指していることもある。産業・運輸・消費生活などに必要な動力の源のことをエネルギー資源と呼んでいる。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "人類が最初に利用したエネルギー源は火である。メソポタミア文明の時代にはすでに水のエネルギー(水力)を利用するために水車が作られており、また風のエネルギーを使用する帆船も移動手段として古代から存在していた。やがて風車が作られることで、移動以外の動力にも風が利用できるようになった。18世紀までは主要なエネルギー源はこういった自然のエネルギーのほか、薪、炭、鯨油などといったものが主であったが、18世紀に入るとイギリスで石炭の利用法の改良が行われ、次いで1765年、ジェームズ・ワットが蒸気機関の改良を行った。これは人類の利用できるエネルギーに革新をもたらし、産業革命の原動力となった。その後、電気エネルギーの実用化が始まり、20世紀に入ると石炭に変わって石油が主に用いられるようになり、また核燃料を利用する原子力エネルギーが実用化された。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2018年には世界のエネルギー消費量は138.6億トンに達し、石油が34%、石炭が27%、天然ガスが24%を占め、8割以上が化石燃料由来のエネルギーとなっている。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "エネルギー消費の構成が急激に大きく変化すること、特に第二次世界大戦後の石炭から石油への急激なエネルギー源の転換などを指して、エネルギー革命と言う。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "エネルギーは「資源」の観点では、石炭や石油のように地球に埋蔵されていて使用すると減少する枯渇性エネルギーと、太陽光・水力・風力など主に太陽の放射エネルギーに基づくもので人間の時間尺度内では半永久的に減ることなく再生される再生可能エネルギーに分類される。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "エネルギー資源はその利用形態による分類としては、自然界に存在する状態のままの1次エネルギー(石炭、原油、水力など)と、それを使用や取り扱いに便利なように変換した2次エネルギー(ガソリン、都市ガス、電力など)に分類される。",
"title": "資源としてのエネルギー"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「省エネ」とはエネルギーの無駄を省いて効率的に使うこと、「創エネ」とは、主として電気を自ら創ること(自家発電すること)、「蓄エネ」とはエネルギーを蓄えること、の総称である。",
"title": "資源としてのエネルギー"
}
] | 物理学において、エネルギーまたはエナジーは、仕事をすることのできる能力のことを指す。物体や系が持っている仕事をする能力の総称。エネルギーのSI単位は、ジュールである。 | {{Otheruses}}
[[物理学]]において、'''エネルギー'''({{Lang-de-short|Energie}})または'''エナジー'''({{Lang-en-short|energy}})は、[[仕事 (物理学)|仕事]]をすることのできる能力のことを指す<ref name="d_daijisen" /><ref name="kojien5" />{{sfn|朝永|1981|p=67}}。物体や系が持っている仕事をする能力の総称<ref name="butsurigakujiten" />。エネルギーの[[SI単位]]は、[[ジュール]](記号:J)である。
== 概説 ==
現在用いられているようなエネルギーという[[概念]]が確立したのは[[19世紀]]後半のことであるが<ref name="sekai_energy">[[#sekaidaihyakka|『世界大百科事典』]]第3巻、pp.613-615、エネルギー。</ref>、概念の確固たる成立はともかくとして、「エネルギー」という用語は、19世紀のはじめ、[[トマス・ヤング]]が1807年に著書『自然哲学講義』({{lang-en-short|A Course of Lectures on Natural Philosophy}}) の中で、従来使われていた「力」を意味するラテン語 {{lang|la|vis}} の代わりとして提案された<ref name="butsurigakujiten" />。
「エネルギー」の語源となった[[ギリシア語]]の {{Lang|el|ἐνέργεια}} ({{lang-*-Latn|el|energeia}}) は、{{Lang|el|ἐνεργός}}({{lang-*-Latn|el|energos}}) に由来する。これは、{{lang|el|ἐν}}(エン)と {{lang|el|ἔργον}}(エルゴン)を組み合わせた語で、{{Lang|el|ἐν}} は[[前置詞]]、{{lang|el|ἔργον}} ({{lang-*-Latn|el|ergon}}) は「[[労働|仕事]]」を意味する語である。つまり、「[[物体]]内部に蓄えられた、仕事をする[[能力]]」という意味の語である。エネルギーという概念は「仕事」という概念と深い関わりがあるのである。
このようにエネルギーという語・概念は「物体が仕事をなし得る能力」を意味したが、その後、[[自然科学]]の説明体系が変化し、[[熱]]・[[光]]・[[電磁気]]もエネルギーを持つことが知られるようになり、さらに、[[質量]]までがエネルギーの一形態である、と理解されるようになった<ref name="kojien5" />。
== エネルギーの単位 ==
{{物理量
| 名称 =
| 英語 = energy
| 画像 =
| 記号 =''E''
| 次元 =[[質量|M]] [[長さ|L]]{{sup|2}} [[時間|T]]{{sup-|2}}
| 階 =スカラー
| SI =[[ジュール]] (J)
| CGS =[[エルグ]] (erg)
| MTS =
| FPS =[[フィート・パウンダル]] (ft·pdl)
| MKSG =[[重量キログラムメートル]] (kgf·m)
| CGSG =
| FPSG =[[フィート重量ポンド]] (ft·lbf)
| プランク =[[プランクエネルギー]] ({{math|''E''{{sub|P}}}})
| 原子 =[[ハートリー]] ({{math|''E''{{sub|h}}}})
}}
{{see also|エネルギーの単位|ジュール|カロリー}}
[[国際単位系]]におけるエネルギー、[[仕事 (物理学)]]および[[熱量]]の[[単位]]は[[ジュール]] (J) である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.106 表4、2020年4月</ref>。日本の[[計量法]]においても、仕事、熱量、[[電力量]]の[[法定計量単位]]は、ジュール、[[ワット秒]]または[[ワット時]]である。
計量法は、[[栄養学]]や[[食品]]の分野における[[熱量]]の計量に限って[[カロリー]] (cal) の使用を認めている。1999年10月以降、カロリーは正確に 4.184 J である<ref>{{Cite web|和書|title=計量単位令(平成四年政令第三百五十七号)別表第6(第5条関係) 第13号|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-17|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。
国際単位系は、カロリーの使用を全く認めていない。1948年の第9回[[国際度量衡総会]]は、「熱測定の実験結果は、できるだけジュールで表すこと、やむなくカロリーで表す場合は、ジュールとの換算値を示すこと」を要請したが<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、pp.128-129、2020年4月</ref>、日本では依然としてカロリーが頻繁に使われている。
エネルギーの単位とその分類は[[国際単位系国際文書]]および計量法の規定によれば、次のようになっている。
* [[SI組立単位]]
** ジュール(J)
** ワット秒(Ws または W・s)= ジュール ([[法定計量単位]])
* [[法定計量単位]]である非SI単位
** ワット時(Wh または W・h) = 3600 J ( [[キロワット時]] (kWh または kW・h) (= 3.6 MJ)は、[[SI接頭語]]を付した単位の一例である。)
* [[SI併用単位]]
** [[電子ボルト]] (eV) = {{Val|1.602176634|e=-19|u=J}}(正確に) (ただし、法定計量単位ではない。)
* [[計量法#用途を限定する非SI単位|特殊の計量に用いる法定計量単位]](「人若しくは動物が摂取する物の熱量又は人若しくは動物が代謝により消費する熱量の計量」に限って使用できる。)
** カロリー(= 4.184 J)、キロカロリー、メガカロリー、ギガカロリー(キロ、メガ、ギガ以外の[[SI接頭語]]を付することはできない。)
* ヤード・ポンド法の単位(航空関係、法定計量単位と併記した輸入品の一部に限られる。)
** [[英熱量]] (Btu) = (正確に)1055.06 J <ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#83 計量単位令] 別表第7、項番14</ref>
* [[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]での使用が禁止されている単位
** [[エルグ]] (erg) = 10<sup>−7</sup> J (1995年9月30日までは、[[法定計量単位]]であった。)
** [[石油換算トン]] (toe) = 41.868 GJ
** [[石炭換算トン]] (tce) = 29.3076 GJ
== 歴史 ==
現代において「エネルギー」という語で呼ばれている概念には、[[ひな形]](あるいは[[萌芽]]と呼んでもよいもの)があり、その概念は、[[ヨーロッパ]][[近世]]においては「エネルギー」とは呼ばれておらず、[[ラテン語]] で {{lang|la|vis}}(ウィス、[[力 (物理学)|力]]の意)と呼ばれていた。この概念が様々な経緯を経て、現在の「エネルギー」という概念に似たものに変化してゆくことになった。
[[1600年]]頃のこと、[[ガリレオ・ガリレイ]]は、[[釘]]の頭に([[金づち]]よりもはるかに)重い物([[石]]など)をのせても、釘は木の中にめりこんでゆかないのに、それよりも軽い金づちでも振って打つだけで、釘が木材に入ってゆく、ということを、ひとつの問題として取り上げ、[[運動 (物理学)|運動]]する物体には何らかの固有の「ちから」がある、との考え方を示した。
[[ルネ・デカルト|デカルト]]は、[[1644年]]に出版された著書において、[[衝突]]という現象においては、物体の[[重さ]]と[[速さ]]の[[積]](現在の式で言えば、おおよそ {{mvar|mv}} に相当するような量)が保存されるとし、この量こそが物体の持つ「ちから」である、と述べ、この量は保存されている、と主張した。
[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は、重さと速さの二乗の積(現在の式で言えば、おおよそ {{math|''mv''{{sup|2}}}} に相当する量)こそが「ちから」である、とし、この量が保存されている、と主張した。なお当時、[[静力学]]の分野では、{{lang|la|vis mortua}}(死んだ力)という概念があったが、その概念と対比ししつつ、ライプニッツはその力 {{math|''mv''{{sup|2}}}} を {{lang|la|vis viva}}(生きている力、'''活力''')と呼んだ。
デカルトの考え方とライプニッツの考え方では、[[数式]]上異なった結論が導き出される。デカルト派の人々とライプニッツ派の人々の間で「ちから」の解釈に関する論争が起き、この論争は実に50年ほども続いた。この論争を'''活力論争'''<ref group="注">{{lang-en-short|the {{lang|la|vis viva}} dispute}}</ref>と言う。
この問題について[[レオンハルト・オイラー]]は、1745-50年頃執筆された手稿「自然哲学序説」の中で (1) 両主張の差異は運動と力の関係を同一時間で比較するのか(<math>mv</math>)または同一距離で比較するのか(<math>mv^2</math>)の違いであること、(2) 慣性を物体に内在する「力」に置き換えることが誤りであること、を示している<ref> 山本義隆、『古典力学の形成 ニュートンからラグランジュへ』、日本評論社 (1997)、pp.181-184。</ref>。
その後、[[ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]]が、活力が <math>mv^2/2</math> であることを示した<ref name="butsurigakujiten" />。これは、今日で言うところの「[[運動エネルギー]]」に相当することになる<ref name="butsurigakujiten" />。
一方、1840年代に入ると[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー|ロベルト・マイヤー]]や[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]が[[エネルギー保存の法則]]の存在に気づき、1847年に[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]がこれを熱力学の第一法則とし、1850年には[[ルドルフ・クラウジウス]]が熱力学の第一法則の定式化を行った。また、1824年には[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]が[[熱力学第二法則]]につながる発見をし、1850年代にはクラウジウスと[[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)がそれぞれ独自に熱力学第二法則を導きだした<ref>「はじめて学ぶ科学史」p89-92 山中康資 共立出版 2014年9月25日初版1刷</ref>。
{{see also|熱の仕事当量|エネルギー保存の法則}}
== 熱力学 ==
[[熱力学]]において、ある条件の元で仕事として取り出すことのできるエネルギーとして[[自由エネルギー]]が定義される。自由エネルギーには、[[ヘルムホルツの自由エネルギー]]と[[ギブズの自由エネルギー]]の 2 つがある。'''ヘルムホルツの自由エネルギー'''<ref group="注">{{lang-en-short|Helmholtz free energy}}</ref>は等温操作によって熱力学系から得られる仕事の最大値として定義される。'''ギブズの自由エネルギー'''<ref group="注">{{lang-en-short|Gibbs free energy}}</ref>は等温等圧操作によって得られる仕事の最大値を与える。
自由エネルギーは、適切な変数の下では[[平衡状態]]の熱力学系のすべての情報を持った[[関数 (数学)|関数]]、すなわち[[熱力学ポテンシャル]]となる。また、平衡状態は自由エネルギーが[[極値|極小]]である状態として実現する。このように、自由エネルギーは理論的な道具として良い性質を持った量である。
一方、[[工学]]などの応用領域においては、熱力学系で'''[[仕事 (物理学)|仕事]]に寄与する'''有効エネルギーのみに意味があり、それを評価する量として'''[[エクセルギー]]'''<ref group="注">{{lang-en-short|exergy}}</ref>が考案されている。反対に、熱力学系の仕事に寄与せず捨てられる無効エネルギーを'''アネルギー'''と呼ぶ。[[カルノーサイクル|カルノー効率]]によれば、エクセルギーとアネルギーの発生割合は、高温側の熱源と低温側の熱源の温度比のみで規定されている。
{{see also|自由エネルギー|エクセルギー}}
== 古典力学 ==
{{古典力学}}
[[力学]]においては、[[質点]]の持つエネルギーは[[運動エネルギー]]と[[位置エネルギー]]に分類される。'''運動エネルギー'''は粒子の[[運動量]]に依存するエネルギーで、[[ニュートン力学]]では
:<math>K(\boldsymbol{p})
:=\frac{\left|\boldsymbol{p}\right|^2\!\!}{2m}\,
\overset{\boldsymbol{p}=m\boldsymbol{v}}{=\!=}\,\frac{1}{2}m|\boldsymbol{v}|^2</math>
と定義される。ここで {{mvar|K}} は運動エネルギー、{{mvar|'''p'''}} は運動量、{{mvar|m}} は[[質量]]、{{mvar|'''v'''}} は速度である。また、{{math|{{!}}·{{!}}}} は[[絶対値]]を表し、太字の量は[[ベクトル量]]を表す。
'''位置エネルギー'''は質点の位置に依存するエネルギーで、特に質点が持つ位置エネルギーは、その質点の位置を変数とする[[関数 (数学)|関数]]として定義される。
位置エネルギーを表す文字としては、しばしば {{mvar|V}} や {{mvar|U}}、{{math|Φ}} や {{mvar|φ}} が用いられる。
粒子の持つエネルギーを一般化して、1 つの力学系に対してエネルギーを定義できる。
運動エネルギーに関しては、各粒子が持つ運動エネルギーの和が系の運動エネルギーに対応する。
:<math>K(\boldsymbol{p}_1,\dots,\boldsymbol{p}_N)=\sum_{i=1}^N\frac{|\boldsymbol{p}_i|^2\!\!}{2m_i}.</math>
ここで {{mvar|N}} は系の粒子数であり、{{mvar|'''p'''{{sub|i}}}} は {{mvar|i}} 番目の粒子の運動量、{{mvar|m{{sub|i}}}} は {{mvar|i}} 番目の粒子の質量である。
位置エネルギーは、各粒子の位置を変数とする関数として定義される。多くの場合、位置エネルギーは 1 体の[[ポテンシャル]]と 2 体のポテンシャルを用いて、
:<math>\Phi(\boldsymbol{r}_1,\dots,\boldsymbol{r}_N)
= \left\{\sum_{i=1}^N\phi_1(\boldsymbol{r}_i)\right\}
+ \left\{\sum_{i<j}\phi_2(\boldsymbol{r}_i,\boldsymbol{r}_j)\right\}</math>
と書き表すことができる。ここで {{math|Φ}} は系の位置エネルギー、{{math|''φ''{{sub|1}}}} は 1 体のポテンシャル、{{math|''φ''{{sub|2}}}} は 2 体のポテンシャルであり、{{mvar|'''r'''{{sub|i}}}} は {{mvar|i}} 番目の粒子の位置を表す。
力学において定義されるこれらのエネルギーの総和は、熱力学における定義と対比して、しばしば'''[[力学的エネルギー]]'''と呼ばれる。
力学的エネルギーの変化量が、系が外界に対してなした仕事に等しい場合、「力学的エネルギーは保存している」と言い、これを'''力学的エネルギー保存則'''と呼ぶ。力学的エネルギーが保存しない系は、たとえば粒子に対して[[摩擦力]]が働く系や粒子が[[衝突|非弾性衝突]]をする系である。[[還元主義]]の立場では、このエネルギーの損失は、粒子やそれが運動する[[媒質]]などの[[自由度|内部自由度]]を記述し切れていないことに起因すると考えられている。
{{see also|力学的エネルギー|エネルギー保存の法則}}
== 相対性理論 ==
{{Main|相対論的エネルギー}}
[[アインシュタイン]]による[[相対性理論]]において、物体が持つ[[運動エネルギー]]は下の式である。
: <math>K = \sqrt{ m^2c^4+ \left|\boldsymbol{p} \right|^2c^2 }
=\frac{mc^2}{\sqrt{1-\frac{\left|\boldsymbol{v} \right|^2}{c^2}}}</math>
== 量子力学 ==
[[量子力学]]において、[[物理量]]や[[オブザーバブル|可観測量]]は通常の[[実数]]を用いては必ずしも表現できず、[[作用素|演算子]]を用いて表現される{{sfn|江沢|2002|pp=112-116|loc=§6.3 観測}}{{sfn|須藤|2008|pp=177-180|12.3 演算子と固有値・固有ベクトル}}。系の力学的なエネルギーは、古典論における[[解析力学]]と同様に系全体の[[ハミルトニアン]]によって表されるが、量子力学ではハミルトニアンは[[状態ベクトル]]に作用する演算子となる{{sfn|江沢|2002|pp=127-128|loc=§7.1 定常状態}}。測定によって得られる値は、そのハミルトニアンの[[固有状態]]に対応した[[固有値]]として与えられる{{sfn|江沢|2002|pp=121-122; 127-128|loc=§6.3 観測; §7.1 定常状態}}<ref group="注">系全体のハミルトニアンの固有状態を特に[[エネルギー固有状態]]と呼び、固有値を[[エネルギー固有値]]と呼ぶ。エネルギー固有状態とは、エネルギーがある 1 つの値に定まった状態を指し、エネルギー固有値はそのときの系のエネルギーに等しい。</ref>。ある系について、エネルギーを測定できる限りにおいて、[[エネルギー固有値]]は実数に限られるため、系全体のハミルトニアンは[[自己共役作用素|エルミート演算子]]でなければならない。
[[相対性理論|非相対論的]]な量子力学では、[[正準交換関係]]を通じて[[運動量]]を演算子に置き換えることで、'''運動エネルギー'''は、
:<math>K(\boldsymbol{p}) \to \hat{K}(\hat{\boldsymbol p})
=\frac{\hat{\boldsymbol p}^2\!\!}{2m}</math>
と定義される{{sfn|江沢|2002|pp=100-103|loc=§6.1 物理量を表す演算子}}。ここで {{math|{{hat|''K''}}}} は運動エネルギー演算子、{{math|{{hat|'''''p'''''}}}} は運動量演算子である。運動エネルギーを表す文字としてはしばしば {{mvar|K}} や {{mvar|T}} が用いられる。
'''位置エネルギー'''も同様に位置演算子の関数に置き換えられる{{sfn|江沢|2002|pp=100-103|loc=§6.1 物理量を表す演算子}}。
:<math>V(\boldsymbol{r}) \to \hat{V}(\hat{\boldsymbol r}).</math>
ここで {{math|''V'', {{hat|''V''}}}} は位置エネルギーおよび位置エネルギー演算子、{{math|'''''r''''', {{hat|'''''r'''''}}}} は粒子の位置および位置演算子である。
1 粒子系のハミルトニアン {{math|{{hat|''H''}}}} は運動エネルギーと位置エネルギーの和として与えられる。
:<math>\hat{H}(\hat{\boldsymbol p},\hat{\boldsymbol r}) = \hat{K}(\hat{\boldsymbol p}) + \hat{V}(\hat{\boldsymbol r})
= \frac{\hat{\boldsymbol p}^2\!\!}{2m} + \hat{V}(\hat{\boldsymbol r}).</math>
量子力学においては、古典力学とは異なり、定常状態でとり得るエネルギー固有値 {{mvar|E}} は非負でなければならず、固有値は必ずしも連続的ではなくなる<ref name="sekai_energy" />。エネルギーの値がこのように離散的になることの効果が、特に低温での熱的な性質に顕著に現れる<ref name="sekai_energy" />。
{{see also|ハミルトニアン|固有状態|固有値}}
== 電磁気学 ==
[[電磁気学]]において、[[電磁場]]のエネルギーは、現象論的な[[マクスウェルの方程式]]から
:<math>U(t)= \int_V \frac{1}{2}\left(
\boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t)\cdot\boldsymbol{D}(\boldsymbol{r},t)
+ \boldsymbol{H}(\boldsymbol{r},t)\cdot\boldsymbol{B}(\boldsymbol{r},t)
\right)\mathrm{d}^3\boldsymbol{r}</math>
と与えられる{{sfn|砂川|1987|pp=227-229|loc=第 5 章 マクスウェルの方程式 §2 電磁場のエネルギーと運動量}}。ここで {{mvar|'''E'''}} は[[電場]]、{{mvar|'''D'''}} は[[電束密度]]、{{mvar|'''H'''}} は[[磁場]]、{{mvar|'''B'''}} は[[磁束密度]]である。また、{{math|'''·'''}} は[[点乗積|ベクトルの内積]]、{{mvar|V}} は空間全体およびその体積を表す。特に、真空中では電束密度 {{mvar|'''D'''}} および磁場 {{mvar|'''H'''}} はそれぞれ電場 {{mvar|'''E'''}} と磁束密度 {{mvar|'''B'''}} で置き換えられ、[[国際単位系]]を用いれば、[[誘電率|真空中の誘電率]] {{math|''ε''{{sub|0}}}} および[[透磁率|真空中の透磁率]] {{math|''μ''{{sub|0}}}} を用いて、
:<math>U(t)= \int_V \frac{1}{2}\left(\varepsilon_0 \boldsymbol{E}^2(\boldsymbol{r},t)
+ \frac{1}{\mu_0}\boldsymbol{B}^2(\boldsymbol{r},t)
\right)\mathrm{d}^3\boldsymbol{r}</math>
と表すことができる。また、被積分関数である、電場と電束密度の[[内積]] {{math|'''''E''''' · '''''D'''''}}、および磁場と磁束密度の内積 {{math|'''''H''''' · '''''B'''''}} の和は<ref group="注">正確にはその {{math|{{sfrac|1|2}}}}。</ref>、電磁場のエネルギー密度を与える{{sfn|砂川|1987|pp=74-75|loc=第 1 章 静電場 §6 静電場のエネルギーとマクスウェルの応力}}。
:<math>u(\boldsymbol{r},t) = \frac{1}{2}\left(
\boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t)\cdot\boldsymbol{D}(\boldsymbol{r},t)
+ \boldsymbol{H}(\boldsymbol{r},t)\cdot\boldsymbol{B}(\boldsymbol{r},t)
\right).</math>
真空中のエネルギー密度は、
:<math>u(\boldsymbol{r},t) = \frac{1}{2}\left(
\varepsilon_0\boldsymbol{E}^2(\boldsymbol{r},t) + \frac{1}{\mu_0}\boldsymbol{B}^2(\boldsymbol{r},t)
\right).</math>
である。すなわち、電磁場のエネルギー密度は電磁場の大きさの[[自乗|二乗]]に比例する。
ある空間における電磁場のエネルギーについて、その時間的変化は電場が電荷に対してなす力学的な[[仕事 (物理学)|仕事]]と、[[電磁波]]として運ばれるものに分けられる{{sfn|砂川|1987|pp=227-229; 284-286|loc=第 5 章 マクスウェルの方程式 §2 電磁場のエネルギーと運動量; 第 7 章 電磁波とその放射 §1 自由空間における電磁波}}。前者の[[電荷]]に対する電磁場がなす仕事やそれによって生じる[[熱]]は[[ジュール熱]]と呼ばれる{{sfn|砂川|1987|pp=111-112; 229-233|loc=第 2 章 定常電流 §2 オームの法則; 第 5 章 マクスウェルの方程式 §2 電磁場のエネルギーと運動量}}。
:<math>-\frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t}\int_V u(\boldsymbol{r},t)\mathrm{d}^3\boldsymbol{r}
= \int_V \boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t)\cdot\boldsymbol{j}(\boldsymbol{r},t) \mathrm{d}^3\boldsymbol{r}
+ \int_A \left(\boldsymbol{E}(\boldsymbol{r}_A,t)\times\boldsymbol{H}(\boldsymbol{r}_A,t)\right)\cdot \boldsymbol{n}(\boldsymbol{r}_A)\mathrm{d}A
.</math>
ここで {{mvar|'''j'''}} は[[電流密度]]、{{mvar|A}} は領域 {{mvar|V}} の表面およびその面積を表す。また、{{math|'''''r'''<sub>A</sub>''}} は表面 {{mvar|A}} 上の点を、{{mvar|'''n'''}} は表面に垂直で領域の外を向いた[[単位ベクトル]]を表している。右辺の第 1 項がジュール熱、つまり電磁場と電荷の相互作用によるエネルギーの移動を表し、第 2 項が電磁場の変形によって外部へ流出するエネルギーの流量を表している。第 2 項の被積分関数は[[ポインティング・ベクトル]]として次のように定義される{{sfn|砂川|1987|pp=229-233; 284-286|loc=第 5 章 マクスウェルの方程式 §2 電磁場のエネルギーと運動量; 第 7 章 電磁波とその放射 §1 自由空間における電磁波}}。
:<math>\boldsymbol{S}(\boldsymbol{r},t)
= \boldsymbol{E}(\boldsymbol{r},t)\times\boldsymbol{H}(\boldsymbol{r},t)
.</math>
== 種類・分類 ==
<!--=== 移動形態や保存形態による分類 ===-->
上の複数の節において、運動エネルギー、位置エネルギー、電磁場のエネルギーなど、物理学で扱うエネルギー概念を挙げた。
そのような物理学的で厳密な分類もあるが、他方で、人々が慣習的に行う やや曖昧な分類もある。熱機関と熱浴との[[熱力学的温度|温度]]の差を利用して取り出されるエネルギーは、ときに'''熱エネルギー'''と呼ばれる。また[[化学ポテンシャル]]の差を利用して取り出されるエネルギーは'''化学エネルギー'''と呼ばれる。他にも、[[電流]]によって運ばれるエネルギーは'''電気エネルギー'''、[[電磁波]]の持つエネルギーや電磁波によって得られるエネルギーは'''光エネルギー'''、[[原子核分裂]]や[[原子核融合]]などの[[原子核反応]]によって生じるエネルギーは'''[[原子エネルギー]]'''などと呼ばれることがある。これらの呼称は慣習的なもので、物理学とも異なる何らかの視点で分類されたもので、必ずしも厳格に用いられているわけではなく、また一般に通用する厳密な定義も存在しない。
{{div col}}
* [[力学的エネルギー]](機械的エネルギー)
** [[運動エネルギー]]
** [[位置エネルギー]]([[ポテンシャル]]エネルギー)
*** [[重力ポテンシャル]](重力による位置エネルギー)
*** [[弾性エネルギー]]
* [[化学エネルギー]]
** [[イオン化エネルギー]]
* [[原子核エネルギー]]
* [[熱エネルギー]]
* [[光エネルギー]]
* [[電気|電気エネルギー]]
* [[静止エネルギー]]
* [[音波|音エネルギー]]
* [[ダークエネルギー]]
{{div col end}}
== 資源としてのエネルギー ==
{{Main|エネルギー資源}}
「エネルギー」はエネルギー資源を指していることもある。産業・運輸・消費生活などに必要な動力の源のことを[[エネルギー資源]]と呼んでいる<ref name="d_daijisen" />。
=== エネルギー資源の歴史 ===
人類が最初に利用したエネルギー源は[[火]]である。[[メソポタミア]]文明の時代にはすでに水のエネルギー([[水力]])を利用するために[[水車]]が作られており、また[[風]]のエネルギーを使用する[[帆船]]も移動手段として古代から存在していた。やがて[[風車]]が作られることで、移動以外の動力にも風が利用できるようになった<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p145-148 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。[[18世紀]]までは主要なエネルギー源はこういった自然のエネルギーのほか、[[薪]]、[[炭]]、[[鯨油]]などといったものが主であったが、18世紀に入るとイギリスで[[石炭]]の利用法の改良が行われ、次いで[[1765年]]、[[ジェームズ・ワット]]が[[蒸気機関]]の改良を行った<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p160-161 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。これは人類の利用できるエネルギーに革新をもたらし、[[産業革命]]の原動力となった。その後、[[電気]]エネルギーの実用化が始まり、20世紀に入ると石炭に変わって[[石油]]が主に用いられるようになり、また[[核燃料]]を利用する[[原子力]]エネルギーが実用化された<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p185 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。
2018年には世界のエネルギー消費量は138.6億トンに達し、[[石油]]が34%、[[石炭]]が27%、[[天然ガス]]が24%を占め、8割以上が[[化石燃料]]由来のエネルギーとなっている<ref>https://www.fepc.or.jp/enterprise/jigyou/world/index.html 「世界のエネルギー消費と資源」電気事業連合会 2019年11月26日閲覧</ref>。
エネルギー消費の構成が急激に大きく変化すること、特に[[第二次世界大戦]]後の石炭から石油への急激なエネルギー源の転換などを指して<ref name="sekai_e_revo" />、[[エネルギー革命]]と言う<ref name="sekai_e_revo" />。
=== エネルギー資源の分類 ===
エネルギーは「資源」の観点では、石炭や石油のように地球に埋蔵されていて使用すると減少する'''[[枯渇性エネルギー]]'''と、太陽光・水力・風力など主に太陽の放射エネルギーに基づくもので人間の時間尺度内では半永久的に減ることなく再生される'''[[再生可能エネルギー]]'''に分類される<ref>{{Cite book |和書 |author=八坂保能編著 |year=2017 |title=電気エネルギー工学 新装版 発電から送配電まで |publisher=森北出版 |pages=5-6}}</ref>。
エネルギー資源はその利用形態による分類としては、自然界に存在する状態のままの1次エネルギー(石炭、原油、水力など)と、それを使用や取り扱いに便利なように変換した2次エネルギー(ガソリン、都市ガス、電力など)に分類される<ref>{{Cite book |和書 |author=八坂保能編著 |year=2017 |title=電気エネルギー工学 新装版 発電から送配電まで |publisher=森北出版 |page=6}}</ref>。
=== 省エネ、創エネ、蓄エネ ===
「[[省エネ]]」とはエネルギーの無駄を省いて効率的に使うこと、「創エネ」とは、主として電気を自ら創ること([[自家発電]]すること)、「[[蓄エネ]]」とはエネルギーを蓄えること、の総称である<ref>[https://j-net21.smrj.go.jp/development/energyeff/Q1237.html]</ref>。
== 換算表 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
|+ 主なエネルギーの換算表<ref>{{Cite web
|author = [[国際エネルギー機関|International Energy Agency (IEA)]]
|date =
|url = http://www.iea.org/stats/unit.asp
|title = Unit Converter
|work =
|publisher =
|language = 英語
|accessdate = 2012-04-29
}}</ref>
! !! toe<br><small>(石油換算トン)</small> !! tce<br><small>(石炭換算トン)</small>
! MBtu !! Gcal !! MWh !! GJ
|-
! toe
| 1 || 0.7 || 0.0252 || 0.0999 || 0.0860 || 0.0239
|-
! tce
| 1.428 6 || 1 || 0.0360 || 0.1428 || 0.1228 || 0.0341
|-
! MBtu
| 39.683 || 27.778 || 1 || 0.2778 || 0.0239 || 0.9478
|-
! Gcal
| 10.007 || 7.0049 || 0.2522 || 1 || 0.8604 || 0.2390
|-
! MWh
| 11.630 || 8.1410 || 0.2931 || 1.1622 || 1 || 0.2778
|-
! GJ
| 41.868 || 29.307 6 || 1.055 055 852 62 || 4.184 || 3.6 || 1
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2|refs=
<ref name="d_daijisen">[[#daijisen|小学館『デジタル大辞泉』]]。</ref>
<ref name="butsurigakujiten">[[#butsurigakujiten|培風館『物理学辞典』(1998)]]、pp.191-193。</ref>
<ref name="kojien5">[[#kojien5|岩波書店『広辞苑』]]、第5版、301頁、「エネルギー」。</ref>
<!--
<ref name="sekai_e_resource">{{Cite book|和書
|title = [[世界大百科事典]]
|publisher = [[平凡社]]
|volume = 3
|page = 616
|chapter = エネルギー資源
}}</ref>
-->
<ref name="sekai_e_revo">{{Cite book|和書
|title = [[世界大百科事典]]
|publisher = [[平凡社]]
|volume = 3
|page = 615
|chapter = エネルギー革命
}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|last=江沢|first=洋|authorlink=江沢洋|title=量子力学 I|publisher=裳華房|date=2002-4-15|isbn=978-4-7853-2206-9|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=須藤|first=靖|title=解析力学・量子論|date=2008-9-5|publisher=東京大学出版会|isbn=978-4-13-062610-1|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=砂川|first=重信|authorlink=砂川重信|title=電磁気学|series=物理テキストシリーズ 4|publisher=岩波書店|date=1987-1-29|edition=新装版|isbn=4-00-007744-9|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=朝永|first=振一郎|authorlink = 朝永振一郎|title=物理学読本|edition=第2|date=1981|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02503-5|ref=harv}}
* {{cite|和書|title=物理学辞典|publisher=培風館|year=1998|ref=butsurigakujiten}}
* {{Cite|和書|title=[[デジタル大辞泉]]|publisher=[[小学館]]|ref=daijisen}}
* {{Cite book|和書|editor=新村出|editor-link=新村出|title=[[広辞苑]]|edition=第5版|year=1998|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-080111-2|ref=kojien5}}
* {{Cite book|和書|title=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|volume=3|ref=sekaidaihyakka}}
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357 計量単位令(平成四年十一月十八日政令第三百五十七号)]
* {{PDFlink|[https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系 (SI) 第 8 版日本語版]}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|エネルギー}}
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Energy}}
* [[熱力学ポテンシャル]]
* [[内部エネルギー]]
* [[変分法]]
* [[変分原理]]
* [[ディリクレエネルギー]]
* [[エネルギーの比較]]
* [[エネルギー資源]]
* [[日本エネルギー学会]]
* [[エネルギー自給率]]
* [[エネルギー安全保障]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{古典力学のSI単位}}
{{自然}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:えねるきい}}
[[Category:エネルギー|*]]
[[Category:物理量]]
[[Category:物理学]]
[[Category:資源]]
[[Category:ドイツ語の語句]] | 2003-03-28T07:02:32Z | 2023-10-15T03:00:21Z | false | false | false | [
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"Template:Wiktionary"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC |
5,398 | 新エネルギー | 新エネルギー()とは、日本においてエネルギーの一種を指し、概ね既存の枯渇性エネルギーを代替するとされる再生可能エネルギーを指す。
公的には日本における新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法(新エネルギー法)において「新エネルギー利用等」として定義され、同法に基づき政令で指定されるものを指す。具体的にはバイオマス、太陽熱利用、雪氷熱利用、地熱発電、風力発電、太陽光発電などを指す。
ほぼ日本のみで用いられる概念だが、世界的には代替エネルギー (alternative energy) の概念に近い。
新エネルギー法の第2条において、「新エネルギー利用等」として定義されている。具体的な要件は以下のとおりである。
石油代替エネルギーの製造・発生・利用のうち、
法律上の定義では、再生可能エネルギーでない廃棄物発電や、一般的な「エネルギー」という言葉の用法には当てはまらない天然ガスコージェネレーション(→コジェネレーション)や燃料電池といったエネルギーの有効利用技術も当てはまるが、現在政令で指定されているものは、再生可能エネルギーに限られている。しかしながら、法律上の位置づけはあくまで「石油代替」であり、地球温暖化の防止などの環境対策の観点は含まれていない。
新エネルギー法は1997年に成立した。2008年の政令改正までは、廃棄物発電、天然ガスコージェネレーションや燃料電池なども含まれていた。2006年の経済産業省総合エネルギー調査会新エネルギー部会において、国際的に「再生可能エネルギー」という概念の認知度が高まっていることなどを踏まえて、新エネルギーの概念と再生可能エネルギーの概念の整理をすべきとの議論がなされた。その後、同年11月に公表された「総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会中間報告」において、「「新エネルギー」の概念については、今後は、再生可能エネルギーのうち、その普及のために支援を必要とするものとして整理することが適切である」とされた。それらを踏まえ、2008年4月に政令が改正され、現在指定されているものは再生可能エネルギーに限られている。
ほぼ同様の意味をさして使われる言葉として代替エネルギー (Alternative energy) がある。こちらは現在主力として使われるエネルギー資源にかわる新しい資源という意味である。新エネルギーが公的機関において良く用いられるのに対し、こちらは民間で良く見られる言葉である。ただし日本では「石油代替」の意味で石炭・天然ガス・原子力を含む場合があるが、日本以外では通常これらを含まないため、使用には注意が必要である。
新エネルギーあるいは代替エネルギーとされるものの多くが、再生可能エネルギー (Renewable energy) と呼ばれるものである。なお、再生可能エネルギーに対し、前述の有限のエネルギー資源を枯渇性エネルギーと呼ぶ。
そのまま英語に置き換えると new energy となる。これは再生可能エネルギーの意味のみでなく、単に「新しい」という意味で枯渇性エネルギーを含む新方式のエネルギー源全般に利用できるため、語義が不明確となり、英語としては通じない。再生可能エネルギーと同義で使われる場合は renewable energy か renewable energy sources と訳すが妥当で、その他の場合は new energy sources, new sources of energy とするほうがよさそう。ただし、new energy sourcesなどでは、再生可能エネルギーの意味が弱まり、伝わりにくくなってしまう。
「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法施行令」(2015年4月1日改正施行)で指定されているものは、以下の通りである。
我々の周りにはいくつかのエネルギー資源が存在するが、水力・風力・太陽熱など古来から使われていたものの改良や、生物(バイオマス)、地熱、波力、海洋温度差、太陽光発電といった近年の科学によって開発されたものが新エネルギーである。現在主力となっている化石燃料によるエネルギーはいずれは枯渇する有限の資源である。化石燃料や原子力エネルギーには環境への影響などに大きな問題があり、新エネルギーの開発は国際的にも重要な課題になっている。
1998年時点でのエネルギー資源の内訳は以下の通り。
実に全体の3/4以上を枯渇性エネルギーに頼っており、特に運輸の分野ではそのほとんどを石油に頼っている。新エネルギーはその定義上、いずれもまだ黎明期を脱していないが、潜在的な利用可能量は大きいと見込まれている。さまざまな新エネルギーについて、開発と利用が並行して進められている。
新エネルギーは地球温暖化への対策の一環として積極的な利用が進められ、将来は世界のエネルギーの数割が再生可能エネルギーで賄われるとも予測されている。再生可能エネルギー#利用状況と見通しを参照。
新エネルギーの特性を生かして、分散型電源として活用する試みも盛んである。(分散型電源を参照。) | [
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] | 新エネルギーとは、日本においてエネルギーの一種を指し、概ね既存の枯渇性エネルギーを代替するとされる再生可能エネルギーを指す。 公的には日本における新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法(新エネルギー法)において「新エネルギー利用等」として定義され、同法に基づき政令で指定されるものを指す。具体的にはバイオマス、太陽熱利用、雪氷熱利用、地熱発電、風力発電、太陽光発電などを指す。 ほぼ日本のみで用いられる概念だが、世界的には代替エネルギー の概念に近い。 | {{読み仮名|'''新エネルギー'''|しんエネルギー}}とは、[[日本]]において[[エネルギー]]の一種を指し、概ね既存の[[枯渇性エネルギー]]を代替するとされる[[再生可能エネルギー]]を指す。
公的には[[日本]]における[[新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法]](新エネルギー法)において「新エネルギー利用等」として定義され、同法に基づき政令で指定されるものを指す。具体的には[[バイオマス]]、[[太陽熱利用]]、[[雪氷熱利用]]、[[地熱発電]]、[[風力発電]]、[[太陽光発電]]などを指す。
ほぼ日本のみで用いられる概念だが、世界的には'''代替エネルギー''' (alternative energy) の概念に近い。
== 語義・定義 ==
新エネルギー法の第2条において、「新エネルギー利用等」として定義されている。具体的な要件は以下のとおりである。
石油代替エネルギーの製造・発生・利用のうち、
* 経済性の面における制約から普及が十分でないものであって、
* その促進を図ることが石油代替エネルギーの導入を図るため特に必要なものとして政令で定めるもの
法律上の定義では、[[再生可能エネルギー]]でない廃棄物発電や、一般的な「エネルギー」という言葉の用法には当てはまらない天然ガスコージェネレーション(→[[コジェネレーション]])や[[燃料電池]]といったエネルギーの有効利用技術も当てはまるが、現在政令で指定されているものは、再生可能エネルギーに限られている。しかしながら、法律上の位置づけはあくまで「石油代替」であり、地球温暖化の防止などの環境対策の観点は含まれていない。
=== 歴史的推移 ===
新エネルギー法は1997年に成立した。2008年の政令改正までは、[[廃棄物発電]]、[[天然ガスコージェネレーション]]や[[燃料電池]]なども含まれていた<ref name="NEDO">[http://www.nedo.go.jp/nedohokkaido/kitanodaichi/siryo/siryo02.html 北の大地web版]([[NEDO]]北海道支部)</ref>。2006年の経済産業省総合エネルギー調査会新エネルギー部会において、国際的に「[[再生可能エネルギー]]」という概念の認知度が高まっていることなどを踏まえて、新エネルギーの概念と再生可能エネルギーの概念の整理をすべきとの議論がなされた<ref name="meti1">[http://www.meti.go.jp/committee/summary/0003527/index.html 総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会(第15回)議事録(2006年3月24日)]</ref>。その後、同年11月に公表された「総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会中間報告」において、「「新エネルギー」の概念については、今後は、再生可能エネルギーのうち、その普及のために支援を必要とするものとして整理することが適切である」とされた<ref name="meti2">[http://www.meti.go.jp/report/downloadfiles/g70501a01j.pdf 総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会中間報告(2006年11月)]</ref>。それらを踏まえ、2008年4月に政令が改正され、現在指定されているものは[[再生可能エネルギー]]に限られている<ref name="enecho">[http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2007energyhtml/html/2-1-3-5.html エネルギー白書2007年版第二部] ([[資源エネルギー庁]])</ref><ref name="meti3">[http://www.meti.go.jp/press/20080129002/20080129002.html 「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法施行令の一部を改正する政令」について]</ref>。
=== 類義語 ===
ほぼ同様の意味をさして使われる言葉として'''代替エネルギー''' (Alternative energy) がある。こちらは現在主力として使われるエネルギー資源にかわる新しい[[資源]]という意味である。新エネルギーが公的機関において良く用いられるのに対し、こちらは民間で良く見られる言葉である。ただし日本では「石油代替」の意味で石炭・天然ガス・原子力を含む場合があるが、日本以外では通常これらを含まないため、使用には注意が必要である。
新エネルギーあるいは代替エネルギーとされるものの多くが、'''[[再生可能エネルギー]]''' (Renewable energy) と呼ばれるものである。なお、再生可能エネルギーに対し、前述の有限のエネルギー資源を'''枯渇性エネルギー'''と呼ぶ。
=== 他国語への翻訳 ===
そのまま英語に置き換えると new energy となる。これは[[再生可能エネルギー]]の意味<ref name="NewEnergy">例えば、[http://www.newenergy.info New Energy]という再生可能エネルギー専門誌が存在する。</ref>のみでなく、単に「新しい」という意味で[[枯渇性エネルギー]]を含む新方式のエネルギー源全般に利用できるため、語義が[[不明確]]となり、英語としては通じない。再生可能エネルギーと同義で使われる場合は renewable energy か renewable energy sources と訳すが妥当で、その他の場合は new energy sources, new sources of energy とするほうがよさそう。ただし、new energy sourcesなどでは、再生可能エネルギーの意味が弱まり、伝わりにくくなってしまう。
== 現行の新エネルギー ==
「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法施行令」(2015年4月1日改正施行)<ref>{{Cite web|和書| title = 新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法施行令(平成九年政令第二百八号)|website=e-Gov法令検索| publisher =総務省行政管理局 | url = https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=409CO0000000208| accessdate = 2020-01-20}}</ref>で指定されているものは、以下の通りである。
# [[太陽光発電]]
# [[太陽熱利用]](給湯、暖房、冷房その他の用途)
# [[風力発電]]
# [[雪氷熱利用]]
# [[バイオマス]]発電
# バイオマス熱利用
# バイオマス燃料製造([[アルコール燃料]]、[[バイオディーゼル]]、[[バイオガス]]など多数)
# [[塩分濃度差発電]]
# [[温度差エネルギー]]
# [[地熱発電]](バイナリ方式のものに限る)
# 未利用水力を利用する[[水力発電]](1,000kW 以下のものに限る)
== 現状と将来 ==
[[Image:世界のエネルギー消費の予測1980-2030.JPG|thumb|300px|right|黄色が高成長経済の結果需要がさらに高くなった場合の予測値。青は予想の中央値。赤は経済があまり伸びなかった場合の需要予測値<ref>{{Cite web|url=http://www.eia.doe.gov/oiaf/ieo/pdf/0484(2007).pdf|title=International Energy Outlook 2007|format=pdf|publisher=U.S. Energy Information Administration (EIA)|date=2007-05|accessdate=2022-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080916061747/http://www.eia.doe.gov/oiaf/ieo/pdf/0484(2007).pdf|archivedate=2008-09-16}}</ref>]]
我々の周りにはいくつかのエネルギー資源が存在するが、[[水力]]・[[風力]]・[[太陽熱エネルギー|太陽熱]]など古来から使われていたものの改良や、生物([[バイオマス]])、[[地熱]]、[[波力]]、[[海洋温度差]]、[[太陽光発電]]といった近年の科学によって開発されたものが新エネルギーである。現在主力となっている[[化石燃料]]によるエネルギーはいずれは枯渇する有限の資源である。化石燃料や原子力エネルギーには環境への影響などに大きな問題があり、新エネルギーの開発は国際的にも重要な課題になっている。
1998年時点でのエネルギー資源の内訳は以下の通り<ref>[http://energy.cr.usgs.gov/energy/stats_ctry/Stat1.html United States Energy and World Energy Production and Consumption Statistics]</ref>。
* 石油 40%
* 天然ガス 22.5%
* 石炭 23.3%
* 原子力 6.5%
* 水力 7.0%
* [[再生可能エネルギー]] 0.7%
実に全体の3/4以上を枯渇性エネルギーに頼っており、特に運輸の分野ではそのほとんどを石油に頼っている。新エネルギーはその定義上、いずれもまだ黎明期を脱していないが、潜在的な利用可能量は大きいと見込まれている。さまざまな新エネルギーについて、開発と利用が並行して進められている。
新エネルギーは[[地球温暖化への対策]]の一環として積極的な利用が進められ、将来は世界のエネルギーの数割が再生可能エネルギーで賄われるとも予測されている。[[再生可能エネルギー#利用状況と見通し]]を参照。
新エネルギーの特性を生かして、[[分散型電源]]として活用する試みも盛んである。([[分散型電源]]を参照。)
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[エネルギー]]
* [[省エネルギー]]
* [[再生可能エネルギー]]
* [[メタンハイドレート]]
* [[常温核融合]]
* [[原子核融合]]
* [[循環型社会]]
* [[環境問題]]
* [[地球温暖化]]
* [[原子力撤廃]]
* [[電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法]] - 「RPS制度」について
* [[日本エネルギー学会]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nedo.go.jp/ NEDO:新エネルギー・産業技術総合開発機構]
* [http://www.nef.or.jp/ 新エネルギー財団]
* [http://www.pege.org/greenwinds/JAPAN/jindex.htm GreenWinds]
* [http://www.sigmaaldrich.com/japan/materialscience/alternative/alternativeenergy-tutorial.html 代替エネルギー技術] -シグマ アルドリッチ
* [http://weblearningplaza.jst.go.jp/cgi-bin/user/top.pl?next=lesson_list&type=simple&field_code=41&course_code=776 新エネルギーと分散型電源](技術者Web学習システム)
{{発電の種類}}
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[[Category:日本の再生可能エネルギー|*しんえねるきい]]
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'''12月5日'''(じゅうにがついつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から339日目([[閏年]]では340日目)にあたり、年末まであと26日ある。
== できごと ==
* [[紀元前63年]] - [[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]が[[カティリナ弾劾演説]]の最後の演説を行う{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1408年]] - [[ジョチ・ウルス]]の将軍[[エディゲ]]が[[モスクワ]]に到達。
* [[1590年]] - [[ローマ教皇]][[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]が即位。
* [[1695年]]([[元禄]]8年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[徳川綱吉]]により[[生類憐れみの令]]の一環として、[[中野 (中野区)|中野]]に16万坪の[[犬小屋 (江戸幕府)|犬小屋]]が作られ、同時に中野の住民が強制退去となる。
* [[1757年]] - [[七年戦争]]: [[ロイテンの戦い]]。
* [[1878年]] - [[大日本帝国陸軍]]参謀局を[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]に改称し、[[陸軍省]]から分離。
* [[1903年]] - [[長岡半太郎]]が原子模型の理論を発表。
* [[1904年]] - [[日露戦争]]・[[旅順攻囲戦]]: 日本軍が[[203高地]]を占領。
* [[1908年]] - [[日本国有鉄道]]の運営母体が「帝国鉄道庁」から内閣直属「鉄道院」へと改組。
* [[1909年]] - [[フランス海軍]]のル・プリウール中尉と[[相原四郎]][[大日本帝国海軍]]大尉が共同製作した[[グライダー]]が、子供を乗せた状態で人力曳航による飛行に成功。日本初のグライダーによる飛行。
* [[1918年]] - [[李方子|梨本宮方子女王]]と朝鮮[[李王家|李王]]世子・[[李垠]]との結婚が勅許される。
* [[1925年]] - 高知線(現在の[[土讃線]])[[高知駅]]~[[土佐山田駅]]間が開業<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/20150928%2001.pdf#search=%271925%E5%B9%B4+12%E6%9C%885%E6%97%A5+%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%B7%9A+%E9%AB%98%E7%9F%A5%E9%A7%85%EF%BD%9E%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A7%85+%E9%96%8B%E6%A5%AD%27|title=高松駅~高知駅間 開通80周年記念 沿線探検スロー列車「山郷やまざと・渓谷けいこく☆絵めぐり号」の運転について|format=PDF|publisher=[[四国旅客鉄道|JR四国]]|date=2015-09-28|accessdate=2020-06-22}}</ref>。
* [[1926年]] - [[社会民衆党]]結成。
* [[1931年]] - [[ソ連共産党政治局]]の指令により[[モスクワ]]の[[救世主ハリストス大聖堂]]が爆破解体される。
* [[1933年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第18条]]([[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]])を廃止することを定めた[[アメリカ合衆国憲法修正第21条]]が施行。
* [[1936年]] - [[ソビエト連邦]]で[[スターリン憲法]]制定。
* 1936年 - [[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]がソ連の構成共和国として発足。
* [[1940年]] - [[西園寺公望]]の[[国葬]]が[[日比谷公園]]で行われる<ref>日比谷公園の葬場に長蛇の会葬者(昭和15年12月6日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p214 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イギリス]]が[[フィンランド]]・[[ルーマニア]]に宣戦布告。
* [[1945年]] - [[バミューダトライアングル]]で訓練飛行中の[[アメリカ海軍]]の[[TBF (航空機)|アヴェンジャー雷撃機]]5機が消息を絶つ。
* [[1946年]] - [[樺太]]からの[[引揚者|引揚げ]]船第一号「[[雲仙丸]]」が[[函館港]]に入港。
* [[1950年]] - [[朝鮮戦争]]: 中国義勇軍・北朝鮮軍が[[平壌直轄市|平壌]]を奪回。
* [[1952年]] - [[ロンドンスモッグ]]発生、12000人の死者を出す惨事となる。
* [[1955年]] - [[アメリカ労働総同盟]] (AFL) と{{仮リンク|産業別組合会議|en|Congress of Industrial Organizations}}(CIO) が合同して[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議]] (AFL-CIO) を結成。
* [[1976年]] - [[第34回衆議院議員総選挙]]。戦後初の任期満了による総選挙。
* [[1982年]] - [[広島エフエム放送]](HFM・広島FM)開局。
* [[1988年]] - [[東中野駅列車追突事故]]。
* [[1990年]] - [[湾岸戦争]]で日本人が[[イラク]]で[[人質]]となっていたが、[[アントニオ猪木]]参議院議員がイラク政府と話し合い、人質が解放された。
* [[1991年]] - [[レオニード・クラフチュク]]がウクライナ初代大統領に選出される。
* [[1996年]] - [[厳島神社]]、[[原爆ドーム]]が[[世界遺産]]に登録される。
* [[2004年]] - [[関東地方]]で季節外れの[[温帯低気圧]]が接近し、観測史上初の[[12月]]の[[夏日]]を記録。
* [[2005年]] - [[千葉県]][[夷隅郡]][[夷隅町]]、[[大原町 (千葉県)|大原町]]、[[岬町 (千葉県)|岬町]]の3町合併により、[[いすみ市]]が市制施行。
* [[2007年]] - [[ネブラスカ州]][[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]で銃乱射事件。自殺した犯人を含め9人が死亡([[ウェストローズ・モール銃乱射事件]])。
* [[2009年]] - [[フィリピン]]、[[マギンダナオ州]]に[[戒厳]]令が発令された。
* [[2014年]] - 宇宙飛行船[[オリオン (宇宙船)|オリオン]]の初飛行となる無人飛行実験[[EFT-1]]が打ち上げられる。
* [[2017年]] - [[羽生善治]]が、[[将棋]]界史上初となる永世七冠を達成<ref>{{Cite news |author=田中夕介 |date=2017-12-05 |url=https://www.sankei.com/article/20171205-LP4K4AAV6BLTNHCN7VBCUSWHDE/ |title=【羽生永世七冠】終盤、指し手が何度か震えた…“羽生マジック”で史上初の快挙(1/3ページ) |newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]] |publisher=[[産経新聞社]] |accessdate=2017-12-06}}</ref>。
* 2017年 - IOC理事会の結果、[[2018年平昌オリンピックのロシアからのオリンピック選手団|2018年平昌オリンピックのロシア選手団]]の出場禁止を正式に発表<ref>{{Cite news |author=細川倫太郎 |date=2017-12-06 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24316100W7A201C1MM0000/ |title=平昌五輪、ロシア参加認めず「組織的な不正」認定 |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2017-12-06}}</ref>。
* [[2018年]] - [[東京地下鉄|東京メトロ]]、[[2020年]]に[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[神谷町駅]] - [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]間で開業する新駅の名称を[[虎ノ門ヒルズ駅]]と命名<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2018/194766.html|title=日比谷線新駅の名称を「虎ノ門ヒルズ駅」に決定しました!|publisher=東京メトロ|date=2018-12-05|accessdate=2018-12-08}}</ref>。
* 2018年 - [[ファーウェイ]]の[[孟晩舟]]副会長・[[最高財務責任者]] (CFO) が米当局の要請により、[[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]で逮捕<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3200969|title=ファーウェイ幹部逮捕、中国IT企業への強硬姿勢より鮮明に 米|newspaper=AFPBB NEWS|date=2018-12-07|accessdate=2018-12-08}}</ref>。
* 2018年 - [[ボイジャー2号]]が[[太陽圏]]を離脱し、[[宇宙空間|恒星間空間]]に到達<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3201439|title=NASA探査機ボイジャー2号、星間空間に到達|newspaper=AFPBB NEWS|date=2018-12-11|accessdate=2018-12-12}}</ref>。
* [[2019年]] - [[フランスのストライキ (2019年)|フランスでストライキ]]が開始。[[教員]]や[[看護師]]、[[弁護士]]、[[警察官]]、ごみ収集業者、郵便職員、ガス・電気関連の職員などが参加する[[ゼネラル・ストライキ]]となった<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-12-06 |url=https://jp.reuters.com/article/france-protests-pensions-idJPKBN1Y92G6 |title=フランスで年金改革巡り大規模スト、交通機関など停止 |publisher=ロイター |accessdate=2019-12-09}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1656年]]([[明暦]]2年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[市橋信直]]、[[近江国]][[仁正寺藩]]主(+ [[1720年]])
* [[1687年]] - [[フランチェスコ・ジェミニアーニ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1762年]]<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Geminiani, Francesco|volume=11|page=572-573}}</ref>)
* [[1760年]]([[宝暦]]10年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[大久保忠顕]]、[[相模国]][[小田原藩]]主(+ [[1803年]])
* [[1768年]]([[明和]]5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[安藤信馨]]、[[陸奥国]][[磐城平藩]]主(+ [[1812年]])
* [[1782年]] - [[マーティン・ヴァン・ビューレン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Martin-Van-Buren Martin Van Buren president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[政治家]]、第8代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1862年]])
* [[1789年]]([[寛政]]2年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[柳沢里世]]、[[越後国]][[三日市藩]]主(+ [[1827年]])
* [[1793年]](寛政5年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[吉川経礼]]、[[周防国]][[岩国領]]10代領主(+ [[1837年]])
* [[1803年]] - [[フョードル・チュッチェフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Fyodor-Tyutchev Fyodor Tyutchev Russian writer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]]、[[外交官]](+ [[1873年]])
* [[1807年]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[鷹司輔煕]]、[[公家]](+ [[1878年]])
* [[1809年]](文化6年10月28日) - [[柳沢里顕]]、[[大和国]][[郡山藩]]主(+ [[1843年]])
* [[1842年]] - [[ヨハニス・デ・レーケ]]、土木技師(+ [[1913年]])
* [[1854年]]([[嘉永]]7年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[池田徳澄]]、[[因幡国]][[鹿奴藩]]主(+ [[1876年]])
* [[1867年]] - [[アンティ・アールネ]]、民族学者(+ [[1925年]])
* [[1868年]] - [[アーノルト・ゾンマーフェルト]]、[[物理学者]](+ [[1951年]])
* [[1869年]] - [[エリス・パーカー・バトラー]]、[[作家]](+ [[1937年]])
* 1869年([[明治]]2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[森下博]]、[[実業家]]、[[森下仁丹]]創業者(+ [[1943年]])
* [[1871年]](明治4年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[土井晩翠]]、[[詩人]]、[[英文学者]](+ [[1952年]])
* [[1880年]] - [[二階堂トクヨ]]、[[教育関係人物一覧|教育者]](+ [[1941年]])
* [[1884年]] - [[西川正治]]、[[結晶学]]者(+ [[1952年]])
* [[1886年]] - [[吉本吉兵衛]]、[[実業家|芸能プロモーター]]、[[吉本興業ホールディングス|吉本興業]]創業者(+ [[1924年]])
* [[1889年]] - [[吉本せい]]、芸能プロモーター、吉本興業創業者(+ [[1950年]])
* 1889年 - [[ダミア]]、[[シャンソン]][[歌手]](+ [[1978年]])
* [[1890年]] - [[フリッツ・ラング]]、[[映画監督]](+ [[1976年]])
* [[1891年]] - [[アレクサンドル・ロトチェンコ]]、[[芸術家]](+ [[1956年]])
* 1891年 - [[広津和郎]]、[[小説家]]、[[文芸評論家]](+ [[1968年]])
* [[1898年]] - [[藤原義江]]、[[テノール]]歌手(+ [[1976年]])
* [[1899年]] - [[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]、[[ハーモニカ]]奏者(+ [[1965年]])
* 1899年 - [[古賀逸策]]、[[電気通信]][[工学者]](+ [[1982年]])
* [[1901年]] - [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]、理論物理学者(+ [[1976年]])
* 1901年 - [[ウォルト・ディズニー]]、[[映画監督]](+ [[1966年]])
* [[1907年]] - [[林彪]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1971年]])
* [[1909年]] - [[武藏山武]]、[[大相撲]]第33代[[横綱]](+ [[1969年]])
* [[1911年]] - [[ウワディスワフ・シュピルマン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[2000年]])
* [[1912年]] - [[木下惠介]]、映画監督、[[脚本家]](+ [[1998年]])
* [[1917年]] - [[佐賀ノ花勝巳]]、元大相撲力士(+ [[1975年]])
* [[1919年]] - [[宮崎義一]]、経済学者(+ [[1998年]])
* [[1927年]] - [[ラーマ9世]]、[[タイ君主一覧|タイ国王]](+ [[2016年]])
* [[1928年]] - [[友部達夫]]、政治家(+ [[2012年]])
* [[1929年]] - [[小栗孝一]]、[[馬主]](+ [[2015年]])
* [[1931年]] - [[香川京子]]、[[俳優|女優]]
* [[1932年]] - [[フジ子・ヘミング]]、ピアニスト
* 1932年 - [[リトル・リチャード]]、[[ロックンロール]]歌手、ピアニスト(+ [[2020年]])
* 1932年 - [[シェルドン・グラショー]]、[[物理学者]]
* [[1933年]] - [[竹村泰子]]、政治家
* [[1935年]] - [[土橋正幸]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2013年]])
* 1935年 - [[小沢文夫]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[榎本喜八]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* [[1939年]] - [[冨沢篤紘]]、政治家
* 1939年 - [[東條昭平]]、[[演出家]]
* [[1941年]] - [[野田征稔]]、元プロ野球選手
* 1941年 - [[能島征二]]、[[彫刻家]]
* [[1945年]] - [[モシェ・カツァブ]]、政治家、第8代[[イスラエル]][[大統領]]
* [[1946年]] - [[ホセ・カレーラス]]、[[テノール]]歌手
* [[1947年]] - [[エグベルト・ジスモンチ]]、[[マルチプレイヤー (音楽)|マルチ楽器奏者]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[音楽プロデューサー]]
* 1947年 - [[照櫻弘行]]、元大相撲力士
* [[1948年]] - [[篠田三郎]]、[[俳優]]
* [[1949年]] - [[弓月光]]、[[漫画家]]
* [[1950年]] - [[オズワルド・オリヴェイラ]]、サッカー指導者
* 1950年 - [[滝田栄]]、俳優
* [[1951年]] - [[小林和生]]、[[ミュージシャン]]
* [[1953年]] - [[小林幸子]]、歌手
* 1953年 - [[若菜嘉晴]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[群ようこ]]、[[小説家]]、エッセイスト
* 1954年 - [[水沢アキ]]、女優
* [[1955年]] - [[川中美幸]]、歌手
* [[1956年]] - [[クリスティアン・ツィマーマン]]、ピアニスト
* 1956年 - [[新井康弘]]、俳優
* 1956年 - [[末松義規]]、政治家、[[衆議院議員]]
* [[1958年]] - [[山田和英]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[原田真二]]、[[シンガーソングライター]]
* 1958年 - [[山田五郎]]、[[編集者]]、[[評論家]]
* 1958年 - [[ダイナマイト・キッド]]、元[[プロレスラー]](+ [[2018年]]<ref name="daily">{{Cite web|和書 |url=https://www.daily.co.jp/ring/2018/12/05/0011879439.shtml |title=ダイナマイト・キッドさん死去 初代タイガーマスクや藤波らと名勝負 |accessdate=2020-11-15 |publisher=デイリースポーツ online}}</ref>)
* [[1959年]] - [[鳥山雄司]]、[[ギタリスト]]、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー
* 1959年 - [[奈良美智]]、[[画家]]、[[彫刻家]]
* [[1961年]] - [[松井孝夫]]、作曲家
* [[1963年]] - [[村田真一]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[岩井志麻子]]、小説家
* 1964年 - [[朴柱奉]]、元バドミントン選手
* 1964年 - [[山口粧太]]、俳優
* [[1965年]] - [[大豆生田実]]、政治家
* 1965年 - [[柴山昌彦]]、政治家
* [[1966年]] - [[盛田賢司]]、[[漫画家]]
* 1966年 - [[川畑伸一郎]]、[[野球選手]]
* 1966年 - [[パトリシア・カース]]、歌手
* [[1968年]] - [[土橋勝征]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[渕崎ゆり子]]、[[声優]]
* [[1969年]] - [[白石さおり]]、[[タレント]]
* 1969年 - [[伊藤誠 (漫画家)|伊藤誠]]、漫画家
* [[1970年]] - [[清水まり子]]、[[演歌歌手]]、タレント、元[[競泳]]選手
* 1970年 - 羽毛田耕士、ミュージシャン
* [[1971年]] - [[谷沢英彦]]、[[テニス]]プレイヤー
* 1971年 - [[森山奈歩]]、ポップミュージシャン
* [[1972年]] - [[広江礼威]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]
* 1972年 - [[クリフ・フロイド]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[シャローム・ハーロウ]]、[[スーパーモデル]]、女優
* [[1975年]] - [[関口太郎 (レーサー)|関口太郎]]、[[モーターサイクル]]レーサー
* 1975年 - [[川口大輔]]、[[作曲家]]
* [[1976年]] - [[観月ありさ]]、女優
* 1976年 - [[国分佐智子]]、女優、タレント
* 1976年 - [[金井宣茂]]、[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]][[宇宙飛行士]]
* [[1977年]] - [[島田秀平]]、タレント、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[占い師]]
* 1977年 - [[千葉進也]]、元[[バレーボール選手]]
* 1977年 - [[リチャード・ライト (サッカー選手)|リチャード・ライト]]、サッカー選手
* [[1978年]] - [[許文雄]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[山村路直]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[小笠原聖]]、フリーアナウンサー
* [[1979年]] - [[持田裕輔]]、[[作曲家]]
* 1979年 - [[丸山博]]、[[プロ野球審判員]]
* [[1980年]] - [[伊藤静]]、声優
* 1980年 - [[槙尾ユウスケ]]、お笑い芸人([[かもめんたる]])
* [[1981年]] - [[浅羽由紀]]、[[シンガーソングライター]]
* 1981年 - [[飯田浩司]]、アナウンサー
* [[1984年]] - [[セルジオ・ペレス (野球)|セルジオ・ペレス]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[ジョシュ・ルーキー]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[道端アンジェリカ]]、モデル
* 1985年 - [[KEIKO (1985年生の歌手)|KEIKO]]、歌手(元[[Kalafina]]、[[FictionJunction]])
* 1985年 - [[諏訪裕美]]、[[バスケットボール選手]]
* 1985年 - [[田中博康]]、元[[騎手]]、調教師
* [[1986年]] - [[ジャスティン・スモーク]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[木村真野・紗野]]、[[アーティスティックスイミング]]選手
* 1986年 - [[内田敦子]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1987年]] - [[辻内崇伸]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[小山雄輝]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[宇津木瑠美]]、[[サッカー選手]]
* [[1989年]] - [[由規]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[齋藤遼]]、俳優
* [[1991年]] - [[となりの坂田。]]、歌手([[浦島坂田船]])
* 1991年 - [[岡田俊哉]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[上田眞央]]、[[ファッションモデル]]、女優
* 1991年 - [[瀬乃ゆいか]]、[[AV女優]]
* 1991年 - [[クリスチャン・イエリッチ]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[上中勇樹]]、[[アナウンサー]]
* 1993年 - [[國場翼]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - [[藤井武美]]、女優
* 1994年 - [[熊崎優美]]、[[YouTuber]]、タレント、元[[アイドル]](元[[BSJプロジェクト|BSJ]])
* 1994年 - [[太田奈緒]]、女優、元アイドル(元[[AKB48]])
* [[1995年]] - [[谷川愛梨]]、タレント、アイドル(元[[NMB48]])
* 1995年 - [[坂ノ上茜]]、女優
* 1995年 - [[アントニー・マーシャル]]、サッカー選手
* 1995年 - 畠中清羅、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1995年 - [[ケイトリン・オズモンド]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1996年]] - [[小森ゆきの]]、元アイドル(元[[Doll☆Elements]])
* 1996年 - [[柳原かなこ]]、声優
* [[1997年]] - 鈴本美愉、元アイドル(元[[欅坂46]])
* [[1998年]] - [[夢見照うた]]、AV女優
* [[1999年]] - [[大盛真歩]]、アイドル(AKB48)
* [[2000年]] - [[チェ・スビン (歌手)|チェ・スビン]]、歌手([[TOMORROW X TOGETHER]])
* 2000年 - manaka、歌手(元[[Little Glee Monster]])
* 2000年 - [[イエゴン・ヴィンセント・キベット]]、陸上選手
* [[2003年]] - [[鈴木杏奈]]、歌手、声優
* 2003年 - [[奥田こころ]]、女優
* [[2005年]] - [[ブリッジマン遊七]]、ファッションモデル
* 2005年 - [[須田琉雅]]、元[[子役]]
* 2005年 - 吉本此那、アイドル([[僕が見たかった青空]])
* [[2009年]] - [[黒川想矢]]、俳優
* 生年不明 - [[アサコ]]、声優
* 生年不明 - [[実川学]]、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[1560年]] - [[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]、[[ヴァロア朝]]第11代[[フランス王国|フランス]]王(* [[1544年]])
* [[1624年]] - [[ギャスパール・ボアン]]、[[植物学|植物学者]](* [[1560年]])
* [[1686年]] - [[ニコラウス・ステノ]]、[[地質学]]者(* [[1638年]])
* [[1708年]]([[宝永]]5年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[関孝和]]、[[数学者]](* [[1642年]])
* [[1713年]]([[正徳 (日本)|正徳]]3年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[徳川五郎太]]、第5代[[尾張藩]]主(* [[1711年]])
* [[1714年]](正徳4年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[池田綱政]]、第2代[[岡山藩]]主(* [[1638年]])
* [[1758年]] - [[ヨハン・フリードリヒ・ファッシュ]]、[[作曲家]](* [[1688年]])
* [[1791年]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]、作曲家(* [[1756年]])
* [[1843年]]([[天保]]14年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[白井亨]]、[[剣術]]家(* [[1783年]])
* [[1862年]]([[文久]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[津軽信順]]、第10代[[弘前藩]]主(* [[1800年]])
* [[1870年]] - [[アレクサンドル・デュマ・ペール]](大デュマ)、[[小説家]](* [[1802年]])
* [[1879年]] - [[千葉定吉]]、[[剣術]]家(* [[1812年]])
* [[1891年]] - [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]、[[ブラジル帝国]]第2代[[皇帝]](* [[1825年]])
* [[1893年]] - [[松平容保]]、第9代[[会津藩]]主(* [[1835年]])
* [[1904年]] - [[ジェイムズ・ノウブル・タイナー]]、第29代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1826年]])
* [[1916年]] - [[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]]、[[指揮者]](* [[1843年]])
* [[1925年]] - [[ヴワディスワフ・レイモント]]、小説家(* [[1867年]])
* [[1926年]] - [[クロード・モネ]]、[[画家]](* [[1840年]])
* [[1937年]] - [[北条民雄]]、[[小説家]](* [[1914年]])
* [[1940年]] - [[ヤン・クベリーク]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1880年]])
* [[1949年]] - {{仮リンク|アルフレッド・ロトカ|en|Alfred J. Lotka}}、[[統計学|統計学者]](* [[1880年]])
* [[1950年]] - [[オーロビンド・ゴーシュ]]、[[インド哲学]]者(* [[1872年]])
* 1950年 - [[ビル・ダーレン]]、プロ野球選手(* [[1870年]])
* [[1951年]] - [[ジョー・ジャクソン (野球)|ジョー・ジャクソン]]、プロ野球選手(* [[1889年]])
* [[1953年]] - [[ノエル・ミュートン=ウッド]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1922年]])
* [[1956年]] - [[佐野利器]]、[[建築家]](* [[1880年]])
* [[1960年]] - [[岸上大作]]、[[歌人]] (* [[1939年]])
* [[1963年]] - [[カール・アマデウス・ハルトマン]]、作曲家(* [[1905年]])
* [[1965年]] - [[ジョセフ・アーランガー]]、[[生理学者]](* [[1874年]])
* [[1969年]] - [[クラウディウス・ドルニエ]]、[[飛行艇]]技術者(* [[1885年]])
* [[1972年]] - [[ケニー・ドーハム]]、[[ジャズ]][[トランペット]]奏者(* [[1924年]])
* [[1973年]] - [[ロバート・ワトソン=ワット]]、[[レーダー]]発明者(* [[1892年]])
* [[1974年]] - [[ピエトロ・ジェルミ]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]](* [[1914年]])
* [[1977年]] - [[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1895年]])
* 1977年 - [[ローランド・カーク]]、ジャズ[[サクソフォーン|サックス]]奏者(* [[1936年]])
* [[1980年]] - [[大岩山大五郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1919年]])
* [[1983年]] - [[ロバート・アルドリッチ]]<ref>{{cite web|url=https://www.allmovie.com/artist/p79278|title=Robert Aldrich - Biography|work=AllMovie|first=Lucia|last=Bozzola|accessdate=2021-02-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181127083434/https://www.allmovie.com/artist/p79278|archivedate=2018-11-27}}</ref>、映画監督(* [[1918年]])
* [[1985年]] - [[太田典礼]]、[[産婦人科学|産婦人科医]](* [[1900年]])
* [[1986年]] - [[槇山次郎]]、元[[日本地質学会]]会長(* [[1896年]])
* 1986年 - エドワード・ユード(尤德)([[:en:Edward Youde|Edward Youde]])、[[香港総督]](* [[1924年]])
* [[1987年]] - [[沢藤光郎]]、元[[プロ野球選手]](* [[1919年]])
* [[1989年]] - [[ジョン・プリッチャード]]、[[指揮者]](* [[1921年]])
* [[1990年]] - [[藤間勘祖 (2世)]]、藤間流宗家(* [[1900年]])
* [[1991年]] - [[末元善三郎]]、[[天文学者]](* [[1920年]])
* 1991年 - [[服部受弘]]、元プロ野球選手(* [[1920年]])
* [[1992年]] - [[金田正泰]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督]](* [[1920年]])
* 1992年 - [[小阪三郎]]、プロ野球選手(* [[1915年]])
* [[1993年]] - [[木内信胤]]、[[経済評論家]](* [[1899年]])
* [[1995年]] - [[クレア・パターソン]]、[[地質学|地質学者]](* [[1922年]])
* [[1997年]] - [[オイゲン・キケロ]]、[[ピアニスト]](* [[1940年]])
* [[2000年]] - [[鈴木その子]]、美容・料理研究家(* [[1932年]])
* [[2001年]] - [[フランコ・ラゼッティ]]、[[物理学者]](* [[1901年]])
* 2001年 - [[徳永真一郎]]、小説家(* [[1914年]])
* [[2002年]] - [[ネ・ウィン]]、[[ミャンマー|ビルマ]]の指導者(* [[1911年]])
* [[2003年]] - [[バーブ佐竹]]、[[歌手]](* [[1935年]])
* [[2005年]] - [[フレデリック・フィリップス]]、[[実業家]](* [[1905年]])
* 2005年 - [[堤邦彦]]、[[医師]](* [[1954年]])
* [[2006年]] - [[長野士郎]]、政治家(* [[1917年]])
* 2006年 - [[伊藤圭祐 (競泳選手)|伊藤圭祐]]、元[[競泳]]選手(* [[1943年]])
* [[2007年]] - [[木下貞一]]、プロ野球選手(* [[1919年]])
* 2007年 - [[カールハインツ・シュトックハウゼン]]、作曲家(* [[1928年]])
* [[2008年]] - [[加藤周一]]、[[評論家]](* [[1919年]])
* 2008年 - [[大川栄二]]、実業家(* [[1924年]])
* 2008年 - [[ジョージ・ブレクト]]、[[ミニマル・アート|ミニマル・アーティスト]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]](* [[1926年]])
* 2008年 - [[アレクシイ2世]]、[[モスクワ総主教]](* [[1929年]])
* [[2009年]] - [[オットー・グラーフ・ラムスドルフ]]、政治家(* [[1926年]])
* [[2010年]] - [[李泳禧]]、[[ジャーナリスト]](* [[1929年]])
* [[2011年]] - [[冬柴鐵三]]、政治家(* [[1936年]])
* 2011年 - [[ピーター・ゲシン]]、[[自動車競技]]者(* [[1940年]])
* [[2012年]] - [[中村勘三郎 (18代目)]]、[[歌舞伎役者]](* [[1955年]])
* 2012年 - [[デイヴ・ブルーベック]]、ジャズ[[ピアニスト]](* [[1920年]])
* 2012年 - [[オスカー・ニーマイヤー]]、[[建築家]](* [[1907年]])
* [[2013年]] - [[ネルソン・マンデラ]]、政治家、第11代[[南アフリカの大統領|南アフリカ共和国大統領]](* [[1918年]])
* 2013年 - [[コリン・ウィルソン]]、[[小説家]](* [[1931年]])
* [[2014年]] - [[ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴン]]、[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[ボードゥアン1世 (ベルギー王)|ボードゥアン1世]] 王妃(* [[1928年]])
* 2014年 - [[柴田博一]]、元[[キーコーヒー]]社長(* [[1932年]])
* [[2015年]] - [[宮島達夫]]、言語学者(* [[1931年]])
* 2015年 - [[関屋喜代作]]、[[棋士 (将棋)]](* [[1933年]])
* [[2016年]] - [[武藤まき子]]、[[芸能リポーター]]、アナウンサー(* [[1945年]])
* 2016年 - [[黒沢健一]]、ミュージシャン(* [[1968年]])
* [[2017年]] - [[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]、[[ルーマニア王国]]元[[ルーマニア国王|国王]](* [[1921年]])
* [[2018年]] - ダイナマイト・キッド<ref name="daily" />、元[[プロレスラー]](* [[1958年]])
* [[2019年]] - [[ロバート・ウォーカー・Jr]]、[[俳優]](* [[1940年]])
* [[2020年]] - [[御木貴日止]]<ref>{{Cite news|url=https://www.news-postseven.com/archives/20201208_1619258.html?DETAIL|title=PL教団3代教祖・御木貴日止氏が死去 後継者問題に注目集まる|newspaper=NEWS ポストセブン|date=2020-12-08|accessdate=2021-02-03}}</ref>、[[宗教家]](* [[1957年]])
* 2020年 - [[徐守盛]]<ref>{{Cite news|url=https://news.sina.com.cn/zx/2020-12-06/doc-iiznezxs5518733.shtml|title=湖南省委原书记徐守盛逝世 享年67岁|agency=[[新浪]]|date=2020-12-06|accessdate=2021-02-03}}</ref>、政治家、[[官僚]](* [[1953年]])
* [[2021年]] - [[ボブ・ドール]]、 政治家(* [[1923年]])
* 2021年 - [[ジャック・ティッツ]]、[[数学者]](* [[1930年]])
* 2021年 - [[矢田部理]]、政治家、 元参議院議員、初代[[新社会党]]委員長(* [[1932年]])
* 2021年 - [[宋基淑]]、[[小説家]](* [[1935年]])
* 2021年 - [[牧口雄二]]、映画プロデューサー(* [[1936年]])
* 2021年 - [[穴見寛]]、高校野球指導者(* [[1947年]])
* 2021年 - [[スコット・ページ=パグター]]、声優、[[テレビプロデューサー]](* [[1957年]])
* 2021年 - [[ステヴァン・イェロヴァツ]]、[[バスケットボール]]選手(* [[1989年]])
* [[2022年]] - [[ロナルド・ベイティア]]、[[柔道家]](* [[1947年]])
* 2022年 - [[カースティ・アレイ]]、 女優(* [[1951年]])
* [[2023年]] - [[伊藤義郎]]、日本の実業家、[[伊藤組土建]]会長、元[[全日本スキー連盟]]会長(* [[1926年]])
* 2023年 - [[中村廣治郎]]、日本のイスラム学者、[[東京大学]][[名誉教授]](* [[1936年]])
* 2023年 - [[西木正明]]、日本の小説家、[[直木三十五賞]]受賞者(* [[1940年]])
* 2023年 - [[デニー・レイン]]、イギリスのミュージシャン(* [[1944年]])
=== 人物以外(動物など)===
* 2008年 - [[ワイルドアゲイン]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](* [[1980年]])
* 2020年 - [[スイープトウショウ]]、競走馬、[[繁殖牝馬]](* [[2001年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[国際ボランティア・デー]]
*: 世界中の経済と社会開発の推進のため、ボランティア活動の貢献に対する認識を高め、社会のあらゆる層からより多くの人々が、国内外においてボランティア活動に参加できる機運を高める日。
* プーミポン国王誕生日・[[父の日]]{{weight|normal|({{THA}})}}
*: タイ国王[[ラーマ9世]]の誕生日。
* [[ミラのニコラオス|聖ニコラオス]]の日の前夜祭
*:[[12月6日]]の[[ミラのニコラオス|聖ニコラオス]]の日の前夜祭。
**[[シンタクラース]]の日{{weight|normal|({{NLD}})}}
**: シンタクラース(ニコラオスが伝説化した、オランダ版[[サンタクロース]])が子供のいる家庭を訪れ[[クリスマスプレゼント|プレゼント]]を配るとされ、プレゼント交換などをする。
** [[クランプス]]の日{{weight|normal|({{AUT}})}}
**: ニコラウスが従える怪物クランプスが現れ、悪い子供に罰を与えるとされる。
* [[バミューダトライアングル]]の日
: [[1945年]]12月5日に、[[大西洋]]上でアメリカ軍機が突然消息をたったことに由来<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jkokusai.co.jp/news/post-1338.php|title=バミューダトライアングルの日|work=ホテルグリーンプラザ上越 /上越国際|accessdate=2020-06-22}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1205|date=2011年7月}}
* 1904年(明治37年)- 苦沙弥先生は、来訪した迷亭に「さすが[[アンドレア・デル・サルト]]だ」と感心すると、迷亭に「あれは出鱈目だよ」と笑われる。(『[[吾輩は猫である]]』第1話<ref group="注">苦沙弥先生が[[水彩画]]の夢を見た日の翌日</ref>)
* 2001年 - 将軍の意志が政治に反映されていないとして、日本帝国本土防衛軍を中心とした一部の帝国軍が日本帝国政府に対して[[クーデター]]を起こす。(ゲーム・漫画『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』)<ref>『マブラヴ オルタネイティヴ』公式メカ設定資料集、[[エンターブレイン]]、2010年、188頁。</ref>
* 2005年 - ワスプイマジンが現れる。電王クライマックスフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* [[2018年]] - ラジオ放送にて、後にSCP-3519に指定される自殺[[ミーム]]が初めて検知される。(共同創作サイト『[[SCP財団]]』)<ref>{{Cite web|url=http://scp-jp.wikidot.com/scp-3519 |title=SCP-3519 |accessdate=2021-01-27 |website=[[SCP財団]]}}</ref>
=== 誕生日(フィクション) ===
* 1986年 - 渡井かずみ、ゲーム『[[ときめきメモリアル3 〜約束のあの場所で〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title = ときめきメモリアル3 〜約束のあの場所で〜 公式ガイドブック 完全版|series=コナミ完璧攻略シリーズ|date = 2002-02-01|publisher = [[コナミホールディングス|コナミ株式会社]]|isbn = 978-4575163100|page = 172|chapter = キャラクター別攻略マニュアル}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title = 別冊宝島947 我が青春の『ときめきメモリアル』ヒロインズ|date = 2004-01-01|publisher = [[宝島社]]|isbn =978-4796638289|page =50|chapter = Character Collection: ときめきメモリアル3 〜約束のあの場所で〜}}</ref>
* 皇暦2000年 - [[ルルーシュ・ランペルージ]](ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア)、アニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』シリーズの主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dengekionline.com/articles/108319/ |title=アプリ『コードギアス』ルルーシュ生誕祭の詳細が公開 |access-date=2022-11-04 |publisher=電撃オンライン |date=2021-12-03}}</ref>
* 生年不明 - [[木野まこと]](セーラージュピター)、漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sailormoon-official.com/world/jupiter.php |title=セーラームーンの世界:木野まこと セーラージュピター |publisher=美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト |accessdate=2022-11-04 |author=[[武内直子]]}}</ref>
* 生年不明 - インディゴ、漫画・アニメ・ゲーム『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Indigo.html |title=インディゴ |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-11-04 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 香取夕子、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 日吉若、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1334876384284602373}}</ref>
* 生年不明 - クローム髑髏、漫画・アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 赤葦京治、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2014|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4088800431|date=2014-04-04|volume=10巻|page=186}}</ref>
* 生年不明 - マニュアル、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-11/ |title=マニュアル |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=2022-11-04 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 山中いのじん、漫画・アニメ『[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - クローリー・ユースフォード、漫画・アニメ『[[終わりのセラフ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|owarino_seraph|805427703914565633}}</ref>
* 生年不明 - [[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話の登場人物#青銅聖闘士|テンマ]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - あやね、漫画・アニメ『[[ながされて藍蘭島]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 湯音、漫画・アニメ『[[異国迷路のクロワーゼ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 三井健太、漫画・アニメ『[[CRASH! (藤原ゆかの漫画)|CRASH!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 三井涼太、漫画・アニメ『CRASH!』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 柴田理人、漫画・アニメ『[[メイちゃんの執事]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 柴田剣人(マメ柴)、漫画・アニメ『メイちゃんの執事』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神崎隆二、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/kanzaki.html |title=神崎隆二 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』 |accessdate=2022-11-04 |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・KADOKAWA刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 宝多六花、アニメ『[[SSSS.GRIDMAN]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 春風(はるか)、読者参加企画『[[Baby Princess]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 芳野祐介、ゲーム・アニメ『[[CLANNAD -クラナド-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 水野翠(みずの みどり)、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20158 |title=水野 翠(みずの みどり) |access-date=2022-11-04 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ソワレ、ゲーム『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 月読理京、ゲーム『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boyfriend_kari|937682916980568069}}</ref>
* 生年不明 - [[琴慧弦]](クム・ヘヒョン)、ゲーム『[[GUILTY GEAR Xrd -SIGN-|GUILTY GEAR Xrd -REVELATOR-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=琴 慧弦 |url=http://www.ggxrd.com/rev/ac/character/kum.html |accessdate=2022-11-04 |publisher=ARC SYSTEM WORKS |work=『GUILTY GEAR Xrd REV 2 AC版』}}</ref>
* 生年不明 - イヌイ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=19&cate=name&cont=Inui |title=イヌイ |access-date=2022-11-04 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 神楽坂四季、メディアミックス『[[Starry☆Sky]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.honeybee-cd.com/starrysky/character/kagurazaka.html |title=神楽坂 四季 |access-date=2022-11-04 |publisher=honeybee |work=Starry☆Sky Portal}}</ref>
* 生年不明 - 西表翔、メディアミックス『[[ドリフェス!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://dcd.dream-fes.com/characters/sho_iriomote.php |title=西表 翔 |access-date=2022-11-04 |publisher=BNP/BANDAI, DF PROJECT |work=『DATE CARDDASS ドリフェス!R』}}</ref>
* 生年不明 - 笹子・ジェニファー・由香、メディアミックス『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/sasago-jennifer-yuka/ |title=笹子・ジェニファー・由香 |access-date=2022-11-04 |publisher=bushiroad DONUTS Co.Ltd. |work=『D4DJ』}}</ref>
* 生年不明 - [[ずんだもん]]、ずんだ餅をモチーフとした「東北ずん子・ずんだもんプロジェクト」のキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://zunko.jp/#charaZM |title=東北ずん子・ずんだもんPJ 公式HP |access-date=2023-12-05 |website=zunko.jp}}</ref>
<!--* 生年不明 - 秋霜、ゲーム・漫画・アニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』に登場するキャラクター-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|12|4|12|6|[[11月5日]]|[[1月5日]]|[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]|1205|12|05}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%885%E6%97%A5 |
5,400 | 旅客輸送 | 旅客輸送(りょかくゆそう, Passenger Transport)とは主に、人(旅客)を運ぶことを指す。対義語は貨物運送。運輸業の一分野であり、「公共交通機関」と呼ばれるものがこれを担う場合が多い。客を運んでいる場合の、乗り物の運転を、旅客運転という。
ある対象を、場所的に移動させるサービス業、すなわち運送業の一種で、運送する対象が人間の場合を「旅客運送業」という。具体的には、旅客機(飛行機)・バス・タクシー(自動車)・旅客船(船舶)・旅客列車(鉄道車両)などがその代表例である。これらの旅客運送業は、客を乗せていない間は、運転しても旅客運転に当たらない。
客とは、運送に対する代価的給付として金銭(運賃)を給付する者を指し、無償で運ぶ場合は「客」にあたらない。たとえば、家族を自家用自動車やレンタカーで運ぶことや、工場従業員の無料送迎バスなどは旅客運送には当たらない。従って、運転者の免許は第1種でかまわず、ナンバープレートも事業用自動車(営業)用のものである必要がない。
日本における旅客輸送(人数ベース; 2021年)
日本の鉄道には個人所有の「自家用車」が存在しないので、その運転免許である「動力車操縦者」の免許には、自動車運転免許での1種・2種にあたる区別がなく、直ちに旅客列車の運転に使用できる。しかしながら、同じ会社の従業員を業務での移動のために列車に乗せるとしても(たとえば貨物列車や回送運転に「添乗」する乗務員など)、旅客運転ではない。
移動距離別の公共交通シェアは以下の通り。
2018年度の路線別旅客輸送実績は以下の通りである。 | [
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"text": "2018年度の路線別旅客輸送実績は以下の通りである。",
"title": "日本における統計"
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] | 旅客輸送とは主に、人(旅客)を運ぶことを指す。対義語は貨物運送。運輸業の一分野であり、「公共交通機関」と呼ばれるものがこれを担う場合が多い。客を運んでいる場合の、乗り物の運転を、旅客運転という。 ある対象を、場所的に移動させるサービス業、すなわち運送業の一種で、運送する対象が人間の場合を「旅客運送業」という。具体的には、旅客機(飛行機)・バス・タクシー(自動車)・旅客船(船舶)・旅客列車(鉄道車両)などがその代表例である。これらの旅客運送業は、客を乗せていない間は、運転しても旅客運転に当たらない。 客とは、運送に対する代価的給付として金銭(運賃)を給付する者を指し、無償で運ぶ場合は「客」にあたらない。たとえば、家族を自家用自動車やレンタカーで運ぶことや、工場従業員の無料送迎バスなどは旅客運送には当たらない。従って、運転者の免許は第1種でかまわず、ナンバープレートも事業用自動車(営業)用のものである必要がない。 | '''旅客輸送'''(りょかくゆそう, Passenger Transport)とは主に、人([[旅客]])を運ぶことを指す。対義語は[[貨物輸送]]。[[運輸業]]の一分野であり、「[[公共交通機関]]」と呼ばれるものがこれを担う場合が多い。客を運んでいる場合の、乗り物の[[運転]]を、'''旅客運転'''という。
ある対象を、場所的に移動させる[[サービス|サービス業]]、すなわち運送業の一種で、運送する対象が[[人間]]の場合を「'''旅客運送業'''」という。具体的には、[[旅客機]]([[飛行機]])・[[バス (交通機関)|バス]]・[[タクシー]]([[自動車]])・[[旅客船]]([[船舶]])・[[旅客列車]]([[鉄道車両]])などがその代表例である。これらの旅客運送業は、客を乗せていない間は、運転しても旅客運転に当たらない。
[[客]]とは、運送に対する代価的給付として金銭([[運賃]])を給付する者を指し、無償で運ぶ場合は「客」にあたらない。たとえば、家族を[[自家用自動車]]や[[レンタカー]]で運ぶことや、工場[[従業員]]の無料送迎バスなどは旅客運送には当たらない。従って、運転者の[[免許]]は第1種でかまわず、[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]も[[事業用自動車]]([[営業]])用のものである必要がない。
== 輸送手段 ==
{{Pie chart
| thumb = right
| caption = 日本における旅客輸送<br>(人数ベース; 2021年)<ref name=wp>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=交通政策白書 令和5年版 |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/sosei_transport_fr_000154.html |date=2023}}</ref>
| label1 =鉄道
| value1 =81.7
| label2 =乗合バス
| value2 =14.4
| label3 =タクシー
| value3 =3.5
| label4 =航空
| value4 =0.2
| label5 =旅客船
| value5 =0.2
}}
=== 陸運 ===
* [[馬車]]
* [[自動車]]
** [[バス (交通機関)|バス]]
** [[タクシー]]
** 貨物自動車([[貨客混載]]を前提とした[[ライトバン]]、[[ツーリングワゴン]]等)<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201707/CK2017070102000119.html トラックの旅客運送解禁 9月1日から 過疎地など対象] 東京新聞(2017年7月1日)2017年7月23日閲覧</ref>
* [[鉄道]]
** [[馬車鉄道]] / [[客車]] / [[電車]] / [[気動車]] / [[新幹線]]
[[日本の鉄道]]には個人所有の「自家用車」が存在しないので、その運転免許である「[[動力車操縦者]]」の免許には、自動車運転免許での1種・2種にあたる区別がなく、直ちに旅客列車の運転に使用できる。しかしながら、同じ会社の[[社員|従業員]]を業務での移動のために[[列車]]に乗せるとしても(たとえば[[貨物列車]]や[[回送]]運転に「添乗」する[[乗務員]]など)、旅客運転ではない。
=== 航空 ===
* [[航空機]]
** [[飛行機]]
*** [[旅客機]]
** [[ヘリコプター]]
=== 旅客船 ===
* [[フェリー]]
* [[客船]]
== 日本における統計 ==
{{Seealso|日本の交通#現在}}
日常生活圏を超える移動について、距離別の交通機関シェアは以下の通り。都道府県を超えるものを対象とし、通勤・通学などは含まれない<ref>{{Cite report|和書|title=全国幹線旅客純流動調査 2015 |date=2015 |author=総合政策局総務課 |publisher=国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/soukou/sogoseisaku_soukou_fr_000016.html}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right; margin:1em auto; font-size:95%"
|+ 日常生活圏を超える移動における交通機関 旅客輸送シェア(%; 2015年)<ref name=wp />
! style="min-width:10em"| 移動距離
! style="min-width:5em"|航空 !! style="min-width:5em"|鉄道 !! style="min-width:5em"|幹線旅客船 !! style="min-width:5em"|幹線バス !! style="min-width:5em"|乗用車など
! style="min-width:5em"| 母集団に<br>占める割合
|-
| 100km未満 || {{n/a}} || 3 || {{n/a}}|| 1 || 95 || 20
|-
| 100-200km || {{n/a}} || 11 || {{n/a}} || 2 || 86 || 45
|-
| 200-300km || {{n/a}} || 16 || {{n/a}} || 3 || 81 || 12
|-
| 300-500km || 2 || 43 || {{n/a}} || 4 || 19 || 12
|-
| 500-700km || 12 || 64 || {{n/a}} || 3 || 11 ||5
|-
| 700-1000km || 43 || 42 || {{n/a}} || 3 || 11 || 3
|-
| 1000km以上 || 87 || 7 || {{n/a}} || {{n/a}} || 5 ||4
|}
=== 航空路線 ===
{{Anchors|路線別旅客輸送実績}}2018年度の路線別旅客輸送実績は以下の通りである。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; margin:1em auto"
|+ 路線別旅客輸送実績<br> (2018年度 資料: 国土交通省統計)
!順位 !! 路線名 !! 旅客数 !! 座席利用率
|-
| 1位 || 羽田 - 新千歳 || 905万7,780人 || 74.5%
|-
| 2位 || 羽田 - 福岡 || 872万4,502人 || 78.2%
|-
| 3位 || 羽田 - 那覇 || 595万3,185人 || 78.7%
|-
| 4位 || 羽田 - 伊丹 || 547万8,134人 || 77.8%
|-
| 5位 || 羽田 - 鹿児島 || 251万8,809人 || 70.9%
|-
| 6位 || 羽田 - 熊本 || 197万5,558人 || 68.6%
|-
| 7位 || 羽田 - 広島 || 188万2,798人 || 67.6%
|-
| 8位 || 福岡 - 那覇 || 187万9,098人 || 74.9%
|-
| 9位 || 成田 - 新千歳 || 187万6,979人 || 81.9%
|-
| 10位 || 羽田 - 長崎 || 176万5.366人 || 70.4%
|-
| 11位 || 羽田 - 松山 || 157万1,237人 || 69.0%
|-
| 12位 || 中部 - 新千歳 || 150万9,447人 || 70.1%
|-
| 13位 || 羽田 - 宮崎 || 142万4,813人 || 63.0%
|-
| 14位 || 羽田 - 関西 || 127万0,427人 || 72.7%
|-
| 15位 || 羽田 - 高松 || 126万2,184人 || 67.9%
|-
| 16位 || 羽田 - 北九州 || 125万3,158人 || 69.7%
|-
| 17位 || 羽田 - 大分 || 124万0,156人 || 64.5%
|-
| 18位 || 中部 - 那覇 || 119万4,286人 || 76.8%
|-
| 19位 || 伊丹 - 那覇 || 115万4,349人 || 74.1%
|-
| 20位 || 那覇 - 石垣 || 114万7,669人 || 63.1%
|}
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[貨物輸送]]
* [[道路運送法]]
* [[鉄道事業法]]
* [[航空法]]
* [[海上運送法]]
== 外部リンク ==
* [https://data.oecd.org/transport/passenger-transport.htm Passenger transport] - OECD.Data
{{公共交通}}
{{Transport-stub}}
[[Category:旅客輸送|*]] | 2003-03-28T07:41:03Z | 2023-12-11T03:26:57Z | false | false | false | [
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5,401 | 貨物輸送 | 貨物輸送()は、モノ(貨物)を運ぶ、運輸業の一分野。対義語は旅客輸送。
Shippingという用語は、元々海上輸送をさすものであったが、アメリカ英語では陸送・航空も含むものに拡張された(国際英語ではCarriage)。Logistics(ロジスティクス、兵站)も軍事用語であったが、同様に貨物輸送として拡張された。
2015年には、全世界で 108 兆トンキロの貨物が輸送され、2050 年まで年間3.4%の増加が見込まれる。うち70% が海運、18% が道路、9% が鉄道、2% が内陸水路、航空便は0.25%未満であった。。
船、鉄道、飛行機、トラック間を簡単に移動できるコンテナ化された貨物 (海上コンテナ) を特徴とする複合一貫輸送。
国際商工会議所(ICC) が発行するインコタームズは、国際貿易で最も一般的に使用される用語の解釈として、世界中の政府、法的当局、実務家によって受け入れられている。一般的な用語には次がある。
ドアツードア (DTD, D2D) 輸送、クーリエ便とは、通常同じ輸送モードに留まり、複数の取引、積み替え、輸送を回避しながら、出発地 (POI) から目的地まで貨物を国内/国際的に輸送することを指す。
国際宅配便は、多くの海運会社が提供するサービスで、見積価格には全ての輸送・手数料・通関費などが含まれる。
荷主調査による、日本の輸送手段別シェアは以下の通り。
輸送手段別シェア(2021年)
貨物輸送に関連する用語。
シッパー(英:Shipper)
「荷送人(シッパー)」は商品の発送に関わる当事者で、製品を製造し、直接取引を行う場合は売主、または商社を通す場合は商社となる。また、「荷送人」は運送契約の当事者であり、B/L面上に記載されている貨物の輸出者を指す。
コンサイニー(英:Consignee)
「受託人・荷受人(コンサイニー)」は、運送人により貨物が送られ、到着する先の組織や個人として運送状に記載されている者。L/C決済の場合、銀行がCONSIGNEEになることもある。 | [
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] | 貨物輸送は、モノ(貨物)を運ぶ、運輸業の一分野。対義語は旅客輸送。 Shippingという用語は、元々海上輸送をさすものであったが、アメリカ英語では陸送・航空も含むものに拡張された(国際英語ではCarriage)。Logistics(ロジスティクス、兵站)も軍事用語であったが、同様に貨物輸送として拡張された。 | {{読み仮名|'''貨物輸送'''|かもつゆそう}}は、モノ([[貨物]])を運ぶ、[[運輸業]]の一分野。対義語は[[旅客輸送]]。
'''Shipping'''という用語は、元々海上輸送をさすものであったが、アメリカ英語では陸送・航空も含むものに拡張された(国際英語では'''Carriage''')。'''Logistics'''([[ロジスティクス]]、[[兵站]])も軍事用語であったが、同様に貨物輸送として拡張された。
事業者は、自ら輸送手段を持って輸送する「実運送事業者」と、自らは実運送を行わない「[[貨物利用運送事業|貨物利用運送事業者]]([[フォワーダー]])」に大別される<ref>[[貨物利用運送事業法]] 第2条</ref>。
== 貨物の種類 ==
* [[コンテナリゼーション#FCL|コンテナ全積載]](FCL貨物) - コンテナ一本貸切輸送
* [[コンテナリゼーション#LCL|コンテナ積載量未満]](LCL貨物)- コンテナ混載輸送
== 輸送手段 ==
[[File:Freight goods according to mode of transportation 2010.png|thumb|right|世界の貨物輸送手段シェア(2010年, [[トンキロ]]単位)]]
2015年には、全世界で 108 兆トンキロの貨物が輸送され、2050 年まで年間3.4%の増加が見込まれる。うち70% が[[海運]]、18% が道路、9% が鉄道、2% が内陸水路、航空便は0.25%未満であった。<ref>{{cite news |url= https://www.maritime-executive.com/article/global-freight-demand-to-triple-by-2050 |title= Global Freight Demand to Triple by 2050 |work= The Maritime Executive |date= May 27, 2019}}</ref>。
=== 陸上 ===
{{Main|陸運}}
* [[貨物自動車]]輸送
* [[鉄道貨物輸送]]
** 鉄道小荷物サービス([[チッキ]]) - 現在は一部の私鉄を除き廃止
=== 航空 ===
{{Main|空運}}
* [[飛行機]]輸送
=== 海上 ===
{{Main|海運}}
* [[貨物船]]
=== インターモーダル ===
{{Main|インターモーダル輸送}}
船、鉄道、飛行機、トラック間を簡単に移動できる[[コンテナ化]]された貨物 ([[海上コンテナ]]) を特徴とする複合一貫輸送。
== 配送条件 ==
[[国際商工会議所]](ICC) が発行する[[インコタームズ]]は、国際貿易で最も一般的に使用される用語の解釈として、世界中の政府、法的当局、実務家によって受け入れられている。一般的な用語には次がある。
* [[本船甲板渡し条件]](FOB)
* [[運賃込み条件]](CFR、C&F、CNF)
* [[運賃・保険料込み条件]](CIF)
=== ドアツードア ===
{{Main|宅配便}}
'''ドアツードア '''(DTD, D2D) 輸送、'''クーリエ便'''とは、通常同じ輸送モードに留まり、複数の取引、積み替え、輸送を回避しながら、出発地 (POI) から目的地まで貨物を国内/国際的に輸送することを指す。
国際宅配便は、多くの海運会社が提供するサービスで、見積価格には全ての輸送・手数料・通関費などが含まれる。
== 日本の状況 ==
[[File:Freight transport share timeline of Japan.svg|thumb|right|350px|日本の貨物輸送シェア推移]]
荷主調査による、日本の輸送手段別シェアは以下の通り<ref name=sensu>{{Cite report|publisher=国土交通省 |title=全国貨物純流動調査(物流センサス)|date=2021 |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/butsuryu06100.html}}</ref>。
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}}
== 関連用語 ==
貨物輸送に関連する用語。
* '''[[シッパー]](英:Shipper)'''<ref>{{Cite web |title=Shipperとは|用語集|商船三井サービスサイト |url=https://www.mol-service.com/ja/glossary/shipper |website=www.mol-service.com |access-date=2023-11-02 |language=ja}}</ref> - 「荷送人(シッパー)」は商品の発送に関わる当事者で、製品を製造し、直接取引を行う場合は売主、または商社を通す場合は商社となる。また、「荷送人」は運送契約の当事者であり、B/L面上に記載されている貨物の輸出者を指す。
* '''[[コンサイニー]](英:Consignee)'''<ref>{{Cite web |title=コンサイニー - 貿易用語集 - - 内外トランスライン株式会社 |url=https://www.ntl-naigai.co.jp/glossary/ka/post-45.html |website=www.ntl-naigai.co.jp |access-date=2023-11-02}}</ref> - 「受託人・荷受人(コンサイニー)」は、運送人により貨物が送られ、到着する先の組織や個人として運送状に記載されている者。L/C決済の場合、銀行がCONSIGNEEになることもある。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[持続可能な交通]]
* [[流通]] - [[物流]] - [[ロジスティクス]]
* [[サプライチェーン・マネジメント]]
* [[インコタームズ]]
* [[コールドチェーン]]
* [[輸送コンテナ]]
* [[配車配送計画ソフト]]
* [[貨物列車]]
* [[航空貨物]]
* [[貨物索道]]
{{Normdaten}}
[[Category:貨物輸送|*]] | 2003-03-28T07:50:31Z | 2023-11-22T12:17:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E7%89%A9%E8%BC%B8%E9%80%81 |
5,402 | 宅配便 | 宅配便()、クーリエ便(Courier)とは、小口の商流貨物の輸送便。インコタームズではDDUに相当する。
国際宅配便は、30 kg以下程度の貨物を、ドアツードアで一貫輸送するサービスである。航空機による航空輸送と、船舶による海上輸送の2つに分かれている。
航空輸送の特色として、緊急性の高い物品や高価付加価値商品の利用に適しており、海上輸送に比べ輸送中の振動が少なく、貨物の破損も少ない。
海上輸送は、飛行機に搭載できない危険物の輸送ができ、超大量の積載に耐え、かつ輸送費用が航空輸送よりかからないことが利点である。 商業用の輸出入の中核を担っている。
宅配便は、比較的小さな荷物を各戸へ配送する輸送便で、路線トラックにおける事業のうち、特別積合せ事業の一形態であり、国土交通省の用語では「宅配便貨物」と規定されている。荷主の戸口から届け先の戸口までの迅速な配達を特徴とするものである。
法律上、宅配便は特別積合せに含まれるため、法律として宅配便が定義されている訳では無い。統計上では、宅配便と宅配便を除いた特別積合せで集計される。現場では、一般家庭宛てへの貨物を宅配便と呼ぶ場合も有る。
事業者およびブランドにより宅配便の定義が異なり以下の通りである。大きさや重量や責任限度額、いずれの制限を越えても一般貨物の、いわゆる特別積合せ・混載便と呼ばれるサービス内容に変わる。責任限度額はどこの運送会社も消費税込みで30万円である。以下は、主要事業者の事例となる。
破損等の保証は、実損額となる。
宅配便には一原票一個の原則があり、一つの伝票番号で1個口の荷物しか取り扱えない。ただし、以下の例外がある。
1927年鉄道省と運送業者が始めた集荷・配達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあたるとされている。このほか郵便小包のバリエーションとして速達小包が存在したが、デパートなどが利用するなど次第に扱いが増加。郵便局や鉄道に負荷がかかったため、1940年(昭和15年)8月末で速達小包は廃止された。前述の特別小口扱サービスも1942年(昭和17年)に廃止されている。
1942年から1973年までは個人が簡単に荷物を発送するためには、郵便小包(現在のゆうパック)か、鉄道を利用した鉄道小荷物(チッキ)しかなかった。それらは、郵便局または駅で荷物の発送をしなければならず、さらに、鉄道小荷物は駅で受け取る必要があった。また、郵便小包は当時6kgまでしか扱いがなかった。それらを使わない場合は、通運を利用するしかなかった。
1973年に三八五貨物(現在の三八五流通)が民間で初となる「グリーン宅配便」を青森県で開始した。次いで1976年1月20日には大和運輸(現在のヤマトホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」の名称で宅配便のサービスを開始。最初は関東地方のみで、1日目の取扱量は11個だった。さらに翌1978年頃から日本通運など他社大手輸送会社も同様のサービスを開始した。
1980年代に入ると、宅配便サービス各社は店舗網の拡大が始まったコンビニエンスストアを発送窓口にした他、宅配便の対象地区の拡大や高速道路網の拡充による配送時間の短縮化に連動して急速に取扱量が増えた。各社は動物(黒猫、ダックスフンド、カンガルー、こぐまなど)をシンボルマークに用いたことから、これらの会社間の熾烈な競争は「動物戦争」とも呼ばれた。宅配便の普及に伴い、鉄道小荷物は競争力を失ったため1986年11月に廃止されている。1997年には大和運輸が離島を含む全国展開を完了させた。
日本では、最初に宅配便サービスを開始したヤマト運輸(法人格としては、現在のヤマトホールディングス)の市場占有率が大きく、ヤマト運輸のサービス名「宅急便」と混同されやすいが、宅急便は商標登録されているため、あくまでも一般名称は『宅配便』である。
その他の大手・中堅宅配便事業者としてトナミ運輸の「パンサー宅配便」、中越運送の「中越宅配便」、第一貨物の「第一貨物宅配便」、新潟運輸の「シルバー宅配便」(日本郵便と提携してシルバーゆうパックに変更)、久留米運送の「宅配便利便」、松岡満運輸の「グリーン宅配便」、三八五流通の「三八五宅配便」、エスラインギフの「つばめ便」、札樽自動車運輸の「スワロー宅配便」などがある。
「ゆうパック」は、郵政民営化に際し、郵便法による小包郵便物から、貨物自動車運送事業法に規定される宅配貨物へ移行され、競争条件が同一化された。
なお2010年(平成22年)7月1日に、当時業界3位であった日本通運の「ペリカン便」が当時業界4位であった郵便事業(現:日本郵便)の「ゆうパック」に統合されている。これに伴い、ペリカン便(JPエクスプレス宅配便)のブランドは消滅し、JPエクスプレスも会社清算された。
受取人名に書かれた本人に限り配達可能な(身分証明書等、本人確認書類等により確認の上、荷物の引渡しを行う)サービスもある。事業者やサービスにより、転送や支店・営業店留ができるケースとそうでないケース・営業店留が必須なケースがある。
通常宅配便では荷送人(発送側)が支払う運送料金を、荷受人(受取側)が支払う制度を着払い制度と言う。
着払制度を利用する場合、別途手数料が掛かったり、複数口や持ち込み割引を含む各種割引が適用されなかったり、さらには着払いの場合には取扱貨物区分が一般貨物扱いのみになるなど、運賃に大きな差額が出る場合がある。
荷物の引き換えと同時に、商品の代金を現金で支払う制度である(代金引換)。
日本では、ヤマト運輸や佐川急便のように、依頼人側の契約次第によってはクレジットカードやデビットカードで支払う運送会社もある。通販でよく利用される。ゆうパック以外は契約が必要である。
代金の受け取りは、ゆうパックの場合は、契約型を利用しない場合は、かつてはゆうちょ銀行の通常貯金ないしは振替口座宛送金ないしは普通為替証書の受け取りに限定されていた。後に、ゆうちょ銀行の通常貯金ないしは振替口座への電信振替、あるいは全銀システムに接続された金融機関での受取が可能となり、普通為替証書での受け取りは廃止されている。なお、ゆうパックや他社の契約を有するタイプの場合は、一般の銀行宛振り込みなど他の方法でも可能である。
なお、運賃とは別に、代引手数料や引換金の振込手数料が必要で、加えて、印紙税の納付が必要なケースもある。
個人が利用できるサービスとして、セイノーグループが2010年4月1日に「メル友便」を開始している。これは、送り主が事前にメールアドレスを登録した上で、受取人が電子メールで受け取りを承諾すれば、双方の住所のやり取りなしに荷物のやり取りができる、いわゆるインターネットオークションによる商品授受向けサービスである。郵便事業のあて名変換サービスやヤマト運輸のオークション宅配便とは異なり、オークション業者等を介する必要がなく、なおかつ送り主が希望すれば個人でも代引扱いが可能としている。
2012年頃より、大手各社は各地で暴力団排除条例が制定されたことに伴い、暴力団および暴力団関係者等の利用を拒否することとなった。しかし、貨物利用運送事業法第10条では、「第一種貨物利用運送事業者は、特定の荷主に対して不当な差別的扱いをしてはならない」と定めていたことから、各社は2014年より運送約款を見直し、新たに暴力団排除条項を加えることで荷受け配達を拒否することとなった。
大手宅配便事業者であるヤマト運輸と佐川急便は、環境配慮の先進地である上高地をはじめとした長野県松本市安曇地域の一部を対象に、2020年4月16日より共同配送を開始した。佐川急便扱いの荷物は、佐川急便松本営業所からヤマト運輸松本今井センターへ輸送し、ヤマト運輸の配送車に積載した上でヤマト運輸のドライバーが佐川急便扱いの荷物を配達する。両社は、CO2排出量の削減が期待できるほか、「宅急便」と「飛脚宅配便」を同時に受け取ることができるメリットがあるとしている。
アメリカ合衆国にも商品配送の流通サービスがあるが、それは通信販売の発達とともにその枠組みの内部で行われてきた流通サービスであり、独立した物流サービスとして成長してきたものではない。
アメリカでは宅配便が取り扱う貨物は、packageやParcelと呼ばれ、通常150ポンド(約68kg)以下の小口荷物のことをいう。アメリカ国内の宅配便はトラック輸送による陸上宅配便(Ground)と航空機による航空宅配便(Express)に分けられる。
国土が広いために国内の陸上宅配便でも多くの輸送日数を要し、広い地域に翌日配達できるサービスを行うことは困難とされている。また、アメリカの陸上宅配便は原則として土曜日や日曜日は営業を行っておらず、配送日数も営業日で表されることが多い。
アメリカでは宅配便の取扱個数に関する統計データはなく、ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)やFedEXも一日平均取扱量しか公表していない。しかし、ネット通販の拡大などから宅配便市場は急激に拡大しており、UPSやFedEX、USPS(アメリカ郵政公社)の営業収入は、2014年には726億ドルとなった。
2019年12月のニューヨーク・タイムズによると、都市部では通販商品の15%が盗難や物流の問題で最終的な届け先に到達しておらず、その数は年々増加傾向にある。ニューヨークだけでも1日あたり9万個以上の荷物が配達先に届かない状態となっている。
アメリカの宅配サービスでは基本的な宅配便運賃に多様な追加料金(surcharge)が追加されるシステムになっている。
アメリカの大手宅配便事業者では貨物の容積に一定の指数を掛けた値と重量を比較して高いほうの運賃を適用する容積重量価格(dimensional weight pricing)のシステムがとられており、UPSやFedEXでは2011年から容積重量価格を一部の貨物に導入し、2015年からは陸上宅配便に導入している。
アメリカ合衆国では1775年に郵政省が発足し、1862年にはアメリカ合衆国郵政公社長官のモンゴメリー・ブレアが戸別集荷配達サービスを提唱。1896年までには地方の顧客も郵政公社の戸別直接配達を受けることができるようになった。ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)は1907年に一般家庭向けにメッセージや小荷物などを対象とする配達サービスを開始した。
1980年代にはユナイテッド・パーセル・サービスやフェデックスが新規に参入し、両社は米国国内であれば翌朝10時30分までに配達することをうたっており、市場シェアも両社が優勢で郵政公社は劣勢に立たされた。
さらにメール便のメール・ボクシーズ・イーティーシーがフランチャイズ展開し、至急配達や商品の包装サービスを提供するようになり、郵政公社も同様のサービスを提供するようになった。
アメリカでは大手宅配便事業者による寡占化が進んでいるが、特定の地方でのみ幹線輸送や集配機能を持つ地域運送事業者もおり、集荷時間が大手事業者よりも遅く、配送時間の短縮や当日配送などのサービスを行っている。
ヨーロッパでは消費者までの配送を一括して依存できるような日本のような宅配便に相当するサービスがなく、もともと企業向けを専門としていた小型荷物輸送事業者が消費者向けのサービス体制を整備したり、ネット通販事業者が自ら配送体制を整備している(そのため「小型荷物輸送」と呼ばれることがある)。
ネット通販事業者が輸送業者に全面的に配送を委託することは難しいため、物流施設をネット通販事業者が整備し、その間の配送を小型荷物輸送事業者に委託したり自社配送を行って対応している事業者が多い。
2013年の調査(European Commission (2013))によると、ヨーロッパでは事前時間帯指定や夜間配達、土曜日配達を、国内全域で提供している事業者の割合は半分以下だった。小型荷物輸送事業者でも、ネット通販の拡大や消費者のニーズに対応するため、ターミナル整備や車両、従業員の配置を進めているが、消費者の低価格志向が強く投資採算の確保が難しいことが課題になっている。
ヨーロッパにはもともと消費者向けの小型荷物輸送サービスは郵便事業者が提供する小包のサービスしかなかった。EUの市場統合により、民営化した事業者の中には信書だけでなくより大型の荷物を取り扱うようになった事業者もある。
ヨーロッパでは企業向けの小型荷物輸送の貨物は、形状や輸送速度により、クーリエ(Courier、書状)、エクスプレス(Express、急送)、パーセル(Parcel、小包)に分けて呼んでいるが、実際には全てを扱う事業者が多いためCEPと総称される。
また、アメリカのインテグレーターであるFedExやUPSもヨーロッパ市場に参入している。
消費者向け電子商取引の増加やドライバー人手不足の問題を背景に、家庭向けの宅配便サービスでは受取人不在による再配達問題が生じている。再配達が増加すると、より多くの配達員が必要となるなど宅配事業者の配送効率に影響するほか、再配達による二酸化炭素排出量の増加など社会経済的損失を生む側面もある。
日本では、日本郵便・ヤマト運輸・佐川急便の大手3社の2014年12月の調査によると19.6%が不在であった。再配達によるトラックの走行距離増加で、二酸化炭素排出量の増加や配達運転手の負担増大が問題になっており、国土交通省が対策に乗り出している。対策としては、コンビニエンスストアでの受け取りシステムの拡大(複数の宅配業者への対応化)、宅配ボックスの設置や受け取りカウンターの設置などが示されている。
ヤマト運輸では、2023年6月1日受付分から、伝票記載の住所以外へ荷物の転送を依頼する場合は、着払いのみの対応となる。なお、『着払い転送』に同意しない場合は、荷物を保管しているヤマト運輸営業所への引取か、依頼主への返品となる。
ヨーロッパでは無料の再配達は一般的ではなく、不在時には玄関脇に留置き(放置)されたり、近隣預け、あるいは不在票を残して持ち帰り消費者に荷物の引き取りを要求することが多い。
過疎地域のように集配密度の低い地域では宅配サービスの維持が課題になっており、宅配便の一括配送、店舗からの宅配サービス、買い物代行サービス等との統合も議論されている。
宅配便業者を装って偽の不在票をSMSで送りつけたり、現金を宅配便で送らせる特殊詐欺のような事案も発生している。 | [
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"text": "1927年鉄道省と運送業者が始めた集荷・配達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあたるとされている。このほか郵便小包のバリエーションとして速達小包が存在したが、デパートなどが利用するなど次第に扱いが増加。郵便局や鉄道に負荷がかかったため、1940年(昭和15年)8月末で速達小包は廃止された。前述の特別小口扱サービスも1942年(昭和17年)に廃止されている。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"paragraph_id": 10,
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"text": "1942年から1973年までは個人が簡単に荷物を発送するためには、郵便小包(現在のゆうパック)か、鉄道を利用した鉄道小荷物(チッキ)しかなかった。それらは、郵便局または駅で荷物の発送をしなければならず、さらに、鉄道小荷物は駅で受け取る必要があった。また、郵便小包は当時6kgまでしか扱いがなかった。それらを使わない場合は、通運を利用するしかなかった。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"text": "1973年に三八五貨物(現在の三八五流通)が民間で初となる「グリーン宅配便」を青森県で開始した。次いで1976年1月20日には大和運輸(現在のヤマトホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」の名称で宅配便のサービスを開始。最初は関東地方のみで、1日目の取扱量は11個だった。さらに翌1978年頃から日本通運など他社大手輸送会社も同様のサービスを開始した。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"text": "1980年代に入ると、宅配便サービス各社は店舗網の拡大が始まったコンビニエンスストアを発送窓口にした他、宅配便の対象地区の拡大や高速道路網の拡充による配送時間の短縮化に連動して急速に取扱量が増えた。各社は動物(黒猫、ダックスフンド、カンガルー、こぐまなど)をシンボルマークに用いたことから、これらの会社間の熾烈な競争は「動物戦争」とも呼ばれた。宅配便の普及に伴い、鉄道小荷物は競争力を失ったため1986年11月に廃止されている。1997年には大和運輸が離島を含む全国展開を完了させた。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"text": "日本では、最初に宅配便サービスを開始したヤマト運輸(法人格としては、現在のヤマトホールディングス)の市場占有率が大きく、ヤマト運輸のサービス名「宅急便」と混同されやすいが、宅急便は商標登録されているため、あくまでも一般名称は『宅配便』である。",
"title": "日本の宅配便"
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"text": "その他の大手・中堅宅配便事業者としてトナミ運輸の「パンサー宅配便」、中越運送の「中越宅配便」、第一貨物の「第一貨物宅配便」、新潟運輸の「シルバー宅配便」(日本郵便と提携してシルバーゆうパックに変更)、久留米運送の「宅配便利便」、松岡満運輸の「グリーン宅配便」、三八五流通の「三八五宅配便」、エスラインギフの「つばめ便」、札樽自動車運輸の「スワロー宅配便」などがある。",
"title": "日本の宅配便"
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"text": "「ゆうパック」は、郵政民営化に際し、郵便法による小包郵便物から、貨物自動車運送事業法に規定される宅配貨物へ移行され、競争条件が同一化された。",
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},
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"text": "なお2010年(平成22年)7月1日に、当時業界3位であった日本通運の「ペリカン便」が当時業界4位であった郵便事業(現:日本郵便)の「ゆうパック」に統合されている。これに伴い、ペリカン便(JPエクスプレス宅配便)のブランドは消滅し、JPエクスプレスも会社清算された。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
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"text": "受取人名に書かれた本人に限り配達可能な(身分証明書等、本人確認書類等により確認の上、荷物の引渡しを行う)サービスもある。事業者やサービスにより、転送や支店・営業店留ができるケースとそうでないケース・営業店留が必須なケースがある。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"text": "通常宅配便では荷送人(発送側)が支払う運送料金を、荷受人(受取側)が支払う制度を着払い制度と言う。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
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"text": "着払制度を利用する場合、別途手数料が掛かったり、複数口や持ち込み割引を含む各種割引が適用されなかったり、さらには着払いの場合には取扱貨物区分が一般貨物扱いのみになるなど、運賃に大きな差額が出る場合がある。",
"title": "日本の宅配便"
},
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"text": "荷物の引き換えと同時に、商品の代金を現金で支払う制度である(代金引換)。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
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"text": "日本では、ヤマト運輸や佐川急便のように、依頼人側の契約次第によってはクレジットカードやデビットカードで支払う運送会社もある。通販でよく利用される。ゆうパック以外は契約が必要である。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "代金の受け取りは、ゆうパックの場合は、契約型を利用しない場合は、かつてはゆうちょ銀行の通常貯金ないしは振替口座宛送金ないしは普通為替証書の受け取りに限定されていた。後に、ゆうちょ銀行の通常貯金ないしは振替口座への電信振替、あるいは全銀システムに接続された金融機関での受取が可能となり、普通為替証書での受け取りは廃止されている。なお、ゆうパックや他社の契約を有するタイプの場合は、一般の銀行宛振り込みなど他の方法でも可能である。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
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"text": "なお、運賃とは別に、代引手数料や引換金の振込手数料が必要で、加えて、印紙税の納付が必要なケースもある。",
"title": "日本の宅配便"
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{
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"text": "個人が利用できるサービスとして、セイノーグループが2010年4月1日に「メル友便」を開始している。これは、送り主が事前にメールアドレスを登録した上で、受取人が電子メールで受け取りを承諾すれば、双方の住所のやり取りなしに荷物のやり取りができる、いわゆるインターネットオークションによる商品授受向けサービスである。郵便事業のあて名変換サービスやヤマト運輸のオークション宅配便とは異なり、オークション業者等を介する必要がなく、なおかつ送り主が希望すれば個人でも代引扱いが可能としている。",
"title": "日本の宅配便"
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{
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"text": "2012年頃より、大手各社は各地で暴力団排除条例が制定されたことに伴い、暴力団および暴力団関係者等の利用を拒否することとなった。しかし、貨物利用運送事業法第10条では、「第一種貨物利用運送事業者は、特定の荷主に対して不当な差別的扱いをしてはならない」と定めていたことから、各社は2014年より運送約款を見直し、新たに暴力団排除条項を加えることで荷受け配達を拒否することとなった。",
"title": "日本の宅配便"
},
{
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"text": "大手宅配便事業者であるヤマト運輸と佐川急便は、環境配慮の先進地である上高地をはじめとした長野県松本市安曇地域の一部を対象に、2020年4月16日より共同配送を開始した。佐川急便扱いの荷物は、佐川急便松本営業所からヤマト運輸松本今井センターへ輸送し、ヤマト運輸の配送車に積載した上でヤマト運輸のドライバーが佐川急便扱いの荷物を配達する。両社は、CO2排出量の削減が期待できるほか、「宅急便」と「飛脚宅配便」を同時に受け取ることができるメリットがあるとしている。",
"title": "日本の宅配便"
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{
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"text": "アメリカ合衆国にも商品配送の流通サービスがあるが、それは通信販売の発達とともにその枠組みの内部で行われてきた流通サービスであり、独立した物流サービスとして成長してきたものではない。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "アメリカでは宅配便が取り扱う貨物は、packageやParcelと呼ばれ、通常150ポンド(約68kg)以下の小口荷物のことをいう。アメリカ国内の宅配便はトラック輸送による陸上宅配便(Ground)と航空機による航空宅配便(Express)に分けられる。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
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{
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"text": "国土が広いために国内の陸上宅配便でも多くの輸送日数を要し、広い地域に翌日配達できるサービスを行うことは困難とされている。また、アメリカの陸上宅配便は原則として土曜日や日曜日は営業を行っておらず、配送日数も営業日で表されることが多い。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "アメリカでは宅配便の取扱個数に関する統計データはなく、ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)やFedEXも一日平均取扱量しか公表していない。しかし、ネット通販の拡大などから宅配便市場は急激に拡大しており、UPSやFedEX、USPS(アメリカ郵政公社)の営業収入は、2014年には726億ドルとなった。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2019年12月のニューヨーク・タイムズによると、都市部では通販商品の15%が盗難や物流の問題で最終的な届け先に到達しておらず、その数は年々増加傾向にある。ニューヨークだけでも1日あたり9万個以上の荷物が配達先に届かない状態となっている。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
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"text": "アメリカの宅配サービスでは基本的な宅配便運賃に多様な追加料金(surcharge)が追加されるシステムになっている。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
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"paragraph_id": 33,
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"text": "アメリカの大手宅配便事業者では貨物の容積に一定の指数を掛けた値と重量を比較して高いほうの運賃を適用する容積重量価格(dimensional weight pricing)のシステムがとられており、UPSやFedEXでは2011年から容積重量価格を一部の貨物に導入し、2015年からは陸上宅配便に導入している。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
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"text": "アメリカ合衆国では1775年に郵政省が発足し、1862年にはアメリカ合衆国郵政公社長官のモンゴメリー・ブレアが戸別集荷配達サービスを提唱。1896年までには地方の顧客も郵政公社の戸別直接配達を受けることができるようになった。ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)は1907年に一般家庭向けにメッセージや小荷物などを対象とする配達サービスを開始した。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "1980年代にはユナイテッド・パーセル・サービスやフェデックスが新規に参入し、両社は米国国内であれば翌朝10時30分までに配達することをうたっており、市場シェアも両社が優勢で郵政公社は劣勢に立たされた。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
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"text": "さらにメール便のメール・ボクシーズ・イーティーシーがフランチャイズ展開し、至急配達や商品の包装サービスを提供するようになり、郵政公社も同様のサービスを提供するようになった。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "アメリカでは大手宅配便事業者による寡占化が進んでいるが、特定の地方でのみ幹線輸送や集配機能を持つ地域運送事業者もおり、集荷時間が大手事業者よりも遅く、配送時間の短縮や当日配送などのサービスを行っている。",
"title": "アメリカ合衆国の宅配便"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは消費者までの配送を一括して依存できるような日本のような宅配便に相当するサービスがなく、もともと企業向けを専門としていた小型荷物輸送事業者が消費者向けのサービス体制を整備したり、ネット通販事業者が自ら配送体制を整備している(そのため「小型荷物輸送」と呼ばれることがある)。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ネット通販事業者が輸送業者に全面的に配送を委託することは難しいため、物流施設をネット通販事業者が整備し、その間の配送を小型荷物輸送事業者に委託したり自社配送を行って対応している事業者が多い。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2013年の調査(European Commission (2013))によると、ヨーロッパでは事前時間帯指定や夜間配達、土曜日配達を、国内全域で提供している事業者の割合は半分以下だった。小型荷物輸送事業者でも、ネット通販の拡大や消費者のニーズに対応するため、ターミナル整備や車両、従業員の配置を進めているが、消費者の低価格志向が強く投資採算の確保が難しいことが課題になっている。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ヨーロッパにはもともと消費者向けの小型荷物輸送サービスは郵便事業者が提供する小包のサービスしかなかった。EUの市場統合により、民営化した事業者の中には信書だけでなくより大型の荷物を取り扱うようになった事業者もある。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは企業向けの小型荷物輸送の貨物は、形状や輸送速度により、クーリエ(Courier、書状)、エクスプレス(Express、急送)、パーセル(Parcel、小包)に分けて呼んでいるが、実際には全てを扱う事業者が多いためCEPと総称される。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、アメリカのインテグレーターであるFedExやUPSもヨーロッパ市場に参入している。",
"title": "ヨーロッパの小型荷物輸送"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "消費者向け電子商取引の増加やドライバー人手不足の問題を背景に、家庭向けの宅配便サービスでは受取人不在による再配達問題が生じている。再配達が増加すると、より多くの配達員が必要となるなど宅配事業者の配送効率に影響するほか、再配達による二酸化炭素排出量の増加など社会経済的損失を生む側面もある。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本では、日本郵便・ヤマト運輸・佐川急便の大手3社の2014年12月の調査によると19.6%が不在であった。再配達によるトラックの走行距離増加で、二酸化炭素排出量の増加や配達運転手の負担増大が問題になっており、国土交通省が対策に乗り出している。対策としては、コンビニエンスストアでの受け取りシステムの拡大(複数の宅配業者への対応化)、宅配ボックスの設置や受け取りカウンターの設置などが示されている。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ヤマト運輸では、2023年6月1日受付分から、伝票記載の住所以外へ荷物の転送を依頼する場合は、着払いのみの対応となる。なお、『着払い転送』に同意しない場合は、荷物を保管しているヤマト運輸営業所への引取か、依頼主への返品となる。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは無料の再配達は一般的ではなく、不在時には玄関脇に留置き(放置)されたり、近隣預け、あるいは不在票を残して持ち帰り消費者に荷物の引き取りを要求することが多い。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "過疎地域のように集配密度の低い地域では宅配サービスの維持が課題になっており、宅配便の一括配送、店舗からの宅配サービス、買い物代行サービス等との統合も議論されている。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "宅配便業者を装って偽の不在票をSMSで送りつけたり、現金を宅配便で送らせる特殊詐欺のような事案も発生している。",
"title": "宅配便をめぐる課題"
}
] | 宅配便、クーリエ便(Courier)とは、小口の商流貨物の輸送便。インコタームズではDDUに相当する。 | {{複数の問題
|出典の明記 = 2018年1月
|独自研究 = 2018年1月
}}
[[File:FEDEX Freight (8915186339).jpg|thumb|right|400px|世界最大のクーリエ便、[[FedEx]]]]
[[File:SpeedPostEMS.JPG|thumb|right|国際スピード郵便(EMS)]]
{{読み仮名|'''宅配便'''|たくはいびん}}、'''[[クーリエ]]便'''(Courier)とは、小口の商流貨物の輸送便。[[インコタームズ]]では'''DDU'''に相当する。
== 国際宅配便 ==
[[File:North Korea - DHL service available (5023580623).jpg|thumb|right|320 px|DHL発送取扱店であることを示す札]]
国際宅配便は、30 kg以下程度の貨物を、ドアツードアで一貫輸送するサービスである<ref name=mlit>{{Cite report |publisher=国土交通省 |title= 国際航空貨物動態調査報告書 平成28年度 | date = 2017 |url=https://www.mlit.go.jp/common/001179697.pdf }}</ref>。[[航空機]]による[[航空貨物|航空輸送]]と、[[船|船舶]]による[[水運|海上輸送]]の2つに分かれている。
航空輸送の特色として、緊急性の高い物品や高価[[付加価値]]商品の利用に適しており、海上輸送に比べ輸送中の振動が少なく、貨物の破損も少ない。
海上輸送は、飛行機に搭載できない[[危険物]]の輸送ができ、超大量の積載に耐え、かつ輸送費用が航空輸送よりかからないことが利点である。[[貿易| 商業用の輸出入]]の中核を担っている。
* [[フェデックス]](FedEX) <ref name=mlit />
* [[ユナイテッド・パーセル・サービス]](UPS)<ref name=mlit />
* [[DHL]] <ref name=mlit />
* [[日本郵便]]
* [[TNTエクスプレス|TNT]]
* [[日本通運]](いわゆる[[日通航空]])の海外ペリカン便<ref name=mlit />
* [[OCS (運送業)|OCS]]海外新聞普及株式会社
* SGHグローバルジャパン<ref name=mlit />
* [[サンキュウエアロジスティクス]]<ref name=mlit />
* [[西濃運輸]]<ref name=mlit />
* [[福山通運]] <ref name=mlit />
* [[ヤマトグローバルエキスプレス]]<ref name=mlit />
* [[郵船ロジスティクス]] <ref name=mlit />
== 日本の宅配便 ==
[[File:Sagawakyubin truck01.jpg|thumb|佐川急便の配送車の例]]
[[ファイル:KuronekoB.jpg|thumb|ヤマト運輸の路線大型トラックの例]]
[[ファイル:M250 Higashi-Totsuka 20030630.jpg|thumb|佐川急便一社借り上げのコンテナ列車([[JR貨物M250系電車]])]]
[[ファイル:Yamato Bicycle 20191217.jpg|thumb|ヤマト運輸の配送用自転車]]
宅配便は、比較的小さな荷物を各戸へ配送する輸送便で、路線トラックにおける事業のうち、[[特別積合せ]]事業の一形態であり、[[国土交通省]]の用語では「宅配便貨物」と規定されている<ref>[http://www.mlit.go.jp/k-toukei/tokudumi/yougo.html 用語の解説]を参照。</ref>。荷主の戸口から届け先の戸口までの迅速な配達を特徴とするものである。
*以下は[[特別積合せ貨物運送]]ではあるが、定義上宅配便の扱いにはならない。
**航空機を利用した貨物→航空便(ただし、宅急便タイムサービスや飛脚航空便やパーセル1のように個建で標準宅配便約款に準拠しているものは定義上宅配便となる)
**引越貨物→引越便(らくらく家財宅急便は「宅急便」と名が付いているが、ヤマト運輸の宅配便商品ではなくヤマトホームコンビニエンスの引越商品である。旧名「小さな引越便」)
**メール便
**ゆうパック以外で、郵便事業が取り扱う「[[荷物 (日本郵便)|荷物]]」扱いの発送商品([[ゆうメール]]や[[エクスパック]]、[[ポスパケット]]など)
*以下は、[[特別積合せ貨物運送]]ではない。
**寿司や弁当の料理宅配(いわゆる[[出前]]や[[デリバリー]])
**貸切貨物→チャーター便(バイクを利用したものは[[バイク便]])
=== 規定 ===
法律上、宅配便は[[特別積合せ]]に含まれるため、法律として宅配便が定義されている訳では無い。統計上では、宅配便と宅配便を除いた特別積合せで集計される。現場では、一般家庭宛てへの貨物を宅配便と呼ぶ場合も有る。
事業者およびブランドにより宅配便の定義が異なり以下の通りである。大きさや重量や責任限度額、いずれの制限を越えても一般貨物の、いわゆる[[特別積合せ]]・混載便と呼ばれるサービス内容に変わる。責任限度額はどこの運送会社も消費税込みで30万円である。以下は、主要事業者の事例となる。
*3辺の合計が170cm以内で、かつ重量が30kg以内の1個口の貨物([[ゆうパック]]の場合)
*3辺の合計が160cm以内で、かつ重量が30kg以内の1個口の貨物(飛脚宅配便・パーセルワンの場合)
*3辺の合計が200cm以内で、かつ重量が30kg以内の1個口の貨物([[宅急便]]の場合・ただし、旧来の[[ヤマト便]]サイズの荷物については、最長辺170cm(横倒し不可荷物は100cm)の制限がある<ref>[https://www.yamato-hd.co.jp/news/2021/newsrelease_20210720_1.html 宅急便の取り扱いサイズを10月4日(月)より拡大――新たに180・200サイズを新設し、ヤマト便を廃止します――] - ヤマト運輸・ 2021年7月20日リリース</ref>他、フリマサイト<!---ヤフオクやメルカリなど--->やコンビニエンスストア<!---へ持ち込む場合--->及びPUDO(宅配便ロッカー)でも'''新'''サイズは扱わない。)
*3辺の合計が170cm以内で、かつ重量が30kg以内の1個口の貨物(フクツー宅配便の場合)
*3辺の合計が130cm以内で、かつ重量が20kg以内の1個口の貨物(カンガルーミニ便の場合)
*このほか、3辺合計及び重量の制限は運送会社・サービスによって若干違いがある
破損等の保証は、実損額となる。
===複数口による発送の宅配便===
宅配便には'''一原票一個の原則'''があり、一つの伝票番号で1個口の荷物しか取り扱えない。ただし、以下の例外がある。
* サイズ制の料金体系に移行後の[[ゆうパック]]の複数口送り状には、2つの送り状番号の記載がある(2つ印字された番号自体は、上4桁目を除き、全く同一)。
** なお、ゆうパックのコンビニ差し出しの場合は、POS端末処理の都合上、複数口送り状を利用しての差し出しが必須となるが、集荷扱いないしは[[ゆうゆう窓口]]や[[郵便局]]の郵便窓口での差出をはじめ、それ以外の取扱店等での差出では通常の送り状の複数枚利用で対応可能。
* [[ヤマト運輸]]の[[宅急便]]の場合、「複数口」の場合は1つの伝票番号で最大5個口まで取扱可能。なお、複数口専用の送り状が必要で、2個の場合は複数口用送り状単独で、3~5個目は、さらに伝票番号の記載がない茶色地の「副伝票」を併せて用いる。6個口以上は、6個のケースでは4個口と2個口、7個のケースでは5個口と2個口の2つに分けて発送する方法を取る<!-- この方法では、どのみち複数口の送り状の2枚記入が必要だが、副伝票は1枚の記入で済む。なお、3個口2つないしは4個口と3個口の組み合わせでは、複数口送り状と副伝票を各々2枚ずつ記入が必要。 -->。5個口プラス1個では、1個のほうに複数口割引は適用されない。また、<!---宅急便と--->クール宅急便との複数口割引は適用しない。
**この送り状がない場合は、他社とは異なり、複数口割引の適用はなされない<ref>[http://www.kuronekoyamato.co.jp/takkyubin/waribiki.html 宅急便|割引サービス ヤマト運輸]</ref>。
* [[佐川急便]]の飛脚宅配便の場合は、同じく「複数口」での発送の場合、発送する荷物のうちの1つにのみ通常の元払い送り状を貼り付けし、2個目以降は「貼エフ」とよばれるシールに記入の上、各々の荷物に貼り付ける形となる<ref>[http://www.sagawa-exp.co.jp/service/takuhai/#c04 飛脚宅配便|サービス一覧(ご利用方法)]</ref>。割引の対象ではないが、複数口着払の場合も同様。
=== 歴史 ===
[[1927年]][[鉄道省]]と運送業者が始めた集荷・配達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあたるとされている。このほか郵便小包のバリエーションとして速達小包が存在したが、デパートなどが利用するなど次第に扱いが増加。郵便局や鉄道に負荷がかかったため、1940年(昭和15年)8月末で速達小包は廃止された<ref>速達小包は廃止、労力難の逓信省『中外商業新聞』(昭和15年8月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p760 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。前述の特別小口扱サービスも[[1942年]](昭和17年)に廃止されている。
1942年から[[1973年]]までは個人が簡単に荷物を発送するためには、[[荷物 (日本郵便)|郵便小包]](現在の[[ゆうパック]])か、[[鉄道]]を利用した[[チッキ|鉄道小荷物(チッキ)]]しかなかった。それらは、[[郵便局]]または[[鉄道駅|駅]]で荷物の発送をしなければならず、さらに、鉄道小荷物は駅で受け取る必要があった。また、郵便小包は当時6kgまでしか扱いがなかった。それらを使わない場合は、[[鉄道利用運送事業|通運]]を利用するしかなかった。
[[1973年]]に三八五貨物(現在の[[三八五流通]])が民間で初となる「グリーン宅配便」を青森県で開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://keiei.proweb.jp/column/remark/1/434/538/ |title=「同じ量を運べば、小口は大口の三、四倍もの収入になる。大量の小口を集めて、スケールメリットを追及すれば必ず成功するはずだ。」ヤマト運輸 元社長 小倉昌男 | 経営全般 | 経営プロ |accessdate=2023-09-28}}</ref><ref>ただし現在の三八五流通は宅配業務開始を1983年と記載している</ref>。次いで[[1976年]]1月20日には大和運輸(現在の[[ヤマトホールディングス]]・[[ヤマト運輸]])が「[[宅急便]]」の名称で宅配便のサービスを開始。最初は[[関東地方]]のみで、1日目の取扱量は11個だった。さらに翌[[1978年]]頃から日本通運など他社大手輸送会社も同様のサービスを開始した。
[[1980年代]]に入ると、宅配便サービス各社は店舗網の拡大が始まったコンビニエンスストアを発送窓口にした他、宅配便の対象地区の拡大や高速道路網の拡充による配送時間の短縮化に連動して急速に取扱量が増えた。各社は動物(黒猫、ダックスフンド、カンガルー、こぐまなど)をシンボルマークに用いたことから、これらの会社間の熾烈な競争は「動物戦争」とも呼ばれた。宅配便の普及に伴い、鉄道小荷物は競争力を失ったため[[1986年]]11月に廃止されている。1997年には大和運輸が離島を含む全国展開を完了させた。
=== 主な会社とサービス名 ===
日本では、最初に宅配便サービスを開始した[[ヤマト運輸]](法人格としては、現在の[[ヤマトホールディングス]])の市場占有率が大きく、ヤマト運輸のサービス名「宅急便」と混同されやすいが、宅急便は商標登録されているため、あくまでも一般名称は『'''宅配便'''』である。
# 業界1位 [[ヤマト運輸]]「[[宅急便]]」「宅急便タイムサービス」
# 業界2位 [[佐川急便]]「飛脚宅配便」「飛脚航空便」
# 業界3位 [[日本郵便]]「[[ゆうパック]]」
# 業界4位 [[西濃運輸]]「カンガルーミニ便」「カンガルー通販便」
# 業界5位 [[福山通運]]「フクツー宅配便」「パーセルワン」
その他の大手・中堅宅配便事業者として[[トナミ運輸]]の「パンサー宅配便」、[[中越運送]]の「中越宅配便」、[[第一貨物]]の「第一貨物宅配便」、[[新潟運輸]]の「シルバー宅配便」(日本郵便と提携してシルバーゆうパックに変更)、[[久留米運送]]の「宅配便利便」、[[松岡満運輸]]の「グリーン宅配便」、[[三八五流通]]の「三八五宅配便」、[[エスラインギフ]]の「つばめ便」、[[札樽自動車運輸]]の「スワロー宅配便」などがある。
「ゆうパック」は、[[郵政民営化]]に際し、[[郵便法]]による小包郵便物から、[[貨物自動車運送事業法]]に規定される宅配貨物へ移行され、競争条件が同一化された。
なお[[2010年]](平成22年)[[7月1日]]に、当時業界3位であった[[日本通運]]の「[[ペリカン便]]」が当時業界4位であった郵便事業(現:日本郵便)の「ゆうパック」に統合されている。これに伴い、ペリカン便(JPエクスプレス宅配便)のブランドは消滅し、[[JPエクスプレス]]も会社清算された。
{|class="wikitable" border="1" style="font-size:90%; margin:1em"
|+取扱個数の推移
!rowspan="2"|年度
!rowspan="2"|総数
!rowspan="2"|トラック運送
!colspan="6"|トラック運送便名別取扱個数
!rowspan="2"|出典
|-
!colspan="2"|1位
!colspan="2"|2位
!colspan="2"|3位
|-
!平成15年度
|align="right"|28億3,446万
|align="right"|28億0,389万
|宅急便
|align="right"|10億0,693万
|佐川急便
|align="right"|9億2,535万
|ペリカン便
|align="right"|3億6,763万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha04/09/090630_.html 平成15年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成16年6月30日</ref>
|-
!平成16年度
|align="right"|28億7,404万
|align="right"|28億4,346万
|宅急便
|align="right"|10億5,892万
|佐川急便
|align="right"|9億4,323万
|ペリカン便
|align="right"|3億4,923万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/09/090706_.html 平成16年度 宅配便等取扱実績について(訂正版)] 国土交通省 平成17年7月6日</ref>
|-
!平成17年度
|align="right"|29億4,100万
|align="right"|29億1,030万
|宅急便
|align="right"|11億2,470万
|佐川急便
|align="right"|9億9,310万
|ペリカン便
|align="right"|3億4,124万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/09/090629_.html 平成17年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成18年6月29日</ref>
|-
!平成18年度
|align="right"|29億3,919万
|align="right"|29億0,794万
|宅急便
|align="right"|10億2,850万
|佐川急便
|align="right"|9億9,310万
|ペリカン便
|align="right"|3億3,043万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/09/090704_.html 平成18年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成19年7月4日</ref>
|-
!平成19年度
|align="right"|32億6,159万
|align="right"|32億2,708万
|宅急便
|align="right"|12億3,373万
|佐川急便
|align="right"|10億7,852万
|ペリカン便
|align="right"|3億3,642万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000004.html 平成19年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成20年7月11日</ref>
|-
!平成20年度
|align="right"|32億1,166万
|align="right"|31億7,749万
|宅急便
|align="right"|12億3,053万
|飛脚宅配便
|align="right"|10億6,110万
|ペリカン便
|align="right"|3億2,786万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000014.html 平成20年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成21年7月3日</ref>
|-
!平成21年度
|align="right"|31億3,694万
|align="right"|31億0,776万
|宅急便
|align="right"|12億6,051万
|飛脚宅配便
|align="right"|11億2,495万
|ゆうパック
|align="right"|2億6,404万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000021.html 平成21年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成22年7月5日</ref>
|-
!平成22年度
|align="right"|32億1,983万
|align="right"|31億9,329万
|宅急便
|align="right"|13億4,877万
|飛脚宅配便
|align="right"|11億9,404万
|ゆうパック
|align="right"|3億4,682万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000034.html 平成22年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成23年7月12日</ref>
|-
!平成23年度
|align="right"|31億3,694万
|align="right"|31億0,776万
|宅急便
|align="right"|14億2,361万
|飛脚宅配便
|align="right"|12億9,954万
|ゆうパック
|align="right"|3億8,330万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000042.html 平成23年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成24年7月5日</ref>
|-
!平成24年度
|align="right"|34億0,096万
|align="right"|33億6,300万
|宅急便
|align="right"|14億8,754万
|飛脚宅配便
|align="right"|13億5,651万
|ゆうパック
|align="right"|3億8,221万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000060.html 平成24年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成25年7月31日</ref>
|-
!平成25年度
|align="right"|36億3,668万
|align="right"|35億9,506万
|宅急便
|align="right"|16億6,587万
|飛脚宅配便
|align="right"|12億1,878万
|ゆうパック
|align="right"|4億2,843万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000080.html 平成25年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成26年7月17日</ref>
|-
!平成26年度
|align="right"|36億1,379万
|align="right"|35億7,008万
|宅急便
|align="right"|16億2,204万
|飛脚宅配便
|align="right"|11億9,600万
|ゆうパック
|align="right"|4億8,504万
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000097.html 平成26年度 宅配便等取扱実績について] 国土交通省 平成27年7月24日</ref>
|-
!平成27年度
|align="right"|37億4,493万3千
|align="right"|37億0,446万8千
|宅急便
|align="right"|17億3,126万3千
|飛脚宅配便
|align="right"|11億9,829万8千
|ゆうパック
|align="right"|5億1,302万4千
|<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/jidosha04_hh_000106.html 平成27年度 宅配便取扱実績について] 国土交通省 平成28年7月22日</ref>
|}
=== 本人限定受取サービス ===
受取人名に書かれた本人に限り配達可能な([[身分証明書]]等、[[本人確認書類]]等により確認の上、荷物の引渡しを行う)サービスもある。事業者やサービスにより、転送や支店・営業店留ができるケースとそうでないケース・営業店留が必須なケースがある。
*[[日本郵便]]:「本人限定受取[[ゆうパック#有料サービス|セキュリティゆうパック]]」・・・ゆうパックの基本送料にセキュリティ料360円とそのオプションである本人限定受取扱料100円の追加で発送可能(送り状は、セキュリティゆうパック用のものを利用)。本人限定受取郵便同様、基本型・特例型については、個人・法人の別にかかわらず発送可能だが、特定事項伝達型の場合は、事前契約した法人のみ利用可能。[[代引]]セキュリティゆうパックに付加することも可能(ただし、[[2015年]][[10月1日]]以降は、特定事項伝達型に限り利用不可となる)。
*[[佐川急便]]:「飛脚宅配便受取人確認配達サービス」<ref>[http://www.sagawa-exp.co.jp/service/kakunin/ 受取人確認配達サービス(有償)|サービス一覧|佐川急便]</ref>…事前契約した法人のみが利用可能で、基本送料に200円追加で発送可能。送り状は、専用のものを用いる。本人確認書類による配達のほか、事前に受取人側が設定したパスワードを受け取り時にドライバーの端末に入力することで照合するという方法もとることが可能となっている。[[日本通信]]が、前者の方法によって音声対応の[[UIMカード]]の送付に用いていることを公表している。
=== 料金制度 ===
==== 着払制度 ====
{{main|着払い}}
通常宅配便では荷送人(発送側)が支払う運送料金を、荷受人(受取側)が支払う制度を着払い制度と言う。
着払制度を利用する場合、別途手数料が掛かったり、複数口や持ち込み割引を含む各種割引が適用されなかったり、さらには着払いの場合には取扱貨物区分が一般貨物扱いのみになるなど、運賃に大きな差額が出る場合がある。
==== 代引制度 ====
{{main|代金引換}}
荷物の引き換えと同時に、商品の代金を現金で支払う制度である([[代金引換]])。
日本では、ヤマト運輸や佐川急便のように、依頼人側の契約次第によってはクレジットカードやデビットカードで支払う運送会社もある。通販でよく利用される。[[ゆうパック]]以外は契約が必要である。
代金の受け取りは、ゆうパックの場合は、契約型を利用しない場合は、かつては[[ゆうちょ銀行]]の通常貯金ないしは振替口座宛送金ないしは普通為替証書の受け取りに限定されていた。後に、ゆうちょ銀行の通常貯金ないしは振替口座への電信振替、あるいは[[全銀システム]]に接続された金融機関での受取が可能となり、普通為替証書での受け取りは廃止されている。なお、ゆうパックや他社の契約を有するタイプの場合は、一般の銀行宛振り込みなど他の方法でも可能である。
なお、運賃とは別に、代引手数料や引換金の振込手数料が必要で、加えて、[[印紙税]]の納付が必要なケースもある。
個人が利用できるサービスとして、[[セイノーグループ]]が[[2010年]][[4月1日]]に「メル友便」を開始している。これは、送り主が事前に[[メールアドレス]]を登録した上で、受取人が[[電子メール]]で受け取りを承諾すれば、双方の住所のやり取りなしに荷物のやり取りができる、いわゆる[[インターネットオークション]]による商品授受向けサービスである。郵便事業のあて名変換サービスやヤマト運輸のオークション宅配便とは異なり、オークション業者等を介する必要がなく、なおかつ送り主が希望すれば個人でも代引扱いが可能としている<ref>[http://www.seino.co.jp/seino/service/domestic/emailfriend/ メル友便] - 西濃運輸</ref>。
===荷受、配達の拒否===
[[2012年]]頃より、大手各社は各地で[[暴力団排除条例]]が制定されたことに伴い、[[暴力団]]および暴力団関係者等の利用を拒否することとなった。しかし、[[貨物利用運送事業法]]第10条では、「第一種貨物利用運送事業者は、特定の荷主に対して不当な差別的扱いをしてはならない」と定めていたことから<ref>後藤啓二 『暴力団排除条例入門』pp.106 東洋経済新報社 2012年</ref>、各社は[[2014年]]より[[運送約款]]を見直し、新たに暴力団排除条項を加えることで荷受け配達を拒否することとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2014年6月2日 |url=http://www.yamato-hd.co.jp/news/h26/h26_17_01news.html |title= 宅急便約款に、暴力団排除条項等を追加|publisher= ヤマトホールディングス|accessdate=2019-01-14}}</ref>。
=== 事業者間の連携 ===
大手宅配便事業者であるヤマト運輸と[[佐川急便]]は、環境配慮の先進地である[[上高地]]をはじめとした長野県松本市安曇地域の一部を対象に、2020年4月16日より共同配送を開始した。佐川急便扱いの荷物は、佐川急便松本営業所からヤマト運輸松本今井センターへ輸送し、ヤマト運輸の配送車に積載した上でヤマト運輸のドライバーが佐川急便扱いの荷物を配達する。両社は、CO2排出量の削減が期待できるほか、「宅急便」と「飛脚宅配便」を同時に受け取ることができるメリットがあるとしている<ref>[https://www.lnews.jp/2020/04/m0410303.html ヤマト運輸、佐川急便/長野県上高地で共同配送スタート]物流ニュース 2020年4月10日</ref>。
== アメリカ合衆国の宅配便 ==
アメリカ合衆国にも商品配送の流通サービスがあるが、それは通信販売の発達とともにその枠組みの内部で行われてきた流通サービスであり、独立した物流サービスとして成長してきたものではない<ref>{{Cite book |和書 |author=長谷川慶太郎 |year=2015 |title=日本経済は盤石である |publisher=PHP研究所 }}</ref>。
=== 貨物 ===
アメリカでは宅配便が取り扱う貨物は、packageやParcelと呼ばれ、通常150ポンド(約68kg)以下の小口荷物のことをいう<ref name="saito">{{Cite web|和書|author=齊藤実|url=https://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/41-1-07.pdf |title=アメリカにおける宅配便の最新事情 |accessdate=2022-05-09 |format= |publisher=国際交通安全学会}}</ref>。アメリカ国内の宅配便はトラック輸送による陸上宅配便(Ground)と航空機による航空宅配便(Express)に分けられる<ref name="saito" />。
国土が広いために国内の陸上宅配便でも多くの輸送日数を要し、広い地域に翌日配達できるサービスを行うことは困難とされている<ref name="saito" />。また、アメリカの陸上宅配便は原則として土曜日や日曜日は営業を行っておらず、配送日数も営業日で表されることが多い<ref name="saito" />。
アメリカでは宅配便の取扱個数に関する統計データはなく、[[ユナイテッド・パーセル・サービス]](UPS)やFedEXも一日平均取扱量しか公表していない<ref name="saito" />。しかし、ネット通販の拡大などから宅配便市場は急激に拡大しており、UPSやFedEX、USPS(アメリカ郵政公社)の営業収入は、2014年には726億ドルとなった<ref name="saito" />。
2019年12月の[[ニューヨーク・タイムズ]]によると、都市部では通販商品の15%が[[盗難]]や物流の問題で最終的な届け先に到達しておらず、その数は年々増加傾向にある。[[ニューヨーク]]だけでも1日あたり9万個以上の荷物が配達先に届かない状態となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-05 |url=https://www.businessinsider.jp/post-203532 |title=商品の15%が届かない! 小売業者を悩ませる、ネットショッピング時代ならではの問題が拡大中 |publisher=businessinsider |accessdate=2019-12-05}}</ref>。
=== 料金制度 ===
アメリカの宅配サービスでは基本的な宅配便運賃に多様な追加料金(surcharge)が追加されるシステムになっている<ref name="saito" />。
* 家庭配送追加料金(residential surcharge) - 一般家庭への貨物の配送は会社や事業所への貨物の配送に比べて輸送効率が低いことから、アメリカでは家庭配送追加料金(residential surcharge)が課されることがある<ref name="saito" />。
* 配送地域追加料金(delivery area surcharge) - 配送密度が低い地域も輸送効率が低いことから、アメリカでは配送地域追加料金(delivery area surcharge)が課されることがある<ref name="saito" />。
* 燃油追加料金(fuel surcharge) - アメリカでは個別の貨物一般に燃油追加料金(fuel surcharge)が課されている<ref name="saito" />。
アメリカの大手宅配便事業者では貨物の容積に一定の指数を掛けた値と重量を比較して高いほうの運賃を適用する容積重量価格(dimensional weight pricing)のシステムがとられており、UPSやFedEXでは2011年から容積重量価格を一部の貨物に導入し、2015年からは陸上宅配便に導入している<ref name="saito" />。
=== 歴史 ===
アメリカ合衆国では[[1775年]]に郵政省が発足し、[[1862年]]には[[アメリカ合衆国郵政公社]]長官の[[モンゴメリー・ブレア]]が戸別集荷配達サービスを提唱<ref name="marketing">{{Cite book |和書 |author=フィリップ・コトラー|author2= ナンシー・リー |year=2007 |title=社会が変わるマーケティング |pages=33-42 |publisher=英治出版 }}</ref>。[[1896年]]までには地方の顧客も郵政公社の戸別直接配達を受けることができるようになった<ref name="marketing" />。ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)は1907年に一般家庭向けにメッセージや小荷物などを対象とする配達サービスを開始した<ref name="saito" />。
1980年代には[[ユナイテッド・パーセル・サービス]]や[[フェデックス]]が新規に参入し、両社は米国国内であれば翌朝10時30分までに配達することをうたっており、市場シェアも両社が優勢で郵政公社は劣勢に立たされた<ref name="marketing" />。
さらにメール便のメール・ボクシーズ・イーティーシーがフランチャイズ展開し、至急配達や商品の包装サービスを提供するようになり、郵政公社も同様のサービスを提供するようになった<ref name="marketing" />。
=== 主な会社 ===
* [[ユナイテッド・パーセル・サービス]](UPS)
* [[フェデックス]](Fedex)
=== 地域運送事業者 ===
アメリカでは大手宅配便事業者による寡占化が進んでいるが、特定の地方でのみ幹線輸送や集配機能を持つ地域運送事業者もおり、集荷時間が大手事業者よりも遅く、配送時間の短縮や当日配送などのサービスを行っている<ref name="saito" />。
== ヨーロッパの小型荷物輸送 ==
=== 特徴 ===
ヨーロッパでは消費者までの配送を一括して依存できるような日本のような宅配便に相当するサービスがなく、もともと企業向けを専門としていた小型荷物輸送事業者が消費者向けのサービス体制を整備したり、ネット通販事業者が自ら配送体制を整備している(そのため「小型荷物輸送」と呼ばれることがある)<ref name="hayashi" />。
ネット通販事業者が輸送業者に全面的に配送を委託することは難しいため、物流施設をネット通販事業者が整備し、その間の配送を小型荷物輸送事業者に委託したり自社配送を行って対応している事業者が多い<ref name="hayashi" />。
2013年の調査(European Commission (2013))によると、ヨーロッパでは事前時間帯指定や夜間配達、土曜日配達を、国内全域で提供している事業者の割合は半分以下だった<ref name="hayashi" />。小型荷物輸送事業者でも、ネット通販の拡大や消費者のニーズに対応するため、ターミナル整備や車両、従業員の配置を進めているが、消費者の低価格志向が強く投資採算の確保が難しいことが課題になっている<ref name="hayashi" />。
=== 事業者 ===
ヨーロッパにはもともと消費者向けの小型荷物輸送サービスは郵便事業者が提供する小包のサービスしかなかった<ref name="hayashi">{{Cite web|和書|author=林克彦|url=https://log-innovation.rku.ac.jp/laboratory/pdf/distribution66_p42.pdf |title=ネット通販増大に対応した多様な配送方式─欧州主要国の事例を参考にした一考察 |accessdate=2022-05-09 |format= |publisher=流通経済大学}}</ref>。EUの市場統合により、民営化した事業者の中には信書だけでなくより大型の荷物を取り扱うようになった事業者もある<ref name="hayashi" />。
ヨーロッパでは企業向けの小型荷物輸送の貨物は、形状や輸送速度により、クーリエ(Courier、書状)、エクスプレス(Express、急送)、パーセル(Parcel、小包)に分けて呼んでいるが、実際には全てを扱う事業者が多いためCEPと総称される<ref name="hayashi" />。
また、アメリカのインテグレーターであるFedExやUPSもヨーロッパ市場に参入している<ref name="hayashi" />。
== 宅配便をめぐる課題 ==
{{See also|2024年問題}}
=== 再配達問題 ===
消費者向け電子商取引の増加やドライバー人手不足の問題を背景に、家庭向けの宅配便サービスでは受取人不在による再配達問題が生じている<ref name="yano">{{Cite web|和書|author=矢野裕児|url=https://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201908_02.pdf |title=特集2 宅配便の再配達をめぐる現状と課題 |accessdate=2022-05-09 |format= |publisher=国民生活センター}}</ref>。再配達が増加すると、より多くの配達員が必要となるなど宅配事業者の配送効率に影響するほか、再配達による二酸化炭素排出量の増加など社会経済的損失を生む側面もある<ref name="yano" />。
日本では、日本郵便・ヤマト運輸・佐川急便の大手3社の2014年12月の調査によると19.6%が不在であった。再配達によるトラックの走行距離増加で、[[二酸化炭素]]排出量の増加や配達運転手の負担増大が問題になっており、[[国土交通省]]が対策に乗り出している<ref>[http://www.sankei.com/economy/news/150608/ecn1506080030-n1.html 宅配便の20%が再配達…国交省が削減策の検討に乗り出す]産経ニュース、2015年6月8日</ref><ref>[http://response.jp/article/2015/10/17/262223.html 宅配便の再配達削減へ、受取方法の多様化を提言…国交省の検討会]レスポンス、2015年10月17日</ref>。対策としては、コンビニエンスストアでの受け取りシステムの拡大(複数の宅配業者への対応化)、[[宅配ボックス]]の設置や受け取りカウンターの設置などが示されている<ref>[http://www.sankei.com/economy/news/150925/ecn1509250052-n1.html 再配達削減へコンビニ活用 宅配ボックスも整備を 国交省検討会が取りまとめ]産経ニュース、2015年9月25日</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://netshop.impress.co.jp/node/6588|title=「再配達はとてもつらい」宅配配送スタッフの本音が調査で明らかに|publisher=ネットショップ担当者フォーラム|author=森野誠之|date=2019-6-25|accessdate=2020-8-10}}</ref>。
ヤマト運輸では、[[2023年]][[6月1日]]受付分から、伝票記載の住所以外へ荷物の転送を依頼する場合は、着払いのみの対応となる。なお、『着払い転送』に同意しない場合は、荷物を保管しているヤマト運輸営業所への引取か、<!---伝票記載の--->依頼主への返品となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamato-hd.co.jp/important/info_230417_2.html |title=お届け先住所変更(転送)時の運賃収受の開始および「宅急便転居転送サービス」の新規お申し込み受付の終了について |publisher= ヤマト運輸 |accessdate=2023-04-19}}</ref>。
ヨーロッパでは無料の再配達は一般的ではなく、不在時には玄関脇に留置き(放置)されたり、近隣預け、あるいは不在票を残して持ち帰り消費者に荷物の引き取りを要求することが多い<ref name="hayashi" />。
=== 過疎地域 ===
過疎地域のように集配密度の低い地域では宅配サービスの維持が課題になっており、宅配便の一括配送、店舗からの宅配サービス、買い物代行サービス等との統合も議論されている<ref name="yano" />。
=== 詐欺 ===
宅配便業者を装って偽の不在票を[[ショートメッセージサービス|SMS]]で送りつけたり<ref>{{Cite web|和書|title=宅配便業者を装った「不在通知」の偽SMSに注意しましょう-URLにはアクセスしない、ID・パスワードを入力しない!-(発表情報)_国民生活センター |url=https://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20201126_2.html |website=www.kokusen.go.jp |access-date=2023-02-07}}</ref>、[[現金]]を宅配便で送らせる[[特殊詐欺]]のような事案も発生している<ref>{{Cite web|和書|title=「現金を宅配便で送らせる」特殊詐欺が広島市内で発生!(広島県警察本部) - 特定非営利活動法人 消費者ネット広島|内閣総理大臣認定 適格消費者団体 |url=https://www.shohinet-h.or.jp/news/2018%E5%B9%B4%E6%96%B0%E7%9D%80%E6%83%85%E5%A0%B1/%E3%80%8C%E7%8F%BE%E9%87%91%E3%82%92%E5%AE%85%E9%85%8D%E4%BE%BF%E3%81%A7%E9%80%81%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%80%8D%E7%89%B9%E6%AE%8A%E8%A9%90%E6%AC%BA%E3%81%8C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%A7%E7%99%BA%E7%94%9F%EF%BC%81%EF%BC%88%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E6%9C%AC%E9%83%A8%EF%BC%89/ |website=www.shohinet-h.or.jp |access-date=2023-02-07}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[デリバリー]]
* [[バイク便]]
* [[自転車便]]
* [[宅急便]]
* [[荷物 (日本郵便)]]
* [[全国赤帽軽自動車運送協同組合連合会]]
* [[特別積合せ]]
* [[メール便]]
* [[食材宅配サービス]]
* [[魔女の宅急便]]
* [[郵便局留め]](営業所止め)
* [[宅配ボックス]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たくはいひん}}
[[Category:生活]]
[[Category:日本の貨物運送サービス|*たくはいひん]] | 2003-03-28T08:03:59Z | 2023-11-18T15:25:57Z | false | false | false | [
"Template:Cite report",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten",
"Template:Cite web",
"Template:複数の問題",
"Template:読み仮名",
"Template:Main",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%85%E9%85%8D%E4%BE%BF |
5,403 | 宅急便 | 宅急便()とは、ヤマト運輸が提供する宅配便サービスの商標である。黒いネコ、通称「クロネコ」をトレードマークにしている。同社の親会社であるヤマトホールディングスの登録商標(第3023793号ほか)である。
元々、当時の大和運輸(現・ヤマトホールディングス)は三越(現三越伊勢丹ホールディングス)や松下電器産業(現パナソニック)などの専属配送業者であったが、1960年代、全国に高速道路が整備され、他社が長距離運送に参入していく中で、大和運輸は乗り遅れ、ここにオイルショックが重なり、経営危機が噂されるほど業績が低迷した。
1971年(昭和46年)に社長になった小倉昌男は、当時の運送業界の常識であった「集荷・配達に手間がかかる小口荷物より、大口の荷物を一度に運ぶ方が合理的で得」という理屈が誤りだと悟る。小倉は「小口の荷物の方が、1キログラム当たりの単価が高いのだから、小口貨物をたくさん扱えば収入が多くなる」と確信した。
また、当時、個人が荷物を送るには郵便局に持参する郵便小包(現在の「ゆうパック」に相当する宅配便サービス)があったが、重量は6kgまでであった。一方鉄道を利用する「小荷物運送(チッキ)」という制度があり、こちらは30kgまで送れたが、差出はしっかりと梱包し紐で縛って小荷物取り扱い駅に持参し、受取人は駅に取りに行かなければならないという制度であった。どちらも一つ一つの荷物の番号管理をしておらず、いつ届くのかさえわからないサービスであった。小倉はこの状況を見て「サービスを向上させて参入すれば、ライバルは存在せず、必ず成功する」と確信した。
そして、1975年(昭和50年)の夏に「宅急便開発要項」を社内発表、瀬戸薫(当時27歳、グループ内最年少、後に2008年から2011年までヤマト運輸会長を務めた)を含む若手社員を中心としたワーキンググループが、1975年9月から新商品開発を進めた。1976年(昭和51年)1月23日、「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品「宅急便」が誕生した。
当初は知名度が低く、「卓球便」と勘違いされたり、営業所のネコの看板から動物病院と思われたり、社員が「翌日配達できます」とセールスしても顧客に信用してもらえなかったりしたという。1日目の取扱量は11個だったが、その後急速に取扱量が増え、半年ほどで店に置ききれないほどの荷物がもちこまれる日も出るようになり、1976年度の想定取り扱いは20万個だったが、実際には170万個になった。
この成功を見た日本通運など他社も、同様のサービスを開始した。全国津々浦々を網羅する営業所を作るには、警察が通報を受けて駆けつけるのと同じくらいの距離に営業所を置くのがよいとの考えから、1200署あった警察署の数を目標とし、取次店は郵便ポストの数を目標としたというエピソードがある。
その後も営業地域の拡大を続け、1997年(平成9年)には、小笠原諸島の父島・母島での営業開始をもって、離島を含む全国展開が完了した。
1990年(平成2年)に、アメリカ合衆国の貨物航空会社大手UPSと提携、合弁会社「UPSヤマトエクスプレス」を設立をした際にヤマト運輸の営業所から日本国外に配送する「UPS宅急便」(現地ではUPSのドライバーが配達)というサービスもあったが、2004年に合弁解消と同時に終了し(日本国外への輸送に関しての提携は継続)。その後は「国際宅急便」を代替サービスとして提供している。
2000年(平成12年)から、中華民国の企業である統一速達とのライセンス契約により、日本国外へ進出した。なお、台湾でもセブン-イレブンが取り扱い代理店となっているが、これはセブン-イレブンを経営するのが、同じ統一企業グループだからである。
2010年より、東アジア及び東南アジアでの宅配便業界へ進出を始め、1月にはシンガポールと中華人民共和国上海市で事業を開始した。今後はマレーシア、インドネシア、タイ、ベトナム、香港、北京市などへの進出が計画されている。日本国外での名称は「TA-Q-BIN」としている。漢字文化圏では「宅急便」という名称も表記していく予定であるが、日本発ブランドとして差別化する意味もあり読み方として「TA-Q-BIN」も併記している。
2015年6月現在では、道路交通法の駐車禁止違反の罰則強化とエコロジーの両面から、都心部では数kmおきに営業所を設置、営業所までトラック輸送した後、そこから先は自転車や台車で配達している。それ以前からも東京銀座地区など都心の一部ではリヤカーで配達している。京都市では京福電気鉄道と提携し、路面電車とリヤカーを併用して集配業務を行ったり、岩手県では岩手県北自動車と提携し、トラック輸送の代わりに106急行バスの車両を改造して営業所へ輸送する試みも行われている。
宅急便の誕生以降、ほぼ一貫してサービスの拡充を続けてきたが、2010年代頃よりAmazon.co.jpでの取引の増加により、ECサイト取扱荷物数が急増した一方、特に個人宅の日中の在宅率の減少による再配達依頼も増えたため、従業員の長時間労働が問題となった。このため、2017年(平成29年)には運賃の値上げに踏み切ったほか、休憩時間確保のため、12時-14時の配達時間帯指定の廃止、運賃が割引になる「宅急便センター受け取りサービス」の新設など、一部のサービス内容が変更された。
ヤマト運輸では2021年10月4日から、ヤマト便廃止により、宅急便で扱えるサイズの上限を、3辺の合計160センチから、3辺の合計200センチとし、重さも上限25キロから30キロへ引き上げることにしている。
2023年6月1日受付分から、伝票記載の住所以外へ荷物を転送する場合は、着払いのみの対応となる。なお、『着払い転送』に同意しない場合は、荷物を保管しているヤマト運輸営業所への引取か、依頼主への返品となる。
「宅急便」には、「お宅に急いでお届けするサービス」という意味が込められている。
サービス名称には、他に「ハニーライン」「トゥモローサービス」「クイックサービス」などが候補に上り、最終的に「YPS」と「宅急便」の2つが残った。サービス開始当時はこの2つを組み合わせて「YPSの宅急便」と呼ばれていた(当時の宣伝チラシにこの表記がみられる)。
ヤマト運輸の「宅急便」の名称を含む宅配サービスには次のようなものがある。
なお、「らくらく家財宅急便」というサービスがあるが、これはヤマト運輸が提供するサービスではなく、引越事業を行うヤマトHD子会社のヤマトホームコンビニエンスという別会社が提供するサービスである。宅配便商品ではなく引越商品である(元々は「小さな引越便」という名称で、家具や大型家電を単品で送るサービスである)。またメール便は民間事業者による信書の送達に関する法律(信書便法)による制限が存在するため、郵便の代替サービスではなく、あくまで宅配便の受領印をもらわず郵便受けに投函するというサービスとして位置づけられている。
送付先と荷物のサイズ(荷物の三辺の和)と重量(30kg以下)で決まる。現金、各種電子マネー、クロネコメンバー割、QR決済サービス(2021年4月1日より、取次店を除く)、クレジットカードで支払う。
過去には回数券も発行していたが、2018年3月31日をもって取り扱いを終了している。
2018年4月1日から宅急便センターで荷物を送った場合にTポイントサービスが利用できたが、2021年3月31日をもって終了した。宅急便の取次を行っているコンビニエンスストアでは各店舗に応じたポイントサービスを実施している。セブン-イレブンではnanacoによる決済でnanacoポイントが貯まり、ファミリーマートではTポイント・楽天ポイント・dポイントの提示でポイントを利用可能。
営業所や取扱店(取扱いコンビニエンスストアを含む)への持ち込みあるいは集荷による。
宅急便の送り状は、一部ノーカーボン紙の複写式で綴りになっている。
また、ヤマト運輸のクロネコメンバーズに登録すると、クロネコメンバーズサイトで入力した情報を基にヤマト運輸の宅急便センターに設置しているネコピット端末や、自宅や職場のカラープリンターで送り状の発行ができ、料金の割引「デジタル割」が適用される。
発払用の送り状の構成は次の通りだが、一部の控えが省略されているものもある。 | [
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"text": "なお、「らくらく家財宅急便」というサービスがあるが、これはヤマト運輸が提供するサービスではなく、引越事業を行うヤマトHD子会社のヤマトホームコンビニエンスという別会社が提供するサービスである。宅配便商品ではなく引越商品である(元々は「小さな引越便」という名称で、家具や大型家電を単品で送るサービスである)。またメール便は民間事業者による信書の送達に関する法律(信書便法)による制限が存在するため、郵便の代替サービスではなく、あくまで宅配便の受領印をもらわず郵便受けに投函するというサービスとして位置づけられている。",
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"text": "送付先と荷物のサイズ(荷物の三辺の和)と重量(30kg以下)で決まる。現金、各種電子マネー、クロネコメンバー割、QR決済サービス(2021年4月1日より、取次店を除く)、クレジットカードで支払う。",
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] | 宅急便とは、ヤマト運輸が提供する宅配便サービスの商標である。黒いネコ、通称「クロネコ」をトレードマークにしている。同社の親会社であるヤマトホールディングスの登録商標(第3023793号ほか)である。 | {{Otheruseslist|'''ヤマト運輸'''の宅配便サービス|宅配サービス全般|宅配便|かつてヤマト運輸が提供していた別の宅配便サービス(宅急便の規格を超える大きさの荷物を対象とする輸送サービス)|ヤマト便}}
[[ファイル:Yamato Takkyubin logo.png|サムネイル|宅急便のロゴ]]
[[ファイル:Toyota Dyna U600 2022.jpg|250px|thumb|2021年にデザインを一新したクール宅急便の配送車]]
{{読み仮名|'''宅急便'''|たっきゅうびん}}とは、[[ヤマト運輸]]が提供する[[宅配便]]サービスの[[商標]]である。黒い[[ネコ]]、通称「[[黒猫|クロネコ]]」をトレードマークにしている。同社の親会社である[[ヤマトホールディングス]]の[[登録商標]](第3023793号ほか)である。
== 沿革==
{{See also|ヤマトホールディングス#沿革}}
元々、当時の[[大和運輸]](現・[[ヤマトホールディングス]])は[[三越]](現[[三越伊勢丹ホールディングス]])や松下電器産業(現[[パナソニック]])などの専属配送業者であったが、[[1960年代]]、[[日本の高速道路|全国に高速道路]]が整備され、他社が長距離運送に参入していく中で、大和運輸は乗り遅れ、ここに[[オイルショック]]が重なり、経営危機が噂されるほど業績が低迷した。
1971年(昭和46年)に社長になった[[小倉昌男]]は、当時の運送業界の常識であった「集荷・配達に手間がかかる小口荷物より、大口の荷物を一度に運ぶ方が合理的で得」という理屈が誤りだと悟る。小倉は「小口の荷物の方が、1[[キログラム]]当たりの単価が高いのだから、小口貨物をたくさん扱えば収入が多くなる」と確信した。
また、当時、個人が荷物を送るには郵便局に持参する[[荷物 (日本郵便)|郵便小包]](現在の「[[ゆうパック]]」に相当する宅配便サービス)があったが、重量は6kgまでであった。一方鉄道を利用する「[[日本国有鉄道の荷物運送|小荷物運送]](チッキ)」という制度があり、こちらは30kgまで送れたが、差出はしっかりと梱包し紐で縛って小荷物取り扱い駅に持参し、受取人は駅に取りに行かなければならないという制度であった。どちらも一つ一つの荷物の番号管理をしておらず、いつ届くのかさえわからないサービスであった。小倉はこの状況を見て「サービスを向上させて参入すれば、ライバルは存在せず、必ず成功する」と確信した。
そして、[[1975年]]([[昭和]]50年)の夏に「宅急便開発要項」を社内発表、[[瀬戸薫]](当時27歳、グループ内最年少、後に2008年から2011年までヤマト運輸会長を務めた)を含む若手社員を中心としたワーキンググループが、1975年9月から新商品開発を進めた<ref name="nikki_130106">{{Cite news|title=経済史を歩く34 宅急便誕生 |newspaper=日本経済新聞|date=2013-01-06|accessdate=2013-01-11|url=http://www.nikkei.com/article/DGKDZO50313980W3A100C1TY8000/}}日本経済新聞1月6日付朝刊第11面</ref>。[[1976年]](昭和51年)[[1月23日]]、「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品「'''宅急便'''」が誕生した<ref name="nikki_130106" />。
当初は知名度が低く、「[[卓球]]便」と勘違いされたり、営業所のネコの看板から[[動物病院]]と思われたり、社員が「翌日配達できます」とセールスしても顧客に信用してもらえなかったりしたという<ref name="Yamato_ad">『[[朝日新聞]]』1996年1月1日付東京朝刊、22頁掲載のヤマト運輸「宅急便」広告より。</ref>。1日目の取扱量は11個だったが{{Refnest|group="注釈"|1996年のヤマト運輸の新聞広告では、11個をサービス開始3日間での取扱量としている<ref name="Yamato_ad" />。}}、その後急速に取扱量が増え、半年ほどで店に置ききれないほどの荷物がもちこまれる日も出るようになり、1976年度の想定取り扱いは20万個だったが、実際には170万個になった<ref name="nikki_130106" />。
この成功を見た[[日本通運]]など他社も、同様のサービスを開始した。全国津々浦々を網羅する営業所を作るには、警察が通報を受けて駆けつけるのと同じくらいの距離に営業所を置くのがよいとの考えから、1200署あった[[警察署]]の数を目標とし、取次店は[[郵便ポスト]]の数を目標としたというエピソードがある。
その後も営業地域の拡大を続け、1997年([[平成]]9年)には、[[小笠原諸島]]の[[父島]]・[[母島]]での営業開始をもって、離島を含む全国展開が完了した。
[[1990年]]([[平成]]2年)に、[[アメリカ合衆国]]の貨物航空会社大手[[ユナイテッド・パーセル・サービス|UPS]]と提携、合弁会社「UPSヤマトエクスプレス」を設立をした際にヤマト運輸の営業所から日本国外に配送する「UPS宅急便」(現地ではUPSのドライバーが配達)というサービスもあったが、[[2004年]]に合弁解消と同時に終了し(日本国外への輸送に関しての提携は継続)。その後は「国際宅急便」を代替サービスとして提供している。
[[画像:President Transnet 7T-278 20100209.jpg|thumb|統一速達の宅急便の配送車]]
[[2000年]]([[平成]]12年)から、[[中華民国]]の企業である[[:zh:統一速達|統一速達]]とのライセンス契約により、日本国外へ進出した。なお、[[台湾]]でもセブン-イレブンが取り扱い代理店となっているが、これはセブン-イレブンを経営するのが、同じ[[統一企業|統一企業グループ]]だからである。
[[2010年]]より、[[東アジア]]及び[[東南アジア]]での宅配便業界へ進出を始め、1月には[[シンガポール]]と[[中華人民共和国]][[上海市]]で事業を開始した。今後は[[マレーシア]]、[[インドネシア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ベトナム]]、[[香港]]、[[北京市]]などへの進出が計画されている。日本国外での名称は「'''TA-Q-BIN'''」としている。[[漢字文化圏]]では「'''宅急便'''」という名称も表記していく予定であるが、日本発ブランドとして差別化する意味もあり読み方として「'''TA-Q-BIN'''」も併記している。
[[2015年]]6月現在では、[[道路交通法]]の駐車禁止違反の罰則強化とエコロジーの両面から、都心部では数kmおきに営業所を設置、営業所までトラック輸送した後、そこから先は自転車や台車で配達している。それ以前からも東京銀座地区など都心の一部ではリヤカーで配達している。[[京都市]]では[[京福電気鉄道]]と提携し、路面電車とリヤカーを併用して集配業務を行ったり<ref>[http://response.jp/article/2011/05/18/156544.html [クロネコヤマトの宅急便電車]路面電車を使った配達サービス 京都で開始] - Response・2011年5月18日</ref>、[[岩手県]]では[[岩手県北自動車]]と提携し、トラック輸送の代わりに[[106急行バス]]の車両を改造して営業所へ輸送する試みも行われている<ref>[http://www.yamato-hd.co.jp/news/h27/h27_18_01news.html 路線バスを活用した宅急便輸送「貨客混載」の開始について]ヤマト運輸 2015年6月3日</ref><ref>[https://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20150604_1 路線バスで荷物も輸送 県北自動車とヤマト運輸]岩手日報 2015年6月4日</ref>。
宅急便の誕生以降、ほぼ一貫してサービスの拡充を続けてきたが、2010年代頃より[[Amazon.co.jp]]での取引の増加により、[[ECサイト]]取扱荷物数が急増した一方、特に個人宅の日中の在宅率の減少による再配達依頼も増えたため、従業員の[[長時間労働]]が問題となった。このため、2017年([[平成]]29年)には運賃の値上げに踏み切ったほか、休憩時間確保のため、12時-14時の配達時間帯指定の廃止、運賃が割引になる「宅急便センター受け取りサービス」の新設など、一部のサービス内容が変更された。
ヤマト運輸では2021年10月4日から、[[ヤマト便]]廃止により、宅急便で扱えるサイズの上限を、3辺の合計160センチから、3辺の合計200センチ{{Refnest|group="注釈"|ただし、旧来のヤマト便と同様、最長辺は170センチ(横倒し不可荷物は100センチ)を超える荷物は、30キロ以内でも宅急便の取り扱いはできない。また、コンビニエンスストアや宅配ロッカー『PUDO』及びヤフオク!やフリマサイトについては、新サイズは扱わない。ただし、ヤフオク!とPayPayフリマについては、2022年10月から、サイズの上限が宅急便と同じとなった。}}とし、重さも上限25キロから30キロへ引き上げることにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210720100319/https://nordot.app/790156552216166400 |title=ヤマト運輸、宅急便サイズ拡大 |publisher= 共同通信 |accessdate=2021-07-21}}</ref>。
[[2023年]][[6月1日]]受付分から、伝票記載の住所以外へ荷物を転送する場合は、着払いのみの対応となる。なお、『着払い転送』に同意しない場合は、荷物を保管しているヤマト運輸営業所への引取か、<!---伝票記載の--->依頼主への返品となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamato-hd.co.jp/important/info_230417_2.html |title=お届け先住所変更(転送)時の運賃収受の開始および「宅急便転居転送サービス」の新規お申し込み受付の終了について |publisher= ヤマト運輸 |accessdate=2023-04-19}}</ref>。
== 名称の由来 ==
「宅急便」には、「お宅に急いでお届けするサービス」という意味が込められている<ref name="Yamato_ad" />。
サービス名称には、他に「ハニーライン」「トゥモローサービス」「クイックサービス」などが候補に上り、最終的に「YPS{{Refnest|group="注釈"|ヤマト・パーセル(小荷物)・サービス(Yamato Parcel Service)の略である<ref name="nikki_130106" /><ref name="Yamato_ad" />。}}」と「宅急便」の2つが残った<ref name="Yamato_ad" />。サービス開始当時はこの2つを組み合わせて「YPSの宅急便」と呼ばれていた<ref name="Yamato_ad" />(当時の宣伝チラシにこの表記がみられる<ref name="nikki_130106" />{{Refnest|group="注釈"|当時の宣伝チラシが掲載されている記事<ref>[https://dime.jp/genre/443182/4/ 物流革新に勝ち続けた「クロネコヤマトの宅急便」強さの秘密 《宅急便40年の主な出来事》]、@DIME、2017年9月18日。</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1504/02/news031.html 特集・進化する物流ビジネス最前線:もうすぐ40年! 宅急便のこれまでとこれから (1/3)]、ITmedia ビジネスオンライン、2015年4月2日 7時0分。</ref>}})。
== 概要 ==
[[画像:Yamatounyu.jpg|thumb|クロネコヤマトの宅急便の配送車]]
=== 種類 ===
ヤマト運輸の「宅急便」の名称を含む宅配サービスには次のようなものがある。
[[ファイル:Kuroneko7046.jpg|thumb|right|クール宅急便の配送車]]
* 宅急便
* 宅急便コンパクト
* スキー宅急便
* ゴルフ宅急便
* 国際宅急便
* [[クール宅急便]]
* 国際クール宅急便
* 空港宅急便
* 往復宅急便(1998年6月開始<ref name="交通980624">{{Cite news|title=宅急便に新サービス ヤマト運輸 配達時刻指定と往復便|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社 |date=1998-06-24 |page=1 }}</ref>)
* [[超速宅急便]]
* パソコン宅急便
* オークション宅急便
* 宅急便コレクト
* 宅急便コンパクト
* [[宅急便タイムサービス]]
*らくらくメルカリ便
なお、「[[らくらく家財宅急便]]」というサービスがあるが、これは[[ヤマト運輸]]が提供するサービスではなく、引越事業を行うヤマトHD子会社の[[ヤマトホームコンビニエンス]]という別会社が提供するサービスである。宅配便商品ではなく引越商品である(元々は「小さな引越便」という名称で、家具や大型家電を単品で送るサービスである)。また[[メール便]]は[[民間事業者による信書の送達に関する法律]](信書便法)による制限が存在するため、郵便の代替サービスではなく、あくまで宅配便の受領印をもらわず[[郵便受け]]に投函するというサービスとして位置づけられている。
=== 料金 ===
送付先と荷物のサイズ(荷物の三辺の和)と重量(30kg以下)で決まる。現金、各種[[電子マネー]]{{Refnest|group="注釈"|取次店によっては利用できる電子マネーが異なるほか、電子マネーの利用が出来ない取次店もある。}}、[[クロネコメンバー割]]{{Refnest|group="注釈"|クロネコメンバーズカードを電子マネー搭載型で発行した利用者が事前にチャージすることによって割引料金で利用できるヤマト運輸独自の電子マネーで、宅急便センターのみで利用可能。}}、QR決済サービス(2021年4月1日より、取次店を除く)、クレジットカードで支払う。
過去には[[回数券]]も発行していたが、2018年3月31日をもって取り扱いを終了している<ref>[http://www.kuronekoyamato.co.jp/ytc/info/info_180131_02.html 宅急便回数券の利用終了と払い戻しのお知らせ]ヤマト運輸 2018年1月31日</ref>。
2018年4月1日から宅急便センターで荷物を送った場合に[[Tポイント]]サービスが利用できたが、2021年3月31日をもって終了した<ref>[https://www.yamato-hd.co.jp/important/info_tpoint.html Tポイントサービス終了のお知らせ] - ヤマト運輸・2020年10月5日リリース</ref>。宅急便の取次を行っている[[コンビニエンスストア]]では各店舗に応じたポイントサービスを実施している。[[セブン-イレブン]]では[[nanaco]]による決済でnanacoポイントが貯まり、[[ファミリーマート]]ではTポイント・[[楽天ポイント]]・[[dポイントクラブ|dポイント]]の提示でポイントを利用可能。
=== 利用 ===
営業所や取扱店(取扱いコンビニエンスストアを含む)への持ち込みあるいは集荷による。
=== 送り状 ===
宅急便の送り状は、一部[[ノーカーボン紙]]の複写式で綴りになっている。
また、ヤマト運輸のクロネコメンバーズに登録すると、クロネコメンバーズサイトで入力した情報を基にヤマト運輸の宅急便センターに設置しているネコピット端末や、自宅や職場のカラープリンターで送り状の発行ができ、料金の割引「デジタル割」が適用される{{Refnest|group="注釈"|プリンターで送り状を印刷する場合はカラーで印刷する必要がある。}}{{Refnest|group="注釈"|ネコピット端末で印刷した送り状はコンビニエンスストアも含めた取次店で使用できない。プリンターで印刷した送り状は宅急便を取り扱うコンビニエンスストアでも利用可能だが、個人商店などの取次店では使用できない。}}。
発払用の送り状の構成は次の通りだが、一部の控えが省略されているものもある。
* 請求書・ご依頼主控
: お届け先欄、ご依頼主欄、お問い合わせ伝票番号欄、受付日欄、お届け予定日欄、希望届け日時記入欄、品名欄、領収印欄等がある。
* 取扱店・CVS店控
: 現在の送り状では個人情報保護のために取扱店・CVS店控の票についてはお届け先氏名やご依頼主氏名など一部の項目のみが複写されるようになっており、郵便番号・電話番号・住所・品名等は取扱店・CVS店控の票には残らないようになっている。
* 売上票
* 貼付票
* お届け先控
* 配達票
: 配達時には、この伝票を外して届け先から受領印を貰う形になる。配達完了後は着センターで集められた後に保管される。
: 着払用では貼付票の中に請求書と配達票が入っている。宅急便コレクト用ではお届け先控が領収証になる。届け先へは貼付票以下の3枚が貼られた状態で到着する(売上票は発センターで集められた後保管)。
=== その他のサービス ===
* 時間帯お届けサービス(1998年6月開始{{R|交通980624}})
* 宅急便センター受け取りサービス
: 従来の「営業所止置きサービス」を事実上拡充したもので、受取人が宅急便センターに出向いて荷物を受け取る代わりに運賃が割引になる。
* 複数口減額制度
: 同一あて先に2個以上の荷物を同時発送する場合、「複数口送り状」という専用伝票を用いれば割引を受けられる制度がある(通常の宅急便の扱いでかつ発払いの場合)。
* 配達日時変更・不在時コンビニ受け取り
: クロネコメンバーズ会員で、配達予定のお知らせをメールやLINEで通知している場合は、配達日時や受け取り先の変更ができる。
== 宅急便に関連するエピソード ==
* 宅急便のロゴのうち、「急」の一部が'''「急ぎ足」'''のようにデザインされている。
* ヤマト運輸はトレードマークの「[[ネコ]]」に大変な愛着がある。そのためか、情報システムの名称も「NEKO(New Economical Kindly Online)」と名づけているほどである。社員も送迎バスを「ネコバス」と呼び、社員用の風呂のことも「ネコ風呂」と呼んでいるほどである。2008年後半から2010年1月まで放映されていた広告のキャッチコピーも「'''宅配はネコである'''」。CMも尻尾の生えたネコのような配送車が登場するなど、ネコへの愛着がうかがえる。
* 『[[魔女の宅急便]]』というタイトルが「ヤマト運輸の商標権に触れて問題になった」と一部で話題になった。その原因は、原作者の[[角野栄子]]が、第1作刊行時の時点で「宅急便」がヤマト運輸の登録商標である事を知らなかったためである。[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|アニメ映画化]]に至っては、ヤマト運輸と正式なスポンサー契約を締結し、「こころを温かくする宅急便です。」のキャッチコピーと共にアニメ場映像をそのままヤマト運輸の企業CMに流用する事によって、この問題を解決している。なお同映画を基にした登録商標は、[[スタジオジブリ]]が登録区分を別にして取得している。詳細は[[魔女の宅急便 (1989年の映画)#登録商標について|魔女の宅急便の商標]]を参照のこと。なお、上述の通りヤマト運輸もクロネコに対して非常に強い愛着を抱いているが、同映画で登場する黒猫・ジジは、ヤマト運輸のトレードマークとは関係はない<ref>[[2005年]][[11月9日]]・[[毎日放送]][[知ったかぶりクイズ!あなた説明できますか]]より</ref>。このトレードマークは宅急便の開始以前から存在した。またアニメ映画とは無関係の実写映画にもヤマトホールディングスが特別協力している。
* [[日本テレビ]]の番組『[[アメリカ横断ウルトラクイズ|史上最大!第6回アメリカ横断ウルトラクイズ]]』の第7チェックポイントの[[ダラス]]では、「テキサス宅急便早押しクイズ」が行われた。
* [[コマーシャルメッセージ|CM]]の[[サウンドロゴ]]は[[淡野圭一]]が作曲した<ref>[https://www.cdjournal.com/main/news/miki-toriro/13470 歴代CMソングをメドレーで100曲収録!コンピ『ベストCM100』発売]、CDジャーナル、2006年11月21日(更新:2008年3月31日)。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[宅配便]]
* [[ゆうパック]] ([[日本郵政]])
* [[ペリカン便]] ([[日本通運]])
* [[福山通運|フクツー宅配便]] ([[福山通運]])
* [[佐川急便|飛脚宅配便]] ([[佐川急便]])
* [[西濃運輸|カンガルーミニ便]] ([[西濃運輸]])
* [[トヨタ・クイックデリバリー]]
* [[魔女の宅急便]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kuronekoyamato.co.jp/ ヤマト運輸]
* [https://www.kuronekoyamato.co.jp/ytc/customer/send/services/takkyubin/ 個人のお客さま 宅急便] - ヤマト運輸
* [https://business.kuronekoyamato.co.jp/service/lineup/takkyubin/ 法人のお客さま 宅急便] - ヤマト運輸
* [http://www.yamato-hd.co.jp/news/121005news.html 台湾における宅急便事業開始のお知らせ] - ヤマト運輸
* [https://www.t-cat.com.tw/ 宅急便]{{Zh-hk icon}}
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[[Category:宅急便|*]] | 2003-03-28T08:07:14Z | 2023-11-18T15:24:46Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%85%E6%80%A5%E4%BE%BF |
5,407 | ピエール=シモン・ラプラス | ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年3月23日 - 1827年3月5日)は、フランスの数学者、物理学者、天文学者である。古典力学の名著とされる「天体力学概論」(traité intitulé Mécanique Céleste)と「確率論の解析理論」を後世に遺した。 1789年には、その功績からロンドン王立協会フェローに選出された。
天文学を含めて力学などの自然科学を発展させ、その成果は応用的な工学においても多く利用されている。ラプラスの名前にちなんだ用語は多く、ラプラシアン(ラプラス作用素)、ラプラス方程式のほか「カント-ラプラスの星雲説」などがある(#関連項目、ラプラス#人物も参照のこと)。
「天体力学概論」は、1799年から1825年にかけて出版された全5巻の大著で、剛体や流体の運動を論じたり、地球の形や潮汐の理論までも含んでいる。数学的にはこれらの問題はさまざまな微分方程式を解くことに帰着されるが、方法論的にも彼が発展させた部分もあり、特に誤差評価の方法などは彼自身の確率論の応用にもなっている。
ラプラス変換の数学的な基盤も作っている。いわゆるラプラス方程式という偏微分方程式を考察し、二個ないし三個の未知数を持つ偏微分方程式を一個の未知数の方程式に置き換えるというラプラス変換に途を開いた。この成果は1780年に自著で発表された。この数学手法は後に、電気技師オリヴァー・ヘヴィサイドによって回路方程式を解く手法として経験則的に再発見され、微分方程式の汎用的な解法・手順の1つとして今日ではラプラス変換と呼ばれる。1950年代には、ラプラス変換を利用してシステムの入出力の関係を記述した微分方程式から伝達関数を求め、システムを解析・制御する古典制御論の理論構築が行われた。これは特に産業界において主流の制御方式であるPID制御へと発展した。
また、現在ベイズの定理として知られているものも、ラプラスが体系化したものであるので、ベイズよりもラプラスに端を発するという見方も強いとされる。
国際度量衡委員会の委員として、長さの尺度として地球の北極点から赤道までの子午線弧長を精密に測量し、その1000万分の1をもって基準とすることを提唱した。これは後に、1983年まで続いた「1メートルの定義」の基礎となった。
同じく数学・物理学者のラグランジュらと同様に、ラプラスも革命期のフランスの動乱のなかを生きている。晩年にかけて、ラプラスは政治家としても活動した。1799年には、ナポレオン・ボナパルトの統領政府で1ヵ月余の短期間ながら内務大臣に登用され、元老院議員となった。王政復古後は、ルイ18世の下で貴族院議員となった。
ラプラスは決定論者であり、これから起きるすべての現象は、これまでに起きたことに起因し、完全に決定されていると考えていた。ある特定の時間の宇宙のすべての粒子の運動状態が分かれば、これから起きるすべての現象はあらかじめ計算できるという考え方である。ラプラスの決定論は、「全ての事象の原因と結果は因果律に支配されているが故に未来は一意的に決定される」とする「因果的決定論」に属し、決定論のなかでも「強い」部類のものである。
一方でこれには前提条件があり、ラプラスのいう「ラプラスの悪魔」とは「ある瞬間における全ての物質の力学的状態を知ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの能力の知性」であり、「決定論的に定まっている未来を完全に見通すことができる者」という思考上の概念的な存在である。 | [
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{{Infobox Scientist
|name = ピエール=シモン・ラプラス<br />Pierre-Simon Laplace
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|image = Pierre-Simon Laplace.jpg
|image_width = 225px
|caption = Feytaud夫人による死後の肖像画([[1842年]])
|birth_date = [[1749年]][[3月23日]]
|birth_place = {{Flagcountry2|フランス王国}}、[[ノルマンディー]]、[[ボーモン=アン=オージュ]]
|death_date = [[1827年]][[3月5日]] (77歳没)
|death_place = [[File:Flag of France (1814–1830).svg|25px|border]] [[フランス]]、[[パリ]]
|residence = <!--[[Image:Flag_of_France.svg|20px|]] Here so easy to add--> [[フランス]]
|citizenship = <!--[[Image:Flag_of_France.svg|20px|]] Here so easy to add--> [[フランス人|フランス]]
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|field = [[数学]]<br />[[物理学]]<br />[[天文学]]
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|author_abbrev_zoo =
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|footnotes =
}}
'''ピエール=シモン・ラプラス'''('''Pierre-Simon Laplace''', [[1749年]][[3月23日]] - [[1827年]][[3月5日]])は、[[フランス]]の[[数学者の一覧#18世紀生まれの有名な数学者|数学者]]、[[物理学者]]、[[天文学者]]である。古典力学の名著とされる「天体力学概論」(traité intitulé Mécanique Céleste)と「確率論の解析理論」を後世に遺した{{sfn|岩波数学辞典|loc=481 ラプラス p.1585}}。 [[1789年]]には、その功績からロンドン[[王立協会フェロー]]に選出された<ref>{{FRS |code = NA5191 |title = Laplace; Pierre Simon (1749 - 1827); Marquis de Laplace |accessdate = 2012-03-28 }}</ref>。
== 業績 ==
天文学を含めて力学などの自然科学を発展させ、その成果は応用的な工学においても多く利用されている。ラプラスの名前にちなんだ用語は多く、[[ラプラシアン]](ラプラス作用素)、[[ラプラス方程式]]のほか「[[イマヌエル・カント|カント]]-ラプラスの[[星雲説]]」などがある([[#関連項目]]、[[ラプラス#人物]]も参照のこと)。
=== 力学・天文学 ===
「天体力学概論」は、[[1799年]]から[[1825年]]にかけて出版された全5巻の大著で、[[剛体]]や[[流体]]の運動を論じたり、[[地球]]の形や[[潮汐]]の理論までも含んでいる。数学的にはこれらの問題はさまざまな[[微分方程式]]を解くことに帰着されるが、方法論的にも彼が発展させた部分もあり、特に[[誤差]]評価の方法などは彼自身の[[確率論]]の応用にもなっている{{sfn|ラプラス|loc=解説 内井惣七}}。
=== 数学 ===
[[ラプラス変換]]の数学的な基盤も作っている。いわゆるラプラス方程式という偏微分方程式を考察し、二個ないし三個の未知数を持つ偏微分方程式を一個の未知数の方程式に置き換えるというラプラス変換に途を開いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/110/179802.html |title=工業の暁文庫「天体力学」 |accessdate=2022-02-13 |publisher=金沢工業大学}}</ref>。この成果は[[1780年]]に自著で発表された。この数学手法は後に、電気技師[[オリヴァー・ヘヴィサイド]]によって回路方程式を解く手法として経験則的に再発見され、微分方程式の汎用的な解法・手順の1つとして今日ではラプラス変換と呼ばれる。[[1950年代]]には、ラプラス変換を利用してシステムの入出力の関係を記述した[[微分方程式]]から[[伝達関数]]を求め、システムを解析・制御する[[古典制御論]]の理論構築が行われた。これは特に産業界において主流の制御方式である[[PID制御]]へと発展した。
また、現在[[ベイズの定理]]として知られているものも、ラプラスが体系化したものであるので、[[トーマス・ベイズ|ベイズ]]よりもラプラスに端を発するという見方も強いとされる。
=== その他 ===
[[国際度量衡委員会]]の委員として、[[長さ]]の尺度として[[地球]]の[[北極点]]から[[赤道]]までの[[子午線弧]]長を精密に[[測量]]し、その1000万分の1をもって基準とすることを提唱した。これは後に、1983年<ref>[[メートル#定義の変遷]]を参照。</ref>まで続いた「1[[メートル]]の定義」の基礎となった<ref>現在のメートルは、地球等の構造には拠らず、[[光速]]と[[時間]]のみに依存して定義された単位である。(⇒[[SI基本単位]])</ref>。
<!-- 数学上の偉大な業績には遠く及ばないが、 -->同じく数学・物理学者の[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]らと同様に、ラプラスも[[フランス革命|革命期]]のフランスの動乱のなかを生きている。晩年にかけて、ラプラスは[[政治家]]としても活動した。[[1799年]]には、[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[統領政府]]で1ヵ月余の短期間ながら[[内務省 (フランス)|内務大臣]]に登用され、[[護憲元老院|元老院]]議員となった。[[フランス復古王政|王政復古]]後は、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の下で貴族院議員となった。
== 決定論 ==
{{See|ラプラスの悪魔}}
ラプラスは[[決定論]]者であり、これから起きるすべての現象は、これまでに起きたことに起因し、完全に決定されていると考えていた。ある特定の時間の宇宙のすべての粒子<ref>これは現代の概念でいえば[[原子]]あるいは[[分子]]に相当する。</ref>の運動状態が分かれば、これから起きるすべての現象はあらかじめ計算できるという考え方である。ラプラスの決定論は、「全ての事象の原因と結果は[[因果律]]に支配されているが故に未来は一意的に決定される」とする「因果的決定論」に属し、決定論のなかでも「強い」部類のものである。<!-- 一方で、ラプラスの死後登場した量子論の考え方には、コペンハーゲン解釈が正しいとするならばこの考え方は成り立たないとする批判がある。 -->
一方でこれには前提条件があり、ラプラスのいう「[[ラプラスの悪魔]]」とは「ある瞬間における全ての[[物質]]の[[力学]]的状態を知ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの能力の[[知能|知性]]」であり<ref>ピエール=シモン・ラプラス、『確率の解析的理論』、1812年</ref>、「決定論的に定まっている未来を完全に見通すことができる者」という[[思考実験|思考上]]の[[概念]]的な存在である。
== 関連図書 ==
*{{Cite book|和書|author=ピエール=シモン・ラプラス|others=[[竹下貞雄]]訳|year=2012|month=2|title=ラプラスの天体力学論第1巻|publisher=大学教育出版|isbn=978-4-86429-120-0|url=http://www.kyoiku.co.jp/17rapurasu/rapurasu.html}}
*{{Cite book|和書|author=ピエール=シモン・ラプラス|others=竹下貞雄訳|year=2012|month=6|title=ラプラスの天体力学論第2巻|publisher=大学教育出版|isbn=978-4-86429-121-7|url=http://www.kyoiku.co.jp/17rapurasu/rapurasu.html}}
*{{Cite book|和書|author=ピエール=シモン・ラプラス|others=竹下貞雄訳|year=2012|month=9|title=ラプラスの天体力学論第3巻|publisher=大学教育出版|isbn=978-4-86429-122-4|url=http://www.kyoiku.co.jp/17rapurasu/rapurasu.html}}
*{{Cite book|和書|author=ピエール=シモン・ラプラス|others=竹下貞雄訳|year=2012|month=12|title=ラプラスの天体力学論第4巻|publisher=大学教育出版|isbn=978-4-86429-123-1|url=http://www.kyoiku.co.jp/17rapurasu/rapurasu.html}}
*{{Cite book|和書|author=ピエール=シモン・ラプラス|others=竹下貞雄訳|year=2013|month=5|title=ラプラスの天体力学論第5巻|publisher=大学教育出版|isbn=978-4-86429-124-8|url=http://www.kyoiku.co.jp/17rapurasu/rapurasu.html}}
*{{Cite book|和書|last=ラプラス|first=ピエール=シモン| others=内井惣七訳|date=1997-11-17|title=確率の哲学的試論|series=[[岩波文庫]] 青925-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339251-5|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/5/3392510.html|ref={{sfnref|ラプラス}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[日本数学会]]|year=2007|title=数学辞典|edition=第4版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000803090|ref={{sfnref|岩波数学辞典}}}}
== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Pierre-Simon Laplace}}
* {{前方一致ページ一覧|ラプラス}}
** [[ラプラス作用素]] (ラプラシアン)
** [[ラプラスの悪魔]](ラプラスの魔)
** [[ラプラス方程式]]
** [[ラプラス分布]]
** [[ラプラス原理]]
** [[ラプラス変換]]
** [[ラプラス展開]]
*** [[両側ラプラス変換]]
** {{仮リンク|ラプラス展開 (ポテンシャル)|en|Laplace_expansion_(potential)}}
* [[メートル法]]
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5,409 | 川端康成 | 川端 康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 - 1972年〈昭和47年〉4月16日)は、日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階・勲等は正三位・勲一等。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。
代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。
ノーベル文学賞をはじめ、多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった。
大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。
その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。
初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている。
川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。
※以下、川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉で括っています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。7か月の早産だった。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ケ崎町)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。
しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転居し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した。
2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字三番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。
宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした。
川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。
幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。
1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。
康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。なお、笹川良一とは小学の同級生であった。祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。
しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。
小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。
1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。
しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。
康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。
中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。
川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている。
両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。
8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった。
1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。
同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。
意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。
川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。
この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。
1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた。その雰囲気の中、康成は行く末は〈三田か早稲田の文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した。
教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。
9月に第一高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には石濱金作、酒井真人、鈴木彦次郎、三明永無、守随憲治、池田虎雄、片岡義雄、辻直四郎らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという。川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった。
授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で痩せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った。ある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった。
石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅した。この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った。下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた。
彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた。
伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった。1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は処女作としている。
康成は酒が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理の甥の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった。しかしマダムの台湾行に伴い店を閉め、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った。
なお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が見知らぬ一高生(康成)と一緒にいるのに出くわしたという。平岡梓は肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端康成のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという。
1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。同級に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。しばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介、久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる。11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した。
翌1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社の招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた。久米正雄、水守亀之助、加藤武雄、南部修太郎、中村星湖、小島政二郎、佐佐木茂索、加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、本郷区の根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。この頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。
この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜駅で途中下車して2人で伊藤初代(当時15歳)のいる岐阜県を訪ねた。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して長良川湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った。帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという。その後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった。
川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈奇跡のやうに美しい夢〉を持ち、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている。
同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は、〈才能のある若い者同士〉を引き合わせようとする菊池寛の家で横光利一と初めて出会い、夕方、3人で本郷区湯島切通坂町2丁目6(現・文京区湯島)の牛肉屋「江知勝」に行き、菊池に牛鍋を奢ってもらった。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、純潔な凄気〉を川端は感じた。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから友達になれ〉と川端に言った。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった。
その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している。
〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった。12月には、『新潮』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た。
1922年(大正11年)、加藤武雄の好意で『文章倶楽部』1月号・2月号にチェーホフなどの小品翻訳を発表し、同月の『時事新報』には佐佐木茂索の好意により「今月の創作界」を寄稿できた川端は、先ず文芸批評家として文壇に登場した。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。
6月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念した。
また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った。
1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一や佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に犬養健の作品を創作評で取り上げ、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する。
9月1日に、本郷区駒込千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた。今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で被災した町を廻った。川端らは吉原界隈では、火に焼かれ池に飛び込んだ大勢の娼婦たちの凄惨な〈その最も醜い死〉の姿に衝撃を受けた。
川端は他にも浅草の死体収容所などでも〈幾百幾千或は幾万〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が恋をすることを考へた〉と綴った。
震災後は、川端は以前にも増して〈新しい文藝〉への意欲が高まり、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。またこの魔は生娘が好きだ〉と論じている。
1924年(大正13年)3月に東京帝国大学国文学科を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。最後の大学4年の時から、国許の親類の送金を断わり自活を試みはじめていた。単位が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・藤村作の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。大宅壮一が川端と石濱金作を住家に招いて、卒業祝いに鶏を一羽つぶして振る舞ってくれた。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『新小説』に発表した。5月には、郷里の三島郡役所で徴兵検査を受けたが、体重が十貫八百三十匁(約41キログラム)で不合格となった。検査前1か月間、伊豆の温泉で保養し、三島郡の宿屋では毎回の食事に生卵を3個飲んでいたにもかかわらず、〈郡役所の広間で恥をかいた〉思いを川端は抱いた。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという。
10月には、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。横光は、劇団を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという。主導者の川端は、これからは宗教に代り文芸が人間救済の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「頭ならびに腹」により、同人は「新感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されるようになった。
ヨーロッパに興ったダダイスムの下に「芸術の革命」が目指されたアバンギャルド運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月にプロレタリア文学派により創刊された『文藝戦線』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、掌編小説を掲載することが多かった。これらの小品群(掌の小説)は、未来派やダダイスムの影響により、既成の道徳によらない自在な精神を表現したものが多く、失恋や孤児根性を克服し新しい世界へ飛躍する願望が秘められている。こういった極く短い形式の小説を創ることの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且和歌や俳句や川柳のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される日〉が来ることを川端は夢みて、日本人が掌篇小説においても〈小説の最も短い形式〉を完成し得ると確信していた。
1925年(大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病日記を西成郡豊里村の黒田家の倉から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「十六歳の日記」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の処女作である〉としている。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(菅虎雄の息子。雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている。川端は当時、本郷区林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した。12月には、心霊的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に神秘性が加味されてきた。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した。
1926年(大正15年・昭和元年)1月と2月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、喘息で胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉郡鎌倉町(現・鎌倉市)由比ヶ浜へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている。
6月には、掌編小説(掌の小説)を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され、友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、大宅壮一、江戸川乱歩、豊島与志雄、尾崎士郎、岡本一平・かの子夫妻などもいた。また、この年の春には、衣笠貞之助、岸田国士、横光利一、片岡鉄兵らと「新感覚派映画聯盟」を結成し、川端は『狂つた一頁』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正モダニズムの成果であるこの作品は9月に公開され、ドイツ表現主義の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている。
『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚派映画聯盟」は立ち消えとなった。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった。
1927年(昭和2年)正月、前年の大晦日に梶井基次郎が温泉療養に湯ヶ島温泉にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『伊豆の踊子』の単行本の校正を手伝ってもらった。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている。
湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々(淀野隆三、外村繁、三好達治)、十一谷義三郎、藤沢桓夫、小野勇、保田与重郎、大塚金之助、日夏耿之介、岸田国士、林房雄、中河与一、若山牧水、鈴木信太郎、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎らも訪れた。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている。3月に横光利一ら同人に、永井龍男、久野豊彦、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。
4月5日、上野精養軒で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ。その家では、原稿料の代りに読売新聞社から貰った桂の碁盤を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った花梨の机を譲った。その机は池谷信三郎も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた。
同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に大宅壮一が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元太郎の娘)と秀子は、偶然同じ青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身であった。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。妊娠していた妻・秀子が、6月頃(7月の芥川龍之介自殺より少し前)、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった。8月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始する。
同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の鳥尾子爵(鳥尾小弥太)の別荘を借りて移り住んだ。林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった。
当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎や藤沢桓夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作が転換、今東光と鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた。
翌1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた。川端は当初、襖を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった。
3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)。馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎、宇野千代、子母沢寛、萩原朔太郎、室生犀星、岡田三郎のほか、川端龍子、小林古径、伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した。
1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた。
また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した。
同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である。
1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。
続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間や空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話、音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した。
1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。
1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった。
それと同時に少女小説を書くことも増え、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州の上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した。
11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介の遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。
1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した。
8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている。
1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞・直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった。
1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。
6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した。信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。
1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は旧軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に支那事変が起き日中戦争が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する。
同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄が郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる。野々宮写真館の主人からコンタックスを譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、ゴルフも時々やるようになる。
1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。
1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。
1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在。1月16日に熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人を訪ね将棋を打って別れた後、本因坊秀哉が体調を崩して急逝。 この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る。
5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校や聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二、伊藤整らと共に発起人となった。またこの1940年(昭和15年)は、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島、興津、静岡市と東海道へも旅した。翌年1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。
1941年(昭和16年)4月には、『満州日日新聞』の招きで囲碁の催しのため、呉清源、村松梢風と共に満州国に赴いた。吉林、奉天など満州各地を廻り、在満州の檀一雄、田中総一郎、緑川貢、北村謙二郎らと座談会をし、新京(現・長春)北郊の寛城寺に住む日本人作家の山田清三郎らに会い、異郷の中国大陸で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる。
ハルピンで一行と別れて承徳を経て北京、天津、大連に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも関東軍の招きで山本実彦(改造社社長)、高田保、大宅壮一、火野葦平と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、撫順、黒河、ハイラルも巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大連などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した。
川端が帰国後、12月8日にマレー作戦と真珠湾攻撃により、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦となった。開戦の報を聞いた川端は、妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました」と戦争の行く末を嘆いていたとされているが、この後、川端は否が応でも戦争に関わっていくこととなる。
1942年(昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、創元社より刊行した。8月には島崎藤村、志賀直哉、武田麟太郎、瀧井孝作らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『名人』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「日本文学報国会」の派遣作家として、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市)の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日(太平洋戦争開戦)に際しては、『東京新聞』記者尾崎宏次の依頼により、東京新聞の紙面上で川端が戦没兵士の遺文を読んで感想を書く「英霊の遺文」という連載を引き受けている。この年、ドイツで『伊豆の踊子』がオスカー・ベンル訳で独訳出版された。
1943年(昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る。以前から養女の約束をしていた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は離婚し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の媒酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。
1943年(昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『源氏物語』や中世文人の文学などの文章に親しむことが多かった。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈大和魂といふ言葉や、大和心といふ言葉は、平安時代にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている。12月25日に片岡鉄兵が旅先で死去した(50歳没)。東京駅に片岡の遺骨を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は荻窪へ向かった。
戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、谷崎潤一郎の『細雪』や、『源氏物語』などが発禁となっていた。多くの文学者が陸軍・海軍の報道班員として徴用され、なかには進んで自由主義的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった。まともに執筆活動ができなくなった川端は、収入が途絶し生活費に困窮するようになったので、やむなく軽井沢に所有していた別荘を売却して生活費に充てている。1944年(昭和19年)暮れにはアメリカ軍爆撃機ボーイングB-29による日本本土空襲も開始され、川端はひとり、裏山で防空壕をノミと金づちで拡幅する作業に没頭し、地区の防空班長や隣組長も引き受けている。
時節柄川端も戦争協力を避けることはできず、1942年(昭和17年)12月の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり(東京新聞 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。この記事のなかで川端が熱意をもって論じたのが、1944年10月に開始された神風特別攻撃隊であり、「英霊の遺文」に以下のような感想を述べている。
同年には「日本文学振興会」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も下記のようにこの賞の目的に沿う決意を書いている。
1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、新田潤、山岡荘八(新田と山岡は大尉待遇)と共に鹿児島県鹿屋航空基地に赴き、1か月滞在して特別攻撃隊神雷部隊を取材した。川端はそのときの心境を〈沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた〉と戦後に振り返っているが、秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛プロパガンダ記事「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」という記事に桜花や特攻への称賛の談話を寄せている(朝日新聞 1945年6月1日)。
山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている。しかし、短期間で鹿児島を去った川端の印象は、新田、山岡や前から海軍報道班員として従軍していた丹羽文雄と比較すると薄かったようで、同じく鹿児島の特攻隊取材のために、日本映画社カメラマンとして従軍していた山根重視の回想には、丹羽、新田、山岡は登場するが川端だけは登場しない。
川端が鹿児島で特攻の取材をしていた5月1日に、久米正雄、小林秀雄、中山義秀、高見順、大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった。5月末には新田や山岡を置いて一足先に鹿児島から鎌倉へ帰り、8月15日には日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して昭和天皇の玉音放送を聞いた。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った。川端は終戦のときの状況を下記のように記している。
その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で島木健作の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った。
また、川端は夫人に、「これからは、日本の教育が大変なことになるよ。占領軍はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、敗戦のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している。
1946年(昭和21年)1月に、木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている。川端は6月、三島の「煙草」を『人間』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『盗賊』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である横光利一に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという。
同年の3月31日には武田麟太郎が死去し(42歳没)、初めて弔辞を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、大佛次郎、岸田国士らと「赤とんぼ会」を結成し、藤田圭雄編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『婦人文庫』に発表。一部がGHQにより削除された。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は山口瞳)の一家がいた。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と日劇や宝塚歌劇を観に行ったり仲が良かった。山口瞳の息子・正介は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている。
1947年(昭和22年)2月に日本ペンクラブの再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『小説新潮』に発表。約13年間を経て、ようやく『雪国』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている。
12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった横光利一が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた。この年から川端は、古美術への関心を深め、その後、池大雅・与謝蕪村の『十便十宜』、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』などの名品の数々をコレクションすることになる。
1948年(昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく〉と、その死を悼んだ。3月には、もう一人の恩人であった菊池寛も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の同性愛の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。
川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の命を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の美の伝統のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った。6月には、志賀直哉のあとを引き継ぎ、第4代日本ペンクラブ会長に就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、東京裁判の判決を傍聴した。
1949年(昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた。同月、イタリアのベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和は国境線にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、朝鮮動乱直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「骨拾ひ」を『文藝往来』に発表した。11月には広島市に招かれ、豊島与志雄、青野季吉と3人で原爆被災地を視察した。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した。
1950年(昭和25年)2月、養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・長崎を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている。長崎では、『この子を残して』の著者・永井隆を見舞った。旅の後、川端は京都に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた。そして、焼失したと聞かされていた『凍雲篩雪図』(浦上玉堂の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、スコットランドのエジンバラでの大会に募金のアピールを書き送った。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「舞姫」を『朝日新聞』に連載開始する。この年、鎌倉文庫が倒産した。
1951年(昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に林芙美子が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日したユーディ・メニューイン訪日公演を三島由紀夫らと観に行った。1952年(昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『婦人公論』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が筑摩書房より刊行され、これにより昭和26年度芸術院賞を受賞した。授賞式で昭和天皇と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて天皇が声をかけたという。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った。10月に大分県の招きで、竹田町(現・竹田市)九重高原を知人の画家・高田力蔵の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『波千鳥』の背景として生かされることとなる。法華院温泉に同宿していた作家志望の熊本の学生から、小説の勉強はどうしたらいいかを訊ねられた川端は、「自分の両親を写生しなさい」と答えたという。
1953年(昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『婦人画報』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に堀辰雄が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、名古屋西川流「名古屋をどり」舞台台本「船遊女」を書き、二世西川鯉三郎の振付で上演された。11月には、永井荷風、小川未明らと共に芸術院会員に選出された。
1954年(昭和29年)3月、新設された新潮社文学賞の審査委員に就任する。4月には、『山の音』の単行本が筑摩書房より刊行され、これにより第7回野間文芸賞を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の短編で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから長編の骨格と主題とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った。
そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ偏執狂の男を主人公にした「みづうみ」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の超現実的な新しい手法と「魔界」が注目された。この実験的作品は、以前の『水晶幻想』や、のちの『眠れる美女』に繋がっていくことになる。5月からは、「東京の人」を『中部日本新聞』などに連載開始した。
1955年(昭和30年)1月から「ある人の生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。同年6月、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八と芳賀檀が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、翌1956年(昭和31年)3月の日本ペンクラブ評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった。
1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。
1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。
1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルト市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られることが決まり、7月に、同市で開催の第30回国際ペンクラブ大会に出席し、メダルを受賞した。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。
1960年(昭和35年)1月から「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルのサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた。
1961年(昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業の北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった。11月には第21回文化勲章を受章した。
1962年(昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた。10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹、茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。
1963年(昭和38年)4月に財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという。川端はその後、吉永に手紙を書いたり20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。1964年(昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去し、訃報が相次いだ。6月から「たんぽぽ」を『新潮』に断続的連載を開始する(未完)。同月には、ノルウェーのオスロでの第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。
1965年(昭和40年)4月から1年間、NHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映開始された。7月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『週刊朝日』に発表した。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、芹沢光治良に後をゆずった。11月12日、伊豆湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建立された。この除幕式では、作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟と47年ぶりに再会した。後藤は、蔵前高工(現・東京工大)受験のために下田港から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった。1966年(昭和41年)1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。
1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。
1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」で、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『ほくろの手紙』などであった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)、1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。
翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。
12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休などの和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった。なお、川端はこの頃、『源氏物語』の現代語訳の準備を着々と進めていた。
1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。
6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。
1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共に同地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。
6月15日から5日間の日程で中華民国を訪問。台北での台湾ペンクラブ主催の「第三回アジア作家会議」に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正煕の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関して「生みの親も知らぬ孤児」「養家は部落の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。
同月25日昼、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。そのとき細川護立の青山葬儀所での告別式に参列中だった川端は、一報を聞きすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。
1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島の葬儀・告別式では葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。同月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。
1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田與重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。
4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。...そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。
マンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。
鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた。
翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位に叙位され、勲一等旭日大綬章を叙勲された。5月27日には、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山葬儀所で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。
8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された。
1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された。
1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。
1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された。
1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという。
同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。
1985年(昭和60年)5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。
生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた。
2014年(平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された。
2018年(平成30年)茨木市によって川端康成青春文学賞が創設された。
生誕120年となる2019年には、姫路市立美術館と姫路文学館で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」が開催され、川端が収集した美術品や直筆原稿、書簡など約280点が公開された。
没後50年となる2022年、日本近代文学館では4月2日から6月11日に「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人―」が開催された。編集委員は坂上弘と中島国彦がつとめた。川端康成文学館では5月に特別展が開催された。神奈川近代文学館では10月1日から11月27日に特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」が開催され、約400点の資料が展示された。編集委員は荻野アンナがつとめた。ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画もあった。
川端は、自身の文学創作に関して、〈恋心が何よりの命の綱である〉とし、作品テーマや理想に関するものを語ったものとして、以下のような言葉がある。
『新思潮』発刊、『文藝春秋』同人参加、横光利一らと共にヨーロッパの前衛文学を取り入れた新しい文学を志した『文藝時代』創刊で新感覚派の代表的作家として頭角を現し、その後は芥川賞銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は日本ペンクラブ会長、1968年(昭和43年)には、日本人で初のノーベル文学賞受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、モノローグ的、和歌に繋がる川端の作品自体は、時代の思想や世相に左右されることのない自身の芸術観に基づいた澄んだ詩的なものとなっている。
そのため、政治的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、プロレタリア文学の作家であった中野重治なども、川端の掌の小説を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、林房雄が1926年(大正15年)に左翼運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる。
伊藤整は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、醜の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に復讐せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている。そして、『伊豆の踊子』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「真実を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「批評眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている。
伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『十六歳の日記』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の経典を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「マルクシズムとモダニズムとの対立と交流の中」に批評家として立ちながら、「当時の政治文学と娯楽文学の両方から身をかわし、大正文壇の創った人間性に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している。
三島由紀夫は、川端が「温かい義侠的な」人でありながらも、過剰な親切や善意の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「達人」「孤独」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その人生は全部「旅」であり、川端を「永遠の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している。
そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「虚無的にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、ギリシャの彫刻家が不安と混沌をおそれて大理石に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無の海の上にただよふ一羽の蝶」のような、あるいは「一条の絹糸のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている。また三島は、近代作家において、「中世文学の秘められた味はひ、その絶望、その終末感、その神秘、そのほのぐらいエロティシズムを、本当にわがものにした」のは、川端一人だけだと高く評価している。
中村光夫は、川端文学の特色を、「日本人の心の動きを純粋な形で見つめたもの」とし、それは作品の語り手(作者の分身)と対象(踊子など)の関係性が、能の「ワキ」と「シテ」に似ていて、「シテの多くがワキの夢の所産であり、同時に舞台の支配者である」関係となり、対象が幻でありながらも「自然に似た存在の重味」を得ているとして、そこに川端の文学が、単なる写実の私小説と異なる「現代性」「古典性」を獲得している理由だと解説している。そして中村は、現実に対する川端の態度を、「誠実な自己批評あるいは自己否定の熱情」だとし、その批評や否定の対極に、川端自身(知識階級であり男)に無いものを持つ「女性」(踊子など)、「民衆あるいは日本」があるとしている。
また中村は、三島が川端の人生を「旅」に喩えたことに関連し、川端にとって、旅が人生の象徴であるように、「すべての人間関係」(親子夫婦も含めた)が〈ゆきずり〉であるという思想が老年まで根を張り、それをすべての事象に川端が実感していることが『みづうみ』や『眠れる美女』に顕現化しているとし、『みづうみ』では主人公が、〈ゆきずり〉の人を〈ゆきずり〉のままで別れてしまうことを哀惜し、〈この世の果てまで後をつけてゆきたい〉という願望の実現の不可能性を語る場面に触れながら、そこで広い意味での〈ゆきずり〉の関係を示唆する川端が、社会生活での人間の存在形式を見つめていると解説している。
勝又浩は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたまトンネルを越えて、まれびととなって人界を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、美人と少年少女と古今東西の第一級の美術(建築もふくめて)と、そして自然です〉と述べていることや、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし、川端が『美しい日本の私―その序説』で、歌人や文人たちよりも仏教者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている。
川端文学の一つの主題である「生命(いのち)への讃仰」、「処女」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。
川嶋至は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のないもの」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している。
川端にとっては、犬も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「地獄」を『禽獣』で見せたことについて以下のように解説している。
羽鳥徹哉は、『夏の靴』の少女、『日本人アンナ』のアンナ、『浅草紅団』の弓子、『雪国』の駒子、『古都』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な運命に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている。
中村光夫は、横光利一が「陽」で、その文学に内在する劇は『機械』に顕著なように「男同志の決闘」である「男性文学」であるのに対して、川端康成は「陰」であり、「女性文学」だとし、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「軟体動物から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている。そして中村は、生田長江が指摘したように、横光が「播種の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している。
三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが、横光は苦闘し、その天性の感受性をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『禽獣』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している。
川端康成の鋭い眼は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれている。泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたなどという、様々なエピソードがある。
気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ、或る若い初心な女性編集者は初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある。川端自身はマイペースで長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に「どうしたんですか」と言ったとされる。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、骨董のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという。
川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている。
堀辰雄の夫人・多恵子は「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い、吉行淳之介は「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている。吉行は、川端家を訪れた或る女性が「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている。
画家の草間彌生は『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している。
梶井基次郎は湯ヶ島温泉で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴っている。
三島由紀夫も21歳の時に川端の家を初訪問した時の印象を、「氏の目は碁をさす人の目のやうであつた。対局の、一見落着かぬやうでゐて、カンドコロを指す目であつた。それは又剣道の達人の目であつた。うごく刃と共にうごく目であつた。人をみつめる死んだ鋭さではなかつた」とし、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している。
しかし三島は川端と親しくなった以降では、川端が外国人との交遊の場で、西洋人を見つめている様子を「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、子供が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの無垢な好奇心に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或るアメリカ人の大女のおばあさんが、全く文学も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している。
北條誠は川端の眼光について以下のように語っている。
孫の明成が誕生し喜んだ川端は、明成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち明成は怖がって泣いたという。
なお、川端本人も早くから自分の癖を自覚し、中学時代の日記には自身の容姿へのコンプレックスを吐露すると共に、〈俺ほど人の美貌をまんじりとせず見つめる者はあるまい。そしてのろひうらやみ抱擁せんと常に思ふのである〉とし、自伝小説では〈人の顔をじろじろと見る私の癖は盲と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉とも語っているが、この癖について進藤純孝は川端が幼い時の眼底結核の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している。
上記のように川端康成は、無口と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い。また、訪問客が絶えず、新年会も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな久米正雄が「君は全く孤独だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、三島由紀夫はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている。
三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、清水次郎長のような人であるが、その行為はちっとも偽善的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の総理大臣」と呼ばれたこともあるという。
室生犀星は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家運は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている。
川端は、前衛画家・古賀春江と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた高田力蔵を助けて、その面倒を見ていた。また、藤田圭雄によると、野上彰が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『ラング世界童話全集』の印税は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという。
舟橋聖一は、青野季吉が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている。
川端は1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員として、大日本帝国海軍の特攻基地であった鹿屋基地の取材を行っている。志賀は、大本営海軍報道部高戸顕隆海軍主計大尉からの依頼を受けた雑誌「台湾公論」の元編集長吉川誠一軍属から、横光利一と川端のいずれが、特攻作戦の取材で「日本の心を正確に誤りなく時代に語りつぐこと」ができるか?と問われ、「横光さんは大きくか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と川端を推薦したという。吉川は1945年4月10日に川端宅を訪れて、防空壕掘削作業中の川端に海軍報道班員の引き受けを打診したところ、川端は「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押したうえで応諾した。
報道班員にはほかに新田潤、山岡荘八が選ばれ、4月23日に3人は海軍省に呼び出されたが、新田と山岡が大きな陸軍靴を履いていたのに対して、川端は痛々しく痩せた身体に子供靴のような真っ赤な靴を履いていた。その靴は川端によれば徳田秋声の遺品ということであったが、戦時中の物資不足の折に山岡には羨ましく感じたという。川端ら3人は鹿屋に出発前に大本営報道部の高戸大尉から、「海軍報道班員は、戦地に赴き、その勇壮なる戦いぶりを書いて国民の志気を高揚させるにある」「ただし、みなさんはこの戦いをよく見て下さい。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か三十年たってでも、あるいは五十年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい」と伝えられた。
鹿屋で川端らは水交社に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが、3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず空襲もあり、そのたび山の中の防空壕に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった。
川端らが取材していた時期に、鹿屋で特攻出撃のために待機していた中央大学法学部出身の谷田部海軍航空隊杉山幸照予備少尉によれば、川端は杉山ら学徒出陣で予備士官となった大学出身の特攻隊員と食堂などでよく文学談義に花を咲かせたり、隊員からお菓子をもらったりと懇意にしていた。このときの川端は予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せており、書物を渇望する学徒の予備士官のために、鎌倉文庫から本を30-40冊鹿屋に送るよう妻秀子に頼むなどの気配りを見せる一方で、沖縄戦で特攻作戦を指揮していた第五航空艦隊の上層部と話すときには、笑いながら特攻を賛美するような話をしていたので、杉山はその上下で態度を変える川端に対して「彼(川端)ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快くは感じていなかった」と痛烈に批判し、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。また、川端は神国日本を信じて、やがて神風が連合軍艦隊を全滅させる、という過去の歴史の繰り返しを期待する“幼稚”な思想を特攻隊員らと共有していたと杉山は回想している。
川端は当時の心境を「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と回想し、川端に特攻の記事は書かなくてもいいと伝えた大本営参謀の高戸は戦後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と考えていたが、川端はこの取材により、朝日新聞の特攻兵器桜花についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、下記のような称賛の談話を寄せている。
しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月末には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から茨城県筑波郡谷田部町の本隊への帰還を命じられたときに、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る零式輸送機に同乗することができた。途中、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂でライスカレーを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している。
杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした作品『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である。
川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日にはNHKが全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている。結局、山岡は神雷部隊が松山基地や宮崎県日向市にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の岡村基春大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した野中五郎大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった、当時では貴重品ばかりの大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いている。
敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる。そして鹿屋での体験を基にして作品『生命の樹』を書き上げたが、一部分がGHQにより削除されたという。
洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に「この酒の風味こそ京都の味」と作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫(京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと桑原は回想している。
川端は食がほそかったが、その分味への拘りは強く、かなりの美食家であった。川端が馴染みとしていた飲食店は数多いが、なかでも鎌倉の自宅の近くにあったうなぎ料理の名店「つるや」にはかなりの頻度で訪れており、晩年には出前を頼んでいたほどであった。東京にも馴染みの店があり、銀座のみゆき通りにあった洋食屋「銀座キャンドル」にもよく通っていたという。この店のメニュー「チキンバスケット」を特に好み、三島由紀夫と来店することもあった。
日本国有鉄道(国鉄)が1970年(昭和45年)から始めたディスカバー・ジャパンのキャンペーンにおいて、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自らポスター用に揮毫したという。
1971年(昭和46年)6月に、日立のセントラルヒーティングのテレビコマーシャルに出演して、世間を驚かせたという。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された。その5分ほどの映像には、詩人のサトウハチローによる川端についての詩の朗読がつけられている。サトウの次男の佐藤四郎は発見時の取材に「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と述べている。
1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に突然と起き上がって扉を開け、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち早々と逃げ帰ったという。その話を聞いた今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている。
川端は、古美術蒐集家として知られているが、小学校の時には画家になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも書を嗜み、日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の掛軸をはじめ、いくつもの書を遺している。蒐集は古美術だけでなく、古賀春江、キスリング、石本正、梅原龍三郎、熊谷守一、無名の新人画家だった草間彌生の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている。また、夏目漱石の五言絶句、北原白秋の自作歌、田山花袋の七絶詩、武者小路実篤の自作絵画、芥川龍之介の書簡(室生犀星宛て)、友人だった横光利一の書など、作家の直筆物も収集していた。書や絵には人格や魂がこもると考えていた川端は美術品について以下のように語っている。
川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、ロダンの小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思ひ出した〉と語り、横光が亡くなる何日か前の手を想起しながら、〈ひどく衰へて寝てゐた横光氏は手で思考と表現とを助けようとするかのやうであつた〉と説明している。
1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで胆石で入院していた際には、病院から初めて外出したクリスマス・イブの日に古美術店へ行き、〈聖徳太子は日本のキリストではないか、使徒ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像、太子2歳像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという。
中国磁器の汝州の『汝官窯青磁盤』を川端が手に入れた時の次のような挿話がある。この青磁盤は古美術商・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから高麗青磁だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したもので、繭山龍泉堂の人も汝官窯青磁の実物はむろん見たことがなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3点しかないものだと確認された。ところが川端はその後、『埴輪 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった。
浦上玉堂の代表作『東雲篩雪図』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた。それ以前に入手した与謝蕪村・池大雅の合作『十便十宜』と共に、川端入手後に国宝に指定された逸品である。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている。
愛用品の時計には、ウォルサムがあり、「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している。
鎌倉に来てから買い求めた鎌倉彫の赤い机を書斎に置いていた。鎌倉彫の老舗寸松堂の初代佐藤宗岳が大正末期から昭和初期ごろに作ったものとされ、脚部に菊文様が彫られている。この机は鎌倉文学館に所蔵されている。
川端の旧蔵品
死亡当時、死因は自殺と報じられ、それがほぼ既定となっている。その一方で、遺書がなかったことや、死亡前後の状況から事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。
各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
鎌倉幕府第2代執権・北条義時(鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正室・北条政子の弟)、第3代執権・北条泰時の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・川端舎人助道政が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である。
※ 1印は自作詩文集「第一谷堂集」内。2印は自作作文集「第二谷堂集」内。
※太字は中編・長編。○印は掌編(掌の小説)。★印は自伝的作品。△印は全集未収録作品。
※()内は執筆日
※ 評論・随筆類は数が膨大なため、各参考文献内の作品年表、経歴内などで言及されている作品を中心に記載
※刊行年月は初版のみ記載。 | [
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"text": "川端 康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 - 1972年〈昭和47年〉4月16日)は、日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階・勲等は正三位・勲一等。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。",
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"text": "代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。",
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"text": "ノーベル文学賞をはじめ、多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった。",
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"text": "大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。",
"title": "概略・作風"
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"text": "その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。",
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"text": "初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている。",
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"text": "川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。",
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"text": "※以下、川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉で括っています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。",
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"tag": "p",
"text": "1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。7か月の早産だった。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ケ崎町)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転居し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した。",
"title": "生涯"
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"text": "2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字三番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。",
"title": "生涯"
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"text": "宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした。",
"title": "生涯"
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"text": "川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。",
"title": "生涯"
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"text": "幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。",
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"text": "1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。",
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"text": "康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。なお、笹川良一とは小学の同級生であった。祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。",
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"text": "しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。",
"title": "生涯"
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"text": "1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。",
"title": "生涯"
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"text": "しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。",
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"paragraph_id": 21,
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"text": "中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。",
"title": "生涯"
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"text": "意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた。その雰囲気の中、康成は行く末は〈三田か早稲田の文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "9月に第一高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には石濱金作、酒井真人、鈴木彦次郎、三明永無、守随憲治、池田虎雄、片岡義雄、辻直四郎らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという。川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で痩せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った。ある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった。",
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"text": "石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅した。この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った。下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた。",
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"text": "彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった。1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は処女作としている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "康成は酒が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理の甥の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった。しかしマダムの台湾行に伴い店を閉め、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った。",
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"text": "なお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が見知らぬ一高生(康成)と一緒にいるのに出くわしたという。平岡梓は肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端康成のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。同級に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。しばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介、久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる。11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "翌1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社の招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた。久米正雄、水守亀之助、加藤武雄、南部修太郎、中村星湖、小島政二郎、佐佐木茂索、加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、本郷区の根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。この頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜駅で途中下車して2人で伊藤初代(当時15歳)のいる岐阜県を訪ねた。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して長良川湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った。帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという。その後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈奇跡のやうに美しい夢〉を持ち、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は、〈才能のある若い者同士〉を引き合わせようとする菊池寛の家で横光利一と初めて出会い、夕方、3人で本郷区湯島切通坂町2丁目6(現・文京区湯島)の牛肉屋「江知勝」に行き、菊池に牛鍋を奢ってもらった。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、純潔な凄気〉を川端は感じた。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから友達になれ〉と川端に言った。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった。12月には、『新潮』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "1922年(大正11年)、加藤武雄の好意で『文章倶楽部』1月号・2月号にチェーホフなどの小品翻訳を発表し、同月の『時事新報』には佐佐木茂索の好意により「今月の創作界」を寄稿できた川端は、先ず文芸批評家として文壇に登場した。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "6月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念した。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一や佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に犬養健の作品を創作評で取り上げ、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "9月1日に、本郷区駒込千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた。今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で被災した町を廻った。川端らは吉原界隈では、火に焼かれ池に飛び込んだ大勢の娼婦たちの凄惨な〈その最も醜い死〉の姿に衝撃を受けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "川端は他にも浅草の死体収容所などでも〈幾百幾千或は幾万〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が恋をすることを考へた〉と綴った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "震災後は、川端は以前にも増して〈新しい文藝〉への意欲が高まり、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。またこの魔は生娘が好きだ〉と論じている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1924年(大正13年)3月に東京帝国大学国文学科を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。最後の大学4年の時から、国許の親類の送金を断わり自活を試みはじめていた。単位が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・藤村作の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。大宅壮一が川端と石濱金作を住家に招いて、卒業祝いに鶏を一羽つぶして振る舞ってくれた。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『新小説』に発表した。5月には、郷里の三島郡役所で徴兵検査を受けたが、体重が十貫八百三十匁(約41キログラム)で不合格となった。検査前1か月間、伊豆の温泉で保養し、三島郡の宿屋では毎回の食事に生卵を3個飲んでいたにもかかわらず、〈郡役所の広間で恥をかいた〉思いを川端は抱いた。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "10月には、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。横光は、劇団を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという。主導者の川端は、これからは宗教に代り文芸が人間救済の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「頭ならびに腹」により、同人は「新感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されるようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "ヨーロッパに興ったダダイスムの下に「芸術の革命」が目指されたアバンギャルド運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月にプロレタリア文学派により創刊された『文藝戦線』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、掌編小説を掲載することが多かった。これらの小品群(掌の小説)は、未来派やダダイスムの影響により、既成の道徳によらない自在な精神を表現したものが多く、失恋や孤児根性を克服し新しい世界へ飛躍する願望が秘められている。こういった極く短い形式の小説を創ることの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且和歌や俳句や川柳のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される日〉が来ることを川端は夢みて、日本人が掌篇小説においても〈小説の最も短い形式〉を完成し得ると確信していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病日記を西成郡豊里村の黒田家の倉から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「十六歳の日記」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の処女作である〉としている。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(菅虎雄の息子。雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている。川端は当時、本郷区林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した。12月には、心霊的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に神秘性が加味されてきた。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1926年(大正15年・昭和元年)1月と2月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、喘息で胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉郡鎌倉町(現・鎌倉市)由比ヶ浜へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "6月には、掌編小説(掌の小説)を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され、友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、大宅壮一、江戸川乱歩、豊島与志雄、尾崎士郎、岡本一平・かの子夫妻などもいた。また、この年の春には、衣笠貞之助、岸田国士、横光利一、片岡鉄兵らと「新感覚派映画聯盟」を結成し、川端は『狂つた一頁』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正モダニズムの成果であるこの作品は9月に公開され、ドイツ表現主義の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚派映画聯盟」は立ち消えとなった。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "1927年(昭和2年)正月、前年の大晦日に梶井基次郎が温泉療養に湯ヶ島温泉にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『伊豆の踊子』の単行本の校正を手伝ってもらった。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々(淀野隆三、外村繁、三好達治)、十一谷義三郎、藤沢桓夫、小野勇、保田与重郎、大塚金之助、日夏耿之介、岸田国士、林房雄、中河与一、若山牧水、鈴木信太郎、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎らも訪れた。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている。3月に横光利一ら同人に、永井龍男、久野豊彦、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "4月5日、上野精養軒で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ。その家では、原稿料の代りに読売新聞社から貰った桂の碁盤を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った花梨の机を譲った。その机は池谷信三郎も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に大宅壮一が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元太郎の娘)と秀子は、偶然同じ青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身であった。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。妊娠していた妻・秀子が、6月頃(7月の芥川龍之介自殺より少し前)、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった。8月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の鳥尾子爵(鳥尾小弥太)の別荘を借りて移り住んだ。林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎や藤沢桓夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作が転換、今東光と鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "翌1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた。川端は当初、襖を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)。馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎、宇野千代、子母沢寛、萩原朔太郎、室生犀星、岡田三郎のほか、川端龍子、小林古径、伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間や空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話、音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "それと同時に少女小説を書くことも増え、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州の上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 76,
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"text": "11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介の遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞・直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。",
"title": "生涯"
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"text": "6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した。信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。",
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"paragraph_id": 82,
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"text": "1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は旧軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に支那事変が起き日中戦争が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する。",
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"paragraph_id": 83,
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"text": "同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄が郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる。野々宮写真館の主人からコンタックスを譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、ゴルフも時々やるようになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 84,
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"text": "1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。",
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"paragraph_id": 85,
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"text": "1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。",
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"paragraph_id": 86,
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"text": "1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在。1月16日に熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人を訪ね将棋を打って別れた後、本因坊秀哉が体調を崩して急逝。 この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校や聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二、伊藤整らと共に発起人となった。またこの1940年(昭和15年)は、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島、興津、静岡市と東海道へも旅した。翌年1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "1941年(昭和16年)4月には、『満州日日新聞』の招きで囲碁の催しのため、呉清源、村松梢風と共に満州国に赴いた。吉林、奉天など満州各地を廻り、在満州の檀一雄、田中総一郎、緑川貢、北村謙二郎らと座談会をし、新京(現・長春)北郊の寛城寺に住む日本人作家の山田清三郎らに会い、異郷の中国大陸で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "ハルピンで一行と別れて承徳を経て北京、天津、大連に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも関東軍の招きで山本実彦(改造社社長)、高田保、大宅壮一、火野葦平と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、撫順、黒河、ハイラルも巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大連などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 90,
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"text": "川端が帰国後、12月8日にマレー作戦と真珠湾攻撃により、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦となった。開戦の報を聞いた川端は、妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました」と戦争の行く末を嘆いていたとされているが、この後、川端は否が応でも戦争に関わっていくこととなる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1942年(昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、創元社より刊行した。8月には島崎藤村、志賀直哉、武田麟太郎、瀧井孝作らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『名人』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「日本文学報国会」の派遣作家として、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市)の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日(太平洋戦争開戦)に際しては、『東京新聞』記者尾崎宏次の依頼により、東京新聞の紙面上で川端が戦没兵士の遺文を読んで感想を書く「英霊の遺文」という連載を引き受けている。この年、ドイツで『伊豆の踊子』がオスカー・ベンル訳で独訳出版された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る。以前から養女の約束をしていた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は離婚し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の媒酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『源氏物語』や中世文人の文学などの文章に親しむことが多かった。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈大和魂といふ言葉や、大和心といふ言葉は、平安時代にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている。12月25日に片岡鉄兵が旅先で死去した(50歳没)。東京駅に片岡の遺骨を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は荻窪へ向かった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 94,
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"text": "戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、谷崎潤一郎の『細雪』や、『源氏物語』などが発禁となっていた。多くの文学者が陸軍・海軍の報道班員として徴用され、なかには進んで自由主義的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった。まともに執筆活動ができなくなった川端は、収入が途絶し生活費に困窮するようになったので、やむなく軽井沢に所有していた別荘を売却して生活費に充てている。1944年(昭和19年)暮れにはアメリカ軍爆撃機ボーイングB-29による日本本土空襲も開始され、川端はひとり、裏山で防空壕をノミと金づちで拡幅する作業に没頭し、地区の防空班長や隣組長も引き受けている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "時節柄川端も戦争協力を避けることはできず、1942年(昭和17年)12月の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり(東京新聞 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。この記事のなかで川端が熱意をもって論じたのが、1944年10月に開始された神風特別攻撃隊であり、「英霊の遺文」に以下のような感想を述べている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "同年には「日本文学振興会」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も下記のようにこの賞の目的に沿う決意を書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、新田潤、山岡荘八(新田と山岡は大尉待遇)と共に鹿児島県鹿屋航空基地に赴き、1か月滞在して特別攻撃隊神雷部隊を取材した。川端はそのときの心境を〈沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた〉と戦後に振り返っているが、秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛プロパガンダ記事「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」という記事に桜花や特攻への称賛の談話を寄せている(朝日新聞 1945年6月1日)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている。しかし、短期間で鹿児島を去った川端の印象は、新田、山岡や前から海軍報道班員として従軍していた丹羽文雄と比較すると薄かったようで、同じく鹿児島の特攻隊取材のために、日本映画社カメラマンとして従軍していた山根重視の回想には、丹羽、新田、山岡は登場するが川端だけは登場しない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "川端が鹿児島で特攻の取材をしていた5月1日に、久米正雄、小林秀雄、中山義秀、高見順、大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった。5月末には新田や山岡を置いて一足先に鹿児島から鎌倉へ帰り、8月15日には日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して昭和天皇の玉音放送を聞いた。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った。川端は終戦のときの状況を下記のように記している。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で島木健作の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "また、川端は夫人に、「これからは、日本の教育が大変なことになるよ。占領軍はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、敗戦のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)1月に、木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている。川端は6月、三島の「煙草」を『人間』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『盗賊』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である横光利一に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという。",
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "同年の3月31日には武田麟太郎が死去し(42歳没)、初めて弔辞を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、大佛次郎、岸田国士らと「赤とんぼ会」を結成し、藤田圭雄編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『婦人文庫』に発表。一部がGHQにより削除された。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は山口瞳)の一家がいた。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と日劇や宝塚歌劇を観に行ったり仲が良かった。山口瞳の息子・正介は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "1947年(昭和22年)2月に日本ペンクラブの再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『小説新潮』に発表。約13年間を経て、ようやく『雪国』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"text": "12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった横光利一が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた。この年から川端は、古美術への関心を深め、その後、池大雅・与謝蕪村の『十便十宜』、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』などの名品の数々をコレクションすることになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく〉と、その死を悼んだ。3月には、もう一人の恩人であった菊池寛も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の同性愛の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の命を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の美の伝統のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った。6月には、志賀直哉のあとを引き継ぎ、第4代日本ペンクラブ会長に就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、東京裁判の判決を傍聴した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "1949年(昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた。同月、イタリアのベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和は国境線にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、朝鮮動乱直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「骨拾ひ」を『文藝往来』に発表した。11月には広島市に招かれ、豊島与志雄、青野季吉と3人で原爆被災地を視察した。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)2月、養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・長崎を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている。長崎では、『この子を残して』の著者・永井隆を見舞った。旅の後、川端は京都に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた。そして、焼失したと聞かされていた『凍雲篩雪図』(浦上玉堂の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、スコットランドのエジンバラでの大会に募金のアピールを書き送った。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「舞姫」を『朝日新聞』に連載開始する。この年、鎌倉文庫が倒産した。",
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"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に林芙美子が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日したユーディ・メニューイン訪日公演を三島由紀夫らと観に行った。1952年(昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『婦人公論』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が筑摩書房より刊行され、これにより昭和26年度芸術院賞を受賞した。授賞式で昭和天皇と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて天皇が声をかけたという。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った。10月に大分県の招きで、竹田町(現・竹田市)九重高原を知人の画家・高田力蔵の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『波千鳥』の背景として生かされることとなる。法華院温泉に同宿していた作家志望の熊本の学生から、小説の勉強はどうしたらいいかを訊ねられた川端は、「自分の両親を写生しなさい」と答えたという。",
"title": "生涯"
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"text": "1953年(昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『婦人画報』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に堀辰雄が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、名古屋西川流「名古屋をどり」舞台台本「船遊女」を書き、二世西川鯉三郎の振付で上演された。11月には、永井荷風、小川未明らと共に芸術院会員に選出された。",
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"text": "1954年(昭和29年)3月、新設された新潮社文学賞の審査委員に就任する。4月には、『山の音』の単行本が筑摩書房より刊行され、これにより第7回野間文芸賞を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の短編で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから長編の骨格と主題とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った。",
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"text": "そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ偏執狂の男を主人公にした「みづうみ」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の超現実的な新しい手法と「魔界」が注目された。この実験的作品は、以前の『水晶幻想』や、のちの『眠れる美女』に繋がっていくことになる。5月からは、「東京の人」を『中部日本新聞』などに連載開始した。",
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"text": "1955年(昭和30年)1月から「ある人の生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。同年6月、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八と芳賀檀が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、翌1956年(昭和31年)3月の日本ペンクラブ評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった。",
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"text": "1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。",
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"text": "1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。",
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"text": "1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルト市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られることが決まり、7月に、同市で開催の第30回国際ペンクラブ大会に出席し、メダルを受賞した。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "1960年(昭和35年)1月から「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルのサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた。",
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"text": "1961年(昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業の北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった。11月には第21回文化勲章を受章した。",
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"text": "1962年(昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた。10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹、茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。",
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"text": "1963年(昭和38年)4月に財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという。川端はその後、吉永に手紙を書いたり20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。1964年(昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去し、訃報が相次いだ。6月から「たんぽぽ」を『新潮』に断続的連載を開始する(未完)。同月には、ノルウェーのオスロでの第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。",
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"text": "1965年(昭和40年)4月から1年間、NHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映開始された。7月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『週刊朝日』に発表した。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、芹沢光治良に後をゆずった。11月12日、伊豆湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建立された。この除幕式では、作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟と47年ぶりに再会した。後藤は、蔵前高工(現・東京工大)受験のために下田港から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった。1966年(昭和41年)1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。",
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"paragraph_id": 123,
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"text": "1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。",
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"text": "1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:\"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind.\"」で、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『ほくろの手紙』などであった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)、1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。",
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"text": "翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。",
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"text": "12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休などの和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった。なお、川端はこの頃、『源氏物語』の現代語訳の準備を着々と進めていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 127,
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"text": "1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共に同地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "6月15日から5日間の日程で中華民国を訪問。台北での台湾ペンクラブ主催の「第三回アジア作家会議」に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正煕の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関して「生みの親も知らぬ孤児」「養家は部落の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 131,
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"text": "同月25日昼、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。そのとき細川護立の青山葬儀所での告別式に参列中だった川端は、一報を聞きすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。",
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"paragraph_id": 132,
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"text": "1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島の葬儀・告別式では葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。同月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。",
"title": "生涯"
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"text": "1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田與重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 134,
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"text": "4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。...そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 135,
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"text": "マンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 136,
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"text": "鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位に叙位され、勲一等旭日大綬章を叙勲された。5月27日には、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山葬儀所で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 138,
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"text": "8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 141,
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"text": "1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという。",
"title": "生涯"
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"text": "同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。",
"title": "生涯"
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"text": "1985年(昭和60年)5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。",
"title": "生涯"
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"text": "生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた。",
"title": "生涯"
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"text": "2014年(平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された。",
"title": "生涯"
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"text": "2018年(平成30年)茨木市によって川端康成青春文学賞が創設された。",
"title": "生涯"
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"text": "生誕120年となる2019年には、姫路市立美術館と姫路文学館で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」が開催され、川端が収集した美術品や直筆原稿、書簡など約280点が公開された。",
"title": "生涯"
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"text": "没後50年となる2022年、日本近代文学館では4月2日から6月11日に「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人―」が開催された。編集委員は坂上弘と中島国彦がつとめた。川端康成文学館では5月に特別展が開催された。神奈川近代文学館では10月1日から11月27日に特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」が開催され、約400点の資料が展示された。編集委員は荻野アンナがつとめた。ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画もあった。",
"title": "生涯"
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"text": "川端は、自身の文学創作に関して、〈恋心が何よりの命の綱である〉とし、作品テーマや理想に関するものを語ったものとして、以下のような言葉がある。",
"title": "創作の主題・源流"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "『新思潮』発刊、『文藝春秋』同人参加、横光利一らと共にヨーロッパの前衛文学を取り入れた新しい文学を志した『文藝時代』創刊で新感覚派の代表的作家として頭角を現し、その後は芥川賞銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は日本ペンクラブ会長、1968年(昭和43年)には、日本人で初のノーベル文学賞受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、モノローグ的、和歌に繋がる川端の作品自体は、時代の思想や世相に左右されることのない自身の芸術観に基づいた澄んだ詩的なものとなっている。",
"title": "評価"
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"text": "そのため、政治的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、プロレタリア文学の作家であった中野重治なども、川端の掌の小説を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、林房雄が1926年(大正15年)に左翼運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 153,
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"text": "伊藤整は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、醜の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に復讐せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている。そして、『伊豆の踊子』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「真実を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「批評眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 154,
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"text": "伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『十六歳の日記』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の経典を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「マルクシズムとモダニズムとの対立と交流の中」に批評家として立ちながら、「当時の政治文学と娯楽文学の両方から身をかわし、大正文壇の創った人間性に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "三島由紀夫は、川端が「温かい義侠的な」人でありながらも、過剰な親切や善意の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「達人」「孤独」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その人生は全部「旅」であり、川端を「永遠の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 156,
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"text": "そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「虚無的にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、ギリシャの彫刻家が不安と混沌をおそれて大理石に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無の海の上にただよふ一羽の蝶」のような、あるいは「一条の絹糸のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている。また三島は、近代作家において、「中世文学の秘められた味はひ、その絶望、その終末感、その神秘、そのほのぐらいエロティシズムを、本当にわがものにした」のは、川端一人だけだと高く評価している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 157,
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"text": "中村光夫は、川端文学の特色を、「日本人の心の動きを純粋な形で見つめたもの」とし、それは作品の語り手(作者の分身)と対象(踊子など)の関係性が、能の「ワキ」と「シテ」に似ていて、「シテの多くがワキの夢の所産であり、同時に舞台の支配者である」関係となり、対象が幻でありながらも「自然に似た存在の重味」を得ているとして、そこに川端の文学が、単なる写実の私小説と異なる「現代性」「古典性」を獲得している理由だと解説している。そして中村は、現実に対する川端の態度を、「誠実な自己批評あるいは自己否定の熱情」だとし、その批評や否定の対極に、川端自身(知識階級であり男)に無いものを持つ「女性」(踊子など)、「民衆あるいは日本」があるとしている。",
"title": "評価"
},
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"paragraph_id": 158,
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"text": "また中村は、三島が川端の人生を「旅」に喩えたことに関連し、川端にとって、旅が人生の象徴であるように、「すべての人間関係」(親子夫婦も含めた)が〈ゆきずり〉であるという思想が老年まで根を張り、それをすべての事象に川端が実感していることが『みづうみ』や『眠れる美女』に顕現化しているとし、『みづうみ』では主人公が、〈ゆきずり〉の人を〈ゆきずり〉のままで別れてしまうことを哀惜し、〈この世の果てまで後をつけてゆきたい〉という願望の実現の不可能性を語る場面に触れながら、そこで広い意味での〈ゆきずり〉の関係を示唆する川端が、社会生活での人間の存在形式を見つめていると解説している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 159,
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"text": "勝又浩は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたまトンネルを越えて、まれびととなって人界を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、美人と少年少女と古今東西の第一級の美術(建築もふくめて)と、そして自然です〉と述べていることや、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし、川端が『美しい日本の私―その序説』で、歌人や文人たちよりも仏教者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "川端文学の一つの主題である「生命(いのち)への讃仰」、「処女」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "川嶋至は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のないもの」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 162,
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"text": "川端にとっては、犬も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「地獄」を『禽獣』で見せたことについて以下のように解説している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "羽鳥徹哉は、『夏の靴』の少女、『日本人アンナ』のアンナ、『浅草紅団』の弓子、『雪国』の駒子、『古都』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な運命に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 164,
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"text": "中村光夫は、横光利一が「陽」で、その文学に内在する劇は『機械』に顕著なように「男同志の決闘」である「男性文学」であるのに対して、川端康成は「陰」であり、「女性文学」だとし、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「軟体動物から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている。そして中村は、生田長江が指摘したように、横光が「播種の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 165,
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"text": "三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが、横光は苦闘し、その天性の感受性をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『禽獣』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 166,
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"text": "川端康成の鋭い眼は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれている。泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたなどという、様々なエピソードがある。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 167,
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"text": "気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ、或る若い初心な女性編集者は初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある。川端自身はマイペースで長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に「どうしたんですか」と言ったとされる。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、骨董のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "堀辰雄の夫人・多恵子は「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い、吉行淳之介は「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている。吉行は、川端家を訪れた或る女性が「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "画家の草間彌生は『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "梶井基次郎は湯ヶ島温泉で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴っている。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 172,
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"text": "三島由紀夫も21歳の時に川端の家を初訪問した時の印象を、「氏の目は碁をさす人の目のやうであつた。対局の、一見落着かぬやうでゐて、カンドコロを指す目であつた。それは又剣道の達人の目であつた。うごく刃と共にうごく目であつた。人をみつめる死んだ鋭さではなかつた」とし、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 173,
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"text": "しかし三島は川端と親しくなった以降では、川端が外国人との交遊の場で、西洋人を見つめている様子を「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、子供が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの無垢な好奇心に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或るアメリカ人の大女のおばあさんが、全く文学も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 174,
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"text": "北條誠は川端の眼光について以下のように語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 175,
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"text": "孫の明成が誕生し喜んだ川端は、明成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち明成は怖がって泣いたという。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 176,
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"text": "なお、川端本人も早くから自分の癖を自覚し、中学時代の日記には自身の容姿へのコンプレックスを吐露すると共に、〈俺ほど人の美貌をまんじりとせず見つめる者はあるまい。そしてのろひうらやみ抱擁せんと常に思ふのである〉とし、自伝小説では〈人の顔をじろじろと見る私の癖は盲と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉とも語っているが、この癖について進藤純孝は川端が幼い時の眼底結核の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 177,
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"text": "上記のように川端康成は、無口と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い。また、訪問客が絶えず、新年会も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな久米正雄が「君は全く孤独だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、三島由紀夫はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 178,
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"text": "三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、清水次郎長のような人であるが、その行為はちっとも偽善的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の総理大臣」と呼ばれたこともあるという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "室生犀星は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家運は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 180,
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"text": "川端は、前衛画家・古賀春江と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた高田力蔵を助けて、その面倒を見ていた。また、藤田圭雄によると、野上彰が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『ラング世界童話全集』の印税は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 181,
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"text": "舟橋聖一は、青野季吉が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 182,
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"text": "川端は1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員として、大日本帝国海軍の特攻基地であった鹿屋基地の取材を行っている。志賀は、大本営海軍報道部高戸顕隆海軍主計大尉からの依頼を受けた雑誌「台湾公論」の元編集長吉川誠一軍属から、横光利一と川端のいずれが、特攻作戦の取材で「日本の心を正確に誤りなく時代に語りつぐこと」ができるか?と問われ、「横光さんは大きくか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と川端を推薦したという。吉川は1945年4月10日に川端宅を訪れて、防空壕掘削作業中の川端に海軍報道班員の引き受けを打診したところ、川端は「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押したうえで応諾した。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 183,
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"text": "報道班員にはほかに新田潤、山岡荘八が選ばれ、4月23日に3人は海軍省に呼び出されたが、新田と山岡が大きな陸軍靴を履いていたのに対して、川端は痛々しく痩せた身体に子供靴のような真っ赤な靴を履いていた。その靴は川端によれば徳田秋声の遺品ということであったが、戦時中の物資不足の折に山岡には羨ましく感じたという。川端ら3人は鹿屋に出発前に大本営報道部の高戸大尉から、「海軍報道班員は、戦地に赴き、その勇壮なる戦いぶりを書いて国民の志気を高揚させるにある」「ただし、みなさんはこの戦いをよく見て下さい。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か三十年たってでも、あるいは五十年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい」と伝えられた。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 184,
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"text": "鹿屋で川端らは水交社に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが、3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず空襲もあり、そのたび山の中の防空壕に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "川端らが取材していた時期に、鹿屋で特攻出撃のために待機していた中央大学法学部出身の谷田部海軍航空隊杉山幸照予備少尉によれば、川端は杉山ら学徒出陣で予備士官となった大学出身の特攻隊員と食堂などでよく文学談義に花を咲かせたり、隊員からお菓子をもらったりと懇意にしていた。このときの川端は予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せており、書物を渇望する学徒の予備士官のために、鎌倉文庫から本を30-40冊鹿屋に送るよう妻秀子に頼むなどの気配りを見せる一方で、沖縄戦で特攻作戦を指揮していた第五航空艦隊の上層部と話すときには、笑いながら特攻を賛美するような話をしていたので、杉山はその上下で態度を変える川端に対して「彼(川端)ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快くは感じていなかった」と痛烈に批判し、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。また、川端は神国日本を信じて、やがて神風が連合軍艦隊を全滅させる、という過去の歴史の繰り返しを期待する“幼稚”な思想を特攻隊員らと共有していたと杉山は回想している。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 186,
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"text": "川端は当時の心境を「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と回想し、川端に特攻の記事は書かなくてもいいと伝えた大本営参謀の高戸は戦後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と考えていたが、川端はこの取材により、朝日新聞の特攻兵器桜花についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、下記のような称賛の談話を寄せている。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月末には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から茨城県筑波郡谷田部町の本隊への帰還を命じられたときに、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る零式輸送機に同乗することができた。途中、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂でライスカレーを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした作品『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である。",
"title": "人物像・エピソード"
},
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"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日にはNHKが全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている。結局、山岡は神雷部隊が松山基地や宮崎県日向市にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の岡村基春大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した野中五郎大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった、当時では貴重品ばかりの大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いている。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 190,
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"text": "敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる。そして鹿屋での体験を基にして作品『生命の樹』を書き上げたが、一部分がGHQにより削除されたという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 191,
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"text": "洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に「この酒の風味こそ京都の味」と作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫(京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと桑原は回想している。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 192,
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"text": "川端は食がほそかったが、その分味への拘りは強く、かなりの美食家であった。川端が馴染みとしていた飲食店は数多いが、なかでも鎌倉の自宅の近くにあったうなぎ料理の名店「つるや」にはかなりの頻度で訪れており、晩年には出前を頼んでいたほどであった。東京にも馴染みの店があり、銀座のみゆき通りにあった洋食屋「銀座キャンドル」にもよく通っていたという。この店のメニュー「チキンバスケット」を特に好み、三島由紀夫と来店することもあった。",
"title": "人物像・エピソード"
},
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"paragraph_id": 193,
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"text": "日本国有鉄道(国鉄)が1970年(昭和45年)から始めたディスカバー・ジャパンのキャンペーンにおいて、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自らポスター用に揮毫したという。",
"title": "人物像・エピソード"
},
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"paragraph_id": 194,
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"text": "1971年(昭和46年)6月に、日立のセントラルヒーティングのテレビコマーシャルに出演して、世間を驚かせたという。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された。その5分ほどの映像には、詩人のサトウハチローによる川端についての詩の朗読がつけられている。サトウの次男の佐藤四郎は発見時の取材に「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と述べている。",
"title": "人物像・エピソード"
},
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"paragraph_id": 195,
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"text": "1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に突然と起き上がって扉を開け、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち早々と逃げ帰ったという。その話を聞いた今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 196,
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"text": "川端は、古美術蒐集家として知られているが、小学校の時には画家になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも書を嗜み、日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の掛軸をはじめ、いくつもの書を遺している。蒐集は古美術だけでなく、古賀春江、キスリング、石本正、梅原龍三郎、熊谷守一、無名の新人画家だった草間彌生の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている。また、夏目漱石の五言絶句、北原白秋の自作歌、田山花袋の七絶詩、武者小路実篤の自作絵画、芥川龍之介の書簡(室生犀星宛て)、友人だった横光利一の書など、作家の直筆物も収集していた。書や絵には人格や魂がこもると考えていた川端は美術品について以下のように語っている。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
},
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"paragraph_id": 197,
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"text": "川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、ロダンの小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思ひ出した〉と語り、横光が亡くなる何日か前の手を想起しながら、〈ひどく衰へて寝てゐた横光氏は手で思考と表現とを助けようとするかのやうであつた〉と説明している。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
},
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"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで胆石で入院していた際には、病院から初めて外出したクリスマス・イブの日に古美術店へ行き、〈聖徳太子は日本のキリストではないか、使徒ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像、太子2歳像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "中国磁器の汝州の『汝官窯青磁盤』を川端が手に入れた時の次のような挿話がある。この青磁盤は古美術商・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから高麗青磁だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したもので、繭山龍泉堂の人も汝官窯青磁の実物はむろん見たことがなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3点しかないものだと確認された。ところが川端はその後、『埴輪 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
},
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"paragraph_id": 200,
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"text": "浦上玉堂の代表作『東雲篩雪図』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた。それ以前に入手した与謝蕪村・池大雅の合作『十便十宜』と共に、川端入手後に国宝に指定された逸品である。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
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"paragraph_id": 201,
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"text": "愛用品の時計には、ウォルサムがあり、「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
},
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"paragraph_id": 202,
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"text": "鎌倉に来てから買い求めた鎌倉彫の赤い机を書斎に置いていた。鎌倉彫の老舗寸松堂の初代佐藤宗岳が大正末期から昭和初期ごろに作ったものとされ、脚部に菊文様が彫られている。この机は鎌倉文学館に所蔵されている。",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
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"text": "川端の旧蔵品",
"title": "美術コレクション・愛用品など"
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"text": "死亡当時、死因は自殺と報じられ、それがほぼ既定となっている。その一方で、遺書がなかったことや、死亡前後の状況から事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。",
"title": "死因について"
},
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"paragraph_id": 205,
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"text": "各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。",
"title": "家系・親族"
},
{
"paragraph_id": 206,
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"text": "鎌倉幕府第2代執権・北条義時(鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正室・北条政子の弟)、第3代執権・北条泰時の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・川端舎人助道政が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である。",
"title": "家系・親族"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "※ 1印は自作詩文集「第一谷堂集」内。2印は自作作文集「第二谷堂集」内。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "※太字は中編・長編。○印は掌編(掌の小説)。★印は自伝的作品。△印は全集未収録作品。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "※()内は執筆日",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "※ 評論・随筆類は数が膨大なため、各参考文献内の作品年表、経歴内などで言及されている作品を中心に記載",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 211,
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"text": "※刊行年月は初版のみ記載。",
"title": "著作本一覧"
}
] | 川端 康成は、日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階・勲等は正三位・勲一等。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。 代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。 ノーベル文学賞をはじめ、多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった。 | {{Infobox 作家
| name = 川端 康成<br />(かわばた やすなり)
| image = Yasunari Kawabata 1938.jpg
| image_size = 200px
| caption = [[1938年]]、39歳頃の川端康成<br />([[鎌倉市|鎌倉]][[二階堂 (鎌倉市)|二階堂]]の自宅窓辺にて)
| pseudonym =
| birth_name =
| birth_date = [[1899年]][[6月14日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]1丁目16-12)<br>育ちは[[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・[[茨木市]]宿久庄1丁目11-25)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1899|6|14|1972|4|16}}
| death_place = {{JPN}}・[[神奈川県]][[逗子市]][[小坪]]<br>[[逗子マリーナ]]
| resting_place = 鎌倉霊園(鎌倉市[[十二所 (鎌倉市)|十二所]])
| occupation = [[小説家]]・[[文芸評論家]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN}}
| education = [[文学士]]([[東京大学|東京帝国大学]]・1924年)
| alma_mater = [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学国文学科]]卒業
| period = [[1919年]] - [[1972年]]
| genre = [[小説]]・[[文芸評論]]
| subject = [[無垢]]な[[生命]]への讃仰、[[抒情]]、[[魔界]]<br />自他一如、万物一如、[[アニミズム]]<br />生と[[死]]の流転、[[幽玄]]、[[心霊主義|心霊]]<br />[[日本]]の[[美]]の伝統、[[もののあはれ]]
| movement = [[新感覚派]]・新興芸術派
| notable_works = 『[[伊豆の踊子]]』(1926年)<br />『[[浅草紅団]]』(1929年 - 1930年)<br />『[[水晶幻想]]』(1931年)<br />『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』(1932年)<br />『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(1933年)<br />『[[雪国 (小説)|雪国]]』(1935年 - 1948年)<br />『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(1949年 - 1952年)<br />『[[山の音]]』(1949年 - 1954年)<br />『[[眠れる美女]]』(1960年 - 1961年)<br />『[[古都 (小説)|古都]]』(1961年 - 1962年)
| awards = 文芸懇話会賞(1937年)<br />[[菊池寛賞]](1944年・1958年)<br />[[日本芸術院賞]](1952年)<br />[[野間文芸賞]](1954年)<br />[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]・メダル(1959年){{refnest|group="注釈"|ゲーテ・メダル([[:de:Goethe-Medaille (Begriffsklärung)|Goethe-Medaille]]/[[:de:Goethe-Plakette|Goethe-Plakette]])は様々な団体のものがある。川端に贈られたのは[[ゲーテの盾 (フランクフルト・アム・マイン市)|フランクフルト・アム・マイン市のゲーテ・メダル]]。また「[[:de:Plakette|Plakette]]」とは、メダルというよりは小さなバッジである。}}<br />[[芸術文化勲章]](1960年)<br />[[文化勲章]](1961年)<br />[[毎日出版文化賞]](1962年)<br />[[ノーベル文学賞]](1968年)<br />贈[[正三位]]・[[勲一等旭日大綬章]](1972年、没時叙位叙勲)
| debut_works =『ちよ』(1919年)<br />『招魂祭一景』(1921年)<br />『[[十六歳の日記]]』(1925年、執筆1914年)
| spouse = [[川端秀子|秀子]]
| partner =
| children = 政子([[養女]])、[[川端香男里|香男里]]([[婿養子]])
| relations = 三八郎(祖父)、カネ(祖母)<br />栄吉(父)、ゲン(母)<br />芳子(姉)、恒太郎(伯父)<br />あかり、明成(孫)<br />黒田秀太郎、秀孝(伯父、従兄)<br />田中ソノ、岩太郎(伯母、従兄)<br />秋岡タニ、義愛(叔母、従兄)
| influences = [[武者小路実篤]]、[[江馬修]]<br />[[谷崎潤一郎]]、[[徳田秋声]]<br />堀越亨生、[[長田幹彦]]、[[吉井勇]]<br />[[押川春浪]]、[[野上彌生子]]<br />[[内藤千代子]]、[[有本芳水]]<br />[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]<br />[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]、アルチバーセフ<br />[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]<br />[[カミーユ・フラマリオン]]<br />[[オリバー・ロッジ]]、[[一休宗純]]<br />[[源氏物語]]、[[枕草子]]、[[日本の中世文学史|中世文学]]<br />[[禅]]、[[汎神論]]、[[松尾芭蕉]]、[[西行法師]]
| influenced = [[藤沢桓夫]]、[[北條民雄]]<br />[[岡本かの子]]、[[中里恒子]]<br />[[梶井基次郎]]、[[福永武彦]]<br />[[野上彰 (文学者)|野上彰]]、[[澤野久雄]]<br />[[石濱恒夫]]、[[三島由紀夫]]<br />[[星新一]]、[[筒井康隆]]<br />[[松本清張]]、[[吉本ばなな]]<br />[[小川洋子]]、[[石田衣良]]<br />[[大道珠貴]]、[[田中慎弥]]<br />[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]
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{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1968年|ノーベル文学賞|日本人の心の[[エッセンス|精髄]]を、すぐれた[[感受性]]をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため}}
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'''川端 康成'''(かわばた やすなり、[[1899年]]〈[[明治]]32年〉[[6月14日]] - [[1972年]]〈[[昭和]]47年〉[[4月16日]])は、[[日本]]の[[小説家]]・[[文芸評論家]]。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。[[1968年]]に日本人初の[[ノーベル文学賞]]を受賞した。[[位階]]・[[勲等]]は[[正三位]]・[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。[[大正]]から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。
代表作は、『[[伊豆の踊子]]』『[[浅草紅団]]』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』『[[雪国 (小説)|雪国]]』『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』『[[山の音]]』『[[眠れる美女]]』『[[古都 (小説)|古都]]』など<ref name="keen-g4-20">「二〇 川端康成」({{Harvnb|キーン現代4|2012|pp=192-283}})</ref>。
ノーベル文学賞をはじめ、多くの名誉ある文学賞を受賞し、[[日本ペンクラブ]]や[[国際ペンクラブ]]大会で尽力したが、多忙の中、[[1972年]](昭和47年)4月16日夜、72歳で[[ガス燃料|ガス]][[自殺]]した。なお、[[遺書]]はなかった<ref name="album6">「『美しい日本の私』――ノーベル賞受賞」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=86-96}})</ref><ref name="shindo38">「第三部第八章 末期」({{Harvnb|進藤|1976|pp=500-517}})</ref>。
== 概略・作風 ==
[[大阪府]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]][[国文学科]]卒業。大学時代に[[菊池寛]]に認められ[[文芸評論|文芸時評]]などで頭角を現した後、[[横光利一]]らと共に同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。[[西ヨーロッパ|西欧]]の[[アバンギャルド|前衛]]文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「[[新感覚派]]」の作家として注目され、[[詩]]的、[[抒情]]的作品、[[浅草]]物、[[心霊主義|心霊]]・[[神秘]]的作品、[[少女小説]]など様々な手法や作風の変遷を見せて「[[奇術師]]」の異名を持った<ref name="jiten-m">[[原善]]「川端康成」({{Harvnb|三島事典|2000|pp=477-479}})</ref>。
その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、[[連歌]]と前衛が融合した作品など、伝統美、[[魔界]]、[[幽玄]]、妖美な世界観を確立させ<ref name="jiten-m"/><ref name="harazen">{{Harvnb|原善|1987}}</ref>、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた<ref name="taiyohatori">[[羽鳥徹哉]]「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」({{Harvnb|太陽|2009|pp=2-3}})</ref><ref name="bini10">羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」({{Harvnb|太陽|2009|pp=7-42}})</ref>。日本人として初の[[ノーベル文学賞]]も受賞し、受賞講演で日本人の[[死生観]]や[[美意識]]を世界に紹介した<ref name="okubo">{{Harvnb|大久保|2003}}</ref>。
初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている<ref name="kawashi3">「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=65-111}})</ref><ref name="hasegawa">{{Harvnb|論考|1991}}</ref><ref name="kitei">{{Harvnb|基底|1979}}</ref>。
川端は新人発掘の名人としても知られ、[[ハンセン病]]の青年・[[北條民雄]]の作品を世に送り出し、[[佐左木俊郎]]、[[武田麟太郎]]、[[藤沢桓夫]]、少年少女の文章、[[山川彌千枝]]、[[豊田正子]]、[[岡本かの子]]、[[中里恒子]]、[[三島由紀夫]]などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる<ref name="album2">「新感覚――『文芸時代』の出発」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=18-31}})</ref><ref name="itaga14">「第一編 評伝・川端康成――非情」({{Harvnb|板垣|2016|pp=73-96}})</ref><ref name="shindo25">「第二部第五章 新人才華」({{Harvnb|進藤|1976|pp=281-295}})</ref>。また、その鋭い審美眼で数々の[[茶器]]や[[陶器]]、[[仏像]]や[[埴輪]]、[[俳画]]や[[日本画]]などの古美術品の[[蒐集家]]としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い<ref name="taiyo">{{Harvnb|太陽|2009}}</ref>。
<small>※以下、川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉で括っています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small>
== 生涯 ==
=== 生い立ち――両親との死別 ===
[[ファイル:Kawabata Yasunari Osaka01-r.jpg|thumb|160px|川端康成生誕地(撮影2011年)]]
[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]1丁目16-12)に、[[医師]]の父・[[川端栄吉]](当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生<ref name="sasagawa">[[笹川隆平]]『茨木の名誉市民 川端康成氏と豊川―その幼少期と手紙―』(私家版、1970年4月)。「川端康成氏の生誕地について」(国文学 1971年7月号)。『川端康成〈その人・その故郷〉』(婦人と暮しの会出版局編、1974年4月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=45ff}}、{{Harvnb|進藤|1976|pp=24ff}}。笹川隆平『川端康成――大阪茨木時代と青春書簡集』(和泉書院、1991年9月)</ref><ref name="kiteikoji">「孤児根性について」([[愛知教育大学]]研究報告1969年2月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=141-162}}に所収</ref><ref name="kawanishi">[[川西政明]]「解説」({{Harvnb|随筆集|2013|pp=465-481}})</ref>(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた<ref name="hasegawa2">「川端康成集注釈」「川端康成年譜」「注釈者あとがき」({{Harvnb|文学大系|1990}})</ref><ref name="taiyonenpu">[[森晴雄]]「川端康成 略年譜」({{Harvnb|太陽|2009|pp=161-165}})</ref><ref name="koyano1">{{Harvnb|小谷野|2013|p=40}}</ref>)。7か月の[[早産]]だった<ref name="sobo">「祖母」(若草 1925年9月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説2|1980|pp= 437-444}}に所収</ref><ref name="omoidasu">「思ひ出すともなく」([[毎日新聞]] 1969年4月23日号)、『写真集 川端康成〈その人と芸術〉』([[毎日新聞社]]、1969年8月)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=373-378}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=239-245}}に所収</ref>。4歳上には姉・芳子がいた<ref name="fuboeno3">「父母への手紙(続)」(「父母への手紙」第三信)(若草 1932年9月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}に所収</ref>。父・栄吉は、東京の医学校[[済生学舎]](現・[[日本医科大学]]の前身)を卒業し、[[天王寺]]村桃山(現・大阪市[[天王寺区]][[筆ケ崎町]])の桃山避病院などの[[勤務医]]を経た後、自宅で[[開業医]]をしていたが、[[肺]]を病んでおり虚弱であった<ref name="sasagawa"/><ref name="fuboeno5">「あるかなきかに」(「父母への手紙」第五信)([[文藝]] 1934年1月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}に所収</ref>。また、栄吉は浪華の[[儒家]]寺西易堂で[[漢学]]や[[書画]]を学び、「谷堂」と号して[[漢詩]]文や[[文人画]]をたしなむ多趣味の人でもあった<ref name="shounen">「少年」([[人間 (雑誌)|人間]] 1948年5月号-1949年3月号)。{{Harvnb|小説10|1980|pp=141-256}}に所収。{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に第5、6、7、9回分掲載。{{Harvnb|林武|1976|pp=55-96}}に抜粋掲載</ref>。蔵書には、ドイツ語の小説や[[近松門左衛門|近松]]、[[井原西鶴|西鶴]]などの本もあった<ref name="furusato">「私のふるさと」([[週刊サンケイ]] 1963年7月15日号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=187-189}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=288-290}}に所収</ref><ref name="gendai">[[中野好夫]]「作家に聞く――川端康成」(文學 1953年3月号)。中野好夫「川端康成」(『現代の作家』岩波新書、1955年9月)。{{Harvnb|評論5|1982|pp= 549-564}}に所収</ref><ref name="itaga11">「第一編 評伝・川端康成――孤児」({{Harvnb|板垣|2016|pp=7-26}})</ref>。
しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる[[1901年]](明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府[[西成郡]][[豊里村 (大阪府)|豊里村]]大字天王寺庄182番地(現・大阪市[[東淀川区]][[大道南]])に夫婦で転居し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に[[結核]]で死去した(32歳没)<ref name="sasagawa"/><ref name="kawanishi"/><ref name="tomie">川端富枝『若き日の川端康成氏と川端家』(私家版、1972年8月)。『ノーベル賞受賞の川端康成氏と川端家』(私家版、1971年4月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=35ff}}、{{Harvnb|進藤|1976|pp=11ff}}。川端富枝『川端康成とふるさと 宿久庄』(私家版、1990年4月)</ref>。栄吉は瀕死の床で、「'''要耐忍 為康成書'''」という[[書道|書]]を遺し、芳子のために「'''貞節'''」、康成のために「'''保身'''」と記した<ref name="fuboeno5"/>{{refnest|group="注釈"|この「保身」という文字は川端の生活信条となり、日記の随所に出てくる<ref name="kiteikoji"/><ref name="hasegawa2"/>。}}。
2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字三番745番地(現・大阪市東淀川区[[豊里 (大阪市)|豊里]]6丁目2-25)にあり、代々、「'''黒善'''」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家([[資産家]])で、広壮な家を構える大[[地主]]であった<ref name="tomie"/><ref name="kiteishinseki">「川端家の親戚たち―康成の階層的基盤―」(文學1976年3月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=113-140}}に所収</ref><ref name="nenpu">「年譜」({{Harvnb|作家の自伝|1994|pp=311-317}})</ref>。ところが、ゲンも翌[[1902年]](明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府[[茨木市]]大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った<ref name="sasagawa"/><ref name="koen">「故園」(文藝 1943年5月号-1945年1月号)。{{Harvnb|小説23|1981|pp=473-544}}に所収。{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に「一」から「五」まで掲載。{{Harvnb|基底|1979}}、[[田中保隆]]「故園」({{Harvnb|作品研究|1969|pp=189-204}})に抜粋掲載</ref><ref name="zenshu35nenpu">川端香男里「年譜」({{Harvnb|雑纂2|1983|pp=467-493}})</ref><ref name="kiteifurusato">「川端康成、その故郷」([[新潟大学]] 新大国語1975年3月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=21-34}}に所収</ref>。
[[ファイル:Kawabatatei.JPG|thumb|160px|宿久庄の川端康成旧居跡(撮影2008年)]]
宿久庄の川端家は、[[豪族]]や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の[[庄屋]]で大[[地主]]であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で[[財産]]の大半は人手に渡っていた<ref name="fuboeno3"/><ref name="juroku">「十六歳の日記」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1925年8月-9月号)。{{Harvnb|踊子・集英|1993|pp=65-100}}、{{Harvnb|小説2|1980|pp=7-44}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った<ref name="sasagawa"/><ref name="kiteisofu">「川端康成と祖父三八郎」(国語と国文学 1975年11月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=62-84}}に所収</ref>。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府[[東成郡]][[鯰江町|鯰江村]]大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]][[蒲生 (大阪市)|蒲生]])の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった<ref name="fuboeno3"/>。タニの夫・[[秋岡義一]]は当時[[衆議院議員]]をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした<ref name="shounen"/><ref name="kiteisofu"/>。
川端の家系は[[北条泰時]]から700年続き<ref name="juroku"/>、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の[[祖先]]である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)<ref name="tomie"/><ref name="keizu">[[川嶋至]]「資料断片・川端康成の系図」(位置 1963年10月号)。{{Harvnb|板垣|2016|p=11}}</ref><ref name="kiteikakei">「川端康成、家柄と家系意識」(愛知教育大学 国語国文学報1974年12月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=35-61}}に所収</ref>。道政は、宿久庄にある如意寺(現・[[慧光院 (茨木市)|慧光院]]の前身)の[[坊官]]で、同寺は明治期まで川端家の名義であった<ref name="tomie"/><ref name="juroku"/>。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる<ref name="keizu"/><ref name="jijoden">「文学的自叙伝」([[新潮]] 1934年5月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=84-99}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=246-264}}に所収</ref>。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身([[伯母]]と[[姪]]の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった<ref name="koen"/>。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に<ref name="fuboeno5"/><ref name="fuboeno1">「父母への手紙」(第一信)(若草 1932年1月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる<ref name="harazen"/><ref name="itaga11"/>。
=== 「寂寥の家」の神童 ===
幼い頃の康成には一種の[[予知]]能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、[[天気予報]]ができたりと小さな[[予言]]をし、便利がられ<ref name="koen"/><ref name="andon">「行燈――落花流水」(風景 1964年2月号)。『落花流水』(新潮社、1966年5月)に所収。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=213-215}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=114-118}}に所収</ref>、「[[神童]]」と呼ばれることもあった<ref>「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」([[中央公論]] 1932年2月号)。{{Harvnb|小説3|1980|pp=471-500}}、{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=105-142}}、{{Harvnb|水晶幻想|1992|pp=133-168}}に所収</ref>。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈[[真綿]]にくるむやう〉に育てられていた<ref name="sobo"/><ref name="koen"/><ref name="abura">「油」([[新思潮]] 第4号・1921年7月号。婦人之友 1925年10月号に再掲載)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=61-70}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=360-369}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。
[[1906年]](明治39年)4月、三島郡豊川[[尋常高等小学校]](現・[[茨木市立豊川小学校]])に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた<ref name="omoidasu"/><ref name="koen"/><ref name="andon"/>。
{{Quotation|人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では[[雨戸]]をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。|川端康成「行燈――落花流水」<ref name="andon"/>}}
康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)<ref>川嶋至「川端康成伝の問題点」({{Harvnb|作品研究|1969|pp=448-467}})</ref>、しばらくは近所の[[百姓]]女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた<ref name="zenshu35nenpu"/>。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、[[作文]]が得意で群を抜いていたという<ref name="tomie"/>。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと[[醤油]]をふくませた[[鰹節|かつを節]]を入れて巻いた、からい[[海苔巻]]〉を食べさせてもらいながら、〈[[いろは順|いろは]]〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい[[読み書き]]はできた〉と川端は当時を述懐している<ref name="omoidasu"/><ref name="andon"/>。なお、[[笹川良一]]とは小学の同級生であった<ref name="ryoichi">[[笹川良一]]『人類みな兄弟』(講談社、1985年8月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=53-54}}</ref><ref name="dokuhonnenpu">羽鳥徹哉「川端康成年譜」({{Harvnb|文芸読本|1984|pp=248-255}})</ref>。祖父同士が[[囲碁]]仲間で<ref name="ryoichi"/>、笹川の父・鶴吉も、[[易学]]に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという<ref name="sasagawa"/><ref name="tomie"/><ref name="kiteisofu"/>。
しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌[[1909年]](明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した<ref name="zenshu35nenpu"/>。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという<ref name="fuboeno3"/>。熱病に倒れた芳子の[[危篤]]を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を[[易]]で占った。10歳の康成は姉の[[訃報]]をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた<ref name="soushiki">「会葬の名人」〈のち「葬式の名人」〉(文藝春秋 1923年5月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=71-82}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ<ref name="juroku"/>。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった<ref name="koen"/>。
小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「[[甲]]」であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。康成は[[絵]]が得意であったため、[[文人画]]をたしなんでいた祖父の勧めで[[画家]]になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の[[図書館]]の本は一冊もらさず読んでしまった<ref name="gendai"/>。康成は毎日のように庭の[[モッコク|木斛]]の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み<ref name="fuboeno4">「父母への手紙(続)」(「父母への手紙」第四信)(若草 1933年9月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}に所収</ref>、[[講談]]や戦記物、史伝をはじめ、[[立川文庫]]の[[冒険小説]]家・[[押川春浪]]に親しんだ<ref name="omoidasu"/><ref name="gendai"/>。
=== 作家志望と「孤児の感情」 ===
[[ファイル:Yasunari Kawabata 1912.jpg|thumb|180px|茨木中学校入学(1912年)]]
[[1912年]](明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許[[保証人]]として、4月に大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])に[[首席]]で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で[[体育|体操]]や[[学校教練|教練]]に厳しく、[[マラソン]]も盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳[[プール]]が作られ、[[オリンピック選手]]も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ[[地下足袋]]が許されていた<ref name="koen"/>。康成は学校まで約一[[里 (尺貫法)|里]]半(約6[[キロメートル]])の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった<ref name="album1">「『内に深く泉を胸に探る』少年」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=2-17}})</ref>。
しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった<ref name="fuboeno5"/><ref name="koen"/><ref name="andon"/>。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている<ref name="shounen"/><ref>「春夜友を訪ふ」(大正3年3月3日付)。『少年』内に掲載</ref>。
康成は中学2年頃から[[作家]]になることを志し、『[[新潮]]』『[[新小説]]』『[[文章世界]]』『[[中央公論]]』など[[文芸雑誌]]を読み始めた<ref name="gendai"/>。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった<ref name="shounen"/>。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の[[借金]]には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している<ref name="atogaki1">「あとがき」(『川端康成全集第1巻 [[伊豆の踊子]]』新潮社、1948年5月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=13-31}}に所収</ref>。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは[[汁物]]と[[梅干]]ばかりであった<ref name="shounen"/>。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり[[宿題]]の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる<ref>[[郡恵一]]『康成と壮一と』([[サンケイ新聞]]生活情報センター、1982年4月)p.25</ref>。
中学3年となった[[1914年]](大正3年)5月25日未明(午前2時)、[[寝たきり]]となっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は[[家相]]学や[[漢方薬]]の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった<ref name="juroku"/>。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『[[十六歳の日記]]』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、[[白内障]]で[[盲目]]となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている<ref name="fuboeno2">「後姿」(「父母への手紙」第二信)([[文藝時代]] 1932年4月号)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説5|1980|pp=181-232}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="hinata">「日向」(文藝春秋 1923年11月号)。{{Harvnb|小説1|1981|pp=23-25}}、{{Harvnb|掌の小説|2011|pp=27-30}}に所収</ref>。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、[[孤児]]となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした<ref name="soushiki"/>。祖父の[[遺骨|骨揚げ]]の日のことを康成は、以下のように綴っている<ref name="honehiroi">「骨拾ひ」(1916年執筆。文藝往来 1949年10月号)。{{Harvnb|小説1|1981|pp=11-15}}、{{Harvnb|掌の小説|2011|pp=11-17}}に所収</ref>。
{{Quotation|お祖父さんの[[生命|生]]――[[死]]。私は[[撥]]をかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからと[[骨]]が鳴る。小さい方の[[骨壺]]を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、[[同情]]のうちにも、[[好奇心]]をまじへてゐるやうに思はれる。|川端康成「骨拾ひ」<ref name="honehiroi"/>}}
川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている<ref name="soushiki"/>。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、[[下宿人]]根性、被恩恵者根性〉が強まった<ref name="kiteikoji"/><ref name="atogaki4">「あとがき」(『川端康成全集第4巻 抒情歌』新潮社、1948年12月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=75-100}}に所収</ref><ref name="daikoku">「大黒像と駕籠」(文藝春秋 1926年9月号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=141-162}}に所収</ref>。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい[[秘密]]のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目[[合掌]]しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている<ref name="omoidasu"/>。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている<ref name="ichiryu">「一流の人物」(文藝春秋 1926年7月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=103-106}}に所収</ref>。
{{Quotation|私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の[[血統]]が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。|川端康成「一流の人物」<ref name="ichiryu"/>}}
両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「[[霊魂]]」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた<ref name="hato2">羽鳥徹哉「作家案内――川端康成」({{Harvnb|水晶幻想|1992|pp=298-312}})</ref>。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ<ref name="hato2"/><ref>「春を見る近眼鏡」([[週刊朝日]] 1926年4月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=325-340}}に所収</ref>。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる[[母性|母親的]]な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる<ref name="harazen"/><ref name="hato2"/>。
8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]から[[茨木駅]]間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から[[寄宿舎]]に行くことになった<ref name="atogaki1"/><ref name="nikki191524">「當用日記」(大正4年2月4日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|p=130}}に所収</ref>。
=== 初めての恋慕・小説家への野心 ===
[[1915年]](大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り<ref name="nikki191524"/><ref>「當用日記」(大正4年3月1日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=141-142}}に所収</ref>、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、[[美男子]]であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた<ref name="fuboeno5"/><ref name="abura"/>。2級下の下級生には[[大宅壮一]]や[[小方庸正]]が在学していた<ref name="jijoden"/>。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『[[中学世界]]』や『[[少年世界]]』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという<ref name="jijoden"/>。康成は、[[武者小路実篤]]などの[[白樺派]]や、[[上司小剣]]、[[江馬修]]、[[堀越亨生]]、[[谷崎潤一郎]]、[[野上彌生子]]、[[徳田秋声]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]、『[[源氏物語]]』、『[[枕草子]]』などに親しみ<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki1"/><ref name="bunshou">「文章雑感」〈のち「文章について」と改題〉(『日本文学講座』岩波書店版 付録「文學」第10号・1932年3月号。芸術科 1933年7月号に再掲載)。{{Harvnb|評論4|1982|pp=98-103}}に所収</ref>、[[長田幹彦]]の描く[[祇園]]や[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の[[花街|花柳]]文学にかぶれ、時々、一人で[[京都]]へ行き、夜遅くまで散策することもあった<ref name="jijoden"/>。
同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを[[活字]]にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに[[短歌]]を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や[[絶望]]を感じた<ref name="atogaki1"/>。この頃の日記には、〈[[英語]]ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など[[外国語]]で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でも[[ノーベル賞|ノベル賞]]を思はぬまでもない〉と強い決意を記している<ref>「當用日記」(大正5年1月20日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=286-287}}に所収。{{Harvnb|太陽|2009|p=45}}</ref>。
意を決し、[[1916年]](大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった<ref name="atogaki1"/>。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に[[無垢]]な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの[[同性愛]]的な恋慕を抱き([[肉体関係 (隠語)|肉体関係]]はない)<ref name="shounen"/><ref name="hayashi">「『伊豆の踊子』成立考」({{Harvnb|林武|1976|pp=55-96}}</ref>、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている<ref>「當用日記」(大正5年4月11日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=319-320}}に所収</ref>。
川端は、〈受験生時分にはまだ[[少女]]よりも[[少年]]に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している<ref name="shounen"/>。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも[[文通]]し、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]と[[東京大学|帝国大学]]入学後も小笠原の実家を訪ねている<ref name="shounen"/>。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)<ref name="shounen"/>{{refnest|group="注釈"|小笠原義人の実家は[[京都府]][[京都市]][[下京区]]上嵯峨村(現・[[右京区]][[嵯峨野]])で、一家は[[大本教]]の[[信者]]であった<ref name="shounen"/><ref name="yugashima">「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)。『少年』内の引用記載作品。</ref>。小笠原義人は1900年(明治33年)11月11日生れ。五男三女の3番目で長男。祖父・弥太郎義信は[[紀伊藩]]士(高天神小笠原家<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』</ref>)。大祖は[[清和源氏]][[源義家]]の弟・[[源義光|新羅三郎義光]]で、[[小笠原氏|小笠原家]]の鼻祖は、[[小笠原長清|長清]]であるという<ref name="hayashi"/>。義人の父・義之は紀伊藩士・森儀三郎の二男で、義信の養子。母・ヒサは[[加賀藩]]士・御納戸役の飯森薫の長女である<ref name="hayashi"/>。}}。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた<ref name="yugashima"/>。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている<ref name="atogaki1"/>。
{{Quotation|私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。|川端康成「独影自命」<ref name="atogaki1"/>}}
この年の9月には、康成と同じ歳の[[中条百合子]]が[[坪内逍遥]]の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央[[文壇]]との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった<ref name="atogaki1"/><ref name="itaga12"/>。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の[[従兄]]・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『[[三田文学]]』の新進作家の[[南部修太郎]]と[[文通]]が始まった<ref name="atogaki1"/><ref name="ishihama">[[石濱金作]]「川端君の若い頃」(『現代日本文学全集39 川端康成』月報 [[筑摩書房]]、1955年11月)。「ある恋の話」(文藝時代
1924年10月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=165ff.}}</ref><ref name="jinsoku">石濱金作「無常迅速――青春修行記」(文芸読物 1950年5月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=165ff.}}、{{Harvnb|板垣|2016|pp=44-45}}、{{Harvnb|小谷野|2013|pp=90ff}}</ref>。なお、この年の秋には、祖父と暮らした[[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた<ref name="hasegawa2"/><ref name="atogaki1"/>。
=== 一高入学――伊豆一人旅へ ===
[[ファイル:Yasunari Kawabata 1917.jpg|thumb|200px|一高受験の頃(1917年)]]
[[1917年]](大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の[[石丸悟平]](山脇の同級)から、感動したという返事をもらう<ref name="atogaki1"/><ref>宮崎尚子「新資料紹介 川端康成『生徒の肩に柩を載せて 葬式の日、通夜の印象』」([[熊本大学]]国語国文学研究、2012年)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=82-83}}</ref>{{refnest|group="注釈"|この「師の柩を肩に」は、のち1927年(昭和2年)に、「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し、『[[キング (雑誌)|キング]]』3月号に再掲載された<ref name="hasegawa2"/><ref name="nenpushincho">「年譜」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=195-201}})</ref>。}}。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か[[役場]]に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の[[第三高等学校 (旧制)|三高]]に進学していた<ref name="souichi">[[大宅壮一]]「川端康成君の生活」(新潮 1929年11月号)。羽鳥徹哉編『日本文学研究資料新集27 川端康成・日本の美学』(有精堂、1990年6月)に所収。{{Harvnb|板垣|2016|p=37}}</ref>。その雰囲気の中、康成は行く末は〈[[慶應義塾大学|三田]]か[[早稲田大学|早稲田]]の[[文科]]〉に行くつもりだったが、[[首席]]で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として[[東京大学|帝大]]が浮び〉、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]への進学を決意した<ref name="shounen"/>。
教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では[[師範学校|師範]]の二部が適当だ」と忠告するが<ref name="jitsuro16">「第一章 生い立ち――一高めざして上京」({{Harvnb|実録|1992|pp=27-30}})</ref>、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])にいる従兄・田中岩太郎と[[伯母]]・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や[[駿河台]]の[[明治大学]]の[[予備校]]に通い始めた<ref name="gendai"/><ref name="kiteishinseki"/><ref name="atogaki2"/>。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために[[質屋]]通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている<ref name="chichino">「父の名」(文藝 1943年2月-3月号)。{{Harvnb|小説7|1981|pp=267-280}}に所収</ref>。康成は、[[浅草寺#浅草公園|浅草公園]]などにもよく出かけ、上京一番に[[麻布区]][[龍土町|新龍土町]]12番地(現・[[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]7丁目)にいる文通相手の[[南部修太郎]]宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った<ref name="ishihama"/>。
9月に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の文科第一部[[乙]]類([[英文科]])に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には[[石濱金作]]、[[酒井真人]]、[[鈴木彦次郎]]、[[三明永無]]、[[守随憲治]]、[[池田虎雄]]、[[片岡義雄]]、[[辻直四郎]]らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという<ref name="jinsoku"/>。川端は石濱の影響で、[[菊池寛]]、[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]、[[ロシア文学]]をよく読んだ<ref name="jijoden"/>。[[浅草オペラ]]などによく一緒に行き、オペラ小屋で[[谷崎潤一郎]]を見かけたこともあった<ref name="kurenai">「『[[浅草紅団]]』について」([[文學界]] 1951年5月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=137-145}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=411-423}}に所収</ref>。
授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で痩せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った<ref name="suzuki">[[鈴木彦次郎]]「川端君と盛岡」(街もりおか 1968年11月号)。「『[[新思潮]]』時代の川端康成」(歴史と人物 1972年7月号)。[[巖谷大四]]「解説」({{Harvnb|万葉姉妹|1977}})、{{Harvnb|川嶋|1969|pp=70-72}}、{{Harvnb|基底|1979|pp=165ff.}}、{{Harvnb|小谷野|2013|pp=88ff}}、{{Harvnb|森本・上|2014|pp=90-95}}</ref>。ある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった<ref name="suzuki"/>。
石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌[[1918年]](大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての[[伊豆半島|伊豆]]への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した[[精神]]の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、[[修善寺温泉|修善寺]]から[[下田街道]]を[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]へ旅した<ref name="sasagawa"/><ref name="shounen"/><ref name="yugashima"/>{{refnest|group="注釈"|川端は親戚の川端松太郎に、10月31日付で[[修善寺温泉]]、11月2日付で[[湯ヶ野温泉]]など旅先から[[絵葉書]]を送っている<ref name="hasegawa2"/><ref name="album1"/><ref>「川端松太郎宛ての葉書」(大正7年10月31日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|p=15}}に所収</ref><ref>「川端松太郎宛ての葉書」(大正7年11月2日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|p=15}}に所収</ref>。}}。この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる[[旅芸人]]一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った<ref name="taiyonenpu"/><ref name="tsuchiya">土屋寛『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年11月)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-161}}、{{Harvnb|小谷野|2013|pp=93-94,100}}</ref><ref>[[川端香男里]]「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による―」(文學界 1979年8月号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-159}}</ref>。[[下田港]]からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた<ref name="zenshu35nenpu"/><ref name="jitsuro24">「第二章 文壇へのデビュー――出世作『伊豆の踊子』」({{Harvnb|実録|1992|pp=52-55}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref>。
彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した<ref name="shounen"/>。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『[[伊豆の踊子]]』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり<ref name="yugashima"/>、宿泊した湯ヶ島湯本館([[田方郡]][[上狩野村]]湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底[[結核]]により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる[[持病]]があった康成には、[[湯治]]をも兼ねていた<ref name="shounen"/><ref name="koen"/>{{refnest|group="注釈"|川端は、中学の入学試験の体格検査や、病院で右眼の[[視力]]がよくないことに驚いていたが<ref>「當用日記」(大正4年3月30日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=155-156}}に所収</ref>、眼底に[[結核]]の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた<ref name="shounen"/><ref name="koen"/>。}}。
[[ファイル:HatsuyoIto3.jpg|thumb|160px|[[伊藤初代]](1919年、13歳)]]
伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に[[白木屋 (デパート)|白木屋]]食堂などに行った<ref name="miake">[[三明永無]]「川端康成の思い出」({{Harvnb|作品研究|1969|pp=500-508}})</ref>。三明永無と白木屋の[[女給]]・山本ちよを張ったりすることもあった<ref>「日記」(大正11年5月1日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=540-542}}に所収</ref>。[[1919年]](大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の[[神戸一中]]時代の友人・今文武の兄・[[今東光]]と知り合い、[[本郷区]]西片町(現・[[文京区]][[西片]]1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元[[郵船]]会社欧州航路の船長)から霊智学([[心霊学]])、[[神智学]]の話に耳を傾けた<ref>池田虎雄(麗進)「康さん」(向陵〈一高同窓会誌〉 1972年11月号)。{{Harvnb|基底|1979}}各所</ref><ref name="kiteirei">「川端康成と心霊学」(国語と国文学 1970年5月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=294-335}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|その後も川端は、今東光の家に度々招かれて、霊談義を聞くことがあったようで、〈[[テレパシー|テレパシイ]]の話〉〈霊知学の話〉を、〈面白き話と思ふ〉と日記に記している<ref>「日記」(大正12年1月1日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|p=571}}に所収</ref>。}}。康成は、今東光、[[今日出海]]兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた<ref name="suzuki"/><ref name="kinran">「川端康成」({{Harvnb|東光|2005|pp=86-97}})。{{Harvnb|板垣|2016|pp=51-52}}</ref>。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて<ref>「青春を語る―よき師、よき友に恵まれて―」(長谷川泉との対談)(『川端康成集〈現代日本の文学16〉』月報4 [[学習研究社]]、1969年11月)。{{Harvnb|愛と美|1978|pp=193-210}}に所収</ref>、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の[[少女]](白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した<ref name="chiyo">「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月18日・第277号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=9-26}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=289-309}}、{{Harvnb|怪談傑作選|2006|pp=41-59}}に所収</ref>。この作品も川端は[[処女作]]としている<ref name="tatari">「処女作の祟り」(文藝春秋 1927年5月号)。{{Harvnb|小説1|1981|pp=187-192}}、{{Harvnb|掌の小説|2011|pp=219-225}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|この『ちよ』に関連する作品『処女作の祟り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている<ref name="tatari"/>。この〈千代松〉の[[怪談]]挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない<ref name="hasegawa2"/>。}}。
康成は[[酒]]が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らと[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]や飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・[[伊藤初代]]と出会った<ref name="jinsoku"/><ref name="suzuki"/><ref name="miake"/><ref name="jisatsu">[[今東光]]「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号)。{{Harvnb|進藤|1976}}、{{Harvnb|基底|1979}}各所</ref>。伊藤初代は、[[岩手県]][[江刺郡]][[岩谷堂町|岩谷堂]](現・[[奥州市]][[江刺区]]岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に[[福島県]]で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム([[平出修]]の義理の[[甥]]の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった<ref name="kikuchi">[[菊池一夫]]『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』(江刺文化懇話会、1991年2月)。『エランの窓 伊藤初代の生涯続編』(江刺文化懇話会、1993年2月)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=47ff.}}</ref><ref name="kawakoi">「第十六章 川端康成の恋」({{Harvnb|文壇史|2010|pp=85-126}})</ref>。しかしマダムの[[台湾]]行に伴い店を閉め{{refnest|group="注釈"|[[平出修]]の妻の甥・平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、帝大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が[[台湾銀行]]に入社するのに同行して行った<ref name="kawanishi"/><ref name="tsubaki">[[椿八郎]]「“カフェ下宿”事件など」(新信州 1963年1月号)。のち「大学予科生」と改題し、『鼠の王様』(東峰書房、1969年6月)に所収。「『南方の火』のころ」(楽味 1972年6月-10月号)。『「南方の火」のころ』(東峰書房、1977年6月)に所収。{{Harvnb|基底|1979|pp=166ff.}}</ref>。}}、初代は翌年9月にマダムの親戚の[[岐阜県]][[稲葉郡]][[加納町]]6番地(現・[[岐阜市]]加納)の[[浄土宗]][[西方寺 (岐阜市)|西方寺]]に預けられて行った<ref name="kawashi3"/><ref name="kawanishi"/><ref name="miake"/><ref name="tsubaki"/>{{refnest|group="注釈"|[[伊藤初代]]の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家に婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて[[福島県]]若松市(現・[[会津若松市]])へ行った。そこで大塚サイと知り合い初代を儲け、再婚して学校守り([[学校用務員|用務員]])となり二女・マキを儲けた<ref name="tamura">[[田村嘉勝]]「『伊豆の踊子』論―踊子・薫の二面性をめぐって―」([[福島大学]]国語国文会 言文 第23号、1975年11月)。「伝記的事実の信頼性について―菊池一夫著『川端康成の許嫁者・伊藤初代の生涯』を読んで―」(解釈 1992年1月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=168ff.}}、{{Harvnb|森本・上|2014|pp=47ff.}}</ref>。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の[[岩手県]][[江刺郡]][[岩谷堂町|岩谷堂]]に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる<ref name="sugano">[[菅野謙]]『川端康成と岩谷堂』(江刺文化懇話会、1972年12月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=168ff.}}</ref>。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて上京し(祖父の大塚家が上京したため)、子守として[[奉公]]に出されて他家を転々とした後、カフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した<ref name="kikuchi"/><ref name="kawakoi"/><ref name="tamura"/>。}}。
なお、この当時[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]の学生であった[[平岡梓]]は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の[[三輪寿壮]]が見知らぬ一高生(康成)と一緒にいるのに出くわしたという<ref name="botsugo4">「川端さんのこと」({{Harvnb|梓・続|1974|pp=115-127}})</ref>。平岡梓は肉でも食べようと[[湯島]]の[[牛肉]]屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろの[[マント]]」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした<ref name="botsugo4"/>。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端康成のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという<ref name="botsugo4"/>。
{{Quotation|彼(三輪)は 「川端という男はぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主で、平岡お前もつきあってみたらどうだ、少しはましな人間になるぞ」といいましたが、ぼくは文学青年なんて畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよといって笑いました。この時はまさか、この一高生がノーベル賞作家の川端康成になろうとは、ぼくならずとも誰が想像できたでしょう。ご自身でさえ、そんな期待はつゆほどもお持ちでなかったでしょう。それから幾星霜、(中略)倅([[三島由紀夫]])が作家となった口火を切ってくださり、その後も今日まで陰になり日向になり援護してくださったのです。|[[平岡梓]]「川端さんのこと」<ref name="botsugo4"/>}}
=== 出発――『新思潮』と伊藤初代 ===
[[ファイル:Photo-Author-Kan-Kikuchi-Smoking.png|thumb|150px|[[菊池寛]](1948年)]]
[[1920年]](大正9年)7月に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を卒業し、9月に[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]英文学科に入学{{refnest|group="注釈"|1920年(大正9年)までは大学、高校とも、学年度は9月11日に始まり、7月10日に終わった<ref name="kitei1">「川端康成・愛の体験」([[愛知教育大学]]国語国文学報 第29号、1976年3月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=163-185}}に所収</ref>。}}。同級に[[北村喜八]]、[[本多顕彰]]、[[鈴木彦次郎]]、[[石濱金作]]がいた。しばらくは、[[東京府]][[豊多摩郡]]大久保町東大久保181(現・[[新宿区]]新宿7丁目13)の中西方に[[下宿]]している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、[[今東光]]と共に同人誌『[[新思潮]]』(第6次)の発刊を企画し、先輩の[[菊池寛]]に同名の誌名を継承することの諒解を得た<ref name="zenshu35nenpu"/><ref name="atogaki2">「あとがき」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』新潮社、1948年8月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=32-53}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|[[鈴木彦次郎]]によると、同人誌を企画し、皆で「湯島サロン」という店で話し合っているところへ、[[菊池寛]]、[[芥川龍之介]]らが偶然やって来て、その場で菊池から『新思潮』を譲ってもらったとされ、翌日に菊池宅を訪問したとされている<ref name="suzuki"/>。}}。当時、[[小石川区]]小石川中富坂17番地(現・[[文京区]][[小石川]]2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki2"/>。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる<ref name="kinran"/>。11月から川端は、[[東京市]][[浅草区]]浅草小島町13の高橋竹次郎方([[帽子]]洗濯修繕屋)の二階に下宿した<ref name="sasagawa"/>。
翌[[1921年]](大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、[[靖国神社]]の[[招魂祭]]での17歳の[[サーカス|曲馬]]娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈[[視覚|ヴイジユアリゼイシヨン]]の力〉を褒められた<ref name="atogaki2"/>。[[久米正雄]]、[[水守亀之助]]、[[加藤武雄]]、[[南部修太郎]]、[[中村星湖]]、[[小島政二郎]]、[[佐佐木茂索]]、[[加島正之助]]、『[[萬朝報]]』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる<ref name="atogaki2"/>。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、[[本郷区]]の[[根津]]西須賀町13(現・文京区[[向丘 (文京区)|向丘]]2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・[[千駄木]]5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする<ref name="miake"/>。この頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる<ref name="miake"/>。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。
[[ファイル:HatsuyoIto1.jpg|thumb|200px|初代(15歳)と岐阜市の瀬古写真館にて(1921年10月)]]
この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と[[京都駅]]で落ち合い、[[岐阜駅]]で途中下車して2人で[[伊藤初代]](当時15歳)のいる[[岐阜県]]を訪ねた<ref name="kikuchi"/><ref name="nanpo">「南方の火」(第6次[[新思潮]] 1923年8月・創刊号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=65-76}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=15-26}}に所収</ref><ref name="mori16">「第一章 死の影のもとに――〈魔界〉の淵源 第六節 運命のひと 伊藤初代」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=47-55}})</ref>。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して[[長良川]]湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った<ref name="kawanishi"/><ref>長谷川泉「『南方の火』の写真」(向陵 1972年11月号)。{{Harvnb|基底|1979|p=190}}</ref>。帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという<ref name="jinsoku"/>。その後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に[[岩手県]][[岩谷堂町|岩谷堂]]字上堰で小学校の[[学校用務員|小使い]]をしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった<ref name="fuboeno1"/><ref name="suzuki"/><ref name="kagaribi">「篝火」([[新小説]] 1924年3月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=83-104}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=100-123}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="nanpokanketsu">「南方の火」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』新潮社、1948年8月)。{{Harvnb|浅草紅団2巻|1970}}、{{Harvnb|小説2|1980|pp=493-544}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=35-99}}に所収</ref><ref name="kitei2">「愛の体験・第二部」([[鶴見大学]]紀要 第15号、1978年3月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=186-226}}に所収</ref>。
川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈[[奇跡]]のやうに美しい夢〉を持ち<ref name="nanpokanketsu"/>、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た<ref name="jijoden"/>。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた<ref name="jijoden"/>。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている<ref name="jijoden"/>。
{{Quotation|私は幼くから[[孤児]]であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の[[安心立命]]に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。|川端康成「文学的自叙伝」<ref name="jijoden"/>}}
=== 横光との出会い・婚約破談 ===
[[ファイル:Yokomitsu Riichi.JPG|thumb|150px|[[横光利一]](1928年)]]
同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は、〈才能のある若い者同士〉を引き合わせようとする菊池寛の家で[[横光利一]]と初めて出会い、夕方、3人で本郷区[[湯島]]切通坂町2丁目6(現・[[文京区]]湯島)の[[牛肉]]屋「江知勝」に行き、菊池に[[牛鍋]]を奢ってもらった<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki2"/><ref name="nanpo"/><ref name="shindo17">「第一部第七章 恋愛」({{Harvnb|進藤|1976|pp=96-110}})</ref>。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、[[純潔]]な凄気〉を川端は感じた<ref name="jijoden"/>。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから[[友達]]になれ〉と川端に言った<ref name="jijoden"/>。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった<ref name="jijoden"/><ref name="choyoko">「横光利一弔辞」(人間 1948年2月号)。{{Harvnb|雑纂1|1982|pp=48-50}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=163-166}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=196-199}}に所収</ref>。
その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ<ref name="hijou">「非常」(文藝春秋 1924年12月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=127-152}}、{{Harvnb|非常|2015|pp=27-58}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=142-170}}に所収</ref>。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする<ref name="kawashi3"/><ref name="nanpokanketsu"/><ref name="kitei2"/><ref name="kanojo">「彼女の盛装」([[新小説]] 1926年9月号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=163-196}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=235-274}}に所収</ref>。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大[[美人]]」がいると噂されるほどになり、「赤い[[コール天]]の[[足袋]]をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと[[今日出海]]は述懐している<ref name="hidemi">[[今日出海]]「川端さんとの五十年」(新潮臨時増刊 川端康成読本 1972年6月号)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=115-116}}に抜粋掲載</ref>{{refnest|group="注釈"|初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指し、撲るとか斬ると言っていたのを知った[[今東光]]は、相棒の[[宮坂普九]]と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている<ref name="jisatsu"/>。}}。
〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった<ref name="yugashima"/><ref name="nanpokanketsu"/><ref name="atogaki3">「あとがき」(『川端康成全集第3巻 [[浅草紅団]]』新潮社、1948年10月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=54-75}}に所収</ref><ref name="arare">「暴力団の一夜」(のち「霰」と改題)(太陽 1927年5月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=471-492}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=197-221}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|[[石濱金作]]が1923年(大正12年)10月に、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、[[岐阜県]][[稲葉郡]][[加納町]]にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる<ref name="kawanishi"/><ref name="atogaki4"/>。この人物が誰なのかは、伏字のない川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている<ref>「日記」(大正12年11月20日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|p=587}}に所収</ref>。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている<ref name="mori17">「第一章 死の影のもとに――〈魔界〉の淵源 第七節 喪われた物語『篝火』」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=56-88}})</ref>。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという<ref name="mori17"/>。}}。初代はカフェ・アメリカの[[支配人]]の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった<ref name="kawashi3"/><ref name="hatorikaisetsu">「『川端康成』編 解説」({{Harvnb|作家の自伝|1994|pp=319-325}})</ref>。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い[[稲妻]]相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki2"/>。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や[[掌の小説]]などに描かれることになる<ref name="atogaki3"/>{{refnest|group="注釈"|伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『新晴』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『青い海黒い海』『丙午の娘讃』『明日の約束』『伊豆の帰り』『合掌』『大黒像と駕籠』『犠牲の花嫁』『父』『五月の幻』『入京日記』『処女作の祟り』『遥か昔』『西国紀行』『母国語の祈祷』『真夏の盛装』『二重の失恋』『空の片仮名』『水仙』『父母への手紙』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『雨傘』『見知らぬ姉』『父の十年』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『[[母の初恋]]』『再婚者』『日も月も』『離合』『[[美しさと哀しみと]]』『水郷』『途中下車』『時代の祝福』がある<ref name="kawashi3"/><ref name="hasegawa2"/><ref name="taiyonenpu"/><ref name="itaga12">「第一編 評伝・川端康成――愛」({{Harvnb|板垣|2016|pp=27-49}})</ref><ref name="atogaki3"/><ref name="kitei3">「愛の体験・第三部」(鶴見大学紀要 第15号、1978年3月)。{{Harvnb|基底|1979|pp=227-274}}に所収</ref><ref name="haruo">森晴雄「川端康成『父の十年』―『旅心の美しさ』と『明るい喜び』―」(雲 2012年12月-2013年3月号)。{{Harvnb|森本・上|2014|p=298}}</ref>。}}。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった<ref name="jijoden"/>。12月には、『[[新潮]]』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た<ref name="atogaki2"/><ref>「感謝――私の得た最初の原稿料」(文章倶楽部 1925年1月号)。{{Harvnb|評論5|1982|p=10}}に所収</ref>。
=== 時評家として――傷心と関東大震災 ===
[[1922年]](大正11年)、[[加藤武雄]]の好意で『文章倶楽部』1月号・2月号に[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]などの小品翻訳を発表し、同月の『時事新報』には[[佐佐木茂索]]の好意により「今月の創作界」を寄稿できた川端は、先ず[[文芸批評家]]として[[文壇]]に登場した<ref name="atogaki2"/><ref>「今月の創作界」(時事新報 1922年1月31日、2月15日、17日、18日号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=7-13}}に所収</ref>。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる<ref name="atogaki2"/>。
6月に英文学科から[[国文学科]]へ移籍した<ref name="nenpu"/>。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた<ref name="atogaki4"/>。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念した<ref name="atogaki4"/>。
また、この年の夏には、[[失恋]]の痛手を癒すために再び[[伊豆半島|伊豆]]に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した[[伊藤初代]]とは違い、[[無垢]]に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った<ref name="shounen"/><ref name="dokuhonnenpu"/><ref name="yugashima"/>。
{{Quotation|私は精神の打撃に遭ふと、心疲れが来る前に体の衰へるのを感じ、その徴しとして足が痛み出すのである。さうした心の潰えと体の衰へと、寒さも加はつたせゐの足の痛みで、去年の暮にも、私は湯ヶ島に逃れて来たのであつた。[[四緑]][[丙午]]の小娘のためである。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(「少年」作中)<ref name="shounen"/><ref name="yugashima"/>}}
[[1923年]](大正12年)1月に[[菊池寛]]が創刊した『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。[[横光利一]]や[[佐々木味津三]]と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った[[自伝]]作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に[[犬養健]]の作品を創作評で取り上げ<ref>「新春創作評 犬養健氏の三作」(新潮 1923年2月号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=14-21}}に所収</ref>、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する<ref>「日記」(大正13年3月30日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=587-588}}に所収</ref><ref>「犬養健氏」〈のち「犬養健」と改題〉(文藝春秋 1928年11月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=218-219}}に所収</ref>。
9月1日に、[[本郷区]]駒込千駄木町38(現・[[文京区]]千駄木1-22)の下宿で[[関東大震災]]に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水と[[ビスケット]]を携帯して何日も歩いた<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki4"/>。[[今東光]]と共に[[芥川龍之介]]も見舞い、3人で被災した町を廻った<ref name="akutagawa">「芥川龍之介氏と吉原」([[サンデー毎日]] 1929年1月13日号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp= 232-235}}に所収</ref>。川端らは[[吉原 (東京都)|吉原]]界隈では、火に焼かれ池に飛び込んだ大勢の娼婦たちの凄惨な〈その最も醜い死〉の姿に衝撃を受けた<ref name="akutagawa"/>{{refnest|group="注釈"|大正文壇の寵児であった32歳の芥川は震災発生後間もなく、『文藝春秋』1923年(大正12年)11月号に「[[侏儒の言葉|或自警団員の言葉]]」を発表した。[[川端俊英]]によれば、「或自警団員の言葉」は[[関東大震災朝鮮人虐殺事件|震災時の朝鮮人虐殺]]と[[甘粕事件]]についての皮肉的な批判が含まれているとされる<ref>[[川端俊英]][https://books.google.com/books?id=yEgYBgAAQBAJ 『人権からみた文学の世界【大正篇】』]([[ゴマブックス]]、2015年)、[https://books.google.com/books?id=yEgYBgAAQBAJ&pg=PA58 58頁]。</ref>。新人であった25歳の川端が6年後の1929年(昭和4年)に連載を開始し一時代を築くことになる実験的挑戦作「[[浅草紅団]]」において引用している[[添田唖蝉坊]]は、震災における[[後藤新平]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の「この際」主義を風刺した「コノサイソング」(元は息子[[添田知道|知道]]作詞「復興節」)等の震災に関する[[演歌#「演説歌」としての演歌|風刺演歌]]を作り歌った[[社会主義者]]の[[演歌師]]であり、また「コノサイソング」は[[甘粕正彦|甘粕大尉]]風刺の[[替え歌]]となって震災当時の庶民の間で歌われた<ref>[https://www.nikken-ri.com/forum/HP/296.pdf 第56回NSRI都市・環境フォーラム (no.296) 『デモクラシーの帝都~東京が世界第一級となりえた時代の都市と建築』 松葉一清氏 武蔵野美術大学教授 日時 2012年9月11日 (火) 場所 NSRIホール]</ref>。川端は、芥川の自殺に関して震災時の出来事を〈二三年の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ〉と『サンデー毎日』第8年3号(1929年1月13日)で語った<ref name="akutagawa"/><ref>{{Harvnb|十重田|2013|p=172}}</ref>。}}。
{{Quotation|吉原遊廓の池は見た者だけが信じる恐ろしい「地獄絵」であつた。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思へばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、遊女達の死骸が多いからであつた。岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンケチで鼻を抑へて立つてゐられた。|川端康成「芥川龍之介氏と吉原」<ref name="akutagawa"/>}}
川端は他にも浅草の死体収容所などでも〈幾百幾千或は幾万〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、[[出産]]と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし<ref name="taika">「大火見物」(文藝春秋 1923年11月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=7-10}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が[[恋]]をすることを考へた〉と綴った<ref name="taika"/><ref name="itaga13">「第一編 評伝・川端康成――出発」({{Harvnb|板垣|2016|pp=50-72}})</ref>。
震災後は、川端は以前にも増して〈新しい文藝〉への意欲が高まり、〈新進作家の作品は、[[科学者]]の[[詩]]ではなく、若い娘の[[踊り|踊]]でなければならぬ。またこの[[魔]]は[[処女|生娘]]が好きだ〉と論じている<ref>「遺産と魔」(時事新報 1923年12月26日-29日号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=75-82}}に所収</ref><ref name="shindo110">「第一部第十章 『文藝時代』創刊」({{Harvnb|進藤|1976|pp=138-151}})</ref>。
=== 『文藝時代』――新感覚派と抒情 ===
[[1924年]](大正13年)3月に[[東京大学|東京帝国大学]][[国文学科]]を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。最後の大学4年の時から、国許の親類の送金を断わり自活を試みはじめていた<ref name="atogaki2"/>。[[学年制と単位制|単位]]が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・[[藤村作]]の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。[[大宅壮一]]が川端と[[石濱金作]]を住家に招いて、卒業祝いに[[鶏]]を一羽つぶして振る舞ってくれた<ref name="atogaki12">「あとがき」(『川端康成全集第12巻 虹いくたび』新潮社、1951年4月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=218-236}}に所収</ref>。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。[[伊藤初代]]との婚約を題材とした「篝火」も『[[新小説]]』に発表した。5月には、郷里の[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]役所で[[徴兵検査]]を受けたが、体重が十[[貫]]八百三十[[匁]](約41キログラム)で不合格となった<ref name="gogatsu">「五月の手帖」(新潮 1929年5月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=207-214}}に所収。{{Harvnb|論考|1991|pp=6,70-71}}</ref>。検査前1か月間、伊豆の温泉で保養し、三島郡の宿屋では毎回の食事に生卵を3個飲んでいたにもかかわらず、〈郡役所の広間で恥をかいた〉思いを川端は抱いた<ref name="gogatsu"/>。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという<ref name="sasagawa"/>。
[[ファイル:1929 bungei group.jpg|thumb|210px|『文藝時代』同人。右から[[菅忠雄]]、川端、[[石浜金作]]、[[中河与一]]、[[池谷信三郎]]]]
10月には、[[横光利一]]、[[片岡鉄兵]]、[[中河与一]]、[[佐佐木茂索]]、[[今東光]]ら14人で同人雑誌『[[文藝時代]]』を創刊し<ref name="soukan">「『文藝時代』創刊の辞――〈新しき生活と新しき文藝〉」(文藝時代 1924年10月・創刊号)。{{Harvnb|評論4|1982|pp=410-414}}に所収</ref>、さらに[[岸田国士]]ら5人も同人に加わった<ref name="atogaki9">「あとがき」(『川端康成全集第9巻 母の初恋』新潮社、1950年3月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=173-193}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|『文藝時代』の同人は、[[伊藤貴麿]]、[[石濱金作]]、川端康成、[[加宮貴一]]、[[片岡鉄兵]]、[[横光利一]]、[[中河与一]]、[[今東光]]、[[佐佐木茂索]]、[[佐々木味津三]]、[[十一谷義三郎]]、[[菅忠雄]]、[[諏訪三郎]]、[[鈴木彦次郎]]、[[岸田国士]]、[[南幸夫]]、[[酒井真人]]、[[三宅幾三郎]]、[[稲垣足穂]]であった<ref name="album2"/><ref name="atogaki9"/>。川端は、[[牧野信一]]も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示している<ref>「[[佐々木味津三]]宛ての書簡」(大正13年8月15日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=51-53}}に所収</ref><ref>菅忠雄「川端康成宛ての書簡」(大正13年8月22日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|p=85}}に所収</ref>。『文藝時代』の創刊翌月、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」([[直木三十五|直木三十三]]が作った文士採点表)をめぐって憤慨した今東光が<ref>今東光「文藝春秋の無礼」(新潮 1924年12月号)。{{Harvnb|文壇史|2010|pp=81-82}}に抜粋掲載</ref><ref>今東光「ユダの揚言」(新潮 1925年2月号)。{{Harvnb|文壇史|2010|p=83}}に抜粋掲載</ref>、翌1925年(大正14年)4月に脱退し<ref name="atogaki9"/>、その後『文党』に行った<ref name="kinran"/><ref name="shindo21">「第二部第一章 『文藝時代』廃刊」({{Harvnb|進藤|1976|pp=225-239}})</ref><ref name="bundanshi">「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊」({{Harvnb|文壇史|2010|pp=44-84}})</ref>。横光利一も文士採点表に憤慨し、その掲載を許した菊池寛と『文藝春秋』に対して[[読売新聞]]に投書を送ったが、川端になだめられて一緒に読売新聞社に行き、その速達を返してもらったという一件があった<ref name="atogaki9"/><ref name="yokomitsu">「新感覚時代――国語との血戦」({{Harvnb|アルバム横光|1994|pp=36-47}})</ref>。}}。横光は、[[劇団]]を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという<ref name="atogaki9"/>。主導者の川端は、これからは[[宗教]]に代り文芸が人間[[救済]]の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「[[頭ならびに腹]]」により、同人は「[[新感覚派]]」と評論家・[[千葉亀雄]]により命名されるようになった<ref>[[千葉亀雄]]「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号)。{{Harvnb|アルバム横光|1994|p=38}}</ref>。
[[ヨーロッパ]]に興った[[ダダイスム]]の下に「芸術の革命」が目指された[[アバンギャルド]]運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月に[[プロレタリア文学]]派により創刊された『[[文藝戦線]]』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した<ref name="nenpu"/><ref name="itaga13"/>。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、[[掌編小説]]を掲載することが多かった。これらの小品群([[掌の小説]])は、未来派やダダイスムの影響により、既成の[[道徳]]によらない自在な精神を表現したものが多く、[[失恋]]や[[孤児]]根性を克服し新しい世界へ飛躍する願望が秘められている<ref name="dokuhonnenpu"/>。こういった極く短い形式の小説を創ることの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且[[和歌]]や[[俳句]]や[[川柳]]のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される日〉が来ることを川端は夢みて、日本人が掌篇小説においても〈小説の最も短い形式〉を完成し得ると確信していた<ref name="itaga13"/><ref>「掌篇小説の流行」(文藝春秋 1926年1月号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=230-234}}に所収</ref>。
[[1925年]](大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病[[日記]]を[[西成郡]]豊里村の黒田家の[[倉]]から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「[[十六歳の日記]]」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の[[処女作]]である〉としている<ref>「あとがき」(『川端康成選集第6巻 父母への手紙』[[改造社]]、1938年8月)。{{Harvnb|太陽|2009|p=141}}</ref>。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄([[菅虎雄]]の息子。雑誌『[[オール讀物]]』の[[編集長]])の家([[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26)に行った際に、住み込みのお手伝い・[[川端秀子|松林秀子]]と初めて会い、その夏に[[逗子海岸|逗子]]の海に誘った<ref name="hideko1">「第一章 出会い」({{Harvnb|秀子|1983|pp=5-44}})</ref>。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている<ref name="hideko1"/>。川端は当時、[[本郷区]]林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した<ref>「第一年」(新潮 1925年12月号)。{{Harvnb|評論5|1982|p=15}}に所収</ref>。12月には、[[心霊主義|心霊的]]な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に[[神秘]]性が加味されてきた<ref name="dokuhonnenpu"/>。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した<ref name="nenpu"/>。
[[1926年]](大正15年・昭和元年)1月と2月に「[[伊豆の踊子]]」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は[[麻布区]]宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、[[喘息]]で胸を悪くした菅忠雄が静養のために[[鎌倉郡]][[鎌倉町]](現・[[鎌倉市]])[[由比ヶ浜]]へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った<ref name="hideko1"/>。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)<ref name="hideko1"/>。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている<ref name="hideko1"/>。
{{Quotation|その時の荷物というのが、お祖母さんの[[家紋]]入りの蒲団や[[風呂敷]]、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという[[仏像]]六、七体とご[[先祖]]の[[遺骨|舎利]]まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。|川端秀子「川端康成とともに」<ref name="hideko1"/>}}
6月には、掌編小説([[掌の小説]])を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され{{refnest|group="注釈"|前年1925年(大正14年)の秋に文藝日本社から処女作品集『驢馬に乗る妻』が刊行予定だったが、出版社の破産で実現しなかった<ref name="shindo110"/>。}}、友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、[[大宅壮一]]、[[江戸川乱歩]]、[[豊島与志雄]]、[[尾崎士郎]]、[[岡本一平]]・[[岡本かの子|かの子]]夫妻などもいた。また、この年の春には、[[衣笠貞之助]]、[[岸田国士]]、[[横光利一]]、[[片岡鉄兵]]らと「新感覚派映画聯盟」を結成し、川端は『[[狂つた一頁]]』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正[[モダニズム]]の成果であるこの作品は9月に公開され、[[ドイツ表現主義]]の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている<ref name="album2"/><ref name="kuritsubo">[[栗坪良樹]]「作家案内―川端康成」({{Harvnb|紅団・祭|1996|pp=290-303}})</ref>。
『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚派映画聯盟」は立ち消えとなった<ref name="atogaki5">「あとがき」(『川端康成全集第5巻 虹』新潮社、1949年3月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=101-128}}に所収</ref>。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した<ref name="atogaki6">「あとがき」(『川端康成全集第6巻 [[雪国 (小説)|雪国]]』新潮社、1949年6月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=129-147}}に所収</ref>。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった<ref name="husao">[[林房雄]]「文学的回想」(新潮 1953年10月-1954年12月号)。『文学的回想』(新潮社、1955年2月)、『林房雄評論集2 文学的回想』(浪曼、1973年)。{{Harvnb|板垣|2016|p=70}}、{{Harvnb|進藤|1976}}</ref>。
=== 湯ヶ島から杉並町馬橋へ ===
[[1927年]](昭和2年)正月、前年の[[大晦日]]に[[梶井基次郎]]が[[温泉療養]]に[[湯ヶ島温泉]]にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した<ref name="kajiisoto">[[梶井基次郎]]「[[外村繁]]宛ての書簡」(昭和2年1月1日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=197-199}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=112-113}}に抜粋掲載</ref><ref name="kajii">「湯ヶ島の日々」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=65-83}})</ref>。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『[[伊豆の踊子]]』の単行本の[[校正]]を手伝ってもらった<ref name="kajii"/><ref name="sonota">「『[[伊豆の踊子]]』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=29-42}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="kajiiyodono3">梶井基次郎「[[淀野隆三]]宛ての書簡」(昭和2年3月7日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=243-245}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=117-118}}に抜粋掲載</ref>。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている<ref name="kajiisoto"/><ref name="kajiiyodono">梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年1月4日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=203-207}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=113-114}}に抜粋掲載</ref>。
湯ヶ島には、梶井の同人『[[青空 (雑誌)|青空]]』の面々([[淀野隆三]]、[[外村繁]]、[[三好達治]])、[[十一谷義三郎]]、[[藤沢桓夫]]、[[小野勇]]、[[保田与重郎]]、[[大塚金之助]]、[[日夏耿之介]]、[[岸田国士]]、[[林房雄]]、[[中河与一]]、[[若山牧水]]、[[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]、[[尾崎士郎]]、[[宇野千代]]、[[萩原朔太郎]]らも訪れた<ref name="jijoden"/><ref name="hideko1"/><ref name="atogaki5"/>。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている<ref name="jijoden"/>。3月に横光利一ら同人に、[[永井龍男]]、[[久野豊彦]]、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。
4月5日、[[上野精養軒]]で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府[[豊多摩郡]]杉並町[[馬橋 (杉並区)|馬橋]]226(現・杉並区[[高円寺]]南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ<ref name="hideko1"/><ref name="atogaki5"/><ref name="sonota"/>。その家では、原稿料の代りに[[読売新聞社]]から貰った[[カツラ (植物)|桂]]の[[碁盤]]を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った[[カリン (バラ科)|花梨]]の机を譲った<ref name="tsukue">「四つの机」([[読売新聞]] 1940年7月2日号)。{{Harvnb|随筆2|1982|pp=288-289}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。その机は[[池谷信三郎]]も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた<ref name="tsukue"/>。
同月4月には、短編「美しい!」を『[[福岡日日新聞]]』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に[[大宅壮一]]が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元太郎の娘)と秀子は、偶然同じ[[青森県]][[三戸郡]][[八戸町]](現・[[八戸市]])出身であった<ref name="hideko1"/>。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。[[妊娠]]していた妻・秀子が、6月頃(7月の[[芥川龍之介]]自殺より少し前)、[[慶応病院]]で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった<ref name="hideko1"/>。8月から『[[中外商業新報]]』に初の長編[[新聞小説]]「海の火祭」を連載開始する。
=== 不振時代――熱海から馬込文士村 ===
同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え[[内湯]]もある[[熱海温泉|熱海]][[熱海温泉#熱海七湯|小沢]]の鳥尾[[子爵]]([[鳥尾小弥太]])の[[別荘]]を借りて移り住んだ<ref name="dorobo">「熱海と盗難」(サンデー毎日 1928年2月5日号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=140-148}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|熱海を舞台にした作品には、『椿』『死者の書』『女を殺す女』などがある<ref name="itaga14"/>。}}。[[林房雄]]によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという<ref name="husao"/>。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている<ref name="atogaki12"/>。この頃は川端や元[[新感覚派]]の作家にとって不作不振の時期であった<ref name="itaga14"/>。
当時は、[[プロレタリア文学]]が隆盛で、『文藝時代』の同人であった[[片岡鉄兵]]が左傾化した。[[武田麟太郎]]や[[藤沢桓夫]]も、プロレタリア文学運動に加わり、[[石濱金作]]が転換、[[今東光]]と[[鈴木彦次郎]]が旧[[労働農民党|労農党]]に加入し、[[横光利一]]は極度に迷い動揺した<ref name="itaga14"/>。そんな中、川端は[[マルクス主義]]に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の[[自由主義]]者なれども、「[[戦旗]]」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か[[唯物論]]にすら至らず、[[心霊主義|心霊]]科学の霧にさまよふ〉と語っていた<ref name="usoto">「嘘と逆」(文學時代 1929年12月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=60-63}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。
[[ファイル:Chiyo Uno.jpg|thumb|left|110px|[[宇野千代]]]]
翌[[1928年]](昭和3年)、熱海の家に昨年暮から[[梶井基次郎]]が遊びに来て毎日のように[[囲碁]]などに興じていたが<ref>梶井基次郎「[[仲町貞子]]宛ての書簡」(昭和3年3月20日付){{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=335-337}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|p=224}}に抜粋掲載</ref>、正月3日に、真夜中に[[泥棒]]に入られた<ref name="dorobo"/>。川端は当初、[[襖]]を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという<ref name="dorobo"/>。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った<ref name="dorobo"/>。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り<ref name="dorobo"/>、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した<ref>梶井基次郎「川端秀子宛ての書簡」(昭和3年2月15日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=329-332}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|p=226}}に抜粋掲載</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに、逃げる泥棒を川端が玄関まで追ったが、梶井基次郎は怖くて、秀子夫人から呼ばれても部屋から下りて来られなかったという<ref name="hideko1"/><ref name="dorobo"/>。}}。3月には、政府の[[左翼]]弾圧・[[共産党]]の検挙を逃れた林房雄、[[村山知義]]が一時身を寄せに来たこともあった<ref>「村山知義氏と熱海」(サンデー毎日 1928年11月25日号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=170-174}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった<ref name="atogaki12"/>。
3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため{{refnest|group="注釈"|その後、支払わなかった家賃の催促が家主から無かったため、そのままになったが、家賃を遺して退去したのは、この熱海だけであるという。〈[[商人]]を踏み倒したことはなかつた〉と川端は語っている<ref name="atogaki12"/>。}}、5月から[[尾崎士郎]]に誘われて、[[荏原郡]][[入新井町]]大字新井宿字子母澤(のち[[大森区]]。現・[[大田区]][[西馬込]]3丁目)に移ったが、隣りの[[ラジオ]]屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡[[馬込町 (東京府)|馬込町]]小宿389の臼田坂近辺(現・[[南馬込]]3丁目33)に居住した<ref name="hideko1"/>。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い[[牡丹]]のような模様だったため)<ref name="hideko1"/>。[[馬込文士村]]には尾崎士郎をはじめ、[[広津和郎]]、[[宇野千代]]、[[子母沢寛]]、[[萩原朔太郎]]、[[室生犀星]]、[[岡田三郎]]のほか、[[川端龍子]]、[[小林古径]]、[[伊東深水]]などの[[画家]]もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという<ref name="jijoden"/>。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して[[流産]]した<ref name="hideko1"/>。
=== 浅草時代――流行作家へ ===
[[ファイル:Yasunari Kawabata 1930+wife and sister.jpg|thumb|180px|左から君子(妻の妹)、川端、妻・秀子(自宅にて、1930年)]]
[[1929年]](昭和4年)4月に[[岡田三郎]]らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には[[浅草寺#浅草公園|浅草公園]]近くの[[下谷区]]上野桜木町44番地(現・[[台東区]][[上野桜木]]2丁目20)に転居し、再び学生時代のように[[浅草]]界隈を散策した<ref>「上野桜木町へ」(文學時代 1929年11月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=306-309}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。この頃から何種類もの多くの[[小鳥]]や[[犬]]を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月に[[レヴュー (演芸)|レビュー]]劇場・[[カジノ・フォーリー]]が旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという<ref>[[望月優子]]「浅草の川端先生」(『生きて愛して演技して〈人間の記録双書〉』平凡社、1957年。ほるぷ総連合、1980年5月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=201ff,607}}</ref>。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「[[浅草紅団]]」を『[[東京朝日新聞]]』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた{{refnest|group="注釈"|浅草を題材とした「浅草物」には、続編の『浅草祭』や、『踊子旅風俗』『[[日本人アンナ]]』『「鬼熊」の死と踊子』『白粉とガソリン』『鶏と踊子』『浅草日記』『化粧と口笛』『[[浅草の姉妹]]』『浅草の九官鳥』『妹の着物』『二十歳』『寝顔』『虹』『田舎芝居』『[[夜のさいころ]]』などがある<ref name="itaga14"/><ref name="shindo24">「第二部第四章 浅草」({{Harvnb|進藤|1976|pp=269-281}})</ref>。}}。
また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉[[左翼]]文学の嵐の圧力に[[純文学]]が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという[[堀辰雄]]の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい[[右翼]]〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した<ref>「文芸張雑 文学上の左翼」(近代生活 1929年10月号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=369-372}}に所収</ref>。
[[ファイル:Tasuo Hori.jpg|thumb|left|110px|[[堀辰雄]]]]
同じ10月には、堀辰雄、[[深田久弥]]、[[永井龍男]]、[[吉村鉄太郎]]らが創刊した同人誌『文學』に、[[横光利一]]、[[犬養健]]と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、[[アンドレ・ジッド|ジイド]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]など新[[心理主義]]の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『[[聖家族 (小説)|聖家族]]』、横光利一の『[[機械 (小説)|機械]]』などが生れるのも翌年である<ref name="itaga14"/>。
[[1930年]](昭和5年)、前年12月に結成された[[中村武羅夫]]、[[尾崎士郎]]、[[龍膽寺雄]]らの「[[十三人倶楽部]]」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の[[十字軍]]」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった<ref name="itaga14"/>。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている<ref name="jijoden"/>。また同年には、菊池寛の[[文化学院]]文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、[[日本大学|日大]]の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した<ref name="hideko2">「第二章 愛犬秘話」({{Harvnb|秀子|1983|pp=45-74}})</ref>。この頃は次第に[[昭和恐慌]]が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「[[意識の流れ]]」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。
続いて翌[[1931年]](昭和6年)1月と7月に、同手法の「[[水晶幻想]]」を『[[改造 (雑誌)|改造]]』に発表した。[[時間]]や[[空間]]を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている<ref name="itaga14"/>。4月から、[[書生]]の[[緑川貢]]を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した<ref name="hideko2"/>。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・[[梅園龍子]]を引き抜いて、洋舞([[バレエ]])、[[英会話]]、[[音楽]]を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが<ref>「三月文壇の一印象」(新潮 1933年4月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=75-86}}に所収</ref><ref name="shindo27">「第二部第七章 昭和八年」({{Harvnb|進藤|1976|pp=311-324}})</ref>、そのバレエ鑑賞が、その後の『[[雪国 (小説)|雪国]]』の島村の人物設定や、『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』などに投影されることになる<ref name="dokuhonnenpu"/><ref name="shindo26">「第二部第六章 一つの整理期」({{Harvnb|進藤|1976|pp=296-310}})</ref>。この年の6月には、画家・[[古賀春江]]と知り合った。12月2日には妻・秀子との[[婚姻届]]を出した{{refnest|group="注釈"|この年に[[大宅壮一]]の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた[[青森県]][[八戸市]]出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許[[保証人]]になるため夫婦の籍を入れたとされる<ref name="hideko3">「第三章 千客万来の日々――満州行」({{Harvnb|秀子|1983|pp=75-156}})</ref>。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる<ref name="mori116">「第十一章 自裁への道――〈魔界〉の果て 第六節 昭和四十七年四月十六日」({{Harvnb|森本・下|2014|pp=579-582}})</ref>。}}。
=== 『禽獣』――虚無の眼差し ===
[[ファイル:Yasunari Kawabata c1932.jpg|thumb|180px|上野桜木町の自宅にて]]
[[1932年]](昭和7年)2月に、過去の[[失恋]]の痛手を題材とした心霊的な作品「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」を『[[中央公論]]』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた<ref name="fuboeno2"/><ref name="hideko3"/>。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して[[関東大震災]]後に[[仙台市]]に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)<ref name="hatorikaisetsu"/>。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った<ref name="hideko3"/>{{refnest|group="注釈"|伊藤初代は、川端と婚約破棄した後、中林忠蔵と結婚し、1923年(大正12年)に長女・珠江を儲けたが、中林は1927年(昭和2年)6月に肺病で死去。上京後知り合った桜井五郎と再婚し、1929年(昭和4年)に長男が生れるが夭折し、1931年(昭和6年)11月に次男が生れた。初代は桜井との間に7人の子供を儲け、内3人が死んで、4人を育てて、1951年(昭和26年)2月に数え年46歳で死去した<ref name="kawashi3"/><ref name="kikuchi"/><ref name="hatorikaisetsu"/>。}}。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『[[母の初恋]]』)の題材となる<ref name="kawashi5">「第五章 ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=158-199}})</ref>。同月24日には親しかった[[梶井基次郎]]が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『[[朝日新聞]]』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。
[[1933年]](昭和8年)2月に『[[伊豆の踊子]]』が初めて映画化された(監督・[[五所平之助]])。同月には[[小林多喜二]]が殺されて、[[プロレタリア文学]]は実質上壊滅する<ref name="itaga14"/>。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「[[禽獣 (小説)|禽獣]]」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城([[上林暁]])であった<ref name="album">川端香男里「略年譜」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=104-108}})</ref>。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている<ref>[[伊藤整]]「解説」(『現代日本小説大系第43巻』河出書房、1950年8月)。{{Harvnb|進藤|1976|p=328}}</ref><ref name="tabibito">「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref><ref name="seiyo">「川端康成の東洋と西洋」(國文學 解釈と鑑賞 1957年2月号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=485-490}}に所収</ref>。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった<ref name="dokuhonnenpu"/>。
それと同時に[[少女小説]]を書くことも増え<ref name="dokuhonnenpu"/>、同月には「夏の宿」を『[[少女倶楽部]]』に発表した。この夏は[[安房国|房州]]の[[興津町 (千葉県)|上総興津]](現・千葉県[[勝浦市]])で過ごした。9月10日に親しかった画家・[[古賀春江]]が死去した(38歳没)。10月には、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[林房雄]]、[[武田麟太郎]]、[[深田久彌]]、[[宇野浩二]]、[[広津和郎]]、[[豊島与志雄]]らと文芸復興を目指した雑誌『[[文學界]]』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、[[横光利一]]、[[藤沢桓夫]]、[[里見弴]]らも加わった。世の暗い風潮と[[大衆小説|大衆文学]]の氾濫の中で、川端は[[純文学]]の自由と権威を擁護する立場をとり<ref>「純文学の精神」([[東京日日新聞]] 1933年7月7日、7月11日-12日号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=134-138}}に所収</ref>、それを発展させることに参加した<ref>「文芸復興とは」([[報知新聞]] 1934年1月1日、1月3日-5日号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=153-158}}に所収</ref><ref>「新人待望」(文芸通信 1934年1月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=151-152}}に所収</ref>。
11月は、結びでの[[悪魔]]との問答に、〈おれは[[小説家]]といふ[[無期懲役]]人だ〉という一句が出てくる「[[散りぬるを (小説)|散りぬるを]]」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「[[末期の眼]]」を『文藝』に発表した。[[芥川龍之介]]の[[遺書]]に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった<ref name="itaga14"/>。また、川端は「[[奇術師]]」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「[[奇術]]」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた<ref name="matsugo">「[[末期の眼]]」(文藝 1933年12月号)。{{Harvnb|随筆2|1982|pp=13-26}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=99-118}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=8-26}}に所収</ref>。12月21日には、親しかった[[池谷信三郎]]が死去した(33歳没)。この年から川端は、[[岡本かの子]]から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた<ref name="itaga14"/>。
=== 『雪国』の世界と新人発掘 ===
[[ファイル:Matsuei.jpg|thumb|110px|『[[雪国 (小説)|雪国]]』駒子のモデル・松栄(1934年)]]
[[1934年]](昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、[[島崎藤村]]、[[徳田秋声]]、[[正宗白鳥]]、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元[[警保局]]長・[[松本学]]主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は[[風]]の来るにつれ、[[水]]の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている<ref name="jijoden"/>。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて[[新潟県]]の越後湯沢(南魚沼郡[[湯沢町]])に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の[[芸者]]・松栄(本名・小高キク)に会った<ref name="takahashi">[[高橋有恒]]「『[[雪国 (小説)|雪国]]』のモデル考――越後湯沢のおける川端康成」(人間復興 1972年秋季号・11月号)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=354ff}}に抜粋掲載</ref>。これをきっかけに、のちに『[[雪国 (小説)|雪国]]』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、[[下谷区]][[谷中坂町]]79番地(現・[[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]])に転居した<ref name="hideko3"/>。
8月に癩病([[ハンセン病]])の文学青年・[[北條民雄]](本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後[[文通]]が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「[[勲章]]」を貰うようなものであったという<ref name="fukuda">福田清人「川端康成」(『十五人の作家との対話』中央公論社、1955年2月)。{{Harvnb|板垣|2016|p=93}}</ref>。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている<ref name="shinsin">「文芸時評 中島直人氏」(読売新聞 1934年2月1日号)。のち「小説一家言――新進作家」として『小説の研究』([[第一書房]]、1936年8月)所収。{{Harvnb|評論3|1982|pp=174-182}}に所収</ref>。
{{Quotation|世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。|川端康成「文芸時評 中島直人氏」(昭和9年2月1日)<ref name="shinsin"/>}}
[[1935年]](昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]・[[直木三十五賞|直木賞]]が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた[[太宰治]]との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し[[慶応病院]]に入院した<ref name="hideko3"/>。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『[[イタリアの歌]]』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した<ref name="inochi">「『[[いのちの初夜]]』推薦」(文學界 1936年2月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=368-371}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=212-215}}に所収</ref>。また、この年に横光利一が『[[四人称#純粋小説論|純粋小説論]]』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ<ref>「文芸時評 『純粋小説論』の反響」(文藝春秋 1935年6月号)、「『純粋小説』と通俗小説」〈のち「『純粋小説論』の反響――二」〉(新潮 1935年7月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=304-326}}に所収</ref>、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、[[林房雄]]の誘いで、[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]][[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]宅間ヶ谷(現・[[鎌倉市]]浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった<ref name="hideko3"/><ref>林房雄「川端康成宛ての書簡」(昭和10年10月22日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=207-208}}に所収</ref><ref>林房雄「川端康成宛ての葉書」(昭和10年11月2日、3日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=208-209}}に所収</ref><ref>林房雄「川端さんの家」(『川端康成全集第9巻 舞姫』月報 新潮社、1960年4月)</ref>。
[[1936年]](昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した<ref name="hideko3"/>。同月には川端の推薦により、「[[いのちの初夜]]」と名付けられた北条の作品が『[[文學界]]』に掲載され、[[文壇]]に衝撃を与えた<ref name="itaga14"/>。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました<ref name="inochi"/>。川端は、[[佐左木俊郎]]のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、[[文芸批評家]]としての一つの使命とし<ref name="itaga14"/><ref name="shinsin"/><ref>「文芸時評 [[佐左木俊郎]]氏」(新潮 1933年6月号)。のち「作家と作品――佐左木俊郎」として『小説の研究』(第一書房、1936年8月)所収。{{Harvnb|評論3|1982|pp=99-113}}に所収</ref>、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった<ref>「文芸時評」(文藝春秋 1935年7月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=327-332}}に所収。</ref>。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は<ref name="yokomitsuoboe">横光利一「覚書」(1936年1月)。『覚書』(金星堂、1940年6月)所収。{{Harvnb|文芸読本|1984|pp=146-147}}に所収</ref>、2月20日に、新聞の[[特派員]]として船で渡欧し、川端はそれを[[神戸港]]で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。
[[ファイル:Okamoto Kanoko.jpg|thumb|left|130px|岡本かの子(1920年頃)]]
6月には、[[岡本かの子]]の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。[[芥川龍之介]]をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・[[南部修太郎]]が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの[[明治製菓]]の内田水中亨の斡旋で、[[神津牧場]]見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて[[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]を訪れ、[[藤屋 (長野市)|藤屋]]旅館に滞在した<ref>「軽井沢だより」(文學界 1936年10月号)。{{Harvnb|随筆2|1982|pp=132-138}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。[[信濃国|信州]]への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、[[盲目]]の少女を描いた「女性開眼」を『[[報知新聞]]』に連載開始し、「[[夕映少女]]」を『333』に発表した。
[[1937年]](昭和12年)5月に[[鎌倉市]][[二階堂 (鎌倉市)|二階堂]]325に転居した(家主は[[詩人]]・[[蒲原有明]])。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『[[雪国 (小説)|雪国]]』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は[[旧軽井沢]]1307番地の[[別荘]]を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『[[婦人公論]]』に連載開始し、「[[乙女の港]]」を『[[少女の友]]』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子([[中里恒子]])を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に[[支那事変]]が起き[[日中戦争]]が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する<ref name="itaga15">「第一編 評伝・川端康成――回帰」({{Harvnb|板垣|2016|pp=97-112}})</ref>。
[[ファイル:HoriTatsuo-At Karuizawa-with Kawabata Yasunari-1943.png|thumb|left|160px|堀辰雄(右)と軽井沢にて(1943年)]]
同月18日、この軽井沢の別荘を[[堀辰雄]]が[[郵便局]]に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が[[火事]]になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『[[風立ちぬ (小説)|風立ちぬ]]』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた<ref name="hideko3"/><ref name="horitatsu">「略年譜」({{Harvnb|アルバム堀|1984|pp=104-108}})</ref><ref>「秋風高原――落花流水」(風景 1962年11月-1964年12月号に断続連載)。『落花流水』(新潮社、1966年5月)、{{Harvnb|随筆3|1982|pp=224-265}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=129-187}}に所収</ref>。12月5日に[[北條民雄]]が死去し(23歳没)、[[東京府]]北多摩郡[[東村山村]]にある[[ハンセン病]]療養施設「[[全生園]]」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、[[耕治人]]から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる<ref name="hideko3"/>{{refnest|group="注釈"|その後、[[耕治人]]は川端に世話になり、戦後の1959年(昭和34年)に『喪われた祖国』を出版する。しかし秀子夫人の弟・松林喜八郎が小岩の公庫住宅に当たったという話を聞き、自分宅(借金をして[[地主]]から借地した土地)の中野区[[野方町]]1-605(現・中野区野方4-30-9)の隣りに借りた方がいいと、1958年(昭和33年)9月に誘い、そこに家を建て住んだ松林喜八郎と土地問題でトラブルとなり、訴えて敗訴する<ref>{{Harvnb|小谷野|2022|pp=458,523-524}}</ref><ref name="hideko3"/>。}}。野々宮写真館の主人から[[コンタックス]]を譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、[[ゴルフ]]も時々やるようになる<ref name="hideko3"/><ref name="atogaki8">「あとがき」(『川端康成全集第8巻 牧歌』新潮社、1949年12月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=151-172}}に所収</ref>。
=== 少年少女の文章への親しみ ===
[[1938年]](昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは[[横光利一]]の好意で改造社に口添えして実現したものであったという<ref name="jijoden"/>。7月からは、21世[[本因坊]][[本因坊秀哉|秀哉]][[名人 (囲碁)|名人]]の引退[[碁]]の観戦記を『[[東京日日新聞]]』『[[大阪毎日新聞]]』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『[[名人 (小説)|名人]]』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される[[中央公論社]]の『模範綴方全集』の選者に、[[藤田圭雄]]と共に委託され、多くの[[小学生]]、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、[[豊田正子]]の『[[綴方教室]]』も時評で賞讃した<ref>「文芸時評 豊田正子」([[東京朝日新聞]] 1938年11月3日号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=465-475}}に所収</ref>。10月には、「[[日本文学振興会]]」「(理事長・[[菊池寛]])の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。
[[1939年]](昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に[[岡本かの子]]が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、[[坪田譲治 (作家)|坪田譲治]]らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の[[作文]]を私は殊の外愛読する。一口に言へば、[[幼児]]の片言に似た不細工さのうちに、子供の[[生命]]を感じるのである〉と述べ<ref name="jihyou3371">「文芸時評 徳田、正宗氏の作品」(読売新聞 1933年7月1日号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=114-123}}に所収</ref>、[[西村アヤ]]の『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り<ref name="jihyou3371"/>、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている<ref>「文芸時評 懸賞入選作品」(改造 1934年2月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=159-173}}に所収</ref>。7月からは、前々年に訪日した[[ヘレン・ケラー]]に触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。
[[1940年]](昭和15年)1月に「[[母の初恋]]」、「[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]」を発表した。同月、「紅葉祭」([[尾崎紅葉]]忌)のために熱海聚楽ホテル滞在。1月16日に熱海のうろこ屋旅館に滞在していた[[本因坊秀哉]]名人を訪ね[[将棋]]を打って別れた後、本因坊秀哉が体調を崩して急逝<ref>囲碁二十一世名人、死去『東京日日新聞』(昭和15年1月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p740 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の[[結核]]が治った病痕があり、右眼は[[網膜]]の真中なので、[[視力]]が損なわれていたことを知る<ref name="shounen"/><ref name="koen"/>。
5月には、「美しい旅」の取材のため[[盲学校]]や[[東京盲唖学校|聾唖学校]]を参観した。この時に、橘川ちゑ([[秋山ちえ子]])という若い女性教師に会い、以後文通をする<ref name="akiyama">[[秋山ちえ子]]『大晦日のローストビーフ――23の物語』(文化出版局、1976年7月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=305ff,592}}</ref>。10月に「日本文学者会」が設立され、[[阿部知二]]、[[伊藤整]]らと共に発起人となった{{refnest|group="注釈"|「日本文学者会」の発起人には、[[阿部知二]]、[[伊藤整]]、[[上田広]]、[[岡田三郎]]、[[尾崎一雄]]、[[尾崎士郎]]、[[河上徹太郎]]、[[岸田国士]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[榊山潤]]、[[島木健作]]、[[武田麟太郎]]、[[高見順]]、[[富沢有為男]]、[[中島健藏]]、[[林房雄]]、[[火野葦平]]、[[日比野士郎]]、[[深田久彌]]、[[和田伝]]、[[横光利一]]らがいた<ref name="shindo32">「第三部第二章 敗戦」({{Harvnb|進藤|1976|pp=413-427}})</ref>。}}。またこの1940年(昭和15年)は、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、[[三島市|三島]]、[[興津]]、[[静岡市]]と[[東海道]]へも旅した。翌年[[1941年]](昭和16年)1月に[[北條民雄]]の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、[[山口さとの]]の『[[わが愛の記]]』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した<ref>「文芸時評 わが愛の記」(改造 1941年3月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=521-552}}に所収</ref>。
=== 太平洋戦争の勃発 ===
1941年(昭和16年)4月には、『[[満州日日新聞]]』の招きで[[囲碁]]の催しのため、[[呉清源]]、[[村松梢風]]と共に[[満州国]]に赴いた<ref name="haisen">「敗戦のころ」(新潮 1955年8月号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=7-9}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。[[吉林省|吉林]]、[[奉天市|奉天]]など満州各地を廻り、在満州の[[檀一雄]]、[[田中総一郎]]、[[緑川貢]]、[[北村謙二郎]]らと座談会をし<ref>座談会「川端康成氏を囲んで」(川端康成、[[檀一雄]]、[[田中総一郎]]、[[緑川貢]]、[[北村謙二郎]]、[[筒井俊一]]、[[古長敏明]]、[[劉爵青]])([[満州日日新聞]] 1941年4月13、15、16、18日号)。{{Harvnb|板垣|2016}}</ref>、[[新京]](現・[[長春市|長春]])北郊の寛城寺に住む日本人作家の[[山田清三郎 (作家)|山田清三郎]]らに会い、異郷の中国大陸で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる<ref name="itaga15"/><ref>「満州国の文学」(藝文 1944年7月号)。{{Harvnb|評論4|1982|pp=616-625}}に所収</ref>。
[[ハルビン市|ハルピン]]で一行と別れて[[承徳市|承徳]]を経て[[北京]]、[[天津]]、[[大連市|大連]]に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも[[関東軍]]の招きで[[山本実彦]]([[改造社]]社長)、[[高田保]]、[[大宅壮一]]、[[火野葦平]]と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、[[撫順市|撫順]]、[[黒河省|黒河]]、[[ハイラル区|ハイラル]]も巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大連などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した<ref name="koyano9">{{Harvnb|小谷野|2013|pp=314-318}}</ref><ref name="haisen"/>。
川端が帰国後、12月8日に[[マレー作戦]]と[[真珠湾攻撃]]により、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の開戦となった。開戦の報を聞いた川端は、妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました」と戦争の行く末を嘆いていたとされているが<ref>{{Harvnb|秀子|1983|p=144}}</ref>、この後、川端は否が応でも戦争に関わっていくこととなる。
[[1942年]](昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、[[創元社]]より刊行した。8月には[[島崎藤村]]、[[志賀直哉]]、[[武田麟太郎]]、[[瀧井孝作]]らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『[[名人 (小説)|名人]]』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「[[日本文学報国会]]」の派遣作家として、長野県[[下伊那郡]][[松尾村 (長野県)|松尾村]](現・[[飯田市]])の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日([[太平洋戦争]]開戦)に際しては、『[[東京新聞]]』記者[[尾崎宏次]]の依頼により、東京新聞の紙面上で川端が戦没兵士の遺文を読んで感想を書く「英霊の遺文」という連載を引き受けている<ref name="mori43">「第四章 戦時下の川端康成――自己変革の時代(一)第三節 『故園』の祖父と『英霊の遺文』」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=490-507}})</ref><ref name="李聖傑 2010 108">{{Harvnb|李聖傑|2010|p=108}}</ref>。この年、[[ドイツ]]で『[[伊豆の踊子]]』が[[オスカー・ベンル]]訳で独訳出版された<ref name="koyano9i">{{Harvnb|小谷野|2013|p=325}}</ref>。
[[1943年]](昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る<ref name="koen"/>。以前から[[養女]]の約束をしていた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた<ref name="koen"/>。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は[[離婚]]し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の媒酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。
[[1943年]](昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)[[菊池寛賞]]を受賞した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『[[源氏物語]]』や[[日本の中世文学史|中世文人]]の文学などの文章に親しむことが多かった<ref name="shounen"/><ref name="aishu">「哀愁」(社会 1947年10月号)。『哀愁』(細川書店、1949年12月)、{{Harvnb|随筆2|1982|pp=388-396}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=430-441}}に所収</ref>。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈[[大和魂]]といふ言葉や、[[大和心]]といふ言葉は、[[平安時代]]にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている<ref>「東海道」(満州日日新聞 1943年7月20日-10月31日号)。{{Harvnb|小説23|1981|pp=361-472}}に所収。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=331-332}}に抜粋掲載</ref>。12月25日に[[片岡鉄兵]]が旅先で死去した(50歳没)。[[東京駅]]に片岡の[[遺骨]]を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]へ向かった<ref>「片岡鉄兵の死」(新文學 1945年3月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=211-217}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=188-195}}に所収</ref>。
戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、[[谷崎潤一郎]]の『[[細雪]]』や、『源氏物語』などが[[発禁]]となっていた<ref name="itaga15"/>。多くの文学者が[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の報道班員として徴用され、なかには進んで[[自由主義]]的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった<ref name="itaga15"/>。まともに執筆活動ができなくなった川端は、収入が途絶し生活費に困窮するようになったので、やむなく[[軽井沢]]に所有していた別荘を売却して生活費に充てている<ref>{{Harvnb|李聖傑|2014|p=66}}</ref>。[[1944年]](昭和19年)暮れにはアメリカ軍爆撃機ボーイング[[B-29 (航空機)|B-29]]による日本本土空襲も開始され、川端はひとり、裏山で[[防空壕]]をノミと金づちで拡幅する作業に没頭し、地区の防空班長や[[隣組]]長も引き受けている<ref>{{Harvnb|秀子|1983|p=178}}</ref>。
時節柄川端も戦争協力を避けることはできず、1942年(昭和17年)12月の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり([[東京新聞]] 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。この記事のなかで川端が熱意をもって論じたのが、1944年10月に開始された[[神風特別攻撃隊]]であり、「英霊の遺文」に以下のような感想を述べている。
{{Quotation|特別攻撃隊の隊名によつて、日本の古い言葉は次々と新しい命を噴きつつある。言葉がこのやうに生きたしるしを目の当たりにして、まことの言葉とはこのやうに神であると、私達文学者はさらにつつしみたいものである。これらの特別攻撃隊名は新造語ではない。隊員が言霊に身命を宿したのである。言霊は祖国にあつた。隊員は銃後から生れて行つた。出撃の感動などを聞かれても,隊員の多くは語らない。『母なる内地』への『無言』の凱旋があるだけだ。前線と銃後とにこの無言の通じるところに、日本の言霊の泉があらう。|川端康成「言葉の新しい生命」<ref>「英霊の遺文」(東京新聞 1944年12月)。{{Harvnb|随筆2|1982|pp=378-379}}</ref>}}
同年には「[[日本文学振興会]]」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている{{refnest|group="注釈"|1945年7月20日の第1回目の受賞者は[[プロレタリア文学|プロレタリア作家]]から戦記作家に転向した[[里村欣三]]、里村は1940年7月に発表した自身の[[日中戦争]]での従軍記『第二の人生』で[[芥川賞]]にノミネートされながらも受賞を逃している。その後、里村は再度召集されて、[[マレー]]、[[シンガポール]]、[[フィリピン]]を転戦しながら戦記を書き続け、1945年2月に[[ルソン島]]で戦死したため、戦記文学賞受賞理由を「報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対して」として、その「功績」に対して表彰し、遺族に賞金500円と記念品が追贈された。なおこの第1回だけで終戦により廃止となっている。([[朝日新聞]] 1945年7月20日)}}<ref name="李聖傑 2010 108"/>。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も下記のようにこの賞の目的に沿う決意を書いている。
{{Quotation|戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである。|川端康成「戦記文学賞制定発表」<ref>「選者として(戦記文学賞制定発表)」(文藝春秋 1944年6月号)p.45。{{Harvnb|雑纂1|1982|p=372}}に所収</ref>}}
=== 敗戦 ===
[[ファイル:Yamaoka Sohachi.jpg|thumb|right|130px|従軍記者として鹿児島の鹿屋基地で一緒に取材活動をした山岡荘八]]
[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員([[少佐]]待遇)となり<ref name="takado">{{Harvnb|高戸|1994|pp=219-220}}</ref><ref name="mori45">「第四章 戦時下の川端康成――自己変革の時代(一)第五節 鹿屋特攻基地」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=528-538}})</ref>、[[新田潤]]、[[山岡荘八]](新田と山岡は大尉待遇)と共に[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に赴き、1か月滞在して[[特別攻撃隊]][[神雷部隊]]を取材した<ref name="haisen"/><ref name="jitsuro314">「第三章 作家的声名の確立――特攻隊への鎮魂」({{Harvnb|実録|1992|pp=153-156}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref><ref name="mori45"/>。川端はそのときの心境を〈[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた〉と戦後に振り返っているが<ref name="haisen"/>、秘密兵器として報道管制されていた[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]が報道解禁された直後の称賛[[プロパガンダ]]記事「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」という記事に桜花や特攻への称賛の談話を寄せている([[朝日新聞]] 1945年6月1日)。
山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け<ref name="yamaoka"/>、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている<ref>「生命の樹」([[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]] 1946年7月号)。{{Harvnb|小説7|1981|pp=333-364}}、{{Harvnb|反橋|1992|pp=105-142}}に所収</ref><ref name="mori45"/>。しかし、短期間で鹿児島を去った川端の印象は、新田、山岡や前から海軍報道班員として従軍していた[[丹羽文雄]]と比較すると薄かったようで、同じく鹿児島の特攻隊取材のために、[[日本映画社]]カメラマンとして従軍していた[[山根重視]]の回想には、丹羽、新田、山岡は登場するが川端だけは登場しない<ref>{{Harvnb|山根|1979|p=239}}</ref>。
川端が鹿児島で特攻の取材をしていた5月1日に、[[久米正雄]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[中山義秀]]、[[高見順]]、[[大佛次郎]]ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を八幡通りに開店した{{refnest|group="注釈"|ほかに、[[大佛次郎]]、[[清水昆]]、[[小島政二郎]]、[[横山隆一]]、[[林房雄]]、[[永井龍男]]らも、日替わりで店番をした<ref name="kamakura">[[高見順]]「敗戦日記」(昭和20年5月22日付)。『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959年4月。文春文庫、1981年8月、中公文庫、2005年7月)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=428ff}}に抜粋掲載</ref>。}}。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった<ref name="kamakura"/>。5月末には新田や山岡を置いて一足先に鹿児島から鎌倉へ帰り<ref name="杉山 1972 194">{{Harvnb|杉山|1972|p=194}}</ref><ref name="mori45"/>、8月15日には日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して[[昭和天皇]]の[[玉音放送]]を聞いた<ref name="hideko5">「第五章 鎌倉文庫」({{Harvnb|秀子|1983|pp=173-196}})</ref><ref name="mori47">「第四章 戦時下の川端康成――自己変革の時代(一)第七節 終戦と島木健作追悼」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=542-557}})</ref>。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った<ref name="aishu"/>。川端は終戦のときの状況を下記のように記している。
{{Quotation|それは時自体が死に、失なはれた時期であつた。そして人々は、混乱し、ばらばらに、国や個人の過去、現在、未来を眺めた。多くの人にとつて、それは、狂つた旋風に巻き込まれたやうなものであつた。みじめな光景は、この感じによく合つていた。廃墟のつきさすやうな焦げくさい臭い。圧迫するやうな静けさ。運命の化石した光景。山積された金属くずの赤さび。(中略)限りない広さの廃墟が、砂漠のごとく至るところに拡がつてゐるやうにみえた。それは、希望のない単調なパノラマであつた。|川端康成<ref>「11 玉音放送――8月15日正午〔ホッとする国民〕」({{Harvnb|クックス |1971|pp=179-181}})</ref>}}
その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で[[島木健作]]の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った<ref name="shimaki">「島木健作追悼」(新潮 1945年11月号)。{{Harvnb|雑纂1|1982|pp=43-44}}に所収</ref><ref name="mori47"/>。
{{Quotation|私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。|川端康成「島木健作追悼」<ref name="shimaki"/>}}
また、川端は夫人に、「これからは、日本の[[教育]]が大変なことになるよ。[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという<ref name="hideko5"/>。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、[[丸の内ビルディング|東京丸ビル]]、のちに[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[白木屋 (デパート)|白木屋]]二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、[[日本の降伏|敗戦]]のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している<ref name="haisen"/>。
{{Quotation|国を亡ぼした戦争が避けられたのか避けられなかつたのかを、敗戦後の怨み言などが解くものでない。それを知るのは後世の歴史の眼でもない。かりにまた戦争中に戦争の真実を見得なかつた一人の文学者がありとすれば、その人は戦争後に戦争の真実を見得ようはずはない。だまされて戦争をしてゐた人間などは一人もゐないのである。戦争の間にも時間と生命は流れ去つた。|川端康成「武田麟太郎と島木健作」<ref name="takeda">「武田麟太郎と島木健作」(人間 1946年5月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=490-517}}に所収</ref>}}
=== 相次ぐ友の死――日本の哀しみへ ===
[[1946年]](昭和21年)1月に、[[木村徳三]]を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』を創刊した。同月27日に大学生の[[三島由紀夫]]の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『[[中世 (小説)|中世]]』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが<ref name="henreki">「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。{{Harvnb|三島32巻|2003|pp=271-323}}に所収</ref>、それ以前の[[学習院]]時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『[[花ざかりの森]]』にも注目し才能を見出していた<ref name="jiten-m"/><ref name="etsugu">「IV 川端康成と三島由紀夫」({{Harvnb|越次|1983|pp=173-199}})</ref>。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の[[笛]]のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている<ref name="tabibito"/>。川端は6月、三島の「[[煙草 (小説)|煙草]]」を『[[人間 (雑誌)|人間]]』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である[[横光利一]]に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった<ref name="chomishi">「三島由紀夫」(新潮 1971年1月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=615-619}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=215-218}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=253-256}}に所収</ref>。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという<ref name="hideko7">川端秀子「続・川端康成の思い出(二)」({{Harvnb|補巻2・書簡|1984}}月報)</ref>{{refnest|group="注釈"|三島は来訪する時、可愛い動物の飾りのある[[ケーキ]]や高級菓子を手土産に持参し、秀子夫人が受取ろうとすると、直接政子に手渡ししたがったという<ref name="hideko7"/>。やがてその作戦が尽きると三島は、鎌倉文庫にいた[[山川朝子]]にアイデアの相談をしていたとされる<ref name="hideko7"/>。}}。
同年の3月31日には[[武田麟太郎]]が死去し(42歳没)、初めて[[弔辞]]を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、[[大佛次郎]]、[[岸田国士]]らと「赤とんぼ会」を結成し、[[藤田圭雄]]編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『[[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]]』に発表。一部が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により削除された<ref name="hideko5"/><ref name="hase15">「十五年戦争下の川端康成」(社会文学 1991年7月号)。{{Harvnb|論考|1991|pp=601-615}}に所収</ref><ref name="hasemiryoku">「川端康成文学の魅力」(国文学 解釈と鑑賞 1991年9月号)。{{Harvnb|論考|1991|pp=679-688}}に所収</ref>。10月に[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]]264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は[[山口瞳]])の一家がいた<ref name="yamaguchi">[[山口瞳]]「隣人・川端康成」(『小説・吉野秀雄先生』文藝春秋、1969年。文春文庫、1977年10月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=357-358,608}}</ref>。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と[[日劇]]や[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]を観に行ったり仲が良かった。山口瞳の息子・[[山口正介|正介]]は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている<ref>[[山口正介]]『江分利満家の崩壊』(新潮社、2012年10月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=360-361}}</ref>。
[[1947年]](昭和22年)2月に[[日本ペンクラブ]]の再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『[[小説新潮]]』に発表。約13年間を経て、ようやく『[[雪国 (小説)|雪国]]』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている<ref name="aishu"/>。
{{Quotation|戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。|川端康成「哀愁」<ref name="aishu"/>}}
[[ファイル:Yasunari Kawabata c1946.jpg|thumb|160px|鎌倉市長谷の自宅にて(1946年){{refnest|group="注釈"| この写真で川端の背後の床の間に掛かる絵は[[傅山]](中国・明末清初)の『墨竹図』で、川端の美術コレクションの一品である<ref>『川端康成コレクション 伝統とモダニズム』(展覧会図録)、東京ステーションギャラリー、2016</ref>。}}。]]
12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった[[横光利一]]が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた<ref name="atogaki1"/>。この年から川端は、古[[美術]]への関心を深め、その後、[[池大雅]]・[[与謝蕪村]]の『[[十便十宜]]』、[[浦上玉堂]]の『[[凍雲篩雪図]]』などの名品の数々をコレクションすることになる<ref name="taiyo"/>。
[[1948年]](昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)'''横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく'''〉と、その死を悼んだ<ref name="choyoko"/>。3月には、もう一人の恩人であった[[菊池寛]]も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の[[同性愛]]の日記記録を元に、過去を振り返った「[[少年 (川端康成)|少年]]」を連載開始した。
川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の[[命]]を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の[[美]]の[[伝統]]のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った<ref name="atogaki1"/>。6月には、[[志賀直哉]]のあとを引き継ぎ、第4代[[日本ペンクラブ]]会長に就任した<ref name="penclub">『日本ペンクラブ三十年史』(社団法人日本ペンクラブ、1967年3月)。[[遠藤周作]]『日本ペンクラブ五十年史』(社団法人日本ペンクラブ、1987年11月)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=433ff}}、{{Harvnb|森本・上|2014|pp=679-684}}</ref>。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、[[東京裁判]]の判決を傍聴した<ref>「判決の日」〈のち「東京裁判判決の日」と改題〉(社会 1949年1月号)。{{Harvnb|随筆2|1982|pp=402-407}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=442-449}}に所収</ref>。
=== 鎌倉にて――『山の音』『千羽鶴』===
[[ファイル:Takami Jun and Kawabata Yasunari.JPG|thumb|180px|[[高見順]](左)と川端(1949年4月)]]
[[1949年]](昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『[[山の音]]』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の[[家族]]を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた<ref name="dokuhonnenpu"/>。同月、[[イタリア]]の[[ヴェネツィア|ベニス]]での[[国際ペンクラブ]]第21回大会に寄せて、日本会長として、〈[[平和]]は[[国境線]]にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、[[朝鮮戦争|朝鮮動乱]]直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた<ref name="penclub"/>。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「[[骨拾ひ]]」を『文藝往来』に発表した。11月には[[広島市]]に招かれ、[[豊島与志雄]]、[[青野季吉]]と3人で[[原爆]]被災地を視察した<ref name="penclub"/><ref name="atogaki10">「あとがき」(『川端康成全集第10巻 花のワルツ』新潮社、1950年5月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=194-195}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|川端は同行者を[[豊島与志雄]]、[[小松清]]と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は豊島与志雄、[[青野季吉]]となっている<ref name="penclub"/>。}}。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した<ref name="koyano11">{{Harvnb|小谷野|2013|pp=380-381}}</ref><ref name="tenju">「天授の子」(文學界 1950年2月号)。{{Harvnb|小説23|1981|pp=545-602}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。
[[1950年]](昭和25年)2月、[[養女]]・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・[[長崎市|長崎]]を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった<ref name="atogaki10"/>。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている<ref name="tenju"/>。長崎では、『[[この子を残して]]』の著者・[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]を見舞った<ref name="album4">「『ただ一つの日本の笛』を吹く」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=65-73}})</ref>。旅の後、川端は[[京都]]に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた<ref name="atogaki10"/>。そして、焼失したと聞かされていた『[[凍雲篩雪図]]』([[浦上玉堂]]の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている<ref name="touun">「川端秀子宛ての書簡」(1950年4月26日、27日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=531-534}}に所収</ref>。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、[[スコットランド]]の[[エジンバラ]]での大会に[[募金]]のアピールを書き送った<ref name="penclub"/>。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]」を『[[朝日新聞]]』に連載開始する。この年、[[鎌倉文庫]]が倒産した。
[[ファイル:Yasunari Kawabata 1951.jpg|thumb|left|130px|林芙美子の葬儀委員長を務める川端(1951年)]]
[[1951年]](昭和26年)2月27日、[[伊藤初代]]が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った<ref name="kitei3"/><ref name="suigo">「新日本名所案内62 水郷」([[週刊朝日]] 1965年7月2日号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=270-277}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=275-288}}に所収。{{Harvnb|永遠の少女|2014|p=124}}に抜粋掲載</ref>。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に[[林芙美子]]が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日した[[ユーディ・メニューイン]]訪日公演を[[三島由紀夫]]らと観に行った。[[1952年]](昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『[[婦人公論]]』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が[[筑摩書房]]より刊行され、これにより昭和26年度[[芸術院賞]]を受賞した<ref name="atogaki15">「あとがき」(『川端康成全集第15巻 [[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]・[[山の音]]』新潮社、1953年2月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=258-273}}に所収</ref><ref>(朝日新聞夕刊 1952年3月26日号・2面)</ref>。授賞式で[[昭和天皇]]と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて天皇が声をかけたという<ref name="atogaki15"/>。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った<ref name="hideko7"/>。10月に[[大分県]]の招きで、竹田町(現・竹田市)[[九重山|九重高原]]を知人の画家・[[高田力蔵]]の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『[[波千鳥]]』の背景として生かされることとなる<ref name="takada">[[高田力蔵]]「川端さん、久重への旅」({{Harvnb|研究1|1985|pp=87-98}})</ref><ref>「九州の旅から」(芸術新潮 1953年8月号)。{{Harvnb|雑纂2|1983}}に所収</ref>。[[法華院温泉]]に同宿していた作家志望の熊本の学生から、小説の勉強はどうしたらいいかを訊ねられた川端は、「自分の両親を写生しなさい」と答えたという<ref name="takada"/>。
[[1953年]](昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『[[婦人画報]]』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に[[堀辰雄]]が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、名古屋西川流「名古屋をどり」舞台台本「船遊女」を書き、[[二世西川鯉三郎]]の振付で上演された。11月には、[[永井荷風]]、[[小川未明]]らと共に[[日本芸術院|芸術院]]会員に選出された。
[[ファイル:Mishima, Kawabata, Masugi.jpg|thumb|160px|左から[[三島由紀夫]]、川端、[[真杉静枝]]([[ユーディ・メニューイン]]訪日公演時)1951年]]
[[1954年]](昭和29年)3月、新設された[[新潮社文学賞]]の審査委員に就任する<ref name="oufuku">「略年譜」({{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=240-254}})</ref>。4月には、『山の音』の単行本が[[筑摩書房]]より刊行され、これにより第7回[[野間文芸賞]]を受賞した<ref name="atogaki15"/>。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の[[短編小説|短編]]で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから[[長編小説|長編]]の骨格と[[主題]]とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り<ref name="atogaki15"/>、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら<ref name="atogaki15"/>、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った<ref>川端康成「あとがき」(『再婚者』[[三笠書房]]、1953年2月)。{{Harvnb|評論5|1982|p=650}}</ref>。
そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ[[偏執病|偏執狂]]の男を主人公にした「[[みづうみ]]」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の[[シュルレアリスム|超現実的]]な新しい手法と「[[魔界]]」が注目された<ref name="itaga15"/>。この実験的作品は、以前の『[[水晶幻想]]』や、のちの『[[眠れる美女]]』に繋がっていくことになる<ref name="itaga15"/>。5月からは、「[[東京の人]]」を『[[中部日本新聞]]』などに連載開始した。
=== ペンクラブへの貢献――国際的作家へ ===
[[1955年]](昭和30年)1月から「ある人の生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、[[新橋演舞場]]で上演された。同月、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]の英訳で「[[伊豆の踊子]]」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。同年6月、ウィーンで行われた[[国際ペンクラブ]]の大会に[[北村喜八]]と[[芳賀檀]]が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、翌1956年(昭和31年)3月の[[日本ペンクラブ]]評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった<ref>[[巖谷大四]]「懐しき文士たち 戦後篇」(文春文庫)</ref>。
[[1956年]](昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『[[雪国 (小説)|雪国]]』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている<ref>長谷川泉・[[武田勝彦]]『川端文学――海外の評価』([[早稲田大学出版部]]、1969年4月)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=466-467}}に抜粋掲載</ref><ref name="hasenovel">「川端文学とノーベル賞――盈虚の美学の微茫な接点」({{Harvnb|論考|1991|pp=24-57}})</ref>。
[[1957年]](昭和32年)3月22日に[[松岡洋子 (評論家)|松岡洋子]]と共に、[[国際ペンクラブ]]執行委員会([[ロンドン]]で開催)の出席のため[[東京国際空港|羽田]]から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いに[[フランス]]をはじめ、[[ヨーロッパ]]各国を廻り、[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、[[T・S・エリオット|エリオット]]、[[イニャツィオ・シローネ|シローネ]]らと会った<ref>「川端康成氏の欧州旅行から」グラビア(新潮 1957年8月号)。{{Harvnb|太陽|2009|p=153}}</ref><ref>[[小松清]]「川端・モーリヤック会見記」(新潮 1957年9月号)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=447-448,598}}</ref>。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった<ref>伊藤整「三十歳を迎えるペンクラブ」。{{Harvnb|進藤|1976|p=458}}</ref>。4月には『雪国』が映画化された(監督・[[豊田四郎]])。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った<ref>「雨のち晴――国際ペン大会を終つて」(朝日新聞 1957年9月10日号)。{{Harvnb|雑纂1|1982|pp=27-29}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。
[[1958年]](昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)[[菊池寛賞]]を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した[[藤田圭雄]]らが10月21日に[[冲中重雄]]医師に鎌倉まで来てもらい、11月から[[胆石]](胆嚢炎)のため[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した<ref name="fujita">[[藤田圭雄]]『ハワイの虹』(晩成書房、1978年9月)。「日記の中の川端さん」({{Harvnb|研究1|1985|pp=99-114}})</ref>。翌[[1959年]](昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、[[西ドイツ]]の[[フランクフルト]]市から文化功労者として[[ゲーテの盾 (フランクフルト・アム・マイン市)|ゲーテ・メダル]]を贈られることが決まり<ref>明治大正昭和新聞研究会編集制作『新聞集成昭和編年史 昭和34年版 3(自5月-至6月)』新聞資料出版, 2011, p210</ref>{{refnest|group="注釈"|「略年譜」(三島往復書簡 2000, p229)には「5月、フランクフルトの国際ペンクラブ大会で、ゲーテ・メダルを贈られた」とあるが、当時川端は病み上がりであった。5月20日の朝日新聞は、5月19日に受賞の連絡を受けたが、7月のフランクフルトでの授賞式には西ドイツ駐在大使館員が代理受賞する予定、と報じている。}}、7月に、同市で開催の第30回国際ペンクラブ大会に出席し、メダルを受賞した<ref>『新聞集成昭和編年史 昭和34年版 5 (自9月-至10月)』新聞資料出版, 2012, p268</ref>。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった<ref name="oufuku"/>。
=== 『眠れる美女』『古都』――魔界と伝統美 ===
[[1960年]](昭和35年)1月から「[[眠れる美女]]」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「[[魔界]]」をより明確に展開させたものとして、以前の『[[みづうみ]]』や、その後の『[[片腕 (小説)|片腕]]』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった<ref name="kawashi7">「第七章 美への耽溺―『千羽鶴』から『眠れる美女』まで―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=243-284}})</ref>。5月に[[アメリカ国務省]]の招待で渡米し、7月には[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]での第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――[[ニューヨーク]]で」を『朝日新聞』に発表した。この年、[[フランス政府]]からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の[[芸術文化勲章]](オフィシエ勲章)を贈られた<ref name="shindo36">「第三部第六章 晩年」({{Harvnb|進藤|1976|pp=468-483}})</ref>。
[[1961年]](昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、[[左京区]][[下鴨]]泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「[[美しさと哀しみと]]」を『[[婦人公論]]』に連載開始する。5月には、[[ノーベル文学賞]]への推薦文を[[三島由紀夫]]に依頼した<ref name="shokan530">[[三島由紀夫]]「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。{{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=150-151}}、{{Harvnb|三島38巻|2004|p=294}}。「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」({{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=238-239}})</ref>{{refnest|group="注釈"|実際、1961年(昭和36年)に、川端が[[ノーベル文学賞]]を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)の[[スウェーデン・アカデミー]]の情報開示で明らかになった <ref name="kabun12">[https://web.archive.org/web/20130310191315/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/130247.html 川端康成 ノーベル賞選考で新資料](2013年3月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHK「かぶん」ブログ・NHK科学文化部、2012年9月4日。</ref>。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった<ref name="nikkei">[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG03019_T00C14A1CR8000/ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年]([[日本経済新聞]] 2014年1月3日号)</ref><ref name="yomiuri2">「三島ノーベル賞目前だった」([[読売新聞]] 2014年1月4日号)</ref>。なお、6人の中には三島の他に[[谷崎潤一郎]]、[[西脇順三郎]]、川端も名を連ね、1964年、1965年度も同4名が候補に入っていた<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG05H1D_V00C16A1000000/ ノーベル文学賞の65年選考 川端が「日本人で最有力」](日本経済新聞 2016年1月5日号)</ref>。1965年については川端と谷崎への同時授賞も検討されていた<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1010.html 記者が見た ノーベル文学賞秘話](NHK NEWS WEB 2018年10月10日 19時20分)</ref>。}}。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に[[双子]]の姉妹の数奇な[[運命]]を描いた「[[古都 (小説)|古都]]」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統[[林業]]の[[北山杉]]が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に[[睡眠薬]]を常用することが多かった<ref name="dokuhonnenpu"/><ref name="kotoato">「あとがき」(『古都』新潮社、1962年6月。文庫版『古都』新潮文庫、1968年8月。改版2010年)</ref>。11月には第21回[[文化勲章]]を受章した。
[[1962年]](昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大[[冲中重雄|冲中内科]]に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという<ref name="kotoato"/>。入院中に、[[東山魁夷]]から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた<ref name="kotoato"/>。10月には、[[世界平和アピール七人委員会]]に参加し、[[湯川秀樹]]、[[茅誠司]]らと[[ベトナム戦争]]でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回[[毎日出版文化賞]]を受賞した。同月には、[[掌の小説]]「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。
[[1963年]](昭和38年)4月に財団法人[[日本近代文学館]]が発足し、監事に就任した。さらに、[[東京都近代文学博物館|近代文学博物館]]委員長となった。5月1日には、大ファンであった[[吉永小百合]]主演の『[[伊豆の踊子 (1963年の映画)|伊豆の踊子]]』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという<ref name="nishikawa">[[西河克己]]『「伊豆の踊子」物語』(フィルムアート社、1994年7月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=495-496}}</ref>。川端はその後、吉永に手紙を書いたり20歳の誕生日パーティーなどに出席している<ref name="koyano13">{{Harvnb|小谷野|2013|pp=495-496,529}}</ref>。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「[[片腕 (小説)|片腕]]」を『新潮』に連載開始した。[[1964年]](昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に[[尾崎士郎]]、5月に[[佐藤春夫]]が死去し、訃報が相次いだ。6月から「[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]」を『新潮』に断続的連載を開始する(未完)。同月には、[[ノルウェー]]の[[オスロ]]での第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。
[[1965年]](昭和40年)4月から1年間、NHKの[[連続テレビ小説]]で書き下ろしの『[[たまゆら (テレビドラマ)|たまゆら]]』が放映開始された。7月に[[伊藤初代]]の死を明かした随筆「水郷」を『[[週刊朝日]]』に発表した。8月に[[高見順]]が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、[[芹沢光治良]]に後をゆずった。11月12日、伊豆[[湯ヶ島温泉]]に『[[伊豆の踊子]]』の文学碑が建立された<ref name="zenshu35nenpu"/><ref name="itaga15"/>。この除幕式では、作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟と47年ぶりに再会した<ref name="sakusha">「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月-1968年11月号)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=355-409}}、{{Harvnb|評論5|1982|pp=207-264}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=283-350}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=325-403}}に所収</ref>。後藤は、[[蔵前]]高工(現・[[東京工業大学|東京工大]])受験のために[[下田港]]から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった<ref name="jitsuro24"/>{{refnest|group="注釈"|後藤孟は「賀茂丸」で川端と会ったことを以下のように述懐している。
{{Quotation|空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当の[[海苔巻き|ノリ巻き]]をすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「[[下宿]]が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、[[刺青|イレズミ]]をした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。|後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)<ref name="jitsuro24"/>}}}}。[[1966年]](昭和41年)1月から3月まで[[肝臓]]炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・[[高田博厚]])が贈られた。
===ノーベル文学賞受賞――美しい日本の私 ===
[[1967年]](昭和42年)2月28日、[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]らと共に[[帝国ホテル]]で記者会見し、[[中国]][[文化大革命]]は[[学問]][[芸術]]の[[自由]]を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)<ref>三島由紀夫、川端康成、[[安部公房]]、[[石川淳]]「文化大革命に関する声明」(東京新聞 1967年3月1日号)。{{Harvnb|三島36巻|2003|p=505}}に所収</ref><ref>三島由紀夫、川端康成、安部公房、石川淳「われわれはなぜ声明を出したのか――芸術は政治の道具か?」(中央公論 1967年5月号)。中央公論特別編集『三島由紀夫と戦後』(中央公論新社、2010年10月)に所収</ref>。4月には、[[日本近代文学館]]が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が[[川端香男里|山本香男里]]と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという<ref name="hideko4">「第四章 川端家の人びと」({{Harvnb|秀子|1983|pp=157-172}})</ref><ref>川端香男里「父 川端康成のこと」(新潮臨時増刊 川端康成読本1972年6月号)。{{Harvnb|基底|1979|p=54}}、{{Harvnb|森本・下|2014|pp=492-493}}</ref>。8月に、[[日本万国博覧会]]政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道[[札幌市|札幌]]に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した<ref name="koyano14">{{Harvnb|小谷野|2013|p=525}}</ref>。
[[File:Kawabata Yasunari 1968.jpg|200px|thumb|left|ノーベル文学賞受賞の頃]]
[[1968年]](昭和43年)2月に、「非[[核武装]]に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、[[日本文化会議]]に参加した。6月から7月にかけては、[[参議院選挙]]に立候補した[[今東光]]の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初の[[ノーベル文学賞]]受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・[[スウェーデン]][[大使]]が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した<ref name="album6"/>。受賞理由は、「'''日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため''':"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」で<ref name="shindo37">「第三部第七章 ノーベル賞受賞」({{Harvnb|進藤|1976|pp=484-499}})</ref>、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『[[ほくろの手紙]]』などであった<ref name="tomioka">「第9章 抱擁する『魔界』――たんぽぽ」({{Harvnb|富岡|2015|pp=199-224}})</ref>。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)<ref name="kabun12"/><ref name="nikkei"/>、1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている<ref name="yomiuri2"/><ref>[https://web.archive.org/web/20170102202014/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827641000.html 川端康成 ノーベル文学賞受賞2年前の選考で高評価](NHK News Web、2017年1月3日)</ref>。川端は報道陣のインタビューに、〈[[運]]がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈[[三島由紀夫]]君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた<ref>「川端康成氏にノーベル文学賞」(毎日新聞 1968年10月18日号)。{{Harvnb|三枝|1961}}はしがきに抜粋掲載</ref><ref>「かなたへの疾走」({{Harvnb|アルバム三島|1983|pp=80-96}})</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに、三島由紀夫が初めて候補者に名を連ねた1963年度のノーベル文学賞選考資料で、選考委員会が[[ドナルド・キーン]]に日本の作家についての評価を求めていたことが分かった<ref name="nenko">{{Cite web|和書|url=http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/03/0331.html|title=ノーベル文学賞 明らかになる“秘話” |publisher=NHK News Web|date=2015-3-31|accessdate=2016-10-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151009001440/http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/03/0331.html |archivedate=2015-10-09}}</ref>。当時キーンは、実績を重視し、年齢順に「▽谷崎潤一郎、76歳、▽川端康成、63歳、▽三島由紀夫、38歳」の順で推薦したが、本心では、三島が現役の作家で最も優れていると思っていたとし、それでも三島よりも谷崎・川端を高く評価したのは、[[年功序列]]を意識し日本社会に配慮したからだと説明して、「現在の日本の文壇では、彼が一番ぬきんでていると思う。しかし、谷崎や川端が、もし三島に先を越されたら、日本の一般市民は奇妙に感じるだろう。三島には、この先にもチャンスがある」と考えたと2015年(平成27年)3月に明らかにした<ref name="nenko"/>。}}。
翌10月18日には、三島由紀夫・[[伊藤整]]との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、[[NHKテレビ]]、[[NHKラジオ]]で放送された<ref>{{NHK放送史|D0009010133_00000|特別番組 川端康成氏を囲んで}}</ref><ref>「年譜」(昭和43年10月18日)({{Harvnb|三島42巻|2005|p=301}})</ref><ref name="hirayama">平山三男「作家案内―川端康成:戦後川端文学の意味――分裂する二つの時計」({{Harvnb|再婚者|1994}})</ref>。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという<ref name="hirayama"/>。11月8日に、秋の[[園遊会]]に招かれて[[昭和天皇]]と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈'''秋の野に鈴鳴らし行く人見えず'''〉と記し、「野に鈴」の「野」と「[[鈴]]」で〈ノオベル〉とかけた〈[[言葉遊び]]〉の戯句を作っている<ref>「秋の野に」(新潮 1968年12月号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=335-339}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=450-456}}に所収</ref>。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している<ref name="yuuhino">「夕日野」(新潮 1969年1月号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=363-367}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=457-463}}に所収</ref>。
{{Quotation|「鈴鳴らし行く」[[巡礼]]の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな[[悪鬼]]、[[妖魔]]が棲んでゐるかしれたものではない。日本の秋の夕映えの野に遠音さす[[鐘]]の声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。|川端康成「夕日野」<ref name="yuuhino"/>}}
12月3日に羽田を発ち、[[スウェーデン]]に向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった<ref name="makoto">[[北條誠]]『川端康成・心の遍歴』([[二見書房]]、1969年。改訂版1972年4月)。{{Harvnb|進藤|1976}}</ref>。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという<ref name="shindo37"/>。10日、川端康成は[[ストックホルム・コンサートホール]]で行われた[[ノーベル賞]]授賞式に[[紋付羽織袴|紋付き袴]]の正装で[[文化勲章]]を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分には[[スウェーデン・アカデミー]]において、[[背広|スーツ]]姿で受賞記念講演『[[美しい日本の私―その序説]]』を[[日本語]]で行なった<ref name="album6"/><ref name="jitsuro410">「第四章 戦後の名作と社会的活動――日本の心を語る」({{Harvnb|実録|1992|pp=215-220}})</ref>。この講演は、[[道元]]、[[明恵]]、[[西行]]、[[良寛]]、[[一休宗純|一休]]などの[[和歌]]や[[詩]][[句]]が引用され、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]により同時通訳された。川端は、[[聖ルチア祭|ルチア祭]]の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという<ref name="makoto"/>。帰途に寄った[[パリ]]では、[[キスリング]]の『少女』を購入した<ref name="kisling">「キスリングの少女」({{Harvnb|独影自命|1970}}口絵解説)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=476-489}}に所収</ref>。同12月には、郷里の[[茨木市]][[名誉市民]]となった<ref name="yuuhino"/>。なお、川端はこの頃、『[[源氏物語]]』の現代語訳の準備を着々と進めていた<ref>「茨木市で」(『新潮日本文学15 川端康成集』月報 新潮社、1968年12月)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=342-344}}に所収</ref><ref name="ibuki">{{Harvnb|伊吹|1997}}</ref>。
[[1969年]](昭和44年)1月27日に、[[国会]]両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した<ref name="nenpu"/><ref name="zenshu35nenpu"/>。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうために[[ハワイ大学]]に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学[[博士号]]を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、[[毎日新聞社]]主催の「川端康成展」が開催された(その後、[[大阪]]、[[福岡県|福岡]]、[[名古屋市|名古屋]]でも開催)。
6月には[[鎌倉市]]の[[名誉市民]]に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、[[移民]]百年記念[[サンフランシスコ]]日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に[[伊藤整]]が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという<ref>「伊藤整」(新潮 1970年1月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=635-644}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=205-214}}に所収</ref>。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった<ref name="zenshu35nenpu"/><ref name="oufuku"/>。
=== エピローグ――突然の死 ===
[[1970年]](昭和45年)5月9日に、[[久松潜一]]を会長とする「川端文学研究会」が設立され、[[豊島公会堂]]で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県[[南安曇郡]][[穂高町]](現・[[安曇野市]])の招聘で、[[井上靖]]、[[東山魁夷]]と共に同地を訪れ、[[国道147号|国道糸魚川線]](旧[[千国街道|糸魚川街道]])の脇にある[[植木屋]]の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った<ref>川端香男里・東山すみ『川端康成と東山魁夷――響きあう美の世界』(求龍堂、2006年9月)</ref><ref name="mori13">「エピローグ 三十五年後の『事故のてんまつ』――虚実と『縫子』をめぐる人びと」({{Harvnb|森本・下|2014|pp=699-771}})</ref>。植木屋は川端家に[[盆栽]]を贈り、それを縫子が車で配達していた{{refnest|group="注釈"|鹿沢縫子の実母・T子は長野市出身で、市内の[[松代町 (長野県)|松代町]]の小料理屋で働いていた20代前半の時に、[[福井県]]出身の50代の妻帯者・Oと知り合い、縫子を産んだ。Oには、妻との間に子がなかったため、縫子を[[認知 (親子関係)|認知]]し、妻とも養子縁組させて、同県[[松本市]]の自宅へ引き取った<ref name="mori13"/>。O宅は裕福であったが、縫子が8歳の時にOが亡くなり、養母がその6年後に盆栽店を経営するMと再婚し、縫子を連れて穂高町に来た<ref name="mori13"/>。Mには、すでに2人の男児と1人の女児があり、彼らは縫子の義兄、義姉となった。縫子は県内の[[長野県松本蟻ヶ崎高等学校|県立蟻ヶ崎高等学校]]を卒業後、家業を手伝い、植木を車で配達していた<ref name="mori13"/>。}}。
6月15日から5日間の日程で[[中華民国]]を訪問。[[台北市|台北]]での台湾ペンクラブ主催の「第三回アジア作家会議」に出席して講演を行なった<ref>川端康成氏、台北へ アジア作家会議に出席『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月15日朝刊 12版 23面</ref>。続いて、[[京城府|京城]]([[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市|ソウル]]。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に[[漢陽大学校]]から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、[[大江健三郎]]、[[小田切秀雄]]らは、[[朴正煕]]の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た<ref name="mori13"/>。その話が穂高町に広まった時、縫子に関して「生みの親も知らぬ孤児」「養家は[[被差別部落|部落]]の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ<ref name="kitoh">木藤明「『事故のてんまつ』その後」(部落解放 1977年11月号)。{{Harvnb|森本・下|2014|pp=738-739}}</ref>。
同月25日昼、[[三島由紀夫]]が[[自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]において[[割腹]]自決した([[三島事件]])。そのとき[[細川護立]]の[[青山葬儀所]]での告別式に参列中だった川端は、一報を聞きすぐに現地へ駆けつけたが<ref name="chomishi"/><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=ZuffNZQAbpM&list=RDCMUCKcU5f3sXYhnN1DyXVe9Ekw&start_radio=1&t=81s 三島由紀夫 自決 Yukio Mishima No.880_1] 中日映画社</ref>、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった<ref name="chomishi"/>。
[[1971年]](昭和46年)1月24日、[[築地本願寺]]で行われた三島の葬儀・告別式では葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、[[1971年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった<ref name="zenshu35nenpu"/><ref name="oufuku"/>。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に[[世界平和アピール七人委員会]]から、[[日中国交正常化]]の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した<ref name="nenpu"/><ref name="zenshu35nenpu"/>。同月21日に[[志賀直哉]]が死去し、25日には[[立野信之]]の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、[[京都国際会館]]の確保の準備や、[[政界]][[財界]]への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。[[謡曲]]『[[隅田川 (能)|隅田川]]』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している<ref>[[竹西寛子]]「『母』なるものへの旅心」({{Harvnb|反橋|1992|pp=255-262}})</ref>。同月には、世界平和アピール七人委員会が[[第4次防衛力整備計画|四次防]]反対の声明を出した。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の[[著作権]]期間を暗示するような不吉なことを口にしたという<ref>川端香男里「あとがき」(『竹の声桃の花』新潮社、1973年1月)。{{Harvnb|森本・下|2014|p=564}}</ref>。
[[1972年]](昭和47年)1月2日に[[フジテレビ]]のビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、[[草柳大蔵]]、[[飛鳥田一雄]]、[[山崎正和]]と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた[[歌碑]](万葉の碑)への揮毫のために[[奈良県]][[桜井市]]を[[保田與重郎]]と共に訪問し[[三輪山]]の麓の[[檜原神社]]の井寺池に赴き、[[倭建命]]の絶唱である「'''大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し'''」を選んだ<ref>[[水原園博]]「二つの歌碑―展覧化プロデュースの軌跡―」(川端香男里・東山すみ編『川端康成と東山魁夷――響きあう美の世界』求龍堂、2006年9月)</ref><ref name="hiramizu5">[[平山三男]]・[[水原園博]]「川端康成コレクションのすべて 東山魁夷と川端康成、魂の交流」({{Harvnb|太陽|2009|pp=50-53}})</ref>。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の[[ハス|蓮華]]〉という句を記し、〈[[織田信長]]が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ<ref name="maboroshi">「夢 幻の如くなり」(文藝春秋 1972年2月・創刊50年記念号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=534-542}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した<ref name="album6"/>。3月7日に急性[[盲腸炎]]のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の[[ヒーロー|英雄]]・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという<ref name="hiramizu5"/>。4月12日に、[[吉野秀雄]]の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた<ref>[[吉野壮児]]「『眼』の記憶」(湘南文学 特集・川端康成と鎌倉、1992年春)。{{Harvnb|小谷野|2013|p=567}}</ref>。
4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の[[川端香男里|香男里]]が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった<ref>川端香男里「手記 わが父 川端康成」(現代 1972年7月号)。{{Harvnb|森本・下|2014|pp=579-580}}</ref>。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った<ref name="mori116"/>{{refnest|group="注釈"|鹿沢縫子には、穂高町に恋人(中学以来の同級生)がいて、その翌年1973年10月に結婚した<ref name="mori13"/>。}}。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた[[神奈川県]][[逗子市]]の[[逗子マリーナ]]本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた<ref name="mori116"/>。
マンションの自室で、長さ1.5メートルの[[ガス管]]を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス[[自殺]]と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている<ref>川端秀子「夫・川端康成の生と死」(現代 1977年11月号)。{{Harvnb|森本・下|2014|pp=582-583}}</ref>)。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。[[洗面所]]の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口の[[ガスストーブ]]の栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた<ref name="mori116"/>。常用していた[[睡眠薬]]([[非バルビツール酸系|ハイミナール]])中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった<ref name="hasegawa2"/><ref name="mori116"/>。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ<ref name="tomioka10">「終章 虚空に處はしたまへ」({{Harvnb|富岡|2015|pp=225-242}})</ref>、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけの[[ウイスキー]]([[ジョニーウォーカー]])の瓶とコップがあり、[[遺書]]らしきものはなかったという<ref name="shindo38"/>。その突然の死は国内外に衝撃を与えた<ref name="shindo38"/>。
鎌倉の自宅書斎には、『[[岡本かの子]]全集』([[冬樹社]]版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった<ref name="shindo38"/>。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという<ref name="hideko6">「第六章 終章」({{Harvnb|秀子|1983|pp=197-209}})</ref>。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた<ref name="shindo38"/>。
[[ファイル:Kawabata yasunari birth.jpg|thumb|180px|川端康成生誕地の碑]]
翌17日に通夜をし、[[高田博厚]]が来て[[デスマスク]]をとった<ref>高田博厚「死面(デス・マスク)をとる」(新潮臨時増刊・川端康成読本 1972年6月号)。{{Harvnb|小谷野|2013|p=574,601}}</ref>。18日に[[密葬]]が自宅で行われた。政府から[[正三位]]に叙位され、[[勲一等旭日大綬章]]を叙勲された<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|p=574}}</ref>。5月27日には、[[日本ペンクラブ]]、[[日本文芸家協会]]、[[日本近代文学館]]の三団体葬により、「川端康成・葬」が[[芹沢光治良]]葬儀委員長のもと[[青山葬儀所]]で執り行われた。[[戒名]]は「'''文鏡院殿孤山康成大居士'''」([[今東光]]が名付けた<ref>今東光「小説・川端康成」(オール読物 1972年7月号)。{{Harvnb|進藤|1976|pp=502-503}}に抜粋掲載</ref>)<!--、「大道院秀誉文華康成居士」出典が見当たらないので一旦コメントアウト-->。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された<ref name="dokuhonnenpu"/>。この日は偶然にも[[伊藤初代]]の遺骨が、仮埋葬されていた[[文京区]][[向丘 (文京区)|向丘]]2丁目29-1の[[十方寺 (文京区)|十方寺]]から鎌倉霊園に移されていた日であった<ref name="kaori">{{Harvnb|永遠の少女|2014|pp=122-124}}</ref>。霊園の事務所で初めてその事実を知った[[川端香男里]]は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている<ref name="kaori"/>。
8月に遺稿の「雪国抄」が『[[サンデー毎日]]』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された<ref name="dokuhonnenpu"/>。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『[[美しい日本の私―その序説]]』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「[[山の辺の道]]」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された<ref name="hiramizu5"/>。
=== 死後 ===
[[ファイル:Kawabata yasunari museum01s1760.jpg|thumb|180px|茨木市立川端康成文学館]]
[[1973年]](昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって[[川端康成文学賞]]が創設された<ref name="dokuhonnenpu"/>。
[[1974年]](昭和49年)4月16日の[[三回忌]]に、[[伊藤初代]]の父親・忠吉の郷里の[[岩手県]][[江刺郡]][[岩谷堂町|岩谷堂]](現・[[奥州市]][[江刺区]])の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は[[長谷川泉]]で、裏側の銘文は[[鈴木彦次郎]])<ref name="kitei3"/><ref name="hasegawa3">「出世作『伊豆の踊子』の慕情」({{Harvnb|愛と美|1978|pp=39-98}})</ref>。
[[1976年]](昭和51年)5月に、[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]]264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された<ref name="dokuhonnenpu"/>。
[[1981年]](昭和56年)5月20日、大阪の[[住吉大社|住吉神社]]境内に、『反橋』の文学碑が建立された<ref name="hideko3"/><ref>[https://osaka-info.jp/spot/kawabata-yasunari-literature-monument/ 川端康成文学碑](大阪市公式サイト 2015年3月9日に閲覧)</ref>。6月には、長野県[[上水内郡]][[鬼無里村]](現・[[長野市]]鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の[[道元|道元禅師]]の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された<ref name="hideko3"/>。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の[[新嘗祭]]の学校の式の帰り、この地の[[紅葉伝説|鬼女紅葉伝説]]の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった<ref name="hideko3"/><ref name="shinshu">[[川俣従道]]『川端康成と信州』(あすか書房、1996年11月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=571-572}}</ref>。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという<ref name="hideko3"/><ref name="shinshu"/>。
[[ファイル:Relief of Kawabata Yasunari, Izu, Shizuoka.jpg|thumb|180px|天城峠にある川端のレリーフ]]
同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた<ref name="hasebun">「『伊豆の踊子』と新文学碑」([[図書新聞]] 1981年5月23日号)。{{Harvnb|論考|1991|pp=672-674}}に所収</ref>。左半分の碑面には川端の顔のブロンズの[[レリーフ]]がはめこまれている<ref name="hasebun"/>。
[[1985年]](昭和60年)5月に、[[茨木市立川端康成文学館]]が開館した。
生誕110年の年に当たる[[2009年]](平成21年)11月14日に、[[岐阜県]][[岐阜市]]湊町397-2のホテルパークから[[鵜飼]]観覧船乗り場に行く途中の[[ポケットパーク]][[名水]]に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」([[長良川]]に向い、鵜飼船の[[焚き火|篝火]]を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた<ref>「川端文学に触れて…『篝火の像』岐阜市に建立へ」([[岐阜新聞]] 2009年9月29日号)</ref>。
[[2014年]](平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された<ref name="yomiuri">「川端康成 初恋の手紙発見」(読売新聞 2014年7月9日号・22面)</ref><ref name="kabun78">{{Cite web|和書|date=2014-07-08|url=http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/192518.html|title=川端康成が恋人に宛てた手紙見つかる|publisher=NHK「かぶん」ブログ(NHK科学文化部)|accessdate=2016-03-11}}</ref><ref name="bungei">{{Harvnb|恋文|2014|pp=110-121}}</ref><ref>「川端康成 初恋の頃」({{Harvnb|初恋小説|2016}}冒頭)</ref>。
[[2018年]](平成30年)[[茨木市]]によって[[川端康成青春文学賞]]が創設された<ref>{{Cite book|和書|author= |title=最新文学賞事典2014-2018 |date=2019 |publisher=日外アソシエーツ |page=123 |isbn=9784816927706}}</ref>。
生誕120年となる[[2019年]]には、[[姫路市立美術館]]と[[姫路文学館]]で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」が開催され、川端が収集した美術品や直筆原稿、書簡など約280点が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.museum.or.jp/event/94294 |title=生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展 |publisher =アイエム(インターネットミュージアム) |accessdate=2022-10-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/pickup/201909/12698641 |title=川端康成の美意識探る 収集の国宝や直筆原稿展示 姫路 |publisher =兵庫おでかけプラス |date=2019-09-14 |accessdate=2022-10-11}}</ref>。
没後50年となる[[2022年]]、[[日本近代文学館]]では4月2日から6月11日に「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人―」が開催された<ref>{{Cite book|和書|author= |title=川端康成展 人を愛し、人に愛された人 |date=2022 |publisher=公益財団法人日本近代文学館 |isbn=}}</ref><ref name="人を愛し">{{Cite web|和書|url=https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/13574/ |title=没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人― |publisher =日本近代文学館 |accessdate=2022-10-11}}</ref>。編集委員は[[坂上弘]]と[[中島国彦]]がつとめた<ref name="人を愛し" />。川端康成文学館では5月に特別展が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b36440b90701b0ac34c00b092057e6ed3fb6860e |title=大阪で川端康成没後50年展 小説「古都」の苦労話紹介 |publisher=共同通信 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221011125022/https://news.yahoo.co.jp/articles/b36440b90701b0ac34c00b092057e6ed3fb6860e |archivedate=2022-10-11 |accessdate=2022-10-11}}</ref>。[[神奈川近代文学館]]では10月1日から11月27日に特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」が開催され<ref>{{Cite book|和書|author= |editor=公益財団法人神奈川文学振興会 |title=没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人 |date=2022 |publisher=県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会 }}</ref><ref name="虹をつむぐ人">{{Cite web|和書|url=https://www.kanabun.or.jp/exhibition/17003/ |title=特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」 |publisher =神奈川近代文学館 |accessdate=2022-10-11}}</ref><ref name="神奈川新聞20221010">{{Cite news|title=垣間見る文豪の素顔 神奈川近代文学館 没後50年川端康成展 |newspaper=神奈川新聞 |date=2022-10-10 |page=17}}</ref>、約400点の資料が展示された<ref name="神奈川新聞20221010" />。編集委員は[[荻野アンナ]]がつとめた<ref name="虹をつむぐ人" />。ゲーム「[[文豪とアルケミスト]]」とのタイアップ企画もあった<ref name="神奈川新聞20221010" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://bungo.dmmgames.com/news/220922_02.html |title=「神奈川近代文学館×文豪とアルケミスト」タイアップ |publisher =DMM GAMES |date=2022-09-22 |accessdate=2022-10-11}}</ref>。
== 創作の主題・源流 ==
川端は、自身の文学創作に関して、〈恋心が何よりの命の綱である〉とし<ref name="jijoden"/>、作品テーマや理想に関するものを語ったものとして、以下のような言葉がある。
{{Quotation|私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じてゐる。私は[[経典]]を宗教的教訓としてでなく、文学的幻想としても尊んでゐる。「東方の歌」と題する作品の構想を、私は十五年も前から心に抱いてゐて、これを白鳥の歌にしたいと思つてゐる。東方の古典の幻を私流に歌ふのである。(中略)西方の偉大な[[リアリスト]]達のうちには、難行苦行の果て死に近づいて、やうやく遥かな東方を望み得た者もあつたが、私は[[童心主義|をさな心]]の歌で、それに遊べるかもしれぬ。|川端康成「文学的自叙伝」<ref name="jijoden"/>}}
== 評価 ==
=== 特質性・芸術観 ===
『[[新思潮]]』発刊、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』同人参加、[[横光利一]]らと共に[[ヨーロッパ]]の[[アバンギャルド|前衛]]文学を取り入れた新しい文学を志した『[[文藝時代]]』創刊で[[新感覚派]]の代表的作家として頭角を現し、その後は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は[[日本ペンクラブ]]会長、[[1968年]](昭和43年)には、日本人で初の[[ノーベル文学賞]]受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、[[モノローグ]]的、[[和歌]]に繋がる川端の作品自体は、時代の[[思想]]や世相に左右されることのない自身の[[芸術]]観に基づいた澄んだ[[詩]]的なものとなっている<ref name="takeuchi">竹西寛子「川端康成 人と作品」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=179-187}})</ref>。
そのため、[[政治]]的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、[[プロレタリア文学]]の作家であった[[中野重治]]なども、川端の[[掌の小説]]を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、[[林房雄]]が1926年(大正15年)に[[左翼]]運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる<ref name="shindo22">「第二部第二章 昭和文壇」({{Harvnb|進藤|1976|pp=240-255}})</ref>。
[[伊藤整]]は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、[[醜]]の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に[[復讐]]せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている<ref name="itosei">伊藤整「川端康成の芸術」(文藝 1938年2月号)。『私の小説研究』(厚生閣、1939年12月)に所収。「川端康成」(『作家論』筑摩書房、1961年12月)に再編。{{Harvnb|文芸読本|1984}}</ref>。そして、『[[伊豆の踊子]]』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「[[真実]]を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「[[批評]]眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている<ref name="itosei"/>。
伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『[[十六歳の日記]]』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して<ref name="itosei"/>、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の[[経典]]を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している<ref name="itosei"/>。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「[[マルクス主義|マルクシズム]]と[[モダニズム]]との対立と交流の中」に[[批評家]]として立ちながら、「当時の[[政治小説|政治文学]]と[[大衆小説|娯楽文学]]の両方から身をかわし、大正[[文壇]]の創った[[人間性]]に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している<ref name="itosei"/>。
[[三島由紀夫]]は、川端が「温かい[[任侠|義侠的]]な」人でありながらも、過剰な親切や[[善意]]の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「達人」「[[孤独]]」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その[[人生]]は全部「[[旅]]」であり、川端を「[[永遠]]の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している<ref name="tabibito"/>。
{{Quotation|[[松尾芭蕉|芭蕉]]のあの[[幻住庵|幻住菴]]の記の「終に無能無才にして此の一筋につながる」といふ一句は、又川端さんの作品と生活の最後の[[マニフェスト|manifesto]] でもあらうが、川端さんの作品のあのやうな造型的な細部と、それに比べて、作品全体の構成におけるあのやうな[[造型]]の放棄とは、同じ芸術観と同じ生活態度から生じたもののやうに思はれる。たとへば川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがついに[[文体]]を持たぬ小説家であるといふのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。|三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」<ref name="tabibito"/>}}
そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「[[ニヒリズム|虚無的]]にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、[[ギリシャ]]の[[彫刻家]]が不安と混沌をおそれて[[大理石]]に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無の[[海]]の上にただよふ一羽の[[蝶]]」のような、あるいは「一条の[[絹糸]]のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている<ref name="tabibito"/>。また三島は、近代作家において、「[[日本の中世文学史|中世文学]]の秘められた味はひ、その[[絶望]]、その[[終末]]感、その[[神秘]]、そのほのぐらい[[エロティシズム]]を、本当にわがものにした」のは、川端一人だけだと高く評価している<ref name="best3">「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」(毎日新聞 1955年4月11日号)。{{Harvnb|三島28巻|2003|pp=458-460}}に所収</ref>。
[[中村光夫]]は、川端文学の特色を、「日本人の心の動きを純粋な形で見つめたもの」とし、それは作品の語り手(作者の分身)と対象(踊子など)の関係性が、[[能]]の「[[能楽#ワキ方|ワキ]]」と「[[能楽#シテ方|シテ]]」に似ていて、「シテの多くがワキの[[夢]]の所産であり、同時に舞台の支配者である」関係となり、対象が幻でありながらも「[[自然]]に似た存在の重味」を得ているとして<ref name="nakatokushitsu">[[中村光夫]]「川端文学の特質」(『川端康成全集第5巻 雪国』月報1 新潮社、1969年4月)。{{Harvnb|小説18|1980}}月報2に再録</ref>、そこに川端の文学が、単なる[[写実主義|写実]]の[[私小説]]と異なる「現代性」「古典性」を獲得している理由だと解説している<ref name="nakatokushitsu"/>。そして中村は、現実に対する川端の態度を、「誠実な自己批評あるいは自己否定の熱情」だとし、その批評や否定の対極に、川端自身([[知識人|知識階級]]であり男)に無いものを持つ「[[女性]]」(踊子など)、「[[民衆]]あるいは[[日本]]」があるとしている<ref name="nakatokushitsu"/>。
また中村は、三島が川端の人生を「旅」に喩えたことに関連し、川端にとって、旅が人生の象徴であるように、「すべての[[人間関係]]」([[親子]][[夫婦]]も含めた)が〈ゆきずり〉であるという思想が老年まで根を張り、それをすべての事象に川端が実感していることが『[[みづうみ]]』や『[[眠れる美女]]』に顕現化しているとし<ref name="nakamizu">中村光夫「『みづうみ』と『眠れる美女』」(『川端康成全集第11巻 みづうみ・眠れる美女』月報12 新潮社、1962年8月)。{{Harvnb|小説18|1980}}月報2に再録</ref>、『みづうみ』では主人公が、〈ゆきずり〉の人を〈ゆきずり〉のままで別れてしまうことを哀惜し、〈[[この世]]の果てまで後をつけてゆきたい〉という願望の実現の不可能性を語る場面に触れながら、そこで広い意味での〈ゆきずり〉の関係を示唆する川端が、社会生活での人間の存在形式を見つめていると解説している<ref name="nakamizu"/>。
[[勝又浩]]は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が[[幽霊]]に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉<ref name="chiyo"/>と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたま[[トンネル]]を越えて、[[まれびと]]となって[[人界]]を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している<ref name="katsumata">[[勝又浩]]「人と作品――川端文学の源郷」({{Harvnb|一草一花|1991|pp=351-366}})</ref>。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、[[美人]]と少年少女と古今東西の第一級の[[美術]]([[建築]]もふくめて)と、そして[[自然]]です〉と述べていることや<ref>「パリ安息」(朝日新聞PR版 1964年7月12日号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=207-212}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=142-148}}に所収</ref>、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし<ref name="katsumata"/>、川端が『[[美しい日本の私―その序説]]』で、[[歌人]]や文人たちよりも[[仏教]]者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている<ref name="katsumata"/>。
{{Quotation|[[諸行無常]]の自覚を激しく生きた人々とは、言い換えれば、この生が死者たちの上にあること、死の虚無こそがこの世の源郷なのだと知った人たちに他ならない。彼らもまた「永遠の旅人」なのだ。そして、そんな彼らが唯一信じ、[[鏡]]とも、慰めともした自然とは、生と死、[[この世]]と[[あの世]]をつなぐただ一つの媒介なのである。「霊ども」の促しで生きると、[[孤児]]の[[宿命]]を自覚した川端康成の孤独は、「永遠の旅人」たちのもうひとつの伝統に、最後の慰めを求めたのである。|[[勝又浩]]「人の文学――川端文学の源郷」<ref name="katsumata"/>}}
=== 女性の描き方について ===
川端文学の一つの主題である「[[生命]](いのち)への讃仰」、「[[処女]]」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。
{{Quotation|氏の[[エロティシズム]]は、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。|三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」<ref name="tabibito"/>}}
[[川嶋至]]は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のない[[物体|もの]]」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し<ref name="kawashi7"/>、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している<ref name="kawashi7"/>。
川端にとっては、[[犬]]も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「[[地獄]]」を『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』で見せたことについて以下のように解説している<ref name="best3"/>。
{{Quotation|女はイヌのやうな顔をし、イヌは女のやうな顔をしてゐる。作家が自分のうちに発見した地獄が語られたのだ。かういふ発見は、作家の一生のうちにも、二度とこんなみづみづしさと新鮮さで、語られる機会はないはずである。以後、川端氏は、禽獣の生態のやうな無道徳のうちに、たえず盲目の生命力を探究する作家になる。いひかへれば、極度の道徳的無力感のうちにしか、生命力の源泉を見出すことのできぬ悲劇的作家になる。これは深く日本的な主題であつて、氏のあらゆる作品の思想は、この主題のヴァリエーションだと極言してもいい。|三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」<ref name="best3"/>}}
[[羽鳥徹哉]]は、『[[夏の靴]]』の少女、『[[日本人アンナ]]』のアンナ、『[[浅草紅団]]』の弓子、『[[雪国 (小説)|雪国]]』の駒子、『[[古都 (小説)|古都]]』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な[[運命]]に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている<ref name="bini10"/>。
=== 横光利一との比較において ===
[[中村光夫]]は、[[横光利一]]が「[[陽]]」で、その文学に内在する[[劇]]は『[[機械 (小説)|機械]]』に顕著なように「男同志の決闘」である「[[男性]]文学」であるのに対して、川端康成は「[[陰]]」であり、「[[女性]]文学」だとし<ref name="nakamura">中村光夫「川端康成」(『現代作家論』新潮社、1958年10月)。{{Harvnb|文芸読本|1984}}</ref>、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「[[軟体動物]]から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている<ref name="nakamura"/>。そして中村は、[[生田長江]]が指摘したように、横光が「[[播種]]の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している<ref name="nakamura"/>。
{{Quotation|根が素朴で抒情家であり、批評的才能をまったく欠いていた横光氏は、そのときどきの文壇の意識にいつもその制作の態度を直結させていたので、この点で氏の新しい外観の底には大正期の[[私小説]]作家の気風がそのまま生きていたのです。(中略)(横光氏は)実はこの古風な文士気質の所産であったのですが、川端氏は[[批評家]]としても一流であっただけに、文壇の動きの裏がいつもよく見えていたので、時流にたいして逃避のように映る態度が、実際は自分の足下の土をもっとも着実に掘ることになったのです。|[[中村光夫]]「川端康成」<ref name="nakamura"/>}}
三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「[[天性]]」を持った作家であったが<ref name="riichi">「横光利一と川端康成」(『文章講座6』河出書房、1955年2月)。{{Harvnb|三島28巻|2003|pp=416-426}}に所収</ref>、横光は苦闘し、その天性の[[感受性]]をいつからか「[[理知|知的]]」「[[西ヨーロッパ|西欧]]的」なものに接近し過ぎて、「[[地獄]]」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や[[気質]]を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た[[日本]]的[[現実]]、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な[[批評家]]であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。
== 人物像・エピソード ==
=== 黙って凝視する癖 ===
川端康成の鋭い[[眼]]は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれている。[[泥棒]]が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に[[下宿]]していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたなどという、様々な[[逸話|エピソード]]がある<ref name="dorobo"/><ref name="tabibito"/>。
気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ<ref name="tabibito"/>、或る若い初心な女性[[編集者]]は初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある<ref name="tabibito"/><ref name="sunbyo">「現代作家寸描集――川端康成」(風雪 1949年9月号)。{{Harvnb|三島27巻|2003|p=216}}に所収</ref>。川端自身はマイペースで長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に「どうしたんですか」と言ったとされる<ref name="tabibito"/><ref name="sunbyo"/>。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、[[骨董品|骨董]]のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという<ref name="tabibito"/>。
川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている<ref name="surudoi">川端秀子「あの鋭い眼が……――私の夫に就て語る」(文學時代 1929年12月号)。{{Harvnb|進藤|1976|p=252}}</ref>。
{{Quotation|初対面の女性などについて、この鋭い観察眼は長所よりも欠点を即座に感じてしまふのです。どんなに美しい人の前に出ても、あああの人にはこんな欠点があつた、などちやんと見抜いてしまふ。然しそれは決して、殊更にアラを探さうといふ意地悪さからではなくて、かう、[[無意識]]にあの鋭い眼が働くのです。私なども、始終起居を共にしながら、あの鋭い眼光には往々射すくめられるのです。|川端秀子「あの鋭い眼が……」<ref name="surudoi"/>}}
[[堀辰雄]]の夫人・多恵子は「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い<ref>堀多恵子「川端先生のこと」(『川端康成全集第3巻 禽獣』月報 新潮社、1960年5月)。{{Harvnb|進藤|1976|p=251}}</ref>、[[吉行淳之介]]は「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている<ref name="yoshiyuki">[[吉行淳之介]]「川端康成論断片」(『なんのせいか』大光社、1968年8月)。「川端康成伝」「解説」(『現代日本文学館24』文藝春秋、1966年7月)。{{Harvnb|文芸読本|1984}}</ref>。吉行は、川端家を訪れた或る女性が「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている<ref name="makoto"/><ref name="yoshiyuki"/>。
画家の[[草間彌生]]は『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している<ref name="hiramizu2d">平山三男・水原園博「川端康成コレクションのすべて 豊穣の時を迎えて――近代絵画」({{Harvnb|太陽|2009|pp=62-63}})</ref>。
[[梶井基次郎]]は[[湯ヶ島温泉]]で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴っている<ref name="kajiiyodono"/>。
[[三島由紀夫]]も21歳の時に川端の家を初訪問した時の印象を、「氏の目は[[碁]]をさす人の目のやうであつた。対局の、一見落着かぬやうでゐて、カンドコロを指す目であつた。それは又[[剣道]]の達人の目であつた。うごく[[刃]]と共にうごく目であつた。人をみつめる死んだ鋭さではなかつた」とし、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、[[殺人]]犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している<ref name="incho">「川端康成印象記」(レポート用紙 1946年1月27日執筆。封筒表に「はじめて川端康成に会ふの記」)。{{Harvnb|三島26巻|2003|pp=563-566}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|三島由紀夫は川端との会話での印象を以下のように綴っている。
{{Quotation|「[[学習院]]の連中が、[[ジャズ]]にこり、[[ダンス]]ダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つてゐるやうに思はれる。(中略) 僕が「[[羽仁五郎]]は[[雄略天皇|雄略帝]]の残虐を引用して[[天皇]]を弾劾してゐるが、暴虐をした[[君主]]の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と[[反語]]的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。「近頃[[百貨店]]の本屋にもよく[[学生]]が来てゐますよ」と云はれるから、「でも碌な本はありますまい」と云つたら、「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。雨のしげき道を[[鎌倉駅]]へかへりぬ。|三島由紀夫「川端康成印象記」<ref name="incho"/>}}}}。
しかし三島は川端と親しくなった以降では、川端が[[外国人]]との交遊の場で、[[西洋人]]を見つめている様子を「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、[[子供]]が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの[[無垢]]な[[好奇心]]に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或る[[アメリカ人]]の大女のおばあさんが、全く[[文学]]も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている<ref name="tabibito"/>。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している<ref name="sunbyo"/>。
{{Quotation|私がお訪ねしたときに[[トースト]]と[[牛乳]]が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸してたべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。|三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」<ref name="sunbyo"/>}}
[[北條誠]]は川端の眼光について以下のように語っている<ref name="makoto"/>。
{{Quotation|物事の本質を見きわめようとするから、鋭く見えるのだ。相手を深く識ろうとするから「こわく」見えるのだ。こっちが無心で対座していれば、氏の目は日ごろのその「鋭さ」や「恐ろしさ」からは想像できないような、あたたかいやさしさをたたえて静まっている。|[[北條誠]]「川端康成・心の遍歴」<ref name="makoto"/>}}
孫の明成が誕生し喜んだ川端は、明成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち明成は怖がって泣いたという<ref name="hideko4"/>。
なお、川端本人も早くから自分の癖を自覚し、中学時代の日記には自身の容姿へのコンプレックスを吐露すると共に、〈俺ほど人の美貌をまんじりとせず見つめる者はあるまい。そしてのろひうらやみ抱擁せんと常に思ふのである〉とし<ref>「當用日記」(大正5年1月23日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|p=288}}に所収</ref>、自伝小説では〈人の顔をじろじろと見る私の癖は[[盲人|盲]]と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉とも語っているが<ref name="fuboeno2"/>、この癖について[[進藤純孝]]は川端が幼い時の眼底[[結核]]の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している<ref name="shindo22"/>。
=== 温かさと孤独 ===
上記のように川端康成は、[[無口]]と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い<ref name="tabibito"/>。また、訪問客が絶えず、[[新年会]]も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな[[久米正雄]]が「君は全く[[孤独]]だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、[[三島由紀夫]]はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている<ref name="tabibito"/>。
三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、[[清水次郎長]]のような人であるが、その行為はちっとも[[偽善]]的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている<ref name="tabibito"/>。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の[[総理大臣]]」と呼ばれたこともあるという<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|p=575}}</ref>。
[[室生犀星]]は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家[[運]]は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている<ref>[[室生犀星]]「推薦文」(『川端康成全集』新潮社、1959年11月)。{{Harvnb|川嶋|1969|p=12}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=489}}</ref>。
川端は、前衛画家・[[古賀春江]]と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた[[高田力蔵]]を助けて、その面倒を見ていた<ref name="bini10"/>。また、[[藤田圭雄]]によると、[[野上彰 (文学者)|野上彰]]が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『[[アンドルー・ラング世界童話集|ラング世界童話全集]]』の[[印税]]は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|pp=21,522-523}}</ref>。
[[舟橋聖一]]は、[[青野季吉]]が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている<ref name="funahashi">[[舟橋聖一]]「川端さんの寛容」(風景 1961年8月号)。{{Harvnb|太陽|2009|p=15}}</ref>。
{{Quotation|青野季吉が長逝された。(中略)その病室には、大ぜいの見舞客や見舞品が殺到したらしいが、その中で、特に川端さんが、懇ろに、[[花]]を持っていったり、[[掛け軸]]をはこんだりしている様子に、私は思わず、目がしらを熱くした。昭和年代の作家として、やはり川端さんは、ずば抜けて偉いものだと思う……。そう云えば、[[北條民雄]]氏のときも、川端さんの行動に、私などは唯、あれよあれよと、敬服するだけだった。臆病な私は北條民雄と聞くだけでも、近寄れないのに、川端さんはまるで何ンでもないように、往ったり来たりしていた。|[[舟橋聖一]]「川端さんの寛容」<ref name="funahashi"/>}}
=== 従軍記者体験について ===
川端は[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員として、[[大日本帝国海軍]]の特攻基地であった鹿屋基地の取材を行っている<ref name="takado"/>。志賀は、[[大本営]]海軍報道部高戸顕隆海軍主計大尉からの依頼を受けた雑誌「台湾公論」の元編集長吉川誠一軍属から、[[横光利一]]と川端のいずれが、特攻作戦の取材で「日本の心を正確に誤りなく時代に語りつぐこと」ができるか?と問われ、「横光さんは大きくか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と川端を推薦したという。吉川は1945年4月10日に川端宅を訪れて、防空壕掘削作業中の川端に海軍報道班員の引き受けを打診したところ、川端は「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押したうえで応諾した<ref>{{Harvnb|高戸|1994|pp=233-234}}</ref>。
報道班員にはほかに新田潤、山岡荘八が選ばれ、4月23日に3人は[[海軍省]]に呼び出されたが、新田と山岡が大きな陸軍靴を履いていたのに対して、川端は痛々しく痩せた身体に子供靴のような真っ赤な靴を履いていた。その靴は川端によれば[[徳田秋声]]の遺品ということであったが、戦時中の物資不足の折に山岡には羨ましく感じたという<ref>[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日連載第1回目)</ref>。川端ら3人は鹿屋に出発前に[[大本営]]報道部の高戸大尉から、「海軍報道班員は、戦地に赴き、その勇壮なる戦いぶりを書いて国民の志気を高揚させるにある」「ただし、みなさんはこの戦いをよく見て下さい。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か三十年たってでも、あるいは五十年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい」と伝えられた<ref>{{Harvnb|高戸|1994|pp=235-236}}</ref>。
鹿屋で川端らは[[水交社]]に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが<ref name="haisen"/>、3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず[[空襲]]もあり、そのたび山の中の[[防空壕]]に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった<ref name="takado"/><ref name="yamaoka">[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日-10号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=530-534}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=344}}に抜粋掲載</ref>。
川端らが取材していた時期に、鹿屋で特攻出撃のために待機していた[[中央大学]][[法学部]]出身の[[谷田部海軍航空隊]]杉山幸照[[予備士官|予備少尉]]によれば、川端は杉山ら[[学徒出陣]]で予備士官となった大学出身の特攻隊員と食堂などでよく文学談義に花を咲かせたり、隊員からお菓子をもらったりと懇意にしていた<ref>1945年5月2日附「鹿児島県鹿屋市中名上谷海軍水交社氣附川端康成より神奈川県鎌倉市二階堂三二五川端政子あて</ref>。このときの川端は予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せており、書物を渇望する学徒の予備士官のために、鎌倉文庫から本を30-40冊鹿屋に送るよう妻秀子に頼むなどの気配りを見せる一方で<ref>(1945年4月28日附「鹿児島県鹿屋航空基地附ウ四九七川端康成より神奈川県鎌倉市二階堂三二五川端秀子あて」(軍事郵便)</ref>、[[沖縄戦]]で特攻作戦を指揮していた[[第五航空艦隊]]の上層部と話すときには、笑いながら特攻を賛美するような話をしていたので、杉山はその上下で態度を変える川端に対して「彼(川端)ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快くは感じていなかった」と痛烈に批判し、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。また、川端は神国日本を信じて、やがて[[神風]]が連合軍艦隊を全滅させる、という過去の歴史の繰り返しを期待する“幼稚”な思想を特攻隊員らと共有していたと杉山は回想している<ref name="杉山 1979 190-191">{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。
川端は当時の心境を「[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と回想し<ref name="haisen"/>、川端に特攻の記事は書かなくてもいいと伝えた大本営参謀の高戸は戦後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と考えていたが<ref name="takado"/>、川端はこの取材により、[[朝日新聞]]の[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、下記のような称賛の談話を寄せている。
{{Quotation|神雷(桜花)こそは実に恐るべき兵器だ、この新鋭武器が前線に来た時、わが精鋭は勇気百倍した、これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ!神雷特別攻撃隊の意気は今天を衝いておる。<br />親飛行機の胴体に抱かれて行く、いはば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の型をしてゐて色彩も優雅で全く可愛い、ところが敵艦発見と同時に猛然と親の懐を離れて神雷兵器は一瞬にして凄まじい威力を持つ特攻兵器となる、<br />したがって敵がこの神雷を恐れることは非常なものだ、身の毛もよだつといつてゐるといふが、その通りだらう、神雷さへ十分に威力を発揮できたらすべての敵艦はことごとく葬り去られ神風の再現ができる、<br />親飛行機と戦闘機の増産、これが今神雷に一番大切なことだ、これさへできれば神雷は数百数千の稲妻のごとく敵艦に殺到してすべてを沈めさるであらう、飛行機を作れ、飛行機を作れ、神雷による勝機は今目前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもつて生産戦に戦ひ抜かう、爆撃に決して屈するな、私は心からお傳したい。|川端康成「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」([[朝日新聞]] 1945年6月1日)}}
しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月末には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から[[茨城県]][[筑波郡]][[つくば市|谷田部町]]の本隊への帰還を命じられたときに、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る[[零式輸送機]]に同乗することができた<ref name="杉山 1972 194"/>。途中、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂で[[カレーライス|ライスカレー]]を奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという<ref name="sugiyama">{{Harvnb|杉山|1972}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=534-538}}</ref>。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している<ref name="杉山 1979 190-191"/>。
杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=197}}</ref>、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している<ref name="sugiyama"/>。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした作品『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である<ref>{{Harvnb|李聖傑|2010|p=107}}</ref>。
川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日には[[日本放送協会|NHK]]が全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=398}}</ref>。結局、山岡は神雷部隊が[[松山海軍航空隊|松山基地]]や[[宮崎県]][[日向市]]にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=431}}</ref>。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の[[岡村基春]]大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した[[野中五郎]]大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった、当時では貴重品ばかりの大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=548}}</ref>。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いている<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=550}}</ref>。
敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる<ref>海軍神雷舞台戦友会編集委員会編・著『海軍神雷部隊 最初の航空特別攻撃隊』(海軍神雷舞台戦友会、1996年3月)</ref>。そして鹿屋での体験を基にして作品『生命の樹』を書き上げたが、一部分が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により削除されたという<ref name="hideko5"/>。
=== その他 ===
[[洛中]]に現存する唯一の蔵元[[佐々木酒造]]の日本酒に「この酒の風味こそ[[京都]]の味」と作品名『[[古都 (小説)|古都]]』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で[[桑原武夫]]([[京都大学|京大]][[名誉教授]])と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと桑原は回想している<ref>[[桑原武夫]]「川端康成氏との一夕」(文藝春秋、1972年6月号掲載)、『人間素描』(筑摩書房、1976年6月)に所収</ref>。
川端は食がほそかったが、その分味への拘りは強く、かなりの美食家であった。川端が馴染みとしていた飲食店は数多いが、なかでも鎌倉の自宅の近くにあった[[ウナギ|うなぎ]]料理の名店「つるや」にはかなりの頻度で訪れており、晩年には出前を頼んでいたほどであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/1030/|title=川端康成、白洲正子、織田作之助…が通った名店を訪ねて |publisher=[[小学館]] |accessdate=2023-11-17}}</ref>。東京にも馴染みの店があり、[[銀座]]の[[みゆき通り]]にあった洋食屋「銀座キャンドル」にもよく通っていたという。この店のメニュー「[[チキンバスケット]]」を特に好み、三島由紀夫と来店することもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/198254|title= チキンバスケット発祥!三島由紀夫が通った 「銀座キャンドル」が麻布十番に復活オープン!|publisher=[[ソーシャルワイヤー株式会社]] |accessdate=2023-11-17}}</ref>。
[[日本国有鉄道]](国鉄)が1970年(昭和45年)から始めた[[ディスカバー・ジャパン]]の[[キャンペーン]]において、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自ら[[ポスター]]用に揮毫したという<ref>「ディスカバー・ジャパンの衝撃、再び」([[Voice (雑誌)|Voice]] 2010年10月号)</ref>。
1971年(昭和46年)6月に、[[日立グループ|日立]]の[[セントラルヒーティング]]のテレビ[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演して、世間を驚かせたという<ref>「川端康成氏CM出演の波紋!」([[ヤングレディ]] 1971年7月号)。{{Harvnb|小谷野|2013|p=557}}</ref>。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された<ref name="hachiro">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H2T_U5A220C1CR0000/ |title=川端康成のカラー映像見つかる テレビCM用か|newspaper=日本経済新聞|date=2015-02-24}}</ref>。その5分ほどの映像には、詩人の[[サトウハチロー]]による川端についての詩の朗読がつけられている。サトウの次男の佐藤四郎は発見時の取材に「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と述べている<ref name="hachiro"/>。
1971年(昭和46年)の[[1971年東京都知事選挙|都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで[[按摩]]を取っている時に突然と起き上がって扉を開け、「やあ、[[日蓮]]様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び出していって、「おう、[[三島由紀夫|三島]]君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち早々と逃げ帰ったという<ref name="jisatsu"/><ref>「三十二 三島の霊と話をしていた川端康成」({{Harvnb|岡山|2014|pp=159-163}})</ref>。その話を聞いた[[今東光]]も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている<ref name="jisatsu"/>。
== 美術コレクション・愛用品など ==
川端は、古[[美術]][[蒐集家]]として知られているが、小学校の時には[[画家]]になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも[[書道|書]]を嗜み、[[日本棋院]]内にある対局部屋「[[幽玄の間]]」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の[[掛軸]]をはじめ、いくつもの書を遺している<ref name="taiyo"/>。蒐集は古美術だけでなく、[[古賀春江]]、[[キスリング]]、[[石本正]]、[[梅原龍三郎]]、[[熊谷守一]]、無名の新人画家だった[[草間彌生]]の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている<ref name="taiyo"/><ref name="hiramizu2d"/>{{refnest|group="注釈"|川端が1955年、当時新進芸術家であった草間彌生の作品を購入したことについては、草間の自伝には言及されているが、川端自身は草間の作品についての文章を残しておらず、どのような作品を購入したのかは一般には知られていなかった。2004年、東京国立近代美術館が草間の展覧会を開催するに際して調査した結果、『雑草』(1953年)と『不知火』(1955年)という2つの作品が川端康成記念会に保管されていることがわかった<ref name="geijutsu">「特集 おそるべし川端康成コレクション」([[芸術新潮]] 2007年2月号)</ref>。}}。また、[[夏目漱石]]の[[五言絶句]]、[[北原白秋]]の自作歌、[[田山花袋]]の七絶詩、[[武者小路実篤]]の自作絵画、[[芥川龍之介]]の書簡([[室生犀星]]宛て)、友人だった[[横光利一]]の書など、作家の直筆物も収集していた<ref>「川端邸 文豪の書画続々」(朝日新聞、2017年1月25日号・朝刊38面)</ref>。書や絵には[[人格]]や[[魂]]がこもると考えていた川端は[[美術品]]について以下のように語っている。
{{Quotation|美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします。(中略)美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が[[過去]]へ失つて来た多くのもの、[[現在]]は失はれてゐる多くのものを知るのであります。|川端康成「反橋」<ref name="sorihashi">「反橋」(風雪別冊 1948年10月号)。{{Harvnb|小説7|1981|pp=375-386}}、{{Harvnb|反橋|1992|pp=7-20}}に所収</ref>}}
川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]の小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅[[三鈷杵]]』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった<ref name="geijutsu"/>{{refnest|group="注釈"|川端旧蔵の金銅三鈷杵は奈良国立博物館の所蔵となっている。(参照:[http://www.narahaku.go.jp/collection/1406-0.html 収蔵品データベース(奈良国立博物館)] )}}。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり[[横光利一|横光]]君の手を思ひ出した〉と語り<ref>「あとがき」〈のち「天の象徴」と改題〉(横光利一『寝園』細川書店、1950年3月)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=134-148}}に所収。{{Harvnb|太陽|2009|pp=56-57}}に抜粋掲載</ref>、横光が亡くなる何日か前の手を想起しながら、〈ひどく衰へて寝てゐた横光氏は手で思考と表現とを助けようとするかのやうであつた〉と説明している<ref>「解説 横光利一」(『日本の文学37・横光利一』中央公論社、1966年4月)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=177-192}}に所収</ref>。
1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで[[胆石]]で入院していた際には、病院から初めて外出した[[クリスマス・イブ]]の日に古美術店へ行き、〈[[聖徳太子]]は日本の[[キリスト]]ではないか、[[使徒]]ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像、太子2歳像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという<ref>「聖徳太子幼像 口絵解説」(『川端康成全集第5巻 雪国』新潮社、1960年6月)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=466-475}}に所収。{{Harvnb|太陽|2009|pp=58-59}}に抜粋掲載</ref>。
[[中国の陶磁器|中国磁器]]の[[汝州]]の『汝官窯[[青磁]]盤』を川端が手に入れた時の次のような挿話がある。この青磁盤は古美術商・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから[[高麗青磁]]だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したもので、繭山龍泉堂の人も汝官窯青磁の実物はむろん見たことがなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという<ref name="kuchie7">「口絵解説」(『川端康成全集第7巻 女性開眼』新潮社、1949年9月)。{{Harvnb|太陽|2009|pp=70-71}}に抜粋掲載</ref>。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3点しかないものだと確認された<ref name="kuchie7"/><ref name="hiramizu2f">平山三男・水原園博「川端康成コレクションのすべて 豊穣の時を迎えて――茶道具・うつわ類 美を見出す眼」({{Harvnb|太陽|2009|pp=70-71}})</ref>。ところが川端はその後、『[[埴輪]] 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった<ref name="hiramizu2f"/>{{refnest|group="注釈"|川端旧蔵の汝窯青磁盤は東京国立博物館の所蔵となっている。(参照:[http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2016/04/15/2%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%B1%9D%E7%AA%AF%E9%9D%92%E7%A3%81%E7%9B%A4/ 1089ブログ(東京国立博物館)2016年4月15日])}}。
[[浦上玉堂]]の代表作『[[東雲篩雪図]]』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた<ref name="touun"/><ref>「凍雲篩雪(浦上玉堂)口絵解説」(『川端康成全集第3巻 禽獣』新潮社、1960年5月)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=466-475}}に所収。{{Harvnb|太陽|2009|pp=83-84}}に抜粋掲載</ref>。それ以前に入手した[[与謝蕪村]]・[[池大雅]]の合作『[[十便十宜]]』と共に、川端入手後に[[国宝]]に指定された逸品である<ref>「凍雲篩雪(浦上玉堂)口絵解説」(『川端康成全集第7巻 再婚者』新潮社、1970年1月)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=476-489}}に所収。{{Harvnb|太陽|2009|p=85}}に抜粋掲載</ref>。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に[[古代]]の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている<ref name="sorihashi"/>。
愛用品の時計には、[[ウォルサム]]があり、「リバーサイド」という[[懐中時計]]に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している<ref name="geijutsu"/><ref>「川端康成、満州を撮る」({{Harvnb|太陽|2009|pp=112-114}})</ref>。
鎌倉に来てから買い求めた[[鎌倉彫]]の赤い机を書斎に置いていた<ref name="鎌倉文学館図録">{{Cite book|和書|author= |editor=鎌倉市芸術文化振興財団・国際ビルサービス共同事業体 |title=川端康成 美しい日本 鎌倉文学館 特別展 開館35周年記念 |date=2020-10-04 |publisher=鎌倉市芸術文化振興財団・国際ビルサービス共同事業体 |pages=4-5 |isbn= |NCID=BC03853926}}</ref>。鎌倉彫の老舗[[寸松堂]]の初代[[佐藤宗岳]]が大正末期から昭和初期ごろに作ったものとされ、脚部に菊文様が彫られている<ref name="鎌倉文学館図録" />。この机は[[鎌倉文学館]]に所蔵されている<ref>{{Cite book|和書|author= |editor=鎌倉市芸術文化振興財団・国際ビルサービス共同事業体 |title=川端康成 美しい日本 鎌倉文学館 特別展 開館35周年記念 |date=2020-10-04 |publisher=鎌倉市芸術文化振興財団・国際ビルサービス共同事業体 |page=64 |isbn= |NCID=BC03853926}}</ref>。
'''川端の旧蔵品'''
<gallery>
浦上玉堂《東雲篩雪図》19世紀、川端康成記念会.jpg|浦上玉堂『凍雲篩雪図』(川端康成記念会蔵、国宝)
The Chobenzu by Ike Taiga.jpg|『十便十宜』のうち「釣便」(池大雅筆)(川端康成記念会蔵、国宝)
Huang Chuping by Sesshu (Kyoto National Museum).jpg|雪舟『黄初平図』[[京都国立博物館]]蔵、重要文化財{{refnest|group="注釈"|この絵は昭和30年6月22日付けで川端康成蔵として重要文化財に指定されたものである<ref>昭和30年6月22日文化財保護委員会告示第33号</ref>。}}
青磁盤 Dish, Celadon glaze.jpg|汝官窯青磁盤([[東京国立博物館]]所蔵)
Gilt-bronze Three-pronged Vajra Pestle, Nara National Museum 1406-0.jpg|金銅三鈷杵([[奈良国立博物館]]所蔵)
</gallery>
== 死因について ==
死亡当時、死因は[[自殺]]と報じられ、それがほぼ既定となっている。その一方で、[[遺書]]がなかったことや、死亡前後の状況から事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。
;自殺説
#社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「[[もののあはれ]]」の世界に殉じたという文学的見解<ref name="okubo"/>。
#:川端は[[日本の降伏|敗戦]]後に、〈日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである〉<ref name="aishu"/>という決意のもとに作家活動を続け、『[[美しい日本の私―その序説]]』では、自身にも脈々と受け継がれている古の日本人の心性を語っており、そういった日本人の心性であった「もののあはれ」の世界が、歴史の必然によって近代的世界にとって代わるのならば、自身もその滅びてゆく世界に殉じるしかないと考えていた<ref name="okubo"/>。
#:自殺をする年に発表された随筆『夢 幻の如くなり』には、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の[[ハス|蓮華]]〉の歌もあり、最後には、〈[[織田信長]]が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結ばれていた<ref name="maboroshi"/>。また、この年の1月5日に行われた[[文藝春秋社]]の[[新年会]]における最後の講演も、「私もまだ、新人でいたい」という言葉で締めくくられていた<ref name="album6"/><ref>「新人でゐたい」([[諸君!]] 1972年6月号)。{{Harvnb|アルバム川端|1984|p=96}}</ref>。
#:遺書はないが、生前に、〈[[マリリン・モンロー]]の遺書がないというのは、無言の死は無言の言葉だと考えますね〉と語っていた<ref name="kikunaka">「川端康成氏に聞く(三島由紀夫と中村光夫との座談会)」([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000297541-00 三島由紀夫編『文芸読本 川端康成〈河出ペーパーバックス16〉』河出書房新社、1962年12月)]。{{Harvnb|三島39巻|2004|pp=379-400}}に所収</ref>。
#交遊の深かった[[三島由紀夫]]の[[切腹|割腹]]自殺([[三島事件]])に大きな衝撃を受けたという見解<ref>三枝康高「三島由紀夫と川端康成」(解釈と鑑賞 1972年12月号)。{{Harvnb|三島事典|2000|p=477}}</ref><ref name="hasejikuu">「時空を超越するもの」(解釈 1972年7月号)。{{Harvnb|論考|1991|pp=658-669}}に所収</ref><ref name="takita21">「21 『[[わが友ヒットラー]]』」({{Harvnb|瀧田|2002|pp=183-194}})</ref>。
#:川端は葬儀委員長でもあった。川端は、〈三島君の死から私は[[横光利一|横光]]君が思ひ出されてならない。二人の[[天才]]作家の[[悲劇]]や[[思想]]が似てゐるとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうか〉と述べていた<ref name="chomishi"/>。
#:三島死後に[[林房雄]]が書いた追悼本『悲しみの琴』に寄せた序文に、〈冬の雪の日、雨の日、曇りの日、私は湘南の海を見る。まつたくひとりの部屋で、「悲しみの琴」を読みつづけ、自分の言葉はないのである〉と、逗子マリーナのマンションの部屋でそれを綴っていたことが示されている<ref>川端康成「『悲しみの琴』に献辞」({{Harvnb|林房雄|1972}}序文)。{{Harvnb|雑纂1|1982|pp=186-190}}に所収</ref>。
#:三島の死にようが川端の心に衝撃を与えたことは、三島の才能を発掘し評価した川端の心事であった<ref name="hasejikuu"/>。両者は、「巨視的には戦後を否定する底辺の精神構造」で繋がっており、「夭折の美学」に惹かれる心は、川端の裡にも生き残っていたため、川端もまた、[[谷崎潤一郎]]や[[志賀直哉]]のような「作家の[[定年]]を享受すること」の途をあえて選ばなかった<ref name="hasejikuu"/>。
#老醜への恐怖。
#:寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった[[祖父母|祖父]]・三八郎を世話していた15歳の時の記憶が、老醜への具体的な恐怖となっていた(祖父の看病のことは短編『[[十六歳の日記]]』で描かれている)<ref name="hayashi1">「川端康成の生と死」({{Harvnb|林武|1976|pp=9-16}}</ref>。
#川端が好きだった家事手伝い兼運転手の女性(仮名・鹿沢縫子)が辞めることを告げられ、もっといてほしいと懇願したが、彼女が長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に帰ることになったからという、[[臼井吉見]]の小説『事故のてんまつ』([[筑摩書房]]、1977年)からの見解<ref name="usui">[[臼井吉見]]『事故のてんまつ』(筑摩書房、1977年6月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=569-583}}、{{Harvnb|森本・下|2014|pp=593ff.}}</ref><ref>[[小谷野敦]]『私小説のすすめ』([[平凡社]]新書、2009年7月)p.195</ref>。鹿沢縫子は、伊藤初代同様に父母との縁が薄く、実父の死後、義母が再婚し、信州(長野県)の[[植木屋]]が養父となっていた娘で、川端が自宅のお手伝いとして引き取っていた女性である<ref name="mori13"/>。一説([[小谷野敦]])によると、川端は縫子に強く惹かれていたという<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|pp=569-572}}</ref>。
#:この『事故のてんまつ』は、遺族より[[名誉毀損]]で提訴を受け、和解の際の条件により絶版となった。研究本的な観点からも、事実と全く異なる的外れの情報(川端や縫子、[[伊藤初代]]が部落出身者だという虚偽)や、その女性本人から直接に取材し聞き取っていない不備などを川端研究者からも指摘されている<ref name="mori13"/>。また、[[部落解放同盟]]長野県連合会からも差別を助長する本として糾弾を受けた<ref name="mori126">「第十二章 五年後の『事故のてんまつ』 第六節 『事故のてんまつ』の部落差別」({{Harvnb|森本・下|2014|pp=637-679}})</ref>。なお、この鹿沢縫子本人に、2012年(平成24年)時点で接触を試みた[[森本穫]]によると、縫子は面談取材を一切断わり、『事故のてんまつ』については、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫を通じて伝えている<ref name="mori13"/>。ただし、縫子が川端の死の直後、養父に「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、総合的な観点から事実であろうと森本は検証している<ref name="mori13"/>。
#[[ノーベル文学賞]]受賞後に、小説の創作が思うようにならずに止まってしまったことなど、賞受賞による多忙や重荷による理由。川端は受賞後に〈この受賞は大変[[名誉]]なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、いしゅくしてしまうんではないかと思っています〉と述べていた<ref name="sanada"/>。連載していた『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』も、受賞決定の10月から途絶えてしまい、未完となった<ref name="sanada"/>。
#[[盲腸炎]]の手術をしたなど体調が思わしくなかったことと、[[立野信之]]、[[志賀直哉]]、親しかった[[従兄]]・秋岡義愛の死が立て続けにあり、身も心も揺さぶられて気がめいってしまい、一瞬の魔がさしてしまったという理由<ref name="hideko6"/>。
;事故死説
#以前より[[睡眠薬]]を常用していた。死亡時に睡眠薬([[非バルビツール酸系|ハイミナール]])中毒の症状があったとされる<ref name="hasegawa2"/>。
#川端が[[日本ペンクラブ]]会長時に信頼を寄せた副会長だった[[芹沢光治良]]は、追悼記『川端康成の死』で、自殺ではなかったとする説を述べている<ref>[[芹沢光治良]]『人間の意志』(新潮社、1990年7月)</ref>。川端は、同年秋に開催の日本文化研究国際会議(日本ペンクラブ主催)の準備でも責任者として多忙であった。
== 家系・親族 ==
各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
=== 祖先 ===
[[鎌倉幕府]]第2代[[執権]]・[[北条義時]]([[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]]・[[源頼朝]]の[[正室]]・[[北条政子]]の弟)、第3代執権・[[北条泰時]]の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・[[川端舎人助道政]]が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である<ref name="tomie" /><ref name="juroku" /><ref name="keizu" /><ref name="kiteikakei" /><ref name="jijoden" />。
=== 親族 ===
;祖父・川端三八郎(庄屋、戸長、易学研究)
:[[天保]]12年([[1841年]])4月10日生{{refnest|group="注釈"|三八郎の生れ年に関しては、「幾歳幾月調」「明治八年十二月 国民軍取調誕生表」で調査すると、前年の天保11年(1840年)とあるため、こちらの年だという見解もある<ref name="sasagawa"/>。}} – 1914年(大正3年)5月25日没
:吉川定右衛門(?–1849年没)とマサの次男として出生。兄は直蔵(?–1873年没)。異母妹はシュウ(?–1915年没)。祖父は吉川源右衛門。
:吉川家は、現在の[[大阪府]][[茨木市]]西河原にある旧家で、代々二千石の造り酒屋(自分の田で収穫した酒米で醸造)。
:祖母・峯は川端家出身で、川端家27代目・川端三右衛門幾康(1785年生-1861年没)の姉。幾康の長男で川端家28代目・時次郎(1817年生-1840年没)が天保11年(1840年)7月13日に24歳で死去したため、峯の幼い孫・吉川三八郎が川端家に[[養子]]に貰われ、幾康の長男として入籍し、[[文久]]元年(1860年)1月11日に川端家を相続。ちなみに幾康と峯の弟・川端玄了は、黒田家のかもと結婚し、2代目・黒田善右衛門となる。
:川端家の原籍地は、大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市宿久庄1丁目11-25)。檀那寺の[[極楽寺 (茨木市宿久庄)|極楽寺]]は、もとは如意寺の一坊舎だった。
:三八郎は、[[嘉永]]7年(1854年)頃に見習[[庄屋]]となり、安政6年(1859年)に庄屋となる。明治になってからは戸長を務めるが、[[茶]]の栽培や[[寒天]]製造などの事業に失敗して、田や山を二束三文で売る。[[易学]]に凝り、[[家相]]論「講宅安危論」を出版しようとしたが叶わず。漢方薬研究もし、「東村山龍堂」という屋号で[[内務省 (日本)|内務省]]から許可を得た数種類の[[漢方薬]]を販売しようとしたが、薬包紙を印刷したまでで立ち消えとなる。雑記「要話雑論集」もある。
:檀那寺(極楽寺)の住職・服部峯雲和尚から[[和歌]]を学び、「萬邦」と号していた。随想集「要話雑論集」の原稿や、「石堂」と号して描いた画手本を遺している。
:三八郎は、黒田孝(1837年生-1860年没)と結婚し、長男・恒太郎を儲けるが、まもなく孝が次の出産時に[[嬰児]]と共に死去したため、孝の妹・カネを後妻とする。カネとの間に4人の子(栄吉、富三郎、ほか)を儲ける。1871年(明治4年)生れの富三郎は1878年(明治11年)に夭折(7歳没)。
;祖母・カネ
:天保10年([[1839年]])10月10日生 – 1906年(明治39年)9月9日没
:旧姓は黒田。2代目・黒田善右衛門(玄了)(1784年生-1852年没)とかもの次女。4人姉弟(孝、カネ、民三郎、トミ)の2人目。弟・民三郎は3代目・黒田善右衛門。妹・トミは上村家に嫁ぐ。
:黒田家は、[[大阪府]][[西成郡]]豊里村大字3番(現・大阪市[[東淀川区]]豊里6丁目-2-25)の資産家。「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれ、広壮な家を構える大[[地主]]。現在地は[[関西電力]]の寮がある<ref name="shindo12">「第一部第二章 出生」({{Harvnb|進藤|1976}})</ref>。
:カネの母・かもは黒田家出身で、父・玄了は川端三平の次男で、黒田家に婿養子となった人物。玄了と川端三右衛門幾康(三八郎の養父)の弟。
:カネは、姉・孝の死去により、川端三八郎の後妻となる。最初の子は生後すぐ亡くなり、第二子の女児は6歳で夭折。第三子が栄吉で、第四子の富三郎は7歳で夭折。
;父・川端栄吉(医師)
:[[1869年]](明治2年)1月13日生 – 1901年(明治34年)1月17日没
:川端三八郎とカネの次男(異母兄・恒太郎が長男)。別名は「良仁」。
:[[東京市]][[本郷区]]湯島の医学校・[[済生学舎]](現・[[日本医科大学]]の前身)を卒業。1891年(明治24年)5月に医術開業試験に合格し、[[開業医]]の資格を得る。
:大阪府東成郡[[天王寺]]村桃山(現・大阪市[[天王寺区]]筆ヶ崎)の桃山避病院の[[勤務医]]となり、のちに[[難波]]北詰(現・[[北区 (大阪市)|北区]]若松町)の高橋医院の副院長の経歴あり。肺を病んでおり虚弱であった。[[日本橋区]]西河岸町の西宮淳園塾にいたとされ、浪華の[[儒家]]寺西易堂に学び、[[漢詩]]、[[文人画]]を習った。「谷堂」を号した。
:[[兵役]]免除の特典(長男は免除される)を利用するため一時、名目上の養子で宮本姓としていたが、1894年(明治27年)に異母兄・恒太郎の死去により、恒太郎の妻であった黒田ゲンと事実上の夫婦となり長女・芳子を儲けたため、1896年(明治29年)6月5日に川端姓に戻った。黒田ゲンは黒田分家を廃家とし、1898年(明治31年)7月9日に川端栄吉とゲンは結婚入籍。その後、長男・康成を儲ける。
:栄吉は、1897年(明治30年)9月1日に、大阪市[[西区 (大阪市)|西区]]北堀江下通6丁目第30、31番屋敷に医院を開業。翌1898年(明治31年)5月に[[東区 (大阪市)|東区]]安土町2丁目97番屋敷(現・[[中央区 (大阪市)|中央区]]安土町)に転移。同年9月に[[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区[[天神橋 (大阪市)|天神橋]])に転移。その後、西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・[[東淀川区]]大道町)に転移し、その地で肺病([[結核]])のため死去(32歳没)。戒名は「智光院礼誉義岳良仁禅定門」。
;母・ゲン
:[[元治]]元年([[1864年]])7月27日生 – 1902年(明治35年)1月10日没
:黒田家出身。3代目・黒田善右衛門(民三郎)(1841年-1880年)とエンの長女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の2番目。川端カネとは、[[伯母]]と[[姪]]の関係となる。
:1887年(明治20年)に分家し、1889年(明治22年)10月に川端恒太郎(川端家の長男)と結婚するが、恒太郎の死去により、その異母弟・川端栄吉と再婚。一男一女(芳子、康成)をもうける。その後、夫・栄吉と同じ結核で死去(37歳没)。
;姉・芳子
:[[1895年]](明治28年)8月17日生 – 1909年(明治42年)7月21日没
:川端栄吉とゲンの長女。両親の死後、母親のすぐ下の妹・タニの婚家・秋岡家に預けられ、弟・康成と離ればなれとなる。タニによると、素直でおとなしく、控え目な性格であったとされる<ref name="fuboeno3"/>。1909年(明治42年)7月16日に高等小学校の下校後、熱病にかかり、5日後に心臓麻痺のため13歳で夭折。
;伯父:恒太郎(村長)
:[[安政]]5年([[1858年]])7月5日生 – 1894年(明治27年)4月14日没{{refnest|group="注釈"|恒太郎の死亡日については、[[羽鳥徹哉]]は5月14日としているが、[[笹川隆平]]は墓石で確認し、4月14日としている<ref name="sasagawa"/>。}}
:川端三八郎と孝の長男。栄吉の腹違いの兄。生後間もなく実母・孝が死去し、叔母のカネが継母となる。改名前の名は「常太郎」。
:1885年(明治18年)5月、27歳の時に、『清国道中里程図誌』という書物を二酉楼から発刊した。
:[[家督]]を異母弟・栄吉に譲り、黒田ゲンと1889年(明治22年)10月10日に結婚。黒田家に入夫。西成郡豊里村3番の[[村長]]となる。ゲンとの間に子供のないまま35歳で死去。
;伯父・黒田秀太郎
:[[文久]]2年(1862年)3月4日生 – 1918年(大正7年)4月没
:ゲンの兄。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの長男。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の1番目。
:前妻との間に、長男・忠義を儲ける。忠義は松本家の養子となり、茶舗松本軒の主人となる。後妻・コト(旧姓・若林)との間には、二男四女(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)を儲ける。次男・伝治(1901年生)は、[[梶井基次郎]]と中学の同級生で、その後、[[大阪商科大学 (旧制)|大阪高商]]へ首席で入学。
:複数の女性(妾)との間の[[庶子]]([[婚外子]])には、ソノ、マス蔵、豊蔵、アイ、定二郎がいた。
;従兄・黒田秀孝
:1896年(明治29年)11月 – 1969年(昭和44年)6月28日没
:黒田秀太郎とコトの長男。6人姉弟(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)の3番目。ゲンの[[甥]]。
:1920年(大正9年)1月16日に権野富江(1896年生-1983年没)と結婚し、三女(和子、昭子、政子)を儲ける。妻・富江は、勝雅の妹。勝雅は小寺家の養子となる。
:秀孝は、酒は全く飲めなかったが食道楽着道楽で、毎晩のように[[人力車]]で大阪の[[北新地]]に遊びに行っては帰る遊び人<ref name="kiteishinseki"/>。よその女に産ませた男児・[[鬼追明夫]]もいる。鬼追明夫は、のち[[大阪市立大学]]を卒業し、[[弁護士]]となって[[日弁連]]会長、[[整理回収機構]]社長を務める。
:秀孝の遊蕩や[[投機]]の失敗で「黒善」は没落。1925年(大正14年)に家屋敷を手放し、西成区田畑通2丁目11番地へ転居。
:富江と1935年(昭和10年)頃に別居し、三女・政子は富江が連れていった。1939年(昭和14年)に富江と離婚後、秀孝は1945年(昭和20年)に再婚する。再婚相手のスミ子は[[阿倍野区]]阪南町2丁目でアパート常盤荘を営む。
;従姉・本川タマ
:1892年(明治25年)1月5日 – 1914年(大正3年)9月25日没
:黒田秀孝の2番目の姉。通称は「玉子」。[[琴]]が上手で、行く先でよく琴歌を所望され、近所の人たちから「三番[[小野小町|小町]]」と言われるほどの美人だった<ref name="kiteihaha">「川端康成、母の秘密と身替りの母」(国語と国文学 1974年6月号)。{{Harvnb|基底|1979|pp=85-112}}に所収</ref>。
:1913年(大正2年)1月13日に、[[兵庫県]][[姫路市]]小利木町出身の久留米[[師団]][[騎兵]][[中尉]]・本川治郎に嫁ぎ、[[久留米市]]に居住。本川治郎は、康成の習作『H中尉に』に描かれた人物。タマが姫路の本川の本家に来ると、その美貌を見るため、近隣の人々が黒山をなして集まったと言われている<ref name="kiteihaha"/>。タマは夫の出征中に、胎児(2人目の子)と共に22歳で死亡。康成はその死を悼み、『白骨を迎ふ』『弔詩』を書いた。
:康成は幼い頃、女学生だったタマに手を引かれて、その白い〈[[おとがい|おとがひ]]〉を下から見上げた記憶や、一緒に[[住吉大社|住吉]]に詣で[[住吉反橋|反橋]]を見たことを自伝的小説に書いており<ref name="shounen"/><ref name="abura"/>、タマのイメージは、他の作品(『花のある写真』『反橋』『住吉』『[[山の音]]』など)にも生かされている<ref name="harazen"/><ref name="kiteihaha"/><ref name="mori67">「第六章 『住吉』連作――〈魔界〉の門 第七節 痛恨と断念『隅田川』」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=770-802}})</ref>。
;叔母・秋岡タニ
:[[慶応]]3年(1867年)生 – 1925年(大正14年)1月5日没
:ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの次女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の3番目。
:[[秋岡義一]](1863年生-1925年3月31日没)に嫁ぎ、二男一女(義雄、義愛、俊子)を儲ける。秋岡家は大阪府[[東成郡]]鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]]蒲生)にある素封家。長男の義雄は早世。義一には庶子(貞子、良子)もあった。
:秋岡義一は、1888年(明治21年)に、私立天王寺[[養蚕]]伝習所を設立し、翌年1889年(明治22年)、27歳で鯰江村会議員から村長となり、1891年(明治24年)に東成郡選出の大阪府議会議員、1894年(明治27年)に[[衆議院議員]]に当選。その後1912年(大正元年)に[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]監査役、1914年(大正3年)に議員を終えて、1919年(大正8年)に大阪送電株式会社監査役、1922年(大正11年)に[[北大阪電鉄]]取締役社長となる。
;従兄・秋岡義愛
:1890年(明治23年)生 – 1972年(昭和47年)2月25日没
:秋岡義一とタニの次男。[[芝中学校・高等学校|芝中学]]、[[慶應義塾大学]][[理財科]]卒業。作家・[[南部修太郎]]と友人だったため、康成に南部を文通相手として紹介する。
:原田元治郎(実業家)の娘・原田綾子と結婚し、原田綿織機に勤務。二男二女(義彦、達子、義之、瑛子)を儲ける。次男・義之([[毎日新聞]]記者)は、康成のノーベル文学賞授賞式に同行した。康成は当初、次女・瑛子を養女に貰いたいと考えていた<ref>川端康成「林房雄宛ての書簡」(昭和14年7月27日付)。{{Harvnb|小谷野|2013|p=299}}</ref>。
;従姉・秋岡俊子
:1894年(明治27年)生 – 没年不詳
:秋岡義一とタニの長女。義愛の妹。三輪田高等女学校を卒業。康成の紹介で、[[西川義方]]と再婚。
;伯母・田中ソノ
:安政5年(1858年) – 1942年(昭和17年)10月24日没
:ゲンの異母姉。川端家の養女となり、川端家から、大阪府[[豊能郡]][[熊野田村]](現・[[豊中市]]熊野)の田中九兵衛に嫁いだ。九兵衛との間に、九一郎、岩太郎らを儲ける。1892年(明治25年)に九兵衛が死去し、未亡人となる。長男・九一郎が相場で失敗し、家を潰したために故郷を追われ、東京の次男・岩太郎と同居する。
:康成の祖母・カネの死後しばらく、康成と三八郎の面倒を見ていた。康成は、この伯母を慕っており、『父の名』(1943年)で描いている。
;従兄・田中岩太郎(歯科医)
:生年月日没年不詳
:田中ソノの次男。上京し、東京府[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])で[[歯科医]]を開業。母が未亡人となったため、母を自宅に呼び同居。この家に康成は居候しながら受験勉強し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]へ入学。
:岩太郎は、康成と同年齢の女性・政子(実家は横浜)と結婚し、1918年(大正7年)末頃に長男・洋太郎をもうける。
;叔母・小寺ノブ
:生年月日没年不詳
:ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの三女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の4番目。
:小寺秀松と結婚するが、子供のないまま間もなく死去。小寺秀松は後妻・志津を迎えるが子供が生れず、権野家から勝雅を養子にもらう。権野勝雅の妹は富江。富江は黒田秀孝と結婚。
;叔父・山田豊蔵([[金箔]]師)
:1876年(明治9年)1月3日生 – 1951年(昭和26年)没
:ゲン、ソノの異母弟。1890年(明治23年)1月18日に、大阪市東区南本町の金箔師・山田甚助の養子となり、五世山田甚助となる。その後、1902年(明治35年)7月1日に山田家から協議離縁するが、1916年(大正5年)に再び、山田家と養子縁組する。
:浅草[[北清島町]]37に居住。風変りな叔父として、『父の名』(1943年)、『大黒像と駕籠』(1926年)で描かれている。[[歌沢]]に凝り、「山田金箔児」の名でレコードを出していた頃は、[[熱海市]]天神町に居住。長男・豊明(1919年生-1945年没)は、[[フィリピン]]で戦死。
;分家・川端松太郎
:元治元年(1864年)9月17日生 – 1920年(大正9年)5月9日没
:3人兄妹の長男。妹・シヨと弟・末次郎がいる。子はキヌエ。何代か前の人物が川端家からの養子であるため、川端姓となる。川端本家と道を隔てた隣の家に居住。
:川端栄吉とゲンの葬儀の際に、押えの[[焼香]]をした人物。康成が茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])入学の際の身許[[保証人]]。
:死後は、娘の川端キヌエ(婿・義一と結婚)が川端本家の墓を管理。キヌエは義一との間に、誠治をもうける。
;分家・川端岩次郎
:1874年(明治7年)6月11日生 – 1954年(昭和29年)11月3日没
:川端松太郎の妹・シヨの婿。シヨとの間に二男(国夫と種次郎)を儲ける。
:三八郎の死後に、川端本家の家屋敷を買う。たった1人残された本家跡継ぎの康成が、黒田家と秋岡家からの仕送りの他、緊急の金(『新思潮』刊行や、伊藤初代関連の岐阜や岩手への旅費)が必要時に援助。
:次男・種次郎の嫁・富枝は、康成に関する資料や書簡、川端家の家系を記した私家版を出版。
;妻・[[川端秀子]](戸籍名:ヒテ)
:1907年(明治40年)2月8日生 – 2002年(平成14年)9月7日没
:[[青森県]][[三戸郡]][[八戸町]]十六日町19-2(現・[[八戸市]])の出身。旧姓は松林。松林慶蔵(1875年-1924年)の次女。5人兄妹(桂二、長女、秀子、君子、喜八郎)の3番目。八戸高等女学校卒業。
:父・松林慶蔵は当初は鶏卵の商いをしていたが、子供が成長した後は消防団の小頭の仕事を務め、1924年(大正13年)5月16日に、隣町の火事の消防の際に死去。50歳で殉職。
:父の死後、秀子は[[東京府]][[豊多摩郡]]千駄ヶ谷大字原宿の並木炭店に務める兄・桂二を頼りに上京し、お手伝いとして奉公先で働いていたが、なかなか約束通りに夜学に通わせてもらえず、[[文藝春秋]]の社員募集に応募したところ、そこの面接社員の口ききにより、菅忠雄(『[[オール讀物]]』編集長)の家で働くことになる<ref name="hideko1"/>。康成の同人でもある菅忠雄はその頃、最初の妻と[[原宿]]に住んでいたが、その後に[[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26へ転居。[[1925年]](大正14年)5月に、そこで川端と秀子は出会う<ref name="hideko1"/>。
;養女・川端政子(通称:麻紗子)
:1932年(昭和7年)2月23日生 –
:黒田秀孝と富江の三女。現・大阪市[[住吉区]]旭町1丁目で生まれた。姉は和子、昭子。母・富江の旧姓は権野。権野家は代々、代官を務めた家。
:1935年(昭和10年)頃から、母・富江は3歳の政子を連れて別居し、その後に離婚。富江は[[心臓弁膜症]]で病弱であったため、1938年(昭和13年)頃、川端康成に政子を養女に出す希望を打診。
:1943年(昭和18年)5月3日に、康成と秀子の養女となり、同年に[[藤沢市]]の片瀬乃木国民学校の5年に編入。[[学制改革]]に伴い、校名が[[湘南白百合学園中学・高等学校|湘南白百合学園]]と改められ、その高等女学校に進学し、1951年(昭和26年)3月に湘南白百合学園高等学校を卒業。その後は、[[茶道]]、[[ピアノ]]などの習い事をし、[[日本舞踊]]は[[吾妻徳穂]]を師とした。
:川端の担当医師・[[栗原雅直]]の紹介で、1967年(昭和42年)7月25日に山本香男里と結婚し入籍。川端家を継ぎ、一男一女(あかり、明成)をもうける。
;婿・[[川端香男里]]([[ロシア文学者]]、[[名誉教授]])
:1933年(昭和8年)12月24日生 –2021年(令和3年)2月3日没
:旧姓は山本。[[英文学者]]・[[山本政喜]](柾不二夫)の三男。5人兄弟(阿母里、ひかり、思外里、香男里、みどり)の4番目。妹は[[若桑みどり]]。
:[[東京大学]][[教養学部]]教養学科フランス文科を卒業し、同大学院[[人文科学研究科]]比較文学比較文化専攻進学。1960年より[[パリ大学]]に留学。1963年に[[北海道大学]]文学部講師、1965年より[[カレル大学]]、[[モスクワ大学]]に留学。
:1967年(昭和42年)7月に川端政子と結婚し、婿養子となる。川端康成記念会[[理事長]]を務める。
;孫・あかり
:1969年(昭和44年)1月29日生 –<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|p=540}}</ref><ref name="nenpu"/><ref name="zenshu35nenpu"/>
:政子と香男里の間に生まれた長女。
;孫・明成
:1971年(昭和46年)10月9日生 –<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|p=558}}</ref><ref name="nenpu"/>
:政子と香男里の間に生まれた長男。<!--このお二方は川端の養女の子(=血の繋がりがない)、かつ、現存の一般人の方のようですが、百科事典への記載はいかがなものでしょうか。--><!--政子さんは養女ですが、元々は川端康成の従兄の子供なので血は繋がっています。孫の情報も、複数の川端関連本や評伝で公けになっており、当の本人の父親・[[川端香男里]]作成の全集の年譜や、川端研究の第一人者・[[羽鳥徹哉]]が作成した年譜にも載っているので、この場合は、生年月日だけの情報なら特に問題はないと思います。-->
== 略年譜 ==
{| class="wikitable"
|[[1899年]](明治32年)<br />{{0|0000000000000000}}||6月14日、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]1丁目16-12)で、[[開業医]]の父・栄吉と母・ゲンの長男として生まれる。その後、自宅が大阪府[[西成郡]]豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市[[東淀川区]]大道南)に転居。
|-
|[[1901年]](明治34年)||1 - 2歳。1月に父・栄吉が肺病([[結核]])で死去(32歳没)。母・ゲンの実家・西成郡豊里村大字3番(現・東淀川区豊里6丁目2-25)に移る。
|-
|[[1902年]](明治35年)||2 - 3歳。1月に母・ゲンが結核で死去(37歳没)。祖父・三八郎と祖母・カネに連れられ、原籍地の大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府[[茨木市]]宿久庄1丁目11-25)に移る。姉・芳子は母の妹・タニの婚家の秋岡家の大阪府[[東成郡]]鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]]蒲生)に預けられる。
|-
|[[1906年]](明治39年)||6 - 7歳。4月に豊川尋常高等小学校(現・[[茨木市立豊川小学校]])に入学。9月に祖母・カネが死去(66歳没)。
|-
|[[1909年]](明治42年)||9 - 10歳。7月に姉・芳子が死去(13歳没)。
|-
|[[1912年]](明治45年・大正元年)||12 - 13歳。3月に尋常小学校を卒業。4月に旧制茨木[[旧制中学校|中学校]](現[[大阪府立茨木高等学校]])に首席で入学。
|-
|[[1913年]](大正{{0}}2年)||13 - 14歳。小説家を志し、文芸雑誌を読みあさる。詩、短歌、俳句、作文などを試作。亡き父の号を付け『第一谷堂集』『第二谷堂集』を編む。
|-
|[[1914年]](大正{{0}}3年)||14 - 15歳。5月に祖父・三八郎が死去(73歳没)。[[孤児]]となり、8月に豊里村の母の実家([[伯父]]・黒田秀太郎)に引き取られる。祖父の病床記録を綴った日記は、のちの『[[十六歳の日記]]』となる。
|-
|[[1915年]](大正{{0}}4年)||15 - 16歳。3学期の3月から茨木中学校の寄宿舎に入る。雑誌『文章世界』などに作品投稿を試みる。
|-
|[[1916年]](大正{{0}}5年)||16 - 17歳。4月に寄宿舎の室長となる。下級生の室員・小笠原義人に[[同性愛]]的な愛情を持つ。地元新聞『京阪新報』に短歌や短編などを載せてもらう。秋に原籍地の宿久庄の家屋敷が分家筋の川端岩次郎に売却される。
|-
|[[1917年]](大正{{0}}6年)||17 - 18歳。3月、茨木中学校を卒業。[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])に住む従兄・田中岩太郎を頼りに上京し予備校に通う。9月に[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]文科第一部乙類(英文科)に入学し、寮生活に入る。同級の[[石濱金作]]、[[鈴木彦次郎]]、[[酒井真人]]、[[三明永無]]らと知り合う。
|-
|[[1918年]](大正{{0}}7年)||18 - 19歳。10月末に[[伊豆半島|伊豆]]を一人旅する。時田かほる(踊子の兄)、岡田文太夫が率いる旅芸人の一行と道連れとなり、14歳の踊子・加藤たみの無垢な好意に癒される。
|-
|[[1919年]](大正{{0}}8年)||19 - 20歳。[[今東光]]と知り合う。6月に校内雑誌に処女作『ちよ』を発表。本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)のカフェ・エランで、女給の13歳の少女・[[伊藤初代]]と知り合う。
|-
|[[1920年]](大正{{0}}9年)||20 - 21歳。7月に第一高等学校を卒業。9月に[[東京大学|東京帝国大学]]文学部英文学科に入学。石濱金作、鈴木彦次郎、今東光らと同人誌の発行を計画し、[[菊池寛]]の承諾を得る。
|-
|[[1921年]](大正10年)||21 - 22歳。2月に同人誌、第6次『[[新思潮]]』発刊。4月に『招魂祭一景』を発表。10月に15歳の伊藤初代と婚約するが、すぐに破談する。菊池寛を介し、[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]、[[横光利一]]と知り合う。
|-
|[[1922年]](大正11年)||22 - 23歳。6月に[[国文学科]]に転科。夏に伊豆[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]で、107枚の草稿『湯ヶ島での思ひ出』を執筆し、伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴る。
|-
|[[1923年]](大正12年)||23 - 24歳。1月に菊池寛が創刊した『[[文藝春秋]]』の同人に加入。9月に本郷区駒込千駄木町(現・[[文京区]]千駄木1-22)の[[下宿]]で[[関東大震災]]に遭う。今東光と一緒に芥川龍之介を見舞い、3人で被災の跡を歩く。この年、[[犬養健]]と知り合う。
|-
|[[1924年]](大正13年)||24 - 25歳。3月に東京帝国大学国文科を卒業。10月に横光利一、[[中河与一]]らと同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。この同人誌に集まった作家は[[新感覚派]]と呼ばれた。
|-
|[[1925年]](大正14年)||25 - 26歳。8月-9月に『[[十六歳の日記]]』を発表。母の実家の従兄・黒田秀孝が[[投機]]の失敗で家屋敷を手放す。1年の大半を伊豆の湯ヶ島本館で過ごす。
|-
|[[1926年]](大正15年・昭和元年)||26 - 27歳。1月-2月に『[[伊豆の踊子]]』を発表。4月に[[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26の[[菅忠雄]](雑誌『オール讀物』の編集長)の留守宅に移り、住み込みの手伝いの松林秀子と実質的な結婚生活に入る。[[衣笠貞之助]]、横光利一、[[片岡鉄兵]]らと「新感覚派映画聯盟」を結成し、映画『[[狂つた一頁]]』のシナリオを書き映画上映する。[[掌の小説]]を収録した処女作品集『感情装飾』を6月に刊行。
|-
|[[1927年]](昭和{{0}}2年)||27 - 28歳。前年[[大晦日]]に湯ヶ島に転地療養に来た[[梶井基次郎]]を湯川屋に紹介する。4月から東京府[[豊多摩郡]]杉並町[[馬橋 (杉並区)|馬橋]]226(現・杉並区[[高円寺]]南3丁目-17)に秀子と移住。5月に『文藝時代』が終刊。8月から初の長編新聞小説『海の火祭』を連載発表。12月に[[熱海温泉|熱海]][[熱海温泉#熱海七湯|小沢]]の鳥尾[[子爵]]([[鳥尾小弥太]])の[[別荘]]を借りて翌春5月まで居住。
|-
|[[1928年]](昭和{{0}}3年)||28 - 29歳。[[家賃]]滞納で熱海を追われ、[[尾崎士郎]]に誘われて5月に[[荏原郡]][[入新井町]]大字新井宿字子母澤(のち[[大森区]]。現・[[大田区]][[西馬込]]3丁目)に移り、その後すぐ同郡[[馬込町 (東京府)|馬込町]]小宿389の臼田坂近辺(現・[[南馬込]]3丁目33)に転居。[[馬込文士村]]での交友を深める。
|-
|[[1929年]](昭和{{0}}4年)||29 - 30歳。4月に『近代生活』の同人に加入。9月に[[下谷区]]上野桜木町44番地(現・[[台東区]][[上野桜木]]2丁目20)に転居。一高時代以来、再び浅草に親しむ。10月に[[堀辰雄]]らが創刊した『文學』の同人となる。12月から『[[浅草紅団]]』の新聞連載開始。[[カジノ・フォーリー]]、浅草ブームを起こす。
|-
|[[1930年]](昭和{{0}}5年)||30 - 31歳。[[中村武羅夫]]、尾崎士郎らの[[十三人倶楽部]]に加入。4月に[[掌の小説]]集『僕の標本室』を刊行。菊池寛の[[文化学院]]文学部長就任に伴い、講師として週一回出講。[[日本大学|日大]]の講師もする。[[犬]]や[[小鳥]]を多く飼い始める。
|-
|[[1931年]](昭和{{0}}6年)||31 - 32歳。1月と7月に『[[水晶幻想]]』を発表。4月に上野桜木町36番地に転居。10月にカジノ・フォーリーの踊子・[[梅園龍子]]を引き抜き、本格的な[[バレエ]]や[[英会話]]を習わせる。画家・[[古賀春江]]と知り合う。12月2日に松林秀子との婚姻届を提出。
|-
|[[1932年]](昭和{{0}}7年)||32 - 33歳。1月から『父母への手紙』を断続的に連載発表。2月に『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』を発表。3月上旬に桜井初代(伊藤初代)の訪問を受け、約10年ぶりの再会をする。3月に梶井基次郎が死去。
|-
|[[1933年]](昭和{{0}}8年)||33 - 34歳。7月に『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』を発表。10月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[宇野浩二]]、[[林房雄]]らと雑誌『[[文學界]]』を創刊。9月に[[古賀春江]]が死去。12月に随筆『[[末期の眼]]』を発表。
|-
|[[1934年]](昭和{{0}}9年)||34 - 35歳。文芸懇話会の結成に参加し会員となる。5月に随筆『文学的自叙伝』を発表。6月に初めて[[新潟県]]の越後湯沢(南魚沼郡[[湯沢町]])に旅する。8月に癩病([[ハンセン病]])の文学青年・[[北條民雄]]から手紙を受け取り文通が始まる。同月に越後湯沢を再訪し、[[芸者]]・松栄(本名・小高キク)に会う。
|-
|[[1935年]](昭和10年)||35 - 36歳。1月に[[芥川龍之介賞|芥川賞]]・[[直木三十五賞|直木賞]]が創設され、芥川賞の銓衡委員となる。同月に「夕景色の鏡」を皮切りに『[[雪国 (小説)|雪国]]』の各章の断続的発表が始まる。12月に林房雄の誘いで林の隣家の[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]][[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]宅間ヶ谷(現・[[鎌倉市]]浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居。
|-
|[[1936年]](昭和11年)||36 - 37歳。2月に北條民雄の『[[いのちの初夜]]』を世に紹介し、6月に[[岡本かの子]]の『鶴は病みき』を紹介する。8月に[[明治製菓]]の招待で、初めて[[軽井沢]]を訪れる。12月に『[[夕映少女]]』を発表。
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|[[1937年]](昭和12年)||37 - 38歳。5月に[[鎌倉市]]二階堂325に転居(家主は[[詩人]]・[[蒲原有明]])。6月に『[[雪国 (小説)|雪国]]』を刊行し、これにより文芸懇話会賞を受賞。賞金で軽井沢1307番地に別荘を購入する。12月に北條民雄が死去。
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|[[1938年]](昭和13年)||38 - 39歳。7月-9月に、21世[[本因坊]][[本因坊秀哉|秀哉]][[名人 (囲碁)|名人]]の引退[[碁]]の観戦記を新聞連載。10月に「[[日本文学振興会]]」(理事長・菊池寛)の理事となる。
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|[[1939年]](昭和14年)||39 - 40歳。小学生の綴方運動に深く関わり、5月に「少年文学懇話会」を結成。[[藤田圭雄]]と共に少年少女の作品を選考した『模範綴方全集』が刊行。7月から[[少女小説]]『美しい旅』を連載開始。
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|[[1940年]](昭和15年)||40 - 41歳。1月に『[[母の初恋]]』を発表。熱海滞在中に本因坊秀哉名人の死去に遭遇。5月に、『美しい旅』の取材のため、[[盲学校]]や[[東京盲唖学校|聾唖学校]]を参観。10月に「日本文学者会」発足の発起人となる。
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|[[1941年]](昭和16年)||41 - 42歳。4月に『満州日日新聞』の招きで[[呉清源]]らと共に[[満州]]に行く。9月にも[[関東軍]]の招きで[[山本実彦]]、[[高田保]]、[[大宅壮一]]と共に満州に再び渡航。10月から自費で[[北京]]、[[大連市|大連]]などを旅行中、開戦間近の極秘情報により急遽11月末に日本に帰国。
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|[[1942年]](昭和17年)||42 - 43歳。8月に[[島崎藤村]]、[[志賀直哉]]、[[武田麟太郎]]らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となる。本因坊秀哉の観戦記と死を元にした『[[名人 (小説)|名人]]』の断続的発表が始まる。10月に「[[日本文学報国会]]」作家として、[[長野県]]の農家を訪問。12月8日開戦記念日に『英霊の遺文』を発表(翌年、翌々年も)。
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|[[1943年]](昭和18年)||43 - 44歳。3月に、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を[[養女]]にするため大阪に行き、5月に入籍。5月から『故園』を連載発表。
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|[[1944年]](昭和19年)||44 - 45歳。『故園』、『夕日』などで第6回[[菊池寛賞]]を受賞。戦時中、[[隣組]]長、防火班長を経験する。「[[日本文学振興会]]」の制定した「戦記文学賞」の選者に就任。(他の選者は[[佐藤春夫]]、[[火野葦平]]、[[丹羽文雄]]、[[斎藤瀏]]など)
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|[[1945年]](昭和20年)||45 - 46歳。4月に海軍報道班員として、[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に1か月滞在して[[特別攻撃隊]]を取材する。5月に[[久米正雄]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[高見順]]らと共に、鎌倉在住の文士の蔵書を元に、貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を開店。8月に[[島木健作]]が死去。9月に大同製紙の申し入れで、鎌倉文庫が出版社として設立される。重役の一員として、事務所を構えた[[丸の内ビルディング|東京丸ビル]]、のちに日本橋[[白木屋 (デパート)|白木屋]]二階に通う。
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|[[1946年]](昭和21年)||46 - 47歳。1月に鎌倉文庫の雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』を創刊。6月に新人作家・[[三島由紀夫]]の短編『煙草』を紹介する。3月に[[武田麟太郎]]が死去し、初めて弔辞を読む。7月に『生命の樹』を発表。10月に[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]]264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居。ここが終生の住いとなる。
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|[[1947年]](昭和22年)||47 - 48歳。10月に随筆『哀愁』を発表。この頃から古[[美術]]への関心が高まる。[[日本ペンクラブ]]の再建総会に出席。12月に[[横光利一]]が死去。
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|[[1948年]](昭和23年)||48 - 49歳。1月に横光利一の弔辞を読む。3月に[[菊池寛]]が死去。5月から『少年』を連載発表。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が始まり、「あとがき」(のちに『独影自命』)で半生を振り返る。6月に[[志賀直哉]]のあとを継いで、第4代[[日本ペンクラブ]]会長に就任。11月に[[東京裁判]]を傍聴。12月に完結版『雪国』を刊行。
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|[[1949年]](昭和24年)||49 - 50歳。4月に芥川賞が復活し、引き続き委員となる。5月から鎌倉を舞台とした『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』、9月から『[[山の音]]』の各章の断続的発表が始まる。
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|[[1950年]](昭和25年)||50 - 51歳。2月に『天授の子』を発表。4月にペンクラブ会員らと[[原爆]]被災地の広島・長崎を慰問視察。ペンクラブ国際大会に初の日本代表を送るため、[[エジンバラ]]での大会へ募金のアピールを書く。12月から『舞姫』を連載発表。
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|[[1951年]](昭和26年)||51 - 52歳。2月に伊藤初代が死去(44歳没)。5月に『たまゆら』を発表。6月に[[林芙美子]]が死去し、葬儀委員長を務める。
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|[[1952年]](昭和27年)||52 - 53歳。2月に『千羽鶴』で昭和26年度[[芸術院賞]]を受賞。10月に[[大分県]]の招待で、[[九重町]]の高原を画家・[[高田力蔵]]の案内で旅する。
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|[[1953年]](昭和28年)||53 - 54歳。5月に[[堀辰雄]]が死去し、葬儀委員長を務める。11月に[[永井荷風]]、[[小川未明]]らと共に[[芸術院]]会員に選出される。
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|[[1954年]](昭和29年)||54 - 55歳。1月から『[[みづうみ]]』、5月から『東京の人』を連載発表。4月に『山の音』で第7回[[野間文芸賞]]を受賞。
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|[[1955年]](昭和30年)||55 - 56歳。1月から『ある人に生のなかに』を断続的連載発表。
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|[[1956年]](昭和31年)||56 - 57歳。英訳『雪国』がアメリカで出版。3月から『女であること』を連載発表。
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|[[1957年]](昭和32年)||57 - 58歳。3月に[[国際ペンクラブ]]執行委員会出席のため[[松岡洋子 (評論家)|松岡洋子]]と共に渡欧。各国を東京大会出席要請願いに廻る。9月に第29回[[国際ペンクラブ]]大会が日本(京都と東京)で開催され、主催国会長として大役をこなす。
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|[[1958年]](昭和33年)||58 - 59歳。2月に国際ペンクラブ副会長に選出。3月、東京国際ペンクラブでの尽力により、第6回(1958年)菊池寛賞を受賞。11月に[[胆嚢炎]]([[胆石]])で東大病院に入院。
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|[[1959年]](昭和34年)||59 - 60歳。7月に[[フランクフルト]]での第30回国際ペンクラブ大会に出席し、[[ゲーテの盾 (フランクフルト・アム・マイン市)|ゲーテ・メダル]]を贈られる。
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|[[1960年]](昭和35年)||60 - 61歳。1月から『[[眠れる美女]]』を連載発表。5月に[[アメリカ国務省]]の招待で渡米し、7月に[[サンパウロ]]での第31回国際ペンクラブ大会に出席。[[フランス]]政府から[[芸術文化勲章]](オフィシエ勲章)を贈られる。
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|[[1961年]](昭和36年)||61 - 62歳。京都に家を借りて滞在し、1月から『[[美しさと哀しみと]]』、10月から『[[古都 (小説)|古都]]』を連載発表。11月に第21回[[文化勲章]]を受章。
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|[[1962年]](昭和37年)||62 - 63歳。[[睡眠薬]]の禁断症状により2月に東大冲中内科に入院。10月に[[世界平和アピール七人委員会]]に参加。11月に『眠れる美女』で第16回[[毎日出版文化賞]]を受賞。
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|[[1963年]](昭和38年)||63 - 64歳。4月に財団法人・[[日本近代文学館]]が発足し、監事に就任。[[東京都近代文学博物館|近代文学博物館]]委員長となる。8月から『[[片腕 (小説)|片腕]]』を連載発表。
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|[[1964年]](昭和39年)||64 - 65歳。2月に[[尾崎士郎]]、5月に[[佐藤春夫]]が死去。6月に[[オスロ]]での第32回国際ペンクラブ大会に出席。同月から『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』の連載開始(未完)。
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|[[1965年]](昭和40年)||65 - 66歳。4月からNHKの[[連続テレビ小説]]で書き下ろしの『[[たまゆら (テレビドラマ)|たまゆら]]』が放映される。8月に[[高見順]]が死去し、葬儀委員長を務める。10月に日本ペンクラブ会長を辞任(後任は[[芹沢光治良]])。11月、伊豆湯ヶ島に『[[伊豆の踊子]]』の文学碑が建つ。作中のモデルの受験生・後藤孟と再会。
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|[[1966年]](昭和41年)||66 - 67歳。1月から3月まで[[肝臓]]炎で東大病院中尾内科に入院。4月に日本ペンクラブから胸像を贈られる。
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|[[1967年]](昭和42年)||67 - 68歳。2月に[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]らと中国[[文化大革命]]に反対する声明文を出す。4月に[[日本近代文学館]]が開館され名誉顧問に就任。7月に養女・政子が[[川端香男里|山本香男里]]と結婚。山本を入り婿に迎える。
|-
|[[1968年]](昭和43年)||68 - 69歳。2月に「非[[核武装]]に関する国会議員達への請願」に署名。6月に[[日本文化会議]]に参加。6月-7月、[[参議院選挙]]に立候補した[[今東光]]の選挙事務長を務める。10月に[[ノーベル文学賞]]受賞が決定し、12月に[[ストックホルム]]の授賞式に出席し、『[[美しい日本の私―その序説]]』と題する記念講演を行なう。同月、郷里の[[茨木市]][[名誉市民]]に推される。
|-
|[[1969年]](昭和44年)||69 - 70歳。1月に初孫・あかり(女児)が誕生。4月にアメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選出。5月に[[ハワイ大学]]で日本文学の特別講演『美の存在と発見』および『[[源氏物語]]』について講義を行ない<ref>音声録音『川端康成ハワイ大学講義 源氏物語と自作を語る』(カセットテープ全6巻、[[藤田圭雄]]監修・解説、アポロン音楽工業、1987年)がある。</ref>、名誉文学[[博士号]]を贈られる。9月に文化使節として[[サンフランシスコ]]で特別講演『日本文学の美』を行なう。6月に従兄・黒田秀孝が死去。同月、[[鎌倉市]]名誉市民に推される。10月、茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の文学碑「以文会友」の除幕式。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務める。
|-
|[[1970年]](昭和45年)||70 - 71歳。[[3月15日]]から[[9月13日]]までの183日間をかけて開催された[[日本万国博覧会]](Japan World Exposition, Osaka 1970)に赴く。6月に[[中華民国]]の[[台北市|台北]]でのアジア作家会議に出席。続いて[[京城府|京城]]([[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市|ソウル]]。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会に出席。7月2日に[[漢陽大学校]]から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。11月に[[三島由紀夫]]が割腹自決([[三島事件]])。
|-
|[[1971年]](昭和46年)||71 - 72歳。1月に三島由紀夫の葬儀委員長を務める。3月-4月に[[1971年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]で[[秦野章]]の応援に立つ。9月に[[世界平和アピール七人委員会]]から[[日中国交回復]]の要望書を提出。10月に2番目の孫・明成(男児)が誕生。同月、[[立野信之]]の臨終に会い、日本文化研究国際会議(翌年11月開催)の運動準備を託され、年末にかけて募金活動に奔走し健康を害する。11月に最後の小説『隅田川』を発表。同月に日本近代文学館の名誉館長に推される。
|-
|[[1972年]](昭和47年)||2月に従兄・秋岡義愛の葬儀に参列。3月に[[盲腸炎]]で入院手術。4月16日の夜、[[逗子マリーナ]]のマンションの仕事部屋でガス自殺。長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見される。72歳で永眠。
|}
== 主要作品 ==
=== 作文・短文短歌・習作 ===
※ ①印は自作詩文集「第一谷堂集」内。②印は自作作文集「第二谷堂集」内。
{{Columns-list|2|
*箕面山(1911年)②
*読書(1912年1月)①
*友人に登山を勧む(1913年夏)②
*桃山御陵参拝記(1913年)②
*大正二年と三年(1913年)②
*雨だれ石を穿つ(1913年)②
*春夜友を訪ふ(1914年3月3日)②
*弔詩(1914年9月26日)①
*白骨を迎ふ(1914年9月30日)①
*藤村詩集(1914年)①
*詩人たらむ(1914年9月14日)①
*H中尉に(京阪新報 1916年3月)
*淡雪の夜(京阪新報 1916年)
*むらさきの茶碗(京阪新報 1916年)
*京都雑詠、病み上り(京阪新報 1916年)
*月見草の咲く夕(京阪新報 1916年)
*雪報(京阪新報 1916年)
*自由主義の真義(京阪新報 1916年)
*青葉の窓より(京阪新報 1916年)
*少女に(京阪新報 1916年)
*永劫の行者(京阪新報 1916年)
*師の柩を肩に〈作文時の題は「生徒の肩に柩を載せて」〉(団欒 1916年)
**{{fontsize|small|1927年3月に「倉木先生の葬式」と改題し『[[キング (雑誌)|キング]]』に再掲載。中学時代のノートに拠った「師の棺を肩に」は1949年6月の『東光少年』で発表。}}
}}
=== 小説・自伝作品 ===
※'''太字'''は中編・長編。○印は掌編([[掌の小説]])。★印は自伝的作品。△印は全集未収録作品。
{{Columns-list|2|
*ちよ([[第一高等学校 (旧制)|一高]]の校友会雑誌 1919年6月)★
*ある婚約(第六次[[新思潮]] 1921年2月)
*招魂祭一景(第六次新思潮 1921年4月)
*油(第六次新思潮 1921年7月)○★
*一節(第六次新思潮 1922年3月)
*湯ヶ島での思ひ出(1922年夏の草稿)★
**{{fontsize|small|1918年の伊豆旅行体験ほかの伊豆湯ヶ島にまつわる回想の草稿。「[[少年 (川端康成)|少年]]」(1948年-1949年)内で引用発表。}}
*林金花の憂鬱([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1923年1月)
*精霊祭(文藝春秋 1923年4月)
*男と女の荷車(文章倶楽部 1923年4月)○
*会葬の名人〈のち「葬式の名人」と改題〉(文藝春秋 1923年5月)★
*南方の火(第六次新思潮 1923年7月)★
**{{fontsize|small|改稿同名作が他に3篇あり(1篇は未発表)。}}
*日向(文藝春秋 1923年11月)○★
*篝火([[新小説]] 1924年3月)★
*空に動く灯(我観 1924年5月)
*新浦島物語([[婦人公論]] 1924年7月)
*咲き競ふ花(婦人界 1924年7月-1925年3月){{fontsize|small|9回連載}}
*生命保険(文藝春秋 1924年8月)○
*弱き器(現代文藝 1924年9月)○
*火に行く彼女(現代文藝 1924年9月)○
*鋸と出産(現代文藝 1924年9月)○
*バッタと鈴虫(文章倶楽部 1924年10月)○
*時計(文壇 1924年10月)○
*指輪(文壇 1924年10月)○
*非常(文藝春秋 1924年12月)★
*髪([[文藝時代]] 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*{{ruby|金糸雀|カナリヤ}}(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*港(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*写真(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*白い花(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*敵(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*月(文藝時代 1924年12月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*落日(文藝時代 1925年2月)○
*落葉と父母〈のち「孤児の感情」と改題〉([[新潮]] 1925年2月)★
*蛙往生(文藝時代 1925年3月)
*驢馬に乗る妻(文藝時代 1925年3月)
*死顔の出来事(金星 1925年4月)○
*屋根の下の貞操(文藝日本 1925年4月)○
*人間の足音(女性 1925年6月)○
**{{fontsize|small|初出時の副題:「初夏途上の女」}}
*[[十六歳の日記|十七歳の日記]]〈のち「[[十六歳の日記]]」と改題〉(文藝春秋 1925年8月、9月)★{{fontsize|small|分載続篇の原題は「続十七歳の日記」}}
*青い海黒い海(文藝時代 1925年8月)
*油([[婦人之友社|婦人之友]] 1925年10月)○★
**{{fontsize|small|1921年7月発表作の加筆修正版}}
*朝鮮人〈のち「海」と改題〉(文藝時代 1925年11月)○{{fontsize|small|総題「第二短篇集」}}
*二十年(文藝時代 1925年11月)○{{fontsize|small|総題「第二短篇集」}}
*硝子(文藝時代 1925年11月)○{{fontsize|small|総題「第二短篇集」}}
*お信地蔵(文藝時代 1925年11月)○{{fontsize|small|総題「第二短篇集」}}
*滑り岩(文藝時代 1925年11月)○{{fontsize|small|総題「第二短篇集」}}
*[[有難う]](文藝春秋 1925年12月)○{{fontsize|small|総題「第三短篇集」}}
*万歳(文藝春秋 1925年12月)○{{fontsize|small|総題「第三短篇集」}}
*{{ruby|胡頽子盗人|ぐみぬすびと}}(文藝春秋 1925年12月)○{{fontsize|small|総題「第三短篇集」}}
*玉台(文藝春秋 1925年12月)○{{fontsize|small|総題「第三短篇集」}}
*明日の約束(文藝思潮 1925年12月)
*白い満月(新小説 1925年12月)
*[[伊豆の踊子]](文藝時代 1926年1月、2月){{fontsize|small|分載続篇の原題は「続伊豆の踊子」}}
*白い靴〈のち「夏の靴」と改題〉(文章往来 1926年3月)○
*母(婦人グラフ 1926年3月)○
*雀の媒酌(辻馬車 1926年4月)○
*子の立場(文藝春秋 1926年4月)○{{fontsize|small|総題「第四短篇集」}}
*[[心中 (川端康成)|心中]](文藝春秋 1926年4月)○{{fontsize|small|総題「第四短篇集」}}
*龍宮の乙姫(文藝春秋 1926年4月)○{{fontsize|small|総題「第四短篇集」}}
*処女の祈り(文藝春秋 1926年4月)○{{fontsize|small|総題「第四短篇集」}}
*冬近し(文藝春秋 1926年4月)○{{fontsize|small|総題「第四短篇集」}}
*霊柩車(戦車 1926年4月)○
*春を見る近視眼([[週刊朝日]] 1926年4月)
*村の選手([[キング (雑誌)|キング]] 1926年4月)
*文科大学挿話(女性 1926年5月)
*恋を失ふ〈のち「伊豆の帰り」と改題〉(婦人公論 1926年6月)
*一人の幸福(若草 1926年7月)○
*神います(若草 1926年7月)○
*帽子事件(文章倶楽部 1926年7月)○
*温泉場の事([[サンデー毎日]] 1926年7月)
*婚礼と葬礼(新小説 1926年7月)
*時代二つ([[読売新聞]] 1926年7月19日)
*合掌(婦人グラフ 1926年8月)○
*屋上の金魚(文藝時代 1926年8月)○
*金銭の道([[苦楽]] 1926年8月)○
*静かな雨(文章往来 1926年8月)
*近火(随筆 1926年8月)
*朝の爪(初出誌不詳 1926年8月)○
*祖母(文藝時代 1926年9月)★
*大黒像と駕籠(文藝春秋 1926年9月)
*彼女の盛装(新小説 1926年9月)★
*唐代小説(其刊行会『支那文学大観』第8巻 1926年9月)
**{{fontsize|small|「蚕女」は、14篇中の「神女伝(孫頠)」内にあり。}}
*犠牲の花嫁(若草 1926年10月)
*父([[東京朝日新聞]] 1926年10月3日)★
*五月の幻(近代風景 1926年12月)
*猪の親(キング 1926年12月)
*女(文藝時代 1927年2月)○{{fontsize|small|総題「怪談集」}}
*恐しい愛(文藝時代 1927年2月)○{{fontsize|small|総題「怪談集」}}
*歴史(文藝時代 1927年2月)○{{fontsize|small|総題「怪談集」}}
*倉木先生の葬式(キング 1927年3月)
**{{fontsize|small|「師の柩を肩に」(1916年)を改題し再発表}}
*美しい!(初出誌不詳 1927年4月)
**{{fontsize|small|のち1929年に「美しき墓」として改編。}}
*梅の雄蕊(文藝時代 1927年4月)
**{{fontsize|small|副題:「婚礼と葬礼」の二。「春景色」(1930年)の一部分となる。}}
*馬美人(文藝春秋 1927年5月)○{{fontsize|small|総題「第五短篇集」}}
*百合の花〈のち「百合」と改題〉(文藝春秋 1927年5月)○{{fontsize|small|総題「第五短篇集」}}
*赤い喪服(文藝春秋 1927年5月)○{{fontsize|small|総題「第五短篇集」}}
*処女作の祟り(文藝春秋 1927年5月)○{{fontsize|small|総題「第五短篇集」}}
*駿河の令嬢(若草 1927年5月)○
*暴力団の一夜〈のち「霰」と改題〉(太陽 1927年5月)★
*柳は緑花は紅(文藝時代 1927年5月)
**{{fontsize|small|副題:「婚礼と葬礼」の二――「梅の雄蕊」のつづき。「春景色」(1930年)の一部分となる。}}
*結婚なぞ(読売新聞 1927年5月1日-17日){{fontsize|small|断続的に10回連載}}
*貧者の恋人(東京朝日新聞 1927年5月5日)○
*塵と産婆(サンデー毎日 1927年6月)
*神の骨(文藝公論 1927年8月)○{{fontsize|small|総題「神の骨」}}
*スリの話(文藝公論 1927年8月)○{{fontsize|small|総題「神の骨」}}
*毛眼鏡の歌(若草 1927年8月)
*'''海の火祭'''([[中外商業新報]] 1927年8月13日-12月24日){{fontsize|small|129回連載}}
*犬(創作時代 1927年9月)
*夜店の微笑(文藝評論 1927年10月)○
*薔薇の幽霊([[少女世界]] 1927年10月)
*音楽綺譚([[文芸倶楽部|文藝倶楽部]] 1927年10月)
*ナアシツサス(若草 1927年11月)
*夫人の探偵(初出誌不詳 1927年)○
*門松を焚く(創作月刊 1928年2月)○
*盲目と少女([[東京朝日新聞]] 1928年2月17日)○
*椿(創作時代 1928年3月)
*罪か罪か(キング 1928年3月)
*保護色の希望(サンデー毎日 1928年3月)
*詩と散文(若草 1928年4月)
*母国語の祈祷(文章倶楽部 1928年5月)○
*死者の書(文藝春秋 1928年5月)
*空家(創作月刊 1928年6月)
*故郷([[時事新報]] 1928年6月11日)○{{fontsize|small|総題「小品二篇」}}
**{{fontsize|small|同名の別作品(短編)あり。}}
*母の眼(時事新報 1928年6月12日)○{{fontsize|small|総題「小品二篇」}}
*三等待合室(1928 1928年7月)○
*花園の犠牲(文藝倶楽部 1928年7月)
*叩く子(創作月刊 1928年9月)○
*秋の雷([[大阪朝日新聞]] 1928年9月2日)○
*母の誕生(現代 1928年10月)
*秋思ふ春(若草 1928年10月)
**{{fontsize|small|「梅の雄蕊」「柳は緑 花は紅」と併せて「春景色」(1930年)となる。}}
*女を殺す女(サンデー毎日 1928年10月)
*家庭(時事新報 1928年10月19日)○{{fontsize|small|総題「人事風景」}}
*御会式小景(時事新報 1928年10月20日-21日)○△{{fontsize|small|総題「人事風景」}}
*時雨の駅(時事新報 1928年10月23日-27日)○{{fontsize|small|総題「人事風景」}}
*毒薬輪舞(文藝倶楽部 1928年12月)
*[[掌の小説#笑はぬ男|笑はぬ男]](初出誌不詳 1928年)○
*士族(初出誌不詳 1928年)○
*孝心海を渡る([[講談倶楽部]] 1929年1月)
*海山叙景詩(新潮 1929年1月)
*質屋にて(週刊朝日 1929年1月)○
*黒牡丹(時事新報 1929年1月6日、7日、9日)○
*智恵と貞節(講談倶楽部 1929年2月)
*美しき墓(新潮 1929年3月)
*級長の探偵([[少年倶楽部]] 1929年3月)
*[[日本人アンナ]](東京朝日新聞 1929年3月9日)○
*{{ruby|雪隠|せっちん}}成仏(没落時代 1929年4月)○
*花嫁姿(若草 1929年4月)
*'''死体紹介人'''(文藝春秋、近代生活ほか 1929年4月-1930年8月){{fontsize|small|断続的に4回連載。各回の原題は「死体紹介人」「遺骨贋造」「死体の復讐」「通夜人足」}}
*王位より尊き誓と愛(講談倶楽部 1929年4月)
*十二舞姫(講談倶楽部 1929年4月)
*友情奇縁(現代 1929年5月)
*離婚の子(新潮 1929年6月)○
*ロケエシヨン・ハンチング(若草 1929年6月)
*逗子・鎌倉―ロマンス以前―(文學時代 1929年7月){{fontsize|small|総題「避暑地ローマンス」}}
*都会の手帳(文學時代 1929年7月){{fontsize|small|総題「虚栄の市」}}
*孝女裁判(文藝倶楽部 1929年7月)
*顕微鏡怪談(文藝春秋 1929年8月)○
*花束の時間([[令女界]] 1929年8月)
*親ごころ([[少年倶楽部]] 1929年8月)
*閨房の舞踏(講談倶楽部 1929年8月)
*踊子旅風俗(婦人サロン 1929年9月)○
*薩摩武士(講談倶楽部 1929年9月)
*パテベビイの答案(近代生活 1929年9月)
*彼女等に就て(文學時代 1929年9月)
*或る詩風〈のち「或る詩風と画風」に改題〉(文藝春秋 1929年10月)
*温泉宿([[改造 (雑誌)|改造]]ほか 1929年10月-1930年3月){{fontsize|small|断続的に3回連載。各回の原題は「温泉宿」「彼女等と道」「温泉場二人の事」}}
*'''[[浅草紅団]]'''(東京朝日新聞 1929年12月12日-1930年2月16日、新潮・改造 9月){{fontsize|small|39回連載}}
*絵の匂ひから(若草 1930年1月-6月){{fontsize|small|6回連載}}
*青春の特権(朝日 1930年1月)
*望遠鏡と電話(新潮 1930年2月)○
*花のある写真(文學時代 1930年4月)
*水族館の踊子([[新青年 (日本)|新青年]] 1930年4月)
*白粉とガソリン(初出誌不詳 1930年4月頃)○
*鶏と踊子(文學時代 1930年5月)○
**{{fontsize|small|初出時の副題:「浅草」}}
*「鬼熊」の死と踊子(改造 1930年5月)
*春景色(新潮社『十三人倶楽部――創作集』1930年6月)
*風鈴キングのアメリカ話([[中央公論]] 1930年7月)
*真夏の盛装(週刊朝日 1930年7月)
*靴磨き([[報知新聞]] 1930年7月)
*化粧の天使達(近代生活 1930年9月)○
*ポオランドの踊子(令女界 1930年9月)
*丹波の義人(講談倶楽部 1930年9月)
*秋消える海の恋(若草 1930年9月)
*売声(文學時代 1930年10月)
*縛られた夫(初出誌不詳 1930年10月頃)○
*針と硝子と霧(文學時代 1930年11月)
*浅草日記(近代生活ほか 1930年12月-1931年2月){{fontsize|small|3回連載。各回の原題は「或る夜浅草」「浅草日記」「浅草の女」}}
*[[水晶幻想]](改造 1931年1月、7月){{fontsize|small|続篇の原題は「鏡」}}
*霧の造花(婦人倶楽部 1931年1月、2月)
*二重の失恋(雄弁 1931年1月)
*秘密の秘密(講談倶楽部 1931年2月)
*女を売る女(サンデー毎日 1931年3月)
*舞踊(若草 1931年4月)
*舞踏靴〈のち「舞踊靴」と改題〉(サンデー毎日 1931年4月)○
*ロミオとジユリエツト(婦人倶楽部 1931年6月、7月)
*空の片仮名(中央公論 1931年6月)
*鉄の梯子(若草 1931年8月)
*騎士の死(サンデー毎日 1931年9月)
*夏海恋(雄弁 1931年9月)
*水仙(新潮 1931年10月)
*楽屋の乳房(文學時代 1931年11月)○
*結婚の技巧([[婦人画報]] 1931年11月)
*落葉(改造 1931年12月)
*松葉杖(朝日 1931年12月)
*旅の者(新潮 1932年1月)
*父母への手紙(若草ほか 1932年1月-1934年1月)★{{fontsize|small|断続的に5回連載。各回の原題は「父母への手紙」「後姿」「父母への手紙」「手紙」「あるかなきかに」}}
*女といふものは母(現代 1932年1月)
*[[抒情歌 (小説)|抒情歌]](中央公論 1932年2月)
*昼の恋夜の恋〈のち「眠り癖」○、「靴と白菜」と2作に分離・改題〉(婦人画報 1932年2月)
*雨傘(婦人画報 1932年3月)○{{fontsize|small|総題「恋の来どころ」}}
*喧嘩(婦人画報 1932年3月)○{{fontsize|small|総題「恋の来どころ」}}
*見知らぬ姉(現代 1932年3月)
*顔(文藝春秋 1932年4月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*化粧(文藝春秋 1932年4月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*妹の着物(文藝春秋 1932年4月)○{{fontsize|small|総題「短篇集」}}
*死面(婦人画報 1932年4月)○
*結婚の眼([[婦人世界]] 1932年4月)
*結婚記念日(朝日 1932年4月)
*踊子と異国人の母(令女界 1932年4月)
*舞踊会の夜(新潮 1932年5月)○
*それを見た人達(改造 1932年5月)
*貞操の番犬(文學時代 1932年5月)
*'''浅草の九官鳥'''([[モダン日本]] 1932年6月-12月){{fontsize|small|7回連載}}
*ガンベツタの恋物語(講談倶楽部 1932年6月)
*父の十年(現代 1932年6月)
*復讐(日本国民 1932年7月)
*浅草に十日ゐた女(サンデー毎日 1932年7月)
*隠れた女(新潮 1932年8月、1934年1月)
**{{fontsize|small|続篇の原題は「現れた女」}}
*'''化粧と口笛'''(東京朝日新聞 1932年9月20日-11月10日){{fontsize|small|42回連載}}
*慰霊歌(改造 1932年10月)
*眉から(婦人画報 1932年11月)○
*[[浅草の姉妹]](サンデー毎日 1932年11月)
*愛犬エリ([[少女倶楽部]] 1932年12月)
*翼の抒情歌(令女界 1933年1月-6月){{fontsize|small|6回連載}}
*{{ruby|二十歳|にじっさい}}(改造 1933年2月)
*開校記念日(少女倶楽部 1933年2月)
*寝顔(文藝春秋 1933年4月)
*父となる話(週刊朝日 1933年4月)
*藤の花と苺(婦人倶楽部 1933年6月)○
*[[禽獣 (小説)|禽獣]](改造 1933年7月)
*夏の宿題(少女倶楽部 1933年7月)
*'''学校の花'''(少女倶楽部 1933年9月-12月){{fontsize|small|4回連載}}
*秋の女房〈のち「秋風の女房」に改題)(週刊朝日 1933年10月)○
*[[散りぬるを (小説)|散りぬるを]](改造ほか 1933年11月-1934年5月){{fontsize|small|断続的に3回連載。各回の原題は「散りぬるを」「瀧子」「通り魔」}}
*キャラメル兄弟(スヰート 1933年12月)
*九十九里(現代 1933年12月)
*夢の姉(週刊朝日 1934年1月)
*令嬢日記([[福岡日日新聞]] 1934年1月1日)
*正月の旅愁(福岡日日新聞 1934年1月13日、14日、16日-20日)
*薔薇の家(少女倶楽部 1934年2月)
*虹(中央公論ほか 1934年3月-1936年4月){{fontsize|small|断続的に5回連載。各回の原題は「虹」「踊子」「夏」「四竹」「浅草心中」}}
*広告写真(週刊朝日 1934年4月)
*花嫁車(報国 1934年6月)
*南方の火(文學界 1934年7月)★
**{{fontsize|small|1回掲載でそのまま放置されたもの。}}
*水上心中(モダン日本 1934年8月-12月){{fontsize|small|5回連載}}
*故郷の踊(週刊朝日 1934年8月)
*'''浅草祭'''(文藝ほか 1934年9月-1935年3月){{fontsize|small|断続的に6回連載}}
*扉(改造 1934年10月)
*姉の和解(婦人倶楽部 1934年12月)
*'''[[雪国 (小説)|雪国]]'''(文藝春秋・改造ほか 1935年1月-1947年10月){{fontsize|small|断続的に11回連載}}
*出世人形(現代 1935年1月)
*'''舞姫の暦'''(福岡日日新聞ほか 1935年1月6日-3月31日){{fontsize|small|75回連載}}
*愛犬安産([[東京日日新聞]] 1935年1月21日)○
*駒鳥温泉(少女倶楽部 1935年2月)
*田舎芝居(中央公論 1935年5月)
*[[童謡 (小説)|童謡]](改造 1935年10月)
*弟の愛犬〈のち「弟の秘密」と改題〉(改造 1935年10月)
*母親と恋愛(世界 1935年前後と推定)
*[[イタリアの歌]](改造 1936年1月)
*これを見し時(文藝春秋 1936年1月)
*花の湖(若草 1936年1月-4月、6月){{fontsize|small|断続的に5回連載}}
*花のワルツ(改造ほか 1936年4月-1937年1月){{fontsize|small|断続的に4回連載。各回の原題は「花のワルツ」「花のワルツ」「びつこの踊」「最後の踊」}}
*翼にのせて(少女倶楽部 1936年6月)
*むすめごころ(雄弁 1936年8月)
*女学生(若草 1936年10月)
*父母(改造 1936年10月)
*コスモスの友(少女倶楽部 1936年10月)
*七人の妻(週刊朝日 1936年10月)
*[[夕映少女]](333 1936年12月)
*'''女性開眼'''(報知新聞 1936年12月11日-1937年7月23日){{fontsize|small|223回連載}}
*初雪(週刊朝日 1937年1月20日)
*'''牧歌'''(婦人公論 1937年6月-1938年12月){{fontsize|small|9回連載}}
*'''[[乙女の港]]'''([[少女の友]] 1937年6月-1938年3月){{fontsize|small|10回連載}}
*夏の友情(少女の友 1937年8月)
*高原(文藝春秋・改造ほか 1937年11月-1939年12月){{fontsize|small|断続的に5回連載。各回の原題は「高原」「風土記」「高原」「初秋高原」「樅の家」}}
*生花(中央公論 1938年1月)
*[[金塊 (小説)|金塊]](改造 1938年4月)
*'''花日記'''(少女の友 1938年4月-1939年3月){{fontsize|small|12回連載}}
*英習字帖(少女の友 1938年4月)
*愛([[オール讀物]] 1938年7月、新女苑 1939年1月){{fontsize|small|続篇の原題は「大牡丹」}}
*試験の時(少女の友 1938年8月)
*百日堂先生(文藝春秋 1938年10月)
*故人の園(大陸 1939年2月)
*兄の遺曲(少女の友 1939年4月)
*'''美しい旅'''(少女の友 1939年7月-1941年4月){{fontsize|small|21回連載。21回目の原題は「望みの海」}}
*'''続美しい旅'''(少女の友 1941年9月-1942年10月){{fontsize|small|11回連載(未完)}}
*映画館前〈のち「佐山女史」と改題〉(モダン日本 1939年10月)
*美人競争(オール讀物 1939年10月)
*母の読める([[文藝]] 1939年10月-1940年1月){{fontsize|small|4回連載(未完)}}
*[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]](中央公論 1940年1月)
*旅人宿(文藝春秋 1940年1月)
*[[母の初恋]](婦人公論 1940年1月)
*'''旅への誘ひ'''(新女苑 1940年1月-9月){{fontsize|small|8回連載}}
*[[女の夢 (川端康成の小説)|女の夢]](1940年2月)
*悪妻の手紙〈のち「[[ほくろの手紙]]」と改題〉(婦人公論 1940年3月)
*[[夜のさいころ]](婦人公論 1940年5月)
*[[燕の童女]](婦人公論 1940年6月)
*[[夫唱婦和]](婦人公論 1940年7月)
*日雀(文藝春秋 1940年7月)
*[[子供一人]](婦人公論 1940年8月)
*[[ゆくひと]](婦人公論 1940年11月)
*[[年の暮 (小説)|年の暮]](婦人公論 1940年12月)
*寒風(日本評論ほか 1941年1月-1942年4月){{fontsize|small|断続的に3回連載。各回の原題は「寒風」「冬の事」「赤い足」}}
*義眼(文藝春秋 1941年1月)
*朝雲(新女苑 1941年2月)
*'''[[名人 (小説)|名人]]'''〈八雲版〉(八雲ほか 1942年8月-1948年1月){{fontsize|small|断続的に5回連載}}
*父の名(文藝 1943年2月、3月)★
*ざくろ(新潮 1943年5月)○
**{{fontsize|small|初出時の副題:「少女の手記より」}}
*'''故園'''(文藝 1943年5月-1945年1月)★{{fontsize|small|断続的に11回連載(未完)}}
*'''東海道'''([[満州日日新聞]] 1943年7月20日-10月31日){{fontsize|small|54回連載}}
*十七歳(文藝春秋 1944年7月)○{{fontsize|small|総題「一草一花」}}
*わかめ(文藝春秋 1944年7月)○{{fontsize|small|総題「一草一花」}}
*小切(文藝春秋 1944年7月)○{{fontsize|small|総題「一草一花」}}
*さと([[写真週報]] 1944年10月)○
*水(写真週報 1944年10月)○
*冬の曲(1945年4月)
*女の手([[人間 (雑誌)|人間]] 1946年1月)
*感傷の塔(世界文化 1946年2月)
*挿話〈のち「五十銭銀貨」と改題〉(新潮 1946年2月)
*再会(世界 1946年2月、文藝春秋 7月){{fontsize|small|続篇の原題は「過去」}}
*生命の樹(婦人文庫 1946年7月)
*さざん花(新潮 1946年12月)○
*夢(婦人文庫 1947年12月)
*'''再婚者の手記'''〈のち「再婚者」と改題〉(新潮 1948年1月-8月、1952年1月){{fontsize|small|断続的に7回連載。7回目の原題は「娘の結婚」}}
*紅梅(小説新聞 1948年4月)○
*'''[[少年 (川端康成)|少年]]'''(人間 1948年5月-1949年3月)★{{fontsize|small|断続的に6回連載(未完)}}
**{{fontsize|small|最終部を大幅加筆した7回目を足した完成作は『川端康成全集第14巻』(1952年9月)で発表}}
*南方の火(1948年8月)★
**{{fontsize|small|『海の火祭』(全11章)の「鮎」の章を独立させて改稿した完結編。「篝火」「非常」「霰」と重複する内容あり。}}
*足袋([[暮しの手帖]] 1948年9月)○
*手紙〈のち「反橋」と改題〉(別冊風雪 1948年10月)
*浮舟の君〈のち「浮舟」と改題〉(鏡 1948年12月)
**{{fontsize|small|典拠は『[[源氏物語]]』の「[[浮舟 (源氏物語)|浮舟]]」}}
*かけす(改造文藝 1949年1月)○
*夏と冬(改造文藝 1949年1月)○
*しぐれ(文藝往来 1949年1月)
*生きてゐる方に(旬刊ニュース 1949年1月)
*雪(婦人文庫 1949年1月-2月)
**{{fontsize|small|同名の別作品(掌の小説)あり。}}
*住吉物語〈のち「住吉」と改題〉(個性 1949年4月)
*花のいのち(婦人文庫 1949年4月)
*雨の日(素直 1949年4月)
*'''[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]'''(読物時事別冊ほか 1949年5月-1951年10月){{fontsize|small|断続的に6回連載}}
*師の棺を肩に(東光少年 1949年6月)
**{{fontsize|small|「師の柩を肩に」(1916年)の中学時代のノートに拠ったもの。}}
*'''[[山の音]]'''(改造文藝ほか 1949年9月-1954年4月){{fontsize|small|断続的に17回連載}}
*[[骨拾ひ]](文藝往来 1949年10月)○★{{fontsize|small|執筆は1916年}}
*琴を抱いて(改造文藝 1950年1月)
*天授の子([[文學界]] 1950年2月、3月)★{{fontsize|small|続篇の原題は「水晶の玉」}}
*日雀(文藝読物 1950年2月){{fontsize|small|1940年の再録}}
*'''虹いくたび'''(婦人生活 1950年3月-1951年4月){{fontsize|small|14回連載}}
*笹舟(改造文藝 1950年4月)○
*卵(人間 1950年5月)○{{fontsize|small|総題「二つの短篇」}}
*瀧(人間 1950年5月)○{{fontsize|small|総題「二つの短篇」}}
*地獄(別冊文藝春秋 1950年5月)
*蛇(文藝 1950年7月)○
*北の海から(別冊文藝春秋 1950年12月)
*'''[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]'''(朝日新聞 1950年12月12日-1951年3月31日) - {{fontsize|small|109回連載}}
*首輪(新潮 1951年1月)
*'''万葉姉妹'''([[ひまわり (少女雑誌)|ひまわり]] 1951年1月-12月)△{{fontsize|small|少女小説}}
*ルイ(中央公論 1951年1月)
*たまゆら(別冊文藝春秋 1951年5月)
**{{fontsize|small|同名の別作品(長編)あり。}}
*あやめの歌(オール讀物 1951年8月)
*'''[[名人 (小説)|名人]]'''〈完成版〉(新潮ほか 1951年8月-1954年12月){{fontsize|small|断続的に4回連載}}
*三人目(中央公論 1951年9月)
*さとがへり(文藝 1951年10月)
*お正月(別冊文藝春秋 1951年12月)
*岩に菊(文藝 1952年1月)
*冬の半日(中央公論 1952年1月)
*'''日も月も'''(婦人公論 1952年1月-1953年5月){{fontsize|small|16回連載}}
*白雪(別冊文藝春秋 1952年2月)
*見ない人(オール讀物 1952年3月)
*自然(文藝春秋 1952年10月)
*明月(文藝 1952年11月)○
*富士の初雪(オール讀物 1952年12月)
*'''川のある下町の話'''(婦人画報 1953年1月-12月){{fontsize|small|13回連載}}
*いつも話す人(群像 1953年1月-7月){{fontsize|small|断続的に4回連載(未完)。4回目の原題は「車中の女」}}
*無言(中央公論 1953年4月)
*'''[[波千鳥]]'''(小説新潮 1953年4月-1954年7月){{fontsize|small|断続的に8回連載。『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』の続編}}
*あちらこちらで(オール讀物 1953年9月)
*水月(文藝春秋 1953年11月)
*小春日(文藝 1954年1月)
*犬と話して([[日本経済新聞]] 1954年1月1日)
*'''[[みづうみ]]'''(新潮 1954年1月-12月){{fontsize|small|12回連載}}
*横町(別冊文藝春秋 1954年4月)
*'''東京の人'''([[北海道新聞]]ほか 1954年5月20日-1955年10月10日){{fontsize|small|505回連載}}
*離合(知性 1954年8月)
*'''ある人の生のなかに'''(文藝 1955年1月-1957年3月、1964年1月){{fontsize|small|26回連載}}
*少女A子の場合(別冊文藝春秋 1955年2月)
*故郷(新潮 1955年4月)
**{{fontsize|small|同名の別作品(掌の小説)あり。}}
*多年生(オール讀物 1955年4月)
*夢がつくつた小説(文藝春秋 1955年5月)
*雨だれ(新潮 1956年1月)
*あの国この国(小説新潮 1956年1月、4月){{fontsize|small|続篇の原題は「隣りの人」}}
*夕焼け(中央公論 1956年1月)
*おきびき(オール讀物 1956年3月)
*ライオンと少女(別冊文藝春秋 1956年3月)
*'''女であること'''(朝日新聞 1956年3月16日-11月23日){{fontsize|small|251回連載}}
*'''風のある道'''(婦人画報 1957年1月-1958年10月。1959年7月){{fontsize|small|15回連載}}
*[[弓浦市]](新潮 1958年1月)
*並木(文藝春秋 1958年1月)
*夫のしない([[週刊新潮]] 1958年1月)
*'''遠い旅'''(平凡 1958年1月-12月)△
*線路(日本 1958年3月)
*二人(小説公園 1958年4月)
*'''[[眠れる美女]]'''(新潮 1960年1月-6月、1961年1月-11月){{fontsize|small|17回連載}}
*匂ふ娘(中央公論 1960年11月)
*'''[[美しさと哀しみと]]'''(婦人公論 1961年1月-1963年10月){{fontsize|small|33回連載}}
**{{fontsize|small|34回目を追加した完成作は1964年3月刊行の『日本の文学第38巻 川端康成』で発表}}
*'''[[古都 (小説)|古都]]'''(朝日新聞 1961年10月8日-1962年1月23日){{fontsize|small|107回連載}}
*秋の雨(朝日新聞PR版 1962年11月)○
*手紙(朝日新聞PR版 1962年11月)○
*隣人(朝日新聞PR版 1962年11月)○
*木の上(朝日新聞PR版 1962年12月)○
*乗馬服(朝日新聞PR版 1962年12月)○
*人間のなか(文藝春秋 1963年2月)
*かささぎ(朝日新聞PR版 1963年7月)○
*[[片腕 (小説)|片腕]](新潮 1963年8月-11月。1964年1月){{fontsize|small|5回連載}}
*不死(朝日新聞PR版 1963年8月)○
*月下美人(朝日新聞PR版 1963年8月)○
*地(朝日新聞PR版 1963年8月)○
*白馬(朝日新聞PR版 1963年8月)○
*雪(日本経済新聞 1964年1月1日)○
*'''[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]'''(新潮 1964年6月-1968年10月){{fontsize|small|断続的に22回連載(未完)}}
*めづらしい人(朝日新聞PR版 1964年11月)○
*'''[[たまゆら (テレビドラマ)|たまゆら]]'''(小説新潮 1965年9月-1966年3月){{fontsize|small|7回連載(未完)}}
*髪は長く(新潮 1970年4月)○
*竹の声桃の花(中央公論 1970年12月)○
*隅田川(新潮 1971年11月)
}}
==== 初出日不詳 ====
*樅ノ木ノ話(初出誌、初出日不詳)
**{{fontsize|small|子供向けの童話で樹木の神聖さを説いた作品。文末に〈次回正月号 ノ ヨミキリドウワ ハ、[[佐藤春夫]]先生 ノ オカキ ニ ナツタ 『タカアシ ヲドリ』 ト イフ オハナシ デス〉という付記あり。}}
==== 遺稿・死後発表作 ====
{{Columns-list|2|
*雪国抄(サンデー毎日 1972年8月)
**{{fontsize|small|執筆1972年1月-2月。毛筆で書かれた抄で『[[雪国 (小説)|雪国]]』の前半部分を短縮した内容となっている。}}
*真鍮の大黒像(新潮 1972年10月)
**{{fontsize|small|「大黒像と駕籠」のプレオリジナル。}}
*出産神聖(新潮 1972年10月)
**{{fontsize|small|推定執筆日は1927年9月以降。「[[浅草紅団]]」との関連性が見られる小説。}}
*生活の内幕(新潮 1972年10月)
**{{fontsize|small|推定執筆日は1927年9月以降。書簡体形式を含む小説で、作中に〈自殺した芥川氏の一月祭〉という文言あり。}}
*夏・逗子・鎌倉・海(新潮 1972年10月)
**{{fontsize|small|「夏海恋」(1931年)のプレオリジナル。}}
*友人の妻(新潮 1972年10月)
**{{fontsize|small|推定執筆日は1966年から1968年。}}
}}
==== 未発表作品 ====
※()内は執筆日
{{Columns-list|2|
*五つの手紙(不明)★
**{{fontsize|small|題名は無題のため便宜的に付けたもの。書簡体形式の小説。}}
*絵葉書(不明)★
**{{fontsize|small|「彼女の盛装」(1926年9月)内にこの作品の挿話あり。}}
*感情の乞食(不明)★
*途中下車(不明)
**{{fontsize|small|[[伊藤初代]]の件で岐阜行きの汽車に乗った時の体験を元にしたとみられる小説。}}
*{{ruby|新晴|しんせい}}(1922年6月24、25日)★
**{{fontsize|small|「篝火」の元}}
*時代の祝福(推定1927年5月以降の年内)★
*南方の火(1923年)★
**{{fontsize|small|最初の1923年7月発表の「南方の火」の続篇の断片。}}
*星を盗んだ父(1924年頃執筆と推定)△
**{{fontsize|small| [[モルナール・フェレンツ]]の戯曲「リリオム」(''Liliom'')の翻案作品。}}
*{{ruby|薄雪鳩|うすゆきばと}}(1932年11月16日)
*乱視(不明)
**{{fontsize|small|戯曲。〈三幕三場〉とあるが、第一幕の冒頭部分断片と、舞台設定とわずかな台詞があるのみ(未完)。}}
}}
=== 脚本・台本 ===
*[[狂つた一頁]](映画時代 1926年7月)
*{{ruby|船遊女|ふなゆうじょ}}(西川流舞踊劇台本 1954年9月)
**{{fontsize|small|第8回名古屋踊りの西川流舞踊劇の台本として執筆されたもの。}}
*古里の音(西川流「鯉風会」第13回公演 1958年1月)
*古都舞曲(第41回「春の東おどり」パンフレット 1963年4月)
=== 評論・随筆 ===
※ 評論・随筆類は数が膨大なため、各参考文献内の作品年表、経歴内などで言及されている作品を中心に記載
{{Columns-list|2|
*南部氏の作風(新潮 1921年12月)
*[[里見弴]]氏の一傾向(新潮 1922年7月・8月)
*現代作家の文章を論ず(文章倶楽部 1922年11月)
*大火見物(文藝春秋 1923年11月)
*日本小説史小論(帝大卒業論文 1924年3月)
*新しき生活と新しき文藝――創刊の辞に代へて(文藝時代 1924年10月)
*新進作家の新傾向解説(文藝時代 1925年1月)
*[[新感覚派]]の弁(新潮 1925年3月)
*掌篇小説の流行(文藝春秋 1926年1月)
*新感覚派映画連盟に就て(読売新聞 1926年4月)
*「[[狂つた一頁]]」撮影日記(週刊朝日 1926年5月)
*入京日記(文藝時代 1926年5月)
*一流の人物(文藝春秋 1926年7月)
*「[[伊豆の踊子]]」の装幀その他(文藝時代 1927年5月)
*遥か昔(手帖 1927年6月)
*西国紀行(改造 1927年8月)
*熱海と盗難([[サンデー毎日]] 1928年2月)
*[[芥川龍之介]]氏と吉原(サンデー毎日 1929年1月)
*新人才華(新潮 1929年9月、1930年6月)
*上野桜木町へ(文學時代 1929年11月)
*嘘と逆――自己を語る(文學時代 1929年12月)
*[[菊池寛]]氏の家と文藝春秋社の十年間(文藝春秋 1932年1月)
*「伊豆の踊子」の映画化に際し(今日の文學 1933年4月)
*[[末期の眼]](文藝 1933年12月)
*文学的自叙伝(新潮 1934年5月)
*[[梶井基次郎]](翰林 1934年9月)
*純粋の声(婦人公論 1935年7月)
*[[太宰治]]氏へ芥川賞に就て(文藝通信 1935年11月)
*旅中文学感(東京朝日新聞 1935年11月)
*純文藝雑誌帰還説(読売新聞 1935年12月)
*「いのち」の文学(大阪朝日新聞 1936年2月)
*「鶴は病みき」の作者(文學界 1936年6月)
*軽井沢だより(文學界 1936年10月)
*[[本因坊秀哉|本因坊名人]]引退碁観戦記(東京日日新聞・大阪毎日新聞 1938年7月-1939年3月)
*四つの机(読売新聞 1940年7月)
*日本の母(読売報知 1942年10月)
*「日本の母」を訪ねて(婦人画報 1942年12月)
*英霊の遺文(東京新聞 1942年12月、1943年12月、1944年12月)
*満州国の文学(藝文 1944年7月)
*[[島木健作]]追悼(新潮 1945年11月)
*[[武田麟太郎]]と島木健作(人間 1946年5月・7月、1949年3月)
*わが愛する文章(白鳥 1947年1月-1948年7月){{fontsize|small|11回連載}}
*哀愁(社会 1947年10月)
*[[横光利一]]〈のち「横光利一弔辞」と改題〉(人間 1948年2月)
*判決の記〈のち「東京裁判判決の日」と改題〉(社会 1949年1月)
*新文章講座〈のち「[[文章読本|新文章読本]]」と改題〉(文藝往来 1949年2月-1950年11月){{fontsize|small|断続的に7回連載}}
*月下の門(新潮 1952年2月-11月){{fontsize|small|7回連載}}
*呉清源棋談(読売新聞 1953年8月-12月){{fontsize|small|41回連載}}
*[[古賀春江]]と私(芸術新潮 1954年3月)
*「悲しみの代価」その他(文藝 1955年5月)
*敗戦のころ(新潮 1955年8月)
*東西文化のかけ橋――新しい年への期待〈のち「東西文化の架橋」と改題〉(読売新聞 1957年1月)
*雨のち晴――国際ペン大会を終つて(朝日新聞 1957年9月)
*世界の佳人(日本経済新聞 1958年1月)
*古い日記(新潮 1959年9月-12月){{fontsize|small|4回連載}}
*[[岸惠子]]さんの婚礼(風景 1961年1月-9月){{fontsize|small|8回連載}}
*枕の草子――落花流水(風景 1962年10月)
*秋風高原――落花流水(風景 1962年11月-1964年12月){{fontsize|small|14回連載}}
*伊豆行――落花流水(風景 1963年6月)
*行燈――落花流水(風景 1964年2月)
*パリ郷愁(朝日新聞PR版 1964年7月)
*パリ安息(朝日新聞PR版 1964年7月)
*水郷(週刊朝日 1965年7月)
*一草一花――「伊豆の踊子」の作者(風景 1967年5月-1968年11月){{fontsize|small|19回連載}}
*秋の野に(新潮 1968年12月)
*夕日野(新潮 1969年1月)
*ハワイだより(朝日新聞 1969年4月)
*思ひ出すともなく(毎日新聞 1969年4月)
*夜の虹(朝日新聞 1969年6月)
*[[伊藤整]](新潮 1970年1月)
*鳶の舞ふ西空(新潮 1970年3月)
*独影自命(川端康成全集第14巻 1970年10月)
*[[三島由紀夫]](新潮 1971年1月)
*[[志賀直哉]](新潮 1971年12月-1972年3月){{fontsize|small|4回連載}}
*夢 幻の如くなり(文藝春秋 1972年2月)
*[[岡本かの子]](朝日新聞ほか 1972年4月)
}}
=== 講演・声明 ===
*[[文化大革命]]に関する声明(東京新聞・産経新聞 1967年2月)
**{{fontsize|small| [[三島由紀夫]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と共同執筆}}
*[[美しい日本の私―その序説]](朝日新聞ほか 1968年12月)
**{{fontsize|small|スウェーデン・アカデミーにおける[[ノーベル文学賞]]受賞記念講演。}}
*美の存在と発見(毎日新聞 1969年5月)
**{{fontsize|small|[[ハワイ大学]]での記念講演。}}
*日本文学の美(毎日新聞 1969年9月)
**{{fontsize|small|移民百年記念サンフランシスコ日本週間に出席した際の記念講演。}}
*源氏物語と芭蕉(1970年6月)
**{{fontsize|small|1999年6月の『新潮 川端康成生誕100年記念特集号』に掲載。}}
*以文会友(1970年7月)
**{{fontsize|small|第38回国際ペンクラブ[[京城府|京城]]大会出席の際の[[漢陽大学校]]での記念講演。}}
*新人でゐたい([[諸君!]] 1972年6月)
**{{fontsize|small|1972年1月5日に文藝春秋創立50周年で社員顔合わせの会に出席した際の講演。}}
=== 翻訳・現代語訳 ===
{{Columns-list|2|
*街道(文章倶楽部 1922年1月)
**{{fontsize|small|原作:[[ジョン・ゴールズワージー]]}}
*Oasis of Death(文章倶楽部 1922年1月)
**{{fontsize|small|原作:[[ロード・ダンセイニ]]}}
*芝居から帰つて(文章倶楽部 1922年2月)
**{{fontsize|small|原作:[[アントン・チェーホフ]]}}
*[[竹取物語]](非凡閣『現代語訳国文学全集』1937年8月)
*[[堤中納言物語]](非凡閣『現代語訳国文学全集』1937年8月)
*[[とりかへばや物語]](非凡閣『現代語訳国文学全集』1937年8月)
*とりかへばや物語(文藝読物 1948年1月-12月){{fontsize|small|9回連載(未完)}}
*[[小公子]]、[[小公女]]([[創元社]]『世界少年少女文学全集9』1953年6月)
**{{fontsize|small|原作:[[フランシス・ホジソン・バーネット]]。[[野上彰 (文学者)|野上彰]]との共訳。}}
*ラング童話([[東京創元社]]『[[アンドルー・ラング世界童話集|ラング世界童話全集]]』1959年)
**{{fontsize|small|原作:[[アンドルー・ラング]]。野上彰との共訳。}}
}}
=== 作詞 ===
*生きてゐるのに(1968年6月)
**{{fontsize|small|[[北條誠]]の長男・[[北條暁]]のために、京都の[[ウェスティン都ホテル京都|都ホテル]]で作詞されたもの<ref name="zassan2">「解題――生きてゐるのに」({{Harvnb|雑纂2|1983|p=459}})</ref>。翌1969年(昭和44年)4月に三田レコード制作部より、北條暁の作曲・歌唱でレコード化された<ref name="zassan2"/>。}}
**{{fontsize|small|カレッジフォークグループの[[エマノンズ]]がカバーした。エマノンズ版の音源は東芝EMIファミリークラブから発売された通販限定CD-BOX『カレッジポップス クロニクル』や2006年に[[日本コロムビア]]から発売されたCD『[[青春歌年鑑#フォーク歌年鑑|フォーク歌年鑑]] '69 Vol.2 フォーク&ニューミュージック大全集 5』(曲名は[[現代仮名遣い]]で「生きているのに」)などに収録されている。}}
== 著作本一覧 ==
=== 単行本 ===
{{Columns-list|2|
*『感情装飾』(金星堂、1926年6月) - [[掌の小説]]35編を収録。装幀:[[吉田謙吉]]
*『[[伊豆の踊子]]』(金星堂、1927年2月) - 白い満月、招魂祭一景、孤児の感情、驢馬に乗る妻、葬式の名人、犠牲の花嫁、[[十六歳の日記]]、青い海黒い海、五月の幻、伊豆の踊子、を収録。装幀:吉田謙吉
*『僕の標本室』(新潮社、1930年4月) - 母、神の骨、ほか47編を収録。
*『花のある写真』(新潮社、1930年10月) - 死体紹介人、春景色、花のある写真、文科大学挿話、死者の書、花嫁姿、或る詩風と画風、温泉宿、を収録。
*『[[浅草紅団]]』(先進社、1930年12月) - 浅草紅団、[[日本人アンナ]]、白粉とガソリン、縛られた夫、浅草日記、水族館の踊子、を収録。装幀:吉田謙吉。挿画:[[太田三郎 (芸術家)|太田三郎]]
*『化粧と口笛』(新潮社、1933年6月) - 化粧と口笛、明日の約束、抒情歌、真夏の盛装、針と硝子と霧、二十歳、水仙、落葉、霧の造化、を収録。装幀:妹尾正彦
*『[[水晶幻想]]』([[改造社]]、1934年4月) - 禽獣、騎士の死、それを見た人達、椿、慰霊歌、女を売る女、夢の姉、父母への手紙、結婚の技巧、寝顔、水晶幻想、を収録。
*『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』(竹村書房、1934年12月) - 浅草の姉妹、水仙、春景色、青い海黒い海、寝顔、伊豆の踊子、二十歳、十六歳の日記、を収録。装幀:[[木村荘八]]
*『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(野田書房、1935年5月) - 散りぬるを、禽獣、を収録。
*『小説の研究』([[第一書房]]、1936年8月) - 「小説とは何か」(12論)、「創作の動機」(6論)、「長篇小説」(4論)、「短篇小説」(6論)、「主題」(6論)、「筋」(6論)、「性格と心理」(4論)、「文章論」(3論)、「作家と作品」(30論)、「小説一家言」(18論)、の10章95論を収録。[[伊藤整]]、[[瀬沼茂樹]]との合作<ref name="zassan2"/>。
*『純粋の声』(沙羅書店、1936年9月) - 文学的自叙伝、嘘と逆、ほか36編を収録。装幀:[[堀辰雄]]
*『花のワルツ』(改造社、1936年12月) - 虹、散りぬるを、童謡、田舎芝居、花のワルツ、を収録。題簽:川端康成
*『[[雪国 (小説)|雪国]]』([[創元社]]、1937年6月) - 雪国、父母、これを見し時、夕映少女、イタリアの歌、を収録。小冊子「名作『雪国』に対する諸家の批評」付。装幀:[[芹沢銈介]]
*『[[むすめごころ]]』(竹村書房、1937年7月) - むすめごころ、女学生、夢の姉、ナアシツサス、花束の時間、夏海恋、ポオランドの踊子、初雪、姉の和解、七人の妻、絵の匂ひから、を収録。
*『女性開眼』(創元社、1937年12月) - 装幀:芹沢銈介
*『級長の探偵』([[中央公論社]]、1937年12月) - 級長の探偵、開校記念日、弟の秘密、愛犬エリ、夏の宿題、駒鳥温泉、翼にのせて、コスモスの友、学校の花、を収録。装幀・挿画:[[深沢省三]]、[[深沢紅子]]
*『[[乙女の港]]』([[実業之日本社]]、1938年4月) - 乙女の港、薔薇の家、を収録。装幀:[[中原淳一]]
*『短篇集』(砂子屋書房、1939年11月) - 夏の靴、有難う、髪、朝鮮人、馬美人、ほか29編を収録。
*『[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]』(新声閣、1940年12月) - 正月三ヶ日、[[燕の童女]]、日雀、[[母の初恋]]、を収録。装幀:芹沢銈介
*『寝顔』(有光社、1941年7月) - 高原、温泉宿、伊豆の踊子、虹、寝顔、を収録。「まへがき」付。装幀:[[小穴隆一]]
*『小説の構成』([[三笠書房]]、1941年8月) - 序、小説とは、小説の本質、主題(テーマ)、ほか13編を収録。
*『[[愛する人達]]』(新潮社、1941年12月) - 母の初恋、女の夢、ほくろの手紙、夜のさいころ、燕の童女、夫唱婦和、子供一人、ゆくひと、年の暮、を収録。装幀:芹沢銈介
*『文章』(東峰書房、1942年4月) - 随筆集。四つの机、純粋の声、ほか18編を収録。「あとがき」付。装幀:[[林芙美子]]
*『美しい旅』(実業之日本社、1942年7月) - 「あとがき」付
*『高原』(甲鳥書林、1942年7月) - 序、秋山居、高原、美人競争、百日堂先生、父母、戸隠の巫女、を収録。装幀:堀辰雄
*『女性文章』(満州文藝春秋社、1945年1月) - 序、〈行進ラッパ(大空やよひ)など40編〉、選評抄
*『朝雲』(新潮社、1945年10月) - 朝雲、故人の園、冬の曲、十七歳、わかめ、小切、父の名、寒風、を収録。
*『愛』(養徳社、1945年11月) - 伊豆の踊子、夜のさいころ、寝顔、春景色、禽獣、を収録。
*『駒鳥温泉』(湘南書房、1945年12月) - 駒鳥温泉、弟の秘密、を収録。装幀:[[岡秀行]]。挿画:[[門屋一雄]]
*『日雀』([[新紀元社]]、1946年4月) - 日雀、母の初恋、女学生、燕の童女、十六歳の日記、春景色、抒情歌、を収録。装幀:[[恩地孝四郎]]
*『[[夕映少女]]』(丹頂書房、1946年4月) - むすめごころ、イタリアの歌、童謡、金塊、浅草の姉妹、夕映少女、正月三ヶ日、を収録。装幀:[[石井友太郎]]
*『温泉宿』(実業之日本社、1946年7月) - 温泉宿、父母、死体紹介人、を収録。装幀:芹沢銈介
*『学校の花』(湘南書房、1946年8月) - 装幀:中原淳一
*『散りぬるを』(前田出版社、1946年9月) - 散りぬるを、浅草の九官鳥、を収録。
*『虹』(四季書房、1947年9月) - 「あとがき」付。装幀:[[猪熊弦一郎]]。題簽:川端康成
*『一草一花』(青龍社、1948年1月) - 掌の小説を30編収録。「あとがき」付
*『旅の風景』(細川書店、1948年3月) - 夏の靴、伊豆の踊子、処女の祈り、日雀、金銭の道、燕の童女、帽子事件、父母、有難う、虹、を収録。「あとがき」付
*『心の雅歌』(細川書店、1948年7月) - 母、禽獣、雨傘、朝雲、死顔の出来事、イタリアの歌、離婚の子、抒情歌、笑はぬ男、散りぬるを、を収録。「あとがき」付
*『翼の抒情歌』(東光出版社、1948年11月) - 翼の抒情歌、兄の遺曲、駒鳥温泉、朝雲、バラの家、を収録。
*『白い満月』([[ロッテ]]出版社、1948年11月) - 夜のさいころ、イタリアの歌、百日堂先生、童謡、金塊、白い満月、霰、浅草の姉妹、を収録。装幀:[[岡村夫二]]
*『二十歳』([[文藝春秋|文藝春秋新社]]、1948年11月) - 二十歳、温泉宿、死者の書、神います、化粧、母の眼、指環、油、朝雲、篝火、を収録。装幀:恩地孝四郎
*『花日記』(ヒマワリ社、1948年12月) - 装幀・口絵:中原淳一
*『雪国 完結版』(創元社、1948年12月) - 「あとがき」付
*『[[夜のさいころ]]』([[トッパン]]、1949年1月) - 母の初恋、夕映少女、夜のさいころ、ゆくひと、騎士の死、年の暮、寝顔、を収録。装幀:[[鈴木道明]]
*『陽炎の丘』(東光出版社、1949年6月) - 陽炎の丘、椿、翼にのせて、コスモスの花、を収録。装幀・挿画:[[大槻さだを]]
*『哀愁』(細川書店、1949年12月) - 哀愁、反橋、しぐれ、住吉、ほか16編を収録。
*『浅草物語』(中央公論社、1950年8月) - 浅草紅団、浅草日記、浅草の姉妹、浅草の九官鳥、夜のさいころ、寝顔、虹、を収録。装幀・口絵:[[岡田謙三]]
*『川端康成文藝童話集』(三十書房、1950年9月) - 弟のひみつ、虫の声、伊豆湯が島、聾学校、級長の探偵、ざくろ、つばき、ばらの家、を収録。装幀:[[与田凖一|與田準一]]
*『[[文章読本|新文章読本]]』([[あかね書房]]、1950年11月) - 新文章読本、綴方について、綴方の話、を収録。「まへがき」付
*『歌劇学校』(ひまわり社、1950年12月) - 装幀・挿画:中原淳一
*『[[少年 (川端康成)|少年]]』(目黒書店、1951年4月) - 十六歳の日記、伊豆の踊子、少年、を収録。装幀:[[岡鹿之助]]
*『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』([[朝日新聞社]]、1951年7月) - 装幀:岡鹿之助。題字:[[高橋錦吉]]
*『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』([[筑摩書房]]、1952年2月) - 山の音、千羽鶴、を収録。装幀・題簽:[[小林古径]]
*『万葉姉妹』([[ポプラ社]]、1952年8月) - 「作者のことば」付。装幀(カバー絵):[[松本昌美]]。挿画:[[花房英樹 (洋画家)|花房英樹]]
*『再婚者』(三笠書房、1953年2月) - 再婚者、さざん花、白雪、お正月、夢、夏と冬、雨の日、冬の半日、首輪、再会、を収録。「あとがき」付。装幀:[[藤岡光一]]
*『日も月も』(中央公論社、1953年5月) - 装幀:[[太田聴雨]]
*『花と小鈴』(ポプラ社、1953年7月) - 「はじめに」付。装幀(カバー絵):松本昌美。挿画:花房英樹
*『川のある下町の話』(新潮社、1954年1月) - 装幀:[[阿部龍慶]]
*『[[山の音]]』(筑摩書房、1954年4月) - 装幀・題簽:[[山本丘人]]
*『[[呉清源]]棋談・[[名人 (小説)|名人]]』(文藝春秋新社、1954年7月) - 呉清源棋談、名人、を収録。題簽:[[呉清源]]
*『[[童謡 (小説)|童謡]]』([[東方社]]、1954年) - 童謡、夏の靴、春景色、ほか13編を収録。装幀:[[福田豊四郎]]。題簽:川端康成
*『伊豆の旅』(中央公論社、1954年10月) - 伊豆序説、伊豆温泉記、伊豆湯ヶ島、正月三ヶ日、椿、夏の靴、有難う、処女の祈り、伊豆の踊子、伊豆の帰り、伊豆の思ひ出、を収録。装幀:恩地孝四郎、[[高畠達四郎]]
*『虹いくたび』([[河出書房]]、1955年1月) - 装幀:[[東山魁夷]]
*『東京の人』(新潮社、1955年1月) - 第1回から第148回分を収録。装幀:[[金島桂華]]
*『親友』([[偕成社]]、1955年3月) - 親友、かげろうの丘、を収録。装幀:[[山中冬児]]。カバー絵・挿画:[[江川みさお]]
*『[[みづうみ]]』(新潮社、1955年4月) - 装幀:[[徳岡神泉]]。題簽:[[町春草]]
*『続東京の人』(新潮社、1955年5月) - 第149回から第272回分を収録。装幀:金島桂華
*『たまゆら』([[角川書店]]、1955年7月) - 水月、北の海から、離合、明月、あちらこちらで、横町、故郷、小春日、あやめの歌、たまゆら、を収録。装幀:[[高橋忠彌]]
*『[[燕の童女]]』(筑摩書房、1955年9月) - 母の初恋、ほくろの手紙、燕の童女、夫唱婦和、年の暮、再婚者、を収録。装幀:[[稗田一穂]]
*『続々東京の人』(新潮社、1955年10月) - 第273回から第399回分を収録。装幀:金島桂華
*『完結東京の人』(新潮社、1955年12月) - 第400回から第505回分を収録。装幀:金島桂華
*『[[女であること]](一)』(新潮社、1956年10月) - 第1回から第104回分を収録。装幀:[[勅使河原霞]]。挿画:[[森田元子]]
*『女であること(二)』(新潮社、1957年2月) - 第105回から第251回分を収録。装幀:勅使河原霞。挿画:森田元子
*『富士の初雪』(新潮社、1958年4月) - あの国この国、並木、自然、雨だれ、岩に菊、富士の初雪、無言、夫のしない、弓浦市、船遊女、を収録。「あとがき」付。装幀:町春草
*『風のある道』(角川書店、1959年7月) - 装幀:堀文子。題簽:町春草
*『[[眠れる美女]]』(新潮社、1961年11月)
*『[[古都 (小説)|古都]]』(新潮社、1962年6月) - 「あとがき」付。装幀:[[石井敦子]]
*『[[美しさと哀しみと]]』(中央公論社、1965年2月) - 装幀・挿画:[[加山又造]]
*『[[片腕 (小説)|片腕]]』(新潮社、1965年10月) - 片腕、女の手、生命の樹、生きている方に、さとがえり、ほか17編を収録。装幀:東山魁夷
*『たまゆら(上)』(新潮社、1965年12月) - 題簽:川端康成
*『落花流水』(新潮社、1966年5月) - 落花流水(行燈、伊豆行、枕の草子、秋風高原)、美智子妃殿下、ほか22編を収録。装幀:山本丘人
*『月下の門』([[大和書房]]、1967年12月) - 月下の門、鎌倉の書斎から、ほか20編を収録。解説:[[島村利正]]
*『川端康成少年少女小説集』(中央公論社、1968年12月) - 級長の探偵、開校記念日、弟の秘密、愛犬エリ、夏の宿題、駒鳥温泉、翼にのせて、つばき、ばらの家、男と女と荷車、夏の靴、雨傘、を収録。装幀:[[深沢紅子]]。装画:[[深沢省三]]。題字:[[深沢武蔵]]
*『[[美しい日本の私―その序説]]』([[講談社]]、1969年3月) - [[エドワード・G・サイデンステッカー]]の英訳付。装幀(カバー写真):[[濱谷浩]]
*『美の存在と発見』([[毎日新聞社]]、1969年7月) - ジョン・ヤングの序文、[[ヴァルド・ヴィリエルモ]]の英訳付。装幀:[[杉山寧]]
*『定本雪国』(牧羊社、1971年8月) - 装幀・挿画:岡鹿之助。題簽:川端康成
*『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』(新潮社、1972年9月) - 解説:[[佐伯彰一]]。解題:[[川端香男里]]。装幀:東山魁夷
*『ある人の生のなかに』([[河出書房新社]]、1972年9月) - 解題:川端香男里。装幀:加山又造
*『川端康成青春小説集』(ワグナー出版、1972年11月) - 花の湖、舞踊、鉄の梯子、父母への手紙、女学生、翼の抒情歌、ポオランドの踊子、踊子と異国人の母、ほか随筆7編を収録。解説:[[藤田圭雄]]。付録:[[永井龍男]]「令女界と若草」
*『雪国抄』([[ほるぷ出版]]、1972年12月) - 別冊解説書:藤田圭雄「毛筆書『雪国抄』について」付
*『日本の美のこころ』(講談社、1973年1月) - 秋風高原、美智子妃殿下、信濃の話、ほか36編を収録。[[円地文子]]の「あとがき」付。装幀:東山魁夷
*『竹の声桃の花』(新潮社、1973年1月) - 隅田川、竹の声桃の花、髪は長く、友人の妻、ほか25編を収録。川端香男里の「あとがき」付。装幀:山本丘人
*『一草一花』([[毎日新聞社]]、1973年10月)
*『天授の子』(新潮社、1975年6月) - 故園、東海道、感傷の塔、天授の子、を収録。解説:佐伯彰一。解題:川端香男里。装幀:東山魁夷
*『婚礼と葬礼』(創林社、1978年4月) - ちよ、生命保険、非常、彼女の盛装、霰、ほか12編を収録。解説:[[武田勝彦]]
*『海の火祭』(新潮社、1979年5月) - 解説:佐伯彰一。覚書:川端香男里。装幀:[[山高登]]
*『舞姫の暦』(毎日新聞社、1979年5月) - 舞姫の暦、母の読める、を収録。解説:佐伯彰一。覚書:川端香男里。装幀:山高登
*『親友』(小学館、2015年12月)- 解説:川端香男里。
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=== 絵本 ===
* 『ふしぎなランプ』[[蕗谷虹児]] 画、[[講談社]]〈ゴールド版講談社の絵本〉 1959年
=== 選集・全集 ===
*『川端康成集』(随筆・批評集)(改造社、1934年10月) - 装幀:[[芹沢銈介]]。題簽:[[菅虎雄]]
*『川端康成選集』全9巻(改造社、1938年7月-1939年12月) - 装幀:芹沢銈介(限定版160部)。装幀:[[林芙美子]](並製版)
*『川端康成全集』全16巻(新潮社、1948年5月-1954年4月) - 装幀・題簽:[[安田靫彦]]
*『川端康成集』(短篇集)(新潮社、1951年8月) - 装幀:[[川端龍子]](表紙)、[[岡鹿之助]](カット)
*『川端康成選集』全10巻(新潮社、1956年4月-9月) - 装幀・題簽:[[町春草]]
*『川端康成全集』全12巻(新潮社、1959年11月-1962年8月)
*『川端康成短篇全集』(講談社、1964年2月) - 題簽:川端康成
*『川端康成自選集』(集英社、1966年4月)
*『川端康成自選集』(豪華愛蔵版)(集英社、1968年11月)
*『川端康成作品選』(中央公論社、1968年11月)
*『川端康成全集』全19巻(新潮社、1969年4月-1974年3月) - カバー題字:[[松井如流]]。のちに限定一括復刊もした。
**第14巻『独影自命・続落花流水』は、1948年刊行(全16巻)の「あとがき」をまとめたもの。
*『川端康成全集』全35巻・補巻2巻(新潮社、1980年2月-1984年5月) - 題字:[[東山魁夷]]
=== 文庫本 ===
※刊行年月は初版のみ記載。
;[[新潮社]]
{{Columns-list|2|
*『[[雪国 (小説)|雪国]]』([[新潮文庫]]、1947年7月) - 解説:[[伊藤整]]。人と作品:[[竹西寛子]](1973年以降添付)。年譜付
*『[[伊豆の踊子]]』(新潮文庫、1950年8月)- 伊豆の踊子、温泉宿、[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]、[[禽獣 (小説)|禽獣]]、を収録。解説:[[三島由紀夫]]。人と作品:竹西寛子(1973年以降添付)。年譜付
*『花のワルツ』(新潮文庫、1951年8月)- [[イタリアの歌]]、花のワルツ、日雀、朝雲、を収録。解説:[[中里恒子]]
*『[[愛する人達]]』(新潮文庫、1951年10月)- [[母の初恋]]、[[女の夢 (川端康成の小説)|女の夢]]、[[ほくろの手紙]]、[[夜のさいころ]]、[[燕の童女]]、[[夫唱婦和]]、[[子供一人]]、[[ゆくひと]]、[[年の暮 (小説)|年の暮]]を収録。解説:[[高見順]]
*『[[掌の小説]]百篇』(上・下)(新潮文庫、1952年8月) - 解説:伊藤整
*『[[文章読本|新文章読本]]』(新潮文庫、1954年9月) - 「まえがき」(初刊本と同じもの)付。解説:伊藤整
*『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』(新潮文庫、1954年11月) - 解説:三島由紀夫
*『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(新潮文庫、1955年2月)- 解説:山本健吉
*『[[浅草紅団]]』(新潮文庫、1955年11月) - 解説:[[十返肇]]
*『虹・[[浅草の姉妹]]』(新潮文庫、1955年12月) - 虹、浅草の九官鳥、浅草の姉妹、を収録。解説:高見順
*『[[山の音]]』(新潮文庫、1957年4月) - 解説:[[山本健吉]]
*『[[東京の人]](一)』(新潮文庫、1959年7月) - 第1章「しょうぶ湯」から第8章「男を通して」まで収録。
*『東京の人(二)』(新潮文庫、1959年8月) - 第9章「秋の虹」から第25章「隣りの火事」まで収録。
*『東京の人(三)』(新潮文庫、1959年8月) - 第26章「ふしぎな自由」から第40章「空と海へ」まで収録。解説:十返肇
*『[[川のある下町の話]]』(新潮文庫、1958年6月) - 解説:[[杉森久英]]
*『[[みづうみ]]』(新潮文庫、1960年12月) - 解説:[[中村真一郎]]
*『[[女であること]]』(新潮文庫、1961年4月) - 解説:中里恒子
*『[[名人 (小説)|名人]]』(新潮文庫、1962年9月) - 解説:山本健吉
*『虹いくたび』(新潮文庫、1963年7月) - 解説:[[北條誠]]
*『[[眠れる美女]]』(新潮文庫、1967年11月) - 眠れる美女、[[片腕 (小説)|片腕]]、[[散りぬるを (小説)|散りぬるを]]、を収録。解説:三島由紀夫
*『[[古都 (小説)|古都]]』(新潮文庫、1968年8月) - 「あとがき」(初刊本と同じもの)付。解説:山本健吉
*『掌の小説』(新潮文庫、1971年3月) - 111編収録。1989年の改版後は122編を収録。解説:[[吉村貞司]]
*『千羽鶴』(新潮文庫、1989年11月) - 千羽鶴、波千鳥(続編[新たに所収])、を収録。解説:山本健吉、[[郡司勝義]]
*『現代語訳 竹取物語』(新潮文庫、1998年6月)
*『天授の子』(新潮文庫、1999年6月)- 故園、東海道、感傷の塔、天授の子、を収録。解説:佐伯彰一。覚書:川端香男里。
*『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮文庫、2000年11月) - 付録対談:[[佐伯彰一]]・[[川端香男里]]。年譜付
*『川端康成初恋小説集』(新潮文庫、2016年4月) - 南方の火(4種)、篝火、新晴、非常、生命保険、丙午の娘讃、この頃、猫、犬、野菊、五月の幻、霰、浅草に十日いた女、彼女の盛装、水郷、ちよ、孤児の感情、青い海黒い海、油、時代の祝福、再会、人間のなか、を収録。解説:川端香男里
*『[[少年 (川端康成)|少年]]』(新潮文庫、2022年3月) - 解説:[[宇能鴻一郎]]
}}
;[[角川書店]]
{{Columns-list|2|
*『伊豆の踊子・[[禽獣 (小説)|禽獣]]』([[角川文庫]]、1951年7月)- 伊豆の踊子、青い海黒い海、驢馬の乗る妻、禽獣、慰霊歌、二十歳、[[むすめごころ]]、父母、を収録。解説:[[古谷綱武]]。人と作品:[[進藤純孝]]。付録:川端康成「『伊豆の踊子』について」。年譜付
*『[[母の初恋]]・高原』(角川文庫、1951年8月) - 解説:古谷綱武
*『浅草紅団』(角川文庫、1953年11月) - 解説:[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]
*『新文章読本』(角川文庫、1954年9月) - 解説:北條誠
*『舞姫』(角川文庫、1954年7月) - 解説:北條誠
*『再婚者 他九篇』(角川文庫、1955年2月) - 解説:[[淀野隆三]]
*『末期の眼』(角川文庫、1955年6月) - 解説:古谷綱武
*『小説の研究』(角川文庫、1956年)
*『千羽鶴』(角川文庫、1956年5月) - 解説:[[吉村公三郎]]
*『虹 他五篇』(角川文庫、1956年11月) - 解説:[[中河与一]]
*『山の音』(角川文庫、1957年6月) - 解説:[[瀬沼茂樹]]
*『日も月も』(角川文庫、1957年7月) - 解説:古谷綱武
*『虹いくたび』(角川文庫、1957年4月) - 解説:澤野久雄
*『名人』(角川文庫、1957年7月) - 解説:[[瀧井孝作]]
*『川のある下町の話』(角川文庫、1957年9月) - 解説:[[野上彰 (文学者)|野上彰]]
*『[[小公女]]』(角川文庫、1958年)-
*『たまゆら 他九篇』(角川文庫、1958年)
*『掌の小説集』(角川文庫、1958年)
*『雪国』(角川文庫、1959年4月。改版2013年) - 解説:[[澤野久雄]]、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、[[花柳章太郎]]。年譜付
*『東京の人(上)』(角川文庫、1959年)
*『東京の人(中)』(角川文庫、1960年)
*『東京の人(下)』(角川文庫、1960年2月) - 解説:進藤純孝
*『女であること』(角川文庫、1961年12月) - 解説:進藤純孝
*『みづうみ』(角川文庫、1961年12月) - 解説:澤野久雄
*『温泉宿・[[抒情歌 (小説)|抒情歌]] 他一篇』(角川文庫、1961年)
*『[[美しい日本の私―その序説|美しい日本の私]]』([[角川ソフィア文庫]]、2015年4月) - 解説:[[大久保喬樹]]
}}
;[[岩波書店]]
{{Columns-list|2|
*『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』([[岩波文庫]]、1952年2月)- [[十六歳の日記]]、招魂祭一景、伊豆の踊子、青い海黒い海、春景色、温泉宿、を収録。「あとがき」付
*『抒情歌・禽獣 他五篇』(岩波文庫、1952年6月) - 抒情歌、二十歳、寝顔、禽獣、田舎芝居、[[童謡 (小説)|童謡]]、イタリアの歌、を収録。「あとがき」付
*『雪国』(岩波文庫、1952年12月) - 「あとがき」付
*『山の音』(岩波文庫、1957年4月) - 解説:[[中村光夫]]
*『川端康成随筆集』(岩波文庫、2013年12月) - 末期の眼、ほろびぬ美、日本文学の美、美の存在と発見、日本美の展開、美しい日本の私、落花流水、ほか21編を収録。編・解説:[[川西政明]]
}}
;[[旺文社]]
{{Columns-list|2|
*『伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』([[旺文社文庫]]、1965年7月) - 伊豆の踊子、花のワルツ、十六歳の日記、十七歳、を収録。解説:山本健吉、[[木俣修]]、中里恒子
*『雪国』(旺文社文庫、1966年3月) - 解説:[[長谷川泉]]、堀多恵子([[堀辰雄]]の妻)
*『山の音』(旺文社文庫、1967年9月) - 解説:[[村松剛]]、[[水木洋子]]、中河与一
*『川のある下町の話』(旺文社文庫、1968年4月) - 解説:古谷綱武、[[衣笠貞之助]]、[[松岡洋子 (評論家)|松岡洋子]]
*『山の音 他一編』(旺文社文庫、1974年11月) - 山の音、末期の眼、を収録。
}}
;[[講談社]]
{{Columns-list|2|
*『伊豆の踊子・[[十六歳の日記]]』([[講談社文庫]]、1972年11月) - 伊豆の踊子、十六歳の日記、ほか3編を収録。解説・年譜:長谷川泉
*『小説の研究』([[講談社学術文庫]]、1977年7月) - 「小説とは何か」(12論)、「創作の動機」(6論)、「長篇小説」(4論)、「短篇小説」(6論)、「主題」(6論)、「筋」(6論)、「性格と心理」(4論)、「文章論」(3論)、「作家と作品」(30論)、「小説一家言」(18論)、の10章95論を収録。解説:進藤純孝。まえがき:川端香男里
*『一草一花』(講談社文芸文庫、1991年3月) - 美しい日本の私、美の存在と発見、月下の門、純粋の声、末期の眼、伊豆湯ヶ島、パリ郷愁、パリ安息、ニュウヨオクで、ハワイだより、横光利一弔辞、ほか15編収録。人と作品:[[勝又浩]]。年譜・著書目録:川端香男里
*『[[水晶幻想]]・禽獣』(講談社文芸文庫、1992年4月) - 青い海黒い海、春景色、死者の書、水晶幻想、抒情歌、それを見た人達、禽獣、散りぬるを、を収録。解説:[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]。作家案内:[[羽鳥徹哉]]。著書目録:川端香男里
*『反橋・しぐれ・たまゆら』(講談社文芸文庫、1992年9月) -反橋、しぐれ、住吉、隅田川、女の手、再会、生命の樹、夢、生きている方に、地獄、北の海から、たまゆら、お正月、を収録。解説:竹西寛子。作家案内:原善。著書目録:川端香男里
*『再婚者・[[弓浦市]]』(講談社文芸文庫、1994年7月) - 再婚者、岩に菊、無言、水月、夢がつくった小説、弓浦市、夫のしない、二人、匂う娘、髪は長く、竹の声桃の花、を収録。解説:[[鈴村和成]]。作家案内:[[平山三男]]。著書目録:川端香男里
*『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』(講談社文芸文庫、1996年1月) - 解説:[[秋山駿]]。作家案内:[[近藤裕子]]。資料・著書目録:川端香男里
*『浅草紅団・浅草祭』(講談社文芸文庫、1996年12月) - 浅草紅団、浅草祭、を収録。解説:[[増田みず子]]。作家案内:[[栗坪良樹]]。著書目録:川端香男里
*『ある人の生のなかに』(講談社文芸文庫、1997年10月) - 解説:[[鈴村和成]]。年譜・著書目録:川端香男里
*『伊豆の踊子・[[骨拾ひ|骨拾い]]』(講談社文芸文庫、1999年3月) - 骨拾い、日向、処女作の祟り、篝火、十六歳の日記、油、葬式の名人、孤児の感情、伊豆の踊子、父母への手紙、ちよ、を収録。解説:羽鳥徹哉
*『文芸時評』(講談社文芸文庫、2003年9月) - 昭和6年から昭和13年までの文芸時評の抜粋を収録。解説:羽鳥徹哉。年譜・著書目録:川端香男里
*『非常・寒風・雪国抄――川端康成傑作短篇再発見』(講談社文芸文庫、2015年3月) - 招魂祭一景、非常、伊豆の帰り、保護色の希望、針と硝子と霧、慰霊歌、イタリアの歌、寒風、故郷、夢がつくった小説、竹の声桃の花、雪国抄、を収録。編・解説:[[富岡幸一郎]]。年譜・著書目録:川端香男里
}}
;[[中央公論新社|中央公論社]]
{{Columns-list|2|
*『[[美しさと哀しみと]]』([[中公文庫]]、1973年8月) - 解説:山本健吉
*『ある人の生のなかに』(中公文庫、1980年10月) - 解説:佐伯彰一
*『伊豆の旅』(中公文庫、1981年4月) - 解説:川端香男里
*『浅草紅団』(中公文庫、1981年12月) - 解説:[[磯田光一]]
*『高原』(中公文庫、1982年8月) - 解説:[[水上勉]]
*『川端康成異相短篇集』(中公文庫、2022年6月) - 編・解説:[[高原英理]]
}}
;[[河出書房新社]]
{{Columns-list|2|
*『浅草紅団』([[河出文庫|市民文庫]]、1955年10月) - 解説:高見順
*『[[竹取物語]]・[[伊勢物語]]・[[落窪物語]]』(日本古典文庫、1976年)
*『現代語訳 竹取物語』([[河出文庫]]、2013年11月) - 現代語訳 竹取物語、「竹取物語」解説、を収録。
}}
;[[集英社]]
{{Columns-list|2|
*『伊豆の踊子』([[集英社文庫]]、1977年5月) - 伊豆の踊子、招魂祭一景、十六歳の日記、死体紹介人、温泉宿、を収録。解説:[[奥野健男]]、[[橋本治]]。年譜付
*『万葉姉妹』([[集英社コバルト文庫]]、1977年7月) - 解説:[[巖谷大四]]
*『[[夕映え少女]]』(集英社コバルト文庫、1977年7月) - 解説:巌谷大四
}}
;その他
{{Columns-list|2|
*『私の伊豆』([[弘文堂|アテネ文庫]]、1948年)
*『伊豆の踊子』([[三笠書房|三笠文庫]]、1951年10月) - 「あとがき」付
*『[[末期の眼]]』([[創元社|創元文庫]]、1953年3月) - 解説:古谷綱武
*『雪国』(三笠文庫、1953年5月) - 解説:山本健吉
*『川のある下町の話』([[東方社|家庭小説選書]]、1957年)
*『小公女』([[春陽堂]]少年少女文庫、1977年1月)
*『万葉姉妹・こまどり温泉』(フレア文庫、1996年11月) - 万葉姉妹、こまどり温泉、を収録。「作者のことば」付
*『川端康成』([[新学社]]近代浪漫派文庫、2005年8月)
*『夕映え少女』([[新風舎]]文庫、2006年6月) - むすめごころ、イタリアの歌、童謡、[[金塊 (小説)|金塊]]、[[浅草の姉妹]]、夕映え少女、[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]、を収録。解説:巌谷大四
*『文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕』([[ちくま文庫]]、2006年7月)- 片腕、ちよ、処女作の祟り、女、恐しい愛、歴史、[[心中 (川端康成)|心中]]、龍宮の乙姫、霊柩車、屋上の金魚、顕微鏡怪談、卵、不死、白馬、白い満月、花ある写真、抒情歌、慰霊歌、無言、弓浦市、地獄、故郷、岩に菊、離合、薔薇の幽霊、蚤女、Oasis of Death ロオド・ダンセニイ、古賀春江、時代の祝福、を収録。編・解説:[[東雅夫]]
*『新文章讀本』([[たちばな出版|タチバナ教養文庫]]、2007年12月)
*『伊豆の踊子』([[ホーム社]]MANGA BUNGOシリーズ、2010年9月) - 画:[[井出智香恵]]
*『乙女の港』([[実業之日本社文庫]]、2011年10月) - 解説:内田静枝。冒頭文:[[瀬戸内寂聴]]。
*『親友』(小学館文庫、2017年8月)- 解説:川端香男里。文庫解説:瀬戸内寂聴。
}}
== 関連人物 ==
;[[芥川龍之介]]
:川端にとり、芥川龍之介は『[[新思潮]]』同人の先輩であり、[[菊池寛]]を通じて知り合った存在であった。[[関東大震災]]の際には、[[今東光]]と一緒に芥川を見舞い、3人で[[吉原 (東京都)|吉原]]界隈の震災跡を歩き、吉原の池の中の多くの凄惨な遺体の数々を見た<ref name="akutagawa"/>。川端は、〈その最も醜い死を故人と共に見た私は、また醜い死を見知らぬ人々より以上に、故人の死の美しさを感じることが出来る一人かもしれない〉と、芥川の[[自殺]]の後に記している<ref name="akutagawa"/>。また、芥川が自殺する前に友人に宛てた[[遺書]]の中で書かれていた、「[[自然]]はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の[[矛盾]]を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである」に着目して、1933年(昭和8年)に随筆『[[末期の眼]]』を書き、芥川の小説作法や芸術観に触れている<ref name="matsugo"/><ref name="katayama">[[片山倫太郎]]・[[田村嘉勝]]「文豪をめぐる八人の作家たち」({{Harvnb|太陽|2009|pp=115-131}})</ref>。
;[[岡本かの子]]
:[[青山 (東京都港区)|青山]]に住んでいた頃、同宿の[[恒松安夫]]の中学の同窓だった三明永無が出入りし、それが縁で三明から川端を紹介してもらった<ref name="miake"/>。川端は岡本かの子の文章作法を指導し、岡本の処女作『鶴は病みき』を紹介するに当たって推薦文を寄稿するなど、献身的に支えると同時に数々の作品に賛辞を送っていた。岡本は犬が苦手で、多くの犬を飼っていた川端家を訪れる時に怯えていたという<ref name="hideko2"/>。川端は岡本の死後も、[[多摩川]]の[[二子神社]]に建てられた彼女の文学碑の揮毫を担当するなど並々ならぬ思い入れを覗かせていた。晩年も、新たに刊行される『岡本かの子全集』の序文を手入れして改稿するなどしており、その途中の原稿が自宅の書斎に残されていた<ref name="shindo38"/>。
;[[石濱金作]]
:川端とは[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]文科、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部を通じての文学仲間であり、[[鈴木彦次郎]]らと共に、学生時代から様々な交遊を持ち、『新思潮』、『文藝時代』などの同人雑誌の仲間であった。
;[[石濱恒夫]]
:学生時代に川端に傾倒し、従兄の[[藤沢桓夫]]の紹介で[[弟子]]入りして鎌倉の私邸に住み込んで師事した人物。1940年(昭和15年)12月の初対面の時に、石濱恒夫の母親は川端が食べるものがなくて困っているかもしれないと息子に[[弁当]]を持たせた<ref name="tsuneo">[[石濱恒夫]]「ノーベル紀行」(『追憶の川端康成』[[新興出版社啓林館|文研出版]]、1973年4月)。{{Harvnb|進藤|1976}}各所</ref>。石濱は川端について、「身近く世話になったり、親しく励ましつづけてくれた文学上の、たったひとりの恩師」と語っている<ref name="tsuneo"/>。川端の[[ノーベル文学賞]]の授賞式には、娘・春上(当時17歳)と共に随行の一員となった。「春上」という名前は、川端が名付けていた<ref>「石濱恒夫宛ての書簡」(昭和25年3月7日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|p=363}}に所収</ref>。日本の若い娘の[[和服]]姿で花を添えるために、同行を誘われた<ref name="tsuneo"/>。石濱は、授賞式で家族席に座るという好待遇を受けたことを、「どうして私のような者を…」と訊ねると、川端は、「お母さんのお弁当だよ」と答えたという<ref name="tsuneo"/>。
;[[梶井基次郎]]
:[[結核]]の[[温泉療養]]のために[[伊豆市|伊豆]][[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]にやって来た時以来、川端と親交を持ち、『[[伊豆の踊子]]』刊行の[[校正]]を手伝った。梶井は湯ヶ島滞在中、自分の作品を川端に批評してもらったことから、友人にも、「君の作品持つて来ておかないか。僕が持つて行つてもよい。変ちきりんな野心意識なくあの人には読んで貰へると思ふのだ」と勧めていた<ref name="kajiiyodono2">梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年2月1日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=213-215}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|p=115}}に抜粋掲載</ref>。川端は梶井の人柄について、〈梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。[[植物]]や[[動物]]の頓狂な話を私はよく同君と取り交した〉と語り<ref name="sonota"/>、〈静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたやうであつた。温かい親切である。しかも作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた。彼はさういふ男である〉と語っている<ref>「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=321-325}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=175-177}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=249-252}}に所収</ref>。
;[[片岡鉄兵]]
:『文藝時代』の同人で、「新感覚派映画聯盟」の仲間であった。その後、片岡鉄兵は[[プロレタリア文学]]に影響されて[[左翼|左傾化]]していった。なお、片岡鉄兵と結婚した片岡光枝(姓が偶然同じ片岡)が、川端の茨木中学時代の同級生・片岡重治の妹であったという奇遇があった<ref name="andon"/><ref name="atogaki8"/>。光枝の兄・重治は、戦争中に爆撃で1944年(昭和19年)に死亡したが<ref>「片岡光枝宛ての書簡」(昭和19年8月9日付)。{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|pp=78-79}}に所収</ref>、中学時代、川端が室長になる前の寄宿舎の室長で、[[首席]]で卒業した[[秀才]]だったという<ref name="atogaki8"/>。当時の川端の1915年(大正4年)の手帖の記録には、〈片岡重治君に〉という〈私の敬愛するKさん〉で始まる文章があり、いつまでも〈私の[[アイドル]]であつてほしい〉という憧れの思いが記され<ref>「手帖 (Pocket Diary)」(大正4年)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=254-256}}に所収</ref>、1916年(大正5年)1月24日の日記には、〈舎生活も深みゆくと共に総ての者に対する幻影はほろび唯片岡に対する幻影のみ残る〉という文がある<ref>「當用日記」(大正5年1月24日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|p=288}}に所収</ref>。
;[[菊池寛]]
:川端が友人らと第6次『新思潮』を発刊する際に承諾を得て以来、〈恩人〉として何かと恩顧を受け、作品発表の場から生活面まで多く世話になった作家である。菊池寛は川端の才能を高く買っていたため、川端が[[伊藤初代]]と婚約し、仕事が欲しいと依頼した時には、ちょうど洋行するからと自宅の借家を無賃で貸そうとするなど多大な援護を申し出たこともあった<ref name="jijoden"/>。川端の1922年(大正11年)の日記によると、菊池の連載小説『[[慈悲心鳥]]』の下書きは川端がやり、お金を貰っていた<ref name="miake"/><ref name="katayama"/>。「生活第一、芸術第二」を終始モットーとしていた菊池は、貧苦にあえぐ文学青年たちに下原稿を書かせ、報酬を与えていたという<ref name="katayama"/>。生活に困窮していた川端が度々、[[下宿]]代を家主から催促され、菊池が援助していたことも記されている<ref name="katayama"/>。
;[[古賀春江]]
:川端は美術展で、前衛画家・古賀春江と知り合って以来、親交を深め、[[下谷区]]上野桜木町にいる頃には、[[本郷区]]動坂の住む古賀夫妻と互いに行き来する仲であった<ref name="hiramizu4">平山三男・水原園博「川端康成コレクションのすべて 美の存在と発見――古賀春江」({{Harvnb|太陽|2009|pp=100-107}})</ref>。川端は古賀の絵を愛し、前衛的な古賀の絵に〈古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病ひのせゐであらうかと思はれる〉として、〈古賀氏の絵に向ふと、私は先づなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である〉と評している<ref name="matsugo"/>。
;[[佐多稲子]]
:「窪川稲子」の筆名で、1929年(昭和4年)9月に発表した小説『レストラン・洛陽』は、佐多がカフェで女給をしていた時の体験を題材としていたが、この作品の中で、東京のカフェ聚楽や、カフェ・オリエントを転々としていた伊藤初代がモデルとなっていた。この『レストラン・洛陽』は、奇しくも川端が文芸時評(文藝春秋 1929年10月号)で取り上げて激賞したが<ref name="jihyoraku">「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(文藝春秋 1929年10月号)。{{Harvnb|評論2|1982|pp=353-368}}に所収</ref>、川端はそのモデルが初代だとは気づかなかったという<ref name="yomiuri"/><ref>[[佐多稲子]]「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』[[ゆまに書房]]、1999年4月)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年12月)。{{Harvnb|小谷野|2013|p=193}}</ref>。
;[[志賀直哉]]
:川端は志賀直哉の作品を学生時代よく読んだとされるが、そのわりには志賀文学について正面から論じたものはなく、自身の文学との間に一定の距離を置いていたようで、〈私も一昔前志賀氏を「小説の神様」として耽読した一人であるが、(『[[万暦赤絵]]』を)近頃読み返さうとすると、その神経の「[[我]]」がむかむかして堪へられなかつた〉としている<ref>「文芸時評 『無法人』と『万暦赤絵』」(朝日新聞 1933年8月30日号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=139-147}}に所収</ref>。しかし川端は志賀に畏敬の念を持っており、初対面の1942年(昭和17年)には、〈生きてゐるうちにはかういふこともあるかと幸せだつた〉と語っている<ref name="katayama"/>。川端の随筆の絶筆は『志賀直哉』(1971年12月-1972年3月未完)となり、〈志賀さんの[[太宰治]]評、これが問題である。やがては、太宰氏の「[[如是我聞 (太宰治)|如是我聞]]」、志賀さんの「太宰治の死」を生むに至る。〉という文章で終っている<ref>「志賀直哉」(新潮 1971年12月号-1972年3月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=645-668}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=257-287}}に所収</ref>。なお、この続きとなる翌月に連載予定の書きかけの原稿があり、志賀と太宰の応酬を語ろうとする文章で、〈「如是我聞」はこんど読み返してみ〉と、途中で切れている<ref name="katayama"/>。
;[[太宰治]]
:第1回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]において、選考委員の川端が太宰の小説の選考に際して、〈例へば、[[佐藤春夫]]氏は「逆行」よりも「道化の華」によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた〉と言ったことに対し<ref>「[[芥川龍之介賞]]選評第一回昭和十年上半期」(文藝春秋 1935年9月号)。{{Harvnb|雑纂1|1982|pp=297-366}}に所収</ref>、太宰が、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。[[小鳥]]を飼ひ、[[舞踏]]を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大[[悪党]]だと思つた」と川端を批判した<ref name="dazai1">[[太宰治]]「川端康成へ」(文藝通信 1935年10月号)。{{Harvnb|太陽|2009|p=126}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=256}}に抜粋掲載</ref>{{refnest|group="注釈"|この背景には、太宰治の友人・[[檀一雄]]が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」と言い<ref name="dazai1"/>、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる<ref name="katayama"/>。}}。この批判に対し川端も翌月に、〈太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい〉と反駁して、[[石川達三]]の『[[蒼氓]]』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし<ref name="dazaie">「太宰治氏へ 芥川賞に就いて」(文藝通信 1935年11月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=352-354}}に所収</ref>、〈さう分れば、私が「世間」や「金銭関係」のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう〉と述べている<ref name="dazaie"/>。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出した<ref>太宰治「川端康成宛ての書簡」(昭和11年6月29日付)。『太宰治全集第12巻 書簡』(筑摩書房、1999年4月)に所収。{{Harvnb|太陽|2009|p=126}}に抜粋掲載</ref>。しかし、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった<ref name="katayama"/>。川端はこの規定決定時に欠席しており、〈この二つの条件には、多少問題がある〉としている<ref name="katayama"/><ref>「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号)。{{Harvnb|評論3|1982|pp=435-443}}に所収</ref>。なお、『[[雪国 (小説)|雪国]]』について太宰は、「川端はずいぶん下手くそな小説ばからい書きつづけていた、だけれどもコケの一念で『雪国』はいい」と言ったとされる<ref name="kikunaka"/>。
;[[谷崎潤一郎]]
:川端との直接的な交遊はないが、川端の友人・[[今東光]]の家に、谷崎潤一郎が1923年(大正12年)1月6日に小林せい子([[葉山三千子]])と遊びに来ていた際、川端(当時23歳)がちょうど今東光の家を訪問したという川端の日記記録がある。その頃、傷心と青春の自己嫌悪の只中にいた川端は、〈わが惨めさ〉のため、〈(谷崎とせい子のような)性格と生活の人に会ふ気にならず〉に、そのまま家に上がることなく、帰っていった<ref name="atogaki4"/><ref>「日記」(大正12年1月6日付)。{{Harvnb|補巻1・日記|1984|pp=575-576}}に所収</ref>。ちなみに、後年に川端が書いた『[[山の音]]』や『[[眠れる美女]]』に影響されて、谷崎が老人小説『[[瘋癲老人日記]]』を着想したのではないかと[[中村光夫]]が推測すると、川端は、〈谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは〉と受け流している<ref name="kikunaka"/>。
;[[東山魁夷]]
:1955年(昭和30年)1月刊行の『虹いくたび』の装幀・挿画を東山魁夷が担当したのをきっかけに親交が深まった。川端は東山の絵を愛し、14点の絵を所蔵し、東山の画集へも序文を寄せている<ref name="hiramizu5"/>。東山も川端同様に、早くに肉親と死別した天涯孤独の人だった<ref name="sanada"/>。東山は、川端のノーベル文学賞の祝いとして、『北山初雪』を贈呈した<ref name="hiramizu5"/>。2005年(平成17年)、[[千葉県]][[市川市]]の東山邸から、川端の書簡40通が発見され、川端家にも東山の書簡が60通保管されている<ref name="hiramizu5"/>。
;[[北條民雄]]
:本名は七條晃司。ハンセン病のため東京府北多摩郡東村山村の療養施設・全生園で暮しながら小説を書き、20歳の時に小説原稿を川端に送ったことから、才能を見出されて、『間木老人』『[[いのちの初夜]]』などが川端の紹介により世に広まったが、23歳で亡くなった。『間木老人』の時の筆名「秩父號一」や、『いのちの初夜』の以降の「北條民雄」の筆名は、川端が名付けた<ref name="inochi"/><ref name="shindo212">「第二部第十二章 『童謡』」({{Harvnb|進藤|1976|pp=383-395}})</ref>。当初、北條は「十條號一」と提案していたが、川端が、それでは実名の手がかりになってしまうとして、「秩父號一」にした。さらに「北條民雄」に筆名を改めたことは、北條本人の希望だったという<ref name="inochi"/>。川端は北條死後も『北條民雄全集』刊行に尽力した。北條は原稿料や印税の金を全て川端に託すことを遺言に書いていたが、川端はその遺言を聞く前から、北條の遺族へ渡すべきものと決めていたため、少しの寄付を取り計らった他は、北條の父親へ送った<ref name="shindo212"/><ref>「追悼記序」(文學界 1938年2月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=384-387}}に所収</ref>。
;[[北條誠]]
:自身で川端の「押しかけ弟子」と自嘲し、川端を尊敬している作家。川端と知り合いであった橘川ちゑ([[秋山ちえ子]])が友人の弟として、北條誠を川端に紹介した。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・元子(当時20歳)と共に随行の一員となった<ref name="tsuneo"/>。「元子」という名前は、川端が名付けた<ref name="makoto"/>。川端が作詞した歌謡曲『生きてゐるのに』の作曲と歌唱は、息子の[[北條暁]]がしている。
;[[三島由紀夫]]
:戦後の1946年(昭和21年)に川端が三島の『煙草』を推薦して以来、師弟関係とも言える親交を深めた。川端は三島との出会いを、〈二十三歳の三島が現はれた時、私は自分達の二十代を思ひ、明治このかた文学の新機運の出発は常に二十代が主であつたことを思ひ、戦後の二十代の波が来るかと思つた〉と語っている<ref>「序」(三島由紀夫『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』真光社、1948年)。{{Harvnb|雑纂1|1982|p=126}}に所収</ref>。川端と三島は年齢差を越えて終生、お互いの才能を評価して敬愛し合う間柄となった<ref name="sanada">[[真田邦子]]「孤独と向きあって」({{Harvnb|太陽|2009|pp=140-157}})</ref>。三島は「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という川端への敬意から、あえて「先生」とは呼ばずに、一人の敬愛する人として「川端さん」と呼んだ<ref name="botsugo4"/>。2人の交わした書簡は公私にわたり、三島の[[結婚式]]の[[媒酌人]]も川端夫婦が務めた。川端が1961年(昭和36年)に三島に執筆依頼したノーベル文学賞の推薦文も、三島は快く応じ<ref name="shokan530"/>、その時は受賞とはならなかった川端は、〈まああなたの時代まで延期でせう〉と三島に送っている<ref>「三島由紀夫宛ての書簡」(昭和37年4月17日付)。{{Harvnb|三島往復書簡|2000|p=153}}、{{Harvnb|補巻2・書簡|1984|p=349}}に所収</ref>。
:しかし2人の関係は、川端が三島から祝辞を依頼された「[[楯の会]]」1周年パレード(1969年10月)の出席を断わったことから微妙になったとされる<ref name="murasei11">[[村松剛]]「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」として{{Harvnb|村松・西欧|1994|pp=9-29}}に所収</ref>。三島が1970年(昭和45年)秋に[[自衛隊]][[東富士演習場|富士演習場]]から最後に川端に宛てた鉛筆書きの書簡があったとされるが<ref name="kaori2">川端香男里・[[佐伯彰一]]の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」({{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=205-237}}後記)</ref>、川端はその内容にびっくり仰天して、本人(三島)の名誉にならないからと言ってすぐに焼却したと、婿養子の[[川端香男里]]が述べている<ref name="kaori2"/>。また、川端が自殺する数日前に、川端の意外な面が表れている長文の手紙を[[平岡梓]]は受け取ったとし<ref name="botsugo4"/>、内容に関しては「ノーコメント」だが、末永く「家宝」として保存すると語っている<ref name="botsugo4"/>。
;[[横光利一]]
:菊池寛を介して出会ったのをきっかけに川端と親交を持ち、共に「[[新感覚派]]」と呼ばれた作家。何かと親友の川端を援護してくれていたとされる<ref name="jijoden"/>。[[改造社]]から、川端の作品を列冊にして出版したいという申し出があったのは、横光の口添えかもしれないと川端は勘づき、それを直接に横光に訊ねると、「いやあ」と顔を赤らめてソッポを向いていたという<ref name="jijoden"/>。また横光の再婚時の披露宴のために伊豆の湯ヶ島から上京した川端が東京で泊まる所が無いのをすばやく察知し、自分の新婚旅行の逗子ホテルに一緒に行こうと誘ってくれ、思いやりを感じたと川端は語っている<ref name="jijoden"/>。ずっと湯ヶ島に引きこもっていた川端に、「東京に帰るべし」と忠告し、[[東京府]][[豊多摩郡]][[杉並町]][[馬橋 (杉並区)|馬橋]]226(現・[[杉並区]][[高円寺]]南3丁目-17)の借家を探したのも横光であった<ref name="atogaki5"/><ref name="sonota"/>。川端は、〈若い日から戦争前までも、横光君といふ人がゐなかつたら、私はちがつた小説を書いてゐただらうかと思ふ〉と述懐している<ref>「横光利一文学碑」(1959年12月)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=168-170}}、{{Harvnb|独影自命|1970|pp=319-321}}に所収</ref>。
;[[淀野隆三]]
:梶井基次郎を通じて川端と知り合い、梶井の死後も親交があり、淀野が家業の「淀野商店」(鉄材、鉄器具)を継ぐため[[京都市]][[伏見区]][[両替町通 (伏見区)|両替町]]4丁目-290番地に帰ってからも、互いの家を行き来し家族ぐるみで交流した<ref name="takashi">[[淀野隆]]『二人だけの「愛・宇宙」六十兆個のバラード』(近代文藝社、2010年12月)。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=382,442,470,534}}</ref>。川端は淀野の娘・華子を可愛がり、華子は結婚出産後も川端家と交流し、華子の弟・[[淀野隆|隆]]は、[[サンケイ新聞]]記者となり、ノーベル文学賞の授賞式に同行した<ref>{{Harvnb|小谷野|2013|p=382,391,534}}</ref><ref name="takashi"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|32em}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|date=1970-10|title=川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=[[新潮社]]|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}}
*{{Citation|和書|date=1970-02|title=川端康成全集第2巻 [[浅草紅団|浅草紅團]]|publisher=新潮社|id={{NCID|BN04731954}}|ref={{Harvid|浅草紅団2巻|1970}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-10|title=川端康成全集第1巻 小説1|publisher=新潮社|isbn=978-4106438011|ref={{Harvid|小説1|1981}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-10|title=川端康成全集第2巻 小説2|publisher=新潮社|isbn=978-4106438028|ref={{Harvid|小説2|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-07|title=川端康成全集第3巻 小説3|publisher=新潮社|isbn=978-4106438035|ref={{Harvid|小説3|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-05|title=川端康成全集第5巻 小説5|publisher=新潮社|isbn=978-4106438059|ref={{Harvid|小説5|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1981-01|title=川端康成全集第7巻 小説7|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643807-3|ref={{Harvid|小説7|1981}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-04|title=川端康成全集第10巻 小説10|publisher=新潮社|isbn=978-4106438103|ref={{Harvid|小説10|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-03|title=川端康成全集第18巻 小説18|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643818-9|ref={{Harvid|小説18|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1980-06|title=川端康成全集第21巻 小説21|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643821-9|ref={{Harvid|小説21|1980}}}}
*{{Citation|和書|date=1981-02|title=川端康成全集第23巻 小説23|publisher=新潮社|isbn=978-4106438233|ref={{Harvid|小説23|1981}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-04|title=川端康成全集第26巻 随筆1|publisher=新潮社|isbn=978-4106438264|ref={{Harvid|随筆1|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-03|title=川端康成全集第27巻 随筆2|publisher=新潮社|isbn=978-4106438271|ref={{Harvid|随筆2|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-02|title=川端康成全集第28巻 随筆3|publisher=新潮社|isbn=978-4106438288|ref={{Harvid|随筆3|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-06|title=川端康成全集第30巻 評論2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643830-1|ref={{Harvid|評論2|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-08|title=川端康成全集第31巻 評論3|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643831-8|ref={{Harvid|評論3|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-07|title=川端康成全集第32巻 評論4|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643832-5|ref={{Harvid|評論4|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-05|title=川端康成全集第33巻 評論5|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643833-2|ref={{Harvid|評論5|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-12|title=川端康成全集第34巻 雑纂1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643834-9|ref={{Harvid|雑纂1|1982}}}}
*{{Citation|和書|date=1983-02|title=川端康成全集第35巻 雑纂2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643835-6|ref={{Harvid|雑纂2|1983}}}}
*{{Citation|和書|date=1984-04|title=川端康成全集 補巻1 日記 手帖 ノート|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643836-3|ref={{Harvid|補巻1・日記|1984}}}}
*{{Citation|和書|date=1984-05|title=川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643837-0|ref={{Harvid|補巻2・書簡|1984}}}}
*{{Citation|和書|date=1984-01|title=文芸読本 川端康成 新装版|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309700182|ref={{Harvid|文芸読本|1984}}}}旧版は1977年8月 {{ASIN|B000J8V26E}}
*{{Citation|和書|date=2000-10|title=川端康成・[[三島由紀夫]]往復書簡|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-100126-5|ref={{Harvid|三島往復書簡|2000}}}}初版(新潮社)は1997年11月 {{ISBN2|978-4104200016}}
*{{Citation|和書|date=2006-07|title=川端康成集 [[片腕 (小説)|片腕]]〈文豪怪談傑作選〉|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4-480-42241-5|ref={{Harvid|怪談傑作選|2006}}}}
*{{Citation|和書|date=2013-12|title=川端康成随筆集|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=978-4-00-310815-4|ref={{Harvid|随筆集|2013}}}}
*{{Citation|和書|date=2016-04|title=川端康成初恋小説集|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4101001272|ref={{Harvid|初恋小説|2016}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1996-12|title=[[浅草紅団]]/浅草祭|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4-06-196397-9|ref={{Harvid|紅団・祭|1996}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1991-03|title=一草一花|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|isbn=978-4-06-196118-0|ref={{Harvid|一草一花|1991}}}}初版(毎日新聞社)は1973年 {{ASIN|B000J95ZHA}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1993-06|title=[[伊豆の踊子]]| edition=改|publisher=集英社|series=[[集英社文庫]]|isbn=978-4-08-750001-1|ref={{Harvid|踊子・集英|1993}}}}初版は1977年5月 {{ASIN|B000J8UPP8}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2003-05|title=伊豆の踊子|edition=改|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4-10-100102-9|ref={{Harvid|踊子・新潮|2003}}}}初版は1950年8月 {{ASIN|B000JBGDZQ}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1994-07|title=再婚者・[[弓浦市]]|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|isbn=978-4-06-196282-8|ref={{Harvid|再婚者|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1992-04|title=[[水晶幻想]]・[[禽獣 (小説)|禽獣]]|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|isbn=978-4-06-196171-5|ref={{Harvid|水晶幻想|1992}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1992-09|title=反橋・しぐれ・たまゆら|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|isbn= 978-4-06-196190-6|ref={{Harvid|反橋|1992}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2011-08|title=[[掌の小説]]|edition=改|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4-10-100105-0|ref={{Harvid|掌の小説|2011}}}}初版1971年3月、第1改版1989年6月
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2015-03|title=非常・寒風・雪国抄|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|isbn=978-4-06-290263-2|ref={{Harvid|非常|2015}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1977-07|title=万葉姉妹|publisher=集英社|series=[[集英社コバルト文庫]]|isbn=978-4-08-610113-4|ref={{Harvid|万葉姉妹|1977}}}}
*{{Citation|和書|date=2014-07-10|title=川端康成『投函されなかった恋文』――『伊豆の踊子』の原点の女性がいた|journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 8月号|volume=|issue=8|pages=110-121|publisher=[[文藝春秋社]]|id={{ASIN|B00L4HSIXO}}|ref={{Harvid|恋文|2014}}}}
*{{Citation|和書|date=2014-07-10|author=[[川端香男里]]|title=川端康成と『永遠の少女』 |journal=文藝春秋 8月号|volume=|issue=8|pages=122-124|publisher=文藝春秋社|id={{ASIN|B00L4HSIXO}}|ref={{Harvid|永遠の少女|2014}}}}
*{{Citation|和書|editor=川端文学研究会|date=1985-01|title=川端文学への視界――川端文学研究[1(1984)]|series=機関紙年報No.1|publisher=[[教育出版センター]]|isbn=978-4-7632-1485-0|ref={{Harvid|研究1|1985}}}}
*{{Citation|和書|author=[[荒井惇見]]|editor=[[福田清人]]|date=2017-09|title=横光利一 |publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品28|edition=新装|isbn=978-4389401177 |ref={{Harvid|荒井|2017}}}} 初版は1985年10月 ISBN 9784389400286
*{{Citation|和書|author=[[板垣信]]|editor=福田清人|date=2016-08|title=川端康成 人と作品20|publisher=清水書院|series=Century Books 人と作品20|edition=新装|isbn=978-4389401092|ref={{Harvid|板垣|2016}}}} 初版は1969年6月 ISBN 978-4389400200
*{{Citation|和書|editor=[[磯田光一]]|date=1983-12|title=新潮日本文学アルバム 20 三島由紀夫|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620620-7|ref={{Harvid|アルバム三島|1983}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[井上謙 (日本文学者)|井上謙]]|date=1994-08|title=新潮日本文学アルバム 43 横光利一|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620647-4|ref={{Harvid|アルバム横光|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=[[伊吹和子]]|date=1997-04|title=川端康成――瞳の伝説|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-55596-6|ref={{Harvid|伊吹|1997}}}}
*{{Citation|和書|author=[[今村潤子]]|date=1988-06|title=川端康成研究|publisher=審美社|isbn=978-4788340565|ref={{Harvid|今村|1988}}}}
*{{Citation|和書|author=[[越次倶子]]|date=1983-11|title=三島由紀夫 文学の軌跡|chapter=IV 川端康成と三島由紀夫|publisher=広論社|id={{NCID|BN00378721}}|ref={{Harvid|越次|1983}}}}
*{{Citation|和書|author=[[大久保喬樹]]|date=2003-05 |title=日本文化論の系譜――「[[武士道]]」から「『甘え』の構造」まで|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-101696-6|ref={{Harvid|大久保|2003}}}}
*{{Citation|和書|author=大久保喬樹|date=2004-04|title=川端康成――美しい日本の私|series=ミネルヴァ日本評伝選|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4-623-04032-2|ref={{Harvid|大久保・ミネ|2004}}}}
*{{Citation|和書|author=[[岡山典弘]]|date=2014-11|title=三島由紀夫外伝|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779170225|ref={{Harvid|岡山|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009-11 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[Gakken|学研パブリッシング]] |isbn=978-4054042025 |ref={{SfnRef|加藤浩|2009}}}}
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*{{Citation|和書|author=[[川西政明]]|date=2010-07|title=新・日本文壇史第3巻 昭和文壇の形成|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-028363-2|ref={{Harvid|文壇史|2010}}}}
*{{Citation|和書|author=[[川端秀子]]|date=1983-04|title=川端康成とともに|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-346001-5|ref={{Harvid|秀子|1983}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[小久保実]]|date=1984-01|title=新潮日本文学アルバム 17 堀辰雄|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620617-7|ref={{Harvid|アルバム堀|1984}}}}
*{{Citation|和書|author=[[小谷野敦]]|date=2013-05|title=川端康成伝――双面の人|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-004484-7|ref={{Harvid|小谷野|2013}}}}
*{{Citation|和書|author=[[今東光]]|date=2005-11|title=東光金蘭帖|publisher=中央公論新社|series=[[中公文庫]]|edition=改|isbn=978-4122046214|ref={{Harvid|東光|2005}}}} 原版は1959年11月 {{NCID|BN15270605 }}
*{{Citation|和書|author=[[三枝康高]]|date=1961-01|title=川端康成|series=文化新書|publisher=[[有信堂]]|id={{NCID|BN03239878}}|ref={{Harvid|三枝|1961}}}}増補版は1968年11月
*{{Citation|和書|author=[[進藤純孝]]|date=1976-08|title=伝記 川端康成|publisher=[[六興出版]]|id={{NCID|BN00959203}}|ref={{Harvid|進藤|1976}}}}
*{{Citation|和書|author=[[杉山幸照]]|date=1972-03|title=海の歌声――神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌|publisher=行政通信社|id={{NCID|BA4598933X}}|ref={{Harvid|杉山|1972}}}}
*{{Citation|和書|author=杉山幸照|date=1979-09|title=別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4「悪夢の墓標」|publisher=[[毎日新聞社]]|id={{NCID|BN03383568}}|ref={{Harvid|杉山|1979}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[鈴木貞美]]|date=1985-07|title=新潮日本文学アルバム 27 梶井基次郎|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620627-6|ref={{Harvid|アルバム梶井|1985}}}}
*{{Citation|和書|author=[[高戸顕隆]]|date=1994-10|title=海軍主計大尉の太平洋戦争――私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2227-1|ref={{Harvid|高戸|1994}}}}新装版([[光人社NF文庫]])は2015年4月 {{ISBN2|978-4769828891}}
*{{Citation|和書|author=[[瀧田夏樹]]|date=2002-01|title=川端康成と三島由紀夫をめぐる21章|publisher=風間書房|isbn=978-4759912968|ref={{Harvid|瀧田|2002}}}}
*{{Citation|和書|author=[[十重田裕一]]|date=2013-10-21|title=横光利一と川端康成の関東大震災:被災した作家の体験と創作 |journal=[[早稲田大学]]総合人文科学研究センター研究誌=WASEDA RILAS JOURNAL |issue=1|pages=171-175|publisher=早稲田大学総合人文科学研究センター |naid=120005352457|ref={{Harvid|十重田|2013}}}}
*{{Citation|和書|author=[[富岡幸一郎]]|date=2014-05|title=川端康成 魔界の文学|series=[[岩波現代全書]]031|publisher=岩波書店|isbn=978-4000291316|ref={{Harvid|富岡|2015}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[長谷川泉]]|date=1969-03|title=川端康成作品研究|series=近代文学研究双書|publisher=[[八木書店]]|id={{NCID|BN01844524}}|ref={{Harvid|作品研究|1969}}}}増補版は1973年1月
*{{Citation|和書|editor=長谷川泉|date=1978-04|title=川端康成――その愛と美と死|series= Tomo選書|publisher=[[主婦の友社]]|id={{NCID|BN03243150}}|ref={{Harvid|愛と美|1978}}}}
*{{Citation|和書|editor=長谷川泉|date=1990-09|title=川端康成・横光利一集|series=日本近代文学大系42|publisher=[[角川書店]]|isbn= 978-4-04-572042-0|ref={{Harvid|文学大系|1990}}}}初版は1972年7月
*{{Citation|和書|author=長谷川泉|date=1991-12|title=川端康成論考|series=長谷川泉著作選第5巻|publisher=[[明治書院]]|isbn=978-4-625-53105-7|ref={{Harvid|論考|1991}}}}初版1965年6月、増補版1969年6月、増補三訂版1984年5月
*{{Citation|和書|author=長谷川泉監修|editor=[[読売新聞社]]文化部|date=1992-10|title=実録川端康成|series=近代作家研究叢書110|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820592099|ref={{Harvid|実録|1992}}}}原本(読売新聞社)は1969年7月 {{NCID|BN11692830}}
*{{Citation|和書|author=[[羽鳥徹哉]]|date=1979-01|title=作家川端の基底|publisher=[[教育出版センター]]|isbn=978-4-87365-307-5|ref={{Harvid|基底|1979}}}}
*{{Citation|和書|editor=羽鳥徹哉|date=1994-09|title=作家の自伝15 川端康成|publisher=日本図書センター|isbn=978-4-8205-8016-4|ref={{Harvid|作家の自伝|1994}}}}
*{{Citation|和書|editor1=羽鳥徹哉|editor2=[[原善]]|date=1998-06|title=川端康成全作品研究事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4-585-06008-6|ref={{Harvid|事典|1998}}}}
*{{Citation|和書|author=羽鳥徹哉監修|date=2009-02|title=別冊太陽 日本のこころ157 川端康成――蒐められた日本の美|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-582-92157-1|ref={{Harvid|太陽|2009}}}}
*{{Citation|和書|author=[[林武志]]|date=1976-05|title=川端康成研究|publisher=[[桜楓社]]|id={{NCID|BN05075749}}|ref={{Harvid|林武|1976}}}}
*{{Citation|和書|author=[[林房雄]]|date=1972-03|title=悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌|publisher=文藝春秋|id={{NCID|BN08146344}}|ref={{Harvid|林房雄|1972}}}}
*{{Citation|和書|author=原善|date=1987-04|title=川端康成の魔界|series=新鋭研究叢書|publisher=有精堂|isbn=978-4-640-30809-2|ref={{Harvid|原善|1987}}}}
*{{Citation|和書|author=[[平岡梓]]|date=1974-06|title=伜・三島由紀夫(没後)|edition=続編|publisher=文藝春秋|id={{NCID|BN03950861}}|ref={{Harvid|梓・続|1974}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[保昌正夫]]|date=1984-03|title=新潮日本文学アルバム 16 川端康成|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620616-0|ref={{Harvid|アルバム川端|1984}}}}
*{{Citation|和書|author=[[村松剛]]|date=1994-02|title=西欧との対決――漱石から三島、遠藤まで|chapter=三島の死と川端康成|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-321403-8|ref={{Harvid|村松・西欧|1994}}}}
*{{Citation|和書|author=[[森本穫]]|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 上巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290759|ref={{Harvid|森本・上|2014}}}}
*{{Citation|和書|author=森本穫|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 下巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290766|ref={{Harvid|森本・下|2014}}}}
*{{Citation|和書|date=1966-06|title=梶井基次郎全集第3巻 書簡|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-48-070403-0|ref={{Harvid|梶井3巻|1966}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-01|title=決定版 三島由紀夫全集第26巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642566-0|ref={{Harvid|三島26巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-02|title=決定版 三島由紀夫全集第27巻 評論2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642567-7|ref={{Harvid|三島27巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-03|title=決定版 三島由紀夫全集第28巻 評論3|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642568-4|ref={{Harvid|三島28巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-04|title=決定版 三島由紀夫全集第29巻 評論4|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642569-1|ref={{Harvid|三島29巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-07|title=決定版 三島由紀夫全集第32巻 評論7|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642572-1|ref={{Harvid|三島32巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-11|title=決定版 三島由紀夫全集第36巻 評論11|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642576-9|ref={{Harvid|三島36巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-03|title=決定版 三島由紀夫全集第38巻 書簡|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642578-3|ref={{Harvid|三島38巻|2004}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-05|title=決定版 三島由紀夫全集第39巻 対談1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642579-0|ref={{Harvid|三島39巻|2004}}}}
*{{Citation|和書|editor1=[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]|editor2=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor3=山中剛史|date=2005-08|title=決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌|publisher=新潮社|isbn=978-4106425820|ref={{Harvid|三島42巻|2005}}}}
*{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]|date=2000-11|title=三島由紀夫事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4-585-06018-5|ref={{Harvid|三島事典|2000}}}}
* {{Cite book |和書 |author=山岡荘八|authorlink=山岡荘八 |year=1987-1 |title=小説 太平洋戦争⑤ |publisher=講談社 |series=講談社文庫 |isbn=978-4061950962 |ref={{SfnRef|山岡荘八⑤|1987}}}}
*{{Citation|和書|author=[[山根重視]]|date=1979-09|title=別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4「証言・追憶」|publisher=[[毎日新聞社]]|id={{NCID|BN03383568}}|ref={{Harvid|山根|1979}}}}
* {{Cite book |和書 |author=李聖傑|authorlink=李聖傑 |year=2010-3 |title=川端康成における戦争体験について |publisher=早稲田大学先端社会科学研究所 |series=ソシオサイエンス⑯ |ref={{SfnRef|李聖傑|2010}}}}
* {{Cite book |和書 |author=李聖傑 |year=2014-03 |title=川端康成の「魔界」に関する研究―その生成を中心に― |publisher=早稲田大学出版部 |isbn=978-4657145086 |ref={{SfnRef|李聖傑|2014}}}}
* {{Citation|和書 |author=アービン・クックス |translator=[[加藤俊平]]|date=1971-01 |title=天皇の決断―昭和20年8月15日 |publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 21 |isbn=978-4383011266 |ref={{Harvid|クックス |1971}}}}
*{{Citation|和書|author=[[ドナルド・キーン]]|translator=[[徳岡孝夫]]|date=2012-01|title=日本文学史――近代・現代篇 四|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4122055964 |ref={{Harvid|キーン現代4|2012}}}} 原版(『日本文学の歴史 13――近代・現代篇 4』中央公論新社)は1996年5月。ISBN 978-4124032321
== 関連項目 ==
* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]]
== 外部リンク ==
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{{Commonscat}}
*[http://www.kawabata-kinenkai.org/ 公益財団法人 川端康成記念会 公式サイト]
*[https://www.e-yuzawa.gr.jp/yukigunikan/info/ 川端康成の遺愛品 (「雪国館」歴史民俗資料館 所蔵)]、湯沢町 公式サイト。
*[http://www.kamakurabungaku.com/literature/w100_2.html#03 川端康成 - 文学者100人 | 鎌倉と文学]、[[鎌倉文学館]] 公式サイト。
*[https://www.hanamiweb.com/kawabata_yasunari.html Hanami Web - Kawabata Yasunari] {{En icon}}
*[https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1968/kawabata/facts/ The Nobel Prize in Literature 1968]、ノーベル賞 公式サイト。{{En icon}}
*[https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12589 Nomination Database Yasunari Kawabata (2017年現在、1966年分まで公開)]、ノーベル賞 公式サイト。{{En icon}}
*{{NHK人物録|D0009070446_00000}}
*{{NHK放送史|D0009010133_00000|特別番組 川端康成氏を囲んで}}
*{{NHK放送史|D0009030085_00000|川端康成さん ノーベル文学賞}}
*{{YouTube|nFGpZzz4LZM|昭和のノーベル賞 川端康成氏の受賞直後の肉声 日本初の文学賞 決定後に三島由紀夫に電話(1968年10月)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)
*{{YouTube|w7auswKC-YE|川端康成 日本人初のノーベル文学賞受賞 三島由紀夫・石原慎太郎もお祝いに(TBSアーカイブ)}}(TBS NEWS)
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] | 7月11日(しちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から192日目(閏年では193日目)にあたり、年末まであと173日ある。 | {{カレンダー 7月}}
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
'''7月11日'''(しちがつじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から192日目([[閏年]]では193日目)にあたり、年末まであと173日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Battle of Courtrai2.jpg|thumb|[[金拍車の戦い]](1302)、[[フランドル]]の都市連合軍がフランスを破る。[[ベルギー]]では祝日となっている]]
[[Image:Hamilton-burr-duel.jpg|thumb|[[アメリカ合衆国副大統領]][[アーロン・バー]]と[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]][[アレクサンダー・ハミルトン]]が決闘(1804)。ハミルトンは死亡、バーは副大統領を続けた]]
[[Image:Ftstevens.jpg|thumb|南北戦争、[[スティーブンス砦の戦い]](1864)]]
[[ファイル:Bombardment of Alexandria.jpg|thumb|[[アレクサンドリア砲撃]]開始(1882)]]
{{multiple image
| footer = [[サロモン・アウグスト・アンドレー]]、気球で北極探検に出発し行方不明に(1897)。右画像は後日発見された気球
| image1 = SAAndree.png
| width1 = 80
| alt1 = サロモン・アウグスト・アンドレー
| image2 = Eagle-crashed.jpg
| width2 = 140
| alt2 = 発見された気球エルネン号
}}
[[Image:Sharav_bogd_khan.jpg|thumb|[[ボグド・ハーン]]を君主とする[[モンゴル人民政府]]樹立(1921)]]
[[ファイル:Aga Khan IV 1959.jpg|thumb|160px|[[アーガー・ハーン4世]]、第48代[[イマーム]]に就任(1957)。画像は1959年のアーガー・ハーン(左)]]
{{multiple image
| footer = [[宇宙ステーション]]「[[スカイラブ計画|スカイラブ]]」、[[大気圏再突入]]して消滅(1979)。右画像は落下した破片
| image1 = Skylab_and_Earth_Limb_-_GPN-2000-001055.jpg
| width1 = 100
| alt1 = スカイラブ
| image2 = Skylabfragment.JPG
| width2 = 100
| alt2 = スカイラブの破片
}}
[[ファイル:Mahim train blast.jpg|thumb|120px|[[ムンバイ列車爆破事件]](2006)]]
* [[420年]]([[元熙 (東晋)|元熙]]2年/[[永初 (南朝宋)|永初]]元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[東晋]]の[[恭帝 (東晋)|恭帝]]が[[劉裕]](武帝)に[[禅譲]]。東晋が滅亡し宋([[宋 (南朝)|南朝宋]])が建国。
* [[1302年]] - [[金拍車の戦い]](コルトレイクの戦い)。
* [[1405年]]([[永楽 (明)|永楽]]3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[明]]の武将[[鄭和]]が第1次航海に出発。2年後にカリカット([[コーリコード]])へと到達。
* [[1789年]] - [[フランス革命]]: [[マリー・アントワネット]]らが、民衆に人気のあった財務大臣[[ジャック・ネッケル]]を罷免。[[バスティーユ襲撃]]の引き金となる。
* [[1792年]] - [[フランス革命戦争]]: 立法議会が「[[フランス革命戦争#祖国は危機にあり!|祖国は危機にあり!]]」との宣言を発する。
* [[1798年]] - [[擬似戦争]]勃発を受け、[[アメリカ独立戦争]]時にあった[[大陸海兵隊]]が[[アメリカ海兵隊]]として再創設。
* [[1801年]] - フランスの天文学者[[ジャン=ルイ・ポン]]が初めて[[彗星]]を発見。以降、生涯に彗星発見者の中で最多の37個の彗星を発見する。
* [[1804年]] - [[アメリカ合衆国副大統領]][[アーロン・バー]]と[[アメリカ合衆国財務長官|同財務長官]][[アレクサンダー・ハミルトン]]が[[決闘]]を行う。ハミルトンは翌日死亡。
* [[1833年]] - [[オーストラリア]]で[[アボリジニ]]・{{仮リンク|ヌンガー族|en|Noongar}}の戦士[[イェーガン]]が、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。
* [[1854年]]([[咸豊]]4年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[琉米修好条約]]が締結される。
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[スティーブンス砦の戦い]]。
* [[1882年]] - [[イギリス]][[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]が[[アレクサンドリア砲撃]]を開始。
* [[1887年]] - [[東海道本線]]、[[横浜駅]]~[[国府津駅]]間開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/06/23/080000.html |title=鉄道ニュース「東海道線(横浜—国府津間)開業130周年」記念グッズを発売 |publisher=KOYUSHA CO.,LTD. |date=2017-06-23 |accessdate=12 Feb 2023 |work=鉄道ファンraif.jp}}</ref>。
* [[1893年]] - [[御木本幸吉]]が[[真珠]]の[[養殖]]に成功。
* [[1897年]] - [[サロモン・アウグスト・アンドレー]]が[[気球]]による[[北極点|北極]]飛行に出発し、消息を絶つ。
* [[1902年]] - [[アーサー・バルフォア]]がイギリスの第50代首相に就任。
* [[1921年]] - [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の支援を受けた[[モンゴル人民革命党|モンゴル人民党]]が、活仏[[ボグド・ハーン]]を君主とする[[ボグド・ハーン政権|モンゴル人民政府]]を樹立し、[[中華民国]]から実質的に独立。
* 1921年 - [[東京大学|東京帝国大学]]に航空研究所(現 [[宇宙航空研究開発機構]][[宇宙科学研究所]])設立。
* [[1933年]] - [[神兵隊事件]]。[[大日本生産党]]・[[愛国勤労党]]員らのクーデター計画が事前に発覚し、約50人が検挙される。
* [[1935年]] - [[静岡地震 (1935年)|静岡地震]]。[[静岡市]]・[[清水市]]などで死傷者9299人。
* [[1950年]] - [[小倉黒人米兵集団脱走事件]]が起きる。黒人米兵約250名と、小倉警察、米軍MPとの間で市街戦に。
* 1950年 - [[日本労働組合総評議会]](総評)結成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jca.apc.org/labornow/labornowtv/sohyo.html |title=語り継ぐ総評40年 1950~1989年 |publisher=Labor Now |accessdate=12 Feb 2023}}</ref>。
* 1950年 - [[パキスタン]]が[[国際通貨基金]](IMF)と[[世界銀行]]に加盟<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.worldbank.org/ja/about/leadership/members |title=加盟国 |accessdate=12 Feb 2023 |publisher=The World Bank Group}}</ref>。
* 1950年 - [[奥羽本線]][[三関駅]]で[[貨物列車]]が[[脱線]]転覆。原因は人為的に駅構内のポイントの切り替えが行われなかったためであり、後日、男が[[往来を妨害する罪]]で逮捕された<ref>「三関駅暴走事件」『日本経済新聞』昭和25年7月29日3面</ref>。
* [[1951年]] - [[京都府]][[篠村]](現[[亀岡市]])で、集中豪雨により[[ため池]]が決壊([[平和池水害]])。死者、行方不明者75人。
* 1951年 - [[第一次朝鮮スパイ事件]]の被告13人に重労働、罰金、強制送還の判決。
* [[1954年]] - 埼玉県[[春日部市]]が市制施行。
* [[1957年]] - [[イスラム教]][[ニザール派]]の48代[[イマーム]][[アーガー・ハーン3世]]が死去。子のカリムが49代イマームに就任し[[アーガー・ハーン4世]]となる。
* 1957年 - [[升田幸三]][[王将戦|王将]]・[[十段戦 (将棋)|九段]]が[[大山康晴]][[名人戦 (将棋)|名人]]を破り棋界初の三冠に。
* [[1960年]] - [[京成電鉄]]が、後に[[東京ディズニーランド]]などを経営することになる[[オリエンタルランド]]を設立<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/company/history/history01.html |title=株式会社オリエンタルランド創成期 |publisher=[[オリエンタルランド|株式会社オリエンタルランド]] |accessdate=12 Feb 2023}}</ref>。
* [[1960年]] - ベルギーの支持を得た[[モイーズ・チョンベ]]が南部[[カタンガ州]]の[[コンゴ民主共和国|コンゴ共和国]](コンゴ・レオポルドヴィル)からの独立を宣言<ref>{{Cite book|author=Georges Nzongola-Ntalaja|title=The Congo: From Leopold to Kabila: A People's History|publisher=Zed Books|page=111|language=英語|isbn=978-1842770535}}</ref>。
* [[1961年]] - [[フィラデルフィア]]発[[デンバー]]行きの[[ユナイテッド航空]]859便[[ダグラス DC-8|DC-8]]型機がデンバーの[[ステープルトン国際空港]]への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
* [[1962年]] - 日本初の国産旅客機[[YS-11]]が完成。
* 1962年 - [[テルスター衛星]]により、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]・[[フランス]]間で初の大陸間衛星中継が行われる。
* [[1963年]] - [[老人福祉法]]公布。
* [[1966年]] - [[広島市議会]] が[[原爆ドーム]]の永久保存を決議。
* 1966年 - 第1回[[全日本]][[サーフィン]]大会が[[千葉県]][[鴨川市]]鴨川海岸で開催される。
* [[1968年]] - 『[[週刊少年ジャンプ|少年ジャンプ]]』創刊。
* [[1971年]] - [[チリ]]議会が国内の[[銅山]]の国有化を決定<ref>{{Cite web |url=https://www.codelco.com/memoria2016/en/pdf/mem2016codelco-history.pdf |title=mem2016codelco-history |work=CODELCO |format=[[pdf]] |accessdate=12 Feb 2023}}</ref>。
* 1971年 - [[北陸鉄道動橋線]]が全線廃止。
* [[1973年]] - [[ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故]]。[[リオデジャネイロ]]発[[パリ]]行きの[[ヴァリグ・ブラジル航空]]820便[[ボーイング707]]型機でパリの[[オルリー空港]]への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
* [[1975年]] - [[私立学校振興助成法]]公布。
* [[1978年]] - [[スペイン]]のキャンプ場で爆発事故が発生。217人が死亡([[ロス・アルファケス大惨事]])。
* [[1979年]] - [[日本坂トンネル火災事故]]。[[東名高速道路]]・[[日本坂トンネル]]内で玉突き事故で173台が炎上し死者7人。
* 1979年 - アメリカ合衆国初の[[宇宙ステーション]]「[[スカイラブ計画|スカイラブ]]」が[[大気圏再突入]]して消滅。
* [[1984年]] - [[松山事件]]の再審無罪判決<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/1984/1984_5.html |title=松山事件再審無罪判決言渡しについて |access-date=12 Feb 2023 |publisher=日本弁護士連合会 |date=11 Jul 1984}}</ref>。
* [[1987年]] - [[国際連合|国連]]の推計で、この日に[[世界人口|世界の人口]]が50億人を超えたとされていた{{refnest|group="注"|当初は国連人口部の統計により1987年7月11日に世界人口が50億人に到達したと発表されていたが、その後の改訂で1986年に到達と修正された<ref name="tokyo.unfpa-siryotokei">[https://tokyo.unfpa.org/ja/resources/%E8%B3%87%E6%96%99%E3%83%BB%E7%B5%B1%E8%A8%88 資料・統計:世界人口推移グラフ 人類誕生から2050年までの世界人口の推移(推計値)グラフ]([[国際連合人口基金|国連人口基金]]駐日事務所 2023年2月12日閲覧)</ref>。}}。そのため、この日は「[[世界人口デー]]」に制定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/65667 |title=7月11日 世界人口デー |publisher=[[講談社]] |date=2019-07-11 |accessdate=12 Feb 2023 |work=サイエンス365days}}</ref>。
* [[1991年]] - [[ナイジェリア航空2120便墜落事故]]。[[カナダ]]のノリス・エアチャーター便DC-8型機が[[サウジアラビア]]の[[ジッダ]]・[[キング・アブドゥルアズィーズ国際空港]]を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。なお、この機体は元日本航空のJA8057。
* 1991年 - [[悪魔の詩訳者殺人事件]]。
* [[1995年]] - [[7.11水害]]。[[新潟県]][[上越地方]]・[[長野県]][[北信地方]]で[[集中豪雨]]が発生。[[国道148号]]、[[大糸線]]が長期間不通に。
* [[2002年]] - [[気象庁]]が、民間気象事業者に対して、[[携帯電話]]サイトを作らないこと及びインターネットによるデータのダウンロードサービスを行わないことを約束する<ref>同日付、気象振興協議会第一部会議事録。</ref>。
* [[2008年]] - [[Apple]]の[[iPhone]](アイフォーン)が[[ソフトバンクモバイル]]より発売される。
* [[2009年]] - [[東急大井町線]]が[[溝の口駅]]まで延伸する<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2009/07/12/234100.html |title=東急 大井町線が溝の口まで延伸 |access-date=12 Feb 2023 |work=鉄道ファン railf.jp |publisher=KOYUSHA CO.,LTD.}}</ref>。
* [[2010年]] - [[2010 FIFAワールドカップ|FIFA W杯南アフリカ大会]]の決勝戦[[サッカーオランダ代表|オランダ]]対[[サッカースペイン代表|スペイン]]が行われ、スペインが初優勝を果たす。
* [[2012年]] - [[平成24年7月九州北部豪雨|九州北部豪雨]]による[[九州|九州地方]]で大きな被害が出た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/2012/20120711/20120711.html |title=平成24年7月九州北部豪雨 平成24年(2012年)7月11日~7月14日 |access-date=12 Feb 2023 |publisher=[[気象庁]]}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}}
[[ファイル:Robert the Bruce stipple engraving.jpg|thumb|100px|スコットランド王[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]](1274-1329)誕生]]
{{multiple image
| footer = [[水戸藩]]藩主、[[徳川光圀]](1628-1701)誕生。右画像は[[里見浩太朗]]扮する「[[水戸黄門]]」
| image1 = Tokugawa_Mitsukuni.jpg
| width1 = 120
| alt1 = 徳川光圀
| image2 = MitoKomonSatomiKotaro.jpg
| width2 = 120
| alt2 = 水戸黄門
}}
[[Image:John_Quincy_Adams_by_GPA_Healy%2C_1858.jpg|thumb|100px|第6代アメリカ合衆国大統領、[[ジョン・クィンシー・アダムズ]](1767-1848)]]
[[Image:Afanasev.jpg|thumb|100px|[[民話]]研究家、[[アレクサンドル・アファナーシェフ]](1826-1871)]]
{{multiple image
| footer = 画家[[カール・ヌードストローム]](1855-1923)誕生。右画像は『私の妻』(1885)
| image1 = Karl_Nordstr%C3%B6m_photo.jpg
| width1 = 80
| alt1 = カール・ヌードストローム
| image2 = Karl_Nordstr%C3%B6m_-_My_Wife.JPG
| width2 = 140
| alt2 = 『私の妻』
}}
[[Image:GiorgioArmani.jpg|thumb|100px|[[ファッションデザイナー]]、[[ジョルジオ・アルマーニ]](1934-)]]
* [[1274年]] - [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]<ref>{{Cite web |title=Robert the Bruce {{!}} Biography & Facts |url=https://www.britannica.com/biography/Robert-the-Bruce |website=Britannica |access-date=2023-02-12 |language=en}}</ref>、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1329年]])
* [[1628年]]([[寛永]]5年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[徳川光圀]]<ref>{{Kotobank|徳川光圀}}</ref>、第2代[[水戸藩|水戸藩主]](+ [[1701年]])
* [[1767年]] - [[ジョン・クィンシー・アダムズ]]、第6代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1848年]])
* [[1812年]] - [[ルイ・ルロワ]]、[[版画家]]、[[批評家]](+ [[1885年]])
* [[1826年]] - [[アレクサンドル・アファナーシェフ]]、[[民族学者]](+ [[1871年]])
* [[1836年]] - [[カルロス・ゴメス]]、[[作曲家]](+ [[1896年]])
* [[1855年]] - [[カール・ヌードストローム]]、[[画家]](+ [[1923年]])
* [[1866年]] - [[リヒャルト・ベーア=ホフマン]]、[[小説家]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1945年]])
* [[1868年]] - [[滝信四郎]]、[[実業家]] (+[[1938年]])
* [[1871年]]([[明治]]4年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[喜田貞吉]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1939年]])
* [[1912年]]([[ユリウス暦]]6月28日) - [[セルジュ・チェリビダッケ]]、[[指揮者]](+ [[1996年]])
* [[1920年]] - [[ユル・ブリンナー]]、[[俳優]](+ [[1985年]])
* [[1928年]] - [[斎藤文夫 (参議院議員)|斎藤文夫]]、[[政治家]]
* [[1929年]] - [[デイビッド・ケリー]]、俳優(+ [[2012年]])
* [[1930年]] - [[エズラ・ヴォーゲル]]、[[社会学者]] (+ [[2020年]])
* 1930年 - [[ハロルド・ブルーム]]、文学研究者、批評家(+ [[2019年]])
* 1930年 - [[ザ・デストロイヤー]]、[[プロレスラー]](+ [[2019年]])
* [[1931年]] - [[大塚康生]]、[[アニメーター]](+ [[2021年]])
* [[1934年]] - [[ジョルジオ・アルマーニ]]、[[ファッションデザイナー]]
* [[1936年]] - [[阿久津義雄]]、元[[プロ野球選手]]
* 1936年 - [[福島郁夫]]、元プロ野球選手
* [[1943年]] - [[菱田嘉明]]、政治家(+ [[2020年]])
* [[1944年]] - [[パトリシア・ポラッコ]]、[[絵本作家]]
* [[1946年]] - [[木の実ナナ]]、[[俳優|女優]]
* 1946年 - [[伊藤君子]]、[[歌手]]
* 1946年 - [[サラ・ブラファー・ハーディ]]、[[人類学者]]、霊長類学者
* [[1948年]] - [[小野信次]]、政治家
* [[1949年]] - [[沢田雅美]]、女優
* 1949年 - [[大森礼子]]、政治家
* 1949年 - [[手嶋龍一]]、[[ジャーナリスト]]、[[作家]]
* [[1951年]] - [[山本正之]]、[[作詞家]]、作曲家、歌手
* 1951年 - [[斎藤洋介]]、俳優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=斎藤洋介さん急逝 体調急変、救急搬送も 所属事務所「急なことで、実感わかない」 - スポニチ Sponichi Annex 芸能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/09/20/kiji/20200920s00041000129000c.html |website=Sponichi Annex |access-date=2023-02-12 |language=ja |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=20 Sep 2020}}</ref>)
* 1951年 - [[所憲佐]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[川村博昭]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[行澤久隆]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[谷田部勝義]]、[[アニメーション監督]]、脚本家、演出家、音響監督
* 1956年 - [[中野誠吾]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[ピーター・マーフィー]]、ミュージシャン、ボーカリスト(元[[バウハウス (バンド)|バウハウス]])
* [[1957年]] - [[鄭義信]]、[[劇作家]]、[[脚本家]]
* [[1958年]] - [[カーク・ウェイラム]]、[[音楽家]]
* [[1959年]] - [[リッチー・サンボラ]]、ギタリスト
* 1959年 - [[ジェフ・ケンプ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手
* 1959年 - [[藤井徹貫]]、音楽ライター、小説家(+ [[2023年]])
* [[1960年]] - [[渋谷茂]]、声優
* 1960年 - [[宗矢樹頼]]、声優、元落語家
* [[1962年]] - [[藤井フミヤ]]、歌手
* 1962年 - [[マヌエラ・マガー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1964年]] - [[今野隆裕]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[染宮修支]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[伊藤忠彦]]、政治家
* 1964年 - [[細田健一]]、政治家
* [[1965年]] - [[アーネスト・ホースト]]、[[キックボクシング|キックボクサー]]
* 1965年 - [[小牧ユカ]]、キャスター、タレント、ファッションモデル
* 1965年 - [[南あずさ]]、[[アナウンサー]]
* [[1966年]] - [[三浦建太郎]]、漫画家(+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2021/05/20/0014343128.shtml |title=漫画家・三浦建太郎氏が死去 54歳 急性大動脈解離 「ベルセルク」など |access-date=12 Feb 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=20 May 2021}}</ref>)
* 1966年 - [[栁田昌夫]]、元プロ野球選手、プロ野球審判員
* [[1967年]] - [[秋野公造]]、政治家
* [[1968年]] - [[近藤サト]]、アナウンサー
* 1968年 - [[住友優子]]、声優
* 1968年 - [[高見昌宏]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[中根一幸]]、政治家
* 1969年 - [[矢上裕]]、漫画家
* [[1970年]] - [[長沢美樹]]、声優
* [[1971年]] - [[古川栄司]]、元タレント(元[[忍者 (グループ)|忍者]])
* [[1973年]] - [[水田章雄]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[キートン (お笑い芸人)|キートン]]、お笑い芸人
* [[1974年]] - [[小野公誠]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]]
* [[1975年]] - [[葉月里緒奈]]、女優
* [[1976年]] - [[相川亮二]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[山本喧一]]、総合格闘家、プロレスラー
* 1976年 - [[エドアルド・ナヘラ]]、元バスケットボール選手
* [[1977年]] - 木下実香、女優
* [[1978年]] - 光野亜希子、お笑いタレント([[パー&ナー|パー&ナー]])
* [[1979年]] - [[かまだみき]]、歌手、[[うたのおねえさん]]
* 1979年 - [[ソ・ミンジョン|徐敏貞]]、女優
* [[1980年]] - [[鈴江奈々]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー
* 1980年 - [[侯鳳連]]、野球選手
* [[1981年]] - [[蒼山サグ]]、ライトノベル作家
* 1981年 - [[槙ようこ]]、漫画家
* 1981年 - [[ブレイン・ボイヤー]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - [[ジェフ・コブ]]、プロレスラー
* 1982年 - [[稲村優奈]]、声優、女優
* [[1982年]] - [[森本亮治]]、俳優
* [[1983年]] - [[井ノ上奈々]]、声優
* 1983年 - [[徳田将至]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[日向瞳]]、元女優
* 1984年 - [[橋本直子]]、バレーボール選手
* 1984年 - [[タニス・ベルビン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1985年]] - [[高杉さと美]]、歌手
* 1985年 - [[前田亜季]]、女優
* [[1986年]] - [[東野峻]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[飯田菜奈]]、アナウンサー
* 1986年 - [[ラウール・ガルシア]]、サッカー選手
* 1986年 - [[ヨアン・グルキュフ]]、サッカー選手
* 1986年 - [[ベルサイユ (お笑い芸人)|ベルサイユ]]、お笑い芸人
* [[1987年]] - [[加藤シゲアキ]]、タレント、小説家([[NEWS (グループ)|NEWS]])
* 1987年 - [[山口俊]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[茅原悠紀]]、[[競艇選手|ボートレーサー]]
* 1987年 - [[秋元陽太]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[井口裕香]]、声優
* 1988年 - [[戸島花]]、タレント(元[[AKB48]])
* 1988年 - [[尾中博俊]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[エティエンヌ・カプエ]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[田中直乃]]、タレント
* 1989年 - [[志摩ノ海航洋]]、大相撲力士
* 1989年 - [[村上愛里]]、グラビアアイドル
* [[1990年]] - [[落合モトキ]]、俳優
* 1990年 - [[小池ジョアンナ]]、歌手
* 1990年 - [[西野志海]]、元アナウンサー
* 1990年 - [[新鍋理沙]]、元バレーボール選手
* 1990年 - [[キャロライン・ウォズニアッキ]]、テニスプレーヤー
* 1990年 - [[エリカ・リッソー]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[モナ・バルテル]]、プロテニス選手
* [[1991年]] - [[竹渕慶]]、シンガーソングライター
* [[1991年]] - [[坂口健太郎]]、[[モデル (職業)|モデル]]、俳優
* [[1992年]] - [[船越英里子]]、女優
* 1992年 - [[ジョニー・バーベイト]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[モハメド・エルネニー]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[石崎なつみ]]、女優
* [[1994年]] - [[七瀬彩夏]]、声優
* 1994年 - [[ルーカス・オカンポス]]、サッカー選手
* 1994年 - [[口町亮]]、陸上選手
* [[1995年]] - [[宮下みらい]]、ファッションモデル
* [[1996年]] - [[石川直也]]、プロ野球選手
* 1996年 - [[宮川大聖]]、歌手
* 1996年 - [[フィリップ・ラインハート]]、サッカー選手
* [[1997年]] - [[牛牛]]、[[ピアニスト]]
* 1997年 - [[石塚朱莉]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20190821-GZC3T5MURVJEZOCBDB57B235ZU/2/ |title= 【ゲーム好きタレント名鑑#5】石塚朱莉(NMB48) |access-date=12 Feb 2023 |date=21 Aug 2019 |publisher=[[サンケイスポーツ]]}}</ref>、女優、元[[アイドル]](元[[NMB48]])
* [[1998年]] - [[石井杏奈 (E-girls)|石井杏奈]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ldh.co.jp/management/ishii_anna/ |title=石井杏奈 |access-date=12 Feb 2023 |publisher=LDH JAPAN Inc.}}</ref>、パフォーマー、女優 (元[[E-girls]])
* 1998年 - [[出野泉花]]、元女優、元声優
* [[2002年]] - [[アマド・ディアロ]]、サッカー選手
* [[2003年]] - [[ダニエル・ジェビソン]]、サッカー選手
* [[2004年]] - [[近貞月乃]]、元子役
* [[2008年]] - [[木村朱里]]、女流棋士
* 生年不明 - [[鏡優雅]]、声優、俳優
* 生年不明 - [[泉英里]]、声優
* 生年不明 - [[大谷祐貴]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mausu.net/talent/post_4.html |title=大谷 祐貴 |accessdate=12 Feb 2023 |publisher=マウスプロモーション}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[奥津マリリ]]、アイドル([[フィロソフィーのダンス]])
* 生年不明 - [[ろこ]]、[[YouTuber]]、アイドル(元[[ナト☆カン]])
* 生年不明 - 秋本美紀、漫画家
== 忌日 ==
{{multiple image
| caption1 =哲学者[[ニコル・オレーム]](1323-1382)没
| image1 = Oresme.jpg
| width1 = 100
| alt1 = ニコル・オレーム
| caption2 =フランス皇后、[[ウジェニー・ド・モンティジョ]](1826-1920)没
| image2 = Empress_Eug%C3%A9nie%2C_Hillwood_Museum%2C_1857.jpg
| width2 = 100
| alt2 = ウジェニー・ド・モンティジョ
}}
{{multiple image
| footer = [[トリックアート]]で知られる[[マニエリスム]]の画家、[[ジュゼッペ・アルチンボルド]](1527-1593)没。画像は『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』(1590-91)
| image1 = Giuseppe_Arcimboldo.jpg
| width1 = 80
| alt1 = ジュゼッペ・アルチンボルド
| image2 = Arcimboldovertemnus.jpeg
| width2 = 140
| alt2 = 『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』
}}
{{multiple image
| footer = タイ王[[ナーラーイ]](1656-1688)没。右画像は1688年、ナーラーイの親書を受け取る[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]
| image1 = French_depiction_of_King_Narai.jpg
| width1 = 80
| alt1 = ナーラーイ
| image2 = Innocent_XI_Dec_1688.jpg
| width2 = 140
| alt2 = 親書を受け取るインノケンティウス11世
}}
{{multiple image
| footer = {{仮リンク|ヌンガー族|en|Noongar}}の勇者[[イェーガン]](1795-1833)、白人少年に射殺される
| image1 = Yagan.jpg
| width1 = 80
| alt1 = イェーガンの生首
| image2 = Yagan_Statue_2005.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 像
}}
{{multiple image
| footer = 作曲家[[ジョージ・ガーシュウィン]](1898-1937)没。{{audio|Al Jolson, George Gershwin, Irving Caesar, Swanee 1920.ogg|『スワニー』(1919)を聴く}}
| image1 = George_Gershwin_1937.jpg
| width1 = 100
| alt1 = ジョージ・ガーシュウィン
| image2 = Gershwin best 800.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 墓
}}
{{multiple image
| footer = 考古学者[[アーサー・エヴァンズ]](1851-1941)。[[クノッソス]]遺跡を発掘(右画像)
| image1 = Arthur_evans.jpg
| width1 = 100
| alt1 = アーサー・エヴァンズ
| image2 = KnossosSemune.jpg
| width2 = 100
| alt2 =
}}
* [[645年]]([[斉明天皇|皇極天皇]]4年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[蘇我蝦夷]]、豪族(生年不詳)
* [[969年]] - [[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]][[イーゴリ1世]]の妃(生年不詳)
* [[1382年]] - [[ニコル・オレーム]]、[[哲学者]]、[[天文学者]](* [[1325年]]頃)
* [[1510年]]([[永正]]7年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[猪苗代兼載]]、[[連歌|連歌師]](* [[1452年]])
* [[1535年]] - [[ヨアヒム1世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム1世]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1484年]])
* [[1593年]] - [[ジュゼッペ・アルチンボルド]]、[[画家]](* [[1527年]])
* [[1599年]]([[慶長]]4年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[長宗我部元親]]、土佐の[[戦国大名]](* [[1539年]])
* [[1674年]]([[延宝]]2年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[鷹司孝子]]、[[江戸幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の[[正室]](* [[1602年]])
* [[1688年]] - [[ナーラーイ]]、[[タイ王国|タイ王]](* [[1629年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[前田吉徳]]、第6代[[加賀藩|加賀藩主]](* [[1690年]])
* [[1766年]] - [[エリザベッタ・ファルネーゼ]]、[[スペイン|スペイン王]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]の妃(* [[1692年]])
* [[1801年]]([[享和]]元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[本間光丘]]、出羽[[酒田]]の豪商(* [[1732年]])
* [[1831年]] - [[ヴァシーリー・ゴロヴニーン]]<ref>{{Cite web |title=Vasily Mikhaylovich Golovnin {{!}} Russian naval officer |url=https://www.britannica.com/biography/Vasily-Mikhaylovich-Golovnin |website=Britannica |access-date=2023-02-12 |language=en}}</ref>、[[ロシア海軍]]の軍人、[[探検家]](* [[1776年]])
* [[1833年]] - [[イェーガン]]、ヌンガー族の戦士(* [[1795年]])
* [[1840年]]([[天保]]11年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[島田元旦]]、[[絵師]]、[[鳥取藩|鳥取藩士]](* [[1787年]])
* [[1957年]] - [[アーガー・ハーン3世]]、[[イスラム教]][[ニザール派]]の48代[[イマーム]](* [[1877年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[田中新兵衛]]、[[薩摩藩|薩摩藩士]](* [[1832年]])
* [[1906年]] - 2代目[[三遊亭圓橘]]、[[落語家]](* [[1811年]])
* [[1909年]] - [[サイモン・ニューカム]]、天文学者、[[数学者]](* [[1835年]])
* [[1919年]] - [[鈴木三樹三郎]]、[[新選組]]9番隊隊長、[[御陵衛士]](* [[1837年]])
* [[1920年]] - [[ウジェニー・ド・モンティジョ]]、[[フランス第二帝政|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]の皇后(* [[1826年]])
* [[1930年]] - [[小川正孝]]、[[化学者]](* [[1865年]])
* [[1937年]] - [[ジョージ・ガーシュウィン]]、[[作曲家]](* [[1898年]])
* [[1937年]] - [[ジャック白井]]、[[義勇兵]](* [[1900年]])
* [[1941年]] - [[アーサー・エヴァンズ]]、[[考古学者]](* [[1851年]])
* [[1946年]] - [[ポール・ナッシュ]]、画家(* [[1889年]])
* [[1953年]] - [[オリバー・キャンベル]]、[[テニス]]選手(* [[1871年]])
* [[1971年]] - [[ジョン・W・キャンベル]]、[[小説家]](* [[1910年]])
* 1971年 - [[ペドロ・ロドリゲス]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1940年]])
* [[1973年]] - 3代目[[三遊亭小圓朝]]、落語家(* [[1892年]])
* 1973年 - [[吉屋信子]]、小説家(* [[1896年]])
* [[1974年]] - [[ペール・ラーゲルクヴィスト]]、小説家(* [[1891年]])
* [[1983年]] - [[ロス・マクドナルド]]、[[推理作家]](* [[1915年]])
* [[1989年]] - [[ローレンス・オリヴィエ]]、[[俳優]](* [[1907年]])
* [[1991年]] - [[五十嵐一]]、中東・イスラーム学者(* [[1947年]])
* [[1992年]] - [[鄧穎超]]、[[国務院総理|中国首相]][[周恩来]]の妻(* [[1904年]])
* [[1994年]] - [[ゲイリー・キルドール]]、[[デジタルリサーチ]]社の創業者(* [[1942年]])
* [[1996年]] - [[久慈あさみ]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](* [[1922年]])
* [[2003年]] - [[小松方正]]、俳優(* [[1926年]])
* [[2004年]] - [[原田泰夫]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1923年]])
* [[2005年]] - [[橋本真也]]、[[プロレスラー]](* [[1965年]])
* [[2015年]] - [[岩田聡]]、[[任天堂]]4代目[[代表取締役]][[社長]](* [[1959年]])
* [[2017年]] - [[岩崎英二郎]]、[[ドイツ語|ドイツ語学者]](* [[1922年]])
* 2017年 - [[砂川啓介]]、俳優(* [[1937年]])
* [[2021年]] - [[亀石征一郎]]、俳優(* [[1938年]])
* [[2022年]] - [[中丸シオン]]、女優(* [[1983年]])
== 記念日・年中行事 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}}
{{multiple image
| footer = [[モンゴル]]の「民族の祭典」ナーダム(13日まで)。画像は左から[[ブフ|モンゴル相撲]]、[[競馬]]、[[アーチェリー|弓射]]
| image1 = Naadam_wrestling.jpg
| width1 = 140
| alt1 = モンゴル相撲
| image2 = Naadam.jpg
| width2 = 140
| alt2 = 競馬
| image3 = Naadam_women_archery.jpg
| width3 = 100
| alt3 = 弓射
}}
[[File:Mikimoto_K%C5%8Dkichi.jpg|thumb|120px|[[御木本幸吉]]、[[真珠]]養殖に成功(1893)。画像は昭和20年代のもの]]
* [[世界人口デー]]({{World}})
*: [[国際連合人口基金|国連人口基金]]が[[1989年]]に制定。[[国際デー]]の一つ。[[1987年]]のこの日、[[世界人口|世界の人口]]が50億人を超えたとされることから。
* [[革命記念日]]({{MNG}})
*: [[1921年]]のこの日、[[ボグド・ハーン政権|モンゴル人民政府]]が成立し、[[中華民国]]から実質的に独立したことを記念。この日から3日間、[[モンゴル]]の「民族の祭典」[[ナーダム]]が行われる。
* ロコモコ開きの日
*: [[ハワイ州]]観光局が制定。夏を乗り切るためにスタミナアップに役立つハワイの料理「[[ロコモコ]]」を、この日をきっかけにより多くの人に食べてもらうのが目的。日付は、「夏(7)のいい(11)日」の語呂合わせから<ref name="P20">{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=20|isbn=978-4422021157 }}</ref>。
* {{仮リンク|中国航海日|zh|中国航海日}}({{PRC}})
*: [[2005年]]に、[[鄭和]]の航海出発600周年を記念して[[中華人民共和国国務院]]が制定。
* {{仮リンク|フラマン語共同体の日|nl|Feestdag van Vlaanderen}}({{BEL}}の[[フラマン語共同体]])
*: [[1302年]]この日の[[金拍車の戦い]]での勝利を記念。
* [[真珠]]記念日({{JPN}})
*: [[1893年]]7月11日に、[[御木本幸吉]]夫妻が初めて[[真珠]]の養殖に成功したことに由来。
* [[職業教育]]の日({{JPN}})
*: [[全国専修学校各種学校総連合会]]が制定。1975年(昭和50年)のこの日、[[学校教育法]]の改正により[[専修学校]]の制度が定められたことを記念。
* [[YS-11]]記念日({{JPN}})
*: [[1962年]]のこの日、初の国産旅客機YS-11が完成したことを記念。
* UDF(ユニバーサルデザインフード)の日({{JPN}})
*: 日本介護食品協議会が制定。介護食品を「ユニバーサルデザインフード(UDF)」と命名した会員企業が、この名称と「UDFロゴマーク」を製品に使用することで、利用者に安心して選んでもらうことが目的。日付は、2003年のこの日、に「ユニバーサルデザインフード(UDF)」と「UDFロゴマーク」が商標登録を受けたことから<ref name="P21">{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=21|isbn=978-4422021157 }}</ref>。
* [[アルカリイオン水]]の日 ({{JPN}})
*: アルカリイオン整水器協議会が制定。アルカリイオン水が胃腸症状の改善を謳っていることから、「0711」で「おなかにいい」と読む語呂合わせ<ref name="P21"/>。
* [[セブン-イレブン]]の日({{JPN}})
*: [[コンビニエンスストア]]「セブン-イレブン」を運営する株式会社セブンイレブン・ジャパンが制定。社名がそのまま日付に置き換えられることから、記念日登録でさらなる情報発信をすることが目的<ref name="P20"/>
* [[ラーメン]]の日({{JPN}})
*: 日本で最初にラーメンを食べたとされる[[徳川光圀]]の誕生日(新暦1628年7月11日)にちなみ、「7」を[[散蓮華|レンゲ]]に、「11」を[[箸]]に見立てて[[日本ラーメン協会]]が制定<ref name="P21"/>。
* [[大都技研]]の日({{JPN}})
*: [[一般社団法人日本記念日協会]]より「7月11日は大都技研の日」と認定。[[大都技研]]が製造する「[[吉宗]]」のビッグボーナスの獲得枚数が711枚であり、「押忍!番長」がホールに初めて設置されたのが2005年7月11日であることが由来となる。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0711|date=2023年3月}}
* 1980年(昭和55年)- [[七曲署|七曲警察署]]の島公之[[刑事]]が[[交通事故]]死する。(『[[太陽にほえろ!]]』第414話「島刑事よ、永遠に」)
=== 誕生日 (フィクション) ===
* [[1991年]] - 伊吹マヤ、アニメ・漫画『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |author=特務機関調査プロジェクトチーム |date=1997-07-01|title=新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説 |page=204 |publisher=[[青春出版社]] |isbn= 978-4413030731}}</ref>
* 生年不明 - 芹沢なずな、漫画『[[つくしまっすぐライフ!]]』の主人公
* 生年不明 - 華満らん(キュアヤムヤム)、アニメ『[[デリシャスパーティ♡プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/delicious-party_precure/character/chara3.php |title=キュアヤムヤム / 華満らん |website=『デリシャスパーティ♡プリキュア』 |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |accessdate=2023-01-16}}</ref>
* 生年不明 - 佐藤イサム、[[タカラトミー]]の[[着せ替え人形]]玩具『[[リカちゃん]]』の3代目ボーイフレンド<ref>{{Cite book|和書|title=リカちゃんコレクション|publisher=[[ポプラ社]]|date=2002-8-1|page=37|ISBN=978-4591073322}}</ref>
* 生年不明 - 出瀬潔、漫画・アニメ『[[ハイスクール!奇面組]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - パール、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Pearl.html |title=パール |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2023-01-16 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[護廷十三隊#京楽春水|京楽春水]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=136|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088740799}}</ref>
* 生年不明 - 秋奈、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ラブ、漫画・アニメ『[[トリコ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - みぎわ花子、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tweet_maruko|1149121270564315136}}</ref>
* 生年不明 - 愛宕雅枝、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=愛宕 雅枝(あたご まさえ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2023-01-16 |publisher=小林立公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 知念美果、漫画・アニメ『[[夢色パティシエール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鳳島氷羽子、小説・アニメ『[[アスラクライン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 能登和泉、小説・ゲーム・アニメ『[[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 幸村輝彦、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/yukimura.html |title=幸村 輝彦 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ2年生編』 |accessdate=2023-01-16 |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 大田黒賢有、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tsurune.com/character/ |title=辻峰高校弓道部 大田黒賢有 |access-date=2023-01-16 |publisher=綾野ことこ・[[京都アニメーション]]/ツルネⅡ製作委員会 |work=『ツルネ -つながりの一射-』}}</ref>
* 生年不明 - リーゼロッテ、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c21 |title=リーゼロッテ |access-date=2023-01-16 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]]/VVV Committee |work=『革命機ヴァルヴレイヴ』}}</ref>
* 生年不明 - 瀬戸口優、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=Character 瀬戸口優 |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=2022-09-05 |work=『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』}}</ref>
* 生年不明 - パティ・ソール、ゲーム『[[悠久幻想曲]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 酒井田夏海、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1546147234626109445}}</ref>
* 生年不明 - 月島結衣、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/tsukishima |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=月島 結衣 |accessdate=29 Mar 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - ルカ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1281770204213596160}}</ref>
* 生年不明 - 朝倉可憐、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31a/asakura-karen/ |title=朝倉可憐 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=2023-02-12}}</ref>
* 生年不明 - [[洲崎遵]]、メディアミックス『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://argo-bdp.com/character/fantome-iris/#zack |title=洲崎 遵 |access-date=2023-01-16 |publisher=ARGONAVIS project. |work=『from ARGONAVIS(フロム アルゴナビス)』}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|July 11|11 July}}
{{新暦365日|7|10|7|12|[[6月11日]]|[[8月11日]]|[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]|0711|7|11}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-28T09:06:21Z | 2023-10-09T17:04:21Z | false | false | false | [
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"Template:フィクションの出典明記",
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"Template:Twitter status",
"Template:新暦365日"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8811%E6%97%A5 |
5,426 | 8月11日 | 8月11日(はちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。 | [
{
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] | 8月11日(はちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。 | {{カレンダー 8月}}
'''8月11日'''(はちがつじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から223日目([[閏年]]では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。
== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:[[アルテミシオンの海戦]], [[天正遣欧少年使節]], [[第一次世界大戦]], [[ボリシェヴィキ]], [[ベイブ・ルース]], [[河西三省]], [[ヘディ・ラマー]]/[[ジョージ・アンタイル]]/[[スペクトラム拡散]], [[航空協定]], [[インドネシア]]/[[マレーシア]], [[ベトナム戦争]], [[昇仙峡]], [[一人っ子政策]] -->
{{multiple image
| footer = [[長期暦]]([[マヤ文明|マヤ]]暦)の始まりの日(BC3114)。左画像は[[チャパ・デ・コルソ]]石碑2号(7.16.3.2.13 = BC36年12月10日)、右画像は[[ラ・モハーラ]]石碑1号(8.5.16.9.7 = 126年7月14日)
| image1 = Stela2%2CChiapa_de_Corzo.JPG
| width1 = 140
| alt1 = チャパ・デ・コルソ石碑2号
| image2 = La_Mojarra_Estela_1_(Escritura_superior).jpg
| width2 = 100
| alt2 = ラ・モハーラ石碑1号
}} <!-- マニアック! -->
{{multiple image
| footer = 初の[[コンクラーヴェ]]により[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が[[ローマ教皇]]に選出(1492)。右画像はこの時以来コンクラーヴェの場となっている[[システィーナ礼拝堂]]
| image1 = Pope_Alexander_Vi.jpg
| width1 = 100
| alt1 = アレクサンデル6世
| image2 = Cappella Sistina - 2005.jpg
| width2 = 140
| alt2 = システィーナ礼拝堂
}}
<!-- [[Image:JapaneseEmbassy.jpg|thumb|220px|[[天正遣欧少年使節]]、リスボンに到着(1584)]] 日付要確認-->
<!-- [[Image:Eiger_und_M%C3%B6nch.jpg|thumb|220px|[[アイガー]]初登頂(1858)]] 山画像 -->
{{multiple image
| footer = [[ヴァイマル憲法]]制定(1919)。[[社会権]]保障を考慮する現代的な憲法であった。[[8月14日]]公布
| image1 = Weimar_Constitution.jpg
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| alt1 = 表紙
| image2 = Bundesarchiv_Bild_102-12356,_Potsdam,_Reichsarchiv,_Reichsverfassung.jpg
| width2 = 100
| alt2 = フリードリヒ・エーベルトらの署名
}} <!-- [[7月31日]]の採択も掲載されています -->
[[Image:T35_10.jpg|thumb|220px|ソ連の[[T-35重戦車]]制式化(1933)]]
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| footer = [[張鼓峰事件]]の停戦成立(1938)。画像はロシアの記念碑と勲章
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| alt1 = 記念碑
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| alt2 = 勲章
}} <!-- WANTED: 日本側の画像 -->
[[Image:Flag_of_Pakistan.svg|thumb|[[パキスタンの国旗]]制定(1947)]]
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| footer = [[ヨルダン]]で[[タラール1世]](左)が廃され[[フセイン1世]]が即位(1952)
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| alt1 = タラール1世
| image2 = Hussein_of_Jordan_1997.jpg
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{{multiple image
| footer = [[ロサンゼルス]]で、人種差別を背景にした[[ワッツ暴動]]発生(1965)
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| alt1 = 燃える街
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| alt2 = 逮捕される男
}}
[[Image:Ronald Reagan 1981 presidential portrait.jpg|thumb|upright|{{Squote|同胞のアメリカ人の皆さん、ロシアを永遠に非合法化する法案に署名したことをお知らせできることを嬉しく思います。5分後に爆撃を開始します。――[[ロナルド・レーガン]]、演説前のマイクのテストにて}} ]]
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| footer = [[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]、[[アルカーイダ]]を結成(1988)
| image1 = Osama_bin_Laden_portrait.jpg
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| alt1 = ウサーマ・ビン=ラーディン
| image2 = Flag_of_al-Qaeda_in_Iraq.svg
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| alt2 = アルカーイダの旗
}}
[[Image:Shinnkai_6500_01.JPG|thumb|200px|日本の潜水調査船[[しんかい6500]]、試験潜航にて最大深度6,527mを達成(1989)]]
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| footer = [[1999年8月11日の日食]]。右画像はこれを記念したルーマニアの{{仮リンク|2000レイ札|en|Two thousand lei (Romanian banknote)}}
| image1 = SE1999Aug11T.gif <!--Solar_eclips_1999_4_NR.jpg -->
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| alt1 = アニメーション
| image2 = ROL_2000_1999_reverse.jpg
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| alt2 = 記念の2000レイ札
}}
* [[紀元前32世紀|紀元前3114年]] - [[長期暦]](マヤ暦)の始まりの日。
* [[紀元前480年]] - [[ペルシャ戦争]]: [[アルテミシオンの海戦]]が始まる。
* [[1492年]] - 初の[[コンクラーヴェ]]により[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が[[ローマ教皇]]に選出。
* [[1585年]]([[天正]]13年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[長宗我部元親]]が[[豊臣秀吉]]に降伏し、秀吉による四国平定が完了。
* [[1711年]] - [[イギリス]]の[[アスコット競馬場]]で初のレースが行なわれる。
* 1711年 - [[スペイン継承戦争]]: [[サン・ホアキンの拿捕]]
* [[1804年]] - 神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]が初代[[オーストリア皇帝]]としても即位。
* [[1858年]] - {{仮リンク|チャールズ・バリントン|en|Charles Barrington (mountaineer)}}らが[[アイガー]]に初登頂。
* [[1909年]] - [[:en:Clyde Steamship Company|クライド・ライン]]のアラパホ号が[[ハッテラス岬]]沖で世界初の[[遭難信号]]「[[SOS]]」を発信し、救助される。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[フランス]]が[[オーストリア・ハンガリー帝国]]に[[宣戦布告]]。
* [[1919年]] - [[ドイツ]]で[[ヴァイマル憲法]]が制定される。
* [[1920年]] - [[ラトビア]]と[[ロシア]]の[[ボリシェヴィキ]]政権が平和条約を締結。
* [[1929年]] - [[ベイブ・ルース]]が史上初の生涯通算500[[ホームラン]]を記録。
* [[1933年]] - [[ソビエト連邦]]で[[T-35重戦車]]が制式化。
* [[1936年]] - [[ベルリンオリンピック]]の競泳女子200メートル平泳ぎで[[前畑秀子]]が優勝し、日本女子選手として初の[[金メダル]]を獲得。実況の[[河西三省]]アナウンサーが「前畑頑張れ!」を連呼。
* [[1938年]] - [[日ソ国境紛争]]: [[モスクワ]]で[[張鼓峰事件]]の停戦合意が成立する。
* [[1942年]] - 女優[[ヘディ・ラマー]]と作曲家[[ジョージ・アンタイル]]が、後に[[携帯電話]]や[[無線LAN]]などに応用されることになる[[スペクトラム拡散|周波数ホッピングスペクトラム拡散]]の特許を取得。
* [[1947年]] - [[パキスタンの国旗]]が制定される。
* [[1952年]] - [[ヨルダン]]で[[タラール1世]]が軍部により廃され[[フセイン1世]]が即位。
* 1952年 - [[航空協定|日米民間航空協]]調印。
* [[1960年]] - [[チャド]]が[[フランス]]からの独立を宣言。
* [[1965年]] - [[ロサンゼルス]]で[[ワッツ暴動]]起こる。
* 1965年 - [[帝人]]が日本で初めて[[ミニスカート]]「テイジンエル」を発売。<!-- 企業が製品として発売したのは初めてなのでしょうが、仕立屋や輸入も含め「初めて発売」とまでは言えるのでしょうか? -->
* 1965年 - 「同和対策審議会」が内閣総理大臣に対し答申を提出した。
* [[1966年]] - [[インドネシア]]・[[マレーシア]]両国が国交樹立。
* [[1971年]] - [[那覇市]]で[[暴動]]発生([[波上騒動]])。
* [[1972年]] - [[ベトナム戦争]]: 最後のアメリカ軍の地上部隊が[[南ベトナム]]から撤退。
* [[1977年]] - 山梨県の[[昇仙峡]]で観光バスが転落。死者11人。
* [[1979年]] - [[中華人民共和国]]の『[[人民日報]]』が「[[一人っ子政策]]」推進の論文を掲載。
* [[1981年]] - 日本の静止[[気象衛星]]「[[ひまわり2号]]」打上げ。
* [[1982年]] - [[パンアメリカン航空830便爆破事件]]
* [[1984年]] - [[冷戦]]: [[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]がラジオ演説前のマイクテストで「[[我々は5分後に爆撃を開始する|我々は5分で(ロシアへの)爆撃を開始する]]」と[[ジョーク]]発言する。のちに音源を[[情報漏洩|リーク]]され、波紋を呼ぶ。
* [[1987年]] - [[アラン・グリーンスパン]]が[[連邦準備制度]]理事会議長に就任。
* [[1988年]] - [[アルカーイダ|アルカイダ]]結成。
* [[1989年]] - 潜水調査船「[[しんかい6500]]」が宮城県沖での試験潜航で、設計上の最大潜航深度6,527メートルの海底に到達。
* [[1992年]] - [[ミネソタ州]][[ブルーミントン (ミネソタ州)|ブルーミントン]]で[[モール・オブ・アメリカ]]がオープン。
* [[1999年]] - [[ヨーロッパ]]や[[アジア]]で[[1999年8月11日の日食|皆既日食]]が観測される。
* [[2003年]] - 気象庁が東北北部については、梅雨明け発表を行わないこととした。梅雨明けなしは史上初。
* [[2003年]] - [[アフガニスタン]]の[[国際治安支援部隊]]の指揮権がドイツ・オランダ連合軍から[[北大西洋条約機構|NATO]]に移管される。
* [[2006年]] - [[イスラエル]]の[[レバノン侵攻 (2006年)|レバノン侵攻]]の停戦を求める[[国際連合安全保障理事会決議1701|国連安保理決議1701]]が全会一致で承認される。
* [[2008年]] - [[2008年北京オリンピックの競泳競技|北京オリンピックの男子平泳ぎ100メートル]]で、[[北島康介]]([[日本]])が58秒91の世界記録で優勝する。
* [[2009年]] - [[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]発生。
* [[2012年]] - [[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]: [[2012年ロンドンオリンピックのボクシング競技|男子ボクシング]]で[[村田諒太]]が[[ミドル級]]としては初、日本選手としては[[櫻井孝雄]]以来48年振りの[[金メダル]]獲得<ref>{{Cite web|和書|date=2012年8月12日 |url=https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2012/08/12/kiji/K20120812003890390.html |title=村田 日本勢48年ぶり金!引退乗り越え世界の頂点に |work=スポニチ Sponichi Annex 格闘技 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2018-03-16}}</ref>。
* [[2016年]] - [[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]: [[2016年リオデジャネイロオリンピックの卓球競技|卓球]]男子シングルスで、[[水谷隼]]が3位。同競技の男子では初、シングルスでは男女通じて初のメダル獲得<ref>{{Cite web|和書|date=2016年8月12日 |url=https://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20160812/k00/00e/050/157000c |title=五輪卓球:水谷は銅 メダルは男子および個人種目で史上初 |publisher=毎日新聞社 |accessdate=2018-03-16}}</ref>。
* [[2022年]] - [[シンシナティFBI支局襲撃事件]]。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
{{multiple image
| image1 = Takarai_Kikaku.jpg
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| caption1 = 俳諧師、[[宝井其角]](1661-1707)誕生。{{Squote|[[ネコ|ねこ]]の子のくんづほぐれつ胡蝶哉}}
| image2 = Eiji_Yoshikawa.jpg
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| caption2 = 作家[[吉川英治]](1892-1962)。代表作『[[宮本武蔵 (小説)|宮本武蔵]]』
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| caption3 = 作曲家、[[古関裕而]](1909-1989)
}}
[[Image:Takayoshi_Kido_suit.jpg|thumb|100px|[[維新の三傑]]の1人、政治家[[木戸孝允]](1833-1877)誕生]]
[[Image:Christiaan_Eijkman.jpg|thumb|100px|病理学者[[クリスティアーン・エイクマン]](1858-1930)。[[脚気]]の原因を食生活と特定し、抗神経炎ビタミンを発見]]
[[Image:Pervez_Mushrraf2_crop.jpg|thumb|100px|[[パキスタン]]第10代大統領、[[パルヴェーズ・ムシャラフ]](1943-2023)]]
* [[1086年]] - [[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1125年]]<ref>成瀬他、p. 207</ref>)
* [[1661年]]([[寛文]]元年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[宝井其角|宝井(榎本)其角]]、[[俳諧師]](+ [[1707年]])
* [[1795年]]([[寛政]]7年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[林玄仲]]<ref>磯部郷土史刊行会 編(1963):263ページ</ref>、[[医師]]・[[役人]](+ [[1878年]])
* [[1799年]] - [[ヨアヒム・バランデ]]、[[地質学者]]、[[古生物学者]](+ [[1883年]])
* [[1826年]] - [[アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス]]、霊覚者(+ [[1910年]])
* [[1833年]] - [[ロバート・グリーン・インガーソル|インガーソル]]、無神論者、演説者(+ [[1899年]])
* 1833年([[天保]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[木戸孝允]]、[[明治]]の[[元勲]](+ [[1877年]])
* [[1837年]] - [[マリー・フランソワ・サディ・カルノー]]、[[フランス第三共和政]]第4代[[フランス大統領の一覧|大統領]](+ [[1894年]])
* [[1858年]] - [[クリスティアーン・エイクマン]]、[[生理学者]](+ [[1930年]])
* [[1881年]] - [[潮恵之輔]]、[[政治家]](+ [[1955年]])
* [[1882年]] - [[ロドルフォ・グラツィアーニ]]、[[軍人]]、政治家(+ 1955年)
* [[1892年]] - [[吉川英治]]、[[小説家]](+ [[1962年]])
* [[1894年]] - [[城戸四郎]]、[[実業家]]、[[松竹]]社長(+ [[1977年]])
* [[1897年]] - [[イーニッド・ブライトン]]、[[児童文学作家]](+ [[1968年]])
* 1897年 - [[小山敬三]]、[[洋画家]](+ [[1987年]])
* [[1902年]] - [[アルフレッド・ビンダ]]、[[自転車競技]]選手(+ [[1986年]])
* [[1904年]] - [[袴田里見]]、政治家、[[社会運動家]](+ [[1990年]])
* [[1905年]] - [[エルヴィン・シャルガフ]]、[[生化学者]](+ [[2002年]])
* [[1909年]] - [[古関裕而]]、[[作曲家]](+ [[1989年]])
* [[1910年]] - [[ジョージ・ホーマンズ]]、[[社会学者]](+ [[1989年]])
* [[1913年]] - [[フランク・プゥルセル]]、[[イージーリスニング]]の[[バンドマスター]](+ [[2000年]])
* [[1919年]] - [[ジネット・ヌヴー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1949年]])
* [[1921年]] - [[アレックス・ヘイリー]]、[[小説家]](+ [[1992年]])
* 1921年 - [[フレデリック・マイヤー]]、[[教育学者]]、[[哲学者]](+ [[2006年]])
* [[1926年]] - [[アーロン・クルーグ]]、[[化学者]] + [[1998年]])
* [[1927年]] - [[安西篤子]]、小説家
* 1927年 - [[スチュアート・ローゼンバーグ]]、[[映画監督]](+ [[2007年]])
* [[1929年]] - [[近藤鉄雄]]、政治家(+ [[2010年]])
* 1929年 - [[早坂暁]]、[[脚本家]]、小説家(+2017年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASKDK00JRKDJUCLV006.html|title=作家・脚本家の早坂暁さん死去 代表作「夢千代日記」 |publisher=朝日新聞デジタル|date=2017-12-17|accessdate=2020-11-21}}</ref>)
* [[1932年]] - [[小林亜星]]、作曲家(+ [[2021年]])
* 1932年 - [[岸惠子]]、[[俳優|女優]]
* [[1933年]] - [[廣松渉]]、[[哲学者]](+ [[1994年]])
* [[1936年]] - [[古谷三敏]]、[[漫画家]](+ [[2021年]])
* [[1937年]] - [[石田美栄]]、政治家
* [[1940年]] - [[レツゴー三匹#メンバー|レツゴー正児]]、[[漫才師]](+ [[2020年]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/02/kiji/20201002s00041000201000c.html レツゴー正児さん 肺炎のため死去 80歳 「レツゴー三匹」トリオ3人が鬼籍に] - Sponichi Annex 2020年10月2日</ref>)
* [[1942年]] - [[中尾彬]]、俳優、[[タレント]]
* [[1943年]] - [[神田武幸]]、[[アニメーション]]監督(+ [[1996年]])
* 1943年 - [[パルヴェーズ・ムシャラフ]]、元[[パキスタンの大統領|パキスタン大統領]](+ 2023年)
* 1943年 - [[リンダ・ヴォーン]]、[[レースクイーン]]
* [[1944年]] - [[イアン・マクダーミド]]、[[俳優]]、[[演出家]]
* 1944年 - [[柴田猛]]、元[[プロ野球選手]]
* 1944年 - [[浅利香津代]]、女優
* [[1946年]] - [[マリリン・ボス・サバント]]、[[コラムニスト]]、[[作家]]、講師
* 1946年 - [[デイヴ・フォーミュラ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1947年]] - [[寺島実郎]]、[[経済学者]]
* 1947年 - [[渡辺卓 (実業家)|渡辺卓]]、実業家
* 1947年 - [[木村夏江]]、女優
* [[1949年]] - [[エリック・カルメン]]、ミュージシャン
* [[1950年]] - [[スティーブ・ウォズニアック]]、[[パーソナルコンピュータ]]の開拓者
* 1950年 - [[奥江英幸]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[田中和実]]、[[声優]](+ [[2007年]])
* [[1952年]] - [[小山ルミ]]、[[歌手]]
* [[1953年]] - [[ハルク・ホーガン]]、[[プロレスラー]]
* [[1954年]] - [[ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)|ジョー・ジャクソン]]、ミュージシャン
* [[1955年]] - [[中崎タツヤ]]、漫画家
* [[1956年]] - [[ピエール=ルイ・リオン]]、[[数学者]]
* 1956年 - [[江崎孝]]、政治家
* [[1957年]] - [[孫正義]]、[[実業家]]
* 1957年 - [[イネス・ド・ラ・フレサンジュ]]、[[スーパーモデル]]、[[ファッションデザイナー]]
* [[1958年]] - [[若合春侑]]、小説家
* [[1959年]] - [[村上世彰]]、[[投資家]]
* 1959年 - [[橋本康成]]、実業家、元[[アナウンサー]]、[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティー]]、[[プロデューサー]]
* [[1960年]] - [[上北ふたご]]、漫画家
* [[1961年]] - [[手塚眞]]、映像作家
* [[1962年]] - [[ジョン・クリアリー]]、ピアノ奏者
* [[1963年]] - [[吉田戦車]]、[[漫画家]]
* 1963年 - [[槙原寛己]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[井田國彦]]、[[俳優]]
* 1963年 - [[友道康夫]]、[[調教師]]
* 1963年 - [[若井基安]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[三上真司]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1965年 - [[むさしのあつし]]、漫画家
* 1965年 - [[山本昌]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[山口昌人]]、ミュージシャン
* 1965年 - [[小森谷徹]]、タレント
* 1965年 - [[ヴィオラ・デイヴィス]]、女優
* 1965年 - [[大岩オスカール]]、芸術家
* [[1966年]] - [[上岡良一]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[ナイジェル・マーティン]]、元サッカー選手
* [[1967年]] - [[松村邦洋]]、[[タレント]]
* 1967年 - [[宮村浩気]]、[[美容師]]、[[ヘアメイクアーティスト]]
* 1967年 - [[マッシミリアーノ・アッレグリ]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者
* [[1968年]] - [[黒沢健一]]、ミュージシャン(+ [[2016年]])
* 1968年 - [[浮島徹士]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[飯田覚士]]、[[プロボクサー]]
* [[1970年]] - [[アンディ・ベル]]、ミュージシャン
* 1970年 - [[正名僕蔵]]、俳優
* [[1971年]] - [[アンドレアス・スボリッチ]]、[[騎手]]
* [[1972年]] - [[喜多嶋舞]]、元女優
* 1972年 - [[廣瀬陽子]]、[[政治学者]]
* 1972年 - [[小林綾子]]、女優
* 1972年 - [[厚澤和幸]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ヴィアチェスラフ・ザゴロドニュク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1973年]] - [[荒井修光]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[山本浩司 (俳優)|山本浩司]]、[[俳優]]
* 1974年 - [[坂本竜一]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[マリー=フランス・デュブレイユ]]、フィギュアスケート選手
* [[1975年]] - [[福田充徳]]、[[お笑いタレント]]([[チュートリアル (お笑いコンビ)|チュートリアル]])
* 1975年 - [[谷山紀章]]、声優、歌手
* 1975年 - [[永井智浩]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[千葉すず]]、元[[水泳選手]]
* [[1976年]] - [[加藤竜人]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[イバン・コルドバ]]、[[サッカー選手]]
* 1976年 - [[バッバ・クロスビー]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[佐藤宏志]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[ポンサクレック・ウォンジョンカム]]、プロボクサー
* 1977年 - [[MIKIKO]]、演出家、振付師
* [[1978年]] - [[ジャーメイン・テイラー]]、プロボクサー
* 1978年 - [[皆谷尚美]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1979年]] - 西川晃啓、お笑いタレント([[レギュラー (お笑いコンビ)|レギュラー]])
* [[1980年]] - 池辺愛、お笑いタレント(元[[モエヤン]])
* 1980年 - [[JESSE]]、ミュージシャン([[RIZE]])
* [[1981年]] - [[森山周]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[葵せきな]]、作家
* [[1983年]] - [[松尾翠]]、フリーアナウンサー
* [[1984年]] - [[安藤みのり]]、タレント
* 1984年 - 川瀬名人、お笑いタレント([[ゆにばーす]])
* 1984年 - [[アダム・ブライト]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - 友保隼平、お笑いタレント([[金属バット (お笑いコンビ)|金属バット]])
* 1985年 - [[趙博 (野球)|趙博]]、元プロ野球選手
<!-- 特筆性は? * [[1985年]] - 小川祐生、お笑いタレント([[あわよくば (お笑い)|あわよくば]]) -->
* [[1986年]] - [[福原香織]]、声優
* 1986年 - [[清水邦広]]、バレーボール選手
* 1986年 - [[パブロ・サンドバル]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[コルビー・ラスムス]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[石田比奈子]]、元女優
* 1987年 - [[斎藤准一郎]]、ミュージカル俳優
* 1987年 - [[祖父江大輔]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[蒼井翔太]]、声優、[[歌手]]、[[俳優|舞台俳優]]
* [[1988年]] - [[河原亜依]]、元歌手
* 1988年 - [[アドリアン・シュルタイス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1988年 - [[森越祐人]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[寺島惇太]]、[[声優]]
* [[1989年]] - [[中島ファランパリス]]、元[[サッカー]]選手
* [[1990年]] - [[小熊凌祐]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[田野倉翔太]]、レスリング選手
* 1990年 - [[宮本武文]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[比江島慎]]、[[バスケットボール]]選手
* [[1991年]] - [[クリスティアン・テージョ]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[鈴木友菜]]、[[ファッションモデル]]
* 1992年 - [[有原航平]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[澁谷梓希]]、声優(元[[i☆Ris]])
<!-- 特筆性は? * 1993年 - [[三木優太]]、俳優、声優 -->
* 1993年 - [[松本剛 (野球)|松本剛]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[山崎晃大朗]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[喜入友浩]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー
* [[1994年]] - 山上佳之介、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]([[山上兄弟]])
* 1994年 - [[辻東倫]]、元プロ野球選手
* [[1995年]] - [[NaoTo]]、俳優
* [[1997年]] - [[木本花音]]、元アイドル(元[[SKE48]])
* 1997年 - [[西村菜那子]]、アイドル([[NGT48]])
* 1997年 - [[ツミキ]]<ref>{{Cite web|和書|title=本日、23歳化!|url=https://twitter.com/_23ki_/status/1293153307981037568?s=20|website=Twitter|date=2020-08-11|accessdate=2021-08-14|publisher=}}</ref>、[[ボカロP]]、[[シンガーソングライター]]([[NOMELON NOLEMON]])
* [[1998年]] - [[音嶋莉沙]]、アイドル([[=LOVE]])
* [[1999年]] - [[水流麻夏]]、野球選手
* [[2000年]] - 山根涼羽、アイドル([[AKB48]])
* 2000年 - 佐藤妃星、アイドル(AKB48)
* 2000年 - [[木村葉月]]、女優、モデル
* 生年不詳 - [[轟悠]]、女優([[宝塚歌劇団]])
* 生年不詳 - [[古川竜也]]、[[ゲームクリエイター]]、[[ギタリスト]]
* 生年不明 - [[尾又淑恵]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W09-1545|title=尾又 淑恵|work=日本タレント名鑑|accessdate=2021-01-09}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[門松涼]]、声優
* 生年不明 - [[奇ノ駒たんご]]、Vtuber
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2010年]] - 海浜、[[ジャイアントパンダ]]
* 2010年 - 陽浜、ジャイアントパンダ
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 =
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| caption1 = [[スパルタ]]王[[レオニダス1世]]没(BC540年代頃-BC480)
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| caption2 = [[モンゴル帝国]]第4代皇帝、[[モンケ]](1208-1259)没
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| caption3 = ハンガリーの英雄、[[フニャディ・ヤーノシュ]](1409-1456)
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| image1 = Simone_Martini_047.jpg
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| caption1 = キリスト教の聖人、[[アッシジのキアラ]](1194-1253)没
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| caption2 = 哲学者[[ニコラウス・クザーヌス]](1401-1464)
}} <!-- [[Image:Das_J%C3%BCngste_Gericht_%28Memling%29.jpg|thumb|300px|画家[[ハンス・メムリンク]](1430頃-1494)没。画像は『最後の審判』]] -->
[[Image:Memling_Vanity_and_Salvation.jpg|thumb|300px|画家[[ハンス・メムリンク]](1430頃-1494)没。画像は『地上の虚栄と神の救済のトリプティク』(1485頃)]]
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| image1 = Pedro_Nunes_ritratto.jpg
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| caption1 = 数学者[[ペドロ・ヌネシュ]](1502-1578)没。[[等角航法]]など、航海術に貢献
| image2 =
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| caption2 = 化学者[[カール・ツィーグラー]](1898-1973)
}} {{multiple image
| footer = 画家[[ラヴィニア・フォンターナ]](1552-1614)没。左画像は自画像、右は『服を着るミネルヴァ』(1613)
| image1 =Self-portrait_at_the_Clavichord_with_a_Servant_by_Lavinia_Fontana.jpg
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| alt1 = 自画像
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| alt2 = 『服を着るミネルヴァ』
}}
{{multiple image
| footer = 実業家、「鋼鉄王」[[アンドリュー・カーネギー]](1835-1919)没
| image1 = Andrew_Carnegie%2C_three-quarter_length_portrait%2C_seated%2C_facing_slightly_left%2C_1913-crop.jpg
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}}
* [[紀元前480年]] - [[レオニダス1世|レオニダス]]、[[スパルタ|スパルタ王]]
* [[723年]]([[養老]]7年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[太安万侶]]、[[貴族]]
* [[1212年]] - [[ベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェン]]、[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝オットー4世]]の皇后(* [[1198年]])
* [[1253年]] - [[アッシジのキアラ]]、[[キリスト教]]の[[聖人]](* [[1194年]])
* [[1259年]](蒙哥9年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[モンケ]]、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の[[ハーン]](* [[1209年]])
* [[1456年]] - [[フニャディ・ヤーノシュ]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の[[摂政]](* [[1387年]]?)
* [[1464年]] - [[ニコラウス・クザーヌス]]、[[哲学|哲学者]]、[[数学者]](* [[1401年]])
* [[1494年]] - [[ハンス・メムリンク]]、[[画家]](* [[1430年]]頃)
* [[1563年]] - [[バルトロメー・デ・エスコベド]]、[[作曲家]](* [[1500年]]頃)
* [[1564年]]([[永禄]]7年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[長尾政景]]、[[武将|戦国武将]](* [[1526年]]?)
* [[1578年]] - [[ペドロ・ヌネシュ]]、数学者(* [[1502年]])
* [[1614年]] - [[ラヴィニア・フォンターナ]]、[[画家]](* [[1525年]])
* [[1643年]]([[寛永]]20年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[東郷重位]]、[[薩摩藩|薩摩藩士]]、[[示現流]][[剣術]]流祖(* [[1561年]])
* [[1705年]]([[宝永]]2年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[桂昌院]]、[[江戸幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の[[側室]](* [[1627年]])
* [[1772年]]([[安永]]元年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[酒井忠恭]]、江戸幕府[[老中]]、[[姫路藩|姫路藩主]](* [[1710年]])
* [[1798年]] - [[ジョシュア・クレイトン]]、[[医師]]・政治家(* [[1744年]])
* [[1833年]]([[天保]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[池田斉政]]、第6代[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1773年]])
* [[1846年]]([[弘化]]3年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]) - [[欣子内親王]]、[[光格天皇]][[中宮]](* [[1779年]])
* [[1854年]] - [[マセドニオ・メローニ]]、[[物理学者]](* [[1798年]])
* [[1900年]] - 初代[[三遊亭圓朝]]、[[落語家]](* [[1839年]])
* [[1919年]] - [[アンドリュー・カーネギー]]、実業家(* [[1835年]])
* [[1927年]] - [[左右田喜一郎]]、[[経済学者]](* [[1881年]])
* [[1939年]] - [[アルフォンス・オスベール]]、[[画家]](* [[1857年]])
* [[1945年]] - [[松平頼孝]]、[[鳥類学|鳥類学者]](* [[1876年]])
* 1945年 - [[佐藤井岐雄]]、[[生物学|生物学者]](* [[1902年]])
* [[1947年]] - [[ハリー・デービス (1873年生の内野手)|ハリー・デービス]]、[[プロ野球選手]](* [[1873年]])
* [[1953年]] - [[タツィオ・ヌヴォラーリ]]、レーサー(* [[1892年]])
* [[1955年]] - [[ロバート・ウィリアム・ウッド]]、物理学者(* [[1868年]])
* [[1956年]] - [[ジャクソン・ポロック]]、画家(* [[1912年]])
* [[1959年]] - [[デイヴィッド・ピンスキ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1872年]])
* [[1961年]] - [[ヨハンナ・ゼンフター]]、作曲家(* [[1879年]])
* [[1963年]] - [[武藤嘉門]]、[[岐阜県知事一覧|岐阜県知事]](* [[1870年]])
* [[1965年]] - [[エセル・トムソン・ラーコム]]、[[テニス]]選手(* [[1879年]])
* [[1966年]] - [[大下宇陀児]]、[[推理作家]](* [[1896年]])
* [[1971年]] - [[ロイヤル・レイモンド・ライフ]]、[[光学顕微鏡]]「ユニバーサルマイクロスコープ」の開発を主張した人物(* [[1888年]])
* 1971年 - [[笠置山勝一]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1911年]])
* [[1972年]] - [[ウィリアム・ウェブ]]、[[極東国際軍事裁判]]裁判長(* [[1887年]])
* 1972年 - [[マックス・タイラー]]、[[ウイルス学|ウイルス学者]](* [[1899年]])
* [[1973年]] - [[カール・ツィーグラー]]、[[化学者]](* [[1898年]])
* [[1974年]] - [[成久王妃房子内親王|北白川房子]]、[[明治天皇]]第7皇女(* [[1890年]])
* 1974年 - [[ヤン・チヒョルト]]、[[タイポグラファー]](* [[1902年]])
* [[1975年]] - [[アンソニー・マコーリフ]]、[[アメリカ陸軍]]の[[准将]](* [[1898年]])
* [[1980年]] - [[片岡松之亟 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1910年]])
* [[1983年]] - [[山本薩夫]]、[[映画監督]](* [[1910年]])
* [[1984年]] - [[パーシー・メイフィールド]]、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]シンガー(* [[1920年]])
* [[1985年]] - [[荒川豊蔵]]、[[陶芸|陶芸家]](* [[1894年]])
* [[1988年]] - [[アン・ラムジー]]、[[俳優|女優]](* [[1929年]])
* [[1990年]] - [[チャールズ・マーキス・ウォーレン]]、映画監督、脚本家、小説家、映画プロデューサー(* [[1912年]])
* [[1991年]] - [[ヘルムート・ヴァルヒャ]]、[[オルガン]]奏者(* [[1907年]])
* 1991年 - [[河野基比古]]、[[映画評論家]](* [[1932年]])
* 1991年 - [[アルフレート・ドンペルト]]、[[陸上競技]]選手(* [[1914年]])
* [[1994年]] - [[柴田武雄]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大佐]](* [[1904年]])
* 1994年 - [[ピーター・カッシング]]、俳優(* [[1913年]])
* [[1995年]] - [[アロンゾ・チャーチ]]、[[数学者]]、[[論理学|論理学者]](* [[1903年]])
* 1995年 - [[城戸禮]]、[[小説家]](* [[1909年]])
* [[1996年]] - [[ラファエル・クーベリック]]、[[指揮者]]、作曲家(* [[1914年]])
* [[1998年]] - [[中村健也]]、[[自動車]]技術者(* [[1913年]])
* [[1999年]] - [[トミー・リッジリー]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](* [[1925年]])
* [[2002年]] - [[鈴木共子]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1920年]])
* [[2003年]] - [[アルマン・ボレル]]、数学者(* [[1923年]])
* [[2005年]] - [[山本政弘]]、[[政治家]](* [[1918年]])
* [[2008年]] - [[フレート・ジノヴァツ]]、[[連邦首相 (オーストリア)|オーストリア首相]](* [[1929年]])
* 2008年 - [[荒勢永英]]、大相撲力士、[[タレント]](* [[1949年]])
* [[2011年]] - [[ホセ=ルイス・ガルシア]]、ヴァイオリニスト(* [[1944年]])
* [[2012年]] - [[稲葉光雄]]、プロ野球選手(* [[1948年]])
* [[2013年]] - [[高松秀恒]]、プロ野球選手(* [[1948年]])
* [[2014年]] - [[ロビン・ウィリアムズ]]、俳優(* [[1951年]])
* [[2017年]] - [[イスラエル・クリスタル]]、世界男性最高齢者(* [[1903年]])
* [[2018年]] - [[岡田英津也]]、元[[社会人野球]]選手、監督、コーチ(* [[1930年]])
* [[2020年]] - [[山本泰]]<ref>{{Cite news2|url=https://www.sanspo.com/article/20200812-ALA3MBSKD5LDDM3VCEZIT24H2I/|title=「逆転のPL」で初V導いた名将・鶴岡泰さんが急死 夏のセンバツ開幕翌日に…|newspaper=サンケイスポーツ|agency=産経デジタル|date=2020-08-12|language=日本語|accessdate=2020-11-11}}</ref>、[[アマチュア野球]]選手、学生野球指導者、[[プロ野球]]スカウト(* [[1945年]])
* 2020年 - [[宅八郎]]<ref>{{Cite news2|url=https://www.chunichi.co.jp/article/164999|title=評論家の宅八郎氏死去 57歳、「イカす!おたく天国」|newspaper=中日新聞|agency=中日新聞社|date=2020-12-04|accessdate=2020-12-04}}</ref>、評論家(* [[1962年]])
* [[2022年]] - [[森英恵]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1926年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1970年]] - [[タロとジロ|タロ]]、[[樺太犬]](* [[1955年]])
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = [[チャド]]の独立記念日(1960年独立)
| direction = vertical <!-- 余裕があるのでタテ -->
| image1 = LocationChad.png
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| caption1 = チャドの位置
| image2 = Chari_River.jpg
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| image3 = Mao_Women.jpg
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| caption3 = [[マオ (チャド)|マオ]]の女性たち
}}
<!-- [[Image:Hideko_Maehata.jpg|thumb|100px|[[ベルリンオリンピック]]の女子200m平泳ぎで[[前畑秀子]]が優勝(1936)]] -->
* [[山の日]]({{JPN}})
*:[[2016]]年以降の[[祝日]]、ただし[[2020年]]・[[2021年]]を除く。
*: 2014年5月23日に[[国民の祝日|改正祝日法]]が可決され、2016年より制定された祝日。趣旨は、山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。日本で8月の祝日制定はこれが初めてとなる<ref>[https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000027456.html 8月11日は「山の日」 再来年から年間祝日数16日に] テレ朝 NEWS 2014年5月23日</ref>。
* 独立記念日({{TCD}})
*: [[1960年]]のこの日、チャドが[[フランス]]からの独立を宣言。
* ガンバレの日({{JPN}})
*: [[1936年]]8月11日に、[[ベルリンオリンピック]]の女子200m平泳ぎ決勝で、ラジオの実況をしていた[[日本放送協会]]の[[河西三省]]アナウンサーが[[前畑秀子]]選手に「前畑ガンバレ」と20回以上連呼し、日本中をわかせたことに由来。前畑は優勝し、日本人女性として初めての金メダルを獲得した。
* [[三国花火大会]]({{JPN}} [[福井県]][[坂井市]]三国町)
*: 毎年8月11日に行われている北陸最大級の花火大会。
[[File:Mikuni fireworks 2013.JPG|thumb|三国花火大会2013]]
* LIGHT UP NIPPON({{JPN}} [[岩手県]]・[[宮城県]]・[[福島県]])
*: 毎年8月11日に行われている[[東日本大震災]]復興祈願イベントを兼ねた花火大会。
<!-- 例えば一番歴史のあるものの1つ、[[隅田川花火大会]]は7月最終土曜日で日付不定。こういうのは日付記事形式の限界かな…… -->
* きのこの山の日
*: [[明治 (企業)|株式会社明治]]が上述の「山の日」にあやかり、自社で販売している菓子・[[きのこの山]]の記念日として[[記念日#一般社団法人日本記念日協会|日本記念日協会]]に申請して正式に受理されたもの。本家・山の日と同じく2016年から施行される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meiji.co.jp/corporate/pressrelease/2016/detail/20160727_01.html|title=今年が初めてとなる国民の祝日「山の日」に便乗!『きのこの山の日』を山の日と同じ日の8月11日に制定!都会の真ん中で山びこ体験ができる!?「きのこの山びこ」イベント開催!!|work=株式会社 明治 プレスリリース 企業情報|date=2016-07-27|accessdate=2016-07-27}}</ref>。
* ヒップホップ記念日(''National Hip Hop Celebration Day''、{{USA}})
*: [[アメリカ合衆国上院]]にて[[2021年]]に可決し決定。[[1973年]]8月11日に[[クール・ハーク]]が[[ニューヨーク]]・[[ブロンクス区|ブロンクス]]でパーティーを開いた事が[[ヒップホップ]]の音楽と文化の誕生と言われている<ref>{{Cite news|url=https://www.udiscovermusic.jp/news/hip-hop-federal-holiday/amp|title=米国上院にて8月11日を「ヒップホップ記念日」にすることが制定|newspaper=udiscovermusic.jp|publisher=|date=2021|accessdate=2021-08-12}}</ref>。
{{Clear}}
== フィクションのできごと ==
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]26年 - シウス・ウォーレン、ゲーム『[[スターオーシャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=36|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* [[1993年]] - 相沢菜野花、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://wakeupgirls.jp/character13.html |title=相沢 菜野花 |access-date=2023-01-21 |publisher=Green Leaves/Wake Up,Girls!製作委員会 |work=『Wake Up,Girls!』}}</ref>
* 生年不明 - [[クラウド・ストライフ]]、『[[ファイナルファンタジーVII]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jp.square-enix.com/ffvii_remake/character/index.html|title=CHARACTER Cloud Strife クラウド・ストライフ|work=SQUARE ENIX|accessdate=2020-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://wikiwiki.jp/ffdic/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC/%E3%80%90%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%80%91/FF7|title=キャラクター/【クラウド・ストライフ】/FF7|work=ファイナルファンタジー用語辞典 Wiki|accessdate=2020-05-11}}</ref>
* 生年不明 - Mt.レディ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-01/ |title=Mt.レディ |access-date=2023-01-21 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 安孫子時生、漫画・アニメ『[[ジモトがジャパン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shopro.co.jp/tv/jimoto-anime/special.html |title=「ジモトがジャパン」プリントスイーツが 『プリロール』にて発売中! |access-date=2023-01-21 |publisher=[[林聖二]]/[[集英社]]・都道府拳部 |work=『ジモトがジャパン』 |date=2019-07-13}}</ref>
* 生年不明 - 飛鳥空、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桃園マキナ、漫画・アニメ『[[電波教師]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 地囚星ウプイリのレイボールド、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1557570074394894337}}</ref>
* 生年不明 - 花房ミノル、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#23 |title=花房 ミノル |work=アニメ『ナナマル サンバツ』 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2023-01-21}}</ref>
* 生年不明 - 青羽ここな、漫画・アニメ『[[ヤマノススメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamanosusume|1425274560904011781}}</ref>
* 生年不明 - 沢宮 エリナ、漫画・アニメ『[[BAMBOO BLADE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 赤刃アイガ、漫画・アニメ『[[ベイブレードバースト]]』に登場するキャラクター<ref>『ベイブレードバースト 11』小学館〈コロコロコミックス〉、2018年12月3日、188-189頁。</ref>
* 生年不明 - ポンポンっち、アニメ『[[たまごっち!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - はな、アニメ『[[アイラちゃん|コチンPa!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aira.moe/character/ |title=キャラクター紹介 はな |work=15秒TVアニメ 「コチンPa!」 |accessdate=2023-01-21 |publisher=PACHINKO&SLOT ISLAND}}</ref>
* 生年不明 - 仁科くるみ、ゲーム『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.big.or.jp/~seraph/ragna/ragna.cgi?mode=character&id=38 |title=仁科 くるみ |work=RANGA ARCHIVES NET WORK 2 |accessdate=2020-05-11}}</ref>
* 生年不明 - 加納涼子、ゲーム『[[下級生 (ゲーム)|下級生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.uzuki.ac/character/ryoko.html |title=加納凉子 |work=卯月学園 |accessdate=2020-05-11}}</ref>
* 生年不明 - 催馬楽笙子、ゲーム『[[北へ。|北へ。Diamond Dust]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[フィオナ・メイフィールド]]、ゲーム『[[アルカナハート]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.examu.co.jp/arcanaheart2/chara_11.html |title=フィオナ・メイフィールド |access-date=2023-01-22 |publisher=エクサム |work=『アルカナハート2 : ARCANA HEART 2』}}</ref>
* 生年不明 - アンジェリカ・アシュワン、ゲーム『[[Lucian Bee's RESURRECTION SUPERNOVA]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジーナ・ディキンソン、ゲーム・アニメ『[[GOD EATER]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 荒灘はづき、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 音琴嵐、ゲーム『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boykiraofficial|1028083577366298624}}</ref>
* 生年不明 - 緑風ふわり、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1557502051055128576}}</ref>
* 生年不明 - 吉川英治、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1557381315132985344}}</ref>
* 生年不明 - 桂小五郎、ゲーム・アニメ『[[恋愛幕末カレシ〜時の彼方で花咲く恋〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/BAKUMATSU/character/chara02.html |title=桂小五郎 |access-date=2023-02-05 |publisher=[[フリュー|FURYU]]/BAKUMATSU製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] |work=TVアニメ『BAKUMATSUクライシス』}}</ref>
* 生年不明 - 桂小五郎、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1425290884438974467}}</ref>
* 生年不明 - トモ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1557547373869805569}}</ref>
* 生年不明 - 星乃一歌、ゲーム・アニメ『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_sekai|1424611651093995522}}</ref>
* 生年不明 - 陽日直獅、メディアミックス『[[Starry☆Sky]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starrysky_hb|895969256885506048}}</ref>
* 生年不明 - 山根勝司、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://posweb.jp/pos/character/sub/07.html |title=サブキャラクター|山根勝司 |access-date=2023-02-05 |publisher=FiFS [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |work=『プリンス・オブ・ストライド』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|August 11|11 August}}
{{新暦365日|8|10|8|12|[[7月11日]]|[[9月11日]]|[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]|0811|8|11}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-28T09:07:01Z | 2023-12-31T19:30:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8811%E6%97%A5 |
5,427 | 圧力モーター | 圧力モーター(あつりょくモーター、英語: hydraulic motor)は、流体の圧力を機械運動に変換する流体機械のうち、回転運動に変換する原動機やアクチュエータを指す。圧力モータとも。
流体の圧力を直線運動に変換するものは圧力シリンダーという。
圧力はポンプから作動流体を通して送られる。作動流体によって次のように呼びわけられる。
ポンプは、回転エネルギーを圧力エネルギーへ変換する。圧力モーターは、圧力エネルギーを回転エネルギーへ変換を行うため、基本構造はポンプと同様である。電動機と異なり高温な環境でも安定して運転することが可能。また、動力源が停止した場合でもアキュムレータなどに圧力保存していることで運転することができるため、防火戸、防水戸といった非常時に操作を必要とした機器に利用されている。
図は#ピストンモーターである。5つあるシリンダーに順番に作動流体を送り込むことにより、一様の回転を得ることができる。
油圧モーターは戻り油をポンプへ戻すための配管が必要だが、空気圧モーターは空気を大気中へ放出すればいいので戻りの配管は必要ない。
機構により次のような種類に分けられる。それぞれ可変容量式と固定容量式がある。
円筒状の回転子に半径方向へ突出するベーンと呼ばれる板がついている。回転子とカムリングの間のベーンにて区切られた空間に作動流体が入り回転運動を行う。
駆動ねじを主ねじとしそれとともに回転する従ねじにより構成。 | [
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] | 圧力モーターは、流体の圧力を機械運動に変換する流体機械のうち、回転運動に変換する原動機やアクチュエータを指す。圧力モータとも。 流体の圧力を直線運動に変換するものは圧力シリンダーという。 圧力はポンプから作動流体を通して送られる。作動流体によって次のように呼びわけられる。 油圧 - 油圧モーター
水圧 - 水圧モーター:発電用水車など
空気圧 - 空気圧モーター(空圧モーターとも):エアツールなど | {{出典の明記|date=2023年1月3日 (火) 05:16 (UTC)}}
[[Image:Hydraulikmotor.jpg|250px|right|thumb|代表的な圧力モーターである[[油圧モーター]]]]
'''圧力モーター'''(あつりょくモーター、{{lang-en|hydraulic motor}})は、[[流体]]の[[圧力]]を機械運動に変換する[[流体機械]]のうち、[[回転]]運動に変換する[[原動機]]や[[アクチュエータ]]を指す。'''圧力モータ'''とも。
流体の圧力を[[直線運動]]に変換するものは[[圧力シリンダー]]という。
圧力は[[ポンプ]]から作動流体を通して送られる。作動流体によって次のように呼びわけられる。
*[[油圧]] - [[油圧モーター]]
*[[水圧]] - [[水圧モーター]]:[[発電用水車]]など
*[[空圧|空気圧]] - [[空気圧モーター]](空圧モーターとも):エアツールなど
==基本原理==
[[Image:Radial engine.gif|thumb|[[ラジアル]]ピストンモーター]]
[[ポンプ]]は、回転[[エネルギー]]を圧力エネルギーへ変換する。圧力モーターは、圧力エネルギーを回転エネルギーへ変換を行うため、基本構造はポンプと同様である。[[電動機]]と異なり高温な環境でも安定して運転することが可能。また、動力源が停止した場合でも[[アキュムレータ (機械)|アキュムレータ]]などに圧力保存していることで運転することができるため、[[防火戸]]、[[防水戸]]といった非常時に操作を必要とした機器に利用されている。
図は[[#ピストンモーター]]である。5つあるシリンダーに順番に作動流体を送り込むことにより、一様の回転を得ることができる。
油圧モーターは戻り油をポンプへ戻すための[[配管]]が必要だが、空気圧モーターは空気を大気中へ放出すればいいので戻りの配管は必要ない。
==機構の種類==
機構により次のような種類に分けられる。それぞれ可変容量式と固定容量式がある。
===容積式===
====歯車モーター====
[[画像:GearPump.gif|250px|right|thumb|ギアモーター]]
*外接式
*内接式
{{clear}}
====ベーンモーター====
[[Image:Pompe palettes.jpg|250px|right|thumb|ベーンモーター]]
円筒状の[[回転子]]に半径方向へ突出するベーンと呼ばれる板がついている。回転子と[[カム (機械要素)|カム]]リングの間のベーンにて区切られた空間に作動流体が入り回転運動を行う。
{{clear}}
====ねじモーター====
駆動[[ねじ]]を主ねじとしそれとともに回転する従ねじにより構成。
====ピストンモーター====
*[[アキシャル]]式 - 固定されたシリンダー内部に順番に作動流体を流し込み回転させる。
**斜軸式
**斜板式
*[[ラジアル]]式 - [[回転子]]の円筒部へ円周方向へシリンダーを取り付け順番に作動流体を流し込み回転させる。
===タービンモーター===
== 関連項目 ==
*[[空気エンジン]]
{{DEFAULTSORT:あつりよくもおたあ}}
[[Category:動力]]
[[Category:流体機械]]
[[ru:Гидромотор]] | null | 2023-01-03T05:16:25Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en",
"Template:Clear"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A7%E5%8A%9B%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC |
5,428 | 8月10日 |
8月10日(はちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から222日目(閏年では223日目)にあたり、年末まであと143日ある。 | [
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] | 8月10日(はちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から222日目(閏年では223日目)にあたり、年末まであと143日ある。 | {{半保護}}
{{カレンダー 8月}}
'''8月10日'''(はちがつとおか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から222日目([[閏年]]では223日目)にあたり、年末まであと143日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Lechfeld1457.jpg|thumb|270x270px|[[レヒフェルトの戦い]](955年)<br />ハンガリーによる西方侵略の終結。]]
{{multiple image
| footer = 処女航海の日に沈没した戦列艦「[[ヴァーサ (戦列艦)|ヴァーサ]]」(1628年)。保存状態が良く、当時を知る貴重な資料となっている。
| image1 = Vasa_from_port1.jpg
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| alt1 = 引き揚げられたヴァーサ
| image2 = Voyage_of_the_Vasa_2.svg
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| alt2 = バルト海での初航海
}}
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| footer = [[グリニッジ天文台]]、着工(1675年)<br />左画像が当時からある旧本館で、[[グリニッジ子午線]]([[グリニッジ標準時]])の基準となっている。
| image1 = Prime-meridian.jpg
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| alt1 = 旧本館
| image2 = Royal_observatory_greenwich.jpg
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| alt2 = 現在のグリニッジ天文台
}}
[[ファイル:Tsesarevich1904Qingdao1.jpg|thumb|180x180px|[[黄海海戦 (日露戦争)]](1904年)<br />画像は青島に逃れた太平洋艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」]]
* [[610年]] - [[ムハンマド]]の前に大天使[[ガブリエル|ジブリール]]が現れ、最初の[[クルアーン|神からの啓示]]を与える(伝承による日付)。
* [[843年]] - [[ヴェルダン条約]]の締結 :[[フランク王国]]が[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ敬虔帝]]の3人の子に分割され、[[東フランク王国]]・[[西フランク王国]]・[[中部フランク王国]]が成立。
* [[955年]] - [[レヒフェルトの戦い]] :神聖ローマ皇帝[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]率いるドイツ軍がハンガリー軍を撃退し、50年に及ぶハンガリーの西方侵略が終結する。
* [[991年]] - [[モルドンの戦い]] :[[イングランド]]は{{仮リンク|モルドン (エセックス)|label=モルドン|en|Maldon, Essex}}の太守{{仮リンク|ビュルフトヌス|en|Byrhtnoth}}、侵入してきた[[ヴァイキング]]を迎え撃つも敗北。
* [[1270年]] - [[ザグウェ朝]]を滅ぼした[[イクノ・アムラク]]が、[[1975年]]まで続く[[エチオピア帝国]]の初代皇帝に即位。
* [[1584年]]([[天正]]12年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[天正遣欧少年使節]]が[[リスボン]]に到着。
* [[1628年]] - [[スウェーデン海軍]]の戦列艦「[[ヴァーサ (戦列艦)|ヴァーサ]]」が処女航海の出航直後に突然沈没する。
* [[1675年]] - [[イギリス]]、[[ロンドン]]で[[グリニッジ天文台]]が着工される。
* [[1680年]] - [[プエブロの反乱]]が始まる。
* [[1776年]] - [[アメリカ独立宣言]]書が[[イギリス]]のロンドンに届く :[[アメリカ独立戦争]]の一局面。
* [[1788年]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]が、自身最後の交響曲となる[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番]]を完成させる<ref>{{Twitter status|Baerenreiter|1557261630177792001}}</ref>。
* [[1792年]] - [[8月10日事件]] :[[フランス革命]]の一局面。市民と義勇軍が[[テュイルリー宮殿]]を襲撃して国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]を逮捕。王権を停止する。
* [[1793年]] - [[フランス]]、[[パリ]]で[[ルーヴル美術館]]が開館<ref>{{Cite web |url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/1807-8-966 |title=8月10日はルーヴル美術館が開館した日 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=10 Aug 2023}}</ref>。
* [[1809年]] - [[キト]](現在の[[エクアドル]]の首都)が[[スペイン]]からの独立を宣言。
* [[1821年]] - [[アメリカ合衆国]]の[[ミズーリ準州]]が州に昇格し、同国で24番目の州・[[ミズーリ州]]となる。
* [[1829年]] - [[ベルナーオーバーラント]]の最高峰{{仮リンク|フィンスターアールホルン|en|Finsteraarhorn}}に初登頂。
* [[1846年]] - [[アメリカ合衆国大統領]][[ジェームズ・ポーク]]が[[スミソニアン研究所]]を設立する法案に署名する。
* [[1861年]] - [[ウィルソンズ・クリークの戦い]] :[[南北戦争]]の一局面。
* [[1868年]](明治元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - 明治政府が[[堺県]]を設置。
* [[1898年]] - [[第6回衆議院議員総選挙]]。
* [[1901年]] - [[青森県]]東方沖を震源とする[[マグニチュード|M]] 7.4の地震で18人が死亡した。[[8月9日|前日]]にもM 7.2の地震があった。
* [[1902年]] - [[第7回衆議院議員総選挙]]。
* 1902年 - [[伊豆諸島]]の[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]近海を航行中の船舶より、島から噴煙が上がり、集落が噴出物で覆われているのが確認される。噴火は8月7日から9日にかけて発生したとみられ、アホウドリの羽毛採集に従事していた全島民125人が死亡した<ref>{{Cite web |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/84/ |title=伊豆鳥島大噴火(1902年) |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] 天気・災害}}</ref>。
* [[1903年]] - [[パリメトロ火災]]発生、84名が犠牲となる。
* [[1904年]] - [[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]: 旅順の西南[[黄海]]海域で、[[大日本帝国海軍]][[連合艦隊]]と[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]第一[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]が交戦し、大日本帝国海軍が勝利する。
* [[1905年]] - [[アメリカ合衆国]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]で[[日露戦争]]の講和会議が始まる。
* [[1913年]] - [[ブカレスト条約 (1913年)|ブカレスト条約]]が締結され、[[第二次バルカン戦争]]が終結。
* [[1915年]] - 日本にて、田熊常吉が日本初の国産[[ボイラー]]「タクマ式ボイラ」の[[特許]]を出願。
* [[1919年]] - 伯備北線の、[[伯耆大山駅]] - [[伯耆溝口駅]]間が開業。現在の[[伯備線]]において最も早く開業した区間。
* [[1920年]] - [[第一次世界大戦]]において、[[オスマン帝国]]の[[スルタン]][[メフメト6世]]が[[セーヴル条約]]に調印し、結果、オスマン帝国は広大な領土を失う。
* [[1921年]] - [[フランクリン・ルーズベルト]]が[[カナダ]]・[[カンポベロ島]]の別荘で[[ポリオ]]を発症し、のちの生涯で下半身を不自由にする。
* [[1942年]] - 戦時新聞統合により[[福岡日日新聞]]と[[九州日報]]が合併し「[[西日本新聞]]」創刊。
* [[1944年]] - [[マリアナ・パラオ諸島の戦い]] :[[第二次世界大戦]]の一局面。[[日本軍]]守備隊が[[玉砕]]し、[[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]が終結。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]最末期の、未明、前日から行われていた[[御前会議]]で、[[国体]]護持を条件として[[ポツダム宣言]]の受諾を決定する<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/123208 |title=1945年8月10日 多摩送信所から終戦の第一歩 ポツダム宣言受諾、世界へ届けた |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=10 Aug 2021}}</ref>。
* 1945年 - [[花巻空襲]]:アメリカ海軍空母[[ハンコック (空母)|ハンコック]]の艦載機15機が[[花巻駅]]、花巻小学校周辺を空襲。673戸が焼失し、42名が亡くなった<ref>{{Cite web |url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/iwate_hanamaki_city002/index.html |title=一般戦災死没者の追悼|やすらぎの像 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[総務省]]}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASN767789N72ULUC01L.html |title=岩手)「悲惨な記憶後世に」 花巻の戦争遺構をデータ化 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=7 Jul 2020}}</ref>。
* 1945年 - [[東安駅爆破事件]] :[[第二次世界大戦]]最末期における[[ソ連対日参戦]]の局面。[[満洲国]]の東安駅(現 [[中華人民共和国]][[黒竜江省]][[密山市]])で撤退する日本軍が駅施設を爆破するが、まだ発車していなかった避難列車があり、開拓民数百人が死傷。
* [[1949年]] - [[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]が[[国家安全保障法]]の修正案に署名。陸軍省が[[アメリカ国防総省|国防総省]]に改組される。
* [[1950年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からの書簡に基づき、日本政府が[[ポツダム政令]][[警察予備隊|警察予備隊令]]を公布。
* [[1954年]] - [[黄変米事件]] :参議院厚生委員会で[[黄変米]]の配給中止を可決<ref>{{Cite book|和書 |title=食の366日話題事典 |date=Dec 2001 |publisher=[[東京堂出版]] |editor=西東 秋男 |isbn=978-4-4901-0595-7}}</ref>。
* [[1956年]] - [[東海村]]で[[日本原子力研究所]]東海研究所が起工。
* 1956年 - [[日本原水爆被害者団体協議会]](被団協)結成。
* [[1959年]] - [[松川事件]]で[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が原判決(有罪)を破棄差し戻し。
* [[1960年]] - [[森永製菓]]が日本初の国産[[インスタントコーヒー]]を発売。一般大衆に[[コーヒー]]が普及する契機となる。
* [[1968年]] - 日本初の長距離カーフェリー「[[阪九フェリー]]」(神戸 - 小倉)が運航開始。
* [[1969年]] - [[ロサンゼルス]]にて、前日の[[シャロン・テート]]ら5人の殺害に続き、[[チャールズ・マンソン]]の[[カルト]]信者達が{{仮リンク|ラビアンカ夫妻|en|Leno and Rosemary LaBianca}}を殺害する。
* [[1971年]] - [[アメリカ野球学会]]が発足。
* [[1977年]] - [[アメリカ合衆国]]の[[連続殺人犯]][[デビッド・バーコウィッツ]]が[[ニューヨーク州]][[ヨンカーズ]]にて逮捕される。
* [[1988年]] - [[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]が{{仮リンク|市民の自由法|en|Civil Liberties Act of 1988}}に署名し、発効。第二次世界大戦中にアメリカによって行なわれた[[日系人の強制収容]]を謝罪し、一人当たり20000ドルの補償を行う。
* [[1989年]] - [[海部俊樹]]が第76代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次海部内閣]]が発足。初の[[昭和]]生まれの首相。
* [[1990年]] - アメリカ合衆国の[[惑星探査機]]「[[マゼラン (探査機)|マゼラン]]」が[[金星]]軌道上に到達。
* 1990年 - [[東京ドーム]]で行う予定であった[[読売ジャイアンツ|巨人]] - [[中日ドラゴンズ|中日]]戦が、台風の影響で[[東海道新幹線]]がストップし中日の選手が移動できなくなったため中止。日本の[[ドーム球場]]での初の試合中止。
* [[1992年]] - [[大韓民国|韓国]]初の[[人工衛星]]「[[KITSAT-A]]」打上げ。
* [[1993年]] - [[甲府信金OL誘拐殺人事件]]が発生。
* 1993年 - [[ノルウェー]]・[[オスロ]]で[[ユーロニモス]]が[[ヴァルグ・ヴィーケネス]]によって刺殺される。
* [[1998年]] - [[新潟市]]の会社でお茶のポットに[[アジ化ナトリウム]]が混入される事件が発生し、10人が入院。その後も各地でアジ化ナトリウム混入事件が相次ぎ、翌年、[[毒物及び劇物取締法]]で[[毒物]]に指定される。
* [[2003年]] - [[沖縄都市モノレール線]](ゆいレール)[[那覇空港駅]] - [[首里駅]]間が開業。[[沖縄県]]で第二次大戦後初の鉄道。
* 2003年 - [[ケント (イングランド)|ケント]]で[[イギリス]]における最高気温38.5[[セルシウス度|℃]](101.3[[華氏|{{°F}}]])を記録。イギリスの観測史上初めてファーレンハイト度で100度を超える。
* 2003年 - 人類史上初の宇宙での[[結婚式]] :[[国際宇宙ステーション]]に滞在中の[[ロシア]]の宇宙飛行士[[ユーリ・マレンチェンコ]]が、地上にいる婚約者と衛星通信を通じて行う。
* [[2006年]] - [[ロンドン旅客機爆破テロ未遂事件]]が発生 :[[イギリス]]は[[ロンドン]]にある[[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー国際空港]]で起こった同時航空テロ未遂事件。
* [[2010年]] - [[浜田幸一]](元・[[自由民主党 (日本)|自民党]]所属、[[国会議員|衆議院議員]])が[[背任罪|背任容疑]]で[[千葉県警察|千葉県警]]に[[逮捕]]される。
* [[2012年]] - [[マリカナ鉱山における労使対立]]で大規模なストライキが起きる。
* [[2017年]] - [[日本国]]で、[[国際連合]]の[[国際組織犯罪防止条約]]及び[[腐敗の防止に関する国際連合条約]]が[[施行]]される。
* [[2018年]] - [[群馬県]]の防災ヘリ「はるな」が[[中之条町]]の山林に墜落し、搭乗していた消防職員7人と[[東邦航空]]の2人の合計9人が亡くなった<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ8B6T49Q8BUHNB003.html |title=防災ヘリ墜落事故から4年 2会場で追悼式 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=11 Aug 2022}}</ref>。
* [[2020年]] - [[香港]]の警察当局が、中国政府に批判的な民主活動家で、香港紙「[[蘋果日報 (香港)|蘋果日報]]」創業者[[黎智英]]とその息子らを、国家安全維持法違反の容疑で逮捕した<ref>{{Cite web |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-08-10/QETMZIDWRGG501 |title=香港警察、国安法違反の疑いでメディア界大物の黎智英氏逮捕 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |date=11 Aug 2020}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{multiple image
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| width1 = 90
| caption1 = [[イタリア王国]]初代首相[[カミッロ・カヴール]](1810-1861年)
| alt1 = カミッロ・カヴール
| caption2 = 作曲家[[アレクサンドル・グラズノフ]](1865-1936年)
| image2 = AlexanderGlazounov.jpg
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| alt2 = アレクサンドル・グラズノフ
}}
{{multiple image
| image1 = Antanas_Smetona_2.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[リトアニア]]初代大統領[[アンターナス・スメトナ]](1874-1944年)
| alt1 = アンターナス・スメトナ
| image2 = Herbert_Hoover_in_1877.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 第31代アメリカ合衆国大統領[[ハーバート・フーヴァー]](1874-1964年)
| alt2 = ハーバート・フーヴァー
}}
{{multiple image
| footer = 化学者[[ウィルヘルム・ティセリウス]](1902-1971年)[[電気泳動]](右画像)を研究。
| image1 = Arne_Tiselius.jpg
| width1 = 90
| alt1 = ウィルヘルム・ティセリウス
| image2 = Electrophoresis equipment.jpg
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| alt2 = 電気泳動装置
}}
{{multiple image
| image1 = Jean-Francois_Lyotard_cropped.jpg
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| caption1 = 哲学者[[ジャン=フランソワ・リオタール]](1924-1998年)
| alt1 = ジャン=フランソワ・リオタール
| image2 = Gia Kancheli.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[グルジア人]]の作曲家[[ギヤ・カンチェリ]](1935 -2019年)
| alt2 = ギヤ・カンチェリ
}}
* [[1296年]] - [[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]、[[ボヘミア王]]、[[ルクセンブルク伯]](+ [[1346年]])
* [[1397年]] - [[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1439年]])
* [[1602年]] - [[ジル・ド・ロベルヴァル]]、[[数学者]](+ [[1675年]])
* [[1732年]]([[享保]]17年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]])- [[土屋篤直]]、[[土浦藩|土浦藩主]](+ [[1776年]])
* [[1771年]]([[明和]]8年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]])- [[松平定剛]]、[[今治藩|今治藩主]](+ [[1843年]])
* [[1782年]]([[天明]]2年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])- [[松平宗発]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[宮津藩|宮津藩主]](+ [[1840年]])
* [[1783年]](天明3年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]])- [[加藤泰儔]]、[[新谷藩|新谷藩主]](+ [[1872年]])
* [[1799年]] - [[サミュエル・ディキンソン・ハバード]]、[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1855年]])
* [[1806年]] - [[ユリウス・ワイスバッハ]]、数学者、[[工学者]](+ [[1871年]])
* [[1810年]] - [[カミッロ・カヴール|カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール]]、[[イタリア王国]]初代[[イタリアの首相|首相]](+ [[1861年]])
* [[1814年]] - [[アンリ・ネスレ]]、[[実業家]]([[ネスレ]]創業者)(+ [[1890年]])
* [[1823年]]([[文政]]6年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]])- [[池田慶政]]、[[岡山藩|岡山藩主]](+ [[1893年]])
* [[1847年]] - [[ヴィルヘルム・ライン]]、[[教育学者]](+ [[1929年]])
* [[1859年]] - [[ラリー・コーコラン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1891年]])
* [[1865年]] - [[アレクサンドル・グラズノフ]]、[[作曲家]](+ [[1936年]])
* [[1874年]] - [[ハーバート・フーヴァー]]、[[政治家]]、第31代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1964年]])
* 1874年 - [[アンターナス・スメトナ]]、政治家、初代[[リトアニアの大統領|リトアニア大統領]](+ [[1944年]])
* 1874年 - [[南次郎]]、[[陸軍軍人]](+ [[1955年]])
* [[1877年]] - [[フランク・マーシャル (チェスプレーヤー)|フランク・マーシャル]]、[[チェス]]プレーヤー(+ [[1944年]])
* [[1880年]] - [[ピエール・ロワ]]、[[画家]](+ [[1950年]])
* [[1895年]] - [[ミハイル・ゾーシチェンコ]]、[[小説家]](+ [[1958年]])
* [[1897年]] - [[藤原あき]]、[[タレント]]、政治家(+ [[1967年]])
* [[1899年]] - [[小室達]]、[[彫刻家]](+ [[1953年]])
* [[1902年]] - [[ウィルヘルム・ティセリウス]]、[[化学者]](+ [[1971年]])
* 1902年 - [[ノーマ・シアラー]]、[[俳優|女優]](+ [[1983年]])
* [[1905年]] - [[森田忠勇]]、野球監督(+ [[1975年]])
* [[1909年]] - [[小川和夫]]、[[英文学者]](+ [[1994年]])
* 1909年 - [[ムハンマド5世 (モロッコ王)|ムハンマド5世]]、[[モロッコ国王]](+ [[1961年]])
* [[1912年]] - [[守屋多々志]]、[[日本画家]](+ [[2003年]])
* 1912年 - [[ジョルジェ・アマード]]、[[小説家]](+ [[2001年]])
* [[1913年]] - [[ヴォルフガング・パウル]]、[[物理学者]](+ [[1993年]])
* [[1914年]] - [[マルクジンスキ]]、[[ピアニスト]](+ [[1977年]])
* [[1916年]] - [[山田忠雄]]、[[日本語学者|国語学者]](+ [[1996年]])
* [[1917年]] - [[青木正一]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]])
* [[1919年]] - [[沢藤光郎]]、元プロ野球選手(+ [[1987年]])
* [[1921年]] - [[坂上弘 (歌手)|坂上弘]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]、[[シンガーソングライター]]
* 1921年 - [[木村孝平]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1923年]] - [[ロンダ・フレミング]]、女優(+ [[2020年]])
* [[1924年]] - [[ジャン=フランソワ・リオタール]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1998年]])
* [[1926年]] - [[京山幸枝若 (初代)|初代 京山幸枝若]]、[[浪曲師]](+ [[1991年]])
* [[1928年]] - [[阿部昭吾]]、政治家(+ [[2015年]])
* [[1930年]] - [[五十嵐辰馬]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]])
* [[1931年]] - [[小池清]]、[[アナウンサー]](+ [[2012年]])
* 1931年 - [[佐藤孝夫]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]])
* [[1934年]] - [[池田宏 (映画監督)|池田宏]]、[[アニメーション演出家]]
* 1934年 - [[ジェームズ・テニー]]、[[作曲家]](+ [[2006年]])
* [[1935年]] - [[ギヤ・カンチェリ]]、作曲家(+ [[2019年]])
* [[1936年]] - [[梅本正之]]、元プロ野球選手、野球指導者
* [[1937年]] - [[容国団]]、[[卓球]]選手(+ [[1968年]])
* [[1938年]] - [[山口奈々]]、[[声優]]
* [[1939年]] - [[八代万智子]]、女優
* [[1940年]] - [[小島敏彦]]、声優、俳優
* [[1945年]] - [[井戸敏三]]、政治家、[[兵庫県]][[都道府県知事|知事]]
* [[1947年]] - [[平松一夫]]、[[会計学|会計学者]](+ [[2020年]])
* 1947年 - [[イアン・アンダーソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ジェスロ・タル]])
* [[1948年]] - [[角野卓造]]、俳優
* [[1949年]] - [[山口冨士夫]]、ミュージシャン(+ [[2013年]])
* [[1950年]] - [[後藤哲夫]]、声優、俳優(+ [[2018年]])
* 1950年 - [[パティ・オースティン]]、[[歌手]]
* [[1951年]] - [[栗橋茂]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[青山孝史]]、歌手([[フォーリーブス]])(+ [[2009年]])
* [[1954年]] - [[三國清三]]、[[フランス料理]][[シェフ]]
* 1954年 - [[金城致勲]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[朝比奈順子]]、女優
* [[1955年]] - [[田口八重子]]、[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮拉致被害者]]
* 1955年 - [[三波豊和]]、俳優
* 1955年 - [[佐藤博正]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[神足裕司]]、[[コラムニスト]]
* [[1958年]] - [[マイケル・ドークス]]、元[[プロボクサー]](+ [[2012年]])
* [[1959年]] - [[ロザンナ・アークエット]]、女優
* [[1960年]] - [[アントニオ・バンデラス]]、俳優
* 1960年 - [[片渕須直]]、[[アニメーション監督]]、[[脚本家]]
* 1960年 - [[杏子 (ミュージシャン)|杏子]]、[[シンガーソングライター]]、ミュージシャン(元[[BARBEE BOYS]])
* [[1961年]] - [[梨本謙次郎]]、俳優
* 1961年 - [[ハイバトゥッラー・アクンザダ]]、[[ターリバーン]]の代表者、[[アフガニスタン]]([[アフガニスタン・イスラム首長国]])の[[アミール]]
* 1961年 - [[松山香織]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1962年]] - [[筧利夫]]、俳優
* 1962年 - [[キャロライン洋子]]、元タレント
* [[1963年]] - [[ジェラルド・クラーク]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[高岡瓶々]]、声優
* [[1964年]] - [[高橋ひろ]]、歌手、[[作曲家]](+ [[2005年]])
* [[1965年]] - [[川田あつ子]]、歌手、女優
* [[1966年]] - [[高島遼]]、俳優、タレント
* [[1967年]] - [[リディック・ボウ]]、元プロボクサー
* [[1968年]] - [[北澤豪]]、元[[サッカー]]選手、タレント
* 1968年 - [[岩井小百合]]、元タレント
* 1968年 - [[神谷裕]]、政治家
* [[1970年]] - [[小倉恒]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[河原隆一]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[ロイ・キーン]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1971年 - [[ケビン・ランデルマン]]、[[総合格闘家]]、[[プロレスラー]](+ [[2016年]])
* 1971年 - [[KOHEI JAPAN]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]([[MELLOW YELLOW]])
* 1971年 - [[安達まり]]、声優
* [[1973年]] - [[鷹野史寿]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[高桑大二朗]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1973年 - [[ハビエル・サネッティ]]、サッカー選手
* [[1974年]] - [[子安慎悟]]、[[空手家]]、[[キックボクサー]]
* 1974年 - [[盧長震]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[小橋正佳]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[イルハン・マンスズ]]、元サッカー選手、[[フィギュアスケート]]選手
* 1975年 - [[白鳥智恵子]]、女優
* [[1976年]] - [[遊井亮子]]、女優
* [[1977年]] - [[砂川誠]]、元サッカー選手
* 1977年 - [[藏川洋平]]、元サッカー選手
* [[1978年]] - [[勝浦正樹]]、[[騎手]]
* 1978年 - [[山本智子]]、歌手
* 1978年 - [[亜城めぐ]]、声優
* [[1979年]] - [[WISE]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]([[TERIYAKI BOYZ]])
* 1979年 - [[升秀夫]]、ミュージシャン([[BUMP OF CHICKEN]])
* 1979年 - [[ダン・ジョンソン]]、プロ野球選手
* 1979年 - [[竹岡葉月]]、[[小説家]]
* 1979年 - [[新谷志保美]]、[[スピードスケート]]選手
* 1979年 - [[原信一朗]]、[[プロ野球審判員]]
* 1979年 - [[兵動秀治]]、[[競輪選手]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ブランドン・ライオン]]、元プロ野球選手
* [[1981年]] - [[安倍なつみ]]、[[歌手]]、タレント(元[[モーニング娘。]])
* 1981年 - [[タウフィック・ヒダヤット]]、[[バドミントン]]選手
* [[1982年]] - [[デヴォン青木]]、[[ファッションモデル]]、女優
* 1982年 - [[堀内葉子]]、ファッションモデル
* 1982年 - [[レミギウス・モリカビュチス]]、格闘家
* [[1983年]] - [[松橋未樹]]、歌手、作曲家
* [[1984年]] - [[速水もこみち]]、俳優
* 1984年 - [[ヤハラリカ]]、ファッションモデル、女優、[[タレント]]、MC、[[写真家]]
* [[1985年]] - [[鶴竜力三郎]]、元大相撲力士、第71代[[横綱]]
* [[1986年]] - [[白石茉莉奈]]、[[AV女優]]、タレント
* 1986年 - [[雄賀多あや]]、声優
* [[1987年]] - [[赤﨑千夏]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?id=148 |title=赤﨑 千夏 |publisher=[[81プロデュース|株式会社81プロデュース]] |accessdate=7 Oct 2023}}</ref>、声優
* 1987年 - [[久保山智夏]]、女優
* 1987年 - [[立木聖美]]、元タレント
* 1987年 - [[ウィルソン・ラモス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[友稀サナ]]、女優
* 1988年 - HARUNA、歌手、ミュージシャン([[SCANDAL (日本のバンド)|SCANDAL]])
* [[1989年]] - [[ベン・サハル]]、サッカー選手
* 1989年 - [[成瀬心美]]、タレント、元AV女優
* [[1990年]] - [[迫留駿]]、元[[野球選手]]
* 1990年 - [[安藤駿介]]、プロサッカー選手
* 1990年 - [[小原怜]]、[[陸上競技選手]]
* 1990年 - [[前山奈津巴]]、グラビアアイドル
* 1990年 - [[手塚真生]]、ファッションモデル
* 1990年 - [[タツヤ・レイシー]]、タレント
* 1990年 - [[アンソニー・ゴース]]、野球選手
* 1990年 - [[ルーカス・ティル]]、俳優
* 1990年 - [[ロレンソ・メルガレホ]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[中﨑翔太]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[アーチー・ブラッドリー]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[小澤亜李]]、声優
* 1992年 - [[門脇麦]]、女優
* 1992年 - [[桑田真樹]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[平松翔馬]]、アナウンサー
* [[1993年]] - [[中島裕翔]]、タレント、俳優([[Hey! Say! JUMP]])
* [[1994年]] - [[RIKU]]、歌手([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]])
* 1994年 - [[ベルナルド・シウバ]]、サッカー選手
* 1994年 - [[田仁智]]、プロゴルファー
* [[1995年]] - [[吉澤閑也]]、アイドル([[Travis Japan]])
* [[1996年]] - [[河出奈都美]]、アナウンサー
* 1996年 - [[脇菜々香]]、元タレント
* 1996年 - [[吉野翔太]]、元タレント
* 1996年 - [[小南満佑子]]、女優
* [[1997年]] - [[熊崎晴香]]、アイドル([[SKE48]])
* 1997年 - [[高月彩良]]、女優、歌手
* [[1998年]] - [[齋藤飛鳥]]、タレント、アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1998年 - [[白石聖]]、女優
* [[1999年]] - [[土井洋輝]]、元子役、声優
* 1999年 - [[野村奈央]]、タレント(元[[AKB48]])
* [[2000年]] - [[田中菜津美]]、タレント、アイドル(元[[HKT48]]、元SKE48)
* 2000年 - [[森淳奈]]、野球選手
* [[2001年]] - [[舟木健]]、歌手、タレント([[NORD (アイドルグループ)|NORD]])
* 2001年 - [[ホルヘ・ペラルタ]]、プロ野球選手
* [[2005年]] - [[加藤栞]]、ファッションモデル
* 生年不明 - [[佐々木日菜子]]、声優
* 生年不明 - [[宝田直人]]、声優
* 生年不明 - [[寺田明正]]、声優
* 生年不明 - [[井上真希]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000011809/ |title=井上真希(いのうえまき) |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate=7 Oct 2023 |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、声優
== 忌日 ==
[[ファイル:Fujiwara_no_Kiyohira.jpg|thumb|180x180px|[[奥州藤原氏]]初代当主[[藤原清衡]](1056-1128年)]]
{{multiple image
| footer = 航空技術者[[オットー・リリエンタール]](1848-1896年)、試験飛行中に墜落死。
| image1 = Otto-lilienthal.jpg
| width1 = 60
| alt1 = オットー・リリエンタール
| image2 = Lilienthal_in_flight.jpg
| width2 = 120
| alt2 = 1895年の試験飛行
}}
{{multiple image
| image1 = DrGoddardPark.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[ロケット]]工学者[[ロバート・ゴダード]](1882-1945年)
| alt1 = ロバート・ゴダード
| image2 = Henry_Moseley_(1887-1915).jpg
| width2 = 80
| caption2 = 物理学者[[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]](1887-1915年)
| alt2 = ヘンリー・モーズリー
}}
[[ファイル:Kristen-Nygaard-SBLP-1997-head.png|thumb|126x126px|情報科学者[[クリステン・ニゴール]](1926-2002年)。プログラミング言語[[Simula]]を開発。]]
* [[1128年]]([[大治 (日本)|大治]]3年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[藤原清衡]]、[[奥州藤原氏]]の祖(* [[1056年]])
* [[1541年]]([[天文 (日本)|天文]]10年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[北条氏綱]]、[[戦国大名]](* [[1487年]])
* [[1564年]]([[永禄]]7年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]) - [[三好長慶]]、戦国大名(* [[1522年]])
* [[1590年]]([[天正]]18年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[北条氏政]]、戦国大名(* [[1538年]])
* 1590年(天正18年7月11日) - [[北条氏照]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](* [[1540年]])
* [[1653年]] - [[マールテン・トロンプ]]、[[オランダ]]の[[海軍軍人]](* [[1597年]])
* [[1759年]] - [[フェルナンド6世 (スペイン王)|フェルナンド6世]]、[[スペイン王]](* [[1713年]])
* [[1806年]] - [[ヨハン・ミヒャエル・ハイドン]]、[[作曲家]](* [[1737年]])
* [[1895年]] - [[フェリクス・ホッペ=ザイラー]]、[[生理学者]] (* [[1825年]])
* [[1896年]] - [[オットー・リリエンタール]]、[[航空]][[技術者]](* [[1848年]])
* [[1915年]] - [[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]]、[[物理学者]](* [[1887年]])
* [[1945年]] - [[ロバート・ゴダード]]、[[ロケット]][[工学者]](* [[1882年]])
* [[1948年]] - [[朝河貫一]]、[[歴史学者]](* [[1873年]])
* [[1969年]] - [[小泉純也]]、[[政治家]]、[[防衛庁長官]](* [[1904年]])
* [[1970年]] - [[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]、作曲家(* [[1918年]])
* [[1977年]] - [[山田かまち]]、[[画家]]、[[詩人]](* [[1960年]])
* [[1980年]] - [[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]、[[外交官]](* [[1901年]])
* [[1984年]] - [[野間省一]]、[[実業家]]、[[講談社]]社長(* [[1911年]])
* [[1988年]] - [[清水幾太郎]]、[[社会学|社会学者]](* [[1907年]])
* [[1993年]] - [[ユーロニモス]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1968年]])
* [[1996年]] - [[河野健二]]、[[歴史学者]]、経済史家(* [[1916年]])
* [[1997年]] - [[江國滋]]、[[エッセイスト]]、[[俳人]](* [[1934年]])
* [[2001年]] - [[ルー・ブードロー]]、元プロ野球選手(* [[1917年]])
* [[2002年]] - [[クリステン・ニガード]]、[[数学者]]、[[計算機]]科学者、政治家(* [[1926年]])
* [[2004年]] - [[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、[[歴史学者]]、[[東京大学]]総長(* [[1913年]])
* [[2008年]] - [[アイザック・ヘイズ]]、ミュージシャン、[[俳優]](* [[1942年]])
* [[2009年]] - [[キラーイ・エデ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1929年]])
* [[2011年]] - [[日吉ミミ]]、[[歌手]](* [[1947年]] )
* [[2013年]] - [[ウィリアム・パトリック・クラーク]]、第44代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1931年]])
* 2013年 - [[高崎一郎]]、司会者(* [[1931年]])
* [[2017年]] - [[阿部進]]、[[教育関係人物一覧|教育評論家]](* [[1930年]])
* [[2018年]] - [[菅井きん]]<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/news/2118068/full/ |title=女優・菅井きんさん死去 92歳 「必殺」シリーズなど |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=23 Aug 2018}}</ref>、[[俳優#性別での分類|女優]](* [[1926年]])
* 2018年 - [[フェルナンド・ジョルト]]、[[画家]](* [[1949年]])
* [[2020年]] - [[渡哲也]]<ref>{{Cite web |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2020/08/14/0013603987.shtml |title=俳優の渡哲也さんが死去 肺炎、78歳、家族葬…故人の遺志によりお別れ会なし |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=14 Aug 2020}}</ref>、俳優(* [[1941年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
| footer = 現在の[[エクアドル]]の首都である[[キト]]が最初の独立宣言(1809年)。左画像は1821年の南米北部、左下よりエクアドル、[[ヌエバ・グラナダ共和国|ヌエバ・グラナダ]]、[[ベネズエラ]]。右画像は17世紀のキト。
| image1 = Mapa_de_Venezuela%2C_N._Granada_y_Quito%2C_1821.jpg
| width1 = 100
| alt1 = 1821年の地図
| image2 = Virgen_Gu%C3%A1pulo.jpg
| width2 = 80
| alt2 = 17世紀のキト
}}
* [[キト]]の独立宣言日({{ECU}})
*: [[1809年]]のこの日、現在のエクアドルの首都である[[キト]]が[[スペイン]]からの独立を宣言したことを記念する祝日。
* [[道の日]]({{JPN}})
*: [[1920年]]8月10日に日本初の道路整備計画が実施されたことに由来。[[1986年]]に建設省(現[[国土交通省]])が制定。
* 宿の日({{JPN}})
*: 「や(8)ど(10)」の語呂合せ。[[全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会]](全旅連)青年部が制定。
* 健康[[心臓|ハート]]の日({{JPN}})
*: 「ハー(8)ト(10)」の語呂合せ。日本心臓財団と[[厚生省]](現在の[[厚生労働省]])が[[1985年]]に制定。
* [[焼き鳥]]の日({{JPN}})
*: 「や(8)きと(10)り」の語呂合せ。1946年より焼き鳥を販売する[[根本忠雄|株式会社鮒忠]]が[[2007年]]に制定。これとは別に全国やきとり連絡協議会も実施。
* [[帽子]]の日({{JPN}})
*: 「ハッ(8)ト(10)」の語呂合せ。全日本帽子協会が制定。そのまま「ハットの日」ともいわれる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20220810-JIOX34DREZLIXO2K5HAZPUJVGI/ |title=ついに首脳会談へ 「ハットの日」でイエローハットなど3社がコラボ |publisher=[[産経新聞]] |date=10 Aug 2022 |accessdate=7 Oct 2023}}</ref>。
* [[パレット (輸送)|パレット]]の日({{JPN}})
: 「パ(8)レット(10)」の語呂合せ。日本パレット協会が2007年(平成19年)に制定。
* [[バトン]]の日
*: [[1980年]]8月10日に[[アメリカ合衆国]][[シアトル]]で第1回世界[[バトントワリング]]選手権が開催されたことから。
* [[バイトル]]の日
*: 8月10日「バ(8)イ(1)ト(0)ルの日」の語呂合せで、運営元の[[ディップ (企業)|ディップ]]が制定し、[[日本記念日協会]]が認定<ref>{{Cite web |url=https://www.baitoru.com/pdt/baitoruday/ |title=8月10日はバイトルの日に認定されました! |access-date=7 Oct 2023 |publisher=dip Corporation.}}</ref>。
* [[スヌーピー]]の日({{JPN}})
*: スヌーピーの誕生日で、2015年に日本記念日協会より認定された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2057360/full/ |title=映画『スヌーピー』吹き替えキャスト発表 C・ブラウンに鈴木福、ヒロインは芦田愛菜 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=10 Aug 2015 |accessdate=7 Oct 2023}}</ref>。
* [[バリ取り]]の日({{JPN}})
*: [https://www.xebec-tech.co.jp/ ジーベックテクノロジー]は8月10日を「[[バリ取り]]の日」に制定し、日本記念日協会より認定された<ref>{{Cite web |url=https://nihonsanki-shimbun.com/170905news-xebec-tech/ |title=ジーベックテクノロジー 「バリ取りの日」イベント 分野超えバリの知識深める |access-date=7 Oct 2023 |publisher=日本産機新聞 |date=5 Sep 2017}}</ref>。
*[[機動警察パトレイバー|パトレイバー]]の日({{JPN}})
*: パ(8)ト(10)にちなんで、2018年に日本記念日協会より認定された<ref>{{Cite web |url=https://www.j-cast.com/2018/07/31335107.html?p=all |title=8月10日が「パトレイバーの日」に! ゆうきまさみさんも「どビックリ」 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=J-CAST, Inc. |website=J CASTニュース |date=31 Jul 2018}}</ref>。
* [[ハーゲンダッツ]]の日({{JPN}})
*: [[ハーゲンダッツジャパン]]の創業日であることから、2018年に日本記念日協会より認定された<ref>{{Cite web |url=https://news.mynavi.jp/article/20170808-a061/ |title=8月10日が「ハーゲンダッツの日」に! 制定を記念して特製かき氷を無料配布 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[マイナビニュース]] |date=8 Aug 2017}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0810|date=Oct 2023}}
* [[1955年]]([[昭和]]30年) - [[金田一耕助]]がおりんと名のる老婆と峠道ですれ違う。(『[[悪魔の手毬唄]]』)
* [[1996年]] - 犯罪オリンピック開幕。([[清涼院流水]]著の小説『[[カーニバル (小説)|カーニバル]]』)
* 1996年(原作小説では[[1994年]]) - 長崎空港へ向かった東洋航空402便が突如消息を絶つ。(ドラマ『[[神はサイコロを振らない (小説)|神はサイコロを振らない〜君を忘れない〜]]』)
* 皇暦2010年 - ブリタニア帝国が日本に宣戦布告。極東事変/第二次太平洋戦争開戦。(アニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』)
* [[2013年]] - 怪獣の日 (K-DAY)。[[サンフランシスコ]]を最初の怪獣が襲撃。これを機に「対怪獣戦争」が開始される。(映画『[[パシフィック・リム (映画)|パシフィック・リム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1952年]] - チン・シンザン、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/chin.php |title=チン・シンザン |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[SNKプレイモア|SNK PLAYMORE]] |work=『餓狼伝説』}}</ref>
* [[2001年]] - 大徳淳和、ゲーム『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|year=2012|page=78|isbn=978-4-04-886756-6}}</ref>
* 2136年 - 御門零央、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://fafner-exodus.jp/special/character/reo.html |title=御門零央 |access-date=7 Oct 2023 |work=『蒼穹のファフナー EXODUS』 |publisher=[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]] FAFNER EXODUS PROJECT [[キングレコード|King Record co,. Ltd.]]}}</ref>
* 生年不明 - ハンゾウ、ゲーム『[[ワールドヒーローズ]]』の主人公
* 生年不明 - 玉賀必人、漫画・アニメ『[[爆球Hit! クラッシュビーダマン]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=倉谷友也|title=爆球Hit! クラッシュビーダマン|volume=1巻|publisher=[[小学館]]|series=[[てんとう虫コミックス]]|year=2006|page=46|isbn=978-4-09-140175-5}}</ref>
* 生年不明 - 田中望、漫画・アニメ『[[女子高生の無駄づかい]]』の主人公<ref>{{Cite web |url=http://jyoshimuda.com/chara.html |title=田中 望 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=ビーノ/[[KADOKAWA]]/女子高生の無駄づかい製作委員会 |work=『女子高生の無駄づかい』}}</ref>
* 生年不明 - [[スヌーピー]]、漫画『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.snoopy.co.jp/birthday/#:~:text=8%E6%9C%8810%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%82%B9%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%80%82 |title=Happy Birthday SNOOPY! |access-date=7 Oct 2023 |publisher=PEANUTS Worldwide LLC.}}</ref>
* 生年不明 - 鳩ヶ谷かえで、漫画『[[ハッピーセピア]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=ハッピーセピア 大熊らすこ作品集|date=2023-11-27|publisher=[[芳文社]]|page=38|author=大熊らすこ|isbn=978-4-8322-9508-7}}</ref>
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* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|金田勝]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ|year=1997|title=地獄先生ぬ〜べ〜大百科|page=43|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス デラックス]]|isbn=4-08-858883-5}}</ref>
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* 生年不明 - ユルゲン・バリーサヴィチ・ボルク、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1424748564320821249}}</ref>
* 生年不明 - [[ラビ (D.Gray-man)|ラビ]]、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|title=D.Gray-man|volume=4巻|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=24|isbn=4-08-873810-1}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=34|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|pages=52,57|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - 灰尾凛、漫画・アニメ『[[君のことが大大大大大好きな100人の彼女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|hyakkano|1689290531161985024}}</ref>
* 生年不明 - 奏蝉丸、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - レオナルド・バーンズ、漫画・アニメ『[[炎炎ノ消防隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|FireForce_PR|1292475726340460544}}</ref>
* 生年不明 - ヴァルナシンガ=フアジャール13世、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref name="EG">{{Cite book|和書||title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|year=2009|pages=52,98|isbn=978-4-86127-616-3}}</ref>
* 生年不明 - グレイアーツ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書||title=EREMENTAR GERAD オフィシャルガイド|publisher=マッグガーデン|series=ブレイドコミックス|year=2005|page=68|isbn=4-86127-152-5}}</ref><ref name="EG" />
* 生年不明 - 園田美月、漫画・アニメ『[[桜Trick]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=タチ|title=桜Trick|volume=1巻|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]]|year=2012|page=2|isbn=978-4-8322-4187-9}}</ref><ref>{{Cite book|editor=[[まんがタイムきらら]]編集部|title=『桜Trick TVアニメ公式ガイドブック 〜ヒミツのシラバス〜|publisher=芳文社|series=まんがタイムKRコミックス|year=2014|page=38|isbn=978-4-8322-4438-2}}</ref>
* 生年不明 - 遠藤幸、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|koiastv|1292626720156262407}}</ref>
* 生年不明 - 滝川雅貴、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1689471630567981056}}</ref>
* 生年不明 - 皇神楽耶、アニメ'''『'''[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|geass_game|1689290443916484608}}</ref>
* 生年不明 - レイリー・ハルティア、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://sigururi.com/chara/other/#chara_07 |title=レイリー・ハルティア |access-date=7 Oct 2023 |publisher=戦翼倶楽部/909整備補給隊 |work=『戦翼のシグルドリーヴァ』}}</ref>
* 生年不明 - チョコ、アニメ『[[PUI PUI モルカー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|molcar_anime|1557200071460003840}}</ref>
* 生年不明 - 橋本一馬、小説・漫画・アニメ『[[チア男子!!|チア男子‼︎]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cheer_boys|763147195017105409}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物|渋谷凛]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20083 |title=渋谷 凛(しぶや りん) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=7 Oct 2023 |work=『THE iDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物|五十嵐響子]]、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20016 |title=五十嵐 響子(いがらし きょうこ) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=7 Oct 2023 |work=『THE iDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 鈴河凜乃、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130527_166780/ |title=【ガールフレンド(仮)通信45】気ままな猫系ガール 鈴河凜乃ちゃん(CV:加藤英美里) |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=27 May 2013 |website=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#高坂海美|高坂海美]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30008 |title=高坂 海美(こうさか うみ) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=7 Oct 2023 |work=『THE iDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ヴァイリー、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=22&cate=name&cont=Vairy |title=ヴァイリー |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 鑑真、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1557200060999315456}}</ref>
* 生年不明 - トーカ(獅子ヶ谷桐花)、ゲーム・アニメ『[[グリザイアシリーズ|グリザイア:ファントムトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://grisaia-pt.com/gptanime/character/touka |title=トーカ |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[フロントウイング|Frontwing]] |work=『グリザイア:ファントムトリガー』}}</ref>
* 生年不明 - ミソギ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1689456530779951104}}</ref>
* 生年不明 - アンバー、ゲーム『[[原神]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Genshin_7|1292673319125135361}}</ref>
* 生年不明 - [[五稜結人]]、メディアミックス『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|argonavis_info|1160022960154918913}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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'''9月10日'''(くがつとおか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から253日目([[閏年]]では254日目)にあたり、年末まであと112日ある。
== できごと ==
[[ファイル:NystatIngria.png|thumb|upright|[[ニスタット条約]]締結(1721)、[[大北方戦争]]終結。画像斜線部がスウェーデンの失った領土]]
[[ファイル:Battle_erie.jpg|thumb|[[米英戦争]]、[[エリー湖の湖上戦]](1813)。米軍が[[エリー湖]]の制水権を確保]]
[[ファイル:%C3%96sterreich-Ungarns_Ende.png|thumb|[[第一次世界大戦]]、連合国とオーストリアの講和条約[[サン=ジェルマン条約]]締結(1919)。画像は国境の変更]]
[[ファイル:CTBT_Participation.svg|thumb|300px|[[包括的核実験禁止条約]]締結(1996)。画像は加盟状況。2010年現在では未発効]]
{{multiple image
| footer = [[大型ハドロン衝突型加速器]]稼働開始(2008)
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}}
[[ファイル:NipponShinkoBuilding.jpg|thumb|[[日本振興銀行]]が経営破綻(2010)]]
* [[422年]] - [[カエレスティヌス1世 (ローマ教皇)|カエレスティヌス1世]]が[[教皇|ローマ教皇]]に即位。
* [[1315年]]([[正和]]4年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[北条煕時]]の死去に伴い、[[北条基時]]が鎌倉幕府第13代執権に就任。
* [[1419年]] - ブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)が王太子[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル]]の支持者により暗殺。
* [[1573年]]([[天正]]元年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[小谷城]]救援から離脱した[[朝倉義景]]軍を[[織田信長]]軍が捕捉。追撃戦で[[斎藤龍興]]らを討ち取り壊滅させる。([[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]])
* [[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[長崎市|長崎]]で[[カトリック教会|カトリック教徒]]55名が処刑。([[元和の大殉教]])
* [[1721年]] - [[ロシア帝国|ロシア]]と[[スウェーデン]]が[[ニスタット条約]]を締結。
* [[1813年]] - [[米英戦争]]: [[エリー湖の湖上戦]]。
* [[1846年]] - [[エリアス・ハウ]]が二重縫い方式の[[ミシン]]の特許を取得。
* [[1855年]]([[安政]]2年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[長崎海軍伝習所]]が開設。
* [[1858年]] - [[ジョージ・サール]]が[[小惑星]]「[[パンドラ (小惑星)|パンドラ]]」を発見。<!-- 55番目の小惑星で、サールが発見した唯一の小惑星、とのことですが、どれだけの重要性があるのかがわからない -->
* [[1885年]] - [[英吉利法律学校]]([[中央大学]]の前身)が東京・神田で開校。
* [[1898年]] - オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]が無政府主義者[[ルイジ・ルケーニ]]により暗殺。
* [[1912年]] - 日本初の映画会社・[[日活|日本活動写真]]が設立。
* [[1917年]] - [[護法運動]]: [[中華民国]]で[[孫文]]が[[広東軍政府]]を樹立し、[[段祺瑞]]の[[北京政府]]と並立する分裂状態となる。
* [[1919年]] - [[オーストリア]]と[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[第一次世界大戦]]の講和条約「[[サン=ジェルマン条約]]」を締結。
* [[1921年]] - [[日本サッカー協会]]の前身である大日本蹴球協会が創立。
* 1921年 - [[槇有恒]]らが[[アルプス山脈]]最後の難所[[アイガー]]北東山稜の初登攀に成功。
* [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[カナダ]]が[[ナチス・ドイツ]]に[[宣戦布告]]。
* [[1943年]] - [[鳥取地震]]が発生。
* [[1945年]] - [[日本における検閲]]: 「[[プレスコード|言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書]]」([[SCAPIN]]-16)発令。[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)が[[検閲]]を始める。
* 1945年 - [[第二次世界大戦]]・[[ニューギニアの戦い]]: カイリル島の日本[[海軍根拠地隊|海軍第27特別根拠地隊]]司令官佐藤四郎海軍少将がカイリル海峡の[[オーストラリア海軍|豪海軍]]艇「ML 805」上で[[オーストラリア陸軍|豪陸軍]]{{仮リンク|第6師団 (オーストラリア軍)|label=第6師団|en|6th Division (Australia)}}への降伏文書に署名する。
* [[1947年]] - [[ドイツ]]の作家集団「[[47年グループ]]」が初会合を行う。
* 1947年 - [[北海道]][[津別町]]で[[的屋]]と[[在日朝鮮人]]が衝突([[津別事件]])。
* 1947年 - [[静岡刑務所]]から収容者9人が集団[[脱獄]]<ref>「静岡刑務所から囚人集団脱走」『朝日新聞』昭和22年9月11日.2面</ref>。
* [[1951年]] - 映画『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]で日本映画初の金獅子賞を獲得。
* [[1953年]] - [[松竹]]・[[東宝]]・[[大映]]・[[新東宝]]・[[東映]]の日本の大手[[映画会社]]5社が専属俳優・監督の引き抜き防止協定([[五社協定]])に調印。
* [[1955年]] - 日本が[[関税および貿易に関する一般協定]] (GATT) に正式に加盟。<!-- 外務省:http://www.mof.go.jp/singikai/kanzegaita/siryou/kanc130810c1.pdf [[1955年]]に8/11とあるのは誤りか -->
* [[1956年]] - [[富山県]][[魚津市]]で[[魚津大火]]が発生。
* 1956年 - [[静岡県]][[静岡市]]中島海岸で竜巻が発生。死者20人、重軽傷44人、78戸が全半壊の被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=113 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1959年]] - [[炭鉱]][[失業]]者救済のための「[[黒い羽根運動|黒い羽根募金運動]]」が福岡で開始。
* [[1960年]] - [[東京]]・[[大阪]]の5局で[[カラーテレビ]]の本放送開始。
* [[1961年]] - [[イタリアグランプリ]]で[[ヴォルフガング・フォン・トリップス]]([[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]])が[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]([[チーム・ロータス|ロータス]])と接触事故、死者14名の大惨事となる。
* [[1963年]] - [[筑波研究学園都市]]の建設が閣議了解。
* [[1965年]] - [[昭和40年台風第23号|台風23号]]により、高知県[[室戸岬]]で日本の最大[[風速]]記録・69.8m/sを観測。
* [[1967年]] - イギリス領[[ジブラルタル]]で、イギリス領に留まるかスペインに編入されるかを決める住民投票が行われ、イギリス領のままとなることが決定。
* [[1969年]] - [[東京都]][[渋谷区]]で登校途中の小学生が[[誘拐]]され、翌11日未明に19歳の犯人を逮捕。小学生は[[渋谷駅]]の一時預かり所で遺体で発見された([[正寿ちゃん誘拐殺人事件]])<ref>『[[朝日新聞]]』1969年9月11日朝刊第12版第一総合面1頁「渋谷 学童を誘かい殺す 19歳の少年を逮捕 500万要求 通学途中襲う バッグにつめ駅預け」([[朝日新聞東京本社]]) - 『朝日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1969年(昭和44年)9月号313頁</ref>。加害者少年は[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]を受け、1977年12月に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で言い渡された判決により死刑が[[確定判決|確定]]([[少年死刑囚]])<ref>『[[毎日新聞]]』1977年12月20日東京夕刊第4版第一社会面7頁「正寿ちゃん事件 死刑が確定 最高裁「合憲…残虐な刑でない」」([[毎日新聞東京本社]]) - 『毎日新聞』縮刷版 1977年(昭和52年)12月号627頁</ref>。
* [[1971年]] - [[三重県南部集中豪雨]]が発生。
* [[1974年]] - [[ポルトガル]]が[[ギニアビサウ]]の[[独立]]を[[国家の承認|承認]]。<!-- 独立記念日は宣言の9/24 -->
* [[1976年]] - [[ザグレブ空中衝突事故]]。[[ユーゴスラビア]]・[[ザグレブ]]上空で航空機同士が空中衝突。双方の乗員乗客176人全員死亡。
* [[1977年]] - [[フランス]]で最後の[[ギロチン]]による処刑が行われる。
* [[1980年]] - [[中華人民共和国]]の[[華国鋒]][[国務院総理]](首相)が辞任。後任に[[趙紫陽]]副首相が就任。
* [[1981年]] - [[パブロ・ピカソ|ピカソ]]の『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』が[[ニューヨーク近代美術館]]から[[スペイン]]に返還される。
* [[1988年]] - 女子テニスの[[シュテフィ・グラフ]]が[[1988年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で優勝。[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]にオリンピック金メダルを加えた「ゴールデン・スラム」を達成。
* [[1989年]] - [[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]の第1期区間(中村区役所(現・[[太閤通駅]]) - [[今池駅 (愛知県)|今池]])が開業。
* [[1996年]] - [[国際連合総会|国連総会]]で[[包括的核実験禁止条約]]が採択。
* [[2001年]] - [[BSE問題]]: 日本初の[[牛海綿状脳症]](狂牛病、BSE)に感染した恐れのある乳牛が[[千葉県]]で発見されたと[[農林水産省]]が発表。[[9月21日|21日]]に感染を確認。
* [[2002年]] - [[スイス]]と[[東ティモール]]が国際連合に加盟。
* [[2003年]] - [[スウェーデン]]の[[アンナ・リンド]]外相が[[ストックホルム]]のデパートでの買物中に襲撃される。翌日死亡。
* [[2008年]] - [[欧州原子核研究機構]] (CERN) の[[大型ハドロン衝突型加速器]] (LHC) が稼動開始<ref>{{Cite web|和書|date=2008-09-11 |url=http://japanese.cri.cn/151/2008/09/11/1s126263.htm |title=欧州で大型ハドロン衝突型加速器が運転開始 |publisher=中国国際放送局 |accessdate=2018-04-06}}</ref>。
* [[2010年]] - [[日本振興銀行]]が経営破綻。戦後初の[[ペイオフ (預金保護)|ペイオフ]]が発動<ref>{{Cite web|和書|date=2010年9月10日 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-17188220100910 |title=初のペイオフ発動に踏み切った金融庁、市場原理重視にかじ切りか |publisher=ロイター |accessdate=2018-04-06}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{右|[[ファイル:1D line.svg|220px]]}}
[[ファイル:Giovanni_Gronchi.jpg|thumb|120px|イタリア第3代大統領、[[ジョヴァンニ・グロンキ]](1887-1978)誕生]]
[[ファイル:Werfel.jpg|thumb|120px|作家[[フランツ・ヴェルフェル]](1890-1945)。{{Squote|時期尚早と手遅れの間には一瞬しかない。――『ヤコボウスキと大佐』( )}}]]
[[ファイル:Masahiko_Kimura_%281917-1993%29.jpg|thumb|120px|柔道家、[[木村政彦]](1917-1993)。全日本選手権を13年連続保持]]
[[ファイル:Karl_Lagerfeld.jpg|thumb|120px|ファッションデザイナー、[[カール・ラガーフェルド]](1933-2019)]]
{{multiple image
| footer = ゲームデザイナー、[[横井軍平]](1941-1997)誕生
| image1 = Game & Watch.png
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| caption1 = [[ゲーム&ウオッチ]](1980)
| image2 = Game-Boy-FL.png
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| caption2 = [[ゲームボーイ]](1989)
}}
*
* [[1599年]]([[慶長]]4年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[小笠原忠知]]、初代[[三河吉田藩|吉田藩主]](+ [[1663年]])
* [[1690年]]([[元禄]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[前田吉徳]]、第6代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1745年]])
* [[1839年]] - [[チャールズ・サンダース・パース]]、[[論理学者]]、[[数学者]]、[[哲学者]](+ [[1914年]])
* [[1882年]] - [[今井清]]、[[陸軍中将]]、(+ [[1938年]])
* [[1887年]] - [[ジョヴァンニ・グロンキ]]、第3代[[共和国大統領 (イタリア)|イタリア共和国大統領]](+ [[1978年]])
* [[1889年]] - [[吉阪俊蔵]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]](+ [[1958年]])
* [[1890年]] - [[フランツ・ヴェルフェル]]、[[小説家]](+ [[1945年]])
* [[1890年]] - [[熊谷一弥]]、テニス選手(+ [[1968年]])
* [[1890年]] - [[エルザ・スキャパレッリ]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[1973年]])
* [[1891年]] - [[カール・ヤーコプ・ブルクハルト]] ([[:en:Carl Jacob Burckhardt|Carl Jacob Burckhardt]])、[[歴史学者]](+ [[1974年]])
* [[1893年]] - [[マリア・デ・ジェズス]]、[[2008年]][[11月26日]] - [[2009年]][[1月2日]]の長寿世界一(+ [[2009年]])
* [[1895年]] - [[ジョージ・ケリー (野球)|ジョージ・ケリー]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1984年]])
* [[1897年]] - [[ジョルジュ・バタイユ]]、[[作家]]、[[思想家]](+ [[1962年]])
* 1897年 - [[楠部彌弌]]、[[陶芸家]](+ [[1984年]])
* [[1905年]] - [[武内俊子]]、[[童謡]][[詩人]]、童謡[[作詞家]]、[[童話]]作家(+ [[1945年]])
* [[1910年]] - [[平井康三郎]]、[[作曲家]](+ [[2002年]])
* [[1914年]] - [[ロバート・ワイズ]]、[[映画監督]](+ [[2005年]])
* [[1917年]] - [[木村政彦]]、[[柔道家]]、[[プロレスラー]](+ [[1993年]])
* [[1919年]] - [[堀越克明]]、教育者(+ [[2011年]])
* [[1929年]] - [[矢代秋雄]]、作曲家(+ [[1976年]])
* 1929年 - [[アーノルド・パーマー]]、[[プロゴルファー]](+ [[2016年]])
* [[1932年]] - [[山田康雄]]、[[声優]](+ [[1995年]])
* [[1933年]] - [[カール・ラガーフェルド]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/47301566|title=カール・ラガーフェルド氏死去 「シャネル」など手がけた世界的デザイナー |publisher=BBCニュース|date=2019-02-20|accessdate=2020-10-28}}</ref>)
* [[1934年]] - [[ロジャー・マリス]]、元プロ野球選手(+ [[1985年]])
* 1934年 - [[樋口陽一]]、[[法学者]]
* [[1936年]] - [[真田健一郎]]、[[俳優]](+ [[2008年]])
* [[1937年]] - [[ジャレド・ダイアモンド]]、[[生物学者]]、[[作家]]
* [[1939年]] - [[村松克己]]、俳優(+ [[2001年]])
* [[1941年]] - [[横井軍平]]、ゲームデザイナー(+ [[1997年]])
* 1941年 - [[スティーヴン・ジェイ・グールド]]、[[生物学者]](+ [[2002年]])
* [[1943年]] - [[松岡佑子]]、[[翻訳家]]
* [[1944年]] - [[吉村典男]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[山田修爾]]、[[演出家]]、[[プロデューサー]](+ [[2013年]])
* 1945年 - [[ホセ・フェリシアーノ]]、[[歌手]]、[[ギタリスト]]
* [[1947年]] - [[内田順三]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[石床幹雄]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]])
* [[1948年]] - [[内館牧子]]、[[脚本家]]、[[小説家]]、元[[横綱審議委員会]]委員
* 1948年 - [[大信田礼子]]、[[俳優|女優]]
* [[1949年]] - [[欧陽菲菲]]、歌手
* [[1950年]] - [[ジョー・ペリー]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[エアロスミス]])
* 1950年 - [[長谷川勝士]]、放送作家、テレビプロデューサー、作詞家
* [[1952年]] - [[小林光一]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]
* 1952年 - [[清水クーコ]]、[[タレント]](+ [[1991年]])
* [[1953年]] - [[塩山芳明]]、[[漫画編集者]]
* 1953年 - [[中西弘明]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[布浦翼]]、[[漫画家]]
* [[1956年]] - [[増本宏]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[ジョニー・フィンガーズ]]、[[キーボーディスト]]
* [[1957年]] - [[綾戸智恵]]、歌手
* [[1958年]] - [[高沢秀昭]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[クリス・コロンバス]]、映画監督
* [[1960年]] - [[コリン・ファース]]、俳優
* [[1961年]] - [[栄村忠広]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[和泉実]]、高校野球指導者
* [[1962年]] - [[山下訓史]]、[[陸上競技]]選手
* [[1963年]] - [[ランディ・ジョンソン]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[雨蘭咲木子]]、声優
* [[1964年]] - [[水島武蔵]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* 1964年 - [[真田哲弥]]、実業家
* [[1966年]] - [[斉藤由貴]]、女優、[[歌手]]
* 1966年 - [[後藤敏博]]、元バスケットボール選手、指導者
* [[1967年]] - [[堀孝史]]、元サッカー選手、指導者
* 1967年 - [[西谷亮]]、ゲームデザイナー
* 1968年 - [[ガイ・リッチー]]、映画監督
* [[1969年]] - [[小原愼司]]、漫画家
* [[1971年]] - [[菊田早苗]]、[[総合格闘家]]
* 1971年 - [[櫻井智]]<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[オリコン・エンタテインメント|オリコン・ウィーク The Ichiban]]|issue=Vol.21(1999年3月29日号)|page=86|publisher=[[オリコン]]|date=1999-03}}</ref>、[[声優]]
* 1971年 - [[進藤晶子]]、[[アナウンサー]]
* [[1972年]] - [[有沢比呂子]]、女優(+ [[2015年]])
* [[1973年]] - [[倉本慎也]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[遊佐雅美]]、ライフセーバー
* [[1974年]] - [[ミルコ・クロコップ]]、元[[格闘技|格闘家]]
* 1974年 - [[川上アキラ]]、[[プロデューサー]]
* 1974年 - [[杉本なつみ]]、元アナウンサー
* [[1975年]] - [[山田暢久]]、元[[サッカー選手]]
* [[1976年]] - 加納孝政、歌手([[RAG FAIR]])
* 1976年 - [[信原拓人]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[ダニス・バエス]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[時天空慶晃]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄19代[[間垣]](+ [[2017年]])
* 1979年 - [[青木智史]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[西堀裕美]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]
* 1980年 - [[ティモシー・ゲーブル]]、元[[フィギュアスケート]]選手
<!-- 出典が不明 * 1980年 - [[猪楽桃]]、[[漫画家]] -->
* [[1981年]] - [[YAMATO (プロレスラー)|YAMATO]]、[[プロレスラー]]
* 1981年 - [[キャメロン・ロー]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[服部泰卓]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[ジョーイ・ボット]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[ジェレミー・トゥララン]]、サッカー選手
*[[1984年]] - TOMY、ミュージシャン([[Agitato]])
* 1984年 - [[若林翔子]]、女優、[[タレント]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1984年 - [[真堂圭]]、[[声優]]
* 1984年 - [[大前力也]] 、元[[プロキックボクサー]]([[Krush]])
* 1984年 - [[アンドリュー・ブラウン]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[ニール・ウォーカー (野球)|ニール・ウォーカー]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[上木彩矢]]、[[歌手]]
* 1985年 - [[久米勇紀]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[白井珠希]]、女優
* 1985年 - [[アンソニー・スウォーザック]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[松田翔太]]、俳優
* 1985年 - [[万波奈穂]]、囲碁棋士
* [[1986年]] - [[内博貴]]、[[タレント]]、歌手(元[[関ジャニ∞]]、元[[NEWS (グループ)|NEWS]])
* 1986年 - [[酒井藍]]、お笑いタレント
* 1986年 - [[上山竜治]]、俳優
* 1986年 - [[松林菜々見]]、[[レースクイーン]]
* [[1987年]] - [[阿井莉沙]]、女優、歌手(元[[Dream (音楽グループ)|dream]])
* 1987年 - [[谷村奈南]]、歌手
* 1987年 - [[ポール・ゴールドシュミット]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[徳島えりか]]、アナウンサー
* [[1989年]] - [[kento fukaya]]、お笑い芸人
* [[1990年]] - [[由良有里紗]]、タレント
* [[1991年]] - [[R-指定 (ラッパー)|R-指定]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]([[Creepy Nuts]])
* 1991年 - [[小野彩香]]、タレント、キャスター
* [[1992年]] - [[高山璃奈]]、女優
* 1992年 - 林田洋平、お笑い芸人([[ザ・マミィ]])
* [[1993年]] - [[西野友毬]]、元フィギュアスケート選手
* [[1995年]] - [[加藤茜]]、女優
* 1995年 - [[小代優華]]、元タレント
* 1995年 - [[笘篠和馬]]、俳優(元[[ジャニーズJr.]])
* [[1996年]] - 加納嘉将、アーティスト([[BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE]])
* 1996年 - [[松岡ななせ]]、歌手
* [[1997年]] - [[咲良菜緒]]、アイドル([[TEAM SHACHI]])
* 1997年 - [[安藤咲良]]、フリーアナウンサー
* [[1998年]] - [[菅大輝 (サッカー選手)|菅大輝]]、サッカー選手
* 1998年 - [[田中碧 (サッカー選手)|田中碧]]、サッカー選手
* 1998年 - [[菜波]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* 1998年 - [[新倉のあ]]、アイドル
* [[1999年]] - [[北村優衣]]、女優
* 1999年 - [[中原みなみ]]、[[テレビ東京のアナウンサー一覧|テレビ東京アナウンサー]]
* 1999年 - [[宮川紗江]]、[[体操競技]]選手
* [[2001年]] - [[中村歌之助]](4代目)、[[歌舞伎役者]]
* [[2002年]] - [[高尾奏音]]、声優(元[[アース・スター ドリーム]])
* 2002年 - [[金村美玖]]、アイドル([[日向坂46]])
* 2002年 - [[鈴の家りん]]、AV女優
* [[2003年]] - [[石川雷蔵]]、俳優
* [[2004年]] - [[木村聖哉]]、俳優
* [[2006年]] - [[細谷美月]]、ファッションモデル
* [[2011年]] - [[柊木陽太]]、俳優
* 生年不明 - [[植原みゆき]]、声優
* 生年不明 - [[織田芙実]]、声優
* 生年不明 - [[亀中理恵子]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://profile.ameba.jp/kamenokirakirasitai/ |title=かめなかりえこのプロフィール |accessdate=2021-01-08}}{{リンク切れ|date=2021年1月}}</ref>、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Fujiwara_no_Yoshino.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 貴族、[[藤原吉野]](左; 786-846)没
| image2 = Tomb_of_Emperor_Gonijo1.jpg
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| caption2 = [[後二条天皇]](1285-1308)没。画像は陵
}}
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| caption1 = 西フランク王[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]](920-954)没
| image2 = Louis_I_%28Heroes_Square%29.jpg
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| caption2 = ハンガリー王・ポーランド王、[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]](1326-1382)没
| image3 = Assassinat du duc de Bourgogne.png
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| caption3 = ブルゴーニュ公、「無怖公」[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](1371-1419)<!--、オルレアン公[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]暗殺の報復として-->暗殺される
| image4 = Federico_da_Montefeltro.jpg
| width4 = 80
| caption4 = ウルビーノ公[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]](1422-1482)没。[[ルネサンス]]文化を栄えさせた<!--。横顔で描かれているのは隻眼であったため-->
}}
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| image1 = Pier_Luigi_Farnese_di_Tiziano.jpg
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| caption1 = 初代パルマ公、[[ピエール・ルイージ・ファルネーゼ]](1503-1547)暗殺
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| caption2 = イングランド王妃、[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]](1609-1669)没
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| caption3 = オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]](1837-1898)没
| image4 = Fernando-I-bulgaria--innerhistoryofba00rankuoft.png
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| caption4 = ブルガリア王[[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]](1861-1948)没
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{{multiple image
| image1 = Emilie_du_Ch%C3%A2telet.jpg
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| caption1 = 数学者・物理学者[[エミリー・デュ・シャトレ]](1706-1749)、[[ヴォルテール]]の子を産んだ6日後に没
| image2 = George_Paget_Thomson.jpg
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| caption2 = 物理学者[[ジョージ・パジェット・トムソン]](1892-1975)没。[[電子]]の波動性を証明
| image3 = Felix_Bloch%2C_Stanford_University.jpg
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| caption3 = 物理学者[[フェリックス・ブロッホ]](1905-1983)没。[[核磁気共鳴画像法|MRI]]の基礎原理を構築
}}
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| image1 = Mary Wollstonecraft by John Opie (c. 1797).jpg
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| caption1 = [[フェミニズム]]の先駆者、[[メアリ・ウルストンクラフト]](1759-1797)没。{{Squote|世界に欠けているのは[[慈善]]ではなく、[[正義]]です。――『[[女性の権利の擁護]]』(1792)}}
| image2 = Y%C5%ABy%C5%AB_Kiry%C5%AB.jpg
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| caption2 = 反権力のジャーナリスト、[[桐生悠々]](1873-1941)没。{{Squote|敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである。――社説「関東防空大演習を嗤う」}}
| image3 = Koga_Harue_.jpg
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| caption3 = [[シュルレアリスム]]の画家、[[古賀春江]](1895-1933)没。画像は『煙火』(1927)
| image4 =HueyPLongGesture.jpg
| width4 = 100
| caption4 =当時アメリカ合衆国上院議員だった[[ヒューイ・ロング]] (1893-1935)、暗殺
{{Squote|我がアメリカ国民よ、私たちは政治の力を頑張る}}
}}
* [[846年]]([[承和 (日本)|承和]]13年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[藤原吉野]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[786年]])
* [[954年]] - [[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]]、[[西フランク王国|西フランク王]](* [[920年]])
* [[1145年]]([[久安]]元年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[藤原璋子]]、[[鳥羽天皇]]の[[中宮]](* [[1101年]])
* [[1167年]] - [[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の妃(* [[1102年]])
* [[1308年]]([[徳治]]3年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[後二条天皇]]、第94代[[天皇]](* [[1285年]])
* [[1382年]] - [[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](* [[1326年]])
* [[1418年]]([[応永]]25年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[斯波義重]]、[[室町時代]]の[[守護大名]](* [[1371年]])
* [[1419年]] - [[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1371年]])
* [[1482年]] - [[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]、[[コンドッティエーレ]]の隊長、[[ウルビーノ公国|ウルビーノ]]君主(* [[1422年]])
* [[1547年]] - [[ピエール・ルイージ・ファルネーゼ]]、[[パルマ公国|パルマ公]](* [[1503年]])
* [[1573年]]([[天正]]元年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[斎藤龍興]]、[[美濃国]]の[[戦国大名]](* [[1548年]])
* [[1607年]] - [[ルッツァスコ・ルッツァスキ]]、[[作曲家]](* [[1545年]]頃)
* [[1651年]]([[慶安]]4年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[由井正雪]]、[[軍事学者|軍学者]]、[[慶安の変]]首謀者(* [[1605年]])
* [[1669年]] - [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の妃(* [[1609年]])
* [[1749年]] - [[エミリー・デュ・シャトレ]]、[[数学者]]、[[物理学者]](* [[1706年]])
* [[1797年]] - [[メアリ・ウルストンクラフト]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Mary-Wollstonecraft Mary Wollstonecraft English author] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[思想|思想家]](* [[1759年]])
* [[1840年]]([[天保]]11年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[藤井高尚]]、[[国学者]]、[[歌人]]、[[神官]](* [[1764年]])
* [[1865年]] - [[クリスティアン・パンダー (動物学者)|クリスティアン・パンダー]]、[[動物学者]](* [[1794年]])
* [[1867年]] - [[ジーモン・ゼヒター]]、[[音楽理論|音楽理論家]]、[[教育者]]、作曲家(* [[1788年]])
* [[1870年]]([[明治]]3年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[横倉甚五郎]]、[[新選組]]隊士(* [[1834年]])
* [[1871年]](明治4年7月26日)- [[松平慶倫]]、[[津山藩|津山藩主]](* [[1827年]])
* [[1889年]] - [[シャルル3世 (モナコ大公)|シャルル3世]]、[[モナコ|モナコ大公]](* [[1818年]])
* [[1892年]] - [[志田林三郎]]、[[物理学者]]、[[電気工学|電気工学者]](* [[1855年]])
* [[1898年]] - [[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト皇后]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の皇后(* [[1837年]])
* [[1904年]] - [[レオ・スターン]]、[[チェリスト]](* [[1862年]])
* [[1905年]] - [[ピート・ブラウニング]]、プロ野球選手(* [[1861年]])
* [[1916年]] - [[フリードリヒ・ゲルンスハイム]]、[[作曲家]](* [[1839年]])
* [[1918年]] - [[カール・ペータース]]、[[探検家]]、[[ドイツ東アフリカ会社]]創設者(* [[1856年]])
* [[1926年]] - [[目賀田種太郎]]、枢密院顧問官、専修学校([[専修大学]])共同創設者(* [[1853年]])
* [[1931年]] - [[サルヴァトーレ・マランツァーノ]]、[[コーサ・ノストラ]]幹部(* [[1868年]])
* [[1933年]] - [[古賀春江]]、画家(* [[1895年]])
* [[1934年]] - [[ジョージ・ヘンシェル]]、[[音楽家]](* [[1850年]])
* [[1935年]] - [[ヒューイ・ロング]]、政治家、[[ルイジアナ州]]知事、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1893年]])
* [[1940年]] - [[山屋他人]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大将]](* [[1866年]])
* [[1941年]] - [[桐生悠々]]、[[ジャーナリスト]](* [[1873年]])
* [[1945年]] - [[ヴァイノ・ライティオ]]、作曲家(* [[1891年]])
* [[1947年]] - [[安達二十三]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中将]](* [[1890年]])
* [[1948年]] - [[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王]](* [[1861年]])
* [[1956年]] - [[ロバート・トランプラー]]、[[天文学者]](* [[1886年]])
* [[1961年]] - [[ヴォルフガング・フォン・トリップス]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1928年]])
* [[1971年]] - [[ピア・アンジェリ]]、[[俳優|女優]](* [[1932年]])
* [[1975年]] - [[ジョージ・パジェット・トムソン]]、[[物理学者]](* [[1892年]])
* 1975年 - [[ハンス・スワロフスキー]]、[[指揮者]]、[[教育者]](* [[1899年]])
* 1975年 - [[岩崎孝子]]、[[岩崎小弥太]]の妻(* [[1888年]])
* [[1976年]] - [[ダルトン・トランボ]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](* [[1905年]])
* [[1979年]] - [[アゴスティニョ・ネト]]、[[アンゴラの大統領一覧|アンゴラ大統領]](* [[1922年]])
* [[1983年]] - [[フェリックス・ブロッホ]]、物理学者(* [[1905年]])
* [[1984年]] - [[ジョルジュ・ド・ボールガール]]、[[映画プロデューサー]](* [[1920年]])
* [[1985年]] - [[エルンスト・エピック]]、天文学者(* [[1893年]])
* 1985年 - [[ジョック・ステイン]]、[[サッカー]]選手、指導者(* [[1922年]])
* [[1986年]] - [[島耕二]]、俳優、映画監督(* [[1901年]])
* [[1988年]] - [[五味芳夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1917年]])
* [[1991年]] - [[ジャック・クロフォード]]、[[テニス]]選手(* [[1908年]])
* [[1993年]] - [[ハナ肇]]、[[ミュージシャン]]、俳優(* [[1930年]])
* [[1994年]] - [[マックス・モーロック]]、テニス選手、指導者(* [[1925年]])
* [[1995年]] - [[鈴木章治]]、[[ジャズ]][[クラリネット]]奏者(* [[1932年]])
* 1995年 - [[高橋正雄 (経済学者)|高橋正雄]]、[[経済学者]](* [[1901年]])
* [[1996年]] - [[秋田貞夫]]、[[実業家|出版実業家]]、[[秋田書店]]の創立者(* [[1909年]])
* [[1997年]] - [[フリッツ・フォン・エリック]]、[[プロレスラー]](* [[1929年]])
* [[1999年]] - [[アルフレード・クラウス]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1927年]])
* 1999年 - [[ボー・ジョック]]、[[アコーディオン]]奏者、歌手(* [[1953年]])
* [[2001年]] - [[橘家文蔵 (2代目)|橘家文蔵]]、[[落語家]](* [[1939年]])
* [[2002年]] - [[帖佐美行]]、[[彫金|彫金家]](* [[1915年]])
* [[2003年]] - [[広田順]]、元プロ野球選手(* [[1925年]])
* [[2004年]] - [[倉田道夫]]、[[物理学者]](* [[1925年]])
* [[2005年]] - [[クラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウン]]、[[ギタリスト]]、歌手(* [[1924年]])
* [[2006年]] - [[タウファアハウ・トゥポウ4世]]、[[トンガ|トンガ王]](* [[1918年]])
* 2006年 - [[犬丸りん]]、[[漫画家]](* [[1958年]])
* [[2007年]] - [[ジェーン・ワイマン]]、女優(* [[1917年]])
* 2007年 - [[長船騏郎]]、[[全日本アマチュア野球連盟]]会長(* [[1924年]])
* 2007年 - [[アニータ・ロディック]]、[[実業家]]、[[ザ・ボディショップ]]創業者(* [[1942年]])
* [[2008年]] - [[ヴァーノン・ハンドリー]]、指揮者(* [[1930年]])
* [[2012年]] - [[松下忠洋]]、建設官僚、政治家、衆議院議員(5期)(* [[1939年]])
* [[2014年]] - [[リチャード・キール]]、[[俳優]](* [[1939年]])
* 2014年 - [[坂井義則]]、元[[陸上競技選手]]、元[[フジテレビ]]社員(* [[1945年]])
* [[2017年]] - [[諸口あきら]]、歌手、[[ラジオパーソナリティ]](* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[村上正邦]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200910-JOXO4ZPSUVJ6JBQMJM7GHQX3EU/|title=村上正邦・元自民党参院議員会長が死去|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-09-10|accessdate=2020-11-26}}</ref>、[[政治家]](* [[1932年]])
* [[2022年]] - [[高見のっぽ]]、俳優、作家(* [[1934年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
{{multiple image
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| caption2 = [[国の自殺率順リスト|世界の自殺率]](10万人あたり)。日本の自殺率は2009年現在25.8で世界5位
}}
{{multiple image
| footer = イギリスの海外領土、[[ジブラルタル]]の{{仮リンク|ナショナルデー (ジブラルタル)|en|Gibraltar National Day|label=ナショナルデー}}
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| image1 = LocationGibraltar.png
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| caption1 = ジブラルタルの位置
| image2 = Gibraltar_National_Day.jpg
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| caption2 = 祝典。2004年撮影
}}
{{multiple image
| footer = [[下水道]]の日
| image1 =
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| caption1 = [[古代ローマ]]の下水道、[[クロアカ・マキシマ]]
| image2 = Orfice.jpg
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| caption2 = 現代の下水道
}}
* [[二百二十日]]({{JPN}}・[[2012年]])
* [[片貝まつり]]({{JPN}})
** 毎年9月9日・9月10日に行われる[[新潟県]][[小千谷市]][[片貝町 (小千谷市)|片貝町]]にある[[浅原神社]]の秋季例大祭の俗称。
** 世界最大級の大きさである「正三尺玉」や「[[正四尺玉]]」([[ギネス世界記録|ギネスブック]]にも掲載されている)を日本で最初に打ち上げたことで有名であり、日本で唯一の「真昼の正三尺玉」も打ち揚げられ大玉が打ち上げられることで各方面に知られている。
* [[世界自殺予防デー]]
**[[世界保健機関]]と国際自殺防止協会が[[2003年]]に[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]で開催された世界自殺防止会議で、会議初日の9月10日を「第1回世界自殺防止の日」として制定した。自殺に対する注意・関心を喚起し、自殺防止のための行動を促進するのが目的。
* {{仮リンク|ナショナルデー (ジブラルタル)|en|Gibraltar National Day|label=ナショナルデー}}({{GIB}})
** [[1967年]]のこの日、[[イギリス]]の海外領土である[[ジブラルタル]]で、スペインに編入されるか、イギリス領に留まったまま高度な自治権を求めるかの住民投票<!-- [[en:Gibraltar sovereignty referendum, 1967]] -->が行われ、イギリス領に留まることが決定したことを記念。
* [[教師の日|教師節]]({{PRC}}・{{HKG}})
* [[下水道]]の日([[2001年]]までは全国下水道促進デー)({{JPN}})
** 下水道の整備の促進について人々の理解と協力を呼びかけようと、[[1961年]]に[[建設省]](現[[国土交通省]])が制定。この時期が[[立春]]から数えて220日目にあたる二百二十日で[[台風]]による水害が発生しやすい時期であるために、下水道をアピールするのに最適であるとしてこの時期が選ばれた。
* [[知的障害]]者愛護デー({{JPN}})
** 日本精神薄弱者福祉連盟(現在の日本知的障害福祉連盟)が[[1964年]]に「精神薄弱者愛護デー」として制定。
* [[屋外広告]]の日({{JPN}})
** [[1973年]]のこの日に屋外広告法が国会を通過したことを記念して、全日本屋外広告業団体連合会が翌[[1974年]]に制定。
* [[牛タン]]の日({{JPN}})
** 牛タン業界活性化を願い、仙台牛たん振興会が[[2006年]]から制定した記念日。牛(9)タン(10)の語呂合わせ。この日は加盟店などの牛タン定食が安くなる。<!-- 仙台の加盟店だけなら少々狭すぎる気も -->
* [[℃-ute]]の日({{JPN}})
** ℃-ute(キュート)の[[語呂合わせ]]で、[[2006年]]から毎年首都圏でイベントが行われている。[[2013年]]には、単独では初の[[日本武道館]]公演が行われた。一般社団法人日本記念日評議会に公式認定された記念日。現在グループは解散している。
* [[ナイトライダー]]の日({{JPN}})
** KNIGHTの語呂合わせで、[[2014年]]に「ナイトライダー コンプリート ブルーレイBOX」発表発売を記念し、一般社団法人日本記念日評議会に公式認定された記念日。
* [[カラーテレビ]]の日({{JPN}})
** 1960年のこの日、カラーテレビの本放送が[[日本放送協会|NHK]]([[NHK放送センター|東京]]・[[NHK大阪放送局|大阪]])と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[TBSホールディングス|ラジオ東京テレビ]](現:[[TBSテレビ]])・[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]](現:[[朝日放送テレビ]])で開始されたことに因む。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0910|date=2011年7月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1978年]] - [[水野亜美]](セーラーマーキュリー)、漫画・アニメ・映画『[[美少女戦士セーラームーン]]』やスピンオフ映画『[[亜美ちゃんの初恋]]』に登場するキャラクター<ref>『[[講談社コミックスなかよし]]』に連載。</ref>
* [[1989年]] - 桜野タズサ、小説、アニメ『[[銀盤カレイドスコープ]]』の主人公
* 生年不明 - [[ボーちゃん]]、漫画・アニメ『[[クレヨンしんちゃん]]』に登場するキャラクタ
* 生年不明 - 野田恵、漫画・アニメ・ドラマ『[[のだめカンタービレ]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/49754|title=名作漫画『のだめカンタービレ』はこの“汚部屋”写真から始まった|publisher=[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]|accessdate=2020-05-17}}</ref>
* 生年不明 - 凰生為人、漫画『[[天使とアクト!!]]』の主人公
* 生年不明 - [[BLEACHの登場人物#市丸ギン|市丸ギン]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2006|page=104|isbn=4-08-874079-3}}</ref>
* 生年不明 - 加藤奈津実、漫画・アニメ『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 瓶子吉久、漫画・アニメ『バクマン。』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 一条寺涼子、漫画・ドラマCD『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=鳴見なる|authorlink=鳴見なる|title=東京★イノセント|volume=4巻|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ガンガンウイングコミックス]]|year=2008|page=70|isbn=978-4-7575-2286-2}}</ref>
* 生年不明 - 佐々木千穂、小説・漫画・アニメ『[[はたらく魔王さま!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 砂木沼治、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22|url=https://corocoro.jp/special/68074/2/|title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!!|website=コロコロオンライン|publisher=[[小学館]]|page=2|accessdate=2022-05-05}}</ref>
* 生年不明 - 月満伊檻、漫画・アニメ『[[SERVAMP-サーヴァンプ-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[シェン・ウー]]、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 滝澤政道、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2013|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879652-9|date=|volume=9巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#ベテラントレーナー|青木聖]]、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[ときめきメモリアル2の登場人物|一文字茜]]、ゲーム『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 辰野俊子、漫画・アニメ『[[それでも町は廻っている]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ひしぎ、漫画・アニメ『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 御堂まどか、小説・アニメ『[[それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 沢井麻耶、ゲーム・アニメ『[[D.C.II ~ダ・カーポII~]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ラブリっち(ラブリン)、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>[[講談社]](編)『Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド』講談社、2010年、42頁。{{ISBN2|978-4-06-364814-0}}</ref><ref>[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)『テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん』[[小学館]]、2011年、2頁、34頁。{{ISBN2|978-4-09-751048-2}}</ref>
* 生年不明 - 片瀬真宵、漫画・アニメ『[[あっちこっち]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 伏見真姫奈、ゲーム『[[E×E]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 宗谷雪、小説・漫画・アニメ『[[大正野球娘。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 坂上芽衣、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/sakagami|publisher=八月のシンデレラナイン公式サイト|title=坂上 芽衣|キャラクター|accessdate=2022-09-10}}</ref>
* 生年不明 - 龍門渕透華、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=咲 Saki ラブじゃん♥ マホちゃんの必殺技完成!|publisher=スクウェア・エニックス|year=2010|page=68|isbn=978-4-7575-2634-1}}</ref>
* 生年不明 - 入江小凪、漫画・アニメ『[[あっくんとカノジョ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 有川かぐや、漫画・アニメ『[[ひめゴト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=佃煮のりお|authorlink=佃煮のりお|year = 2014 |title = ひめゴト |volume = 2 |page=140|publisher = 一迅社 |isbn = 978-4-7580-1368-0 }}</ref>
* 生年不明 - 重藤秋穂、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 彩弧由貴、漫画・アニメ『[[サイレントメビウス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アルタイル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=11&cate=name&cont=Altair |title=アルタイル |access-date=2022-07-14 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 熊猫リン、アニメ『[[トミカ絆合体 アースグランナー]]』に登場するキャラクター<ref>第42話の熊猫カケルの台詞より</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|September 10|10 September}}
{{新暦365日|9|9|9|11|[[8月10日]]|[[10月10日]]|[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]|0910|9|10}}
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== できごと ==
[[ファイル:Texas_proposed_boundaries.svg|thumb|[[1850年協定]]、[[テキサス州]]が1000万ドルで領土(図の"claim")をを得る。|180x180px]]
[[ファイル:Berne_Convention_signatories.svg|thumb|[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]](1886)。画像は2009年現在の加盟国|180x180px]]
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| footer = [[エドワード・エマーソン・バーナード]]、[[木星]]の衛星[[アマルテア (衛星)|アマルテア]]を発見(1892)
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| caption2 = [[ポーランド侵攻]]、{{仮リンク|ブズラの戦い|en|Battle of the Bzura}}はじまる(1939)
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| caption1 = [[アメリカ本土空襲]](1942)。画像は空襲に使用された[[零式小型水上偵察機]]
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| caption1 = 原子力ミサイル巡洋艦[[ロングビーチ (原子力ミサイル巡洋艦)|ロングビーチ]]竣工(1961)
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| alt2 = 戦車レオパルト1
| caption2 = ドイツ連邦軍への戦車[[レオパルト1]]の配備開始(1965)
}}
[[ファイル:1000000000seconds.jpg|thumb|180x180px|[[UNIX時間]]が10桁となることに伴う[[2001年9月9日問題]]が発生]]
* [[587年]](崇峻天皇元年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - 第32代天皇・[[崇峻天皇]]が即位。
* [[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[大宝律令]]が完成<ref>{{Cite web |url=https://tabi-mag.jp/na0080/ |title=文武天皇陵 |access-date=10 Oct 2023 |publisher=一般社団法人プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
* [[999年]]([[長保]]元年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[長保元年令]]が発令される。
* [[1513年]] - [[カンブレー同盟戦争]]: {{仮リンク|フロドゥンの戦い|en|Battle of Flodden Field}}。[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]が[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|ノーフォーク公]]に敗れ戦死。
* [[1543年]] - 生後9か月のスコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]が戴冠。
* [[1547年]]([[天文 (元号)|天文]]16年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[小田井原の戦い]]がはじまる。
* [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[江戸幕府]]が[[禁中並公家諸法度]]を発布する。
* [[1720年]]([[享保]]5年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - 江戸幕府が江戸町[[火消]]を「いろは47組」に再編成。
* [[1739年]] - {{仮リンク|ストーノ暴動|en|Stono Rebellion}}。アメリカ・[[サウスカロライナ植民地]]の黒人[[奴隷]]集団がストーノで武器を奪ってフロリダに向けて出発し、道中で白人を殺害。
* [[1791年]] - [[ポトマック川]]北岸に建設された[[アメリカ合衆国]]の[[首都]]が[[ジョージ・ワシントン|ワシントン]]大統領に敬意を表して[[ワシントンD.C.|ワシントン市]]と命名される。
* [[1850年]] - [[1850年協定]]: [[テキサス州]]が領有を主張する土地を手放す代わりに1000万ドルを受け取る。カリフォルニアが州に昇格して、アメリカ合衆国31番目の州になる。[[ユタ準州]]が成立する。
* [[1871年]] - [[江戸城]]本丸跡に[[午砲台]]が設置。毎日正午に[[午砲]]が鳴らされることとなった(1929年4月30日まで)<ref>お昼のドンに代わって登場『東京日日新聞』昭和4年5月1日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p152 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1884年]] - [[エリック・サティ]]が処女作品『[[アレグロ]]』を完成させる。
* [[1886年]] - [[スイス]]の[[ベルン]]で[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]が成立<ref>{{Cite web |url=https://www.wipo.int/wipolex/en/text/283698 |title=BERNE CONVENTION FOR THE PROTECTION OF LITERARY AND ARTISTIC WORKS |access-date=27 Mar 2023 |publisher=WIPO}}</ref>。
* [[1892年]] - [[エドワード・エマーソン・バーナード]]が[[木星]]の[[衛星]][[アマルテア (衛星)|アマルテア]]を発見する<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/57164?page=1&imp=0 |title=9月9日 木星の第5衛星が発見される(1892年) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[講談社]] |website=サイエンス365days |date=9 Sep 2018}}</ref>。
* [[1922年]] - [[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]: [[トルコ]]軍が[[ギリシャ]]の[[イズミル]]を占領。
* [[1923年]] - [[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]が[[共和人民党]]を創設。
* [[1927年]] - [[秋収起義]]起こる。
* [[1934年]] - [[石川県]][[大聖寺町]]で大火。約340戸の家屋が全半焼したほか町役場、小学校、裁判所出張所なども焼失した<ref>大聖寺町の大火、三百四十戸を全半焼『大阪毎日新聞』昭和9年9月10日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p1 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1939年]] - [[ポーランド侵攻]]: 第2次[[ビドゴシチ住民殺害事件]]が起こる。
* 1939年 - ポーランド侵攻: {{仮リンク|ブズラの戦い|en|Battle of the Bzura}}はじまる。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[アメリカ本土空襲]]。日本軍が[[オレゴン州]]の森林部に2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼。
* [[1944年]] - {{仮リンク|ブルガリアのクーデター (1944)|en|Bulgarian coup d'état of 1944}}: [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]で[[クーデター]]が起こり[[枢軸国]]から離脱する。
* [[1945年]] - [[日中戦争]]: 中国大陸の[[支那派遣軍]]総司令官[[岡村寧次]]大将が[[南京]]で降伏文書に署名し[[無条件降伏]]。日中戦争が終結。
* [[1948年]] - ソ連による朝鮮の占領が終了し、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)が成立。
* [[1949年]] - [[カナディアン航空機爆破事件]]が起こる。
* [[1950年]] - [[鳴尾事件]]が起こる。
* [[1956年]] - [[エルヴィス・プレスリー]]が[[エド・サリヴァン・ショー]]に初出演し、[[視聴率]]82.6 [[パーセント|%]]を記録する。
* [[1961年]] - [[アメリカ海軍]]の[[ミサイル巡洋艦]]「[[ロングビーチ (原子力ミサイル巡洋艦)|ロングビーチ]]」が竣工する。
* [[1964年]] - [[池田勇人]]首相が[[喉頭癌]]の治療のため[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]に入院。[[10月25日]]に退陣を表明。
* [[1965年]] - [[アメリカ合衆国住宅都市開発省]]設立。
* 1965年 - [[ドイツ連邦軍]]への[[レオパルト1]]戦車の配備がはじまる。
* [[1971年]] - [[アッティカ刑務所暴動]]が発生する。
* [[1975年]] - [[宇宙開発事業団|旧宇宙開発事業団(NASDA)]]初の人工衛星・技術試験衛星「[[きく1号]]」を打上げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=its502-04-1kiku01&d=d4_museum |title=実物大人工衛星がずらり=筑波宇宙センター特集 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[時事通信社]] |website=JIJI.COM}}</ref>。
* [[1977年]] - [[北京]]の[[天安門広場]]に[[毛主席紀念堂]]が竣工する。
* [[1982年]] - [[長沼ナイキ事件|長沼ナイキ訴訟]]で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が原告住民の上告を棄却。
* [[1987年]] - [[首都高速川口線]]・江北[[ジャンクション (道路)|JCT]] - 川口JCT、[[東北自動車道]]・川口JCT - 浦和[[インターチェンジ|IC]]が開通。東北自動車道が全線開通し、青森から八代までの約2000kmが高速道路でつながる。
* [[1988年]] - [[篠崎ポンプ所女性バラバラ身元不明殺人事件]]が、被害者の遺体発見により発覚する。
* [[1991年]] - [[タジキスタン]]が[[ソビエト連邦]]から独立。
* [[1993年]] - [[パレスチナ解放機構]] (PLO) が[[イスラエル国]]を公式に[[国家の承認|承認]]。翌日、イスラエルもPLOを承認。
* [[1996年]] - [[柴又女子大生放火殺人事件|柴又三丁目女子大生殺人]]発生<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/jiken_jiko/ichiran/ichiran_10/kameari.html |title=柴又三丁目女子大生殺人 放火事件 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[警視庁]]}}</ref>。
* [[1997年]] - 北朝鮮で[[金日成]]の生年[[1912年]]を[[紀元]]とする[[主体暦]]の使用を開始。
* [[2001年]] - [[アフガニスタン]]・[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]の指導者[[アフメッド・シャー・マスード]]が暗殺される。
* 2001年 - [[2001年9月9日問題]]。コンピュータ内部で使用している1970年1月1日0時からの経過秒数([[UNIX時間]])が10桁になり、一部のシステムで障害が出る。
* [[2004年]] - [[豊明母子4人殺害事件]]: [[愛知県]][[豊明市]]沓掛町の民家で母子4人が殺害され、家が放火される事件が発生。発生19年後の[[2023年]]9月時点でも[[未解決事件|未解決]]となっている。
* [[2007年]] - [[スカンジナビア航空1209便胴体着陸事故]]が起こる。
* [[2009年]] - [[アエロメヒコ航空576便ハイジャック事件]]が起こる。
* [[2015年]] - [[平成27年9月関東・東北豪雨|関東・東北豪雨]]が起きる<ref>{{Cite web|和書|date=17 Nov 2015 |url=https://www.bousai.go.jp/fusuigai/suigaiworking/pdf/dai1kai/siryo1.pdf |title=平成27年9月関東・東北豪雨災害の概要 |publisher=[[内閣府]]防災情報 |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>。
* [[2016年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[北朝鮮の核実験 (2016年9月)|核実験]]を強行<ref>{{Cite web|和書|date=9 Sep 2016 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2016/09/09/0200000000AJP20160909001400882.HTML |title=北朝鮮 「核実験の可能性高い」=韓国政府筋 |publisher=[[聯合ニュース]] |accessdate=28 Mar 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160913011056/http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2016/09/09/0200000000AJP20160909001400882.HTML |archive-date=13 Sep 2016}}</ref>。
* [[2017年]] - [[桐生祥秀]]が、日本選手で初めて[[100メートル競走|100m走]]の[[10秒の壁]]を破る9秒98を記録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/1885409.html |title=桐生祥秀H29年9月9日に9秒台 世界歴代99位 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=9 Sep 2017}}</ref>。
* [[2019年]] - 千葉県に上陸した[[令和元年房総半島台風|台風15号]]が、記録的な暴風などで8万2000棟を超える住宅に被害を及ぼし、12人がこの台風に関連して死亡した<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/005/45 |title=千葉台風15号(2019)から3年 復旧は? 停電の教訓模索の動きも |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] 千葉放送局 |date=5 Sep 2022}}</ref>。
* [[2020年]] - 地方銀行などに預けられていた預金が、[[NTTドコモ]]の電子決済サービス「[[ドコモ口座]]」を使って不正に引き出されていた問題で、NTTドコモが、ドコモ口座の新規登録を停止すると発表<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASN997DLFN99ULFA00K.html |title=ドコモ口座、新規登録を停止へ 警察が捜査を開始 |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=9 Sep 2020}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{multiple image
| image1 = Santa_Giulia_4.jpg
| width1 = 90
| caption1 = ローマ帝国皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]](214-275)誕生。3分裂していたローマ帝国を統一
| alt1 = ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス
| image2 = Honorius_steel_engraving.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 西ローマ帝国最初の皇帝[[ホノリウス]](384-423)誕生。暗君であった
| alt2 = ホノリウス
}}
[[ファイル:Ashikaga_Yoshitane_statue.jpg|thumb|室町幕府第10代将軍、[[足利義稙]](1466-1523)|180x180px]]
{{multiple image
| image1 = Cardinal_Richelieu_%28Champaigne%29.jpg
| width1 = 90
| caption1 = フランスの宰相[[リシュリュー]](1585-1642)誕生。[[絶対王政]]の基礎を築く。
| alt1 = リシュリュー
| image2 = Brentano2.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 作家[[クレメンス・ブレンターノ]](1778-1842)
| alt2 = クレメンス・ブレンターノ
}}
{{multiple image
| footer = 作家[[レフ・トルストイ]](1828-1910)。右画像は『アンナ・カレーニナ』挿絵。
| image1 = Count_Tolstoy%2C_with_hat.jpg
| width1 = 90
| alt1 = レフ・トルストイ
| image2 = Anna Karenina Wrubel.jpg
| width2 = 90
| alt2 = 『アンナ・カレーニナ』挿絵
}}
{{multiple image
| image1 = Colonel Harland Sanders in character.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[ケンタッキーフライドチキン]]創業者[[カーネル・サンダース]](1890-1980)
| alt1 = カーネル・サンダース
| image2 = Princess_Chichibu_Setsuko.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[雍仁親王妃勢津子]](1909-1995)
| alt2 = 雍仁親王妃勢津子
}}
{{multiple image
| image1 = Elvin_Jones_3.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[ジャズドラム|ジャズ・ドラマー]]、[[エルビン・ジョーンズ]](1927-2004)
| image2 = MichaelBubleSmileeb2011.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[シンガーソングライター]]、[[マイケル・ブーブレ]](1975-)
}}
* [[384年]] - [[ホノリウス]]、西ローマ皇帝(+ [[423年]])
* [[1466年]]([[文正]]元年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]) - [[足利義稙]](義材)、[[室町幕府]]第10代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1523年]])
* [[1585年]] - [[リシュリュー]]<ref>{{Cite web |title=Armand-Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu {{!}} French cardinal and statesman |url=https://www.britannica.com/biography/Armand-Jean-du-Plessis-cardinal-et-duc-de-Richelieu |website=Britannica |access-date=28 Mar 2023}}</ref>、[[フランス王国|フランス]]宰相(+ [[1642年]])
* [[1618年]] - [[ジョアン・セレロールス]]、[[作曲家]]、[[ベネディクト会]][[修道士]](+ [[1676年]])
* [[1704年]] ([[宝永]]元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]])- [[酒井忠寄]]、[[庄内藩]]第5代藩主 (+ [[1766年]])
* [[1737年]] - [[ルイージ・ガルヴァーニ]]、[[医学者]]、[[物理学者]](+ [[1798年]])
* [[1751年]]([[宝暦]]元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[上杉治憲|上杉鷹山]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://oumei-forum.tokai-arts.jp/senjin/youzann/ |title=上杉鷹山 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[東海市]] 嚶鳴協議会}}</ref>、[[大名]]、[[米沢藩]]第9代藩主(+ [[1822年]])
* [[1778年]] - [[クレメンス・ブレンターノ]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1842年]])
* [[1825年]] ([[文政]]8年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]])- [[佐竹義堯]]、[[久保田藩]]第12代藩主・[[侯爵]] (+ [[1884年]])
* [[1828年]] - [[レフ・トルストイ]]、小説家(+ [[1910年]])
* [[1850年]] ([[嘉永]]3年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]])- [[中川久成]]、[[岡藩]]第13代藩主・[[伯爵]] (+ [[1897年]])
* [[1854年]](嘉永7年閏[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[山川健次郎]]、[[教育者]](+ [[1931年]])
* [[1857年]] - [[アブナー・ダルリンプル]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1939年]])
* [[1866年]] - [[ロジャー・フライ]]、画家、芸術批評家(+ [[1934年]])
* [[1877年]] - [[フランク・チャンス]]、元プロ野球選手(+ [[1924年]])
* [[1878年]] - [[セルヒオ・オスメニャ]]、第4代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](+ [[1961年]])
* 1878年 - [[酒井田柿右衛門]]〈12代目〉、陶芸家(+ [[1963年]])
* [[1886年]] - [[ドッツ・ミラー]]、プロ野球選手(+ [[1923年]])
* [[1890年]] - [[カーネル・サンダース]]、[[KFCコーポレーション|ケンタッキーフライドチキン]]創業者(+ [[1980年]])
* 1898年 - [[フランキー・フリッシュ]]、元プロ野球選手(+ [[1973年]])
* [[1899年]] - [[ウェイト・ホイト]]、元プロ野球選手(+ [[1984年]])
* [[1902年]] - [[坪井忠二]]、[[地球物理学|地球物理学者]](+ [[1982年]])
* [[1909年]] - [[雍仁親王妃勢津子]]、[[皇族]](+ [[1995年]])
* [[1911年]] - [[吉村公三郎]]、[[映画監督]](+ [[2000年]])
* [[1914年]] - [[金子裕 (野球)|金子裕]]、元プロ野球選手(+ 没年不明)
* [[1915年]] - [[塩田剛三]]、武道家、[[養神館合気道]]開祖(+ [[1994年]])
* [[1917年]] - [[比留木虎雄]]、元プロ野球選手
* 1917年 - [[釣常雄]]、元プロ野球選手(+ [[1996年]])
* [[1918年]] - [[高橋圭三]]、[[アナウンサー]]、[[政治家]](+ [[2002年]])
* [[1922年]] - [[森雅功]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1923年]] - [[岩河三郎]]、作曲家(+ [[2013年]])
* [[1924年]] - [[永井陽之助]]、[[政治学者]](+ [[2008年]])
* 1924年 - [[荻島秀夫]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* 1924年 - [[渡辺一衛 (野球)|渡辺一衛]]、元プロ野球選手
* [[1927年]] - [[エルビン・ジョーンズ]]、[[ジャズ]][[ドラマー]](+ [[2004年]])
* [[1928年]] - [[ソル・ルウィット]]、[[美術家]](+ [[2007年]])
* [[1932年]] - [[小室直樹]]、政治学者、[[社会学者]](+ [[2010年]])
* [[1933年]] - [[若林克彦 (技術者)|若林克彦]]、[[発明家]]、[[実業家]]
* [[1934年]] - [[小中陽太郎]]、[[作家]]、[[評論家]]
* [[1935年]] - [[平井道子]]<ref>{{Kotobank|平井道子}}</ref>、[[俳優|女優]]、[[声優]](+ [[1984年]])
* 1935年 - [[兼田敏]]、作曲家(+ [[2002年]])
* 1935年 - [[小川滋夫]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[村上陽一郎]]、科学史家、科学哲学者、東京大学名誉教授、 [[国際基督教大学]]教授
* [[1941年]] - [[ゆうき哲也]]、[[俳優]]、お笑いタレント(元[[チャンバラトリオ]] )(+ [[2021年]])
* 1941年 - [[安田祥子]]、[[声楽家]]、[[童謡]][[歌手]]
* 1941年 - [[オーティス・レディング]]、[[ソウルミュージック|ソウル・ミュージシャン]](+ [[1967年]])
* [[1945年]] - [[福岡政行]]、政治学者
* [[1946年]] - [[谷隼人]]、俳優
* [[1947年]] - [[弘兼憲史]]、[[漫画家]]
* 1947年 - [[本田明彦]]、実業家
* 1947年 - [[道浦母都子]]、[[歌人]]
* [[1949年]] - [[ジェイムズ・バーンズ (作曲家)|ジェイムズ・バーンズ]]、作曲家
* 1949年 - [[ジョン・カリー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1994年]])
* [[1951年]] - [[太田秀和]]、実業家
* 1951年 - [[岡持和彦]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[マニュエル・ゲッチング]]、[[ミュージシャン]]
* [[1955年]] - [[倉本昌弘]]、[[プロゴルファー]]
* [[1956年]] - [[村上之宏]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[和田源二]]、元アナウンサー
* [[1957年]] - [[ピエール=ローラン・エマール]]、[[ピアニスト]]
* [[1958年]] - [[長江英和]]、俳優
* [[1959年]] - [[宮本賢治]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[JOJO広重]]、ギタリスト([[非常階段 (バンド)|非常階段]])
* [[1960年]] - [[梅原克文]]、小説家
* 1960年 - [[ヒュー・グラント]]、俳優
* 1960年 - [[アルビン・デービス]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[斧アツシ]]、声優
* [[1962年]] - [[小林俊行]]、[[数学者]]
* 1962年 - [[高杢禎彦]]、俳優、[[タレント]] (元[[チェッカーズ]])
* 1962年 - [[瀧本寛]]、[[文部科学省|文部科学]][[官僚]]
* [[1964年]] - [[柴山薫]]、漫画家(+ [[2007年]])
* [[1965年]] - [[有賀さつき]]、フリーアナウンサー(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/02/05/kiji/20180205s00041000222000c.html |title=有賀さつきさん父 病院からの連絡で知る「まったく予想外でした」 |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=5 Feb 2018}}</ref>)
* 1965年 - [[林哲雄]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[中沢慶子]]、元[[AV女優]]
* 1965年 - [[キンバリー・ヤング]]、[[心理学者]](+ [[2019年]])
* [[1966年]] - [[アダム・サンドラー]]、俳優
* 1966年 - [[トミー・ゲレロ]]、スケートボーダー、ミュージシャン
* [[1967年]] - [[有賀照人]]、漫画家
* 1967年 - [[坂本慎太郎]]、ミュージシャン(元[[ゆらゆら帝国]])
* 1967年 - [[小森哲也]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[樋口一紀]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[山本志保]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[1969年]] - [[野林大樹]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[中山祐一朗]]、俳優
* 1970年 - [[東野智弥]]、バスケットボール指導者
* 1970年 - [[サシャ・ピート]]、音楽プロデューサー、ギタリスト
* 1970年 - [[ダン・ミセリ]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[TAKUYA]]、ミュージシャン(元[[JUDY AND MARY]])
* 1971年 - [[ロビンソン・チェコ]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[グルクンマスク]]、プロレスラー
* [[1972年]] - [[重松朋]]、声優
* 1972年 - [[マイク・ハンプトン]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[石井一久]]、元プロ野球選手、[[ゼネラルマネージャー|GM]]、監督
* [[1974年]] - [[葛西純]]、[[プロレスラー]]
* [[1975年]] - [[SILVA]]、[[シンガーソングライター]]
* 1975年 - [[まゑだコーキ]]、[[演出家]]
* 1975年 - [[ショーン・ニコルス]]、俳優、タレント
* 1975年 - [[清水章夫]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[マイケル・ブーブレ]]、[[歌手]]
* 1975年 - [[萩原多賀彦]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[ドロタ・シュデク]]、フィギュアスケート選手
* [[1976年]] - [[松風雅也]]、俳優、声優
* 1976年 - [[牧島有希]]、声優
* [[1977年]] - [[坪倉由幸]]、お笑いタレント([[我が家]])
* 1977年 - [[堤下敦]]、お笑いタレント([[インパルス (お笑いコンビ)|インパルス]])
* 1977年 - [[アンディ・アティング]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[和田三四郎]]、俳優
* [[1980年]] - [[酒井若菜]]、女優、タレント
* [[1981年]] - [[李承浩]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[川島亮]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[大塚愛]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1983年]] - 吉田結威、ミュージシャン([[吉田山田]])
* 1983年 - [[キム・ジョンファ]]、女優
* 1983年 - [[金城大和]]、俳優
* 1983年 - [[アレックス・ロメロ]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[カイル・デイビーズ]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[菊地正法]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[谷桃子 (タレント)|谷桃子]]、元[[グラビアアイドル]]、元タレント
* 1984年 - [[ブレット・ピル]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[山木正博]]、[[野球選手]]
* 1984年 - [[ブラッド・グザン]]、[[サッカー選手]]
* [[1985年]] - [[たしろさやか]]、グラビアアイドル
* 1985年 - [[J・R・スミス]]、プロバスケットボール選手
* 1985年 - [[篠宮沙絵子]]、声優
* 1985年 - [[山中浩史]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[ルカ・モドリッチ]]、サッカー選手
* [[1986年]] - [[小澤絵理菜]]、タレント
* 1986年 - [[クルト・スミス]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[マイケル・ボウデン]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[室谷香菜子]]、アナウンサー
* [[1987年]] - [[井端珠里]]、女優
* 1987年 - 美意識タカシ、お笑いタレント([[メタルラック (お笑いコンビ)|メタルラック]])
* 1987年 - [[ユージ]]、タレント、[[ファッションモデル]]
* 1987年 - [[クエンティン・デクーバ]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[アレクサンドル・ソング]]、サッカー選手
* 1987年 - [[佐々木左之介]]、プロボクサー、歌手、俳優
* [[1988年]] - [[加隈亜衣]]、声優
* 1988年 - [[清水理沙]]、女優、声優
* 1988年 - [[下野佐和子]]、元プロレスラー
* 1988年 - [[中村静香]]、女優
* 1988年 - [[ウィル・ミドルブルックス]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ミリアン・サムソン]]、フィギュアスケート選手
* [[1989年]] - [[アンソニー・ラナウド]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[石崎剛]]、プロ野球選手
* [[1991年]] - [[オスカル・ドス・サントス・エンボアバ・ジュニオール|オスカル]]、サッカー選手
* 1991年 - 中田和伸、お笑いタレント([[さすらいラビー]])
* [[1992年]] - [[飯田友子]]、声優
* 1992年 - [[柴田平美]]、アナウンサー
* 1992年 - [[宮城夏実]]、ファッションモデル
* 1992年 - [[山﨑福也]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[渡辺はるか]]、声優
* [[1993年]] - [[王柏融]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[加藤凌平]]、体操選手
* [[1994年]] - [[高橋花林]]、声優
* 1994年 - [[豊川雄太]]、サッカー選手
* 1994年 - [[木乃伊みさと]]、アイドル([[ゑんら]])
* 1994年 - [[坂本光士郎]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[三田麻央]]、タレント(元[[NMB48]])
* 1995年 - [[小園凌央]]、俳優
* 1995年 - [[畝章真]]、元プロ野球選手
* [[1996年]] - 秋元瑠海、アイドル([[callme]])
* 1996年 - [[荒井健太郎]]、俳優、タレント
* [[1997年]] - [[日向ななみ]]、女優
* 1997年 - [[宮前杏実]]、女優、アイドル(元[[SKE48]])
* 1997年 - [[渡辺健史]]、元プロ野球選手
* 1997年 - [[ビニ]]、歌手、ダンサー([[OH MY GIRL]])
* [[1998年]] ‐ [[坂元葉月]]、アイドル(元[[わーすた]])
* 1998年 - [[小沢光葵]]、[[TBSのアナウンサー一覧|TBSアナウンサー]]
* [[1999年]] - [[会沢紗弥]]、声優、歌手
* 1999年 - [[龍 (ダンサー)|龍]]、[[パフォーマー]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]])
* [[2000年]] - キム・ジュンギュ、アイドル([[TREASURE (音楽グループ)|TREASURE]])
* [[2002年]] - [[ソン・ドンピョ]]、アイドル([[MIRAE]]、元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* 生年不明 - [[亜波智子]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rme.jp/talent/women/tomoko-anami.html |title=亜波 智子 |publisher=RME |accessdate=27 Mar 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120924075812/http://www.rme.jp/talent/women/tomoko-anami.html |archivedate=24 Sep 2012}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[佐々木啓夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.81produce.co.jp/dcms_plusdb/index.php/item?cell003=さ行&label=1&cell004=&name=佐々木%E3%80%80啓夫&id=53 |title=佐々木 啓夫 |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[81プロデュース|81PRODUCE Co.,Ltd.]]}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[佳穂成美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=12957 |title=佳穂 成美 |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[俳協]]}}</ref>、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = William1.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 英国王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](1027-1087)
| image2 = James_IV_of_Scotland.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]](1473-1513)
}}
[[ファイル:IPPEN.JPG|thumb|[[時宗]]の開祖[[一遍]](1239-1289)|180x180px]]
{{multiple image
| footer = 画家[[ピーテル・ブリューゲル]](1525もしくは30-1569)没。右画像は『[[バベルの塔]]』(1563頃)
| image1 = Petro_Bruegel_Pictori.png
| width1 = 70
| alt1 = ピーテル・ブリューゲル
| image2 = Brueghel-tower-of-babel.jpg
| width2 = 110
| alt2 = 『バベルの塔』
}}
{{multiple image
| image1 = Ikukunitama-jinja_Ihara_Saikaku.jpg
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| alt1 = 井原西鶴
| caption1 = [[浮世草子]]作者[[井原西鶴]](1642-1693)
| image2 = Portrait_of_St%C3%A9phane_Mallarm%C3%A9_%28Manet%29.jpg
| width2 = 110
| alt2 = ステファヌ・マラルメの肖像
| caption2 = 詩人[[ステファヌ・マラルメ]](1842-1898)。画像は[[エドゥアール・マネ|マネ]]画マラルメの肖像(1876年)
}}
{{multiple image
| footer =[[アール・ヌーヴォー]]の建築家、[[ヴィクトール・オルタ]](1861-1947)没。右画像は[[オルタ邸]]の階段
| image1 = Victor_Horta.jpg
| width1 = 120
| alt1 = ヴィクトール・オルタ
| image2 = HortaELWI.jpg
| width2 = 60
| alt2 = オルタ邸の階段
}}
{{multiple image
| image1 = Bundesarchiv_Bild_146-1971-021-04%2C_Ludwig_Joseph_Brentano.jpg
| width1 = 60
| caption1 = 経済学者[[ルヨ・ブレンターノ]](1844-1931)
| image2 = Mausoleum_of_Mao_Zedong_P1090218.jpg
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| caption2 = 中国共産党主席[[毛沢東]](1893-1976)が祀られる[[毛主席紀念堂]]
}}
{{multiple image
| image1 = Edward_Teller_After_Dark_3rd_July_1987.JPG
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| caption1 =「[[水素爆弾|水爆]]の父」、物理学者[[エドワード・テラー]](1908-2003)
| image2 = Samuel_Kanyon_Doe.jpg
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| caption2 = [[リベリア]]第21代大統領[[サミュエル・ドウ]](1951-1990)
}}
* [[1000年]] - [[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]、[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]](* [[960年代]])
* [[1087年]] - [[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]、[[イングランド王国|イングランド]]の[[ノルマン朝]]の開祖 (* [[1027年]])
* [[1289年]]([[正応]]2年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - [[一遍]]、[[僧]]、[[時宗]]開祖(* [[1239年]])
* [[1487年]]([[成化]]23年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[成化帝]]、[[明]]の第9代[[皇帝]](* [[1447年]])
* [[1513年]] - [[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]、[[スコットランド王国|スコットランド王]](* [[1473年]])
* [[1569年]] - [[ピーテル・ブリューゲル]]、[[画家]](* [[1525年]]頃)
* [[1596年]] - [[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]、[[ポーランド王国|ポーランド女王]](* [[1523年]])
* [[1606年]] - [[レオンハルト・レヒナー]]、作曲家(* [[1553年]])
* [[1612年]]([[慶長]]17年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[中川秀成]]、[[武将|戦国武将]]、[[岡藩|岡藩主]](* [[1570年]])
* [[1691年]](元禄4年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[熊沢蕃山]]、[[陽明学者]](* [[1619年]])
* [[1693年]]([[元禄]]6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[井原西鶴]]、[[浮世草子]]・[[文楽|人形浄瑠璃]][[作家]](* [[1642年]])
* [[1741年]]([[寛保]]元年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]]) - [[色部安長]]、[[米沢藩]][[江戸]][[家老]](* [[1664年]])
* [[1806年]] - [[ウィリアム・パターソン (法律家)|ウィリアム・パターソン]]、[[アメリカ合衆国憲法]]署名者(* [[1745年]])
* [[1815年]] - [[ジョン・シングルトン・コプリー]]、[[画家]] (* [[1737年]])
* [[1898年]] - [[ステファヌ・マラルメ]]、[[詩人]](* [[1842年]])
* [[1901年]] - [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]、画家(* [[1864年]])
* [[1915年]] - [[アルバート・スポルディング]]、プロ野球選手、[[スポルディング (スポーツ用品)|スポルディング]]創業者(* [[1850年]])
* [[1928年]] - [[アーバン・ショッカー]]、プロ野球選手(* [[1890年]])
* [[1931年]] - [[ルヨ・ブレンターノ]]、[[経済学者]](* [[1844年]])
* [[1941年]] - [[ハンス・シュペーマン]]、[[発生生物学|発生学者]](* [[1869年]])
* [[1947年]] - [[ヴィクトール・オルタ]]、[[建築家]](* [[1861年]])
* [[1948年]] - [[伊達順之助]]、[[馬賊]](* [[1892年]])
* [[1960年]] - [[ユッシ・ビョルリング]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1911年]])
* [[1973年]] - [[セルゲイ・トゥマーンスキー]]、[[航空エンジニア]](* [[1901年]])
* [[1976年]] - [[毛沢東]]、[[政治家]]、[[軍人]]、[[思想家]]、[[中国共産党]]初代[[中国共産党中央委員会主席|主席]]、[[中華人民共和国]]初代[[中華人民共和国主席|国家主席]] (* [[1893年]])
* [[1977年]] - [[ケネス・オドネル]]、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]の補佐官(* [[1924年]])
* [[1981年]] - [[ジャック・ラカン]]、[[精神科医]]、[[心理学者|精神分析家]](* [[1901年]])
* [[1983年]] - [[ルイス・モンティ]]、[[サッカー]]選手(* 1901年)
* [[1984年]] - [[ユルマズ・ギュネイ]]、映画監督(* [[1937年]])
* [[1985年]] - [[アントニーノ・ヴォットー]]、[[指揮者]](* [[1896年]])
* 1985年 - [[ポール・フローリー]]、[[化学者]](* [[1910年]])
* [[1986年]] - [[マグダ・タリアフェロ]]、ピアニスト(* [[1893年]])
* [[1987年]] - [[グンナル・デ・フルメリー]]、作曲家(* [[1908年]])
* [[1990年]] - [[サミュエル・ドウ]]、[[リベリアの大統領|リベリア大統領]](* [[1951年]])
* [[1994年]] - [[パトリック・オニール]]、俳優(* [[1927年]])
* [[1995年]] - [[高木彬光]]、[[推理作家]](* [[1920年]])
* [[1996年]] - [[ロバート・ニスベット]]、社会学者、[[歴史家]](* [[1913年]])
* 1996年 - [[ビル・モンロー]]、[[音楽家]]、[[ブルーグラス]]の父(* [[1911年]])
* [[1997年]] - [[バージェス・メレディス]]、俳優(* [[1908年]])
* 1997年 - [[リッチー・アシュバーン]]、プロ野球選手(* [[1927年]])
* [[1999年]] - [[キャットフィッシュ・ハンター]]、プロ野球選手(* [[1946年]])
* 1999年 - [[広瀬宰]]、元[[プロ野球選手]](* [[1947年]])
* [[2001年]] - [[アフマド・シャー・マスード]]、[[アフガニスタン]]の軍事指導者(* [[1953年]]?)
* 2001年 - [[相米慎二]]、映画監督(* [[1948年]])
* [[2003年]] - [[エドワード・テラー]]、[[原子核物理学|核物理学]]者(* [[1908年]])
* [[2004年]] - [[アーニー・ボール]]、実業家、[[ギタリスト]](* [[1930年]])
* 2004年 - [[大橋棣]]、元プロ野球選手(* [[1910年]])
* 2004年 - [[青木正一]]、元プロ野球選手(* [[1917年]])
* [[2005年]] - [[ジュリアーノ・ボンファンテ]]、[[言語学者]](* [[1904年]])
* [[2006年]] - [[アルカジー・ヴォリスキー]]、ロシア産業企業家同盟会長(* [[1932年]])
* [[2007年]] - [[大平山濤]]、[[書道|書家]](* [[1916年]])
* [[2008年]] - [[草柳文恵]]、[[ニュースキャスター]]、[[随筆家]](* [[1954年]])
* 2008年 - [[日野てる子]]、[[歌手]](* [[1945年]])
* [[2010年]] - [[ベント・ラーセン]]、[[チェスプレーヤーの一覧|チェスプレーヤー]](* [[1935年]])
* [[2011年]] - [[久万俊二郎]]、実業家、[[阪神電気鉄道]]元会長、[[阪神タイガース]]元オーナー(* [[1921年]])
* 2011年 - [[高井真理子]]、元アナウンサー、[[NPO]]法人代表者(* [[1968年]])
* [[2012年]] - [[会田由来]]、女優(* [[1944年]])
* [[2013年]] - [[亀井三郎]]、声優(* [[1938年]])
* [[2016年]] - [[加藤紘一]]<ref>{{Cite web|和書|title=訃報:加藤紘一さん死去77歳…自民元幹事長「加藤の乱」 |url=https://mainichi.jp/articles/20160911/k00/00m/010/028000c |website=[[毎日新聞]] |access-date=27 Mar 2023 |date=10 Oct 2016}}</ref>、政治家、元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]衆議院議員、元[[自由民主党幹事長]]、第54代[[内閣官房長官]](* [[1939年]])
* [[2019年]] - [[ロバート・フランク]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9B7J1FM9BUHBI033.html |title=米写真家ロバート・フランクさん死去 94歳 |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=9 Oct 2019}}</ref>、[[写真家]](* [[1924年]])
* [[2022年]] - [[上田幹藏]]、男性[[長寿]]日本一(* [[1910年]])
== 記念日・年中行事 ==
*[[片貝まつり]]({{JPN}})
*: 毎年9月9日・9月10日に行われる[[新潟県]][[小千谷市]][[片貝町 (小千谷市)|片貝町]]にある[[浅原神社]]の秋季例大祭の俗称。
*: 世界最大級の大きさである「正三尺玉」や「[[正四尺玉]]」([[ギネス世界記録|ギネスブック]]にも掲載されている)を日本で最初に打ち上げたことで有名であり、日本で唯一の「真昼の正三尺玉」も打ち揚げられ大玉が打ち上げられることで各方面に知られている。
[[ファイル:Kiku_yellow01.jpg|thumb|180x180px|[[重陽]]の[[節句]]・[[キク|菊]]の節句]] {{multiple image
| footer = [[朝鮮民主主義人民共和国]]の共和国創建記念日(1948年独立)。1997年9月9日より、[[金日成]]の誕生年を元年とする[[主体暦]]が導入された
| image1 = Kim_Il-sung_1946.JPG
| width1 = 80
| caption1 = 初代首相・国家主席、[[金日成]]。1946年撮影。
| image2 = Kaesong_familymart.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[開城工業地区]]のコンビニ
}}
{{multiple image
| footer = [[タジキスタン]]の独立記念日(1991年独立)
| image1 = LocationTajikistan.svg
| width1 = 180
| caption1 = タジキスタンの位置
}}
* [[重陽]]の[[節句]]・[[キク|菊]]の節句({{JPN}})
*: [[陽]]の数である[[奇数]]の極である[[9]]が2つ重なることから重陽と呼ばれ、たいへんめでたい日とされる。菊の花を飾ったり[[酒]]を飲んだりして祝った。
*: 日本以外の多くの国では現在も[[旧暦9月9日]]。
* [[ホロコースト]]と人種的暴力による犠牲者の日({{SVK}})
* 共和国創建記念日({{PRK}})
*: [[1948年]]のこの日、[[ソビエト連邦]]の占領統治が終了し、[[朝鮮民主主義人民共和国]]が成立した。
* [[独立記念日]]({{TJK}})
*: [[1991年]]のこの日、タジキスタンがソビエト連邦から独立した。
* {{仮リンク|カリフォルニア州制施行記念日|en|California Admission Day}}({{USA}}、[[カリフォルニア州]])
*: 1850年のこの日、[[1850年協定]]によりカリフォルニアが合衆国31番目の州となったことを記念する州の祝日。
* [[救急医療|救急]]の日({{JPN}})
*: 「きゅう(9)きゅう(9)」の語呂合せから、[[厚生省]](現[[厚生労働省]])と[[消防庁]]が[[1982年]]に制定した啓発日。救急業務や救急医療について一般の理解と認識を深め、救急医療関係者の士気を高める日。
* 世界[[占い]]の日({{JPN}})
*: 日本占術協会が[[1999年]]に制定。日付はこの日が「救急の日」で、占いは運命の「救急」であること、「重陽の節句」であることなどから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.uranai-japan.com/fortune-telling_day.html |title=世界占いの日とは |access-date=28 Mar 2023 |publisher=一般社団法人 日本占術協会}}</ref>。
* [[栗きんとん]]の日({{JPN}})
*: 栗きんとん発祥の地とされる[[岐阜県]][[中津川市]]が制定。
*重陽神事と烏相撲({{JPN}})
*: 9という「陽」の最大数が重なることから「重陽」と呼ばれる9月9日、毎年[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[賀茂別雷神社|賀茂別雷神社(上賀茂神社)]]では、本殿に菊花を供えて無病息災を祈願した後、烏相撲が奉納される。烏相撲は、神社祭神の祖父[[賀茂建角身命]]が、[[八咫烏]]に姿を変えて[[神武天皇]]の東進を導いたという伝承と、悪霊退治や五穀豊穣を願う相撲が結び付いた神事とされる<ref>{{Cite web |url=https://souda-kyoto.jp/event/detail/choyoushinji-karasuzumo.html |title=重陽神事と烏相撲 |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[JR東海|Central Japan Railway Company.]] |website=そうだ、京都行こう。}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kyoto-np.co.jp/ud/events/647d7947b576225164000000 |title=「重陽神事と烏(からす)相撲」上賀茂神社(京都市北区) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[京都新聞]] |date=9 Sep 2023}}</ref>。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0909|date=Mar 2023}}
* [[2012年]] - 午後8時48分に、ロバート・ネビル博士がK.Vの治療法を発見。同52分、血清を守るために、[[M67破片手榴弾]]でダーク・シーカーもろとも自爆。(映画『[[アイ・アム・レジェンド]]』)
* 不明 - 時の交わる日という特別な日とされる。作中の暦における0015年におけるホーリーブリングの完成にはじまり2人のゲイルの誕生、デーモンカード設立、エンクレイム、そして0067年における石の戦争終結という出来事がこの日に起こっている。(漫画『[[RAVE (漫画)|RAVE]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1954年]] - アストロ超人九人、漫画『[[アストロ球団]]』に登場するキャラクターたち
* [[1971年]] - 青木勝、漫画『[[はじめの一歩]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ippo_fs|1321753648892768256}}</ref>
* [[1994年]] - [[春風ぽっぷ]]、アニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|eeo_store|1568173448870109184}}</ref>
* [[2002年]] - 空銀子、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=りゅうおうのおしごと!|volume=1|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=107|isbn=978-4-7973-8484-0}}</ref>
* [[2014年]] - イザベラ、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author1=白井カイウ |authorlink1=白井カイウ |author2=出水ぽすか |authorlink2=出水ぽすか |year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉 |page=48 |isbn=978-4-08-882462-8}}</ref>(+ [[2047年]])
* 生年不明 - 優谷優、漫画『[[ばっどがーる]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=ばっどがーる 2|date=2022-11-26|publisher=[[芳文社]]|page=2|author=肉丸|isbn=978-4832274211}}</ref>
* 生年不明 - くさのきりんた、ベネッセの教材『[[こどもちゃれんじ]]』、アニメ『[[しまじろうヘソカ]]』『[[しまじろうのわお!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kodomochallenge|111672659733004288}}</ref>
* 生年不明 - 雪・キャニオン・層雲峡、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/yuki_canyon_sounkyo |title=北海道 雪・キャニオン・層雲峡 |access-date=10 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 湯田中渋穂波、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/yudanakashibu_honami |title=長野 湯田中渋穂波 |access-date=10 Oct 2023|publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 九条ひかり/シャイニールミナス、アニメ『[[ふたりはプリキュア Max Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|precure_marv|1568011426974912514}}</ref>
* 生年不明 - 秋野美陽、児童文学シリーズ『[[若おかみは小学生!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=若おかみは小学生!|volume=PART9|author=令丈ヒロ子|authorlink=令丈ヒロ子|publisher=[[講談社]]|series =[[青い鳥文庫]]|year=2007|quote=付録|isbn=978-4-06-148756-7}}</ref>
* 生年不明 - [[アンドロメダ星座の瞬]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=4 |title=アンドロメダ星座の瞬(しゅん) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=聖闘士星矢大全|author=車田正美|authorlink=車田正美|publisher=[[集英社]]|year=2001|page=50|isbn=4-8342-1690-X}}</ref>
* 生年不明 - 紬屋雨、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2006|page=47|isbn=978-4-08-874079-9}}</ref>
* 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#御門涼子|御門涼子]] 、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year=2011|title=To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page=50|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-874852-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|year=2014|title=To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page=96|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-880260-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|year=2015|title=To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|page=30|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-880576-4}}</ref>
* 生年不明 - 桜井良、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|508993689507479552}}</ref>
* 生年不明 - 潜尚保、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2016|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880790-4|quote=|date=|volume=23巻|page=106}}</ref>
* 生年不明 - 荒船哲次、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1435620213039542277}}</ref>
* 生年不明 - 拳藤一佳、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-01/ |title=拳藤一佳 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 白銀御行、漫画・アニメ『[[かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_kaguya|1303485520018894850}}</ref>
* 生年不明 - 安部まりな、漫画『[[2.5次元の誘惑]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shonenjump.com/ririsa/question/ |title=『2.5次元の誘惑』Q&A|Q13. 奥村たちの誕生日が知りたいです! |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=橋本 悠/[[集英社]] |work=『2.5次元の誘惑』}}</ref>
* 生年不明 - 糸師凛、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bluelock_wm|1435619053431836674}}</ref>
* 生年不明 - ヘリング、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=EREMENTAR GERAD オフィシャルガイド|author=東まゆみ(監修)|authorlink=東まゆみ|publisher=[[マッグガーデン]]|series=[[ブレイドコミックス]]|year=2005|page=78|isbn=4-86127-152-5}}</ref>
* 生年不明 - 緑へも、漫画・アニメ『[[おちこぼれフルーツタルト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ochifuru-anime.com/chara05.html |title=緑へも |work=『おちこぼれフルーツタルト』 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=[[浜弓場双]]・[[芳文社]]/おちこぼれフルーツタルト製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 星野みやこ、漫画・アニメ『[[私に天使が舞い降りた!|私に天使が舞い降りた!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=星野みやこ |url=http://watatentv.com/chara.html |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=[[椋木ななつ]]・[[一迅社]]/わたてん製作委員会 |work=『私に天使が舞い降りた!』}}</ref>
* 生年不明 - 寿麗、パチスロ・漫画・アニメ『[[ツインエンジェルシリーズ|ツインエンジェル]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|TA_Official|1171628073374113793}}</ref>
* 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#九重|九重]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|906172525050159104}}</ref>
* 生年不明 - 九十九零、小説・漫画・アニメ『[[厨病激発ボーイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://chubyou.net/chara05.html |title=九十九零 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=[[れるりり]]・藤並みなと/[[KADOKAWA]]/厨病激発ボーイ製作委員会 |work=『厨病激発ボーイ』}}</ref>
* 生年不明 - 四葉こころ、アニメ『[[かみさまみならい ヒミツのここたま]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_cocotama|906281622562934784}}</ref>
* 生年不明 - 三条るいせ、アニメ『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/sanjou_ruise.html |title=三条るいせ |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[高山箕犀]]/セイレン製作委員会 [[TBSテレビ|TBS]] |work=『セイレン』}}</ref>
* 生年不明 - 此花寿々花、アニメ『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tojitomo|1435618943973175299}}</ref>
* 生年不明 - アレクサンドラ・マグリット、アニメ『[[多田くんは恋をしない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tadakoi.tv/chara04.html |title=アレクサンドラ・マグリット |accessdate=10 Oct 2023 |work=『多田くんは恋をしない』 |publisher=TADAKOI PARTNERS}}</ref>
* 生年不明 - ウーマロ、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート|publisher=[[NTT出版]]|year=1994|page=179|ISBN=4-87188-303-5}}</ref>
* 生年不明 - リルム・アローニィ、ゲーム『ファイナルファンタジーVI』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート|publisher=[[NTT出版]]|year=1994|page=174|ISBN=4-87188-303-5}}</ref>
* 生年不明 - 白井あゆみ、ゲーム『[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/getterlove/quest7.html|title=ゲッターラブ!!質問コーナー第7回|date=20040813070908}}</ref>
* 生年不明 - レン、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』『[[歌月十夜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=月姫読本PlusPeriod|author=[[武内崇]]、[[奈須きのこ]]|year=2004|publisher=宙出版|page=83|isbn=4776790378}}</ref>
* 生年不明 - タンタン、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m09.html |title=住民名簿 9月 タンタン |access-date=10 Oct 2023|publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 藤林杏、ゲーム・アニメ『[[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]]』に登場するキャラクター<ref>『CLANNAD FULL VOICE』ユーザーズマニュアル[[Key (ゲームブランド)|Key]]、2008年、11頁。</ref>
* 生年不明 - 藤林椋、ゲーム・アニメ『CLANNAD』に登場するキャラクター<ref>『CLANNAD FULL VOICE』ユーザーズマニュアルKey、2008年、13頁。</ref>
* 生年不明 - レオン、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=000 |title=レオン |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[コナミアミューズメント| Konami Amusement]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - ミト、ゲーム『[[ザ・ランブルフィッシュ|ザ・ランブルフィッシュ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dimps.co.jp/rumblefish2/character.php?name=mito |title=MITO(ミト) |work=『THE RUMBLE FISH 2』 |publisher=[[セガ|SEGA]]/Dimps |accessdate=10 Oct 2023}}</ref>
* 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#音無小鳥|音無小鳥]]、ゲーム・漫画・アニメ『[[THE IDOLM@STER]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|imasml_theater|1303347362086096897}}</ref>
* 生年不明 - 栗原ネネ、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20057 |title=栗原 ネネ(くりはら ねね) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 南條クミコ、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)|ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130627_183060/ |title=【ガールフレンド(仮)通信68】溢れるスクープ魂 南條クミコちゃん(CV:東城日沙子) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=27 Jun 2013 |website=ファミ通App}}</ref>
*生年不明 - 正岡真衣、ゲーム『ガールフレンド(仮)』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130529_168918/ |title=【ガールフレンド(仮)通信47】枕を愛する病弱ガール 正岡真衣ちゃん(CV:斎藤桃子) |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=29 May 2013 |website=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - ルイ、ゲーム・アニメ『[[消滅都市]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|1303573854388973569}}</ref>
* 生年不明 - 九条壮馬、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_kujo.html |title=九条家 - 九条壮馬 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher= [[coly]]/SMHP |work=『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』}}</ref>
* 生年不明 - 摂津万里、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔秋組〕摂津万里 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『A3!(エースリー)』}}</ref>
* 生年不明 - 櫻舞湖、ゲーム・アニメ『[[ソラとウミのアイダ]]』に登場するキャラクター<ref> {{Cite web |url=http://soraumi-anime.com/character/#chara5 |title=櫻 舞湖 |work=『ソラとウミのアイダ』 |accessdate=10 Oct 2023 |publisher=ForwardWorks Corporation/ソラウミ製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 萌黄えも、ゲーム・アニメ『[[キラッとプリ☆チャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|prettyseriespr|1303468155646377984}}</ref>
* 生年不明 - 東雲初穂、ゲーム・アニメ『[[新サクラ大戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Sakura_Taisen|1301673580673945600}}</ref>
* 生年不明 - レザー、ゲーム『[[原神]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Genshin_7|1303559497122680832}}</ref>
* 生年不明 - 鳳えむ、ゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://pjsekai.sega.jp/character/unite04/emu/index.html |title=鳳えむ |access-date=10 Oct 2023 |publisher=[[セガ]]×[[Craft Egg]]/Colorful Palette [[クリプトン・フューチャー・メディア|Crypton Future Media, INC.]] [[ピアプロ|piapro]] |work=『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』}}</ref>
* 生年不明 - 九龍ながつき、メディアミックス『[[HAPPY★LESSON]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 黒羽咲夜、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lovelive-sif.bushimo.jp/tennyusei5/ |title=紫苑女学院 転入生紹介 黒羽咲夜 |access-date=10 Oct 2023 |publisher=プロジェクトラブライブ! プロジェクトラブライブ!サンシャイン!! [[KLab|KLabGames]] [[ブシロード|bushiroad]] |date=15 Feb 2021 |work=『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|September 9|9 September}}
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== できごと ==
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| caption1 =[[訓民正音]]頒布(1446)「ハングル」の呼称を用いるのは1900年代に入ってから
| alt1 = 訓民正音
| image2 = Commoners Society.JPG
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| caption2 = [[平民社]]解散(1905)[[日露戦争]]反対を訴えるが、政府の弾圧、財政難等により解散
| alt2 = 平民社
}}
[[File:Ikiru poster.jpg|thumb|253x253px|[[黒澤明]]監督、[[志村喬]]主演映画『[[生きる (映画)|生きる]]』が封切り(1952)]]
[[File:CheinBolivia1.jpg|thumb|[[チェ・ゲバラ]]死す(1967)画像は最後の地ボリビアにて|180x180ピクセル]]
{{multiple image
| image1 = Martyrs' Mausoleum.jpg
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| caption1 =[[ラングーン事件]](1983)。徐錫俊副首相らが犠牲に。画像はアウン・サン廟
| alt1 = アウン・サン廟
| image2 = Makuhari Messe, North hall 2.jpg
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| caption2 = 日本コンベンションセンター開場(1989)。2005年、[[幕張メッセ]]に改称
| alt2 = 幕張メッセ
}}
* [[紀元前31世紀|紀元前3009年]] - [[マハーバーラタ]]に描かれた戦い。
* [[1446年]](世宗28年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[李氏朝鮮]]国王[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が[[ハングル]]の解説本『[[訓民正音]]』を頒布。(ハングルの日)
* [[1604年]] - [[SN 1604|超新星1604]](ケプラーの星)が初めて観測される。
* [[1799年]] - [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]からパリに帰還。
* [[1820年]] - [[グアヤキル]](現在の[[エクアドル]]最大の都市)が[[スペイン]]からの独立を宣言。
* [[1831年]] - [[ギリシャ]]大統領[[イオアニス・カポディストリアス]]が暗殺される。
* [[1874年]] - [[万国郵便連合]]が発足。
* [[1885年]] - [[日本]]が[[メートル条約]]に加入。
* [[1888年]] - [[ワシントン記念塔]]が一般公開される。
* [[1890年]] - [[クレマン・アデール]]が自作した飛行機「エオール号」で初の自力動力離陸に成功。
* [[1900年]] - [[アラスカ州]]で[[マグニチュード]]8.2の地震発生。
* [[1905年]] - [[幸徳秋水]]の[[平民社]]が弾圧により解散。
* [[1916年]] - 日本で[[寺内正毅]]が第18代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[寺内内閣]]が発足。
* [[1934年]] - [[ユーゴスラビア]]国王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]が{{仮リンク|アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件|mk|Марсејски атентат|label=暗殺}}される。
* [[1936年]] - ボールダーダム(現在の[[フーバーダム]])で発電を開始。
* [[1945年]] - [[幣原喜重郎内閣|幣原内閣]]が成立。
* 1945年 - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が[[新聞]]の事前[[検閲]]を在京5紙に対して開始<ref>{{Cite web |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/history01.html |title=詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日 |website=[[国立国会図書館]] |accessdate=30 Apr 2023}}</ref>。([[日本における検閲]])
* 1945年 - [[第二次世界大戦]]: [[アンダマン諸島]]の日本軍の海軍[[海軍根拠地隊|第12特別根拠地隊]]司令官原鼎三海軍中将と陸軍独立混成第35旅団長佐藤為徳陸軍少将が[[ポートブレア]]の[[ジムカーナ]]スポーツグラウンドにおいて[[英印軍]]{{仮リンク|第116インド歩兵旅団|en|2nd Indian Infantry Brigade}}への降伏文書に署名する。
* [[1952年]] - [[黒澤明]]監督の映画『[[生きる (映画)|生きる]]』が封切り。
* [[1962年]] - [[ウガンダ]]が[[イギリス]]から独立。
* [[1963年]] - イタリア・[[バイオントダム]]災害。
* [[1967年]] - [[チェ・ゲバラ]]が[[ボリビア]]の山中で政府軍に射殺される。
* [[1970年]] - [[ロン・ノル]]が[[クメール共和国]]の樹立を宣言。
* [[1975年]] - [[蔵前国技館]]で[[アントニオ猪木]]が[[ブロックバスター]]・ホールドで[[ルー・テーズ]]を破り、[[NWF世界ヘビー級王座]]防衛。
* [[1981年]] - [[京都市議会]]で日本初の「空き缶回収条例」が可決される。
* [[1981年]] - テレビドラマ『[[北の国から]]』第1回放送。
* [[1983年]] - [[ミャンマー|ビルマ]]・[[ヤンゴン|ラングーン]]の[[アウンサン廟]]で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]工作員による[[大韓民国|韓国]]要人を標的とした爆弾[[テロリズム|テロ]]。([[ラングーン事件]])
* [[1984年]] - [[柔道]]選手の[[山下泰裕]]が[[国民栄誉賞]]受賞。
* [[1986年]] - [[アンドリュー・ロイド=ウェバー]]作のミュージカル『[[オペラ座の怪人 (1986年のミュージカル)|オペラ座の怪人]]』が初演。
* [[1986年]] - [[両国国技館]]での[[異種格闘技戦]]で[[アントニオ猪木]]が[[モントリオールオリンピック]][[ボクシング]][[金メダリスト]]で元[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]統一世界ヘビー級王者[[レオン・スピンクス]]に[[ピンフォール|フォール]]勝ち。特別[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]は[[ガッツ石松]]。
* [[1989年]] - [[千葉市]]に日本コンベンションセンター([[幕張メッセ]])が開場<ref>{{Cite web |title=会社概要 {{!}} 幕張メッセ |url=https://www.m-messe.co.jp/organizers/company/profile |access-date=30 Apr 2023 |publisher=Makuhari Messe.Inc}}</ref>。
* [[1992年]] - 12.4kgの[[ピークスキル隕石]]が[[ニューヨーク州]]に落下。
* [[2000年]] - [[さいたま市]]に[[ジョン・レノン・ミュージアム]]が開館。
* [[2002年]] - [[島津製作所]]の[[田中耕一]]の[[ノーベル化学賞]]受賞が決定。
* [[2004年]] - [[平成16年台風第22号|台風22号]]が[[静岡県]]の[[伊豆半島]]に上陸。[[石廊崎]]で最大瞬間風速67.6メートルを観測。
* [[2006年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[咸鏡北道]][[吉州郡]][[豊渓里]]で初の[[核実験]]を実施([[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]])。
*2006年 - [[SN 2006jc]]の出現がアマチュア天文家3人によって発見される。
* [[2009年]] - [[ノーベル平和賞]]に[[アメリカ合衆国大統領]][[バラク・オバマ]]が選ばれる<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-11887420091009 |title=ノーベル平和賞にオバマ大統領、核兵器削減への取り組みで |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=9 Oct 2009}}</ref>。
* 2009年 - アメリカの無人月探査機「[[エルクロス]]」が 水の痕跡を調査するため、月の南極付近にあるクレーターCabeusに衝突<ref>{{Cite web |title=米NASA探査機「エルクロス」がとらえた月面 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2651722 |publisher= |date=12 Oct 2009 |access-date=30 Apr 2023 |website=[[フランス通信社|AFP]] BB News}}</ref>。衝突で生じた塵の観測結果から、月面に水が存在する証拠を確認<ref>{{Cite web |url=https://solarsystem.nasa.gov/missions/lcross/in-depth/ |title=LCROSS |website=Solar System Exploration |accessdate=30 Apr 2023}}</ref>。
* [[2012年]] - [[パキスタン]]で[[ターリバーン]]を批判し、女性の権利向上のために活動していた少女[[マララ・ユサフザイ]]がターリバーンとみられる男たちに銃撃され、負傷<ref>{{Cite web |title=マララ・ユサフザイ |url=https://www.unic.or.jp/activities/celebrities/peace_messengers/malala/ |website=国際連合広報センター |access-date=30 Apr 2023 |publisher=United Nations Information Centre}}</ref>。後にターリバーンが犯行声明を出した。
* [[2019年]] - [[ノーベル化学賞]]に「[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]」を開発した[[旭化成]]名誉フェローの[[吉野彰]]ら3人が選ばれる<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2022/chemistry/article_02.html |title=2019年ノーベル化学賞に 「リチウムイオン電池」開発の吉野彰さん |access-date=18 Sep 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。
== 誕生日 ==
{{multiple image
| image1 = Saintsaens.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[フランス]]の[[作曲家]][[カミーユ・サン=サーンス]](1835-1921)誕生
| alt1 = カミーユ・サン=サーンス
| image2 = Mizuhara Shuoshi.JPG
| width2 = 90
| caption2 = [[俳人]][[水原秋桜子]](1892-1981)誕生
| alt2 = 水原秋桜子
}}
{{multiple image
| image1 = Jiro Osaragi 1925.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[小説家]]、[[大佛次郎]](1897-1973)誕生
| alt1 = 大佛次郎
| image2 = Kasuga Hachiro.JPG
| width2 = 90
| caption2 = 歌手、[[春日八郎]](1924-1991)誕生
| alt2 = 春日八郎
}}
{{multiple image
| image1 = France Gall.png
| width1 = 90
| caption1 = フランスの歌手、[[フランス・ギャル]](1947-2018)誕生。代表曲『[[夢見るシャンソン人形]]』
| alt1 = ギャル
| image2 = Onokuni 08 Sep.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 第62代[[横綱]]、[[大乃国康]](芝田山親方)(1962-)誕生
| alt2 = 芝田山親方
}}
[[ファイル:John Lennon en echtgenote Yoko Ono verlaten het Hilton Hotel te Amsterdam, Bestanddeelnr 922-2491.jpg|代替文=|サムネイル|180x180px|元[[ビートルズ]]、[[ジョン・レノン]](1940-1980)誕生]]
* [[1201年]] - [[ロベール・ド・ソルボン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Robert-de-Sorbon |title=Robert de Sorbon|French theologian |access-date=30 Apr 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、フランスの司祭、神学者(+ [[1274年]])
* [[1261年]] - [[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]、第6代ポルトガル王(ボルゴーニャ王朝)(+ [[1325年]])
* [[1586年]] - [[レオポルト5世 (オーストリア大公)|レオポルト5世]]、オーストリア大公(+ [[1632年]])
* [[1623年]] - [[フェルディナント・フェルビースト]]、[[イエズス会]][[宣教師]](+ [[1688年]])
* [[1757年]] - [[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]、[[フランス王国|フランス王]](+ [[1836年]])
* [[1782年]] - [[ルイス・カス]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1866年]])
* [[1835年]] - [[カミーユ・サン=サーンス]]、[[作曲家]](+ [[1921年]])
* [[1837年]] - [[フレッシュ・カーロイ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1944年]])
* [[1840年]] - [[シメオン・ソロモン]]、[[画家]](+ [[1905年]])
* 1840年([[天保]]11年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[松本楓湖]]、[[日本画家]](+ [[1923年]])
* [[1856年]] - [[大隈英麿]]、教育者、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]([[早稲田大学]]の前身)初代[[校長]]
* [[1861年]] - [[アンリ・プリヴァ=リヴモン]]、画家(+ [[1936年]])
* [[1863年]] - [[アレクサンドル・ジロティ]]、[[音楽家]](+ [[1945年]])
* 1863年 - [[アルバート・スワード]]、[[植物学者]]、[[地質学者]](+ [[1941年]])
* [[1873年]] - [[カール・シュヴァルツシルト]]、[[天文学者]](+ [[1916年]])
* [[1874年]] - [[ニコライ・リョーリフ]]、画家(+ [[1947年]])
* [[1886年]] - [[ルーブ・マーカード]]、[[プロ野球選手]](+ [[1980年]])
* [[1892年]] - [[水原秋桜子]]、[[俳人]]、[[医学博士]](+ [[1981年]])
* [[1897年]] - [[大佛次郎]]、[[小説家]](+ [[1973年]])
* [[1898年]] - [[ジョー・シーウェル]]、プロ野球選手(+ [[1990年]])
* [[1903年]] - [[飯田深雪]]、[[料理研究家]]、アートフラワーの創始者(+ [[2007年]])
* [[1905年]] - [[高橋泰蔵]]、経済学者、[[一橋大学]]名誉教授(+[[1989年]])
* 1905年 - [[天津乙女]]、[[宝塚歌劇団]]団員(+ [[1980年]])
* [[1906年]] - [[レオポール・セダール・サンゴール]]、[[政治家]](+ [[2001年]])
* [[1907年]] - [[ジャック・タチ]]、[[映画監督]]、[[俳優]](+ [[1982年]])
* [[1908年]] - [[ヴェルナー・フォン・ヘフテン]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]少尉(+ [[1944年]])
* [[1909年]] - [[ミゲル・ホワイト]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1942年]])
* [[1910年]] - [[天利長三]]、経済学者(+[[2000年]])
* 1910年 - [[双葉十三郎]]、映画評論家(+[[2009年]])
* [[1918年]] - [[鈴木秀雄 (野球)|鈴木秀雄]]、プロ野球選手
* 1918年 - [[高英男]]、[[歌手]](+ [[2009年]])
* [[1919年]] - [[皆川定之]]、プロ野球選手(+ [[1986年]])
* [[1921年]] - [[小前博文]]、プロ野球選手(+ [[2000年]])
* [[1922年]] - [[大塚実]]、実業家、[[大塚商会]]創業者(+[[2019年]])
* [[1924年]] - [[春日八郎]]、歌手(+ [[1991年]])
* 1924年 - [[レギナ・スメンジャンカ]]、[[ピアニスト]](+ [[2011年]])
* [[1925年]] - [[関口清治]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[2007年]])
* 1925年 - [[鈴木清一 (野球)|鈴木清一]]、元プロ野球選手
* [[1930年]] - [[上月左知子]]、女優、宝塚歌劇団雪組(+[[2018年]])
* [[1932年]] - [[山崎弘美]]、プロ野球選手(+ [[2013年]])
* [[1933年]] - [[ピーター・マンスフィールド]]、[[物理学者]](+ [[2017年]])
* 1933年 - [[備前喜夫]]、プロ野球選手(+ [[2015年]])
* [[1938年]] - [[妻島芳郎]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[秋山賢三]]、元裁判官、弁護士
* 1940年 - [[ジョン・レノン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ビートルズ]])(+ [[1980年]])
* 1940年 - [[ジョー・ペピトーン]]、プロ野球選手(+ [[2023年]])
* [[1941年]] - [[チューチョ・バルデース]]、[[ピアニスト]]
* [[1943年]] - [[星野勘太郎]]、[[プロレスラー]](+ [[2010年]])
* 1943年 - [[多田勉]]、プロ野球選手
* [[1944年]] - [[ジョン・エントウィッスル]]、ミュージシャン([[ザ・フー]])(+ [[2002年]])
* 1944年 - [[浜崎正人]]、プロ野球選手(+ [[2003年]])
* 1944年 - [[三門忠司]]、[[演歌歌手]]
* [[1945年]] - [[水前寺清子]]、歌手
* 1945年 - [[高橋治則]]、実業家(+[[2005年]])
* [[1946年]] - [[ジム・クォルス]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[フランス・ギャル]]、歌手(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3157688 |title=仏歌手フランス・ギャルさん死去、「夢見るシャンソン人形」ヒット |access-date=30 Apr 2023 |date=8 Jan 2018 |website=[[フランス通信社|AFP]] BB News}}</ref>)
* 1947年 - [[中村泰久]]、天文学者
* [[1950年]] - [[仲井戸麗市]]、ミュージシャン
* 1950年 - [[小西良幸|ドン小西]]、ファッションデザイナー
* 1950年 - [[ブライアン・ダウニング]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[加藤博一]]、プロ野球選手(+ [[2008年]])
* [[1957年]] - [[野沢由香里]]、女優
* [[1958年]] - [[中村博生]]、政治家
* 1958年 - [[市川和正]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[福田和也]]、[[文芸評論家]]
* [[1961年]] - [[永田利則]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[ジュリアン・ベイリー]]、レーサー
* 1961年 - [[今橋映子]]、比較文化研究家
* [[1962年]] - [[大乃国康]]、大相撲第62代[[横綱]]、年寄12代[[芝田山]]
* 1962年 - [[三遊亭歌る多]]、落語家
* 1962年 - [[佐々木修 (野球)|佐々木修]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[中山ラマダ]]、漫画家
* [[1963年]] - [[尾高千恵]]、歌手
* 1963年 - [[尾立源幸]]、政治家
* [[1964年]] - [[永野典勝]]、俳優
* [[1966年]] - [[デーヴィッド・キャメロン]]、政治家、第75代[[イギリスの首相|イギリス首相]]
* 1966年 - [[武内英樹]]、プロデューサー、映画監督
* 1966年 - [[斉藤レイ]]、女優
* [[1967年]] - [[市川男女蔵_(6代目)|六代目市川男女蔵]]、[[歌舞伎]]役者
* 1967年 - [[三遊亭全楽]]、落語家
* 1967年 - [[エディ・ゲレロ]]、プロレスラー(+ [[2005年]])
* 1967年 - [[ジム・テータム]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[秋山準]]、プロレスラー
* [[1970年]] - [[アニカ・ソレンスタム]]、[[ゴルファー]]
* 1970年 - [[関沢圭司]]、歌手、[[ダンサー]]
* 1970年 - [[安蘭けい]]、女優、[[宝塚歌劇団]][[星組]]主演[[男役]]
* 1970年 - [[なだぎ武]]、お笑いタレント([[ザ・プラン9]])
* 1970年 - [[氏賀Y太]]、[[漫画家]]
* [[1972年]] - [[長野博]]、歌手(元[[V6 (グループ)|V6]]、[[20th Century (グループ)|20th Century]])
* 1972年 - [[宮田幸季]]、[[声優]]
* 1972年 - [[澤田義和]]、競輪選手
* [[1973年]] - [[夏川りみ]]、歌手
* [[1974年]] - [[アンソニー・W・森]]、プロレスラー
* [[1975年]] - [[ショーン・レノン]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[秀島史香]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[ナレーター]]
* 1975年 - [[マーク・ヴィドゥカ]]、サッカー選手
* [[1976年]] - [[マット・チェリアニ]]、プロ野球選手
* [[1977年]] - [[岐部昌幸]]、放送作家、構成作家
* 1977年 - [[沢田美紀]]、歌手
* 1977年 - [[ブライアン・ロバーツ]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[直井由文]]、ミュージシャン([[BUMP OF CHICKEN]])
* 1979年 - [[若林麻衣子]]、[[福岡放送]][[アナウンサー]]
* 1979年 - [[田澤美亜]]、[[ファッションモデル]]
* [[1980年]] - [[富田珠里]]、ピアニスト
* 1980年 - [[魚谷輝明]]、元俳優
* [[1981年]] - [[高橋真麻]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1981年 - [[村田由香里]]、元新体操選手
* 1981年 - [[まちゃあき]]、ダンサー([[エグスプロージョン]])
* 1981年 - [[サンシャイン池崎]]、お笑いタレント
* [[1983年]] - [[寺原隼人]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[イングリッド・ロス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1983年 - [[ジェイソン・プライディ]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[西居幸恵]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[須黒清華]]、[[テレビ東京]]アナウンサー
* 1985年 - [[中野裕太 (タレント)|中野裕太]]、タレント
* [[1986年]] - [[デレク・ホランド]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[デビッド・フェルプス]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[ロール・マナドゥ]]、競泳選手
* 1986年 - [[中村将之]]、騎手
* [[1988年]] - [[柳田悠岐]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[鶴岡慧子]]、映画監督
* 1988年 - [[DJ monemilk]]、DJ、レースクイーン、ファッションモデル
* [[1989年]] - [[橋本真一]]、俳優
* [[1990年]] - [[長谷川大]]、俳優
* 1990年 - [[後藤崇太]]、俳優
* 1990年 - [[星野あいか]]、[[AV女優]]
* 1990年 - [[アイザック・モンロイ]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ケヴィン・カンプル]]、サッカー選手
* 1990年 - [[田中秀幸 (陸上選手)|田中秀幸]]、陸上選手
* [[1991年]] - [[新穂えりか]]、女優
* 1991年 - [[渡辺智佳]]、ミュージカル俳優
* [[1992年]] - [[ニコル (モデル)|ニコル]]、[[ファッションモデル]]
* 1992年 - [[又野知弥]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[ジェイ・ホワイト]]、プロレスラー
* [[1993年]] - [[佐村・トラヴィス・幹久]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[児玉龍也]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - [[有華]]、シンガーソングライター
* [[1995年]] - [[良原安美]]、[[TBSテレビ]]アナウンサー
* [[1997年]] - [[清水萌々子]]、女優
* [[1998年]] - [[北川綾巴]]、[[アイドル]](元[[SKE48]]、元[[ラブ・クレッシェンド]])
* 1998年 - [[恒松祐里]]、女優
* 1998年 - [[モトーラ世理奈]]、ファッションモデル、女優
* [[1999年]] - [[大友花恋]]、女優、ファッションモデル
* [[2000年]] - [[入江聖奈]]、元[[アマチュアボクシング]]選手
* [[2003年]] - 奥本陽菜、元アイドル(元[[AKB48]])
* 2003年 - [[雨宮凜々子]]、タレント
* [[2005年]] - [[久慈愛]]、モデル
* 生年不明 - [[JONTE'|JONTE' MOANING]]、[[振付師]]、[[ダンサー]]
* 生年不明 - [[中山幸]]、漫画家
* 生年不明 - [[三上ミカ]]、漫画家
* 生年不明 - [[彩音]]、歌手
* 生年不明 - [[大門香実]]、声優
* 生年不明 - [[柴田芽衣]]<ref>{{Cite web |url=https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?cell003=%E5%A5%B3%E6%80%A7&keyword=&cell028=&cell004=&name=%E6%9F%B4%E7%94%B0%E8%8A%BD%E8%A1%A3&id=216&label=1 |title=柴田芽衣 |access-date=18 Sep 2023 |publisher=[[81プロデュース|81PRODUCE Co.,Ltd.]]}}</ref>、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
{{multiple image
| image1 = Bishop Robert Grosseteste, 1896 (crop).jpg
| width1 = 90
| caption1 =[[イギリス]]学術界の礎を築いた[[神学者]][[ロバート・グロステスト]](1175?-1258)没
| alt1 = グロステスト
| image2 = Ashikaga Yoshiaki2.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[室町幕府]]最後の[[将軍]][[足利義昭]](1537-1597)没
| alt2 = 足利義昭
}}
{{multiple image
| image1 = Benjamin Banneker woodcut, age 64.jpg
| width1 = 90
| caption1 =[[アメリカ合衆国]]の[[天文学者]][[ベンジャミン・バネカー]](1731-1806)没
| alt1 = ベンジャミン・バネカー
| image2 = Kapodistrias2.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[オスマン帝国]]から独立した[[ギリシャ]]の初代[[大統領]][[イオアニス・カポディストリアス]](1776-1831)暗殺
| alt2 = カポディストリアス
}}
{{multiple image
| image1 = Kralj aleksandar1.jpg
| width1 = 90
| caption1 = バルカン諸国を併呑して[[ユーゴスラビア王国]]を建国した[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]](1888-1934)暗殺
| alt1 = アレクサンダル1世
| image2 = Shoriki Matsutaro.JPG
| width2 = 90
| caption2 =[[読売新聞]]社主[[正力松太郎]](1885-1969)没
| alt2 = 正力松太郎
}}
{{multiple image
| image1 = Schindler, Oskar.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 映画『[[シンドラーのリスト]]』で知られる実業家[[オスカー・シンドラー]](1908-1974)没
| alt1 = アレクサンダル1世
| image2 = Hwang Jang Yeop.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 元[[朝鮮労働党]][[書記|国際担当書記]][[黄長燁]](1923-2010)没
| alt2 = 黄長燁
}}
* [[1047年]] - [[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]、第149代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1005年]])
* [[1253年]] - [[ロバート・グロステスト]]、[[神学者]](* [[1175年]]?)
* [[1390年]] - [[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]](* [[1358年]])
* [[1562年]] - [[ガブリエレ・ファロッピオ]]、[[医学者]](* [[1523年]])
* [[1597年]]([[慶長]]2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[足利義昭]]、[[室町幕府]]最後の[[征夷大将軍]](* [[1537年]])
* [[1613年]]([[慶長]]18年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[浅野幸長]]、武将、[[和歌山藩|和歌山藩主]](* [[1576年]])
* [[1709年]] - [[バーバラ・パーマー]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の愛妾(* [[1640年]])
* [[1831年]] - [[イオアニス・カポディストリアス]]、[[ギリシャの大統領]](* [[1776年]])
* [[1841年]] - [[カルル・フリードリッヒ・シンケル]]、[[建築家]](* [[1781年]])
* [[1900年]] - [[ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク]]、[[作曲家]](* [[1843年]])
* [[1917年]] - [[フサイン・カーミル]]、[[ムハンマド・アリー朝]]の[[スルタン]](* [[1853年]])
* [[1924年]] - [[ワレリー・ブリューソフ]]、作家(* [[1873年]])
* 1924年 - [[ジェイク・ドーバート]]、[[プロ野球選手]](* [[1884年]])
* [[1925年]] - [[フーゴー・プロイス]]、[[法学者]](* [[1860年]])
* [[1934年]] - [[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア王]](* [[1888年]])
* [[1943年]] - [[ピーター・ゼーマン]]、[[物理学者]](* [[1865年]])
* [[1945年]] - [[薄田泣菫]]、[[詩人]](* [[1877年]])
* [[1948年]] - [[佐々弘雄]]、法学者、[[国会議員|参議院議員]](* [[1897年]])
* [[1950年]] - [[池田成彬]]、[[大蔵大臣]]、第14代[[日本銀行総裁]](* [[1867年]])
* 1950年 - [[ニコライ・ハルトマン]]、[[哲学|哲学者]](* [[1882年]])
* [[1958年]] - [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]、第259代ローマ教皇(* [[1876年]])
* [[1967年]] - [[アンドレ・モーロワ]]、作家(* [[1885年]])
* 1967年 - [[シリル・ヒンシェルウッド]]、[[化学者]](* [[1897年]])
* 1967年 - [[チェ・ゲバラ]]、革命家、[[ゲリラ]]の指導者、医師(* [[1928年]])
* [[1969年]] - [[正力松太郎]]<ref>{{Cite web |url=https://newspark.jp/shinbunjin/no_12/ |title=読売新聞興隆の祖、テレビ事業の先駆者 正力松太郎(しょうりき・まつたろう) |access-date=18 Sep 2023 |publisher=日本新聞博物館}}</ref>、政治家、[[読売新聞]]社主(* [[1885年]])
* 1969年 - [[エルザ・レントシュミット]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1886年]])
* [[1972年]] - [[デイブ・バンクロフト]]、プロ野球選手(* [[1891年]])
* [[1974年]] - [[オスカー・シンドラー]]、[[実業家]](* [[1908年]])
* [[1975年]] - [[林房雄]]、[[小説家]]、[[文芸評論家]](* [[1903年]])
* [[1978年]] - [[ジャック・ブレル]]、[[シャンソン]]歌手、[[俳優]](* [[1929年]])
* [[1982年]] - [[アンナ・フロイト]]、[[精神分析学|精神分析学者]](* [[1895年]])
* [[1987年]] - [[ウィリアム・P・マーフィ]]、[[医学者]](* [[1892年]])
* 1987年 - [[稲山嘉寛]]、[[実業家]]、[[財界人]]、第5代[[経済団体連合会|経団連]]会長(* [[1904年]])
* [[1988年]] - [[山川千秋]]、[[ニュースキャスター]](* [[1933年]])
* [[1993年]] - [[日本橋きみ栄]]、歌手(* [[1915年]])
* 1993年 - [[村瀬幸子]]、女優(* [[1905年]])
* [[1994年]] - [[飯沢匡]]、[[劇作家]]、[[演出家]](* [[1909年]])
* [[1995年]] - [[アレック・ダグラス=ヒューム]]、政治家(* [[1903年]])
* [[1996年]] - [[増岡正剛]]、[[実業家]]、[[増岡組]]3代目社長(* [[1932年]])
* [[1999年]] - [[ミルト・ジャクソン]]、[[ジャズ]]・[[ビブラフォン]]奏者(* [[1923年]])
* [[2001年]] - [[ハーバート・ロス]]、[[映画監督]](* [[1927年]])
* [[2004年]] - [[ブライアン・R・ウィルソン]]、[[社会学者]](* [[1926年]])
* [[2006年]] - [[西山登志雄]]、元[[東武動物公園]]園長(* [[1929年]])
* [[2007年]] - [[クルト・シュヴァーエン]]、[[作曲家]](* [[1909年]])
* 2007年 - [[西條八束]]、[[陸水学|陸水学者]](* [[1924年]])
* 2007年 - [[打海文三]]、[[小説家]](* [[1948年]])
* [[2009年]] - [[工藤千博]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1947年]])
* [[2010年]] - [[黄長燁]]、元[[朝鮮労働党]]書記(* [[1923年]])
* [[2012年]] - [[大山克巳]]、俳優(* [[1930年]])
* 2012年 - [[パディ・ロイ・ベーツ]]、[[シーランド公国]][[大公]](* [[1921年]])
* [[2016年]] - [[アンジェイ・ワイダ]]、映画監督(* [[1926年]])
* 2016年 - [[川島道行]]、ミュージシャン([[BOOM BOOM SATELLITES]])(* [[1969年]])
* [[2017年]] - [[ジャン・ロシュフォール]]、俳優 (* [[1930年]])
* [[2018年]] - [[手塚明治]]、プロ野球選手(* [[1921年]])
* [[2022年]] - [[柴田保光]]<ref>{{Cite web |title=柴田保光さん死去 元プロ野球日本ハム投手 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/207693 |website=[[東京新聞]] TOKYO Web |access-date=30 Apr 2023 |date=12 Oct 2022}}</ref>、プロ野球選手(* [[1957年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2013年]] - [[エリシオ]]<ref>{{Cite web |title=96年の凱旋門賞馬エリシオ死亡 |url=https://www.daily.co.jp/horse/2013/10/10/0006408015.shtml |date=10 Oct 2013 |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]]}}</ref>、[[競走馬]](* [[1993年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[寒露]]({{JPN}}{{CHN}}[[2007年]]・[[2011年]])
*: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が195度の時で、霜が冷気によって凍りそうになるころ。
* [[世界郵便デー]]/万国郵便連合記念日
*: [[1874年]]10月9日に、全世界を一つの郵便地域にすることを目的とする[[万国郵便連合]] (UPU) がスイスで結成されたことに由来。 [[1969年]]に「UPUの日」として制定され、[[1984年]]に世界郵便デーになった。
* 体育の日({{JPN}}、[[2000年]]・[[2006年]]・[[2017年]])※10月の第2月曜日、2020年以降はスポーツの日。
* [[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]]({{JPN}}、[[2023年]])※10月の第2月曜日、2019年以前は体育の日。
* {{仮リンク|ホロコーストを追悼する日|en|National Day of Commemorating the Holocaust}}({{ROU}})
* グアヤキル独立記念日({{ECU}})
*: [[1820年]]のこの日、エクアドル最大の都市・[[グアヤキル]]が[[スペイン]]からの独立を宣言した。
* [[独立記念日]]({{UGA}})
*: [[1962年]]のこの日、ウガンダが[[イギリス]]から独立した。
* [[ハングルの日]]({{KOR}})
*: 世宗28年([[1446年]])、[[李氏朝鮮]]国王[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が[[ハングル]]の解説本『[[訓民正音]]』を頒布した日。
* {{仮リンク|レイフ・エリクソンの日|en|Leif Erikson Day}}({{USA}})
*: [[ヴァイキング]]の[[レイフ・エリクソン]]がヨーロッパ人で初めて[[アメリカ大陸]]に到達したと伝えられる日。
* [[貨物自動車|トラック]]の日({{JPN}})
*: 「ト(10)ラック(9)」の語呂合わせから、[[全日本トラック協会]]と47都道府県トラック協会が[[1992年]]に制定<ref>{{Cite web |url=https://www.mlit.go.jp/event/truck/truck_.html |title=10月9日は「トラックの日」 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[国土交通省]]}}</ref>。
* [[道具]]の日({{JPN}})
*: 「どう(10)ぐ(9)」の語呂合せ。[[東京都]][[台東区]]の[[合羽橋|かっぱ橋道具街]]が[[1983年]]に制定。
* 東急の日({{JPN}})
*: 10月9日の「10・9」を「とうきゅう」と読む語呂合わせから。[[東京急行電鉄]]が制定した東急グループのキャンペーン。
* [[金券の日]]({{JPN}})
*: 日本チケット商協同組合が制定。業界の健全な発展とその認知度の向上、そして多くの人に安心して利用して貰うのが目的。日付はチケットショップが取り扱う商品券やプリペイドカードなどは生活に役立つお得な金券であることから10と9で「トク(得)」と読む語呂合わせから。
* [[塾]]の日({{JPN}})
*: 「じゅ(10)く(9)」の語呂合せ。全国学習塾協会が[[1988年]]に制定。
* 熟睡の日({{JPN}})
*: [[埼玉県]][[所沢市]]の一般社団法人睡眠栄養指導士協会が制定。睡眠の時間や質が悪い寝不足な人々に、熟睡することの大切さを知り、熟睡のための知識を学び、熟睡体験をしてもらうのが目的。日付は10と9で熟睡の「熟(じゅく=10+9)」と読む語呂合わせから。
* 熟成烏龍茶の日({{JPN}})
*: [[日本コカ・コーラ|日本コカ・コーラ株式会社]]が制定。180日以上じっくり熟成させた烏龍茶本来の華やかな香りをしっかりと引き出した同社の「熟成烏龍茶 つむぎ」を多くの人に楽しんでもらうのが目的。日付は10と9を「熟成」の「熟(19)」と読む語呂合わせから。また、年間を通じて「熟成」された烏龍茶本来の豊かな香りと、濃い奥深さを味わってもらうために毎月19日も「熟成」の「熟(19)」と読む語呂合わせから「熟成烏龍茶の日」としている。
* トクホの日 ({{JPN}})
*: 「トクホの日」推進委員会が制定。健康の保持に役立つ機能を表示することを[[消費者庁]]が許可した食品である特定保健用食品(トクホ)を上手に取り入れて、生活習慣病の予防に役立ててもらうことが目的。「日付は10と9で「トクホ」と読む語呂合わせから。
* 熟成肉の日({{JPN}})
*: 10と9で「じゅ(10)く(9)せい」の語呂合わせから。[[大阪府]][[大阪市]]に本社を置き、国産の黒毛和牛本来の美味しさを提供する「但馬屋」などの焼肉店、ステーキ店を展開する株式会社牛心が制定。牛一頭を丸ごと、温度、湿度、風などを厳しく管理し、数十日間熟成させた同社の「熟成肉」。その美味しさを多くの人に知ってもらうのが目的。
* 熟成ウインナー TheGRANDアルトバイエルンの日({{JPN}})
*: [[伊藤ハム|伊藤ハム株式会社]]が制定。同社の人気商品である熟成ウインナー 「TheGRANDアルトバイエルン」をさらに多くの人に味わってもらうのが目的。日付は10と9で「熟成」と読む語呂合わせから。
* [[アメリカンドッグ]]の日({{JPN}})
*: [[富山県]][[富山市]]に本社を置き、アメリカンドッグを手がけるフルタフーズ株式会社が制定。日付は10と9で「ドッグ」と読む語呂合わせから。
* [[マカロン]]の日({{JPN}})
*: 全日本マカロン協会が制定。フランスを代表する洋菓子のマカロンの魅力をより多くの人に知ってもらうのが目的。日付はマカロンを立てて横から見ると1に見え、置いて上から見ると0に見えることから10月。マカロンの美味しさを吉兆のシンボルの勾玉の形に見立てて9日に。
* [[サイコロキャラメル]]の日({{JPN}})
*: [[北海道]]の道南食品株式会社が制定。長年にわたり愛されてきた「明治サイコロキャラメル」を北海道ブランドとして生まれ変わらせた「北海道サイコロキャラメル」をさらに多くの人に味わってもらうのが目的。日付は「明治サイコロキャラメル」が初めて発売された1927年(昭和2年)10月9日から。
* 仙台牛の日({{JPN}})
*: 「仙台牛銘柄推進協議会」と「全国農業協同組合連合会 宮城県本部」が制定。最高ランクに格付けされた牛肉の「仙台牛」。その美味しさをより多くの人に味わってもらうのが目的。日付は10月9日を「1009」(センキュー)として、仙台牛の略である「仙牛」(センギュー)と読む語呂合わせから。
* 散歩の日({{JPN}})
*: 「シブヤ散歩会議」が制定。明治期の渋谷には[[国木田独歩]]の住まいがあり、そこで著された小説『武蔵野』にも「散歩」という言葉が登場する。散歩と縁が深い渋谷圏の魅力を発信するのが目的。日付は10と9を「てくてく」と読む語呂合わせから。
* ハンドバッグの日({{JPN}})
*: 一般社団法人日本ハンドバッグ協会が制定。ハンドバッグの需要を喚起するのが目的。日付はハンドバッグの「ハンド」のド(10)で10月。「バ(8)ッグ(9)」から8日と9日の二日間とした。
* 糖尿病とこころの日 ({{JPN}})
*: [[島根県]][[出雲市]]に事務局を置く「糖尿病とこころ研究会」が制定。糖尿病とこころについて考える日にするのが目的。日付は10と9で「糖(10)尿病とここ(9)ろ」の語呂合わせから。
* 秋の[[高山祭]]
*: [[岐阜県]][[高山市]]の[[桜山八幡宮]]の例祭。[[日本三大一覧#祭り|日本三大美祭]]の一つに数えられる。
* [[土偶]]の日({{JPN}})
*:楽しみながら考古学に親しむをコンセプトに活動する「土偶の日運営委員会」(現・縄文ドキドキ会)が制定。土偶に限らず広く縄文時代の文化について多くの人にその魅力を知ってもらうのが目的。日付は10と9で「土(ど=10)偶(ぐう=9)」と読む語呂合わせから。
* [[共に守るマスクの日]]({{JPN}})
*:バッグ、アクセサリー、ヘアアクセサリーなどのファッションアイテムを販売する株式会社Histoire(イストワール)が制定。日付は「共に」の「と=10」で10月、マスクは耳(3)と耳(3)に掛ける(×)ものなので3×3で9日。これを合わせて10月9日とした。「マスクは自分を守るものであり、共に大切な人を守り社会を守る」という思いから、日常生活においてマスクの正しい使い方を意識してもらい、感染症被害の削減につなげるとともに、より快適なマスク生活を支援することが目的。
* 長崎くんち(10月7日~9日)({{JPN}})
*: 長崎県の伝統的な祭り。諏訪神社や各地で奉納踊りが行われる。踊り町は7年おきにそれぞれの町が担当する。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1009|date=Apr 2023}}
* [[1972年]] - [[松任谷由実]]のアルバム『[[悲しいほどお天気]]』に収録されている「ジャコビニ彗星の日」で、松任谷が流星観察を行う。
* [[22世紀|2199年]] - [[ヤマト_(宇宙戦艦ヤマト)|ヤマト]]、[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル]]へ向けて地球を出発。(アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』)
* 年不明- 学園都市独立記念日([[とある魔術の禁書目録]])
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1591年]] - くぼてん、[[福岡県]][[豊前市]]のイメージキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.city.buzen.lg.jp/koho/character.html |title=キャラクター紹介 くぼてん |website=[[豊岡市]] |accessdate=30 Apr 2023}}</ref>
* [[1915年]] - 蜂須賀八重子、漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=紡ぐ乙女と大正の月 2巻|date=2021-08-26|publisher=[[芳文社]]|page=2|author=ちうね|isbn=978-4832273016}}</ref>
* [[1966年]] - [[イカルド・テンタクルズ]]、海外アニメ『[[スポンジ・ボブ]]』に登場するキャラクター
* [[1978年]] - 麻生華澄、ゲーム『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター
* [[1987年]] - [[ハヤテのごとく!の登場人物#ハヤテ・ナギとそのクラスメイト|霞愛歌]]、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター
* [[1988年]] - すず、漫画・アニメ『[[ながされて藍蘭島]]』のヒロイン
* [[2004年]] - [[うなずきん]]、[[バンダイ]]の玩具のキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.bandai.co.jp/catalog/item.php?jan_cd=4543112438263000 |title=商品情報 うなずきん うなずきんマトリョーシカ |access-date=30 Apr 2023 |website=[[バンダイ]]}}</ref>
* [[2069年]] - ライト・ニューマン、アニメ『[[機甲戦記ドラグナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.dragonar.net/character/e02.php |title=ライト・ニューマン |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[創通]]・[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |work=『機甲戦記ドラグナー』}}</ref>
* マヤ暦5174年 - [[アイドルマスター SideM#アスラン=BB II世|アスラン=ベルゼビュートII世]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://sidem-gs.idolmaster-official.jp/idol/asselin/ |title=アスラン=ベルゼビュートⅡ世 |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]] |work=『THE IDOLM@STER SIDE M GROWING STARS』}}</ref>
* 生年不明 - カウント伯爵、人形劇『[[セサミストリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sesamejapan|1314505892411441154}}</ref>
* 生年不明 - [[冥闘士#キューブ|地陰星デュラハンのキューブ]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=88 |title=地陰星(ちいんせい)デュラハンのキューブ |work=『聖闘士星矢』 |accessdate=18 Sep 2023 |publisher=[[車田正美]] |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - モンブラン・ノーランド、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/log/character/detail/MontBlanc_Noland.html |title=モンブラン・ノーランド |work=『ONE PIECE』 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ドスン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Dosun.html |title=ドスン |work=『ONE PIECE』 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - マゼラン、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Magellan.html |title=マゼラン |work=『ONE PIECE』 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[シャーマンキングの登場人物#麻倉家・ふんばり温泉関係者|麻倉幹久]]、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 紫原敦、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|519865519147479040}}</ref>
* 生年不明 - 越後栄、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2017|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-881194-9|volume=27巻|page=24}}</ref>
* 生年不明 - 佐伯護、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 八雲一、漫画・アニメ『[[学園アリス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[咲-Saki-の登場人物#真屋由暉子|真屋由暉子]]、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://sciasta.com/characters.html |title=真屋 由暉子(まや ゆきこ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - アルマ=ギュルティ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERADアルティメットガイド|series=BLADE COMICS|page=51|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861276163}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERAD オフィシャルガイド|series=BLADE COMICS|page=67|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861271526}}</ref>
* 生年不明 - 榎本結子(エノ)、漫画・アニメ『[[恋愛ラボ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 今井豊、漫画・アニメ『[[Aチャンネル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 同期ちゃん、漫画・アニメ『[[がんばれ同期ちゃん]]』のヒロイン
* 生年不明 - 早川千夏、漫画・アニメ『[[うちの会社の小さい先輩の話]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 狛井蓮季、漫画・アニメ『[[寄宿学校のジュリエット]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 金森さやか、漫画・アニメ『[[映像研には手を出すな!]]』に登場するキャラクター<ref>{{YouTube|fZiNquG3yAo|『EIZOUKEN SAKUGA LIVE 映像研作画配信58』大童澄瞳、1:56:43 - 1:57:37 }}</ref>
* 生年不明 - ニーナ、ゲーム『[[ブレス オブ ファイアII 使命の子]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|capcom_awt|1578762144245583873}}</ref>
* 生年不明 - カイル・マディガン、ゲーム『[[パラサイト・イヴ2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 風見鈴香、ゲーム・アニメ『[[こみっくパーティー]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 姫川琴音、ゲーム・アニメ『[[To Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aquaplus_jp|1314219004504887297}}</ref>
* 生年不明 - 源頼久、ゲーム・アニメ『[[遙かなる時空の中で]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[どうぶつの森の登場キャラクター一覧|ドク]]、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m10.html |title=住民名簿 10月 ドク |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - [[水越萌]]、アニメ・ゲーム 『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』 に登場するキャラクター<ref>『コンプティーク』2003年11月号、[[角川書店]]、25頁。</ref>
* 生年不明 - 龍堂冴子、ゲーム『[[夏色☆こみゅにけ〜しょん♪]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 秋山夕絵、ゲーム『[[仰せのままに★ご主人様!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[デイズシリーズの登場人物#桂真奈美|桂真奈美]]、ゲーム『[[School Days]]』『[[Summer Days]]』『[[Cross Days]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 名凪星華、ゲーム『[[コンチェルトノート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.applique-soft.com/staff2009.html |title=スタッフ日記『コンチェルトノート』小説発売日決定~ |access-date=30 Apr 2023 |publisher=あっぷりけ Official Web Site |date=30 Jan 2009}}</ref>
* 生年不明 - 浅利七海、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20008 |title=浅利 七海(あさり ななみ) |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑 |accessdate=30 Apr 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 堀田さあや、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|520149234616500224}}</ref>
* 生年不明 - リク、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://showbyrock-anime.com/character/trichronika/ |title=トライクロニカ BASS リク |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO.,LTD.]] SHOWBYROCK!! 製作委員会# |work=『SHOW BY ROCK!!』}}</ref>
* 生年不明 - 三森マツリ、ゲーム・アニメ『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://t7s.jp/character/chara/29.html |title=三森マツリ |access-date=30 Apr 2023 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]] |work=『Tokyo 7th シスターズ』}}</ref>
* 生年不明 - フェイ・リー、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/faye.html |title=フェイ・リー |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=18 Sep 2023}}</ref>
* 生年不明 - ヴァルター、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/gastronomy/walter/ |title=ヴァルター |access-date=18 Sep 2023 |publisher=[[bilibili]] [[ジークレスト|GCREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - 海晴、読者参加型ゲーム『[[Baby Princess]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 一条瑠夏、メディアミックス『[[Re:ステージ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://rst-anime.com/character/#/ |title=CHARACTER 一条瑠夏 |access-date=30 Apr 2023 |publisher=Re:ステージ! ドリームデイズ♪ 製作委員会 |work=『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』}}</ref>
* 生年不明 - 福島ノア、メディアミックス『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/fukushima-noa/ |title=福島 ノア |access-date=30 Apr 2022 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]] |work=『D4DJ』}}</ref>
* 生年不明 - 長瀬麻奈、メディアミックス『[[IDOLY PRIDE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://idolypride.jp/character/mana-nagase/ |title=長瀬 麻奈 |access-date=30 Apr 2023 |publisher=Project IDOLY PRIDE |work=『IDOLY PRIDE』}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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'''11月9日'''(じゅういちがつここのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から313日目([[閏年]]では314日目)にあたり、年末まであと52日ある。
== できごと ==
* [[1180年]]([[治承]]4年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]])- [[治承・寿永の乱]]: [[富士川の戦い]]。
* [[1494年]] - [[メディチ家]]が[[フィレンツェ]]から追放される。
* [[1799年]]([[フランス革命暦]]ブリュメール18日) - [[フランス革命]]: [[ブリュメールのクーデタ]]。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が軍事クーデターを起こし[[総裁政府]]を倒す。フランス革命が終焉。
* [[1867年]]([[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[徳川慶喜]]が[[二条城]]で[[大政奉還]]を宣言。
* [[1888年]] - [[切り裂きジャック]]が[[売春婦]]のメアリー・ジェイン・ケリーを殺害。確実に切り裂きジャックの犯行とされる最後の事件。
* [[1907年]] - 世界最大の[[ダイヤモンド]]原石「[[カリナン]]」が[[イギリス]]国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]に贈られる。
* [[1918年]] - [[ドイツ革命]]: 皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が{{仮リンク|ヴィルヘルム2世の退位|de|Abdankung Wilhelms II.|en|Abdication of Wilhelm II|label=退位}}し[[オランダ]]に亡命。[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]の[[フィリップ・シャイデマン]]が[[ヴァイマル共和政|共和政]]の樹立を宣言。
* [[1923年]] - [[ミュンヘン一揆]]が鎮圧。
* [[1925年]] - [[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]] (SS) が発足。
* [[1930年]] - [[京阪電気鉄道]][[京阪京津線|京津線]]の[[大谷駅 (滋賀県)|大谷駅]]から電車が暴走して大破。労働組合員らが乗員乗客らを脅して下車させて起こした事件<ref>短銃を持った壮漢ら、電車を暴走させて破壊『大阪毎日新聞』昭和5年11月10日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p168 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1935年]] - 上海で[[中山水兵射殺事件]]。
* [[1935年]] - {{仮リンク|アメリカ産業別労働組合会議|en|Congress of Industrial Organizations}}(CIO)設立。
* [[1938年]] - [[水晶の夜]](クリスタルナハト)。この日の夜から翌日未明にかけてドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。
* [[1945年]] - 旧[[立憲政友会]]を中心に[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]を結成。
* [[1953年]] - [[カンボジア]]が[[フランス]]から独立。
* [[1960年]] - [[フォード・モーター]]の社長に、初めてフォード家以外の人物である[[ロバート・マクナマラ]]が就任。
* [[1962年]] - [[廖承志]]と[[高碕達之助]]が「日中長期総合貿易に関する覚書」([[LT貿易]]覚書)に調印。
* [[1963年]] - [[三井三池三川炭鉱炭じん爆発]]。死者458人。
* 1963年 - [[鶴見事故]]。横浜市鶴見区の[[東海道貨物線]]で貨物列車が脱線。[[東海道本線|東海道線]]上下線の旅客列車の多重衝突事故を引き起こし、死者161人。本事故と上記の事故は同日に発生し、両事故とも多数の犠牲者を出したことから、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」とも呼ばれた。
* [[1964年]] - [[池田勇人]]首相が病気により辞任。[[第1次佐藤内閣|第1次佐藤榮作内閣]]が発足し[[第3次池田内閣 (改造)|池田内閣]]の全閣僚を再任。
* [[1965年]] - [[1965年北アメリカ大停電]]。
* [[1967年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[サターンV]]ロケットの初の発射実験として無人宇宙機「[[アポロ4号]]」が打ち上げ。
* 1967年 - [[武満徹]]作曲の『[[ノヴェンバー・ステップス]]』が[[ニューヨーク]]で初演。
* 1967年 - 米軍が押収していた[[原子爆弾|原爆]]記録映画が22年ぶりに日本に返還。
* [[1974年]] - 東京湾で[[液化石油ガス|LPG]]・石油タンカー「第十雄洋丸」が衝突炎上事故を起こす。([[第十雄洋丸事件]])
* [[1985年]] - 22歳の[[ガルリ・カスパロフ]]が[[アナトリー・カルポフ]]を破り、史上最年少の[[チェス]]の世界チャンピオンとなる。
<!-- 前日の発生で * [[1986年]] - [[杉並一家放火殺人事件]]の指名手配犯が逮捕される。 -->
* [[1987年]] - [[東京ドーム]]建設のため、[[後楽園球場]]の解体を開始。
* [[1989年]] - [[ベルリンの壁崩壊]]: 東西ドイツの[[国境検問所]]で市民の通行が自由化。
* 1989年 - [[鄧小平]]が、最後のポストである[[中国共産党中央軍事委員会]]主席から引退。
* [[1994年]] - [[ドイツ]]・[[ダルムシュタット]]の[[重イオン研究所]]で110番原子[[ダームスタチウム]]が発見される。
* [[2000年]] - [[アメリカ合衆国]][[ワシントンD.C.]]において、『[[全米日系米国人記念碑]]』の除幕式が執り行われる。
* [[2004年]] - [[Mozilla Firefox|Firefox]] 1.0リリース。
* [[2005年]] - [[欧州宇宙機関]] (ESA) の[[金星]]探査機「[[ビーナス・エクスプレス]]」が打ち上げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2005/11/15venus-express_launch/index-j.shtml|title=ビーナス・エクスプレス打ち上げ成功、金星周回軌道へ!|publisher=アストロアーツ|date=2005-11-15|accessdate=2020-10-06}}</ref>。
<!-- 一々書いているとキリがない * [[2006年]] - [[水星]]が太陽の前を[[日面通過]]。 -->
<!-- * [[2008年]] - [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]で[[埼玉西武ライオンズ]]が[[読売ジャイアンツ]]を4勝3敗で下し、4年振り13回目の日本一に。[[渡辺久信]]監督は史上8人目の新人日本一監督に。 -->
== 誕生日 ==
[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|140px|細菌学者[[野口英世]](1876-1928)誕生。[[黄熱病]]や[[梅毒]]などの研究で知られる細菌学及び医学的の権威。]]
* [[1731年]] - [[ベンジャミン・バネカー]]、[[天文学者]](+ [[1806年]])
* [[1818年]] - [[イワン・ツルゲーネフ]]、[[小説家]](+ [[1883年]])
* [[1841年]] - [[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]、[[イギリス君主一覧|イギリス王]](+ [[1910年]])
* [[1864年]] - [[ポール・セリュジエ]]、[[画家]](+ [[1927年]])
* [[1876年]] - [[野口英世]]、細菌学者(+ [[1928年]])
* [[1877年]] - [[ムハンマド・イクバール]]、詩人、哲学者、政治家(+ [[1938年]])
* [[1883年]] - [[伊勢ノ濱慶太郎]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1928年]])
* 1883年 - [[チャールズ・デムス]]、画家(+ [[1935年]])
* [[1922年]] - [[若葉山貞雄]]、大相撲力士、年寄12代[[錣山]](+ [[2001年]])
* 1922年 - [[高村章子]]、[[声優]](+ [[2012年]])
* [[1924年]] - [[ロバート・フランク]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9B7J1FM9BUHBI033.html|title=米写真家ロバート・フランクさん死去 94歳:朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞|date=2019-09-10|accessdate=20120-11-26}}</ref>、[[写真家]](+ [[2019年]])
* [[1929年]] - [[花村えい子]]、[[漫画家]](+ [[2020年]])
* [[1930年]] - [[イヴァン・モラヴェッツ]]、[[ピアニスト]](+ [[2015年]])
* [[1931年]] - [[白石一郎]]、[[作家]](+ [[2004年]])
* 1931年 - [[山内久司]]、[[朝日放送テレビ|朝日放送]][[テレビプロデューサー]](+ [[2014年]])
* 1931年 - [[ホワイティ・ハーゾグ]] 、元[[プロ野球選手]] 、[[プロ野球監督|監督]]
* [[1933年]] - [[ダークダックス|高見澤宏]]、[[ダークダックス]]のトップ・[[テナー]](+ [[2011年]])
* 1933年 - [[ペギー葉山]]、[[歌手]](+ [[2017年]])
* [[1934年]] - [[カール・セーガン]]、[[天文学者]]、作家(+ [[1996年]])
* 1934年 - [[ロナルド・ハーウッド]]、[[脚本家]](+ [[2020年]])
* 1934年 - [[杉尾富美雄]]、プロ野球選手(+ [[2002年]])
* [[1935年]] - [[ボブ・ギブソン]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]])
* [[1936年]] - [[ミハイル・タリ]]、第10代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの公式世界チャンピオン]](+ [[1992年]])
* 1936年 - [[マリー・トラヴァース]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ピーター・ポール&マリー]])(+ [[2009年]])
* [[1937年]] - [[牧野宏]]、プロ野球選手(+ [[1994年]])
* [[1939年]] - [[佐川満男]]、[[俳優]]
* 1939年 - [[アラン・ジレッティ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1940年]] - [[正司敏江・玲児|正司敏江]]、[[漫才師]](+ [[2021年]])
* [[1945年]] - [[後原富]]、元プロ野球選手、[[日本の高校野球|高校野球]]指導者(+ [[2023年]])
* [[1947年]] - [[ルイス・フェリペ・スコラーリ]] 、元[[サッカー選手]] 、指導者
* [[1948年]] - [[門野利治]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[梅沢富美男]]、俳優
* [[1952年]] - [[ジャック・W・ショスタク]]、[[生物学者]]
* 1952年 - [[ジム・リグルマン]]、元プロ野球選手、監督
* [[1954年]] - [[亀山助清]]、声優(+ [[2013年]])
* [[1955年]] - [[朝田のぼる]]、歌手
* [[1955年]] - [[遥くらら]]、女優
* 1955年 - [[平田恒雄]]、プロ野球選手(+ [[2016年]]<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20160211/dra16021105000004-n1.html 元中日外野手・平田恒男氏が死去、60歳] [[サンケイスポーツ]] 2020年11月19日閲覧</ref>)
* [[1957年]] - [[宮本尊義]]、元プロ野球選手
* 1957年 - [[テディ・ヒゲーラ]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[長島哲郎]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[石田えり]]、女優
* 1960年 - [[徐河辰]]、小説家
* [[1961年]] - [[坂本佳一]]、[[野球選手]]
* [[1962年]] - [[高倉あつこ]]、漫画家
* 1962年 - [[ディオン・ジェームズ]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[世耕弘成]]、政治家
* [[1965年]] - [[旭里憲治]]、大相撲力士、年寄15代[[中川 (相撲)|中川]]
* 1965年 - [[安達香代子]]、女優
* [[1967年]] - [[森山佳郎]] 、元サッカー選手、指導者
* [[1969年]] - [[小嶋敬二]]、[[競輪選手]]、[[自転車競技]]選手
* [[1970年]] - [[クリス・ジェリコ]]、[[プロレスラー]]
* [[1971年]] - [[デビッド・デュバル]]、[[プロゴルファー]]
* 1971年 - [[ジョナサン・ナナリー]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[クリスチャン・スタディール]]、実業家
* [[1972年]] - [[進藤尚美]]、声優
* [[1973年]] - [[ニック・ラシェイ]]、歌手
* 1973年 - [[上田浩二郎]]、お笑い芸人([[Hi-Hi]])
* [[1974年]] - [[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]、サッカー選手
* 1974年 - [[加瀬亮]]、俳優
* 1974年 - [[TOSHI-LOW]]、ミュージシャン([[BRAHMAN]])
* [[1976年]] - [[栃東大裕]]、大相撲力士、年寄14代[[玉ノ井]]
* [[1978年]] - [[ジェイソン・スタンリッジ]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[庄田隆弘]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[アダム・ダン]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[三宅梢子]]、タレント
* 1979年 - 福田恵悟、お笑いタレント([[LLR (お笑いコンビ)|LLR]])
* [[1980年]] - [[鬼崎智史]]、野球選手
* [[1981年]] - [[田淵裕章]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]]
* 1981年 - [[大口兼悟]]、俳優
* [[1982年]] - [[アンディ・サワー]]、[[シュートボクシング|シュートボクサー]]
* 1982年 - [[山田雅人 (ドラマー)|山田雅人]]、ミュージシャン([[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]])
* 1982年 - [[エミリー・ヌッシーア]]、フィギュアスケート選手
* 1982年 - [[小笠原大晃]]、俳優、空手家、YouTuber
* 1982年 - [[志村亜貴子]]、野球選手
* 1982年 - [[菊池こころ]]、声優
* 1982年 - [[こじま観光]]、お笑い芸人
* [[1983年]] - [[松陰寺太勇]]、お笑いタレント([[ぺこぱ]])
* 1983年 - [[宮島咲良]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[フリーアナウンサー]]、タレント、歌手
* 1983年 - YU、歌手([[D-51]])
* 1983年 - [[トニー・バーネット]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[えなりかずき]]、タレント
* 1984年 - [[尾崎世界観]]、ミュージシャン([[クリープハイプ]])
* 1984年 - [[城田純]]、[[デザイナー]]、モデル、歌手
* 1984年 - [[ジョエル・ズマヤ]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[SE7EN]]、歌手
* 1984年 - [[ク・ヘソン]]、女優
* 1984年 - [[デルタ・グッドレム]]、[[シンガー・ソングライター]]、[[ピアニスト]]、女優
* [[1985年]] - [[大島洋平]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[福島彩乃]]、アナウンサー
* 1985年 - [[紘毅]]、シンガーソングライター
<!-- 出典が不明 * [[1985年]] - [[朋未]]、プラモドル -->
* 1986年 - [[アンドリュー・キャッシュナー]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[村田綾]]、女優、アイドル
* 1987年 - [[林明寛]]、俳優
* [[1988年]] - [[草場恵]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1988年 - [[伊藤将大]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[宇田川ひとみ]]、グラビアアイドル
* 1989年 - [[上川大樹]]、柔道家
* [[1990年]] - [[ノサ・イギエボー]]、サッカー選手
* 1990年 - [[沈建宏]]、歌手
* 1990年 - [[エラッジ・バルデ]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[関口舞]]、実業家
* [[1991年]] - 碧みさき、アイドル([[JK21]])
* 1991年 - [[宮田麻里乃]]、[[ミス日本]]グランプリ
* [[1992年]] - [[グレッグ・バード (野球)|グレッグ・バード]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[大坂谷啓生]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[酒井宣福]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[江原美優]]、女優、ファッションモデル
* [[1994年]] - [[近本光司]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[杉原千尋]]、フジテレビアナウンサー
* [[1996年]] - [[モモ (歌手)|モモ]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 1996年 - [[佐藤朱 (アイドル)|佐藤朱]]、東北放送アナウンサー、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1996年 - [[長島弘宜]]、元俳優
* [[1997年]] - [[野元空]]、女優、歌手(元[[フェアリーズ]])
* 1997年 - [[柏田樹]]、バレーボール選手
* 1997年 - [[東野絢香]]、女優
* [[1998年]] - [[佐藤麗奈]]、タレント、アイドル([[マジカル・パンチライン]])
* 1998年 - [[鈴木理子 (キリンプロ)|鈴木理子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://kirinpro.co.jp/cgi/list/osaka_g.cgi?id=2131&mode=show |title=鈴木理子 |work=大阪オフィス〜女性タレント |publisher=キリンプロ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013115410/http://kirinpro.co.jp/cgi/list/osaka_g.cgi?id=2131&mode=show |archivedate=2007-10-13 |accessdate=2021-01-21 }}</ref>、女優
* [[2000年]] - [[中島凱斗]]、俳優
* [[2001年]] - 小瀬戸らむ、アイドル([[GEMS COMPANY]])、Vtuber
* [[2002年]] - [[大田愛翔]]、俳優
* [[2003年]] - [[長尾しおり]]、元アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 生年不明 - [[坂本一]]、声優
* 生年不明 - [[植村友美]]、声優
* 生年不明 - [[笠原あきら]]<ref name="prof">{{Cite web|和書|url=http://earlywing.co.jp/sp/talent_w/kasaharaakira.html|title=笠原 あきら|EARLY WING|accessdate=2020-10-29}}</ref>、声優
== 忌日 ==
* [[959年]] - [[コンスタンティノス7世]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[905年]]?)
* [[1187年]]([[淳熙]]14年10月8日) - [[高宗 (宋)|高宗]]、[[中国]][[南宋]]初代[[皇帝]](* [[1108年]])
* [[1388年]]([[元中]]5年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[春屋妙葩]]、[[僧]](* [[1311年]])
* [[1504年]] - [[フェデリーコ1世 (ナポリ王)|フェデリーコ1世]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](* [[1452年]])
* [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - [[横田高松]]、[[武将|戦国武将]]
* [[1573年]]([[天正]]元年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[島津勝久]]、[[薩摩国]]の[[戦国大名]](* [[1503年]])
* [[1613年]]([[慶長]]18年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[大久保忠佐]]、戦国武将、[[沼津藩|沼津藩主]](* [[1537年]])
* [[1630年]]([[寛永]]7年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[藤堂高虎]]、初代[[津藩|津藩主]](* [[1556年]])
* [[1641年]] - [[フェルナンド・デ・アウストリア (枢機卿)|枢機卿フェルナンド]]、[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]総督(* [[1609年]])
*[[1677年]] - [[アールト・ファン・デル・ネール]]、画家(* [[1603年]]頃)
* [[1699年]] - [[オルタンス・マンチーニ]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の愛妾(* [[1646年]])
* [[1724年]]([[享保]]9年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[西川如見]]、[[天文学者]](* [[1648年]])
* [[1766年]] - [[ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール]]、[[作曲家]](* [[1692年]])
* [[1769年]]([[明和]]6年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[青木昆陽]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1698年]])
* [[1773年]]([[安永 (元号)|安永]]2年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[吉益東洞]]、[[漢方医学|漢方医]](* [[1702年]])
* [[1778年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ]]、[[版画家]]、[[建築家]](* [[1720年]])
* [[1856年]] - [[ジョン・ミドルトン・クレイトン (国務長官)|ジョン・ミドルトン・クレイトン]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1796年]])
* [[1873年]] - [[スティーヴン・マロリー]]、[[アメリカ連合国]]海軍長官(* [[1813年]])
* [[1892年]] - [[ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)]]、イギリスの貴族(* [[1844年]])
* [[1909年]] - [[ウィリアム・フリス]]、[[画家]](* [[1819年]])
* [[1910年]] - [[大塚楠緒子]]、[[歌人]](* [[1875年]])
* [[1917年]] - [[マッジ・サイアーズ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1881年]])
* [[1918年]] - [[ギヨーム・アポリネール]]、[[詩人]](* [[1880年]])
* [[1924年]] - [[ヘンリー・カボット・ロッジ]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1850年]])
* [[1927年]] - [[南条文雄]]、[[仏教学者]](* [[1849年]])
* [[1929年]] - [[斎藤秀三郎]]、[[英語学|英語学者]](* [[1866年]])
* [[1930年]] - [[浅野総一郎]]、[[実業家]]、[[浅野財閥]]創業者(* [[1848年]])
* [[1932年]] - [[ナジェージダ・アリルーエワ]]、[[ソビエト連邦]]指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の妻(* [[1901年]])
* [[1937年]] - [[ラムゼイ・マクドナルド]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1866年]])
* [[1938年]] - [[ヴァシーリー・ブリュヘル]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1889年]])
* [[1940年]] - [[ネヴィル・チェンバレン]]、第60代イギリス首相(* [[1869年]])
* [[1944年]] - [[フランク・マーシャル (チェスプレーヤー)|フランク・マーシャル]]、[[チェス]]プレーヤー(* [[1877年]])
* 1944年 - [[ラドノーティ・ミクローシュ]]、詩人(* [[1909年]])
* [[1951年]] - [[シグマンド・ロンバーグ]]、作曲家(* [[1887年]])
* [[1952年]] - [[ハイム・ヴァイツマン]]、初代[[イスラエルの大統領|イスラエル大統領]](* [[1874年]])
* [[1953年]] - [[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]]、初代[[サウジアラビア]]国王(* [[1880年]])
* 1953年 - [[ディラン・トーマス]]、詩人(* [[1914年]])
* [[1959年]] - [[竹脇昌作]]、[[アナウンサー]](* [[1910年]])
* [[1961年]] - [[正田貞一郎]]、実業家、[[日清製粉]]創業者(* [[1870年]])
* [[1963年]] - [[勝沼精蔵]]、[[医学者]](* [[1886年]])
* 1963年 - [[三枝博音]]、[[哲学者]](* [[1892年]])
* [[1966年]] - [[小沢治三郎]]、第31代[[連合艦隊司令長官]](* 1886年)
* [[1970年]] - [[シャルル・ド・ゴール]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](* [[1890年]])
* 1970年 - [[川島正次郎]]、元[[自由民主党幹事長]]・[[自由民主党副総裁|副総裁]]、[[専修大学]]学長(* [[1890年]])
* [[1976年]] - [[ゴットフリート・フォン・クラム]]、[[テニス]]選手(* [[1909年]])
* 1976年 - [[ロジーナ・レヴィーン]]、[[ピアニスト]]、ピアノ教師(* [[1880年]])
* [[1980年]] - [[白井喬二]]、[[小説家]](* [[1889年]])
* [[1981年]] - [[山川武範]]、[[プロ野球選手]](* [[1922年]])
* 1981年 - [[フランク・マリナ]]、航空技師、[[画家]](* [[1912年]])
* [[1987年]] - [[ヴラディーミル・ルジャク]]、[[バリトン]](* [[1912年]])
* [[1988年]] - [[茅誠司]]、[[物理学者]]、[[小さな親切運動]]提唱者(* [[1898年]])
* 1988年 - [[ジョン・N・ミッチェル]]、元[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1913年]])
* [[1991年]] - [[イヴ・モンタン]]、[[俳優]]、[[シャンソン]][[歌手]] (* [[1921年]])
* [[1999年]] - [[八木義徳]]、小説家(* [[1911年]])
* [[2000年]] - [[東千代之介]]、俳優(* [[1926年]])
* 2000年 - [[茶川一郎]]、俳優(* [[1927年]])
* [[2001年]] - [[ジョヴァンニ・レオーネ]]、第6代[[共和国大統領 (イタリア)|イタリア大統領]](* [[1908年]])
* 2001年 - [[千葉耕市]]、[[声優]]、[[音響監督]] (* [[1931年]])
* [[2004年]] - [[アイリス・チャン]]、ジャーナリスト(* [[1968年]])
* [[2005年]] - [[コチェリル・ラーマン・ナラヤナン]]、第10代[[インドの大統領|インド大統領]](* [[1921年]])
* [[2006年]] - [[マルクス・ヴォルフ]]、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の対外諜報総局長(* [[1923年]])
* [[2007年]] - [[天城一]]、小説家、[[数学者]](* [[1919年]])
* [[2008年]] - [[佐田武夫]]、実業家(* [[1925年]])
* 2008年 - [[チャンバラトリオ|前田竹千代]]、[[コメディアン]](チャンバラトリオ)(* [[1952年]])
* [[2011年]] - [[黒沢良]]、声優、俳優(* [[1930年]])
* [[2013年]] - [[三木谷良一]]、[[経済学者]](* [[1929年]])
* [[2015年]] - [[トミー・ハンソン]]、プロ野球選手(* [[1986年]])
* [[2016年]] - [[石黒修]]、元プロ[[テニス選手]](* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[佐藤敬夫]]、[[政治家]](* [[1935年]])
* [[2021年]] - [[瀬戸内寂聴]]、小説家(* [[1922年]])
* [[2023年]] - [[大橋純子]]、歌手(* [[1950年]])
== 記念日・年中行事 ==
*[[ウクライナ語の日]]({{UKR}})
* [[建国記念日|独立記念日]]({{KHM}})
*: [[1953年]]のこの日、カンボジアが[[フランス]]から独立した。
* [[ムハンマド・イクバール]]誕生日({{PAK}})
*: 詩人・哲学者で、[[1930年]]に初めてインドにおけるイスラム国家樹立を主張したムハンマド・イクバールの[[1877年]]の誕生日を記念。
* [[発明家の日]]({{DEU}}・{{AUT}}・{{CHE}})
*: オーストリア出身の女優で発明家の[[ヘディ・ラマー]]の[[1914年]]の誕生日を記念。
* [[運命の日]]({{DEU}})
*: ドイツの20世紀史上、重大事件がしばしば起きた[[特異日]]としての11月9日。[[特異日#政治史]]
* [[換気]]の日({{JPN}})
*: [[日本電機工業会]]が[[1987年]]に制定。「いい(11)く(9)うき」(いい空気)の語呂合せ。
* [[119番の日]]({{JPN}})
*: [[消防庁]]が[[1987年]]に制定。消防の[[緊急通報用電話番号]]が[[119番]]であることから。また、この日から[[11月15日]]までの1週間は[[火災予防運動|秋の全国火災予防運動]]が行われる。
* 太陽暦採用記念日({{JPN}})
*: [[明治]]5年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]([[旧暦]])に、それまでの[[太陰太陽暦]]をやめて[[太陽暦]]を採用するという布告が行われたことに由来。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1109|date=2011年7月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1977年]] - 宇生田広数、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=大場つぐみ|authorlink1=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|title=[[DEATH NOTE]]|volume=13巻|publisher=[[集英社]]|year=2006|page=23|isbn=978-4-08-874095-9}}</ref>
* [[1991年]] - 清滝桂香、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[りゅうおうのおしごと!]]|volume=1|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=213|isbn=978-4-7973-8484-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=[[りゅうおうのおしごと!]]|volume=1|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=179|isbn=978-4-7973-8484-0}}</ref>
* [[1998年]] - 天王寺綯、ゲーム・アニメ『[[STEINS;GATE]]』『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|year=2012|page=84|isbn=978-4-04-886756-6}}</ref>
* 生年不明 - [[海賊 (ONE PIECE)#%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3|ベン・ベックマン]] 、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Ben_Beckman.html |title=ベン・ベックマン |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-10-23 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=尾田栄一郎|authorlink=尾田栄一郎|year=2012|title=ONE PIECE BLUE DEEP CHARACTERS WORLD|page=159|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-870445-6}}</ref>
* 生年不明 - 斑目一角、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher=集英社|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2006|page=116|isbn=4-08-874079-3}}</ref>
* 生年不明 - 金色小春、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1457726120598573059}}</ref>
* 生年不明 - 木手永四郎、漫画『テニスの王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1457725866880946182}}</ref>
* 生年不明 - 雪村あかり、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[最遊記の登場人物一覧#%E4%B8%89%E8%94%B5%E4%B8%80%E8%A1%8C|沙悟浄]]、漫画・アニメ『[[最遊記シリーズ|最遊記]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kaz_minekura|928595207536250881}}</ref>
* 生年不明 - 妹尾梨可、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1457905790438760448}}</ref>
* 生年不明 - 長谷川日向子、アニメ『[[多田くんは恋をしない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://tadakoi.tv/chara06.html |title=長谷川日向子 |accessdate=2022-10-23 |work=多田くんは恋をしない |publisher=TADAKOI PARTNERS}}</ref>
* 生年不明 - 星柿マノン、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|t7s_staff|1457905791185326087}}</ref>
* 生年不明 - シン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=84&cate=name&cont=Shin |title=シン |access-date=2022-10-23 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 近藤勇、ゲーム・アニメ『[[恋愛幕末カレシ〜時の彼方で花咲く恋〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/BAKUMATSU/character/chara06.html |title=近藤 勇 |access-date=2022-10-23 |publisher=FURYU/BAKUMATSU製作委員会 TBS |work=BAKUMATSUクライシス}}</ref>
* 生年不明 - カイ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/magiaseminar/kai/ |title=カイ |access-date=2023-01-18 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#鶴姫やちよ|鶴姫やちよ]]、ゲーム『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status2|starlightrelive|1192819060590829568}}</ref>
* 生年不明 - 奈良胡桃、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/nara|title=奈良 胡桃|キャラクター|publisher=八月のシンデレラナイン公式サイト|accessdate=2023-02-15}}</ref>
<!--
* 生年不明 - カフィン、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|9 November}}
{{新暦365日|11|8|11|10|[[10月9日]]|[[12月9日]]|[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]|1109|11|09}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-28T09:10:06Z | 2023-12-30T16:21:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%889%E6%97%A5 |
5,434 | 11月10日 | 11月10日(じゅういちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。 | [
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'''11月10日'''(じゅういちがつとおか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から314日目([[閏年]]では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。
== できごと ==
* [[1444年]] - [[ヴァルナの戦い]]。
* [[1567年]]([[永禄]]10年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[松永久秀]]、[[三好義継]]軍が[[三好三人衆]]が陣取る[[東大寺]]を急襲し、[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]を含めた堂宇が焼失。([[東大寺大仏殿の戦い]])
*[[1614年]]([[慶長]]19年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[真田信繁|真田幸村(信繁)]]、[[九度山町|九度山]]を脱出し、[[大坂城]]へ入城。
* [[1775年]] - [[大陸会議]]が[[アメリカ海兵隊]]の前身である[[大陸海兵隊]]の創設を承認。アメリカ海兵隊の創設記念日([[1921年]][[11月1日]]以降)。
* [[1862年]] - [[サンクトペテルブルク]]で[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の歌劇『[[運命の力]]』が初演。
* [[1898年]] - [[ウィルミントン暴動]]。
* [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[第四次イゾンツォの戦い]]。
* 1915年 - [[大正天皇]]の[[即位の礼|即位礼]]を[[京都御所]]の[[紫宸殿]]で挙行。
* [[1916年]] - 大日本医師会([[日本医師会]]の前身)設立。
* [[1927年]] - [[岐阜県]][[鶉村 (岐阜県)|鶉村]]で[[小作争議]]が激化。周辺の農民も加わり岐阜区裁判所を約7000人が取り囲む騒ぎを起こす<ref>農民七千が岐阜区裁を包囲、警官と乱闘『大阪毎日新聞』昭和2年11月11日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p159 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1928年]] - [[昭和天皇]]の即位礼を京都御所の紫宸殿で挙行。
* [[1938年]] - [[アラスカ州]]南西沖で[[マグニチュード|M]] 8.2の地震。
* [[1939年]] - [[朝鮮総督府]]、制令20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」発布。[[創氏改名]]。
* 1939年 - [[岩手県]][[松尾鉱山]]で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上<ref>松尾鉱山で落盤事故、百三十人生き埋め『東京朝日新聞』昭和14年11月11日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p24 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1940年]] - 皇居外苑で[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年式典]]を実施。11月14日まで日本各地で記念行事が行われる。
* 1940年 - 兵庫県[[伊丹市]]・[[芦屋市]]が市制施行。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[トーチ作戦]] : [[フランス]][[ヴィシー政権]]軍総司令官[[フランソワ・ダルラン]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍と停戦協定を締結。
* [[1944年]] - [[ゲシュタポ]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]が[[ケルン]]で[[エーデルヴァイス海賊団]]団員ら13名の[[公開処刑]]をおこなう。
* [[1946年]] - {{仮リンク|1946年11月フランス総選挙|en|French legislative election, November 1946|label=フランス総選挙}}で[[フランス共産党]]が第一党となる。
* 1946年 - [[ペルー]]の[[アンカシュ県|アンカシュ]](内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。
* [[1951年]] - [[日本教職員組合]]が第1回[[教育研究全国集会|全国教育研究大会]]を開催。
* [[1952年]] - [[上皇明仁|継宮明仁親王]]の[[立太子の礼]]が皇居・表北ノ間で挙行。
* [[1963年]] - [[鈴鹿サーキット]]で[[日本グランプリ (ロードレース)|オートバイ世界選手権第1回日本グランプリ]]開催。
* 1963年 - [[ジャカルタ]]で第1回[[新興国競技大会]]が開幕。
* [[1965年]] - [[姚文元]]による論文「新編歴史劇『[[海瑞罷官]]』を評す」が[[上海]]の日刊紙『文匯報』に掲載、[[文化大革命]]の序幕となる。
* 1965年 - 日本初の商業用[[原子力発電所]]・[[東海発電所]]で営業用の発電を開始。
* [[1968年]] - [[琉球政府]]で初の主席公選となる[[第1回行政主席通常選挙]]が行われ、[[屋良朝苗]]が当選。
* [[1969年]] - アメリカの[[公共放送サービス|National Educational Television]]で『[[セサミストリート]]』が放送開始。
* [[1970年]] - 世界初の[[月面車]]「[[ルノホート1号]]」を塔載した[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[月]]探査機「[[ルナ17号]]」が打ち上げ。
* 1970年 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の送信所が[[麹町]]の本社鉄塔から[[東京タワー]]に移転。
<!-- 確認できず * [[1971年]] - [[沖縄返還]]協定批准阻止のための[[ゼネラル・ストライキ]]が[[沖縄県|沖縄]]で打たれる。 -->
<!-- * [[1974年]] - [[ずうとるび]]が[[シングル]]『みかん色の恋』で[[レコード]]デビュー。 -->
* [[1975年]] - 強風の中[[スペリオル湖]]を航行中の貨物船「[[エドモンド・フィッツジェラルド (貨物船)|エドモンド・フィッツジェラルド]]」が沈没。
* [[1981年]] - 日比谷のNHK放送会館跡地に日比谷国際ビル([[日比谷シティ]])が開館。
* [[1982年]] - [[中央自動車道]]が全線開通。
* [[1986年]] - [[天皇陛下御在位六十年記念硬貨]](10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨)を発行。
* [[1988年]] - [[竹下内閣]]時に、[[自由民主党 (日本)|自民党]]が[[消費税|消費税関連法案]]を強行採決<!-- 1988年12月24日では? -->。
* [[1989年]] - [[ベルリンの壁崩壊]]: [[ベルリンの壁]]が破壊され始める。
* [[1998年]] - 前年に経営破綻した[[北海道拓殖銀行]]が営業終了。
* [[1999年]] - [[国会 (日本)|国会]]で[[クエスチョンタイム]]が初めて行われる。
* [[2005年]] - 日本プロ野球初の国際公式戦となる第1回[[アジアシリーズ]]が[[東京ドーム]]で開幕。
* [[2007年]] - [[イベロアメリカ首脳会議]]の席でスペイン国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が[[ベネズエラ]]大統領[[ウゴ・チャベス]]を「[[¿Por qué no te callas?]](黙ったらどうかね?)」と一喝。
* [[2009年]] - [[リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件|市川市英国人女性殺害事件]]で[[指名手配]]されていた容疑者が逮捕される<ref>{{Cite web|和書 |date=2009年11月12日 |url=https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=122626 |title=日本版「フェイス/オフ」、耳見てつかまえる |publisher=中央日報 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。
* 2009年 - [[Go (プログラミング言語)|Go言語]]が[[Google]]によって発表される。
* [[2018年]] - [[鹿島アントラーズ]]が[[AFCチャンピオンズリーグ2018]]を初めて[[AFCチャンピオンズリーグ2018 決勝|優勝]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.antlers.co.jp/games/52402|title=鹿島アントラーズ オフィシャルサイト|accessdate=2019-01-12|website=www.so-net.ne.jp}}</ref> し、同チームの主要タイトル獲得数を20冠とした。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]参加チームの中では最多である。
* [[2020年]] - [[日経平均株価]]が25000円を超える<ref>{{Cite news2|title= 日経平均、一時400円高 29年ぶり2万5000円台|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66025710Q0A111C2I00000/|newspaper= 日本経済新聞|date= 2020-11-10|accessdate= 2020-11-10|publisher= 日本経済新聞社}}</ref>。
* [[2021年]] - [[第2次岸田内閣]]発足。
== 誕生日 ==
[[File:Seikima-II 20100704 Japan Expo 73.jpg|thumb|120px|[[デーモン閣下]]<br />(自称B.C.98038-)]]
[[File:Peter Paul Rubens 144.jpg|thumb|120px|[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]](1433-1477)]]
[[File:Martin_Luther,_1529.jpg|thumb|120px|[[マルティン・ルター]](1483-1546)]]
[[File:Ronald Evans.jpg|thumb|120px|[[ロナルド・エヴァンス]](1933-1990)]]
[[File:Roland Emmerich.5239.jpg|thumb|120px|[[ローランド・エメリッヒ]](1955-)]]
[[File:Brittany Murphy.jpg|thumb|120px|[[ブリタニー・マーフィ]](1977-2009)]]
=== 人物 ===
* [[1433年]] - [[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Charles-duke-of-Burgundy Charles duke of Burgundy] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ブルゴーニュ公]](+ [[1477年]])
* [[1483年]] - [[マルティン・ルター]]、[[宗教改革]]指導者(+ [[1546年]])
* [[1668年]] - [[フランソワ・クープラン]]、[[作曲家]](+ [[1733年]])
* 1668年 - [[ルイ3世 (コンデ公)|ルイ3世]]、[[コンデ公]](+ [[1710年]])
* [[1683年]] - [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]、[[イギリス|イギリス王]](+ [[1760年]])
* [[1697年]] - [[ウィリアム・ホガース]]、[[画家]](+ [[1764年]])
* [[1753年]] - [[グランビル・シャープ]]、[[奴隷制度廃止運動]]指導者(+ [[1813年]])
* [[1759年]] - [[フリードリヒ・フォン・シラー]]、[[劇作家]](+ [[1805年]])
* [[1812年]] - [[左宗棠]]、[[官僚]]、[[政治家]](+ [[1885年]])
* [[1822年]] - [[ウィリアム・ヘンリー・トレスコット]]、政治家(+ [[1898年]])
* [[1857年]] - [[ジム・ホイットニー]]、[[プロ野球選手]](+ [[1891年]])
* [[1859年]] - [[テオフィル・アレクサンドル・スタンラン]]、画家、[[版画家]](+ [[1923年]])
* [[1869年]] - [[レオン・ブランシュヴィック]]、[[思想家]](+ [[1944年]])
* [[1873年]] - [[アンリ・ラボー]]、[[作曲家]](+ [[1949年]])
* [[1878年]] - [[ホルヘ・ウビコ]]、[[グアテマラ]][[大統領]](+ [[1946年]])
* [[1882年]] - [[村上武次郎]]、[[冶金学者]](+ [[1969年]])
* [[1883年]] - [[玉椿憲太郎]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1928年]])
* 1883年 - [[橋本関雪]]、[[日本画家]](+ [[1945年]])
* [[1888年]] - [[アンドレーイ・トゥーポレフ|アンドレイ・ツポレフ]]、[[ツポレフ]]創業者(+ [[1972年]])
* [[1892年]] - [[川口軌外]]、画家(+ [[1966年]])
* [[1894年]] - [[マキシミリアノ・コルベ]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](+ [[1941年]])
* [[1895年]] - [[ジャック・ノースロップ]]、[[ノースロップ]]創業者(+ [[1981年]])
* [[1910年]] - [[藤沢武夫]]、[[本田技研工業]]創業者(+ [[1988年]])
* 1910年 - [[西村幸生]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1945年]])
* 1910年 - [[ラウル・ディアニュ]]、[[サッカー選手]](+ [[2002年]])
* 1910年 - [[張楽平]]、漫画家(+ [[1992年]])
* [[1913年]] - [[佐藤太清]]、日本画家(+ [[2004年]])
* [[1914年]] - [[エトムント・コーネン]]、サッカー選手(+ [[1990年]])
* [[1916年]] - [[鶴田六郎]]、[[歌手]](+ [[1997年]])
* [[1918年]] - [[松井栄造]]、野球選手(+ [[1943年]])
* [[1919年]] - [[ミハイル・カラシニコフ]]、戦車長、銃器設計士(+ [[2013年]])
* [[1921年]] - [[北野隆興]]、実業家(+ [[2001年]])
* [[1925年]] - [[リチャード・バートン]]、俳優(+ [[1984年]])
* 1925年 - [[坪井正道]]、[[物理化学|物理化学者]](+ [[2020年]])
* 1925年 - [[藤村多加夫]]、[[俳人]](+ [[2011年]])
* [[1928年]] - [[エンニオ・モリコーネ]]、作曲家(+ 2020年)
* [[1930年]] - [[三橋美智也]]、歌手(+ [[1996年]])
* 1930年 - [[黒木和雄]]、[[映画監督]](+ [[2006年]])
* 1930年 - [[ジーン・コンリー]]、元プロ野球選手、プロバスケットボール選手(+ [[2017年]])
* [[1932年]] - [[ロイ・シャイダー]]、[[俳優]](+ [[2008年]])
* [[1933年]] - [[ロナルド・エヴァンス]]、[[宇宙飛行士]](+ [[1990年]])
* [[1934年]] - [[ルシアン・ビアンキ]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](+ [[1969年]])
* 1934年 - [[ノーム・キャッシュ]]、プロ野球選手(+ [[1986年]])
* [[1938年]] - [[山城新伍]]、俳優(+ [[2009年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090814-530795.html|title=山城新伍さん老人ホームで死去|publisher=日刊スポーツ|date=2009-08-14|accessdate=2020-11-07}}</ref>)
* [[1939年]] - [[長田弘]]、[[詩人]](+ [[2015年]])
* 1939年 - [[入川保則]]、俳優(+ [[2011年]])
* [[1940年]] - [[岡村浩二]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* [[1941年]] - [[ケン月影]]、[[漫画家]]
* [[1942年]] - [[河村建夫]]、政治家
* [[1944年]] - [[アスカル・アカエフ]]、[[キルギス]]初代大統領
* [[1945年]] - [[河原さぶ]]、俳優
* [[1946年]] - [[基満男]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[ジャック・ケッチャム]]、ホラー小説家(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.booklog.jp/news/ketchum-20180125|title=【おくやみ】ジャック・ケッチャムさん逝去 代表作:『隣の家の少女』 |publisher=ブクログ通信|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-05}}</ref>)
* 1946年 - [[石川敏男]]、[[芸能レポーター]]
* 1946年 - [[鈴木博昭 (野球)|鈴木博昭]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[野村悟]]、ヤクザ
* [[1947年]] - [[グレッグ・レイク]]、ミュージシャン(+ [[2016年]])
* 1947年 - [[タッド岡本]]、プロボクサー
* [[1948年]] - [[糸井重里]]、[[コピーライター]]
* 1948年 - [[真木洋子]]、女優(+ [[2000年]])
* 1948年 - [[加藤千速]]、政治家、実業家
* [[1950年]] - [[おかべりか]]、漫画家(+ [[2017年]])
* 1950年 - [[橋本勉 (野球)|橋本勉]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[ラリー・パリッシュ]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[ローランド・エメリッヒ]]、[[映画監督]]
* [[1956年]] - [[高橋三千丈]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[曽田康二]]、元プロ野球選手
* 1957年 - [[宮川総一郎]]、漫画家
* [[1958年]] - [[及川ひとみ]]、[[声優]]
* 1958年 - [[オマー・ミナヤ]]、[[ニューヨーク・メッツ]][[ゼネラルマネージャー|GM]]
* 1958年 - [[浜博文]]、俳優
* 1958年 - [[菊池隆則]]、俳優
* 1958年 - [[下田充利]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[幅しげみ]]、ピアニスト
* [[1959年]] - [[原日出子]]、女優
* 1959年 - [[芹澤信雄]]、[[プロゴルファー]]
* 1959年 - [[佐々木順一朗]]、高校野球指導者
* [[1960年]] - [[川島なお美]]、女優(+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/09/24/kiji/K20150924011198640.html |title= 川島なお美さん死去 昨年胆管がん手術 54歳若すぎる… |publisher= スポーツニッポン |date= 2015-09-24 |accessdate= 2020-12-25 }}</ref>)
* 1960年 - [[ニール・ゲイマン]]、[[SF作家]]
* [[1961年]] - [[神保哲生]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1962年]] - [[高橋俊之]]、[[厚生労働省|厚生労働]][[官僚]]
* [[1963年]] - [[マイク・パウエル]]、元[[陸上選手]]
* 1963年 - [[郭進興]]、元[[野球選手]]
* [[1964年]] - [[清水宏次朗]]、俳優、歌手
<!-- 11月30日? * 1964年 - [[獣神サンダー・ライガー|山田恵一]]、[[プロレスラー]] -->
* 1964年 - [[ケニー・ロジャース (野球)|ケニー・ロジャース]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[エディ・アーバイン]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー
<!-- 出典が不明 * [[1965年]] - [[長利正弘]]、[[宝くじ]]評論家・アドバイザー -->
* 1965年 - [[前田知洋]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* [[1967年]] - [[伊藤一朗]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[Every Little Thing]])
* 1967年 - [[ヴィヴィアン・チョウ]](周慧敏)、歌手
* [[1968年]] - [[長井満也]]、プロレスラー
* 1968年 - [[奈部川勉]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[エレン・ポンピオ]]、女優
* 1969年 - [[イェンス・レーマン]]、[[サッカー|サッカー選手]]
* 1969年 - [[マーク・大喜多]]、[[語り手|ナレーター]]
* 1969年 - SNOBつね、お笑いタレント([[SNOB]])
* [[1970年]] - [[畠田理恵]]、元女優、元歌手
* 1970年 - [[ジェニー・メノー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1972年]] - [[グレッグ・ラロッカ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ショーン・グリーン]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[マルコ・ロドリゲス]]、サッカー審判
<!-- 特筆性は? * 1973年 - [[めいどのみやげ#メンバー|サッチィー]]、[[お笑いタレント]]([[めいどのみやげ]]) -->
* [[1974年]] - [[岩瀬仁紀]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[十文字貴信]]、元[[競輪|競輪選手]]
* 1975年 - [[荒瀬詩織]]、元[[アナウンサー]]
* 1975年 - [[尾辻舞]]、アナウンサー
* 1975年 - [[五味康隆]]、[[自動車評論|自動車評論家]]
* 1975年 - [[オユンナ]]、[[歌手]]
* 1975年 - [[ジェイソン・ターマン]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[藤森崇多]] (Sota Fujimori)、[[ゲームクリエイター]]
* [[1976年]] - [[河端龍]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[オーノ泰広]]、お笑いタレント、俳優
* 1976年 - [[間宮くるみ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W06-0261 |title=間宮くるみ |work=日本タレント名鑑 |accessdate=2021-01-21}}</ref>、声優
* [[1977年]] - [[ジョシュ・バーネット]]、プロレスラー
* 1977年 - [[ウォンビン]]、俳優
* 1977年 - [[栗栖ゆきな]]、元タレント
* 1977年 - [[ブリタニー・マーフィ]]、女優(+ [[2009年]])
* [[1978年]] - [[神田朱未]]、[[声優]]
* 1978年 - [[浅川稚広]]、タレント
* 1978年 - [[鄭大炫]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[熊膳貴志]]、[[キャラクターデザイナー]]
* 1978年 - [[倉貫一毅]]、元サッカー選手
* 1978年 - [[ゴー☆ジャス]]、お笑いタレント
* 1978年 - [[AMEMIYA]]、お笑いタレント、歌手
* [[1979年]] - [[内山高志]]、元[[プロボクサー]]
* [[1980年]] - [[岩瀬亮]]、俳優
* 1980年 - [[古木克明]]、元プロ野球選手、元総合格闘家
* 1980年 - [[トニ・ブランコ]]、元プロ野球選手
* [[1981年]] - [[五十嵐恵]]、タレント
* 1981年 - [[山口あゆみ]]、女優
* 1981年 - [[松尾晃雅]]、元野球選手
* 1981年 - [[クリスチーナ・コバラゼ]]、フィギュアスケート選手
* [[1982年]] - [[浦田直也]]、歌手(元[[AAA (音楽グループ)|AAA]])
* 1982年 - かずや、タレント([[ザ・たっち]])
* 1982年 - たくや、タレント(ザ・たっち)
* [[1984年]] - [[ケンドリック・パーキンス]]、バスケットボール選手
* 1984年 - [[立花里子]]、元[[AV女優]]
* 1984年 - [[小林直己]](NAOKI)、パフォーマー([[EXILE]]、[[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE]])
* 1984年 - [[牧田和久]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[神山竜一]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[榎宮祐]]、漫画家
* [[1985年]] - [[アレクサンダル・コラロヴ]]、サッカー選手
* 1985年 - [[三浦貴大]]、俳優
* 1985年 - [[呉敏霞]]、[[飛込競技]]選手
* [[1986年]] - [[矢吹卓也]]、ダンサー、男優
* 1986年 - [[星秀和]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[サムエル・ワンジル]]、陸上競技選手(+ [[2011年]])
* [[1987年]] - [[大屋夏南]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[深津卓也]]、陸上選手
* [[1988年]] - [[杉浦加奈]]、ファッションモデル、タレント
* 1988年 - [[伊藤しほ乃]]、元グラビアアイドル
* [[1989年]] - [[三浦翔太]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[花井聖]]、サッカー選手
* 1989年 - [[タロン・エジャトン]]、俳優
* [[1990年]] - [[杉岡沙絵子]]、アナウンサー
* 1990年 - [[西勇輝]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[竜電剛至]]、大相撲力士
* 1990年 - [[仲村智美]]、お笑いタレント、タレント、元グラビアアイドル(元[[ソノヘンノ女]])
* 1990年 - [[クリスティーナ・フォーゲル]]、自転車競技選手
* 1990年 - [[エマニュエル・アチョ]]、アメリカンフットボール選手
* [[1992年]] - [[高野一哉]]、元プロ野球選手
* [[1993年]] - [[浦郷絵梨佳]]、女優、モデル、タレント
* 1993年 - [[坂本誠志郎]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[大栄翔勇人]]、大相撲力士
* 1993年 - [[田所あずさ]]、声優、歌手
*[[1994年]] - 友田ジュン、ミュージシャン([[エドガー・サリヴァン]])
* 1994年 - [[浅野拓磨]]、サッカー選手
* [[1995年]] - [[園部聡]]、元プロ野球選手
* 1995年 - [[熊谷敬宥]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[井口眞緒]]、タレント、アイドル(元[[日向坂46]])
* [[1997年]] - [[佐々木李子]]、女優、声優、歌手
* [[1998年]] - [[宇田川優希]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[キーナン・シプカ]]、女優
* 1999年 - 本間日陽、アイドル([[NGT48]])
* 1999年 - [[田辺奈菜美]]、アイドル([[OnePixcel]])
* [[2000年]] - [[マッケンジー・フォイ]]、女優、モデル
* [[2001年]] - [[阪口珠美]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 2006年 - [[ホン・ウンチェ|ウンチェ]]、アイドル([[LE SSERAFIM|ル・セラフィム]])
* 紀元前98038年(公称) - [[デーモン閣下]]、[[歌手]]、[[相撲]]評論家
* 生年不明 - [[綱川博之]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1923年]] - [[忠犬ハチ公]]、[[秋田犬]](+ [[1935年]])
== 忌日 ==
[[File:Wang Jingwei.png|thumb|120px|[[汪兆銘]](1883-1944)]]
[[File:Ebizō Ichikawa IX as Sukeroku.jpg|thumb|120px|[[市川團十郎 (11代目)|十一代目 市川團十郎]](1909-1965)]]
[[File:Bundesarchiv Bild Helmut Schmidt 1975 cropped.jpg|thumb|120px|[[ヘルムート・シュミット]](1918-2015)]]
* [[19年]] - [[ゲルマニクス]]、[[政治家]]、[[将軍]](* [[紀元前15年]])
* [[739年]]([[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[小野牛養]]、[[奈良時代]]の[[貴族]]
* [[765年]]([[天平神護]]元年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[淳仁天皇]]、第47代[[天皇]](* [[733年]])
* [[1549年]] - [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]、第220代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1468年]])
* [[1673年]] - [[ミハウ (ポーランド王)|ミハウ]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1640年]])
* [[1799年]] - [[ジョゼフ・ブラック]]、[[物理学者]]、[[化学者]](* [[1728年]])
* [[1808年]] - [[ガイ・カールトン]]、[[アメリカ独立戦争]]期の[[イギリス軍]]指揮官、[[カナダの総督|カナダ総督]](* [[1724年]])
* [[1821年]] - [[アンドレーアス・ロンベルク]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1767年]])
* [[1843年]] - [[ジョン・トランブル]]、[[画家]](* [[1756年]])
* [[1891年]] - [[アルチュール・ランボー]]、[[詩人]](* [[1854年]])
* [[1899年]] - [[ナサニエル・E・グリーン]]、[[画家]](* [[1823年]])
* [[1907年]] - [[シャルル・ダンクラ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1817年]])
* [[1918年]] - [[野口シカ]]、[[野口英世]]の母、[[助産師]](* [[1852年]])
* [[1929年]] - [[マーク・ボールドウィン]]、プロ野球選手(* [[1863年]])
* [[1938年]] - [[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]、[[トルコ共和国]]初代[[トルコの大統領|大統領]](* [[1881年]])
* [[1944年]] - [[汪兆銘]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]行政院長(* [[1883年]])
* [[1955年]] - [[堤千代]]、[[小説家]](* [[1917年]])
* [[1963年]] - [[井上貞治郎]]、[[発明家]]、[[実業家]]、[[レンゴー]]創業者(* [[1881年]])
* 1963年 - [[畑中武夫]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]](* [[1914年]])
* [[1965年]] - [[市川團十郎 (11代目)|十一代目 市川團十郎]]、[[歌舞伎|歌舞伎役者]](* [[1909年]])
* [[1974年]] - [[小笠原章二郎]]、[[俳優]](* [[1902年]])
* [[1981年]] - [[アベル・ガンス]]、[[映画監督]](* [[1889年]])
* [[1982年]] - [[レオニード・ブレジネフ]]、政治家、[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党書記長]]、[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]](* [[1906年]])
* 1982年 - [[石本秀一]]、[[プロ野球監督]](* [[1896年]])
* [[1989年]] - [[島本虎三]]、[[国会議員|衆議院議員]](* [[1914年]])
* [[1995年]] - [[ケン・サロ=ウィワ]]、作家、[[テレビプロデューサー]]、[[環境運動家|環境保護運動家]](* [[1941年]])
* [[1998年]] - [[ハル・ニューハウザー]]、プロ野球選手(* [[1921年]])
* [[1999年]] - [[フェリックス・ガリミール]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1910年]])
* [[2000年]] - [[ジャック・シャバン・デルマス]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1915年]])
* [[2001年]] - [[西銘順治]]、[[沖縄県知事一覧|沖縄県知事]] (* [[1921年]])
<!-- 特筆性は? * 2001年 - [[杉浦千里]]、[[デザイナー]](* [[1962年]]) -->
* [[2003年]] - [[カナーン・バナナ]]、初代[[ジンバブエの大統領|ジンバブエ大統領]](* [[1936年]])
* [[2006年]] - [[はらたいら]]、[[漫画家]](* [[1943年]])
* 2006年 - [[ジャック・ウィリアムスン]]、[[SF作家]](* [[1908年]])
* 2006年 - [[ジャック・パランス]]、俳優(* [[1919年]])
* 2006年 - [[ジェラルド・レヴァート]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](* [[1966年]])
* [[2007年]] - [[ノーマン・メイラー]]、[[小説家]](* [[1923年]])
* 2007年 - [[成宮明光]]、[[調教師]](* [[1935年]])
* [[2008年]] - [[デイヴ平尾]]、[[歌手]](* [[1945年]])
* [[2009年]] - [[森繁久彌]]、[[俳優]](* [[1913年]])
* 2009年 - [[ロベルト・エンケ]]、サッカー選手(* [[1977年]])
* [[2012年]] - [[森光子]]、[[俳優|女優]](* [[1920年]])
* [[2014年]] - [[高倉健]]、俳優、歌手(* [[1931年]])
* [[2015年]] - [[ヘルムート・シュミット]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM10H8H_Q5A111C1MM8000/|title=シュミット元西ドイツ首相が死去 96歳、サミット創設に尽力|publisher=日本経済新聞|date=2015-11-10|accessdate=2020-11-10}}</ref>、政治家、第5代[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ連邦首相]](* [[1918年]])
* 2015年 - [[安井鍵太郎]]<ref name="sanspo">{{Cite web|和書 |date=2015-11-10 |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20151110/npb15111018430012-n1.html |title=元南海・安井鍵太郎氏が死去 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |accessdate=2020-10-31}}</ref>、プロ野球選手(* [[1918年]])
* [[2020年]] - [[アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ]]、政治家、[[マリ共和国]]第4代[[マリの大統領一覧|大統領]](* [[1949年]])
* 2020年 - [[フアン・ソル]]、サッカー選手(* [[1947年]])
* 2023年 - [[細田博之]]、政治家、第78代[[衆議院議長]](* [[1944年]])
== 記念日・年中行事 ==
* ロス・サントス市独立の第一声記念日({{PAN}})
* 技能の日({{JPN}})
*: [[労働省]]が[[1971年]]に制定。[[1970年]]のこの日に、アジア初の技能五輪([[国際技能競技大会|国際職業訓練競技会]])が日本で開催されたことを記念。
* 肢体不自由児愛護の日({{JPN}})
*: 日本肢体不自由児協会の主唱で[[1953年]]から実施。この日から[[12月10日]]までの1か月間を「手足の不自由な子供を育てる運動」期間としている。肢体不自由児が描いた絵を載せた「友情絵はがき」「愛の絵はがき」の配布等が行われる。
* [[エレベーター]]の日({{JPN}})
*: [[日本エレベータ協会]]が[[1979年]]に制定。[[1890年]]11月10日に[[東京都|東京]]の[[浅草]]に完成した12階建ての[[凌雲閣]]で日本初の電動式エレベーターが一般公開されたことを記念(一般公開は翌[[11月11日]])。
* [[便所|トイレ]]の日({{JPN}})
*: [[日本トイレ協会]]が[[1986年]]に制定。「いい(11)ト(10)イレ」の語呂合せ。
* [[井戸]]の日({{JPN}})
*: 全国さく井協会が[[2006年]]より実施。「いい(1)井(1)戸(10)」の語呂合せ。[[2001年]]より富山県鑿井協会が1月10日を「井戸の日」としていたが、2006年からは全国さく井協会の井戸の日に移行している。
* 断酒宣言の日({{JPN}})
*: [[全日本断酒連盟]]が制定。[[1963年]]に高知市で全日本断酒連盟の結成記念大会が開かれた日。また、11月のNovemberを「もう飲めんばー」、10日を「酒止(十)まる」とした語呂合せでもある。
* [[島唄]]の日({{JPN}})
*: [[2010年]][[奄美市]]の[[コミュニティFM局]]、[[あまみエフエム]]が制定。日付を横一列に並べた|||が三味線を、◯が奄美島唄に欠かせない締め太鼓、チヂンを表している。
* 川口の日({{JPN}})
*:川口→1110→11月10日。[[川口市]]が「川口の日」と制定。
* 希少糖の日({{JPN}})
*: [[2017年]][[希少糖]]普及協会が制定。11月10日は「いい・とうのひ」の語呂合わせである。
* 無[[電柱]]化の日({{JPN}})
*: [[2016年]]に施行された無電柱化の推進に関する法律の第十条にて定められている。「1」を並ぶ電柱に見立てその電柱を「0」にするという意味が込められている。<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_001086.html |title=報道発表資料:11月10日「無電柱化の日」にイベントを開催します<br>~みんなで考えよう なるほど納得!無電柱化inお台場~ - 国土交通省 |publisher=国土交通省|accessdate=2019-04-22}}</ref>
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1110|date=2011年7月}}
* [[1967年]] - [[バイオハザードシリーズの登場人物#その他の人物|リサ・トレヴァー]]に対するウィルス投与実験開始。(ゲーム『[[バイオハザード (ゲーム)|バイオハザード]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0083年 - [[デラーズ・フリート]]に強奪された[[ガンダム開発計画#ガンダム試作2号機(サイサリス)|ガンダム試作2号機]]が、[[観艦式]]のために[[ソロモン (ガンダムシリーズ)|コンペイ島]]に集結した[[地球連邦軍]]艦隊に向けて核攻撃を行う。(アニメ『[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 奥津かがみ、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/okutsu_kagami |title=岡山 奥津 かがみ |access-date=2022-11-06 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 二口堅治、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.j-haikyu.com/anime/chara.html |title=二口堅治 |work=『ハイキュー!!』 |accessdate=2022-11-06 |publisher=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・MBS}}</ref>
* 生年不明 - 山口忠、漫画・アニメ『ハイキュー!!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870482-1|quote=|date=|volume=2巻|page=48}}</ref>
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* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#黒埼ちとせ|黒埼ちとせ]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20059 |title=黒埼 ちとせ(くろさき ちとせ) |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - イザーク、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=17&cate=name&cont=Yzak |title=イザーク |access-date=2023-02-05 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
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== 関連項目 ==
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5,443 | 断食 | 断食(だんじき, 英語: Fasting)とは、自主的に飲食行為を断つこと。一定の期間、すべての食物あるいは特定の食物の摂取を絶つ宗教的行為。現代では絶食療法(一般にいう断食療法)として、医療行為ないし民間医療ともされている。固形物の食べ物を口にするのを止める行為であり、水すらも一切飲まない断食もある。「絶食」ともいう。
後述のラマダーンなど特定の意味を示す言葉として「断食」という言葉を使う場合もある。
断食は世界の諸宗教に広く見られ、食料を摂らないことを「絶食」「不食」という表現が使われることもある。食事は断つものの、「水か茶なら飲んでも構わない」とする断食もある。
断食は宗教上の行事としても行われているが、治療面での効果があることから世界各地で続けられてきたセルフケアでもある。現代日本国内の西洋医療においては、膠原病や内臓器の各検査及び手術による経口摂取制限という理由のみが推奨される。胃腸が不調の際の断食は、不規則な食事となり、極端な空腹が続くと胃酸が中和されず、胃粘膜を傷つけるため、推奨されないとする考え方もある。
漢方医学では「吸収は排泄を阻害する」といわれる。断食によって消化・吸収が停止するため、体のエネルギーを排泄に費やせる。
手術などの全身麻酔を必要とする手技においては、胃の内容物が肺に混入するリスク(誤嚥性肺炎などは生命にかかわる事故となる)を防ぐために絶食が常に行われる。さらにコレステロール検査(脂質状態 -)や血糖測定など、特定の医療検査では、ベースラインを確立できるように数時間の断食が必要とされる。
あるレビューでは、断食は脳内にケトン体を増加させ、覚醒状態、気分、および主観的ウェルビーイングを改善し、おそらく抑うつの全体的な症状を改善したとされる。
断食に体が慣れると、リラックス時に出る脳波であるα波が増加し、瞑想時に近い精神状態に近づくことで高ぶった脳や神経を鎮静化させる。
断食により排泄作用が高まり、体内の余分な水分が排出されて体重が落ちる。また、「食べなくても意外に大丈夫」と気づくことにより、菓子類など習慣的な無駄食いを減少させる効果もある。
24時間未満の断食(断続的断食)は、肥満した健康な成人における、体重減少とボディマス指数の維持に効果的であることが示されている。
空腹になると、胃腸をきれいにする効果があるモチリンが分泌され、老廃物の排出を促す。「断食は多くの現代病にも効果がある」という。その論拠として、「人間の体は、消化吸収することがない状態に入ると、自然に体にたまった毒素を排泄する作用、デトックス効果がある」とのこと。カネミ油症事件における油症患者の体内ではダイオキシン類の排泄量が増え、症状が軽減することが観察されている。
一定の期間、すべての食物あるいは特定の食物の摂取を絶つ宗教的行為である。 一定の食物を(期間を定めず)恒常的に禁忌することは除かれる。
断食の起源や動機については宗教によって説明が異なり、またひとつの宗教の中でも、時代・個人によって意義が異なる場合もある。原始社会で行われている断食では、その歴史的起源、本来の意義すら不明であることもあり、習俗的に行われていることも見られる。
断食における目的をすべて一般化して述べることは困難であるが、以下のような分類がある。人生のサイクルの中で繰り返し現れる危機的状況(妊娠・出産・死亡など)において、その難を避けるために行われる断食がある。出産の前後に、妊婦やその夫に断食が課される未開部族も多い。家族が死んだ場合、遺族がすべての食物を断ったり、一定の食物を断ったりする部族も多い(日本では、死者の命日に遺族は生もの〈なまもの〉を絶つ風習がある)。このタイプの断食についての説明はいくつも試みられているが、そのどれも定説とはなっていない。
紀元前のころから、人間の習慣として存在する。『新約聖書』『旧約聖書』『マハーバーラタ』『ウパニシャッド』『クルアーン』でも言及されている。
イスラームにおいては、ラマダーンの月に行われる断食(日の出から日没までの半日は一切の飲食をしない)がある。ユダヤ教とキリスト教にも、定期的な断食がある。仏教では、煩悩を克服・滅却するために断食を行う場合がある。
食べ物と水を完全に断つ。食べ物の匂いをかぐことや薬を飲むことのほか、歯を磨くことさえも禁止されている。年に6回(ヨム・キプル、ティシュアー・ベ=アーブ、ゲダリヤの断食、テベトの10日、タンムズの17日、エステルの断食)の断食を行う。
聖書(旧約聖書)による定めで、ヨム・キプル以外の安息日に断食を行うことは禁止されている。
ヨム・キプルはトーラーで明確に決まっている。唯一の断食の日である。ヨム・キプルは1年で最も大事な日とされている。バル・ミツワーになった男性あるいはバト・ミツワーになった女性は断食を義務として行うが、ラビから許された命にかかわる重い病や出産直後の女性だけは断食を免除される。ヨム・キプルは安息日と同じように仕事を行ってはいけないという制限があり、家の外に物を運ぶ、電気を使う、料理をする、車に乗る、電話を使う、書き物をすることは禁じられている。
さらにティシュアー・ベ=アーブにも断食が行われる。ヨム・キプルとティシュアー・ベ=アーブでは男女ともに日没から次の日没まで丸一日断食が行われており、それ以外の4回の断食では日の出から日没まで断食が行われ、男性は必ず断食する。女性の場合、病気療養中であったり、断食が困難であるほど身体が弱っていたりする際には、ラビが免除することもある。
福音書には、「しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」「イエスは公生活の前に40日間荒野で断食した(荒野の誘惑)」との記述がある
キリスト教のいくつかの教派や教会において、上記の出来事にちなんで断食が行われる。
ラブリー・チャペル元牧師の八巻正治は福祉を専門とする牧師の立場から断食について次のように述べている。「社会福祉とは、単純に言えば『人びとの衣食住の必要を満たす』ための側面的援助的な働きであるといえます。むろん『衣食足りて礼節忘るる』では困りますが、人々の困窮を深く知るためにも、福祉実践者は自らに断食を課すことによって、そうした気持ちをつかむべき必要があるのです。主イエス様はまさにそうした意味において、人としての苦しみや悲しみを共に体験されたお方なのです。ですからわれわれも共にそれに倣う者でありたいものです。」
より神に近づく探求のために実行される。週に1日か2日、定期的に実行される。ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ホワイトフィールドが始めた、初期のメソジストのようなホーリネス運動では、健康法の一種として定期的な断食を行った。
大斎をはじめとして年に4回の断食(斎)の期間があり、暦の中で重要な位置づけにある。断食の期間は、肉、魚、オリーブ・オイルを筆頭に、すべての油、ワイン、蒸留酒を断つ。一方、タコや貝類は禁止されてはいない。正教徒が多い地中海地域では、これらを使った料理が発達している。
断食は「耐えるもの」ではなく、「自分の不節制を認識し、他人へ施すことで神により近づくための経験である」という。断食によって節約したお金は、寄付の一環として貧しい者に与えられる。
ローマ・カトリック教会は四旬節で断食が行われる。1日の食事を十分な量(動物の肉を含む場合もある)を1回と少量を2回(朝食と夕食)にする。食事の間で固形物を食べるのは許されていない。また、小斎の期間は動物の肉を食べない。
プロテスタント教では受難節と呼ばれており、イエスが40日間断食したことが期間の由来で、生活習慣(飲酒や肉を食べるなど)の1つを選び、それをやめることを基本としている。
一方、アメリカ合衆国にいるプロテスタント宗派(アングリカン・コミュニオンや統一メソジスト教会)は、2回の悔悟の季節、四旬節と降臨節の一部として断食することを奨励している。
末日聖徒イエス・キリスト教会(通称「モルモン教」)では、断食の間は食物と飲物(聖餐会で取るパンと水は除く)を完全に断つ。通常は月の初めの日曜日が断食の日に設定されており、2食を断つことが推奨されている。多くの信者は前日の土曜日の夕食から断食を開始する。断食によって節約された、お金は困っている人を助けるための断食献金として教会に寄付される。
ヒジュラ暦9月であるラマダーンの間、ファジュル(暁の礼拝)から日没(マグリブ)まで断食が行われる。その間、飲食、喫煙、性行為は禁止。ラマダーンはイスラム暦の月の1つであり、ムスリムは断食をとても重要な要素と見なしている。
断食することで、「アッラー(神)が命じたことを行い、逆に禁止されているものすべてから遠ざかることで、「タクワ」(「神を意識すること」)を増やす」「断食を行うムスリムは多くの罪から助けられ、ジャハンナム(地獄)から守られる」とされる。
なお、ラマダーンについては、「食べ物と飲み物を断つ」だけではなく、「嘘をつく、騙す、下品な話、口論、喧嘩、淫らな思考をしないこと」も含まれる。断食を行うことで、「貧乏で空腹な兄弟に対して連帯感を醸成する」とする。ラマダーンの月には寄付を行い、日没後に食事ができる。
ラマダーン(月)に断食することには、次のような3つの意味があると、東京都八王子市にあるモスクの関係者は以下のように説明している。
ラマダーンは、生活におけるバランスや節度を保つために役立っている。クルアーンでは「ムハンマドは『胃(お腹)は1/3を食物で満たし、あとは呼吸などのためにとっておきなさい』『満腹まで食べるのは良くない、満腹の1/3程度に、節度を持って食べなさい』とムハンマドから指摘されている」という。
ラマダーンの月には、ムスリムは仕事も学校も早めに切り上げ、身体を休める。そして、レストランではなく、自宅や親族の家で一緒に食事を摂る。ラマダーンの月の夕方には、全員家に帰るため、街には人っ子ひとりいなくなる。「ラマダーン明けの食事(イド・アル=フィトル)をする時も、ラマダーンの素晴らしさを感じることをできる」という。
ラマダーンの月は、(貧しき人々に想いを向け)慈善を行う月でもある。ムスリムにとっては信仰を深められる時間であり、ムスリムはこれを心待ちにしているという。全世界のムスリムが同時にラマダーンを再開するので、それによって世界中のムスリムが一体感を味わえる時でもあるという。
なお、子供に対しては、年齢が低い間はラマダーンをやらせず、成長するにつれてラマダーンに参加させるようになる。
なお、ラマダーン以外にも自発的な断食がある。
個人個人の考えと地方の慣習に基づき、異なる種類の断食がある。
断食の方法はばらつきが大きい。厳密なものでは、前日の日没から翌日の日の出の48分後まで食物と水を断つ。それ以外では、「一日一食」を行ったり、「ある特定の食べ物のみを食べる」といったものがある。どの場合でも、断食期間中は卵を含めた動物性食品には、触れることすら許されない。
様々な断食の形がある。1つの形式は翌日の夜明けまで食べ物と飲み物を断つ。別の形式では食べ物を断ち、沸騰している水は飲んでもよい。そのほかに、食べ物の種類を制限する形式もある。味付けは塩とコショウのみにし、レンズマメと味気ない食べ物だけを食べる。
ジャイナ教の教えによれば、「断食によって欲望と情欲を抑えることで業を取り除く助けになる」という。
また、断食により自発的に死に至るサンターラーという儀式がある。ジャイナ教においては、サンターラーは自殺ではなく、知識と意図を持って行う儀式の一つであり、長い時間をかけて人生を振り返る時間が与えられる。自分の人生が目的を果たしたと感じた場合、誓いを立てる。これの最終的な目的は、「肉体の浄化と、欲望を捨てること」である。
上座部仏教の僧侶は律(Vinaya)に従い、正午の食事以降は物を食べない。が、これは断食とは考えられてはおらず、むしろ瞑想を補助する修行の手段である。仏教において、「断食は苦行であり、中道から逸脱したもの」として拒絶されると一般的に考えられている。
大乗仏教の僧侶は、経典上は食事に関しては制限されないが、肉食は避ける宗派がある。そのため、肉を使わない精進料理が編み出された。
比叡山延暦寺で行われる修行の一つ、千日回峰行においては、堂入りと呼ばれる荒行が行われる。足かけ九日間にわたって断食・断水・断眠の中、真言を唱え続ける。命をも落としかねない荒行である。生還した場合、平均して15kgは体重が落ちるという。
他宗派仏教で即身仏になる際や、修験道でも積極的に同様の荒行が行われた。
医療的な理由を除き、断食は推奨しない。シク教の教祖は、断食は個人に対して「精神的な利益にならない」としている。シク教の教典であるグル・グラント・サーヒブでも断食や日々の儀式、自己規律は報われないとされている。多くのシク教徒は、いかなる種類の断食も行ったことはない。
バハーイー暦の高尚の月(3月2日から3月20日)の間、日の出から日没までの間行われる。断食の間は完全に食物と飲み物を断ち、喫煙も禁止。断食は祈りの義務とともに最も重要な義務の1つであり、15歳以上の者は断食をしなければならない。
13世紀に『神学大全』を著した神学者トマス・アクィナスは、子供・高齢者・巡礼者・労働者・物乞いはキリスト教での断食は免除されるとした。また、キリスト教の四旬節では、肉類は食べないことも指し、この期間は魚介類を主に食すが、ビーバーやクジラや水鳥などの水と関連がある動物なども食された。
イスラム教では、病人・高齢者・乳幼児・妊婦や授乳中の女性はラマダンの断食を免除される。 | [
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"title": "宗教"
},
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"text": "より神に近づく探求のために実行される。週に1日か2日、定期的に実行される。ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ホワイトフィールドが始めた、初期のメソジストのようなホーリネス運動では、健康法の一種として定期的な断食を行った。",
"title": "宗教"
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"text": "大斎をはじめとして年に4回の断食(斎)の期間があり、暦の中で重要な位置づけにある。断食の期間は、肉、魚、オリーブ・オイルを筆頭に、すべての油、ワイン、蒸留酒を断つ。一方、タコや貝類は禁止されてはいない。正教徒が多い地中海地域では、これらを使った料理が発達している。",
"title": "宗教"
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"text": "断食は「耐えるもの」ではなく、「自分の不節制を認識し、他人へ施すことで神により近づくための経験である」という。断食によって節約したお金は、寄付の一環として貧しい者に与えられる。",
"title": "宗教"
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"text": "ローマ・カトリック教会は四旬節で断食が行われる。1日の食事を十分な量(動物の肉を含む場合もある)を1回と少量を2回(朝食と夕食)にする。食事の間で固形物を食べるのは許されていない。また、小斎の期間は動物の肉を食べない。",
"title": "宗教"
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"text": "プロテスタント教では受難節と呼ばれており、イエスが40日間断食したことが期間の由来で、生活習慣(飲酒や肉を食べるなど)の1つを選び、それをやめることを基本としている。",
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"text": "一方、アメリカ合衆国にいるプロテスタント宗派(アングリカン・コミュニオンや統一メソジスト教会)は、2回の悔悟の季節、四旬節と降臨節の一部として断食することを奨励している。",
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"text": "末日聖徒イエス・キリスト教会(通称「モルモン教」)では、断食の間は食物と飲物(聖餐会で取るパンと水は除く)を完全に断つ。通常は月の初めの日曜日が断食の日に設定されており、2食を断つことが推奨されている。多くの信者は前日の土曜日の夕食から断食を開始する。断食によって節約された、お金は困っている人を助けるための断食献金として教会に寄付される。",
"title": "宗教"
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"text": "ヒジュラ暦9月であるラマダーンの間、ファジュル(暁の礼拝)から日没(マグリブ)まで断食が行われる。その間、飲食、喫煙、性行為は禁止。ラマダーンはイスラム暦の月の1つであり、ムスリムは断食をとても重要な要素と見なしている。",
"title": "宗教"
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"text": "断食することで、「アッラー(神)が命じたことを行い、逆に禁止されているものすべてから遠ざかることで、「タクワ」(「神を意識すること」)を増やす」「断食を行うムスリムは多くの罪から助けられ、ジャハンナム(地獄)から守られる」とされる。",
"title": "宗教"
},
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"text": "なお、ラマダーンについては、「食べ物と飲み物を断つ」だけではなく、「嘘をつく、騙す、下品な話、口論、喧嘩、淫らな思考をしないこと」も含まれる。断食を行うことで、「貧乏で空腹な兄弟に対して連帯感を醸成する」とする。ラマダーンの月には寄付を行い、日没後に食事ができる。",
"title": "宗教"
},
{
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"text": "ラマダーン(月)に断食することには、次のような3つの意味があると、東京都八王子市にあるモスクの関係者は以下のように説明している。",
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},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ラマダーンは、生活におけるバランスや節度を保つために役立っている。クルアーンでは「ムハンマドは『胃(お腹)は1/3を食物で満たし、あとは呼吸などのためにとっておきなさい』『満腹まで食べるのは良くない、満腹の1/3程度に、節度を持って食べなさい』とムハンマドから指摘されている」という。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ラマダーンの月には、ムスリムは仕事も学校も早めに切り上げ、身体を休める。そして、レストランではなく、自宅や親族の家で一緒に食事を摂る。ラマダーンの月の夕方には、全員家に帰るため、街には人っ子ひとりいなくなる。「ラマダーン明けの食事(イド・アル=フィトル)をする時も、ラマダーンの素晴らしさを感じることをできる」という。",
"title": "宗教"
},
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"tag": "p",
"text": "ラマダーンの月は、(貧しき人々に想いを向け)慈善を行う月でもある。ムスリムにとっては信仰を深められる時間であり、ムスリムはこれを心待ちにしているという。全世界のムスリムが同時にラマダーンを再開するので、それによって世界中のムスリムが一体感を味わえる時でもあるという。",
"title": "宗教"
},
{
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"text": "なお、子供に対しては、年齢が低い間はラマダーンをやらせず、成長するにつれてラマダーンに参加させるようになる。",
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},
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"paragraph_id": 38,
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"text": "なお、ラマダーン以外にも自発的な断食がある。",
"title": "宗教"
},
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"text": "個人個人の考えと地方の慣習に基づき、異なる種類の断食がある。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "断食の方法はばらつきが大きい。厳密なものでは、前日の日没から翌日の日の出の48分後まで食物と水を断つ。それ以外では、「一日一食」を行ったり、「ある特定の食べ物のみを食べる」といったものがある。どの場合でも、断食期間中は卵を含めた動物性食品には、触れることすら許されない。",
"title": "宗教"
},
{
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"text": "様々な断食の形がある。1つの形式は翌日の夜明けまで食べ物と飲み物を断つ。別の形式では食べ物を断ち、沸騰している水は飲んでもよい。そのほかに、食べ物の種類を制限する形式もある。味付けは塩とコショウのみにし、レンズマメと味気ない食べ物だけを食べる。",
"title": "宗教"
},
{
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"text": "ジャイナ教の教えによれば、「断食によって欲望と情欲を抑えることで業を取り除く助けになる」という。",
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},
{
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"text": "また、断食により自発的に死に至るサンターラーという儀式がある。ジャイナ教においては、サンターラーは自殺ではなく、知識と意図を持って行う儀式の一つであり、長い時間をかけて人生を振り返る時間が与えられる。自分の人生が目的を果たしたと感じた場合、誓いを立てる。これの最終的な目的は、「肉体の浄化と、欲望を捨てること」である。",
"title": "宗教"
},
{
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"text": "上座部仏教の僧侶は律(Vinaya)に従い、正午の食事以降は物を食べない。が、これは断食とは考えられてはおらず、むしろ瞑想を補助する修行の手段である。仏教において、「断食は苦行であり、中道から逸脱したもの」として拒絶されると一般的に考えられている。",
"title": "宗教"
},
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"tag": "p",
"text": "大乗仏教の僧侶は、経典上は食事に関しては制限されないが、肉食は避ける宗派がある。そのため、肉を使わない精進料理が編み出された。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "比叡山延暦寺で行われる修行の一つ、千日回峰行においては、堂入りと呼ばれる荒行が行われる。足かけ九日間にわたって断食・断水・断眠の中、真言を唱え続ける。命をも落としかねない荒行である。生還した場合、平均して15kgは体重が落ちるという。",
"title": "宗教"
},
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "他宗派仏教で即身仏になる際や、修験道でも積極的に同様の荒行が行われた。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "医療的な理由を除き、断食は推奨しない。シク教の教祖は、断食は個人に対して「精神的な利益にならない」としている。シク教の教典であるグル・グラント・サーヒブでも断食や日々の儀式、自己規律は報われないとされている。多くのシク教徒は、いかなる種類の断食も行ったことはない。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "バハーイー暦の高尚の月(3月2日から3月20日)の間、日の出から日没までの間行われる。断食の間は完全に食物と飲み物を断ち、喫煙も禁止。断食は祈りの義務とともに最も重要な義務の1つであり、15歳以上の者は断食をしなければならない。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "13世紀に『神学大全』を著した神学者トマス・アクィナスは、子供・高齢者・巡礼者・労働者・物乞いはキリスト教での断食は免除されるとした。また、キリスト教の四旬節では、肉類は食べないことも指し、この期間は魚介類を主に食すが、ビーバーやクジラや水鳥などの水と関連がある動物なども食された。",
"title": "免除"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "イスラム教では、病人・高齢者・乳幼児・妊婦や授乳中の女性はラマダンの断食を免除される。",
"title": "免除"
}
] | 断食とは、自主的に飲食行為を断つこと。一定の期間、すべての食物あるいは特定の食物の摂取を絶つ宗教的行為。現代では絶食療法(一般にいう断食療法)として、医療行為ないし民間医療ともされている。固形物の食べ物を口にするのを止める行為であり、水すらも一切飲まない断食もある。「絶食」ともいう。 後述のラマダーンなど特定の意味を示す言葉として「断食」という言葉を使う場合もある。 | '''断食'''(だんじき, {{lang-en|Fasting}})とは、自主的に飲食行為を断つこと。一定の期間、すべての[[食物]]あるいは特定の食物の摂取を絶つ[[宗教]]的行為<ref name="britani">ブリタニカ百科事典「断食」</ref>。現代では[[絶食療法]](一般にいう断食療法)として、医療行為ないし民間医療ともされている。固形物の食べ物を口にするのを止める行為であり、水すらも一切飲まない断食もある。「絶食」ともいう。
後述の[[ラマダーン]]など特定の意味を示す言葉として「断食」という言葉を使う場合もある{{efn2|プレジデント社の記事では「イスラム教には1カ月にわたり断食を行う」とあるが、ここでいう断食とはラマダーンのことであり、決して1か月間の飲食を立つわけではない<ref>{{Cite news|url=https://president.jp/articles/-/48346|title=イスラム教徒にとっての1カ月にわたる断食が「修行ではなくお楽しみ」なワケ|newspaper=プレジデントオンライン|publisher=プレジデント社|date=2021-08-05|accessdate=2022-12-03}}</ref>。}}。
== 概要 ==
断食は世界の諸宗教に広く見られ<ref name="shuukyougaku" />、食料を摂らないことを「絶食」「不食」という表現が使われることもある。[[食事]]は断つものの、「[[水]]か[[茶]]なら飲んでも構わない」とする断食もある。
断食は宗教上の行事としても行われているが、治療面での効果があることから世界各地で続けられてきた[[セルフケア]]でもある。現代日本国内の[[西洋医療]]においては、[[膠原病]]や内臓器の各検査及び手術による経口摂取制限という理由のみが推奨される。胃腸が不調の際の断食は、不規則な食事となり、極端な空腹が続くと胃酸が中和されず、胃粘膜を傷つけるため、推奨されないとする考え方もある<ref name="nikkan">{{Cite web|和書|url=https://hc.nikkan-gendai.com/articles/264701?page=3|title=日刊ゲンダイヘルスケア - 【胃】もたれや痛みなどの不調はプチ断食では解消しない(公開日:2019年11月14日、更新日:2019年11月14日)|accessdate=2021-11-16}}</ref>。
[[漢方医学]]では「吸収は[[排泄]]を阻害する」といわれる。断食によって[[消化]]・吸収が停止するため、体のエネルギーを排泄に費やせる<ref name="style">{{Cite web|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83406290Z10C15A2000000/|title=石原新菜 - WOMAN SMART(日経電子版)|accessdate=2021-11-16}}</ref>。
==健康への影響==
{{See also|オートファジー}}
{{Main|断食療法}}<!-- ブリタニカ百科事典にも【断食療法】という記事がきちんとあるので、別の項目として立てるのが妥当。 -->
{{main2|その他の摂取制限|食事療法}}
=== 医療において ===
手術などの[[全身麻酔]]を必要とする手技においては、胃の内容物が肺に混入するリスク([[誤嚥性肺炎]]などは生命にかかわる事故となる)を防ぐために絶食が常に行われる<ref>{{cite web |url=http://abcnews.go.com/Health/WomensHealth/story?id=7161746&page=1 |title=Do You Need to Starve Before Surgery? – ABC News |publisher=Abcnews.go.com |date=25 March 2009 |accessdate=18 October 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110208095908/http://abcnews.go.com/Health/WomensHealth/story?id=7161746&page=1 |archive-date=8 February 2011 |url-status=live }}</ref><ref>{{cite web |last=Norman |first=Dr |url=http://www.abc.net.au/health/minutes/stories/2004/06/17/1137544.htm |title=Fasting before surgery – Health & Wellbeing |publisher=Abc.net.au |date=17 April 2003 |accessdate=18 October 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20100529211055/http://www.abc.net.au/health/minutes/stories/2004/06/17/1137544.htm |archive-date=29 May 2010 |url-status=live }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.yestheyrefake.net/anesthesia_full.htm |title=Anesthesia Information (full edition) | From Yes They're Fake! |publisher=Yestheyrefake.net |date=1 January 1994 |access-date=18 October 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20101112015650/http://www.yestheyrefake.net/anesthesia_full.htm |archive-date=12 November 2010 |df= }}</ref>。さらに[[コレステロール]]検査(脂質状態 -)や[[血糖]]測定など、特定の医療検査では、ベースラインを確立できるように数時間の断食が必要とされる。
=== 精神保健 ===
あるレビューでは、断食は脳内に[[ケトン体]]を増加させ、覚醒状態、[[気分]]、および主観的[[ウェルビーイング]]を改善し、おそらく[[抑うつ]]の全体的な症状を改善したとされる<ref>{{cite journal|pmid=23332541|year=2013|last1=Fond|first1=G|title=Fasting in mood disorders: Neurobiology and effectiveness. A review of the literature|journal=Psychiatry Research|volume=209|issue=3|pages=253–8|last2=MacGregor|first2=A|last3=Leboyer|first3=M|last4=Michalsen|first4=A|doi=10.1016/j.psychres.2012.12.018|url=http://www.hal.inserm.fr/inserm-00789122/document|access-date=4 November 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180617165447/http://www.hal.inserm.fr/inserm-00789122/document|archivedate=17 June 2018|url-status=live}}</ref>。
断食に体が慣れると、リラックス時に出る[[脳波]]である[[α波]]が増加し、[[瞑想]]時に近い精神状態に近づくことで高ぶった脳や神経を鎮静化させる<ref name="style"/>。
=== 体重減少 ===
断食により排泄作用が高まり、体内の余分な水分が排出されて体重が落ちる。また、「食べなくても意外に大丈夫」と気づくことにより、菓子類など習慣的な無駄食いを減少させる効果もある<ref name="style"/>。
24時間未満の断食(断続的断食)は、肥満した健康な成人における、体重減少と[[ボディマス指数]]の維持に効果的であることが示されている<ref name=unders>{{cite book|last1=Whitney|first1=Eleanor Noss|last2=Rolfes|first2=Sharon Rady|title=Understanding Nutrition|publisher=Cengage Learning|isbn=978-1133587521|url=https://books.google.de/books?id=Mib1CAAAQBAJ&pg=SA7-PA21|accessdate=22 January 2017|language=en|date=27 July 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20170202031451/https://books.google.de/books?id=Mib1CAAAQBAJ&pg=SA7-PA21|archive-date=2 February 2017|url-status=live}}</ref><ref>{{cite book|last1=Shils|first1=Maurice Edward|last2=Shike|first2=Moshe|title=Modern Nutrition in Health and Disease|publisher=Lippincott Williams & Wilkins|isbn=9780781741330|url=https://books.google.de/books?id=S5oCjZZZ1ggC&pg=PA734|accessdate=22 January 2017|language=en|year=2006|archive-url=https://web.archive.org/web/20170202031134/https://books.google.de/books?id=S5oCjZZZ1ggC&pg=PA734|archive-date=2 February 2017|url-status=live}}</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1002/oby.22065 |pmid=29086496 |pmc=5783752 |title=Flipping the Metabolic Switch: Understanding and Applying the Health Benefits of Fasting |journal=Obesity |volume=26 |issue=2 |pages=254–268 |year=2017 |last1=Anton |first1=Stephen D |last2=Moehl |first2=Keelin |last3=Donahoo |first3=William T |last4=Marosi |first4=Krisztina |last5=Lee |first5=Stephanie A |last6=Mainous |first6=Arch G |last7=Leeuwenburgh |first7=Christiaan |last8=Mattson |first8=Mark P}}</ref>。
=== デトックス効果 ===
空腹になると、胃腸をきれいにする効果がある[[モチリン]]が分泌され、老廃物の排出を促す<ref name="style"/>。「断食は多くの[[現代病]]にも効果がある」という。その論拠として、「人間の体は、消化吸収することがない状態に入ると、自然に体にたまった毒素を排泄する作用、[[デトックス]]効果がある」とのこと。[[カネミ油症事件]]における油症患者の体内では[[ダイオキシン類]]の排泄量が増え、症状が軽減することが観察されている<ref>小栗一太、赤峰昭文、古江増隆 『[http://www.kyudai-derm.org/yusho_kenkyu/ 油症研究 30年の歩み]』 [[九州大学出版会]]、2000年6月。ISBN 4-87378-642-8。298-302頁。)</ref>。
== 政治的意思表示 ==
* 自身の思想を世界に訴えることを目的として([[:en:Food for Peace|ピースフード]])。
* 抗議手段として(=[[ハンガー・ストライキ]])
== 宗教 ==
一定の期間、すべての[[食物]]あるいは特定の食物の摂取を絶つ[[宗教]]的行為である<ref name="britani" /><ref name="shuukyougaku">『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年。pp.532-533「断食」</ref>。 一定の食物を(期間を定めず)恒常的に禁忌することは除かれる<ref name="britani" />{{efn2|ただし、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教などの(全部ではなく、あくまで一部の)禁欲的な修行者が行う断食は、永続的である場合も多い<ref>『宗教学辞典』p.532</ref>。}}。
断食の起源や動機については宗教によって説明が異なり、またひとつの宗教の中でも、時代・個人によって意義が異なる場合もある<ref name="shuukyougaku" />。原始社会で行われている断食では、その歴史的起源、本来の意義すら不明であることもあり、習俗的に行われていることも見られる。
断食における目的をすべて一般化して述べることは困難であるが、以下のような分類がある。人生のサイクルの中で繰り返し現れる危機的状況(妊娠・出産・死亡など)において、その難を避けるために行われる断食がある<ref name="britani" /><ref name="shuukyougaku" />。出産の前後に、妊婦やその夫に断食が課される未開部族も多い<ref name="shuukyougaku" />。家族が死んだ場合、遺族がすべての食物を断ったり、一定の食物を断ったりする部族も多い(日本では、死者の命日に遺族は生もの〈なまもの〉を絶つ風習がある)<ref name="shuukyougaku" />。このタイプの断食についての説明はいくつも試みられているが、そのどれも定説とはなっていない<ref name="shuukyougaku" />。
[[紀元前]]のころから、人間の習慣として存在する。『[[新約聖書]]』『[[旧約聖書]]』『[[マハーバーラタ]]』『[[ウパニシャッド]]』『[[クルアーン]]』でも言及されている。
* 祈願(祈り)を行う場合、その効果をより高めるために行う断食<ref name="britani" /><ref name="shuukyougaku" />。
** [[イスラーム教]]においては断食は非常に功徳があるとされており<ref name="shuukyougaku" />、「断食中になされる祈願は必ず聞き入れられる」とされている<ref name="shuukyougaku" />。
* 精神を鍛える[[修行]]の一形態としての断食<ref name="britani" />。
** 古より多くの宗教で行われている。
イスラームにおいては、[[ラマダーン]]の月に行われる断食(日の出から日没までの半日は一切の飲食をしない)がある<ref>{{Cite web|和書|author= |title=イスラム教の聖なる断食月ラマダンとは? |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12093.php |date=2019-5-9 |publisher=ニューズウィーク日本版 |accessdate=2019-11-25}}</ref>。[[ユダヤ教]]と[[キリスト教]]にも、定期的な断食がある。[[仏教]]では、[[煩悩]]を克服・滅却するために断食を行う場合がある。
=== 『旧約聖書』(『タナハ』)における断食の記述 ===
* 「[[モーセ]]は神の山にいる40日間断食をした」(「[[出エジプト記]]」34章28)
* 「[[ダビデ]]は家臣[[ウリヤ]]の妻[[バト・シェバ]]との間にできた息子が、姦通とウリヤを殺害した罰として神によって病気にされたとき、断食をした。それにも拘らず、息子が死ぬと断食をやめた」(「[[サムエル記]]」12章15-25)
=== ユダヤ教 ===
食べ物と水を完全に断つ。食べ物の匂いをかぐことや薬を飲むことのほか、歯を磨くことさえも禁止されている。年に6回([[ヨム・キプル]]、[[ティシュアー・ベ=アーブ]]、[[ゲダリヤの断食]]、[[テベトの10日]]、[[タンムズの17日]]、[[エステルの断食]])の断食を行う。
聖書([[旧約聖書]])による定めで、ヨム・キプル以外の[[安息日]]に断食を行うことは禁止されている。
ヨム・キプルは[[トーラー]]で明確に決まっている。唯一の断食の日である。ヨム・キプルは1年で最も大事な日とされている。[[バル・ミツワー]]になった男性あるいはバト・ミツワーになった女性は断食を義務として行うが、[[ラビ]]から許された命にかかわる重い病や出産直後の女性だけは断食を免除される。ヨム・キプルは安息日と同じように仕事を行ってはいけないという制限があり、家の外に物を運ぶ、電気を使う、料理をする、車に乗る、電話を使う、書き物をすることは禁じられている。
さらに[[ティシュアー・ベ=アーブ]]にも断食が行われる。ヨム・キプルとティシュアー・ベ=アーブでは男女ともに日没から次の日没まで丸一日断食が行われており、それ以外の4回の断食では日の出から日没まで断食が行われ、男性は必ず断食する。女性の場合、病気療養中であったり、断食が困難であるほど身体が弱っていたりする際には、ラビが免除することもある。
=== キリスト教 ===
[[福音書]]には、「しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」<ref>[[マタイによる福音書|マタイ]]17章21節</ref>「イエスは公生活の前に40日間荒野で断食した([[荒野の誘惑]])」との記述がある<ref>[[マタイによる福音書|マタイ]]4章1-11節、[[マルコによる福音書|マルコ]]1章12-13節、[[ルカによる福音書|ルカ]]4章1-13節</ref>
[[キリスト教]]のいくつかの教派や教会において、上記の出来事にちなんで断食が行われる。
[[ラブリー・チャペル]]元牧師の[[八巻正治]]は福祉を専門とする牧師の立場から断食について次のように述べている。「社会福祉とは、単純に言えば『人びとの衣食住の必要を満たす』ための側面的援助的な働きであるといえます。むろん『衣食足りて礼節忘るる』では困りますが、人々の困窮を深く知るためにも、福祉実践者は自らに断食を課すことによって、そうした気持ちをつかむべき必要があるのです。主イエス様はまさにそうした意味において、人としての苦しみや悲しみを共に体験されたお方なのです。ですからわれわれも共にそれに倣う者でありたいものです。<ref>(『聖書とハンディキャップ』1991年、pp.158)</ref>」
==== カリスマ系教会 ====
より神に近づく探求のために実行される。週に1日か2日、定期的に実行される。[[ジョン・ウェスレー]]、[[チャールズ・ウェスレー]]、[[ジョージ・ホワイトフィールド]]が始めた、初期の[[メソジスト]]のような[[ホーリネス運動]]では、健康法の一種として定期的な断食を行った。
==== 正教会 ====
{{main|大斎 (東方正教会)}}
[[大斎 (東方正教会)|大斎]]をはじめとして年に4回の断食(斎)の期間があり、暦の中で重要な位置づけにある。断食の期間は、肉、魚、[[オリーブ・オイル]]を筆頭に、すべての油、[[ワイン]]、[[蒸留酒]]を断つ。一方、[[タコ]]や[[貝類]]は禁止されてはいない。正教徒が多い地中海地域では、これらを使った料理が発達している。
断食は「耐えるもの」ではなく、「自分の不節制を認識し、他人へ施すことで神により近づくための経験である」という。断食によって節約したお金は、寄付の一環として貧しい者に与えられる。
==== ローマ・カトリック教会 ====
{{main|大斎 (カトリック教会)}}
[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]は[[四旬節]]で断食が行われる。1日の食事を十分な量(動物の肉を含む場合もある)を1回と少量を2回(朝食と夕食)にする。食事の間で固形物を食べるのは許されていない。また、[[小斎]]の期間は動物の肉を食べない。
==== プロテスタント教会 ====
プロテスタント教では[[受難節]]と呼ばれており、イエスが40日間断食したことが期間の由来で、生活習慣(飲酒や肉を食べるなど)の1つを選び、それをやめることを基本としている。
一方、[[アメリカ合衆国]]にいるプロテスタント宗派([[アングリカン・コミュニオン]]や統一メソジスト教会)は、2回の悔悟の季節、[[四旬節]]と[[アドベント|降臨節]]の一部として断食することを奨励している。
==== キリスト教系の新宗教 ====
===== 末日聖徒イエス・キリスト教会 =====
[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](通称「[[モルモン教]]」)では、断食の間は食物と飲物(聖餐会で取るパンと水は除く)を完全に断つ<ref name="36863_jpn">{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/bc/content/shared/content/japanese/pdf/language-materials/36863_jpn.pdf?lang=jpn#page=143|title=真理を守る-断食と断食献金|accessdate=2016-12-27|format=PDF|publisher=|pages=141-143}}</ref>。通常は月の初めの日曜日が断食の日に設定されており、2食を断つことが推奨されている<ref name="36863_jpn" />。多くの信者は前日の土曜日の夕食から断食を開始する。断食によって節約された、お金は困っている人を助けるための断食献金として教会に寄付される<ref name="36863_jpn" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/topics/fasting-and-fast-offerings?lang=jpn|title=断食と断食献金|accessdate=2016-12-27|publisher=}}</ref>。
=== イスラム教 ===
{{main|ラマダーン}}
[[ヒジュラ暦]]9月である[[ラマダーン]]の間、[[ファジュル]](暁の[[サラート|礼拝]])から[[日没]]([[マグリブ]])まで断食が行われる。その間、飲食、[[喫煙]]、性行為は禁止。ラマダーンはイスラム暦の月の1つであり、ムスリムは断食をとても重要な要素と見なしている。
断食することで、「[[アッラー]](神)が命じたことを行い、逆に禁止されているものすべてから遠ざかることで、「タクワ」(「神を意識すること」)を増やす」「断食を行うムスリムは多くの罪から助けられ、[[ジャハンナム]](地獄)から守られる」とされる。
なお、ラマダーンについては、「食べ物と飲み物を断つ」だけではなく、「嘘をつく、騙す、下品な話、口論、喧嘩、淫らな思考をしないこと」も含まれる。断食を行うことで、「貧乏で空腹な兄弟に対して連帯感を醸成する」とする。ラマダーンの月には寄付を行い、日没後に食事ができる。
ラマダーン(月)に断食することには、次のような3つの意味があると、[[東京都]][[八王子市]]にある[[モスク]]の関係者は以下のように説明している<ref name="housoudaigaku">放送大学 『初歩のアラビア語』第11回。サカーファ(文化)「ラマダーン」 2014年6月 放送</ref>。
# [[忍耐]]することを学ぶため<ref name="housoudaigaku" />
# 忍耐強くなるため<ref name="housoudaigaku" />
# 貧しくて食べることができない人々の苦しみを理解し、そうした人々のことに思いを至らせるため<ref name="housoudaigaku" />
# [[クルアーン]]に書かれている[[五行]]として行うため<ref name="housoudaigaku" />
ラマダーンは、生活におけるバランスや節度を保つために役立っている<ref name="housoudaigaku" />。クルアーンでは「ムハンマドは『胃(お腹)は1/3を食物で満たし、あとは呼吸などのためにとっておきなさい』『満腹まで食べるのは良くない、満腹の1/3程度に、節度を持って食べなさい』とムハンマドから指摘されている」という<ref name="housoudaigaku" />。
ラマダーンの月には、ムスリムは仕事も学校も早めに切り上げ、身体を休める。そして、レストランではなく、自宅や親族の家で一緒に食事を摂る<ref name="housoudaigaku" />。ラマダーンの月の夕方には、全員家に帰るため、街には人っ子ひとりいなくなる<ref name="housoudaigaku"></ref>。「ラマダーン明けの食事([[イド・アル=フィトル]])をする時も、ラマダーンの素晴らしさを感じることをできる」という<ref name="housoudaigaku" />。
ラマダーンの月は、(貧しき人々に想いを向け)[[慈善]]を行う月でもある<ref name="housoudaigaku" />。ムスリムにとっては信仰を深められる時間であり、ムスリムはこれを心待ちにしているという<ref name="housoudaigaku" />。全世界のムスリムが同時にラマダーンを再開するので、それによって世界中のムスリムが一体感を味わえる時でもある<ref name="housoudaigaku" />という。
なお、子供に対しては、年齢が低い間はラマダーンをやらせず、成長するにつれてラマダーンに参加させるようになる<ref name="housoudaigaku" />。
なお、ラマダーン以外にも自発的な断食がある。
=== ヒンドゥー教 ===
個人個人の考えと地方の慣習に基づき、異なる種類の断食がある。
* 「エカダシ」(14日間周期の[[月相]]の11日目)や、「プルニマ」(「満月の日」)のような特定の日に断食を行う。
* 個人の信念や信仰している神によって1週間の特定の日に断食を行う。
断食の方法はばらつきが大きい。厳密なものでは、前日の日没から翌日の日の出の48分後まで食物と水を断つ。それ以外では、「一日一食」を行ったり、「ある特定の食べ物のみを食べる」といったものがある。どの場合でも、断食期間中は卵を含めた[[動物性食品]]には、触れることすら許されない。
=== ジャイナ教 ===
様々な断食の形がある。1つの形式は翌日の夜明けまで食べ物と飲み物を断つ。別の形式では食べ物を断ち、沸騰している水は飲んでもよい。そのほかに、食べ物の種類を制限する形式もある。味付けは塩とコショウのみにし、[[レンズマメ]]と味気ない食べ物だけを食べる。
ジャイナ教の教えによれば、「断食によって欲望と情欲を抑えることで[[業]]を取り除く助けになる」という。
また、断食により自発的に死に至る[[サンターラー]]という儀式がある。ジャイナ教においては、サンターラーは自殺ではなく、知識と意図を持って行う儀式の一つであり、長い時間をかけて人生を振り返る時間が与えられる。自分の人生が目的を果たしたと感じた場合、誓いを立てる。これの最終的な目的は、「肉体の浄化と、欲望を捨てること」である。
=== 仏教 ===
[[File:Benchamabophit_Dusitvanaram_P1120890.JPG|right|thumb|upright=1.15|断食する釈迦の像]]
==== 上座部仏教 ====
[[上座部仏教]]の僧侶は[[律 (仏教)|律(''Vinaya'')]]に従い、正午の食事以降は物を食べない。が、これは断食とは考えられてはおらず、むしろ[[瞑想]]を補助する修行の手段である。仏教において、「断食は[[苦行]]であり、[[中道]]から逸脱したもの」として拒絶されると一般的に考えられている。
==== 大乗仏教 ====
<!--
特定の食品を避けるのは断食ではない。この【断食】ではなく、【食品】や【食物規定】などに記述するのが適切。
-->
大乗仏教の僧侶は、経典上は食事に関しては制限されないが、肉食は避ける宗派がある。そのため、肉を使わない[[精進料理]]が編み出された。
; 肉食について
:なお、仏教やキリスト教では肉食(にくじき)を制戒していると一般的にいわれる。しかし、[[釈迦]]が最後に[[純陀]]によって供養されたスーカラマッタヴァという料理が一説には豚肉料理であったともいわれることや、釈迦在世の初期仏教で、[[提婆達多]]の分派をめぐる問題から知られるように、釈迦は肉食そのものは禁止したことは無いとされている。上座部の仏教徒においては「柔らかい豚肉」には抵抗を感じなかったといわれる。
==== 天台宗 ====
[[比叡山]][[延暦寺]]で行われる修行の一つ、[[千日回峰行 (比叡山)|千日回峰行]]においては、堂入りと呼ばれる荒行が行われる。足かけ九日間にわたって断食・断水・断眠の中、真言を唱え続ける。命をも落としかねない荒行である。生還した場合、平均して15kgは体重が落ちるという。
他宗派仏教で[[即身仏]]になる際や、修験道でも積極的に同様の荒行が行われた。
=== シク教 ===
医療的な理由を除き、断食は推奨しない。シク教の教祖は、断食は個人に対して「精神的な利益にならない」としている。シク教の教典であるグル・グラント・サーヒブでも断食や日々の儀式、自己規律は報われないとされている。多くのシク教徒は、いかなる種類の断食も行ったことはない。
=== バハーイー教 ===
[[バハーイー暦]]の高尚の月(3月2日から3月20日)の間、日の出から日没までの間行われる。断食の間は完全に食物と飲み物を断ち、喫煙も禁止。断食は祈りの義務とともに最も重要な義務の1つであり、15歳以上の者は断食をしなければならない。
== 免除 ==
13世紀に『神学大全』を著した神学者[[トマス・アクィナス]]は、子供・高齢者・巡礼者・労働者・物乞いはキリスト教での断食は免除されるとした。また、キリスト教の四旬節では、肉類は食べないことも指し、この期間は魚介類を主に食すが、ビーバーやクジラや水鳥などの水と関連がある動物なども食された<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000303411 |title=キリスト教カソリック派ではビーバーを魚類に分類したというが、そのことが書かれている資料があるか。 |access-date=2022-11-25 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref>。
イスラム教では、病人・高齢者・乳幼児・妊婦や授乳中の女性はラマダンの断食を免除される。
== 断食を扱った作品 ==
* 『[[断食芸人]]』([[フランツ・カフカ]])
* 『[[雷波少年系熱狂的巨人ファンシリーズ]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]において放送されていた「[[雷波少年]]」で行われた企画)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[禁欲]]
* [[悪霊追い出し]]
* [[義人]]
* [[入定]]
* [[即身仏]]
* [[断食療法]]
* [[ネッカンマ]]
* [[禁葷食]]
* [[長南年恵]]
* [[ブリザリアン]] - 水を中心とした液体を摂取するだけで生活している人々(BRETHARIAN)
* [[:en:Food for Peace]] - 平和を築くために“食”というフィールドにおいて出来ることに関する提案(Wikipedia英語版によるピースフードについての記事)
* [[デトックス]]
* [[ウェルビーイング]]
* [[マクロビオティック]]
* [[断捨離]]
* [[五色県民健康村健康道場]] - 国内唯一の公的な医学的断食専門施設
* [[アンガス・バルビエーリ]] - 水、茶、ブラックコーヒー、ビタミン、ミネラルのみで'''382日間'''過ごし、456ポンド('''約207㎏''')あった体重を276ポンド('''約125㎏''')減らした(180ポンドに達した時に自分から断食を止めた)。[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録されたスコットランド人
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[[Category:断食|*]]
[[Category:禁欲主義]]
[[Category:宗教行為]]
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