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11月18日
11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月18日'''(じゅういちがつじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から322日目([[閏年]]では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。 == できごと == * [[794年]]([[延暦]]13年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - [[桓武天皇]]が[[長岡京]]から[[平安京]]へ遷都。 * [[1307年]] - 伝承によると、[[ウィリアム・テル]]が自分の息子の頭上に乗せられたリンゴを射抜く。 * [[1723年]] - [[エカテリンブルク]]が公式に建設される。 * [[1727年]] - [[イラン]]北西部の[[タブリーズ]]で大地震発生。死者約7万人。 * [[1803年]] - [[ハイチ革命]]: [[ヴェルティエールの戦い]]。[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]指揮のアフリカ人(黒人)奴隷反乱軍がフランス軍([[ナポレオン・ボナパルト]]軍)に勝利。[[サン=ドマング]](現在の[[ハイチ|ハイチ共和国]])独立が決定的になる。 * [[1901年]] - [[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]が操業開始。 * [[1903年]] - [[パナマ運河条約]]が[[アメリカ合衆国]]と[[パナマ|パナマ共和国]]との間で締結され、[[パナマ運河]]のアメリカ管理と[[パナマ運河地帯]]の永久[[租借地]]化が決定。 * [[1905年]] - [[デンマーク]]のカール王子が、[[スウェーデン]]との同君連合を解消して独立した[[ノルウェー]]の国王に即位し、[[ホーコン7世]]に改名。 * [[1911年]] - [[羽田運動場]]にて、[[国際オリムピック大会選手予選会|日本初のオリンピック予選会]]が行われる。[[11月19日]]まで。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ソンムの戦い]]が終結。 * [[1918年]] - [[ラトビア]]が旧[[ロシア帝国]]からの独立を宣言。 * [[1928年]] - アニメキャラクター[[ミッキーマウス]]、[[ミニーマウス]]のデビュー作となる映画『[[蒸気船ウィリー]]』が公開。 * [[1930年]] - [[牧口常三郎]]と[[戸田城聖]]が、[[創価学会]]の母体である[[創価教育学会]]を設立<ref name="SOKAnet">[http://www.sokanet.jp/info/enkaku.html 沿革] - 創価学会公式ホームページ「SOKAnet」</ref>。 * [[1936年]] - [[スペイン内戦]]: [[ドイツ]]と[[イタリア]]が[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]政権を[[国家の承認|承認]]。 * [[1939年]] - [[日本音楽著作権協会|日本音楽著作権協会(JASRAC)]]の前身・大日本音楽著作権協会が創立。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]:北アフリカ戦線・[[クルセイダー作戦]]開始。 * [[1950年]] - 国鉄[[京都駅]]舎が全焼。 * [[1951年]] - [[参議院]]が[[日本国との平和条約|対日講和条約]]・[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安保条約]]を承認。 * [[1956年]] - [[ニキータ・フルシチョフ]]が、[[ポーランド]][[大使館]]で[[西側諸国|西側]]外交団に対し「好むと好まざるとに関わらず、歴史は我々に味方する!貴様らにいずれクージカのお袋さんを見せてやる!(="[[あんたらを葬ってやる]]!"{{enlink|We will bury you|We will bury you!|p=off}})」と発言。 * [[1974年]] - [[ジェラルド・R・フォード|フォード]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が来日。現職大統領の来日は初めて。 * [[1978年]] - [[ガイアナ]]・[[ジョーンズタウン]]で、[[新宗教]]「[[人民寺院]]」の教祖[[ジム・ジョーンズ]]とその信者が[[集団自殺]]。914人が死亡。 * [[1979年]] - 世界初の[[国際陸上競技連盟|国際陸連]]公認女子マラソン大会となる第1回[[東京国際女子マラソン]]が開催。 * [[1987年]] - 日本航空株式会社法が廃止され、[[日本航空]]が完全民営化。 * [[1988年]] - 元[[愛知県]][[都道府県知事|知事]][[仲谷義明]]が[[自殺]]([[ソウルオリンピック]]を見届け[[名古屋オリンピック構想|名古屋オリンピック]]招致失敗の責をとったとする説があるが真相はいまなお不明)。 * [[1991年]] - [[クロアチア紛争]]: {{仮リンク|ヴコヴァルの戦い|en|Battle of Vukovar}}が終結。 * [[1998年]] - [[京急空港線]]羽田空港駅(現:[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])開業により、同駅 - [[都営地下鉄浅草線]] - [[京成本線]][[成田空港駅]]間に日本初の2空港間連絡列車「[[エアポート快特]]」と「エアポート特急(現在廃止)」が運転を開始する。 * [[2001年]] - [[任天堂]]が[[北米]]で[[ニンテンドーゲームキューブ]]を発売。 * [[2001年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[Suica]]のサービス・販売を開始。 * [[2004年]] - [[元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件]]: [[千葉ロッテマリーンズ]]の元投手・[[小川博]]が自らの勤務先の会社員の女性を殺害し、現金数十万円を強奪。 * [[2008年]] - [[元厚生事務次官宅連続襲撃事件]]: [[山口剛彦]]元厚生[[事務次官]]夫妻が自宅で刺殺されたのが発見され、吉原健二元厚生事務次官の妻も自宅で襲撃され重傷を負う<ref>{{Cite news |date=2008-11-18 |url=http://www.asahi.com/special/08022/TKY200811180318.html |title=元厚生次官宅を連続襲撃 計3人死傷、連続テロか - 元厚生次官宅連続襲撃 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2018-05-20}}</ref>。 * [[2011年]] - [[東京証券取引所]]と[[大阪証券取引所]]の統合が合意<ref>{{Cite news |date=2011-11-19 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPnTK066786820111118 |title=東証と大証が経営統合で最終合意、「日本取引所」設立へ{{=}}関係筋 |publisher=ロイター |accessdate=2018-05-20}}</ref>。 == 誕生日 == [[File:Carl Maria von Weber.jpg|thumb|120px|[[ドイツ]]の[[作曲家]]、[[カール・マリア・フォン・ウェーバー]](1786-1826)誕生]] {{multiple image | footer = 実用的写真技術と([[ダゲレオタイプ]])発明者、[[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール]](1787-1851)誕生。右は《タンプル通り》(1838) | image1 = Louis Daguerre.jpg | width1 = 100 | alt1 = ダゲール | image2 = Boulevard du Temple by Daguerre.jpg | width2 = 160 | alt2 = タンブル通り }} [[File:Lorenz von Stein.jpg|thumb|120px|[[ドイツ]]の[[政治学|政治学者]]、[[ローレンツ・フォン・シュタイン]](1815-1890)誕生。[[伊藤博文]]にドイツ式の[[立憲体制]]を薦めた人物として知られる]] [[File:A E Nordenskiold.jpg|thumb|120px|[[フィンランド]]出身の[[探検家]]、[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]](1832-1901)誕生。[[北極海航路]]を開拓し、北欧から日本に到達]] [[File:Koga Masao 1950.JPG|thumb|120px|[[作曲家]]、[[古賀政男]](1904-1978)誕生]] * [[709年]]([[和銅]]2年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]) - [[光仁天皇]]、第49代[[天皇]](+ [[782年]]) * [[1522年]] - [[ラモラール・ファン・エフモント]]、[[軍人]]、[[政治家]] (+ [[1568年]]) * [[1630年]] - [[エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ]]、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の3度目の皇后(+ [[1686年]]) * [[1647年]] - [[ピエール・ベール]]、[[哲学者]]、[[思想家]] (+ [[1706年]]) * [[1693年]] ([[元禄]]6年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[岩城隆彰]]、初代[[水口藩|水口藩主]](+ [[1724年]]) * [[1723年]] ([[享保]]8年10月21日) - [[加藤明経]]、第2代水口藩主(+ [[1746年]]) * [[1727年]] - [[フィリベール・コメルソン]]、植物学者、博物学者(+ [[1773年]]) * [[1736年]] - [[カール・フリードリヒ・クリスティアン・ファッシュ]]、作曲家、ハープシコード奏者(+ [[1800年]]) * [[1772年]] - [[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)|ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン]]、軍人(+ [[1806年]]) * [[1773年]]([[安永 (元号)|安永]]2年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[徳川家斉]]、[[江戸幕府]]第11代[[征夷大将軍]](+ [[1841年]]) * [[1774年]] - [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1774-1837)]]、プロイセン王国の王族(+ [[1837年]]) * [[1780年]] (安永9年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]] - [[丹羽長祥]]、第11代[[二本松藩|二本松藩主]](+ [[1813年]]) * [[1785年]] ([[天明]]5年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[前田利之]]、第9代[[大聖寺藩|大聖寺藩主]](+ [[1837年]]) * 1785年 - [[デイヴィッド・ウィルキー (画家)|デイヴィッド・ウィルキー]]、画家(+ [[1841年]]) * [[1786年]] - [[カール・マリア・フォン・ウェーバー]]、[[作曲家]](+ [[1826年]]) * 1786年 - [[ヘンリー・ローリー・ビショップ]]、作曲家(+ [[1855年]]) * [[1787年]] - [[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール]]、[[画家]]、[[写真家]]、写真の発明者(+ [[1851年]]) * [[1804年]] - [[アルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ]]、イタリア統一運動時代の政治家、軍人、愛国者(+ [[1878年]]) * [[1810年]] - [[エイサ・グレイ]]、植物学者(+ [[1888年]]) * [[1815年]] - [[ローレンツ・フォン・シュタイン]]、[[政治学|政治学者]](+ [[1890年]]) * [[1828年]] - [[ジョン・クレスウェル]]、第26代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1891年]]) * [[1832年]] - [[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]、鉱山学者、[[探検家]](+ [[1901年]]) * [[1836年]] - [[ウィリアム・S・ギルバート]]、劇作家、リブレット作者、詩人、イラストレーター(+ [[1911年]]) * [[1839年]] - [[アウグスト・クント]]、物理学者(+ [[1894年]]) * [[1847年]] - [[エリシュカ・クラースノホルスカー]]、作家(+ [[1926年]]) * [[1855年]] ([[安政]]2年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[南部利恭]]、第15代[[盛岡藩|盛岡藩主]]、[[伯爵]](+ [[1903年]]) * [[1856年]] - [[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)]]、ロシアの皇族、ロシア大公(+ [[1929年]]) * [[1860年]] - [[イグナツィ・パデレフスキ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]]、政治家、[[外交官]](+ [[1941年]]) * [[1863年]] ([[文久]]3年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[岩城隆彰]]、第13代[[亀田藩|亀田藩主]](+ [[1879年]]) * [[1876年]] - [[ヴィクトル・エメリ]]、レーシングドライバー(+ [[1950年]]) * [[1882年]] - [[パーシー・ウインダム・ルイス]]、[[画家]](+ [[1957年]]) * 1882年 - [[ジャック・マリタン]]、哲学者 (+ [[1973年]]) * 1882年 - [[アメリータ・ガリ=クルチ]]、コロラトゥーラ・ソプラノ (+ [[1963年]]) * [[1882年]] - [[カール・ヴィンソン]]、政治家(+ [[1981年]]) * [[1888年]] - [[フランシス・マリオン (脚本家)|フランシス・マリオン]]、映画脚本家 (+ [[1973年]]) * [[1888年]] - [[スタニスラフ・コシオール]]、革命家、政治家(+ [[1939年]]) * [[1897年]] - [[中川善之助]]、[[法学者]](+ [[1975年]]) * 1897年 - [[パトリック・ブラケット]]、実験物理学者(+ [[1974年]]) * [[1898年]] - [[近衛秀麿]]、[[指揮者]](+ [[1973年]]) * [[1899年]] - [[ユージン・オーマンディ]]、指揮者(+ [[1985年]]) * [[1901年]] - [[ジョージ・ギャラップ]]、ギャラップ調査(Gallup poll)の創始者(+ [[1984年]]) * [[1902年]] - [[錦城山勇吉]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1987年]]) * [[1904年]] - [[古賀政男]]、作曲家(+ [[1978年]]) * [[1906年]] - [[サイト・ファーイク]]、作家(+ [[1954年]]) * 1906年 - [[アレック・イシゴニス]]、自動車技術者(+ [[1988年]]) * 1906年 - [[クラウス・マン]]、作家(+ [[1949年]]) * 1906年 - [[ジョージ・ワルド]]、科学者(+ [[1997年]]) * [[1907年]] - [[コンパイ・セグンド]]、歌手、ギタリスト、作曲家(+ [[2003年]]) * [[1909年]] - [[ジョニー・マーサー]]、作詞家・作曲家・歌手(+ [[1976年]]) * [[1914年]] - [[羽黒山政司]]、大相撲第36代横綱、年寄5代[[立浪]](+ [[1969年]]) * [[1921年]] - [[楠宏]]、[[地球物理学|地球物理学者]]、[[地理学者]](+ [[2021年]]) * [[1922年]] - [[ルイス・ソモサ・デバイレ]]、政治家<ref>[https://www.britannica.com/biography/Luis-Somoza-Debayle Luis Somoza Debayle | president of Nicaragua] Britannica (2021年4月9日) 2021年4月30日閲覧。</ref>(+ [[1967年]]) * 1922年 - [[マージョリー・ゲストリング]]、元飛込競技選手(+ [[1992年]]) * [[1923年]] - [[アラン・シェパード]]、[[宇宙飛行士]](+ [[1998年]]) * 1923年 - [[テッド・スティーヴンス]]、政治家(+ [[2010年]]) * [[1928年]] - [[シーラ・ジョーダン]]、歌手、音楽家 * [[1929年]] - [[川久保潔]]、[[声優]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2134170/full/|title=声優・川久保潔さん死去 89歳 『サラリーマン金太郎』大和守之助役など|publisher=ORICON NEWS|date=2019-04-22|accessdate=2020-11-28}}</ref>) * [[1932年]] - [[登川誠仁]]、[[琉球民謡]]歌手(+ [[2013年]]) * [[1933年]] - [[シャーロット・モーマン]]、[[チェリスト]]、パフォーマンスアーティスト(+ [[1991年]]) * [[1936年]] - [[ドン・チェリー]]、ジャズ・トランペット、コルネット奏者(+ [[1995年]]) * [[1939年]] - [[マーガレット・アトウッド]]、小説家 * 1939年 - [[ジョン・オキーフ]]、神経生理学者 * 1939年 - [[ブレンダ・ヴァッカロ]]、女優 * [[1940年]] - [[カーブース・ビン=サイード]]、[[オマーン]]国王([[スルタン]]) * [[1941年]] - [[ゲイリー・ベッテンハウゼン]]、レーシングドライバー(+ [[2014年]]) * 1941年 - [[デヴィッド・ヘミングス]]、(+ [[2003年]]) * [[1942年]] - [[スーザン・サリヴァン]]、女優 * [[1943年]] - [[出﨑統]]、[[アニメーション監督]](+ [[2011年]]) * [[1944年]] - [[漆原良夫]]、政治家 * [[1945年]] - [[マヒンダ・ラージャパクサ]]、政治家 * [[1946年]] - [[森本太郎]]、ミュージシャン、[[ギタリスト]](元[[ザ・タイガース]]) * 1946年 - [[アラン・ディーン・フォスター]]、SF作家、ファンタジー作家 * [[1947年]] - [[森進一]]、[[歌手]] * [[1948年]] - [[笠井潔]]、[[小説家]]、[[評論家]] * 1948年 - [[金剛正裕]]、元[[大相撲力士]]、年寄10代[[二所ノ関]](+ [[2014年]]) * 1948年 - [[アナ・メンディエタ]]、美術家(+ [[1985年]]) * 1948年 - [[ジャック・テイタム]]、元アメリカンフットボールNFL選手(+ [[2010年]]) * [[1949年]] - [[斉木しげる]]、[[俳優]]、[[タレント]] * [[1950年]] - [[川尻善昭]]、サンドアーティスト * 1950年 - [[フェレンク・カーコ]]、アニメーション監督 * 1950年 - [[グレアム・パーカー]]、ロック歌手、作曲家 * 1950年 - [[ルディ・サーゾ]]、ベーシスト、アニメーター * [[1951年]] - [[ハインリヒ・シフ]]、[[チェリスト]]、[[指揮者]] * [[1952年]] - [[ダン・ブリッグス]]、元[[プロ野球選手]] * 1952年 - [[デルロイ・リンドー]]、俳優 * 1952年 - [[ジョン・パー]]、歌手 * [[1953年]] - [[アラン・ムーア]]、[[漫画原作者]] * 1953年 - [[ケヴィン・ニーロン]]、コメディアン、俳優 * [[1954年]] - [[森繁和]]、元プロ野球選手、監督 * [[1955年]] - [[仲野元子]]、[[俳優#性別での分類|女優]] * [[1956年]] - [[松苗あけみ]]、[[漫画家]] * 1956年 - [[ウォーレン・ムーン]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * [[1957年]] - [[城みちる]]、[[歌手]] * [[1959年]] - [[とがしやすたか]]、漫画家 * [[1960年]] - [[エリザベス・パーキンス]]、女優 * 1960年 - [[キム・ワイルド]]、歌手 * [[1961年]] - [[津田直士]]、作曲家、音楽プロデューサー * 1961年 - [[スティーヴン・モファット]]、脚本家、テレビプロデューサー * 1961年 - [[ティム・ギニー]]、俳優 * 1961年 - [[ジェイミー・モイヤー]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[カーク・ハメット]]、ギタリスト([[メタリカ]]) * [[1963年]] - [[ダンテ・ビシェット]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[ピーター・シュマイケル]]、元サッカー選手 * 1963年 - [[音重鎮]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[レン・バイアス]]、バスケットボール選手(+ [[1986年]]) * [[1964年]] - [[堀江徹]]、[[実業家]] * [[1965年]] - [[スティーヴン・アスムッセン]]、元[[騎手]]、[[調教師]] * [[1966年]] - [[ロブ・マットソン]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[トム・ゴードン]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[小城ノ花昭和]]、元大相撲力士、年寄11代[[出羽海]] * 1967年 - [[原田和彦]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[オーウェン・ウィルソン]]、俳優 * 1968年 - [[ダレル・ウィットモア]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[ゲーリー・シェフィールド]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[やす]]、お笑い芸人([[ずん]]) * 1969年 - [[サム・キャセール]]、元バスケットボール選手 * 1969年 - [[木村浩一郎]]、プロレスラー、総合格闘家(+ [[2014年]]) * [[1970年]] - [[角田晃一]]、元騎手、調教師 * 1970年 - [[川北和典]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[西村ちなみ]]、声優 * 1970年 - [[百瀬武昭]]、漫画家 * 1970年 - [[吉田幸]]、アナウンサー * 1970年 - [[ヨハン・リーヴァ]]、ミュージシャン * 1970年 - [[渡辺満里奈]]、タレント * 1970年 - [[マイク・エップス]]、俳優 * 1970年 - [[メーガン・ケリー]]、ニュースキャスター、政治コメンテーター * [[1971年]] - [[テレーズ・コフィー]]、政治家 * [[1973年]] - [[江田由紀浩]]、俳優 * 1973年 - [[上田佳範]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[飯田祐史]]、騎手 * 1974年 - [[小栗かずまた]]、漫画家 * 1974年 - [[にしおかすみこ]]、お笑いタレント * 1974年 - [[クロエ・セヴィニー]]、女優、ファッションデザイナー、元ファッションモデル * 1974年 - [[ペター・ソルベルグ]]、ラリードライバー * [[1975年]] - [[デビッド・オルティーズ]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[アール・アグノリー]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[東尾理子]]、ゴルファー * 1975年 - [[ショーン・キャンプ]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[パスター・トロイ]]、ラッパー * 1975年 - [[ジェイソン・ウィリアムス (1975年生のバスケットボール選手)|ジェイソン・ウィリアムス]]、元バスケットボール選手 * [[1976年]] - [[シャグラット (ミュージシャン)|シャグラット]]、ミュージシャン * 1976年 - [[本間朋晃]]、プロレスラー * 1976年 - [[スティーヴン・パスクァール]]、俳優 * [[1977年]] - [[ファボラス]]、ラッパー * [[1978年]] - [[アンドリス・ネルソンス]]、指揮者 * [[1979年]] - [[ネイト・パーカー]]、俳優 * [[1980年]] - [[岡田准一]]、俳優、歌手(元[[V6 (グループ)|V6]]) * 1980年 - [[辻香織 (歌手)|辻香織]]、[[シンガーソングライター]]、歌手 * 1980年 - [[フランソワ・デュバル]]、ラリードライバー * 1980年 - [[エマニュエル・サンデュ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1980年 - [[C.J.ウィルソン (野球)|C.J.ウィルソン]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[茅原実里]]、声優<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/茅原実里/|title=茅原実里(ちはらみのり)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2021-01-21}}</ref> * 1980年 - [[ルーク・チャドウィック]]、元プロサッカー選手 * 1980年 - [[デニー・ハムリン]]、ストックカーレーシングドライバー * [[1981年]] - [[ティエリー・デュソトワール]]、元ラグビー選手 * 1981年 - [[曾少宗]]、俳優 * 1981年 - [[山田千鶴]]、タレント、[[グラビアアイドル]] * 1981年 - [[メキア・コックス]]、ダンサー、女優 * 1981年 - [[ナシム・ペドラド]]、女優、コメディアン * 1981年 - [[クリスティナ・ヴィダル]]、女優 * [[1982年]] - [[渡辺明乃]]、声優<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/渡辺明乃/#person-110061359|title=渡辺明乃(わたなべあけの)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-10}}</ref> * 1982年 - [[田中良平 (野球)|田中良平]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[駿河一]]、元プロレスラー * 1982年 - [[ブレント・リーチ]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[デイモン・ウェイアンズ・Jr]]、俳優、コメディアン * [[1983年]] - [[マイケル・ドーソン]]、サッカー選手 * 1983年 - [[小川エリカ (タレント)|小川エリカ]]、元タレント * 1983年 - [[雪野小春]]、元[[ストリッパー一覧|ストリッパー]]、元[[AV女優]] * 1983年 - [[桂咲之輔]]、[[落語家]] * 1983年 - [[トラビス・バック]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[ヨン・レック・ヨハンセン]]、プログラマ * [[1984年]] - [[千葉涼平]]、歌手([[w-inds.]]) * 1984年 - [[中原貴之]]、元[[サッカー選手]] * 1984年 - [[ラファエル (ファッションモデル)|ラファエル]]、[[ファッションモデル]] * 1984年 - [[GENKING]]、タレント<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20211118-OHT1T51000.html?page=1|title=GENKING、18日の誕生日に実年齢を告白「非公開にしてた年齢公表しました」|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2021-11-18|accessdate=2021-11-19}}</ref> * 1984年 - [[エナル・ヤーガー]]、元サッカー選手 * [[1985年]] - 伊藤幸司、お笑いタレント([[ランジャタイ]]) * 1985年 - [[斉藤慶太]]、俳優 * 1985年 - [[斉藤祥太]]、俳優 * 1985年 - [[三宅宏実]]、[[重量挙げ]]選手 * 1985年 - [[アリソン・フェリックス]]、[[陸上競技]]選手 * 1985年 - [[南まりか]]、タレント * 1985年 - [[川村優希]]、[[医師]]、タレント * [[1986年]] - [[河本啓佑]]、声優 * 1986年 - [[椎名ゆな]]、元AV女優 * [[1987年]] - [[ジェイク・アベル]]、俳優 * 1987年 - [[吉藤健太朗|吉藤オリィ]]、ロボットコミュニケーター * 1987年 - [[きょん]]、お笑いタレント([[コットン (お笑いコンビ)|コットン]]) * 1987年 - [[アリソン・フェリックス]]、陸上競技選手 * [[1988年]] - [[手塚大]]、バレーボール選手 * 1988年 - HiDEX、歌手([[ベリーグッドマン]]) * 1988年 - [[マリー・ジョゼ・タ・ルー]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=http://www.lequipe.fr/Athletisme/AthletismeFicheAthlete20271.html|title=MARIE-JOSéE TA LOU|publisher=L'Équipe|language=フランス語|accessdate=2016-08-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160823052944/http://www.lequipe.fr/Athletisme/AthletismeFicheAthlete20271.html|archivedate=2016年08月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> * [[1989年]] - [[本田理紗子]]、歌手、女優 * 1989年 - [[荒木ありさ]]、AV女優 * 1989年 - [[マーク・オルブライトン]]、サッカー選手 * [[1990年]] - [[金羅英]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1990年 - [[鬼頭真由美]]、元[[バスケットボール]]選手 * 1990年 - [[白幡いちほ]]、タレント、元お笑いタレント * [[1991年]] - [[新井美穂 (モデル)|新井美穂]]、ファッションモデル * 1991年 - [[遠藤健太]]、騎手 * 1991年 - [[ジェイムソン・タイヨン]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[曲尾マイケ]]、元プロ野球選手 * [[1992年]] - [[ネイサン・クレス]]、俳優 * 1992年 - [[杉本健勇]]、サッカー選手 * 1992年 - [[大津綾香]]、政治活動家、元タレント * 1992年 - [[スティーヴン・スクリプスキ]]、サッカー選手 * 1992年 - [[ジョー・トゥーニー]]、プロアメリカンフットボール選手 * [[1993年]] - [[奥仲麻琴]]、女優、元アイドル(元[[PASSPO☆]]) * 1993年 - [[田口達也]]、ギタリスト、[[YouTuber]]、バンドマン([[Non Stop Rabbit]]) * [[1994年]] - [[椎名ひかり]]、アイドル * 1994年 - [[堀菜保子]]、アナウンサー * 1994年 - [[守谷周徒]]、俳優 * 1994年 - [[ハン・ソヒ]]、モデル、女優 * 1994年 - [[橋元晃志]]、陸上競技選手 * 1994年 - [[ダンカ・コビニッチ]]、プロテニス選手 * [[1996年]] - [[小川紗季]]、元歌手、元アイドル(元[[スマイレージ]]) * 1996年 - [[仙波以都]]、女優、タレント(元[[キャナァーリ倶楽部]]) * [[1997年]] - [[佐久間みなみ]]、アナウンサー * [[2000年]] - [[根岸可蓮]]、アイドル(元[[たこやきレインボー]]) * [[2007年]] - [[藤永咲哉|サクヤ]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * 生年不明 - [[原田ひとみ]]、声優 * 生年不明 - [[小池いずみ]]、声優 == 忌日 == * [[1886年]] - [[チェスター・A・アーサー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Chester-A-Arthur Chester A. Arthur president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第21代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1829年]]) * [[1889年]] - [[藤堂高潔]]、第12代[[津藩|津藩主]](* [[1837年]]) * [[1922年]] - [[マルセル・プルースト]]、[[作家]](* [[1871年]]) * [[1928年]] - [[マウリッツ・スティッレル]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](* [[1883年]]) * [[1941年]] - [[ヴァルター・ネルンスト]]、[[化学者]](* [[1864年]]) * [[1943年]] - [[徳田秋声]]、小説家(* [[1872年]]) * [[1944年]] - [[牧口常三郎]]、宗教者([[創価教育学会]]創立者・[[創価学会]]初代会長)、地理学者、[[教育学者]](* [[1871年]]) * 1944年 - [[久保角太郎]]、宗教者([[霊友会]]創立者)、仏教改革者(* [[1892年]]) * 1944年 - [[高橋外喜雄]]、[[野球選手]](* [[1908年]]) * [[1952年]] - [[ポール・エリュアール]]、[[詩人]](* [[1895年]]) * [[1958年]] - [[木村荘八]]、[[洋画家]]、[[随筆家]](* [[1893年]]) * [[1959年]] - [[豊田三郎 (小説家)|豊田三郎]]、[[小説家]](* [[1907年]]) * [[1962年]] - [[ニールス・ボーア]]、[[物理学者]](* [[1885年]]) * [[1965年]] - [[ヘンリー・A・ウォーレス]]、第33代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1888年]]) * [[1966年]] - [[河井寛次郎]]、[[陶芸家]](* [[1890年]]) * [[1969年]] - [[ジョセフ・P・ケネディ]]、[[実業家]]、[[外交官]](* [[1888年]]) * [[1973年]] - [[アロイス・ハーバ]]、[[作曲家]](* [[1893年]]) * 1973年 - [[本庄栄治郎]]、[[経済学者]](* [[1888年]]) * [[1976年]] - [[マン・レイ]]、[[写真家]](* [[1890年]]) * [[1977年]] - [[クルト・シュシュニック]]、[[連邦首相 (オーストリア)|オーストリア首相]](* [[1897年]]) * [[1978年]] - [[レニー・トリスターノ]]、[[ジャズ]][[ピアノ]]奏者(* [[1919年]]) * 1978年 - [[レオ・ライアン]]、政治家(* [[1925年]]) * [[1986年]] - [[ジア・キャランジ]]、[[ファッションモデル]](* [[1960年]]) * [[1987年]] - [[ジャック・アンクティル]]、[[自転車競技]]選手(* [[1934年]]) * 1987年 - [[ジョージ・リガ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1932年]]) * 1987年 - [[錦城山勇吉]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1902年]]) * [[1988年]] - [[仲谷義明]]、元[[愛知県知事一覧|愛知県知事]](* [[1925年]]) * [[1991年]] - [[グスターフ・フサーク]]、[[チェコスロヴァキア]]の指導者(* [[1913年]]) * [[1996年]] - [[井上頼豊]]、[[チェリスト]]、音楽教育家(* [[1912年]]) * [[1997年]] - [[小黒八七郎]]、[[医師]]、内科学者、内視鏡による[[胃癌]]治療の権威(* [[1929年]]) * [[1998年]] - [[大村憲司]]、[[ギタリスト]](* [[1949年]]) * [[2002年]] - [[ジェームズ・コバーン]]、[[俳優]](* [[1928年]]) * [[2004年]] - [[市川春代]]、[[俳優|女優]](* 1913年) * 2004年 - [[新田昌玄]]、俳優(* [[1934年]]) * [[2006年]] - [[渡辺茂男]]、[[児童文学者]]、[[翻訳家]](* 1928年) * [[2010年]] - [[松澤浩明]]、ギタリスト(* [[1960年]]) * [[2014年]] - [[羽仁未央]]、メディアプロデューサー(* [[1964年]]) * [[2015年]] - [[ジョナ・ロムー]]、ラグビー選手(* [[1975年]]) * [[2017年]] - [[マルコム・ヤング]]、[[ギタリスト]](* [[1953年]]) * 2017年 - [[ナイム・スレイマノグル]]、重量挙げ選手(* [[1967年]]) * [[2019年]] - [[木内みどり]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/11/22/kiji/20191121s00041000478000c.html 木内みどりさん急死 滞在先の広島市内で 夫・水野氏「突然で早すぎます」] - Sponichi Annex 2019年11月22日</ref>、[[俳優|女優]] (* [[1950年]]) * [[2020年]] - [[岡田裕介]]<ref>{{PDFlink|[https://www.toei.co.jp/company/ir/disclocure/__icsFiles/afieldfile/2020/11/20/20201120.pdf 代表取締役会長の逝去および異動に関するお知らせ]}} - 東映株式会社、2020年11月20日</ref><ref>{{Cite news2|title=東映会長の岡田裕介さん71歳で死去 俳優から転身|newspaper=nikkansports.com|date=2020-11-20|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202011200000481.html|agency=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2020-11-23}}</ref>、実業家、[[映画プロデューサー]](* [[1949年]]) == 記念日・年中行事 == * [[独立記念日]]({{LVA}}) *: [[1918年]]のこの日、ラトビアが[[ロシア帝国]]からの独立を宣言した。 * [[ナショナルデー]]({{OMN}}) * [[土木]]の日({{JPN}}) *:日本工学会の前身である工学会が[[1879年]]11月18日に設立されたことと、「土木」の「土」が十一 (11) に、「木」が十八 (18) にそれぞれ分解できることに由来。土木学会、日本土木工業協会などが[[建設省]](現[[国土交通省]])の支援で[[1987年]]に制定<ref>東京新聞2021年11月18日朝刊「今日は何の日」</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1118|date=2011年7月}} * 1970年 - 水曜日、ダンがマイルズとベルの奸計により[[取締役会]]で解雇される。(小説『[[夏への扉]]』第2章) * 2001年 - スパイダーイマジンが現れる。電王ソードフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1928年]] - [[ミッキーマウス]]、[[ミニーマウス]]、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.disney.co.jp/fc/mickey-friends/character/mickey.html |title=ミッキーマウス |accessdate=2022-10-02 |publisher=Disney |work=ミッキー&フレンズ}}</ref><ref>{{Twitter status|disneyjp|666752697345814529}}</ref> * [[1932年]] - 魔毛狂介、アニメ『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]』13話に登場するキャラクター * [[1966年]] - 瀬乃宮健一郎、ゲーム『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|year=2012|page=91|isbn=978-4-04-886756-6}}</ref> * 生年不明 - リシド、漫画・アニメ『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋和希|title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書|publisher=集英社|series=Vジャンプブックス|year=2015|page=153|ISBN=978-4-08-779722-0}}</ref> * 生年不明 - 河村隆、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=10.5巻|author=[[許斐剛]]|publisher=[[集英社]]|page=152|year=2001|isbn=4-08-873193-X}}</ref> * 生年不明 - シズネ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=90|isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 栗霰串丸、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1460986146058829824}}</ref> * 生年不明 - 安浦晋三平、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』に登場するキャラクター<ref name=":02">{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2016|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890376-7|date=|volume=6巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - 御島明日香、漫画・アニメ『[[君のいる町]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_kimimachi|931680435154726912}}</ref> * 生年不明 - アラネア、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|year=2009|page=63|isbn=978-4-86127-616-3}}</ref> * 生年不明 - ラトビア、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERSヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=17|author=日丸屋秀和}}</ref> * 生年不明 - 灘ユキナリ、漫画・アニメ『[[神クズ☆アイドル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kami-kuzu.com/character/ |title=CHARACTER 灘ユキナリ |access-date=2022-10-02 |publisher=いそふらぼん肘樹・[[一迅社]]/「神クズ☆アイドル」製作委員会 |work=『神クズ☆アイドル』}}</ref> * 生年不明 - 佐々木志乃、小説・アニメ『[[緋弾のアリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://ariaaa.tv/character/ |title=CHARACTER 佐々木志乃 |access-date=2022-10-16 |publisher=赤松中学・KADOKAWA刊 / ProjectAA |work=TVアニメ『緋弾のアリアAA』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 温州愛媛みかん(プリマオレンジ) 、アニメ『[[せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|seizei_kurumi|1328867015172513794}}</ref> * 生年不明 - 紫和泉子、アニメ・ゲーム『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc_heroine_details.html |title=紫 和泉子 |access-date=2022-10-02 |website=D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション}}</ref><ref>『コンプティーク』[[2003年]]11月号、[[角川書店]]、28頁。</ref> <!-- * [[1993年]] - 柳冨美子、ゲーム『[[ときめきメモリアル4]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年11月17日 (日) 19:56 (UTC)}} 2022年10月、およそ3年間要出典のためコメントアウト --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|18 November}} {{新暦365日|11|17|11|19|[[10月18日]]|[[12月18日]]|[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]|1118|11|18}} {{1年の月と日}}
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11月19日
11月19日(じゅういちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から323日目(閏年では324日目)にあたり、年末まであと42日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月19日'''(じゅういちがつじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から323日目([[閏年]]では324日目)にあたり、年末まであと42日ある。 == できごと == [[File:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont.jpg|thumb|180px|[[十字軍]]の契機となった[[クレルモン教会会議]](1095)]] {{multiple image | footer = [[明徳の和約]]により[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]終結(1392)。[[南朝 (日本)|南朝]]・[[後亀山天皇]](左)と[[北朝 (日本)|北朝]]・[[後小松天皇]](右) | image1 = Emperor Go-Kameyama.jpg | width1 = 90 | alt1 = 後亀山天皇 | image2 = Emperor Go-Komatsu.jpg | width2 = 130 | alt2 = 後小松天皇 }} [[File:La masque de fer.jpg|thumb|120px|“[[鉄仮面]]”死去(1765)。[[ルイ14世]]の異母兄説が有力]] {{multiple image | image1 = Lincolnatgettysburg.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[エイブラハム・リンカーン]]による[[ゲティスバーグ演説]](1863) | alt1 = リンカーン | image2 = Surveyor 3-Apollo 12.jpg | width2 = 130 | caption2 = [[アポロ12号]]が[[月面着陸|月面に着陸]](1969)。月面調査をする[[ピート・コンラッド]] | alt2 = コンラッド }} * [[461年]] - 聖[[ヒラルス (ローマ教皇)|ヒラリウス]]が[[教皇|ローマ教皇]]に就任。 * [[1095年]] - ローマ教皇[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]が招集した[[クレルモン教会会議]]が始まる。 * [[1392年]]([[明徳]]3年/[[元中]]9年[[10月5日 (旧暦)|閏10月5日]])- [[明徳の和約]]。[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後亀山天皇]]が[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後小松天皇]]に[[三種の神器]]を譲渡し、[[南北朝時代 (日本)|日本の南北朝時代]]が終結。 * [[1493年]] - [[クリストファー・コロンブス]]が現在の[[プエルトリコ]]にヨーロッパ人として初めて上陸。 * [[1703年]] - [[バスティーユ牢獄]]に収監されていた「[[ベール (服飾)|ベール]]で顔を覆った囚人」([[鉄仮面]])が死亡。 * [[1794年]] - [[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]が[[ジェイ条約]]に調印。[[アメリカ独立戦争]]以後残された問題の解決を狙いとしたもの。 * [[1816年]] - [[ワルシャワ大学]]設立。 * [[1819年]] - [[プラド美術館]]設立<ref>{{Cite web|和書 |url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/1455-11-84 |title=11月19日はプラド美術館 開館の日 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=19 Nov 2022}}</ref>。 * [[1863年]] - [[エイブラハム・リンカーン]]による[[ゲティスバーグ演説]]が行われる<ref>{{Cite web |url=https://education.nationalgeographic.org/resource/gettysburg-address/ |title=Gettysburg Address |access-date=2 Apr 2023 |publisher=National Geographic}}</ref>。 * [[1868年]]([[明治]]元年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]])- [[戊辰戦争]]: [[松山戦争]]。 * [[1894年]] - 青梅鉄道(現在の[[青梅線]])が開業。 * [[1906年]] - [[京阪電気鉄道]]設立。 * [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[独ソ戦]]: [[ウラヌス作戦]]がはじまる。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が[[超国家主義]]的・[[軍国主義]]的・[[封建主義|封建]]的な[[映画]]236本の上映禁止・焼却を指令。 * 1945年 - GHQは、日本政府に対し[[荒木貞夫]]、[[小磯国昭]]、[[松岡洋右]]ら11人を[[戦争犯罪人]]として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令<ref>荒木・南・小磯・松岡ら十一人に逮捕命令(昭和20年11月20日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341</ref>。 * [[1946年]] - [[アフガニスタン]]、[[アイスランド]]、[[スウェーデン]]が[[国際連合]]に加盟。 * [[1956年]] - [[東海道本線]]全線[[鉄道の電化|電化]]が完成。[[1956年11月19日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]も同時実施。それにともない、「青大将」塗色の[[つばめ (列車)|つばめ]]デビュー、[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]] - [[梅田信号場|梅田駅]]間でコンテナ列車運転開始。 * [[1959年]] - 東京都で[[学童擁護員]](緑のおばさん)の制度開始。 * [[1962年]] - [[全日空バイカウント機墜落事故]]。訓練飛行中の[[全日本空輸|全日空]]機が[[愛知県]]猿投上空で墜落。乗員4人全員死亡。 * [[1965年]] - [[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|佐藤栄作内閣]]が戦後初の[[赤字国債]]発行を閣議決定。 * [[1966年]] - 横綱[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]が引退。 * [[1968年]] - [[文化放送]]の[[生放送]]ラジオ[[長寿番組]]「[[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲]]」がこの日にスタート。 * 1968年 - [[嘉手納飛行場B-52爆撃機炎上事故]]。 * [[1969年]] - [[アポロ計画]]: [[アポロ12号]]が[[月面着陸|月面に着陸]]。[[ピート・コンラッド|チャールズ・コンラッド]]と[[アラン・ビーン]]が月に上陸した3人目および4人目の人類となる。 * [[1971年]] - [[沖縄返還]]協定の強行採決に対し全国で抗議デモ。[[日比谷公園]]では中核派と機動隊が衝突し、火炎瓶が投げられ園内のレストラン[[松本楼]]が全焼した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/calendar/?date=1119 |title=日めくりカレンダー 11月19日 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。 * 1971年 - 国産初の超音速航空機である[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]が試験飛行で国産の航空機として初めて音速を越える。 * [[1977年]] - [[エジプト]]大統領[[アンワル・アッ=サーダート|アンワル・サダト]]、[[イスラエル]]を訪問。[[メナヘム・ベギン]]と会談。アラブ世界の指導者による初めてのイスラエル公式訪問となる。 * 1977年 - [[TAP ポルトガル航空425便墜落事故]]: [[TAPポルトガル航空]]の[[ボーイング727]]が、[[マデイラ空港]]で着陸時に滑走路をオーバーランし転落、131人が死亡。 * [[1980年]] - [[山口百恵]]と[[三浦友和]]が結婚。 * [[1985年]] - [[冷戦]]: [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]が[[ジュネーヴ]]で初めて会談。 * [[1993年]] - [[環境基本法]]が公布。 * [[1999年]] - [[中華人民共和国]]初の宇宙船「[[神舟1号]]」が打ち上げ。 * [[2003年]] - [[PHS]]事業者[[アステル]]グループの[[アステル九州]]が停波。PHSの通信業者の事業停止としては日本初。 * [[2006年]] - [[任天堂]]の据え置き型ゲーム機「[[Wii]]」が北米で発売開始。 * 2006年 - 世界最大の旅客機[[エアバスA380]]が、空港適合性試験のため初めて日本の[[成田国際空港]]に飛来。 * [[2008年]] - 複数人で同時編集可能なウェブベーステキストエディタ[[Etherpad]]が公開。 * [[2012年]] - [[陸山会]]の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反の罪で起訴され一・二審で無罪となった[[小沢一郎]]被告について、検察官役の指定弁護士が上告を断念。小沢の無罪が確定した<ref>{{Cite web|和書 |date=19 Nov 2012 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1903J_Z11C12A1CR8000/ |title=小沢氏「忍耐の毎日だった」 無罪確定で |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2 Apr 2023}}</ref>。 * [[2018年]] - 東京地検特捜部が[[日産自動車]]の[[カルロス・ゴーン]]と[[グレッグ・ケリー]]を[[金融商品取引法]]違反容疑で[[逮捕]]した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO66362600Y0A111C2EAC000/ |title=2018年11月19日 日産のゴーン会長ら、東京地検特捜部が逮捕 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=18 Nov 2020}}</ref>。 * [[2021年]] - [[大谷翔平]]が満票で[[アメリカンリーグ|アメリカン・リーグ]]の[[最優秀選手賞 (MLB)|MVP]]に選出される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202111190000068.html |title=大谷翔平ア・リーグMVP満票で初選出「取りたいなともちろん思っていた」 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=19 Nov 2021}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == [[File:King Charles I by Sir Anthony Van Dyck.jpg|thumb|120px|[[清教徒革命]]に斃れた[[イギリス君主一覧|イングランド王]]、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]](1600-1649)誕生]] [[File:Kruzenstern.jpg|thumb|120px|[[エストニア]]出身の[[ロシア海軍]]提督、[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]](1770-1846)誕生。「[[日本海]]」の命名者]] [[File:Ferdinand de Lesseps.jpg|thumb|120px|[[スエズ運河]]建設で知られる[[フランス]]の[[外交官]]、[[フェルディナン・レセップス]](1805-1894)誕生]] [[File:Drucker5789.jpg|thumb|120px|[[オーストリア]]出身の[[経営学|経営学者]]、[[ピーター・ドラッカー]](1909-2005)誕生]] [[File:Ted Turner.jpg|thumb|120px|[[CNN]]創設者、[[テッド・ターナー]](1938-)誕生]] {{multiple image | image1 = Meg Ryan 2 Met Opera 2010 Shankbone.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[メグ・ライアン]](1961-)誕生 | alt1 = ライアン | image2 = Jodie Foster with the LG Electronics Kompressor Vacuum on 25th Spirit Awards Blue Carpet held at Nokia Theatre L.A. Live on March 5, 2010 in LA (cropped).jpg | width2 = 120 | caption2 = [[ジョディ・フォスター]](1962-)誕生 | alt2 = フォスター }} * [[1600年]] - [[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]、イングランド王(+ [[1649年]]) * [[1711年]]([[ユリウス暦]]11月8日) - [[ミハイル・ロモノーソフ]]、[[科学者]](+ [[1765年]]) * [[1770年]] - [[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]、[[ロシア海軍]]の[[提督]](+ [[1846年]]) * [[1805年]] - [[フェルディナン・レセップス]]、[[フランス]][[外交官]](+ [[1894年]]) * [[1831年]] - [[ジェームズ・ガーフィールド]]、[[政治家]]、第20代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1881年]]) * [[1851年]] - [[ウィリアム・ブルックス]]、[[農学者]](+ [[1938年]]) * [[1874年]] - [[鹿子木孟郎]]、[[洋画家]](+ [[1941年]]) * [[1888年]] - [[ホセ・ラウル・カパブランカ]]、第3代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの公式世界チャンピオン]](+ [[1942年]]) * [[1892年]] - [[エベレット・スコット]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1960年]]) * [[1899年]] - [[江上トミ]]、[[料理研究家]](+ [[1980年]]) * [[1906年]] - [[森部静武]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1994年]]) * [[1907年]] - [[浪花千栄子]]、[[俳優|女優]](+ [[1973年]]) * [[1909年]] - [[ピーター・ドラッカー]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://drucker.diamond.co.jp/pages/profile.html |title=ピーター F. ドラッカー |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[ダイヤモンド社]]}}</ref>、[[経営学|経営学者]]、[[社会学|社会学者]](+ [[2005年]]) * [[1910年]] - [[張楽平]]、[[漫画家]](+ [[1992年]]) * 1910年 - [[太田一夫]]、政治家(+ [[1990年]]) * [[1914年]] - [[若狭得治]]、[[全日本空輸|全日空]]元社長(+ [[2005年]]) * [[1917年]] - [[インディラ・ガンディー]]、第6代[[インドの歴代首相|インド首相]](+ [[1984年]]) * [[1921年]] - [[ロイ・キャンパネラ]]、元プロ野球選手(+ [[1993年]]) * 1921年 - [[アンダ・ゲーザ]]、[[ピアニスト]](+ [[1976年]]) * [[1924年]] - [[西條八束]]、[[海洋学]]者(+ [[2007年]]) * [[1925年]] - [[ジグムント・バウマン]]、[[社会学者]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/life/news/170110/lif1701100016-n1.html |title=【訃報】Z・バウマン氏死去 「幸福論」など |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[産経新聞]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20170111142132/https://www.sankei.com/life/news/170110/lif1701100016-n1.html |archive-date=11 Jan 2017 |date=10 Jan 2017}}</ref>) * [[1927年]] - [[森崎東]]、[[映画監督]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://eiga.com/news/20200717/15/ |title=森崎東監督死去 92歳 |publisher=[[映画.com]] |date=17 Jul 2020 |accessdate=2 Apr 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61630570X10C20A7000000/ |title=森崎東さんが死去 映画監督「時代屋の女房」 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=17 Jul 2020}}</ref>) * [[1929年]] - [[竹中恵美子]]、[[経済学者]] * [[1933年]] - [[藤岡重慶]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[1991年]]) * 1933年 - [[ラリー・キング]]、[[司会者]]、俳優(+ [[2021年]]) * [[1934年]] - [[寺田陽介]]、元プロ野球選手 * 1934年 - [[フィリップ・レダー]]、[[遺伝学者]](+ [[2020年]]) * [[1936年]] - [[ローター・クラップマン]]、社会学者、[[教育学|教育学者]] * [[1937年]] - [[古井由吉]]、[[小説家]]、[[ドイツ文学者]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20200227/k00/00m/040/117000c |title=「内向の世代」の作家 古井由吉さん死去 82歳 「杳子」で芥川賞、「栖」「白髪の唄」 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=27 Feb 2020}}</ref>) * [[1938年]] - [[テッド・ターナー]]、[[実業家]] * [[1942年]] - [[カルバン・クライン]]、[[ファッションデザイナー]] * [[1943年]] - [[遠藤泰子]]、[[アナウンサー]] * [[1945年]] - [[橋本昌]]、政治家、13-18代[[茨城県知事一覧|茨城県知事]] * 1945年 - [[ボビー・トーラン]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[水谷実雄]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[ボブ・ブーン]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[ピーター・ラウ]]、[[調教師]] * [[1949年]] - [[松崎しげる]]、[[歌手]] * [[1950年]] - [[大出彰]]、政治家 * 1950年 - [[馬渕清資]]、[[工学者]] * [[1951年]] - [[松任谷正隆]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1955年]] - [[ディアンネ・デ・レーブ]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[1958年]] - [[安藤優子]]、[[ニュースキャスター]] * [[1960年]] - [[中博史]]、声優、[[ナレーター]] * [[1961年]] - [[メグ・ライアン]]、女優 * 1961年 - [[佐々木優子]]、声優 * [[1962年]] - [[ジョディ・フォスター]]、女優 * 1962年 - [[東城和実]]、漫画家 * [[1963年]] - [[テリー・ファレル]]、女優 * [[1965年]] - [[ローラン・ブラン]]、元[[サッカー選手]] * 1965年 - [[ダグラス・ヘンシュオール]]、俳優 * [[1968年]] - [[麻倉あきら]]、歌手 * 1968年 - [[紫吹淳]]、女優、元宝塚歌劇団[[月組]] * 1968年 - [[カステラ一番]]、[[ものまね芸人]] * [[1970年]] - [[吉田真里子]]、元歌手 * [[1971年]] - [[アンディ・シーツ]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[菅谷大介]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[アナウンサー]] * 1971年 - [[角田明彦]]、俳優 * [[1972年]] - [[水内猛]]、元サッカー選手 * [[1973年]] - [[竜騎士07]]、[[推理作家]]、[[ゲームクリエイター]] * [[1974年]] - [[金沢イボンヌ]]、元[[障害走|陸上ハードル]]選手 * 1974年 - [[マリオ・バルデス]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[矢野昌大]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1975年 - [[山根雅仁]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[佐藤直之]]、[[ゲームクリエイター]] * 1975年 - [[山口裕子 (ゴルファー)|山口裕子]]、プロゴルファー * [[1976年]] - [[柴田淳]]、[[シンガーソングライター]] * [[1977年]] - [[森本さやか (アナウンサー)|森本さやか]]、元アナウンサー * 1977年 - [[吉野誠]]、元プロ野球選手 * 1977年 - 浜谷健司、お笑いタレント([[ハマカーン]]) * [[1979年]] - ジョー、お笑いタレント([[ダブルネーム]]) * 1979年 - [[ライアン・ハワード]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[勝野七奈美]]、歌手、モデル、宝石デザイナー(+ [[2009年]]) * [[1980年]] - [[赤嶺寿乃]]、女優 * 1980年 - [[小山桂司]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[アンドレ・ロッテラー]]、[[レーシングドライバー]] * 1981年 - [[中村繪里子]]、声優 * 1981年 - [[庄司夕起]]、バレーボール選手 * 1981年 - [[マーカス・バンクス]]、バスケットボール選手 * [[1982年]] - [[伊沢麻未]]、歌手 * [[1983年]] - [[長谷川浩大 (競馬)|長谷川浩大]]、元[[騎手]]、調教師 * 1983年 - [[ダリア・ウェーボウィ]]、[[スーパーモデル]] * 1983年 - [[アダム・ドライバー]]、俳優 * [[1984年]] - [[大場浩平]]、元[[プロボクサー]] * 1984年 - [[本多雄一]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[大隣憲司]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[有年淳]]、騎手 * 1984年 - [[LUKE (ファッションモデル)|LUKE]]、[[ファッションモデル]] * 1984年 - [[DOTAMA]]、[[ラッパー]] * [[1985年]] - [[藤井脩祐]]、[[空手家]] * 1985年 - [[ブラッド・ハーマン]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[星野みちる]]、歌手 * 1985年 - [[竹内あい]]、元[[AV女優]] * 1985年 - [[レネ・レベレット]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[erica (歌手)|erica]]、シンガーソングライター * [[1986年]] - [[ニナ・イヴァノヴァ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1986年 - [[リンジー・エリンソン]]、ファッションモデル * 1986年 - [[ジミー・ヴァン・オストランド]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[マイケル・ソーンダース]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[瑞原明奈]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]] * [[1987年]] - [[大澤亜季子]]、アナウンサー、タレント * 1987年 - [[松井雅人]]、元プロ野球選手 * [[1988年]] - [[尾藤竜一]]、元プロ野球選手 * 1988年 - Ayano、シンガーソングライター(元[[toi teens!?]]) * [[1989年]] - [[タイガ (ラッパー)|タイガ]]、ラッパー * 1989年 - [[マイケル・トンキン]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[玉井晴章]]、ミュージカル俳優 * [[1990年]] - [[源崎トモエ]]、ファッションモデル * [[1991年]] - [[世羅りさ]]、プロレスラー、女優 * [[1992年]] - [[Saku (女性歌手)|saku]]、シンガーソングライター * [[1993年]] - [[橋本甜歌]]、タレント * 1993年 - [[ヘスス・フェルナンデス・サエス|スソ]]、サッカー選手 * 1993年 - [[ジョーイ・ギャロ (野球)|ジョーイ・ギャロ]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - 堀井翼、格闘家 * 1994年 - [[秋山清仁]]、陸上選手 * [[1995年]] - [[寺本明日香]]、元体操選手 * 1995年 - [[成海瑠奈]]、元声優 * [[1996年]] - [[沖野綾亜]]、[[琉球放送]]アナウンサー * 1996年 - [[弦間彩華]]、[[テレビ静岡]]アナウンサー * 1996年 - [[萱和磨]]、[[体操競技選手一覧|体操競技選手]] * 1996年 - [[クリスツィナ・ツィマノウスカヤ]]<ref>{{cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/belarus/krystsina-tsimanouskaya-14571586 |title=Krystsina TSIMANOUSKAYA |publisher=World Athletics |accessdate=2 Apr 2023}}</ref>、陸上競技選手 * [[1997年]] - [[平田真優香]]、タレント * 1997年 - [[新井愛瞳]]、元[[アイドル]](元[[アップアップガールズ(仮)]]) * 1997年 - [[幸地生剛]]、俳優 * 1997年 - [[白岩瑠姫]]、アイドル([[JO1]]、元[[ジャニーズJr.]]) * 1997年 - [[阿部弘輝]]、陸上選手 * [[1998年]] - [[橋本和花子]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]アナウンサー * [[1999年]] - [[エフゲニア・メドベージェワ]]、フィギュアスケート選手 * [[2000年]] - [[聞間彩]]、アイドル(元[[つりビット]]) * [[2001年]] - [[菅まどか]]、声優 * [[2002年]] - [[小宮璃央]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000049145/ |title=小宮璃央 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEBザテレビジョン}}</ref>、俳優 * [[2007年]] - [[田村継]]、俳優 * 生年不明 - [[一田梨江]]、声優 * 生年不明 - [[大沢千秋]]、元声優 * 生年不明 - [[太田佳織]]、声優 * 生年不明 - [[永倉仁八]]、声優 * 生年不明 - [[南早紀 (声優)|南早紀]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.81produce.co.jp/dcms_plusdb/index.php/item?cell003=ま行&label=1&cell004=&name=南%E3%80%80早紀&id=308 |title=南 早紀 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[81プロデュース]]}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[佐藤直之]]、ゲームクリエイター、作曲家 == 忌日 == * [[498年]] - [[アナスタシウス2世 (ローマ教皇)|アナスタシウス2世]]、ローマ教皇 * [[1492年]] - [[ジャーミー]]、[[詩人]](* [[1414年]]) * [[1557年]] - [[ボナ・スフォルツァ]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]][[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]の王妃(* [[1494年]]) * [[1567年]]([[永禄]]10年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[武田義信]]、[[武将|戦国武将]](* [[1538年]]) * [[1577年]]([[天正]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[松永久秀]]<ref>{{Kotobank|松永久秀-136691|title=松永久秀|2= 朝日日本歴史人物事典}}</ref>、戦国武将(* [[1510年]]) * [[1630年]] - [[ヨハン・シャイン]]、[[作曲家]](* [[1586年]]) * [[1665年]] - [[ニコラ・プッサン]]、[[画家]](* [[1594年]]) * [[1682年]] - [[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]、[[カンバーランド公]](* [[1619年]]) * [[1818年]]([[文政]]元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[司馬江漢]]、[[絵師]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1747年]]) * [[1828年]] - [[フランツ・シューベルト]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Franz-Schubert |title=Franz Schubert|Austrian composer |access-date=2 Apr 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、作曲家(* [[1797年]]) * [[1850年]] - [[リチャード・メンター・ジョンソン]]、第9代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1780年]]) * [[1887年]] - {{仮リンク|エマ・ラザルス|en|Emma Lazarus}}、詩人(* [[1859年]]) * [[1925年]] - [[アンリ・ファヨール]]、鉱山技師、[[地質学|地質学者]](* [[1841年]]) * [[1938年]] - [[レフ・シェストフ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1866年]]) * [[1942年]] - [[ブルーノ・シュルツ]]、[[小説家]]、[[画家]](* [[1892年]]) * [[1943年]] - [[宮城山福松]]、[[大相撲]]第29代[[横綱]](* [[1895年]]) * [[1949年]] - [[ジェームズ・アンソール]]、画家(* [[1860年]]) * [[1960年]] - [[吉井勇]]、[[歌人]](* [[1886年]]) * [[1971年]] - [[内山岩太郎]]、[[神奈川県知事一覧|神奈川県知事]](* [[1890年]]) * [[1975年]] - [[三島徳七]]、[[冶金学|冶金学者]](* [[1893年]]) * [[1976年]] - [[高橋吉雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1908年]]) * [[1977年]] - [[井亀あおい]]、『アルゴノオト あおいの日記』著者(* [[1960年]]) * [[1982年]] - [[坪井忠二]]、[[地球物理学|地球物理学者]](* [[1902年]]) * 1982年 - [[アーヴィング・ゴッフマン]]、[[社会学者]](* [[1922年]]) * [[1989年]] - [[森茂喜]] 、政治家(* [[1910年]]) * [[1992年]] - [[関沢新一]]、[[脚本家]]、[[作詞家]](* [[1920年]]) * [[1996年]] - [[松島詩子]]、[[歌手]](* [[1905年]]) * [[1998年]] - [[藤田哲也 (気象学者)|藤田哲也]]、[[気象学|気象学者]](* [[1920年]]) * 1998年 - [[アラン・J・パクラ]]、[[映画監督]](* [[1928年]]) * 1998年 - [[竹村幸雄]]、[[政治家]](* [[1930年]]) * [[1999年]] - [[ホルスト・P・ホルスト]]、[[写真家]](* [[1906年]]) * 1999年 - [[山村正夫]]、[[推理作家]](* [[1931年]]) * [[2003年]] - [[瀧安治]]、元プロ野球選手(* [[1941年]]) * [[2004年]] - [[ジョン・ベーン]]、[[薬理学|薬理学者]](* [[1927年]]) * 2004年 - [[ブライアン・トラックスラー]]、元プロ野球選手(* [[1967年]]) * [[2005年]] - [[中山素平]]、元[[日本興業銀行]](現[[みずほフィナンシャルグループ]])頭取(* 1906年) * 2005年 - [[東野芳明]]、[[美術評論家]](* [[1930年]]) * [[2007年]] - [[サボー・マグダ]]、小説家(* [[1917年]]) * 2007年 - [[西田吉宏]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]](* [[1934年]]) * [[2010年]] - [[75センツ]]、[[歌手]]、[[アコーディオン]]奏者(* [[1933年]]) * [[2012年]] - [[井上雪子 (女優)|井上雪子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20121121-1050069.html |title=映画女優の井上雪子さんが死去 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=21 Nov 2012}}</ref>、[[俳優|女優]](* [[1915年]]) * 2012年 - [[福永令三]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2402A_U2A121C1CC1000/ |title=(おくやみ)福永令三氏が死去 児童文学作家、「クレヨン王国シリーズ」 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=24 Nov 2012}}</ref>、[[童話]][[作家]](* [[1928年]]) * 2012年 - [[宮史郎]]、[[演歌歌手]](* [[1943年]]) * [[2013年]] - [[フレデリック・サンガー]]、[[生化学者]](* [[1918年]]) * [[2014年]] - [[マイク・ニコルズ]]、映画監督(* [[1931年]]) * 2014年 - [[ジョニー大倉]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[俳優]](* [[1952年]]) * [[2015年]] - [[小倉基]]、[[政治家]](* [[1931年]]) * [[2017年]] - [[チャールズ・マンソン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3151815|title=無差別殺人犯のC・マンソン受刑者、死去 83歳|work=AFP BB News|publisher=[[フランス通信社]]|date=20 Nov 2017|accessdate=2 Apr 2023}}</ref>、[[カルト]]指導者、[[犯罪者]](* [[1934年]]) * 2017年 - [[ヤナ・ノボトナ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.com/articles/ASKCN6D8WKCNKTQ2013.html |title=ヤナ・ノボトナさん死去 49歳、元ウィンブルドン女王 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20171122003616/http://www.asahi.com/articles/ASKCN6D8WKCNKTQ2013.html |archive-date=22 Nov 2017}}</ref>、元プロ[[テニス]]選手(* [[1968年]]) * [[2018年]] - [[舟山弘一]]、アクション俳優(* [[1975年]]) * [[2023年]] - [[鈴木瑞穂]]、俳優、声優(* [[1927年]]) == 記念日・年中行事 == * [[国際男性デー]] *: 男性の健康やジェンダー(社会的性差)を考える日。[[1999年]]に[[トリニダード・トバゴ]]で始まったとされる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGKKZO77715480Z11C21A1TY5000&scode=7093&ba=1 |title=知ってる? 国際男性デー |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=22 Nov 2021}}</ref>。 * [[世界トイレの日|世界トイレの日(World Toilet Day)]]({{UN}}) *: 2001年11月19日に「{{仮リンク|世界トイレ機関|en|World Toilet Organization}}」が創設され、この日が「世界トイレの日」とされた。翌年以降、11月19日に世界各地でトイレ問題を考えるイベント・取り組みが広がっていったことを受け、2013年[[7月24日]]の国連総会で「世界トイレの日」が正式に制定された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://worldtoiletday.jp/ |title=世界トイレの日プロジェクト |access-date=2 Apr 2023 |publisher=Japan Committee for UNICEF.}}</ref>。 * [[国旗の日]]({{BRA}}) *: [[1889年]]のこの日に[[ブラジルの国旗]]が制定されたことを記念。 * プエルトリコ発見の日({{PRI}}) *: [[1493年]]のこの日、[[クリストファー・コロンブス]]が現在の[[プエルトリコ]]にヨーロッパ人として初めて上陸したことを記念。 * 農協記念日({{JPN}}) *:[[1947年]]のこの日に[[農業協同組合法]]が公布されたことにちなみ、[[全国農業協同組合中央会]](JA全中)が制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/143571 |title=きょうは何の日 11月19日 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=19 Nov 2021}}</ref>。 * 鉄道電化の日({{JPN}}) *:[[1956年]]11月19日に[[東海道本線]]の[[京都駅]] - [[米原駅]]間が[[鉄道の電化|電化]]し、東海道本線が全線電化されたのを記念して、[[1964年]]に鉄道電化協会が制定。 * 一茶忌 *: [[文政]]10年11月19日の[[小林一茶]]の命日に因む。なお、19日は[[旧暦]]であり[[グレゴリオ暦]]では[[1828年]][[1月5日]]。 * いい塾の日 *: [[2007年]]11月19日の東海地区を中心に展開するSHIMONGROUPのHOMES個別指導学院の設立日。2015年から、日本記念日協会の認定を受ける。講師、生徒、保護者が私塾教育について考える日とするのが目的。日付は11と19で「いい塾」と読む語呂合わせでもある。 * 緑のおばさんの日 *: [[1959年]](昭和34年)のこの日、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員(緑のおばさん)の制度がスタートした。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1119|date=2023年4月}} * 年不明 - トリーヴス[[弁護士]]が「[[殺人]]は結果であり、そこに至るまでの物語はその前から始まっている。」と持論を唱える。(小説『[[ゼロ時間へ]]』プロローグ) === 誕生日(フィクション) === * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]753年 - マリア・トレイター、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=53|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - [[おねがいマイメロディの登場キャラクター・人間界の人々#メインキャラクター|夢野歌]]、アニメ『[[おねがいマイメロディ]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tv-osaka.co.jp/ip4/mymelo_kirara/series02/1191928_4910.html |title=第34話「あの頃に戻れたらイイナ!」 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=TVO [[テレビ大阪]] |work=『おねがいマイメロディ』 |date=19 Nov 2006}}</ref> * 生年不明 - 平湯みつば、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/hirayu_mitsuba |title=岐阜 平湯みつば |access-date=2 Apr 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 天獣星のファラオ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=78 |title=天獣星(てんじゅうせい)スフィンクスのファラオ |access-date=2 Apr 2023 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』}}</ref> * 生年不明 - [[更木剣八]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=140|publisher=[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉|series=|isbn=978-4088740799}}</ref> * 生年不明 - 安浦清子、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2016|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉|isbn=978-4088904979|date=2016-09-16|volume=8巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - 天谷早織、漫画・アニメ『[[風夏]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 伊右衛門送人、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BLUELOCK_WM|1329287999247446016}}</ref> * 生年不明 - 八千代、漫画『[[BASARA]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 碧麻紀子、漫画・アニメ『[[カードキャプターさくら]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 原田玲一、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 筒井穂佳、漫画・アニメ『[[まりあ†ほりっく]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 朝倉零、漫画・アニメ『[[ライフル・イズ・ビューティフル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 舞苑誘人、漫画・ドラマCD『[[俺様ティーチャー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 藤那、小説・アニメ『[[火魅子伝]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鈴川小梅、小説・漫画・アニメ『[[大正野球娘。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 貫井くるみ、小説・漫画・アニメ『[[天使の3P!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|dengeki_gscomic|799824664285605889}}</ref> * 生年不明 - 益成一輝、小説・ゲーム・アニメ『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_pos|666994647076499456}}</ref> * 生年不明 - メモリー・ジーン、アニメ『[[超音戦士ボーグマン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 夏樹三郎、アニメ『[[超電動ロボ 鉄人28号FX]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ギルバート・デュランダル、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 夜叉丸朔太郎、アニメ『[[B-PROJECT|B-PROJECT~鼓動*アンビシャス~]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - キャプテンキッド、ゲーム『[[ワールドヒーローズ]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - ケフカ・パラッツォ、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート|publisher=[[NTT出版]]|year=1994|page=181|ISBN=4-87188-303-5}}</ref> * 生年不明 - 本条政虎、ゲーム・アニメ『[[遙かなる時空の中で|遙かなる時空の中で6]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 尼子晴、ゲーム・アニメ『[[真剣で私に恋しなさい!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.minatosoft.com/majikoi-s/chara-haru.html |title=尼子 晴(あまごはる) |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[みなとそふと]] |work=『真剣で私に恋しなさい!S』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#的場梨沙|的場梨沙]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』 に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20154 |title=的場 梨沙(まとば りさ) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=2 Apr 2023 |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 喜多川美紗、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://photokano.jp/subcharacter08.html |title=喜多川美紗 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[エンターブレイン]] |work=『フォトカノ』}}</ref> * 生年不明 - 鴉、 ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/karasu.php |title=鴉 |work=『閃乱カグラNewWave Gバースト』 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |accessdate=2 Apr 2023}}</ref> * 生年不明 - 日向リン、ゲーム・漫画・アニメ『[[アリス・ギア・アイギス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|colopl_alice|1461529664615170048}}</ref> * 生年不明 - クウカ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1196608556239224832}}</ref> * 生年不明 - [[Morfonica|八潮瑠唯]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/yashio-rui/ |title=八潮 瑠唯 |publisher=BanG Dream! Project・Craft Egg Inc. [[ブシロード|bushiroad]] |work=『BanG Dream!ガールズバンドパーティ!』 |accessdate=2 Apr 2023}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|19 November}} {{新暦365日|11|18|11|20|[[10月19日]]|[[12月19日]]|[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]|1119|11|19}} {{1年の月と日}}
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11月21日
11月21日(じゅういちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から325日目(閏年では326日目)にあたり、年末まであと40日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月21日'''(じゅういちがつにじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から325日目([[閏年]]では326日目)にあたり、年末まであと40日ある。 == できごと == [[ファイル:Early flight 02562u (4).jpg|thumb|140px|[[熱気球]]による初の有人飛行(1783年)。{{仮リンク|ピラトール・ド・ロジエ|en|Jean-François Pilâtre de Rozier}}、[[フランソワ・ダルランド]]の貴族2人が乗船した]] [[ファイル:Albert Einstein ETH-Bib Portr 05937.jpg|thumb|140px|[[特殊相対性理論]]第2論文発表(1905年)。1905年当時の[[アルベルト・アインシュタイン]]]] [[ファイル:Kongo after reconstruction.jpg|thumb|160px|[[金剛 (戦艦)|戦艦金剛]]沈没(1944年)。1913年就役]] [[File:Nintendo-Super-Famicom-Set-FL.png|thumb|160px|[[スーパーファミコン]]発売(1990)]] * [[235年]] - [[教皇|ローマ教皇]][[アンテルス (ローマ教皇)|アンテルス]]が即位。 * [[1783年]] - パリで[[モンゴルフィエ兄弟]]が[[熱気球]]による初の有人飛行に成功。 * [[1789年]] - [[ノースカロライナ州]]が12番目に[[アメリカ合衆国憲法]]に批准。 * [[1806年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[ナポレオン・ボナパルト]]によって[[大陸封鎖令]]が発せられる。 * [[1859年]] - [[安政の大獄]]: [[吉田松陰]]の死刑を執行。 * [[1889年]] - [[東京]]・[[木挽町]](現:[[東銀座]])に[[歌舞伎座]]が開場。 * [[1894年]] - [[日清戦争]]: [[旅順虐殺事件]]。 * [[1903年]] - 三田綱町球場にて[[早稲田大学野球部]]と[[慶應義塾大学野球部]]の対抗戦が初開催される([[早慶戦]]の起こり)。 * [[1905年]] - [[E=mc2|E=mc²]]の式が載った[[アルベルト・アインシュタイン]]の[[特殊相対性理論]]の第2論文がドイツの学術誌『[[アナーレン・デア・フィジーク]]』に掲載される。 * [[1909年]] - [[人吉駅|人吉]] - [[吉松駅|吉松]]間の開業により、門司(現在の[[門司港駅|門司港]])から[[鹿児島駅|鹿児島]]までが鉄道で結ばれる(現在の[[肥薩線]]経由)。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[イギリス海軍]]に[[病院船]]として徴用されていた客船「[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック]]」が触雷し沈没。 * 1916年 - [[オーストリア=ハンガリー帝国]]君主[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]が崩御し、[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]がオーストリア皇帝・ハンガリー王に即位。 * [[1930年]] - [[矢口浄水場]]通水。 * [[1939年]] - ヨーロッパ航路の貨客船「[[照国丸]]」がイギリスの機雷に触れ沈没。乗客乗員は全員救助。 * [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[タラワの戦い]]が始まる( - [[11月23日]])。 * 1943年 - [[阪神武庫川線]]が開業。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[金剛 (戦艦)|戦艦金剛]]が[[レイテ沖海戦|サマール沖海戦]]の帰還中にアメリカ海軍[[バラオ級潜水艦]][[シーライオン (SS-315)|シーライオン]]の魚雷が2本命中し沈没。 * [[1945年]] - [[治安警察法]]廃止。 * [[1946年]] - [[朝日新聞]][[朝日新聞大阪本社|大阪本社]]が[[現代かなづかい]]による紙面作りを開始。 * [[1960年]] - [[東海道本線]]・[[金谷駅|金谷]] - [[藤枝駅|藤枝]]間で架線試験電車[[国鉄クモヤ93形電車|クモヤ93000]]により175[[km/h]]の狭軌世界記録を樹立。 * [[1963年]] - [[第30回衆議院議員総選挙]]投票。 * [[1969年]] - 米大統領[[リチャード・ニクソン]]と日本の[[佐藤栄作]]首相が、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保]]堅持・[[1972年]]の[[沖縄返還]]などの日米共同声明を発表。 * 1969年 - [[ARPANET]]のIMP間の最初の常設接続が、[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]と[[SRIインターナショナル|SRI]]間に確立。 * [[1970年]] - 国連総会で、[[中華民国]]追放・[[中華人民共和国]]招請議案が初めて過半数を獲得。 * 1970年 - [[名古屋市]]郊外に[[日本ケンタッキー・フライド・チキン]]の第1号店(名西店)がオープン。 * [[1974年]] - [[長嶋茂雄]]が[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]監督に就任。 * [[1978年]] - [[江川卓 (野球)|江川卓]]が読売ジャイアンツと契約。([[江川事件|空白の一日事件]]) <!-- * [[1981年]] - [[薬師丸ひろ子]]がシングル『セーラー服と機関銃』で歌手デビュー。 --> * [[1986年]] - [[11月15日]]からの[[伊豆大島]]・[[三原山]]の噴火に伴い、全島民が一時島を脱出。 * [[1989年]] - [[日本労働組合総連合会]](連合)と[[全国労働組合総連合]](全労連)が発足。 * [[1990年]] - [[全欧安全保障協力会議]]が欧州分断終結を宣言した{{仮リンク|パリ憲章|en|Paris Charter}}に調印。 * 1990年 - [[任天堂]]の据え置き型ゲーム機、[[スーパーファミコン]]が日本国内で発売。 * [[1995年]] - [[ユーゴスラヴィア紛争]]: [[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争]]終結のための[[デイトン合意]]がなされる。 * [[1996年]] - [[阪和銀行]]が経営破綻。日本の銀行としては戦後初。 * [[1996年]] - [[大阪外環状鉄道]]([[おおさか東線]])設立。 * [[2002年]] - [[ブルガリア]]・[[エストニア]]・[[ラトビア]]・[[リトアニア]]・[[ルーマニア]]・[[スロバキア]]・[[スロベニア]]が[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟。 * [[2003年]] - [[保守新党]]が解党し、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に合流。 * [[2004年]] - 任天堂の携帯型ゲーム機、[[ニンテンドーDS]]が[[北米]]で発売。 * [[2009年]] - 任天堂の携帯型ゲーム機、[[ニンテンドーDSi|ニンテンドーDSi LL]]が日本国内で発売。 * [[2011年]] - [[オウム真理教]]元幹部・[[遠藤誠一]]に最高裁判所が上告審判決(上訴棄却、死刑が確定)<ref name="NHK オウム">{{Cite web|和書 |url=https://www.nhk.or.jp/mikaiketsu/file002/history.html |title=事件の年表|file.02 オウム真理教|NHK 未解決事件 |publisher=NHK |accessdate=2019-09-09}}</ref>。[[オウム真理教事件]]の一連の刑事裁判がすべて終結<ref name="NHK オウム" />。 <!--* [[2012年]] - 第1回[[全国街コンサミット]]が発祥の地である宇都宮で開催。--> * [[2013年]] - [[ラトビア]]、[[リガスーパーマーケット屋根崩落事故]]。死者50人以上<ref>{{Cite web|和書 |date=2013年11月23日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3003831 |title=ラトビアのスーパーの屋根崩落、死者51人に 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2019-09-09}}</ref>。 * [[2014年]] - 当時の[[内閣総理大臣]]・[[安倍晋三]]により衆議院が解散された(7条解散)。 * [[2017年]] - [[2017年ジンバブエクーデター]]: [[ロバート・ムガベ]]大統領が書簡で辞意を表明。 == 誕生日 == * [[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[土佐光起]]、[[絵師]](+ [[1691年]]) * [[1694年]] - [[ヴォルテール]]、[[哲学者]](+ [[1778年]]) * [[1768年]] - [[フリードリヒ・シュライアマハー]]、[[神学者]]、哲学者、[[文献学|文献学者]](+ [[1834年]]) * [[1778年]]([[安永]]7年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]) - [[国友一貫斎]]、[[火縄銃|鉄砲]][[鍛冶屋|鍛冶師]]、[[発明家]](+ [[1840年]]) * [[1818年]] - [[ルイス・ヘンリー・モーガン]]、[[人類学者]](+ [[1881年]]) * [[1840年]] - [[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]、[[ドイツ帝国|ドイツ皇帝]][[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の皇后(+ [[1901年]]) * [[1844年]]([[天保]]15年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[馬越恭平]]、[[実業家]](+ [[1933年]]) * 1844年 - [[ヘルマン・ルムシュッテル (鉄道技術者)|ヘルマン・ルムシュッテル]]、鉄道技術者(+ [[1918年]]) * [[1851年]] - [[ボビー・マシューズ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1898年]]) * [[1852年]] - [[フランシスコ・タレガ]]、[[作曲家]]、[[ギタリスト|ギター奏者]](+[[1909年]]) * [[1854年]] - [[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]、第257代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1922年]]) * [[1857年]] - [[マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ]]、[[グアテマラ]]大統領(+ [[1923年]]) * [[1860年]]([[万延]]元年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[服部金太郎]]、実業家(+ [[1934年]]) * [[1862年]] - [[ジョン・ポール・グード]]、[[地理学者]](+ [[1932年]]) * [[1866年]]([[慶応]]2年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[小錦八十吉 (初代)]]、[[大相撲]]第17代[[横綱]](+ [[1914年]]) * [[1867年]](慶応3年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[伊東忠太]]、[[建築家]](+ [[1954年]]) * [[1895年]] - [[蠟山政道]]、[[政治学者]]、[[行政学者]](+ [[1980年]]) * [[1898年]] - [[ルネ・マグリット]]、[[画家]](+ [[1967年]]) * 1898年 - [[レフ・クニッペル]]、作曲家(+ [[1974年]]) * [[1901年]] - [[高橋正雄 (経済学者)|高橋正雄]]、[[経済学者]](+ [[1995年]]) * [[1904年]] - [[エドモンド・ハミルトン]]、[[SF作家]](+ [[1977年]]) * 1904年 - [[野村俊夫]]、[[作詞家]]、[[詩人]](+ [[1966年]]) * [[1905年]] - [[フレディ・リンドストロム]]、プロ野球選手(+ [[1981年]]) * [[1910年]] - [[江上不二夫]]、[[生化学者]](+ [[1982年]]) * [[1911年]] - [[三原脩]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]](+ [[1984年]]) * 1911年 - [[塩見力]]、元[[野球選手]](+ 没年不詳) * [[1912年]] - [[佐野周二]]、[[俳優]](+ [[1978年]]) * [[1917年]] - [[丁一権]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1994年]]) * [[1920年]] - [[スタン・ミュージアル]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * [[1921年]] - [[三輪裕章]]、元プロ野球選手(+ [[1990年]]) * [[1924年]] - [[クリストファ・トールキン]]、[[ファンタジー]]研究家 * [[1932年]] - [[谷幹一]]、俳優、[[コメディアン]](+ [[2007年]]) * [[1933年]] - [[平幹二朗]]、俳優(+ [[2016年]]) * 1933年 - [[砂田圭佑]]、政治家(+ [[2015年]]) * [[1934年]] - [[岡本教平]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1939年]] - [[石井晶]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * 1939年 - [[ガイ・N・スミス]]、[[作家]](+ [[2020年]]) * 1939年 ‐ [[R・バド・ドワイヤー]]、政治家(+ [[1987年]]) * [[1940年]] - [[ナタリア・マカロワ]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付師]]、[[俳優|女優]] * 1940年 - [[広野翼]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[イディル・ビレット]]、[[ピアニスト]] * 1941年 - [[ドクター・ジョン]]、[[ミュージシャン]](* [[2019年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-48551452|title=Grammy-winning musician Dr John dies at 77|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2019-06-07|accessdate=2020-10-28}}</ref>) * 1941年 - [[蟹江栄司]]、[[声優]](+ [[1985年]]) * [[1944年]] - [[ハロルド・ライミス]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](+ [[2014年]]) * [[1945年]] - [[ゴールディ・ホーン]]、女優 * [[1946年]] - [[岡本富士太]]、[[俳優]] * [[1950年]] - [[井本隆]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * 1950年 - [[ゲンナジー・カルポノソフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1955年]] - [[ジャック・オルテ]]、[[調教師]] * [[1957年]] - [[西脇美智子]]、[[ボディビルディング]]選手、女優 * 1957年 - [[田嶋幸三]]、元[[サッカー選手]]、指導者 * [[1959年]] - [[ヒクソン・グレイシー]]、[[格闘家]] * 1959年 - [[真柴摩利]]、声優 * 1959年 - [[渡辺菜生子]]、声優 * 1960年 - [[紀藤正樹]]、弁護士 * [[1961年]] - [[川村万梨阿]]、声優 * 1961年 - [[赤井孝美]]、[[イラストレーター]]、ゲームクリエーター * [[1962年]] - [[五十嵐美貴]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[SHOW-YA]]) * [[1964年]] - [[菊地毅]]、プロレスラー * [[1965年]] - [[服部隆之]]、作曲家 * 1965年 - [[山口由里子]]、声優 * 1965年 - [[ビョーク]]、歌手 * [[1966年]] - [[緒形幹太]]、俳優 * 1966年 - [[倉重泰彦]]、[[農林水産省|農林水産]][[官僚]] * [[1967年]] - [[古賀稔彦]]、[[柔道家]](+ [[2021年]]) * [[1968年]] - [[金石勝智]]、元[[レーシングドライバー]] * 1968年 - [[アレックス・ジェームス]]、ミュージシャン([[ブラー]]) * [[1969年]] - [[ケン・グリフィー・ジュニア]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[瀬尾智美]]、女優 * [[1971年]] - [[相川紗登士]]、[[アナウンサー]]、ローカルタレント * [[1972年]] - [[谷本道哉]]、[[スポーツ科学|運動生理学者]]、筋生理学者 * [[1973年]] - [[森富美]]、アナウンサー * [[1974年]] - [[shuji]]、ミュージシャン([[Janne Da Arc]]) * 1974年 - [[塚田良平]]、プロデューサー、作曲家 * 1974年 - [[松波正信]]、元サッカー選手、指導者 * [[1975年]] - [[澤田剛]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[大森健作]]、元サッカー選手 * [[1976年]] - [[あぁ〜しらき]]、お笑いタレント * 1976年 - [[伊藤高史]]、俳優 * [[1977年]] - [[山下芳輝]]、元サッカー選手 * [[1978年]] - [[趙雲子龍 (プロレスラー)|趙雲子龍]]、プロレスラー * 1978年 - 岸学、お笑いタレント([[どきどきキャンプ]]) * [[1979年]] - [[ヴィンチェンツォ・イアクインタ]]、元サッカー選手 * 1979年 - [[浜亮太]]、プロレスラー、元大相撲力士 * [[1980年]] - [[冨田洋之]]、元[[体操]]選手 * 1980年 - [[高松新一]]、元お笑いタレント(元[[オジンオズボーン]]) * 1980年 - [[ダニエル・ハートセル]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1981年]] - [[池脇千鶴]]、女優 * 1981年 - [[西園寺瞳 (ストリッパー)|西園寺瞳]]、ストリッパー * [[1982年]] - [[鷹木信悟]]、[[プロレスラー]] * 1982年 - [[藤田卓史]]、元野球選手 * [[1983年]] - [[沢村ユリ]]、[[グラビアアイドル]] * 1983年 - [[三宅智子]]、[[フードファイター]]、タレント * [[1985年]] - [[三好祐樹]]、[[競艇選手]] * 1985年 - [[ヘスス・ナバス]]、サッカー選手 * 1985年 - [[カーリー・レイ・ジェプセン]]、[[シンガーソングライター]] * [[1986年]] - [[橋爪遼]]、俳優 * 1986年 - [[川島大地]]、元サッカー選手 * 1986年 - [[宮崎智彦]]、サッカー選手 * 1986年 - [[一龍斎貞奈]]、[[講談師]] * [[1987年]] - [[河野朝哉]]、俳優 * 1987年 - [[ブライアン・ダウヴィス]]、キックボクサー * 1987年 - [[平田一喜]]、プロレスラー * [[1988年]] - [[れいか]]、元グラビアアイドル * 1988年 - [[岡田円]]、[[総合格闘家]] * 1988年 - [[エリック・フレンツェル]]、スキー選手 * 1988年 - [[マット・ウェスト]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[松本拓馬]]、美容師 * 1988年 - [[小春 (アコーディオン奏者)|小春]]、アコーディオン奏者([[チャラン・ポ・ランタン]]) * [[1989年]] - [[小野珠実]]、フィギュアスケート選手 * 1989年 - [[ホセ・ピレラ]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[松浦悠士]]、[[競輪選手]] * [[1990年]] - [[キリル・ハリャヴィン]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[エマヌエル・マユカ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[大平奈津美]]、タレント * 1991年 - [[アルマズ・アヤナ]]、陸上競技選手 * 1991年 - [[ノシャド・アラミヤン]]、卓球選手 * 1991年 - [[石井マーク]]、声優 * 1991年 - [[志賀隼哉]]、アナウンサー * [[1992年]] - [[青野楓]]、女優、モデル * 1992年 - [[尾崎里紗 (アナウンサー)|尾崎里紗]]、アナウンサー * 1992年 - [[コナー・メイナード]]、歌手 * 1992年 - [[指原莉乃]]、タレント、[[アイドル]](元[[HKT48]]) * 1992年 - [[真田佑馬]]、タレント(7ORDER project、元[[ジャニーズJr.]]、元[[Love-tune]]) * 1992年 - [[堀内大輝]]、アナウンサー * 1992年 - [[楠エリサ|寿エリカ]]、元グラビアアイドル * [[1993年]] - [[渡邊圭祐]]、俳優、モデル * [[1994年]] - [[川井梨紗子]]、レスリング選手 * 1994年 - [[安藤悠哉]]、元陸上選手 * 1994年 - [[瀬名葉月]]、女優、タレント * [[1995年]] - [[谷元星奈]]、アナウンサー * [[1996年]] - [[勝呂玲羅]]、元[[モデル (職業)|モデル]]、元女優 * 1996年 - [[坂東悠汰]]、陸上選手 * [[1997年]] - [[椎木里佳]]、実業家 * 1997年 - [[旗手怜央]]、サッカー選手 * [[1998年]] - YUMA、アイドル、ミュージシャン(元[[CHERRSEE]]) * 1998年 - [[ミゲル・ガーレイロ]]、歌手 * 1998年 - [[安井拓也]]、サッカー選手 * 1998年 - [[平岩優奈]]、[[体操競技選手]] * [[1999年]] - [[夜道雪]]、声優、[[YouTuber]]、[[マルチタレント]] * [[2003年]] - [[高橋アリス]]、ファッションモデル、[[キックボクサー]] * 2003年 - ソヒ、アイドル([[RIIZE]]) * 2004年 - リズ、アイドル([[IVE (音楽グループ)|IVE]]) * 生年不明 - [[西墻由香]]、声優 * 生年不明 - [[安井絵里]]、声優 * 生年不明 - [[伊波奈々]]、声優 * 生年不明 - [[林毅史]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://web.archive.org/web/20080925154427/http://www.kekke.co.jp/talent/hayashi.html |title=ケッケコーポレーション所属時によるプロフィール |accessdate=2021-01-21}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[田中真奈美]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.oricon.co.jp/prof/544271/ |title= 田中真奈美 | ORICON NEWS |accessdate=2021-01-10}}</ref>、声優 == 忌日 == === 人物 === * [[496年]] - [[ゲラシウス1世 (ローマ教皇)|ゲラシウス1世]]、第49代[[教皇|ローマ教皇]] * [[1011年]]([[寛弘]]8年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[冷泉天皇]]、第63代[[天皇]](* [[950年]]) * [[1265年]] - [[アウクスブルクのアーブラハム]]、[[ドイツ人]]の[[ユダヤ教]][[改宗|改宗者]] * [[1555年]] - [[ゲオルク・アグリコラ]]、[[鉱物学|鉱物学者]](* [[1490年]]) * [[1579年]] - [[トーマス・グレシャム]]、貿易商・財政家(* [[1519年]]) * [[1695年]] - [[ヘンリー・パーセル]]、[[作曲家]](* [[1659年]]) * [[1719年]]([[享保]]4年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[山本常朝]]、「[[葉隠]]」の口述者として知られる[[佐賀藩|佐賀藩士]](* [[1659年]]) * [[1801年]]([[享和]]元年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[松平義当]]、第7代[[高須藩|高須藩主]](* [[1738年]]) * [[1811年]] - [[ハインリヒ・フォン・クライスト]]、[[劇作家]](* [[1777年]]) * [[1834年]]([[天保]]5年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[酒井忠良 (伊勢崎藩主)|酒井忠良]]、第6代[[伊勢崎藩|伊勢崎藩主]](* [[1808年]]) * [[1835年]](天保6年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[華岡青洲]]、[[外科学|外科]][[医師|医]](* [[1760年]]) * [[1844年]] - [[イヴァン・クルィロフ]]、劇作家(* [[1769年]]) * [[1849年]] - [[フランソワ・マリウス・グラネ]]、[[画家]](* [[1777年]]) * [[1857年]]([[安政]]4年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[大岡忠愛]]、第6代[[西大平藩|西大平藩主]](* [[1807年]]) * [[1859年]]([[安政]]6年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[吉田松陰]]、[[尊皇攘夷|尊王]][[思想家]](* [[1830年]]) * [[1869年]]([[明治]]2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[新見正興]]、[[江戸幕府]][[外国奉行]](* [[1822年]]) * 1869年(明治2年10月18日) - [[真田幸教]]、第9代[[松代藩|松代藩主]](* [[1835年]]) * [[1870年]] - [[カレル・ヤロミール・エルベン]]、[[詩人]]、[[ジャーナリスト]]、[[フォークロア]]研究家(* [[1811年]]) * [[1899年]] - [[ギャレット・A・ホーバート]]、第24代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1844年]]) * [[1907年]] - [[パウラ・モーダーゾーン=ベッカー]]、[[画家]](* [[1876年]]) * 1907年 - [[ガエターノ・ブラーガ]]、[[作曲家]]、[[チェリスト]](* [[1829年]]) * [[1916年]] - [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]皇帝(* [[1830年]]) * [[1918年]] - [[マグレガー・メイザース]]、[[魔術師]](* [[1854年]]) * [[1919年]] - [[久原躬弦]]、[[化学者]](* [[1856年]]) * [[1922年]] - [[リカルド・フロレス・マゴン]]、[[無政府主義]]運動家(* [[1874年]]) * [[1926年]] - [[半井桃水]]、[[小説家]](* [[1860年]]) * [[1935年]] - [[アグネス・ポッケルス]]、化学者(* [[1862年]]) * [[1938年]] - [[レオポルド・ゴドフスキー]]、[[ピアニスト]](* [[1870年]]) * [[1947年]] - [[桂小南 (初代)|初代桂小南]]、[[落語家]](* [[1880年]]) * [[1956年]] - [[会津八一]]、[[歌人]]、[[美術史|美術史家]]、[[書家]](* [[1881年]]) * [[1958年]] - [[メル・オット]]、[[プロ野球選手]](* [[1909年]]) * [[1961年]] - [[豊田貞次郎]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]]、[[商工省|商工]]・[[軍需省|軍需]]・[[運輸通信省 (日本)|運輸通信大臣]]、[[実業家]](* [[1885年]]) * [[1962年]] - [[橋本龍伍]]、政治家(* [[1906年]]) * [[1963年]] - [[ロバート・フランクリン・ストラウド]]、犯罪者、[[鳥類]]研究家(* [[1890年]]) * [[1965年]] - [[式場隆三郎]]、[[精神医学|精神科医]](* [[1898年]]) * [[1967年]] - [[中田薫 (法学者)|中田薫]]、[[法学者]](* [[1877年]]) * [[1968年]] - [[時津山仁一]]、元大相撲力士(+ [[1925年]]) * [[1969年]] - [[石田波郷]]、[[俳人]](* [[1913年]]) * [[1970年]] - [[チャンドラセカール・ラマン]]、[[物理学者]](* [[1888年]]) * [[1974年]] - [[フランク・マルタン]]、作曲家(* [[1890年]]) * [[1982年]] - [[フランク・マコーミック]]、プロ野球選手(* [[1911年]]) * [[1984年]] - [[瀧井孝作]]、[[小説家]](* [[1894年]]) * [[1988年]] - [[カール・ハッベル]]、プロ野球選手(* [[1903年]]) * [[1991年]] - [[石丸藤吉]]、プロ野球選手(* [[1914年]]) * [[1992年]] - [[森信三]]、[[哲学者]](* [[1896年]]) * 1992年 - [[セヴェリーノ・ガッゼローニ]]、[[フルート奏者]](* [[1919年]]) * 1992年 - [[カイソーン・ポムウィハーン]]、[[ラオス人民民主共和国主席]](* [[1920年]]) * 1992年 - [[八木一郎]]、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]][[評論家]]、[[野球解説者]](* [[1925年]]) * [[1993年]] - [[ブルーノ・ロッシ]]、[[宇宙物理学|宇宙物理学者]](* [[1905年]]) * 1993年 - [[古川勝]]、水泳選手(* [[1936年]]) * [[1994年]] - [[ウィレム・ヤコブ・ルイテン]]、[[天文学者]](* [[1899年]]) * 1994年 - [[小宮山重四郎]]、[[政治家]](* [[1927年]]) * [[1995年]] - [[ピーター・グラント (音楽プロデューサー)|ピーター・グラント]]、[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]][[マネージャー]](* [[1935年]]) * [[1996年]] - [[アブドゥッサラーム]]、物理学者(* [[1926年]]) * [[2002年]] - [[高円宮憲仁親王]]、[[皇族]](* [[1954年]]) * [[2003年]] - [[市川靖子]]、[[俳優|女優]](* [[1941年]]) * [[2005年]] - [[山下毅雄]]、[[作曲家]](* [[1930年]]) * 2005年 - [[高村倉太郎]]、[[映画監督]](* [[1921年]]) * [[2006年]] - [[田沢智治]]、政治家(* [[1932年]]) * 2006年 - [[黒木憲]]、[[歌手]](* [[1942年]]) * 2006年 - [[ハッサン・グレド・アプティドン]]、初代[[ジブチの大統領一覧|ジブチ大統領]](* [[1916年]]) * [[2007年]] - [[フェルナンド・フェルナン・ゴメス]]、俳優(* [[1921年]]) * [[2011年]] - [[立川談志|7代目立川談志]]、落語家(* [[1936年]]) * [[2014年]] - [[越部信義]]、[[作曲家]](* [[1933年]]) * [[2015年]] - [[松山幸次]]<ref>[https://ameblo.jp/koji-matsuyama/entry-12098528358.html 享年40 松山幸次他界] まつやま風“冴えたやり方” 2015年11月22日</ref>、俳優(* [[1975年]]) * 2015年 - [[ケン・ジョンソン (右投手)|ケン・ジョンソン]]<ref name="ken">{{cite news|title=ケン・ジョンソン氏死去 メジャー史上唯一となる珍記録の持ち主|newspaper=スポニチアネックス|date=2015-11-26|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/11/26/kiji/K20151126011579510.html|accessdate=2020-11-23}}</ref>、プロ野球選手(* [[1933年]]) * [[2017年]] - [[杉内雅男]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/375220/|title=囲碁の杉内雅男九段が死去 97歳、現役最高齢棋士|publisher=西日本新聞ニュース|date=2020-11-22|accessdate=2020-12-23}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20171123/k00/00m/040/050000c|title=訃報杉内雅男さん97歳=現役最高齢棋士「囲碁の神様」|publisher=毎日新聞|date=2017-11-22|accessdate=2020-11-07}}</ref>、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1920年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2019年]] - [[ウイングアロー]]、[[競走馬]](* [[1995年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == * [[世界テレビ・デー]] *: [[1996年]]12月の国連総会で制定された[[国際デー]]。[[1996年]]のこの日に国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催されたことを記念。 * [[世界ハロー・デー]] *: [[1973年]]10月の[[第四次中東戦争]]をきっかけに制定。10人の人にあいさつをすることで、世界の指導者たちに「紛争よりも対話を」とのメッセージを伝えるという日。 * [[軍隊記念日]]({{BGD}}) * 日蓮大聖人御大会(お会式)([[日蓮正宗]]) *: [[日蓮]]大聖人の祥月命日は旧暦の[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]であるが、新暦では11月21日にあたるので総本山[[大石寺]]では前日から2日間にわたって法要が行われる。[[日蓮宗]]の[[久遠寺]]や[[池上本門寺]]では新暦の[[10月13日]]に営まれる。 * 歌舞伎座開業記念日 *: [[1889年]]11月21日に、[[東京]]・[[木挽町]](現:[[東銀座]])に[[歌舞伎座]]が開場したことにちなんで記念日を制定。元々、木挽町には[[江戸三座]]の一つである[[森田座]](後の「[[守田座]]」)があったが、[[1841年]]に行われた[[天保の改革]]時に[[浅草]]に移されていたため、同町に歌舞伎座が出来たのは約半世紀ぶりのことであった。 * インターネット記念日 *: [[1969年]]に[[インターネット]]の原形である[[ARPANET]]の実験が始まったことに由来。 * 街コンの日({{JPN}}) *:2012年11月21日に『第1回全国[[街コン]]サミット』が開かれた記念に、主催の日本街コン協会が制定した。また11月22日が「[[いい夫婦の日]]」であることから、その前段階としての恋人へ思いを込めている。 * イーブイの日({{JPN}}) *:『[[ポケットモンスター]]』シリーズのキャラクター、[[イーブイ]]のファンが11(イー)21(ブイ)と語呂合わせから呼び始め、[[ポケモン (企業)|株式会社ポケモン]]運営の『プロジェクトイーブイ』が公認、[[一般社団法人]] [[日本記念日協会]]が2018年11月21日に記念日として登録した<ref>[https://www.pokemon.jp/special/project_eevee/ プロジェクトイーブイ] [[ポケットモンスター|Pokémon]] 2017年11月21日配信 2021年11月21日閲覧</ref><ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000049.000026665.html 正式認定!11月21日は「イーブイの日」!!] [[PR TIMES]] 2018年11月21日配信 2021年11月21日閲覧</ref>。また、2017年11月21日に公式応援企画『プロジェクトイーブイ』が発足した日でもある<ref>[https://topics.nintendo.co.jp/article/5953a8dd-c99e-11e7-8cda-063b7ac45a6d?s=09 本日11月21日は「イーブイの日」!?] [[任天堂]] 2017年11月21日配信 2021年11月21日閲覧</ref>。 * [[カキフライ]]の日({{JPN}}) *: [[香川県]][[三豊市]]に本社を置き、各種の冷凍食品の製造・販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている株式会社「味のちぬや」が2011年(平成23年)に制定。 日付は11月はかきが美味しくなる時期で、21日は「フ(2)ライ(1)」と読む語呂合わせから。「海のミルク」と呼ばれ、栄養価の高いかきを多くの人に食べてもらうことが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1121|date=2011年8月1日 (月) 22:26 (UTC)}} * [[2059年]] - [[火星]]基地にて水にウイルスが侵入、スタッフがゾンビ化する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[2063年]] - 強欲王が地球に来訪、「来るべき災厄」が起こる。(小説・漫画・アニメ『[[狂乱家族日記]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1988年]] - 和泉亜子、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://king-cr.jp/special/negima/05.html |title=5.和泉亜子 |access-date=2022-11-09 |publisher=KING AMUSEMENT CREATIVE |work=『魔法先生ネギま!麻帆良学園中等部2-A』}}</ref> * 生年不明 - 万座千斗星、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/manza_chitose |title=群馬 万座 千斗星 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=2022-11-09 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - 一之瀬みのり(キュアパパイア)、アニメ『[[トロピカル〜ジュ!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/tropical-rouge_precure/character/chara3.php |title=キュアパパイア/一之瀬みのり |work=『トロピカル〜ジュ!プリキュア』 |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |accessdate=2022-11-09}}</ref> * 生年不明 - マーメイドのテティス、漫画・アニメ・ゲーム『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=60 |title=マーメイドのテティス |access-date=2022-11-09 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』 |author=[[車田正美]]}}</ref><ref>{{Twitter status|saintseiya_rc|1462073255175491586}}</ref> * 生年不明 - 季楽靖幸、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1462074525412114433}}</ref> * 生年不明 - 高尾和成、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1329803491582218240}}</ref> * 生年不明 - 外岡一斗、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1329802940555653121}}</ref> * 生年不明 - 熊倉トシ、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sciasta.com/characters.html |title=熊倉 トシ(くまくら とし) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2022-11-09 |publisher=[[小林立]]}}</ref> * 生年不明 - [[赤木リツコ]]、アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|evabf_official|1329982871033954304}}</ref> * 生年不明 - 伊勢桜良、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=『劇場版ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/04_04/ |title=伊勢 桜良 |accessdate=2022-11-09 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref> * 生年不明 - テア・クロイツェル、アニメ『ハイスクール・フリート』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=『劇場版ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/06_10/ |title=テア・クロイツェル |accessdate=2022-11-09 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref> * 生年不明 - 黒母衣、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNew Wave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/kurohoro.php |title=黒母衣(くろほろ) |access-date=2022-08-17 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref> * 生年不明 - ノンナ、アニメ・ゲーム『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref name="Official Twitter 2022-11-21">{{Twitter status |garupan|1594344817382801410 |2022年11月21日の発言(作品公式アカウント)}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#百瀬莉緒|百瀬莉緒]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30036 |title=百瀬 莉緒(ももせ りお) |access-date=2023-02-01 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 八雲レーノ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!|ステーションメモリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1329945120511127552}}</ref> * 生年不明 - 楓(カエデ)、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=37&cate=name&cont=Kaede |title=楓(カエデ) |access-date=2023-02-01 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> <!-- * 生年不明 - 尾宿、漫画『[[ふしぎ遊戯]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 小宮山琴美、漫画『[[私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - フリーマン、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[VOCALOIDの派生キャラクター#弱音ハク|弱音ハク]]、[[VOCALOID|ボーカロイド]][[初音ミク]]の派生キャラクター --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|21 November}} {{新暦365日|11|20|11|22|[[10月21日]]|[[12月21日]]|[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]|1121|11|21}} {{1年の月と日}}
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11月23日
11月23日(じゅういちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から327日目(閏年では328日目)にあたり、年末まであと38日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月23日'''(じゅういちがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から327日目([[閏年]]では328日目)にあたり、年末まであと38日ある。 == できごと == * [[955年]] - [[ウェセックス家]]の王族[[エドウィ]]が[[イングランド君主一覧|イングランド人の王]]に就任した。のちのエドウィ公平王と称された。 * [[1227年]] - [[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]][[レシェク1世]]が{{仮リンク|ゴンサヴァの虐殺|en|Gąsawa massacre|label=暗殺}}される。 * [[1648年]](慶安元年10月9日) - [[蝦夷地|蝦夷国]][[松前藩]]、第4代藩主[[松前高広]]が襲封。 * [[1808年]] - {{仮リンク|トゥデラの戦い|en|Battle of Tudela}}:[[フランス第一帝政|フランス]]、[[ワルシャワ公国]]が[[スペイン]]に勝利。 * [[1837年]] - [[オーストリア]]初の鉄道開業。 * [[1863年]] - [[南北戦争]]: [[第三次チャタヌーガの戦い]]が始まる。( - [[11月25日]]) * [[1876年]] - [[長野県]][[白馬鑓温泉]]にて[[雪崩]]が発生。建設作業員21人が死亡。 * [[1885年]] - [[大阪事件]]。旧自由党指導者・[[大井憲太郎]]らの朝鮮開化派支援計画が発覚し大阪で逮捕。 * [[1889年]] - [[サンフランシスコ]]のパレ・ロワイヤル・サルーンに世界で初めて[[ジュークボックス]]が設置される。 * [[1890年]] - [[オランダ]]国王・[[ルクセンブルク]]大公[[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]が男子の後継者がないまま死去。オランダは王女[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]が王位を継承し、ルクセンブルクでは遠縁の[[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]が大公位に就いたため、両国の[[同君連合]]が解消。 *[[1904年]] - [[7月1日]]から開催されていた[[1904年セントルイスオリンピック|第3回夏季オリンピック・セントルイス大会]]が閉幕。 * [[1918年]] - [[リトアニア]]においてリトアニア国軍が創設される。 * [[1922年]] - 三田グラウンドにて、[[関東大学ラグビー対抗戦グループ|大学ラグビー対抗戦]]「[[早稲田大学]]」対「[[慶應義塾大学]]」の試合([[早慶戦]])が初開催される。 * [[1936年]] - 雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』の創刊号が発売される。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ルーマニア王国|ルーマニア]]が[[日独伊三国軍事同盟]]に加盟し、[[枢軸国]]の一員となる。 * 1940年 - [[大日本産業報国会]]設立。 * [[1941年]] - 第二次世界大戦・[[真珠湾攻撃]]: [[南雲忠一|南雲]][[機動部隊|機動艦隊]]が[[単冠湾]]に集結する。 * 1941年 - 宮城県[[塩竈市]]が市制施行。 * [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[タラワの戦い]]が終結、日本軍守備隊が[[玉砕]]する。 * 1943年 - 第二次世界大戦: 連日続く[[ベルリン空襲]]の中、この日の爆撃で日本[[大使館]]、[[満州国]]公使館、日本陸軍武官官邸、[[朝日新聞]]支局などが破壊または炎上する被害<ref>「五日間の連続空爆でベルリンの様相一変」『朝日新聞』1943年12月1日(昭和ニュース編纂委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.410 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1946年]] - [[青森県]][[五所川原市|五所川原町]]で大火。家屋711戸が全焼、負傷者6人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=66 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1954年]] - 茨城県[[高萩市]]が市制施行。 * [[1955年]] - [[ココス諸島]]の施政権が[[イギリス]]領[[シンガポール]]から[[オーストラリア]]に移管される。 * [[1963年]] - [[通信衛星]]による日米間のテレビ中継に成功。最初の衛星ニュースは同日(米時間[[11月22日|22日]])の[[ケネディ大統領暗殺事件]]。 * 1963年 - [[イギリス]]で[[サイエンス・フィクション|SF]][[テレビドラマ]]『[[ドクター・フー]]』の放送がはじまる。 * [[1973年]] - 静岡県の[[富士スピードウェイ]]での[[富士グランチャンピオンレース|富士GC]]最終戦で衝突事故。4台が炎上し、レーサー[[中野雅晴]]が死亡。 * 1973年 - [[宮崎県]][[宮崎市]]に大型商業施設「[[宮交シティ]]」がオープンする。 * [[1976年]] - ダイバーの[[ジャック・マイヨール]]が人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録を達成。 * [[1978年]] - [[協定世界時]]午前0時をもって、南北アメリカを除く全世界でAMラジオの周波数が10kHzおきから9kHzおきに一斉に変更される<ref group="注釈">周波数を9kHz毎に設定することによって、AM放送帯域内のチャンネルを増やすことにより、夜間に於ける隣国との放送の混信を避ける対策として実施。日本の中波ラジオ局においては、同日[[日本時間]]5時(協定世界時では11月22日20時)以後に放送開始・または放送上の曜日切り替え基点を迎える時間を持って、「同日9時までは試験放送」という名目で先行的に周波数の変更が行われた。</ref>。 * [[1980年]] - [[イタリア]]で[[マグニチュード]]6.8の[[イルピニア地震 (1980年)|イルピニア地震]]発生。 * [[1985年]] - [[エジプト航空648便ハイジャック事件]]。 * [[1992年]] - 風船おじさんこと[[鈴木嘉和]]が、[[鳴き砂]]の保護を訴えて、風船を多数つけたゴンドラでアメリカをめざして出発し、以後消息不明となる。 * [[1994年]] - [[貴乃花]]が第65代横綱に昇進<ref name="kids">{{Cite web|和書|url=https://kids.yahoo.co.jp/today/|title=Yahoo!きっず 11月23日 (月)|accessdate=2020-11-23}}</ref>。 * [[1995年]] - [[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の日本語版を発売<ref name="kids"/>。 * [[1996年]] - [[バンダイ]]が[[たまごっち]]を発売<ref name="kids"/>。 * 1996年 - [[エチオピア航空961便ハイジャック墜落事件]]。 * [[2001年]] - [[ハンガリー]]・[[ブダペスト]]で[[サイバー犯罪条約]]に調印。 * [[2002年]] - [[ジュビロ磐田]]がJリーグ初の両ステージ完全制覇。 * [[2007年]] - [[JR東日本E655系電車]]「なごみ(和)」デビュー。 * [[2008年]] - 第16期[[倉敷藤花戦]]で[[里見香奈]]女流二段が[[清水市代]][[倉敷藤花]]を下し、16歳8カ月の史上3番目の年少記録で初タイトルを奪取。 * [[2009年]] - [[フィリピン]]・[[ミンダナオ島]]・[[マギンダナオ州]]にて虐殺事件が発生。 * [[2010年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[大韓民国|韓国]]・[[延坪島]]を砲撃、韓国側も対抗射撃。([[延坪島砲撃事件]]) * [[2013年]] - [[富山県]][[真砂岳 (立山連峰)]]にて[[雪崩]]が発生。登山者7人が死亡<ref>[http://www.seppyo.org/hse/Members/20_degawaazusa_2014.pdf 2013年11月23日に真砂岳で発生した雪崩の調査報告] 出川あずさ, 廣田勇介(日本雪崩ネットワーク) 2017年12月1日閲覧</ref>。 * [[2017年]] - [[秋田県]][[由利本荘市]]の海岸に北朝鮮籍の小型木造[[漁船]]が接岸(漂着)。生存者8人が上陸して救助される。 * [[2020年]] - [[中日ドラゴンズ]][[大野雄大]]選手が令和初の沢村栄治賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011230000450.html|title=中日大野雄大が初の沢村賞 菅野との一騎打ち制す|publisher=日刊スポーツ|date=2020-11-23|accessdate=2020-11-24}}</ref>。 * [[2022年]] - [[2022 FIFAワールドカップ]]において、初戦となる[[2022_FIFAワールドカップ・グループE#ドイツ_vs_日本|ドイツ対日本戦]]で[[森保一]]率いる[[2022 FIFAワールドカップ日本代表|森保ジャパン]]が2-1の逆転勝利を果たす。[[ドーハの悲劇]]から28年ぶりにドーハの歓喜へと日本サッカー界の歴史を塗り替えた。 == 誕生日 == * [[912年]] - [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー大帝]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[973年]]) * [[1607年]]([[慶長]]12年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[徳川和子]]、[[後水尾天皇]]の[[中宮]](+ [[1678年]]) * [[1616年]] - [[ジョン・ウォリス]]、[[数学者]](+ [[1703年]]) * [[1760年]] - [[フランソワ・バブーフ]]、革命家(+ [[1797年]]) * [[1804年]] - [[フランクリン・ピアース]]、[[政治家]]、第14代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1869年]]) * [[1837年]] - [[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]、[[物理学者]](+ [[1923年]]) * [[1859年]] - [[ビリー・ザ・キッド]]、[[カウボーイ]]、[[無法者]](+ [[1881年]]) * [[1864年]] - [[ピーター・チャルマーズ・ミッチェル]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1945年]]) * [[1876年]] - [[マヌエル・デ・ファリャ]]、[[作曲家]](+ [[1946年]]) * [[1887年]] - [[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]]、[[物理学者]](+ [[1915年]]) * [[1888年]] - [[ハーポ・マルクス]]、[[喜劇俳優]]、[[マルクス兄弟]]の次男(+ [[1964年]]) * [[1890年]] - [[エル・リシツキー]]、[[デザイナー]]、[[写真家]]、[[建築家]](+ [[1941年]]) * [[1891年]] - [[久米正雄]]、[[小説家]](+ [[1952年]]) * [[1893年]] - [[阿部千一]]、政治家(+ [[1972年]]) * [[1896年]] - [[常ノ花寛市]]、[[大相撲]]第31代[[横綱]](+ [[1960年]]) * [[1897年]] - [[カール・ゲープハルト]]、医師、医学者、ナチス[[親衛隊中将]](+ [[1948年]]) * [[1908年]] - [[ネルスン・ボンド]]、[[作家]](+ [[2006年]]) * [[1912年]] - [[三宅艶子]]、[[作家]]、[[文芸評論家]](+ [[1994年]]) * [[1915年]] - [[江崎真澄]]、政治家(+ [[1996年]]) * [[1923年]] - [[小林桂樹]]、[[俳優]](+ [[2010年]]) * 1923年 - [[白井義男]]、プロボクサー、元世界フライ級チャンピオン(+ [[2003年]]) * [[1924年]] - [[川畑博]]、元[[プロ野球選手]](+ 没年不明) * [[1926年]] - [[サティヤ・サイ・ババ|サイババ]]、宗教指導者(+ [[2011年]]) * [[1928年]] - [[高橋辰夫]]、政治家(+ [[2001年]]) * 1928年 - [[松永光]]、政治家(+ [[2022年]]) * 1929年 - [[北沢杏子]]、脚本家 * [[1931年]] - [[トシオ・ナカヤマ]]、政治家(+ [[2007年]]) * [[1932年]] - [[田中邦衛]]、俳優(+ [[2021年]]) * 1932年 - [[田沢智治]]、政治家(+ [[2006年]]) * [[1933年]] - [[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](+ [[2020年]]) * [[1935年]] - [[青山京子]]、元[[俳優|女優]](+ [[2020年]]) * [[1937年]] - [[井石広一]]、プロ野球選手 * [[1940年]] - [[大坪元雄]]、競馬解説者 * 1940年 - [[たこ八郎]]、元プロボクサー、[[タレント]](+ [[1985年]]) * 1940年 - [[ルイス・ティアント]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[フランコ・ネロ]]、俳優 * 1941年 - [[栗本慎一郎]]、[[評論家]] * [[1942年]] - [[十朱幸代]]、女優 * 1942年 - [[堺すすむ]]、[[漫談家]] * [[1943年]] - [[小室等]]、[[日本のフォークシンガー|フォークシンガー]] * [[1944年]] - [[ピーター・リンドバーグ]]、[[写真家]](+ [[2019年]]) * [[1945年]] - [[綿引勝彦]]、俳優(+ [[2020年]]<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2021/01/13/0014002629.shtml 俳優・綿引勝彦さん死去、75歳 膵臓がん] - デイリースポーツ online 2021年1月13日</ref>) * 1945年 - [[岡本行夫]]、外交評論家(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202005070000789.html|title=外交評論家の岡本行夫さん死去 コロナウイルス感染|publisher=日刊スポーツ|date=2020-05-07|accessdate=2020-10-29}}</ref>) * 1945年 - [[エリザーベト・レオンスカヤ]]、[[ピアニスト]] * 1945年 - [[真鍋幹三]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[ガブリエル・ザイフェルト]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1948年 - [[渡辺博敏]]、元プロ野球選手 * 1948年 - [[吉田勝己]]、競走馬生産者、馬主、[[ノーザンファーム]]代表 * [[1951年]] - [[ウェイン・ケージ]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[ヨハン・デ・メイ]]、作曲家 * 1953年 - [[伊志嶺吉盛]]、高校野球指導者 * [[1954年]] - [[ブルース・ホーンズビー]]、ピアニスト、[[アコーディオン]]奏者、[[シンガーソングライター]] * [[1956年]] - [[山口弘和]]、[[お笑いタレント]]([[コント山口君と竹田君]]) * [[1957年]] - [[片岡大蔵]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[ブルック・ジャコビー]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[士郎正宗]]、[[漫画家]] * 1961年 - [[トマス・ツェートマイアー]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]] * [[1963年]] - [[鷹森淑乃]]、[[声優]] * 1963年 - [[西森博之]]、漫画家 * [[1964年]] - [[太田美知彦]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、作曲家、[[編曲家]]、[[キーボーディスト]] * [[1965年]] - [[林田健司]]、ミュージシャン * 1965年 - [[ドン・フライ]]、[[総合格闘家]] * [[1966年]] - [[大道寺俊典]]、[[スタントマン]]、[[スーツアクター]]、[[殺陣師]] * [[1967年]] - [[ウィル・フリント]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[吉田健一 (アニメーター)|吉田健一]]、[[アニメーター]] * 1969年 - [[オリビエ・ベレッタ]]、[[競技運転手|レーシングドライバー]] * 1969年 - [[バイロン・モレノ]]、元[[審判員 (サッカー)|サッカー審判員]] * [[1970年]] - [[松山洋]]、[[ゲームクリエイター]] * [[1972年]] - [[森下あみい]]、元[[AV女優]](+ [[2011年]]) * [[1973年]] - [[大野純二]]、漫画家 * 1973年 - [[細見大輔]]、俳優 * [[1974年]] - [[國重徹]]、政治家 * 1974年 - [[林亮介]]、元[[野球選手]] * [[1975年]] - [[畑野ひろ子]]、女優 * 1975年 - [[萬雅之]]、俳優 * 1975年 - [[佐久間宣行]]、テレビプロデューサー * [[1976年]] - [[三瓶]]、お笑いタレント * 1976年 - [[茶野隆行]]、元サッカー選手 * 1976年 - [[濱錦竜郎]]、元大相撲力士、年寄21代[[春日山 (相撲)|春日山]] * 1976年 - [[岩崎ひろみ]]、タレント、女優 * [[1977年]] - [[クリストファー・アモット]]、[[ギタリスト]]([[アーチ・エネミー]]) * 1977年 - [[井浦愛]]、[[声優]] * [[1978年]] - [[田澤孝介]]、ミュージシャン * [[1979年]] - [[岩永洋昭]]、俳優 * 1979年 - [[大塚良子]]、タレント * [[1980年]] - [[ジョナサン・パペルボン]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[コディ・ロス]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[エウクリデス・ベタンコート]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[松坂恭平]]、元野球選手 * 1982年 - 赤羽奈々瀬、元お笑いタレント(元[[めっちぇん]]) * [[1983年]] - [[井野卓]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[ロバート・コエロ]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[キャスパー・ウェルズ]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - [[田中みな実]]、アナウンサー、タレント、女優 * [[1987年]] - [[伊達晃二]]、俳優、タレント * 1987年 - [[池松日佳瑠]]、ミュージカル俳優 * 1987年 - [[塚田拓也]]、ミュージカル俳優、元京劇俳優 * [[1988年]] - [[板垣あずさ]]、タレント、元AV女優、元[[グラビアアイドル]] * 1988年 - [[竹下百合子]]、[[カヌー]]選手 * 1988年 - [[宮澤エマ]] 、タレント * [[1989年]] - [[奥田朱理]]、元[[プロレスラー]] * 1989年 - [[嘉弥真新也]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[小島由梨]]、タレント * 1990年 - [[中野瞳]]、陸上競技選手 * 1990年 - [[アリョーナ・レオノワ]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[エンリケ・ブルゴス]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[永島優美]]、フジテレビアナウンサー * 1991年 - [[山川穂高]]、プロ野球選手 * [[1992年]] - [[マイリー・サイラス]]、歌手、アイドル * [[1993年]] - [[長沢裕]]、タレント * 1993年 - 中島美央、元[[ダンサー]]、元歌手(元[[Flower (グループ)|Flower]]、元[[E-girls]]) * 1993年 - [[堤礼実]]、フジテレビアナウンサー * [[1995年]] - [[定本楓馬]]、俳優 * [[1996年]] - [[アンナ・ヤノフスカヤ]]、アイスダンス選手 * 1996年 - 上原潤、歌手([[ORβIT]]) * [[1997年]] - [[吉田理恩]]、俳優 * 1997年 - [[沢木ルカ]]、元女優 * 1997年 - [[竹内朱莉]]、アイドル([[アンジュルム]]) * 1997年 - [[佐々木一真]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.froma.com/contents/baito/workstyle/39053/|title=現役早大生アナウンサー・佐々木一真「今できることをして1歩でも半歩でも進んでいけば、夢は掴める」|publisher=[[リクルートホールディングス|リクルート]]|date=2017-11-22|website=FromA|accessdate=2021-01-21|work=働くコラム}}</ref>、アナウンサー * [[1998年]] - 志田愛佳、元アイドル(元[[欅坂46]]) * [[1999年]] - [[浦上晟周]]<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.amuse.co.jp/artist/A8347/ | title = 公式プロフィール | publisher = アミューズ| accessdate = 2021-01-13}}</ref>、俳優 * 1999年 - [[はじめまして松尾です]]、[[YouTuber]] * [[2000年]] - [[菅原りこ]]、タレント、元アイドル(元[[NGT48]]) * [[2012年]] - [[Zombie Zoo Keeper]]、[[非代替性トークン|NFT]]アーティスト * 生年不明 - [[布施川一寛]]、[[声優]] == 忌日 == * [[1366年]]([[正平 (日本)|正平]]21年/[[貞治]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]])- [[峨山韶碩]]、[[曹洞宗]]の[[僧]](* [[1275年]]) * [[1457年]] - [[ラディスラウス・ポストゥムス]]、[[オーストリア公]]・[[ボヘミア]]・[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王(* [[1440年]]) * [[1503年]] - [[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]]、[[シャルル (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公シャルル]]の妃(* [[1446年]]) * [[1555年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[閏]][[10月10日 (旧暦)|10月10日]])- [[太原雪斎]]、[[今川氏]]家臣、[[僧]](* [[1496年]]) * [[1572年]] - [[アーニョロ・ブロンズィーノ]]、[[画家]](* [[1505年]]) * [[1585年]] - [[トマス・タリス]]、[[作曲家]](* [[1505年]]頃) * [[1668年]]([[寛文]]8年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]])- [[松平定行]]、初代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1584年]]) * [[1682年]] - [[クロード・ロラン]]、画家(* [[1600年]]) * [[1726年]] - [[ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ゾフィア・ドロテア]]、英国王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の妃(* [[1666年]]) * [[1789年]]([[寛政]]元年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]])- [[毛利重就]]、第8代[[長州藩|長州藩主]](* [[1725年]]) * [[1814年]] - [[エルブリッジ・ゲリー]]、第5代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1744年]]) * [[1826年]] - [[ヨハン・ボーデ]]、[[天文学者]](* [[1747年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]])- [[渡辺崋山]]、[[田原藩]][[家老]]、[[南画|南画家]](* [[1793年]]) * [[1844年]] - [[トーマス・ヘンダーソン]]、天文学者(* [[1798年]]) * [[1880年]] - [[エルンスト・ハンプ]]、 ドイツの[[薬剤師]]、植物学者 (* [[1795年]]) * [[1890年]] - [[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]、[[オランダ]]国王(* [[1817年]]) * [[1896年]] - [[樋口一葉]]、[[小説家]]・[[作家]]、歌人(* [[1872年]]) * [[1910年]] - [[オクターヴ・シャヌート]]、[[鉄道]]・[[航空]]技術者(* [[1832年]]) * [[1916年]] - [[エドゥアルド・ナープラヴニーク]]、[[指揮者]]、作曲家(* [[1839年]]) * [[1938年]] - [[エーリック・ヴァーレンショルド]]、[[画家]](* [[1855年]]) * [[1946年]] - [[アーサー・ダヴ]]、画家(* [[1880年]]) * 1946年 - [[レオン・スピリアールト]]、画家(* [[1881年]]) * [[1948年]] - [[ハック・ウィルソン]]、プロ野球選手(* [[1900年]]) * [[1957年]] - 堀[[日亨 (日蓮正宗)|日亨]]、僧侶、[[大石寺]]第59代法主(* [[1867年]]) * [[1959年]] - [[両國梶之助 (瓊ノ浦)]]、[[大相撲]][[力士]]、元[[関脇]](* [[1907年]]) * [[1967年]] - [[オットー・エーリヒ・ドイチュ]]、[[音楽学者]](* [[1883年]]) * [[1970年]] - [[ユソフ・ビン・イサーク]]、初代[[シンガポールの大統領|シンガポール大統領]](* [[1910年]]) * 1970年 - [[アルフ・プリョイセン]]、[[児童文学]][[作家]](* [[1914年]]) * [[1973年]] - [[早川雪洲]]、[[俳優]](* [[1889年]]) * 1973年 - [[愛知揆一]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E6%8F%86%E4%B8%80-23766|title=愛知揆一とは|publisher=コトバンク|accessdate=2020-12-08}}</ref>、政治家、[[内閣官房長官]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[法務大臣]]、[[文部大臣]](* [[1907年]]) * 1973年 - [[中野雅晴]]、カーレーサー(* [[1949年]]) * [[1974年]] - [[コーネリアス・ライアン]]、[[ジャーナリスト]](* [[1920年]]) * [[1976年]] - [[アンドレ・マルロー]]、作家(* [[1901年]]) * [[1986年]] - [[増村保造]]、[[映画監督]](* [[1924年]]) * 1986年 - [[仁木悦子]]、小説家(* [[1928年]]) * [[1988年]] - [[古畑正秋]]、[[天文学者]](* [[1912年]]) * 1988年 - [[政岡憲三]]、[[アニメーション監督]](* [[1898年]]) * 1989年 - [[志賀真理子]]、アイドル、歌手、声優(* [[1969年]]) * [[1990年]] - [[ロアルド・ダール]]、作家、[[脚本家]](* [[1916年]]) * [[1991年]] - [[クラウス・キンスキー]]、俳優(* [[1926年]]) * [[1995年]] - [[ルイ・マル]]、[[映画監督]](* [[1932年]]) * [[1996年]] - [[アート・ポーター・ジュニア]]、[[ジャズ]]・[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]、[[サクソフォーン]]奏者(* [[1961年]]) * [[1997年]] - [[直井潔]]、小説家(* [[1915年]]) * [[2002年]] - [[杉尾富美雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1934年]]) * [[2003年]] - [[竹林明秀]]、シナリオライター(* [[1970年]]) * [[2004年]] - [[石床幹雄]]、プロ野球選手(* [[1947年]]) * [[2005年]] - [[徳川義宣]]、第21代[[尾張徳川家]]当主、[[徳川美術館]]館長、[[美術史|美術史家]](* [[1933年]]) * [[2006年]] - [[灰谷健次郎]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1934年]]) * 2006年 - [[フィリップ・ノワレ]]、俳優(* [[1930年]]) * [[2007年]] - [[大谷一二]]、[[サッカー]]選手、[[東洋紡|東洋紡績]]名誉顧問(* [[1912年]]) * 2007年 - [[ウラジーミル・クリュチコフ]]、[[ソ連国家保安委員会]]議長(* [[1924年]]) * [[2008年]] - [[野口悦男]]、[[温泉]]評論家(* [[1947年]]) * 2008年 - [[リチャード・ヒコックス]]、[[指揮者]](* [[1948年]]) * [[2009年]] - [[亀山房代]]、[[漫才師]]、[[タレント]](* [[1967年]]) * [[2010年]] - [[笶田みこ]]、[[歌手]](* 生年不明) * [[2014年]] - [[中島啓江]]、[[オペラ]]歌手(* [[1957年]]) * [[2015年]] - [[真板益夫]]、[[教育者]](* [[1920年]]) * 2015年 - [[今井洋介]]<ref name="皆様へ(公式サイト2015年11月28日)">[https://www.imaiyosuke.com/contents/27733 皆様へ(公式サイト2015年11月28日)]</ref><ref name="皆様へ(公式サイト2015年11月28日)"/><ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1572465.html テラスハウス出演の今井洋介さん心筋梗塞で急死](日刊スポーツ2015年11月28日)</ref>、[[アーティスト]](* [[1984年]]) * [[2016年]] - [[臼井正明]]<ref name="facebook">[https://www.facebook.com/note.php?note_id=1140217492700130 臼井正明さん語録] 河崎早春 [[Facebook]] 2016年11月24日付</ref>、俳優(* [[1928年]]) * [[2021年]] - [[全斗煥]]、政治家、[[大韓民国]]第11・12代[[大統領 (大韓民国)|大統領]](* [[1931年]]) == 記念日・年中行事 == {{画像提供依頼|「勤労感謝の日」のイメージ画像|date=2023年3月}} * [[小雪]]({{JPN}} 2011年) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が240度の時で、わずかながら[[雪]]が降り始めるころ。 * [[勤労感謝の日]]({{JPN}}) *:[[国民の祝日]]の一つ。[[宮中祭祀]]の一つ・[[新嘗祭]]がルーツとなっている。 * 外食の日({{JPN}}) *: 日本フードサービス協会が創立10周年を記念して[[1984年]]に制定。いつも家事で忙しい母のために、勤労感謝の日と同じ日に設定した形になっている。 * ゲームの日({{JPN}}) *: [[日本アミューズメントマシン工業協会]]、[[全日本アミューズメント施設営業者協会連合会]]、[[日本SC遊園協会]]が1995年に制定。仕事や勉強の尊さをはっきり自覚しながら、ゆとりある遊びとしてのゲームを楽しみ、ゲームと生活との調和が感じられる日として、勤労感謝の日と同じ日に制定。[[ゲームセンター]]では様々なイベントが行われる。 * ハートケアの日({{JPN}}) *: 「[[勤労感謝の日]]」にちなんで、仕事(勤労)の資本となる体の核となる[[心臓]](ハート)に関心を持ってもらうための日。ハートケア情報委員会が制定。 * [[珍味]]の日({{JPN}}) *: 全国珍味商工業協同組合連合会が制定。新嘗祭で山海の珍味が供えられることと、「11(いい)つまみ(23)」の語呂合せ。 * [[小ねぎ]]記念日({{JPN}}) *: 福岡・大分・佐賀・高知・宮城各県の[[全国農業協同組合連合会|JA全農]]県本部で作る「小ねぎ主産県協議会」が制定。勤労感謝の日が「ねぎらいの日」に通じることから「ねぎらい」を「葱来」と読む語呂合せ。 * 牡蠣の日({{JPN}}) *: [[カキ (貝)|牡蠣]]の需要のピーク(12月)直前となる勤労感謝の日に栄養ある牡蠣を食して日頃の仕事の疲れを癒そう、という趣旨で[[全国漁業協同組合連合会]]が制定した<ref name="zengyoren">{{Cite web|和書 | date=2008-11-23 | url=http://www.zengyoren.or.jp/torikumi/oyster/sanchi.html | title=11月23日(祝)は「牡蠣(カキ)の日」です! | publisher=全国漁業協同組合連合会 | accessdate=2013-12-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305165719/http://zengyoren.or.jp/torikumi/oyster/sanchi.html|archivedate=2016-03-05|deadlink=2018年2月}}</ref>。 * [[国際千葉駅伝]]({{JPN}}) *: [[1992年]]からこの日(日曜日に当たる場合は[[11月24日|24日]])に開催。2014年大会を以って終了。 * 日本の日({{ROC-TW}}・[[台南市]]) *: 台南市に拠点を置く日本企業へ感謝を示し、交流の強化を図る日として、台南市政府が制定<ref>{{cite news | url = https://web.archive.org/web/20151124153206/http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201511230011.aspx | title = 台湾・台南市、11月23日を「日本の日」に 日本企業の投資に感謝 | newspaper = フォーカス台湾 | date = 2015-11-23 | accessdate = 2015-12-20 }}</ref>。 * リトアニア国軍の日({{LTU}}、{{lang|lt|Lietuvos kariuomenės diena}}) *: 1918年11月23日にリトアニア国軍が創設されたことにちなむ。 * {{仮リンク|ルドルフ・マイスター|en|Rudolf Maister}}の日({{SVN}}) * 聖[[ゲオルギオスの日]]({{GEO}}) *: [[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス]]のグルジアにおける[[聖名祝日]]。グルジアの国名はゲオルギオスにちなむもので、同国の[[ナショナルデー]]となっている。 * 茶碗の日({{JPN}}) *: 日本陶彩株式会社が制定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tohsai.com/cyawannohi.html|title=茶碗の日|work=日本陶彩|accessdate=2020-11-23}}</ref>。新穀の新嘗祭が祝されるなか、新米を前にあらためてお米とお茶碗を愉しみいただきたいとして。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1123|date=2011年7月}} * [[1937年]](昭和12年) - [[岡山県]]岡-村に三本指の男が現れる。(『[[本陣殺人事件]]』) * [[1968年]](昭和43年) - 夢野サリーと花村よし子、「[[勤労感謝の日]]」の宿題として、角田家のお手伝いになる。だが角田家の赤ん坊・ススムが行方不明になるが、翌日、ススムが三つ子によって参加した「赤ちゃんコンクール」に優勝した事がわかる。(『[[魔法使いサリー]]』第104話「サリーのお手伝いさん」) * [[1982年]](昭和57年) - 共産国家「アルストツカ(Arstotzka)」の国境検問所が再開される。(『[[Papers, Please]]』) * 2004年 - ISAF(独立国家連合軍)、[[ユージア|ユージア大陸]]南東部の港湾都市・コンベース港に停泊する[[エルジア王国|エルジア共和国]]海軍主力艦隊「エイギル艦隊」を奇襲攻撃するラフシーズ作戦を実施。ISAF航空部隊の活躍の結果、エイギル艦隊は甚大な被害を被って壊滅し、これによりエルジア軍はノースポイント直接侵攻を無期限延期する。(『[[エースコンバット04 シャッタードスカイ]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1973年]] - [[幕之内一歩]]、漫画・アニメ『[[はじめの一歩]]』の主人公<ref>{{Twitter status|ippo_fs|1321057808637255680}}</ref> * 1991年 - [[社築]]、[[にじさんじ]]所属の[[Vtuber|vtuber]]<ref>{{YouTube|SdPNucCao-I|『OTN社誕生日祭 11/23は勤労感社の日』}}</ref> * 生年不明 - [[海軍 (ONE PIECE)|ボルサリーノ(黄猿)]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[まめっち]]、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|editor=講談社|editor-link=講談社|publisher=講談社|year=2010|page=32|isbn=978-4-06-364814-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|author1=ウィズ|authorlink1=ウィズ (玩具)|author2=バンダイ(監修)|authorlink2=バンダイ|publisher=小学館|year=2011|page=14|isbn=978-4-09-751048-2}}</ref> * 生年不明 - [[マクロスFの登場人物#主要キャラクター|シェリル・ノーム]]、『[[マクロスF]]』『[[劇場版 マクロスF|劇序盤 マクロスF]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|macrossd|1462979222973026306}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.sheryl-nome.net/profile/index.html |title=Profile Sheryl Nome |access-date=2022-12-13 |publisher=BW/MFP・MBS}}</ref><ref>『マクロスF』ブルーレイディスク特典カレンダー、超時空ファンクラブF魂メールマガジン</ref> * 生年不明 - 香久矢まどか、アニメ『[[スター☆トゥインクルプリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/startwinkle_precure/character/chara4.php#tab |title=キュアセレーネ/香久矢まどか |access-date=2022-11-09 |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |work=『スター☆トゥインクルプリキュア』}}</ref> * 生年不明 - 河合伊代菜、アニメ『[[まじかる☆タルるートくん]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[りぶねす#千葉慎一|千葉慎一]]、漫画『[[りぶねす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=堂本裕貴|authorlink=堂本裕貴|year = 2018 |title = りぶねす |volume = 10巻 |page = 192 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社コミックス]] |isbn = 978-4-06-511272-4 }}</ref> * 生年不明 - 丸山亘、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://7o3x.com/char/profiles.html#9 |title=丸山亘 |publisher=[[杉基イクラ]]/KADOKAWA 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2022-11-09 |work=『ナナマル サンバツ』}}</ref> * 生年不明 - 槙聖司、漫画『[[やがて君になる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=やがて君になる|date=2018|year=|publisher=KADOKAWA|author=仲谷鳰|authorlink=仲谷鳰|series=電撃コミックスNEXT|isbn=978-4-04-912047-9|quote=カバー下}}</ref> * 生年不明 - ペンギン、漫画・YouTubeアニメ『[[テイコウペンギン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.youtube.com/watch?v=qcBHy_UaIJY&feature=youtu.be |title=【質問コーナー】デリカシーのない質問はやめてください。【アニメ】 - YouTube |accessdate=2022-11-09}}</ref> * 生年不明 - 神田あかね、児童文学シリーズ『[[若おかみは小学生!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=若おかみは小学生!|volume=PART10|author=令丈ヒロ子|authorlink=令丈ヒロ子|publisher=[[講談社]]|series=[[青い鳥文庫]]|year=2007|quote=付録|isbn=978-4-06-148773-4}}</ref> * 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#塔城小猫|塔城小猫]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|603340033752367104}}</ref> * 生年不明 - 材木座義輝、小説・アニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_oregairu|1462798026922082307}}</ref> * 生年不明 - [[快盗天使ツインエンジェルシリーズ#敵キャラクター|ブラックトレーダー]]、アニメ・パチスロ『[[快盗天使ツインエンジェル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite news|title=えんじぇる☆にゅーす|newspaper=ツインエンジェル|date=2009-11-19|url=http://twin-angel.com/news/z_024.html|accessdate=2022-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150610220100/http://twin-angel.com/news/z_024.html|archivedate=2015-06-10|publisher=Sammy}}</ref> * 生年不明 - 花木優香、アニメ・漫画『[[夏色キセキ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=TV アニメーション「夏色キセキ」オフィシャルフォトブック|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|page=40|isbn=978-4-7575-3546-6}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=夏色キセキ|volume=1巻|author=「夏色キセキ」製作委員会(原作・原案)・たつひこ(漫画)|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ヤングガンガンコミックス]]|year=2012|page=150|isbn=978-4-7575-3607-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=夏色キセキ OFFICIAL MUSIC GUIDE|publisher=[[エムオン・エンタテインメント]]|year=2012|page=21|isbn=978-4-7897-3543-8}}</ref> * 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#星井 美希(ほしい みき)|星井美希]]、『[[THE IDOLM@STER (Xbox 360)|Xbox 360版アイドルマスター]]』『[[THE IDOLM@STER SP|THE IDOLM@STER SP ミッシングムーン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10011 |title=星井 美希(ほしい みき) |access-date=2022-11-09 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref><ref>『[[電撃G's magazine]]』2010年11月号、[[アスキーメディアワークス]]、111頁。</ref> * 生年不明 - テイガー(TR-0009)、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/tager.html |title=テイガー(TR-0009) |publisher=ARC SYSTEM WORKS |accessdate=2022-11-09 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref> * 生年不明 - 一ノ瀬かえで、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=アイカツ! アイドル名鑑|author1=サンライズ(企画・原作)|authorlink1=サンライズ (アニメ制作ブランド)|author2=バンダイ(原案)|authorlink2=バンダイ|author3=サンライズ|author4=バンダイ(監修)|publisher=[[小学館]]|year=2014|page=40|isbn=978-4-09-280501-9}}</ref> * 生年不明 - 夢川ショウゴ、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1462918818083319811}}</ref> * 生年不明 - ディオン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=99&cate=name&cont=Dion |title=ディオン |access-date=2022-11-09 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - フォーマ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=130&cate=name&cont=Forma |title=フォーマ |access-date=2022-11-09 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 城ヶ崎昴、ゲーム『[[夢色キャスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ycast.sega-net.com/cast.html |title=YUMEIRO COMPANY 城ヶ崎 昴 |access-date=2022-11-09 |publisher=SEGA |work=『夢色キャスト』}}</ref> * 生年不明 - 服部耀、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_police.html |title=警視庁 服部 耀 |accessdate=2022-11-09 |publisher=coly/SMHP |work=『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』}}</ref> * 生年不明 - ニア、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kings-raid.com/characters/#character-177 |title=ニア |publisher=【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-11-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=177 |archivedate=2022-07-24}}</ref> * 生年不明 - 古市左京、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔秋組〕古市左京 |accessdate=2022-11-09 |publisher=LIBER |website=『A3!(エースリー)』}}</ref> * 生年不明 - 民谷巌鉄斎、『[[地獄楽]]』の登場キャラクター<ref>{{Cite tweet |user=MAPPA_Info |author=[[MAPPA]] |number=1727341638224421122 |title=🎂HAPPY BIRTHDAY🎂 |date=2023-11-23 |access-date=2023-11-23}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{commonscat|23 November}} {{新暦365日|11|22|11|24|[[10月23日]]|[[12月23日]]|[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]|1123|11|23}} {{1年の月と日}}
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11月24日
11月24日(じゅういちがつにじゅうよっか、じゅういちがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から328日目(閏年では329日目)にあたり、年末まであと37日ある。 1944年 レイテ沖海戦にて戦艦武蔵が撃沈される。
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{{カレンダー 11月}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} '''11月24日'''(じゅういちがつにじゅうよっか、じゅういちがつにじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から328日目([[閏年]]では329日目)にあたり、年末まであと37日ある。 == できごと == * [[1629年]]([[寛永]]6年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[徳川家光]]の乳母・お福が[[後水尾天皇]]に拝謁。「[[春日局]]」の名号を賜る。 * [[1833年]] - [[インドネシア]]の[[スマトラ島]]沖で[[マグニチュード]]8.9の地震発生。[[2004年]]の地震と同規模の可能性も。 * [[1859年]] - [[チャールズ・ダーウィン]]がイギリスで『[[種の起源]]』を出版。 * [[1894年]] - [[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]で明治以降の日本で初のオペラ『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』([[シャルル・グノー|グノー]]作曲)を上演。 * [[1909年]] - 大之浦桐野炭鉱(現:[[福岡県]][[宮若市]])にて爆発事故。死者・行方不明者243人<ref>{{Cite web|和書 |url=http://bosaijoho.jp/reading/years/item_6658.html |title=2007年12月の周年災害 |publisher=防災情報新聞 |date= |accessdate=2021-08-27}}</ref>。 * [[1919年]] - [[新婦人協会]]の設立を発表。 * [[1928年]] - [[山本老事件]]が起こる。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[スロバキア]]が[[日独伊三国軍事同盟]]に加盟。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[B-29 (航空機)|B-29]]が東京を初爆撃。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が、原爆研究との誤解から[[理化学研究所]]仁科研究室などの[[加速器|サイクロトロン]]を破壊し東京湾に沈める。 * [[1949年]] - [[金融機関|金融業]]『[[光クラブ事件|光クラブ]]』の経営者・[[山崎晃嗣]]が[[シアン化カリウム|青酸カリ]]で服毒自殺を図る。翌25日死亡。 * [[1950年]] - [[電気事業再編成令]]が公布。電力事業を地域ごとの9社に再編。 * [[1954年]] - [[鳩山一郎]]らが[[日本民主党]]を結成。 * [[1961年]] - [[国際連合|国連]]総会で「核兵器使用禁止宣言」と「アフリカの非核武装地帯宣言」が可決。 * [[1963年]] - [[ジョン・F・ケネディ]]米大統領の暗殺容疑で逮捕されていた[[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]が、連行中に射殺される。 * [[1964年]] - [[ドラゴン・ルージュ作戦]]を展開する[[ベルギー]]の[[エアボーン|パラシュート部隊]]が[[コンゴ民主共和国]]の[[キサンガニ|スタンリーヴィル]]に降り立ち、{{仮リンク|シンバの反乱|en|Simba Rebellion}}軍勢力に捕らえられていた人質を多数救出<ref>{{Cite book|author=Georges Nzongola-Ntalaja|title=The Congo: From Leopold to Kabila: A People's History(2002年)|publisher=Zed Books|page=136|language=英語|isbn=978-1842770535}}</ref>。 * [[1969年]] - アメリカの2番目の有人月宇宙船「[[アポロ12号]]」が地球に帰還。 * [[1971年]] - アメリカで[[ハイジャック]]「[[D.B.クーパー事件]]」発生。犯人は身代金20万ドルを持ってパラシュートで脱出、逃亡。未解決事件となる。 * [[1989年]] - [[ビロード革命]]: [[グスターフ・フサーク]]大統領、[[ミロシュ・ヤケシュ]]第一書記らチェコスロバキア共産党幹部全員が辞任し、共産党政権が事実上崩壊。 * [[1993年]] - アメリカ合衆国議会で銃法規制法案([[ブレイディ法|ブレイディ法案]])が可決。 * [[1997年]] - [[山一證券]]が自主廃業を決定し、経営破綻。 * [[1999年]] - 日本で外国産[[カブトムシ亜科|カブトムシ]]、[[クワガタムシ]]44種の輸入が解禁される。 * [[2000年]] - 日本で[[ストーカー行為等の規制等に関する法律|ストーカー規制法]]施行。 * [[2003年]] - [[コロンビア]]で[[誘拐]]された[[矢崎総業]]の現地法人副社長が遺体で発見。([[コロンビア邦人副社長誘拐事件]]) * [[2012年]] - [[サンフレッチェ広島]]が[[J1リーグ|J1]]初優勝を飾ると同時に、[[FIFAクラブワールドカップ]]初出場を決定する<ref>{{Cite web|和書 |date=2012年11月24日 |url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/218242 |title=サッカーJ1 サンフレッチェ広島が初優勝 |work=日テレNEWS24 |publisher=日本テレビ |accessdate=2018-03-27}}</ref>。 * [[2016年]] - [[コロンビア]]政府と[[コロンビア革命軍]]が[[和平]]合意に調印。50年以上に及んだ[[コロンビア内戦]]が事実上終結。 * [[2017年]] - [[エジプト]]、[[アリーシュ]]近郊にあるローダ(Rawda)モスクを武装集団が襲撃<ref>{{Cite web|和書 |date=2017年11月25日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3152940 |title=エジプトのモスク襲撃、死者235人に 近年最悪の惨事 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-27}}</ref>。300人以上が死亡<ref>{{Cite web|和書 |date=2017-11-26 |url=http://japanese.cri.cn/2021/2017/11/26/142s267342.htm |title=エジプトテロで死亡305人、テロリストはIS旗を所持 |publisher=中国国際放送局 |accessdate=2018-03-27}}</ref>。([[2017年アリーシュ・ビール・アルアベドテロ攻撃事件]]) * [[2021年]] - [[愛知県弥富市中学校内刺殺事件]]が発生<ref>https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20220323-OYTNT50196/</ref>。 == 誕生日 == * [[1602年]]([[慶長]]7年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[鍋島元茂]]、第7代[[小城藩|小城藩主]](+ [[1654年]]) * [[1632年]] - [[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[合理主義哲学|合理主義哲学者]](+ [[1677年]]) * [[1705年]]([[宝永]]2年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[遠山友央]]、第7代[[苗木藩|苗木藩主]](+ [[1772年]]) * [[1712年]] - [[シャルル・ミシェル・ド・レペー]]、思想家、教育者 (+ [[1789年]]) * [[1729年]] - [[アレクサンドル・スヴォーロフ]]、[[ロシア帝国]][[大元帥]](+ [[1800年]]) * [[1748年]]([[寛延]]元年[[10月4日 (旧暦)|閏10月4日]]) - [[佐竹義敦]]、第8代[[久保田藩|久保田藩主]](+ [[1785年]]) * [[1784年]] - [[ザカリー・テイラー]]、第12代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1850年]]) * [[1812年]]([[文化 (元号)|文化]]9年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[前田利極]]、第10代[[大聖寺藩|大聖寺藩主]](+ [[1838年]]) * [[1821年]] - [[ヘンリー・バックル]]、[[歴史学者]](+ [[1862年]]) * [[1826年]] - [[カーロ・コローディ]]、児童文学作家(+ [[1890年]]) * [[1849年]] - [[フランシス・ホジソン・バーネット]](バーネット夫人)、小説家、劇作家(+ [[1924年]]) * 1849年([[嘉永]]2年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[安藤信勇]]、第7代[[磐城平藩|磐城平藩主]](+ [[1908年]]) * [[1862年]] - [[ベルンハルト・シュターフェンハーゲン]]、[[音楽家]](+ [[1914年]]) * [[1864年]] - [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]、[[画家]](+ [[1901年]]) * [[1868年]] - [[スコット・ジョプリン]]、[[作曲家]](+ [[1917年]]) * [[1875年]] - [[阿部信行]]、[[政治家]](+ [[1953年]]) * [[1876年]] - [[ウォルター・バーリー・グリフィン]]、[[建築家]](+ [[1937年]]) * [[1877年]] - [[アルバン・W・バークリー]]、政治家、第35代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1956年]]) * [[1887年]] - [[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]、[[ドイツ]]の[[ドイツ陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[貴族]](+ [[1973年]]) * [[1891年]] - [[マリアーノ・オスピナ・ペレス]]、政治家(+ [[1976年]]) * [[1895年]] - [[ルドヴィーク・スヴォボダ]]、政治家、[[チェコスロバキアの大統領|チェコスロバキア大統領]](+ [[1979年]]) * [[1898年]] - [[劉少奇]]、政治家、第2代[[中華人民共和国主席]](+ [[1969年]]) * [[1903年]] - [[邦創典]]、[[俳優]](+ [[1982年]]) * [[1911年]] - [[ジョー・メドウィック]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1975年]]) * [[1912年]] - [[清川虹子]]、喜劇[[俳優|女優]](+ [[2002年]]) * [[1916年]] - [[片岡博国]]、元プロ野球選手 * [[1922年]] - [[加藤治子]]、女優(+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2061828/full/ |title=加藤治子さん心不全で死去 ドラマ『寺内貫太郎一家』など出演 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2015-11-05 |accessdate=2021-01-06}}</ref>) * [[1924年]] - [[レオニード・コーガン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1982年]]) * [[1927年]] - [[アルフレード・クラウス]]、[[テノール]]歌手(+ [[1999年]]) * 1927年 - [[アマドゥ・クルマ]]、[[作家]](+ [[2003年]]) * [[1930年]] - [[若前田英一朗]]、元大相撲力士(+ [[2007年]]) * [[1934年]] - [[鈴木銀一郎]]、作家、ゲームデザイナー(+ [[2021年]]) * [[1938年]] - [[オスカー・ロバートソン]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1939年]] - [[三宅義信]]、[[重量挙げ]]選手 * [[1940年]] - [[石川陽造]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[ピノ・ドナッジオ]]、[[作曲家]] * [[1943年]] - [[クニオ・ナカムラ|クニヲ・ナカムラ]]、政治家、第4代[[パラオ]]大統領(+ [[2020年]]) * 1943年 - [[森孝慈]]、元[[サッカー]]選手(+ [[2011年]]) * 1943年 - [[新川恵]]、[[調教師]] * [[1946年]] - [[内田俊雄]]、アマチュア野球指導者 * 1946年 - [[テッド・バンディ]]、元[[死刑囚]](+ [[1989年]]) * [[1947年]] - [[中村孝明]]、[[料理人]] * [[1948年]] - [[スティーブ・イェーガー]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[江島巧]]、元プロ野球選手 * 1949年 - [[玉ノ富士茂]]、元大相撲力士(+ 2021年) * [[1955年]] - [[湯浅卓]]、国際[[弁護士]] * [[1957年]] - [[クリス・ヘイズ]]、ギタリスト(元[[ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース]]) * [[1959年]] - [[大塚明夫]]、[[声優]] * [[1960年]] - [[豊島美雪]]、[[ラジオパーソナリティ]] * 1960年 - [[両沢和幸]]、[[脚本家]] * [[1961年]] - [[三宅伸吾]]、政治家 * [[1962年]] - [[未來貴子]]、女優 * 1962年 - [[ジョン・スクワイア]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ザ・ストーン・ローゼズ]]) * [[1964年]] - [[松田博幸]]、歌手 * 1964年 - [[コンリース・ヒル]]、俳優 * [[1965年]] - [[古村比呂]]、女優 * [[1966年]] - [[西本欣司]]、[[プロ野球審判員]] * [[1968年]] - [[yukihiro]]、ミュージシャン([[L'Arc〜en〜Ciel]]) * 1968年 - [[デイヴ・ハンセン]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[多岐川舞子]]、[[演歌歌手]] * [[1970年]] - [[バッファロー吾郎A]]、[[お笑いタレント]]([[バッファロー吾郎]]) * 1970年 - [[ジェイソン・ハッカミー]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[ラッセル・ワトソン]]、[[歌手]] * 1972年 - [[エルネスト・ノリス]]、野球選手 * [[1973年]] - [[岩田まこ都]]、[[フリーアナウンサー]] * 1973年 - [[松原美香]]、歌手 * [[1974年]] - [[山本太郎]]、政治家、元俳優、元タレント * 1974年 - [[小沼ようすけ]]、ギタリスト * [[1975年]] - [[大和啄也]]、俳優、タレント * 1975年 - [[清水直行]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[池内博之]]、俳優 * 1976年 - [[陳露]]、元[[フィギュアスケート選手]] * 1976年 - [[ネストル・ペレス]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[ダミアン・モス]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[西国原礼子]]、歌手、タレント(元[[SDN48]]) * [[1980年]] - [[藤川ヨシキ]]、ミュージシャン * [[1981年]] - [[佐藤和哉 (篠笛奏者)|佐藤和哉]]、[[篠笛]]奏者、作曲家 * [[1982年]] - [[川島信二]]、[[騎手]] * [[1983年]] - [[アンドレ・ルイス・バイーア・ドス・サントス・ヴィアナ]]、[[サッカー選手]] * 1983年 - [[ホセ・ロペス (内野手)|ホセ・ロペス]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[立川絵理]]、元タレント * [[1984年]] - [[ジョエル・グスマン]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[菊地直哉]]、元サッカー選手 * [[1985年]] - [[小塚舞子]]、タレント、[[リポーター]] * 1985年 - [[雨宮チエ]]、グラビアアイドル * [[1986年]] - [[松本あゆ美]]、タレント、フリーアナウンサー * 1986年 - [[永井朋弥]]、俳優、歌手([[+Plus]]) * 1986年 - [[田極翼]]、バレエダンサー * [[1987年]] - [[越川詩織]]、声優 * 1987年 - [[クリス・ハーマン]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[丸山美紀]]、声優 * [[1988年]] - [[ジャロッド・パーカー]]、元プロ野球選手 * [[1989年]] - [[宮澤ありさ]]、女優、ファッションモデル * 1989年 - [[武隈祥太]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[サラ・ハイランド]]、女優 * 1990年 - [[トム・オデール]]、ミュージシャン * [[1993年]] - [[イヴィ・アダムー]]、歌手 * [[1994年]] - [[草川拓弥]]、俳優、モデル、ダンサー([[超特急 (音楽グループ)|超特急]]) * 1994年 - [[ナビル・ベンタレブ]]、サッカー選手 * [[1995年]] - [[井之脇海]]、俳優 * 1995年 - [[千本木彩花]]、声優 * 1995年 - [[辻愛沙子]]、[[クリエイティブ・ディレクター]] * 1995年 - [[フランシス・マルテス]]、プロ野球選手 * [[1998年]] - [[山岸理子]]、アイドル([[つばきファクトリー]]) * 1998年 - [[鎮西寿々歌]]、女優、タレント([[FRUITS ZIPPER]]) * 1998年 - [[別府由来]]、俳優 * [[1999年]] - [[竹内彩姫]]、元アイドル(元[[SKE48]]) * 1999年 - [[今野大輝]]、アイドル([[ジャニーズJr.|7 MEN 侍]]) * [[2000年]] - [[廣中璃梨佳]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]] * [[2004年]] - [[浅野翔吾]]、プロ野球選手 * [[2008年]] - [[根本真陽]]、女優 * 生年不明 - [[江夏由結]]、[[脚本家]] * 生年不明 - [[鈴木恭輔]]、声優 * 生年不明 - [[尾崎未來]]<ref>[https://www.wingwave.jp/talent/2020woman/miku.html 尾崎未來のプロフィール]</ref>、声優 * 生年不明 - [[川口莉奈]]、声優 * 生年不明 - [[白銀ノエル]]、[[バーチャルYouTuber]] == 忌日 == [[File:Murayama Ryuhei.jpg|thumb|120px|[[朝日新聞]]の共同創業者、[[村山龍平]](1850-1933)]] [[File:Kinmochi Saionji 2.jpg|thumb|120px|[[戦前]]の[[日本]]の政治家、[[西園寺公望]](1849-1940)]] [[File:FreddieMercurySinging1977.jpg|thumb|120px|ロックバンド「[[クイーン (バンド)|クイーン]]」のボーカリスト、[[フレディー・マーキュリー]](1946-1991)]] * [[597年]] - [[智顗]]、天台大師(* [[538年]]) * [[654年]]([[白雉]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]])- [[孝徳天皇]]、第36代[[天皇]](* [[596年]]) * [[1518年]] - [[ヴァノッツァ・カタネイ]]、[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の愛人、[[チェーザレ・ボルジア]]の母(* [[1442年]]) * [[1571年]] - [[ヤン・ブラホスラフ]]、[[宗教改革]]運動家、[[音楽学者]](* [[1523年]]) * [[1650年]] - [[マヌエル・カルドーゾ]]、[[作曲家]](* [[1566年]]) * [[1720年]]([[享保]]5年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]])- [[松平定直]]、第4代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1660年]]) * [[1722年]] - [[ヨハン・アダム・ラインケン]]、作曲家(* [[1623年]]) * [[1741年]] - [[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]、[[スウェーデン]]女王(* [[1688年]]) * [[1848年]] - 第2代[[メルバーン子爵]][[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム・ラム]]、元[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1779年]]) * [[1852年]] - [[ウォルター・フォワード]]、第15代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1786年]]) * [[1870年]] - [[ロートレアモン伯爵]]、[[詩人]](* [[1846年]]) * [[1875年]] - [[徳川義宜]]、第16代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1858年]]) * [[1898年]] - [[四条隆謌]]、[[元老院議官]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1828年]]) * [[1916年]] - [[ハイラム・マキシム]]、[[発明家]](* [[1840年]]) * [[1929年]] - [[ジョルジュ・クレマンソー]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1841年]]) * [[1932年]] - [[ロバート・エドウィン・オールズ]]、第6代[[アメリカ合衆国国務次官]](* [[1875年]]) * [[1933年]] - [[村山龍平]]、[[朝日新聞]]共同創業者、[[衆議院議員]]、貴族院議員(* [[1850年]]) * [[1937年]] - [[ニコライ・ネフスキー]]、[[言語学|言語学者]]・[[民俗学|民俗学者]](* [[1892年]]) * [[1940年]] - [[西園寺公望]] 、政治家、第12・14代[[内閣総理大臣]](* [[1849年]]) * [[1944年]] - [[辻潤]]、[[翻訳家]]、[[思想家]](* [[1884年]]) * 1944年 - [[田澤義鋪]]、教育家、[[日本青年館]]理事長、貴族院議員(* [[1885年]]) * 1944年 - [[中川州男]]、[[大日本帝国陸軍|日本の陸軍]][[中将]](* [[1898年]]) * [[1946年]] - [[モホリ=ナジ・ラースロー]]、[[写真家]]、教育家(* [[1895年]]) * [[1956年]] - [[グィード・カンテッリ]]、[[指揮者]](* [[1920年]]) * [[1957年]] - [[ディエゴ・リベラ]]、[[画家]](* [[1886年]]) * [[1963年]] - [[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]、[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]暗殺の実行犯とされる人物(* [[1939年]]) * [[1968年]] - [[ドビ・イシュトヴァーン]]、元[[ハンガリー]]首相、大統領評議会議長(* [[1898年]]) * [[1978年]] - [[大松博文]]、[[バレーボール]]指導者・元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]](* [[1921年]]) * [[1980年]] - [[ジョージ・ラフト]]、[[俳優]](* [[1903年]]) * [[1982年]] - [[太田静子]]、[[太宰治]]の小説『[[斜陽]]』のモデルとして知られる人物(* [[1913年]]) * [[1990年]] - [[西谷啓治]]、思想家(* [[1900年]]) * [[1991年]] - [[大村千吉]]、[[俳優]](* [[1922年]]) * 1991年 - [[フレディ・マーキュリー]] 、ミュージシャン([[クイーン (バンド)|クイーン]] )(* [[1946年]]) * 1991年 - [[エリック・カー (ミュージシャン)|エリック・カー]]、[[ドラマー]](* [[1950年]]) * [[1998年]] - [[ニコラス・クルティ]]、[[物理学者]](* [[1908年]]) * 1998年 - [[滝進太郎]]、[[レーシングドライバー]](* [[1937年]]) * [[2001年]] - [[長野規]]、[[編集者]](* [[1926年]]) * 2001年 - [[ドナルド・マクファーソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1945年]]) * [[2002年]] - [[ジョン・ロールズ]]、思想家(* [[1921年]]) * 2002年 - [[山川雄巳]]、[[政治学者]](* [[1932年]]) * [[2003年]] - [[セイプディン・エズィズィ]]、政治家(* [[1915年]]) * 2003年 - [[ウォーレン・スパーン]]、元[[プロ野球選手]](* [[1921年]]) * 2003年 - [[団令子]]、[[俳優|女優]](* [[1935年]]) * [[2004年]] - [[アーサー・ヘイリー]]、[[小説家]](* [[1920年]]) * [[2005年]] - [[ノリユキ・パット・モリタ]]、俳優(* [[1932年]]) * 2005年 - [[ジョン・ブリシディース]]、ソフトウェア科学者(* [[1961年]]) * [[2007年]] - [[真部一男]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1952年]]) * [[2009年]] - [[丘灯至夫]]、[[作詞家]](* [[1917年]]) * [[2012年]] - [[池田信夫 (野球)|池田信夫]]、[[野球選手]](* [[1950年]]) * [[2013年]] - [[田代和]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2802X_Y3A121C1CC0000/|title=田代和氏が死去 元近畿日本鉄道社長|publisher=日本経済新聞|date=2013-11-28|accessdate=2020-11-23}}</ref>、[[実業家]](* [[1927年]]) * [[2018年]] - [[田中卓]]<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181125/k00/00m/060/052000c 訃報 田中卓さん94歳=元皇学館大学長] 毎日新聞、2018年11月24日</ref>、[[歴史学者]](* [[1923年]]) * [[2019年]] - [[ク・ハラ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://m.huffingtonpost.jp/entry/koo-hara_jp_5ddb4955e4b00149f71ef59c|title=元KARAのク・ハラさん死亡。自宅で遺体見つかる|publisher=[[ハフポスト]]|author=[[朝日新聞]]|date=2019-11-26|accessdate=2020-11-07}}</ref>、[[アイドル]]([[KARA]])(* [[1991年]]) * [[2020年]] - [[木内幸男]]<ref>{{Cite news2|title=甲子園で3度優勝監督の木内幸男さんが死去|newspaper=佐賀新聞LIVE|date=2020-11-24|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/603992|agency=佐賀新聞社|accessdate=2021-07-12}}</ref>、[[高校野球]]指導者(* [[1931年]]) *[[2023年]] - [[伊集院静]]、[[作家]](* [[1950年]]) == 記念日・年中行事 == * 進化の日 ** [[1859年]]のこの日に、[[チャールズ・ダーウィン]]の『[[種の起源]]』の初版が刊行されたことを記念。 * [[教師の日]]({{TUR}}) * [[鰹節]]の日({{JPN}}) ** 「い(1)い(1)ふ(2)し(4)」の語呂合わせ。食品メーカー・[[ヤマキ]]が制定。<!-- 全国鰹節工業会が制定。 ←日本海事広報協会のサイトにそのように書かれているが、「全国鰹節工業会」なる団体は存在しない。全国削節工業協会、日本鰹節協会ならあるが、どちらもこのような記念日は制定していない模様。「ヤマキが制定」は3冊の本で確認 --> <!-- * 大分県[[地域ブログ]]の日 ** [[2006年]]11月24日に、大分県地域ブログの「じゃんぐる公園」が開設されたことに由来、地域ブログの発展を祈り制定された。 --> * オペラ記念日 ** [[1894年]](明治27年)のこの日、東京音楽学校(現:東京芸術大学)奏楽堂で、明治以降日本で初めてのオペラが上演された。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1124|date=2011年7月}} * 1937年(昭和12年)- 三本指の男の話を聞いた鈴子が[[琴]]を弾く真似をする。(小説『[[本陣殺人事件]]』) * 1949年(昭和24年)- 太陽クラブの隅田光一が[[銀座]]の事務所に[[放火]]し[[焼身自殺]]する。(小説『[[白昼の死角]]』第4章) * 2003年(平成15年)- お台場で発生した連続殺人事件の被疑者確保のため、東京港トンネル、東京湾岸道路(国道357号線)、第二航路海底トンネル、ゆりかもめ、りんかい線、レインボーブリッジなどの主要ルートが封鎖される。(映画『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]』) * 年不明 - [[原子力潜水艦]]シーバットが独立国「やまと」を宣言(『[[沈黙の艦隊]]』) * 年不明 - [[津軽海峡]] (午後10時35分)にてヒグマドンが漁船を襲う(『[[ザ・ワールド・イズ・マイン]]』第1話) === 誕生日(フィクション) === * [[1596年]] - きょうこ、[[福岡県]][[豊前市]]のイメージキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.city.buzen.lg.jp/koho/character.html |title=キャラクター紹介 きょうこ |access-date=2022-11-09 |publisher=[[豊前市]]}}</ref> * [[1949年]]- 矢作知洋、[[連続テレビ小説]]『[[ちむどんどん]]』の登場人物 * 生年不明 - ロック・コール、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI|FINAL FANTASY Ⅵ]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite book|和書 |title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート |publisher=[[NTT出版]] |year=1994 |page=157 |ISBN=4-87188-303-5}}</ref><ref name=":0">{{Twitter status|livedoornews|1198258653691858944}}</ref> * 生年不明 - 菓彩あまね/キュアフィナーレ、アニメ『[[デリシャスパーティ♡プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/character/chara4.php#charaarea |title=キュアフィナーレ/菓彩あまね |publisher=ABC-A・東映アニメーション |accessdate=2022-11-09 |work=『デリシャスパーティ♡プリキュア』}}</ref> * 生年不明 - 玉川百合亜、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/tamagawa_yuria |title=秋田 玉川百合亜 |access-date=2023-01-11 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - ファリニシュ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1595613276091875328}}</ref> * 生年不明 - カリィエダ、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ(監修)|authorlink=東まゆみ|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|year=2009|page=99|isbn=978-4-86127-616-3}}</ref> * 生年不明 - 姫坂乃愛、漫画・アニメ『[[私に天使が舞い降りた!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=姫坂乃愛 |url=http://watatentv.com/chara04.html |accessdate=2022-11-09 |publisher=[[椋木ななつ]]・[[一迅社]]/わたてん製作委員会 |work=『私に天使が舞い降りた!』}}</ref> * 生年不明 - 赤星ホノカ(ぴっぴぃ)、特撮『[[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]]』の登場人物 * 生年不明 - 雛山理緒、ゲーム『[[To Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|AQUAPLUS_JP|1463160416733904907}}</ref><ref>メディアワークス刊「ToHeart ビジュアルファンブック」。</ref> * 生年不明 - 江藤結花、ゲーム『[[まじかる☆アンティーク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|leaf_jp|1065983325628620800}}</ref> * 生年不明 - 黒魔女ミーシャ、ゲーム『[[オシャレ魔女♥ラブandベリー|オシャレ魔女♥ラブandベリー DSコレクション]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://osharemajo.com/chara/index.html |title= キャラクターしょうかい ミーシャ|publisher=SEGA |work=『オシャレ魔女 ラブandベリー』 |accessdate=2023-01-11|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120223173622/http://osharemajo.com/chara/index.html |archivedate=2012-02-23}}</ref> * 生年不明 - アーヴァイン・キニアス、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVIII]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 高島一子、ゲーム・アニメ『[[処女はお姉さまに恋してる|乙女はお姉さまに恋してる]]』に登場するキャラクター<ref>[http://www.caramel-box.com/products/otoboku/chara/character_07.html 処女はお姉さまに恋してるキャラ紹介] キャラメルBOX公式HP、2014年6月24日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.caramel-box.com/products/otoboku/chara/character_07.html |title=高島一子 |access-date=2022-11-09 |publisher=キャラメルBOX |work=『処女はお姉さまに恋してる』}}</ref> * 生年不明 - 鳴神葵、ゲーム『[[77 〜And, two stars meet again〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.piacci.co.jp/sevens/chara04.html |title= 鳴神葵 |publisher=『77 〜beyond the Milky Way〜』 |accessdate=2022-11-09|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110514035822/http://www.piacci.co.jp/sevens/chara04.html |archivedate=2014-05-14}}</ref> *生年不明 - カーリン・ケイソン、ゲーム『[[スターオーシャン:アナムネシス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=11|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - リン・レイファ、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/lihua |publisher=Akatsuki Inc. |title=リン・レイファ |accessdate=2022-11-09 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref> * 生年不明 - [[御劔虎春]]、ゲーム・アニメ『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aaside_info|1463160411105206272}}</ref> * 生年不明 - 霜月準、メディアミックス『[[ツキノ芸能プロダクション]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tsukino-pro.com/talent_artist/talent_artist-cat2/tsukiuta-ta/shimotsuki-shun-ta/ |title=霜月 準 |access-date=2023-01-11 |publisher=TSUKIPRO TSUKIUTA. [[ユニバーサルミュージック|UNIVERSAL MUSIC LLC]] ALTAIR |work=『ツキノ芸能プロダクション』}}</ref> * 生年不明 - [[葉月恋]]、メディアミックス『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/member/|title=メンバー紹介|website=「ラブライブ!スーパースター!!」公式サイト|accessdate=2022-11-25}}</ref> * 生年不明 - ミケ、漫画『拷問バイトくんの日常』に登場するキャラクター == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|24 November}} {{新暦365日|11|23|11|25|[[10月24日]]|[[12月24日]]|[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]|1124|11|24}} {{1年の月と日}}
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11月25日
11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月25日'''(じゅういちがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から329日目([[閏年]]では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。 == できごと == * [[1034年]] - [[スコットランド王国|スコットランド]]王[[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]が反対派に殺害される。孫の[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]が即位。 * [[1120年]] - [[ホワイトシップの遭難]]。[[イングランド王国|イングランド]]王子[[ウィリアム・アデリン]]ほか、多数の王族・貴族が死亡。 * [[1177年]] - [[モンジザールの戦い]]。[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]率いる[[エルサレム王国]]軍が[[サラーフッディーン]]率いる[[アイユーブ朝]]軍を破った。 * [[1554年]]([[天文 (元号)|天文]]23年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[尼子晴久]]が[[尼子国久]]、[[尼子誠久|誠久]]親子ら[[新宮党]]幹部を粛清。 * [[1795年]] - [[第三次ポーランド分割]]: ポーランド王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]が強制的に退位させられ、ロシアへ亡命。 * [[1867年]] - [[アルフレッド・ノーベル]]が[[ダイナマイト]]の特許を取得。 * [[1876年]] - [[福澤諭吉]]の『[[学問のすゝめ]]』最終刊・第17篇が刊行。 * [[1892年]] - パリの[[ソルボンヌ大学]]での講演で、[[ピエール・ド・クーベルタン]]が[[近代オリンピック|オリンピック]]の復活を提唱。 * [[1905年]] - [[ヒューゴー・ガーンズバック]]が世界初の大衆無線機[[テリムコ]]を発売。 * [[1920年]] - [[日本海軍]]の戦艦「[[長門 (戦艦)|長門]]」が竣工。 * [[1921年]] - 皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])が[[摂政]]に就任。 * [[1931年]] - [[平凡社]]が「[[世界大百科事典|大百科事典]]」を刊行開始。 * [[1934年]] - [[長崎県]]の[[三井松島ホールディングス|松島炭鉱]]の坑道が水没(鉱区は海底下に広がっていた)。54人死亡<ref>三井・松島炭坑に出水、五十四人絶望『大阪毎日新聞』昭和9年11月26日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p485 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1936年]] - [[日本]]と[[ドイツ国|ドイツ]]が[[日独防共協定]]に調印。 * [[1940年]] - [[ウッディー・ウッドペッカー]]が『キツツキと熊一家』で初登場。 * [[1944年]] - [[熊野 (重巡洋艦)|重巡洋艦「熊野」]]が[[航空機]]の攻撃により、沈没。 * [[1947年]] - [[赤狩り]]: [[MPAA|アメリカ映画協会]]のエリック・ジョンソン代表が、[[ハリウッド・ブラックリスト]]に掲載された「ハリウッド・テン」の10人について共産主義者の嫌疑が晴れるまで雇用しないと声明。 * [[1949年]] - 金融業『[[光クラブ]]』の経営者・[[山崎晃嗣]]が[[青酸カリ]]を前夜遅く服毒し自殺。([[光クラブ事件]]) * [[1952年]] - [[アガサ・クリスティ]]の[[戯曲]]『[[ねずみとり (アガサ・クリスティ)|ねずみとり]]』が初演。 * 1952年 - [[読売新聞大阪本社|大阪讀賣新聞]]が創刊。 * [[1953年]] - [[サッカーイングランド代表]]が[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー代表]]に敗れ、ヨーロッパ大陸のチームにホームで初の黒星を喫する。 * [[1958年]] - [[フランス領スーダン]]が自治権を獲得。 * [[1960年]] - [[ドミニカ共和国]]で反独裁政権運動家の[[ミラバル姉妹]]が殺害される。(女性に対する暴力廃絶のための国際デー) * [[1965年]] - [[コンゴ民主共和国]]で[[モブツ・セセ・セコ|ジョゼフ=デジレ・モブツ]]が[[クーデター]]を起こし、独立以来続いてきた混乱([[コンゴ動乱]])が事実上終結<ref>{{Cite web|url=http://www.content.eisa.org.za/old-page/drc-constitutional-crisis-between-kasavubu-and-tshombe|title=DRC: Constitutional Crisis between Kasavubu and Tshombe|publisher=Electoral Institute for Sustainable Democracy in Africa (EISA)|language=en|accessdate=2014年9月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140725065303/http://www.content.eisa.org.za/old-page/drc-constitutional-crisis-between-kasavubu-and-tshombe |archivedate=2014年7月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 * [[1970年]] - [[三島由紀夫]]が[[市ヶ谷駐屯地|市ヶ谷]]の[[自衛隊]]・[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面総監部]]で割腹自決。([[三島事件]]) * 1970年 - [[静岡県]]の[[東伊豆道路]]を走行中の観光バスに落石が直撃。バスは路外へ20m転落して死者6人、重軽傷者21人<ref>これまでの主な落石事故『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月10日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1973年]] - [[五島勉]]著『[[ノストラダムスの大予言]]』の初版が刊行される。 * [[1975年]] - [[スリナム]]が[[オランダ]]から独立。 * [[1977年]] - フィリピンの軍事法廷が[[ベニグノ・アキノ・ジュニア]]に対し死刑判決。 <!-- 1970年5月18日公布のため、これはありえない。一部改正法の成立か? * [[1977年]] - 日本で[[航空機の強取等の処罰に関する法律|ハイジャック防止法]]が成立。 --> * [[1986年]] - [[バーレーン]]と[[サウジアラビア]]を結ぶ海上橋・[[キング・ファハド・コーズウェイ]]が開通。 * 1986年 - [[有楽町三億円事件]]が起こる。 * [[1999年]] - [[ハッブル宇宙望遠鏡]]の6台ある姿勢制御用[[ジャイロスコープ]]のうち4台目が故障し、観測不能に陥る。 * [[2001年]] - [[アメリカ国土安全保障省]]が発足。 * 2001年 - 「アメリカ人[[ターリバーン]]兵」{{仮リンク|ジョン・ウォーカー・リンド|en|John Walker Lindh}}が米軍に捕らえられる。 * [[2005年]] - [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が、[[公共政策プラットフォーム]] (政党シンクタンク)を設立。 * [[2009年]] - [[ドバイ・ショック]]が起こる。 * [[2018年]] - [[イギリスの欧州連合離脱]]:[[欧州連合|EU]]の臨時首脳会議で、イギリスが離脱する条件を定めた協定などで正式合意<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASLCT3HZKLCTUHBI001.html|title=英・EU、離脱条件で正式合意 焦点は英議会の承認に|newspaper=朝日新聞社|date=2018-11-25|accessdate=2018-11-28}}</ref>。 * 2018年 - [[黒海]]と[[アゾフ海]]を結ぶ[[ケルチ海峡]]で、[[ロシア]]の国境警備隊艦が[[ウクライナ]]の艦船を拿捕([[ケルチ海峡事件]])<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3199097|title=ロシア、ウクライナ艦船3隻を拿捕 情勢緊迫化、安保理が緊急会合へ|newspaper=AFPBB NEWS|date=2018-11-26|accessdate=2018-11-28}}</ref>。 * [[2023年]] - [[ヴィッセル神戸]]が[[J1リーグ]]初優勝。 == 誕生日 == [[File:LopedeVega.jpg|thumb|120px|[[スペイン黄金世紀]]時代に人気を博した[[劇作家]]、 [[ロペ・デ・ベガ]](1562-1635)誕生]] [[File:Andrew Carnegie, three-quarter length portrait, seated, facing slightly left, 1913-crop.jpg|thumb|120px|“鋼鉄王”、 [[アンドリュー・カーネギー]](1835-1919)誕生]] {{multiple image | footer = [[ドイツ]]の[[自動車]][[技術者]]、[[カール・ベンツ]](1844-1929)誕生。右は1885年型ベンツ | image1 = Carl-Benz coloriert.jpg | width1 = 100 | alt1 = ベンツ | image2 = 1885Benz.jpg | width2 = 120 | alt2 = 1885年型ベンツ }} {{multiple image | image1 = Ba Jin 1938.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[中華人民共和国]]の[[小説家]]、[[巴金]](1904-2005)誕生 | alt1 = 巴金 | image2 = Joe DiMaggio 1951.png | width2 = 100 | caption2 = 56試合連続[[安打]]の[[MLB]]記録保持者、[[ジョー・ディマジオ]](1914-1999)誕生 | alt2 = ディマジオ }} {{multiple image | image1 = Paul Desmond from Carl Van Vechten collection.png | width1 = 100 | caption1 = 代表曲「[[テイク・ファイヴ]]」で知られる[[ジャズ]][[サックス]]奏者、[[ポール・デスモンド]](1924-1977)誕生 | alt1 = デスモンド | image2 = Yoshimoto Takaaki.jpg | width2 = 110 | caption2 = 日本現代思想の泰斗、[[吉本隆明]](1924-2014)誕生 | alt2 = 吉本隆明 }} {{multiple image | image1 = Okada akinobu.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[岡田彰布]](1957-)誕生 | alt1 = 岡田彰布 | image2 = Hironobu Sakaguchi 20070706 Japan Expo 2.jpg | width2 = 100 | caption2 = 『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]』デザイナー、[[坂口博信]](1962-)誕生 | alt2 = 坂口博信 }} {{multiple image | image1 = Shiina Ringo 2016.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[椎名林檎]](1978-)誕生 | alt1 = 椎名林檎 | image2 = Xabi Alonso Euro 2012 vs France 02.jpg | width2 = 100 | caption2 = サッカー元[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]、[[シャビ・アロンソ]](1981-)誕生 | alt2 = シャビ }} * [[1562年]] - [[ロペ・デ・ベガ]]、[[劇作家]](+ [[1635年]]) * [[1579年]] ([[天正]]7年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[毛利秀元]]、[[長府藩]]主 (+ [[1650年]]) * [[1609年]] ([[慶長]]14年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[山内忠豊]]、[[土佐藩]]主 (+ [[1669年]]) * [[1618年]] ([[元和 (日本)|元和]]4年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[大村純信]]、[[大村藩]]主 (+ [[1650年]]) * [[1738年]] - [[トマス・アプト]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1766年]]) * [[1750年]] ([[寛延]]3年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[松平勝全]]、[[多古藩]]主 (+ [[1796年]]) * [[1758年]] ([[宝暦]]8年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[石川総純]]、[[伊勢亀山藩|亀山藩]]主 (+ [[1776年]]) * [[1798年]] ([[寛政]]10年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[関成煥]]、[[新見藩]]主 (+ [[1855年]]) * [[1805年]] ([[文化 (元号)|文化]]3年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[井上正春]]、[[浜松藩]]主 (+ [[1847年]]) * [[1814年]] - [[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]]、[[物理学者]](+ [[1878年]]) * [[1835年]] - [[アンドリュー・カーネギー]]、実業家(+ [[1919年]]) * [[1844年]] - [[カール・ベンツ]]、技術者(+ [[1929年]]) * [[1856年]] - [[セルゲイ・タネーエフ]]、[[作曲家]](+ [[1915年]]) * [[1857年]] - [[フィリッポ・トゥラーティ]]、[[社会主義]]運動家(+ [[1932年]]) * [[1870年]] - [[モーリス・ドニ]]、[[画家]]、著述家(+ [[1943年]]) <!-- 出典が不明 * [[1876年]] - [[ルー・カストロ]]、[[メジャーリーガー]] (+ [[1941年]]) --> * [[1876年]] - [[ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ]]、ヘッセン大公妃、ロシア大公妃(+ [[1936年]]) * [[1881年]] - [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]、第261代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1963年]]) * [[1887年]] - [[ニコライ・ヴァヴィロフ]]、[[植物学|植物学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1943年]]) * [[1891年]] - [[大錦卯一郎]]、[[大相撲]]第26代[[横綱]](+ [[1941年]]) * 1891年 - [[米川正夫]]、[[ロシア文学者]](+ [[1965年]]) * [[1892年]] - [[中澤不二雄]]、元[[野球選手]](+ [[1965年]]) * [[1895年]] - [[ヴィルヘルム・ケンプ]]、[[ピアニスト]](+ [[1991年]]) * 1895年 - [[アナスタス・ミコヤン]]、政治家、[[ソビエト連邦]]首相(+ [[1978年]]) * [[1896年]] - [[ヴァージル・トムソン]]、作曲家(+ [[1989年]]) * [[1900年]] - [[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]所長(+ [[1947年]]) * [[1901年]] - [[シェルイ・ティボール]]、作曲家(+ [[1978年]]) * 1901年 - [[宮崎奕保]]、[[僧]](+ [[2008年]]) * [[1904年]] - [[リリアン・コープランド]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1964年]]) * 1904年 - [[巴金]]、[[小説家]]、[[翻訳家]](+ [[2005年]]) * [[1911年]] - [[クルト・リュートゲン]]、[[児童文学]]作家(+ [[1992年]]) * [[1914年]] - [[ジョー・ディマジオ]] 、[[プロ野球選手]](+ [[1999年]]) * [[1915年]] - [[アウグスト・ピノチェト]]、政治家、[[チリ大統領の一覧|チリ大統領]](+ [[2006年]]) * [[1916年]] - [[佐藤進一]]、[[歴史学者]](+ [[2017年]]) * [[1920年]] - [[リカルド・モンタルバン]]、[[俳優]](+ [[2009年]]) * [[1921年]] - [[武宮敏明]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]]) * 1921年 - [[佐々木喜久治]]、政治家、元[[秋田県知事一覧|秋田県知事]](+ [[2008年]]) * [[1924年]] - [[ポール・デスモンド]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[1977年]]) * 1924年 - [[吉本隆明]]、[[詩人]]、思想家(+ [[2012年]]) * 1924年 - [[岩崎久太郎]]、元プロ野球選手 * [[1926年]] - [[ポール・アンダースン]]、[[SF作家]](+ [[2001年]]) * 1926年 - [[テリー・キルバーン]]、元子役 * 1926年 - [[李政道]]、[[物理学者]] * 1926年 - [[浜田義雄]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]]) * [[1931年]] - [[ナット・アダレイ]]、ジャズ[[コルネット]]奏者(+ [[2000年]]) * [[1932年]] - [[土屋弘光]]、元プロ野球選手 * [[1934年]] - [[西村貞朗]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * 1934年 - [[若羽黒朋明]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1969年]]) * [[1936年]] - [[坂本スミ子]]、歌手、女優(+ [[2021年]]) * [[1937年]] - [[ロナルド・ロバートソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2000年]]) * [[1939年]] - [[塩津義雄]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[池内紀]]、[[ドイツ文学者]]、[[随筆家|エッセイスト]](+ [[2019年]]<ref name="ASAHI201909042205">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASM94736GM94UCVL01X.html|title=ドイツ文学者・池内紀さん死去 エッセーでも人気博す|publisher=朝日新聞|date=2019-09-04|accessdate=2020-11-11}}</ref>) * [[1941年]] - [[龍隆行]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]) * [[1942年]] - [[桑田勇]]、[[プロボクサー]] * [[1943年]] - [[高松しげお]]、俳優、[[漫才師]] * [[1945年]] - [[五十嵐英夫]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[坂井隆憲]]、政治家(+ [[2017年]]) * 1947年 - [[戸野広浩司]]、俳優(+ [[1972年]]) * [[1948年]] - [[市川準]]、[[映画監督]](+ [[2008年]]) * [[1949年]] - [[関川夏央]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]] * [[1951年]] - [[大地康雄]]、俳優 * 1951年 - [[バッキー・デント]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[結城しのぶ]]、[[俳優|女優]] * [[1954年]] - [[三浦みつる]]、[[漫画家]] * [[1955年]] - [[赤星昇一郎]]、俳優 * [[1956年]] - [[舛田紀子]]、女優、歌手 * [[1957年]] - [[岡田彰布]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]] * 1957年 - [[カテリーナ・ダヴィニオ]]、[[詩人]]、[[美術家]]、[[写真家]]、[[映画監督]] * 1957年 - [[斉藤巧]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[トニー・ブリューワ]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[赤坂泰彦]]、[[タレント]]、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1959年 - [[マーク・ハウザー]]、[[生物学者]] * [[1960年]] - [[南秀憲]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[西正文]]、元[[野球選手]] * [[1962年]] - [[アンドレア・ルケッタ]]、[[バレーボール選手]] * 1962年 - [[坂口博信]]、[[ゲームデザイナー]] * 1962年 - [[寺門ジモン]]、[[お笑いタレント]]([[ダチョウ倶楽部]]) * 1962年 - [[矢野寛樹]]、元[[アナウンサー]] * [[1964年]] - [[真琴つばさ]]、元[[宝塚歌劇団]]トップスター、女優、[[歌手]] * [[1965年]] - [[小澤正澄]]、作曲家、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[PAMELAH]]) * [[1967年]] - [[アンソニー・ネスティ]]、[[水泳]]選手 * 1967年 - [[冨岡淳広]]、[[脚本家]] * 1967年 - [[中井和哉]]、[[声優]] * 1967年 - [[前田隆 (野球)|前田隆]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[高津臣吾]]、元プロ野球選手、監督 * [[1971年]] - [[クリスティナ・アップルゲイト]]、女優 * 1971年 - [[高橋美鈴]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * 1971年 - [[塚地武雅]]、お笑いタレント([[ドランクドラゴン]]) * 1971年 - [[山越紀子]]、フリーアナウンサー * [[1973年]] - [[オクタビオ・ドーテル]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[平田洋]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[エレーナ・ビトリチェンコ]]、[[新体操|新体操選手]] * 1976年 - [[伊藤俊吾]]、ミュージシャン([[キンモクセイ (バンド)|キンモクセイ]]) * 1976年 - [[佐々木淳吾]]、[[東北放送|tbc]]アナウンサー * 1976年 - [[ドノバン・マクナブ]]、アメリカンフットボール選手 * [[1977年]] - [[弓場沙織]]、女優、声優 * [[1978年]] - [[椎名林檎]]、[[シンガーソングライター]] * 1978年 - [[葉山小姫]]、元[[AV女優]]、元[[ストリッパー一覧|ストリッパー]] * 1978年 - [[小笠原歩]]、[[カーリング]]選手 * [[1979年]] - [[中村浩一]]、元プロ野球選手 * [[1980年]] - [[来生ひかり]]、元AV女優 * 1980年 - [[園田賢]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]] * 1980年 - [[村本大輔 (お笑い芸人)|村本大輔]]、お笑いタレント([[ウーマンラッシュアワー]]) * 1980年 - [[石橋幸緒]]、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]] * 1980年 - [[エスターリン・フランコ]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[ニック・スウィッシャー]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[米山雄太]]、俳優 * 1981年 - [[李ボム浩|李杋浩]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[シャビ・アロンソ]]、元[[サッカー選手]]、指導者 * 1981年 - [[マウリシオ・ショーグン]]、[[格闘家]] * [[1982年]] - [[ミンナ・カウッピ]]、[[オリエンテーリング]]選手 * [[1983年]] - [[伊藤淳史]]、俳優 * 1983年 - [[ジョーイ・チェスナット]]、[[フードファイター]] * [[1984年]] - [[鎌倉健]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[杉ゆかり]]、モデル * 1984年 - [[古山かおり]]、アナウンサー * [[1985年]] - [[太田雄貴]]、元[[フェンシング]]選手 * 1985年 - [[数野健太]]、元[[バドミントン]]選手 * 1985年 - [[劉セイラ]]、声優 * 1985年 - [[熱田久美]]、タレント * [[1986年]] - [[クレイグ・ガードナー]]、サッカー選手 * 1986年 - [[辰巳雄大]]、俳優([[ふぉ〜ゆ〜]] ) <!-- 出典が不明 * 1986年 - [[中村美香]]、女優 --> <!-- 出典が不明 * 1986年 - [[中村梨香]]、女優 --> * [[1987年]] - [[奥山明日香]]、タレント(元[[FANTASISTA (フットサルチーム)|FANTASISTA]]) * 1987年 - [[安藤淳也]]、元サッカー選手 <!-- 出典が不明 * 1987年 - [[西山達也]]、プロドライバー、自動車販売業 --> <!-- 出典が不明 * 1987年 - [[尹太珍]]、放送人、アナウンサー --> * [[1988年]] - [[ジミー・パラデス]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[清水圭介]]、サッカー選手 * 1988年 - [[みづきまい]]、グラビアアイドル * 1988年 - [[和久田麻由子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * [[1989年]] - [[谷川万純]]、タレント、歌手、作詞家 * [[1990年]] - [[壁谷明音]]、[[ファッションモデル]] * 1990年 - [[月宮みどり]]、声優 * 1990年 - [[山岡みどり]]、元タレント(元[[9nine]]) * 1990年 - [[川相拓也]]、元プロ野球選手 * [[1991年]] - [[青木愛理]]、女優 * 1991年 - [[もものはるな]]、声優 * 1991年 - [[加治屋蓮]]、プロ野球選手 * [[1992年]] - [[寺部歩美]]、元野球選手 * [[1993年]] - [[ダニー・ケント]]、オートバイレーサー * 1993年 - [[高樹リサ]]、ファッションモデル、タレント * 1993年 - [[守屋功輝]]、元プロ野球選手 * [[1994年]] - [[石綿文太]]、俳優 * 1994年 - Jude、アイドル、ミュージシャン([[BIGSTAR]]) * 1994年 - [[武藤十夢]]、タレント、[[気象予報士]](元[[AKB48]]) * [[1998年]] - [[馬瓜ステファニー]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * [[1999年]] - [[嘉陽光]]、声優 * [[2000年]] - [[ショウタロウ (歌手)|ショウタロウ]]、歌手、ダンサー([[RIIZE]]、元[[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * 2000年 - [[福本莉子]]、女優 * 生年不明 - [[牧野芳奈]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W09-1561|title=牧野 芳奈|work=日本タレント名鑑|accessdate=2021-01-21}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[大倉彩]]、声優 * 生年不明 - [[濱野雅嗣]]、声優 == 忌日 == === 人物 === {{multiple image | image1 = Minamoto no Yoshimitsu.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[武田氏]]、[[佐竹氏]]などの始祖、[[源義光]](1045-1127)没 | alt1 = 源義光 | image2 = Statue Jacques Coeur.JPG | width2 = 100 | caption2 = [[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の[[政商]]として財を成した[[ジャック・クール]](1395-1456)戦死 | alt2 = クール }} [[File:Mao Anying.jpg|thumb|120px|[[毛沢東]]長男、[[毛岸英]](1922-1950)、[[朝鮮戦争]]で戦死]] [[File:U Thant (1963).jpg|thumb|120px|第3代[[国際連合事務総長]]、[[ウ・タント]](1909-1974)没]] [[File:Ss1 5rb.jpg|thumb|120px|[[ラリー]]ドライバー、[[リチャード・バーンズ]](車中の人物)(1971-2005)病没]] {{multiple image | footer = [[フィデル・カストロ]](1926-2016)没 | image1 = Fidel Castro5 cropped.JPG | width1 = 100 | alt1 = カストロ | image2 = Fidel Castro's funeral procession.jpg | width2 = 140 | alt2 = カストロの霊柩車 }} * [[728年]]([[神亀]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[美努岡麻呂]]、[[貴族]](* [[661年]]) * [[1029年]]([[長元]]2年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]])- [[藤原公季]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[956年]]) * [[1034年]] - [[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[954年]]?) * [[1127年]]([[大治 (日本)|大治]]2年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]])- [[源義光]]、平安時代の[[武将]](* [[1045年]]) * [[1326年]]([[嘉暦]]元年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]) - [[惟康親王]]、[[鎌倉幕府]]第7代[[征夷大将軍]](* [[1264年]]) * [[1456年]] - [[ジャック・クール]]、[[フランス王国|フランス]]の貴族(* [[1395年]]) * [[1554年]]([[天文 (元号)|天文]]23年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]])- [[尼子国久]]、[[武将|戦国武将]](* [[1492年]]) * [[1560年]] - [[アンドレア・ドーリア]]、[[コンドッティエーレ]](* [[1466年]]) * [[1565年]]([[永禄]]8年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])- [[佐竹義昭]]、[[常陸国]]の[[戦国大名]](* [[1531年]]) * [[1587年]]([[天正]]15年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]])- [[新発田重家]]、戦国武将(* [[1547年]]?) * [[1626年]]([[寛永]]3年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]])- [[山名豊国]]、戦国武将(* [[1548年]]) * [[1710年]]([[宝永]]7年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]])- [[井伊直恒]]、[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1693年]]) * [[1755年]] - [[ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1687年]]) * [[1756年]]([[宝暦]]6年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]])- 2代目[[竹田出雲]]、[[浄瑠璃]]作家(* [[1691年]]) * [[1766年]] - [[ヨハン・マリア・ファリナ]]、[[香水]][[職人]]、[[オーデコロン]]開発者(* [[1685年]]) * [[1795年]]([[寛政]]7年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])- [[一条輝良]]、[[江戸時代]]の公卿(* [[1756年]]) * [[1801年]]([[享和]]元年10月20日)- [[蜂須賀重喜]]、[[徳島藩|徳島藩主]](* [[1738年]]) * [[1830年]] - [[ピエール・ロード]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1774年]]) * [[1833年]] - [[ニコラウス・エステルハージ]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]の貴族(* [[1765年]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]])- [[祐天仙之助]]、[[侠客]](* [[1820年]]頃) * [[1881年]] - [[テオバルト・ベーム]]、[[ベーム式]][[フルート]]開発者(* [[1794年]]) * [[1884年]] - [[マティルデ・フランツィスカ・アネケ]]、女性解放運動家(* [[1817年]]) * 1884年 - [[ヘルマン・コルベ]]、[[化学者]](* [[1818年]]) * [[1885年]] - [[トーマス・A・ヘンドリックス]]、第21代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1819年]]) * 1885年 - [[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]、[[スペイン|スペイン王]](* [[1857年]]) * [[1887年]] - [[J・J・バッハオーフェン]]、[[法学者]]、[[文化人類学|文化人類学者]](* [[1815年]]) * [[1889年]] - [[伊達宗紀]]、[[宇和島藩|宇和島藩主]](* [[1792年]]?) * [[1901年]] - [[ヨーゼフ・ラインベルガー]]、[[作曲家]]、オルガニスト(* [[1839年]]) * [[1909年]] - [[浜村蔵六 (五世)]]、[[篆刻|篆刻家]](* [[1866年]]) * [[1915年]] - [[ミシェル・ブレアル]]、[[言語学者]]、比較神話学者(* [[1832年]]) * [[1925年]] - [[ラーマ6世]]、[[タイ王国|タイ]]国王(* [[1880年]]) * [[1943年]] - [[吉川潔]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[少将]](* [[1900年]]) * [[1944年]] - [[ケネソー・マウンテン・ランディス]]、MLB[[コミッショナー]](* [[1866年]]) * [[1946年]] - [[堀切善兵衛]]、[[政治家]]、元[[衆議院]]議長(* [[1882年]]) * [[1950年]] - [[ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン]]、[[小説家]](* [[1873年]]) * 1950年 - [[グスターフ・ラムステッド]]、[[言語学|言語学者]](* 1873年) * 1950年 - [[毛岸英]]、軍人(* [[1922年]]) * [[1956年]] - [[アレクサンドル・ドヴジェンコ]]、[[映画監督]](* [[1894年]]) * [[1958年]] - [[チャールズ・ケタリング]]、[[技術者]](* [[1876年]]) * [[1959年]] - [[高島象山]]、易者(* [[1886年]]) * 1959年 - [[ジャン・グレミヨン]]、映画監督(* [[1902年]]) * [[1965年]] - [[マイラ・ヘス]]、[[ピアニスト]](* [[1890年]]) * [[1967年]] - [[オシップ・ザッキン]]、[[彫刻家]]、[[画家]](* [[1890年]]) * [[1968年]] - [[アプトン・シンクレア]]、[[作家]](* [[1878年]]) * [[1970年]] - [[木村庄之助 (21代)]]、[[大相撲]][[立行司]](* [[1889年]]) * 1970年 - [[三島由紀夫]]、小説家、[[劇作家]](* [[1925年]]) * 1970年 - [[森田必勝]]、[[政治活動家]](* [[1945年]]) * [[1972年]] - [[アンリ・コアンダ]]、[[発明家]]、[[航空力学|航空力学者]](* [[1886年]]) * 1972年 - [[ハンス・シャロウン]]、[[建築家]](* [[1893年]]) * [[1973年]] - [[ローレンス・ハーヴェイ]]、[[俳優]]、映画監督(* [[1928年]]) * [[1974年]] - [[ウ・タント]]、第3代[[国際連合事務総長|国連事務総長]](* [[1909年]]) * 1974年 - [[ニック・ドレイク]]、[[シンガーソングライター]](* [[1948年]]) * [[1980年]] - [[荒舩清十郎]]、[[政治家]](* [[1907年]]) * [[1981年]] - [[モリス・カークシー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1895年]]) * [[1982年]] - [[ヒュー・ハーマン]]、[[アニメーター]](* [[1903年]]) * [[1983年]] - [[ロッテ・アイスナー]]、[[映画評論|映画評論家]](* [[1896年]]) * [[1993年]] - [[芳村五郎治 (2代目)]]、[[長唄]]唄方(* [[1901年]]) * 1993年 - [[片田謙二]]、[[プロ野球選手]](* [[1936年]]) * [[1994年]] - [[坂本文次郎]]、プロ野球選手(* [[1926年]]) * [[1995年]] - [[田中千禾夫]]、劇作家(* [[1905年]]) * [[1997年]] - [[小津正次郎]]、[[実業家]](* [[1915年]]) * 1997年 - [[フェントン・ロビンソン]]、ブルース・ギタリスト、歌手(* [[1935年]]) * [[1998年]] - [[大塚末子]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1902年]]) * 1998年 - [[ネルソン・グッドマン]]、[[哲学者]](* [[1906年]]) * [[1999年]] - [[ピエール・ベジェ]]、[[コンピューターグラフィックス]]技術者、[[工学者]](* [[1910年]]) * [[2005年]] - [[リチャード・バーンズ]]、[[ラリー]]ドライバー(* [[1971年]]) * 2005年 - [[ジョージ・ベスト]]、[[サッカー]]選手(* [[1946年]]) * [[2010年]] - [[星野勘太郎]]、元[[プロレスラー]]、[[プロレス結社魔界倶楽部]][[総裁]](* [[1943年]]) * [[2011年]] - [[西本幸雄]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督]](* [[1920年]]) * [[2012年]] - [[高木喬]]、プロ野球選手(* [[1940年]]) * 2012年 - [[山田英介]]、[[衆議院議員]](* [[1945年]]) * [[2013年]] - [[堤清二|堤清二(辻井喬)]]、実業家、[[小説家]]、詩人(* [[1927年]]) * 2013年 - [[来宮良子]]、[[声優]](* [[1931年]]) * [[2014年]] - [[國弘正雄]]、政治家、[[文化人類学者]]、[[同時通訳|同時通訳者]](* [[1930年]]) * [[2015年]] - [[白川澄子]]<ref name="daily20151127">{{Cite news |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/11/27/0008601526.shtml |title=白川澄子さん 死因はくも膜下出血 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=デイリースポーツ |date=2015-11-27 |accessdate=2020-11-23}}</ref>、[[声優]](* [[1935年]]) * [[2016年]] - [[フィデル・カストロ]]、革命家、[[キューバ]]首相(* [[1926年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASJCV4SN8JCVUHBI00H.html|title=フィデル・カストロ氏死去 キューバ前議長、90歳|publisher=朝日新聞デジタル|date=2016-11-26|accessdate=2020-11-20}}</ref>) * 2016年 - [[デイヴィッド・ハミルトン]]、[[写真家]]、映画監督(* [[1933年]]) * [[2018年]] - [[長谷邦夫]]<ref>{{Cite news|title=2018-12-02|url=https://kunio.hatenadiary.jp/entries/2018/12/02|accessdate=2020-10-23|work=長谷邦夫の日記}}</ref>、[[漫画家]]、漫画評論家(* [[1937年]]) * [[2020年]] - [[ディエゴ・マラドーナ]]<ref>{{cite news |title=サッカー、マラドーナ氏が死去|url=https://web.archive.org/web/20201125163737/https://this.kiji.is/704370254250738785|publisher=共同通信| accessdate=2020-12-09|date=2020-11-26}}</ref>、元[[サッカー選手]]、指導者(* [[1960年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2009年]] - [[ハッチ]]、[[須坂市動物園]]を再起させたアカカンガルー(* [[2000年]]) == 記念日・年中行事 == * [[女性に対する暴力撤廃の国際デー]] ** [[1999年]][[12月17日]]の[[国連総会]]で制定された[[国際デー]]。 * [[独立記念日]]({{SUR}}) ** [[1975年]]のこの日、スリナムが[[オランダ]]から独立した。 * [[教師の日]]({{IDN}}) ** インドネシア教師協会が発足した日。 * [[OL]]の日({{JPN}}) ** [[1963年]]、初めて「OL」(Office Lady) という言葉が女性週刊誌「[[女性自身]]」11月25日号に載ったことに由来。働く女性の異業種間交流サークル「OLネットワークシステム」が[[1994年]]に制定。<!-- 詳述は[[OL]]で→ 「OL」は、それまで用いられていた「BG」(Business Girl) に代わる言葉として「女性自身」が読者アンケートを行った結果1位となったもので、これをきっかけにOLという言葉が広く使われるようになった。 --> * [[憂国忌]]({{JPN}}) ** 作家・[[三島由紀夫]]の忌日。三島の小説作品『[[憂国]]』にちなんで付けられた。 * [[ハイビジョン]]の日({{JPN}}) **ハイビジョンの[[走査線]]の数が1125本であることにちなみ、[[1987年]]に[[郵政省]](現[[総務省]])と[[日本放送協会|NHK]]が制定。この日とは別に、[[9月16日]]が[[通商産業省]](現[[経済産業省]])の制定した「ハイビジョンの日」となっている。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1125|date=2011年7月}} * 1932年(昭和7年)- [[岡山県]]鬼首村で青池源治郎が殺され、[[囲炉裏]]で顔が焼かれる。(小説『[[悪魔の手毬唄]]』) * 1937年(昭和12年)- 岡山県岡-村で一柳家当主の結婚式が行われ、翌日未明に殺人事件がおきる。(小説『[[本陣殺人事件]]』) * 2005年(平成17年)- ウスティオ・デラルーシ国境沿いでブレット・トンプソンがラリー・フォルク(ピクシー)にサイファについてインタビューを行う。(ゲーム『[[エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー]]』) === 誕生日(フィクション) === * 2070年 - リンダ・プラート、アニメ『[[機甲戦記ドラグナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1463719092498534404}}</ref> * 2604年 - マルコス・エリングラッド・ガルシア、漫画『[[テラフォーマーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=貴家悠|authorlink1=貴家悠|author2=橘賢一|authorlink2=橘賢一|title= テラフォーマーズ|origyear= 2012|accessdate= 2016-03-13|publisher= 集英社|isbn= 978-4-08-879459-4|volume= 3巻}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]354年 - レオン・D・S・ゲーステ、ゲーム『[[スターオーシャン セカンドストーリー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=46|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - シャーロット・カタクリ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Charlotte_Katakuri.html |title=シャーロット・カタクリ |access-date=2022-09-10 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - シャーロット・ダイフク、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Charlotte_Daifuku.html |title=シャーロット・ダイフク |access-date=2022-09-10 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - シャーロット・オーブン、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Charlotte_Oven.html |title=シャーロット・オーブン |access-date=2022-09-10 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - 神月イズモ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>[[岸本斉史]] 『NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』 [[集英社]]〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、2002年、76頁、{{ISBN2|4-08-873288-X}}。</ref><ref name="sha">岸本斉史 『NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2008年、65、77頁、{{ISBN2|978-4-08-874247-2}}。</ref> * 生年不明 - サイ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref name="sha" /> * 生年不明 - 千石清純、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|title=テニスの王子様公式ファンブック 40.5巻|url=https://www.worldcat.org/oclc/675612116|publisher=集英社|date=2007|location=Tōkyō|isbn=978-4-08-874198-7|oclc=675612116|others=Konomi, Takeshi, 1970-, 許斐, 剛, 1970-|year=}}</ref><ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1331252511790018560}}</ref> * 生年不明 - シィフ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>[[星野桂]] 『D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2008年、104頁、{{ISBN2|978-4-08-874248-9}}。</ref> * 生年不明 - 松岡大吾、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|animatetimes|1463754371628515329}}</ref> * 生年不明 - 柿崎国治、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1198618542494629888}}</ref> * 生年不明 - ザップ・レンフロ、漫画・アニメ『[[血界戦線]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://event.amnibus.com/kekkaisensen-shibuya109/ |title=血界戦線 & BEYOND Ani-Art POP UP SHOP MAGNET by SHIBUYA109 バースデー企画 |access-date=2022-11-03 |publisher=arma bianca CO.}}</ref> * 生年不明 - 隅野さやか、漫画・アニメ『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author= ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|year = 2013 |title = アホガール |volume = 1巻 |page = 28 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社コミックス]] |isbn = 978-4-06-384871-7 }}</ref> * 生年不明 - 佐野エマ、漫画・アニメ『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|toman_official|1463793134031171588}}</ref> * 生年不明 - 桐生紫乃、漫画・アニメ『[[カノジョも彼女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|date=2021|title=カノジョも彼女|volume=4巻|page=2|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4-06-521960-7}}</ref> * 生年不明 - 万年、漫画・アニメ『[[新白雪姫伝説プリーティア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nbcuni.co.jp/rondorobe/anime/pretear/index_set.html |title=キャラクター 万年 MANNEN Night of Ice |access-date=2022-09-10 |publisher=新白雪姫伝説プリーティア 公式ホームページ}}</ref> * 生年不明 - キイチ、漫画・アニメ『[[カーニヴァル (漫画)|カーニヴァル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ichijinsha.co.jp/special/karneval/character/ |title=CHARACTER キイチ |access-date=2022-11-03 |publisher=[[御巫桃也]]/[[一迅社]]・カーニヴァル製作委員会 |work=『カーニヴァル』}}</ref> * 生年不明 - 亀鶴城メアリ、漫画・アニメ『[[武装少女マキャヴェリズム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://machiavellism-anime.jp/character/?mode=meari |title=亀鶴城メアリ |access-date=2022-09-10 |publisher=黒神遊夜・神崎かるな/KADOKAWA/「武装少女マキャヴェリズム」製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 橘涼楓、アニメ『[[BLUE REFLECTION RAY/澪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bluereflection-ray.com/character/chara12/ |title=橘 涼楓 |access-date=2022-11-03 |publisher=コーエーテクモゲームス/AASA |work=『BLUE REFLECTION RAY/澪』}}</ref> * 生年不明 - 間柴勇歩、アニメ『[[リーマンズクラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://rymansclub.com/character/tomari/ |title=トマリ運輸 間柴勇歩 |access-date=2022-09-10 |publisher=Team RMC/サンライトビバレッジ広報部 |work=リーマンズクラブ}}</ref> * 生年不明 - [[イノ (GUILTY GEAR)|イノ]]、ゲーム『[[GUILTY GEARシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=イノ {{!}} キャラクター |url=http://www.ggxrd.com/rev/ac/character/ino.html |website=www.ggxrd.com |accessdate=2022-09-10 |publisher=GUILTY GEAR Xrd REV 2 AC版公式サイト}}</ref> * 生年不明 - ロボ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m11.html |title=住民名簿 11月 ロボ |access-date=2022-09-10 |publisher=[[任天堂]]}}</ref> * 生年不明 - 杜松忍、ゲーム『[[Berry's]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.cuffs-sphere.jp/products/berrys/char/shinobu/ |title=杜松忍 |publisher=[[CUFFS|Sphere]] |accessdate=2022-09-10 |website=Berry's オフィシャルウェブサイト}}</ref> * 生年不明 - シュカ、ゲーム・アニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード|カードファイト!!ヴァンガード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cfvanguard_pr|1331251227854860291}}</ref> * 生年不明 - 川島瑞樹、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20043 |title=川島 瑞樹(かわしま みずき) |access-date=2022-09-10 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#輿水幸子|輿水幸子]]、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20062 |title=輿水 幸子(こしみず さちこ) |access-date=2022-09-10 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 藍夢、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/aimu.php |title=藍夢 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |accessdate=2022-11-03 |work=『閃乱カグラNewWaveGバースト』}}</ref> * 生年不明 - 伊勢谷里都、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130705_186956/ |title=【ガールフレンド(仮)通信74】冷静沈着な騎士道ガール 伊勢谷里都ちゃん |access-date=2022-09-10 |publisher=ファミ通App |date=2013-07-05}}</ref> * 生年不明 - マツリ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1463688921486077952}}</ref> * 生年不明 - 鷹取舞花、ゲーム・アニメ『[[CUE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.cue-liber.jp/character-02 |title=鷹取 舞花 |access-date=2022-09-10 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=CUE!}}</ref> * 生年不明 - 新飯田輝実、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://posweb.jp/pos/character/nagamine/03.html |title=長嶺高校|新飯田輝実 |access-date=2022-09-10 |publisher=プリンス・オブ・ストライド 公式ポータルサイト}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|25 November}} {{新暦365日|11|24|11|26|[[10月25日]]|[[12月25日]]|[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]|1125|11|25}} {{1年の月と日}}
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11月27日
11月27日(じゅういちがつにじゅうしちにち、じゅういちがつにじゅうななにち)は、グレゴリオ暦で年始から331日目(閏年では332日目)にあたり、年末まであと34日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月27日'''(じゅういちがつにじゅうしちにち、じゅういちがつにじゅうななにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から331日目([[閏年]]では332日目)にあたり、年末まであと34日ある。 == できごと == [[File:Seventh Cavalry Charging Black Kettle s Village 1868.jpg|thumb|180x180px|[[ジョージ・アームストロング・カスター]]の第7騎兵隊が[[シャイアン族]]野営地を襲撃(1868)]] [[File:Alfred Nobels will-November 25th, 1895.jpg|thumb|180px|[[アルフレッド・ノーベル]]が遺言書に署名(1895)。翌年死去。]] [[File:Shoda Michiko1958.jpg|thumb|180px|[[ミッチー・ブーム]]到来(1958)。婚約直後の[[上皇后美智子|正田美智子]]]] * [[1095年]] - [[クレルモン教会会議]]の最終日に教皇[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]が[[第1回十字軍]]の実施を宣言。 * [[1868年]] - [[インディアン戦争]]: [[ウォシタ川の戦い]] * [[1895年]] - [[アルフレッド・ノーベル]]が[[ノーベル賞]]設立のもととなる遺言状に署名。 * [[1896年]] - [[リヒャルト・シュトラウス]]の[[交響詩]]『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはこう語った]]』が[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]で初演<ref>{{Cite web |url=https://konomanga.jp/guide/16483-2 |title=11月27日は交響詩『ツァラトゥストラはこう語りき』初演日 |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[宝島社]] |date=27 Nov 2014 |website=このマンガがすごい!WEB}}</ref>。 * [[1919年]] - [[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[ブルガリア]]が第一次世界大戦の講和条約「[[ヌイイ条約]]」に調印。 * [[1931年]] - [[中華ソビエト共和国]]臨時政府(瑞金政府)樹立。 * [[1934年]] - 国有鉄道、陸海軍に入営する現役兵に対し運賃を5割引きとする。 * [[1939年]] - [[岡山市役所]]本庁舎(木造2階建て)が火災に遭い全焼。後日、[[放火]]容疑で[[学校用務員]]が逮捕<ref>「岡山市役所本館を全焼」『合同新聞』1939年11月28日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.58 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[スパルティヴェント岬沖海戦]]。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[トゥーロン]]停泊中の[[ヴィシー政権]]海軍各艦艇が[[ナチス・ドイツ]]による接収を避けるため自沈([[トゥーロン港自沈]])。 * [[1947年]] - [[新潟県]][[高田市]]の[[精神科|精神病院]]で火災が発生。死者20人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=68 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1949年]] - [[長崎県]][[大島町 (長崎県)|大島町]]の松島炭鉱(大島第2坑)でガス爆発が発生。死者7人、負傷者46人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=75 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1952年]] - [[池田勇人]]通産相が衆議院で「中小企業の倒産・自殺もやむを得ない」と発言。翌日、不信任案が提出・可決され、[[11月29日|29日]]に池田が通産相を辞任。 * [[1953年]] - [[釜山駅]]近辺の避難民バラックから出火、釜山駅などを全焼([[釜山大火]])。 * [[1958年]] - [[宮内庁]]が[[皇太子]]・[[上皇明仁|明仁親王]]と[[上皇后美智子|正田美智子]]の[[婚約]]を発表。[[ミッチー・ブーム]]が始まる。 * [[1959年]] - [[オムロン]]、[[近畿日本鉄道]]、[[阪急電鉄]]、[[大阪大学]]が[[IEEE|アメリカ電気電子学会]]の「[[マイルストーン賞]]」を受賞。 * 1959年 - [[近鉄名古屋線]]・[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]の[[狭軌]]から[[標準軌]]への全面改軌が完成すると共に、養老線などを含めて全線復旧。 * 1959年 - [[日本労働組合総評議会]]系の組合員3万人と[[全日本学生自治会総連合]]の学生2万人が[[日米安全保障条約|日米安保条約]]阻止全国統一行動デモを開催。このうち2万人の学生らが[[国会議事堂]]に突入した。この際、警官と学生双方に28人の重傷者、730人の軽傷者が出た<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=140|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1961年]] - 公明政治連盟(後の[[公明党]])が発足。 * [[1966年]] - 福岡で第1回国際マラソン選手権(後の[[福岡国際マラソン]])が開催。 * [[1971年]] - ソ連の[[火星探査機]]「[[マルス2号]]」が[[火星]]に到達。 * [[1973年]] - [[インド]]、[[ムンバイ]]の病院で女性看護師[[アルナ・シャンバグ]]が[[強姦|レイプ]]の被害に遭い、植物状態になる。看護師は以後41年半意識を取り戻さないまま、[[2015年]][[5月18日]]に死去した。 * [[1982年]] - [[第1次中曽根内閣|中曽根康弘内閣]]発足。 * [[1986年]] - [[日本共産党幹部宅盗聴事件]]が発覚。 * [[1994年]] - [[愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件]]が起こる。 * [[1998年]] - [[多摩都市モノレール線]][[立川北駅]]〜[[上北台駅]]間が開業。 * 1998年 - [[セガ]]が家庭用ゲーム機「[[ドリームキャスト]]」を発売。 * [[2005年]] - [[フランス]]で世界初の[[顔面移植]]手術。 * [[2006年]] - [[ジョゼフ・カビラ]]が[[コンゴ民主共和国]]の大統領に選出される。 * [[2009年]] - [[ロシア]]、[[トヴェリ州]][[ボロゴエ]]付近で列車脱線事故、26人死亡<ref>{{Cite web |url=http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/11/28/20091128k0000e030023000c.html |title=ロシア:特急脱線26人死亡 テロ容疑で捜査 |publisher=[[毎日新聞]] |date=28 Nov 2009 |accessdate=11 Oct 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091207024520/http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/11/28/20091128k0000e030023000c.html |archivedate=7 Dec 2009}}</ref>。 * [[2011年]] - [[大阪府]]知事と[[大阪市]]長の2選挙が、40年ぶりに同日投開票<ref>{{Cite web |date=27 Nov 2011 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC27020_X21C11A1000000/ |title=大阪ダブル選 市長に橋下氏、知事に松井氏当確 |accessdate=11 Oct 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。大阪府知事から大阪市長に転身を図った[[橋下徹]]が現職の[[平松邦夫]]を破り、橋下の辞職に伴う府知事選でも[[大阪維新の会]]幹事長の[[松井一郎]]が当選した<ref>{{Cite web|date=28 Nov 2011 |url=http://japanese.joins.com/article/942/145942.html |title=〈日本・大阪ダブル選挙〉橋下の反乱…民主・自民連合軍を斬る(1) |publisher=[[中央日報]] |accessdate=11 Oct 2023 }}</ref>。 * [[2018年]] - (日本時間)[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[火星探査機]][[インサイト (探査機)|インサイト]]が[[火星]]に着陸<ref>{{Cite web |url=https://japanese.engadget.com/2018/11/26/2/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181127193505/https://japanese.engadget.com/2018/11/26/2/ |archivedate=27 Nov 2018 |title=火星探査機インサイト、目的地に到着。赤い大地の内部を調べる2年間のミッション開始 |newspaper=[[Engadget]] |publisher=Oath Japan KK. |date=27 Nov 2018 |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == [[File:Headshot of Anders Celsius.jpg|thumb|205x205px|[[セルシウス度]](摂氏温度、°C)を考案した[[スウェーデン]]の[[天文学者]]、[[アンデルス・セルシウス]](1701-1751)誕生]] {{multiple image | image1 = Foujita.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[エコール・ド・パリ]]の中心的[[画家]]、[[藤田嗣治]](レオナール・フジタ)(1886-1968)誕生 | alt1 = 藤田嗣治 | image2 = Konosuke Matsushita 01.jpg | width2 = 90 | caption2 = 「経営の神様」、[[松下幸之助]](1894-1989)誕生 | alt2 = 松下幸之助 }} {{multiple image | image1 = Bruce Lee 1973.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[ブルース・リー]](1940-1973)誕生 | alt1 = リー | image2 = Jimi Hendrix 1967.png | width2 = 90 | caption2 = [[ジミ・ヘンドリックス]](1942-1970)誕生 | alt2 = ヘンドリックス }} [[File:Choji Murata 19901013.jpg|thumb|180x180px|[[村田兆治]](1949-2022)誕生]] [[File:Tiger_Mask_logo.gif |thumb|180x180px|初代[[タイガーマスク (プロレスラー)|タイガーマスク]][[佐山聡]](1957-)誕生]] {{multiple image | image1 = Caroline Kennedy US State Dept photo.jpg | width1 = 90 | caption1 = 第29代[[駐日アメリカ合衆国大使]]、[[キャロライン・ケネディ]](1957-)誕生 | alt1 = ケネディ | image2 = MTV VMAJ 2014 Tetsuya Komuro (cropped).jpg | width2 = 90 | caption2 = [[ミュージシャン]]、[[小室哲哉]](1958-)誕生 | alt2 = 小室哲哉 }} {{multiple image | image1 = Yulia Tymoshenko November 2009-3cropped.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[ウクライナ]]の[[政治家]]、[[ユーリヤ・ティモシェンコ]](1960-)誕生 | alt1 = ティモシェンコ | image2 = Tadanobu.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[俳優]]、[[浅野忠信]](1973-)誕生 | alt2 = 浅野忠信 }} * [[1684年]]([[貞享]]元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]])- [[徳川吉宗]]、[[江戸幕府]]第8代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1751年]]) * [[1701年]] - [[アンデルス・セルシウス]]、[[物理学者]]、[[セルシウス度]]考案(+ [[1744年]]) * [[1731年]] - [[ガエターノ・プニャーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1798年]]) * [[1876年]] - [[ヴィクトル・カプラン]]、[[カプラン水車]]開発者として知られる[[技術者]](+ [[1934年]]) * 1876年 - [[真崎甚三郎]]、[[陸軍軍人]](+ [[1956年]]) * [[1878年]] - [[チャールズ・ドボラク]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1969年]]) * [[1886年]] - [[藤田嗣治]]、[[画家]](+ [[1968年]]) * [[1887年]] - [[本間雅晴]]、陸軍軍人(+ [[1946年]]) * [[1890年]] - [[豊島与志雄]]、小説家、[[翻訳家]](+ [[1955年]]) * [[1894年]] - [[松下幸之助]]、[[実業家]]、[[パナソニック]]創業者(+ [[1989年]]) * [[1905年]] - [[嵯峨根遼吉]]、[[物理学者]](+ [[1969年]]) * 1905年 - [[郡司次郎正]]、小説家、[[作詞家]](+ [[1973年]]) * [[1908年]] - [[今里広記]]、[[実業家]]、[[財界人]](+ [[1985年]]) * [[1909年]] - [[ジェームズ・エイジー]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[映画批評家]](+ [[1955年]]) * [[1916年]] - [[岡本利之]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1969年]]) * [[1921年]] - [[アレクサンデル・ドゥプチェク]]、[[政治家]](+ [[1992年]]) * [[1928年]] - [[斎藤宏]]、元プロ野球選手 * [[1932年]] - [[ベニグノ・アキノ・ジュニア|ベニグノ・アキノ]]、[[元老院 (フィリピン)|フィリピン上院]]議員(+ [[1983年]]) * [[1935年]] - アル・ジャクソン ([[:en:Al Jackson, Jr.|Al Jackson, Jr.]])、[[ドラマー]]([[ブッカー・T&ザ・MG's]])(+ [[1975年]]) * 1935年 - [[ルーキー新一]]、[[コメディアン]](+ [[1980年]]) * [[1936年]] - [[村田康一]]、元プロ野球選手、元審判 * [[1940年]] - [[ブルース・リー]]、[[俳優]]、[[武道家]]、[[截拳道]]の創始者(+ [[1973年]]) * [[1941年]] - [[久保祥次]]、元プロ野球選手 * 1941年 - [[エメ・ジャケ]]、元[[サッカーフランス代表]]監督 * [[1942年]] - [[ジミ・ヘンドリックス]]、[[ギタリスト]](+ [[1970年]]) * [[1943年]] - [[小林哲也 (近畿日本鉄道)|小林哲也]]、実業家、[[近鉄グループホールディングス]]会長、[[近畿日本鉄道]]会長、15代社長 * 1943年 - [[白仁天]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[川内八洲男]]、元プロ野球選手(+ [[2014年]]) * 1945年 - [[ランディ・ブレッカー]]、ジャズ・トランペット奏者 * [[1946年]] - [[立原あゆみ]]、[[漫画家]] * [[1949年]] - [[村田兆治]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]]) * 1949年 - [[関谷正徳]]、レーサー * [[1950年]] - [[真木ひでと]]、[[歌手]] * 1950年 - [[グラン浜田]]、元[[プロレスラー]] * 1950年 - [[岩合光昭]]、[[写真家]] * [[1951年]] - [[ヒロ寺平]]、[[ラジオ]][[DJ]] * [[1953年]] - [[金沢碧]]、[[俳優|女優]] * 1953年 - [[ライル・メイズ]]、ジャズピアニスト([[パット・メセニー・グループ]])(+ [[2020年]]) * [[1954年]] - [[菅賢治]]、[[テレビプロデューサー]] * [[1955年]] - [[菅沼栄一郎]]、[[朝日新聞]]記者 * [[1956年]] - [[笹木竜三]]、政治家(+ [[2022年]]) * [[1957年]] - [[石原恒和]]、[[ゲームクリエイター]] * 1957年 - [[キャロライン・ケネディ]]、弁護士、第29代駐日大使 * 1957年 - [[中井貴惠]]、女優、[[エッセイスト]] * 1957年 - [[佐山聡]]、[[プロレスラー]] * [[1958年]] - [[小室哲哉]]、ミュージシャン、音楽プロデューサー([[TM NETWORK]]) * 1958年 - [[マイク・ソーシア]]、元プロ野球選手、監督 * [[1959年]] - [[ヴィクトリア・ムローヴァ]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1959年 - [[大西雅也]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]] * 1959年 - [[チャーリー・バーチル]]、ミュージシャン * [[1960年]] - [[秋山真人]]、[[超能力]]研究家 * 1960年 - [[ユーリヤ・ティモシェンコ]]、[[ウクライナ]]首相 * 1960年 - [[マリア・シュナイダー]]、作曲家、編曲家 * 1960年 - [[ステファン・フレイス]]、俳優 * [[1961年]] - [[金秀吉]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] * [[1962年]] - [[白石まるみ]]、女優、[[タレント]] * 1962年 - [[沢田和美]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優 * [[1964年]] - [[ロベルト・マンチーニ]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]監督 * 1964年 - [[杉田かおる]]、女優、タレント * 1964年 - [[二村ヒトシ]]、[[AV監督]] * [[1965年]] - [[ジャッキー・テラソン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]] * [[1968年]] - [[濱田智之]]、作詞家、作曲家 * [[1969年]] - [[チン・ハン (シンガポールの俳優)|チン・ハン]]、俳優 * [[1970年]] - [[セイン・カミュ]]、タレント * 1970年 - [[ヤン・ジョンファ]]、[[声優]] * [[1971年]] - [[小野妃香里]]、女優 * [[1973年]] - [[浅野忠信]]、俳優 * 1973年 - [[片桐仁]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]、俳優([[ラーメンズ]]) * 1973年 - [[トゥイスタ]]、ラッパー * 1973年 - [[西寺郷太]]、ミュージシャン * 1973年 - [[シャールト・コプリー]]、俳優 * 1973年 - [[ジェイソン・ベバリン]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[ケニー・レイ]]、プロ野球選手 * 1974年 - 永積タカシ、ミュージシャン([[ハナレグミ]]、元[[SUPER BUTTER DOG]]) * [[1975年]] - [[安藤武博]]、ゲームクリエイター * [[1977年]] - [[ラウル・バルデス]]、プロ野球選手 * [[1978年]] - [[ジミー・ロリンズ]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[ジョシュ・ブルー]]、[[コメディアン]] * [[1979年]] - [[岩ちゃん]]、お笑い芸人 * 1979年 - [[小野智子]]、元女優 * 1979年 - [[曾豪駒]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[ヒラリー・ハーン]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1979年 - [[ブレンダン・ヘイウッド]]、プロバスケットボール選手 * 1979年 - [[テーム・タイニオ]]、元サッカー選手 * [[1981年]] - [[江川有未]]、元女優、元タレント * 1981年 - [[ナターシャ・ワトリー]]、ソフトボール選手 * [[1982年]] - [[アレクサンドル・ケルジャコフ]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)|田中達也]]、サッカー選手 * 1982年 - [[ダヴィド・ベリオン]]、元サッカー選手 * [[1984年]] - [[尼川元気]]、ミュージシャン([[flumpool]]) * 1984年 - [[橘田いずみ]]、声優 * 1984年 - [[山川智也]]、ラジオパーソナリティ * 1984年 - 吉安邦英、元お笑い芸人(元[[メルヘン倶楽部]]) * [[1985年]] - [[安西あき]]、[[AV女優]] * 1985年 - [[杉谷遥果]]、シンガーソングライター * 1985年 - [[アリソン・ピル]]、女優 * [[1986年]] - [[橘未来]]、元[[グラビアアイドル]] * 1986年 - [[長野美郷]]、タレント、お天気キャスター * [[1987年]] - [[芳賀優里亜]]、女優、[[ファッションモデル]] * 1987年 - 上野あいみ、お笑い芸人(元[[すっとんきょ]]) * 1987年 - [[ティアラ (ファッションモデル)|ティアラ]]、ファッションモデル * 1987年 - [[松井淳 (外野手)|松井淳]]、元プロ野球選手 * [[1989年]] - [[植松優友]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[中井大介]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[フレディ・シアーズ]]、サッカー選手 * 1989年 - [[ラブリ]]、ファッションモデル、タレント * [[1990年]] - [[飯田優也]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[宮﨑駿 (野球)|宮﨑駿]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[栗原みさ]]、グラビアアイドル * 1990年 - [[大迫希]]、サッカー選手 * [[1992年]] - [[チャンヨル]] 、歌手([[EXO]]) * [[1993年]] - [[阿部亮平 (アイドル)|阿部亮平]]、アイドル([[Snow Man]]) * 1993年 - [[オーブリー・ピープルズ]]、女優 * [[1996年]] - [[中尾暢樹]]、俳優([[D-BOYS]]) * [[1997年]] - [[松島聡]]<ref>{{Cite web |title=松島聡 |publisher=[[ORICON NEWS]] |url=https://www.oricon.co.jp/prof/669921/ |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>、アイドル、歌手([[Sexy Zone]]) * [[1998年]] - [[城恵理子]]、タレント、元アイドル(元[[NMB48]]) * 1998年 - [[五十幡亮汰]]、プロ野球選手 * [[2005年]] - [[清水恵子 (アイドル)|清水恵子]]、アイドル([[ME:I]]) * [[2009年]] - [[堰沢結愛]]、女優 * 生年不明 - [[小栗さくら]]、タレント、声優 * 生年不明 - [[日向葵 (声優)|日向葵]]、声優 == 忌日 == {{multiple image | image1 = François-Louis Dejuinne (1786-1844) - Clovis roi des Francs (465-511).jpg | width1 = 90 | caption1 = [[メロヴィング朝]][[フランク王国]]初代[[フランク王の一覧|国王]][[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]](466-511)没。[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で戴冠し、[[パリ]]を都とした最初の王。 | alt1 = クローヴィス1世 | image2 = DufayBinchois.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[ルネサンス音楽|ルネサンス期]]の[[音楽家]][[ギヨーム・デュファイ]](左)(1400頃-1434)没 | alt2 = ギヨーム・デュファイ }} {{multiple image | image1 = Arthur Honegger 1921.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[フランス6人組]]の1人[[作曲家]][[アルテュール・オネゲル]](1892-1955)没 | alt1 = アルテュール・オネゲル | image2 = Milk at Moscone desk cropped.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[ゲイ]]の権利活動家であった[[サンフランシスコ]]市議員[[ハーヴェイ・ミルク]] (1930-1978)、反対派によって殺害される。 | alt2 = ハーヴェイ・ミルク }} * [[紀元前8年]] - [[ホラティウス]]、[[詩人]](* [[紀元前65年]]) * [[450年]] - [[ガッラ・プラキディア]]、[[ローマ帝国|ローマ]]の皇族(* [[390年]]頃) * [[511年]] - [[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]、[[フランク王国|フランク王]](* [[466年]]) * [[835年]] - [[ムハンマド・タキー]]、[[シーア派]][[12イマーム派]]の[[イマーム]](* [[811年]]) * [[1002年]]([[長保]]4年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]])- [[慶滋保胤]]、[[平安時代]]の[[文人]](* [[931年]]頃) * [[1198年]] - [[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]、[[シチリア王国|シチリア女王]](* [[1154年]]?) * [[1494年]] - [[ギヨーム・デュファイ]]、[[作曲家]](* [[1400年]]頃) * [[1570年]] - [[ヤーコポ・サンソヴィーノ]]、[[建築家]](* [[1486年]]) * [[1592年]]([[文禄]]4年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]])- [[中川秀政]]、[[武将|戦国武将]](* [[1568年]]) * [[1680年]] - [[アタナシウス・キルヒャー]]、[[博学者]](* [[1602年]]) * [[1714年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年10月21日)- [[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]、日本に潜入した[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](* [[1668年]]) * [[1754年]] - [[アブラーム・ド・モアブル]]、[[数学者]](* [[1667年]]) * [[1769年]]([[明和]]6年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]])- [[賀茂真淵]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://mabuchi-kinenkan.jp/history/index.html |title=賀茂真淵について |publisher=一般社団法人浜松史蹟調査顕彰会 |accessdate=11 Oct 2023 |website=賀茂真淵記念館}}</ref>、[[国学者]](* [[1697年]]) * [[1785年]]([[天明]]5年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]])- [[細川重賢]]、第8代[[肥後国|肥後]][[熊本藩|熊本藩主]](* [[1721年]]) * [[1852年]] - [[エイダ・ラブレス]]、世界最初の[[プログラマ]](* [[1815年]]) * [[1875年]] - [[リチャード・キャリントン]]、[[天文学者]](* [[1826年]]) * [[1884年]] - [[ファニー・エルスラー]]、[[バレリーナ|バレエダンサー]](* [[1810年]]) * [[1888年]] - [[大河内信古]]、第7代[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]主、[[大坂城代]](* [[1829年]]) * [[1895年]] - [[アレクサンドル・デュマ (フィス)|アレクサンドル・デュマ]]、[[劇作家]](* [[1824年]]) * [[1908年]] - [[アルベール・ゴードリー]]、[[地質学者|地質学]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1827年]]) * [[1916年]] - [[エミール・ヴェルハーレン]]、詩人(* [[1855年]]) * [[1934年]] - [[ベビーフェイス・ネルソン]]、[[ギャング]](* [[1908年]]) * [[1943年]] - [[池田不二男]]、音楽ディレクター、[[作曲家]](* [[1905年]]) * [[1945年]] - [[平生釟三郎]]、[[文部大臣]]、[[実業家]](* [[1866年]]) * [[1953年]] - [[ユージン・オニール]]、劇作家(* [[1888年]]) * [[1955年]] - [[アルテュール・オネゲル]]、作曲家(* [[1892年]]) * [[1958年]] - [[アルトゥール・ロジンスキ]]、[[指揮者]](* 1892年) * [[1961年]] - [[津村謙]]、[[歌手]](* [[1923年]]) * [[1978年]] - [[ハーヴェイ・ミルク]]、[[ゲイ]]の権利活動家(* [[1930年]]) * [[1981年]] - [[ロッテ・レーニャ]]、歌手、[[俳優|女優]](* [[1898年]]) * [[1985年]] - [[フェルナン・ブローデル]]、[[歴史学者]](* [[1902年]]) * [[1987年]] - [[灰山元治]]、元[[プロ野球選手]](* [[1912年]]) * [[1988年]] - [[ジョン・キャラダイン]]、俳優(* [[1906年]]) * [[1991年]] - [[ヴィレム・フルッサー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1920年]]) * 1991年 - [[吉村よう]]、[[声優]](* [[1954年]]) * 1991年 - [[ハリー・スミス (芸術家)|ハリー・スミス]]、[[芸術家]](* [[1923年]]) * [[1994年]] - [[フェルナンド・ロペス=グラサ]]、作曲家(* [[1906年]]) * [[1997年]] - [[バック・レナード]]、[[野球選手]](* [[1907年]]) * [[1998年]] - [[三輪田勝利]]、元プロ野球選手、[[プロ野球]][[スカウト (勧誘)|スカウト]](* [[1945年]]) * [[1999年]] - [[ヒロ・マツダ]]、[[プロレスラー]](* [[1937年]]) * [[2000年]] - [[吉村公三郎]]、[[映画監督]](* [[1911年]]) * [[2002年]] - [[ヴォルフガング・プライス]]、俳優(* [[1910年]]) * 2002年 - [[大庭脩]]、[[歴史学者]](* [[1927年]]) * 2002年 - [[スタンリー・ブラック]]、[[音楽家]](* [[1913年]]) * [[2003年]] - [[都筑道夫]]、[[推理作家]](* [[1929年]]) * 2003年 - [[相川浩]]、[[フリーアナウンサー]]、[[大学教授]](* [[1933年]]) * [[2005年]] - [[フランツ・シェーンフーバー]]、[[ネオナチ]]指導者(* [[1923年]]) * 2005年 - [[岩村昇]]、元[[神戸大学]][[医学部]]教授(* [[1927年]]) * 2006年 - [[宮内國郎]]、[[作曲家]](* [[1932年]]) * [[2007年]] - [[ロバート・ケード]]、[[ゲータレード]]開発者(* [[1927年]]) * [[2008年]] - [[俵萌子]]、[[評論家]](* [[1930年]]) * [[2009年]] - [[根来広光]]、元プロ野球選手(* [[1936年]]) * [[2011年]] - [[ガリー・スピード]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者(* [[1969年]]) * [[2012年]] - [[マービン・ミラー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/sport/2012/nov/29/marvin-miller |title=Marvin Miller obituary |accessdate=11 Oct 2023 |date=29 Nov 2012 |publisher=Guardian News & Media Limited or its affiliated companies. |website=The guardian}}</ref>、MLB選手会会長(* [[1917年]]) * [[2013年]] - [[ニウトン・サントス]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/f-sc-tp3-20131128-1224445.html |title=ニウトンサントス氏死去 ペレらと黄金時代 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=28 Nov 2013 |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>、元サッカー選手(* [[1925年]]) * 2013年 - [[三重野栄子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2704W_X21C13A1CC1000/ |title=三重野栄子さんが死去 元参院議員 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Nov 2013 |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>、政治家(* [[1926年]]) * [[2014年]] - [[P・D・ジェイムズ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3032931 |title=英推理作家P・D・ジェイムズさん死去、94歳 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=28 Nov 2014 |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>、[[推理作家]](* [[1920年]]) * [[2017年]] - [[諸熊奎治]]、[[理論化学|理論化学者]](* [[1934年]]) * [[2018年]] - [[辻村真人]]<ref name="sankei">{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20181129-R4VV5LNKJRO4PAS2OFKADH4WNE/ |title=声優の辻村真人氏死去 「忍たま乱太郎」初代学園長 |accessdate=11 Oct 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=29 Nov 2018}}</ref>、声優(* [[1930年]]) * [[2019年]] - [[田中達夫]]、元プロ野球選手(* [[1927年]]) * 2019年 - [[中野三敏]]、文学者、[[九州大学]]名誉教授(* 1935年) * [[2020年]] - [[一峰大二]]<ref>{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20201215-OYT1T50198/ |title=漫画家の一峰大二氏が死去、84歳…「スペクトルマン」「黒い秘密兵器」 |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[讀賣新聞]]オンライン |date=15 Dec 2020}}</ref>、[[漫画家]](* [[1935年]]) * 2020年 - [[船場太郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202011270001051.html |title=船場太郎さん死去 吉本新喜劇で活躍、市議24年 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=27 Nov 2020 |accessdate=11 Oct 2023}}</ref>、[[コメディアン]]、政治家(* [[1939年]]) * [[2021年]] - 中村貴之、歌手、ギタリスト([[NSP (バンド)|NSP]])(* [[1953年]]) * [[2022年]] - [[崔洋一]]、映画監督、[[脚本家]]、俳優(* [[1949年]]) == 記念日・年中行事 == * 更生保護記念日({{JPN}}) *: [[1952年]]11月27日、東京・日比谷で開かれた更生保護大会において、同大会を記念して「司法保護記念日」([[9月13日]])と「少年保護デー」([[4月17日]])を統合して制定。 *いい[[鮒]]の日({{JPN}}) *:「い(1)い(1)ふ(2)な(7)」の語呂合わせ。[[茨城県]]の古河鮒甘露煮組合が制定。 * あいち県民の日({{JPN}}) *: [[1872年|明治5年(1872年)]][[11月27日 (旧暦)|11月27日]]に当時の[[愛知県]]と[[額田県]]が合併し現在の愛知県県域が確定したことにちなみ、2022年12月23日に制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://aichiday1127.jp/#about |title=「あいち県民の日」とは |access-date=27 Nov 2023 |publisher=あいち県民の日啓発推進事業運営事務局}}</ref>。 * [[ノーベル賞]]制定記念日 *: [[1895年]]11月27日にスウェーデンの化学者[[アルフレッド・ノーベル]]が、自分がダイナマイトで得た財産を人類の平和に寄付するという遺言状を書いたことに由来。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1127|date=Oct 2023}} * 1937年(昭和12年)- [[金田一耕助]]が[[伯備線]]清―駅で下車。川-村の方に向かう。(小説『[[本陣殺人事件]]』) * 1973年 - フォックス・モルダー(当時12歳)の目の前で妹のサマンサがエイリアンに誘拐される。(『[[X-ファイル]]』<ref>Director: Rob Bowman; Writer: Vince Gilligan (15 December 1996). "Paper Hearts". The X-Files. Season 4. Episode 10. Fox.</ref>) === 誕生日(フィクション) === * [[1987年]] - 花家大我、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダーエグゼイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tv-asahi.co.jp/reading/ex-aid/date/2016/11/27/ |title=ガシャットを奪う理由があるんです。この先をお楽しみに! |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[テレビ朝日]] |date=27 Nov 2016 |work=『仮面ライダーエグゼイド』キャストブログ}}</ref> * [[1998年]] - ドリームキャスト、メディアミックス『[[セガ・ハード・ガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター ドリームキャスト |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『セガ ハード・ガールズ』}}</ref> * 1998年 - ビジュアルメモリ、メディアミックス『セガ・ハード・ガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター ビジュアルメモリ |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『セガ ハード・ガールズ』}}</ref> * [[2003年]] - 藤川紡、漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=紡ぐ乙女と大正の月 1|date=2020-06-26|publisher=[[芳文社]]|page=2|isbn=978-4832271999|author=ちうね}}</ref> *2121年 - ケイ、小説・アニメ『[[ダーティペア]]』の主人公<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1464443866887725058}}</ref> *生年不明 - [[平沢唯]]、漫画・アニメ『[[けいおん!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/k-on/k-on_tv/news/news1610.html |title=平沢唯バースデー当日お祝い用グッズ&ケーキが登場! |access-date=11 Oct 2023 |publisher=かきふらい・[[芳文社]]/桜高軽音部 [[TBSテレビ|TBS]] |date=2016-10-04 |work=『けいおん!』}}</ref> *生年不明 - [[ロック・リー]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873288-X|page=133}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=165|ISBN=4-08-873734-2}}</ref> *生年不明 - 別役太一、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1199343322583560194}}</ref> *生年不明 - 大門山ツラヌキ、アニメ『[[新幹線変形ロボ シンカリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shinkalion|1596639943928840195}}</ref> *生年不明 - 前原純華、アニメ『[[Extreme Hearts]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://exhearts.com/character/sumika.html |title=前原純華 |access-date=11 Oct 2023 |publisher=PROJECT ExH |work=『Extreme Hearts』}}</ref> * 生年不明 - 草薙柴舟、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1067070474784522240}}</ref> * 生年不明 - 柊かぐや、ゲーム『[[アッチむいて恋]]』に登場するキャラクター<ref>『[[PUSH!!]]』2010年1月号、[[マックス (出版社)|マックス]]、83頁。</ref> * 生年不明 - 白鳥藍良、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/shiratori_aira/ |title=白鳥 藍良 |accessdate=11 Oct 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref> * 生年不明 - レナ(深見玲奈)、ゲーム・アニメ『[[グリザイアシリーズ|グリザイア:ファントムトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://grisaia-pt.com/gptanime/character |title=レナ 深見玲奈 |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[フロントウイング|Frontwing]] |work=『グリザイア:ファントムトリガー THE ANIMATION』}}</ref> * 生年不明 - 日高さおり、ゲーム・アニメ『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/hidaka-saori/ |title=日高さおり |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[ブシロード|bushiroad]] [[DONUTS (企業)|DONUTS Co. Ltd.]] |work=『D4DJ Groovy Mix』}}</ref> * 生年不明 - 阿慈谷ヒフミ、ゲーム『[[ブルーアーカイブ -Blue Archive-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://bluearchive.jp/character |title=トリニティ総合学園 ヒフミ |access-date=11 Oct 2023 |publisher=[[ネクソン|NEXON Games Co., Ltd.]] [[Yostar|Yostar Inc.]] |work=『ブルーアーカイブ -Blue Archive-(ブルアカ)』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|27 November}} {{新暦365日|11|26|11|28|[[10月27日]]|[[12月27日]]|[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]|1127|11|27}} {{1年の月と日}}
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11月28日
11月28日(じゅういちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から332日目(閏年では333日目)にあたり、年末まであと33日ある。
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{{カレンダー 11月}} '''11月28日'''(じゅういちがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から332日目([[閏年]]では333日目)にあたり、年末まであと33日ある。 == できごと == [[File:Beethoven Mähler 1815.jpg|thumb|228x228px|[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番]]「皇帝」が初演(1811)]] [[File:Rokumeikan.jpg|thumb|180x180px|[[鹿鳴館]]開館(1883)]] [[File:Metropolitan Expressway 3 Youga.jpg|thumb|180x180px|[[危険運転致死傷罪]]成立の契機となった[[東名高速飲酒運転事故]](1999)。事件現場の[[首都高速3号渋谷線]][[用賀本線料金所]]]] * [[1520年]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]が[[太平洋]]に到達。 * [[1660年]] - [[王立協会]]創設。 * [[1811年]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番]]『皇帝』が初演<ref>{{Cite web |url=https://ontomo-mag.com/article/playlist/oyasumi243-20200814/ |title=「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調《皇帝》第2、3楽章」——協奏曲の醍醐味カデンツァをなくし作品に統一感を |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[音楽之友社]] |date=14 Aug 2020}}</ref>。 * [[1821年]] - [[パナマ]]が[[スペイン]]から独立し、[[大コロンビア]]に加入。 * [[1843年]] - [[ハワイ王国]]がイギリスとフランスから公式に独立国として[[国家の承認|承認]]される。 * [[1880年]] - [[北海道]]初の鉄道である[[官営幌内鉄道]]手宮~札幌間が開業。 * [[1883年]] - 東京・麹町に日本初の洋式社交クラブ[[鹿鳴館]]が開館<ref>{{Twitter status|jpsearch_go|1597128844888412160}}</ref>。 * [[1896年]] - [[日本歯科医師会|日本歯科医会]]設立<ref>{{Cite web |url=https://www.tdc.ac.jp/chiwaki/08taka_shoden.html |title=高山紀齋小伝/8.歯科界の功労者 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[東京歯科大学]]}}</ref>。 * [[1905年]] - [[アーサー・グリフィス]]らが[[シン・フェイン党]]を創設。 * [[1906年]] - [[伊豆箱根鉄道軌道線|駿豆電気鉄道]]が、沼津停車場前〜三島六反田間で開業。1957年(昭和32年)に伊豆箱根鉄道となるが、1963年(昭和38年)[[2月4日]]に軌道線を全線廃止。 * [[1912年]] - [[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア]]が[[オスマン帝国]]からの独立を宣言。 * [[1924年]] - [[孫文]]が[[神戸市|神戸]]で[[大アジア主義講演]]を行う。 * [[1928年]] - [[高柳健次郎]]がブラウン管受像方式[[テレビ受像機|テレビ]]の公開実験。 * [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[テヘラン会談]]。 * [[1947年]] - [[日本民営鉄道協会|私鉄経営者連盟]]結成。 * [[1951年]] - [[神奈川県]][[小田原市]]で火災。市街地321戸が全焼<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=84 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1956年]] - [[大韓民国|韓国]][[外交部 (大韓民国)|外務部]]長官代理{{仮リンク|曺正煥|ko|조정환 (1892년)}}が[[ソウル特別市|ソウル]]で[[アメリカ合衆国|米]]駐韓大使{{仮リンク|ウォルター・C・ダウリング|en|Walter C. Dowling}}と米韓友好通商航海条約を締結する。 * [[1959年]] - アメリカでテレビドラマ『[[ローハイド]]』が放送開始。 * [[1960年]] - [[モーリタニア]]が[[フランス]]から独立。 * [[1964年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[マリナー4号]]」が打ち上げ。 * [[1969年]] - [[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]: コミッショナー委員会が[[永易将之]]を日本プロ野球初の永久追放処分とする。 * [[1971年]] - [[上越新幹線]]・[[東北新幹線]]の起工式。 * [[1972年]] - [[日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故]] * [[1975年]] - [[東ティモール]]が[[ポルトガル]]からの独立を宣言。 * [[1979年]] - [[ニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故]]。257名全員死亡。 * [[1983年]] - [[衆議院解散]]([[田中判決解散]])。 * [[1987年]] - [[南アフリカ航空295便墜落事故]]。159名全員死亡。 * [[1988年]] - 国立大学女性教授通称使用を求める訴訟、東京地裁(1993年敗訴、1998年東京高裁で和解)。選択的[[夫婦別姓]]運動の先駆け。 * [[1990年]] - [[ジョン・メージャー]]が[[イギリスの首相]]に就任。 * [[1991年]] - [[南オセチア]]が[[グルジア]]からの独立を宣言。 * 1991年 - [[創価学会]]が[[日蓮正宗]]から破門される(C作戦・魂の独立記念日)。 * [[1994年]] - [[ノルウェー]]の[[欧州連合|EU]]加盟が、国民投票の結果[[1972年]]に続き否決される。 * [[1997年]] - [[宇宙開発事業団]]がドッキング技術試験衛星「[[きく7号]]」、[[熱帯降雨観測衛星]]「TRMM」を打上げ。 * [[1999年]] - [[東名高速飲酒運転事故]]が発生。 * [[2000年]] - [[岩手県]][[二戸市]]で[[飲酒運転]]の運転手による[[軽トラック|車]]が[[小学生]]の列に激突。2人が死亡、6人が怪我を負った<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211222/k10013398381000.html |title=もしもサンタさんがいるなら |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=3 Oct 2023 |date=22 Dec 2021}}</ref>。 * [[2013年]] - [[広島高等裁判所岡山支部]]で一票の格差最大4.77倍という状態で[[第23回参議院議員通常選挙]]を初めて違憲かつ無効であるとの判決を下す。 * [[2016年]] - [[ラミア航空2933便墜落事故]]が発生<ref>{{Cite web |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-11-29/OHE7HV6JTSEJ01 |title=ブラジルのサッカー選手ら乗せた航空機、コロンビアで墜落-75人死亡 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |date=29 Nov 2016}}</ref>。 * [[2017年]] - [[北海道]][[渡島小島]]に不審船が停泊していることを[[北海道警察]]のヘリコプターが確認。以後、島内の施設破壊、窃盗行為が明らかになった。 == 誕生日 == [[File:清 佚名 《清太宗崇德皇帝朝服像》.jpg|thumb|324x324px|[[清]]の第2代皇帝、 [[ホンタイジ]](1592-1643)誕生]] {{multiple image | footer = [[ウィリアム・ブレイク]](1757-1827)誕生。右は『無垢と経験の歌』(1826) | image1 = William Blake by Thomas Phillips.jpg | width1 = 100 | alt1 = ブレイク | image2 = Blake sie cover.jpg | width2 = 80 | alt2 = 無垢と経験の歌 }} {{multiple image | image1 = Friedrich Engels-1840-cropped.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[フリードリヒ・エンゲルス]](1820-1895)誕生 | alt1 = エンゲルス | image2 = Terada Torahiko in 1935.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[物理学者]]、[[随筆家]][[寺田寅彦]](1878-1935)誕生 | alt2 = 寺田寅彦 }} [[File:Chiyo Uno.jpg|thumb|286x286px|[[小説家]]、 [[宇野千代]](1897-1996)誕生]] [[File:Levi-strauss 260.jpg|thumb|180x180px|現代[[構造主義]]の開祖、 [[クロード・レヴィ=ストロース]](1908-2009)誕生]] [[File:Prince Masahito cropped 2 Prince Masahito Prince Albert II Princess Hanako and Yukiya Amano 20100713.jpg|thumb|262x262px|[[常陸宮正仁親王]](1935-)誕生]] {{multiple image | image1 = Toei Uzumasa-0394.jpg | width1 = 84 | caption1 = [[里見浩太朗]](1936-)誕生 | alt1 = 里見浩太朗 | image2 = Ken Matsudaira - 2016 Hikawa-jinja, Akasaka (cropped).jpg | width2 = 96 | caption2 = [[松平健]](1953-)誕生 | alt2 = 松平健 }} [[File:Renho Minshu 20130714.jpg|thumb|240x240px|[[蓮舫]](1967-)誕生]] * [[1563年]]([[永禄]]6年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[細川忠興]]、[[小倉藩]]の初代藩主(+ [[1646年]]{{Sfn|永尾|p=178}}) * [[1592年]]([[万暦]]20年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[ホンタイジ]]<ref>{{Cite web |title=Abahai|Manchurian leader |url=https://www.britannica.com/biography/Abahai |access-date=3 Oct 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[清]]の第2代皇帝(+ [[1643年]]) * [[1628年]] - [[ジョン・バニヤン]]、[[教役者]]、[[文学者]](+ [[1688年]]) * [[1632年]] - [[ジャン=バティスト・リュリ]]、[[作曲家]](+ [[1687年]]) * [[1659年]]([[万治]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[小出英利]]、[[園部藩]]の第3藩主(+ [[1713年]]) * [[1673年]]([[延宝]]元年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[松平忠雄]]、[[島原藩]]の第2藩主(+ [[1736年]]) * [[1754年]]([[宝暦]]4年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[黒田長恵]]、[[秋月藩]]の第6藩主(+ [[1774年]]) * [[1757年]] - [[ウィリアム・ブレイク]]、[[画家]]、[[詩人]]、[[銅版画]]職人(+ [[1827年]]) * [[1810年]] - [[ウィリアム・フルード]]、[[技術者]]、[[水力学]]者、[[船舶工学]]者(+ [[1879年]]) * [[1820年]] - [[フリードリヒ・エンゲルス]]、[[経済学者]](+ [[1895年]]) * [[1823年]]([[文政]]6年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[阿部正定]]、[[白河藩]]の第5藩主(+ [[1848年]]) * [[1829年]] - [[アントン・ルビンシテイン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1894年]]) * [[1868年]] - [[フランティシェク・ドルドラ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1944年]]) * [[1878年]] - [[寺田寅彦]]、[[物理学者]](+ [[1935年]]) * [[1881年]] - [[シュテファン・ツヴァイク]]、[[小説家]]、[[評論家]](+ [[1942年]]) * [[1889年]] - [[伊沢蘭奢]]、[[俳優|女優]](+ [[1928年]]) * [[1897年]] - [[宇野千代]]、小説家(+ [[1996年]]) * [[1908年]] - [[クロード・レヴィ=ストロース]]、[[社会人類学|社会人類学者]]、[[思想家]](+ [[2009年]]) * [[1915年]] - [[梅園龍子]]、女優(+ [[1993年]]) * [[1919年]] - [[井筒研一]]、[[プロ野球選手]](+ [[1992年]]) * [[1920年]] - [[セシリア・カレッジ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2008年]]) * [[1922年]] - [[ウェス・ウエストラム]]、プロ野球選手(+ [[2002年]]) * [[1926年]] - [[原田清]]、元プロ野球選手 * [[1927年]] - [[三宅進]]、実業家、婦人之友社元社長 * [[1928年]] - [[ピノ・ランチェッティ]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2007年]]) * [[1929年]] - [[向田邦子]]、小説家(+ [[1981年]]) * 1929年 - [[上田誠也]]、[[地球物理学|地球物理学者]](+ [[2023年]]) * 1929年 - [[石原照夫]]、プロ野球選手(+ [[2006年]]) * [[1930年]] - [[大崎昭夫]]、プロ野球選手(+ [[2015年]]) * [[1932年]] - [[服部武夫]]、元プロ野球選手 * [[1935年]] - [[常陸宮正仁親王]]、[[皇族]] * 1935年 - [[城卓矢]]、[[歌手]](+ [[1989年]]) * [[1936年]] - [[里見浩太朗]]、[[俳優]] * [[1938年]] - [[岡野義光]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[鴻池祥肇]]、政治家(+ [[2018年]]) * [[1941年]] - [[明石勇]]、[[アナウンサー]] * 1941年 - [[大坂雅彦]]、元プロ野球選手 * [[1942年]] - [[マノロ・ブラニク]]、ファッションデザイナー * [[1943年]] - [[ランディ・ニューマン]]、[[シンガーソングライター]] * [[1944年]] - [[福井威夫]]、実業家、[[本田技研工業]][[代表取締役]]社長 * [[1945年]] - [[中曽根弘文]]、政治家 * [[1946年]] - [[二宮和弘]]、柔道家 <!-- 出典が不明 * [[1946年]] - [[李保田]]、俳優 --> * [[1947年]] - [[渡辺篤史]]、俳優 * 1947年 - [[藤本和宏]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[名木田恵子]]、児童文学作家 * 1949年 - [[アレクサンダー・ゴドノフ]]、[[バレエ]]ダンサー、俳優(+ [[1995年]]) * [[1950年]] - [[エド・ハリス]]、俳優 * 1950年 - [[与那城ジョージ]]、[[サッカー選手]]・指導者 * 1950年 - [[大口広司]]、[[ドラマー]]([[ザ・テンプターズ]])(+ [[2009年]]) * [[1951年]] - [[あべ静江]]、歌手、女優 * 1951年 - [[ロック岩崎]]、プロ[[エアショー]][[パイロット (航空)|パイロット]](+ [[2005年]]) * 1951年 - [[青山一也]]、俳優 * [[1952年]] - [[ロルフ・エステルライヒ]]、フィギュアスケート選手 * [[1953年]] - [[大貫妙子]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1953年 - [[松平健]]、俳優 * 1953年 - [[八木茂]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[馬淵史郎]]、高校野球指導者、[[明徳義塾高等学校]]野球部監督 * [[1957年]] - [[松木安太郎]]、元サッカー選手、指導者 * 1957年 - [[樋口泰行]]、実業家 * 1957年 - [[古口哲]]、ボクサー * [[1958年]] - [[新藤栄作]]、俳優 * 1958年 - [[広岡瞬]]、俳優 * 1958年 - [[木原彰彦]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[松原みき]]、[[シンガーソングライター]](+ [[2004年]]) * 1959年 - [[井上敏樹]]、[[脚本家]] * [[1960年]] - [[ジョン・ガリアーノ]]、ファッションデザイナー * [[1961年]] - [[小木茂光]]、俳優 * 1961年 - [[福田洋也]]、ギタリスト * 1961年 - [[アルフォンソ・キュアロン]]、映画監督 * [[1962年]] - [[マット・キャメロン]]、ミュージシャン([[パール・ジャム]]) * [[1963年]] - [[清水信明]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[ウォルト・ワイス]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]] * [[1965年]] - [[風間ルミ]]、[[シュートボクシング|シュートボクサー]]、タレント(+ [[2021年]]) * 1965年 - [[菊池均也]]、俳優 * 1965年 - [[太田貴]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[安田成美]]、女優 * 1966年 - [[吉田剛]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[原田知世]]、歌手、女優 * 1967年 - [[蓮舫]]、政治家、元タレント * 1967年 - [[アンナ・ニコル・スミス]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優(+ [[2007年]]) * [[1968年]] - [[ken]]、[[ギタリスト]]([[L'Arc〜en〜Ciel]]) * 1968年 - [[スコット・シェルドン]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[兼清麻美]]、元アナウンサー * [[1969年]] - [[堀内健]]、お笑いタレント([[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]) * 1969年 - [[ロブ・ネン]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[イェスパー・ストロムブラード]]、ミュージシャン([[イン・フレイムス]]) * 1972年 - [[ホセ・パーラ]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[名波浩]]、元[[プロサッカー選手]]、サッカー指導者 * 1972年 - [[松雪泰子]]、女優 * 1972年 - [[赤城進]]、[[声優]] * [[1973年]] - [[奈須きのこ]]、小説家、[[脚本家|シナリオライター]] * 1973年 - [[海野ゆかり]]、[[競艇選手]] * 1973年 - [[本部めぐみ]]、競艇選手 * [[1974年]] - [[KYO-SUKE]]、プロマジシャン、俳優 * [[1975年]] - [[飯野智行]]、舞台俳優、タレント * 1975年 - [[原田マサオ]]、声優 * 1975年 - [[下田崇]]、元サッカー選手 * 1975年 - [[バカリズム]]、[[お笑いタレント]]、[[脚本家]] * 1975年 - [[キミーブラウニー]]、ミュージシャン、お笑い芸人 * 1975年 - [[ムハンマド・スイスメズ]]、ミュージシャン * 1975年 - [[サティアー]]、ミュージシャン * 1975年 - [[シロ・リセア]]、[[野球選手]] * [[1976年]] - [[ジェイク・サリバン]]、政治家、第29代[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]] * [[1977年]] - [[施川ユウキ]]、[[漫画家]] * 1977年 - [[ファビオ・グロッソ]]、元プロサッカー選手 * 1977年 - [[糸井羊司]]、アナウンサー * 1977年 - [[平野哲史]]、元アナウンサー * [[1978年]] - [[大森隆弘]]、[[卓球選手]] * 1978年 - [[長塚智広]]、競輪選手 * 1978年 - [[八木早希]]、アナウンサー * 1978年 - [[オーランド・ロマン]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[林昌樹]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[マイク・シュルツ]]、元プロ野球選手 * 1979年 - チャド・イアン・マレーン、お笑い芸人([[チャド・マレーン]]) * [[1980年]] - [[樽美酒研二]]、タレント([[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]) * 1980年 - [[河井ゆずる]]、芸人([[アインシュタイン (お笑いコンビ)|アインシュタイン]]) * [[1981年]] - [[上園和明]]、元サッカー選手 * [[1982年]] - [[辻村明須香]]、プロゴルファー * [[1983年]] - [[折原みか]]、タレント * 1983年 - [[芦原英智]]、[[プロ野球審判員]] * [[1984年]] - [[吉井小百合]]、[[スピードスケート]]選手 * 1984年 - [[エリザベス・パットナム]]、フィギュアスケート選手 * [[1986年]] - [[鳥羽月子]]、声優 * 1986年 - [[野田クリスタル]]、お笑いタレント([[マヂカルラブリー]]) * 1986年 - [[松村泰一郎]]、俳優、子役 * [[1987年]] - [[カレン・ギラン]]、女優 * 1987年 - [[木下達生]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[的場勇人]]、[[騎手]] * 1987年 - [[蔦絵梨奈]] 、タレント、政治家 * 1987年 - [[渡辺裕介_(競艇解説者)|渡辺裕介]] 、競艇解説者 * [[1988年]] - [[宇治川麗菜]]、タレント * 1988年 - [[藤春廣輝]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[恒吉梨絵]]、女優、タレント * 1989年 - [[ダニー・ハルツェン]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[エンジェル・サンチェス]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[柏静香]]、タレント * 1990年 - [[長田美雪]]、声優 * 1990年 - [[ブラッドリー・スミス]]、オートバイレーサー * 1990年 - [[ストューカス・美香子]]、モデル * 1990年 - [[LIKIYA]]、[[パフォーマー]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]]) * [[1991年]] - [[河北麻友子]]、モデル、女優 * 1991年 - [[丸尾知司]]、陸上競技選手 * 1991年 - [[鈴木湧太]]、元タレント(元[[ジャニーズJr.]]) * [[1992年]] - あんにゅ、ミュージシャン([[コアラモード.]]) * [[1994年]] - [[日比野菜緒]]、テニス選手 * 1994年 - [[梶原岳人]]、声優 * 1994年 - [[青山大紀]]、元プロ野球選手 * 1994年 - [[佐野恵太]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[高見奈央]]、タレント、歌手、[[アイドル]](元[[ベイビーレイズJAPAN]]) * 1996年 - [[野村万之丞 (6世)|六世野村万之丞]]、狂言師 * 1996年 - [[松本航]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[正門良規]]、アイドル(ジュニア、[[Aぇ! group]]) * [[1997年]] - [[峯田茉優]]、声優 * 1997年 - [[こうちゃん (クイズ)|こうちゃん]]、[[YouTuber]] ([[QuizKnock]])、クイズプレイヤー * [[1998年]] - [[藤田真央]]、ピアニスト * [[2000年]] - [[古賀英里奈]]、声優、歌手 * [[2001年]] - [[マックス・パーク]]、[[ルービックキューブ|ルービックキューバー]] * [[2003年]] - [[今村聖奈]]、騎手 * 2003年 - 甲斐心愛、アイドル([[STU48]]) * 生年非公表 - [[五藤めぐみ]]、[[フリーアナウンサー]] * 生年非公表 - [[山田尚子]]、[[アニメーター]]、アニメーション監督 * 生年不明 - [[上田純子]]<ref>{{Cite web |url=https://www.yyy-voice.com/talent/show/99 |title=上田純子 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=有限会社ワイワイワイ}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[沼田智佳]]、声優 * 生年不明 - [[真砂勝美]]、元俳優、元声優 == 忌日 == === 人物 === * [[740年]]([[天平]]12年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[藤原広嗣]]、[[奈良時代]]の廷臣 * [[1170年]] - [[オーウェン・グウィネズ]]、[[ウェールズ]]・[[グウィネズ (ウェールズ)|グウィネズ]]君主(* [[1100年]]以前) * [[1183年]]([[寿永]]2年[[閏]][[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[妹尾兼康]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1123年]]) * [[1456年]]([[康正]]2年11月1日) - [[馬加康胤]]、[[室町時代]]の武将(* [[1398年]]?) * [[1585年]] - [[エルナンド・フランコ]]、[[作曲家]](* [[1532年]]) * [[1680年]] - [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]<ref>{{Kotobank|ベルニーニ}}</ref>、[[彫刻家]]、[[建築家]]、[[画家]](* [[1598年]]) * [[1694年]]([[元禄]]7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[松尾芭蕉]]、[[俳諧師]](* [[1644年]]) * [[1794年]] - [[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン]]、[[プロイセン王国]]の軍人(* [[1730年]]) * 1794年 - [[チェーザレ・ベッカリーア]]、[[法学者]]、[[経済学者]](* [[1738年]]) * [[1815年]] - [[ヨハン・ペーター・ザーロモン]]、[[指揮者]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1745年]]) * [[1856年]]([[安政]]3年11月1日) - [[広瀬淡窓]]、[[儒学者]]、[[漢詩人]](* [[1782年]]) * [[1859年]] - [[ワシントン・アーヴィング]]、[[小説家]](* [[1783年]]) * [[1884年]] - [[間部詮勝]]、元[[江戸幕府]][[老中]]、[[鯖江藩|鯖江藩主]](* [[1804年]]) * [[1914年]] - [[ヴィルヘルム・ヒットルフ]]、[[物理学者]]、[[化学者]](* [[1824年]]) * [[1939年]] - [[ジェームズ・ネイスミス]]、[[バスケットボール]]考案者として知られる[[体育]]指導者(* [[1861年]]) * [[1945年]] - [[ドワイト・フィリー・デイヴィス]]、第49代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1879年]]) * [[1947年]] - [[フィリップ・ルクレール]]、[[フランス]]の[[将軍]](* [[1902年]]) * 1947年 - [[イェオリ・シュネーヴォイクト]]、[[指揮者]]、[[チェリスト]](* [[1872年]]) * [[1948年]] - [[井上篤太郎]]、実業家、京王電気軌道([[京王電鉄]]の前身)の実質的創業者(* [[1859年]]) * [[1954年]] - [[エンリコ・フェルミ]]、理論[[物理学者]](* [[1901年]]) * [[1956年]] - [[石川三四郎]]、社会運動家(* [[1876年]]) * [[1960年]] - [[常ノ花寛市]]、[[大相撲]]第31代[[横綱]](* [[1896年]]) * 1960年 - [[リチャード・ライト (小説家)|リチャード・ライト]]、小説家(* [[1908年]]) * [[1961年]] - [[庄司総一]]、小説家、[[詩人]]、[[台湾文学]]者(* [[1906年]]) * [[1962年]] - [[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]、元[[オランダ]]女王(* [[1880年]]) * [[1966年]] - [[桂小文治]]、[[落語家]](* [[1893年]]) * 1966年 - [[ヴィットリオ・ジャンニーニ]]、作曲家(* [[1903年]]) * [[1967年]] - [[レオン・ムバ]]、政治家、初代[[ガボンの大統領|ガボン大統領]](* [[1902年]]) * [[1968年]] - [[イーニッド・ブライトン]]、[[児童文学]][[作家]](* [[1897年]]) * [[1970年]] - [[伊木寿一]]、[[歴史学者]](* [[1883年]]) * [[1972年]] - [[ハヴァーガル・ブライアン]]、作曲家(* [[1876年]]) * [[1975年]] - [[田中彰治]]、元[[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院議員]](* [[1903年]]) * [[1977年]] - [[ボブ・ミューゼル]]、プロ野球選手(* [[1896年]]) * [[1985年]] - [[白洲次郎]]、[[実業家]](* [[1902年]]) * [[1986年]] - [[エミリオ・スカナヴィーノ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1922年]]) * [[1987年]] - [[ハル薗田]]、プロレスラー(* [[1956年]]) * [[1988年]] - [[荒金啓治]]、政治家、[[大分県]][[別府市|別府]][[市長]](* [[1897年]]) * [[1992年]] - [[シドニー・ノーラン]]、[[画家]](* [[1917年]]) * [[1993年]] - [[水原明窗]]、[[切手]]収集家(* [[1924年]]) * [[1994年]] - [[ジェリー・ルービン]]、政治活動家(* [[1938年]]) * 1994年 - [[ジェフリー・ダーマー]] 、[[連続殺人]]犯(* [[1960年]]) * [[1995年]] - [[横沢三郎]]、[[プロ野球監督]]、[[パシフィック・リーグ]][[審判員 (野球)|審判]]部長(* [[1904年]]) * [[1999年]] - [[佐藤誠三郎]]、[[政治学者]](* [[1932年]]) * [[2002年]] - [[西村正夫]]、元[[プロ野球選手]]、プロ野球監督(* [[1912年]]) * [[2004年]] - [[兼坂弘]]、自動車技術者、[[自動車評論|評論家]](* [[1923年]]) * [[2006年]] - [[小田切みき]]、[[俳優|女優]](* [[1930年]]) * [[2009年]] - [[梶原武雄]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1923年]]) * 2009年 - [[斎藤耕一]]、[[映画監督]]、[[写真家]](* [[1929年]]) * [[2010年]] - [[シルヴィア (歌手)|シルヴィア]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20101129/enn1011291158000-n1.htm |title=シルヴィアさん、がん死 前夫と一人息子が献身看護も |publisher=[[産経デジタル|SANKEI DIGITAL INC.]] |accessdate=3 Oct 2023 |website=ZAKZAK by 夕刊フジ |date=29 Nov 2010}}</ref>、[[歌手]](* [[1958年]]) * [[2011年]] - [[長谷川利治]]<ref>{{Cite web |title=〈訃報〉長谷川 利治先生 |url=https://www.kcg.edu/news/2011/12-01 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=京都情報大学院大学 |date=1 Dec 2011}}</ref>、[[計算機科学|計算機科学者]]、[[京都情報大学院大学]]学長(* [[1934年]]) * [[2014年]] - [[菅原文太]]<ref name="Nikkan">{{Cite web |title=「仁義なき戦い」菅原文太さん死す 81歳 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20141202-1403570.html |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2 Dec 2014}}</ref>、[[俳優]](* [[1933年]]) * [[2018年]] - [[勝谷誠彦]]<ref>{{Cite web |title=コラムニスト勝谷誠彦さん、肝不全で死去 57歳 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201811280000165.html |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=28 Nov 2018}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/11/28/kiji/20181128s00041000035000c.html |title=勝谷誠彦氏 28日未明に死去 57歳 公式サイトが発表 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=28 Nov 2018 |website=Sponichi Annex}}</ref>、[[コラムニスト]](* [[1960年]]) * [[2021年]] - [[中村吉右衛門 (2代目)|中村吉右衛門]]2世、歌舞伎俳優(* [[1944年]]) * [[2022年]] - [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]、俳優、歌手(* [[1961年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2021年]] - [[ダイワテキサス]]、[[競走馬]](* [[1993年]]) == 記念日・年中行事 == * [[独立記念日]]({{ALB}}) *: [[1912年]]にアルバニアが[[オスマン帝国]]からの独立を宣言した日。 * 独立記念日({{MRT}}) *: [[1960年]]にモーリタニアが[[フランス]]から独立した日。 * スペインからの独立記念日({{PAN}}) *: [[1821年]]にパナマがスペインから独立し[[大コロンビア]]の一州となった日。 * 魂の独立記念日({{SG-JPN}}・{{SGI}}) *: [[1991年]]に[[創価学会]]が[[日蓮正宗]]から破門された日。(C作戦) * [[税関]]記念日({{JPN}}) *: 明治5年([[1872年]])旧暦[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]、運上所の呼称を「税関」に統一することが決定されたことを記念し、[[大蔵省]](現:[[財務省]])が[[1952年]]に制定<ref>{{Cite web |url=https://www.customs.go.jp/tokyo/tuu/index.htm |title=東京税関の歴史 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[財務省]]}}</ref>。 * [[太平洋]]記念日 *:[[1520年]]11月28日に、ポルトガルの航海者[[フェルディナンド・マゼラン]]が、後に[[マゼラン海峡]]と命名される南米大陸南端の海峡を通過して[[太平洋]]に出たことに由来。マゼランは、その時「El Mare Pacificum(平穏な海)」と表現している。彼の船は初めて世界を一周して帰国し、地球が丸いことを証明した。 * いい[[ニーハイ]]の日({{JPN}}) *:インターネット上では、「いいニーハイ」の語呂合わせで11月28日を「ニーハイの日」とし、[[ニーソックス|ニーハイソックス]]の画像等を投稿する遊びがある。 *親鸞忌([[報恩講]])({{JPN}}) *:[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞|親鸞聖人]]の御祥月命日(旧暦11月28日、新暦1月16日)に、宗祖に対する報恩感謝のために営まれる法要。[[東本願寺]]では[[11月21日]]から28日までの一週間御正忌報恩講が勤められる<ref>{{Cite web |url=https://www.higashihonganji.or.jp/worship/event/ |title=年間行事 報恩講 11月21日~28日 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=真宗大谷派 東本願寺}}</ref>。なお、[[西本願寺]]では新暦に直した[[1月9日]]から[[1月16日|16日]]まで、御正忌報恩講法要が修行される<ref>{{Cite web |url=https://www.hongwanji.kyoto/know/annual.html |title=本願寺の一年 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=龍谷山 西本願寺 |website=お西さん(西本願寺)}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1128|date=Oct 2023}} * 年不明 - 小山田六郎が釦([[ボタン_(服飾)|ボタン]])のとれた[[手袋]]を[[運転手]]の青木民蔵に与える。(小説『[[陰獣]]』第10章<ref group="注">青木運転手は「去年のこと」と私(寒川)に言う。</ref>) * 1949年(昭和24年)- 隅田光一の[[葬儀]]が行われる。(小説『[[白昼の死角]]』第4章<ref group="注">自殺の四日後</ref>) * 1950年(昭和25年)-「尾形静馬殉難碑」の除幕式が行われる。(小説『[[迷路荘の惨劇]]』大団円第1節) * 2003年 - [[夜神月]]がデスノートを拾う。(漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006|title = DEATH NOTE|volume = 13|publisher = 集英社|isbn = 978-4-08-874095-9|page = 84}}</ref>) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - ドラルク、『[[吸血鬼すぐ死ぬ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|johnwakawaii|1332338543784456197}}</ref> * 生年不明 - 宇奈月明嶺、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/unazuki_akane |title=富山 宇奈月 明嶺 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 菊丸英二、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=10.5巻|author=[[許斐剛]]|publisher=[[集英社]]|page=114|year=2001|isbn=4-08-873193-X}}</ref><ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1464611230165917700}}</ref> * 生年不明 - 不動琢磨、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/getbackers/old/chara/c_fudou.html |title=不動 琢磨 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[青樹佑夜]]・[[綾峰欄人]]・[[講談社]] / チーム奪還屋 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] |work=『GetBackers-奪還屋-』}}</ref> * 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#宇喜田孝造|宇喜田孝造]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=松江名俊|authorlink=松江名俊 |year = 2014 |title = 史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page = 96 |publisher = [[小学館]] |series = [[少年サンデーコミックス]] |isbn = 978-4-09-125016-2 }}</ref> * 生年不明 - 射手座のアエラス、漫画『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1597062940577779712}}</ref> * 生年不明 - 堀政行、漫画・アニメ『[[月刊少女野崎くん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/nozakikun/sp/chara/index.html |title=キャラクター 堀 政行 |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[椿いづみ]]/[[スクウェア・エニックス|スクウェアエニックス]]・「月刊少女野崎くん」製作委員会 [[テレビ東京]] |work=『月刊少女野崎くん』}}</ref> * 生年不明 - 白波千尋、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>衣笠彰梧 『ようこそ実力至上主義の教室へ 5』(KADOKAWA、2017年1月発行)13頁</ref> * 生年不明 - 秋月紅葉、漫画・アニメ『[[ブレンド・S]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=中山幸|authorlink=中山幸|year=2017|title=ブレンド・S|volume=3巻|page=10|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4-8322-4798-7}}</ref> * 生年不明 - バイス、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1199704430532157440}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#その他のキャラクター|千川ちひろ]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rinasatoh|803211155338428418}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#北村想楽|北村想楽]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40019 |title=北村 想楽(きたむら そら) |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - グレイシア、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=54&cate=name&cont=Graysia |title=グレイシア |access-date=3 Oct 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 心愛 れもん、ゲーム・アニメ『[[ワッチャプリマジ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|t_arts_pretty|1464730757021122570}}</ref> === 忌日(フィクション) === * 2009年 - [[DEATH NOTEの登場人物#その他|出目川仁]]、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006|title = DEATH NOTE|volume = 13|publisher = 集英社|isbn = 978-4-08-874095-9|page = 34}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} === 注釈 === {{Notelist2}} == 関連項目 == {{commonscat|28 November}} {{新暦365日|11|27|11|29|[[10月28日]]|[[12月28日]]|[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]|1128|11|28}} {{1年の月と日}}
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11月30日
11月30日(じゅういちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から334日目(閏年では335日目)にあたり、年末まであと31日ある。11月の最終日である。
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{{カレンダー 11月}} '''11月30日'''(じゅういちがつさんじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から334日目([[閏年]]では335日目)にあたり、年末まであと31日ある。11月の[[月末|最終日]]である。 == できごと == [[ファイル:Unebi &Chishima in the Aoyama Cemetery.JPG|thumb|upright|日本政府が初めて外国との訴訟当事者となった[[千島艦事件]](1892){{Squote|もののふの 河豚にくはるる 悲しさよ――[[正岡子規]]}}]] [[ファイル:A Finnish Maxim M-09-21 machine gun nest during the Winter War.jpg|thumb|180px|[[冬戦争]]勃発(1939)。雪中の[[フィンランド]]軍兵士]] [[ファイル:Lucy blackbg.jpg|thumb|140px|「[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]」発見(1974)]] * [[1700年]] - [[大北方戦争]]: [[ナルヴァの戦い]]。{{要出典|date=2021-03}} * [[1783年]] - [[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]が[[アメリカ独立戦争]]の講和条約・[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]を締結。 * [[1786年]] - [[トスカーナ大公国]]において、レオポルト1世(後の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]])が、ヨーロッパでは初めて[[死刑]]制度の廃止を宣言。([[シティズ・フォー・ライフの日]]) * [[1814年]] - [[フランツ・シューベルト]]が『[[羊飼いの嘆きの歌]]』を作曲。 * [[1853年]] - [[クリミア戦争]]: [[シノープの海戦]]。[[オスマン帝国]]の軍港シノープを[[ロシア]]黒海艦隊が奇襲。これ機に[[イギリス]]・[[フランス]]がクリミア戦争への介入を決意。 * [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[第二次フランクリンの戦い]]。 * [[1872年]] - 史上初の[[サッカー]]公式国際試合となる[[サッカーイングランド代表|イングランド]]対[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]の試合を開催。 * [[1888年]] - [[日墨修好通商条約]]締結。日本初の対等条約。 * [[1892年]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の水雷砲艦[[千島 (通報艦)|千島]]がイギリス商船と衝突、千島は沈没し商船側も損傷を受けた。([[千島艦事件]])<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/525443748cb8e61ce375bc292baa75e43603ac59|title=軍艦側の被害がなぜ大きい? 商船と衝突して損傷した軍艦たち(dragoner) |newspaper= Yahoo!ニュース|date=2017-06-20|accessdate=2020-11-29}}</ref> * 1892年 - [[福澤諭吉]]の後援で[[北里柴三郎]]が大日本私立衛生会伝染病研究所(現[[東京大学医科学研究所]])を設立。 * [[1908年]] - [[日本]]の駐米大使[[高平小五郎]]と[[アメリカ合衆国国務長官]][[エリフ・ルート]]が[[高平・ルート協定]]に調印。 * [[1919年]] - 食品工業(現[[キユーピー]])が創業。 * [[1920年]] - [[高山義三]]の除隊を迎えに来た[[鍋山貞親]]ら社会主義者の集団が警官と衝突し、[[治安維持法]]違反などで逮捕。([[京都赤旗事件]]) * [[1926年]] - [[日本ラグビーフットボール協会]]設立。 * [[1936年]] - [[水晶宮]]が焼失。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[赤軍|ソビエト赤軍]]が[[フィンランド]]に侵攻し、[[冬戦争]]が勃発。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦・[[ソロモン諸島の戦い]]: [[ルンガ沖夜戦]]。 * 1942年 - [[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]がおこる。 * [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[テヘラン会談]]で米英ソ首脳が[[1944年]]に[[ノルマンディー上陸作戦|フランスへのオーバーロード作戦]]を行うことで合意。 * [[1948年]] - 68歳の歌人の[[川田順]]が弟子の大学教授夫人とともに家出。川田が詠んだ歌から「老いらくの恋」が流行語になる。 * [[1949年]] - [[対共産圏輸出統制委員会]](ココム)設立。 * 1949年 - イギリスで[[エヴァンス事件]]がおこる。 * [[1954年]] - [[ホッジス隕石]]がアメリカ合衆国[[アラバマ州]]に落下。 * [[1962年]] - [[ウ・タント]]が[[国際連合事務総長]]に選出。 * [[1966年]] - [[バルバドス]]が[[イギリス]]から独立。 * [[1967年]] - [[南イエメン]]がイギリスから独立。 * [[1969年]] - 世界初の[[界磁チョッパ制御|界磁チョッパ制御車]]、[[東急8000系電車|東京急行電鉄8000系]]デビュー。 * [[1970年]] - 南イエメンが国号をイエメン人民民主共和国に改称し、[[社会主義]]国家を宣言。 * 1970年 - 北海道の国鉄[[根北線]]がこの日限りで廃止。<!-- 最終運転日。廃止は翌日付け --> * [[1974年]] - [[エチオピア]]で[[アウストラロピテクス]]の[[化石]]人骨「[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]」が発見。 * [[1976年]] - [[新宿区]][[歌舞伎町]]の[[雑居ビル]]内の[[ディスコ]]で爆発。客や店員、通行人など26人が重軽傷<ref>歓楽ビルで大爆発 夜の新宿歌舞伎町混乱 ガラス飛散、26人負傷『朝日新聞』1976年(昭和51年)12月1日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1977年]] - 米軍が使用していた東京・[[立川飛行場|立川基地]]が32年ぶりに全面返還。 * [[1984年]] - 電電公社が[[キャプテンシステム]]の実用サービスを開始。 * 1984年 - 国鉄[[高砂線]]・[[宮原線]]・[[妻線]]がこの日限りで廃止。<!-- 最終運転日。廃止は翌日付け --> * [[1987年]] - 茨城県[[つくば市]]が市制施行。 * [[1990年]] - [[平成2年台風第28号|台風28号]]が[[紀伊半島]]に[[台風の上陸|上陸]]。史上最も遅い時期に日本に上陸した台風となった。 * 1990年 - [[WOWOW|日本衛星放送(JSB)]]がサービス放送を開始。(現・WOWOW) * [[1993年]] - [[オランダ]]で、世界初の[[安楽死]]を認める法律(改正埋葬法)が成立。 * 1993年 - アメリカで、[[銃規制]]を目的とした[[ブレイディ法]]が発効。 * [[2007年]] - 衛星アナログ[[ハイビジョン]]テレビの放送が終了(停波)。 * [[2008年]] - [[東日本フェリー]]が国内フェリー事業から撤退。 <!-- * [[2009年]] - 表参道にて11年ぶりにイルミネーション開始。 --> * [[2009年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[デノミネーション]]を実施<ref>{{Cite web|和書 |date=2009-12-01 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2009/12/01/0300000000AJP20091201000300882.HTML |title=北朝鮮が17年ぶりデノミ実施、100分の1に |publisher=聯合ニュース |accessdate=2018-03-11}}</ref>。 * [[2016年]] - それまで暫定的に[[元素の系統名|系統名]]でウンウントリウム(113番元素)、ウンウンペンチウム(115番元素)、ウンウンセプチウム(117番元素)、ウンウンオクチウム(118番元素)と呼ばれていた四つの新[[元素]]の正式名称が、それぞれ[[ニホニウム]]、[[モスコビウム]]、[[テネシン]]、[[オガネソン]]に決定<ref>{{cite news|newspaper=[[日本放送協会|NHK]] NEWS WEB|title=113番元素「ニホニウム」に正式決定 日本が初の命名|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161130/k10010790131000.html|date=2016年11月30日|accessdate=2016年12月1日}}</ref>。 * [[2019年]] - [[相鉄・JR直通線]]が開通し、[[相模鉄道]]が[[東日本旅客鉄道|JR]]線に乗り入れて[[東京都|都]]心直通開始<ref>[https://www.traicy.com/20190328-sotetsuhr 相鉄・JR直通線、11月30日開業 直通列車は毎時最大4本程度] トラベルメディア トライシー. 2019年3月28日</ref>。 * 2023年 - BS1とBSPが再編され「NHK-BS」になるため、BS1とBSPが放送終了。 == 誕生日 == [[ファイル:Gullivers travels.jpg|thumb|160px|『[[ガリヴァー旅行記]]』の作者で知られる[[イギリス]]の[[小説家]]、[[ジョナサン・スウィフト]](1667-1745)誕生]] [[ファイル:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - The Birth of Venus (1879).jpg|thumb|180px|[[19世紀]][[フランス]]の[[アカデミック美術]]を代表する[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]](1825-1905)誕生。画像は《ヴィーナスの誕生》(1879)]] {{multiple image | image1 = MarkTwain.LOC.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[アメリカ合衆国]]の[[小説家]]、[[マーク・トウェイン]](1835-1910)誕生{{Squote|<small>ぼくが王様になったら、みんな食べ物にも寝る場所にも困らなくなるだけじゃなくて、本から色々と学ぶようになるんだ。心の中が飢えているようじゃ、お腹がいっぱいになっても仕方がないからね――『王子と乞食』(1881)</small>}} | alt1 = トウェイン | image2 = Kuga Katsunan.jpg | width2 = 120 | caption2 = 欧化主義を批判し、[[国民主義]]を唱えた[[ジャーナリスト]]、[[陸羯南]](1857-1907)誕生{{Squote|<small>世界と国民との関係はなお国家と個人との関係に同じ。個人といえる思想が国家と相容るるに難からざるがごとく、国民的精神は世界すなわち博愛的感情ともとより両立するにあまりあり――『近時政論考』(1891)</small>}} | alt2 = 陸羯南 }} {{multiple image | image1 = Churchill HU 90973.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[ウィンストン・チャーチル]](1874-1965)誕生{{Squote|私は、血、労苦、涙、そして汗以外の何も提供するものはない――[[1943年]][[5月13日]]の[[イギリスの首相|首相]]就任演説}} | alt1 = チャーチル | image2 = LMM signed photo.jpg | width2 = 120 | caption2 = 『[[赤毛のアン]]』の作者で知られる[[カナダ]]の[[小説家]]、[[L・M・モンゴメリ|ルーシー・モード・モンゴメリ]](1874-1942)誕生{{Squote|<small>笑うべきことを笑い、笑ってはいけないものは笑わない事を覚えたとき、あなたは知恵と理解力を身につけた事になるのですよ――『アンの愛情』(1915)</small>}} | alt2 = モンゴメリ }} {{multiple image | image1 = Nyozekan Hasegawa.JPG | width1 = 120 | caption1 = [[大正デモクラシー]]を牽引した[[ジャーナリスト]]、[[長谷川如是閑]](1875-1969)誕生{{Squote|捨てられたる政治家の壮語すると、破れたる靴の鳴るとは悲し――『如是閑語』}} | alt1 = 長谷川如是閑 | image2 = Izutaro Suehiro.jpg | width2 = 120 | caption2 = 日本[[法社会学]]を確立した[[法学者]]、[[末弘厳太郎]](1888-1951)誕生{{Squote|<small>私は、「文化」というものはある特殊の人にだけできる事柄を誰にも容易にできるようにすることであり、また学問はそれを容易にできるようにする手段であると考えている――『嘘の効用』(1922)</small>}} | alt2 = 末弘厳太郎 }} {{multiple image | image1 = Yamada Keizo.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[マラソン]]選手、[[山田敬蔵]](1927-)誕生。[[1953年]]の[[ボストンマラソン]]優勝は翌年、『心臓破りの丘』で映画化された | alt1 = 山田敬蔵 | image2 = Takako Doi in Tokyo congressist election 2.jpg | width2 = 120 | caption2 = 第10代[[日本社会党委員長]]、[[土井たか子]](1928-2014)誕生 | alt2 = 土井たか子 }} [[ファイル:Ridley Scott by Gage Skidmore.jpg|thumb|120px|[[イギリス]]の[[映画監督]]、[[リドリー・スコット]](1937-)誕生。代表作は『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』、『[[ブレードランナー]]』など]] [[ファイル:Prince Fumihito Brazil 2015 (1).jpg|thumb|120px|[[秋篠宮文仁親王]](1965-)誕生]] * [[1554年]] - [[フィリップ・シドニー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Philip-Sidney Sir Philip Sidney English author and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]](+ [[1586年]]) * [[1602年]]([[ユリウス暦]]11月20日) - [[オットー・フォン・ゲーリケ]]、[[科学者]](+ [[1686年]]) * [[1667年]] - [[ジョナサン・スウィフト]]、[[小説家]](+ [[1745年]]) * [[1717年]]([[享保]]2年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[藤堂高朗]]、第5代[[津藩|津藩主]](+ [[1785年]]) * [[1741年]]([[寛保]]元年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[前田重教]]、第9代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1786年]]) * [[1752年]]([[宝暦]]2年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[内藤政脩]]、第3代[[延岡藩|延岡藩主]](+ [[1805年]]) * [[1753年]] - [[ヨハン・バプティスト・シェンク]]、[[作曲家]](+ [[1836年]]) * [[1754年]]([[宝暦]]4年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[松平光悌]]、第5代[[松本藩|松本藩主]](+ [[1786年]]) * [[1791年]]([[寛政]]3年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[井伊直暉]]、第7代[[与板藩|与板藩主]](+ [[1826年]]) * [[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[10月15日 (旧暦) |10月15日]]) - [[酒井忠恒 (伊勢崎藩主) |酒井忠恒]]、第7代[[伊勢崎藩|伊勢崎藩主]](+ [[1868年]]) * [[1813年]] - [[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]、作曲家、[[ピアニスト]](+ [[1888年]]) * [[1825年]] - [[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]、[[画家]](+ [[1905年]]) * [[1828年]] - [[グスタフ・ツォイナー]]、[[物理学者]]、[[工学者]](+ [[1907年]]) * [[1835年]] - [[マーク・トウェイン]]、[[作家]](+ [[1910年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[池田仲建]]、第9代[[鹿奴藩|鹿奴藩主]](+ [[1864年]]) * [[1845年]]([[弘化]]2年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[平野長裕]]、初代[[田原本藩|田原本藩主]](+ [[1872年]]) * [[1854年]]([[嘉永]]7年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[松平康載]]、第2代[[川越藩|川越藩主]](+ [[1923年]]) * [[1857年]]([[安政]]4年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[陸羯南]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1907年]]) * [[1859年]] - [[セルゲイ・リャプノフ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1924年]]) * [[1863年]] - [[アンドレス・ボニファシオ]]、[[革命家]](+ [[1897年]]) * [[1869年]] - [[コンスタンチン・ソモフ]]、画家(+ [[1939年]]) * [[1870年]] - [[フランク・キレン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1931年]]) * [[1874年]] - [[ウィンストン・チャーチル]]、[[政治家]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1965年]]) * 1874年 - [[L・M・モンゴメリ]]、作家(+ [[1942年]]) * [[1875年]] - [[長谷川如是閑]]、ジャーナリスト(+ [[1969年]]) * [[1888年]] - [[末弘厳太郎]]、[[法学者]](+ [[1951年]]) * 1888年 - [[ラルフ・ハートレー]]、[[電子工学]]研究者(+ [[1970年]]) * [[1893年]] - [[満宮輝仁親王]]、[[皇族]](+ [[1894年]]) * [[1901年]] - [[向井潤吉]]、[[洋画家]](+ [[1995年]]) * 1901年 - [[荻須高徳]]、洋画家(+ [[1986年]]) * [[1906年]] - [[ジョン・ディクスン・カー]]、[[推理作家]](+ [[1977年]]) * 1906年 - [[圓鍔勝三]]、[[彫刻家]](+ [[2003年]]) * [[1911年]] - [[森有正]]、[[哲学者]]、[[フランス文学者]](+ [[1976年]]) * 1911年 - [[田村泰次郎]]、小説家(+ [[1983年]]) * [[1912年]] - [[玉ノ海梅吉]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1988年]]) * [[1918年]] - [[田川豊]]、元プロ野球選手(+ [[1981年]]) * [[1923年]] - [[永井洋二郎]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]]) * [[1924年]] - [[塚本悦郎]]、元プロ野球選手(+ [[2014年]]) * [[1925年]] - [[林家三平 (初代)|林家三平]]、[[落語家]](+ [[1980年]]) * [[1926年]] - [[中根千枝]]、[[社会人類学|社会人類学者]](+ [[2021年]]) * [[1927年]] - [[山田敬蔵]]<ref name="Hochi 20200402">{{Cite news| title = 山田敬蔵さんが92歳で死去…53年の米ボストン・マラソンで優勝| newspaper = スポーツ報知| date = 2020-04-23| url = https://hochi.news/articles/20200423-OHT1T50190.html|agency=報知新聞社|accessdate=2020-11-03}}</ref>、[[マラソン]]選手、元世界記録保持者(+ [[2020年]]) * 1927年 - [[内田蒼生也]]、元プロ野球選手 * [[1928年]] - [[土井たか子]]、政治家(+ [[2014年]]) * 1928年 - [[小宮隆太郎]]、[[経済学者]](+ [[2022年]]) * [[1929年]] - [[三木谷良一]]、経済学者(+ [[2013年]]) * 1929年 - [[レオ・カイリー]]、元プロ野球選手(+ [[1984年]]) * [[1931年]] - [[浅井昭衛]]、[[宗教法人]][[冨士大石寺顕正会|顕正会]]会長(+ [[2023年]]) * [[1932年]] - [[渡辺清 (野球)|渡辺清]]、元プロ野球選手 * [[1933年]] - [[富永美沙子]]、女優、[[声優]](+ [[1975年]]) * 1933年 - [[金子務]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG25A7I0V21C20A2000000/|title=金子務氏が死去 科学史家|publisher=日本経済新聞社|date=2020-12-25|accessdate=2021-01-30}}</ref>、[[科学史]]家(+ [[2020年]]) * [[1935年]] - [[大久保昇]]、実業家 * [[1936年]] - [[打越敏彦]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[リドリー・スコット]]、[[映画監督]] * 1937年 - [[千々松幸子]]、声優 * 1937年 - [[光枝明彦]]、舞台俳優 * [[1938年]] - [[亀石征一郎]]、[[俳優]](+ [[2021年]]) * 1938年 - [[井上真樹夫]]<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2150075/full/ 声優・井上真樹夫さん死去 「ルパン三世」二代目・石川五ェ門役] - ORICON NEWS 2019年12月2日</ref>、声優、俳優(+ [[2019年]]) * [[1939年]] - [[ワルター・ウェラー]]、[[音楽家]](+ [[2015年]]) * [[1940年]] - [[安蘇谷正彦]]、[[神道]]学者 * 1940年 - [[ラリー・ブラウン]]、バスケットボールコーチ * [[1941年]] - [[アリー・ハサン・アル=マジード]]、政治家(+ [[2010年]]) * [[1942年]] - [[高梨英夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20181229/ama18122912280002-n1.html|title=「ミスター社会人」高梨英夫氏が死去、76歳|publisher=SANSPO.COM(サンスポ)|date=2018-12-29|accessdate=2020-11-21}}</ref>、[[野球選手]](+ [[2018年]]) * [[1943年]] - [[アネット・メサジェ]]、[[美術家]] * [[1944年]] - [[中原全敏]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[ロジャー・グローヴァー]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1945年 - [[ラドゥ・ルプー]]、[[ピアニスト]](+ [[2022年]]) * 1945年 - [[武藤まき子]]、[[芸能リポーター]]、アナウンサー(+ [[2016年]]) * [[1947年]] - [[デヴィッド・マメット]]、[[劇作家]]、[[脚本家]]、[[演出家]]、[[映画監督]] * [[1949年]] - [[鹿島茂]]、[[フランス文学者]] * 1949年 - [[江戸家猫八 (4代目)|四代目 江戸家猫八]]、物真似芸人(+ [[2016年]]) * [[1950年]] ‐ [[ポール・ウェストファル]]、バスケットボール選手、指導者(+ [[2021年]])  * [[1951年]] - [[陣内誠]]、[[アナウンサー]] * 1951年 - [[神田紫]]、[[講談師]] * 1951年 - [[三好鉄生]]、[[歌手]]、俳優 * [[1954年]] - [[ロドニー・ブルックス]]、[[ロボット工学]]者 * [[1957年]] - [[リチャード・バルビエリ]]、ミュージシャン、キーボーディスト(元[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]) * 1957年 - [[田口トモロヲ]]、俳優、声優 * 1957年 - [[山田昌弘]]、社会学者 * 1957年 - [[田村隆 (料理人)|田村隆]]、[[料理人]](+ [[2020年]]) * [[1958年]] - [[杉浦日向子]]、[[漫画家]]、江戸風俗研究家(+ [[2005年]]) * [[1960年]] - [[ゲーリー・リネカー]]、元[[サッカー選手]] * [[1961年]] - [[相島一之]]、俳優 * [[1962年]] - [[戸崎貴広]]、アナウンサー * 1962年 - [[鎌田光明]]、[[厚生労働省|厚生労働]][[官僚]] * [[1963年]] - [[柳家喬太郎]]、[[落語家]] * [[1964年]] - [[山田恵一]]、[[プロレスラー]] * [[1965年]] - [[秋篠宮文仁親王]]、皇族、[[皇嗣]] * 1965年 - [[中嶋治彦]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[ベン・スティラー]]、俳優 * 1965年 - [[浦和めぐみ]]、声優 * [[1966年]] - [[デビッド・バーコフ]]、競泳選手 * [[1967年]] - [[水谷加奈]]、[[文化放送]]アナウンサー * [[1968年]] - [[ウチダトモヒロ]]、作曲家 * 1968年 - [[松本梨香]]<ref name="onsei">{{Cite book |和書 |title=日本音声製作者名鑑 2004 vol.1 |publisher=[[小学館]] |page=244 |date=2004-04-10 |isbn=4-09-526301-6}}</ref>、声優 * 1968年 - [[ローラン・ジャラベール]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * 1968年 - [[デズリー]]、歌手 * [[1969年]] - [[トゥリーナ・ガリヴァー]]、[[ダーツ]]プレイヤー * [[1970年]] - [[小林宏 (野球)|小林宏]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[イバン・ロドリゲス]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[高井美穂]]、政治家 * 1971年 - [[吉本一義]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[奥井奈緒子]]、女優、歌手 * 1972年 - [[四位洋文]]、[[騎手]]、[[調教師]] * 1972年 - [[橋爪浩一]]、ファッションモデル、俳優 (+ [[1999年]]) * [[1973年]] - [[ジェイソン・リソ]](クリスチャン・ケイジ)、プロレスラー * 1973年 - [[藤澤英雄]]、元野球選手 * [[1974年]] - [[リー・エンチ]]、プロ[[ロッククライミング|ロッククライマー]] * [[1975年]] - [[束芋]]、[[現代美術家]] * [[1976年]] - [[クレイグ・ウィルソン]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[スティーヴ・アオキ]]、DJ、音楽プロデューサー * 1977年 - [[斉藤和巳]]、元プロ野球選手 * 1977年 - [[オリヴィエ・シェーンフェルダー]]、フィギュアスケート選手 * [[1978年]] - [[クレイ・エイケン]]、歌手 * 1978年 - 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[[瀬村奈月]]、[[アナウンサー]] * [[1990年]] - [[絵梨華]]、タレント * 1990年 - [[豊田和斗]]、元サッカー選手 * 1990年 - [[マグヌス・カールセン]]、チェスプレイヤー * 1990年 - [[アントワーヌ・ヌゴッサン]]、サッカー選手 * 1991年 - [[片山瑛一]]、サッカー選手 * [[1993年]] - [[知念侑李]]、歌手、俳優([[Hey! Say! JUMP]]) * 1993年 - [[山内晶大]]、[[バレーボール選手]] * [[1994年]] - [[シャーロット・ウィングフィールド]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=https://www.iaaf.org/athletes/malta/charlotte-wingfield-302671|title=Charlotte Wingfield|publisher=IAAF|accessdate=2016-08-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160815143508/https://www.iaaf.org/athletes/malta/charlotte-wingfield-302671|archivedate=2016年08月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> * 1994年 - [[ながえゆあ]]、声優 * [[1995年]] - [[小山百代]]、女優、声優 * [[1996年]] - [[刈谷友衣子]]、女優 * 1996年 - [[中西南]]、AV女優 * [[1997年]] - [[山本杏奈]]、アイドル([[=LOVE]]、元[[SPL∞ASH]]) * [[1998年]] - [[伊藤純奈]]、舞台女優、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * [[1999年]] - [[加賀楓]]、歌手(元[[モーニング娘。]]) * [[2000年]] - [[樋口幸平]]、俳優 * 2000年 - [[曽谷龍平]]、プロ野球選手 * [[2001年]] - [[彩香 (アイドル)|赤坂麻凪]]、モデル(元[[りんご娘]] 彩香)<ref>[https://thetv.jp/person/2000015055/ 彩香のプロフィール・画像・写真(2000015055)] 2021年6月13日閲覧。</ref> * 2001年 - 二木蒼生、アイドル(元[[こけぴよ]])<ref>[https://www.nikiaoi.com/?page_id=2 Profile/芸歴 – 二木蒼生 Official] 2021年6月13日閲覧。</ref> * [[2003年]] - [[永島田輝斗]]、プロ野球選手 * [[2004年]] - 立仙百佳、アイドル([[STU48]])<ref>[https://web.archive.org/web/20200607073939/https://www.stu48.com/feature/rissen_momoka | STU48 OFFICIAL WEB SITE] 2021年6月13日閲覧。</ref> * 生年非公表 - [[甲斐田ゆき]]<ref>『声優名鑑 2013 女性編』、16頁、[[主婦の友社]]</ref>、声優 * 生年不明 - [[藍井エイル]]<ref>[https://www.aoieir.com/biography/ 藍井エイル公式サイト]</ref>、歌手 == 忌日 == {{multiple image | image1 = Fujiwara no Hidehira.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[奥州藤原氏]]第3代当主、[[藤原秀衡]](1122-1187)没 | alt1 = 藤原秀衡 | image2 = Hōjō Sanetoki.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[金沢文庫]]を創立した[[北条実時]](1224-1276)没 | alt2 = 北条実時 }} [[ファイル:Amago Tsunehisa.JPG|thumb|120px|“謀聖”と称された戦国大名、[[尼子経久]](1458-1541)没]] {{multiple image | image1 = Maeno Ryotaku.jpg | width1 = 100 | caption1 = 『[[解体新書]]』に携わった[[蘭学者]]、[[前野良沢]](1723-1803)没 | alt1 = 前野良沢 | image2 = Friedrich List 1845 crop.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[保護貿易]]論を提唱した[[ドイツ]]の[[経済学者]]、[[フリードリッヒ・リスト]](1789-1846)拳銃自殺 | alt2 = リスト }} [[ファイル:Oscar Wilde by Sarony 1882 19 retouched.jpg|thumb|120px| [[オスカー・ワイルド]](1856-1900)没{{Squote|人生は真剣に話すには重要すぎる――『ウィンダミア婦人の扇』(1893)}}]] {{multiple image | image1 = Albert B. Fall.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[ティーポット・ドーム事件]]での関与でアメリカ閣僚として初めて入監した[[アルバート・B・フォール]](1861-1944)没 | alt1 = フォール | image2 = Alexander Binder - Ernst Lubitsch um 1920.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[ソフィスティケイテッド・コメディ]]の名手として知られる[[ドイツ]]出身の[[映画監督]]、[[エルンスト・ルビッチ]](1892-1947)没 | alt2 = ルビッチ }} {{multiple image | image1 = Go Seigen and Kitani Minoru.jpg | width1 = 130 | caption1 = 現代[[囲碁]]の巨星、[[呉清源]](左)(1914-2014)没 | alt1 = 呉清源 | image2 = Chofu The Grave Of Shigeru Mizuki 1.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[水木しげる]](1922-2015)没 | alt2 = 水木しげるの墓 }} * [[912年]] - [[オットー1世 (ザクセン公)|オットー1世]]、[[ザクセン公爵]] * [[1187年]]([[文治]]3年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[藤原秀衡]]、[[奥州藤原氏]]第3代当主(* [[1122年]]?) * [[1204年]] - [[イムレ (ハンガリー王)|イムレ]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]国王(* [[1174年]]) * [[1276年]]([[建治]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[北条実時]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1224年]]) * [[1541年]]([[天文 (元号)|天文]]10年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[尼子経久]]、[[出雲国]]の[[戦国大名]](* [[1458年]]) * [[1602年]]([[慶長]]7年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[立花誾千代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の女性当主(* [[1569年]]) * [[1647年]] - [[ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリ]]、[[数学者]](* [[1598年]]) * [[1654年]] - [[ジョン・セルデン]]、[[歴史家]]、中東学者、[[政治家]](* [[1584年]]) * [[1703年]] - [[ニコラ・ド・グリニー]]、[[作曲家]](* [[1672年]]) * [[1705年]] - [[キャサリン・オブ・ブラガンザ]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の王妃(* [[1638年]]) <!-- ユリウス暦、12月11日へ移動* [[1718年]] - [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]、[[スウェーデン]]国王(* [[1682年]])--> * [[1749年]]([[寛延]]2年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[松平宗矩]]、第8代[[福井藩|福井藩主]](* [[1715年]]) * [[1761年]] - [[ジョン・ドロンド]]、[[光学|光学者]](* [[1706年]]) * [[1803年]]([[享和]]3年10月17日) - [[前野良沢]]、[[蘭学者]](* [[1723年]]) * [[1830年]] - [[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1761年]]) * [[1846年]] - [[フリードリッヒ・リスト]]、[[経済学者]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1789年]]) * [[1850年]] - [[ジェルマン・アンリ・ヘス]]、[[化学者]](* [[1802年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[牧野忠雅]]、[[江戸幕府]][[老中]]、第10代[[越後長岡藩|越後長岡藩主]](* [[1799年]]) * [[1863年]] - [[カメハメハ4世]]、[[ハワイ王国]]第4代国王(* [[1834年]]) * [[1884年]] - [[成島柳北]]、[[ジャーナリスト]](* [[1837年]]) * [[1895年]] - [[酒井忠績]]、江戸幕府[[大老]]、第8代[[姫路藩|姫路藩主]](* [[1827年]]) * [[1900年]] - [[オスカー・ワイルド]]、[[小説家]](* [[1856年]]) * [[1901年]] - [[エドワード・ジョン・エア]]、[[探検家]](* [[1815年]]) * [[1904年]] - [[実成院 (徳川家茂生母)|実成院]]、[[徳川家茂]]の生母(* [[1821年]]) * [[1908年]] - [[西ノ海嘉治郎 (初代)]]、[[大相撲]]第16代[[横綱]](* [[1855年]]) * [[1917年]] - [[ウィリアム・イートン・チャンドラー]]、第30代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1835年]]) * [[1921年]] - [[ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ]]、[[数学者]](* [[1843年]]) * [[1923年]] - [[マーサ・マンスフィールド]]、[[俳優|女優]](* [[1899年]]) * [[1929年]] - [[ダニエル・モロー・バリンジャー]]、[[地質学|地質学者]](* [[1860年]]) * [[1930年]] - [[マザー・ジョーンズ]]、[[労働運動|労働運動家]](* [[1830年]]) * [[1933年]] - [[嘉村礒多]]、小説家(* [[1897年]]) * [[1934年]] - [[安川敬一郎]]、[[実業家]](* [[1849年]]) * [[1935年]] - [[曾我祐準]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中将]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1844年]]) * 1935年 - [[フェルナンド・ペソア]]、作家(* [[1888年]]) * [[1937年]] - [[赤沼智善]]、[[仏教学者]](* [[1884年]]) * [[1938年]] - [[コルネリウ・コドレアヌ]]、[[鉄衛団]]の指導者(* [[1899年]]) * [[1939年]] - [[クン・ベーラ]]、[[ハンガリー共産党]]の指導者(* [[1886年]]) * [[1944年]] - [[アルバート・B・フォール]]、[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1861年]]) * [[1947年]] - [[エルンスト・ルビッチ]]、[[映画監督]](* [[1892年]]) * [[1954年]] - [[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[指揮者]](* [[1886年]]) * [[1955年]] - [[大山郁夫]]、[[政治学者]]・[[ジャーナリスト]]、[[参議院議員]](* [[1880年]]) * [[1957年]] - [[ベニャミーノ・ジーリ]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1890年]]) * [[1962年]] - [[マックス・ファスマー]]、[[言語学者]](* [[1886年]]) * [[1967年]] - [[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]]、[[ヴァルデック侯国]][[皇太子]]、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]将軍(* [[1896年]]) * [[1973年]] - [[中川俊思]]、[[政治家]](* [[1903年]]) * [[1975年]] - [[三遊亭小円]]、[[落語家]](* [[1910年]]) * 1977年 - [[テレンス・ラティガン]]、[[劇作家]](* [[1911年]]) * [[1979年]] - [[ローラ・ギルピン]]、[[写真家]](* [[1891年]]) * 1979年 - [[ゼッポ・マルクス]]、[[喜劇俳優]]、[[マルクス兄弟]]の五男(* [[1901年]]) * [[1980年]] - [[福井美恵子]]、バスケットボール選手(* [[1956年]]) * 1980年 - [[カルトーラ]]、歌手(* [[1908年]]) * [[1982年]] - [[祖堅方範]]、[[空手|空手家]](* [[1891年]]) * [[1986年]] - [[オノサト・トシノブ]]、[[画家]](* [[1912年]]) * [[1989年]] - [[アマドゥ・アヒジョ]]、政治家、[[カメルーンの大統領|カメルーン大統領]](* [[1924年]]) * [[1990年]] - [[ノーマン・カズンズ]]、ジャーナリスト・作家(* [[1915年]]) * [[1992年]] - [[ジョルジュ・ドン]]、[[バレエ|バレエダンサー]](* [[1947年]]) * [[1994年]] - [[ギー・ドゥボール]]、作家、映画監督(* [[1931年]]) * [[1995年]] - [[田宮高麿]]、[[よど号グループ]]リーダー(* [[1943年]]) * [[1998年]] - [[横井英樹]]、[[実業家]](* [[1913年]]) * 1998年 - [[小沼文彦]]、[[ロシア文学者]](* [[1916年]]) * 1998年 - [[ルース・クリフォード]]、女優(* [[1900年]]) * [[2001年]] - [[西村三郎]]、[[生物学|生物学者]](* [[1930年]]) * [[2002年]] - [[平井康三郎]]、作曲家(* [[1910年]]) * [[2006年]] - [[シャーリー・ウォーカー]]、作曲家(* [[1945年]]) * [[2007年]] - [[シーモア・ベンザー]]、生物学者(* [[1921年]]) * 2007年 - [[フランソワ=グザヴィエ・オルトリ]]、第5代[[欧州委員会委員長]](* [[1925年]]) * [[2008年]] - [[天野哲夫]]、小説家(* [[1926年]]) * 2008年 - [[高野宏一]]、[[特撮監督]](* [[1935年]]) * 2008年 - [[樋口宗孝]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1958年]]) * [[2009年]] - [[青木健 (経済学者)|青木健]]、[[経済学者]](* [[1941年]]) * [[2011年]] - [[伊藤光四郎]]、野球選手(* [[1937年]]) * 2011年 - [[常見忠]]、元プロ野球選手、釣り師(* [[1930年]]) * [[2013年]] - [[ポール・ウォーカー]]、俳優(* [[1973年]]) * [[2014年]] - [[呉清源]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1914年]]) * [[2015年]] - [[佐藤泰正]]、[[文芸評論家]](* [[1917年]]) * 2015年 - [[水木しげる]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H4P_Q5A131C1MM8000/|title=漫画家の水木しげる氏が死去 93歳、「ゲゲゲの鬼太郎」|publisher=日本経済新聞|date=2015-11-30|accessdate=2020-11-23}}</ref>、[[漫画家]](* [[1922年]]) * 2015年 - [[岡本おさみ]]<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2064055/full/ 作詞家・岡本おさみさんが死去 「旅の宿」「襟裳岬」など] [[オリコンスタイル]] 2020年11月23日閲覧</ref>、[[作詞家]](* [[1942年]]) * [[2016年]] - [[朝本浩文]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/12/03/0009721328.shtml|title=朝本浩文さん死去 「呼吸するだけの体になったら…」と託すも、妻「できませんでした」|publisher=デイリースポーツ|date=2016-12-03|accessdate=2020-11-20}}</ref>、[[音楽プロデューサー]](* [[1963年]]) * [[2018年]] - [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]<ref>{{Cite news|title=ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去 94歳|newspaper=朝日新聞|date=2018年12月1日14時9分|url=https://www.asahi.com/articles/ASLD14KGGLD1UHBI00P.html|accessdate=2020-11-07}}</ref>、政治家、[[アメリカ合衆国]]第41代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]](* [[1924年]]) * [[2019年]] - [[マリス・ヤンソンス]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASMCM5GBTMCMUCVL02D.html |title=世界的指揮者、マリス・ヤンソンスさんが死去 76歳:朝日新聞デジタル |accessdate=2020-10-23 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>、[[指揮者]](* [[1943年]]) * [[2022年]] - [[江沢民]]、政治家、第3代[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]]・[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]](* [[1926年]]) == 記念日・年中行事 == * [[シティズ・フォー・ライフの日]] *: 世界500都市以上で行われる[[死刑]]制度廃止運動。[[1786年]]のこの日、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が、ヨーロッパでは初めて死刑制度の廃止を宣言したことを記念。 * [[アンドレス・ボニファシオ]]の日({{PHL}}) *: フィリピンの独立運動家・アンドレス・ボニファシオの誕生日を記念。 * [[独立記念日]]({{BRB}}) *: [[1966年]]のこの日、バルバドスが[[イギリス]]から独立した。 * 本[[みりん]]の日({{JPN}}) *: 全国味淋協会が制定。「い(1)い(1)み(3)りん(0)」の語呂合せと、最も鍋物等で需要の多い時期であることから。 * 年金の日({{JPN}}) *: 「いい(11)みらい(30)」の語呂合わせ<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000052617.html |title=11月30日は「年金の日」です! |publisher=厚生労働省 |accessdate=2015-11-30}}</ref>。 * 人生会議の日({{JPN}}) *: 厚生労働省が制定<ref>{{Cite press release |和書 |title=ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しました |publisher=厚生労働省 |date=2018年11月30日 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02615.html |accessdate=2018-11-30}}</ref>。アドバンス・ケア・プランニング(ACP)の愛称が「人生会議」に決定発表されたため。また「いいみとり」、「いいみとられ」の語呂合わせから。 * ゲゲゲ忌({{JPN}}) *: [[漫画家]]・[[水木しげる]]の命日。水木の代表作『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』に因み、水木が上京してから晩年まで住んでいた[[東京都]][[調布市]]が[[2016年]]に制定。 * オートフォーカスカメラの日 *: [[1977年]](昭和52年)のこの日、[[小西六写真工業]](後の[[コニカ]])が世界初の[[自動焦点]]([[オートフォーカス]])カメラ「コニカC35AF」を発売した。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1130|date=2011年7月}} * [[2000年]] - 桜島大根、鹿児島から上京。(『あおくび大根』) * [[2017年]] - 常磐ソウゴとツクヨミが明光院ゲイツが操縦するタイムマジーンによる攻撃で誤って移動してしまう<ref>{{Cite news|title=EP01「キングダム2068」|newspaper=仮面ライダージオウ|date=2018-09-02|url=https://www.tv-asahi.co.jp/zi-o/story/?01|accessdate=2019-05-06}}</ref>(テレビドラマ『[[仮面ライダージオウ]]』)。 * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[ジオン公国|ジオン軍]]、[[ジャブロー]]降下作戦(第2次ジャブロー侵攻作戦)に失敗。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1982年]] - おじさん/嶋㟢陽介 、漫画・アニメ『[[異世界おじさん]]』の主人公<ref>{{Twitter status|isekai_ojisan|1465606560512557059}}</ref><!--年代設定から1982年生まれで確定--> * [[1987年]] - [[ハヤテのごとく!の登場人物#天王州家関係者|天王州アテネ]]、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター<ref>コミック第26巻</ref><!-- ※眼から光線を出すような“超人”や異星人でない「地球人(普通の人間)」は「人物」と記しませんか。 --> * 生年不明 - [[花咲くいろは#緒花|松前緒花]]、アニメ『[[花咲くいろは]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=TV ANIMATION 「花咲くいろは」 オフィシャルガイド いろはのいろは|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2011|page=8|isbn=978-4-7575-3310-3}}<!-- 月日のみ。 --></ref> * 生年不明 - 小松奈々、漫画『[[NANA]]』に登場する主人公のひとり<ref>{{Twitter status|nanahachinokoto|1200429379576160256}}</ref> * 生年不明 - 早倉舞衣、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』のヒロインのひとり<ref>{{Cite web|和書 |url=http://photokano.jp/maincharacter03.html |title=早倉舞衣 |access-date=2022-09-10 |publisher=フォトカノ}}</ref> * 生年不明 - 銀山心雪、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/ginzan_koyuki |title=銀山心雪 |access-date=2022-09-10 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - 和倉雅奈、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/wakura_mana |title=和倉雅奈 |access-date=2022-09-10 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - 射手座のアイオロス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=37 |title=射手座(サジタリアス)のアイオロス |access-date=2022-09-10 |publisher=MUSEUM 聖闘士博物館 |author=車田正美 |work=聖闘士星矢}}</ref> * 生年不明 - 石田鉄、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1333064432776339457}}</ref> * 生年不明 - 剣ミスミ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author= 岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002|title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X|page = 78 }}</ref> * 生年不明 - 黒江双葉、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1200430474423865344}}</ref> * 生年不明 - ミカ、アニメ『[[ガールズ&パンツァー 劇場版|ガールズ&パンツァー 劇場版]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan_app|936103720898588672}}</ref> * 生年不明 - 柊篝、アニメ・ゲーム『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tojitomo|1333063169447763973}}</ref> * 生年不明 - リ・ハオ(無敵ヶ原富士丸、李子文)、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-09-10}}</ref> * 生年不明 - 芹沢うらら、ゲーム『[[ペルソナ2|ペルソナ2 罰]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1465334743818452995}}</ref> * 生年不明 - カレン・クラヴィウス、ゲーム『[[夜明け前より瑠璃色な]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://august-soft.com/yoake/character.htm#ETC |title=カレン・クラヴィウス |access-date=2022-09-10 |publisher=オーガスト |work=夜明け前より瑠璃色な}}</ref><ref>『夜明け前より瑠璃色な -Moonlight Cradle-』小冊子「Moonlight Chronicle」[[オーガスト (ブランド)|オーガスト]]、2009年、34頁。</ref> * 生年不明 - 玲香、ゲーム『[[ドリームクラブ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ドリームクラブ ビジュアルファンブック|publisher=[[ソフトバンク クリエイティブ]]|year=2009|page=40|isbn=978-4-7973-5652-6}}</ref> * 生年不明 - 月永るか、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|803795788547526656}}</ref> <!-- * 生年不明 - カルラ・コルキア、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター --> === 忌日(フィクション) === * 2011年 - 星川リリィ、テレビアニメ『[[ゾンビランドサガ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://zombielandsaga.com/character/7.php |title=CHARACTER 星川 リリィ |work=TVアニメ「ゾンビランドサガ リベンジ」公式サイト |accessdate=2022-09-10}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|30 November}} {{新暦365日|11|29|12|1|[[10月30日]]|[[12月30日]]|[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]|1130|11|30}} {{1年の月と日}}
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12月4日
12月4日(じゅうにがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。
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12月4日(じゅうにがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月4日'''(じゅうにがつよっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から338日目([[閏年]]では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。 == できごと == [[Image:Toei-5000.jpg|thumb|180x180px|[[都営地下鉄浅草線]]開業(1960)日本初の[[パンタグラフ]]がついた地下鉄。]] * [[771年]] - [[フランク王国|フランク王]][[カールマン (フランク王)|カールマン]]が死亡。共同統治をしていた[[カール大帝|カール1世]]がフランク王国の単独の国王となる<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Carloman-king-of-the-Franks-751-771 |title=Carloman|king of the Franks (751-771) |access-date=5 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。 * [[794年]]([[延暦]]13年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[平安京]]が新都となり、同時に山背国が[[山城国]]と改められる。 * [[1185年]]([[文治]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[後白河天皇|後白河法皇]]が[[源頼朝]]に[[源義経]]追討の[[院宣]]を下す。 * [[1259年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]と[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]が[[パリ条約 (1259年)|パリ条約]]を結ぶ。 * [[1563年]] - [[1545年]]に開会した[[トリエント公会議]]が閉会。 * [[1791年]] - 世界初の日曜版[[新聞]]『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』が創刊。 * [[1872年]] - 1か月前にニューヨークを出航した[[メアリー・セレスト号]]が、ポルトガル沖で無人で漂流しているのが発見される。 * [[1884年]]([[光緒]]10年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[甲申政変]]。 * [[1890年]] - [[北里柴三郎]]らが[[ジフテリア]]と[[破傷風]]の[[抗血清#血清療法|血清療法]]を発表。 * [[1909年]] - [[大韓帝国]]の政治結社[[一進会]]が[[韓日合邦を要求する声明書]]を発する。 * [[1915年]] - [[東京証券取引所|東京株式市場]]が暴騰。[[大戦景気 (日本)|第一次大戦景気]]が始まる。 * [[1926年]] - [[山形県]][[五色温泉 (山形県)|五色温泉]]で秘密裏に[[日本共産党第3回大会]]が開催され、[[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]]が発足<ref>徳田球一ら共産党幹部三十五人有罪に『東京日日新聞』昭和5年4月29日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p158 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1934年]] - [[大雪山国立公園]]・[[阿寒摩周国立公園|阿寒国立公園]]・[[中部山岳国立公園]]・阿蘇国立公園(現[[阿蘇くじゅう国立公園]])が[[国立公園]]に指定。 * [[1959年]] - [[新潟日赤センター爆破未遂事件]]。 * [[1960年]] - [[都営地下鉄]]1号線(現在の[[都営地下鉄浅草線]])[[押上駅]] - [[浅草橋駅]]間が開業し、[[京成電鉄]]と相互乗入れ開始。 * [[1965年]] - [[1965年ニューヨーク空中衝突事故]]。 * 1965年 - アメリカの有人宇宙船「[[ジェミニ7号]]」が打ち上げ。 * 1965年 - [[日本科学者会議]]結成。 * [[1969年]] - 米軍は沖縄人米軍基地労働者の大量解雇発表<ref>{{Cite web |title=1969年12月4日 米軍基地労働者の大量解雇発表 |url=https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/6088 |access-date=22 Sep 2023 |publisher=沖縄県公文書館}}</ref>。 * [[1971年]] - スイス・[[モントルー]]の[[モントルー・カジノ]]で行われた[[フランク・ザッパ]]のコンサートで、観客が撃った[[信号拳銃|照明弾]]により火災が発生。[[ディープ・パープル]]の楽曲「[[スモーク・オン・ザ・ウォーター]]」の題材となる。 * [[1972年]] - [[スティーブン・ステイナー誘拐事件]]。 * [[1975年]] - [[スリナム]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * [[1977年]] - [[中央アフリカ共和国]]終身大統領[[ジャン=ベデル・ボカサ]]が{{仮リンク|ボカサ1世の戴冠式|en|Coronation of Bokassa I|label=戴冠式}}を行い[[中央アフリカ帝国]][[皇帝]]ボカサ1世として即位。 * 1977年 - [[マレーシア航空システム653便ハイジャック墜落事件]]が発生。乗員・乗客100人全員が死亡<ref>{{Cite news|和書|title=乗っ取り犯が機長射殺|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1978-09-08|edition=朝刊、13版|page=23}}</ref>。 * [[1982年]] - [[中華人民共和国]]の第五期[[全国人民代表大会]]で現行の[[中華人民共和国憲法]]が採択。 * 1982年 - [[映画]]『[[E.T.]]』が日本で公開。1997年(平成9年)公開の『[[もののけ姫]]』に抜かれるまで、邦画と洋画の配給収入、歴代1位を記録。 * [[1983年]] - [[テレビユー福島]] (TUF) 開局。 * [[1986年]] - 「[[鉄道事業法]]」及び「[[日本国有鉄道改革法]]」公布。 * [[1987年]] - 最後の旧日本軍出身者である[[森繁弘]]統幕議長の退職を閣議諒解。 * [[1988年]] - [[国際宇宙ステーション]](ISS)を構成する2つ目のモジュール「[[ユニティ (ISS)|ユニティ]]」を搭載した[[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー]]([[STS-88]]ミッション)が打ち上げ。 * 1988年 - [[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[湖西線]][[堅田駅]] - [[和邇駅]]間に[[小野駅 (滋賀県)|小野駅]]が開業。 * 1988年 - [[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]としては世界初となる[[CD-ROM]]媒体を採用した『[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]』が[[NECホームエレクトロニクス]]により発売される。 * [[1991年]] - [[パンアメリカン航空]]が[[倒産]]し、運航停止。 * [[1994年]] - [[世界ボクシング評議会|WBC]]世界バンタム級王者[[薬師寺保栄]]と、WBC世界バンタム級暫定王者[[辰吉丈一郎]]の間で、日本人同士による初の統一王座決定戦が行われ、2-0の判定で薬師寺が勝利した。 * [[1999年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[奥羽本線]][[山形駅]] - [[新庄駅]]間が[[標準軌]]化。同区間で[[山形新幹線]]が開業。 * [[2000年]] - [[歌舞伎町ビデオ店爆破事件]]。 * [[2009年]] - [[京都朝鮮学校公園占用抗議事件]]。 * [[2010年]] - [[東北新幹線]]・[[八戸駅]] - [[新青森駅]]が開業し、全線開通。あわせて、[[東北本線]]の一部を[[青い森鉄道]]に移管。 * [[2011年]] - [[2011年ロシア下院選挙]]: [[ロシア連邦議会]]下院選挙の投開票の結果、与党[[統一ロシア]]が大きく議席を減らす<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111209023521/http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011120502000163.html|archivedate=9 Dec 2011|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011120502000163.html|title=ロシア下院選 プーチン与党 大幅減|publisher=[[東京新聞]] [[中日新聞東京本社]]|date=5 Dec 2011|accessdate=5 May 2023}}</ref>。 * [[2013年]] - 交通政策基本法が施行<ref>{{Cite web |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport_policy/sosei_transport_policy_tk1_000010.html |title=交通政策基本法について |access-date=22 Sep 2023 |publisher=[[国土交通省]]}}</ref>。 * 2013年 - [[ウェブサイト]]「[[Have I Been Pwned?]]」が開設される。 * [[2019年]] - [[アフガニスタン]]で長年人道支援に取り組んできた[[非政府組織|NGO]]「ペシャワール会」の代表、[[中村哲 (医師)|中村哲]]医師ら6名が銃撃され死亡<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/japanese/50657223 |title=中村哲医師、アフガニスタンで銃撃され死亡 現地で井戸を建設 |access-date=22 Sep 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=4 Dec 2019}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/topics/word/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%93%B2.html%C2%A0 |title=アフガンで銃撃、医師の中村哲さんが死亡 |access-date=22 Sep 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |website=中村哲さん 信念の軌跡}}</ref>。 * [[2022年]] - [[静岡県]][[裾野市]]の私立の[[保育所|認可保育園]]で、1歳児を受け持っていた3人の元女性保育士が、園児の足をつかんで宙づりにしたり、倉庫に閉じ込めたりなど、悪質な保育をしていたことで問題になっていた件について、[[静岡県警察|静岡県警]]が、この3人を暴行の疑いで逮捕した<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASQD4421WQD4UTPB004.html |title=保育士3人を暴行容疑で逮捕、宙づりなど園児虐待の保育園 静岡県警 |access-date=22 Sep 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=4 Dec 2022}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1580年]] ([[天正]]8年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]])- [[鍋島勝茂]]、初代[[佐賀藩|佐賀藩主]] (+ [[1657年]]) * [[1660年]] - [[アンドレ・カンプラ]]、[[作曲家]](+ [[1744年]]) * [[1750年]] ([[寛延]]3年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]])- [[毛利就馴]]、第8代[[徳山藩|徳山藩主]] (+ [[1828年]]) * [[1775年]] ([[安永 (元号)|安永]]4年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]])- [[松平頼儀]]、第8代[[高松藩|高松藩主]] (+ [[1829年]]) * [[1795年]] - [[トーマス・カーライル]]、[[歴史家]](+ [[1881年]]) * [[1806年]] - [[ヨハン・ブルグミュラー]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1874年]]) * [[1858年]] ([[安政]]5年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]])- [[酒井忠美]]、第9代[[安房勝山藩|安房勝山藩主]] (+ [[1923年]]) * [[1862年]] - [[コンスタン・モンタルド]]、[[美術家]](+ [[1944年]]) * [[1868年]] - [[エドワード・ガントレット]]、[[言語学者]](+ [[1956年]]) * 1868年 - [[ジェシー・バーケット]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1953年]]) * [[1875年]] - [[ライナー・マリア・リルケ]]、[[詩人]](+ [[1926年]]) * [[1882年]] - [[宮原清]]、[[実業家]]、[[日本社会人野球協会]]初代会長(+ [[1963年]]) * [[1892年]] - [[フランシスコ・フランコ]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1975年]]) * [[1899年]] - [[松井千枝子]]、[[俳優|女優]](+ [[1929年]]) * [[1903年]] - [[吉田信三]]、映画監督(+[[1972年]]) * [[1908年]] - [[アルフレッド・ハーシー]]、[[生物学者]](+ [[1997年]]) * [[1909年]] - [[原島宏治]]、政治家(+ [[1964年]]) * [[1913年]] - [[今村泰二]]、[[動物学|動物学者]]、[[ミズダニ]]研究の世界的権威(+ [[2004年]]) * [[1921年]] - [[うしおそうじ]]、[[漫画家]]、[[演出家]](+ [[2004年]]) * 1921年 - [[ディアナ・ダービン]]、女優(+ [[2013年]]) * [[1922年]] - [[ジェラール・フィリップ]]、[[俳優]](+ [[1959年]]) * [[1926年]] - [[吉田之久]]、政治家(+ [[2003年]]) * [[1927年]] - [[ウィリアム・ラボフ]]、[[言語学者]] * [[1928年]] - [[鈴木礼治]]、政治家(+ [[2022年]]) * [[1930年]] - [[ジム・ホール]]、[[ジャズ]][[ギタリスト]](+ [[2013年]]) * 1930年 - [[ジャクリーヌ・デュ・ビエフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1930年 - [[パウル=ハインツ・ディートリヒ]]、作曲家(+ [[2020年]]) * [[1932年]] - [[マック・クリハラ]]、格闘技指導者(+ [[2023年]]) * [[1933年]] - [[芦屋小雁]]、俳優 * 1933年 - [[野田宣雄]]、[[政治学者]]、歴史学者(+ [[2020年]]) * 1933年 - [[ホルスト・ブッフホルツ]]、俳優(+ [[2003年]]) * 1933年 - [[河津憲一]]、元プロ野球選手 * 1933年 - [[鈴木伸一]]、[[アニメーション]]作家、漫画家 * [[1936年]] - [[山本道子 (作家)|山本道子]]、[[作家]] * [[1939年]] - [[遠井吾郎]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * 1939年 - [[中島博征]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[新克利]]、元俳優 * 1940年 - [[久間章生]]、元政治家 * 1940年 - [[二瓶正也]]、俳優(+ [[2021年]]) * [[1941年]] - [[花巻五郎]]、俳優 * [[1942年]] - [[阿部雄厚]]、元プロ野球選手 * 1942年 - [[阿部正樹]]、実業家 * [[1943年]] - [[柴田勝久]]、[[レフェリー]]([[ドラディション]]、元[[新日本プロレス]])、元[[プロレスラー]](+ [[2010年]]) * [[1944年]] - [[青柳裕介]]、[[漫画家]](+ [[2001年]]) * 1944年 - [[芦原英幸]]、[[空手道|空手家]](+ [[1995年]]) * 1944年 - [[デニス・ウィルソン]]、[[ミュージシャン]]([[ザ・ビーチ・ボーイズ]])(+ [[1983年]]) * [[1945年]] - [[ロベルタ・ボンダー]]、[[神経学|神経学者]]、[[宇宙飛行士]] * [[1946年]] - [[井上瑤]]、[[声優]](+ 2003年) * [[1947年]] - [[安田好弘]]、[[弁護士]] * [[1948年]] - [[高橋豊 (実業家)|高橋豊]]、実業家、[[アニメイト]]創業者 * 1948年 - [[川又千秋]]、[[SF作家]] * 1948年 - [[レオン佐久間]]、イラストレーター * [[1949年]] - [[岩城光英]]、政治家 * 1949年 - [[ジェフ・ブリッジス]]、俳優 * [[1951年]] - [[立石涼子]]、女優、声優(+ [[2020年]]) * [[1952年]] - [[レオン・リー]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]] * 1952年 - [[東村新一]]、政治家、[[福井市|福井]][[市長]] * [[1953年]] - [[三浦浩一]]、俳優 * 1953年 - [[ジャン=マリー・プファフ]]、元サッカー選手 * [[1954年]] - [[奥山和由]]、[[映画監督]] * 1954年 - [[神田香織]]、講談師 * [[1955年]] - [[滝田洋二郎]]、映画監督 * 1955年 - [[花堂純次]]、映画監督 * [[1956年]] - [[町村敬志]]、[[社会学者]] * [[1957年]] - [[堀米ゆず子]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1959年]] - [[立川真司]]、タレント * [[1960年]] - [[野間美由紀]]、漫画家 (+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=漫画家の野間美由紀さん、虚血性心疾患のため2日に死去 59歳 『パズルゲーム』シリーズ連載中|publisher=[[ORICON NEWS]]|date=14 May 2020|url=https://www.oricon.co.jp/news/2162109/full/|accessdate=5 May 2023}}</ref>) * [[1961年]] - [[森みゆき]]、歌手、タレント * 1961年 - [[茶風林]]、声優 * 1961年 - [[茅場孝史]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[森下能幸]]、俳優 * 1962年 - [[大谷信盛]]、政治家 * 1962年 - 松本淳、ドラマー([[UGUISS]]) * [[1963年]] - [[セルゲイ・ブブカ]]、元[[棒高跳]]選手 * 1963年 - [[バーナード・ブリトー]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[ヨゼフ・サボフチク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1964年]] - [[マリサ・トメイ]]、女優 * 1964年 - [[加藤哲郎 (野球)|加藤哲郎]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[ロス・チーバー]]、レーシングドライバー * 1964年 - [[高田雅博]]、CMディレクター、映画監督 * 1964年 - [[静太郎]]、歌手 * 1964年 - [[セルタブ・エレネル]]、歌手 * [[1965年]] - [[アレックス・デ・ラ・イグレシア]]、映画監督、脚本家 * 1965年 - [[高橋玄]]、映画監督 * 1965年 - [[近江谷太朗]]、俳優 * 1965年 - [[塚本壮一]]、ジャーナリスト、NHKソウル支局長 * 1965年 - [[与田剛]]、元プロ野球選手、監督 * [[1966年]] - [[斎田晴子]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]] * 1966年 - [[永井真理子]]、[[歌手]] * [[1968年]] - [[舘恭子]]、報道記者、元アナウンサー * 1968年 - [[西方仁也]]、元[[スキージャンプ]]選手 * [[1969年]] - [[浅香唯]]、[[タレント]] * 1969年 - [[岸滋彦]]、元[[騎手]]、調教助手 * 1969年 - [[ダイナマイト・関西]]、元[[プロレスラー]] * 1969年 - [[ジェイ・Z]]、[[MC (ヒップホップ)|ヒップホップMC]] * [[1970年]] - [[中川剛 (お笑い芸人)|中川剛]]、[[お笑いタレント]]([[中川家]]) * [[1971年]] - [[クリスティアン・ヴォーリン]]、ミュージシャン、グラフィックデザイナー * 1971年 - [[牧野アンナ]]、[[振付師]]、元歌手 * [[1972年]] - [[星河舞]]、声優 * 1972年 - [[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、声優 * [[1973年]] - [[田村淳]]、お笑いタレント([[ロンドンブーツ1号2号]]) * 1973年 - [[タイラ・バンクス]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優 * [[1974年]] - [[井口資仁]]、元プロ野球選手、監督 * 1974年 - [[アンケ・フーバー]]、[[テニス]]選手 * [[1975年]] - [[エド・ヤーナル]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[愛敬尚史]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[梅村礼]]、[[卓球]]選手 * 1976年 - [[草野大輔]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[出羽乃富士智章]]、元大相撲力士 * 1976年 - [[ルー・ミンジュン]]、女優 * 1976年 - [[日向秀和]]、ベーシスト * [[1977年]] - [[野田浩輔]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[イーグル・デーン・ジュンラパン]]、元[[プロボクサー]] * 1978年 - [[米本聡]]、元バスケットボール選手 * 1978年 - [[西歩見]]、[[ファッションモデル]]、料理研究家 * 1978年 - [[湯原麻利絵]]、タレント * 1978年 - [[麻由]]、元タレント * 1978年 - 平子祐希、お笑いタレント([[アルコ&ピース]]) * [[1979年]] - [[米津美和]]、元サッカー選手、指導者 * [[1980年]] - [[森貴美子]]、[[モデル (職業)|モデル]] * 1980年 - [[橋本望]]、モデル * [[1981年]] - [[高宮和也]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[金子洋平]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[岩丸史也]]、元[[サッカー選手]] * 1981年 - [[ジェローム・ウィリアムズ]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[鬼頭里枝]]、アナウンサー * [[1983年]] - [[ロマン・ザレツキー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1984年]] - [[岸孝之]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[前田有香]]、バスケットボール選手 * 1984年 - [[湯元健一]]、レスリング選手 * 1984年 - [[根岸麻衣]]、モデル * 1984年 - [[花園うらら]]、[[グラビアアイドル]] * [[1985年]] - [[カルロス・ゴメス (野球)|カルロス・ゴメス]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[ギャル曽根]]、タレント * 1985年 - [[和希優美]]、タレント * [[1986年]] - [[西村憲]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[菅緑]]、タレント * 1986年 - [[渡辺広大]]、サッカー選手 * 1986年 - [[矢野未希子]]、ファッションモデル * 1986年 - [[知華]]、元ファッションモデル * [[1987年]] - [[荒川美穂]]、声優 * 1987年 - [[木下優樹菜]]、元ファッションモデル、元タレント * 1987年 - [[庄野﨑謙]]、俳優 * 1987年 - [[平井将生]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[azusa (シンガーソングライター)|azusa]]、シンガーソングライター * 1988年 - [[渡部優衣]]、声優 * 1989年 - [[三宅貴大]]、声優 * 1989年 - [[高橋ヒロム]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sp.njpw.jp/profile/61888 |title=高橋 ヒロム |access-date=5 May 2023 |publisher=[[新日本プロレスリング]]}}</ref>、プロレスラー * [[1990年]] - [[古本武尊]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[谷侑加子]]、タレント * 1990年 - [[柳あみ]]、タレント * 1990年 - [[ヴァレリア・シマコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1990年 - [[ルクマン・ハルナ]]、サッカー選手 * 1990年 - [[乾友紀子]]、[[アーティスティックスイミング]]選手 * [[1991年]] - [[柴田紗希]]、モデル * [[1992年]] - [[五十畑颯斗]]、元俳優 * 1992年 - [[イワム]]、俳優 * 1992年 - [[ラウル・アルカンタラ]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[JIN (歌手)|JIN]]、歌手、アイドル([[BTS (音楽グループ)|BTS]]) * 1992年 - [[ジョー・マスグローブ]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[高橋茉奈]]、アナウンサー * [[1994年]] - [[高橋伊久磨]]、ミュージカル俳優 * 1994年 - [[秋葉美希]]、女優 * [[1996年]] - [[ディオゴ・ジョッタ]]、サッカー選手 * 1996年 - [[広田亮平]]、俳優 * [[1998年]] - [[後藤拓磨]]、ダンサー([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]]) * 1998年 - [[元山飛優]]、プロ野球選手 * [[2001年]] - [[大槻りこ (アイドル)|大槻りこ]]、グラビアアイドル(元[[PiiiiiiiN]]、元[[衛星とカラテア]]) * [[2002年]] - [[莉子 (モデル)|莉子]]、ファッションモデル * 2002年 - [[平林清澄]]、[[陸上競技]]選手 * 2002年 - [[東海林クレア]]、ファッションモデル * [[2003年]] - 柴野夕葵、アイドル(元[[NGT48]]) * 2003年 - ミョン・ジェヒョン、アイドル([[BOYNEXTDOOR]]) * 2003年 - [[ジャクソン・ホリデイ]]、プロ野球選手 * [[2004年]] - 飯田栞月、アイドル([[ME:I]]) * 2004年 - 南川遥香、アイドル(NGT48) * 生年不明 - [[根津貴行]]、声優 * 生年不明 - [[宮下早紀]]、声優 * 生年不明 - [[優月うめ]]、漫画家 * 生年不明 - [[高橋理恵]]、元アナウンサー == 忌日 == * [[771年]] - [[カールマン (フランク王)|カールマン]]、[[フランク王国]]国王(* [[751年]]) * [[891年]]([[寛平]]3年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]])- [[円珍]]、[[天台宗]]の[[僧]](* [[814年]]) * [[1111年]]([[天永]]2年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]])- [[永観 (僧)|永観]]、[[三論宗]]の僧(* [[1033年]]) * [[1131年]] - [[ウマル・ハイヤーム]]<ref>{{Cite web |title=Omar Khayyam {{!}} Persian poet and astronomer |url=https://www.britannica.com/biography/Omar-Khayyam-Persian-poet-and-astronomer |access-date=5 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[学者]]、[[詩人]](* [[1048年]]) * [[1214年]] - [[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1143年]]) * [[1270年]] - [[テオバルド2世 (ナバラ王)|テオバルド2世]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]王、[[シャンパーニュ伯]](* [[1238年]]頃) * [[1334年]] - [[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]、第196代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1244年]]?) * [[1371年]] - [[シメオン・ウロシュ・パレオロゴス]]、[[テッサリア|セサリア]]皇帝、[[エピロス専制侯国|イピロス専制公]](* 生年不明) * [[1566年]]([[永禄]]9年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])- [[牧野成定]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](* [[1525年]]) * [[1574年]] - [[ゲオルグ・レティクス]]、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[1514年]]) * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])- [[片倉景綱]]、[[伊達氏]]の重臣として知られる武将(* [[1557年]]) * [[1642年]] - [[リシュリュー]]<ref>{{Cite web |title=Armand-Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu {{!}} French cardinal and statesman |url=https://www.britannica.com/biography/Armand-Jean-du-Plessis-cardinal-et-duc-de-Richelieu |access-date=5 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[フランス]]宰相(* [[1585年]]) * [[1653年]]([[承応]]2年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]])- [[鈴木重成]]、[[天草諸島|天草]][[代官]](* [[1588年]]) * [[1679年]] - [[トマス・ホッブズ]]<ref>{{Cite web |title=Thomas Hobbes {{!}} Biography, Philosophy, Beliefs, Leviathan, Legacy, & Facts |url=https://www.britannica.com/biography/Thomas-Hobbes |access-date=5 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、政治哲学者(* [[1588年]]) * [[1696年]]([[元禄]]9年[[11月10日 (旧暦)|11月10日]])- [[明正天皇]]、第109代[[天皇]](* [[1624年]]) * [[1798年]] - [[ルイージ・ガルヴァーニ]]、[[医学|医学者]]、[[物理学者]](* [[1737年]]) * [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]])- [[根岸鎮衛]]、[[旗本]]、第26代[[南町奉行]](* [[1737年]]) * [[1828年]] - 第2代[[リヴァプール伯爵]][[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|ロバート・バンクス・ジェンキンソン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1770年]]) * [[1850年]] - [[ウィリアム・スタージャン]]、物理学者(* [[1783年]]) * [[1866年]]([[慶応]]2年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]])- [[水野忠誠]]、[[江戸幕府]]の[[老中]]・第7代[[沼津藩|沼津藩主]](* [[1834年]]) * [[1884年]] - [[アリス・メアリ・スミス]]、[[作曲家]](* [[1839年]]) * [[1892年]] - [[大場久八]]、[[博徒]](* [[1814年]]) * [[1902年]] - [[チャールズ・ダウ]]、[[ジャーナリスト]]、[[経済]]アナリスト(* [[1851年]]) * [[1928年]] - [[磯部保次]]、[[実業家]]、千代田瓦斯([[東京ガス]]前身)創業者、[[政友会]][[衆議院議員]](* [[1868年]]) * [[1935年]] - [[シャルル・ロベール・リシェ]]、[[生理学者]](* [[1850年]]) * 1935年 - [[ヨハン・ハルヴォルセン]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](* [[1864年]]) * [[1937年]] - [[真鶴秀五郎]]、[[大相撲]][[力士]]、元[[小結]](* [[1902年]]) * [[1938年]] - [[玉錦三右エ門]]、大相撲第32代[[横綱]](* [[1903年]]) * [[1942年]] - [[中島敦]]、[[作家]](* [[1909年]]) * [[1944年]] - [[永井柳太郎]]、元[[拓務大臣]]、[[逓信大臣]]、[[鉄道大臣]](* [[1881年]]) * 1944年 - [[ロジャー・ブレスナハン]]、プロ野球選手(* [[1879年]]) * 1944年 - [[飯塚勝一]]、[[野球選手]](* 生年不詳) * [[1945年]] - [[トーマス・ハント・モーガン]]、[[生物学|生物学者]](* [[1866年]]) * [[1952年]] - [[カレン・ホーナイ]]、[[医師]]、[[精神分析|精神分析家]](* [[1885年]]) * [[1953年]] - [[ダニエル・グレゴリー・メイソン]]、作曲家(* [[1873年]]) * [[1957年]] - [[愛新覚羅慧生]]、清朝最後の皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の姪(* [[1938年]]) * [[1961年]] - [[津田左右吉]]、[[歴史学者]](* [[1873年]]) * [[1967年]] - [[笠信太郎]]、[[ジャーナリスト]](* [[1900年]]) * [[1970年]] - [[飯塚浩二]]、[[地理学者]](* [[1906年]]) * [[1973年]] - [[平井太郎]]、元[[郵政大臣]](* [[1905年]]) * [[1974年]] - [[服部伸]]、[[講談師]](* [[1880年]]) * [[1975年]] - [[ハンナ・アーレント]]、[[政治哲学|政治哲学者]]、[[政治哲学|政治思想家]](* [[1906年]]) * [[1976年]] - [[ベンジャミン・ブリテン]]、[[作曲家]](* [[1913年]]) * 1976年 - [[トミー・ボーリン]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[ディープ・パープル]])(* [[1951年]]) * [[1978年]] - [[サミュエル・ゴーズミット]]、物理学者(* [[1902年]]) * [[1979年]] - [[ヴァルター・ミュラー]]、物理学者、[[発明家]](* [[1905年]]) * [[1987年]] - [[ルーベン・マムーリアン]]、[[映画監督]](* [[1897年]]) * 1987年 - [[クルト・ヴェス]]、元[[NHK交響楽団]]常任[[指揮者]](* [[1914年]]) * 1987年 - [[アーノルド・ローベル]]、[[絵本作家]](* [[1933年]]) * [[1990年]] - [[田島直人]]、[[陸上競技]]選手、[[ベルリンオリンピック]][[金メダル|金メダリスト]](* [[1912年]]) * [[1993年]] - [[フランク・ザッパ]]、ミュージシャン(* [[1940年]]) * [[1999年]] - [[大翔鳳昌巳]]、[[大相撲]][[力士]]、元[[小結]](* [[1967年]]) * [[2005年]] - [[原ひさ子]]、[[俳優|女優]](* [[1909年]]) * 2005年 - [[グレッグ・ホフマン]]、[[映画プロデューサー]](* [[1963年]]) * [[2008年]] - [[寺島幹夫]]、俳優、[[声優]](* [[1931年]]) * 2008年 - [[ヴォルフ・フォン・エンゲルハート]]、[[地質学者]]、[[鉱物学者]](* [[1910年]]) * [[2009年]] - [[石田名香雄]]、医学者(* [[1923年]]) * [[2011年]] - [[ソクラテス (サッカー選手)|ソクラテス]]、サッカー選手(* [[1954年]]) * [[2014年]] - [[蒲池猛夫]]、[[射撃]]選手(* [[1936年]]) * 2014年 - [[原一平]]、[[ものまねタレント]](* [[1938年]]) * [[2015年]] - [[田村三郎]]、[[農芸化学|農芸化学者]](* [[1917年]]) * 2015年 - [[ロバート・ロッジア]]、俳優(* [[1930年]]) * 2015年 - [[杉本章子]]、小説家(* [[1953年]]) * 2015年 - [[櫻井孝昌]]、[[ポップカルチャー]]研究家、メディア[[プロデューサー]](* [[1965年]]) * [[2016年]] - [[荒川博]]、元[[プロ野球選手]](* [[1930年]]) * [[2019年]] - [[速水融]]、[[経済学者]](* [[1929年]]) * 2019年 - [[中村哲 (医師)|中村哲]]、[[医師]](* [[1946年]]) * 2019年 - [[中島淳彦]]、[[脚本家]](* [[1961年]]) * [[2020年]] - [[谷田絹子]]、[[バレーボール]]選手(* [[1939年]]) * 2020年 - [[佐々木力]]、[[科学史学者]](* [[1947年]]) * 2020年 - [[佐久田脩]]、俳優、声優(* [[1958年]]) * 2020年 - [[ナリンダー・シン・カパニー]]、[[物理学者]](* [[1926年]]) * 2020年 - [[ソヘイラ・スィッディーキー]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1949年]]) * 2020年 - [[アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ミハイロフ]]、政治家(* [[1951年]]) == 記念日・年中行事 == * [[海軍記念日]]({{IND}}) *: [[1971年]]のこの日、[[第三次印パ戦争]]でインド海軍が[[カラチ]]を爆撃したことを記念。 * 海軍記念日({{ITA}}) * 血清療法の日 *: [[1890年]]12月4日、[[エミール・ベーリング]]と[[北里柴三郎]]が[[血清]]療法開発につながる[[破傷風]]と[[ジフテリア]]の[[抗体]]を発見したことから。 * [[聖バルバラ]]の日 * [[中華人民共和国憲法|憲法]]の日({{CHN}})- [[:zh:国家宪法日|中国語詳細]] *: [[1982年]]12月4日、第5期[[全国人民代表大会]]で現[[中華人民共和国憲法]]が成立(改正)。 *[[E.T.]]の日 *: 1982年12月4日、映画「E.T.」が日本で公開されたことに由来。 * クッキー記念日(NationalCookieDay)({{USA}})<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sportingnews.com/jp/mlb/news/ウォリアーズもレッズもクッキー記念日に大はしゃぎ/1emo7b3p73b4g1bcvj36w0vi3p#:~:text=「ナショナル・クッキーデー」を,派生しているという%E3%80%82 |title= ウォリアーズもレッズも……「クッキー記念日」に大はしゃぎ |publisher=The Sporting News|date=5 Dec 2018|accessdate=5 May 2023}}</ref> == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1204|date=2023年5月}} * [[1851年]] - マリユス・ポンメルシー男爵、[[フランス]]・[[パリ]]のプティ=カロー通りの[[バリケード]]で国民兵相手に《武器のない戦い》を繰り広げる。(小説『[[コゼット (小説)|コゼット]]』) * 1904年(明治37年)- 苦沙弥先生が「自分の描いた[[水彩画]]が[[額]]に入れられ[[欄間]]にかけられて急に上手になったと感心した[[夢]]を見たが、目が覚めてやはり下手だと気づいた」と[[日記]]に書いた。(『[[吾輩は猫である]]』第1話) * 2006年 - スーパー電子工機、[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]「ぴゅー吉」を発売開始。(『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0083年 - [[ティターンズ]]が[[地球連邦軍]]内に結成される。(アニメ『[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]]』) * 2022年 - 喫茶どんぶらで発見された謎のボタンにより、対ドンブラザーズ用兵器ドン・キラーが襲来。ドンブラザーズを窮地に陥れるが、対ドン・キラー用兵器ドン・キラー・キラーも登場、ドン・キラーと果てしない戦いを繰り広げる。([[スーパー戦隊シリーズ]]『[[暴太郎戦隊ドンブラザーズ]]』ドン39話『たなからボタンぽち』) === 誕生日(フィクション) === * 1964年 - 邑輝一貴、アニメ・漫画『[[闇の末裔]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=松下容子|authorlink=松下容子|title=闇の末裔|volume=第6巻|publisher=[[白泉社]]|series=[[花とゆめコミックス]]|year=1999|quote=巻末|isbn=978-4-592-17406-6}}</ref> * 2001年 - [[惣流・アスカ・ラングレー]]、アニメ・漫画『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=特務機関調査プロジェクトチーム |year=1997 |title=新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説 |page=197 |publisher=[[青春出版社]] |isbn= 978-4-413-03073-1}}</ref><ref>{{Twitter status|evabf_official|1334437223501066241}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]508年 - ラフィネ、ゲーム『[[スターオーシャン5 -Integrity and Faithlessness-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=89|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - めぐみん、アニメ・小説『[[この素晴らしい世界に祝福を!|この素晴らしい世界に祝福を!]]』に登場するキャラクター・映画『[[映画 この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説|この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説]]』・アニメ『[[この素晴らしい世界に爆焔を!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://animeanime.jp/article/2019/12/04/50155.html |title=「このすば」我が名はめぐみん! 12月4日に生誕した! 誕生日記念に“紅魔族”グッズ尽くしの爆焔フェア開催 |access-date=5 May 2023 |publisher=アニメ!アニメ! |date=4 Dec 2019}}</ref><ref>{{Twitter status|konosubaanime|1069916133384318979}}</ref> * 生年不明 - エスプレッソ、『[[シナモロール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/cinnamon/ |title=お友だち エスプレッソ |access-date=5 May 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『シナモロール』}}</ref> * 生年不明 - カイト、『[[ジュエルペット]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/jewelpet/ |title=なかまたち マジカルグリーン カイト |access-date= 5 May 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『ジュエルペット』}}</ref> * 生年不明 - ヨルル、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Jorul.html |title=ヨルル |access-date= 5 May 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref> * 生年不明 - 仁王雅治、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1334513985912250373}}</ref> * 生年不明 - 加藤ダン、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=103|isbn=4-08-873734-2}}</ref><ref>{{Twitter status|narucole_jp|1466784314621071361}}</ref> * 生年不明 - 香風智乃(チノ)、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=「ご注文はうさぎですか?」画集 Cafe du Lapin|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|year=2014|page=14|isbn=978-4-8322-4448-1}}</ref> * 生年不明 - 服部半太、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate= 5 May 2023}}</ref> * 生年不明 - 宮里十海、アニメ・映画『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hai-furi.com/character/06_03/ |title=宮里十海 |access-date=5 May 2023 |publisher=AAS/海上安全整備局 AAS/新海上安全整備局 |work=『ハイスクール・フリート』}}</ref> * 生年不明 - 七之里呼吹、アニメ・ゲーム・小説『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://minitoji.jp/chara/kofuki.html |title=七之里呼吹(しちのさとこふき) |access-date= 5 May 2023 |publisher=伍箇伝計画/刀使ノ巫女製作委員会 |work=TVアニメ『みにとじ』}}</ref> * 生年不明 - 風間祷子、ゲーム『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』に登場するキャラクター<ref>『マブラヴ オルタネイティヴ メモリアルアートブック』、[[アスキー・メディアワークス]]、66頁。</ref> * 生年不明 - セイラ、ゲーム『[[ドリームクラブ|ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2014 |title = ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック |page = 38 |publisher = [[KADOKAWA]] |ISBN = 978-4-04-729693-0}}</ref> * 生年不明 - ウララギ、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|lmsb69|1406809096322486274}}</ref> * 生年不明 - 寿クルト、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://t7s.jp/character/chara/46.html |title=寿クルト |access-date=5 May 2023 |work=『Tokyo 7th シスターズ』 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]]}}</ref> * 生年不明 - 朝霧司、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_police.html |title=警視庁 朝霧司 |accessdate=5 May 2023 |publisher=[[coly]]/SMHP |work=『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#黛冬優子|黛冬優子]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/50020 |title=黛冬優子 (まゆずみ ふゆこ) |website=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑 |accessdate= 5 May 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] }}</ref> * 生年不明 - [[Poppin'Party|花園たえ]]、メディアミックス企画『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/hanazono-tae/ |title=花園 たえ |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ!』 |publisher=[[ブシロード]] |accessdate=5 May 2023}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|4 December}} {{新暦365日|12|3|12|5|[[11月4日]]|[[1月4日]]|[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]|1204|12|04}} {{1年の月と日}}
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12月7日
12月7日(じゅうにがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。
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12月7日(じゅうにがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月7日'''(じゅうにがつなのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から341日目([[閏年]]では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。 == できごと == [[File:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|180x180px|アポロ17号から撮影された[[ザ・ブルー・マーブル]]]] * [[紀元前43年]] - [[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]が[[暗殺]]される。 * [[771年]]([[宝亀]]2年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[東山道]]の[[武蔵国]]を[[東海道]]に編入。 * [[1732年]] - [[ロンドン]]・[[コヴェント・ガーデン]]の[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]が開場。 * [[1787年]] - [[デラウェア州]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を批准した第1の州になる。 * [[1798年]] - [[スイス]]の教育者・[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]が孤児院を開設。 * [[1835年]] - [[ドイツ]]初の鉄道、[[バイエルン王国]](ニュルンベルク - フュルト間)で開業。 * [[1857年]]([[安政]]4年10月21日)- [[タウンゼント・ハリス|ハリス]]駐日アメリカ総領事が[[江戸城]]に登城、[[江戸幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定]]に[[謁見]]。 * [[1867年]] - [[天満屋事件]]。[[陸奥宗光|陸奥湯之助]]及び[[中井庄五郎]]らが[[三浦休太郎]]を暗殺するために討ち入り。 * [[1917年]] - [[第一次世界大戦]]: [[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に[[宣戦布告]]。 * 1917年 - 野田醤油(現:[[キッコーマン]])設立。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[真珠湾攻撃]]。(米国時間) * [[1944年]] - [[東南海地震#1944年東南海地震(昭和東南海地震)|昭和東南海地震]]。[[紀伊半島]]南東沖を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生、[[静岡県]][[御前崎市]]と[[三重県]][[津市]]で震度6を観測<ref>{{Cite web |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/126/ |title=昭和東南海地震(1944年) |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] 天気・災害}}</ref>。 * [[1948年]] - [[昭和電工事件]]: [[芦田均]]前首相を逮捕。 * [[1949年]] - [[国共内戦]]: [[蔣介石]]が[[中華民国]]の首都機能を[[台湾]]・[[台北]]に移す。 * [[1950年]] - [[池田勇人]]蔵相が米価問題についての答弁で「貧乏人は麦を食え」と発言し問題化。 * [[1952年]] - [[鹿地事件]]: 1年前から行方不明になっていた作家・[[鹿地亘]]が東京の自宅に戻り、アメリカの[[諜報]]機関・[[キャノン機関]]に拉致監禁されていたと語る。 * [[1954年]] - [[第5次吉田内閣]]が総辞職。 * [[1955年]] - [[長崎市]]と[[アメリカ合衆国]][[セントポール (ミネソタ州)|セントポール市]]の都市提携成立。日本初の[[姉妹都市]]<ref>{{Cite web |url=https://www.clair.or.jp/j/exchange/jirei/shimai/nagasaki.html |title=姉妹交流活動の参考事例 - 自治体間交流 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=一般財団法人自治体国際化協会(クレア)}}</ref>。 * [[1958年]] - [[東京タワー]]公開開始。営業開始は[[12月23日]]。 * [[1961年]] - [[秋田県]][[秋田市]]で[[偽札|ニセ千円札]]事件([[チ-37号事件]])発生。 * 1961年 - [[東京湾]]の10号埋立地(現[[有明 (江東区)|有明]])沖合で、波浪により釣り船が10隻が遭難。11人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=157 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1965年]] - [[東西教会の分裂]]: [[第2バチカン公会議]]において[[ローマ教皇]]と[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]]が911年にわたる相互の[[破門]]を解消。 * [[1969年]] - 福岡県の国鉄[[幸袋線]]がこの日の運転限りで廃止。 * 1969年 - [[愛知県]][[豊橋市]]西橋良町付近で[[竜巻]]が発生。JR[[東海道本線]]を横断し、北東へ進み、市街地の中心部を通って下地・大村方面に向った。死者1人、重軽傷者69人<ref>{{Cite web |url=https://www.data.jma.go.jp/obd/bsdb/data/files/sg_history/23000/1969/23000_1969_1_8_1.pdf |title=昭和44(1969)年12月7日 豊橋市で発生した竜 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[気象庁]] |format=[[PDF]]}}</ref><ref>大たつ巻、東海道を真っ二つ 1人死に60人重軽傷 130戸に被害 車20台が飛ぶ『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月8日朝刊、12版、15面</ref>。 * [[1972年]] - 7度目かつ最後の有人月宇宙船「[[アポロ17号]]」が打ち上げ。 * [[1975年]] - [[インドネシア]]が[[東ティモール]]に侵攻。 * [[1988年]] - [[アルメニア地震 (1988年)|アルメニア地震]]発生。 * 1988年 - [[長崎市]]の[[本島等]]市長が市議会で、天皇に[[昭和天皇の戦争責任論|戦争責任]]があると発言。 * [[1990年]] - [[東京都]][[多摩市]]で[[サンリオピューロランド]]開園。 * [[1995年]] - アメリカの[[木星]][[探査機]]「[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]」が[[木星]]軌道に投入。 * [[1997年]] - [[介護保険法]]公布。 * [[1999年]] - [[オウム真理教]]規制を目的とした[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律|団体規制法]]が公布。27日施行。 * 1999年 - 年金改正法成立。 * 1999年 - [[アメリカレコード協会]] (RIAA) が、[[ファイル共有ソフト|ファイル共有サービス]][[Napster]]に対し[[著作権]]を侵害しているとして提訴。 * [[2001年]] - [[文化芸術基本法|文化芸術振興基本法]]施行。 * [[2002年]] - 「[[K-1]] WORLD GP 2002 決勝戦」が主催者発表で観客動員74,500人を記録し、[[東京ドーム]]における最多観客動員記録を作る。 * [[2004年]] - [[ハーミド・カルザイ]]が[[アフガニスタン]][[大統領]]に就任。 * [[2006年]] - [[任天堂]]の据え置き型ゲーム機、[[Wii]]が[[オーストラリア|豪州]]で発売開始。 * [[2007年]] - [[ヘーベイ・スピリット号原油流出事故]]。 * [[2012年]] - 三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の[[三陸沖地震 (2012年12月)|三陸沖地震]]発生<ref>{{Cite web |url=https://earthquake.tenki.jp/lite/bousai/earthquake/detail/2012/12/07/2012-12-07-17-18-58.html |title=地震情報 2012年12月07日 17時18分頃発生 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[日本気象協会]] ALiNKインターネット |date=7 Dec 2012}}</ref>。死傷、建物の一部損壊などの被害が出たほか、[[津波]]も観測された。[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の[[余震]]とされている。 * [[2015年]] - 日本の[[金星]][[探査機]]「[[あかつき (探査機)|あかつき]]」が[[金星]]の[[周回軌道]]に投入される<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/articles/20151207/k00/00e/040/116000c |title=あかつき:金星周回軌道へ噴射成功 5年ぶり再挑戦 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=7 Dec 2015}}</ref>。 * 2015年 - [[TBSラジオ]]・[[文化放送]]・[[ニッポン放送]]の在京[[中波放送|AM]]ラジオ3局が[[FM補完中継局|FM補完放送(ワイドFM)]]の本放送を開始。 * [[2021年]] - [[日本メタバース協会|一般社団法人日本メタバース協会]]発足。 * [[2019年]] - 親が育てられない乳幼児を匿名でも受け入れる「[[赤ちゃんポスト]]」を運営している[[慈恵病院]]が、特定の条件に該当する場合に限り、匿名で出産できる事実上の「内密出産制度」を導入したと発表<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53096790X01C19A2000000/ |title=匿名の「内密出産」妊婦を受け入れ 熊本・慈恵病院 望まない妊娠、危険な孤立出産防ぐ |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=7 Dec 2019}}</ref>。 * [[2022年]] - アメリカ合衆国、[[カンザス州]]の[[ワシントン郡 (カンザス州)|ワシントン郡]]で[[キーストーン・パイプライン]]から[[キーストーン・パイプラインの原油流出 (2022年)|原油が流出]]<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/pipeline-spill-tcenergy-keystone-idJPKBN2SS23E |title=キーストーン・パイプライン停止、カンザス州で原油1.4万バレル流出 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=9 Dec 2022}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1561年]]([[永禄]]4年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[吉川広家]]、[[周防国]][[岩国領]]の初代領主(+ [[1625年]]) * [[1592年]]([[文禄]]元年/[[万暦]]20年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[隠元隆琦]]、禅僧、日本[[黄檗宗]]の開祖(+ [[1673年]]) * [[1598年]] - [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]<ref>{{Kotobank|ベルニーニ}}</ref>、[[彫刻家]]、[[画家]]、[[建築家]](+ [[1680年]]) * [[1703年]]([[弘化]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[内藤政樹]]、[[日向国]][[延岡藩]]の初代藩主(+ [[1766年]]) * [[1729年]]([[享保]]14年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[徳大寺公城]]、[[公卿]](+ [[1782年]]) * [[1773年]]([[安政]]2年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[徳川治紀]]、[[常陸国]][[水戸藩]]の第7代藩主(+ [[1816年]]) * [[1805年]] - [[ロベール・ウーダン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[1871年]]) * [[1823年]] - [[レオポルト・クロネッカー]]<ref>{{Cite web |title=Leopold Kronecker|German mathematician |url=https://www.britannica.com/biography/Leopold-Kronecker |access-date=27 Sep 2023 |language=en |publisher=Britannica}}</ref>、[[数学者]](+ [[1891年]]) * [[1845年]]([[弘化]]2年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[松平定昭]]、[[伊予国]][[松山藩]]の第14代藩主(+ [[1872年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[西園寺公望]] 、政治家、第12・14代[[内閣総理大臣]](+ [[1940年]]) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[小笠原貞孚]]、[[播磨国]][[安志藩]]の第7代藩主(+ [[1905年]]) * [[1856年]] - [[大森安仁子]]、[[芸術家]]、[[フィランソロピー|慈善活動家]]、[[翻訳|翻訳家]](+ [[1941年]]) * [[1863年]] - [[ピエトロ・マスカーニ]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](+ [[1945年]]) * [[1872年]] - [[ヨハン・ホイジンガ]]、[[歴史家]](+ [[1945年]]) * [[1878年]] - [[与謝野晶子]]、[[作家]]、歌人、女性解放思想家、[[フェミニスト]](+ [[1942年]]) * [[1888年]] - [[草鹿任一]]、[[海軍中将]](+ [[1972年]]) * [[1889年]] - [[ガブリエル・マルセル]]、[[劇作家]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1973年]]) * [[1905年]] - [[矢数道明]]、[[医師]]、[[医史学|医史学者]](+ [[2002年]]) * [[1906年]] - [[松井潤子]]、[[俳優|女優]](+ [[1989年]]) * [[1907年]] - [[エドウィン・アラン・ライトナー]]、外交官(+ [[1990年]]) * [[1912年]] - [[舟越保武]]、[[彫刻家]](+ [[2002年]]) * [[1915年]] - [[イーライ・ウォラック]]、[[俳優]](+ [[2014年]]) * [[1920年]] - [[ヴァルター・ノヴォトニー]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1944年]]) * [[1926年]] - [[イングリッド・チューリン]]、[[俳優|女優]](+ [[2004年]]) * 1926年 - 7代[[式守錦之助]]、[[大相撲]][[行司]](+ [[1995年]]) * [[1928年]] - [[ノーム・チョムスキー]]、[[哲学者]]、[[言語学者]] * [[1930年]] - [[明石一]]、[[声優]]、[[ナレーター]] * 1930年 - [[俵萌子]]、[[評論家]](+ [[2008年]]) * [[1931年]] - [[ジェームズ・グローガン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2000年]]) * [[1935年]] - [[アルマンド・マンサネーロ]]、作曲家、歌手(+ [[2020年]]) * [[1940年]] - [[園田光慶]]、[[漫画家]](+ [[1997年]]) * [[1941年]] - [[清水聖義]]、政治家、[[群馬県]][[太田市]]長 * [[1942年]] - [[アレックス・ジョンソン]]、[[プロ野球選手]](+ [[2015年]]) * [[1946年]] - [[前田正]]、[[郵政省|郵政]][[政務次官]]経験者(+ [[2013年]]) * [[1947年]] - [[ジョニー・ベンチ]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[森下洋子]]、[[バレリーナ]] * [[1949年]] - [[さだやす圭]]、漫画家 * 1949年 - [[トム・ウェイツ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、俳優 * [[1950年]] - [[岡千秋]]、[[作曲家]]、[[演歌歌手]] * [[1951年]] - [[ポール・デード]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[水谷新太郎]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[元木泰雄]]、歴史学者、[[京都大学]]名誉[[教授]] * 1954年 - [[古舘伊知郎]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ニュースキャスター|キャスター]] * [[1956年]] - [[鳳凰倶往]]、元[[大相撲]][[力士]] * [[1957年]] - [[森博嗣]]、[[推理作家]] * [[1958年]] - [[篠宮愼一]]、元プロ野球審判 * [[1959年]] - [[すぎ恵美子]]、漫画家(+ [[2007年]]) * [[1961年]] - [[滝本晃司]]、ミュージシャン(元[[たま (バンド)|たま]]) * [[1963年]] - [[角田美喜]]、ミュージシャン([[SHOW-YA]]) * 1963年 - [[寺田克也]]、[[イラストレーター]] * 1963年 - [[シェーン・マック]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[平塚利男]]、発明家 * [[1964年]] - [[菊地英昭]]、ギタリスト([[THE YELLOW MONKEY]]) * [[1965年]] - [[尾美としのり]]、俳優 * 1965年 - [[香川照之]]、俳優、歌舞伎役者 * 1965年 - [[植田至紀]]、政治家 * [[1966年]] - [[伊藤かずえ]]、女優 * 1966年 - [[河奈さつき]]、[[フリーアナウンサー]] * 1966年 - [[川越透]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[ティノ・マルティネス]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[山中さわお]]、[[歌手]]([[the pillows]]) * 1968年 - [[松井美智子]]、アナウンサー * [[1970年]] - [[筒井はじめ]]、[[芸術家]] * 1970年 - [[バンディット・アングラングシー]]、指揮者 * [[1971年]] - [[林泰文]]、俳優 * [[1973年]] - [[ホーキング青山]]、[[お笑いタレント]] * 1973年 - [[髙木大成]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[走裕介]]、演歌歌手 * [[1974年]] - [[いしだ壱成]]、俳優 * [[1975年]] - [[長田悠幸]]、漫画家 * 1975年 - [[鈴木拓]]、お笑いタレント([[ドランクドラゴン]]) * 1975年 - [[松尾諭]]、俳優 * 1975年 - [[倉垣翼]]、[[プロレスラー]] * [[1976年]] - [[石井秀仁]]、ミュージシャン([[cali≠gari]]、Goatbed) * [[1977年]] - [[ドミニク・ハワード]]、ミュージシャン([[ミューズ (バンド)|ミューズ]]) * [[1978年]] - [[佐藤康恵]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優 * [[1979年]] - [[大出佐智子]]、[[ラジオパーソナリティ]] * 1979年 - [[藤谷文子]]、女優、[[作家]] * 1979年 - [[ライアン・テリオ]] 、元プロ野球選手 * 1979年 - [[市川寛子]]、元アナウンサー * [[1980年]] - [[佐藤友哉]]、[[作家]] * 1980年 - [[ジョン・テリー]]、[[サッカー選手]] * [[1981年]] - [[松藤裕子]]、[[タレント]] * 1981年 - [[深野琴美]]、[[舞台]]女優、モデル * 1981年 - [[文倉十]]、[[イラストレーター]] * [[1982年]] - [[中本健太郎]]、陸上選手 * 1982年 - [[比嘉幹貴]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[小野田紀美]]、政治家 * [[1983年]] - [[宮本笑里]]<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/prof/417958/ |title=宮本笑里 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=22 Mar 2011}}</ref>、[[ヴァイオリニスト]] * [[1984年]] - [[ロバート・クビサ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * 1984年 - [[リュドミラ・ネリディナ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1985年]] - [[ジョナサン・グッド]]、[[プロレスラー]] * [[1986年]] - [[青松敬鎔]]、元プロ野球選手 * [[1987年]] - [[アーロン・カーター]]、歌手、俳優(+ [[2022年]]) * 1987年 - 畠中悠、お笑いタレント([[オズワルド (お笑いコンビ)|オズワルド]]) * [[1988年]] - [[エミリー・ブラウニング]]、女優 *1989年 - [[ニコラス・ホルト]]、俳優 * [[1990年]] - [[水津瑠美]]、元フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[清家大葵]]、サッカー選手 * 1990年 - [[阿部幸音]]、元バスケットボール選手 * 1990年 - [[ダビド・ゴフィン]]、テニス選手 * 1990年 - [[ヤシエル・プイグ]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[アレクサンドル・メンコフ]]、陸上競技選手 * 1990年 - [[ウルシュラ・ラドワンスカ]]、テニス選手 * [[1991年]] - [[桜田通]]、[[俳優]] * 1991年 - 松尾レミ、ミュージシャン ([[GLIM SPANKY]]) * 1991年 - [[髙上智史]]、柔道家 * 1991年 - [[大津顕杜]]、陸上選手 * 1991年 - [[ソニア・ラフエンテ]]、フィギュアスケート選手 * [[1993年]] - [[織田美織]]、女優 * 1993年 - [[清水希容]]、[[空手家]] * 1993年 - [[永尾亜子]]、元アナウンサー * 1993年 - {{仮リンク|ユーゴ・マルシャン|Fr|Hugo Marchand}}、バレエダンサー * [[1994年]] - [[羽生結弦]]、フィギュアスケート選手 * [[1995年]] - [[藤咲彩音]]、アイドル([[でんぱ組.inc]]、ピンキー!ノーラ&ペトラ) * [[2000年]] - [[前田旺志郎]]、お笑いタレント、俳優([[まえだまえだ]]) * 2000年 - [[石橋康太]]、プロ野球選手 * 2000年 - [[キム・ユンジェ (アイスホッケー)|キム・ユンジェ]]、プロアイスホッケー選手 * [[2001年]] - [[山下彩耶]]<ref>{{Cite web |url=https://thetv.jp/person/2000033500/ |title=山下彩耶 |accessdate=27 Sep 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、タレント、アイドル(元[[夢みるアドレセンス]] ) * 2001年 - 藍井すず、アイドル([[Appare!]] ) * [[2003年]] - [[カタリナ=アマリア・ファン・オラニエ=ナッサウ]]、[[オランダ]]皇太女 == 忌日 == * [[紀元前43年]] - [[マルクス・トゥリウス・キケロー]]、[[古代ローマ]]の[[政治家]](* [[紀元前106年]]) * [[742年]]([[天平]]14年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[大野東人]]、[[奈良時代]]の武人 * [[847年]]([[承和 (日本)|承和]]14年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[有智子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[漢詩|漢詩人]](* [[807年]]) * [[948年]]([[天暦]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[源公忠]]、平安時代の[[公卿]]、[[歌人]](* [[889年]]) * [[983年]] - [[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[955年]]) * [[1111年]]([[天永]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[大江匡房]]、平安時代の公卿(* [[1041年]]) * [[1279年]] - [[ボレスワフ5世]]、[[ピャスト朝]][[ポーランド王国|ポーランド]]王(* [[1226年]]) * [[1383年]] - [[ヴェンツェル1世 (ルクセンブルク公)|ヴェンツェル1世]]、初代[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク公]](* [[1337年]]) * [[1562年]] - [[アドリアン・ヴィラールト]]、[[作曲家]](* [[1490年]]頃) * [[1634年]]([[寛永]]11年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[内藤政長]]、[[磐城平藩|磐城平藩主]](* [[1568年]]) * [[1635年]](寛永12年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[神屋宗湛]]、[[博多]]の豪商(* [[1551年]]) * [[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[井上真改]]、[[刀工]](* [[1630年]]) * [[1709年]] - [[メインデルト・ホッベマ]]、[[画家]](* [[1638年]]) * [[1726年]]([[享保]]11年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[榊原政邦]]、[[姫路藩|姫路藩主]](* [[1675年]]) * [[1815年]] - [[ミシェル・ネイ]]、[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス]]軍[[元帥]](* [[1769年]]) * [[1869年]]([[明治]]2年11月5日) - [[大村益次郎]]<ref>{{Cite web |title=大村益次郎 |url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/38/ |website=近代日本人の肖像 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>、医師、西洋学者、兵学者(* [[1824年]]または[[1825年]]) * [[1894年]] - [[フェルディナン・ド・レセップス]]、[[外交官]]、[[実業家]](* [[1805年]]) * [[1902年]] - [[佐野常民]]、[[元老院議官]]、[[日本赤十字社]]創設者(* [[1823年]]) * [[1912年]] - [[ジョージ・ハワード・ダーウィン]]、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[1845年]]) * [[1917年]] - [[レオン・ミンクス]]、[[作曲家]](* [[1826年]]) * [[1931年]] - [[杉田日布]]、[[日蓮宗]]の[[僧]](* [[1856年]]) * [[1936年]] - [[ジャン・メルモーズ]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1901年]]) * [[1940年]] - [[吉岡信敬]]、[[記者]](* [[1885年]]) * [[1944年]] - [[井上哲次郎]]、[[哲学|哲学者]](* [[1856年]]) * [[1946年]] - [[川上貞奴]]、[[俳優|女優]](* [[1871年]]) * [[1947年]] - [[ニコラス・バトラー]]、哲学者、[[コロンビア大学]]総長(* [[1862年]]) * [[1952年]] - [[フォレスト・モールトン]]、天文学者(* [[1872年]]) * [[1954年]] - [[江亢虎]]、[[中華民国]][[汪兆銘政権]]時代の政治家(* [[1883年]]) * [[1955年]] - [[マンフレッド・ブコフツァー]]、[[音楽学者]](* [[1910年]]) * [[1959年]] - [[久邇宮朝融王|久邇朝融]]、[[皇族]]、[[香淳皇后]]の兄(* [[1901年]]) * [[1960年]] - [[ワルター・ノダック]]、[[化学者]](* [[1893年]]) * 1960年 - [[クララ・ハスキル]]、[[ピアニスト]](* [[1895年]]) * [[1969年]] - [[フランク・オドール]]、プロ野球選手(* [[1897年]]) * [[1971年]] - [[牧田與一郎]]、[[実業家]]、[[三菱重工業]][[社長]](* [[1903年]]) * [[1972年]] - [[クラウス・プリングスハイム]]、[[指揮者]](* [[1883年]]) * [[1973年]] - [[川俣清音]]、[[日本社会党]][[衆議院議員]](* [[1899年]]) * [[1975年]] - [[ソーントン・ワイルダー]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1897年]]) * 1975年 - [[塚原俊郎]]、[[政治家]](* [[1910年]]) * 1975年 - [[ベアトリクス・ローラン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1900年]]) * [[1976年]] - [[久保田収]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1910年]]) * [[1977年]] - [[金丸重嶺]]、[[写真家]](* [[1900年]]) * [[1979年]] - [[セシリア・ペイン=ガポーシュキン]]、[[天文学者]](* [[1900年]]) * 1979年 - [[松岡洋子 (評論家)|松岡洋子]]、[[評論家]]、[[翻訳家]](* [[1916年]]) * 1979年 - [[中村敏行]]、[[プロ野球選手]](* [[1936年]]) * [[1982年]] - [[早川崇]]、[[政治家]](* [[1916年]]) * [[1984年]] - [[大川橋蔵 (2代目)|二代目 大川橋蔵]]、[[俳優]](* [[1929年]]) * [[1985年]] - [[ロバート・グレーヴス]]、[[詩人]]、小説家(* [[1895年]]) * [[1990年]] - [[レイナルド・アレナス]]、小説家、詩人(* [[1943年]]) * [[1993年]] - [[森永勝也]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](* [[1934年]]) * [[1996年]] - [[今川正彦]]、政治家、第23代[[京都市長]](* [[1911年]]) * [[1998年]] - [[マーティン・ロッドベル]]、[[生化学|生化学者]](* [[1925年]]) * [[2001年]] - [[小松崎茂]]、[[画家]]、[[イラストレーター]] (* [[1915年]]) * 2001年 - [[木村睦男]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]](* [[1913年]]) * [[2004年]] - [[フレデリック・フェネル]]、指揮者(* [[1914年]]) * 2004年 - [[きむらはじめ (漫画原作者)|勝鹿北星]]、[[漫画原作者]](* [[1946年]]) * [[2005年]] - [[阿部未喜男]]、政治家(* [[1919年]]) * 2005年 - [[中川嘉美]]、[[政治家]](* [[1933年]]) * [[2006年]] - [[ジーン・カークパトリック]]、[[アメリカ合衆国]][[国連大使]](* [[1926年]]) * [[2007年]] - [[上柳克郎]]、[[法学者]](* [[1922年]]) * 2007年 - [[フアド・ハッサン]]、[[インドネシア]]教育文化相(* [[1929年]]) * [[2011年]] - [[松田トシ]]、[[歌手]]、[[声楽家]](* [[1915年]]) * [[2012年]] - [[篠原三代平]]、[[経済学者]](* [[1919年]]) * [[2013年]] - [[すまけい]]、[[俳優]](* [[1935年]]) * [[2016年]] - [[グレッグ・レイク]]、ミュージシャン(* [[1947年]]) * [[2020年]] - [[チャック・イェーガー]]、アメリカ空軍軍人(* [[1923年]]) * 2020年 - [[有馬朗人]]、[[物理学者]]、[[俳人]]、政治家(* [[1930年]]) * 2020年 - [[ダグ・スコット]]、[[登山家]](* [[1941年]]) * 2020年 - [[ディック・アレン]]、プロ野球選手(* [[1942年]]) * 2020年 - [[小松政夫]]、[[喜劇俳優|コメディアン]]、俳優(* [[1942年]]) == 記念日・年中行事 == *[[大雪]]({{CHN}} 1984年–2023年、{{JPN}} 1988年–2027年、他) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の[[黄経]]が255度の時で、[[雪]]が激しく降り始めるころ。 *[[国際民間航空デー]] *: [[国際デー]]の1つ。[[1944年]]のこの日に[[国際民間航空機関|ICAO]]の設立を定めた「国際民間航空条約」の署名が行われたことを記念。[[1992年]]の[[国際民間航空機関]](ICAO)総会で制定し、[[1994年]]から実施。 *{{仮リンク|National Pearl Harbor Remembrance Day|en|National_Pearl_Harbor_Remembrance_Day}}({{USA}} ) *: [[太平洋戦争]]開戦の日(日本における12月8日に相当)。合衆国連邦議会が1994年に指定。 *神戸開港記念日({{JPN}}) *: [[慶応 (元号)|慶応]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]](新暦[[1868年]][[1月1日]])に[[神戸港]]が外国船の停泊地として開港したことに由来し、[[神戸市]]が制定。 *[[クリスマスツリー]]の日({{JPN}}) *: [[1886年]]12月7日に、[[横浜港|横浜]]で外国人船員のためにクリスマスツリーが飾られたことに由来している。 *千本釈迦堂大根炊き({{JPN}}) *: [[京都市]][[上京区]]の[[大報恩寺|千本釈迦堂]](大恩寺)で毎年12月7日、12月8日に行われる師走の伝統行事。お釈迦様が悟りを開いた日を記念する行事で、鎌倉時代に始まった。お釈迦様の梵字を描いた大根を加持祈祷したあと、油揚げと一緒に炊き上げ、病魔退散や健康増進を願い参拝者に振る舞われる<ref>{{Cite web |url=https://osanote.com/special/daikodaki/ |title=千本釈迦堂の大根炊き |access-date=27 Sep 2023 |publisher=OSANOTE |date=27 Dec 2022}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1207|date=Sep 2023}} === 誕生日(フィクション) === * [[1989年]] - [[五条悟]]、漫画・アニメ『[[呪術廻戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jujutsu_pr|1600143027346976768}}</ref> * [[2131年]] - 近藤剣司、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://fafner-exodus.jp/special/character/kenji.html |title=近藤剣司 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[XEBEC]]・FAFNER EXODUS PROJEST [[キングレコード|King Record.Co.,Ltd.]] |work=『蒼穹のファフナー EXODUS』}}</ref> *神世紀287年 - 犬吠埼樹、アニメ『[[結城友奈は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=犬吠崎樹 |url=https://yuyuyu.tv/season1/character/#itsuki |access-date=27 Sep 2023 |work=『結城友奈は勇者である』 |publisher=Project 2H}}</ref><ref>{{Twitter status|anime_yukiyuna|541673126124220416}}</ref> * 生年不明 - [[若林源三]]、漫画『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 30 }}</ref> * 生年不明 - 入江奏多、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1335601158665216002}}</ref> * 生年不明 - 京谷賢太郎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2015|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880353-1|quote=|date=|volume=16巻|page=126}}</ref> * 生年不明 - 野村たかし、漫画・アニメ『[[まもって守護月天!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/getten/chara.html |title=キャラクター 野村たかし |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[桜野みねね]]・[[東映アニメーション]] |work=『まもって守護月天!』}}</ref> * 生年不明 - 小林鳩子、漫画・アニメ『[[ANGELIC LAYER]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mv.avex.jp/angelic/character.html |title=登場人物紹介 小林鳩子 |access-date=2022-11-10 |publisher=[[CLAMP]]/エンジェリック製作委員会・[[テレビ東京]] |work=『エンジェリックレイヤー』}}</ref> * 生年不明 - 与謝野晶子、漫画・アニメ『[[文豪ストレイドッグス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bungostraydogs|541488501145874432}}</ref> *生年不明 - 市ヶ谷知雪、漫画『[[やがて君になる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=やがて君になる|date=2018|year=|publisher=KADOKAWA|author=仲谷鳰|authorlink=仲谷鳰|series=電撃コミックスNEXT|isbn=978-4-04-912047-9|quote=カバー下|volume=第6巻}}</ref> * 生年不明 - 坂上数馬、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/sakagami.html |title=坂上 数馬 |accessdate=27 Sep 2023 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』 |publisher=[[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会}}</ref> * 生年不明 - [[ユリ・サカザキ]]、ゲーム『[[龍虎の拳]]』・『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1202965925332430848}}</ref> * 生年不明 - [[Piaキャロットへようこそ!!の登場人物#『Piaキャロットへようこそ!!2』初出|日野森美奈]]、ゲーム『[[Piaキャロットへようこそ!!2]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 東雲深月、ゲーム『[[PALETTE (アダルトゲーム)|PALETTE]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|fandc_staff|1335750874564476928}}</ref> * 生年不明 - 桧月彩花、ゲーム『[[Memories Off]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://memoriesoff.jp/psp/1st/chara.html |title=桧月彩花 |access-date=27 Sep 2023 |publisher=5pb / CyberFront |work=『Memories Off』}}</ref> * 生年不明 - [[どうぶつの森の登場キャラクター一覧#サル|サルモンティ]]、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m12.html |title=住民名簿 12月 サルモンティ |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - [[デイズシリーズの登場人物#西園寺世界|西園寺世界]]、ゲーム・アニメ・漫画『[[School Days]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - キング、ゲーム『[[ファイナルファンタジー零式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.jp.square-enix.com/ff_reishiki/sp/character/king.html |title=キング |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO., LTD.]] |work=『ファイナルファンタジー零式』}}</ref> * 生年不明 - モルタ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=156&cate=name&cont=Morta |title=モルタ |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 金月アイナ、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/kingetsu-aina/ |title=兵庫県 金月 アイナ |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref> * 生年不明 - 姫石らき、ゲーム・アニメ『[[アイカツオンパレード!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsuonparade/character/raki.html |title=姫石らき |access-date=27 Sep 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツオンパレード!』}}</ref> * 生年不明 - チュチュ、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/chu2/ |title=チュチュ |publisher=BanG Dream! Project [[Craft Egg|Craft Egg Inc.]] [[ブシロード|bushiroad]] |accessdate=27 Sep 2023 |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ!』}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|7 December}} {{新暦365日|12|6|12|8|[[11月7日]]|[[1月7日]]|[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]|1207|12|07}} {{1年の月と日}}
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12月12日
12月12日(じゅうにがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から346日目(閏年では347日目)にあたり、年末まであと19日ある。
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{{出典の明記|date=2015年12月10日 (木) 14:50 (UTC)}} {{カレンダー 12月}} '''12月12日'''(じゅうにがつじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から346日目([[閏年]]では347日目)にあたり、年末まであと19日ある。 == できごと == * [[316年]]([[建興 (晋)|建興]]4年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[西晋]]が滅亡する。 * [[1098年]] - [[第1回十字軍]]: [[マアッラ攻囲戦]]が終結。 * [[1408年]] - ハンガリー王[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]が[[ドラゴン騎士団]]を設立。 * [[1781年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ウェサン島の海戦 (1781年)|ウェサン島の海戦]]。 * [[1787年]] - [[ペンシルベニア州]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を承認し、[[アメリカ合衆国]]2番目の州となる。 * [[1847年]] - [[ドイツ]]の電機機器メーカー[[シーメンス]]が[[ベルリン]]で設立される。 * [[1870年]]([[明治]]3年[[10月20日 (旧暦)|閏10月20日]]) - [[官設鉄道]](国鉄の前身)の建設母体が「[[民部省]]鉄道掛」から「[[工部省]]鉄道掛」へと改組。 * [[1901年]] - [[グリエルモ・マルコーニ|マルコーニ]]が[[イギリス]]・[[カナダ]]間の[[大西洋]]横断[[無線通信]]を成功させる。 * [[1908年]] - [[北原白秋]]、[[木下杢太郎]]らが青年文芸・美術家の懇談会「[[パンの会]]」を結成。 * [[1911年]] - イギリス支配下の[[インド帝国]]が[[コルカタ]](カルカッタ)から[[ニューデリー]]に[[遷都]]。 * [[1913年]] - [[1911年]]に[[ルーヴル美術館]]から盗まれて以来行方不明になっていた『[[モナ・リザ]]』が[[フィレンツェ]]で発見される。 * [[1915年]] - [[中華民国大総統]][[袁世凱]]が[[皇帝]]に即位、[[元号]]は[[洪憲]]とし、国号は[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]に改称。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ドイツ]]がアメリカに[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]との和平交渉の意志を伝達。 * [[1925年]] - [[イランの議会]]が[[レザー・パフラヴィー]]の皇帝即位を議決。 * [[1926年]] - 京都[[高島屋]]本館が全焼<ref>京都の高島屋で真夜中の出火、全焼『大阪毎日新聞』大正15年12月12日号(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p68 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1936年]] - [[張学良]]・[[楊虎城]]配下の部隊が[[西安]]滞在中の[[蔣介石]]を拘束、[[国共合作]]と[[抗日]]を要求([[西安事件]])。 * [[1937年]] - [[日中戦争]]:[[南京攻略戦]]の[[大日本帝国海軍|日本海軍]]機が、[[合衆国艦隊|米太平洋艦隊]]の「[[パナイ (砲艦)|パナイ]]」と[[イギリス海軍|英海軍]]の「[[レディバード (砲艦)|レディーバード]]」を中国側の艦船と誤認して攻撃。「パナイ」は沈没、「レディーバード」も損害を被った([[パナイ号事件]])。 * [[1939年]] - [[北海道]][[猿払村]]沖でソ連の貨客船「[[インディギルカ号]]」が座礁・沈没。700人以上が死亡。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イギリス]]が[[ブルガリア]]・[[ハンガリー]]・[[ルーマニア]]に宣戦布告。[[インド]]が[[日本]]に宣戦布告。 * 1941年 - 第二次世界大戦: [[支那事変]](日中戦争)からの一連の[[戦争]]を総称して「[[大東亜戦争]]」と呼ぶとする[[閣議 (日本)|閣議]]決定が発表。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦・[[独ソ戦]]: [[冬の嵐作戦]]開始。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が、『[[忠臣蔵]]』などの[[仇討ち]]・[[心中]]物の[[芝居]]の上演禁止を指令。 * [[1947年]] - [[児童福祉法]]公布。 * [[1953年]] - [[青森県新和村一家7人殺害事件]]。[[青森県]][[中津軽郡]][[新和村 (青森県)|新和村]](現:[[弘前市]])で一家7人が射殺され、現場の家が全焼し1人が焼死した。 * [[1956年]] - [[日本]]の[[国際連合|国連]]加盟が[[国際連合安全保障理事会決議121]]の全会一致で決定。 * [[1958年]] - [[ギニア]]が国連に加盟。 * [[1961年]] - 世界初の[[アマチュア衛星]]、[[オスカー1号]]打ち上げ。 * 1961年 - 旧[[日本軍]]将校らによる[[クーデター]]計画が発覚([[三無事件]])。 * [[1963年]] - [[ケニア]]が[[イギリス]]から独立。 * [[1964年]] - ケニア首相[[ジョモ・ケニヤッタ]]が初代[[ケニアの大統領|大統領]]に就任。 * [[1965年]] - [[古谷惣吉連続殺人事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]105号事件):[[西日本]]([[近畿地方]]・[[九州]])にて[[独居老人]]8人を殺害したとして[[指名手配]]されていた[[古谷惣吉連続殺人事件|古谷惣吉]]が[[兵庫県]][[西宮市]]内([[芦屋市]]との境界付近)で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]される。 * [[1966年]] - [[中央本線]]初の特急列車「[[あずさ (列車)|あずさ]]」がデビュー。 * [[1971年]] - [[興亜観音・殉国七士之碑爆破事件]]起こる。 * [[1973年]] - [[三菱樹脂事件]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]大法廷判決。 * [[1979年]] - [[大韓民国|韓国]]で[[粛軍クーデター]]。[[全斗煥]]少将が軍の実権を掌握。 * 1979年 - [[ローデシア問題]]: 1965年に一方的にイギリスからの独立を宣言した[[ジンバブエ・ローデシア]]がイギリス植民地に復帰。 * 1979年 - [[リニア実験線|国鉄宮崎実験線]]で[[超電導リニア]]が{{Val|504|ul=km/h}}を達成。初めて{{Val|500|u=km/h}}を超える。 * 1979年 - [[トゥマコ地震]]発生。 * [[1980年]] - 日本の[[自動車]]生産台数が1100万台突破。アメリカを抜き世界一となる。 * [[1984年]] - [[マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤ]]が[[モーリタニア]]の国家元首になる。 * [[1988年]] - [[岩波書店]]が[[絵本]]『[[ちびくろサンボ]]』を[[絶版]]とする。 * [[1996年]] - [[イラク]]で[[サッダーム・フセイン|フセイン]][[大統領]]の[[長男]]、[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ]]の[[暗殺]]未遂事件起こる。 * [[2000年]] - [[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選]]の[[フロリダ州]]での票の集計をめぐる訴訟([[ブッシュ対ゴア事件]])で、連邦最高裁が票の再集計を禁止する判決を出し、[[ジョージ・W・ブッシュ]]の当選が確定。 * 2000年 - [[都営地下鉄大江戸線]]が全線開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/ayumi/subway.html|title=交通局のあゆみ|work=都営地下鉄|publisher=東京都交通局|accessdate=2020-10-20}}</ref>。 * [[2002年]] - [[ウィキペディア]]の姉妹プロジェクト[[ウィクショナリー]]が活動開始。 * [[2011年]] - 日本の[[情報収集衛星]]「レーダー3号機」を搭載した[[H2A]]ロケットが種子島宇宙センターから打ち上げられる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGG11004_S1A211C1MM0000/|title=H2Aロケット打ち上げ成功 情報収集衛星を搭載|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2011-12-12|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * [[2012年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が人工衛星と称した弾道ミサイルを打ち上げる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1204W_S2A211C1000000/|title=北朝鮮ミサイル搭載物「軌道に到達」 米当局|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|author=中山真|date=2012-12-12|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * [[2015年]] - [[第21回気候変動枠組条約締約国会議]](COP21)が[[パリ協定 (気候変動)|パリ協定]]を採択する<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/35086174|title=COP21、パリ協定を採択 温暖化対策で世界合意|newspaper=BBCニュース|publisher=[[英国放送協会|BBC]]|date=2015-12-13|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * [[2016年]] - [[ベネズエラ]]の最高額[[紙幣]]100[[ボリバル・フエルテ]]が廃止。同月15日までを期限に新紙幣への交換が始まった<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3111557|title=紙幣流通停止のベネズエラ、新札届かず混乱広がる 国境封鎖延長|publisher=[[フランス通信社|AFP]]|date=2016-12-16|accessdate=2018-01-01}}</ref>。 * [[2020年]] - [[大島理森]][[衆議院議長]]の在職日数が2030日となり、[[河野洋平]]元衆議院議長の在職日数(2029日)を抜いて歴代単独1位となった<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121100962&g=pol|title=大島衆院議長、在職最長に 「国会の機能果たす」|newspaper=[[時事通信]]|publisher=[[時事通信社]]|date=2020-12-12|accessdate=2021-12-11|deadlinkdate=2021年12月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127192106/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121100962&g=pol|archivedate=2021-01-27}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1526年]] - サンタ・クルス侯爵[[アルバロ・デ・バサン]]、[[軍人]](+ [[1588年]]) * [[1724年]] - [[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール・テオドール]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]](+ [[1799年]]) * [[1731年]] - [[エラズマス・ダーウィン]]、[[医師]]、[[詩人]]、自然哲学者(+ [[1802年]]) * [[1777年]] - [[アンリ・ブランヴィル]]、[[動物学者]]、[[解剖学者]](+ [[1850年]]) * [[1791年]] - [[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリア・ルイーザ]]、[[フランス第一帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の皇后、[[パルマ公国]]女公(+ [[1847年]]) * [[1801年]] - [[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]、第4代[[ザクセン王国]][[ザクセン君主一覧|国王]](+ [[1873年]]) * [[1805年]] - [[ウィリアム・ロイド・ガリソン]]、[[奴隷制度廃止運動|奴隷制廃止運動家]](+ [[1879年]]) * [[1819年]] - [[ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー]]、[[画家]](+ [[1898年]]) * [[1821年]] - [[ギュスターヴ・フローベール]]、[[作家]](+ [[1880年]]) * [[1832年]] - [[ルートヴィヒ・シロー]]、[[数学者]](+ [[1918年]]) * [[1838年]] - [[シャーバーン・バーナム]]、[[天文学者]](+ [[1921年]]) * [[1840年]] - [[グスタフ・コーン]]、[[経済学者]](+ [[1919年]]) * [[1862年]] - [[ジョセフ・ブルース・イズメイ]]、実業家(+ [[1937年]]) * [[1863年]] - [[エドヴァルド・ムンク]]、画家(+ [[1944年]]) * [[1866年]] - [[アルフレート・ヴェルナー]]、[[化学者]](+ [[1919年]]) * [[1887年]] - [[徳三宝]]、[[柔道家]](+ [[1945年]]) * [[1898年]] - [[黒島伝治]]、[[小説家]](+ [[1943年]]) * 1898年 - [[大内青圃]]、[[仏師]]、[[彫刻家]](+ [[1981年]]) * [[1901年]] - [[木村伊兵衛]]、[[写真家]](+ [[1974年]]) * [[1902年]] - [[アントニオ・ホセ]]、[[作曲家]](+ [[1936年]]) * [[1903年]] - [[小津安二郎]]、[[映画監督]](+ [[1963年]]) * [[1904年]] - [[ニコラ・ド・ガンズビュール]]、[[俳優]]、[[ファッション雑誌]]編集者(+ [[1981年]]) * [[1915年]] - [[フランク・シナトラ]]、[[歌手]](+ [[1998年]]) * 1915年 - [[小池禮三]]、[[水泳選手]](+ [[1998年]]) * [[1923年]] - [[堀井数男]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2006年]]) * 1923年 - [[津村謙]]、流行歌手(+ [[1961年]]) * 1923年 - [[田中卓]]、[[歴史学者]](+ [[2018年]]<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181125/k00/00m/060/052000c 訃報 田中卓さん94歳=元皇学館大学長] 毎日新聞、2018年11月24日</ref>) * [[1924年]] - [[エド・コッチ]]、政治家(+ [[2013年]]) * [[1927年]] - [[ロバート・ノイス]]、[[インテル]]設立者(+ [[1990年]]) * [[1928年]] - [[ヘレン・フランケンソーラー]]、画家(+ [[2011年]]) * 1928年 - [[チンギス・アイトマートフ]]、小説家(+ [[2008年]]) * [[1929年]] - [[穐吉敏子]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]]、作曲家 * [[1932年]] - [[あした順子・ひろし|あした順子]]、[[マジシャン (奇術)|奇術師]]、漫才師 * 1932年 - [[秦郁彦]]、歴史学者 * [[1933年]] - [[田波靖男]]、[[脚本家]](+ [[2000年]]) * [[1934年]] - [[菅貫太郎]]、[[俳優]](+ [[1994年]]) * [[1936年]] - [[森内俊雄]]、小説家(+ [[2023年]]) * [[1937年]] - [[ブライアン・ラムレイ]]、[[ホラー小説|ホラー小説家]] * 1937年 - [[マイケル・ジェフリー]]、[[軍人]](+ [[2020年]]) * [[1938年]] - [[秋草直之]]、元[[富士通]]社長(+ [[2016年]]) * 1938年 - [[黒江透修]]、元プロ野球選手 * 1938年 - [[コニー・フランシス]]、歌手、女優 * [[1939年]] - [[マイケル・S・ガザニガ]]、[[心理学者]] * [[1940年]] - [[ディオンヌ・ワーウィック]]、歌手 * [[1943年]] - [[グローヴァー・ワシントン・ジュニア]]、[[スムーズジャズ]]の[[サクソフォーン]]奏者(+ [[1999年]]) * [[1944年]] - [[舟木一夫]]、歌手 * [[1946年]] - [[エマーソン・フィッティパルディ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * [[1948年]] - [[トム・ウィルキンソン]]、俳優(+ [[2023年]]) * 1948年 - [[西垣通]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * [[1949年]] - [[大井利夫]]、[[映画監督]]、[[演出家]] * [[1950年]] - [[大室勝美]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[岡田貴久子]]、作家 * [[1955年]] - [[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]]、俳優 * 1955年 - [[井辻朱美]]、[[翻訳家]]、小説家、[[歌人]] * [[1956年]] - [[大森隆志]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[サザンオールスターズ]]) * [[1957年]] - [[スザンナ・タマーロ]]、小説家 * 1957年 - [[シーラ・E]]、歌手 * [[1958年]] - [[長村裕之]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[木村隆秀 (技術者)|木村隆秀]]、[[技術者]] * [[1959年]] - [[ちば拓]]、[[漫画家]](+ [[2016年]]) * 1959年 - [[小笠原和彦]]、[[空手家]]、[[プロレスラー]] * 1959年 - [[マウロ・マゾッティ]]、元野球選手、野球監督 * [[1960年]] - [[西村まさ彦]]、俳優 * [[1962年]] - [[山西惇]]、俳優 * 1962年 - [[トレーシー・オースチン]]、元[[テニス]]選手 * 1962年 - [[石野竜三]]、声優 * [[1963年]] - [[折笠愛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/279417/折笠愛|title=折笠愛 - TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020-11-06}}</ref>、声優 * 1963年 - [[田中貴志]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]] * [[1964年]] - [[I.N.A]]、音楽プロデューサー、作曲家、レコーディング・エンジニア、ミュージシャン、マニピュレーター、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1964年 - [[アロンゾ・パウエル]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[高橋ヒロシ]]、漫画家 * 1965年 - [[寺田和正]]、[[実業家]] * [[1966年]] - [[ウルティモ・ドラゴン]]、プロレスラー * 1966年 - [[ホイス・グレイシー]]、[[柔術]]家 * 1967年 - [[古代祐三]]、作曲家、編曲家、ゲームプロデューサー * [[1968年]] - [[上遠野浩平]]、[[SF作家]] * 1968年 - [[栗原正尚]]、漫画家 * 1968年 - [[藤森夕子]]、[[グラビアアイドル]]、女優(元[[C.C.ガールズ]]) * 1968年 - [[杉山賢人]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[エリック・ミロー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1969年]] - [[デリック・ホワイト]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[ラファエル・ディアス]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[クリス・ウィルツ]]、フィギュアスケート選手 * [[1970年]] - [[伽代子]]、タレント、女優 * 1970年 - [[藤田貴美]]、漫画家 * 1970年 - [[ジェニファー・コネリー]]、女優 * [[1971年]] - [[坂田聡]]、俳優 * [[1972年]] - [[村松有人]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[田中陽子 (タレント)|田中陽子]]、元[[アイドル]] * [[1974年]] - [[立花美哉]]、元[[アーティスティックスイミング]]選手 * 1974年 - [[ノルベルト・ソラーノ]]、[[サッカー選手]] * 1975年 - [[桑島法子]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/桑島法子/|title=桑島法子(くわしまほうこ)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-03}}</ref>、声優 * 1975年 - [[吉田尚記]]、[[ニッポン放送]][[アナウンサー]] * 1975年 - [[クレイグ・ムーア]]、元サッカー選手 * 1975年 - [[猿田泰寛]]、ピアニスト * [[1976年]] - 林よしはる、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](元[[ニューカリカ|カリカ]]) * 1976年 - [[市川友也 (サッカー選手)|市川友也]]、元[[サッカー選手]] * 1976年 - [[瀬戸朝香]]、[[俳優|女優]] * 1976年 - [[穂坂優子]]、女優 * 1976年 - [[ダン・ホーキンス]]、ミュージシャン([[ザ・ダークネス]]) * [[1977年]] - [[田辺研一郎]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * 1977年 - [[ブリジット・ホール]]、[[スーパーモデル]] * 1977年 - [[宮本真希]]、女優 * 1977年 - [[小島宏美]]、元サッカー選手 * 1977年 - [[楊謹華]]、女優 * 1977年 - [[松島勇気]]、ミュージカル俳優 * [[1978年]] - [[今野浩喜]]、お笑い芸人、俳優(元[[キングオブコメディ]]) * 1978年 - たきうえ、お笑い芸人([[流れ星☆ (お笑いコンビ)|流れ星☆]]) * 1978年 - [[デリック・デルモア]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1980年]] - [[綾瀬麻理]]、元[[ヌードモデル]] * 1980年 - [[大木優紀]]、元アナウンサー * [[1981年]] - [[西尾美香]]、元プロレスラー * 1981年 - [[オロフ・モルク]]、ヘヴィメタル・ミュージシャン * [[1982年]] - 白井眞輝、ミュージシャン([[[Alexandros]]]) * 1982年 - [[加藤あい]]、女優 * 1982年 - [[西田彩香]]、女優 * 1982年 - [[大水洋介]]、お笑い芸人([[ラバーガール]]) * 1982年 - [[ドミトリー・トゥルスノフ]]、テニス選手 * 1982年 - [[パーヴェル・レベデフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1982年 - [[アービン・サンタナ]]、プロ野球選手 * [[1983年]] - [[未来玲可]]、元歌手 * [[1984年]] - [[ダニエル・アッゲル]]、元サッカー選手 * 1984年 - [[平愛梨]]、女優 * [[1985年]] - [[貫地谷しほり]]、女優 * 1985年 - [[ヘム・ブンティン]]、マラソン選手 * [[1986年]] - [[T・J・ウォード]]、アメリカンフットボール選手 * 1986年 - [[紗羅マリー]]、[[ファッションモデル]] * 1986年 - [[日高光啓]]、歌手([[AAA (音楽グループ)|AAA]]) * 1986年 - [[MIZUHO]]、ミュージシャン(元[[ZONE (バンド)|ZONE]]) * [[1987年]] - [[田上健一]]、元プロ野球選手 * [[1988年]] - [[小林祐梨子]]、元[[陸上競技]]選手 * 1988年 - [[宮﨑敏郎]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[中元勇作]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[富樫あずさ]]、グラビアアイドル * 1990年 - [[三村ゆうな]]、声優 * 1990年 - [[ビクター・モーゼス]]、サッカー選手 * 1990年 - [[V.I]]、歌手(元[[BIGBANG]]) * [[1991年]] - [[窪田忍]]、陸上選手 * 1991年 - [[小野あつこ]]、歌手、タレント * [[1992年]] - [[ホセ・オスナ]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[橋本侑樹]]、政治家、[[渋谷区議会|渋谷区議会議員]]、元アイドル(元[[アリス十番]]) * [[1994年]] - [[YUE]]、女優、グラビアアイドル * [[1995年]] - [[山根千佳]]、タレント * 1995年 - [[伊藤寧々]]、女優、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * 1995年 - [[明音亜弥]]、タレント、元アイドル([[風男塾]]・香月大弥) * [[1996年]] - [[美山加恋]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/popularity/%e7%be%8e%e5%b1%b1%e3%80%80%e5%8a%a0%e6%81%8b/ |title= 美山 加恋 |work=[[日本タレント名鑑]] |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2021-01-20}}</ref>、女優、声優 * [[2000年]] ‐ [[横野すみれ]]、グラビアアイドル(元[[NMB48]]) * [[2002年]] - [[マーセロ・マイヤー]]、プロ野球選手 * [[2008年]] - [[ゆたぼん]]、YouTuber == 忌日 == === 人物 === * [[592年]](崇峻天皇5年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[崇峻天皇]]、第32代[[天皇]] * [[884年]] - [[カルロマン (西フランク王)|カルロマン]]、[[西フランク王国]][[カロリング朝]]国王(* [[866年]]) * [[900年]]([[昌泰]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]) - [[藤原良世]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[823年]]) * [[1380年]]([[天授 (日本)|天授]]6年/[[康暦]]2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[大内弘世]]、[[守護大名]](* [[1325年]]?) * [[1398年]]([[応永]]5年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[足利氏満]]、第2代[[鎌倉公方]](* [[1359年]]) * [[1481年]]([[文明 (日本)|文明]]13年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[一休宗純]]、[[室町時代]]の[[僧|禅僧]](* [[1394年]]) * [[1555年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[10月29日 (旧暦)|閏10月29日]]) - [[武野紹鴎]]、豪商、[[茶道|茶人]](* [[1502年]]) * [[1574年]] - [[セリム2世]]、[[オスマン帝国]]第11代[[スルタン]](* [[1524年]]) * [[1586年]] - [[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]](* [[1533年]]) * [[1685年]] - [[ジョン・ペル]]、[[数学者]](* [[1611年]]) * [[1720年]]([[享保]]5年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[酒井忠挙]]、[[江戸幕府]][[寺社奉行]]、[[前橋藩|前橋藩主]](* [[1648年]]) * [[1766年]] - [[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート]]、[[劇作家]]、文学者、[[思想家]](* [[1700年]]) * [[1789年]]([[寛政]]元年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[徳川治貞]]、第9代[[紀州藩|紀州藩主]]、第5代[[西条藩|西条藩主]](* [[1728年]]) * [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - [[智洞]]、[[浄土真宗]]の[[僧]](* [[1736年]]) * [[1843年]] - [[ウィレム1世 (オランダ王)|ヴィレム1世]]、初代[[オランダ君主一覧|オランダ国王]](* [[1772年]]) * [[1849年]] - [[マーク・イザムバード・ブルネル]]、[[技術者]](* [[1769年]]) * [[1851年]] - [[ジョエル・ロバーツ・ポインセット]]、第15代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1779年]]) * [[1867年]]([[慶応]]3年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[中岡慎太郎]]、[[幕末]]の志士(* [[1838年]]) * [[1889年]] - [[ヴィクトール・ブニャコフスキー]]、[[数学者]](* [[1804年]]) * 1889年 - [[ロバート・ブラウニング]]、[[詩人]](* [[1812年]]) * [[1897年]] - [[浜田彦蔵]]、[[通訳]]・貿易商(* [[1837年]]) * [[1899年]] - [[池田茂政]]、第9代[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1839年]]) * [[1904年]] - [[ロマン・コンドラチェンコ]]、[[帝政ロシア]]の[[陸軍]][[少将]](* [[1857年]]) * [[1912年]] - [[ルイトポルト・フォン・バイエルン|ルイトポルト]]、[[バイエルン王国]]の王族(* [[1821年]]) * [[1913年]] - [[メネリク2世]]、[[エチオピア帝国|エチオピア]][[皇帝]](* [[1844年]]) * [[1917年]] - [[アンドリュー・テーラー・スティル]]、[[オステオパシー]]創始者(* [[1828年]]) * [[1921年]] - [[ヘンリエッタ・スワン・リービット]]、[[天文学者]](* [[1868年]]) * [[1923年]] - [[レイモン・ラディゲ]]、詩人(* [[1903年]]) * [[1925年]] - [[依田勉三]]、[[北海道]]開拓者(* [[1853年]]) * [[1939年]] - [[ダグラス・フェアバンクス]]、[[俳優]](* [[1883年]]) * [[1949年]] - [[徳川義恭]]、[[文学者]]、[[装訂|装丁家]](* [[1921年]]) * [[1958年]] - [[ミルティン・ミランコビッチ]]、[[地球物理学|地球物理学者]](* [[1879年]]) * [[1963年]] - [[テオドール・ホイス]]、初代[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ連邦大統領]](* [[1884年]]) * 1963年 - [[小津安二郎]]、[[映画監督]](* [[1903年]]) * 1963年 - [[福井直秋]]、[[作曲家]]、[[作詞家]](* [[1877年]]) * [[1971年]] - [[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]、[[落語家]](* [[1892年]]) * [[1977年]] - [[遊部久蔵]]、[[経済学者]](* 1914年) * [[1979年]] - [[ポール・ラッシュ]]、[[牧師]](* [[1897年]]) * [[1980年]] - [[花郁悠紀子]]、[[漫画家]] (* [[1954年]]) * [[1982年]] - [[竹内敏雄]]、[[美学|美学者]](* [[1905年]]) * [[1985年]] - [[アン・バクスター]]、女優(* [[1923年]]) * [[1989年]] - [[田河水泡]]、漫画家(* [[1909年]]) * [[1994年]] - [[中河与一]]、[[小説家]]、[[歌人]](* [[1897年]]) * [[1998年]] - [[隅谷正峯]]、[[刀工]](* [[1921年]]) * [[1999年]] - [[ジョセフ・ヘラー]]、小説家(* 1923年) * [[2001年]] - [[田沢吉郎]]、元[[衆議院議員]](* [[1918年]]) * [[2002年]] - [[松島栄一]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1917年]]) * 2002年 - [[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]、[[脚本家]](* [[1927年]]) * [[2003年]] - [[ヘイダル・アリエフ]]、政治家、[[アゼルバイジャン]]大統領(* 1923年) * [[2005年]] - [[関口忠 (工学者)|関口忠]]、[[電気工学|電気]]・[[核融合]]工学者(* [[1926年]]) * [[2006年]] - [[アラン・シュガート]]、コンピュータ工学者(* [[1930年]]) * 2006年 - [[郷司裕]]、元アマチュア野球審判員(* [[1932年]]) * [[2007年]] - [[内藤寿七郎]]、日本小児科医会初代会長(* [[1906年]]) * 2007年 - [[衞藤瀋吉]]、[[政治学者]](* 1923年) * 2007年 - [[山口俊夫]]、[[法学者]](* [[1928年]]) * 2007年 - [[ユーリ・ウォロンツォフ]]、[[外交官]](* [[1929年]]) * 2007年 - [[アイク・ターナー]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1934年]]) * [[2008年]] - [[タソス・パパドプロス]]、[[キプロス]]大統領(* 1934年) * [[2010年]] - [[清水貢]]、高校野球指導者(* 1929年) * [[2013年]] - [[張成沢]]、政治家(* [[1946年]]) * [[2019年]] - [[梅宮辰夫]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hochi.news/articles/20191212-OHT1T50034.html |title=梅宮辰夫さん死去、慢性腎不全のため81歳…「モーニングショー」が伝える |accessdate=2020-11-07 |date=2019-12-12 |website=スポーツ報知 |language=ja}}</ref>、俳優(* [[1938年]]) * [[2020年]] - [[ジャック・シュタインバーガー]]、[[物理学者]](* [[1921年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2020/12/16/science/jack-steinberger-dead.html|title=Jack Steinberger, Nobel Winner in Physics, Dies at 99|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=2020-12-17|accessdate=2021-02-03|language=英語}}</ref> * 2020年 - [[ジョン・ル・カレ]]、[[作家]](* [[1931年]])<ref>{{Cite news|title=英作家ジョン・ル・カレ氏死去、89歳 スパイ小説の名手|newspaper=AFP BB NEWS|date=2020-12-14|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3321120?cx_part=top_topstory&cx_position=1|agency=株式会社クリエイティヴ・リンク|accessdate=2021-02-03}}</ref> * 2020年 - [[テリー・ケイ]]、作家(* [[1938年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.ajc.com/news/terry-kay-georgias-prizewinning-accidental-author-dies-at-82/4LTCUDFA7JHVDBCKYMAL6MIHCU/|title=Terry Kay, Georgia’s prizewinning accidental author, dies at 82|newspaper=ajc.com|date=2020-12-13|accessdate=2021-02-03|language=英語}}</ref> * 2020年 - [[西川右近]]、[[舞踊家]](* [[1939年]])<ref>[https://mainichi.jp/articles/20201215/k00/00m/040/275000c 西川右近・日舞 名古屋西川流三世家元が死去、81歳 「名古屋をどり」を定着] - 毎日新聞 2020年12月15日閲覧。</ref> * [[2023年]] - [[巽フサ]]、日本の[[長寿]]者(* [[1907年]])<ref>{{Cite news|和書|title=【訃報】国内最高齢の女性、巽フサさん(116)死去 明治40年・1907年生まれ 9月に元気な姿|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/7d34482405aaca9eb7d1a3ce5f8d1656d886998f|newspaper=Yahoo!ニュース |date=2023-12-12}}</ref> === 人物以外(動物など) === * [[2008年]] - [[ダイタクヘリオス]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](* [[1987年]]) * [[2020年]] - [[イングランディーレ]]、競走馬、種牡馬(* [[1999年]]) == 記念日・年中行事 == * [[憲法記念日]]({{RUS}}) *: [[1993年]]のこの日、[[ロシア連邦憲法]]制定のための[[国民投票]]が実施され、ロシア憲法が採択された。 * {{仮リンク|独立記念日 (ケニア)|en|Jamuhuri Day|label=独立記念日}}({{KEN}}) *: [[1963年]]のこの日、ケニアが[[イギリス]]から独立した。 * 中立の日({{TKM}}) *: [[1995年]]のこの日、国連総会でトルクメニスタンの[[永世中立国|永世中立]]の宣言が承認された。 * [[漢字の日]]({{JPN}}) : 「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字一字)の語呂合わせから、[[日本漢字能力検定協会]]が[[1995年]]に制定。毎年その年の世相を象徴する「今年を表現する漢字([[今年の漢字]])」を全国から募集し、この日に[[京都市]]の[[清水寺]]で発表している。 * [[二次電池|バッテリー]]の日({{JPN}}) : 日本蓄電池工業会(現・[[電池工業会]])が[[1985年]]に「カーバッテリーの日」として制定し、[[1991年]]に「バッテリーの日」に改称した。[[野球]]の[[投手|ピッチャー]]と[[捕手|キャッチャー]]のことをバッテリーと呼ぶが、それらの[[守備番号|ポジションを表す数字]]がそれぞれ"1"と"2"であることに由来する。 * [[十二日まち]]({{JPN}}) : じゅうにんちまち。[[埼玉県]][[さいたま市]][[浦和区]][[岸町 (さいたま市)|岸町]]の[[調神社]]及びその西側を通る[[埼玉県道213号曲本さいたま線]](旧[[中山道]])などで行われる祭。 *[[アグリー・クリスマス・セーター|アグリー・クリスマス・セーター・デイ]]({{USA}}) :[[クリスマス]]特有の[[キャンプ (様式)|悪趣味]]な[[セーター]]で着飾るイベントで、2010年代に登場した<ref name="道新20141229">[[北海道新聞]] 2014年12月29日付(生活面)「DJナオミのNY通信 派手すぎるセーター大ブーム」</ref>。 *ジェニィの日({{JPN}}) : [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]安土町に本社を置き、[[子供服]][[ブランド]]を展開する株式会社ジェニィ(JENNI)が2017年(平成29年)に制定。日付は同社の設立月が12月であることから、12といえばジェニィとの思いを込めて12が重なる12月12日に。全国にSHOPを持ち、通販でも人気のジェニィの[[ファッション]]アイテムの魅力をさらに多くの人に知ってもらうことが目的。 *[[山の神|山の神様]]の日({{JPN}}) : 山の神の誕生日とされ、山の神が山の木の数を数えると言われており、山へ入ってはいけない日。この日に山へ入ると山の神に木と間違われて数えられ、山から帰って来られなくなるという言い伝えがある。 *[[水神様]]の日({{JPN}}) : 水の神様に感謝をする日。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1212|date=2011年7月}} * [[2016年]] - 「八岐の園」に記述された "THE END" の日(小説・ドラマ『[[フラッシュフォワード (小説)|フラッシュフォワード]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1991年]] - メガCD、 メディアミックス『[[セガ・ハード・ガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター メガCD |access-date=2022-12-08 |publisher=セガ ハード・ガールズ公式サイト}}</ref> * [[2000年]](平成12年) - 五色田介人、[[スーパー戦隊シリーズ]]『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』『[[暴太郎戦隊ドンブラザーズ]]』に登場するキャラクター<ref>『ゼンカイジャー』第39カイ、第40カイ</ref> * 2161年 - 岩峰舟、ゲーム・漫画『[[はーとふる彼氏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=はーとふる彼氏 公式ファンブック|publisher=[[一迅社]]|date=2012-10-05|isbn=978-4-7580-1280-5}}</ref> * 生年不明 - [[草薙京]]、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』シリーズのオロチ編の主人公<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1337411827777429504}}</ref> * 生年不明 - 出水洸汰、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group12/12-02/ |title=出水洸汰 |access-date=2022-12-07 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 橘美花莉、漫画『[[2.5次元の誘惑]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shonenjump.com/ririsa/question/ |title=Q013 013 奥村たちの誕生日が知りたいです! |accessdate=2022-12-07 |publisher=橋本 悠/[[集英社]] |work=『2.5次元の誘惑』}}</ref> * 生年不明 - 東リリ、漫画・アニメ『[[おちこぼれフルーツタルト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=浜弓場双|date=2017-05-27|title=おちこぼれフルーツタルト|page=5|volume=2巻|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4832248359}}</ref> * 生年不明 - 真柴直、漫画・アニメ『[[わかば*ガール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白、ライトノベル・アニメ・漫画『[[ノーゲーム・ノーライフ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite tweet|title=11巻発売まであと一日|user=yuukamiya68|number=1463160417878958086|date=2021年11月24日|author=榎宮佑|accessdate=2021-12-11}}</ref> * 生年不明 - 師走駆、キャラクターCD・アニメ『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsukiuta1|1470041333348048896}}</ref> * 生年不明 - キリエ、アニメ・ゲーム『[[荒野のコトブキ飛行隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kotobuki_gamepr|1337683613769293825}}</ref> * 生年不明 - 吉川知佳志、ゲーム『[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/getterlove/quest7.html|title=ゲッターラブ!!質問コーナー第7回|date=20040813070908}}</ref> * 生年不明 - 犬童雅人、ゲーム「[[.hack//G.U.]]」シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|dothack_cc2|1072506295624753152}}</ref> * 生年不明 - 臼利満、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref name=":02">{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2019|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-881863-4|quote=|date=|volume=38巻|page=26}}</ref> * 生年不明 - 塩見周子、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20081 |title=塩見 周子(しおみ しゅうこ) |access-date=2022-12-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 桐生院ヴァン、ゲーム・アニメ『[[うたの☆プリンスさまっ♪]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|utapri_official|1469910134218502145}}</ref> * 生年不明 - 白瀬つづり、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1337411823901937665}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#卯月巻緒|卯月巻緒]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40011 |title=卯月 巻緒(うづき まきお) |access-date=2022-12-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - セラス、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=90&cate=name&cont=Seras |title=セラス |access-date=2022-12-07 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - スズメ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1469849508792389633}}</ref> * 生年不明 - ヤンヤン、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=106 |title=ヤンヤン |access-date=2022-12-08 |publisher=KONAMI |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref> * 生年不明 - 이로하(Roha Lee / イ・ロハ)、[[いちから|ANYCOLOR]]株式会社が運営する『[[にじさんじ#NIJISANJI KR|NIJISANJI KR]]』に所属する[[バーチャルYouTuber|バーチャルライバー]]<ref>{{YouTube|54h6OdKMhTo&t|【初配信】NIJISANJI KR 소속 라이버 이로하(イロハ)라고해요*'-'*}}</ref> * 生年不明 - 오지유(Jiyu Oh / オ・ジユ)、ANYCOLOR株式会社が運営する『NIJISANJI KR』に所属するバーチャルライバー<ref>{{YouTube|hpphYNWeHQc&t|【初配信】오지유, 지금부터 방송을 시작하겠습니다!【NIJISANJI KR】}}</ref> * 生年不明 - [[ラブライブ!サンシャイン!!#鹿角理亞|鹿角理亞]]、メディアミックス『[[ラブライブ!サンシャイン!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|lovelive_sif_ac|1204778298913558528}}</ref> * 生年不明 - 水原碧澄、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/mizuhara|title=水原 碧澄|キャラクター|publisher=八月のシンデレラナイン公式サイト|accessdate=2023-05-16}}</ref> <!-- * 生年不明 - マジック、漫画・アニメ『[[南国少年パプワくん]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - キャプテンの母、漫画『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 一井透、漫画・アニメ『[[Aチャンネル]]』に登場するキャラクター --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|12 December}} {{新暦365日|12|11|12|13|[[11月12日]]|[[1月12日]]|[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]|1212|12|12}} {{1年の月と日}}
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GNU/Linux
GNU/Linux(ないしGNU/Linuxオペレーティングシステム、略してGNU/Linuxシステム)は、一般に「Linux」と呼ばれているものが、GNUプロジェクトによるソフトウェアを数多く利用しており、glibcやbashのような重要なライブラリやソフトウェアはGNUが開発しているとして、その呼称としてGNUプロジェクト側が主張している呼称である。 一般にLinuxを使用する場合、「カーネルとしてLinuxカーネルを使用し、それ以外はGCC、GNU Binutils、GNU Core Utilitiesなどをはじめとする必須にして多数のGNUのプロダクトを使用」しているものがほとんどである。そのためこのようなシステムを「GNU/Linuxシステム」と呼ぶべきだとGNUプロジェクトは主張している。Linuxカーネル開発者のリーナス・トーバルズはこの呼称について部分的に受け入れているが、全てのLinuxシステムに対しての呼称としては反対しており、個人的にはLinuxと呼び続ける、としている(GNU/Linux名称論争#「Linux」支持に詳細)。 Debianはその成立経緯などから、ディストリビューションの正式名を「Debian GNU/Linux」とするなどGNUプロジェクトを尊重する立場をとっている。またDebianプロジェクトは他のプロダクトにもこの命名方式を転用しており、カーネルにGNUプロジェクト製のカーネルHurdを使用しその他のGNUプロジェクト製ソフトウェアをあわせた「Debian GNU/Hurd」や、FreeBSDのカーネルを使う「Debian GNU/kFreeBSD」などがある。 なお、逆にGNUプロジェクトのプロダクトを一切使わないLinuxシステムというものについて、具体例としてGNUプロジェクトがFAQでAndroidを挙げているという例を出す者がいるが、しかしFAQをちゃんと読むと、そもそもAndroidは一般にLinuxシステムと呼ばれているものとは全く違うものなので、AndroidをLinuxシステムと呼ぶこと自体が間違いだと述べている。だいたいにおいて実際のところ、例えば、Linuxカーネルのコンパイルは、実用的には、gccでしか不可能である。gcc以外(特にClang)でのコンパイルは、いくつか成功したという報告はあるが、本格的なものは2016年現在LLVMLinuxというプロジェクトで進行中の状態である。また、カーネルとの結びつきが特に強いコンポーネントに標準Cライブラリがあるが、それについてはGNU Cライブラリ(glibc)以外にmuslなどがある。
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GNU/Linux(ないしGNU/Linuxオペレーティングシステム、略してGNU/Linuxシステム)は、一般に「Linux」と呼ばれているものが、GNUプロジェクトによるソフトウェアを数多く利用しており、glibcやbashのような重要なライブラリやソフトウェアはGNUが開発しているとして、その呼称としてGNUプロジェクト側が主張している呼称である。
'''GNU/Linux'''(ないし'''GNU/Linuxオペレーティングシステム'''、略して'''GNU/Linuxシステム''')は、一般に「[[Linux]]」と呼ばれているものが、[[GNUプロジェクト]]による[[ソフトウェア]]を数多く利用しており、[[GNU Cライブラリ|glibc]]や[[bash]]のような重要なライブラリやソフトウェアはGNUが開発しているとして、その呼称としてGNUプロジェクト側が主張している呼称である。 == 由来 == {{Main|GNU/Linux名称論争}} 一般に[[Linux]]を使用する場合、「カーネルとして[[Linuxカーネル]]を使用し、それ以外は[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]、[[GNU Binutils]]、[[GNU Core Utilities]]などをはじめとする必須にして多数のGNUのプロダクトを使用」しているものがほとんどである。そのためこのようなシステムを「GNU/Linuxシステム」と呼ぶべきだとGNUプロジェクトは主張している<ref>[http://www.gnu.org/gnu/linux-and-gnu.ja.html Linux と GNU] GNUプロジェクトによる、LinuxカーネルとGNUとの関係についての文章。</ref>。[[Linuxカーネル]]開発者の[[リーナス・トーバルズ]]はこの呼称について部分的に受け入れているが、全てのLinuxシステムに対しての呼称としては反対しており、個人的にはLinuxと呼び続ける、としている([[GNU/Linux名称論争#「Linux」支持]]に詳細)。 == その他 == [[Debian]]はその成立経緯などから、[[Linuxディストリビューション|ディストリビューション]]の正式名を「Debian GNU/Linux」とするなど[[GNUプロジェクト]]を尊重する立場をとっている。またDebianプロジェクトは他のプロダクトにもこの命名方式を転用しており、カーネルにGNUプロジェクト製のカーネル[[GNU Hurd|Hurd]]を使用しその他のGNUプロジェクト製ソフトウェアをあわせた「[[Debian GNU/Hurd]]」や、[[FreeBSD]]のカーネルを使う「[[Debian GNU/kFreeBSD]]」などがある。 なお、逆に[[GNUプロジェクト]]のプロダクトを一切使わないLinuxシステムというものについて、具体例としてGNUプロジェクトがFAQで[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]を挙げているという例を出す者がいるが、しかしFAQをちゃんと読むと、そもそもAndroidは一般にLinuxシステムと呼ばれているものとは全く違うものなので、AndroidをLinuxシステムと呼ぶこと自体が間違いだと述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#linuxsyswithoutgnu|title=GNUなしの完全なLinuxシステム<nowiki>[ママ]</nowiki>はありますか?|accessdate=2017-06-24|work=リチャード・ストールマンのGNU/Linux FAQ|quote=Linuxを含みGNUではない完全なシステムはあります。アンドロイドが一つの例です。しかし、これを“Linux”システムと呼ぶことは間違いで、ちょうどGNUを“Linux”システムと呼ぶのと同じ間違いです。}}</ref>。だいたいにおいて実際のところ、例えば、Linuxカーネルの[[コンパイル]]は、実用的には、[[GNUコンパイラコレクション|gcc]]でしか不可能である。gcc以外(特に[[Clang]])でのコンパイルは、いくつか成功したという報告はあるが、本格的なものは2016年現在LLVMLinuxというプロジェクト<ref>http://llvm.linuxfoundation.org/index.php/Main_Page</ref>で進行中の状態である。また、カーネルとの結びつきが特に強いコンポーネントに[[標準Cライブラリ]]があるが、それについては[[GNU Cライブラリ]](glibc)以外に[[musl]]などがある。 == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|}} *[[Linuxディストリビューション]] *[[GNU]] *[[GNU/Linux名称論争]] *[[GNU Cライブラリ|glibc]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{GNU}} {{FOSS}} {{FLOSS-stub}} {{DEFAULTSORT:GNU/Linux}} [[Category:Linux]] [[Category:フリーソフトウェア文化・運動]] [[Category:GNUプロジェクト]]
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Beowulf
Beowulfは、コンピュータ・クラスターを構成する方式の名前で、LinuxやBSD系OSなどのフリーなPC-UNIXを載せたパーソナルコンピュータのクラスターによる高性能計算の実現法である。 "Beowulf"とはあくまで方式に付けられた名称である。Beowulfを構成するに当たってそれぞれ使うソフトウェアは異なり特に必要な要素となるソフトウエアの部品はない。 他のクラスターコンピュータ:MOSIX。
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Beowulfは、コンピュータ・クラスターを構成する方式の名前で、LinuxやBSD系OSなどのフリーなPC-UNIXを載せたパーソナルコンピュータのクラスターによる高性能計算の実現法である。 "Beowulf"とはあくまで方式に付けられた名称である。Beowulfを構成するに当たってそれぞれ使うソフトウェアは異なり特に必要な要素となるソフトウエアの部品はない。
{{Otheruses|コンピュータ用語|文学作品|ベーオウルフ}} '''Beowulf'''は、[[コンピュータ・クラスター]]を構成する方式の名前で、[[Linux]]や[[BSD系OS]]などのフリーな[[PC-UNIX]]を載せた[[パーソナルコンピュータ]]の[[コンピュータ・クラスター|クラスター]]による[[高性能計算]]の実現法である。 "Beowulf"とはあくまで方式に付けられた名称である。Beowulfを構成するに当たってそれぞれ使うソフトウェアは異なり特に必要な要素となるソフトウエアの部品はない。 == Beowulfの特徴 == *フリーのUNIXのソースコードの改造により実現される。 *一般的に販売されているPCを複数使って作られる。 *ノードとなるコンピュータクラスターを構成する各コンピュータは、クラスターの処理のためにだけ使われる。 *ノードは、クラスター専用に使われる高速のネットワークにより接続されている。 *クラスターとして使われる目的は、あくまで高速な処理をするためで、クラスターとしての別の目的である処理などの信頼性のためではない。 == Beowulfを構成するためのソフトウェア == *LinuxやBSD系のフリーなUNIXなど。 *特に共通して使われる他のソフトウェアはないが、以下のどれかが使われる事が多い。 **並列処理ライブラリー: *:プログラマが計算の単位(タスク)を、分割してネットワーク上のコンピュータに送り、計算の結果を収集する。 *:*[[Message_Passing_Interface|MPI]] (Message Passing Interface) *:*[[PVM]] (Parallel Virtual Machine) **その他 == 参照 == *[[コンピュータ・クラスター]]、[[並列コンピュータ]]、[[スーパーコンピュータ]]、[[コンピュータ・グリッド]] 他のクラスターコンピュータ:[[MOSIX]]。 == 外部リンク == *[http://www.beowulf.org/ Beowulf.org] *[http://clustercompute.com/ Home build] *[http://www.clustermonkey.net/ Cluster Monkey] Free On-line Cluster Magazine *[http://www.linuxhpc.org/ LinuxHPC.org] *[http://www-unix.mcs.anl.gov/mpi/ MPI homepage] *[http://aggregate.org/KLAT2/ KLAT2] *[http://www.clusterbuilder.org Cluster Builder] *[http://www.rocksclusters.org NPACI Rocks] *[http://www.osgdc.org Project Kusu] HPC Cluster Toolkit *[http://www.phy.duke.edu/~rgb/Beowulf/beowulf_book/beowulf_book/index.html Engineering a Beowulf-style Compute Cluster] *[http://aggregate.org/KASY0/ KASY0 (Kentucky ASYmmetric Zero)] {{Normdaten}} [[Category:スーパーコンピュータ]] [[Category:計算科学|すうはあこんひゆうた]]
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ヨルダン
ヨルダン・ハシミテ王国(ヨルダン・ハシミテおうこく、アラビア語: المملكة الأردنيّة الهاشميّة:英語名 Hashemite Kingdom of Jordan)、通称ヨルダンは、中東・西アジアに位置する立憲君主制国家である。首都はアンマン。イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウジアラビア、イラク、シリアと隣接する。イスラエル・パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川と死海が国境である。 立憲君主制をとる王国である。イスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻に遡るハーシム家出身の国王が世襲統治する。 国民の半数余りは中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスチナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫である。 アラビア語の正式名称は 、المملكة الأردنيّة الهاشميّة(ラテン文字転写: al-Mamlakah al-Urdunniyyah Al-Hāshimiyyah; 実際の原語発音:アル=マムラカ(トゥ)・ル=ウルドゥンニーヤ(トゥ)・ル=ハーシミーヤ、分かち書きカタカナ表記:アル=マムラカ・アル=ウルドゥンニーヤ・アル=ハーシミーヤ)。通称 الأردن(文語発音:al-Urdunn, アル=ウルドゥンヌ、口語発音:al-Urdun; アル=ウルドゥン)。 公式の英語表記は、Hashemite Kingdom of Jordan。通称 Jordan。Hashemiteがアラビア語のハーシミーヤ、Kingdomがマムラカ、Jordanがウルドゥンニーヤ部分に対応している。 ハーシミーヤは、預言者ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫の家系であるハーシム家にちなむことを表す形容詞「ハーシム家の」。 ヨルダンの名称は、国土の西を流れるヨルダン川の名に由来する。ヨルダン川は、ヘブライ語起源の河川名で、聖書に名が現われる。アラビア語ではウルドゥン、ヨーロッパ諸言語ではヨルダンあるいはジョルダンとなる。ヨルダン川の名前が国名となったのは、この国が第一次世界大戦後に成立したイギリスの委任統治領トランスヨルダン(「ヨルダン川の向こう」の意)を前身とするためである。 日本語への転写では表記のゆらぎがあり、日本の外務省では、従来英語寄りに「ジョルダン・ハシェミット王国」と表記していたが、2003年の改正で、「ヨルダン・ハシェミット王国」とした。「ヨルダン・ハシミテ王国」の表記は、2005年日本国際博覧会(愛知万博)へのヨルダン政府による出展の際に用いられている。他に、「ヨルダン・ハーシム王国」などと表記されることもある。 ヨルダンの国土は、およそ50万年前の旧石器時代から人類が住み着いていたことが知られ、紀元前8000年紀には人類最古級の農業が営まれた。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、紀元前13世紀ごろからはエドム人が住み着き、アンマンには旧約聖書に登場するアンモン人の国があった。紀元前1世紀ごろには南部にペトラ遺跡を残したナバテア王国が発展するが、紀元1世紀から2世紀にローマ帝国に併合された。 7世紀にはイスラム帝国の支配下に入り、アラビア語とイスラム教が浸透してアラブ化・イスラム化が進んだ。ダマスカスに都したウマイヤ朝が滅びイスラム世界の中心がシリア地方から離れると、その辺境として都市文明も次第に衰えていった。 19世紀に入ると、当時この地方を支配していたオスマン帝国は、ロシアから逃亡してきたチェルケス人をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。第一次世界大戦後の1919年にイギリス委任統治領パレスチナに組み入れられ、1923年にヒジャーズ王国を設立したハーシム家のアブドゥッラー・ビン=フサインが迎え入れられてトランスヨルダン王国が成立した。この政府に対するイギリスの代表者は最初はT・E・ロレンス、ついでジョン・フィルビーであり、パレスチナの高等弁務官の管轄下にあった。 トランスヨルダン王国は第二次世界大戦後の1946年に独立し、1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めた。1950年には、エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を領土に加えたが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに奪われる。中東戦争は、イスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらした。加えて1990年代以降には、民主化に伴い王室の近代化主義に反対する保守派やイスラム主義派が台頭して、国内の不安定要因となっている。 1952年1月8日に制定された憲法に基づいた、国王(マリク)を元首とする立憲君主制であり、君主は世襲制となっている。国王は内閣と共に行政権を執行する。二院制の議会を有している。 ジャスミン革命(アラブの春)の影響で、首相を国王が任命するのでは無く国民に直接選ばれた議会が選出する議院内閣制への移行と選挙法改正を要求するため、主にムスリム同胞団やアラブ民族主義政党、左派政党らが結集してアンマンなどで抗議デモが実施された。また、国王の長年の支持基盤だったベドウィンの部族長らもアブドゥッラー2世国王に対して、ラーニア王妃とその一族の浪費癖を批判する声明を出している。しかし、いずれも王制打倒を求める反体制運動には到っていない。 イスラム世界では穏健派に位置付けられる。アラブ諸国や中東内外のイスラム諸国だけでなく、世界各国と協調する全方位外交を展開している。イスラエルとは1994年に平和条約を結び、エジプト(1979年)に次いでアラブ諸国では2番目に国交を樹立した。2018年には、イスラエルに対して平和条約の一環として賃貸した国境地帯の土地の契約を延長しないと通告した。 対イスラエル和平に見られるように、東西冷戦時代から親西側・欧米政策をとっている。アメリカ合衆国からは北大西洋条約機構(NATO)非加盟の戦略的パートナー諸国の一つに位置付けられている。 「アブドゥル2世特殊作戦訓練センター(KASOTC)」が開設された。ヨルダン陸軍、ヨルダン海軍、ヨルダン空軍、ヨルダン総合特殊作戦軍から成る。 12のムハーファザ(県、アラビア語のローマ字転記: muhafazat, 単数形: muhafazah)に分かれている。 東部は乾燥した森林高原で、オアシスと季節的な川の流れがあり、灌漑されている。西部は農地が発達し、地中海性の常緑樹が広がる。国の最高地点はウムアルダミ山 (Jabal Umm al Dami) で海抜1854m、頂上は雪で覆われる。西部渓谷を除いた国の大部分は海抜300m以上である。南西端でアカバ湾に接する。 夏の平均気温は30°C、冬は1°Cまで下がる。11月から3月の冬季は西部の降雨が大きく、アンマン(標高約1000m)では雪が降る。 国土の西部には大地溝帯の北端でもあるヨルダン渓谷がある。ここには死海もあり、標高が極めて低い。この地域は冬でも温暖であり、近年の灌漑技術の発達により、野菜や果物の一大生産地に変貌した。 ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯。アンマンやカラクなどもこの高地帯に位置する。南部にはヨルダン最高峰のラム山 (1,754m) もある。 国土の80%は砂漠地帯に属する。 IMFの統計によると、2019年の一人当たりの名目GDPは4,400ドルほどで、産油国が多い中東ではやや低い数値である。 現在農業従事者は18万人おり、主に果実を中心に栽培している。 畜産業としてはラクダや牛、馬や鶏を育て、牛乳や卵をとっている。 何よりヨルダン経済を支えているのはリン鉱石と天然ガスで、リン鉱石は256万トン、天然ガスは9.6千兆ジュールを産出している。 漁獲量は526トンである。 現状では石油をほとんど産出しないため、1990年代はイラクや近隣諸国から輸入した。イラクのサッダーム・フセイン体制崩壊後は湾岸協力会議諸国からの供給があり、エジプトからは2003年に完成したアカバ湾までのアラブガスパイプラインによりガスを輸入している。イラクとパレスチナでの社会不安のため、それら地域の多くの事業家がアンマンに事務所を置いている。 2000年にWTOに加盟。2001年12月の米国との自由貿易協定以降、米国との貿易が飛躍的に拡大している。政府はリン鉱石やカリ鉱石の輸出あるいは海外からの送金や外国からの支援に頼らない産業、例えばITや観光産業を奨励している。低税金と規制緩和のアカバ経済特区 (ASEZA) に経済成長モデルの期待がある。 ヨルダン統計局発表のGDP成長率は2012年が2.7%、2013年が2.8%となっている。 東部砂漠のRishaガス田を1987年に発見した。埋蔵量はそれほど多くはないが、ヨルダン全体の発電量の1割を支えている。南部には世界第3位を誇るリン鉱石埋蔵量があり、採掘された鉱石は鉄道でアカバ港へ運ばれ輸出される。ウラン鉱石は世界の2%の埋蔵量がある。最近注目されているのがオイルシェールで、400億トンの石油の存在が推定される。ロイヤル・ダッチ・シェルとの間で開発契約が締結された。 住民はほとんどアラブ人である。わずかにアルメニア人や、チェチェン人・チェルケス人・アブハズ人・アディゲ人・アヴァール人など北カフカス系の民族がいる。北カフカス系の民族は、19世紀にロシア帝国の侵略を逃れてオスマン帝国に移住し、当時は人口希薄だったオスマン領のヨルダンへと入植した。アルメニア人は、第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を逃れてシリアやヨルダンに移住した。1967年の第三次中東戦争以降流入したパレスチナ難民の人数は、2009年の調査によると324万とされており、ヨルダン国籍を取得しているなどヨルダン国民として同化しているが、2015年にはガザ紛争などにより新たに流入したパレスチナ人を中心におよそ37万人が難民キャンプに在住している。 2013年時点で、隣国シリアの内戦から逃れてきたシリア難民が大量に流入、ヨルダン人口の1割に達しつつある。 イラク・シリア難民の流入を受けて、2016年には人口が970万人を突破し、1000万に迫るほどになっており世界屈指の人口増加国となっている。しかし、全人口の30%が非ヨルダン国籍となっている。ザータリ難民キャンプは世界最大のシリア難民キャンプとなっており、一時期は34万人に達したが、2015年3月26日現在では8万3千人となっている。 公用語はアラビア語で、話し言葉(アーンミーヤ)はヨルダン方言。 宗教はイスラム教スンナ派がほとんど。その他にキリスト教なども信仰されている。 ヨルダン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1944年にはプロサッカーリーグのヨルダンリーグが創設された。ヨルダンサッカー協会(JFA)によって構成されるサッカーヨルダン代表は、これまでFIFAワールドカップでは2014年大会に大陸間プレーオフに進出するも、ウルグアイ代表に敗れ未出場である。しかしAFCアジアカップには4度出場しており、2004年大会と2011年大会ではベスト8の成績を収めた。
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"東部は乾燥した森林高原で、オアシスと季節的な川の流れがあり、灌漑されている。西部は農地が発達し、地中海性の常緑樹が広がる。国の最高地点はウムアルダミ山 (Jabal Umm al Dami) で海抜1854m、頂上は雪で覆われる。西部渓谷を除いた国の大部分は海抜300m以上である。南西端でアカバ湾に接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "夏の平均気温は30°C、冬は1°Cまで下がる。11月から3月の冬季は西部の降雨が大きく、アンマン(標高約1000m)では雪が降る。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "国土の西部には大地溝帯の北端でもあるヨルダン渓谷がある。ここには死海もあり、標高が極めて低い。この地域は冬でも温暖であり、近年の灌漑技術の発達により、野菜や果物の一大生産地に変貌した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯。アンマンやカラクなどもこの高地帯に位置する。南部にはヨルダン最高峰のラム山 (1,754m) もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国土の80%は砂漠地帯に属する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2019年の一人当たりの名目GDPは4,400ドルほどで、産油国が多い中東ではやや低い数値である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在農業従事者は18万人おり、主に果実を中心に栽培している。 畜産業としてはラクダや牛、馬や鶏を育て、牛乳や卵をとっている。 何よりヨルダン経済を支えているのはリン鉱石と天然ガスで、リン鉱石は256万トン、天然ガスは9.6千兆ジュールを産出している。 漁獲量は526トンである。 現状では石油をほとんど産出しないため、1990年代はイラクや近隣諸国から輸入した。イラクのサッダーム・フセイン体制崩壊後は湾岸協力会議諸国からの供給があり、エジプトからは2003年に完成したアカバ湾までのアラブガスパイプラインによりガスを輸入している。イラクとパレスチナでの社会不安のため、それら地域の多くの事業家がアンマンに事務所を置いている。 2000年にWTOに加盟。2001年12月の米国との自由貿易協定以降、米国との貿易が飛躍的に拡大している。政府はリン鉱石やカリ鉱石の輸出あるいは海外からの送金や外国からの支援に頼らない産業、例えばITや観光産業を奨励している。低税金と規制緩和のアカバ経済特区 (ASEZA) に経済成長モデルの期待がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヨルダン統計局発表のGDP成長率は2012年が2.7%、2013年が2.8%となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東部砂漠のRishaガス田を1987年に発見した。埋蔵量はそれほど多くはないが、ヨルダン全体の発電量の1割を支えている。南部には世界第3位を誇るリン鉱石埋蔵量があり、採掘された鉱石は鉄道でアカバ港へ運ばれ輸出される。ウラン鉱石は世界の2%の埋蔵量がある。最近注目されているのがオイルシェールで、400億トンの石油の存在が推定される。ロイヤル・ダッチ・シェルとの間で開発契約が締結された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "住民はほとんどアラブ人である。わずかにアルメニア人や、チェチェン人・チェルケス人・アブハズ人・アディゲ人・アヴァール人など北カフカス系の民族がいる。北カフカス系の民族は、19世紀にロシア帝国の侵略を逃れてオスマン帝国に移住し、当時は人口希薄だったオスマン領のヨルダンへと入植した。アルメニア人は、第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を逃れてシリアやヨルダンに移住した。1967年の第三次中東戦争以降流入したパレスチナ難民の人数は、2009年の調査によると324万とされており、ヨルダン国籍を取得しているなどヨルダン国民として同化しているが、2015年にはガザ紛争などにより新たに流入したパレスチナ人を中心におよそ37万人が難民キャンプに在住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2013年時点で、隣国シリアの内戦から逃れてきたシリア難民が大量に流入、ヨルダン人口の1割に達しつつある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イラク・シリア難民の流入を受けて、2016年には人口が970万人を突破し、1000万に迫るほどになっており世界屈指の人口増加国となっている。しかし、全人口の30%が非ヨルダン国籍となっている。ザータリ難民キャンプは世界最大のシリア難民キャンプとなっており、一時期は34万人に達したが、2015年3月26日現在では8万3千人となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "公用語はアラビア語で、話し言葉(アーンミーヤ)はヨルダン方言。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "宗教はイスラム教スンナ派がほとんど。その他にキリスト教なども信仰されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヨルダン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1944年にはプロサッカーリーグのヨルダンリーグが創設された。ヨルダンサッカー協会(JFA)によって構成されるサッカーヨルダン代表は、これまでFIFAワールドカップでは2014年大会に大陸間プレーオフに進出するも、ウルグアイ代表に敗れ未出場である。しかしAFCアジアカップには4度出場しており、2004年大会と2011年大会ではベスト8の成績を収めた。", "title": "スポーツ" } ]
ヨルダン・ハシミテ王国、通称ヨルダンは、中東・西アジアに位置する立憲君主制国家である。首都はアンマン。イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウジアラビア、イラク、シリアと隣接する。イスラエル・パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川と死海が国境である。 立憲君主制をとる王国である。イスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻に遡るハーシム家出身の国王が世襲統治する。 国民の半数余りは中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスチナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫である。
{{Otheruses|国|ヨルダン姓の人物|ジョルダン}} {{基礎情報 国 |略名 =ヨルダン |日本語国名 =ヨルダン・ハシミテ王国 |公式国名 ={{Lang|ar|'''المملكة الأردنيّة الهاشميّة'''}} |国旗画像 =Flag of Jordan.svg |国章画像 = [[File:Coat_of_arms_of_Jordan.svg|80px|ヨルダンの国章]] |標語 =<span lang="fa"> الله، الوطن، الملك </span><br/>(アラビア語:[[アッラー|神]]、祖国、国王) |位置画像 =Jordan (orthographic projection).svg |公用語 =[[アラビア語]] |首都 =[[アンマン]] |最大都市 =アンマン |元首等肩書 =[[ヨルダン王の一覧|国王]] |元首等氏名 =[[アブドゥッラー2世|アブドゥッラー・ビン=フセイン]] |首相等肩書 =[[ヨルダンの首相|首相]] |首相等氏名 ={{ill2|ビシェル・アル=ハサーウネ|ar|بشر الخصاونة|en|Bisher Al-Khasawneh}} |面積順位 =110 |面積大きさ =1 E10 |面積値 =92,300 |水面積率 =0.4% |人口統計年 =2020 |人口順位 =88 |人口大きさ =1 E6 |人口値 =1020万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/jo.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> |人口密度値 =114.9<ref name=population/> |GDP統計年元 =2020 |GDP値元 =315億9700万<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=439,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-14}}</ref>| |GDP統計年MER =2019 |GDP順位MER =87 |GDP値MER =445億6600万<ref name="imf2019" /> |GDP MER/人 =4425.687(推計)<ref name="imf2019" /> |GDP統計年 =2019 |GDP順位 =86 |GDP値 =1060億3000万<ref name="imf2019" /> |GDP/人 =1万529.516(推計)<ref name="imf2019" /> |建国形態 =建国<br/>&nbsp;- 宣言 |建国年月日 =[[イギリス]]の[[国際連盟]][[委任統治領]]より<br/>[[1946年]][[5月25日]] |通貨 =[[ヨルダン・ディナール]] |通貨コード =JOD |時間帯=+3<ref>[https://www.timeanddate.com/news/time/syria-jordan-abolish-dst-2022.html Syria and Jordan to Remain on Permanent DST]. timeanddate.com、2022年10月9日閲覧。</ref> |夏時間=なし |国歌名 =As-salam al-malaki al-urdoni |ISO 3166-1 = JO / JOR |ccTLD =[[.jo]] |国際電話番号 =962 |注記 = |国歌=[[ヨルダンの国歌|{{lang|ar|السلام الملكي الأردني}}]]{{ar icon}}<br>''ヨルダンの国歌''<br><center>[[ファイル:National anthem of Jordan instrumental.ogg]]}} '''ヨルダン・ハシミテ王国'''(ヨルダン・ハシミテおうこく、{{Lang-ar|'''المملكة الأردنيّة الهاشميّة'''}}:英語名 Hashemite Kingdom of Jordan)、通称'''ヨルダン'''は、[[中東]]・[[西アジア]]に位置する[[立憲君主制]][[国家]]である。首都は[[アンマン]]。[[イスラエル]]、[[パレスチナ|パレスチナ暫定自治区]]、[[サウジアラビア]]、[[イラク]]、[[シリア]]と隣接する。イスラエル・パレスチナ暫定自治区とは[[ヨルダン川]]と[[死海]]が[[国境]]である。 立憲君主制をとる[[王国]]である。[[イスラーム]]の預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の従弟[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]とムハンマドの娘[[ファーティマ]]の夫妻に遡る[[ハーシム家]]出身の[[国王]]が[[世襲]]統治する。 国民の半数余りは[[中東戦争]]によってイスラエルに占有された[[パレスチナ]]から難民として流入した人々([[パレスチナ難民]])とその子孫である。 == 国名 == アラビア語の正式名称は 、{{Lang|ar|المملكة الأردنيّة الهاشميّة}}(ラテン文字転写: al-Mamlakah al-Urdunniyyah Al-Hāshimiyyah; 実際の原語発音:アル=マムラカ(トゥ)・ル=ウルドゥンニーヤ(トゥ)・ル=ハーシミーヤ、分かち書きカタカナ表記:アル=マムラカ・アル=ウルドゥンニーヤ・アル=ハーシミーヤ)。通称 {{lang|ar|الأردن}}(文語発音:al-Urdunn, アル=ウルドゥンヌ、口語発音:al-Urdun; アル=ウルドゥン)。 公式の英語表記は、Hashemite Kingdom of Jordan。通称 Jordan。Hashemiteがアラビア語のハーシミーヤ、Kingdomがマムラカ、Jordanがウルドゥンニーヤ部分に対応している。 ハーシミーヤは、預言者ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫の家系である[[ハーシム家]]にちなむことを表す形容詞「ハーシム家の」。 ヨルダンの名称は、国土の西を流れるヨルダン川の名に由来する。ヨルダン川は、[[ヘブライ語]]起源の河川名で、[[聖書]]に名が現われる。[[アラビア語]]ではウルドゥン、ヨーロッパ諸言語ではヨルダンあるいはジョルダンとなる。ヨルダン川の名前が国名となったのは、この国が[[第一次世界大戦]]後に成立した[[イギリス]]の[[委任統治]]領トランスヨルダン(「ヨルダン川の向こう」の意)を前身とするためである。 日本語への転写では表記のゆらぎがあり、[[日本]]の[[外務省]]では、従来英語寄りに「ジョルダン・ハシェミット王国」と表記していたが、2003年の改正で、「ヨルダン・ハシェミット王国」とした。「ヨルダン・ハシミテ王国」の表記は、[[2005年日本国際博覧会]](愛知万博)へのヨルダン政府による出展の際に用いられている<ref>[http://www.expo2005.or.jp/jp/A0/A16/A16.3/A16.3.50/index.html 愛知万博 公式参加出展国・国際機関 「ヨルダン・ハシミテ王国」] </ref>。他に、「ヨルダン・ハーシム王国」<ref>『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際百科事典]]』</ref>などと表記されることもある。 == 歴史 == {{main|ヨルダンの歴史}} ヨルダンの国土は、およそ50万年前の[[旧石器時代]]から[[人類]]が住み着いていたことが知られ、紀元前8000年紀には人類最古級の[[農業]]が営まれた。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、[[紀元前13世紀]]ごろからは[[エドム人]]が住み着き、アンマンには[[旧約聖書]]に登場する[[アンモン人]]の国があった。[[紀元前1世紀]]ごろには南部に[[ペトラ]]遺跡を残した[[ナバテア王国]]が発展するが、紀元[[1世紀]]から[[2世紀]]に[[ローマ帝国]]に併合された。 [[7世紀]]には[[イスラム帝国]]の支配下に入り、[[アラビア語]]と[[イスラム教]]が浸透してアラブ化・イスラム化が進んだ。[[ダマスカス]]に都した[[ウマイヤ朝]]が滅び[[イスラム世界]]の中心が[[歴史的シリア|シリア地方]]から離れると、その辺境として都市文明も次第に衰えていった。 [[File:Arab Revolt.jpg|thumb|left|ヨルダンとアラビアの反乱騎兵([[1918年]])]] [[19世紀]]に入ると、当時この地方を支配していた[[オスマン帝国]]は、[[ロシア]]から逃亡してきた[[チェルケス人]]をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。第一次世界大戦後の[[1919年]]に[[イギリス委任統治領パレスチナ]]に組み入れられ、[[1923年]]に[[ヒジャーズ王国]]を設立した[[ハーシム家]]の[[アブドゥッラー1世|アブドゥッラー・ビン=フサイン]]が迎え入れられてトランスヨルダン王国が成立した。この政府に対するイギリスの代表者は最初は[[T・E・ロレンス]]、ついで[[ジョン・フィルビー]]であり、パレスチナの高等弁務官の管轄下にあった。 トランスヨルダン王国は[[第二次世界大戦]]後の[[1946年]]に独立し、[[1949年]]に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めた。[[1950年]]には、[[エルサレム]]を含む[[ヨルダン川西岸地区]]を領土に加えたが、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]で[[イスラエル]]に奪われる。中東戦争は、イスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらした。加えて[[1990年代]]以降には、民主化に伴い王室の近代化主義に反対する保守派や[[イスラム主義]]派が台頭して、国内の不安定要因となっている。 {{Clearleft}} == 政治 == [[File:King Abdullah II & Queen Rania of Jordan in WashingtonDC, 2007March06.jpg|thumb|[[ワシントンD.C.|ワシントン]]を訪問する国王[[アブドゥッラー2世]]と王妃[[ラーニア (ヨルダン王妃)|ラーニア]]([[2007年]])]]{{main|ヨルダンの議会}} [[1952年]]1月8日に制定された[[憲法]]に基づいた、[[ヨルダン王の一覧|国王]]([[マリク]])を[[元首]]とする[[立憲君主制]]であり、君主は世襲制となっている。国王は内閣と共に[[行政権]]を執行する。[[二院制]]の[[ヨルダンの議会|議会]]を有している。 === 反政府抗議運動 === {{main|en:2011-2012 Jordanian protests}} [[ジャスミン革命]]([[アラブの春]])の影響で、首相を国王が任命するのでは無く国民に直接選ばれた議会が選出する[[議院内閣制]]への移行と選挙法改正を要求するため、主に[[ムスリム同胞団]]や[[アラブ民族主義]]政党、左派政党らが結集してアンマンなどで抗議デモが実施された。また、国王の長年の支持基盤だった[[ベドウィン]]の部族長らも[[アブドゥッラー2世]]国王に対して、[[ラーニア (ヨルダン王妃)|ラーニア王妃]]とその一族の浪費癖を批判する声明を出している。しかし、いずれも王制打倒を求める反体制運動には到っていない。 == 外交 == [[イスラム世界]]では穏健派に位置付けられる。アラブ諸国や中東内外のイスラム諸国だけでなく、世界各国と協調する全方位外交を展開している。イスラエルとは1994年に[[イスラエル・ヨルダン平和条約|平和条約]]を結び、[[エジプト]]([[エジプト・イスラエル平和条約|1979年]])に次いでアラブ諸国では2番目に[[国交]]を樹立した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jordan/data.html#section3 ヨルダン・ハシェミット王国 外交・国防]日本国外務省ホームページ(2018年10月24日閲覧)。</ref>。2018年には、イスラエルに対して平和条約の一環として賃貸した国境地帯の土地の契約を延長しないと通告した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36749770S8A021C1EAF000/ 「ヨルダン、領土賃貸条約延長せず」]『日本経済新聞』夕刊2018年10月22日(2018年10月24日閲覧)。</ref>。 対イスラエル和平に見られるように、東西[[冷戦]]時代から親西側・欧米政策をとっている。[[アメリカ合衆国]]からは[[北大西洋条約機構]](NATO)非加盟の戦略的パートナー諸国の一つに位置付けられている。 {{main|MNNA}} == 軍事 == {{Main|ヨルダン軍}} 「アブドゥル2世特殊作戦訓練センター(KASOTC)」が開設された<ref>{{cite news|url=https://dailynewsagency.com/2018/07/05/abdullah-ii-live-gun-training-m9k/|title=王子の誕生日を祝って一緒に実弾戦闘訓練をするヨルダン国王の動画|newspaper=Daily News Agency|publisher=|date=2018-07-05|accessdate=2019-05-25}}</ref>。ヨルダン陸軍、ヨルダン海軍、ヨルダン空軍、ヨルダン総合特殊作戦軍から成る。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Jordan, administrative divisions - Nmbrs - monochrome.svg|thumb|right|300px|ヨルダンのムハーファザ]] {{main|ヨルダンの行政区画|ヨルダンの都市の一覧}} 12のムハーファザ(県、アラビア語の[[ローマ字]]転記: muhafazat, 単数形: muhafazah)に分かれている。 <!--【北部地域】--> # [[イルビド県]] (Irbid) - 県都[[イルビド]] # [[アジュルン県]] (Ajlun) - 県都[[アジュルン]] # [[ジャラシュ県]] (Jerash) - 県都[[ジャラシュ]] # [[マフラク県]] (Mafraq) - 県都[[マフラク]] <!--【中部地域】--> # [[バルカ県]] (Balqa) - 県都[[サルト (ヨルダン)|サルト]] # [[アンマン県]] (Amman) - 県都[[アンマン]] # [[ザルカ県]] (Zarqa) - 県都[[ザルカ]] # [[マダバ県]] (Madaba) - 県都[[マダバ]] <!--【南部地域】--> # [[カラク県]] (Karak) - 県都[[カラク (ヨルダン)|カラク]](アル=カラク) # [[タフィラ県]] (Tafilah) - 県都[[タフィラ]] # [[マアーン県]] (Ma'an) - 県都[[マアーン]] # [[アカバ県]] (Aqaba) - 県都[[アカバ]] == 地理 == [[ファイル:Jo-map.png|thumb|right|300px|ヨルダンの地図]] <!-- ''詳細は[[ヨルダンの地理]]を参照'' --> 東部は乾燥した森林高原で、オアシスと季節的な川の流れがあり、灌漑されている。西部は農地が発達し、地中海性の常緑樹が広がる。国の最高地点はウムアルダミ山 (Jabal Umm al Dami) で海抜1854m、頂上は雪で覆われる。西部渓谷を除いた国の大部分は海抜300m以上である。南西端で[[アカバ湾]]に接する。 === 気候 === 夏の平均気温は30℃、冬は1℃まで下がる。11月から3月の冬季は西部の降雨が大きく、アンマン(標高約1000m)では雪が降る。 === ヨルダン渓谷 === 国土の西部には[[大地溝帯]]の北端でもある[[ヨルダン渓谷]]がある。ここには[[死海]]もあり、標高が極めて低い。この地域は冬でも温暖であり、近年の[[灌漑]]技術の発達により、野菜や果物の一大生産地に変貌した。 === ヨルダン高原 === ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯。アンマンやカラクなどもこの高地帯に位置する。南部にはヨルダン最高峰のラム山 (1,754m) もある。 === 砂漠 === 国土の80%は[[砂漠]]地帯に属する。 == 経済 == [[File:Amman Hotel Regency.jpg|thumb|left|首都[[アンマン]]]] <!-- ''詳細は[[ヨルダンの経済]]を参照'' --> [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2019年]]の一人当たりの名目GDPは4,400ドルほどで、産油国が多い中東ではやや低い数値である。 {{いつ範囲|現在|date=2014年12月}}[[農業]]従事者は18万人おり、主に[[果実]]を中心に栽培している。 [[畜産]]業としては[[ラクダ]]や[[ウシ|牛]]、[[ウマ|馬]]や[[ニワトリ|鶏]]を育て、[[牛乳]]や[[卵]]をとっている。 何より[[ヨルダンの経済|ヨルダン経済]]を支えているのは[[リン鉱石]]と[[天然ガス]]で、リン鉱石は256万トン、天然ガスは9.6千兆[[ジュール]]を産出している。 漁獲量は526トンである。 現状では[[石油]]をほとんど産出しないため、1990年代はイラクや近隣諸国から輸入した。イラクの[[サッダーム・フセイン]]体制崩壊後は[[湾岸協力会議]]諸国からの供給があり、エジプトからは2003年に完成した[[アカバ湾]]までのアラブガスパイプラインによりガスを輸入している。イラクとパレスチナでの社会不安のため、それら地域の多くの事業家がアンマンに事務所を置いている。 2000年に[[世界貿易機関|WTO]]に加盟。2001年12月の米国との[[自由貿易協定]]以降、米国との貿易が飛躍的に拡大している。政府はリン鉱石やカリ鉱石の輸出あるいは海外からの送金や外国からの支援に頼らない産業、例えば[[情報技術|IT]]や観光産業を奨励している。低税金と規制緩和のアカバ経済特区 (ASEZA) に経済成長モデルの期待がある。 ヨルダン統計局発表のGDP成長率は2012年が2.7%、2013年が2.8%となっている<ref>{{cite news|url=http://jordantimes.com/jordans-2012-gdp-grows-by-27|title=Jordan’s 2012 GDP grows by 2.7%|newspaper=The Jordan Times|date=2013-03-31|accessdate=2013-08-25}}</ref><ref>{{cite news|url=http://jordantimes.com/gdp-grows-by-28-in-2013|title=GDP grows by 2.8% in 2013|newspaper=The Jordan Times|date=2014-03-31|accessdate=2014-04-06}}</ref>。 {{Clearleft}} === 天然資源 === 東部砂漠のRishaガス田を1987年に発見した。埋蔵量はそれほど多くはないが、ヨルダン全体の発電量の1割を支えている。南部には世界第3位を誇るリン鉱石埋蔵量があり、採掘された鉱石は鉄道でアカバ港へ運ばれ輸出される。[[ウラン]]鉱石は世界の2%の埋蔵量がある。最近注目されているのが[[オイルシェール]]で、400億トンの石油の存在が推定される。[[ロイヤル・ダッチ・シェル]]との間で開発契約が締結された。 == 国民 == {{bar box |title=宗教構成(ヨルダン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]]([[スンナ派]])|green|90}} {{bar percent|[[キリスト教]]他|blue|10}} }} 住民はほとんど[[アラブ人]]である。わずかに[[アルメニア人]]や、[[チェチェン人]]・[[チェルケス人]]・[[アブハズ人]]・[[アディゲ人]]・[[アヴァール人 (カフカース)|アヴァール人]]など[[北カフカス]]系の民族がいる。北カフカス系の民族は、19世紀に[[ロシア帝国]]の侵略を逃れて[[オスマン帝国]]に移住し、当時は人口希薄だったオスマン領のヨルダンへと入植した。アルメニア人は、[[第一次世界大戦]]中のオスマン帝国による[[アルメニア人虐殺]]を逃れてシリアやヨルダンに移住した。1967年の[[第三次中東戦争]]以降流入した[[パレスチナ]][[難民]]の人数は、2009年の調査によると324万とされており、ヨルダン国籍を取得しているなどヨルダン国民として同化しているが、2015年には[[ガザ紛争]]などにより新たに流入したパレスチナ人を中心におよそ37万人が難民キャンプに在住している。 2013年時点で、隣国[[シリア]]の[[シリア内戦|内戦]]から逃れてきた[[シリア難民]]が大量に流入、ヨルダン人口の1割に達しつつある<ref>{{cite news|title=シリア難民受け入れ「限界」 ヨルダン国王が支援訴え|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2013-11-4|url=http://www.asahi.com/articles/TKY201311040102.html|accessdate=2013-11-6|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131107192107/http://www.asahi.com/articles/TKY201311040102.html|archivedate=2013年11月7日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。 イラク・シリア難民の流入を受けて、2016年には人口が970万人を突破し<ref>{{cite web|title=Population clock|accessdate=18 June 2016|publisher=Jordan Department of Statistics|url=http://web.dos.gov.jo/?lang=en}}</ref>、1000万に迫るほどになっており世界屈指の人口増加国となっている。しかし、全人口の30%が非ヨルダン国籍となっている。[[ザータリ難民キャンプ]]は世界最大のシリア難民キャンプとなっており、一時期は34万人に達したが、2015年3月26日現在では8万3千人となっている。 === 言語 === [[公用語]]は[[アラビア語]]で、[[話し言葉]]([[アーンミーヤ]])は[[アラビア語ヨルダン方言|ヨルダン方言]]。 === 宗教 === 宗教は[[イスラム教]][[スンナ派]]がほとんど。その他に[[キリスト教]]なども信仰されている。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ヨルダンのスポーツ|en|Sport in Jordan}}}} {{See also|オリンピックのヨルダン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ヨルダンのサッカー|en|Football in Jordan}}}} ヨルダン国内でも他の[[中東]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1944年]]にはプロサッカーリーグの[[ヨルダンリーグ]]が創設された。[[ヨルダンサッカー協会]](JFA)によって構成される[[サッカーヨルダン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]では[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]に[[2014 FIFAワールドカップ・大陸間プレーオフ|大陸間プレーオフ]]に進出するも、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]に敗れ未出場である。しかし[[AFCアジアカップ]]には4度出場しており、[[AFCアジアカップ2004|2004年大会]]と[[AFCアジアカップ2011|2011年大会]]ではベスト8の成績を収めた。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|ヨルダンの文化|en|Culture of Jordan}}}} === 観光地 === {{see|{{仮リンク|ヨルダンの観光地|en|Tourism in Jordan}}}} [[ファイル:Petra Jordan BW 21.JPG|thumb|right|180px|[[世界遺産]]である[[ペトラ]]]] * [[ジャラシュ]] * [[ペトラ]] * [[ペラ (ヨルダン)|ペラ]] * [[ウンム・カイス]] * [[アジュルン#アジュルン城|アジュルーン城]] {{see also|ヨルダンの世界遺産}} === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|ヨルダンの祝日|en|Public holidays in Jordan}}}} {| class="wikitable" |+ style="font-weight:bold; font-size:larger" | <ref>{{cite web|url=http://www.ammancity.gov.jo/ar/gam/working.asp|title={{lang|ar|الاعياد القومية والوطنية}}|publisher={{lang|ar|الموقع الرسمي لأمانة عمّان الكبرى}}|accessdate=2012-10-14}}</ref> ! 日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- | [[1月1日]] || 元日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|رأس السنة الميلادية}} || 太陽暦の新年 |- | [[1月30日]] || [[アブドゥッラー2世|アブドゥッラー国王]]の誕生日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|ذكرى ميلاد الملك عبد الله الثاني}} || |- | [[5月1日]] || [[労働節]] ||style="text-align:right;"| {{lang|ar|عيد العمال}}|| |- | 移動祝日、ただし常に東方キリスト教のカレンダーによる || [[復活祭]] || || これは休日と最近宣言されはしたが全国で行われているわけではない。休日はその趣旨に関係する人々にのみ適用される。通常、この日を休むのはクリスチャンである。 |- | [[5月25日]] || [[独立記念日]] ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|عيد استقلال المملكة الاردنية الهاشمية}}|| |- | [[6月9日]] || [[アブドゥッラー2世|アブドゥッラー国王]]の即位 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar| عيد جلوس جلالة الملك عبدالله الثاني بن الحسين المعظم}}|| |- | [[6月10日]] || 国軍及び[[アラブ反乱|大アラブ反乱]]記念日 ||style="text-align:right;"| {{lang|ar|عيد الجيش والثورة العربية الكبرى}}|| |- | [[11月14日]] || [[フセイン1世|フセイン国王]]の誕生日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|ذكرى ميلاد المغفور له الملك الحسين بن طلال طيب الله ثراه}}|| フセイン国王の死の後、この日は「フセインへの忠誠日」と呼ばれている。 |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|عيد الميلاد المجيد}}|| 民間ではこの休みを4日間か5日間に拡張することが法によって可能になっている。 |- | 移動祝日 || 犠牲の祝宴、あるいは大祝宴、[[イード・アル=アドハー]]||style="text-align:right;"| {{lang|ar|عيد الأضحى المبارك}}|| 息子を犠牲にする[[アブラハム]]の意思を記念し、[[ハッジ|メッカ巡礼]]の月末に置く。 |- | 移動祝日 || [[ラマダーン]]初日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|بداية الصيام}}|| |- | 移動祝日 || 小祝宴、[[イード・アル=フィトル]]||style="text-align:right;"|{{lang|ar| عيد الفطر المبارك}}|| [[ラマダーン]]の終了を記念する。 |- | 移動祝日 || 元日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar|ذكرى الهجرة النبوية الشريفة}}|| イスラム教の新年 |- | 移動祝日 || ムハンマド昇天日 |||| |- | 移動祝日 || [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の誕生日 ||style="text-align:right;"|{{lang|ar| عيد المولد النبوي الشريف}}|| |} == 著名な出身者 == {{Main|Category:ヨルダンの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ヨルダン関係記事の一覧]] * [[日本とヨルダンの関係]] * [[サッカーヨルダン代表]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Jordan|Jordan}} ; 政府 * [https://kingabdullah.jo/en アブドゥッラー2世公式ウェブサイト ] {{en icon}} * [https://kingabdullah.jo/ アブドゥッラー2世公式ウェブサイト ] {{ar icon}} * [https://www.dns.jo/ ヨルダン王国政府] {{ar icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jordan/ 日本外務省 - ヨルダン] * [https://www.jordan.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ヨルダン日本国大使館] ; 観光 * [http://jp.visitjordan.com/ ヨルダン政府観光局] {{アジア}} {{OIC}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{Jordan-stub}} {{DEFAULTSORT:よるたん}} [[Category:ヨルダン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:アラブ連盟]]
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人口
人口(、英: population)は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。人口の計測方法や変動を研究する学問は、人口統計学と呼ばれる。 イギリスの経済学者であるトマス・ロバート・マルサスは、1798年に『人口論』を著し、人口問題を論じた。また、人口の歴史的な変遷を研究する「歴史人口学」や、人口現象の地理的分布などを研究する「人口地理学」がある。 一般的には、国家や特定の地域にいる集団について用いられる(世界の人口、日本の人口、県の人口など)。日本の人口として最も一般的に用いられているのは、国勢調査によるものである。国勢調査では外国人も含めた人口が把握されており、国籍別の集計結果もある。詳しくは令和2年国勢調査(総務省統計局) を参照。 住民基本台帳による人口は、日本人のみに関する統計であったが、「住民基本台帳法の一部を改正する法律」の施行及び「外国人登録法」の廃止(2012年)により、住民基本台帳法の適用対象となった外国人が含まれることとなった。詳しくは住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数(平成25年3月31日現在)(総務省自治行政局住民制度課) を参照。 20世紀から21世紀にかけて、人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験している。過去6000年間に存在した全ての人口の、おおよそ5分の1が2022年現在の人口である。詳しくは「世界人口 #今後の予測」を参照。また、米国PRB (Population Reference Bureau)(英語版)の研究によれば、人類史上これまで約20万年間に存在した総人口の7%近くを現在(2022年)の世界人口が占めている。 21世紀の現在、先進国をはじめ世界の多くの国々で老年人口の相対的増加、すなわち社会の高齢化が進んでいる。 国際連合は、2050年には世界人口の18%が65歳以上となると予測している。OECD諸国においては現加盟国の全てにおいて、2050年には1人の老人(65歳以上)を3人以下の生産人口(20-65歳)にて支える社会となると予測されている。 日本の総務省の2007年2月の月次推計では、総人口1億2774万人に対し、老年人口2694万人で、老年人口比が21.1%となり、超高齢社会である21%を超えた。なお、日本の総務省の2007年の年次推計では、総人口127,771千人に対し、老年人口27,464千人で21.5%であった。 十二支別人口では、午年生まれが最も少ない(2022年1月1日現在)。これは、丙午(ひのえうま)の年に生まれた子ども(とくに女の子)はよくないという迷信から、丙午にあたる1966年の出生数が少なかったことが大きな原因と考えられる。1966年は、出生数136万974人(合計特殊出生率1.58)であり、1965年の出生数182万3697人(合計特殊出生率2.14)、1967年の出生数193万5647人(合計特殊出生率2.23)と前後の年よりも出生数が少ない。次の丙午は1966年から60年後の2026年である。 午年生まれの次に少ないのが酉年生まれである。これは1945年の第二次世界大戦の戦況悪化による出生数激減が大きな要因と考えられるが、合計特殊出生率の過去最低値も酉年である2005年に記録している。 中華文化圏である中国大陸、台湾、世界各地の華僑においては特に龍年(辰)は縁起が良いとされ12年周期でベビーブームになる傾向にある。蛇年(巳)は縁起が良くないとされ少子となる傾向がある。また、壬辰(みずのえ たつ)は女偏を付けることで“妊娠”となるため、さらに縁起が良いとされている。 独裁国家は平気で人口を書き換えることが知られている。近年、北朝鮮や中国の人口統計の捏造や改竄が話題となっており、正確な世界の総人口はわからないのが現実である。
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人口(じんこう、は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。人口の計測方法や変動を研究する学問は、人口統計学と呼ばれる。 イギリスの経済学者であるトマス・ロバート・マルサスは、1798年に『人口論』を著し、人口問題を論じた。また、人口の歴史的な変遷を研究する「歴史人口学」や、人口現象の地理的分布などを研究する「人口地理学」がある。
{{Distinguish|人工}} [[File:Worldpop.svg|thumb|300px|right|全世界の[[人口ピラミッド]](2017年)]] {{読み仮名|'''人口'''|じんこう|{{lang-en-short|population}}}}は、ある[[人間]]集団の総体を指す概念であり、またその[[集団]]を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。人口の計測方法や変動を研究する学問は、[[人口統計学]]と呼ばれる。 [[イギリス]]の[[経済学者]]である[[トマス・ロバート・マルサス]]は、[[1798年]]に『[[人口論]]』を著し、人口問題を論じた。また、人口の歴史的な変遷を研究する「[[歴史人口学]]」や、人口現象の地理的分布などを研究する「[[人口地理学]]」がある。 {{Main2|日本における統計|日本の人口統計}} == 一般的な用法 == [[File:World population.PNG|thumb|right|400px|世界各国の人口(100万人)]] 一般的には、国家や特定の地域にいる集団について用いられる([[世界人口|世界の人口]]、[[日本]]の人口、[[県]]の人口など)。日本の人口として最も一般的に用いられているのは、[[国勢調査]]によるものである。国勢調査では[[外国人]]も含めた人口が把握されており、国籍別の集計結果もある。詳しくは[https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/index.html 令和2年国勢調査(総務省統計局)] を参照。 [[住民基本台帳]]による人口は、[[日本人]]のみに関する統計であったが、「住民基本台帳法の一部を改正する法律」の施行及び「外国人登録法」の廃止([[2012年]])により、住民基本台帳法の適用対象となった外国人が含まれることとなった。詳しくは[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei02_02000055.html 住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数(平成25年3月31日現在)(総務省自治行政局住民制度課)] を参照。 [[20世紀]]から[[21世紀]]にかけて、人類は[[人口爆発]]と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験している。過去6000年間に存在した全ての人口の、おおよそ5分の1が[[2022年]]現在の人口である。詳しくは「[[世界人口 #今後の予測]]」を参照。また、{{illm|人口統計研究所 (アメリカ)|label=米国PRB (Population Reference Bureau)|en|Population Reference Bureau}}の研究によれば、人類史上これまで約20万年間に存在した総人口の7%近くを現在([[2022年]])の[[世界人口]]が占めている<ref>{{Cite web|url=https://www.prb.org/articles/how-many-people-have-ever-lived-on-earth/|title=How Many People Have Ever Lived on Earth?|date=2021-05-18|publisher={{illm|人口統計研究所 (アメリカ)|label=米国PRB(Population Reference Bureau)|en|Population Reference Bureau}}|language=en|accessdate=2022-03-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220323195510/https://www.prb.org/articles/how-many-people-have-ever-lived-on-earth/|archivedate=2022-03-23|url-status=live}}</ref>。 == その他の用法 == [[File:Population density.png|thumb|400px|世界の[[人口分布]]図(1994年)]] {{Main|Category:人口}} ; [[人口分布]]([[国勢調査 (日本)|国勢調査]]で把握している人口) * [[昼間人口]] / [[夜間人口]] * 年齢別人口 ** 年少人口(0 - 14歳) ** 生産年齢人口(15 - 64歳) ** 老年人口(65歳以上) *** 前期老年人口(65 - 74歳) *** 後期老年人口(75歳以上) ** 従属人口(年少人口 + 老年人口) ** 労働力人口(就業者と完全失業者の合計) ; 地域社会概念やスポーツ * [[世界人口]] * [[村落|農山村人口]] * [[交流人口]] / [[定住人口]] * [[スポーツ #各種目のファンや競技者の人口統計|競技人口]]([[スポーツ]]などの競技者の総数) == 国別の人口 == ; 世界 * [[世界人口]] * [[国の人口順リスト]] * [[国の人口増加率順リスト]] * [[国の人口密度順リスト]] ; 日本 * [[日本の人口統計]] * [[国勢調査 (日本)]] === 高齢化問題 === {{Main|高齢化社会}} [[File:Percentage of the World Population Over 65 - 1950-2050.png|thumb|right|300px|[[世界人口]]における65歳以上の人口の割合<ref name=WPA-UN />]] [[File:Old-age support ratio in OECD.svg|thumb|right|300px|OECD各国の65歳以上、一人あたり生産年齢(20-64歳)人口<ref name="OECDageing">{{Cite report|title=OECD Society at a glance 2014 |publisher=OECD |date=2014 |doi=10.1787/soc_glance-2014-en |at=Chapt.3.11}}</ref>]] [[21世紀]]の現在、[[先進国]]をはじめ世界の多くの国々で老年人口の相対的増加、すなわち社会の高齢化が進んでいる。 [[国際連合]]は、[[2050年]]には世界人口の18%が65歳以上となると予測している<ref name=WPA-UN>[http://www.un.org/esa/population/publications/worldageing19502050/ World Population Ageing: 1950-2050], United Nations Population Division.</ref>。[[OECD]]諸国においては現加盟国の全てにおいて、2050年には1人の老人(65歳以上)を3人以下の生産人口(20-65歳)にて支える社会となると予測されている<ref name="OECDageing" />。 日本の[[総務省]]の[[2007年]]2月の月次推計では、総人口1億2774万人に対し、老年人口2694万人で、老年人口比が21.1%となり、超高齢社会である21%を超えた<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?lid=000001010793&layout=datalist e-Stat 人口推計 各月1日現在人口 月次2007年2月] 年齢(5歳階級)、男女別推計人口(平成18年9月確定値、平成19年2月概算値)</ref>。なお、日本の[[総務省]]の2007年の年次推計では、総人口127,771千人に対し、老年人口27,464千人で21.5%であった<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?lid=000001026128&layout=datalist e-Stat 人口推計 各年10月1日現在人口 年次 2007年] 3.年齢(5歳階級)、男女別人口及び割合-総人口(各年10月1日現在)</ref>。 [[File:Population Pyramids of Japan (Projections 2065,IPSS).svg|出生率中位・死亡率中位シナリオにおける2065年の人口ピラミッド予測|thumb|none]] == 都市別の人口 == {| class="wikitable floatright" style="font-size:80%; margin-left:1em" |+人口1,000万人以上の[[メガシティ]]([[2020年]]時点)<ref>[http://www.citypopulation.de/world/Agglomerations.html Brinkhoff (City Population: The Principal Agglomerations of the World)] 2021年2月20日閲覧</ref> !順位 !!メガシティ !!国 !!人口 |- |{{rh}}|1 || [[広州]] || {{CHN}} || 46,700,000 |- |{{rh}}|2 || [[東京]] || {{JPN}} || 40,400,000 |- |{{rh}}|3 || [[上海]] || {{CHN}} || 33,600,000 |- |{{rh}}|4 || [[ジャカルタ]] || {{IDN}} || 31,300,000 |- |{{rh}}|5 || [[デリー]] || {{IND}} || 30,300,000 |- |{{rh}}|6 || [[マニラ]] || {{PHL}} || 25,700,000 |- |{{rh}}|7 || [[ムンバイ]] || {{IND}} || 25,100,000 |- |{{rh}}|8 || [[ソウル特別市|ソウル]] || {{KOR}} || 24,800,000 |- |{{rh}}|9 || [[メキシコシティ]] || {{MEX}} || 23,000,000 |- |{{rh}}|10 || [[サンパウロ]] || {{BRA}} || 22,400,000 |- |} ; 世界 * [[世界の都市的地域の人口順位]] * [[世界の都市圏人口の順位]] * [[100万都市の一覧|世界の100万都市一覧]] * [[世界の市域人口の順位]] * [[歴史上の推定都市人口]] * [[メガシティ]] * [[メガロポリス]] * [[メトロポリス]] ; 米国 * [[アメリカ合衆国の主な広域都市圏人口の順位]] * [[アメリカ合衆国の主な都市圏人口の順位]] * [[アメリカ合衆国の主な都市人口の順位]] ; 日本 * [[都道府県の人口一覧]] * [[日本の都市圏人口の順位]] * [[日本の市の人口順位]] * [[日本の町の人口順位]] * [[日本の村の人口順位]] {{世界20大都市圏}} {{メガシティ}} == 干支と人口 == ; 日本 [[十二支]]別人口では、午年生まれが最も少ない(2022年1月1日現在)<ref name=":0">{{Cite web|和書|date=2022-12-31|url=https://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/topi1341.html|title=1 卯(う)年生まれの人口は997万人|publisher=総務省統計局|accessdate=2023-01-05}}</ref>。これは、[[丙午|丙午(ひのえうま)]]の年に生まれた子ども(とくに女の子)はよくないという迷信から、丙午にあたる[[1966年]]の出生数が少なかったことが大きな原因と考えられる。1966年は、出生数136万974人(合計特殊出生率1.58)であり、[[1965年]]の出生数182万3697人(合計特殊出生率2.14)、[[1967年]]の出生数193万5647人(合計特殊出生率2.23)と前後の年よりも出生数が少ない<ref>{{Cite web|和書 | date=2010-09-02 | url=https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei09/index.html | title=平成21年(2009)人口動態統計(確定数)の概況 | publisher=厚生労働省 | accessdate=2010-09-17 }}</ref>。次の丙午は1966年から60年後の[[2026年]]である。 午年生まれの次に少ないのが[[酉年]]生まれである<ref name=":0" />。これは[[1945年]]の第二次世界大戦の戦況悪化による出生数激減が大きな要因と考えられるが、[[合計特殊出生率]]の過去最低値も酉年である[[2005年]]に記録している。 ; 中華圏 中華文化圏である[[中国大陸]]、[[台湾]]、世界各地の華僑においては特に龍年(辰)は縁起が良いとされ12年周期でベビーブームになる傾向にある。蛇年(巳)は縁起が良くないとされ少子となる傾向がある。また、壬辰(みずのえ たつ)は女偏を付けることで“[[妊娠]]”となるため、さらに縁起が良いとされている。 == 捏造と人口 == 独裁国家は平気で人口を書き換えることが知られている。近年、北朝鮮<ref>{{Cite web|和書|url = https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20230227-00338860 |title = 「世界最速で人口崩壊」韓国だけでなく北朝鮮もヤバイ|website = news.yahoo.co.jp|publisher = デイリーNK|date = 2022-09-08|accessdate = 2023-03-17}}</ref>や中国<ref>{{Cite web|和書|url = https://courrier.jp/news/archives/299911/ |title = 大量流出した個人情報で判明「中国の人口はある時点から急減している」|website = courrier.jp|publisher = courrier japon|date = 2022-09-08|accessdate = 2023-03-17}}</ref>の人口統計の捏造や改竄が話題となっており、正確な世界の総人口はわからないのが現実である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[合計特殊出生率]] * [[ベビーブーム]] * [[人口爆発]] * [[少子化]] * [[人口減少社会]] * [[世界人口デー]] === 概念 === * [[人口密度]] * [[昼間人口]] * [[人口重心]] * [[人口ピラミッド]] === 学術 === * [[人口統計学]] * [[人口地理学]] * [[歴史人口学]] * [[人口可容論]] == 外部リンク == {{Wikidata property}} * {{Commons-inline|Category:Demography|人口統計}} * {{Kotobank}} {{Country-stub}} {{Population}} {{Normdaten}} {{人口順位表}} {{DEFAULTSORT:しんこう}} [[Category:人口|*]] [[Category:人文地理学]] [[Category:社会科学]]
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新約聖書
『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη、ラテン語: Novum Testamentum、英語: New Testament)は、1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」を『ヘブライ語聖書』、「新約聖書」を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはイエスが生まれる前までを旧約聖書、イエス生誕後を新約聖書がまとめている。 旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である。アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。 「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」(Καινή Διαθήκη)あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでにセプトゥアギンタのエレミヤ書31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。紀元前7世紀後半のエレミヤの「新しい契約」の思想は新約聖書の著者に強い影響を与えたとされる。 新約すなわち新しい契約という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた初代教会の人々によって用いられた。2世紀のテルトゥリアヌスやラクタンティウスは神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。ラテン教父のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。 5世紀のラテン語訳聖書(ヴルガータ)では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。 『新約聖書』の各書はすべてイエス・キリストとその教えに従うものたちの書であるが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっている(そもそも初めから新約聖書をつくろうとして書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物をまとめて成立したものとされる)。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間(全書物のうちで最初のものが書かれてからすべてがまとまるまでの期間)が短いということがいえる。 以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストである。なお各書の呼称は、現代の日本キリスト教において広く用いられているであろう『新共同訳聖書』、もっとも原語に近いとされている『口語訳聖書』における表記を用い、それ以外の呼称や略称も併記しておく。 イエスの生涯、死と復活の記録 聖書自身の自己証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。 『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえばパピアスは140年ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという(エウセビオスが『教会史』の中で、このように引用している)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。 これらの伝承には証言自体の他の外的な証拠はない。近代以降の批判的聖書研究では伝承通りの著者でない著者を想定することが多い。『新約聖書』におさめられた各書は最初の著者だけでなく、後代の人々によって加筆修正されているとも主張される。加筆された可能性が高い部分として有名なものは『マルコ福音書』の末尾と『ヨハネ福音書』の「姦淫の女」のくだりである。 ルカ以外の3書はいずれもユダヤ戦争中のエルサレム陥落と解釈できる言及があり、これが70年の出来事であることから、3書の完成はこれを遡らないと推測されている。またルカ書は更に降ってエルサレム神殿の破壊後の完成であると考えられている。ただしルカ書の著者はルカ書の続編として使徒言行録を書いているが、使徒言行録はパウロのローマ宣教までで終わっており、後代の伝承に見られパウロ書簡の中で示唆されるイベリア宣教と、有名なネロ帝迫害下でのローマでの殉教(紀元64年頃)までは記されていない。この原因は不明である。 またイエスの奇蹟とされる事象には当時の新皇帝ウェスパシアヌスを称揚するために流布された奇蹟譚と類似するものが多い。これらの書が『新約聖書』としてまとめられたのは150年から225年ごろの間であるといわれる。福音書で最も遅い成立とされる『ヨハネ福音書』はユスティノスによる引用が見られることから紀元160年頃までには成立している。 イエスの死後の初代教会の歴史 書簡にはさまざまな内容のものが含まれている。歴史的キリスト教会はこれが神の啓示であるとしてきたが、批判的研究では、それらから初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができると主張される。書簡の中には著者の名前が書かれているものもあるが、高等批評ではそれらは本当の著者というわけではないといわれる。近代以降の高等批評によって、多くの書簡が、著者とされる人物の名を借りた偽作であると主張された。 『パウロ書簡』とは使徒パウロの手紙(歴史的キリスト教会がパウロのものとしてきた手紙)の総称である。近代の高等批評では牧会書簡だけでなく、いくつかのパウロ書簡は単にパウロの名を借りただけのものであると主張され、そのようなものは「擬似パウロ書簡」などと呼ばれる。一般に高等批評ではパウロ書簡の成立が福音書群に先立つとしている。 公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。各々の書物には伝承の著者たちがいるが、近代以降の批判的研究はそれらが単に使徒の権威を利用するために著者名としてその名を冠したと主張した。 上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、外典と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。 イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉はアラム語であった(ヘブライ語という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたいわゆる古典ギリシア語は用いられていない)。 その後、早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり、ヘブライ書もヘブライ語版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する学者はきわめて少数である。 近代以降の聖書学は、聖書の文献学的高等批評研究によってオリジナルの姿を見いだそうと努めてきた。 福音書の資料と相互の参照関係の解明は重要な課題である。 現在、多数の研究者の見解は『マルコ福音書』が最初に書かれ、『マルコ福音書』と他の資料(後述のQ資料)をもとに『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が書かれ、『ヨハネ福音書』が最後に書かれたという説である。 まず、『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』には共通する内容が多いため「共観福音書」と呼ばれる。一方、『ヨハネ福音書』は共観福音書とは異なる視点からイエスを描き出し、独自のエピソードや言葉を盛り込んでいる。共観福音書がなぜ共通点が多いのか、共観福音書は互いをどのように参照したのかという問題をまず解決することが著者を特定するための第一歩となる。そもそも福音書は一人の人間、イエスを実際に知る四人によって執筆されたものなのか?あるいは個人によって書かれたものがグループによって補完されたのか?『福音書』は短期あるいは長期に書かれたのか?などといった問題から考えることになる。 現代の聖書研究でもっとも広く支持されている仮説は二資料仮説である。それは『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が、『マルコ福音書』およびQ資料と呼ばれるイエスの言葉資料をもとに書かれたという見方である。Q資料のQとはドイツ語のQuelle(クベレ)すなわち「資料」を意味している。Q資料がどんなものであったのかという議論はいまだに決着を見ていない。多くの学者たちはQ資料という単独の資料があったと考え、少数の学者たちはQ資料というのは複数の文書資料と口伝資料の集大成であると考えている。ただ、あくまでQ資料の存在は仮説にすぎず、その存在を疑うものもあり、資料そのものについてもよくわからないため、その著者にいたっては何も情報がない。ある人々は語録の形式を取る外典『トマスによる福音書』がQ資料である(あるいはそれに近い)と考えている。 現代の高等批評はパウロの七つの書簡(後述)を除いて、『新約聖書』の諸書が使徒の手で書かれたとは考えていない。近代的な聖書研究が始まった18世紀以前のキリスト教では(『ヘブライ人への手紙』の著者がパウロかどうか、『黙示録』『ヨハネの手紙二、三』の著者が使徒ヨハネかどうかを除いては)著者の伝承に関して疑義がもたれることは少なかった。ただ、現代の聖書学者でもシェーウィン・ホワイト(A. N. Sherwin-White)、F・F・ブルース(F.F. Bruce)、ジョン・ウェンハム(John Wenham)、ゲーリー・ヘーバーマス(Gary Habermas)などは、新約聖書に書かれていることや伝承は決して根拠のないものではないため、比較的信頼しうるのではないかという立場に立っている。特にジョン・ロビンソン(John A.T. Robinson)にいたっては『新約聖書』の成立は現代の定説よりも早く、著者に関する伝承もすべて真正であるというきわめて伝統的な立場に立っている。 高等批評学者たちによっても真正であると認められるパウロの七書簡とは、『ローマの信徒への手紙』、『コリントの信徒への手紙一』、『コリントの信徒への手紙二』、『ガラテヤの信徒への手紙』、『フィリピの信徒への手紙』、『テサロニケの信徒への手紙一』、そして『フィレモンへの手紙』である。『テサロニケの信徒への手紙二』、『コロサイの信徒への手紙』、『エフェソの信徒への手紙』に関しては今でも意見が分かれている。『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』と『テトスへの手紙』は、福音主義的な神学者たちは真正であると考えている。現代において『ヘブライ人への手紙』がパウロのものであると考える学者はまずいない。『ヘブライ書』の著者の問題は実に3世紀から議論されていた。マルチン・ルターは『ヘブライ人への手紙』の著者をアポロ(英語版)とする意見を提示している。 パウロ書簡以外の書物の著者の問題についても結論は得られていない。また四福音書の「著者」はもともと伝承に由来するものである。批判学者の間では、福音書と手紙を含むヨハネ書簡に関しては初代教会の中にあった「ヨハネ教団」ともいうべきグループに由来するという意見が優勢である。『ヨハネの黙示録』が「ヨハネ教団」に由来するものかどうかは意見の一致を見ていない。 ただし、一部の学者はヨハネの福音書についても段階的編集によってはその文体論的な強い統一性を保つのが困難であると考えている。また紀元2世紀から4世紀までの証言は特に福音書に関して一貫して使徒ヨハネに由来するものであると伝えられているのに対し『ヨハネ教団』の存在に関する傍証はほとんど得られていない。 聖書学者たちの多くは外典の著者の真正さについても疑義を示している。たとえばナグ・ハマディ写本におさめられた『トマスによる福音書』、『フィリポによる福音書』などがあるが、学者たちはそれらの原本は2世紀前後に書かれたもので、その名前がついている使徒による著作ではないと考えている。 聖書研究、特に福音書や史的イエスの研究においては研究者の視点が大きな意味を持つ。すなわち、ある個人の経験や宗教的信条、信念といったものがそのまま研究に投影される。たとえば福音書の研究についていうなら、歴史的なアプローチはもちろん、カトリック、プロテスタント、正教それぞれの視点から、ユダヤ教の視点から、社会科学的な視点から、フェミニズムの視点からなど、さまざまな立場からの研究が行われる。史的イエスに関する過去25年間の研究だけでもさまざまなものがあり、互いに矛盾しあうものすらある。しかしこのような幅の広さには個人のイエスに関する見方の限界を越える力があるし、そのような見解の違いによる議論が多くの結果を生んできたことも事実である。 伝承によれば、もっとも早い時期に書かれたのはパウロの手紙であり、最後に書かれたのは使徒ヨハネの書いたヨハネ文書であるという。使徒ヨハネは長命し、100年ごろ死んだという伝承があるが、教会文書外の証拠はない。2世紀から3世紀のパピアスやアレクサンドリアのクレメンスやヒッポリュトスの証言からヨハネ文書は1世紀終わりに使徒ヨハネによって成立したという伝統的見解が生まれた。エイレナイオスは185年に「マタイ福音書とマルコ福音書はペトロとパウロがローマに滞在中に書かれた」と述べており、それに従うと60年ごろになる。『ルカ福音書』はそれよりわずかに後に書かれたという。現代においてこのような伝承、古代の証言を支持するのは少数派である。 現代の多くの聖書学者たちはいくつかの書簡を除けば新約文書の成立時期に関しては意見の一致を見ている。たとえば福音書の成立時期でもっとも広く受け入れられているのは、65年ごろ、最初に『マルコ福音書』が、『マタイ福音書』が70年から85年にかけて、『ルカ福音書』が80年から95年の間に成立したという説である。 新約文書の中でもっとも早く書かれたとされるのはパウロのテサロニケの信徒への手紙一で49年ごろと考えられる。また、少数意見ではあるが、ガラテヤ書に関しては49年という説もある。高等批評では使徒の名を冠した公同書簡については70年から150年の間に成立したと見られている。高等批評の見解では新約文書でもっとも遅く書かれたのはペトロの手紙二であるとし、聖書自身が主張する使徒ペトロの記者性は強く疑問視されている。 少数意見だが、ジョン・ロビンソンは『新約聖書の成立をめぐって』(Redating the New Testament, 1976年)の中で、新約文書はすべて紀元70年以前に成立したという説を唱える。その根拠は、『マタイ福音書』24:15-21および『ルカ福音書』23:28-31においてイエスによるエルサレム神殿崩壊への預言的言及が記載されているにもかかわらずその結果が書かれていないこと、としている。一方、多数説は、この二つの記事は、神殿崩壊への予言的言及をもって、両福音書が神殿崩壊ののちに書かれたことを反映していると考えている 1830年代、ドイツ・テュービンゲン学派の研究者たちは『新約聖書』が3世紀後半に書かれたという説をとなえたが、現代までに発見された最古の写本の断片は125年までさかのぼれる上、95年に書かれたローマのクレメンスの書簡には『新約聖書』に含まれる10の書物から引用していることで否定された。さらに120年にポリュカルポスは聖書の16の書物から引用している。これらの引用が微妙に異なっていることから、新約文書は原版があって何度も改訂が行われたことで現代に伝わる形になった可能性も考えられている。 『新約聖書』は初めから現在のような正典として登場したわけではなかった。すでに教父たちの文書によって、教会内で正典的に読まれる文書群には一定の振幅があったことは知られていたが、20世紀のナグ・ハマディ写本の発見などにより、初代教会の時代では、使徒の手紙や様々な福音書や黙示録など、現在聖書に含まれるよりはるかに多くの文書が作成されていたことがわかってきた。 これらの文書は礼拝や信仰教育に用いられた。最初の数百年間には、ある文書が正統か非正統かは大規模な教会会議ではなく少人数グループの集会で決定されたと推定される。信仰グループにより思想が異なり、聖典はグループごとに異なっていたことだろう。このように初期の三つの世紀ではまだ「新約聖書」は確定しておらず、様々な観点から書かれた多数の文書が乱立していたと推測される。 その中で2世紀までには、マタイ以下の四福音書とパウロの書簡集が有力視されていったが、他の書物の優劣は未確定であった。2世紀のエイレナイオスとテルトゥリアヌスは、四福音書と13のパウロ書簡を含むいくつかの使徒書簡を、霊感によって書かれたものでヘブライ語の書物(『旧約聖書』)と同じ価値を持つとした。それ以外の書物は尊重されてはいたが、一般には『新約聖書』と同じ権威をもつとは考えられておらず、ゆっくりと正典群からは排除されていった。 『新約聖書』正典の確定作業は、シノペのマルキオンの「正典」選択作業に始まる。彼は旧約聖書を排除し、『ルカ福音書』とパウロ書簡(いわゆる「牧会書簡」3通を除く)のみを「正典」とした(ただし、旧約の引用などを削除したマルキオンの編集によるものである)。ところがマルキオンに従ったものは多くはなく、さらに彼自身も異端として排除されてしまう。同時期に古代教会内でも正典化の議論が本格化したと推定される。200年頃には「ムラトリ断片」といわれる正典リストが作成された。このムラトリ断片の正典表は、現代の『新約聖書』とほぼ同じであるが、現在では外典である『ソロモンの知恵』と『ペトロの黙示録』が含まれる。 現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのはアレクサンドリアのアタナシオスの367年の書簡である(『アタナシオスの第39復活祭書簡』)。この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった。しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては決着しなかった。時期が飛んで16世紀、宗教改革者マルティン・ルターはあらためて『ヤコブの手紙』、『ユダの手紙』、『ヘブライ人への手紙』、『ヨハネの黙示録』の扱いについて議論を提起した(最終的には排除されなかった)。現代でもドイツ語のルター聖書はこれらの書物を最後にまとめているのはその名残である。このような宗教改革者の動きを受けたカトリック教会はトリエント公会議において何が正典かということを再確認している。 『新約聖書』のギリシア語テキストは多くの写字生によって書き写され、後世に伝わった。写本は古代では巻物(スクロール)の形をとっていたが、やがてコデックス(冊子本)の形式が主流となった。『新約聖書』のギリシア語テキストと一言で言っても多くの異同を含むものが多数あり、それらを研究・分類するといくつかのタイプに分けることができる。このようなタイプを「型」といい、おおむね下のようなカテゴリーに分ける。 現代の『新約聖書』の翻訳は、徹底した比較・研究によって再現されたより原文に近いテキストを用いて行われる。もっとも信頼性の高いテキストとされているギリシア語批判版聖書は、校訂者の名前をとって「ネストレ・アーラント」と呼ばれている。 ネストリウス派のキリスト教(景教)が「流行した」と言われる中国の唐代に漢訳聖書があったことは確かであり、これが日本にも伝わったという説もあるが裏づけとなる事実はない。 日本へ最初に新約聖書をもたらしたのは1549年に来日したフランシスコ・ザビエルであり、彼は周防の大名大内氏に対して携えた聖書と注釈書を示し、「この中にわれわれの聖なる教えが全部含まれている」と語ったという。そして同時代の西洋人の証言によれば1613年までには、日本語に訳された聖書が京都で出版されていた。しかし、その後日本では宣教師が追放されてキリスト教が弾圧されたこともあり、その聖書は断片すら残っておらず、今日に伝わるのは教義書や典礼書などに使われた一部の翻訳聖句だけである。 19世紀になると日本に入国できないプロテスタントの宣教師たちが、中国で漢訳聖書を参照しながら日本語訳を開始した。この方法は開国直後に来日を果たした宣教師たちにも引き継がれた。もっとも有名なのはヘボンによる1872年の新約聖書翻訳であろう。 ヘボンはこの後、在日の宣教教会らに呼びかけて翻訳委員社中を結成して1880年に新約聖書、1887年には旧約聖書を完成。これを明治元訳と呼ぶ。新約聖書はその後1917年に改訳され、これは大正改訳と呼ばれている。明治元訳も大正改訳も他国と同様に出版は英国外国聖書協会、北米聖書教会、北英聖書協会であり、日本社会の中に広く普及した。その後、日本聖書協会が設立され、第2次世界大戦後に旧新約聖書の口語訳改定が行われる(新約が1954年、旧約が1955年)。他にも口語訳聖書は多く存在するが、日本では聖書協会のこの訳を口語訳と呼ぶ。 世界各地で行われたのと同様にこうした聖書協会系の翻訳はプロテスタント系の事業であり、カトリック教会や正教会はまた別の日本語訳聖書を用いてきた。しかし20世紀後半になって世界的にエキュメニズムの流れが進み、カトリックとプロテスタントの共同での聖書翻訳作業が行われるようになった。日本でもこの動きを受けて諸教派を代表する聖書学者たちが結集し、1978年に新約聖書のみであるが、共同訳聖書の発行が行われた。この共同訳に対しては批判的意見が相次ぎ、再翻訳が行われて1987年に新共同訳聖書が発行された。これは新約・旧約に加え、プロテスタント系聖書では従来含まれていなかった文書群を旧約聖書続編として含んでいる。現在、日本のキリスト教会においてもっとも広く用いられているのがこの新共同訳聖書である。新共同訳聖書にはローマ・カトリックの解釈と訳語が反映されている。 他方、日本正教会では日常的には聖書協会訳も用いるものの、奉神礼においては現在も自派の訳である日本正教会訳聖書を用いている。 プロテスタントのうち聖書信仰の教会によって訳された新改訳聖書は、エキュメニカル派に対比される福音派のプロテスタントでよく使われている。新改訳は文語訳聖書以来の日本のプロテスタントの訳語を継承している。また福音派による訳としては現代訳聖書もある。 この他にも、出版された日本語聖書は多数存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη、ラテン語: Novum Testamentum、英語: New Testament)は、1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」を『ヘブライ語聖書』、「新約聖書」を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはイエスが生まれる前までを旧約聖書、イエス生誕後を新約聖書がまとめている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である。アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」(Καινή Διαθήκη)あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでにセプトゥアギンタのエレミヤ書31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。紀元前7世紀後半のエレミヤの「新しい契約」の思想は新約聖書の著者に強い影響を与えたとされる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新約すなわち新しい契約という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた初代教会の人々によって用いられた。2世紀のテルトゥリアヌスやラクタンティウスは神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。ラテン教父のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "5世紀のラテン語訳聖書(ヴルガータ)では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『新約聖書』の各書はすべてイエス・キリストとその教えに従うものたちの書であるが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっている(そもそも初めから新約聖書をつくろうとして書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物をまとめて成立したものとされる)。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間(全書物のうちで最初のものが書かれてからすべてがまとまるまでの期間)が短いということがいえる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストである。なお各書の呼称は、現代の日本キリスト教において広く用いられているであろう『新共同訳聖書』、もっとも原語に近いとされている『口語訳聖書』における表記を用い、それ以外の呼称や略称も併記しておく。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イエスの生涯、死と復活の記録", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "聖書自身の自己証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえばパピアスは140年ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという(エウセビオスが『教会史』の中で、このように引用している)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらの伝承には証言自体の他の外的な証拠はない。近代以降の批判的聖書研究では伝承通りの著者でない著者を想定することが多い。『新約聖書』におさめられた各書は最初の著者だけでなく、後代の人々によって加筆修正されているとも主張される。加筆された可能性が高い部分として有名なものは『マルコ福音書』の末尾と『ヨハネ福音書』の「姦淫の女」のくだりである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ルカ以外の3書はいずれもユダヤ戦争中のエルサレム陥落と解釈できる言及があり、これが70年の出来事であることから、3書の完成はこれを遡らないと推測されている。またルカ書は更に降ってエルサレム神殿の破壊後の完成であると考えられている。ただしルカ書の著者はルカ書の続編として使徒言行録を書いているが、使徒言行録はパウロのローマ宣教までで終わっており、後代の伝承に見られパウロ書簡の中で示唆されるイベリア宣教と、有名なネロ帝迫害下でのローマでの殉教(紀元64年頃)までは記されていない。この原因は不明である。 またイエスの奇蹟とされる事象には当時の新皇帝ウェスパシアヌスを称揚するために流布された奇蹟譚と類似するものが多い。これらの書が『新約聖書』としてまとめられたのは150年から225年ごろの間であるといわれる。福音書で最も遅い成立とされる『ヨハネ福音書』はユスティノスによる引用が見られることから紀元160年頃までには成立している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "イエスの死後の初代教会の歴史", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "書簡にはさまざまな内容のものが含まれている。歴史的キリスト教会はこれが神の啓示であるとしてきたが、批判的研究では、それらから初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができると主張される。書簡の中には著者の名前が書かれているものもあるが、高等批評ではそれらは本当の著者というわけではないといわれる。近代以降の高等批評によって、多くの書簡が、著者とされる人物の名を借りた偽作であると主張された。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『パウロ書簡』とは使徒パウロの手紙(歴史的キリスト教会がパウロのものとしてきた手紙)の総称である。近代の高等批評では牧会書簡だけでなく、いくつかのパウロ書簡は単にパウロの名を借りただけのものであると主張され、そのようなものは「擬似パウロ書簡」などと呼ばれる。一般に高等批評ではパウロ書簡の成立が福音書群に先立つとしている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。各々の書物には伝承の著者たちがいるが、近代以降の批判的研究はそれらが単に使徒の権威を利用するために著者名としてその名を冠したと主張した。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、外典と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉はアラム語であった(ヘブライ語という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたいわゆる古典ギリシア語は用いられていない)。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり、ヘブライ書もヘブライ語版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する学者はきわめて少数である。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近代以降の聖書学は、聖書の文献学的高等批評研究によってオリジナルの姿を見いだそうと努めてきた。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "福音書の資料と相互の参照関係の解明は重要な課題である。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在、多数の研究者の見解は『マルコ福音書』が最初に書かれ、『マルコ福音書』と他の資料(後述のQ資料)をもとに『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が書かれ、『ヨハネ福音書』が最後に書かれたという説である。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "まず、『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』には共通する内容が多いため「共観福音書」と呼ばれる。一方、『ヨハネ福音書』は共観福音書とは異なる視点からイエスを描き出し、独自のエピソードや言葉を盛り込んでいる。共観福音書がなぜ共通点が多いのか、共観福音書は互いをどのように参照したのかという問題をまず解決することが著者を特定するための第一歩となる。そもそも福音書は一人の人間、イエスを実際に知る四人によって執筆されたものなのか?あるいは個人によって書かれたものがグループによって補完されたのか?『福音書』は短期あるいは長期に書かれたのか?などといった問題から考えることになる。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現代の聖書研究でもっとも広く支持されている仮説は二資料仮説である。それは『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が、『マルコ福音書』およびQ資料と呼ばれるイエスの言葉資料をもとに書かれたという見方である。Q資料のQとはドイツ語のQuelle(クベレ)すなわち「資料」を意味している。Q資料がどんなものであったのかという議論はいまだに決着を見ていない。多くの学者たちはQ資料という単独の資料があったと考え、少数の学者たちはQ資料というのは複数の文書資料と口伝資料の集大成であると考えている。ただ、あくまでQ資料の存在は仮説にすぎず、その存在を疑うものもあり、資料そのものについてもよくわからないため、その著者にいたっては何も情報がない。ある人々は語録の形式を取る外典『トマスによる福音書』がQ資料である(あるいはそれに近い)と考えている。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現代の高等批評はパウロの七つの書簡(後述)を除いて、『新約聖書』の諸書が使徒の手で書かれたとは考えていない。近代的な聖書研究が始まった18世紀以前のキリスト教では(『ヘブライ人への手紙』の著者がパウロかどうか、『黙示録』『ヨハネの手紙二、三』の著者が使徒ヨハネかどうかを除いては)著者の伝承に関して疑義がもたれることは少なかった。ただ、現代の聖書学者でもシェーウィン・ホワイト(A. N. Sherwin-White)、F・F・ブルース(F.F. Bruce)、ジョン・ウェンハム(John Wenham)、ゲーリー・ヘーバーマス(Gary Habermas)などは、新約聖書に書かれていることや伝承は決して根拠のないものではないため、比較的信頼しうるのではないかという立場に立っている。特にジョン・ロビンソン(John A.T. Robinson)にいたっては『新約聖書』の成立は現代の定説よりも早く、著者に関する伝承もすべて真正であるというきわめて伝統的な立場に立っている。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "高等批評学者たちによっても真正であると認められるパウロの七書簡とは、『ローマの信徒への手紙』、『コリントの信徒への手紙一』、『コリントの信徒への手紙二』、『ガラテヤの信徒への手紙』、『フィリピの信徒への手紙』、『テサロニケの信徒への手紙一』、そして『フィレモンへの手紙』である。『テサロニケの信徒への手紙二』、『コロサイの信徒への手紙』、『エフェソの信徒への手紙』に関しては今でも意見が分かれている。『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』と『テトスへの手紙』は、福音主義的な神学者たちは真正であると考えている。現代において『ヘブライ人への手紙』がパウロのものであると考える学者はまずいない。『ヘブライ書』の著者の問題は実に3世紀から議論されていた。マルチン・ルターは『ヘブライ人への手紙』の著者をアポロ(英語版)とする意見を提示している。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "パウロ書簡以外の書物の著者の問題についても結論は得られていない。また四福音書の「著者」はもともと伝承に由来するものである。批判学者の間では、福音書と手紙を含むヨハネ書簡に関しては初代教会の中にあった「ヨハネ教団」ともいうべきグループに由来するという意見が優勢である。『ヨハネの黙示録』が「ヨハネ教団」に由来するものかどうかは意見の一致を見ていない。 ただし、一部の学者はヨハネの福音書についても段階的編集によってはその文体論的な強い統一性を保つのが困難であると考えている。また紀元2世紀から4世紀までの証言は特に福音書に関して一貫して使徒ヨハネに由来するものであると伝えられているのに対し『ヨハネ教団』の存在に関する傍証はほとんど得られていない。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "聖書学者たちの多くは外典の著者の真正さについても疑義を示している。たとえばナグ・ハマディ写本におさめられた『トマスによる福音書』、『フィリポによる福音書』などがあるが、学者たちはそれらの原本は2世紀前後に書かれたもので、その名前がついている使徒による著作ではないと考えている。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "聖書研究、特に福音書や史的イエスの研究においては研究者の視点が大きな意味を持つ。すなわち、ある個人の経験や宗教的信条、信念といったものがそのまま研究に投影される。たとえば福音書の研究についていうなら、歴史的なアプローチはもちろん、カトリック、プロテスタント、正教それぞれの視点から、ユダヤ教の視点から、社会科学的な視点から、フェミニズムの視点からなど、さまざまな立場からの研究が行われる。史的イエスに関する過去25年間の研究だけでもさまざまなものがあり、互いに矛盾しあうものすらある。しかしこのような幅の広さには個人のイエスに関する見方の限界を越える力があるし、そのような見解の違いによる議論が多くの結果を生んできたことも事実である。", "title": "近代聖書学による批判研究" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "伝承によれば、もっとも早い時期に書かれたのはパウロの手紙であり、最後に書かれたのは使徒ヨハネの書いたヨハネ文書であるという。使徒ヨハネは長命し、100年ごろ死んだという伝承があるが、教会文書外の証拠はない。2世紀から3世紀のパピアスやアレクサンドリアのクレメンスやヒッポリュトスの証言からヨハネ文書は1世紀終わりに使徒ヨハネによって成立したという伝統的見解が生まれた。エイレナイオスは185年に「マタイ福音書とマルコ福音書はペトロとパウロがローマに滞在中に書かれた」と述べており、それに従うと60年ごろになる。『ルカ福音書』はそれよりわずかに後に書かれたという。現代においてこのような伝承、古代の証言を支持するのは少数派である。", "title": "成立時期" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現代の多くの聖書学者たちはいくつかの書簡を除けば新約文書の成立時期に関しては意見の一致を見ている。たとえば福音書の成立時期でもっとも広く受け入れられているのは、65年ごろ、最初に『マルコ福音書』が、『マタイ福音書』が70年から85年にかけて、『ルカ福音書』が80年から95年の間に成立したという説である。", "title": "成立時期" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新約文書の中でもっとも早く書かれたとされるのはパウロのテサロニケの信徒への手紙一で49年ごろと考えられる。また、少数意見ではあるが、ガラテヤ書に関しては49年という説もある。高等批評では使徒の名を冠した公同書簡については70年から150年の間に成立したと見られている。高等批評の見解では新約文書でもっとも遅く書かれたのはペトロの手紙二であるとし、聖書自身が主張する使徒ペトロの記者性は強く疑問視されている。", "title": "成立時期" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "少数意見だが、ジョン・ロビンソンは『新約聖書の成立をめぐって』(Redating the New Testament, 1976年)の中で、新約文書はすべて紀元70年以前に成立したという説を唱える。その根拠は、『マタイ福音書』24:15-21および『ルカ福音書』23:28-31においてイエスによるエルサレム神殿崩壊への預言的言及が記載されているにもかかわらずその結果が書かれていないこと、としている。一方、多数説は、この二つの記事は、神殿崩壊への予言的言及をもって、両福音書が神殿崩壊ののちに書かれたことを反映していると考えている", "title": "成立時期" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1830年代、ドイツ・テュービンゲン学派の研究者たちは『新約聖書』が3世紀後半に書かれたという説をとなえたが、現代までに発見された最古の写本の断片は125年までさかのぼれる上、95年に書かれたローマのクレメンスの書簡には『新約聖書』に含まれる10の書物から引用していることで否定された。さらに120年にポリュカルポスは聖書の16の書物から引用している。これらの引用が微妙に異なっていることから、新約文書は原版があって何度も改訂が行われたことで現代に伝わる形になった可能性も考えられている。", "title": "成立時期" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "『新約聖書』は初めから現在のような正典として登場したわけではなかった。すでに教父たちの文書によって、教会内で正典的に読まれる文書群には一定の振幅があったことは知られていたが、20世紀のナグ・ハマディ写本の発見などにより、初代教会の時代では、使徒の手紙や様々な福音書や黙示録など、現在聖書に含まれるよりはるかに多くの文書が作成されていたことがわかってきた。", "title": "正典の成立" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これらの文書は礼拝や信仰教育に用いられた。最初の数百年間には、ある文書が正統か非正統かは大規模な教会会議ではなく少人数グループの集会で決定されたと推定される。信仰グループにより思想が異なり、聖典はグループごとに異なっていたことだろう。このように初期の三つの世紀ではまだ「新約聖書」は確定しておらず、様々な観点から書かれた多数の文書が乱立していたと推測される。", "title": "正典の成立" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その中で2世紀までには、マタイ以下の四福音書とパウロの書簡集が有力視されていったが、他の書物の優劣は未確定であった。2世紀のエイレナイオスとテルトゥリアヌスは、四福音書と13のパウロ書簡を含むいくつかの使徒書簡を、霊感によって書かれたものでヘブライ語の書物(『旧約聖書』)と同じ価値を持つとした。それ以外の書物は尊重されてはいたが、一般には『新約聖書』と同じ権威をもつとは考えられておらず、ゆっくりと正典群からは排除されていった。", "title": "正典の成立" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『新約聖書』正典の確定作業は、シノペのマルキオンの「正典」選択作業に始まる。彼は旧約聖書を排除し、『ルカ福音書』とパウロ書簡(いわゆる「牧会書簡」3通を除く)のみを「正典」とした(ただし、旧約の引用などを削除したマルキオンの編集によるものである)。ところがマルキオンに従ったものは多くはなく、さらに彼自身も異端として排除されてしまう。同時期に古代教会内でも正典化の議論が本格化したと推定される。200年頃には「ムラトリ断片」といわれる正典リストが作成された。このムラトリ断片の正典表は、現代の『新約聖書』とほぼ同じであるが、現在では外典である『ソロモンの知恵』と『ペトロの黙示録』が含まれる。", "title": "正典の成立" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのはアレクサンドリアのアタナシオスの367年の書簡である(『アタナシオスの第39復活祭書簡』)。この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった。しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては決着しなかった。時期が飛んで16世紀、宗教改革者マルティン・ルターはあらためて『ヤコブの手紙』、『ユダの手紙』、『ヘブライ人への手紙』、『ヨハネの黙示録』の扱いについて議論を提起した(最終的には排除されなかった)。現代でもドイツ語のルター聖書はこれらの書物を最後にまとめているのはその名残である。このような宗教改革者の動きを受けたカトリック教会はトリエント公会議において何が正典かということを再確認している。", "title": "正典の成立" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『新約聖書』のギリシア語テキストは多くの写字生によって書き写され、後世に伝わった。写本は古代では巻物(スクロール)の形をとっていたが、やがてコデックス(冊子本)の形式が主流となった。『新約聖書』のギリシア語テキストと一言で言っても多くの異同を含むものが多数あり、それらを研究・分類するといくつかのタイプに分けることができる。このようなタイプを「型」といい、おおむね下のようなカテゴリーに分ける。", "title": "テキスト" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "現代の『新約聖書』の翻訳は、徹底した比較・研究によって再現されたより原文に近いテキストを用いて行われる。もっとも信頼性の高いテキストとされているギリシア語批判版聖書は、校訂者の名前をとって「ネストレ・アーラント」と呼ばれている。", "title": "テキスト" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ネストリウス派のキリスト教(景教)が「流行した」と言われる中国の唐代に漢訳聖書があったことは確かであり、これが日本にも伝わったという説もあるが裏づけとなる事実はない。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本へ最初に新約聖書をもたらしたのは1549年に来日したフランシスコ・ザビエルであり、彼は周防の大名大内氏に対して携えた聖書と注釈書を示し、「この中にわれわれの聖なる教えが全部含まれている」と語ったという。そして同時代の西洋人の証言によれば1613年までには、日本語に訳された聖書が京都で出版されていた。しかし、その後日本では宣教師が追放されてキリスト教が弾圧されたこともあり、その聖書は断片すら残っておらず、今日に伝わるのは教義書や典礼書などに使われた一部の翻訳聖句だけである。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "19世紀になると日本に入国できないプロテスタントの宣教師たちが、中国で漢訳聖書を参照しながら日本語訳を開始した。この方法は開国直後に来日を果たした宣教師たちにも引き継がれた。もっとも有名なのはヘボンによる1872年の新約聖書翻訳であろう。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヘボンはこの後、在日の宣教教会らに呼びかけて翻訳委員社中を結成して1880年に新約聖書、1887年には旧約聖書を完成。これを明治元訳と呼ぶ。新約聖書はその後1917年に改訳され、これは大正改訳と呼ばれている。明治元訳も大正改訳も他国と同様に出版は英国外国聖書協会、北米聖書教会、北英聖書協会であり、日本社会の中に広く普及した。その後、日本聖書協会が設立され、第2次世界大戦後に旧新約聖書の口語訳改定が行われる(新約が1954年、旧約が1955年)。他にも口語訳聖書は多く存在するが、日本では聖書協会のこの訳を口語訳と呼ぶ。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "世界各地で行われたのと同様にこうした聖書協会系の翻訳はプロテスタント系の事業であり、カトリック教会や正教会はまた別の日本語訳聖書を用いてきた。しかし20世紀後半になって世界的にエキュメニズムの流れが進み、カトリックとプロテスタントの共同での聖書翻訳作業が行われるようになった。日本でもこの動きを受けて諸教派を代表する聖書学者たちが結集し、1978年に新約聖書のみであるが、共同訳聖書の発行が行われた。この共同訳に対しては批判的意見が相次ぎ、再翻訳が行われて1987年に新共同訳聖書が発行された。これは新約・旧約に加え、プロテスタント系聖書では従来含まれていなかった文書群を旧約聖書続編として含んでいる。現在、日本のキリスト教会においてもっとも広く用いられているのがこの新共同訳聖書である。新共同訳聖書にはローマ・カトリックの解釈と訳語が反映されている。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "他方、日本正教会では日常的には聖書協会訳も用いるものの、奉神礼においては現在も自派の訳である日本正教会訳聖書を用いている。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "プロテスタントのうち聖書信仰の教会によって訳された新改訳聖書は、エキュメニカル派に対比される福音派のプロテスタントでよく使われている。新改訳は文語訳聖書以来の日本のプロテスタントの訳語を継承している。また福音派による訳としては現代訳聖書もある。", "title": "日本語訳" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この他にも、出版された日本語聖書は多数存在する。", "title": "日本語訳" } ]
『新約聖書』は、1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」を『ヘブライ語聖書』、「新約聖書」を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはイエスが生まれる前までを旧約聖書、イエス生誕後を新約聖書がまとめている。
{{観点|date=2010年4月}} {{参照方法|date=2013年1月}} {{キリスト教}} {{新約聖書}} [[File:P46.jpg|thumb|現存最古の新約聖書の写本の一部(𝔓<sup>46</sup>、3世紀ごろ、[[コリントの信徒への手紙二]]。[[チェスター・ビーティ図書館]]蔵)]] 『'''新約聖書'''』(しんやくせいしょ、[[ギリシア語]]: {{lang|el|Καινή Διαθήκη}}、[[ラテン語]]: Novum Testamentum、{{lang-en|New Testament}})は、[[1世紀]]から[[2世紀]]にかけて[[キリスト教徒]]たちによって書かれた[[文書]]で、『[[旧約聖書]]』とならぶ[[キリスト教]]の正典。また、[[イスラム教]]でも[[イスラームにおけるイーサー|イエス(イーサー)]]を[[預言者]]の一人として認めることから、その一部([[福音書]]に相当するもので現在読まれているものとは異なり、[[アラビア語]]で「インジール」と呼ばれる)が[[啓典]]とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.islamreligion.com/jp/articles/36/ |title=諸啓典への信仰 |website= IslamReligion.com |accessdate=2018-11-07}}</ref>。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉([[福音]]と呼ばれる)、[[初代教会]]の歴史(『[[使徒言行録]]』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『[[ヨハネの黙示録]]』が最後におかれている。現代で言うところの[[アンソロジー]]にあたる。「旧約聖書」<!--ここは書名を指さないので『』でなく「」でよい-->を『ヘブライ語聖書』、「新約聖書」を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはイエスが生まれる前までを旧約聖書、イエス生誕後を新約聖書がまとめている。 ==名称== 旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある<ref>[[アリスター・マクグラス]]『キリスト教神学入門』[[教文館]] p.226</ref>。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である<ref>[[和田幹男]]『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』[[女子パウロ会]] p.137</ref>。[[アウグスティヌス]]が引用した[[アンティオキアのイグナティオス|イグナティウス]]の「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」<ref>Quaestiones in Heptateuchum 2, 73</ref>ということばは有名である。<ref>[[尾山令仁]]著『聖書の権威』[[日本プロテスタント聖書信仰同盟]] (再版:[[羊群社]]) p.100</ref> 「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」({{lang|grc|Καινή Διαθήκη}})あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでに[[セプトゥアギンタ]]の[[エレミヤ書#内容に関する批判など|エレミヤ書]]31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。[[紀元前7世紀]]後半の[[エレミヤ]]の「新しい契約」の思想{{efn|[[#青柳ほか(1995)|青柳ほか(1995)]]によると「彼は王国の滅亡、捕囚というイスラエルの苦難が、律法にそむいた罰であると宣告する。しかし、自問し苦悶する彼に、神の意志として啓示されたのは、契約を破ったイスラエルの罪を許し、再び彼らとの間に「新しい契約」を結ぶというものであった。彼の預言には、それまでの預言者にはない神の愛と救済が述べられており、イエスの教えに通じるものがみられる。」とされる<ref>{{cite book|和書|author=[[青柳知義]]ほか|title=新資料集 倫理|publisher=一橋出版|year=1995|isbn=4891965150|ref=青柳ほか(1995)}}</ref>。}}は新約聖書の著者に強い影響を与えたとされる<ref>{{kotobank|エレミヤ書}}</ref>。 新約すなわち'''新しい契約'''という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた[[初代教会]]の人々によって用いられた。2世紀の[[テルトゥリアヌス]]や[[ラクタンティウス]]は神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。[[ラテン教父]]のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。 [[5世紀]]のラテン語訳聖書([[ヴルガータ]])では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。 == 内容 == 『新約聖書』の各書はすべて[[イエス・キリスト]]とその教えに従うものたちの書であるが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっている(そもそも初めから新約聖書をつくろうとして書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物をまとめて成立したものとされる)。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間(全書物のうちで最初のものが書かれてからすべてがまとまるまでの期間)が短いということがいえる。 以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストである{{efn|批判学の見解では実際の著者とは限らないと主張される。}}。なお各書の呼称は、現代の日本キリスト教において広く用いられているであろう『[[新共同訳聖書]]』、もっとも原語に近いとされている『[[口語訳聖書]]』における表記を用い、それ以外の呼称や略称も併記しておく。 === 福音書 === イエスの生涯、死と[[復活 (キリスト教)|復活]]の記録 * [[マタイによる福音書]] (マタイの福音書、マタイ書、マタイ伝) 税吏出身の使徒[[マタイ]] * [[マルコによる福音書]] (マルコの福音書、マルコ書、マルコ伝) ペトロとパウロの弟子であった[[マルコ (福音記者)|マルコ]] * [[ルカによる福音書]] (ルカの福音書、ルカ書、ルカ伝) おそらくパウロの弟子であった[[ルカ]] * [[ヨハネによる福音書]] (ヨハネの福音書、ヨハネ伝) [[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]] ==== キリスト教で認められてきた記者 ==== 聖書自身の自己証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。 『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが[[使徒]]自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえば[[パピアス]]は[[140年]]ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという([[エウセビオス]]が『教会史』の中で、このように引用している)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。 ==== 批判学の見解 ==== これらの伝承には証言自体の他の外的な証拠はない。近代以降の批判的聖書研究では伝承通りの著者でない著者を想定することが多い。『新約聖書』におさめられた各書は最初の著者だけでなく、後代の人々によって加筆修正されているとも主張される。加筆された可能性が高い部分として有名なものは『マルコ福音書』の末尾と『ヨハネ福音書』の「姦淫の女」のくだりである。 ルカ以外の3書はいずれも[[ユダヤ戦争]]中のエルサレム陥落と解釈できる言及があり、これが70年の出来事であることから、3書の完成はこれを遡らないと推測されている。またルカ書は更に降って[[エルサレム神殿]]の破壊後の完成であると考えられている。ただしルカ書の著者はルカ書の続編として使徒言行録を書いているが、使徒言行録はパウロのローマ宣教までで終わっており、後代の伝承に見られパウロ書簡の中で示唆されるイベリア宣教と、有名なネロ帝迫害下でのローマでの殉教(紀元64年頃)までは記されていない。この原因は不明である。 またイエスの奇蹟とされる事象には当時の新皇帝[[ウェスパシアヌス]]を称揚するために流布された奇蹟譚と類似するものが多い。これらの書が『新約聖書』としてまとめられたのは[[150年]]から[[225年]]ごろの間であるといわれる。福音書で最も遅い成立とされる『ヨハネ福音書』は[[ユスティノス]]による引用が見られることから紀元160年頃までには成立している。 === 歴史書 === イエスの死後の初代教会の歴史 *[[使徒言行録]] (使徒の働き、使徒行伝、使徒行録、使徒書 別名:聖霊行伝) ルカ === 書簡 === [[書簡 (新約聖書)|書簡]]にはさまざまな内容のものが含まれている。歴史的キリスト教会はこれが神の啓示であるとしてきたが、[[高等批評|批判的研究]]では、それらから初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができると主張される。書簡の中には著者の名前が書かれているものもあるが、[[高等批評]]ではそれらは本当の著者というわけではないといわれる。近代以降の高等批評によって、多くの書簡が、著者とされる人物の名を借りた偽作であると主張された。 ==== パウロ書簡 ==== {{Main|パウロ書簡}} 『パウロ書簡』とは使徒[[パウロ]]の手紙(歴史的キリスト教会がパウロのものとしてきた手紙)の総称である。近代の高等批評では牧会書簡だけでなく、いくつかのパウロ書簡は単にパウロの名を借りただけのものであると主張され、そのようなものは「[[擬似パウロ書簡]]」などと呼ばれる。一般に高等批評ではパウロ書簡の成立が福音書群に先立つとしている。 *[[ローマの信徒への手紙]] (ローマ人への手紙、ローマ書) パウロ *[[コリントの信徒への手紙一]] (コリント人への第一の手紙、コリント前書) パウロ *[[コリントの信徒への手紙二]] (コリント人への第二の手紙、コリント後書) パウロ *[[ガラテヤの信徒への手紙]] (ガラテヤ人への手紙、ガラテヤ書) パウロ *[[エフェソの信徒への手紙]] (エペソ人への手紙、エフェソ(エペソ)書) パウロ *[[フィリピの信徒への手紙]] (ピリピ人への手紙、フィリピ(ピリピ)書) パウロ *[[コロサイの信徒への手紙]] (コロサイ人への手紙、コロサイ書) パウロ *[[テサロニケの信徒への手紙一]] (テサロニケ人への第一の手紙、テサロニケ前書) パウロ *[[テサロニケの信徒への手紙二]] (テサロニケ人への第ニの手紙、テサロニケ後書) パウロ *[[テモテへの手紙一]] (テモテ前書、テモテヘの第一の手紙) パウロ(牧会書簡) *[[テモテへの手紙二]] (テモテ後書、テモテヘの第ニの手紙) パウロ(牧会書簡) *[[テトスへの手紙]] (テトス書) パウロ(牧会書簡) *[[フィレモンへの手紙]] (ピレモンへの手紙、フィレモン(ピレモン)書) パウロ ==== 公同書簡 ==== {{Main|公同書簡}} 公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。各々の書物には伝承の著者たちがいるが、近代以降の批判的研究はそれらが単に使徒の権威を利用するために著者名としてその名を冠したと主張した。 *[[ヘブライ人への手紙]] [[アポロ (新約聖書)|アポロ]]著者説があるが確定できない。 *[[ヤコブの手紙]] (ヤコブ書) [[ヤコブ (イエスの兄弟)|主の兄弟ヤコブ]]か? *[[ペトロの手紙一]] (ペテロの第一の手紙(ペテロ)) [[ペトロ]] *[[ペトロの手紙二]] (ペテロの第二の手紙(ペテロ)) ペトロ *[[ヨハネの手紙一]] (ヨハネの第一の手紙)[[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]] *[[ヨハネの手紙二]] (ヨハネの第二の手紙) 使徒ヨハネ *[[ヨハネの手紙三]] (ヨハネの第三の手紙) 使徒ヨハネ *[[ユダの手紙]] (ユダ書) 使徒[[タダイ|ユダ (タダイ)]]と[[主の兄弟ユダ]]の二説がある === 黙示文学 === *[[ヨハネの黙示録]] (ヨハネへの啓示)使徒ヨハネ === 外典 === 上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、[[外典]]と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。 == 言語 == イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉は[[アラム語]]であった([[ヘブライ語]]という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「[[コイネー]]」と呼ばれる[[1世紀]]のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたいわゆる古典ギリシア語は用いられていない)。 その後、早い時期に[[ラテン語]]、[[シリア語]]、[[コプト語]]などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり<!-- アラム語というか[[ヘブライ語]]でマタイの書が[[ジョージ・ハワード]]教授の本で[[出版]]されている、シェム・トブ・ベン・イサーク・イブン・シャプルト、[[1385年]]「試みを経た石(エヴェン・ボーハン)」に収録。'''ギリシャ語本文'''の元になった[[原文]](しかし写本)であろうと思われる。 -->、ヘブライ書も[[ヘブライ語]]版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する<!-- 聖書 -->学者はきわめて少数である<!-- 受け入れられていない -->。 == 近代聖書学による批判研究 == 近代以降の[[聖書学]]は、聖書の[[文献学]]的[[高等批評]]研究によってオリジナルの姿を見いだそうと努めてきた。 === 共観福音書とQ資料 === {{Main|Q資料}} 福音書の資料と相互の参照関係の解明は重要な課題である。 現在、多数の研究者の見解は『マルコ福音書』が最初に書かれ、『マルコ福音書』と他の資料(後述のQ資料)をもとに『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が書かれ、『ヨハネ福音書』が最後に書かれたという説である。 <!--古典の著者を特定するという作業のプロセスは、四福音書の著者の特定という作業をモデルとして説明することができる。--> まず、『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』には共通する内容が多いため「[[共観福音書]]」と呼ばれる。一方、『ヨハネ福音書』は共観福音書とは異なる視点からイエスを描き出し、独自のエピソードや言葉を盛り込んでいる。共観福音書がなぜ共通点が多いのか、共観福音書は互いをどのように参照したのかという問題をまず解決することが著者を特定するための第一歩となる。そもそも福音書は一人の人間、イエスを実際に知る四人によって執筆されたものなのか?あるいは個人によって書かれたものがグループによって補完されたのか?『福音書』は短期あるいは長期に書かれたのか?などといった問題から考えることになる。 現代の聖書研究でもっとも広く支持されている仮説は[[二資料仮説]]である。それは『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が、『マルコ福音書』および[[Q資料]]と呼ばれるイエスの言葉資料をもとに書かれたという見方である。Q資料のQとは[[ドイツ語]]のQuelle(クベレ)すなわち「資料」を意味している。Q資料がどんなものであったのかという議論はいまだに決着を見ていない。多くの学者たちはQ資料という単独の資料があったと考え、少数の学者たちはQ資料というのは複数の文書資料と口伝資料の集大成であると考えている。ただ、あくまでQ資料の存在は仮説にすぎず、その存在を疑うものもあり、資料そのものについてもよくわからないため、その著者にいたっては何も情報がない。ある人々は語録の形式を取る外典『[[トマスによる福音書]]』がQ資料である(あるいはそれに近い)と考えている。 === 書簡その他 === 現代の[[高等批評]]はパウロの七つの書簡(後述)を除いて、『新約聖書』の諸書が使徒の手で書かれたとは考えていない。近代的な聖書研究が始まった[[18世紀]]以前のキリスト教では(『ヘブライ人への手紙』の著者がパウロかどうか、『黙示録』『ヨハネの手紙二、三』の著者が使徒ヨハネかどうかを除いては)著者の伝承に関して疑義がもたれることは少なかった。ただ、現代の聖書学者でも[[シェーウィン・ホワイト]](A. N. Sherwin-White)、[[F・F・ブルース]](F.F. Bruce)、[[ジョン・ウェンハム]](John Wenham)、[[ゲーリー・ヘーバーマス]](Gary Habermas)などは、新約聖書に書かれていることや伝承は決して根拠のないものではないため、比較的信頼しうるのではないかという立場に立っている。特に[[ジョン・ロビンソン]](John A.T. Robinson)にいたっては『新約聖書』の成立は現代の定説よりも早く、著者に関する伝承もすべて真正であるというきわめて伝統的な立場に立っている。 高等批評学者たちによっても真正であると認められるパウロの七書簡とは、『ローマの信徒への手紙』、『コリントの信徒への手紙一』、『コリントの信徒への手紙二』、『ガラテヤの信徒への手紙』、『フィリピの信徒への手紙』、『テサロニケの信徒への手紙一』、そして『フィレモンへの手紙』である。『テサロニケの信徒への手紙二』、『コロサイの信徒への手紙』、『エフェソの信徒への手紙』に関しては今でも意見が分かれている。『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』と『テトスへの手紙』は、[[福音主義]]的な神学者たちは真正であると考えている。現代において『ヘブライ人への手紙』がパウロのものであると考える学者はまずいない。『ヘブライ書』の著者の問題は実に[[3世紀]]から議論されていた。[[マルチン・ルター]]は『ヘブライ人への手紙』の著者を{{仮リンク|アポロ (新約聖書)|label=アポロ|en|Apollos}}とする意見を提示している。 パウロ書簡以外の書物の著者の問題についても結論は得られていない。また四福音書の「著者」はもともと伝承に由来するものである。批判学者の間では、福音書と手紙を含むヨハネ書簡に関しては初代教会の中にあった「ヨハネ教団」ともいうべきグループに由来するという意見が優勢である。『ヨハネの黙示録』が「ヨハネ教団」に由来するものかどうかは意見の一致を見ていない。 ただし、一部の学者はヨハネの福音書についても段階的編集によってはその文体論的な強い統一性を保つのが困難であると考えている<ref>Carson & Moo 2009, p. 246</ref>。また紀元2世紀から4世紀までの証言は特に福音書に関して一貫して使徒ヨハネに由来するものであると伝えられているのに対し『ヨハネ教団』の存在に関する傍証はほとんど得られていない。 === 外典 === 聖書学者たちの多くは外典の著者の真正さについても疑義を示している。たとえば[[ナグ・ハマディ写本]]におさめられた『トマスによる福音書』、『[[フィリポによる福音書]]』などがあるが、<!--それらはオリジナルではなく写本である。(意味不明瞭)-->学者たちはそれらの原本は2世紀前後に書かれたもので、その名前がついている使徒による著作ではないと考えている。 === 聖書研究の課題 === 聖書研究、特に福音書や[[史的イエス]]の研究においては研究者の視点が大きな意味を持つ。すなわち、ある個人の経験や宗教的信条、信念といったものがそのまま研究に投影される。たとえば福音書の研究についていうなら、歴史的なアプローチはもちろん、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]、[[正教会|正教]]それぞれの視点から、ユダヤ教の視点から、[[社会科学]]的な視点から、フェミニズムの視点からなど、さまざまな立場からの研究が行われる。史的イエスに関する過去25年間の研究だけでもさまざまなものがあり、互いに矛盾しあうものすらある。しかしこのような幅の広さには個人のイエスに関する見方の限界を越える力があるし、そのような見解の違いによる議論が多くの結果を生んできたことも事実である。 == 成立時期 == === 伝承 === 伝承によれば、もっとも早い時期に書かれたのはパウロの手紙であり、最後に書かれたのは使徒ヨハネの書いたヨハネ文書であるという。使徒ヨハネは長命し、100年ごろ死んだという伝承があるが、教会文書外の証拠はない。2世紀から3世紀の[[パピアス]]や[[アレクサンドリアのクレメンス]]や[[ヒッポリュトス]]の証言からヨハネ文書は1世紀終わりに使徒ヨハネによって成立したという伝統的見解が生まれた。[[エイレナイオス]]は[[185年]]に「マタイ福音書とマルコ福音書はペトロとパウロがローマに滞在中に書かれた」と述べており、それに従うと60年ごろになる。『ルカ福音書』はそれよりわずかに後に書かれたという。現代においてこのような伝承、古代の証言を支持するのは少数派である。 === 近代聖書学による推定 === 現代の多くの聖書学者たちはいくつかの書簡を除けば新約文書の成立時期に関しては意見の一致を見ている。たとえば福音書の成立時期でもっとも広く受け入れられているのは、65年ごろ、最初に『マルコ福音書』が、『マタイ福音書』が70年から85年にかけて、『ルカ福音書』が80年から95年の間に成立したという説である。 新約文書の中でもっとも早く書かれたとされるのはパウロの[[テサロニケの信徒への手紙一]]で49年ごろと考えられる。また、少数意見ではあるが、[[ガラテヤ書]]に関しては49年という説もある。高等批評では使徒の名を冠した[[公同書簡]]については70年から150年の間に成立したと見られている。高等批評の見解では新約文書でもっとも遅く書かれたのは[[ペトロの手紙二]]であるとし、聖書自身が主張する[[使徒]][[ペトロ]]の記者性は強く疑問視されている。 少数意見だが、ジョン・ロビンソンは『新約聖書の成立をめぐって』(''Redating the New Testament'', 1976年)の中で、新約文書はすべて紀元70年以前に成立したという説を唱える。その根拠は、『マタイ福音書』24:15-21および『ルカ福音書』23:28-31においてイエスによる[[エルサレム神殿]]崩壊への預言的言及が記載されているにもかかわらずその結果が書かれていないこと、としている。一方、多数説は、この二つの記事は、神殿崩壊への予言的言及をもって、両福音書が神殿崩壊ののちに書かれたことを反映していると考えている [[1830年代]]、ドイツ・テュービンゲン学派の研究者たちは『新約聖書』が3世紀後半に書かれたという説をとなえたが、現代までに発見された最古の写本の断片は125年までさかのぼれる上、[[95年]]に書かれた[[ローマのクレメンス]]の書簡には『新約聖書』に含まれる10の書物から引用していることで否定された。さらに120年に[[ポリュカルポス]]は聖書の16の書物から引用している。これらの引用が微妙に異なっていることから、新約文書は原版があって何度も改訂が行われたことで現代に伝わる形になった可能性も考えられている。 == 正典の成立 == {{Main|正典}} === 正典以前 === 『新約聖書』は初めから現在のような正典として登場したわけではなかった。すでに教父たちの文書によって、教会内で正典的に読まれる文書群には一定の振幅があったことは知られていたが、[[20世紀]]の[[ナグ・ハマディ写本]]の発見などにより、初代教会の時代では、使徒の手紙や様々な福音書や黙示録など、現在聖書に含まれるよりはるかに多くの文書が作成されていたことがわかってきた。 これらの文書は礼拝や信仰教育に用いられた。最初の数百年間には、ある文書が正統か非正統かは大規模な教会会議ではなく少人数グループの集会で決定されたと推定される。信仰グループにより思想が異なり、聖典はグループごとに異なっていたことだろう。このように初期の三つの世紀ではまだ「新約聖書」は確定しておらず、様々な観点から書かれた多数の文書が乱立していたと推測される。 その中で[[2世紀]]までには、マタイ以下の四福音書とパウロの書簡集が有力視されていったが、他の書物の優劣は未確定であった。2世紀の[[エイレナイオス]]と[[テルトゥリアヌス]]は、四福音書と13のパウロ書簡を含むいくつかの使徒書簡を、霊感によって書かれたものでヘブライ語の書物(『旧約聖書』)と同じ価値を持つとした。それ以外の書物は尊重されてはいたが、一般には『新約聖書』と同じ権威をもつとは考えられておらず、ゆっくりと正典群からは排除されていった。 === 正典化の動き === 『新約聖書』正典の確定作業は、シノペの[[マルキオン]]の「正典」選択作業に始まる。彼は旧約聖書を排除し、『ルカ福音書』とパウロ書簡(いわゆる「牧会書簡」3通を除く)のみを「正典」とした(ただし、旧約の引用などを削除したマルキオンの編集によるものである)。ところがマルキオンに従ったものは多くはなく、さらに彼自身も[[異端]]として排除されてしまう。同時期に古代教会内でも正典化の議論が本格化したと推定される。[[200年]]頃には「[[ムラトリ正典目録|ムラトリ断片]]」といわれる正典リストが作成された。このムラトリ断片の正典表は、現代の『新約聖書』とほぼ同じであるが、現在では[[外典]]である『[[ソロモンの知恵]]』と『[[ペトロの黙示録]]』が含まれる。 現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのは[[アレクサンドリアのアタナシオス]]の[[367年]]の書簡である(『[[アタナシオスの第39復活祭書簡]]』)。この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは[[397年]]の第3回カルタゴ[[教会会議]]においてであった。しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては決着しなかった。時期が飛んで[[16世紀]]、宗教改革者[[マルティン・ルター]]はあらためて『ヤコブの手紙』、『ユダの手紙』、『ヘブライ人への手紙』、『ヨハネの黙示録』の扱いについて議論を提起した(最終的には排除されなかった)。現代でもドイツ語のルター聖書はこれらの書物を最後にまとめているのはその名残である。このような宗教改革者の動きを受けたカトリック教会は[[トリエント公会議]]において何が正典かということを再確認している。 == テキスト == 『新約聖書』のギリシア語テキストは多くの写字生によって書き写され、後世に伝わった。写本は古代では巻物(スクロール)の形をとっていたが、やがて[[コデックス]](冊子本)の形式が主流となった。『新約聖書』のギリシア語テキストと一言で言っても多くの異同を含むものが多数あり、それらを研究・分類するといくつかのタイプに分けることができる。このようなタイプを「型」といい、おおむね下のようなカテゴリーに分ける。 ;[[アレクサンドリア型]]:現代ではもっとも原文に忠実であると考えられているのがこのアレクサンドリア型である。アレクサンドリア型ではほとんどの文章が簡潔で飾り気がない。特に有名なものとして[[バチカン写本]]、[[シナイ写本]]、[[ボードマー・パピルス]]などがある。 ;西方型 :西方型は文章がより装飾的で長くなっていることに特徴がある。たとえば西方型の『使徒言行録』は他のタイプのものと比べると一割近く長い。[[ベザ写本]]、[[クラロモンタヌス写本]]、ワシントン写本、古ラテン語聖書などがそれにあたり、[[マルキオン]]、[[タティアノス]]、[[エイレナイオス]]、[[テルトゥリアヌス]]、[[キュプリアノス]]らの新約聖書の引用もこの型である。 ;カイサリア型 :カイサリア型はアレクサンドリア型と西方型の混合であるとみられる。[[チェスター・ビーティ図書館|チェスター・ビーティー・パピルス]]や[[エウセビオス]]、[[エルサレムのキュリロス]]の引用に見られる。 ;ビザンティン型 :中世以降に、[[アンシアル書体]]で小文字で書かれたもので、護教的な後代の付加が多い。混合型ともよばれ、[[アレクサンドリア写本]]がこれにあたる。[[エラスムス]]が『新約聖書』のギリシア語批判版テキストを作成する際にこれを用いたため、そこから英訳した[[欽定訳聖書]]にも大きな影響を与えることになった。 現代の『新約聖書』の翻訳は、徹底した比較・研究によって再現されたより原文に近いテキストを用いて行われる。もっとも信頼性の高いテキストとされているギリシア語批判版聖書は、校訂者の名前をとって「[[ネストレ・アーラント]]」と呼ばれている。 == 日本語訳 == {{Main|日本語訳聖書}} [[ネストリウス派]]のキリスト教(景教)が「流行した」と言われる中国の唐代に漢訳聖書があったことは確かであり、これが日本にも伝わったという説もあるが裏づけとなる事実はない。 日本へ最初に新約聖書をもたらしたのは1549年に来日した[[フランシスコ・ザビエル]]であり、彼は周防の大名大内氏に対して携えた聖書と注釈書を示し、「この中にわれわれの聖なる教えが全部含まれている」と語ったという。そして同時代の西洋人の証言によれば1613年までには、日本語に訳された聖書が京都で出版されていた。しかし、その後日本では宣教師が追放されてキリスト教が弾圧されたこともあり、その聖書は断片すら残っておらず、今日に伝わるのは教義書や典礼書などに使われた一部の翻訳聖句だけである。 [[19世紀]]になると日本に入国できないプロテスタントの宣教師たちが、中国で漢訳聖書を参照しながら日本語訳を開始した。この方法は開国直後に来日を果たした宣教師たちにも引き継がれた。もっとも有名なのは[[ヘボン]]による1872年の新約聖書翻訳であろう。 ヘボンはこの後、在日の宣教教会らに呼びかけて[[翻訳委員社中]]を結成して1880年に新約聖書、1887年には旧約聖書を完成。これを[[明治元訳聖書|明治元訳]]と呼ぶ。新約聖書はその後1917年に改訳され、これは[[大正改訳聖書|大正改訳]]と呼ばれている。明治元訳も大正改訳も他国と同様に出版は[[英国外国聖書協会]]、[[北米聖書教会]]、[[スコットランド聖書協会|北英聖書協会]]であり、日本社会の中に広く普及した。その後、[[日本聖書協会]]が設立され、第2次世界大戦後に旧新約聖書の口語訳改定が行われる(新約が1954年、旧約が1955年)。他にも口語訳聖書は多く存在するが、日本では聖書協会のこの訳を[[聖書 口語訳|口語訳]]と呼ぶ。 世界各地で行われたのと同様にこうした聖書協会系の翻訳はプロテスタント系の事業であり、[[カトリック教会]]や[[正教会]]はまた別の日本語訳聖書を用いてきた。しかし20世紀後半になって世界的に[[エキュメニズム]]の流れが進み、カトリックとプロテスタントの共同での聖書翻訳作業が行われるようになった。日本でもこの動きを受けて諸教派を代表する聖書学者たちが結集し、[[1978年]]に新約聖書のみであるが、[[共同訳聖書]]の発行が行われた。この共同訳に対しては批判的意見が相次ぎ、再翻訳が行われて[[1987年]]に[[新共同訳聖書]]が発行された。これは新約・旧約に加え、プロテスタント系聖書では従来含まれていなかった文書群を[[旧約聖書続編]]として含んでいる。現在、日本のキリスト教会においてもっとも広く用いられているのがこの新共同訳聖書である。新共同訳聖書にはローマ・カトリックの解釈と訳語が反映されている。 他方、[[日本正教会]]では日常的には聖書協会訳も用いるものの、[[奉神礼]]においては現在も自派の訳である[[日本正教会訳聖書]]を用いている。 [[プロテスタント]]のうち[[聖書信仰]]の教会によって訳された[[新改訳聖書]]は、エキュメニカル派に対比される[[福音派]]のプロテスタントでよく使われている。新改訳は[[文語訳聖書]]以来の日本のプロテスタントの訳語を継承している。また福音派による訳としては[[現代訳聖書]]もある。<ref>『聖書翻訳を考える』『聖書翻訳を考える(続編)』[[新改訳聖書刊行会]]</ref><ref>『日本における聖書とその翻訳』</ref><ref>[[尾山令仁]]『聖書翻訳の歴史と現代訳』暁書房</ref><ref>[[中村敏]]『日本における福音派の歴史』いのちのことば社</ref> この他にも、出版された日本語聖書は多数存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 主な新約聖書 == ;旧新約聖書 *『聖書 聖書協会共同訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、2018年 *『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会 訳、いのちのことば社、2017年 *『聖書 口語訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、2015年 *『聖書 文語訳』日本聖書協会 訳、日本聖書協会、1992年 *『聖書 原文校訂による口語訳』フランシスコ会聖書研究所 訳、サンパウロ、2011年 *『聖書 旧約・新約』フエデリコ・バルバロ 訳、講談社、1980年 ;新約聖書 *『我主イイススハリストスの新約』日本正教会 訳、日本ハリストス正教会、1951年  *『新約聖書 訳と註』全7巻8冊、田川建三 訳、作品社、2007年 - 2017年 *『新約聖書』新約聖書翻訳委員会 訳、岩波書店、2004年 ;英語日本語対訳旧新約聖書 *『ダイグロットバイブル』日本聖書協会、2016年(新共同訳+ESV:English Standard Version) *『バイリンガル聖書』いのちのことば社、2015年(新改訳+ESV:English Standard Version) ;ギリシア語日本語対訳新約聖書 *『希和対訳脚註つき新約聖書』全13巻、岩隈直 訳、山本書店、1973年-(対照訳) *『ギリシア語新約聖書 日本語対訳』全6巻、川端由喜男 訳、教文館、1991年-(逐語訳) ;ギリシア語新約聖書 *Novum Testamentum Graece : Nestle-Aland, Deutsche Bibelgesellschaftt, 2007([[ネストレ・アーラント]]) ;ラテン語訳旧新約聖書 *Biblia sacra : iuxta Vulgatam versionem, Deutsche Bibelgesellschaft, 2007([[ヴルガータ]]) == 参考文献 == *[[大貫隆]]・山内真 『新版 総説 新約聖書』 2003年、[[日本基督教団]]出版局、ISBN 4-8184-0504-3 *[[加藤隆]] 『福音書=四つの物語』 2004年、[[講談社]]〈講談社選書メチエ〉、ISBN 4-06-258304-6 *[[レジス・ビュルネ]]著、加藤隆訳 『新約聖書入門』 2005年9月20日、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉、ISBN 4-560-50892-5 *[[海老沢有道]] 『日本の聖書 聖書和訳の歴史』 1989年、講談社〈[[講談社学術文庫]]〉、ISBN 4-06-158906-7 *[[門脇清]]・[[大柴恒]] 『門脇文庫 日本語聖書翻訳史』 1983年、[[新教出版社]] *[[田川建三]] 『書物としての新約聖書』 1997年、[[勁草書房]]、ISBN 4-326-10113-X *[[ブルース・メッツガー]]著 『新約聖書の本文研究』 [[橋本滋男]]訳、1999年、日本基督教団出版局、ISBN 4-8184-0334-2 == 関連項目 == *[[旧約聖書]] *[[トマスによる福音書]] *[[テクストゥス・レセプトゥス]] *[[グノーシス主義]] *[[二資料仮説]] *[[聖書翻訳]] *[[日本語訳聖書]] *[[祝福 (新約聖書)]] * [[聖書の度量衡]] * [[聖書の貨幣]] == 外部リンク == {{wikisource|聖書|新約聖書|3=日本語訳}} {{Commonscat|New Testament}} * [https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html 聖書本文検索] - [[日本聖書協会]] * [https://www.seisho.or.jp/biblesearch/ 聖句検索] - [[新日本聖書刊行会]] * [https://biblehub.com/ Bible Hub] - 多言語聖書検索 * [https://www.nestle-aland.com/en/read-na28-online/ Nestle-Aland Novum Testamentum Graece] - [[ネストレ・アーラント]]:ギリシア語新約聖書 * [http://dtime.jp/bible/ DT Works] - UBS4・BYZ・口語訳・新共同訳新約聖書の検索・並行表示 * [http://www.cozoh.org/denmo/ 電網聖書] - [[パブリックドメイン]]の現代語訳。 * [http://www.blueletterbible.org/ Blue Letter Bible] * [http://www.kchanson.com/ANCDOCS/greek/johnpap.html 新約聖書最古の写本](略称p52。エジプトで発見されたヨハネによる福音書のパピルス断片。紀元後125-150年。) * [http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon08.htm 邦訳聖書 書名対照表] * [http://ortbib.seesaa.net/ 正教会訳新約聖書] * {{Kotobank}} {{キリスト教 横}} {{新約聖書の人物}} {{新約聖書の町}} {{福音書}} {{パウロ書簡}} {{公同書簡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんやくせいしよ}} [[Category:新約聖書|*]] [[Category:ギリシア文学]] [[Category:聖書]] [[Category:神]] [[Category:古代のキリスト教文書]]
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日本の仏教
日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。 2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる。現代では、仏教と神道は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする神仏習合と呼ばれる見方もあった。 伝統的な仏教の宗派は漢訳経典を用いる大乗仏教で、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の13宗がある。 文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属し、浄土教系(浄土宗及び浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めている。 日本には、約7万5000の寺院、30万体以上の仏像が存在する。日本最古の官寺である四天王寺、世界最古の木造寺院である法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。 日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる 。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを仏教徒と強く意識する機会が少ない人も多いが、ブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。 2008年のISSP国際比較調査[宗教](NHK放送文化研究所)によると、宗教を信仰している人は男性の場合40代で19%であるものが50代で41%と急激に数値が上昇し、女性の場合30代の28%から40代で39%と急上昇する結果が出ている。男性は親の葬儀が信仰心を持つきっかけになりやすいとされる。 日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在する。十八宗と呼ばれる18の宗派は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗である。 1940年の宗教団体法公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。 ここではいわゆる伝統仏教13宗の宗祖と本山を記載する。それ以外の宗や派、比較的近年に成立した仏教系の新宗教については、それぞれの項を参照。 奈良仏教系(南都六宗系) 平安仏教(平安二宗)系・密教系 法華系(鎌倉仏教法華系) 浄土系(鎌倉仏教浄土系) 禅宗系(鎌倉仏教禅系) 伝統仏教13宗はいずれも大乗仏教である。信者数・規模としては、 鎌倉仏教(浄土宗・浄土真宗、日蓮宗、禅宗)が大勢を占めるが、これら鎌倉仏教は、法華経を根本経典としながらも他経典や密教まで大乗仏教を広く取り入れた天台宗(延暦寺)を母体として(あるいはその影響下で)誕生・発展したものである。また、その天台宗の開祖である最澄は、三経義疏で法華経を重んじた聖徳太子の影響の下で、法華経を根本経典とする(中国の)天台宗に傾倒したとされている。このようなつながりの中に、聖徳太子から最澄を経て、鎌倉仏教から現在に至るまでの、日本の仏教の大きな潮流を見ることができる。 日本の内外いずれにおいても、大乗仏教では、出家者のみならず在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げるが、日本の仏教、特に、平安二宗(天台宗、真言宗)と鎌倉仏教では、「山川草木悉有仏性(成仏)」とも表現されるように、人間のみならず、動物、植物、更には山川といった無機の自然までも仏性を内包しているとの世界観が概ね共通している点に特色がある。これは、仏教伝来前から日本に根付いていた自然信仰(アニミズム)が仏教に反映したものとされている。その過程としては、特に、日本の仏教の転換期となった平安二宗(天台宗、真言宗)が、いずれも神や死者(霊魂)のいる場所とされてきた「山」を本拠とする「山岳仏教」となったことが大きな影響を与えたとの指摘のほか、平安二宗そのものの自然信仰との親和性、つまり、太陽神起源の大日如来を信仰の中心に据えるなど自然信仰が元々織り込まれている真言宗はもちろんのこと、天台宗においても、根本経典である法華経が救済の平等性を強調するものであるため、万物が平等に仏性を有するとの思想と親和的であったとの指摘もされている。 また、明治維新による強制的な神仏分離が行われる以前は、神道の神と仏は一体で混淆した信仰体系であった(詳細は「神仏習合」を参照)。日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』によると、飛鳥時代、552年とされ、仏は新来の「神」として敬われた。6世紀末には既に神宮寺を建立したとされ、日本の仏教は当初から神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な観念は本地垂迹説として理論化された。さらに日本史における画期となった戦国時代には、天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。 このように日本の仏教は、日本の文化的・精神的土壌の中で、固有の展開・発展を遂げたもので、インドで釈迦の説いた初期仏教と様相を異にしていることは否定できない。一方で、例えば、親鸞の他力思想や日本における禅宗の展開・浸透について、日本の精神的土壌が仏教を通じて顕現したものであるとするなど、狭い意味での仏教の垣根を超えた形で、日本の仏教の意義・価値を積極的に見出そうとする言説もある。 また、日本の仏教は、日本の社会・文化全体に有形無形の影響を与えてきたもので、宗教以外の分野への思想的影響の例として、禅宗の精神を取り入れたとされる茶道などの伝統文化があるほか、近現代においても、日本の仏教思想が反映された心理療法とされる森田療法が挙げられるとともに、河合隼雄によって日本に普及されたヨーロッパ発祥のユング心理学に基づく心理療法の過程においてさえ、日本人の深層心理への仏教の影響が色濃く見出されるため、仏教の知見・視点が大変有用である旨の指摘がされている。また、現代においては、仏教における瞑想・禅宗の手法を基礎としつつ非宗教的な瞑想技法として体系立てたマインドフルネスが、非仏教国から日本に紹介されるという逆輸入の現象も生じている。 仏陀が説いた元々の初期仏教は、人間はなぜ苦しむのかとの問いを分析的に解明した上で、苦しみから解放される方法を提示するものであり、その後に様々な国・地域で多様な展開を見せた仏教各宗派も、世界観や救済観・方法論の違いこそあるものの、生老病死をはじめとする苦しみからの解放を目的とすることでは本来共通している。しかし、現代の日本の仏教は、葬式仏教との言葉に象徴されるように、大半の人にとっては、葬式をはじめとする死後の法要・儀式を行う存在でしかなく、仏教本来の役割を果たすことはほとんどできていないという指摘がある。 このような課題・現状に対しては、仏教界からも、死という最も重いライフイベントにおいて仏教が果たしてきた役割を肯定的に捉えつつも、そこにとどまることなく、終末医療におけるスピリチュアルケア、災害などの遺族に対するグリーフケア、長寿命・高齢化社会における老いへの向き合い方、つながりが希薄化する地域社会において交流・連携拠点になるなど、現代社会において仏教だからこそ果たすことのできる役割を積極的に見出していこうとする動きが見られるほか、初期仏教・上座部仏教・チベット仏教などでの出家者の集まりである僧伽(さんが)をモデルに、人生に行き詰った際に価値観をリセットする場所(セーフティネット)としての役割を提唱する意見もある。 『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。この他には『梁書』によると、扶桑では大明2年(458年)に罽賓国から僧が来て仏教をもたらしたとされるが、扶桑が日本を指しているとは確定していない。 『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。 その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、丁未の乱で物部氏が衰退するまで続いた。この戦いは一時的に蘇我氏側が不利となるが、馬子側に参戦していた聖徳太子が四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。 天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。 百済からは仏教と寺院建築のために瓦などの建築技術が伝わった。最初に採用されたのは飛鳥寺であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた。 日本への公的な仏教伝来は、欽明朝のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である。欽明朝以前の仏教伝来の根拠とされる史料に『扶桑略記』記事がある。『扶桑略記』記事は、もと『坂田寺縁起』に記され、延暦寺僧『禅岑記』さらに『大日本国法華験記』に引用されたものに、『扶桑略記』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅(522年)春二月に渡来した司馬達等が、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた。また、欽明朝以前の仏教伝来について、『日本国現報善悪霊異記』に、敏達天皇代に大部屋栖野古連が和泉国の海中から「霹靂に当りし楠」を発見して、これで仏像を制作したいと皇后に上奏したところ、皇后は「願ふ所に依るべし」と許可し、そこで大部屋栖野古連は蘇我馬子にこのことを告げたところ、蘇我馬子は池辺直氷田を請えて「仏菩薩の三軀の像」を造らせ、像を豊浦寺に置き、諸人が仰ぎ敬ったところ、廃仏派の物部守屋が「おほよそ仏の像を国の内に置くべからず。なほ遠く棄て退けよ」「今国家に災起るは、隣の国の客神の像を己が国の内に置くに因りてなり。斯の客神の像を出して速忽に棄て、豊国に流せ」と主張した。この「豊国」を九州の豊国とすれば、大和への公伝以前に豊国に仏教が伝わっていて、大和の人々が、九州を特殊な地域として認識していたとみることもできる。また「豊国」について、用明天皇が病気になった時に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿達議れ」と述べたところ、物部守屋と中臣勝海が「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」と主張し、対して蘇我馬子が「詔に随ひて助け奉るべし。詎か異なる計を生さむ」と反論し、時に穴穂部皇子が「豊国法師」を引て、内裏に入ったといい、この「豊国法師」を固有名詞でなく、「豊国」の法師と考えるならば、「豊国」は仏教と関係深い国であったことも否定できない。また、九州の修験道の行場としてで有名な彦山の開創について中国北魏僧・善正が、仏教を日本に弘めるため、渡海して九州北岸に到着したところ、樹木でおおわれた日子山(彦山)の秀麗な姿に心ひかれ、石室を造って住むことになり、これが彦山の霊泉寺のはじまりとされ、その年は531年である。さらに、4世紀ないし5世紀と推定される全国各地の古墳から出土する漢式鏡に、道教の神仙と異なる仏像が表現されている鏡が含まれていることなどからも公伝以前の仏教伝来を想定出来る。 『水鏡』に継体天皇治世中に唐(もろこし)より仏教が伝来した以下の記事がある。 継体天皇時代に仏教の渡来を示しているが、その年時は記されておらず、継体天皇御治世に、唐土より仏教が渡ったことを伝えている。一方、『水鏡』の著者は中山忠親とも、あるいは源雅頼の作ともいわれ、中山忠親は建久六年(1195年)に源雅頼は建久元年(1190年)に薨去しており、継体天皇治世中の唐土からの渡来としても、後代の史料であることは注意を要する。 中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では鎮護国家の発想の下、僧尼令や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。 こうした南都六宗と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた権現であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。 その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。 『末法灯明記』では平安時代中期が釈迦入滅の二千年後にあたるとされ、正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。 平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこで自力救済として僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団(寺社勢力)として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。 鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。 これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。 特に広まったのは念仏思想であった。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする法然の浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機の教えを説いた親鸞の浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。 対して、拡大する念仏を警戒した日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗を創設した。 このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。 鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。 更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。 1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。 このような武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や祠堂銭(供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。 僧兵の武術も武士のように洗練され、宝蔵院流槍術のように流派として確立する例もあった。 曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。 応仁の乱後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。石山本願寺などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。 しかし尾張の戦国大名・織田信長は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦などが有名である。また、信長は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧との宗論を主催した(安土宗論)。結果、浄土宗が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。 信長が本能寺の変で死ぬと、彼の家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。一向一揆は秀吉軍と上杉軍から挟撃され瓦解した。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。 ルイス・フロイスが1585年に著した日欧文化比較では、この時代の仏教寺院の堕落が指摘されている。 豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし(寺請制度)、布教活動を実質的に封じた。鎌倉仏教にとっては、檀家制度によって全国に寺院が作られたことで、全面展開がなされた。浄土真宗の本願寺は、東西に分裂させられ、勢力を弱体化させられたが、現代に至るまで最大の宗派となっている。全国の修験道は、聖護院を本山とする本山派と、醍醐寺を本山とする当山派のいずれかに属するように規制された。また、朱子学や国学の立場からの排仏論も起こった。 1665年(寛文5年)に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。江戸幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の不受不施派は、禁教令のキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた。 これらの幕府の統制により江戸時代の仏教は堕落したという「近世仏教堕落論」は戦前における宗教史の通説であったが、戦後になると多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の再検討は、未だ不十分な段階である。上からの押しつけと解釈されやすい寺請制度だが、社会の安定に伴い菩提寺を求める民衆の意思も無視できない。仏像も規格化されたものが大量生産され各地の寺に収められたが、美術的な観点はともかく信仰の対象が身近に存在する人心安定の意義は大きい。 1654年(承応3年)に来日した明の隠元隆琦は黄檗宗を布教している。 幕府の寺社政策を担った以心崇伝、天海、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた鈴木正三、独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠らが活躍した。 江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により明治維新が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策が行われた。上知令や開化政策によって全国で廃仏毀釈運動が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府は太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。また、僧侶の肉食妻帯、不受不施派やキリスト教の布教が解禁された。神道の教化運動を全国で行った結果教導職の人員不足に陥ったため、仏教を解体し神道主導の基に統合する大教院体制が作られた。欧州の宗教視察から帰国した島地黙雷らは、僧侶の身分と信教の自由を保証するべきとする批判の建白を行い、東西真宗の大教院からの脱退を実現させ、1875年(明治8年)に大教院体制は実質的に瓦解した。 その後、各宗派は教団組織の再編成に入り、日清・日露戦争の戦間期に仏教の近代化を推し進め、西欧の仏教学の導入や、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。1901年には村上専精が大乗非仏説を主張して大きな反響を呼び、国内外で大乗仏教の歴史と教理に関する研究が盛んとなった。 自由民権運動や日露戦争などが終了した明治時代後期には、天下国家を論じる気運が退潮し、個人的な問題に関心が移るアノミーな社会状況が訪れていた。清沢満之は個人の内面に阿弥陀如来を定置する、主観的な他力信仰である「精神主義」を掲げ、大谷派の改革を試みたが挫折した。しかし、「精神主義」の理念は現代に至るまで引き継がれ、近代仏教の先駆的な運動となった。その後も、近角常観の求道会館など、信念の修養を促す「修養主義」を掲げる仏教運動がいくつも現れ、虚脱状態にあった青年層にアノミーからの打開の道を示した。 明治時代には、既存の宗派から離脱する形で、在家を主要な担い手とする仏教系新宗教が出現し始める。その多くは法華・日蓮宗の系譜に属する人々によって興された。この時代に特に成功した教団として、田中智学の立正安国会や、長松日扇の本門仏立講、杉山辰子の仏教感化救済会があり、その組織運営のあり方は後の日蓮系新宗教に大きな影響を与えた。 明治末年の大逆事件に内山愚童らの僧侶が連座したことに衝撃を受けた田中智学は、日蓮の教えを国家や社会活動の基本的な指導理念とする「日蓮主義」と、ナショナリスティックな仏教的国体論を結合させたキャンペーン活動を行い、軍人や知識人を中心に大正時代の流行思想となった。日蓮主義者で有名な人物に宮沢賢治、石原莞爾がいる。1924年(大正13年)には、法華系新宗教の霊友会が発足している。 既存宗派も社会福祉事業にコミットすることで、近代的な宗教団体へと変革する取り組みが行われた。1915年(大正4年)には仏教各宗派懇話会を改称した仏教連合会が発足し、政治と宗教に関する諸問題に仏教界の影響力を行使した。 近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、1899年(明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。1927年(昭和2年)、1929年(昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。 1932年、血盟団事件が発生した。 1941年3月24日、大日本仏教会(財団法人)が結成され、10月6日には東京で、仏教徒銃後奉公大会がひらかれた。 第二次世界大戦の日本軍では諸外国の従軍聖職者(従軍チャプレン)に相当する職として従軍僧が存在したが軍属扱いであり、宗教者でも徴兵対象であったため僧侶だった兵士が臨時に法事を執り行うなど個人的な活動が中心であった。なお浄土真宗の各教団は軍隊布教使と呼ぶ布教使を派遣し軍人に布教活動を行っていた。 第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1946年2月6日、仏教連合会が結成された。1951年(昭和26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長と時を同じくして、日蓮正宗系新宗教の創価学会や法華系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。創価学会は宗教政党公明党を組織し、政界に影響力を持っている。1970年代には、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張し、念佛宗三寶山無量壽寺(無量壽會)もこの時期に生まれた。また、漢訳経典中心であった日本においてチベット仏教・原始仏教・上座部仏教・ヒンドゥー教等の影響を受けた新宗教が増加した。 1980年代には、いわゆる新々宗教ブームが起きた。中でもオウム真理教は当時から良くも悪くも注目の的であったが、1995年の強制捜査以降、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こしていたことが発覚し、これをきっかけにして1995年(平成7年)には宗教法人法が一部改正された。 史伝研究の盛んだった中国仏教の影響から、日本では奈良時代に『延暦僧録』などの僧伝が著された。鎌倉時代になると本格的な仏教史伝が著されるようになるが、中でも影響力が大きかったのが凝然の著した『三国仏法伝通縁起』である。この書は、インドから中国を経て日本へと伝播した仏教諸宗の教学を総合的に俯瞰したもので、その仏教史モデルは三国仏教史観として近代に至るまで長らく用いられた。 明治時代に入り、宗門外の仏教学者にも自由に仏教研究が行えるようになると、学術的視点を取り入れた新たな日本仏教通史が著されるようになる。明治末から大正時代には鎌倉新仏教の祖師たちが現役だった時期を日本仏教の頂点と考える、鎌倉新仏教中心史観が形成され始める。原勝郎は、日本仏教史とキリスト教史の発展段階を対比させた『東西の宗教改革』(1911年)を著し、国家仏教として出発した日本仏教が鎌倉期に頂点を迎え、その後衰退したという基本的な図式を示し大きな影響を与えた。 マルクス主義が隆盛した戦後の歴史学においても、鎌倉新仏教を反権力・民衆解放のムーブメントとして評価する、近代的な問題意識から見た鎌倉新仏教中心史観が家永三郎や井上光貞らの研究によって成果を上げ、長らく影響を与え続けた。しかし、1970年代から、黒田俊雄の『顕密体制論』を皮切りとして鎌倉新仏教中心史観への疑義が生じるようになる。黒田の『顕密体制論』は論争を呼び修正を余儀なくされたが、結果的に鎌倉新仏教中心史観を打破する転機となり、それまで旧仏教と呼ばれて軽視されていた中世の顕密仏教研究や、近世仏教堕落論の再検討が盛んとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる。現代では、仏教と神道は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする神仏習合と呼ばれる見方もあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "伝統的な仏教の宗派は漢訳経典を用いる大乗仏教で、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の13宗がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属し、浄土教系(浄土宗及び浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本には、約7万5000の寺院、30万体以上の仏像が存在する。日本最古の官寺である四天王寺、世界最古の木造寺院である法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる 。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを仏教徒と強く意識する機会が少ない人も多いが、ブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2008年のISSP国際比較調査[宗教](NHK放送文化研究所)によると、宗教を信仰している人は男性の場合40代で19%であるものが50代で41%と急激に数値が上昇し、女性の場合30代の28%から40代で39%と急上昇する結果が出ている。男性は親の葬儀が信仰心を持つきっかけになりやすいとされる。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在する。十八宗と呼ばれる18の宗派は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗である。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1940年の宗教団体法公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ここではいわゆる伝統仏教13宗の宗祖と本山を記載する。それ以外の宗や派、比較的近年に成立した仏教系の新宗教については、それぞれの項を参照。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "奈良仏教系(南都六宗系)", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "平安仏教(平安二宗)系・密教系", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "法華系(鎌倉仏教法華系)", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "浄土系(鎌倉仏教浄土系)", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "禅宗系(鎌倉仏教禅系)", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "伝統仏教13宗はいずれも大乗仏教である。信者数・規模としては、 鎌倉仏教(浄土宗・浄土真宗、日蓮宗、禅宗)が大勢を占めるが、これら鎌倉仏教は、法華経を根本経典としながらも他経典や密教まで大乗仏教を広く取り入れた天台宗(延暦寺)を母体として(あるいはその影響下で)誕生・発展したものである。また、その天台宗の開祖である最澄は、三経義疏で法華経を重んじた聖徳太子の影響の下で、法華経を根本経典とする(中国の)天台宗に傾倒したとされている。このようなつながりの中に、聖徳太子から最澄を経て、鎌倉仏教から現在に至るまでの、日本の仏教の大きな潮流を見ることができる。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本の内外いずれにおいても、大乗仏教では、出家者のみならず在家者も含めた一切の衆生の救済を掲げるが、日本の仏教、特に、平安二宗(天台宗、真言宗)と鎌倉仏教では、「山川草木悉有仏性(成仏)」とも表現されるように、人間のみならず、動物、植物、更には山川といった無機の自然までも仏性を内包しているとの世界観が概ね共通している点に特色がある。これは、仏教伝来前から日本に根付いていた自然信仰(アニミズム)が仏教に反映したものとされている。その過程としては、特に、日本の仏教の転換期となった平安二宗(天台宗、真言宗)が、いずれも神や死者(霊魂)のいる場所とされてきた「山」を本拠とする「山岳仏教」となったことが大きな影響を与えたとの指摘のほか、平安二宗そのものの自然信仰との親和性、つまり、太陽神起源の大日如来を信仰の中心に据えるなど自然信仰が元々織り込まれている真言宗はもちろんのこと、天台宗においても、根本経典である法華経が救済の平等性を強調するものであるため、万物が平等に仏性を有するとの思想と親和的であったとの指摘もされている。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、明治維新による強制的な神仏分離が行われる以前は、神道の神と仏は一体で混淆した信仰体系であった(詳細は「神仏習合」を参照)。日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』によると、飛鳥時代、552年とされ、仏は新来の「神」として敬われた。6世紀末には既に神宮寺を建立したとされ、日本の仏教は当初から神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な観念は本地垂迹説として理論化された。さらに日本史における画期となった戦国時代には、天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このように日本の仏教は、日本の文化的・精神的土壌の中で、固有の展開・発展を遂げたもので、インドで釈迦の説いた初期仏教と様相を異にしていることは否定できない。一方で、例えば、親鸞の他力思想や日本における禅宗の展開・浸透について、日本の精神的土壌が仏教を通じて顕現したものであるとするなど、狭い意味での仏教の垣根を超えた形で、日本の仏教の意義・価値を積極的に見出そうとする言説もある。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、日本の仏教は、日本の社会・文化全体に有形無形の影響を与えてきたもので、宗教以外の分野への思想的影響の例として、禅宗の精神を取り入れたとされる茶道などの伝統文化があるほか、近現代においても、日本の仏教思想が反映された心理療法とされる森田療法が挙げられるとともに、河合隼雄によって日本に普及されたヨーロッパ発祥のユング心理学に基づく心理療法の過程においてさえ、日本人の深層心理への仏教の影響が色濃く見出されるため、仏教の知見・視点が大変有用である旨の指摘がされている。また、現代においては、仏教における瞑想・禅宗の手法を基礎としつつ非宗教的な瞑想技法として体系立てたマインドフルネスが、非仏教国から日本に紹介されるという逆輸入の現象も生じている。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "仏陀が説いた元々の初期仏教は、人間はなぜ苦しむのかとの問いを分析的に解明した上で、苦しみから解放される方法を提示するものであり、その後に様々な国・地域で多様な展開を見せた仏教各宗派も、世界観や救済観・方法論の違いこそあるものの、生老病死をはじめとする苦しみからの解放を目的とすることでは本来共通している。しかし、現代の日本の仏教は、葬式仏教との言葉に象徴されるように、大半の人にとっては、葬式をはじめとする死後の法要・儀式を行う存在でしかなく、仏教本来の役割を果たすことはほとんどできていないという指摘がある。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このような課題・現状に対しては、仏教界からも、死という最も重いライフイベントにおいて仏教が果たしてきた役割を肯定的に捉えつつも、そこにとどまることなく、終末医療におけるスピリチュアルケア、災害などの遺族に対するグリーフケア、長寿命・高齢化社会における老いへの向き合い方、つながりが希薄化する地域社会において交流・連携拠点になるなど、現代社会において仏教だからこそ果たすことのできる役割を積極的に見出していこうとする動きが見られるほか、初期仏教・上座部仏教・チベット仏教などでの出家者の集まりである僧伽(さんが)をモデルに、人生に行き詰った際に価値観をリセットする場所(セーフティネット)としての役割を提唱する意見もある。", "title": "概要と特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。この他には『梁書』によると、扶桑では大明2年(458年)に罽賓国から僧が来て仏教をもたらしたとされるが、扶桑が日本を指しているとは確定していない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、丁未の乱で物部氏が衰退するまで続いた。この戦いは一時的に蘇我氏側が不利となるが、馬子側に参戦していた聖徳太子が四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "百済からは仏教と寺院建築のために瓦などの建築技術が伝わった。最初に採用されたのは飛鳥寺であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本への公的な仏教伝来は、欽明朝のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である。欽明朝以前の仏教伝来の根拠とされる史料に『扶桑略記』記事がある。『扶桑略記』記事は、もと『坂田寺縁起』に記され、延暦寺僧『禅岑記』さらに『大日本国法華験記』に引用されたものに、『扶桑略記』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅(522年)春二月に渡来した司馬達等が、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた。また、欽明朝以前の仏教伝来について、『日本国現報善悪霊異記』に、敏達天皇代に大部屋栖野古連が和泉国の海中から「霹靂に当りし楠」を発見して、これで仏像を制作したいと皇后に上奏したところ、皇后は「願ふ所に依るべし」と許可し、そこで大部屋栖野古連は蘇我馬子にこのことを告げたところ、蘇我馬子は池辺直氷田を請えて「仏菩薩の三軀の像」を造らせ、像を豊浦寺に置き、諸人が仰ぎ敬ったところ、廃仏派の物部守屋が「おほよそ仏の像を国の内に置くべからず。なほ遠く棄て退けよ」「今国家に災起るは、隣の国の客神の像を己が国の内に置くに因りてなり。斯の客神の像を出して速忽に棄て、豊国に流せ」と主張した。この「豊国」を九州の豊国とすれば、大和への公伝以前に豊国に仏教が伝わっていて、大和の人々が、九州を特殊な地域として認識していたとみることもできる。また「豊国」について、用明天皇が病気になった時に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿達議れ」と述べたところ、物部守屋と中臣勝海が「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」と主張し、対して蘇我馬子が「詔に随ひて助け奉るべし。詎か異なる計を生さむ」と反論し、時に穴穂部皇子が「豊国法師」を引て、内裏に入ったといい、この「豊国法師」を固有名詞でなく、「豊国」の法師と考えるならば、「豊国」は仏教と関係深い国であったことも否定できない。また、九州の修験道の行場としてで有名な彦山の開創について中国北魏僧・善正が、仏教を日本に弘めるため、渡海して九州北岸に到着したところ、樹木でおおわれた日子山(彦山)の秀麗な姿に心ひかれ、石室を造って住むことになり、これが彦山の霊泉寺のはじまりとされ、その年は531年である。さらに、4世紀ないし5世紀と推定される全国各地の古墳から出土する漢式鏡に、道教の神仙と異なる仏像が表現されている鏡が含まれていることなどからも公伝以前の仏教伝来を想定出来る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『水鏡』に継体天皇治世中に唐(もろこし)より仏教が伝来した以下の記事がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "継体天皇時代に仏教の渡来を示しているが、その年時は記されておらず、継体天皇御治世に、唐土より仏教が渡ったことを伝えている。一方、『水鏡』の著者は中山忠親とも、あるいは源雅頼の作ともいわれ、中山忠親は建久六年(1195年)に源雅頼は建久元年(1190年)に薨去しており、継体天皇治世中の唐土からの渡来としても、後代の史料であることは注意を要する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では鎮護国家の発想の下、僧尼令や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "こうした南都六宗と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた権現であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "『末法灯明記』では平安時代中期が釈迦入滅の二千年後にあたるとされ、正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこで自力救済として僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団(寺社勢力)として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。 これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "特に広まったのは念仏思想であった。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする法然の浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機の教えを説いた親鸞の浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "対して、拡大する念仏を警戒した日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗を創設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このような武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や祠堂銭(供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "僧兵の武術も武士のように洗練され、宝蔵院流槍術のように流派として確立する例もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "応仁の乱後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。石山本願寺などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし尾張の戦国大名・織田信長は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦などが有名である。また、信長は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧との宗論を主催した(安土宗論)。結果、浄土宗が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "信長が本能寺の変で死ぬと、彼の家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。一向一揆は秀吉軍と上杉軍から挟撃され瓦解した。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ルイス・フロイスが1585年に著した日欧文化比較では、この時代の仏教寺院の堕落が指摘されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし(寺請制度)、布教活動を実質的に封じた。鎌倉仏教にとっては、檀家制度によって全国に寺院が作られたことで、全面展開がなされた。浄土真宗の本願寺は、東西に分裂させられ、勢力を弱体化させられたが、現代に至るまで最大の宗派となっている。全国の修験道は、聖護院を本山とする本山派と、醍醐寺を本山とする当山派のいずれかに属するように規制された。また、朱子学や国学の立場からの排仏論も起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1665年(寛文5年)に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。江戸幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の不受不施派は、禁教令のキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これらの幕府の統制により江戸時代の仏教は堕落したという「近世仏教堕落論」は戦前における宗教史の通説であったが、戦後になると多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の再検討は、未だ不十分な段階である。上からの押しつけと解釈されやすい寺請制度だが、社会の安定に伴い菩提寺を求める民衆の意思も無視できない。仏像も規格化されたものが大量生産され各地の寺に収められたが、美術的な観点はともかく信仰の対象が身近に存在する人心安定の意義は大きい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1654年(承応3年)に来日した明の隠元隆琦は黄檗宗を布教している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "幕府の寺社政策を担った以心崇伝、天海、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた鈴木正三、独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠らが活躍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により明治維新が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策が行われた。上知令や開化政策によって全国で廃仏毀釈運動が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府は太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。また、僧侶の肉食妻帯、不受不施派やキリスト教の布教が解禁された。神道の教化運動を全国で行った結果教導職の人員不足に陥ったため、仏教を解体し神道主導の基に統合する大教院体制が作られた。欧州の宗教視察から帰国した島地黙雷らは、僧侶の身分と信教の自由を保証するべきとする批判の建白を行い、東西真宗の大教院からの脱退を実現させ、1875年(明治8年)に大教院体制は実質的に瓦解した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "その後、各宗派は教団組織の再編成に入り、日清・日露戦争の戦間期に仏教の近代化を推し進め、西欧の仏教学の導入や、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。1901年には村上専精が大乗非仏説を主張して大きな反響を呼び、国内外で大乗仏教の歴史と教理に関する研究が盛んとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "自由民権運動や日露戦争などが終了した明治時代後期には、天下国家を論じる気運が退潮し、個人的な問題に関心が移るアノミーな社会状況が訪れていた。清沢満之は個人の内面に阿弥陀如来を定置する、主観的な他力信仰である「精神主義」を掲げ、大谷派の改革を試みたが挫折した。しかし、「精神主義」の理念は現代に至るまで引き継がれ、近代仏教の先駆的な運動となった。その後も、近角常観の求道会館など、信念の修養を促す「修養主義」を掲げる仏教運動がいくつも現れ、虚脱状態にあった青年層にアノミーからの打開の道を示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "明治時代には、既存の宗派から離脱する形で、在家を主要な担い手とする仏教系新宗教が出現し始める。その多くは法華・日蓮宗の系譜に属する人々によって興された。この時代に特に成功した教団として、田中智学の立正安国会や、長松日扇の本門仏立講、杉山辰子の仏教感化救済会があり、その組織運営のあり方は後の日蓮系新宗教に大きな影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "明治末年の大逆事件に内山愚童らの僧侶が連座したことに衝撃を受けた田中智学は、日蓮の教えを国家や社会活動の基本的な指導理念とする「日蓮主義」と、ナショナリスティックな仏教的国体論を結合させたキャンペーン活動を行い、軍人や知識人を中心に大正時代の流行思想となった。日蓮主義者で有名な人物に宮沢賢治、石原莞爾がいる。1924年(大正13年)には、法華系新宗教の霊友会が発足している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "既存宗派も社会福祉事業にコミットすることで、近代的な宗教団体へと変革する取り組みが行われた。1915年(大正4年)には仏教各宗派懇話会を改称した仏教連合会が発足し、政治と宗教に関する諸問題に仏教界の影響力を行使した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、1899年(明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。1927年(昭和2年)、1929年(昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1932年、血盟団事件が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1941年3月24日、大日本仏教会(財団法人)が結成され、10月6日には東京で、仏教徒銃後奉公大会がひらかれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の日本軍では諸外国の従軍聖職者(従軍チャプレン)に相当する職として従軍僧が存在したが軍属扱いであり、宗教者でも徴兵対象であったため僧侶だった兵士が臨時に法事を執り行うなど個人的な活動が中心であった。なお浄土真宗の各教団は軍隊布教使と呼ぶ布教使を派遣し軍人に布教活動を行っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1946年2月6日、仏教連合会が結成された。1951年(昭和26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長と時を同じくして、日蓮正宗系新宗教の創価学会や法華系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。創価学会は宗教政党公明党を組織し、政界に影響力を持っている。1970年代には、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張し、念佛宗三寶山無量壽寺(無量壽會)もこの時期に生まれた。また、漢訳経典中心であった日本においてチベット仏教・原始仏教・上座部仏教・ヒンドゥー教等の影響を受けた新宗教が増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1980年代には、いわゆる新々宗教ブームが起きた。中でもオウム真理教は当時から良くも悪くも注目の的であったが、1995年の強制捜査以降、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こしていたことが発覚し、これをきっかけにして1995年(平成7年)には宗教法人法が一部改正された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "史伝研究の盛んだった中国仏教の影響から、日本では奈良時代に『延暦僧録』などの僧伝が著された。鎌倉時代になると本格的な仏教史伝が著されるようになるが、中でも影響力が大きかったのが凝然の著した『三国仏法伝通縁起』である。この書は、インドから中国を経て日本へと伝播した仏教諸宗の教学を総合的に俯瞰したもので、その仏教史モデルは三国仏教史観として近代に至るまで長らく用いられた。", "title": "日本仏教史観の変遷" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "明治時代に入り、宗門外の仏教学者にも自由に仏教研究が行えるようになると、学術的視点を取り入れた新たな日本仏教通史が著されるようになる。明治末から大正時代には鎌倉新仏教の祖師たちが現役だった時期を日本仏教の頂点と考える、鎌倉新仏教中心史観が形成され始める。原勝郎は、日本仏教史とキリスト教史の発展段階を対比させた『東西の宗教改革』(1911年)を著し、国家仏教として出発した日本仏教が鎌倉期に頂点を迎え、その後衰退したという基本的な図式を示し大きな影響を与えた。", "title": "日本仏教史観の変遷" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "マルクス主義が隆盛した戦後の歴史学においても、鎌倉新仏教を反権力・民衆解放のムーブメントとして評価する、近代的な問題意識から見た鎌倉新仏教中心史観が家永三郎や井上光貞らの研究によって成果を上げ、長らく影響を与え続けた。しかし、1970年代から、黒田俊雄の『顕密体制論』を皮切りとして鎌倉新仏教中心史観への疑義が生じるようになる。黒田の『顕密体制論』は論争を呼び修正を余儀なくされたが、結果的に鎌倉新仏教中心史観を打破する転機となり、それまで旧仏教と呼ばれて軽視されていた中世の顕密仏教研究や、近世仏教堕落論の再検討が盛んとなった。", "title": "日本仏教史観の変遷" } ]
日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。 2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる。現代では、仏教と神道は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする神仏習合と呼ばれる見方もあった。 伝統的な仏教の宗派は漢訳経典を用いる大乗仏教で、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の13宗がある。 文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属し、浄土教系(浄土宗及び浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めている。
[[File:Buddhist Expansion.svg|thumb|right|420px|[[仏教のシルクロード伝播]]]] '''日本の仏教'''(にほんのぶっきょう)は、5世紀に[[罽賓|罽賓国]]よりもたらされたとする説や、西暦538年([[日本書紀]]では552年)に[[百済]]よりもたらされたとする[[上宮聖徳法王帝説|説]]などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。 2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる<ref name="yearbook" />。現代では、[[仏教]]と[[神道]]は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする[[神仏習合]]と呼ばれる見方もあった。 伝統的な仏教の宗派は漢訳経典を用いる[[大乗仏教]]で、[[華厳宗]]、[[法相宗]]、[[律宗]]、[[真言宗]]、[[天台宗]]、[[日蓮宗]]、[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]、[[融通念仏宗]]、[[時宗]]、[[曹洞宗]]、[[臨済宗]]、[[黄檗宗]]の13宗がある。 文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の[[日本]]の仏教徒の大半はいわゆる[[鎌倉仏教]]に属し<ref>[[文化庁]]『宗教年鑑』」</ref>、[[浄土教]]系(浄土宗及び浄土真宗)の宗派と[[日蓮宗]]系の宗派が特に大きな割合を占めている。 {{see also|日本の宗教}} == 概要と特徴 == === 信者数などの統計 === [[日本]]には、約7万5000の[[寺院]]、30万体以上の[[仏像]]が存在する。日本最古の官寺である[[四天王寺]]、世界最古の木造寺院である[[法隆寺]]があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。 日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる<ref name="yearbook">{{cite book|last=総務省|title=第六十三回 日本統計年鑑 平成26年|year=2013|publisher=日本統計協会|location=東京|url=https://www.stat.go.jp/data/nenkan/index2.html}}</ref> 。一方、現代の[[日本人]]は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを[[仏教徒]]と強く意識する機会が少ない人も多いが、[[ブリタニカ]]国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている<ref>『図解仏教』成美堂出版、32頁。</ref>{{Efn|99%の日本人は神道信者との重複で1%は[[長崎県]]などで多いキリスト教徒とされている。}}。 2008年のISSP国際比較調査[宗教](NHK放送文化研究所)によると、宗教を信仰している人は男性の場合40代で19%であるものが50代で41%と急激に数値が上昇し、女性の場合30代の28%から40代で39%と急上昇する結果が出ている。男性は親の葬儀が信仰心を持つきっかけになりやすいとされる<ref name="shimada">島田裕巳『日本人の信仰』pp.57-59 扶桑社新書、2017年、ISBN 978-4594077426</ref>。 === 系譜・宗派 === [[file:Buddism in japan.svg|thumb|right|300px|日本各宗派の系統]] 日本の仏教には数多くの様々な[[宗派]]が存在する。[[十八宗]]と呼ばれる18の宗派は、[[三論宗]]・[[法相宗]]・[[華厳宗]]・[[律宗]]・[[倶舎宗]]・[[成実宗]]・[[天台宗]]・[[真言宗]]・[[融通念仏宗]]・[[浄土宗]]・[[臨済宗]]・[[曹洞宗]]・[[浄土真宗]]・[[日蓮宗]]・[[時宗]]・[[普化宗]]・[[黄檗宗]]・[[修験宗]]である。 1940年の[[宗教団体法]]公布以前にはいわゆる[[十三宗五十六派|13宗56派]]が公認されていた。13宗とは[[華厳宗]]、[[法相宗]]、[[律宗]]、[[真言宗]]、[[天台宗]]、[[日蓮宗]]、[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]、[[融通念仏宗]]、[[時宗]]、[[曹洞宗]]、[[臨済宗]]、[[黄檗宗]]である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。 ここではいわゆる伝統仏教13宗の宗祖と本山を記載する。それ以外の宗や派、比較的近年に成立した仏教系の[[新宗教]]については、それぞれの項を参照。 奈良仏教系([[南都六宗]]系) * '''[[華厳宗]]''' (日本における)開祖は[[審祥]]ら、本山は[[東大寺]] * '''[[法相宗]]''' 開祖は[[道昭]](道照とも)、本山は[[興福寺]]・[[薬師寺]] * '''[[律宗]]''' 開祖は[[鑑真]](鑑真和上)、本山は[[唐招提寺]] [[平安仏教]](平安二宗)系・[[密教]]系 * '''[[真言宗]]'''(東密) 開祖は[[空海]](弘法大師)、本山は[[東寺]]([[東寺真言宗]])、[[高野山]][[金剛峯寺]]、[[醍醐寺]](醍醐派)、[[智積院]](智山派)、[[長谷寺]](豊山派)、[[根来寺]](新義真言宗)ほか * '''[[天台宗]]'''(台密) 法華円宗とも 開祖は[[最澄]](伝教大師)、本山は[[比叡山]][[延暦寺]] 法華系([[鎌倉仏教]][[法華宗|法華系]]) * '''[[日蓮宗]]''' 開祖は[[日蓮]](立正大師)、総本山(「祖山」という)は[[身延山]][[久遠寺]] 浄土系(鎌倉仏教[[浄土教|浄土系]]) * '''[[浄土宗]]''' 開祖は[[法然]](源空・円光大師・黒谷上人・吉水上人とも)、浄土宗(鎮西流)総本山は[[知恩院]]。法然の弟子証空の門流は西山三派といわれ、本山は[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]](西山浄土宗)、[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]](西山禅林寺派)、[[誓願寺]](西山深草派)。 * '''[[浄土真宗]]''' 真宗・一向宗とも 開祖は[[親鸞]]、本山は本願寺(浄土真宗本願寺派・[[西本願寺]])・真宗本廟(真宗大谷派・[[東本願寺]])ほか。 * '''[[融通念仏宗]]''' 大念仏宗とも(平安仏教系との考えも)開祖は[[良忍]](聖応大師)、本山は[[大念仏寺]] * '''[[時宗]]''' 開祖は[[一遍]](法諱は智真、証誠大師・円照大師とも)、本山は[[清浄光寺]](遊行寺) [[禅宗]]系(鎌倉仏教禅系) * '''[[曹洞宗]]''' 開祖は[[道元]](承陽大師)、本山は[[永平寺]]・[[總持寺]] * '''[[臨済宗]]''' (日本における)開祖は[[明菴栄西|栄西]](千光国師)ら、本山は建長寺·[[建仁寺]]・[[円覚寺]]・[[妙心寺]]・[[東福寺]]ほか * '''[[黄檗宗]]''' 旧臨済宗黄檗派 開祖は[[隠元隆琦|隠元]](真空大師・華光大師)、本山は黄檗山[[萬福寺]] === 教義上の特徴 === 伝統仏教13宗はいずれも[[大乗仏教]]である。信者数・規模としては、 [[鎌倉仏教]]([[浄土宗]]・[[浄土真宗]]、[[日蓮宗]]、[[禅宗]])が大勢を占めるが、これら[[鎌倉仏教]]は、[[法華経]]を根本経典としながらも他経典や[[密教]]まで大乗仏教を広く取り入れた[[天台宗]]([[延暦寺]])を母体として(あるいはその影響下で)誕生・発展したものである。また、その[[天台宗]]の開祖である[[最澄]]は、[[三経義疏]]で[[法華経]]を重んじた[[聖徳太子]]の影響の下で、法華経を根本経典とする(中国の)[[天台宗]]に傾倒したとされている。このようなつながりの中に、[[聖徳太子]]から[[最澄]]を経て、[[鎌倉仏教]]から現在に至るまでの、日本の仏教の大きな潮流を見ることができる<ref name=umehara>梅原猛『最澄と空海』(小学館文庫、2005)</ref>。 日本の内外いずれにおいても、[[大乗仏教]]では、出家者のみならず在家者も含めた一切の[[衆生]]の救済を掲げるが、日本の仏教、特に、[[平安二宗]]([[天台宗]]、[[真言宗]])と[[鎌倉仏教]]では、「山川草木悉有仏性(成仏)」とも表現されるように、人間のみならず、動物、植物、更には山川といった無機の自然までも[[仏性]]を内包しているとの世界観が概ね共通している点に特色がある。これは、[[仏教]]伝来前から日本に根付いていた自然信仰([[アニミズム]])が[[仏教]]に反映したものとされている<ref name=sasaki>佐々木閑『別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版)</ref>。その過程としては、特に、日本の仏教の転換期となった[[平安二宗]]([[天台宗]]、[[真言宗]])が、いずれも神や死者(霊魂)のいる場所とされてきた「山」を本拠とする「[[山岳仏教]]」となったことが大きな影響を与えたとの指摘のほか、[[平安二宗]]そのものの自然信仰との親和性、つまり、太陽神起源の[[大日如来]]を信仰の中心に据えるなど自然信仰が元々織り込まれている[[真言宗]]はもちろんのこと、[[天台宗]]においても、根本経典である[[法華経]]が救済の平等性を強調するものであるため、万物が平等に[[仏性]]を有するとの思想と親和的であったとの指摘もされている<ref name=umehara/>。 また、明治維新による強制的な神仏分離が行われる以前は、[[神道]]の神と仏は一体で混淆した信仰体系であった(詳細は「[[神仏習合]]」を参照)。日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』によると、飛鳥時代、552年とされ、仏は新来の「神」として敬われた。6世紀末には既に[[神宮寺]]を建立したとされ、日本の仏教は当初から神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な観念は[[本地垂迹]]説として理論化された。さらに日本史における画期となった戦国時代には、[[天道|天道思想]]による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった<ref>神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社(講談社選書メチエ)2010年 P.49-87 ISBN 978-4-06-258459-3</ref>。 このように日本の仏教は、日本の文化的・精神的土壌の中で、固有の展開・発展を遂げたもので、インドで釈迦の説いた[[初期仏教]]と様相を異にしていることは否定できない<ref name=sasaki/>。一方で、例えば、[[親鸞]]の[[他力]]思想や日本における[[禅宗]]の展開・浸透について、日本の精神的土壌が仏教を通じて顕現したものであるとするなど、狭い意味での[[仏教]]の垣根を超えた形で、日本の仏教の意義・価値を積極的に見出そうとする言説もある<ref>鈴木大拙『日本的霊性』(角川ソフィア文庫、2010)</ref>。 また、日本の仏教は、日本の社会・文化全体に有形無形の影響を与えてきたもので、宗教以外の分野への思想的影響の例として、[[禅宗]]の精神を取り入れたとされる[[茶道]]などの伝統文化があるほか、近現代においても、日本の仏教思想が反映された[[心理療法]]とされる[[森田療法]]が挙げられるとともに、[[河合隼雄]]によって日本に普及されたヨーロッパ発祥の[[ユング]]心理学に基づく[[心理療法]]の過程においてさえ、日本人の深層心理への仏教の影響が色濃く見出されるため、仏教の知見・視点が大変有用である旨の指摘がされている<ref>河合隼雄『<心理療法コレクションⅤ>ユング心理学と仏教』(岩波書店、2010)</ref>。また、現代においては、[[仏教]]における[[瞑想]]・[[禅宗]]の手法を基礎としつつ非宗教的な瞑想技法として体系立てた[[マインドフルネス]]が、非仏教国から日本に紹介されるという逆輸入の現象も生じている。 === 課題 === [[仏陀]]が説いた元々の[[初期仏教]]は、人間はなぜ苦しむのかとの問いを分析的に解明した上で、苦しみから解放される方法を提示するものであり、その後に様々な国・地域で多様な展開を見せた仏教各宗派も、世界観や救済観・方法論の違いこそあるものの、[[生老病死]]をはじめとする苦しみからの解放を目的とすることでは本来共通している。しかし、現代の日本の仏教は、[[葬式仏教]]との言葉に象徴されるように、大半の人にとっては、[[葬式]]をはじめとする死後の法要・儀式を行う存在でしかなく、[[仏教]]本来の役割を果たすことはほとんどできていないという指摘がある。 このような課題・現状に対しては、仏教界からも、死という最も重いライフイベントにおいて[[仏教]]が果たしてきた役割を肯定的に捉えつつも、そこにとどまることなく、[[終末医療]]における[[スピリチュアルケア]]、災害などの遺族に対する[[グリーフケア]]、長寿命・[[高齢化社会]]における[[老い]]への向き合い方、つながりが希薄化する地域社会において交流・連携拠点になるなど、現代社会において[[仏教]]だからこそ果たすことのできる役割を積極的に見出していこうとする動きが見られる<ref>[https://www.sotozen-net.or.jp/shakaitekiyakuwari 【連続インタビュー】仏教の社会的役割を見つめ直す(曹洞宗公式サイト)]</ref>ほか、[[初期仏教]]・[[上座部仏教]]・[[チベット仏教]]などでの出家者の集まりである[[僧伽]](さんが)をモデルに、人生に行き詰った際に価値観をリセットする場所(セーフティネット)としての役割を提唱する意見もある<ref name=sasaki/>。 == 歴史 == === 飛鳥時代 === {{Main|[[仏教公伝]]}} 『[[日本書紀]]』によると、[[仏教]]が伝来したのは[[飛鳥時代]]、[[552年]]([[欽明天皇]]13年)に[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)により[[釈迦如来|釈迦仏]]の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『[[上宮聖徳法王帝説]]』([[聖徳太子]]の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『[[元興寺伽藍縁起]]』([[元興寺]]の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に[[538年]]([[戊午]]年、[[宣化天皇]]3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。この他には『[[梁書]]』によると、[[扶桑]]では[[大明 (南朝宋)|大明]]2年([[458年]])に[[罽賓国]]から僧が来て仏教をもたらしたとされるが、扶桑が日本を指しているとは確定していない。 『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、[[物部尾輿]]と[[中臣鎌子]]ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、[[蘇我稲目]]は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を[[寺院|寺]]として仏像を拝んだ。その後、[[疫病]]が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、[[国津神]]の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を[[難波の堀江]]に捨てた。 その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達([[物部守屋]]と[[蘇我馬子]])の代にまで持ち越され、[[丁未の乱]]で物部氏が衰退するまで続いた。この戦いは一時的に蘇我氏側が不利となるが、馬子側に参戦していた[[聖徳太子]]が[[四天王]]に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から[[摂津国]]に[[四天王寺]]([[大阪市]][[天王寺区]])を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は[[法興寺]](別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は『[[法華経]]』・『[[維摩経]]』・『[[勝鬘経]]』の三つの経の解説書(『[[三経義疏]]』)を書き、『[[十七条憲法]]』の第二条に、「篤(あつく)く[[三宝]]を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。 [[天武天皇]]は[[大官大寺]](後の大安寺)を建て、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建てた。このような動きは[[聖武天皇]]の時に頂点に達した。 百済からは仏教と寺院建築のために[[瓦]]などの建築技術が伝わった<ref name="himeji">{{Cite web|和書|url=http://himeji.jibasan.jp/kawara/rekishi.html|title=瓦の歴史|publisher=姫路市電子じばさん館(姫路市・公益財団法人 姫路・西はりま地場産業センター)|accessdate=2020-08-03}}</ref>。最初に採用されたのは[[飛鳥寺]]であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた<ref name="himeji" />。 日本への公的な仏教伝来は、[[欽明天皇|欽明朝]]のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来の根拠とされる[[史料]]に『[[扶桑略記]]』記事がある<ref name="宇佐美正利136-137"/>。『[[扶桑略記]]』記事は、もと『[[坂田寺縁起]]』に記され、延暦寺僧『[[禅岑記]]』さらに『[[大日本国法華験記]]』に引用されたものに、『[[扶桑略記]]』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅([[522年]])春二月に渡来した[[司馬達等]]が、[[大和国]][[高市郡]][[坂田原]]に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来について、『[[日本国現報善悪霊異記]]』に、[[敏達天皇|敏達天皇代]]に[[大部屋栖野古|大部屋栖野古連]]が[[和泉国]]の海中から「霹靂に当りし楠」を発見して、これで仏像を制作したいと皇后に上奏したところ、皇后は「願ふ所に依るべし」と許可し、そこで大部屋栖野古連は[[蘇我馬子]]にこのことを告げたところ、蘇我馬子は池辺直氷田を請えて「仏菩薩の三軀の像」を造らせ、像を豊浦寺に置き、諸人が仰ぎ敬ったところ、廃仏派の[[物部守屋]]が「おほよそ仏の像を国の内に置くべからず。なほ遠く棄て退けよ」「今国家に災起るは、隣の国の客神の像を己が国の内に置くに因りてなり。斯の客神の像を出して速忽に棄て、豊国に流せ」と主張した<ref name="宇佐美正利136-137"/>。この「豊国」を[[九州]]の[[豊国]]とすれば、[[大和]]への公伝以前に豊国に仏教が伝わっていて、大和の人々が、[[九州]]を特殊な地域として認識していたとみることもできる。また「豊国」について、[[用明天皇]]が病気になった時に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿達議れ」と述べたところ、[[物部守屋]]と[[中臣勝海]]が「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」と主張し、対して蘇我馬子が「詔に随ひて助け奉るべし。詎か異なる計を生さむ」と反論し、時に[[穴穂部皇子]]が「[[豊国 (僧)|豊国法師]]」を引て、内裏に入ったといい、この「豊国法師」を固有名詞でなく、「[[豊国]]」の[[法師]]と考えるならば、「豊国」は仏教と関係深い国であったことも否定できない<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[九州]]の[[修験道]]の行場としてで有名な[[英彦山|彦山]]の開創について[[中国]][[北魏]][[僧]]・[[善正]]が、仏教を日本に弘めるため、渡海して九州北岸に到着したところ、樹木でおおわれた日子山(彦山)の秀麗な姿に心ひかれ、石室を造って住むことになり、これが彦山の[[霊泉寺 (福岡県添田町)|霊泉寺]]のはじまりとされ、その年は[[531年]]である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。さらに、[[4世紀]]ないし[[5世紀]]と推定される全国各地の[[古墳]]から出土する漢式鏡に、[[道教]]の[[仙人|神仙]]と異なる仏像が表現されている鏡が含まれていることなどからも公伝以前の仏教伝来を想定出来る<ref name="宇佐美正利136-137">{{Cite journal|和書|author=[[宇佐美正利]]|title=仏教伝来の実情とその影響|journal=[[歴史読本]]|issn=|publisher=[[新人物往来社]]|date=2006-02|volume=51|issue=3|page=136-137}}</ref>。 『[[水鏡]]』に[[継体天皇]]治世中に[[唐土|唐]]([[唐土|もろこし]])より仏教が伝来した以下の記事がある。 {{quotation|継体天皇ノ御世ニモ唐ヨリ仏経ヲ日本に渡シタリキ、其時人未聖徳太子以前ノ事ナレバ、仏ヲ持シ奉テ崇行、然共時ノ人々只唐ノ神ト名村テ仏共知奉ザリキ、又世ノ中ニモ彼仏ヒロマリ給ハズナリキ<ref>{{Cite book|和書|author=[[江見清風]]|date=1903|title=水鏡詳解|series=|publisher=[[明治書院]]|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/75|page=75}}</ref>。|水鏡}} 継体天皇時代に仏教の渡来を示しているが、その年時は記されておらず、継体天皇御治世に、[[唐土]]より仏教が渡ったことを伝えている。一方、『水鏡』の著者は[[中山忠親]]とも、あるいは[[源雅頼]]の作ともいわれ、中山忠親は[[建久]]六年([[1195年]])に源雅頼は建久元年([[1190年]])に薨去しており、継体天皇治世中の唐土からの渡来としても、後代の[[史料]]であることは注意を要する<ref>{{Cite book|和書|author=[[藤原猶雪]]|date=1934|title=仏教渡来史|series=日本宗教講座|publisher=[[東方書院]]|page=10-11}}</ref>。 === 奈良時代 === [[File:TodaiDaibutsu.jpg|thumb|right|国宝・[[東大寺盧舎那仏像|東大寺の大仏]]]] 中国や日本では仏教の発展に伴い[[律令法]]の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令([[僧尼令]])が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、[[儒教]]論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では[[鎮護国家]]の発想の下、僧尼令や[[僧綱]]・[[度牒]]制度が導入されて[[官僚]]組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した[[官寺]]とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院([[私寺]])とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。 こうした南都六宗と呼ばれた、[[三論宗]]、[[成実宗]]、[[法相宗]]、[[倶舎宗]]、[[律宗]]、[[華厳宗]]などが大勢を極めた。また、[[聖武天皇]]は位を[[孝謙天皇]]に譲り、出家した。聖武は妻の[[光明皇后]]の影響から信仰に厚く、[[国分寺]]、国分尼寺の建造を命じ、[[大和国|大和]]の国分寺である[[東大寺]]に[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた[[権現]]であるという考えである[[本地垂迹]]説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、[[神像]]が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に[[鑑真]]が招かれた。鑑真は東大寺に[[戒壇]]を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は[[唐招提寺]]を建立し、そこに住んだ。 === 平安時代 === [[File:Japanese embassy to the Tang court.jpg|thumb|300px|right|[[遣唐使]]船。[[貨幣博物館]]蔵]] その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。[[桓武天皇]]は、彼らの影響力を弱めるために[[平安京]]に遷都し、[[空海]]及び[[最澄]]を[[遣唐使]]とともに[[中国]]に送り出し、[[密教]]を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄([[天台宗]])、空海([[真言宗]])には、それぞれ[[比叡山]]と[[高野山]]を与えて[[寺院|寺]]を開かせ、密教を広めさせた。 『末法灯明記』では[[平安時代]]中期が釈迦入滅の二千年後にあたるとされ、[[正法]]の千年・[[像法]]の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち[[末法]]の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う[[浄土信仰]]が流行した。貴族も[[阿弥陀仏]]にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って[[来迎図]]などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に[[平等院]]を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。 平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な[[所領]]の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこで[[自力救済]]として僧侶や信徒が武装したのが[[僧兵]]である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への[[強訴]]などの武力行使を行う集団([[寺社勢力]])として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の[[城塞]]化を進める寺院も現れた。 === 鎌倉時代 === [[鎌倉時代]]に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として[[比叡山延暦寺|叡山]]で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい[[宗派]]が作られていった。 これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。 特に広まったのは[[念仏]]思想であった。「[[南無阿弥陀仏]]」と[[念仏]]を唱え続ける([[称名念仏]])事で救われるとする[[法然]]の[[浄土宗]]、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という[[悪人正機]]{{Efn|『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだという思想。}}の教えを説いた[[親鸞]]の[[浄土真宗]](一向宗)、踊りながら念仏を唱える[[融通念仏]]や[[時宗]]があった。 対して、拡大する念仏を警戒した[[日蓮]]は「[[南無妙法蓮華経]]」と唱えることで救われるとする[[日蓮宗]]を創設した。 このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の[[日蓮]]は過激なことで知られ、他宗を非難し[[題目|御題目]]を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。 鎌倉時代は、[[武士]]が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には[[臨済宗]]と[[曹洞宗]]という二つの[[禅宗]]が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、[[虎関師錬]]が仏教史書である『[[元亨釈書]]』を著した。 更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に[[律宗]]やそこから派生した[[真言律宗]]などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。 === 南北朝・室町時代 === [[1333年]]に鎌倉幕府が滅亡し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]には政治的中心地は[[京都]]に移る。鎌倉幕府滅亡後に[[後醍醐天皇]]により[[建武の新政]]が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、[[京都五山]]が成立する。[[足利尊氏]]が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった[[禅宗]]の[[五山]]が定められ、[[臨済宗]]は幕府に保護される。室町時代の初期には[[南禅寺]]などの[[禅宗]]と旧仏教勢力の[[延暦寺]]などの[[天台宗]]は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の[[天龍寺]]船の派遣に協力した[[夢窓疎石]]や弟子の[[春屋妙葩]]は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の[[足利義満]]時代に中国の[[明]]朝と[[日明貿易]](勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。 このような武家と仏教界の接近は[[貴族]][[文化_(代表的なトピック)|文化]]及び[[武士]]文化に影響を及ぼし、義満の時代の[[鹿苑寺]](金閣寺)など[[北山文化]]や[[足利義政]]時代の[[慈照寺]](銀閣寺)など[[東山文化]]に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された[[水墨画]]・[[書院造]]・[[茶道|茶の湯]]・[[生け花]]・[[枯山水]]の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や[[祠堂銭]](供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が[[徳政一揆]]を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。 僧兵の武術も武士のように洗練され、[[宝蔵院流槍術]]のように流派として確立する例もあった。 [[曹洞宗]]は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では[[日蓮宗]]が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては[[浄土真宗]]の[[蓮如]]や[[日蓮宗]]の[[日親]]などが有名である。 === 戦国時代 === [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]の発願で造立された。ただし描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。]] {{main|戦国仏教}} [[応仁の乱]]後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。[[法華宗]]による[[山科本願寺]]焼き討ち、[[天台宗]]による[[天文法華の乱]]など、過激派宗教団体による[[宗教戦争]]も起こった。中でも[[加賀国一揆]]等の[[一向一揆]]は守護大名の[[冨樫氏]]を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。[[石山本願寺]]などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は[[守護大名]]および[[戦国大名]]が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。 しかし尾張の戦国大名・[[織田信長]]は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。[[比叡山焼き討ち (1571年)|延暦寺焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]、[[石山合戦]]などが有名である。また、信長は、[[日蓮宗]]の僧と[[浄土宗]]の僧との宗論を主催した([[安土宗論]])。結果、[[浄土宗]]が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。 === 安土桃山時代 === 信長が[[本能寺の変]]で死ぬと、彼の家臣の[[豊臣秀吉]]が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した[[根来寺]]や[[高野山]]を屈服させた。一向一揆は秀吉軍と[[上杉氏|上杉軍]]から挟撃され瓦解した。さらに有力寺社を[[大坂城]]の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・[[豊臣秀長]]を派遣したり、[[刀狩]]・[[惣無事令]]によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く[[江戸幕府]]でも大きな問題として引き継がれていく。 [[ルイス・フロイス]]が1585年に著した[[日欧文化比較]]では、この時代の仏教寺院の堕落が指摘されている。 === 江戸時代 === 豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した[[徳川家康]]は、[[寺院諸法度]]を制定し、[[寺社奉行]]を置き、仏教を取り締まった。人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし([[寺請制度]])、布教活動を実質的に封じた。[[鎌倉仏教]]にとっては、[[檀家制度]]によって全国に寺院が作られたことで、全面展開がなされた。浄土真宗の[[本願寺の歴史|本願寺]]は、東西に分裂させられ、勢力を弱体化させられたが、現代に至るまで最大の宗派となっている。全国の[[修験道]]は、[[聖護院]]を本山とする[[本山派]]と、[[醍醐寺]]を本山とする[[当山派]]のいずれかに属するように規制された。また、[[朱子学]]や[[国学]]の立場からの排仏論も起こった。 [[1665年]]([[寛文]]5年)に江戸幕府は[[寛文印知]]と[[諸宗寺院法度]]の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制([[檀家制度]])を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。[[江戸幕府]]が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の[[不受不施派]]は、[[禁教令]]の[[キリスト教]]と同様に厳しい弾圧を受けた<ref>高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P394-397</ref>。 これらの幕府の統制により江戸時代の仏教は堕落したという「近世仏教堕落論」は戦前における宗教史の通説であったが、戦後になると多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の再検討は、未だ不十分な段階である<ref>オリオン クラウタル「[戦後日本における近世仏教堕落論の批判と継承]」『年報日本思想史7号』日本思想史研究会、2008年</ref>。上からの押しつけと解釈されやすい寺請制度だが、社会の安定に伴い菩提寺を求める民衆の意思も無視できない。仏像も規格化されたものが大量生産され各地の寺に収められたが、美術的な観点はともかく信仰の対象が身近に存在する人心安定の意義は大きい。 [[1654年]]([[承応]]3年)に来日した明の[[隠元隆琦]]は[[黄檗宗]]を布教している。 幕府の寺社政策を担った[[以心崇伝]]、[[天海]]、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた[[鈴木正三]]、独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、臨済宗中興の祖と称される[[白隠]]らが活躍した。 === 明治時代 === 江戸時代後半より[[本居宣長]]を祖とする[[国学]]の延長により[[明治維新]]が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧[[長州藩]]出身者により形成された。[[大政奉還]]により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策が行われた。[[上知令]]や開化政策によって全国で[[廃仏毀釈]]運動が行われ、寺院数が減少した{{sfn|末木|2011|pp=26-55}}。[[1871年]](明治4年)に[[明治政府]]は[[太政官達]]を出し[[虚無僧]]が在籍する[[普化宗]]を廃止した。また、僧侶の肉食妻帯、[[不受不施派]]や[[キリスト教]]の布教が解禁された。神道の教化運動を全国で行った結果[[教導職]]の人員不足に陥ったため、仏教を解体し神道主導の基に統合する[[大教院]]体制が作られた{{sfn|末木|2011|pp=26-55}}。欧州の宗教視察から帰国した[[島地黙雷]]らは、僧侶の身分と信教の自由を保証するべきとする批判の建白を行い、東西真宗の大教院からの脱退を実現させ、[[1875年]](明治8年)に大教院体制は実質的に瓦解した{{sfn|末木|2011|pp=26-55}}。 その後、各宗派は教団組織の再編成に入り、[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]の戦間期に仏教の近代化を推し進め、西欧の[[仏教学]]の導入や、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。[[1901年]]には[[村上専精]]が[[大乗非仏説]]を主張して大きな反響を呼び、国内外で大乗仏教の歴史と教理に関する研究が盛んとなった{{sfn|末木|2011|pp=306-318}}。 自由民権運動や日露戦争などが終了した明治時代後期には、天下国家を論じる気運が退潮し、個人的な問題に関心が移る[[アノミー]]な社会状況が訪れていた。[[清沢満之]]は個人の内面に阿弥陀如来を定置する、主観的な他力信仰である「精神主義」を掲げ、大谷派の改革を試みたが挫折した。しかし、「精神主義」の理念は現代に至るまで引き継がれ、近代仏教の先駆的な運動となった{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。その後も、[[近角常観]]の求道会館など、信念の修養を促す「修養主義」を掲げる仏教運動がいくつも現れ、虚脱状態にあった青年層にアノミーからの打開の道を示した{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。 明治時代には、既存の宗派から離脱する形で、[[在家]]を主要な担い手とする仏教系[[新宗教]]が出現し始める。その多くは[[法華宗|法華]]・[[日蓮宗]]の系譜に属する人々によって興された{{sfn|末木|2011|pp=173-182,196-202}}。この時代に特に成功した教団として、[[田中智学]]の[[国柱会|立正安国会]]や、[[長松清風|長松日扇]]の[[本門佛立宗|本門仏立講]]、[[杉山辰子]]の[[学校法人日本福祉大学#法音寺|仏教感化救済会]]があり、その組織運営のあり方は後の日蓮系新宗教に大きな影響を与えた{{sfn|末木|2011|pp=173-182,196-202}}。 === 大正時代 === 明治末年の[[大逆事件]]に[[内山愚童]]らの僧侶が連座したことに衝撃を受けた田中智学は、日蓮の教えを国家や社会活動の基本的な指導理念とする「[[日蓮主義]]」と、ナショナリスティックな仏教的[[国体論]]を結合させたキャンペーン活動を行い、軍人や知識人を中心に大正時代の流行思想となった{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。日蓮主義者で有名な人物に[[宮沢賢治]]、[[石原莞爾]]がいる。[[1924年]](大正13年)には、法華系新宗教の[[霊友会]]が発足している。 既存宗派も社会福祉事業にコミットすることで、近代的な宗教団体へと変革する取り組みが行われた{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。[[1915年]](大正4年)には仏教各宗派懇話会を改称した仏教連合会が発足し、政治と宗教に関する諸問題に仏教界の影響力を行使した<ref>大澤広嗣「昭和前期の仏教界と連合組織 : 仏教連合会から大日本戦時宗教報国会まで」『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』(31) 武蔵野大学仏教文化研究所 {{NAID|120005897139}} 2015 pp.21-27.</ref>。 === 昭和時代(戦前・戦中) === 近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては[[1939年]](昭和14年)の[[宗教団体法]]が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の[[公益法人]]を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、[[1899年]](明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。[[1927年]](昭和2年)、[[1929年]](昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。 1932年、[[血盟団事件]]が発生した。 1941年3月24日、大日本仏教会(財団法人)が結成され、10月6日には東京で、仏教徒銃後奉公大会がひらかれた。 [[第二次世界大戦]]の[[日本軍]]では諸外国の[[従軍聖職者]](従軍[[チャプレン]])に相当する職として従軍僧が存在したが軍属扱いであり、宗教者でも[[徴兵]]対象であったため僧侶だった兵士が臨時に法事を執り行うなど個人的な活動が中心であった。なお[[浄土真宗]]の各教団は軍隊布教使と呼ぶ布教使を派遣し軍人に布教活動を行っていた。<!--戦前、戦中の仏教関係者の戦争協力について加筆をお願いします--> === 昭和時代(戦後)・平成時代・令和時代 === {{節スタブ}} [[第二次世界大戦]]後、[[1945年]](昭和20年)[[12月28日]]に[[宗教法人令]]が制定・施行され、[[宗教団体]]への規制が撤廃された。1946年2月6日、仏教連合会が結成された<ref>朝日年鑑</ref>。[[1951年]]([[昭和]]26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した[[宗教法人法]]が制定された。[[高度経済成長]]と時を同じくして、[[日蓮正宗]]系[[新宗教]]の[[創価学会]]や[[法華]]系新宗教の[[立正佼成会]]などが大きく勢力を伸ばした。[[創価学会]]は宗教政党[[公明党]]を組織し、政界に影響力を持っている。[[1970年代]]には、[[密教]]系[[新宗教]]である[[阿含宗]]や[[真如苑]]が伸張し、[[念佛宗三寶山無量壽寺]](無量壽會)もこの時期に生まれた。また、漢訳経典中心であった日本において[[チベット仏教]]・[[原始仏教]]・[[上座部仏教]]・[[ヒンドゥー教]]等の影響を受けた新宗教が増加した。 [[1980年代]]には、いわゆる新々宗教ブームが起きた。中でも[[オウム真理教]]は当時から良くも悪くも注目の的であったが、1995年の強制捜査以降、[[1980年代]]末期から[[1990年代]]中期にかけて[[オウム真理教事件]]と呼ばれる一連の事件を起こしていたことが発覚し、これをきっかけにして[[1995年]]([[平成]]7年)には[[宗教法人法]]が一部改正された。 == 日本仏教史観の変遷 == 史伝研究の盛んだった中国仏教の影響から、日本では奈良時代に『延暦僧録』などの僧伝が著された。鎌倉時代になると本格的な仏教史伝が著されるようになるが、中でも影響力が大きかったのが[[凝然]]の著した『三国仏法伝通縁起』である{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}。この書は、インドから中国を経て日本へと伝播した仏教諸宗の教学を総合的に俯瞰したもので、その仏教史モデルは三国仏教史観として近代に至るまで長らく用いられた。 明治時代に入り、宗門外の仏教学者にも自由に仏教研究が行えるようになると、学術的視点を取り入れた新たな日本仏教通史が著されるようになる。明治末から大正時代には[[鎌倉新仏教]]の祖師たちが現役だった時期を日本仏教の頂点と考える、鎌倉新仏教中心史観が形成され始める{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}。[[原勝郎 (歴史家)|原勝郎]]は、日本仏教史とキリスト教史の発展段階を対比させた『東西の宗教改革』(1911年)を著し、国家仏教として出発した日本仏教が鎌倉期に頂点を迎え、その後衰退したという基本的な図式を示し大きな影響を与えた{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}。 [[唯物史観|マルクス主義]]が隆盛した[[戦後]]の歴史学においても、鎌倉新仏教を反権力・民衆解放のムーブメントとして評価する、近代的な問題意識から見た鎌倉新仏教中心史観が[[家永三郎]]や[[井上光貞]]らの研究によって成果を上げ、長らく影響を与え続けた{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}。しかし、[[1970年代]]から、[[黒田俊雄]]の『[[顕密体制論]]』を皮切りとして鎌倉新仏教中心史観への疑義が生じるようになる{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}。黒田の『顕密体制論』は論争を呼び修正を余儀なくされたが、結果的に鎌倉新仏教中心史観を打破する転機となり{{sfn|末木|2011|pp=332-343}}、それまで旧仏教と呼ばれて軽視されていた中世の顕密仏教研究や、近世仏教堕落論の再検討が盛んとなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite |和書 |editor = [[末木文美士]] |title = 近代国家と仏教 日本IV |year = 2011 |publisher = 佼成出版社 |series = 新アジア仏教史 | volume = 14 |isbn = 978-4-333-02442-1 |ref = {{SfnRef|末木|2011}} }} == 関連項目 == <!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Buddhism portal}} * [[全日本仏教会]] ** [[神仏習合]] ** [[神仏分離]] * [[仏教書総目録]] * [[仏教伝道協会]] * [[初期仏教]] * [[森田療法]] - 日本の仏教思想との親和性が指摘されている[[心理療法]] * [[神道]] * [[日本仏教の戒律史]] == 外部リンク == * [http://www.jbf.ne.jp 公益法人全日本仏教会] * [https://www.sotozen-net.or.jp/shakaitekiyakuwari 【連続インタビュー】仏教の社会的役割を見つめ直す(曹洞宗公式サイト)] * [https://web.archive.org/web/20090429085322/http://www.ohaka-im.com/ 日本人の仏教] {{アジアの題材|仏教||地域別仏教}} {{buddhism2}} {{日本関連の項目}} {{デフォルトソート:ふつきよう}} [[Category:日本の仏教|*]] [[Category:日本の仏教史|*]] [[Category:前近代の日本の外国系文化]]
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12月14日
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{{カレンダー 12月}} '''12月14日'''(じゅうにがつじゅうよっか、じゅうにがつじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から348日目([[閏年]]では349日目)にあたり、年末まであと17日ある。 == できごと == * [[835年]]([[大和 (唐)|大和]]9年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[甘露の変]]、[[唐]]の[[文宗 (唐)|文宗]]が[[宦官]]誅殺を企図して失敗。 * [[1285年]]([[弘安]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[霜月騒動]]、鎌倉幕府の政変、有力御家人の安達氏一族が壊滅する。 * [[1542年]] - 生後6日の[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]が[[スコットランド王国|スコットランド]]女王に即位。 * [[1819年]] - [[アラバマ準州]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]22番目の州・[[アラバマ州]]となる。 * [[1836年]] - [[オハイオ州]]と[[ミシガン準州]]の間の境界紛争「[[トレド戦争]]」が非公式に終結。 * [[1896年]] - [[グラスゴー地下鉄]]が開業。 * [[1900年]] - [[マックス・プランク]]が[[黒体|黒体放射]]についての[[プランクの法則]]を発表。「[[量子論]]の誕生日」と呼ばれる。 * [[1902年]] - Commercial Pacific Cable Companyが[[サンフランシスコ]]と[[ハワイ]]を結ぶ初の太平洋横断電信ケーブルを敷設。 * [[1910年]] - [[徳川好敏]]陸軍大尉が日本初の飛行実験に成功。 * [[1911年]] - [[ノルウェー]]の[[ロアール・アムンセン]]隊が[[南極点]]に史上初めて到達<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/45331/2 |title=『12月14日はなんの日?』南極の日、極寒の地でのライブを実現し7大陸を制したあのモンスター・バンド |access-date=16 Apr 2023 |publisher=billboard JAPAN |date=14 Dec 2016}}</ref>。 * [[1913年]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の戦艦「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」が進水。 * [[1918年]] - [[フィンランド王国]]国王に選出された[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン]]が即位を辞退。 * [[1927年]] - [[イギリス]]が[[イラク]]の独立移行に向けた新協定を締結。 * [[1934年]] - [[日光国立公園]]が[[国立公園]]に指定される。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]・[[冬戦争]]: [[国際連盟]]が[[フィンランド]]侵攻を理由に[[ソビエト連邦|ソ連]]を除名。 * [[1946年]] - 国連総会で[[国際連合本部ビル|国連本部]]を[[ニューヨーク]]に置くことが決定。 * [[1948年]] - 全米自動車競争協会([[NASCAR]])創設。 * [[1955年]] - [[アイルランド]]・[[アルバニア]]・[[イタリア]]・[[オーストリア]]・[[カンボジア]]・[[スペイン]]・[[スリランカ]]・[[ネパール]]・[[ハンガリー]]・[[フィンランド]]・[[ブルガリア]]・[[ポルトガル]]・[[ヨルダン]]・[[ラオス]]・[[リビア]]・[[ルーマニア]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * [[1958年]] - ソ連の南極探検隊が[[南極大陸]]の[[到達不能極]]に史上初めて到達。 * [[1959年]] - [[在日朝鮮人の帰還事業]]: 初の帰国船が[[新潟港]]を出港。 * [[1960年]] - [[国際連合総会|国連総会]]で、アジア・アフリカ43か国の提案による[[植民地独立付与宣言]]を採択。 * 1960年 - [[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)が[[教育における差別を禁止する条約]]を採択。 * [[1961年]] - [[タンザニア]]が国連に加盟。 * [[1962年]] - アメリカの金星探査機「[[マリナー2号]]」が[[金星]]に最接近し、史上初の惑星[[スイングバイ|フライバイ]]に成功。 * [[1969年]] - [[全日空機淡路島空中接触事故]]: [[全日本空輸|全日空]]の[[日本航空機製造]][[YS-11]]型機と[[読売新聞社]]の[[ビーチクラフト]]機が[[淡路島]]上空で接触事故。 * [[1972年]] - 宇宙飛行士兼科学者([[ハリソン・シュミット]])が初めて参加した[[アポロ17号]]で、月面最後の船外活動が行われる<ref>{{Cite web |url=https://www.nasa.gov/mission/apollo-17/ |title=Apollo 17 |access-date=26 Dec 2023 |publisher=NASA The National Aeronautics and Space Administration |date=Nov 03, 2023}}</ref>。 * [[1973年]] - [[豊川信用金庫事件]]: 女子高生の冗談が元で[[豊川信用金庫]]で20億円の[[取り付け騒ぎ]]が起こる。 * [[1974年]] - 現代国際法上の[[侵略]]の定義に関する[[国際連合総会決議3314|国連総会決議3314]]が採択。 * [[1975年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]最後の[[蒸気機関車|SL]]牽引による定期旅客列車が[[室蘭本線]]の[[室蘭駅]] - [[岩見沢駅]]間で運転。 * [[1981年]] - [[イスラエル]]で[[ゴラン高原]]をイスラエルの民政下に置く{{仮リンク|ゴラン高原法|en|Golan Heights Law}}が成立。 * [[1993年]] - [[日本]]が[[米]]輸入の部分開放を決定、米の自給体制が終結。 * 1993年 - [[日野OL不倫放火殺人事件]]がおこる。 * [[1994年]] - [[恩賜上野動物園|上野動物園]]の[[ジャイアントパンダ]]「フェイフェイ」が老衰のため死ぬ。 * [[1995年]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]: 紛争3か国が和平協定「[[デイトン合意]]」に調印。 * [[1996年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[中央本線]]・[[東京駅]] - [[甲府駅]]間に[[東京圏輸送管理システム|ATOS]]を初めて導入。 * [[1999年]] - [[キリバス]]、[[トンガ]]、[[ナウル]]が国連に加盟。 * [[2003年]] - 1996年に焼失していた[[ヴェネツィア]]・[[フェニーチェ劇場]]が再開場。 * [[2004年]] - [[フランス]]で、主塔の高さが343[[メートル]]の世界一高い橋、[[ミヨー橋]]が開通<ref>{{Cite web|和書 |url=https://par-ple.jp/pages/article_detail.php?report_no=7690&app_no=39&tab_no=0 |title=12月14日は世界一高い橋が開通した日【奈良県的今日は何の日?】 |access-date=16 Apr 2023 |publisher=株式会社エヌ・アイ・プランニング |date=14 Dec 2022 |website=ぱーぷる}}</ref>。総工費約4億ユーロにも関わらず、税金が一切投入されずに建設された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500K_V00C12A1000000/ |title=税金を一切使わず建設した「世界で最も橋脚が高い橋」 |access-date=16 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=5 Jan 2012}}</ref>。 * 2004年 - [[キューバ]]と[[ベネズエラ]]が[[米州ボリバル同盟|米州ボリバル代替統合構想]] (ALBA) を結成。 * [[2006年]] - [[モナコ|モナコ公国]]と[[日本]]が外交関係を樹立。 * [[2007年]] - [[ルネサンス佐世保散弾銃乱射事件]]がおこる。 * [[2010年]] - [[クニマス]]が再発見されたことがマスコミを通して、公式に報道された。 * 2010年 - 欧州の高速鉄道初となる日本製車両、[[イギリス鉄道395形電車|395形]]がイギリスで本格運用開始。 * [[2011年]] - 地球が太陽の周りを165周する間、[[海王星]]が太陽の周りを1周し、発見された[[1846年]][[9月23日]]の位置に戻る<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.astroarts.co.jp/news/2011/07/12neptune/index-j.shtml |title=発見から“一周”年、海王星の歴史を振り返る |access-date=16 Apr 2023 |publisher=AstroArts Inc. |date=12 Jul 2011}}</ref>。 * [[2012年]] - [[コネチカット州]]で[[サンディフック小学校銃乱射事件]]が発生し、児童20人を含む26人が死亡。被疑者は自殺。 * [[2016年]] - [[トヨタ自動車]]が新型クロスオーバーSUV「[[トヨタ・C-HR|C-HR]]」を日本市場で発売<ref>{{Cite web|和書|title=TOYOTA、新型車C-HRを発売|publisher=[[トヨタ自動車株式会社]]|date=14 Dec 2016|url=https://global.toyota/jp/newsroom/toyota/21821172.html|accessdate=16 Apr 2023}}</ref>。 * [[2021年]] - トヨタ自動車が[[二次電池式電気自動車|BEV]]市場への本格参入を発表。2030年までにBEVを350万台販売する方針を示した<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、新型BEV 16台一挙公開。30年までに350万台|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1374205.html|work=Impress Watch|date=14 Dec 2021|accessdate=16 Apr 2023|publisher=[[インプレス|株式会社インプレス]]}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1009年]]([[寛弘]]6年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[後朱雀天皇]]、第69代[[天皇]](+ [[1045年]]) * [[1503年]] - [[ノストラダムス]]、[[医師]]、[[占星術]]師、『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集|百詩篇集]]』の著者(+ [[1566年]]) * [[1546年]] - [[ティコ・ブラーエ]]、[[天文学者]](+ [[1601年]]) * [[1639年]]([[寛永]]16年[[11月20日 (旧暦) |11月20日]]) - [[毛利綱広]]、第2代[[長門国]][[長州藩|長州藩主]](+ [[1689年]]) * [[1649年]]([[慶安]]2年[[11月11日 (旧暦) |11月11日]]) - [[池田輝録]]<ref>{{Kotobank|池田輝録}}</ref>、初代[[備中国]][[生坂藩|生坂藩主]](+ [[1714年]]) * [[1684年]]([[貞享]]元年[[11月8日 (旧暦) |11月8日]]) - [[上杉吉憲]]、第5代[[出羽国]][[米沢藩|米沢藩主]](+ [[1722年]]) * [[1723年]]([[享保]]8年[[11月17日 (旧暦) |11月17日]]) - [[土井利延]]、第3代[[肥前国]][[唐津藩|唐津藩主]](+ [[1744年]]) * [[1724年]]([[享保]]9年[[10月29日 (旧暦) |10月29日]]) - [[柳沢信鴻]]、第2代[[大和国]][[郡山藩|郡山藩主]](+ [[1792年]]) * [[1738年]] - [[ヤン・コジェルフ]]、[[作曲家]](+ [[1814年]]) * [[1775年]] - [[トマス・コクラン]]、[[イギリス海軍]]の[[少将]](+ [[1860年]]) * [[1784年]] - [[マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア]]、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|アストゥリアス公フェルナンド]]の妃(+ [[1806年]]) * [[1787年]] - [[マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ]]、[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|オーストリア皇帝フランツ1世]]の皇后(+ [[1816年]]) * [[1789年]] - [[マリア・シマノフスカ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1831年]]) * [[1818年]]([[文政]]元年[[11月17日 (旧暦) |11月17日]]) - [[牧野康哉]]、第9代[[信濃国]][[小諸藩|小諸藩主]](+ [[1863年]]) * [[1824年]] - [[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]、[[画家]](+ [[1898年]]) * [[1842年]]([[天保]]13年[[11月13日 (旧暦) |11月13日]]) - [[堀田正頌]]、第3代[[下野国]][[佐野藩|佐野藩主]](+ [[1896年]]) * [[1861年]]([[文久]]元年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[田中智學]]、宗教家(+ [[1939年]]) * [[1866年]] - [[ロジャー・フライ]]、画家(+ [[1934年]]) * [[1870年]] - [[カール・レンナー]]、[[政治家]]、[[連邦大統領 (オーストリア)|オーストリア大統領]](+ [[1950年]]) * [[1871年]] - [[アウグスト・フォン・ハイエク]]、[[医師]]、[[植物学者]](+ [[1928年]]) * [[1873年]] - [[ジョン・アンダーソン (外野手)|ジョン・アンダーソン]]、元プロ野球選手(+ [[1949年]]) * [[1883年]] - [[植芝盛平]]、武道家、[[合気道]]開祖(創始者)、[[合気会]]開設者(+ [[1969年]]) * [[1895年]] - [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]、[[イギリス]]国王(+ [[1952年]]) * 1895年 - [[ポール・エリュアール]]、詩人(+ 1952年) * [[1896年]] - [[ジミー・ドーリットル]]、[[アメリカ空軍]]の[[元帥]](+ [[1985年]]) * [[1897年]] - [[クルト・シュシュニック]]、政治家、[[連邦首相 (オーストリア)|オーストリア首相]](+ [[1977年]]) * [[1901年]] - [[阪東妻三郎]]、[[映画俳優]](+ [[1953年]]) * [[1907年]] - [[石井良助]]、[[法制史]][[学者]](+ [[1993年]]) * [[1909年]] - [[エドワード・ローリー・タータム]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1975年]]) * [[1911年]] - [[ハンス・フォン・オハイン]]、航空エンジニア(+ [[1998年]]) * [[1913年]] - 中田ダイマル、[[漫才師]]([[中田ダイマル・ラケット]])(+ [[1982年]]) * [[1914年]] - [[カール・カルステンス]]、政治家、[[ドイツ]]第5代[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]](+ [[1992年]]) * 1914年 - [[ロザリン・テューレック]]、[[ピアニスト]](+ [[2003年]]) * 1914年 - [[河北倫明]]、[[美術評論家]](+ [[1995年]]) * [[1915年]] - [[戸板康二]]、演劇[[評論家]]、[[推理作家]](+ [[1993年]]) * [[1920年]] - [[ローズマリー・サトクリフ]]、[[作家]](+ [[1992年]]) * [[1921年]] - [[森正]]、[[指揮者]](+ [[1987年]]) * 1921年 - [[ボビー・アダムズ]]、[[野球選手]](+ [[1997年]]) * [[1922年]] - [[ニコライ・バソフ]]、[[物理学者]](+ [[2001年]]) * [[1923年]] - [[勝田興]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://npb.jp/bis/players/31033801.html |title=勝田 興(国鉄スワローズ) |access-date=16 Apr 2023 |publisher=一般社団法人日本野球機構}}</ref><ref>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、149ページ</ref>、元[[プロ野球選手]](+ [[1982年]]) * [[1927年]] - [[小山田宗徳]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[1986年]]) * [[1929年]] - [[北本重二]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]]) * [[1930年]] - [[ロザンナ・カルテリ]]、オペラソプラノ歌手(+ [[2020年]]) * 1930年 - [[スザンヌ・モロー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2006年]]) * 1930年 - [[浦山桐郎]]、[[映画監督]](+ [[1985年]]) * [[1932年]] - [[尾身幸次]]、政治家(+ [[2022年]]) * [[1933年]] - [[北川智絵]]、声優 * [[1934年]] - [[前田陽一]]、映画監督(+ [[1998年]]) * [[1935年]] - [[品川徹]]、俳優、声優 * [[1940年]] - [[橋本勝磨]]、元プロ野球選手(+ [[2014年]]) * [[1942年]] - [[レックス・トンプソン]]、元[[子役]]、俳優 * 1943年 - 三吾、漫才師([[浮世亭三吾・美ユル]]) * [[1944年]] - [[池内了]]、[[天文学者]] * 1944年 - [[三村高志]]、[[工学者]] * [[1946年]] - [[ジェーン・バーキン]]、[[歌手]](+ [[2023年]]) * [[1947年]] - [[清水英次]]、元[[騎手]](+ [[2005年]]) * [[1948年]] - [[錦野旦]]、歌手 * [[1951年]] - [[野々村直通]]、元高校野球指導者 * [[1953年]] - [[福井照]]、政治家 * 1953年 - [[櫻井俊]]、元総務官僚、総務事務次官 * [[1955年]] - [[岡本郭男]]、[[ドラマー]](元[[スペクトラム]]) * 1955年 - [[世良公則]]、歌手、俳優 * [[1959年]] - [[ホルヘ・バカ]]、[[プロボクサー]] * 1959年 - [[清水信之]]、[[キーボーディスト]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * 1959年 - [[天願大介]]、[[脚本家]]、映画監督 * [[1960年]] - [[小山昭晴]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * 1960年 - [[高倉美貴]]、女優 * 1960年 - [[石田紀子]]、女優(+ [[1987年]]) * [[1962年]] - [[森気楼]]、[[キャラクターデザイナー]] * [[1963年]] - [[木村恵子]]、シンガーソングライター * [[1964年]] - [[須藤満]]、[[ベーシスト]] * 1964年 - [[藤岡宣男]]、[[声楽家]]([[カウンターテナー]]) * 1964年 - [[高野寛]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1964年 - [[坂本勝美]]、元[[騎手]]、元[[調教師]] * 1964年 - [[大善尊太]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄9代[[富士ヶ根]] * 1964年 - [[百々義則]]、ミュージカル俳優 * [[1965年]] - [[大木温之]]、ミュージシャン * 1965年 - [[TOMOVSKY]]、ミュージシャン * 1965年 - [[船水紀孝]]、[[ゲームクリエイター]] * 1965年 - [[クレイグ・ビジオ]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[ルクレシア・マルテル]]、映画監督、脚本家 * [[1967年]] - [[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[高木希世子]]、元[[司会者]] * 1968年 - [[高橋まき]]、三味線奏者 * 1968年 - [[勝間和代]]、[[経済評論家]]、[[公認会計士]] * [[1969年]] - [[テル (お笑い芸人)|テル]]、[[お笑いタレント]](元[[どーよ]]) * 1969年 - [[デービッド・ニルソン]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[ウラジミール・グルビッチ]]、[[バレーボール]]選手 * 1970年 - [[西嶋賢司]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[鮎貝健]]、DJ、俳優、ナレーター * 1970年 - [[緒方剛志]]、イラストレーター * [[1971年]] - [[数見肇]]、[[武道|武道家]]、[[空手道|空手家]] * 1971年 - [[浅井樹]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[シャノン・ブリッグス]]、プロボクサー * 1971年 - [[星野ひかる]]、元[[AV女優]] * 1971年 - [[エリック・ラドウィック]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[魚喃キリコ]]、[[漫画家]] * [[1974年]] - [[Ryoji]]、ミュージシャン([[ケツメイシ]]) * [[1975年]] - [[福浦和也]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[Yae]]、歌手 * [[1976年]] - [[アンドレ・クート]]、[[レーシングドライバー]] * 1976年 - [[SHOCK EYE]]、ミュージシャン([[湘南乃風]]) * 1976年 - [[徳澤青弦]]、チェリスト、作曲家、編曲家 * [[1977年]] - [[桃井はるこ]]、タレント、声優 * 1977年 - [[谷田部俊]]、お笑いタレント([[我が家]]) * 1977年 - [[山崎裕]]、ピアニスト * 1977年 - [[安部みちこ]]、[[アナウンサー]] * 1977年 - [[曽根純恵]]、[[フリーアナウンサー]] * 1977年 - [[旭南海丈一郎]]、元大相撲力士 * [[1978年]] - [[田口りえ]]、タレント、歌手(元[[Say a Little Prayer]]) * 1978年 - [[石橋征太郎]]、俳優 * 1978年 - [[綱島志朗]]、漫画家 * 1978年 - [[千葉雅也]]、哲学者、小説家 * [[1979年]] - [[マイケル・オーウェン]]、元[[サッカー選手]] * 1979年 - [[中野美奈子]]、アナウンサー * 1979年 - ハ・ジウン、脚本家 * [[1980年]] - [[タタ・ヤン]]、歌手 * 1980年 - [[永川勝浩]]、元プロ野球選手 * 1980年 - 那須晃行、お笑いタレント([[なすなかにし]]) * [[1981年]] - [[ショーン・マーカム]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[ク・ギョファン]]、俳優、映画監督 * 1982年 - [[ジョシュ・フィールズ]]、元プロ野球選手 * [[1983年]] - [[宝月ひかる]]、元AV女優 * 1983年 - 橋口洋平、ミュージシャン([[Wacci]]) * 1983年 - [[柴田隆一]]、競泳選手 * 1983年 - [[齊藤哲也 (アイスホッケー)|齊藤哲也]]、プロアイスホッケー選手 * [[1985年]] - [[滝沢乃南]]、元[[グラビアアイドル]] * 1985年 - [[八神蓮]]、俳優 * [[1986年]] - [[三宅由佳莉]]、[[海上自衛官]]、[[ソプラノ]]歌手 * [[1987年]] - [[相澤寿聡]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[河野秀数]]、元プロ野球選手 * [[1988年]] - [[ヴァネッサ・ハジェンズ]]、女優、歌手 * 1988年 - [[坂本勇人]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[村瀬歩]]、声優 * [[1989年]] - [[オンユ]]、アイドル、俳優([[SHINee]]) * 1989年 - [[鄭又榮]]、サッカー選手 * 1989年 - [[ペドロ・ロベルト・シウヴァ・ボテーリョ]]、サッカー選手 * 1989年 - [[ドン・ローチ]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[加藤未来]]、アナウンサー * [[1990年]] - [[趙成眞]]、サッカー選手 * 1990年 - [[ビボム]]、アイドル([[Block B]]) * 1990年 - [[弘松優衣]]、アナウンサー * 1990年 - [[村川大介]]、囲碁棋士 * 1990年 - こばんざめ佐藤、タレント<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000018340/ |title=こばんざめ佐藤 |access-date=16 Apr 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref> * [[1991年]] - [[高畑充希]]、女優、歌手 * 1991年 - [[大石明日希]]、元サッカー選手 * 1991年 - [[アダム・フレイジャー]]、プロ野球選手 * [[1992年]] - [[宮市亮]]、サッカー選手 * 1992年 - [[小島みなみ]]、AV女優、タレント * [[1994年]] - [[井上小百合]]、女優、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * 1994年 - 大和里菜、元アイドル(元乃木坂46) * [[1995年]] - [[松元絵里花]]、ファッションモデル * [[1996年]] - [[福田俊]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[松岡凛]]、タレント * [[1998年]] - [[田中珠里]]、女優(元[[X21]]) * 1998年 - うらた、YouTuber ([[コムドット]]) * 1998年 - キム・ジウン、アイドル([[ZEROBASEONE]]) * [[1999年]] - [[石川翔]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[東晃平]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[北向珠夕]]、グラビアモデル<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.box-corporation.com/miyu_kitamuki |title=北向珠夕 |publisher=BOX CORPORATION |accessdate=16 Apr 2023}}</ref> * [[2000年]] - [[石野瑠見]]、アイドル * [[2001年]] - [[天翔愛]]、女優 * [[2002年]] - [[加藤翼 (野球)|加藤翼]]、プロ野球選手 * 生年不詳 - [[黒澤ひかり]]、グラビアアイドル * 生年不詳 - [[瞬火]]、[[ベーシスト]]([[陰陽座]]) == 忌日 == * [[1285年]]([[弘安]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[安達泰盛]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]](* [[1231年]]) * [[1417年]] - [[ジョン・オールドカースル]]、[[ロラード派]]の[[殉教者]](* [[1378年]]) * [[1542年]] - [[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/James-V |title=James V|king of Scotland |access-date=16 Apr 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1512年]]) * [[1591年]] - [[十字架のヨハネ]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](* [[1542年]]) * [[1683年]] - [[ヴォワチュール・アンテルム]]、[[修道士]]、[[天文学者]](* [[1618年]]頃) * [[1788年]] - [[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]<ref>{{Cite web |title=Carl Philipp Emanuel Bach {{!}} German composer |url=https://www.britannica.com/biography/Carl-Philipp-Emanuel-Bach |website=Britannica |access-date=16 Apr 2023}}</ref>、[[作曲家]](* [[1714年]]) * 1788年 - [[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]、[[スペイン]]王(* [[1716年]]) * [[1799年]] - [[ジョージ・ワシントン]]、政治家、初代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1732年]]) * [[1806年]] - [[ジョン・ブレッキンリッジ (司法長官)|ジョン・ブレッキンリッジ]]、第5代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1760年]]) * [[1861年]] - [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]、[[イギリス]]女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の[[王配]](* [[1819年]]) * [[1873年]] - [[エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン|エリーザベト・ルドヴィカ]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の妃(* [[1801年]]) * 1873年 - [[ルイ・アガシー]]、[[生物学|生物学者]]、[[海洋学|海洋学者]]、[[地質学|地質学者]](* [[1807年]]) * [[1878年]] - [[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]、ヘッセン大公[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]の妃(* [[1843年]]) * [[1881年]] - [[ウィリアム・ラドクリフ・バート]]、天文学者(* [[1804年]]) * [[1930年]] - [[佐近益栄]]、[[小説家]](* [[1890年]]) * [[1931年]] - [[ワルター・ハーリヒ]]、文学研究者(* [[1888年]]) * [[1932年]] - [[田代重右衛門]]、[[実業家]](* [[1854年]]) * [[1937年]] - [[長野宇平治]]、[[建築家]](* [[1867年]]) * 1937年 - [[山本悌二郎]]、[[農林水産大臣|農林大臣]](* [[1870年]]) * [[1938年]] - [[モーリス・エマニュエル]]、作曲家、[[音楽学者]](* [[1862年]]) * [[1943年]] - [[ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ]]、[[菜食主義|菜食主義者]]、[[ケロッグ (企業)|ケロッグ社]]共同創設者(* [[1852年]]) * [[1947年]] - [[スタンリー・ボールドウィン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1867年]]) * [[1949年]] - [[森田草平]]、小説家(* [[1881年]]) * [[1951年]] - [[カール・ランプランド]]、天文学者(* [[1873年]]) * [[1955年]] - [[安井曾太郎]]、[[画家]](* [[1888年]]) * [[1956年]] - [[ユホ・クスティ・パーシキヴィ]]、政治家、第7代[[フィンランドの大統領|フィンランド大統領]](* [[1870年]]) * 1956年 - [[楠木繁夫]]、歌手(* [[1904年]]) * [[1958年]] - [[中山博道]]、[[武道|武道家]](* [[1873年]]) * [[1961年]] - [[リヒャルト・シルマン]]、[[教育者]]、[[ユースホステル]]創設者(* [[1874年]]) * [[1962年]] - 4代目[[桂文團治#4代目|桂文團治]]、[[落語家]](* [[1878年]]) * [[1963年]] - [[エーリッヒ・オレンハウアー]]、[[ドイツ社会民主党]]党首(* [[1901年]]) * 1963年 - [[ダイナ・ワシントン]]、[[ジャズ]][[歌手]](* [[1924年]]) * [[1964年]] - [[フランシスコ・カナロ]]、[[タンゴ]]の[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](* [[1888年]]) * [[1966年]] - [[式守伊之助 (19代)]]、[[大相撲]][[立行司]](* [[1886年]]) * [[1972年]] - [[内田祥三]]、建築家(* [[1885年]]) * [[1974年]] - [[クルト・ハーン]]、教育者(* [[1886年]]) * 1974年 - [[ウォルター・リップマン]]、[[ジャーナリスト]]、[[コラムニスト]](* [[1889年]]) * [[1976年]] - [[ドナルド・メンゼル]]、天文学者(* [[1901年]]) * [[1980年]] - [[藤井丙午]]、実業家(* [[1906年]]) * [[1981年]] - [[松本善登]]、[[騎手]](* [[1933年]]) * [[1985年]] - [[ロジャー・マリス]]、元[[プロ野球選手]](* [[1934年]]) * [[1985年]] - [[カーリー・ムーア]]、歌手(* [[1943年]]) * [[1987年]] - [[萩原淳 (棋士)|萩原淳]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1904年]]) * [[1988年]] - [[エヴァルト・ショルム]]、[[映画監督]]、[[俳優]](* [[1931年]]) * [[1989年]] - [[勝間田清一]]、元[[日本社会党委員長]](* [[1908年]]) * 1989年 - [[近藤積]]、[[テレビプロデューサー]]、[[演出家]](* [[1916年]]) * 1989年 - [[アンドレイ・サハロフ]]、[[物理学者]]、[[人権]]運動家(* [[1921年]]) * [[1992年]] - [[町村金五]]、元[[警視総監]]、[[北海道知事]]、[[自治大臣]](* [[1900年]]) * [[1993年]] - [[マーナ・ロイ]]、女優(* [[1905年]]) * [[1997年]] - [[村瀬敏郎]]、[[日本医師会]]会長(* [[1911年]]) * [[1999年]] - [[矢野暢]]、[[政治学者]](* [[1936年]]) * [[2001年]] - [[中部銀次郎]]、[[ゴルフ]]選手(* [[1942年]]) * 2001年 - [[W・G・ゼーバルト]]、小説家(* [[1944年]]) * [[2005年]] - [[石川六郎]]、実業家、[[鹿島建設]]第7代社長、[[日本商工会議所]]第15代会頭(* [[1925年]]) * [[2006年]] - [[呉連義]]、最後の[[ベトナム]]残留[[台湾人]]と見られる人物(* [[1923年]]) * [[2007年]] - [[花井悠]]、元プロ野球選手、[[野球解説者]](* [[1932年]]) * [[2011年]] - [[ボリス・チェルトック]]、[[科学者]]、[[工学者]](* [[1912年]]) * [[2013年]] - [[ピーター・オトゥール]]、俳優(* [[1932年]]) * 2013年 - [[國重純二]]、文学者、[[東京大学]]名誉教授(* [[1942年]]) * 2013年 - [[岡内欣也]]、[[三菱UFJ信託銀行]]会長(* [[1951年]]) * [[2014年]] - [[村方千之]]、[[指揮者]](* [[1925年]]) * 2014年 - [[松尾尊兊]]、[[歴史学者]]、[[京都大学]]名誉教授(* [[1929年]]) * [[2015年]] - [[半田孝淳]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14HBE_U5A211C1CZ8000/ |title=半田孝淳氏が死去 天台宗の第256世座主 |access-date=16 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=14 Dec 2015}}</ref>、比叡山[[延暦寺]]の第256世[[天台座主]](* [[1917年]]) * [[2016年]] - [[小里貞利]]、政治家(* [[1930年]]) * 2016年 - 松田英<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2017010602000247.html |title=松田英氏 流通経済大名誉教授、中世英文学 |access-date=16 Apr 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=6 Jan 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170107160202/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2017010602000247.html |archive-date=7 Jan 2017}}</ref>、英文学者、[[流通経済大学]]名誉教授(* [[1947年]]) * 2016年 - [[ギャレット・ゴメス]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2016/12/16/kiji/20161215s00004050359000c.html |title=米国のG・ゴメス騎手死去…BC通算13勝、WSJSで来日も |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=16 Dec 2016 |accessdate=16 Apr 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>、[[騎手]](* [[1972年]]) * [[2017年]] - [[大木民夫]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mausu.net/topics/2017/12/post_16.html |title=トピックス 訃報 |publisher=[[マウスプロモーション|株式会社マウスプロモーション]] |accessdate=16 Apr 2023 |date=19 Dec 2017}}</ref>、声優(* [[1928年]]) * 2018年 - [[大岡忠輔]]、元[[クノール食品]]社長(* [[1924年]]) * [[2019年]] - [[アンナ・カリーナ]]<ref name="eigacom20191215">{{Cite web|和書 |url=https://eiga.com/news/20191215/8/ |title=「女は女である」「気狂いピエロ」女優アンナ・カリーナさん死去 79歳 |website=[[映画.com]] |date=15 Dec 2019 |accessdate=16 Apr 2023}}</ref>、女優(* [[1940年]]) * [[2020年]] - [[ジェラール・ウリエ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/football/2020/dec/14/gerard-houllier-former-liverpool-and-france-manager-dies-aged-73 |title=Gérard Houllier, former Liverpool and France manager, dies aged 73 |newspaper=The Guardian |date=14 Dec 2020 |accessdate=16 Apr 2023}}</ref>、サッカー指導者(* [[1947年]]) * 2020年 - 中谷昭世、 元[[産業経済新聞社|産経新聞社]]専務 * [[2021年]] - [[宮原守男]]、[[弁護士]]、[[教文館]]会長(* [[1928年]]) * [[2022年]] - [[丸本卓哉]]、元[[山口大学]]長(* [[1942年]]) * 2022年 - [[御厨さと美]]、[[漫画家]](* [[1948年]]) * 2022年 - [[岩城浩幸]]、[[ジャーナリスト]]、元[[TBSテレビ]]記者(* [[1956年]]) * 2022年 - [[笠浩二]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[ドラマー]]([[C-C-B]])(* [[1962年]]) == 記念日・年中行事 == * [[南極]]の日 *:[[1911年]]12月14日に、ノルウェーの探検家[[ロアール・アムンセン]]と4人の隊員が人類で初めて南極点に到達したことに由来。 * 討ち入りの日/忠臣蔵討ち入りの日/四十七士討ち入りの日/[[忠臣蔵]]の日({{JPN}}) *:[[元禄]]15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1703年]][[1月30日]])、[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]が吉良上野介([[吉良義央]])邸へ討ち入りを行った。([[赤穂事件]]) *:元禄16年[[2月4日]](1703年[[3月20日]])、赤穂浪士の大石内蔵助([[大石良雄]])ほか16人は熊本藩細川家下屋敷で切腹。赤穗浪士たちは、江戸高輪(現在の東京都港区高輪2丁目)にある[[曹洞宗]]の寺院、[[泉岳寺]]に葬られた。泉岳寺では毎年4月と12月14日に、義士を供養する「義士祭」が行なわれている<ref>{{Cite web |url=https://sengakuji.or.jp/event/akougishisai.html |title=赤穂義士祭 |access-date=26 Dec 2023 |publisher=曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺}}</ref>。 *[[赤穂義士祭]]({{JPN}}) *:この日全国各地で「義士祭」が行なわれるが、その本家本元となるのが[[兵庫県]][[赤穂市]]。 *:赤穂市では、毎年12月14日に「赤穂義士祭」が開催される。義士たちが本懐を遂げるまでの物語が様々なパレードで表現され、最大の目玉である「義士行列」では、泉岳寺へ向かう四十七士たちが、観客を元禄絵巻さながらの世界へと誘う<ref>{{Cite web |url=https://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/gishisai.html |title=赤穂義士祭 |access-date=26 Dec 2023 |publisher=赤穂市役所 |date=5 Jul 2023}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1214|date=2023年4月}} === 誕生日(フィクション) === * [[1875年]] - シエル・ファントムハイヴ、漫画・アニメ『[[黒執事]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|toboso_official|1338363850509316096}}</ref> * [[1978年]] - 松田桃太、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year=2006|title=DEATH NOTE|volume=13|publisher=集英社|isbn=978-4-08-874095-9|page=21}}</ref>(アニメでは[[1981年]]<ref>{{Cite book|和書 |author=大場つぐみ |authorlink=大場つぐみ |author2=小畑健 |authorlink2=小畑健 |year=2007 |title=DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |publisher=[[集英社]] |isbn=978-4-08-874197-0 |page=10}}</ref>) * [[1983年]] - 弓道天馬/セイザータリアス、[[超星神シリーズ]] 『[[超星神グランセイザー]]』の主人公 * [[1986年]] - 塔矢アキラ、漫画・アニメ『[[ヒカルの碁]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ヒカルの碁 碁ジャス キャラクターズガイド |date=4 Apr 2002 |publisher=[[集英社]] |author=[[小畑健]], キャラメルママ, [[ほったゆみ]] |isbn=978-4088732787 |page=64}}</ref> * [[1991年]] - 岡部倫太郎、ゲーム、アニメ『[[STEINS;GATE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kagakuadv|676225531285671936}}</ref> * 生年不明 - 女川太郎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2015|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880316-6|quote=|date=|volume=15巻|page=48}}</ref> * 生年不明 - 六月透、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2014|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890081-0|date=|volume=1巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - 六条芳輔、漫画『迷想区閾』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=方條ゆとり|authorlink=方條ゆとり|title=迷想区閾|volume=2巻|publisher=[[エニックス]]|series=[[月刊ガンガンWING#ガンガンウイングコミックス|ガンガンウイングコミックス]]|year=2003|quote=表紙カバー下|isbn=4-7575-0878-6}}</ref> * 生年不明 - 小倉しおん、漫画『[[まちカドまぞく]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|machikado_staff|1205761695584374784}}</ref> * 生年不明 - 駿河留奈、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=劇場版『ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/04_05/ |title=駿河 留奈 |accessdate=16 Apr 2023 |publisher=AAS/海上安全整備局 AAS/新海上安全整備局}}</ref> * 生年不明 - メッサー・イーレフェルト、アニメ『[[マクロスΔ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|macrossd|1073430249591984128}}</ref> * 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#サイネリア|サイネリア(鈴木彩音)]]、ゲーム『[[THE IDOLM@STER Dearly Stars]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20191201_1549480/ |title=12月生まれのリズムゲームやアイドル育成ゲームのキャラクターまとめ[アイマス・ラブライブ・ガルパ]サイネリア |access-date=16 Apr 2023 |publisher=ファミ通App |date=2019-12-01}}</ref><ref>『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』の『Dearly Stars』コラボレーションイベントに登場した際に公表されたプロフィールより。『Dearly Stars』本編ではプロフィールの設定なし。</ref> * 生年不明 - 田中眼蛇夢、ゲーム『[[スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園|スーパーダンガンロンパ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sp_kiboukoubai|1338406995691356160}}</ref> * 生年不明 - 白樺リサ、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/03/character/13.html |title=白樺 リサ |access-date=16 Apr 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツ!』}}</ref> * 生年不明 - タクミ、ゲーム『[[ファイアーエムブレムif]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - シェフィ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1735117402713608477}}</ref> * 生年不明 - 桜田美夢、ゲーム・アニメ・漫画『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|d4dj_pj|1338136595690557444}}</ref> * 生年不明 - 李映夏、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31x/yingxia-li/ |title=李映夏 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=16 Apr 2023}}</ref> * 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#雪代晶|雪代晶]]、メデイアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1205683831929483265}}</ref> * 生年不明 - [[白石万浬]]、メデイアミックス『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aaside_info|1470408171315339266}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|14 December}} {{新暦365日|12|13|12|15|[[11月14日]]|[[1月14日]]|[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]|1214|12|14}} {{1年の月と日}}
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12月15日
12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。
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{{カレンダー 12月}} '''12月15日'''(じゅうにがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から349日目([[閏年]]では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。 == できごと == * [[1557年]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[毛利元就]]が息子へ14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す。 * [[1576年]]([[天正]]4年11月25日) - [[三瀬の変]]: [[織田信長]]・[[織田信雄|信雄]]父子が[[北畠具教]]・[[長野具藤]]など[[北畠家|北畠]]一族を暗殺する。 * [[1791年]] - [[アメリカ合衆国憲法]]の初の修正条項である[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]]が発効。 * [[1812年]] - [[シモン・ボリバル]]が[[コロンビア]]の[[カルタヘナ・デ・インディアス]]で[[スペイン]]への徹底抗戦を誓うカルタヘナ宣言を発表。 * [[1840年]] - [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の遺骸が[[セントヘレナ]]から[[フランス]]に返還され、[[オテル・デ・ザンヴァリッド|アンヴァリッド]]に安置される。 * [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[ナッシュビルの戦い]]。 * [[1872年]]([[明治]]5年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - 太政官布告第342号で[[神武天皇即位紀元]]制定。 * 1884年 - 横浜にあった東海鎮守府が横須賀に移転し、[[横須賀鎮守府]]が開庁。[[横須賀造船所]]が横須賀鎮守府の管轄となり「海軍造船所条例」(1884年12月15日制定)に基づき、海軍専用の造船所となる。 * [[1889年]] - 『[[史学雑誌]]』創刊。 * [[1901年]] - 官営鉄道(後の[[日本国有鉄道]])が東海道本線の急行2往復に食堂車の連結を始める。 * [[1902年]] - [[篠ノ井線]]が全通。 * [[1906年]] - [[年賀状|年賀郵便]]の取り扱いを日本各地で開始。 * [[1914年]] - 福岡の[[方城炭鉱]]でガス爆発事故。死者687人。 * [[1925年]] - この日、[[東京乗合自動車]]の子会社である[[東京遊覧乗合自動車]]が、上野を起点とした日本初の[[定期観光バス]]「ユーランバス」の走行を開始した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/219971 |title=きょうは何の日 12月15日 観光バスの日 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=15 Dec 2022}}</ref>。 * [[1928年]] - [[宮崎市]]で学校移転に反対する群衆が県議会議事堂、県知事公舎を襲撃。[[消防ポンプ車]]を使用した[[放水]]などで建物を破壊した<ref>1万の群衆が県会議事堂、知事公舎を襲撃『大阪毎日新聞』昭和3年12月16日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p687 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1935年]] - 松下電器産業(現・[[パナソニック]])[[株式会社 (日本)|株式会社]]が設立される。 * [[1937年]] - 第1次[[人民戦線事件]]。[[鈴木茂三郎]]・[[向坂逸郎]]ら[[日本共産党]]と人民戦線の結成を企てた容疑で検挙される(反戦派に対する弾圧事件)。 * 1937年 - [[スペイン内戦]]: [[テルエルの戦い]]はじまる。 * [[1939年]] - [[アトランタ]]で映画『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』が初公開される<ref>{{Cite web |url=https://time.com/3628199/gone-with-the-wind-facts/ |title=7 Things You Didn't Know About Gone With the Wind |access-date=11 Aug 2023 |publisher=TIME USA, LLC. |date=15 Dec 2014}}</ref>。 * [[1944年]] - ヨーロッパへ慰問演奏に飛び立った[[ミュージシャン]]の[[グレン・ミラー]]が乗った飛行機が行方不明に。[[12月18日]]に戦死と発表。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が[[神道指令]]を発令、[[神道]]と[[国家]]が分離され[[国家神道]]が廃止される。 * [[1948年]] - [[岳南鉄道]]が設立される。 * [[1949年]] - [[プロ野球再編問題 (1949年)|プロ野球再編問題]]: [[セントラル・リーグ|セントラル野球連盟]](セ・リーグ)結成。 * [[1954年]] - [[C62形]]蒸気機関車が最高速度{{Val|129|ul=km/h}}を記録。 * [[1959年]] - [[山陰放送|ラジオ山陰(現・山陰放送)]]テレビジョン放送開局。 * [[1961年]] - [[イスラエル]]特別法廷が、ナチスの[[ホロコースト|ユダヤ人虐殺]]の責任者だった[[アドルフ・アイヒマン]]に対し[[死刑]]判決。 * [[1962年]] - [[札幌テレビ放送]]のラジオ部門([[STVラジオ]]、後に札幌テレビ放送から分社)開局。 * [[1963年]] - 12月8日に[[暴力団]]に[[腹部]]を刺された[[力道山]]が死去。 * [[1965年]] - アメリカの宇宙船・[[ジェミニ6-A号]]と[[ジェミニ7号|7号]]が初の[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]飛行に成功。 * [[1970年]] - 対馬海峡で韓国の連絡船[[南営号沈没事故]]起こる。死者300人以上。 * 1970年 - [[ソビエト連邦]]の[[金星]]探査機・[[ベネラ7号]]が金星の地表に着陸。世界で初めて惑星表面の着陸に成功。 * [[1972年]] - [[極東放送 (沖縄)|極東放送]](現・[[エフエム沖縄]])開局。 * [[1976年]] - [[サモア]]が[[国際連合]]に加盟。 * 1976年 - 京繍を[[伝統的工芸品]]に指定。 * [[1977年]] - [[宇宙開発事業団]]が実験用[[通信衛星]]「[[さくら (人工衛星)|さくら]]」を打上げ。 * [[1978年]] - 米大統領[[ジミー・カーター]]が、[[アメリカ合衆国]]が[[中華人民共和国]]を[[国家の承認|承認]]し、[[中華民国]]と断交することを表明。 * [[1980年]] - [[大阪高速鉄道]](大阪モノレール)設立。 * [[1989年]] - [[国際連合総会|国連総会]]で[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|自由権規約の第2選択議定書]](死刑廃止条約)が採択される。 * [[1994年]] - [[パラオ]]が国連に加盟。 * 1994年 - 「[[古都京都の文化財]]」17社寺が、一括して[[世界遺産]]に登録されることが決定。一括登録されるのは、[[賀茂別雷神社]]、[[賀茂御祖神社]]、[[東寺|教王護国寺]]、[[清水寺]]、[[醍醐寺]]、[[仁和寺]]、[[高山寺]]、[[西芳寺]]、[[天龍寺]]、[[鹿苑寺]]、[[慈照寺]]、[[龍安寺]]、[[西本願寺|本願寺]]、[[二条城]](以上[[京都市]])、[[平等院]]、[[宇治上神社]](以下[[宇治市]])、[[延暦寺]]([[大津市]])。国宝の建築物38棟、特別名勝の庭園8ヶ所、重要文化財の建物160棟を含む<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/7657.html |title=「古都京都の文化財」を世界遺産条約による文化遺産登録を決定 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所 |date=11 Dec 2020}}</ref>。 * 1994年 - 日本で、[[住民票]]の「[[嫡出|嫡出子・非嫡出子]]」の表記を「子」に統一。 * [[1995年]] - [[東南アジア非核兵器地帯条約]](バンコク条約)調印。 * 1995年 - [[テイルズ オブ シリーズ]]の1作目、「[[テイルズ オブ ファンタジア]]」が発売される。 * [[1999年]] - 都営地下鉄12号線の路線名称を「[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]」に決定。 * [[2000年]] - [[チェルノブイリ原子力発電所]]で最後まで稼働していた3号炉を停止。 * [[2003年]] - テレビドラマ『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』が放送1000回を達成。 * [[2008年]] - [[都営地下鉄三田線]]の[[白金高輪駅]]でボヤ。乗務員の喫煙が原因。 * [[2009年]] - [[ボーイング787]]が初飛行。 * [[2010年]] - [[絶滅]]したとされていた魚「[[クニマス]]」の再発見が確認される<ref>{{Cite web|和書 |date=15 Dec 2010 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG15025_V11C10A2CR0000/ |title=「絶滅のクニマス」確認、西湖で70年ぶり |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=11 Aug 2023}}</ref>。 * [[2011年]] - イラクに駐留していたアメリカ軍が解散し、[[2003年]]から続いていた[[イラク戦争]]が終結<ref>{{Cite news |date=2011-12-15 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1504D_V11C11A2FF1000/ |title=イラク駐留米軍が任務終了の式典 完全撤退へ |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=11 Aug 2023}}</ref>。 * [[2014年]] - [[オーストラリア]]の[[シドニー]]中心部のカフェでイスラム教聖職者を自称する男が人質を取って立てこもり、16日午前2時15分頃に警官隊が突入。人質2人と犯人が死亡。 * [[2020年]] - [[宮崎駿]]監督作「[[千と千尋の神隠し]]」の興行収入を316億8000万円に上方修正<ref>{{Cite web|和書 |url=https://eiga.com/news/20201215/14/ |title=「千と千尋の神隠し」歴代最高興収更新!再上映の8.8億加算で316.8億に |access-date=11 Aug 2023 |publisher=映画.com |date=15 Dec 2020}}</ref>。日本映画歴代興行収入1位の記録を約20年間保持。 * [[2021年]] - [[森友学園問題|森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん]]を巡る国家賠償請求訴訟について、国が自死した財務省職員の妻の請求を受け入れ終結した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPDH5G3QPDHPTIL029.html |title=森友公文書改ざん巡る国賠訴訟 国側が赤木さん側の請求を認めて終結 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=15 Dec 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/384467 |title=「夫はまた国に殺された」突然の幕引き、妻「卑怯だ」森友文書改ざん訴訟 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[中日新聞]] |date=16 Dec 2021}}</ref>。 * 2021年 - [[千葉県]]八千代市八千代台駅前の[[吉野家]]八千代台西口店にて、男が立てこもる事件が発生した。 * [[2022年]] - [[北海道]]の[[知床半島]]沖で観光船「KAZU1」が沈没し、20名が死亡、6名が行方不明になった事故について、国の運輸安全委員会が、沈没に至る経過報告書を公表した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20221215-OYT1T50292/ |title=「船が沈みよる」「冷た過ぎて泳げない」…出航強行のカズワン、避難港も通過し沈没 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[讀賣新聞]]オンライン |date=16 Dec 2022}}</ref>。 == 誕生日 == * [[37年]] - [[ネロ]]、[[ローマ皇帝]](+ [[68年]]) * [[1242年]]([[仁治]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[宗尊親王]]<ref>{{Kotobank|宗尊親王}}</ref>、[[鎌倉幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]]、初の皇族将軍(+ [[1274年]]) * [[1537年]]([[天文 (元号)|天文]]6年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[足利義昭]]、[[室町幕府]]第15代将軍(+ [[1597年]]) * [[1584年]] - [[ジョン・セルデン]]、[[歴史家]]、中東学者、[[政治家]](+ [[1654年]]) * [[1642年]]([[寛永]]19年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[喜連川昭氏]]、第3代[[下野国]][[喜連川藩|喜連川主]](+ [[1713年]]) * [[1662年]]([[寛文]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[織田秀親]]、第4代[[大和国]][[柳本藩|柳本藩主]](+ [[1709年]]) * [[1726年]]([[享保]]11年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[松平忠順]]、第3代[[信濃国]][[上田藩|上田藩主]](+ [[1783年]]) * [[1732年]] - カール・ゴットハルト・ラングハンス([[:en:Carl Gotthard Langhans|Carl Gotthard Langhans]])、建築家(+ [[1808年]]) * [[1758年]]([[宝暦]]8年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[前田利精]]、第6代[[大和国]][[大聖寺藩|大聖寺主]](+ [[1791年]]) * [[1802年]] - [[ボーヤイ・ヤーノシュ]]、[[数学者]](+ [[1860年]]) * [[1824年]]([[文政]]7年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[河田小龍]]、日本画家、[[土佐藩|土佐藩士]](+ [[1898年]]) * [[1827年]] - [[ジョゼフ・アレヴィ]]、[[言語学者]]、[[東洋学]]者(+ [[1917年]]) * [[1832年]] - [[ギュスターヴ・エッフェル]]、[[建築家]](+ [[1923年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[田中正造]]、[[政治家]](+ [[1913年]]) * [[1852年]] - [[アンリ・ベクレル]]、[[物理学者]](+ [[1908年]]) * [[1859年]] - [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]、眼科医、[[エスペラント]]創案者(+ [[1917年]]) * [[1860年]] - [[ニールス・フィンセン]]、内科医、科学者(+ [[1904年]]) * 1860年([[万延]]元年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[山名義路]]、第2代[[但馬国]][[村岡藩|村岡藩主]]・[[男爵]](+ [[1940年]]) * [[1874年]] - [[上司小剣]]、[[小説家]](+ [[1947年]]) * [[1876年]] - [[吉住小三郎#四代目|吉住小三郎 (4代)]]、江戸[[長唄]]の唄方(+ [[1972年]]) * [[1878年]] - [[ハンス・カロッサ]]、[[詩人]]、[[小説家]]、[[開業医]](+ [[1956年]]) * [[1879年]] - [[梁瀬長太郎]]、[[ヤナセ]]創業者(+ [[1956年]]) * [[1883年]] - [[岡橋林]]、実業家、元[[住友銀行]]社長(+[[1959年]]) * [[1885年]] - [[山中峯太郎]]、[[陸軍]][[軍人]]、小説家(+ [[1966年]]) * [[1886年]] - [[式守伊之助 (19代)|19代式守伊之助]]、元[[大相撲]]行司(+ [[1966年]]) * [[1887年]] - [[宮沢胤勇]]、政治家(+ [[1966年]]) * [[1888年]] - [[上坂酉三]]、商学者、[[早稲田大学]]名誉教授(+[[1976年]]) * 1888年 - [[マクスウェル・アンダーソン]]、作家(+ [[1959年]]) * [[1892年]] - [[ジャン・ポール・ゲティ]]、実業家(+ [[1976年]]) * [[1893年]] - [[成田為三]]、作曲家、音楽教育者(+[[1945年]]) * [[1894年]] - [[三輪寿壮]]、政治家、弁護士(+[[1956年]]) * [[1897年]] - [[嘉村礒多]]、小説家(+ [[1933年]]) * [[1899年]] - [[ハロルド・エイブラハムス]]、陸上選手(+ [[1978年]]) * [[1903年]] - [[玉錦三右エ門]]、[[大相撲]]第32代[[横綱]](+ [[1938年]]) * [[1907年]] - [[オスカー・ニーマイヤー]]、建築家(+ [[2012年]]) * [[1909年]] - [[三木忠直]]、[[鉄道総合技術研究所|鉄道技術研究所]]技術者(+ [[2005年]]) * [[1910年]] - [[ジョン・ハモンド]]、音楽プロデューサー(+ [[1987年]]) * [[1911年]] - [[スタン・ケントン]]、ピアニスト(+ [[1979年]]) * [[1912年]] - [[レイ・イームズ]]、デザイナー、[[チャールズ・イームズ]]の妻(+ [[1988年]]) * [[1913年]] - [[伊東正義]]、政治家(+ [[1994年]]) * [[1914年]] - [[山中和正]]、将棋棋士(+[[1994年]]) * [[1916年]] - [[モーリス・ウィルキンス]]、生物物理学者(+ [[2004年]]) * [[1918年]] - [[いわさきちひろ]]、[[画家]](+ [[1974年]]) * [[1920年]] - [[嶋清一]]、元[[野球選手]](+ [[1945年]]) * 1920年 - [[平林栄治]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1940年代]]) * [[1922年]] - [[大下弘]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1979年]]) * 1922年 - [[大島武]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]]) * [[1923年]] - [[麻生良方]]、政治家、政治評論家(+[[1995年]]) * 1923年 - [[フリーマン・ダイソン]]、[[理論物理学]]者(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN2Y6GZTN2YUHBI02R.html |title=「伝説の理論物理学者」 フリーマン・ダイソンさん死去 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=29 Feb 2020}}</ref>) * [[1924年]] - [[朱里みさを]]、舞踊家(+[[1999年]]) * 1924年 - [[菊村紀彦]]、仏教学者、音楽プロデューサー(+[[2010年]]) * 1924年 - [[伊藤善市]]、経済学者(+[[2007年]]) * [[1927年]] - [[佐伯孚治]]、[[映画監督]](+ [[2018年]]) * [[1928年]] - [[フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー]]、[[芸術家]]、[[画家]]、[[建築家]](+ [[2000年]]) * 1928年 - [[イダ・ヘンデル]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2020年]]) * 1928年 - [[木村庄之助 (28代)|28代木村庄之助]]、元大相撲行司(+ [[2010年]]) * 1928年 - [[江幡高志]]、[[俳優]] * [[1929年]] - [[藤縄謙三]]、西洋古典学者、[[京都大学]]名誉教授(+[[2000年]]) * 1929年 - [[バリー・ハリス]]、[[ジャズ]][[ピアノ]]奏者(+ [[2021年]]) * [[1930年]] - [[ピーター・ホップカーク]]、[[ジャーナリスト]]、[[作家]](+ [[2014年]]) * [[1931年]] - [[谷川俊太郎]]、[[詩人]] * 1931年 - [[池田治]]、弁護士、政治家(+[[2006年]]) * [[1932年]] - [[エドナ・オブライエン]]、[[小説家]] * [[1933年]] - [[松永嘉夫]]、経済学者(+[[1996年]]) * [[1935年]] - [[中村英夫 (土木工学者)|中村英夫]]、土木工学者、[[東京都市大学]]名誉総長 * 1935年 - [[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]]、実業家、第2代[[Jリーグチェアマン]] * [[1934年]] - [[菊田幸一]]、[[刑事法|刑事法学者]] * 1934年 - [[木村俊一 (野球)|木村俊一]]、元プロ野球先週 * 1934年 - [[大仲清治]]、元プロ野球選手、俳優、[[スーツアクター]](+ 没年不明) * 1934年 - [[カーティス・フラー]]、[[ジャズ]][[トロンボーン]]奏者(+ [[2021年]]) * [[1936年]] - [[桑原たけし]]、[[声優]] * 1936年 - [[矢野義明]]、[[作曲家]] * 1936年 - [[小野茂樹]]、歌人、編集者(+[[1970年]]) * 1936年 - [[エディ・パルミエリ]]、[[音楽家]] * [[1937年]] - [[高橋睦郎]]、詩人、歌人、俳人 * 1937年 - [[横澤彪]]、テレビプロデューサー(+[[2011年]]) * [[1939年]] - [[吉田六左ェ門]]、政治家 * 1939年 - [[クライン孝子]]、作家、評論家(+[[2023年]]) * [[1940年]] - [[細川俊之]]、俳優(+ [[2011年]]) * 1940年 - [[北見マキ]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[2015年]]) * 1940年 - [[西村吉正]]、官僚(+[[2019年]]) * [[1942年]] - [[春成秀爾]]、考古学者、[[国立歴史民俗博物館]]名誉教授、[[総合研究大学院大学]]名誉教授 * 1942年 - [[大山隆司]]、元裁判官 * 1942年 - [[出門英]]、[[歌手]]([[ヒデとロザンナ]])作曲家、作詞家(+ [[1990年]]) * [[1944年]] - [[小宮山宏]]、工学者、第28代[[東京大学]]総長 * 1944年 - [[船橋洋一]]、元新聞記者、通訳、評論家、コラムニスト * 1944年 - [[ジム・リーランド]]、元プロ野球選手、監督 * [[1945年]] - [[笠井紀美子]]、歌手 * [[1946年]] - [[松平恒和]]、実業家、クラリネット奏者 * 1946年 - [[アート・ハウ]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[立松和平]]、小説家(+[[2010年]]) * [[1948年]] - [[近藤等則]]、トランペッター、音楽プロデューサー(+ [[2020年]]) * [[1949年]] - [[ドン・ジョンソン]]、俳優、監督 * 1949年 - [[三枝富博]]、[[実業家]]、[[イトーヨーカ堂]]社長 * [[1950年]] - [[中村俊夫]]、物理学者 * [[1952年]] - [[小見幸隆]]、[[サッカー選手]]、指導者 * 1952年 - [[大西忠]]、元プロ野球選手 * 1952年 - [[カサンドラ・ハリス]]、女優(+ [[1991年]]) * [[1953年]] - [[シャライ・アンドラーシュ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1954年]] - [[中村幹男]]、元アナウンサー * [[1955年]] - [[瀧本豊文]]、政治家 * 1955年 - [[ポール・シムノン]]、ミュージシャン * [[1956年]] - [[伊藤正道]]、絵本作家、イラストレーター(+[[2012年]]) * [[1957年]] - [[佐藤慶太]]、実業家 * 1957年 - [[三好礼子]]、随筆家 * 1957年 - [[チョー (俳優)|チョー]]、俳優、[[声優]] * [[1958年]] - [[桜井弘明]]、[[アニメーション監督]] * 1958年 - [[篠井英介]]、俳優 * 1958年 - [[高橋がなり]]、実業家、[[AV監督]] * 1958年 - [[志村幸美]]、俳優(+[[1998年]]) * 1958年 - [[喜多祥介]]、[[ロードレース (オートバイ)|オートバイレーサー]](+[[1988年]]) * [[1960年]] - [[ダニー馬場]]、歌手 * 1960年 - [[金山晃士]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[青山勝]]、俳優、声優 * [[1962年]] - [[松尾スズキ]]、俳優、演出家 * 1962年 - [[小栗克裕]]、[[作曲家]] * 1962年 - [[正林督章]]、[[医師]]、[[厚生労働技官]]、[[厚生労働省]][[健康局]]長 * [[1963年]] - [[中島和也]]、プロゴルファー * 1963年 - [[ヘレン・スレイター]]、女優 * [[1964年]] - [[高橋克典]]、俳優 * 1964年 - [[田村憲久]]、政治家、第23代[[厚生労働大臣]] * 1964年 - [[金原千恵子]]、ヴァイオリニスト * 1964年 - [[冨田勇]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[チョコボール向井]]、元AV男優、プロレスラー * [[1967年]] - [[亀井希生]]、アナウンサー * 1967年 - [[茂木欣一]]、ミュージシャン([[東京スカパラダイスオーケストラ]]) * [[1969年]] - [[波岡なみ]]、声優 * 1969年 - [[松永玲子]]、落語家 * [[1970年]] - [[敷島勝盛]]、元大相撲力士、年寄17代[[浦風]] * 1970年 - [[澤田宏太郎]]、実業家 * 1970年 - [[ランフランコ・デットーリ]]、[[騎手]] * 1970年 - [[リック・ヘリング]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[茂森あゆみ]]、歌手、タレント * 1971年 - [[松本美和]]、声優 * 1971年 - [[北桜英敏]]、元大相撲力士、年寄10代[[式守秀五郎]] * [[1972年]] - [[スチュアート・タウンゼント]]、俳優 * [[1973年]] - [[スルヤ・ボナリー]]、フィギュアスケート選手 * [[1975年]] - [[池澤春菜]]、声優 * 1975年 - [[松下木聖]]、声優、舞台女優 * [[1976年]] - [[佐々木みき]]、元[[バレーボール]]選手 * 1976年 - [[古賀京子]]、バスケットボール指導者、元選手 * 1976年 - [[井出薫]]、元女優 * [[1977年]] - [[木村啓介]]、俳優 * 1977年 - [[花柳廸彦太]]、日本舞踊家 * 1977年 - [[成海カズト]]、ミュージシャン、シンガーソングライター * 1977年 - [[里中まりあ]]、[[AV女優]](+ [[1999年]]) * [[1978年]] - [[高橋二号]]、俳優 * [[1979年]] - 吉田寛、元お笑いタレント([[ピーマンズスタンダード]]) * [[1979年]] - [[アダム・ブロディ]]、俳優 * [[1981年]] - [[谷川恵一 (アナウンサー)|谷川恵一]]、アナウンサー * 1981年 - [[ロマン・パヴリュチェンコ]]、サッカー選手 * [[1982年]] - [[山野ゆり]]、[[ファッションモデル]]、[[タレント]] * 1982年 - [[チャーリー・コックス]]、俳優 * 1982年 - [[みなもと悠]]、[[漫画家]] * [[1983年]] - [[三田村拓也]]、ボクサー * 1983年 - [[矢貫俊之]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[星風芳宏]]、元大相撲力士 * 1983年 - [[深田あき]]、元女優 * 1983年 - [[レネ・ゴーゲン]]、プロレスラー * [[1984年]] - [[馬場良馬]]、俳優 * 1984年 - [[宮島礼吏]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000048552/ |title=宮島礼吏 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、漫画家 * 1984年 - [[コール・ガーナー]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[マルティン・シュクルテル]]、サッカー選手 * 1984年 - [[ロニー・ラドク]]、ミュージシャン、シンガーソングライター * [[1985年]] - [[原田窓香]]、リュージュ選手 * 1985年 - [[ジィ・アーヴィ]]、シンガー・ソングライター * 1985年 - [[カシム・ブルハン]]、サッカー選手 * [[1986年]] - [[弓木春奈]]、気象予報士 * 1986年 - [[かぎしっぽ#メンバー|さち]]、お笑いタレント([[かぎしっぽ]]) * 1986年 - [[スネジャナ・オノプカ]]、モデル * 1986年 - [[ケイロル・ナバス]]、サッカー選手 * [[1987年]] - [[柏木陽介]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[鈴木敦]]、政治家、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]] * 1988年 - [[ダース・ローマシュ匡]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[ライアン・プレスリー]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[スティーヴン・エンゾンジ]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[平田薫 (タレント)|平田薫]]、女優、タレント * 1989年 - [[村中知]]、声優 * 1989年 - [[近藤千尋]]、モデル * [[1990年]] - [[ももかりん]]、AV女優 * 1990年 - [[若葉くるみ]]、AV女優 * 1990年 - [[トレバー・ヒルデンバーガー]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[大重麻衣]]、フリーアナウンサー * 1991年 - [[下垣真香]]、女優 * 1991年 - [[ジェヒュー・ゴードン]]、陸上競技選手 * 1991年 - [[コナー・デイリー]]、レーシングドライバー * [[1992年]] - [[大奄美元規]]、大相撲力士 * 1992年 - ギア、打ち師([[GinyuforcE]]) * [[1993年]] - [[新木優子]]、ファッションモデル、女優 * 1993年 - [[亀井有馬]]、俳優 * 1993年 - [[橋本英也]]、競輪選手 * [[1994年]] - [[髙橋麻里]]、声優、歌手 * 1994年 - [[岩本紗也加]]、ファッションモデル、YouTuber * 1994年 - [[金山亜莉紗]]、元野球選手 * [[1995年]] - [[桐生祥秀]]、陸上競技選手 * 1995年 - 牛山穂乃香、元アイドル(元[[Asfi]]) * [[1996年]] - [[高橋乃綾]]、ソフトテニス選手 * 1996年 - [[新ありな]]、AV女優 * [[1997年]] - [[伊藤萌々香]]、歌手、タレント(元[[フェアリーズ|Fairies]]) * 1997年 - [[土田帆乃香]]、バスケットボール選手 * 1997年 - [[小西彩乃]]、元歌手(元[[東京女子流]]) * [[1998年]] - [[チャンドラー・カンタベリー]]、俳優 * 1998年 - [[小山内花凜]]、[[モデル (職業)|モデル]](元[[Le Lien]]) * 1998年 - [[田中佑美]]、陸上競技 * [[1999年]] - [[笹尾明日香]]、卓球選手 * 1999年 - [[須﨑海羽]]、フィギュアスケート選手 * [[2000年]] - [[吉田晴登]]、俳優、タレント * [[2001年]] - Necca、アイドル([[MNL48]]) * 2001年 - [[加藤悠馬]]、サッカー選手 * 2001年 - [[前田美波]]、AV女優 * [[2002年]] - 小熊倫実、アイドル(元[[NGT48]]) * 2002年 - [[池本しおり]]、グラビアアイドル * [[2004年]] - [[一ノ瀬陽鞠]]、ファッションモデル * 2004年 - Kaning、アイドル([[CGM48]]) * [[2005年]] - 塩月希依音<ref>{{Cite web|和書 |title=塩月 希依音 |url=http://www.nmb48.com/member/shiotsuki_keito/ |website=[[NMB48]] |accessdate=11 Aug 2023 |publisher=株式会社Showtitle}}</ref>、アイドル([[NMB48]]) * [[2008年]] - [[小菅汐梨]]、子役 * 生年不明 - [[春野寿美礼]]、タレント、女優、元[[宝塚歌劇団]][[花組]] * 生年不明 - [[相馬幸人]]、声優 * 生年不明 - [[たさきこうじ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.chara.co.jp/talent.php?d=1&id=24 |title=たさき こうじ |publisher=[[キャラ (芸能プロダクション)|株式会社キャラ]] |accessdate=11 Aug 2023}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[綾瀬マリア]]、声優 * 生年不明 - [[小路裕夕]]、声優 * 生年不明 - [[三上由理恵]]、声優 * 生年不明 - [[中村紗彩]]、声優 * 生年不明 - 秦秀樹、ミュージシャン(元[[BAAD]]) == 忌日 == * [[772年]]([[宝亀]]3年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[阿倍毛人]]、[[奈良時代]]の[[公卿]] * [[1010年]]([[寛弘]]7年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[為平親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[952年]]) * [[1263年]] - [[ホーコン4世 (ノルウェー王)|ホーコン4世]]、[[ノルウェー]]王(* [[1204年]]) * [[1576年]]([[天正]]4年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[北畠具教]]、[[伊勢国]][[国司]]、[[戦国大名]](* [[1528年]]) * [[1673年]] - [[マーガレット・キャヴェンディッシュ]]、哲学者、科学者、文人 (* [[1623年]]) * [[1709年]]([[宝永]]6年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[松平綱近]]、第3代[[松江藩|松江藩主]](* [[1659年]]) * [[1749年]] - [[シャーフー|シャーフー・ボーンスレー]]、第5代マラーター王(+[[1682年]]) * [[1854年]] - [[カメハメハ3世]]、[[ハワイ王国]]第3代国王(* [[1813年]]) * [[1857年]] - [[ジョージ・ケイリー]]、[[航空]]エンジニア(* [[1773年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[徳大寺実堅]]、[[江戸時代]]後期の[[公卿]](* [[1791年]]) * [[1869年]]([[明治]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[森常吉]]、[[桑名藩|桑名藩士]]、[[新選組]]隊士(* [[1826年]]) * [[1885年]] - [[ロバート・トゥームズ]]、初代[[アメリカ連合国国務長官]](* [[1810年]]) * 1885年 - [[フェルナンド2世 (ポルトガル王)|フェルナンド2世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1819年]]) * [[1890年]] - [[シッティング・ブル]]、[[ラコタ]]族酋長(* [[1831年]]頃) * [[1938年]] - [[ヴァレリー・チカロフ]]、[[パイロット (航空)|飛行士]](* [[1904年]]) * [[1943年]] - [[ファッツ・ウォーラー]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1904年]]) * [[1944年]] - [[グレン・ミラー]]、バンド[[指揮者]](* [[1904年]]) * [[1947年]] - [[アーサー・マッケン]]、[[小説家]](* [[1863年]]) * [[1953年]] - [[エド・バロー]]、[[メジャーリーグ]]監督(* [[1868年]]) * [[1958年]] - [[ヴォルフガング・パウリ]]、[[物理学者]](* [[1900年]]) * [[1960年]] - [[ヴェラ・クルーゾー]]、女優(* [[1913年]]) * [[1961年]] - [[ダミー・ホイ]]、プロ野球選手(* [[1862年]]) * [[1962年]] - [[木田金次郎]]、[[画家]](* [[1893年]]) * 1962年 - [[チャールズ・ロートン]]、[[俳優]](* [[1899年]]) * 1962年 - [[アディラ・ファキーリ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1889年]]) * [[1963年]] - [[力道山]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/179467?sectcode=420&servcode=400 |title=力道山死去から50年、日本では追慕ムードに |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[中央日報]] |date=16 Dec 2016}}</ref>、[[プロレスラー]](* [[1924年]]) * 1963年 - [[鈴々舎馬風#4代目|4代目(自称9代目)鈴々舎馬風]]、[[落語家]](* [[1904年]]) * [[1966年]] - [[ウォルト・ディズニー]]、[[映画監督]](* [[1901年]]) * [[1968年]] - [[ジェス・ウィラード]]、[[プロボクサー]](* [[1881年]]) * [[1974年]] - [[アナトール・リトヴァク]]、映画監督(* [[1902年]]) * [[1975年]] - [[井上成美]]、元[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大将]](* [[1889年]]) * [[1976年]] - [[グレゴワール・カイバンダ]]、[[政治家]](* [[1924年]]) * [[1979年]] - [[山本栄一郎]]、元[[プロ野球選手]](* 1902年) * [[1984年]] - [[ジャン・ピアース]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1904年]]) * [[1986年]] - [[セルジュ・リファール]]、[[バレエ]]の[[舞踏家]]、[[振付師]](* [[1905年]]) * [[1988年]] - [[山口青邨]]、[[俳人]](* [[1892年]]) * 1988年 - [[野田岩次郎]]、[[実業家]](* [[1897年]]) * [[1991年]] - [[ヴァシリ・ザイツェフ]]、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の[[狙撃兵]](* [[1915年]]) * [[1994年]] - [[松園尚巳]]、[[実業家]](* [[1922年]]) * [[1997年]] - [[関寛治]]、[[国際関係論]]研究家(* [[1927年]]) * [[2000年]] - [[ミスターシービー]]、[[競走馬]](* [[1980年]]) * [[2002年]] - [[ディック・スチュアート]]、元プロ野球選手(* [[1932年]]) * [[2004年]] - [[蔣方良]]、[[蔣経国]]元[[中華民国総統|総統]]夫人(* [[1916年]]) * [[2005年]] - [[仰木彬]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]](* [[1935年]]) * [[2006年]] - [[有馬元治]]、政治家(* [[1920年]]) * [[2007年]] - [[井上忠行]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員]](* [[1935年]]) * 2007年 - [[島野育夫]]、元プロ野球選手(* [[1944年]]) * 2007年 - [[ハイアン・グレイシー]]、[[総合格闘家]](* [[1974年]]) * [[2010年]] - [[ボブ・フェラー]]、プロ野球選手(* [[1918年]]) * [[2013年]] - [[築地容子]]、歌手(* [[1931年]]) * 2013年 - [[ジョーン・フォンテイン]]、女優(* [[1917年]]) * [[2014年]] - [[生方恵一]]、[[アナウンサー]](* [[1933年]]) * [[2016年]] - [[伊藤強]]、[[音楽評論家]](* [[1935年]]) * [[2017年]] - [[島田満]]<ref>{{Cite web|和書 |title=脚本家・島田満さん死去、58歳 『ロミオの青い空』など |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=15 Dec 2017 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2102450/full/ |accessdate=11 Aug 2023}}</ref>、[[脚本家]](* [[1959年]]) * [[2018年]] - 4代目[[三遊亭小圓朝]]<ref name="hochi">{{Cite web|和書 |title=三遊亭小円朝さんが肺炎で亡くなる…49歳 |url=https://hochi.news/articles/20181217-OHT1T50070.html |date=12 Dec 2018 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[スポーツ報知]]}}</ref>、[[落語家]](* [[1969年]]) * [[2020年]] - [[ウンク・A・アジズ]]<ref>{{Cite web|url=https://www.thestar.com.my/news/nation/2020/12/15/royal-prof-ungku-aziz-dies-aged-98|title=Royal Prof Ungku Aziz dies, aged 98|publisher=TStar Media Group Berhad |date=15 Dec 2020|accessdate=11 Aug 2023}}</ref>、[[経済学者]](* [[1922年]]) * 2020年 - [[サウファトゥ・ソポアンガ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.rti.org.tw/news/view/id/2087313 |title=吐瓦魯前總理索法圖逝世 大使蘇仁崇將出席國葬 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=財團法人中央廣播電臺 |date=21 Dec 2020 |language=Chi}}</ref>、政治家(* [[1952年]]) * 2020年 - [[ゾルタン・サボ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://qoly.jp/2020/12/16/zoltan-sabo-rip-iks-1 |title=元アビスパ福岡のゾルタン・サボ氏、48歳で死去 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=football webmagazine Qoly |date=16 Dec 2020}}</ref>、元サッカー選手、指導者(* [[1972年]]) * [[2022年]] ‐ [[あき竹城]]、[[俳優#性別での分類|女優]](* [[1947年]]) == 記念日・年中行事 == * {{仮リンク|ザメンホフの日|eo|Zamenhofa Tago|en|Zamenhof Day}} *:[[エスペラント]]の考案者である[[ルドヴィコ・ザメンホフ]]の誕生日を祝う日。 * 権利章典の日({{USA}}) *: [[1791年]]のこの日、 [[アメリカ合衆国憲法]]の初の修正条項である[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]]が発効した。 * 王国記念日 (Koninkrijksdag)({{NLD}}) *: [[1954年]]のこの日、{{仮リンク|オランダ王国憲章|nl|Statuut voor het Koninkrijk der Nederlanden|en|Charter for the Kingdom of the Netherlands}}が制定された。 * 年賀郵便特別扱い開始({{JPN}}) *: 12月15日から12月25日までの間に[[年賀状]]を投函すると、翌年の[[1月1日]]に配達される。 * [[観光バス]]記念日({{JPN}}) *: [[1925年]]のこの日、 [[東京乗合自動車]]により日本初の[[定期観光バス]]である「ユーランバス」の運行が開始された。 * [[秋葉山 (静岡県)|秋葉山]]秋葉寺「火祭り」({{JPN}}) *: [[静岡県]][[浜松市]]の[[秋葉山 (静岡県)|秋葉山]]秋葉寺で火祭りが行われる。この祭りは、火防鎮護を願って、火防天狗[[秋葉権現|秋葉三尺坊大権現]]に七十五膳を献供する儀式を中心に、毎年12月15、16日の両日に渡って行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.akihasan-shuyoji.or.jp/himatsuri/ |title=火祭り |access-date=11 Aug 2023 |publisher=浜松 秋葉山 秋葉寺}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1215|date=Aug 2023}} === 誕生日(フィクション) === * 1956年 - 鷹山敏樹(タカ)、テレビドラマ・映画『[[あぶない刑事]]』シリーズの主人公のひとり<ref>『あぶない刑事フォーエヴァー THE MOVIE』の履歴データより</ref> * 2132年 - 堂馬広登、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://fafner-exodus.jp/special/character/hiroto.html |title=堂馬広登 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[XEBEC]]・FAFNER EXODUS PROJECT [[キングレコード|King Record.Co.,Ltd.]] |work=『蒼穹のファフナー EXODUS』}}</ref> * 生年不明 - 江戸川音、漫画・ドラマ『[[花のち晴れ〜花男 Next Season〜]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=神尾葉子|authorlink=神尾葉子|title=花のち晴れ〜花男 Next Season〜|volume=1巻|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]+|year=2015|page=122|isbn=978-4-08-880402-6}}</ref> * 生年不明 - 烏丸千歳、小説・漫画・アニメ『[[ガーリッシュ ナンバー|ガーリッシュナンバー]]』の主人公 <ref>{{Twitter status|gn_staff|809052011593285634}}</ref> * 生年不明 - 紅城トワ(キュアスカーレット)、アニメ『[[Go!プリンセスプリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://asahi.co.jp/precure/princess/character/curescarlet.html#mainBody |title=キュアスカーレット 紅城トワ |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[朝日放送テレビ|ABC]] [[東映アニメーション]] |work=『Go!プリンセスプリキュア』}}</ref> * 生年不明 - 小原豊、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=古舘春一 |authorlink=古舘春一 |year=2013 |title=ハイキュー!! |publisher=[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉 |location= |isbn=978-4-08-870666-5 |quote= |date= |volume=6巻 |page=86}}</ref> * 生年不明 - 氷無小雪、漫画・アニメ『[[風夏]]』に登場するキャラクター <ref>{{Twitter status|seokouji|1338822968110018562}}</ref> * 生年不明 - 春名ヒロ子(ロコちゃん)、アニメ『[[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 大星淡、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=大星 淡(おおほし あわい) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref> * 生年不明 - 杜松美希音、漫画『[[犬神さんと猫山さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=くずしろ|authorlink=くずしろ|title=犬神さんと猫山さん|volume=1巻|publisher=[[一迅社]]|series=[[コミック百合姫#百合姫コミックス|百合姫コミックス]]|year=2013|page=89|isbn=978-4-7580-7224-3}}</ref> * 生年不明 - 紅桃林イリス、漫画・アニメ『[[はじめてのギャル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 海老原みなせ、ゲーム『[[ぶらばん! -The bonds of melody-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yuzu-soft.com/post/ja/198/えび誕.html |title=えび誕 |publisher=YUZUSOFT |date=15 Dec 2011 |accessdate=11 Aug 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120504071609/https://www.yuzu-soft.com/post/ja/198/えび誕.html |archivedate=4 May 2012}}</ref> * 生年不明 - 蓬莱タキ、ゲーム『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://t7s.jp/character/chara/53.html |title=蓬莱 タキ |access-date=11 Aug 2023 |work=『Tokyo 7th シスターズ』 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]]}}</ref> * 生年不明 - 臼井未幸、ゲーム『[[オルタナティブガールズ|オルタナティブガールズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|alterna_cs|1338821498899841024}}</ref> * 生年不明 - ミチル、ゲーム『[[魔法使いの約束]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mahoyaku.com/character/south/mitile/ |title=ミチル(南の国) |access-date=11 Aug 2023 |publisher=[[Coly]] |work=『魔法使いの約束』}}</ref> * 生年不明 - 王莉芬、メディアミックス『[[アサルトリリィ]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|assault_lily|1338859549558640643}}</ref> * 生年不明 - 岸本・ルチア・来夢、メディアミックス『アサルトリリィ』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 堀宮英知、メディアミックス『[[ツキノ芸能プロダクション]]』所属のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tsukino-pro.com/talent_artist/talent_artist-cat2/sq-ta/horimiya-eichi-ta/ |title=堀宮英知 |access-date=11 Aug 2023 |publisher=TSUKIPRO TSUKIUTA. [[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC LLC]] ALTAIR |work=『ツキノ芸能プロダクション』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|15 December}} {{新暦365日|12|14|12|16|[[11月15日]]|[[1月15日]]|[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]|1215|12|15}} {{1年の月と日}}
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12月16日
12月16日(じゅうにがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。
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12月16日(じゅうにがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月16日'''(じゅうにがつじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から350日目([[閏年]]では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。 == できごと == [[画像:tofukuji-butsuden.jpg|thumb|200px| 1881年(明治14年)に焼失した[[東福寺]]仏殿([[京都府立京都学・歴彩館]] 京の記憶アーカイブ)。堂内には身の丈五丈の大仏が安置されていた。]] * [[755年]]([[天宝 (唐)|天宝]]14年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[安禄山]]が[[史思明]]らと相謀り、宰相・[[楊国忠]]([[楊貴妃]]の従兄)の打倒と政治体制の粛正を訴えて[[幽州]]にて挙兵([[安史の乱]]の勃発)。 * [[1477年]]([[文明 (日本)|文明]]9年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[大内政弘]]が[[周防国]]に撤兵し、[[応仁の乱]]が事実上終結する。 * [[1575年]] - [[チリ]]南部の[[バルディビア]]沖で[[マグニチュード]]8.8の地震発生([[バルディビア地震]])。 * [[1598年]]([[慶長]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]・[[万暦]]26年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]: [[露梁海戦]]。 * [[1653年]] - [[イングランド共和国]]で[[護国卿]]の制度([[統治章典]])が制定され、[[オリバー・クロムウェル]]が就任。 * [[1689年]] - イギリスで[[権利の章典]]が制定。 * [[1707年]]([[宝永]]4年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]) - [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]が[[噴火]]し、宝永山が出現する。 * [[1773年]] - [[マサチューセッツ湾直轄植民地|マサチューセッツ植民地]]・[[ボストン]]で、[[イギリス]]本国の政策に反発した現地植民地人が港に停泊中のイギリス船を襲撃し[[イギリス東インド会社]]の船荷の紅茶箱を海に投棄([[ボストン茶会事件]])。 * [[1793年]] - [[フランス革命戦争]]: [[トゥーロン攻囲戦]]で砲兵中尉の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]らがトゥーロンへの一斉攻撃を開始。 * [[1809年]] - フランス皇帝ナポレオン1世が、子供が生まれないことを理由に[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]と離婚。 * [[1811年]] - [[ニューマドリッド地震]]、マグニチュード7.5前後の地震が2回発生。翌年[[1月23日|1月23]]、[[2月7日]]にもほぼ同規模の地震が発生した。 * [[1881年]] - [[九条道家]]の発願で造立された[[東福寺]]大仏が失火のため焼失する<ref>横山秀哉「東福寺古僧堂の遺構から見た禅宗伽藍」(『禅文化(42)』1966年 収録) </ref>。 * [[1890年]] - 東京 - 横浜で日本初の[[電話]]交換業務を開始。 * [[1893年]] - [[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番]]『新世界より』が初演。 * [[1909年]] - [[山手線]]で電車の運転を開始。 * [[1920年]] - [[海原地震]]が発生。 * [[1929年]] - [[東京駅]]の八重洲口が開業。 * [[1932年]] - 東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[白木屋 (デパート)|白木屋百貨店]]で火災([[白木屋 (デパート)#白木屋大火|白木屋大火]])。 * [[1936年]] - [[柴犬]]が[[天然記念物]]に指定。 * [[1941年]] - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]竣工。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[バルジの戦い]]が始まる。 * [[1945年]] - [[A級戦犯]]容疑者として[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から出頭命令を受けていた[[近衛文麿]]元首相が服毒自殺。 * [[1946年]] - [[タイ王国]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * 1946年 - フランスで[[レオン・ブルム]]の[[社会党 (フランス)|社会党]]内閣が成立。 * [[1949年]] - [[毛沢東]]が[[ソビエト連邦|ソ連]]を初訪問。 * [[1957年]] - [[特別区|東京23区]]のゴミの[[夢の島]]への埋め立てを開始。 * 1957年 - 国鉄モハ90形電車(後の[[国鉄101系電車|101系]])デビュー。 * [[1960年]] - [[ユナイテッド航空]]の[[ダグラス DC-8|DC-8]]と[[トランス・ワールド航空]]の[[ロッキード コンステレーション|L-1049スーパーコンステレーション]]が[[ニューヨーク]]上空で衝突して墜落、墜落地の住民を含めて134人が死亡([[1960年ニューヨーク空中衝突事故]])。 * [[1965年]] - [[名阪国道]]が暫定二車線で開通。 * [[1966年]] - [[国際連合総会]]が[[国際人権規約]]を採択する。 * [[1968年]] - [[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](NST)開局。 * [[1971年]] - [[パキスタンの降伏文書]]が調印され[[第三次印パ戦争]]が終結。[[パキスタン]]が[[バングラデシュ]]の独立を[[国家の承認|承認]]。 * 1971年 - [[札幌市営地下鉄]]の最初の開業区間、[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]の[[北24条駅]] - [[真駒内駅]]間が開業。日本初のゴムタイヤ式地下鉄。 * [[1972年]] - [[横浜市営地下鉄]]の最初の開業区間、1号線(現 [[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]])の[[伊勢佐木長者町駅]] - [[上大岡駅]]間が開業。 * [[1981年]] - [[大阪空港訴訟]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]大法廷判決。 * [[1986年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: [[アルマアタ事件]]。 * [[1987年]] - 16年ぶりの[[1987年大韓民国大統領選挙|韓国大統領直接選挙]]で[[盧泰愚]]が当選。 * [[1988年]] - [[北海道]]の[[十勝岳]]が噴火。 * [[1989年]] - [[ルーマニア]]の[[ティミショアラ]]でラースロー[[司教]]国外退去への抗議デモに対して治安部隊が発砲、[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]の発火点となる。 * 1989年 - [[中国民航機ハイジャック事件]]。 * [[1997年]] - テレビアニメ『[[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]]』を見ていた人々が[[痙攣]]などの症状を起こす([[ポケモンショック]])。 * [[1998年]] - [[イラク武装解除問題]]: [[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]軍が、[[国際連合]]の[[大量破壊兵器]]査察に非協力的として[[イラク]]を空爆。 * [[2011年]] - [[野田佳彦]][[内閣総理大臣]]は、東京電力[[福島第一原子力発電所]]の原子炉が冷温停止状態(ステップ2)を達成し、いわゆる原発事故の「収束宣言」を行なった。 * [[2012年]] - [[第46回衆議院議員総選挙]]の投開票が行われ、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が294議席を獲得し3年3ヶ月振りの政権復帰を決める。また敗れた[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[野田佳彦]][[内閣総理大臣]]は、敗北の責任を取り内閣総理大臣と民主党代表の辞任を表明した。 * 2012年 - [[2012年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]の投開票が行われ前[[東京都副知事]]の[[猪瀬直樹]]が当選した。 * [[2015年]] - 日本の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]]において、夫婦別姓訴訟で選択的[[夫婦別姓]]を認めない[[民法 (日本)|民法]]の規定は合憲、[[再婚禁止期間訴訟]]で100日を超える女性の結婚禁止期間は違憲、とする判断がそれぞれなされた<ref>{{Cite news |title=夫婦同姓「合憲」、女性の再婚禁止期間「違憲」 最高裁 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2015-12-16 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16H4T_W5A211C1000000/ |accessdate=2017-02-20}}</ref>。 * [[2018年]] - [[北海道]][[札幌市]][[豊平区]]で[[ガス爆発]]事故が発生し、52人負傷([[札幌不動産仲介店舗ガス爆発事故]])。 == 誕生日 == * [[1682年]] - [[アニーローリー]]、[[スコットランド]]民謡「アニーローリー」で歌われた絶世の美人 * [[1742年]] - [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]、[[軍人]]、[[元帥]](+ [[1819年]]) * [[1770年]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]、[[作曲家]](+ [[1827年]]) * [[1775年]] - [[ジェーン・オースティン]]、[[小説家]](+ [[1817年]]) * [[1785年]]([[天明]]5年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[加藤泰済]]、第10代[[大洲藩|大洲藩主]](+ [[1826年]]) * [[1818年]] - [[ジョン・ローレンス・スミス]]、[[化学者]]、[[鉱物学者]](+ [[1883年]]) * [[1832年]]([[天保]]3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[水野忠精]]、初代[[山形藩|山形藩主]](+ [[1884年]]) * [[1866年]] - [[ワシリー・カンディンスキー]]、[[画家]]、美術理論家(+ [[1944年]]) * [[1877年]] - [[野村吉三郎]]、[[海軍軍人]]、[[外交官]](+ [[1964年]]) * [[1882年]] - [[ウォルサー・マイスナー]]、[[物理学者]](+ [[1974年]]) * 1882年 - [[グスタフ・ストレームベリ]]、[[天文学者]](+ [[1962年]]) * 1882年 - [[コダーイ・ゾルターン]]、作曲家、民族音楽学者(+ [[1967年]]) * [[1884年]] - [[北村西望]]、[[彫刻家]](+ [[1987年]]) * [[1888年]] - [[藪田貞治郎]]、[[農芸化学|農芸化学者]](+ [[1977年]]) * [[1894年]] - [[久松潜一]]、[[国文学者]](+ [[1976年]]) * [[1899年]] - [[ノエル・カワード]]、[[脚本家]]、[[俳優]](+ [[1973年]]) * [[1901年]] - [[マーガレット・ミード]]、[[文化人類学|文化人類学者]](+ [[1978年]]) * [[1904年]] - [[横沢三郎]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球審判員]](+ [[1995年]]) * [[1908年]] - [[レメディオス・バロ]]、[[画家]](+ [[1963年]]) * [[1912年]] - [[チャールズ・マーキス・ウォーレン]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[小説家]]、映画プロデューサー(+ [[1990年]]) * [[1913年]] - [[宮田隆]]、[[作詞家]](+ [[1982年]]) * [[1914年]] - [[松本操]]、プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1915年]] - [[ゲオルギー・スヴィリードフ]]、作曲家(+ [[1998年]]) * [[1917年]] - [[アーサー・C・クラーク]]、[[SF作家]](+ [[2008年]]) * [[1923年]] - [[戸川猪佐武]]、[[評論家|政治評論家]]、[[作家]](+ [[1983年]]) * [[1927年]] - [[平田昭彦]]、俳優(+ [[1984年]]) * [[1928年]] - [[フィリップ・K・ディック]]、SF作家(+ [[1982年]]) * [[1932年]] - [[ロディオン・シチェドリン]]、作曲家 * 1932年 - [[山本直純]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[2002年]]) * 1932年 - [[グレース・アレレ=ウィリアムズ]]<ref name="Vanguard20220326-Halfmast">{{cite news|title=UNIBEN flies flag at half-mast to mourn Alele-Williams|url=https://www.vanguardngr.com/2022/03/uniben-flies-flag-at-half-mast-to-mourn-alele-williams/|access-date=27 March 2022|work=Vanguard News|date=26 March 2022|quote=The University of Benin (UNIBEN) on Saturday ordered the flying of the institution’s flag at half-mast to mourn the death of the first female vice-chancellor in Nigeria, Prof. Grace Alele-Williams. Alele-Williams, who was appointed vice-chancellor of the University of Benin in 1985 died on Friday in Lagos at the age of 89 years. ... Prof. Alele-Williams, Nigeria’s first female professor of Mathematics Education was born on Dec. 16, 1932 in Delta to an Itsekiri mother and Owan father from Sobe, Edo.}}</ref><ref name="Vanguard20220327">{{cite news|last1=Ahon|first1=Festus|last2=Ojiego|first2=Nnamdi|last3=Aliu|first3=Ozioruva|title=ALELE – WILLIAMS: More tributes as Okowa, Obaseki mourn|url=https://www.vanguardngr.com/2022/03/alele-williams-more-tributes-as-okowa-obaseki-mourn/|access-date=27 March 2022|work=Vanguard News|date=27 March 2022|quote=the UNIBEN have ordered that the institution’s flag be mounted at half-mast to mourn the death of the late professor. Alele-Williams, who passed on Friday evening in Lagos at the age of 89 years, was born in Warri, Delta State.}}</ref><ref name="MacTutor">{{cite web |last1=O'Connor |first1=J.J. |last2=Robertson |first2=E.F. |title=Grace Alele-Williams - Biography |url=https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Alele-Williams/ |website=[[MacTutor History of Mathematics archive]] |access-date=27 April 2021 |language=en}}</ref>、数学教師(+ [[2022年]]) * [[1935年]] - [[中野豊士]]、元[[三菱信託銀行]]社長 * [[1937年]] - [[玉澤徳一郎]]、[[政治家]] * 1937年 - [[鎌田光夫]]、元[[サッカー選手]]、元指導者 * 1937年 - [[外口玉子]]、政治家(+ 2022年) * 1937年 - [[エド・ルシェ]]、画家、[[現代美術家]] * [[1938年]] - [[望月三起也]]、[[漫画家]](+ [[2016年]]) * 1938年 - [[塚田正昭]]、[[声優]](+ [[2014年]]) * [[1940年]] - [[高山俊吉]]、[[弁護士]] * [[1943年]] - [[五百旗頭真]]、[[政治学者]] * 1943年 - [[キャサリン・ヘイルズ]]、[[文学者]]、[[評論家]] * [[1944年]] - [[チャンドラダート・シン]]、[[外交官]] * [[1945年]] - [[服部幸應]]、[[料理研究家]] * 1945年 - [[小川和久]]、[[軍事]][[アナリスト]] * [[1946年]] - [[石倉三郎]]、俳優 * 1946年 - [[玉川善治]]、[[実業家]](+ [[2010年]]) * 1946年 - [[トレヴァー・ピノック]]、[[指揮者]] * 1946年 - [[デビー・ウィルクス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1946年 - [[ベニー・アンダーソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ABBA]]) * [[1947年]] - [[ベン・クロス]]、俳優(+ [[2020年]]) * [[1948年]] - [[真実一路 (俳優)|真実一路]]、俳優 * [[1949年]] - [[森田健作]]、政治家、第18-20代[[千葉県知事一覧|千葉県知事]]、俳優 * [[1950年]] - [[前田亨]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[川野雄一]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[ホーン・ユキ]]、歌手、女優 * [[1951年]] - [[山下真司]]、俳優 * 1951年 - [[ロベン・フォード]]、[[ギタリスト]] * [[1952年]] - [[蔵間竜也]]、元[[大相撲]][[力士]]、タレント(+ [[1995年]]) * 1952年 - [[上方よしお]]、[[漫才師]]([[のりお・よしお]]) * 1952年 - [[ぼんちおさむ]]、漫才師([[ザ・ぼんち]]) * [[1953年]] - [[安西マリア]]、歌手、女優(+ [[2014年]]) * [[1955年]] - [[松山千春]]、[[歌手]] * 1955年 - [[伊藤幸雄]]、元俳優 * [[1956年]] - [[ガダルカナル・タカ]]、お笑いタレント([[たけし軍団]]) * [[1959年]] - [[高木陽介]]、政治家 * 1959年 - [[波津彬子]]、[[漫画家]] * [[1960年]] - [[織作峰子]]、[[写真家]] * 1960年 - [[桂木文]]、[[俳優|女優]] * [[1961年]] - [[中山七里 (小説家)|中山七里]]、小説家 * [[1962年]] - [[堀川仁]]、[[声優]] * [[1963年]] - [[上田美恵]]、元女優 * [[1964年]] - [[ハイケ・ドレクスラー]]、[[陸上競技]]選手 * 1964年 - [[中村利江]]、[[経営者]] * [[1965年]] - [[犬山イヌコ]]、女優、声優 * [[1966年]] - [[アベフトシ]]、ミュージシャン・ギタリスト([[thee michelle gun elephant]]、[[KOOLOGI]])(+ [[2009年]]) * 1966年 - [[MEN'Sテイオー]]、[[プロレスラー]] * [[1967年]] - [[ドノバン・ベイリー]]、陸上競技選手 * 1967年 - [[穂積由香里]]、女優、タレント(+ [[2003年]]) * [[1969年]] - [[マリオス・イリオポウロス]]、ミュージシャン([[ナイトレイジ]]、元[[エグズメーション]]) * [[1970年]] - [[叶恭弘]]、漫画家 * 1970年 - [[HAKUEI]]、ミュージシャン([[PENICILLIN]]) * 1970年 - [[阿南敦子]]、女優 * 1970年 - [[エディー・エタエタ]]、元サッカー選手、指導者 * [[1971年]] - [[細川茂樹]]、俳優 * 1971年 - [[ポール・ヴァン・ダイク]]、DJ * [[1972年]] - [[ジェリコ・カラッツ]]、元サッカー選手 * [[1973年]] - [[クリスティ・ボーグルト]]、テニス選手 * [[1974年]] - 斎藤環、ミュージシャン([[S-sence]]) * 1974年 - 斎藤希、ミュージシャン(S-sence) * 1974年 - [[深澤里奈]]、[[アナウンサー]] * 1974年 - [[シャカ大熊]]、俳優、お笑いタレント(元[[シャカ (お笑いコンビ)|シャカ]]) * [[1975年]] - [[島ひとみ]]、フリーアナウンサー * 1975年 - [[フレデリク・ジョシネ]]、柔道家 * 1975年 - ナヲ、ミュージシャン([[マキシマムザホルモン]]) * [[1976年]] - [[辺見えみり]]、[[タレント]] * 1976年 - [[佐藤修 (ボクサー)|佐藤修]]、元[[プロボクサー]] * 1976年 - [[マット・キニー ]]、プロ野球選手 * 1976年 - [[ロマン・セロフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1976年 - [[井上紘一]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[シルヴァン・ディスタン]]、サッカー選手 * [[1978年]] - [[松田悟志]]、俳優、歌手 * 1978年 - [[森崎まみ]]、タレント、元[[レースクイーン]] * [[1979年]] - [[吉田兄弟|吉田健一]]、[[津軽三味線]]奏者([[吉田兄弟]]) * 1979年 - [[トレバー・イメルマン]]、ゴルファー * 1979年 - [[ジョン・フーバー]]、[[プロレスラー]] (+ [[2020年]]) * [[1980年]] - [[長谷川穂積]]、元[[プロボクサー]] * 1980年 - [[竹松舞]]、ハープ奏者、医師 * 1980年 - [[天手千聖]]、タレント、元レースクイーン * 1980年 - [[小西杏]]、卓球選手 * 1980年 - [[RYOEI]]、シンガーソングライター * 1980年 - 江崎隆文、お笑いタレント([[ゆったり感]]) * [[1981年]] - [[さとうともみ]]、タレント * 1981年 - [[朝香美穂]]、[[AV女優]] * 1981年 - [[アンナ・セドコーヴァ]]、歌手 * 1981年 - [[ナタナエル・マテオ]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[クリス・ブリットン]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[スタニスラフ・シェスターク]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[アントレル・ロール]]、アメリカンフットボール選手 * 1982年 - [[北島武]]、元[[バレーボール]]選手 * [[1983年]] - [[ケレンナ・アズバイク]]、バスケットボール選手 * 1983年 - [[トム・ウィルヘルムセン]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[パトリック・マッコート]]、元サッカー選手 * 1983年 - [[菊地美香]]、女優、声優 * [[1984年]] - [[ユリア・シャピロ]]、[[フィギュアスケート選手]] * 1984年 - [[マリオ・サンティアゴ]]、元プロ野球選手 * [[1985年]] - [[橘慶太]]、歌手([[w-inds.]]) * 1985年 - [[向井慧]]、お笑いタレント([[パンサー (お笑いトリオ)|パンサー]]) * 1985年 - [[本間智恵]]、[[テレビ朝日]]アナウンサー * 1985年 - [[菊地光将]]、サッカー選手 * 1985年 - [[福田麻衣]]、[[タレント]]、[[モデル (職業)|モデル]] * [[1986年]] - [[田中玲美]]、[[GYAO!#GyaO|GyaO]]専属局アナウンサー * 1986年 - [[DECO*27]]、ミュージシャン * 1986年 - [[鳰の湖真二]]、大相撲力士 * 1986年 - [[柄本佑]]、俳優 * 1986年 - [[アルシデス・エスコバー]]、プロ野球選手 * [[1987年]] - [[金元寿子]]、声優 * 1987年 - [[白石小百合 (アナウンサー)|白石小百合]]、実業家、アナウンサー * 1987年 - [[ハリー・ハーシュ]]、女優 * 1987年 - [[ヘクター・サンティアゴ]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[濱田達也]]、[[騎手]] * 1988年 - [[アナ・ポップルウェル]]、女優 * 1988年 - [[喜多丘千陽]]、元声優 * 1988年 - [[駒谷仁美]]、アイドル、タレント(元[[AKB48]]、元[[SDN48]]) * 1988年 - [[森林永理奈]]、タレント * 1988年 - [[マッツ・フメルス]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[大塚琴美]]、声優 * 1989年 - [[桐谷美玲]]、モデル、女優 * 1989年 - [[村松大輔]]、サッカー選手 * 1989年 - [[タイラー・チャットウッド]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[フォンチー]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]8号) * 1990年 - [[ウメダルイス]]、マジシャン * 1990年 - [[フランチェスカ・リオ]]、フィギュアスケート選手 * [[1991年]] - [[矢野聖人]]、俳優 * 1991年 - [[長澤和輝]]、サッカー選手 * [[1992年]] - [[島田晴香]]、実業家、元アイドル(元AKB48) * 1992年 - [[竹﨑由佳]]、アナウンサー * 1992年 - [[三浦萌]]、ファッションモデル * 1992年 - 三森大輔、お笑いタレント([[スタンダップコーギー]]) * 1992年 - [[福森晃斗]]、サッカー選手 * [[1993年]] - [[安西慎太郎]]、俳優 * 1993年 - [[中村麻里子]]、アナウンサー、元アイドル(元AKB48) * 1993年 - [[坂田梨香子]]、モデル、女優 * 1993年 - [[小島藤子]]、女優 * 1993年 - [[ローラ・クレトン]]、女優 * 1993年 - [[柴田竜拓]]、プロ野球選手 * 1993年 - [[ピート・フェアバンクス]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - [[相川結]]、女優 * 1994年 - [[ホセ・ロドリゲス・マルティネス]]、サッカー選手 * 1994年 - [[照井七瀬]]、[[テレビ神奈川]]アナウンサー * [[1996年]] - [[真山りか]]、アイドル([[私立恵比寿中学]]) * [[1997年]] - [[ザラ・ラーソン]]、歌手 * [[1998年]] - [[小林亮太 (タレント)|小林亮太]]、俳優、タレント * 1998年 - 神木美香、声優 * [[1999年]] - [[マシロ]]、アイドル([[Kep1er]]) * [[2000年]] - [[伊藤桃々]]、モデル * [[2001年]] - [[菖蒲敦司]]、陸上選手 * [[2006年]] - [[山本すず]]、アイドル([[ME:I]]) * [[2009年]] - [[白水ひより]]、女優 * 生年不明 - [[SHIHO (ボーカリスト)|SHIHO]]、歌手([[I've]]) * 生年不明 - [[武梨えり]]、[[漫画家]] * 生年不明 - [[内村史子]]、声優 * 生年不明 - [[梅田未央]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W09-2167 |title=梅田未央 |publisher=日本タレント名鑑 |accessdate=2021-01-20}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[関根明良]]、声優 * 生年不明 - [[中村圭佑]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=|url=http://profile.ameba.jp/n-chabe/|title=プロフィール|accessdate=2021-01-09}}</ref>、声優 == 忌日 == * [[714年]] - [[ピピン2世]]、[[フランク王国]]宮宰(* [[635年]]もしくは[[640年]]) * [[1598年]] - [[李舜臣]]、[[李氏朝鮮]]の将軍(* [[1545年]]) * [[1687年]] - [[ウィリアム・ペティ]]、[[経済学者]](* [[1623年]]) * [[1774年]] - [[フランソワ・ケネー]]、経済学者(* [[1694年]]) * [[1783年]] - [[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]、作曲家(* [[1699年]]) * [[1859年]] - [[ヴィルヘルム・グリム]]、[[グリム兄弟]]の弟、童話編集者、言語学者(* [[1786年]]) * [[1902年]] - [[カール・ヴィルヘルム・フォン・クッパー]]、[[解剖学者]](* [[1829年]]) * [[1903年]] - [[落合直文]]、[[歌人]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1861年]]) * [[1907年]] - [[浅井忠]]、[[画家]](* [[1856年]]) * [[1911年]] - [[トーマス・ブレーク・グラバー]]、貿易商(* [[1838年]]) * [[1921年]] - [[カミーユ・サン=サーンス]]、[[作曲家]]、[[オルガニスト]](* [[1835年]]) * [[1922年]] - [[エリエゼル・ベン・イェフダー]]、現代[[ヘブライ語]]創案者(* [[1858年]]) * [[1926年]] - [[ウィリアム・ラーンド]]、[[テニス]]選手(* [[1872年]]) * [[1933年]] - [[ロバート・W・チェンバース]]、[[小説家]](* [[1865年]]) * [[1940年]] - [[ユージン・デュポア]]、[[人類学|人類学者]](* [[1858年]]) * 1940年 - [[ビリー・ハミルトン]]、プロ野球選手(* [[1866年]]) * [[1942年]] - [[ゼルマ・メーアバウム=アイジンガー]]、詩人(* [[1924年]]) * [[1945年]] - [[近衞文麿]]、政治家、第34・38・39代[[内閣総理大臣]](* [[1891年]]) * 1945年 - [[ジョヴァンニ・アニェッリ (シニア)]]、[[フィアット]]創業者(* [[1866年]]) * [[1952年]] - [[緑嶌友之助]]、[[大相撲]]の[[力士]](* [[1878年]]) * [[1962年]] - [[柏尾誠一郎]]、[[テニス選手一覧|テニス選手]](* [[1892年]]) * [[1964年]] - [[川村多実二]]、[[生物学者]](* [[1883年]]) * [[1965年]] - [[サマセット・モーム]]、[[作家]](* [[1874年]]) * [[1968年]] - [[双葉山定次]]、大相撲第35代[[横綱]](* [[1912年]]) * 1968年 - [[佐藤義美]]、童話作家、作詞家(* [[1905年]]) * [[1975年]] - [[康生]]、[[中国共産党]]副主席(* [[1898年]]) * [[1979年]] - [[重松通雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1916年]]) * [[1980年]] - [[カーネル・サンダース]]、[[ケンタッキーフライドチキン]]創業者(* [[1890年]]) * [[1985年]] - [[トミー・ビロッティ]]、[[マフィア]](* [[1940年]]) * 1985年 - [[ポール・カステラーノ]]、マフィア(* [[1915年]]) * [[1987年]] - [[木塚忠助]]、プロ野球選手(* [[1924年]]) * [[1988年]] - [[小磯良平]]、画家(* [[1903年]]) * [[1989年]] - [[シルヴァーナ・マンガーノ]]、[[俳優|女優]](* [[1930年]]) * 1989年 - [[リー・ヴァン・クリーフ]]、[[俳優]](* [[1925年]]) * [[1993年]] - [[田中角栄]]、政治家、第64・65代内閣総理大臣(* [[1918年]]) * [[2001年]] - [[スチュアート・アダムソン]]、[[ミュージシャン]](* [[1958年]]) * [[2002年]] - [[西大立目永]]、[[野球選手]](* [[1936年]]) * [[2005年]] - [[ジョン・スペンサー (俳優)|ジョン・スペンサー]]、俳優(* [[1946年]]) * [[2006年]] - [[プニーナ・ザルツマン]]、[[ピアニスト]](* [[1922年]]) * [[2007年]] - [[ダン・フォーゲルバーグ]]、[[シンガーソングライター]](* [[1951年]]) * [[2011年]] - [[山本集]]、高校野球指導者(* [[1940年]]) * [[2013年]] - [[小口絵理子]]、[[アナウンサー]](* [[1974年]]) * [[2015年]] - [[安藤昇]]、[[俳優]](* [[1926年]]) * [[2016年]] - [[島木譲二]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/12/17/0009757808.shtml|title=島木譲二さん 昭和19年生まれだった |work=デイリースポーツ online|date=2016-12-17|accessdate=2021-05-04}}</ref>、[[プロボクサー]]、[[お笑い芸人]]、俳優(* [[1944年]]) * [[2017年]] - [[早坂暁]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASKDK00JRKDJUCLV006.html|title=作家・脚本家の早坂暁さん死去 代表作「夢千代日記」 |publisher=朝日新聞デジタル|date=2017-12-17|accessdate=2020-11-21}}</ref>、小説家、[[脚本家]](* [[1929年]]) * [[2020年]] - [[金子務]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG25A7I0V21C20A2000000/|title=金子務氏が死去 科学史家|publisher=日本経済新聞社|date=2020-12-25|accessdate=2021-01-30}}</ref>、[[科学史]]家(* [[1933年]]) * 2020年 - [[出口典雄]]<ref>{{Cite news|title=出口典雄さん死去 演出家|url=https://web.archive.org/web/20201222025034/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122200516&g=soc|newspaper=時事通信社|date=2020-12-22|accessdate=2021-01-30}}</ref><ref>朝日新聞2020年12月22日朝刊</ref>、[[演出家]](* [[1940年]]) * [[2023年]] - [[平岡英信]]<ref>{{cite web|url=https://www.seifu.ac.jp/general/18355.html|title=お知らせ|publisher=学校法人清風学園|date=2023-12-19|accessdate=2023-12-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://www.sankei.com/article/20231219-SHC3DD6WLZNDVMEU4YIQVLBIVM/ | title = 清風学園学園長の平岡英信氏死去 | publisher = 産経新聞 | date = 2023-12-19 | accessdate = 2023-12-20 }}</ref>、教育者(* [[1929年]]) == 記念日・年中行事 == * {{仮リンク|和解の日|en|Day of Reconciliation}} (Day of Reconciliation)({{ZAF}}) *: [[1994年]]に[[アパルトヘイト]]が廃止されたことを記念して制定。[[1993年]]までは、[[1838年]]のこの日に{{仮リンク|ブラッドリバーの戦い|en|Battle of Blood River}}で白人([[アフリカーナー|ブール人]])が[[ズールー王国]]に勝利したことを記念した{{仮リンク|誓いの日|en|Day of the Vow}}であったが、アパルトヘイト廃止に伴い、その日を「白人と有色人種の和解の日」とした。しかし、今でも、[[北ケープ州]]にあるアフリカーナーの集落「[[オラニア]]」では、現在でも、旧名である「誓いの日」を使用している。 * [[独立記念日]]({{KAZ}}) *: [[1991年]]のこの日、カザフスタンが[[ソビエト連邦]]から独立した。 * [[ナショナルデー]]({{BHR}}) *: [[1971年]]のこの日、バーレーンが[[イギリス]]の[[保護国]]から独立した。 * 戦勝記念日({{BGD}}・{{IND}}) *: [[1971年]]のこの日、[[第三次印パ戦争]]でパキスタン軍が降伏し戦争が終結、パキスタンがバングラデシュの独立を承認したことを記念。 * [[電話]]創業の日({{JPN}}) *: [[1890年]](明治23年)12月16日に、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話が開通したことに由来。 * [[紙]]の記念日({{JPN}}) *: [[1875年]]のこの日、東京・王子の抄紙会社(後の[[王子製紙 (初代)|王子製紙]])の工場で営業運転が開始されたことに由来。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1216|date=2011年7月}} * 2225年 - 外洋型航宙可潜艦リヴァイアス号より、数百人の少年少女が約8ヶ月ぶりに救助される。(アニメ『[[無限のリヴァイアス]]』)<ref>25話モノローグより</ref> === 誕生日(フィクション) === * 1974年 - ヒビキ(日高仁志)、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダー響鬼]]』 の主人公 * 生年不明 - 芝山優生、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870555-2|quote=|date=|volume=4巻|page=194}}</ref> * 生年不明 - 白銀武、ゲーム『[[マブラヴ]]』『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』 の主人公<ref>{{Cite book|和書|editor=電撃大王編集部|year=2012|title=マブラヴ オルタネイティヴ メモリアルアートブック|page=58|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|isbn=978-4-04-891212-9}}</ref> * 生年不明 - 鬼童丸、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=77|isbn=4-08-873734-2}}</ref><ref>{{Twitter status|narucole_jp|1073956226873126913}}</ref> * 生年不明 - キジマ式、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|title=東京喰種トーキョーグール:re|volume=5巻|publisher=集英社|year=2015|isbn=978-4-08-890331-6}}</ref> * 生年不明 - 棗ノノ、漫画・アニメ『[[うらら迷路帖]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/urara/chara/nono.html |title=ノノ CV:佳村はるか |publisher=[[はりかも]]・[[芳文社]]/うらら迷路帖製作委員会 [[TBSテレビ]] |accessdate=2022-12-14 |work=『うらら迷路帖』}}</ref> * 生年不明 - 芹沢博見、漫画『[[ニチアサ以外はやってます!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 五十鈴華、アニメ・漫画『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1206228453311180800}}</ref><ref>{{Cite book|和書|year=2013|title=ガルパン・アルティメット・ガイド〜ガールズ&パンツァーを100倍楽しむ本〜|page=52|publisher=[[廣済堂出版]]|isbn=978-4-331-25286-4}}</ref> * 生年不明 - 山田浅エ門佐切、漫画・アニメ『[[地獄楽]]』のキャラクター * 生年不明 - クルミ、アニメ『[[リコリス・リコイル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lycoris-recoil.com/character/?chara=kurumi |title=クルミ |access-date=2022-12-14 |work=『リコリス・リコイル』 |publisher=ANIPLEX}}</ref> * 生年不明 - 御剣冥夜、ゲーム『[[マブラヴ]]』『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』 に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=電撃大王編集部|year=2012|title=マブラヴ オルタネイティヴ メモリアルアートブック|page=4|publisher=アスキー・メディアワークス|isbn=978-4-04-891212-9}}</ref> * 生年不明 - 御剣悠陽(煌武院悠陽)、ゲーム・『マブラヴ オルタネイティヴ』 に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=電撃大王編集部|year=2012|title=マブラヴ オルタネイティヴ メモリアルアートブック|page=73|publisher=アスキー・メディアワークス|isbn=978-4-04-891212-9}}</ref> * 生年不明 - 天枷美夏、ゲーム『[[D.C.II 〜ダ・カーポII〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc2_heroine_details.html#mnt |title=天枷 美夏 |access-date=2022-12-31 |publisher=CIRCUS |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#小日向美穂|小日向美穂]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20065 |title=小日向 美穂(こひなた みほ) |access-date=2022-12-14 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#大和亜季|大和亜季]]、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20179 |title=大和 亜希(やまと あき) |access-date=2022-12-14 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 燕、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラ New Wave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/tsubame.php |title=燕 |access-date=2022-12-14 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref> * 生年不明 - 深鳥ふみ、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|809594064102367240}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#中谷育|中谷育]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url= https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30022 |title=中谷 育(なかたに いく) |access-date=2022-12-14 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - ノクス、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=117&cate=name&cont=Nox |title=ノクス |access-date=2022-12-16 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - ネイラ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-129 |title=ネイラ|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-12-14|archiveurl= https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=129|archivedate=2022-07-24}}</ref> * 生年不明 - 秋乃小麦、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/akino |publisher=Akatsuki Inc. |title=秋乃 小麦 |accessdate=2022-12-14 |work=『八月のシンデレラナイン公式サイト』}}</ref> * 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Morfonica|桐ヶ谷透子]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/kirigaya-toko/ |title=桐ヶ谷透子 |publisher=BanG Dream! Project Craft Egg Inc. [[ブシロード|bushiroad]] |accessdate=2022-12-14 |work=「BanG Dream!ガールズバンドパーティ!」}}</ref> * 生年不明 - 山田三郎、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク|ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hypnosismic.com/character/ikebukuro/mc_lb/ |title=山田 三郎/MC.L.B |accessdate=2022-12-14 |publisher=[[キングレコード|King Record Co., Ltd.]] |work=『ヒプノシスマイク』}}</ref> * 生年不明 - [[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会#近江彼方|近江彼方]]、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/kanata/ |title=近江 彼方 |accessdate=2022-12-14 |work=『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』 |publisher=[[ブシロード]]}}</ref> <!--* 生年不明 - 斗宿ひきつ、漫画『[[ふしぎ遊戯]]』に登場するキャラクター--> === 忌日(フィクション) === * 宇宙暦800年/新帝国暦2年 - [[オスカー・フォン・ロイエンタール]]、小説・アニメ『[[銀河英雄伝説]]』の登場人物(* 帝国暦458年/宇宙暦767年) * 宇宙暦800年/新帝国暦2年 - [[ヨブ・トリューニヒト]]、小説・アニメ『銀河英雄伝説』の登場人物(* 帝国暦446年/宇宙暦755年) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|16 December}} {{新暦365日|12|15|12|17|[[11月16日]]|[[1月16日]]|[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]|1216|12|16}} {{1年の月と日}}
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12月17日
12月17日(じゅうにがつじゅうななにち、じゅうにがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から351日目(閏年では352日目)にあたり、年末まであと14日ある。
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{{カレンダー 12月}} '''12月17日'''(じゅうにがつじゅうななにち、じゅうにがつじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から351日目([[閏年]]では352日目)にあたり、年末まであと14日ある。 == できごと == * [[546年]] - [[東ゴート王国|東ゴート王]][[トーティラ]]が[[ローマ]]を占領。 * [[1600年]] - [[フランス王国|フランス]]国王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]が[[マリー・ド・メディシス]]と結婚。 * [[1777年]] - [[フランス]]が[[アメリカ合衆国]]の初[[国家の承認|承認国]]となる。 * [[1790年]] - [[メキシコシティ]]で[[太陽の石]]が発掘される。 * [[1819年]] - [[シモン・ボリバル]]が[[大コロンビア]]の初代[[大統領]]に就任。 * [[1865年]] - [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第7番]](未完成交響曲)がウィーンで初演。 * [[1880年]] - [[東京]]・[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]にて[[臼井六郎]]による日本史上最後の[[敵討|仇討ち]](あだうち)事件が発生。 * [[1902年]] - [[教科書疑獄事件]]で200名以上が摘発される。 * [[1903年]] - [[ライト兄弟]]が人類初の有人動力飛行に成功。 * [[1907年]] - [[ウゲン・ワンチュク]]が初代[[ブータン]]国王に即位。 * [[1908年]] - [[九州電気軌道]]([[西日本鉄道]]の祖)が設立。 * [[1920年]] - [[南洋諸島]]が[[日本]]の[[委任統治|委任統治領]]となる。 * [[1926年]] - [[リトアニア]]で元大統領[[アンターナス・スメトナ]]らがクーデターを起こし、大統領[[カジス・グリニウス]]を追放([[:en:1926 Lithuanian coup d'état]])。 * [[1935年]] - [[ダグラス DC-3]]型機が初飛行。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ウルグアイ]]から国外退去を通告された[[ドイツ]]の[[ポケット戦艦]]「[[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|アドミラル・グラーフ・シュペー]]」が[[モンテビデオ]]港外で自沈。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦・[[バルジの戦い]]: [[マルメディ虐殺事件]]。 * [[1945年]] - [[ホンジュラス]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * 1945年 - [[衆議院議員選挙]]法改正公布。[[婦人参政権]]・[[大選挙区制]]などを規定。 <!-- 確認できず * [[1950年]] - [[横浜市|横浜]]・[[保土ヶ谷公園]]に[[日本]]初の[[サッカー]]場([[神奈川県立保土ヶ谷公園サッカー場]])が完成。 --> * [[1957年]] - アメリカが[[大陸間弾道ミサイル]](ICBM)「[[アトラス (ミサイル)|アトラス]]」の発射実験に成功。 * 1957年 - [[恩賜上野動物園|上野動物園]]内に日本初の[[モノレール]]([[東京都交通局上野懸垂線]])が開業。 * [[1961年]] - [[インド]]軍によって[[ポルトガル]]領[[ゴア州|ゴア]]が占領される。 * [[1967年]] - [[オーストラリア]]の[[ハロルド・ホルト]]首相が海で泳いでいる最中に行方不明になる。 * 1967年 - [[呉市交通局]]の[[呉市電]]が廃止。 * [[1983年]] - [[ロンドン]]の[[百貨店]][[ハロッズ]]で[[アイルランド共和軍|IRA]]による爆弾[[テロリズム|テロ]]、5名が死亡([[:en:Harrods bombing]])。 * [[1987年]] - [[千葉県東方沖地震 (1987年)|千葉県東方沖地震]]が発生、死者2名。 * 1987年 - [[カプコン]]より[[ロックマンシリーズ]]第1作発売。 * [[1989年]] - アメリカの[[テレビアニメ]]『[[ザ・シンプソンズ]]』が放送開始。 * [[1992年]] - 1974年の[[多摩川水害|多摩川水害訴訟]]の差戻控訴審で原告住民側が勝訴。 * [[1994年]] - [[ナスカの地上絵]]、[[古都京都の文化財]]が[[世界遺産]]に登録される。<!-- 「古都京都の文化財」については12月15日にも同じ記述あり。要確認 --> * [[1996年]] - [[ペルー日本大使公邸人質事件]]が発生。 * [[1997年]] - 日本で[[介護保険法]]公布。 * [[1998年]] - [[イラク武装解除問題]]: 米・[[イギリス|英]]両国共同で[[イラク]]に対し[[砂漠の狐作戦]]を開始。 * [[1999年]] - イラク武装解除問題に関する[[国際連合安全保障理事会決議1284]]が採択される。 * [[2000年]] - [[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故]]が発生([[松岡町 (福井県)|松岡町]])。なお同社は、翌年[[6月24日]]にも事故を引き起こす。 <!-- 確認できず * [[2009年]] - [[リニアモーターカーマグレブ]]ML-500が120㎜浮上、204km/hで走行することに成功。 --> <!-- 「サプサン」の営業開始は12月18日 * 2009年 - [[ロシア]]の高速列車、[[アプサァン]]が営業を開始する。 --> * [[2010年]] - [[取手駅通り魔事件]]が発生。 * 2010年 - [[ジャスミン革命]]: [[モハメド・ブアジジ]]が抗議の焼身自殺を試みる<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年12月29日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2847806 |title=英タイムズ紙の「今年の人」にチュニジアの果物売り、アラブの春引き金 |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-16}}</ref>。 <!-- 「忌日」節に記載 * [[2011年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金正日]][[朝鮮労働党中央委員会総書記|総書記]]が[[金正日の死|死去]]。 --> * [[2011年]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]より[[PlayStation Vita]]が発売される<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年12月17日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2846360 |title=ソニー、「プレイステーション・ヴィータ」発売 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-16}}</ref>。 * [[2015年]] - [[韓国地検による産経新聞支局長名誉毀損起訴事件]]:[[産経新聞]]の[[加藤達也 (ジャーナリスト)|加藤達也]]・前[[ソウル特別市|ソウル]]支局長に対し、[[ソウル特別市|ソウル]]中央地裁の李東根裁判長が無罪判決<ref>{{Cite web|和書 |date=2015-12-17 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17HAH_X11C15A2CR8000/ |title=産経前ソウル支局長に無罪判決 韓国地裁、名誉毀損認めず |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-03-16}}</ref>。 * [[2021年]] - [[北新地ビル放火殺人事件]]が発生。大阪市北区北新地の雑居ビルで、放火殺人目的とみられる火災が発生し、26人(容疑者含む)が死亡した。 == 誕生日 == === 人物 === * [[1239年]]([[延応]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[藤原頼嗣]]、[[鎌倉幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]]、最後の[[摂家将軍]](+ [[1256年]]) * [[1267年]]([[文永]]4年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[後宇多天皇]]、第91代[[天皇]](+ [[1324年]]) * [[1630年]]([[寛永]]7年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[貝原益軒]]、[[博物学|本草学者]]、[[儒学者]](+ [[1714年]]) * [[1706年]] - [[エミリー・デュ・シャトレ]]、数学者、物理学者、著作家(+ [[1749年]]) * [[1733年]]([[享保]]18年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[毛利広寛]]、周防[[徳山藩]]第6代藩主(+ [[1764年]]) * [[1777年]] - [[フランソワ・マリウス・グラネ]]、[[画家]](+ [[1849年]]) * [[1778年]] - [[ハンフリー・デービー]]、[[化学者]](+ [[1829年]]) * [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[板倉勝明]]、上野[[安中藩]]第5代藩主(+ [[1857年]]) * [[1830年]] - [[ジュール・ド・ゴンクール]]、[[小説家]]、[[美術評論家]](+ [[1870年]]) * [[1835年]] - [[アレキザンダー・アガシー]]、[[エンジニア]]、[[海洋学者]](+ [[1910年]]) * [[1842年]] - [[ニルス・ホシュベリ]]、[[画家]](+ [[1934年]]) * [[1859年]] - [[ビル・ハッチソン (野球)|ビル・ハッチソン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1926年]]) * [[1876年]] - [[島木赤彦]]、[[歌人]](+ [[1926年]]) * [[1879年]] - [[倉元要一]]、[[政治家]](+ [[1942年]]) * [[1881年]] - [[田邊宗英]]、実業家(+ [[1957年]]) * 1881年 - [[イングバル・ブリン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1947年]]) * [[1884年]] - [[アリソン・アトリー]]、[[童話]]作家(+ [[1976年]]) * 1884年 - [[チャールズ・トムリンソン・グリフス]]、[[作曲家]](+ [[1920年]]) * [[1887年]] - [[竹内京治]]、政治家(+ [[1966年]]) * 1887年 - [[有馬頼寧]]、[[実業家]]、プロ野球球団オーナー(+ [[1957年]]) * [[1889年]] - [[ハーバート・ハロルド・リード]]、[[地質学者]](+ [[1970年]]) * [[1894年]] - [[ハンス・ヘニー・ヤーン]]、[[作家]]、[[オルガン]]制作者(+ [[1958年]]) * [[1900年]] - [[勅使河原蒼風]]、いけばな[[草月流]]初代家元(+ [[1979年]]) * [[1905年]] - [[シモ・ヘイヘ]]、[[軍人]]、狙撃手(+ [[2002年]]) * [[1915年]] - アンドレ・クラヴォ([[:en:André Claveau|André Claveau]])、歌手(+ [[2007年]]) * 1915年 - [[ロバート・ダール]] 、政治学者(+ [[2014年]]) * [[1918年]] - [[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * [[1920年]] - [[ケネス・アイバーソン]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2004年]]) * [[1921年]] - [[おおば比呂司]]、[[漫画家]](+ [[1988年]]) * [[1922年]] - [[小鶴誠]]、元プロ野球選手(+ [[2003年]]) * [[1927年]] - [[米川泰夫]]、元プロ野球選手 * [[1930年]] - [[諸井誠]]、作曲家(+ [[2013年]]) * 1930年 - [[アーミン・ミューラー=スタール]]、[[俳優]] * [[1934年]] - [[ケント・ハドリ]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * [[1936年]] - [[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]、第266代[[ローマ教皇]] * [[1937年]] - [[ジャイメ・レルネル]]、[[都市計画家]](+ [[2021年]]) * 1937年 - [[麻生実男]]、元プロ野球選手(+ [[1991年]]) * 1937年 - [[アート・ネヴィル]]、R&Bミュージシャン(+ [[2019年]]) * [[1938年]] - [[ピーター・スネル]]、陸上選手(+ [[2019年]]) * [[1939年]] - 10代目[[柳家小三治]]、[[落語家]](+ [[2021年]]) * 1939年 - [[リチャード・ン]]、俳優(+ [[2023年]]) * [[1940年]] - [[山田耕嗣]]、放送評論家(+ [[2008年]]) * 1940年 - [[三島ゆり子]]、女優 * 1940年 - [[スティーヴン・コヴァセヴィチ]]、[[ピアニスト]] * [[1941年]] - [[藤山陽子]]、女優(+ [[2022年]]) * 1941年 - [[アレクサンダー・ノイマイスター]]、[[インダストリアルデザイナー]] * [[1944年]] - [[ジャック・L・チョーカー]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]作家(+ [[2005年]]) * 1944年 - [[ベネ・フェレンツ]]、元[[サッカー選手]](+ [[2006年]]) * [[1945年]] - [[ジャクリーン・ウィルソン]]、児童文学作家 * [[1946年]] - [[有藤通世]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]] * 1946年 - [[ユージン・レヴィ]]、俳優 * [[1947年]] - [[ウェス・ステュディ]]、俳優 * 1947年 - [[今野東]]、政治家(+ [[2013年]]) * [[1948年]] - [[西川知雄]]、[[弁護士]] * 1948年 - [[ダリル・ウェイ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1949年]] - [[ポール・ロジャース]]、[[ロック (音楽)|ロック]][[歌手]] * 1949年 - [[原野一博]]、元プロ野球選手 * 1949年 - [[ソティリス・カヤファス]]、元サッカー選手 * [[1951年]] - [[コリーン・オコーナー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1951年 - [[タチアナ・カザンキナ]]、陸上競技選手 * [[1952年]] - [[加藤邦彦 (野球)|加藤邦彦]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[ビル・プルマン]]、映画俳優 * [[1956年]] - [[ピーター・ファレリー]]([[:en:Peter Farrelly|Peter Farrelly]])、映画監督 * [[1957年]] - [[夏目雅子]]、女優(+ [[1985年]]) * [[1958年]] - [[假屋崎省吾]]、[[華道家]]、[[タレント]] * 1958年 - [[マイク・ミルズ]]、[[ベーシスト]]([[R.E.M.]]) * [[1959年]] - [[青山道雄]]、元プロ野球選手 * 1959年 - [[マーベル・ウイン]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[TARAKO]]、[[声優]]、[[シンガーソングライター]] * 1960年 - [[モレノ・アルゼンティン]]、自転車競技選手 * [[1961年]] - [[御童カズヒコ]]、漫画家 * [[1962年]] - [[恩田尚之]]、[[アニメーター]] * 1962年 - [[上祐史浩]]、宗教家 * 1962年 - [[橘髙淳]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員]] * 1962年 - [[ロッコ・ミーディエート]]、ゴルファー * 1962年 - [[ガリーナ・マルチュギナ]]、陸上競技選手 * [[1964年]] - [[須藤真澄]]、漫画家 * [[1965年]] - [[池山隆寛]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[芹沢直美 (アイドル)|芹沢直美]]、元[[アイドル]] * [[1966年]] - [[有森裕子]]、元[[マラソン]]選手 * 1966年 - [[脇浜紀子]]、[[アナウンサー]] * 1966年 - [[本村健太郎]]、[[弁護士]]、俳優 * 1966年 - [[ワレリー・リューキン]]、体操選手 * [[1967年]] - [[松田慎司]]、元プロ野球選手 * 1967年 - ジジ・ダゴスティーノ([[:en:Gigi D'Agostino|Gigi D'Agostino]])、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1967年 - [[馬渡松子]]、[[シンガーソングライター]] * [[1968年]] - [[加藤学 (政治家)|加藤学]]、政治家 * 1968年 - [[斎藤充弘]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[ポール・トレーシー]]、レーサー * [[1969年]] - [[田村潔司]]、[[プロレスラー]]、[[総合格闘家]] * 1969年 - [[村井克行]]、俳優 * 1969年 - [[ルディ・ペンバートン]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[チャック・リデル]]、総合格闘家 * [[1970年]] - [[西村知美]]、女優、タレント、[[歌手]] * 1970年 - [[ステラ・テナント]]、ファッションモデル(+ [[2020年]]) * [[1971年]] - [[牧瀬里穂]]、女優 * 1971年 - [[きみづか葵]]、[[イラストレーター]] * 1971年 - [[アントワン・リゴドー]]、バスケットボール選手 * [[1972年]] - [[佐々木恭子]]、アナウンサー * 1972年 - [[ローリー・ホールデン]]、女優 * 1972年 - [[ジョン・アブラハム]]、俳優 * [[1973年]] - [[ポーラ・ラドクリフ]]、マラソン選手 * 1973年 - [[大関正義]]、俳優 * 1973年 - [[フレディ・エレーラ]]、元野球選手 * [[1974年]] - [[ジョヴァンニ・リビシ]]、俳優 * 1974年 - [[サラ・ポールソン]]、女優 * 1974年 - [[佐藤貴史 (俳優)|佐藤貴史]]、俳優、声優、スーツアクター * [[1975年]] - [[舟山弘一]]、アクション俳優(+ [[2018年]]) * 1975年 - [[福地寿樹]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[スサンティカ・ジャヤシンゲ]]、短距離走選手 * 1975年 - [[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]、女優 * 1975年 - [[青木麻由子]]、女優、声優 * 1975年 - [[ニコラス・ディンスモア]]、プロレスラー * 1975年 - [[ニコライ・モロゾフ]]、フィギュアスケートコーチ * [[1976年]] - [[伊藤剛 (野球)|伊藤剛]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[パトリック・ミュラー]]、サッカー選手 * 1976年 - ニル・ダヴィドヴィッチ([[:en:Nir Davidovich|Nir Davidovich]])、サッカー選手 * 1976年 - タケオ・スパイクス([[:en:Takeo Spikes|Takeo Spikes]])、アメリカンフットボール選手 * [[1977年]] - [[アルノー・クレマン]]、テニス選手 * 1977年 - [[塩川岳人]]、元サッカー選手 * [[1978年]] - [[マニー・パッキャオ]]、[[プロボクサー]] * 1978年 - [[池田努]]、俳優 * 1978年 - [[チェイス・アトリー]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[アレックス・シントロン]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[リテーシュ・デーシュムク]]、俳優 * 1978年 - [[寺島よしき]]、英語講師 * 1978年 - [[星野リリィ]]、漫画家 * [[1979年]] - [[KEN (DA PUMP)|KEN]]、ダンサー([[琉-UNIT]]、元[[DA PUMP]]) * 1979年 - ライアン・キー([[:en:Ryan Key|Ryan Key]])、ミュージシャン([[イエローカード (バンド)|イエローカード]]) * 1979年 - ジェイミー・フォックスワース([[:en:Jaimee Foxworth|Jaimee Foxworth]])、ミュージシャン * 1979年 - [[ドミトリー・パラマルチュク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1979年 - [[川村エミコ]]、お笑いタレント([[たんぽぽ (お笑いコンビ)|たんぽぽ]]) * 1979年 - [[バイク川崎バイク]]、お笑いタレント * [[1980年]] - [[白河理子]]、タレント、[[コラムニスト]] * [[1981年]] - [[大瀧彩乃]]、元[[アイドル]] * 1981年 - [[川久保拓司]]、俳優 * 1981年 - [[竹下玲奈]]、[[ファッションモデル]]、タレント * 1981年 - [[ティム・ヴィーゼ]]、元サッカー選手 * [[1982年]] - [[番ことみ]]、[[グラビアアイドル]]、タレント * 1982年 - [[水野良樹]]、ミュージシャン([[いきものがかり]]) * 1982年 - [[狩野恵輔]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[ジョシュ・バーフィールド]]、元プロ野球選手 * 1982年 - クレイグ・キールバーガー([[:en:Craig Kielburger|Craig Kielburger]])、活動家 * 1982年 - ライアン・モーツ([[:en:Ryan Moats|Ryan Moats]])、アメリカンフットボール選手 * 1982年 - [[ステファン・ラズミー]]、プロ[[バスケットボール選手]] * [[1983年]] - [[工藤あさぎ]]、元ファッションモデル、元タレント * 1983年 - [[坂田直貴]]、俳優 * 1983年 - [[斎藤広祐]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、作曲家 * 1983年 - [[セバスチャン・オジェ]]、ラリードライバー * 1983年 - [[織田真子]]、[[AV女優]] * [[1984年]] - 上田航平、お笑いタレント([[ゾフィー (お笑いコンビ)|ゾフィー]]) * 1984年 - [[ふくい舞]]、シンガーソングライター * 1984年 - [[福田明日香]]、歌手、元アイドル([[PEACE$TONE]]、元[[モーニング娘。]]) * [[1985年]] - [[緒方龍一]]、歌手([[w-inds.]]、[[ALL CITY STEPPERS]]) * 1985年 - [[フェルナンド・エイバッド]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[玉城裕規]]、俳優 * [[1986年]] - [[加島茜]]、ミュージカル俳優 * 1986年 - [[Masato]]、ミュージシャン([[coldrain]]) * [[1987年]] - [[染谷俊之]]、俳優 * 1987年 - [[チェルシー・マニング]]、元軍人 * 1987年 - [[ドノバン・ソラーノ]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[陳善有]]、[[ショートトラックスピードスケート]]選手 * 1988年 - [[高梨臨]]、タレント、女優 * 1988年 - [[グレテ・グリュンベルク]]、フィギュアスケート選手 * 1988年 - [[アメリー・ラコステ]]、フィギュアスケート選手 * 1988年 - [[UMI☆KUUN]]、[[シンガーソングライター]]、[[YouTuber]]([[NormCore]]) * 1988年 - [[金原亭杏寿]]、[[落語家]] * [[1989年]] - [[アレッシア・バルド]]、フィギュアスケート選手 * [[1990年]] - [[則本昂大]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[竹田真恋人]]、女優 * 1990年 - [[松崎駿司]]、俳優 * 1990年 - [[白武ときお]]、放送作家 * [[1991年]] - [[泉澤仁]]、サッカー選手 * 1991年 - 宇野慎太郎、お笑いタレント([[さすらいラビー]]) * [[1992年]] - 大島育宙、YouTuber、お笑いタレント([[XXCLUB]]) * 1992年 - [[清水あいり]]、タレント、グラビアアイドル * 1992年 - [[藤川拓也]]、陸上選手 * [[1993年]] - [[朝日奈丸佳]]、声優 * 1993年 - [[衣川里佳]]、声優 * 1993年 - [[山城奈々]]、ゴルファー * 1993年 - [[松井一矢]]、陸上選手・トライアスロン選手 * 1993年 - [[原修太]]、バスケットボール選手 * [[1996年]] - [[岩橋玄樹]]、タレント(元[[King & Prince]]) * 1996年 - [[エリザベータ・トゥクタミシェワ]]、フィギュアスケート選手 * [[1997年]] - [[前川優希]]、役者 * 1997年 - [[宇野昌磨]]、フィギュアスケート選手 * 1997年 - [[大岩龍一]]、プロゴルファー * [[1998年]] - [[川上千尋 (アイドル)|川上千尋]]、アイドル([[NMB48]]) * [[1999年]] - [[横島亜衿]]、タレント、アイドル(元[[AKB48]] ) * 1999年 - [[佐々木美玲]]、アイドル([[日向坂46]]) * [[2001年]] - [[小野田紗栞]]、アイドル([[つばきファクトリー]]) * 2001年 - [[三浦璃来]]、フィギュアスケート選手 * [[2002年]] - [[佐藤龍我]]、アイドル([[ジャニーズJr.|ジュニア]]、美 少年) * 2002年 - [[壷井達也]]、フィギュアスケート選手 * [[2003年]] - 岡本姫奈<ref>{{Cite web|和書 |title=乃木坂46公式サイト |url=https://www.nogizaka46.com/s/n46/artist/55401?ima=5209 |website=乃木坂46公式サイト |access-date=2022-12-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=乃木坂46 5期生お披露目特設サイト |url=https://www.nogizaka46.com/s/n46/page/5th_generation |website=乃木坂46 5期生お披露目特設サイト |access-date=2022-12-11 |language=ja}}</ref>、アイドル([[乃木坂46]]) * [[2007年]] - [[ジェームズ (セヴァーン子爵)|ジェームズ]]、イギリス王族 * 2007年 - [[西尾希美]]、グラビアアイドル * [[2015年]] - [[鈴木誉]]、子役 * 生年不明 - [[佐久間元輝]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kenyu-office.com/sakumamotoki/|title=佐久間元輝:Sakuma Motoki 株式会社ケンユウオフィス|accessdate=2021-01-20}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[澤田将考]]、元声優 * 生年不明 - [[缶乃]]<ref>{{Cite web|和書|work=COMITIA|url=https://www.comitia.co.jp/history/105fv.html#5|title=サークルインタビュー FrontView - 缶乃・ねが・川内 ハイパーケトルイエスタデイ|accessdate=2021-01-13}}</ref>、漫画家、[[同人作家]] === 人物以外(動物など) === * [[2001年]] - 雄浜、[[ジャイアントパンダ]] == 忌日 == === 人物 === [[Image:Kim Jong-il on August 24, 2011.jpg|thumb|100px|北朝鮮総書記[[金正日]](1941-2011)没]] * [[942年]] - [[ギヨーム1世 (ノルマンディー公)|ギヨーム1世]]、[[ノルマンディー公]] * [[952年]] - [[ユーグ黒公]]、[[ブルゴーニュ公]] * [[1187年]] - [[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]、第173代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1100年]]頃) * [[1219年]]もしくは[[1120年]] - [[コノン・ド・ベテュヌ]]、[[十字軍]]参加者、[[詩人]](* [[1150年]]頃) * [[1273年]] - [[ジャラール・ウッディーン・ルーミー]]、詩人(* [[1207年]]) * [[1325年]]([[正中 (日本)|正中]]2年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[島津忠宗]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[島津氏]]第4代当主(* [[1251年]]) * [[1596年]]([[慶長]]元年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[酒井忠次]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の武将(* [[1527年]]) * [[1655年]]([[明暦]]元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[宇喜多秀家]]、安土桃山時代の[[大名]]、[[岡山城|岡山城主]](* [[1573年]]) * [[1763年]] - [[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|選帝侯]](* [[1722年]]) * [[1830年]] - [[シモン・ボリバル]]、[[大コロンビア]]大統領(* [[1783年]]) * [[1833年]] - [[カスパー・ハウザー]]、素性不明の[[捨て子]]として知られる人物(* [[1812年]]) * [[1837年]]([[天保]]8年11月20日)- [[藤原林七]]、[[石工]](* [[1765年]]) * [[1847年]] - [[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリア・ルイーザ]]、[[フランス]]皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の妻、[[パルマ公国]]女公(* [[1791年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[松本幸四郎 (6代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1811年]]) * [[1860年]] - [[デジレ・クラリー]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]の王妃(* [[1777年]]) * [[1867年]]([[慶応]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[阿部正方]]、第9代[[備後福山藩|備後福山藩主]](* [[1848年]]) * [[1870年]] - [[サヴェリオ・メルカダンテ]]、[[作曲家]](* [[1795年]]) * [[1881年]] - [[ルイス・ヘンリー・モーガン]]、[[文化人類学|文化人類学者]](* [[1818年]]) * [[1895年]] - [[イリニ・ヤーノシュ]]、[[発明家]]、[[化学者]](* [[1817年]]) * [[1897年]] - [[アルフォンス・ドーデ]]、[[小説家]](* [[1840年]]) * [[1907年]] - [[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)、[[物理学者]](* [[1824年]]) * [[1909年]] - [[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]、[[ベルギーの国王|ベルギー王]](* [[1835年]]) * [[1917年]] - [[フランク・ゴッチ]]、[[プロレスラー]](* [[1878年]]) * [[1930年]] - [[ピーター・ウォーロック]]、[[作曲家]]、[[音楽評論家]](* [[1894年]]) * [[1933年]] - [[ポール・リッシェ]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[生理学者]]、[[彫刻家]](* [[1849年]]) * [[1938年]] - [[小川芋銭]]、[[日本画|日本画家]](* [[1868年]]) * [[1944年]] - [[一木喜徳郎]]、[[法学者]]、[[政治家]]、[[教育者]](* [[1867年]]) * [[1946年]] - [[コンスタンス・ガーネット]]、[[翻訳家]](* [[1861年]]) * [[1947年]] - [[ヨハンス・ブレンステッド]]、[[化学者]](* [[1879年]]) * [[1957年]] - [[ドロシー・L・セイヤーズ]]、[[推理小説家]](* [[1893年]]) * [[1960年]] - [[水谷長三郎]]、[[政治家]](* [[1897年]]) * [[1964年]] - [[ビクター・フランツ・ヘス]]、物理学者(* [[1883年]]) * [[1967年]] - [[山梨勝之進]]、[[軍人]](* [[1877年]]) * 1967年 - [[南波杢三郎]]、[[検察官]](* [[1883年]]) * [[1973年]] - [[チャールズ・アボット (天文学者)|チャールズ・アボット]]、[[天文学者]](* [[1872年]]) * [[1975年]] - [[ハウンド・ドッグ・テイラー]]、[[ブルース]][[ギタリスト]]、[[歌手]](* [[1915年]]) * [[1976年]] - [[フィリップ・ヘンリー・キューネン]]、[[地質学者]](* [[1902年]]) * [[1980年]] - [[吉阪隆正]]、[[建築家]](* [[1917年]]) * [[1981年]] - [[マーク・ゲイン]]、[[ジャーナリスト]](* [[1902年]]) * [[1983年]] - [[前田義徳]]、第10代[[日本放送協会]]会長、ジャーナリスト(* [[1906年]]) * 1983年 - [[橋川文三]]、[[政治学者]]、[[評論家]](* [[1922年]]) * [[1988年]] - [[楠本憲吉]]、[[俳人]]、[[随筆家]](* [[1922年]]) * [[1991年]] - [[相田みつを]]、[[詩人]]、[[書家]](* [[1924年]]) * [[1992年]] - [[ダナ・アンドリュース]]、[[俳優]](* [[1909年]]) * 1992年 - [[山川惣治]]、[[絵物語]][[作家]]、[[漫画原作者]](* [[1908年]]) * [[1995年]] - [[安井琢磨]]、[[経済学者]](* [[1909年]]) * [[1996年]] - [[鴨武彦]]、[[国際政治学者]](* [[1942年]]) * 1996年 - [[曲直部寿夫]]、[[心臓外科]]医(* [[1921年]]) * 1996年 - [[李翰祥]]、映画監督(* [[1926年]]) * [[1999年]] - [[グローヴァー・ワシントン・ジュニア]]、[[スムーズジャズ]]の[[サクソフォーン]]奏者(* [[1943年]]) * [[2001年]] - [[南博 (社会心理学者)|南博]]、[[心理学者]](* [[1914年]]) * [[2002年]] - [[磯田憲一]]、[[プロ野球選手]](* [[1924年]]) * [[2003年]] - [[富士錦猛光]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1937年]]) * [[2004年]] - [[塚田京子]]、[[ソプラノ]]歌手(* [[1949年]]) * [[2005年]] - [[ジャック・アンダーソン]]、[[コラムニスト]](* [[1922年]]) * [[2006年]] - [[岸田今日子]]、女優(* [[1930年]]) * [[2007年]] - [[ジョエル・ドーン]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1942年]]) * [[2008年]] - [[武士桑風]]、[[書道|書家]](* [[1913年]]) * 2008年 - [[上田哲]]、[[日本社会党]][[衆議院|衆議院議員]]、[[ジャーナリスト]](* [[1928年]]) * 2008年 - [[真田健一郎]]、[[俳優]](* [[1936年]]) * 2008年 - [[ジャスティン・レヴェンス]]、[[総合格闘家]](* [[1980年]]) * [[2009年]] - [[ジェニファー・ジョーンズ]]、女優(* [[1919年]]) * 2009年 - [[涌井紀夫]]、[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]](* [[1942年]]) * 2009年 - [[ダン・オバノン]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](* [[1946年]]) * 2009年 - [[アルベルト・ラフォルス・カサマダ]]、[[画家]]、[[詩人]](* [[1923年]]) * [[2010年]] - [[フィル・キャバレッタ]]、プロ野球選手(* [[1916年]]) * [[2011年]] - [[金正日]]<ref name="nikkei20111219">{{cite news | url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819587E3E3E2E09B8DE3EBE3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2 | title=金正日総書記が死去、69歳 北朝鮮の混乱必至(日本経済新聞) |date=2011-12-19|accssesdate=2020-11-21}}</ref>、[[朝鮮民主主義人民共和国]][[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]、[[朝鮮労働党]][[朝鮮労働党中央委員会総書記|総書記]](* [[1941年]]) * [[2015年]] - [[早石修]]<ref name="Asahi">[http://www.asahi.com/articles/ASHDM432NHDMPLBJ002.html 京大名誉教授の早石修さん死去「酸素添加酵素」を発見] 朝日新聞 2020年11月1日閲覧</ref>、[[医学者]](* [[1920年]]) * [[2017年]] - [[神宮司弥生]]、声優(* [[1965年]]) * [[2018年]] - 蟹江美根代、[[ぎんさん四姉妹]]の五女(* [[1923年]]) * [[2020年]] - [[林家こん平]]<ref>{{Cite news2|title= 落語家の林家こん平さんが死去|url= https://web.archive.org/web/20201221060228/https://this.kiji.is/713632819133448192|newspaper= 共同通信|date= 2020-12-21|accessdate= 2020-12-21|publisher= 共同通信社}}</ref>、[[落語家]](* [[1943年]]) * 2020年 - [[坂本百大]]<ref>{{Cite news|url=https://www.aoyama.ac.jp/post07/2020/news_20210108_01|title=青山学院大学 名誉教授 坂本百大氏が2020年12月17日に逝去|newspaper=青山学院大学 HP|date=2021-01-08|accessdate=2021-01-29}}</ref>、[[哲学者]](* [[1928年]]) * 2020年 - [[ジェレミー・ブロック]]<ref>{{Cite news|title=英国の俳優ジェレミー・ブロック氏が死去 75歳 「スターウォーズ」でボバ・フェット役|newspaper=Sponichi Annex|date=2020-12-18|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/18/kiji/20201218s00041000191000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2021-01-29}}</ref>、俳優(* [[1945年]]) * 2020年 - [[ピエール・ブヨヤ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.africanews.com/amp/2020/12/18/burundi-ex-president-pierre-buyoya-dies-from-covid-19/|title=Burundi ex-president Pierre Buyoya dies from Covid-19|agency=[[アフリカニュース]]|date=2020-12-18|accessdate=2021-01-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/bl/news/national/okuyami-detail.aspx?kid=20201218000883|title=ピエール・ブヨヤ氏死去/ブルンジ元大統領|publisher=四国新聞|date=2020-12-18|accessdate=2021-02-02}}</ref>、[[政治家]]、[[軍人]](* [[1949年]]) * [[2022年]] - [[田中裕二 (ミュージシャン)|田中裕二]]、ミュージシャン([[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]])(* [[1957年]]) * [[2023年]] - [[寺尾常史]]、[[大相撲力士]](* [[1963年]]) === 人物以外(動物など) === * [[1967年]] - [[キーストン]]、[[競走馬]](* [[1962年]]) == 記念日・年中行事 == * 建国記念日({{BTN}}) *: [[1907年]]のこの日、[[ウゲン・ワンチュク]]が[[ブータン]]の初代国王に即位した。 * [[飛行機]]の日 *: [[1903年]]のこの日、アメリカ・[[ノースカロライナ州]]の[[キティホーク (ノースカロライナ州)|キティホーク]]で[[ライト兄弟]]が人類初の[[飛行機|動力飛行]]に成功した。 * [[春日若宮おん祭]]([[春日大社]]) * [[わちふぃーるど]]の日([[日本]]) ** 作家の池田あきこ氏が創作した架空の国「[http://www.wachi.co.jp/ わちふぃーるど]」で繰り広げられる猫のダヤンを中心とした仲間たちによるさまざまな冒険や不思議な謎を解いていく魅力的な物語。<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.wachi.co.jp/ |title=わちふぃーる |accessdate=2022-04-08}}</ref> == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1217|date=2011年7月}} * [[1964年]] - 浪速大学医学部の[[里見脩二]]助教授が辞表を書く。(小説『[[白い巨塔]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1946年]] - [[景浦安武]]、漫画『[[あぶさん]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://konomanga.jp/guide/89235-2 |title=12月17日は景浦安武(マンガ『あぶさん』より)の誕生日 『あぶさん』を読もう! 【きょうのマンガ】 |access-date=2022-12-17 |publisher=[[宝島社]] |website=このマンガがすごい!WEB}}</ref> * [[1978年]] - 泉野明、漫画・アニメ『[[機動警察パトレイバー]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://patlabor.tokyo/character/235/ |title=泉 野明 |access-date=2022-12-14 |publisher=HEADGEAR GENCO INC. |work=『機動警察パトレイバー』 |website=PATLABOR OFFICIAL WEBSITE}}</ref> * 生年不明 - 美堂蛮、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/getbackers/old/chara/c_ban.html |title=美堂 蛮 |access-date=2022-12-14 |publisher=[[青樹佑夜]]・[[綾峰欄人]]・[[講談社]] / チーム奪還屋 TBS |work=『GetBackers-奪還屋-』}}</ref> * 生年不明 - 鳴子硫黄、アニメ『[[美男高校地球防衛部LOVE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boueibu|809776159839789057}}</ref> * 生年不明 - レオナ、アニメ『[[荒野のコトブキ飛行隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kotobuki_pr|1339426393545818112}}</ref> * 生年不明 - 観月、[[読者参加企画]]『[[Baby Princess]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal|和書|year=2009|journal=電撃G's magazine|issue=2009年4月号|publisher=アスキー・メディアワークス}}</ref> * 生年不明 - ケビン・ライアン、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/kevin.php |title=ケビン・ライアン |access-date=2022-12-14 |publisher=SNK PLAYMORE |work=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref> *生年不明 - 氷鷹北斗、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/hidaka_hokuto/ |title=氷鷹 北斗 |accessdate=2022-12-14 |publisher=Happy Elements |website=あんさんぶるスターズ!!}}</ref> * 生年不明 - ミトラ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kings-raid.com/characters/#character-146 |title=ミトラ |publisher=『キングスレイド』 |accessdate=2022-12-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617125252/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=146 |archivedate=2020-04-16}}</ref> * 生年不明 - ラグーン、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/nijinokanata/lagoon/ |title=ラグーン |access-date=2023-01-29 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> <!--* [[1981年]] - 景浦景虎、漫画『あぶさん』に登場するキャラクター--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|17 December}} {{新暦365日|12|16|12|18|[[11月17日]]|[[1月17日]]|[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]|1210|12|17}} {{1年の月と日}}
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12月18日
12月18日(じゅうにがつ じゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。
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12月18日は、グレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。
{{カレンダー 12月}} '''12月18日'''(じゅうにがつ じゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から352日目([[閏年]]では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。 == できごと == * [[紀元前218年]] - [[第二次ポエニ戦争]]: [[トレビアの戦い]]。 * [[876年]] - [[清和天皇]]が譲位。貞明親王が践祚し、第57代天皇[[陽成天皇]]となり即位する。 * [[1271年]]([[至元 (元世祖)|至元]]8年11月乙亥) - [[クビライ]]が[[モンゴル帝国]]の国号を[[元 (王朝)|元]]に改める。 * [[1352年]] - [[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]が[[教皇|ローマ教皇]]に選出される。 * [[1695年]]([[元禄]]8年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[生類憐れみの令]]に伴い、[[徳川綱吉]]が[[武蔵国|武蔵]]・中野村に16万坪の「[[犬小屋 (江戸幕府)|犬小屋]]」を設置する。 * [[1787年]] - [[ニュージャージー州]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を[[批准]]し、[[アメリカ合衆国]]3番目の州となる。 * [[1825年]] - [[サーニー家]]のサーニー・ビン・ムハンマドが[[カタール]]の初代[[首長]]となる。 * [[1865年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[奴隷制|奴隷制度]]を完全に廃止する[[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]が成立に必要な27[[アメリカ合衆国の州|州]]で批准されたことが布告される。 * [[1874年]] - 明治新政府による開化政策の一環として、[[東京]]初のガス灯85基が[[銀座]]の芝金杉橋と京橋の間で点火される<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/90456 |title=12月18日 銀座にガス灯が点火(1874年) |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[講談社]] |website=ブルーバックス サイエンス365days |date=18 Dec 2021}}</ref>。 * [[1876年]] - [[伊勢暴動]]が発生。 * [[1891年]] - [[足尾鉱毒事件]]: [[改進党]]議員の[[田中正造]]が、足尾鉱毒問題に関する初の質問書を衆議院に提出。 * [[1892年]] - [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]のバレエ『[[くるみ割り人形]]』が初演される。 * [[1898年]] - [[上野恩賜公園|上野公園]]にある[[西郷隆盛像]]の除幕式が行われる。 * [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]開戦に伴い、[[エジプト]]が[[オスマン帝国]]の名目上の宗主権から切り離され、[[イギリス]]の[[保護国]]となる。 * 1914年 - [[新橋駅]]に代わる[[東海道本線]]の旅客[[ターミナル駅]]として[[東京駅]]が完成し、開業式を実施。[[12月20日|20日]]より供用開始。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ヴェルダンの戦い]]が終結。 * [[1917年]] - [[相模鉄道]]が創立される。 * [[1925年]] - [[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]の第14回[[ソ連共産党大会|共産党大会]]で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が主張する[[一国社会主義論|一国社会主義]]を採択。 * [[1926年]] - [[阪急今津線]]、[[西宮北口駅|西宮北口]]~[[今津駅 (兵庫県)|今津]]間開業。これによって西宮北口駅に[[阪急神戸本線|神戸線]]との直角[[平面交差]]([[ダイヤモンドクロス]])が生まれる([[1984年]]に廃止)。 * [[1942年]] - [[天龍型]][[軽巡洋艦]][[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]に米[[潜水艦]][[アルバコア]]が発射した[[魚雷]]が命中し沈没。 * [[1945年]] - [[ウルグアイ]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * [[1948年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)]]が[[日本の経済|日本経済]]自立復興のための[[経済安定9原則]]を発表。 * [[1950年]] - [[埼玉県]][[大宮市]]の東北本線[[踏切]]で、[[東武バス]]が[[上野駅]]行列車の側面に衝突。乗員・乗客13人が死亡、重軽傷4人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=80|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1956年]] - [[日本]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * [[1958年]] - 世界初の[[通信衛星]] [[SCORE (人工衛星)|SCORE]] 打ち上げ。 * [[1961年]] - [[インドネシア]]が[[オランダ領ニューギニア]]([[イリアンジャヤ]])に侵攻。 <!-- * [[1963年]] - [[神路信号場#周辺|神路大橋]]、落橋。 --> * [[1965年]] - [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]が発効し、両国の国交が成立。 * [[1966年]] - [[土星]]の[[衛星]][[エピメテウス (衛星)|エピメテウス]]が発見される。 * [[1969年]] - [[貴族院 (イギリス)|イギリス上院]]が「死刑廃止時限法」の無期限延長を決定し、[[死刑]]廃止が確定。 * [[1970年]] - 日本の新左翼である[[日本共産党(革命左派)神奈川県委員会|京浜安保共闘]]による[[上赤塚交番襲撃事件]]。襲撃犯である最高幹部[[柴野春彦]]が死亡。 * [[1971年]] - [[スミソニアン博物館]]での先進十カ国の蔵相会議の結果、USドルと各国通貨との交換レートの見直しで合意([[スミソニアン協定]])、1USドル=308円に切り上げられる。 * 1971年 - [[土田・日石・ピース缶爆弾事件|土田邸ピース缶爆弾事件]]。警視庁警務部長の妻が死亡。 * 1971年 - [[キャピトル・リーフ国立公園]]設立。 * [[1972年]] - [[ベトナム戦争]]: [[アメリカ軍]]が{{仮リンク|ラインバッカーII作戦|en|Operation Linebacker II}}を開始。[[北爆]]が再開。 * [[1973年]] - ソ連が有人宇宙船[[ソユーズ13号]]を打ち上げ。 * [[1974年]] - [[三菱石油水島製油所]]で原油流出事故発生。大規模な海洋汚染を引き起こす。 * [[1977年]] - [[第22回有馬記念]]: [[テンポイント]]と[[トウショウボーイ]]のマッチレースが繰り広げられる。 * [[1978年]] - [[ドミニカ国]]が国連に加盟。 * [[1983年]] - [[第37回衆議院議員総選挙]]。[[ロッキード事件]]で[[田中角栄]]元首相の実刑判決が出た直後で、[[自由民主党 (日本)|自民党]]の議席が大幅減。 * [[1984年]] - [[福井エフエム放送]]開局。 * [[1987年]] - [[ラリー・ウォール]]が[[プログラミング言語]]「[[Perl]]」を発表。 * 1987年 - ゲームソフト[[ファイナルファンタジーシリーズ]]第1作『[[ファイナルファンタジー]]』が発売。 * [[1989年]] - [[東証株価指数]](通称:TOPIX)が史上最高の2884.80ポイントを記録。 * [[1990年]] - [[全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約]]が[[国際連合総会]]で採択される。 * [[1992年]] - [[1992年大韓民国大統領選挙]]で[[金泳三]]が当選。 * [[1993年]] - [[東京都]][[八王子市]]の[[創価学会]]所有施設「東京牧口記念会館」で[[オウム真理教]]による学会名誉会長・[[池田大作]]の[[池田大作サリン襲撃未遂事件|暗殺未遂事件]]発生。 * [[1997年]] - [[World Wide Web Consortium|W3C]]が[[HyperText Markup Language#歴史|HTML4.0]]を勧告。 * [[1997年]] - [[1997年大韓民国大統領選挙]]で[[金大中]]が当選。1997年 - [[大阪港トランスポートシステム]][[Osaka Metro中央線|テクノポート線]]・[[Osaka Metro南港ポートタウン線|ニュートラムテクノポート線]]開業。 * 1997年 - [[東京湾アクアライン]]開通。 * [[1999年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が[[地球観測衛星]]「[[テラ (人工衛星)|テラ]]」を打ち上げ。 * 1999年 - 大阪工業技術研究所と[[東北大学金属材料研究所]]の研究グループが、磁力を用いて完全な[[球体]]を作る。 * [[2001年]] - アメリカ・[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オーケランド]]の統一地区教育委員会が[[黒人英語]]を[[英語]]に次ぐ第二言語とする決議を採択。 * [[2002年]] - [[東京地下鉄株式会社法]]成立。 *[[2003年]] - [[館山市一家4人放火殺人事件]]が発生。 * [[2005年]] - [[宣仁親王妃喜久子|高松宮妃喜久子]]が薨去。それに伴い、当日予定されていた[[黒田清子|紀宮清子内親王]]の婚約内定が延期される。 * [[2006年]] - [[宇宙航空研究開発機構]]が技術試験衛星「[[きく8号]]」を打ち上げ。 * [[2007年]] - [[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]である[[こんごう型護衛艦]]の1番艦[[こんごう (護衛艦)|こんごう]]がハワイ・カウアイ島沖での弾道ミサイル迎撃実験で[[スタンダードミサイル|スタンダードミサイルSM-3]]により、高度100キロ以上の大気圏外を飛行する標的ミサイル1発の迎撃に成功。 * [[2010年]] - [[チュニジア]]で[[ジャスミン革命]]勃発、[[アラブの春]]へと波及。 * [[2015年]] - 2009年に[[神奈川県]][[川崎市]]でアパートの大家とその弟夫婦を殺害したとして2011年に[[裁判員制度|裁判員裁判]]で[[日本における死刑|死刑]]判決を受けた男の死刑が執行され、裁判員裁判で死刑判決を受けた死刑囚としては初の死刑執行となった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG18H2X_Y5A211C1CC0000/ |title=裁判員判決で初の死刑執行 川崎3人殺害、ほかに1人 |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=18 Dec 2015}}</ref>。 * [[2018年]] - 日本政府が新たな「[[防衛計画の大綱]]」と今後5年間の「中期防衛力整備計画」を閣議決定。護衛艦「[[いずも (護衛艦)|いずも]]」を事実上空母化し、新たに導入する最新鋭のステルス戦闘機F35Bを艦載機として搭載する方針が盛り込まれる<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/12344.html |title=防衛計画の大綱を閣議決定 「空母」に各党の反応は |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=18 Dec 2018}}</ref>。 * [[2019年]] - [[かんぽ生命保険|かんぽ生命]]の保険の不適切販売が問題となった件で、外部弁護士でつくる特別調査委員会が調査報告書を発表。法令や社内規則に違反した疑いのある事案が、13日時点で1万2836件あったと公表した<ref>{{Cite web |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-12-18/Q2N571DWLU6A01 |title=かんぽ生命の不正販売、「信頼失墜させる重大事」-調査委が報告書 |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |date=18 Dec 2019}}</ref>。 * [[2021年]] - [[東日本大震災]]の復興道路として国が整備を進めた[[三陸沿岸道路]]が全線開通。未開通区間だった[[岩手県]]の[[普代インターチェンジ|普代]]-[[久慈インターチェンジ]]間25キロの通行が可能となり、[[仙台市]]―[[青森県]][[八戸市]]の全長359キロが直結した<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE181TZ0Y1A211C2000000/ |title=三陸道が全線開通 復興後押し期待、仙台―八戸359キロ |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=18 Dec 2021}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1507年]]([[永正]]4年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[大内義隆]]、[[周防国]]の[[戦国大名]](+ [[1551年]]) * [[1553年]] - [[セザール・ド・ノートルダム]]、[[詩人]]、[[歴史家]]、[[画家]](+ [[1630年]]?) * [[1567年]]([[永禄]]10年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]])- [[立花宗茂]]、[[武将|戦国武将]]、[[柳河藩|柳河藩主]](+ [[1643年]]) * [[1626年]] - [[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン女王]](+ [[1689年]]) * [[1707年]] - [[チャールズ・ウェスレー]]、[[メソジスト]]の[[賛美歌]]作者(+ [[1788年]]) * [[1781年]]([[天明]]元年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[奥平昌高]]、[[中津藩]]主(+ [[1840年]]) * [[1799年]]([[寛政]]11年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[松平忠侯]]、[[島原藩]]主(+ [[1855年]]) * [[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[杉田成卿]]、[[蘭学|蘭学者]](+ [[1859年]]) * [[1818年]]([[文政]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[岩瀬忠震]]、[[江戸幕府]][[外国奉行]](+ [[1861年]]) * [[1847年]] - [[オーギュスタ・オルメス]]、[[作曲家]](+ [[1903年]]) * 1847年([[弘化]]4年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[池田徳潤]]、[[福本藩]]主、[[華族]](+ [[1929年]]) * [[1856年]] - [[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]、[[物理学者]](+ [[1940年]]) * [[1860年]] - [[エドワード・マクダウェル]]、作曲家(+ [[1908年]]) * [[1863年]] - [[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア皇太子]](+ [[1914年]]) * [[1865年]]([[慶応]]元年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[村上浪六]]、[[小説家]](+ [[1944年]]) * [[1870年]] - [[サキ (小説家)|サキ]]、[[作家]](+ [[1916年]]) * [[1878年]] - [[ヨシフ・スターリン]]、[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]](+ [[1953年]]) * [[1879年]] - [[パウル・クレー]]、[[画家]](+ [[1940年]]) * 1879年 - [[古屋慶隆]]、政治家(+ [[1945年]]) * [[1886年]] - [[タイ・カッブ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1961年]]) * [[1888年]] - [[立川談志 (6代目)]]、[[落語家]](+ [[1952年]]) * [[1889年]] - [[熊沢寛道]]、[[王位請求者|皇位僭称者]](+ [[1966年]]) * [[1890年]] - [[エドウィン・アームストロング]]、[[発明家]](+ [[1954年]]) * [[1895年]] - [[住谷悦治]]、[[経済学者]](+ [[1987年]]) * [[1897年]] - [[フレッチャー・ヘンダーソン]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1952年]]) * [[1904年]] - [[ジョージ・スティーヴンス]]、[[映画監督]](+ [[1975年]]) * [[1906年]] - [[兼子一]]、[[法学者]](+ [[1973年]]) * [[1911年]] - [[ジュールズ・ダッシン]]、映画監督(+ [[2008年]]) * [[1913年]] - [[ヴィリー・ブラント]]、[[ドイツの首相|ドイツ連邦首相]](+ [[1992年]]) * [[1914年]] - [[松村達雄]]、[[俳優]](+ [[2005年]]) * [[1920年]] - [[エドモン・ド・シュトウツ]]、[[指揮者]](+ [[1997年]]) * [[1921年]] - [[工藤巌]]、[[政治家]]、[[岩手県]]知事、[[衆議院議員]]、[[盛岡市長]](+ [[1998年]]) * [[1927年]] - [[横山昭二]]、[[検察官]]、[[弁護士]](+ [[2007年]]) * [[1931年]] - [[北村弘一]]、俳優、[[声優]](+ 2007年) * 1931年 - [[アンドレ・S・ラバルト]]、[[映画評論|映画評論家]]、映画監督、[[脚本家]](+ [[2018年]]) * [[1932年]] - [[吉川文夫]]、[[鉄道研究家]](+ 2007年) * 1932年 - [[田口周]]、高校野球指導者(+ [[2006年]]) * [[1934年]] - [[西崎義展]]、元[[プロデューサー]](+ [[2010年]]) * [[1939年]] - [[マイケル・ムアコック]]、[[SF作家]] * 1939年 - [[高野一彦]]、元プロ野球選手 * 1939年 - [[稲葉賀恵]]、[[ファッションデザイナー]] * 1939年 - [[ソイロ・ベルサイエス]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]]) * [[1940年]] - [[ジョン・クーパー (陸上選手)|ジョン・クーパー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1974年]]) * [[1943年]] - [[キース・リチャーズ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ローリング・ストーンズ]]) * [[1944年]] - [[伊勢孝夫]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[スティーヴン・スピルバーグ]]、映画監督 * 1946年 - [[原尞]]、作家(+ [[2023年]]) * [[1947年]] - [[池田理代子]]、[[漫画家]] * 1947年 - [[赤嶺政賢]]、政治家 * 1947年 - [[布施明]]、[[歌手]] * 1947年 - [[森安敏明]]、元プロ野球選手(+ [[1998年]]) * [[1948年]] - [[福永洋一]]、元騎手 * 1948年 - [[ミンモ・パラディーノ]]、[[彫刻家]]、画家、[[版画家]] * [[1950年]] - ランディ・カスティロ([[:en:Randy Castillo|Randy Castillo]])、[[ドラマー]](+ 2002年) * 1950年 - [[佐藤政夫]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[前川陽子]]、[[アニメソング|アニメソング歌手]] * [[1951年]] - [[柚木秀夫]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[榎本一夫]]、デザイナー、実業家 * [[1954年]] - [[大野英男]]、物理学者 * 1954年 - [[毛利八郎]]、アナウンサー * 1954年 - [[ローラント・クラウス]]、[[左翼党 (ドイツ)|ドイツ左翼党]][[ドイツ連邦議会|連邦議会議員]] * [[1955年]] - [[レイ・リオッタ]]、俳優(+ [[2022年]]) * [[1958年]] - [[金沢次男]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[川俣しのぶ]]、女優 * [[1960年]] - [[植草一秀]]、[[経済評論家]] * 1960年 - [[尹錫悦]]、政治家、第20代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]] * [[1961年]] - [[園子温]]、映画監督 * 1961年 - [[塩川鉄也]]、政治家 * 1961年 - [[伍代夏子]]、演歌歌手 * 1961年 - [[沢田富美子]]、元歌手 * 1961年 - [[ブライアン・オーサー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1961年 - [[金子美奈子]]、歌手、[[ダンサー]]、[[ファッションデザイナー]]([[米米CLUB]]、[[シューク・フラッシュ!]]) * [[1962年]] - [[河野陽吾]]、ミュージシャン * [[1963年]] - [[ブラッド・ピット]]、俳優 * 1963年 - [[小山力也]]、俳優、声優 * 1963年 - [[イザベル・デュシュネー]]、フィギュアスケート選手 * [[1964年]] - [[ストーン・コールド・スティーブ・オースチン]]、元[[プロレスラー]]、俳優 * 1964年 - [[真鍋譲治]]、漫画家 * [[1965年]] - [[松蔭浩之]]、[[現代美術家]]、[[写真家]] * 1965年 - [[鈴木俊雄]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[江角マキコ]]、元女優 * [[1967年]] - [[小浦一優|芋洗坂係長]]、[[お笑いタレント]]、[[振付師]]、ダンサー * [[1968年]] - [[山根善伸]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[サンティアゴ・カニサレス]]、元[[サッカー選手]] * 1969年 - [[森田太]]、[[J-WAVE]]コンテンツマーケティング局長 * 1969年 - [[飯田章]]、レーシングドライバー * [[1970年]] - [[DMX (ラッパー)|DMX]]、[[ラッパー]](+ [[2021年]]) * 1970年 - [[藤本敏史]]、お笑いタレント([[FUJIWARA]]) * 1970年 - [[マイク・グラン]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[ロブ・ヴァン・ダム]]、プロレスラー * [[1971年]] - [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]、[[テニス選手]] * [[1972年]] - [[武田真治]]、俳優、[[タレント]] * 1972年 - 少覚一、ミュージシャン([[SUPER BELL"Z]]) * 1972年 - [[クリス・シールバック]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[エフゲーニヤ・シシコワ]]、フィギュアスケート選手 * 1972年 - [[アンジェラ・バラコノワ]]、陸上競技選手 * [[1973年]] - [[ファツマ・ロバ]]、[[マラソン]]選手 * 1973年 - [[イリヤ・アベルブフ]]、フィギュアスケート選手 * [[1974年]] - [[マザリーヌ・パンジュ]]、小説家 * 1974年 - [[ランス・カーター]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[飯沼誠司]]、ライフセーバー、俳優 * 1974年 - [[あだち理絵子]]、タレント * [[1975年]] - [[レイザーラモンHG]]、お笑いタレント([[レイザーラモン]]) * 1975年 - [[栗原由佳]]、キャスター * 1975年 - [[宇佐美康広]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[ダイアナ・エクストラバガンザ]]、[[女装家]]、[[美容家]] * [[1976年]] - [[小雪 (女優)|小雪]]、女優 * 1976年 - [[吉田玲奈]]、タレント * 1976年 - [[葵千智]]、タレント * [[1977年]] - [[戸越亜希子]]、元アナウンサー * [[1978年]] - [[ケイティ・ホームズ]]、女優 * 1978年 - [[三輪ひとみ]]、女優 * 1978年 - [[ナオミ・ラング]]、フィギュアスケート選手 * 1978年 - [[ファンキー加藤]]、ミュージシャン([[FUNKY MONKEY BΛBY'S]]) * 1978年 - [[江角浩司]]、元サッカー選手 * [[1979年]] - [[市野世龍]]、[[ファッションモデル]] * 1979年 - [[今岡梨惠]]、タレント * 1979年 - [[蔡相秉]]、元プロ野球選手 * [[1980年]] - [[小野寺昭憲]]、映画監督 * 1980年 - [[クリスティーナ・アギレラ]]、歌手 * 1980年 - [[松元ユウイチ]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[下村東美]]、元サッカー選手 * [[1981年]] - [[松岡由樹]]、元タレント * 1981年 - [[駿馬赤兎]]、元大相撲力士 * 1981年 - [[ジェレミー・アッカード]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[小林アナ]]、アナウンサー、タレント * [[1983年]] - [[葉里真央]]、タレント * 1983年 - [[渡辺邦斗]]、俳優 * 1983年 - [[梶本勇介]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[矢吹春奈]]、女優、タレント * 1984年 - [[田中大輔 (野球)|田中大輔]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[ジュリアーノ・ラッツォーリ]]、アルペンスキー選手 * [[1985年]] - 長谷川俊輔、お笑い芸人([[クマムシ (お笑いコンビ)|クマムシ]]) * [[1986年]] - [[魁聖一郎]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄13代友綱 * 1986年 - [[玄理]]、女優、タレント * [[1987年]] - [[安藤美姫]]、元フィギュアスケート選手 * 1987年 - [[迫田さおり]]、元バレーボール選手 * 1987年 - [[絢香]]、[[歌手]] * 1987年 - [[大亀あすか]]、声優 * 1987年 - [[於保佐代子]]、タレント * 1987年 - [[佃井皆美]]、女優 * 1987年 - [[古川雄輝]]、俳優 * 1987年 - [[レックス・ブラザーズ]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[ルディ・オーエンス]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[狩野翔]]、俳優、声優 * [[1988年]] - [[ブリアンヌ・タイゼン=イートン]]、陸上競技選手 * [[1989年]] - [[アシュレイ・ベンソン]]、女優 * 1989年 - [[アリーナ・ウシャコワ]]、フィギュアスケート選手 * 1989年 - [[知念広弥]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[甲斐拓哉]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[駒田圭佑]]、[[バトントワリング]]選手 * 1990年 - [[斎藤友夏莉]]、野球選手 * 1990年 - [[関取花]]、歌手 * 1990年 - [[藤田倭]]、ソフトボール選手 * 1990年 - [[望月ミキ]]、タレント * 1990年 - [[鄭寅煜]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[メリンダ・ワン]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[リッキー・シックス]]、ポルノ女優 * [[1991年]] - [[木下拓哉]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[八木直生]]、元サッカー選手 * 1991年 - [[設楽啓太]]、陸上選手 * 1991年 - [[設楽悠太]]、陸上選手 * 1991年 - [[百山月花]]、シンガーソングライター、女優 * 1991年 - [[宮下遊]]、歌手 * [[1992年]] - [[ブリジット・メンドラー]]、女優、歌手 * 1992年 - [[今野太祐]]、サッカー選手 * [[1993年]] - [[小島梨里杏]]、女優 * 1993年 - [[バイロン・バクストン]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[文田健一郎]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手 * 1995年 - [[ブレンダン・マッケイ (野球)|ブレンダン・マッケイ]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[齋藤綱記]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - [[金子理江]]、[[グラビアアイドル]]、女優 * 1997年 - [[植田将太]]、プロ野球選手 * [[1998年]] - [[三船海斗]]、元俳優 * [[1999年]] - [[堀くるみ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.stardust.co.jp/talent/rookie/horikurumi/ |title=堀 くるみ |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[スターダストプロモーション|STAR DUST]]}}</ref>、タレント、元アイドル([[たこやきレインボー]])   * [[2000年]] - [[清水優哉]]、俳優 * [[2001年]] - [[小畑優奈]]、元アイドル(元[[SKE48]]) * 2001年 - [[ビリー・アイリッシュ]]、シンガーソングライター、モデル * [[2006年]] - [[藤寺美徳]]、声優 == 忌日 == * [[1495年]] - [[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](* [[1448年]]) * [[1538年]]([[天文 (元号)|天文]]7年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]])- [[松平信定]]、[[武将|戦国武将]] * [[1603年]]([[慶長]]8年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]])- [[里見義康]]、[[館山藩|館山藩主]](* [[1573年]]) * [[1726年]] - [[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]、[[バイロイト侯領]]の[[辺境伯]](* [[1678年]]) * [[1737年]] - [[アントニオ・ストラディバリ]]、[[弦楽器]]製作者(* [[1644年]]) * [[1752年]]([[宝暦]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]])- [[宮川長春]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1682年]]) * [[1803年]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]、[[哲学者]]、[[詩人]](* [[1744年]]) * [[1848年]] - [[ベルナルト・ボルツァーノ]]、哲学者、[[数学者]](* [[1781年]]) * [[1869年]] - [[ルイス・モロー・ゴットシャルク]]、[[作曲家]](* [[1829年]]) * [[1892年]] - [[リチャード・オーウェン]]、[[生物学者]](* [[1804年]]) * [[1910年]] - [[向山慎吉]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]](* [[1856年]]) * [[1919年]] - [[ホレイショ・パーカー]]、作曲家(* [[1863年]]) * [[1928年]] - [[リュシアン・カペー]]、[[音楽家]](* [[1873年]]) * [[1932年]] - [[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]、[[社会民主主義]]の[[思想家]](* [[1850年]]) * [[1939年]] - [[ブルーノ・リリエフォッシュ]]、[[画家]](* [[1860年]]) * [[1944年]] - [[山本信哉]]、[[歴史学者]]、[[神道]]学者(* [[1873年]]) * 1944年 - [[グレン・ミラー]]、[[ジャズ]]アーティスト、作曲家、[[トロンボーン]]奏者(* [[1904年]]) * [[1945年]] - [[皿井立三郎]]、[[医師]]、[[俳人]](* [[1870年]]) * [[1951年]] - [[北脇昇]]、画家(* [[1901年]]) * [[1952年]] - [[エルンスト・シュトローマー]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1870年]]) * [[1956年]] - [[猪子一到]]、[[実業家]](* [[1891年]]) * [[1960年]] - [[寿々喜多呂九平]]、[[脚本家]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]](* [[1899年]]) * [[1961年]] - [[フリードリヒ・ドミン]]、[[俳優]](* [[1902年]]) * [[1971年]] - [[佐藤尚武]]、[[外交官]]・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・第2-3代[[参議院議長]](* [[1882年]]) * 1971年 - [[ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)|ボビー・ジョーンズ]]、[[ゴルフ|ゴルファー]](* [[1902年]]) * [[1974年]] - [[ハリー・フーパー]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(* [[1887年]]) * [[1975年]] - [[テオドシウス・ドブジャンスキー]]、[[遺伝学者]]、[[進化生物学者]](* [[1900年]]) * [[1976年]] - [[大野竹二]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[少将]](* [[1894年]]) * [[1977年]] - [[西沢道夫]]、[[プロ野球選手]]・[[プロ野球監督|監督]](* [[1921年]]) * 1977年 - [[ヤコフ・フリエール]]、[[ピアニスト]]・音楽教師(* [[1912年]]) * [[1980年]] - [[アレクセイ・コスイギン]]、[[ソビエト連邦]]首相(* [[1904年]]) * [[1981年]] - [[桝嘉一]]、プロ野球選手(* [[1908年]]) * [[1982年]] - [[ハンス・ウルリッヒ・ルーデル]]、[[ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](* [[1916年]]) * [[1984年]] - [[竜崎勝]]、[[俳優]](* [[1940年]]) * [[1985年]] - [[十朱久雄]]、俳優(* [[1908年]]) * [[1987年]] - [[コニー・プランク]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1943年]]) * [[1990年]] - [[ポール・トルトゥリエ]]、[[チェリスト]](* [[1914年]]) * 1990年 - [[堀田庄三]]、元[[住友銀行]]頭取(* [[1899年]]) * 1990年 - [[林忠彦]]、[[写真家]](* [[1918年]]) * [[1993年]] - [[サム・ワナメイカー]]、俳優、映画監督(* [[1919年]]) * [[1994年]] - [[ロジェ・アペリー]]、[[数学者]](* [[1916年]]) * [[1995年]] - [[コンラート・ツーゼ]]、[[コンピュータ]][[技術者]](* [[1910年]]) * [[1996年]] - [[武原英子]]、女優(* [[1946年]]) * [[1997年]] - [[井上正治]]、[[法学者]](* [[1920年]]) * 1997年 - [[多摩豊]]、[[編集者]]、[[ゲーム]]評論家(* [[1962年]]) * [[1999年]] - [[ロベール・ブレッソン]]、[[映画監督]](* [[1901年]]) * [[2000年]] - カースティ・マッコール ([[:en:Kirsty MacColl|Kirsty MacColl]])、[[ミュージシャン]](* [[1959年]]) * [[2004年]] - [[宣仁親王妃喜久子]]、[[高松宮宣仁親王]]の妃、[[徳川慶喜]]の孫、[[皇族]](* [[1911年]]) * [[2006年]] - [[ジョセフ・バーベラ]]、[[アニメーター]](* [[1911年]]) * [[2007年]] - [[宮内和之]]、[[ギタリスト]]([[ICE (音楽グループ)|ICE]])(* [[1964年]]) * [[2011年]] - [[ヴァーツラフ・ハヴェル]]、[[劇作家]]、[[政治家]](* [[1936年]]) * [[2012年]] - [[米長邦雄]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1943年]]) * [[2014年]] - [[稲野和子]]、女優(* [[1935年]]) * 2014年 - [[浦上靖夫]]、[[音響監督]](* 1943年) * [[2015年]] - [[藤田雄山]]、政治家(* [[1949年]]) * [[2016年]] - [[ザ・ザ・ガボール]]、女優(* [[1917年]]) * 2016年 - [[和田貞夫]]、政治家(* [[1925年]]) * 2016年 - [[森下洋一]]、[[パナソニック]]社長(* [[1934年]]) * 2016年 - [[神谷定男]]、元プロ野球選手(* [[1931年]]) * 2016年 - [[磯辺サタ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jva.or.jp/index.php/topics/20161219-1 |title=【訃報】東京オリンピック 金メダリスト 磯辺サタさん(72歳)逝去 |accessdate=3 Jul 2023 |publisher=[[日本バレーボール協会]] |date=19 Dec 2016}}</ref>、元[[バレーボール]]選手(* [[1944年]]) * [[2017年]] - [[ジョンヒョン|キム・ ジョンヒョン]]<ref>{{Cite web|和書 |date=19 Dec 2018 |url=http://japanese.joins.com/article/668/236668.html?servcode=700&sectcode=740 |title=SHINeeジョンヒョンさん、姉に「最後の挨拶」メッセージ送り…亡くなった状態で見つかる |publisher=[[中央日報]] |accessdate=3 Jul 2023}}</ref>、シンガーソングライター([[SHINee]]) (* [[1990年]]) * [[2020年]] - [[アーミン・ホフマン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.printmag.com/design-news/armin-hofmann-passes/ |title=Armin Hofmann Passes |access-date=3 Jul 2023 |publisher=PRINT |date=21 Dec 2020}}</ref>、[[グラフィックデザイナー]]、[[タイポグラファー]](* [[1920年]]) * 2020年 - [[ピーター・ラモント]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://eiga.com/news/20201223/11/ |title=「タイタニック」でオスカー受賞のプロダクションデザイナー、ピーター・ラモントさん死去 |access-date=3 Jul 2023 |publisher=映画.com |date=23 Dec 2020}}</ref>、映画プロダクション・デザイナー、[[美術監督]](* [[1929年]]) * 2020年 - [[マイケル・ジェフリー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.abc.net.au/news/2020-12-29/former-governor-general-michael-jeffery-state-funeral/13018758 |title=Former governor-general Michael Jeffery farewelled as 'warrior king' at state funeral |access-date=3 Jul 2023 |publisher=ABC NEWS |date=28 Dec 2020}}</ref>、[[軍人]](* [[1937年]]) * 2020年 - [[ティム・セヴェリン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nytimes.com/2021/01/02/obituaries/tim-severin-dead.html |title=Tim Severin, Seafarer Who Replicated Explorers’ Journeys, Dies at 80 |access-date=3 Jul 2023 |publisher=The New York Times |date=4 Jan 2021}}</ref>、[[冒険家]]、[[作家]](* [[1940年]]) * 2020年 - [[岡田武夫 (司教)|岡田武夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/28884/20201219/takeo-okada-former-archbishop-of-tokyo-dies-79.htm|title=岡田武夫・前東京大司教死去、79歳 司教協議会会長など歴任|newspaper=クリスチャントゥデイ|date=19 Dec 2020|accessdate=3 Jul 2023}}</ref>、[[聖職者]](* [[1941年]]) * 2020年 - [[宅間秋史]]<ref>{{Cite web|和書|title=宅間秋史氏が死去、65歳 映画兼ドラマプロデューサー|publisher=[[サンケイスポーツ]]|date=20 Dec 2020|url=https://www.sanspo.com/article/20201220-ZAI4KPARYFPGTMLFP3M4G22HGA/|accessdate=3 Jul 2023}}</ref> 、[[実業家]]、テレビドラマ・映画[[プロデューサー]](* [[1955年]]) * 2020年 - [[岩手富士祐一]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1963年]]) * [[2021年]] - [[飯塚繁雄]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPDL150MPDKUTIL06C.html |title=飯塚繁雄さん死去、拉致被害者家族会の前代表 田口八重子さん兄 |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞]]デジタル |date=18 Dec 2021}}</ref>、[[人権活動家]](* [[1938年]]) * 2021年 - [[神田沙也加]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20211219-OHT1T51004.html?outputType=amp|title=神田沙也加さん、急死直前に父・神田正輝と電話していた|date=19 Dec 2021|accessdate=3 Jul 2023|publisher=[[スポーツ報知]]}}</ref>、女優、[[歌手]]、[[声優]](* [[1986年]]) * [[2022年]] - [[鈴木陽斗実]]、声優(* [[1996年]]) == 記念日・年中行事 == * [[国際移民デー]] *: [[2000年]]の国連総会で制定された[[国際デー]]。[[1990年]]のこの日、国連総会で「[[全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約]]」が採択されたことを記念。 * [[独立記念日]]({{QAT}}) *: [[1825年]]のこの日、サーニー・ビン・ムハンマドが[[カタール]]の初代[[首長]]となったことを記念。2006年までは[[1971年]]にイギリスの保護領から独立した[[9月3日]]が独立記念日であったが、[[2007年]]から変更された。 * 共和国の日({{NER}}) *: [[1958年]]のこの日、ニジェールが[[フランス共同体]]内の自治国となった。[[1960年]][[8月3日]]に完全独立した。 * 国連加盟記念日({{JPN}}) *: [[1956年]]12月18日に日本の[[国際連合]]加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認されたことに由来。 * [[東京駅]]の日({{JPN}}) *: [[1914年]](大正3年)のこの日、皇居の正面に現在の日本を代表する首都圏の駅である東京駅が開業した。[[2014年]](平成26年)で開業100周年を迎えた。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1218|date=Jul 2023}} * [[1998年]] - キュリアン邸事件発生<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hod.sega.jp/2and3/story/ |title=ザ ハウス オブ ザ デッド 2&3 |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20071224153407/http://hod.sega.jp/2and3/story/ |archive-date=24 Dec 2007}}</ref>。(ゲーム『[[ザ・ハウス・オブ・ザ・デッドシリーズ|ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド]]』シリーズ) * [[2006年]] - 過去365日が「時空改変者」によって改変される。([[ライトノベル]]『[[涼宮ハルヒの消失]]』) * [[3000年]] - 「リアル鬼ごっこ」開始。(小説『[[リアル鬼ごっこ]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[2007年]] - 津村徹志、ドラマ『[[まれ]]』の登場人物<ref>第127話 命名書より</ref> * 生年不明 - 安芸倫也、ライトノベル・アニメ『[[冴えない彼女の育てかた]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://saenai-movie.com/character/tomoya_aki/ |title=安芸倫也 |access-date= 3 Jul 2023 |publisher=[[丸戸史明]]・[[深崎暮人]]・[[KADOKAWA]] ファンタジア文庫刊/映画も冴えない製作委員会 |work=劇場版「冴えない彼女の育てかたFine」}}</ref> * 生年不明 - 河川唯、漫画・アニメ『[[ハイスクール!奇面組]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 天牢星ミノタウロスのゴードン、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=74 |title=天牢星(てんろうせい)ミノタウロスのゴードン |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[車田正美]] |website=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』}}</ref> * 生年不明 - バイロン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Byron.html |title=バイロン |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 3 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 象主、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Zunesha.html |title=象主(ズニーシャ) |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 3 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 花野咲、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 平賀源外、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|gintama_dkg_app|810318677149028356}}</ref> * 生年不明 - 螺堂レン、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 國崎冬政、漫画『[[國崎出雲の事情]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 御堂楓、漫画『[[ハレルヤオーバードライブ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 冬田美鈴、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tweet_maruko|1472008716417331203}}</ref> * 生年不明 - バーグレット、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|date=2009-03-10|title=EREMENTAR GERADアルティメットガイド|series=BLADE COMICS|page=32|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861276163}}</ref> * 生年不明 - フィルカ、漫画『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 南あや、漫画『[[生徒会のヲタのしみ。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 亀梨総司、漫画・アニメ『[[青春×機関銃]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 氷堂美智留、ライトノベル・アニメ『[[冴えない彼女の育てかた]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://saenai-movie.com/character/michiru_hyodo/ |title=氷堂美智留 |access-date= 3 Jul 2023 |publisher=[[丸戸史明]]・[[深崎暮人]]・[[KADOKAWA]] ファンタジア文庫刊/映画も冴えない製作委員会 |work=劇場版「冴えない彼女の育てかたFine」}}</ref> * 生年不明 - 水崎紫乃、アニメ『[[BLUE REFLECTION RAY/澪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.bluereflection-ray.com/character/chara08/ |title=水崎 紫乃 |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[コーエーテクモゲームス]]/AASA |work=『BLUE REFLECTION RAY/澪』}}</ref> * 生年不明 - 七瀬優、ゲーム・アニメ『[[センチメンタルグラフティ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1472038917046038529}}</ref> * 生年不明 - ゼネテス・ファーロス、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 横山千佳、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20183 |title=横山 千佳(よこやま ちか) |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 花輪やよい、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|677639498130456577}}</ref> * 生年不明 - レオニー、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=181&cate=name&cont=Leonie |title=レオニー |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[ジークレスト| GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 山吹楓、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/kaede.html |title=山吹 楓 |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=5 Nov 2023 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]]}}</ref> * 生年不明 - 丸山利恵、ゲーム・アニメ『[[CUE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.cue-liber.jp/character-13 |title=丸山 利恵 |access-date=5 Nov 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『CUE!』}}</ref> * 生年不明 - イデア・シュラウド、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/idia |title=イデア・シュラウド |access-date=3 Jul 2023 |publisher=[[ディズニー|Disney]] [[アニプレックス|Aniplex]] |work=『Disney TWISTED WONDERLAND』}}</ref> * 生年不明 - ヌヴィレット、ゲーム『[[原神]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://twitter.com/Genshin_7/status/1736597413484191766 |title=原神(Genshin)公式のポスト (1736597413484191766) |access-date=2023年12月18日 |publisher=}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|18 December}} {{新暦365日|12|17|12|19|[[11月18日]]|[[1月18日]]|[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]|1218|12|18}} {{1年の月と日}}
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12月21日
12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。", "title": null } ]
12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月21日'''(じゅうにがつにじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から355日目([[閏年]]では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。 == できごと == * [[69年]] - [[ローマ内戦 (68年-70年)|ローマ内戦]]: [[ウェスパシアヌス]]が元老院より皇帝に承認される。 * [[1185年]]([[文治]]元年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[文治の勅許]]。朝廷が[[源頼朝]]に対し諸国への[[守護]]・[[地頭]]の設置・任免を許可。 * [[1620年]] - [[ピルグリム・ファーザーズ]]が、現在[[プリマス・ロック]]として知られる岩に上陸。 * [[1844年]] - [[ロッチデール先駆者協同組合]]設立。 * [[1872年]] - [[イギリス]]の[[帆船]]「[[チャレンジャー号 (1858)|チャレンジャー号]]」が[[チャレンジャー号探検航海|世界探検]]のため[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]を出港。 * [[1891年]] - [[ジェームズ・ネイスミス]]が考案した[[バスケットボール]]の試合が初めて行われる。 * [[1906年]] - [[阪神電気鉄道]]の梅田駅が開業。 * [[1912年]] - 日本で[[桂太郎]]が第15代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第3次桂内閣]]が発足。 * [[1913年]] - [[クロスワードパズル]]が『ニューヨークワールド』誌に掲載され、クロスワードパズルが広く知られるきっかけとなる。 * [[1917年]] - 大之浦桐野炭鉱(現:[[福岡県]][[宮若市]])にて爆発事故。死者・行方不明者361人<ref>{{Cite web|和書 |url=http://bosaijoho.jp/reading/years/item_6658.html |title=2007年12月の周年災害 |publisher=防災情報新聞 |date= |accessdate=2021-08-27}}</ref>。 * [[1917年]] - [[明治乳業]]設立。 * [[1937年]] - 世界初のカラー長編[[アニメーション映画]]『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』が公開。 * 1937年 - [[兵庫県]][[神戸市]][[長田区]]明泉寺町にある[[丸山断層]]が「丸山衝上断層」として国の[[天然記念物]]に指定される。 * [[1938年]] - [[駆逐艦]][[ジャヴェリン (駆逐艦)|HMSジャベリン]]進水。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[大日本帝国|日本]]と[[タイ王国|タイ]]の間で[[日泰攻守同盟条約|日泰同盟]]が締結される。 * [[1946年]] - [[昭和南海地震]]が発生。 * [[1958年]] - [[フランス第五共和政]]初の[[フランスの大統領|大統領]]選挙。[[シャルル・ド・ゴール]]が当選。 * [[1959年]] - [[福岡県]][[稲築町]]の三井鉱業山野鉱業所第1坑で爆発事故が発生。死亡7人、重軽傷者24人。また同日、同県[[鞍手町]]の三菱鉱業新入鉱業所第6坑で爆発事故が発生。死亡22人、重軽傷19人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=141|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1961年]] - [[中央公論社]]が月刊誌『[[思想の科学]]』の[[天皇制]]特集号(1962年1月号)を発売中止とする。 * [[1963年]] - [[義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律]]公布。 * [[1964年]] - 元[[俳優]]の男が、[[仙台市]]の会社社長の三男の幼稚園児をニセ電話で呼び出し[[誘拐]]・殺害([[仙台幼児誘拐殺人事件]])。 * [[1965年]] - [[あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約]]が国際連動総会で採択される。 * [[1968年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が世界初の有人月周回宇宙船「[[アポロ8号]]」を打上げ。 * 1968年 - [[京釜高速道路]]の[[漢南インターチェンジ|漢南IC]] - [[水原インターチェンジ|水原IC]]、[[京仁高速道路]]の楊平IC - 佳佐ICが開通。[[大韓民国]]初の[[高速国道|高速道路]]。 * [[1971年]] - [[三崎事件]]。 * 1971年 - [[首都高速3号渋谷線]]・[[渋谷出入口|渋谷]] - [[東京インターチェンジ|東名東京IC]]が開通し、[[首都高速道路]]と[[東名高速道路]]が接続。同時に首都高速3号渋谷線と東名高速道路が全線開通。 * [[1972年]] - 「[[東西ドイツ基本条約]]」調印。関係正常化へ。 * [[1973年]] - [[小笠原諸島]]・[[西之島]]の横に海底火山活動により出現した新島を[[西之島|西之島新島]]と命名。 * [[1975年]] - [[大三島橋]]で起工式。[[本州四国連絡橋]]で初の起工。 * 1975年 - 第1回[[コミックマーケット]]開催。 * [[1976年]] - 初の[[ジャンボ宝くじ]]発売。売り場に購入客が殺到して2人が死亡し、これにより翌年から予約制となる。 * [[1978年]] - [[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の[[岩本町駅|岩本町]] - [[東大島駅|東大島]]間が開業。<!-- 同線初の開業区間 --> * [[1979年]] - [[リニアモーターカー]]マグレブML-500が{{Val|517|ul=km/h}}での走行記録を作る。 * [[1982年]] - [[谷津遊園]]が閉園。 * [[1988年]] - [[パンアメリカン航空103便爆破事件]]。 * 1988年 - [[富山市立奥田中学校いじめ自殺事件]]<ref name="武田04">[[武田さち子]]「13 いじめ自殺 1988年12月21日 Aさん(13)」 『あなたは子どもの心と命を守れますか!』WAVE出版、2004年2月22日、39-44頁。</ref>。 * [[1989年]] - [[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]の勃発。 [[首都]][[ブカレスト]]で官製集会の最中に爆発事件が発生した。 * [[1991年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: [[アルマトイ|アルマアタ]]で[[ソビエト連邦]]を構成する11共和国の首脳による会議が開かれ、ソビエト連邦の消滅を決議([[アルマ・アタ宣言 (1991年)|アルマ・アタ宣言]])。 * [[1993年]] - 新幹線[[新幹線952形・953形電車|952形]] (STAR21) が高速走行試験で{{Val|425|u=km/h}}を達成。 * 1993年 - [[伊豆急行]]に戦後初の女性運転士デビュー。 * 1993年 - [[中日ドラゴンズ|中日]]から[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]宣言した[[落合博満]][[内野手]]が[[読売ジャイアンツ|巨人]]へ移籍。 <!-- 12月8日 * [[1994年]] - ドイツの重イオン研究所で111番目の[[元素]]([[レントゲニウム|ウンウンウニウム]])合成。 --> * [[1994年]] - [[日本テレビ郵便爆弾事件]]。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]に郵送された[[安達祐実]]宛の郵便物が爆発し、[[サンミュージックグループ|サンミュージック]]関連会社の社員ら3人が怪我を負う。 * 1994年 - [[鶴見つばさ橋]]が開通。 * [[1999年]] - [[横山ノック]][[大阪府知事]]が大阪地方検察庁から強制わいせつ罪で在宅起訴。同日、知事辞職願を提出。 * 1999年 - [[京都小学生殺害事件]]。 * 1999年 - [[東海村JCO臨界事故]]で被曝したJCO社員男性(35歳)が東大病院で死亡。 * [[2013年]] - [[猪瀬直樹]]元都知事が提唱した[[都営バス]]24時間営業の試行が、[[渋谷駅]] - [[六本木]]間で始まる<ref>{{Cite news |date=2013-12-21 |url=https://news.ntv.co.jp/category/society/242563 |title=都バス24時間運行 渋谷~六本木で開始 |newspaper=[[日テレNEWS24]] |publisher=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |accessdate=2018-03-27}}</ref>。 * [[2017年]] - [[大韓民国]]、[[忠清北道]][[堤川市]]の[[複合商業施設]]で火災が発生<ref>{{Cite news |date=2017-12-22 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2492486021122017CC1000/ |title=韓国中部で火災、29人死亡 日本人被害情報なし |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2018-03-27}}</ref>。29人が死亡([[堤川スポーツセンター火災]])。 * [[2022年]] - [[ウクライナ]]の[[ウォロディミル・ゼレンスキー]][[ウクライナの大統領|大統領]]が[[2022年ウォロディミル・ゼレンスキーのアメリカ合衆国訪問|訪米]]<ref>{{Cite web|和書 |title=ウクライナ大統領がワシントン到着 米、パトリオット供与表明 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3444372 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-01-22 |language=ja}}</ref>。[[ウクライナ侵攻 (2022年)|ウクライナ侵攻]]開始後初となる海外訪問で[[ジョー・バイデン|バイデン]]大統領と会談を行った<ref>{{Cite web|和書 |title=ゼレンスキー氏、ホワイトハウスでバイデン氏と会談 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3444373 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-01-22 |language=ja}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1117年]] - [[トマス・ベケット]]<ref>Michael Walsh, ed. "Butler's Lives of the Saints." (HarperCollins Publishers: New York, 1991), p. 430.</ref>、[[カンタベリー大司教]](+ [[1170年]]) * [[1401年]] - [[マサッチオ]]、[[画家]](+ [[1428年]]) * [[1568年]]([[永禄]]11年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[黒田長政]]、[[福岡藩]]初代藩主(+ [[1623年]]) * [[1639年]] - [[ジャン・ラシーヌ]]、[[劇作家]](+ [[1699年]]) * [[1652年]]([[承応]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[松平頼常]]、[[高松藩]]2代藩主(+ [[1704年]]) * [[1742年]]([[寛保]]2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[本多忠興]]、[[神戸藩]]3代藩主(+ [[1766年]]) * [[1745年]]([[延享]]2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[水野勝起]]、[[結城藩]]5代藩主(+ [[1783年]]) * [[1773年]] - [[ロバート・ブラウン]]、[[植物学者]](+ [[1858年]]) * [[1780年]]([[安永 (元号)|安永]]9年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]) - [[黒住宗忠]]、[[黒住教]]の開祖(+ [[1850年]]) * [[1795年]]([[寛政]]7年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[水野忠啓]]、[[新宮藩]]8代藩主(+ [[1848年]]) * [[1804年]] - [[ベンジャミン・ディズレーリ]]、[[政治家]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1881年]]) * [[1805年]] - [[トーマス・グレアム]]、[[化学者]](+ [[1869年]]) * [[1815年]] - [[トマ・クチュール]]、[[画家]](+ [[1879年]]) * 1815年([[文化 (元号)|文化]]12年11月21日) - [[加藤泰理]]、[[新谷藩]]8代藩主(+ [[1867年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[生駒親敬]]、[[矢島藩]]初代藩主(+ [[1880年]]) * [[1850年]] - [[ウィリー・リンカーン]]、[[エイブラハム・リンカーン]]の三男(+ [[1862年]]) * 1850年 - [[ズデニェク・フィビフ]]、[[作曲家]](+ [[1900年]]) * [[1875年]] - [[大西良慶]]、[[僧侶]]、[[清水寺]]貫主(+ [[1983年]]) * [[1878年]] - [[ヤン・ウカシェヴィチ]]、[[論理学|論理学者]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1956年]]) * [[1878年]] - [[ヨシフ・スターリン]]、[[政治家]](+[[1953年]]) * [[1887年]] - [[サイ・ウィリアムズ]]、元プロ野球選手(+ [[1974年]]) * [[1890年]] - [[ハーマン・J・マラー]]、[[遺伝学者]](+ [[1967年]]) * [[1898年]] - [[茅誠司]]、[[物理学者]](+ [[1988年]]) * [[1899年]] - [[灘尾弘吉]]、政治家、第60・61代[[衆議院議長]](+ [[1994年]]) * [[1904年]] - ジャン・バザン ([[:en:Jean René Bazaine|Jean René Bazaine]])、[[画家]](+ [[2001年]]) * [[1905年]] - [[アンソニー・パウエル (作家)|アンソニー・パウエル]]、小説家(+ [[2000年]]) * [[1906年]] - [[林竹二]]、[[教育哲学|教育哲学者]](+ [[1985年]]) * [[1909年]] - [[松本清張]]、[[小説家]](+ [[1992年]]) * [[1911年]] - [[ジョシュ・ギブソン]]、[[野球選手]](+ [[1947年]]) * [[1914年]] - [[テオドール・ワイセンベルガー]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1950年]]) * 1914年 - [[池田弥三郎]]、[[日本文学研究者|国文学者]]、[[民俗学|民俗学者]]、[[随筆家]](+ [[1982年]]) * [[1917年]] - [[ハインリヒ・ベル]]、[[ノーベル文学賞#歴代受賞者|ノーベル賞作家]](+ [[1985年]]) * [[1918年]] - [[クルト・ヴァルトハイム]]、第4代[[国際連合事務総長|国連事務総長]]、元[[連邦大統領 (オーストリア)|オーストリア大統領]](+ [[2007年]]) * [[1920年]] - [[アリシア・アロンソ]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付師]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|title=アリシア・アロンソさんが死去 キューバのバレリーナ|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51141760Y9A011C1CN8000/|website=日本経済新聞 電子版(2019年10月18日)|accessdate=2020-11-08|language=ja|publisher=}}</ref>) * [[1921年]] - [[パウル・ファルク]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2017年]]) * [[1924年]] - [[勝井祐輔]]、実業家(+ [[2006年]]) * [[1927年]] - [[小川国夫]]、[[作家]](+ [[2008年]]) * [[1928年]] - [[佐藤慶]]、[[俳優]]、[[ナレーター]](+ [[2010年]]) * [[1935年]] - [[秦恒平]]、小説家 * 1935年 - [[小谷承靖]]、[[映画監督]]、[[演出家]]、[[脚本家]](+ [[2020年]]) * [[1936年]] - [[葛城隆雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2013年]]) * [[1937年]] - [[ジェーン・フォンダ]]、女優 * [[1938年]] - [[夏樹静子]]、小説家(+ [[2016年]]) * [[1940年]] - [[フランク・ザッパ]]、[[音楽家]](+ [[1993年]]) * 1940年 - [[早川勝 (政治家)|早川勝]]、政治家 * [[1942年]] - [[胡錦濤]]、元[[中国共産党中央委員会総書記]]、[[中華人民共和国主席]] * [[1943年]] - [[ウォルター"ウルフマン"ワシントン]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1944年]] - [[マイケル・ティルソン・トーマス]]、[[指揮者]] * [[1946年]] - [[カール・ウィルソン]]、ミュージシャン([[ザ・ビーチボーイズ]])(+ [[1998年]]) * 1946年 - [[汀夏子]]、[[俳優|女優]]、[[タレント]]、元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]] * [[1947年]] - [[黒田正宏]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[パコ・デ・ルシア]]、 [[ギタリスト]](+ [[2014年]]) * 1947年 - [[若井小づえ]]、[[漫才師]]([[若井小づえ・みどり]])(+ [[1999年]]) * [[1948年]] - [[サミュエル・L・ジャクソン]]、俳優 * 1948年 - [[デーブ・キングマン]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[神田正輝]]、俳優 * [[1951年]] - [[山瀬秀雄]]、俳優 * [[1952年]] - [[ウォーキーン・アンドゥハー]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * [[1953年]] - [[牧村三枝子]]、[[演歌歌手]] * 1953年 - [[安斎肇]]、[[イラストレーター]]、[[デザイナー]]、[[タモリ倶楽部#空耳アワー|ソラミミスト]] * 1953年 - [[アンドラーシュ・シフ]]、[[ピアニスト]] * [[1954年]] - [[片岡鶴太郎]]、タレント、俳優、[[画家]] * 1954年 - [[クリス・エバート]]、[[テニス]]選手 * [[1955年]] - [[関口和之]]、ミュージシャン([[サザンオールスターズ]]) * 1955年 - [[田旗浩一]]、[[映像作家]] * [[1956年]] - [[大島敦]]、政治家 * [[1957年]] - [[喜多川務]]、[[スーツアクター]]、俳優 * [[1958年]] - [[金子哲]]、元俳優 * 1958年 - [[柳沢高雄]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[フローレンス・ジョイナー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1998年]]) * [[1960年]] - [[アンディ・バンスライク]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[中嶋敦子]]、[[キャラクターデザイナー]] * 1961年 - [[佐藤満 (レスリング選手)|佐藤満]]、レスリング選手 * [[1962年]] - [[小谷野敦]]、比較文学者 * 1962年 - [[国松慶輝]]、元プロ野球選手 * 1962年 - [[堀内博之]]、[[キャラクターデザイナー]] * 1962年 - [[日野美歌]]、[[演歌歌手]] * [[1963年]] - [[ドノバン・ラドック]]、[[プロボクサー]] * 1963年 - [[髙階恵美子]]、政治家 * [[1964年]] - [[幾原邦彦]]、[[アニメーション監督]] * 1964年 - [[恵俊彰]]、[[タレント]]、[[司会者]]([[ホンジャマカ]]) * [[1965年]] - [[五十嵐卓哉]]、アニメーション監督 * 1965年 - [[本木雅弘]]、俳優、元[[歌手]](元[[シブがき隊]]) * [[1966年]] - [[キーファー・サザーランド]]、俳優 * [[1967年]] - [[草野マサムネ]]、ミュージシャン([[スピッツ (バンド)|スピッツ]]) * 1967年 - [[三浦まり]]、政治学者 * 1967年 - [[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]、元政治家、第3代[[グルジアの大統領一覧|グルジア大統領]] * [[1969年]] - [[ジュリー・デルピー]]、女優 * [[1970年]] - [[谷繁元信]]、元プロ野球選手、監督 * [[1971年]] - [[はな (タレント)|はな]]、タレント、[[ファッションモデル]] * 1971年 - [[マルガリータ・ドロビアツコ]]、[[フィギュアスケート選手]] * [[1972年]] - アーウィン・シュロット([[:en:Erwin Schrott|Erwin Schrott]])、[[オペラ歌手]] * 1972年 - [[ラトロイ・ホーキンス]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[カリー・ウェブ]]、プロゴルファー * 1974年 - [[糸川正晃]]、政治家 * [[1975年]] - [[堀田季何]]、[[歌人]]、[[俳人]] * [[1977年]] - [[三重野瞳]]、歌手 * 1977年 - [[エマニュエル・マクロン]]、政治家、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]] * 1977年 - [[バディ・カーライル]]、元プロ野球選手 * 1977年 - [[須磨ノ富士茂雄]]、元大相撲力士 * [[1978年]] - [[前川涼]]、[[漫画家]] * 1978年 - [[ディッキー・ゴンザレス]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[伊藤彰 (野球)|伊藤彰]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[アンバー・コーウィン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1979年]] - TAKUYA∞、歌手([[UVERworld]]) * 1979年 - [[吉川ひなの]]、タレント、ファッションモデル * 1979年 - [[YAMOTO]]、[[シンガーソングライター]] * 1979年 - [[林稔幸]]、野球選手 * [[1980年]] - [[白川みなみ]]、[[タレント]] * [[1981年]] - [[磋牙司洋之]]、元大相撲力士 * 1981年 - [[高瀬弘美]]、政治家 * 1982年 - [[ITOKiN]]、[[画家]] * [[1982年]] - [[フィリップ・ハンバー]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[濱田武]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[狩野新]]、[[サッカー]]選手 * [[1983年]] - [[上原美佐 (1983年生)|上原美佐]]、元女優 * 1983年 - [[スティーヴン・ユァン]]、俳優 * 1983年 - SaCo、[[ボーカル]](元[[少年カミカゼ]]、HELLOs) * 1983年 - [[ジョン・メイベリー・ジュニア]]、プロ野球選手 * [[1984年]] - [[中澤優子 (グラビアアイドル)|中澤優子]]、元[[グラビアアイドル]] * 1984年 - [[ピカソ利光]]、演出家 * 1984年 - [[ヴォーン・チピアー]]、フィギュアスケート選手 * [[1985年]] - [[柳浩太郎]]、俳優(元[[D-BOYS]]) * 1985年 - [[ブライアン・シュリッター]]、プロ野球選手 * [[1987年]] - [[デニス・アレクセーエフ]]、陸上競技選手 * 1987年 - [[寺川俊平]]、[[テレビ朝日]][[アナウンサー]] * 1987年 - [[大和貴恵]]、ミュージカル俳優 * [[1988年]] - [[武田奈也]]、元[[フィギュアスケート選手一覧|フィギュアスケート選手]] * 1988年 - [[松浦拓弥]]、[[サッカー選手]] * 1988年 - [[広瀬未花]]、 ファッションモデル * 1988年 - 坂口亮、ミュージシャン([[ORANGE POST REASON]]) * [[1989年]] - [[栃本翔平]]、[[ノルディックスキー|ノルディック]][[スキージャンプ]]選手 * 1989年 - [[田島慎二]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[ジェイ・ジョンソン]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[中村茜]]、[[野球選手]] * 1989年 - [[里綾実]]、野球選手 * 1989年 - [[向理来]]、AV男優 * 1989年 - [[首里のすけ]]、タレント * [[1990年]] - [[吉田絢乃]]、女優 * 1990年 - [[ケンドール・グレーブマン]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[マイケル (ファッションモデル)|マイケル]]、元モデル * 1991年 - [[森本裕介]]、[[IDEC]]勤務、ソフトウェアエンジニア、[[SASUKE]]史上4人目の完全制覇者 * 1991年 - [[大村孟]]、元プロ野球選手 * [[1992年]] - [[梶原ひかり]]、俳優 * 1992年 - [[上杉真央]]、歌手([[fripSide]]) * [[1993年]] - [[ルゥティン]]、声優 * [[1996年]] - [[馬嘉伶]]、アイドル([[AKB48]]) * 1996年 - [[熊沢学]]、俳優 * [[1997年]] - [[永井理子]]、女優、ファッションモデル * [[1998年]] - [[長谷川白紙]]、シンガーソングライター * 1998年 - [[梅澤太一]]<ref name="M08-1143">{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M08-1143 |title=梅澤太一 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2020-11-11}}</ref>、俳優 * 1998年 - [[ジョセフ・ラジニ・レメティキ|ジョセフ・ラジニ]]、陸上選手 * [[1999年]] - [[神月柚莉愛]]、女優、歌手 * [[2002年]] - [[愛子 (アイドル)|愛子]]、歌手([[大小姐]]) * [[2003年]] - [[うたな]]、ファッションモデル、タレント * 生年不明 - [[新谷さなえ]]、歌手 * 生年不明 - [[清和祐子]]、声優 * 生年不明 - [[笹岡雄介]]、声優 * 生年不明 - [[酒村ゆっけ、]]、[[YouTuber]] * 生年不明 - [[ユリイ・カノン]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twitter.com/yurrycanon/status/907219771212546050?s=21 |title=本人によるツイート |publisher =Twitter |accessdate=2022-04-08}}</ref>、[[ボカロP]]、[[作詞家]]、[[作曲家]] == 忌日 == * [[1375年]] - [[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]、[[詩人]](* [[1313年]]) * [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[徳川治保]]<ref>{{Kotobank|徳川治保}}</ref>、[[常陸国]][[水戸藩]]の第6代藩主(* [[1751年]]) * [[1822年]] - [[ギデオン・グレンジャー]]、第7代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1767年]]) * [[1860年]] - [[徐有壬]]、[[清]]末の官僚・数学家(* [[1800年]]) * [[1889年]] - [[フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット]]、[[地質学|地質学者]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1809年]]) * [[1899年]] - [[シャルル・ラムルー]]、[[指揮者]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1834年]]) * [[1937年]] - [[フランク・ケロッグ]]、 政治家、[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] (* [[1856年]]) * [[1940年]] - [[スコット・フィッツジェラルド]]、小説家(* [[1896年]]) * [[1944年]] - [[岡田福吉]]、[[プロ野球選手]](* [[1917年]]) * [[1945年]] - [[ジョージ・パットン]]、[[軍人]](* [[1885年]]) * [[1947年]] - [[島田俊雄]]、[[政治家]]、元[[衆議院議長]](* [[1877年]]) * [[1957年]] - [[長谷健]]、[[小説家]](* [[1904年]]) * [[1959年]] - [[北大路魯山人]]、[[芸術家]](* [[1883年]]) * [[1966年]] - [[土橋修]]、プロ野球選手(* [[1944年]]) * [[1974年]] - [[福田雅之助]]、[[テニス]]選手(* [[1897年]]) * [[1977年]] - 片桐軍三、フリー[[ルポライター]](* [[1941年]]) * [[1978年]] - [[佐野周二]]、[[俳優]](* [[1912年]]) * [[1980年]] - [[梅田晴夫]]、[[劇作家]]、[[随筆家]](* [[1920年]]) * [[1982年]] - [[邦創典]]、俳優(* [[1903年]]) * [[1983年]] - [[ポール・ド・マン]]、[[文学理論|文学理論家]](* [[1919年]]) * [[1985年]] - [[藤原釜足]]、俳優(* [[1905年]]) * 1985年 - [[増田甲子七]]、政治家(* [[1898年]]) * [[1988年]] - [[ニコ・ティンバーゲン]]、[[動物行動学|動物行動学者]]、[[鳥類学|鳥類学者]](* [[1907年]]) * [[1990年]] - [[マグダ・ユーリン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1894年]]) * [[1992年]] - [[ナタン・ミルシテイン]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1903年]]) * 1992年 - [[アルバート・キング]]、[[ブルース]][[ミュージシャン]](* [[1923年]]) * [[1995年]] - [[木村修治]]、[[名古屋女子大生誘拐殺人事件]]の犯人(* [[1950年]]) * [[1999年]] - [[大川慶次郎]]、[[競馬評論家]](* [[1929年]]) * [[2001年]] - [[キラ・イワノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1963年]]) * [[2004年]] - [[今西祐行]]、[[児童文学作家]](* [[1923年]]) * [[2005年]] - [[大沢清輝]]、[[天文学者]](* [[1917年]]) * 2005年 - [[エルロッド・ヘンドリックス]]、元プロ野球選手(* [[1940年]]) * [[2006年]] - [[フィリパ・ピアス]]、児童文学作家(* [[1920年]]) * 2006年 - [[サパルムラト・ニヤゾフ]]、[[トルクメニスタン]]大統領(* [[1940年]]) * [[2008年]] - [[相賀徹夫]]、[[小学館]]第2代社長(* [[1925年]]) * 2008年 - [[佐々木吉郎]]、プロ野球選手(* [[1940年]]) * [[2009年]] - [[アン・ニクソン・クーパー]]、市民活動家(* [[1902年]]) * [[2010年]] - [[エンツォ・ベアルツォット]]、[[サッカー]]監督(* [[1927年]]) * [[2011年]] - [[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、元大相撲力士、プロレスラー(* [[1940年]]) * [[2016年]] - [[菅井えり]]、[[歌手|ヴォーカリスト]](生年不明<!--渡辺格 (ミュージシャン)の妻。生年については公表していないため-->) * [[2017年]] - [[ブルース・マッカンドレス2世]]、軍人、[[宇宙飛行士]](* [[1937年]]) * 2017年 - [[石川忠]]、[[作曲家]]、[[インダストリアル]]・ミュージシャン(* [[1966年]]) * [[2019年]] - [[エマニュエル・ウンガロ]]<ref name="KYODO">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20191222221612/https://this.kiji.is/581572415282807905|title=服飾デザイナー、ウンガロ氏死去 自らの名前冠したブランドで名声|agency=共同通信|date=2019-12-23|accessdate=2020-11-21}}</ref>、[[ファッションデザイナー]] (* [[1933年]]) * [[2020年]] - [[今井ゆうぞう]]<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2020/12/28/0013971580.shtml |title= 今井ゆうぞうさん急死、43歳 脳内出血で…10代目うたのおにいさん |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2020-12-28 |accessdate= 2021-05-04 }}</ref>、歌手、俳優(* [[1977年]]) * 2020年 - [[ケビン・グリーン]]<ref>https://pittsburgh.cbslocal.com/2020/12/21/nfl-kevin-greene-dies-at-age-of-58/</ref>、[[アメリカンフットボール]]選手、コーチ(* [[1962年]]) * [[2022年]] - [[高見知佳]]、女優、歌手(* [[1962年]]) == 記念日・年中行事 == * クロスワードの日 *: [[1913年]]のこの日の『ニューヨーク・ワールド』紙の[[日曜日|日曜]]版に[[クロスワードパズル]]が掲載され、クロスワードパズルが世間に知られるきっかけとなったことから。 * [[回文]]の日({{JPN}}) *: 「回文俳句」などを手がける宮崎二健が制定。「1221」が回文のようになっていることから。 * [[遠距離恋愛]]の日({{JPN}}) *: 1221の並び方が、両端が離れた1人を表し、中の2が2人一緒に仲良くしていることを表すということで、長野のFM局のアナウンサーの発案で作られた。 * [[バスケットボールの日]] *: [[1891年]]のこの日に、アメリカ国際YMCAトレーニングスクールにおいて、世界で初めての[[バスケットボール]]の試合が行われたことから<ref>{{Cite web|和書 |url = http://bb1221.com/about/ |title = 宣誓「バスケの日」 « 12月21日はバスケットボールの日 |accessdate=2014-01-16 }}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1221|date=2011年7月}} * 1872年 - フィリアス・フォッグらが期限通りに出発地点のロンドン・リフォームクラブに到着。(小説『[[八十日間世界一周]]』) * 19―年 - 月曜日、ヨーク・ハッターが[[失踪]]。(小説『[[Yの悲劇]]』プロローグ第1場<ref group="注">曜日は死体が発見されたのが翌年2月2日火曜日であること、年は[[遺書]]に19―年12月21日とあることによる。</ref>) * 1961年 - 夕方、[[ジェームズ・ボンド]]は新任の[[秘書]]のメアリー・グッドナイトと共に持参する書類を点検し、7時に退庁する。帰路の[[タクシー]]の車中で、「帰宅したら[[ウォッカ・トニック]]二杯と[[いり卵]]の大皿を飲食。更にウォッカ・トニック二杯と[[セコバルビタール|セコナール]]を飲んで就寝しよう」と考える。(小説『[[女王陛下の007#出版|女王陛下の007号]]』第8章) * 1966年 - [[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]発見が報じられる。(特撮『[[ウルトラマン]]』) * 2000年 - [[国会議事堂]]が爆破される。(漫画『[[20世紀少年]]』) * 2012年 - 「[[冬至]]ごろに世界の最後が訪れる」としていた古代[[マヤ人]]の予言通り、地球上の各地で未曽有の[[地殻変動|地殻大変動]]が起き始める。(映画『[[2012 (映画)|2012]]』) * ?年 - 奉心祭で、白銀御行が四宮かぐやに告白させる為にウルトラロマンティック作戦を行う。(漫画『[[かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1964年]] - キム・カッファン、ゲーム『[[餓狼伝説]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/kim.php |title=キム |access-date=2022-12-29 |publisher=SNKプレイモア |work=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://kofg.net/character8/ |title=キム・カッファン |access-date=2022-12-29 |publisher=[[ビクターエンターテインメント|Victor Entertainment Games]] [[SNK (2001年設立の企業) |SNK CORPORATION]] |work=『THE KING OF FIGHTERS for GIRLS』}}</ref><ref>{{Twitter status|snk_enter|943603287491612672}}</ref> * [[1967年]] - 木緑あかね、漫画・アニメ『[[Dr.スランプ]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Dr.スランプ]]』ジャンプ・コミックス4巻 88ページ Dr.スランプ ほよよ履歴書「木緑あかね」より</ref> * [[1987年]] - 葵ツバサ/ファイアー4、特撮『[[トミカヒーロー レスキューファイアー]]』の登場人物<ref>第46話の[[認識票]]の刻印より</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]754年 - ファリン、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=60|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - [[葉月いずな]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター・『[[霊媒師いずな|現代都市妖鬼考 霊媒師いずな]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ|year=1997|title=地獄先生ぬ~べ~大百科|page=108|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス デラックス]]|isbn=4-08-858883-5}}</ref> * 生年不明 - [[泥門デビルバッツ#小早川瀬那|小早川瀬那]]、漫画・アニメ『[[アイシールド21]]』の主人公 * 生年不明 - 鳴宮湊、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』の主人公<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1075949553499553792}}</ref> * 生年不明 - 神前美月、漫画・アニメ『[[最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。]]』の主人公 * 生年不明 - 神堂慧理那、小説・アニメ『[[俺、ツインテールになります。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/ore_twi/chara/chara03.html |title=神堂慧理那/テイルイエロー(CV:赤﨑千夏) |access-date=2022-09-11 |publisher=水沢 夢・[[小学館]]/製作委員会はツインテールになります。 TBS}}</ref> * 生年不明 - マザー・カルメル、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Mother_Carmel.html |title=マザー・カルメル |access-date=2022-09-11 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - 浮竹十四郎、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人 |year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 150 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-874079-3 }}</ref> * 生年不明 - ジャスデロ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite book |和書 |author= 星野桂|authorlink=星野桂 |year = 2008 |title = D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page = 150 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-874248-9 }}</ref><ref name=":1">{{Cite book|和書|author=星野桂 |title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|pages=88,164|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref> * 生年不明 - デビット、漫画・アニメ『D.Gray-man』に登場するキャラクター<ref name=":0" /><ref name=":1" /> * 生年不明 - エリ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|heroaca_anime|1473076435766378496}}</ref> * 生年不明 - 石渡なお、漫画・アニメ『[[ふらいんぐうぃっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|flying_tv|728166790702866432}}</ref> * 生年不明 - 蒼葉梢、漫画・アニメ『[[まほらば]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 天宮翔太、ドラマ『[[リズスタ -Top of Artists!-]]』の登場人物 * 生年不明 - 香宮和仁、漫画『[[紳士同盟†]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 加治木ゆみ、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=|year=2010|title=咲 Saki ラブじゃん♥ マホちゃんの必殺技完成!|page=124|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=ガイドブック|isbn=978-4-7575-2634-1}}</ref> * 生年不明 - 巻紫つばめ、漫画『[[マイぼーる!]]』に登場するキャラクター *生年不明 - 黄蝶ヶ崎柚、漫画・アニメ『[[恋愛暴君]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://renaiboukun.com/character/ |title=Character 黄蝶ヶ崎柚 |access-date=2022-09-11 |publisher=三星めがね・COMICメテオ/恋愛暴君製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 阿部ちな(アルベルティーナ2世)、漫画・アニメ『[[ひめゴト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=佃煮のりお|authorlink=佃煮のりお|year=2014|title=ひめゴト|volume=2|page=139|publisher=一迅社|isbn=978-4-7580-1368-0}}</ref> * 生年不明 - 黒桐鮮花、小説・アニメ『[[空の境界 the Garden of sinners]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ufotable|1076145572166361088}}</ref> * 生年不明 - 宮内レミィ、ゲーム『[[To Heart|ToHeart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aquaplus_jp|1075767789414043651}}</ref> * 生年不明 - 蒔原美佳、ゲーム・アニメ『[[アマガミSS]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 小野寺千鶴、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130703_186940/ |title=【ガールフレンド(仮)通信72】ヌードモデルはいかが? 小野寺千鶴ちゃん(CV:儀武ゆう子) |access-date=2022-09-11 |publisher=ファミ通App |date=2013-07-03}}</ref> * 生年不明 - 大河タケル、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター SideM|アイドルマスターSide M]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sidem-gs.idolmaster-official.jp/idol/takeru/ |title=大河 タケル |access-date=2022-09-11 |publisher=THE IDOLM@STER SIDE M GROWING STARS}}</ref> * 生年不明 - 黒根ひつぎ、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/kurone_hitsugi/ |title=黒根 ひつぎ |access-date=2022-09-11 |publisher=Happy Elements |work=あんさんぶるスターズ‼︎}}</ref> * 生年不明 - 石田三成、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1075948975893696513}}</ref> * 生年不明 - 桧山貴臣、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.standmyheroes.tv/character/detail_revel.html |title=Revel 桧山貴臣 CV:白井悠介 |accessdate=2022-09-11 |publisher=株式会社coly |website=TVアニメ『スタンドマイヒーローズ PIECE OF TRUTH』公式サイト}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|21 December}} {{新暦365日|12|20|12|22|[[11月21日]]|[[1月21日]]|[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]|1221|12|21}} {{1年の月と日}}
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12月22日
12月22日(じゅうにがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から356日目(閏年では357日目)にあたり、年末まであと9日ある。
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{{カレンダー 12月}} '''12月22日'''(じゅうにがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から356日目([[閏年]]では357日目)にあたり、年末まであと9日ある。 == できごと == * [[69年]] - 「[[ローマ内戦 (68年-70年)|四皇帝の年]]」における三番目のローマ皇帝[[アウルス・ウィテッリウス]]が[[ウェスパシアヌス]]軍に捕らえられ殺害される。 * [[1135年]] - {{仮リンク|ブローニュ伯|en| Count of Boulogne}}[[スティーブン (イングランド王)|エティエンヌ]]がスティーブン王として[[イングランド王]]に就任し戴冠式を行った。 * [[1185年]]([[文治]]元年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[鎌倉幕府]]による[[守護]]・[[地頭]]の設置が[[後白河天皇|後白河法皇]]によって正式に認められる。 * [[1216年]] - ローマ教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]が[[ドミニコ修道会]]を承認。 * [[1629年]]([[寛永]]6年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]])- [[紫衣事件]]で[[後水尾天皇]]が[[明正天皇]]に譲位。[[孝謙天皇|称徳天皇]]以来859年ぶりの[[女性天皇]]が誕生。 * [[1808年]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]・[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|第6番]]が[[ウィーン]]で[[1808年12月22日のベートーヴェンの演奏会|初演]]。 * [[1849年]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]が死刑執行直前に特赦が与えられ、シベリアへの流刑に減刑になる。 * [[1885年]] - 日本で[[内閣 (日本)|内閣]]制度が発足。[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]]に就任して、[[第1次伊藤内閣]]を組閣。また、それに伴い官営鉄道の運営母体が「工部省鉄道局」から内閣所属「鉄道局」へと改組。 * [[1891年]] - 日本の[[帝国議会]]で[[樺山資紀]][[海軍大臣|海相]]がいわゆる「[[蛮勇演説]]」を行う。 * [[1894年]] - [[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[牧神の午後への前奏曲]]』が初演。 * [[1895年]] - [[野中到 (気象学者)|野中到]]・千代子夫妻、冬季富士山頂における連続気象観測中、病に倒れる。救援隊の助けにより下山を開始<ref>{{Cite web|和書 |date=2020-08-30 |url=https://tenki.jp/suppl/shigematsu/2020/08/30/29949.html |title=8月30日は富士山測候所記念日!「芙蓉の人」野中夫妻の物語 |work=[[日本気象協会|日本気象協会 tenki.jp]] |accessdate=13 Mar 2023}}</ref>。 * [[1902年]] - [[年齢計算ニ関スル法律]]施行。それまでの[[数え年]]に代えて、[[満年齢]]を使用するよう定められる。 * [[1905年]] - [[日本]]と[[清]]が[[満州善後条約]]に調印。 * [[1936年]] - [[秋田県]][[鹿角市]]にあった尾去沢[[鉱滓ダム]]が決壊。同ダムは同年11月20日に決壊し、修復中のところ再度決壊した<ref>修復中のダムまた決壊、八十一人が遭難『東京日日新聞』昭和11年12月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p203 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1938年]] - [[南アフリカ]]のカルムナ川沖で、[[絶滅]]したとされていた[[シーラカンス]]の生存を確認。 * 1938年 - [[近衛文麿]]首相が[[近衛声明#第三次近衛声明(近衛三原則)|第三次近衛声明(近衛三原則)]]を発表。 * [[1944年]] - ベトナム解放軍部隊([[ベトナム人民軍]]の前身)結成。 * [[1945年]] - [[労働組合法]]公布。 * [[1947年]] - [[民法 (日本)|民法]]第四篇と第五篇を全面改正し、封建的な[[家族制度]]を撤廃。 * [[1954年]] - 初の[[プロレス]][[日本選手権]]開催。[[力道山]]が[[木村政彦]]を破り優勝。 * [[1968年]] - [[文化大革命]]: 『[[人民日報]]』が「[[知識青年]]は農民から再教育を受けなければならない」とする[[毛沢東]]の指示を報ずる([[上山下郷運動]])。 * [[1972年]] - [[ウルグアイ空軍機571便遭難事故]]でアンデス山中に墜落した乗客の生存者16人が71日ぶりに救出。 * [[1973年]] - [[オイルショック]]: [[石油需給適正化法]]と[[国民生活安定緊急措置法]]のいわゆる「石油緊急2法」が公布。 * [[1974年]] - フランス領[[コモロ諸島]]でフランスからの独立に関する住民投票。[[グランドコモロ島]]、[[アンジュアン島]]、[[モヘリ島]]は[[コモロ]]として独立し、[[マヨット]]はフランス領に留まることが決定。 * [[1978年]] - [[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議]]で[[改革開放]]政策への大転換が決定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://japanese.cri.cn/special/jntbjm/jntbjm/index.shtml |title=初心を保ち、使命を胸に刻む 会議編 活動重点を社会主義近代化建設に移すことを決定した第11期3中全会 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=中国国際放送局}}</ref>。 * [[1980年]] - 『人民日報』が「[[毛沢東|毛主席]]は文化大革命で過ち」と初めて名指しで批判。 * [[1988年]] - 環境保護活動家[[シコ・メンデス]]が暗殺される。 * [[1989年]] - [[ルーマニア]]の首都[[ブカレスト]]でデモ隊が政府機関を占拠。[[ニコラエ・チャウシェスク|チャウシェスク]]政権が崩壊。[[イオン・イリエスク]]が大統領に就任。 * 1989年 - [[ベルリン]]・[[ブランデンブルク門]]の開通式。18年ぶりに自由通行。 * [[1989年]] - 福岡県のJR九州・[[宮田線]]がこの日の運転限りで廃止。 * [[1997年]] - メキシコのチアパス州で[[アクテアル虐殺事件]]が起きる。 * [[2001年]] - [[アフガニスタン]]の暫定行政機構が発足。[[ハーミド・カルザイ]]が暫定行政機構議長に就任。 * 2001年 - [[九州南西海域工作船事件]]が発生。 * [[2005年]] - 記録的な寒波で日本海側を中心に[[豪雪]]・暴風雪。[[東海地方]]・[[九州]]で12月の積雪記録を更新する歴史的大雪([[平成18年豪雪]])。[[新潟県]]では暴風雪により[[新潟大停電]]が発生。 * [[2006年]] - 改正[[教育基本法]]公布。 * [[2009年]] - [[俳優]]の[[森繁久彌]]に[[国民栄誉賞]]授与(没後追贈)。 * [[2016年]] - [[糸魚川大火]]が発生<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/affairs/news/161223/afr1612230005-n1.html |title=糸魚川大火、過去20年最悪 強風で拡大…140棟焼き10時間半後に鎮圧 「フェーン現象」の可能性も |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[産経新聞]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20210416210445/https://www.sankei.com/affairs/news/161223/afr1612230005-n1.html |archive-date=16 Apr 2021}}</ref>。 * 2016年 - [[シリア内戦]]の中の[[アレッポの戦い (2012-2016)|アレッポの戦い]]が事実上終結。 * [[2018年]] - [[インドネシア]]・[[スンダ海峡]]で大規模津波が発生([[スンダ海峡津波]])<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/46669840 |title=インドネシア津波、死者420人超に 火山活動続き新たな津波の恐れも |access-date=13 Mar 2023 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=24 Des 2018}}</ref>。 * 2018年 - [[アメリカ合衆国連邦政府]]が[[政府閉鎖]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40512200W9A120C1MM0000/ |title=米政府閉鎖を一時解除 トランプ氏が譲歩 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=26 Jan 2019}}</ref>。[[2019年|翌年]][[1月25日]]に一部暫定解除されるまで過去最長の閉鎖期間となった({{仮リンク|2018–19年アメリカ合衆国連邦政府閉鎖|en|2018–19 United States federal government shutdown}})。 == 誕生日 == * [[1178年]]([[治承]]2年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[安徳天皇]]<ref>{{Kotobank|朝日日本歴史人物事典 「安徳天皇」の解説}}</ref>、第81代[[天皇の一覧|天皇]] (+ [[1185年]]) * [[1546年]]([[天文 (元号)|天文]]15年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[黒田孝高]]、[[武将|戦国武将]](+ [[1604年]]) * [[1602年]]([[慶長]]7年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[黒田忠之]]、[[福岡藩|福岡藩主]](+ [[1654年]]) * [[1617年]] - [[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]、[[プファルツ選帝侯]](+ [[1680年]]) * 1617年([[元和 (日本)|元和]]3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[松平忠昭 (大給松平家) |松平忠昭]]、[[府内藩]]主(+ [[1693年]]) * [[1694年]]([[元禄]]7年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[奥平昌成]]、[[中津藩|中津藩主]](+ [[1746年]]) * [[1723年]] - [[カール・フリードリヒ・アーベル]]、[[作曲家]](+ [[1787年]]) * [[1740年]]([[元文]]4年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[岡田寒泉]]、[[儒学者]](+ [[1816年]]) * [[1755年]] - [[ジョルジュ・クートン]]、[[フランス革命]][[ジャコバン派]]の指導者(+ [[1794年]]) * [[1764年]]([[明和]]元年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[高橋至時]]、[[天文学者]](+ [[1804年]]) * [[1797年]]([[寛政]]9年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[本庄道貫]]、[[江戸幕府]][[若年寄]]、[[高富藩|高富藩主]](+ [[1858年]]) * [[1798年]] - [[ジョージ・ウォーカー・クロウフォード]]、[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1872年]]) * [[1817年]] - [[トゥイスコン・ツィラー]]、[[文献学者]]、[[教育学者]](+ [[1882年]]) * [[1823年]] - [[トーマス・ウェントワース・ヒギンソン]]、[[聖職者]]、[[作家]]、[[軍人]]、[[奴隷制度廃止運動|奴隷制廃止論者]](+ [[1911年]]) * [[1833年]] - [[アーデルハイト・マリー・フォン・アンハルト=デッサウ]]、[[ルクセンブルク大公]][[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]の妃(+ [[1916年]]) * [[1847年]]([[弘化]]4年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[大槻文彦]]、[[国語学者]](+ [[1928年]]) * [[1853年]] - [[テレサ・カレーニョ]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1917年]]) * [[1854年]]([[嘉永]]7年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[高峰譲吉]]、[[化学者]](+ [[1922年]]) * [[1856年]] - [[フランク・ケロッグ]]、[[政治家]](+ [[1937年]]) * [[1858年]] - [[ジャコモ・プッチーニ]]、作曲家(+ [[1924年]]) * 1858年([[安政]]5年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]) - [[快楽亭ブラック (初代)]]、[[落語家]](+ [[1923年]]) * [[1862年]] - [[コニー・マック]]、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]監督(+ [[1956年]]) * [[1876年]] - [[周時経]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1914年]]) * [[1879年]] - [[野田九浦]]、[[日本画家]](+ [[1971年]]) * [[1882年]] - [[岡崎栄松]]、政治家、[[仙台市|仙台市長]](+ [[1960年]]) * [[1883年]] - [[エドガー・ヴァレーズ]]、作曲家(+ [[1965年]]) * 1883年 - [[松野鶴平]]、政治家(+ [[1962年]]) * [[1887年]] - [[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]]、[[数学者]](+ [[1920年]]) * [[1889年]] - [[ジョージ・ハトソン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1914年]]) * [[1892年]] - [[土井辰雄]]、[[カトリック教会|カトリック]][[枢機卿]](+ [[1970年]]) * [[1898年]] - [[ウラジミール・フォック]]、[[物理学者]](+ [[1974年]]) * [[1900年]] - [[アラン・ブッシュ]]、作曲家(+ [[1995年]]) * [[1903年]] - [[ハルダン・ケファー・ハートライン]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1983年]]) * [[1907年]] - [[ペギー・アシュクロフト]]、[[俳優|女優]](+ [[1991年]]) * [[1909年]] - [[池島信平]]、[[編集者]](+ [[1973年]]) * [[1912年]] - [[五ツ嶋奈良男]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1973年]]) * [[1917年]] - [[矢野幸夫]]、元[[調教師]]、馬の[[整体師]](+ [[2004年]]) * [[1923年]] - [[三田純市]]、[[落語]]作家(+ [[1994年]]) * 1923年 - [[深沢督]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2019年]]) * [[1926年]] - [[アルシデス・ギジャ]]、[[サッカー]]選手(+ [[2015年]]) * [[1927年]] - [[セルジオ・フィオレンティーノ]]、[[ピアニスト]](+ [[1998年]]) * [[1929年]] - [[松原正]]、[[評論家]]、[[劇作家]](+ [[2016年]]) * [[1930年]] - [[渡辺謙太郎]]、[[アナウンサー]](+ [[2006年]]) * 1930年 - [[ベリル・ペンローズ]]、[[テニス]]選手 * [[1931年]] - [[ギゼラ・ビルケマイヤー]]、[[陸上競技]]選手 * 1931年 - [[三本和彦]]、[[自動車評論|モータージャーナリスト]](+ [[2022年]]) * [[1932年]] - [[高柳昌行]]、[[ジャズ]][[ギタリスト]](+ [[1991年]]) * [[1934年]] - [[村井保雄]]、アマチュア野球指導者(+ [[2022年]]) * [[1936年]] - [[ヘクター・エリゾンド]]、[[俳優]] * 1936年 - [[神永昭夫]]、[[柔道家]](+ [[1993年]]) * [[1938年]] - [[マティ・アルー]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]]) * [[1940年]] - [[エルロッド・ヘンドリックス]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * 1940年 - [[大野守]]、元プロ野球選手 * [[1942年]] - [[桑原楽之]]、元[[サッカー選手]](+ [[2017年]]) * [[1943年]] - [[トム・ハーリック]]、[[格闘技]]トレーナー * [[1944年]] - [[三条泰子]]、女優 * 1944年 - [[スティーブ・カールトン]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[山崎裕之]]、元プロ野球選手 * 1946年 - [[上村清隆]]、政治家、第6代[[湯沢町|湯沢]][[首長|町長]] * [[1947年]] - [[塚原光男]]、元[[体操選手]] * [[1948年]] - [[スティーブ・ガービー]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[ロビン・ギブ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ビージーズ]])(+ [[2012年]]) * 1949年 - [[モーリス・ギブ]]、ミュージシャン(ビージーズ)(+ [[2003年]]) * [[1950年]] - [[楠城徹]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[佐山陽規]]、[[声楽家]]、俳優、[[声優]] * 1950年 - [[中島史雄]]、[[漫画家]] * [[1951年]] - [[村越茶美雄]]、[[プロ野球審判員]] * [[1954年]] - [[李英和]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]]研究者(+ [[2020年]]) * 1954年 - [[杉原正顯]]、[[数値解析]]研究者、[[名古屋大学]]・[[東京大学]]名誉教授(+ [[2019年]]) * [[1955年]] - [[デビッド・デントン]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[村上弘明]]、俳優 * 1956年 - [[斎藤美奈子]]、評論家 * [[1957年]] - [[吉村明宏]]、[[タレント]] * [[1958年]] - [[ケヴィン・カーン]]、[[ニューエイジ・ミュージック]]のピアニスト、作曲家 * 1958年 - [[フランク・ギャンバレ]]、[[ギタリスト]] * 1958年 - [[ジョージ・ライト (外野手)|ジョージ・ライト]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[レニー・フォン・ドーレン]]、映画、舞台俳優 * [[1960年]] - [[タイレル・ビッグス]]、プロボクサー * 1960年 - [[ジャン=ミシェル・バスキア]]、[[画家]](+ [[1988年]]) * [[1962年]] - [[前川清成]]、政治家 * [[1963年]] - [[ルナ・H・ミタニ]]、画家 * [[1964年]] - [[江原啓之]]、スピリチュアルカウンセラー * 1964年 - [[高知東生]]、元俳優 * 1964年 - [[中野英雄]]、俳優 * 1964年 - [[月島冬二]]、漫画家 * 1964年 - [[田原音彦]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1965年]] - [[さとうふみや]]、漫画家 * 1965年 - [[セルジ・ロペス]]、俳優 * [[1966年]] - [[浅美裕子]]、漫画家 * 1966年 - [[国生さゆり]]、女優 * 1966年 - [[森田まさのり]]、漫画家 * [[1967年]] - [[河田雄祐]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[ダン・ペトレスク]]、サッカー選手 * 1967年 - [[中村豊 (アニメーター)|中村豊]]、[[アニメーター]] * 1967年 - [[リッチー・ジェームス・エドワーズ|リッチー・エドワーズ]]、ミュージシャン([[マニック・ストリート・プリーチャーズ]]) * [[1968年]] - [[氏家健治]]、[[パティシエ]]、[[ショコラティエ]] * [[1968年]] - [[飯尾和樹]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[ずん]]) * 1968年 - [[ディナ・メイヤー]]、女優 * [[1970年]] - [[白島靖代]]、女優 * [[1972年]] - [[アンデルソン・ルイス・ダ・シルバ]]、[[サッカー]]選手 * 1972年 - [[ヴァネッサ・パラディ]]、歌手、女優 * [[1974年]] - [[ヘザー・ドナヒュー]]、女優 * [[1975年]] - [[セルゲイ・アシュワンデン]]、柔道家 * 1975年 - [[池田浩美 (サッカー選手)|池田浩美]]、元サッカー選手 * 1975年 - [[ドミトリー・ホフロフ]]、元サッカー選手 * [[1976年]] - [[嶋原清子]]、[[マラソン]]選手 * 1976年 - [[ウェス・オーバーミューラー]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[スティーヴ・カリヤ]]、[[アイスホッケー]]選手 * 1977年 - [[伊藤良恵]]、ソフトボール選手 * [[1978年]] - [[松本素生]]、ミュージシャン([[GOING UNDER GROUND]]) * 1978年 - [[エド・マーイカ]]、ラッパー * 1978年 - [[伊藤里奈]]、アナウンサー * [[1979年]] - [[羽生直剛]]、元サッカー選手 * 1979年 - [[野川瑞穂]]、女優 * 1979年 - [[夙川アトム]]、俳優、元お笑いタレント * [[1980年]] - [[クリス・カーマック]]、俳優、元ファッションモデル * 1980年 - [[浦田聖子]]、ビーチバレー選手 * 1980年 - [[上岡志輔子]]、[[舞台女優]] * [[1981年]] - [[安めぐみ]]、タレント、元[[グラビアアイドル]] * 1981年 - [[迎祐一郎]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[椛田早紀]]、歌手 * 1981年 - [[南山千恵美]]、タレント * [[1982年]] - [[市原ひかり]]、トランペット奏者 * 1982年 - [[稲葉洸太郎]]、元フットサル選手 * [[1983年]] - [[鹿野優以]]、声優 * 1983年 - [[則島奈々美]]、タレント、元[[レースクイーン]] * 1983年 - [[森豪士]]、[[ファッションモデル]] * 1983年 - [[ナタリー・ペシャラ]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * 1983年 - [[依布サラサ]]、[[歌手]] * 1983年 - [[新居辰基]]、元サッカー選手 * 1983年 - [[上原彩子 (ゴルファー)|上原彩子]]、ゴルファー * 1983年 - [[ドリュー・ハンキンソン]]、プロレスラー * 1983年 - [[ジェニファー・ホーキンス]]、モデル、ミス・ユニバース2004 * [[1984年]] - [[長谷川勇也]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[根占真伍]]、元サッカー選手 * 1984年 - [[ベースハンター]]、DJ * 1984年 - [[荒木さやか]]、ファッションモデル、[[ディスクジョッキー|DJ]] * [[1985年]] - [[岡崎隼人|岡﨑隼人]]、[[小説家]] * 1985年 - [[遠藤栄理香]]、元[[アイドル]] * 1985年 - [[池田勇太]]、プロゴルファー * [[1986年]] - [[F チョッパー KOGA]]、ミュージシャン、元グラビアアイドル([[Gacharic Spin]]) * 1986年 - [[池田宗司]]、元陸上選手 * 1986年 - [[晶エリー]]、[[AV女優]]、[[AV監督]]、[[写真家]] * [[1987年]] - [[エデルジト・アントニオ・マセド・ロペス]]、サッカー選手 * 1987年 - [[藍本松]]、漫画家 * 1987年 - [[足立理]]、俳優 * 1987年 - [[チャド・ジェンキンス]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[アラー・アブドゥッザフラ]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[川辺隆弥]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[谷口堅三]]、サッカー選手 * 1988年 ー 山田健人、お笑いタレント([[ラニーノーズ]]) * [[1989年]] - [[新井恵理那]]、タレント * 1989年 - [[ジョーダン・スパークス]]、歌手 * 1989年 - [[北口和沙]]、歌手 * 1989年 - [[花田ゆういちろう]]、歌手 * 1989年 - [[ノエ・ラミレス]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[金子智美]]、グラビアアイドル * [[1990年]] - [[ブランドン・ムロズ]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[ジョセフ・ニューガーデン]]、レーシングドライバー * 1990年 - [[安済知佳]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=1249 |title=安済知佳|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=13 Mar 2023 |publisher=animateTimes}}</ref>、声優 * [[1991年]] - [[山本雪乃]]、アナウンサー * [[1992年]] - [[ナオミ (女性モデル)|ナオミ]]、ファッションモデル * 1992年 - [[忽那汐里]]、女優 * 1992年 - [[小野裕二]]、サッカー選手 * 1992年 - [[ムンビョル]]、アイドル([[MAMAMOO]]) * [[1993年]] - [[メーガン・トレイナー]]、歌手 * 1993年 - [[大石絵理]]、モデル * 1993年 - [[ラファエル・ゲレイロ]]、サッカー選手 * 1993年 - [[山根視来]]、サッカー選手 * [[1994年]] - [[細山貴嶺]]、元タレント、元子役 * 1994年 - [[山下きほ]]、歌手([[ナチュラルポイント]]) * 1994年 - 宮崎朝子、ミュージシャン([[SHISHAMO]]) * [[1997年]] - SAYURI、アイドル、ミュージシャン(元[[CHERRSEE]]) * 1997年 - [[瀬古樹]]、サッカー選手 * 1997年 - [[嶺内ともみ]]、元声優 * [[1998年]] - [[鈴木崚汰]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=6801 |title=鈴木崚汰|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=13 Mar 2023 |publisher=animateTimes}}</ref>、声優 * 1998年 - MIZYU、歌手([[新しい学校のリーダーズ]]) * 1998年 - [[横山武史]]、騎手 * [[1999年]] - [[楠木ともり]]、声優(元[[虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]) * 1999年 - [[白石美優]]、元プロ野球選手 * 1999年 - [[青木悠華]]、野球選手 * [[2001年]] - [[田部隼人]]、元プロ野球選手 * [[2004年]] - [[清野桃々姫]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]) * [[2005年]] - [[瀬戸琴楓]]、ファッションモデル * 2005年 - [[東ノエル]]、女優 * [[2006年]] - [[福島香々]] 、声優 * 生年不明 - [[井上富美子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aoni.co.jp/search/inoue-fumiko.html |title=井上 富美子 |accessdate=13 Mar 2023 |publisher=株式会社青二プロダクション}}</ref>、声優 * 生年不明 - 月ノウサギ、アイドル([[GANG PARADE]]) == 忌日 == * [[69年]] - [[アウルス・ウィテッリウス|ウィテリウス]]、[[ローマ皇帝]](* [[15年]]) * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]])- [[日目]]、[[法華宗]]の[[僧]](* [[1260年]]) * [[1572年]] - [[フランソワ・クルーエ]]、[[画家]](* [[1510年]]頃) * [[1603年]] - [[メフメト3世]]、第13代[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1566年]]) * [[1655年]]([[明暦]]元年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]])- [[津軽信義]]、第3代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1619年]]) * [[1694年]]([[元禄]]7年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[伊藤宗看 (初代)]]、[[将棋指し]](* [[1618年]]) * [[1748年]] - [[ヨーハン・ネポムク・カール]]、[[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン公]](* [[1724年]]) * [[1828年]] - [[ウイリアム・ウォラストン]]、[[化学者]]、[[物理学者]]、[[天文学者]](* [[1766年]]) * 1828年 - [[レイチェル・ジャクソン]]、[[アンドリュー・ジャクソン]]夫人(* [[1767年]]) * [[1829年]]([[文政]]12年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[鶴屋南北|鶴屋南北(4代目)]]、[[狂言]]作家(* [[1755年]]) * [[1831年]] - [[フランソワ・ユーベル]]、[[博物学者]](* [[1750年]]) * [[1867年]] - [[ジャン=ヴィクトル・ポンスレ]]、[[数学者]](* [[1788年]]) * 1867年 - [[テオドール・ルソー]]、[[画家]](* [[1812年]]) * [[1868年]]([[明治]]元年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]])- [[白真弓肥太右エ門]]、[[大相撲]]の[[力士]](* [[1829年]]) * [[1880年]] - [[ジョージ・エリオット]]、[[小説家]](* [[1819年]]) * [[1888年]] - [[ミハイル・ロリス=メリコフ]]、[[ロシア帝国]]内相(* [[1825年]]?) * [[1899年]] - [[ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)|ヒュー・グローヴナー]]、初代[[ウェストミンスター公爵]](* [[1825年]]) * 1899年 - [[ドワイト・ライマン・ムーディー]]、[[キリスト教]]伝道者、[[ムーディー聖書学院]]創設者(* [[1837年]]) * [[1902年]] - [[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング]]、[[精神医学|精神医学者]](* [[1840年]]) * [[1919年]] - [[繆荃孫]]、[[図書館学|図書館学者]]、[[歴史家]]、[[金石学|金石学者]]、[[教育者]](* [[1844年]]) * [[1922年]] - [[西郷四郎]]、[[柔道家]](* [[1866年]]) * [[1925年]] - [[アリス・ヘイン]]、[[モナコ]]大公[[アルベール1世 (モナコ大公)|アルベール1世]]の妃(* [[1858年]]) * [[1936年]] - [[ニコラーイ・オストロフスキー]]、小説家(* [[1904年]]) * [[1942年]] - [[フランツ・ボアズ]]、[[人類学|人類学者]](* [[1858年]]) * 1942年 - [[狩野亨吉]]、[[教育者]](* [[1865年]]) * [[1943年]] - [[ビアトリクス・ポター]]、[[絵本作家]](* [[1866年]]) * [[1945年]] - [[オットー・ノイラート]]、[[哲学|哲学者]](* [[1882年]]) * [[1950年]] - [[ウォルター・ダムロッシュ]]、[[指揮者]](* [[1862年]]) * [[1953年]] - [[加藤道夫]]、[[劇作家]](* [[1918年]]) * [[1957年]] - [[辻本史邑]]、[[書道|書家]](* [[1895年]]) * [[1959年]] - [[小原英一]]、[[実業家]](* [[1889年]]) * [[1962年]] - [[国木田治子]]、小説家(* [[1879年]]) * [[1967年]] - [[高橋龍太郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bunshun.jp/articles/-/5439 |title=ご存知ですか? 12月22日は「日本のビール王」高橋龍太郎の命日です |access-date=13 Mar 2023 |publisher=文春オンライン |date=22 Dec 2017}}</ref>、実業家・元[[通産大臣]](* [[1875年]]) * [[1973年]] - [[浪花千栄子]]、[[俳優|女優]](* [[1907年]]) * 1973年 - [[フィリップ・ラーヴ]]、[[文芸評論家]](* [[1908年]]) * [[1975年]] - [[堀米庸三]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1913年]]) * [[1976年]] - [[水田三喜男]]、[[政治家]]、[[城西大学]]創立者(* [[1905年]]) * [[1980年]] - [[カール・デーニッツ]]、元[[ドイツ海軍]][[元帥]]、[[ドイツの大統領|ドイツ大統領]](* [[1891年]]) * [[1983年]] - [[白井鐵造]]、[[演出家]]、[[振付師]](* [[1900年]]) * [[1985年]] - [[イグナス・ゲルブ]]、[[歴史学者]](* [[1907年]]) * [[1986年]] - [[真野房子]]、[[美容師|美容家]]、[[真野美容専門学校]]創立者(* [[1899年]]) * 1986年 - [[吉田義夫]]、俳優(* [[1911年]]) * [[1988年]] - [[渡辺弘 (サックス奏者)|渡辺弘]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(* [[1912年]]) * [[1989年]] - [[奥田良三 (政治家)|奥田良三]]、元奈良県知事(* [[1903年]]) * 1989年 - [[サミュエル・ベケット]]、[[小説家]](* [[1906年]]) * 1989年 - [[ワシーリ・ミリャ]]、政治家、国防相(* [[1927年]]) * [[1992年]] - [[阿波野青畝]]、[[俳人]](* [[1899年]]) * [[1994年]] - [[乙羽信子]]、女優(* [[1924年]]) * [[1995年]] - [[ジェイムズ・ミード]]、[[経済学者]](* [[1907年]]) * 1995年 - [[川谷拓三]]、[[俳優]](* [[1941年]]) * 1995年 - [[坂口尚]]、[[漫画家]](* [[1946年]]) * [[1998年]] - [[金田利雄]]、政治家、銀行家(* [[1909年]]) * [[2001年]] - [[加藤シヅエ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/374/ |title=加藤シズエ |access-date=13 Mar 2023 |publisher=国立国会図書館}}</ref>、婦人解放運動家、[[政治家]](* [[1897年]]) * [[2002年]] - [[ジョー・ストラマー]]、ミュージシャン([[ザ・クラッシュ]])(* [[1952年]]) * 2002年 - [[矢野純一]]、[[プロ野球選手]](* [[1919年]]) * [[2003年]] - [[守屋多々志]]、[[日本画家]](* [[1912年]]) * [[2004年]] - [[光岡明]]、小説家(* [[1932年]]) * 2004年 - [[鈴木徹 (野球)|鈴木徹]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球審判員|審判員]](* [[1936年]]) * 2004年 - [[ダグ・オルト]]、元プロ野球選手(* [[1950年]]) * [[2006年]] - [[ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ]]、[[作曲家]](* [[1919年]]) * 2006年 - [[木口衛]]、実業家、[[ワールド (企業)|ワールド]]創業者(* [[1923年]]) * 2006年 - [[鈴木禄彌]]、[[法学者]](* 1923年) * [[2007年]] - [[山本孝史]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[参議院議員]](* [[1949年]]) * 2007年 - [[ジュリアン・グラック]]、小説家、[[詩人]]、[[評論家]](* [[1910年]]) * 2007年 - [[稲川聖城]]、[[暴力団]][[稲川会]]総裁(* [[1914年]]) * [[2008年]] - [[朝隈善郎]]、[[陸上競技]]選手、指導者(* 1914年) * 2008年 - [[ランサナ・コンテ]]、第3代[[ギニアの大統領|ギニア大統領]](* [[1934年]]) * [[2009年]] - [[田辺一鶴]]、[[講談師]](* [[1929年]]) * 2009年 - [[中村修一郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1935年]]) * [[2014年]] - [[ジョー・コッカー]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://archive.is/ZU98y |title=ジョー・コッカー氏死去=英出身の歌手 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[時事通信]] |website=jiji.om |date=23 Dec 2014}}</ref>、[[歌手]](* [[1944年]]) * [[2017年]] - [[萩原遼]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20171226/k00/00m/040/041000c |title=訃報 萩原遼さん80歳=ノンフィクション作家 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=25 Dec 2017}}</ref>、[[ジャーナリスト]](* [[1937年]]) * [[2020年]] - [[クロード・ブラッスール]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3322883 |title=仏俳優C・ブラッスール氏死去、『ラ・ブーム』で父親役 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=23 Dec 2020 |website=AFP BB News}}</ref>、俳優(* [[1936年]]) * 2020年 - [[赤羽昇]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD13B540T10C21A1000000/ |title=赤羽昇氏が死去 元ノリタケカンパニーリミテド社長 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=13 Jan 2021}}</ref>、実業家(* [[1939年]]) * 2020年 - [[エドムンド・クラーク]]<ref>{{Cite web |url=https://www.cmu.edu/news/stories/archives/2020/december/obituary-ed-clarke.html |title=Edmund Clarke Pioneered Methods For Detecting Software, Hardware Errors |access-date=13 Mar 2023 |publisher=Carnegie Mellon University |date=23 Dec 2020 |language=En}}</ref>、[[計算機科学|計算機科学者]](* [[1945年]]) * 2020年 - [[田村隆 (料理人)|田村隆]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP1B5F1VP1BULZU001.html |title=「つきぢ田村」田村隆さん死去 63歳、テレビでも活躍 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |date=10 Jan 2021}}</ref>、[[料理人]](* [[1957年]]) * 2020年 - [[並木伸一]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2180567/full/ |title=声優の並木伸一さん死去 50歳 |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=28 Dec 2020}}</ref>、声優(* [[1969年]]) * 2020年 - [[ステラ・テナント]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/24/kiji/20201224s00041000188000c.html |title=ステラ・テナントさんが急死 50歳 欧州を代表するファッションモデル |access-date=13 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=24 Dec 2020 |website=Sponichi Annex}}</ref>、ファッションモデル(* [[1970年]]) == 記念日・年中行事 == * この日、スペイン・マドリードの[[テアトロ・レアル]]では年末ジャンボ宝くじに当たる[[ソルテオ・エクストラオルディナリオ・デ・ナビダ]](ロテリア・デ・ナビダ)の抽せん会が行われ、この模様はテレビ・ラジオで中継されている。 * [[冬至]]({{JPN}}、2007年・2009年・2010年・2011年) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が270度の時で、夜が最も長くなる日。多くの場合12月22日であるが、年により[[12月21日]]になることもある。 * 改正民法公布記念日({{JPN}}) *: [[1947年]]のこの日、「[[民法]]」の第4編と第5編を全面改正する改正法が公布された。[[家父長制]]の家族制度が廃止され、[[戸籍]]が夫婦単位となった。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1222|date=2023年3月}} * [[1961年]] - [[ジェームズ・ボンド]]が13時30分に[[チューリッヒ空港]]に到着。[[ブロフェルド]]の秘書イルマ・ブントの出迎えを受け、グロリア・クラブ(現実では[[ピッツ・グロリア]])に向かう。(小説『[[女王陛下の007#出版|女王陛下の007号]]』第9章<ref>日時は第20章の報告書で明らかになる。</ref>) * 年不明 - 主人公たちが信州のペンション「シュプール」で2日目を迎える。(ゲーム『[[かまいたちの夜]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1996年]] - 影山飛雄、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』のもうひとりの主人公<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870453-1|quote=|date=|volume=1巻|page=110}}</ref> * 生年不明 - スヤリス姫(オーロラ・栖夜・リース・カイミーン)、 漫画・アニメ『[[魔王城でおやすみ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|maoujo_anime|1341035697642336258}}</ref> * 生年不明 - 白骨朋依、地域活性プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/shirahone_tomoe |title=長野 白骨朋依 |access-date=2023-01-25 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - ガン・フォール、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Ganfor.html |title=ガン・フォール |access-date=2022-09-02 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PICE』}}</ref> * 生年不明 - ベルフェゴール、漫画・アニメ・舞台『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|stage_reborn|1473579311559057415}}</ref> * 生年不明 - ジル、漫画・アニメ・舞台『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 伏黒恵、漫画・アニメ『[[呪術廻戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jujutsu_pr|1473579112065552392}}</ref> * 生年不明 - 富士冬也、漫画『妖怪学校の先生はじめました!』に登場するキャラクター * 生年不明 - 十王院カケル、アニメ『[[KING OF PRISM by PrettyRhythm|KING OF PRISM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kinpri.com/character/detail.php#kakeru |title=十王院 カケル |accessdate=2022-09-02 |publisher= |website=KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-}}</ref> * 生年不明 - 宇奈月大樹、アニメ『[[美男高校地球防衛部HAPPY KISS!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boueibu|1076143804581724161}}</ref> * 生年不明 - 結月ゆかり、VOICEROID及びVOCALOIDのキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=結月ゆかり 設定資料 |url=https://vocalomakets.com/configuration-yukari |website=VOCALOMAKETS |date=2011-12-21 |accessdate=2022-10-28}}</ref> * 生年不明 - ハピハピっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)『テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん』[[小学館]]、2011年、24頁。{{ISBN2|978-4-09-751048-2}}</ref> * 生年不明 - ミア・クレメンティス、ゲーム『[[夜明け前より瑠璃色な]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://august-soft.com/yoake/character.htm#MIA |title=ミア・クレメンティス |access-date=2022-09-02 |publisher=オーガスト |work=夜明け前より瑠璃色な}}</ref><ref>『夜明け前より瑠璃色な -Moonlight Cradle-』小冊子「Moonlight Chronicle」[[オーガスト (ブランド)|オーガスト]]、2009年、18頁。</ref> * 生年不明 - 高峰小雪、ゲーム・アニメ『[[はぴねす!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://windmill.suki.jp/product/6th/index.htm |title=キャラクター紹介 高峰小雪 |access-date=2022-09-02 |publisher=はぴねす! official web site}}</ref> * 生年不明 - 山岸風花、ゲーム『[[ペルソナ3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1473307275099967493}}</ref> * 生年不明 - 深山藍衣、ゲーム『[[Sugar+Spice!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2007|title=Sugar+Spice! ビジュアル・ガイドブック|publisher=[[ジャイブ]]|page=56|isbn=978-4-86176-480-6}}</ref> * 生年不明 - 吹雪士郎、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-09-02}}</ref> * 生年不明 - サイファー・アルマシー、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVIII]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|livedoornews|1208402997899862016}}</ref> * 生年不明 - 花里愛(かりあ)、ゲーム『[[ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2014 |title = ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック |page = 22 |publisher = [[KADOKAWA]] |ISBN = 978-4-04-729693-0}}</ref> * 生年不明 - アイレーン、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!|SHOW BY ROCK!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|showbyrock|1076130936591241216}}</ref> * 生年不明 - ルフユ、ゲーム・アニメ『SHOW BY ROCK!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://showbyrock-anime-s.com/character/4.php |title=ルフユ |access-date=2022-09-02 |publisher=SHOWBYROCK!!製作委員会M}}</ref> * 生年不明 - 澤田ひかる、ゲーム・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/sawada-hikaru/ |title=静岡県 澤田 ひかる |access-date=2022-09-02 |publisher=アイドル事変 公式ポータルサイト}}</ref> * 生年不明 - 帝(みかど)、ゲーム・アニメ『[[恋愛幕末カレシ〜時の彼方で花咲く恋〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/BAKUMATSU/character/chara11.html |title=CHARACTER 帝 |access-date=2022-09-02 |publisher=FURYU/BAKUMATSU製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 黒田官兵衛、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1208582934736883712}}</ref> * 生年不明 - シノブ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1473473393681113088}}</ref> == 歌 == * [[香港]]の歌手{{仮リンク|ケイツェ|en|Kay Tse}}の曲:12月22日 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|22 December}} {{新暦365日|12|21|12|23|[[11月22日]]|[[1月22日]]|[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]|1222|12|22}} {{1年の月と日}}
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12月23日
12月23日(じゅうにがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から357日目(閏年では358日目)にあたり、年末まであと8日ある。 ※なお新天皇誕生日は、2020年(令和2年)より「2月23日」に移行。
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12月23日(じゅうにがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から357日目(閏年では358日目)にあたり、年末まであと8日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月23日'''(じゅうにがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から357日目([[閏年]]では358日目)にあたり、年末まであと8日ある。 == できごと == * [[1493年]] - {{仮リンク|ハルトマン・シェーデル|en|Hartmann Schedel}}の[[ニュルンベルク年代記]]が発刊{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1588年]] - [[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ1世]]が{{仮リンク|ギーズ公アンリ1世暗殺事件|en|Assassination of the Duke of Guise (1588)|label=暗殺}}される。 * [[1672年]] - ジョヴァンニ・カッシーニが土星の衛星[[レア (衛星)|レア]]を発見{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1783年]] - アメリカ合衆国[[ジョージ・ワシントン]]が[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]の最高司令官を辞任{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1806年]] - [[ウィーン]]([[オーストリア帝国]])で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲]]が初演。 * [[1823年]] - 米国[[ニューヨーク州]]の新聞『センティネル』に匿名の作者による『[[クリスマスのまえのばん]]』の詩が掲載される。 * [[1854年]] (嘉永7年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]])- [[安政東海地震]]発生。 * [[1893年]] - [[エンゲルベルト・フンパーディンク]]のオペラ『[[ヘンゼルとグレーテル (オペラ)|ヘンゼルとグレーテル]]』が初演。 * [[1912年]] - [[北海道]]の[[夕張炭鉱]]で[[ガス爆発]]事故が発生、死者216人。同炭鉱では同年[[4月29日]]にも大勢の死者が出る事故が起きたばかりであった<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』289,291頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。 * [[1913年]] - [[加藤高明]]らが[[立憲同志会]]([[憲政会]]の前身)を結党。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[マグドハバの戦い]]。 * [[1933年]] - [[日本共産党スパイ査問事件]]。[[日本共産党]]の[[宮本顕治]]らが中央委員の[[小畑達夫]]・[[大泉兼蔵]]を[[特別高等警察|特高警察]]のスパイとして[[査問]]。数日のうちに小畑が死亡。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ウェーク島の戦い]]が終結。[[日本軍]]が[[ウェーク島]]を占領。 * [[1942年]] - [[大日本言論報国会]]設立。 * [[1947年]] - [[ベル研究所]]で初めて[[トランジスタ]]を公開。 * [[1948年]] - [[極東国際軍事裁判]]で[[死刑]]判決を受けた[[A級戦犯]]7名の[[絞首刑]]を執行。 * 1948年 - [[衆議院解散]]([[馴れ合い解散]])。 * [[1956年]] - [[石橋内閣|石橋湛山内閣]]が発足。組閣が遅れ、首相の[[石橋湛山]]が一時[[一人内閣|全閣僚を兼任]]。 * 1956年 - [[競馬]]の第1回中山グランプリ(翌年より[[有馬記念]]に改称)を[[中山競馬場]]で開催。 * [[1958年]] - [[東京タワー]]の完工式。正式な営業を開始。 * [[1964年]] - 営団地下鉄東西線(現[[東京メトロ東西線]])[[高田馬場駅]] - [[九段下駅]]間が開業。 * [[1968年]] - [[プエブロ号事件]]: [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が11か月拘束していた[[プエブロ (環境調査艦)|プエブロ号]]の乗員82人を解放。 * [[1975年]] - [[日本共産党]]が[[宗教についての日本共産党の見解と態度|宗教決議]]を採択。 * [[1979年]] - [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]: [[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[アフガニスタン]]の首都[[カーブル]]を占領。 * [[1982年]] - [[日本電信電話公社]](電電公社)が東京都の[[渋谷駅]]、[[新宿駅]]、数寄屋橋公園などに[[テレホンカード|カード]]式[[公衆電話]]第1号を設置。 * [[1986年]] - アメリカ合衆国の二人乗りプロペラ飛行機「[[ルータン ボイジャー|ボイジャー]]」が世界初の無着陸・無給油の[[世界一周飛行]]を達成。 * 1986年 - [[競艇]]の第一回[[賞金王決定戦競走]]最終日が[[住之江競艇場]]で行われ[[彦坂郁雄]]が初代優勝者となった。 * [[1990年]] - [[スロベニア]]で[[ユーゴスラビア]]からの独立を問う住民投票。88%が独立に賛成。 * 1990年 - [[オグリキャップ]]が[[有馬記念]]で優勝し引退。 * [[2003年]] - [[名古屋ドル紙幣ばら撒き事件]]。 * [[2005年]] - [[京都大学アメフト部レイプ事件|京都大学アメリカンフットボール部レイプ事件]]。 * [[2008年]] - [[ギニア]]で[[2008年ギニアクーデター|クーデター]]が起こる。 * [[2009年]] - [[富山地方鉄道富山軌道線]](富山都心線)丸の内 - 西町間開業と環状運転開始。 * [[2011年]] - 日本初の旅行会社専用列車、[[近鉄12000系電車|近畿日本鉄道15400系]]「かぎろひ」が運用開始<ref>『鉄道ファン』(第611号)2012年3月号、62 - 64頁</ref>。 * [[2012年]] - [[桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件]]が発生。 == 誕生日 == === 人物 === * [[1173年]] - [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]]、バイエルン公 (+ [[1231年]]) * [[1605年]]([[万暦]]33年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]])- [[天啓帝]]、第16代[[明]][[皇帝]](+ [[1627年]]) * [[1673年]]([[延宝]]元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[山内豊隆]]、第6代[[土佐藩|土佐藩主]](+ [[1720年]]) * [[1732年]] - [[リチャード・アークライト]]、[[発明家]](+ [[1792年]]) * [[1777年]] - [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]、[[ロマノフ朝]]第10代[[ロシア帝国]]皇帝(+ [[1825年]]) * [[1790年]] - [[ジャン=フランソワ・シャンポリオン|ジャン=フランソワ・シャンポリオン]]、[[考古学者]](+ [[1832年]]) * [[1799年]] - [[カール・ブリューロフ]]、[[画家]](+ [[1852年]]) * [[1805年]] - [[ジョセフ・スミス・ジュニア]]、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]設立者(+ [[1844年]]) * [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[堀直格]]、第11代[[須坂藩|須坂藩主]](+ [[1880年]]) * [[1812年]] - [[サミュエル・スマイルズ]]、[[作家]](+ [[1904年]]) <!---* [[1823年]] - [[ジャン・アンリ・ファーブル]]、生物学者(+ [[1915年]])---「[[ジャン・アンリ・ファーブル]]」では12月21日と記載---> * [[1850年]] - [[オスカー・ストラウス]]、[[政治家]](+ [[1936年]]) * [[1862年]]([[文久]]2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[分部光謙]]、第12代[[大溝藩|大溝藩主]]・[[子爵]](+ [[1944年]]) * [[1870年]] - [[ジョン・マリン]]、画家、[[版画家]](+ [[1953年]]) * [[1874年]] - [[和田英作]]、[[洋画家]](+ [[1959年]]{{sfn|静岡県立美術館|1998|p=147}}) * [[1882年]] - [[江崎利一]]、[[実業家]] 、[[江崎グリコ]]創業者(+ [[1980年]]) * [[1883年]] - [[安倍能成]]、哲学者、[[教育者]](+ [[1966年]]) * [[1888年]] - [[森戸辰男]]、[[思想家|社会思想家]]、教育者(+ [[1984年]]) * [[1902年]] - [[外村繁]]、[[小説家]](+ [[1961年]]) * [[1909年]] - [[中里恒子]]、小説家(+ [[1987年]]) * [[1910年]] - [[クルト・マイヤー]]、最年少の[[武装親衛隊]][[少将]](+ [[1961年]]) * [[1911年]] - [[村上冬樹]]、[[俳優]](+ [[2007年]]) * [[1917年]] - [[浜田知明]]、版画家、[[彫刻家]](+ [[2018年]]) * 1917年 - [[水野良一]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1999年]]) * [[1918年]] - [[ヘルムート・シュミット]]、[[ドイツの首相|ドイツ連邦首相]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM10H8H_Q5A111C1MM8000/|title=シュミット元西ドイツ首相が死去 96歳、サミット創設に尽力|publisher=日本経済新聞|date=2015-11-10|accessdate=2020-11-10}}</ref>) * [[1919年]] - [[豊嶌雅男]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[関脇]](+ [[1945年]]) * [[1923年]] - [[アントニ・タピエス]]、[[現代美術家]](+ [[2012年]]) * [[1927年]] - [[トニー・ロイ]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]]) * [[1929年]] - [[チェット・ベイカー]]、[[ジャズ]]トランペッター(+ [[1988年]]) * 1929年 - [[今井敬]]、[[実業家]]、第9代[[経済団体連合会|経団連]]会長 * [[1931年]] - [[マリア・ティーポ]]、[[ピアニスト]] * [[1933年]] - [[明仁]]、第125代[[天皇]]、[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]] * 1933年 - [[阿部長久]]、元プロ野球選手 * [[1934年]] - [[山本文郎]]、[[フリーアナウンサー]](+ [[2014年]]) * [[1935年]] - [[辻中貞年]]、元プロ野球選手 * [[1938年]] - [[ロバート・カーン]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * [[1939年]] - [[水森亜土]]、[[イラストレーター]]、[[歌手]] * [[1940年]] - [[太田紘一]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[中津文彦]]、[[作家]](+ [[2012年]]) * [[1943年]] - [[丸山健二]]、作家 * 1943年 - [[ミハイル・グロモフ]]、[[数学者]] * 1943年 - [[シルヴィア (スウェーデン王妃)|シルヴィア]]、スウェーデン王妃 * [[1945年]] - [[つかせのりこ]]、[[声優]](+ [[1989年]]) * [[1950年]] - [[ビセンテ・デル・ボスケ]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[1951年]] - [[笑福亭鶴瓶]]、[[落語家]]、[[お笑いタレント]] * [[1952年]] - [[内田康宏]]、政治家、[[愛知県]][[岡崎市|岡崎市長]] * 1952年 - [[チャンバラトリオ|前田竹千代]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](元[[チャンバラトリオ]])(+ [[2008年]]) * [[1953年]] - [[野村須磨子]]、声優 * [[1954年]] - [[庄野真代]]、[[歌手]] * 1954年 - [[盛田隆二]]、作家 * 1954年 - [[谷口義明]]、[[天文学者]] * 1954年 - [[原田悠里]]、[[演歌歌手]] * [[1955年]] - [[キース・カムストック]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[ダーク広和]]、[[奇術師]] * [[1959年]] - [[式守伊之助 (40代)|40代式守伊之助]]、[[大相撲]]行司 * [[1960年]] - [[綾辻行人]]、[[推理作家]] * 1960年 - [[宮部みゆき]]、[[作家]] * 1960年 - [[城之内ミサ]]、[[作曲家]]、[[シンガーソングライター]] * 1960年 - [[いのまたむつみ]]、[[イラストレーター]]、[[アニメーター]] <!-- 出典が不明 * 1960年 - [[二宮亮三]]、[[漫画家]] --> * [[1962年]] - [[武藤敬司]]、[[プロレスラー]] * 1962年 - [[トラン・アン・ユン]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] * [[1963年]] - [[東直子]]、[[歌人]]、小説家、脚本家 * 1963年 - [[クラッシャー三浦]]、元[[プロボクサー]]、[[トレーナー]] * [[1964年]] - [[越和宏]]、[[スケルトン (スポーツ)|スケルトン]]選手 * 1964年 - [[小沢和義]]、俳優 * 1964年 - [[エディ・ヴェダー]]、ミュージシャン([[パール・ジャム]]) * [[1965年]] - [[ジョージマン北]]、お笑いタレント * 1965年 - [[野村万蔵 (9世)|野村万蔵]]、[[和泉流]][[狂言師]]、二世野村与十郎 * 1965年 - [[おちまさと]]、[[プロデューサー]]、[[作詞家]] * [[1966年]] - [[鍵本聡]]、科学ライター、大学講師、株式会社KSプロジェクト代表取締役 * 1966年 - [[岡本昭彦]]、[[実業家]]、[[吉本興業|吉本興業ホールディングス株式会社]]社長 * [[1967年]] - [[松岡英明]]、[[ロック (音楽)|ロック]][[音楽家|ミュージシャン]] * 1967年 - [[渡辺球]]、小説家 * [[1968年]] - [[カーラ・ブルーニ]]、[[スーパーモデル]]、[[歌手]] * 1968年 - [[マヌエル・リベラ=オルティス]]、[[写真家]] * [[1969年]] - [[朝乃翔嚆矢]]、元大相撲力士 * 1969年 - [[並木伸一]]、声優(+ [[2020年]]) * [[1970年]] - [[下田美馬]]、プロレスラー * 1970年 - [[中西裕美子]]、[[声優]] * 1970年 - [[NIGO]]、[[ファッションデザイナー]]、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1970年 - [[ネイキッド・カウボーイ]]、[[大道芸人]] * [[1971年]] - [[山崎まさよし]]、[[シンガーソングライター]] * [[1972年]] - [[渡辺由架]]、元[[グラビアアイドル]] * 1972年 - [[近藤鉄太郎]]、[[アナウンサー]] * [[1974年]] - [[柴田倫世]]、[[フリーアナウンサー]] * [[1976年]] - [[ブラッド・リッジ]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[ジルベルト・ゴドイフィリョ]]、バレーボール選手 * [[1977年]] - [[久永辰徳]]、[[サッカー選手]] <!-- 出典が不明 * 1977年 - [[鶴岡みゆき]]、[[映画監督]] --> * 1977年 - [[上野水香]]、[[バレエ]]ダンサー * 1977年 - [[ヤリ・マーエンパー]]、ミュージシャン * 1977年 - [[須磨ノ富士茂雄]]、元大相撲力士 * [[1978年]] - [[柏原収史]]、俳優 * 1978年 - [[矢田亜希子]]、女優、タレント * 1978年 - [[高橋奈七永]]、プロレスラー * 1978年 - [[ビクター・マルティネス]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[村上幸史]]、[[やり投]]選手 * [[1980年]] - [[松本幸大 (野球)|松本幸大]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[小森孝憲]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[伊藤綾子]]、元アナウンサー * 1980年 - [[ガリーナ・エフレメンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1980年 - [[山本康平]]、俳優 * [[1982年]] - [[大谷みつほ]]、タレント * 1982年 - [[ログザナ・ルカ]]、フィギュアスケート選手 * [[1983年]] - [[斉藤俊雄]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[ハンリー・ラミレス]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[ジェイミー・シルバースタイン]]、フィギュアスケート選手 * [[1984年]] - [[征矢学]]、プロレスラー * 1984年 - [[なちゅ]]、タレント(元[[SDN48]]) * 1984年 - DEM、ミュージシャン([[Foxxi misQ]]) * 1984年 - [[ジョシュ・サティン]]、プロ野球選手 * [[1985年]] - [[辻尾真二]]、元サッカー選手 * [[1987年]] - [[倉科カナ]]、女優 * 1987年 - [[寺田ちひろ]]、タレント * 1987年 - [[アレクサンドラ・ザレツキー]]、フィギュアスケート選手 * [[1988年]] - [[樫野有香]]、歌手([[Perfume]]) * 1988年 - [[亀井絵里]]、アイドル(元[[モーニング娘。]]) * 1988年 - [[阿部俊人]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[山中達也]]、元プロ野球選手 * [[1989年]] - [[佐保祐樹]]、元[[子役]] * [[1990年]] - [[芦田万莉恵]]、タレント、アイドル(元[[9nine]]) * 1990年 - [[アンナ・マリア・ペレス・デ・タグレ]]、女優 * 1990年 - [[猪本健太郎]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[ジェヒョ]]、アイドル([[Block B]]) * 1990年 - 林直次郎、ミュージシャン([[平川地一丁目]]) * 1990年 - [[ミッチ・ハニガー]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[石原美優]]、グラビアアイドル * 1991年 - [[藤井祐眞]]、バスケットボール選手 * 1991年 - [[ファニョニ・アラン]]、野球選手 * [[1992年]] - [[高野光司]]、元サッカー選手 * 1992年 - [[橘ゆりか]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]19号) * 1992年 - [[南梨央奈]]、[[AV女優]] * 1992年 - [[原田ゆか]]、ファッションモデル、タレント * 1992年 - [[大六野秀畝]]、陸上選手 * [[1993年]] - [[大竹里歩]]、[[バレーボール選手]] * 1993年 - [[小島瑠璃子]]、タレント * 1993年 - [[小松準弥]]、俳優 * 1993年 - [[中村児太郎 (6代目)]]、[[歌舞伎]]役者 * [[1995年]] - [[星野悠月]]、ファッションモデル * [[1997年]] - [[原田彩楓]]、声優 * [[1998年]] - [[佐藤日向]]、女優、声優、歌手、アイドル(元[[さくら学院]]) * [[2000年]] - [[坂口渚沙]]<ref>[https://www.akb48.co.jp/about/members/detail.php?mid=168 メンバー 坂口渚沙]。AKB48公式サイト</ref>、アイドル(LarmeR、元[[AKB48]]) * [[2003年]] - [[有澤一華]]、アイドル([[Juice=Juice]]) * 生年不明 - [[高田麻衣子]]、プロ雀士 === 人物以外(動物など) === * [[2006年]] - 愛浜、[[ジャイアントパンダ]] * 2006年 - 明浜、ジャイアントパンダ == 忌日 == * [[918年]] - [[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]、[[東フランク王国|東フランク王]](* [[890年]]) * [[1230年]] - [[ベレンガリア・オブ・ナヴァール|ベレンガリア]]、[[イングランド|イングランド王]][[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の妃(* [[1165年]]頃) * [[1307年]]([[徳治]]2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]])- [[北条久時]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[歌人]](* [[1272年]]) * [[1384年]] - [[トマ・プレリュボヴィチ]]、[[エピロス専制侯国|エピロス専制侯]] * [[1539年]]([[天文 (元号)|天文]]8年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]])- [[一条房家]]、[[土佐国]]の[[国司]](* [[1475年]]) * [[1575年]]([[天正]]3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]])- [[秋山虎繁]](信友)、[[甲斐武田氏]]家臣(* [[1527年]]) * [[1587年]](天正15年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]])- [[大宝寺義興]]、[[出羽国]]の[[戦国大名]](* [[1554年]]) * [[1588年]] - [[アンリ1世 (ギーズ公)|アンリ1世]]、[[ユグノー戦争]]期の[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]主導者(* [[1550年]]) * [[1600年]](慶長5年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]])- [[小野木重勝]]、戦国武将(* [[1563年]]) * [[1601年]](慶長6年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]])- [[分部光嘉]]、戦国武将(* [[1552年]]) * [[1610年]](慶長15年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]])- [[島津忠長 (宮之城家)|島津忠長]]、戦国武将(* [[1551年]]) * [[1619年]] - [[ヨーハン・ジギスムント]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1572年]]) * [[1681年]]([[天和 (日本)|天和]]元年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]])- [[戸田氏信]]、第2代[[大垣藩|大垣藩主]](* [[1600年]]) * [[1722年]]([[享保]]7年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]])- [[土屋政直]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[土浦藩|土浦藩主]](* [[1641年]]) * [[1745年]] - [[ヤン・ディスマス・ゼレンカ]]、[[作曲家]](* [[1679年]]) * [[1749年]]([[寛延]]2年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]])- [[丸山権太左衛門]]、[[大相撲]]第3代[[横綱]](* [[1713年]]) * [[1789年]] - [[シャルル・ミシェル・ド・レペー]]、[[教育者]](* [[1712年]]) * [[1795年]] - [[ヘンリー・クリントン]]、[[アメリカ独立戦争]]期の[[イギリス軍]]北アメリカ総司令官(* [[1738年]]) * [[1800年]] - ヨーハン・フォン・エンター、[[法学者]](* [[1764年]]) * [[1834年]] - [[トマス・ロバート・マルサス]]、[[経済学者]](* [[1766年]]) * [[1859年]]([[安政]]6年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]])- [[大久保忠愨]]、第8代[[小田原藩|小田原藩主]](* [[1829年]]) * [[1869年]] - [[ユリアン・フォンタナ]]、[[法律家]]、[[著述家]]、[[起業家]]、作曲家(* [[1810年]]) * [[1875年]] - [[ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュ]]、[[劇作家]](* [[1799年]]) * [[1891年]] - [[ジョン・クレスウェル]]、第26代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1828年]]) * [[1895年]] - [[ジョン・ハインド]]、[[天文学者]](* [[1823年]]) * [[1907年]] - [[ピエール・ジャンサン]]、天文学者(* [[1824年]]) * [[1915年]] - [[アーサー・ヒューズ]]、[[画家]]、[[イラストレーター]](* [[1831年]]) * [[1928年]] - [[高畠素之]]、[[国家社会主義]][[思想|思想家]](* [[1886年]]) * [[1939年]] - [[アントニー・フォッカー]]、[[飛行機]]技術者、[[フォッカー]]創業者(* [[1890年]]) * [[1948年]] - [[広田弘毅]]、政治家、第32代[[内閣総理大臣]](* [[1878年]]) * 1948年 - [[東條英機]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Tojo-Hideki Tōjō Hideki prime minister of Japan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、政治家、第40代内閣総理大臣(* [[1884年]]) * 1948年 - [[松井石根]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大将]]、中支那方面軍司令官(* [[1878年]]) * 1948年 - [[板垣征四郎]]、日本陸軍の大将、[[陸軍大臣]](* [[1885年]]) * 1948年 - [[木村兵太郎]]、日本陸軍の大将、[[ビルマ方面軍]]司令官(* [[1888年]]) * 1948年 - [[土肥原賢二]]、日本陸軍の大将、奉天特務機関長(* [[1883年]]) * 1948年 - [[武藤章]]、日本陸軍の[[中将]]、陸軍省軍務局長(* [[1892年]]) * [[1952年]] - [[エリ・ヘクシャー]]、[[経済学者]](* [[1879年]]) * 1952年 - [[ヴァスィリー・エロシェンコ]]、[[エスペランティスト]]・[[作家]](* [[1890年]]) * [[1953年]] - [[ラヴレンチー・ベリヤ]]、[[ソビエト連邦]]の[[秘密警察]]指導者(* [[1899年]]) * [[1972年]] - [[アンドレーイ・トゥーポレフ]]、飛行機技術者、[[ツポレフ]]創業者(* [[1888年]]) * [[1974年]] - [[高木市之助]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1888年]]) * [[1976年]] - [[大宮敏充]]、[[コメディアン]](* [[1913年]]) * [[1982年]] - [[菅波茂]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]](* [[1913年]]) * [[1991年]] - [[村川堅太郎]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1907年]]) * [[1992年]] - [[エディ・ヘイゼル]]、[[ファンク]][[ギタリスト]]([[ファンカデリック]])(* [[1950年]]) * [[1993年]] - [[小川省吾]]、[[日本社会党]]衆議院議員(* [[1922年]]) * [[1994年]] - [[大宮悌二]]、[[声優]](* [[1928年]]) * [[1996年]] - 和田隆夫、[[作詞家]](* [[1911年]]) * [[1999年]] - [[マルセル・ランドスキ]]、作曲家(* [[1915年]]) * 1999年 - [[ウォーリス・ディーステルマイヤー]]、フィギュアスケート選手(* [[1926年]]) * [[2001年]] - [[ジャック・マイヨール]]、フリーダイバー(* [[1927年]]) * 2001年 - [[北野隆興]]、[[実業家]](* [[1921年]]) * [[2003年]] - [[巽悟朗]]、実業家、[[光世証券]]創業者(* [[1935年]]) * [[2004年]] - [[ナラシマ・ラオ]]、[[インド]]首相(* [[1921年]]) * [[2005年]] - [[姚文元]]、[[文化大革命]]期の[[四人組 (中国史)|四人組]]のひとり(* [[1932年]]) * [[2006年]] - [[西塚十勝]]、[[調教師]](* [[1912年]]) * 2006年 - [[山﨑あつし]]、[[漫画家]](* [[1976年]]) * [[2007年]] - [[藤井道夫]]、[[プロ野球選手]](* [[1922年]]) * 2007年 - [[オスカー・ピーターソン]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]]、作曲家(* [[1925年]]) * [[2008年]] - [[早乙女貢]]、[[小説家]](* [[1926年]]) * 2008年 - [[林亮勝]]、歴史学者(* [[1927年]]) * [[2011年]] - [[黒沢丈夫]]、日本海軍士官、操縦士、群馬県多野郡上野村村長(* [[1913年]]) * [[2013年]] - [[ミハイル・カラシニコフ]]、[[ロシア連邦]](旧[[ソビエト連邦|ソ連]])の戦車長、銃器設計士(* [[1919年]]) * [[2017年]] - [[葉室麟]]<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20171224/k00/00m/040/053000c|title=訃報 葉室麟さん66歳=直木賞作家「蜩ノ記」|publisher=毎日新聞|date=2017-12-23|accessdate=2020-11-21}}</ref>、小説家(* [[1951年]]) *[[2020年]] - [[なかにし礼]] <ref>{{cite news|title=作詞家&直木賞作家、なかにし礼さん死去 82歳「北酒場」「石狩挽歌」昭和の歌謡界支えた巨星|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/25/kiji/20201224s00041000438000c.html|accessdate=2021-01-29|date=2020-12-25|publisher=スポーツニッポン}}</ref>、[[小説家]]、[[作詞家]] (* [[1938年]]) * 2020年 - [[ジェイムズ・E・ガン (小説家)|ジェイムズ・E・ガン]]<ref>{{Cite news|url=https://www.kansascity.com/news/local/article248066660.html|title=Science fiction author James Gunn, a KU professor emeritus, dies Wednesday at age 97|newspaper=Kansas City Star|date=2020-12-23|accessdate=2021-01-29|language=英語}}</ref> 、[[小説家]](* [[1923年]]) * 2020年 - [[レスリー・ウェスト]]<ref>{{Cite news|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/leslie-west-dead-1106777/|title=Leslie West, Mountain Guitarist Who Belted ‘Mississippi Queen,’ Dead at 75|newspaper=Rolling Stone|date=2020-12-23|accessdate=2021-01-29|language=英語}}</ref> 、[[ギタリスト]]、[[歌手]](* [[1945年]]) * 2020年 - [[井上泰治]]<ref>{{Cite news|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/460744|title=「水戸黄門」「大岡越前」の監督、井上泰治さん死去|publisher=京都新聞社|date=2021-01-04|accessdate=2021-01-29}}</ref> 、[[映画監督]]、[[脚本家]](* [[1954年]]) * 2020年 - [[フランキー・ランドール]]<ref>{{Cite news|url=https://www.boxing247.com/boxing-news/frankie-the-surgeon-randall-1961-to-2020/167897|title=Frankie “The Surgeon” Randall – 1961 To 2020|newspaper=boxing247.com|date=2020-12-23|accessdate=2021-01-29|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://hochi.news/articles/20201224-OHT1T50129.html |title= チャベスに初めて土をつけた男が死去 元Sライト級世界王者フランキー・ランドールさん |publisher= スポーツ報知 |date= 2020年12月24日 |accessdate= 2021年2月2日}}</ref>、[[プロボクサー]](*[[1961年]]) == 記念日・年中行事 == * (旧)[[天皇誕生日]]({{JPN}}、旧:[[天長節]]、[[1989年]]<平成元年> - [[2018年]]<平成30年>)→[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]誕生日({{JPN}}、[[2019年]]<令和元年> - ) *: [[明仁|上皇明仁]]([[1933年]]<昭和8年>生まれ、第125代天皇)の誕生日を祝うための[[国民の祝日]]だった。[[明仁から徳仁への皇位継承|皇太子徳仁親王への皇位継承]]に伴い、[[2019年]]以降は改正[[祝日法]]に基づき、この日が天皇誕生日の祝日に該当しなくなったため、完全に[[平日]]となっている。<ref>[https://www.nao.ac.jp/news/topics/2018/20180201-rekiyoko.html 平成31(2019)年暦要項の発表] 国立天文台</ref> ※なお新天皇誕生日は、[[2020年]](令和2年)より「'''[[2月23日]]'''」に移行。 * [[東京タワー]]完成の日({{JPN}}) *:[[1958年]]、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]に東京タワーが完成し、完工式が行われた。 * [[テレホンカード]]の日({{JPN}}) *: [[日本電信電話|NTT]]が制定。[[1982年]]に開発された[[硬貨]]の代わりとして[[プリペイドカード]]使用の[[公衆電話]]機が使用開始された日にちなんでいる。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1223|date=2011年7月}} * 1961年 - 11時に[[ジェームズ・ボンド]]が[[ブロフェルド]]と初めて対面する。(小説『[[女王陛下の007#出版|女王陛下の007号]]』第11章) * 20XX年 - 高村仁、花鳥玲愛の結婚記念日(ゲーム『[[パルフェ 〜ショコラ second brew〜]]』『[[フォセット - Cafe au Le Ciel Bleu -]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1886年]] - 鯉登音之進、漫画『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ゴールデンカムイ公式ファンブック 探究者たちの記録|publisher=集英社|year=2020|page=145|isbn=978-4-08-891732-0}}</ref> * [[1960年]] - [[ガイル (ストリートファイター)|ガイル]]、ゲーム『[[ストリートファイターII]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://magmix.jp/post/42541 |title=12月23日は『ストII』ガイルの誕生日 ”ガン待ち”に泣かされたプレイヤーも多い? |access-date=2022-12-31 |publisher=マグミクス |date=2020-12-23}}</ref> * [[1998年]] - [[ノッポン]]、[[東京タワー]]のイメージキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=ノッポン兄弟 |url=https://www.tokyotower.co.jp/towerpedia/index.html |access-date=2022-12-31 |publisher=東京タワー TokyoTower}}</ref> * 生年不明 - つばさちゃん(蒼井つばさ)、[[着せ替え人形]]『[[リカちゃん]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[マリク・イシュタール]]、漫画『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋和希|title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書|publisher=集英社|series=Vジャンプブックス|year=2015|page=154|ISBN=978-4-08-779722-0}}</ref> * 生年不明 - 凡戸固次郎、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-10/ |title=凡戸固次郎 |access-date=2022-12-31 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#頬白凛々愛|頬白凛々愛]]、漫画『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=24巻|page=158|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref> * 生年不明 - 千切豹馬、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bluelock_wm|1605967424867770372}}</ref> * 生年不明 - 星川麻冬、漫画・アニメ『[[ブレンド・S]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=中山幸|authorlink=中山幸|year=2017|title=ブレンド・S|volume=3巻|page=8|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4-8322-4798-7}}</ref> * 生年不明 - 三ノ輪聖、漫画・アニメ『[[ばくおん!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bakuon-anime.com/characters/hijiri.html |title=三ノ輪 聖 |access-date=2022-12-31 |publisher=[[おりもとみまな]](ヤングチャンピオン烈)/ばくおん!!製作委員会 |work=『ばくおん!!』}}</ref> * 生年不明 - クリムヒルト、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.valvrave.com/character/#c20 |title=クリムヒルト |access-date=2022-12-31 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]]/VVV Committee, MBS |work=『革命機ヴァルヴレイヴ』}}</ref> * 生年不明 - 水瀬名雪、ゲーム『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/ |title=Character 水瀬 名雪 |access-date=2022-12-31 |publisher=[[Key (ゲームブランド)|Key]] |work=『Kanon』}}</ref> * 生年不明 - 乃木坂初佳、ゲーム『[[ヨスガノソラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=乃木坂 初佳 |url=http://www.cuffs.co.jp/products/yosuga/character/mot_01.html |access-date=2022-12-31 |publisher=Sphere A |work=『ヨスガノソラ』}}</ref> * 生年不明 - 長町やえ、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|812130736027340800}}</ref> * 生年不明 - 柳生、ゲーム『[[シノビマスター 閃乱カグラ NEW LINK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?yagyu&mode=1 |title=柳生 |access-date=2022-12-31 |publisher=Marvelous Inc. 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12月24日
12月24日(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から358日目(閏年では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。
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{{カレンダー 12月}} '''12月24日'''(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から358日目([[閏年]]では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。 == できごと == * [[562年]] - [[558年]]に崩壊した[[コンスタンティノープル]]の大聖堂[[アヤソフィア]]が再建される。 * [[1294年]] - [[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]が[[教皇|ローマ教皇]]に就任。 * [[1777年]] - 英国の探検家[[ジェームズ・クック]]が太平洋の小島に到着し、クリスマス島([[キリスィマスィ島]])と命名。 * [[1798年]] - [[第二次対仏大同盟]]結成。 * [[1814年]] - [[米英戦争]]の停戦条約・[[ガン条約]]に調印。 * [[1854年]]([[嘉永]]7年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[安政南海地震]]。 * [[1871年]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]作曲のオペラ『[[アイーダ]]』が[[エジプト]]カイロで初演<ref>{{Cite web |url=https://www.chopin.co.jp/media/opera217/a2060 |title=アイーダ[全4幕]ヴェルディ作曲 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=株式会社ハンナ |date=27 May 2019}}</ref>。 * [[1865年]] - [[アメリカ連合国|南部連合]]の退役軍人らが[[クー・クラックス・クラン]] (KKK) を設立。 * 1871年([[明治]]4年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - 宍戸・水戸・笠間・下館・下妻・松岡の各県の合併で[[茨城県]]が成立する。 * [[1889年]] - 日本で[[山縣有朋]]が第3代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次山縣内閣]]が発足。 * [[1905年]] - 京浜電気鉄道(現・[[京浜急行電鉄]])の品川(八ツ山橋) - [[神奈川駅|神奈川]]間全通。 * [[1906年]] - アメリカ・[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]で[[レジナルド・フェッセンデン]]が世界初の[[ラジオ]]放送を実施。 * [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: ドイツ軍とイギリス軍が[[クリスマス休戦]]を実施。 * [[1928年]] - [[紀州鉄道]]設立。 * [[1933年]] - 東京都千代田区[[有楽町]]に[[渡辺仁]]設計の[[日本劇場]]が開場。[[1981年]][[2月15日]]に老朽化で閉鎖され、跡地には[[有楽町センタービル]]が建つ。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: 日本軍が[[クチン]]を占領。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が[[東京宝塚劇場]]を接収し、「アニー・パイル劇場」に改称。 * 1945年 - [[生田警察署襲撃事件]]: [[兵庫県]][[神戸市]]の生田警察署に、50名を超える朝鮮人の暴徒が、[[岡山県警察|岡山県警]]の刑事の襲撃を企図して侵入。生田警察署は、翌1946年[[1月9日]]にも、検挙された人物の奪還を試みた朝鮮人の襲撃を受ける。 * [[1946年]] - 戦時中中断されていた学校給食が[[東京都|東京]]、[[神奈川県|神奈川]]、[[千葉県|千葉]]で試験的に再開される。 * [[1949年]] - [[聞慶虐殺事件]]: [[大韓民国|韓国]]の[[慶尚北道]][[聞慶市]]で、韓国陸軍第3歩兵師団第25歩兵連隊の第7中隊第3大隊第2および第3小隊によって、非武装の民間人が88名が虐殺される。 * [[1951年]] - [[リビア]]が[[イタリア]]から独立して[[リビア王国|リビア連合王国]]となり、[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]が国王に即位。 * 1951年 - 外務大臣[[吉田茂]]が[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]米国務長官に[[吉田書簡#第一次吉田書簡|吉田書簡]]を送り、[[中華民国]]政府を[[中国]]の正統政府として選ぶことを表明。 * 1951年 - [[京都放送|ラジオ京都(現・KBS京都)]]開局。 * [[1952年]] - [[新潟放送|ラジオ新潟(現・新潟放送)]]開局。 * [[1953年]] - [[山陰放送|RSB ラジオ山陰(現・山陰放送)]]開局。 * [[1955年]] - アメリカ中央防衛航空軍基地 (CONAD) が[[NORADのサンタ追跡|トラックス・サンタ]]を開始。 * [[1957年]] - [[NHK-FM放送|NHK超短波FM放送]]東京実験局が開局し、日本初のFM放送を開始。 * [[1958年]] - [[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)]]開局。 * [[1962年]] - [[岐阜放送|ラジオ岐阜(現・岐阜放送、ぎふチャン)]]開局。 * [[1965年]] - 大阪府都市開発(現・[[泉北高速鉄道]])設立。 [[ファイル:NASA-Apollo8-Dec24-Earthrise.jpg|180x180px|thumb|[[アポロ8号]]から史上初めて撮影された「[[地球]]の[[天体の出没|出]]」(1968)]] * [[1968年]] - [[12月21日]]打ち上げられた[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の有人[[月]]周回宇宙船「[[アポロ8号]]」が、史上初の月周回飛行を開始<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/58931 |title=12月24日 人類が初めて月の裏側を肉眼で確認(1968年) |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[講談社]] |website=ブルーバックス サイエンス365days}}</ref>。 * [[1969年]] - 日本初の[[民間放送|民放]]FM放送局、[[エフエム愛知]] (当時・愛知音楽エフエム放送) が開局。 * 1969年 - 東京タクシー近代化センター(現在の[[東京タクシーセンター]])設立。 <!-- 改正の要点を書かないと、これだけでは意味がない→ * [[1970年]] - [[公職選挙法]]改正公布。 --> * [[1971年]] - [[新宿クリスマスツリー爆弾事件]]発生。[[四谷警察署]]追分派出所近くの[[クリスマスツリー]]に隠された[[爆弾]]が爆発。警察官と通行人が重軽傷<ref>「マンガチックな軍事作戦」『朝日新聞』昭和47年(1972年)8月2日朝刊、13版、18面</ref>。 * [[1975年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]最後の[[蒸気機関車]]牽引による定期[[貨物列車]]が夕張線(現・[[石勝線]])で運転(本線上での最後の定期SL牽引列車)。 * [[1976年]] - [[福田赳夫内閣]]が成立。 * [[1979年]] - [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]: [[ソビエト連邦軍]]が[[アフガニスタン]]に侵攻。 * 1979年 - [[欧州宇宙機関]] (ESA) が[[アリアン]]シリーズの最初のロケット「[[アリアン1]]」1号機を打ち上げ。 * [[1987年]] - ロックバンド、[[BOØWY]]が[[渋谷公会堂]]でのライブで解散を宣言。 * [[1988年]] - [[消費税法|消費税法案]]成立。[[日本社会党|社会]]・[[日本共産党|共産]]両党が[[牛歩戦術]]などにより抵抗し、衆議院本会議が13年ぶりの徹夜国会になる<ref>{{Cite web |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030701_00000 |title=徹夜国会の末に消費税導入決定 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。 * [[1991年]] - [[東名高速道路]]下り線([[大井松田インターチェンジ|大井松田IC]] - [[足柄サービスエリア|足柄SA]]手前)の改築工事完了。日本の高速道路で初の同一方面2ルート制での供用開始。 * [[1994年]] - ノルウェーの探検家{{仮リンク|リブ・アーネセン|en|Liv Arnesen}}が女性として初めて単独で[[南極点]]に到達。 * [[1999年]] - [[インディアン航空814便ハイジャック事件]]。 * 1999年 - [[World Wide Web Consortium|W3C]]が[[HyperText Markup Language#歴史|HTML4.01]]を勧告。 * [[2002年]] - [[宇宙開発事業団]]が地球環境観測衛星「[[みどりII]]」を打上げ。 * [[2004年]] - [[日本プロ野球]]のオーナー会議で、福岡ダイエーホークスの経営権を[[ダイエー]]から[[ソフトバンク]]へ譲渡することを正式決定。球団名を「[[福岡ソフトバンクホークス]]」に改称。 * [[2006年]] - [[Osaka Metro今里筋線|大阪市営地下鉄今里筋線]] [[今里駅 (Osaka Metro)|今里]] - [[井高野駅|井高野]]間が開業。 * [[2014年]] - 通常兵器の国際移転(移譲)を規制する[[武器貿易条約]]が発効。 * [[2017年]] - [[ペルー]]大統領府、[[アルベルト・フジモリ]]元大統領の恩赦を発表<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25031180V21C17A2MM0000/ |title=ペルー政府、フジモリ元大統領を釈放へ 恩赦を決定 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=25 Dec 2017}}</ref>。 * [[2021年]] - 韓国政府が、収賄などの罪で懲役22年の実刑が確定し、服役中の[[朴槿恵]]前大統領を、12月31日付で赦免すると発表<ref>{{Cite web |url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20211224002400882 |title=朴槿恵氏 特別赦免も大統領経験者の礼遇受けられず=韓国 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[聯合ニュース]] |date=24 Dec 2021}}</ref>。 == 誕生日 == * [[紀元前3年]] - [[ガルバ]]、[[ローマ皇帝]](+ [[68年]]) * [[1167年]] - [[ジョン (イングランド王)|ジョン]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1216年]]) * [[1491年]] - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]、[[イエズス会]]初代総長(+ [[1556年]]) * [[1573年]]([[天正]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[沢庵宗彭]]、[[臨済宗]]の[[僧]](+ [[1646年]]) * [[1632年]]([[寛永]]9年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]])- [[大久保忠朝]]、初代[[小田原藩]]主(+ [[1712年]]) * [[1638年]]([[寛永]]15年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])- [[土方雄豊]]、第3代[[菰野藩]]主(+ [[1705年]]) * [[1656年]]([[明暦]]2年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]])- [[松平義行]]、初代[[高須藩]]主(+ [[1715年]]) * [[1676年]]([[延宝]]4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]])- [[細川宣紀]]、第4代[[熊本藩]]主(+ [[1732年]]) * [[1736年]]([[元文]]元年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]])- [[溝口直養]]、第8代[[新発田藩]]主(+ [[1797年]]) * [[1778年]]([[安永]]7年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]])- [[井上正甫]]、初代[[棚倉藩]]主(+ [[1858年]]) * [[1782年]]([[天明]]2年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]])- [[毛利斉房]]、第10代[[長州藩]]主(+ [[1809年]]) * [[1791年]] - [[ウジェーヌ・スクリーブ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](+ [[1861年]]) * [[1818年]] - [[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]、[[物理学者]](+ [[1889年]]) * [[1824年]] - [[ペーター・コルネリウス]]、[[作曲家]](+ [[1874年]]) * [[1837年]] - [[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の皇后(+ [[1898年]]) * [[1845年]] - [[フェルナン・コルモン]]、[[画家]](+ [[1924年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[尾崎行雄]]、[[政治家]]、[[衆議院名誉議員]](+ [[1954年]]) * 1858年(安政5年11月20日)- [[田村崇顕]]、第11代[[一関藩]]主(+ [[1922年]]) * 1858年(安政5年11月20日)- [[安藤直行]]、第17代[[田辺藩]]主(+ [[1908年]]) * [[1863年]] - [[エンリケ・フェルナンデス・アルボス]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1939年]]) * [[1868年]] - [[エマーヌエール・ラスカー]]、[[数学者]]、[[チェス]]プレイヤー(+ [[1941年]]) * [[1882年]] - [[橋本進吉]]、[[言語学|言語学者]]、[[国語学者]](+ [[1945年]]) * [[1887年]] - [[ルイ・ジューヴェ]]、俳優、演出家(+ [[1951年]]) * [[1894年]] - [[ジョルジュ・ギンヌメール]]、[[エース・パイロット]](+ [[1917年]]) * [[1899年]] - [[三橋鷹女]]<ref>{{Cite web |url=https://www.library.city.narita.lg.jp/digitalcontents/yukari/takajo/index.html |title=三橋 鷹女 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=成田市立図書館 |website=成田ゆかりの人物}}</ref>、俳人(+ [[1972年]]) * [[1905年]] - [[ハワード・ヒューズ]]、実業家(+ [[1976年]]) * [[1906年]] - [[岡精義]]、[[ヤクザ]](+ 没年不明) * [[1910年]] - [[フリッツ・ライバー]]、[[小説家]](+ [[1992年]]) * [[1912年]] - [[斉藤丑松]]、[[作曲家]]・[[ホルン|ホルン奏者]](+ [[1994年]]) * [[1914年]] - [[アルフレート・ドンペルト]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1991年]]) * [[1917年]] - [[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]、[[金日成]]の妻、[[金正日]]の母(+ [[1949年]]) * [[1918年]] - [[デイブ・バーソロミュー]]、ジャズミュージシャン(+ [[2019年]]) * [[1919年]] - [[ピエール・スーラージュ]]、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[版画家]](+ [[2022年]]) * 1919年 - [[吉田太郎一]]、[[財務官 (日本)|財務官]](+ [[2014年]]) * [[1920年]] - [[阿川弘之]]、小説家(+ [[2015年]]) * [[1922年]] - [[エヴァ・ガードナー]]、女優(+ [[1990年]]) * 1922年 - [[小月冴子]]、女優(+ [[2012年]]) * 1922年 - [[ジョナス・メカス]]、前衛映像作家、詩人(+ [[2019年]]) * [[1924年]] - [[リー・ドーシー]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]ミュージシャン(+ [[1986年]]) * [[1925年]] - [[中村雅哉]]、[[ナムコ]]創業者(+ [[2017年]]) * [[1927年]] - [[メアリ・H・クラーク]]、作家(+ [[2020年]]) * [[1930年]] - [[河内忠吾]]、元[[プロ野球選手]]、元[[野球監督]](+ [[1991年]]) * [[1937年]] - [[平尾昌晃]]、[[作曲家]](+ [[2017年]]) * 1937年 - [[畑隆幸]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[ハウデン・ガンレイ]]、元[[レーシングドライバー]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[1943年]] - [[小松原一男]]、[[アニメーター]](+ [[2000年]]) * 1943年 - [[タルヤ・ハロネン]]、政治家、第11代[[フィンランドの大統領|フィンランド大統領]] * [[1944年]] - [[ウディ・ショウ]]、ジャズトランペッター(+ [[1989年]]) * [[1945年]] - [[レミー・キルミスター]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[モーターヘッド]])(+ [[2015年]]) * [[1946年]] - [[ヤン・アッカーマン]]、ミュージシャン([[フォーカス (バンド)|フォーカス]]) * 1946年 - [[山本優]]、[[脚本家]](+ [[2018年]]) * [[1946年]] - [[アンドリュー・チーチー・ヤオ]]、[[計算機科学者]] * [[1947年]] - [[小池重明]]、アマチュアの将棋指し、[[真剣師]](+ [[1992年]]) * 1947年 - [[梶尾真治]]、[[SF作家]] * 1947年 - [[柏木由紀子]]、女優、タレント * [[1950年]] - [[生島ヒロシ]]、[[フリーアナウンサー]]、タレント、芸能プロモーター * 1950年 - [[伊藤銀次]]、ミュージシャン * [[1951年]] - [[久木田律子]]、[[漫画家]](+ [[2002年]]) * 1951年 - [[千葉和臣]]、[[フォークシンガー]]、[[ギタリスト]]([[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]) * [[1953年]] - [[津留崎直紀]]、[[チェリスト]] * [[1954年]] - [[伊藤和典]]、[[脚本家]] * 1954年 - [[木山英求]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[福島瑞穂]]、政治家、[[弁護士]] * [[1956年]] - [[アンソニー・クルーズ]]、[[調教師]] * 1956年 - [[山本哲也 (アナウンサー)|山本哲也]]、[[アナウンサー]] * [[1957年]] - [[ハーミド・カルザイ]]、政治家、初代[[アフガニスタンの国家元首の一覧|アフガニスタン大統領]] * [[1958年]] - [[白都真理]]、女優 * 1958年 - [[樋口宗孝]]、[[ドラマー]]、[[音楽プロデューサー]](+ [[2008年]]) * [[1959年]] - [[トミーズ#トミーズ雅|トミーズ雅]]、[[漫才師]] * 1959年 - [[アニル・カプール]]、俳優 * [[1960年]] - [[小野不由美]]、小説家 * [[1961年]] - [[イルハム・アリエフ]]、政治家、第3代[[アゼルバイジャン]][[大統領]] * 1961年 - [[北川悦吏子]]、[[脚本家]] * 1961年 - [[島津悦子]]、[[歌手]] * [[1962年]] - [[長野智子]]、フリーアナウンサー * 1962年 - [[結城信輝]]、[[イラストレーター]] * 1962年 - [[石本貴昭]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[高須光聖]]、放送作家、[[ラジオパーソナリティ]] * [[1966年]] - [[若林重喜]]、[[野球選手]] * [[1968年]] - [[ネブ]]、ミュージシャン * 1968年 - [[チェ・ジンシル]]、女優(+ [[2008年]]) * [[1969年]] - [[志賀真理子]]、女優、[[声優]]、[[タレント]](+ [[1989年]]) * 1969年 - ヒサダトシヒロ、元お笑いタレント、ミュージシャン(元[[のイズ]]、MARSAS SOUND MACHINE) * 1969年 - [[松下美由紀]]、声優 * [[1970年]] - [[緒方剛志]]、イラストレーター * 1970年 - [[アマウリー・ノラスコ]]、俳優 * [[1971年]] - [[小川知子 (アナウンサー)|小川知子]]、[[アナウンサー]] * 1971年 - [[アレックス・カブレラ]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[大寳智子]]、女優 * 1971年 - [[野村理沙]]、元[[AV女優]] * 1971年 - [[リッキー・マーティン]]、歌手 * [[1972年]] - [[逸見太郎]]、[[俳優]]、[[司会者]] * 1972年 - [[あらいすみれ]]、女優、[[モデル (職業)|モデル]] * 1972年 - [[田上よしえ]]、お笑いタレント * [[1974年]] - [[ケビン・ミルウッド]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[マルセロ・サラス]]、元サッカー選手 * 1974年 - [[エルダー・ネボルシン]]、[[ピアニスト]] * 1974年 - [[竹下けんじろう]]、漫画家 * [[1975年]] - [[大鷲透]]、プロレスラー * [[1977年]] - [[吉田好太]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - 王蓉(ワン・ロン)([[:zh:王蓉]])、歌手 * [[1979年]] - [[赤坂七恵]]、元女優 * 1979年 - [[ジョー・バレンタイン]]、プロ野球選手 * 1979年 - [[龐清]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1979年 - [[福家英登]]、[[プロ野球審判員]] <!-- 年の出典が不明 * [[1980年]] - [[吉田由莉]]、[[グラビアアイドル]]、女優、タレント --> * [[1982年]] - [[相葉雅紀]]、タレント([[嵐 (グループ)|嵐]]) * 1982年 - 石垣優、歌手([[やなわらばー]]) * 1982年 - [[柿原徹也]]、声優 * 1982年 - [[木下ココ]]、[[ファッションモデル]] * 1982年 - [[玉山健太]]、元プロ野球選手 * [[1983年]] - [[東條あこ]]、タレント、元歌手(元[[BeForU]]) * 1983年 - [[グレゴール・ブランコ]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[アルベニス・カスティーヨ]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[大野恵]]、アナウンサー * [[1985年]] - [[アンドリュー・ロマイン]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[北川珠望]]、ファッションモデル、タレント * [[1986年]] - [[石原さとみ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/70544/full/ |title=クリスマスイブが誕生日、石原さとみがほしいプレゼントとは? |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=11 Nov 2009 |accessdate=7 Nov 2023}}</ref>、女優 * 1986年 - [[小田瑞穂]]、タレント * 1986年 - [[中村倫也 (俳優)|中村倫也]]、俳優 * 1986年 - 野澤輸出、お笑いタレント([[ダイヤモンド (お笑いコンビ)|ダイヤモンド]]) * 1986年 - [[森理世]]、タレント、2007年度[[ミス・ユニバース]] * [[1987年]] - 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[[田鍋梨々花]]<ref>{{Cite web|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20170724/geo17072405040004-n1.html |title=“美少女中学生”田鍋梨々花、月9で女優デビュー!天才ピアニスト役 |website=SANSPO.COM |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=24 Jul 2017 |accessdate=7 Nov 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802043624/http://www.sanspo.com/geino/news/20170724/geo17072405040004-n1.html |archivedate=2 Aug 2017}}</ref>、モデル、女優 * [[2010年]] - [[古川凛]]、子役 * 生年不明 - [[氏家ト全]]、漫画家 * 生年不明 - [[一色まゆ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.artsvision.co.jp/talent/266/ |title=一色まゆ |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[アーツビジョン|株式会社アーツビジョン]]}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[うのちひろ]]、声優 * 生年不明 - [[鈴木雅之 (声優)|鈴木雅之]]、声優 == 忌日 == * [[236年]]([[青龍 (魏)|青龍]]3年) - [[陳羣]]、[[魏 (三国)|魏]]の[[司空]](生年不明) * [[1263年]]([[弘長]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[北条時頼]]、第5代[[鎌倉幕府]][[執権]](* [[1227年]]<ref>{{Kotobank|北条時頼}}</ref>) * [[1317年]] - [[ジャン・ド・ジョアンビル]]、[[伝記]]作家(* [[1224年]]) * [[1332年]]([[正慶]]元年/[[元弘]]2年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[九条忠教]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1248年]]) * [[1453年]] - [[ジョン・ダンスタブル]]、[[作曲家]](* [[1390年]]頃) <!--旧暦* [[1494年]] - [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]、第9代[[李氏朝鮮]]国王(* [[1457年]])--> * [[1524年]] - [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]、[[探検家]](* [[1469年]]頃) * [[1660年]] - [[メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート]]、[[ウィレム2世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム2世]]の妻(* [[1631年]]) * [[1692年]] - [[マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ|マリア・アントニア]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]の妃(* [[1669年]]) * [[1725年]]([[享保]]10年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[鷹司兼熙]]、公卿(* [[1660年]]) * [[1806年]] - [[フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フェルディナント]]、オーストリア=エステ大公(* [[1754年]]) * [[1813年]]([[文化 (元号)|文化]]10年[[閏]][[11月2日 (旧暦)|11月2日]])- [[後桜町天皇]]、第117代[[天皇]](* [[1740年]]) * [[1836年]]([[天保]]7年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[飯塚伊賀七]]、[[発明家]](* [[1762年]]) * [[1863年]] - [[ウィリアム・メイクピース・サッカレー|サッカレー]]、[[小説家]](* [[1811年]]) * [[1872年]] - [[ウィリアム・ランキン]]、[[物理学者]](* [[1820年]]) * [[1873年]] - [[ハインリヒ・グスタフ・ホトー]]、[[美学|美学者]](* [[1802年]]) * [[1887年]] - [[ダニエル・マニング]]、第37代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1831年]]) * [[1901年]] - [[クラレンス・キング]]、[[地質学者]](* [[1842年]]) * [[1902年]] - [[高山樗牛]]、[[文芸評論家]](* [[1871年]]) * [[1910年]] - 3代目[[桂文枝]]、[[落語家]](* [[1864年]]) * [[1917年]] - [[イワン・ゴレムイキン]]、[[ロシア帝国]]首相(* [[1839年]]) * [[1921年]] - [[三須宗太郎]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大将]](* [[1855年]]) * [[1924年]] - [[中村彝]]、[[画家]](* [[1887年]]) * [[1927年]] - [[澤柳政太郎]]、[[教育者]]、[[学校法人成城学園|成城学園]]創立者(* [[1865年]]) * [[1935年]] - [[アルバン・ベルク]]、作曲家(* [[1885年]]) * [[1938年]] - [[ブルーノ・タウト]]、建築家(* [[1880年]]) * [[1940年]] - [[湯浅倉平]]、[[内大臣]](* [[1874年]]) * [[1941年]] - [[大江季雄]]、[[陸上競技]]選手(* [[1914年]]) * [[1942年]] - [[コンスタンチン・バリモント]]、[[詩人]](* [[1867年]]) * [[1945年]] - [[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の軍人(* [[1869年]]) * [[1946年]] - [[河村光陽]]、作曲家(* [[1897年]]) * [[1955年]] - [[ウィリアム・グリーブス]]、[[天文学者]](* [[1897年]]) * [[1957年]] - [[大川周明]]、思想家(* [[1886年]]) * [[1959年]] - [[エドマンド・グールディング]]、[[映画監督]](* [[1891年]]) * 1959年 - [[山脇正治]]、プロ野球監督(* [[1885年]]) * [[1961年]] - [[アクセル・ヴェナー=グレン]]、起業家、アルヴェーグ式[[モノレール]]開発者(* [[1881年]]) * [[1962年]] - [[ヴィルヘルム・アッカーマン]]、[[数学者]](* [[1896年]]) * [[1966年]] - [[ガスパール・カサド]]、[[チェリスト]](* [[1897年]]) * [[1970年]] - [[ニコライ・シュヴェルニク]]、[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長]](* [[1888年]]) * [[1974年]] - [[茂木善作]]、[[陸上競技]]選手、[[スポーツ]]指導者(* [[1893年]]) * [[1975年]] - [[バーナード・ハーマン]]、作曲家(* [[1911年]]) * [[1978年]] - [[巴潟誠一]]、[[大相撲]][[力士]](* 1911年) * [[1980年]] - [[カール・デーニッツ]]、[[ナチス・ドイツ]][[ドイツの大統領|大統領]](* [[1891年]]) * 1980年 - [[ヘイッキ・リーマタイネン]]、陸上競技選手(* [[1894年]]) * [[1982年]] - [[ルイ・アラゴン]]、小説家、[[詩人]]、[[評論家]](* [[1897年]]) * [[1984年]] - [[美濃部亮吉]]、[[東京都知事]]、[[参議院|参議院議員]](* [[1904年]]) * 1984年 - [[ピーター・ローフォード]]、俳優(* [[1923年]]) * [[1985年]] - [[加藤唐九郎]]、[[陶芸家]](* [[1897年]]) * 1985年 - [[佐々木更三]]、[[日本社会党委員長]](* [[1900年]]) * [[1986年]] - [[リチャード・ウーリー]]、[[天文学者]](* [[1906年]]) * [[1987年]] - [[福井慶三]]、[[実業家]](* 1900年) * [[1988年]] - [[山田無文]]、[[僧]](* 1900年) * [[1993年]] - [[厳家淦]]、第5代[[中華民国総統]](* [[1905年]]) * [[1994年]] - [[清水雅]]、実業家(* [[1901年]]) * 1994年 - [[ロッサノ・ブラッツィ]]、俳優(* [[1916年]]) * [[1997年]] - [[三船敏郎]]、[[映画俳優]](* [[1920年]]) * [[1999年]] - [[モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1907年]]) * 1999年 - [[大谷光紹]]、[[浄土真宗東本願寺派]]第25世[[法主]](* [[1925年]]) * 1999年 - [[菅原謙次]]、俳優(* [[1926年]]) * [[2000年]] - [[ジョン・クーパー (自動車技術者)|ジョン・クーパー]]、[[自動車]]技術者(* [[1923年]]) * [[2001年]] - [[黒木博]]、[[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]](* [[1907年]]) * [[2004年]] - [[金城次郎]]、陶芸家(* [[1912年]]) * [[2005年]] - [[コンスタンス・キーン]]、[[ピアニスト]](* [[1921年]]) * [[2006年]] - [[フランク・スタントン]]、[[実業家]](* [[1908年]]) * 2006年 - [[ボー・ミャ]]、[[カレン民族同盟]]議長(* [[1927年]]) * 2006年 - [[ケネス・シーヴァートセン]]、[[ミュージシャン]](* [[1961年]]) * [[2008年]] - [[サミュエル・P・ハンティントン]]、[[政治学者]](* 1927年) * 2008年 - [[ハロルド・ピンター]]、[[劇作家]](* [[1930年]]) * [[2009年]] - [[奥村公延]]、俳優(* [[1930年]]) * 2009年 - [[徳南晴一郎]]、[[漫画家]](* [[1934年]]) * 2009年 - [[志村正彦]]、[[ミュージシャン]]([[フジファブリック]])(* 1980年) * [[2011年]] - [[飯沼慧]]、俳優(* [[1926年]]) * 2011年 - [[入川保則]]、俳優(* [[1939年]]) * [[2012年]] - [[リチャード・ロドニー・ベネット]]、作曲家(* [[1936年]]) * 2012年 - [[山本隆造]]、元プロ野球選手(* [[1956年]]) * [[2013年]] - [[フレデリック・バック]]、[[アニメーション]]作家(* [[1924年]]) * [[2016年]] - [[リチャード・アダムス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20161228000015 |title=リチャード・アダムズ氏死去/英児童文学作家 |publisher=[[四国新聞社]] |date=28 Dec 2016 |accessdate=7 Nov 2023}}</ref>、[[ファンタジー]]作家(* [[1920年]]) * [[2020年]] - [[安野光雅]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20210116-RUTLUBQZMJOPPMNVKAZ4ATR6FQ/ |title=安野光雅さん死去 本紙で「安野光雅が描く 洛中洛外」連載 |publisher=[[産業経済新聞]] |date=16 Jan 2021 |accessdate=7 Nov 2023}}</ref>、画家・[[絵本作家]] (* [[1926年]]) * 2020年 - [[渡文明]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG040MZ0U1A100C2000000/ |title=渡文明氏が死去 元新日本石油(現ENEOSホールディングス)社長 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=4 Jan 2021}}</ref>、[[実業家]]、元新日本石油(現[[ENEOSホールディングス]])社長(* [[1936年]]) * 2020年 - [[イヴリー・ギトリス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3323236 |title=I・ギトリス氏死去 天才バイオリニスト、98歳 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=24 Dec 2020}}</ref>、[[ヴァイオリニスト]](* [[1922年]]) * 2020年 - [[ガイ・N・スミス]]<ref>{{Cite web |url=https://www.shropshirestar.com/news/features/2021/01/06/farewell-to-writer-with-unique-brand-of-horror/ |title=Tributes to horror writer Guy N Smith, who died aged 81 |access-date=7 Nov 2023 |publisher=The Shropshire Star |date=Jan 7, 2021}}</ref>、[[作家]](* [[1939年]]) == 記念日・年中行事 == * [[クリスマス・イヴ]]({{World}}) ** [[イエス・キリスト]]誕生を祝う[[クリスマス]]前夜。 * 納めの地蔵({{JPN}}) **[[地蔵菩薩]]の年内最後の[[縁日]] * 終い愛宕({{JPN}}) **[[愛宕権現]]の年内最後の縁日 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1224|date=Nov 2023}} * [[343年]] - [[サンタクロース]]のそりが初飛行する。([[北アメリカ航空宇宙防衛司令部#サンタクロースの追跡|ノーラッド・トラックス・サンタ]]) * [[1830年]] - [[パリ]]の[[アパート]]にて、詩人ロドルフォとお針子のミミが出会う。([[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]作のオペラ『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』) * [[1869年]] - [[チャールズ・ディケンズ]]と9代目ドクターらが協力し、幽霊騒動の謎を解く。このとき、時空間の裂け目が開く。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[1978年]] - 国連事務総長通達による、残存する青い血の人間の暗殺が世界各国で行なわれる。(映画『[[ブルークリスマス]]』) * [[1981年]] - 11時50分([[グリニッジ標準時]])にソ連の実験施設ヤムスク11でオムニ・スフィアの実験の最中に事故が発生し、その瞬間から3分の間、新生児が『[[ウィスパード|ささやかれた者]]』として生誕する。(小説『[[フルメタル・パニック!]]』) * [[1997年]] - カーネギー・ホールにて女優メリッサの体内でEveが覚醒。同時に人体発火により犠牲者が多数発生(『[[パラサイト・イヴ (ゲーム)]]』) * [[1999年]] - 独立武装勢力ザンジバーランド陥落(ゲーム『[[メタルギア2 ソリッドスネーク]]』) * [[2004年]] - 「弾丸ライナー」と名乗る犯人によってTTR(東京トランスポート・レールウェイ)の車両がハイジャックされる。(映画『[[交渉人 真下正義]]』) * 2004年 - [[綾崎ハヤテ]]が両親に借金の片に売り飛ばされる。その夜、[[三千院ナギ]]と出会う。(漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』) * 2004年 - バットイマジンが出現し、電王ソードフォームと戦闘。バットイマジンの契約者であるテツオの母の命日だった。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』) * [[2006年]] - [[火星]]付近で無人宇宙探査機との通信が途絶する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200628235553/https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |title=ドクター・フー世界年表 |accessdate=7 Nov 2023 |archivedate=28 Jun 2020 |publisher=[[NHKエンタープライズ]]}}</ref>。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』「[[クリスマスの侵略者]]」) * [[2008年]] - 宇宙船タイタニック号に小惑星が衝突して船が破損し、乗客に死者が出る。(ドラマ『ドクター・フー』「[[呪われた旅路]]」) * [[2010年]] - 横浜ネオ・アクロポリス聖夜祭。(アニメ『[[セラフィムコール]]』) * 2010年 - [[ニューヨーク]]にある化学薬品工場、メトロテック社で大規模[[火災]]発生。(ゲーム『[[ザ・ファイヤーメン]]』) * 2010年 - Z県富坂市にて羽代川が[[堤防#破堤(決壊)と欠壊|決壊]]し、富坂水害が発生。(ゲーム『[[絶体絶命都市2 -凍てついた記憶たち-]]』) * [[2012年]] - [[ニューヨーク]]にある超高層ビルで大規模[[火災]]発生。(ゲーム『[[ザ・ファイヤーメン2 ピート & ダニー]]』) * [[2015年]] - 泊進ノ介と詩島霧子が結婚。(映画『[[仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス]]』) * [[2015年]] - 泊進ノ介と詩島霧子の結婚パーティー中に都内数カ所を爆破するという旨の犯行声明が警視庁に届き、パーティーが中断される。(小説・特撮『[[ドライブサーガ]]内の『小説 仮面ライダードライブ マッハサーガ』) * [[2017年]] - [[新宿]]・[[京都]]で、呪術テロ「[[百鬼夜行]]」が行われる。(漫画『[[呪術廻戦|東京都立呪術高等専門学校]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[ソロモン (ガンダムシリーズ)|ソロモン]]攻略戦(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) * 新暦0065年 - 「闇の書事件」、激しい戦いの末に終結する。(アニメ『[[魔法少女リリカルなのはA's]]』) * 年不明 - [[ドイツ]]のシュタールバウム家にて、少女クララがくるみ割り人形をプレゼントされる。([[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作のバレエ『[[くるみ割り人形]]』) * 下記の前年 - 広野紘、雨宮優子及び宮村みやこと出会う。(ゲーム『[[ef - a fairy tale of the two.]]』、そのアニメ版『ef - a tale of memories.』) * 年不明 - 火村夕、雨宮優子と再会を果たす。(ゲーム『ef - a fairy tale of the two.』、そのアニメ版『ef - a tale of melodies.』) * 年不明 - 音羽の町が大震災とそれに伴う火災に見舞われ、あまりに多くの死傷者が出る大惨事となる。(ゲーム『ef - a fairy tale of the two.』、そのアニメ版『ef - a tale of melodies.』) * 年不明 - マルノウチ抗争が勃発。フジキド・ケンジが妻子を失い、自らも瀕死の重傷を負ったのちニンジャスレイヤーとして蘇る。(小説『[[ニンジャスレイヤー]]』) * 年不明 - 古河渚,出席日数不足による2度目の留年が決定。(アニメ『CLANNAD AFTER STORY』) * 20XX年 - 東和連邦が日本の海上保安庁の巡視船を攻撃し初島を占領、海上警備行動が発令された。(映画『[[空母いぶき]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1497年]] - オットー・スピノーラ、ゲーム『[[大航海時代II]]』に登場するキャラクター<ref>フクザワ・エイジ編、[[シブサワ・コウ]]監修 『大航海時代IIハンドブック』 (光栄(現:[[コーエーテクモホールディングス]]))、1993年、165頁、{{ISBN2|4-87719-011-2}}。</ref> * [[1909年]] - レニ・ミルヒシュトラーセ、ゲーム『[[サクラ大戦シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sakura-taisen.com/archives/game/ds/chara_reni.html |title=レニ・ミルヒシュトラーセ |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] RED |work=『ドラマチックダンジョン サクラ大戦 ~君あるがため~』}}</ref> * [[1990年]] - 泊進ノ介、特撮『[[仮面ライダードライブ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|televi_kun|1474137746629398530}}</ref><ref>{{Cite web |title=第12話 白い仮面ライダーはどこから来たのか EPISODE14 [泊進ノ介、バースデー撮影の巻!!」 |url=https://www.toei.co.jp/tv/drive/story/1204824_2271.html |website=[[東映株式会社]] |access-date=7 Nov 2023 |work=『仮面ライダードライブ』}}</ref> * [[2000年]] - 須藤聖知(セシル)、テレビアニメ『[[ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル]]』の主人公<ref>第1話作中で表示される[[運転免許証]]等の描写より</ref> * [[2008年]] - 愛理、ゲーム『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |pages=80,158|publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 |quote= }}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]521年 - イヴリーシュ、ゲーム『[[スターオーシャン:アナムネシス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=4|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - [[越前リョーマ]]、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』『新テニスの王子様』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=[[許斐剛]]|year=2001|title=[[テニスの王子様]]|volume=10.5巻|page=18|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-873193-X}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://animageplus.jp/articles/detail/41286 |title=『新テニスの王子様』描き下ろし!リョーマ誕生日記念商品でお祝い♪ |access-date=7 Nov 2023 |publisher=アニメージュ+ |date=23 Dec 2021}}</ref> * 生年不明 - 古河渚、ゲーム・アニメ『[[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]]』のメインヒロイン<ref>『CLANNAD FULL VOICE』ユーザーズマニュアル[[Key (ゲームブランド)|Key]]、2008年、11頁。</ref> * 生年不明 - 三日月夜空、小説・アニメ『[[僕は友達が少ない]]』『僕は友達が少ないNEXT』のメインヒロイン<ref>{{Twitter status|hirasakayomi|1474133515289919491}}</ref> * 生年不明 - 白石うらら、漫画・アニメ『[[山田くんと7人の魔女]]』のメインヒロイン<ref>{{Twitter status|yamajo_anime|679860328427995137}}</ref> * 生年不明 - マリヤ・ミハイロヴナ・九条(マーシャ)、小説・漫画・アニメ『[[時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん]]』のヒロインの姉<ref>{{Twitter status|roshidere|1606590509886996480}}</ref> * 生年不明 - キキ、[[サンリオ]]『[[リトルツインスターズ]]』のキャラクター<ref name=":0">{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/kikilala/ |title=キキ&ララ |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『リトルツインスターズ』}}</ref> * 生年不明 - ララ、[[サンリオ]]『リトルツインスターズ』のキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - [[中川圭一]]、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)41頁</ref> * 生年不明 - 天英星バルロンのルネ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=77 |title=天英星(てんえいせい)バルロンのルネ |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM 聖闘士博物館}}</ref> * 生年不明 - トニートニー・チョッパー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/chopper.html |title=トニートニー・チョッパー |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref> * 生年不明 - うちはマダラ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|pae=48|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref> * 生年不明 - マダム・しじみ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=121|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873288-X}}</ref> * 生年不明 - [[金色の闇]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|title=To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|publisher=集英社|page=78|isbn=978-4-08-874852-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|title=To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|series=ジャンプ・コミックス|year=2014|publisher=集英社|page=22|isbn=978-4-08-880260-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|title=To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|series=ジャンプ・コミックス|year=2015|publisher=集英社|page=20|isbn=978-4-08-880576-4}}</ref> * 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#ダークネス|ダークネス]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- ダークネス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|title=To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|series=ジャンプ・コミックス|year=2014|publisher=集英社|page=28|isbn=978-4-08-880260-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|title=To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|series=ジャンプ・コミックス|year=2015|publisher=集英社|page=130|isbn=978-4-08-880576-4}}</ref> * 生年不明 - 黒崎龍一、漫画・アニメ『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|title=アホガール|series=[[講談社コミックス]]|year=2013|publisher=[[講談社]]|page=52|volume=1巻|isbn=978-4-06-384871-7}}</ref> * 生年不明 - ディアンヌ、漫画・アニメ『[[七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://1st.7-taizai.net/special8.html |title=HAPPY BIRTHDAY TO ディアンヌ!! |access-date=7 Nov 2023 |publisher=[[鈴木央]]・[[講談社]]/「七つの大罪」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]}}</ref> * 生年不明 - 冥王ハーデス アローン、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1606484855855800320}}</ref> * 生年不明 - 今井結花 / 如月結花、漫画『[[ママは同級生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=あづまゆき|authorlink=あづまゆき|title=ママは同級生|series=ヤングチャンピオンコミックス|year=2008|publisher=[[秋田書店]]|page=120|volume=1巻|isbn=978-4-253-14897-9}}</ref> * 生年不明 - [[ARIAの登場人物#アテナ・グローリィ(Athena Glory)|アテナ・グローリィ]]、漫画・アニメ『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=天野こずえ(監修)|authorlink=天野こずえ|year=2005|title=ARIA OFFICIAL NAVIGATION GUIDE|page=62|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4-86127-212-7}}</ref> * 生年不明 - キャロル・ブルーハース、漫画『わたしの狼さん。』『わたしの狼さん。 THE OTHER SIDE OF LYCANTHROPE』『[[dear (漫画)|dear]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|title=dear|volume=6巻|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ガンガンウイングコミックス]]|year=2005|quote=裏表紙カバー下|isbn=4-7575-1416-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|year = 2011 |title = dear新装版 |volume = 3 |page = 359 |publisher = [[スクウェア・エニックス]] |series = [[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]] |isbn = 978-4-7575-3372-1 }}</ref> * 生年不明 - [[シルバー (ポケットモンスターSPECIAL)|シルバー]]、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1341939052728086528}}</ref> * 生年不明 - 色川琉姫、漫画・アニメ『[[こみっくがーるず]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|comiga_anime|1209324635591860229}}</ref> * 生年不明 - 柊真雪、漫画・アニメ『[[ひなこのーと]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://hinakonote.jp/character.html |title=キャラクター 柊真雪 |accessdate=7 Nov 2023 |publisher=三月・[[KADOKAWA]]刊/ひなこのーと製作委員会 |work=『ひなこのーと』}}</ref> * 生年不明 - 流川峰月、漫画『[[オリーブ! 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大韓航空機撃墜事件
大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん、英: Korean Air Lines Flight 007、朝: 대한항공 007편 격추 사건、露: Катастрофа Boeing 747 над Сахалином)は、1983年(昭和58年)9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。 なお、大韓航空はこの5年前にあたる1978年4月20日にも航法ミスでソ連領空(コラ半島上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃され2人が死亡し13人が負傷する事件を起こした(大韓航空機銃撃事件)。 日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合、この事件の事を指す場合と1987年11月29日の大韓航空機爆破事件を指す場合に分かれる。 大韓航空007便は、アメリカのニューヨークにあるジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アラスカのアンカレッジ国際空港を経由、大韓民国・ソウルの金浦国際空港に向かう、当時週4便で運航されていた定期便であった。なお、この便は1979年4月に開設されたもので、事故機には “I LOVE NEW YORK” というステッカーが貼られていた。 当日使用された機体は、ボーイング747-230(機体記号HL7442)で、ファーストクラスとエコノミークラスの2クラスが用意され、乗客240人、乗務員は千炳寅(チョン・ビョンイン)機長以下29人(うち6人が「デッドヘッド」= 業務移動のため乗務した非番の乗務員)であった。乗客乗員の国籍は下のとおりである。 発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう日本、台湾、フィリピン、当時はイギリスの植民地であった香港の乗客も多かった(なお、フィリピン人のうち、4人は在日在住者で、そのうちの1人は横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに通学する小学生であった。また、カナダ人のうち1人は鹿児島市のラ・サール中学校・高等学校の関係者でもあった。)。 日本人乗客の多くは、日本航空やパンアメリカン航空の直行便に比べて航空券が安価な大韓航空を使い、金浦国際空港を経由して日本へ帰国する観光客や留学生であった。特に九州をはじめとする西日本在住者にとっては、成田経由で移動するよりも安価で利便性も高いため、アメリカとの移動においてソウルを経由するケースも少なくなかった。 ※時刻は東京/ソウル時間 (UTC+9)。 1983年8月31日 9月1日 航空路を外れた007便は、航空自衛隊稚内分屯基地の北部航空警戒管制団第18警戒群(稚内レーダーサイト)により探知・追尾されていたが、この空域を飛行する西側諸国の航空機に関する飛行計画が存在しなかったことから、航空自衛隊は、007便とその周りに飛行するソ連防空軍戦闘機を「ソ連領域内を飛行する彼我不明の航跡」として扱った。 これとは別に、陸上幕僚監部調査部第2課別室(通称「調別」、通信傍受を主任務とする機関)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での領空侵犯機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、後にアメリカがソ連に対し撃墜の事実を追及するために、中曽根康弘首相の判断で日本国政府からアメリカ合衆国連邦政府へ引き渡している。 007便の撃墜直後、航空自衛隊の稚内レーダーサイトが追尾していた彼我不明機の機影の1つが消失した。行方不明機がいないか9月1日の午前に日本、韓国(大邱)、アメリカ(エルメンドルフ)、ソ連(ウラジオストク)の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは「該当機がない」との返答を受け、ソ連からは返答がなかった。 ミサイル命中の30秒後、それまで007便を通信管制していた東京航空交通管制部に雑音が混じった007便からの呼び出しが入ったが、そのまま連絡が途切れた(「急減圧により緊急降下する」旨の交信の内容は、鈴木松美の音声分析により判明)。代わりに呼びかけを依頼された、付近の飛行機からも007便へは無線が通じなかった。 9月1日(下記はいずれも日本標準時)の朝の時点で日本政府が、大韓航空機が「サハリン沖」で行方不明になったことを公式発表し、午前7時前後には日本のテレビやラジオでは「ニュース速報」として「大韓航空機が行方不明になった」と報じた、各国の通信社が東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。 情報が錯綜し墜落説やハイジャック説が流れる中、午前11時には「『旅客機はサハリンのネべリスク付近の空港に強制着陸させられ、乗員乗客は全員無事』と韓国外務省が発表」という外電が入り、日本の民放各局が昼のニュースのトップ項目として報じた。しかし、これは結局誤報と分かり、マスコミだけでなく乗客の安否を気遣う日韓の関係者も振り回された。また、ソ連の戦闘機が発進し、ミサイルを発射した形跡が確認された。これに対してソ連側は墜落のみを認め、撃墜については触れなかった。 このような日本や韓国、アメリカ合衆国などの西側諸国の報道があったものの日本や韓国、アメリカの政府やマスコミからの問い合わせに対してソ連は「該当する航空機は国内にいない」「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と事件への関与を否定した。これに対してアメリカ合衆国連邦政府は、その日の内に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表、日本当局が提供したソ連軍機の傍受テープも雑音を除去し、ロシア語のテロップを付けた上で一部放送した。 この傍受テープをめぐり、日本がテープをアメリカ側に提供して公表することについては防衛機密保持の上から当時の後藤田正晴内閣官房長官や防衛庁幹部は消極的であった。しかし、当時の中曽根康弘内閣総理大臣は「交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、この場合には損はないと考えた。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する意味もあった。レーガンに知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはない」と考え、反対意見を押し切って提供した。 このアメリカによる正式発表を受けて、事件の当事国である日本や韓国、アメリカやフィリピンなどの西側関係諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めた。 この日には、北海道のオホーツク海沖合で操業していた日本の漁船が旅客機機体の破片や遺品を発見した。これと前後して、海上保安庁やアメリカ海軍の船艇が機体が墜落したと思われる付近に向けて捜索に向かった。 9月2日には、ソ連のニコライ・オガルコフ参謀総長が「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」「正式な手順の警告に応答しなかった」「日本海方面へ飛び去った」と、モスクワでテレビカメラを入れた記者会見で発表した(後に007便の航法灯は点灯しており、十分な警告は行われていなかったことをパイロットが証言する)。 これに対しアメリカのレーガン大統領はソ連政府を「うそつき」と非難した他、当事国である韓国の全斗煥大統領もソ連を激しく非難した。日本や西ドイツ、フィリピンや台湾など多くの西側諸国の政府がソ連の対応を非難した。 9月6日、国連安全保障理事会において陸上幕僚監部調査部第2課別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに、英語とロシア語のテロップをつけたビデオが、アメリカによって各国の国連大使に向けて上映され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問いかけた。これに対してソ連の国連大使はビデオの上映中は一貫して画面から目をそらし続けていたがこの後、ソ連のアンドレイ・グロムイコ外務大臣兼第一副首相は大韓航空機の撃墜を認める声明を正式に発表した。 9月9日、ソ連のオガルコフ参謀総長が「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表、13日には緊急安保理事会でソ連への非難決議が上程されるが、常任理事国のソ連の拒否権の行使により否決された。 9月13日、大韓航空機と最後の交信を行った日本の運輸省航空局が交信記録を公表し、撃墜直前まで全く異常がなかったことが確認される。なお、当事者である韓国は当時ソ連との国交がなかったうえに国際連合に加盟していなかったこともあり(加盟は1991年)、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、かつ事件の当事者である日本(事件時に当該機の管制を担当し、さらに隣接する公海上に当該機が墜落、多くの自国民が被害に遭った)とアメリカ(当該機の出発国かつ製造国であり、多くの自国民が被害に遭った)が主に行った。 事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が大韓航空機が墜落したと想定された樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機によって捜索したが、ソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。 その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。だが、機体の破片や遺体の一部が北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収もされていたため、このようなソ連による発表内容は当時から疑問視されていた(なお、北海道沿岸に流れ着いた遺体のほとんどは、皮膚組織の一部など原形を留めていないものであった)。 ソ連崩壊後に行われたイズベスチヤ紙の取材では、複数の遺体とその一部および数々の遺品がソ連側によって実際に回収されていたものの、日本側に引き渡されたもの以外の全てが証拠隠滅のため、検査後に全て焼却されていたことが明らかにされた(ただし、当局の指示で調査に当たったダイバーは当時見つけた遺体は少なく、しかもほとんど損傷していたと証言している)。なお、日本側に漂着した遺留品は身元確認ができないまま2003年の忠霊祭において遺族会の了承の元で焼却処分にされた(これ以前に遺体の一部も同様に火葬されている)。 各国が必死になって捜索していたブラックボックスについては、実際には事件後間もなくソ連当局によって回収されていた。ソ連当局は、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませ、1983年11月28日には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していた。だが、実際には「『スパイ飛行説』の反証となりうる可能性がある」との報告に基づき、モスクワはブラックボックス回収の事実を公表しなかった。日米は上記の事実を知らないまま、ブラックボックスを半年以上も捜索し続けていたことになる。 なお、ブラックボックスの「極秘」の回収指示書がソ連当局から樺太の地元住民に渡されていたこと、地元住民がその指示書と同じものを実際に海中から引き揚げたこと、そして、住民が密かに自宅などに持ち帰っていた部品が撃墜された大韓航空機のものであったことが、日本テレビの『大追跡』の取材によりソビエト連邦の崩壊直後の1991年に判明していた(この番組は、翌1992年4月4日に放送された)。この番組では、ロシア国防省の許可の下、潜水艇を用いて墜落現場の撮影も行われ、事件後10年近く経っても現場付近に沈んでいた機体の残骸や犠牲者の衣服、そして遺骨の一部が撮影されていた。ジャーナリストのアンドレイ・イレーシュが入手していた引き揚げられた本の一部が日本人乗客のものと推定され、遺族に渡された。 日本政府は制裁措置として2週間の日本航空とアエロフロートによる定期便相互乗り入れを停止し、成田国際空港-モスクワ線や成田-ハバロフスク線などの運行が停止した。 事件後に遺族によって宗谷岬に慰霊碑「祈りの塔」が建てられた。 事件当時ICAO理事会は、民間航空機の要撃は避けるのが望ましく、最後の手段としてのみ用いるべきこと、いかなる場合でも武器の使用を慎むべきことを勧告していた。事件を契機として翌1984年にシカゴ条約の改正が行われ、これにより領空を侵犯した民間航空機を撃墜することは明示的に禁止されることになった(同条約3条の2)。 撃墜時パイロットであるオシポーヴィチ中佐は1986年に戦闘機の事故で重傷を負ったために退役し、アディゲ共和国のマイコープ市で暮らしていた。ソ連崩壊後の1991年「大追跡」のインタビューで、軍令のためとはいえ結果的に民間機を撃墜したことは遺憾だとコメントした(同席した妻は「撃墜は義務」であった旨のコメント)。しかしながらその後の「ナショナルジオグラフィックチャンネル」のドキュメンタリー「メーデー!:航空機事故の真実と真相」シリーズ(シーズン7「大韓航空007便」)のインタビューでは、撃墜した機体は偵察機だと今も信じているという異なるコメントをしている。その後、オシポーヴィチは長い闘病の後に2015年9月23日に死去した。 事件を契機に、軍事用途に開発された衛星測位システムであるGPSが、民間航空機の安全な航行のために開放された。 ソ連政府によるブラックボックスの隠匿などにより、事件についての多くの疑問点が、冷戦が終結した1990年代まで解明されないままであった。だがその後、冷戦が終結したことを受けて1991年11月にパリで行なわれた国際テロ対策会議においてオレグ・カルーギンソ連国家保安委員会 (KGB) 議長顧問が「この事件の詳細を日本側に報告する」と佐々淳行(元 初代内閣安全保障室長 同事件発生当時、防衛庁〈現 防衛省〉長官官房の官房長として対応に関与していた)に表明した。 その後、実際にロシア政府は回収を秘匿していた007便のブラックボックス(上記のように、記録は墜落の11分前で途切れていた)をICAOに提出し、合わせて残された遺品の遺族たちへの引渡しを行った。ICAOはこれを高い解析技術を持つ第3国であるフランスの航空当局に提出、解析を依頼し、その結果をもとに調査の最終報告をまとめた。 それによると、航路逸脱の原因は以下のいずれかとされた。どの仮説が正しいかは、証言できる者が生存しておらず不明のままである。 なお、007便のボイスレコーダーには機長と副操縦士、航空機関士があくびを繰り返すのが記録されていることから、設定ミスもしくは切り替えミスに気づかなかった原因として疲労によるヒューマンエラーを指摘する声もある。実際に3人の運航乗務員は、事故前にソウル→アンカレッジ→ニューヨーク→トロント→アンカレッジという勤務スケジュールであり、休養も取っていたがジャーナリストの小山巌が著書で「時差に疲れて休養を取るというのは、単に眠ればよいという単純な時間のつじつま合わせでは解決しない」と述べており、乗員らは時差ぼけが抜けきらなかった結果、注意力が散漫になった可能性がある。 ICAOの最終報告書は日本の遺族には原本のコピーのみが手渡され、日本国政府は「ICAOによる調査の中立性、一貫性を失う恐れがある」として、公式の日本語翻訳は作成していない。ボイスレコーダーの音声は、小山巌がICAO本部へ出向いて聞き、著書『ボイスレコーダー撃墜の証言』に日本語訳を収録した。 ICAOによる最終報告が出て領空侵犯の原因が解明される以前に、「領空侵犯の原因」としてソ連政府が責任を韓国やアメリカに押し付けるために展開した根拠のない主張、そして西側の一部のマスコミや研究家の間で言われた説には下記のようなものがある。 「アメリカ軍が同盟国である韓国政府および国営航空会社であった大韓航空に対し、ソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、もしくは、近隣で偵察飛行を行なうアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動をかく乱するために、民間機による故意の領空侵犯を指示し、事故機がこれに従った」とする説である。 撃墜事件直後のソ連政府が「非武装の民間機を撃墜した」ということによるイメージダウンを覆い隠すために、007便のブラックボックスを回収したという事実を隠してまでこの説を強硬に主張したほか、当時、アメリカや韓国国内、そして日本などの西側諸国でもマスコミを中心に当局の陰謀の存在が議論されたが、ブラックボックスの内容や交信記録の音声が公開され、原因が解明された現在では当事国のロシア政府によっても否定されている。 「機長が燃料節約のために意図的に航路を北にずらし、スクランブルを受ける危険を承知でソ連領空を侵犯した」とする説である。この説の根拠は、当時の大韓航空機は航空運賃が他社に比べて安く、「燃料を節約することは機長の使命であった」という報道もあった。しかし、この説の欠点として、以下が指摘されている。 この事件の疑問点に「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということがあるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットのゲンナジー・オシポヴィッチ中佐や地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、「007便が航行灯を点灯していた」ことと、「パイロットも地上も、007便を “民間機を装ったスパイ機” と認識していた」ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソ連軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。 これを裏付けるように、1976年に函館空港でのベレンコ中尉亡命事件でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていたヴィクトル・ベレンコ元ソ連防空軍中尉は事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん、英: Korean Air Lines Flight 007、朝: 대한항공 007편 격추 사건、露: Катастрофа Boeing 747 над Сахалином)は、1983年(昭和58年)9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、大韓航空はこの5年前にあたる1978年4月20日にも航法ミスでソ連領空(コラ半島上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃され2人が死亡し13人が負傷する事件を起こした(大韓航空機銃撃事件)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合、この事件の事を指す場合と1987年11月29日の大韓航空機爆破事件を指す場合に分かれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大韓航空007便は、アメリカのニューヨークにあるジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アラスカのアンカレッジ国際空港を経由、大韓民国・ソウルの金浦国際空港に向かう、当時週4便で運航されていた定期便であった。なお、この便は1979年4月に開設されたもので、事故機には “I LOVE NEW YORK” というステッカーが貼られていた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当日使用された機体は、ボーイング747-230(機体記号HL7442)で、ファーストクラスとエコノミークラスの2クラスが用意され、乗客240人、乗務員は千炳寅(チョン・ビョンイン)機長以下29人(うち6人が「デッドヘッド」= 業務移動のため乗務した非番の乗務員)であった。乗客乗員の国籍は下のとおりである。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう日本、台湾、フィリピン、当時はイギリスの植民地であった香港の乗客も多かった(なお、フィリピン人のうち、4人は在日在住者で、そのうちの1人は横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに通学する小学生であった。また、カナダ人のうち1人は鹿児島市のラ・サール中学校・高等学校の関係者でもあった。)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本人乗客の多くは、日本航空やパンアメリカン航空の直行便に比べて航空券が安価な大韓航空を使い、金浦国際空港を経由して日本へ帰国する観光客や留学生であった。特に九州をはじめとする西日本在住者にとっては、成田経由で移動するよりも安価で利便性も高いため、アメリカとの移動においてソウルを経由するケースも少なくなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "※時刻は東京/ソウル時間 (UTC+9)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1983年8月31日", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "9月1日", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "航空路を外れた007便は、航空自衛隊稚内分屯基地の北部航空警戒管制団第18警戒群(稚内レーダーサイト)により探知・追尾されていたが、この空域を飛行する西側諸国の航空機に関する飛行計画が存在しなかったことから、航空自衛隊は、007便とその周りに飛行するソ連防空軍戦闘機を「ソ連領域内を飛行する彼我不明の航跡」として扱った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これとは別に、陸上幕僚監部調査部第2課別室(通称「調別」、通信傍受を主任務とする機関)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での領空侵犯機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、後にアメリカがソ連に対し撃墜の事実を追及するために、中曽根康弘首相の判断で日本国政府からアメリカ合衆国連邦政府へ引き渡している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "007便の撃墜直後、航空自衛隊の稚内レーダーサイトが追尾していた彼我不明機の機影の1つが消失した。行方不明機がいないか9月1日の午前に日本、韓国(大邱)、アメリカ(エルメンドルフ)、ソ連(ウラジオストク)の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは「該当機がない」との返答を受け、ソ連からは返答がなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ミサイル命中の30秒後、それまで007便を通信管制していた東京航空交通管制部に雑音が混じった007便からの呼び出しが入ったが、そのまま連絡が途切れた(「急減圧により緊急降下する」旨の交信の内容は、鈴木松美の音声分析により判明)。代わりに呼びかけを依頼された、付近の飛行機からも007便へは無線が通じなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "9月1日(下記はいずれも日本標準時)の朝の時点で日本政府が、大韓航空機が「サハリン沖」で行方不明になったことを公式発表し、午前7時前後には日本のテレビやラジオでは「ニュース速報」として「大韓航空機が行方不明になった」と報じた、各国の通信社が東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "情報が錯綜し墜落説やハイジャック説が流れる中、午前11時には「『旅客機はサハリンのネべリスク付近の空港に強制着陸させられ、乗員乗客は全員無事』と韓国外務省が発表」という外電が入り、日本の民放各局が昼のニュースのトップ項目として報じた。しかし、これは結局誤報と分かり、マスコミだけでなく乗客の安否を気遣う日韓の関係者も振り回された。また、ソ連の戦闘機が発進し、ミサイルを発射した形跡が確認された。これに対してソ連側は墜落のみを認め、撃墜については触れなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このような日本や韓国、アメリカ合衆国などの西側諸国の報道があったものの日本や韓国、アメリカの政府やマスコミからの問い合わせに対してソ連は「該当する航空機は国内にいない」「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と事件への関与を否定した。これに対してアメリカ合衆国連邦政府は、その日の内に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表、日本当局が提供したソ連軍機の傍受テープも雑音を除去し、ロシア語のテロップを付けた上で一部放送した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この傍受テープをめぐり、日本がテープをアメリカ側に提供して公表することについては防衛機密保持の上から当時の後藤田正晴内閣官房長官や防衛庁幹部は消極的であった。しかし、当時の中曽根康弘内閣総理大臣は「交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、この場合には損はないと考えた。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する意味もあった。レーガンに知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはない」と考え、反対意見を押し切って提供した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このアメリカによる正式発表を受けて、事件の当事国である日本や韓国、アメリカやフィリピンなどの西側関係諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この日には、北海道のオホーツク海沖合で操業していた日本の漁船が旅客機機体の破片や遺品を発見した。これと前後して、海上保安庁やアメリカ海軍の船艇が機体が墜落したと思われる付近に向けて捜索に向かった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "9月2日には、ソ連のニコライ・オガルコフ参謀総長が「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」「正式な手順の警告に応答しなかった」「日本海方面へ飛び去った」と、モスクワでテレビカメラを入れた記者会見で発表した(後に007便の航法灯は点灯しており、十分な警告は行われていなかったことをパイロットが証言する)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これに対しアメリカのレーガン大統領はソ連政府を「うそつき」と非難した他、当事国である韓国の全斗煥大統領もソ連を激しく非難した。日本や西ドイツ、フィリピンや台湾など多くの西側諸国の政府がソ連の対応を非難した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9月6日、国連安全保障理事会において陸上幕僚監部調査部第2課別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに、英語とロシア語のテロップをつけたビデオが、アメリカによって各国の国連大使に向けて上映され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問いかけた。これに対してソ連の国連大使はビデオの上映中は一貫して画面から目をそらし続けていたがこの後、ソ連のアンドレイ・グロムイコ外務大臣兼第一副首相は大韓航空機の撃墜を認める声明を正式に発表した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "9月9日、ソ連のオガルコフ参謀総長が「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表、13日には緊急安保理事会でソ連への非難決議が上程されるが、常任理事国のソ連の拒否権の行使により否決された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "9月13日、大韓航空機と最後の交信を行った日本の運輸省航空局が交信記録を公表し、撃墜直前まで全く異常がなかったことが確認される。なお、当事者である韓国は当時ソ連との国交がなかったうえに国際連合に加盟していなかったこともあり(加盟は1991年)、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、かつ事件の当事者である日本(事件時に当該機の管制を担当し、さらに隣接する公海上に当該機が墜落、多くの自国民が被害に遭った)とアメリカ(当該機の出発国かつ製造国であり、多くの自国民が被害に遭った)が主に行った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が大韓航空機が墜落したと想定された樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機によって捜索したが、ソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。だが、機体の破片や遺体の一部が北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収もされていたため、このようなソ連による発表内容は当時から疑問視されていた(なお、北海道沿岸に流れ着いた遺体のほとんどは、皮膚組織の一部など原形を留めていないものであった)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ソ連崩壊後に行われたイズベスチヤ紙の取材では、複数の遺体とその一部および数々の遺品がソ連側によって実際に回収されていたものの、日本側に引き渡されたもの以外の全てが証拠隠滅のため、検査後に全て焼却されていたことが明らかにされた(ただし、当局の指示で調査に当たったダイバーは当時見つけた遺体は少なく、しかもほとんど損傷していたと証言している)。なお、日本側に漂着した遺留品は身元確認ができないまま2003年の忠霊祭において遺族会の了承の元で焼却処分にされた(これ以前に遺体の一部も同様に火葬されている)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "各国が必死になって捜索していたブラックボックスについては、実際には事件後間もなくソ連当局によって回収されていた。ソ連当局は、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませ、1983年11月28日には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していた。だが、実際には「『スパイ飛行説』の反証となりうる可能性がある」との報告に基づき、モスクワはブラックボックス回収の事実を公表しなかった。日米は上記の事実を知らないまま、ブラックボックスを半年以上も捜索し続けていたことになる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、ブラックボックスの「極秘」の回収指示書がソ連当局から樺太の地元住民に渡されていたこと、地元住民がその指示書と同じものを実際に海中から引き揚げたこと、そして、住民が密かに自宅などに持ち帰っていた部品が撃墜された大韓航空機のものであったことが、日本テレビの『大追跡』の取材によりソビエト連邦の崩壊直後の1991年に判明していた(この番組は、翌1992年4月4日に放送された)。この番組では、ロシア国防省の許可の下、潜水艇を用いて墜落現場の撮影も行われ、事件後10年近く経っても現場付近に沈んでいた機体の残骸や犠牲者の衣服、そして遺骨の一部が撮影されていた。ジャーナリストのアンドレイ・イレーシュが入手していた引き揚げられた本の一部が日本人乗客のものと推定され、遺族に渡された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本政府は制裁措置として2週間の日本航空とアエロフロートによる定期便相互乗り入れを停止し、成田国際空港-モスクワ線や成田-ハバロフスク線などの運行が停止した。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "事件後に遺族によって宗谷岬に慰霊碑「祈りの塔」が建てられた。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "事件当時ICAO理事会は、民間航空機の要撃は避けるのが望ましく、最後の手段としてのみ用いるべきこと、いかなる場合でも武器の使用を慎むべきことを勧告していた。事件を契機として翌1984年にシカゴ条約の改正が行われ、これにより領空を侵犯した民間航空機を撃墜することは明示的に禁止されることになった(同条約3条の2)。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "撃墜時パイロットであるオシポーヴィチ中佐は1986年に戦闘機の事故で重傷を負ったために退役し、アディゲ共和国のマイコープ市で暮らしていた。ソ連崩壊後の1991年「大追跡」のインタビューで、軍令のためとはいえ結果的に民間機を撃墜したことは遺憾だとコメントした(同席した妻は「撃墜は義務」であった旨のコメント)。しかしながらその後の「ナショナルジオグラフィックチャンネル」のドキュメンタリー「メーデー!:航空機事故の真実と真相」シリーズ(シーズン7「大韓航空007便」)のインタビューでは、撃墜した機体は偵察機だと今も信じているという異なるコメントをしている。その後、オシポーヴィチは長い闘病の後に2015年9月23日に死去した。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "事件を契機に、軍事用途に開発された衛星測位システムであるGPSが、民間航空機の安全な航行のために開放された。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ソ連政府によるブラックボックスの隠匿などにより、事件についての多くの疑問点が、冷戦が終結した1990年代まで解明されないままであった。だがその後、冷戦が終結したことを受けて1991年11月にパリで行なわれた国際テロ対策会議においてオレグ・カルーギンソ連国家保安委員会 (KGB) 議長顧問が「この事件の詳細を日本側に報告する」と佐々淳行(元 初代内閣安全保障室長 同事件発生当時、防衛庁〈現 防衛省〉長官官房の官房長として対応に関与していた)に表明した。", "title": "領空侵犯原因" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、実際にロシア政府は回収を秘匿していた007便のブラックボックス(上記のように、記録は墜落の11分前で途切れていた)をICAOに提出し、合わせて残された遺品の遺族たちへの引渡しを行った。ICAOはこれを高い解析技術を持つ第3国であるフランスの航空当局に提出、解析を依頼し、その結果をもとに調査の最終報告をまとめた。", "title": "領空侵犯原因" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "それによると、航路逸脱の原因は以下のいずれかとされた。どの仮説が正しいかは、証言できる者が生存しておらず不明のままである。", "title": "領空侵犯原因" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、007便のボイスレコーダーには機長と副操縦士、航空機関士があくびを繰り返すのが記録されていることから、設定ミスもしくは切り替えミスに気づかなかった原因として疲労によるヒューマンエラーを指摘する声もある。実際に3人の運航乗務員は、事故前にソウル→アンカレッジ→ニューヨーク→トロント→アンカレッジという勤務スケジュールであり、休養も取っていたがジャーナリストの小山巌が著書で「時差に疲れて休養を取るというのは、単に眠ればよいという単純な時間のつじつま合わせでは解決しない」と述べており、乗員らは時差ぼけが抜けきらなかった結果、注意力が散漫になった可能性がある。", "title": "領空侵犯原因" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ICAOの最終報告書は日本の遺族には原本のコピーのみが手渡され、日本国政府は「ICAOによる調査の中立性、一貫性を失う恐れがある」として、公式の日本語翻訳は作成していない。ボイスレコーダーの音声は、小山巌がICAO本部へ出向いて聞き、著書『ボイスレコーダー撃墜の証言』に日本語訳を収録した。", "title": "領空侵犯原因" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ICAOによる最終報告が出て領空侵犯の原因が解明される以前に、「領空侵犯の原因」としてソ連政府が責任を韓国やアメリカに押し付けるために展開した根拠のない主張、そして西側の一部のマスコミや研究家の間で言われた説には下記のようなものがある。", "title": "領空侵犯原因諸説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「アメリカ軍が同盟国である韓国政府および国営航空会社であった大韓航空に対し、ソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、もしくは、近隣で偵察飛行を行なうアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動をかく乱するために、民間機による故意の領空侵犯を指示し、事故機がこれに従った」とする説である。", "title": "領空侵犯原因諸説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "撃墜事件直後のソ連政府が「非武装の民間機を撃墜した」ということによるイメージダウンを覆い隠すために、007便のブラックボックスを回収したという事実を隠してまでこの説を強硬に主張したほか、当時、アメリカや韓国国内、そして日本などの西側諸国でもマスコミを中心に当局の陰謀の存在が議論されたが、ブラックボックスの内容や交信記録の音声が公開され、原因が解明された現在では当事国のロシア政府によっても否定されている。", "title": "領空侵犯原因諸説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「機長が燃料節約のために意図的に航路を北にずらし、スクランブルを受ける危険を承知でソ連領空を侵犯した」とする説である。この説の根拠は、当時の大韓航空機は航空運賃が他社に比べて安く、「燃料を節約することは機長の使命であった」という報道もあった。しかし、この説の欠点として、以下が指摘されている。", "title": "領空侵犯原因諸説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この事件の疑問点に「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということがあるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットのゲンナジー・オシポヴィッチ中佐や地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、「007便が航行灯を点灯していた」ことと、「パイロットも地上も、007便を “民間機を装ったスパイ機” と認識していた」ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソ連軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。", "title": "ソ連防空軍機による007便に対しての認識" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "これを裏付けるように、1976年に函館空港でのベレンコ中尉亡命事件でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていたヴィクトル・ベレンコ元ソ連防空軍中尉は事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。", "title": "ソ連防空軍機による007便に対しての認識" } ]
大韓航空機撃墜事件は、1983年(昭和58年)9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。 なお、大韓航空はこの5年前にあたる1978年4月20日にも航法ミスでソ連領空(コラ半島上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃され2人が死亡し13人が負傷する事件を起こした(大韓航空機銃撃事件)。 日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合、この事件の事を指す場合と1987年11月29日の大韓航空機爆破事件を指す場合に分かれる。
{{混同|大韓航空機銃撃事件|x1=1978年の|大韓航空機爆破事件|x2=1987年の}} {{Infobox Airliner incident |name=大韓航空 007便 |画像=Korean Air Lines Boeing 747-230B HL7442.webp |size=300 |Image caption=1980年に撮影された事故機 |Date=[[1983年]]([[昭和]]58年)[[9月1日]] |Type=ソ連領空侵犯による撃墜 |Site= {{Flagicon|JPN}} [[北海道]][[宗谷岬]]の北・[[宗谷海峡]][[樺太]]近海 |Fatalities=269(全員) |Injuries=0 |Aircraft Type=[[ボーイング]][[ボーイング747|747-230]] |Operator={{Flagicon|KOR}} [[大韓航空]] |Tail Number=HL7442 |origin = {{Flagicon|USA}} [[ジョン・F・ケネディ国際空港|ジョン・F・ケネディ空港]] |stopover = {{Flagicon|USA}} [[アンカレッジ国際空港]] |destination= {{Flagicon|KOR}} [[金浦国際空港]] |Passengers=240 |Crew=29 |Survivors=0 }} '''大韓航空機撃墜事件'''(だいかんこうくうきげきついじけん、{{lang-en-short|Korean Air Lines Flight 007}}、{{lang-ko-short|대한항공 007편 격추 사건}}、{{lang-ru-short|Катастрофа Boeing 747 над Сахалином}})は、[[1983年]]([[昭和]]58年)[[9月1日]]に[[大韓航空]]の[[ボーイング747]]が、[[ソビエト連邦]]の[[領空]]を[[領空侵犯|侵犯]]したために[[ソ連防空軍]]{{efn|本事件についてしばしば「[[ソ連空軍|ソ連'''空軍''']]の戦闘機に撃墜された」と書かれることがあるが、これは誤りで、迎撃したのはソ連'''防空軍'''の[[要撃機|迎撃戦闘機]]である。当時、ソ連では「防空軍」と「空軍」は別の組織とされ、領空侵犯機を迎撃する任務は主に防空軍が担当していたため、本事件も防空軍が担当している。}}の戦闘機により撃墜された事件。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。 なお、大韓航空はこの5年前にあたる1978年4月20日にも航法ミスでソ連領空([[コラ半島]]上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃され2人が死亡し13人が負傷する事件を起こした([[大韓航空機銃撃事件]])。 [[日本]]で'''[[大韓航空機の事件一覧|大韓航空機事件]]'''と呼ぶ場合、この事件の事を指す場合と[[1987年]][[11月29日]]の[[大韓航空機爆破事件]]を指す場合に分かれる。 == 経緯 == === 007便の概要 === [[File:1981-09-15 12-00-00 United States Hawaii Aliamanu.JPG|thumb|220px|奥から2番目に写る事故の2年前に撮影されたHL7442機。胴体には “I LOVE NEW YORK” というステッカーが貼られている。]] [[File:Boeing 747-206B PH-BUE KLM - Royal Dutch Airlines, New York - John F. Kennedy International, July 1984. (5529775281).jpg|thumb|220px|[[ジョン・F・ケネディ国際空港]](1984年)。]] [[File:Alaska Airlines N481AS at Anchorage, Aug 2016.jpg|thumb|220px|[[アンカレッジ国際空港]]。]] [[File:RKSS Domestic.jpg|thumb|220px|[[金浦国際空港]]]] 大韓航空007便は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク]]にある[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]を出発し、[[アラスカ]]の[[テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港|アンカレッジ国際空港]]を経由、[[大韓民国]]・[[ソウル特別市|ソウル]]の[[金浦国際空港]]に向かう、当時週4便で運航されていた定期便であった。なお、この便は[[1979年]]4月に開設されたもので、事故機には “I LOVE NEW YORK” というステッカーが貼られていた<ref>[http://www.airliners.net/photo/Korean-Air-Lines/Boeing-747-230B/0497730/L/&sid=a9b44de2fc475a4a819b518f1af98633 Airliners net]</ref>。 当日使用された機体は、[[ボーイング747|ボーイング747-230]]([[機体記号]]HL7442)で、[[ファーストクラス]]と[[エコノミークラス]]の2クラスが用意され、乗客240人、乗務員は千炳寅(チョン・ビョンイン)機長以下29人(うち6人が「[[デッドヘッド]]」= 業務移動のため乗務した非番の乗務員)であった。乗客乗員の国籍は下のとおりである。<!--<ref name="ICAO93" />--> {|class="sortable wikitable" style="font-size:97%" !国籍||人数 |- |{{AUS}} || style="text-align:center"|2 |- |{{CAN}} || style="text-align:center"|8 |- |{{DOM}} || style="text-align:center"|1 |- |{{HKG1959}}|| style="text-align:center"|12 |- |{{IND}} || style="text-align:center"|1 |- |{{IRN}} || style="text-align:center"|1 |- |{{JPN}} || style="text-align:center"|28 |- |style="vertical-align:top"|{{KOR}}|| {{sort|105|76(乗客)<br>23(乗務員)<br>6 (デッドヘッド乗務員)}} |- |{{MAS}} || style="text-align:center"|1 |- |{{PHI}} || style="text-align:center"|16 |- |{{ROC-TW}} || style="text-align:center"|23 |- |{{SWE}} || style="text-align:center"|1 |- |{{THA}} || style="text-align:center"|5 |- |{{GBR}} || style="text-align:center"|2 |- |{{USA}} || style="text-align:center"|62 |- |{{VIE}} || style="text-align:center"|1 |-class="sortbottom" |'''合計'''|| style="text-align:center"|'''269''' |} 発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、ソウルで乗り継ぎ自国へ向かう日本、[[台湾]]、[[フィリピン]]、当時は[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[香港]]の乗客も多かった(なお、フィリピン人のうち、4人は[[日本の外国人|在日者]]で、そのうちの1人は[[横浜市]]の[[セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ]]に通学する[[小学生]]であった。また、カナダ人のうち1人は[[鹿児島市]]の[[ラ・サール中学校・高等学校]]の関係者でもあった。)。 [[日本人]]乗客の多くは、[[日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]の[[直行便]]に比べて[[航空券]]が安価な大韓航空を使い、[[金浦国際空港]]を経由して日本へ帰国する観光客や留学生であった。特に[[九州地方|九州]]をはじめとする[[西日本]]在住者にとっては、[[成田国際空港|成田]]経由で移動するよりも安価で利便性も高いため、アメリカとの移動においてソウルを経由するケースも少なくなかった。 === 撃墜までの経過 === [[Image:KAL007.svg|thumb|300px|予定航路(破線)と実際の飛行航跡(実線)の地図]] ※時刻は[[日本標準時|東京]]/[[韓国標準時|ソウル時間]] ([[UTC+9]])。 [[1983年]][[8月31日]] *13:05 - KAL007便がジョン・F・ケネディ国際空港を出発、この際に慣性航法装置 (INS) 3基のうちの1基に不具合が報告された。 *20:30 - 燃料補給のためにアンカレッジ国際空港に到着。燃料を補給する間に乗務員を交替し、千炳寅機長と副操縦士、航空機関士の3人が新たに運航乗務員としてソウルまでの乗務に当たることとなった。また、社員割引でニューヨークから搭乗してきた他の[[航空会社]]の社員が降機した。なお、機内で就寝していた一部の乗客を除き、乗客の多くは[[空港ターミナルビル]]内の待合室へ移動した。 *21:20 - アンカレッジ国際空港を出発予定。しかし、追い風のためソウル([[金浦国際空港]])開港 (6:00) 前に到着することが分かり、出発を見合わせた。 *21:50 - ニューヨークからの乗客と、アンカレッジからの乗客([[カナダ]]からの乗り継ぎ客を含む)を乗せて、予定より30分遅らせてアンカレッジ国際空港を出発した。追って[[ロサンゼルス]]発ソウル行きのKAL015便([[ボーイング747|ボーイング747-200]])も出発した。 *22:00 - KAL007便が離陸。 *22:02 - [[ウェイポイント]]「ベセル」へ向かうため方位角245度へ機首を向ける。以降、機首は245度のまま(※方位角90・180・270・360(=0)度は順に東・南・西・北)。 *22:27 - カイルン山電波局付近を通過し、レーダー圏外へ出る(この時、既に予定航路 (J501) を北へ11[[キロメートル]]逸脱していたことが後に判明した。管制官からの警告は無かった)。 *22:49 - アンカレッジの管制官に「ベセル」通過を報告。実際のベセルより22キロメートル北の位置であった。[[アメリカ空軍]][[レーダーサイト]]「キングサーモン」の圏内であったが、これは管制権を持っていなかった事もあり、KAL007便への警告はしなかった。この後、最も北寄りでソビエト社会主義共和国連邦領に近い北太平洋航空路であるR20(ロメオ20)に向かうはずだった。 [[Image:Su-15 Flagon.jpg|thumb|220px|防空軍のSu-15TM(同型機)。]] [[Image:MiG-23 Flogger G.jpg|thumb|220px|MiG-23(写真は事件で迎撃に上がった[[MiG-23|P]]型の空軍向け派生型である[[MiG-23MLA (航空機)|MLA]]型で、外見は一部アンテナ類を除きほぼ同じ)。]] [[9月1日]] *00:51 - ソ連の防空レーダーが、[[カムチャツカ半島]]北東を飛行する航跡をとらえる。ソ連側はアメリカ軍機と判断した。 *01:30 - 007便、ソ連の領空を侵犯。ソ連軍機は迎撃を試みるも接触できずに帰投。 *02:28 - 007便、[[カムチャツカ半島]]を通過。ソ連のレーダーから消えた。 *02:36 - 007便、[[樺太]]に接近しソ連軍は警戒態勢に入る。 *02:54 - この時点から007便の[[ボイスレコーダー]]の録音が残る。操縦士らは雑談に興じていた。 *03:05 - 007便、後続便(同航路を2分遅れで飛行するKAL015便)と通信し、お互いの風向風速がまったく異なっていることに気付く。しかし、操縦士らは[[飛行計画|フライトプラン]]を見て誤差の範囲内だと判断し、ロメオ20の航路逸脱には気付かなかった。 *03:08 - ソ連軍機([[Su-15 (航空機)|Su-15TM]]迎撃戦闘機)が007便を視認。暗いため機種の判別はできていない。航法灯と衝突防止灯が点灯していることを報告。 *03:20 - 新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])内にあった[[東京航空交通管制部]]東京国際対空通信局が<ref name=":0">原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、208頁。</ref>、007便に3万5000[[フィート]]への高度変更を許可(燃料節約のための高度上昇)。 *03:21 - ソ連軍機([[MiG-23 (航空機)|MiG-23P]]迎撃戦闘機)、警告射撃。しかし、[[曳光弾]]は搭載されておらず、[[徹甲弾]](光跡を伴わず、弾丸の航跡が見えない)のみ発射{{efn|曳光弾は事件発生の半年前に底をつき、部隊は補給申請していたが事件発生時も補給されていない状態であった。}}。007便も気付かず。 *03:23 - 007便、高度上昇し3万5000フィートに到達。これに伴う速度低下で、ソ連軍機は007便の真横まで追いついてしまうが、当時の技術では旅客機が軍用機の接近を感知するのは困難で、“Traffic!(他機接近!)” の警告音は鳴らず、007便は気づくことができなかった。 *03:23 - 攻撃命令発令。 *03:25 - ゲンナジー・オシポーヴィチ ({{ru|Геннадий Осипович}}, Gennady Osipovich) 中佐の操縦するSu-15TMがミサイルを発射、通常の手順に従い、赤外線誘導式とレーダー誘導式の計2発。30秒後 (03:26:02)、007便の尾翼の後方50[[メートル]]で赤外線誘導式が爆発した。結果、方向舵制御ケーブル周辺、4つの油圧系統のうち第1から第3系統を損傷(ICAOの最終報告書による推測)し、機体に約1.75[[平方フィート]]の穴が開いて[[急減圧]]が発生。機体は一時上昇して3万8250フィートまで到達したが、手動か自動かは不明だが自動操縦が解除され (03:26:46)、エンジン出力を下げて、ギアダウン(車輪降ろし)をすると、降下し始めた。操縦は困難となる(なお、第4油圧系統と、両主翼及び4つのエンジンは無事だった)。ボイスレコーダーの記録によると、着弾するかなり前から、ほとんどの乗客は起きていて、[[機内食]]をとっていたようである。 それとともに、機内に大きな衝撃と轟音が鳴り響いた<ref>ナショナルジオグラフィック 「メーデー 航空機事故の真相」から</ref>。 ICAOの推定では、乗客は墜落まで全員意識を保ったまま生存していたとされて<ref>''See Hollie v. Korean Air Lines Co., Ltd.'', 60 F.3d 90 (2d Cir. 1995) (decision from the United States Court of Appeals for the Second Circuit Nos. 907, 1057 August Term, 1994 (Argued: April 5, 1995 Decided: July 12, 1995, Docket Nos. 94–7208, 94–7218)).</ref>いる。機長は減圧を知覚して[[酸素マスク]]を装着する。 *03:26 - 機長が東京コントロールの管制官に「急減圧の発生{{efn|実際の正確な発言内容は “Rapid compression(急激な加圧)” であり、機長は加圧と減圧 ('''de'''compression) を混同している。その他にも、“All compression”、“Power compression” という誤った発言がボイスレコーダーに記録されている}}」と「高度1万フィートへ降下する」旨交信をしたものの、雑音により途中で交信が途絶した。これ以降、セルコールによる呼び出しを含めてコールするが応答せず{{efn|ボイスレコーダーには、「聞き取れないので周波数を変更せよ」という管制官の呼びかけに対する機長の「待て、待て、待て、待て、セットする (Standby,standby,standby,standby,set.)」という返事が記録されているが、これが確認できる乗務員の最後の会話となった}}、機長らはなおも操縦を試みたと思われるが、音声は記録されていない(03:27:20、3万5000フィートに戻った時点では水平飛行となっていた)。客席からの悲鳴が2度にわたって記録される。一方、ボイスレコーダーの音質が次第に悪化していった。 *03:27 - 着弾から1分44秒後 (03:27:46)、[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]の記録が途絶えた(着弾の衝撃と外気の侵入による断線のためと思われる)。ボイスレコーダーの最後の音声は、緊急降下を知らせる自動アナウンスだった。その後007便は操縦不能に陥り、左へ旋回し、上昇・下降しながら落下し続ける。 *03:38 - ソ連及び[[北海道]][[稚内市]]にある[[航空自衛隊]][[稚内分屯基地]]のレーダーサイト(北部航空警戒管制団第18警戒群)から007便の機影が消えた。ソ連のレーダー記録、公開された機体の残骸や遺体の状況などから、007便は機首を下げたまま激突もしくは空中分解し、墜落したと推測されている(乗員・乗客は、[[鈍的外傷]]のため全員即死したと推定される)。近くで操業していた日本の[[イカ]]釣り[[漁船]]「第五十八千鳥丸」の乗組員は、[[海馬島 (樺太)|海馬島(モネロン島)]]の北18.5[[海里]]沖で飛行機の爆音と海上での爆発を目撃し、航空機の燃料に用いられる[[ケロシン]]の匂いがしたと証言した。 === 事件の発覚 === [[File:TokorozawaCommunicationsTower.jpg|thumb|220px|東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の通信塔。]] 航空路を外れた007便は、[[航空自衛隊]][[稚内分屯基地]]の北部航空警戒管制団第18警戒群(稚内レーダーサイト)により探知・追尾されていたが、この空域を飛行する西側諸国の航空機に関する飛行計画が存在しなかったことから、航空自衛隊は、007便とその周りに飛行するソ連防空軍戦闘機を「ソ連領域内を飛行する彼我不明の航跡」として扱った。 これとは別に、[[陸上幕僚監部]][[情報本部#概要|調査部第2課別室]](通称「調別」、[[コメント|通信傍受]]を主任務とする機関)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での[[領空侵犯]]機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がソ連に対し撃墜の事実を追及するために、[[中曽根康弘]]首相の判断で[[日本国政府]]から[[アメリカ合衆国連邦政府]]へ引き渡している<ref name=":1" />。 007便の撃墜直後、[[航空自衛隊]]の[[稚内レーダーサイト]]が追尾していた彼我不明機の機影の1つが消失した。行方不明機がいないか9月1日の午前に日本、[[大韓民国|韓国]]([[大邱広域市|大邱]])、アメリカ([[エルメンドルフ空軍基地|エルメンドルフ]])、ソ連([[ウラジオストク]])の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは「該当機がない」との返答を受け、ソ連からは返答がなかった。 ミサイル命中の30秒後、それまで007便を通信管制していた[[東京航空交通管制部]]に雑音が混じった007便からの呼び出しが入ったが、そのまま連絡が途切れた(「急減圧により緊急降下する」旨の交信の内容は、[[鈴木松美]]の音声分析により判明)。代わりに呼びかけを依頼された、付近の飛行機からも007便へは無線が通じなかった。 === 各国政府の対応 === ====撃墜当日==== [[File:President Reagan and Prime Minister Yasuhiro Nakasone.jpg|thumb|220px|日本の[[中曽根康弘]]首相とアメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領 (左)。]] [[File:RIAN archive 101740 Yury Andropov, Chairman of KGB.jpg|thumb|220px|ソ連の[[ユーリ・アンドロポフ]]書記長。]] 9月1日(下記はいずれも日本標準時)の朝の時点で日本政府が、大韓航空機が「[[樺太|サハリン]]沖」で行方不明になったことを公式発表し、午前7時前後には日本の[[テレビ]]や[[ラジオ]]では「ニュース速報」として「大韓航空機が行方不明になった」と報じた<ref>{{NHKアーカイブス|A198309010700001300100|NHKニュースワイド ニュース・天気予報・経済情報・海外情報 }}</ref>、各国の[[通信社]]が[[東京]]発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。 情報が錯綜し墜落説やハイジャック説が流れる中、午前11時には「『旅客機はサハリンのネべリスク付近の空港に強制着陸させられ、乗員乗客は全員無事』と韓国外務省が発表」という外電が入り、日本の民放各局が昼のニュースのトップ項目として報じた<ref>{{Cite book|和書|title=実録 昭和の大事件「中継現場」|date=2020年11月21日|publisher=河出書房新社|page=185|author=久能靖}}</ref>{{efn|なお、[[日本テレビ]]における初報から全員無事の誤報、撃墜のニュースの過程は、簡潔ながら『[[スーパースペシャル|スーパースペシャル2000]]』「衝撃・時代の目撃者実録 [[ズームイン!!朝!]] 20世紀これが日本だ」(2000年12月16日放送)で取り上げられた。}}。しかし、これは結局誤報と分かり、マスコミだけでなく乗客の安否を気遣う日韓の関係者も振り回された。また、ソ連の戦闘機が発進し、ミサイルを発射した形跡が確認された<ref>「269人乗り大韓航空機 サハリン付近で不明」『朝日新聞』昭和58年9月1日夕刊1面</ref>。これに対してソ連側は墜落のみを認め、撃墜については触れなかった<ref>「ソ連回答、撃墜に触れず」『産経新聞』昭和58年9月2日夕刊1面</ref><ref>「ソ連、墜落だけを認める」『読売新聞』昭和58年9月2日夕刊1面</ref>。 このような日本や韓国、アメリカ合衆国などの[[西側諸国]]の報道があったものの日本や韓国、アメリカの政府やマスコミからの問い合わせに対してソ連は「該当する航空機は国内にいない」「領空侵犯機は[[日本海]]へ飛び去った」と事件への関与を否定した。これに対して[[アメリカ合衆国連邦政府]]は、その日の内に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表、日本当局が提供したソ連軍機の傍受テープも雑音を除去し、[[ロシア語]]のテロップを付けた上で一部放送した{{efn|「ナショナルジオグラフィックチャンネル」のドキュメンタリー「メーデー!:航空機事故の真実と真相」シリーズ(シーズン7「大韓航空007便」)で同事件が紹介された際、無線交信を傍受した再現シーンは自衛隊レーダーサイトではなく、アメリカ軍の通信傍受施設で傍受したようにされている。}}。 この傍受テープをめぐり、日本がテープをアメリカ側に提供して公表することについては防衛機密保持の上から当時の[[後藤田正晴]][[内閣官房長官]]や防衛庁幹部は消極的であった。しかし、当時の[[中曽根康弘]][[内閣総理大臣]]は「交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、この場合には損はないと考えた。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する意味もあった。[[ロナルド・レーガン|レーガン]]に知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはない」と考え、反対意見を押し切って提供した<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05010616/|title=ソ連を追い詰めた「ジャパニーズ・テープ」 大韓航空機撃墜事件で見せた日米の連携|accessdate=2018年1月18日|author=徳本栄一郎|publisher=デイリー新潮}}</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170424/k10010959721000.html スノーデン文書の中に日本情報 ネットメディアが公開 - NHK] {{webarchive|url=https://archive.is/20170424121911/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170424/k10010959721000.html |date=2017-04-24 }}</ref>。 このアメリカによる正式発表を受けて、事件の当事国である日本や韓国、アメリカやフィリピンなどの西側関係諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めた。 この日には、北海道の[[オホーツク海]]沖合で操業していた日本の漁船が旅客機機体の破片や遺品を発見した。これと前後して、[[海上保安庁]]や[[アメリカ海軍]]の船艇が機体が墜落したと思われる付近に向けて捜索に向かった。 ====翌日以降==== [[File:Ogarkov-KAL007.gif|thumb|220px|発表を行うソ連のオガルコフ参謀総長(9月2日)。]] [[ファイル:KAL 007 protests.jpg|サムネイル|アメリカで行われた抗議行動。犠牲となったラリー・マクドナルド下院議員の肖像と共にアンドロポフをお尋ね者とするプラカードが掲げられた。]] [[9月2日]]には、ソ連の[[ニコライ・オガルコフ]][[ソ連軍参謀本部|参謀総長]]が「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」「正式な手順の警告に応答しなかった」「日本海方面へ飛び去った」と、[[モスクワ]]でテレビカメラを入れた[[記者会見]]で発表した(後に007便の航法灯は点灯しており、十分な警告は行われていなかったことをパイロットが証言する)。 これに対しアメリカのレーガン大統領はソ連政府を「うそつき」と非難した他、当事国である韓国の[[全斗煥]]大統領もソ連を激しく非難した。日本や[[西ドイツ]]、フィリピンや台湾など多くの西側諸国の政府がソ連の対応を非難した。 [[9月6日]]、[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]において陸上幕僚監部調査部第2課別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに、[[英語]]と[[ロシア語]]のテロップをつけたビデオが、アメリカによって各国の[[国連大使]]に向けて上映され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問いかけた。これに対してソ連の国連大使はビデオの上映中は一貫して画面から目をそらし続けていたがこの後、ソ連の[[アンドレイ・グロムイコ]]外務大臣兼第一副首相は大韓航空機の撃墜を認める声明を正式に発表した<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=7U6010ajPYY 「KAL007 Shooting Down」公開された傍受した交信記録。]</ref>。 9月9日、ソ連のオガルコフ参謀総長が「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表、13日には[[国際連合安全保障理事会|緊急安保理事会]]でソ連への非難決議が上程されるが、[[常任理事国]]のソ連の[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]の行使により否決された。 9月13日、大韓航空機と最後の交信を行った日本の運輸省航空局が交信記録を公表し、撃墜直前まで全く異常がなかったことが確認される<ref name=":0" />。なお、当事者である韓国は当時ソ連との国交がなかったうえに[[国際連合]]に加盟していなかったこともあり(加盟は[[1991年]])、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、かつ事件の当事者である日本(事件時に当該機の管制を担当し、さらに隣接する公海上に当該機が墜落、多くの自国民が被害に遭った)とアメリカ(当該機の出発国かつ製造国であり、多くの自国民が被害に遭った)が主に行った。 === 機体の捜索 === [[File:PSKR-ImeniXXVsezdaKPSS(DN-SN-89-04571).jpg|thumb|220px|周辺海域で捜索に当たるKGB[[ロシア国境軍|国境軍総局]]の[[巡視船|国境警備艦]][[イーメニXXVスエーズダKPSS (国境警備艦)|イーメニXXVスエーズダKPSS]](アメリカ海軍によって撮影/9月17日)。]] [[File:Soviet boats stalking.jpg|thumb|220px|捜索を行うアメリカ海軍のナラガンセットの横を通過する[[ソ連海軍]]の[[大型対潜艦]][[ペトロパヴロフスク (大型対潜艦)|ペトロパブロフスク]](9月17日)。]] [[File:Mikhail Merchink.jpg|thumb|220px|ソ連の引き揚げ作業船「ミハイル・メルチンク」(アメリカ海軍によって撮影/日時不明)]] 事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が大韓航空機が墜落したと想定された樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機によって捜索したが、ソ連は[[領海]]内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、[[公海]]上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。 その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。だが、機体の破片や遺体の一部が北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収もされていたため、このようなソ連による発表内容は当時から疑問視されていた(なお、北海道沿岸に流れ着いた遺体のほとんどは、[[皮膚]]組織の一部など原形を留めていないものであった)。 ソ連崩壊後に行われた[[イズベスチヤ]]紙の取材では、複数の遺体とその一部および数々の遺品がソ連側によって実際に回収されていたものの、日本側に引き渡されたもの以外の全てが証拠隠滅のため、検査後に全て焼却されていたことが明らかにされた(ただし、当局の指示で調査に当たったダイバーは当時見つけた遺体は少なく、しかもほとんど損傷していたと証言している)。なお、日本側に漂着した遺留品は身元確認ができないまま[[2003年]]の忠霊祭において遺族会の了承の元で焼却処分にされた(これ以前に遺体の一部も同様に火葬されている)。 各国が必死になって捜索していたブラックボックスについては、実際には事件後間もなくソ連当局によって回収されていた。ソ連当局は、[[コックピットボイスレコーダー]]と[[フライトデータレコーダー]]の分析を即座に済ませ、[[1983年]][[11月28日]]には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していた。だが、実際には「『スパイ飛行説』の反証となりうる可能性がある」との報告に基づき、[[モスクワ]]はブラックボックス回収の事実を公表しなかった。日米は上記の事実を知らないまま、ブラックボックスを半年以上も捜索し続けていたことになる。 なお、ブラックボックスの「極秘」の回収指示書がソ連当局から樺太の地元住民に渡されていたこと、地元住民がその指示書と同じものを実際に海中から引き揚げたこと、そして、住民が密かに自宅などに持ち帰っていた部品が撃墜された大韓航空機のものであったことが、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[大追跡 (情報番組)|大追跡]]』の取材により[[ソビエト連邦の崩壊]]直後の[[1991年]]に判明していた(この番組は、翌[[1992年]][[4月4日]]に放送された)。この番組では、[[ロシア国防省]]の許可の下、[[潜水艇]]を用いて墜落現場の撮影も行われ、事件後10年近く経っても現場付近に沈んでいた機体の残骸や犠牲者の衣服、そして遺骨の一部が撮影されていた。ジャーナリストの[[アンドレイ・イレーシュ]]が入手していた引き揚げられた本の一部が日本人乗客のものと推定され、遺族に渡された。 == その後 == {{独自研究|section=1|date=2016年6月}} [[File:Tower_of_the_prayer_at_Cape_Soya.jpg|thumb|220px|right|宗谷岬の慰霊碑「祈りの塔」]] 日本政府は制裁措置として2週間の[[日本航空]]と[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]による定期便相互乗り入れを停止し、[[成田国際空港]]-モスクワ線や成田-[[ハバロフスク]]線などの運行が停止した<ref name=":0" />。 事件後に遺族によって[[北海道]][[宗谷岬]]に慰霊碑「祈りの塔」が建てられた。 事件当時[[国際民間航空機関|ICAO]]理事会は、民間航空機の要撃は避けるのが望ましく、最後の手段としてのみ用いるべきこと、いかなる場合でも武器の使用を慎むべきことを勧告していた<ref>藤田勝利編『新航空法講義』信山社、2007年、72-73頁。</ref>。事件を契機として翌1984年に[[シカゴ条約]]の改正が行われ、これにより領空を侵犯した民間航空機を撃墜することは明示的に禁止されることになった(同条約3条の2)。 撃墜時パイロットであるオシポーヴィチ中佐は[[1986年]]に戦闘機の事故で重傷を負ったために退役し、[[アディゲ共和国]]の[[マイコープ]]市で暮らしていた。ソ連崩壊後の[[1991年]]「大追跡」のインタビューで、軍令のためとはいえ結果的に民間機を撃墜したことは遺憾だとコメントした(同席した妻は「撃墜は義務」であった旨のコメント)。しかしながらその後の「[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]」のドキュメンタリー「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」シリーズ(シーズン7「大韓航空007便」)のインタビューでは、撃墜した機体は偵察機だと今も信じているという異なるコメントをしている。その後、オシポーヴィチは長い闘病の後に[[2015年]][[9月23日]]に死去した<ref>{{cite web |url=https://newsomsk.ru/oreol/news/32973-tayna_sbitogo_boinga_priznanie_russkogo_lyotchika/ |title=Тайна сбитого боинга: признание русского лётчика |publisher=News Omsk |language=Russian |date=20 October 2015 |accessdate=2022/02/25}}</ref>。 事件を契機に、軍事用途に開発された[[衛星測位システム]]である[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]が、民間航空機の安全な航行のために開放された<ref>[https://www.satnavi.jaxa.jp/files/qz-vision_read/read/qz-navi05.html 準天頂衛星システムの歴史] - [[JAXA]]。2016年2月20日閲覧</ref>。 == 領空侵犯原因 == {{独自研究|section=1|date=2016年6月}} ソ連政府によるブラックボックスの隠匿などにより、事件についての多くの疑問点が、[[冷戦]]が終結した[[1990年代]]まで解明されないままであった。だがその後、冷戦が終結したことを受けて[[1991年]]11月に[[パリ]]で行なわれた国際テロ対策会議において[[オレグ・カルーギン]][[ソ連国家保安委員会]] (KGB) 議長顧問が「この事件の詳細を日本側に報告する」と[[佐々淳行]](元 初代[[内閣安全保障室]]長 同事件発生当時、[[防衛庁]]〈現 [[防衛省]]〉[[防衛省大臣官房|長官官房]]の官房長として対応に関与していた)に表明した。 その後、実際にロシア政府は回収を秘匿していた007便の[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]](上記のように、記録は墜落の11分前で途切れていた)を[[国際民間航空機関|ICAO]]に提出し、合わせて残された遺品の遺族たちへの引渡しを行った。ICAOはこれを高い解析技術を持つ第3国である[[フランス]]の航空当局に提出、解析を依頼し、その結果をもとに調査の最終報告をまとめた。 それによると、航路逸脱の原因は以下のいずれかとされた。どの[[仮説]]が正しいかは、証言できる者が生存しておらず不明のままである。 [[Image:B747-cockpit.jpg|thumb|220px|ボーイング747-200の操縦席(手前中央が慣性航法装置)。]] ; 慣性航法装置の入力ミス説 : 航路は、通過地点を順に[[慣性航法装置]] (INS) に打ち込むことで設定するが、[[経度]]のみ(もしくは、[[緯度]]のみ)がずれて打ち込まれたのではないか、または、出発地の座標が誤って打ち込まれたのではないかなどとする説。 ; 慣性航法装置の起動ミス説 : 慣性航法装置は飛行前に[[ジャイロ]]を安定させる動作(アライン)が必要である。この動作から実際のナビゲーションを始めるまでにスイッチの切り替えをするが、切り替え前に機体を動かしたのではないかとする説。 ; 慣性航法装置の切り替えミス説 : 航路に乗るまでHDGモード(方位のみを指定する自動操縦、方位角モード)で飛行し、航路に乗ってからはNAVモード(事前に入力した地点に向かい飛行する自動操縦、誘導モード)にするはずが、[[乱気流]]もしくは[[積乱雲]]回避のためにHDGモードのまま、NAVモードに切り替えなかった、もしくはHDGモードに切り替えたが、所定の航路から7.5[[マイル]]以上離れていたために機械が切り替わらなかったとする説。実際に、切り替え忘れのために[[日本航空]]機が航路を逸脱した事例がある。 なお、007便のボイスレコーダーには機長と副操縦士、航空機関士があくびを繰り返すのが記録されていることから、設定ミスもしくは切り替えミスに気づかなかった原因として疲労による[[ヒューマンエラー]]を指摘する声もある。実際に3人の運航乗務員は、事故前にソウル→アンカレッジ→ニューヨーク→[[トロント]]→アンカレッジという勤務スケジュールであり、休養も取っていたがジャーナリストの[[小山巌]]が著書で「時差に疲れて休養を取るというのは、単に眠ればよいという単純な時間のつじつま合わせでは解決しない」と述べており、乗員らは[[時差ぼけ]]が抜けきらなかった結果、注意力が散漫になった可能性がある。 ICAOの最終報告書は日本の遺族には原本のコピーのみが手渡され、日本国政府は「ICAOによる調査の中立性、一貫性を失う恐れがある」として、公式の[[日本語]]翻訳は作成していない<ref>[[田英夫]]参議院議員(当時)の [https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/134/syuh/s134001.htm 質問主意書] に対する[[1994年]][[11月14日]]の[[村山富市]]総理大臣(当時)による [https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/134/touh/t134001.htm 答弁書]</ref>。ボイスレコーダーの音声は、小山巌がICAO本部へ出向いて聞き、著書『ボイスレコーダー撃墜の証言』に日本語訳を収録した。 == 領空侵犯原因諸説 == {{出典の明記|date=2015年11月|section=1}} ICAOによる最終報告が出て領空侵犯の原因が解明される以前に、「領空侵犯の原因」としてソ連政府が責任を韓国やアメリカに押し付けるために展開した根拠のない主張、そして西側の一部のマスコミや研究家の間で言われた説には下記のようなものがある。 *'''[[#アメリカ軍部の指示説|アメリカ軍部の指示説]]''' *'''[[#燃料節約説|燃料節約説]]''' === アメリカ軍部の指示説 === 「アメリカ軍が同盟国である韓国政府および国営航空会社であった大韓航空に対し、ソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、もしくは、近隣で偵察飛行を行なうアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動をかく乱するために、民間機による故意の領空侵犯を指示し、事故機がこれに従った」とする説である。 撃墜事件直後のソ連政府が「非武装の民間機を撃墜した」ということによるイメージダウンを覆い隠すために、007便のブラックボックスを回収したという事実を隠してまでこの説を強硬に主張したほか、当時、アメリカや韓国国内、そして日本などの西側諸国でもマスコミを中心に当局の陰謀の存在が議論されたが、ブラックボックスの内容や交信記録の音声が公開され、原因が解明された現在では当事国の[[ロシア]]政府によっても否定されている。 === 燃料節約説 === 「機長が燃料節約のために意図的に航路を北にずらし、スクランブルを受ける危険を承知でソ連領空を侵犯した」とする説である。この説の根拠は、当時の大韓航空機は航空運賃が他社に比べて安く、「燃料を節約することは機長の使命であった」という報道もあった。しかし、この説の欠点として、以下が指摘されている。 * 大韓航空は、5年前の[[1978年]]にもソ連領空を侵犯し迎撃を受け死傷者を出した上に乗員乗客が拘束を受ける事件を起こしており([[大韓航空機銃撃事件]])、その後深刻な旅客離れを招き経営が傾くという経験をしている。当時の状況においてソ連領空へ故意に領空侵犯を行った場合、良くても不時着や強制着陸、最悪の場合は攻撃を受けて撃墜される可能性があることを大韓航空も機長も理解していたはずで、その結果、5年前同様に同社が被る損害は計り知れないものだということも分っていたはずであり、そこまでの危険を冒してまで、[[日本円]]で数万円から数十万円程度と思われる燃料を節約する必要があったのかという、根本的な疑問点がある。 * 大韓航空が同社の機長に対して、領空侵犯の上に無警告で撃墜された過去のある[[仮想敵国]]領空を侵犯してまで燃料節約を行うように指示したという実例、証拠はない。また、他の大韓航空をはじめとするソ連と敵対していた西側諸国の旅客便が、同様に仮想敵国領空を侵犯してまで燃料節約を行っていたという実例、証拠もない。 * さらに燃料の節約にはルートのみならず、高度や風向きも影響するがもし燃料節約のために機長がソ連領空を侵するルートを取ったとしても、『この日に飛行したルート、高度、風向きが燃料の節約に最適か』という分析は、この説を唱える者で誰一人も行っていない。 == ソ連防空軍機による007便に対しての認識 == この事件の疑問点に「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということがあるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットのゲンナジー・オシポヴィッチ中佐や地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、「007便が航行灯を点灯していた」ことと、「パイロットも地上も、007便を “民間機を装ったスパイ機” と認識していた」ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソ連軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。 これを裏付けるように、[[1976年]]に函館空港での[[ベレンコ中尉亡命事件]]でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていた[[ヴィクトル・ベレンコ]]元ソ連防空軍中尉は事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「'''領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜する'''のがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、[[1997年]]8月の[[北海道新聞]]の[[インタビュー]]で証言している。 == その他 == * このHL7442機は[[1972年]]に[[コンドル航空]](当時[[ルフトハンザドイツ航空]]の子会社で、チャーター便を運航している。現在は[[トーマス・クック・グループ]]傘下)のD-ABYH機として製造され、[[1979年]]に大韓航空に売却された機体である。カスタマーコードがルフトハンザの30となっているのはこのためである{{efn|大韓航空の生え抜き機体はカスタマーコードがB5。}}。 * 「007便」という便名が、人気スパイ映画「[[007]]」シリーズと同じ数字のため、これと掛け合わせて根拠なくスパイ飛行説を唱える報道が多発した。 * ロック・ギタリストの[[ゲイリー・ムーア]]が1984年にリリースしたアルバム『[[ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー]]』収録の “Murder In The Skies” という楽曲で大韓航空機撃墜事件について取り上げており、「ロシアは韓国へ向かう飛行機を撃墜した。罪のない269人が殺害された。」と歌っている。 * この事件は[[冷戦|東西冷戦]]の最中に発生し、事件後米ソの軍事的緊張も高まっていただけに、一歩間違えば[[第三次世界大戦]]に発展する可能性があった事件でもあった<ref>1983年9月26日には、ソ連の監視衛星がアメリカからの核ミサイル攻撃を誤検出する事件が発生した。当時ソ連戦略ロケット軍中佐で当直将校であった[[スタニスラフ・ペトロフ]]の誤報判断により回避された ([[w:1983 Soviet nuclear false alarm incident|1983 Soviet nuclear false alarm incident]])。</ref>。 * この事件後も大韓航空ではロメオ20ルートに007便を使い続けた。21世紀の現在では、航空機の大型化に伴ってニューヨーク-ソウル間のルートはジョン・F・ケネディ国際空港から[[仁川国際空港]]への直通ルートとなり、007便は廃止されて82便、85便、250便が用いられている。 * [[ジョン・バーチ・ソサエティ]]議長で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]だった{{仮リンク|ラリー・マクドナルド|en|Larry McDonald}}がこの事件で犠牲になった。マクドナルドは[[米韓相互防衛条約]]30周年式典に招かれていたが、[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]への航空便が遅延した上に移動の費用を節約するために大韓航空の007便に搭乗することとなった。途中アンカレッジに寄った際に同様に招待されていた[[ジェシー・ヘルムズ]][[アメリカ合衆国上院|上院議員]]から他の便に移るよう説得があったが、全く受け入れず撃墜に巻き込まれた。 * ジャーナリストの[[黒井文太郎]]も大学2年の夏休みに、初めての海外旅行でアメリカとメキシコに行った際、当初予約していたニューヨーク発ソウル経由の帰国便を一週間延期したことで同事件に巻き込まれず、命拾いしたことを明かしている。メディア関連でもある程度名前の知られた人物の中では、[[俳優|女優]]の河野富子が犠牲となった。 * 韓国の政治家の[[権正達]]の娘はこの事故で亡くなった<ref>{{Cite web |title=전설의 디바! 정수라, 안의면 오리숲에 온다! |url=http://www.ommajia.com/news/articleView.html?idxno=533 |website=옴마지아 |date=2023-08-19 |access-date=2023-12-04 |language=ko }}</ref>。 * この事故の後、[[KBS第2ラジオ]]で7時間の連続追悼放送を行った声優の{{仮リンク|チョン・ギョンエ|ko|정경애}}は14年後に[[グアム]]で発生した[[大韓航空801便墜落事故]]で家族と共に亡くなった<ref>{{Cite web |title=대한항공 여객기 추락사고 희생자중 일가족 참변 많아 |url=https://news.kbs.co.kr/news/pc/view/view.do?ncd=3776475 |website=KBS 뉴스 |access-date=2023-12-04 |language=ko|date=1997.08.06 }}</ref>。 == 大韓航空機撃墜事件に関連する作品 == * ドキュメンタリー「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」シリーズ シーズン7「TARGET IS DESTROYED」([[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]) - この作品内では、007便の機体は海面に激突する前に空中分解したという説明になっている。 * ドキュメンタリー「撃墜 大韓航空機事件〜情報戦争の9日間〜」([[日本放送協会|NHK]]) * [[ゲイリー・ムーア]] “Murder In The Skies”(1984年)アルバム『[[ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー]]』収録。 * 映画「[[大韓航空機撃墜事件 FLT・NO・007便・応答せよ]]」(監督:[[デビッド・ダーロウ]] 1989年製作) * コミックス「[[ルサルカは還らない]]」(作:[[御厨さと美]]、[[集英社]]) - 主人公とチームを組む主要キャラクターの一人(韓国系米国人女性)がロシアを憎悪する大韓航空機撃墜事件遺族(被災者の娘)という設定。 * 長編小説「大韓航空007便」[[福本和也]] [[光文社文庫]] 1984年10月 * 長編小説「ブラックメイル」上下 斎田祐造 [[文芸社]] 2015年10月 * 長編小説「預言」[[金辰明]] [[光言社]] 2018年1月 * ドラマ「[[フォー・オール・マンカインド]]」([[Apple TV+]]) - 第2シーズン第7話冒頭で撃墜が描かれ、現実世界における犠牲者に加えて、劇中における当時の[[NASA長官]]であるトマス・ペインがこの事件で死亡している。また劇中では、サハリン(樺太)に新しく建造された極秘のロケット発射場の存在(現実には存在しない)と合わせ、007便がアメリカ軍部の指示で偵察飛行を行っていた可能性(上記「[[#領空侵犯原因諸説|領空侵犯原因諸説]]」参照)についても触れられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=[[セイモア・ハーシュ]]|translator=篠田豊|title=目標は撃墜された|publisher=[[文藝春秋]]|date=1986-12-25|isbn=4-16-341150-X|id={{NDLJP|12062832}}}} *:いわゆる「ハーシュ・レポート」。事件後の各国の対応を[[情報機関]]の内情にも突っ込んで取材し、コース逸脱原因についても考察。 * {{Cite book|和書|author=小山巌|title=消えた遺体 : 大韓航空機事件の1000日|publisher=講談社|date=1987-07-25|id={{NDLJP|12063030}}}}三一新書・三一書房 1997年 * アンドレイ・イレーシュ、川合渙一訳『大韓航空機撃墜の真実』 文藝春秋 1992年、ISBN 4-16-346960-5。 *:いわゆる「イズベチヤ・レポート」。ソ連の[[グラスノスチ]]に伴い、イズベチヤ紙が民間機を撃墜した理由を中心に証言を集め特集した。 * [[柳田邦男]] 『撃墜』 [[講談社文庫]] 上・中・下、1991年(初版1984年)、ISBN 4-06-184976-X。 *:事件後の各国の駆け引きのほか、逸脱原因についての実験と考察も。 * 小山巖 『ボイスレコーダー撃墜の証言』 [[講談社]] 1998年、ISBN 4-06-209397-9、講談社+α文庫、2002年。 *:ロシアがICAOに提出したブラック・ボックスをもとに解明された撃墜の様子・逸脱の原因・遺族のその後。 == 関連書籍 == * {{Cite book|和書|author=武本昌三|title=疑惑の航跡 : 大韓機撃墜事件 安らかに眠れ妻と子よ|publisher=[[潮出版社]]|date=1985-07-10|isbn=4267010293|id={{NDLJP|12065429}}}} * 大韓航空機事件の真相を究明する会、武本昌三 『大韓航空機事件の研究』 [[三一書房]]、1998年、{{ISBN2|4380882144}}、{{全国書誌番号|88018805}}。 == 関連項目 == * [[大韓航空機銃撃事件]] * [[ソ連防空軍]] * [[マチアス・ルスト]] * [[ジーン・カークパトリック]] * [[大出俊 (政治家)|大出俊]] - 国会議員。国会で事件について追及し、公式報告書の齟齬や矛盾点を明らかにした。 * [[マレーシア航空17便撃墜事件]] - [[2014年]]に[[ウクライナ]]領空で発生した、[[地対空ミサイル]]「[[9K37|ブーク]]」による航空機襲撃事件。 * [[対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件]] * [[ゲイリー・ムーア]] - 1984年発表のアルバム「Victims of the Future」の中にこの事件についての曲 “Murder in the Skies” が収録されている。 * [[シギント]] * [[シカゴ条約]] == 外部リンク == {{Commonscat|Korean Air Lines Flight 007}} {{Wikisource|大韓航空機撃墜事件に関する国会決議}} * [http://www.rescue007.org/ Rescue 007 Home] * [http://www.tailstrike.com/010983.htm ボイスレコーダーの記録]{{en icon}} * [http://cks49w.php.xdomain.jp/index.php 慣性航法装置起動ミスの検証] * [https://iafa.hatenadiary.org/entry/20090830 KAL007事故後の作業(1~5)] * [http://www.aviastar.org/air/747/kale_1.html The mystery of the KAL-007_イズべスチア調査,Andrej ILLESH,1991] * [http://www.rescue007.org/docs/CIAReport.pdf#search='KAL007' TOP SECRET/CODE WORD_CIA report"KAL007"] * {{NHK放送史|D0009030185_00000|大韓航空機 撃墜事件}} * [http://www.hehehe.net/library/lib/E-00058.html ◎大韓航空機撃墜事件について◎_A・シフリン 怪文書保存館] * [http://itisyugyousya.dousetsu.com/daikannkoukuukigekitui1.html 「大韓航空撃墜事件について」プロローグ] * [https://www.youtube.com/watch?time_continue=2267&v=jtXQTfRFh7o KAL flight007_Discovery Channel] * {{Youtube|aW1IF2CW8dI|大韓ニュース 第1452号 大韓航空旅客機被撃惨事}}{{ko icon|kr=1}}、制作日:1983年9月3日 * {{Youtube|2ThGqmd5xtU|大韓ニュース 第1453号 大韓航空旅客機被撃惨事特報}}{{ko icon|kr=1}}、制作日:1983年9月9日 * {{YouTube|yTX6DuvUUKk|大韓航空機撃墜 かなわぬ母の想い…25年たった今も【HTBセレクションズ】}} * {{YouTube|1fBwTbsN_0Y|【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】大韓航空撃墜事件}} * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab01016757/antenne-2-le-journal-de-20h-emission-du-1er-septembre-1983 Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 1er septembre 1983] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}} * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab01016826/antenne-2-le-journal-de-20h-emission-du-2-septembre-1983 Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 2 septembre 1983] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}} * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab01017042/antenne-2-le-journal-de-20h-emission-du-3-septembre-1983 Antenne 2 Le Journal de 20H : émission du 3 septembre 1983] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}} * {{YouTube|0VzHb_HvKw8|Ja2 20h : émission du 1er septembre 1983}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}} * {{YouTube|uW8NWPXiZGs|20h Antenne 2 du 02 septembre 1983 - un Boeing abattu par l'URSS}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}} * {{YouTube|5OmIR34DEFY|Ja2 20h : émission du 3 septembre 1983}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}} * {{Kotobank}} {{1983年の航空事故一覧}} {{Portal bar|航空|災害|軍事|朝鮮}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいかんこうくうきけきついしけん}} [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で発生した航空事故]] [[Category:大韓航空の航空事故|けきついしけん]] [[Category:大韓民国の事件]] [[Category:ソビエト連邦の事件]] [[Category:ソビエト連邦の軍事]] [[Category:冷戦]] [[Category:陰謀論]] [[Category:撃墜による航空事故]] [[Category:ボーイング747による航空事故]] [[Category:1983年の航空事故]] [[Category:1983年の大韓民国]] [[Category:1983年のソビエト連邦]] [[Category:1983年の国際関係]] [[Category:樺太の歴史]] [[Category:1983年9月]] [[Category:露韓関係]] [[Category:パイロットエラーによる航空事故]]<!-- 英語版などでも明記あり。削除しないで欲しいです -->
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ネイティブ・アメリカン
ネイティブ・アメリカン(Native Americans ネイティヴ・アメリカン)は、アメリカ合衆国の先住民族の総称。1492年にヨーロッパ系白人が現在の北米地域に到達する以前に、現地に居住していた民族の総称である。この集団のアイデンティティ形成には、地域文脈、居住地域における同胞民族の存在、ネイティブアメリカン特別保留地との距離等の要素が関連している。2013年現在、連邦政府が認める部族集団は566、州政府レベルではさらに70の集団が存在するといわれている。 「ネイティブ・アメリカン」や「インディアン」、「アメリカインディアン」などの呼称をめぐっては様々な議論がある(en:Native American name controversyを参照)。ポリティカル・コレクトネスを優先した状況においては、「ネイティヴ・アメリカン」が使用されている。アメリカ合衆国において、ネイティブアメリカンにはインディアンの他にもアラスカのエスキモーが含まれ、さらにハワイ先住民や他のアメリカ合衆国領の地域の先住民も含む場合がある。また、アメリカ州の先住民族全体を指して「ネイティブ・アメリカン」という場合もある。 本記事ではアメリカ合衆国の先住民のうち、主に本土のインディアンを扱う。アラスカの先住民についてはアラスカ先住民、ハワイの先住民についてはハワイ先住民を参照されたい。以下、本記事では「インディアン」を用いることが多いが、本記事の「インディアン」は「アメリカ合衆国本土のインディアン」を指している。 白人、主にキリスト教徒によって行われたインディアン戦争に代表される北米植民地戦争によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない。 ネイティブ・アメリカンのY染色体ハプログループはハプログループQが大半を占めている。Q系統はケット人やセリクプ人などのシベリアの一部でも見られるが、ユーラシア大陸ではあまり見られない系統である。その他、ナデネ語族を話す民族には、ハプログループC2 (Y染色体)も認められる。 ミトコンドリアDNAハプログループはA、B、C、D、Xが見られる。 殆どの遺伝子タイプが北アジアや東アジアと共通していることから、ネイティブアメリカンの祖先がシベリアからベーリンジアを通って移住してきたことは確実である。その年代には諸説あり、複数波が存在したとする見方もある。一方で北米東部ではかなりの頻度で欧州に多いY染色体-R、mtDNA-Xが観察されることから、有史以前のある時期にヨーロッパから直接移住が存在した可能性も指摘されている。 北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。また大航海時代以降は、ヨーロッパ人との混血、アフリカ黒人との混血が進んだ部族も多い。 インディアンの歴史は口承文化の伝統とアートワークによって受け継がれてきたため、最初の文書による歴史は、ヨーロッパ系の白人によって、もたらされた。固有の言語はアメリカ先住民諸語である。英語のみを話す人々も増加傾向にある。 2010年の国勢調査では約309万人。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族はナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そしてプエブロである。 ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人 ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。 2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。 多くの部族がトウモロコシを主食とし、インゲンマメ、カボチャ、ウリなどを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた(プエブロはトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドベと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活を送っていた)。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜はシチメンチョウと犬だった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされており、コモン・インディアン・ドッグという犬種が存在する。北米には、イノシシの一種ペッカリーや、ヒツジの仲間ビッグホーンなどがいたが、これらは家畜化されなかった。 インディアンの食文化のうち、ペミカン、サコタッシュ、「揚げパン(フライブレッド)」などは今日でもよく知られており、米国民の食文化に取り込まれたものもある。米国の重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメ、タバコ、トウガラシは元来インディアンが栽培していたものである。 南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。 カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。シー・シェパードなど反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。 ロッキー山脈周辺の部族は、松の実 やドングリを主食とした。かつては年に一度、部族総出でドングリ採集に出かける際には村が全くの無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。 北東部、北西海岸部の部族は伝統的に鮭を燻製にして一年分の主食とする。しかし、保留地へのダム建設や漁猟権の剥奪などで、サケ漁の現状は年々厳しくなっている。北東部では、近年になってようやく鮭の伝統漁復活が認められた部族もある。1960年代のレッドパワー運動で、真っ先に行われた大規模な抗議行動は、サケ漁の権利をめぐって抗議するために連邦法や州法を破って漁をする「フィッシュ・イン」運動だった。 毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にする。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことであるが、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段としている。 昔の写真に見られるインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、前述の平原部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に付けて描かれているものが非常に多い。同化政策の一環として後述のインディアン寄宿学校に送られた男女児童は、入学と同時に頭髪を短く刈られた。都市に住むシティ・インディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活してきている。アメリカインディアン運動(AIM)が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーを取り戻すために髪の毛を伸ばし始めた。これはヒッピー文化にも影響を与えた。 インディアン固有の蛮習のように喧伝されてきた「頭皮剥ぎ」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは18世紀前後に「メキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関」が、敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その「証拠として頭の皮を懸賞金をかけて」募集したことが起源となっている。 頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、「古代ヨーロッパにも存在した」。19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照) いわゆる「モヒカン刈り」のスタイルは、17世紀に北東部のアルゴンキン族の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように頭の側面を剃っていたものである。 現代の防寒着アノラックやパーカーは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でもインディアンの使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。ラクロスは北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。 ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽(両性具有者)は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ」と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年にウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク」(「二つの魂」の意)から翻訳借用した「トゥー・スピリット」を使用することが議決された。 1881年、アメリカ連邦議会はインディアンの宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。 ネイティブ・アメリカン・チャーチは、現在インディアンの間にもっとも普及している宗教であり、コマンチ族最後の酋長クァナー・パーカーを開祖とする。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。 もともとは、メキシコのウィチョール族などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。 保留地で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人とタラウマラ族の混血女性によるメキシコ原産のペヨーテを使った治療によって全快したクアナは、人類学者のジェームズ・ムーニイの後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式をネイティブ・アメリカン・チャーチとして組織化した(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する南西部にしか自生しない)。宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。 儀式はティピー内で夜間から朝にかけて行われ、ペヨーテを複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、教会(チャーチ)という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものはない。 スー族においては、同チャーチの指導者たちはその3分の1が、ペヨーテの会合に関わっていると報告している。現在ではロサンゼルス、ミネアポリス、デンバー、シカゴ、ラピッドシティーといった各地のインディアンコミュニティーでペヨーテの儀式が開かれ、非インディアンが保留地へ足を運ぶ目的の一つとなっている。 南西部のプエブロ諸族の集落の中心にはアドベの古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影や写生などは禁止されている。 また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代からキヴァという地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファローの精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」 や「トウモロコシの母」 を信仰するのである。17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついにはプエブロの反乱を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。 アパッチ族は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、ナバホ族は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。ホピ族とズニ族はカチーナという精霊群を信仰する。いずれも仮面行事であり、クラン(氏族)を中心として行われる。 プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。南西部に到達してから比較的歴史が浅いナバホ族の神話は、プエブロ族の神話を受容したものであるとされる。 生まれたときに祖父から与えられる守護動物をかたどった石のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。 ニューメキシコ州では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされたカトリックとインディアンの宗教の習合がよく見られる。この背景には、かつてキリスト教を強制し、古来の信仰を弾圧してプエブロの反乱が起きたことを教訓とした宣教師達が部族民の古来の信仰に対して譲歩したことがある。文化学者マチルダ・スチーブンソンはこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」 特定の守護聖人を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族のドラム演奏、詠唱、および舞踊は、サンタフェの聖フランシス大聖堂での定期的なミサの一部ともなっている。 クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。人身御供の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、霊力を得るものとして儀礼的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。 彼らの神話・英雄譚には、ヴィンランドに入植したヴァイキングの、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えばニューヨーク州にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深いフォンダ(英語版)のカテリ・テカクウィサ教会やオーリーズヴィル(英語版)の北米殉職者教会 がある。 イギリス人が植民を行った地域では、ピルグリム・ファーザーズと接触したワンパノアグ族のようにプロテスタントに改宗した部族もあった。17世紀のニューイングランドでは、改宗した先住民は「プレイング・インディアン(英語版)」、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。フィリップ王戦争が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後にボストン湾に浮かぶディア島に抑留されて飢えと病から多くが死んだ。アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学は、インディアンを教化する目的でモヒーガン族の牧師サムソン・オッカムらの出資により1769年に創立された。 狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われるユト族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。 モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共闘して襲撃した。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとするモルモン書によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという(ただし前述のように、インディアンの先祖はイスラエル人ではなくモンゴロイドであることが判明している)。 女性シャーマンの習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。 アメリカ西海岸では、18世紀後半から、入植してきたスペイン人の宣教師によってインディアンのキリスト教徒化が進められ、『ミッション・インディアン』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に使役された。 漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈る儀式が多い。踊りは伝統住居の「ラウンド・ハウス」内で行われるものが多い。 ラコタ・スー族の『ワカン・タンカ』のような『偉大なる精霊』を信仰する精霊崇拝が基本である。バッファロー・ダンスやベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。 物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「ヴィジョンを得る儀式(ヴィジョン・クエスト)」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の儀式と併せてますます盛んである。 人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあったポーニー族やオーセージ族は、例外的に収穫祈念のため人身御供を行った。生贄には他部族の男女が使われた。 平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。マンダン族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの葬送の習慣は、キリスト教会からの弾圧もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物として売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。 「サン・ダンス」とは、スー語の「ウィワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。 平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」としてスー族やブラックフット族、シャイアン族、カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこのサン・ダンスの儀式を行う。 とくにスー族は、この儀式の中で最大の要として、「ピアッシングの儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられたハコヤナギの「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。 このピアッシングの苦行はマンダン族が始祖とされる。かつてマンダン族の「オーキーパ(太陽の踊り)」は詳細なイラストとともに東部の白人社会にも知らされたが、彼らはこれをグロテスクな悪夢だとして本気にしなかった。この際、「ピアッシングは若者の勇気を試すもので、指導者となるための通過儀礼である」と説明され、現代でもこれに則った解説をする文献があるが、これは間違いである。19世紀のスー族の戦士は、このピアッシングについて、「自分の肉体は、自分にとって一番大切なものだから、これを大精霊に捧げるのだ」と説明している。 20世紀スー族のメディスンマン、ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の『祖父』である」と述べ、またジョン・ファイヤー・レイムディアー(英語版)は、「白人は自分に都合よくなんでも簡単に片付ける。2000年前には自分達の代わりにイエス・キリストに苦痛を味わわせた。だが我々インディアンは自ら苦痛を引き受け、自分の身体でこれを体験し誓うのだ。『祖父よ、来年私は踊ります。わが肉体に串を刺し、誰かの回復に役立とう。我らの民を完全なものとするために』とだ」と語っている。 かつて白人によってサンダンスは野蛮な行為として弾圧を受け、インディアンたちはこれを隠れて行うしかなかった。インディアンたちの粘り強い交渉と説得により、フランクリン・ルーズベルトの時代になってようやくサンダンスが許可された。それでもピアッシングのみは絶対禁止されたが、レッド・パワーとともに復活され、スー族の伝統派、レイムディアーやマシュー・キング らによって全米に広められた。また近年になって規定が緩み、女性のピアッシングも見られるようになった。女性の場合は、手首に串を刺す。 クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。ムスコギー族やセミノール族は、地元で採れるヤポンノキ(Yaupon、Ilex vomitoria)の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄オセオーラの名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。 ノース・カロライナ州のランビー族を含むインディアンは、ホーリネス・メソジスト教会のランバー・リバー会議を組織した。アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。 大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウンド・ビルダー」と呼ばれた部族群が、動物をかたどった、数100メートルもある無数の土塁・塚を建造している。オハイオ州のサーペント・マウンド(大蛇の墳丘)はその一つである。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカ帝国やマヤ文明のように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。 1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。 「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。 弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、キッキング・ベアだった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデッド・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、連邦捜査局(FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。 テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。 インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「鷲の羽法(Eagle feather law)」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、ハクトウワシとイヌワシの羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で部族の主権を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。 インディアンにとって、煙草の葉は神聖な清めの神具であり、またパイプも単なる喫煙具ではなく、どちらもすべての儀式に欠かせない特別な存在である。どんな部族でも儀式の際には、セージや杉の葉などと合わせ、煙草の葉による清めが行われ、「ピースパイプ」または「メディスンパイプ」と呼ばれる聖なるパイプを用いた喫煙が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。どの部族もたいてい、父祖から伝わる神聖なパイプを保持している。 パイプはパスポートの役目も持っており、友好の意思を表す。インディアンでも非インディアンでも、ピースパイプを回し飲む際に、約した言葉を違えることは絶対に許されない。サンディア・プエブロ族とアパッチ族、ナバホ族、コマンチ族が18世紀に結んだ和平の儀式では、回し飲みした煙草が土に埋められた。以後サンディアと彼らとの争いは一切行われていない。 20世紀のスー族のメディスンマンでレオナルド・クロウドッグの父、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。 スー族のインディアンたちはミネソタ州のパイプストーン国定記念物からしか採れない赤い石(パイプストーン)でパイプの火皿を作る。この鉱物は、画家ジョージ・カトリンに因んで「カトリナイト(Catlinite)」と名付けられている。スー族の伝承では、カトリナイトは先祖の血で出来ているとされる。聖なるパイプの火皿の素材となるカトリナイトの採石場は全ての部族にとって中立の土地とされていた。長らく条約を破った白人による不法占拠が続いたが、現在ではスー族が占有権を持ち、ここでカトリナイトを採掘できるのはインディアンだけである。 スペインがアメリカ大陸を征服した当初は、800万人ものアメリカ先住民が死亡したと推定されるが、これは白人が持ち込んだ伝染病や、白人が先住民に対して行った戦争などの殺戮によるもであった。先住民に対する殺戮は、後にカナダ、アメリカ、メキシコ、ブラジル、そしてパラグアイ、チリ、アルゼンチンといったアメリカ大陸のあらゆる地域で、何世紀にもわたって続けられた。アメリカでは、インディアン戦争とマニフェスト・デスティニーが大量虐殺に貢献した。またアメリカにおいてもインディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。 レナペ族とフィラデルフィア、ワンパノアグ族とプリマス植民地、コンコードのように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。 入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを奴隷として売買することは合法とされた。 フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。 白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。 ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。 19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「インドの撤去ポリシー」が推し進められた。これはユリシーズ・グラント大統領や、ウィリアム・シャーマン将軍らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。南東部での「セミノール戦争」は、白人とインディアンの国家間戦争としては最大級のもので、ジャクソンはこの戦いに焦土作戦による徹底殲滅を図った。「セミノール戦争」は現在、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれている。 長い間各国政府は法律を定め、狭い保留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族とセミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させたというものである。 厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万6,000人のうち4,000人から5,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「涙の旅路」と呼ぶようになった。 1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンド という灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。 バルボンシート酋長(英語版)の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって当時は価値のない砂漠であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。 インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることの繰り返しとなる。インディアンの中にはレッド・クラウドやスポッテッド・テイルのように連邦政府の側について、抵抗するインディアンを非難する者もあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース、開拓者を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。20世紀後半にクレイジー・ホースは非インディアンから再評価され、サウスダコタ州ブラックヒルズに世界最大級の石像クレイジー・ホース記念碑が建設中であるが、伝統派からは猛反発を受けている。 1868年にスー族と米国政府はララミー条約によって、サウスダコタ州にあるスー族の聖地ブラックヒルズは永久にスー族のものであると確約したが、ジョージ・アームストロング・カスターがブラックヒルズに金鉱を見つけると、開拓者が金を求めてブラック・ヒルズに侵入し、条約は破られた。 絶望的な状況に置かれた西部のインディアンの部族には、ゴーストダンスを踊ることで平和なインディアンの国が還ってくるという終末的信仰ゴーストダンスが大流行した。信じるものは銃弾も効かないとされるこの宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、スー族のゴーストダンス指導者キッキング・ベア(英語版)を含むビッグ・フット酋長(英語版)の一団をサウスダコタ州のウンデット・ニーに連行した。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された(ウンデット・ニーの虐殺)。ここに連邦政府とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことである。 アメリカ人の歴史では1890年はフロンティアが消滅し、西部が勝ち取られた輝かしい年とされているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンがひとまず征服された年なのである。 「アメリカのフロンティア」が消滅したのち、白人はインディアン問題を処理すべく、その同化に注力し始める。オーストラリアのアボリジニや極北のエスキモー、中国の少数民族等と同じく、支配民族による同化政策は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルベニア州カーライルの「カーライルインディアン工業学校(英語版)」の創始者であり、校長を務めたリチャード・ヘンリー・プラット(英語版)による、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「インディアン寄宿学校」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。 こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業などの技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して保留地に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、学んだ技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。 これに対抗し、1970年代から各部族ごとにインディアンによる「部族学校」を設立する動きが見られるようになった。インディアン完全自治の学校としては、カリフォルニア州に1971年に創設された『デガナウィダ・ケツアルコアトル短期大学(英語版)』(略称『D-Q大学』)が知られるが、認可の喪失、学生数の減少や資金運用の不備から閉校の危機にさらされている。近年、このような動きの中、連邦や州政府の譲歩で部族語学習が部族学校などで取り入れられるようになり、現在の学童の世代と、英語のわからない三世代以前との間で言葉のコミュニケーションが実現するようになった例もある。しかし、結局部族語は保留地外では実用的でないため、絶滅の危機に瀕する言語を保存し、どう文化的に発展させていくのか、その先行きが注目されている。 インディアンのコミュニティーを根本から破壊し、自殺率の増加など深刻な問題を引き起こすいま一つの社会制度が、無意味な「里親制度」である。これは、貧困のため生活困難と州が認定したインディアンの家庭から、出生前に選定して強制的に取り上げ、実の親を知らさないまま白人の家庭で育てるというものである。これも白人からすれば「インディアンを殺し、人間を救え」との発想で生まれた、一方的な草の根ボランティアの一環であったのだが、彼らは白人の家庭で、なんらインディアンとしての文化も歴史も教えられることはなく、白人としてのみ育てられるのである。やがて物心ついた時にこの子供たちは「自分はインディアンでも白人でもない」というアイデンティティーの喪失に苦しみ、その結果、ほとんどが10代のうちにアルコール依存症になるか自殺してしまうという悲劇を生み続けている。 1969-1974年に実施された全国調査では、実に全米のインディアン児童のうち25%-35%が、彼らの家から引き離され、州の法廷と福祉代理業者によって白人の家庭に置かれている。1974年に、これら強制的な寄宿学校制や里親制度について、デニス・バンクスは「一種の誘拐である」と批判声明を出している。 1978年、この深刻な惨禍の状況に対するインディアン側の抗議と、「文化的虐殺」とする国際世論による批判を受け、連邦議会で制定されたのが「インディアン児童福祉法令(英語版)」(ICWA)である。この法令は、里子に出すか否かの決定を州や代理業者に委ねるのではなく、その子の帰属する部族会議に管轄権を認め委ねさせるものである。この法令の施行で無意味な里親制度は近年ようやく廃止の傾向にあるが、州によってはこれを認めず、また白人の無知と無理解によって未だにこの民族浄化は実行されており、予断を許さない状況にある。 2000年、アメリカ合衆国およびBIAは、これら同化政策を犯罪的行為と認め、謝罪を行った。(→「BIAの歴史的な謝罪」) かつて合衆国連邦とインディアンとの間では保留地を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。そもそも1879年にポンカ族のスタンディング・ベアー(Standing Bear)酋長と、オマハ族のスゼットとスーザンのラ・フレスカ姉妹が、最高裁で部族強制移住の違法判決を勝ち取るまで、インディアンは人間として認められていなかった。この判決で初めて、最高裁は「インディアンは人間である」との文言を判決文に書き添えてこれを認めたのである。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権および権利回復を果たすため、さまざまな個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。 最初期の組織だった活動では、1911年にオナイダ族の環境保護運動家ローラ・コーネリアス(Laura Cornelius)や、オマハ族のラ・フレスカ姉妹といった、東部で欧米式の教育を受けたエリートたちが起こした「アメリカ・インディアン協会」がある。彼女らは「国際的インディアンの日(ナショナル・インディアン・デー)」を作り、10月12日の「コロンブス・デー(コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。 1944年には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、ワシントンD.C.に本部を持つ「アメリカ・インディアン国民会議団(NCAI))」が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い番犬」と呼ばれた。 彼らは伝統衣装ではなく洋装し、欧米文化の中から運動したため、主流のアメリカ人からも支持を集めた。しかし、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化されたハイアワサ、ポカホンタス、トント」と揶揄され、支持共感を得られなかった。 これを踏まえ、1961年にシカゴで、スー族のヴァイン・デロリア(Vine Deloria, Jr.)、ウォーカーリバー・パイユート族のメル・トム(Melvin Thom)、ポンカ族のクライド・ウォーリアー(Clyde Warrior)、ビル・ペンソニュー(William Pensoneau)、ナバホ・カイオワ族のジョン・ベリンドといった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。キング牧師はインディアンの団体NIYCに声をかけ、団体は公民権運動の一部に関わっていくようになった。 また1960年代から1970年代に掛けて、黒人たちによる公民権運動の盛り上がり(ブラック・パワー)があり、これに呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「レッド・パワー運動」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、シビル・マーチに参加することについては、インディアンの団体は消極的、否定的だった点があげられる。 全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」の創設者となるアシニボイン族のハンク・アダムス(Hank Adams)を輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、ワシントン州のあちこちで「違法に」魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン(fish-ins)」抗議行動で注目された。 レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス(Dennis Banks)や、クライド・ベルコート(Clyde Bellecourt、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていない、貧しい地域出身の若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動(AIM)が知られている。 ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「男性は何でも目標(Aim)、目標と発言しているのだから、AIMにしたらどうですか」という発言による。 彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。 指導者達はまず1970年にスー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグ(Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。 彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ(Oren Lyons)がついた。 1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさす場合があり、退学してしまうこともあった。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、1970年に「生存の学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリスに開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。 また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロール自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。 メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官や陪審員、ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療の分野でいかにインディアンが不当な扱いを受けているかの啓発に注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの撤廃を要求した。 AIMはミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州クリーブランドで組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、ミルウォーキー、シカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地、デンバー、オクラホマシティ、シアトル、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーやブラックヒルズの返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→破られた条約の行進) デニス・バンクスは、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ。」 これらの運動は、保守派の白人にとっては過激で、黒人運動団体「ブラックパンサー党」とも連携したその運動は、武力で弾圧されるようになっていった。なかでも大きな反響を呼んだ「ウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な「法廷抗争」に発展し、以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン約300人が、オグララ族議長ウィルソンの私設暴力団と、FBIによって放火・銃撃され、少なくとも「67人が死亡」している。AIM狩りの先頭に立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦と暴行で、AIMから提訴された)は、インディアンの運動を激しく批判した。 当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。さまざまなインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前の種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで起こるべくして起こった市民運動だった。 ハリウッド俳優のマーロン・ブランドは、AIM創設当時からこれを支援し、金銭的にも政治的にも援助したアメリカ人の一人である。ブランドは高額な映画出演報酬を要求することで有名だったが、これをインディアン権利団体の運営資金に提供することも多かった。また、「フィッシュ・イン抗議行動」など、様々な抗議運動でも行動をともにした。 最も影響が大きかったのは、1972年の「マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件」であろう。これは出演した映画『ゴッドファーザー』でのアカデミー主演男優賞の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせたというものである。ハリウッドでの、白人がでたらめなインディアンを演じてきたことを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じたなどという様々な憶測が出回ったが、実際には、ネイティヴ・アメリカン(母はフランス人、ドイツ人、オランダ人の系統、父はホワイトマウンテン・アパッチとアリゾナのヨクイ族(Yaqui)とプエブロのネイティブ・アメリカンの系統)の「リトル・フェザー」(Sacheen Littlefeather)が登場しており、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にネイティブ・アメリカンの対する人種差別問題を提議した。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画の「西部劇」から単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになり、事実上「西部劇」というジャンルを壊滅させてしまった。 このレッドパワーの高まりの中で起こった「ブライアン対イタスカ郡(Bryan v. Itasca County)」と呼ばれる法廷闘争は、以後のインディアンの権利に関して画期的な法的判断を引き出したことで歴史的評価を受けている。 1971年、ミネソタのリーチ保留地に住むオジブワ族のブライアン兄弟は、火災で家を無くしたため、移動型の住居を購入したが、間もなくイタスカ郡は彼らの住居に資産税として147.95ドルを請求した。しかしブライアン兄弟は、この住居が自治権を持ったインディアン保留地内にあることから納税の義務がないことを主張。これを受けて郡はミネソタ最高裁判所にブライアン兄弟の主張の無効を訴え、ブライアン兄弟側は保留地を挙げて控訴した。やがてこの件は合衆国最高裁判所に上告された。 1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。 ネイティヴ・アメリカンだけでは解決できなかった、人種差別の解消と人権の確保に大きな貢献をしたのは、マーティン・ルーサー・キング牧師とNAACPの協力だった 。アフロアメリカンとネイティヴ・アメリカンの要求に妥協する形で、アメリカ政府は、やむなく1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めた。 後年の1970年代には、[上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など反動的な法案が、共和党と民主党保守派の賛成で可決され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、抗議行動が行われた年となった。 この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。 アメリカでは近年になって「人種差別である」とインディアン団体の抗議を受けるまで、大学や高校などがスポーツチームのマスコットにインディアンのキャラクターを採用することも珍しくなかった。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、例えばクリーブランド・インディアンズのワフー酋長(Chief Wahoo)や、ワシントン・レッドスキンズなどがあるが、こういった「侮辱的なカリカチュア」は現在、インディアン権利団体にとって最も活発な抗議対象のひとつになっている。 最も初期の事例では、1970年の「スタンフォード大学でのマスコット抗議」がある。スタンフォード大学のフットボールチーム「インディアンズ」の、でたらめな衣装や踊りで応援するインディアン・マスコットの廃止を、同大学のインディアン学生達が申し入れたもので、リチャード・ライマン総長がこれを受け入れたために、白人の大学関係者側からは「なぜ廃止するんだ」と轟々たる非難が集まる論争となり、以後、こういった冒涜的なスポーツ・マスコットに対する廃止要求は全米に広がっていく嚆矢となった。ライマン総長はのちにこう語っている。「ブルドッグか虎のように、特定の少数民族すべてをマスコットにする権利が、我々のどこにあるだろうか?」 2005年8月、こうした「反インディアン・マスコット運動」の高まりを受け、全米大学体育協会 (NCAA)は、「敵意を持ち虐待的」に表現されたインディアンのマスコットの使用を、ポストシーズンのトーナメント以降禁止した。 これと併せて、「インディアンズ」や「ブレーブス」といったプロ野球チームで、白人の応援団による「羽飾りをつけ、太鼓を叩き、手斧型の応援バットを振り回す(手斧を振り回すような風俗はそもそもインディアンにはない)」といった応援が行われていることに対し、「侮辱的なカリカチュアである」として、1980年代からインディアン団体が猛抗議を続けている。 一方、ユタ州の「ユタ大学」はNCAAの決定を不服として、同大学の「ユテ族(UTE)」、「走るユテ族(Running Ute)」のチーム名を商標登録し、その見返りにユテ族学生に対し奨学金を支払うと約束した。しかし、同大学がこれを守らず、奨学金を払っていないとして、2008年、ユテ族学生たちが同大学内でデモ行進をするなど、抗議運動が高まりつつある。 スー族はノースダコタ州のノースダコタ大学ダートマス校のアイスホッケーチーム「戦うスー族(Fighting Sioux)」の名称撤廃を求めて、同大のスー族学生を中心に30年来の抗議運動を展開しているが、同校は2000年にこれを「伝統的な名である」として拒否し、全スー族と州をあげた大論争となっている。テキサス大学オースティン校のジャーナリズム教授ロバート・ジェンセンは、2003年にノースダコタ大で行った数多くの批判演説のなかで、「“野蛮人”トーマス・ジェファーソンやフランクリン・ルーズベルトこそが“戦うスー族”なのです。仮に第二次大戦でナチがアメリカに勝った世界があったとして、“戦うユダヤ人”というマスコット名が生まれ、伝統に従って存続しているとしたらどうでしょうか」とこれに抗議している。同チームのデタラメなインディアンマスコット類は一掃され、オジブワ族のデザイナー、ベネット・ブライアンによるロゴに置き換えられた。 現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度が取られているが、いったん破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失してアルコール飲料やギャンブルに耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られる。中には伝統文化を見世物とし、観光化して生活の糧を得る人も見られ、米国地域社会に溶け込んで生活する人もあるが、その一方でインディアン居留地の中で白人・欧米社会から断絶して暮らす人もある。伝統文化を守る人たちもいるが、その多くは不毛の地、極貧地域で、政府からの補助金が出るため、勤労意欲も削がれるなど、今日的な問題を抱えている。このように、長い差別と民族衝突の歴史が、双方の間に溝を残している部分も根強く、関係修復は簡単ではない。 現代社会では、インディアンの社会的平等の実現が難しいといわれている。政府の政策や少ない開発資金では健康医療や教育などの点で生活の質を十分に向上させにくいのが現状である。特に居留地内では深刻な問題である。例えば、スー族が住むサウスダコタ州のパインリッジ居留地(Pine Ridge Indian Reservation)は他の居留地よりも貧しい。この居留地に住むスー族の収入は平均的なアメリカ人の3分の1(1999年の平均年収は3800ドル)、失業率は3倍の85%であり、住民の97%が連邦政府の定める貧困線よりも下の生活水準にある。多くの家族は上下水道、電気、電話のない生活をしており、平均寿命は男性47歳、女性50歳代前半と、西半球で最低の水準にある。2002年度の居留地における農業の総生産高は3300万ドルと推定されているが、実際の部族の収入となったのはその3分の1以下であるという。 こうした貧困の中、未成年の自殺者の割合はアメリカ国家平均の3倍を超えており、多くの保留地は10倍に上っている。ここ数年内でも、ブラックフット族の少女(当時18歳)が学校での飲酒を責められ、優等生だったにも拘らず、モンタナ州の保留地で精神安定剤を多量摂取して自殺した。アイダホ州のフォートホール保留地の16歳の少年は、郡刑務所で首吊り自殺をしたが、ちょうど2日前に彼はロバート・F・ケネディ上院議員と保留地に関する状況について話し合ったばかりだった。麻薬を常用したり、ギャングに憧れる若者もおり、こうした厳しい状況の中でインディアン達は自分達で何とかこうした問題に取り組もうとしている。 インディアン・カジノ経営のほか、観光や製造業などに進出している部族もあるが、ユタ州のゴシュート族のように、保留地を放射性廃棄物や生物兵器工場などの、産業とは名ばかりの汚染物質最終処分場にされている部族も多い。カリフォルニア州の繁栄は、上流の部族の水源を奪って実現している。セネカ族やマンダン族の保留地の大半は、ダム建設で沈められた。ウィンドリバー・ショーショーニー族の保留地は地下核実験場にされ、国連に提訴する事態にもなっている。ほとんどの保留地が産業を持てず、なし崩しにこういった負の遺産を受け入れさせられている。 ハリウッド映画「ラスト・オブ・モヒカン」(1992年)の撮影現場で、インディアンがどう扱われていたか、出演したラッセル・ミーンズはこう報告している。「我々は撮影中、まるでモヒカンの村は“映画に出てくる(ステレオタイプの)アフリカの村”だな、と言い合った。ノースカロライナのロケ地に900人以上のインディアン・エキストラが集められ、山奥のボーイスカウト宿舎に泊まらされた。ここで我々は2人部屋に8人ずつ詰め込まれ、さながら強制収容所だった。インディアンの出番は主に夜だったので、夏の盛りに日中いっぱい、われわれは猛暑と湿気を耐えねばならなかった。医者は撮影で出払っていて見当たらず、我々は出歩くことも禁じられた。白人スタッフがストライキを始め、続いて我々インディアン・エキストラもストに入った...」 メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化がなく、飲酒をコントロールすることができない。このため、彼らには飲酒のペースといったものがなく、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量のウィスキーを持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が保留地で自活の道を絶たれ、アルコール依存症となるのは、エスキモーやアボリジニなど他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。 アルコールは、インディアンにとって永らく失業に伴う暇つぶしであり、また白人にとってインディアンに対する政治的圧力の手段だった。アメリカ版「タイム」誌は、ある中西部の保留地の、4,600人の成人のうち、男性21%、女性44%が、3年間に少なくとも一回、酩酊の理由で逮捕されたとし、多くの保留地では、インディアン達が外の街で酔っ払って、家へ戻る途中に自動車事故で死なないようにと、保留地でバーや酒店を開けるようにしていると報告している。 「NIYC(全米インディアン若者会議)」副議長を務めたポンカ族のビル・ペンソニューが、1969年2月24日に、上院インディアン教育小委員会の前で述べた証言のなかの以下の一節は、アルコールの問題についての議論の際に、よく引き合いに出される一文である。 「我々はワインにひたすら没頭する。なぜなら、酔いつぶれているときだけが、唯一我々インディアンが自由な時だからだ。」 アメリカ合衆国には563の連邦承認部族政府(インディアン・テリトリー)が存在する。合衆国はこれらの部族の自治政府および、部族の主権と自決権を条約上で明記し認めている。これは、19世紀に推し進められた条約交渉の中で、強制移住をからめての保留地への定住と引き換えに連邦が出した条件である。各保留地は、アメリカ内務省所轄のBIA(インディアン管理局)の管理下にあり、これらの自治政府は、それぞれの保留地に置かれたBIA直轄の保留地事務所の監督下にある。 部族政府(部族議会)は「部族領地内での立法、課税、住民権や免許の認可など、自治政府の部族の力の制限は州への制限と等しく、例えば、交戦権、外交関係の締結、硬貨や紙幣の製造などを含む」として、しばしば「インディアン保留地は独立国家に等しい力を持つ」などと表現されるが、これには注意が必要である。 なぜなら、部族議会の決定はBIAの承認もしくは影響なしには行えないものであり、ほとんどの部族議会は連邦の傀儡として腐敗している。部族の行事といったものは、強弱の差こそあれ、必ず保留地管理官たちの監視下にある。自治権とは言っても、カナダの先住民のように一定の裁判権を持つわけでもなく、主権のひとつとしてよく例に挙げられる部族警察も、あくまで州警察の補助的権限しか持っていない。保留地で罪を犯した部族員は、州当局によって裁かれるのである。後述の「インディアン・カジノ」でも、カジノを持ちたい部族が連邦の許可をとりつけても州の許可が下りず、実現できないでいる例は多い。インディアンは、連邦と州の双方から縛られている。自主独立の強さで知られるイロコイ連邦の一部は、この部族議会を置いていない。つまり連邦からの金銭的な援助をいっさい断つことで、連邦が干渉できない自治力を維持しているのである。 また、州政府に承認されているものの連邦政府に承認されていない多くの部族が存在する。インディアナ州のマイアミ族などは連邦政府の承認を拒絶し続けている。長年にわたりBIAから承認要求を拒否され続けてきたカリフォルニア州北部のオーロネ族(Ohlone)などは、他部族による1969年の「アルカトラズ島占拠事件」に不快感を示し、しかもこのときにニクソン大統領から、アルカトラズ島を部族の保留地として「提供」を持ちかけられて、これを侮辱として断ってさえいる。 現在もアメリカ東部の小さな部族の多くが、公式な承認を得ようとしている。連邦による「インディアン部族」としての承認は、部族に年金が支給されるようになるなど、現実的な利益を生む。しかし部族としての承認を得る過程で満たされなければならない多くの不条理な規則があるため、きわめて困難である。部族集団として承認されるためには、部族の家系の広範囲に及ぶ系譜上の証明を提出しなければならないが、これまで多くのインディアン部族は、多くの権利を剥奪されていたため、遺産の相続を拒絶していたのである。また、メキシコ国境をまたぐパパゴ族(トホノ=オ・オダム族)は、アメリカからもメキシコからも部族認可を拒まれ、現在「インディアン部族界の孤児」と呼ばれる状況に陥っている。 バージニア州では、インディアンは異様な問題に直面している。バージニア州には連邦承認部族が存在しないが、それはひとえに州の人口動態統計局の記録係を1912年から1946年まで務めたウォルター・アシュビー・プレッカー(Walter Ashby Plecker)によるところが大きい。プレッカーは優生学を信奉する白人至上主義者であり、州内のインディアンはアフリカ系アメリカ人と混交しつつあると信じていた。「白人」と「有色」のただ二つの人種だけを承認するという法律が州議会で可決され、プレッカーは自治体政府にすべての州のインディアンを「有色」として再分類するよう圧力をかけ、バージニア州に居住するインディアンの記録の大々的な破壊を引き起こした。連邦による部族の承認と、それが生み出す利益を受けるためには、個々の部族は1900年以降の部族の継続的な存在を示す必要があるが、連邦政府は、プレッカーによる記録の破壊を知りながらこのお役所的な要件をこれまで曲げようとはしなかった。 現在、この要件を緩和する法案が、バージニア州選出のジム・ウェブ(Jim Webb)およびジョン・ウォーナー上院議員に支持され、上院の主要な委員会に好意的に報告されている。しかし下院ではバージニア州のヴァージル・グッド(Virgil Goode)議員が、連邦の承認はインディアン・カジノ設立につながり、州内のギャンブルの促進に繋がるとして、この法案に反対する。 2007年12月、ラコタ・スー族は、“アメリカ合衆国政府は独立地域であることを保障する条約を締結以来150年にわたって遵守していない、我らの忍耐はもはや限界に達した”として、条約の破棄とアメリカ合衆国からの独立を宣言。独立国家ラコタ共和国であることの承認を求める書簡をボリビア、ベネズエラ、チリ、南アフリカ共和国などに送付すると共に国務省にも宣言書を提出した。現在、国づくりの方向性を巡っては、部族は二派に分裂している。「文化」の項でも上述したように、平原部族である彼らの文化は部族全体を統括するような指導者はおらず、個人主義に基づく合議制だからである。 これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、ドーズ法を盾に保留地を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、インディアン寄宿学校などといった施政で強制的に同化政策を押し進めてきた。1887年に1億3800万エーカーあったインディアンの保留地(Reservation)は、次々にBIAによって「保留(Reserve)を解消」されて、現在では総計5500万エーカーまで削減されてしまった。また、20世紀初頭から連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「絶滅政策」を採ってきた。 こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「絶滅部族」として「解散」させられた。連邦政府・BIAがあるインディアン部族を「絶滅指定」すると、おもに次のような事態となる。 この部族認定解除の方針に対し、1960年代からレッド・パワーとともに散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。ニクソン政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、メノミニー族、ピクォート族が復活した。しかし、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、アメリカ内務省を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。 この再認定要求の流れとして、混血度の高い部族ほど、「何分の一までの混血なら部族員とみなす」と部族独自の混血度の規定を設け、規定を緩めて再結集しようとする傾向があり、ふた桁以上の混血度でも正部族員と認める部族もある。(この規定でいけば、16分の1チェロキー族の血を引いているビル・クリントンも正式なインディアンということになる)年々この要求は広がりつつあり、連邦側も対応に苦慮している。とはいえ、混血と同化を押し付けてきたのは連邦政府のほうである。 20世紀には「インディアンのバスティーユ監獄」と表現されたBIAであるが、2000年に副局長に就任したポーニー族のケビン・ガバー(Kevin Gover)局長が「同化政策」に対する「歴史的な謝罪」を行い、その施政は軟化しつつある。その一方、2000年7月、ワシントン州の共和党は、部族政府を廃止する決議を採択した。2004年現在、未だにインディアンの所有地から石炭やウランが盗まれているという事態が申し立てられている。アメリカ行政管理予算庁による1972年の研究では、連邦政府による1000項目の対インディアン支援プログラムのうち、部族に役立っているものはわずか78項目だけであるとの報告がなされている。 2013年、日本大学の武井 勲は、絶対貧困率・相対貧困率ともに白人の水準を大きく上回る分析結果を発表しており、ネイティブアメリカンというステータスが貧困に密接に結びついていると示唆した。またこれによる自殺率も高いといわれる。 カジノ事業は現代を生きるインディアン部族にとっての主要な経済収入のひとつで、部族が運営する「インディアン・カジノ」は、「現代のバッファロー」ともといわれ、インディアンの重要な産業となっている。保留地が狭い不毛の地である部族には、カジノが唯一の収入源である場合も多い。 1979年12月14日、セミノール族はフロリダ州ハリウッドの保留地で、高額賭率のビンゴ場を開設した。フロリダ州は即座にこれを停止させようとし、部族と州はカジノ経営の是非を巡って法廷闘争となった。この歴史的な係争は「フロリダ・セミノール族対バターワース」裁判と呼ばれている。1981年、連邦最高裁判所はセミノール族のビンゴ場経営の権利を支持する判決を下した。1987年にはカリフォルニアの「ミッション・インディアン」のカバゾン・バンドが高額賭率ビンゴ場を開設。その差し止めを要求する州と法廷闘争となった。米国最高裁判所は「市民法280条(「ブライアン対イタスカ郡」裁判)」を基に、インディアン部族による賭博の開催は連邦と州の管轄外であり、カリフォルニア州にそれを罰することはできないと裁決を下した。 1988年、連邦議会は、インディアンの賭博場経営と規制に関する「インディアン賭博規定法令(IGRA)」を通過させた。これは、連邦政府によって認識された部族が(つまり、「絶滅認定」された部族はカジノ運営できない)州との交渉を経て、アメリカ国の規定内および室内で行うことを前提としている。言い換えれば、州がこれを禁止した場合、インディアンはカジノ設営ができないということでもある。 この条例の制定にあたり、インディアン・カジノ運営の審査と認可業務に当たらせるべく連邦は「全米インディアン賭博委員会(NIGC)」を設立。インディアン側もインディアンのカジノによる自給自足と福利厚生を保護すべく「全米インディアン賭博協会(NGIA)」を設立した。 1992年、コネチカット州のマシャンタケット・ピクォート族が「フォックスウッズ・カジノ・リゾート」をオープンし、さらにダコタ・スー族が「ミスティック・レイク・カジノ」を開き大きな利益を得て大成功。他の部族もギャンブル事業に乗り出し、現在、アメリカにインディアンが運営するカジノは377ヶ所あり、ほとんどの州にインディアン・カジノが開設され、アパッチ族やチョクトー族、オナイダ族、チペワ族(オジブワ族)など連邦政府が認定する562の部族がギャンブル事業を運営している。これらインディアン・カジノの年間総収入は約1兆6500億円に達している。かれらのカジノのほとんどは都市圏から離れた場所にあるが、遠距離であるにもかかわらず来客数は年次増大しており、保留地全体を潤す効果も甚大である。 1990年代に入ると、マサチューセッツやオレゴンをはじめ各地の州議会で「賭博は教育・道徳的に許されない」との理由からインディアン・カジノの運営禁止決議が相次いでいる。しかし、インディアン・カジノの収入の多くは「没収された土地の買い戻し」や「道路の舗装・整備」、「部族の医療や教育、居住」などの資金など、インディアンの福利厚生に使われているものであり、州とインディアン部族のカジノを巡る係争は年次拡大している。 そもそもインディアンの衣食住の権利を詐取してきた白人が「道徳」を理由にカジノを禁止するのは理不尽ではないかとの内外の批判も多く、またインディアン・カジノが自治体にもたらす税収は莫大なものであり、また非インディアンの雇用をも生み出す一大事業ともなっている。 一方、カジノ経営をする部族の中には十分な収入が得られないものもあり、カジノの設立や運営を仲介する白人企業に支払う手数料も高額にのぼるなど、ギャンブルの経済効果を疑問視する声もある。伝統的に自給自足度の高い定住農耕民であるホピ族はカジノ事業を敬遠し、また有名な観光地を持つナバホ族は2度の住民投票でカジノ建設を否決してきた。カジノに頼らざるを得ない弱小の部族とは状況が異なる。 インディアン、及びハーフの著名人 アメリカ・インディアンの各部族はどれも勇猛で知られたため、アメリカで開発された兵器(特にヘリコプター)のペットネームとしてよく使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ネイティブ・アメリカン(Native Americans ネイティヴ・アメリカン)は、アメリカ合衆国の先住民族の総称。1492年にヨーロッパ系白人が現在の北米地域に到達する以前に、現地に居住していた民族の総称である。この集団のアイデンティティ形成には、地域文脈、居住地域における同胞民族の存在、ネイティブアメリカン特別保留地との距離等の要素が関連している。2013年現在、連邦政府が認める部族集団は566、州政府レベルではさらに70の集団が存在するといわれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「ネイティブ・アメリカン」や「インディアン」、「アメリカインディアン」などの呼称をめぐっては様々な議論がある(en:Native American name controversyを参照)。ポリティカル・コレクトネスを優先した状況においては、「ネイティヴ・アメリカン」が使用されている。アメリカ合衆国において、ネイティブアメリカンにはインディアンの他にもアラスカのエスキモーが含まれ、さらにハワイ先住民や他のアメリカ合衆国領の地域の先住民も含む場合がある。また、アメリカ州の先住民族全体を指して「ネイティブ・アメリカン」という場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本記事ではアメリカ合衆国の先住民のうち、主に本土のインディアンを扱う。アラスカの先住民についてはアラスカ先住民、ハワイの先住民についてはハワイ先住民を参照されたい。以下、本記事では「インディアン」を用いることが多いが、本記事の「インディアン」は「アメリカ合衆国本土のインディアン」を指している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "白人、主にキリスト教徒によって行われたインディアン戦争に代表される北米植民地戦争によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ネイティブ・アメリカンのY染色体ハプログループはハプログループQが大半を占めている。Q系統はケット人やセリクプ人などのシベリアの一部でも見られるが、ユーラシア大陸ではあまり見られない系統である。その他、ナデネ語族を話す民族には、ハプログループC2 (Y染色体)も認められる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアDNAハプログループはA、B、C、D、Xが見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "殆どの遺伝子タイプが北アジアや東アジアと共通していることから、ネイティブアメリカンの祖先がシベリアからベーリンジアを通って移住してきたことは確実である。その年代には諸説あり、複数波が存在したとする見方もある。一方で北米東部ではかなりの頻度で欧州に多いY染色体-R、mtDNA-Xが観察されることから、有史以前のある時期にヨーロッパから直接移住が存在した可能性も指摘されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。また大航海時代以降は、ヨーロッパ人との混血、アフリカ黒人との混血が進んだ部族も多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "インディアンの歴史は口承文化の伝統とアートワークによって受け継がれてきたため、最初の文書による歴史は、ヨーロッパ系の白人によって、もたらされた。固有の言語はアメリカ先住民諸語である。英語のみを話す人々も増加傾向にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2010年の国勢調査では約309万人。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族はナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そしてプエブロである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人 ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "多くの部族がトウモロコシを主食とし、インゲンマメ、カボチャ、ウリなどを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた(プエブロはトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドベと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活を送っていた)。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜はシチメンチョウと犬だった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされており、コモン・インディアン・ドッグという犬種が存在する。北米には、イノシシの一種ペッカリーや、ヒツジの仲間ビッグホーンなどがいたが、これらは家畜化されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "インディアンの食文化のうち、ペミカン、サコタッシュ、「揚げパン(フライブレッド)」などは今日でもよく知られており、米国民の食文化に取り込まれたものもある。米国の重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメ、タバコ、トウガラシは元来インディアンが栽培していたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。シー・シェパードなど反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ロッキー山脈周辺の部族は、松の実 やドングリを主食とした。かつては年に一度、部族総出でドングリ採集に出かける際には村が全くの無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "北東部、北西海岸部の部族は伝統的に鮭を燻製にして一年分の主食とする。しかし、保留地へのダム建設や漁猟権の剥奪などで、サケ漁の現状は年々厳しくなっている。北東部では、近年になってようやく鮭の伝統漁復活が認められた部族もある。1960年代のレッドパワー運動で、真っ先に行われた大規模な抗議行動は、サケ漁の権利をめぐって抗議するために連邦法や州法を破って漁をする「フィッシュ・イン」運動だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にする。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことであるが、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "昔の写真に見られるインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、前述の平原部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に付けて描かれているものが非常に多い。同化政策の一環として後述のインディアン寄宿学校に送られた男女児童は、入学と同時に頭髪を短く刈られた。都市に住むシティ・インディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活してきている。アメリカインディアン運動(AIM)が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーを取り戻すために髪の毛を伸ばし始めた。これはヒッピー文化にも影響を与えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "インディアン固有の蛮習のように喧伝されてきた「頭皮剥ぎ」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは18世紀前後に「メキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関」が、敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その「証拠として頭の皮を懸賞金をかけて」募集したことが起源となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、「古代ヨーロッパにも存在した」。19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "いわゆる「モヒカン刈り」のスタイルは、17世紀に北東部のアルゴンキン族の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように頭の側面を剃っていたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現代の防寒着アノラックやパーカーは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でもインディアンの使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。ラクロスは北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽(両性具有者)は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ」と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年にウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク」(「二つの魂」の意)から翻訳借用した「トゥー・スピリット」を使用することが議決された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1881年、アメリカ連邦議会はインディアンの宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ネイティブ・アメリカン・チャーチは、現在インディアンの間にもっとも普及している宗教であり、コマンチ族最後の酋長クァナー・パーカーを開祖とする。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "もともとは、メキシコのウィチョール族などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "保留地で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人とタラウマラ族の混血女性によるメキシコ原産のペヨーテを使った治療によって全快したクアナは、人類学者のジェームズ・ムーニイの後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式をネイティブ・アメリカン・チャーチとして組織化した(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する南西部にしか自生しない)。宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "儀式はティピー内で夜間から朝にかけて行われ、ペヨーテを複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、教会(チャーチ)という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものはない。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スー族においては、同チャーチの指導者たちはその3分の1が、ペヨーテの会合に関わっていると報告している。現在ではロサンゼルス、ミネアポリス、デンバー、シカゴ、ラピッドシティーといった各地のインディアンコミュニティーでペヨーテの儀式が開かれ、非インディアンが保留地へ足を運ぶ目的の一つとなっている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "南西部のプエブロ諸族の集落の中心にはアドベの古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影や写生などは禁止されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代からキヴァという地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファローの精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」 や「トウモロコシの母」 を信仰するのである。17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついにはプエブロの反乱を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アパッチ族は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、ナバホ族は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。ホピ族とズニ族はカチーナという精霊群を信仰する。いずれも仮面行事であり、クラン(氏族)を中心として行われる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。南西部に到達してから比較的歴史が浅いナバホ族の神話は、プエブロ族の神話を受容したものであるとされる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "生まれたときに祖父から与えられる守護動物をかたどった石のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ニューメキシコ州では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされたカトリックとインディアンの宗教の習合がよく見られる。この背景には、かつてキリスト教を強制し、古来の信仰を弾圧してプエブロの反乱が起きたことを教訓とした宣教師達が部族民の古来の信仰に対して譲歩したことがある。文化学者マチルダ・スチーブンソンはこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "特定の守護聖人を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族のドラム演奏、詠唱、および舞踊は、サンタフェの聖フランシス大聖堂での定期的なミサの一部ともなっている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。人身御供の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、霊力を得るものとして儀礼的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "彼らの神話・英雄譚には、ヴィンランドに入植したヴァイキングの、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えばニューヨーク州にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深いフォンダ(英語版)のカテリ・テカクウィサ教会やオーリーズヴィル(英語版)の北米殉職者教会 がある。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イギリス人が植民を行った地域では、ピルグリム・ファーザーズと接触したワンパノアグ族のようにプロテスタントに改宗した部族もあった。17世紀のニューイングランドでは、改宗した先住民は「プレイング・インディアン(英語版)」、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。フィリップ王戦争が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後にボストン湾に浮かぶディア島に抑留されて飢えと病から多くが死んだ。アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学は、インディアンを教化する目的でモヒーガン族の牧師サムソン・オッカムらの出資により1769年に創立された。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われるユト族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共闘して襲撃した。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとするモルモン書によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという(ただし前述のように、インディアンの先祖はイスラエル人ではなくモンゴロイドであることが判明している)。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "女性シャーマンの習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アメリカ西海岸では、18世紀後半から、入植してきたスペイン人の宣教師によってインディアンのキリスト教徒化が進められ、『ミッション・インディアン』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に使役された。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈る儀式が多い。踊りは伝統住居の「ラウンド・ハウス」内で行われるものが多い。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ラコタ・スー族の『ワカン・タンカ』のような『偉大なる精霊』を信仰する精霊崇拝が基本である。バッファロー・ダンスやベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「ヴィジョンを得る儀式(ヴィジョン・クエスト)」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の儀式と併せてますます盛んである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあったポーニー族やオーセージ族は、例外的に収穫祈念のため人身御供を行った。生贄には他部族の男女が使われた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。マンダン族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの葬送の習慣は、キリスト教会からの弾圧もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物として売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "「サン・ダンス」とは、スー語の「ウィワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」としてスー族やブラックフット族、シャイアン族、カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこのサン・ダンスの儀式を行う。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "とくにスー族は、この儀式の中で最大の要として、「ピアッシングの儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられたハコヤナギの「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このピアッシングの苦行はマンダン族が始祖とされる。かつてマンダン族の「オーキーパ(太陽の踊り)」は詳細なイラストとともに東部の白人社会にも知らされたが、彼らはこれをグロテスクな悪夢だとして本気にしなかった。この際、「ピアッシングは若者の勇気を試すもので、指導者となるための通過儀礼である」と説明され、現代でもこれに則った解説をする文献があるが、これは間違いである。19世紀のスー族の戦士は、このピアッシングについて、「自分の肉体は、自分にとって一番大切なものだから、これを大精霊に捧げるのだ」と説明している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "20世紀スー族のメディスンマン、ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の『祖父』である」と述べ、またジョン・ファイヤー・レイムディアー(英語版)は、「白人は自分に都合よくなんでも簡単に片付ける。2000年前には自分達の代わりにイエス・キリストに苦痛を味わわせた。だが我々インディアンは自ら苦痛を引き受け、自分の身体でこれを体験し誓うのだ。『祖父よ、来年私は踊ります。わが肉体に串を刺し、誰かの回復に役立とう。我らの民を完全なものとするために』とだ」と語っている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "かつて白人によってサンダンスは野蛮な行為として弾圧を受け、インディアンたちはこれを隠れて行うしかなかった。インディアンたちの粘り強い交渉と説得により、フランクリン・ルーズベルトの時代になってようやくサンダンスが許可された。それでもピアッシングのみは絶対禁止されたが、レッド・パワーとともに復活され、スー族の伝統派、レイムディアーやマシュー・キング らによって全米に広められた。また近年になって規定が緩み、女性のピアッシングも見られるようになった。女性の場合は、手首に串を刺す。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。ムスコギー族やセミノール族は、地元で採れるヤポンノキ(Yaupon、Ilex vomitoria)の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄オセオーラの名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ノース・カロライナ州のランビー族を含むインディアンは、ホーリネス・メソジスト教会のランバー・リバー会議を組織した。アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウンド・ビルダー」と呼ばれた部族群が、動物をかたどった、数100メートルもある無数の土塁・塚を建造している。オハイオ州のサーペント・マウンド(大蛇の墳丘)はその一つである。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカ帝国やマヤ文明のように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、キッキング・ベアだった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデッド・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、連邦捜査局(FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「鷲の羽法(Eagle feather law)」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、ハクトウワシとイヌワシの羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で部族の主権を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "インディアンにとって、煙草の葉は神聖な清めの神具であり、またパイプも単なる喫煙具ではなく、どちらもすべての儀式に欠かせない特別な存在である。どんな部族でも儀式の際には、セージや杉の葉などと合わせ、煙草の葉による清めが行われ、「ピースパイプ」または「メディスンパイプ」と呼ばれる聖なるパイプを用いた喫煙が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。どの部族もたいてい、父祖から伝わる神聖なパイプを保持している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "パイプはパスポートの役目も持っており、友好の意思を表す。インディアンでも非インディアンでも、ピースパイプを回し飲む際に、約した言葉を違えることは絶対に許されない。サンディア・プエブロ族とアパッチ族、ナバホ族、コマンチ族が18世紀に結んだ和平の儀式では、回し飲みした煙草が土に埋められた。以後サンディアと彼らとの争いは一切行われていない。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "20世紀のスー族のメディスンマンでレオナルド・クロウドッグの父、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "スー族のインディアンたちはミネソタ州のパイプストーン国定記念物からしか採れない赤い石(パイプストーン)でパイプの火皿を作る。この鉱物は、画家ジョージ・カトリンに因んで「カトリナイト(Catlinite)」と名付けられている。スー族の伝承では、カトリナイトは先祖の血で出来ているとされる。聖なるパイプの火皿の素材となるカトリナイトの採石場は全ての部族にとって中立の土地とされていた。長らく条約を破った白人による不法占拠が続いたが、現在ではスー族が占有権を持ち、ここでカトリナイトを採掘できるのはインディアンだけである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "スペインがアメリカ大陸を征服した当初は、800万人ものアメリカ先住民が死亡したと推定されるが、これは白人が持ち込んだ伝染病や、白人が先住民に対して行った戦争などの殺戮によるもであった。先住民に対する殺戮は、後にカナダ、アメリカ、メキシコ、ブラジル、そしてパラグアイ、チリ、アルゼンチンといったアメリカ大陸のあらゆる地域で、何世紀にもわたって続けられた。アメリカでは、インディアン戦争とマニフェスト・デスティニーが大量虐殺に貢献した。またアメリカにおいてもインディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "レナペ族とフィラデルフィア、ワンパノアグ族とプリマス植民地、コンコードのように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを奴隷として売買することは合法とされた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「インドの撤去ポリシー」が推し進められた。これはユリシーズ・グラント大統領や、ウィリアム・シャーマン将軍らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。南東部での「セミノール戦争」は、白人とインディアンの国家間戦争としては最大級のもので、ジャクソンはこの戦いに焦土作戦による徹底殲滅を図った。「セミノール戦争」は現在、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "長い間各国政府は法律を定め、狭い保留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族とセミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させたというものである。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万6,000人のうち4,000人から5,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「涙の旅路」と呼ぶようになった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンド という灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "バルボンシート酋長(英語版)の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって当時は価値のない砂漠であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることの繰り返しとなる。インディアンの中にはレッド・クラウドやスポッテッド・テイルのように連邦政府の側について、抵抗するインディアンを非難する者もあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース、開拓者を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。20世紀後半にクレイジー・ホースは非インディアンから再評価され、サウスダコタ州ブラックヒルズに世界最大級の石像クレイジー・ホース記念碑が建設中であるが、伝統派からは猛反発を受けている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1868年にスー族と米国政府はララミー条約によって、サウスダコタ州にあるスー族の聖地ブラックヒルズは永久にスー族のものであると確約したが、ジョージ・アームストロング・カスターがブラックヒルズに金鉱を見つけると、開拓者が金を求めてブラック・ヒルズに侵入し、条約は破られた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "絶望的な状況に置かれた西部のインディアンの部族には、ゴーストダンスを踊ることで平和なインディアンの国が還ってくるという終末的信仰ゴーストダンスが大流行した。信じるものは銃弾も効かないとされるこの宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、スー族のゴーストダンス指導者キッキング・ベア(英語版)を含むビッグ・フット酋長(英語版)の一団をサウスダコタ州のウンデット・ニーに連行した。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された(ウンデット・ニーの虐殺)。ここに連邦政府とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことである。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "アメリカ人の歴史では1890年はフロンティアが消滅し、西部が勝ち取られた輝かしい年とされているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンがひとまず征服された年なのである。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "「アメリカのフロンティア」が消滅したのち、白人はインディアン問題を処理すべく、その同化に注力し始める。オーストラリアのアボリジニや極北のエスキモー、中国の少数民族等と同じく、支配民族による同化政策は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルベニア州カーライルの「カーライルインディアン工業学校(英語版)」の創始者であり、校長を務めたリチャード・ヘンリー・プラット(英語版)による、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「インディアン寄宿学校」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業などの技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して保留地に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、学んだ技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "これに対抗し、1970年代から各部族ごとにインディアンによる「部族学校」を設立する動きが見られるようになった。インディアン完全自治の学校としては、カリフォルニア州に1971年に創設された『デガナウィダ・ケツアルコアトル短期大学(英語版)』(略称『D-Q大学』)が知られるが、認可の喪失、学生数の減少や資金運用の不備から閉校の危機にさらされている。近年、このような動きの中、連邦や州政府の譲歩で部族語学習が部族学校などで取り入れられるようになり、現在の学童の世代と、英語のわからない三世代以前との間で言葉のコミュニケーションが実現するようになった例もある。しかし、結局部族語は保留地外では実用的でないため、絶滅の危機に瀕する言語を保存し、どう文化的に発展させていくのか、その先行きが注目されている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "インディアンのコミュニティーを根本から破壊し、自殺率の増加など深刻な問題を引き起こすいま一つの社会制度が、無意味な「里親制度」である。これは、貧困のため生活困難と州が認定したインディアンの家庭から、出生前に選定して強制的に取り上げ、実の親を知らさないまま白人の家庭で育てるというものである。これも白人からすれば「インディアンを殺し、人間を救え」との発想で生まれた、一方的な草の根ボランティアの一環であったのだが、彼らは白人の家庭で、なんらインディアンとしての文化も歴史も教えられることはなく、白人としてのみ育てられるのである。やがて物心ついた時にこの子供たちは「自分はインディアンでも白人でもない」というアイデンティティーの喪失に苦しみ、その結果、ほとんどが10代のうちにアルコール依存症になるか自殺してしまうという悲劇を生み続けている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1969-1974年に実施された全国調査では、実に全米のインディアン児童のうち25%-35%が、彼らの家から引き離され、州の法廷と福祉代理業者によって白人の家庭に置かれている。1974年に、これら強制的な寄宿学校制や里親制度について、デニス・バンクスは「一種の誘拐である」と批判声明を出している。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1978年、この深刻な惨禍の状況に対するインディアン側の抗議と、「文化的虐殺」とする国際世論による批判を受け、連邦議会で制定されたのが「インディアン児童福祉法令(英語版)」(ICWA)である。この法令は、里子に出すか否かの決定を州や代理業者に委ねるのではなく、その子の帰属する部族会議に管轄権を認め委ねさせるものである。この法令の施行で無意味な里親制度は近年ようやく廃止の傾向にあるが、州によってはこれを認めず、また白人の無知と無理解によって未だにこの民族浄化は実行されており、予断を許さない状況にある。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2000年、アメリカ合衆国およびBIAは、これら同化政策を犯罪的行為と認め、謝罪を行った。(→「BIAの歴史的な謝罪」)", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "かつて合衆国連邦とインディアンとの間では保留地を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。そもそも1879年にポンカ族のスタンディング・ベアー(Standing Bear)酋長と、オマハ族のスゼットとスーザンのラ・フレスカ姉妹が、最高裁で部族強制移住の違法判決を勝ち取るまで、インディアンは人間として認められていなかった。この判決で初めて、最高裁は「インディアンは人間である」との文言を判決文に書き添えてこれを認めたのである。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権および権利回復を果たすため、さまざまな個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "最初期の組織だった活動では、1911年にオナイダ族の環境保護運動家ローラ・コーネリアス(Laura Cornelius)や、オマハ族のラ・フレスカ姉妹といった、東部で欧米式の教育を受けたエリートたちが起こした「アメリカ・インディアン協会」がある。彼女らは「国際的インディアンの日(ナショナル・インディアン・デー)」を作り、10月12日の「コロンブス・デー(コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1944年には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、ワシントンD.C.に本部を持つ「アメリカ・インディアン国民会議団(NCAI))」が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い番犬」と呼ばれた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "彼らは伝統衣装ではなく洋装し、欧米文化の中から運動したため、主流のアメリカ人からも支持を集めた。しかし、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化されたハイアワサ、ポカホンタス、トント」と揶揄され、支持共感を得られなかった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "これを踏まえ、1961年にシカゴで、スー族のヴァイン・デロリア(Vine Deloria, Jr.)、ウォーカーリバー・パイユート族のメル・トム(Melvin Thom)、ポンカ族のクライド・ウォーリアー(Clyde Warrior)、ビル・ペンソニュー(William Pensoneau)、ナバホ・カイオワ族のジョン・ベリンドといった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。キング牧師はインディアンの団体NIYCに声をかけ、団体は公民権運動の一部に関わっていくようになった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また1960年代から1970年代に掛けて、黒人たちによる公民権運動の盛り上がり(ブラック・パワー)があり、これに呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「レッド・パワー運動」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、シビル・マーチに参加することについては、インディアンの団体は消極的、否定的だった点があげられる。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」の創設者となるアシニボイン族のハンク・アダムス(Hank Adams)を輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、ワシントン州のあちこちで「違法に」魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン(fish-ins)」抗議行動で注目された。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス(Dennis Banks)や、クライド・ベルコート(Clyde Bellecourt、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていない、貧しい地域出身の若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動(AIM)が知られている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「男性は何でも目標(Aim)、目標と発言しているのだから、AIMにしたらどうですか」という発言による。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "指導者達はまず1970年にスー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグ(Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ(Oren Lyons)がついた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさす場合があり、退学してしまうこともあった。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、1970年に「生存の学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリスに開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロール自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官や陪審員、ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療の分野でいかにインディアンが不当な扱いを受けているかの啓発に注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの撤廃を要求した。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "AIMはミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州クリーブランドで組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、ミルウォーキー、シカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地、デンバー、オクラホマシティ、シアトル、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーやブラックヒルズの返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→破られた条約の行進)", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "デニス・バンクスは、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ。」", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "これらの運動は、保守派の白人にとっては過激で、黒人運動団体「ブラックパンサー党」とも連携したその運動は、武力で弾圧されるようになっていった。なかでも大きな反響を呼んだ「ウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な「法廷抗争」に発展し、以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン約300人が、オグララ族議長ウィルソンの私設暴力団と、FBIによって放火・銃撃され、少なくとも「67人が死亡」している。AIM狩りの先頭に立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦と暴行で、AIMから提訴された)は、インディアンの運動を激しく批判した。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。さまざまなインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前の種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで起こるべくして起こった市民運動だった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ハリウッド俳優のマーロン・ブランドは、AIM創設当時からこれを支援し、金銭的にも政治的にも援助したアメリカ人の一人である。ブランドは高額な映画出演報酬を要求することで有名だったが、これをインディアン権利団体の運営資金に提供することも多かった。また、「フィッシュ・イン抗議行動」など、様々な抗議運動でも行動をともにした。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "最も影響が大きかったのは、1972年の「マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件」であろう。これは出演した映画『ゴッドファーザー』でのアカデミー主演男優賞の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせたというものである。ハリウッドでの、白人がでたらめなインディアンを演じてきたことを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じたなどという様々な憶測が出回ったが、実際には、ネイティヴ・アメリカン(母はフランス人、ドイツ人、オランダ人の系統、父はホワイトマウンテン・アパッチとアリゾナのヨクイ族(Yaqui)とプエブロのネイティブ・アメリカンの系統)の「リトル・フェザー」(Sacheen Littlefeather)が登場しており、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にネイティブ・アメリカンの対する人種差別問題を提議した。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画の「西部劇」から単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになり、事実上「西部劇」というジャンルを壊滅させてしまった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "このレッドパワーの高まりの中で起こった「ブライアン対イタスカ郡(Bryan v. Itasca County)」と呼ばれる法廷闘争は、以後のインディアンの権利に関して画期的な法的判断を引き出したことで歴史的評価を受けている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1971年、ミネソタのリーチ保留地に住むオジブワ族のブライアン兄弟は、火災で家を無くしたため、移動型の住居を購入したが、間もなくイタスカ郡は彼らの住居に資産税として147.95ドルを請求した。しかしブライアン兄弟は、この住居が自治権を持ったインディアン保留地内にあることから納税の義務がないことを主張。これを受けて郡はミネソタ最高裁判所にブライアン兄弟の主張の無効を訴え、ブライアン兄弟側は保留地を挙げて控訴した。やがてこの件は合衆国最高裁判所に上告された。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ネイティヴ・アメリカンだけでは解決できなかった、人種差別の解消と人権の確保に大きな貢献をしたのは、マーティン・ルーサー・キング牧師とNAACPの協力だった 。アフロアメリカンとネイティヴ・アメリカンの要求に妥協する形で、アメリカ政府は、やむなく1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "後年の1970年代には、[上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など反動的な法案が、共和党と民主党保守派の賛成で可決され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、抗議行動が行われた年となった。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "アメリカでは近年になって「人種差別である」とインディアン団体の抗議を受けるまで、大学や高校などがスポーツチームのマスコットにインディアンのキャラクターを採用することも珍しくなかった。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、例えばクリーブランド・インディアンズのワフー酋長(Chief Wahoo)や、ワシントン・レッドスキンズなどがあるが、こういった「侮辱的なカリカチュア」は現在、インディアン権利団体にとって最も活発な抗議対象のひとつになっている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "最も初期の事例では、1970年の「スタンフォード大学でのマスコット抗議」がある。スタンフォード大学のフットボールチーム「インディアンズ」の、でたらめな衣装や踊りで応援するインディアン・マスコットの廃止を、同大学のインディアン学生達が申し入れたもので、リチャード・ライマン総長がこれを受け入れたために、白人の大学関係者側からは「なぜ廃止するんだ」と轟々たる非難が集まる論争となり、以後、こういった冒涜的なスポーツ・マスコットに対する廃止要求は全米に広がっていく嚆矢となった。ライマン総長はのちにこう語っている。「ブルドッグか虎のように、特定の少数民族すべてをマスコットにする権利が、我々のどこにあるだろうか?」", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2005年8月、こうした「反インディアン・マスコット運動」の高まりを受け、全米大学体育協会 (NCAA)は、「敵意を持ち虐待的」に表現されたインディアンのマスコットの使用を、ポストシーズンのトーナメント以降禁止した。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "これと併せて、「インディアンズ」や「ブレーブス」といったプロ野球チームで、白人の応援団による「羽飾りをつけ、太鼓を叩き、手斧型の応援バットを振り回す(手斧を振り回すような風俗はそもそもインディアンにはない)」といった応援が行われていることに対し、「侮辱的なカリカチュアである」として、1980年代からインディアン団体が猛抗議を続けている。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "一方、ユタ州の「ユタ大学」はNCAAの決定を不服として、同大学の「ユテ族(UTE)」、「走るユテ族(Running Ute)」のチーム名を商標登録し、その見返りにユテ族学生に対し奨学金を支払うと約束した。しかし、同大学がこれを守らず、奨学金を払っていないとして、2008年、ユテ族学生たちが同大学内でデモ行進をするなど、抗議運動が高まりつつある。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "スー族はノースダコタ州のノースダコタ大学ダートマス校のアイスホッケーチーム「戦うスー族(Fighting Sioux)」の名称撤廃を求めて、同大のスー族学生を中心に30年来の抗議運動を展開しているが、同校は2000年にこれを「伝統的な名である」として拒否し、全スー族と州をあげた大論争となっている。テキサス大学オースティン校のジャーナリズム教授ロバート・ジェンセンは、2003年にノースダコタ大で行った数多くの批判演説のなかで、「“野蛮人”トーマス・ジェファーソンやフランクリン・ルーズベルトこそが“戦うスー族”なのです。仮に第二次大戦でナチがアメリカに勝った世界があったとして、“戦うユダヤ人”というマスコット名が生まれ、伝統に従って存続しているとしたらどうでしょうか」とこれに抗議している。同チームのデタラメなインディアンマスコット類は一掃され、オジブワ族のデザイナー、ベネット・ブライアンによるロゴに置き換えられた。", "title": "近代以降の歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度が取られているが、いったん破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失してアルコール飲料やギャンブルに耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られる。中には伝統文化を見世物とし、観光化して生活の糧を得る人も見られ、米国地域社会に溶け込んで生活する人もあるが、その一方でインディアン居留地の中で白人・欧米社会から断絶して暮らす人もある。伝統文化を守る人たちもいるが、その多くは不毛の地、極貧地域で、政府からの補助金が出るため、勤労意欲も削がれるなど、今日的な問題を抱えている。このように、長い差別と民族衝突の歴史が、双方の間に溝を残している部分も根強く、関係修復は簡単ではない。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "現代社会では、インディアンの社会的平等の実現が難しいといわれている。政府の政策や少ない開発資金では健康医療や教育などの点で生活の質を十分に向上させにくいのが現状である。特に居留地内では深刻な問題である。例えば、スー族が住むサウスダコタ州のパインリッジ居留地(Pine Ridge Indian Reservation)は他の居留地よりも貧しい。この居留地に住むスー族の収入は平均的なアメリカ人の3分の1(1999年の平均年収は3800ドル)、失業率は3倍の85%であり、住民の97%が連邦政府の定める貧困線よりも下の生活水準にある。多くの家族は上下水道、電気、電話のない生活をしており、平均寿命は男性47歳、女性50歳代前半と、西半球で最低の水準にある。2002年度の居留地における農業の総生産高は3300万ドルと推定されているが、実際の部族の収入となったのはその3分の1以下であるという。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "こうした貧困の中、未成年の自殺者の割合はアメリカ国家平均の3倍を超えており、多くの保留地は10倍に上っている。ここ数年内でも、ブラックフット族の少女(当時18歳)が学校での飲酒を責められ、優等生だったにも拘らず、モンタナ州の保留地で精神安定剤を多量摂取して自殺した。アイダホ州のフォートホール保留地の16歳の少年は、郡刑務所で首吊り自殺をしたが、ちょうど2日前に彼はロバート・F・ケネディ上院議員と保留地に関する状況について話し合ったばかりだった。麻薬を常用したり、ギャングに憧れる若者もおり、こうした厳しい状況の中でインディアン達は自分達で何とかこうした問題に取り組もうとしている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "インディアン・カジノ経営のほか、観光や製造業などに進出している部族もあるが、ユタ州のゴシュート族のように、保留地を放射性廃棄物や生物兵器工場などの、産業とは名ばかりの汚染物質最終処分場にされている部族も多い。カリフォルニア州の繁栄は、上流の部族の水源を奪って実現している。セネカ族やマンダン族の保留地の大半は、ダム建設で沈められた。ウィンドリバー・ショーショーニー族の保留地は地下核実験場にされ、国連に提訴する事態にもなっている。ほとんどの保留地が産業を持てず、なし崩しにこういった負の遺産を受け入れさせられている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ハリウッド映画「ラスト・オブ・モヒカン」(1992年)の撮影現場で、インディアンがどう扱われていたか、出演したラッセル・ミーンズはこう報告している。「我々は撮影中、まるでモヒカンの村は“映画に出てくる(ステレオタイプの)アフリカの村”だな、と言い合った。ノースカロライナのロケ地に900人以上のインディアン・エキストラが集められ、山奥のボーイスカウト宿舎に泊まらされた。ここで我々は2人部屋に8人ずつ詰め込まれ、さながら強制収容所だった。インディアンの出番は主に夜だったので、夏の盛りに日中いっぱい、われわれは猛暑と湿気を耐えねばならなかった。医者は撮影で出払っていて見当たらず、我々は出歩くことも禁じられた。白人スタッフがストライキを始め、続いて我々インディアン・エキストラもストに入った...」", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化がなく、飲酒をコントロールすることができない。このため、彼らには飲酒のペースといったものがなく、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量のウィスキーを持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が保留地で自活の道を絶たれ、アルコール依存症となるのは、エスキモーやアボリジニなど他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "アルコールは、インディアンにとって永らく失業に伴う暇つぶしであり、また白人にとってインディアンに対する政治的圧力の手段だった。アメリカ版「タイム」誌は、ある中西部の保留地の、4,600人の成人のうち、男性21%、女性44%が、3年間に少なくとも一回、酩酊の理由で逮捕されたとし、多くの保留地では、インディアン達が外の街で酔っ払って、家へ戻る途中に自動車事故で死なないようにと、保留地でバーや酒店を開けるようにしていると報告している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "「NIYC(全米インディアン若者会議)」副議長を務めたポンカ族のビル・ペンソニューが、1969年2月24日に、上院インディアン教育小委員会の前で述べた証言のなかの以下の一節は、アルコールの問題についての議論の際に、よく引き合いに出される一文である。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "「我々はワインにひたすら没頭する。なぜなら、酔いつぶれているときだけが、唯一我々インディアンが自由な時だからだ。」", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国には563の連邦承認部族政府(インディアン・テリトリー)が存在する。合衆国はこれらの部族の自治政府および、部族の主権と自決権を条約上で明記し認めている。これは、19世紀に推し進められた条約交渉の中で、強制移住をからめての保留地への定住と引き換えに連邦が出した条件である。各保留地は、アメリカ内務省所轄のBIA(インディアン管理局)の管理下にあり、これらの自治政府は、それぞれの保留地に置かれたBIA直轄の保留地事務所の監督下にある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "部族政府(部族議会)は「部族領地内での立法、課税、住民権や免許の認可など、自治政府の部族の力の制限は州への制限と等しく、例えば、交戦権、外交関係の締結、硬貨や紙幣の製造などを含む」として、しばしば「インディアン保留地は独立国家に等しい力を持つ」などと表現されるが、これには注意が必要である。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "なぜなら、部族議会の決定はBIAの承認もしくは影響なしには行えないものであり、ほとんどの部族議会は連邦の傀儡として腐敗している。部族の行事といったものは、強弱の差こそあれ、必ず保留地管理官たちの監視下にある。自治権とは言っても、カナダの先住民のように一定の裁判権を持つわけでもなく、主権のひとつとしてよく例に挙げられる部族警察も、あくまで州警察の補助的権限しか持っていない。保留地で罪を犯した部族員は、州当局によって裁かれるのである。後述の「インディアン・カジノ」でも、カジノを持ちたい部族が連邦の許可をとりつけても州の許可が下りず、実現できないでいる例は多い。インディアンは、連邦と州の双方から縛られている。自主独立の強さで知られるイロコイ連邦の一部は、この部族議会を置いていない。つまり連邦からの金銭的な援助をいっさい断つことで、連邦が干渉できない自治力を維持しているのである。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "また、州政府に承認されているものの連邦政府に承認されていない多くの部族が存在する。インディアナ州のマイアミ族などは連邦政府の承認を拒絶し続けている。長年にわたりBIAから承認要求を拒否され続けてきたカリフォルニア州北部のオーロネ族(Ohlone)などは、他部族による1969年の「アルカトラズ島占拠事件」に不快感を示し、しかもこのときにニクソン大統領から、アルカトラズ島を部族の保留地として「提供」を持ちかけられて、これを侮辱として断ってさえいる。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "現在もアメリカ東部の小さな部族の多くが、公式な承認を得ようとしている。連邦による「インディアン部族」としての承認は、部族に年金が支給されるようになるなど、現実的な利益を生む。しかし部族としての承認を得る過程で満たされなければならない多くの不条理な規則があるため、きわめて困難である。部族集団として承認されるためには、部族の家系の広範囲に及ぶ系譜上の証明を提出しなければならないが、これまで多くのインディアン部族は、多くの権利を剥奪されていたため、遺産の相続を拒絶していたのである。また、メキシコ国境をまたぐパパゴ族(トホノ=オ・オダム族)は、アメリカからもメキシコからも部族認可を拒まれ、現在「インディアン部族界の孤児」と呼ばれる状況に陥っている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "バージニア州では、インディアンは異様な問題に直面している。バージニア州には連邦承認部族が存在しないが、それはひとえに州の人口動態統計局の記録係を1912年から1946年まで務めたウォルター・アシュビー・プレッカー(Walter Ashby Plecker)によるところが大きい。プレッカーは優生学を信奉する白人至上主義者であり、州内のインディアンはアフリカ系アメリカ人と混交しつつあると信じていた。「白人」と「有色」のただ二つの人種だけを承認するという法律が州議会で可決され、プレッカーは自治体政府にすべての州のインディアンを「有色」として再分類するよう圧力をかけ、バージニア州に居住するインディアンの記録の大々的な破壊を引き起こした。連邦による部族の承認と、それが生み出す利益を受けるためには、個々の部族は1900年以降の部族の継続的な存在を示す必要があるが、連邦政府は、プレッカーによる記録の破壊を知りながらこのお役所的な要件をこれまで曲げようとはしなかった。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "現在、この要件を緩和する法案が、バージニア州選出のジム・ウェブ(Jim Webb)およびジョン・ウォーナー上院議員に支持され、上院の主要な委員会に好意的に報告されている。しかし下院ではバージニア州のヴァージル・グッド(Virgil Goode)議員が、連邦の承認はインディアン・カジノ設立につながり、州内のギャンブルの促進に繋がるとして、この法案に反対する。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2007年12月、ラコタ・スー族は、“アメリカ合衆国政府は独立地域であることを保障する条約を締結以来150年にわたって遵守していない、我らの忍耐はもはや限界に達した”として、条約の破棄とアメリカ合衆国からの独立を宣言。独立国家ラコタ共和国であることの承認を求める書簡をボリビア、ベネズエラ、チリ、南アフリカ共和国などに送付すると共に国務省にも宣言書を提出した。現在、国づくりの方向性を巡っては、部族は二派に分裂している。「文化」の項でも上述したように、平原部族である彼らの文化は部族全体を統括するような指導者はおらず、個人主義に基づく合議制だからである。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、ドーズ法を盾に保留地を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、インディアン寄宿学校などといった施政で強制的に同化政策を押し進めてきた。1887年に1億3800万エーカーあったインディアンの保留地(Reservation)は、次々にBIAによって「保留(Reserve)を解消」されて、現在では総計5500万エーカーまで削減されてしまった。また、20世紀初頭から連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「絶滅政策」を採ってきた。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「絶滅部族」として「解散」させられた。連邦政府・BIAがあるインディアン部族を「絶滅指定」すると、おもに次のような事態となる。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "この部族認定解除の方針に対し、1960年代からレッド・パワーとともに散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。ニクソン政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、メノミニー族、ピクォート族が復活した。しかし、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、アメリカ内務省を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "この再認定要求の流れとして、混血度の高い部族ほど、「何分の一までの混血なら部族員とみなす」と部族独自の混血度の規定を設け、規定を緩めて再結集しようとする傾向があり、ふた桁以上の混血度でも正部族員と認める部族もある。(この規定でいけば、16分の1チェロキー族の血を引いているビル・クリントンも正式なインディアンということになる)年々この要求は広がりつつあり、連邦側も対応に苦慮している。とはいえ、混血と同化を押し付けてきたのは連邦政府のほうである。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "20世紀には「インディアンのバスティーユ監獄」と表現されたBIAであるが、2000年に副局長に就任したポーニー族のケビン・ガバー(Kevin Gover)局長が「同化政策」に対する「歴史的な謝罪」を行い、その施政は軟化しつつある。その一方、2000年7月、ワシントン州の共和党は、部族政府を廃止する決議を採択した。2004年現在、未だにインディアンの所有地から石炭やウランが盗まれているという事態が申し立てられている。アメリカ行政管理予算庁による1972年の研究では、連邦政府による1000項目の対インディアン支援プログラムのうち、部族に役立っているものはわずか78項目だけであるとの報告がなされている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2013年、日本大学の武井 勲は、絶対貧困率・相対貧困率ともに白人の水準を大きく上回る分析結果を発表しており、ネイティブアメリカンというステータスが貧困に密接に結びついていると示唆した。またこれによる自殺率も高いといわれる。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "カジノ事業は現代を生きるインディアン部族にとっての主要な経済収入のひとつで、部族が運営する「インディアン・カジノ」は、「現代のバッファロー」ともといわれ、インディアンの重要な産業となっている。保留地が狭い不毛の地である部族には、カジノが唯一の収入源である場合も多い。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "1979年12月14日、セミノール族はフロリダ州ハリウッドの保留地で、高額賭率のビンゴ場を開設した。フロリダ州は即座にこれを停止させようとし、部族と州はカジノ経営の是非を巡って法廷闘争となった。この歴史的な係争は「フロリダ・セミノール族対バターワース」裁判と呼ばれている。1981年、連邦最高裁判所はセミノール族のビンゴ場経営の権利を支持する判決を下した。1987年にはカリフォルニアの「ミッション・インディアン」のカバゾン・バンドが高額賭率ビンゴ場を開設。その差し止めを要求する州と法廷闘争となった。米国最高裁判所は「市民法280条(「ブライアン対イタスカ郡」裁判)」を基に、インディアン部族による賭博の開催は連邦と州の管轄外であり、カリフォルニア州にそれを罰することはできないと裁決を下した。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "1988年、連邦議会は、インディアンの賭博場経営と規制に関する「インディアン賭博規定法令(IGRA)」を通過させた。これは、連邦政府によって認識された部族が(つまり、「絶滅認定」された部族はカジノ運営できない)州との交渉を経て、アメリカ国の規定内および室内で行うことを前提としている。言い換えれば、州がこれを禁止した場合、インディアンはカジノ設営ができないということでもある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "この条例の制定にあたり、インディアン・カジノ運営の審査と認可業務に当たらせるべく連邦は「全米インディアン賭博委員会(NIGC)」を設立。インディアン側もインディアンのカジノによる自給自足と福利厚生を保護すべく「全米インディアン賭博協会(NGIA)」を設立した。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "1992年、コネチカット州のマシャンタケット・ピクォート族が「フォックスウッズ・カジノ・リゾート」をオープンし、さらにダコタ・スー族が「ミスティック・レイク・カジノ」を開き大きな利益を得て大成功。他の部族もギャンブル事業に乗り出し、現在、アメリカにインディアンが運営するカジノは377ヶ所あり、ほとんどの州にインディアン・カジノが開設され、アパッチ族やチョクトー族、オナイダ族、チペワ族(オジブワ族)など連邦政府が認定する562の部族がギャンブル事業を運営している。これらインディアン・カジノの年間総収入は約1兆6500億円に達している。かれらのカジノのほとんどは都市圏から離れた場所にあるが、遠距離であるにもかかわらず来客数は年次増大しており、保留地全体を潤す効果も甚大である。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1990年代に入ると、マサチューセッツやオレゴンをはじめ各地の州議会で「賭博は教育・道徳的に許されない」との理由からインディアン・カジノの運営禁止決議が相次いでいる。しかし、インディアン・カジノの収入の多くは「没収された土地の買い戻し」や「道路の舗装・整備」、「部族の医療や教育、居住」などの資金など、インディアンの福利厚生に使われているものであり、州とインディアン部族のカジノを巡る係争は年次拡大している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "そもそもインディアンの衣食住の権利を詐取してきた白人が「道徳」を理由にカジノを禁止するのは理不尽ではないかとの内外の批判も多く、またインディアン・カジノが自治体にもたらす税収は莫大なものであり、また非インディアンの雇用をも生み出す一大事業ともなっている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "一方、カジノ経営をする部族の中には十分な収入が得られないものもあり、カジノの設立や運営を仲介する白人企業に支払う手数料も高額にのぼるなど、ギャンブルの経済効果を疑問視する声もある。伝統的に自給自足度の高い定住農耕民であるホピ族はカジノ事業を敬遠し、また有名な観光地を持つナバホ族は2度の住民投票でカジノ建設を否決してきた。カジノに頼らざるを得ない弱小の部族とは状況が異なる。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "インディアン、及びハーフの著名人", "title": "著名人" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "アメリカ・インディアンの各部族はどれも勇猛で知られたため、アメリカで開発された兵器(特にヘリコプター)のペットネームとしてよく使われている。", "title": "その他" } ]
ネイティブ・アメリカンは、アメリカ合衆国の先住民族の総称。1492年にヨーロッパ系白人が現在の北米地域に到達する以前に、現地に居住していた民族の総称である。この集団のアイデンティティ形成には、地域文脈、居住地域における同胞民族の存在、ネイティブアメリカン特別保留地との距離等の要素が関連している。2013年現在、連邦政府が認める部族集団は566、州政府レベルではさらに70の集団が存在するといわれている。 「ネイティブ・アメリカン」や「インディアン」、「アメリカインディアン」などの呼称をめぐっては様々な議論がある。ポリティカル・コレクトネスを優先した状況においては、「ネイティヴ・アメリカン」が使用されている。アメリカ合衆国において、ネイティブアメリカンにはインディアンの他にもアラスカのエスキモーが含まれ、さらにハワイ先住民や他のアメリカ合衆国領の地域の先住民も含む場合がある。また、アメリカ州の先住民族全体を指して「ネイティブ・アメリカン」という場合もある。 本記事ではアメリカ合衆国の先住民のうち、主に本土のインディアンを扱う。アラスカの先住民についてはアラスカ先住民、ハワイの先住民についてはハワイ先住民を参照されたい。以下、本記事では「インディアン」を用いることが多いが、本記事の「インディアン」は「アメリカ合衆国本土のインディアン」を指している。 白人、主にキリスト教徒によって行われたインディアン戦争に代表される北米植民地戦争によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない。
{{Otheruses|アメリカ合衆国の先住民|アメリカ州の先住民|アメリカ先住民|その他の用法|ネイティブ・アメリカン (曖昧さ回避)}} '''ネイティブ・アメリカン'''(Native Americans ネイティヴ・アメリカン)は、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ先住民|先住民族]]の総称。[[1492年]]に[[ヨーロッパ]]系白人が現在の北米地域に到達する以前に、現地に居住していた民族の総称である。この集団の[[自己同一性|アイデンティティ]]形成には、地域文脈、居住地域における同胞民族の存在、ネイティブアメリカン特別[[保留地]]との距離等の要素が関連している。[[2013年]]現在、[[連邦政府]]が認める部族集団は566、州政府レベルではさらに70の集団が存在するといわれている<ref>武井2013, 68頁</ref>。 「'''ネイティブ・アメリカン'''」や「[[インディアン]]」、「[[インディアン|アメリカインディアン]]」などの呼称をめぐっては様々な議論がある([[:en:Native American name controversy]]を参照)。ポリティカル・コレクトネスを優先した状況においては、「ネイティヴ・アメリカン」が使用されている。アメリカ合衆国において、[[ネイティブアメリカン]]には[[インディアン]]の他にも[[アラスカ]]の[[エスキモー]]が含まれ、さらに[[ハワイ先住民]]や他のアメリカ合衆国領の地域の先住民も含む場合がある。また、[[アメリカ州の先住民族]]全体を指して「ネイティブ・アメリカン」という場合もある。 '''本記事では[[アメリカ合衆国]]の先住民のうち、主に本土の[[インディアン]]を扱う。'''アラスカの先住民については[[アラスカ先住民]]、ハワイの先住民については[[ハワイ先住民]]を参照されたい。以下、本記事では「インディアン」を用いることが多いが、本記事の「インディアン」は「アメリカ合衆国本土のインディアン」を指している。 [[白人]]、主に[[キリスト教徒]]によって行われた[[インディアン戦争]]に代表される[[北米植民地戦争]]によって[[大量虐殺]]、[[民族浄化]]、[[強制移住]]が行われた。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも[[貧困]]や[[アルコール依存症]]などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンは[[ブラックヒルズ]]など白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、[[アメリカ合衆国政府]]や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない<ref>[https://www.se.edu/native-american/wp-content/uploads/sites/49/2019/09/A-NAS-2017-Proceedings-Smith.pdf&ved=2ahUKEwjktufI6cT5AhU-UPUHHa-pA8I4ChAWegQIJhAB&usg=AOvVaw05rQU4NwUsOdUqysBeoxzm] Counting the Dead: Estimating the Loss of Life in the Indigenous Holocaust, 1492-Present David Michael Smith University of Houston-Downtown</ref><ref>『American Holocaust』(David Stannard,Oxford University Press, 1992)</ref><ref>[https://www.history.com/news/native-americans-genocide-united-states]</ref><ref>[https://around.uoregon.edu/content/historian-examines-native-american-genocide-its-legacy-and-survivors]</ref><ref>[https://historynewsnetwork.org/article/162804]</ref><ref>[https://www.science.org/doi/10.1126/science.abe4943?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=wapp]</ref><ref>{{cite journal|pmc=1446168 |pmid=10705850 |doi=10.2105/ajph.90.3.344 |volume=90 |title=Historical and cultural roots of drinking problems among American Indians |year=2000 |last1=Frank |first1=JW |last2=Moore |first2=RS|last3=Ames |first3=GM |journal=Am J Public Health |issue=3 |pages=344–51}}</ref><ref>{{cite book|last=Brown|first=Dee|title=Bury My Heart at Wounded Knee|year=1971|publisher=Henry Holt|location=New York}}</ref><ref>[https://uclajournals.org/doi/abs/10.17953/aicr.25.4.d7703373656686m4?journalCode=aicr Gilbert Quintero "Making the Indian: Colonial Knowledge, Alcohol, and Native Americans." ''American Indian Culture and Research Journal'', 2001, Vol. 25, No. 4, pp. 57–71]</ref><ref>{{Cite news |last1=Barbash |first1=Fred |last2=Elkind |first2=Peter |date=1980-07-01 |title=Sioux Win $105 Million |language=en-US |newspaper=The Washington Post |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/07/01/sioux-win-105-million/a595cc88-36c6-49b9-be4f-6ea3c2a8fa06/ |access-date=2021-12-22|issn=0190-8286}}</ref>。 {{Imageframe | content = {{image array|perrow=4|width=75|height=90 | image1 = Joseph Brant by Gilbert Stuart 1786.jpg| caption1 = [[ジョセフ・ブラント]] | image2 = Sequoyah.jpg| caption2 = [[シクウォイア]] | image3 = Pushmataha high resolution.jpg| caption3 = {{仮リンク|プッシュマタハ|en|Pushmataha}} | image4 = Pocahontas001.jpg|caption4 = [[ポカホンタス]] | image5 = Tecumseh02.jpg| caption5 = [[テカムセ]] | image6 = Touch the Clouds 1877a.JPG| caption6 = {{仮リンク|Touch the Clouds|en|Touch the Clouds}} | image7 = Sitting Bull.jpg| caption7 = [[シッティング・ブル]] | image8 = Charles eastman smithsonian gn 03462a.jpg| caption8 = {{仮リンク|チャールズ・イーストマン|en|Charles Eastman}} | image9 = ChiefJoseph.jpeg|caption9 = {{仮リンク|ジョセフ酋長|en|Chief Joseph}} | image10 = Maria Tallchief 1954.png|caption10 = [[マリア・トールチーフ]] | image11 = Billy Bowlegs III.jpg|caption11 = {{仮リンク|ビリー・ボウレグス3世|en|Billy Bowlegs III}} | image12 = Karina Lombard Cabourg 2011.jpg|caption12 = [[カリーナ・ロンバード]] | image13 = Diane Humetewa.jpg|caption13 = {{仮リンク|Diane Humetewa|en|Diane Humetewa}} | image14 = WilmaMankillerByPhilKonstantin.jpg|caption14 = {{仮リンク|ウィルマ・マンキラー|en|Wilma Mankiller}} | image15 = JohnBHarrington.jpg|caption15 = [[ジョン・へリントン]] | image16 = Jacoby Ellsbury (17140443212).jpg|caption16 = [[ジャコビー・エルズベリー]] }}}} == 概要 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} <!--「ネイティブ・アメリカン」と一括りに呼ばれることも多いが、実際には多数の部族が存在し、また部族に固有の文化形態や社会様式を持つ。故にさまざまな時期にさまざまな経路を通って段階的に北米大陸に渡来した人々の末裔であると考えられる<ref group="注">ただ、このことを強調し、「インディアンも白人と同じように、北米大陸の外から来たんじゃないか」として、白人に土地収奪正当化の言質を取られることが多く、「先住民」としての伝承文化、独自性を台無しにされるとして一般的にこの話題はインディアンには嫌われている{{要出典|date=2010年3月}}。上記の「ファースト・ネイション」の「ファースト」には、これを踏まえた「最初からいた人たち」という強い意味を含んでいる。各々の部族に固有の文化は、関連項目の各部族の項を参照。</ref>。近代に入るまではインディアン自身、「インディアン」という統一的な意識はあまり持たず、それぞれの部族は高い独立性を持ち、互いの部族は友好、あるいは敵対関係にあった。白人が、あるインディアン部族を攻撃する時、その部族と敵対する別のインディアン部族が白人側について共に攻撃することも、珍しくはない。また、インディアンは白人と比べても、極端なほどの個人主義の文化を持っており、白人や他部族との戦争においても参加は個人の自由に任された。族長であっても、その役割は部族内の争いを穏便に治める調停者であって命令者では無かったため、他人に何らかの行動を強制することは一切できなかった。そのため、多くのインディアン部族が一致団結して白人に立ち向かうという事は少なかった。[[南北戦争]]においては、[[ハニースプリングスの戦い]]のように、[[北軍]]、[[南軍]]のいずれも戦力の多数をインディアンおよび黒人が占め、互いに戦った事例もある。[[スタンド・ワティー]]のように、白人文化を受け入れて[[アメリカ連合国]]の[[准将]]にまで上り、さらに奴隷を多数所有しながらも、[[チェロキー]]の酋長を務めた人物もいる。 インディアンの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。しかし自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな[[自然]]との調和を重視する精神性に対する評価は、[[エコロジー]]のブームにのって見直される例も多く、さまざまな文化媒体に登場する。--> === 人類学的特徴 === ネイティブ・アメリカンの[[Y染色体ハプログループ]]は[[ハプログループQ (Y染色体)|ハプログループQ]]が大半を占めている。Q系統は[[ケット人]]や[[セリクプ人]]などの[[シベリア]]の一部でも見られるが、[[ユーラシア大陸]]ではあまり見られない系統である<ref group="注">Q系統は欧州の白人に多い[[ハプログループR (Y染色体)|R系統]]に最も近縁で、次いで[[漢民族]]、[[朝鮮民族]]、[[大和民族]]等の[[東アジア]]で最多を占める[[ハプログループO (Y染色体)|O系統]]とも近縁な系統である。</ref>。その他、[[ナデネ語族]]を話す民族には、[[ハプログループC2 (Y染色体)]]も認められる。 [[ミトコンドリアDNAハプログループ]]は[[ハプログループA (mtDNA)|A]]、[[ハプログループB (mtDNA)|B]]、[[ハプログループC (mtDNA)|C]]、[[ハプログループD (mtDNA)|D]]、[[ハプログループX (mtDNA)|X]]が見られる。 殆どの遺伝子タイプが[[北アジア]]や[[東アジア]]と共通していることから、ネイティブアメリカンの祖先が[[シベリア]]から[[ベーリンジア]]を通って移住してきたことは確実である。その年代には諸説あり、複数波が存在したとする見方もある。一方で北米東部ではかなりの頻度で欧州に多い[[ハプログループR (Y染色体)|Y染色体-R]]、[[ハプログループX (mtDNA)|mtDNA-X]]が観察されることから、有史以前のある時期に[[ヨーロッパ]]から直接移住が存在した可能性も指摘されている<ref>バリー・フェル(著)、喜多迅鷹・元子(訳)『紀元前のアメリカ』(1981)草思社</ref><ref group="注">[[バリー・フェル]]は[[アルゴンキン族]]を[[モンゴロイド]](モンゴル族)と[[コーカソイド]](ヨーロッパ人)の混血民族としており、西部ほどモンゴロイドの血が濃く、東部ほどコーカソイドの血が濃いという。その理由として紀元前にヨーロッパ方面から北アメリカに入植者があったとしている。[[アルゴンキアン族]]は、祖先が海を渡ってやってきたという伝承を持ち、ヨーロッパ地中海と共通する星座の概念を持つという。アルゴンキアン族のなかでも特に東部アルゴンキアン族は[[南ヨーロッパ]]や[[地中海]]の人種に酷似しており、[[アルゴンキン語族|アルゴンキン諸語]]の特に東部の言語の語彙にはヨーロッパ起源のものが数多くみられるという。</ref>。 北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。また[[大航海時代]]以降は、ヨーロッパ人との混血、[[アフリカ]][[黒人]]との混血が進んだ部族も多い。 {{See also|アメリカ先住民#起源・特徴|アメリカ大陸#前史|先コロンブス期|パレオインディアン|MHA|ブラック・セミノール|ブラック・インディアン|文明化五部族}} === 口承文化と言語 === インディアンの歴史は口承文化の伝統とアートワークによって受け継がれてきたため、最初の文書による歴史は、ヨーロッパ系の白人によって、もたらされた<ref>Calloway, Colin G. [http://www.americanheritage.com/content/native-americans-first-view-whites-shore "Native Americans First View Whites from the Shore"]. ''American Heritage'', Spring 2009. Retrieved 09 May 2022</ref>。固有の言語は[[アメリカ先住民諸語]]である。[[英語]]のみを話す人々も増加傾向にある。 === 人口 === 2010年の国勢調査では約309万人<ref name="2010 Census AMAN">{{cite web|title=The American Indian and Alaska Native Population: 2010|url=https://www.census.gov/prod/cen2010/briefs/c2010br-10.pdf|publisher=U.S. Census|access-date=2010-06-02|first1==Tina |last1=Norris |first2=Paula L. |last2=Vines |first3=Elizabeth M. |last3=Hoeffel|date=January 2012}}</ref>。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族は[[ナバホ]]、[[チェロキー]]、[[チョクトー]]、[[スー族|スー]]、[[オジブワ|チペワ]]、[[アパッチ族|アパッチ]]、[[ラムビー]]、[[ブラックフット族|ブラックフット]]、[[イロコイ連邦|イロコイ]]、そして[[プエブロ]]である。 [[ニューヨーク]]は全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人<ref name=NYCIndians>{{cite web|url=http://factfinder.census.gov/bkmk/table/1.0/en/ACS/14_1YR/S0201/1600000US3651000/popgroup~013|title=ACS DEMOGRAPHIC AND HOUSING ESTIMATES 2014 American Community Survey 1-Year Estimates Asian Indian alone – New York City|publisher=U.S. Census Bureau|access-date=August 6, 2016|archive-url=https://archive.today/20200214004546/http://factfinder.census.gov/bkmk/table/1.0/en/ACS/14_1YR/S0201/1600000US3651000/popgroup~013|archive-date=February 14, 2020|url-status=dead}}</ref> ものインディアン([[モホーク|モホーク族]]や[[モヒカン族]]など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。 2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している([[カリフォルニア州]]413,382名、[[アリゾナ州]]294,137名、[[オクラホマ州]]279,559名)。 === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ネイティブ・アメリカンの料理|en|Indigenous cuisine of the Americas}}}} 多くの部族が[[トウモロコシ]]を主食とし、[[インゲンマメ]]、[[カボチャ]]、[[ウリ]]などを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、[[プエブロ]]を除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた(プエブロはトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドベと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活を送っていた)。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜は[[シチメンチョウ]]と[[犬]]だった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされており、[[コモン・インディアン・ドッグ]]という犬種が存在する。北米には、[[イノシシ]]の一種[[ペッカリー]]や、[[ヒツジ]]の仲間[[ビッグホーン]]などがいたが、これらは[[家畜化]]されなかった。 インディアンの食文化のうち、[[ペミカン]]<ref group="注">バッファローの肉と[[ベリー]]の実などを練り合わせた、大平原部族の伝統的な冬用携帯保存食料。世界各国の南極探検隊にも採用された。 </ref>、[[:en:Succotash|サコタッシュ]]、「揚げパン([[:en:Frybread|フライブレッド]])」などは今日でもよく知られており、米国民の食文化に取り込まれたものもある。米国の重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、[[インゲンマメ]]、[[タバコ]]、[[トウガラシ]]は元来インディアンが栽培していたものである。 南西部の[[プエブロ]]諸族や[[ナバホ族]]は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだ[[ヒツジ]]の放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。 カリフォルニアの捕鯨民族[[マカ族]]は、[[1999年]]5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきた[[コククジラ]]漁を、これに伴う[[ポトラッチ]]の祝祭と併せて復活させた。[[シー・シェパード]]など反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、[[2007年]]9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。 [[ロッキー山脈]]周辺の部族は、[[松の実]]<ref group="注">伝統食文化が破壊された今も、松の実はその味の良さから変わらず人気がある。</ref> や[[ドングリ]]を主食とした。かつては年に一度、部族総出でドングリ採集に出かける際には村が全くの無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。 北東部、北西海岸部の部族は伝統的に[[サケ|鮭]]を燻製にして一年分の主食とする。しかし、[[保留地]]へのダム建設や漁猟権の剥奪などで、サケ漁の現状は年々厳しくなっている。北東部では、近年になってようやく鮭の伝統漁復活が認められた部族もある。1960年代の[[:en:Red Power movement|レッドパワー運動]]で、真っ先に行われた大規模な抗議行動は、サケ漁の権利をめぐって抗議するために連邦法や州法を破って漁をする「フィッシュ・イン」運動だった。 === 風俗など === 毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にする。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことであるが<ref group="注">[[ゲルマン人]]や[[フランク人]]は、共通の髪型を部族の帰属や身分を表すのに用いた。</ref>、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段としている。 昔の写真に見られるインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、前述の平原部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に付けて描かれているものが非常に多い。同化政策の一環として後述のインディアン寄宿学校に送られた男女児童は、入学と同時に頭髪を短く刈られた。都市に住むシティ・インディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活してきている。[[アメリカインディアン運動]](AIM)が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーを取り戻すために髪の毛を伸ばし始めた。これは[[ヒッピー]]文化にも影響を与えた。 インディアン固有の蛮習のように喧伝されてきた「'''[[皮剥ぎの刑#アメリカ大陸|頭皮剥ぎ]]'''」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは[[18世紀]]前後に「[[メキシコ]]や[[イギリス]]、アメリカ合衆国の政府機関」が、敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その「証拠として頭の皮を懸賞金をかけて」募集したことが起源となっている。 頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、「古代ヨーロッパにも存在した」。19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照) いわゆる「[[モヒカン刈り]]」のスタイルは、17世紀に北東部の[[アルゴンキン族]]の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように頭の側面を剃っていたものである。 現代の防寒着[[アノラック]]や[[パーカー (衣類)|パーカー]]は[[北極圏]]のイヌイットや[[エスキモー]]の防寒着を元にしており、[[カヤック]]や[[カヌー]]は現在でもインディアンの使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。[[ラクロス]]は北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。 [[Image:Catlin - Dance to the berdache.jpg|thumb|right|250px|『ベルダーシュに捧げる踊り』(部分、[[ジョージ・カトリン (画家)|ジョージ・カトリン]]画)]] ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドの[[ヒジュラー]]のような聖職に従事する社会的[[半陰陽]](両性具有者)は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「[[ウィンクテ]]」(右図)と呼ばれる存在は、[[女装]]こそしなくなったが、現在でも健在である。[[人類学]]者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「[[ベルダーシュ]]<ref group="原">{{lang-fr-short|berdache}}</ref>」と呼んできたが、本来の語義が「[[男娼]]」を指す[[エクソニム]]であるため、差別的で不適切と考えられている。[[1990年]]に[[ウィニペグ]]で開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称として[[オジブウェー語]]で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク<ref group="原">{{lang-*-Latn|oj|niizh manidoowag}}</ref>」(「二つの魂」の意)から[[翻訳借用]]した「{{仮リンク|トゥー・スピリット|en|Two-Spirit}}」を使用することが議決された。 * 伝統的に、[[チェロキー]]<ref>{{cite journal|和書|title= 寡頭制か民主制か――強制移住直前のチェロキー族の政治体制に関する評価をめぐって|page= 110|journal= 法政史学|number= 50|date= 1998-03|author= 佐藤円|publisher= 法政大学史学会}}</ref>、[[ホピ]]<ref>{{cite book|title= Women in Search of Utopia: Mavericks and Mythmakers|chapter= Rethinking matriliny among the Hopi|page= 18|publisher= Schocken|edithor= Ruby Rohrlich, Elaine Hoffman Baruch|author= LeBow, Diana}}</ref>、[[ナヴァホ]]<ref>{{cite web|title= Navajo Women's Story 1868 to 1960: Separation of the Sexes|year= 1986|author= Fassett, Sarah|publisher= Georgetown Law Library|accessdate= 2023-06-30|url= https://repository.library.georgetown.edu/handle/10822/1051137}}</ref>などの[[母系制]]部族では、女性も男性と変わらず政治に関与していた。[[アメリカ合衆国南西部|南西部]]では、女性も首長に選ばれていた<ref>{{cite journal|title= Feminist Nations? A Study of Native American Women in Southwestern Tribal Politics|author= Diane-Michele Prindeville|year= March 2004|journal= Political Research Quarterly|publisher= Sage Publications|volume= 57|issue= 1|pages= 101-112}}</ref>。1450年ごろに成立した[[イロコイ連邦]]に至っては、現在に至るまで<ref>{{cite web|title= How Native American Women Inspired the Women’s Rights Movement|author= Sally Roesch Wagner|date= 2020-12-14|accessdate= 2023-06-30|url= https://www.nps.gov/articles/000/how-native-american-women-inspired-the-women-s-rights-movement.htm}}</ref>首長の任免権において女性が男性を優越している(首長自体は男性に限られるが、首長は他の氏族員に対して権利においては優越せず、氏族全体の意思と、罷免権を持つ女性の意思を尊重せねばならない<ref name="江守">{{cite book|和書|title= 母権と父権|author= [[江守五夫]]|publisher= 1973|pages= 149-151}}</ref>。 *[[ニューヨーク]]の[[タマニー・ホール]](元タマニー協会)のような[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持団体は、インディアンの言葉を政治に好んで用いた<ref>[http://www.usgennet.org/usa/ny/state/his/bk12/ch5/pt1.html The History of New York State]</ref>。 *日本において『[[アメリカインディアンの教え]]<ref group="原">{{lang-en-short|Children Learn What They Live}}</ref>』と呼ばれる詩は、インディアンではない教育者{{仮リンク|ドロシー・ロー・ノルト|en|Dorothy Nolte}}が1954年に創作したものであり、詩もアメリカインディアンの伝承に基づくものではない。邦題はこの詩をノルトの創作と知らずに、自著でとりあげた『[[加藤諦三]]の創作』である。 *[[ニューヨーク州立大学バッファロー校]]の歴史学者ドナルド・A・グリンドらは、アメリカ合衆国の民主制度は[[イロコイ連邦]]の民主制度がモデルとなっていると主張している。ちなみに、インディアンの支持政党は、伝統的に民主党である。 *頭にワシの羽をつけ顔に化粧をするといった[[ステレオタイプ]]は、主に[[西部劇]]に登場する大平原のインディアンの儀式の際の姿を参考に、撮影所の美術係がデザインしたスタイルが元になっている。この映画に登場するステレオタイプは非インディアンの間で余りにももてはやされたがために、本来羽根冠の習俗のない部族にまで、このスタイルが採り入れられるようになっていった。初期の[[ハリウッド映画]]では専ら白人開拓者の敵役とされたが、後年は逆に英雄視する作品が増えた。 <!-- *インディアンは白人たちからなどと呼ばれ、しばしば米国のロマンティックなシンボルとして用いられてきた。インディアンの言葉に由来する名前は、米国の地名や野生動物の名称によく見られる。--> *インディアンはしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。米国とカナダの[[感謝祭]]は17世紀にワンパノアグ族とピルグリム・ファーザーズが秋の収穫を共に祝った出来事を記念している。[[ポカホンタス]]、[[スクアント]]、[[マサソイト]]酋長、[[サカガウィア]]らは米国の建国神話の不可欠な存在である。初期の開拓者の男性たちは未知の土地で生存するためにしばしばインディアンのサバイバルの知恵を身に付けた。彼らの中にはインディアンの女性を妻とした者が少なくなく、結果として一部のアメリカ人がインディアンの血を引いている。 *数ある混血<ref group="注">インディアンを先祖に持つアメリカ人はおよそ80%が混血である。2100年までには、10人のうち9人が混血になると見込まれている。</ref> の問題では、黒人との混血[[ブラック・インディアン]]が、根強い摩擦の種になっている。近年、[[チェロキー族]]や[[カイオワ族]]などはこれを部族員として認める裁定をしている。 *インディアンに対する年金支給などを目当てに、非インディアンがインディアンの身分を偽造し、成りすます例も少数ある。[[イタリア]]移民だった著名なインディアン俳優{{仮リンク|アイアンアイズ・コディ|en|Iron Eyes Cody}}酋長など、単純に憧れからの成りすましも多い。 *[[肥満]]率が高く、2001年の調査では男性の40.1%、女性の37.7%が[[ボディマス指数|BMI指数]]30以上の肥満であった<ref name="太ったインディアンの警告">エリコ・ロウ『太ったインディアンの警告』生活人新書 18~19頁</ref>。また、[[糖尿病]]の罹患率は世界中でもトップクラスである<ref name="太ったインディアンの警告" />。 *コロンブスが来る前におけるインディアンの[[金属]]の利用については、[[自然銅]]が良く使われていた事が分かっている({{仮リンク|コロンビア以前のアメリカにおける冶金学|en|Metallurgy in pre-Columbian America}}参照)<ref> {{cite journal | journal = Journal of Archaeological Science | volume = 26 | issue = 5 | pages = 497–526 | year = 1999 | title = The Production of Copper–Arsenic Alloys (Arsenic Bronze) by Cosmelting: Modern Experiment, Ancient Practice |author1=Lechtman, H. |author2=Klein, S. |name-list-style=amp | doi=10.1006/jasc.1998.0324 }} </ref>。[[鉄]]については一般的ではなかったが、一部の部族は鉄を知っており、{{仮リンク|オゼットインディアンビレッジ遺跡|en|Ozette Indian Village Archeological Site}}では、[[鉄]]の[[鑿|ノミ]]や[[ナイフ]]が発見されている。これらの鉄製品は、[[黒潮]]に乗ってやってきた[[海難事故|難破船]]からもたらされた物と考えられている。これらの難破船は、[[アジア]]、特に[[日本]]の物が多かったとされる。難破船以外でも、[[隕石]]などから金属を得ていた可能性がある。[[トリンギット]]など、アメリカの北西部に住んでいた民族の言葉には、鉄に関する単語が存在している<ref name="ku">Coupland, G., Mackie, Q. & Matson, R.G. (2003) ''Emerging from the Mist: Studies in Northwest Coast Culture History''. Vancouver: UBC Press. [https://books.google.ca/books?hl=en&lr=&id=l7eTjkeOyLcC&oi=fnd&pg=PA213&dq=Ozette+Iron&ots=-NRp-2n3D2&sig=EFc4VHKshigP1GjLXaCgr-Pnp4I#v=onepage&q=Ozette%20Iron&f=false]</ref>。 == 宗教 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 1881年、アメリカ連邦議会はインディアンの宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。 === ネイティブ・アメリカン・チャーチ === [[Image:USVA_headstone_emb-12.svg|thumb|right|150px|ネイティブ・アメリカン・チャーチのシンボル]] [[ネイティブ・アメリカン・チャーチ]]は、現在インディアンの間にもっとも普及している宗教であり、[[コマンチ族]]最後の酋長[[クアナ・パーカー|クァナー・パーカー]]を開祖とする。[[キリスト教]]のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで[[1890年代]]に興った[[習合]]的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。 もともとは、メキシコの[[ウイチョル族|ウィチョール族]]などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。 [[保留地]]で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人と[[タラフマラ族|タラウマラ族]]の混血女性によるメキシコ原産の[[ペヨーテ]]を使った治療によって全快したクアナは、人類学者の[[ジェームズ・ムーニイ]]の後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式をネイティブ・アメリカン・チャーチとして組織化した(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する[[アメリカ合衆国南西部|南西部]]にしか自生しない)。宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。 儀式は[[ティピー]]内で夜間から朝にかけて行われ、[[ペヨーテ]]を複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、教会(チャーチ)という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものはない。 [[スー族]]においては、同チャーチの指導者たちはその3分の1が、ペヨーテの会合に関わっていると報告している。現在では[[ロサンゼルス]]、[[ミネアポリス]]、[[デンバー]]、[[シカゴ]]、[[ラピッドシティー]]といった各地のインディアンコミュニティーでペヨーテの儀式が開かれ、非インディアンが保留地へ足を運ぶ目的の一つとなっている。 === 中西部の宗教 === [[Image:Bandelier Kiva.jpg|thumb|left|[[バンデリア国定公園]]の復元されたキヴァ]] 南西部の[[プエブロ]]諸族の集落の中心には[[アドベ]]の古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影や写生などは禁止されている。 また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代から[[キヴァ]]という地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファローの精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」<ref group="原">{{lang-en-short|Corn Maiden}}</ref> や「トウモロコシの母」<ref group="原">{{lang-en-short|Corn Mother}}</ref> を信仰するのである。17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついには[[プエブロの反乱]]を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。 [[Image:Kachina doll.JPG|thumb|right|カチーナを模した人形]] [[アパッチ族]]は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、[[ナバホ族]]は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。[[ホピ族]]と[[ズニ族]]は[[カチーナ]]という精霊群を信仰する。いずれも仮面行事であり、クラン([[氏族]])を中心として行われる。 プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。南西部に到達してから比較的歴史が浅いナバホ族の神話は、プエブロ族の神話を受容したものであるとされる。 生まれたときに祖父から与えられる守護動物をかたどった石の[[お守り]]「フェティッシュ」の習慣が根強い。 [[ニューメキシコ州]]では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされた[[カトリック教会|カトリック]]とインディアンの宗教の習合がよく見られる。この背景には、かつてキリスト教を強制し、古来の信仰を弾圧して[[プエブロの反乱]]が起きたことを教訓とした宣教師達が部族民の古来の信仰に対して譲歩したことがある。文化学者[[マチルダ・スチーブンソン]]はこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」 特定の[[守護聖人]]を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族の[[太鼓|ドラム]]演奏、詠唱、および舞踊は、[[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]の[[聖フランシス大聖堂]]での定期的な[[ミサ]]の一部ともなっている<ref>[http://www.csp.org/communities/docs/fikes-nac_history.html A Brief History of the Native American Church] by Jay Fikes. URL accessed on February 22, 2006.</ref>。 === 東海岸の宗教 === クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[人身御供]]の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、霊力を得るものとして儀礼的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。 彼らの神話・英雄譚には、[[ヴィンランド]]に入植した[[ヴァイキング]]の、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えば[[ニューヨーク州]]にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深い{{仮リンク|フォンダ (ニューヨーク州)|label=フォンダ|en|Fonda, New York}}の{{仮リンク|カテリ・テカクウィサ|en|Kateri Tekakwitha}}教会や{{仮リンク|オーリーズヴィル|en|Auriesville, New York}}の北米殉職者教会<ref group="原">{{lang-en-short|National Shrine of the North American Martyrs}}</ref> がある。 イギリス人が植民を行った地域では、[[ピルグリム・ファーザーズ]]と接触した[[ワンパノアグ]]族のように[[プロテスタント]]に改宗した部族もあった。17世紀の[[ニューイングランド]]では、改宗した先住民は「{{仮リンク|プレイング・インディアン|en|Praying Indian}}」、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。[[フィリップ王戦争]]が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後に[[ボストン湾]]に浮かぶ[[ディア島]]に抑留されて飢えと病から多くが死んだ。[[アイビー・リーグ]]のひとつである[[ダートマス大学]]は、インディアンを教化する目的で[[モヒーガン]]族の牧師[[サムソン・オッカム]]らの出資により[[1769年]]に創立された。 === 中西部の宗教 === 狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われる[[ユト]]族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。 [[モルモン教]]と呼ばれる[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共闘して襲撃した。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとする[[モルモン書]]によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという(ただし[[#人類学的特徴|前述]]のように、インディアンの先祖はイスラエル人ではなくモンゴロイドであることが判明している)。 女性[[シャーマニズム|シャーマン]]の習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、[[ミイラ]]にして保存する部族も多かった。 === 西海岸の宗教 === [[アメリカ西海岸]]では、18世紀後半から、入植してきたスペイン人の宣教師によってインディアンのキリスト教徒化が進められ、『[[ミッション・インディアン]]』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に使役された。 漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈る儀式が多い。踊りは伝統住居の「[[ラウンド・ハウス]]」内で行われるものが多い。 === 平原部での宗教 === [[ラコタ]]・[[スー族]]の『[[ワカン・タンカ]]』のような『偉大なる精霊』を信仰する[[精霊崇拝]]が基本である。[[バッファロー・ダンス]]やベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。 物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「ヴィジョンを得る儀式([[:en:Vision quest|ヴィジョン・クエスト]])」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋([[:en:Sweat lodge<!-- [[スウェット・ロッジ]] とリンク -->|スエット・ロッジ]])」の儀式と併せてますます盛んである。 人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあった[[ポーニー族]]や[[オーセージ族]]は、例外的に収穫祈念のため[[人身御供]]を行った。生贄には他部族の男女が使われた。 平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。[[マンダン]]族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの葬送の習慣は、キリスト教会からの弾圧もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物として売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。 ==== サン・ダンスの儀式 ==== 「'''[[サンダンスの儀式|サン・ダンス]]'''」とは、[[スー語]]の「'''ウィワンヤンク・ワチピ'''(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。 平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」として[[スー族]]や[[ブラックフット族]]、[[シャイアン族]]、[[カイオワ]]族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこの[[サン・ダンス]]の儀式を行う。 [[Image:Sundance.jpg|thumb|left|250px|『スー族のサン・ダンス』(ジョージ・カトリン画)]] とくに[[スー族]]は、この儀式の中で最大の要として、「[[ピアス|ピアッシング]]の儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられた[[ハコヤナギ]]の「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。 このピアッシングの苦行は[[マンダン]]族が始祖とされる。かつてマンダン族の「オーキーパ(太陽の踊り)」は詳細なイラストとともに東部の白人社会にも知らされたが、彼らはこれをグロテスクな悪夢だとして本気にしなかった。この際、「ピアッシングは若者の勇気を試すもので、指導者となるための通過儀礼である」と説明され、現代でもこれに則った解説をする文献があるが、これは間違いである。19世紀のスー族の戦士は、このピアッシングについて、「自分の肉体は、自分にとって一番大切なものだから、これを大精霊に捧げるのだ」と説明している。 20世紀スー族のメディスンマン、ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の『祖父』である」と述べ、また{{仮リンク|ジョン・ファイヤー・レイムディアー|en|Lame Deer}}は、「白人は自分に都合よくなんでも簡単に片付ける。2000年前には自分達の代わりにイエス・キリストに苦痛を味わわせた。だが我々インディアンは自ら苦痛を引き受け、自分の身体でこれを体験し誓うのだ。『祖父よ、来年私は踊ります。わが肉体に串を刺し、誰かの回復に役立とう。我らの民を完全なものとするために』とだ」と語っている。 かつて白人によってサンダンスは野蛮な行為として弾圧を受け、インディアンたちはこれを隠れて行うしかなかった。インディアンたちの粘り強い交渉と説得により、[[フランクリン・ルーズベルト]]の時代になってようやくサンダンスが許可された。それでもピアッシングのみは絶対禁止されたが、[[レッド・パワー]]とともに復活され、[[スー族]]の伝統派、レイムディアーや[[マシュー・キング]]<ref group="原">{{lang-en-short|Mathew King}}、{{lang|en|Noble Redman}}</ref> らによって全米に広められた。また近年になって規定が緩み、女性のピアッシングも見られるようになった。女性の場合は、手首に串を刺す。 === 南部の宗教 === クラン([[氏族]])を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。[[クリーク族|ムスコギー族]]や[[セミノール]]族は、地元で採れる[[ヤポンノキ]](Yaupon、''[[:en:Ilex vomitoria|Ilex vomitoria]]'')の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄[[オセオーラ]]の名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。 ノース・カロライナ州のランビー族を含むインディアンは、ホーリネス・メソジスト教会のランバー・リバー会議を組織した<ref>{{cite book |last1=Melton |first1=J. Gordon |title=Encyclopedia of American Religions |publisher=Gale (publisher) |isbn=978-0-7876-6384-1 |page=423 | access-date=09 May 2022}}</ref>。[[アタカパ]]族や[[カランカワ]]族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。 大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「[[マウンド・ビルダー]]」と呼ばれた部族群が、動物をかたどった、数100メートルもある無数の土塁・塚を建造している。[[オハイオ州]]の[[サーペント・マウンド]](大蛇の墳丘)はその一つである。その直系である[[ナチェズ]]族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、[[インカ帝国]]や[[マヤ文明]]のように[[太陽神]]を頂き、都市を築いて[[ピラミッド]]型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。 === ゴースト・ダンス === [[Image:Ghost Dance at Pine Ridge.png|250px|thumb|right|サウスダコタ州パイン・リッジにおけるオガララ・ラコタ族によるゴーストダンス、[[:en:Frederic Remington|フレデリック・レミントン]]画]] 1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、[[ネバダ州]]の[[パイユート族]]の預言者[[ウォボカ]]が教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教([[ゴースト・ダンス]]教)」である。 「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、[[ゴースト・シャツ]]と呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、[[保留地]]への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。 弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、[[キッキング・ベア]]だった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、[[ウーンデッド・ニーの虐殺]]が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、[[スー族]]の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や[[1975年]]に、[[ウンデット・ニー|ウンデッド・ニー]]でゴースト・ダンスを復活させた際、[[連邦捜査局]](FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。 テキサス州の[[カド]]族保留地([[カドハダチョ連邦]])では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。 === 鷲の羽根法 === インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「[[鷲の羽法]]([[:en:Eagle feather law|Eagle feather law]])」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、[[ハクトウワシ]]と[[イヌワシ]]の羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で[[部族の主権 (アメリカ合衆国)|部族の主権]]を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。 === インディアンと煙草 === インディアンにとって、煙草の葉は神聖な清めの神具であり、またパイプも単なる喫煙具ではなく、どちらもすべての儀式に欠かせない特別な存在である。どんな部族でも儀式の際には、[[セージ]]や杉の葉などと合わせ、煙草の葉による清めが行われ、「[[ピースパイプ]]」または「[[メディスンパイプ]]」と呼ばれる聖なる[[パイプ (たばこ)|パイプ]]を用いた[[喫煙]]が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。どの部族もたいてい、父祖から伝わる神聖なパイプを保持している。 [[Image:Peace pipe.jpg|thumb|left|ラコタ族の聖なるパイプ(柄のみ)]] パイプは[[パスポート]]の役目も持っており、友好の意思を表す。インディアンでも非インディアンでも、ピースパイプを回し飲む際に、約した言葉を違えることは絶対に許されない。[[サンディア・プエブロ]]族とアパッチ族、ナバホ族、コマンチ族が18世紀に結んだ和平の儀式では、回し飲みした煙草が土に埋められた。以後サンディアと彼らとの争いは一切行われていない。 20世紀のスー族のメディスンマンでレオナルド・クロウドッグの父、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。 [[File:PipeStone NM Minnesota USA.jpg|thumb|left|カトリナイトから火皿を削りだす実演]] スー族のインディアンたちはミネソタ州の[[パイプストーン国定記念物]]からしか採れない赤い石(パイプストーン)でパイプの火皿を作る。この鉱物は、画家[[ジョージ・カトリン (画家)|ジョージ・カトリン]]に因んで「[[カトリナイト]]([[:en:Catlinite|Catlinite]])」と名付けられている。スー族の伝承では、カトリナイトは先祖の血で出来ているとされる。聖なるパイプの火皿の素材となるカトリナイトの採石場は全ての部族にとって中立の土地とされていた。長らく条約を破った白人による不法占拠が続いたが、現在ではスー族が占有権を持ち、ここでカトリナイトを採掘できるのはインディアンだけである。 === 備考 === *インディアンにとって聖なる数は「4」である。四方位、四季などを表すこの数は、全ての真理の基本とされる。 *インディアンの宗教的指導者は、英語では一般に『[[メディスンマン]]』と呼ばれており、人類学では[[シャーマニズム|シャーマン]]の一種に分類される。彼らの言葉では、もっぱら「聖人」という意味の名で呼ばれている。 *多くのインディアンが、部族の宗教儀礼に参加することを、宗教というよりはむしろ[[スピリチュアリティ]]のひとつの形ととらえているが、実際には宗教とスピリチュアリティはしばしば同義に用いられる。 *1960年代頃からの白人の[[ニュー・エイジ]]世代によって、インディアンの宗教儀式を商売として利用するものが現れ、それに乗って、儀式行為と引き換えに金を要求する「エセ呪術師」が横行している。伝統派の指導者たちは、こういったエセ宗教者を『{{仮リンク|プラスチック・メディスンマン|en|Plastic shaman}}』と呼んで警告している。「我々は白人のように勧誘などしない。また、すべての儀式は無償のものである。」というのが、伝統派宗教指導者の姿勢である。 <!-- *インディアンの宗教儀式や行事は、かつては数日間かけて延々と行われるのが普通だった。しかし、[[保留地]]時代に入ると、これを長すぎると考えた外部出身の保留地監督官たちの強制によって、多くの儀式・行事が「[[アメリカ独立記念日]]」や「[[クリスマス]]」、「[[復員軍人の日]]」といった政府の記念日にまとめて行うようになった。また、儀式によっては政府から禁止され、半世紀以上行われていないものも少なくない。 *インディアンにとって「踊り」とは、祈りの表現である。部族独自の伝統的な踊りは、1970年代頃から全米に拡大した「[[パウワウ]]」(部族間交流の盛大な踊りの祭典)によって、ダンス競技として再興しつつある。パウワウは祭典であり、宗教儀式ではないので非インディアンにも自由公開されている。--> == 近代以降の歴史 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} {{See also|アメリカ先住民|イロコイ連邦|インディアン戦争|クローヴィス文化|ドーズ委員会|ドーズ法|涙の道|BIA本部ビル占拠抗議|フォルサム文化|フォート・エンシェント文化|ロング・ウォーク・オブ・ナバホ}} === 移民との衝突 === [[スペイン]]が[[アメリカ大陸]]を征服した当初は、800万人ものアメリカ先住民が死亡したと推定されるが、これは白人が持ち込んだ[[伝染病]]や、白人が先住民に対して行った戦争などの殺戮によるもであった。先住民に対する殺戮は、後に[[カナダ]]、[[アメリカ]]、[[メキシコ]]、[[ブラジル]]、そして[[パラグアイ]]、[[チリ]]、[[アルゼンチン]]といったアメリカ大陸のあらゆる地域で、何世紀にもわたって続けられた。アメリカでは、インディアン戦争と[[マニフェスト・デスティニー]]が大量虐殺に貢献した<ref>La catastrophe démographique" (The Demographic Catastrophe) in L'Histoire n°322, July–August 2007, p. 17</ref>。またアメリカにおいてもインディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。 [[レナペ]]族と[[フィラデルフィア]]、[[ワンパノアグ]]族と[[プリマス植民地]]、[[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]のように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。 入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを[[奴隷]]として売買することは合法とされた。 [[フレンチ・インディアン戦争]]や[[アメリカ独立戦争]]など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い([[インディアン戦争]])。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。 白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、[[アメリカバイソン|バッファロー]]などの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。 ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月[[ウンデッド・ニー]]の虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。 === インディアン移住 === 19世紀になると、「[[インディアン移住法|インディアン強制移住法]]」を制定した[[アンドリュー・ジャクソン]]大統領によって、「[[保留地]]制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「'''インドの撤去ポリシー'''」が推し進められた。これは[[ユリシーズ・グラント#インディアン政策|ユリシーズ・グラント大統領]]や、[[ウィリアム・シャーマン#評価|ウィリアム・シャーマン将軍]]らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。南東部での「[[セミノール戦争]]」は、白人とインディアンの国家間戦争としては最大級のもので、ジャクソンはこの戦いに[[焦土作戦]]による徹底殲滅を図った。「セミノール戦争」は現在、「インディアンの[[ベトナム戦争]]」と呼ばれている。 === 強制移住 === ==== チェロキー族の涙の旅路 ==== 長い間各国政府は法律を定め、狭い[[保留地]]にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに[[1838年]]10月から[[1839年]]3月にかけての[[チェロキー|チェロキー族]]の強制移住がある。これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)[[大統領]][[アンドリュー・ジャクソン]]が「[[インディアン移住法|インディアン強制移住法]]」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族と[[セミノール]]族、[[チョクトー族]]、[[クリーク族]]を[[インディアン準州]](現在の[[オクラホマ州]]の[[オザーク高原]]近く)に移動させたというものである。 厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万6,000人のうち4,000人から5,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「[[涙の道|涙の旅路]]」と呼ぶようになった<ref>[https://www.history.com/topics/native-american-history/trail-of-tears#trail-of-tears Trail of Tears] history.com</ref>。 ==== ナバホ族の涙の旅路 ==== 1862年、[[キット・カーソン]]による[[殲滅戦]]に降伏したナバホ族も、300[[マイル]](約483km)以上離れたボスケ・レドンド<ref group="注">{{lang-es-short|Bosque Redondo}}</ref> という灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しい[[サングレ・デ・クリスト山脈]]を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「[[ロング・ウォーク・オブ・ナバホ|ロング・ウォーク]]」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。 {{仮リンク|バルボンシート|en|Barboncito|label=バルボンシート酋長}}の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって当時は価値のない[[砂漠]]であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣の[[ホピ族]]が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。 ==== クレイジー・ホースとジェロニモ ==== インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることの繰り返しとなる。インディアンの中には[[レッド・クラウド]]や[[スポッテッド・テイル]]のように連邦政府の側について、抵抗するインディアンを非難する者もあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかった[[ラコタ|ラコタ族]]の[[クレイジー・ホース]]、開拓者を震え上がらせた[[アパッチ族]]の[[ジェロニモ]]らの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は[[米国陸軍]]の兵力によって屈服させられた。20世紀後半にクレイジー・ホースは非インディアンから再評価され、[[サウスダコタ州]][[ブラックヒルズ]]に世界最大級の石像[[クレイジー・ホース記念碑]]が建設中であるが、伝統派からは猛反発を受けている。 ==== ゴーストダンス教と1890年のウンデッド・ニーの虐殺 ==== {{Main|ウンデット・ニーの虐殺}} [[Image:Soldiers at a burial for the dead at Wounded Knee, South Dakota, c. 1891.jpg|200px|thumb|right|ウンデット・ニーの虐殺の犠牲者の埋葬]] [[1868年]]にスー族と米国政府は[[ララミー条約 (1868年)|ララミー条約]]によって、サウスダコタ州にあるスー族の聖地[[ブラックヒルズ]]は永久にスー族のものであると確約したが、[[ジョージ・アームストロング・カスター]]がブラックヒルズに金鉱を見つけると、開拓者が金を求めてブラック・ヒルズに侵入し、条約は破られた。 絶望的な状況に置かれた西部のインディアンの部族には、ゴーストダンスを踊ることで平和なインディアンの国が還ってくるという[[終末]]的信仰[[ゴーストダンス]]が大流行した。信じるものは銃弾も効かないとされるこの宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、スー族のゴーストダンス指導者{{仮リンク|キッキング・ベア|en|Kicking Bear}}を含む{{仮リンク|ビッグ・フット酋長|en|Spotted Elk|label=ビッグ・フット酋長}}の一団をサウスダコタ州の[[ウンデット・ニー]]に連行した。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された([[ウンデット・ニーの虐殺]])。ここに連邦政府とインディアンの戦いは終わる。1890年[[12月29日]]のことである。 アメリカ人の歴史では1890年はフロンティアが消滅し、西部が勝ち取られた輝かしい年とされているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンがひとまず征服された年なのである。 === 同化政策 === ==== 「インディアン寄宿学校」 ==== 「アメリカのフロンティア」が消滅したのち、白人はインディアン問題を処理すべく、その同化に注力し始める。[[オーストラリア]]の[[アボリジニ]]や極北の[[エスキモー]]、[[中国の少数民族]]等と同じく、支配民族による[[同化政策]]は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルベニア州[[カーライル (ペンシルベニア州)|カーライル]]の「{{仮リンク|カーライルインディアン工業学校|en|Carlisle Indian Industrial School}}」の創始者であり、校長を務めた{{仮リンク|リチャード・ヘンリー・プラット|en|Richard Henry Pratt}}による、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ<ref group="原">{{lang-en-short|Kill the Indian to save the Man.}}</ref>」という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「[[インディアン寄宿学校]]」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も[[混血]]化が進み純粋な部族は残り少ない。 こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業などの技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して[[保留地]]に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、学んだ技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。 これに対抗し、1970年代から各部族ごとにインディアンによる「部族学校」を設立する動きが見られるようになった。インディアン完全自治の学校としては、カリフォルニア州に1971年に創設された『{{仮リンク|デガナウィダ・ケツアルコアトル短期大学|en|D-Q University}}』(略称『D-Q大学』)が知られるが、認可の喪失、学生数の減少や資金運用の不備から閉校の危機にさらされている。近年、このような動きの中、連邦や州政府の譲歩で部族語学習が部族学校などで取り入れられるようになり、現在の学童の世代と、英語のわからない三世代以前との間で言葉のコミュニケーションが実現するようになった例もある。しかし、結局部族語は保留地外では実用的でないため、絶滅の危機に瀕する言語を保存し、どう文化的に発展させていくのか、その先行きが注目されている。 ==== 「インディアン児童福祉法令(ICWA)」 ==== インディアンのコミュニティーを根本から破壊し、自殺率の増加など深刻な問題を引き起こすいま一つの社会制度が、無意味な「[[里親制度]]」である。これは、貧困のため生活困難と州が認定したインディアンの家庭から、出生前に選定して強制的に取り上げ、実の親を知らさないまま白人の家庭で育てるというものである。これも白人からすれば「インディアンを殺し、人間を救え」との発想で生まれた、一方的な草の根ボランティアの一環であったのだが、彼らは白人の家庭で、なんらインディアンとしての文化も歴史も教えられることはなく、白人としてのみ育てられるのである。やがて物心ついた時にこの子供たちは「自分はインディアンでも白人でもない」という[[自己同一性|アイデンティティー]]の喪失に苦しみ、その結果、ほとんどが10代のうちにアルコール依存症になるか自殺してしまうという悲劇を生み続けている。 1969-1974年に実施された全国調査では、実に全米のインディアン児童のうち25%-35%が、彼らの家から引き離され、州の法廷と福祉代理業者によって白人の家庭に置かれている。1974年に、これら強制的な寄宿学校制や里親制度について、[[デニス・バンクス]]は「一種の誘拐である」と批判声明を出している。 1978年、この深刻な惨禍の状況に対するインディアン側の抗議と、「文化的虐殺」とする国際世論による批判を受け、連邦議会で制定されたのが「{{仮リンク|インディアン児童福祉法令|en|Indian Child Welfare Act|label=インディアン児童福祉法令}}」(ICWA)である。この法令は、里子に出すか否かの決定を州や代理業者に委ねるのではなく、その子の帰属する部族会議に管轄権を認め委ねさせるものである。この法令の施行で無意味な里親制度は近年ようやく廃止の傾向にあるが、州によってはこれを認めず、また白人の無知と無理解によって未だにこの[[民族浄化]]は実行されており、予断を許さない状況にある。 2000年、アメリカ合衆国およびBIAは、これら同化政策を犯罪的行為と認め、謝罪を行った。(→「[[インディアン寄宿学校#BIAの歴史的謝罪|BIAの歴史的な謝罪]]」) === 権利を守る戦い === ==== レッド・パワーによるインディアン運動 ==== かつて合衆国連邦とインディアンとの間では[[保留地]]を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。そもそも[[1879年]]に[[ポンカ]]族の[[スタンディング・ベアー]]([[:en:Standing Bear|Standing Bear]])酋長と、[[オマハ族]]の[[:en:Susette LaFlesche Tibbles|スゼット]]と[[:en:Susan La Flesche Picotte|スーザン]]のラ・フレスカ姉妹が、最高裁で部族強制移住の違法判決を勝ち取るまで、インディアンは人間として認められていなかった。この判決で初めて、最高裁は「インディアンは人間である」との文言を判決文に書き添えてこれを認めたのである。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権および権利回復を果たすため、さまざまな個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。 最初期の組織だった活動では、[[1911年]]に[[オナイダ族]]の環境保護運動家[[ローラ・コーネリアス]](Laura Cornelius)や、[[オマハ族]]のラ・フレスカ姉妹といった、東部で欧米式の教育を受けたエリートたちが起こした「[[アメリカ・インディアン協会]]」がある。彼女らは「国際的インディアンの日([[ナショナル・インディアン・デー]])」を作り、10月12日の「[[コロンブス・デー]](コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。 [[1944年]]には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、[[ワシントンD.C.]]に本部を持つ「[[:en:National Congress of American Indians<!-- [[アメリカインディアン国民会議]] とリンク -->|アメリカ・インディアン国民会議団(NCAI)]])」が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い[[番犬]]」と呼ばれた。 彼らは伝統衣装ではなく洋装し、欧米文化の中から運動したため、主流のアメリカ人からも支持を集めた。しかし、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化された[[ハイアワサ]]、[[ポカホンタス]]、[[ローン・レンジャー|トント]]」と揶揄され、支持共感を得られなかった。 これを踏まえ、[[1961年]]にシカゴで、スー族の[[ヴァイン・デロリア]]([[:en:Vine Deloria, Jr.<!-- [[ヴァイン・デロリア・ジュニア]] とリンク -->|Vine Deloria, Jr.]])、[[:en:Walker River Indian Reservation|ウォーカーリバー]]・パイユート族の[[メル・トム]](Melvin Thom)、ポンカ族の[[クライド・ウォーリアー]](Clyde Warrior)、[[ビル・ペンソニュー]](William Pensoneau)、ナバホ・カイオワ族の[[ジョン・ベリンド]]といった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「'''インディアン人権宣言'''」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。キング牧師はインディアンの団体NIYCに声をかけ、団体は公民権運動の一部に関わっていくようになった<ref>{{cite web |last1=Ross |first1=Gyasi |title=Dr. Martin Luther King, Jr., Black People and Indigenous People: How We Cash This Damn Check |url=https://www.huffingtonpost.com/entry/dr-martin-luther-king-jr-black-people-and-indigenous_us_5a57c671e4b03a1e6098bc6d |website=Huffington Post | access-date=09 May 2022}}</ref>。 また1960年代から1970年代に掛けて、[[黒人]]たちによる[[公民権運動]]の盛り上がり([[:en:Black Power|ブラック・パワー]])があり、これに呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「[[:en:Red Power movement|レッド・パワー運動]]」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、シビル・マーチに参加することについては、インディアンの団体は消極的、否定的だった点があげられる。 全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「[[アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会]]」の創設者となる[[アシニボイン族]]の[[ハンク・アダムス]]({{Lang|en|Hank Adams}})を輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、[[ワシントン州]]のあちこちで「違法に」魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン(fish-ins)」抗議行動で注目された。 ==== AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設 ==== レッド・パワーの中でも[[1968年]]7月29日に[[デニス・バンクス]]([[:en:Dennis Banks|Dennis Banks]])や、[[クライド・ベルコート]]({{Lang|en|Clyde Bellecourt}}、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていない、貧しい地域出身の若者によって創設された、[[アメリカ・インディアン運動]]({{Lang|en|AIM}})が知られている。 ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめた[[オジブワ]]族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、[[ミネアポリス]]で結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「男性は何でも目標(Aim)、目標と発言しているのだから、AIMにしたらどうですか」という発言による。 彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。 指導者達はまず[[1970年]]に[[スー族]]の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。[[1971年]]には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からは[[レオナルド・クロウドッグ]](Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からは[[エディー・ベントン]](Eddie Benton-Banai)、オクラホマの[[クリーク族|ムスコギー族]]からは[[フィリップ・ディアー]](Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。 彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家[[ハープ・ポーズ]]の提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、[[イロコイ連邦]]の[[オノンダーガ族]]指導者の[[オレン・ライオンズ]]([[:en:Oren Lyons<!-- [[オレン・リヨンズ]] とリンク -->|Oren Lyons]])がついた。 [[1969年]]11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授[[リー・ブライトマン]](Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさす場合があり、退学してしまうこともあった。また、[[チャック・ロバートソン]]によって、「[[インディアン寄宿学校]]」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、[[1970年]]に「生存の学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリスに開設された。[[1975年]]には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。 また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロール自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。 メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官や陪審員、ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療の分野でいかにインディアンが不当な扱いを受けているかの啓発に注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの撤廃を要求した。 AIMはミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、[[ミルウォーキー]]、シカゴ、[[キャスレイク]]、[[ローズバッド保留地]]、デンバー、[[オクラホマシティ]]、[[シアトル]]、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]、[[サンフランシスコ]]、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーや[[ブラックヒルズ]]の返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→[[破られた条約の行進]]) [[デニス・バンクス]]は、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ。」 これらの運動は、保守派の白人にとっては過激で、黒人運動団体「[[ブラックパンサー党]]」とも連携したその運動は、武力で弾圧されるようになっていった。なかでも大きな反響を呼んだ「[[ウンデット・ニー|ウンデッド・ニー占拠事件]]」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な「法廷抗争」に発展し、以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン約300人が、オグララ族議長ウィルソンの私設暴力団と、FBIによって放火・銃撃され、少なくとも「67人が死亡」している。AIM狩りの先頭に立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦と暴行で、AIMから提訴された)は、インディアンの運動を激しく批判した。 当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。さまざまなインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「'''絶滅寸前の種族'''」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで起こるべくして起こった市民運動だった。 ==== マーロン・ブランドとレッド・パワー運動 ==== ハリウッド俳優の[[マーロン・ブランド]]は、AIM創設当時からこれを支援し、金銭的にも政治的にも援助したアメリカ人の一人である。ブランドは高額な映画出演報酬を要求することで有名だったが、これをインディアン権利団体の運営資金に提供することも多かった。また、「フィッシュ・イン抗議行動」など、様々な抗議運動でも行動をともにした。 最も影響が大きかったのは、1972年の「'''マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件'''」であろう。これは出演した映画『[[ゴッドファーザー]]』での[[アカデミー主演男優賞]]の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせたというものである。[[ハリウッド]]での、白人がでたらめなインディアンを演じてきたことを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じたなどという様々な憶測が出回ったが、実際には、[[ネイティヴ・アメリカン]](母はフランス人、ドイツ人、オランダ人の系統、父は[[アパッチ族|ホワイトマウンテン・アパッチ]]とアリゾナの[[ヨクイ族]]([[:en:Yaqui|Yaqui]])と[[プエブロ]]のネイティブ・アメリカンの系統)の「リトル・フェザー」([[:en:Sacheen Littlefeather|Sacheen Littlefeather]])が登場しており、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にネイティブ・アメリカンの対する人種差別問題を提議した<ref>[http://www.sacheenlittlefeather.net/ Sacheen Littlefeather]</ref>。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画の「[[西部劇]]」から単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになり、事実上「西部劇」というジャンルを壊滅させてしまった。 ==== 「ブライアン対イタスカ郡」裁判 ==== このレッドパワーの高まりの中で起こった「'''ブライアン対イタスカ郡'''(Bryan v. Itasca County)」と呼ばれる法廷闘争は、以後のインディアンの権利に関して画期的な法的判断を引き出したことで歴史的評価を受けている。 1971年、ミネソタのリーチ[[保留地]]に住むオジブワ族のブライアン兄弟は、火災で家を無くしたため、移動型の住居を購入したが、間もなくイタスカ郡は彼らの住居に資産税として147.95ドルを請求した。しかしブライアン兄弟は、この住居が自治権を持ったインディアン保留地内にあることから納税の義務がないことを主張。これを受けて郡はミネソタ最高裁判所にブライアン兄弟の主張の無効を訴え、ブライアン兄弟側は保留地を挙げて控訴した。やがてこの件は合衆国最高裁判所に上告された。 1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。 ==== NAACPとレッド・パワー運動 ==== ネイティヴ・アメリカンだけでは解決できなかった、人種差別の解消と人権の確保に大きな貢献をしたのは、[[マーティン・ルーサー・キング]]牧師とNAACPの協力だった<ref>{{cite web |last1=Needle |first1=Elana |title=Nationwide Racial Equity Groups Organize in Support of Racial Healing Groups Support NDORH with Prayer Vigil and Tele Town Hall |url=https://www.naacp.org/latest/nationwide-racial-equity-groups-organize-support-racial-healing%E2%80%AF-groups-support-ndorh-prayer-vigil-tele-town-hall%E2%80%AF/ |website=NAACP | access-date=11 February 2022}}</ref> 。アフロアメリカンとネイティヴ・アメリカンの要求に妥協する形で、アメリカ政府は、やむなく1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、[[ピクォート]]族の復活を認めた。 後年の1970年代には、[上下両院議会で「[[保留地]]の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など反動的な法案が、共和党と民主党保守派の賛成で可決され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、抗議行動が行われた年となった。 この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えた[[プリマス植民地]]の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、[[リトルビッグホーンの戦い]]でカスター中佐と[[第7騎兵連隊 (アメリカ軍)|第7騎兵隊]]を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、[[民族浄化]]に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は[[国際連合|国連]]で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。 ==== レッド・パワーによる主な抗議運動 ==== * [[1964年]]:「全米インディアン若者会議」による「'''フィッシュ・イン抗議行動'''」 : ワシントン州でのインディアン固有の漁業権の剥奪法に抗議し、同州[[ヤカマ族]]の若者[[シド・ミルズ]](Sid Mills)が、州内のあちこちでフィッシュ・イン(一斉に釣る)を指導し、座り込みを行った。運動は[[アシニボイン族]]の[[ハンク・アダムス]]によって他州にも拡大された。アダムスはこの座り込みの際に警官隊に銃撃されて重傷を負ったが、命を取り留めた。 * [[1967年]]:スー族による「'''バックスキン・カーテン社への抗議と、キング牧師の平和行進への参加'''」 : ローズバッド保留地の、穏健派の部族会議議長[[ボブ・バーネット]](Robert Barnett)と、伝統派メディスンマンの[[ヘンリー・クロウドッグ]](Henry Crow Dog)、[[:en:Lame Deer|ジョン・レイムディアー]]ら21人の男女が写真家[[リチャード・アードス]](Richard Erdoes)の支援を受けてニューヨークへ出向き、バックスキン・カーテン社に対し、同社が行っている[[保留地]]からの野生動物の毛皮の無許可の乱獲行為に抗議。同時に[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]の平和行進に参加、黒人の[[公民権運動]]団体と交流を行う。 * [[1968年]]10月12日:「'''コロンブス・デー抗議'''」 : サンフランシスコの「[[ベイエリア・アメリカインディアン問題評議会連合]]」が、[[イタリア系アメリカ人]]連盟主宰の[[コロンブス・デー]]を祝う祝典での寸劇で、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]役の男性と打ち合わせ、彼の[[かつら (装身具)|かつら]]を剥ぎ取ったもの。イタリア人連盟にはこのブラック・ジョークは通じず、警官隊が招集され、にらみ合いになった。 * [[1969年]]11月9日:「'''[[アルカトラズ島占拠事件]]'''」 : [[モホーク族]]の[[リチャード・オークス]]({{Lang|en|Richard Oakes}})、[[:en:Santee Sioux Reservation|サンテ]]・[[スー族]]の著名な詩人[[ジョン・トルーデル]]({{Lang|en|John Trudell}})らを中心とする「全部族インディアン」を名乗る69人のインディアン青年達が、本来インディアンの土地であった[[サンフランシスコ]]沖の[[アルカトラズ島]]に上陸、土地の権利とインディアンに対する連邦政府による条約確認を要求。AIMのメンバーも支援要請を受けて参加した。彼らは[[1868年]]にアルカトラズ島の余剰地をインディアンに返還するという条約が合衆国政府との間で結ばれたのにもかかわらず未だに履行されていないと抗議してアルカトラズ島の領有を宣言し、インディアンの文化センターにするとして1年半にわたり島を占拠した。AIMのメンバー以外のインディアンや白人からも反響と共感を受け、一時は600人近くのインディアンが島にティピーを張るなどして移住した。しかし電気・水道を政府に止められ、人数が減っていき、[[1971年]]6月11日にFBIと武装警官が一斉上陸。強制退去が行われ、島に残っていた15人が逮捕された。リチャード・オークスは、翌年白人人種差別主義者に殺害された。 * [[1970年]]:AIMによる「'''メイフラワー号抗議'''」 : 「ピルグリム・ファーザーズ上陸150周年記念の日」に、AIMのラッセル・ミーンズらが[[メイフラワー2世号]]に乗り込んで、マストにAIMの旗を掲げ、「[[プリマス・ロック]]」を[[貨物自動車|トラック]]一台分の土砂で埋めて抗議したもの。 * 1970年:「'''[[オーガスタナ大学 (サウスダコタ州)|オーガスタナ大学]]占拠'''」 : サウスダコタ州の同大学が、インディアン学生のための援助金を不正に横領していることにインディアン学生達が抗議。AIMも援助依頼を受けた。 * [[1971年]]:「'''サンフランシスコ旧米軍基地占拠'''」 : [[朝鮮戦争]]の際に、米軍が強制没収しミサイル通信基地としたインディアンの土地が放棄されていたものを、インディアンたちが教育施設建設を目的に返還要求したもの。市教育庁の不当裁定を覆し、初のインディアン完全自治による短期大学「[[:en:D-Q University|デガナウィダ=ケツァルコアトル大学]]」がここに創設された。 * 1971年:「'''ミルウォーキー[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]基地占拠'''」、「'''ミネアポリス沿岸警備隊基地占拠'''」、「'''[[ハリウッド]]映画の不当なインディアン像に対する抗議運動'''」 * 1971年8月:スー族AIMによる「'''ラシュモア山占拠'''」 : 8月24日、米国政府が「第二次大戦が終われば返す」として軍用地として接収した[[スー族]]の土地200万エーカーを、約束を反故にして返さず、国立公園に組み入れようとしていることに抗議し、3人のスー族女性が大統領の顔の彫られた[[ラシュモア山]]で座り込み抗議したもの。スー族AIMの[[リー・ブライトマン]]らがこれに支援参加し、スー族の土地から不法に米国政府が伐採した木材資源の総額支払い要求を含め、[[ブラックヒルズ]]の[[スー族]]所有の確認を求めて、数ヶ月にわたりこれを占拠した。 * 1971年:AIMによるアリゾナ州での「'''独立記念日抗議行動'''」と「'''5マイル行進'''」 : [[フラッグスタッフ (アリゾナ州)|フラッグスタッフ]]市警察が[[パウワウ]]の開催にかこつけて、300人ばかりのインディアン達を不当に無差別逮捕し、社会奉仕義務として独立記念日の祭典の後の清掃をさせていた慣習に対し、[[ホピ族]]、[[ナバホ族]]、[[プエブロ]]諸族の援護依頼を受けたAIMが抗議を行い、[[チカーノ]]運動とも共同してこの制度を廃止させた。さらに同州の[[アホ (アリゾナ州)|アホ]]市で、白人に銃撃されたインディアン少年フィリップ・サレホの捜査を要求し、5マイルの抗議行進を行った。 * [[1972年]]3月6日:AIMによる「'''イエロー・サンダー殺害事件抗議行進'''」 : 2月にパインリッジ[[保留地]]でオグララ族男性イエロー・サンダーを面白半分に殺した白人グループの逮捕と捜査のやり直し、インディアンに対する法的保護を要求し、1万6千人のインディアンが集結。ネブラスカ州[[ゴードン (ネブラスカ州)|ゴードン市]]市庁舎まで、約1千人が太鼓を叩き、星条旗を逆さに掲げ、伝統衣装で抗議行進を行った。ゴードンの白人達は、「西部劇」のようなインディアン達のいでたちにおびえ、恐慌状態となった。 * 1972年4月:AIMによる「'''[[オジブワ族]]漁業・狩猟権確認抗議'''」 : オジブワ族の許可証なしに白人が保留地内で狩りや釣りをしていることに対する総勢200人による州自然資源局への抗議。 * 1972年11月2日:AIMによる、サンフランシスコからワシントンDCまでの「'''[[破られた条約の旅]]'''」と、「'''BIAビル占拠事件'''」 : AIMは、10月3日、大統領選挙日に合わせて、[[ロサンゼルス]]、[[シアトル]]、サンフランシスコの三地点からワシントンDCに向け、200部族1500人からなるインディアンによる自動車キャラバン隊による抗議行進を行い、11月2日にワシントンDCに到着。しかし、[[アメリカ内務省]]は彼らの受け入れを拒絶し、宿がなかったため、なりゆきで4000人に上るインディアン男女がBIA([[:en:Bureau of Indian Affairs|Bureau of Indian Affairs]]、[[インディアン管理局]])本部ビルに泊り込み、11月7日までの一週間にわたりバリケード占拠。警官隊の包囲の中、連邦政府に対し、20項目の要求を行った。 : 主な項目は、「1869年の[[ララミー条約 (1869年)|ララミー条約]]に対する条約不履行の連邦政府による確認」、「アラスカインディアン部族から取り上げた400万エーカーの土地の返還」、「アラスカ以外のインディアン部族の総計1億エーカーの土地の返還」、「ワシントン議会での発言機会」、「[[メノミニー族]]と[[クラマス族]]の廃絶法案の撤回」、「オクラホマの絶滅認定された部族の再建」、「BIAの廃止」、「インディアンの宗教の保護」、「部族への統治権の返還」、「1950年代から実施されている'''インディアン根絶政策'''の撤回」などである。この20項目の要求は、のちにAIMの基本綱領となった。また、AIMはBIA本部から、多数の[[部族議会]]とBIAの癒着、汚職の証拠書類を押収し、明るみに出した。 * 1972年:UAINEによる「'''メイフラワー号抗議'''」 : [[ユナイテッド・アメリカ・インディアン・オブ・ニューイングランド]](UAINE)のメンバーが[[ピルグリムファーザーズ]]の[[感謝祭]]に抗議し、[[メイフラワー2世号]]([[:en:Mayflower II|Mayflower II]])の[[イギリスの国旗]]をインディアン部族の旗にすり替えた事件。 * [[1973年]]2月27日:AIMのメンバーによる「'''[[ウンデット・ニー]]占拠'''」 : 内務省BIA(インディアン管理局)の改革や保留地の実態調査などを要求して、AIMのメンバーがウンデッド・ニーを71日間に渡って武装占拠。FBI、州警察、軍、BIAとの戦闘が起き、インディアン側に二人の死者が出た。指導者のひとり、スー族の「OSCRO(オグララ・スー権利組織)」の運動家[[ペドロ・ビソネット]](Pedro Bissonette)は、12月にBIAによって射殺された。ラッセル・ミーンズはBIAに背中から[[肝臓]]を打ち抜かれ重傷を負った。また、AIMの[[レナード・ペルティエ]]({{Lang|en|Leonard Peltier}})は[[終身刑]]となり、無実が証明された今も投獄されている。 * [[1974年]]:カナダインディアンによる「'''[[トノラ・パーク]]占拠'''」 : カナダ政府に対する、カナダインディアンの権利回復抗議行動。AIMも支援要請を受け、占拠に参加。 * [[1975年]]1月1日:メノミニー族による「'''元修道院占拠'''」 : [[メノミニー族]]戦士団が、部族から没収された土地と医療施設の代償に、[[ウィスコンシン州]][[グレシャム (ウィスコンシン州)|グレシャム]]の廃修道院の明け渡しを政府に要求。砦となった修道院に35日間立てこもり、州は軍を派遣し膠着状態となった。AIMも参加。仲介交渉人として、俳優の[[マーロン・ブランド]]も篭城に加わった。 * [[1978年]]2月11日:「'''[[ロンゲスト・ウォーク]]'''」 : BIA(インディアン管理局)によるインディアンの土地の開発に抗議して、サンフランシスコのアルカトラズ島からワシントンに向けて、400人以上のインディアン、白人、黒人、アジア人、日本人が4828キロ(3,000マイル)を行進したもの。インディアン達は、[[ホワイトハウス]]の門前に[[ティピー]]を建てた。ロンゲスト・ウォークは、「[[涙の旅路]]」などのインディアン強制移住の苦難を再現したものであり、デニス・バンクスが、[[ジム・ソープ]]の業績を記念し、平和的な抗議行動として発案したもの。ジム・ソープの子供達も参加した。以後、現在まで毎年行われている。 ==== レッド・パワー以後の抗議運動 ==== * [[1983年]]:[[ブラックヒルズ]]の聖地[[ベアビュート]]([[:en:Bear Butte|Bear Butte]])の観光開発に反対するラコタ族の訴訟。 * [[1985年]]:オーロネ族の「'''部族の共同墓地破壊に対する抗議'''」 : サンフランシスコの[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]にある、「ミッション・インディアン」のムウェクマ・[[オーロネ族]]の先祖代々の墓地が破壊され、ショッピング・センターの建設工事が行われたことに対する抗議。オーロネ族は「'''絶滅部族'''」であるからこれは「遺跡の発掘」なのであり、「墓暴き」には当たらない、というのが白人側の言い分である。女性首長[[ローズマリー・キャンブラ]](Rosemary Cambra)は怒りのあまり、TVが生中継するなか発掘現場で人類学者ウィリアム・ループをシャベルで殴り傷を負わせて逮捕され、看護士資格を剥奪されて夫と職を失った。1万体のオーロネ族の骨は部族の猛抗議を無視して[[カリフォルニア大学バークレー校]]のハースト人類学博物館のインディアン遺骨コレクションに加えられた。遺骨返還を巡っては、現在も係争中である。 * [[1990年]]7月11日:モホーク族による「'''[[:en:Oka Crisis|オカの衝突]]'''」 : ケベックの[[モホーク族]]が、彼らの土地オカの、1960年代からの白人によるゴルフリゾート開発に抗議し、一帯を78日間、バリケード封鎖したもの。州軍との衝突となり、死傷者を出した。 * [[1992年]]7月16日:セネカ族による「'''課税反対抗議'''」 : ニューヨーク州の[[セネカ族]]が、彼らが販売している煙草とガソリンに、州政府が条約を反故にして課税を行うと決定し、それまでの「未払い分」5000万ドルを要求したことに抗議し、カッタランガス保留地を通る国道438号線一帯を数日に渡り封鎖。州警察部隊と乱闘になり、双方に多数の負傷者を出したもの。セネカ族は「どうしても課税するなら、我々から奪った土地を返せ」と主張。州は条約違反の課税要求を取り下げた。 * [[2006年]]:西ショーショーニー族による、「'''地下核実験に対する国連提訴'''」 : ウィンドリバー・ショーショーニー族と南西部の周辺部族、AIMらは、西[[ショーショーニー族]]のネバダの[[保留地]]での、国防総省による相次ぐ地下核実験の強行、ユッカ・マウンテンでの高レベル放射性廃棄物貯蔵所の建設、またこれらに伴う放射能被害に対し、ユタ・ネバダ州議会を巻き込んで長年にわたり抗議を行ってきたが、ついにウィンドリバー・ショーショーニー族は特使派遣団をスイスの国連本部に送り、これらの問題をCERD(国連人種差別除去委員会)に提訴した。3月10日、国連はアメリカ政府に対し、西ショーショーニー族に対する逆告訴と圧迫を「ただちに止める」よう通告した。これを受け、米国政府は6月2日に予定していた700トン級の核爆発実験を中止した。 *[[2007年]]10月5日:「NANC」による、「'''カリフォルニア大学への遺骨返還提訴'''」 : インディアンに保証された連邦法、「[[:en:Native American Graves Protection and Repatriation Act|NAGPRA(アメリカ先住民の墓の保護と部族への送還条例)]]」に基づき、カリフォルニア大学バークレー校ハースト人類学博物館によってさまざまな部族から収奪された、1万3000点以上の遺品と遺骨の返還を求めた、NANC(アメリカ先住民NAGPRA連合)の一斉提訴と大学への抗議デモ。 * [[2007年]]10月7日:AIMによる「'''コロンブス・デー・パレードに対する抗議'''」 : [[コロラド州]][[デンバー]]が開催する「コロンブス上陸記念日のパレード」へのAIMデンバー支局の抗議行進。[[ラッセル・ミーンズ]]ら83人が逮捕された。 * [[2008年]]11月25日:西ショーショーニー族による「'''コルテスヒルズ開発計画に対する差し止め提訴'''」 :ブッシュ政権が認可した、バーリック・ゴールド社による北東ネバダのショーショーニー族保留地内での金鉱他の鉱山開発(2009年1月より予定)に対する、西ショーショーニー族サウスフォーク・バンド、チムビシャ・ショーショーニー族、NGO「グレート・ベイスン資源監視団」による連邦裁判所への永久即時差し止め提訴。開発予定地は同部族の聖地[[テナボ山]]にあり、広さ900エーカー、深さ2,000フィートの露天掘りの穴によって聖山は消滅し、15億7700万トンの岩石、5300万トンの残りかす、1億1200万トンの廃棄濾過資材で一帯は埋め尽くされると試算されている。12月1日、連邦裁判所は公聴会までの計画停止と、差し止め要求の却下を行った。 ==== 反インディアン・マスコット運動 ==== アメリカでは近年になって「人種差別である」とインディアン団体の抗議を受けるまで、大学や高校などがスポーツチームのマスコットにインディアンのキャラクターを採用することも珍しくなかった。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、例えば[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンズ]]の[[ワフー酋長]]({{Lang|en|Chief Wahoo}})や、[[ワシントン・コマンダース|ワシントン・レッドスキンズ]]などがあるが、こういった「侮辱的なカリカチュア」は現在、インディアン権利団体にとって最も活発な抗議対象のひとつになっている。 最も初期の事例では、1970年の「'''スタンフォード大学でのマスコット抗議'''」がある。[[スタンフォード大学]]のフットボールチーム「インディアンズ」の、でたらめな衣装や踊りで応援するインディアン・マスコットの廃止を、同大学のインディアン学生達が申し入れたもので、リチャード・ライマン総長がこれを受け入れたために、白人の大学関係者側からは「なぜ廃止するんだ」と轟々たる非難が集まる論争となり、以後、こういった冒涜的なスポーツ・マスコットに対する廃止要求は全米に広がっていく嚆矢となった。ライマン総長はのちにこう語っている。「ブルドッグか虎のように、特定の少数民族すべてをマスコットにする権利が、我々のどこにあるだろうか?」 2005年8月、こうした「反インディアン・マスコット運動」の高まりを受け、[[全米大学体育協会]] (NCAA)は、「敵意を持ち虐待的」に表現されたインディアンのマスコットの使用を、ポストシーズンのトーナメント以降禁止した。 これと併せて、「インディアンズ」や「ブレーブス」といったプロ野球チームで、白人の応援団による「羽飾りをつけ、太鼓を叩き、手斧型の応援バットを振り回す(手斧を振り回すような風俗はそもそもインディアンにはない)」といった応援が行われていることに対し、「侮辱的なカリカチュアである」として、1980年代からインディアン団体が猛抗議を続けている。 一方、ユタ州の「ユタ大学」はNCAAの決定を不服として、同大学の「ユテ族(UTE)」、「走るユテ族(Running Ute)」のチーム名を'''[[商標登録]]'''し、その見返りに[[ユト|ユテ族]]学生に対し奨学金を支払うと約束した。しかし、同大学がこれを守らず、奨学金を払っていないとして、2008年、ユテ族学生たちが同大学内でデモ行進をするなど、抗議運動が高まりつつある。 [[スー族]]はノースダコタ州の[[ノースダコタ大学ダートマス校]]の[[アイスホッケー]]チーム「戦うスー族([[:en:North Dakota Fighting Sioux|Fighting Sioux]])」の名称撤廃を求めて、同大のスー族学生を中心に30年来の抗議運動を展開しているが、同校は2000年にこれを「伝統的な名である」として拒否し、全スー族と州をあげた大論争となっている。テキサス大学オースティン校のジャーナリズム教授[[:en:Robert Jensen|ロバート・ジェンセン]]は、2003年にノースダコタ大で行った数多くの批判演説のなかで、「“野蛮人”[[トーマス・ジェファーソン]]や[[フランクリン・ルーズベルト]]こそが“戦うスー族”なのです。仮に第二次大戦でナチがアメリカに勝った世界があったとして、“戦う[[ユダヤ人]]”というマスコット名が生まれ、伝統に従って存続しているとしたらどうでしょうか」とこれに抗議している。同チームのデタラメなインディアンマスコット類は一掃され、オジブワ族のデザイナー、ベネット・ブライアンによるロゴに置き換えられた。 == 現状 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度が取られているが、いったん破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失して[[アルコール飲料]]や[[ギャンブル]]に耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られる。中には伝統文化を見世物とし、観光化して生活の糧を得る人も見られ、米国地域社会に溶け込んで生活する人もあるが、その一方でインディアン居留地の中で白人・欧米社会から断絶して暮らす人もある。伝統文化を守る人たちもいるが、その多くは不毛の地、極貧地域で、政府からの補助金が出るため、勤労意欲も削がれるなど、今日的な問題を抱えている。このように、長い差別と民族衝突の歴史が、双方の間に溝を残している部分も根強く、関係修復は簡単ではない。 現代社会では、インディアンの社会的平等の実現が難しいといわれている。政府の政策や少ない開発資金では健康医療や教育などの点で生活の質を十分に向上させにくいのが現状である。特に居留地内では深刻な問題である。例えば、スー族が住むサウスダコタ州の[[パインリッジ居留地]]([[:en:Pine Ridge Indian Reservation|Pine Ridge Indian Reservation]])は他の居留地よりも貧しい。この居留地に住むスー族の収入は平均的なアメリカ人の3分の1(1999年の平均年収は3800[[アメリカ合衆国ドル|ドル]])、失業率は3倍の85%であり、住民の97%が連邦政府の定める[[貧困線]]よりも下の生活水準にある。多くの家族は上下水道、電気、電話のない生活をしており、平均寿命は男性47歳、女性50歳代前半と、[[西半球]]で最低の水準にある。[[2002年]]度の居留地における農業の総生産高は3300万ドルと推定されているが、実際の部族の収入となったのはその3分の1以下であるという。 こうした貧困の中、未成年の自殺者の割合はアメリカ国家平均の3倍を超えており、多くの保留地は10倍に上っている。ここ数年内でも、[[ブラックフット族]]の少女(当時18歳)が学校での飲酒を責められ、優等生だったにも拘らず、[[モンタナ州]]の保留地で[[精神安定剤]]を多量摂取して自殺した。[[アイダホ州]]のフォートホール保留地の16歳の少年は、郡刑務所で首吊り自殺をしたが、ちょうど2日前に彼は[[ロバート・F・ケネディ]]上院議員と保留地に関する状況について話し合ったばかりだった。麻薬を常用したり、ギャングに憧れる若者もおり、こうした厳しい状況の中でインディアン達は自分達で何とかこうした問題に取り組もうとしている。 [[#インディアン・カジノ|インディアン・カジノ]]経営のほか、観光や製造業などに進出している部族もあるが、[[ユタ州]]の[[ゴシュート族]]のように、[[保留地]]を放射性廃棄物や生物兵器工場などの、産業とは名ばかりの汚染物質最終処分場にされている部族も多い。[[カリフォルニア州]]の繁栄は、上流の部族の水源を奪って実現している。[[セネカ族]]や[[マンダン]]族の保留地の大半は、ダム建設で沈められた。[[ウィンドリバー・ショーショーニー族]]の保留地は地下核実験場にされ、国連に提訴する事態にもなっている。ほとんどの保留地が産業を持てず、なし崩しにこういった負の遺産を受け入れさせられている。 ハリウッド映画「[[ラスト・オブ・モヒカン]]」(1992年)の撮影現場で、インディアンがどう扱われていたか、出演した[[ラッセル・ミーンズ]]はこう報告している。「我々は撮影中、まるでモヒカンの村は“映画に出てくる(ステレオタイプの)アフリカの村”だな、と言い合った。ノースカロライナのロケ地に900人以上のインディアン・エキストラが集められ、山奥のボーイスカウト宿舎に泊まらされた。ここで我々は2人部屋に8人ずつ詰め込まれ、さながら強制収容所だった。インディアンの出番は主に夜だったので、夏の盛りに日中いっぱい、われわれは猛暑と湿気を耐えねばならなかった。医者は撮影で出払っていて見当たらず、我々は出歩くことも禁じられた。白人スタッフがストライキを始め、続いて我々インディアン・エキストラもストに入った…」 === インディアンと飲酒 === メキシコと、国境付近の一部の部族を除けば、インディアンには酒造の文化がなく、飲酒をコントロールすることができない。このため、彼らには飲酒のペースといったものがなく、一壜あれば、一壜を一気に飲み干して泥酔してしまう。かつて白人が、彼らと不平等な条約を結ぶ際、多量の[[ウィスキー]]を持ち込んだことはよく知られた事実である。こうした人々が[[保留地]]で自活の道を絶たれ、[[アルコール依存症]]となるのは、[[エスキモー]]や[[アボリジニ]]など他国の先住民にも見られる問題である。完全禁酒を掲げる部族自治区も多い。 アルコールは、インディアンにとって永らく失業に伴う暇つぶしであり、また白人にとってインディアンに対する政治的圧力の手段だった。アメリカ版「タイム」誌は、ある中西部の保留地の、4,600人の成人のうち、男性21%、女性44%が、3年間に少なくとも一回、酩酊の理由で逮捕されたとし、多くの保留地では、インディアン達が外の街で酔っ払って、家へ戻る途中に自動車事故で死なないようにと、保留地でバーや酒店を開けるようにしていると報告している。 「NIYC(全米インディアン若者会議)」副議長を務めた[[ポンカ]]族のビル・ペンソニューが、1969年2月24日に、上院インディアン教育小委員会の前で述べた証言のなかの以下の一節は、アルコールの問題についての議論の際に、よく引き合いに出される一文である。 「'''我々はワインにひたすら没頭する。なぜなら、酔いつぶれているときだけが、唯一我々インディアンが自由な時だからだ。'''」 === 連邦政府の承認 === アメリカ合衆国には563の連邦承認部族政府(インディアン・テリトリー)が存在する。合衆国はこれらの部族の自治政府および、[[部族の主権 (アメリカ合衆国)|部族の主権]]と自決権を条約上で明記し認めている。これは、19世紀に推し進められた条約交渉の中で、'''強制移住'''をからめての[[保留地]]への定住と引き換えに連邦が出した条件である。各保留地は、[[アメリカ内務省]]所轄の'''BIA(インディアン管理局)'''の管理下にあり、これらの自治政府は、それぞれの保留地に置かれたBIA直轄の保留地事務所の監督下にある。 '''部族政府(部族議会)'''は「部族領地内での立法、課税、住民権や免許の認可など、自治政府の部族の力の制限は州への制限と等しく、例えば、交戦権、外交関係の締結、硬貨や紙幣の製造などを含む」として、しばしば「インディアン保留地は独立国家に等しい力を持つ」などと表現されるが、これには注意が必要である。 なぜなら、部族議会の決定はBIAの承認もしくは影響なしには行えないものであり、ほとんどの部族議会は連邦の傀儡として腐敗している。部族の行事といったものは、強弱の差こそあれ、必ず[[保留地管理官]]たちの監視下にある。自治権とは言っても、カナダの先住民のように一定の裁判権を持つわけでもなく、主権のひとつとしてよく例に挙げられる[[部族警察]]も、あくまで州警察の補助的権限しか持っていない。保留地で罪を犯した部族員は、州当局によって裁かれるのである。後述の「[[インディアン・カジノ]]」でも、カジノを持ちたい部族が連邦の許可をとりつけても州の許可が下りず、実現できないでいる例は多い。インディアンは、連邦と州の双方から縛られている。自主独立の強さで知られる[[イロコイ連邦]]の一部は、この部族議会を置いていない。つまり連邦からの金銭的な援助をいっさい断つことで、連邦が干渉できない自治力を維持しているのである。 また、州政府に承認されているものの連邦政府に承認されていない多くの部族が存在する。[[インディアナ州]]の[[マイアミ族]]などは連邦政府の承認を拒絶し続けている。長年にわたりBIAから承認要求を拒否され続けてきたカリフォルニア州北部の[[オーロネ族]]([[:en:Ohlone|Ohlone]])などは、他部族による1969年の「アルカトラズ島占拠事件」に不快感を示し、しかもこのときに[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]から、アルカトラズ島を部族の[[保留地]]として「提供」を持ちかけられて、これを侮辱として断ってさえいる。 現在もアメリカ東部の小さな部族の多くが、公式な承認を得ようとしている。連邦による「インディアン部族」としての承認は、部族に年金が支給されるようになるなど、現実的な利益を生む。しかし部族としての承認を得る過程で満たされなければならない多くの不条理な規則があるため、きわめて困難である。部族集団として承認されるためには、部族の家系の広範囲に及ぶ系譜上の証明を提出しなければならないが、これまで多くのインディアン部族は、多くの権利を剥奪されていたため、遺産の相続を拒絶していたのである。また、メキシコ国境をまたぐ[[パパゴ]]族(トホノ=オ・オダム族)は、アメリカからもメキシコからも部族認可を拒まれ、現在「インディアン部族界の孤児」と呼ばれる状況に陥っている。 [[バージニア州]]では、インディアンは異様な問題に直面している。バージニア州には連邦承認部族が存在しないが、それはひとえに州の人口動態統計局の記録係を[[1912年]]から[[1946年]]まで務めたウォルター・アシュビー・プレッカー([[:en:Walter Ashby Plecker|Walter Ashby Plecker]])によるところが大きい。プレッカーは[[優生学]]を信奉する[[白人至上主義]]者であり、州内のインディアンは[[アフリカ系アメリカ人]]と混交しつつあると信じていた。「白人」と「有色」のただ二つの人種だけを承認するという法律が州議会で可決され、プレッカーは自治体政府にすべての州のインディアンを「有色」として再分類するよう圧力をかけ、バージニア州に居住するインディアンの記録の大々的な破壊を引き起こした。連邦による部族の承認と、それが生み出す利益を受けるためには、個々の部族は[[1900年]]以降の部族の継続的な存在を示す必要があるが、連邦政府は、プレッカーによる記録の破壊を知りながらこのお役所的な要件をこれまで曲げようとはしなかった。 現在、この要件を緩和する法案が、バージニア州選出の[[ジム・ウェブ]]([[:en:Jim Webb|Jim Webb]])および[[ジョン・ウォーナー]]上院議員に支持され、[[アメリカ合衆国上院|上院]]の主要な委員会に好意的に報告されている。しかし[[アメリカ合衆国下院|下院]]ではバージニア州の[[ヴァージル・グッド]]([[:en:Virgil Goode|Virgil Goode]])議員が、連邦の承認はインディアン・カジノ設立につながり、州内のギャンブルの促進に繋がるとして、この法案に反対する。 2007年12月、[[ラコタ]]・[[スー族]]は、“[[アメリカ合衆国]]政府は独立地域であることを保障する条約を締結以来150年にわたって遵守していない、我らの忍耐はもはや限界に達した”として、条約の破棄とアメリカ合衆国からの独立を宣言。[[独立国家]][[ラコタ共和国]]であることの承認を求める書簡を[[ボリビア]]、[[ベネズエラ]]、[[チリ]]、[[南アフリカ共和国]]などに送付すると共に[[アメリカ国務省|国務省]]にも宣言書を提出した。現在、国づくりの方向性を巡っては、部族は二派に分裂している。「文化」の項でも上述したように、平原部族である彼らの文化は部族全体を統括するような指導者はおらず、個人主義に基づく合議制だからである。 === 連邦政府の部族認定解除 === これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、[[ドーズ法]]を盾に[[保留地]]を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、[[インディアン寄宿学校]]などといった施政で強制的に同化政策を押し進めてきた。1887年に1億3800万エーカーあったインディアンの[[保留地]](Reservation)は、次々にBIAによって「保留(Reserve)を解消」されて、現在では総計5500万エーカーまで削減されてしまった。また、20世紀初頭から連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「'''絶滅政策'''」を採ってきた。 こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「'''絶滅部族'''」として「解散」させられた。連邦政府・BIAがあるインディアン部族を「絶滅指定」すると、おもに次のような事態となる。 :1)[[保留地]]の「保留」が解消され、部族民は部族固有の土地に対する権利をすべて没収される。部族の土地に密着して農業や事業を行っていた部族民は、一夜にして根なし草となり、都市部へ下働きに出ざるを得なくなる。 :2)BIAの義務である、部族に対する年金支給が打ち切られる。インディアンに多く見られる母子家庭はただちに路頭に迷う。 :3)BIAの義務である、部族民に対する健康保健や、文化活動への援助などの福利厚生サービスがすべて打ち切られる。部族の伝統を教える「部族学校」は教育費援助を打ち切られ、土地の没収とともに閉鎖される。 この部族認定解除の方針に対し、1960年代から[[レッド・パワー]]とともに散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、[[メノミニー]]族、[[ピクォート]]族が復活した。しかし、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、[[アメリカ内務省]]を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。 この再認定要求の流れとして、混血度の高い部族ほど、「何分の一までの混血なら部族員とみなす」と部族独自の混血度の規定を設け、規定を緩めて再結集しようとする傾向があり、ふた桁以上の混血度でも正部族員と認める部族もある。(この規定でいけば、16分の1[[チェロキー族]]の血を引いている[[ビル・クリントン]]も正式なインディアンということになる)年々この要求は広がりつつあり、連邦側も対応に苦慮している。とはいえ、混血と同化を押し付けてきたのは連邦政府のほうである。 20世紀には「'''インディアンの[[バスティーユ監獄]]'''」と表現されたBIAであるが、2000年に副局長に就任した[[ポーニー族]]のケビン・ガバー(Kevin Gover)局長が「同化政策」に対する「[[インディアン寄宿学校#BIAの歴史的謝罪|歴史的な謝罪]]」を行い、その施政は軟化しつつある。その一方、2000年7月、[[ワシントン州]]の[[共和党 (アメリカ)|共和党]]は、部族政府を廃止する決議を採択した。[[2004年]]現在、未だにインディアンの所有地から[[石炭]]や[[ウラン]]が盗まれているという事態が申し立てられている。アメリカ行政管理予算庁による1972年の研究では、連邦政府による1000項目の対インディアン支援プログラムのうち、部族に役立っているものはわずか78項目だけであるとの報告がなされている。 === 貧困問題 === [[2013年]]、[[日本大学]]の武井 勲は、絶対[[貧困率]]・相対貧困率ともに[[白人]]の水準を大きく上回る分析結果を発表しており、ネイティブアメリカンというステータスが貧困に密接に結びついていると示唆した<ref>武井2013, 72頁</ref>。またこれによる[[自殺率]]も高いといわれる。 === インディアン・カジノ === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} {{Main|インディアン・カジノ}} [[カジノ]]事業は現代を生きるインディアン部族にとっての主要な経済収入のひとつで、部族が運営する「インディアン・カジノ」は、「現代の[[スイギュウ|バッファロー]]」ともといわれ、インディアンの重要な産業となっている。[[保留地]]が狭い不毛の地である部族には、カジノが唯一の収入源である場合も多い。 1979年12月14日、[[セミノール|セミノール族]]はフロリダ州ハリウッドの[[保留地]]で、高額賭率の[[ビンゴ]]場を開設した。フロリダ州は即座にこれを停止させようとし、部族と州はカジノ経営の是非を巡って法廷闘争となった。この歴史的な係争は「'''フロリダ・セミノール族対バターワース'''」裁判と呼ばれている。1981年、連邦最高裁判所はセミノール族のビンゴ場経営の権利を支持する判決を下した。1987年にはカリフォルニアの「ミッション・インディアン」の[[カバゾン・バンド]]が高額賭率ビンゴ場を開設。その差し止めを要求する州と法廷闘争となった。米国最高裁判所は「市民法280条([[#「ブライアン対イタスカ郡」裁判|「ブライアン対イタスカ郡」裁判]])」を基に、インディアン部族による賭博の開催は連邦と州の管轄外であり、カリフォルニア州にそれを罰することはできないと裁決を下した。 1988年、連邦議会は、インディアンの賭博場経営と規制に関する「[[:en:Indian Gaming Regulatory Act|インディアン賭博規定法令(IGRA)]]」を通過させた。これは、'''連邦政府によって認識された部族が'''(つまり、「絶滅認定」された部族はカジノ運営できない)州との交渉を経て、アメリカ国の規定内および室内で行うことを前提としている。言い換えれば、州がこれを禁止した場合、インディアンはカジノ設営ができないということでもある。 この条例の制定にあたり、インディアン・カジノ運営の審査と認可業務に当たらせるべく連邦は「全米インディアン賭博委員会(NIGC)」を設立。インディアン側もインディアンのカジノによる自給自足と福利厚生を保護すべく「全米インディアン賭博協会(NGIA)」を設立した。 [[1992年]]、[[コネチカット州]]の[[ピクォート|マシャンタケット・ピクォート族]]が「[[フォックスウッズ|フォックスウッズ・カジノ・リゾート]]」をオープンし、さらにダコタ・[[スー族]]が「ミスティック・レイク・カジノ」を開き大きな利益を得て大成功。他の部族もギャンブル事業に乗り出し、現在、アメリカにインディアンが運営するカジノは377ヶ所あり、ほとんどの州にインディアン・カジノが開設され、[[アパッチ族]]や[[チョクトー|チョクトー族]]、[[:en:Oneida tribe|オナイダ族]]、チペワ族([[オジブワ族]])など連邦政府が認定する562の部族がギャンブル事業を運営している。これらインディアン・カジノの年間総収入は約1兆6500億円に達している。かれらのカジノのほとんどは都市圏から離れた場所にあるが、遠距離であるにもかかわらず来客数は年次増大しており、[[保留地]]全体を潤す効果も甚大である。 1990年代に入ると、マサチューセッツやオレゴンをはじめ各地の州議会で「賭博は教育・道徳的に許されない」との理由からインディアン・カジノの運営禁止決議が相次いでいる。しかし、インディアン・カジノの収入の多くは「没収された土地の買い戻し」や「道路の舗装・整備」、「部族の医療や教育、居住」などの資金など、インディアンの福利厚生に使われているものであり、州とインディアン部族のカジノを巡る係争は年次拡大している。 そもそもインディアンの衣食住の権利を詐取してきた白人が「道徳」を理由にカジノを禁止するのは理不尽ではないかとの内外の批判も多く、またインディアン・カジノが自治体にもたらす税収は莫大なものであり、また非インディアンの雇用をも生み出す一大事業ともなっている<ref group="注">これら州によるカジノ禁止決定に対する抗議デモの参加者には失業した白人カジノ従業員の姿も多い。</ref>。 一方、カジノ経営をする部族の中には十分な収入が得られないものもあり、カジノの設立や運営を仲介する白人企業に支払う手数料も高額にのぼるなど、ギャンブルの経済効果を疑問視する声もある。伝統的に自給自足度の高い定住農耕民である[[ホピ族]]はカジノ事業を敬遠し、また有名な観光地を持つ[[ナバホ族]]は2度の住民投票でカジノ建設を否決してきた。カジノに頼らざるを得ない弱小の部族とは状況が異なる。 ==著名人== {{see also|Category:アメリカ合衆国の先住民族}} インディアン、及びハーフの著名人 * [[バフィ・セント・メリー]] * [[シェール]] * [[ロボ (ネイティブ・アメリカン)|ロボ]] * [[レッドボーン]] * [[ジミ・ヘンドリクス]] :ハーフのロックギタリスト * [[マリア・トールチーフ]] :バレリーナ * [[カリーナ・ロンバード]] :女優 ==その他== === ネイティブ・アメリカンを題材とした作品 === * [[トム・ソーヤーの冒険]] ''The Adventures of Tom Sawyer'' (1876) * [[モヒカン族の最後]] ''The Last of the Mohicans'' (1920) * [[折れた矢 (1950年の映画)|折れた矢]] ''Broken Arrow'' (1950) * [[ジェロニモ (1950年の映画)|ジェロニモ]] '' I Killed Geronimo'' (1950) * [[燃える平原児]] ''Flaming Star'' (1960) * [[アパッチ (1964年の映画)|アパッチ]] ''Winnetou Apache Gold'' (1964) * [[シャイアン (映画)|シャイアン]] ''Cheyenne Autumn'' (1964) * [[ソルジャー・ブルー (映画)|ソルジャーブルー]] ''Soldier Blue'' (1970) * [[小さな巨人 (映画)|小さな巨人]] ''Little Big Man'' (1970) * [[大草原の小さな家]] ''Little house on the Prairie'' (1974~1982) * [[パウワウ・ハイウェイ]] ''Powwow Highway'' (1988) * [[ヤングガン]] ''Young Guns'' (1988) * [[レネゲイズ (映画)|レネゲイズ]] ''Renegades'' (1989) * [[ダンス・ウィズ・ウルブズ]] ''Dances with Wolves'' (1990) * [[サンダーハート]] ''Thunderheart'' (1992) * [[ラスト・オブ・モヒカン]] ''The Last of the Mohicans'' (1992) * [[ジェロニモ (1993年の映画)|ジェロニモ]] ''Geronimo'' (1994) * [[心の指紋]] ''The Sunchaser'' (1996) * [[ブレイブ (映画)|ブレイブ]] The Brave (1997) * [[スモーク・シグナルズ]] ''Smoke Signals'' (1999) * [[エッジ・オブ・アメリカ]] ''Edge of America'' (2003) *[[ウインド・リバー]] ''Wind River'' (2017) === ネイティブ・アメリカンの部族名をもつ兵器 === アメリカ・インディアンの各部族はどれも勇猛で知られたため、アメリカで開発された兵器(特に[[ヘリコプター]])の[[愛称|ペットネーム]]としてよく使われている。 * [[UH-1 (航空機)|UH-1]]:ペットネームは[[イロコイ族]]から * [[CH-47 (航空機)|CH-47]] :ペットネームは[[チヌーク族]]から * [[AH-56 シャイアン|AH-56]]:ペットネームは[[シャイアン族]]から * [[OH-58 カイオワ|OH-58]]:ペットネームは[[カイオワ族]]から * [[UH-60 ブラックホーク|UH-60]]:ペットネームは[[ソーク族]]の酋長「黒い鷹」([[:en:Black Hawk (Sauk leader)]])から * [[AH-64 アパッチ|AH-64]]:ペットネームは[[アパッチ族]]から * [[RAH-66 (航空機)|RAH-66]]:ペットネームは[[コマンチ族]]から * [[プエブロ (環境調査艦)]]:艦名は[[プエブロ族]]から == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 原語表記 === {{Reflist|group="原"|25em}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|50em}} === 出典 === {{Reflist|50em}} == 参考文献 == *{{cite journal ja-jp |author=武井 勲|authorlink=武井勲|url=https://www.ir.nihon-u.ac.jp/pdf/research/publication/02_34-1_07.pdf |journal=国際関係研究|format=PDF |title=ネイティブ・アメリカンと貧困|publisher=[[日本大学]]国際関係学部国際関係研究所|volume=34|issue=1|pages=67-76|year=2013-10}} == 関連項目 == {{Commons|Native Americans}} * [[先住アメリカ人の一覧]] * [[シェール]] * [[マリア・トールチーフ]] * [[カリーナ・ロンバード]] * [[マルディグラ・インディアン]] * [[インディアン寄宿学校]] * [[インディアン居留地]] * [[トマホーク]] * [[ネイティブ・アメリカン・マスク]] *[[ネイティブ・アメリカン・ヘリテジ・デー]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ねいていふあめりかん}} [[Category:アメリカ合衆国の先住民族|*]]
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Basic Input/Output System
Basic Input/Output System(ベーシック インプット/アウトプット システム、頭字語:BIOS(バイオス))とは、ファームウェアの一つで、コンピュータに搭載されたプログラムのうち、ハードウェアと最も低レベルな入出力を行うためのプログラムである。 大きく意味合いとして がある。 BIOSはパーソナルコンピュータ(PC)に組み込まれており、電源投入と同時に実行される。ハードウェアを初期化し補助記憶装置からブートローダーを呼び出す。またキーボードやディスプレイなどの入出力装置をプログラムから利用するためのサービスを提供する。プログラムはハードウェアに直接アクセスするのではなく、これらサービスを利用する事でハードウェア差を気にしなくて良くなる。ただし近代的なオペレーティングシステム (OS) はこの抽象化層を使用せず、OSのデバイスドライバで直接制御する場合が多い。 IBM PC/XTのオリジナルのBIOSにはユーザインタフェースが無く、基板上のジャンパスイッチで設定した。システム不具合時はエラーメッセージとブザー音で通知した。近代的なPCでは、起動時に特定のキーを押すことで設定プログラムが起動し、画面とキーボードで設定を行える。 1980年代より1990年代中盤まで主流であったMS-DOSはディスク、キーボード、画面表示などBIOSのサービスに依存していた。Microsoft Windows NT、Linux、プロテクトモードで動作中のOSでは一般にOSのロードと起動までを担い、起動後はBIOS割り込みルーチンを使用しない。 BIOSはマザーボードの不揮発性メモリに格納され、デバイスとチップセットのインタフェースを担う。初期のモデルではEP-ROM等に格納され、BIOS書き換え時はマザーボードからチップを取り外し、専用装置で書き換えた後、再装着する必要があった。近代ではフラッシュメモリに格納され、取り外しなしでも書き換えが可能である。これにより更新やバグ修正が容易になった代わりにRootkitに脆弱になる可能性が生じた。 2010年からUnified Extensible Firmware Interface (UEFI) に移行されている。UEFIはBIOSの技術的問題に対処することを目的とした後継である。 ゲイリー・キルドールがCP/Mの用語として1975年に初めてBIOSを用いた。OS起動時にマシン固有のハードウェアにアクセスする部分を記述していた。後に他機種にも使われ、PC/AT互換機でもデファクトスタンダードとなった。 MS-DOSやPC DOS、DR-DOSに存在するファイル "IO.SYS"、"IBMBIO.COM"、"IBMBIO.SYS"、"DRBIOS.SYS" などを"CP/M BIOS" になぞらえて "DOS BIOS" と呼ぶ場合がある(一般にCP/M対応機のROMには簡素なブートローダーしかない)。 PS/2でIBMはBIOSをリアルモードとプロテクトモードに分割した。リアルモード部は既存のOS(DOS等)との互換性を目的とし "CBIOS" (Compatibility BIOS) と呼び、OS/2などのマルチタスクOSのために作成された部分を"ABIOS"(Advanced BIOS)と呼んだ。 IBM PCとXTの時代には設定のユーザーインタフェース (UI) はマザーボード上ディップスイッチであった。それ以降は画面に表示されたメニューをキーボードで操作するインタフェースである。マウス(ポインティングデバイス)による操作が出来るものもある。以降80286CPU搭載機までは電池でバックアップされたCMOSに保存されていた。IBM ATではビデオカード、メモリーサイズ、ハードディスクを設定するには、ROMのプログラムではなく "reference diskette" という特別なディスクを挿入して行わなければならなかった。 PC/AT互換PCではセットアップユーティリティで各種設定をする。この方式は1990年代から変わっていない。ユーザーは画面に表示されたメニュー形式のインターフェースをキーボードで操作する。ブートに失敗した場合にはテキストメッセージが表示され、ユーティリティで設定を修正する、無視して続行する等のユーザーフレンドリーな表示が可能である。またBIOS設定は電池でバックアップされたRAMではなくフラッシュROMに格納するものもある。 設定画面をBIOSと称する向きもあるが厳密には誤りである。 ハードウェアへのアクセスは主に入出力レジスタの操作で行うが、その動作や配置はハードウェア種によって異なる。また、読み書きのタイミングや順序にも手順がある。このためアクセス手順はアプリケーションで記述するより、ハードウェア種毎にサブルーチンを用意する方が有用でありこれがBIOSである。ISAやPCIなどではボードのROMにBIOSプログラムがあり、これはメモリ上に展開されてアプリケーションから利用される。マザーボード側のBIOSをSystem BIOS、拡張カードのBIOSを拡張BIOSと区別して呼ぶことがある。 また同種のハードウェアでも操作方法が異なる場合もある。これに対処するためBIOSの呼び出しインタフェースは共通化されており、アプリケーションはBIOSサービスを呼ぶだけで複数のデバイスに対応できる。このような共通インタフェースはアプリケーションバイナリインタフェース(ABI)と呼ばれる。 例として、PC/AT互換機のVGA BIOS(Video BIOS、ビデオバイオスとも)は、共通化されたABIを呼び出す事でハードウェアの違いを意識せず文字、画像の表示を可能にした。これはビデオカードのROMに実装された拡張BIOSである。 同様にハードディスク、フロッピーディスク、キーボードなどさまざまな入出力処理を行うBIOSが存在するが、これら基本的なものはSystem BIOSでありマザーボードのROMに実装される。 しかし、上記が有効なのはOSがシングルタスク型の場合であり、マルチタスクOSではデバイスドライバが処理を行う。特にリエントラントが考慮されていないBIOSもあり、各アプリケーションが非同期にこれを呼び出すとOSはハードウェアリソース管理が困難になる。このためハードウェア管理はデバイスドライバが一元的に行い、アプリケーションはOSのシステムコールを利用する。 やむを得ずBIOSを呼び出したい場合、専用のシステムコールで可能だが、そのハードウェアがOSに保護されている場合は動作するとは限らない。 組み込みシステムではハードウェアのバリエーションが少なく、BIOSのような中間層インタフェースは持たないためファームウェアと呼ばれることが多い。 電源投入時、ハードウェアの初期化およびブートローダーを読み込むプログラムが必要になる。つまり補助記憶装置からファイルの読み込みが行える状態になるまでのプログラムをROMに用意しておく必要がある。これらのプログラムはInitial Program Loader (IPL) やブートストラップローダとも呼ばれる。 プロセッサがリセットされると、リアルモードのアドレス空間1MBの内、最後尾付近のアドレス(0FFFF0h 番地)にある命令を実行する。そのアドレスに記されたジャンプ命令により、BIOSの実行コードの先頭にジャンプして処理が開始される。電源が投入された場合(「コールドブート」)はPower On Self Test (POST) が実行され、リセットボタンが押された場合(「ウォームブート」)はPOSTを省略し、メモリのテストにかかる時間を節約する。 Power On Self Testは、CPU、RAM、割り込み、DMAコントローラなどの搭載デバイスのほかに、チップセット、ビデオカード、キーボード、ハードディスク、光学ドライブなどのハードウェアのシステム構成をテスト、認識、初期化する。次いでBIOSは起動デバイスに指定された記憶装置を探し、ブートローダープログラムの場所を特定して実行、PCにコントロールを委ねる。この過程をブートストラップ、略してブートと呼ぶ。 PC/AT互換機のように、様々な種類のハードウェアが増設可能な場合、初期化手順やハードウェア構成に自由度を持たせておく必要がある。初期化内容などをディップスイッチやソフトスイッチで設定できる場合がある。 IBM PCおよびAT互換機の場合、ハードディスクやビデオカードはBIOSを拡張、追加機能を提供するオプションのROMを搭載している。拡張部のプログラムはOSが補助記憶装置から読み出される前に実行される。これらプログラムはハードウェアのテストと初期化を行い、BIOSに新しいサービスを提供あるいは既存のものを上書きする。 例えばSCSIコントローラーは接続されたドライブにアクセスするBIOSを提供し、ビデオカードではマザーボードに搭載されたBIOSのビデオカードに取って代わる。 BIOS拡張ROMはPC全体のコントロールを取得でき、事実上何でも行うことができる。呼び出し側のBIOSに制御権を返さないこともありうる。原理的にはOSまたはアプリケーションを丸ごと搭載する事も出来る。また、ネットワークからブートするような全く違うブートプロセスにすることもできる。IBM PC互換機ではBIOS拡張ROMを搭載したアダプタカード(やROMチップ)を着脱することで、動作を全く違うものに変更できる。 マザーボードのシステムBIOSはブートに必要なキーボード、ディスプレイ、ストレージなどのコードを内蔵している。アダプタカード(SCSI、RAID、ネットワークインタフェースカード、ビデオボードなど)は独自のBIOSを搭載しており、これらはシステムBIOSを置き換える。マザーボードに組み込まれたオンボードデバイスでも動作は同様である。それらのROMはBIOSのフラッシュメモリ上でも別々のコードになっているため、システムBIOSと同時または別々にアップグレードすることもできる。 あるアダプタカードがブート時に必須でありかつシステムBIOSがこれをサポートしていない場合、オプションROMが必要となる。また、オプションROMがあればストレージドライバがなくてもブート途中にデバイスにアクセスできるようになる。RAMやハードディスクを占有する必要もない。また、デバイスとドライバが必ずセットであるためインストールが不要という利点もある。 システムBIOSと拡張ROMの内容を調べるには多数の手法とユーティリティがあり、一例としてはマイクロソフトのDEBUG や Unix系のdd (UNIX)がある。 マザーボード上のBIOSはPOSTを完了した時点で、ほとんどのバージョンの場合オプションROMモジュール(BIOS拡張ROM)を探しに行き実行する。 BIOSは"Upper Memory Area"空間(x86リアルモードでは0xA0000以上のアドレス空間)をスキャンして、発見されたROMのコードを順次実行する。ISA カード上のROMを探す場合、BIOSは0x0C0000 から 0x0F0000 の空間を2 KiB 毎の領域でスキャンして"0x55""0xAA"という連続した2バイトのシグネチャを探してROMのプログラムのエントリポイントを知り、先頭512バイトのブロックのチェックサムを算出して、ROMのチェックサムと一致すればBIOSはそのエントリーアドレスに制御を移す。するとBIOS拡張ROMは拡張機能の初期化ルーチンの実行を始める。 この時点で拡張ROMは実行を引継ぎ、一般的には対象ハードウェアのテストと初期化、ブート後のアプリケーションから利用する割り込みベクターの登録を行う。拡張ROMはユーザー設定インタフェース(診断情報の表示その他)や必要な動作のためにBIOSとそれまでに読み込まれたBIOS拡張ROMのサービスを利用する。 オプションROMは一般的には初期化プロセスの完了時にはBIOSに制御を返す。制御を返されたBIOSは、さらにオプションROMがないかメモリ空間の末尾までサーチを進め、見つけた順に呼び出す動作を繰り返す。 IntelのP6マイクロアーキテクチャ世代以降では、プロセッサのマイクロコードに対するパッチをBIOSに含めることができる。マイクロコードはシステムが起動する度に更新される。この仕組みのない時代にはCPUのバグがあるとCPUの差し替えになり、過去の事例ではPentium FDIV バグによるCPUのリコールが発生したことがある。 デルなどが提供する一部のBIOSは "SLIC" (software licensing description table) という電子署名を内蔵している。(一部ではBIOSタトゥー(刺青)と俗称される) SLICはACPIテーブルに挿入されており、実行コードは含まない。 コンピュータメーカーはWindowsやマイクロソフト製アプリケーションをバンドルするにあたりSLICをもとに認証する例があり、またWindowsソフトウェアを含むシステムリカバリーディスクもこれを利用する。SLICありのシステムでは、コンピュータ製品を対象にしたOEMプロダクトキーでソフトウェアが予めアクティベートしてあり、BIOSのSLICに書かれたXML形式のOEM証明書と照合することで自動アクティベートが実現されている。ユーザーがWindowsのクリーンインストールを行う場合には、OEMキーとSLIC認証の両方が揃っていないとアクティベーションを回避できないが、本来はOEMにより予めカスタマイズされたイメージでリストアするべきものであるため状況としては考えにくい。海賊版Windowsでは、アクティベーションを回避するためにSLICを編集するかエミュレートしている。 一部のBIOSではオーバークロック機能を提供する。これはCPUのクロック周波数をメーカーの保証値より高く引き上げるものである。しかしながらオーバークロックはコンピューターの冷却不足による信頼性の低下と寿命の短縮を招く深刻な悪影響がある。 不適切なオーバークロック設定は部品のオーバーヒートを招き、機械的にコンピュータを壊してしまうこともありうる。 近年のBIOSはこれまでに紹介した以上に複雑な、例えばAdvanced Configuration and Power Interface (ACPI)機能を装備しており、電源管理、ホットスワップ、温度管理などを提供する。 近年はUnified Extensible Firmware Interface (UEFI) への移行が進んでいる。 IBM PCやXT時代は設定用ユーザーインタフェースはマザーボード上のディップスイッチを用いてビデオアダプタのタイプ、メモリーサイズ、ハードディスクのパラメータなど設定したが、80286 CPU登場以降のIBM PC互換機では「リファレンスディスケット」と呼ばれるフロッピーディスクから起動し画面表示され、キーボードから操作し、不揮発性BIOS実装メモリー(CMOS RAM チップ)に設定を記憶するようになった。 80386世代以降のコンピュータではBIOSセットアップユーティリティをBIOS自身に組み込みむようになり、一般に、起動時に "Press F1 to enter CMOS Setup." のような表示が出る間に特定のキーを押すことでメニューに入ることができ、押すキーは機種によって異なっている。BIOSのUIでは などを設定することが出来る。 近年のPCでは起動時のハードウェア初期化で多くの項目に自由度があり、設定内容の一部をユーザーが指示できるようになっている。この場合VGA BIOSなどが正常に起動したあと、特定のキー操作でメニュー形式で画面上に項目を表示することができ、キーボードを使って設定内容を編集し、終了時にバッテリバックアップされたレジスタに保存することができる。編集画面で以前とは異なった内容を保存した場合は、その新たなメモリ内容でハードウェアの初期化が開始される。また次回以降の起動時にこのメモリの内容にしたがってハードウェアが初期化される。このパラメータ設定を行うソフトウェアや設定画面を BIOS Setup(バイオスセットアップ)と呼び、CMOS Setup(シーモスセットアップ)とも通称される。 プラグアンドプレイは、ハードウェアのメモリマップや割り込み要求信号 (IRQ) をプログラマブルに変更できる機能で、従来はジャンパーピンなどで設定していたものを、BIOSプログラムが起動時に一定の手順で自動的に設定するものである。BIOSのパラメータ設定を容易にするために登場した機構であるが、ISAのPnPデバイスでは一部不完全で問題が発生することがあり、手動で設定が必要な場合がある。その際に、設定を変更するにもメニュー設定画面表示までBIOS起動が進行しないことがあり、そうなると問題解決はかえって複雑になる。 マザーボードリソースの設定も、動作クロックや電源電圧といったハードウェアに密接した設定もメニューから変更可能な場合がある。基本的には自動設定もしくは初期値が適切な値をとるが、自動での設定がうまくいかない場合等に備え、任意の設定を行うことも可能にしてあるものもある。中にはハードウェアの定格動作に反するオーバークロックといった仕様に基づいた設定としては不適切な状態にすることも可能であり、その設計マージンや個体差によって、起動できない状況も発生する場合もある。それが設定の範疇と故障を起こさないものであれば、後述のように設定を初期値に戻すことで、再度起動する状態に戻すことが可能である。 PCトラブルの際に、BIOSの可変設定部分を初期状態に戻す事で解決するケースがある。 マザーボードのBIOSバックアップ用電池をいったん外し、しばらく待ってから(30秒〜1分)電池を入れなおすことで設定が初期化される。確実を期すなら、外した電池を戻す前に電池ホルダのプラス極とマイナス極を金属(例えばピンセット)で短絡させるのが良い。あるいは、マザーボードによってはBIOS初期化のリセットスイッチや、ジャンパポストが装備されている。またBIOSによってはメニュー内から初期化機能を持っているものがある。 この行為は、「CMOSクリア」と通称されている。また、しばしば誤って「BIOSを初期化する」と表されることがあるが、可変設定部分を初期化するための作業であって、BIOSプログラムそのものを書き換える訳ではなく、メーカーが用意した初期設定値が可変設定部分に読み込まれるに留まる。ファームウェア更新に失敗した場合などに備え、BIOSプログラム全体を初期の状態に書き戻す機能を備えたBIOS・マザーボードもあるが、この場合は文字通り「BIOSを初期化する」と言って良い。 初代のIBM PCではBIOS(およびcasette BASIC)はマスクRead Only Memory(ROM)チップに格納され、マザーボードのソケットに挿入されていた。ROMは交換が可能だったが、ユーザーによる書き換えは出来なかった。更新を可能にするために、互換機メーカーはEEPROM、後年にはフラッシュメモリ(主にNORフラッシュ)などの再プログラム可能なデバイスを採用するようになった。 BIOS製造会社 Micro Firmware社のRobert Braver社長によると、Flash BIOSチップは1995年頃から主流になり、紫外線により消去するPROMより安価かつ扱いが容易になったためとしている。EPROMでは書き換えのためにマザーボードから取り外す必要があるのに対し、フラッシュメモリは基板上に付けたまま再プログラムが可能である。 BIOSはROMに格納され、コンピュータに組み込まれた形で提供される(2011年現在、BIOS ROMはLow Pin CountバスまたはSPIによってサウスブリッジに接続される)。基本的にはBIOSは書き換える必要がないものだが、バグの修正や新機能サポート時に更新されることがある。 1990年代中頃までのPCでは、ROMとしてマスクROMやOTPROM、UV-EPROMなどが用いられ、大きな問題がない限りBIOSの更新はあまり想定されていなかった。また、ROMの書き込みにはROMライターといった装置が必要になり、ユーザの手元ではROMは書き換えられないのが普通であった。 フラッシュメモリが実用化され普及してくると、BIOSをフラッシュメモリに格納しユーザの手元でコンピュータを開けずにアップデートできることを売りにしたマザーボード製品が発売された。具体的な書き換え方法としては、書き換え用にフロッピーディスクに簡素なOS(主にMS-DOSやその互換OSが利用される)の環境を作成、そこから起動し、書き換え用ソフトウェアを起動することで簡単に書き換えを行う事が可能となった。さらに2000年以降はフロッピーディスクから起動せずともWindowsやUnix系OSといった統合環境上で直接書き換えすることができるようになった。現在では、「BIOSの設定画面上でBIOSを書き換える」といったシステムを備えたBIOSも登場し、書き換え方法の選択肢が広がっている。 しかしBIOSの書き換え中に停電など何らかのトラブルで書き換えに失敗した場合、大抵そのコンピュータは全く起動しなくなる。したがって、メーカーは「PCに問題があってその解決方法がBIOSアップデート以外に存在しないときやOSのアップデート時にのみアップデートを実行してください」などと注意を促している。 BIOSはコンピュータの起動の根幹であるため、内容が破壊されるとそのコンピュータ自身では再セットアップすら出来なくなる。(空っぽのフロッピーやUSBメモリなどを使った復旧手段を用意しているBIOSがほとんどだが、それが失敗するか存在しない場合は)復旧する方法はBIOS ROMの交換(大抵の場合は精密なはんだ付けが必要なためメーカー修理となる)、または専門の業者などで「ROM焼き」と呼ばれる復旧作業をしてもらうのいずれかである。BIOS ROMがソケットに差し込まれているタイプのマザーボードでは自身で同一のマザーボードを用意し、起動後に問題のあるBIOS ROMに差し替え再書き込みをするという荒業も可能ではあるが、起動中のコンピュータのBIOS ROMを抜く事は大変危険である為推奨されない。また、2000年以降に出回っているコンピュータ(マザーボード)によっては、ROMを2つないし4つ持っているものもあり、別バージョンへの切り替えができるようになっているものもある。 以上に述べたように、BIOSの書き換えにはリスクを伴うが、このリスクの低減を図る目的で開発されたのがブートブロック方式であり、1999年ころから採用されるようになった。 これは、BIOS ROMを2つ以上の領域に分割し、出荷後に書き換えない部分と書き換える部分を設けるものである。書き換えない部分をブートブロックといい、BIOSを書き換えるための必要最小限の機能が含まれている。したがって、書き換え中の電源断などで書き換えに失敗した場合でも、ブートブロックを使用することで再度書き換えを実施することが可能である。 BIOS ROMには時としてマイクロコードが格納される。マイクロコードを利用するデバイスは、CPU(インテル Pentium Pro、AMD Athlon以降)、SCSIホストバスアダプタ(アダプテック社製品等)、ネットワークインタフェース(マーベル・テクノロジー・グループ社、ブロードコム社製品等)等がある。これらはBIOSブート初期の段階でマイクロコードがデバイスに転送され、デバイスが活性化される。またマイクロコードではないが、FPGAベースのデバイスではロジックをBIOSが書き込んで活性化させる物もある。マイクロコードやロジックは新製品や機能改良によってバージョンアップが必要になる事がある。特にCPUのマイクロコードは新製品が出る都度に新しいマイクロコードが必ずといって良い程作られるので、マザーボードに最新CPUを搭載する為にBIOSアップデートによって最新のマイクロコード導入が必要となる場合がある。グラフィクスカードはマイクロコードを使用するにもかかわらず例外的にBIOS ROMには含まれていない。通常、VGA相当の専用回路でVGA BIOS機能を提供し、OS起動後デバイスドライバを経由してアプリケーション上のシェーダプログラムをマイクロコードにコンパイルしてGPUに転送して実行している。 2014年現在、新製品のBIOSはより複雑なUnified Extensible Firmware Interface (UEFI) に置き換えられつつある。UEFIはレガシーBIOSのランタイムインタフェースを置き換えるもので、元はItaniumプラットフォーム向けに書かれたが、現在はx86とx86-64プラットフォームにも提供されており、仕様はUnified EFI Forumの主導で開発されている。UEFIによるブートはWindowsのうちGPTをサポートするバージョン、Linuxカーネル2.6.1以降、macOSのうちIntel Macで動作するもの に限られる。 従来のレガシーBIOSに代わるものとしては、ほかにOpen Firmware(OLPC XO-1で使用)、corebootなどが存在する。 他の系列のコンピュータでは、ブートモニタ、ブートローダー、ブートROMなどの語が使われる。ワークステーション分野ではOpen Firmware (IEEE-1275) があり、Forth言語で記述されている。サンのSPARC コンピュータ、IBMの RS/6000 シリーズ、その他PowerPCを搭載するCHRPマザーボードに採用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Basic Input/Output System(ベーシック インプット/アウトプット システム、頭字語:BIOS(バイオス))とは、ファームウェアの一つで、コンピュータに搭載されたプログラムのうち、ハードウェアと最も低レベルな入出力を行うためのプログラムである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大きく意味合いとして", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "BIOSはパーソナルコンピュータ(PC)に組み込まれており、電源投入と同時に実行される。ハードウェアを初期化し補助記憶装置からブートローダーを呼び出す。またキーボードやディスプレイなどの入出力装置をプログラムから利用するためのサービスを提供する。プログラムはハードウェアに直接アクセスするのではなく、これらサービスを利用する事でハードウェア差を気にしなくて良くなる。ただし近代的なオペレーティングシステム (OS) はこの抽象化層を使用せず、OSのデバイスドライバで直接制御する場合が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IBM PC/XTのオリジナルのBIOSにはユーザインタフェースが無く、基板上のジャンパスイッチで設定した。システム不具合時はエラーメッセージとブザー音で通知した。近代的なPCでは、起動時に特定のキーを押すことで設定プログラムが起動し、画面とキーボードで設定を行える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1980年代より1990年代中盤まで主流であったMS-DOSはディスク、キーボード、画面表示などBIOSのサービスに依存していた。Microsoft Windows NT、Linux、プロテクトモードで動作中のOSでは一般にOSのロードと起動までを担い、起動後はBIOS割り込みルーチンを使用しない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "BIOSはマザーボードの不揮発性メモリに格納され、デバイスとチップセットのインタフェースを担う。初期のモデルではEP-ROM等に格納され、BIOS書き換え時はマザーボードからチップを取り外し、専用装置で書き換えた後、再装着する必要があった。近代ではフラッシュメモリに格納され、取り外しなしでも書き換えが可能である。これにより更新やバグ修正が容易になった代わりにRootkitに脆弱になる可能性が生じた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2010年からUnified Extensible Firmware Interface (UEFI) に移行されている。UEFIはBIOSの技術的問題に対処することを目的とした後継である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ゲイリー・キルドールがCP/Mの用語として1975年に初めてBIOSを用いた。OS起動時にマシン固有のハードウェアにアクセスする部分を記述していた。後に他機種にも使われ、PC/AT互換機でもデファクトスタンダードとなった。", "title": "用語と歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "MS-DOSやPC DOS、DR-DOSに存在するファイル \"IO.SYS\"、\"IBMBIO.COM\"、\"IBMBIO.SYS\"、\"DRBIOS.SYS\" などを\"CP/M BIOS\" になぞらえて \"DOS BIOS\" と呼ぶ場合がある(一般にCP/M対応機のROMには簡素なブートローダーしかない)。", "title": "用語と歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "PS/2でIBMはBIOSをリアルモードとプロテクトモードに分割した。リアルモード部は既存のOS(DOS等)との互換性を目的とし \"CBIOS\" (Compatibility BIOS) と呼び、OS/2などのマルチタスクOSのために作成された部分を\"ABIOS\"(Advanced BIOS)と呼んだ。", "title": "用語と歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "IBM PCとXTの時代には設定のユーザーインタフェース (UI) はマザーボード上ディップスイッチであった。それ以降は画面に表示されたメニューをキーボードで操作するインタフェースである。マウス(ポインティングデバイス)による操作が出来るものもある。以降80286CPU搭載機までは電池でバックアップされたCMOSに保存されていた。IBM ATではビデオカード、メモリーサイズ、ハードディスクを設定するには、ROMのプログラムではなく \"reference diskette\" という特別なディスクを挿入して行わなければならなかった。", "title": "ユーザーインタフェース" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "PC/AT互換PCではセットアップユーティリティで各種設定をする。この方式は1990年代から変わっていない。ユーザーは画面に表示されたメニュー形式のインターフェースをキーボードで操作する。ブートに失敗した場合にはテキストメッセージが表示され、ユーティリティで設定を修正する、無視して続行する等のユーザーフレンドリーな表示が可能である。またBIOS設定は電池でバックアップされたRAMではなくフラッシュROMに格納するものもある。", "title": "ユーザーインタフェース" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "設定画面をBIOSと称する向きもあるが厳密には誤りである。", "title": "ユーザーインタフェース" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ハードウェアへのアクセスは主に入出力レジスタの操作で行うが、その動作や配置はハードウェア種によって異なる。また、読み書きのタイミングや順序にも手順がある。このためアクセス手順はアプリケーションで記述するより、ハードウェア種毎にサブルーチンを用意する方が有用でありこれがBIOSである。ISAやPCIなどではボードのROMにBIOSプログラムがあり、これはメモリ上に展開されてアプリケーションから利用される。マザーボード側のBIOSをSystem BIOS、拡張カードのBIOSを拡張BIOSと区別して呼ぶことがある。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また同種のハードウェアでも操作方法が異なる場合もある。これに対処するためBIOSの呼び出しインタフェースは共通化されており、アプリケーションはBIOSサービスを呼ぶだけで複数のデバイスに対応できる。このような共通インタフェースはアプリケーションバイナリインタフェース(ABI)と呼ばれる。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "例として、PC/AT互換機のVGA BIOS(Video BIOS、ビデオバイオスとも)は、共通化されたABIを呼び出す事でハードウェアの違いを意識せず文字、画像の表示を可能にした。これはビデオカードのROMに実装された拡張BIOSである。 同様にハードディスク、フロッピーディスク、キーボードなどさまざまな入出力処理を行うBIOSが存在するが、これら基本的なものはSystem BIOSでありマザーボードのROMに実装される。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、上記が有効なのはOSがシングルタスク型の場合であり、マルチタスクOSではデバイスドライバが処理を行う。特にリエントラントが考慮されていないBIOSもあり、各アプリケーションが非同期にこれを呼び出すとOSはハードウェアリソース管理が困難になる。このためハードウェア管理はデバイスドライバが一元的に行い、アプリケーションはOSのシステムコールを利用する。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "やむを得ずBIOSを呼び出したい場合、専用のシステムコールで可能だが、そのハードウェアがOSに保護されている場合は動作するとは限らない。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "組み込みシステムではハードウェアのバリエーションが少なく、BIOSのような中間層インタフェースは持たないためファームウェアと呼ばれることが多い。", "title": "ハードウェアアクセスの共通化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "電源投入時、ハードウェアの初期化およびブートローダーを読み込むプログラムが必要になる。つまり補助記憶装置からファイルの読み込みが行える状態になるまでのプログラムをROMに用意しておく必要がある。これらのプログラムはInitial Program Loader (IPL) やブートストラップローダとも呼ばれる。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "プロセッサがリセットされると、リアルモードのアドレス空間1MBの内、最後尾付近のアドレス(0FFFF0h 番地)にある命令を実行する。そのアドレスに記されたジャンプ命令により、BIOSの実行コードの先頭にジャンプして処理が開始される。電源が投入された場合(「コールドブート」)はPower On Self Test (POST) が実行され、リセットボタンが押された場合(「ウォームブート」)はPOSTを省略し、メモリのテストにかかる時間を節約する。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Power On Self Testは、CPU、RAM、割り込み、DMAコントローラなどの搭載デバイスのほかに、チップセット、ビデオカード、キーボード、ハードディスク、光学ドライブなどのハードウェアのシステム構成をテスト、認識、初期化する。次いでBIOSは起動デバイスに指定された記憶装置を探し、ブートローダープログラムの場所を特定して実行、PCにコントロールを委ねる。この過程をブートストラップ、略してブートと呼ぶ。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "PC/AT互換機のように、様々な種類のハードウェアが増設可能な場合、初期化手順やハードウェア構成に自由度を持たせておく必要がある。初期化内容などをディップスイッチやソフトスイッチで設定できる場合がある。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "IBM PCおよびAT互換機の場合、ハードディスクやビデオカードはBIOSを拡張、追加機能を提供するオプションのROMを搭載している。拡張部のプログラムはOSが補助記憶装置から読み出される前に実行される。これらプログラムはハードウェアのテストと初期化を行い、BIOSに新しいサービスを提供あるいは既存のものを上書きする。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "例えばSCSIコントローラーは接続されたドライブにアクセスするBIOSを提供し、ビデオカードではマザーボードに搭載されたBIOSのビデオカードに取って代わる。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "BIOS拡張ROMはPC全体のコントロールを取得でき、事実上何でも行うことができる。呼び出し側のBIOSに制御権を返さないこともありうる。原理的にはOSまたはアプリケーションを丸ごと搭載する事も出来る。また、ネットワークからブートするような全く違うブートプロセスにすることもできる。IBM PC互換機ではBIOS拡張ROMを搭載したアダプタカード(やROMチップ)を着脱することで、動作を全く違うものに変更できる。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "マザーボードのシステムBIOSはブートに必要なキーボード、ディスプレイ、ストレージなどのコードを内蔵している。アダプタカード(SCSI、RAID、ネットワークインタフェースカード、ビデオボードなど)は独自のBIOSを搭載しており、これらはシステムBIOSを置き換える。マザーボードに組み込まれたオンボードデバイスでも動作は同様である。それらのROMはBIOSのフラッシュメモリ上でも別々のコードになっているため、システムBIOSと同時または別々にアップグレードすることもできる。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "あるアダプタカードがブート時に必須でありかつシステムBIOSがこれをサポートしていない場合、オプションROMが必要となる。また、オプションROMがあればストレージドライバがなくてもブート途中にデバイスにアクセスできるようになる。RAMやハードディスクを占有する必要もない。また、デバイスとドライバが必ずセットであるためインストールが不要という利点もある。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "システムBIOSと拡張ROMの内容を調べるには多数の手法とユーティリティがあり、一例としてはマイクロソフトのDEBUG や Unix系のdd (UNIX)がある。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マザーボード上のBIOSはPOSTを完了した時点で、ほとんどのバージョンの場合オプションROMモジュール(BIOS拡張ROM)を探しに行き実行する。 BIOSは\"Upper Memory Area\"空間(x86リアルモードでは0xA0000以上のアドレス空間)をスキャンして、発見されたROMのコードを順次実行する。ISA カード上のROMを探す場合、BIOSは0x0C0000 から 0x0F0000 の空間を2 KiB 毎の領域でスキャンして\"0x55\"\"0xAA\"という連続した2バイトのシグネチャを探してROMのプログラムのエントリポイントを知り、先頭512バイトのブロックのチェックサムを算出して、ROMのチェックサムと一致すればBIOSはそのエントリーアドレスに制御を移す。するとBIOS拡張ROMは拡張機能の初期化ルーチンの実行を始める。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この時点で拡張ROMは実行を引継ぎ、一般的には対象ハードウェアのテストと初期化、ブート後のアプリケーションから利用する割り込みベクターの登録を行う。拡張ROMはユーザー設定インタフェース(診断情報の表示その他)や必要な動作のためにBIOSとそれまでに読み込まれたBIOS拡張ROMのサービスを利用する。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "オプションROMは一般的には初期化プロセスの完了時にはBIOSに制御を返す。制御を返されたBIOSは、さらにオプションROMがないかメモリ空間の末尾までサーチを進め、見つけた順に呼び出す動作を繰り返す。", "title": "起動" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "IntelのP6マイクロアーキテクチャ世代以降では、プロセッサのマイクロコードに対するパッチをBIOSに含めることができる。マイクロコードはシステムが起動する度に更新される。この仕組みのない時代にはCPUのバグがあるとCPUの差し替えになり、過去の事例ではPentium FDIV バグによるCPUのリコールが発生したことがある。", "title": "オペレーティングシステムサービス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "デルなどが提供する一部のBIOSは \"SLIC\" (software licensing description table) という電子署名を内蔵している。(一部ではBIOSタトゥー(刺青)と俗称される) SLICはACPIテーブルに挿入されており、実行コードは含まない。", "title": "オペレーティングシステムサービス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "コンピュータメーカーはWindowsやマイクロソフト製アプリケーションをバンドルするにあたりSLICをもとに認証する例があり、またWindowsソフトウェアを含むシステムリカバリーディスクもこれを利用する。SLICありのシステムでは、コンピュータ製品を対象にしたOEMプロダクトキーでソフトウェアが予めアクティベートしてあり、BIOSのSLICに書かれたXML形式のOEM証明書と照合することで自動アクティベートが実現されている。ユーザーがWindowsのクリーンインストールを行う場合には、OEMキーとSLIC認証の両方が揃っていないとアクティベーションを回避できないが、本来はOEMにより予めカスタマイズされたイメージでリストアするべきものであるため状況としては考えにくい。海賊版Windowsでは、アクティベーションを回避するためにSLICを編集するかエミュレートしている。", "title": "オペレーティングシステムサービス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一部のBIOSではオーバークロック機能を提供する。これはCPUのクロック周波数をメーカーの保証値より高く引き上げるものである。しかしながらオーバークロックはコンピューターの冷却不足による信頼性の低下と寿命の短縮を招く深刻な悪影響がある。", "title": "オペレーティングシステムサービス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "不適切なオーバークロック設定は部品のオーバーヒートを招き、機械的にコンピュータを壊してしまうこともありうる。", "title": "オペレーティングシステムサービス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "近年のBIOSはこれまでに紹介した以上に複雑な、例えばAdvanced Configuration and 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BIOSなどが正常に起動したあと、特定のキー操作でメニュー形式で画面上に項目を表示することができ、キーボードを使って設定内容を編集し、終了時にバッテリバックアップされたレジスタに保存することができる。編集画面で以前とは異なった内容を保存した場合は、その新たなメモリ内容でハードウェアの初期化が開始される。また次回以降の起動時にこのメモリの内容にしたがってハードウェアが初期化される。このパラメータ設定を行うソフトウェアや設定画面を BIOS Setup(バイオスセットアップ)と呼び、CMOS Setup(シーモスセットアップ)とも通称される。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "プラグアンドプレイは、ハードウェアのメモリマップや割り込み要求信号 (IRQ) をプログラマブルに変更できる機能で、従来はジャンパーピンなどで設定していたものを、BIOSプログラムが起動時に一定の手順で自動的に設定するものである。BIOSのパラメータ設定を容易にするために登場した機構であるが、ISAのPnPデバイスでは一部不完全で問題が発生することがあり、手動で設定が必要な場合がある。その際に、設定を変更するにもメニュー設定画面表示までBIOS起動が進行しないことがあり、そうなると問題解決はかえって複雑になる。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マザーボードリソースの設定も、動作クロックや電源電圧といったハードウェアに密接した設定もメニューから変更可能な場合がある。基本的には自動設定もしくは初期値が適切な値をとるが、自動での設定がうまくいかない場合等に備え、任意の設定を行うことも可能にしてあるものもある。中にはハードウェアの定格動作に反するオーバークロックといった仕様に基づいた設定としては不適切な状態にすることも可能であり、その設計マージンや個体差によって、起動できない状況も発生する場合もある。それが設定の範疇と故障を起こさないものであれば、後述のように設定を初期値に戻すことで、再度起動する状態に戻すことが可能である。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "PCトラブルの際に、BIOSの可変設定部分を初期状態に戻す事で解決するケースがある。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "マザーボードのBIOSバックアップ用電池をいったん外し、しばらく待ってから(30秒〜1分)電池を入れなおすことで設定が初期化される。確実を期すなら、外した電池を戻す前に電池ホルダのプラス極とマイナス極を金属(例えばピンセット)で短絡させるのが良い。あるいは、マザーボードによってはBIOS初期化のリセットスイッチや、ジャンパポストが装備されている。またBIOSによってはメニュー内から初期化機能を持っているものがある。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この行為は、「CMOSクリア」と通称されている。また、しばしば誤って「BIOSを初期化する」と表されることがあるが、可変設定部分を初期化するための作業であって、BIOSプログラムそのものを書き換える訳ではなく、メーカーが用意した初期設定値が可変設定部分に読み込まれるに留まる。ファームウェア更新に失敗した場合などに備え、BIOSプログラム全体を初期の状態に書き戻す機能を備えたBIOS・マザーボードもあるが、この場合は文字通り「BIOSを初期化する」と言って良い。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "初代のIBM PCではBIOS(およびcasette BASIC)はマスクRead Only Memory(ROM)チップに格納され、マザーボードのソケットに挿入されていた。ROMは交換が可能だったが、ユーザーによる書き換えは出来なかった。更新を可能にするために、互換機メーカーはEEPROM、後年にはフラッシュメモリ(主にNORフラッシュ)などの再プログラム可能なデバイスを採用するようになった。", "title": "BIOSのチップ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "BIOS製造会社 Micro Firmware社のRobert Braver社長によると、Flash BIOSチップは1995年頃から主流になり、紫外線により消去するPROMより安価かつ扱いが容易になったためとしている。EPROMでは書き換えのためにマザーボードから取り外す必要があるのに対し、フラッシュメモリは基板上に付けたまま再プログラムが可能である。", "title": "BIOSのチップ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "BIOSはROMに格納され、コンピュータに組み込まれた形で提供される(2011年現在、BIOS ROMはLow Pin CountバスまたはSPIによってサウスブリッジに接続される)。基本的にはBIOSは書き換える必要がないものだが、バグの修正や新機能サポート時に更新されることがある。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1990年代中頃までのPCでは、ROMとしてマスクROMやOTPROM、UV-EPROMなどが用いられ、大きな問題がない限りBIOSの更新はあまり想定されていなかった。また、ROMの書き込みにはROMライターといった装置が必要になり、ユーザの手元ではROMは書き換えられないのが普通であった。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "フラッシュメモリが実用化され普及してくると、BIOSをフラッシュメモリに格納しユーザの手元でコンピュータを開けずにアップデートできることを売りにしたマザーボード製品が発売された。具体的な書き換え方法としては、書き換え用にフロッピーディスクに簡素なOS(主にMS-DOSやその互換OSが利用される)の環境を作成、そこから起動し、書き換え用ソフトウェアを起動することで簡単に書き換えを行う事が可能となった。さらに2000年以降はフロッピーディスクから起動せずともWindowsやUnix系OSといった統合環境上で直接書き換えすることができるようになった。現在では、「BIOSの設定画面上でBIOSを書き換える」といったシステムを備えたBIOSも登場し、書き換え方法の選択肢が広がっている。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "しかしBIOSの書き換え中に停電など何らかのトラブルで書き換えに失敗した場合、大抵そのコンピュータは全く起動しなくなる。したがって、メーカーは「PCに問題があってその解決方法がBIOSアップデート以外に存在しないときやOSのアップデート時にのみアップデートを実行してください」などと注意を促している。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "BIOSはコンピュータの起動の根幹であるため、内容が破壊されるとそのコンピュータ自身では再セットアップすら出来なくなる。(空っぽのフロッピーやUSBメモリなどを使った復旧手段を用意しているBIOSがほとんどだが、それが失敗するか存在しない場合は)復旧する方法はBIOS ROMの交換(大抵の場合は精密なはんだ付けが必要なためメーカー修理となる)、または専門の業者などで「ROM焼き」と呼ばれる復旧作業をしてもらうのいずれかである。BIOS ROMがソケットに差し込まれているタイプのマザーボードでは自身で同一のマザーボードを用意し、起動後に問題のあるBIOS ROMに差し替え再書き込みをするという荒業も可能ではあるが、起動中のコンピュータのBIOS ROMを抜く事は大変危険である為推奨されない。また、2000年以降に出回っているコンピュータ(マザーボード)によっては、ROMを2つないし4つ持っているものもあり、別バージョンへの切り替えができるようになっているものもある。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以上に述べたように、BIOSの書き換えにはリスクを伴うが、このリスクの低減を図る目的で開発されたのがブートブロック方式であり、1999年ころから採用されるようになった。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "これは、BIOS ROMを2つ以上の領域に分割し、出荷後に書き換えない部分と書き換える部分を設けるものである。書き換えない部分をブートブロックといい、BIOSを書き換えるための必要最小限の機能が含まれている。したがって、書き換え中の電源断などで書き換えに失敗した場合でも、ブートブロックを使用することで再度書き換えを実施することが可能である。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "BIOS ROMには時としてマイクロコードが格納される。マイクロコードを利用するデバイスは、CPU(インテル Pentium Pro、AMD Athlon以降)、SCSIホストバスアダプタ(アダプテック社製品等)、ネットワークインタフェース(マーベル・テクノロジー・グループ社、ブロードコム社製品等)等がある。これらはBIOSブート初期の段階でマイクロコードがデバイスに転送され、デバイスが活性化される。またマイクロコードではないが、FPGAベースのデバイスではロジックをBIOSが書き込んで活性化させる物もある。マイクロコードやロジックは新製品や機能改良によってバージョンアップが必要になる事がある。特にCPUのマイクロコードは新製品が出る都度に新しいマイクロコードが必ずといって良い程作られるので、マザーボードに最新CPUを搭載する為にBIOSアップデートによって最新のマイクロコード導入が必要となる場合がある。グラフィクスカードはマイクロコードを使用するにもかかわらず例外的にBIOS ROMには含まれていない。通常、VGA相当の専用回路でVGA BIOS機能を提供し、OS起動後デバイスドライバを経由してアプリケーション上のシェーダプログラムをマイクロコードにコンパイルしてGPUに転送して実行している。", "title": "BIOSとマイクロコード" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2014年現在、新製品のBIOSはより複雑なUnified Extensible Firmware Interface (UEFI) に置き換えられつつある。UEFIはレガシーBIOSのランタイムインタフェースを置き換えるもので、元はItaniumプラットフォーム向けに書かれたが、現在はx86とx86-64プラットフォームにも提供されており、仕様はUnified EFI Forumの主導で開発されている。UEFIによるブートはWindowsのうちGPTをサポートするバージョン、Linuxカーネル2.6.1以降、macOSのうちIntel Macで動作するもの に限られる。", "title": "代替・後継製品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "従来のレガシーBIOSに代わるものとしては、ほかにOpen Firmware(OLPC XO-1で使用)、corebootなどが存在する。", "title": "代替・後継製品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "他の系列のコンピュータでは、ブートモニタ、ブートローダー、ブートROMなどの語が使われる。ワークステーション分野ではOpen Firmware (IEEE-1275) があり、Forth言語で記述されている。サンのSPARC コンピュータ、IBMの RS/6000 シリーズ、その他PowerPCを搭載するCHRPマザーボードに採用されている。", "title": "代替・後継製品" } ]
Basic Input/Output Systemとは、ファームウェアの一つで、コンピュータに搭載されたプログラムのうち、ハードウェアと最も低レベルな入出力を行うためのプログラムである。 大きく意味合いとして IBM PC XTから搭載されている仕組み。UEFIとは同列の概念。 一般的なコンピュータハードウェア資源に入出力するプログラム。UEFIやIBM PC XTやMSXなどのBIOSの上位概念。 がある。
{{Redirect|BIOS|生物学研究に関する国際組織(BiOS)|:en:Biological Innovation for Open Society|その他のバイオス|バイオス}} [[ファイル:Rombios01.jpg|thumb|right|ROM形式で提供されるBIOSの例([[:画像:Scsiboard01.jpg|アダプテック社製SCSIカード、AHA-2940]]よりBIOS ROM部拡大撮影)]] [[File:Pair_of_BIOS_chips.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Pair_of_BIOS_chips.jpg|右|サムネイル|1980年台の[[デル|Dell]] 310コンピュータに使用されていた1組のAMD BIOSチップ。]] '''Basic Input/Output System'''(ベーシック インプット/アウトプット システム、[[頭字語]]:'''BIOS'''(バイオス))とは、[[ファームウェア]]の一つで、[[コンピュータ]]に搭載された[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]のうち、[[ハードウェア]]と最も低レベルな入出力を行うための[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]である。 大きく意味合いとして * [[IBM PC XT]]から搭載されている仕組み。[[Unified Extensible Firmware Interface |UEFI]]とは同列の概念。 * 一般的なコンピュータハードウェア資源に入出力するプログラム。UEFIやIBM PC XTや[[MSX]]などのBIOSの上位概念。 がある。 ==概要== BIOSは[[パーソナルコンピュータ]](PC)に組み込まれており、電源投入と同時に実行される。ハードウェアを初期化し[[補助記憶装置]]から[[ブート|ブートローダー]]を呼び出す。また[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]や[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]などの[[入出力]]装置をプログラムから利用するためのサービスを提供する。プログラムはハードウェアに直接アクセスするのではなく、これらサービスを利用する事でハードウェア差を気にしなくて良くなる。ただし近代的なオペレーティングシステム (OS) はこの抽象化層を使用せず、OSの[[デバイスドライバ]]で直接制御する場合が多い。 IBM [[IBM PC XT|PC/XT]]のオリジナルのBIOSには[[ユーザインタフェース]]が無く、基板上のジャンパスイッチで設定した。システム不具合時はエラーメッセージとブザー音で通知した。近代的なPCでは、起動時に特定のキーを押すことで設定プログラムが起動し、画面とキーボードで設定を行える。 1980年代より1990年代中盤まで主流であった[[MS-DOS]]は[[ディスクメディア|ディスク]]、キーボード、画面表示などBIOSのサービスに依存していた。Microsoft [[Microsoft Windows NT|Windows NT]]、[[Linux]]、[[プロテクトモード]]で動作中のOSでは一般にOSのロードと起動までを担い、起動後は[[BIOS割り込みルーチン]]を使用しない。 BIOSは[[マザーボード]]の[[不揮発性メモリ]]に格納され、デバイスと[[チップセット]]の[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を担う。初期のモデルではEP-ROM等に格納され、BIOS書き換え時はマザーボードからチップを取り外し、専用装置で書き換えた後、再装着する必要があった。近代では[[フラッシュメモリ]]に格納され、取り外しなしでも書き換えが可能である。これにより更新やバグ修正が容易になった代わりに[[Rootkit]]に脆弱になる可能性が生じた。 2010年から[[Unified Extensible Firmware Interface]] (UEFI) に移行されている<ref>[http://www.dosv.jp/feature/1103/17.htm BIOSに代わるファームウェア“UEFI”とは一体何か? 1/2 | 震撼性能! Sandy Bridgeに死角なし!! | DOS/V POWER REPORT]</ref>。UEFIはBIOSの技術的問題に対処することを目的とした後継である<ref name="Bradley"><cite class="citation web">Bradley, Tony. [http://www.pcworld.com/article/248426/r_i_p_bios_a_uefi_primer.html "R.I.P. BIOS: A UEFI Primer"]. PCWorld. [https://web.archive.org/web/20140127090326/http://www.pcworld.com/article/248426/r_i_p_bios_a_uefi_primer.html Archived] from the original on 2014-01-27<span class="reference-accessdate">. Retrieved <span class="nowrap">2014-01-27</span></span>.</cite></ref>。 ==用語と歴史== {{ rquote|right| <pre>/* C P / M B A S I C I / O S Y S T E M (B I O S) COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL JUNE, 1975 */ [...] /* B A S I C D I S K O P E R A T I N G S Y S T E M (B D O S) COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL JUNE, 1975 */</pre> <!-- some whitespace removed from original citation --> | [[ローレンス・リバモア研究所]] (LLL) に提供された[[CP/M]] 1.1または1.2の[[PL/M]]ソースコードより、BDOS.PLMのファイルヘッダー抜粋。 <ref name="Kildall_1975_BDOS"/> }} [[ゲイリー・キルドール]]が[[CP/M]]の用語として1975年に初めてBIOSを用いた。OS起動時にマシン固有のハードウェアにアクセスする部分を記述していた。後に他機種にも使われ、[[PC/AT互換機]]でも[[デファクトスタンダード]]となった。 MS-DOSや[[IBM PC DOS|PC DOS]]、[[DR-DOS]]に存在するファイル "IO.SYS"、"IBMBIO.COM"、"IBMBIO.SYS"、"DRBIOS.SYS" などを"CP/M BIOS" になぞらえて "DOS BIOS" と呼ぶ場合がある(一般に[[CP/M]]対応機の[[Read Only Memory|ROM]]には簡素なブートローダーしかない)。 [[IBM PS/2|PS/2]]でIBMはBIOSを[[リアルモード]]とプロテクトモードに分割した。リアルモード部は既存のOS(DOS等)との互換性を目的とし "CBIOS" (Compatibility BIOS) と呼び、[[OS/2]]などの[[マルチタスク]]OSのために作成された部分を"ABIOS"(Advanced BIOS)と呼んだ。 ==ユーザーインタフェース== IBM PCとXTの時代には設定の[[ユーザーインタフェース]] (UI) はマザーボード上[[ディップスイッチ]]であった。それ以降は画面に表示されたメニューをキーボードで操作するインタフェースである。マウス(ポインティングデバイス)による操作が出来るものもある。以降[[Intel 80286|80286]][[CPU]]搭載機までは電池でバックアップされた[[CMOS]]に保存されていた。IBM ATでは[[ビデオカード]]、メモリーサイズ、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]を設定するには、ROMのプログラムではなく "reference diskette" という特別なディスクを挿入して行わなければならなかった。 PC/AT互換PCではセットアップユーティリティで各種設定をする。この方式は1990年代から変わっていない。ユーザーは画面に表示されたメニュー形式のインターフェースをキーボードで操作する。ブートに失敗した場合にはテキストメッセージが表示され、ユーティリティで設定を修正する、無視して続行する等のユーザーフレンドリーな表示が可能である。またBIOS設定は電池でバックアップされた[[Random Access Memory|RAM]]ではなく[[フラッシュメモリ|フラッシュROM]]に格納するものもある。 [[#設定|設定画面]]をBIOSと称する向きもあるが厳密には誤りである。 ==ハードウェアアクセスの共通化== ハードウェアへのアクセスは主に入出力[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の操作で行うが、その動作や配置はハードウェア種によって異なる。また、読み書きのタイミングや順序にも手順がある。このためアクセス手順は[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]で記述するより、ハードウェア種毎に[[サブルーチン]]を用意する方が有用でありこれがBIOSである。[[Industry Standard Architecture|ISA]]や[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]などではボードのROMにBIOSプログラムがあり、これは[[主記憶装置|メモリ]]上に展開されてアプリケーションから利用される。[[マザーボード]]側のBIOSを'''System BIOS'''、拡張カードのBIOSを'''拡張BIOS'''と区別して呼ぶことがある。 また同種のハードウェアでも操作方法が異なる場合もある。これに対処するためBIOSの呼び出しインタフェースは共通化されており、アプリケーションはBIOSサービスを呼ぶだけで複数のデバイスに対応できる。このような共通インタフェースは[[アプリケーションバイナリインタフェース]](ABI)と呼ばれる。 例として、PC/AT互換機の[[Video Graphics Array|VGA]] BIOS(Video BIOS、ビデオバイオスとも)は、共通化されたABIを呼び出す事でハードウェアの違いを意識せず文字、画像の表示を可能にした。これはビデオカードのROMに実装された拡張BIOSである。 同様にハードディスク、[[フロッピーディスク]]、キーボードなどさまざまな入出力処理を行うBIOSが存在するが、これら基本的なものはSystem BIOSでありマザーボードのROMに実装される。 しかし、上記が有効なのは[[オペレーティングシステム|OS]]がシングルタスク型の場合であり、[[マルチタスク]]OSではデバイスドライバが処理を行う。特に[[リエントラント]]が考慮されていないBIOS<ref>[[x86]]用のコードでは[[プロセッサ]]の構造上リアルモードで[[命令セット]]を使わざるを得ないという制限もある。</ref>もあり、各アプリケーションが非同期にこれを呼び出すとOSはハードウェア[[計算資源|リソース]]管理が困難になる。このためハードウェア管理はデバイスドライバが一元的に行い、アプリケーションはOSの[[システムコール]]を利用する。 やむを得ずBIOSを呼び出したい場合、専用のシステムコールで可能だが、そのハードウェアがOSに保護されている場合は動作するとは限らない。 [[組み込みシステム]]ではハードウェアのバリエーションが少なく、BIOSのような中間層インタフェースは持たないため[[ファームウェア]]と呼ばれることが多い。 ==起動== 電源投入時、ハードウェアの初期化およびブートローダーを読み込むプログラムが必要になる。つまり[[補助記憶装置]]から[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]の読み込みが行える状態になるまでのプログラムをROMに用意しておく必要がある。これらのプログラムはInitial Program Loader (IPL) やブートストラップローダとも呼ばれる。 プロセッサがリセットされると、リアルモードのアドレス空間1MBの内、最後尾付近のアドレス(0FFFF0h 番地)にある命令を実行する。そのアドレスに記されたジャンプ命令により、BIOSの実行コードの先頭にジャンプして処理が開始される。電源が投入された場合(「コールドブート」)は[[Power On Self Test]] (POST) が実行され、リセットボタンが押された場合(「ウォームブート」)はPOSTを省略し、メモリのテストにかかる時間を節約する。 [[Power On Self Test]]は、CPU、RAM、[[割り込み_(コンピュータ)|割り込み]]、[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラなどの搭載デバイスのほかに、[[チップセット]]、ビデオカード、キーボード、ハードディスク、[[光学ドライブ]]などのハードウェアのシステム構成をテスト、認識、初期化する。次いでBIOSは起動デバイスに指定された記憶装置を探し、ブートローダープログラムの場所を特定して実行、PCにコントロールを委ねる。この過程をブートストラップ、略して[[ブート]]と呼ぶ。 PC/AT互換機のように、様々な種類のハードウェアが増設可能な場合、初期化手順やハードウェア構成に自由度を持たせておく必要がある。初期化内容などをディップスイッチや[[ソフトスイッチ]]で設定できる場合がある。 ===BIOS拡張=== IBM PCおよびAT互換機の場合、ハードディスクやビデオカードはBIOSを拡張、追加機能を提供するオプションのROMを搭載している。拡張部のプログラムはOSが補助記憶装置から読み出される前に実行される。これらプログラムはハードウェアのテストと初期化を行い、BIOSに新しいサービスを提供あるいは既存のものを上書きする。 例えば[[Small Computer System Interface|SCSI]]コントローラーは接続されたドライブにアクセスするBIOSを提供し、ビデオカードではマザーボードに搭載されたBIOSのビデオカードに取って代わる。 BIOS拡張ROMはPC全体のコントロールを取得でき、事実上何でも行うことができる。呼び出し側のBIOSに制御権を返さないこともありうる。原理的には[[オペレーティングシステム|OS]]またはアプリケーションを丸ごと搭載する事も出来る。また、ネットワークからブートするような全く違うブートプロセスにすることもできる。IBM PC互換機ではBIOS拡張ROMを搭載したアダプタカード(やROMチップ)を着脱することで、動作を全く違うものに変更できる。 マザーボードのシステムBIOSはブートに必要なキーボード、ディスプレイ、ストレージなどのコードを内蔵している。アダプタカード(SCSI、[[RAID]]、ネットワークインタフェースカード、ビデオボードなど)は独自のBIOSを搭載しており、これらはシステムBIOSを置き換える。マザーボードに組み込まれたオンボードデバイスでも動作は同様である。それらのROMはBIOSのフラッシュメモリ上でも別々のコードになっているため、システムBIOSと同時または別々にアップグレードすることもできる。 あるアダプタカードがブート時に必須でありかつシステムBIOSがこれをサポートしていない場合、オプションROMが必要となる。また、オプションROMがあればストレージドライバがなくてもブート途中にデバイスにアクセスできるようになる。RAMやハードディスクを占有する必要もない。また、デバイスとドライバが必ずセットであるためインストールが不要という利点もある。 システムBIOSと拡張ROMの内容を調べるには多数の手法とユーティリティがあり、一例としては[[マイクロソフト]]の[[:w:DEBUG (DOS Command)|DEBUG]] や [[Unix系]]の[[dd (UNIX)]]がある。 ===初期化=== マザーボード上のBIOSは[[Power On Self Test|POST]]を完了した時点で、ほとんどのバージョンの場合オプションROMモジュール(BIOS拡張ROM)を探しに行き実行する。 BIOSは"[[Upper Memory Area]]"空間(x86リアルモードでは0xA0000以上のアドレス空間)をスキャンして、発見されたROMのコードを順次実行する。[[Industry Standard Architecture|ISA]] カード上のROMを探す場合、BIOSは<code>0x0C0000</code> から <code>0x0F0000</code> の空間を2&nbsp;[[KiB]] 毎の領域でスキャンして"0x55""0xAA"という連続した2バイトの''シグネチャ''を探してROMのプログラムの[[エントリポイント]]を知り、先頭512バイトのブロックの[[チェックサム]]を算出して、ROMのチェックサムと一致すればBIOSはそのエントリーアドレスに制御を移す。するとBIOS拡張ROMは拡張機能の初期化ルーチンの実行を始める。 この時点で拡張ROMは実行を引継ぎ、一般的には対象ハードウェアのテストと初期化、ブート後のアプリケーションから利用する[[割り込み_(コンピュータ)|割り込み]]ベクターの登録を行う。拡張ROMはユーザー設定インタフェース(診断情報の表示その他)や必要な動作のためにBIOSとそれまでに読み込まれたBIOS拡張ROMのサービスを利用する。 オプションROMは一般的には初期化プロセスの完了時にはBIOSに制御を返す。制御を返されたBIOSは、さらにオプションROMがないかメモリ空間の末尾までサーチを進め、見つけた順に呼び出す動作を繰り返す。 ===BIOSに分類されるプログラム=== ;VGA BIOS :ビデオサブシステム(主にテキストと低解像度グラフィクス) ;VESA BIOS :ビデオサブシステム([[Super Video Graphics Array|SVGA]]グラフィクス) ;SCSI BIOS :ディスクI/Oサブシステム(拡張[[Small Computer System Interface|SCSI]]もこの形態をとる) ;APM BIOS :初期のパワーマネジメントシステム。後に改良されて[[Advanced Configuration and Power Interface|ACPI]] BIOSの一部となる。 ;PCI BIOS :I/Oサブシステム。後にACPI BIOSの一部となる。 ;ACPI BIOS :{{独自研究範囲|現在主流となっている|date=2018年9月2日 (日) 10:06 (UTC)}}パワーマネジメントシステム及びI/Oサブシステム ;SMBIOS :システムマネジメントBIOS。BIOS内のデータ構造の配置・アクセス方法の規格。[[SMBIOS]]を参照。 ==オペレーティングシステムサービス== <!--量が多いので今後がんばりましょう--> ===プロセッサのマイクロコード更新=== Intelの[[P6マイクロアーキテクチャ]]世代以降では、プロセッサのマイクロコードに対するパッチをBIOSに含めることができる。マイクロコードはシステムが起動する度に更新される。この仕組みのない時代にはCPUのバグがあるとCPUの差し替えになり、過去の事例では[[Pentium FDIV バグ]]によるCPUのリコールが発生したことがある。 ===識別=== [[デル]]などが提供する一部のBIOSは "SLIC" (software licensing description table) という電子署名を内蔵している。(一部ではBIOSタトゥー(刺青)と俗称される) SLICはACPIテーブルに挿入されており、実行コードは含まない。 コンピュータメーカーは[[Microsoft Windows|Windows]]やマイクロソフト製アプリケーションをバンドルするにあたりSLICをもとに認証する例があり、またWindowsソフトウェアを含むシステムリカバリーディスクもこれを利用する。SLICありのシステムでは、コンピュータ製品を対象にしたOEMプロダクトキーでソフトウェアが予めアクティベートしてあり、BIOSのSLICに書かれたXML形式のOEM証明書と照合することで自動アクティベートが実現されている。ユーザーがWindowsのクリーンインストールを行う場合には、OEMキーとSLIC認証の両方が揃っていないとアクティベーションを回避できないが、本来はOEMにより予めカスタマイズされたイメージでリストアするべきものであるため状況としては考えにくい。海賊版Windowsでは、アクティベーションを回避するためにSLICを編集するかエミュレートしている。 ===オーバークロック=== 一部のBIOSでは[[オーバークロック]]機能を提供する。これはCPUのクロック周波数をメーカーの保証値より高く引き上げるものである。しかしながらオーバークロックはコンピューターの冷却不足による信頼性の低下と寿命の短縮を招く深刻な悪影響がある。 不適切なオーバークロック設定は部品のオーバーヒートを招き、機械的にコンピュータを壊してしまうこともありうる。 ===近年の使われ方=== 近年のBIOSはこれまでに紹介した以上に複雑な、例えば[[Advanced Configuration and Power Interface]] (ACPI)機能を装備しており、電源管理、[[ホットスワップ]]、温度管理などを提供する。 近年は[[Unified Extensible Firmware Interface]] (UEFI) への移行が進んでいる。 ==設定== ===設定ユーティリティ=== IBM PCやXT時代は設定用[[ユーザーインタフェース]]はマザーボード上のディップスイッチを用いてビデオアダプタのタイプ、メモリーサイズ、ハードディスクのパラメータなど設定したが、80286 CPU登場以降のIBM PC互換機では「リファレンスディスケット」と呼ばれるフロッピーディスクから起動し画面表示され、キーボードから操作し、不揮発性BIOS実装メモリー(CMOS RAM チップ)に設定を記憶するようになった。 [[Intel 80386|80386]]世代以降のコンピュータではBIOSセットアップユーティリティをBIOS自身に組み込みむようになり、一般に、起動時に "Press F1 to enter CMOS Setup." のような表示が出る間に特定のキーを押すことでメニューに入ることができ、押すキーは機種によって異なっている。BIOSのUIでは * ハードウェアの設定 * システム時刻の設定 * システム内コンポーネントの有効化/無効化 * ブートさせるデバイスの選択 * BIOS設定を保護するパスワード画面、承認されていない記憶デバイスの挿入による起動の防止 などを設定することが出来る。 [[File:Award BIOS setup utility.png|thumb|一般的なPCの Award BIOS 設定ユーティリティ]] [[ファイル:Motherboard diagram.svg|thumb|2011年現在ではパラメータ保存用CMOSメモリは[[サウスブリッジ]]に実装される]] 近年のPCでは起動時のハードウェア初期化で多くの項目に自由度があり、設定内容の一部をユーザーが指示できるようになっている。この場合VGA BIOSなどが正常に起動したあと、特定のキー操作で[[メニュー (コンピュータ)|メニュー]]形式で画面上に項目を表示することができ、キーボードを使って設定内容を編集し、終了時にバッテリバックアップされたレジスタに保存することができる。編集画面で以前とは異なった内容を保存した場合は、その新たなメモリ内容でハードウェアの初期化が開始される。また次回以降の起動時にこのメモリの内容にしたがってハードウェアが初期化される。このパラメータ設定を行うソフトウェアや設定画面を BIOS Setup(バイオスセットアップ)と呼び、CMOS Setup(シーモスセットアップ)とも[[通称]]される。 [[プラグアンドプレイ]]は、ハードウェアのメモリマップや割り込み要求信号 (IRQ) をプログラマブルに変更できる機能で、従来はジャンパーピンなどで設定していたものを、BIOSプログラムが起動時に一定の手順で自動的に設定するものである。BIOSのパラメータ設定を容易にするために登場した機構であるが、ISAのPnPデバイスでは一部不完全で問題が発生することがあり、手動で設定が必要な場合がある。その際に、設定を変更するにもメニュー設定画面表示までBIOS起動が進行しないことがあり、そうなると問題解決はかえって複雑になる。 マザーボードリソースの設定も、動作クロックや電源電圧といったハードウェアに密接した設定もメニューから変更可能な場合がある。基本的には自動設定もしくは初期値が適切な値をとるが、自動での設定がうまくいかない場合等に備え、任意の設定を行うことも可能にしてあるものもある。中にはハードウェアの定格動作に反する[[オーバークロック]]といった仕様に基づいた設定としては不適切な状態にすることも可能であり、その設計マージンや個体差によって、起動できない状況も発生する場合もある。それが設定の範疇と故障を起こさないものであれば、後述のように設定を初期値に戻すことで、再度起動する状態に戻すことが可能である。 ===設定初期化(CMOSクリア)=== PCトラブルの際に、BIOSの可変設定部分を初期状態に戻す事で解決するケースがある。 マザーボードのBIOSバックアップ用電池をいったん外し、しばらく待ってから(30秒〜1分)電池を入れなおすことで設定が初期化される。確実を期すなら、外した電池を戻す前に電池ホルダのプラス極とマイナス極を金属(例えば[[ピンセット]])で[[短絡]]させるのが良い。あるいは、マザーボードによってはBIOS初期化のリセットスイッチや、ジャンパポストが装備されている。またBIOSによってはメニュー内から初期化機能を持っているものがある。 この行為は、「[[CMOS]]クリア」と[[通称]]されている。また、しばしば誤って「BIOSを初期化する」と表されることがあるが、可変設定部分を初期化するための作業であって、BIOSプログラムそのものを書き換える訳ではなく、メーカーが用意した初期設定値が可変設定部分に読み込まれるに留まる。ファームウェア更新に失敗した場合などに備え、BIOSプログラム全体を初期の状態に書き戻す機能を備えたBIOS・マザーボードもあるが、この場合は文字通り「BIOSを初期化する」と言って良い。 ==BIOSのチップ== [[ファイル:Elitegroup 761GX-M754 - AMIBIOS (American Megatrends) in a Winbond W39V040APZ-5491.jpg|サムネイル|150x150ピクセル|[[American Megatrends]] BIOS 686。[[Plastic leaded chip carrier|PLCC]]パッケージに封入されたBIOSチップがソケットに挿入されている。]] 初代のIBM PCではBIOS(およびcasette BASIC)はマスク[[Read Only Memory]](ROM)チップに格納され、マザーボードのソケットに挿入されていた。ROMは交換が可能だったが、ユーザーによる書き換えは出来なかった。更新を可能にするために、互換機メーカーは[[EEPROM]]、後年には[[フラッシュメモリ]](主に[[NORフラッシュ]])などの再プログラム可能なデバイスを採用するようになった。 BIOS製造会社 Micro Firmware社のRobert Braver社長によると、'''Flash BIOS'''チップは1995年頃から主流になり、紫外線により消去する[[PROM]]より安価かつ扱いが容易になったためとしている。EPROMでは書き換えのためにマザーボードから取り外す必要があるのに対し、フラッシュメモリは基板上に付けたまま再プログラムが可能である。 ==セキュリティ== ===BIOSの書き換えとトラブル=== BIOSはROMに格納され、コンピュータに組み込まれた形で提供される(2011年現在、BIOS ROMは[[Low Pin Count]][[バス (コンピュータ)|バス]]または[[シリアル・ペリフェラル・インタフェース|SPI]]によって[[チップセット#構成|サウスブリッジ]]に接続される)。基本的にはBIOSは書き換える必要がないものだが、[[バグ]]の修正や新機能サポート時に更新されることがある。 [[1990年代]]中頃までのPCでは、ROMとして[[マスクROM]]や[[PROM#OTPROM|OTPROM]]、[[UV-EPROM]]などが用いられ、大きな問題がない限りBIOSの更新はあまり想定されていなかった。また、ROMの書き込みにはROMライターといった装置が必要になり、ユーザの手元ではROMは書き換えられないのが普通であった。 [[フラッシュメモリ]]が実用化され普及してくると、BIOSをフラッシュメモリに格納しユーザの手元でコンピュータを開けずにアップデートできることを売りにしたマザーボード製品が発売された。具体的な書き換え方法としては、書き換え用にフロッピーディスクに簡素なOS(主に[[MS-DOS]]やその互換OSが利用される)の環境を作成、そこから起動し、書き換え用ソフトウェアを起動することで簡単に書き換えを行う事が可能となった。さらに[[2000年]]以降はフロッピーディスクから起動せずともWindowsや[[Unix系]]OSといった統合環境上で直接書き換えすることができるようになった。現在では、「BIOSの設定画面上でBIOSを書き換える」といったシステムを備えたBIOSも登場し、書き換え方法の選択肢が広がっている。 しかしBIOSの書き換え中に[[停電]]など何らかのトラブルで'''書き換えに失敗した場合、大抵そのコンピュータは全く起動しなくなる'''。したがって、メーカーは「PCに問題があってその解決方法がBIOSアップデート以外に存在しないときやOSのアップデート時にのみアップデートを実行してください」などと注意を促している。 BIOSはコンピュータの起動の根幹であるため、内容が破壊されるとそのコンピュータ自身では再セットアップすら出来なくなる。(空っぽのフロッピーやUSBメモリなどを使った復旧手段を用意しているBIOSがほとんどだが、それが失敗するか存在しない場合は)復旧する方法はBIOS ROMの交換(大抵の場合は精密なはんだ付けが必要なためメーカー修理となる)、または専門の業者などで「ROM焼き」と呼ばれる復旧作業をしてもらうのいずれかである。BIOS ROMがソケットに差し込まれているタイプのマザーボードでは自身で同一のマザーボードを用意し、起動後に問題のあるBIOS ROMに差し替え再書き込みをするという荒業も可能ではあるが、起動中のコンピュータのBIOS ROMを抜く事は大変危険である為推奨されない。また、[[2000年]]以降に出回っているコンピュータ(マザーボード)によっては、ROMを2つないし4つ持っているものもあり、別バージョンへの切り替えができるようになっているものもある。 ===ブートブロック方式=== 以上に述べたように、BIOSの書き換えにはリスクを伴うが、このリスクの低減を図る目的で開発されたのが'''ブートブロック方式'''であり、[[1999年]]ころから採用されるようになった。 これは、BIOS ROMを2つ以上の領域に分割し、出荷後に書き換えない部分と書き換える部分を設けるものである。書き換えない部分をブートブロックといい、BIOSを書き換えるための必要最小限の機能が含まれている。したがって、書き換え中の電源断などで書き換えに失敗した場合でも、ブートブロックを使用することで再度書き換えを実施することが可能である。 ==BIOSとマイクロコード== BIOS ROMには時として[[マイクロコード]]が格納される。マイクロコードを利用するデバイスは、[[CPU]]([[インテル]] [[Pentium Pro]]、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]] [[Athlon]]以降)、[[Small Computer System Interface|SCSI]][[ホストバスアダプタ]]([[アダプテック]]社製品等)、[[ネットワークカード|ネットワークインタフェース]]([[マーベル・テクノロジー・グループ]]社、[[ブロードコム]]社製品等)等がある。これらはBIOSブート初期の段階でマイクロコードがデバイスに転送され、デバイスが活性化される。またマイクロコードではないが、[[FPGA]]ベースのデバイスではロジックをBIOSが書き込んで活性化させる物もある。マイクロコードやロジックは新製品や機能改良によってバージョンアップが必要になる事がある。特にCPUのマイクロコードは新製品が出る都度に新しいマイクロコードが必ずといって良い程作られるので、マザーボードに最新CPUを搭載する為にBIOSアップデートによって最新のマイクロコード導入が必要となる場合がある。グラフィクスカードはマイクロコードを使用するにもかかわらず例外的にBIOS ROMには含まれていない。通常、VGA相当の専用回路でVGA BIOS機能を提供し、OS起動後デバイスドライバを経由してアプリケーション上の[[シェーダ]]プログラムをマイクロコードに[[コンパイラ|コンパイル]]して[[Graphics Processing Unit|GPU]]に転送して実行している。 ==代替・後継製品== 2014年現在、新製品のBIOSはより複雑な[[Unified Extensible Firmware Interface]] (UEFI) に置き換えられつつある。UEFIはレガシーBIOSのランタイムインタフェースを置き換えるもので、元は[[Itanium]]プラットフォーム向けに書かれたが、現在は[[x86]]と[[x86-64]]プラットフォームにも提供されており、仕様は[[Unified EFI Forum]]の主導で開発されている。UEFIによるブートはWindowsのうち[[GUID Partition Table|GPT]]<ref name="windows-gpt"/>をサポートするバージョン、[[Linuxカーネル]]2.6.1以降、[[macOS]]のうち[[Intel Mac]]で動作するもの<ref name="intel-uefi"/> に限られる。 従来のレガシーBIOSに代わるものとしては、ほかに[[Open Firmware]](OLPC XO-1で使用)、[[coreboot]]などが存在する。 他の系列のコンピュータでは、ブートモニタ、ブートローダー、ブートROMなどの語が使われる。ワークステーション分野では[[Open Firmware]] (IEEE-1275) があり、[[Forth]]言語で記述されている。[[サン・マイクロシステムズ|サン]]の[[SPARC]] コンピュータ、IBMの [[RS/6000]] シリーズ、その他[[PowerPC]]を搭載する[[CHRP]]マザーボードに採用されている。 ==脚注== {{reflist|30em|refs= <ref name="Kildall_1975_BDOS">{{citation | title = CP/M 1.1 or 1.2 BIOS and BDOS for Lawrence Livermore Laboratories | date = June 1975 | first = Gary A. | last = Kildall | authorlink = Gary Kildall}}</ref> <ref name="windows-gpt">{{cite web|url=http://www.microsoft.com/whdc/device/storage/gpt_faq.mspx|title=Windows and GPT FAQ|publisher=Microsoft|work=microsoft.com|accessdate=6 December 2014}}</ref> <ref name="intel-uefi">{{cite web|url=http://www.intel.com/technology/efi/|title=Extensible Firmware Interface (EFI) and Unified EFI (UEFI)|work=Intel|accessdate=6 December 2014}}</ref> }} == 関連項目 == {{Commonscat|BIOS chips|BIOS ROM}} * [[ブート]] * [[Unified Extensible Firmware Interface]] (UEFI) * [[Unified EFI Forum]] (UEFI Forum) * [[Power On Self Test]] * [[NTLDR]] * [[Windows Boot Manager]] {{Normdaten}} [[Category:BIOS|*]] [[Category:ファームウェア]] [[Category:ブート]]
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原子軌道
原子軌道(げんしきどう)または原子オービタル(英: atomic orbital、略称AO)は、原子核のまわりに存在する1個の電子の状態を記述する波動関数のことである。電子波動関数の絶対値の二乗は原子核のまわりの空間の各点における、電子の存在確率に比例する(ボルンの規則)。 ここでいう軌道(英: orbital)は、古典力学における軌道 (英: orbit) とは意味の異なるものである。量子力学において、電子は原子核のまわりをまわっているのではなく、その位置は確率的にしか分らない。 軌道の種類の名前 (s, p, d, f, g, h, ...) は分光法で得られたその軌道のスペクトルの形に由来している。内側の軌道からそれぞれ、sharp, principal, diffuse, fundamentalであり、残りは(fに続く)アルファベット順となる。 但し、jはのぞく。これはiとjを区別しない言語が存在するためである。 原子軌道の内、最外殻に存在するものを原子価軌道(げんしかきどう)と呼ぶ。閉殻構造に加わっていないため、原子価軌道は化学結合や化学反応における主役となる。原子価軌道に存在する電子は、原子価電子あるいは価電子と呼ばれる。 「オービタル」という用語は「one-electron orbital wave function(1電子オービタル〈軌道の〉波動関数)」の短縮形として1932年にロバート・マリケンによって造られた。 ニールス・ボーアは、1913年に電子は、明確な質量を持つ角の周りを回っていることを示唆した。 ジョゼフ・ジョン・トムソンが1892年に電子を発見したことによって、原子が最小では無く、あくまで電子の複合であるということがわかった。 また、トムソンは、複数の電子が常に帯電し、ゼリー状の物質に入っていると考えるプラムプディングモデルを1909年に提唱した。 また、その直後、長岡半太郎が土星モデルを提唱した。 アーネスト・ラザフォードが1909年に原子質量のほとんどが核に占められており、また常に帯電していることを発見した。 また、その後の彼の研究によって、プラムプディングモデルでは、説明しきれないことがわかった。 1913年、ニールス・ボーアによって、電子は、古典的的な周期で核を回るが、各質量の離散値だけを持つことを許可するボーアモデルを提唱した。
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原子軌道(げんしきどう)または原子オービタルは、原子核のまわりに存在する1個の電子の状態を記述する波動関数のことである。電子波動関数の絶対値の二乗は原子核のまわりの空間の各点における、電子の存在確率に比例する(ボルンの規則)。 ここでいう軌道は、古典力学における軌道 とは意味の異なるものである。量子力学において、電子は原子核のまわりをまわっているのではなく、その位置は確率的にしか分らない。
{{出典の明記|date=2016年4月}} [[ファイル:Neon orbitals.png|原子軌道の形状を示す概略図。左から順に1s、2s、2p<sub>''x、''</sub>2p<sub>''y、''</sub>2p<sub>''z''</sub>軌道である。色の違いは、波動関数の符号の違いを意味している。|サムネイル|442x121ピクセル]] '''原子軌道'''(げんしきどう)または'''原子オービタル'''({{Lang-en-short|atomic orbital}}、略称'''AO''')は、[[原子核]]のまわりに存在する1個の[[電子]]の状態を記述する[[波動関数]]のことである。電子波動関数の絶対値の二乗は原子核のまわりの空間の各点における、電子の存在確率に比例する([[ボルンの規則]])。 ここでいう[[電子軌道|軌道]]({{lang-en-short|orbital}})は、[[古典力学]]における[[軌道 (力学)|軌道]] ({{lang-en-short|orbit}}) とは意味の異なるものである。[[量子力学]]において、電子は原子核のまわりをまわっているのではなく、その位置は確率的にしか分らない<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=164}}</ref>。 == 軌道名 == {{節スタブ}} <!-- 1s2や3d6など [[:en:Atomic orbital#Orbital names]] のような説明 --> === 軌道の種類名 === 軌道の種類の名前 (s, p, d, f, g, h, ...) は[[分光法]]で得られたその軌道の[[スペクトル]]の形に由来している。内側の軌道からそれぞれ、'''s'''harp, '''p'''rincipal, '''d'''iffuse, '''f'''undamentalであり、残りは(fに続く)アルファベット順となる。 但し、jはのぞく。これはiとjを区別しない言語が存在するためである。 == 原子価軌道 == '''原子軌道'''の内、最外殻に存在するものを'''原子価軌道'''(げんしかきどう)と呼ぶ。閉殻構造に加わっていないため、原子価軌道は[[化学結合]]や[[化学反応]]における主役となる。原子価軌道に存在する電子は、原子価電子あるいは[[価電子]]と呼ばれる。 ==歴史== 「オービタル」という用語は「one-electron orbital wave function(1電子オービタル〈軌道の〉波動関数)」の短縮形として1932年に[[ロバート・マリケン]]によって造られた<ref>{{cite journal|last=Mulliken | first=Robert S. | title=Electronic Structures of Polyatomic Molecules and Valence. II. General Considerations |date=July 1932|journal=[[Physical Review]] | volume=41 | issue=1 | pages=49–71|bibcode=1932PhRv...41...49M| doi=10.1103/PhysRev.41.49}}</ref>。 [[ニールス・ボーア]]は、1913年に電子は、明確な質量を持つ角の周りを回っていることを示唆した。 ===初期の説=== [[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]が1892年に電子を発見したことによって、原子が最小では無く、あくまで電子の複合であるということがわかった。 また、トムソンは、複数の電子が常に帯電し、ゼリー状の物質に入っていると考える[[プラムプディングモデル]]を1909年に提唱した。 また、その直後、長岡半太郎が[[土星モデル]]を提唱した。 ===ボーア原子=== [[アーネスト・ラザフォード]]が1909年に原子質量のほとんどが核に占められており、また常に帯電していることを発見した。 また、その後の彼の研究によって、プラムプディングモデルでは、説明しきれないことがわかった。 1913年、ニールス・ボーアによって、電子は、古典的的な周期で核を回るが、各質量の離散値だけを持つことを許可する[[ボーアモデル]]を提唱した。 == 脚注== <references/> == 関連項目 == {{Commons category|Atomic orbitals}} *[[物性物理学]] *[[量子化学]] *[[電子配置]] *[[電子殻]] *[[s軌道]] *[[p軌道]] *[[d軌道]] *[[f軌道]] *[[分子軌道]] *[[LCAO法]] *[[マフィンティンポテンシャル|マフィンティン軌道]] *[[基底関数]] *[[局在基底]] {{sci-stub}} {{Atomic models}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんしきとう}} [[Category:原子]] [[Category:原子物理学]] [[Category:電子]] [[Category:電子軌道]]
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光速
光速(、英: speed of light)とは、光が伝播する速さのことである。真空中における光速の値は 299792458 m/s(約30万 km/s)と定義されている。この速度においては、太陽から地球まで約8分19秒、月から地球まで2秒もかからない。俗に「1秒間に地球を7周半回ることができる速さ」とも表現される。 以下で単に「光速」と言うとき、真空中の光速を指して使うことがある。 光速は宇宙における最大の速さであり、物理学において時間と空間の基準となる特別な意味を持つ値でもある。 現代の国際単位系では長さの単位メートルは光速と秒により定義されている。光速度は電磁波の伝播速度でもあり、マクスウェルの方程式で媒質を真空にすると光速が一定となるということが相対性理論の根本原理の由来になっている。 重力作用も光速で伝播することが相対性理論で予言され、2002年に観測により確認された。 光速の記号は一般に小文字・イタリック体(又は斜体)の c または c0 で表される。2006年の国際単位系(SI)の公式文書(第8版)では、記号として c0 を用いていた。しかし、同文書の2019年版(第9版)においては、記号 c のみを用いるように変更された。これと合わせてCODATA2018においても、記号 c0 から記号 c へ変更している。 記号 c はヴィルヘルム・ヴェーバーによる「ヴェーバー定数」(Weber's constant)に由来するとともに、ラテン語で速さを意味する celeritas にも由来するものである。 近代まで、光は瞬間的に伝わるのか、それとも有限の速さで伝わるのかは不明だった。エンペドクレスは初めて光の速さは有限だと主張した。一方でアリストテレスは光は運動ではなく、瞬間的に伝わると論じた。イブン・ハイサムは光は有限の速さで伝わり、その速さは可変で、密度の高い物体では遅くなると論じた。ヨハネス・ケプラーやルネ・デカルトは、光速は無限大だと考えていた。 ガリレオ・ガリレイは、遠く離れた2か所に置いたランプの合図を用いて光速を測定する方法を提案した。しかし、光速はあまりに速く、当時のいかなる計測器でもこの様な方法でわずかな時間を正確に測る事ができなかったために有意な結果を得られなかった。 1676年にデンマークの数学者オーレ・レーマーは木星の衛星イオが木星に隠れる周期の変化と木星までの距離から光速を計算した。当時既に地球と木星の位置関係、ならびにイオが木星の陰に隠れる(隠蔽)周期は正確にわかっていた。レーマーは、地球が木星から遠い位置にある時に、イオが隠れる時刻を調べ、光の速さが無限大ならば常に42.5時間置きに隠蔽が観測されるはずとして「観測予定時刻」を計算した。そして地球が公転軌道上で木星に近づいた位置に移動した5ヵ月後に再度イオが隠れる時刻を調べると、「観測予定時刻」よりも早くなっている事を確認した。この結果からレーマーは、光は地球軌道の直径を横切るのに22分かかると結論した。ジョヴァンニ・カッシーニの観測より得られた地球-太陽間距離を用いると、レーマーの得た光速は約21.3万 km/s となる。これは実際の光速より3割ほど遅い数字だったが、光の速さが有限であることを証明し、その具体的な速さを初めて与えた。レーマーの友人アイザック・ニュートンもこれを認め、この光速の値を著書に記した。 1729年にジェームズ・ブラッドリーは季節による星の光行差から光速を求めた。彼の測定値は301000 km/sであった。 1849年、アルマン・フィゾーは、天体現象を利用せずに、回転する歯車を使って、初めて地上の実験で光速を測定した。ランプの光をビームスプリッターで直角に曲げ、筒の中で720枚の歯がついた歯車を通過させて光を等間隔に分断して放ち、約8.6 km離れた反射鏡で折り返し、筒の中で同じ歯車を通して観察した。歯車の回転が遅いうちは、凹部を通った光は反射され同じ凹部から見える。しかし回転数を上げると、やがて反射光が凸部(歯の部分)で遮られるようになる。フィゾーは、この時の12.6回転/秒から、(8.6 km)×2 = 17.2 kmを光が進む時間は(1秒)/(12.6回転/秒)/(720×2)(歯車の凸部と凹部の間の個数 = 歯の数の2倍)= 0.000055 sと計算した。これらから光速は約31.3万 km/sという値を得た。 1850年にフーコーは回転ミラーを使った光速の測定を行い、水中で光速が遅くなることを実証した。真空中の光速は1862年に298000±500 km/sという値を得ている。 1873年からマイケルソンはフーコーの方法を改良して光速の測定を続けた。1926年の測定値は299796±4 km/sである。 その後マイクロ波を使う方法、レーザーの使用などにより測定の精度が高まった。 1983年には、国際度量衡総会により、メートルを光速によって定義することとなった。これにより、真空中の光速が299792458 m/sと定義されたことになる。 マクスウェルの方程式によれば、電磁波の伝播速さは次の関係で与えられる。 ここで、ε0 は真空の誘電率、μ0 は真空の透磁率である。ジェームズ・クラーク・マクスウェルはこの式を観測ではなく理論から導いたが、判明していた値 ε0 = 8.85×10 F/m、μ0 = 1.26×10 H/m を代入すると、真空中の電磁波の速さが約30万 km/sとなり、フィゾーが測定した光速とほぼ一致した。この事から、マクスウェルは当時正体がよくわかっていなかった光の波が電磁波の一種であることを提唱した。これは後にハインリヒ・ヘルツによって実証された。 光速は、物質中では真空中よりも遅くなる。屈折という現象がおきるのは、光速が媒質によって異なるためである。また、物質中の光速よりも速い速度で荷電粒子が運動することが可能であり、このときチェレンコフ放射が発生する。 物質の絶対屈折率は、真空中の光速をその物質中の光速で割った値で定義されている。たとえば水の屈折率は可視光領域波長で約1.33、真空中の光速は約30万 km/sであるから、水中での光速は約22.5万 km/sとなる。 一般に、あらゆる情報や物質は、真空中の光速よりも速く伝播することは不可能であるとされている。相対論の方程式によれば、光速よりも速く移動する物体を仮定すると、実数で表すことのできない物理量が現れ、質量が無限大になってしまうからである。しかし、光速よりも大きな速度が出現する物理的状況という現象は数多く存在する。 光の「群速度」が光速を超えることが可能であるということは、理論的に古くから知られていた。ある最近の実験では、セシウム原子中の非常に短い距離を、光速の310倍の群速度でレーザー光線を伝えることに成功した。2002年にはモンクトン大学(英語版)の物理学者アラン・ハッシュ(英語版)は、超光速の群速度をもつパルスを、長い距離にわたって伝えることに初めて成功した。この実験では、同軸フォトニック結晶の120メートルケーブルの中を、光速の3倍の群速度のパルスが伝播した。しかし、この技術を超光速の情報伝達のために使うことは不可能である。情報伝達の速度というのは波束の先端速度(英語版)(パルスの最初の立ち上がりが伝播する速さ)によっており、群速度と先端速度の積は物質中の光速の2乗に等しいからである。 このように光の群速度が光速を超えられるというのは、音速にあてはめて次のように理解できる。人々を、距離をあけて一列に並べたとする。そして、各々が自分の腕時計でタイミングを見はからい、短い間隔で順番に掛け声をあげさせるとする。このとき、彼らは隣の人の声を聞くのを待たずに声をあげることができる。またある例として、海岸に打ち上げられる波にも同じようなことが見られる。波と海岸線の間の角度が十分小さければ、砕ける波は、内陸を波が伝わるよりもずっと大きな速さで波長に沿って伝播することができる。 たとえばレーザーが遠方にある物体の表面を横切ると、光のスポットの速度は簡単に光速を超えることができる。遠方の物体に影を投射させても同様である。どちらの場合も、物質や情報が光速を超えて伝播しているわけではない。 光速は、エバネッセント波が関与する現象、たとえばトンネル効果などにおいても超えることができる。エバネッセント波の位相速度と群速度は光速を超えうることが、実験によって示されている。しかしながら先端速度は光速を超えられないとされているため、この場合にも情報が光速を超えて伝播することはない。 量子力学では、ある種の量子的効果が光速を超えて伝播することがある(実際に、空間的隔たりのある物体同士の相互作用は長らく量子力学の問題であると見なされてきた。EPRパラドックスも参照)。たとえば、二つの粒子の量子状態が量子もつれの状態にあり、一方の粒子の状態が他方の粒子の状態を固定するものとする(ここでは、一方のスピンが +1⁄2 でなければならず、他方が −1⁄2 でなければならないとする)。観測されるまでは、二つの粒子は(+1⁄2, −1⁄2)および(−1⁄2, +1⁄2)という二つの量子状態の重ね合わせ状態にある。二つの粒子が離れ、一方の粒子が観測されて量子状態が決定されたとすると、自動的に他方の粒子の量子状態も決定される。もし、ある種の量子力学の解釈のように、量子状態についての情報が一つの粒子について局所的であるとするなら、次のように結論づけなければならない。すなわち、最初の観測がなされると、二つ目の粒子は即座に、その量子状態を占めるのである。しかしながら、最初の粒子が観測されたときにどちらの量子状態にあるかを制御することは不可能なので、この方法でも情報は伝播できない。物理法則は、情報がもっと賢い方法で伝播することをも妨げており、これは量子複製不可能定理や通信不可能定理(英語版)へとつながることになった。 二つの物体が互いに向かい合う方向に運動しており、それぞれある慣性フレーム(空間を含む)における速度が0.8cであったとする。このとき、二つの物体は2倍の1.6cの速度で接近していることになる。これを接近速度とよぶ。接近速度はこのように3フレーム間の速度合成であるため、光速の2倍まで許される。 ある宇宙船が、地球から(地球の静止系で)1光年離れた惑星まで高速で移動するとする。これに要する時間は、宇宙船内の時計でみると1年よりも短くなることが可能である(地球上の時計でみれば、必ず1年以上かかる)。このとき、地球の系でみた移動距離を、宇宙船の時計でみた経過時間で割った値のことを、固有速度(英語版)という。固有速度はあるひとつの慣性系で観測される速度を表しているわけではないので、この値には上限がない。しかしもちろん、同時に地球を出発した光信号はどんな場合にも宇宙船より速く惑星に到達する。 いわゆる超光速運動とよばれるものが、電波銀河やクエーサーのジェットなど、ある種の天体において観測される。しかし、これらのジェットは光速よりも速く運動しているわけではない。この見かけ上の超光速運動は、物体が光速に近い速度で運動しており、その方向と視線とのなす角度が小さいときに起こる投影効果である。超光速で運動して見えるジェットを持つクエーサーは超光速クエーサーと呼ばれており、3C 279や3C 179はその一例である。 衝撃波とは、主にある媒質中の音速を超えて運動する物体により発生する強い圧力波であるが、同様に媒質中の光速を超えて運動する荷電粒子によっても強い電磁波が発生し、これをチェレンコフ放射と呼ぶ。絶縁された媒質中を荷電粒子が通過するとき、媒質の原子中の電子は荷電粒子の場によって局所的に乱され偏極が起きる。粒子が通過したあとに媒質中の電子が再び平衡状態に戻るとき電磁波が放射されるが(十分移動度の高い伝導体においては電磁遮蔽により電磁波は発しない)、粒子の速度が十分遅い場合、この電磁波は干渉により弱めあう。しかし場の乱れが光子よりも速いとき、すなわち荷電粒子が媒質中の光速よりも速いとき、光子は干渉により強めあい、観測される放射強度は増幅される。 宇宙の初期に関する理論であるインフレーション理論に対抗する光速変動理論 (VSL) などのアイデアが存在している。光子が非常に高いエネルギーであるときに、光速が速くなる、とする考えだが、場当たり的な仮定が多く、方程式も複雑であるため、正しく宇宙の法則をとらえた理論であるとは考えられていない。 光速の値の全桁を暗記する例として、次のものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "光速(、英: speed of light)とは、光が伝播する速さのことである。真空中における光速の値は 299792458 m/s(約30万 km/s)と定義されている。この速度においては、太陽から地球まで約8分19秒、月から地球まで2秒もかからない。俗に「1秒間に地球を7周半回ることができる速さ」とも表現される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "以下で単に「光速」と言うとき、真空中の光速を指して使うことがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "光速は宇宙における最大の速さであり、物理学において時間と空間の基準となる特別な意味を持つ値でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現代の国際単位系では長さの単位メートルは光速と秒により定義されている。光速度は電磁波の伝播速度でもあり、マクスウェルの方程式で媒質を真空にすると光速が一定となるということが相対性理論の根本原理の由来になっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "重力作用も光速で伝播することが相対性理論で予言され、2002年に観測により確認された。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "光速の記号は一般に小文字・イタリック体(又は斜体)の c または c0 で表される。2006年の国際単位系(SI)の公式文書(第8版)では、記号として c0 を用いていた。しかし、同文書の2019年版(第9版)においては、記号 c のみを用いるように変更された。これと合わせてCODATA2018においても、記号 c0 から記号 c へ変更している。", "title": "記号と由来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "記号 c はヴィルヘルム・ヴェーバーによる「ヴェーバー定数」(Weber's constant)に由来するとともに、ラテン語で速さを意味する celeritas にも由来するものである。", "title": "記号と由来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "近代まで、光は瞬間的に伝わるのか、それとも有限の速さで伝わるのかは不明だった。エンペドクレスは初めて光の速さは有限だと主張した。一方でアリストテレスは光は運動ではなく、瞬間的に伝わると論じた。イブン・ハイサムは光は有限の速さで伝わり、その速さは可変で、密度の高い物体では遅くなると論じた。ヨハネス・ケプラーやルネ・デカルトは、光速は無限大だと考えていた。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ガリレオ・ガリレイは、遠く離れた2か所に置いたランプの合図を用いて光速を測定する方法を提案した。しかし、光速はあまりに速く、当時のいかなる計測器でもこの様な方法でわずかな時間を正確に測る事ができなかったために有意な結果を得られなかった。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1676年にデンマークの数学者オーレ・レーマーは木星の衛星イオが木星に隠れる周期の変化と木星までの距離から光速を計算した。当時既に地球と木星の位置関係、ならびにイオが木星の陰に隠れる(隠蔽)周期は正確にわかっていた。レーマーは、地球が木星から遠い位置にある時に、イオが隠れる時刻を調べ、光の速さが無限大ならば常に42.5時間置きに隠蔽が観測されるはずとして「観測予定時刻」を計算した。そして地球が公転軌道上で木星に近づいた位置に移動した5ヵ月後に再度イオが隠れる時刻を調べると、「観測予定時刻」よりも早くなっている事を確認した。この結果からレーマーは、光は地球軌道の直径を横切るのに22分かかると結論した。ジョヴァンニ・カッシーニの観測より得られた地球-太陽間距離を用いると、レーマーの得た光速は約21.3万 km/s となる。これは実際の光速より3割ほど遅い数字だったが、光の速さが有限であることを証明し、その具体的な速さを初めて与えた。レーマーの友人アイザック・ニュートンもこれを認め、この光速の値を著書に記した。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1729年にジェームズ・ブラッドリーは季節による星の光行差から光速を求めた。彼の測定値は301000 km/sであった。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1849年、アルマン・フィゾーは、天体現象を利用せずに、回転する歯車を使って、初めて地上の実験で光速を測定した。ランプの光をビームスプリッターで直角に曲げ、筒の中で720枚の歯がついた歯車を通過させて光を等間隔に分断して放ち、約8.6 km離れた反射鏡で折り返し、筒の中で同じ歯車を通して観察した。歯車の回転が遅いうちは、凹部を通った光は反射され同じ凹部から見える。しかし回転数を上げると、やがて反射光が凸部(歯の部分)で遮られるようになる。フィゾーは、この時の12.6回転/秒から、(8.6 km)×2 = 17.2 kmを光が進む時間は(1秒)/(12.6回転/秒)/(720×2)(歯車の凸部と凹部の間の個数 = 歯の数の2倍)= 0.000055 sと計算した。これらから光速は約31.3万 km/sという値を得た。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1850年にフーコーは回転ミラーを使った光速の測定を行い、水中で光速が遅くなることを実証した。真空中の光速は1862年に298000±500 km/sという値を得ている。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1873年からマイケルソンはフーコーの方法を改良して光速の測定を続けた。1926年の測定値は299796±4 km/sである。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後マイクロ波を使う方法、レーザーの使用などにより測定の精度が高まった。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1983年には、国際度量衡総会により、メートルを光速によって定義することとなった。これにより、真空中の光速が299792458 m/sと定義されたことになる。", "title": "光速の測定" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式によれば、電磁波の伝播速さは次の関係で与えられる。", "title": "電磁波の伝播と光速" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ここで、ε0 は真空の誘電率、μ0 は真空の透磁率である。ジェームズ・クラーク・マクスウェルはこの式を観測ではなく理論から導いたが、判明していた値 ε0 = 8.85×10 F/m、μ0 = 1.26×10 H/m を代入すると、真空中の電磁波の速さが約30万 km/sとなり、フィゾーが測定した光速とほぼ一致した。この事から、マクスウェルは当時正体がよくわかっていなかった光の波が電磁波の一種であることを提唱した。これは後にハインリヒ・ヘルツによって実証された。", "title": "電磁波の伝播と光速" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "光速は、物質中では真空中よりも遅くなる。屈折という現象がおきるのは、光速が媒質によって異なるためである。また、物質中の光速よりも速い速度で荷電粒子が運動することが可能であり、このときチェレンコフ放射が発生する。", "title": "物質中の光速" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "物質の絶対屈折率は、真空中の光速をその物質中の光速で割った値で定義されている。たとえば水の屈折率は可視光領域波長で約1.33、真空中の光速は約30万 km/sであるから、水中での光速は約22.5万 km/sとなる。", "title": "物質中の光速" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一般に、あらゆる情報や物質は、真空中の光速よりも速く伝播することは不可能であるとされている。相対論の方程式によれば、光速よりも速く移動する物体を仮定すると、実数で表すことのできない物理量が現れ、質量が無限大になってしまうからである。しかし、光速よりも大きな速度が出現する物理的状況という現象は数多く存在する。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "光の「群速度」が光速を超えることが可能であるということは、理論的に古くから知られていた。ある最近の実験では、セシウム原子中の非常に短い距離を、光速の310倍の群速度でレーザー光線を伝えることに成功した。2002年にはモンクトン大学(英語版)の物理学者アラン・ハッシュ(英語版)は、超光速の群速度をもつパルスを、長い距離にわたって伝えることに初めて成功した。この実験では、同軸フォトニック結晶の120メートルケーブルの中を、光速の3倍の群速度のパルスが伝播した。しかし、この技術を超光速の情報伝達のために使うことは不可能である。情報伝達の速度というのは波束の先端速度(英語版)(パルスの最初の立ち上がりが伝播する速さ)によっており、群速度と先端速度の積は物質中の光速の2乗に等しいからである。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このように光の群速度が光速を超えられるというのは、音速にあてはめて次のように理解できる。人々を、距離をあけて一列に並べたとする。そして、各々が自分の腕時計でタイミングを見はからい、短い間隔で順番に掛け声をあげさせるとする。このとき、彼らは隣の人の声を聞くのを待たずに声をあげることができる。またある例として、海岸に打ち上げられる波にも同じようなことが見られる。波と海岸線の間の角度が十分小さければ、砕ける波は、内陸を波が伝わるよりもずっと大きな速さで波長に沿って伝播することができる。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "たとえばレーザーが遠方にある物体の表面を横切ると、光のスポットの速度は簡単に光速を超えることができる。遠方の物体に影を投射させても同様である。どちらの場合も、物質や情報が光速を超えて伝播しているわけではない。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "光速は、エバネッセント波が関与する現象、たとえばトンネル効果などにおいても超えることができる。エバネッセント波の位相速度と群速度は光速を超えうることが、実験によって示されている。しかしながら先端速度は光速を超えられないとされているため、この場合にも情報が光速を超えて伝播することはない。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "量子力学では、ある種の量子的効果が光速を超えて伝播することがある(実際に、空間的隔たりのある物体同士の相互作用は長らく量子力学の問題であると見なされてきた。EPRパラドックスも参照)。たとえば、二つの粒子の量子状態が量子もつれの状態にあり、一方の粒子の状態が他方の粒子の状態を固定するものとする(ここでは、一方のスピンが +1⁄2 でなければならず、他方が −1⁄2 でなければならないとする)。観測されるまでは、二つの粒子は(+1⁄2, −1⁄2)および(−1⁄2, +1⁄2)という二つの量子状態の重ね合わせ状態にある。二つの粒子が離れ、一方の粒子が観測されて量子状態が決定されたとすると、自動的に他方の粒子の量子状態も決定される。もし、ある種の量子力学の解釈のように、量子状態についての情報が一つの粒子について局所的であるとするなら、次のように結論づけなければならない。すなわち、最初の観測がなされると、二つ目の粒子は即座に、その量子状態を占めるのである。しかしながら、最初の粒子が観測されたときにどちらの量子状態にあるかを制御することは不可能なので、この方法でも情報は伝播できない。物理法則は、情報がもっと賢い方法で伝播することをも妨げており、これは量子複製不可能定理や通信不可能定理(英語版)へとつながることになった。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "二つの物体が互いに向かい合う方向に運動しており、それぞれある慣性フレーム(空間を含む)における速度が0.8cであったとする。このとき、二つの物体は2倍の1.6cの速度で接近していることになる。これを接近速度とよぶ。接近速度はこのように3フレーム間の速度合成であるため、光速の2倍まで許される。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ある宇宙船が、地球から(地球の静止系で)1光年離れた惑星まで高速で移動するとする。これに要する時間は、宇宙船内の時計でみると1年よりも短くなることが可能である(地球上の時計でみれば、必ず1年以上かかる)。このとき、地球の系でみた移動距離を、宇宙船の時計でみた経過時間で割った値のことを、固有速度(英語版)という。固有速度はあるひとつの慣性系で観測される速度を表しているわけではないので、この値には上限がない。しかしもちろん、同時に地球を出発した光信号はどんな場合にも宇宙船より速く惑星に到達する。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "いわゆる超光速運動とよばれるものが、電波銀河やクエーサーのジェットなど、ある種の天体において観測される。しかし、これらのジェットは光速よりも速く運動しているわけではない。この見かけ上の超光速運動は、物体が光速に近い速度で運動しており、その方向と視線とのなす角度が小さいときに起こる投影効果である。超光速で運動して見えるジェットを持つクエーサーは超光速クエーサーと呼ばれており、3C 279や3C 179はその一例である。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "衝撃波とは、主にある媒質中の音速を超えて運動する物体により発生する強い圧力波であるが、同様に媒質中の光速を超えて運動する荷電粒子によっても強い電磁波が発生し、これをチェレンコフ放射と呼ぶ。絶縁された媒質中を荷電粒子が通過するとき、媒質の原子中の電子は荷電粒子の場によって局所的に乱され偏極が起きる。粒子が通過したあとに媒質中の電子が再び平衡状態に戻るとき電磁波が放射されるが(十分移動度の高い伝導体においては電磁遮蔽により電磁波は発しない)、粒子の速度が十分遅い場合、この電磁波は干渉により弱めあう。しかし場の乱れが光子よりも速いとき、すなわち荷電粒子が媒質中の光速よりも速いとき、光子は干渉により強めあい、観測される放射強度は増幅される。", "title": "超光速の観測と実験" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宇宙の初期に関する理論であるインフレーション理論に対抗する光速変動理論 (VSL) などのアイデアが存在している。光子が非常に高いエネルギーであるときに、光速が速くなる、とする考えだが、場当たり的な仮定が多く、方程式も複雑であるため、正しく宇宙の法則をとらえた理論であるとは考えられていない。", "title": "光速変動理論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "光速の値の全桁を暗記する例として、次のものがある。", "title": "光速の暗唱" } ]
光速(こうそく、とは、光が伝播する速さのことである。真空中における光速の値は 299792458 m/sと定義されている。この速度においては、太陽から地球まで約8分19秒、月から地球まで2秒もかからない。俗に「1秒間に地球を7周半回ることができる速さ」とも表現される。 以下で単に「光速」と言うとき、真空中の光速を指して使うことがある。 光速は宇宙における最大の速さであり、物理学において時間と空間の基準となる特別な意味を持つ値でもある。 現代の国際単位系では長さの単位メートルは光速と秒により定義されている。光速度は電磁波の伝播速度でもあり、マクスウェルの方程式で媒質を真空にすると光速が一定となるということが相対性理論の根本原理の由来になっている。 重力作用も光速で伝播することが相対性理論で予言され、2002年に観測により確認された。
{{otheruses||[[セル・オートマトン]]の単位時間|光速 (セル・オートマトン)}} {{物理定数 | 名称 =真空中の光速 | 英語 = | 画像 = | 記号 = {{math|''c'', ''c''<sub>0</sub>}} | 値 = {{Val|299792458|ul=m/s}} | 不確かさ = 定義値 | 語源 = }} {{単位 | 名称 = 真空中の光速 | 読み = しんくうちゅうのこうそく | フランス語 = | 英語 = | 英字 = | 他言語 = | 画像 = | 記号 = {{math|''c'', ''c''<sub>0</sub>}} | 度量衡 = | 単位系 = [[国際単位系]] | 物理量 = 速度 | SI = {{Val|299792458|u=m/s}} | 組立 = | 定義 = | 由来 = | 語源 = }} {{読み仮名|'''光速'''|こうそく|{{lang-en-short|speed of light}}}}とは、[[光]]が伝播する[[速さ]]のことである<ref name="Newton2011-12-24">[[#ニュートン (2011-12)|ニュートン (2011-12)、pp. 24–25.]]</ref>。[[自由空間|真空]]中における光速の値は {{Val|299792458|ul=m/s}}(約30万 [[キロメートル|km]]/s)と定義されている。この速度においては、[[太陽]]から[[地球]]まで約8分19秒<ref group="注釈">太陽から地球までの距離 / 光速 = {{Val|149597870700|u=m}} / {{Val|299792458|u=m/s}} = {{val|499.004783|u=s}}(約8分19秒)</ref>、[[月]]から地球まで2秒もかからない<ref group="注釈">月から地球までの距離 / 光速 = {{Val|384400000|u=m}} / {{Val|299792458|u=m/s}} = {{val|1.282220|u=s}}(約1.3秒)</ref>。俗に「1秒間に地球を7周半回ることができる速さ」とも表現される<ref group="注釈">光は直進するので実際には「周回」することはないが、あくまでも数値の対比からくる比喩である。光速 / 地球の円周 ≈ {{val|3.0|e=8|u=m/s}} / {{val|40000|u=km}} = 7.5 s<sup>&minus;1</sup></ref>。 以下で単に「光速」と言うとき、真空中の光速を指して使うことがある。 光速は[[宇宙]]における最大の速さであり、[[物理学]]において[[時間]]と[[空間]]の基準となる特別な意味を持つ[[値]]でもある<ref name="Newton2011-12-24" />。 現代の[[国際単位系]]では長さの単位[[メートル]]は光速と[[秒]]により定義されている。光速度は電磁波の伝播速度でもあり、[[マクスウェルの方程式]]で[[媒質]]を真空にすると光速が一定となるということが[[相対性理論]]の根本原理の由来になっている。 [[万有引力|重力]]作用も光速で伝播することが相対性理論で予言され、2002年に[[観測]]により確認された<ref group="注釈">[[クエーサー]]の[[木星]]による掩蔽の観測を、[[重力レンズ]]効果の数値と比較:[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]</ref>。 {{TOC limit}} == 記号と由来 == === 記号 {{mvar|c}}, {{math|''c''{{sub|0}}}} === 光速の記号は一般に[[小文字]]・[[イタリック体]](又は[[斜体]])の {{Mvar|c}} または {{Math|''c''<sub>0</sub>}} <ref group="注釈">例えば、{{Cite journal|和書 |author=小林弘和, 北野正雄 |date=2015 |title=机の上で光速を測る |url=https://hdl.handle.net/2433/202028 |journal=大学の物理教育 |publisher=日本物理学会 |volume=21 |issue=3 |pages=130-134 |ISSN=1340-993X}}</ref>で表される。2006年の[[国際単位系]](SI)の公式文書(第8版)では、記号として {{math|''c''{{sub|0}}}} を用いていた<ref>[https://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/ SI Brochure: The International System of Units (SI)] Previous editions of the SI Brochure, 8th edition of the SI brouchure(2006), 2.1.1.1 Unit of length(metre), p.112欄外注 The symbol, c0 (or sometimes simply c), is the conventional symbol for the speed of light in vacuum. </ref>。しかし、同文書の2019年版(第9版)においては、記号 {{mvar|c}} のみを用いるように変更された<ref>https://www.bipm.org/documents/20126/41483022/SI-Brochure-9.pdf/ The International System of Units (SI) Ver.9 (2019), p.127 2.2 Definition of the SI, p.128 Table 1 speed of light in vacuum c など。</ref>。これと合わせて[[CODATA]]2018においても、記号 {{math|''c''{{sub|0}}}} から記号 {{mvar|c}} へ変更している<ref>[https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?c|search_for=c speed of light in vacuum] 記号が{{mvar|c}}となっている。Fundamental Physical Constants, The NIST Reference on Constants, Units, and Uncertainty</ref>。 === 記号 {{mvar|c}} の由来  === 記号 {{mvar|c}} は[[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]による「ヴェーバー[[定数]]」({{Lang|en|Weber's constant}})に由来するとともに、[[ラテン語]]で速さを意味する {{Lang|la|''[[wikt:en:celeritas|celeritas]]''}} にも由来するものである<ref>[http://math.ucr.edu/home/baez/physics/Relativity/SpeedOfLight/c.html] Why is c the symbol for the speed of light? </ref>。 == 光速の測定 == 近代まで、光は瞬間的に伝わるのか、それとも有限の速さで伝わるのかは不明だった。[[エンペドクレス]]は初めて光の速さは有限だと主張した。一方で[[アリストテレス]]は光は運動ではなく、瞬間的に伝わると論じた。[[イブン・ハイサム]]は光は有限の速さで伝わり、その速さは可変で、密度の高い物体では遅くなると論じた。[[ヨハネス・ケプラー]]や[[ルネ・デカルト]]は、光速は無限大だと考えていた<ref group="注釈">デカルトは、光の速さは無限大だとする一方で、屈折の法則を導く際には、密度の高い媒質中で光は速くなるという議論もしている。</ref>。 [[ガリレオ・ガリレイ]]は、遠く離れた2か所に置いた[[ランプ (光源)|ランプ]]の合図を用いて光速を測定する方法を提案した。しかし、光速はあまりに速く、当時のいかなる計測器でもこの様な方法でわずかな時間を正確に測る事ができなかったために有意な結果を得られなかった<ref name="Newton2011-12-28">[[#ニュートン (2011-12)|ニュートン (2011-12)、pp.&nbsp;28–29.]]</ref>。 [[1676年]]に[[デンマーク]]の[[数学者]][[オーレ・レーマー]]は[[木星]]の[[衛星]][[イオ (衛星)|イオ]]が木星に隠れる[[周期]]の[[変化]]と木星までの[[距離]]から光速を計算した。当時既に[[地球]]と木星の位置関係、ならびにイオが木星の陰に隠れる(隠蔽)周期は正確にわかっていた。レーマーは、地球が木星から遠い位置にある時に、イオが隠れる時刻を調べ、光の速さが無限大ならば常に42.5時間置きに隠蔽が観測されるはずとして「観測予定時刻」を計算した。そして地球が公転軌道上で木星に近づいた位置に移動した5ヵ月後に再度イオが隠れる時刻を調べると、「観測予定時刻」よりも早くなっている事を確認した。この結果からレーマーは、光は地球軌道の直径を横切るのに22分かかると結論した。[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]の観測より得られた地球-太陽間距離を用いると、レーマーの得た光速は約21.3万 km/s となる。これは実際の光速より3割ほど遅い数字だったが、光の速さが有限であることを証明し、その具体的な速さを初めて与えた<ref name="Newton2011-12-28" />。レーマーの友人[[アイザック・ニュートン]]もこれを認め、この光速の値を著書に記した<ref name="Newton2011-12-28" />。 1729年に[[ジェームズ・ブラッドリー]]は[[季節]]による星の[[光行差]]から光速を求めた。彼の測定値は{{val|301000|u=km/s}}であった。 1849年、[[アルマン・フィゾー]]は、天体現象を利用せずに、[[回転]]する[[歯車]]を使って、初めて地上の実験で光速を測定した。ランプの光を[[ビームスプリッター]]で[[直角]]に曲げ、筒の中で720枚の歯がついた歯車を通過させて光を等間隔に分断して放ち、約8.6 km離れた反射鏡で折り返し、筒の中で同じ歯車を通して観察した。歯車の回転が遅いうちは、凹部を通った光は反射され同じ凹部から見える。しかし回転数を上げると、やがて反射光が凸部(歯の部分)で遮られるようになる。フィゾーは、この時の12.6回転/[[秒]]から、(8.6 km)&times;2 = 17.2 kmを光が進む時間は(1秒)/(12.6回転/秒)/(720&times;2)(歯車の凸部と凹部の間の個数 = 歯の数の2倍)= {{val|0.000055|u=s}}と計算した。これらから光速は約31.3万 km/sという値を得た<ref name="Newton2011-12-30">[[#ニュートン (2011-12)|ニュートン (2011-12)、pp.&nbsp;30–31.]]</ref>。 [[1850年]]に[[レオン・フーコー|フーコー]]は回転ミラーを使った光速の測定を行い、水中で光速が遅くなることを実証した。真空中の光速は[[1862年]]に{{val|298000|500|u=km/s}}という値を得ている。 [[1873年]]から[[アルバート・マイケルソン|マイケルソン]]はフーコーの方法を改良して光速の測定を続けた。[[1926年]]の測定値は{{val|299796|4|u=km/s}}である。 その後[[マイクロ波]]を使う方法、[[レーザー]]の使用などにより測定の精度が高まった<ref>西条敏美「物理定数とはなにか」 ISBN 4-0625-7144-7</ref>。 [[1983年]]には、[[国際度量衡総会]]により、[[メートル]]を光速によって定義することとなった。これにより、真空中の光速が{{val|299792458|u=m/s}}と定義されたことになる。 == 電磁波の伝播と光速 == [[マクスウェルの方程式]]によれば、[[電磁波]]の伝播の速さは次の関係で与えられる。 : <math>c = \frac{1}{\sqrt{\varepsilon_0 \mu_0}}</math> (''c'' は一定) ここで、''&epsilon;''<sub>0</sub> は[[真空の誘電率]]、''&mu;''<sub>0</sub> は[[真空の透磁率]]である。[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]はこの式を観測ではなく[[理論]]から導いたが、判明していた値 ''&epsilon;''<sub>0</sub> = {{val|8.85 |e=-12|u=F/m}}、''&mu;''<sub>0</sub> = {{val|1.26|e=-6|u=H/m}} を代入すると、真空中の電磁波の速さが約30万 km/sとなり、フィゾーが測定した光速とほぼ一致した<ref name="Newton2011-12-32">[[#ニュートン (2011-12)|ニュートン (2011-12)、pp.&nbsp;32–33.]]</ref>。この事から、マクスウェルは当時正体がよくわかっていなかった光の波が[[電磁波]]の一種であることを提唱した<ref name="Newton2011-12-32" />。これは後に[[ハインリヒ・ヘルツ]]によって実証された。 == 物質中の光速 == 光速は、[[物質]]中では[[自由空間|真空]]中よりも遅くなる。[[屈折]]という現象がおきるのは、光速が[[媒質]]によって異なるためである。また、物質中の光速よりも速い速度で[[荷電粒子]]が運動することが可能であり、このとき[[チェレンコフ放射]]が発生する<ref name="tsuzuki215">[[#都築卓司|都築卓司、p.215]]</ref>。 物質の絶対[[屈折率]]は、真空中の光速をその物質中の光速で割った値で定義されている。たとえば[[水]]の[[屈折率]]は可視光領域波長で約1.33、真空中の光速は約30万 km/sであるから、水中での光速は約22.5万 km/sとなる。 == 超光速の観測と実験 == {{Unsolved|物理学|光より速く進むことは可能か?}} 一般に、あらゆる[[情報]]や[[物質]]は、真空中の光速よりも速く伝播することは不可能であるとされている。[[相対性理論|相対論]]の方程式によれば、光速よりも速く移動する物体を仮定すると、[[実数]]で表すことのできない[[物理量]]が現れ、質量が[[無限|無限大]]になってしまうからである<ref name="tsuzuki136">[[#都築卓司|都築卓司、p.136]]</ref>。しかし、光速よりも大きな速度が出現する物理的状況という現象は数多く存在する。 === 光速よりも速く伝播するもの === ==== 波動の速度と同時的イベント ==== 光の「[[群速度]]」が光速を超えることが可能であるということは、理論的に古くから知られていた<ref>{{cite web| url = http://www.gregegan.net/APPLETS/20/20.html| title = Applets Gallery / Subluminal| first = Greg| last = Egan| authorlink = Greg Egan| date = 2000年8月17日| accessdate = 2018年3月5日}}<br/> References {{cite journal| author = LJ Wang| coauthors = A Kuzmich & A Dogariu| title = Gain-assisted superluminal light propagation| journal = Nature| issue = 406| pages = p277| date = 2000年7月20日}}''</ref>。ある最近の実験では、[[セシウム]][[原子]]中の非常に短い距離を、光速の310倍の群速度で[[レーザー]]光線を伝えることに成功した。2002年には{{仮リンク|モンクトン大学|en|Université de Moncton}}の物理学者{{仮リンク|アラン・ハッシュ|en|Alain Haché}}は、超光速の群速度をもつ[[パルス]]を、長い距離にわたって伝えることに初めて成功した。この実験では、同軸[[フォトニック結晶]]の120メートルケーブルの中を、光速の3倍の群速度のパルスが伝播した<ref>[http://physicsweb.org/articles/news/6/1/13 Electrical pulses break light speed record], physicsweb, 2002年1月22日; A Haché and L Poirier (2002), Appl. Phys. Lett. v.80 p. 518 も参照。</ref>。しかし、この技術を超光速の情報伝達のために使うことは不可能である。情報伝達の速度というのは波束の{{仮リンク|先端速度|en|Front velocity}}(パルスの最初の立ち上がりが伝播する速さ)によっており、群速度と先端速度の積は物質中の光速の2乗に等しいからである。 このように光の群速度が光速を超えられるというのは、[[音速]]にあてはめて次のように理解できる。人々を、距離をあけて一列に並べたとする。そして、各々が自分の腕時計でタイミングを見はからい、短い間隔で順番に掛け声をあげさせるとする。このとき、彼らは隣の人の声を聞くのを待たずに声をあげることができる。またある例として、海岸に打ち上げられる波にも同じようなことが見られる。波と海岸線の間の角度が十分小さければ、砕ける波は、内陸を波が伝わるよりもずっと大きな速さで波長に沿って伝播することができる<!--訳注:言いたいことはわかるんですがどうもうまく訳せません。-->。 ==== 光のスポットと影 ==== たとえばレーザーが遠方にある物体の表面を横切ると、光のスポットの速度は簡単に光速を超えることができる<ref>{{cite web | url = http://math.ucr.edu/home/baez/physics/Relativity/SpeedOfLight/FTL.html | title = Shadows and Light Spots | accessdate = 2008年3月2日}}</ref>。遠方の物体に影を投射させても同様である。どちらの場合も、物質や情報が光速を超えて伝播しているわけではない。 ==== 量子力学 ==== 光速は、[[エバネッセント波]]が関与する現象、たとえば[[トンネル効果]]などにおいても超えることができる。エバネッセント波の[[位相速度]]と群速度は光速を超えうることが、実験によって示されている。しかしながら先端速度は光速を超えられないとされているため、この場合にも情報が光速を超えて伝播することはない。 [[量子力学]]では、ある種の量子的効果が光速を超えて伝播することがある(実際に、空間的隔たりのある物体同士の相互作用は長らく量子力学の問題であると見なされてきた。[[EPRパラドックス]]も参照)。たとえば、二つの粒子の[[量子状態]]が[[量子もつれ]]の状態にあり、一方の粒子の状態が他方の粒子の状態を固定するものとする(ここでは、一方の[[スピン角運動量|スピン]]が +{{分数|1|2}} でなければならず、他方が −{{分数|1|2}} でなければならないとする)。[[観測]]されるまでは、二つの粒子は(+{{分数|1|2}}, −{{分数|1|2}})および(−{{分数|1|2}}, +{{分数|1|2}})という二つの量子状態の[[重ね合わせ]]状態にある。二つの粒子が離れ、一方の粒子が観測されて量子状態が決定されたとすると、自動的に他方の粒子の量子状態も決定される。もし、ある種の量子力学の解釈のように、量子状態についての情報が一つの粒子について局所的であるとするなら、次のように結論づけなければならない。すなわち、最初の観測がなされると、二つ目の粒子は即座に、その量子状態を占めるのである。しかしながら、最初の粒子が観測されたときにどちらの量子状態にあるかを制御することは不可能なので、この方法でも情報は伝播できない。物理法則は、情報がもっと賢い方法で伝播することをも妨げており、これは[[量子複製不可能定理]]や{{仮リンク|通信不可能定理|en|No-communication theorem}}へとつながることになった。 === 接近速度 === 二つの物体が互いに向かい合う方向に運動しており、それぞれある慣性フレーム(空間を含む)における速度が0.8cであったとする。このとき、二つの物体は2倍の1.6cの速度で接近していることになる。これを接近速度とよぶ。接近速度はこのように3フレーム間の速度合成であるため、光速の2倍まで許される。 === 固有速度 === ある宇宙船が、地球から(地球の静止系で)1光年離れた惑星まで高速で移動するとする。これに要する時間は、宇宙船内の時計でみると1年よりも短くなることが可能である(地球上の時計でみれば、必ず1年以上かかる)。このとき、地球の系でみた移動距離を、宇宙船の時計でみた経過時間で割った値のことを、{{仮リンク|固有速度|en|Proper velocity}}という。固有速度はあるひとつの慣性系で観測される速度を表しているわけではないので、この値には上限がない。しかしもちろん、同時に地球を出発した光信号はどんな場合にも宇宙船より速く惑星に到達する。 === 光速よりも速く伝播するように見えるだけのもの === いわゆる[[超光速運動]]とよばれるものが、[[電波銀河]]や[[クエーサー]]の[[宇宙ジェット|ジェット]]など、ある種の天体において観測される。しかし、これらのジェットは光速よりも速く運動しているわけではない。この見かけ上の超光速運動は、物体が光速に近い速度で運動しており、その方向と[[視線]]とのなす角度が小さいときに起こる[[投影]]効果である。超光速で運動して見えるジェットを持つクエーサーは'''超光速クエーサー'''と呼ばれており、[[3C 279]]や[[3C 179]]はその一例である。 === 媒質中の光速よりも速く伝播するもの === [[衝撃波]]とは、主にある媒質中の[[音速]]を超えて運動する物体により発生する強い[[圧力波]]であるが、同様に'''媒質中の'''光速を超えて運動する荷電粒子によっても強い電磁波が発生し、これを[[チェレンコフ放射]]と呼ぶ<ref>{{Kotobank|チェレンコフ放射|法則の辞典}}</ref>。[[絶縁 (電気)|絶縁]]された媒質中を荷電粒子が通過するとき、媒質の原子中の電子は荷電粒子の場によって局所的に乱され[[偏極]]が起きる。粒子が通過したあとに媒質中の電子が再び平衡状態に戻るとき電磁波が放射されるが(十分[[移動度]]の高い[[伝導体]]においては電磁遮蔽により電磁波は発しない)、粒子の速度が十分遅い場合、この電磁波は干渉により弱めあう。しかし場の乱れが光子よりも速いとき、すなわち荷電粒子が'''媒質中の'''光速よりも速いとき、光子は干渉により強めあい、観測される放射強度は増幅される。 === 理論上の超光速粒子 === * [[タキオン]]は、[[ゾンマーフェルト]]によって提唱され、[[ジェラルド・ファインバーグ]]によって命名<ref name="tsuzuki130">[[#都築卓司|都築卓司、p.130]]</ref>された仮想の超光速粒子である。 * [[スーパーブラディオン]]は{{仮リンク|ルイス・ゴンザレス・メストレ|es|Luis González-Mestres}}によって提唱された仮想の超光速粒子である。タキオンと異なり正の実数の質量とエネルギーを持つ。 == 光速変動理論 == 宇宙の初期に関する理論である[[インフレーション理論]]に対抗する[[光速変動理論]] (VSL) などのアイデアが存在している。光子が非常に高いエネルギーであるときに、光速が速くなる、とする考えだが、場当たり的な仮定が多く{{要検証|date=2010年8月}}、方程式も複雑であるため、正しく宇宙の法則をとらえた理論であるとは考えられていない{{要出典|date=2010年8月}}。 == 光速の暗唱 == 光速の値の全桁を暗記する例として、次のものがある。 にく(憎)くなく 二人  寄れば  いつも  ハッピー{{efn|大井みさほ(東京学芸大学名誉教授。元 計量研究所勤務。)による発案}} 2 9 9 7 9 2 4 5 8 にく(憎)くなく 似よ 子や<ref>[[兵頭俊夫]]、『考える力学』第2版、p.27、[[学術図書出版社]]、ISBN 978-4-7806-0941-7、2021年10月31日第2版第1刷</ref> 2 9 9 7 9 2 4 5 8 にく(憎)くなく にょうご(女御)や 2 9 9 7 9 2 4 5 8 にく(憎)くなく ぶじ(無事)こうばん(交番)で 拘束(光速)だ 2 9 9 7 9 2 4 5 8 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=編集長:[[竹内均]]|year=2011|title=ニュートン|url=http://www.newtonpress.co.jp/newton/back/bk_2011/bk_201112.html|issue=2011年12月号|date=2011-10-26|publisher=[[ニュートン (雑誌)|ニュートンプレス]]|ref=ニュートン (2011-12)}} * {{Cite book|和書|author=都築卓司|title=タイムマシンの話 超光速粒子とメタ相対論|date=1981|edition=第26刷発行|publisher=[[講談社]]|series=[[ブルーバックス]]|ref = 都築卓司 }} == 関連項目 == {{commonscat|Speed of light}} {{Wiktionary}} * [[光年]] * [[光秒]]、[[光分]]、[[光時]]、[[光日]] * [[特殊相対性理論]] * [[光速度不変の原理]] * [[ローレンツ収縮]] * [[タキオン]] == 外部リンク == * {{Kotobank|光速度}} {{Extreme motion}} {{相対性理論}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうそく}} [[Category:光学]] [[Category:電磁波]] [[Category:速度]] [[Category:速度の単位]] [[Category:特殊相対性理論]] [[Category:物理定数]]
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三蔵法師
三蔵法師(さんぞうほうし、繁体字: 三藏法師、簡体字: 三藏法师、拼音: Sānzāng fǎshī)とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に「三蔵」と呼ぶこともある。 日本では中国の伝奇小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」が特に有名だが、三蔵法師というのは一般名詞であり、尊称であって、固有名詞ではない。西遊記の三蔵法師(玄奘三蔵)は数ある三蔵法師のうちのひとりである。 特に、インドや西域から教典をもたらし、漢訳した人々を尊称して「訳経三蔵」や「聖教三蔵」、あるいは「三蔵法師」と呼ぶことが多い。 四大訳経家に数えられる鳩摩羅什や、真諦、不空金剛なども多くの仏典の漢訳を手がけており、「三蔵法師」と呼ばれるが、なかでも最も有名な三蔵法師は唐代の僧・玄奘三蔵である。 玄奘は仏教の聖典原典を求めてインドを周遊し『般若心経』(ただし異説もある)を中国にもたらした。更にその業績は『大唐西域記』や『大慈恩寺三蔵法師伝』としてまとめられ、後に『大唐三蔵取経詩話』でフィクションを含有するようになり、最終的には『西遊記』に結実して世界中に知られるようになった。このため日本では「三蔵法師」と言えば、玄奘を指すことが多い。 「三蔵法師」という称号を歴史的に見た場合、すでにインドで経論律の三蔵に通暁した僧侶を「三蔵法師」と呼んでいたとされる。中国でもこれにならい、南朝宋(420年 - 479年)代の求那跋摩・僧伽跋摩(伝記は梁代の『出三蔵記集』巻14所収)が、その用例の始まりとされる。その後これが一般化し、特に北周(556年 - 581年)代には、昭玄三蔵や周国三蔵など僧官の称にも流用された。また隋代の『歴代三宝紀』以降、三蔵法師は「三蔵禅師」や「三蔵律師」などと同様に、出身地の名称を付して渡来した訳経僧の中でも、高僧を指して尊称された例が頻繁に見られる。 そして8世紀頃になると、渡来の訳経僧に限らず、中国の訳経高僧をも指して用いられるようになり、また過去の訳経僧にも遡って称されるようになった。玄奘が後世に「三蔵法師」と俗称されたのもこれによるものとされる。 歴史上、日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、近江出身の興福寺僧・霊仙である。霊仙は804年(和の延暦23年、唐の貞元20年)、最澄や空海と同じ遣唐使の一行として唐に渡った。長安で仏典の訳経に従事し、その功績を認められ憲宗皇帝より「三蔵」の称号を賜っている。霊仙が関わった『大乗本生心地観経』は石山寺に現存。 なお、仏教が中国に伝来した当初のいわゆる「古訳」に属する訳経の場合は、サンスクリット等の言語で記された梵経を漢語に翻訳(漢訳)した実態に関して記録が残っておらず、その詳細が明らかでない。しかし、玄奘以後の、「新訳」と称せられる時代の訳経の場合、漢訳された経典の巻首に、経典の題目に続けて、いわゆる「訳場列位」を記す慣習が定着していた。霊仙三蔵の場合も、『大乗本生心地観経』の「訳経列位」に記された記名によって、「筆受」「訳語」の役割を務めていたことが明らかとなっている。この場合も、訳経の中心である「訳主」となったのは、般若三蔵であり、本経は般若訳として経録には記録されている。しかし、実態は、まず、般若が梵文で記された原典を梵語で音読し、それを「筆受」者が書き取り、更にそれを漢字に置き換えるのが「訳語」である。その後、「証義」や「潤文」「参役」などの各種の役割を持った人たちが漢訳経典として適切な経文に校訂し、初めて訳経が完成する。 つまり、新訳時代の訳経事業とは、漢訳組織が確立された分担作業によって成り立っている。その結果、「訳主」として全体をプロデュースする立場にあった人が、訳経者として名を残しはするが、「訳主」は全体の組織の中では、原典を音読するだけであり、現代的な感覚でいう「翻訳」作業に従事するのは、「訳語」者である。それ故に、霊仙三蔵の果たした役割が評価され、三蔵の称号を受けている訳である。また一方では、完成した訳経に対する訓詁的な見地からの疑義を、ひとり「訳主」である三蔵法師に帰する問題として取り上げる見方もあるが、それは、実際の訳経事業の漢訳組織に関する見識を欠いた一方的な解釈であり、注意を要する。 西遊記の登場人物としての三蔵法師は、姓は陳、幼名を江流()あるいは紅流児と言い、法名を玄奘()禅師と言った。前世は釈迦如来の二の弟子、金蟬子()だったが、説法を聞かず、教えを軽んじたために東土に転生したとされる。その後、仏教に帰依し、2度の旅に失敗して転生したが、3度目で81つの難をくぐり抜けて成功。三蔵真経を求めた取経の旅の功績と大義により、旃檀功徳仏()という仏に成る記別を得る。 父は陳蕚()、字を光蕋()と言い、科挙に合格した英才で江州長官に抜擢された人物。母は大唐帝国の宰相殷開山の娘で、殷温嬌またの名を満堂嬌と言った。若い夫婦が任地に向かう途中、渡し舟の船頭劉洪が邪心を持ち、妊婦である温嬌を見初めて、李彪と謀って光蕋を撲殺して死体を川に捨てた。劉洪は温嬌を言い含めて妾とし、自らは光蕋に成り済まして江州長官となった。温嬌は劉洪の留守に江流を産んだ。劉洪が帰ればこの子は殺されると思った彼女は、運命を天に任せることとし、赤ん坊を肌襦袢に包み、自分の息子である証拠として赤ん坊の左足の小指を噛み切って、生い立ちを書いた血書を同封し、木片に乗せて川に流した。赤ん坊は金山寺の法明和尚によって救われ、僧として養育された。他方、光蕋は受難の前に金色の鯉を救っており、その鯉は竜王の化身であったので、命の恩に報いるため、川底の死体は巡海夜叉によって竜宮に運ばれ、魂と共に保存されていた。 18年後、若き僧となった玄奘は、師である法明和尚に生い立ちを知らされて衝撃を受ける。師の薦めで托鉢僧となって母の消息を訊ねることになった。江州長官宅ではちょうど劉洪は留守で、玄奘は母と再会できた。しかし母はすぐに立ち去るように言い、後日、金山寺を訪れて耳輪を渡し、父方の祖母張氏と母方の祖父殷開山に会いに行くように指示する。洪州の張氏は貧しく落ちぶれ、失明していたが、玄奘が祈願して両瞼を舐めると、視力を回復した。次に玄奘は長安で殷開山に会った。殷開山は娘夫婦の悲劇を知って憤激し、太宗皇帝に直訴。御林軍6万が派遣され、殷開山は劉洪・李彪一味を捕縛した。 劉洪・李彪は共に拷問されて罪状を洗いざらい吐き、まず李彪がさらし首になった。殷開山、温嬌、玄奘の3人は、光蕋が殺された川辺で霊を慰めるための祭文を焼いて、劉洪の生き肝を抉り生贄にした。ところが川底では巡海夜叉がこの祭文を受け取り、竜王に報告。竜王はこれで光蕋は生き返ることができると喜び、死体を川に戻し、魂を返した。二夫に仕えた自分を恥じる温嬌が川に身を投げて死のうと泣き、玄奘が宥めているところに、死体が水面に浮かび上がり、息を吹き返した。この奇跡に皆が喜ぶ。蘇った光蕋は太宗に学士に取り立てられ、玄奘は洪福寺でさらに仏道修行を積むことになったが、温嬌は従容として後に自殺した。 ある夜、太宗は一度死んで冥界から戻るという体験をした。身代わりとなった妹の李玉英を亡くし、冥途で助けられた相良夫婦に借りた金を返済するために勅建相国 寺を建立したが、以後、仏法を大変に尊ぶようになった。高僧が集められることになり、魏徴の推薦で玄奘が選ばれ、天下大闡都僧綱()の職に任命された。玄奘は化生寺で国中の名僧達や皇帝の前で法会を行った。一方、如来の命を受けて西方取経者を探していた観世音菩薩は、この玄奘が転生したかつての高弟と知って興味を持つ。恵岸と共に長安に現れた菩薩は、乞食坊主に身を変えて、如来から預かった錦襴()の袈裟、九環の錫杖を見せて売り歩いた。値段が銀7千両という高額だったため人々はこれをからかったが、宰相蕭瑀()だけは凡物でないことを見抜いた。聞くと、この袈裟を身につけて斎戒を守れば淪落を免れ、地獄に堕ちず、虎狼の禍を除けるという。蕭瑀は驚いて太宗に報告。太宗は買い取るというが、(自分の身分を明かさぬままの)菩薩は高徳の僧に与えるように言い残して、代金を受け取らずに去った。 太宗はこの二物の持ち主として相応しい者は玄奘しかいないと考え、彼に与える。玄奘がこれを身にまとうと、その美しき姿に「地蔵菩薩の再来だ」との歓声が上がった。李玉英の初七日の法会で玄奘が念仏を唱えていると、菩薩が現れ、小乗の経のみを講じるのは辞めるように諭した。菩薩は太宗に、大乗仏教三蔵が死者を苦難から救い無量寿の身にすることができる唯一のものと言い、身分を露わにして御経を唱える。感激した太宗は、正会を中止し、天竺は大雷音寺に人を使わして三蔵真経を持ち帰った後で再開すると言う。その取経の旅に志願したのが玄奘であった。太宗は喜び、玄奘と義兄弟の契り結んだ。紫金の鉢、白馬、従者2人が玄奘に与えられ、以後は「三蔵」と号するように命じられた。こうして旅が始まったのである。 三蔵はこの物語の主人公という立場であるが、多くの版で孫行者の活躍が強調された結果、玄奘三蔵の物語での役割は減少した。世徳堂本では(歴史上の実在の人物が多数登場する配慮からか)三蔵の生い立ちの部分はカットされている。元代に書かれた版を除いて、実際的な主人公は孫悟空と考えられる。 旅の中での三蔵法師は、度々腰を抜かすなど性格の臆病な面が描かれ、他の4人と違い妖力が無く、法力がわずかであるため、妖怪の仕掛けた策略や罠に簡単に引っ掛かりそのたびに弟子を破門したり敵に捕まり、生命の危機に瀕する...というのを繰り返す。長安を恋しがったり、雷音寺が遠いと愚痴をこぼしたりする場面もあって、弟子である孫悟空の事は疑うが、猪八戒の讒言、人に化けた妖怪は外見で人と判断してすぐ信じてしまうなど、人間的な弱さが強調される。子母河の水を飲んで妊娠した時は「医者に中絶薬を賜りたい」という現代の感覚とはずれた品格を疑うような発言もあった。こうした三蔵法師の人間的に未熟な面は、三蔵法師を主人公とする古い版に多々見られ、むしろ脇役たる孫悟空が三蔵法師を諌める場面もある。主人公が徐々に孫悟空に移っていくにつれて、三蔵法師は聖人としての面が強調され、俗人的な部分は削除されていった。特に旅に出る前までは、欠点が一つもない聖人として描かれる。俗人的な面が残るのは、主人公である孫悟空をピンチに陥れる演出上の必要性によるものが多い。
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三蔵法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に「三蔵」と呼ぶこともある。 日本では中国の伝奇小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」が特に有名だが、三蔵法師というのは一般名詞であり、尊称であって、固有名詞ではない。西遊記の三蔵法師(玄奘三蔵)は数ある三蔵法師のうちのひとりである。
'''三蔵法師'''(さんぞうほうし、{{繁体字|三藏法師}}、{{簡体字|三藏法师}}、{{ピン音|Sānzāng fǎshī}})とは、[[仏教]]の経蔵・律蔵・論蔵の[[三蔵]]に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて[[訳経僧]]を指していうようになった。単に「'''三蔵'''」と呼ぶこともある。 日本では中国の伝奇小説『[[西遊記]]』に登場する人物「三蔵法師」が特に有名だが、三蔵法師というのは[[一般名詞]]であり、尊称であって、[[固有名詞]]ではない。西遊記の三蔵法師([[玄奘三蔵]])は数ある三蔵法師のうちのひとりである。 == 概要 == 特に、[[インド]]や[[西域]]から[[教典]]をもたらし、[[漢訳]]した人々を尊称して「[[訳経]]三蔵」や「[[聖教]]三蔵」、あるいは「三蔵法師」と呼ぶことが多い。 '''四大訳経家'''に数えられる[[鳩摩羅什]]や、[[真諦]]、[[不空金剛]]なども多くの[[仏典]]の漢訳を手がけており、「三蔵法師」と呼ばれるが、なかでも最も有名な三蔵法師は[[唐]]代の僧・'''[[玄奘三蔵]]'''である。 玄奘は仏教の聖典原典を求めてインドを周遊し『[[般若心経]]』(ただし異説もある)を中国にもたらした。更にその業績は『[[大唐西域記]]』や『[[大慈恩寺三蔵法師伝]]』としてまとめられ、後に『[[大唐三蔵取経詩話]]』でフィクションを含有するようになり、最終的には『[[西遊記]]』に結実して世界中に知られるようになった。このため[[日本]]では「三蔵法師」と言えば、玄奘を指すことが多い。 「三蔵法師」という[[称号]]を歴史的に見た場合、すでにインドで経論律の三蔵に通暁した僧侶を「三蔵法師」と呼んでいたとされる。中国でもこれにならい、[[南朝 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]](420年 - 479年)代の求那跋摩・僧伽跋摩(伝記は[[梁 (南朝)|梁]]代の『[[出三蔵記集]]』巻14所収)が、その用例の始まりとされる。その後これが一般化し、特に[[北周]](556年 - 581年)代には、昭玄三蔵や周国三蔵など[[僧官]]の称にも流用された。また[[隋]]代の『[[歴代三宝紀]]』以降、三蔵法師は「三蔵禅師」や「三蔵律師」などと同様に、出身地の名称を付して渡来した訳経僧の中でも、高僧を指して尊称された例が頻繁に見られる。 そして[[8世紀]]頃になると、渡来の訳経僧に限らず、中国の訳経高僧をも指して用いられるようになり、また過去の訳経僧にも遡って称されるようになった。玄奘が後世に「三蔵法師」と俗称されたのもこれによるものとされる。 == 三蔵法師と訳場列位 == {{出典の明記|date=2017年6月|section=1}} 歴史上、日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、[[近江国|近江]]出身の[[興福寺]]僧・[[霊仙]]である。霊仙は804年([[日本|和]]の[[延暦]]23年、唐の[[貞元 (唐)|貞元]]20年)、[[最澄]]や[[空海]]と同じ[[遣唐使]]の一行として唐に渡った。[[長安]]で仏典の訳経に従事し、その功績を認められ[[憲宗]]皇帝より「三蔵」の称号を賜っている。霊仙が関わった『大乗本生心地観経』は[[石山寺]]に現存。 なお、仏教が中国に伝来した当初のいわゆる「古訳」に属する訳経の場合は、[[サンスクリット]]等の言語で記された梵経を漢語に翻訳(漢訳)した実態に関して記録が残っておらず、その詳細が明らかでない。しかし、玄奘以後の、「'''新訳'''」と称せられる時代の訳経の場合、漢訳された経典の巻首に、経典の題目に続けて、いわゆる「'''訳場列位'''」を記す慣習が定着していた。霊仙三蔵の場合も、『大乗本生心地観経』の「訳経列位」に記された記名によって、「筆受」「訳語」の役割を務めていたことが明らかとなっている。この場合も、訳経の中心である「訳主」となったのは、'''般若三蔵'''であり、本経は般若訳として[[経録]]には記録されている。しかし、実態は、まず、般若が梵文で記された原典を梵語で音読し、それを「筆受」者が書き取り、更にそれを漢字に置き換えるのが「訳語」である。その後、「証義」や「潤文」「参役」などの各種の役割を持った人たちが漢訳経典として適切な経文に校訂し、初めて訳経が完成する。 つまり、新訳時代の訳経事業とは、漢訳組織が確立された分担作業によって成り立っている。その結果、「訳主」として全体をプロデュースする立場にあった人が、訳経者として名を残しはするが、「訳主」は全体の組織の中では、原典を音読するだけであり、現代的な感覚でいう「翻訳」作業に従事するのは、「訳語」者である。それ故に、霊仙三蔵の果たした役割が評価され、三蔵の称号を受けている訳である。{{要出典範囲|date=2017年6月|また一方では、完成した訳経に対する[[訓詁]]的な見地からの疑義を、ひとり「訳主」である三蔵法師に帰する問題として取り上げる見方もあるが、それは、実際の訳経事業の漢訳組織に関する見識を欠いた一方的な解釈であり、注意を要する。}} ==西遊記の三蔵法師== <!--「[[三蔵法師 (西遊記)]]」として分割した方がいいような・・--> {{main|西遊記の成立史}} ===小説の登場人物としての概要=== 西遊記の登場人物としての三蔵法師は、姓は'''陳'''、幼名を{{読み仮名|'''江流'''|こうりゅう}}<ref>平凡社版『西遊記 上下』太田辰夫・鳥居久靖訳</ref>あるいは'''紅流児'''<ref>岩波少年文庫『西遊記 上中下』伊藤貴麿 翻訳</ref>と言い<ref group="注釈">「江流」と「紅流児」は字が違うが同じ名をさす。一般には江流を用いる</ref>、法名を{{読み仮名|'''玄奘'''|げんじょう}}禅師と言った。前世は[[釈迦如来]]の二の弟子、{{読み仮名|'''金蟬子'''|こんぜんし}}だったが、説法を聞かず、教えを軽んじたために東土に転生したとされる。その後、仏教に帰依し、2度の旅に失敗して転生したが、3度目で81つの難をくぐり抜けて成功。三蔵真経を求めた取経の旅の功績と大義により、{{読み仮名|'''旃檀功徳仏'''|せんだんくどくぶつ}}という仏に成る記別を得る。 父は{{読み仮名|陳蕚|ちんがく}}、[[字]]を{{読み仮名|'''光蕋'''|こうずい}}と言い、[[科挙]]に合格した英才で[[江州]]長官に抜擢された人物。母は[[唐|大唐帝国]]の宰相'''[[殷開山]]'''の娘で、'''殷温嬌'''またの名を満堂嬌と言った。若い夫婦が任地に向かう途中、渡し舟の船頭劉洪が邪心を持ち、妊婦である温嬌を見初めて、李彪と謀って光蕋を撲殺して死体を川に捨てた。劉洪は温嬌を言い含めて妾とし、自らは光蕋に成り済まして江州長官となった。温嬌は劉洪の留守に江流を産んだ。劉洪が帰ればこの子は殺されると思った彼女は、運命を天に任せることとし、赤ん坊を肌襦袢に包み、自分の息子である証拠として赤ん坊の左足の小指を噛み切って、生い立ちを書いた血書を同封し、木片に乗せて川に流した。赤ん坊は金山寺の法明和尚によって救われ、僧として養育された。他方、光蕋は受難の前に金色の鯉を救っており、その鯉は[[竜王]]の化身であったので、命の恩に報いるため、川底の死体は巡海[[夜叉]]<ref group="注釈">竜王の部下。牛の頭に馬の面をした妖怪または精霊</ref>によって[[龍宮|竜宮]]に運ばれ、魂と共に保存されていた。 [[Image:Xyj-tangseng.jpg|thumb|300px|西遊原旨の挿絵より]] 18年後、若き僧となった玄奘は、師である法明和尚に生い立ちを知らされて衝撃を受ける。師の薦めで[[托鉢]]僧となって母の消息を訊ねることになった。江州長官宅ではちょうど劉洪は留守で、玄奘は母と再会できた。しかし母はすぐに立ち去るように言い、後日、金山寺を訪れて耳輪を渡し、父方の祖母張氏と母方の祖父殷開山に会いに行くように指示する。[[洪州]]の張氏は貧しく落ちぶれ、失明していたが、玄奘が祈願して両瞼を舐めると、視力を回復した。次に玄奘は長安で殷開山に会った。殷開山は娘夫婦の悲劇を知って憤激し、[[太宗 (唐)|太宗皇帝]]に直訴。[[wikt:en:御林軍|御林軍]]6万が派遣され、殷開山は劉洪・李彪一味を捕縛した。 劉洪・李彪は共に拷問されて罪状を洗いざらい吐き、まず李彪がさらし首になった。殷開山、温嬌、玄奘の3人は、光蕋が殺された川辺で霊を慰めるための[[祭文 (漢文)|祭文]]を焼いて、劉洪の'''生き肝'''を抉り[[生贄]]にした。ところが川底では巡海夜叉がこの祭文を受け取り、竜王に報告。竜王はこれで光蕋は生き返ることができると喜び、死体を川に戻し、魂を返した。二夫に仕えた自分を恥じる温嬌が川に身を投げて死のうと泣き、玄奘が宥めているところに、死体が水面に浮かび上がり、息を吹き返した。この奇跡に皆が喜ぶ。蘇った光蕋は太宗に学士に取り立てられ、玄奘は洪福寺でさらに仏道修行を積むことになったが、温嬌は従容として後に自殺した。 ある夜、太宗は一度死んで冥界から戻るという体験をした。身代わりとなった妹の李玉英を亡くし、冥途で助けられた相良夫婦に借りた金を返済するために勅建相国 寺を建立したが、以後、仏法を大変に尊ぶようになった。高僧が集められることになり、'''[[魏徴]]'''の推薦で玄奘が選ばれ、{{読み仮名|'''天下大闡都僧綱'''|てんかだいせんとそうこう}}の職に任命された。玄奘は化生寺で国中の名僧達や皇帝の前で法会を行った。一方、如来の命を受けて西方取経者を探していた[[観音菩薩|観世音菩薩]]は、この玄奘が転生したかつての高弟と知って興味を持つ。'''恵岸'''<ref group="注釈">[[托塔李天王#.E6.B4.BE.E7.94.9F.E7.9A.84.E3.81.AA.E5.A7.BF|托塔李天王]]の第二子で、観世音菩薩の弟子の行者</ref>と共に長安に現れた菩薩は、乞食坊主に身を変えて、如来から預かった{{読み仮名|'''錦襴'''|きんらん}}'''の袈裟'''、'''九環の錫杖'''を見せて売り歩いた。値段が銀7千両という高額だったため人々はこれをからかったが、宰相{{読み仮名|'''[[蕭瑀]]'''|しょうう}}だけは凡物でないことを見抜いた。聞くと、この袈裟を身につけて斎戒を守れば淪落を免れ、地獄に堕ちず、虎狼の禍を除けるという。蕭瑀は驚いて太宗に報告。太宗は買い取るというが、(自分の身分を明かさぬままの)菩薩は高徳の僧に与えるように言い残して、代金を受け取らずに去った。 太宗はこの二物の持ち主として相応しい者は玄奘しかいないと考え、彼に与える。玄奘がこれを身にまとうと、その美しき姿に「地蔵菩薩の再来だ」との歓声が上がった。李玉英の初七日の法会で玄奘が念仏を唱えていると、菩薩が現れ、小乗の経のみを講じるのは辞めるように諭した。菩薩は太宗に、大乗仏教三蔵が死者を苦難から救い無量寿の身にすることができる唯一のものと言い、身分を露わにして御経を唱える。感激した太宗は、正会を中止し、天竺は大雷音寺に人を使わして三蔵真経を持ち帰った後で再開すると言う。その取経の旅に志願したのが玄奘であった。太宗は喜び、玄奘と義兄弟の契り結んだ。紫金の鉢、白馬<ref group="注釈">これは普通の馬</ref>、従者2人が玄奘に与えられ、以後は「'''三蔵'''」と号するように命じられた。こうして旅が始まったのである。 三蔵はこの物語の主人公という立場であるが、多くの版で孫行者の活躍が強調された結果、玄奘三蔵の物語での役割は減少した。世徳堂本では(歴史上の実在の人物が多数登場する配慮からか)三蔵の生い立ちの部分はカットされている。[[元 (王朝)|元代]]に書かれた版<ref group="注釈">孫悟空の獣性が強調された版</ref>を除いて、実際的な主人公は孫悟空と考えられる。 旅の中での三蔵法師は、度々腰を抜かすなど性格の臆病な面が描かれ、他の4人と違い妖力が無く、法力がわずかであるため、妖怪の仕掛けた策略や罠に簡単に引っ掛かりそのたびに弟子を破門したり敵に捕まり、生命の危機に瀕する…というのを繰り返す。長安を恋しがったり、雷音寺が遠いと愚痴をこぼしたりする場面もあって、弟子である[[孫悟空]]の事は疑うが、[[猪八戒]]の讒言、人に化けた妖怪は外見で人と判断してすぐ信じてしまうなど、人間的な弱さが強調される。子母河の水を飲んで妊娠した時は「医者に中絶薬を賜りたい」という現代の感覚とはずれた品格を疑うような発言もあった<ref>『[[西遊記]]解体新書』[[コーエー]]発刊、マジックモンキーズ編</ref>。こうした三蔵法師の人間的に未熟な面は、三蔵法師を主人公とする古い版に多々見られ、むしろ脇役たる孫悟空が三蔵法師を諌める場面もある。主人公が徐々に孫悟空に移っていくにつれて、三蔵法師は聖人としての面が強調され、俗人的な部分は削除されていった。特に旅に出る前までは、欠点が一つもない[[聖人]]として描かれる。俗人的な面が残るのは、主人公である孫悟空をピンチに陥れる演出上の必要性によるものが多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[訳経僧]] * [[訳経史区分]] * [[玄奘三蔵]] * [[西遊記]] * [[西遊記の成立史]] {{Buddhism2}} {{西遊記}} {{DEFAULTSORT:さんそうほうし}} [[Category:中国仏教]] [[Category:僧]] [[Category:仏教の称号・役職]] [[Category:西遊記]] [[Category:架空の僧]] [[Category:玄奘]]
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磁気浮上式鉄道
磁気浮上式鉄道(、英: Maglev)とは、磁力による反発力または吸引力を利用して車体を軌道から浮上させて推進する鉄道のこと。英語では"Maglev"(マグレブ)と呼称し、「磁気浮上」を表す"Magnetic levitation"が語源である。磁気浮上式鉄道はその近未来性からリニアモーターカーの代表格でもある。1971年、西ドイツで Prinzipfahrzeug が初めての有人走行に成功した。 世界で開発されている主な磁気浮上式鉄道には、常伝導電磁石を用いる方式(トランスラピッド、HSSTなど)、と超伝導電磁石を用いる方式(超電導リニアなど)があり、有人試験走行での世界最高速度は2015年4月21日に日本の超電導リニアL0系が記録した603km/hである。 現在、愛知県の愛知高速交通東部丘陵線(愛称:リニモ)、韓国の仁川空港磁気浮上鉄道、中国の上海トランスラピッド、長沙リニア快線、北京地下鉄S1線などが、実用路線として営業運転を行っている。 日本では1989年に開催された横浜博覧会において、HSST-05(後のHSST-200系統)がYES'89線として日本初の営業運転を行った。 超電導リニアによる中央新幹線は、品川駅 - 名古屋駅間で2027年の先行開業、名古屋駅 - 新大阪駅間で2037年の全線開業を目指して計画が進められている。 磁気浮上鉄道の特徴は、浮上および推進を非接触で行うことができる点である。 長所は、主として高速化(移動時間の短縮化)が可能だということなどである。 短所は鉄道の高速化の結果、消費エネルギーが増大し、(温室効果ガス、CO2排出量が増し)、環境負荷が増したり、持続可能性に悪影響を与えたりすることである。 磁気浮上に必要な要素技術として、力の働く方向に浮上・案内・駆動(推進)の3種類に分類できる。 磁石またはコイルの設置方法により、以下の三種類がある。 反発浮上および側面浮上式は、車上の磁石の磁力強度と設置する磁石またはコイルの位置関係で自然に浮上量が決定する。吸引式は吸引力の働いている間のギャップが減ると浮上力が増す関係にあるため、浮上量を一定に保つために電磁石などで吸引力を制御する必要がある。 また電磁気的作用により以下の分類方法も考えられる。 実用的な磁気浮上鉄道を考えた場合、磁石同士の吸引または反発を利用する浮上方法は、軌道と車両の両方に磁石を設置することはコストおよび保守の面でかなり難しい。従って、技術・経済的に採用可能なものは以下の2つとなる。 また、近年では希土類元素を用いた強力な希土類磁石が普及するようになり、電磁誘導浮上支持方式ではインダクトラックに使用され、電磁吸引支持方式でも使用が検討される>。 一般の鉄道の場合、レールと車輪の物理的接触により車両に対してレールの方向に案内する力が生じる。磁気浮上式鉄道の場合、非接触による軌道案内が必要になるが、磁気浮上で使用されるシステムをそのまま案内に使っている場合が多い。 非接触のままで推進力を得る手段としては、浮上用磁石と推進用磁石とで兼用ができるリニアモーターによる駆動が一般的である。ロケットやジェットエンジン、プロペラ等を用いることもできるが、実際の営業運転を考えた場合、騒音の面で現実的な解ではない。 リニアモータは、回転型のモータを直線に展開したものと考えてよい。一次(電機子)側と二次(界磁)側に並進力を得ることができるモータである。リニアモータには回転モータと同種の方式を取ることができる。しかし、磁気浮上鉄道の利点である非接触を行うためには、無整流子構造の交流モータが有利である。すなわち磁気浮上鉄道で採用されている構成はリニア同期モータかリニア誘導モータのどちらかとなる。 車両側と軌道側両方に電磁コイルを置き、どちら側かの電磁コイルで進行方向に対して吸引・反発力が得られるように磁界の向きを切り替えることで推進力を得る。磁界を切り替える制御を行うコイルを一次側と呼ぶが、これを車上側に置くか軌道側に置くかで方法が分かれる。すなわち、前者を車上一次方式、後者を地上一次方式とよぶ。 リニア同期モータ式の磁気浮上鉄道では、地上一次式とすると車両側に推進に関わる制御装置を持つ必要が無く、車両側コイルを磁気浮上と共用とすることもできる。車両小型化と完全非接触化に関しては地上一次側の採用にメリットが大きい。しかし、同期モータの場合は車上一次方式・地上一次方式のどちらの場合でも軌道側にコイルを設置する必要があり、軌道建設の初期費用が膨らみ、走行区間の軌道側の界磁を励磁する必要があるので消費電力が増える欠点がある。 誘導モータは、一次側にコイルを持つが、二次側は単に導体板(リアクション・プレート)を置いたものである。磁界中にある導体板内に発生するうず電流から磁界に反発する力が発生し、これが推進力となる。二次側にかご形や巻き線型も使用可能である。構造は同期モータに比べて単純であるが、エネルギー効率が劣る。 リニア誘導モータにも車上一次、地上一次方式の両構成が可能であるが、軌道に導体板(リアクション・プレート)を敷設するだけで済む車上一次式が一般的である。また、リアクション・プレートと一次コイルの配置方法として、リアクション・プレートの片面のみに界磁を配置する片側励磁式とリアクション・プレートの両面に配置する両面励磁式がある。両側式の方が推進効率が高いが片側励磁式が軌道の底面にリアクション・プレートを配置すれば良いのに対して両面励磁式はリアクション・プレートの配置に少々工夫が必要である。 ここでは研究開発が行われたことのある磁気浮上鉄道を要素技術別で分類する。大分類としては、リニアモータ駆動の方法と磁気浮上力を得る方法に分けることができる。以下の表を参照のこと。 磁気浮上であるため、軌道一次式リニアモータを採用した場合、車体側に集電が不要なので車体と軌道等との接触はないため、これらの動摩擦力は働かないが、以下の2つが推進時の抵抗として働く。 特に高速移動を前提とする場合には、空気抵抗は速度の二乗に比例して増大するため、大きな問題となる。このため車両デザインには空力的に洗練されたものが要求される。スイスメトロのような一部の構想では減圧されたトンネル内を走行する。 中華人民共和国では、アメリカ合衆国の技術を元に、真空状態のチューブ内でリニアモーターカーを走行させる研究をすすめると言うが、純粋な旅客輸送用として以外に、宇宙開発や軍事転用の可能性もある 相対的に磁界中を移動する導体には電磁誘導により誘導電流が生じて磁界に抗する力が発生するが、これが抵抗となる。磁気浮上式鉄道では空気抵抗に比べて桁違いに小さいが、強力な超伝導電磁石を用いて高速で移動する場合は無視できない。通常の鉄橋梁や鉄筋コンクリートの使用は磁気抵抗発生の原因となりうるため、低磁性や非磁性の材料の使用が必要となる場合がある。但し、HSSTやトランスラピッドのような吸引式磁気浮上の場合には漏れ磁界が少ないので構造物に磁性体を使用しても問題は無い。 1人当りの輸送に係るエネルギー消費で比較した場合、磁気浮上式鉄道 (500km/h) はガソリン自動車 (100km/h) の約1/2、航空機 (900km/h) の約1/3である。但し、同一速度でのエネルギー消費は、従来の鉄車輪式の鉄道システムよりも多い。また高速移動可能であるにもかかわらず、騒音や振動は比較的少ない。 高速輸送での運用を考えた場合、速度は鉄輪式高速鉄道と航空機の中間に位置する。航空機と比べ前述のエネルギー効率を始め、運用コストや利便性では有利である。また乗用車と比較しても環境負荷や移動時間の正確性などで有利である。 磁気浮上式鉄道の導入の一番のボトルネックは軌道の建設など初期投資が莫大であることが挙げられる。ドイツでは、1990年代にトランスラピッドをハンブルクからベルリンまで導入する計画があり、調査が進められた。1998年に成立した連立政権は建設着工を公約としたが、予算の目処が立たずまた工事による環境負荷による反対運動もあって、2000年に取りやめとなった。 浮上式の交通機関のアイデアは古くから存在する。大部分は航空機へとつながるアイデアであるが、19世紀頃には、気球を車体に取り付け、空中に設置された軌道を走行する鉄道や、水流に乗って走る鉄道の想像図が描かれ、特許も多数申請された。実際、1870年頃のフランスパリで行われた博覧会では、水を軌道から吹き上げ、車両を浮上させてその上を走る列車が運転された。初期のリニアモータによる推進の列車の特許がドイツ人の発明家Alfred Zehdenによってアメリカ合衆国特許第 782,312号(1907年6月21日)とアメリカ合衆国特許第 RE12700号(1907年8月21日)がそれぞれ取得された。1907年に同様に初期の電磁式交通機関がF. S. Smithによって開発された。 第二次世界大戦後、航空機や自動車の技術が発達すると鉄道に関しても高速化に関する研究が各国で始まる。鉄道の高速化に際し、鉄レールと鉄輪の組み合わせがボトルネックになると考えられていた。そこで、車両そのものを浮上させて高速化を図ろうというアイデアが提案されるようになる。具体的には、磁気浮上と空気浮上の2種類が考えられた。 磁気浮上による車両浮上のアイデアは古くからあり、1914年に、イギリスのエミール・バチェレット (Emile Batchelet) が世界初の電磁誘導反発式の磁気浮上リニアモータのモデル実験を行っている。彼は1911年にアメリカ合衆国特許第 1,020,942号、アメリカ合衆国特許第 1,020,943号を出願した。また、ドイツではトランスラピッドの源流ともなる電磁吸引式浮上がヘルマン・ケンペル (Hermann Kemper) により1922年に開発がはじまり、1934年から1941年にケンペルは磁気浮上鉄道の基本特許をドイツで取得した初期の磁気浮上式鉄道はG. R. Greenflyによってアメリカ合衆国特許第 3,158,765号, 輸送のための磁力システム(1959年8月25日)に記述されていた。ロバート・ゴダードもロケット研究の傍ら、磁気浮上式鉄道の研究も行っていたことが判明している。 最初に使用された"磁気浮上式鉄道"のアメリカ特許はCanadian Patents and Development Limitedによる"磁気浮上案内装置"である。1940年代末にインペリアル・カレッジ・ロンドン教授のエリック・レイスウェイト(Eric Laithwaite)が、初めて実物大の稼働するリニアモーターを開発した。レイスウェイトは1964年にインペリアル・カレッジの重電技術の教授になり、成功したリニアモータの開発を継続した。リニアモータは軌道と車両の間に物理的な接触を必要としなかったので、1960年代から1970年代に開発された多くの先進的な交通機関で採用された。レイスウェイト自身はそのような先進的な交通機関計画のひとつであったトラックト・ホバークラフトの計画に参加したが、この計画の予算は1973年に打ち切られた。 リニアモータは磁気浮上システムとも相性が良く、1970年代にLaithwaiteは磁気浮上システムを1台の磁石で構築する事を目的とした単体のリニアモータで、浮上と同様に前進方向の推進力を生み出す新しい磁石の配置を見出した。ダービーの英国鉄道研究部門(英語版)は複数のいくつかの土木会社のチームと共に実用化に向けて"traverse-flux"システムを開発した。 磁気浮上鉄道の研究が本格化したのは1960年代に入ってからで、各国で研究が始まった。特に旧西ドイツは国家的支援を受けて、メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム (MBB) 社が1966年から本格的に研究を始め、1971年、Prinzipfahrzeug(車上一次リニア誘導モータ)が90km/hの記録をつくる。これは世界で初めての有人の磁気浮上鉄道である。また、1975年にKomet (Komponentenmeßtrager) が14mmの電磁吸引浮上で水蒸気ロケット推進ながら401.3km/hの記録をマーク。また、日本のHSSTの一部の技術の導入元でもあったクラウス=マッファイ社の製造したトランスラピッド・プロジェクトのTR-02号機が1971年に164km/hをマーク。またシーメンス社が中心となり、超電導による電磁誘導式浮上のEET-01が1974年に280mの円形軌道で230km/hの走行実験を行った。ドイツでは磁気浮上式高速鉄道を実現するために、1970年代初頭にトランスラピッドに一本化する際に軌道を簡略化できる車上一次式リニア誘導モータを選択せず、より高速化に適するが費用のかかる地上一次式リニア同期モータを選択した。そのため、当時、先端の開発が進められていた車上一次式吸引式磁気浮上(クラウス=マッファイ・トランスアーバン)の技術は不要になり、日本や韓国に技術供与された。開発元のドイツでは地上一次式リニア同期モータを採用した事が建設費が高騰する一因となり低迷したが、車上一次式リニアモータの技術を供与された国々は、供与された技術を基に、それぞれの国で発展を遂げ実用化に至った。 日本では、1963年から鉄道総合技術研究所を中心に研究が始まり、1972年に国鉄が日本の鉄道100周年を記念して超電導磁気浮上式リニアモーターカーであるML100(車上一次リニア誘導モーターを使用)による試験走行を公開。これとは別に常電導磁石とリニア直流モーターを組み合わせた、都市近郊交通型の磁気浮上式鉄道の研究も行われた。また日本航空がクラウス=マッファイ社の技術を導入してHSSTの開発プロジェクトを立ち上げ、1975年から開発を開始した。また当時の運輸省は独自に通勤用の磁気浮上式鉄道イーエムエルプロジェクト(EMLプロジェクト)を立ち上げ、1976年に実験を行っている。その他、熊本工業大学(現崇城大学)でも、吸引式磁気浮上式鉄道の開発が進められている。 アメリカでは、1970年代にRohr社で吸引式磁気浮上であるROMAGの研究が行われていたが、その後低調となり、1978年に事業はボーイング・バートルに売却され、1980年代中頃までは行われていたようである。その後、1990年代からローレンスリバモア国立研究所でハルバッハ配列で並べた強力な永久磁石(ネオジム・鉄・ボロン系合金)を使用したインダクトラックの研究、開発が行われ、現在ではゼネラルアトミック社が研究を引き継いで実用化に向けた研究、開発が行われている。 安定化永久磁石 Stabilized Permanent Magnet (SPM)による磁気浮上式鉄道アメリカ合衆国特許第 6,684,794号が、アプライドレヴィテーション(Applied Levitation)社で開発中である。 超電導リニアによる中央新幹線は南アルプスをトンネルで通過する計画であるため、2008年2月よりボーリング調査が行われた。その後、2011年5月26日に中央新幹線の整備計画が正式決定し、2014年に東京 - 名古屋間の路線起工式が行われた。名古屋までの総事業費は5兆円あまりで2027年の開業予定である。名古屋までの開業後は2037年の完成を目指して大阪まで延伸される予定である。 2008年3月27日、ドイツ運輸・建設相(当時)であったヴォルフガング・ティーフェンゼーは、ミュンヘン国際空港 - ミュンヘン中央駅間の37.4kmのリニアモーターカー建設を断念したと発表。建設コスト上昇が理由。総額18億5000万ユーロ(約3000億円)の事業予算を計上したが、最新の見積もりが32〜34億ユーロに膨れ上がったため、実現困難と判断した。 2005年にドイツ連邦政府が1億1300万ユーロをTRに投入することを決め計画に弾みがつき、2007年にはドイツ鉄道(ドイチェ・バーン)とトランスラピッドは正式合意し(AP通信)、同年9月24日、バイエルン州政府は2014年頃までの開業を目指し、2008年夏にも着工するとしていた。事業主体はトランスラピッド・インターナショナル(ティッセンクルップとシーメンスの共同事業体)が担うはずだった。 2005年、トランスラピッドタイプの磁気高速鉄道、UK Ultraspeed線(最高速度500km/h)をロンドン - グラスゴー間のミッドランド、イングランド北東部を経由する複数の路線構想を有するプロジェクトが立ち上げられた。政府によって実現可能であるか審議された。2007年7月24日に公表されたDelivering a Sustainable Railway白書によって却下された。グラスゴーとエディンバラ間の同様の高速鉄道が提案されたが技術的に不十分だった。 現在は30 kmの上海トランスラピッドを杭州市まで200 kmに延伸する計画や、新たな磁気浮上式鉄道の建設計画が目白押しであるものの、健康・騒音被害や建設コスト、用地買収、鉄輪式高速鉄道との互換性の問題などが浮上し、今後の計画はどうなるかは未知数な面がある。上海トランスラピッドの延伸計画は、現在のところ休止されているがもし実現すれば磁気浮上式鉄道による最初の都市間商業輸送になる。2007年5月に計画はシステムからの電磁波の放射の懸念により当局により中止が報告された。2008年1月と2月に、100人規模の反対者達が上海で路線が人家に接近しすぎるとして電磁波による健康への影響(英語版)、騒音、汚染と資産価値の目減りに関する懸念で反対運動をした。元の計画では上海国際博覧会に間に合わせる予定だった。上海市の行政当局は住民の不安を緩和するために路線を地下に建設する等の複数の選択肢を検討した。同じ報告では最終的な決定は国家発展開発委員会に委ねられたとされる。2010年10月26日、上海市 - 杭州市間を最高速度300 km/hで結ぶ滬杭旅客専用線が開業し、延伸計画が実行される可能性は低くなった。 同済大学構内の実験線でCM1型磁気浮上列車の開発が進められている。 長沙市の長沙中低速磁浮線(長沙南駅と長沙黄花国際空港間)の建設工事は2014年5月に開始され、2016年5月6日に開通した。 2017年12月30日に中国では3番目の磁気浮上式鉄道である、北京地下鉄の10.2kmのS1線(門頭溝線)が開業した。S1線は国防技術大学で開発された技術を採用した吸引式磁気浮上鉄道である。2011年2月28日に建設が開始されていた。最高速度は105km/hである。 1993年に大田国際博覧会でドイツのクラウス・マッファイ社の技術指導を受けて開発されたHML-03を運行させたほか、2008年から現在までエキスポ科学公園内で1km以内という短距離であるが国産のUTM-02が運行されている(詳細はエキスポ科学公園#リニアモーターカー)。 2007年、韓国機械研究院は2012年までの6年間に総額4500億ウォンの予算を投入して都市型磁気浮上式鉄道を実用化する計画を発表した。この計画は2012年に仁川空港磁気浮上鉄道として完成したが、純国産にこだわったことからトラブルが相次ぎ、繰り返し運行開始が延期され、2016年2月3日に開業した。2両編成で定員は1両135人、設計最高速度110km/h、営業最高速度80km/hで、6駅間6.1kmを15分間で走行する。浮上方式は常電導吸引式である。 なお、2007年時点で韓国機械研究院は、2007年中に550km/hの高速リニアの研究・開発に着手して2016年までに開発し2020年に商用化したいと発表しており、2016年時点で韓国の一部メディアでは「550km/hを目指すSUMA550の試験車両が開発済み」と報道されたが、実際は1両が極めて短距離(150m)の実験線を低速走行するにとどまっている。 アナハイム - ラスベガス: カルフォルニア州アナハイムとネバダ州ラスベガスを全長433kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。詳細はen:California–Nevada Interstate Maglevを参照。 ボルチモア - ワシントンD.C.: メリーランド州ボルチモアとワシントンD.C.を全長64.1kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。2015年6月4日にメリーランド州のラリー・ホーガン知事が山梨実験線に試乗した。詳細はen:Baltimore – Washington D.C. Maglevを参照。 Magnovate社がカナダのアルバータ州のエドモントンとカルガリー間にMaglineを建設する構想がある。第三世代の磁気浮上システムで7.5cmの浮上高で駅では待避線に入るようになっていて柔軟な運行ができる。 テルアビブでスカイトランの建設計画が発表された。技術はイスラエル・エアロスペース・インダストリーズの支援でアメリカ航空宇宙局によって開発された。高架式で70km/hで走行するものの更に高速化が可能である。イスラエル・エアロスペース・インダストリーズの敷地内に試験線が建設される予定で、試験が成功すれば最初の商業運行路線がテルアビブに建設予定である。試験は2015年末までに開始予定である。最高速度は240km/hまで到達可能であるとされる。 スイスラピッド: スイスラピッド AG とスイスラピッドコンソーシアムは共同で、国内の主要な都市を接続する磁気浮上式鉄道の計画・開発中である。スイスラピッドエクスプレスは、スイスにおいて来たる交通の挑戦のための革新的な解決法である。大規模な社会資本の先駆者としてスイスラピッドは100%民間から資金を募る。長期的にスイスラピッドエクスプレスは、アルプス北部の主要な都市であるジュネーヴとルツェルンやバーゼルを含むザンクト・ガレンを接続する事を目的とする。現在計画中の最初の計画ではベルン - チューリッヒ、ローザンヌ - ジュネーブ同様にチューリッヒ - ヴィンタートゥールが予定される。最初の路線(ローザンヌ - ジュネーブまたはチューリッヒ - ヴィンタートゥール)は早ければ2020年初頭の開業が可能とされた。 スイスメトロ: 初期のスイスメトロの計画は交通の挑戦のための解決法として以前に試みられた。スイスメトロAGは高速時における空気抵抗を減らすために地下の部分的に真空に減圧したトンネル内に磁気浮上式鉄道の軌道を敷設するという技術的に挑戦的な目論見だった。スイスラピッドと共にスイスメトロはスイス国内の主要な都市間を接続する。2011年、スイスメトロAGは解散して組織の知的財産権はスイス連邦工科大学ローザンヌ校に譲渡された。 シドニー - イラワラ: 現在、シドニーとイラワラの都市ウロンゴン間に計画がある。計画は1990年代半ばに浮上した。シドニー - ウロンゴン通勤回廊はオーストラリア最大であり、毎日2万人以上の人々がイラワラからシドニーへ通勤する。現在両都市を結んでいるイラワヤ線はおよそ2時間で運行されている。磁気浮上式鉄道の導入により通勤時間は20分に短縮が見込まれる。 メルボルン: 2008年末、ビクトリア州政府が民間による資金調達と運営による磁気浮上式鉄道の計画を提案した。磁気浮上式鉄道の費用は80億オーストラリア・ドルが見込まれる。しかしながら、慢性的な道路の混雑により政府はすぐに計画を却下して代わりに道路の拡張することにした。 Andrew Spannausによって2008年4月にミラノ・マルペンサ空港とミラノ、ベルガモ、ブレシアの都市を高速で接続するための最初の計画が立案された。 2011年3月、Nicola Olivaはピサ空港、プラート、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅とフィレンツェ空港を磁気浮上式鉄道で接続する構想を提案した。所要時間は従来の1時間15分からおよそ20分にまで短縮される予定である。第二段階ではリヴォルノの湾岸地域まで延伸する構想である。 サンフアン - カグアス: プエルトリコ最大の都市サンフアンのトレン・ウルバノ線のクペイ駅とサンフアンの南に隣接する郊外の都市のカグアス間を接続する全長16.7マイル (26.8 km) の磁気浮上式鉄道の計画が立案された。磁気浮上式鉄道は両都市を接続する52号高速道路と並行する。プロジェクトを担当するAmerican Maglev Technology社によると費用はおよそ3.8億ドルが予想される。 ムンバイ - デリー: アメリカ企業によってムンバイとデリー間を結ぶ提案がインドの鉄道大臣にされた。当時の首相マンモハン・シンはもしこの計画が成功すればインド政府は他の都市間やムンバイ中央とチャトラパティ・シヴァージー国際空港間にも建設する予定であると述べた。 ムンバイ - ナーグプル: マハーラーシュトラ州は、約1000km離れているムンバイとマハーラーシュトラ州のナーグプル間の磁気浮上式鉄道の実現可能性調査を承認した。 チェンナイ - バンガロール - マイソール: 2012年12月にチェンナイからバンガロールを経由してマイソールまでの路線の詳細な報告がされ、費用は1km当たり2600万ドルで最高速度は350 km/hとされた。 2009年5月にイランとドイツ企業はテヘランとマシュハド間の接続に磁気浮上式鉄道を使用することで合意した。合意はマシュハド国際フェアの会場でイランの道路・交通大臣とドイツの企業間で交わされた。テヘランとマシュハド間の全長900kmの路線はおよそ2.5時間に短縮可能であるとされる。 オランダ国内やベルリン - 東欧諸都市間、スペインのマドリードの空港と3つの都市間、ベネズエラのカラカス - ラ・グアイラ、そしてシモン・ボリーバル国際空港間などで、実現性は別として、磁気浮上式鉄道の導入構想がある。 2003年の年頭の挨拶で当時JR東海の社長を務めていた葛西敬之は「超電導リニアは最高時速700km/hを目指す」旨の発言をしており、同年に超電導リニアMLX01が当時の鉄道世界最高速度581km/hを記録している。2015年4月には超電導リニアL0系新幹線が590km/h、603km/hと立て続けに鉄道世界最高速度記録を更新した。 ※無人は主なもののみ記載する。 上述の1989年に開催された横浜博覧会におけるYES'89線 (HSST-05) は、会期中の会場内での営業であったため展示走行と解されることもあるが、第一種鉄道事業免許による旅客輸送であり、厳密には展示走行には該当しない。 鉄道総合技術研究所(JR総研)及び東海旅客鉄道(JR東海)により開発が進められている磁気浮上式鉄道。超電導電磁石によるリニアモーターを使用する(超電導リニア方式)で、将来は中央リニア新幹線で営業運転される。基礎技術から日本で独自に研究・開発が行われており、技術的には既に実用段階に達している。山梨に42.8kmの実験線があり、一日の走行距離は約3,000kmに達する。2003年当時JR東海の社長だった葛西敬之は、最高速度700km/hを目指すと技術者向けに発言し、その直後、有人走行では世界最高の581km/h(ギネスブック認定)を記録、2015年には603km/hを記録して世界最高速度を更新した。 2014年12月から実験線を延長する形で東京 - 名古屋間の建設が始まっており、開業は2027年、大阪までの開業は2045年を目指している。 HSST(High Speed Surface Transport、エイチエスエスティ)はトランスラピッドを開発していたクラウス=マッファイから空港と都心部の連絡輸送用として日本航空が吸引式磁気浮上の技術を導入し、その後1980年代末に開発を引き継いだ名古屋鉄道等を中心とする中部HSST開発が中心となり開発が進められ、運転速度および輸送能力に応じてHSST-100、HSST-200、HSST-300の3システムが開発された。HSST-200は200km/h程度ないしはそれ以上の、HSST-300は300km/h程度ないしはそれ以上の走行も可能である。HSST-100が2005年3月に愛知高速交通東部丘陵線(愛称:リニモ)として営業運転しており、営業距離は8.9km、営業時の最高速度は約100km/hである。トランスラピッドから吸引式浮上技術を導入したが、推進方法はトランスラピッドが高速化に適した軌道一次式リニア同期モータを使用しているのに対してHSSTでは浮上、案内、推進を兼用する車上一次式リニア誘導モータを使用している。このため他の方式よりも建設費が安い。 ドイツで開発された磁気浮上式鉄道。2007年に開発されたTR-09は、設計最高速度が505km/h。本国ドイツより先に中国の上海で実用線が建設され営業運転している。大都市上海とその国際空港のアクセス用として、29.863kmを7分20秒で結ぶ。営業最高速度は430km/hで、現在の営業路線としては世界一の速度で運転している(上海トランスラピッド)。 中国が開発中の吸引式磁気浮上式鉄道。同済大学構内に総延長1.5kmの実験線を敷設して実験走行を進めている。現時点では実験線の長さの制約により最高速度は120km/hにとどまっている。 アメリカ合衆国のフロリダ州ケープカナベラルに建設予定の超伝導誘導反発式磁気浮上式鉄道。 米国のインダクトラック式のSkytran、中国が独自に研究を進めているといわれる中華06号、CM1型車両、中華01号などがある。崇城大学工学部宇宙航空システム工学科でも80年代より吸引式磁気浮上鉄道の研究が進められている。韓国でもドイツのクラウス=マッファイ社から技術供与を受けて吸引式磁気浮上鉄道の研究が大田広域市の韓国機械研究院を中心として進められていて、大田国際博覧会で使用した軌道を利用して営業運転されている。 崇城大学でも吸引式磁気浮上式鉄道の開発が行われて数人乗りの車両が製作された。 カナダのMAGNOVATE社では分岐器を使用した運行システムを備えた磁気浮上式鉄道を開発中。 イーエムエルプロジェクト(EMLプロジェクト)- 日本の運輸省(当時)が1970年代に行っていた磁気浮上式鉄道の研究。 バーミンガムピープルムーバ(イギリス)世界初の常設磁気浮上式鉄道として建設されたが、ケーブル牽引式のスカイレール(現・エアレール・リンク)に改修された事により1995年に廃止された。 M-Bahnはドイツのベルリンに1980年代末に建設されたが、東西ドイツの統一により路線の意義が薄れて短期間で廃止された。 1970年代初頭にカナダのトロントで導入に向けて試験軌道が建設されて実際に試験が実施されたが分岐機が降雪に対して脆弱性を有しており、当時はパワーエレクトロニクスが未完成で浮上用電磁石から商用周波数である50Hzの騒音、振動が生じる等の問題があり、西ドイツでの磁気浮上式鉄道の開発をトランスラピッドに集中する事になり、1974年11月に西ドイツ政府からの補助金を減らされたために改良を進める事が出来なくなり中止された。車上一次式吸引式磁気浮上の技術は韓国機械研究院に技術供与された。 アメリカで1970年代に開発されていた吸引式磁気浮上鉄道。 タカラトミーは2015年、磁気浮上式鉄道の1つである日本の「超電導リニア」をモデルとした世界初のレールトイ「リニアライナー」を発売した。磁気浮上式鉄道同様、磁石で浮上・走行するが、実際の超電導リニアとは仕組みが異なる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "磁気浮上式鉄道(、英: Maglev)とは、磁力による反発力または吸引力を利用して車体を軌道から浮上させて推進する鉄道のこと。英語では\"Maglev\"(マグレブ)と呼称し、「磁気浮上」を表す\"Magnetic levitation\"が語源である。磁気浮上式鉄道はその近未来性からリニアモーターカーの代表格でもある。1971年、西ドイツで Prinzipfahrzeug が初めての有人走行に成功した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界で開発されている主な磁気浮上式鉄道には、常伝導電磁石を用いる方式(トランスラピッド、HSSTなど)、と超伝導電磁石を用いる方式(超電導リニアなど)があり、有人試験走行での世界最高速度は2015年4月21日に日本の超電導リニアL0系が記録した603km/hである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現在、愛知県の愛知高速交通東部丘陵線(愛称:リニモ)、韓国の仁川空港磁気浮上鉄道、中国の上海トランスラピッド、長沙リニア快線、北京地下鉄S1線などが、実用路線として営業運転を行っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では1989年に開催された横浜博覧会において、HSST-05(後のHSST-200系統)がYES'89線として日本初の営業運転を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "超電導リニアによる中央新幹線は、品川駅 - 名古屋駅間で2027年の先行開業、名古屋駅 - 新大阪駅間で2037年の全線開業を目指して計画が進められている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "磁気浮上鉄道の特徴は、浮上および推進を非接触で行うことができる点である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "長所は、主として高速化(移動時間の短縮化)が可能だということなどである。 短所は鉄道の高速化の結果、消費エネルギーが増大し、(温室効果ガス、CO2排出量が増し)、環境負荷が増したり、持続可能性に悪影響を与えたりすることである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "磁気浮上に必要な要素技術として、力の働く方向に浮上・案内・駆動(推進)の3種類に分類できる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "磁石またはコイルの設置方法により、以下の三種類がある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "反発浮上および側面浮上式は、車上の磁石の磁力強度と設置する磁石またはコイルの位置関係で自然に浮上量が決定する。吸引式は吸引力の働いている間のギャップが減ると浮上力が増す関係にあるため、浮上量を一定に保つために電磁石などで吸引力を制御する必要がある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また電磁気的作用により以下の分類方法も考えられる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "実用的な磁気浮上鉄道を考えた場合、磁石同士の吸引または反発を利用する浮上方法は、軌道と車両の両方に磁石を設置することはコストおよび保守の面でかなり難しい。従って、技術・経済的に採用可能なものは以下の2つとなる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、近年では希土類元素を用いた強力な希土類磁石が普及するようになり、電磁誘導浮上支持方式ではインダクトラックに使用され、電磁吸引支持方式でも使用が検討される>。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般の鉄道の場合、レールと車輪の物理的接触により車両に対してレールの方向に案内する力が生じる。磁気浮上式鉄道の場合、非接触による軌道案内が必要になるが、磁気浮上で使用されるシステムをそのまま案内に使っている場合が多い。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "非接触のままで推進力を得る手段としては、浮上用磁石と推進用磁石とで兼用ができるリニアモーターによる駆動が一般的である。ロケットやジェットエンジン、プロペラ等を用いることもできるが、実際の営業運転を考えた場合、騒音の面で現実的な解ではない。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "リニアモータは、回転型のモータを直線に展開したものと考えてよい。一次(電機子)側と二次(界磁)側に並進力を得ることができるモータである。リニアモータには回転モータと同種の方式を取ることができる。しかし、磁気浮上鉄道の利点である非接触を行うためには、無整流子構造の交流モータが有利である。すなわち磁気浮上鉄道で採用されている構成はリニア同期モータかリニア誘導モータのどちらかとなる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "車両側と軌道側両方に電磁コイルを置き、どちら側かの電磁コイルで進行方向に対して吸引・反発力が得られるように磁界の向きを切り替えることで推進力を得る。磁界を切り替える制御を行うコイルを一次側と呼ぶが、これを車上側に置くか軌道側に置くかで方法が分かれる。すなわち、前者を車上一次方式、後者を地上一次方式とよぶ。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "リニア同期モータ式の磁気浮上鉄道では、地上一次式とすると車両側に推進に関わる制御装置を持つ必要が無く、車両側コイルを磁気浮上と共用とすることもできる。車両小型化と完全非接触化に関しては地上一次側の採用にメリットが大きい。しかし、同期モータの場合は車上一次方式・地上一次方式のどちらの場合でも軌道側にコイルを設置する必要があり、軌道建設の初期費用が膨らみ、走行区間の軌道側の界磁を励磁する必要があるので消費電力が増える欠点がある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "誘導モータは、一次側にコイルを持つが、二次側は単に導体板(リアクション・プレート)を置いたものである。磁界中にある導体板内に発生するうず電流から磁界に反発する力が発生し、これが推進力となる。二次側にかご形や巻き線型も使用可能である。構造は同期モータに比べて単純であるが、エネルギー効率が劣る。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "リニア誘導モータにも車上一次、地上一次方式の両構成が可能であるが、軌道に導体板(リアクション・プレート)を敷設するだけで済む車上一次式が一般的である。また、リアクション・プレートと一次コイルの配置方法として、リアクション・プレートの片面のみに界磁を配置する片側励磁式とリアクション・プレートの両面に配置する両面励磁式がある。両側式の方が推進効率が高いが片側励磁式が軌道の底面にリアクション・プレートを配置すれば良いのに対して両面励磁式はリアクション・プレートの配置に少々工夫が必要である。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ここでは研究開発が行われたことのある磁気浮上鉄道を要素技術別で分類する。大分類としては、リニアモータ駆動の方法と磁気浮上力を得る方法に分けることができる。以下の表を参照のこと。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "磁気浮上であるため、軌道一次式リニアモータを採用した場合、車体側に集電が不要なので車体と軌道等との接触はないため、これらの動摩擦力は働かないが、以下の2つが推進時の抵抗として働く。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "特に高速移動を前提とする場合には、空気抵抗は速度の二乗に比例して増大するため、大きな問題となる。このため車両デザインには空力的に洗練されたものが要求される。スイスメトロのような一部の構想では減圧されたトンネル内を走行する。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中華人民共和国では、アメリカ合衆国の技術を元に、真空状態のチューブ内でリニアモーターカーを走行させる研究をすすめると言うが、純粋な旅客輸送用として以外に、宇宙開発や軍事転用の可能性もある", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "相対的に磁界中を移動する導体には電磁誘導により誘導電流が生じて磁界に抗する力が発生するが、これが抵抗となる。磁気浮上式鉄道では空気抵抗に比べて桁違いに小さいが、強力な超伝導電磁石を用いて高速で移動する場合は無視できない。通常の鉄橋梁や鉄筋コンクリートの使用は磁気抵抗発生の原因となりうるため、低磁性や非磁性の材料の使用が必要となる場合がある。但し、HSSTやトランスラピッドのような吸引式磁気浮上の場合には漏れ磁界が少ないので構造物に磁性体を使用しても問題は無い。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1人当りの輸送に係るエネルギー消費で比較した場合、磁気浮上式鉄道 (500km/h) はガソリン自動車 (100km/h) の約1/2、航空機 (900km/h) の約1/3である。但し、同一速度でのエネルギー消費は、従来の鉄車輪式の鉄道システムよりも多い。また高速移動可能であるにもかかわらず、騒音や振動は比較的少ない。", "title": "比較" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "高速輸送での運用を考えた場合、速度は鉄輪式高速鉄道と航空機の中間に位置する。航空機と比べ前述のエネルギー効率を始め、運用コストや利便性では有利である。また乗用車と比較しても環境負荷や移動時間の正確性などで有利である。", "title": "比較" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "磁気浮上式鉄道の導入の一番のボトルネックは軌道の建設など初期投資が莫大であることが挙げられる。ドイツでは、1990年代にトランスラピッドをハンブルクからベルリンまで導入する計画があり、調査が進められた。1998年に成立した連立政権は建設着工を公約としたが、予算の目処が立たずまた工事による環境負荷による反対運動もあって、2000年に取りやめとなった。", "title": "比較" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "浮上式の交通機関のアイデアは古くから存在する。大部分は航空機へとつながるアイデアであるが、19世紀頃には、気球を車体に取り付け、空中に設置された軌道を走行する鉄道や、水流に乗って走る鉄道の想像図が描かれ、特許も多数申請された。実際、1870年頃のフランスパリで行われた博覧会では、水を軌道から吹き上げ、車両を浮上させてその上を走る列車が運転された。初期のリニアモータによる推進の列車の特許がドイツ人の発明家Alfred Zehdenによってアメリカ合衆国特許第 782,312号(1907年6月21日)とアメリカ合衆国特許第 RE12700号(1907年8月21日)がそれぞれ取得された。1907年に同様に初期の電磁式交通機関がF. S. Smithによって開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、航空機や自動車の技術が発達すると鉄道に関しても高速化に関する研究が各国で始まる。鉄道の高速化に際し、鉄レールと鉄輪の組み合わせがボトルネックになると考えられていた。そこで、車両そのものを浮上させて高速化を図ろうというアイデアが提案されるようになる。具体的には、磁気浮上と空気浮上の2種類が考えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "磁気浮上による車両浮上のアイデアは古くからあり、1914年に、イギリスのエミール・バチェレット (Emile Batchelet) が世界初の電磁誘導反発式の磁気浮上リニアモータのモデル実験を行っている。彼は1911年にアメリカ合衆国特許第 1,020,942号、アメリカ合衆国特許第 1,020,943号を出願した。また、ドイツではトランスラピッドの源流ともなる電磁吸引式浮上がヘルマン・ケンペル (Hermann Kemper) により1922年に開発がはじまり、1934年から1941年にケンペルは磁気浮上鉄道の基本特許をドイツで取得した初期の磁気浮上式鉄道はG. R. Greenflyによってアメリカ合衆国特許第 3,158,765号, 輸送のための磁力システム(1959年8月25日)に記述されていた。ロバート・ゴダードもロケット研究の傍ら、磁気浮上式鉄道の研究も行っていたことが判明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "最初に使用された\"磁気浮上式鉄道\"のアメリカ特許はCanadian Patents and Development Limitedによる\"磁気浮上案内装置\"である。1940年代末にインペリアル・カレッジ・ロンドン教授のエリック・レイスウェイト(Eric Laithwaite)が、初めて実物大の稼働するリニアモーターを開発した。レイスウェイトは1964年にインペリアル・カレッジの重電技術の教授になり、成功したリニアモータの開発を継続した。リニアモータは軌道と車両の間に物理的な接触を必要としなかったので、1960年代から1970年代に開発された多くの先進的な交通機関で採用された。レイスウェイト自身はそのような先進的な交通機関計画のひとつであったトラックト・ホバークラフトの計画に参加したが、この計画の予算は1973年に打ち切られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "リニアモータは磁気浮上システムとも相性が良く、1970年代にLaithwaiteは磁気浮上システムを1台の磁石で構築する事を目的とした単体のリニアモータで、浮上と同様に前進方向の推進力を生み出す新しい磁石の配置を見出した。ダービーの英国鉄道研究部門(英語版)は複数のいくつかの土木会社のチームと共に実用化に向けて\"traverse-flux\"システムを開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "磁気浮上鉄道の研究が本格化したのは1960年代に入ってからで、各国で研究が始まった。特に旧西ドイツは国家的支援を受けて、メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム (MBB) 社が1966年から本格的に研究を始め、1971年、Prinzipfahrzeug(車上一次リニア誘導モータ)が90km/hの記録をつくる。これは世界で初めての有人の磁気浮上鉄道である。また、1975年にKomet (Komponentenmeßtrager) が14mmの電磁吸引浮上で水蒸気ロケット推進ながら401.3km/hの記録をマーク。また、日本のHSSTの一部の技術の導入元でもあったクラウス=マッファイ社の製造したトランスラピッド・プロジェクトのTR-02号機が1971年に164km/hをマーク。またシーメンス社が中心となり、超電導による電磁誘導式浮上のEET-01が1974年に280mの円形軌道で230km/hの走行実験を行った。ドイツでは磁気浮上式高速鉄道を実現するために、1970年代初頭にトランスラピッドに一本化する際に軌道を簡略化できる車上一次式リニア誘導モータを選択せず、より高速化に適するが費用のかかる地上一次式リニア同期モータを選択した。そのため、当時、先端の開発が進められていた車上一次式吸引式磁気浮上(クラウス=マッファイ・トランスアーバン)の技術は不要になり、日本や韓国に技術供与された。開発元のドイツでは地上一次式リニア同期モータを採用した事が建設費が高騰する一因となり低迷したが、車上一次式リニアモータの技術を供与された国々は、供与された技術を基に、それぞれの国で発展を遂げ実用化に至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本では、1963年から鉄道総合技術研究所を中心に研究が始まり、1972年に国鉄が日本の鉄道100周年を記念して超電導磁気浮上式リニアモーターカーであるML100(車上一次リニア誘導モーターを使用)による試験走行を公開。これとは別に常電導磁石とリニア直流モーターを組み合わせた、都市近郊交通型の磁気浮上式鉄道の研究も行われた。また日本航空がクラウス=マッファイ社の技術を導入してHSSTの開発プロジェクトを立ち上げ、1975年から開発を開始した。また当時の運輸省は独自に通勤用の磁気浮上式鉄道イーエムエルプロジェクト(EMLプロジェクト)を立ち上げ、1976年に実験を行っている。その他、熊本工業大学(現崇城大学)でも、吸引式磁気浮上式鉄道の開発が進められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アメリカでは、1970年代にRohr社で吸引式磁気浮上であるROMAGの研究が行われていたが、その後低調となり、1978年に事業はボーイング・バートルに売却され、1980年代中頃までは行われていたようである。その後、1990年代からローレンスリバモア国立研究所でハルバッハ配列で並べた強力な永久磁石(ネオジム・鉄・ボロン系合金)を使用したインダクトラックの研究、開発が行われ、現在ではゼネラルアトミック社が研究を引き継いで実用化に向けた研究、開発が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "安定化永久磁石 Stabilized Permanent Magnet (SPM)による磁気浮上式鉄道アメリカ合衆国特許第 6,684,794号が、アプライドレヴィテーション(Applied Levitation)社で開発中である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "超電導リニアによる中央新幹線は南アルプスをトンネルで通過する計画であるため、2008年2月よりボーリング調査が行われた。その後、2011年5月26日に中央新幹線の整備計画が正式決定し、2014年に東京 - 名古屋間の路線起工式が行われた。名古屋までの総事業費は5兆円あまりで2027年の開業予定である。名古屋までの開業後は2037年の完成を目指して大阪まで延伸される予定である。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2008年3月27日、ドイツ運輸・建設相(当時)であったヴォルフガング・ティーフェンゼーは、ミュンヘン国際空港 - ミュンヘン中央駅間の37.4kmのリニアモーターカー建設を断念したと発表。建設コスト上昇が理由。総額18億5000万ユーロ(約3000億円)の事業予算を計上したが、最新の見積もりが32〜34億ユーロに膨れ上がったため、実現困難と判断した。 2005年にドイツ連邦政府が1億1300万ユーロをTRに投入することを決め計画に弾みがつき、2007年にはドイツ鉄道(ドイチェ・バーン)とトランスラピッドは正式合意し(AP通信)、同年9月24日、バイエルン州政府は2014年頃までの開業を目指し、2008年夏にも着工するとしていた。事業主体はトランスラピッド・インターナショナル(ティッセンクルップとシーメンスの共同事業体)が担うはずだった。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2005年、トランスラピッドタイプの磁気高速鉄道、UK Ultraspeed線(最高速度500km/h)をロンドン - グラスゴー間のミッドランド、イングランド北東部を経由する複数の路線構想を有するプロジェクトが立ち上げられた。政府によって実現可能であるか審議された。2007年7月24日に公表されたDelivering a Sustainable Railway白書によって却下された。グラスゴーとエディンバラ間の同様の高速鉄道が提案されたが技術的に不十分だった。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "現在は30 kmの上海トランスラピッドを杭州市まで200 kmに延伸する計画や、新たな磁気浮上式鉄道の建設計画が目白押しであるものの、健康・騒音被害や建設コスト、用地買収、鉄輪式高速鉄道との互換性の問題などが浮上し、今後の計画はどうなるかは未知数な面がある。上海トランスラピッドの延伸計画は、現在のところ休止されているがもし実現すれば磁気浮上式鉄道による最初の都市間商業輸送になる。2007年5月に計画はシステムからの電磁波の放射の懸念により当局により中止が報告された。2008年1月と2月に、100人規模の反対者達が上海で路線が人家に接近しすぎるとして電磁波による健康への影響(英語版)、騒音、汚染と資産価値の目減りに関する懸念で反対運動をした。元の計画では上海国際博覧会に間に合わせる予定だった。上海市の行政当局は住民の不安を緩和するために路線を地下に建設する等の複数の選択肢を検討した。同じ報告では最終的な決定は国家発展開発委員会に委ねられたとされる。2010年10月26日、上海市 - 杭州市間を最高速度300 km/hで結ぶ滬杭旅客専用線が開業し、延伸計画が実行される可能性は低くなった。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同済大学構内の実験線でCM1型磁気浮上列車の開発が進められている。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "長沙市の長沙中低速磁浮線(長沙南駅と長沙黄花国際空港間)の建設工事は2014年5月に開始され、2016年5月6日に開通した。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2017年12月30日に中国では3番目の磁気浮上式鉄道である、北京地下鉄の10.2kmのS1線(門頭溝線)が開業した。S1線は国防技術大学で開発された技術を採用した吸引式磁気浮上鉄道である。2011年2月28日に建設が開始されていた。最高速度は105km/hである。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1993年に大田国際博覧会でドイツのクラウス・マッファイ社の技術指導を受けて開発されたHML-03を運行させたほか、2008年から現在までエキスポ科学公園内で1km以内という短距離であるが国産のUTM-02が運行されている(詳細はエキスポ科学公園#リニアモーターカー)。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2007年、韓国機械研究院は2012年までの6年間に総額4500億ウォンの予算を投入して都市型磁気浮上式鉄道を実用化する計画を発表した。この計画は2012年に仁川空港磁気浮上鉄道として完成したが、純国産にこだわったことからトラブルが相次ぎ、繰り返し運行開始が延期され、2016年2月3日に開業した。2両編成で定員は1両135人、設計最高速度110km/h、営業最高速度80km/hで、6駅間6.1kmを15分間で走行する。浮上方式は常電導吸引式である。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、2007年時点で韓国機械研究院は、2007年中に550km/hの高速リニアの研究・開発に着手して2016年までに開発し2020年に商用化したいと発表しており、2016年時点で韓国の一部メディアでは「550km/hを目指すSUMA550の試験車両が開発済み」と報道されたが、実際は1両が極めて短距離(150m)の実験線を低速走行するにとどまっている。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アナハイム - ラスベガス: カルフォルニア州アナハイムとネバダ州ラスベガスを全長433kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。詳細はen:California–Nevada Interstate Maglevを参照。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ボルチモア - ワシントンD.C.: メリーランド州ボルチモアとワシントンD.C.を全長64.1kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。2015年6月4日にメリーランド州のラリー・ホーガン知事が山梨実験線に試乗した。詳細はen:Baltimore – Washington D.C. Maglevを参照。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Magnovate社がカナダのアルバータ州のエドモントンとカルガリー間にMaglineを建設する構想がある。第三世代の磁気浮上システムで7.5cmの浮上高で駅では待避線に入るようになっていて柔軟な運行ができる。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "テルアビブでスカイトランの建設計画が発表された。技術はイスラエル・エアロスペース・インダストリーズの支援でアメリカ航空宇宙局によって開発された。高架式で70km/hで走行するものの更に高速化が可能である。イスラエル・エアロスペース・インダストリーズの敷地内に試験線が建設される予定で、試験が成功すれば最初の商業運行路線がテルアビブに建設予定である。試験は2015年末までに開始予定である。最高速度は240km/hまで到達可能であるとされる。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "スイスラピッド: スイスラピッド AG とスイスラピッドコンソーシアムは共同で、国内の主要な都市を接続する磁気浮上式鉄道の計画・開発中である。スイスラピッドエクスプレスは、スイスにおいて来たる交通の挑戦のための革新的な解決法である。大規模な社会資本の先駆者としてスイスラピッドは100%民間から資金を募る。長期的にスイスラピッドエクスプレスは、アルプス北部の主要な都市であるジュネーヴとルツェルンやバーゼルを含むザンクト・ガレンを接続する事を目的とする。現在計画中の最初の計画ではベルン - チューリッヒ、ローザンヌ - ジュネーブ同様にチューリッヒ - ヴィンタートゥールが予定される。最初の路線(ローザンヌ - ジュネーブまたはチューリッヒ - ヴィンタートゥール)は早ければ2020年初頭の開業が可能とされた。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "スイスメトロ: 初期のスイスメトロの計画は交通の挑戦のための解決法として以前に試みられた。スイスメトロAGは高速時における空気抵抗を減らすために地下の部分的に真空に減圧したトンネル内に磁気浮上式鉄道の軌道を敷設するという技術的に挑戦的な目論見だった。スイスラピッドと共にスイスメトロはスイス国内の主要な都市間を接続する。2011年、スイスメトロAGは解散して組織の知的財産権はスイス連邦工科大学ローザンヌ校に譲渡された。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "シドニー - イラワラ: 現在、シドニーとイラワラの都市ウロンゴン間に計画がある。計画は1990年代半ばに浮上した。シドニー - ウロンゴン通勤回廊はオーストラリア最大であり、毎日2万人以上の人々がイラワラからシドニーへ通勤する。現在両都市を結んでいるイラワヤ線はおよそ2時間で運行されている。磁気浮上式鉄道の導入により通勤時間は20分に短縮が見込まれる。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "メルボルン: 2008年末、ビクトリア州政府が民間による資金調達と運営による磁気浮上式鉄道の計画を提案した。磁気浮上式鉄道の費用は80億オーストラリア・ドルが見込まれる。しかしながら、慢性的な道路の混雑により政府はすぐに計画を却下して代わりに道路の拡張することにした。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "Andrew Spannausによって2008年4月にミラノ・マルペンサ空港とミラノ、ベルガモ、ブレシアの都市を高速で接続するための最初の計画が立案された。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2011年3月、Nicola Olivaはピサ空港、プラート、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅とフィレンツェ空港を磁気浮上式鉄道で接続する構想を提案した。所要時間は従来の1時間15分からおよそ20分にまで短縮される予定である。第二段階ではリヴォルノの湾岸地域まで延伸する構想である。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "サンフアン - カグアス: プエルトリコ最大の都市サンフアンのトレン・ウルバノ線のクペイ駅とサンフアンの南に隣接する郊外の都市のカグアス間を接続する全長16.7マイル (26.8 km) の磁気浮上式鉄道の計画が立案された。磁気浮上式鉄道は両都市を接続する52号高速道路と並行する。プロジェクトを担当するAmerican Maglev Technology社によると費用はおよそ3.8億ドルが予想される。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ムンバイ - デリー: アメリカ企業によってムンバイとデリー間を結ぶ提案がインドの鉄道大臣にされた。当時の首相マンモハン・シンはもしこの計画が成功すればインド政府は他の都市間やムンバイ中央とチャトラパティ・シヴァージー国際空港間にも建設する予定であると述べた。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ムンバイ - ナーグプル: マハーラーシュトラ州は、約1000km離れているムンバイとマハーラーシュトラ州のナーグプル間の磁気浮上式鉄道の実現可能性調査を承認した。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "チェンナイ - バンガロール - マイソール: 2012年12月にチェンナイからバンガロールを経由してマイソールまでの路線の詳細な報告がされ、費用は1km当たり2600万ドルで最高速度は350 km/hとされた。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2009年5月にイランとドイツ企業はテヘランとマシュハド間の接続に磁気浮上式鉄道を使用することで合意した。合意はマシュハド国際フェアの会場でイランの道路・交通大臣とドイツの企業間で交わされた。テヘランとマシュハド間の全長900kmの路線はおよそ2.5時間に短縮可能であるとされる。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "オランダ国内やベルリン - 東欧諸都市間、スペインのマドリードの空港と3つの都市間、ベネズエラのカラカス - ラ・グアイラ、そしてシモン・ボリーバル国際空港間などで、実現性は別として、磁気浮上式鉄道の導入構想がある。", "title": "各国の建設計画" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2003年の年頭の挨拶で当時JR東海の社長を務めていた葛西敬之は「超電導リニアは最高時速700km/hを目指す」旨の発言をしており、同年に超電導リニアMLX01が当時の鉄道世界最高速度581km/hを記録している。2015年4月には超電導リニアL0系新幹線が590km/h、603km/hと立て続けに鉄道世界最高速度記録を更新した。", "title": "最高速度記録" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "※無人は主なもののみ記載する。", "title": "最高速度記録" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "上述の1989年に開催された横浜博覧会におけるYES'89線 (HSST-05) は、会期中の会場内での営業であったため展示走行と解されることもあるが、第一種鉄道事業免許による旅客輸送であり、厳密には展示走行には該当しない。", "title": "博覧会での展示走行" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "鉄道総合技術研究所(JR総研)及び東海旅客鉄道(JR東海)により開発が進められている磁気浮上式鉄道。超電導電磁石によるリニアモーターを使用する(超電導リニア方式)で、将来は中央リニア新幹線で営業運転される。基礎技術から日本で独自に研究・開発が行われており、技術的には既に実用段階に達している。山梨に42.8kmの実験線があり、一日の走行距離は約3,000kmに達する。2003年当時JR東海の社長だった葛西敬之は、最高速度700km/hを目指すと技術者向けに発言し、その直後、有人走行では世界最高の581km/h(ギネスブック認定)を記録、2015年には603km/hを記録して世界最高速度を更新した。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2014年12月から実験線を延長する形で東京 - 名古屋間の建設が始まっており、開業は2027年、大阪までの開業は2045年を目指している。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "HSST(High Speed Surface Transport、エイチエスエスティ)はトランスラピッドを開発していたクラウス=マッファイから空港と都心部の連絡輸送用として日本航空が吸引式磁気浮上の技術を導入し、その後1980年代末に開発を引き継いだ名古屋鉄道等を中心とする中部HSST開発が中心となり開発が進められ、運転速度および輸送能力に応じてHSST-100、HSST-200、HSST-300の3システムが開発された。HSST-200は200km/h程度ないしはそれ以上の、HSST-300は300km/h程度ないしはそれ以上の走行も可能である。HSST-100が2005年3月に愛知高速交通東部丘陵線(愛称:リニモ)として営業運転しており、営業距離は8.9km、営業時の最高速度は約100km/hである。トランスラピッドから吸引式浮上技術を導入したが、推進方法はトランスラピッドが高速化に適した軌道一次式リニア同期モータを使用しているのに対してHSSTでは浮上、案内、推進を兼用する車上一次式リニア誘導モータを使用している。このため他の方式よりも建設費が安い。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ドイツで開発された磁気浮上式鉄道。2007年に開発されたTR-09は、設計最高速度が505km/h。本国ドイツより先に中国の上海で実用線が建設され営業運転している。大都市上海とその国際空港のアクセス用として、29.863kmを7分20秒で結ぶ。営業最高速度は430km/hで、現在の営業路線としては世界一の速度で運転している(上海トランスラピッド)。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "中国が開発中の吸引式磁気浮上式鉄道。同済大学構内に総延長1.5kmの実験線を敷設して実験走行を進めている。現時点では実験線の長さの制約により最高速度は120km/hにとどまっている。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国のフロリダ州ケープカナベラルに建設予定の超伝導誘導反発式磁気浮上式鉄道。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "米国のインダクトラック式のSkytran、中国が独自に研究を進めているといわれる中華06号、CM1型車両、中華01号などがある。崇城大学工学部宇宙航空システム工学科でも80年代より吸引式磁気浮上鉄道の研究が進められている。韓国でもドイツのクラウス=マッファイ社から技術供与を受けて吸引式磁気浮上鉄道の研究が大田広域市の韓国機械研究院を中心として進められていて、大田国際博覧会で使用した軌道を利用して営業運転されている。 崇城大学でも吸引式磁気浮上式鉄道の開発が行われて数人乗りの車両が製作された。 カナダのMAGNOVATE社では分岐器を使用した運行システムを備えた磁気浮上式鉄道を開発中。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "イーエムエルプロジェクト(EMLプロジェクト)- 日本の運輸省(当時)が1970年代に行っていた磁気浮上式鉄道の研究。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "バーミンガムピープルムーバ(イギリス)世界初の常設磁気浮上式鉄道として建設されたが、ケーブル牽引式のスカイレール(現・エアレール・リンク)に改修された事により1995年に廃止された。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "M-Bahnはドイツのベルリンに1980年代末に建設されたが、東西ドイツの統一により路線の意義が薄れて短期間で廃止された。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1970年代初頭にカナダのトロントで導入に向けて試験軌道が建設されて実際に試験が実施されたが分岐機が降雪に対して脆弱性を有しており、当時はパワーエレクトロニクスが未完成で浮上用電磁石から商用周波数である50Hzの騒音、振動が生じる等の問題があり、西ドイツでの磁気浮上式鉄道の開発をトランスラピッドに集中する事になり、1974年11月に西ドイツ政府からの補助金を減らされたために改良を進める事が出来なくなり中止された。車上一次式吸引式磁気浮上の技術は韓国機械研究院に技術供与された。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アメリカで1970年代に開発されていた吸引式磁気浮上鉄道。", "title": "主な開発プロジェクト" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "タカラトミーは2015年、磁気浮上式鉄道の1つである日本の「超電導リニア」をモデルとした世界初のレールトイ「リニアライナー」を発売した。磁気浮上式鉄道同様、磁石で浮上・走行するが、実際の超電導リニアとは仕組みが異なる。", "title": "おもちゃ" } ]
磁気浮上式鉄道(じきふじょうしきてつどう、とは、磁力による反発力または吸引力を利用して車体を軌道から浮上させて推進する鉄道のこと。英語では"Maglev"と呼称し、「磁気浮上」を表す"Magnetic levitation"が語源である。磁気浮上式鉄道はその近未来性からリニアモーターカーの代表格でもある。1971年、西ドイツで Prinzipfahrzeug が初めての有人走行に成功した。 世界で開発されている主な磁気浮上式鉄道には、常伝導電磁石を用いる方式、と超伝導電磁石を用いる方式があり、有人試験走行での世界最高速度は2015年4月21日に日本の超電導リニアL0系が記録した603km/hである。 現在、愛知県の愛知高速交通東部丘陵線、韓国の仁川空港磁気浮上鉄道、中国の上海トランスラピッド、長沙リニア快線、北京地下鉄S1線などが、実用路線として営業運転を行っている。 日本では1989年に開催された横浜博覧会において、HSST-05がYES'89線として日本初の営業運転を行った。 超電導リニアによる中央新幹線は、品川駅 - 名古屋駅間で2027年の先行開業、名古屋駅 - 新大阪駅間で2037年の全線開業を目指して計画が進められている。
[[ファイル:JR Central SCMaglev L0 Series Shinkansen 201408081006.jpg|thumb|[[超電導リニア]] [[L0系]]。2015年4月に山梨実験線にて世界最高速度603km/hを記録。]] [[ファイル:Shanghai Transrapid 002.jpg|thumb|[[トランスラピッド]]([[上海トランスラピッド]])]] [[ファイル:Linimo approaching Banpaku Kinen Koen, towards Fujigaoka Station.jpg|thumb|[[HSST]] - 愛知高速交通100形([[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]])]] [[ファイル:YES89-HSST.jpg|right|thumb|HSST - エイチ・エス・エス・ティ HSST-05([[横浜博覧会]]で、日本初の営業運転を実施)]] {{読み仮名|'''磁気浮上式鉄道'''|じきふじょうしきてつどう|{{lang-en-short|Maglev}}}}とは、[[磁力]]による反発力または吸引力を利用して車体を[[軌道 (鉄道)|軌道]]から浮上させて推進する[[鉄道]]のこと。英語では"Maglev"(マグレブ)と呼称し、「[[磁気浮上]]」を表す"Magnetic levitation"が語源である。磁気浮上式鉄道はその近未来性から[[リニアモーターカー]]の代表格でもある。[[1971年]]、西ドイツで Prinzipfahrzeug が初めての有人走行に成功した。 世界で開発されている主な磁気浮上式鉄道には、常伝導電磁石を用いる方式([[トランスラピッド]]、[[HSST]]など)、と超伝導電磁石を用いる方式([[超電導リニア]]など)があり、有人試験走行での世界最高速度は[[2015年]][[4月21日]]に日本の超電導リニア[[L0系]]が記録した603[[キロメートル毎時|km/h]]である。 現在、愛知県の[[愛知高速交通東部丘陵線]](愛称:リニモ)、韓国の[[仁川空港磁気浮上鉄道]]、中国の[[上海トランスラピッド]]、[[長沙リニア快線]]、[[北京地下鉄S1線]]などが、実用路線として営業運転を行っている。 日本では[[1989年]]に開催された[[横浜博覧会]]において、HSST-05(後のHSST-200系統)が[[YES'89線]]として日本初の営業運転を行った<ref name="YokohamaHaku">『横浜博覧会・会場計画と建設の記録』 横浜博覧会協会、1990年3月、231, 238ページ (横浜市立中央図書館所蔵)</ref>。 超電導リニアによる[[中央新幹線]]は、[[品川駅]] - [[名古屋駅]]間で[[2027年]]の先行開業、名古屋駅 - [[新大阪駅]]間で[[2037年]]の全線開業を目指して計画が進められていた。しかし、静岡県の反対により南アルプストンネルの着工が遅れているため、2027年の開業は絶望視されている。 == 特徴 == 磁気浮上鉄道の特徴は、浮上および推進を非接触で行うことができる点である。 長所は、主として高速化(移動時間の短縮化)が可能だということなどである。 短所は鉄道の高速化の結果、消費エネルギーが増大し、([[温室効果ガス]]、[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]排出量が増し)、[[環境負荷]]が増したり、[[持続可能性]]に悪影響を与えたりすることである。 === 非接触推進 === *長所:車輪のような伝達部分を必要としない。特に鉄道では車輪とレールの[[摩擦係数]]が比較的低く(=[[スリップ]]、空回りが生じがちで)、[[加速]]時、制動時、斜面の登坂に対する性能には限界があったが、磁気浮上式の場合は加速・制動性能の大幅な向上が期待できる。 *短所:'''[[エネルギー効率]]に関してはリニアモーターの推進効率は従来の回転式電動機よりも低い'''ので同じ速度での走行時に効率が向上する事はない。また、地上一次式のリニアモータを採用した場合には走行していない部分の界磁も[[励磁]]するので、回転式電動機とのエネルギー効率の差は一層顕著になる。 <!--- ; モータ構成の自由度が上がる : 高速や低速の交通システムやコストに応じたモータタイプの選択ができる。 事実上、選択肢はリニアモータのみなので---> === 非接触浮上 === *長所 **騒音や振動の低減:完全非接触の構成が取れれば、騒音の原因となるのは[[風切り音]](空気抵抗)のみとなる。 **従来の車輪を駆動するための減速機が不要になり、軌道にかかる軸重が軽いので、軌道の構造が従来の鉄道ほど強度を必要とせず、保守の手間が大幅に低減。 *短所 **消費エネルギーの増大 : 非接触浮上をするだけでも電力を消費する。(鉄軌道式ならば停止しているだけならば基本的にはエネルギーを消費しない。)さらに、一般的にリニアモータは、軌道一次式、車上一次式を問わず、同速度の場合、推進効率は従来の回転式電動機よりも低いため、消費電力は回転式電動機よりも多い。軌道上の界磁を励磁する必要のある地上一次式リニアモータの場合には顕著になる。<!--すなわち、高速性と低環境負荷(低騒音、<<要検証>> 省エネルギー???)という利点である。--> == 技術 == [[磁気浮上]]に必要な要素技術として、力の働く方向に'''浮上・案内・駆動(推進)'''の3種類に分類できる。 === 磁気浮上の種類 === 磁石または[[コイル]]の設置方法により、以下の三種類がある。 * 反発浮上方式 * 側面浮上方式(誘導電流による吸引反発併用式) * 吸引方式 反発浮上および側面浮上式は、車上の磁石の磁力強度と設置する磁石またはコイルの位置関係で自然に浮上量が決定する。吸引式は吸引力の働いている間のギャップが減ると浮上力が増す関係にあるため、浮上量を一定に保つために電磁石などで吸引力を制御する必要がある。 また電磁気的作用により以下の分類方法も考えられる。 * [[永久磁石]]、電磁石同士の吸引・反発を利用して浮上{{efn|永久磁石を使用した吸引式磁気浮上は制御に電磁石が必要である。}} * 移動する磁石と、コイル内で発生する電磁誘導作用に発生する起磁力による吸引・反発を利用して浮上 * 磁石と鉄等の磁性体との間に働く吸引力を利用して浮上 * 反磁性の[[超伝導体]]による[[マイスナー効果]]を利用した磁気浮上{{efn|軌道若しくは車両側のどちらか一方を超伝導体にする({{要出典範囲|date=2021年6月|この方法は現実的ではない}})}}。 実用的な磁気浮上鉄道を考えた場合、磁石同士の吸引または反発を利用する浮上方法は、軌道と車両の両方に磁石を設置することはコストおよび保守の面でかなり難しい。従って、技術・経済的に採用可能なものは以下の2つとなる。 ==== 電磁誘導浮上支持方式 ==== : 車両側に電磁石を設置、軌道側に閉ループの[[コイル]]を並べる。車両が軌道上を走行すると、コイルに[[電磁誘導]]作用で電流が流れ、これにより[[磁場|磁界]]が発生する。結果、車両の電磁石と軌道のコイルの間に車体を支持する力が発生する方式。軌道側のコイルは軌道面に置けば、反発浮上式の構成となる。 : また側面において、側面浮上式の構成も可能である。利点としては車両の浮上量を設計で任意に取ることができ、結果として後述の電磁吸引支持方式より大きな浮上量が得られる。欠点としては、静止または低速走行時に十分な浮上力が得られないため、車輪等で支持する必要があることと、車両側に超強力な電磁石が必要となる点が挙げられる。 ==== 電磁吸引支持方式 ==== : 車両側に吸引用の浮上電磁石を持つ。また軌道側に車両を引き付けるための鉄レール等を使うことができ、軌道側のコストが安く済む利点がある。また、停止時、低速時でも浮上可能である。しかし、磁石による吸引は磁界が一定の場合、隙間が小さくなるほど吸引力は大きくなる関係にある(磁界強度は距離の二乗に反比例する)。浮上中は、レールと車体との隙間を常に計測し、浮上電磁石の磁力を制御する必要がある。吸引式磁気浮上にはスイッチング周波数の高い[[パワーエレクトロニクス|大電力制御半導体素子]]が不可欠であり、1980年以降、このような半導体素子の開発、普及により吸引式磁気浮上が実用化に近づいた。 : またギャップ長が制御できれば[[永久磁石]]を使用できる(この方法は'''M-Bahn'''で実用化された)。 また、近年では[[希土類元素]]を用いた強力な[[希土類磁石]]が普及するようになり、電磁誘導浮上支持方式では[[インダクトラック]]に使用され、電磁吸引支持方式でも使用が検討される>{{efn|電磁吸引式磁気浮上で永久磁石を使用する場合、[[脈流電流]]によって印加される電磁石の磁界により[[ヒステリシス#磁力のヒステリシス|ヒステリシス特性]]によって永久磁石の保磁力が下がる。}}<ref>山口仁, 野見山琢磨, 山下毅, 柿木稔男, 地福順人, 「[https://doi.org/10.11527/jceeek.2004.0.11.0 永久磁石による磁気吸引力の検討(その1)―永久磁石の厚さと吸引力―]」『電気関係学会九州支部連合大会講演論文集』 2004年 2004巻, 平成16年度電気関係学会九州支部連合大会(第57回連合大会)講演論文集, セッションID 01-1A-11, p.11, {{doi|10.11527/jceeek.2004.0.11.0}}, {{naid|130004607153}}。</ref><ref>山口仁, 地福順人, 柿木稔男, 野見山琢磨, 山下毅, 「[https://doi.org/10.11527/jceeek.2004.0.12.0 永久磁石による磁気吸引力の検討(その2) -質量当たり吸引力-]」『電気関係学会九州支部連合大会講演論文集』 2004年 2004巻, 平成16年度電気関係学会九州支部連合大会(第57回連合大会)講演論文集, セッションID 01-1A-12, p.12, {{doi|10.11527/jceeek.2004.0.12.0}}, {{naid|130004607164}}。</ref><ref>柿木稔男, 山口仁, 「[https://doi.org/10.11527/jceeek.2009.0.331.0 二次電池を用いた省エネルギー型分割鉄心複合電磁石の磁気浮上特性]」『電気関係学会九州支部連合大会講演論文集』 2009年 2009巻, 平成21年度電気関係学会九州支部連合大会(第62回連合大会)講演論文集, セッションID 07-2A-07, p.331, {{doi|10.11527/jceeek.2009.0.331.0}}, {{naid|130004609659}}。</ref><ref>柿木 稔男, 山口 仁, 「[https://doi.org/10.11527/jceeek.2008.0.190.0 省エネルギー型分割鉄心複合電磁石を用いた磁気浮上特性]」『電気関係学会九州支部連合大会講演論文集』 2008年 2008巻, 平成20年度電気関係学会九州支部連合大会(第61回連合大会)講演論文集, セッションID 04-1P-12, p.190, {{doi|10.11527/jceeek.2008.0.190.0}}, {{naid|130005032892}}。</ref>。 === 案内の種類 === 一般の鉄道の場合、[[レール]]と車輪の物理的接触により車両に対してレールの方向に案内する力が生じる。磁気浮上式鉄道の場合、非接触による軌道案内が必要になるが、磁気浮上で使用されるシステムをそのまま案内に使っている場合が多い。 === 駆動(推進)の種類 === 非接触のままで[[推進力]]を得る手段としては、浮上用磁石と推進用磁石とで兼用ができる[[リニアモーター]]による駆動が一般的である。[[ロケット]]や[[ジェットエンジン]]、[[プロペラ]]等を用いることもできるが、実際の営業運転を考えた場合、[[騒音]]の面で現実的な解ではない。 === リニアモータの種類 === リニアモータは、回転型のモータを直線に展開したものと考えてよい。一次(電機子)側と二次(界磁)側に並進力を得ることができるモータである。リニアモータには回転モータと同種の方式を取ることができる。しかし、磁気浮上鉄道の利点である非接触を行うためには、無整流子構造の交流モータが有利である。すなわち磁気浮上鉄道で採用されている構成はリニア同期モータかリニア誘導モータのどちらかとなる。 ==== リニア同期モータ ==== 車両側と軌道側両方に電磁コイルを置き、どちら側かの電磁コイルで進行方向に対して吸引・反発力が得られるように磁界の向きを切り替えることで推進力を得る。磁界を切り替える制御を行うコイルを一次側と呼ぶが、これを車上側に置くか軌道側に置くかで方法が分かれる。すなわち、前者を'''車上一次方式'''、後者を'''地上一次方式'''とよぶ。 リニア同期モータ式の磁気浮上鉄道では、地上一次式とすると車両側に推進に関わる制御装置を持つ必要が無く、車両側コイルを磁気浮上と共用とすることもできる。車両小型化と完全非接触化に関しては地上一次側の採用にメリットが大きい。しかし、同期モータの場合は車上一次方式・地上一次方式のどちらの場合でも軌道側にコイルを設置する必要があり、軌道建設の初期費用が膨らみ、走行区間の軌道側の界磁を励磁する必要があるので消費電力が増える欠点がある。 ==== リニア誘導モータ ==== 誘導モータは、一次側にコイルを持つが、二次側は単に導体板(リアクション・プレート)を置いたものである。磁界中にある導体板内に発生するうず電流から磁界に反発する力が発生し、これが推進力となる。二次側にかご形や巻き線型も使用可能である。構造は同期モータに比べて単純であるが、エネルギー効率が劣る{{efn|但し、これはリニア同期モータ、リニア誘導モータの双方が地上一次式または車上一次式の場合での比較で、リニア誘導モータで一般的に使用される車上一次式リニア誘導モータとリニア同期モータで一般的な地上一次式リニア同期モータの推進効率を比較した場合には軌道上の界磁を励磁する必要が無いので同じ速度で走行時に地上一次式リニア同期モータよりも車上一次式リニア誘導モータの方が推進効率が高い。}}。 リニア誘導モータにも車上一次、地上一次方式の両構成が可能であるが、軌道に導体板(リアクション・プレート)を敷設するだけで済む車上一次式が一般的である。また、リアクション・プレートと一次コイルの配置方法として、リアクション・プレートの片面のみに界磁を配置する片側励磁式とリアクション・プレートの両面に配置する両面励磁式がある。両側式の方が推進効率が高いが片側励磁式が軌道の底面にリアクション・プレートを配置すれば良いのに対して両面励磁式はリアクション・プレートの配置に少々工夫が必要である。 === 要素技術分類 === ここでは研究開発が行われたことのある磁気浮上鉄道を要素技術別で分類する。大分類としては、リニアモータ駆動の方法と磁気浮上力を得る方法に分けることができる。以下の表を参照のこと。 {{磁気浮上式鉄道|state=expand}} === 推進抵抗 === 磁気浮上であるため、軌道一次式リニアモータを採用した場合、車体側に集電が不要なので車体と軌道等との接触はないため、これらの動摩擦力は働かないが、以下の2つが推進時の抵抗として働く。 ==== 空気抵抗 ==== 特に高速移動を前提とする場合には、空気抵抗は速度の二乗に比例して増大するため、大きな問題となる。このため車両デザインには空力的に洗練されたものが要求される。[[スイスメトロ]]のような一部の構想では減圧されたトンネル内を走行する。 [[中華人民共和国]]では、[[アメリカ合衆国]]の技術を元に、[[真空]]状態のチューブ内でリニアモーターカーを走行させる研究をすすめると言うが、純粋な[[旅客輸送]]用として以外に、[[宇宙開発]]や[[軍事]]転用の可能性もある<ref>{{Cite web|和書|date=2010-05-24 |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100524/biz1005242107019-n1.htm |title=時速1000キロ・真空リニア 中国、実用化へ着手 |publisher=[[産経新聞ニュース]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100529175700/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100524/biz1005242107019-n1.htm |archivedate=2010-05-29 |accessdate=2021-08-27}}</ref> ==== 磁気抵抗 ==== 相対的に磁界中を移動する導体には[[電磁誘導]]により[[誘導電流]]が生じて[[磁界]]に抗する力が発生するが、これが抵抗となる{{efn|反発式磁気浮上では誘導コイル内に発生した磁場で浮上するので浮上時には常に減速力が働き、浮上用コイルとの相対速度が下がると浮上できなくなる。}}。磁気浮上式鉄道では[[空気抵抗]]に比べて桁違いに小さいが、強力な[[超伝導電磁石]]を用いて高速で移動する場合は無視できない。通常の鉄橋梁や鉄筋コンクリートの使用は磁気抵抗発生の原因となりうるため、低磁性や非磁性の材料の使用が必要となる場合がある。但し、[[HSST]]や[[トランスラピッド]]のような吸引式磁気浮上の場合には漏れ磁界が少ないので構造物に磁性体を使用しても問題は無い。 == 比較 == 1人当りの輸送に係るエネルギー消費で比較した場合、磁気浮上式鉄道 (500km/h) はガソリン自動車 (100km/h) の約1/2、航空機 (900km/h) の約1/3である。但し、同一速度でのエネルギー消費は、従来の鉄車輪式の鉄道システムよりも多い。また高速移動可能であるにもかかわらず、騒音や振動は比較的少ない。 高速輸送での運用を考えた場合、速度は鉄輪式[[高速鉄道]]と[[航空機]]の中間に位置する。航空機と比べ前述のエネルギー効率を始め、運用コストや利便性では有利である。また[[乗用車]]と比較しても環境負荷や移動時間の正確性などで有利である。 磁気浮上式鉄道の導入の一番のボトルネックは軌道の建設など初期投資が莫大であることが挙げられる。ドイツでは、1990年代に[[トランスラピッド]]を[[ハンブルク]]から[[ベルリン]]まで導入する計画があり、調査が進められた。1998年に成立した連立政権は建設着工を公約としたが、予算の目処が立たずまた工事による環境負荷による反対運動もあって、2000年に取りやめとなった。 == 歴史 == === アイディア === 浮上式の交通機関のアイデアは古くから存在する。大部分は航空機へとつながるアイデアであるが、19世紀頃には、気球を車体に取り付け、空中に設置された軌道を走行する鉄道や、水流に乗って走る鉄道の想像図が描かれ、特許も多数申請された。実際、1870年頃の[[フランス]]パリで行われた博覧会では、水を軌道から吹き上げ、車両を浮上させてその上を走る列車が運転された<ref name="ReferenceA">{{US patent|3736880}}, January 21, 1972. Page 10 Column 1 Line 15 to Page 10 Column 2 Line 25.</ref>。初期のリニアモータによる推進の列車の特許がドイツ人の発明家Alfred Zehdenによって{{US patent|782312}}(1907年6月21日)と{{US patent|RE12700}}(1907年8月21日)がそれぞれ取得された{{efn|Zehdenはリニアモータを鋼鉄の桁の下に配置することで部分的な磁気浮上をもたらした。これらの特許は後にJean Candelasによる ''滑走磁場を発生させる電磁装置''({{US patent|4131813}})やHarry A. Mackieによる ''空気浮上式全方向可動型移動磁界推進装置''({{US patent|3357511}})やSchwarzler達による ''特に浮上式車両のための両側リニア誘導モータ''({{US patent|3820472}})に引用される事になる。}}。1907年に同様に初期の電磁式''交通機関''がF. S. Smith<ref name="US patent|859018">{{US patent|859018}}, 1907-07-02.</ref>によって開発された。 第二次世界大戦後、航空機や自動車の技術が発達すると鉄道に関しても高速化に関する研究が各国で始まる。鉄道の高速化に際し、鉄レールと鉄輪の組み合わせがボトルネックになると考えられていた。そこで、車両そのものを浮上させて高速化を図ろうというアイデアが提案されるようになる。具体的には、[[磁気浮上]]と[[空気浮上]]の2種類が考えられた。 === 基礎研究・開発 === 磁気浮上による車両浮上のアイデアは古くからあり、[[1914年]]に、イギリスのエミール・バチェレット (Emile Batchelet) が世界初の電磁誘導反発式の磁気浮上リニアモータのモデル実験を行っている。彼は1911年に{{US patent|1020942}}、{{US patent|1020943}}を出願した<ref name="名前なし-1">[http://io9.gizmodo.com/the-scifi-story-robert-h-goddard-published-100-years-a-1494959842 The SciFi Story Robert H. Goddard Published 100 Years Ago]</ref>。また、ドイツではトランスラピッドの源流ともなる電磁吸引式浮上が[[ヘルマン・ケンペル]] (Hermann Kemper) により[[1922年]]に開発がはじまり、[[1934年]]から1941年にケンペルは磁気浮上鉄道の基本特許をドイツで取得した{{efn|これらのドイツの特許は{{Patent|DE|643316}}(1937), {{Patent|DE|644302}}(1937), {{Patent|DE|707032}}(1941)であると見られる。}}初期の磁気浮上式鉄道はG. R. Greenflyによって{{US patent|3158765}}, ''輸送のための磁力システム''(1959年8月25日)に記述されていた。[[ロバート・ゴダード]]もロケット研究の傍ら、'''磁気浮上式鉄道'''の研究も行っていたことが判明している<ref name="名前なし-1"/>。 最初に使用された"磁気浮上式鉄道"のアメリカ特許はCanadian Patents and Development Limitedによる"''磁気浮上案内装置''"<ref name="US patent|3858521">{{US patent|3858521}}; 1973-03-26.</ref>である。1940年代末に[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]]教授の[[:en:Eric Laithwaite|エリック・レイスウェイト(Eric Laithwaite)]]が、初めて実物大の稼働するリニアモーターを開発した。レイスウェイトは1964年にインペリアル・カレッジの重電技術の教授になり、成功したリニアモータの開発を継続した<ref>{{cite news |url= http://www.guardian.co.uk/uk/1999/oct/11/timradford |title=Nasa takes up idea pioneered by Briton - Magnetic levitation technology was abandoned by government |date=1999-10-11 |publisher= The Guardian |first = Tim |last = Radford | location=London|accessdate = 2009-09-08}}</ref>。リニアモータは軌道と車両の間に物理的な接触を必要としなかったので、1960年代から1970年代に開発された多くの先進的な交通機関で採用された。レイスウェイト自身はそのような先進的な交通機関計画のひとつであった[[トラックト・ホバークラフト]]の計画に参加したが、この計画の予算は1973年に打ち切られた<ref>[http://keelynet.com/gravity/laithobi.htm "Obituary for the late Professor Eric Laithwaite"], ''Daily Telegraph'', 1997-12-06.</ref>。 [[リニアモータ]]は磁気浮上システムとも相性が良く、1970年代にLaithwaiteは磁気浮上システムを1台の磁石で構築する事を目的とした単体のリニアモータで、浮上と同様に前進方向の推進力を生み出す新しい磁石の配置を見出した。[[ダービー (イギリス)|ダービー]]の{{仮リンク|イギリス鉄道研究部門|en|British Rail Research Division|label=英国鉄道研究部門}}は複数のいくつかの[[土木工学|土木]]会社のチームと共に実用化に向けて"traverse-flux"システムを開発した。 磁気浮上鉄道の研究が本格化したのは[[1960年代]]に入ってからで、各国で研究が始まった。特に旧西ドイツは国家的支援を受けて、[[メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム]] (MBB) 社が[[1966年]]から本格的に研究を始め、[[1971年]]、'''Prinzipfahrzeug'''(車上一次リニア誘導モータ)が90km/hの記録をつくる。これは世界で初めての有人の磁気浮上鉄道である<ref name="MBB">[http://magnetbahnforum.de/index.php?prinziptraeger The first manned Maglev in the world]</ref>。また、[[1975年]]に[[KOMET (磁気浮上式鉄道)|Komet]] (Komponentenmeßtrager) が14mmの電磁吸引浮上で[[ヴァルター機関|水蒸気ロケット推進]]ながら401.3km/hの記録をマーク。また、日本の[[HSST]]<!--ドイツではHSSTと呼ばない-->の一部の技術の導入元でもあった[[クラウス=マッファイ]]社の製造した[[トランスラピッド|トランスラピッド・プロジェクト]]のTR-02号機が1971年に164km/hをマーク。また[[シーメンス]]社が中心となり、[[超電導]]による電磁誘導式浮上の'''EET-01'''が[[1974年]]に280mの円形軌道で230km/hの走行実験を行った。ドイツでは磁気浮上式高速鉄道を実現するために、1970年代初頭に[[トランスラピッド]]に一本化する際に軌道を簡略化できる車上一次式リニア誘導モータを選択せず、より高速化に適するが費用のかかる地上一次式リニア同期モータを選択した。そのため、当時、先端の開発が進められていた車上一次式吸引式磁気浮上([[クラウス=マッファイ・トランスアーバン]])の技術は不要になり、日本や韓国に技術供与された。開発元のドイツでは地上一次式リニア同期モータを採用した事が建設費が高騰する一因となり低迷したが、車上一次式リニアモータの技術を供与された国々は、供与された技術を基に、それぞれの国で発展を遂げ実用化に至った。 [[ファイル:sharjah-expo70_stamp.jpg|thumb|250px|[[日本万国博覧会]]を描いた[[シャールジャ]]の切手。国鉄の磁気浮上式鉄道がある。]] 日本では、[[1963年]]から鉄道総合技術研究所を中心に研究が始まり、[[1972年]]に[[日本国有鉄道|国鉄]]が日本の鉄道100周年を記念して超電導磁気浮上式リニアモーターカーであるML100(車上一次リニア誘導モーターを使用)による試験走行を公開。これとは別に常電導磁石とリニア直流モーターを組み合わせた、都市近郊交通型の磁気浮上式鉄道の研究も行われた{{efn|こちらは本格的な実験車による試験の段階には入らなかった。}}。また[[日本航空]]が[[クラウス=マッファイ]]社の技術を導入して[[HSST]]の開発プロジェクトを立ち上げ、1975年から開発を開始した{{efn|当時は空港と都心部の連絡輸送を企図していた。}}。また当時の[[運輸省]]は独自に通勤用の磁気浮上式鉄道[[イーエムエルプロジェクト]](EMLプロジェクト)を立ち上げ、[[1976年]]に実験を行っている。その他、熊本工業大学(現[[崇城大学]])でも、吸引式磁気浮上式鉄道の開発が進められている<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110000966060 磁気浮上車の鉄心分割形吸引電磁石の電磁力特性解析]</ref><ref>[http://www.sojo-u.ac.jp/campus/facilities/ikeda/ikeda_g.html 宇宙航空システム工学科棟ものづくりセンター]</ref>。 アメリカでは、[[1970年代]]に[[:en:Rohr, Inc.|Rohr]]社で吸引式磁気浮上である[[ROMAG]]の研究が行われていたが、その後低調となり、1978年に事業は[[ボーイング・ヘリコプターズ|ボーイング・バートル]]に売却され、[[1980年代]]中頃までは行われていたようである。その後、1990年代から[[ローレンスリバモア国立研究所]]で'''[[ハルバッハ配列]]'''で並べた強力な永久磁石([[ネオジム]]・[[鉄]]・[[ボロン]]系合金)を使用した[[インダクトラック]]の研究、開発が行われ、現在ではゼネラルアトミック社が研究を引き継いで実用化に向けた研究、開発が行われている。 安定化永久磁石 Stabilized Permanent Magnet (SPM)による磁気浮上式鉄道{{US patent|6684794}}が、アプライドレヴィテーション(Applied Levitation)社で開発中である<ref>[http://nextbigfuture.com/2014/08/stabilized-permanent-magnet-maglev.html Stabilized Permanent Magnet Maglev promises the same cost as one lane of freeway with twenty times the carrying capacity]</ref>。 === 概略 === {{Main|磁気浮上式鉄道の年表}} <!-- 編集される方へ:[[磁気浮上式鉄道の年表]]にもほぼ同一内容の年表がありますのでそちらも確認してください。--> * [[1914年]] - イギリス - エミール・バチェレット (Emile Bachelet) が[[世界初]]の電磁誘導反発式の磁気浮上リニアモータのモデル実験を行う。 * [[1922年]] - ドイツ - [[ヘルマン・ケンペル]] (Hermann Kemper) によって電磁吸引式浮上の研究が始まる。 * [[1934年]] - ドイツ - ケンペルは磁気浮上鉄道の基本特許を取得した。飛翔体の研究に用いられる事を目的としていたが中断。 * [[1963年]] - 日本 - [[鉄道総合技術研究所]]を中心に研究が始まる。 * [[1966年]] - 西ドイツ - [[メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム]] (MBB) 社が本格的に研究を始める。 * [[1971年]] ** 西ドイツ - '''Prinzipfahrzeug'''(車上一次リニア誘導モータ)が90km/hを記録。世界初の有人走行<ref name="MBB" />。 ** 西ドイツ - [[クラウス=マッファイ]]社が中心となったトランスラッピッド・プロジェクトのTR-02号機が164km/hを記録。 * [[1972年]] - 日本 - [[日本国有鉄道|国鉄]]が日本の鉄道100周年を記念してML100による[[超電導]]試験走行を公開。 * [[1974年]] ** 西ドイツ - [[シーメンス]]社が中心となり、[[超電導]]による電磁誘導式浮上の'''EET-01'''が280mの円形軌道で230km/hの走行実験を行った。 ** 11月 - 西ドイツ - 西ドイツ政府は磁気浮上関連の予算を削減することを通達した<ref name=agt248>AGT 1975, p. 248.</ref>。これにより、西ドイツの関連各社はトランスラピッドへの一本化を余儀なくされ、並行して進められていた計画は中止、縮小された。 ** 日本 - 宮崎実験線着工 * [[1975年]] ** 西ドイツ - [[KOMET (磁気浮上式鉄道)|Komet]] (Komponentenmeßtrager) が14mmの電磁吸引浮上で[[ヴァルター機関|水蒸気ロケット推進]]ながら401.3km/hの記録樹立。 ** 日本 - [[日本航空]]が[[クラウス=マッファイ]]社の技術を導入<ref name="名前なし-2">{{Cite book |title=Maglev Trains: Key Underlying Technologies |author= |date = 2015 |issue = |volume = |publisher = Springer |isbn=9783662456736 |page = }} Google ブックス: https://books.google.co.jp/books?id=sAhJCAAAQBAJ&pg=PA6 </ref>しHSSTの開発プロジェクトを立ち上げ、横浜市新杉田の200m直線軌道にて重さ約1tのHSST-01の浮上走行に成功。 * [[1976年]] - 日本 - [[運輸省]]は独自に通勤用の磁気浮上式鉄道[[イーエムエルプロジェクト]](EMLプロジェクト)を立ち上げる。 * 1970年代〜80年代 - アメリカ - 磁気浮上の研究が行われていたがその後低調となり、ローマグ社 (Romag) から開発を引き継いだボーイング社で1980年代中までは行われていたようである。 * [[1977年]] - 日本 - 宮崎実験センターと1.3kmのガイドウェイが完成、実験を開始する。 * [[1978年]] - 日本 - HSST-01がロケット推進で307.8km/hで走行した。 * [[1979年]][[12月21日]] - 日本 - 無人走行で当時の世界最高速度517 km/hの記録を樹立した。 * [[1980年]] - 日本 - [[鉄道技術研究所]]が[[リニア実験線#宮崎実験線|宮崎実験線]]をU字型軌道に改良。有人走行車両MLU001を導入。 * [[1983年]] - 西ドイツ - TR-06が[[エムスランド実験線]] (20.3km) で走行試験を始める。 * [[1984年]] - 英国 - [[バーミンガムピープルムーバ]]がバーミンガム空港とバーミンガム駅間の'''世界初'''の実用化路線として完成(1995年運行停止)。英国では[[ホバートレイン]]計画の中止後、イギリス国鉄や大学で磁気浮上鉄道の研究が行われていた。イギリス国鉄は市場調査の結果、低速の市内交通に磁気浮上鉄道の可能性があるとし、小型低速タイプの研究を行っていたが、その成果である。 * [[1985年]] - 日本 - [[国際科学技術博覧会|つくば科学万博]]でHSST-03が運転された{{efn|この時の軌道は直線のみだった。}}。 * [[1986年]] - カナダ - [[バンクーバー国際交通博覧会]]でHSST-03が運転された。日本の磁気浮上鉄道が海外で運転されたのは初めて{{efn|この時は曲線のある軌道を走行した。}}。 * [[1987年]] - 日本 - 愛知県[[岡崎市]]の葵博覧会でHSST-03が運転された。 * [[1988年]] - 日本 - 埼玉県[[熊谷市]]の[['88さいたま博覧会|さいたま博覧会]]でHSST-04が運転された。 * [[1989年]] ** 日本 - 横浜市の[[横浜みなとみらい21]]地区で開催された[[横浜博覧会]]で、HSST-05(後のHSST-200系統)が[[YES'89線]]として日本初の営業運転。会期中に会場内で運転されたが、試乗目的の展示走行ではなく、磁気浮上式鉄道として運輸当局の認可(第一種鉄道事業・営業運転免許)を得た最初の運転となった{{efn|美術館駅(現 [[MARK IS みなとみらい]])~シーサイドパーク駅(現 [[臨港パーク]]敷地内)、営業キロ数515m、2両編成、定員79人/両、最高時速42km/h(最高性能200km/h)、事業者 株式会社エイチ・エス・エス・ティ、1988年4月30日免許交付。}}<ref name="YokohamaHaku" />。 ** 西ドイツ - [[M-Bahn]]が旧[[西ベルリン]]の[[グライスドライエック]]駅 - [[ケンパープラッツ]]駅間約1.6kmで、実用線としては世界で'''2番目'''に運行開始。1973年に開発が始まり1987年に実用線が完成したが、1992年に廃止された。しかし、実用化に向けた開発・売り込みは続いており、[[ブラウンシュバイク工科大学]]のキャンパス内に全周1.3kmの実験線が建設され、日本の[[神戸製鋼所]]と[[AEG]]社は技術提携を行い、日本国内等で売り込みが行われている模様である。 ** 西ドイツでは、それまでバラバラに行われていた磁気浮上式鉄道のプロジェクトの一本化をはかり、トランスラピッドを中心とした技術開発に集約された。 * [[1990年]] - 日本 - 超電導リニアの実用化実験のための[[リニア実験線#山梨実験線|山梨実験線]]の工事が始まる。 * [[1990年代]] - 日本 - [[熊本工業大学]]で吸引式磁気浮上鉄道の研究が進められた<ref>[http://www.sojo-u.ac.jp/site/view/contview.jsp?cateid=13&id=81&page=2]{{リンク切れ|date=2011年12月}}</ref>。 * [[1993年]] - 韓国 - [[大田国際科学技術博覧会]]で[[クラウス=マッファイ]]社から技術を導入した吸引式磁気浮上鉄道[[HML-03]]<ref>[http://www.krri.re.kr/weekly/2005_weekly/alongsiderail/20050527/740_in_05.jpg HML-03]</ref>が運転された。 * [[1997年]] - 日本 - [[超電導リニア]]が山梨実験線で実用化を目指した開発へと移行。 * [[2000年]]6月 - 中国 - ドイツ製のトランスラピッドが[[上海浦東国際空港]]への交通手段として採用が決定。 * [[2003年]][[12月29日]] - 中国 - [[上海トランスラピッド]](ドイツ製)が[[上海浦東国際空港]]のアクセス用に、常設実用線としては世界で3番目、万博などでの期間限定の実用線を含めれば世界で8番目に開業。営業最高速度430km/h。ただし、2003年は敷設工事が完成した段階で試行運転のみ。本格的商用運転は2006年から。 * [[2005年]] ** 日本 - HSSTが[[愛知高速交通東部丘陵線]](愛称:リニモ)として、愛知県で開催された愛知万博に合わせ日本初の常設実用線として開業<ref>{{Cite web|和書|author=近藤正高|url= https://bunshun.jp/articles/-/1618?page=1|title=ご存じですか?3月6日はリニモ開業の日です|accessdate=2020-4-21|date=2017-3-6|publisher=文藝春秋}}</ref>。最高速度は約100km/h。 ** 5月 - 中国 - 中華06号…[[大連]]で設計速度400km/hの車両が試運転された。中国が独自開発したとされる小型懸垂式リニアで、永久磁石を使用し浮上するのに電力を必要としない設計。建設コストは、2007年時点で日独方式の半分程度ともいわれる。走行実験での速度は不明。(米国の[[インダクトラック]]、ドイツの[[M-Bahn]]も参照)。 * [[2006年]]7月 - 中国 - 成都飛機工業集団(成都市)が2005年9月から開発開始した[[CM1型磁気浮上列車]](愛称「海豚」)が、上海の[[同済大学]]構内の実験線で設計最高速度500km/hでの試運転を目指したとされるが、その後の結果は不明。中国国営テレビ局CCTVは、「中国は外国の技術を習得し、今では[[国産化率]]85%、関連の知的財産権は全て中国に属する」と大々的な[[プロパガンダ]]を行っている<ref>2007年5月10日放送。NHKのBSニュースから</ref>。しかし、ドイツでは[[トランスラピッド]]の技術が流出したと問題になっている。 * [[2007年]] ** 日本 - JR東海が2025年頃の[[中央新幹線]]の実現に向け、一般客の試乗運転を終了。長大編成車両や実験線の延伸、地質調査など、今まで以上に実用化に向けた研究に経営資源を集中させることを発表。 ** 中国 - 中華01号(永久磁石方式、最高速度500km/h以上を予定)のための3kmの実験線が、2008年の完成を目指して、遼寧省大連市で建設されている。 * [[2008年]]4月21日 - 韓国 - [[大田国際科学技術博覧会]]で使用した路線を一部延伸した約1kmの路線で、吸引式磁気浮上鉄道[[UTM-02]]が運行開始。 * [[2013年]]8月 - 日本 - 42.8kmに延長された山梨実験線で超電導リニア[[L0系]]の試験運転を開始。 * [[2014年]]12月 - 日本 - 中央新幹線の東京 - 名古屋間の路線起工式が行われた。 <!-- 1年半以上、独自研究タグが貼られていましたが、全く加筆がありません。コメントアウトします == 採算性 == {{独自研究|section=1|date=2010年6月}} <!-現在の技術水準での磁気浮上式鉄道に採算性はない。->日本の[[新幹線]]などの従来の[[高速鉄道]]は既存の線路を走ることができるが磁気浮上式鉄道は全く新しい線路を別に建設する必要がある。さらに機体と乗客の重量を安定した形で継続的に磁力で支えられる線路を建設することに膨大な費用がかかる。日本においての1km当たりの線路の建設費は平均すると150億-200億円と試算されている。<!-またL/D比率(浮遊・抵抗)も長距離飛行における高度を保つジャンボ機と比べて劣るためあくまで中距離以下での使用以外は意味を持たない。(インダクトラックのL/D比は1:200で航空機よりも優れています。)->ただし空気の密度を下げた空洞の中で走らせると飛行機よりも効率があがるが、同時に線路建設のコストはさらに増加する。ただし初期投資は莫大であるが運営費は割安なため、建設費用が削減できれば将来的に採算が取れるのではないかとの議論も存在する。しかし従来の単純な鋼鉄のレールの設置コストは磁気浮上式線路と比べると圧倒的に安いため、初期投資にかかる金利を運営費の差額で回収できるほどのコスト削減が現実に可能なのか疑問視されている。<!-あくまでも私見ですが、初期投資にかかる金利を運営費の差額で回収できるかどうかは社会情勢にもよるのではないでしょうか?瀬戸大橋や青函トンネルも初期の試算による予測とは異なるようです。-> 一方、[[モノレール]]や[[新交通システム]]のようなゴムタイヤによる交通機関に比べると交換周期の短いタイヤのような消耗品や、市場原理の働きにくい随意契約になるような特有の消耗品類がないため整備費が安く稼働率が上がり、また、従来の鉄車輪式の鉄道車両と比較した場合、軸重が分散していて軽いため、軌道への負担が小さく、磨耗の心配がないため長期的には維持費が安くなるという試算もある。一方、同一速度での単位輸送量毎の[[リニアモーター]]の電力消費は従来の回転型[[電動機]]よりも大幅に多いという試算もある。 --> == 各国の建設計画 == === 日本 === [[超電導リニア]]による[[中央新幹線]]は[[赤石山脈|南アルプス]]をトンネルで通過する計画であるため、[[2008年]]2月より[[ボーリング調査]]が行われた。その後、[[2011年]]5月26日に中央新幹線の整備計画が正式決定し、[[2014年]]に東京 - 名古屋間の路線起工式が行われた。名古屋までの総事業費は5兆円あまりで[[2027年]]の開業予定である。名古屋までの開業後は[[2037年]]の完成を目指して大阪まで延伸される予定である。 === ドイツ === [[2008年]][[3月27日]]、ドイツ運輸・建設相(当時)であった[[ヴォルフガング・ティーフェンゼー]]は、[[ミュンヘン国際空港]] - [[ミュンヘン]]中央駅間の37.4kmのリニアモーターカー建設を'''断念'''したと発表。建設コスト上昇が理由。総額18億5000万ユーロ(約3000億円)の事業予算を計上したが、最新の見積もりが32〜34億ユーロに膨れ上がったため、実現困難と判断した<ref>{{cite news |url= http://www.reuters.com/article/rbssIndustryMaterialsUtilitiesNews/idUSL2777056820080327?sp=true |title= Germany scraps Munich Transrapid as cost spirals |last= Heller |first= Gernot |agency=Reuters |date= 2008-03-27}}</ref>。 [[2005年]]にドイツ連邦政府が1億1300万ユーロをTRに投入することを決め計画に弾みがつき、[[2007年]]には[[ドイツ鉄道]]([[ドイチェ・バーン]])とトランスラピッドは正式合意し(AP通信)、同年[[9月24日]]、[[バイエルン州]]政府は[[2014年]]頃までの開業を目指し、[[2008年]]夏にも着工するとしていた。事業主体はトランスラピッド・インターナショナル([[ティッセンクルップ]]と[[シーメンス]]の[[共同事業体]])が担うはずだった<ref>{{cite news |url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/7011932.stm |publisher=BBC News |title = Germany to build maglev railway |date =2007-09-25}}</ref>。 === イギリス === {{Main|en:UK Ultraspeed}} [[2005年]]、トランスラピッドタイプの磁気高速鉄道、[http://www.500kmh.com/ UK Ultraspeed]線(最高速度500km/h)を[[ロンドン]] - [[グラスゴー]]間のミッドランド、イングランド北東部を経由する複数の路線構想を有するプロジェクトが立ち上げられた<ref>{{cite web|url=http://www.500kmh.com/UKU_Factbook2.pdf |title=Factbook |publisher=500kmh |date=October 2007 |accessdate=2012-12-13}}</ref>。政府によって実現可能であるか審議された<ref>{{cite news |url=http://news.xinhuanet.com/english/2005-06/07/content_3053025.htm |title=Shanghai-style Maglev train may fly on London line |work=China View |date=2005-06-07}}</ref>。2007年7月24日に公表された''Delivering a Sustainable Railway''白書によって却下された<ref>{{cite journal|title=Government's five-year plan|journal=Railway Magazine|volume=153|issue=1277|date=September 2007|pages=6–7}}</ref>。グラスゴーとエディンバラ間の同様の高速鉄道が提案されたが技術的に不十分だった<ref>{{cite web| url=http://www.500kmh.com| title=UK Ultraspeed| accessdate=2008-05-23}}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.guardian.co.uk/transport/Story/0,2763,1545279,00.html| title=Hovertrain to cut London-Glasgow time to two hours|work=The Guardian |location=UK| date=2005-08-09| author=Wainwright, Martin| accessdate=2008-05-23}}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.ft.com/cms/s/65cc4456-388c-11db-ae2c-0000779e2340.html| title=Japan inspires Tories' land of rising green tax| work=Financial Times| author=Blitz, James| date=2006-08-31| accessdate=2008-05-23}}</ref>。 === 中国 === 現在は30&nbsp;kmの[[上海トランスラピッド]]を[[杭州市]]まで200&nbsp;kmに延伸する計画<ref>{{cite news|title=China Awaits High-Speed 'Maglev'|newspaper=WIRED|date=2003-01-20|url=http://www.wired.com/science/discoveries/news/2003/01/57163|accessdate=2018-3-18|publisher=Wired|first=Dermot|last=McGrath}}</ref>や、新たな磁気浮上式鉄道の建設計画が目白押しであるものの、健康・騒音被害や建設コスト、用地買収、鉄輪式高速鉄道との互換性の問題などが浮上し、今後の計画はどうなるかは未知数な面がある。上海トランスラピッドの延伸計画は、現在のところ休止されているがもし実現すれば磁気浮上式鉄道による最初の都市間商業輸送になる。2007年5月に計画はシステムからの電磁波の放射の懸念により当局により中止が報告された<ref>{{cite web|url=http://news.xinhuanet.com/english/2007-05/26/content_6155201.htm|title=China maglev project suspended amid radiation concerns|accessdate=|date=2007-05-26|publisher=Xinhua|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160108064258/http://news.xinhuanet.com/english/2007-05/26/content_6155201.htm|archivedate=2016-1-8|deadlinkdate=2018-3-18}}</ref>。2008年1月と2月に、100人規模の反対者達が上海で路線が人家に接近しすぎるとして{{仮リンク|電磁波による健康への影響|en|Electromagnetic radiation and health}}、騒音、汚染と資産価値の目減りに関する懸念で反対運動をした<ref>{{cite news|title=Hundreds protest Shanghai maglev rail extension|newspaper=Reuters|date=2008-01-12|url=http://www.reuters.com/article/worldNews/idUSPEK32757920080112|accessdate=2018-3-18|publisher=Reuters}}</ref><ref>{{cite news|title=Shanghai Residents Protest Maglev Train|newspaper=|date=2008-01-14|url=http://www.foxnews.com/wires/2008Jan14/0,4670,ChinaShanghaiProtest,00.html|publisher=Fox News|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110604064123/http://www.foxnews.com/wires/2008Jan14/0,4670,ChinaShanghaiProtest,00.html|archivedate=2011-6-4|first=Elaine|last=Kurtenbach|deadlinkdate=December 2012}}</ref>。元の計画では[[上海国際博覧会]]に間に合わせる予定だった<ref>{{cite web|url=http://news.xinhuanet.com/english/2006-03/06/content_4263586.htm|title=Maglev railway to link Hangzhou, Shanghai|accessdate=|date=2006-04-06|publisher=Xinhua|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303185109/http://news.xinhuanet.com/english/2006-03/06/content_4263586.htm|archivedate=2016-3-3|deadlinkdate=2018-3-18}}</ref>。上海市の行政当局は住民の不安を緩和するために路線を地下に建設する等の複数の選択肢を検討した。同じ報告では最終的な決定は国家発展開発委員会に委ねられたとされる<ref>{{cite web|url=http://www.china.org.cn/china/national/2008-08/18/content_16258686.htm|title=Maglev finally given approval|accessdate=2018-3-18|date=2008-08-18|publisher=Shanghai Daily}}</ref>。2010年10月26日、[[上海市]] - [[杭州市]]間を最高速度300&nbsp;km/hで結ぶ[[滬杭旅客専用線]]が開業し、延伸計画が実行される可能性は低くなった。 [[同済大学]]構内の実験線で[[CM1型磁気浮上列車]]の開発が進められている。 [[長沙市]]の[[長沙中低速リニアモーターカー線|長沙中低速磁浮線]]([[長沙南駅]]と[[長沙黄花国際空港]]間)の建設工事は2014年5月に開始され、2016年5月6日に開通した<ref>{{cite news|title=Changsha Maglev Line Completes Investment over 490 Million Yuan|url=http://english.rednet.cn/c/2014/11/21/3528574.htm|accessdate=2014-12-29}}</ref><ref>[http://en.changsha.gov.cn/About/Local/201401/t20140109_538177.html Changsha to Construct Maglev Train], 2014-01-09</ref>。 2017年12月30日に中国では3番目の磁気浮上式鉄道である、[[北京地下鉄]]の10.2kmの[[北京地下鉄S1線|S1線(門頭溝線)]]が開業した<ref>{{Cite web|和書 | title = 北京市初、リニア路線が運行開始 - 中国 - 日中新聞 | url = http://www.infochina.jp/jp/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=6&id=25066 | accessdate = 2018-01-01 | archiveurl = https://archive.is/elhOZ | archivedate = 2018-01-01 }}</ref>。S1線は国防技術大学で開発された技術を採用した吸引式磁気浮上鉄道である。2011年2月28日に建設が開始されていた。最高速度は105km/hである<ref>{{cite web|author=|url=http://mil.huanqiu.com/photo/china/2011-03/1533364.html |title=国防科大自研磁浮列车_军事_环球网 |publisher=Mil.huanqiu.com |date=2011-03-02 |accessdate=2012-11-04}}</ref>。 === 韓国 === [[ファイル:ECOBEE.jpg|thumb|200px|[[仁川空港磁気浮上鉄道]](韓国)]] [[1993年]]に[[大田国際博覧会]]でドイツのクラウス・マッファイ社の技術指導を受けて開発された[[HML-03]]を運行させたほか、2008年から現在まで[[エキスポ科学公園]]内で1km以内という短距離であるが国産の[[UTM-02]]が運行されている(詳細は[[エキスポ科学公園#リニアモーターカー]])。 2007年、韓国機械研究院は[[2012年]]までの6年間に総額4500億[[大韓民国ウォン|ウォン]]の予算を投入して都市型磁気浮上式鉄道を実用化する計画を発表した<ref name = "naver07">[http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=105&oid=030&aid=0000168301 リニアモーターカーの計画推進で各地で誘致合戦] 電子新聞 2007-02-07</ref>。この計画は2012年に[[仁川空港磁気浮上鉄道]]として完成したが、純国産にこだわったことからトラブルが相次ぎ、繰り返し運行開始が延期され<ref>[https://www.sankei.com/article/20141224-HY7Q3B65WVJAXEVGEUKZHX67AI/ いまだに開業できぬ「韓国リニア」の無残、完成2年…「純国産」にこだわりトラブル続きのお粗末] 産経ニュース 2014年12月24日</ref>、[[2016年]]2月3日に開業した。2両編成で定員は1両135人、設計最高速度110km/h、営業最高速度80km/hで、6駅間6.1kmを15分間で走行する<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2016/02/02/0800000000AJP20160202002800882.HTML 韓国独自技術で開発 仁川空港リニアが3日開通] 聨合ニュース 2016年2月2日</ref>。浮上方式は常電導吸引式である。 なお、2007年時点で韓国機械研究院は、2007年中に550km/hの高速リニアの研究・開発に着手して2016年までに開発し[[2020年]]に商用化したいと発表しており<ref name = "naver07" />、2016年時点で韓国の一部メディアでは「550km/hを目指すSUMA550の試験車両が開発済み」と報道されたが<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160229-00000017-cnippou-kr 韓経:リニアモーターカー時代…韓日中、技術競争が熱い] 中央日報 2016年2月29日</ref>、実際は1両が極めて短距離(150m)の実験線を低速走行するにとどまっている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=BhgwH19WCtQ KOREA SUPER SPEED MAGLEV SUMA550-01]</ref>。 === アメリカ === '''アナハイム - ラスベガス''': カルフォルニア州[[アナハイム]]とネバダ州[[ラスベガス]]を全長433kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。詳細は[[:en:California–Nevada Interstate Maglev]]を参照。 '''ボルチモア - ワシントンD.C.''': メリーランド州[[ボルチモア]]と[[ワシントンD.C.]]を全長64.1kmの磁気浮上式高速鉄道で結ぶ計画がある。2015年6月4日にメリーランド州のラリー・ホーガン知事が山梨実験線に試乗した<ref>{{Cite news |title=メリーランド州知事がリニアに試乗 米の構想ルート候補地 |newspaper=日本経済新聞 |date=2015-06-04 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ04HMB_U5A600C1TJC000/ |accessdate=2017-10-06}}</ref>。詳細は[[:en:Baltimore – Washington D.C. Maglev]]を参照。 === カナダ === Magnovate社が[[カナダ]]の[[アルバータ州]]の[[エドモントン]]と[[カルガリー]]間にMaglineを建設する構想がある<ref name="名前なし-3">[http://nextbigfuture.com/2014/08/canadas-magnovate-will-build-third.html Canada's Magnovate will build third generation magnetic levitation high speed rail which could be cost competitive with China's high speed rail]</ref>。第三世代の磁気浮上システムで7.5cmの浮上高で駅では[[待避線]]に入るようになっていて柔軟な運行ができる。 === イスラエル === [[テルアビブ]]で[[スカイトラン]]の建設計画が発表された。技術は[[イスラエル・エアロスペース・インダストリーズ]]の支援で[[アメリカ航空宇宙局]]によって開発された<ref>{{cite news|last1=Wakefield|first1=Jane|title=Sky cars to be built in Tel Aviv|url=http://www.bbc.com/news/technology-27995437|accessdate=2015-01-08|publisher=BBC News|date=2014-06-24}}</ref>。高架式で70km/hで走行するものの更に高速化が可能である。イスラエル・エアロスペース・インダストリーズの敷地内に試験線が建設される予定で、試験が成功すれば最初の商業運行路線がテルアビブに建設予定である<ref>{{cite news|title=NASA’s SkyTran personal maglev transport to trial in Israel|url=http://www.stuff.tv/nasa-s-skytran-personal-maglev-transport-trial-israel/news|accessdate=2015-01-08|publisher=Stuff|date=2014-07-03}}</ref>。試験は2015年末までに開始予定である<ref>{{cite news|last1=Baker|first1=James|title=They are building the first personal maglev transport system in Israel|url=http://sploid.gizmodo.com/this-futuristic-personal-transport-could-soon-be-part-o-1598425675|accessdate=2015-01-08|publisher=Spoid}}</ref><ref>{{cite news|title=SkyTran to Build Futuristic Maglev 'Hover Monorail' in Israel|url=http://inhabitat.com/skytran-unveils-futuristic-maglev-hover-monorail-for-israel/|accessdate=2015-01-08|publisher=Inhabitat|date=2014-06-27}}</ref>。最高速度は240km/hまで到達可能であるとされる<ref>{{cite news|title=Hover cars have arrived! Self-driving sky pods set to soar above traffic on high-speed magnetic tracks|url=http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2672007/Hover-cars-arrived-Self-driving-sky-pods-soon-soar-traffic-high-speed-magnetic-tracks.html|accessdate=2015-01-08|publisher=MailOnline|date=2014-06-27}}</ref>。 === スイス === '''スイスラピッド''': スイスラピッド AG とスイスラピッドコンソーシアムは共同で、国内の主要な都市を接続する磁気浮上式鉄道の計画・開発中である。スイスラピッドエクスプレスは、スイスにおいて来たる交通の挑戦のための革新的な解決法である。大規模な社会資本の先駆者としてスイスラピッドは100%民間から資金を募る。長期的にスイスラピッドエクスプレスは、アルプス北部の主要な都市である[[ジュネーヴ]]と[[ルツェルン]]や[[バーゼル]]を含む[[ザンクト・ガレン]]を接続する事を目的とする。現在計画中の最初の計画では[[ベルン]] - [[チューリッヒ]]、[[ローザンヌ]] - [[ジュネーブ]]同様にチューリッヒ - [[ヴィンタートゥール]]が予定される。最初の路線(ローザンヌ - ジュネーブまたはチューリッヒ - ヴィンタートゥール)は早ければ2020年初頭の開業が可能とされた<ref>{{cite web|url=http://www.swissrapide.com/upload/dokumente/2011.03.03%20Artikel%20SwissRapide%20GHI.pdf| title=Lausanne en 10 minutes| publisher=GHI| date=2011-03-03| language=French| accessdate=2011-05-20}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.swissrapide.com/upload/dokumente/NZZ_SwissRapide_Express_20_06_2009.pdf| title=In 20 Minuten von Zürich nach Bern| publisher=Neue Zürcher Zeitung| date=2009-06-20| language=German| accessdate=2011-05-20}}</ref>。 '''スイスメトロ''': 初期の[[スイスメトロ]]の計画は交通の挑戦のための解決法として以前に試みられた。スイスメトロAGは高速時における空気抵抗を減らすために地下の部分的に真空に減圧したトンネル内に磁気浮上式鉄道の軌道を敷設するという技術的に挑戦的な目論見だった。スイスラピッドと共にスイスメトロはスイス国内の主要な都市間を接続する。2011年、スイスメトロAGは解散して組織の知的財産権は[[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]]に譲渡された<ref>{{cite web|url=http://www.swissmetro.ch/ |title=Swissmetro.ch |publisher=Swissmetro.ch |accessdate=2011-09-29}}</ref>。 === オーストラリア === '''シドニー - イラワラ''': 現在、[[シドニー]]と[[イラワラ]]の都市[[ウロンゴン]]間に計画がある<ref>{{cite web |url = http://www.illawarramercury.com.au/news/local/news/general/maglev-train-reappears-on-agenda/1233197.aspx |title = Maglev train reappears on agenda |publisher=Illawara Mercury |date =2008-08-02 |first = Mario |last = Christodoulou |accessdate=2009-09-07}}</ref>。計画は1990年代半ばに浮上した。シドニー - ウロンゴン通勤回廊はオーストラリア最大であり、毎日2万人以上の人々がイラワラからシドニーへ通勤する。現在両都市を結んでいるイラワヤ線はおよそ2時間で運行されている。磁気浮上式鉄道の導入により通勤時間は20分に短縮が見込まれる。 [[ファイル:Melbourne maglev.png|thumb|[[ジーロン]]とメルボルンを通過して[[フランクストン]]まで20分未満で移動するメルボルン磁気浮上式鉄道計画]] '''メルボルン''': 2008年末、ビクトリア州政府が民間による資金調達と運営による磁気浮上式鉄道の計画を提案した<ref>{{cite news|title=Plans to build Geelong-Melbourne-Frankston monorail|newspaper=|date=2008-07-30|url=http://www.news.com.au/heraldsun/story/0,21985,24100590-2862,00.html|location=Australia|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090717071700/http://www.news.com.au/heraldsun/story/0,21985,24100590-2862,00.html|archivedate=2009-7-17|work=Herald Sun|first=Martin|last=Watters}}</ref><ref>{{cite web |url = http://www.windana.com/access/melbourne/e3.html |title = Melbourne Concepts – Maglev's relevance |publisher=Windana Research |accessdate =2009-09-07}}</ref>。磁気浮上式鉄道の費用は80億[[オーストラリア・ドル]]が見込まれる。しかしながら、慢性的な道路の混雑により政府はすぐに計画を却下して代わりに道路の拡張することにした。 === イタリア === Andrew Spannausによって2008年4月に[[ミラノ・マルペンサ空港]]と[[ミラノ]]、[[ベルガモ]]、[[ブレシア]]の都市を高速で接続するための最初の計画が立案された<ref>{{cite web|url=http://www.movisol.org/08news092.htm|title=L'EIR propone un "Maglev lombardo" per Milano Expo|accessdate=2018-3-18|work=movisol.org|publisher=}}</ref>。 2011年3月、Nicola Olivaは[[ピサ空港]]、[[プラート]]、[[フィレンツェ]]の[[フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅|サンタ・マリア・ノヴェッラ駅]]と[[フィレンツェ空港]]を磁気浮上式鉄道で接続する構想を提案した<ref>[http://iltirreno.gelocal.it/prato/cronaca/2011/03/05/news/un-maglev-toscano-per-avvicinare-pisa-3606598 Un Maglev toscano per avvicinare Pisa – Cronaca – il Tirreno<!-- Titolo generato automaticamente -->]</ref><ref>[http://nicolaoliva.files.wordpress.com/2011/03/maglev-toscano-per-pisa-5-marzo-20111.jpg Un Maglev toscano per avvicinare Pisa]</ref>。所要時間は従来の1時間15分からおよそ20分にまで短縮される予定である<ref>[http://www.movisol.org/pix/Metropoli_Prato_Maglev_collage.jpg Per Peretola spunta una soluzione: il trena a levitazione magnetica]</ref>。第二段階では[[リヴォルノ]]の湾岸地域まで延伸する構想である<ref>[http://www.movisol.org/11news044.htm Prato chiede il Maglev per la Toscana]</ref><ref>[http://www.regione.toscana.it/regione/opencms/RT/sito-RT/Contenuti/notiziari/fonti_esterne/ansa/notiziario/visualizza_asset.html?id=253471&pagename=503 Regione Toscana: Aeroporti: Firenze; Oliva(Pd), Maglev Per Superare Stallo<!-- Titolo generato automaticamente -->]</ref>。 === プエルトリコ === <!-- 参考:https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_maglev_train_proposals#Puerto_Rico --> '''サンフアン - カグアス''': プエルトリコ最大の都市[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]の[[トレン・ウルバノ]]線のクペイ駅とサンフアンの南に隣接する郊外の都市の[[カグアス]]間を接続する全長16.7マイル (26.8&nbsp;km) の磁気浮上式鉄道の計画が立案された。磁気浮上式鉄道は両都市を接続する52号高速道路と並行する。プロジェクトを担当するAmerican Maglev Technology社によると費用はおよそ3.8億ドルが予想される<ref>{{cite web|url=http://www.globalatlanta.com/article/24607/ |title=Marietta Company Ready to Send Maglev Technology Abroad |publisher=Globalatlanta.com |accessdate=2011-09-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.primerahora.com/williammirandatorrespideapoyoparafinanciartrenencaguas-557104.html |title=William Miranda Torres pide apoyo para financiar tren en Caguas |publisher=Primerahora.com |accessdate=2011-09-29}}</ref><ref>{{cite web|author=casiano communications |url=http://www.caribbeanbusinesspr.com/news03.php?nt_id=57523&ct_id=1 |title=Inteco looks at 'maglev' train system |publisher=caribbeanbusiness.pr |date=2011-05-19 |accessdate=2011-09-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120406204652/http://www.caribbeanbusinesspr.com/news03.php?nt_id=57523&ct_id=1 |archivedate=2012-04-06 |deadlinkdate= 2017年9月}}</ref>。 === インド === '''ムンバイ - デリー''': アメリカ企業によって[[ムンバイ]]と[[デリー]]間を結ぶ提案がインドの鉄道大臣にされた。当時の首相[[マンモハン・シン]]はもしこの計画が成功すればインド政府は他の都市間やムンバイ中央と[[チャトラパティ・シヴァージー国際空港]]間にも建設する予定であると述べた<ref>{{cite web|url=http://www.expressindia.com/news/fullstory.php?newsid=48769|title=Mumbai to Delhi: 3 hours by train|accessdate=2018-3-18|date=2005-06-14|publisher=Express India}}</ref>。 '''ムンバイ - ナーグプル''': [[マハーラーシュトラ州]]は、約1000km離れている[[ムンバイ]]とマハーラーシュトラ州の[[ナーグプル]]間の磁気浮上式鉄道の実現可能性調査を承認した<ref>{{cite news|title=6 routes identified for MagLev|newspaper=|date=2007-06-22|url=http://timesofindia.indiatimes.com/Mumbai/6_routes_identified_for_MagLev/articleshow/2140367.cms|accessdate=2018-3-18|location=India|work=Times of India}}</ref>。 '''チェンナイ - バンガロール - マイソール''': 2012年12月に[[チェンナイ]]から[[バンガロール]]を経由して[[マイソール]]までの路線の詳細な報告がされ、費用は1km当たり2600万ドルで最高速度は350&nbsp;km/hとされた<ref>{{cite web|url=http://in.finance.yahoo.com/photos/bullet-train-may-connect-mysore-bangalore-in-30-mins-slideshow/ |title=Bullet train may connect Mysore-Bangalore in 1hr 30 mins Photos |publisher=Yahoo! India Finance |date=2012-04-20 |accessdate=2012-11-04}}</ref>。 === イラン === 2009年5月に[[イラン]]とドイツ企業は[[テヘラン]]と[[マシュハド]]間の接続に磁気浮上式鉄道を使用することで合意した。合意はマシュハド国際フェアの会場でイランの道路・交通大臣とドイツの企業間で交わされた。テヘランとマシュハド間の全長900kmの路線はおよそ2.5時間に短縮可能であるとされる<ref>{{cite web|url=http://www.presstv.ir/detail.aspx?id=6163&sectionid=351020102 |title=No Operation |publisher=Presstv.ir |accessdate=2011-09-29}}</ref>。 === その他 === [[オランダ]]国内や[[ベルリン]] - [[東ヨーロッパ|東欧]]諸都市間、[[スペイン]]の[[マドリード]]の空港と3つの都市間、[[ベネズエラ]]の[[カラカス]] - [[ラ・グアイラ]]、そして[[シモン・ボリーバル国際空港]]間などで、実現性は別として、磁気浮上式鉄道の導入構想がある。 == 最高速度記録 == {{See also|磁気浮上式鉄道の年表#最高速度記録}} 2003年の年頭の挨拶で当時JR東海の社長を務めていた[[葛西敬之]]は「超電導リニアは最高時速700km/hを目指す」旨の発言をしており、同年に超電導リニアMLX01が当時の鉄道世界最高速度581km/hを記録している。2015年4月には超電導リニア[[L0系]][[新幹線]]が590km/h、'''603km/h'''と立て続けに鉄道世界最高速度記録を更新した。 === 試験走行 === ※無人は主なもののみ記載する。 <!-- 編集される方へ:有人は各国記録を更新したものだけに限定しています。[[磁気浮上式鉄道の年表]]にもほぼ同一内容の一覧がありますのでそちらも確認してください。--> *[[1971年]] - 西独 - 最高速度90km/hを記録…Prinzipfahrzeug(有人<ref name="MBB" />/ 車上一次リニア誘導モータ) * 1971年 - 西独 - 164km/h…TSST/TR-02号機(無人/ TSSTを研究している企業とTRの研究をしている独企業が共同で開発) * [[1972年]] - 日本 - 60km/h…ML100(有人) * [[1973年]] - 西独 - 250km/h…TR04(有人) * 1973年 - 米国 - 480km/h…TLRV(無人/ ガスタービン搭載、[[空気浮上式鉄道|空気浮上式]]リニア誘導推進) * [[1974年]] - 西独 - 230km/h…EET-01(無人/ 280mの円形軌道) * [[1975年]] - 西独 - 401.3km/h…Komet(無人/ 電磁吸引によって14mm浮上した、[[ヴァルター機関|水蒸気ロケット]]推進) * [[1978年]] - 日本 - 307.8km/h…[[HSST]]-01(無人/ [[日産自動車]]製補助ロケット使用で250km/h以上) * 1978年 - 日本 - 110km/h…HSST-02(有人/ 8座席の客室スペースを持つ実験車両で、乗り心地改善のため2次サスペンションが導入された) * [[1979年]] - 日本 - 517km/h…超電導リニアML-500(無人/ 宮崎実験線で世界初の500km/hを超える記録を達成) * [[1987年]] - 日本 - 400.8km/h…MLU001(有人) * 1987年 - 西独 - 406km/h…TR-06(有人) * [[1988年]] - 西独 - 412.6km/h…TR-06(有人) * [[1989年]] - 西独 - 436km/h…TR-07(有人) * [[1993年]] - ドイツ - 450km/h…TR-07(有人/ 設計最高速度500km/h) * [[1994年]] - 日本 - 431km/h…MLU002N(無人) * [[1995年]] - 日本 - 411km/h…MLX01(有人) * [[1997年]][[12月12日]] - 日本 - 531km/h…MLX01(有人/ 山梨実験線で有人初の500km/h超を達成) * 1997年[[12月24日]] - 日本 - 550km/h…MLX01(無人) * [[1999年]][[4月14日]] - 日本 - 552km/h…MLX01(有人/ 5両編成)[[ギネス世界記録|ギネス]]認定 * [[2003年]][[11月12日]] - 中国 - 501km/h…TR-08(有人/ ドイツ製:上海トランスラピッド) * 2003年[[12月2日]] - 日本 - 581km/h…MLX01(有人/ 3両編成)ギネス認定 * [[2015年]][[4月16日]] - 日本 - 590km/h…L0(有人/ 7両編成) * 2015年[[4月21日]] - 日本 - 603km/h…L0(有人/ 7両編成)ギネス認定 === 営業運転 === * [[バーミンガムピープルムーバ]]<!--ピープルムーバは英語では輸送機関の意。英語版ウィキペディアのピープルムーバは日本語版の[[新交通システム]]にリンクされている。--> *: 54km/h([[1984年]]、世界初の磁気浮上式鉄道がイギリスの[[バーミンガム]]空港 - バーミンガム国際展示場駅間約620mで開業。[[1995年]]運行停止) * [[M-Bahn]] *: 100km/h([[1989年]]、ドイツの[[西ベルリン]]市内ライスドライエック駅 - ケンパープラッツ駅間約1.6kmで開業。[[1992年]]閉鎖) * [[トランスラピッド]] *: 430km/h([[2003年]]、ドイツのトランスラピッドが、中国の[[浦東国際機場駅]] - [[上海市]]郊外の[[竜陽路駅]]間29.863kmのアクセス線として開業。) * [[HSST]] *: 約100km/h([[2005年]]、日本で磁気浮上式鉄道が[[愛知高速交通東部丘陵線]](愛称:リニモ)として営業距離8.9kmで開業) == 博覧会での展示走行 == <!-- 編集される方へ:[[磁気浮上式鉄道の年表]]にもほぼ同一内容の一覧がありますのでそちらも確認してください。--> {{See also|磁気浮上式鉄道の年表#博覧会などでの展示走行}} 上述の[[1989年]]に開催された[[横浜博覧会]]における[[YES'89線]] (HSST-05) は、会期中の会場内での営業であったため展示走行と解されることもあるが、第一種鉄道事業免許による旅客輸送であり、厳密には展示走行には該当しない。 * [[1979年]] - 西ドイツ - TR-05がハンブルクで開催された[[国際交通博覧会]] (IVA79) で一般試乗を実施。 * [[1985年]] - 日本 - HSST-03が茨城県[[つくば市]]の[[国際科学技術博覧会|つくば科学万博]]で30km/hと低速走行ながら人気を博す。(→[[つくば科学万博の交通]]も参照) * [[1986年]] - カナダ - 日本のHSST-03が[[バンクーバー国際交通博覧会]]でデモ走行。30km/h。走路はつくば博では直線のみだったのに対して、バンクーバーではカーブ区間も設けられた。 * [[1987年]] - 日本 - HSST-03が愛知県[[岡崎市]]の[[岡崎葵博覧会]]でデモ走行。30km/h。その後しばらく展示されてから、現在は岡崎南公園に保存。 * [[1988年]][[3月19日]] - 日本 - HSST-04が埼玉県[[熊谷市]]で開かれた[['88さいたま博覧会|さいたま博覧会]]で展示走行。最高速度30km/h。 * [[1988年]] - ドイツ - TR-07がハンブルク国際交通博覧会 (IVA88) で公開。 * [[1993年]] - 韓国 - [[大田広域市|大田市]]の[[大田国際博覧会]]で吸引式磁気浮上鉄道のHML-03の運転が行われた<ref>[http://www.2427junction.com/61z-4302kr.jpg 大田国際博覧会でのHML-03の走行の様子]</ref>。 == 主な開発プロジェクト == === 超電導リニア === {{Main|超電導リニア}} [[鉄道総合技術研究所]](JR総研)及び[[東海旅客鉄道]](JR東海)により開発が進められている磁気浮上式鉄道。[[超電導電磁石]]による[[リニアモーター]]を使用する(超電導リニア方式)で、将来は[[中央新幹線|中央リニア新幹線]]で営業運転される。基礎技術から日本で独自に研究・開発が行われており、技術的には既に実用段階に達している。山梨に42.8kmの[[リニア実験線|実験線]]があり、一日の走行距離は約3,000kmに達する。2003年当時JR東海の社長だった葛西敬之は、最高速度700km/hを目指すと技術者向けに発言し、その直後、有人走行では世界最高の581km/h([[ギネス世界記録|ギネスブック]]認定)を記録、2015年には603km/hを記録して世界最高速度を更新した。 2014年12月から実験線を延長する形で東京 - 名古屋間の建設が始まっており、開業は[[2027年]]、大阪までの開業は2045年を目指している。 === HSST === {{Main|HSST}} HSST(High Speed Surface Transport、エイチエスエスティ)は[[トランスラピッド]]を開発していた[[クラウス=マッファイ]]から空港と都心部の連絡輸送用として[[日本航空]]が吸引式磁気浮上の技術を導入<ref name="名前なし-2"/>し、その後1980年代末に開発を引き継いだ[[名古屋鉄道]]等を中心とする[http://hsst.jp/ 中部HSST開発]が中心となり開発が進められ、運転速度および輸送能力に応じてHSST-100、HSST-200、HSST-300の3システムが開発された。HSST-200は200km/h程度ないしはそれ以上の、HSST-300は300km/h程度ないしはそれ以上の走行も可能である。HSST-100が2005年3月に[[愛知高速交通東部丘陵線]](愛称:リニモ)として営業運転しており、営業距離は8.9km、営業時の最高速度は約100km/hである。トランスラピッドから吸引式浮上技術を導入したが、推進方法はトランスラピッドが高速化に適した軌道一次式リニア同期モータを使用しているのに対してHSSTでは浮上、案内、推進を兼用する車上一次式リニア誘導モータを使用している。このため他の方式よりも建設費が安い。 === トランスラピッド === {{Main|トランスラピッド}} ドイツで開発された磁気浮上式鉄道。2007年に開発されたTR-09は、設計最高速度が505km/h。本国ドイツより先に中国の[[上海市|上海]]で実用線が建設され営業運転している。大都市上海とその国際空港のアクセス用として、29.863kmを7分20秒で結ぶ。営業最高速度は430km/hで、現在の営業路線としては世界一の速度で運転している([[上海トランスラピッド]])。 === CM1 ドルフィン === [[ファイル:CM1_Dolphin_Fahrwerk.jpg|thumb|CM1 ドルフィン]] {{Main|CM1型磁気浮上列車}} 中国が開発中の吸引式磁気浮上式鉄道。[[同済大学]]構内に総延長1.5kmの実験線を敷設して実験走行を進めている。現時点では実験線の長さの制約により最高速度は120km/hにとどまっている。 === MAGLEV 2000 === {{Main|MAGLEV 2000}} [[アメリカ合衆国]]の[[フロリダ州]][[ケープカナベラル]]に建設予定の超伝導誘導反発式磁気浮上式鉄道。 === その他 === 米国の[[インダクトラック]]式の[[Skytran]]、中国が独自に研究を進めているといわれる中華06号、[[CM1型磁気浮上列車|CM1型車両]]、中華01号などがある。[[崇城大学]]工学部宇宙航空システム工学科でも80年代より吸引式磁気浮上鉄道の研究が進められている<ref>[http://www.sojo-u.ac.jp/site/view/contview.jsp?cateid=13&id=81&page=2]{{リンク切れ|date=2011年2月}}</ref>。韓国でもドイツの[[クラウス=マッファイ]]社から技術供与を受けて吸引式磁気浮上鉄道の研究が[[大田広域市]]の[[韓国機械研究院]]を中心として進められていて、[[大田国際博覧会]]で使用した軌道を利用して営業運転されている。<!--この他には、[[タイコエレクトロニクス]]が[[永久磁石]]による反発式磁気浮上の一人乗り用リニアモーターカーをイベントに出展、子供向けに運転を行った。・・・現在も存在するのかどうなのか具体性がないのでコメントアウト--> [[崇城大学]]でも吸引式磁気浮上式鉄道の開発が行われて数人乗りの車両が製作された。 カナダのMAGNOVATE社では分岐器を使用した運行システムを備えた磁気浮上式鉄道を開発中<ref>[http://www.magnovate.com/technology-overview Maglev Packet Switching]</ref><ref name="名前なし-3"/>。 === 終了または廃止 === [[ファイル:Birmingham International Maglev.jpg|thumb|バーミンガムピープルムーバ]] ==== EMLプロジェクト ==== {{Main|イーエムエルプロジェクト}} [[イーエムエルプロジェクト]](EMLプロジェクト)- 日本の運輸省(当時)が1970年代に行っていた磁気浮上式鉄道の研究。 ==== バーミンガムピープルムーバ ==== {{Main|バーミンガムピープルムーバ}} [[バーミンガムピープルムーバ]](イギリス)世界初の常設磁気浮上式鉄道として建設されたが、ケーブル牽引式のスカイレール(現・[[エアレール・リンク]])に改修された事により1995年に廃止された。 ==== M-Bahn ==== {{Main|M-Bahn}} [[M-Bahn]]はドイツの[[ベルリン]]に1980年代末に建設されたが、東西ドイツの統一により路線の意義が薄れて短期間で廃止された。 ==== クラウス=マッファイ・トランスアーバン ==== {{Main|クラウス=マッファイ・トランスアーバン}} 1970年代初頭にカナダのトロントで導入に向けて試験軌道が建設されて実際に試験が実施されたが分岐機が降雪に対して脆弱性を有しており、当時は[[パワーエレクトロニクス]]が未完成で浮上用電磁石から商用周波数である50Hzの騒音、振動が生じる等の問題があり、西ドイツでの磁気浮上式鉄道の開発を[[トランスラピッド]]に集中する事になり、1974年11月に西ドイツ政府からの補助金を減らされたために改良を進める事が出来なくなり中止された。車上一次式吸引式磁気浮上の技術は韓国機械研究院に技術供与された。 ==== ROMAG ==== {{Main|ROMAG}} アメリカで1970年代に開発されていた吸引式磁気浮上鉄道。 * [[神戸市立青少年科学館]]の新館の屋上でも、永久磁石による反発式磁気浮上で1989年から2007年まで運転されていたが、制御装置が故障して代替部品の調達ができなくなり引退した。 {{-}} == 主な実験線 == * [[リニア実験線]] * [[エムスランド実験線]] * [[エキスポ科学公園|大田科学公園実験線]] * [[同済大学|同済大学磁気浮上鉄道実験線]] ==おもちゃ== [[タカラトミー]]は2015年、磁気浮上式鉄道の1つである日本の「[[超電導リニア]]」をモデルとした世界初のレールトイ「[[リニアライナー]]」を発売した。磁気浮上式鉄道同様、磁石で浮上・走行するが、実際の超電導リニアとは仕組みが異なる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | editor=正田英介・加藤純郎・藤江恂治・水間毅 | title=磁気浮上鉄道の技術 | date=1992-09 | publisher=[[オーム社]] | language=日本語 | isbn=4274034135}} * {{Cite book | 和書 | editor=国土交通省総合政策局情報管理部 | title=交通関係エネルギー要覧〈平成12年版〉 | date=2001-03 | publisher=[[国立印刷局|財務省印刷局]] | language=日本語 | isbn=4171912555}} * {{Cite book | 和書 | author=久野万太郎 | title=リニア新幹線物語 | edition=初版 | date=1992-02-08 | publisher=[[同友館]] | language=日本語 | isbn=4-496-01834-9}} * {{Cite book | 和書 | editor=財団法人鉄道総合技術研究所 | title=超電導リニアモーターカー | edition=初版 | date=1997-04 | publisher=[[交通新聞社]] | language=日本語 | isbn=4-87513-062-7}} * {{Cite book | 和書 | author=井出耕也 | title=疾走する超電導 リニア五五〇キロの軌跡 | edition=初版 | date=1998-04-01 | publisher=[[ワック・マガジンズ|ワック株式会社]] | language=日本語 | isbn=4-948766-05-4}} * {{Cite journal |和書 |author=H.H.コルム |author2=R.D.ソーントン |author3= |authorlink= |coauthors= |year=|date=1973年12月号 |month= |title=磁気浮上による超高速鉄道 |journal=[[日経サイエンス|サイエンス]] |publisher=日経サイエンス社 |volume= |issue= |pages=10 |id= |url= |accessdate= |quote= }} * {{Cite journal |author=By Henry H. Kolm |author2=Richard D. 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2003-04-03T12:54:09Z
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タブー
タブー(taboo)とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。禁忌(きんき)という訳語も用いられる。 躾などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲・自主規制など)。 ポリネシア語のtabu(もしくはtapu)は前後二つの部分に分けられる。taは徴(しるし)、あるいは徴づけられたもの。buは「強く」を意味する。すなわち「強く徴づけられたもの」を指す。 その社会における聖なるものや俗なるもの、日常と非日常、清浄と穢れなどの対立構造と密接に関連していることが多い。これらの関係性に着目したアプローチに構造主義がある。何がタブーとされるかは文化によって著しく変わってくるが一般に死、出産、生理、食物、貴種、被差別民、魔物、個人の名前はタブーとされることが多い。 すべきである、という場合も、忌避行動をすべきであるという場合が多く、一般的には、禁止として現れる。ここから「禁忌」とも呼ばれる。タブーとされる行動のありようには様々なものが知られており、超自然的な力と関係付けられたり、霊との関係が強調されたりもする。タブーのありようを調べると、未開人や古代の人々が、できごとの生起をどのように捉えていたのか、ものごとの因果をどう把握していたのかが分かることがある。また、世界の存在の原理や、個人や共同体がどのような構造で成立しているのか、文化ごとで独特な世界観の前提が理解できることがある。 タブーとされる行動をなぜ取ってはならないのか、合理的な説明は存在しない場合が多い。しかし、タブーを侵犯すると、どのようなことが起こるとその社会では考えられていたかを調査すると、世界や共同体の存立の根拠とタブーの遵守は密接な関係を持っていることが分かる。 タブーという言葉とその概念は、宗教学的または文化人類学的な研究対象であり、未開人や古代の社会について論じられていた。しかし、タブーは現代社会にも存在していることが認められており、宗教学的なタブーの概念を比喩的に使った表現として「現代のタブー」というものが考えられる一方で、比喩的な意味ではなく、文字通り、現在に生きるタブーの存在も知られている。従って、タブーの現象とは、未開人や古代社会の問題に尽きず、現代の問題でもある。 タブーに関しては文化人類学で説明が試みられてきたが、代表的なものには次のようなものがある。 これらは初期のものであったが、現在ではファン・ヘネップの通過儀礼研究や後世のメアリー・ダグラス、山口昌男、ヴィクター・ターナーなどの研究により、むしろその境界領域にある両義性や境界性の問題に重点が移りつつある。日本民俗学でいう「ハレ」「ケ」「ケガレ」の議論もその範疇に入るだろう。例えばファン・ヘネップの著『通過儀礼』では分離・過渡・統合の3段階が提示されるが過渡期には「聖と俗」、「死と再生」などの間に境界性が認められるとした。死と再生に関してはフレイザー『金枝篇』などの事例やエリアーデなどによる宗教学の観点から、古くは不可分の関係と捉えられていた事が有力視されつつある。ひとつの宗教圏内においても「正統」とされるキリスト教や仏教の教義では説明できない、地上に留まる霊魂の存在イメージは根強く、重層した基層文化の一部をなしていることが多い。蘇った死者(魂呼ばいなど)に対しても忌避感情がある一方、(生前の)故人や親しい者にとっては蘇生・復活やなんらかの形での存続を願う気持ちを伴うことも珍しくはなく両義的な心情が見出されるであろう。またトリックスターの事例ではしばしば善悪の役割が越えられ境界性が侵犯される。 両義性を象徴する顕著な例には血に関するものが挙げられる。日本においては穢れとして忌避されるが、一方「血の繋がり」「熱血」といった用法からも窺えるように子孫の繁栄や生命力を象徴する場合もある。殺害・屠殺の際のように死をイメージさせるものでもあるが、他方月経や出産のように新生に繋がるものでもあり、両義的な性質を兼ねているといえるだろう。血の象徴とされる赤色についても呪術的用途を持っていたことが窺え、お守りや破魔矢などの色に多用される他、ハレの日に用いられるものであった。また辰砂(朱、丹)は神仙思想における不老長寿の術(錬丹術)に用いられたとされる。血の色が生命力を想起させたのであろう。日本でも大物主神・賀茂別雷神などに関する神話では「丹塗りの矢」は妊娠をもたらす物として描写されている。 キリスト教圏においては、イエスの最後の晩餐におけるパンと葡萄酒を肉体と血になぞらえた故事が知られ、重要な儀式のひとつをなす。これはイエスが受肉によって自ら贖罪を引き受けた死と復活に感謝を捧げ祝福するものである。逆の意味合いを持たされた例としては民間の吸血鬼伝承が挙げられ、これには土葬された死体への恐怖が関わっている。死後最後の審判の日に裁かれるまでに甦ることは、異教的なものと見なされていたのである。 また古代においては生贄を祭壇に捧げる儀式が広く見られ、収穫祭などと共に共同体の繁栄を祝い、祈るものであった。ここにも犠牲からの一種の甦りという死と再生の信仰を見てとることができよう。これらは『金枝篇』、ハイヌウェレ型神話、創造神話の一部(始まりは比喩的に誕生と同一視される)など豊富な事例で裏付けられる。 性に関するタブーも広く見られるものであるが、行為がそのまま自然である動物ではあまり観察されないものであり、自我や意識の認識、社会規範などと深く関係していると思われる。 深層心理学や精神分析は、無意識とその葛藤といった人間の両義性を孕んだ複雑な心理(アンビヴァレンツ)を扱っている。これはジークムント・フロイトによる『トーテムとタブー』などの一連の著作が前提にある。 現代における「タブー」は、意味の拡張により、本来の使用法とはかけ離れた用法となっていることもしばしばある。身近な例としては、言霊信仰がある。これは死など、縁起が悪いとされることや、本名である諱の避諱のように、それについて極力、言及しないこと。口にしなくてはならないときは、遠まわしに言うこと、などといったものがある。他にもいろいろある。 職場・学校・部活や農村集落・マンション・団地など、限られた範囲でのタブーも存在する。友達グループ・ママ友といった、私的な関係においてもタブーが存在することもある。また宗教団体に入れば、その戒律=タブーとなる。とくに公共メディアでは、本音であっても言ってはいけない事があり、それを犯すとバッシングを受けてしまう。最近は人権意識の高まりとともに、人種差別・女性蔑視・LGBTへの偏見・子供への体罰・パワハラ・セクハラなども厳しくなっている。しかしオジサンへの蔑視は、今でも行われている。 世界各国で政治体制の維持もしくは転覆を目的とした粛清・虐殺などが歴史的に行われているが、それらはタブーとして扱われている。近年に起こったものは関係者が存命であるためにタブーとしての扱いの度合いは高く、告発などが行われると様々な問題を引き起こすことがある。 タブーとされている事象の例。 婉曲に言うもの 触れるのが憚られているもの
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タブー(taboo)とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。禁忌(きんき)という訳語も用いられる。 躾などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲・自主規制など)。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2018年4月}} '''タブー'''(taboo)とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。[[ポリネシア語]]''tabu''が[[語源]]。18世紀末に[[ジェームズ・クック]]が旅行記において、ポリネシアの[[習俗]]を紹介する際に用いたことから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。'''[[禁忌]]'''(きんき)という訳語も用いられる。 [[躾]]などを通して[[社会]]を構成する個々人の[[道徳]]の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の[[為政者]]に作為的に利用される危うさも孕んでいる([[検閲]]・[[自主規制]]など)。 == 文化人類学でのタブー == ポリネシア語のtabu(もしくはtapu)は前後二つの部分に分けられる。taは徴(しるし)、あるいは徴づけられたもの。buは「強く」を意味する。すなわち「強く徴づけられたもの」を指す。 その社会における聖なるものや俗なるもの、日常と非日常、清浄と穢れなどの対立構造と密接に関連していることが多い。これらの関係性に着目したアプローチに[[構造主義]]がある。何がタブーとされるかは文化によって著しく変わってくるが一般に死、出産、生理、食物、[[貴種]]、被差別民、魔物、個人の名前はタブーとされることが多い。 すべきである、という場合も、忌避行動をすべきであるという場合が多く、一般的には、禁止として現れる。ここから「禁忌」とも呼ばれる。タブーとされる行動のありようには様々なものが知られており、超自然的な力と関係付けられたり、霊との関係が強調されたりもする。タブーのありようを調べると、未開人や古代の人々が、できごとの生起をどのように捉えていたのか、ものごとの因果をどう把握していたのかが分かることがある。また、世界の存在の原理や、個人や共同体がどのような構造で成立しているのか、文化ごとで独特な世界観の前提が理解できることがある。 タブーとされる行動をなぜ取ってはならないのか、合理的な説明は存在しない場合が多い。しかし、タブーを侵犯すると、どのようなことが起こるとその社会では考えられていたかを調査すると、世界や共同体の存立の根拠とタブーの遵守は密接な関係を持っていることが分かる。 タブーという言葉とその概念は、[[宗教学]]的または[[文化人類学]]的な研究対象であり、未開人や古代の社会について論じられていた。しかし、タブーは現代社会にも存在していることが認められており、宗教学的なタブーの概念を比喩的に使った表現として「現代のタブー」というものが考えられる一方で、比喩的な意味ではなく、文字通り、現在に生きるタブーの存在も知られている。従って、タブーの現象とは、未開人や古代社会の問題に尽きず、現代の問題でもある。 タブーに関しては文化人類学で説明が試みられてきたが、代表的なものには次のようなものがある。 * [[デュルケーム]]流の[[聖と俗]]の[[二元論]]に基づくとするもの(人間の心理に聖と俗といった観念自体があることは必ずしも否定されないが、あまりにも硬直的な区分であるとする批判がある。)。 * [[ジェームズ・フレイザー]]の[[呪術]]分類による[[感染呪術]]によるとするもの。 これらは初期のものであったが、現在では[[ファン・ヘネップ]]の[[通過儀礼]]研究や後世の[[メアリー・ダグラス]]、[[山口昌男]]、[[ヴィクター・ターナー]]などの研究により、むしろその境界領域にある[[両義性]]や[[境界性]]の問題に重点が移りつつある。日本[[民俗学]]でいう[[ハレとケ|「ハレ」「ケ」]]「[[穢れ|ケガレ]]」の議論もその範疇に入るだろう。例えばファン・ヘネップの著『通過儀礼』では分離・過渡・統合の3段階が提示されるが過渡期には「聖と俗」、「死と再生」などの間に境界性が認められるとした。[[死と再生の神|死と再生]]に関してはフレイザー『[[金枝篇]]』などの事例や[[エリアーデ]]などによる宗教学の観点から、古くは不可分の関係と捉えられていた事が有力視されつつある。ひとつの宗教圏内においても「正統」とされる[[キリスト教]]や[[仏教]]の教義では説明できない、地上に留まる[[霊魂]]の存在イメージは根強く、重層した[[基層文化]]の一部をなしていることが多い。蘇った[[死者]]([[魂呼ばい]]など)に対しても忌避感情<ref>非合理的な[[恐怖]]の面は[[ゾンビ]]などいわゆる「怖いもの見たさ」でしばしば[[怪談]]や[[ホラー]]作品の題材にされる。</ref>がある一方、(生前の)故人や親しい者にとっては蘇生・[[蘇生|復活]]やなんらかの形での存続を願う気持ちを伴うことも珍しくはなく両義的な心情が見出されるであろう。また[[トリックスター]]の事例ではしばしば善悪の役割が越えられ境界性が侵犯される。 両義性を象徴する顕著な例には[[血]]に関するものが挙げられる。[[日本]]においては[[穢れ]]として忌避されるが、一方「[[血縁|血の繋がり]]」「熱血」といった用法からも窺えるように子孫の繁栄や生命力を象徴する場合もある。[[殺害]]・[[屠殺]]の際のように[[死]]をイメージさせるものでもあるが、他方[[月経]]や[[出産]]のように新生に繋がるものでもあり、両義的な性質を兼ねているといえるだろう<ref>[[女人禁制]]はこれによるとする解釈もあるが、本土と類縁の文化を持つ[[沖縄県|沖縄]]([[琉球神道]]参照)では逆に男子禁制の色が濃い。</ref>。血の象徴とされる[[赤色]]についても呪術的用途を持っていたことが窺え、[[お守り]]や[[破魔矢]]などの色に多用される他、ハレの日に用いられるものであった。また[[辰砂]](朱、丹)は[[神仙思想]]における不老長寿の術([[錬丹術]])に用いられたとされる。血の色が[[生命力]]を想起させたのであろう。日本でも[[大物主神]]・[[賀茂別雷神]]などに関する[[神話]]では「丹塗りの矢」は妊娠をもたらす物として描写されている。 [[キリスト教]]圏においては、[[救世主イエス・キリスト|イエス]]の[[最後の晩餐]]におけるパンと葡萄酒を肉体と血になぞらえた故事が知られ、重要な儀式のひとつをなす。これはイエスが[[受肉]]によって自ら[[贖罪]]を引き受けた死と[[復活 (キリスト教)|復活]]に感謝を捧げ祝福するものである。逆の意味合いを持たされた例としては民間の[[吸血鬼]]伝承が挙げられ、これには[[土葬]]された死体への恐怖が関わっている。死後[[最後の審判]]の日に裁かれるまでに甦ることは、[[異教]]的なものと見なされていたのである。 また古代においては[[生贄]]を[[祭壇]]に捧げる儀式が広く見られ、[[収穫祭]]などと共に共同体の繁栄を祝い、祈るものであった。ここにも犠牲からの一種の甦りという死と再生の信仰を見てとることができよう。これらは『[[金枝篇]]』、[[ハイヌウェレ型神話]]、[[創造神話]]の一部(始まりは[[比喩]]的に誕生と同一視される)など豊富な事例で裏付けられる。 性に関するタブーも広く見られるものであるが、行為がそのまま自然である動物ではあまり観察されないものであり、[[自我]]や[[意識]]の認識、社会[[規範]]などと深く関係していると思われる。 [[深層心理学]]や[[精神分析]]は、[[無意識]]とその葛藤といった人間の両義性を孕んだ複雑な心理(アンビヴァレンツ)を扱っている。これは[[ジークムント・フロイト]]による『[[トーテム]]とタブー』などの一連の著作が前提にある。 == 現代社会におけるタブー == 現代における「タブー」は、意味の拡張により、本来の使用法とはかけ離れた用法となっていることもしばしばある。身近な例としては、[[言霊]]信仰がある。これは[[死]]など、[[縁起]]が悪いとされることや、本名である[[諱]]の[[避諱]]のように、それについて極力、言及しないこと。口にしなくてはならないときは、遠まわしに言うこと、などといったものがある。他にもいろいろある。 職場・学校・部活や農村集落・マンション・団地など、限られた範囲でのタブーも存在する。友達グループ・ママ友といった、私的な関係においてもタブーが存在することもある。また宗教団体に入れば、その戒律=タブーとなる。とくに公共メディアでは、本音であっても言ってはいけない事があり、それを犯すとバッシングを受けてしまう。最近は人権意識の高まりとともに、人種差別・女性蔑視・LGBTへの偏見・子供への体罰・パワハラ・セクハラなども厳しくなっている。 == 政治体制上のタブー == 世界各国で政治体制の維持もしくは転覆を目的とした粛清・虐殺などが歴史的に行われているが、それらはタブーとして扱われている。近年に起こったものは関係者が存命であるためにタブーとしての扱いの度合いは高く、告発などが行われると様々な問題を引き起こすことがある。 タブーとされている事象の例。 * [[アルメニア人虐殺]] - トルコのタブー。1915-1916年。EU加盟に向けてトルコは様々な西欧化を進めているが、この虐殺に関する西欧の反応については常に反発している。 * [[ナチス・ドイツ]] - ドイツのタブー。第二次世界大戦期。日本式の挙手をドイツで行うと、[[ナチス式敬礼]]と見なされて逮捕される。このため、ドイツやオランダ等では人差し指を指して挙手するのが一般的である。 * [[二・二八事件]] - 台湾のタブー。1947年。 * [[保導連盟事件]] - 大韓民国のタブー。1950年。体制側は盧武鉉大統領が2008年に謝罪した。 * [[9月30日事件]] - インドネシアのタブー。1965年。『[[アクト・オブ・キリング]]』『ルック・オブ・サイレンス』というドキュメンタリー映画が作られているが、現政権下においては監督・スタッフは入国もできないであろうと言われている。映画のテロップでは今も被害者側は名前を出すことが憚られる状況である。 * [[六四天安門事件|天安門事件]] - 中華人民共和国のタブー。1989年。2016年現在、中華人民共和国ではこの事件のネット上の情報を見ることが基本的には出来ない状態にある。この事件に関連するものを始め、[[中国共産党]]の[[ネット検閲]]によって検索ができない語句は『敏感词』(敏感詞)と呼ばれる。[[:zh:關鍵詞過濾|關鍵詞過濾(中国語版)]]も参照。 == タブーの対象の例 == 婉曲に言うもの * [[死]] ** [[崩御]] ** 天に召される ** 永眠 ** 逝去 ** 鬼籍に入る ** 世を去る ** 星になる ** 他界 触れるのが憚られているもの * 文化的な禁忌 **[[血]]・[[月経|生理]]・[[出産]] ** 食事の禁忌([[食のタブー]]、カニバリズム・タブー) ** [[避諱]](中国や日本で、[[皇帝]][[皇族]]の名前に使われている文字) ** [[近親相姦]]([[インセスト・タブー]]) * 暴力や好ましくない行為 ** [[強姦]] ** [[暴行]] **[[窃盗]] * みだら、ふしだらな行為 ** [[性行為]] ** [[露出プレイ|露出]] ** [[排泄]]行為の公開 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[女人禁制]] * [[ヤハウェ]](ヤハヴェ、YHWH) * [[報道におけるタブー]] ** [[創価学会]] ** [[菊タブー]] * [[言霊]] * [[穢れ]] * [[大人の事情]] * [[見るなのタブー]] * [[御法度 (映画)]] 監督・脚本:[[大島渚]] * [[祟り]] * [[禁足地]] {{Socsci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たふ}} [[Category:精神分析用語]] [[Category:フロイト派心理学]] [[Category:道徳]] [[Category:習俗]] [[Category:民間信仰]] [[Category:迷信]] [[Category:文化人類学]] [[Category:オセアニアの文化]] [[th:คำต้องห้าม]]
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アメリカ州
アメリカ州(アメリカしゅう、英:Americas)は、北アメリカと南アメリカの総体からなる陸地を指す。漢字表記は亜米利加であり大州の一つとして米州(米洲、べいしゅう)、アメリカ大陸とも呼ぶ。省略する場合は米の一字を用いる。 クリストファー・コロンブスのアメリカ海域到達を知ったアメリゴ・ヴェスプッチは、1499年から1502年にかけての南米探検で南緯50度まで沿岸を南下した。 これを受けて、この土地がコロンブスの言うようなインドやアジアではなく新大陸であると確信したヴァルトゼーミュラーは、1507年にフランスで出版したラテン語の書『宇宙誌入門』 (Cosmographiae Introductio) の解説文中で、この新大陸を、「発見」者であるアメリゴ・ヴェスプッチの名前よりアメリゲ (Amerige) 、あるいはラテン語名アメリクス・ウェスプキウス (Americus Vespucius) より、ヨーロッパ (Europa, エウローパ)、アフリカ (Africa, アーフリカ)、アジア (Asia, アーシア) と同様の女性形であるアメリカ (America) と呼ぶべきだと提唱した。なお、スペインおよびその植民地ではアメリカという呼称は用いられず、新大陸はインディアスとして知られていた。 他にも、ジョン・カボットの航海の投資者であり、彼に沿岸地域の地図の作成を命じたリチャード・アメリク (Richard Amerik) の姓から採ったという異説も存在する。 アメリカ州域内の人口100万人以上(2018年1月1日現在)の都市。
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アメリカ州(アメリカしゅう、英:Americas)は、北アメリカと南アメリカの総体からなる陸地を指す。漢字表記は亜米利加であり大州の一つとして米州(米洲、べいしゅう)、アメリカ大陸とも呼ぶ。省略する場合は米の一字を用いる。
{{混同|アメリカ合衆国の州}} {{Infobox Continent |image=[[ファイル:Americas (orthographic projection).svg|200px]] |area=42,549,000 km² |population=1,002,000,000人 |density= |demonym= |countries = {{Collapsible list | title = 35|'''[[北アメリカ]]:'''|{{USA}}|{{CAN}}|{{MEX}} | '''[[中央アメリカ]]:'''|{{SLV}}|{{GTM}}|{{CRI}}|{{NIC}}|{{PAN}}|{{BLZ}}|{{HND}}| '''[[カリブ海地域]]:'''|{{ATG}}|{{CUB}}|{{GRD}}|{{JAM}}|{{KNA}}|{{VCT}}|{{LCA}}|{{DOM}}|{{DMA}}|{{TTO}}|{{HTI}}|{{BHS}}|{{BRB}}|'''[[南アメリカ]]:'''|{{ARG}}|{{URY}}|{{ECU}}|{{GUY}}|{{COL}}|{{SUR}}|{{CHL}}|{{PRY}}|{{BRA}}|{{VEN}}|{{PER}}|{{BOL}}}} |dependencies= |unrecognized= |languages=主に[[スペイン語]]・[[英語]]・[[ポルトガル語]] |time= |internet= |cities={{flagicon|BRA}}[[サンパウロ]]<br>{{flagicon|MEX}}[[メキシコシティ]]<br>{{flagicon|USA}}[[ニューヨーク]] }} [[ファイル:United Nations geographical subregions.png|thumb|[[国連による世界地理区分]]]] '''アメリカ州'''(アメリカしゅう、[[英語|英]]:Americas)は、[[北アメリカ]]と[[南アメリカ]]の総体からなる陸地を指す<ref group="注釈">[[地理学]]上では、[[デンマーク]]の自治政府となっている[[グリーンランド]]も含まれる。</ref>。漢字表記は'''亜米利加'''であり[[大州]]の一つとして'''米州'''(米洲、べいしゅう)、[[アメリカ大陸]]とも呼ぶ。省略する場合は'''米'''の一字を用いる。 == 命名の由来 == [[クリストファー・コロンブス]]のアメリカ海域到達を知った[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]は、1499年から1502年にかけての南米探検で南緯50度まで沿岸を南下した。 これを受けて、この土地がコロンブスの言うような[[インド]]や[[アジア]]ではなく[[新大陸]]であると確信したヴァルトゼーミュラーは、[[1507年]]に[[フランス]]で出版したラテン語の書『[[宇宙誌入門]]』 (Cosmographiae Introductio) の解説文中で、この新大陸を、「発見」者である[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]の名前より'''アメリゲ (Amerige) '''、あるいはラテン語名アメリクス・ウェスプキウス (Americus Vespucius) より、ヨーロッパ ({{lang|la|Europa}}, <small>エウローパ</small>)、アフリカ ({{lang|la|Africa}}, <small>アーフリカ</small>)、アジア ({{lang|la|Asia}}, <small>アーシア</small>) と同様の女性形である'''アメリカ''' ({{lang|la|America}}) と呼ぶべきだと提唱した。なお、[[スペイン]]およびその[[植民地]]ではアメリカという呼称は用いられず、新大陸は'''インディアス'''として知られていた<ref>ギブソン P,15</ref>。 他にも、[[ジョン・カボット]]の航海の投資者であり、彼に沿岸地域の地図の作成を命じたリチャード・アメリク (Richard Amerik) の姓から採ったという異説も存在する。 == アメリカ州の地域区分 == [[ファイル:America-position.png|thumb|250px|right|世界地図上のアメリカ州]] * [[南アメリカ]] - [[パナマ]]を除く<ref name="ex03" group="注釈">パナマは地理的には[[パナマ地峡]]([[パナマ運河]])以西が[[北アメリカ大陸]]、以東が[[南アメリカ大陸]]に属するが、[[地域区分]]では北アメリカ、および中央アメリカに分類する。</ref>[[南アメリカ大陸]]と周辺の島嶼・海域の総称。 * [[北アメリカ]] - パナマを含む<ref name="ex03" group="注釈" />[[北アメリカ大陸]]と周辺の島嶼・海域の総称。 ** [[カリブ海地域]] (Caribbean) - [[国連による世界地理区分]]<ref name="M49">{{Cite web |url=http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm |title=Composition of macro geographical (continental) regions, geographical sub-regions, and selected economic and other groupings |accessdate=2015-05-14 |date=2013-10-31 |work=United Nations Statistics Division |publisher=国際連合}}</ref>では[[ベネズエラ]]領を除く[[アンティル諸島]]と[[バハマ諸島]]の総称。[[西インド諸島]]の大部分を占める。バハマ諸島を含まない場合、カリブ海沿岸の大陸側の一部の国を含む場合などもある。 ** [[中央アメリカ]] - 北アメリカのうち、地理的には[[テワンテペク地峡]]から[[パナマ地峡]]までの地域。国と地域の区分では[[ベリーズ]]・[[グアテマラ]]からパナマまで<ref name="ex03" group="注釈" />の7か国とすることが多いが、国連による世界地理区分では[[メキシコ]]も含む。さらに前述のカリブ海地域も含むことがある。 ** [[北部アメリカ]] (Northern America) - 国連による世界地理区分<ref name="M49" />では[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[グリーンランド]]、[[サンピエール島・ミクロン島]]、[[バミューダ諸島|バミューダ]]の総称。 * [[ラテンアメリカ]] - [[メキシコ]]以南の[[スペイン語]]圏と[[ポルトガル語]]圏の各国、場合によっては[[フランス語]]圏を含む国と地域の総称。[[英語]]圏や[[オランダ語]]圏を含むメキシコ以南の全体を総称することもあり、この場合は日本語の'''中南米'''の範囲と一致する<ref group="注釈">国連による世界地理区分では、メキシコ以南の総称を {{lang|en|Latin America and the Caribbean}} (ラテンアメリカとカリブ海地域)とする。</ref>。 ** [[イベロアメリカ]] - 狭義のラテンアメリカ、すなわちスペイン語圏とポルトガル語圏の各国。[[イベリア半島]]の国や地域を含む場合もある<!-- 白水社『現代スペイン語辞典』には両義とも記載あり。「イベリア半島系のアメリカ」とも、「イベリア半島とアメリカ」とも解釈しうる。 -->。 * [[アングロアメリカ]] - 一般的にはアメリカ合衆国とカナダ。フランス語だけを公用語とするカナダの[[ケベック州]]を除外する場合、英語圏のほかの国や地域を含む場合もある。 == 都市 == アメリカ州域内の人口100万人以上(2018年1月1日現在)の都市<ref>https://www.citypopulation.de/world/Agglomerations.html</ref>。 {| class="wikitable sortable" |- ! 都市名 !! 人口(人) !! 国 !! 地域 !! アクセス |- | [[メキシコシティ]] || 22,600,000 || {{MEX}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[メキシコ・シティ国際空港]] |- | [[ニューヨーク]] || 22,200,000 || {{USA}} || [[ジョン・F・ケネディ国際空港]] |- | [[サンパウロ]] || 22,100,000 || {{BRA}} || 南アメリカ || [[グアルーリョス国際空港]] |- | [[ロサンゼルス]] || 17,700,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[ロサンゼルス国際空港]] |- | [[ブエノスアイレス]] || 16,100,000 || {{ARG}} || rowspan="3" | 南アメリカ || [[エセイサ国際空港]] |- | [[リオデジャネイロ]] || 12,800,000 || {{BRA}} || [[アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港]] |- | [[リマ]] || 10,300,000 || {{PER}} || [[ホルヘ・チャベス国際空港]] |- | [[シカゴ]] || 9,750,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[シカゴ・オヘア国際空港]] |- | [[ボゴタ]] || 9,650,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[エルドラド国際空港]] |- | [[ワシントンD.C]] || 8,500,000 || rowspan="4" | {{USA}} || rowspan="5" | 北アメリカ || [[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港]] |- | [[サンフランシスコ]] || 7,800,000 || [[サンフランシスコ国際空港]] |- | [[ボストン]] || 7,600,000 || [[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港]] |- | [[フィラデルフィア]] || 7,350,000 || [[フィラデルフィア国際空港]] |- | [[トロント]] || 7,300,000 || {{CAN}} || [[トロント・ピアソン国際空港]] |- | [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]] || 7,050,000 || {{CHL}} || 南アメリカ || [[アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港]] |- | [[ダラス]] || 6,900,000 || rowspan="5" | {{USA}} || rowspan="6" | 北アメリカ || [[ダラス・フォートワース国際空港]] |- | [[ヒューストン]] || 6,500,000 || [[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]] |- | [[マイアミ]] || 6,250,000 || [[マイアミ国際空港]] |- | [[アトランタ]] || 5,700,000 || [[ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港]] |- | [[デトロイト]] || 5,700,000 || [[デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港]] |- | [[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]] || 5,150,000 || {{MEX}} || [[ドン・ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ国際空港]] |- | [[ベロオリゾンテ]] || 5,000,000 || {{BRA}} || 南アメリカ || [[タンクレド・ネヴェス国際空港]] |- | [[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]] || 4,825,000 || {{MEX}} || rowspan="5" | 北アメリカ || [[モンテレイ国際空港]] |- | [[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]] || 4,500,000 || rowspan="2" | {{USA}} || [[フェニックス・スカイハーバー国際空港]] |- | [[シアトル]] || 4,275,000 || [[シアトル・タコマ国際空港]] |- | [[モントリオール]] || 4,200,000 || {{CAN}} || [[モントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港]] |- | [[タンパ]] || 4,200,000 || {{USA}} || [[タンパ国際空港]] |- | [[ポルト・アレグレ]] || 4,100,000 || rowspan="2" | {{BRA}} || rowspan="2" | 南アメリカ || [[サルガド・フィーリョ国際空港]] |- | [[ブラジリア]] || 3,975,000 || [[プレジデント・ジュセリノ・クビシェッキ国際空港]] |- | [[メデジン]] || 3,900,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[ホセ・マリア・コルドバ国際空港]] |- | [[サントドミンゴ]] || 3,825,000 || {{DOM}} || 北アメリカ || [[ラス・アメリカス国際空港]] |- | [[レシフェ]] || 3,800,000 || {{BRA}} || rowspan="3" | 南アメリカ || [[レシフェ/グアララペス・ジルベルト・フレイレ国際空港]] |- | [[カラカス]] || 3,750,000 || {{VEN}} || [[シモン・ボリバル国際空港]] |- | [[サルヴァドール]] || 3,700,000 || {{BRA}} || [[ディユタード・ルイス・エドワルド・マガリャエス国際空港]] |- | [[デンバー]] || 3,650,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[デンバー国際空港]] |- | [[フォルタレザ]] || 3,650,000 || rowspan="2" | {{BRA}} || rowspan="2" | 南アメリカ || [[ピント・マルチンス国際空港]] |- | [[クリチバ]] || 3,350,000 || [[アフォンソ・ペーナ国際空港]] |- | [[サンディエゴ]] || 3,325,000 || rowspan="2" | {{USA}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[サンディエゴ国際空港]] |- | [[オーランド]] || 3,275,000 || [[オーランド国際空港]] |- | [[カンピーナス]] || 3,125,000 || {{BRA}} || 南アメリカ || [[ヴィラコッポス国際空港]] |- | [[グアテマラシティ]] || 3,100,000 || {{GTM}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[ラ・アウロラ国際空港]] |- | [[ミネアポリス]] || 3,100,000 || {{USA}} || [[ミネアポリス・セントポール国際空港]] |- | [[グアヤキル]] || 3,075,000 || {{ECU}} || 南アメリカ || [[ホセ・ホアキン・デ・オルメード国際空港]] |- | [[プエブラ]] || 3,075,000 || {{MEX}} || rowspan="3" | 北アメリカ || [[プエブラ国際空港]] |- | [[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]] || 3,050,000 || {{USA}} || [[クリーブランド・ホプキンス国際空港]] |- | [[ポルトープランス]] || 3,050,000 || {{HTI}} || [[ポルトープランス国際空港]] |- | [[サンティアゴ・デ・カリ]] || 3,000,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[アルフォンソ・ボニーラ・アラゴン国際空港]] |- | [[シンシナティ]] || 2,750,000 || {{USA}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[シンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港]] |- | [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]] || 2,725,000 || {{CAN}} || [[バンクーバー国際空港]] |- | [[キト]] || 2,625,000 || {{ECU}} || rowspan="2" | 南アメリカ || [[マリスカル・スクレ国際空港]] |- | [[マラカイボ]] || 2,575,000 || {{VEN}} || [[ラ・チニタ国際空港]] |- | [[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]] || 2,375,000 || rowspan="4" | {{USA}} || rowspan="5" | 北アメリカ || [[シャーロット・ダグラス国際空港]] |- | [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]] || 2,375,000 || [[ポートランド国際空港]] |- | [[ソルトレイクシティ]] || 2,350,000 || [[ソルトレイクシティ国際空港]] |- | [[セントルイス]] || 2,350,000 || [[セントルイス・ランバート国際空港]] |- | [[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]] || 2,325,000 || {{CRI}} || [[フアン・サンタマリーア国際空港]] |- | [[ゴイアニア]] || 2,300,000 || {{BRA}} || rowspan="3" | 南アメリカ || {{仮リンク|サンタ・ジェノベバ空港|en|Santa Genoveva Airport}} |- | [[アスンシオン]] || 2,275,000 || {{PRY}} || [[シルビオ・ペッティロッシ国際空港]] |- | [[ベレン (パラー州)|ベレン]] || 2,250,000 || {{BRA}} || [[ヴァウ・デ・カンス国際空港]] |- | [[ハバナ]] || 2,225,000 || {{CUB}} || rowspan="3" | 北アメリカ || [[ホセ・マルティ国際空港]] |- | [[トルーカ]] || 2,225,000 || {{MEX}} || {{仮リンク|トルーカ国際空港|en|Toluca International Airport}} |- | [[ラスベガス]] || 2,200,000 || {{USA}} || [[マッカラン国際空港]] |- | [[マナウス]] || 2,150,000 || {{BRA}} || 南アメリカ || [[エドワルド・ゴメス国際空港]] |- | [[サンアントニオ]] || 2,150,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[サンアントニオ国際空港]] |- | [[バランキージャ]] || 2,050,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[エルネスト・コルティソス国際空港]] |- | [[ピッツバーグ]] || 2,050,000 || rowspan="2" | {{USA}} || rowspan="3" | 北アメリカ || [[ピッツバーグ国際空港]] |- | [[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]] || 2,050,000 || [[サクラメント国際空港]] |- | [[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]] || 2,050,000 || {{flagicon|Puerto Rico}} [[プエルトリコ]] || [[ルイス・ムニョス・マリン国際空港]] |- | [[ラパス]] || 2,025,000 || {{BOL}} || 南アメリカ || [[エル・アルト国際空港]] |- | [[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]] || 2,000,000 || {{BOL}} || rowspan="2" | 南アメリカ || [[ビルビル国際空港]] |- | [[バレンシア (ベネズエラ)|バレンシア]] || 1,990,000 || {{VEN}} || {{仮リンク|アルトゥーロ・ミチェレナ国際空港|en|Arturo Michelena International Airport}} |- | [[インディアナポリス]] || 1,950,000 || rowspan="2" | {{USA}} || rowspan="5" | 北アメリカ || [[インディアナポリス国際空港]] |- | [[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]] || 1,950,000 || [[カンザスシティ国際空港]] |- | [[ティフアナ]] || 1,920,000 || rowspan="2" | {{MEX}} || [[ヘネラル・アベラルド・L・ロドリゲス国際空港]] |- | [[レオン (メキシコ)|レオン]] || 1,870,000 || [[グアナフアト国際空港]] |- | [[オースティン (テキサス州)|オースティン]] || 1,860,000 || {{USA}} || [[オースティン・バーグストロム国際空港]] |- | [[モンテビデオ]] || 1,840,000 || {{URY}} || 南アメリカ || [[カラスコ国際空港]] |- | [[サンサルバドル]] || 1,840,000 || {{SLV}} || 北アメリカ || [[エルサルバドル国際空港]] |- | [[ヴィトーリア (ブラジル)|ヴィトーリア]] || 1,840,000 || rowspan="2" | {{BRA}} || rowspan="2" | 南アメリカ || {{仮リンク|エウリコ・デ・アドニアス・サーレス空港|en|Eurico de Aguiar Salles Airport}} |- | [[サントス]] || 1,710,000 || [[サンパウロ]]からバス、鉄道 |- | [[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]] || 1,700,000 || rowspan="2" | {{USA}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[ポート・コロンバス国際空港]] |- | [[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]] || 1,690,000 || [[ブラッドレー国際空港]] |- | [[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]] || 1,640,000 || {{ARG}} || 南アメリカ || [[インヘニエロ・アンブロシオ・タラベジャ国際空港|インヘニエーロ・アエロナウティコ・アンブロシオ L.V.タラベージャ国際空港]] |- | [[バージニアビーチ]] || 1,620,000 || rowspan="3" | {{USA}} || rowspan="7" | 北アメリカ || [[ノーフォーク国際空港]] |- | [[ローリー (ノースカロライナ州)|ローリー]] || 1,590,000 || [[ローリー・ダーラム国際空港]] |- | [[ミルウォーキー]] || 1,550,000 || [[ジェネラル・ミッチェル国際空港]] |- | [[パナマ市]] || 1,530,000 || {{PAN}} || [[トクメン国際空港]] |- | [[カルガリー]] || 1,470,000 || {{CAN}} || [[カルガリー国際空港]] |- | [[シウダー・フアレス]] || 1,470,000 || {{MEX}} || [[シウダー・フアレス国際空港]] |- | [[ナッシュビル]] || 1,430,000 || {{USA}} || [[ナッシュビル国際空港]] |- | [[サン・ルイス (マラニョン州)|サン・ルイス]] || 1,430,000 || {{BRA}} || rowspan="3" | 南アメリカ || {{仮リンク|マーシャル・クーニャ・マシャド国際空港|en|Marechal Cunha Machado International Airport}} |- | [[マラカイ]] || 1,410,000 || {{VEN}} || {{仮リンク|マリスカル・スクレ空港 (ベネズエラ)|en|Mariscal Sucre Airport (Venezuela)|label=マリスカル・スクレ空港}} |- | [[ナタール]] || 1,410,000 || {{BRA}} || {{仮リンク|サン・ゴンサーロ・ド・アマランテ国際空港|en|Greater Natal International Airport}} |- | [[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]] || 1,390,000 || {{USA}} || rowspan="3" | 北アメリカ || [[ジャクソンビル国際空港]] |- | [[ケレタロ]] || 1,360,000 || {{MEX}} || {{仮リンク|ケレタロ国際空港|en|Querétaro Intercontinental Airport}} |- | [[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]] || 1,350,000 || {{USA}} || [[バッファロー・ナイアガラ国際空港]] |- | [[ロサリオ]] || 1,350,000 || {{ARG}} || 南アメリカ || {{仮リンク|ロサリオ=イスラス・マルビナス国際空港|en|Rosario – Islas Malvinas International Airport}} |- | [[エドモントン]] || 1,330,000 || {{CAN}} || rowspan="4" | 北アメリカ || [[エドモントン国際空港]] |- | [[トレオン]] || 1,330,000 || {{MEX}} || {{仮リンク|トレオン国際空港|en|Torreón International Airport}} |- | [[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]] || 1,320,000 || {{USA}} || [[ハリスバーグ国際空港]] |- | [[マナグア]] || 1,320,000 || {{NIC}} || [[マナグア国際空港]] |- | [[コチャバンバ]] || 1,300,000 || {{BOL}} || 南アメリカ || [[ホルヘ・ウィルステルマン国際空港]] |- | [[マッカレン (テキサス州)|マッカレン]] || 1,300,000 || {{USA}} || 北アメリカ || {{仮リンク|マッカレン・ミラー国際空港|en|McAllen Miller International Airport}} |- | [[バルキシメト]] || 1,280,000 || {{VEN}} || 南アメリカ || {{仮リンク|ハシント・ララ国際空港|en|Jacinto Lara International Airport}} |- | [[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]] || 1,230,000 || {{USA}} || rowspan="5" | 北アメリカ || {{仮リンク|ストックトン・メトロポリタン空港|en|Stockton Metropolitan Airport}} |- | [[オタワ]] || 1,220,000 || {{CAN}} || [[オタワ・マクドナルド・カルティエ国際空港]] |- | [[サン・ルイス・ポトシ]] || 1,190,000 || {{MEX}} || {{仮リンク|サン・ルイス・ポトシ国際空港|en|San Luis Potosí International Airport}} |- | [[メルボルン (フロリダ州)|メルボルン]] || 1,170,000 || {{USA}} || [[メルボルン国際空港 (フロリダ州)|メルボルン国際空港]] |- | [[サン・ペドロ・スーラ]] || 1,160,000 || {{HND}} || [[ラモン・ビジェダ・モラレス国際空港]] |- | [[ブカラマンガ]] || 1,150,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[パロネグロ国際空港]] |- | [[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]] || 1,150,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[メンフィス国際空港]] |- | [[ジョアンペソア]] || 1,140,000 || rowspan="2" | {{BRA}} || rowspan="2" | 南アメリカ || {{仮リンク|プレジデンテ・カストロ・ピント国際空港|en|Presidente Castro Pinto International Airport}} |- | [[マセイオ]] || 1,130,000 || {{仮リンク|ズンビ・ドス・パウマーレス国際空港|en|Zumbi dos Palmares International Airport}} |- | [[オクラホマシティ]] || 1,130,000 || {{USA}} || rowspan="3" | 北アメリカ || [[ウィル・ロジャース・ワールド空港]] |- | [[テグシガルパ]] || 1,130,000 || {{HND}} || [[トンコンティン国際空港]] |- | [[アグアスカリエンテス]] || 1,120,000 || {{MEX}} || [[アグアスカリエンテス国際空港]] |- | [[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]] || 1,110,000 || {{COL}} || 南アメリカ || [[ラファエル・ヌニェス国際空港]] |- | [[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]] || 1,110,000 || {{USA}} || rowspan="2" | 北アメリカ || [[ピードモント・トライアド国際空港]] |- | [[メリダ (ユカタン州)|メリダ]] || 1,110,000 || {{MEX}} || [[メリダ国際空港]] |- | [[メンドーサ]] || 1,070,000 || {{ARG}} || 南アメリカ || [[フランシスコ・ガブリエリ国際空港]] |- | [[ケープコーラル (フロリダ州)|ケープコーラル]] || 1,060,000 || rowspan="4" | {{USA}} || rowspan="6" | 北アメリカ || [[サウスウエスト・フロリダ国際空港]] |- | [[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]] || 1,050,000 || [[ルイビル国際空港]] |- | [[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]] || 1,050,000 || [[リッチモンド国際空港]] |- | [[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]] || 1,030,000 || [[エルパソ国際空港]] |- | [[メヒカリ (バハ・カリフォルニア州)|メヒカリ]] || 1,030,000 || rowspan="2" | {{MEX}} || [[メヒカリ国際空港]] |- | [[クエルナバカ]] || 1,020,000 || {{仮リンク|クエルナバカ空港|en|Cuernavaca Airport}} |- | [[テレジーナ]] || 1,020,000 || {{BRA}} || 南アメリカ || {{仮リンク|テレジーナ空港|en|Teresina Airport}} |- | [[ニューオーリンズ]] || 1,010,000 || {{USA}} || 北アメリカ || [[ルイ・アームストロング・ニューオーリンズ国際空港]] |- | [[バルパライソ]] || 1,010,000 || {{CHL}} || 南アメリカ || [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]からバス、鉄道 |- | [[ホノルル]] || 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科学
科学(かがく、英: science, natural science、仏: science, sciences naturelles、独: Wissenschaft, Naturwissenschaft、羅: scientia)とは、一定の目的・方法の下でさまざまな事象を研究する認識活動、およびそこからの体系的知識。一般に、哲学・宗教・芸術などとは区別される。現在、狭義または一般の「科学」は、自然科学を指す。広義の「科学」は、全学術(またはそこから哲学を除いたもの)を指すこともある。 「科学」(science)という語はラテン語の scientia (知識)に由来し、「知識」全般を指すこの言葉は早くはフランス語に取り入れられ、17世紀初期には英語としても定着した。古代では科学と哲学に区別はなく、これが分化したのは近世(特にF.ベーコン以降)だった。 近代自然科学の成立以前は、自然についての理論的・哲学的学説は、自然哲学(philosophy of nature)か自然学(physica)と言った。自然科学は「実験と数学による解析」という方法によって成立しているのに対し、古代~中世の自然哲学にはこの方法が欠けており「いくら自然を眺めていても、そこから自然科学が生まれることはなかった」と言う。 現代では広義の「科学」が、全学術を指すこともある。 人類は太古の昔から、自分たちをとりまく自然界の現象や自身の人体の構造について関心を抱き続けてきた。歴史上、古代オリエント、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな文明圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった。古代に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが古代ギリシア・古代ローマの自然哲学である。中世においてはイスラム科学が最も先進的な地位を占めていた。後進ぎみだったヨーロッパは、イスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある。 20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは、17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち実験(冒険)という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとする。バターフィールドはこれを「科学革命」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた。 科学革命の時代以降、科学的方法が次第に形成され、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについて、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。ただしどのような方法なら科学的と見なせるのかという境界線は必ずしも明らかなわけではなく、科学者らは議論を重ねてきた歴史があり、現在でも議論は続けられている。学校教育の影響で、1回の実験で科学が成り立つと考えがちだが、実際にはさまざまな実験で科学が成り立っている。 数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、20世紀前半の科学哲学者カール・ポパーが反証可能性の概念を提示し、それを条件とすることで理論・科学理論が科学に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には反証可能性の概念や反証主義をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、科学と擬似科学とを区分する基準としてこれを採用する人は多い。 ただしこうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家トーマス・クーンのパラダイム論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「パラダイムシフト」の形で覆される。 また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格なカオスを除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。 科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。 例えば、物理学や無機化学は、対象のもっぱら無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。天文学や考古学など、実験や冒険による実証が極めて困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。 生体によって引き起こされる現象を扱う医学、薬学、心理学や、人々の巨大な社会集団を扱う経済学、社会学は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させていったりするものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような決定論的な手法のみならず、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。 『世界大百科事典 第2版』では「科学とは今日通常は自然科学を指す。人文科学,社会科学という呼び方もある」となっている。(「17世紀以降ヨーロッパで近代科学が展開されると、それ以前の伝統的自然哲学は、実験的・実証的根拠をもたない思弁であるとして否定されるようになり、自然哲学ということばもあまり使われなくなった」とも言う。) 日本では物理学、化学、生物学などを「理学」と呼んでいるが、もともと英語に「理学」に相当する概念は無い。 第一次世界大戦と第二次世界大戦では、科学者は国家によって動員され、化学兵器や核兵器の開発に加担し、戦争の帰趨に影響を与え、多くの人々の命を奪ってしまう悲惨な結果を生んでしまった。アインシュタインは「科学技術の進歩というのは、病的犯罪者の手の中にある斧のようなものだ」と述べた。特に科学者が加担し開発した原爆によって第二次世界大戦中に数十万人が命を落とした、という事実は科学界に重くのしかかり、戦後に原爆開発の経緯が次第に明らかになるにつれ、それに加担した科学者の責任を問う声が、科学界(科学者集団)の中からも、その外からも上がった。また冷戦時代にも、核戦争によって人類が滅亡しかねない状況が何度も起き、やはり科学者の活動の行為責任・社会的責任についての問いは提起されつづけ、(たとえ政治家、国家権力者からそそのかされたり、資金を提供されたり、職を提供されても)研究に着手する前に、それがどのような(悲惨な)結果を人類にもたらすか慎重に検討し、悲惨な結果をもたらす可能性が高い研究はあらかじめ絶対に止めるべきだ、科学に携わる者には責任がある、研究をするということにも行為責任がある、結果として多くの人が死んだらそれはそれを研究してしまった者の責任だ、悲惨な結果を生むと予測できなかった、などという嘘や言い訳は通用しない、あらかじめもっと倫理をふまえた上で研究対象を選ぶべきだ、などといった指摘も科学者からされるようになった。日本ではこのような議論を踏まえ、1980年に科学者達が「科学者憲章」を発表した。 今日では、科学は社会から遊離した純粋な知的営為として位置づけることは困難となっている。科学的、政治的、経済的、文化的な価値がどのように科学の研究と技術革新に影響するのか、また科学やテクノロジーがどのように社会・政治・経済・文化に影響を与えているのか、それら相互の関係を研究する領域が科学技術社会論であり、科学者も参加して研究が行われている。 佐々木力によれば、「科学」という語は、中国では、科挙で試される学問「科挙之学」の略語として、すでに12世紀頃には使われていたようである。日本では、「科学」は様々な学問(個別学問、分科の学)という意味で用いられていた。明治時代に science という語が入ってきた際、啓蒙思想家の西周がこれを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた。当初は「科學」と旧字で表記されていたが、新字体の採用により「科学」と書くことになり、現在に至っている。 中国においても、用語に若干の違いはあるものの、science の訳語として「科学」が使われている。また、中学校教科としての「科学」は日本の「理科」に当たるものである。
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"佐々木力によれば、「科学」という語は、中国では、科挙で試される学問「科挙之学」の略語として、すでに12世紀頃には使われていたようである。日本では、「科学」は様々な学問(個別学問、分科の学)という意味で用いられていた。明治時代に science という語が入ってきた際、啓蒙思想家の西周がこれを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた。当初は「科學」と旧字で表記されていたが、新字体の採用により「科学」と書くことになり、現在に至っている。", "title": "日本語における「科学」" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中国においても、用語に若干の違いはあるものの、science の訳語として「科学」が使われている。また、中学校教科としての「科学」は日本の「理科」に当たるものである。", "title": "日本語における「科学」" } ]
科学とは、一定の目的・方法の下でさまざまな事象を研究する認識活動、およびそこからの体系的知識。一般に、哲学・宗教・芸術などとは区別される。現在、狭義または一般の「科学」は、自然科学を指す。広義の「科学」は、全学術(またはそこから哲学を除いたもの)を指すこともある。 (最狭義)自然科学・理学。 (狭義)実験や観測に、または科学的・自然科学的方法に基づく定量的研究。およびその成果。 (広義)自然科学、社会科学、人文科学などの総称。基礎科学・応用科学・理工学・工学・医療科学・形式科学などを含み得る。 (最広義)学術・学問全般。体系化された実験・観測・探求・知識・経験などの総称。哲学を含み得る。
{{Otheruses}} {{混同|化学}} '''科学'''(かがく、{{lang-en-short|science<ref name="『世界大百科事典 第2版』「かがく【科学 science】」">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88|title=『世界大百科事典 第2版』「かがく【科学 science】」|publisher=Kotobank|quote=「かがく【科学 science】」 科学とは今日通常は[[自然科学]]を指す。人文科学,社会科学という呼び方もある。|accessdate=2022-06-05}}</ref><ref name=『英辞郎』「science」>{{Cite web|和書|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=science|title=『英辞郎』「science」|publisher=英辞郎 on the WEB|quote=「science」 1.〔自然現象を研究する〕自然科学  2. 〔特定の学問分野の〕科学|accessdate=2022-06-05}}</ref><ref name=『英辞郎』「自然科学」>{{Cite web|和書|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6|title=『英辞郎』「自然科学」|publisher=英辞郎 on the WEB|quote=「自然科学」 ‘natural science’ ‘science’|accessdate=2021-07-04}}</ref>, natural science<ref name="『世界大百科事典 第2版』「かがく【科学 science】」"/><ref name=『英辞郎』「science」/><ref name=『英辞郎』「自然科学」/>}}、{{lang-fr-short|science, sciences naturelles}}、{{lang-de-short|Wissenschaft, Naturwissenschaft<ref>{{Cite web|url=https://dictionary.cambridge.org/dictionary/german-english/naturwissenschaft|title=『Cambridge Dictionary』「Naturwissenschaft」|publisher=Cambridge University Press|quote=ナトゥーアヴィッセンシャフト … 科学、自然科学(Naturwissenschaft ... science, natural sciences)|accessdate=2022-06-05}}</ref>}}、{{lang-la-short|scientia}})とは、一定の目的・方法の下でさまざまな[[現象|事象]]を[[研究]]する認識活動、およびそこからの[[体系]]的[[知識]]<ref name=デジタル大辞泉>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 『デジタル大辞泉』「科学」]</ref>。一般に、[[哲学]]・[[宗教]]・[[芸術]]などとは区別される<ref name=デジタル大辞泉/>。現在、狭義または一般の「科学」は、[[自然科学]]を指す<ref name=デジタル大辞泉/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 『世界大百科事典 第2版』「かがく【科学 science】」]</ref>。広義の「科学」は、全[[学術]](またはそこから哲学を除いたもの<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「科学」]</ref>)を指すこともある<ref name=デジタル大辞泉/>。 * (最狭義)[[自然科学]]・[[理学]]。 * (狭義)[[実験]]や[[観測]]に、または科学的・自然科学的方法に基づく[[定量的研究]]。およびその成果。 * (広義)自然科学、[[社会科学]]、[[人文科学]]などの総称。[[基礎科学]]・[[応用科学]]・[[理工学]]・[[工学]]・[[医療科学]]・[[形式科学]]などを含み得る。 * (最広義)学術・学問全般。体系化された[[実験]]・[[観測]]・探求・[[知識]]・[[経験]]などの総称。哲学を含み得る。 == 歴史 == {{Main|科学史}} {{関連記事|実学}} == 種類・下位分類 == {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} {|class="wikitable" |- !rowspan=2| !rowspan=2|[[形式科学]] !colspan=2|[[自然科学]]([[応用科学]]含む) !rowspan=2|[[社会科学]] !rowspan=2|[[人文学]]・[[人文科学]] |- ![[物理科学]] ![[生命科学]] |- ![[基礎科学|基礎]] | * [[数学]] * [[数理論理学]]<br>(現代論理学) | * [[物理学]] * [[化学]] * [[地球科学|惑星科学]] * [[宇宙科学]] | * [[生物学]] | * [[経済学]] * [[政治学]] * [[社会学]] * [[心理学]] ||{{columns-list|5em| * [[語学]] * [[哲学]] * [[論理学]] * [[倫理学]] * [[美学]] * [[音楽学]] * [[音声学]]}} |- ![[応用科学|応用]] | * [[統計学]] * [[ゲーム理論]] * [[計算機科学]] * [[会計学]] | * [[工学]] * [[計算機工学]] | * [[農学]] * [[医学]] * [[歯学]] * [[薬学]] | * [[経営学]] * [[法学]] * [[教育学]] |{{columns-list|5em| * [[言語学]] * [[文学]] * [[芸術学]] * [[音響学]] * [[宗教学]] * [[歴史学]] * [[考古学]] * [[民俗学]] * [[博物学]] * [[人文地理学]] * [[文化人類学]] * [[人間科学]] * [[スポーツ科学]] * [[競技]]([[コンペティション]])}} |- |} {{Seealso|学問の一覧}} {{Main|形式科学|自然科学|応用科学|社会科学|人文科学}} == 知識の総称としての科学 == 「科学」({{lang|en|science}})という語は[[ラテン語]]の ''{{lang|la|scientia}}'' (知識)に由来し<ref>{{OEtymD|science|accessdate=26 June 2019}}</ref>、「[[知識]]」全般を指すこの言葉は早くはフランス語に取り入れられ、[[17世紀]]初期には英語としても定着した<ref>[https://kotobank.jp/word/scientia-1243540 世界大百科事典内のscientiaの言及]</ref>。[[古代]]では科学と[[哲学]]に区別はなく、これが分化したのは[[近世]](特に[[F.ベーコン]]以降)だった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「科学」の解説]</ref>。 [[近代]]自然科学の成立以前は、[[自然]]についての[[理論]]的・[[哲学]]的学説は、[[自然哲学]]({{lang|en|philosophy of nature}})か自然学({{lang|gr|physica}})と言った<ref name=日本大百科全書「自然哲学」>[https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%93%B2%E5%AD%A6-73612 日本大百科全書(ニッポニカ)「自然哲学」の解説]</ref>。自然科学は「[[実験]]と[[数学]]による[[解析]]」という方法によって成立しているのに対し、古代~[[中世]]の自然哲学にはこの方法が欠けており「いくら自然を眺めていても、そこから自然科学が生まれることはなかった」と言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6-43288#%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%BB%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%AD%A6 日本大百科全書(ニッポニカ)「科学」の解説 - 古代・中世の自然学]</ref>。 現代では広義の「科学」が、全[[学術]]を指すこともある<ref name=デジタル大辞泉/>。 人類は太古の昔から、自分たちをとりまく自然界の現象や自身の人体の構造について関心を抱き続けてきた。歴史上、[[古代オリエント]]、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな[[文明]]圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった<ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈上〉古代オリエント 』、せりか書房、1995年、ISBN 4796701923 </ref><ref>アンドレ・ピショ『科学の誕生〈下〉ソクラテス以前のギリシア 』、せりか書房、1995年、ISBN 479670194X </ref><ref>平田寛『図説 科学・技術の歴史―ピラミッドから進化論まで 前約3400年‐1900年頃』、朝倉書店、ISBN 4254102038</ref>。[[古代]]に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の自然哲学である。[[中世]]においては[[イスラム科学]]が最も先進的な地位を占めていた。後進ぎみだったヨーロッパは、イスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある<ref>都築洋次郎『世界科学・技術史年表』、原書房、ISBN 4562021918</ref>。 [[20世紀]]の[[歴史学者]][[ハーバート・バターフィールド]]は、[[17世紀]]の[[ヨーロッパ]]において、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち[[実験]]([[冒険]])という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとする。バターフィールドはこれを「[[科学革命]]」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた<ref>[[ハーバート・バターフィールド]]著、渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』、講談社学術文庫、1978年</ref>。 == 科学的方法に基づく学問としての科学 == {{see also|科学的方法}} 科学革命の時代以降、[[科学的方法]]が次第に形成され、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについて、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。ただしどのような方法なら科学的と見なせるのかという境界線は必ずしも明らかなわけではなく、科学者らは議論を重ねてきた歴史があり、現在でも議論は続けられている。学校教育の影響で、1回の実験で科学が成り立つと考えがちだが、実際にはさまざまな実験で科学が成り立っている<ref>{{Cite web|和書|title=4.4 – Cultivating Scientific Skepticism - Values in Science |url=https://www.coursera.org/lecture/philosophy-of-science/4-4-cultivating-scientific-skepticism-F3FPU |website=Coursera |access-date=2022-07-16 |language=ja}}</ref>。 数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、[[20世紀]]前半の[[科学哲学]]者[[カール・ポパー]]が[[反証可能性]]の概念を提示し、それを条件とすることで[[理論]]・[[科学理論]]が科学に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には[[反証可能性]]の概念や[[反証主義]]をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、科学と[[擬似科学]]とを区分する基準としてこれを採用する人は多い<ref>[[伊勢田哲治]]『疑似科学と科学の哲学』、名古屋大学出版会、ISBN 4815804532 など</ref><ref group="注">ポパー流の視点に基づけば、「光の速度は不変である」という仮説をおくことは、観察によって反証することが可能なので、科学たりうる。一方、[[ジークムント・フロイト]]の[[精神分析学]]や[[カール・マルクス]]の[[マルクス経済学]]は、観察によって反証するすべを持たないので、科学とは呼べないことになる。</ref>。 ただしこうしたポパーの科学観に対しては[[1960年代]]から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家[[トーマス・クーン]]の[[パラダイム]]論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「[[パラダイムシフト]]」の形で覆される。 また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格な[[カオス理論|カオス]]を除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。 === 科学の方法論 === {{main|科学的方法}} 科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを地道に発達させてきた。 例えば、[[物理学]]や[[無機化学]]は、対象のもっぱら無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。[[天文学]]や[[考古学]]など、実験や冒険による実証が極めて困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。 生体によって引き起こされる現象を扱う[[医学]]、[[薬学]]、[[心理学]]や、人々の巨大な[[社会]]集団を扱う[[経済学]]、[[社会学]]は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させていったりするものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような決定論的な手法のみならず、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。 == 自然科学と科学技術 == {{see also|自然科学|[[テクノロジー|科学技術]]}} 『世界大百科事典 第2版』では「科学とは今日通常は[[自然科学]]を指す。[[人文科学]],[[社会科学]]という呼び方もある」となっている<ref name="『世界大百科事典 第2版』「かがく【科学 science】」"/>。(「[[17世紀]]以降ヨーロッパで[[近代科学]]が展開されると、それ以前の伝統的[[自然哲学]]は、[[実験]]的・[[実証]]的根拠をもたない[[思弁]]であるとして否定されるようになり、自然哲学ということばもあまり使われなくなった」とも言う<ref name=日本大百科全書「自然哲学」/>。) 日本では[[物理学]]、[[化学]]、[[生物学]]などを「[[理学]]」と呼んでいるが、もともと英語に「理学」に相当する概念は無い。 <!-- {{独自の研究}} {{要出典|date=2019年5月}} この背景として、第1に、自然科学においては[[科学的方法]]を適用しやすい点があげられる。ただし、科学的方法が適用可能なのは自然科学のみとは限らない。 第2に、[[産業革命]]以降、自然科学の一部が[[技術]]と結びついた点があげられる。歴史的には、科学は自然の探求として[[科学者]]によって担われ、技術は生活の利便を向上させるものとして[[職人]]階層によって担われてきた。しかし産業革命以降、自然科学の知識と手法を応用することで、技術は[[テクノロジー|科学技術]]へと進化し、工業生産性の向上、公衆衛生水準の向上、そして軍事上の優位など、社会に対して巨大な実用的利益をもたらした。同時に、技術進歩のニーズによって科学研究も大いに刺激を受けた。 --> [[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]では、科学者は国家によって動員され、[[化学兵器]]や[[核兵器]]の開発に加担し、戦争の帰趨に影響を与え、多くの人々の命を奪ってしまう悲惨な結果を生んでしまった。アインシュタインは「科学技術の進歩というのは、病的[[犯罪者]]の手の中にある斧のようなものだ」<ref>Technological progress is like an axe in the hands of a pathological criminal.</ref>と述べた<ref>http://www.brainyquote.com/quotes/quotes/a/alberteins164554.html</ref>。特に科学者が加担し開発した[[原爆]]によって[[第二次世界大戦]]中に数十万人が命を落とした、という事実は科学界に重くのしかかり、戦後に原爆開発の経緯が次第に明らかになるにつれ、それに加担した科学者の責任を問う声が、科学界(科学者集団)の中からも、その外からも上がった。また[[冷戦]]時代にも、[[核戦争]]によって人類が滅亡しかねない状況が何度も起き、やはり科学者の活動の行為責任・社会的責任についての問いは提起されつづけ、(たとえ政治家、国家権力者からそそのかされたり、資金を提供されたり、職を提供されても)研究に着手する前に、それがどのような(悲惨な)結果を人類にもたらすか慎重に検討し、悲惨な結果をもたらす可能性が高い研究はあらかじめ絶対に止めるべきだ、科学に携わる者には責任がある、研究をするということにも行為責任がある、結果として多くの人が死んだらそれはそれを研究してしまった者の責任だ、悲惨な結果を生むと予測できなかった、などという嘘や言い訳は通用しない、あらかじめもっと[[倫理]]をふまえた上で研究対象を選ぶべきだ、などといった指摘も科学者からされるようになった。日本ではこのような議論を踏まえ、[[1980年]]に科学者達が「[[科学者憲章]]」を発表した。 今日では、科学は社会から遊離した純粋な知的営為として位置づけることは困難となっている。科学的、政治的、経済的、文化的な価値がどのように科学の研究と技術革新に影響するのか、また科学やテクノロジーがどのように社会・政治・経済・文化に影響を与えているのか、それら相互の関係を研究する領域が[[科学技術社会論]]であり、科学者も参加して研究が行われている。 == 日本語における「科学」 == [[佐々木力]]によれば、「科学」という語は、[[中国]]では、[[科挙]]で試される学問「科挙之学」の略語として、すでに[[12世紀]]頃には使われていたようである<ref>平野千博、「[https://doi.org/10.1241/johokanri.42.371 「科学技術」の語源と語感]」 1999年 42巻 5号 p.371-379, {{doi|10.1241/johokanri.42.371}}</ref>。日本では、「科学」は様々な学問(個別学問、分科の学)という意味で用いられていた。[[明治時代]]に ''science'' という語が入ってきた際、啓蒙思想家の[[西周 (啓蒙家)|西周]]がこれを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた<ref>[[佐々木力]] 『科学論入門』、岩波新書、1996年、ISBN 4004304571</ref>。当初は「科學」と旧字で表記されていたが、[[国語国字問題|新字体の採用]]により「科学」と書くことになり、現在に至っている。 [[中国]]においても、用語に若干の違いはあるものの、''science'' の訳語として「科学」が使われている。また、中学校教科としての「科学」は日本の「理科」に当たるものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年4月|section=1}} *[[トーマス・サミュエル・クーン]]著、常石敬一訳 『コペルニクス革命―科学思想史序説』、講談社学術文庫、1989年 *[[アラン・チャルマーズ]]著、高田紀代志・佐野正博訳 『科学論の展開―科学と呼ばれているのは何なのか?』、恒星社厚生閣、1985年(新版) *[[ジョン・デスモンド・バナール]]著、鎮目恭夫訳 『歴史における科学』全4巻、みすず書房、1966年 *[[ハーバート・バターフィールド]]著、渡辺正雄訳 『近代科学の誕生』、講談社学術文庫、1978年 *[[村上陽一郎]]編 『現代科学論の名著』、中公新書、1989年 *[[ハンス・ライヘンバッハ]]著、市井三郎訳 『科学哲学の形成』、みすず書房、1985年 == 関連項目 == {{Sisterlinks|科学 |wiktionary = 科学 |wikiquote = 科学 |commons= Category:Science |wikinews = Category:学術 }} *[[学問]] *[[技術]] *[[テクノロジー]] *[[科学者]] *[[科学哲学]] *[[科学革命]] *{{仮リンク|科学技術史|en|History of science and technology}} *[[科学的方法]] *[[科学における不正行為]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かかく}} [[Category:科学|*]] [[Category:哲学の和製漢語]] [[Category:和製漢語]] [[Category:自然科学]]
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温度
温度(、英: temperature)とは、温冷の度合いを表す指標である。 二つの物体の温度の高低は温度的な接触(thermal contact)によりエネルギーが移動する方向によって定義される。すなわち温度とはエネルギーが自然に移動していく方向を示す指標であるといえる。標準的には、接触によりエネルギーが流出する側の温度が高く、エネルギーが流入する側の温度が低いように定められる。接触させてもエネルギーの移動が起こらない場合は二つの物体の温度が等しい。この状態を温度平衡(熱平衡)と呼ぶ。 マクスウエルは、気体の温度は分子の乱雑な並進運動エネルギ―の平均値のみによって決まる。ただし、液体または固体状態にある物体に対する同様な結果は現在のところ確立されるにいたっいないと述べていた。最近、五十嵐は液体や固体に対しても成り立つ温度の定義を提案している。それによると、分子間力が位置のみの関数であれば、多原子分子で相互作用が存在しても、分子の並進運動エネルギーの平均値を統計力学を用いて、厳密に求めることができて、その結果はマクスウエルの速度分布則と一値し、絶対温度と質量のみの関数となる。この結果を簡潔に述べると次のようになる。「温度は、原子・分子の乱雑な並進運動エネルギーの平均値を示している。」と云うことができる。気体分子の並進運動の速度分布ついてのマクスウエルの速度分布則は気体ばかりでなく、液体や固体に対しても成立することが、原島鮮先生のテキストにも記されているが、数学的証明は附されていない。温度が分子の乱雑な並進運動の運動エネルギーの平均値によって決まり分、分子内の回転や振動運動は温度に依存して励起されるが、温度には寄与しないことを五十嵐は思考実験を用いてし証明ている。 統計力学によれば、温度は物質を構成する分子の乱雑な並進運動エネルギーの平均値として、五十嵐が導出した様に求めることができる。この様にして求めた温度は、熱力学温度と一致する。 熱力学温度の零点(0ケルビン)は絶対零度と呼ばれ、分子の乱雑な並進運動が停止する状態に相当する。ただし絶対零度は極限的な状態であり、有限の操作で物質が絶対零度となることはない。また、量子力学的な不確定性があるため、絶対零度になっても分子の運動は止まることはない。しかし、このときの分子の運動は乱雑な並進運動ではない。このときの分子の運動は、量子力学的ゼロ点振動(ゼロ点運動)と呼ばれ、乱雑な運動ではないので、エントロピーには寄与しないので、絶対零度ではエントロピーはゼロであり、分子の乱雑な並進運動も停止しゼロとなる。温度は物質を構成する分子の乱雑な並進運動エネルギーの平均値だからである。 温度は、化学反応において強い影響力を持つ。また、生物にはそれぞれ至適温度があり、ごく狭い範囲の温度の環境下でしか生存できない。化学や生物学における観察や実験では、基礎的な条件として温度を記録する必要があり、あるいは温度を調整することが実験を成立させる重要な条件となる。また、生物学や医学において組織や検体を冷蔵するのは、温度を下げることで化学変化の速度を抑える意味がある。 動力学理論では、ケルビン温度は、温度(熱)平衡状態における、1 自由度当たりの運動エネルギーの平均値に関連づけられる。 エネルギー等配分の法則(equipartition theorem)によると、系の個々の自由度あたりの運動エネルギーは kBT/2 となる。ここで、 T は絶対温度、 kB はボルツマン定数である。3次元空間で、粒子の並進自由度は 3 なので、単原子気体粒子1個は、3kBT/2 なるエネルギーを持つ。 例えば気体状態の酸素分子 (O2) は、並進に加えて回転(2自由度)と振動(1自由度)を持つ。それぞれの1自由度あたりの運動エネルギーは、 kBT/2 であるが、振動のモードは、常温を含む低い温度領域では量子力学的に凍結されるので、分子一個当たりの全エネルギーは 5kBT/2 となる。また、高い温度領域では調和振動子と近似される振動のモードとなり、運動エネルギーおよびそれとほぼ等しいポテンシャルエネルギーが加わるので、分子一個当たりの全エネルギーは 7kBT/2 となる。並進、回転、振動などの各モードはこのような一定の制約のもとに等配分され、その(地下水位のような)統一尺度が温度と言えるが、ポテンシャルや周期性の観点から、最も制約の少ないのが気体の並進エネルギーである。 固体の温度エネルギーは、デバイ温度より高い温度領域では原子1個あたり、 6kBT/2 で近似される(デュロン=プティの法則)が、これも、原子の 1 個が3自由度の調和振動子を構成するからである。 エネルギー等配分の法則は、混合気体における異種気体粒子相互においても成り立つのみならず、こうしたことは結果であって、実は、この結果に近づける均等化作用が存在すると考えられる。この均等化作用が物体中の空間的不均一に対して働く結果は熱伝導と言えるが、同じ空間を占めていても、(例えば透明な)物質と輻射場とが、異なる温度を長時間保持するケースは考えられ、この場合は、それぞれの温度を分けて考えるべきである(輻射の温度は、そもそも常識的に定義できない場合もある)。 温度は統計的な実体なので、空間的、時間的に、やや広い計測範囲が必要であり、気体であれば、その粒子が複数回衝突する時間や空間が必要である。例えば気体の並進、回転、振動といった運動のモードは、このような時空の範囲では十分に(先に述べた制約のもとに)均等化すると考えられる。しかし、マクスウエルが指摘している様に分子の回転、振動といった運動のモードは温度に依存して励起されるが、温度には寄与しないことに留意する必要がある。いわゆる「断熱自由膨張」などはあくまで例外的な過渡現象である。 歴史上様々な温度の定義があったが、現在の国際量体系における基本量に位置付けられる熱力学温度の定義は、温度(熱)平衡状態における系の内部エネルギーUを、体積を一定に保ってエントロピー Sで偏微分したものである。 (T=∂ U/∂ S)v。現時点で、非平衡状態での温度やエントロピーの定義は、本来の意味で定義できないこともあり、途上段階である。 温度は非常に計りにくい物理量の一つである。温度は統計値であるから、低密度な物体や非常に狭い範囲を対象に計測するなど、分子数が少ない場合には統計的に値が安定せず意味が無くなること、非常に大量の分子の運動状態を一個一個観測することは現在の技術では不可能であり代わりに間接計測を行っていることに起因している。 温度を計測する方法としては、計測対象となる物体から放射される電磁波を計測する方法や、長い時間をかけて計測プローブを計測対象となる物体に接触させ温度(熱)平衡状態にさせてから計る方法がある。どちらの方法も、何らかの計測上の問題を抱えている。しかし、近年の高速温度測定装置では、対象物の大きさ数十マイクロメートル、測定時間は数ミリ秒程度で測定可能となっており、物理現象を捕らえる一つの手段としての有効性が向上してきている。 物体の寒暖の度合いを定量的に表そうという試みを初めて行ったのは異説はあるがガリレオ・ガリレイであると考えられている。ガリレイは空気の熱膨張の性質を利用して物体の温度を計測できる装置、すなわち温度計を作成した。ガリレイの作った温度計は気圧などの影響を受けてしまうために実際に温度を定量的に表すには及ばなかったが、このように物質の温度による性質の変化を利用して、寒暖の度合いを定量的に表そうという試みは以後も続けられた。初めて目盛付き温度計により数値によって温度を表現しようとしたのはオーレ・レーマーである。レーマーは水の沸点を60度、水の融点を7.5度とする温度目盛を作成した。温度目盛を作成するにはこのように2点の定義定点が必要となる。多くの独自の温度目盛りが作成されたが、現在では日常的にはアンデルス・セルシウスによって作成された摂氏温度目盛、ガブリエル・ファーレンハイトによって作成された華氏温度目盛が主に使用されている。 かつては温度と熱の概念の区別が明確にされていなかった。温度と熱の違いに初めて気が付いたのはジョゼフ・ブラックであると考えられている。ブラックは氷が融解している最中は熱を吸収しても温度が変化しないことを発見した(潜熱)。また温度の違う同質量の水銀と水を混ぜる実験を行い、それぞれ水と水銀の温度変化にある定数を掛けた量が常に等しくなることを発見した。これは熱容量の概念であり、温度変化に乗ずる定数が熱容量に相当し、常に等しくなる量は移動する熱量である。これらの実験により温度と熱が異なる概念であることが確立された。 その後、19世紀に入ると効率の良い熱機関の開発の要請から熱力学の構築が進んでいった。ニコラ・レオナール・サディ・カルノーは熱機関の効率には熱源と冷媒の間の温度差によって決まる上限があることを発見した。このことから熱力学第二法則についての研究が進んでいった。熱力学第二法則によれば外部から仕事がなされない限り、熱エネルギーは温度の高い物体から温度の低い物体にしか移動しない。 ウィリアム・トムソンはカルノーサイクルで熱源と冷媒に出入りする熱エネルギーから温度目盛が構築できることを示した。これを熱力学温度目盛という。熱力学温度においては1つの定義定点はカルノーサイクルの効率が1となる温度であり、これは摂氏温度目盛で表せば−273.15 °Cである。熱力学第二法則によれば、この温度に到達するには無限の仕事が必要となり、それより低い温度は存在しない。そのため、この温度を絶対零度ともいう。熱力温度目盛ではこの絶対零度を原点(0 K)としている。温度の下限の存在はトムソン以前にシャルルの法則から、あらゆる気体の体積が0となる温度として考えられていた。 原子、分子レベルにおける温度の意味については、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの気体分子運動論によって初めて明らかとなった。気体分子の並進運動の速度分布はマクスウェル分布に従い、この分布関数の形状は温度に依存している。特に気体分子の並進運動エネルギーの平均値は3/2 kT(k:ボルツマン定数、T:熱力学温度)となり、温度に比例する。すなわち温度は分子の並進運動の激しさを表す数値でもある。このためプラズマ中のイオンや電子の持つ平均運動エネルギーを温度で表現することがある(プラズマ中のイオンや電子は並進運動の自由度しか持たないからである)。この時は通常平均運動エネルギー = kTとなる温度Tによって表現する。 ルートヴィッヒ・ボルツマンはこのマクスウェルの考え方を発展させ統計熱力学を構築した。統計熱力学では、あらゆる形態のエネルギーにこの考え方が拡張されている。温度が高いほど高いエネルギーを持つ原子や分子の割合が大きくなり、原子や分子の持つ平均エネルギーの大きさも増加する。このように統計熱力学において温度は分子の並進運動エネルギー分布の仕方を表す指標である。 量子論が確立してくると、古典的な統計熱力学は量子統計の近似であることが明らかとなった。古典論においては0 Kにおいてあらゆる粒子は運動を停止した最低エネルギー状態をとることになるが、量子論においては粒子は0 Kにおいても零点エネルギーを持ち静止状態とはならない。この物理現象は零点振動と呼ばれている。また、ボース粒子のエネルギー分布はボース・アインシュタイン分布、フェルミ粒子のエネルギー分布はフェルミ・ディラック分布となる。フェルミ粒子においてはパウリの排他原理により、絶対零度においても古典論では数万 Kにも相当するような大きなエネルギーを持つ粒子が存在するが、これは、エネルギーを上式のkTに代入して温度と見なしたことのよるもので、眞の温度を示しててのではない。ことに留意することが大切であるしかたがって、温度が分子の並進運動エネルギー分布の仕方を表す指標であることは古典統計と変わっていない。 国際単位系においては温度には熱力学温度を使用し、単位としてケルビンを使用することになっている。しかし熱力学温度は理想化された系の性質から定義される温度であるから、実際に計測することは容易ではない。そこで熱力学温度と実用上一致し、測定しやすい温度として国際温度目盛(こくさいおんどめもり、ITS、International Temperature Scale)が定められている。現在使用されている温度目盛は1990年に定められたものでITS-90と呼ばれている。国際温度目盛はある領域の温度を定義する計測器とそれを校正するための定義定点からなる。 測定方法には物体に直接触れて測る接触式と、触らずに測る非接触式がある。 接触式は、膨張式と電気式、計数式等があり、膨張式は、気圧温度計や蒸気圧温度計など温度変化による気体の圧力変化を測るものや、水銀温度計のような液体の長さを測るもの、固体の変形を測るバイメタル式がある。電気式は、温度によって抵抗率が変わる原理を利用した白金抵抗温度計や熱電対など金属線を用いるもの、サーミスタやダイオードなど半導体を用いるものがある。温度変化を共振周波数変化として計測できる水晶温度計は計数式に分類され、この他にもサーモペイントや液晶も接触して温度変化を測定できる。 非接触式は、検出波長によって2種類に分かれる。ひとつは、約2–5 μmの短波長の赤外線を検出波長帯とする量子型。もうひとつは、約8–14 μmの長波長の赤外線を検出波長帯とする熱型。それぞれの検出波長帯は、大気による赤外線の減衰が小さい波長帯にあたり、量子型は検出素子にInSb(インジウムアンチモン)、InAs(ヒ化インジウム)などを使い、熱型はマイクロボロメータを使っている。非接触式の温度計としては代表的なものとして、赤外線サーモグラフィがある。 ヒトが感じる温度は、気温だけでは決まらず、風や湿度、周囲の物体の熱放射にも影響を受ける。これらを勘案し定量的に表した温度を体感温度という。 温度差(おんどさ)は、文字通り二つの物質における温度の違いのその量の差であるが、1990年代初め頃から日本では一つの物事や案件に対して複数の関係者間での熱意、考え方や思惑などの違い、価値観の違いの比喩として「温度差」と表現することがある。 これはそれぞれの関係者の考え方や思惑などを、熱い思いと冷めた思いと捉え、その違いを物理的な温度の違いとして例えた言葉である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "温度(、英: temperature)とは、温冷の度合いを表す指標である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "二つの物体の温度の高低は温度的な接触(thermal contact)によりエネルギーが移動する方向によって定義される。すなわち温度とはエネルギーが自然に移動していく方向を示す指標であるといえる。標準的には、接触によりエネルギーが流出する側の温度が高く、エネルギーが流入する側の温度が低いように定められる。接触させてもエネルギーの移動が起こらない場合は二つの物体の温度が等しい。この状態を温度平衡(熱平衡)と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マクスウエルは、気体の温度は分子の乱雑な並進運動エネルギ―の平均値のみによって決まる。ただし、液体または固体状態にある物体に対する同様な結果は現在のところ確立されるにいたっいないと述べていた。最近、五十嵐は液体や固体に対しても成り立つ温度の定義を提案している。それによると、分子間力が位置のみの関数であれば、多原子分子で相互作用が存在しても、分子の並進運動エネルギーの平均値を統計力学を用いて、厳密に求めることができて、その結果はマクスウエルの速度分布則と一値し、絶対温度と質量のみの関数となる。この結果を簡潔に述べると次のようになる。「温度は、原子・分子の乱雑な並進運動エネルギーの平均値を示している。」と云うことができる。気体分子の並進運動の速度分布ついてのマクスウエルの速度分布則は気体ばかりでなく、液体や固体に対しても成立することが、原島鮮先生のテキストにも記されているが、数学的証明は附されていない。温度が分子の乱雑な並進運動の運動エネルギーの平均値によって決まり分、分子内の回転や振動運動は温度に依存して励起されるが、温度には寄与しないことを五十嵐は思考実験を用いてし証明ている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": 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温度(おんど、とは、温冷の度合いを表す指標である。
{{Otheruses|一般的な温度|より厳密に規定された温度|熱力学温度}} {{出典の明記|date=2019年10月}} {{物理学}} {{物理量 |英語= temperature |画像= [[ファイル:Thermometer for degree Fahrenheit and Celsius.jpg|200px]]<br>温度計。外側が華氏、内側が摂氏。 |記号= {{mvar|T}}、{{mvar|t}}、{{mvar|θ}} |階= スカラー |次元= Θ }} {{読み仮名|'''温度'''|おんど|{{lang-en-short|temperature}}}}とは、温冷の度合いを表す指標である。 == 概要 == 二つの物体の温度の高低は{{疑問点範囲|温度的な接触|date=2020年7月}}(thermal<ref>{{cite book |first=P.C. |last=Riedi |title=Thermal Physics: An introduction to thermodynamics, statistical mechanics, and kinetic theory |edition=2nd Edition |publisher=Oxford University Press |date=1989-01-01 |isbn=978-0198519928 |ref=harv }}. p.9 の 2. First law of thermodynamics 2.1 Zeroth law and scale of temperature の冒頭に、次の記述がある。"The most directly accessible thermal concept is not heat but rather temperature, the relative sensation of hot and cold."</ref>contact)により[[熱|エネルギー]]が移動する方向によって定義される。すなわち温度とはエネルギーが自然に移動していく方向を示す指標であるといえる。標準的には、接触によりエネルギーが流出する側の温度が高く、エネルギーが流入する側の温度が低いように定められる。接触させてもエネルギーの移動が起こらない場合は二つの物体の温度が等しい。この状態を温度平衡(熱平衡)と呼ぶ。 マクスウエルは、気体の温度は[[分子]]の乱雑な並進運動エネルギ―の平均値のみによって決まる。ただし、液体または固体状態にある物体に対する同様な結果は現在のところ確立されるにいたっいないと述べていた<ref name=":2">{{cite book|和書 |title=世界の名著 65 |series=現代の科学 Ⅰ |editor1=湯川秀樹 |editor2=井上健 |section=J.C. Maxwell『気体の分子論を主とした最近の分子科学の概説』 |pages=1231&ndash;1239 |publisher=中央公論社 |date=1973-09-10 |isbn=978-4124001457 |ref={{sfnref|世界の名著 65|1973}} }}; The Scientific Papers of James Clerk Maxwell Vol.2 (1965)Dover,pp.445-484</ref>。最近、五十嵐は液体や固体に対しても成り立つ温度の定義を提案している。それによると、分子間力が位置のみの関数であれば、多原子分子で相互作用が存在しても、分子の並進運動エネルギーの平均値を統計力学を用いて、厳密に求めることができて、その結果はマクスウエルの速度分布則と一値し、絶対温度と質量のみの関数となる<ref>{{cite journal |last=五十嵐 |first=靖則 |title={{math|1=&lang;(1/2)''mv''<sub>tr</sub><sup>2</sup>&rang; = (3/2)''kT''}} の関係式は液体や固体についても成立するか? ― 温度測定の原理の考察から ― |journal=日本物理学会講演概要集 |publisher=日本物理学会 |volume=69 |issue=2 |page=240 |date=2014-09 |ref=harv }}</ref><ref>{{cite journal |last=五十嵐 |first=靖則 |title=相互作用のある多原子分子集団における速度分布について ― 温度の分子論的意味 ― |journal=日本物理学会講演概要集 |volume=72 |issue=1 |edition=DVD版 |publisher=日本物理学会 化学物理分科会 |date=2017-03 |ref=harv }}</ref>。この結果を簡潔に述べると次のようになる。「温度は、原子・分子の乱雑な並進運動エネルギーの平均値を示している。」と云うことができる。気体分子の並進運動の速度分布ついてのマクスウエルの速度分布則は気体ばかりでなく、液体や固体に対しても成立することが、原島鮮先生のテキスト<ref>{{cite book|和書 |last=原島 |first=鮮 |title=基礎物理学Ⅰ 力学・相対論・熱学 |publisher=学術図書 |edition=初版 |date=1967-03 |pages=309-310 |ref=harv }}</ref>にも記されているが、数学的証明は附されていない。温度が分子の乱雑な並進運動の運動エネルギーの平均値によって決まり分、分子内の回転や振動運動は温度に依存して励起されるが、温度には寄与しないことを五十嵐は思考実験を用いて証明している<ref>{{cite journal |last=五十嵐 |first=靖則 |title=温度とは何か -温度の分子論的意味- |journal=日本物理学会講演概要集 |publisher=日本物理学会 |volume=66 |issue=1 |page=443 |date=2011-03 |ref=harv }}</ref><ref>{{cite journal |last=五十嵐 |first=靖則 |title=温度概念の分子論的構造と検証実験 |journal=日本物理学会講演概要集 |publisher=日本物理学会 |volume=68 |issue=1(2分冊) |page=470 |date=2013-03 |ref=harv }}</ref>。 [[統計力学]]によれば、温度は[[物質]]を構成する[[分子]]の乱雑な並進運動[[エネルギー]]の平均値として、五十嵐が導出した様に求めることができる。この様にして求めた温度は、熱力学温度と一致する。 [[熱力学温度]]の[[零点]](0[[ケルビン]])は[[絶対零度]]と呼ばれ、分子の乱雑な並進運動が停止する状態に相当する。ただし絶対零度は極限的な状態であり、有限の操作で物質が絶対零度となることはない。また、[[量子力学|量子力学的]]な[[不確定性原理|不確定性]]があるため、絶対零度になっても分子の運動は止まることはない。しかし、このときの分子の運動は乱雑な並進運動ではない。このときの分子の運動は、量子力学的ゼロ点振動(ゼロ点運動)と呼ばれ、乱雑な運動ではないので、エントロピーには寄与しないので、絶対零度ではエントロピーはゼロであり、分子の乱雑な並進運動も停止しゼロとなる。温度は[[物質]]を構成する[[分子]]の乱雑な並進運動[[エネルギー|エネルギーの平均値]]だからである。 温度は、[[化学反応]]において強い影響力を持つ。また、[[生物]]にはそれぞれ[[至適温度]]があり、ごく狭い範囲の温度の環境下でしか生存できない。[[化学]]や[[生物学]]における[[観察]]や[[実験]]では、基礎的な条件として温度を記録する必要があり、あるいは温度を調整することが実験を成立させる重要な条件となる。また、生物学や医学において組織や検体を[[冷蔵]]するのは、温度を下げることで化学変化の速度を抑える意味がある。 == 動力学理論からのアプローチ == 動力学理論では、ケルビン温度は、温度(熱)平衡状態における、1 自由度当たりの運動エネルギーの平均値に関連づけられる。 [[エネルギー等配分の法則]](equipartition theorem)によると、系の個々の自由度あたりの運動エネルギーは {{math|''k''<sub>B</sub>''T''/2}} となる。ここで、 {{math|''T''}} は絶対温度、 {{math|''k''<sub>B</sub>}} はボルツマン定数である。3次元空間で、粒子の並進自由度は 3 なので、単原子気体粒子1個は、{{math|3''k''<sub>B</sub>''T''/2}} なるエネルギーを持つ。 例えば気体状態の酸素分子 (O<sub>2</sub>) は、並進に加えて回転(2自由度)と振動(1自由度)を持つ。それぞれの1自由度あたりの運動エネルギーは、 {{math|''k''<sub>B</sub>''T''/2}} であるが、振動のモードは、常温を含む低い温度領域では量子力学的に凍結されるので、分子一個当たりの全エネルギーは {{math|5''k''<sub>B</sub>''T''/2}} となる。また、高い温度領域では調和振動子と近似される振動のモードとなり、運動エネルギーおよびそれとほぼ等しいポテンシャルエネルギーが加わるので、分子一個当たりの全エネルギーは {{math|7''k''<sub>B</sub>''T''/2}} となる。並進、回転、振動などの各モードはこのような一定の制約のもとに等配分され、その(地下水位のような)統一尺度が温度と言えるが、ポテンシャルや周期性の観点から、最も制約の少ないのが気体の並進エネルギーである。 固体の温度エネルギーは、[[デバイ温度]]より高い温度領域では原子1個あたり、 {{math|6''k''<sub>B</sub>''T''/2}} で近似される([[デュロン=プティの法則]])が、これも、原子の 1 個が3自由度の調和振動子を構成するからである。 エネルギー等配分の法則は、混合気体における異種気体粒子相互においても成り立つのみならず、こうしたことは結果であって、実は、この結果に近づける均等化作用が存在すると考えられる。この均等化作用が物体中の空間的不均一に対して働く結果は熱伝導と言えるが、同じ空間を占めていても、(例えば透明な)物質と輻射場とが、異なる温度を長時間保持するケースは考えられ、この場合は、それぞれの温度を分けて考えるべきである(輻射の温度は、そもそも常識的に定義できない場合もある)。 温度は統計的な実体なので、空間的、時間的に、やや広い計測範囲が必要であり、気体であれば、その粒子が複数回衝突する時間や空間が必要である。例えば気体の並進、回転、振動といった運動のモードは、このような時空の範囲では十分に(先に述べた制約のもとに)均等化すると考えられる。しかし、マクスウエルが指摘している様に分子の回転、振動といった運動のモードは温度に依存して励起されるが、温度には寄与しないことに留意する必要がある<ref name=":2"/>。いわゆる「断熱自由膨張」などはあくまで例外的な過渡現象である。 == 温度の定義 == 歴史上様々な温度の定義があったが、現在の[[国際量体系]]における[[基本量]]に位置付けられる[[熱力学温度]]の定義は、温度(熱)[[熱力学的平衡|平衡状態]]における系の内部エネルギー''U''を、体積を一定に保って[[エントロピー]] ''S''で偏微分したものである。 (''T''=∂ ''U''/∂ ''S'')<sub>v</sub>。現時点で、非平衡状態での温度やエントロピーの定義は、本来の意味で定義できないこともあり、途上段階である。 温度は非常に計りにくい物理量の一つである。温度は統計値であるから、低密度な物体や非常に狭い範囲を対象に計測するなど、分子数が少ない場合には統計的に値が安定せず意味が無くなること、非常に大量の分子の運動状態を一個一個観測することは現在の技術では不可能であり代わりに間接計測を行っていることに起因している。 温度を計測する方法としては、計測対象となる物体から放射される電磁波を計測する方法や、長い時間をかけて計測プローブを計測対象となる物体に接触させ温度(熱)平衡状態にさせてから計る方法がある。どちらの方法も、何らかの計測上の問題を抱えている。しかし、近年の高速温度測定装置では、対象物の大きさ数十マイクロメートル、測定時間は数ミリ秒程度で測定可能となっており、物理現象を捕らえる一つの手段としての有効性が向上してきている。 == 温度と温度計の理学史 == 物体の寒暖の度合いを定量的に表そうという試みを初めて行ったのは異説はあるが[[ガリレオ・ガリレイ]]であると考えられている。ガリレイは空気の[[熱膨張]]の性質を利用して物体の温度を計測できる装置、すなわち[[温度計]]を作成した。ガリレイの作った温度計は気圧などの影響を受けてしまうために実際に温度を定量的に表すには及ばなかったが、このように物質の温度による性質の変化を利用して、寒暖の度合いを定量的に表そうという試みは以後も続けられた。初めて目盛付き温度計により数値によって温度を表現しようとしたのは[[オーレ・レーマー]]である。レーマーは水の沸点を60度、水の融点を7.5度とする温度目盛を作成した。温度目盛を作成するにはこのように2点の定義定点が必要となる。多くの独自の温度目盛りが作成されたが、現在では日常的には[[アンデルス・セルシウス]]によって作成された[[摂氏]]温度目盛、[[ガブリエル・ファーレンハイト]]によって作成された[[華氏]]温度目盛が主に使用されている。 かつては温度と[[熱]]の概念の区別が明確にされていなかった。温度と熱の違いに初めて気が付いたのは[[ジョゼフ・ブラック]]であると考えられている。ブラックは氷が[[融解]]している最中は熱を吸収しても温度が変化しないことを発見した([[潜熱]])。また温度の違う同質量の水銀と水を混ぜる実験を行い、それぞれ水と水銀の温度変化にある定数を掛けた量が常に等しくなることを発見した。これは[[熱容量]]の概念であり、温度変化に乗ずる定数が熱容量に相当し、常に等しくなる量は移動する熱量である。これらの実験により温度と熱が異なる概念であることが確立された。 その後、19世紀に入ると効率の良い熱機関の開発の要請から熱力学の構築が進んでいった。[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]]は熱機関の効率には熱源と冷媒の間の温度差によって決まる上限があることを発見した。このことから[[熱力学第二法則]]についての研究が進んでいった。熱力学第二法則によれば外部から[[仕事 (物理学)|仕事]]がなされない限り、熱エネルギーは温度の高い物体から温度の低い物体にしか移動しない。 [[ウィリアム・トムソン]]は[[カルノーサイクル]]で熱源と冷媒に出入りする熱エネルギーから温度目盛が構築できることを示した。これを[[熱力学温度]]目盛という。熱力学温度においては1つの定義定点はカルノーサイクルの効率が1となる温度であり、これは摂氏温度目盛で表せば&minus;273.15 &deg;Cである。熱力学第二法則によれば、この温度に到達するには無限の仕事が必要となり、それより低い温度は存在しない。そのため、この温度を[[絶対零度]]ともいう。熱力温度目盛ではこの絶対零度を原点(0 [[ケルビン|K]])としている。温度の下限の存在はトムソン以前に[[シャルルの法則]]から、あらゆる気体の体積が0となる温度として考えられていた。 原子、分子レベルにおける温度の意味については、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]の気体分子運動論によって初めて明らかとなった。気体分子の並進運動の速度分布は[[マクスウェル分布]]に従い、この分布関数の形状は'''温度'''に依存している。特に気体分子の並進運動エネルギーの平均値は3/2 [[kT (エネルギー)|kT]](k:[[ボルツマン定数]]、T:熱力学温度)となり、温度に比例する。すなわち温度は分子の並進運動の激しさを表す数値でもある。このため[[プラズマ]]中のイオンや電子の持つ平均運動エネルギーを温度で表現することがある([[プラズマ]]中のイオンや電子は並進運動の自由度しか持たないからである)。この時は通常平均運動エネルギー = kTとなる温度Tによって表現する。 [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]はこのマクスウェルの考え方を発展させ[[統計熱力学]]を構築した。統計熱力学では、あらゆる形態のエネルギーにこの考え方が拡張されている。温度が高いほど高いエネルギーを持つ原子や分子の割合が大きくなり、原子や分子の持つ平均エネルギーの大きさも増加する。このように統計熱力学において温度は[[分子]]の並進運動エネルギー分布の仕方を表す指標である。 [[量子論]]が確立してくると、古典的な統計熱力学は[[量子統計]]の近似であることが明らかとなった。古典論においては0 Kにおいてあらゆる粒子は運動を停止した最低エネルギー状態をとることになるが、量子論においては粒子は0 Kにおいても零点エネルギーを持ち静止状態とはならない。この[[現象|物理現象]]は[[零点振動]]と呼ばれている。また、[[ボース粒子]]のエネルギー分布は[[ボース・アインシュタイン分布]]、[[フェルミ粒子]]のエネルギー分布は[[フェルミ・ディラック分布]]となる。フェルミ粒子においては[[パウリの排他原理]]により、絶対零度においても古典論では数万 Kにも相当するような大きなエネルギーを持つ粒子が存在するが、これは、エネルギーを上式のkTに代入して温度と見なしたことのよるもので、眞の温度を示しててのではない。ことに留意することが大切であるしかたがって、温度が[[分子]]の並進運動エネルギー分布の仕方を表す指標であることは古典統計と変わっていない。 == 温度の単位と種類 == * 温度[[物理単位|単位]] ** [[熱力学温度]](絶対温度、開氏) - [[ケルビン]] ** [[セルシウス度]](摂氏) ** [[ファーレンハイト度]](華氏) ** [[レオミュール度]](列氏) ** [[ランキン度]](蘭氏) * [[乾球温度]] * [[湿球温度]] * [[放射温度]] * [[グローブ温度]] * [[露点温度]] {{See also|温度の単位の換算}} {{See also|温度の比較}} <!-- 以下、英語版に合わせ一般的ではない単位についての換算値削除した状態の表に差し替えを検討 --> {{温度の単位の比較}} == 国際温度目盛(ITS-90) == [[国際単位系]]においては温度には熱力学温度を使用し、単位としてケルビンを使用することになっている。しかし熱力学温度は理想化された系の性質から定義される温度であるから、実際に計測することは容易ではない。そこで熱力学温度と実用上一致し、測定しやすい温度として'''国際温度目盛'''(こくさいおんどめもり、ITS、International Temperature Scale)が定められている。現在使用されている温度目盛は1990年に定められたもので[[:en:ITS-90|ITS-90]]と呼ばれている。国際温度目盛はある領域の温度を定義する計測器とそれを校正するための定義定点からなる<ref>{{PDFlink|[https://unit.aist.go.jp/ripm/thermog/its-90/ITS-90J.pdf 計量研究所「1990年国際温度目盛 (ITS-90)〔日本語訳〕」1991年10月]}}</ref>。 === 定義方法 === * 0.65 K &ndash; 5.0 K : ヘリウムの[[蒸気圧]]と温度の関係式によって定義される。 * 3.0 K &ndash; 24.5561 K : 定義定点で校正されたヘリウム3またはヘリウム4の[[シャルルの法則|定積気体温度計]]によって定義される。 * 13.8033 K &ndash; 1234.93 K : 定義定点で校正された[[測温抵抗体|白金抵抗温度計]]によって定義される。 * 1234.93 K &ndash; : [[プランクの放射式|プランクの放射則]]に基づいて、定義定点で校正された[[放射温度計]]によって定義される。 === 定義定点 === * [[ヘリウム]]の蒸気圧点: 3 K &ndash; 5 K での値を校正に使用 * 平衡水素([[水素#オルト水素とパラ水素|オルト水素とパラ水素]]が平衡にある水素)の[[三重点]]: 13.8033 K * 平衡水素の蒸気圧点: 17.025 K &ndash; 17.045 K と 20.26 K &ndash; 20.28 K の値が定義されている * ヘリウム気体温度計の示度: 16.9 K &ndash; 17.1 K と 20.2 K &ndash; 20.4 K の値を校正に使用 * [[ネオン]]の三重点: 24.5561 K * [[酸素]]の三重点: 54.3584 K * [[アルゴン]]の三重点: 83.8058 K * [[水銀]]の三重点: 234.3156 K * [[三重点#水の三重点|水の三重点]]: 273.16 K (熱力学温度目盛のもう一つの定義定点) * [[ガリウム]]の標準気圧下(101 325 Pa)の融解点: 302.9146 K * [[インジウム]]の標準気圧下の凝固点: 429.7485 K * [[スズ]]の標準気圧下の凝固点: 505.078 Kᐸ * [[亜鉛]]の標準気圧下の凝固点: 692.677 K * [[アルミニウム]]の標準気圧下の凝固点: 933.473 K * [[銀]]の標準気圧下の凝固点: 1234.93 K * [[金]]の標準気圧下の凝固点: 1337.33 K * [[銅]]の標準気圧下の凝固点: 1357.77 K == 温度測定法 == 測定方法には物体に直接触れて測る接触式と、触らずに測る非接触式がある。 接触式は、膨張式と電気式、計数式等があり、膨張式は、[[気圧温度計]]や[[蒸気圧温度計]]など温度変化による気体の圧力変化を測るものや、[[水銀温度計]]のような液体の長さを測るもの、固体の変形を測る[[バイメタル]]式がある。電気式は、温度によって抵抗率が変わる原理を利用した[[白金抵抗温度計]]や[[熱電対]]など金属線を用いるもの、[[サーミスタ]]や[[ダイオード]]など[[半導体]]を用いるものがある。温度変化を共振周波数変化として計測できる[[水晶温度計]]は計数式に分類され、この他にも[[サーモペイント]]や[[液晶]]も接触して温度変化を測定できる。 非接触式は、検出波長によって2種類に分かれる。ひとつは、約2&ndash;5 &mu;mの短波長の[[赤外線]]を検出波長帯とする量子型。もうひとつは、約8&ndash;14 &mu;mの長波長の[[赤外線]]を検出波長帯とする熱型。それぞれの検出波長帯は、大気による[[赤外線]]の減衰が小さい波長帯にあたり、量子型は検出素子にInSb([[インジウムアンチモン]])、InAs([[ヒ化インジウム]])などを使い、熱型は[[マイクロボロメータ]]を使っている。非接触式の温度計としては代表的なものとして、[[赤外線]][[サーモグラフィ]]がある。 * [[熱電対]] * [[測温抵抗体]] * [[サーミスタ]] * [[放射温度計]] * [[液柱温度計]] * [[バイメタル]]式温度計 * [[赤外線サーモグラフィ]] == 体感温度 == {{See also|寒暑}} [[ヒト]]が感じる温度は、気温だけでは決まらず、[[風]]や[[湿度]]、周囲の物体の[[熱放射]]にも影響を受ける。これらを勘案し定量的に表した温度を[[体感温度]]という。 == 温度差 == <!-- この節題は「温度差」からリダイレクトされています。独立した記事化歓迎。--> '''温度差'''(おんどさ)は、文字通り二つの[[物質]]における温度の違いのその[[量]]の[[減法|差]]であるが、{{要出典|[[1990年]]代初め頃から|date=2017年9月}}[[日本]]では一つの物事や案件に対して複数の関係者間での熱意、考え方や思惑などの違い、[[価値観]]の違いの[[比喩]]として「温度差」と表現することがある。<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B2%B9%C5%D9%BA%B9&kind=jn&mode=0&type=stick 温度差]、[[三省堂]]デイリー 新語辞典</ref> これはそれぞれの関係者の考え方や思惑などを、熱い思いと冷めた思いと捉え、その違いを物理的な温度の違いとして例えた言葉である。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんと}} [[Category:温度|*]] [[Category:温度の単位|*]] [[Category:物理量]] [[Category:状態量]] [[Category:物理学]] [[Category:熱]] [[Category:暖房換気空調]] [[Category:和製漢語]] [[Category:建築環境工学]]
2003-04-03T13:15:02Z
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アルジャジーラ
アルジャジーラ(アラビア語: الجزيرة、「アルジャジーラ衛星チャンネル」、قناة الجزيرة الفضائية)は、アラビア語と英語でニュース等を24時間放送している衛星テレビ局。本社はカタールのドーハにある。タグラインは、「一つの意見があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」。 英語ではAl JazeeraもしくはAljazeeraと綴られる。JSCと表示されることもあるが、これはJazeera Satellite Channelの略である。 「ジャジーラ」はアラビア語で「島」「半島」を意味し(「アル」は定冠詞)、アラブ地域では一般的にアラビア半島を指すが、ここではカタール半島を指す w:Al Jazeera。なお、サウジアラビアの新聞など、中東諸国にはこれ以外にも「アルジャジーラ」の名をもつ報道機関が存在するが、それらとの直接的な関係はなく、別の組織である。 ロゴデザインはディーワーニー体(アラビア書道における書体のひとつで、日本の書道における草書体にあたる)で雫状に「アルジャジーラ」と書かれている。 1996年11月1日、カタール首長であるハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーより5億カタール・リヤル(1億3700万USドルに相当)の支援を受けて設立。独立を保った報道姿勢を保ちつつも、会長には首長の親戚であるハマド・ビン・サーメル・アール=サーニーが就任し、カタール政府を通じた経営という形がとられた(カタール政府以外にも、個人投資家達が加わっている)。 上記金額の支援は開設後5年間の経営を維持するものとして行われ、2001年までに広告収入などによる独立採算を達成することが期待されていた。 イギリス人ジャーナリスト ヒュー・マイルズ著「アルジャジーラ 報道の戦争」によると収益の多くを海外メディアからの「映像使用料」が占め、特に日本放送協会(NHK)が払う金額が一番大きく、同局の大きな助けとなっている。また同著によると同じニュース専門局CNNと比較してCMの放送時間が少ないという。 長らくカタール政府の出資により経営が続けられていたが、2015年頃になると原油価格の下落などでカタールの財政状況が悪化。同年夏には、アルジャジーラの取締役会が会社経費の削減を検討し始めた。直接的な人員削減は2016年に入ると急速に始まり、同年1月12日にはアルジャジーラ・アメリカ(後述)の廃局が伝えられ約700人が解雇された。また、3月27日にはアルジャジーラ本体で500人前後の人員削減を発表している。人員整理が始まる前の職員数は約3,500人とされており、大部分が整理される見込み。 従来からの欧米(キリスト教文化圏)中心の視点とは異なるアラブ系メディアであり、アメリカのテレビがアメリカ社会、文化に偏向しているのと同様、アルジャジーラも当然アラブ社会(およびアラブ世界の一部を含むイスラーム世界)、文化に偏向しているが、これが直ちにアルジャジーラが反米メディアである事を意味しない。 カタールは、欧米諸国に対しては、イラク戦争では基地を提供する程度には比較的に穏健な姿勢であり、このアルジャジーラはカタール政府が西洋の近代的メディアを手本に創設したものである。また、パレスチナ自治政府の汚職などの問題を追及したり、イスラエル人が出演してヘブライ語で話すなど、他のアラブのメディアが行わなかったような話題も積極的に取り上げる。 アルジャジーラは自らを「公正で政治的圧力を受けない、中東で唯一の報道機関である」と謳っている。実際に英国のIndex on Censorship(検閲に関する問題を扱う雑誌。1972年創刊)では、2005年に「アラブ諸国における自由な情報交換を促進し、検閲を拒否する勇気」の一例として紹介されており、アメリカにおいても1999年のニューヨーク・タイムズ紙に「アラブ諸国で、最も自由で最も広い観点を持つテレビネットワーク」と評されている。ただし、カタールの内政には言及しないほか、ジャスミン革命に端を発する中東諸国の騒乱では、スンニ派のリビア・シリアの反体制派を擁護する一方で、バーレーンのシーア派反体制派に対して非擁護的な報道を行うなど、公正な報道に対して疑問を覚える視聴者も少なくない。 アナウンサーの出身国は、アラブ世界の広範囲にわたっており、本人達の宗教もイスラム教やキリスト教と多様である。服装面に関しては宗教色が強くなく、長らく「ヒジャブを着用するムスリマ女性アナウンサー」は見られなかったが、2003年にアルジェリア出身の有名女性アナウンサーが開局以来初めての着用者として登場し話題となった。その後局上層部は露出が少なく慎ましいとみなされる服装を求める意向を強めていったらしく、2010年には服装ガイドラインを受け入れがたいとした女性アナウンサーらが集団で辞意を表明するという事件も起こった。 かつてサウジアラビアの衛星企業 Orbit 社とBBCとの間で、アラビア語ニュースチャンネル設立の準備が進められていた。BBCより技術・人材面での協力を受け、Orbitから資金が出るというものであった。Orbitは娯楽等チャンネルを有料契約にて提供するという業態をとっており、BBCのアラブ版はこれらのひとつとしてサービスに組み込まれる予定だった。 1994年3月、両者の間に10年契約が結ばれた。数か月後、1日あたり2時間の放送がウエスト・ロンドンにあるBBCスタジオより開始され、1994年末には8時間放送に移行した。 BBCのアラビア語版ニュースチャンネルに関して英国ではBBCがオイルマネーに屈したとの声も聞かれたというが、同チャンネルにとっての大きな障害は、他の英国版チャンネル同様の報道姿勢を貫こうとするBBCと、体制側にとって好ましくない内容の放送を望まないサウジアラビア側との間に生じた軋轢だった。 この問題は、BBCが英国に在住していたサウジアラビア出身の反体制イスラーム活動家の取材をしたり、サウジアラビアにおける人権蹂躙問題の報道をしたりしたことで決定的となっていった。そして1996年4月、Orbit側がアラビア語ニュースチャンネルの送信を中止することで、同プロジェクトは終焉を迎え、BBCによる訓練を受けた報道関係者らも職場を失った。 なおその後BBCのアラビア語テレビ放送(BBC Arabic)が2008年3月11日に改めて開局している。中東情勢が緊迫し、アラビア語によるニュースチャンネルの重要性が認識されていた頃の再出発であった。かつてOrbitと合同で進められたプロジェクトとは異なり、BBCにより放送されているワールドサービスのチャンネルという位置付けで、画面デザインや報道姿勢も英語版BBC放送に非常に近いものとなっている。 カタールを拠点とするアラビア語ニュース報道局の設立を計画していた首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーは、BBCとOrbitの合弁事業が頓挫したのを受けて、BBCにて訓練を受けた関係者を大量に雇い入れた。これがアルジャジーラ開局を支えた人材となった。 1996年11月1日に開局。放送機材はソニーが全て請け負った。当初は6時間のみの放送で、1997年に12時間の半日放送となった。24時間放送に拡大したのは1999年のことである。 2001年アメリカのアフガニスタン侵攻の報道において、特派員タイシール・アッルーニーの活躍により、アルジャジーラの名が広く知られるようになる。アルカーイダから送付された、オサマ・ビンラディンのメッセージの映像を独占放映したり、アフガニスタン国内から戦争実況を中継したりなどの報道活動により一躍注目を集め、「中東のCNN」と形容された。 同年12月15日、アフガニスタンに入国しようとしたカメラマンサミ・アルハジが、パキスタンの入国管理で拘束され、アメリカ軍に引き渡された。アメリカ軍はアルハジの容疑を「ビンラーディンのビデオを撮影した」「アフガンにミサイルを買いに行った」「9.11テロ後、アルカーイダに資金援助していた」などと頻繁に変更したが、いずれも立証することはできなかった。 しかし、アメリカ軍はアルハジを「敵性戦闘員」と見なして裁判に掛けることなく、キューバのグアンタナモにある米軍基地に設けられたグアンタナモ湾収容キャンプに拘束し続けた。アルハジの弁護士によれば、彼が拘束されている罪状は全くの口実で、取り調べの内容は、アルジャジーラとアルカーイダの結びつきについて自白させようとするものであり、またアルジャジーラの内情をスパイとして提供するなら釈放すると持ちかけられたという。2008年5月2日、ようやく釈放され、アルハジは出身国のスーダンに帰国した。 2003年イラク戦争では、イラク市民の戦争被害やアメリカ兵の遺体映像などを流すなど、欧米メディアとは異なる視点のニュースを伝える姿勢は中東、ムスリム社会に於いて存在価値をますます高めている。この戦争では、アメリカ軍のミサイルがバグダード支局に命中し、特派員ターリク・アイユーブ(英語版、アラビア語版)が死亡している。 2005年6月、刷新開局。これまで使用してきたアラブ調のアイキャッチ等を一新した。 2006年11月1日、開局10周年を迎え、これまでの局の足跡を辿る番組のほか、子供と大人が討論する番組など、様々な特別記念番組を放送。また、これまでに殉職したスタッフに対して社員一同による黙祷を行った。この他、開局10周年にちなみ、多くの新しい企画が開始された。 2013年1月2日、アメリカ合衆国元副大統領アル・ゴアとジョエル・ハイアット(英語版)が設立したカレントTV(英語版)の買収を発表した。買収額は500億ドルのうち、ゴアへの譲渡額は100億円であった。これによって、ゴアは産油国カタールから巨額の利益を得たという批判があることを認めている。カレントTVは、アルジャジーラ・アメリカ(後述)として再始動した。 2001年9月11日以降、対テロ戦争を国策に掲げる際のアメリカ合衆国連邦政府においては、ビンラディンからのテロを正当化するメッセージをそのまま放送したことから、「敵対勢力(テロ組織)の主張を発信し、宣伝している」として問題視された。アルジャジーラ側は「あらゆる観点を取り上げているだけ」と反論したが、これによって、アルジャジーラとタイアップしていたCNNなど、いくつかの報道機関に政治的圧力が加えられ、その放送割り当て時間が削減された。 更には、2005年11月22日付のイギリスの大衆紙デイリー・ミラーによると、「アメリカのブッシュ大統領が、イラク戦争のファルージャ攻撃において、ドーハのアルジャジーラ本部にも空爆を意図していた」としている。これに伴い、アルジャジーラはスタッフやキャスト、あるいはその家族を揃えての批判キャンペーンを行った。 また、イラク戦争中に米兵の遺体を放映したことで、NYSE MKTへの立ち入りを禁止されたほか、最近ではチュニジアの反体制運動家へのインタビューが原因で、在カタールのチュニジア大使館員が全員引き上げるなど、報道内容が政治問題化してしまう事もしばしばある。 2011年エジプト騒乱では、エジプトでの取材許可を取り消されたほか衛星経由での伝送を妨害されるなどしたが、精力的な現地レポートを続け話題となった。 2017年5月、サウジアラビア、バーレーン、UAE、エジプトの各国は、アルジャジーラがイラン寄りの報道をしたことを理由に放送の遮断に踏み切った。翌月、各国はカタールとの国交断絶を表明(2017年カタール外交危機)し、受信の早期回復は絶望的な状況となった。また、断交した4か国は2017年6月24日までに、カタールに対しアルジャジーラの閉鎖を含む13項目にわたる要求を送付して圧力を加えている。 アルジャジーラのテレビ番組は報道だけではなく、時には出席者すべてが途中退席してしまうほど白熱する討論番組「反対方向(アラビア語: الاتجاه المعاكس)」、著名なイスラム法学者ユースフ・アル=カラダーウィーがクルアーンの知識にのっとり、法から性生活に至るまで、幅広い視聴者からの質問に回答する宗教番組「シャリーアと生活(アラビア語: الشريعة والحياة)」も高い評価を受けている。 カタールのドーハに本局を置くアルジャジーラの英語版チャンネル。当初はAl Jazeera Internationalという名称で試験放送を行っていたが、最終的にAl Jazeera Englishとして開局した。 2006年11月15日、英語による放送アルジャジーラ・イングリッシュの放送が当初の予定よりも遅れて開始された。開局にあたってはITN、BBC、アメリカABC、CNNといった海外メディアから記者を引き抜くなどし話題を呼んだ。リズ・カーンもこの時の移籍組である。なお、英語版で最初に報じられたニュースは千島列島でのM7.8の地震であった。 アラビア語版アルジャジーラチャンネルでは、日本留学経験があり、日本語や日本文化や日本事情に精通したスタッフが取材を行っている。これまでに時事ニュース・社会問題からポップカルチャーまでの広範囲にわたってカバーし、日本に関する情報を発信してきた。 時事ニュース以外については番組「مراسلو الجزيرة」("Al Jazeera correspondents"、「アルジャジーラの特派員達」の意。)で放送されることが主である。この番組では、各国の特派員が政治・社会・文化について現地で取材したレポートが流される。取り上げる話題は日本のテレビでもあまり報じられない地方の社会問題や若者文化にまで及ぶこともあり、日本の知られざる一面をアラブ社会に紹介する一助となっている。 2003年12月、アルジャジーラの日本における支局開設準備が進んでいることが判明した。2004年5月2日、ドーハで開催された「アラブ・日本メディアシンポジウム」において、アルジャジーラ東京支局の開設が正式に発表された。同支局は北京支局に続いて2局目となるアジア地域の支局となった。2004年5月当時、スタッフは3名在籍しており、開局当初の3か月間はNHKより技術支援を受ける予定であると報じられた。 初代局長は日本留学経験があり、開局当時で既に日本在住10年だったレズラジ・モスタファ(モロッコ出身、東京大学学術博士。日本の大学院で博士号を取得した初のモロッコ人だという情報もある。)が務めた。同氏は2001年よりアルジャジーラのアドバイザーをしており、そのまま局長に就任した形となった。 東京支局開局当時より、日本からの報道を伝える特派員の一人として、ファディ・サラメが挙げられる。同氏はシリア出身。ダマスカス医科大学卒業後に来日し、東京医科歯科大学にて内視鏡外科術を研究していた。最終的には消化器系に関する博士号を取得している。一方医学を学ぶ傍らでジャーナリズム分野での活動を行い、フリーランスのリポーター、NHKのNHKワールド・ラジオ日本スタッフを務めた後、2004年にアルジャジーラ東京支局の特派員として加わった。 2016年8月時点でも在日本特派員としてアルジャジーラに登場している。2011年3月11日に発生した東日本大震災においても、アルジャジーラを通じて日本からアラブ世界に向けて情報を発信した。 2001年11月9日、日本のスカイパーフェクTV!で一部時間帯における日本語解説を含むアルジャジーラ放送が無料にて放送開始となった。別途チャンネル契約のいらないプロモチャンネル(202ch)として終日提供されていたが、試験放送のまま1年後の2002年9月30日に放送終了することが発表された。 スカパーでの提供終了後、普通の衛星チューナーとテレビで気軽に視聴できるアルジャジーラ放送は、NHK BS1の『おはよう世界』においてのみとなった。世界各局テレビニュース『ワールドニュースアワー』のひとつとして枠が設けられ、日本語による時差通訳が付けられた。同番組はNHKのチャンネル改編後『ワールドWave』としてリニューアルした。アルジャジーラも以前同様に視聴することができる。 Al Jazeera Englishに関しては横浜にある衛星放送事業を専門とする ハマーズ社 が配信を手がけており、日本国内の東京ケーブルネットワーク等がプロジェクトパートナーとなっている。なお、東京ケーブルネットワークでの提供については、専門チャンネルラインナップの一つとなっており、法人(オフィス、ホテル、店舗、教育機関等)向けの映像配信サービスとしての扱いである。 2013年、アルジャジーラはアメリカ合衆国の既存のテレビ局、カレントTVを買収してアルジャジーラ・アメリカを発足させた。イスラムの視線に立ったアメリカ国内向けの報道と評論に力を入れてきたが、プライムタイムの視聴者数は平均して2-4万人にとどまるなど視聴率は伸び悩んだ。2016年、原油価格が低迷しアルジャジーラ本体の経営見直しが進むと、同年1月13日、社内会議で突然放送局の閉鎖が打ち出され、同年4月12日に放送は終了した。 同局の成功を見本として、ベネズエラ政府の主導のもと、キューバやアルゼンチンなどの政府が参加して同国の首都カラカスに2005年7月24日に設立されたTeleSURがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アルジャジーラ(アラビア語: الجزيرة、「アルジャジーラ衛星チャンネル」、قناة الجزيرة الفضائية)は、アラビア語と英語でニュース等を24時間放送している衛星テレビ局。本社はカタールのドーハにある。タグラインは、「一つの意見があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語ではAl JazeeraもしくはAljazeeraと綴られる。JSCと表示されることもあるが、これはJazeera Satellite Channelの略である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「ジャジーラ」はアラビア語で「島」「半島」を意味し(「アル」は定冠詞)、アラブ地域では一般的にアラビア半島を指すが、ここではカタール半島を指す w:Al Jazeera。なお、サウジアラビアの新聞など、中東諸国にはこれ以外にも「アルジャジーラ」の名をもつ報道機関が存在するが、それらとの直接的な関係はなく、別の組織である。", "title": "名称の由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ロゴデザインはディーワーニー体(アラビア書道における書体のひとつで、日本の書道における草書体にあたる)で雫状に「アルジャジーラ」と書かれている。", "title": "名称の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1996年11月1日、カタール首長であるハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーより5億カタール・リヤル(1億3700万USドルに相当)の支援を受けて設立。独立を保った報道姿勢を保ちつつも、会長には首長の親戚であるハマド・ビン・サーメル・アール=サーニーが就任し、カタール政府を通じた経営という形がとられた(カタール政府以外にも、個人投資家達が加わっている)。", "title": "経営" }, { 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"2011年エジプト騒乱では、エジプトでの取材許可を取り消されたほか衛星経由での伝送を妨害されるなどしたが、精力的な現地レポートを続け話題となった。", "title": "アルジャジーラに対する圧力・取材禁止措置" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2017年5月、サウジアラビア、バーレーン、UAE、エジプトの各国は、アルジャジーラがイラン寄りの報道をしたことを理由に放送の遮断に踏み切った。翌月、各国はカタールとの国交断絶を表明(2017年カタール外交危機)し、受信の早期回復は絶望的な状況となった。また、断交した4か国は2017年6月24日までに、カタールに対しアルジャジーラの閉鎖を含む13項目にわたる要求を送付して圧力を加えている。", "title": "アルジャジーラに対する圧力・取材禁止措置" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アルジャジーラのテレビ番組は報道だけではなく、時には出席者すべてが途中退席してしまうほど白熱する討論番組「反対方向(アラビア語: الاتجاه المعاكس)」、著名なイスラム法学者ユースフ・アル=カラダーウィーがクルアーンの知識にのっとり、法から性生活に至るまで、幅広い視聴者からの質問に回答する宗教番組「シャリーアと生活(アラビア語: الشريعة والحياة)」も高い評価を受けている。", "title": "主な番組" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "カタールのドーハに本局を置くアルジャジーラの英語版チャンネル。当初はAl Jazeera Internationalという名称で試験放送を行っていたが、最終的にAl Jazeera Englishとして開局した。", "title": "チャンネル群" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2006年11月15日、英語による放送アルジャジーラ・イングリッシュの放送が当初の予定よりも遅れて開始された。開局にあたってはITN、BBC、アメリカABC、CNNといった海外メディアから記者を引き抜くなどし話題を呼んだ。リズ・カーンもこの時の移籍組である。なお、英語版で最初に報じられたニュースは千島列島でのM7.8の地震であった。", "title": "チャンネル群" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アラビア語版アルジャジーラチャンネルでは、日本留学経験があり、日本語や日本文化や日本事情に精通したスタッフが取材を行っている。これまでに時事ニュース・社会問題からポップカルチャーまでの広範囲にわたってカバーし、日本に関する情報を発信してきた。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "時事ニュース以外については番組「مراسلو الجزيرة」(\"Al Jazeera correspondents\"、「アルジャジーラの特派員達」の意。)で放送されることが主である。この番組では、各国の特派員が政治・社会・文化について現地で取材したレポートが流される。取り上げる話題は日本のテレビでもあまり報じられない地方の社会問題や若者文化にまで及ぶこともあり、日本の知られざる一面をアラブ社会に紹介する一助となっている。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年12月、アルジャジーラの日本における支局開設準備が進んでいることが判明した。2004年5月2日、ドーハで開催された「アラブ・日本メディアシンポジウム」において、アルジャジーラ東京支局の開設が正式に発表された。同支局は北京支局に続いて2局目となるアジア地域の支局となった。2004年5月当時、スタッフは3名在籍しており、開局当初の3か月間はNHKより技術支援を受ける予定であると報じられた。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "初代局長は日本留学経験があり、開局当時で既に日本在住10年だったレズラジ・モスタファ(モロッコ出身、東京大学学術博士。日本の大学院で博士号を取得した初のモロッコ人だという情報もある。)が務めた。同氏は2001年よりアルジャジーラのアドバイザーをしており、そのまま局長に就任した形となった。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東京支局開局当時より、日本からの報道を伝える特派員の一人として、ファディ・サラメが挙げられる。同氏はシリア出身。ダマスカス医科大学卒業後に来日し、東京医科歯科大学にて内視鏡外科術を研究していた。最終的には消化器系に関する博士号を取得している。一方医学を学ぶ傍らでジャーナリズム分野での活動を行い、フリーランスのリポーター、NHKのNHKワールド・ラジオ日本スタッフを務めた後、2004年にアルジャジーラ東京支局の特派員として加わった。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2016年8月時点でも在日本特派員としてアルジャジーラに登場している。2011年3月11日に発生した東日本大震災においても、アルジャジーラを通じて日本からアラブ世界に向けて情報を発信した。", "title": "日本における取材" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2001年11月9日、日本のスカイパーフェクTV!で一部時間帯における日本語解説を含むアルジャジーラ放送が無料にて放送開始となった。別途チャンネル契約のいらないプロモチャンネル(202ch)として終日提供されていたが、試験放送のまま1年後の2002年9月30日に放送終了することが発表された。", "title": "日本での放送" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "スカパーでの提供終了後、普通の衛星チューナーとテレビで気軽に視聴できるアルジャジーラ放送は、NHK BS1の『おはよう世界』においてのみとなった。世界各局テレビニュース『ワールドニュースアワー』のひとつとして枠が設けられ、日本語による時差通訳が付けられた。同番組はNHKのチャンネル改編後『ワールドWave』としてリニューアルした。アルジャジーラも以前同様に視聴することができる。", "title": "日本での放送" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "Al Jazeera Englishに関しては横浜にある衛星放送事業を専門とする ハマーズ社 が配信を手がけており、日本国内の東京ケーブルネットワーク等がプロジェクトパートナーとなっている。なお、東京ケーブルネットワークでの提供については、専門チャンネルラインナップの一つとなっており、法人(オフィス、ホテル、店舗、教育機関等)向けの映像配信サービスとしての扱いである。", "title": "日本での放送" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2013年、アルジャジーラはアメリカ合衆国の既存のテレビ局、カレントTVを買収してアルジャジーラ・アメリカを発足させた。イスラムの視線に立ったアメリカ国内向けの報道と評論に力を入れてきたが、プライムタイムの視聴者数は平均して2-4万人にとどまるなど視聴率は伸び悩んだ。2016年、原油価格が低迷しアルジャジーラ本体の経営見直しが進むと、同年1月13日、社内会議で突然放送局の閉鎖が打ち出され、同年4月12日に放送は終了した。", "title": "アルジャジーラ・アメリカ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "同局の成功を見本として、ベネズエラ政府の主導のもと、キューバやアルゼンチンなどの政府が参加して同国の首都カラカスに2005年7月24日に設立されたTeleSURがある。", "title": "アルジャジーラ成功を受けて設立された海外局" } ]
アルジャジーラは、アラビア語と英語でニュース等を24時間放送している衛星テレビ局。本社はカタールのドーハにある。タグラインは、「一つの意見があれば、もう一つの意見がある」。 英語ではAl JazeeraもしくはAljazeeraと綴られる。JSCと表示されることもあるが、これはJazeera Satellite Channelの略である。
{{Otheruses|カタールの衛星テレビ局|その他}} {{特殊文字|説明=[[アラビア語]]の文字}} {{基礎情報 放送局 | 放送局名 =アルジャジーラ<br>Al Jazeera<br>الجزيرة | 画像 = | 画像説明 = | 運営 =アルジャジーラ | 設立 = [[1996年]][[11月1日]] | 解散 = | 在籍国 ={{QAT}} | 所在地 =[[ドーハ]] | 演奏所 = | 外部リンク =http://www.aljazeera.net/ | 外部リンク名 =アルジャジーラネット {{ar icon}} | チャンネル名1 =Al Jazeera | 放送媒体1 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号1 = | 呼出名称1 = | 放送チャンネル番号1 = | 番号1 = | 周波数1 = | 音声周波数1 = | 映像周波数1 = | 音声出力1 = | 映像出力1 = | 開局1 =[[1996年]][[11月1日]] | 放送対象国1 = | 放送対象地域1 = | 外部リンク1 = | 外部リンク名1 = | チャンネル名2 =Al Jazeera Sports | 放送媒体2 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号2 = | 呼出名称2 = | 放送チャンネル番号2 = | 番号2 = | 周波数2 = | 音声周波数2 = | 映像周波数2 = | 音声出力2 = | 映像出力2 = | 開局2 =[[2003年]][[11月1日]] | 放送対象国2 = | 放送対象地域2 = | 外部リンク2 = | 外部リンク名2 = | チャンネル名3 =Al Jazeera Mubasher | 放送媒体3 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号3 = | 呼出名称3 = | 放送チャンネル番号3 = | 番号3 = | 周波数3 = | 音声周波数3 = | 映像周波数3 = | 音声出力3 = | 映像出力3 = | 開局3 =[[2005年]][[4月15日]] | 放送対象国3 = | 放送対象地域3 = | 外部リンク3 = | 外部リンク名3 = | チャンネル名4 =Al Jazeera Children's Channel | 放送媒体4 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号4 = | 呼出名称4 = | 放送チャンネル番号4 = | 番号4 = | 周波数4 = | 音声周波数4 = | 映像周波数4 = | 音声出力4 = | 映像出力4 = | 開局4 =[[2005年]][[9月9日]] | 放送対象国4 = | 放送対象地域4 = | 外部リンク4 = | 外部リンク名4 = | チャンネル名5 =Al Jazeera English | 放送媒体5 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号5 = | 呼出名称5 = | 放送チャンネル番号5 = | 番号5 = | 周波数5 = | 音声周波数5 = | 映像周波数5 = | 音声出力5 = | 映像出力5 = | 開局5 =[[2006年]][[11月15日]] | 放送対象国5 = | 放送対象地域5 = | 外部リンク5 = | 外部リンク名5 = | チャンネル名6 =Al Jazeera Documentary Channel | 放送媒体6 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号6 = | 呼出名称6 = | 放送チャンネル番号6 = | 番号6 = | 周波数6 = | 音声周波数6 = | 映像周波数6 = | 音声出力6 = | 映像出力6 = | 開局6 =[[2007年]][[1月1日]] | 放送対象国6 = | 放送対象地域6 = | 外部リンク6 = | 外部リンク名6 = | チャンネル名7 =Al Jazeera america | 放送媒体7 =[[衛星放送|衛星テレビ放送]] | 呼出符号7 = | 呼出名称7 = | 放送チャンネル番号7 = | 番号7 = | 周波数7 = | 音声周波数7 = | 映像周波数7 = | 音声出力7 = | 映像出力7 = | 開局7 =[[2013年]][[8月21日]] | 放送対象国7 = | 放送対象地域7 = | 外部リンク7 = | 外部リンク名7 = | 特記事項 = }} [[ファイル:Al Jazeera English Newsdesk.jpg|right|thumb|300px|アルジャジーラ・イングリッシュのニュースルーム]] '''アルジャジーラ'''(略称{{Rtl-langWithName|ar|アラビア語|الجزيرة}}, al-Jazīra, アル=ジャズィーラ、名称:{{rtl-lang|ar|قناة الجزيرة الفضائية}}, Qanāt al-Jazīra al-Faḍāʾīya, カナート・アル=ジャズィーラ・アル=ファダーイーヤ, 実際の発音:カナートゥ・ル=ジャズィーラティ・ル=ファダーイーヤ)は、[[アラビア語]]と[[英語]]で[[ニュース]]等を[[24時間年中無休|24時間放送している]][[衛星放送|衛星]][[テレビジョン放送局|テレビ局]]。本社は[[カタール]]の[[ドーハ]]にある。[[タグライン]]は、「一つの[[意見]]があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」。 英語ではAl JazeeraもしくはAljazeeraと綴られる。JSCと表示されることもあるが、これはJazeera Satellite Channelの略である。 == 名称の由来 == 「[[wikt:جزيرة|ジャジーラ]]」はアラビア語で「[[島]]」「[[半島]]」を意味し(「アル」は[[アラビア語の冠詞|定冠詞]])、[[アラブ諸国|アラブ地域]]では一般的に[[アラビア半島]]を指すが、ここでは[[カタール]]半島を指す [[:w:Al Jazeera]]。なお、[[サウジアラビア]]の[[新聞]]など、[[中東]]諸国にはこれ以外にも「アルジャジーラ」の名<ref group="注釈">サウジアラビアで発刊されている新聞紙の場合はAl-Jazirahという英文綴りであるため区別はしやすい。</ref>をもつ[[報道機関]]が存在するが、それらとの直接的な関係はなく、別の組織である。 [[ロゴタイプ|ロゴデザイン]]は[[ディーワーニー体]]([[イスラームの書法|アラビア書道]]における[[書体]]のひとつで、[[日本]]の[[書道]]における[[草書体]]にあたる)で雫状に「アルジャジーラ」と書かれている。 == 経営 == [[1996年]][[11月1日]]、カタール首長である[[ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー]]より5億[[カタール・リヤル]](1億3700万[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]に相当)の支援を受けて設立。独立を保った報道姿勢を保ちつつも、会長には首長の親戚であるハマド・ビン・サーメル・アール=サーニーが就任し、カタール政府を通じた経営<ref>http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/country_profiles/791921.stm</ref>という形がとられた(カタール政府以外にも、個人投資家達が加わっている)。 上記金額の支援は開設後5年間の経営を維持するものとして行われ、2001年までに[[成功報酬型広告|広告収入]]などによる独立採算を達成することが期待されていた。 イギリス人ジャーナリスト ヒュー・マイルズ著「アルジャジーラ 報道の戦争」によると収益の多くを海外メディアからの「映像使用料」が占め、特に[[日本放送協会]](NHK)が払う金額が一番大きく、同局の大きな助けとなっている。また同著によると同じ[[ニュース専門放送局|ニュース専門局]][[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]と比較してCMの放送時間が少ないという。 長らくカタール政府の出資により経営が続けられていたが、[[2015年]]頃になると[[原油]]価格の下落などでカタールの財政状況が悪化。同年夏には、アルジャジーラの取締役会が会社経費の削減を検討し始めた。直接的な人員削減は[[2016年]]に入ると急速に始まり、同年1月12日にはアルジャジーラ・アメリカ(後述)の廃局が伝えられ約700人が[[解雇]]された。また、3月27日にはアルジャジーラ本体で500人前後の人員削減を発表している。人員整理が始まる前の職員数は約3,500人とされており、大部分が整理される見込み<ref>[https://www.cnn.co.jp/business/35080240.html アルジャジーラ、500人を人員削減 原油価格下落の余波] CNN(2016年3月28日)2017年6月15日閲覧</ref>。 == 特徴 == 従来からの[[欧米]]([[キリスト教]]文化圏)中心の視点とは異なるアラブ系[[メディア (媒体)|メディア]]であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のテレビがアメリカ社会、文化に偏向しているのと同様、アルジャジーラも当然アラブ社会(および[[アラブ世界]]の一部を含む[[イスラーム世界]])、文化に偏向しているが、これが直ちにアルジャジーラが[[反米]]メディアである事を意味しない。 カタールは、欧米諸国に対しては、[[イラク戦争]]では[[軍事基地|基地]]を提供する程度には比較的に穏健な姿勢であり、このアルジャジーラはカタール政府が[[西洋]]の近代的メディアを手本に創設したものである。また、[[パレスチナ自治政府]]の[[汚職]]などの問題を追及したり、[[イスラエル人]]が出演して[[ヘブライ語]]で話すなど、他のアラブのメディアが行わなかったような話題も積極的に取り上げる。 アルジャジーラは自らを「公正で政治的圧力を受けない、中東で唯一の報道機関である」と謳っている。実際に[[英国]]の[[Index on Censorship]]([[検閲]]に関する問題を扱う[[雑誌]]。1972年創刊)では、[[2005年]]に「アラブ諸国における自由な情報交換を促進し、検閲を拒否する勇気」の一例として紹介されており、アメリカにおいても1999年の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙に「アラブ諸国で、最も自由で最も広い観点を持つテレビネットワーク」と評されている。ただし、[[カタール]]の内政には言及しないほか、[[ジャスミン革命]]に端を発する中東諸国の騒乱では、[[スンニ派]]のリビア・シリアの反体制派を擁護する一方で、[[バーレーン]]の[[シーア派]]反体制派に対して非擁護的な報道を行うなど、公正な報道に対して疑問を覚える視聴者も少なくない。 アナウンサーの出身国は、アラブ世界の広範囲にわたっており、本人達の宗教も[[イスラム教]]や[[キリスト教]]と多様である。服装面に関しては宗教色が強くなく、長らく「[[ヒジャブ]]を着用する[[ムスリム|ムスリマ]]女性アナウンサー」は見られなかったが、2003年に[[アルジェリア]]出身の有名女性アナウンサーが開局以来初めての着用者として登場し話題となった。その後局上層部は露出が少なく慎ましいとみなされる服装を求める意向を強めていったらしく、2010年には服装ガイドラインを受け入れがたいとした女性アナウンサーらが集団で辞意を表明するという事件も起こった<ref>http://www.alwasatnews.com/2823/news/read/432077/1.html</ref>。 == 沿革 == === 前身 === かつてサウジアラビアの衛星企業 [http://www.orbit.net/ Orbit] 社と[[英国放送協会|BBC]]との間で、アラビア語ニュースチャンネル設立の準備が進められていた。BBCより技術・人材面での協力を受け、Orbitから資金が出るというものであった。Orbitは娯楽等チャンネルを有料契約にて提供するという業態をとっており、BBCのアラブ版はこれらのひとつとしてサービスに組み込まれる予定だった。 1994年3月、両者の間に10年契約が結ばれた。数か月後、1日あたり2時間の放送がウエスト・ロンドンにあるBBCスタジオより開始され、1994年末には8時間放送に移行した。 BBCのアラビア語版ニュースチャンネルに関して英国ではBBCがオイルマネーに屈したとの声も聞かれたというが、同チャンネルにとっての大きな障害は、他の英国版チャンネル同様の報道姿勢を貫こうとするBBCと、体制側にとって好ましくない内容の放送を望まないサウジアラビア側との間に生じた軋轢だった。 この問題は、BBCが英国に在住していたサウジアラビア出身の反体制イスラーム活動家の取材をしたり、サウジアラビアにおける[[人権蹂躙]]問題の報道をしたりしたことで決定的となっていった。そして1996年4月、Orbit側がアラビア語ニュースチャンネルの送信を中止することで、同プロジェクトは終焉を迎え、BBCによる訓練を受けた報道関係者らも職場を失った。 なおその後BBCのアラビア語テレビ放送([http://www.bbc.co.uk/arabic/tvandradio/ BBC Arabic])が2008年3月11日に改めて開局している。中東情勢が緊迫し、アラビア語によるニュースチャンネルの重要性が認識されていた頃の再出発であった。かつてOrbitと合同で進められたプロジェクトとは異なり、BBCにより放送されているワールドサービスのチャンネルという位置付けで、画面デザインや報道姿勢も英語版BBC放送に非常に近いものとなっている。 === 開局へ === カタールを拠点とするアラビア語ニュース報道局の設立を計画していた首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーは、BBCとOrbitの合弁事業が頓挫したのを受けて、BBCにて訓練を受けた関係者を大量に雇い入れた。これがアルジャジーラ開局を支えた人材となった。 === 開局初期 === [[1996年]][[11月1日]]に開局。放送機材は[[ソニー]]が全て請け負った{{要出典|date=2011年5月}}。当初は6時間のみの放送で、1997年に12時間の半日放送となった。24時間放送に拡大したのは1999年のことである。 === 知名度の拡大へ === [[2001年]][[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アメリカのアフガニスタン侵攻]]の報道において、特派員[[タイシール・アッルーニー]]の活躍により、アルジャジーラの名が広く知られるようになる。[[アルカーイダ]]から送付された、[[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビンラディン]]のメッセージの映像を独占放映したり、[[アフガニスタン]]国内から戦争実況を中継したりなどの報道活動により一躍注目を集め、「[[中東]]のCNN」と形容された。 同年[[12月15日]]、アフガニスタンに入国しようとした[[カメラマン]][[サミ・アルハジ]]が、パキスタンの[[出入国管理|入国管理]]で拘束され、[[アメリカ軍]]に引き渡された。アメリカ軍はアルハジの容疑を「ビンラーディンのビデオを撮影した」「アフガンに[[ミサイル]]を買いに行った」「[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11テロ]]後、アルカーイダに資金援助していた」などと頻繁に変更したが、いずれも立証することはできなかった。 しかし、アメリカ軍はアルハジを「敵性戦闘員」と見なして[[裁判]]に掛けることなく、[[キューバ]]の[[グアンタナモ]]にある[[グアンタナモ米軍基地|米軍基地]]に設けられた[[グアンタナモ湾収容キャンプ]]に拘束し続けた。アルハジの[[弁護士]]によれば、彼が拘束されている罪状は全くの口実で、取り調べの内容は、アルジャジーラとアルカーイダの結びつきについて[[自白]]させようとするものであり、またアルジャジーラの内情を[[スパイ]]として提供するなら釈放すると持ちかけられたという。[[2008年]][[5月2日]]、ようやく釈放され、アルハジは出身国の[[スーダン]]に帰国した。 [[2003年]][[イラク戦争]]では、イラク市民の戦争被害やアメリカ兵の[[死体|遺体]]映像などを流すなど、[[欧米]]メディアとは異なる視点のニュースを伝える姿勢は中東、[[ムスリム]]社会に於いて存在価値をますます高めている。この戦争では、アメリカ軍の[[ミサイル]]が[[バグダード]]支局に命中し、特派員{{仮リンク|ターリク・アイユーブ|en|Tareq Ayyoub|ar|طارق أيوب}}が死亡している。 [[2005年]][[6月]]、刷新開局。これまで使用してきたアラブ調の[[アイキャッチ]]等を一新した。 [[2006年]][[11月1日]]、開局10周年を迎え、これまでの局の足跡を辿る番組のほか、子供と大人が討論する番組など、様々な特別記念番組を放送。また、これまでに[[殉職]]したスタッフに対して社員一同による[[黙祷]]を行った。この他、開局10周年にちなみ、多くの新しい企画が開始された。 [[2013年]][[1月2日]]、アメリカ合衆国元副大統領[[アル・ゴア]]と{{仮リンク|ジョエル・ハイアット|en|Joel Hyatt}}が設立した{{仮リンク|カレントTV|en|Current TV}}の買収を発表した<ref>{{cite news |language = | author =| url =http://www.cnn.co.jp/showbiz/35026493.html| title =中東のアルジャジーラ、アル・ゴア氏経営の米テレビ局を買収 | publisher =| date= 2013-01-04| accessdate =2013-01-06}}</ref>。買収額は500億ドルのうち、ゴアへの譲渡額は100億円であった。これによって、ゴアは産油国カタールから巨額の利益を得たという批判があることを認めている。カレントTVは、アルジャジーラ・アメリカ([[#アルジャジーラ・アメリカ|後述]])として再始動した。 == アルジャジーラに対する圧力・取材禁止措置 == [[2001年]][[9月11日]]以降、[[対テロ戦争]]を[[国策]]に掲げる際の[[アメリカ合衆国連邦政府]]においては、ビンラディンからの[[テロリズム|テロ]]を正当化するメッセージをそのまま放送したことから、「敵対勢力(テロ組織)の主張を発信し、宣伝している」として問題視された。アルジャジーラ側は「あらゆる観点を取り上げているだけ」と反論したが、これによって、アルジャジーラとタイアップしていたCNNなど、いくつかの報道機関に政治的圧力が加えられ、その放送割り当て時間が削減された。 更には、[[2005年]][[11月22日]]付のイギリスの大衆紙[[デイリー・ミラー]]によると、「アメリカの[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が、イラク戦争の[[ファルージャ]]攻撃において、ドーハのアルジャジーラ本部にも[[空襲|空爆]]を意図していた」としている。これに伴い、アルジャジーラはスタッフやキャスト、あるいはその家族を揃えての批判キャンペーンを行った。 また、[[イラク戦争]]中に米兵の遺体を放映したことで、[[NYSE MKT]]への立ち入りを禁止されたほか、最近では[[チュニジア]]の反体制運動家への[[インタビュー]]が原因で、在カタールのチュニジア大使館員が全員引き上げるなど、報道内容が政治問題化してしまう事もしばしばある。 [[2011年エジプト騒乱]]では、[[エジプト]]での取材許可を取り消された<ref>http://sankei.jp.msn.com/world/news/110130/mds1101302309021-n1.htm</ref>ほか衛星経由での伝送を妨害されるなどしたが、精力的な現地レポートを続け話題となった。 [[2017年]]5月、[[サウジアラビア]]、[[バーレーン]]、[[アラブ首長国連邦|UAE]]、[[エジプト]]の各国は、アルジャジーラが[[イラン]]寄りの報道をしたことを理由に放送の遮断に踏み切った。翌月、各国はカタールとの国交断絶を表明([[2017年カタール外交危機]])し、受信の早期回復は絶望的な状況となった<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35102262.html 中東4カ国、カタールと国交断絶 「テロ支援」巡り対立] CNN(2017年6月5日)2017年6月15日閲覧</ref>。また、断交した4か国は2017年6月24日までに、カタールに対しアルジャジーラの閉鎖を含む13項目にわたる要求を送付して圧力を加えている<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35103258.html?tag=mcol;topStories カタールと断交の4カ国、13項目要求 アルジャジーラ閉鎖など] CNN(2017年6月24日)2017年6月24日閲覧</ref>。 == 主な番組 == === アラビア語版ニュースチャンネル === アルジャジーラのテレビ番組は報道だけではなく、時には出席者すべてが途中退席してしまうほど白熱する討論番組「反対方向({{lang-ar|الاتجاه المعاكس}})」、著名な[[ウラマー|イスラム法学者]][[ユースフ・アル=カラダーウィー]]が[[クルアーン]]の知識にのっとり、法から性生活に至るまで、幅広い視聴者からの質問に回答する宗教番組「[[シャリーア]]と生活({{lang-ar|الشريعة والحياة}})」も高い評価を受けている。 == チャンネル群 == {| class="wikitable" |- ! チャンネル名 !! 説明 !! 開局 |- | [http://www.aljazeera.net/channel/ Al Jazeera] || アラビア語。当初はこのチャンネルのみだった。|| 1996年11月1日 |- | [[beIN Sports]] || スポーツチャンネル。開局後チャンネル数が増加。|| 2003年11月1日 |- | [http://mubasher.aljazeera.net/ Al Jazeera Mubasher] || アラビア語ライブ中継チャンネル。会議や群衆デモ等を編集・コメント無しでライブ(Mubasher)放送。|| 2005年4月15日 |- | [http://www.jcctv.net/ Al Jazeera Children's Channel] || アラビア語子供チャンネル。道徳教育やアニメなど。|| 2005年9月9日 |- | [http://english.aljazeera.net/ Al Jazeera English] || 英語チャンネル。かつてはAl Jazeera Internationalと呼ばれていた。|| 2006年11月15日 |- | [http://doc.aljazeera.net/ Al Jazeera Documentary Channel] || アラビア語ドキュメンタリー専門チャンネル。海外番組のアラビア語訳も含む。|| 2007年1月1日 |- | [http://mubasher-misr.aljazeera.net/ Al Jazeera Mubasher Misr] || アラビア語ライブ中継チャンネルから派生したエジプト争乱報道用チャンネル。|| 2011年 |- | [http://america.aljazeera.com/ Al Jazeera America] || アメリカ向け英語チャンネル。かつてはcurrenttvと呼ばれていた。視聴者数の伸び悩み、及び原油価格の低下などの影響によるリストラ計画の一環により2016年4月30日をもって閉局する事となった。|| 2013年8月21日 |- | [http://balkans.aljazeera.net/ Al Jazeera Balkans] || 2011年に開局した[[バルカン]]地域向けチャンネル。[[サラエヴォ]]が拠点。|| 2011年11月11日 |- | Al Jazeera Türk || 2011年2月、[[トルコ語]]版設立に向けた動きとして、[[トルコ]]のTVチャンネルCine 5を買収したことが報道された。<ref>http://www.hurriyetdailynews.com/n.php?n=al-jazeera-acquires-turkey8217s-cine-5-2011-02-10</ref> || 2014年(オンライン版) |} === Al Jazeera English === [[カタール]]の[[ドーハ]]に本局を置くアルジャジーラの英語版チャンネル。当初はAl Jazeera Internationalという名称で試験放送を行っていたが、最終的にAl Jazeera Englishとして開局した。 2006年11月15日、[[英語]]による放送[[アルジャジーラ・イングリッシュ]]の放送が当初の予定よりも遅れて開始された。開局にあたっては[[ITN]]、[[英国放送協会|BBC]]、アメリカ[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]、CNNといった海外メディアから記者を引き抜くなどし話題を呼んだ。リズ・カーンもこの時の移籍組である。なお、英語版で最初に報じられたニュースは[[千島列島沖地震 (2006年)|千島列島でのM7.8の地震]]であった。 == 日本における取材 == アラビア語版アルジャジーラチャンネルでは、[[日本]]留学経験があり、[[日本語]]や[[日本文化]]や日本事情に精通したスタッフが取材を行っている。これまでに時事ニュース・社会問題から[[ポップカルチャー]]までの広範囲にわたってカバーし、日本に関する情報を発信してきた。 時事ニュース以外については番組「{{rtl-lang|ar|مراسلو الجزيرة}}」<ref>http://www.aljazeera.net/NR/exeres/D5496407-4AF8-4DFF-84AC-67A3737C8872.htm</ref>("Al Jazeera correspondents"、「アルジャジーラの特派員達」の意。)で放送されることが主である。この番組では、各国の特派員が政治・社会・文化について現地で取材したレポートが流される。取り上げる話題は日本のテレビでもあまり報じられない地方の社会問題や若者文化にまで及ぶこともあり、日本の知られざる一面をアラブ社会に紹介する一助となっている。 === 東京支局 === 2003年12月、アルジャジーラの日本における支局開設準備が進んでいることが判明<ref>https://web.archive.org/web/20111125224540/http://www.47news.jp/CN/200312/CN2003123001001277.html</ref>した。2004年5月2日、ドーハで開催された「アラブ・日本メディアシンポジウム」において、アルジャジーラ[[東京]]支局の開設が正式に発表<ref>https://web.archive.org/web/20111125221550/http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004050201003953.html</ref>された。同支局は[[北京市|北京]]支局に続いて2局目となるアジア地域の支局となった。2004年5月当時、スタッフは3名在籍しており、開局当初の3か月間はNHKより技術支援を受ける予定であると報じられた<ref>http://www.itp.net/479272-al-jazeera-opens-bureau-in-japan</ref>。 初代局長は日本留学経験があり、開局当時で既に日本在住10年だったレズラジ・モスタファ<ref group="注釈">モスタファ・レズラジ、ムスタファ・レズラジ、レズラジ・エルムスタファ、エルモスタファ・レズラジ、エルモスタファ・レズラズィ、Rezrazi Elmostafaと表記されていることもある。</ref>([[モロッコ]]出身、[[東京大学]]学術博士<ref>https://www.l.u-tokyo.ac.jp/IAS/Japanese/news/news1998b-j.html</ref>。日本の大学院で博士号を取得した初のモロッコ人だという情報もある<ref>http://recherchecoronique.blogspot.com/2010/01/2009.html</ref>。)が務めた。同氏は2001年よりアルジャジーラのアドバイザーをしており<ref>http://www.abu.org.my/abu/index.cfm/elementid/28114/Al-Jazeera-to-open-Tokyo-bureau-</ref>、そのまま局長に就任した形となった。 === 在日本アルジャジーラ特派員 === 東京支局開局当時より、日本からの報道を伝える特派員の一人として、ファディ・サラメ<ref group="注釈">サラメ・ファディと記されていることもある。</ref>が挙げられる。同氏はシリア出身。ダマスカス医科大学卒業後に来日し、[[東京医科歯科大学]]にて[[内視鏡]]外科術を研究していた<ref>http://www.tmd.ac.jp/cmn/adm/topics/2000_2001/hiroba85/square1.pdf</ref>。最終的には[[消化器]]系に関する博士号を取得<ref>http://www.fccj.or.jp/node/2057</ref>している。一方医学を学ぶ傍らでジャーナリズム分野での活動を行い、フリーランスのリポーター、[[日本放送協会|NHK]]の[[NHKワールド・ラジオ日本]]スタッフを務めた後、2004年にアルジャジーラ東京支局の特派員として加わった。 2016年8月時点でも在日本特派員としてアルジャジーラに登場している。[[2011年]][[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]においても、アルジャジーラを通じて日本からアラブ世界に向けて情報を発信<ref>http://www.aljazeera.net/NR/exeres/DB39B280-AC45-4F82-8BBA-142C3B6A270A.htm</ref>した。 == 日本での放送 == 2001年11月9日、[[日本]]の[[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV!]]で一部時間帯における[[日本語]]解説<ref group="注釈">放送内容の概要を伝えるという意味で、日本語訳ではなくあえて日本語解説放送と称されていた。</ref>を含むアルジャジーラ放送が無料にて放送開始となった。別途チャンネル契約のいらないプロモチャンネル(202ch)として終日提供されていたが、[[試験放送]]のまま1年後の2002年9月30日に放送終了することが発表された。 スカパーでの提供終了後、普通の衛星チューナーとテレビで気軽に視聴できるアルジャジーラ放送は、[[NHK BS1]]の『[[おはよう世界]]』においてのみとなった。世界各局テレビニュース『[[ワールドニュースアワー]]』のひとつとして枠が設けられ、日本語による時差[[通訳]]が付けられた。同番組はNHKのチャンネル改編後『[[ワールドWave]]』としてリニューアルした。アルジャジーラも以前同様に視聴することができる<ref>http://www.nhk.or.jp/worldwave/worldbc/asia.html</ref><ref>http://www.nhk.or.jp/worldnews/programs.html</ref>。 Al Jazeera Englishに関しては横浜にある衛星放送事業を専門とする [http://www.hamers.co.jp/white/alj/ ハマーズ社] が配信を手がけており、日本国内の[[東京ケーブルネットワーク]]等がプロジェクトパートナーとなっている。なお、東京ケーブルネットワークでの提供については、専門チャンネルラインナップの一つとなっており、法人(オフィス、ホテル、店舗、教育機関等)向けの映像配信サービスとしての扱い<ref>http://www.tcn-catv.co.jp/content/view/81/219/</ref>である。 ==アルジャジーラ・アメリカ== [[2013年]]、アルジャジーラは[[アメリカ合衆国]]の既存のテレビ局、カレントTVを買収してアルジャジーラ・アメリカを発足させた。イスラムの視線に立ったアメリカ国内向けの報道と評論に力を入れてきたが、[[プライムタイム]]の視聴者数は平均して2-4万人にとどまるなど視聴率は伸び悩んだ。[[2016年]]、原油価格が低迷しアルジャジーラ本体の経営見直しが進むと、同年1月13日、社内会議で突然放送局の閉鎖が打ち出され、同年4月12日に放送は終了した<ref>[https://www.cnn.co.jp/showbiz/35076211.html アルジャジーラ・アメリカが放送終了へ 開局から2年半] CNN(2016年1月14日)2017年6月15日閲覧</ref>。 == アルジャジーラ成功を受けて設立された海外局 == 同局の成功を見本として、[[ベネズエラ]]政府の主導のもと、[[キューバ]]や[[アルゼンチン]]などの政府が参加して同国の[[首都]][[カラカス]]に[[2005年]][[7月24日]]に設立された[[テレスール|TeleSUR]]がある。 == 著名な記者 == * [[タイシール・アッルーニー]]:アフガニスタンやイラクの戦争報道で活躍した。 * [[ハーフェズ・アルミラージ]]:ワシントン支局長。アメリカの要人などにインタビューを行った。 == 日本人スタッフ == * [[藤吉隆雄]]:アルジャジーラ・メディア訓練開発センターで4週間、講師として撮影技術などを現地スタッフに教えた<ref>[http://aichi-science.jp/955 あいちサイエンストーク「アルジャジーラトーーク!」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アル・フッラ]]:アルジャジーラに対抗した米当局設立の衛星放送(イラク発)。 * [[アル=アラビーヤ]]:アルジャジーラのライバル。[[サウジアラビア]]政府の出資を受けているとされる([[ドバイ]]発)。 * [[テレスール]]: アルジャジーラを手本として設立された[[中南米]]のテレビ局。 * [[テレビでアラビア語]]:NHK。チルドレン・チャンネルがスキットの制作を請け負った。 * [[大科学実験]]:NHKとの共同制作による科学実験番組。 == 外部リンク == {{commonscat|Al Jazeera}} * [http://www.aljazeera.net/ アルジャジーラネット] - 公式ウェブサイト- AlJazeera.net {{ar icon}} * [https://www.aljazeera.com/ アルジャジーラ・イングリッシュ] - 公式ウェブサイト - AlJazeera.com {{en icon}} * {{YouTube|user=AlJazeeraEnglish}}{{en icon}} * {{YouTube|user = aljazeerachannel|アルジャジーラ}}{{ar icon}} * {{Twitter|AJEnglish|Al Jazeera English}}{{en icon}} * {{Twitter|AJArabic|قناة الجزيرة}}{{ar icon}} * {{Wayback |url=http://www.aljazeeratalk.net/ |title=アルジャジーラトーク! |date=20141229173928}}(الجزيرة توك - AlJazeeraTalk.net) - ニュースブログ{{ar icon}} * {{Wayback |url=http://www.aljazeeratalk.net/english/ |title=アルジャジーラトーク |date=20081113042534}} (AlJazeeraTalk.net/english) {{en icon}} *[http://democracynow.jp/video/20100331-1 声なき人々の声、異なる見方を伝え、対話の架け橋をめざす独立報道機関アルジャジーラ] 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2010.03.31) {{ホワイト・ハウス ジェームズ・S・ブレディ記者会見室座席表}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あるしやしいら}} [[Category:アジアの放送事業者]] [[Category:衛星放送]] [[Category:カタール]] [[Category:カタールのメディア]] [[Category:各国のテレビ局]] [[Category:カタールの多国籍企業]] [[Category:ドーハ]] [[Category:アラビア語のメディア]] [[Category:4つの自由賞受賞者]]
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Linuxマシン
Linuxマシン(リナックスマシン)とは、Linuxカーネルや、Linuxカーネルを含めたGNU/Linuxを実行するコンピュータを指す。ソフトウェアだけではなく、ハードウェアも含めている。Linuxボックスと呼ぶこともある(英語ではLinux boxが普通の呼び名)。 Linuxは多くの種類のコンピュータ(CPUアーキテクチャ、コンピュータ・アーキテクチャ)で利用可能なオペレーティングシステム (OS) で、Linuxマシンと呼んでも、通常のパーソナルコンピュータを始め、マッチ箱程度のサイズから、大きなものはメインフレームと呼ばれる大型のコンピュータまで、世界に存在するコンピュータと呼べる多くの物の上で動作している。そのため、Linuxマシンに、典型的な外観を定義することは出来ない。しかし、Linuxマシンと言ったとき、多くの場合はパーソナルコンピュータ、サーバコンピュータでLinuxが動作しているものを指す。 Linuxマシンを作ることが出来るコンピュータのタイプ(CPUアーキテクチャ)はLinuxカーネルを参照のこと。 Linuxマシンと言った場合、ネットワーク上で独立した単位のコンピュータを指す場合が多く、複数のLinuxマシンが何らかのネットワークで接続され、処理を複数のコンピュータで処理し、利用者から一つのコンピュータの塊に見えるような場合は、Linuxクラスタ(またはコンピュータ・クラスタ)と呼ぶ。 また、Linuxクラスタの一種であるが、クラスタがインターネット上に作られているような場合は、Linuxグリッドと呼ぶ。グリッドの場合、特に複数のOSが参加できるようにしている場合が多い。
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Linuxマシン(リナックスマシン)とは、Linuxカーネルや、Linuxカーネルを含めたGNU/Linuxを実行するコンピュータを指す。ソフトウェアだけではなく、ハードウェアも含めている。Linuxボックスと呼ぶこともある。 Linuxは多くの種類のコンピュータ(CPUアーキテクチャ、コンピュータ・アーキテクチャ)で利用可能なオペレーティングシステム (OS) で、Linuxマシンと呼んでも、通常のパーソナルコンピュータを始め、マッチ箱程度のサイズから、大きなものはメインフレームと呼ばれる大型のコンピュータまで、世界に存在するコンピュータと呼べる多くの物の上で動作している。そのため、Linuxマシンに、典型的な外観を定義することは出来ない。しかし、Linuxマシンと言ったとき、多くの場合はパーソナルコンピュータ、サーバコンピュータでLinuxが動作しているものを指す。 Linuxマシンを作ることが出来るコンピュータのタイプ(CPUアーキテクチャ)はLinuxカーネルを参照のこと。 Linuxマシンと言った場合、ネットワーク上で独立した単位のコンピュータを指す場合が多く、複数のLinuxマシンが何らかのネットワークで接続され、処理を複数のコンピュータで処理し、利用者から一つのコンピュータの塊に見えるような場合は、Linuxクラスタ(またはコンピュータ・クラスタ)と呼ぶ。 また、Linuxクラスタの一種であるが、クラスタがインターネット上に作られているような場合は、Linuxグリッドと呼ぶ。グリッドの場合、特に複数のOSが参加できるようにしている場合が多い。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年10月 | 特筆性 = 2021年10月 | 独自研究 = 2021年10月 }} '''Linuxマシン'''(リナックスマシン)とは、[[Linuxカーネル]]や、Linuxカーネルを含めた[[GNU/Linux]]を実行するコンピュータを指す。ソフトウェアだけではなく、ハードウェアも含めている。'''Linuxボックス'''と呼ぶこともある(英語ではLinux boxが普通の呼び名)。 Linuxは多くの種類の[[コンピュータ]]([[CPU]]アーキテクチャ、[[コンピュータ・アーキテクチャ]])で利用可能な[[オペレーティングシステム]] (OS) で、Linuxマシンと呼んでも、通常の[[パーソナルコンピュータ]]を始め、マッチ箱程度のサイズから、大きなものは[[メインフレーム]]と呼ばれる大型のコンピュータまで、世界に存在するコンピュータと呼べる多くの物の上で動作している。そのため、Linuxマシンに、典型的な外観を定義することは出来ない。しかし、Linuxマシンと言ったとき、多くの場合はパーソナルコンピュータ、[[サーバ]]コンピュータでLinuxが動作しているものを指す。 Linuxマシンを作ることが出来るコンピュータのタイプ(CPUアーキテクチャ)は[[Linuxカーネル]]を参照のこと。 Linuxマシンと言った場合、ネットワーク上で独立した単位のコンピュータを指す場合が多く、複数のLinuxマシンが何らかのネットワークで接続され、処理を複数のコンピュータで処理し、利用者から一つのコンピュータの塊に見えるような場合は、[[Linuxクラスタ]](または[[コンピュータ・クラスタ]])と呼ぶ。 また、Linuxクラスタの一種であるが、クラスタが[[インターネット]]上に作られているような場合は、[[Linuxグリッド]]と呼ぶ。グリッドの場合、特に複数のOSが参加できるようにしている場合が多い。 == Linuxマシンの使われ方 == == Linuxマシンの分類 == ;[[ルータ]] :概ね、マッチ箱からVHSテープの大きさのコンピュータで、ルータとして使われる。一般にハードウェアの性能が非常に低いため、メモリフットプリントの小さい軽量版[[Linuxディストリビューション]]が用いられる。 ; タワー型サーバ : 机や床などに据え置きするタイプのサーバで、タワー型PCと同様な形をしている。大きさは[[PC/AT互換機]]のミニタワーサイズから冷蔵庫大サイズまで様々ある。 ;[[ブレードサーバ]] :[[Webサーバ]]、[[データベース管理システム|データベースサーバ]]を稼働させている業務用の薄型サーバである。サーバラックに集約して運用することが多く、単体で用いることは少ない。ネットワークを介して遠隔操作するため、レスポンス向上のために、CUIによる操作が一般的である。 ; ラックマウント型サーバ : インターネットデータセンター等に設置されているサーバ用のラック([[19インチラック]])にマウントするのに適した形状のサーバである。ラックサーバとも呼ばれる。詳細は[[ラックマウント型サーバ]]を参照。 ;パーソナルコンピュータ/ワークステーション :ユーザーが物理的に直接操作するコンピュータである。CPU,メモリ以外にも、GPUやオーディオ等多様な機能が搭載される傾向にある。殆どの場合[[X Window System]]を搭載しているため、GUIで操作可能な場合が多い。利用するハードウェアが対応している限り、OSの選択に制約はなく、様々な[[Linuxディストリビューション]]が利用可能である。 ;クラスタ :サーバを集めたもの。[[データセンター]]内で稼働している。スペースの制約から、ブレードサーバをサーバラックに集約するタイプが多い。ネットワークを介して遠隔操作するため、レスポンス向上のために、CUIによる操作が一般的である。 ;メインフレーム :企業の基幹業務処理向けに特別に設計される、高性能,高信頼な大型汎用コンピュータである。企業システムの中枢部として稼働する。2000年以前は信頼性確保の面からAT&T社に起源を持つUNIXが用いられて来た。しかし、それ以降は徐々にLinuxが普及して行った。ネットワークを介して遠隔操作するため、レスポンス向上のために、CUIによる操作が一般的である。 == Linuxボックスの作り方 == == 関連記事 == *[[Linux]] *[[Linuxディストリビューション]] {{Linux}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:LINUXましん}} [[Category:Linux]]
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To Heart
『To Heart』(トゥハート)は、1997年5月23日にLeafから発売された学園ラブコメビジュアルノベル。 本作は、サウンドノベルの手法を取り入れた「ビジュアルノベル」の『雫』『痕』により、マニアックな支持を集めていたアダルトゲームブランド「Leaf」によるシリーズ第3弾である。企画・原案・脚本を担当した髙橋龍也によれば、本作は当時に閉塞感のあったLeafの売り上げに貢献するよう企画されたものとのことで、マニアックな色彩の強い前2作と比較して、より広い客層にアピールする作品となっている。 『雫』『痕』が、サウンドノベルの元祖である『弟切草』から連なる流れを色濃く反映した、グロテスクな描写を用いたサスペンス調の作風であるのに対し、本作はライトノベルの雰囲気を取り込み、より大きなマーケットへの訴求を図った。この狙いが的中し、売り上げも増大する。PC版は5万本以上、PS版は10万本以上を売り上げ、普段このようなジャンルのプレイ経験を持たない当時の若年層ユーザーを大きく取り込んだパイオニアでもある。また、PC版は2000年代初頭に全盛だった「ファイル共有ソフト」で数百万回やり取りをされたと言われている。そのため、当時若年層-青年層ユーザーだった者たちへの知名度は非常に高い。 髙橋龍也(企画・原案・脚本担当)曰く、当初は前作『痕』のコンシューマ移植が企画として動いたが実現せず、代わってソニーへ新規の企画を提案したのが本作『ToHeart』であった。 そのため、企画はPS版が先に動いたが、ソニーからの返事を待つうちにPC版が制作・発売に至り、その後に企画が通ってPS版の制作が始まった為に、作品リリースは企画提案と逆順となった。当時PSへの移植には本来タイトルを変更しないと通らないとされたところを、PC版・PS版が同じ『ToHeart』で発売されている理由は、そもそもPS向けの企画が先にあったためであり、同様に1999年のTVアニメ版はPC版ベースという扱いだと説明している。 なお、PC版・PS版のタイトルは同じ『ToHeart』であるが、『To』と『Heart』の間隔が変化している。タイトルロゴおよびテキストでの表記、それぞれにおいてPC版当時は『To Heart』(To/Heart間にスペース)、PS版当時は『ToHeart』(スペースが無い)である。 高橋によると、タイトルロゴについてはデザインとして間延びを嫌って空白を詰めたため、テキスト表記については媒体によって半角/全角/スペースなしと表記ブレが起き、都度修正を依頼するのが面倒でスペースを消して統一したためだという。 上記『To Heart』と『ToHeart』のロゴの違い(To/Heart間のスペースの有無)について、PC版・PS版でタイトルに変化が無い(一見「移植でありながらタイトルが変更されていない」かのように見える)ことと絡め、俗説として『PC版とPS版以降の移植作品を、スペースの有無を変えて別作品として扱うことで、タイトルを変更することなく移植を実現した』など語られることがあるが、高橋は上記の通りスペースの有無はデザインと校正の都合、タイトルが同一なのは移植ではないからだと説明している。 青春恋愛群像として春休みをはさみ、主人公とその幼馴染みの学園生活を中心にして女子高校生達との触れあいが描かれている。 1997年 1998年 1999年 2003年 2004年 2009年 2011年 声はPS、PSE、PS2、PSP版、TVアニメ、ドラマCDのもの。PC版は声なし。 主人公の呼び方について、初期状態の場合は【】内の呼び方となり、それ以外の場合はプレイヤーがつけた名前に対して「」内の法則が適用される。 本作の世界観においては、「メイドロボット」と呼ばれる作業用アンドロイドが登場する。作中では既に量産化されており1体の価格は自家用車2台程度であるとされる。ただし感情を持ち固有のキャラクターとして登場する「メイドロボ」は、量産化前の試作機2体。 PS版以降には、以下のミニゲームが追加されている。特定の条件を満たすことで、タイトルメニューの『オプション』→『おまけ』に追加されてプレイでき、ハイスコアをセーブすることもできる。また、本編中でプレイできるものもある。 以下の『お嬢様は魔女』『Heart by Heart』『○△□×』は、PS、PS2版では本編中でゲーセンバトル(ゲームセンターでの対決)で、神岸あかり・長岡志保・佐藤雅史のいずれかを相手に選択して対戦という形でプレイできる。1回プレイすると『おまけ』に追加される。PSE版では最初から『おまけ』に追加されており、またWindowsのメニューから直接起動することも出来るが、本編中でプレイ出来なくなった(ゲーセンバトルに至るまでのシナリオは同じだが、「本気を出す」「普通にやる」などの選択肢が表示され、それで結果が決まるようになっている)。 ジャンルは横スクロールのシューティングゲーム。箒に跨った来栖川芹香を操り、3種のショットとボム、ボタンを溜めて放つチャージショットを使い分けて敵を倒していく。一定時間内に連続で敵を倒すと得られる得点の倍率が上がるが、ショットの属性により攻撃が跳ね返す敵も存在するため、その都度使い分ける必要がある(逆に跳ね返させた跳弾を敵に当てることも出来る)。全3ステージで、ノーミスでクリアすると隠しボスとして来栖川綾香が出現する。チャージショットで敵の弾を打ち消すと得点を得られるアイテムが出現するなど、やりこみ度は高い。ゲーセンバトルでは、得点を競う形になる。 ジャンルはアクションゲームで、システムはマリオブラザーズと共通する部分もある。ショットを撃ち画面内の敵を全て倒すのが目的となる。1人用では全30ステージをクリアするのが目的となり、2人用では協力して1人用と同様に全30ステージをクリアする「きょうりょく」と、相手プレイヤーを倒すことが目的となる「たいせん」が選べる。 プレイヤーキャラクターは以下から選択でき、キャラクターによってショットや移動能力に違いがある。 本編中では先述のゲーセンバトルの他、志保のシナリオ中でも主人公と志保が二人協力プレイを行うシーンがある(この時はプレイヤーはプレイできず、経緯を文章上で読むのみとなる)。 Leafアミューズメントディスク『初音のないしょ!!』に収録されていたミニゲームを移植したもの(ただし、『初音のないしょ!!』収録版とは使用キャラや一部の操作などが異なる)。 ジャンルは対戦型パズルゲーム(逆落ち物パズル)。下からせり上がって来る○・△・□・×・←・→ブロックを、ブロック置き場のブロックと交換して、同じブロックを3つ縦・横・斜め(難易度によっては斜めには消せなくなる)に揃えて消していく。最上段にブロックがある状態でせり上がると負けになる。消した時にブロックが落下するが、落ちた時にブロックが揃っていれば連鎖して消えていく。連鎖するほど高得点が得られるほか、2人プレイでは相手の陣地におじゃまブロックを降らせることができる。1人プレイではひたすら消して得点を競うが、2人プレイではいかに早くギブアップさせるかを競う。 各ブロックはPS、PS2のコントローラの各キーに対応しており、(←・→はそれぞれL1・R1キーに対応)フィールドの交換したいブロックにカーソルを合わせてキーを押すと、ブロック置き場にそのブロックがあれば交換することができる。 プレイヤーキャラクターは以下から選択でき、それぞれ固有の特殊能力を持つ。 なお、PSEでもブロックが全く同一で、キーボードのキーと対応が割り当てられているが、非常に分かりにくく混乱を招く。 ジャンルはガンシューティングゲーム。固定画面のあちこちから登場する志保を、水鉄砲で撃たれる前に撃つのが目的。時々雅史が出現し、彼を撃つとライフが減ってしまう。30秒経過するかライフ3つが全てなくなるとゲームオーバーで、志保を撃った数と残りライフで得点が出る。本編中の志保シナリオでプレイでき、結果はシナリオに影響しない。本編中でプレイすると『おまけ』に追加されてプレイできる。 マルチが肩たたきや肩もみをし、それに連動してコントローラ(デュアルショック)の振動機能が作動して振動する。PSEでは振動機能(フォースフィードバック)を搭載したゲームパッドを使用しないと全く意味がない。本編でマルチのエンディングを見ると『おまけ』に追加されてプレイできる。 上記の「肩もみマルチ」の肩をもむ役がセリオになったもの。マルチとはリアクションが異なり、また専用のCGも見ることが出来る。「肩もみマルチ」を5回プレイすると『おまけ』に追加されてプレイできる。 Leaf伊丹(現:大阪)開発室による作品。 本作のPlayStation版がリリースされた後、ビデオゲーム雑誌『ファミ通』において40点中30点を獲得した。『電撃G's magazine』は2007年に「読者が選ぶMY BESTギャルゲーランキング50」と題した人気投票企画を行っており、249のタイトルの中から本作『To Heart』は14票を獲得して19位にランクインした。 洋泉社が発行した『アニソンマガジン』のゲームソングレビュー集のなかでライターの前田久は、「Feeling Heart」について「シンセ主体のシンプルなアレンジで奏でられる美しいメロディーに、中司の落ち着いた歌声が絶妙にマッチしている」と肯定的な評価を与えている。 ライターの森瀬繚はアダルトゲーム雑誌「メガストア」に連載したコラムの中で、本作のヒロインの一人である保科 智子が「委員長」キャラクターのアーキタイプとなったと評している。 アダルトゲーム雑誌BugBugの2022年のアンケート「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」において、「To Heartシリーズ」が6位となった。 藍原瑞穂と長瀬祐介はLeafの過去作品『雫』にも登場しているが、その役どころは全く異なる。 また、上記の面々以外にも第8話と第13話で『ToHeart2』の姫百合珊瑚(声:石塚さより)と姫百合瑠璃(声:吉田小南美)が登場した。ただし、瑠璃は第8話では全く台詞がなく、第13話では逆に台詞はあるが姿が登場していない。また、エンディングクレジットには声優名のみが表記され、役名は表記されなかった。 DVDの特典映像『Heart Fighters』の第7話では、柚原このみ(声:落合祐里香)が登場した。こちらは、エンディングクレジットに役名も表記されていたが、予告では「X」と表記されていた。 第1期DVD収録の映像特典。短編アニメは第2巻より収録。 第2期DVD映像特典。各巻1話収録、全7話。アニメ第2期の登場人物同士が対決するという内容で、『聖闘士星矢』や『仮面ライダー剣』などのパロディや、巨大ロボットまで登場している。最終戦のXのみ『ToHeart2』からの客演。 PS版の販促のためラジオ大阪(1998年4月11日 - 10月3日)、文化放送(1998年4月10日 - 10月2日)にて豊嶋真千子による『To Heart』のラジオ番組を放送。番組終了後も後番組の『豊嶋真千子Earthly Paradise』にて作品情報の提供、およびラジオドラマ『To Heart Piece of Heart』の放送を行っている。 『To Heart』のコミックアンソロジーは、PS版発売後まもなくスタジオDNA(現:一迅社)とエニックス(現:スクウェア・エニックス)とT2出版の3社より出版された。スタジオDNA版は続編『ToHeart2』が出てからも刊行され、30巻まで続いた。それから数年遅れてラポートや宙出版からも出版された。 全て 発売元:フィックスレコード、販売元:キングレコード これ以外にも、Leaf製作によるインディーズのサウンドトラックやアレンジアルバムがあるが、ここでは省略する。
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『To Heart』(トゥハート)は、1997年5月23日にLeafから発売された学園ラブコメビジュアルノベル。
{{otheruses|ゲーム作品およびその派生作品|その他|To Heart (曖昧さ回避)}} {{Infobox animanga/Header |タイトル= ToHeart |画像= ToHeart logo.png |サイズ= 180px |ジャンル= [[学校|学園]]、[[恋愛]] }} {{Infobox animanga/Game |タイトル= To Heart(アダルトゲーム版)(A)<br />ToHeart(PS版)(B)<br />ToHeart PSE(PC版)(C)<br />ToHeart(PS2版)(D)<br />ToHeart PORTABLE(PSP版)(E)<br />ToHeart PORTABLE<br />AQUAPRICE2800(PSP版)(F) |ゲームジャンル=[[ビジュアルノベル]](A,E,F)<br />[[アドベンチャーゲーム|ADV]](ノベル形式)(B,C,D) |対応機種= [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98]](A)<br />[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]/[[Microsoft Windows ME|ME]]/[[Microsoft Windows 2000|2000]]/[[Microsoft Windows XP|XP]](Arp,C)<br />[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](B)<br />[[PlayStation 2]](D)<br />[[PlayStation Portable]](E,F) |必要環境=(A)<br />[[CPU]]:[[Pentium]] 100MHz以上<br />(2000/XP:300MHz以上)<br />メモリ:16MB以上<br />(2000/XP:128MB以上)<br />HDD容量:40MB以上<br/>(C)<br />CPU:PentiumIII 500MHz以上<br />メモリ:64MB以上<br />(2000/XP:128MB以上)<br />HDD容量:1.5GB以上<br />ドライブ:DVD-ROM 2倍速以上 |発売元=[[Leaf]](A)<br />[[アクアプラス|AQUAPLUS]](B,C,D,E,F) |プロデューサー= |ディレクター= |キャラクターデザイン= [[水無月徹]]、[[カワタヒサシ|ラー・YOU]](河田優) |シナリオ= [[髙橋龍也]]、[[竹林明秀|青紫]](青村早紀)<br />[[原田宇陀児]](PS版、PSE、PS2版) |音楽= 石川真也、中上和英、[[下川直哉]] |メディア= CD-ROM1枚(A)<br />CD-ROM2枚(B)<br />DVD-ROM1枚(C,D)<br />[[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]](E,F) |プレイ人数= 1人<br/>1 - 2人(B,C,D・ミニゲーム) |発売日= 1997年5月23日(A)<br />1999年3月25日(B)<br />2003年6月19日(Arp)<br />2003年6月27日(C)<br />2004年12月28日(D)<br />2009年7月30日(E)<br />2011年10月27日(F) |売上本数= |レイティング= 18禁(A)<br />全年齢(B,C)<br />[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]12(D)<br />CERO C(E)<br />CERO B(F) |コンテンツアイコン= 恋愛・セクシャル(D,F)<br />セクシャル(E) |キャラクター名設定= 主人公が可能 |エンディング数=10(A)、11(B,C,D,E,F) |セーブファイル数=5(A)、10/1ブロック(B)<br />100(C,E,F)、150(D) |セーブファイル容量= 300KB(D) |画面サイズ=[[Video Graphics Array|640×480]] 256色(A)<br />640×480 FullColor(C) |全画面表示モード= あり(A,C) |音楽フォーマット= [[CD-DA]](A)、[[PCM]](B,C,D) |キャラクターボイス= なし(A)、主人公以外(B,C,D) |その他=「(Arp)」はリニューアルパッケージ版 }} |- | colspan="2" style="padding: 0;"| {| class="infobox bordered mw-collapsible innercollapse autocollapse" style="width: 100%; margin: 0;" ! colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;"| '''漫画''' {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[高雄右京]] | 出版社 = 発行:[[メディアワークス]]<br />発売:[[角川書店]]<br />(初版第1巻のみ[[主婦の友社]]) | 他出版社 = | 掲載誌 = [[月刊コミック電撃大王]] | レーベル = 電撃コミックス | 開始号 = 1997年10月号 | 終了号 = 1999年12月号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = 全3巻 | 話数 = }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = ToHeart 〜Remember my Memories〜 | 作者 = 高雄右京 | 出版社 = 発行:メディアワークス<br />発売:角川書店 | 他出版社 = | 掲載誌 = 月刊コミック電撃大王 | レーベル = 電撃コミックス | 開始号 = 2004年11月号 | 終了号 = 2005年7月号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = 全1巻 | 話数 = }} |} |- | colspan="2" style="padding: 0;"| {| class="infobox bordered mw-collapsible innercollapse autocollapse" style="width: 100%; margin: 0;" ! colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;"| '''小説''' {{Infobox animanga/Novel | タイトル = To Heart マルチ、がんばりますっ! | 原作・原案など = | 著者 = [[伊達将範]] | イラスト = | 出版社 = 発行:メディアワークス<br />発売:角川書店 | 他出版社 = | レーベル = [[電撃G's文庫]] | 発売日 = 1998年9月25日 | 巻数 = 全1巻 | 話数 = }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = ToHeart アンソロジーノベル | 原作・原案など = | 著者 = [[新井輝]]、[[あすか正太]]<br />武乃忍、氷上慧一 | イラスト = | 出版社 = 発行:[[エンターブレイン]] | 他出版社 = | レーベル = [[ファミ通文庫]] | 発売日 = 2004年11月1日 | 巻数 = 全1巻 | 話数 = 全4話 }} |} |- | colspan="2" style="padding: 0;"| {| class="infobox bordered mw-collapsible innercollapse autocollapse" style="width: 100%; margin: 0;" ! colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;"| '''アニメ''' {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= ToHeart |原作= AQUAPLUS |監督= [[高橋ナオヒト]] |シリーズ構成= [[山口宏 (脚本家)|山口宏]] |脚本= 山口宏、[[藤田伸三]] |キャラクターデザイン= [[千羽由利子]] |音楽= [[和田薫 (作曲家)|和田薫]] |アニメーション制作= [[オー・エル・エム]] |製作= [[ケイエスエス]] |放送局=[[サンテレビジョン|サンテレビ]]ほか |放送開始=1999年4月2日 |放送終了=6月25日 |話数=全13話 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル=To Heart 〜Remember my Memories〜 |原作= AQUAPLUS |監督= [[元永慶太郎]] |脚本= [[叶希一]] |キャラクターデザイン= [[平山まどか]] |音楽= [[長岡成貢]] |アニメーション制作= OLM、[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC A.S.T.A.]] |製作= THR Works |放送局= [[アニメシアターX|AT-X]]ほか |放送開始= 2004年10月2日 |放送終了= 12月25日 |話数= 全13話 }} |} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:美少女ゲーム系|美少女ゲーム系]]・[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]]<br />[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]・[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:文学|文学]]<br />[[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:ラジオ|ラジオ]] }} 『'''To Heart'''』(トゥハート)は、1997年5月23日に[[Leaf]]から発売された[[学校|学園]][[ラブコメディ|ラブコメ]][[ビジュアルノベル]]。 == 概要 == 本作は、[[サウンドノベル]]の手法を取り入れた「[[ビジュアルノベル]]」の『[[雫 (アダルトゲーム)|雫]]』『[[痕]]』により、マニアックな支持を集めていた[[アダルトゲーム]]ブランド「[[Leaf]]」によるシリーズ第3弾である。企画・原案・脚本を担当した[[髙橋龍也]]によれば、本作は当時に閉塞感のあったLeafの売り上げに貢献するよう企画されたものとのことで、マニアックな色彩の強い前2作と比較して、より広い客層にアピールする作品となっている。 『雫』『痕』が、サウンドノベルの元祖である『[[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]』から連なる流れを色濃く反映した、グロテスクな描写を用いたサスペンス調の作風であるのに対し、本作は[[ライトノベル]]の雰囲気を取り込み、より大きなマーケットへの訴求を図った。この狙いが的中し、売り上げも増大する。{{要出典範囲|date=2020年12月|PC版は5万本以上、PS版は10万本以上を売り上げ、普段このようなジャンルのプレイ経験を持たない当時の若年層ユーザーを大きく取り込んだパイオニアでもある。また、PC版は2000年代初頭に全盛だった「[[ファイル共有ソフト]]」で数百万回やり取りをされたと言われている。そのため、当時若年層-青年層ユーザーだった者たちへの知名度は非常に高い}}。 === 各媒体とTV版との関係について === 髙橋龍也(企画・原案・脚本担当)曰く<ref>ソースは髙橋龍也自身による一連のツイート。([https://twitter.com/t_takahasi/status/1461725668853510145 1])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462366049207132160 2])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462366653291712513 3])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462367426385879041 4])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462369606845153285 5])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462461386261360643 6])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462463615198380032 7])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462545413823557637 8])</ref><ref>{{Cite web|和書| author = [[インサイド (ニュースサイト)|INSIDE]] | url = https://www.inside-games.jp/article/2021/11/24/135432.html | title = PS版『ToHeart』のタイトルを変更せずに済んだ“ファインプレー”を高橋龍也氏が解説─意外な展開にSNSで驚きの声 | date = 2021-11-24 | archiveurl = https://archive.vn/9GMFi | archivedate = 2021-11-24 | accessdate = 2021-11-25 }}</ref>、当初は前作『痕』のコンシューマ移植が企画として動いたが実現せず、代わって[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー]]へ新規の企画を提案したのが本作『ToHeart』であった。 そのため、企画は[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]版が先に動いたが、ソニーからの返事を待つうちにPC版が制作・発売に至り、その後に企画が通ってPS版の制作が始まった為に、作品リリースは企画提案と逆順となった。当時PSへの移植には本来タイトルを変更しないと通らないとされたところを、PC版・PS版が同じ『ToHeart』で発売されている理由は、そもそもPS向けの企画が先にあったためであり、同様に1999年のTVアニメ版はPC版ベースという扱いだと説明している。 なお、PC版・PS版のタイトルは同じ『ToHeart』であるが、『To』と『Heart』の間隔が変化している。タイトルロゴおよびテキストでの表記、それぞれにおいてPC版当時は『To Heart』(To/Heart間にスペース)、PS版当時は『ToHeart』(スペースが無い)である。 高橋によると<ref name="thlogo_space">ソースは髙橋自身によるツイート。([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462333183769268231 1])([https://twitter.com/t_takahasi/status/1462339013440729090 2])</ref>、タイトルロゴについてはデザインとして間延びを嫌って空白を詰めたため、テキスト表記については媒体によって半角/全角/スペースなしと表記ブレが起き、都度修正を依頼するのが面倒でスペースを消して統一したためだという。 上記『To Heart』と『ToHeart』のロゴの違い(To/Heart間のスペースの有無)について、PC版・PS版でタイトルに変化が無い(一見「移植でありながらタイトルが変更されていない」かのように見える)ことと絡め、俗説として『PC版とPS版以降の移植作品を、スペースの有無を変えて別作品として扱うことで、タイトルを変更することなく移植を実現した』など語られることがあるが、高橋は上記の通りスペースの有無はデザインと校正の都合、タイトルが同一なのは移植ではないからだと説明している{{R|thlogo_space}}。 == 内容 == {{不十分なあらすじ|date=2014年9月}} 青春恋愛群像として春休みをはさみ、主人公とその幼馴染みの学園生活を中心にして女子高校生達との触れあいが描かれている。 == 歴史 == '''1997年''' * [[5月23日]] - [[パーソナルコンピュータ|PC]]版発売 '''1998年''' * [[4月11日]] - ラジオ番組『To Heart』放送開始(〜[[10月3日]]) '''1999年''' * [[3月25日]] - [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版発売 * [[4月1日]] - テレビアニメ『'''ToHeart'''』放送開始(〜[[6月24日]]) * 10月 - [[豊嶋真千子・岩田光央 アスパラFUN!!|豊嶋真千子Earthly Paradise]]にてラジオドラマ『Piece Of Heart』放送 * [[10月27日]] - [[ドラマCD]]『Piece Of Heart』発売([[2000年]][[8月23日]]再発) '''2003年''' * [[6月19日]] - PC版のリニューアルパッケージが発売 * [[6月27日]] - 『To Heart PSE』発売 '''2004年''' * [[10月2日]] - テレビアニメ『'''ToHeart Remember my memories'''』放送開始 * [[12月28日]] - この日発売の『ToHeart & ToHeart2 限定デラックスパック』に、本作の[[PlayStation 2]]版が同梱 '''2009年''' * [[7月30日]] - この日発売の『ToHeart2 PORTABLE Wパック』およびその限定版に、本作の[[PlayStation Portable]]版が同梱 '''2011年''' * [[10月27日]] - 『ToHeart2 PORTABLE Wパック』で同梱されていた、本作のPlayStation Portable版が『AQUAPRICE2800』(廉価版)として単独発売 == ゲーム作品 == ; To Heart([[Microsoft Windows|Windows]] 95/98) : 1997年5月23日発売。[[コンピュータソフトウェア倫理機構|ソフ倫]]レーティング[[アダルトゲーム|18禁]]。 : LEAF VISUAL NOVEL SERIES Vol.3。 :; To Heart(リニューアルパッケージ)(Windows 98/Me/2000/XP) :: 2003年[[6月19日]]発売。ソフ倫レーティング18禁。 :: Windows Me/2000/XPに正式対応し、価格を値下げしたもの。内容は95/98対応版と同一。 : ; ToHeart(PlayStation) : 1999年3月25日発売。全年齢。 : Windows版と比較して以下の点が変更されている。 :* アダルトシーンの削除、それに伴い対象年齢を全年齢化。 :* 全ヒロインのシナリオの修正および追加(修正度合いはヒロインによって様々で、数シーン追加されただけの者もいればほぼ全編に手を加えられた者もいる)。 :* Windows版ではサブキャラだった「来栖川綾香」のシナリオを新規追加。 :* 主人公以外フルボイス化。 :* オープニング・エンディングの楽曲・ムービー変更(オープニングムービーはTVアニメ版の物を使用)。 :* キャラクターの立ち絵の新規描画。 :* Windows版に登場した曲は全曲アレンジ。新曲も追加。 :* 放課後の行動選択時に、専用の画面を表示してどこに誰がいるのか分かるようになった。 :* ミニゲームの追加(詳細は後述)。 : : など。 :: CD-ROM2枚組で発売されたが、DISC1とDISC2の違いは「オープニングムービーの有無(DISC1のみに有)」と「キャラクターボイスの入っている期間の違い(DISC1ではゲーム中の期間で最初から4月21日まで、DISC2では4月22日以降)」となっており、シナリオ自体は両方とも最初から最後まで収録しているため、キャラクターボイスなしでなら1枚のディスクでもプレイできる。また、あるヒロインはシナリオが4月21日で終了するため、DISC1のみで終始フルボイスでエンディングを見ることが可能。 : ; ToHeart PSE(Windows 98/Me/2000/XP) : 2003年6月27日発売。全年齢。 : PS版を逆移植。以下の点が変更されている。 :* ハードの変更による画像・音声のクオリティの上昇。 :* 一部のセリフの変更。 :* ミニゲームがプレイできるタイミングの変更(後述)。 :* 放課後の行動選択時のデフォルメされたキャラグラフィックが変更されている。 :* PS版でアレンジされて収録されていた楽曲が、18禁版と同様に戻った。また、ミニゲーム「○△□×」の楽曲がアレンジされた。その他の楽曲はPS版と同様。 :* 文章のフォントの変更。 : : など。 : 「PSE」は「PS EDITION」の略。 : パッケージは新規描きおろしで神岸あかりと長岡志保が描かれているが、当時[[水無月徹]]がすでにAQUAPLUSを退職していたため、あかりの絵も[[カワタヒサシ|河田優]]が描いている。 :; ToHeart PSE 初回限定版 :: 2003年6月27日発売。全年齢。 :: 1万本限定生産。豪華ボックス付きパッケージ、シリアルナンバー付き[[テレホンカード]]、キャラクターミニスタンドポップが付属。 : ; ToHeart(PlayStation 2) : 「ToHeart&ToHeart2 限定デラックスパック」に同梱。 : 2004年12月28日発売。[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]レーティング15歳以上対象。(「〜限定デラックスパック」のデータ)。 : 「ToHeart」はCEROレーティング12歳以上対象。 : 基本的にはPSEの移植となっており、グラフィックや音楽などもそれに準じる。以下の点が変更されている。 :* CEROの審査を受けた結果、12歳以上対象となる。 :* ミニゲームのプレイできるタイミングがPS版と同様に戻る。 :* 文章のフォントの変更。「ToHeart2」と同様になった。 :* 志保シナリオ中でPS・PSEでは「それぞれの未来へ」のギターバージョンが流れる部分で、「それぞれの未来へ」の志保エンディングバージョンが流れる(スタッフロールにはギターバージョンのスタッフが記述されている)。 : : 単品では発売されていない。 :: ; ToHeart PORTABLE(PlayStation Portable) : 「ToHeart2 PORTABLE Wパック」および「〜Wパック限定版」に同梱。 : 2009年7月30日発売。[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]C。 : 以下の点が変更されている。 :* PSPの画面サイズ「16:9」に対応。「4:3」に変更も可。 :* 4月29日が[[みどりの日]]から[[昭和の日]]に変更されている。 :: ; ToHeart PORTABLE AQUAPRICE2800(PlayStation Portable) : 2011年10月27日発売。[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]B。 : 廉価版パッケージ「AQUAPRICE2800」として発売。2013年5月30日よりPlayStation Storeでのダウンロード販売が開始された。 :「ToHeart2 PORTABLE Wパック」および「〜Wパック限定版」に同梱の「ToHeart PORTABLE」の単独販売版。 == 登場キャラクター == [[声優|声]]はPS、PSE、PS2、PSP版、TVアニメ、ドラマCDのもの。PC版は声なし。 主人公の呼び方について、初期状態の場合は【】内の呼び方となり、それ以外の場合はプレイヤーがつけた名前に対して「」内の法則が適用される。 === メインキャラクター === ; 藤田 浩之(ふじた ひろゆき) : 声:[[一条和矢]](アニメ・CDドラマのみ) : [[主人公]]。ゲームでは初期状態はこの名前だが、プレイヤーが好きな名前を付けることができる。また、PS、PSE、PS2、PSP版では名前をこのままにしておくと、他のキャラが名前と[[あだ名]]まで音声付で呼んでくれる。ゲーム中の選択肢の選び方によって多少変化するものの、どのような相手でも分け隔てなく対応し、嫌味を感じさせない“いい奴”であり、付き合いも広い。神岸あかり・佐藤雅史とは幼馴染で、長岡志保も中学からの付き合いであり、4人で行動することが多い。普段は何事にも無関心だが、気になる人間はどうにも放っておけない。特に迷子に関しては特別な思い入れがある。休み時間にカフェオレを買って飲むのが毎日の習慣。[[Leafアミューズメントソフト]]「初音のないしょ!!」収録のゲーム「LEAF FIGHT 97」にてビジュアルが設定され、ゲーム中の描写を反映してやや目つきの悪い顔立ちとなっている。 : 本人が思っているよりずっと優秀な人物であり、幼馴染のあかりや雅史には「本気を出したら絶対に敵わない」と評価されており、ごく短期間の練習でもそれなりのボクシング技術を身に付けたりと、その才能を発揮するシーンも存在している。 ; 神岸 あかり(かみぎし あかり) : 声:[[川澄綾子]] : 誕生日:[[2月20日]]、血液型:O型、星座:うお座、身長:157cm、年齢:16歳、3サイズ:79/59/84、主人公の呼び方:「[名前]ちゃん」【浩之ちゃん】、テーマ曲:「あなたの横顔」 : ゲームのメイン[[ヒロイン]]。主人公の[[幼馴染|幼なじみ]]であり同級生。主人公のことを「ちゃん」付けで呼び、好意を寄せているが主人公は気づかないようにしている。毎日迎えに来て一緒に登下校を行い、主人公の部屋で一緒に試験勉強をするのが恒例。大人しい性格だが面倒見がよく、誰からも好かれており異性からの人気も密かに高い。初めは三つ編みだが、展開によりショートヘアになる。無類の[[クマ|熊]]好きで、彼女の部屋には熊のグッズが並べられている。料理が得意。 ; 長岡 志保(ながおか しほ) : 声:[[樋口智恵子]] : 誕生日:[[11月7日]]、血液型:B型、星座:さそり座、身長:160cm、年齢:16歳、3サイズ:86/56/85、主人公の呼び方:「[あだ名]」【ヒロ】、テーマ曲:「マイ・フレンド」 : 主人公の同級生で中学からの悪友。主人公の幼なじみ・あかりとは大の仲良し。勉強が嫌いで補習常連だが、ゲームとカラオケはやたら上手い。流行に敏感であちこちに「志保ちゃん情報」という話を広めて回るが、内容はあくまで噂話に過ぎないものであることが多く、しばしば周囲のひんしゅくを買っている。そのため、「校内の歩くワイドショー」という通り名までついている。快活で天真爛漫な彼女だが、実は大の親友思い。主人公とはお互い男女を越えた付き合いで、全キャラの中で唯一主人公をあだ名で呼ぶ。作品内の投稿ラジオ番組『Heart to Heart』のリスナーであり、ラジオネームは「いちごミルク」。PS版への移植に当たり、大きくシナリオが変更されたキャラクターの1人。 ; マルチ : 声:[[堀江由衣]] : [[#メイドロボ]]参照 ; 保科 智子(ほしな ともこ) : 声:[[久川綾]] : 誕生日:[[9月10日]]、血液型:A型、星座:おとめ座、身長:161cm、年齢:16歳、3サイズ:88/57/85、主人公の呼び方:「[名字]くん」【藤田くん】、テーマ曲:「彼女の憂鬱」 : 主人公の同級生で[[神戸市]]出身。両親が離婚し、母親とともに[[関東地方|関東]]に引っ越してきた。[[近畿方言|関西弁]]{{Efn2|「[[初音のないしょ!!]]」収録のスタッフコメントによれば、彼女の口調を再現するにあたってシナリオ担当の高橋龍也([[石川県]][[七尾市]]出身)は神戸出身のスタッフ(音楽担当の石川真也)に実際の口調を細かく教わったとのこと。}}を話し、[[眼鏡]]をかけ、髪をかなり緩めの三つ編みにしている。成績優秀で教師からの信頼も厚いが、周りからは浮いた存在となっていたために[[いじめ]]の対象となってしまう{{R|Vol11P77}}。また、クラス委員長の立場も、半ばいじめの一環として押し付けられたものである{{R|Vol11P77}}。誰にも相談できずに思い悩んでいたが、何かにつけて話しかけてくる主人公が気になっていく。プライベートでは眼鏡を外し、三つ編みも解いている。堅いイメージがあるがファッションのセンスはよく、私服での印象は普段とかなり変わる。ゲーム中1・2を争う巨乳。そのため肩凝りが悩みの種。通称委員長(または「いいんちょ」)。「Remember〜」では、唯一、あかりとマルチ以外でアイキャッチに登場している。また両作のアニメとも彼女が心を閉ざした理由を話す場面がある。 ; 来栖川 芹香(くるすがわ せりか) : 声:[[岩男潤子]] : 誕生日:[[12月20日]]、血液型:O型、星座:いて座、身長:159cm、年齢:17歳、3サイズ:84/54/87、主人公の呼び方:「[名前]さん」【浩之さん】、テーマ曲:「お嬢様はエレガント」 : 主人公と同じ学校に通う1年先輩の17歳。「マッチ一本からロケット開発まで」または「ゆりかごから墓場まで」と言われる、来栖川グループのお嬢様。妹に来栖川綾香がいる。妹と違い、小さいころは、まるで[[皇族]]のような生活を送っており、常に一人ぼっちだったため、控えめな性格でぼーっとしていて、なにを考えているかわからないが、好きになった相手には控えめながらしっかりと自分の想いを伝える。またスキンシップ(頭をなでる)も大変多く、大胆なアプローチをとることが多い。 : 彼女のセリフはそのほとんどが「……」で、それを主人公が「え?○○だって?」と聞き返し、それに頷くという形で表現される。そのため無口なキャラと認識されることもあるが実際には声が小さいだけでうち解けた相手には饒舌、主人公が復唱したものも全てカウントした場合シナリオ中で発するワード数は他のヒロインに勝るとも劣らない。 : 子供の頃に、書斎で見つけた本から興味を抱いた[[黒魔術]]が趣味。昼休みには中庭で昼食を済ませた後に、日向ぼっこすることを習慣にしている。主人公とは偶然ぶつかったことから交流が始まる。「Remember〜」では来栖大学の1年生となり、出番は少なめ。 ; 宮内 レミィ(みやうち レミィ) : 声:[[笠原留美]] : 誕生日:[[12月21日]]、血液型:A型、星座:いて座、身長:174cm、年齢:16歳、3サイズ:92/59/86、主人公の呼び方:「[名前の読み(ひらがなはカタカナに変更される)]」【ヒロユキ】、テーマ曲:「Smiling」 : 主人公の同級生で金髪碧眼の日米ハーフ娘。高校生とは思えないほど発育しているスタイルを持つ。フルネームはレミィ・クリストファー・ヘレン・宮内 (Lemmy Christopher Helen Miyauchi) 。実は幼い頃主人公と出会っていたが、当時はいじめを防ぐ意味で髪の毛を黒く染めていたため、そのことに主人公は気づいていなかった。[[ファミリーレストラン|ファミレス]]「ブルースカイ」でアルバイトしている。本人曰く「日本の文化のケンキュー」として高校では[[弓道]]部に所属する。ただし猟が得意だったために、動く的は百発百中だが止まっている弓道用の的には全く当てられないという妙な特性があり、成績は芳しくない。PC版では、時々日本では狩りが出来ないことによる[[ストレス (生体)|ストレス]]から禁断症状が出て、校庭の[[スズメ]]や主人公に弓を向けることがある。ペットとして[[ハムスター]]の「ジョニー」や、犬の「ジュリー」を飼っている。主人公曰く、「自分を呼び捨てにする女性は母とレミィのみ、『女の子』ならレミィ一人だけ」(ただし、この発言の後に登場する来栖川綾香も主人公を呼び捨てにするので、主人公を呼び捨てにする女の子は2人になる)。PS版製作当初、野性的なキャラクターにリニューアルする案もあったが、アニメ版1期との兼ね合いなどの理由で現状のままになったという経緯がある。PS版への移植に当たり、大きくシナリオが変更されたキャラクターの1人。 ; 松原 葵(まつばら あおい) : 声:[[飯塚雅弓]] : 誕生日:[[1月19日]]、血液型:A型、星座:やぎ座、身長:153cm、年齢:15歳、3サイズ:72/57/79、主人公の呼び方:「[名字]先輩」【藤田先輩】、テーマ曲:「晴れのちVサイン」 : 主人公の1年後輩で、[[格闘技]]が得意なスポーツ少女。真面目で正直な性格。しかし、周囲の「普通の女の子」と違う自分に不安も感じている。[[空手]]に打ち込んでいたが、来栖川綾香と出会い惹かれ、彼女が始めた異種格闘技「エクストリーム」の大会を目指すようになる。体格はさほど優れているわけではないが、実力はかなりのもの。また、綾香は自身を追い抜くだけの秘めた力を持っていると認めている。しかし大舞台になると緊張して実力を出せなくなると言う弱点を抱えていた。学園で同好会を設立しようとしていた時主人公とたまたま出会い、興味本位でエクストリームを始めた主人公と共に設立を目指すことになる。PC版では練習時は上が制服で下が[[ブルマー]]という格好だったが、PS版やアニメ版では上も体操着に変更されている。アニメ版の「Remember〜」では、エクストリームの大会にて激闘の末、ついに綾香に勝利した。 : 「Remember〜」での会話から、一度綾香と試合をして負けている模様。また、7話の描写でゲームセンターのパンチングマシーンにて218kgを記録している。 ; 姫川 琴音(ひめかわ ことね) : 声:[[氷上恭子]] : 誕生日:[[10月9日]]、血液型:B型、星座:てんびん座、身長:156cm、年齢:15歳、3サイズ:77/54/78、主人公の呼び方:「[名字]さん」【藤田さん】、テーマ曲:「言えないチカラ」 : 主人公の1年後輩で北海道の函館出身。中学時代から少しずつ能力に目覚め、高校では入学早々から不思議な力を持っていると噂されるミステリアスな[[超能力]]少女。超能力を自分の意志でコントロールすることができず、その力が原因で周りからも気味悪がられている。口数も少なく、他人には滅多に心を開こうとしないが、それは自分の力のせいで周りの人を傷つけないようにするための手段であり、元々は動物好きの心優しい少女だった。なんとか力になろうとする主人公に、徐々に惹かれ始める。のちにある程度自身の意志で使いこなせるようになった。大人しい性格だが、頑固なところもある。好物はじゃがバター。動物の中では特にイルカが好きである。PC版では「念動力」、アニメでは「予知能力」の超能力を持つ。作品内の投稿ラジオ番組『Heart to Heart』のリスナーであり、ラジオネームは「ねこっちゃ」。PS版への移植に当たり、大きくシナリオが変更されたキャラクターの一人。登場人物の中で唯一作品によって設定が異なり、アニメ版第1期では7話に初登場。浩之ではなく雅史に恋しており、雅史の試合で雅史の不幸を予知し、助けることができた。「Remember〜」ではエクストリーム同好会のマネージャーとなって葵を支えている。7話では浩之に告白するも失恋する。 ; 雛山 理緒(ひなやま りお) : 声:[[大谷育江]] : 誕生日:[[6月3日]](PS版は[[11月24日]])、血液型:B型、星座:いて座、身長:155cm、年齢:16歳、3サイズ:70/54/76、主人公の呼び方:「[名字]くん」【藤田くん】、テーマ曲:「エール!」(PC版では固有のテーマ曲がなく、登場シーンでは「なんて愉快!」が使われていた) : 神岸あかりのシナリオクリア後にゲームに登場するキャラクター。主人公の同級生。2本の[[アホ毛|触角]]と2つに縛った後ろ髪が特徴。1年生の頃から想っていた主人公に突然告白するなど突飛な行動をとる。家庭事情により様々なアルバイト活動に日夜励んでいる。マルチと同じくドジキャラ。作品内の投稿ラジオ番組『Heart to Heart』のリスナーであり、ラジオネームは「ラッコガール」。PC版では隠しヒロインという位置づけもあって、シナリオ量が極めて少なかったが、PS版以降ではシナリオの大幅な変更により、シナリオ量もそれなりになった。 ; 来栖川 綾香(くるすがわ あやか) : 声:岩男潤子 : 誕生日:[[1月23日]]、血液型:O型、星座:みずがめ座、身長:161cm、年齢:16歳、3サイズ:88/56/85、主人公の呼び方:「[名前]」【浩之】、テーマ曲:「サザンウィンド」(PC版では固有のテーマ曲がなく、登場シーンでは「なんて愉快!」が使われていた) : 主人公と同学年。西音寺女学園に通う、来栖川芹香の妹。風貌はよく似ているものの、芹香とは違い性格は至って活発で、格闘技全般が得意。成績も優秀で、なおかつそのことを鼻にかけないという何から何まで完璧な人物。一見正反対に見える姉妹だが本人達は物事や男性の好み等は一緒であるとし、大変仲が良く、常に互いを思いやっている。 : エクストリームの全日本女子チャンピオンでもある。PC版では葵・芹香シナリオに登場するのみで攻略できなかったが、PS版以降ではシナリオが用意され{{Efn2|彼女と出会うイベントに登場する少女は、高橋龍也・水無月徹両人により新城沙織(Leafの過去作品「[[雫_(アダルトゲーム)|雫]]」に登場するヒロイン)をモデルにしていることが示唆されている<ref>『To Heart ビジュアルファンブック』 [[メディアワークス]]、1999年、80頁。ISBN 978-4840212786。</ref>。}}、主人公と格闘技で勝負することとなる。 : 小学生のころは両親とともに[[ニューヨーク]]に住んでいて、芹香とは対照的に自由な生活を送っており、その頃に出会った家庭教師の男子高校生の影響から格闘技に目覚めたが、彼よりもテクニックをつけてしまったため、彼が離れてしまう原因になった。 : PS版以降で、エクストリームの際の右手を前に出した構えや、エンディングでの箸の持ち手で、[[左利き]]であることが分かる。「Remember〜」では立場上、セリオと共に出番が多くなり、浩之たちが通う学校によく現れる。なお、姉の芹香との相違点は押しの強めな顔つきと、少し癖のある髪質である。 === サブキャラクター === ; 佐藤 雅史(さとう まさし) : 声:[[保志総一朗]] : 誕生日:[[10月13日]]、星座:てんびん座、身長:165cm、年齢:16歳 : 主人公(藤田浩之)の幼馴染の友人。サッカー部に所属しており、成績も常に上位三十位に入る秀才で男女問わず人受けはよい。誰も攻略できない(バッドエンド)場合、「僕たちずっと友達だよね」と雅史の笑顔のシーンで終わる。現在は別居中の姉が一人いるほか、ハムスターを飼っている。『Remember〜』では、あかりに好意を抱いていること(あかりは気づいていたらしい)が判明し、あかりとマルチのことで自分の気持ちに正直になれない浩之との喧嘩を皮きりにあかりに告白するが想いは実らず、代わりに志保と行動するようになる。 : なお、誕生日は[[ドラマCD]]『To Heart Piece of Heart』にて判明、身長はアニメ版第1期の設定による。 ; 千絵美(ちえみ) : 主人公の友達、佐藤雅史の姉。昨年結婚し、お産のため雅史の家に戻ってきている。名前だけの登場のため、絵や声はない。 ; 坂下 好恵(さかした よしえ) : 声:[[今井由香]] : 空手部の部長。葵と同じ中学で空手部の先輩に当たる。かわいがっていた葵が綾香に憧れて空手からエクストリームに転向したことを不愉快に思っており、葵シナリオで葵と対決することになる。『Remember〜』では、綾香と対峙するも敗北し、葵が綾香に勝利したことをきっかけに葵のことを認めた。また彼女の話によれば、琴音も一時期だが格闘をやっていたことが判明し、後に2人が仲良くなったこともきっかけにもなった。 ; セリオ : 声:[[根谷美智子]] : [[#メイドロボ]]参照 ; セバスチャン / 長瀬 源四郎 (ながせ げんしろう) : 声:[[大林隆介|大林隆之介]](『Remember〜』のみ[[中嶋聡彦]]) : テーマ曲:「セバスチャン」 : 来栖川家の執事。50年間来栖川家に仕えており、常にスーツと蝶ネクタイで決めている。「セバスチャン」の呼び名は芹香によってつけられたニックネームで、彼女を毎日送り迎えしている。髭をたくわえる壮年のロマンスグレイと紳士的なイメージだが、芹香に接触しようとする主人公を一喝して退けたり、時には実力行使で捻じ伏せる豪胆さを併せ持つ。しかし幼い頃から芹香を見守っているため、心中いつも一人でいる彼女を心配している。何か叫ぶ度に顔がアップになる。戦後の混乱期にストリートファイトに明け暮れていた所を芹香の祖父に拾われた過去を持つ。 ; 長瀬 源五郎 (ながせ げんごろう) : 声:大林隆之介(『Remember〜』のみ中嶋聡彦) : テーマ曲:「長瀬開発主任」 : 来栖川重工所属。マルチ・セリオの開発主任。ロボットを単に人間の道具として扱うことを嫌っており、試作機である彼女達に“心”を持たせた張本人。本編中では明らかにはされないが、セバスチャンこと長瀬源四郎の息子である。しかし、父の源四郎と違い、主人公に一喝などはしない、極めて穏やかな人当たりのよい人物である。なお、続編『ToHeart2』において、姫百合珊瑚がイルファたちの開発の協力者として「長瀬のおっちゃん」という名をあげており、それがこのキャラクターである可能性が高い(ただし、『ToHeart2』本編中には同一人物と確定する記述はなく、公式見解も発表されてはいない)。これを受けて、『Remember〜』では珊瑚と会話するシーンがあり、アニメ版『ToHeart2』では中嶋聡彦が声をあてる「長瀬」という人物が登場している(ただし、顔が下半分しか描かれていない)。 ; 神岸 ひかり(かみぎし ひかり) : 声:[[川澄綾子]](アニメ第1期のみ[[星野千寿子]]) : 神岸あかりの母親。料理教室と着物の着付けの先生。高校生の娘を持つ母親とは思えないほど若々しい。また、声もあかりとよく似ており、主人公ですら電話越しでは注意して聞かないと間違えるほどである。なお、ゲーム中では名前が出てこない。当初発表された名前は「神岸しおり」であったが、後に訂正されて現在の名前となった。アニメ第1期では顔も出てこず、エンディングでは「あかりの母」と表記されている。また、アニメ版「Remember〜」では第12話に一度だけ登場し、顔も出てきた。スタッフロールに名前は無いが、声は川澄綾子が[[兼役|兼ね役]]をした。 ; ジョージ 宮内(ジョージ みやうち) : 声:[[桑原たけし]] : 宮内レミィの父親。PS版以降のゲームにのみ登場。貿易会社の社長。性格は豪快で奔放。家ではいつもライフル([[M1ガーランド]])を持ち歩いており、話す時に相手に向ける。なお彼の名前については、上記のように表記する場合と「宮内ジョージ」のように苗字を先に表記する場合があるが、ここでは上記のように表記する。一般的には上記の表記の方がよく使われている(後述のシンディ宮内、マイケル宮内についても同様)。 ; 宮内 あやめ(みやうち あやめ) : 宮内レミィの母親。PS版以降のゲームにのみ登場。性格は物凄くおっとりしていてのんびり屋。 ; シンディ 宮内(シンディ みやうち) : 声:[[園崎未恵]] : 宮内レミィの姉。レミィの家族の中では唯一PC版にも登場している。性格は人当たりが良く穏やかだが、PS版以降にて極端な潔癖症であることが判明。 ; マイケル 宮内(マイケル みやうち) : 宮内レミィの弟。PS版以降にのみ登場。普段は「マイケル」の愛称である「[[ミッキー (曖昧さ回避)|ミッキー]]」と呼ばれている。家の中でスケボーを乗り回すほどの腕白少年。なお、「ミッキー宮内」と表記されるケースもある。 ; 雛山 良太(ひなやま りょうた) : 声:[[田野めぐみ|田野恵]] : 誕生日:[[4月29日]]、星座:おうし座、年齢:6歳(作品内の4月29日以降7歳) : 雛山理緒の弟。腕白盛りの生意気な悪ガキだが、姉思いで、(不本意ながら)理緒を泣かせた主人公を退治しようと息巻く一面も見せる。 ; 雛山 ひよこ(ひなやま ひよこ) : 雛山理緒・良太の妹。PS版以降の作品内では理緒・良太のセリフ内でのみ存在を示唆されていたが、アニメ『〜Remember my Memories〜』のDVD第7巻の特典映像『Heart Fighters』にてその姿が披露された。 ; 岡田(おかだ)、松本(まつもと)、吉井(よしい) : 声:[[木村亜希子]]、[[星河舞]]、[[園崎未恵]] : 主人公の2年生時のクラスメート。保科智子とは1年生の頃からのクラスメートであるが、保科の人を寄せ付けないクールな態度が気に入らずたびたび衝突したり、ときには保科のノートや教科書に落書きをするという、幼稚な手段を使う。保科を学級委員長に推薦した(というよりは押し付けた)のもこの3人。岡田は3人のリーダー格で強気な性格、松本はのんびりしていてまわりに流されやすい性格、吉井は比較的話が分かる性格。フルネームはゲームの公式設定ではない様だが、アニメ版の設定資料集では「岡田メグミ」、「松本リカ」、「吉井ユカリ」となっている。<!--アニメイトのビデオ購入特典設定資料より。某大手同人でもこの名前が使われて広まる。--> ; 鈴木 寛子(すずきひろこ) : 神岸あかりの友人。体育の時間に足を怪我したあかりに肩を貸す。 ; 矢島(やじま) : 声:[[置鮎龍太郎]] : 主人公の2年生時のクラスメート。髪型を変えた後の神岸あかりに惚れ、仲を取り持ってほしいと主人公に懇願してくる。スポーツ万能でルックスも良いため、女子から人気がある。 ; 垣本(かきもと) : 佐藤雅史のサッカー部の友人。来栖川綾香のファンでもある。 ; 橋本 : PC版にのみ登場。主人公の1年先輩にあたり、女子の間では評判の色男として知られ、長岡志保と交際をすることになるが、図書室で性的な行為に及ぼうとしたために主人公と志保に成敗されることとなる。PS版以降には登場しないが、作品内の投稿ラジオ番組『Heart to Heart』において、「はしもっち」というラジオネームで移植にあたり外されたことを愚痴っている。 ; 広瀬 ゆかり : PC版にて、長岡志保が、泉南女子学院に芸能人がいると噂した新入生。実際に登場するわけではない。PS版以降では登場せず、代わりに同じシーンにて、Leaf作品の『[[WHITE ALBUM]]』のヒロインの1人である「緒方理奈」の名前が登場する。 ; 辛島 美音子(からしま みねこ) : 声:[[豊嶋真千子]] : PS版以降の作品内の投稿ラジオ番組『Heart to Heart』のパーソナリティ。ラジオを聴き続けると実際に主人公と出会うことになる。 ; 内藤(ないとう) 長田(ながた) : PS版以降に登場した長岡志保の友人。学年では志保と3人揃って遊び人として名が知られているが、志保としては主人公や神岸あかりらと比べると付き合いにくさを感じているようである。名前だけの登場のため、絵や声はない。 ; 藍原 瑞穂(あいはらみずほ) : 声:[[後藤邑子]] : アニメのオリジナルキャラである。大学の学生で「感情プログラム」を作った張本人であるが、自宅に帰る途中で交通事故で亡くなった。 === メイドロボ === 本作の世界観においては、「メイドロボット」と呼ばれる作業用[[人造人間|アンドロイド]]が登場する。作中では既に量産化されており1体の価格は自家用車2台程度であるとされる。ただし感情を持ち固有のキャラクターとして登場する「メイドロボ」は、量産化前の試作機2体。 ;HMX-11“フィール” : HMX-11“フィール”は初めて「感情プログラム」を搭載しようとした試作メイドロボットである。藍原が「感情プログラム」を考え、HMX-11“フィール”に搭載したが、成功しなかった。量産型は感情がなく、命令のみ従い、来栖大学で働いている。 : アニメ版『To Heart 〜Remember my Memories〜』に登場、ゲーム作品には登場しない。 ;HMX-12“マルチ” : {{Anchors|HMX-12“マルチ”}}[[3月19日]]ロールアウト、星座:うお座、身長:147cm、3サイズ:68/52/73、主人公の呼び方:「[名前]さん」【浩之さん】、テーマ曲:「夢見るロボット」 : HMX-12“マルチ”は来栖川重工(もしくは来栖川エレクトロニクス)で一般家庭向けメイドロボットとして開発されたアンドロイド。試作機の[[人工知能|AI]]には「感情表現に対するフィードバック」および「人間とのコミュニケーションにおけるAIへの影響」に関する実証試験のために「[[感情]]」が試験的にインストールされているため、ロボットとは思えない行動をとるだけでなく「[[夢]]」すら見る。しかし、主人公が通う学園で実施されたこの実証試験の結果、興奮状態になった場合に[[オペレーティングシステム|OS]]や機体にかかる負荷が大きく、場合によっては機能停止に陥ることや、量産化の際に「“作業機械”に感情は必要ない」という上層部の判断もあったことから、高性能機種であるHMX-13“セリオ”の廉価版メイドロボとして不必要な機能は排除されたため、量産型の感情表現機能はセリオと同じ程度になっている。[[ロボット三原則]]はインストールされていない(ただし、マルチ自身、元々争い事などを好まない素直な性格なのでインストールされているのとあまり変わらない)。また、試作機には普通の人間と同じ外見の“耳”があるが、アンドロイドとしての特徴を際立たせるため「ギアレシーバー(アンテナ型のヘッドギア、『Remember〜』ではイアーレシーバーと長瀬主任は発言)」を装着させている。食事は採らず、動力源は家庭用電源からの充電に依るが、補助的に水素発電も行っており、生じた水はトイレで[[排泄]]を行う{{Efn2|本作ではマルチ自身により語られるのみだが、『ToHeart2 XRATED』および『Another Days』では後継機においてこの機能にまつわるイベントが存在する。}}。 : ドジや失敗が多いものの、健気で一生懸命なところがあり、主人公はその姿を見て興味を抱くようになる。また、[[同人誌]]、パロディ4コマ漫画などにもよく取り上げられ、アニメ『〜Remember my Memories〜』では物語のキーパーソンになっている。他にも、後発の同類ゲームなどを始め、内容的にもビジネスモデル的にも([[メディアミックス]]的展開、[[コンシューマーゲーム|コンシューマー機]]への移植、アニメ化など)多大な影響を与えたとも言われる{{誰|date=2016年4月}}。 : 続編である『ToHeart2』の開発においても彼女の影響は強く、「メイドロボを登場させない」「ヒロインを緑髪(マルチの髪色)にしない」といった、マルチとイメージが重複するキャラクターを作らない方針が採られた。メイドロボに関しては原画の[[みつみ美里]]の強い要望によってサブキャラとして登場した<ref>{{Cite book|和書|author=ファミ通書籍編集部|authorlink=ファミ通|title=トゥハート2 オフィシャルガイドブック The Essence of ToHeart2|publisher=エンターブレイン|page=|isbn=978-4-75-772219-4|date=2005-03-04}}</ref>{{Efn2|なお、『ToHeart2』の続編である『ToHeart2 AnotherDays』においては、メインキャラクターとサブキャラクターが『ToHeart2』と逆転しており、結果として「メイドロボ」も「緑髪のキャラクター」もヒロインとして登場している。}}。また、『ToHeart2』本編中においてもキャラクターのセリフ中に名前が登場しており、数少ない『2』において名前が登場する本作のキャラクターの一人となっている。容姿が松原葵と似ているがマルチのほうは後ろ髪が少し長く前髪を揃えている。 : 型式番号の「HMX」は「HomeMaid(ホームメイド)」から取られており(『Remember〜』ではHumanMaiden《ヒューマンメイデン》の略だと長瀬主任は発言)、試作機には「HM」の後に試作機であることを示す共通コード「X」が付けられている(来栖川グループ製のメイドロボに関しては全機種共通で、試作機は「HMX-○○」、量産型は「HM-○○」という型式番号が付けられることになる)。 : 好意を持つ人物に頭を撫でられることをとても好む。主人公の藤田浩之に頭を撫でられると顔がポッと赤くなり、可愛らしい表情を見せる。 ; HMX-13“セリオ” : {{Anchors|HMX-13“セリオ”}}[[2月12日]]ロールアウト、星座:みずがめ座、身長:160cm、3サイズ:83/53/82 : HMX-13“セリオ”は“マルチ”の競合作として開発された来栖川重工製のメイドロボット試作機でマルチの妹にあたる。「従来のメイドロボットの延長線上にある次期[[ハイエンド]]機」を目標に、衛星通信システムを活用したデータリンク機能「サテライトサービス」などを搭載した、機能面重視の高性能機種として開発されたため、感情表現機能は必要最小限しかインストールされておらず、“マルチ”とは正対する「あくまで機械」という印象を与えるためのキャラクターとして描かれている。基本的に綾香と行動を共にしている。『Remember〜』では、暴走し苦悩し続けるマルチを探しに行く際、彼女を「姉さん」と呼んだり、動かなくなったマルチを見て涙を流すなど姉である彼女を尊敬している節が見られる。 : 3サイズは綾香のデータより3cmずつ少ない。なお身長と3サイズについて、上記のデータは『[[げーむじん]]』に掲載されていたQ&Aの回答としてあげられた物であるが、アニメ(第1作)の設定では「身長:163cm、3サイズ:85/53/82」となっている。 == ミニゲーム == PS版以降には、以下の[[ミニゲーム]]が追加されている。特定の条件を満たすことで、タイトルメニューの『オプション』→『おまけ』に追加されてプレイでき、[[ハイスコア]]をセーブすることもできる。また、本編中でプレイできるものもある。 以下の『お嬢様は魔女』『Heart by Heart』『○△□×』は、PS、PS2版では本編中でゲーセンバトル([[ゲームセンター]]での対決)で、神岸あかり・長岡志保・佐藤雅史のいずれかを相手に選択して対戦という形でプレイできる。1回プレイすると『おまけ』に追加される。PSE版では最初から『おまけ』に追加されており、またWindowsのメニューから直接起動することも出来るが、本編中でプレイ出来なくなった(ゲーセンバトルに至るまでのシナリオは同じだが、「本気を出す」「普通にやる」などの選択肢が表示され、それで結果が決まるようになっている)。 === お嬢様は魔女 === ジャンルは横スクロールの[[シューティングゲーム]]。箒に跨った来栖川芹香を操り、3種のショットと[[ボム (シューティングゲーム)|ボム]]、ボタンを溜めて放つチャージショットを使い分けて敵を倒していく。一定時間内に連続で敵を倒すと得られる得点の倍率が上がるが、ショットの属性により攻撃が跳ね返す敵も存在するため、その都度使い分ける必要がある(逆に跳ね返させた跳弾を敵に当てることも出来る)。全3ステージで、ノーミスでクリアすると隠しボスとして来栖川綾香が出現する。チャージショットで敵の弾を打ち消すと得点を得られるアイテムが出現するなど、やりこみ度は高い。ゲーセンバトルでは、得点を競う形になる。 === Heart by Heart === ジャンルは[[アクションゲーム]]で、システムは[[マリオブラザーズ]]と共通する部分もある。ショットを撃ち画面内の敵を全て倒すのが目的となる。1人用では全30ステージをクリアするのが目的となり、2人用では協力して1人用と同様に全30ステージをクリアする「きょうりょく」と、相手プレイヤーを倒すことが目的となる「たいせん」が選べる。 プレイヤーキャラクターは以下から選択でき、キャラクターによってショットや移動能力に違いがある。 * 初期状態で使用可能 : 「神岸あかり」「長岡志保」「マルチ」「保科智子」「来栖川芹香」「宮内レミィ」「松原葵」「姫川琴音」 * 本編でそのキャラクターのエンディングを見ることで使用可能 : 「来栖川綾香」「雛山理緒」 * 「肩もみセリオ」(後述)でセリオの頭をなでると使用可能 : 「セリオ」 * 全キャラ使用可能な状態で[[隠しコマンド]]を入力する : 「真のヒロイン・琴音(真・琴音)」(ショットが画面中に16発出せ、移動性能が他キャラに比べ大幅にアップする。選択時には目が光り「'''真のヒロイン登場です'''」と言う) 本編中では先述のゲーセンバトルの他、志保のシナリオ中でも主人公と志保が二人協力プレイを行うシーンがある(この時はプレイヤーはプレイできず、経緯を文章上で読むのみとなる)。 Leafアミューズメントディスク『[[初音のないしょ!!]]』に収録されていたミニゲームを移植したもの(ただし、『初音のないしょ!!』収録版とは使用キャラや一部の操作などが異なる)。 === ○△□×(まるさんかくしかくばつ) === ジャンルは対戦型[[パズル]]ゲーム(逆[[落ち物パズル]])。下からせり上がって来る○・△・□・×・←・→ブロックを、ブロック置き場のブロックと交換して、同じブロックを3つ縦・横・斜め(難易度によっては斜めには消せなくなる)に揃えて消していく。最上段にブロックがある状態でせり上がると負けになる。消した時にブロックが落下するが、落ちた時にブロックが揃っていれば連鎖して消えていく。連鎖するほど高得点が得られるほか、2人プレイでは相手の陣地におじゃまブロックを降らせることができる。1人プレイではひたすら消して得点を競うが、2人プレイではいかに早くギブアップさせるかを競う。 各ブロックはPS、PS2の[[ゲームコントローラ|コントローラ]]の各キーに対応しており、(←・→はそれぞれL1・R1キーに対応)フィールドの交換したいブロックにカーソルを合わせてキーを押すと、ブロック置き場にそのブロックがあれば交換することができる。 プレイヤーキャラクターは以下から選択でき、それぞれ固有の特殊能力を持つ。 * 初期状態で使用可能:「神岸あかり」「長岡志保」「マルチ」「保科智子」「来栖川芹香」「宮内レミィ」「松原葵」「姫川琴音」 * 本編でそのキャラクターのエンディングを見ることで使用可能:「雛山理緒」 * 「肩もみセリオ」(後述)でセリオの頭をなでると使用可能:「セリオ」 なお、PSEでもブロックが全く同一で、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]のキーと対応が割り当てられているが、非常に分かりにくく混乱を招く。 === ウォーターサバイバル === ジャンルは[[ガンシューティングゲーム]]。固定画面のあちこちから登場する志保を、水鉄砲で撃たれる前に撃つのが目的。時々雅史が出現し、彼を撃つとライフが減ってしまう。30秒経過するかライフ3つが全てなくなるとゲームオーバーで、志保を撃った数と残りライフで得点が出る。本編中の志保シナリオでプレイでき、結果はシナリオに影響しない。本編中でプレイすると『おまけ』に追加されてプレイできる。 === 肩もみマルチ === マルチが肩たたきや肩もみをし、それに連動してコントローラ([[DUALSHOCK|デュアルショック]])の振動機能が作動して振動する。PSEでは振動機能([[フォースフィードバック]])を搭載した[[ゲームパッド]]を使用しないと全く意味がない。本編でマルチのエンディングを見ると『おまけ』に追加されてプレイできる。 === 肩もみセリオ === 上記の「肩もみマルチ」の肩をもむ役がセリオになったもの。マルチとはリアクションが異なり、また専用のCGも見ることが出来る。「肩もみマルチ」を5回プレイすると『おまけ』に追加されてプレイできる。 == スタッフ == Leaf伊丹(現:大阪)開発室による作品。 * シナリオ - [[髙橋龍也]]、[[竹林明秀|青紫]](青村早紀)、[[原田宇陀児]](PS版、PSE、PS2版) * 原画 - [[水無月徹]]、[[カワタヒサシ|ラー・YOU]](河田優) * 音楽 - 石川真也、中上和英、[[下川直哉]] == 主題歌 == ; PC版オープニングテーマ「Brand-new Heart」 : 作詞 - NEKO / 作曲 - 中上和英 / 歌 - [[AKKO (Leaf)|あっこ]] ; PC版エンディングテーマ「あたらしい予感」 : 作詞 - NEKO / 作曲 - 下川直哉 / 歌 - あっこ ; PS版、PSE、PS2、PSP版オープニングテーマ「Feeling Heart」 : 作詞 - 須谷尚子 / 作曲 - 下川直哉 / 歌 - [[中司雅美]] ; PS版、PSE、PS2、PSP版エンディングテーマ「それぞれの未来へ」 : 作詞 - 須谷尚子 / 作曲 - 中上和英 / 歌 - 中司雅美 == 反響・批評 == 本作のPlayStation版がリリースされた後、ビデオゲーム雑誌『[[ファミ通]]』において40点中30点を獲得した<ref>{{cite journal|title=PlayStation: To Heart|journal=週刊ファミ通|issue=915, pt. 2|page=19|date=2006-06-30}}</ref>。『電撃G's magazine』は2007年に「読者が選ぶMY BESTギャルゲーランキング50」と題した人気投票企画を行っており、249のタイトルの中から本作『To Heart』は14票を獲得して19位にランクインした<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011213916/http://gs.dengekinet.com/ranking/index.html|url=http://gs.dengeki.com/ranking/index.html|title=読者が選ぶMY BESTギャルゲーランキング50|publisher=アスキー・メディアワークス|archivedate=2007-10-11|accessdate=2019-01-20}}</ref>。 [[洋泉社]]が発行した『アニソンマガジン』のゲームソングレビュー集のなかでライターの前田久は、「Feeling Heart」について「[[シンセサイザー|シンセ]]主体のシンプルなアレンジで奏でられる美しいメロディーに、中司の落ち着いた歌声が絶妙にマッチしている」と肯定的な評価を与えている<ref name="animaga">{{Cite journal|和書|author=前田久|date=2008-07-10|title=究極の"ゲームソング"50 後編|journal=アニソンマガジン|volume=Vol.5|publisher=洋泉社|page=88}}</ref>。 ライターの[[森瀬繚]]はアダルトゲーム雑誌「[[メガストア]]」に連載したコラムの中で、本作のヒロインの一人である保科 智子が「委員長」キャラクターのアーキタイプとなったと評している{{R|Vol11P77}}。 アダルトゲーム雑誌[[BugBug]]の2022年のアンケート「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」において、「To Heartシリーズ」が6位となった。<ref>{{Cite web|和書|title=【BugBug】「あなたが美少女ゲームにハマるきっかけになったタイトルは?」 3月号掲載の美少女ゲーム売上げランキング&1月号で募集した読者アンケート結果を大発表!! |url=https://bugbug.news/b_game/70693/|date=2022-03-02|accessdate=2022-03-09|publisher=[[BugBug]]}}</ref> == アニメ作品 == ; 第1期 : 『'''ToHeart'''』のタイトルで1999年4月2日から同年6月25日まで放送された。PS版の発売に合わせたもので、オープニングテーマとムービー、声優陣が共通となっている。 : キッズステーションではエンディングが[[川澄綾子]]の「Yell」だったが、第1話の初回放送1回目のみ、SPYの「Access」が使われた(2回目以降は「Yell」へ差し替えられた)。 : 主人公と特定のヒロインの関係を進展させることが困難なギャルゲー原作物([[ハーレムアニメ]])の制約上、浩之、あかり、志保の三角関係を基本としつつ、他のヒロインを各話ごとに登場させて浩之に絡ませるという、各ヒロインキャラクターのプロモーションのような構成となった。そのため、作品の主軸はあえて激しいストーリー展開を避け、丁寧な日常描写を積み重ねることに置かれていた。それらを経た最終話では、浩之とあかりがようやく互いの恋愛感情を確認するという結末を迎えることとなる。 : 2007年5月25日には、[[DVD-BOX]]として再発売された。 ; 第2期 : {{Anchors|To Heart ~Remember my Memories~}}『'''To Heart 〜Remember my Memories〜'''』のタイトルで2004年10月から同年12月の間、[[アニメ魂]]枠で放送された。アニメ第1期の続編ではなく、『[[ToHeart2]]』PS2版の発売に合わせてゲーム版『To Heart』からの橋渡しと位置づけられた作品であり、同作のキャラクターも一部登場している。キャラクターの設定も改変されており、レミィの帰国や雅史によるあかりへの告白などオリジナル展開が存在する。 : 物語は、ゲーム版『ToHeart』から1年後の学園が舞台。声優は同じだが、全スタッフが交代し、キャラクターデザインが原作ゲームに近いものとなった。また、他のLeaf作品の登場人物が所々で登場した(後述)。これらの理由のため、本作の回想シーンと第1期の該当シーンでは演出が異なり、矛盾する部分がある。 : 第6話における保科智子の発言により、本作の世界でも[[阪神・淡路大震災]]が起きていたらしいことが読み取れる{{Efn2|第6話は保科智子の出身地である神戸が舞台となっており、「あの大地震」という表現をしている。}}。 : ハートフルストーリーであったアニメ第1期と違い浩之、あかり、マルチの関係の推移に焦点を絞った非常にシリアスなストーリー構成になっている。このため作品の主軸が激しい展開となっており、マルチとの再会で浩之とあかりの関係が次第に悪化していく様子が描かれている。最終話では、和解した浩之とあかりの前で眠りについていたマルチがようやく目覚めるという結末で終わっている。 === アニメ第2期のみの登場キャラクター === 藍原瑞穂と長瀬祐介はLeafの過去作品『雫』にも登場しているが、その役どころは全く異なる。 ; フィール : 声 - [[田上由希子]] : 第8話で登場。来栖川重工製のメイドロボット試作機。型番はHMX-11。メイドロボットに感情を持たせるための試作機として作られるが、ソフトウェアが重すぎて起動しなかった。このため、製品版のHM-11に感情機能は搭載されていない。容姿は『雫』に登場した太田香奈子に酷似している。 ; 藍原 瑞穂(あいはら みずほ) : 声 - [[後藤邑子]] : 第8話で登場。来栖大学でHMX-11の感情プログラムを作っていたが、前方不注意の車に轢かれて事故死したため、計画は中断された。 ; 長瀬 祐介(ながせ ゆうすけ) : 声 - [[野島裕史]] : 第9話で登場。長瀬源五郎の甥で画家。やや無愛想。藍原瑞穂と交際していた。 また、上記の面々以外にも第8話と第13話で『ToHeart2』の'''姫百合珊瑚'''(声:[[石塚さより]])と'''姫百合瑠璃'''(声:[[吉田小南美]])が登場した。ただし、瑠璃は第8話では全く台詞がなく、第13話では逆に台詞はあるが姿が登場していない。また、エンディングクレジットには声優名のみが表記され、役名は表記されなかった。 DVDの特典映像『Heart Fighters』の第7話では、'''柚原このみ'''(声:[[長谷優里奈|落合祐里香]])が登場した。こちらは、エンディングクレジットに役名も表記されていたが、予告では「X」と表記されていた。 === スタッフ(アニメ) === {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" ! !! 第1期 !! 第2期 |- ! 原作 | colspan="2" |AQUAPLUS |- ! rowspan="2" |企画 | colspan="2" |下川直哉 |- | 仁平幸男 || 福井政文、及川武、[[川村明廣]]<br />松江正俊、酒匂暢彦、中村直樹<br />[[奥野敏聡]] |- ! 企画協力 | AQUAPLUS、[[メディアワークス]]<br />アートプレスト、ティーアイ東京<br />蝦名雅人 || - |- ! 監督 | [[高橋ナオヒト]] || [[元永慶太郎]] |- ! シナリオ監修 | 高橋龍也 || - |- ! シリーズ構成 | [[山口宏 (脚本家)|山口宏]] || - |- ! 脚本 | 山口宏、[[藤田伸三]] || [[叶希一]] |- ! キャラクター原案<br />監修 |水無月徹 || - |- ! キャラクターデザイン<br />総作画監督 | [[千羽由利子]] || [[平山まどか]] |- ! 小物デザイン<br />総作画監督補佐 | - || [[堀井久美]] |- ! 美術監督 | [[小林七郎]]、高橋久嘉 || 前田実 |- ! 色彩設計 | 渡辺亜紀 || 花尻和子 |- ! 撮影監督 | 沖野雅英 || 田中浩介 |- ! 編集 | 辺見俊夫 || 田熊純 |- ! 音響監督 | [[渡辺淳 (音響監督)|渡辺淳]] || [[明田川仁]] |- ! 音響プロデューサー | [[飯塚康一]] || - |- ! 音響制作 | [[ケイエスエス]] || [[フロンティアワークス]] |- ! 音楽 | [[和田薫 (作曲家)|和田薫]] || [[長岡成貢]] |- ! 音楽プロデューサー | 横山光則 || 吉川明 |- ! アカウント<br />エグゼクティブ | 小河信夫、村田昌志 || rowspan="2" | - |- ! チーフプロデューサー | 浅賀孝郎、奥野敏聡 |- ! プロデューサー | [[大宮三郎|岩川広司]]、[[神田修吉]]、寺崎孝 || 畑中利雄、中村誠、高山智子<br />水上高志、望月雄太郎、武智恒雄<br />土橋哲也、芝原靖史 |- ! アニメーション<br />プロデューサー | 和崎伸之 || 渡辺欽哉、黄樹弐悠 |- ! rowspan="2" |アニメーション制作 | colspan="2" |[[オー・エル・エム]](第1期)<br />OLM(第2期) |- | - || [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC A.S.T.A.]] |- ! 製作 | ケイエスエス || THR Works{{efn2|[[IMAGICAイメージワークス|IMAGICAエンタテインメント]]、フロンティアワークス、[[ジェネオンエンタテインメント]]、[[双日]]、AQUAPLUS、[[クロックワークス]]、[[アニメシアターX|AT-X]]、OLM}} |} === 主題歌(アニメ) === ; 第1期 :; オープニングテーマ「Feeling Heart」 :: 作詞 - 須谷尚子 / 作曲・編曲 - [[下川直哉]] / 歌 - [[中司雅美]] :; エンディングテーマ「Access」 :: 作詞 - KAZUYO / 作曲 - 長部正和 / 編曲 - HIRO / 歌 - SPY :; エンディングテーマ「Yell」 :: 作詞 - 六ッ見純代 / 作曲 - [[前田克樹]] / 編曲 - 坂本昌之 / 歌 - [[川澄綾子]] :: 新潟放送とキッズステーション、パッケージメディアでのみ使用。 ; 第2期 :; オープニングテーマ「大好きだよ(Into Your Heart)」 :: 作詞・作曲・編曲 - [[ジョー・リノイエ]] / 歌 - 谷咲ナオミ :: 全話に挿入歌としても使われていた。 :; エンディングテーマ「それぞれの未来へ」 :: 作詞 - 須谷尚子 / 作曲 - 中上和英 / 編曲 - 松岡純也 / 歌 - 池田春菜 :: PS版に使われた同曲のアレンジバージョン。 === 各話リスト === {| class="wikitable" style=font-size:small |+ 第1期 |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |1||新しい朝||rowspan="2"|[[山口宏 (脚本家)|山口宏]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[高橋ナオヒト]]||[[千羽由利子]] |1999年 4月2日 |- |2||放課後の出来事||横田和||大町繁||[[小林勝利]] |4月9日 |- |3||陽だまりの中||[[藤田伸三]]||[[岩崎良明]]||[[村田和也]]||伊藤岳史 |4月16日 |- |4||輝きの瞬間||rowspan="3"|山口宏||[[高本宣弘]]||[[深沢幸司]]||千羽由利子 |4月23日 |- |5||青い空の下で||colspan="2" style="text-align:center"|村田和也||斉藤英子 |4月30日 |- |6||憧れ||横田和||大町繁||小林勝利 |5月7日 |- |7||揺れるまなざし||rowspan="2"|藤田伸三||深沢幸司||[[木宮茂|木宮しげる]]||平石素子 |5月14日 |- |8||おだやかな時刻||colspan="2" style="text-align:center"|深沢幸司||[[沢田正人]] |5月21日 |- |9||心の在り処||山口宏||岩崎良明||村田和也||斉藤英子 |5月28日 |- |10||夢見る笑顔||藤田伸三||colspan="2" style="text-align:center"|村田和也||rowspan="4"|斉藤英子<br />千羽由利子 |6月4日 |- |11||ぬくもりの瞳||山口宏||colspan="2" style="text-align:center"|深沢幸司 |6月11日 |- |12||想いの季節||藤田伸三||rowspan="2"|高橋ナオヒト||村田和也 |6月18日 |- |13||雪の降る日||山口宏||高橋ナオヒト<br />深沢幸司 |6月25日 |} {| class="wikitable" style=font-size:small |+ 第2期 |- !話数!!サブタイトル!!絵コンテ!!演出!!作画監督 |- |1||新しい予感||colspan="2" style="text-align:center"|[[元永慶太郎]]||[[平山まどか]] |- |2||昔と、今と||[[ワタナベシンイチ]]||秋田谷典昭||田中壽之 |- |3||そして、君は||中山岳洋||[[久城りおん]]||[[堀井久美]] |- |4||強さと、優しさ||colspan="2" style="text-align:center"|[[谷田部勝義]]||桜井木ノ実<br />ひのたかふみ |- |5||越えるべき壁||中村主水<br />椛島洋介||椛島洋介||青山まさのり |- |6||思い出の街、思い出の人||別所誠人||粟井重紀||三崎雅也 |- |7||一人の願い、二人の夢||吉田英俊||秋田谷典昭||田中壽之 |- |8||ロボットの夢||川島宏||[[福本潔]]||飯飼一幸<br />椛島洋介 |- |9||すれ違う心||別所誠人||元永慶太郎||大坪幸麿 |- |10||長い夜||ワタナベシンイチ||長村伸治||吉野真一<br />青山まさのり |- |11||理解りあうために||吉田英俊||[[政木伸一]]||田中壽之 |- |12||わたしの、居場所||福本潔||[[石倉賢一]]||[[西尾公伯]] |- |13||それぞれの未来へ||別所誠人||秋田谷典昭||平山まどか<br />堀井久美 |} === 放送局 === {| class="wikitable" style=font-size:small |+ 第1期 |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送区分!!備考 |- |[[兵庫県]]||[[サンテレビジョン|サンテレビ]]||rowspan="2"|1999年4月2日 - 6月25日||木曜 24:35 - 25:05{{Efn2|6月のみ24:40 - 25:10}}||[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]|| |- |[[北海道]]||[[テレビ北海道]]||木曜 25:30 - 26:00||[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]|| |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]||rowspan="2"|1999年4月3日 - 6月26日||土曜 25:40 - 26:10||[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]|| |- |[[新潟県]]||[[新潟放送]]||土曜 25:55 - 26:25||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]|| |- |[[埼玉県]]||[[テレビ埼玉]]||rowspan="2"|1999年4月4日 - 6月27日||日曜 24:00 - 24:30||rowspan="3"|独立UHF局|| |- |[[千葉県]]||[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]||日曜 24:30 - 25:00|| |- |[[神奈川県]]||[[テレビ神奈川]]||rowspan="2"|1999年4月5日 - 6月28日||月曜 24:00 - 24:30|| |- |[[福岡県]]||[[TVQ九州放送]]||月曜 25:35 - 26:05||テレビ東京系列|| |- |[[静岡県]]||[[静岡放送]]||1999年4月6日 - 6月29日||火曜 25:30 - 26:00||TBS系列|| |- |[[京都府]]||[[京都放送|KBS京都]]||1999年4月7日 - 6月30日||水曜 23:30 - 24:00||独立UHF局|| |- |[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]||1999年4月12日 - 7月5日||月曜 26:00 - 26:30||テレビ東京系列|| |- |rowspan="2"|[[全国放送|日本全域]]||[[キッズステーション]]<br />||1999年4月13日 - 7月6日||火曜 23:00 - 23:30<br />||rowspan="2"|[[日本における衛星放送#CS放送|CS放送]]||rowspan="2"|リピート放送あり |- |[[アニメシアターX|AT-X]]||2001年5月5日 - 8月1日||水曜 12:30 - 13:00 |} {| class="wikitable" style=font-size:small |+ 第2期 |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送区分!!備考 |- |日本全域||AT-X||2004年10月2日 - 12月25日||土曜 10:00 - 10:30||CS放送||リピート放送あり |- |[[群馬県]]||[[群馬テレビ]]||2004年10月3日 - 12月26日||日曜 25:00 - 25:30||rowspan="3"|独立UHF局|| |- |神奈川県||tvk||rowspan="2"|2004年10月8日 - 12月31日||金曜 23:30 - 24:00|| |- |京都府||KBS京都||金曜 25:25 - 25:55|| |- |日本全域||[[BS朝日]]||2004年10月11日 - 2005年1月3日||月曜 26:00 - 26:30||[[日本における衛星放送#BS放送|BS放送]]|| |- |[[東京都]]||[[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]]||2004年10月14日 - 2005年1月6日||木曜 25:00 - 25:30||独立UHF局|| |- |[[長野県]]||[[信越放送]]||2004年10月15日 - 2005年1月7日||金曜 26:00 - 26:30||TBS系列|| |- |[[奈良県]]||[[奈良テレビ放送|奈良テレビ]]||2004年10月21日 - 2005年1月13日||木曜 24:25 - 24:55||独立UHF局|| |- |[[熊本県]]||[[熊本放送]]||2004年10月25日 - 2005年1月17日||月曜 26:20 - 26:50||TBS系列|| |- |日本全域||[[GYAO!]]||2005年12月19日 - 12月26日||月曜 12:00 更新||[[インターネットテレビ|ネット配信]]|| |} {{前後番組 |放送枠=[[アニメ魂]] |番組名=To Heart<br />〜Remember my Memories〜 |前番組=[[月は東に日は西に 〜Operation Sanctuary〜|月は東に日は西に<br />〜Operation Sanctuary〜]] |次番組=[[SeptemCharm まじかるカナン|まじかるカナン]] }} === 映像特典 === 第1期DVD収録の映像特典。短編アニメは第2巻より収録。 * 第1巻 - 新春新人シャンソン・ショー?(対談) * 第2巻 - いつもの朝(アニメ)/どっちがお好き?(対談) * 第3巻 - Private Room(アニメ) * 第4巻 - 時には一緒に。(アニメ) * 第5巻 - MONSTER SHOCK(アニメ) * 第6巻 - ちょっと…イイ話(アニメ) * 第7巻 - 今日は僕らのクラスは全員出席だ(アニメ) === Heart Fighters === 第2期DVD映像特典。各巻1話収録、全7話。アニメ第2期の登場人物同士が対決するという内容で、『[[聖闘士星矢]]』や『[[仮面ライダー剣]]』などのパロディや、巨大ロボットまで登場している。最終戦のXのみ『ToHeart2』からの客演。 ; 対戦カード :* 第1戦「智子vsレミィ」 :* 第2戦「志保vs理緒」 :* 第3戦「葵vs綾香」 :* 第4戦「琴音vs芹香」 :* 第5戦「セリオvsマルチ」 :* 第6戦「マルチvsあかり」 :* 最終戦「あかりvsX」 == ラジオ == PS版の販促のため[[大阪放送|ラジオ大阪]](1998年4月11日 - 10月3日)、[[文化放送]](1998年4月10日 - 10月2日)にて豊嶋真千子による『To Heart』のラジオ番組を放送。番組終了後も後番組の『[[豊嶋真千子・岩田光央 アスパラFUN!!|豊嶋真千子Earthly Paradise]]』にて作品情報の提供、およびラジオドラマ『To Heart Piece of Heart』の放送を行っている。 == 関連作品 == === コミック === ; To Heart : [[月刊コミック電撃大王|コミック電撃大王]]に[[1997年]][[10月]]号から[[1999年]][[12月]]号まで連載。作画:[[高雄右京]] : 電撃コミックス 発行:[[メディアワークス]] 発売:[[角川書店]](初版第1巻のみ[[主婦の友社]]) :#[[1998年]][[9月15日]]初版 ISBN 4-8402-0978-2 :# 1999年[[6月15日]]初版 ISBN 4-8402-1221-X :# [[2000年]][[2月15日]]初版 ISBN 4-8402-1460-3 ; ToHeart 〜Remember my Memories〜 : 同名のアニメを基にしたコミカライズ。[[月刊コミック電撃大王]]に[[2004年]][[11月]]号から[[2005年]][[7月]]号まで連載。作画:高雄右京 : 電撃コミックス 2005年[[8月15日]]初版 ISBN 4-8402-3137-0 発行:メディアワークス 発売:角川書店 === コミックアンソロジー === 『To Heart』の[[コミックアンソロジー]]は、PS版発売後まもなくスタジオDNA(現:[[一迅社]])と[[エニックス]](現:[[スクウェア・エニックス]])とT2出版の3社より出版された。スタジオDNA版は続編『[[ToHeart2]]』が出てからも刊行され、30巻まで続いた。それから数年遅れて[[ラポート]]や[[宙出版]]からも出版された。 * スタジオDNA (コミックアンソロジーVol.30のみ一迅社となってから刊行) ** To Heart コミックアンソロジー 全30巻 ** To Heart 4コマKings 全2巻 * エニックス ** エニックス[[スーパーコミック劇場]] To Heart 全5巻 ** To Heart [[4コママンガ劇場]] 全7巻 ** To Heart ポストカードギャラリー 全2巻 * ラポート ** ゲームコミック To Heart 全2巻 * 宙出版 ** [[ツインハートコミックス]] To Heart 全3巻 ** ツインハートコミックス トゥハートメモリーズ ** [[おおぞら笑コミックス]] To Heart 〜Remember my Memories〜 * T2出版 ** To Heart アンソロジー ** To Heart アンソロジー MAX ** To Heart アンソロジー +α === ドラマCD === ; To Heart Piece of Heart : セリオと、クラスメートの田沢圭子の心の交流を描いた話。本編では描かれなかったセリオの心情が描かれている。 :; 「To Heart Piece of Heart」にのみ登場のキャラクター ::; 田沢 圭子(たざわ けいこ) ::: 声 - [[南央美]] ::: 西音寺女学院1年C組の生徒で、セリオのクラスメート。クラスの中で一番小さく、ドングリ目と低い鼻と大きい耳を気にしている。佐藤雅史に惚れており、雅史とセリオが一緒にいた所(藤田浩之、神岸あかり、長岡志保、来栖川綾香も一緒だったが)に居合わせ、それを目撃したセリオにそのことを聞かれたことをきっかけに、セリオに雅史と話が出来ないか持ち掛ける。 :* 初回版 - 発売:ケイエスエス 販売:[[パイオニアLDC]] :* 再発版 - 発売:[[フィックスレコード]] 販売:[[キングレコード]] KICA-5051 : ; アンソロジードラマCD ToHeart 〜Remember my Memories〜 Vol.1「雨月山の鬼退治」 : 「ToHeart 〜Remember my Memories〜」を基にした話。ストーリーはギャグの要素が強く、Leafの過去作品の「痕」のパロディを盛り込んでいる。なお、Vol.1と銘打ってはいるが、Vol.2は発売されていない。 : 発売:フロンティアワークス 販売:ジェネオンエンタテインメント FCCM-0055 === CD === ==== ゲーム関連 ==== 全て 発売元:フィックスレコード、販売元:キングレコード ; Feeling Heart : PS版及びテレビアニメ版OPテーマ『Feeling Heart』とPS版EDテーマ『それぞれの未来へ』を収録した[[シングル]]。 ; To Heart オリジナル・サウンドトラック : サウンドトラック。PC版とPS版が存在する。 ; HEART SESSION : 作中BGMのバンドアレンジ曲を収録したアルバム。 ; Leaf VOCAL COLLECTION Vol.1 : To Heartと『WHITE ALBUM』、『PC版こみっくパーティー』のボーカル曲を収録したアルバム。PC版OPテーマ『Brand-New Heart』、EDテーマ『あたらしい予感』、PS版OPテーマ『Feeling Heart』、EDテーマ『それぞれの未来へ』と、神岸あかりのテーマ曲『あなたの横顔』に歌詞をつけたバージョン(歌:[[美崎しのぶ]])を収録。なお、『Brand-New Heart』、『あたらしい予感』、『Feeling Heart』はロングバージョンを収録しており、『Brand-New Heart』、『あたらしい予感』は美崎しのぶが歌っている。 ; 雨 : 中司雅美のアルバム。PS版OPテーマ『Feeling Heart』とEDテーマ『それぞれの未来へ』のアレンジバージョンを収録。 ; POWDER SNOW : 『WHITE ALBUM』のEDテーマの英語バージョンを収録した[[マキシシングル]]。C/Wとして、PC版EDテーマの英語バージョン『I Believe 〜あたらしい予感〜』を収録している。 ; Leaf Piano Collection Vol.1 : To Heartと、『雫』、『痕』、『WHITE ALBUM』、『こみっくパーティー』、『[[まじかる☆アンティーク]]』の歌やBGMのピアノアレンジ曲を収録したアルバム。 ; AQUAPLUS VOCAL COLLECTION VOL.1 : 『Leaf VOCAL COLLECTION Vol.1』の再発。 ; AQUAPLUS VOCAL COLLECTION VOL.2 : 『まじかる☆アンティーク』、『PC版[[うたわれるもの]]』、『DC版こみっくパーティー』、『[[誰彼]]』のボーカル曲および、PC版EDテーマの英語バージョン『I Believe 〜あたらしい予感〜』を収録したアルバム。 : Leaf製作のインディーズCD『Leaf VOCAL COLLECTION VOL.2』の一般向け再発版。 ; Pure -AQUAPLUS LEGEND OF ACOUSTICS- : 本作と『WHITE ALBUM』『うたわれるもの』『[[Tears To Tiara]]』『ToHeart2』『[[鎖 -クサリ-]]』の歌やBGMの、[[Elements Garden]]のメンバーによる[[アコースティック]]アレンジアルバム。 これ以外にも、Leaf製作による[[インディーズ]]のサウンドトラックやアレンジアルバムがあるが、ここでは省略する。 ==== アニメ関連 ==== ; Access : 発売:[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント]] : TVアニメ(第1作)EDテーマ『Access』を収録したシングル。C/Wは『Dreams Come ture』。 ; To Heart アニメーション・サウンドトラック : 発売元:フィックスレコード、販売元:キングレコード : TVアニメ(第1作)のサウンドトラック。 ; 大好きだよ(Into Your Heart) : 発売元・販売元:フロンティアワークス、販売協力:ジェネオンエンタテインメント : 『Remember〜』のOPテーマ『大好きだよ(Into Your Heart)』とEDテーマ『それぞれの未来へ』を収録したマキシシングル。 ; TVアニメーション「ToHeart 〜Remember my memories〜」サウンドトラック&イメージソング : 発売元・販売元:フロンティアワークス、販売協力:ジェネオンエンタテインメント : 『Remember〜』のサウンドトラック。川澄綾子の歌うイメージソング『ONE&ONLY』も収録している。 ; AQUAPLUS VOCAL COLLECTION VOL.4 : 発売元:フィックスレコード、販売元:キングレコード : 『Remember〜』と、『ToHeart2』、『雫(リニューアル版)』、『[[アルルゥとあそぼ!!]]』、『こみっくパーティーRevolution』のボーカル曲を集めたアルバム。OPテーマ『大好きだよ(Into Your Heart)』とEDテーマ『それぞれの未来へ』を収録。 === 小説 === ; To Heart マルチ、がんばりますっ! : 本編のマルチのシナリオを基にしたノベライズ。著 : [[伊達将範]]。 : 電撃G's文庫 [[1998年]][[9月25日]]初版 ISBN 4-8402-0966-9 発行:メディアワークス 発売:角川書店 ; ToHeart アンソロジーノベル : 著:[[新井輝]]、[[あすか正太]]、武乃忍、氷上慧一。短編を4話収録。 : ファミ通文庫 [[2004年]][[11月1日]]初版 ISBN 4-7577-2039-4 発行:[[エンターブレイン]] === ゲーム === ; [[おでかけマルチ]] : マルチをメインキャラクターにした育成ゲーム。[[PIECE|P/ECE]]対応。 ; [[AQUAPAZZA]] -AQUAPLUS DREAM MATCH-(アクアパッツァ アクアプラスドリームマッチ) : プレイヤーキャラクターとしてマルチ、サポートキャラクターとして来栖川芹香が参戦。[[アーケードゲーム|アーケード]]と[[PlayStation 3]]。 ; ToHeartハートフルパーティ : ToHeartシリーズのキャラクターが登場する[[ソーシャルゲーム]]。『2』のキャラクターが多く登場するが、今作のヒロインも登場する。イラストは描きおろし。 : 当初の共同運営先は[[インデックス・ホールディングス|インデックス]](旧法人)であったが、インデックスの民事再生手続に伴い2013年11月1日に[[iXIT|インデックス]](旧:セガドリーム)へ移管され、2014年5月1日に[[サミーネットワークス]]の子会社であるバタフライへ三度移管された<ref>[https://www.butterfly-corp.jp/assets/pdf/news_press/TH140424.pdf 2014年5月1日より「ToHeart ハートフルパーティ」運営開始のお知らせ]バタフライ 2014年4月24日</ref>。2015年3月27日にてサービス提供が終了した<ref>[http://blog.aquaplus.jp/archives/5027 「ToHeartハートフルパーティ」サービス終了のお知らせ(~3/27)] aquaplusニュースリリース 2015/5/30閲覧</ref>。 == 関連項目 == * [[リーフファイトTCG]] * [[町田市]] - 作品の舞台として町田市をイメージしたとスタッフが語っている<ref>{{Cite book|和書|author=ファミ通|authorlink=ファミ通|title=トゥハート 公式ガイドブック 〜The Essence of ToHeart〜|publisher=[[アスペクト (企業)|アスペクト]]|page=135|isbn=978-4-75-770106-9|date=2000-06}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="Vol11P77">[[#Megastore|「エロゲー人の基礎知識Vol.11 委員長パラダイス」, 『メガストア』2010年4月号, p. 75.]]</ref> }} == 参考文献 == ;雑誌 *{{Cite journal|month=4月|year=2010年|title=エロゲー人の基礎知識Vol.11 委員長パラダイス|journal=[[メガストア]]|volume=4月号|pages=74-78|ref=Megastore|author=[[森瀬繚]]}} == 外部リンク == * [https://leaf.aquaplus.jp/product/th/ To Heart(アダルトゲーム版) 公式サイト] * [https://aquaplus.jp/th/ ToHeart(PS版)、ToHeart PSE 公式サイト] * {{Wayback |url=http://www.toheart-r.net/ |title=ToHeart Remember my memories 公式サイト |date=20120512130524}} * {{Wayback |url=http://www.mxtv.co.jp/toheart/index.html |title=ToHeart Remember my memories 公式サイト(TOKYO MX) |date=20050206062235}} {{Leaf}} {{OLM}} {{AIC}} {{高橋直人監督作品}} {{元永慶太郎監督作品}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1= マルチ (HMX-12) |1-1= 架空のロボット |redirect2= To Heart 〜Remember my Memories〜 |2-1= 2004年のテレビアニメ |2-2= AIC |2-3= アニメ魂 |2-4= フロンティアワークスのアニメ作品 |2-5= NBCユニバーサル・ジャパンのアニメ作品 |2-6= クロックワークスのアニメ作品 |redirect3= ToHeart PSE |3-1= 2003年のコンピュータゲーム |3-2=ソフ倫審査一般向け作品 |redirect4= ToHeart PORTABLE |4-1= 2009年のコンピュータゲーム |4-2=PlayStation Portable用ソフト }} {{デフォルトソート:とうはあと}} [[Category:To Heart|*]] [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:美少女ゲーム]] [[Category:恋愛アドベンチャーゲーム]] [[Category:ノベルゲーム]] [[Category:Leafのゲームソフト]] [[Category:アクアプラスのゲームソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:UHFアニメ]] [[Category:OLMのアニメ作品]] [[Category:アクアプラスのアニメ作品]] [[Category:アニメ作品 と|うはあと]] [[Category:1999年のテレビアニメ]] [[Category:高等学校を舞台とした作品]] [[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]] [[Category:多摩地域を舞台としたアニメ作品]] [[Category:テレビアニメ化されたアダルトゲーム]] [[Category:1997年のアダルトゲーム]] [[Category:1999年のコンピュータゲーム]] [[Category:高等学校を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:電撃G's文庫]] [[Category:ファミ通文庫]] [[Category:漫画作品 と|うはあと]] [[Category:1997年の漫画]] [[Category:月刊コミック電撃大王の漫画作品]] [[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:ドラマCD]] [[Category:多摩地域を舞台とした作品]] [[Category:自律ロボットを題材としたアニメ作品]] [[Category:自律ロボットを題材とした漫画作品]] [[Category:自律ロボットを題材としたフィクション作品]]
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グリッド・コンピューティング
グリッド・コンピューティングは、インターネットなどの広域のネットワーク上にある計算資源(CPUなどの計算能力や、ハードディスクなどの情報格納領域)を結びつけ、ひとつの複合したコンピュータシステムとしてサービスを提供する仕組みである。提供されるサービスは主に計算処理とデータの保存・利用に大別される。一箇所の計算センターや、一組のスーパーコンピュータでは足りないほどの大規模な計算処理や大量のデータを保存・利用するための手段として開発されている。 グリッドコンピューティングは、どこにでも、必要な情報サービスを、必要なときに、必要なだけ提供するという、「情報資源」の「ユーティリティ化」を目指しており、インターネットをインフラとして実現される、インターネットの次の世代の情報インフラを目指している。名前は、21世紀初頭時点ですでにそのような系統が確立しているインフラである電力送電網(パワーグリッド)に由来する。「遊休パソコンの計算力をまとめて高性能計算を行うもの」といった説明は、ある一面だけしか捉えずに報道されたものである。 コンピュータの処理能力は年々向上して来たが、大規模な計算を出来るだけ短時間で処理するために、並列コンピューティング・分散コンピューティング等の手段が開発されてきた。こうした技術を利用して一台のコンピュータの処理能力を飛躍的に向上させたものはスーパーコンピュータと呼ばれ、複数のコンピュータを統合して全体として処理能力を上げたものはコンピュータ・クラスターと呼ばれる。また、パーソナルコンピュータをベースとした計算機でも100個前後のCPUと数100GBのメモリを搭載できるものが存在する。 グリッド・コンピューティングは、各地に散在するこれらの大規模計算のためのスーパーコンピュータやコンピュータ・クラスターを統一的に利用出来るようにし、更に全体の処理スループットの増加を目指すものである。各地の計算センターに置かれたスーパーコンピュータやコンピュータ・クラスター等の計算資源は、それぞれに仕様が異なるため、従来それらの複数を利用する場合には個々の仕様に合わせた計算処理をそれぞれに用意しなければならなかったが、グリッド・コンピューティングはその手間を省き統一的に扱える様にするものである。 初期のグリッドは、大規模な計算処理を複数の計算センターで行なうことを目指す「コンピューティング・グリッド(計算グリッド)」であったが、大規模なデータを扱う必要のある科学研究分野で「データ・グリッド」が提唱・開発され、現在は計算処理とデータ保存・利用の両方の機能を備えているものが多い。また、産業界向けに開発されているツールキットは単体の計算処理よりも複数処理のスループット改善を重視して開発されているものが多い(これは処理の並列化、分散化に対しアプリケーション自体が対応していないケースが考慮されていることも一因である)。 グリッド・コンピューティングは計算資源とそれを利用するためのミドルウェアによって実現される。ミドルウェアとはアプリケーションソフトウェアとオペレーティングシステムの中間に位置するソフトウェアで、各計算資源の仕様の違いを吸収し、またそれらを利用するための情報を統一的に提供するものである。 グリッドに提供される資源の要素となるのは、家庭のコンピュータやプラグコンピュータ、スーパーコンピュータのクラスターの規模になったり、強大な記憶資源や、情報やデータ、または動的に発生する情報を共有するようなことまでが考えられている。 グリッドに対して資源を要求して処理を与えることで、必要な資源が提供されるような仕組みである。 グリッドの要素となるコンピュータは特定の仕様に限らないことが多く、また、手探りで作り上げていく要素が大きいため、オープンソースのフリーなオペレーティングシステムをベースに作り上げて行くことが模索されている。そうすることで、グリッド・コンピューティングは特定のCPUアーキテクチャや、オペレーティングシステムに限られない仕様を共有した、場合によってはソースコードを共有した仕様になって行くことが計画されている。 Globusツールキットは、グリッドを構成するためのミドルウェアとして事実上の標準になりつつある。Globusが提供するサービスには以下のような物がある。 Globusツールキット以外にも次のようなミドルウェア系ツールキットが存在する。ただし、グリッドと銘打っていても厳密にはコンピュータ・クラスターのためのツールキットであり、グリッド・コンピューティングの概念に適合しないものもある。
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グリッド・コンピューティングは、インターネットなどの広域のネットワーク上にある計算資源(CPUなどの計算能力や、ハードディスクなどの情報格納領域)を結びつけ、ひとつの複合したコンピュータシステムとしてサービスを提供する仕組みである。提供されるサービスは主に計算処理とデータの保存・利用に大別される。一箇所の計算センターや、一組のスーパーコンピュータでは足りないほどの大規模な計算処理や大量のデータを保存・利用するための手段として開発されている。
'''グリッド・コンピューティング'''は、[[インターネット]]などの広域の[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上にある[[計算資源]]([[CPU]]などの計算能力や、ハードディスクなどの情報格納領域)を結びつけ、ひとつの複合したコンピュータシステムとして[[サービス]]を提供する仕組みである。提供されるサービスは主に計算処理とデータの保存・利用に大別される。一箇所の計算センターや、一組の[[スーパーコンピュータ]]では足りないほどの大規模な計算処理や大量のデータを保存・利用するための手段として開発されている。 == 概要 == グリッドコンピューティングは、どこにでも、必要な情報サービスを、必要なときに、必要なだけ提供するという、「情報資源」の「ユーティリティ化」を目指しており、インターネットをインフラとして実現される、インターネットの次の世代の情報インフラを目指している。名前は、21世紀初頭時点ですでにそのような系統が確立しているインフラである電力送電網(パワーグリッド)に由来する<ref>『グリッド――情報社会の未来を紡ぐ――』 pp.3~4</ref>。「遊休パソコンの計算力をまとめて[[高性能計算]]を行うもの」といった説明は、ある一面だけしか捉えずに報道されたものである<ref>『グリッド――情報社会の未来を紡ぐ――』 p.3</ref>。 コンピュータの処理能力は年々向上して来たが、大規模な計算を出来るだけ短時間で処理するために、[[並列コンピューティング]]・[[分散コンピューティング]]等の手段が開発されてきた。こうした技術を利用して一台のコンピュータの処理能力を飛躍的に向上させたものは[[スーパーコンピュータ]]と呼ばれ、複数のコンピュータを統合して全体として処理能力を上げたものは[[コンピュータ・クラスター]]と呼ばれる。また、[[パーソナルコンピュータ]]をベースとした計算機でも100個前後のCPUと数100GBの[[記憶装置|メモリ]]を搭載できるものが存在する。 グリッド・コンピューティングは、各地に散在するこれらの大規模計算のためのスーパーコンピュータやコンピュータ・クラスターを統一的に利用出来るようにし、更に全体の処理スループットの増加を目指すものである。各地の計算センターに置かれたスーパーコンピュータやコンピュータ・クラスター等の計算資源は、それぞれに仕様が異なるため、従来それらの複数を利用する場合には個々の仕様に合わせた計算処理をそれぞれに用意しなければならなかったが、グリッド・コンピューティングはその手間を省き統一的に扱える様にするものである。 初期のグリッドは、大規模な計算処理を複数の計算センターで行なうことを目指す「コンピューティング・グリッド(計算グリッド)」であったが、大規模なデータを扱う必要のある科学研究分野で「データ・グリッド」が提唱・開発され、現在は計算処理とデータ保存・利用の両方の機能を備えているものが多い。また、産業界向けに開発されているツールキットは単体の計算処理よりも複数処理のスループット改善を重視して開発されているものが多い(これは処理の並列化、分散化に対しアプリケーション自体が対応していないケースが考慮されていることも一因である)。 == グリッドの構成 == グリッド・コンピューティングは計算資源とそれを利用するための[[ミドルウェア]]によって実現される。ミドルウェアとは[[アプリケーションソフトウェア]]と[[オペレーティングシステム]]の中間に位置する[[ソフトウェア]]で、各計算資源の仕様の違いを吸収し、またそれらを利用するための情報を統一的に提供するものである。 グリッドに提供される資源の要素となるのは、家庭のコンピュータや[[プラグコンピュータ]]、スーパーコンピュータのクラスターの規模になったり、強大な記憶資源や、情報やデータ、または動的に発生する情報を共有するようなことまでが考えられている。 グリッドに対して資源を要求して処理を与えることで、必要な資源が提供されるような仕組みである。 * 利用する側 ** 通常のコンピュータから利用することができる。 ** グリッドのネットワークに繋がり[[プロトコル]]を実装していれば、利用することができる。 * 提供する側 ** 単なる利用するコンピュータも、空いている資源をグリッド上に提供できる。 *** 計算力や、情報、データ、動的な情報(ビデオカメラの画像など) ** 高位の計算力 *** グリッド上に提供されている計算力を複数組み合わせて利用できる。必要な計算力をリクエストして、空いている計算力が知らされ、そこにデータと処理を送って処理をするなどが、自動的に行われる。利用者からは単に自分のデスクトップで処理をしているように見える。 *** コンピュータ・クラスターなどの計算資源の提供。 ** 記憶資源の提供。 *** 二次記憶となるような、データのバックアップや、巨大な計算結果の保存など。 *** 二次記憶から、直接グリッド上の計算資源にデータの送受が行われたりする。 == ミドルウェア == グリッドの要素となるコンピュータは特定の仕様に限らないことが多く、また、手探りで作り上げていく要素が大きいため、[[オープンソース]]のフリーな[[オペレーティングシステム]]をベースに作り上げて行くことが模索されている。そうすることで、グリッド・コンピューティングは特定のCPUアーキテクチャや、オペレーティングシステムに限られない仕様を共有した、場合によっては[[ソースコード]]を共有した仕様になって行くことが計画されている。 === Globusツールキット === [[Globus]]ツールキットは、グリッドを構成するためのミドルウェアとして事実上の標準になりつつある<ref>http://www.globus.org/[[Globus]]</ref>。Globusが提供するサービスには以下のような物がある。 * 資源管理(グリッド資源管理プロトコル:GRAM、Grid Resource Management Service)。 * 情報サービス(監視と検知サービス:MDS - Monitoring and Discovery Service)。 * データ移動と管理(二次記憶への広域アクセス:GASS - Global Access to Secondary Storage)。 * GridFTP === その他のツールキット === [[Globus]]ツールキット以外にも次のようなミドルウェア系ツールキットが存在する。ただし、グリッドと銘打っていても厳密にはコンピュータ・クラスターのためのツールキットであり、グリッド・コンピューティングの概念に適合しないものもある。 ; [[Sun Grid Engine]] : [[サン・マイクロシステムズ]]が主導で開発するツールキット。オープンソース。 ; [[Xgrid]] : [[Apple]]が開発する[[macOS]]用ツールキット。 ; [[SCore]] : すでに解散した新情報処理開発機構によって開発された[[Linux]]または[[FreeBSD]]用のミドルウェア及びシステムツール群。現在はPCクラスタコンソーシアムがメンテナンスを行う。 ; [[AD-POWERs]] : 大日本印刷の開発した[[Microsoft Windows|Windows]]用のミドルウェア製品。ローカルグリッドでの運用に適する。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == * Ian Foster "''What is the Grid? A Three Point Checklist''" [http://www-fp.mcs.anl.gov/~foster/Articles/WhatIsTheGrid.pdf][http://www.gridtoday.com/02/0722/100136.html] (英文) * 『グリッド――情報社会の未来を紡ぐ――』(ISBN 4-621-07430-X) *合田憲人・関口智嗣『グリッド技術入門 インターネット上の新しい計算・データサービス』(コロナ社、ISBN 978-4-339-02426-5) == 関連項目 == * [[ユーティリティコンピューティング]] * [[分散コンピューティング]] * [[サーバファーム]] * [[コンピュータ・クラスター]] * [[オープン標準]] * [[Globus]]ツールキット * [[センサネットワーク]] === グリッド・コンピューティング・プロジェクト === * [[United Devices Cancer Research Project]] - 既に終了 * [[World Community Grid]] * [[cell computing]] - 既に終了 == 外部リンク == * [https://www.globus.org/ globus]{{en icon}} * [http://www.ogf.org/ Open Grid Forum]{{en icon}} * [http://www.gridcomputing.com/ Grid Computing Info Centre]{{en icon}} * [http://cern.ch/lcg/ LCG - LHC Computing Grid project]{{en icon}} - [[CERN]]の粒子加速器[[LHC]]で行われる実験のデータを処理するためのグリッドを構築・運営するプロジェクト。 * [https://opensciencegrid.org/ OSG - Open Science Grid]{{en icon}} * [https://www.naregi.org/project/ 国立情報学研究所 グリッド研究開発推進拠点] {{Normdaten}} {{並列コンピューティング}} {{DEFAULTSORT:くりつとこんひゆうていんく}} [[Category:分散処理]] [[Category:コンピューティング]] [[Category:コンピュータアーキテクチャ]] [[Category:スーパーコンピュータ]]
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電子政府
電子政府(、英: E-government、eGov、e-gov)とは、主にコンピュータネットワークやデータベース技術を利用した政府を意味する。また、そのような技術の利用によって政府の改善、具体的には行政の効率化やより一層の民意の反映・説明責任の実行などを目指すプロジェクトを指す。 最も単純な形態としては、イントラネットの導入による行政処理の効率化や、ウェブサイトにおける行政活動の紹介、情報公開、行政サービスに関する情報の提供が挙げられる。 より複雑な技術的、組織的取組を伴うものとしては、行政サービスの提供をオンライン(ウェブサイトや専用端末の専用インターフェースなど)で行うものがある。これは一般市民に対して住民票を提供するようなサービスもあれば、行政が管轄下の事項に関する各種の申請手続を電子的に、すなわちウェブサイトや電話回線を利用した通信で、受け付けるものなどもある。 英語でe-Governmentと称されるプロジェクトは、Governmentの定義が必ずしも行政府に限定されず、電子投票、市民立法など立法部門に関わる電子技術の活用も含むことがある。司法についても並行する動き(電子司法、電子裁判(英語版))がある。日本では日本経済再生本部で平成29年(2017年)から裁判手続等のIT化検討会が行われた。 関連して、政策論議や世論調査、立法府の投票、行政へのパブリックコメントなどを電子的に行ういわゆる電子民主主義の試みがある。 取引を伴う場合には、電子商取引と同じく、セキュリティ、暗号化、電子認証、個人情報保護などの技術的、政策的問題が関わることになる。 詳しくはen:E-government#By_country 2020年にアプリ『Diia(英語版)』(ウクライナ語: Дія)がリリースされた。戦時下においても行政手続きが行え、政府へ様々な戦場の情報を提供し、身分証やワクチン接種証明書などの公的な証明提示にも使われる。 エストニアは世界で最も発達した電子政府国家である。2023年9月25日時点で、唯一離婚以外の行政手続きは全てオンラインで出来る。しかし、唯一出来ないオンラインでの離婚手続きも2024年には出来るようになる見込みである。結婚、不動産売買、免許証更新、出生届、死亡届、住所登録など2500を超える行政サービスが全て含まれる。 選挙も電子投票が可能で、2023年3月5日に行われた議会選挙では、電子投票率が紙での投票率を超えた。また、若者の投票率は低いものの、日本よりは高く、若者においては電子投票率が6割を超えている。さらに、現在ではパソコンからの投票しか出来ないが、早ければ2024年にはモバイル端末でも投票が可能となるため、投票率の上昇が予想されている。 日本では、1994年の高度情報通信社会推進本部の設立、行政情報化推進計画の策定から始まり、2000年12月に高度情報通信ネットワーク社会形成基本法(IT基本法)が制定された。これに基づき2001年作成されたIT基本戦略(後のe-Japan戦略)によって電子政府の実現は重点政策課題のひとつとされた。 日本政府は、2018年には「デジタル・ガバメント実行計画」を閣議決定。「デジタル・ガバメント」を「サービス、プラットフォーム、ガバナンスといった電子政府に関する全てのレイヤーがデジタル社会に対応した形に変革された状態」と定義し、「電子政府」の発展的段階としてIT国家戦略の中心概念とした。デジタル技術を使って、手続のワンストップ化を実現することを謳った。その後、2019年12月20日に閣議決定。 2020年9月に発足した菅義偉内閣は、デジタル庁設置など、デジタル・ガバメント実現に向けた取組みの加速・強化を重要施策として掲げた。 「e-Gov」(イーガブ、e-gov.go.jp)と名付けられた総務省行政管理局、現在はデジタル庁が運営するポータルサイト、電子申請の窓口は「e-gov電子申請」などがある。 アメリカではクリントン政権のNII構想に「インターネットによる政府情報へのアクセス提供」が盛り込まれ、Government Paperwork Elimination Actを策定し、電子ファイルと電子署名の利用を促進するとともに、トランザクション(情報の受発信)について、2003年までにオンライン化を実現することを目標とした。NII構想では具体的に税務申告手続の電子化、紙による文書作成の撤廃、政府の総調達でのEDI化などを挙げている。 また、電子政府計画の“E-GOVERNMENT” INITIATIVESに基づいて、連邦政府がオンラインで提供する全ての情報を集約した公式ホームページ「FirstGov」を開設している。 イギリスでは1999年4月に全行政手続の電子化を目標としたModernizing Governmentを策定した。 1999年にGSI(Government Secure Intranet)に全省庁のシステムを統合させており、地方公共団体や医療機関への接続を推進している。2004年までに新しい公文書をすべて電子化し、2000年までに政府調達手続の90%を電子化するとし、2005年に全行政手続の電子化を実現することを目標とした。 シンガポールではConnected Governmentにおいてインテリジェント・アイランド化のための行政情報化を進めている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電子政府(、英: E-government、eGov、e-gov)とは、主にコンピュータネットワークやデータベース技術を利用した政府を意味する。また、そのような技術の利用によって政府の改善、具体的には行政の効率化やより一層の民意の反映・説明責任の実行などを目指すプロジェクトを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "最も単純な形態としては、イントラネットの導入による行政処理の効率化や、ウェブサイトにおける行政活動の紹介、情報公開、行政サービスに関する情報の提供が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "より複雑な技術的、組織的取組を伴うものとしては、行政サービスの提供をオンライン(ウェブサイトや専用端末の専用インターフェースなど)で行うものがある。これは一般市民に対して住民票を提供するようなサービスもあれば、行政が管轄下の事項に関する各種の申請手続を電子的に、すなわちウェブサイトや電話回線を利用した通信で、受け付けるものなどもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語でe-Governmentと称されるプロジェクトは、Governmentの定義が必ずしも行政府に限定されず、電子投票、市民立法など立法部門に関わる電子技術の活用も含むことがある。司法についても並行する動き(電子司法、電子裁判(英語版))がある。日本では日本経済再生本部で平成29年(2017年)から裁判手続等のIT化検討会が行われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "関連して、政策論議や世論調査、立法府の投票、行政へのパブリックコメントなどを電子的に行ういわゆる電子民主主義の試みがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "取引を伴う場合には、電子商取引と同じく、セキュリティ、暗号化、電子認証、個人情報保護などの技術的、政策的問題が関わることになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "詳しくはen:E-government#By_country", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2020年にアプリ『Diia(英語版)』(ウクライナ語: Дія)がリリースされた。戦時下においても行政手続きが行え、政府へ様々な戦場の情報を提供し、身分証やワクチン接種証明書などの公的な証明提示にも使われる。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "エストニアは世界で最も発達した電子政府国家である。2023年9月25日時点で、唯一離婚以外の行政手続きは全てオンラインで出来る。しかし、唯一出来ないオンラインでの離婚手続きも2024年には出来るようになる見込みである。結婚、不動産売買、免許証更新、出生届、死亡届、住所登録など2500を超える行政サービスが全て含まれる。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "選挙も電子投票が可能で、2023年3月5日に行われた議会選挙では、電子投票率が紙での投票率を超えた。また、若者の投票率は低いものの、日本よりは高く、若者においては電子投票率が6割を超えている。さらに、現在ではパソコンからの投票しか出来ないが、早ければ2024年にはモバイル端末でも投票が可能となるため、投票率の上昇が予想されている。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本では、1994年の高度情報通信社会推進本部の設立、行政情報化推進計画の策定から始まり、2000年12月に高度情報通信ネットワーク社会形成基本法(IT基本法)が制定された。これに基づき2001年作成されたIT基本戦略(後のe-Japan戦略)によって電子政府の実現は重点政策課題のひとつとされた。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本政府は、2018年には「デジタル・ガバメント実行計画」を閣議決定。「デジタル・ガバメント」を「サービス、プラットフォーム、ガバナンスといった電子政府に関する全てのレイヤーがデジタル社会に対応した形に変革された状態」と定義し、「電子政府」の発展的段階としてIT国家戦略の中心概念とした。デジタル技術を使って、手続のワンストップ化を実現することを謳った。その後、2019年12月20日に閣議決定。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2020年9月に発足した菅義偉内閣は、デジタル庁設置など、デジタル・ガバメント実現に向けた取組みの加速・強化を重要施策として掲げた。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「e-Gov」(イーガブ、e-gov.go.jp)と名付けられた総務省行政管理局、現在はデジタル庁が運営するポータルサイト、電子申請の窓口は「e-gov電子申請」などがある。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アメリカではクリントン政権のNII構想に「インターネットによる政府情報へのアクセス提供」が盛り込まれ、Government Paperwork Elimination Actを策定し、電子ファイルと電子署名の利用を促進するとともに、トランザクション(情報の受発信)について、2003年までにオンライン化を実現することを目標とした。NII構想では具体的に税務申告手続の電子化、紙による文書作成の撤廃、政府の総調達でのEDI化などを挙げている。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、電子政府計画の“E-GOVERNMENT” INITIATIVESに基づいて、連邦政府がオンラインで提供する全ての情報を集約した公式ホームページ「FirstGov」を開設している。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イギリスでは1999年4月に全行政手続の電子化を目標としたModernizing Governmentを策定した。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1999年にGSI(Government Secure Intranet)に全省庁のシステムを統合させており、地方公共団体や医療機関への接続を推進している。2004年までに新しい公文書をすべて電子化し、2000年までに政府調達手続の90%を電子化するとし、2005年に全行政手続の電子化を実現することを目標とした。", "title": "各国の取り組み" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "シンガポールではConnected Governmentにおいてインテリジェント・アイランド化のための行政情報化を進めている。", "title": "各国の取り組み" } ]
電子政府(でんしせいふ、とは、主にコンピュータネットワークやデータベース技術を利用した政府を意味する。また、そのような技術の利用によって政府の改善、具体的には行政の効率化やより一層の民意の反映・説明責任の実行などを目指すプロジェクトを指す。
{{読み仮名|'''電子政府'''|でんしせいふ|{{lang-en-short|E-government、eGov、e-gov}}}}とは、主に[[コンピュータネットワーク]]や[[データベース]]技術を利用した[[政府]]を意味する。また、そのような技術の利用によって政府の改善、具体的には[[行政]]の効率化やより一層の民意の反映・[[説明責任]]の実行などを目指すプロジェクトを指す。 {{政治}} == 概要 == 最も単純な形態としては、[[イントラネット]]の導入による行政処理の効率化や、[[ウェブサイト]]における行政活動の紹介、[[情報公開]]、行政サービスに関する情報の提供が挙げられる。 より複雑な技術的、組織的取組を伴うものとしては、行政サービスの提供をオンライン(ウェブサイトや専用端末の専用[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]など)で行うものがある。これは一般市民に対して[[住民票]]を提供するようなサービスもあれば、行政が管轄下の事項に関する各種の申請手続を電子的に、すなわちウェブサイトや[[電話回線]]を利用した通信で、受け付けるものなどもある。 英語でe-Governmentと称されるプロジェクトは、Governmentの定義が必ずしも行政府に限定されず、[[電子投票]]、市民立法など立法部門に関わる電子技術の活用も含むことがある。[[司法]]についても並行する動き(電子司法<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/saiban/dai2/gijiyousi.pdf 裁判手続等のIT化検討会 第2回 議事要旨 ]</ref>、{{仮リンク|電子裁判|en|Electronic court}})がある。日本では[[日本経済再生本部]]で平成29年(2017年)から[[裁判手続等のIT化]]検討会が行われた<ref name="首相官邸ホームページ">{{Cite web|和書| title=裁判手続等のIT化検討会- 日本経済再生本部 | website=首相官邸ホームページ | url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/saiban/index.html | language=ja | access-date=2021-12-07}}</ref>。 関連して、政策論議や[[世論調査]]、立法府の[[投票]]、行政への[[パブリックコメント]]などを電子的に行ういわゆる[[E-デモクラシー|電子民主主義]]の試みがある。 取引を伴う場合には、[[電子商取引]]と同じく、[[情報セキュリティ|セキュリティ]]、[[暗号化]]、[[電子認証]]、[[個人情報]]保護などの技術的、政策的問題が関わることになる。 == 各国の取り組み == 詳しくは[[:en:E-government#By_country]] === ウクライナ === 2020年にアプリ『{{ill2|Diia|en|Diia}}』({{Lang-uk|Дія|lit=Action}})がリリースされた。戦時下においても行政手続きが行え<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ytv.co.jp/miyaneya/article/page_ygn3tjbdvkxmfgwu.html |title=情報ライブ ミヤネ屋|記事|読売テレビ |access-date=2023-11-23 |website=情報ライブ ミヤネ屋|読売テレビ |language=ja}}</ref>、政府へ様々な戦場の情報を提供し<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230223/k00/00m/030/128000c |title=スマホが変えた戦争 市民から4000件の情報提供も…ウクライナの戦略 |access-date=2023-11-23 |website=毎日新聞 |language=ja}}</ref>、身分証やワクチン接種証明書などの公的な証明提示にも使われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/tech/2021/12/post-936058.html |title=海外の「ワクチン証明書アプリ」の実情とは? ウクライナ、トルコからレポート |access-date=2023-11-23 |date=2021-12-28 |website=Real Sound|リアルサウンド テック |language=ja}}</ref>。 ===エストニア=== [[エストニア]]は世界で最も発達した電子政府国家である<ref>{{Cite web|和書|title=在エストニア日本国大使館 |url=https://www.ee.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>。2023年9月25日時点で、唯一離婚以外の行政手続きは全てオンラインで出来る。しかし、唯一出来ないオンラインでの離婚手続きも2024年には出来るようになる見込みである<ref>{{Cite web|和書|title=IT先進国「エストニア視察記」前編|なんでもオンライン化で経済成長 - MKメディア |url=https://media.mk-group.co.jp/entry/report-estonia/ |website=MKメディア - |date=2023-06-01 |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>。結婚、不動産売買、免許証更新、出生届、死亡届、住所登録など2500を超える行政サービスが全て含まれる<ref>{{Cite web|和書|title=世界が注目する「電子国家」エストニア 国家規模のDXがもたらすものとは |url=https://www.powerweb.co.jp/blog/entry/2022/04/22/100000 |website=マーケティングブログ {{!}} パワー・インタラクティブ |date=2022-04-22 |access-date=2023-09-24 |language=ja |last=powerinteractive}}</ref>。 選挙も[[電子投票]]が可能で、2023年3月5日に行われた議会選挙では、電子投票率が紙での投票率を超えた<ref>{{Cite web|和書|title=議会選で電子投票による票数が制度導入以来初めて過半数に(エストニア、欧州) {{!}} ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/03/8ee5825e87733d30.html |website=ジェトロ |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>。また、若者の投票率は低いものの、日本よりは高く、若者においては電子投票率が6割を超えている。さらに、現在ではパソコンからの投票しか出来ないが、早ければ2024年にはモバイル端末でも投票が可能となるため、投票率の上昇が予想されている<ref>{{Cite web|和書|title=2023年のエストニア国政選挙におけるインターネット投票について |url=http://www.jeeadis.jp/5/post/2023/04/2023.html |website=Japan Estonia/EU Association for Digital Society |access-date=2023-09-24 |language=ja}}</ref>。 === 日本 === [[日本]]では、[[1994年]]の[[高度情報通信社会推進本部]]の設立、[[行政情報化推進計画]]の策定から始まり、[[2000年]]12月に[[高度情報通信ネットワーク社会形成基本法]](IT基本法)が制定された。これに基づき[[2001年]]作成されたIT基本戦略(後の[[E-Japan|e-Japan戦略]])によって電子政府の実現は重点政策課題のひとつとされた。 日本政府は、2018年には「デジタル・ガバメント実行計画」を閣議決定。「デジタル・ガバメント」を「サービス、プラットフォーム、ガバナンスといった電子政府に関する全てのレイヤーがデジタル社会に対応した形に変革された状態」と定義し、「電子政府」の発展的段階としてIT国家戦略の中心概念とした<ref name="IT Leaders 2021">{{Cite web|和書| title=電子政府が衣替え?「デジタル・ガバメント実行計画」 | website=IT Leaders | date=2018年5月18日 | url=https://it.impress.co.jp/articles/-/16101 | language=ja | access-date=2021-12-07 |author=清水 響子}}</ref><ref>[https://www8.cao.go.jp/koubuniinkai/iinkaisai/2018/20180928/shiryou2-1.pdf 内閣官房IT総合戦略室「デジタル・ガバメントの推進について」]</ref>。デジタル技術を使って、手続の[[ワン・ストップ・サービス|ワンストップ]]化を実現することを謳った<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/senmon_bunka/dejigaba/dai3/siryou2-1.pdf 内閣官房IT総合戦略室「死亡・相続ワンストップサービスの検討状況について」]</ref>。その後、2019年12月20日に閣議決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://cio.go.jp/digi-gov-actionplan|title=デジタル・ガバメント実行計画|website=政府CIOポータル|accessdate=2021-08-22}}</ref>。 2020年9月に発足した[[菅義偉内閣]]は、[[デジタル庁]]設置など、デジタル・ガバメント実現に向けた取組みの加速・強化を重要施策として掲げた<ref>{{Cite web|和書| author=大豆生田崇志=日経クロステック/日経コンピュータ | title=菅新政権の「デジタル庁」構想、焦点は人事権と内製化に | website=日経クロステック(xTECH) | date=2020-09-18 | url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01426/091700003/ | language=ja | access-date=2021-12-07}}</ref>。 「e-Gov」(イーガブ、e-gov[[.go.jp]])と名付けられた[[総務省]][[行政管理局]]、現在はデジタル庁が運営する[[ポータルサイト]]<ref>[https://www.e-gov.go.jp/ 電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ]([[総務省]])</ref>、電子申請の窓口は「[[e-gov電子申請]]」などがある。 === アメリカ === アメリカではクリントン政権のNII構想に「インターネットによる政府情報へのアクセス提供」が盛り込まれ、Government Paperwork Elimination Actを策定し、電子ファイルと電子署名の利用を促進するとともに、トランザクション(情報の受発信)について、2003年までにオンライン化を実現することを目標とした<ref name="h13">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h13/html/D1136000.htm|title=平成13年版 情報通信白書 6 海外における電子政府の動向|publisher=総務省|accessdate=2022-07-27}}</ref>。NII構想では具体的に税務申告手続の電子化、紙による文書作成の撤廃、政府の総調達でのEDI化などを挙げている<ref name="h13" />。 また、電子政府計画の“E-GOVERNMENT” INITIATIVESに基づいて、連邦政府がオンラインで提供する全ての情報を集約した公式ホームページ「FirstGov」を開設している<ref name="h13" />。 === イギリス === イギリスでは1999年4月に全行政手続の電子化を目標としたModernizing Governmentを策定した<ref name="h13" />。 1999年にGSI(Government Secure Intranet)に全省庁のシステムを統合させており、地方公共団体や医療機関への接続を推進している<ref name="h13" />。2004年までに新しい公文書をすべて電子化し、2000年までに政府調達手続の90%を電子化するとし、2005年に全行政手続の電子化を実現することを目標とした<ref name="h13" />。 === シンガポール === シンガポールではConnected Governmentにおいてインテリジェント・アイランド化のための行政情報化を進めている<ref name="h13" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[電子国土]] * [[再回答不要の原則]] * [[行政手続オンライン化関係三法]] * [[ワン・ストップ・サービス]] * [[裁判手続等のIT化]] == 外部リンク == {{Commonscat}} *[https://publicadministration.un.org/egovkb/Data-Center 各国の電子政府指標(国連)] *各国における個人を対象としたIT サービスの先進的事例 **{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/epo-box2/dai4/siryou5.pdf|title=電子私書箱(仮称)構想に関連する海外事例|format=PDF|language=|accessdate=2009-04-28}} **{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/epo-box2/dai5/siryou2.pdf|title=電子私書箱(仮称)構想の実現に向けた基盤整備に関する検討会報告書(案)|format=PDF|language=|accessdate=2009-04-28}}(42-49ページ) *{{PDFlink|{{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/cio/dai9/9siryou2.pdf |title=各府省情報化統括責任者(CIO)連絡会議決定 電子政府構築計画 |date=20050328163936}}}}(日本、2003年/2004年) * {{コトバンク}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんしせいふ}} [[Category:電子政府|*]] [[Category:コンピュータの利用]] [[Category:情報システム]] [[Category:行政情報]] [[Category:菅義偉]]
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Globus
Globus(グローバス)は、複数のコンピュータやストレージシステムをつなぐグリッドソフトウェアの開発を進める団体。 アルゴンヌ国立研究所、南カリフォルニア大学の情報科学研究所、そしてシカゴ大学というアメリカ合衆国の3つの組織が1995年に設立した。その後ヨーロッパから、スコットランドのエディンバラ大学とスウェーデン並列コンピュータセンターという2つの組織が、重要なパートナーとして参加した。 Globusによって開発されたGlobusツールキットは、グリッド・コンピューティングを構成するためのオープンソースミドルウェアである。 Globusが提供するプロトコルには次のような物がある。 日本のRWCP(Real World Computing Project)で開発された、並列分散コンピュータ技術分野からの派生である、シームレス設計技術も盛り込んで、Globusツールキット2.0仕様が策定された。XML WebサービスベースのOGSI(Open Grid Services Infrastructure)の上に再構築されたGlobusツールキット3を経て、WSRF(WS-Resource Framework)ベースのGlobusツールキット4がリリースされた。Globusツールキット5はWebサービスベースの部分を含まず、リソース管理のモジュールGRAM5はバージョン2系列のGRAM2を強化したものになる 。その後Globusツールキット6までリリースされたが、2018年1月をもってGlobusツールキットの開発は終了した。
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Globus(グローバス)は、複数のコンピュータやストレージシステムをつなぐグリッドソフトウェアの開発を進める団体。
'''Globus'''(グローバス)は、複数の[[コンピュータ]]や[[ストレージシステム]]をつなぐグリッド[[ソフトウェア]]の開発を進める団体。 == 概要 == [[アルゴンヌ国立研究所]]、[[南カリフォルニア大学]]の[[情報科学研究所]]、そして[[シカゴ大学]]という[[アメリカ合衆国]]の3つの組織が[[1995年]]に設立した。その後[[ヨーロッパ]]から、[[スコットランド]]の[[エディンバラ大学]]と[[スウェーデン並列コンピュータセンター]]という2つの組織が、重要なパートナーとして参加した。 Globusによって開発されたGlobusツールキットは、[[グリッド・コンピューティング]]を構成するための[[オープンソース]][[ミドルウェア]]である。 Globusが提供するプロトコルには次のような物がある。 * 資源管理 (グリッド資源管理プロトコル:GRAM、Grid Resource Management Protocol) * 情報サービス (監視と発見サービス:MDS - Monitoring and Discovery Service) * データ移動と管理 (二次記憶への広域アクセス:GASS - Global Access to Secondary storage) * GridFTP == その他 == [[日本]]の[[RWCP]](Real World Computing Project)で開発された、並列分散コンピュータ技術分野からの派生である、シームレス設計技術も盛り込んで、Globusツールキット2.0仕様が策定された。[[Extensible Markup Language|XML]] [[Webサービス]]ベースのOGSI(Open Grid Services Infrastructure)の上に再構築されたGlobusツールキット3を経て、WSRF(WS-Resource Framework)ベースのGlobusツールキット4がリリースされた。Globusツールキット5はWebサービスベースの部分を含まず、リソース管理のモジュールGRAM5はバージョン2系列のGRAM2を強化したものになる [http://www.mail-archive.com/[email protected]/msg01311.html]。その後Globusツールキット6までリリースされたが、2018年1月をもってGlobusツールキットの開発は終了した<ref>[https://github.com/globus/globus-toolkit/blob/globus_6_branch/support-changes.md globus-toolkit/support-changes.md at globus_6_branch · globus/globus-toolkit · GitHub]</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[グリッド・コンピューティング]] *[[コンピューター・クラスター]] == 外部リンク == *[http://www.globus.org/ The Globus Alliance] *[http://www.ogf.org/ Open Grid Forum] *参考日本語サイト **[https://web.archive.org/web/20111209230429/http://cropcrusher.web.infoseek.co.jp/shufuden/uureport/grid10.html 烏合の衆コンピューティング(Web Archive)] [[Category:ネットワークソフト]]
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皇后
皇后(、英: Empress)、王后(おうごう、英: Queen)は、皇帝・天皇・国王の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇・皇帝・国王の複数の妻のうち最上位の者となる。 中国における君主号は、殷・周時代は「王」、秦代以降は「皇帝」であるが、それ以前の古い称号として「后」が存在した。王・皇帝に君主号が変遷して後、后はそれに次ぐ称号とされた。王、皇帝に次ぐ存在は王・皇帝の正妃ないし母親である事から、皇帝の正妃を皇后、皇帝の母親を皇太后と称するようになった。 語意からは、皇帝が「天」の権威に基づく称号であるのに対し、皇后は后土というように「地」に基づく称号である。 正式な敬称は殿下。皇后の住居から中宮、長秋宮、椒房などの別称もある。口頭言語について、娘娘の敬称が使用されている。自称(謙称)は小童、小君。皇帝は皇后に対し、梓童、子童の愛称を用いたという。 正式名について、日本の皇室には、そもそも姓がなく、名字も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、唐朝第3代の皇帝である高宗の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。また、皇后を諡号で呼ぶことも多い。 古からの礼服は翟衣であり、深青色の衣裳である。キンケイを含む鳥の文様が配された。礼冠は十二花樹冠(唐以前)、および鳳冠(宋以降)で、それぞれ皇帝の礼服である冕服と礼冠である十二旒冕冠に対応している。皇帝の詔が「聖旨」と呼ばれているのに対して、皇后の詔は「懿旨」と呼ばれている。死亡を表す敬語は皇帝と同じ、「崩」と称されている。崩御後は「陵」に葬られる。皇帝と合葬するのが通例である。 陰陽五行説では男は陽、女は陰とされ、それぞれの頂点に皇帝、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。 皇后になれる資格について、即位前に正妻ができていれば、一般に皇后として立てられる。側妃の位に留まることもある(懿安郭皇后)。正妻が存在しなくなると、宮外から名門の娘を皇后として直に迎える例(慈聖光献曹皇后)はありますが、既存の側妃から皇后に上り詰めた例が主流であり、それは年功序列・家柄・太子母・品格・寵愛などの理由によって選ばれた。 また、正式な皇后として立てられたわけではないが、皇后に贈された例もある。名誉な皇后だから、礼法上の待遇は正式な皇后よりも低い。 皇室典範に定められた敬称は「陛下」(第23条)。現代のテレビや新聞等のマスメディアや報道機関、書籍、政府機関などでは、正式な敬称をつけた「皇后陛下(こうごうへいか)」とともに「皇后さま(こうごうさま)」という表記も見られる。 また、歌会始では「皇后宮御歌(きさいのみやのみうた)」と大和言葉の「皇后宮(きさいのみや)」が使われる。 また、マスメディアによる報道や政府機関等では夫(配偶者)である天皇とともに「天皇皇后両陛下」(てんのうこうごうりょうへいか)、または単に「両陛下」(りょうへいか)という呼称を用いるのが慣例となっている。 立后(りつごう)には皇室会議の議を経ることが必要である(第10条)が、すでに皇嗣の妃(親王妃または王妃)である場合、夫帝(親王または王)の即位に伴って皇后となる。内廷皇族に属する。 摂政・国事行為臨時代行・皇室会議議員の就任権が認められている。 崩御後は陵に葬られる(第27条)。貞明皇后(大正天皇后)以降、皇后または皇太后が崩御した際には、「◯◯皇后」と追号されるのが慣例となっている。 式典、儀式においては、常に天皇の左側(向かって右)に位置する。古来、向かって右側が上位であったが、近代になって、西洋式に向かって左側が上位に改められたことによる。この並び順は、3月3日の桃の節句(ひなまつり)におけるひな人形の飾り方にも影響を与えている。 皇后の務めの一つとして、近現代において代表的な公務である日本赤十字社名誉総裁職の他に、養蚕が挙げられる。『日本書紀』にも、皇后が養蚕を行ったという記述があり、近代・現代の皇室において昭憲皇太后(明治天皇后)によって復活させた。以後、貞明皇后(大正天皇后)、香淳皇后(昭和天皇后)、美智子(第125代天皇明仁后)、雅子(第126代天皇徳仁后)と、近代から現代に至るまで歴代皇后に引き継がれている。1914年(大正3年)以降は紅葉山御養蚕所にて行われている。 『古事記』・『日本書紀』に従えば、古くは大王の妻妾を「キサキ」(后)と呼び、そのうちで最高位にあるものを「オオキサキ」(歴史的仮名遣いで「オホキサキ」)と呼び、単なる「キサキ」である他の妻妾と区別した。『古事記』では「大后」、『日本書紀』では「皇后」の漢字を当てている。「キサキ」の語源については“君幸”説、“君前”説、“水の女”説などの他、多くの説があるもののこれといった有力説は今のところない。平安時代は中宮は皇后を指した。 後世「きさき」が皇后の意味を表すようになり、皇后を皇后宮、后宮(きさいのみや)、一の后(いちのきさき)呼んだ。これにちなみ、皇后を母とする皇子女を后腹・妃腹(きさいばら)という。別称(唐名)として長秋宮、秋宮(あきのみや・しゅうきゅう)、あるいは漢代の例をもって椒房(しょぼう)椒庭(しょうてい)椒囲(しょうい)と称した。和名では八雲御抄や後拾遺和歌集にみえる「紫の雲」などがある。「おうごう」とも読んだ。その他には紫の宮(むらさきのみや)、北の宮、北の方(きたのかた)などがある。 旧現皇室典範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三后(さんごう)という。三后は天皇に准ずる存在とされたため、さらにそれに准ずる存在、つまり天皇と三后を除く皇族の最高位として、「准后」(または准三宮)という待遇・称号が生まれた。 「皇后」という称号が明文で規定されたのは、大宝律令の制定以後であり、天平元年(729年)に第45代聖武天皇の妻である藤原安宿媛が最初の皇后となった(光明皇后)。ただし『日本書紀』が初代神武天皇の正妃媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)以後すべての「オオキサキ」に対しても「皇后」の字を当てたことから、光明皇后よりも前の天皇正妃も「皇后」と呼ぶ慣行がある。 大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻(天皇の配偶者)である妃の資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、「皇后も当然内親王でなければなれないもの」と観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、仁徳天皇の「皇后」磐之媛を唯一の例外として「皇后」の父は全て神または天皇・皇族である。(但し、磐之媛も血筋の上では孝元天皇の男系来孫であり、逆に細媛命と春日娘子にはそのような記述が無い。)、古代エジプトのファラオの家系が近親婚によって継承されたこと同様に、古代において皇后が内親王に限定されたことは、天皇に母系を通じて人臣の血が混じることが、天皇の神聖さを薄れさせる行為であると考えられたからであろう。しかし、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある。8世紀に、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に冊立されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として多く見られるようになった。 また、皇后の夫天皇が崩御して新天皇が即位しても必ず皇太后となるとは限らず、そのまま皇后位にとどまる例も少なくない。 初婚でない例もあり、伊香色謎命、中磯皇女、寶女王(後の女性天皇、皇極天皇)の3名は、いずれも元々別の天皇・皇族の妃であり、いずれも子があった。 逆に媛蹈鞴五十鈴媛命、穴穂部間人皇女、藤原多子の3名は、夫天皇の崩御後別の天皇・皇族と再縁し、中でも穴穂部間人皇女は子も儲けた。 延喜23年(923年)、醍醐天皇が藤原穏子を皇后に冊立したとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このとき初めて、皇后の呼称として「中宮」が用いられることになった。 本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇(既に退位して太上天皇)の皇后(中宮)として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には中宮職から皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が同時に2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。 後冷泉天皇には既に中宮章子内親王と皇后藤原寛子がいたが、治暦4年(1068年)更に藤原歓子が立后されることになり、中宮章子が皇太后、皇后寛子が中宮とされ、歓子は皇后とされた。章子は皇太后位の皇后ともいうべき立場になり、僅か2日後に後冷泉天皇が崩御したものの、この3日間だけ1人の天皇が同時に3人の皇后を立てた唯一の例となった。なお、皇后宮から中宮となったのは、寛子ただ一人である。 その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して准母を定めることが行われた。その初例は、寛治5年(1091年)に堀河天皇の准母となった媞子内親王であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。准母の尊称皇后の中で唯一、姈子内親王はのちに入内した。また、長承3年(1134年)には、鳥羽天皇が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である藤原泰子を、治天の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、永治元年(1141年)、同年に即位した自分の末子近衛天皇の生母藤原得子を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。 南北朝時代以降、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇后(中宮)に立てられた珣子内親王を最後として(長慶天皇も建徳2年(1371年)以降中宮を立てたが、詳細不明)、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、寛永元年(1624年)冊立の後水尾天皇の皇后(中宮)源和子のときである。以後、皇后が同時に2人擁立されることはなくなり、また皇后は全て「中宮」とされた。 明治元年(旧暦:1868年、新暦:1869年)に皇后(中宮)となった明治天皇の一条美子(昭憲皇太后、五摂家の一つ一条家出身)が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、明治22年(1889年)の旧皇室典範の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認定されたのもこの時以来のものである。 なお、皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、大宝律令では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、1910年の皇族身位令(明治43年皇室令第2号)制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものである「皇后」をつけることになった。 明治19年(1886年)1月、昭憲皇太后による「婦女服制の思召書」の布告によって、洋服着用が奨励され、宮中においても日常着から洋服を着用することとなった。 このため、第二次世界大戦以前、皇后の和服(着物)姿の写真が公開されることはなかった。 ただし、久邇宮家出身の香淳皇后は、和服を所有しており、私的な写真は撮影されていた。大戦中には、倹約の奨励から「宮中服」が考案されるが、実際には皇后しか着用しなかったため「皇后服」の異称もある。 敗戦後の占領期が終了し日本が主権回復を迎えた昭和27年(1952年:4月28日の日本国との平和条約発効)になって、香淳皇后が初めて和服(訪問着)を着用して公の場に現れた。以後、今日に至るまで、日本の伝統衣装として皇后およびその他女性皇族(親王妃、内親王、女王)が和服を着用する機会も多い。 「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者天子(皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「王」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。 漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。 ローマ帝国の君主の称号の一つである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」、北アフリカのエチオピアの「諸王の王(ネグサ・ナガスト)」、インドのムガル帝国の「パーディシャー」、南アメリカのインカ帝国の「サパ・インカ」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が一夫一婦制の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。 西欧キリスト教社会などの一夫一婦制度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世の妻テオドラがある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。 ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。 ロシア帝国のエカチェリーナ2世は、もとは皇帝ピョートル3世の妻であり、その後クーデターにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また神聖ローマ皇帝フランツ1世の妃マリア・テレジアは本来「皇后」であるが、これは女性に神聖ローマ皇帝位継承者資格が無いための措置であり、ハプスブルク家の支配下の領域においては、彼女がオーストリア大公・ハンガリー王・ボヘミア王を兼ねる君主であり、フランツ1世は君主の配偶者に過ぎない。そのため日本語でも「女帝」と表されることが多い。 英語圏でも、特に上記を区別する語がある。統治権を持つ 英語: empress (女性の皇帝) を英語: empress regnant(君臨する女性の皇帝=女帝)と呼び、統治権のある男性の皇帝の配偶者を英語: empress consort(妃である女性の皇帝=皇后)と呼ぶ。一例として、英語圏では推古天皇は empress regnant である。 日本の皇后はしばしば優れた歌人でもあり、サロンを形成して学芸を振興した。以下は、歌人として活躍した故人のみ述べる。
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"旧現皇室典範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三后(さんごう)という。三后は天皇に准ずる存在とされたため、さらにそれに准ずる存在、つまり天皇と三后を除く皇族の最高位として、「准后」(または准三宮)という待遇・称号が生まれた。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「皇后」という称号が明文で規定されたのは、大宝律令の制定以後であり、天平元年(729年)に第45代聖武天皇の妻である藤原安宿媛が最初の皇后となった(光明皇后)。ただし『日本書紀』が初代神武天皇の正妃媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)以後すべての「オオキサキ」に対しても「皇后」の字を当てたことから、光明皇后よりも前の天皇正妃も「皇后」と呼ぶ慣行がある。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻(天皇の配偶者)である妃の資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、「皇后も当然内親王でなければなれないもの」と観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、仁徳天皇の「皇后」磐之媛を唯一の例外として「皇后」の父は全て神または天皇・皇族である。(但し、磐之媛も血筋の上では孝元天皇の男系来孫であり、逆に細媛命と春日娘子にはそのような記述が無い。)、古代エジプトのファラオの家系が近親婚によって継承されたこと同様に、古代において皇后が内親王に限定されたことは、天皇に母系を通じて人臣の血が混じることが、天皇の神聖さを薄れさせる行為であると考えられたからであろう。しかし、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある。8世紀に、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に冊立されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として多く見られるようになった。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 23, 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"paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "後冷泉天皇には既に中宮章子内親王と皇后藤原寛子がいたが、治暦4年(1068年)更に藤原歓子が立后されることになり、中宮章子が皇太后、皇后寛子が中宮とされ、歓子は皇后とされた。章子は皇太后位の皇后ともいうべき立場になり、僅か2日後に後冷泉天皇が崩御したものの、この3日間だけ1人の天皇が同時に3人の皇后を立てた唯一の例となった。なお、皇后宮から中宮となったのは、寛子ただ一人である。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して准母を定めることが行われた。その初例は、寛治5年(1091年)に堀河天皇の准母となった媞子内親王であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。准母の尊称皇后の中で唯一、姈子内親王はのちに入内した。また、長承3年(1134年)には、鳥羽天皇が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である藤原泰子を、治天の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、永治元年(1141年)、同年に即位した自分の末子近衛天皇の生母藤原得子を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "南北朝時代以降、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇后(中宮)に立てられた珣子内親王を最後として(長慶天皇も建徳2年(1371年)以降中宮を立てたが、詳細不明)、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、寛永元年(1624年)冊立の後水尾天皇の皇后(中宮)源和子のときである。以後、皇后が同時に2人擁立されることはなくなり、また皇后は全て「中宮」とされた。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "明治元年(旧暦:1868年、新暦:1869年)に皇后(中宮)となった明治天皇の一条美子(昭憲皇太后、五摂家の一つ一条家出身)が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、明治22年(1889年)の旧皇室典範の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認定されたのもこの時以来のものである。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、大宝律令では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、1910年の皇族身位令(明治43年皇室令第2号)制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものである「皇后」をつけることになった。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "明治19年(1886年)1月、昭憲皇太后による「婦女服制の思召書」の布告によって、洋服着用が奨励され、宮中においても日常着から洋服を着用することとなった。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このため、第二次世界大戦以前、皇后の和服(着物)姿の写真が公開されることはなかった。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ただし、久邇宮家出身の香淳皇后は、和服を所有しており、私的な写真は撮影されていた。大戦中には、倹約の奨励から「宮中服」が考案されるが、実際には皇后しか着用しなかったため「皇后服」の異称もある。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "敗戦後の占領期が終了し日本が主権回復を迎えた昭和27年(1952年:4月28日の日本国との平和条約発効)になって、香淳皇后が初めて和服(訪問着)を着用して公の場に現れた。以後、今日に至るまで、日本の伝統衣装として皇后およびその他女性皇族(親王妃、内親王、女王)が和服を着用する機会も多い。", "title": "日本の皇后" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者天子(皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「王」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の君主の称号の一つである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」、北アフリカのエチオピアの「諸王の王(ネグサ・ナガスト)」、インドのムガル帝国の「パーディシャー」、南アメリカのインカ帝国の「サパ・インカ」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が一夫一婦制の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "西欧キリスト教社会などの一夫一婦制度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世の妻テオドラがある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ロシア帝国のエカチェリーナ2世は、もとは皇帝ピョートル3世の妻であり、その後クーデターにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また神聖ローマ皇帝フランツ1世の妃マリア・テレジアは本来「皇后」であるが、これは女性に神聖ローマ皇帝位継承者資格が無いための措置であり、ハプスブルク家の支配下の領域においては、彼女がオーストリア大公・ハンガリー王・ボヘミア王を兼ねる君主であり、フランツ1世は君主の配偶者に過ぎない。そのため日本語でも「女帝」と表されることが多い。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "英語圏でも、特に上記を区別する語がある。統治権を持つ 英語: empress (女性の皇帝) を英語: empress regnant(君臨する女性の皇帝=女帝)と呼び、統治権のある男性の皇帝の配偶者を英語: empress consort(妃である女性の皇帝=皇后)と呼ぶ。一例として、英語圏では推古天皇は empress regnant である。", "title": "日本・中国以外の皇后" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本の皇后はしばしば優れた歌人でもあり、サロンを形成して学芸を振興した。以下は、歌人として活躍した故人のみ述べる。", "title": "歌人皇后 " } ]
皇后(こうごう、、王后は、皇帝・天皇・国王の正妃、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇・皇帝・国王の複数の妻のうち最上位の者となる。
{{Otheruses||[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]から在位中の現在の日本の皇后|皇后雅子}} {{読み仮名|'''皇后'''|こうごう|{{lang-en-short|Empress}}}}、'''王后'''(おうごう、{{lang-en-short|Queen}})は、[[皇帝]]・[[天皇]]・[[国王]]の正妃([[正妻]])、およびその人物に与えられる[[称号]]<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])936頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]])844頁参照。</ref>。 [[一夫多妻制]]のもとでは、天皇・皇帝・国王の複数の妻のうち最上位の者となる。 <!--下記は、君主の配属者に合致する日本語版のテンプレートが存在しないため、便宜的に用いたものです。--> == 中国の皇后 == ===概念=== [[ファイル:ImperatriceSongQinzong.jpg|150px|thumb|皇后の翟衣と鳳冠([[宋 (王朝)|宋]])]] 中国における君主号は、[[殷]]・[[周]]時代は「王」、[[秦]]代以降は「皇帝」であるが、それ以前の古い称号として「后」が存在した。王・皇帝に君主号が変遷して後、后はそれに次ぐ称号とされた。王、皇帝に次ぐ存在は王・皇帝の正妃ないし母親である事から、皇帝の正妃を皇后、皇帝の母親を皇太后と称するようになった。 語意からは、皇帝が「天」の権威に基づく称号であるのに対し、皇后は后土というように「地」に基づく称号である<ref>鶴間和幸 『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 講談社 2004年 p.275</ref>。 ===名称・呼称=== 正式な敬称は'''殿下'''。皇后の住居から'''中宮'''、'''長秋宮'''、'''椒房'''などの別称もある。口頭言語について、'''娘娘'''の敬称が使用されている。自称(謙称)は'''小童'''、'''小君'''。皇帝は皇后に対し、'''梓童'''、'''子童'''の愛称を用いたという。 正式名について、日本の皇室には、そもそも[[姓]]がなく、[[名字]]も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、[[唐]]朝第3代の皇帝である[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。また、皇后を諡号で呼ぶことも多い。 ===文化=== [[File:O1CN01Yh8thK1PMoGPqjGqX !!1115331827.jpg|130px|thumb|現代に復元された皇后礼装([[明]])]] 古からの礼服は翟衣であり、深青色の衣裳である。キンケイを含む鳥の文様が配された。礼冠は十二花樹冠([[唐]]以前)、および鳳冠([[宋 (王朝)|宋]]以降)で、それぞれ皇帝の礼服である[[袞衣|冕服]]と礼冠である十二旒[[冕冠]]に対応している。皇帝の詔が「聖旨」と呼ばれているのに対して、皇后の詔は「懿旨」と呼ばれている。死亡を表す敬語は皇帝と同じ、「崩」と称されている。崩御後は「陵」に葬られる。皇帝と合葬するのが通例である。 [[陰陽五行説]]では[[男]]は[[陽]]、[[女]]は[[陰]]とされ、それぞれの頂点に[[皇帝]]、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が[[三公]][[九卿]]以下の官僚組織を擁するのと同様、[[後宮]]制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加する[[ヒエラルキー]]を擁していた。 ===資格=== 中国の諸王朝では、后妃候補は必ずしも家柄を重んじることはなく<ref group="注釈">明の時代に、名門の娘より下級官吏や庶民の娘を皇后とする傾向である。反例として、その後の清朝に、満洲貴族の娘だけが皇后になれる。</ref>、そのほかに品格、容貌など様々な方面を考慮した。即位前に正妻ができていれば、一般に皇后として立てられる。側妃の位に留まることもある([[懿安郭皇后]])。正妻が存在しなくなると、宮外から皇后を新しく迎えられた例([[慈聖光献曹皇后]])はありますが、既存の側妃から皇后に上り詰めたことが主流である。そのような状況下で次代皇帝の母、寵愛、年功序列などの理由によって選ばれた。 また、正式な皇后として立てられたわけではないが、皇后に贈された例もある。名誉な皇后だから、礼法上の待遇は正式な皇后よりも低い<ref group="注釈">贈皇后は一般的に正式な皇后より一部の待遇が欠けている。例えば、国喪の扱いを受けたことはなく。諡を賜ることがなく。皇帝と合葬しなく。宗廟に祀られることはなかった。</ref>。以下は、皇后に追贈われることができる。 *皇帝即位前に亡くなった正室に対して皇后を追贈する(初例:[[東晋]]の[[元帝 (東晋)|元帝]]の王妃・[[虞孟母]])。 *皇帝の生母に対して皇后を贈する(初例:[[前漢]]の[[文帝 (漢)|文帝]]の生母・[[薄姫]])。 *正室でも国母でもない寵妃に対して皇后を追贈する(初例:[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権|大帝]]の側妃・[[歩練師]])。 *正式な皇后がいない場合には、皇帝の正配に擬される側妃に対して皇后を追贈する(初例:[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の側妃・[[李夫人 (漢武帝)|李夫人]])。 == 日本の皇后 == === 現代における概要 === {{Infobox Monarchy |font_color = white |royal_title = 皇后 |realm = {{JPN}} |coatofarms = [[File:Japan Kou(tai)gou Flag.svg|180px]] |coatofarms_article = 皇后旗 |image =[[File:Naruhito and Masako visit Bogor Palace 48 (cropped) (2).jpg|230px]] |incumbent = 第126代皇后<br/>[[皇后雅子|雅子]] |incumbentsince = [[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]] |his/her = 皇后 |first_monarch = [[光明皇后]] |date = [[729年]]([[天平]]元年) |residence = [[皇居]]<br/>([[東京都]][[千代田区]]) | website = [https://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁] }} {{Infobox Royal styles |royal name = 皇后 |image = [[File:Japan Kou(tai)gou Flag.svg|100px]] |dipstyle = [[陛下]]<br / >''Her Majesty the Empress''<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/e-about/history/history02.html 宮内庁公式サイト 英語版]</ref>/<br />''Her Imperial Majesty''(H.I.M.) |color = #FFFFFF |background = #BE0026 }} [[皇室典範]]に定められた敬称は「陛下」(第23条)。現代のテレビや新聞等の[[マスメディア]]や[[報道機関]]、書籍、[[政府]]機関などでは、正式な敬称をつけた「'''皇后[[陛下]]'''(こうごうへいか)」とともに「皇后[[様|さま]](こうごうさま)」という表記も見られる。 また、[[歌会始]]では「皇后宮御歌(きさいのみやのみうた)」と大和言葉の「皇后宮(きさいのみや)」が使われる。 また、マスメディアによる報道や政府機関等では夫(配偶者)である天皇とともに「'''天皇皇后両陛下'''」(てんのうこうごうりょうへいか)、または単に「'''両陛下'''」(りょうへいか)という呼称を用いるのが慣例となっている。 立后(りつごう)には[[皇室会議]]の議を経ることが必要である(第10条)が、すでに[[皇嗣]]の妃([[親王妃]]または[[王妃 (皇族)|王妃]])である場合、夫帝([[親王]]または[[王 (皇族)|王]])の即位に伴って皇后となる。[[内廷皇族]]に属する。 [[摂政]]・[[国事行為臨時代行]]・皇室会議議員の就任権が認められている。 崩御後は[[陵]]に葬られる(第27条)。[[貞明皇后]]([[大正天皇]]后)以降、皇后または[[皇太后]]が崩御した際には、「◯◯皇后」と追号されるのが慣例となっている<ref group="注釈">昭憲皇太后については事情により「皇太后」と追号されている。詳細は「[[昭憲皇太后#追号について]]」を参照。</ref>。 式典、儀式においては、常に[[天皇]]の左側(向かって右)に位置する。古来、向かって右側が上位であったが、近代になって、西洋式に向かって左側が上位に改められたことによる。この並び順は、[[3月3日]]の[[桃の節句]](ひなまつり)における[[ひな人形]]の飾り方にも影響を与えている。 皇后の務めの一つとして、近現代において代表的な公務である[[日本赤十字社]]名誉総裁職の他に、[[養蚕]]が挙げられる。『[[日本書紀]]』にも、皇后が養蚕を行ったという記述があり、近代・現代の皇室において[[昭憲皇太后]]([[明治天皇]]后)によって復活させた。以後、貞明皇后(大正天皇后)、[[香淳皇后]]([[昭和天皇]]后)、[[上皇后美智子|美智子]](第125代天皇[[明仁]]后)、[[皇后雅子|雅子]](第126代天皇[[徳仁]]后)と、近代から現代に至るまで歴代皇后に引き継がれている<ref>この段落の出典。[http://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/goyousan.html 「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」展の開催について] 2014年(平成26年)、宮内庁 - 2016年1月6日閲覧。<br>「[https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg9310.html 『皇后陛下のご養蚕』 - 政府インターネットテレビ]」公開日:平成26年(2014年)2月14日 - 2019年5月28日閲覧。<br>2019年(平成31年)4月29日放送「[[日本放送協会|NHK]]ドキュメンタリー『皇后四代~思いは時を超えて~』」(NHK BSプレミアム)</ref>。1914年(大正3年)以降は[[紅葉山御養蚕所]]にて行われている。 === 語源 === 『古事記』・『日本書紀』に従えば、古くは[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の妻妾を「キサキ」(后)と呼び、そのうちで最高位にあるものを「オオキサキ」(歴史的仮名遣いで「オホキサキ」)と呼び、単なる「キサキ」である他の妻妾と区別した。『[[古事記]]』では「大后」、『[[日本書紀]]』では「皇后」の漢字を当てている。「キサキ」の語源については“君幸”説、“君前”説、“水の女”説などの他、多くの説があるもののこれといった有力説は今のところない。[[平安時代]]は'''中宮'''は皇后を指した。 後世「きさき」が皇后の意味を表すようになり、皇后を'''皇后宮'''、'''后宮'''(きさいのみや)、'''一の后'''(いちのきさき)呼んだ。これにちなみ、皇后を母とする皇子女を后腹・妃腹(きさいばら)という。別称([[唐名]])として'''長秋宮'''、'''秋宮'''(あきのみや・しゅうきゅう)、あるいは漢代の例をもって'''椒房'''(しょぼう)'''椒庭'''(しょうてい)'''椒囲'''(しょうい)と称した。和名では[[八雲御抄]]や[[後拾遺和歌集]]にみえる「'''紫の雲'''」などがある。「おうごう」とも読んだ。その他には'''紫の宮'''(むらさきのみや)、'''北の宮'''、'''北の方'''(きたのかた)などがある'''。''' 旧現皇室典範のもとでの敬称は「[[陛下]]」であるが、[[大宝律令]]のもとでの敬称は「[[殿下]]」であった。また、正式には「[[太皇太后]]宮」「[[皇太后]]宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して[[后位|三后]](さんごう)という。三后は天皇に准ずる存在とされたため、さらにそれに准ずる存在、つまり天皇と三后を除く皇族の最高位として、「[[准后]]」(または准三宮)という待遇・称号が生まれた。 === 歴代皇后 === {{main|日本の皇后一覧|后位}} === 歴史 === ==== 古代 ==== [[File:Empress Komyo by Kikuchi Keigetsu (NPSAM).jpg|200px|thumb|[[光明皇后]]([[菊池契月]]画)]] 「皇后」という称号が明文で規定されたのは、[[大宝律令]]の制定以後であり、[[天平]]元年([[729年]])に第45代[[聖武天皇]]の妻である藤原安宿媛が最初の皇后となった([[光明皇后]])。ただし『日本書紀』が初代[[神武天皇]]の正妃[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]](ヒメタタライスズヒメ)以後すべての「オオキサキ」に対しても「皇后」の字を当てたことから、光明皇后よりも前の天皇正妃も「皇后」と呼ぶ慣行がある。 大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻(天皇の配偶者)である[[妃]]の資格が「四品以上の[[内親王]]」と規定されていることから、「皇后も当然内親王でなければなれないもの」と観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、[[仁徳天皇]]の「皇后」[[磐之媛命|磐之媛]]を唯一の例外として「皇后」の父は全て神または天皇・皇族である。(但し、磐之媛も血筋の上では[[孝元天皇]]の[[男系]][[来孫]]であり、逆に[[細媛命]]と[[春日娘子]]にはそのような記述が無い。)、[[古代エジプト]]の[[ファラオ]]の家系が[[近親婚]]によって継承されたこと同様に、古代において皇后が内親王に限定されたことは、天皇に母系を通じて人臣の血が混じることが、天皇の神聖さを薄れさせる行為であると考えられたからであろう。しかし、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある。8世紀に、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に[[冊立]]されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として多く見られるようになった。 また、皇后の夫天皇が崩御して新天皇が即位しても必ず皇太后となるとは限らず、そのまま皇后位にとどまる例も少なくない。 初婚でない例もあり、[[伊香色謎命]]、[[中磯皇女]]、[[斉明天皇|寶女王]](後の[[女性天皇]]、皇極天皇)の3名は、いずれも元々別の天皇・皇族の妃であり、いずれも子があった。 逆に媛蹈鞴五十鈴媛命、[[穴穂部間人皇女]]、[[藤原多子]]の3名は、夫天皇の崩御後別の天皇・皇族と再縁し、中でも穴穂部間人皇女は子も儲けた。 [[延喜]]23年(923年)、[[醍醐天皇]]が[[藤原穏子]]を皇后に冊立したとき、皇后宮職ではなく[[中宮職]]が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このとき初めて、皇后の呼称として「[[中宮]]」が用いられることになった。 本来、皇后の定員は1名であったが、[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]])、[[一条天皇]]が[[藤原定子]]を皇后に冊立するにあたり、すでに[[円融天皇]](既に[[退位]]して[[太上天皇]])の皇后(中宮)として[[藤原遵子]]が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には[[中宮職]]から[[皇后宮職]]を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに[[長保]]2年([[1000年]])、[[藤原彰子]]が皇后とされるに及んで1人の天皇が同時に2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。 [[後冷泉天皇]]には既に中宮[[章子内親王]]と皇后[[藤原寛子 (藤原頼通女)|藤原寛子]]がいたが、[[治暦]]4年([[1068年]])更に[[藤原歓子]]が立后されることになり、中宮章子が皇太后、皇后寛子が中宮とされ、歓子は皇后とされた。章子は皇太后位の皇后ともいうべき立場になり、僅か2日後に後冷泉天皇が崩御したものの、この3日間だけ1人の天皇が同時に3人の皇后を立てた唯一の例となった。なお、皇后宮から中宮となったのは、寛子ただ一人である。 その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して[[准母]]を定めることが行われた。その初例は、[[寛治]]5年([[1091年]])に[[堀河天皇]]の准母となった[[媞子内親王]]であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。准母の尊称皇后の中で唯一、[[姈子内親王]]はのちに[[入内]]した。また、[[長承]]3年([[1134年]])には、[[鳥羽天皇]]が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である[[藤原泰子]]を、[[治天]]の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、[[永治]]元年([[1141年]])、同年に即位した自分の末子[[近衛天皇]]の生母[[藤原得子]]を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。 ==== 中世・近世 ==== [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降、[[元弘]]3年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]の皇后(中宮)に立てられた[[珣子内親王]]を最後として([[長慶天皇]]も[[建徳]]2年([[1371年]])以降中宮を立てたが、詳細不明)、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、[[寛永]]元年([[1624年]])冊立の[[後水尾天皇]]の皇后(中宮)[[徳川和子|源和子]]のときである。以後、皇后が同時に2人擁立されることはなくなり、また皇后は全て「中宮」とされた。 ==== 近代・現代 ==== <gallery> ファイル:Empress Shoken2.jpg|第122代天皇・[[明治天皇]]の皇后<br>[[昭憲皇太后]](一条美子)<br>(1849年 - 1914年)<br>日本史上初めて洋装をした皇后。<br>(在位:[[1869年]][[2月9日]] - [[1912年]][[7月30日]]) ファイル:Empress Sadako-big-1912.jpg|第123代天皇・[[大正天皇]]の皇后<br>[[貞明皇后]](九条節子)<br>(1884年 - 1951年)<br>[[側室]]制度廃止後で初の[[一夫一婦制]]の下での皇后。<br>(在位:[[1912年]][[7月30日]] - [[1926年]][[12月25日]]) ファイル:Empress Kojun 1956-11-face.jpg|第124代天皇・[[昭和天皇]]の皇后<br>[[香淳皇后]](良子女王)<br>(1903年 - 2000年)<br>歴代で最長寿・最長在位の皇后。<br>(在位:[[1926年]][[12月25日]] - [[1989年]][[1月7日]]) ファイル:Empress Michiko's arrival in Manila - 2016 (cropped).jpg|第125代天皇・[[明仁]]の皇后<br>[[上皇后美智子|美智子]](正田美智子)<br>(1934年 - )<br>有史以来、初の非貴族出身の皇后。<br>(在位:[[1989年]][[1月7日]] - [[2019年]][[4月30日]]) ファイル:Empress Masako at TICAD7.jpg|第126代天皇・[[徳仁]]の皇后<br>雅子(小和田雅子)<br>(1963年 - )<br>(在位:[[2019年]][[5月1日]] - ) </gallery> [[ファイル:HIM Empress Tenmei's personal visit.jpg|180px|thumb|[[関東大震災]]の被災者を慰問する[[貞明皇后]]<br>1923年(大正12年)9月15日]] [[File:Empress Kojun at a cocoonery 1955-6.jpg|180px|thumb|[[養蚕業|養蚕]]する[[香淳皇后]]<br>1955年(昭和30年)6月]] [[明治]]元年(旧暦:[[1868年]]、新暦:[[1869年]])に皇后(中宮)となった[[明治天皇]]の一条美子([[昭憲皇太后]]、[[五摂家]]の一つ[[一条家]]出身)が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、[[明治]]22年([[1889年]])の[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認定されたのもこの時以来のものである。 なお、皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、[[大宝律令]]では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、[[1910年]]の[[皇族身位令]](明治43年皇室令第2号)制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものである「皇后」をつけることになった。 明治19年(1886年)1月、昭憲皇太后による「婦女服制の思召書」の布告によって、洋服着用が奨励され、宮中においても日常着から洋服を着用することとなった。 このため、[[第二次世界大戦]]以前、皇后の[[和服]](着物)姿<!--平安装束と着物は別もの-->の写真が公開されることはなかった。 ただし、[[久邇宮|久邇宮家]]出身の[[香淳皇后]]は、和服を所有しており、私的な写真は撮影されていた。大戦中には、倹約の奨励から「宮中服」が考案されるが、実際には皇后しか着用しなかったため「皇后服」の異称もある。 [[日本の降伏|敗戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]が終了し日本が主権回復を迎えた昭和27年([[1952年]]:[[4月28日]]の[[日本国との平和条約]]発効)になって、香淳皇后が初めて和服(訪問着)を着用して公の場に現れた。以後、今日に至るまで、日本の伝統衣装として皇后およびその他女性皇族([[親王妃]]、[[内親王]]、[[女王 (皇族)|女王]])が和服を着用する機会も多い。 == 日本・中国以外の皇后 == 「皇后」の称号はもともと、[[中国]]の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者[[天子]](皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「[[王]]」([[国王]]・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。 漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる[[王]]の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「[[皇帝]]」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。 === 皇帝と皇后の訳語 === [[ローマ帝国]]の君主の称号の一つである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会([[神聖ローマ帝国]]・[[ドイツ帝国]]・[[オーストリア帝国]]のカイザー、[[ロシア帝国]]の[[ツァーリ]]など)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国|ペルシア]]や[[パフラヴィー朝]][[イラン]]の「諸王の王([[シャーハンシャー]])」、[[オスマン帝国]]の「[[スルタン]]」あるいは「[[パーディシャー]]」、[[北アフリカ]]の[[エチオピア]]の「諸王の王([[ネグサ・ナガスト]])」、[[インド]]の[[ムガル帝国]]の「パーディシャー」、[[南アメリカ]]の[[インカ帝国]]の「[[サパ・インカ]]」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が[[一夫一婦制]]の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。 [[西ヨーロッパ|西欧]][[キリスト教]]社会などの[[一夫一婦制]]度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として[[東ローマ帝国]][[ローマ皇帝|皇帝]]の[[ユスティニアヌス1世]]の妻[[テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)|テオドラ]]がある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。 === 皇后と女帝 === ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。 ロシア帝国の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]は、もとは皇帝[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]の妻であり、その後クーデターにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の妃[[マリア・テレジア]]は本来「皇后」であるが、これは女性に神聖ローマ皇帝位継承者資格が無いための措置であり、[[ハプスブルク家]]の支配下の領域においては、彼女が[[オーストリア大公]]・[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王・[[ボヘミア]]王を兼ねる君主であり、フランツ1世は君主の配偶者に過ぎない。そのため日本語でも「女帝」と表されることが多い。 英語圏でも、特に上記を区別する語がある。統治権を持つ {{lang-en|empress}} (女性の皇帝) を{{lang-en|empress regnant}}(君臨する女性の皇帝=女帝)と呼び、統治権のある男性の皇帝の配偶者を{{lang-en|empress consort}}(妃である女性の皇帝=皇后)と呼ぶ。一例として、英語圏では[[推古天皇]]は empress regnant である。 == 歌人皇后 == 日本の皇后はしばしば優れた歌人でもあり、サロンを形成して学芸を振興した。以下は、歌人として活躍した故人のみ述べる。 * 宝女王([[斉明天皇]]、594 - 661) - 第34代天皇・[[舒明天皇]]皇后。万葉歌人。 * [[倭姫王]](? - ?) - 第39代天皇・[[天智天皇]]皇后。万葉歌人。 * 鸕野讚良([[持統天皇]]、645 - 703) - 第40代天皇・[[天武天皇]]皇后。勅撰集に2首が入集<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A藤原定子+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 持統天皇]</ref>。[[小倉百人一首]]第2番。 * [[藤原定子]](977 - 1001) - 第66代天皇・[[一条天皇]]皇后宮。勅撰集に7首が入集<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A藤原定子+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 藤原定子]</ref>。サロンに[[清少納言]]ら。 * [[藤原彰子]](988 - 1074) - 第66代天皇・一条天皇中宮。勅撰集に28首が入集<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A藤原彰子+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 藤原彰子]</ref>。サロンに[[紫式部]]・[[和泉式部]]・[[赤染衛門]]・[[出羽弁]]・[[伊勢大輔]]ら。 * [[藤原妍子]](994 - 1027) - 第67代天皇・[[三条天皇]]中宮。勅撰集に8首が入集<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A藤原妍子+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 藤原妍子]</ref>。サロンに[[大和宣旨]]ら。 * [[西園寺鏱子]](永福門院、1271 - 1342) - 第92代天皇・[[伏見天皇]]中宮。[[京極派]]を代表する同時代最大の歌人の一人。勅撰集に151首が入集<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A永福門院+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 永福門院]</ref>。サロンに[[永福門院内侍]]・[[永福門院右衛門督]]ら。 * [[西園寺禧子]](後京極院、? - 1333) - 第96代天皇・[[後醍醐天皇]]皇太后宮。[[二条派]]の有力歌人。勅撰集に14首<ref>[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?query=SELECT+%3Fcho+%3Flabel+%3Fsource+%3Fselector+WHERE+%7B+%3Fcho+rdfs%3Alabel+%3Flabel+%3B+schema%3Acreator%2Fowl%3AsameAs%3F+chname%3A後京極院+.+%3Fcho+jps%3ApartOf+%3FpartOf+.+%3FpartOf+jps%3Asource+%3Fsource+.+%3FpartOf+jps%3Aselector+%3Fselector+%7D+ORDER+BY+asc%28%3Fcho%29+ Snorql for Japan Search 後京極院]</ref>、准勅撰集に1首が入集。サロンに[[二条藤子]]・[[阿野廉子]]ら。 * 長慶天皇中宮([[西園寺公重女]]?、? - ?) - 第98代天皇・[[長慶天皇]]中宮。准勅撰集に15首が入集。 * [[昭憲皇太后]](1849 - 1914) - 第122代天皇・[[明治天皇]]皇后。家集に『昭憲皇太后御製大全集』。 * [[貞明皇后]](1884 - 1951) - 第123代天皇・[[大正天皇]]皇后。家集に『貞明皇后御歌集』。 <!-- * [[香淳皇后]](1903 - 2000) - 第124代天皇・[[昭和天皇]]皇后。「桃苑」の号で[[日本画]]に優れた。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参照文献 == === 文献資料 === * [[保阪正康]]『皇后四代―明治から平成まで』(中央公論新社<中公新書ラクレ>、2002年) * [[片野真佐子]]『皇后の近代』(講談社選書メチエ、2003年) * [[森暢平]]・[[河西秀哉]] 編『皇后四代の歴史―昭憲皇太后から美智子皇后まで』(吉川弘文館、2018年) * [[新村出]]編『[[広辞苑]] 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X * [[松村明]]編『[[大辞林]] 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059 == 関連項目 == {{Wiktionary|皇后}} *[[皇帝]] *[[女帝]] *[[女王]] *[[日本の皇后一覧]] *[[中宮]] *[[准后]] *[[国母]] {{Navboxes |title=皇室 |list= {{天皇項目}} {{歴代天皇一覧}} {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{日本の歴代太皇太后一覧}} {{日本の皇位継承権者}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうこう}} [[Category:身位]] [[Category:日本の律令制]] [[Category:后妃の称号]]
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コンピュータ・クラスター
コンピュータ・クラスターとは、複数のコンピュータを結合し、クラスター(葡萄の房)のようにひとまとまりとしたシステムのこと。単に「クラスター」または「クラスタリング」とも呼ばれる。1台のコンピュータでは得られないような、強力な計算性能や可用性を得ることができる。コンピュータ・クラスターは、クラスタリングを実現するためのハードウェアやソフトウェアなどにより構成される。但し、ネットワークを介してデータを入力して処理を開始するため、処理開始までの遅延が大きくなる欠点がある。 伝統的にコンピュータ・クラスターは、葡萄の房に例えられることが多い。これはDECのクラスターの説明から始まり、多くのベンダにおいても多用されている。またクラスターに参加したコンピュータを「ノード」、ノード間の内部接続ネットワークを「インターコネクト」と呼ぶ場合も多い。葡萄の実(ノード)を、茎が内部接続しているイメージである。 ただし、実際の接続網の形態は様々であり、より良いコスト/パフォーマンス比の実現のために研究・開発が進められている。 クラスター内の複数のコンピュータは、何らかのネットワークを介して相互に接続され、ひとつのコンピュータ・システムとして扱えるように制御されている。クラスターの構築は、ユーザーが独自開発する場合、ベンダーによる汎用的なパッケージを使用する場合などがある。クラスターの分類は各種あるが、以下では目的・共有形態・実現レベルの観点から分類し説明する。 利用目的からのクラスターの分類には以下がある。 前者の例としてはHPC分野のクラスター型スーパーコンピュータがある。過去には専用のベクトル計算機が使われた分野だが、マイクロプロセッサの性能向上と並列処理技術の向上により主流となった。このほか、大規模なWebサーバなどで一般的な負荷分散(ロードバランス)クラスターもある。単純な負荷分散クラスターでは各コンピュータ同士の直接の連携は何も無いが、高度な負荷分散クラスタでは各コンピュータ間で運用管理の一元化も行っている。 後者の例としては、メインフレームのホット・スタンバイ構成から連綿と続く、高可用(性)クラスターがある。障害や保守(計画停止)の発生時には、業務処理を単純に引き継ぐ構成(アクティブ-スタンバイ)の他、本番機同士で相互バックアップしておき縮退運用する構成(アクティブ-アクティブ)などがある。また引継ぎ開始から引継ぎ完了までの間は、一時的に業務停止を伴うもの、伴わないものがある(引継ぎの戻しの場合も同様である)。クラスターの対象サーバは通常は同一拠点(データセンター等)だが、災害対策を目的とした遠隔地へのバックアップ(ディザスター・リカバリー)を考慮した、複数拠点にまたがるメトロ(都市間)クラスターやコンティネンタル(大陸間)クラスターなどの製品やシステムも増えてきている。 なお、実際には拡張性と高可用性を兼ねたパッケージやシステム構成が多い。通常はHPCのクラスターでも1台のコンピュータの故障で全体が停止する事は無く、相互バックアップや負荷分散は全体としての性能を高められるためである(ただし、いずれも障害時には性能劣化となるため、リスクと性能の余裕は予め見込んでおく必要がある)。 リソースの共有形態からみたクラスターの分類には以下がある。 1の例は、一部のコンピュータの障害には対応できるが、対象リソース(外付けディスク装置や、その中に格納されたデータベースなど)自体は単一障害点(SPOF)となるため、別の冗長化と併用する場合が多い。なおOracle Databaseは10gでグリッド技術を導入したが、基本は密結合クラスター(外部DISK共有モデル)である。 2の例は、ネットワークがボトルネックとなり易いため、特に高速なネットワーク(スイッチ等)を使う場合がある。なおグリッドやプロビジョニングは、この発展系と考える事もできる。 近代的なクラスターの最初は、1983年のDEC(現ヒューレット・パッカードの一部)によるVMSclusterとされる。これは最大16ノードのVAXを専用のハードウェアとソフトウェアで連動させるもので、障害発生時でも数分以内など短時間の業務復旧ができたと言われている。 1987年には、メインフレームでIMSのクラスタリング機能であるExtended Recovery Facility(XRF、拡張回復機能)が登場した。これはOSであるMVSと、DBMSであるIMSと、通信機能であるVTAMの連携機能により、データベースおよびトランザクション処理機能を、ユーザーから見てほぼ業務中断無く、スタンバイ機に自動引継ぎするものであった。 1990年代には商用UNIXでもクラスタリングを使用した高可用性の実現が普及した。その多くはマルチプラットフォームで低価格であったが、障害発生時の引継ぎには、一定の業務中断を伴うものが多かった。 現在では、OSおよびミドルウェアとの連携機能を含め、各種のクラスタリングが提供され、使い分けられている。 クラスター構築用の既存のパッケージには以下がある。
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コンピュータ・クラスターとは、複数のコンピュータを結合し、クラスター(葡萄の房)のようにひとまとまりとしたシステムのこと。単に「クラスター」または「クラスタリング」とも呼ばれる。1台のコンピュータでは得られないような、強力な計算性能や可用性を得ることができる。コンピュータ・クラスターは、クラスタリングを実現するためのハードウェアやソフトウェアなどにより構成される。但し、ネットワークを介してデータを入力して処理を開始するため、処理開始までの遅延が大きくなる欠点がある。
{{出典の明記|date=2018年9月}} '''コンピュータ・クラスター'''とは、複数の[[コンピュータ]]を結合し、[[クラスター]]([[ブドウ|葡萄]]の房)のようにひとまとまりとした[[システム]]のこと。単に「クラスター」または「[[クラスタリング]]」とも呼ばれる。1台のコンピュータでは得られないような、強力な計算性能や可用性を得ることができる。コンピュータ・クラスターは、クラスタリングを実現するための[[ハードウェア]]や[[ソフトウェア]]などにより構成される。但し、ネットワークを介してデータを入力して処理を開始するため、処理開始までの遅延が大きくなる欠点がある。 == 名称 == 伝統的にコンピュータ・クラスターは、葡萄の房に例えられることが多い。これは[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]のクラスターの説明から始まり、多くのベンダにおいても多用されている。またクラスターに参加したコンピュータを「[[ノード (ネットワーク)|ノード]]」、ノード間の内部接続ネットワークを「インターコネクト」と呼ぶ場合も多い。葡萄の実(ノード)を、茎が内部接続しているイメージである。 ただし、実際の接続網の形態は様々であり、より良いコスト/パフォーマンス比の実現のために研究・開発が進められている。 == 概要 == クラスター内の複数のコンピュータは、何らかの[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を介して相互に接続され、ひとつのコンピュータ・システムとして扱えるように制御されている。クラスターの構築は、ユーザーが独自開発する場合、ベンダーによる汎用的なパッケージを使用する場合などがある。クラスターの分類は各種あるが、以下では目的・共有形態・実現レベルの観点から分類し説明する。 === 目的 === [[ファイル:Load Balancing Cluster (NAT) ja.svg|サムネイル|代替文=thumb| 2台のサーバーと複数台のターミナル含み負荷分散型クラスター。]] 利用目的からのクラスターの分類には以下がある。 # スケーラビリティ(拡張性。複数のコンピュータを統合化し、一台のコンピュータでは得られない高い処理速度を狙ったもの) # リダンダンシー(冗長性。複数のコンピュータを統合化し、一台のコンピュータでは得られない高い信頼性を狙ったもの。いくつかのコンピュータが障害や保守で停止しても、サービスは停止しない) 前者の例としては[[高性能計算|HPC]]分野のクラスター型スーパーコンピュータがある。過去には専用の[[ベクトル計算機]]が使われた分野だが、[[マイクロプロセッサ]]の性能向上と並列処理技術の向上により主流となった。このほか、大規模な[[Webサーバ]]などで一般的な'''[[負荷分散]](ロードバランス)'''クラスターもある。単純な負荷分散クラスターでは各コンピュータ同士の直接の連携は何も無いが、高度な負荷分散クラスタでは各コンピュータ間で運用管理の一元化も行っている。 後者の例としては、[[メインフレーム]]のホット・スタンバイ構成から連綿と続く、'''高可用(性)クラスター'''がある。障害や保守(計画停止)の発生時には、業務処理を単純に引き継ぐ構成(アクティブ-スタンバイ)の他、本番機同士で相互バックアップしておき縮退運用する構成(アクティブ-アクティブ)などがある。また引継ぎ開始から引継ぎ完了までの間は、一時的に業務停止を伴うもの、伴わないものがある(引継ぎの戻しの場合も同様である)。クラスターの対象サーバは通常は同一拠点(データセンター等)だが、'''災害対策を目的とした遠隔地へのバックアップ(ディザスター・リカバリー)'''を考慮した、複数拠点にまたがるメトロ(都市間)クラスターやコンティネンタル(大陸間)クラスターなどの製品やシステムも増えてきている。 なお、実際には拡張性と高可用性を兼ねたパッケージやシステム構成が多い。通常はHPCのクラスターでも1台のコンピュータの故障で全体が停止する事は無く、相互バックアップや負荷分散は全体としての性能を高められるためである(ただし、いずれも障害時には性能劣化となるため、リスクと性能の余裕は予め見込んでおく必要がある)。 === 共有形態 === リソースの共有形態からみたクラスターの分類には以下がある。 # '''[[密結合クラスター]]'''(クラスターを構成する各コンピュータから、対象のリソースを共有するもの) # '''[[疎結合クラスター]]'''(クラスターを構成する各コンピュータは、ネットワーク以外に直接のリソース共有が無いもの) 1の例は、一部のコンピュータの障害には対応できるが、対象リソース(外付けディスク装置や、その中に格納された[[データベース]]など)自体は[[単一障害点]](SPOF)となるため、別の冗長化と併用する場合が多い。なお[[Oracle Database]]は10gで[[グリッド]]技術を導入したが、基本は[[密結合クラスター]](外部DISK共有モデル)である。 2の例は、ネットワークが[[ボトルネック]]となり易いため、特に高速なネットワーク(スイッチ等)を使う場合がある。なお[[グリッド・コンピューティング|グリッド]]や[[プロビジョニング#サーバ・プロビジョニング|プロビジョニング]]は、この発展系と考える事もできる。 == 歴史 == 近代的なクラスターの最初は、[[1983年]]のDEC(現[[ヒューレット・パッカード]]の一部)による[[:en:VMScluster|VMScluster]]とされる。これは最大16ノードの[[VAX]]を専用のハードウェアとソフトウェアで連動させるもので、障害発生時でも数分以内など短時間の業務復旧ができたと言われている。 [[1987年]]には、[[メインフレーム]]でIMSのクラスタリング機能であるExtended Recovery Facility(XRF、拡張回復機能)が登場した<ref>[http://www-01.ibm.com/support/docview.wss?rs=81&context=SSEPH2&q1=7011829&uid=swg27011829&loc=en_US&cs=utf-8&lang=en IMS XRF and Parallel Sysplex: A Positioning Paper]</ref>。これはOSである[[Multiple Virtual Storage|MVS]]と、[[データベース管理システム|DBMS]]である[[IMS]]と、通信機能である[[VTAM]]の連携機能により、データベースおよび[[トランザクション処理]]機能を、ユーザーから見てほぼ業務中断無く、スタンバイ機に自動引継ぎするものであった。 [[1990年]]代には商用[[UNIX]]でもクラスタリングを使用した高可用性の実現が普及した。その多くは[[マルチプラットフォーム]]で低価格であったが、障害発生時の引継ぎには、一定の業務中断を伴うものが多かった。 現在では、OSおよび[[ミドルウェア]]との連携機能を含め、各種のクラスタリングが提供され、使い分けられている。 == クラスターパッケージ == クラスター構築用の既存のパッケージには以下がある。 === HPC === *[[SCore]] *[[Beowulf]] *[[Globus]] *[[WindowsCCS]] *イマジオムの[[HarmonyCalc]](Windows) === 高可用(性)クラスター === *[[IBM]]の[[PowerHA]](旧称[[HACMP]]。[[AIX]]、[[Linux]] for POWER) *[[ヒューレット・パッカード|HP]]の[[MC/ServiceGuard]] ([[HP-UX]]) *[[オラクル (企業)|オラクル]]の[[Oracle Solaris Cluster]] (旧称Sun Cluster、[[Solaris]]) *[[シマンテック]] ([[VERITAS]]) の[[VERITAS ClusterServer]](AIX、HP-UX、Solaris、Linux、Windows) *[[富士通]]の[[PRIMECLUSTER]](Solaris、Linux、Windows) *[[日本電気|NEC]]の[[CLUSTERPRO]](Linux、Windows) *[[東芝]]の[[ClusterPerfect]] (AIX、Solaris、Linux、Windows) *[[日立製作所]]の[[HAモニタ]] (AIX、HP-UX、Linux) *[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Clustering Service]] (MSCS。Windows) *[[Linux Virtual Server]] *[[Linux-HA]]プロジェクトによる[[Heartbeat_(ソフトウェア)|Heartbeat]]および[[Pacemaker]] *[[レッドハット]]の[[Red Hat Cluster Suite]] *[[VMware]]の[[VMware vSphere HA]]([[仮想機械|仮想マシン]]) *EMC AutoStart *[[SteelEye Technology]]の[[LifeKeeper]] (Linux、Windows) === 高性能および高可用(性)クラスター === *[[IBM]]の[[IMS]] XRF(メインフレーム) *[[並列シスプレックス]](メインフレーム) *[[オラクル (企業)|オラクル]]の[[:en:Oracle_RAC|Real Application Clusters]](RACともいう。Windows,Linux,Unix) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[クラスタリング]] *[[分散コンピューティング]] *[[並列コンピューティング]] *[[グリッド・コンピューティング]] *[[ロードシェア]] *[[サーバファーム]] *[[疎結合クラスター]] *[[密結合クラスター]] *[[高可用クラスター]] *[[ユーティリティコンピューティング]] *[[アムダールの法則]] *[[計算科学]] *[[Scientific Linux]] *[[Linux-HA]] == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/fate/disaster_recovery/bha/Local_Clustering_and_Failover.htm |title=ローカルクラスタとフェイルオーバー |date=20101023081743}} *[https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/0103/13/news002.html @IT - 多様化するクラスタ方式] *[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20060714/243416/?SS=imgview&FD=-192991770&ST=system ITPro - 主なクラスタソフト] *{{PDFlink|[http://www.is.doshisha.ac.jp/~tomo/paper/2002/1116cluster.pdf PCクラスタの作り方]}} 廣安 知之・三木 光範、 システム/制御/情報,Vol. 47, No. 2, pp. 18, 2003 *[http://www.pccluster.org/index.html.ja PCクラスタコンソーシアム(PC Cluster Consortium)] *[http://www.beowulf.org/ The Beowulf Cluster Site] {{en icon}} {{並列コンピューティング}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こんひゆたくらすた}} [[Category:コンピュータ]] [[Category:コンピュータの形態]] [[Category:分散処理]] [[Category:スーパーコンピュータ]]
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雅子
雅子(まさこ、がし、みやびこ、みやひこ)
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雅子(まさこ、がし、みやびこ、みやひこ) 日本人の名前。主に女性の名。 皇后雅子 - 今上天皇の皇后。 雅子 (女優) - 女優、モデル。 和泉雅子 - 女優。 笛吹雅子 - 元アナウンサー。 夏目雅子 - 女優。 野沢雅子 - 声優。 雅子内親王 - 醍醐天皇の第10皇女。伊勢斎宮のち、藤原師輔室となる。
'''雅子'''(まさこ、がし、みやびこ、みやひこ) *[[日本人]]の[[名前]]。主に[[女性]]の名。 ;まさこ *[[皇后雅子]] - [[徳仁|今上天皇]]の[[皇后]]。 *[[雅子 (女優)]] - 女優、モデル。 * [[和泉雅子]] - 女優。 * [[笛吹雅子]] - 元アナウンサー。 * [[夏目雅子]] - 女優。 * [[野沢雅子]] - 声優。 ;がし *[[雅子内親王]] - [[醍醐天皇]]の第10皇女。[[伊勢斎宮]]のち、[[藤原師輔]]室となる。 == 関連項目 == * {{Intitle|雅子}} * {{Prefix|雅子}} * [[Wikipedia:索引 まさ#まさこ]] {{人名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:まさこ}} [[Category:日本語の女性名]]
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愛子
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愛子
'''愛子''' == あいこ == * [[日本]]の[[女性]][[人名|名]]。 ** [[愛子内親王]] - [[皇族]]。[[徳仁|徳仁天皇]]の第一皇女。母は[[皇后雅子]]。 ** [[aiko]] - 歌手。希に「愛子」と書く。 ** [[皆藤愛子]] - [[ニュースキャスター]]。 ** [[上村愛子]] - [[フリースタイルスキー]]選手。 ** [[大河原愛子]] - [[実業家]]。 ** [[宜保愛子]] - [[作家]]、[[タレント]]、[[霊能力者]]。 ** 加納愛子 - お笑いコンビ、[[Aマッソ]]のメンバーの一人。 ** 愛子 - 音楽ゲーム『[[pop'n music|pop'n music14フィーバー]]』の登場キャラクター * [[愛子 (テレビドラマ)]] - [[1973年]]から[[1974年]]にかけて[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]の[[ポーラテレビ小説]]枠で放送された[[昼ドラマ]]。 * [[愛子 (アイドル)]] - [[ハロー!プロジェクト]]のユニット[[大小姐]]のメンバーの一人。 == あやし == * [[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]にある[[地名]]。[[上愛子]]と[[下愛子]]からなる。 * [[愛子盆地]] - 上記の愛子地区がある[[盆地]] * [[愛子駅]] - [[東日本旅客鉄道|JR]][[仙山線]]の駅 * [[愛子 (小惑星)]] - 地名に因み命名された[[小惑星]] == あいし == * 上記の地名に由来する日本の姓。 == 関連項目 == * {{Prefix}} * [[あいこ]] {{aimai}} [[Category:日本語の女性名|あいこ]] [[Category:日本語の姓|あいし]] [[Category:東北地方由来の姓|あいし]]
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重症急性呼吸器症候群
重症急性呼吸器症候群(じゅうしょう きゅうせい こきゅうき しょうこうぐん、英: Severe acute respiratory syndrome; SARS〈サーズ〉)は、SARSコロナウイルス (SARS-CoV-1) によって引き起こされるウイルス性の呼吸器疾患である。動物起源の人獣共通感染症と考えられている。ウイルス特定までは、その症状などから、新型肺炎(しんがたはいえん)、非定型肺炎(ひていけいはいえん、英: Atypical Pneumonia)などの呼称が用いられた。 2002年11月から2003年7月にかけて、中華人民共和国南部を中心に起きたアウトブレイクでは、広東省や香港を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡した(致命率9.6%/WHO発表)(なお、世界30ヶ国8,422人が感染、916人が死亡〈致命率11%〉とする報告もある)。このアウトブレイク終息後は、封じ込め宣言後いくつかの散発例があったが、現在に至るまで、新規感染報告例は無い。 現在の症例定義は、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている。また水様性下痢を呈する例も存在する。感染経路としては飛沫感染や接触感染が考えられている。 最初の症状はインフルエンザ様で、発熱、筋肉痛、無気力状態 (Lethargy) 、咳嗽、咽頭痛、その他非特異的症状が見られる。全患者に見られるのは38 °C (100 °F)以上の発熱だが、始まるまでには2〜7日の潜伏期間が存在する。この病気では粘膜病変を伴わず、咳嗽は乾性咳である。SARSでは呼吸困難や肺炎、またはその両方が見られることがあるが、これは一次的なウイルス性肺炎、また細菌性肺炎双方の可能性が考えられる。発熱に伴う肺病変は間質性肺炎であるが、これにはウイルスが誘導する免疫・サイトカインの関与が考えられている。喀痰には10億コピー/mLのウイルスが排出されるとされ、この状態では感染性が非常に高い。またウイルス血症も起こしうる。 最重症例では、免疫反応によって、サイトカイン・ストームを引き起こすことがある。 消化管感染も示唆されており、糞便中にウイルスが数多く排出されるほか、10%の症例では水様性下痢が確認される。 2003年のアウトブレイク時、SARS感染は次のような患者で疑われた。 現在の症例定義では、渡航歴は問わず、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている。 感染の疑いが濃厚な患者では、胸部X線写真で非定型肺炎や急性呼吸窮迫症候群などの症状、またはコロナウイルス検査での陽性所見が見られる。WHOでは、感染の疑いが「濃厚」(英: probable)だが胸部X線写真で特徴的な症状が見られず、またELISAや免疫蛍光抗体法、PCR法などのテストで陽性となった患者について、"laboratory confirmed SARS" とのカテゴリを設けた。胸部X線写真については、SARS患者でも像がまちまちであるが、一般的にまだらに浸潤するような不自然な像が見られることが多い。初期ではX線写真で気道炎症所見を認めない。臨床症状はインフルエンザやマイコプラズマ肺炎に類似しており、症状のみでの鑑別は難しい。 確定診断にはウイルス分離、核酸検出、中和抗体の上昇などが決め手となるほか、迅速診断には咽頭ぬぐい液からのRT-PCR法・LAMP法などが用いられる。 SARSのワクチンは研究段階である(→#治療)。治療法は確立していないが、2002年の中華人民共和国でのアウトブレイク時の教訓から、一般的な感染防止策の徹底が二次感染防止に有用であることが示されている。また感染経路としては、飛沫感染と直接・間接的な接触感染が想定されている。 SARSコロナウイルスは環境中で安定であり、中国政府対策本部からの発表によれば、紙・木などの環境中で3日間、痰や糞便中で約5日間、血液中で15日間生存するという(従来知られていたコロナウイルスでは、環境中で3時間)。また消毒用アルコールや漂白剤、界面活性剤での消毒で失活する。隔離と検疫がSARS予防に重要である。他にも次のような予防法が存在する。 院内感染対策として、サージカルマスクや使い捨てガウンが有効である。 SARSは、SARSコロナウイルスによるウイルス性疾患であるため、抗生物質は無効である。先のSARSアウトブレイク時には、この性質を逆手に用い、抗菌薬が無効であることからマイコプラズマ肺炎を否定し、その上で間質性肺炎・肺線維症を防ぐためのステロイド投与・リバビリン治療が行われた。但し、リバビリンは細胞培養レベルでは有効でなく、グリチルリチン(甘草の成分)が有効であるとの報告がある。 また治療法は確立しておらず、対症療法として解熱薬、必要に応じた酸素吸入・人工呼吸などが用いられる。SARS患者は隔離病棟に入院させる必要があるが、この際部屋を陰圧(英語版)にし、看護する側も完璧な防護をした上で、患者との不必要な接触を避けることが肝要である。 人に対し安全性・有効性の両方が確認されているワクチンは、治療用・予防用どちらでも存在しない(但し、実験動物レベルでは存在する)。生物学的治療法の発見・開発・生産を行うNPOのMassBiologicsは、アメリカ国立衛生研究所 (NIH) やアメリカ疾病予防管理センター (CDC) の研究者と協力し、動物モデルで効果があったモノクローナル抗体を用いた療法の開発を行っている。またウイルス表面のスパイクタンパク質をターゲットにしたワクチン、レセプタータンパクの拮抗薬、遺伝子の一部を欠いた弱毒化ウイルスの利用も検討されている。 SARSからの回復者について中国で出された報告書では、重症の後遺症が長時間続くことが示されている。最も典型的な症状は、肺線維症、骨粗鬆症、阻血性骨壊死で、どれも就業や自己介護の妨げとなり得る症状である。SARSでは間質性肺炎に引き続く肺線維症が報告されているが、これを防ぐため、ステロイド系抗炎症薬の投与が行われた。骨粗鬆症や骨壊死は、このステロイド剤の副作用として知られるものでもある。隔離収容の結果、SARSからの回復後に心的外傷後ストレス障害 (PTSD) や大うつ病性障害を発症した例も報告されている。 SARSの原因病原体・SARSコロナウイルスは、コロナウイルス科オルトコロナウイルス亜科ベータコロナウイルス属に分類され、同じ属には中東呼吸器症候群を引き起こすMERSコロナウイルスが含まれる。コロナウイルスはエンベロープを持つ1本鎖RNAウイルスで、ゲノムRNAはmRNAと同じ配列のプラス鎖である。また、コロナウイルスは呼吸器・消化器の上皮細胞に親和性を持つが、SARSコロナウイルスでは呼吸器や消化管などに発現しているアンジオテンシン変換酵素のACE2が感染のレセプタータンパクとなる。SARSコロナウイルスはベロ細胞(Vero E6細胞)などで細胞培養できる。RNAウイルスではあるが、ゲノム変異はヒト免疫不全ウイルス (HIV) ほど大きなものではなく、比較的安定だと報告されている。また、環境中でも比較的安定であるが(→#予防)、エンベロープを持つため、エーテルやクロロホルムに感受性がある。このウイルスはコウモリ・ヒトに感染するが、MERSコロナウイルスも同じくコウモリに感染するほか、コロナウイルスの分類では、コウモリコロナウイルスもこの2種と同じグループ2bに含まれる。 当初、中国衛生局はクラミジア、香港大学は麻疹ウイルスやRSウイルスと同じパラミクソウイルスを原因病原体として発表していた。 CDCとカナダ国立微生物研究所(英語版)は、2003年4月にSARSウイルスのゲノムを特定した。エラスムス・ロッテルダム大学の研究者たちは、SARSコロナウイルスでコッホの原則が成り立つことを突き止めた。マカク属(カニクイザル)へのウイルス感染で、SARS患者と同様の症状(具体的には鼻腔・咽頭・糞便からのウイルス分離と間質性肺炎)が発生することが実験的に証明されている。 2003年5月下旬、最初の症例が出た中国広東省の地元市場で、食用野生動物を用いた研究調査が行われた。この結果、ハクビシンからSARSコロナウイルスが単離されたが、ハクビシンは固有宿主ではなく、ヒトへの感染のキーとなる中間宿主だと推定された。 中間結果では、SARSコロナウイルスはパームシベットからヒトへ、種の壁を越えた異種伝播をするとされ、広東省だけで1万頭以上が駆除された。この対応に関しては、パームシベット・ハクビシンをスケープゴートにしたとの批判もある。またシンガポールでは野良猫の駆除が行われた。ウイルスは、タヌキ、イタチアナグマ(流行地にはシナイタチアナグマが棲息)、イエネコなどからも単離された。 2005年には、中国のコウモリから多数のSARS様コロナウイルスが発見されたと報告された。これらのウイルスの系統学的解析から、SARSコロナウイルスはコウモリ由来の可能性が高いとされ、コウモリから直接人間に感染したか、中国の市場で販売されていた食用コウモリをはじめとした食用動物を介して人間に広まったと推測された。コウモリは感染しても不顕性感染となるが、SARS様コロナウイルスのリザーバーになっていると推測されている。 2006年遅く、香港大学CDC (Chinese Centre for Disease Control and Prevention of Hong Kong University)、広州市疾病予防コントロールセンター(広州市CDC)は、パームシベット(ハクビシン)とヒトから単離されたSARSコロナウイルスの遺伝的系譜を作成し、このウイルス感染症が宿主ジャンプしたことを証明した。 SARSは新興感染症のひとつであり、大流行した2003年の患者数は8,273人と比較的まれな疾患である。このアウトブレイク時の罹患数は、世界保健機関 (WHO) の報告によると、香港を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡したとされている(致命率9.6%、内訳は下記)。また最終的な罹患数は、世界30ヶ国の8,422人が感染、916人が死亡(致命率11%)とされている。 2002年11月に、中華人民共和国広東省で最初のSARS症例が報告され、同月に同省で流行が発生した。最初の患者は広東省仏山市順徳区出身で、地元の村の管理責任者も務めていた農家の男性で、仏山市の第一人民医院(英: The First People's Hospital)で治療を受けた。この男性の疾患原因特定は行われなかった。感染制御に多少動いたものの、中国政府は、2003年2月までこの感染症の発生をWHOに公式報告しなかった。この情報公開の遅れが感染症対策の遅れに繋がり、結果として中国政府は国際的に多くの批判を受けることとなった。 アウトブレイクが最初に起きたのは2002年11月27日で、WHOのGOARN(英語版)の一角を成す、カナダのグローバル・パブリック・ヘルス・インテリジェンス・ネットワーク(英語版) (GPHIN) が、インターネット・メディアの監視を通じ、中国で「インフルエンザの流行」(英: "flu outbreak")が発生していることを突き止め、そのままWHOに報告した。現在GPHINでは、アラビア語・中国語・英語・フランス語・ロシア語・スペイン語への翻訳に対応しているが、当時は英語・フランス語のみの対応だった。アウトブレイクに関する最初の報告は中国語文献だったため、英語でのレポートは2003年1月21日になってようやく作成された。 この報告を受け、WHOは中国当局に対し、2002年12月5日・11日に照会を行った。それまでの感染症アウトブレイクでは対応ネットワークが上手く機能していたものの、中国からのメディア報告がアウトブレイク発生から数ヶ月後にずれ込んだため、情報共有が遅れる元となった。第2回目のアラート発令後、WHOは病名、症例定義と共に、慎重な注意と封じ込め方法を共有するため、協調した世界的なアウトブレイク対応ネットワークの構築を発表した (Heymann, 2003)。WHOが対策を開始した時までに、世界中で死者は500人以上、加えて2,000人程度の感染者が発生していた。 4月上旬、蒋彦永(英語版)が中国での脅威を報告した後、公式方針の転換があり、SARSはメディアでより大きく取り上げられるようになった。これにはアメリカ人のジェームズ・アール・ソールズベリー(英: James Earl Salisbury)の死が直接関わっていたとされる。これとほぼ同じ頃、蒋彦永は北京の軍事病院で症例数が過少報告されていたことを告発した。猛烈な追及の後、中国当局はWHOなど国際当局の現地調査を認めることになった。この調査により、地方分権化の拡大、繁文縟礼、不十分なコミュニケーションなど、成長過程にあった中国の保健政策を悩ます諸問題が明らかになった。 また、SARS予防策が広く知られておらず、流行地では看護や汚染物運搬の過程で、多くの医療スタッフが感染の危機に晒されたり、最悪の場合死に至ったりした。 流行に一般の関心が向いたのは、2003年2月に、中国に渡航したアメリカ人ビジネスマンが、シンガポールへの飛行中に肺炎様の症状を呈した一件からだった。飛行機はベトナム・ハノイに立ち寄り、このビジネスマンはハノイ・フレンチ・ホスピタル(英語版)に搬送され、転院先の香港で死亡した。一般的なプロトコルで看護を行ったにもかかわらず、この男性から複数の医療スタッフへ二次感染が起きた。イタリア人医師のカルロ・ウルバニは感染危機に気づき、WHOとベトナム政府の連携を要請して感染拡大阻止に尽力したが、その後自身もSARSに罹患して死亡した。 症状の重症度と、病院スタッフへの院内感染は国際保健当局に危機感を持って捉えられ、当局は肺炎感染症の拡大を危惧した。2003年3月12日、WHOはグローバル・アラート(英語版)を発令し、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) もこれに続いてアラートを発表した。WHOは続く3月15日に、広東省・香港への渡航自粛勧告を出す異例の措置を取った。SARS感染拡大は、トロント、オタワ、サンフランシスコ、ウランバートル、マニラ、シンガポール、台湾、ハノイ、香港で見られ、中国国内では広東省、吉林省、河北省、湖北省、陝西省、江蘇省、山西省、天津市、内モンゴル自治区などに拡大した。この際、WHO西太平洋事務局の責任者として、押谷仁が陣頭指揮に当たった(その後、2005年に東北大学教授就任)。 香港では、2003年3月29日に病院から患者集団の発生が報告され、これが当地初のコホートとなった。2月に香港へ到着した中国の医師がインデックス・ケースになったと考えられ、九龍にあったメトロポール・ホテル(英: The Metropole Hotel)の9階に宿泊し、16人の宿泊客に感染を広げた(医師はその後死亡し、SARSによる初の死者だと推定されている)。ここで感染した宿泊客は、香港国際空港から旅客機で、カナダ・シンガポール・台湾・ベトナムなどに向かい、到着先で感染をさらに拡大させた。香港での流行は世界的流行の一助となったが、背景にはこの医師のようなスーパー・スプレッダーの存在があった。 香港では、クイーン・メアリー病院(英語版)(英: Queen Mary Hospital)、プリンス・オブ・ウェールズ病院(英語版)(英: Prince of Wales Hospital)という2つの病院が流行発生の中心地となった。この病院での流行後、アモイ・ガーデンズと呼ばれる高層マンション群でも集団感染が発生した。この流行のインデックス・ケースは、プリンス・オブ・ウェールズ病院で慢性腎臓病の治療を受けており、アモイ・ガーデンズに弟を訪ねて行った男性と推定されている。トイレ排水システムを通じてウイルスを含んだエアロゾルが浮遊し、これが感染拡大の一助になったと考えられているほか、齧歯類やゴキブリの関与も示唆されている。香港市民は、市民への情報提供が遅すぎるのではないかと心配し、sosick.org と呼ばれるウェブサイトを立ち上げて、SARSに関する情報を随時発表するよう香港政府への働きかけを強めていった。 カナダ・トロントでのSARS初報告は、2003年2月23日のことである。メトロポール・ホテルに宿泊し、香港旅行から帰国した女性に始まり、オンタリオ州の257人がウイルスに感染した。トロントでのアウトブレイクには2つの流れがあり、第2波では、トロントの大病院内で、偶発的なウイルス暴露を受けた患者・見舞客・スタッフ間にSARSが拡大した。WHOは2003年6月末に、トロントをSARS流行地から外した。 カナダ政府公式の反応は、アウトブレイク発生後数年に渡って広く批判され続けた。オンタリオ州の SARS Scientific Advisory Committee(SARSに対する科学的助言委員会)の副委員長だったブライアン・シュワルツ(英: Brian Schwartz)は、公衆衛生当局の準備と、アウトブレイク時の緊急対応に対し、「ごくごく基本的で、よくても最小限と言ったところ」(英: “very, very basic and minimal at best”)と回想している。当時の対応を批判する人々は、お粗末な概要のまま施行された医療関係者保護用のプロトコルと、ウイルス感染が拡大している時に必要な、感染者洗い出しシステムの欠陥について指摘する。SARSアウトブレイクに対する恐れと不確かな情報のせいで、暴露リスクを取るくらいならと医療スタッフが辞職していき、結果として当該地区ではスタッフ不足に悩まされることになった。 感染した野生動物を食べてウイルス感染することへの恐れから、中国南部や香港では、公的な取引禁止や、食肉市場での取引減少などの動きが見られた。中国では、美食の街として知られ、多くの動物種を食肉として扱う広東の伝統が、SARSアウトブレイクを起こした重要な原因のひとつと指摘されることが多い。 トロントに住むアジア人たちは、トロントでSARSアウトブレイクが発生した際、少数民族として差別を受けた。地元の擁護団体は、アジア人たちが、地元住民やタクシードライバーに無視されたり、公共交通機関の利用を避けたりしたと報告している。ボストンやニューヨーク市では、エイプリルフールの悪ふざけとして噂が回り、中華街に経済的損失をもたらした。 WHOの渡航自粛勧告もあり、世界的に流行地への渡航を控える傾向が見られ、これらの地域の観光業や航空業は大きなダメージを受けた。 また、この病気はアジア人、特に中国人を標的として意図的に流行させられたものだとするSARS陰謀論も出た。 中国での流行を受けて、厚生労働省は2003年4月3日に、SARSを感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)の「新感染症」に指定した。その後4月7日に、WHO指針(厚生労働省から3月18日発表)に専門家の意見を加えた独自の管理指針を通達した。ウイルス特定後の同年7月14日に指定感染症となった後、感染症法の改正を受け、同年11月5日に第一類感染症となった。その後2007年4月1日の感染症法改正施行で、分類が見直されて第二類感染症へ変更された。 2003年5月には、観光旅行で来日して近畿地方を訪れた台湾人医師が、帰国後SARSコロナウイルス陽性と分かる一件があり、国立感染症研究所や大阪市保健所などが調査を行ったが、二次感染は確認されなかった。 日本では管理指針に示された「疑い例(Suspected case)」・「可能性例(Probable case)」が複数発生したが、他疾患の診断が付くなどしていずれも後に否定された。 またSARS感染患者搬送用の救急車や治療・入院を行う病院が整備された。2003年7月には日産自動車の関連会社である日産車体が京都府へ重症急性呼吸器症候群患者対応救急車の第1号車を寄贈したのを皮切りに、同様の車両が多くの自治体に導入されている。 世界保健機関は、2003年7月5日にSARS封じ込め成功を発表した。 封じ込め成功後も、2003年12月と2004年1月、さらに同年4月から5月に、中国で3例のSARS散発例と、実験室での偶発的暴露で感染した3例が報告され、総勢14名が感染したことが分かっている。うち1件では、感染した看護師の女が、複数人に感染を広げたことが分かっている。 封じ込め成功の声明でWHOが示したように、研究者の安全確保が必要であり、SARSコロナウイルスの研究をする際には、活性ウイルスではBSL-3相当の施設が必要であり、不活化ウイルスではBSL-2の施設が望ましい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "重症急性呼吸器症候群(じゅうしょう きゅうせい こきゅうき しょうこうぐん、英: Severe acute respiratory syndrome; SARS〈サーズ〉)は、SARSコロナウイルス (SARS-CoV-1) によって引き起こされるウイルス性の呼吸器疾患である。動物起源の人獣共通感染症と考えられている。ウイルス特定までは、その症状などから、新型肺炎(しんがたはいえん)、非定型肺炎(ひていけいはいえん、英: Atypical Pneumonia)などの呼称が用いられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2002年11月から2003年7月にかけて、中華人民共和国南部を中心に起きたアウトブレイクでは、広東省や香港を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡した(致命率9.6%/WHO発表)(なお、世界30ヶ国8,422人が感染、916人が死亡〈致命率11%〉とする報告もある)。このアウトブレイク終息後は、封じ込め宣言後いくつかの散発例があったが、現在に至るまで、新規感染報告例は無い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在の症例定義は、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている。また水様性下痢を呈する例も存在する。感染経路としては飛沫感染や接触感染が考えられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最初の症状はインフルエンザ様で、発熱、筋肉痛、無気力状態 (Lethargy) 、咳嗽、咽頭痛、その他非特異的症状が見られる。全患者に見られるのは38 °C (100 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とのカテゴリを設けた。胸部X線写真については、SARS患者でも像がまちまちであるが、一般的にまだらに浸潤するような不自然な像が見られることが多い。初期ではX線写真で気道炎症所見を認めない。臨床症状はインフルエンザやマイコプラズマ肺炎に類似しており、症状のみでの鑑別は難しい。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "確定診断にはウイルス分離、核酸検出、中和抗体の上昇などが決め手となるほか、迅速診断には咽頭ぬぐい液からのRT-PCR法・LAMP法などが用いられる。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "SARSのワクチンは研究段階である(→#治療)。治療法は確立していないが、2002年の中華人民共和国でのアウトブレイク時の教訓から、一般的な感染防止策の徹底が二次感染防止に有用であることが示されている。また感染経路としては、飛沫感染と直接・間接的な接触感染が想定されている。", "title": "予防" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "SARSコロナウイルスは環境中で安定であり、中国政府対策本部からの発表によれば、紙・木などの環境中で3日間、痰や糞便中で約5日間、血液中で15日間生存するという(従来知られていたコロナウイルスでは、環境中で3時間)。また消毒用アルコールや漂白剤、界面活性剤での消毒で失活する。隔離と検疫がSARS予防に重要である。他にも次のような予防法が存在する。", "title": "予防" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "院内感染対策として、サージカルマスクや使い捨てガウンが有効である。", "title": "予防" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "SARSは、SARSコロナウイルスによるウイルス性疾患であるため、抗生物質は無効である。先のSARSアウトブレイク時には、この性質を逆手に用い、抗菌薬が無効であることからマイコプラズマ肺炎を否定し、その上で間質性肺炎・肺線維症を防ぐためのステロイド投与・リバビリン治療が行われた。但し、リバビリンは細胞培養レベルでは有効でなく、グリチルリチン(甘草の成分)が有効であるとの報告がある。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また治療法は確立しておらず、対症療法として解熱薬、必要に応じた酸素吸入・人工呼吸などが用いられる。SARS患者は隔離病棟に入院させる必要があるが、この際部屋を陰圧(英語版)にし、看護する側も完璧な防護をした上で、患者との不必要な接触を避けることが肝要である。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "人に対し安全性・有効性の両方が確認されているワクチンは、治療用・予防用どちらでも存在しない(但し、実験動物レベルでは存在する)。生物学的治療法の発見・開発・生産を行うNPOのMassBiologicsは、アメリカ国立衛生研究所 (NIH) やアメリカ疾病予防管理センター (CDC) の研究者と協力し、動物モデルで効果があったモノクローナル抗体を用いた療法の開発を行っている。またウイルス表面のスパイクタンパク質をターゲットにしたワクチン、レセプタータンパクの拮抗薬、遺伝子の一部を欠いた弱毒化ウイルスの利用も検討されている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "SARSからの回復者について中国で出された報告書では、重症の後遺症が長時間続くことが示されている。最も典型的な症状は、肺線維症、骨粗鬆症、阻血性骨壊死で、どれも就業や自己介護の妨げとなり得る症状である。SARSでは間質性肺炎に引き続く肺線維症が報告されているが、これを防ぐため、ステロイド系抗炎症薬の投与が行われた。骨粗鬆症や骨壊死は、このステロイド剤の副作用として知られるものでもある。隔離収容の結果、SARSからの回復後に心的外傷後ストレス障害 (PTSD) や大うつ病性障害を発症した例も報告されている。", "title": "予後" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "SARSの原因病原体・SARSコロナウイルスは、コロナウイルス科オルトコロナウイルス亜科ベータコロナウイルス属に分類され、同じ属には中東呼吸器症候群を引き起こすMERSコロナウイルスが含まれる。コロナウイルスはエンベロープを持つ1本鎖RNAウイルスで、ゲノムRNAはmRNAと同じ配列のプラス鎖である。また、コロナウイルスは呼吸器・消化器の上皮細胞に親和性を持つが、SARSコロナウイルスでは呼吸器や消化管などに発現しているアンジオテンシン変換酵素のACE2が感染のレセプタータンパクとなる。SARSコロナウイルスはベロ細胞(Vero E6細胞)などで細胞培養できる。RNAウイルスではあるが、ゲノム変異はヒト免疫不全ウイルス (HIV) ほど大きなものではなく、比較的安定だと報告されている。また、環境中でも比較的安定であるが(→#予防)、エンベロープを持つため、エーテルやクロロホルムに感受性がある。このウイルスはコウモリ・ヒトに感染するが、MERSコロナウイルスも同じくコウモリに感染するほか、コロナウイルスの分類では、コウモリコロナウイルスもこの2種と同じグループ2bに含まれる。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当初、中国衛生局はクラミジア、香港大学は麻疹ウイルスやRSウイルスと同じパラミクソウイルスを原因病原体として発表していた。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "CDCとカナダ国立微生物研究所(英語版)は、2003年4月にSARSウイルスのゲノムを特定した。エラスムス・ロッテルダム大学の研究者たちは、SARSコロナウイルスでコッホの原則が成り立つことを突き止めた。マカク属(カニクイザル)へのウイルス感染で、SARS患者と同様の症状(具体的には鼻腔・咽頭・糞便からのウイルス分離と間質性肺炎)が発生することが実験的に証明されている。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2003年5月下旬、最初の症例が出た中国広東省の地元市場で、食用野生動物を用いた研究調査が行われた。この結果、ハクビシンからSARSコロナウイルスが単離されたが、ハクビシンは固有宿主ではなく、ヒトへの感染のキーとなる中間宿主だと推定された。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "中間結果では、SARSコロナウイルスはパームシベットからヒトへ、種の壁を越えた異種伝播をするとされ、広東省だけで1万頭以上が駆除された。この対応に関しては、パームシベット・ハクビシンをスケープゴートにしたとの批判もある。またシンガポールでは野良猫の駆除が行われた。ウイルスは、タヌキ、イタチアナグマ(流行地にはシナイタチアナグマが棲息)、イエネコなどからも単離された。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2005年には、中国のコウモリから多数のSARS様コロナウイルスが発見されたと報告された。これらのウイルスの系統学的解析から、SARSコロナウイルスはコウモリ由来の可能性が高いとされ、コウモリから直接人間に感染したか、中国の市場で販売されていた食用コウモリをはじめとした食用動物を介して人間に広まったと推測された。コウモリは感染しても不顕性感染となるが、SARS様コロナウイルスのリザーバーになっていると推測されている。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2006年遅く、香港大学CDC (Chinese Centre for Disease Control and Prevention of Hong Kong University)、広州市疾病予防コントロールセンター(広州市CDC)は、パームシベット(ハクビシン)とヒトから単離されたSARSコロナウイルスの遺伝的系譜を作成し、このウイルス感染症が宿主ジャンプしたことを証明した。", "title": "病原体" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "SARSは新興感染症のひとつであり、大流行した2003年の患者数は8,273人と比較的まれな疾患である。このアウトブレイク時の罹患数は、世界保健機関 (WHO) の報告によると、香港を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡したとされている(致命率9.6%、内訳は下記)。また最終的な罹患数は、世界30ヶ国の8,422人が感染、916人が死亡(致命率11%)とされている。", "title": "罹患数" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2002年11月に、中華人民共和国広東省で最初のSARS症例が報告され、同月に同省で流行が発生した。最初の患者は広東省仏山市順徳区出身で、地元の村の管理責任者も務めていた農家の男性で、仏山市の第一人民医院(英: The First People's Hospital)で治療を受けた。この男性の疾患原因特定は行われなかった。感染制御に多少動いたものの、中国政府は、2003年2月までこの感染症の発生をWHOに公式報告しなかった。この情報公開の遅れが感染症対策の遅れに繋がり、結果として中国政府は国際的に多くの批判を受けることとなった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アウトブレイクが最初に起きたのは2002年11月27日で、WHOのGOARN(英語版)の一角を成す、カナダのグローバル・パブリック・ヘルス・インテリジェンス・ネットワーク(英語版) (GPHIN) が、インターネット・メディアの監視を通じ、中国で「インフルエンザの流行」(英: \"flu outbreak\")が発生していることを突き止め、そのままWHOに報告した。現在GPHINでは、アラビア語・中国語・英語・フランス語・ロシア語・スペイン語への翻訳に対応しているが、当時は英語・フランス語のみの対応だった。アウトブレイクに関する最初の報告は中国語文献だったため、英語でのレポートは2003年1月21日になってようやく作成された。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この報告を受け、WHOは中国当局に対し、2002年12月5日・11日に照会を行った。それまでの感染症アウトブレイクでは対応ネットワークが上手く機能していたものの、中国からのメディア報告がアウトブレイク発生から数ヶ月後にずれ込んだため、情報共有が遅れる元となった。第2回目のアラート発令後、WHOは病名、症例定義と共に、慎重な注意と封じ込め方法を共有するため、協調した世界的なアウトブレイク対応ネットワークの構築を発表した (Heymann, 2003)。WHOが対策を開始した時までに、世界中で死者は500人以上、加えて2,000人程度の感染者が発生していた。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "4月上旬、蒋彦永(英語版)が中国での脅威を報告した後、公式方針の転換があり、SARSはメディアでより大きく取り上げられるようになった。これにはアメリカ人のジェームズ・アール・ソールズベリー(英: James Earl Salisbury)の死が直接関わっていたとされる。これとほぼ同じ頃、蒋彦永は北京の軍事病院で症例数が過少報告されていたことを告発した。猛烈な追及の後、中国当局はWHOなど国際当局の現地調査を認めることになった。この調査により、地方分権化の拡大、繁文縟礼、不十分なコミュニケーションなど、成長過程にあった中国の保健政策を悩ます諸問題が明らかになった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、SARS予防策が広く知られておらず、流行地では看護や汚染物運搬の過程で、多くの医療スタッフが感染の危機に晒されたり、最悪の場合死に至ったりした。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "流行に一般の関心が向いたのは、2003年2月に、中国に渡航したアメリカ人ビジネスマンが、シンガポールへの飛行中に肺炎様の症状を呈した一件からだった。飛行機はベトナム・ハノイに立ち寄り、このビジネスマンはハノイ・フレンチ・ホスピタル(英語版)に搬送され、転院先の香港で死亡した。一般的なプロトコルで看護を行ったにもかかわらず、この男性から複数の医療スタッフへ二次感染が起きた。イタリア人医師のカルロ・ウルバニは感染危機に気づき、WHOとベトナム政府の連携を要請して感染拡大阻止に尽力したが、その後自身もSARSに罹患して死亡した。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "症状の重症度と、病院スタッフへの院内感染は国際保健当局に危機感を持って捉えられ、当局は肺炎感染症の拡大を危惧した。2003年3月12日、WHOはグローバル・アラート(英語版)を発令し、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) もこれに続いてアラートを発表した。WHOは続く3月15日に、広東省・香港への渡航自粛勧告を出す異例の措置を取った。SARS感染拡大は、トロント、オタワ、サンフランシスコ、ウランバートル、マニラ、シンガポール、台湾、ハノイ、香港で見られ、中国国内では広東省、吉林省、河北省、湖北省、陝西省、江蘇省、山西省、天津市、内モンゴル自治区などに拡大した。この際、WHO西太平洋事務局の責任者として、押谷仁が陣頭指揮に当たった(その後、2005年に東北大学教授就任)。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "香港では、2003年3月29日に病院から患者集団の発生が報告され、これが当地初のコホートとなった。2月に香港へ到着した中国の医師がインデックス・ケースになったと考えられ、九龍にあったメトロポール・ホテル(英: The Metropole Hotel)の9階に宿泊し、16人の宿泊客に感染を広げた(医師はその後死亡し、SARSによる初の死者だと推定されている)。ここで感染した宿泊客は、香港国際空港から旅客機で、カナダ・シンガポール・台湾・ベトナムなどに向かい、到着先で感染をさらに拡大させた。香港での流行は世界的流行の一助となったが、背景にはこの医師のようなスーパー・スプレッダーの存在があった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "香港では、クイーン・メアリー病院(英語版)(英: Queen Mary Hospital)、プリンス・オブ・ウェールズ病院(英語版)(英: Prince of Wales Hospital)という2つの病院が流行発生の中心地となった。この病院での流行後、アモイ・ガーデンズと呼ばれる高層マンション群でも集団感染が発生した。この流行のインデックス・ケースは、プリンス・オブ・ウェールズ病院で慢性腎臓病の治療を受けており、アモイ・ガーデンズに弟を訪ねて行った男性と推定されている。トイレ排水システムを通じてウイルスを含んだエアロゾルが浮遊し、これが感染拡大の一助になったと考えられているほか、齧歯類やゴキブリの関与も示唆されている。香港市民は、市民への情報提供が遅すぎるのではないかと心配し、sosick.org と呼ばれるウェブサイトを立ち上げて、SARSに関する情報を随時発表するよう香港政府への働きかけを強めていった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "カナダ・トロントでのSARS初報告は、2003年2月23日のことである。メトロポール・ホテルに宿泊し、香港旅行から帰国した女性に始まり、オンタリオ州の257人がウイルスに感染した。トロントでのアウトブレイクには2つの流れがあり、第2波では、トロントの大病院内で、偶発的なウイルス暴露を受けた患者・見舞客・スタッフ間にSARSが拡大した。WHOは2003年6月末に、トロントをSARS流行地から外した。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "カナダ政府公式の反応は、アウトブレイク発生後数年に渡って広く批判され続けた。オンタリオ州の SARS Scientific Advisory Committee(SARSに対する科学的助言委員会)の副委員長だったブライアン・シュワルツ(英: Brian Schwartz)は、公衆衛生当局の準備と、アウトブレイク時の緊急対応に対し、「ごくごく基本的で、よくても最小限と言ったところ」(英: “very, very basic and minimal at best”)と回想している。当時の対応を批判する人々は、お粗末な概要のまま施行された医療関係者保護用のプロトコルと、ウイルス感染が拡大している時に必要な、感染者洗い出しシステムの欠陥について指摘する。SARSアウトブレイクに対する恐れと不確かな情報のせいで、暴露リスクを取るくらいならと医療スタッフが辞職していき、結果として当該地区ではスタッフ不足に悩まされることになった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "感染した野生動物を食べてウイルス感染することへの恐れから、中国南部や香港では、公的な取引禁止や、食肉市場での取引減少などの動きが見られた。中国では、美食の街として知られ、多くの動物種を食肉として扱う広東の伝統が、SARSアウトブレイクを起こした重要な原因のひとつと指摘されることが多い。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "トロントに住むアジア人たちは、トロントでSARSアウトブレイクが発生した際、少数民族として差別を受けた。地元の擁護団体は、アジア人たちが、地元住民やタクシードライバーに無視されたり、公共交通機関の利用を避けたりしたと報告している。ボストンやニューヨーク市では、エイプリルフールの悪ふざけとして噂が回り、中華街に経済的損失をもたらした。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "WHOの渡航自粛勧告もあり、世界的に流行地への渡航を控える傾向が見られ、これらの地域の観光業や航空業は大きなダメージを受けた。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、この病気はアジア人、特に中国人を標的として意図的に流行させられたものだとするSARS陰謀論も出た。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "中国での流行を受けて、厚生労働省は2003年4月3日に、SARSを感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)の「新感染症」に指定した。その後4月7日に、WHO指針(厚生労働省から3月18日発表)に専門家の意見を加えた独自の管理指針を通達した。ウイルス特定後の同年7月14日に指定感染症となった後、感染症法の改正を受け、同年11月5日に第一類感染症となった。その後2007年4月1日の感染症法改正施行で、分類が見直されて第二類感染症へ変更された。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2003年5月には、観光旅行で来日して近畿地方を訪れた台湾人医師が、帰国後SARSコロナウイルス陽性と分かる一件があり、国立感染症研究所や大阪市保健所などが調査を行ったが、二次感染は確認されなかった。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本では管理指針に示された「疑い例(Suspected case)」・「可能性例(Probable case)」が複数発生したが、他疾患の診断が付くなどしていずれも後に否定された。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "またSARS感染患者搬送用の救急車や治療・入院を行う病院が整備された。2003年7月には日産自動車の関連会社である日産車体が京都府へ重症急性呼吸器症候群患者対応救急車の第1号車を寄贈したのを皮切りに、同様の車両が多くの自治体に導入されている。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "世界保健機関は、2003年7月5日にSARS封じ込め成功を発表した。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "封じ込め成功後も、2003年12月と2004年1月、さらに同年4月から5月に、中国で3例のSARS散発例と、実験室での偶発的暴露で感染した3例が報告され、総勢14名が感染したことが分かっている。うち1件では、感染した看護師の女が、複数人に感染を広げたことが分かっている。", "title": "感染拡大から終息まで" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "封じ込め成功の声明でWHOが示したように、研究者の安全確保が必要であり、SARSコロナウイルスの研究をする際には、活性ウイルスではBSL-3相当の施設が必要であり、不活化ウイルスではBSL-2の施設が望ましい。", "title": "感染拡大から終息まで" } ]
重症急性呼吸器症候群は、SARSコロナウイルス (SARS-CoV-1) によって引き起こされるウイルス性の呼吸器疾患である。動物起源の人獣共通感染症と考えられている。ウイルス特定までは、その症状などから、新型肺炎(しんがたはいえん)、非定型肺炎などの呼称が用いられた。 2002年11月から2003年7月にかけて、中華人民共和国南部を中心に起きたアウトブレイクでは、広東省や香港を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡した(致命率9.6%/WHO発表)(なお、世界30ヶ国8,422人が感染、916人が死亡〈致命率11%〉とする報告もある)。このアウトブレイク終息後は、封じ込め宣言後いくつかの散発例があったが、現在に至るまで、新規感染報告例は無い。 現在の症例定義は、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている。また水様性下痢を呈する例も存在する。感染経路としては飛沫感染や接触感染が考えられている。
{{redirect3|SARS|2002年から2003年頃に初確認された呼吸器系感染症|原因ウイルス|SARSコロナウイルス}} {{otheruseslist|2002年から2003年頃に初確認された呼吸器系感染症|2012年から2013年頃に初確認された感染症|中東呼吸器症候群{{!}}中東呼吸器症候群 (MERS)|2019年から2020年にかけて初確認された感染症|新型コロナウイルス感染症 (2019年){{!}}新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)}} {{Infobox medical condition |Name = 重症急性呼吸器症候群<br />Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS) |Image = [[file:SARS virion.gif|250px]]<br />[[File:SARS map.svg|250px]] |Caption = [[SARSコロナウイルス]] (SARS coronavirus 1; SARS-CoV-1) はこの感染症の原因病原体である |Field = [[感染症|感染症科]]{{enlink|Infectious disease (medical specialty)}} |DiseasesDB = 32835 |ICD10 = {{ICD10|U|04||u|00}} |ICD9 = {{ICD9|079.82}} |ICDO = |OMIM = |MedlinePlus = 007192 |eMedicineSubj = med |eMedicineTopic = 3662 |MeshID = D045169 }} '''重症急性呼吸器症候群'''(じゅうしょう きゅうせい こきゅうき しょうこうぐん、{{lang-en-short|Severe acute respiratory syndrome}}; '''SARS'''〈サーズ〉<ref>{{IPAc-en|s|ɑː|z}}{{Cite encyclopedia|author=|date=|year=|title=SARS|encyclopedia=オックスフォード現代英英辞典 (Oxford Advanced Learner's Dictionary)|place=|publisher=[[オックスフォード大学出版局]]|publication-date=2010|series=|id=|isbn=|oclc=|edition=第8版|accessdate=2017-09-24}}</ref>)は、[[SARSコロナウイルス]] (SARS-CoV-1) によって引き起こされる[[ウイルス]]性の[[呼吸器疾患]]である。動物起源の[[人獣共通感染症]]と考えられている。ウイルス特定までは、その症状などから、'''新型肺炎'''(しんがたはいえん)、'''[[非定型肺炎]]'''(ひていけいはいえん、{{lang-en-short|Atypical Pneumonia|links=no}})などの呼称が用いられた{{r|WHO_alert030312}}<ref name="日本医師会_SARS030710">{{Cite web|和書|url=https://www.med.or.jp/kansen/travel_sars.pdf|title=H. 新型肺炎 <重症急性呼吸器症候群:SARS>|accessdate=2017-09-24|format=PDF|date=2003-07-10|publisher=[[日本医師会]]}}</ref>。 2002年11月から2003年7月にかけて、[[中華人民共和国]]南部を中心に起きた[[アウトブレイク]]では、[[広東省]]や[[香港]]を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡した([[致命率]]9.6%/[[世界保健機構|WHO]]発表)<ref name="who:table2004_04_21">{{cite web|url=http://www.who.int/csr/sars/country/table2004_04_21/en/index.html|title=Summary of probable SARS cases with onset of illness from 1 November 2002 to 31 July 2003|publisher=[[世界保健機構|World Health Organization]] (WHO) |accessdate=2017-09-21}}</ref><ref>{{cite journal|year=2006|title=Responding to global infectious disease outbreaks, Lessons from SARS on the role of risk perception, communication and management|journal={{仮リンク|Social Science & Medicine|en|Social Science & Medicine}}|volume=63|issue=12|pages=3113-3123|doi=10.1016/j.socscimed.2006.08.004|pmid=16978751|author=Smith, R. D.}}</ref>(なお、世界30ヶ国8,422人が感染、916人が死亡〈致命率11%〉とする報告もある<ref name="標準微生物_p498">{{harvtxt|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=498}}(文責:白木公康)</ref>)。<!-- old unsourced figures: "with 9856 known cases of the disease, and 813 deaths (a mortality rate of 9.636%)." -->このアウトブレイク終息後は、封じ込め宣言後いくつかの散発例があったが、現在に至るまで、新規感染報告例は無い<ref name="nhssars">{{cite web |title=SARS (severe acute respiratory syndrome) |url=http://www.nhs.uk/conditions/SARS/Pages/Introduction.aspx|work=NHS Choices|publisher=[[国民保健サービス|National Health Service]] |accessdate=2016-03-08 |location=United Kingdom |date=2014-10-03 |quote=Since 2004, there haven't been any known cases of SARS reported anywhere in the world.}}</ref><ref name="cdc_fs_ja">{{Cite web|和書|url=https://www.cdc.gov/sars/about/downloads/fs-sars-ja.pdf|title=Basic Information about SARS(資料:SARSに関する基本情報)|format=PDF|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC)}}{{ja icon}}</ref>。 現在の症例定義は、「38度以上の[[発熱|高熱]]及び[[咳]]、[[呼吸困難]]、息切れのいずれかの症状」「[[レントゲン]]検査において[[肺炎]]の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている{{r|外務省海外安全_SARS}}。また[[水様性下痢]]を呈する例も存在する{{r|標準微生物_p499}}。感染経路としては飛沫感染や接触感染が考えられている{{r|標準微生物_p498|cdc_fs_ja}}。 == 兆候と症状 == 最初の症状は[[インフルエンザ様疾患|インフルエンザ様]]で、[[発熱]]、[[筋肉痛]]、無気力状態{{enlink|Lethargy}}、[[咳嗽]]、[[咽頭痛]]、その他非特異的症状が見られる。全患者に見られるのは{{convert|38|°C|°F}}以上の発熱だが、始まるまでには2〜7日の潜伏期間が存在する{{r|標準微生物_p498}}。この病気では粘膜病変を伴わず、咳嗽は乾性咳である{{r|標準微生物_p498}}。SARSでは[[呼吸困難]]や[[肺炎]]、またはその両方が見られることがあるが、これは一次的な{{仮リンク|ウイルス性肺炎|en|Viral pneumonia}}、また[[細菌性肺炎]]双方の可能性が考えられる。発熱に伴う肺病変は[[間質性肺炎]]であるが、これにはウイルスが誘導する免疫・[[サイトカイン]]の関与が考えられている{{r|標準微生物_p498}}<ref>{{cite journal|url=http://en.cnki.com.cn/Article_en/CJFDTOTAL-SMKX200303001.htm|title=Role of anti-adhesion immunotherapy in severe acute respiratory syndrome associated acute lung injury|authors=SUN Gui-Zhi, LI Xiao, ZHOU Tong, ZHANG Dong-Qing, DENG Wei-Wu, CHEN Nan |accessdate=2017-09-24|journal=Chinese Bulletin of Life Sciences|date=2003-03}}</ref><ref>{{cite journal|url=http://en.cnki.com.cn/Article_en/CJFDTOTAL-DEJD200308004.htm|title=Production of SARS-related anti-lung autoantibodies|journal=Academic Journal of Second Military Medical University|date=2003-08|authors=CHEN Hao, LI Bo An, ZHAO Jun, HE Wei Ping, ZHENG Yu, LI Jing, GAO Rong, CHENG Yun}}</ref>。[[痰|喀痰]]には10億コピー/mLのウイルスが排出されるとされ、この状態では感染性が非常に高い{{r|標準微生物_p499}}。また[[ウイルス血症]]も起こしうる{{r|標準微生物_p499}}。 最重症例では、免疫反応によって、[[サイトカイン放出症候群#サイトカインストーム|サイトカイン・ストーム]]を引き起こすことがある<ref>{{cite journal |last=Dandekar |first=A |last2=Perlman |first2=S |title= Immunopathogenesis of coronavirus infections: implications for SARS |journal=Nat Rev Immunol |year=2005 |volume=5 |pages=917-927 |doi=10.1038/nri1732 |pmid=16322745 |issue=12}}</ref>。 消化管感染も示唆されており、糞便中にウイルスが数多く排出されるほか、10%の症例では水様性[[下痢]]が確認される<ref name="標準微生物_p499">{{harvtxt|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=499}}(文責:白木公康)</ref>。 == 診断 == [[File:SARS xray.jpg|thumb|SARS患者の胸部X線写真(CDC提供)。両肺野に不透明な領域が増え、肺炎を示唆する]] 2003年のアウトブレイク時、SARS感染は次のような患者で疑われた<ref name="外務省海外安全_SARS">{{Cite web|和書|url=http://www.anzen.mofa.go.jp/sars/basick.html|title=感染症(SARS・鳥インフルエンザ等)関連情報 - SARS基礎知識|work=[[外務省]] 海外安全ホームページ|accessdate=2017-09-24}}</ref>。 * {{convert|38|°C|°F}}以上の発熱、その他の症状(咳や呼吸困難)を呈している。そして、 * 以下の2条件のどちらかを満たす。 # 10日以内に、SARS診断を受けた人物と濃厚接触している{{efn|介護や同居、キスなどが挙げられており、近くを通り過ぎたり、同じ部屋で短時間過ごすなどでは感染しないとされている{{r|cdc_fs_ja}}。}}。 # [[世界保健機関]] (WHO) の発表で現在流行が起きているとされている地域に、渡航歴がある(2003年5月10日現在では、[[中華人民共和国|中国]]の一部、[[香港]]、[[シンガポール]]、[[カナダ]]・[[オンタリオ州]]{{仮リンク|グリーンストーン (オンタリオ州)|label=ジェラルドトン|en|Greenstone, Ontario}})。 現在の症例定義では、渡航歴は問わず、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、この原因が不明で、ウイルス検査で陽性となった者とされている{{r|外務省海外安全_SARS}}。 感染の疑いが濃厚な患者では、胸部X線写真で[[非定型肺炎]]や[[急性呼吸窮迫症候群]]などの症状、またはコロナウイルス検査での陽性所見が見られる{{r|外務省海外安全_SARS|niid_SARS}}。WHOでは、感染の疑いが「濃厚」({{lang-en-short|probable|links=no}})だが胸部X線写真で特徴的な症状が見られず、また[[ELISA (分析法)|ELISA]]や[[免疫蛍光抗体法]]、[[PCR法]]などのテストで陽性となった患者について、"laboratory confirmed SARS" とのカテゴリを設けた<ref>{{cite journal|url=http://wwwnc.cdc.gov/eid/article/10/5/03-0682_article.htm |title=Laboratory Diagnosis of SARS | volume=10 |issue=5 |date=May 2004 |journal=Emerging Infectious Disease Journal |publisher=Centers for Disease Control and Prevention |accessdate=2013-07-14}}</ref>。胸部X線写真については、SARS患者でも像がまちまちであるが、一般的にまだらに浸潤するような不自然な像が見られることが多い<ref>{{cite journal |authors=Lu P, Zhou B, Chen X, Yuan M, Gong X, Yang G, Liu J, Yuan B, Zheng G, Yang G, Wang H |title=Chest X-ray imaging of patients with SARS |journal=Chinese Medical Journal |date=July 2003 |volume=116 |issue=7 |pages=972-5 |pmid=12890364}}</ref>。初期ではX線写真で気道炎症所見を認めない{{r|標準微生物_p498}}。臨床症状は[[インフルエンザ]]や[[マイコプラズマ肺炎]]に類似しており、症状のみでの鑑別は難しい{{r|標準微生物_p499}}。 確定診断にはウイルス分離、核酸検出、[[中和抗体]]の上昇などが決め手となるほか、迅速診断には咽頭ぬぐい液からの[[逆転写ポリメラーゼ連鎖反応|RT-PCR法]]・[[LAMP法]]などが用いられる{{r|標準微生物_p499}}。 == 予防 == SARSの[[ワクチン]]は研究段階である(→[[#治療]])。治療法は確立していないが、2002年の中華人民共和国でのアウトブレイク時の教訓から、一般的な感染防止策の徹底が[[二次感染]]防止に有用であることが示されている{{r|標準微生物_p499}}。また感染経路としては、飛沫感染と直接・間接的な接触感染が想定されている{{r|標準微生物_p498}}。 SARSコロナウイルスは環境中で安定であり、中国政府対策本部からの発表によれば、紙・木などの環境中で3日間、痰や糞便中で約5日間、血液中で15日間生存するという(従来知られていたコロナウイルスでは、環境中で3時間){{r|標準微生物_p498|page1=表38-18}}。また[[消毒用アルコール]]や[[漂白剤]]、[[界面活性剤]]での消毒で失活する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/06-07-12-01.html|accessdate=2017-09-24|title=SARS患者が利用した旅館・ホテル等について|work=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|publisher=[[厚生労働省]]|author=|date=2003-04-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/sars03w/index.html|title=SARSに関する消毒(三訂版)|date=2003-12-18|accessdate=2017-09-24|publisher=[[国立感染症研究所]] 感染症情報センター}}</ref>。隔離と[[検疫]]がSARS予防に重要である<ref>{{cite web|url=https://www.cdc.gov/sars/quarantine/fs-isolation.html|title=Fact Sheet on Isolation and Quarantine|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]]}}</ref>。他にも次のような予防法が存在する。 * 手洗い、うがい * [[接触感染]]を媒介しうる物{{enlink|Fomite}}表面の[[消毒]] * サージカルマスクの着用 * 体液の接触を避ける * SARS感染者の私物を、熱した石鹸水で洗浄する([[フォーク (食器)|フォーク]]・[[スプーン]]類や皿などの食器類、[[寝具]]など)<ref>{{cite web|url=http://www.mayoclinic.com/health/sars/DS00501/DSECTION=prevention|title=SARS: Prevention|date=2011-01-06|publisher=[[メイヨー・クリニック|MayoClinic.com]]|accessdate=2013-07-14}}</ref> * 症状を呈した子供の[[出席停止]]措置 院内感染対策として、[[サージカルマスク]]や使い捨て[[ガウン]]が有効である<ref>{{cite journal|author=Seto WH, et al.|title=Effectiveness of precautions against droplets and contact in prevention of nosocomial transmission of severe acute respiratory syndrome (SARS).|journal=[[ランセット|Lancet]]|year=2003|volume=361|issue=9368|pages=1519-20|doi=10.1016/S0140-6736(03)13168-6|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0140673603131686|accessdate=2017-09-24}}</ref>。 == 治療 == [[File:Lung tissue pathology due to SARS - PHIL 3659 lores.jpg|thumb|SARSコロナウイルスに感染した肺組織の写真。[[肺胞]]組織が破壊され、中央に多核巨細胞が出現している]] SARSは、[[SARSコロナウイルス]]によるウイルス性疾患であるため、[[抗生物質]]は無効である。先のSARSアウトブレイク時には、この性質を逆手に用い、[[抗菌薬]]が無効であることから[[マイコプラズマ肺炎]]を否定し、その上で[[間質性肺炎]]・[[肺線維症]]を防ぐための[[ステロイド系抗炎症薬|ステロイド]]投与・[[リバビリン]]治療が行われた{{r|標準微生物_p499}}。但し、リバビリンは細胞培養レベルでは有効でなく、[[グリチルリチン]]([[甘草]]の成分)が有効であるとの報告がある{{r|標準微生物_p500}}。 また治療法は確立しておらず{{r|標準微生物_p499}}、[[対症療法]]として[[解熱薬]]、必要に応じた[[酸素吸入]]・[[人工呼吸器|人工呼吸]]などが用いられる。SARS患者は[[隔離病棟]]に入院させる必要があるが、この際部屋を{{仮リンク|陰圧|en|Negative room pressure}}にし、看護する側も完璧な防護をした上で、患者との不必要な接触を避けることが肝要である。 <!--[[2003年]]7月30日には、[[深圳市]]で免疫物質の合成に成功したとの報道があった<ref>{{Cite web|url=http://j.people.ne.jp/2003/07/30/jp20030730_31090.html |title=SARS治療用の免疫物質の開発に成功 深圳 |work=人民網日文版 |publisher=人民日報社 |date=2003-07-30|accessdate=2003-07-30 --><!-- |language=日本語 |deadlinkdate=2008-01-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20031005194256/http://j.people.ne.jp/2003/07/30/jp20030730_31090.html |archivedate=2003-10-05 }}</ref>{{要高次出典|date=2017-09-24}}。--> 人に対し安全性・有効性の両方が確認されている[[ワクチン]]は、治療用・予防用どちらでも存在しない(但し、実験動物レベルでは存在する)<ref name="標準微生物_p500">{{harvtxt|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=500}}(文責:白木公康)</ref><ref>{{cite journal |author1=Shibo Jiang |author2=Lu Lu |author3=Lanying Du |title=Development of SARS vaccines and therapeutics is still needed |journal=Future Virology |volume=8 |issue=1 |pages=1-2 |year=2013 |doi=10.2217/fvl.12.126 |url=http://www.futuremedicine.com/doi/pdf/10.2217/fvl.12.126}}</ref>。生物学的治療法の発見・開発・生産を行う[[NPO]]のMassBiologicsは、[[アメリカ国立衛生研究所]] (NIH) や[[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC) の研究者と協力し、[[動物実験|動物モデル]]で効果があった[[モノクローナル抗体]]を用いた療法の開発を行っている<ref>{{cite journal |author1=Greenough TC, Babcock GJ, Roberts A, Hernandez HJ, Thomas WD Jr, Coccia JA, Graziano RF, Srinivasan M, Lowy I, Finberg RW, Subbarao K, Vogel L, Somasundaran M, Luzuriaga K, Sullivan JL, Ambrosino DM |title=Development and characterization of a severe acute respiratory syndrome-associated coronavirus-neutralizing human monoclonal antibody that provides effective immunoprophylaxis in mice |journal=The Journal of Infectious Diseases | date=15 February 2005 |volume=191 |issue=4 |pages=507-14 |pmid= 15655773 |doi=10.1086/427242}}</ref><ref>{{cite journal |authors=Tripp RA, Haynes LM, Moore D, Anderson B, Tamin A, Harcourt BH, Jones LP, Yilla M, Babcock GJ, Greenough T, Ambrosino DM, Alvarez R, Callaway J, Cavitt S, Kamrud K, Alterson H, Smith J, Harcourt JL, Miao C, Razdan R, Comer JA, Rollin PE, Ksiazek TG, Sanchez A, Rota PA, Bellini WJ, Anderson LJ |title=Monoclonal antibodies to SARS-associated coronavirus (SARS-CoV): identification of neutralizing and antibodies reactive to S, N, M and E viral proteins |journal= J Virol Methods |date=September 2005 |volume=128 |issue=1-2 |pages=21-8 |pmid=15885812 |doi=10.1016/j.jviromet.2005.03.021}}</ref><ref>{{cite journal |authors=Roberts A, Thomas WD, Guarner J, Lamirande EW, Babcock GJ, Greenough TC, Vogel L, Hayes N, Sullivan JL, Zaki S, Subbarao K, Ambrosino DM |title=Therapy with a severe acute respiratory syndrome-associated coronavirus-neutralizing human monoclonal antibody reduces disease severity and viral burden in golden Syrian hamsters |journal=J Infect Dis |date=1 March 2006 |volume=193 |issue=5 |pages=685-92 |pmid=16453264 |doi=10.1086/500143}}</ref>。またウイルス表面のスパイクタンパク質をターゲットにしたワクチン<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24355931|title=Yeast-expressed recombinant protein of the receptor-binding domain in SARS-CoV spike protein with deglycosylated forms as a SARS vaccine candidate.|journal=Hum Vaccin Immunother|year=2014|volume=10|issue=3|pages=648-58|date=|authors=Chen WH, Du L, Chag SM, Ma C, Tricoche N, Tao X, Seid CA, Hudspeth EM, Lustigman S, Tseng CT, Bottazzi ME, Hotez PJ, Zhan B, Jiang S.|pmc=4130269|pmid=24355931|accessdate=2017-09-22}}(電子出版:2013年12月30日)</ref>、レセプタータンパクの[[拮抗薬]]{{r|標準微生物_p500}}、[[遺伝子]]の一部を欠いた弱毒化ウイルスの利用<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/26513244|title=Identification of the Mechanisms Causing Reversion to Virulence in an Attenuated SARS-CoV for the Design of a Genetically Stable Vaccine.|authors=Jimenez-Guardeño JM, Regla-Nava JA, Nieto-Torres JL, DeDiego ML, Castaño-Rodriguez C, Fernandez-Delgado R, Perlman S, Enjuanes L.|pmid=26513244|pmc=4626112|doi=10.1371/journal.ppat.1005215|journal=PLoS Pathog.|date=2015-10-29|volume=11|issue=10|page=e1005215}}</ref>も検討されている。 == 予後 == SARSからの回復者について中国で出された報告書では、重症の[[後遺症]]が長時間続くことが示されている。最も典型的な症状は、[[肺線維症]]、[[骨粗鬆症]]、[[阻血性骨壊死]]で、どれも就業や自己介護の妨げとなり得る症状である。SARSでは[[間質性肺炎]]に引き続く[[肺線維症]]が報告されているが、これを防ぐため、[[ステロイド系抗炎症薬]]の投与が行われた{{r|標準微生物_p499}}。骨粗鬆症や骨壊死は、このステロイド剤の副作用として知られるものでもある<ref>{{Cite book|和書|pages=718,720|title=標準病理学|edition=第3版|editor=秦順一(監修)、坂本穆彦(編集)、北川昌伸(編集協力)|date=2006-03-01|author=野島孝之|chapter=第26章:骨・関節|accessdate=2017-09-23|publisher=[[医学書院]]|isbn=978-4-260-00075-8|ncid=BA76321129|id={{全国書誌番号|21044468}}|oclc=676541910}}</ref><ref>{{Cite book|和書|page=703|translator=前山一隆|chapter=VII 内分泌薬理学 39. 副腎皮質ステロイドと拮抗薬|title=カッツング薬理学|edition=原書第10版|date=2009-03-25|editor=Bertram G. Katzung / 柳澤輝行・飯野正光・丸山敬・三澤美和(監訳)|isbn=978-4-621-08073-3|publisher=[[丸善]]株式会社|author=George P. Chrousos, MD|accessdate=2017-09-23|ncid=BA89429988|id={{全国書誌番号|21646231}}|oclc=317453222}}</ref>。隔離収容の結果、SARSからの回復後に[[心的外傷後ストレス障害]] (PTSD) や[[うつ病|大うつ病性障害]]を発症した例も報告されている<ref>{{Cite journal|last=Hawryluck|first=Laura|date=2004|title=SARS control and psychological effects of quarantine, Toronto, Canada.|url=http://wwwnc.cdc.gov/eid/content/10/7/pdfs/v10-n7.pdf#page=24|journal=Emerging Infectious Diseases|doi=10.3201/eid1007.030703}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.infzm.com/content/31372 |title=(Silence of the Post-SARS Patients) |publisher=Southern People Weekly |author=Ma Jinyu |date=2009-07-15 |accessdate=2013-08-03|deadlink=2017-09-23|archiveurl=https://archive.is/2013.01.26-090839/http://www.infzm.com/content/31372|archivedate=2013-01-26}}{{zh icon}}</ref>。 == 病原体 == [[File:SARS virion.gif|thumb|コロナウイルスの電子顕微鏡写真]] {{see also|SARSコロナウイルス}} SARSの原因病原体・[[SARSコロナウイルス]]は、[[コロナウイルス科]][[オルトコロナウイルス亜科]]ベータコロナウイルス属に分類され、同じ属には[[中東呼吸器症候群]]を引き起こす[[MERSコロナウイルス]]が含まれる{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=369}}。コロナウイルスは[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]を持つ1本鎖[[RNAウイルス]]で、ゲノムRNAは[[mRNA]]と同じ配列のプラス鎖である{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=495}}。また、コロナウイルスは[[呼吸器]]・[[消化器]]の[[上皮細胞]]に親和性を持つが、SARSコロナウイルスでは呼吸器や消化管などに発現している[[アンジオテンシン変換酵素]]のACE2が感染のレセプタータンパクとなる{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=497}}。SARSコロナウイルスは[[ベロ細胞]](Vero E6細胞)などで細胞培養できる{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=497}}{{r|標準微生物_p498}}。RNAウイルスではあるが、ゲノム変異は[[ヒト免疫不全ウイルス]] (HIV) ほど大きなものではなく、比較的安定だと報告されている{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=497}}。また、環境中でも比較的安定であるが(→[[#予防]]){{r|標準微生物_p498}}、エンベロープを持つため、[[エーテル]]や[[クロロホルム]]に感受性がある{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=495}}。このウイルスは[[コウモリ]]・ヒトに感染するが、MERSコロナウイルスも同じくコウモリに感染するほか、コロナウイルスの分類では、コウモリコロナウイルスもこの2種と同じグループ2bに含まれる{{sfn|中込治・神谷茂(編集)|2015|p=496}}<ref name="PMC2830095_coronavirus">{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2830095/|title=Coronaviruses post-SARS: Update on replication and pathogenesis|doi=10.1038/nrmicro2147|journal=Nat Rev Microbiol|date=2009 Jun|volume=7|issue=6|pages=439-450|first=Stanley|last=Perlman|first2=Jason|last2=Netland|accessdate=2017-11-13|pmcid=2830095|nihmsid=NIHMS168440}}</ref>。 ;ウイルスの特定 当初、中国衛生局は[[クラミジア]]、[[香港大学]]は[[麻疹ウイルス]]や[[RSウイルス]]と同じ[[パラミクソウイルス科|パラミクソウイルス]]を原因病原体として発表していた{{r|日本医師会_SARS030710}}。 CDCと{{仮リンク|カナダ国立微生物研究所|en|National Microbiology Laboratory}}は、2003年4月にSARSウイルスの[[ゲノム]]を特定した<ref>{{cite web |url=https://www.cdc.gov/about/history/sars/feature.htm |title=Remembering SARS: A Deadly Puzzle and the Efforts to Solve It |date=11 April 2013 |accessdate=3 August 2013 |publisher=Centers for Disease Control and Prevention}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.who.int/mediacentre/releases/2003/pr31/en/ |title=Coronavirus never before seen in humans is the cause of SARS |publisher=United Nations World Health Organization |date=16 April 2006 |accessdate=5 July 2006}}</ref>。[[エラスムス・ロッテルダム大学]]の研究者たちは、[[SARSコロナウイルス]]で[[コッホの原則]]が成り立つことを突き止めた<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15306393|accessdate=2017-09-24|journal=Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci.|date=2004-07-29|volume=359|issue=1447|pages=1081-2|authors=Osterhaus AD, Fouchier RA, Kuiken T.|pmid=15306393|pmc=1693394|doi=10.1098/rstb.2004.1489}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2003-04-15|url=http://www.jata-net.or.jp/sars/today/0404.htm|title=SARSコロナウイルス配列決定|work=SARSアップデート情報|publisher=[[日本旅行業協会]]|accessdate=2009-05-01|deadlink=2017-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050414005056/http://www.jata-net.or.jp/sars/today/0404.htm|archivedate=2005-04-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2003-04-17|url=http://www.jata-net.or.jp/sars/today/0406.htm|title=SARSコロナウイルス配列決定 Part.2|work=SARSアップデート情報|publisher=[[日本旅行業協会]]|accessdate=2009-05-01|deadlink=2017-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090505164241/http://www.jata-net.or.jp:80/sars/today/0406.htm|archivedate=2009-05-05}}</ref>。[[マカク属]]([[カニクイザル]])へのウイルス感染で、SARS患者と同様の症状(具体的には[[鼻腔]]・[[咽頭]]・糞便からのウイルス分離と[[間質性肺炎]])が発生することが実験的に証明されている{{r|標準微生物_p498}}<ref>{{cite journal |authors=Fouchier RA, Kuiken T, Schutten M, etal |title=Aetiology: Koch's postulates fulfilled for SARS virus |journal=Nature |volume=423 |issue=6937 |page=240 |year=2003 |pmid=12748632 |doi=10.1038/423240a }}</ref>。 2003年5月下旬、最初の症例が出た中国[[広東省]]の地元市場で、食用野生動物を用いた研究調査が行われた{{efn|経歴調査で、最初期の感染者に食用動物を扱う販売業者やレストランの従業員がいたことも判明していた{{r|PMC3323155}}<ref>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/world/2003/may/24/china.sars|title=In China the civet cat is a delicacy - and may have caused Sars |date=2003-03-24|accessdate=2017-09-24|publisher=[[ガーディアン]]|first= Ian|last=Sample|first2=John|last2=Gittings}}</ref><ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3367621/|title=SARS-CoV Infection in a Restaurant from Palm Civet|author=Ming Wang, et al.|accessdate=2017-09-24|journal=Emerg Infect Dis.|date=2005 Dec|volume=11|issue=12|pages=1860-1865|pmc=3367621|doi=10.3201/eid1112.041293}}</ref>}}。この結果、[[ハクビシン]]からSARSコロナウイルスが単離されたが、ハクビシンは[[固有宿主]]ではなく、ヒトへの感染のキーとなる[[中間宿主]]だと推定された<ref>{{cite journal|url=http://science.sciencemag.org/content/302/5643/276|title=Isolation and Characterization of Viruses Related to the SARS Coronavirus from Animals in Southern China|journal=[[サイエンス|Science]]|accessdate=2017-09-24|authors=Y. Guan, B. J. Zheng, Y. Q. He, X. L. Liu, Z. X. Zhuang, C. L. Cheung, S. W. Luo, P. H. Li, et.al|date=2003-10-10|volume=302|issue=5643|pages=276-278|doi=10.1126/science.1087139}}</ref><ref name="厚労省_SARS対策第19報">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/06-07-21.html|work=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|title=SARS対策について(SARS対策第19報)(SARS類似コロナウイルスが分離された中国産の野生動物への対応について)|publisher=[[厚生労働省]]|accessdate=2017-09-24|issue=健感発第0526003号|date=2003-05-26|author=厚生労働省健康局結核感染症課長}}</ref><ref name="sponichi030525">{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/society/kiji/2003/05/25/01.html|deadlink=2017-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041029194715/http://www.sponichi.co.jp:80/society/kiji/2003/05/25/01.html|archivedate=2004-10-29|title=SARS タヌキやアナグマからも|date=2003-05-25|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=2017-09-24}}</ref>。 中間結果では、SARSコロナウイルスは[[パームシベット]]からヒトへ、種の壁を越えた[[異種移植|異種伝播]]をするとされ、広東省だけで1万頭以上が駆除された。この対応に関しては、パームシベット・ハクビシンを[[スケープゴート]]にしたとの批判もある<ref>{{cite web|url=http://www.nbcnews.com/id/3908790/ns/health-infectious_diseases/t/civet-cat-becomes-sars-scapegoat/|title=Civet cat becomes SARS scapegoat|accessdate=2017-09-24|publisher=[[NBC]]|date=2004-08-01|author=[[AP通信]]}}</ref>。またシンガポールでは野良猫の駆除が行われた{{r|sponichi030525}}。ウイルスは、[[タヌキ]]{{r|厚労省_SARS対策第19報}}、[[イタチアナグマ属|イタチアナグマ]](流行地には[[シナイタチアナグマ]]が棲息){{r|厚労省_SARS対策第19報}}、[[イエネコ]]などからも単離された。 2005年には、中国の[[コウモリ]]から多数のSARS様コロナウイルスが発見されたと報告された<ref name=Li>{{cite journal |authors=Li W, Shi Z, Yu M, etal |title=Bats are natural reservoirs of SARS-like coronaviruses |journal=Science |volume=310 |issue=5748 |pages=676-9 |year=2005 |pmid=16195424 |doi=10.1126/science.1118391|url=http://science.sciencemag.org/content/310/5748/676 }}</ref><ref name=Lau>{{cite journal |authors=Lau SK, Woo PC, Li KS, etal |title=Severe acute respiratory syndrome coronavirus-like virus in Chinese horseshoe bats |journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. |volume=102 |issue=39 |pages=14040-5 |year=2005 |pmid=16169905 |pmc=1236580 |doi=10.1073/pnas.0506735102 }}</ref>。これらのウイルスの系統学的解析から、SARSコロナウイルスはコウモリ由来の可能性が高いとされ、コウモリから直接人間に感染したか、中国の市場で販売されていた[[食用コウモリ]]をはじめとした食用動物を介して人間に広まったと推測された。コウモリは感染しても[[不顕性感染]]となるが、SARS様コロナウイルスのリザーバーになっていると推測されている。 2006年遅く、[[香港大学]]CDC (Chinese Centre for Disease Control and Prevention of Hong Kong University)、[[広州市]]疾病予防コントロールセンター(広州市CDC)は、パームシベット(ハクビシン)とヒトから単離されたSARSコロナウイルスの遺伝的系譜を作成し、このウイルス感染症が[[宿主ジャンプ]]したことを証明した<ref>{{cite news|url=http://www.chinadaily.com.cn/china/2006-11/23/content_740511.htm |title=Scientists prove SARS-civet cat link |work=China Daily |date=23 November 2006}}</ref>。 == 罹患数 == SARSは[[新興感染症]]のひとつであり、大流行した2003年の患者数は8,273人と比較的まれな疾患である<ref name="emedicine">{{cite web | last = Oehler | first = Richard L | title = Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS) | url=http://www.emedicine.com/med/topic3662.htm | accessdate = 2008-05-11 }}</ref>。このアウトブレイク時の罹患数は、[[世界保健機関]] (WHO) の報告によると、[[香港]]を中心に8,096人が感染し、37ヶ国で774人が死亡したとされている([[致命率]]9.6%、内訳は下記){{r|who:table2004_04_21}}。また最終的な罹患数は、世界30ヶ国の8,422人が感染、916人が死亡(致命率11%)とされている{{r|標準微生物_p498}}。 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead">国・地域別のSARS感染が強く疑われる症例数(2002年11月1日 - 2003年7月31日)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {| class="wikitable" style="<!--width: 25em;--> font-size:90%" ! colspan="10" style="text-align:center; padding:0.3em; font-size:1em; background:Violet;"|国・地域別のSARS感染が強く疑われる症例数(2002年11月1日 - 2003年7月31日)<br />WHO発表<ref name=WHO>{{cite web|url=http://www.who.int/csr/sars/country/en/index.html |title=Epidemic and Pandemic Alert and Response (EPR) |publisher=World Health Organization |accessdate=2017-09-23}}</ref>{{r|who:table2004_04_21}} |- align=center ! {{nowrap|国または地域}} || 症例数 || 死亡数 || SARS以外の原因による死亡<br /><!--&nbsp;-->*** || [[致命率]] (%) ! {{nowrap|国または地域}} || 症例数 || 死亡数 || SARS以外の原因による死亡<br /><!--&nbsp;-->*** || 致命率 (%) |- align=right ! 総数||8,096<!--8273-->||774||60||9.6 |align=left|{{AUS}}||6||0||0||0 |- align=right |align=left|{{CAN}}||251||43||0||17 |align=left|{{CHN}}&nbsp;*||5,327||349||19||7 |- align=right |align=left|{{HKG}}||1,755||299||5||17 |align=left|{{MAC}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{ROC}}&nbsp;** ||346||37||36||11 |align=left|{{FRA}}||7||1||{{center|{{ndash}}}}||14 |- align=right |align=left|{{GER}}||9||0||{{center|{{ndash}}}}||0 |align=left|{{IND}}||3||0||{{center|{{ndash}}}}||0 |- align=right |align=left|{{INA}}||2||0||{{center|{{ndash}}}}||0 |align=left|{{ITA}}||4||0||{{center|{{ndash}}}}||0 |- align=right |align=left|{{KUW}}||1||0||0||0 |align=left|{{MAS}}||5||2||{{center|{{ndash}}}}||40 |- align=right |align=left|{{MGL}}||9||0||0||0 |align=left|{{NZL}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{PHI}}||14||2||0||14 |align=left|{{IRE}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{KOR}}||3||0||0||0 |align=left|{{ROU}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{RUS}}||1||0||0||0 |align=left|{{SIN}}||238||33||0||14 |- align=right |align=left|{{RSA}}||1||1||0||100 |align=left|{{ESP}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{SWE}}||5||0||0||0 |align=left|{{SUI}}||1||0||0||0 |- align=right |align=left|{{THA}}||9||2||{{center|{{ndash}}}}||22 |align=left|{{GBR}}||4||0||{{center|{{ndash}}}}||0 |- align=right |align=left|{{USA}}||27||0||0||0 |align=left|{{VIE}}||63||5||0||8 |- | colspan=10<!--style="font-size: smaller;"--> | (*) 中華人民共和国の数字には、WHOへ別々に報告された香港・マカオでのデータは含まれない。 |- | colspan=10<!--style="font-size: smaller;"--> | (**) 2003年7月11日以来、台湾の症例数は(報告が)「放棄された」({{lang-en-short|'discarded'|links=no}})。そうした135件の症例に関しては、臨床情報が不十分ないし不完全である。うち101名が死亡した。 |- | colspan=10<!--style="font-size: smaller;"--> | (***) ({{ndash}}) は詳細数不明を示す。 |} </div> </div> == 感染拡大から終息まで == === 中国南部でのアウトブレイク === <!--中国の病院に英語表記は不必要かと思いますが、WHOの報告書・論文などには英語で登場しているものと思われますので、英語表記も併記します。--FMmice--> {{main article|{{仮リンク|SARSアウトブレイクの進行|en|Progress of the SARS outbreak}}}} [[2002年]]11月に、[[中華人民共和国]][[広東省]]で最初のSARS症例が報告され、同月に同省で流行が発生した。最初の患者は広東省[[仏山市]][[順徳区]]出身で、地元の村の管理責任者も務めていた農家の男性で<ref>{{cite journal|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0140673603146302|journal=[[ランセット]]|volume=Volume 362|issue=9393|date=2003-10-25|pages=1353-1358|title=Epidemiology and cause of severe acute respiratory syndrome (SARS) in Guangdong, People's Republic of China, in February, 2003|authors=NS Zhong, MD; BJ Zheng, PhD; YM Li, MD; LLM Poon DPhil; ZH Xie MD; KH Chan PhD; PH Li BS; SY Tan MD; Q Chang MD; JP Xie MD; XQ Liu MD; J Xu MD; DX Li MD; KY Yuen MD; JSM Peiris DPhil; Dr Y Guan PhD|doi=10.1016/S0140-6736(03)14630-2|accessdate=2017-09-23}}</ref><ref name="PMC3323155">{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3323155/|title=Epidemiologic Clues to SARS Origin in China|journal=Emerg Infect Dis.|date=2004 Jun|volume=10|issue=6|pages=1030-1037|doi=10.3201/eid1006.030852|pmc=3323155|authors=Rui-Heng Xu, Jian-Feng He, Meirion R. Evans, Guo-Wen Peng, Hume E Field, De-Wen Yu, Chin-Kei Lee, Hui-Min Luo, Wei-Sheng Lin, Peng Lin, Ling-Hui Li, Wen-Jia Liang, Jin-Yan Lin, and Alan Schnur|pmid=15207054|accessdate=2017-09-23}}</ref><ref>{{cite book|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK92479/|accessdate=2017-09-24|title=Learning from SARS: Preparing for the Next Disease Outbreak: Workshop Summary.|chapter=THE SARS EPIDEMIC AND ITS AFTERMATH IN CHINA: A POLITICAL PERSPECTIVE|author=Yanzhong Huang|year=2004}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.who.int/csr/don/2003_07_04/en/|title=Update 95 - SARS: Chronology of a serial killer|accessdate=2017-09-24|publisher=[[WHO]]}}</ref><ref name="cnn130902">{{cite web|url=http://edition.cnn.com/2013/09/02/health/sars-fast-facts/index.html|title=SARS Fast Facts|accessdate=2017-09-23|date=2017-05-28|origdate=2013-09-02|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]}}</ref>、仏山市の第一人民医院({{lang-en-short|The First People's Hospital|links=no}})で治療を受けた。この男性の疾患原因特定は行われなかった{{efn|この患者は後に回復した<ref>{{cite web|url=http://www.abc.net.au/science/features/sars/outbreak.htm|title=THE OUTBREAK - The virus factories of southern China|work=The Fact about SARS|accessdate=2017-09-24|publisher=[[オーストラリア放送協会]]|first=Mark|last=Horstman|date=2003-04-10}}</ref>。最初の死者は、香港での流行の[[インデックス・ケース]]となった中国人医師と考えられている{{r|cnn130902}}。}}。感染制御に多少動いたものの、中国政府は、2003年2月までこの[[感染症]]の発生をWHOに公式報告しなかった。この[[情報公開]]の遅れが感染症対策の遅れに繋がり、結果として中国政府は国際的に多くの批判を受けることとなった<ref>{{cite news |url=http://www.cnn.com/2003/HEALTH/04/05/sars.vaccine/index.html |title=WHO targets SARS 'super spreaders' |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=6 April 2003 |accessdate=5 July 2006}}</ref>。 アウトブレイクが最初に起きたのは2002年11月27日で、WHOの{{仮リンク|グローバル・アウトブレイク・アラート・アンド・レスポンス・ネットワーク|label=GOARN|en|Global Outbreak Alert and Response Network}}の一角を成す、[[カナダ]]の{{仮リンク|グローバル・パブリック・ヘルス・インテリジェンス・ネットワーク|en|Global Public Health Intelligence Network}} (GPHIN) が、インターネット・メディアの監視を通じ、中国で「[[インフルエンザ]]の流行」({{lang-en-short|"flu outbreak"|links=no}})が発生していることを突き止め、そのままWHOに報告した。現在GPHINでは、[[アラビア語]]・[[中国語]]・[[英語]]・[[フランス語]]・[[ロシア語]]・[[スペイン語]]への翻訳に対応しているが、当時は英語・フランス語のみの対応だった。アウトブレイクに関する最初の報告は中国語文献だったため、英語でのレポートは[[2003年]][[1月21日]]になってようやく作成された<ref name="Mawadeku and Blench">{{cite web|url=http://www.mt-archive.info/MTS-2005-Mawudeku.pdf |last=Mawudeku |first=Abla |last2=Blench |first2=Michael |title=Global Public Health Intelligence Network |year=2005 |format=PDF |publisher=Public Health Agency of Canada|accessdate=2017-09-23}}</ref><ref name="Medscape">{{cite journal|url=http://www.medscape.com/viewarticle/467371 |last=Rodier |first=G |title=Global Surveillance, National Surveillance, and SARS |journal=Emerging Infectious Diseases |date=10 February 2004|pmid=15040346 |doi=10.3201/eid1002.031038 |volume=10 |pages=173-5 |pmc=3322938}}</ref>。 この報告を受け、WHOは中国当局に対し、2002年12月5日・11日に照会を行った。それまでの感染症アウトブレイクでは対応ネットワークが上手く機能していたものの、中国からのメディア報告がアウトブレイク発生から数ヶ月後にずれ込んだため、情報共有が遅れる元となった。第2回目のアラート発令後、WHOは病名、症例定義と共に、慎重な注意と封じ込め方法を共有するため、協調した世界的なアウトブレイク対応ネットワークの構築を発表した (Heymann, 2003)。WHOが対策を開始した時までに、世界中で死者は500人以上、加えて2,000人程度の感染者が発生していた{{r|Medscape}}。 4月上旬、{{仮リンク|蒋彦永|en|Jiang Yanyong}}が中国での脅威を報告した後<ref name="China Status 2007">{{cite news |first=Joseph|last=Kahn |url=https://www.nytimes.com/2007/07/13/world/asia/13iht-13doctor.6640426.html | title=China bars U.S. trip for doctor who exposed SARS cover-up | newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] | date=12 July 2007 | accessdate=2013-08-03}}</ref><ref name="award 2004">{{cite web | url=http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Citation/CitationJiangYan.htm | title=The 2004 Ramon Magsaysay Awardee for Public Service | publisher=Ramon Magsaysay Foundation | date=31 August 2004 | accessdate=2013-05-03}}</ref>、公式方針の転換があり、SARSはメディアでより大きく取り上げられるようになった。これには[[アメリカ人]]のジェームズ・アール・ソールズベリー({{lang-en-short|James Earl Salisbury|links=no}})の死が直接関わっていたとされる<ref>{{cite news |url=http://www.cnn.com/2003/HEALTH/04/10/sars/index.html |title=SARS death leads to China dispute |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=10 April 2003 |accessdate=3 April 2007|deadlink=2017-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050406103141/http://edition.cnn.com/2003/HEALTH/04/10/sars/index.html|archivedate=2017-09-23}}</ref>。これとほぼ同じ頃、蒋彦永は[[北京]]の軍事病院で症例数が過少報告されていたことを告発した{{r|China Status 2007|award 2004}}。猛烈な追及の後、中国当局はWHOなど国際当局の現地調査を認めることになった。この調査により、[[地方分権|地方分権化]]の拡大、[[繁文縟礼]]、不十分なコミュニケーションなど、成長過程にあった中国の保健政策を悩ます諸問題が明らかになった。 また、SARS予防策が広く知られておらず、流行地では看護や汚染物運搬の過程で、多くの医療スタッフが感染の危機に晒されたり、最悪の場合死に至ったりした<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/magazine-23710697|title=Sars: The people who risked their lives to stop the virus|accessdate=2017-09-23|publisher=[[英国放送協会]]|work=[[BBCニュース]]|date=2013-08-16|first=Kevin|last=Fong}}</ref>。 === 世界への感染拡大 === [[File:Sars Cases and Deaths.pdf|thumb|300px|2002年から2003年にかけて、SARSが発生した地域]] 流行に一般の関心が向いたのは、2003年2月に、中国に渡航したアメリカ人ビジネスマンが、[[シンガポール]]への飛行中に肺炎様の症状を呈した一件からだった。飛行機は[[ベトナム]]・[[ハノイ]]に立ち寄り、このビジネスマンは{{仮リンク|ハノイ・フレンチ・ホスピタル|en|Hôpital Français de Hanoi}}に搬送され、転院先の[[香港]]で死亡した<ref>{{cite web|url=http://www.who.int/csr/don/2003_03_16/en/|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS) - multi-country outbreak - Update|date=2003-03-16|accessdate=2017-09-24|publisher=[[WHO]]}}</ref>。一般的なプロトコルで看護を行ったにもかかわらず、この男性から複数の医療スタッフへ二次感染が起きた。[[イタリア人]]医師の[[カルロ・ウルバニ]]は感染危機に気づき、WHOとベトナム政府の連携を要請して感染拡大阻止に尽力したが、その後自身もSARSに罹患して死亡した<ref>{{cite web|url=http://www.who.int/csr/sars/urbani/en/|title=Dr. Carlo Urbani of the World Health Organization dies of SARS|date=2003-03-29|accessdate=2017-09-24|publisher=[[世界保健機関|WHO]]}}</ref>。 症状の重症度と、病院スタッフへの院内感染は国際保健当局に危機感を持って捉えられ、当局は肺炎感染症の拡大を危惧した。2003年3月12日、WHOは{{仮リンク|グローバル・アラート|en|Global alert}}を発令し<ref name="WHO_alert030312">{{cite web|url=http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2003/pr22/en/|title=WHO issues a global alert about cases of atypical pneumonia|date=2003-03-12|accessdate=2017-09-24|publisher=[[世界保健機関|WHO]]}}</ref><ref name="niid_SARS">{{Cite web|和書|url=http://www.niid.go.jp/niid/ja/encycropedia/392-encyclopedia/414-sars-intro.html|title=SARS(重症急性呼吸器症候群)とは|accessdate=2017-09-24|publisher=[[国立感染症研究所]]|author=重松美加、岡部信彦}}</ref>、[[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC) もこれに続いてアラートを発表した<ref>{{cite web|url=https://www.cdc.gov/about/history/sars/timeline.htm|title=CDC SARS Response Timeline|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]]}}</ref><ref>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/2003/HEALTH/03/15/WHO.alert/index.html|title=CDC raises alarm over new form of pneumonia|accessdate=2017-09-24|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2003-03-16|first=Patty|last=Davis}}</ref>。WHOは続く[[3月15日]]に、[[広東省]]・[[香港]]への渡航自粛勧告を出す異例の措置を取った{{r|日本医師会_SARS030710}}。SARS感染拡大は、[[トロント]]、[[オタワ]]、[[サンフランシスコ]]、[[ウランバートル]]、[[マニラ]]、シンガポール、[[台湾]]、ハノイ、香港で見られ、中国国内では広東省、[[吉林省]]、[[河北省]]、[[湖北省]]、[[陝西省]]、[[江蘇省]]、[[山西省]]、[[天津市]]、[[内モンゴル自治区]]などに拡大した<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC343293/|title=Descriptive review of geographic mapping of severe acute respiratory syndrome (SARS) on the Internet|doi=10.1186/1476-072X-3-2|date=2004-01-28|year=2004|journal=Int J Health Geogr.|volume=3|issue=2|pmc=343293|author=Maged N Kamel Boulos|accessdate=2017-09-24}}</ref>。この際、WHO西太平洋事務局の責任者として、[[押谷仁]]が陣頭指揮に当たった(その後、2005年に[[東北大学]]教授就任)<ref>{{cite journal|journal=[[ランセット|Lancet]]|title=Hitoshi Oshitani: watching out for an influenza pandemic|first=Ned|last=Stafford|date=2005-11-05|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(05)67650-7|accessdate=2017-09-24|volume=366|issue=9497|page=p1601|doi=10.1016/S0140-6736(05)67650-7}}</ref><ref>{{cite web|url=http://ac.nikkeibp.co.jp/4thnac/okinawa2017/pdf/Prof.HitoshiOshitaniMDPhDMPH.pdf|title=Hitoshi Oshitani MD, MPH, PhD|accessdate=2017-09-24|format=PDF|work=第4回 日経アジア感染症会議|publisher=[[日本経済新聞]]}}<!--http://ac.nikkeibp.co.jp/4thnac/okinawa2017/lecturer.html#nav--></ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/2009/04/who.php|title=押谷仁(WHO感染症地域アドバイザー) - SARSを食い止めた前線指揮官|work=世界が尊敬する日本人 国境と文化の壁を越えて輝く天才・鬼才・異才|date=2009-04-08|author=アレグザンドラ・セノ|publisher=[[ニューズウィーク]]日本版|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170924111044/http://www.newsweekjapan.jp/stories/2009/04/who.php|archivedate=2017-09-24|accessdate=2017-09-24}}</ref>。 {{Main2|台湾での感染状況|2003年台湾におけるSARSの流行}} ==== 香港 ==== [[File:Hotel Metropole 9th floor layout SARS 2003.svg|thumbnail|left|香港、メトロポール・ホテル9階の見取り図。この階に宿泊し、後に死亡した男性が[[スーパー・スプレッダー]]と考えられている]] 香港では、2003年3月29日に病院から患者集団の発生が報告され、これが当地初の[[コホート]]となった<ref>{{Cite web|url=http://www.news-medical.net/news/2004/04/24/821.aspx|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS) overview|date=April 24, 2004|work=News Medical Life Sciences|publisher=AZO network|accessdate=2017-09-24}}</ref>。2月に香港へ到着した中国の医師が[[インデックス・ケース]]になったと考えられ、[[九龍]]にあったメトロポール・ホテル({{lang-en-short|The Metropole Hotel|links=no}})の9階に宿泊し、16人の宿泊客に感染を広げた(医師はその後死亡し、SARSによる初の死者だと推定されている){{r|日本医師会_SARS030710|cnn130902}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/449/701/sars,1.pdf|title=SARS (重症急性呼吸器症候群)の現状について |date=2003-08-03|author=西川眞|accessdate=2017-09-24|format=PDF|publisher=新潟県保健環境科学研究所}}</ref><ref name="scielosp.org2003">{{cite web|url=http://www.scielosp.org/pdf/bwho/v81n8/v81n8a14.pdf |accessdate=February 4, 2016 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120405125444/http://www.scielosp.org/pdf/bwho/v81n8/v81n8a14.pdf |archivedate=April 5, 2012|journal=Bulletin of the World Health Organization|year=2003|volume=81|issue=8|title=How SARS changed the world in less than six months|format=PDF }}</ref>。ここで感染した宿泊客は、[[香港国際空港]]から[[旅客機]]で、[[カナダ]]・[[シンガポール]]・[[台湾]]・[[ベトナム]]などに向かい、到着先で感染をさらに拡大させた<ref>{{cite journal|title=Sr. Irene Martineau |publisher=Oxford Medical School Gazette |url=http://www.medsci.ox.ac.uk/gazette/previousissues/54vol1/Part21/ |accessdate=2008-11-10 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081010223237/http://www.medsci.ox.ac.uk/gazette/previousissues/54vol1/Part21/ |archivedate=10 October 2008 }}</ref><ref name="統一見解文書031226">{{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/update101who.pdf|title=WHO/CDS/CSR/GAR/2003.11 - 重症急性呼吸器症候群(SARS)の疫学に関する統一見解文書|accessdate=2017-09-26|author=[[国立感染症研究所]] 感染症情報センター(訳)|date=2003-12-26|format=PDF}}</ref>。香港での流行は世界的流行の一助となったが、背景にはこの医師のような[[スーパー・スプレッダー]]の存在があった<ref>{{cite journal|last=Shen|first=Zhuang|author2=Fang Ning |title=Superspreading SARS Events, Beijing 2003|journal=Emerging Infectious Diseases|date=February 2004|volume=10|issue=2|pages=256-260|doi=10.3201/eid1002.030732|accessdate=16 April 2014|pmid=15030693|pmc=3322930}}</ref><ref name="wsj141216">{{Cite web|和書|url=http://jp.wsj.com/articles/SB11133530172994754599304580340460426236490|title=なぜ特定の人が病気を他人にうつしやすいのか―「スーパースプレッダー」の秘密|accessdate=2017-09-24|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2014-12-16|first=SUMATHI|last=REDDY}}{{ja icon}}</ref><ref name="allabout150616">{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/455815/|title=MERS・SARS流行の裏にあるスーパースプレッダーの存在|publisher=[[AllAbout]]|work=AllAbout 医療・健康|date=2015-06-16|author=清益 功浩|accessdate=2017-09-24}}</ref><ref name="wired030522_1">{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2003/05/22/sars%e3%81%ae%e8%ac%8e%e3%82%92%e8%a7%a3%e3%81%8f%e9%8d%b5%e3%81%a8%e3%81%aa%e3%82%8b%e3%81%8b%ef%bc%9f-%e3%80%8c%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%97%e3%83%ac%e3%83%83%e3%83%80/|title=SARSの謎を解く鍵となるか? 「スーパースプレッダー」(上)|date=2003-05-22|accessdate=2017-09-24|publisher=WIRED.jp|author=米井香織/高森郁哉(訳)}}</ref>。 [[File:Amoy Gardens 2011.jpg|thumb|香港第2の流行が起きたアモイ・ガーデンズの外観]] 香港では、{{仮リンク|クイーン・メアリー病院 (香港)|label=クイーン・メアリー病院|en|Queen Mary Hospital (Hong Kong)}}({{lang-en-short|Queen Mary Hospital|link=no}})、{{仮リンク|プリンス・オブ・ウェールズ病院|en|Prince of Wales Hospital}}({{lang-en-short|Prince of Wales Hospital|links=no}})という2つの病院が流行発生の中心地となった{{r|標準微生物_p499|統一見解文書031226}}。この病院での流行後、[[アモイ・ガーデンズ]]と呼ばれる高層マンション群でも集団感染が発生した。この流行のインデックス・ケースは、プリンス・オブ・ウェールズ病院で[[慢性腎臓病]]の治療を受けており、アモイ・ガーデンズに弟を訪ねて行った男性と推定されている{{r|統一見解文書031226}}。トイレ排水システムを通じてウイルスを含んだ[[エアロゾル]]が浮遊し、これが感染拡大の一助になったと考えられているほか<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16696450|accessdate=2017-09-24|journal=J Environ Health|date=2006 May|volume=68|issue=9|pages=26-30; quiz 51-2|title=Environmental transmission of SARS at Amoy Gardens.|authors=McKinney KR1, Gong YY, Lewis TG.|pmid=16696450}}</ref><ref>{{cite journal|url=http://jech.bmj.com/content/57/9/652|title=Evidence based public health policy and practice - The SARS epidemic in Hong Kong|author=S H Lee|doi=10.1136/jech.57.9.652|journal=Journal of Epidemiology & Community Health|publisher=[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル]]}}</ref>、[[齧歯類]]や[[ゴキブリ]]の関与も示唆されている{{r|統一見解文書031226}}。香港市民は、市民への情報提供が遅すぎるのではないかと心配し、sosick.org と呼ばれるウェブサイトを立ち上げて、SARSに関する情報を随時発表するよう香港政府への働きかけを強めていった<ref>{{Cite web|url=http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=1264207|title=Hong Kong Residents Share SARS Information Online|work=NPR.org|accessdate=2016-05-11}}</ref>。 ==== トロント ==== [[カナダ]]・[[トロント]]でのSARS初報告は、2003年[[2月23日]]のことである<ref>{{Cite web|url=https://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/mm5223a4.htm|title=Update: Severe Acute Respiratory Syndrome --- Toronto, Canada, 2003|website=www.cdc.gov|accessdate=2016-05-11}}</ref>。メトロポール・ホテルに宿泊し、香港旅行から帰国した女性に始まり{{r|統一見解文書031226}}、[[オンタリオ州]]の257人がウイルスに感染した。トロントでのアウトブレイクには2つの流れがあり、第2波では、トロントの大病院内で、偶発的なウイルス暴露を受けた患者・見舞客・スタッフ間にSARSが拡大した。WHOは2003年6月末に、トロントをSARS流行地から外した<ref>{{cite web|url=http://www.who.int/csr/don/2003_07_01/en/|title=Update 92 - Chronology of travel recommendations, areas with local transmission|date=2003-07-01|accessdate=2017-09-24|publisher=[[世界保健機関|WHO]]}}</ref>。 カナダ政府公式の反応は、アウトブレイク発生後数年に渡って広く批判され続けた。オンタリオ州の SARS Scientific Advisory Committee(SARSに対する科学的助言委員会)の副委員長だったブライアン・シュワルツ({{lang-en-short|Brian Schwartz|links=no}})は、公衆衛生当局の準備と、アウトブレイク時の緊急対応に対し、「ごくごく基本的で、よくても最小限と言ったところ」({{lang-en-short|“very, very basic and minimal at best”|links=no}})と回想している<ref>{{Cite web|url=http://www.cbc.ca/news/health/mers-outbreak-3-lessons-canada-learned-from-sars-1.3109550|title=Is Canada ready for MERS? 3 lessons learned from SARS|website=www.cbc.ca|accessdate=2016-05-11}}</ref>。当時の対応を批判する人々は、お粗末な概要のまま施行された医療関係者保護用のプロトコルと、ウイルス感染が拡大している時に必要な、感染者洗い出しシステムの欠陥について指摘する。SARSアウトブレイクに対する恐れと不確かな情報のせいで、暴露リスクを取るくらいならと医療スタッフが辞職していき、結果として当該地区ではスタッフ不足に悩まされることになった。 ==== 社会の反応 ==== 感染した野生動物を食べてウイルス感染することへの恐れから、中国南部や香港では、公的な取引禁止や、食肉市場での取引減少などの動きが見られた<ref>{{Cite journal|last=Zhan|first=Mei|date=2005-01-01|title=Civet Cats, Fried Grasshoppers, and David Beckham's Pajamas: Unruly Bodies after SARS|jstor=3567670|journal=American Anthropologist|volume=107|issue=1|pages=31-42|doi=10.1525/aa.2005.107.1.031}}</ref>{{r|sponichi030525}}。中国では、美食の街として知られ、多くの動物種を食肉として扱う広東の伝統が、SARSアウトブレイクを起こした重要な原因のひとつと指摘されることが多い。 [[トロント]]に住むアジア人たちは、トロントでSARSアウトブレイクが発生した際、少数民族として差別を受けた。地元の擁護団体は、アジア人たちが、地元住民や[[タクシー]]ドライバーに無視されたり、公共交通機関の利用を避けたりしたと報告している<ref>{{Cite journal|last=Schram|first=Justin|date=2003-01-01|title=How Popular Perceptions Of Risk From Sars Are Fermenting Discrimination|jstor=25454328|journal=BMJ: British Medical Journal|volume=326|issue=7395|pages=939-939|doi=10.1136/bmj.326.7395.939}}</ref>。[[ボストン]]や[[ニューヨーク市]]では、[[エイプリルフール]]の悪ふざけとして噂が回り、[[中華街]]に経済的損失をもたらした<ref>{{cite web|url=http://www.smh.com.au/articles/2003/04/13/1050172475978.html|title=World gets sick, Chinatown sneezes|date=2003-04-14|accessdate=2017-09-24|publisher=[[シドニー・モーニング・ヘラルド]]|first=David|last=Dale}}</ref>。 WHOの渡航自粛勧告もあり{{r|日本医師会_SARS030710}}、世界的に流行地への渡航を控える傾向が見られ、これらの地域の観光業や航空業は大きなダメージを受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2003/04/16/sars%e9%a8%92%e5%8b%95%e3%81%a7%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e3%81%ae%e8%88%aa%e7%a9%ba%e3%83%bb%e8%a6%b3%e5%85%89%e6%a5%ad%e3%81%ab%e8%8e%ab%e5%a4%a7%e3%81%aa%e8%a2%ab%e5%ae%b3/|title=SARS騒動でアジアの航空・観光業に莫大な被害|date=2003-04-16|accessdate=2017-09-24|publisher=Wired.jp|author=森口けい子/高森郁哉(日本語訳)}}</ref>。 ;SARS陰謀論 {{see also|{{仮リンク|SARS陰謀説|en|SARS conspiracy theory}}|陰謀論の一覧#新型肺炎SARS、鳥インフルエンザ陰謀説}} また、この病気はアジア人、特に中国人を標的として意図的に流行させられたものだとする[[陰謀論の一覧#新型肺炎SARS、鳥インフルエンザ陰謀説|SARS陰謀論]]も出た<ref>{{Cite book|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=khExDwAAQBAJ&pg=PA176&lpg=PA176&dq=SARS+%E9%99%B0%E8%AC%80|accessdate=2017-11-13|title=本当にあった世界の陰謀論案内|author=笠倉出版社|date=2014-09-25}}</ref><ref>{{Cite book|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=ZiSmAwAAQBAJ&pg=RA2-PA40&lpg=RA2-PA40&dq=SARS+%E9%99%B0%E8%AC%80|title=中国の歴史認識はどう作られたのか|author=汪錚|accessdate=2017-11-13|date=2014-05-29|publisher=[[東洋経済新報社]]|translator=伊藤真|isbn=4492212167}}</ref>。 ==== 日本での対応 ==== 中国での流行を受けて、厚生労働省は2003年4月3日に、SARSを[[感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律]](感染症法)の「新感染症」に指定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/06-07-49.html|accessdate=2017-09-24|title=ハノイ・香港等における原因不明の「重症急性呼吸器症候群」の集団発生に伴う対応について(第5報)|work=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|publisher=[[厚生労働省]]|author=厚生労働省健康局結核感染症課長|date=2003-04-03}}</ref>。その後4月7日に、WHO指針(厚生労働省から3月18日発表)に専門家の意見を加えた独自の管理指針を通達した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/06-07-46.html|accessdate=2017-09-24|title=ハノイ・香港等における原因不明の「重症急性呼吸器症候群」の集団発生に伴う対応について(第7報)|work=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|publisher=[[厚生労働省]]|author=厚生労働省健康局結核感染症課長|date=2003-04-07}}</ref>。ウイルス特定後の同年7月14日に[[指定感染症]]となった後<ref>重症急性呼吸器症候群を感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律第六条第六項の指定感染症として定める等の政令(平成15年政令第304号。同年7月4日公布、同月14日施行)。</ref>、感染症法の改正<ref>感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律及び検疫法の一部を改正する法律(平成15年法律第145号。同年10月16日公布、公布の日から起算して20日を経過した日(同年11月5日)施行)。</ref>を受け、同年11月5日に[[一類感染症|第一類感染症]]となった。その後2007年4月1日の感染症法改正施行<ref>感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律等の一部を改正する法律(平成18年法律第106号。同年12月8日公布、平成19年4月1日一部施行)。</ref>で、分類が見直されて第二類感染症へ変更された。 2003年5月には、観光旅行で来日して[[近畿地方]]を訪れた台湾人医師が、帰国後SARSコロナウイルス陽性と分かる一件があり、[[国立感染症研究所]]や大阪市保健所などが調査を行ったが、二次感染は確認されなかった<ref>{{cite journal|url=http://idsc.nih.go.jp/iasr/24/284/dj2840.html|title=重症急性呼吸器症候群(SARS)症例の接触者調査-大阪市|volume=24|pages=256|accessdate=2017-09-24|authors=吉田英樹、増田和貴、砂川富正、大山卓昭、谷口清州、岡部信彦、下内 昭|journal=IASR|publisher=[[国立感染症研究所]] 感染症情報センター}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iph.pref.osaka.jp/news/vol22/22-1.html|title=これからSARSはどこへ行くのか? |author=加瀬哲男|publisher=大阪府感染症情報センター|accessdate=2017-09-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://h-crisis.niph.go.jp/?p=83849|title=No.1091 SARSに感染した台湾人医師に係る姫路市の対応(姫路市)|accessdate=2017-09-24|publisher=国立保健医療科学院}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/hotnews/archives/247806.html|title=【SARS速報】 厚労省、日本に滞在した台湾医師が帰台後にSARS患者と確認された問題でQ&A|date=2003-05-20|work=[[日経メディカル]]|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2017-09-24}}</ref>。 日本では管理指針に示された「疑い例(Suspected case)」・「可能性例(Probable case)」が複数発生したが、他疾患の診断が付くなどしていずれも後に否定された{{r|niid_SARS}}<ref name="厚労省_SARS発生状況まとめ">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/03.html|accessdate=2017-09-24|title=SARSの発生状況について|work=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|publisher=[[厚生労働省]]}}</ref>。 またSARS感染患者搬送用の[[救急車]]や治療・入院を行う病院が整備された。2003年7月には[[日産自動車]]の関連会社である[[日産車体]]が[[京都府]]へ重症急性呼吸器症候群患者対応救急車の第1号車を寄贈したのを皮切りに、同様の車両が多くの自治体に導入されている<ref>{{Cite press release|和書| title = SARS(重症急性呼吸器症候群)患者対応救急車を京都府に寄贈| publisher = 日産自動車| date = 2003-07-11| url = http://www.nissan-global.com/JP/NEWS/2003/_STORY/030711-01.html| accessdate = 2009-05-01}}</ref>。 === 封じ込めの成功 === [[File:SARS stat.png|thumb|国・地域別に見た感染者数の推移(2003年3月から7月)。香港を中心とした流行の後、中国本土・カナダ・台湾での流行がこれに引き続いた]] 世界保健機関は、2003年[[7月5日]]にSARS封じ込め成功を発表した{{efn|ここでいう「封じ込め」とは新たなヒト=ヒト感染や感染拡大の可能性が無くなったことを示すもので、感染者がいなくなったことを示すわけではない。実際にWHOの声明でも、「サーベイランスの網をくぐり抜ける患者がいるかもしれない」として、感染状況に引き続き注視するよう呼びかけている{{r|WHO030705}}。}}<ref name="WHO030705">{{cite web|url=http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2003/pr56/en/|title=SARS outbreak contained worldwide|date=2003-07-05|accessdate=2017-09-24|publisher=[[WHO]]}}</ref><ref>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/2003/HEALTH/conditions/07/05/sars/|title=WHO: SARS outbreaks contained|accessdate=2017-09-24|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2003-07-05}}</ref>。 封じ込め成功後も、2003年12月と2004年1月、さらに同年4月から5月に、中国で3例のSARS散発例と、実験室での偶発的暴露で感染した3例が報告され、総勢14名が感染したことが分かっている{{r|厚労省_SARS発生状況まとめ|:0}}。うち1件では、感染した看護師の女が、複数人に感染を広げたことが分かっている{{r|厚労省_SARS発生状況まとめ}}<ref name=":0">{{cite web|url=http://www.huffingtonpost.ca/2013/03/11/sars-2013_n_2854568.html|title=SARS 2013: 10 Years Ago SARS Went Around The World, Where Is It Now?|date=2013-03-11|accessdate=2017-09-24|publisher=[[ハフィントンポスト]]カナダ版|first=Helen|last=Branswell}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/update113-WHO3.html|title=中国からさらにSARS症例が報告-更新3|author=WHO|accessdate=2017-09-24|orig-date=2004年4月28日|date=2004-04-30|work=IDSC|publisher=[[国立感染症研究所]] 感染症情報センター}}</ref>。 封じ込め成功の声明でWHOが示したように{{r|WHO030705}}、研究者の安全確保が必要であり、SARSコロナウイルスの研究をする際には、活性ウイルスでは[[バイオセーフティーレベル|BSL-3]]相当の施設が必要であり、不活化ウイルスではBSL-2の施設が望ましい<ref>{{Cite web|url=https://www.cdc.gov/sars/guidance/f-lab/app5.html|title=SARS {{!}} Guidance {{!}} Lab Biosafety for Handling and Processing Specimens {{!}} CDC|work=[[アメリカ疾病予防管理センター|www.cdc.gov]]|language=en-us|accessdate=2017-09-11}}</ref>。 == 研究事例 == *'''リセプターの発見''' **SARS-CoV-1リセプターが発見されたことから、リセプター発現マウスなどの感受性動物が作成されれば、有効なワクチン、抗ウイルス剤の開発も期待できる可能性がある<ref>田口文広, [https://doi.org/10.2222/jsv.53.201 SARSコロナウイルス]」『ウイルス』 53巻 2号 2003年 p.201-209, {{doi|10.2222/jsv.53.201}}。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=標準微生物学|edition=第12版|publisher=[[医学書院]]|editor=中込治・神谷茂|date=2015-02-15|isbn=978-4-260-02046-6|ncid=BB18056640|id={{全国書誌番号|22540957}}|oclc=904535631|ref=harv|year=2015}} * {{cite journal |author1=Alan DL Sihoe |author2=Randolph HL Wong |author3=Alex TH Lee |author4=Lee Sung Lau |title=Severe acute respiratory syndrome complicated by spontaneous pneumothorax |journal=Chest |date=June 2004 |volume=125 |issue=6 |pages=2345-51 |doi=10.1378/chest.125.6.2345 |pmid=15189961 |author5=Natalie Y. Y. Leung |author6=Kin Ip Law |author7=Anthony P. C. Yim}} * [https://science.sciencemag.org/content/339/6125/1264.full War Stories], Martin Enserink, Science 15 March 2013: 1264-1268. In 2003, the world successfully fought off a new disease that could have become a global catastrophe. A decade after the SARS outbreak, how much safer are we? * [https://science.sciencemag.org/content/339/6125/1266.full SARS: Chronology of the Epidemic] Martin Enserink, Science 15 March 2013: 1266-1271. In 2003, the world successfully fought off a new disease that could have become a global catastrophe. Here's what happened from the first case to the end of the epidemic. * [https://science.sciencemag.org/content/339/6125/1269.full Understanding the Enemy], Dennis Normile, Science 15 March 2013: 1269-1273. Research sparked by the SARS outbreak increased the understanding of emerging diseases, though much remains to be learned. * {{Cite journal|和書|title=重症急性呼吸器症候群SARS |author=木浦勝行, 谷本安, 田端雅弘, 金廣有彦, 上岡博, 谷本光音, 渡邊都貴子, 草野展周, 小出典男 |url=https://doi.org/10.4044/joma1947.115.1_63 |journal=岡山医学会雑誌 |volume=115 |issue=1 |pages=63-68 |year=2003 |naid=130006858260 |doi=10.4044/joma1947.115.1_63}} * {{Cite book|和書|author=NHK報道局「カルロ・ウルバニ」取材班|title=世界を救った医師 SARSと闘い死んだカルロ・ウルバニの27日|publisher=[[NHK出版|日本放送協会出版]]|series=NHKスペシャルセレクション|date=2004年7月|isbn=978-4-14-080887-0|ncid=BA68248748|id={{全国書誌番号|20654656}}|oclc=674648042}}<!--2008年1月4日 (金) 14:13 (UTC)--> * {{Cite book|和書|author=麻生幾|authorlink=麻生幾|title=38{{℃}} 北京SARS医療チーム「生と死」の100日|publisher=[[新潮社]]|year=2004|isbn=4-10-432603-8|ncid=BA65567568|id={{全国書誌番号|20543578}}|oclc=169717338}}<!--2008年1月4日 (金) 14:13 (UTC)--> * {{Cite book|和書|author=カール・タロウ・グリーンフェルド|authorlink=カール・タロウ・グリーンフェルド|title=史上最悪のウイルス そいつは、中国奥地から世界に広がる|translator=[[山田耕介]]|publisher=[[文藝春秋]]|year=2007|volume=上下巻}} - {{ISBN2|978-4-16-368790-2|978-4-16-368800-8}}。<!--2007年11月24日 (土) 02:10 (UTC)--> == 関連項目 == {{Commons category|SARS}} {{Portal|医学と医療}} * [[SARSコロナウイルス]] * {{仮リンク|SARSアウトブレイクの進行|en|Progress of the SARS outbreak}} * [[気道感染]] * [[新興感染症]] * [[輸入感染症]] * [[非定型肺炎]] * [[コウモリ由来のウイルス]] - SARSコロナウイルス以外にも[[エボラウイルス]]などが知られている。 * [[中東呼吸器症候群]] (MERS) - [[コロナウイルス]]科の[[MERSコロナウイルス]]によって引き起こされる。2012年6月に[[サウジアラビア]]で初確認された。 * [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|2019新型コロナウイルス感染症]] (COVID-19) ** [[SARSコロナウイルス2]] (SARS-CoV-2) ** [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]] * [[新型インフルエンザ]] ** [[鳥インフルエンザ]] ** [[2009年新型インフルエンザの世界的流行]] * [[パンデミック]](世界流行) * {{仮リンク|蒋彦永|en|Jiang Yanyong}} - 中国人医師で、当局のアウトブレイク隠蔽を告発した。 * [[鍾南山]] - 中国人呼吸器専門医で、広東でのアウトブレイクの陣頭指揮を執り、SARSコロナウイルスの発見にも寄与した。 * [[陳馮富珍]](マーガレット・チャン)- 当時香港当局の責任者として指揮に当たった。のち[[世界保健機関]] (WHO) 事務総長。 * [[王岐山]] - 当時北京当局の責任者として指揮に当たった。のち[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]。 * [[カルロ・ウルバニ]] * {{仮リンク|医療危機|en|Health crisis}} * {{仮リンク|中華人民共和国の医療|en|Health in China}} == 外部リンク == {{Library resources box |onlinebooks=no |by=no }} {{ref begin}} ; 日本語のサイト * {{Cite web|和書|url=http://www.niid.go.jp/niid/ja/encycropedia/392-encyclopedia/414-sars-intro.html|title=SARS(重症急性呼吸器症候群)とは|accessdate=2017-09-24|publisher=[[国立感染症研究所]]|author=重松美加、岡部信彦}} ** {{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/index.html|title=SARS(重症急性呼吸器症候群)|publisher=国立感染症研究所 感染症情報センター|accessdate=2017-09-24}} ** {{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/mgmt-06.html|title=重症急性呼吸器症候群(SARS)管理例(6訂)|date=2003年6月10日|accessdate=2017-09-24|publisher=[[国立感染症研究所]] 感染症情報センター|author=感染症情報センター案}} ** {{Cite web|和書|url=http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/update101who.pdf|title=WHO/CDS/CSR/GAR/2003.11 - 重症急性呼吸器症候群(SARS)の疫学に関する統一見解文書|accessdate=2017-09-26|author=国立感染症研究所 感染症情報センター(訳)|date=2003-12-26|format=PDF}} * {{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou05/index.html|publisher=[[厚生労働省]]|work=健康:結核・感染症に関する情報|title=重症急性呼吸器症候群(SARS)関連情報|accessdate=2017-09-24}} * {{Cite web|和書|url=http://www.anzen.mofa.go.jp/sars/basick.html|title=感染症(SARS・鳥インフルエンザ等)関連情報 - SARS基礎知識|work=[[外務省]] 海外安全ホームページ|accessdate=2017-09-24}} * {{Cite web|和書|url=https://www.cdc.gov/sars/about/downloads/fs-sars-ja.pdf|title=Basic Information about SARS(資料:SARSに関する基本情報)|format=PDF|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC)}}{{ja icon}} ; 日本語以外のサイト * {{cite web|url=http://www.who.int/csr/sars/en/|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS) |accessdate=2017-09-24|publisher=[[世界保健機構]] (WHO)}}{{en icon}} - 症状や治療のガイドライン、渡航に関するアドバイス、アウトブレイクの発生などが随時更新される。 * {{cite web|url=https://www.niaid.nih.gov/diseases-conditions/mers-and-sars|title=MERS and SARS|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ国立衛生研究所]] (NIH)}}{{en icon}} * {{cite web|url=https://www.cdc.gov/sars/index.html|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS)|accessdate=2017-09-24|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC)}}{{en icon}} ** {{cite web|url=https://www.cdc.gov/niosh/topics/SARS/|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS)|publisher={{仮リンク|アメリカ国立労働安全衛生研究所|en|National Institute for Occupational Safety and Health}} (NIOSH)|accessdate=2017-09-24}}{{en icon}} *** {{cite web|url=https://www.cdc.gov/niosh/npptl/topics/respirators/factsheets/respsars.html|title=Understanding Respiratory Protection Against SARS|accessdate=2017-09-24|work=The National Personal Protective Technology Laboratory (NPPTL)|publisher=アメリカ国立労働安全衛生研究所 (NIOSH)}}{{en icon}} * {{cite web|url=https://www.canada.ca/en/public-health/services/reports-publications/learning-sars-renewal-public-health-canada.html|title=ARCHIVED: Learning from SARS: Renewal of public health in Canada - Report of the National Advisory Committee on SARS and Public Health|accessdate=2017-09-24|publisher=[[カナダ]]政府}}{{en icon}} ** アウトブレイク当時のホームページ:{{cite web|url=http://www.phac-aspc.gc.ca/sars-sras/index.html|deadlink=2017-09-24|accessdate=2017-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080420065250/http://www.phac-aspc.gc.ca/sars-sras/index.html|archivedate=2008-04-20|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS)|publisher={{仮リンク|カナダ公衆衛生庁|en|Public Health Agency of Canada}}}} * {{cite journal|url=http://virtualmentor.ama-assn.org/2010/09/cprl1-1009.html|title=Severe Acute Respiratory Syndrome (SARS)—Lessons for Future Pandemics|deadlink=2017-09-24|accessdate=2017-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110113064616/http://virtualmentor.ama-assn.org/2010/09/cprl1-1009.html|archivedate=2011年1月13日|authors=Adriel Malave, MD, and Elamin M. Elamin, MD|journal=Virtual Mentor|date=September 2010|volume=12|issue=9|pages=719-725}}<!--{{deadlink|date=2017-09-24}}--> * 香港でのインデックス・ケースの症例報告:{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3322929/|journal=Emerg Infect Dis.|date=2004 Feb|volume=10|issue=2|pages=339-341|doi=10.3201/eid1002.030645|pmc=3322929|title=Index Patient and SARS Outbreak in Hong Kong|authors=Raymond S.M. Wong; David S. Hui|accessdate=2017-09-24}}{{en icon}} ; ウイルスについて * {{cite web|url=https://medlineplus.gov/coronavirusinfections.html|title=Coronavirus Infections |work=[[MedlinePlus]]|accessdate=2017-09-24}}{{en icon}} * {{Cite web|和書|url=http://www.viprbrc.org/brc/home.do?decorator=corona|work=Virus Pathogen Database and Analysis Resource (ViPR)|title=Coronaviridae(訳註:コロナウイルス科)|accessdate=2017-09-24}} {{ref end}} {{日本の感染症法における感染症}} {{気道感染}} {{コロナウイルス}} {{Authority control}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:しゆうしようきゆうせいこきゆうきしようこうくん}} [[Category:重症急性呼吸器症候群|*]] [[Category:人獣共通感染症]] [[Category:肺炎]] [[Category:2003年の中華人民共和国]] [[Category:2003年の香港]] [[Category:2003年のカナダ]] [[Category:2003年の災害]] [[Category:新興感染症]] [[Category:輸入感染症]] [[Category:グローバル・ヘルス]] [[Category:二類感染症]]
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川嶋紀子
川嶋 紀子(かわしま いとこ、1907年 - 2002年12月10日)は、大阪市長・池上四郎の六女で、内閣統計局長・川嶋孝彦の妻、文仁親王妃紀子の祖母。小室眞子、佳子内親王、悠仁親王の曾祖母に当たる。京都大学名誉教授池上惇は甥である。 1907年、当時大阪府警察部長であった池上四郎と妻・浜の六女として大阪市で生まれた。1913年、父・四郎が大阪市長に就任した。1923年に大阪府立清水谷高等女学校を卒業。1927年に茨城県保安課長(当時)の川嶋孝彦と結婚。子供は、学習院大学名誉教授の辰彦(次男)、東京国際大学教授の行彦(三男)等。 秋篠宮文仁親王妃紀子は孫(辰彦の長女)にあたるが、こちらは「きこ」と読む。川嶋家は和歌山県(紀州)が本籍地であること、祖母に似ていたことから、祖母のような女性になってほしいという願いからつけられたなどといわれる。紀子妃自身も祖母思いであったことが知られている。 孫・紀子と文仁親王の成婚直前の1990年6月には、孫娘への愛情と皇室への畏敬あふれる見事な候文の手紙をしたためたことが知られる。
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川嶋 紀子は、大阪市長・池上四郎の六女で、内閣統計局長・川嶋孝彦の妻、文仁親王妃紀子の祖母。小室眞子、佳子内親王、悠仁親王の曾祖母に当たる。京都大学名誉教授池上惇は甥である。
{{Otheruses|かわしま '''いとこ''' |かわしま '''きこ''' |文仁親王妃紀子}} '''川嶋 紀子'''(かわしま '''いとこ'''、[[1907年]][[2月11日]]<ref>『人事興信録 第19版 上』(人事興信所、1957年)か110頁</ref> - [[2002年]][[12月10日]])は、[[大阪市長]]・[[池上四郎 (大阪市長)|池上四郎]]の六女で、内閣[[統計局]]長・[[川嶋孝彦]]の妻{{Sfn|人事興信所編|1925|p=い153}}{{Sfn|人事興信所編|1948|p=カ53}}、[[文仁親王妃紀子]]の祖母。[[小室眞子]]、[[佳子内親王]]、[[悠仁親王]]の曾祖母に当たる。[[京都大学]]名誉教授[[池上惇]]は甥である。 == 生涯 == [[1907年]]、当時[[大阪府警察]]部長であった[[池上四郎 (大阪市長)|池上四郎]]と妻・浜の六女として[[大阪市]]で生まれた。[[1913年]]、父・四郎が[[大阪市長]]に就任した{{Sfn|清田伊平編|1915|p=333}}。[[1923年]]に[[大阪府立清水谷高等学校|大阪府立清水谷高等女学校]]を卒業。[[1927年]]に[[茨城県]]保安課長(当時)の[[川嶋孝彦]]と結婚。子供は、[[学習院大学]][[名誉教授]]の[[川嶋辰彦|辰彦]](次男)、[[東京国際大学]]教授の行彦(三男)等。 [[秋篠宮文仁親王]]妃[[文仁親王妃紀子|紀子]]は孫(辰彦の長女)にあたるが、こちらは「'''きこ'''」と読む。川嶋家は[[和歌山県]]([[紀伊国|紀州]])が本籍地であること、祖母に似ていたことから、祖母のような女性になってほしいという願いからつけられたなどといわれる。紀子妃自身も祖母思いであったことが知られている。 孫・紀子と文仁親王の成婚直前の[[1990年]]6月には、孫娘への愛情と[[皇室]]への畏敬あふれる見事な候文の手紙をしたためたことが知られる。 == 逸話 == * 趣味の一つは、雲を題材にした風景画を描くこと。知人である矢野ヨハンのギャラリーに数千枚の絵を寄贈した。それらが元となり、[[1993年]]に[[山梨県]][[北杜市]]に「川嶋紀子雲の絵美術館」がオープンした。館長は創価大学出身の相馬瑛子。 * 孫の紀子妃所有の扇には、彼女が描いた「[[檜扇菖蒲]]」(紀子妃の[[お印]])があしらわれている<ref>家庭画報2009年1月号</ref>。 == 系譜 == {{悠仁親王の系譜}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=清田伊平編|title=日本ダイレクトリー:御大典紀念|publisher=甲寅通信社編集部|year=1915|url={{NDLDC|910425/213}}|ref=harv}}2018年11月16日閲覧。 *{{Cite book|和書|author=人事興信所編|title=人事興信録|edition=7版|publisher=人事興信所|year=1925|url={{NDLDC|1704004/141}}|ref=harv}}2018年11月14日閲覧。 *{{Cite book|和書|author=人事興信所編|title=人事興信録|edition=15版上|publisher=人事興信所|year=1948|url={{NDLDC|2997934/173}}|ref=harv}}2018年11月14日閲覧。 {{デフォルトソート:かわしま いとこ}} [[Category:川嶋家|いとこ]] [[Category:大阪府立清水谷高等学校出身の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1907年生]] [[Category:2002年没]]
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超獣
超獣(ちょうじゅう)
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超獣(ちょうじゅう) ウルトラシリーズと『電光超人グリッドマン』に登場する架空の生物。怪獣の一種。ウルトラマンA#超獣の概念を参照。一覧はウルトラマンAの登場怪獣を参照に プロレスなどの格闘技で、非常に強い者を表現する言葉。 アメリカ合衆国のプロレスラー、ブルーザー・ブロディの日本での異名。 超獣コンビ - スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディのコンビ。ミラクルパワーコンビを参照。
'''超獣'''(ちょうじゅう) * [[ウルトラシリーズ]]と『[[電光超人グリッドマン]]』に登場する架空の生物。[[怪獣]]の一種。[[ウルトラマンA#超獣の概念]]を参照。一覧は[[ウルトラマンAの登場怪獣]]を参照に * プロレスなどの格闘技で、非常に強い者を表現する言葉。 ** [[アメリカ合衆国]]の[[プロレスラー]]、[[ブルーザー・ブロディ]]の日本での異名。 ** 超獣コンビ - [[スタン・ハンセン]]と[[ブルーザー・ブロディ]]のコンビ。[[ミラクルパワーコンビ]]を参照。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ちようしゆう}} [[Category:ウルトラシリーズ]]
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野良犬
野良犬(のらいぬ)とは 映画 音楽作品 地名 駅 人名
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野良犬(のらいぬ)とは 飼い主のない、野外を彷徨する犬。野犬を参照。 ならず者をいやしんで言う言葉。ごろつきなどとも呼ばれる。 映画 野良犬 (1929年の映画) - 1929年の市川右太衛門プロダクション製作、悪麗之助監督の日本映画。 野良犬 (1949年の映画) - 1949年の新東宝と映画芸術協会提携製作、黒澤明監督の日本映画。 1966年の大映製作、井上芳夫監督の日本映画。犬シリーズを参照。 1973年の松竹製作、森崎東監督の日本映画。1949年の映画のリメイク作品。野良犬 (1949年の映画)#リメイク版を参照。 2002年のミュージアム製作の時代劇映画。藤原健一監督、大沢樹生主演。 2013年にテレビ朝日で放送のスペシャルドラマ。1949年の映画のリメイク作品。野良犬 (1949年の映画)#テレビドラマを参照。 音楽作品 野良犬 (松山千春の曲) - 松山千春のシングル曲。 ARBの曲。アルバム『A.R.B.』に収録。 のらいぬ - キャンディーズの曲。アルバム『年下の男の子』に収録。 地名 群馬県群馬郡清里村に存在した大字。現在の前橋市清野町。 駅 かつて群馬県群馬郡清里村(現・前橋市清野町)に存在した東武鉄道運営の路面電車の停留所名。東武伊香保軌道線#停留所一覧を参照。 人名 野良いぬ - 日本のイラストレーター
{{wiktionary}} '''野良犬'''(のらいぬ)とは *飼い主のない、野外を彷徨する[[犬]]。[[野犬]]を参照。 *[[ならず者]]をいやしんで言う言葉。[[ごろつき]]などとも呼ばれる。 '''映画''' * [[野良犬 (1929年の映画)]] - 1929年の[[市川右太衛門プロダクション]]製作、[[悪麗之助]]監督の日本映画。 * [[野良犬 (1949年の映画)]] - 1949年の[[新東宝]]と[[映画芸術協会]]提携製作、[[黒澤明]]監督の日本映画。 * 1966年の[[大映 (映画)|大映]]製作、[[井上芳夫]]監督の日本映画。[[犬シリーズ]]を参照。 * 1973年の[[松竹]]製作、[[森崎東]]監督の日本映画。1949年の映画のリメイク作品。[[野良犬 (1949年の映画)#リメイク版]]を参照。 * 2002年の[[オールインエンタテインメント|ミュージアム]]製作の時代劇映画。[[藤原健一]]監督、[[大沢樹生]]主演。 * 2013年に[[テレビ朝日]]で放送の[[特別番組|スペシャルドラマ]]。1949年の映画のリメイク作品。[[野良犬 (1949年の映画)#テレビドラマ]]を参照。 '''音楽作品''' * [[野良犬 (松山千春の曲)]] - [[松山千春]]のシングル曲。 * [[ARB (バンド)|ARB]]の曲。アルバム『[[A.R.B.]]』に収録。 * のらいぬ - [[キャンディーズ]]の曲。アルバム『[[年下の男の子 (アルバム)|年下の男の子]]』に収録。 '''地名''' * [[群馬県]][[群馬郡]][[清里村 (群馬県)|清里村]]に存在した[[大字]]。現在の[[前橋市]][[清野町]]。 '''駅''' * かつて群馬県群馬郡清里村(現・前橋市清野町)に存在した[[東武鉄道]]運営の[[路面電車]]の停留所名。[[東武伊香保軌道線#停留所一覧]]を参照。 '''人名''' * [[野良いぬ]] - 日本のイラストレーター {{aimai}} {{DEFAULTSORT:のらいぬ}} [[Category:同名の作品]] [[Category:日本の地名]]
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野犬
野犬(やけん)とは、飼い主がいない犬である。野良犬(のらいぬ)とも呼ばれる。 野犬は、野生化した犬と、捨てられたペットの両方を含む。特に後者は野良犬と呼ばれる。 狭義の野犬は、いったん家畜として飼われたものが、野生化し群れで生活している場合を指す。野生化した犬の例として、オーストラリアのディンゴが挙げられる。 日本では、犬を飼う場合に登録や狂犬病予防接種・係留の義務や徘徊の防止などの様々な規定があり、それらを満たしていなければ野犬と見なされ得る。 野犬と野良犬は、狩猟が可能かどうかで区別をする場合、違うものであるとされる。この場合の野犬の定義は、人間の生活圏への依存が全くみられない、野生動物である。 両者に遺伝的な違いは全くなく、食生活によって区別するとされるが、実際には解剖でもしない限り判別は困難である。 両者は生活圏の違いで便宜的に区別されるが、生物分類上はいずれもタイリクオオカミの一亜種であるイエイヌで、厳密な区別はない。たとえ野良犬がその本来の習性に則り、野犬のように捕食をしたとしても、それを以ってその個体が野犬であるということにはならない。 なお、日本の鳥獣保護法では、山野で自活しているノイヌは狩猟鳥獣で、銃や罠による狩猟が可能である。一方、迷い犬などの一時的に人間から離れて生活しているノライヌは非狩猟鳥獣で、狩猟することはできない。 野犬は人や家畜を襲うことがある。狂犬病の人への感染源のほとんどがイヌで、その点は特に危険視される。 野犬はその習性上、群れを作る傾向が強く、集団で狩りを行う。このため一度大集団が出来上がると、より一層危険性が増す。 ノイヌは日本在来の小動物や陸地に営巣する鳥類を襲い食料とするため、絶滅危惧種の保護上も重大な脅威である。 日本における野犬は、飼い主の飼育放棄に由来するものが多数を占めている。。なおペットの遺棄は違法で、100万円以下の罰金が科せられる。 近年では、野犬の保護件数は減少している。これは、ペットの社会的重要性の増大・伝染病予防などで飼い主の意識が変化し、散歩以外ではペットを外に出さない様式が増えたことが一因である。 また、災害の被災地でペットが倒壊家屋から脱走し、野良化する事例もある。阪神・淡路大震災や新潟県中越地震において、避難施設へのペット連れ込みも絡んで問題視されている。 マイクロチップをペットに埋め込むことで、飼い主の発見につながることが期待できる。 近年開発された埋め込み型マイクロチップ(RFIDの一種)は、ガラスのカプセルに封入した物を、動物の皮膚下に埋め込む事で登録する様式が一部自治体などで始まっている。これらのカプセルは、非常に小型で、また半永久的に機能するため、一度取り付けたらそれら動物(人間も含む)の生涯を通じて機能し、専用の読取装置をかざした際に、登録番号を読み取る事が可能である。 インドではウッタル・プラデーシュ州のシータープルで野犬の集団が出現し、2017年11月から2018年5月にかけて12人の子供が犠牲になったが、違法操業していた屠殺場の閉鎖により食糧がなくなったことが原因と考えられている。 狂犬病の発生・蔓延を予防するため、狂犬病予防法第6条を根拠として、野犬は積極的に保健所や動物保護施設の職員に捕獲される。捕獲された野犬は、3日から1週間といった各保健所等が属する自治体で定められた保管期間を設けて保管される。 一方で、全ての動物は民法上「物」として扱われる性質から、保健所等が受付を停止している休日や夜間に保護された犬は「遺失物・拾得物」として所轄の警察署が保護・管理を行ない、一定期間を経た後に保健所等に引き渡している。 保健所等は同期間内に、当該犬を収容している旨を公示して飼い主を探す、譲渡会等で飼い主を募集する、譲渡希望者に気に入った個体を引き渡すなどを行っている。 しかしそれらが現れない場合、または最初から殺処分が決められている場合は、炭酸ガスや麻酔薬等により殺処分される。また、野犬ではないが飼い主が不要になった犬を保健所等に持ち込むなど「所有権が放棄」された場合は、即日殺処分されることがある。 動物愛護管理法第35条は、「都道府県等は、犬又はねこの引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。」として、飼い犬の引取りを都道府県に義務付けている。 ただし平成24年の法改正で、犬猫等販売業者から引取りを求められた時や環境省令で定める引取りを拒否できる事由がある時は、引取りを拒否できることが明記された。 また同法第35条2項は「前項の規定は、都道府県等が所有者の判明しない犬又はねこの引取りをその拾得者その他の者から求められた場合に準用する。 」として、野良犬の引取りを都道府県等に義務付けている。 過去には処分対象とされた犬が、動物実験用に払い下げられることもあったが、平成18年に全国的に終了した。 動物実験は、実験動物が誕生する前から入念な管理の下扱われていることを前提としている。したがって出所や年齢が判明しない個体を使ってしまえば正確な実験や測定が行えないうえ、その個体が持つ病原体が研究施設を汚染する恐れもある。 ドイツでは民間団体が運営する動物保護施設ティアハイム(Tierheim)が国内に500か所以上あるが、ドイツ動物保護連盟はティアハイムの運営指針で基本的に殺処分してはならないと定めているが、治る見込みのない病気やけがで苦しんでいる動物については動物福祉の観点から獣医師による安楽死が行われている。 一方、ドイツ連邦狩猟法は、州の細則に基づき、狩猟者は狩猟動物を野生の犬及び猫から保護するための野犬・猫の駆除を認めている。ドイツ連邦狩猟法で駆除の対象とされる犬は飼い主のいない犬だけでなく、猟区内で飼主の管理を離れて徘徊する犬や獲物を漁る犬も対象となる。 ドイツ動物保護連盟は連邦狩猟法の改正を主張している。 タイのバンコクでは都内の野良犬は約10万匹いるとされ、年間の苦情は約4500件で、行政当局が捕獲に出動するが避妊手術と狂犬病ワクチンを接種している。その後、飼い主を探して見つからない場合は施設で生涯保護される。 フレーザー島には30の野生犬の一種であるディンゴの集団が生息するとされるが、2001年に9歳児がディンゴの襲撃を受けて死亡したことから2019年4月までに110匹余が殺処分された。 欧米ではアニマルシェルターなどの収容施設があり、こういった野犬や野良猫の保護収容と疾病などの治療や予防接種、および飼い主の斡旋を行っている。これら活動のある地域では、日本のように「ペットとしての犬を求める場合にペットショップに行く」という形ではなく、このアニマルシェルターで犬を品定めして引き取り、この際に登録などが済ませられるという形態となっている。
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野犬(やけん)とは、飼い主がいない犬である。野良犬(のらいぬ)とも呼ばれる。
[[File:Indian street dog.jpg|thumb|野犬([[インド]])]] '''野犬'''(やけん)とは、飼い主がいない[[イヌ|犬]]である。'''野良犬'''(のらいぬ)とも呼ばれる。 == 概要 == [[ファイル:BucharestWildDogs1.JPG|thumb|right|ブカレストで繁殖する野犬]] [[ファイル:A dog relaxing near the VDNKh subway station, Moscow 1650.jpg|thumb|right|モスクワの路上でくつろぐ野犬]] 野犬は、[[野生化]]した犬と、捨てられた[[ペット]]の両方を含む。特に後者は野良犬と呼ばれる。 狭義の野犬は、いったん[[家畜]]として飼われたものが、野生化し群れで生活している場合を指す。野生化した犬の例として、[[オーストラリア]]の[[ディンゴ]]が挙げられる。 [[日本]]では、犬を飼う場合に登録や[[狂犬病]]予防接種・係留の[[義務]]や[[徘徊]]の防止などの様々な規定があり、それらを満たしていなければ野犬と見なされ得る。 == 野犬と野良犬 == 野犬と野良犬は、[[狩猟]]が可能かどうかで区別をする場合、違うものであるとされる<ref name="inu">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104305007X01719630312 衆議院会議録情報 第043回国会 農林水産委員会 第17号]林野庁指導部長による発言</ref>。この場合の野犬の定義は、[[人間]]の[[生活圏]]への依存が全くみられない、[[野生動物]]である。 両者に[[遺伝]]的な違いは全くなく、食生活によって区別するとされるが、実際には[[解剖]]でもしない限り判別は困難である<ref name="inu" />。 両者は生活圏の違いで便宜的に区別されるが、[[生物の分類|生物分類]]上はいずれも[[タイリクオオカミ]]の一亜種であるイエイヌで、厳密な区別はない。たとえ野良犬がその本来の[[習性]]に則り、野犬のように[[捕食]]をしたとしても、それを以ってその個体が野犬であるということにはならない。 なお、日本の[[鳥獣保護法]]では、山野で自活している'''ノイヌ'''は狩猟鳥獣で、[[銃]]や[[罠]]による狩猟が可能である。一方、迷い犬などの一時的に人間から離れて生活している'''ノライヌ'''は非狩猟鳥獣で、狩猟することはできない。 == 野犬の問題点 == 野犬は人や家畜を襲うことがある。[[狂犬病]]の人への感染源のほとんどがイヌで、その点は特に危険視される<ref>[http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs099/en/ Media centre - Rabies ]世界保健機関 2020年5月23日閲覧</ref>。 野犬はその習性上、群れを作る傾向が強く、集団で狩りを行う。このため一度大集団が出来上がると、より一層危険性が増す。 ノイヌは日本在来の小動物や陸地に営巣する鳥類を襲い食料とするため<ref>[http://kyushu.env.go.jp/okinawa/awcc/alien-species.html#jump02 ノイヌ、ノネコ対策]奄美野生生物保護センター 2020年5月21日閲覧</ref>、[[絶滅危惧種]]の保護上も重大な脅威である<ref group="注釈">実例として[[沖縄県]]北部の[[山原]]では、ノイヌやノネコが[[トゲネズミ]]、[[ケナガネズミ]]、[[アカヒゲ]]等の希少種を捕食することが、糞の調査から判明している。加えて、そのような希少生物でなくとも、[[キジバト]]や[[キジ]]、[[カルガモ]]などの低い位置に巣を作る野鳥、両生爬虫類などに対する捕食圧は、地域の生態系や[[生物多様性]]に大きな影響を与える。</ref>。 == 野犬の発生 == === 日本 === ==== 原因 ==== 日本における野犬は、飼い主の飼育放棄に由来するものが多数を占めている。<ref group="注釈">これらは、軽い気持ちで飼い始めたものの、毎日の散歩や世話・或いは[[トイレットトレーニング|用便の躾]]から[[小型犬|座敷犬]]では抜け毛の掃除などなど、想定外の世話が煩わしくなってしまったり、臭いなどの理由や、またはきちんと[[躾|しつけ]]できず主従関係を築けない・無駄吠えが酷いといった問題を抱えて放り出してしまったり意図的に逃げ出し易い状況に置くといったケースが想定される。無秩序に繁殖させてしまって飼い切れ無くなる場合も考えられる。またリードを外してしまって脱走したり、そのまま迷子になってしまう場合や、劣悪な飼育環境や飼い主が替わるなど、置かれた状況が気に入らないために犬自身が自らの意思で脱走する可能性も考えられる。</ref>。なおペットの遺棄は違法で、100万円以下の罰金が科せられる。 近年では、野犬の保護件数は減少している<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/dog-cat.html 犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況]</ref>。これは、ペットの社会的重要性の増大・[[伝染病]]予防などで飼い主の意識が変化し、散歩以外ではペットを外に出さない様式が増えたことが一因である。 また、[[災害]]の被災地でペットが倒壊家屋から脱走し、野良化する事例もある。[[阪神・淡路大震災]]や[[新潟県中越地震]]において、避難施設へのペット連れ込みも絡んで問題視されている。 ==== 防止策 ==== [[マイクロチップ_(動物用)|マイクロチップ]]をペットに埋め込むことで、飼い主の発見につながることが期待できる。 近年開発された埋め込み型[[ICタグ|マイクロチップ]]([[RFID]]の一種)は、[[ガラス]]のカプセルに封入した物を、[[動物]]の皮膚下に埋め込む事で登録する様式が一部自治体などで始まっている。これらのカプセルは、非常に小型で、また半永久的に機能するため、一度取り付けたらそれら動物(人間も含む)の生涯を通じて機能し、専用の読取装置をかざした際に、登録番号を読み取る事が可能である。 === インド === インドではウッタル・プラデーシュ州のシータープルで野犬の集団が出現し、2017年11月から2018年5月にかけて12人の子供が犠牲になったが、違法操業していた屠殺場の閉鎖により食糧がなくなったことが原因と考えられている<ref>{{Cite web|和書|url =https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/05/12-20.php |title = インドで「野犬集団」にかみ殺された子供が12人に 屋外のトイレに出て襲われた子も|publisher =ニューズウィーク日本版|accessdate =2020-07-13}}</ref>。 == 野犬の処遇 == === 日本 === 狂犬病の発生・蔓延を予防するため、[[狂犬病予防法]]第6条を根拠として、野犬は積極的に[[保健所]]や動物保護施設の職員に捕獲される。捕獲された野犬は、3日から1週間といった各保健所等が属する自治体で定められた保管期間を設けて保管される<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11463441/www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/laws/nt_h25_86.pdf 犬及びねこの引取り並びに負傷動物等の収容に関する措置について]環境省</ref>。 一方で、全ての動物は[[民法 (日本)|民法]]上「物」として扱われる性質から、保健所等が受付を停止している休日や夜間に保護された犬は「遺失物・拾得物」として所轄の[[警察署]]が保護・管理を行ない、一定期間を経た後に保健所等に引き渡している<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/files/n_20.pdf 所有者の判明しない犬又は猫その他の動物が拾得された場合の取扱い等について]環境省</ref>。 保健所等は同期間内に、当該犬を収容している旨を公示して飼い主を探す、譲渡会等で飼い主を募集する、譲渡希望者に気に入った個体を引き渡すなどを行っている<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/shuyo/info.html 譲渡会等のお知らせ]</ref>。 しかしそれらが現れない場合、または最初から殺処分が決められている場合は、[[炭酸ガス]]や麻酔薬等により[[殺処分]]される<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11455340/www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/arikata/h16_05/mat04.pdf 犬ねこの引取りや殺処分等]</ref>。また、野犬ではないが飼い主が不要になった犬を保健所等に持ち込むなど「所有権が放棄」された場合は、即日殺処分されることがある<ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ka01/documents/281201kansaketsuka.pdf 住民監査請求に係る監査の結果について]兵庫県</ref>。 ==== 動物愛護管理法による引取り ==== [[動物愛護管理法]]第35条は、「都道府県等は、犬又はねこの引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。」として、飼い犬の引取りを都道府県に義務付けている。 ただし平成24年の法改正で、犬猫等販売業者から引取りを求められた時や環境省令で定める引取りを拒否できる事由がある時は、引取りを拒否できることが明記された<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11433644/www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/revise_h24.html 平成24年に行われた法改正の内容]</ref>。 また同法第35条2項は「前項の規定は、都道府県等が所有者の判明しない犬又はねこの引取りをその拾得者その他の者から求められた場合に準用する。 」として、野良犬の引取りを都道府県等に義務付けている。 ==== 動物実験への払い下げ ==== 過去には処分対象とされた犬が、[[動物実験]]用に払い下げられることもあったが、平成18年に全国的に終了した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.alive-net.net/companion-animal/hikitori/haraisage.html|title=平成18年、動物実験への払い下げはゼロに!|accessdate=2012-08-09}}</ref>。 動物実験は、[[実験動物]]が誕生する前から入念な管理の下扱われていることを前提としている。したがって出所や年齢が判明しない個体を使ってしまえば正確な実験や測定が行えないうえ、その個体が持つ[[病原体]]が研究施設を汚染する恐れもある。 === ドイツ === ドイツでは民間団体が運営する動物保護施設ティアハイム([[:de:Tierheim|Tierheim]])が国内に500か所以上あるが、ドイツ動物保護連盟はティアハイムの運営指針で基本的に殺処分してはならないと定めているが、治る見込みのない病気やけがで苦しんでいる動物については動物福祉の観点から獣医師による安楽死が行われている<ref name="NO830">{{Cite report|author=遠藤 真弘|date=2014-09-16|title=諸外国における犬猫殺処分をめぐる状況―イギリス、ドイツ、アメリカ― 調査と情報 No.830|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8748098_po_0830.pdf?contentNo=1|publisher=国立国会図書館 調査及び立法考査局農林環境課|format=PDF|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 一方、ドイツ連邦狩猟法は、州の細則に基づき、狩猟者は狩猟動物を野生の犬及び猫から保護するための野犬・猫の駆除を認めている<ref name="NO830" />。ドイツ連邦狩猟法で駆除の対象とされる犬は飼い主のいない犬だけでなく、猟区内で飼主の管理を離れて徘徊する犬や獲物を漁る犬も対象となる<ref name="NO830" />。 ドイツ動物保護連盟は連邦狩猟法の改正を主張している<ref name="NO830" />。 === タイ === タイのバンコクでは都内の野良犬は約10万匹いるとされ、年間の苦情は約4500件で、行政当局が捕獲に出動するが避妊手術と狂犬病ワクチンを接種している<ref name="nishinippon20180104">{{Cite web|和書|url =https://www.nishinippon.co.jp/item/n/384073/ |title =タイ 犬には「夢の国」? 殺処分なく生涯保護 前国王の精神浸透|publisher =西日本新聞|accessdate =2020-07-13}}</ref>。その後、飼い主を探して見つからない場合は施設で生涯保護される<ref name="nishinippon20180104" />。 === オーストラリア === [[フレーザー島]]には30の野生犬の一種であるディンゴの集団が生息するとされるが、2001年に9歳児がディンゴの襲撃を受けて死亡したことから2019年4月までに110匹余が殺処分された<ref>{{Cite web |url =https://www.cnn.co.jp/world/35136357.html |title =野生犬が乳児くわえ逃走、父親が格闘し取り戻す 豪州|publisher =CNN|accessdate =2020-07-13}}</ref>。 === 保護と斡旋 === 欧米では[[アニマルシェルター]]などの収容施設があり、こういった野犬や[[野良猫]]の保護収容と疾病などの治療や予防接種、および飼い主の斡旋を行っている<ref name="huffpostjapan23629620">{{Cite news | author =和田千才 | title =繁殖された犬・猫・ウサギ、ペットショップで販売禁止に | newspaper =ハフポスト日本版 | publisher =ザ・ハフィントン・ポスト・ジャパン | date =2018-12-30 | url =https://www.huffingtonpost.jp/entry/pet_jp_5c5b84cee4b0faa1cb6858eb | accessdate =2020-05-23 }}</ref><ref name="diamond129381">{{Cite web|和書|url =https://diamond.jp/articles/-/129381 |title = ドイツの動物保護施設は1000も!|publisher =ダイヤモンド社|accessdate =2020-05-23}}</ref>。これら活動のある地域では、日本のように「ペットとしての犬を求める場合にペットショップに行く」という形ではなく、このアニマルシェルターで犬を品定めして引き取り、この際に登録などが済ませられるという形態となっている<ref name="huffpostjapan23629620" /><ref name="diamond129381" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Feral dogs|Feral dogs}} *[[パリア犬]] *[[タロとジロ]] - 生存していた点においては美談であるが、前述のように野犬は生態系を破壊する危険があり、特に[[南極大陸]]内での野犬化による固有生物への捕食圧が懸念され、このような視点の元に立った短編作品も数編製作されている。 *[[野良猫]] *[[野猫]] *[[ネコ屋敷]] *[[動物愛護団体]] *[[野生化]] *[[集団行動]] *[[動物の権利]] *[[動物愛護]] {{動物の権利}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やけん}} [[Category:犬]]
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ごろつき
ごろつき、ゴロツキ
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ごろつき、ゴロツキ ごろつき - ならず者のこと。「破落戸」「無頼」の字を当てる場合がある。ゴロと略す。 社会的暴力・嫌がらせ行為を行う者や、その行為自体のこと。羽織ゴロ、会社ゴロ、特許ゴロ(パテント・トロール)、社会運動標榜ゴロ、政治ゴロ(選挙ゴロ)など。 ごろつき - 雷の別称。 ゴロツキ - ネコの習性である喉鳴らしの別名。 作品の名 ごろつき (映画) - 1968年の日本映画。 悪友(ごろつき) - 家田荘子の小説。
'''ごろつき'''、'''ゴロツキ''' * ごろつき - [[ならず者]]のこと。「破落戸」「無頼」の字を当てる場合がある。'''ゴロ'''と略す。 ** 社会的[[暴力]]・[[嫌がらせ]]行為を行う者や、その行為自体のこと。[[羽織#羽織ゴロ、羽織ヤクザ|羽織ゴロ]]、[[会社ゴロ]]、特許ゴロ([[パテント・トロール]])、[[社会運動標榜ゴロ]]、政治ゴロ([[選挙屋|選挙ゴロ]])など。 * ごろつき - [[雷]]の別称。 * ゴロツキ - ネコの習性である[[喉鳴らし]]の別名。 * 作品の名 ** [[ごろつき (映画)]] - 1968年の日本映画。 ** 悪友(ごろつき) - [[家田荘子]]の小説。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ころつき}} [[Category:人物に対する軽蔑語]] [[Category:同名の作品]]
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会社ゴロ
会社ゴロ()とは、企業やその従業員のスキャンダルを口外しない代償として口止め料などと称して、当該企業に対して金品を要求する行為、あるいはこうした行為を繰り返すゴロツキを指す。脅迫の材料に媒体を使う場合は新聞ゴロ、雑誌ゴロとも呼ばれることもある。 自ら主宰する(零細な)新聞や雑誌に不利な記事を不利な話を掲載すると暗に脅す、用心棒代わりに会社顧問に就任させるよう強要して顧問料を奪う手口などを総称して企業ゴロとも言われた。 街宣右翼などと結託し、街宣車で本社や営業所、株主総会の会場、あるいは繁華街などに押しかけ執拗にスキャンダルを糾弾するなど、あるいは逆にほめ殺しなどを行うことでターゲットの企業イメージに打撃を与えようとする。怪文書の流布や三流ゴシップ誌を利用した攻撃なども行われる。 警察庁は、総会屋や社会運動標榜ゴロなどと並んで、会社ゴロを企業対象暴力として位置づけ、対策を講じ、企業からの相談に応じているが、古典的な事例は企業側のコンプライアンス強化、暴力団対策法の施行、紙媒体の衰退、ゴロの高齢化などにより衰退しつつある。
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会社ゴロとは、企業やその従業員のスキャンダルを口外しない代償として口止め料などと称して、当該企業に対して金品を要求する行為、あるいはこうした行為を繰り返すゴロツキを指す。脅迫の材料に媒体を使う場合は新聞ゴロ、雑誌ゴロとも呼ばれることもある。
{{読み仮名|'''会社ゴロ'''|かいしゃゴロ}}とは、[[企業]]やその[[従業員]]の[[不祥事|スキャンダル]]を口外しない代償として口止め料などと称して、当該企業に対して金品を要求する行為、あるいはこうした行為を繰り返す[[ゴロツキ]]を指す。脅迫の材料に媒体を使う場合は'''新聞ゴロ'''、'''雑誌ゴロ'''とも呼ばれることもある。 ==概要== 自ら主宰する(零細な)[[新聞]]や[[雑誌]]に不利な[[記事]]を不利な話を掲載すると暗に脅す、[[用心棒]]代わりに会社[[顧問]]に就任させるよう強要して顧問料を奪う手口<ref>『朝日新聞』昭和45年(1970年)3月23日夕刊 3版 11面</ref>などを総称して企業ゴロとも言われた。 [[街宣右翼]]などと結託し、[[街宣車]]で本社や営業所、[[株主総会]]の会場、あるいは[[繁華街]]などに押しかけ執拗にスキャンダルを糾弾するなど、あるいは逆に[[ほめ殺し]]などを行うことでターゲットの企業[[イメージ]]に打撃を与えようとする。[[怪文書]]の流布や三流[[ゴシップ誌]]を利用した攻撃なども行われる。 [[警察庁]]は、[[総会屋]]や[[社会運動標榜ゴロ]]などと並んで、会社ゴロを[[民事介入暴力|企業対象暴力]]として位置づけ、対策を講じ、企業からの相談に応じているが、古典的な事例は企業側のコンプライアンス強化、暴力団対策法の施行、紙媒体の衰退、ゴロの高齢化などにより衰退しつつある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[総会屋]] * [[社会運動標榜ゴロ]] * [[利益至上主義]] * [[特殊知能暴力集団]] * [[環境ゴロ]] * [[えせ同和行為]] * [[民事介入暴力]] * [[行政対象暴力]] * [[暴力団]] {{DEFAULTSORT:かいしやころ}} [[Category:職業]] [[Category:暴力団]] [[Category:犯罪]] [[Category:日本の社会問題]] [[Category:日本の経済]]
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ならず者
ならず者(ならずもの)とは、社会の一員としての義務や役割を果たさない厄介者のこと。同義語として、ヤクザ者、素行不良者、ごろつき、無頼漢()、荒くれ者()、与太者()、チンピラなど。 現代では反社会的勢力を指す言葉として定着しており、犯罪者だけではなく街宣右翼や暴力団員なども該当する。 英語ではRogue State や Rogue Traderなどの表現が存在する。これの直訳として日本語でも「ならずもの国家」や「ならず者トレーダー」などの表現が存在する。これは原語の英語では「Going Rogue」から生まれた表現である。もともとは性格が大人しく、集団行動をする象が(負傷などの理由で)突然狂暴化し、人を踏みつけたり家屋を破壊する現象がイギリスの植民地であるインドで「Go Rogue」と表現され、ここから、象のように大人しく、表向きは従順に組織の決まりに従っているにもかかわらず、予期しない形で組織に甚大な損害を与える者がRogueとされる。よって「Rogue Trader」は、密かに規定に違反する取引を行い膨大な損失を銀行に発生させる行為を指している。よって最初から反社会的存在である「ならず者」では英語の意味は伝わらない。 これ以外にも 「風変わり、常識を逸した」という意味では gonzo(ゴンゾー)があり、好意的なニュアンスでも用いられる。
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ならず者(ならずもの)とは、社会の一員としての義務や役割を果たさない厄介者のこと。同義語として、ヤクザ者、素行不良者、ごろつき、無頼漢、荒くれ者、与太者、チンピラなど。 現代では反社会的勢力を指す言葉として定着しており、犯罪者だけではなく街宣右翼や暴力団員なども該当する。
'''ならず者'''(ならずもの)とは、社会の一員としての義務や役割を果たさない厄介者のこと。同義語として、[[ヤクザ]]者、素行不良者、[[ごろつき]]、{{読み仮名|'''無頼漢'''|ぶらいかん}}、{{読み仮名|'''荒くれ者'''|あらくれもの}}、{{読み仮名|'''与太者'''|よたもの}}、'''[[チンピラ]]'''など。 現代では[[反社会的勢力]]を指す言葉として定着しており、犯罪者だけではなく[[街宣右翼]]や[[暴力団員]]なども該当する。 == 作品 == * [[ならずもの]] - [[グリム童話]]のひとつ。 * [[ならず者 (アルバム)]] - [[イーグルス]]のアルバム。 ** [[ならず者 (曲)]] - [[ならず者 (アルバム)]]に収録されたの曲。 * [[ならず者 (1943年の映画)]] - 1943年のアメリカ映画。 * [[ならず者 (1956年の映画)]] - 1956年の日本映画。[[青柳信雄]]監督、[[三船敏郎]]主演。 * [[ならず者 (1964年の映画)]] - 1964年の日本映画。[[石井輝男]]監督、[[高倉健]]主演。 == 英語 == 英語では[[w:Rogue state|Rogue State]] や [[w:Rogue trader|Rogue Trader]]などの表現が存在する。これの直訳として日本語でも「[[ならずもの国家]]」や「ならず者トレーダー」などの表現が存在する。これは原語の英語では「Going Rogue」から生まれた表現である。もともとは性格が大人しく、集団行動をする象が(負傷などの理由で)突然狂暴化し、人を踏みつけたり家屋を破壊する現象がイギリスの植民地であるインドで「Go Rogue」と表現され、ここから、象のように大人しく、表向きは従順に組織の決まりに従っているにもかかわらず、予期しない形で組織に甚大な損害を与える者がRogueとされる。よって「Rogue Trader」は、密かに規定に違反する取引を行い膨大な損失を銀行に発生させる行為を指している。よって最初から反社会的存在である「ならず者」では英語の意味は伝わらない。 これ以外にも 「風変わり、常識を逸した」という意味では gonzo([[ゴンゾー (曖昧さ回避)|ゴンゾー]])があり、好意的なニュアンスでも用いられる。 == 関連項目 == * [[収賄]] * [[汚職]] == 外部リンク == * {{コトバンク}} {{DEFAULTSORT:ならすもの}} [[Category:人物に対する軽蔑語]] [[Category:侮蔑]] [[Category:同名の作品]]
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内親王
内親王(、英: Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。または、内親王の身位を与えられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて嫡男系嫡出で2親等以内の女性及び天皇の姉妹に与えられる。かつては、内親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。 かつての律令制では、天皇の皇女および姉妹を内親王(、うちのみこ、ひめみこ)といった。なお、中国では皇女の封号は原則的に「公主」であり、「内親王」は「ひめみこ」の訓に対応するものとして日本で考案されたものとみられる。別表記では、姫御子(ひめみこ)姫宮(ひめみや)などがある。 また古来から、第一皇女を女一宮(おんないちみや)、その順に女二宮、女三宮と称す。 明治時代に入り、皇室典範成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、親王妃にも内親王、王妃を女王と規定する条文の策定が検討された。しかし、有栖川宮熾仁親王が「名分よろしからず」と述べ、これに反対した。内親王は皇女の称であり、王号は皇統から出たものに限るというのがその理由だった。結果、内親王はその身位の成立以来、皇女の称号として存続した。 現在の皇室典範では、天皇の嫡出の皇女および天皇の嫡男系の嫡出の皇孫で女子であるもの(6条)、また、天皇の姉妹(7条)を内親王という。天皇・皇太子の娘である場合、さらに「○宮」の御称号が与えられる。 内親王・女王が皇族以外の臣下に嫁すことを降嫁といい、結婚に際し皇族の身分を失う。また、古語では内親王を母として生まれること、または生まれた子を「皇女腹」(みこばら)といった。 また、天皇の嫡出の3親等以遠の女子(天皇の姉妹は除く)は女王という。 現在、合計2人がその身位にある。 大日本帝国憲法下では「皇籍離脱」ではなく「臣籍降下」と言っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "内親王(、英: Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。または、内親王の身位を与えられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて嫡男系嫡出で2親等以内の女性及び天皇の姉妹に与えられる。かつては、内親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "かつての律令制では、天皇の皇女および姉妹を内親王(、うちのみこ、ひめみこ)といった。なお、中国では皇女の封号は原則的に「公主」であり、「内親王」は「ひめみこ」の訓に対応するものとして日本で考案されたものとみられる。別表記では、姫御子(ひめみこ)姫宮(ひめみや)などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また古来から、第一皇女を女一宮(おんないちみや)、その順に女二宮、女三宮と称す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "明治時代に入り、皇室典範成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、親王妃にも内親王、王妃を女王と規定する条文の策定が検討された。しかし、有栖川宮熾仁親王が「名分よろしからず」と述べ、これに反対した。内親王は皇女の称であり、王号は皇統から出たものに限るというのがその理由だった。結果、内親王はその身位の成立以来、皇女の称号として存続した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の皇室典範では、天皇の嫡出の皇女および天皇の嫡男系の嫡出の皇孫で女子であるもの(6条)、また、天皇の姉妹(7条)を内親王という。天皇・皇太子の娘である場合、さらに「○宮」の御称号が与えられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "内親王・女王が皇族以外の臣下に嫁すことを降嫁といい、結婚に際し皇族の身分を失う。また、古語では内親王を母として生まれること、または生まれた子を「皇女腹」(みこばら)といった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、天皇の嫡出の3親等以遠の女子(天皇の姉妹は除く)は女王という。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在、合計2人がその身位にある。", "title": "現在の内親王" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法下では「皇籍離脱」ではなく「臣籍降下」と言っていた。", "title": "内親王一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "", "title": "内親王一覧" } ]
内親王(ないしんのう、は、皇族女子の身位または称号の一つ。または、内親王の身位を与えられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて嫡男系嫡出で2親等以内の女性及び天皇の姉妹に与えられる。かつては、内親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。
{{混同|皇女}} {{読み仮名|'''内親王'''|ないしんのう|{{lang-en-short|Princess}}}}は、[[皇族]]女子の[[身位]]または[[称号]]の一つ<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])2063頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]])1862頁参照。</ref>。または、内親王の身位を与えられた皇族のこと。現行の[[皇室典範]]では[[天皇]]からみて嫡男系嫡出で2[[親等]]以内の女性及び天皇の姉妹に与えられる。かつては、[[親王宣下|内親王宣下]]を受けた皇族女子に与えられた。 == 概要 == {{Infobox Royal styles |royal name = 内親王 |image = [[File:Japan Kouzoku Flag 16ben.svg|100px]] |dipstyle = [[殿下|内親王殿下]]<br>''Her Imperial Highness the Princess'' |color = #FFFFFF |background = #BE0026 }} かつての[[律令制]]では、[[天皇]]の[[皇女]]および姉妹を{{読み仮名|'''内親王'''|ないしんのう|うちのみこ、ひめみこ}}といった。なお、中国では皇女の封号は原則的に「[[公主]]」であり、「内親王」は「ひめみこ」の訓に対応するものとして日本で考案されたものとみられる。別表記では、'''姫御子'''(ひめみこ)'''姫宮'''(ひめみや)などがある。 また古来から、第一皇女を'''女一宮'''(おんないちみや)、その順に'''女二宮'''、女三宮と称す。 [[明治時代]]に入り、[[皇室典範]]成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、[[親王妃]]にも内親王、[[王妃 (皇族)|王妃]]を[[女王 (皇族)|女王]]と規定する条文の策定が検討された。しかし、[[有栖川宮熾仁親王]]が「名分よろしからず」と述べ、これに反対した。内親王は皇女の称であり、王号は皇統から出たものに限るというのがその理由だった。結果、内親王はその身位の成立以来、皇女の称号として存続した<ref>[[鈴木正幸]][[著作|著]]『皇室制度』([[岩波書店]]、[[2005年]]) 63頁参照。</ref>。 現在の皇室典範では、天皇の[[嫡出]]の皇女および天皇の[[嫡男]]系の嫡出の[[皇孫]]で女子であるもの(6条)、また、天皇の姉妹(7条)を内親王という。天皇・皇太子の娘である場合、さらに「○宮」の[[御称号]]が与えられる。 内親王・女王が皇族以外の臣下に嫁すことを[[降嫁]]といい、結婚に際し[[臣籍降下|皇族の身分を失う]]。また、古語では内親王を母として生まれること、または生まれた子を「皇女腹」(みこばら)といった<ref>「大辞泉」(小学館)</ref>。 また、天皇の[[嫡出]]の3親等以遠の女子(天皇の姉妹は除く)は[[女王 (皇族)|'''女王''']]という。 == 現在の内親王 == 現在、合計2人がその身位にある。 {| class="wikitable" style="font-size:95%" ! ! !読み !生年月日 !現年齢 !今上天皇から<br />見た続柄 !世数<ref>直系[[親族|尊属]]の天皇から数えた数</ref> ![[御称号]] |- |[[ファイル:Aiko_2021_(cropped).jpg|100px]] |[[愛子内親王]] ||あいこ ||2001年(平成13年)12月1日 ||{{年数|2001|12|1}}歳||第一皇女子 |一世 |敬宮(としのみや) |- |[[ファイル:Princess Kako.jpg|100px]] |[[佳子内親王]] |かこ |1994年(平成6年)12月29日 |{{年数|1994|12|29}}歳 |皇姪 / 秋篠宮文仁親王第二女子 |二世 | |} == 内親王一覧 == ===近代以前=== {{日本の内親王一覧}} ====江戸時代==== {| class="wikitable" !名 !読み !続柄 !備考 !生没年 |- |[[昭子内親王|昭子]] |あきこ |[[後水尾天皇]]第四皇女 |生涯独身 |1629-1675 |- |[[秋子内親王|秋子]] |あきこ |[[東山天皇]]第一皇女 |[[伏見宮貞建親王]]の妃 |1700-1756 |- |[[明正天皇|興子]] |おきこ |後水尾天皇の第二皇女 |[[明正天皇]] |1624-1696 |- |} ===近代以降=== {{近現代日本の内親王}} [[大日本帝国憲法]]下では「皇籍離脱」ではなく「臣籍降下」と言っていた。 {| class="wikitable" !名 !読み !続柄 !備考 !生没年 |- |[[梅宮薫子内親王|薫子]] |しげこ |[[明治天皇]]第2皇女 |([[夭折]]) |1875-1876 |- |[[滋宮韶子内親王|韶子]] |あきこ |明治天皇第3皇女 |(夭折) |1881-1883 |- |[[増宮章子内親王|章子]] |ふみこ |明治天皇第4皇女 |(夭折) |1883 |- |[[久宮静子内親王|静子]] |しずこ |明治天皇第5皇女 |(夭折) |1886-1887 |- |[[恒久王妃昌子内親王|昌子]] |まさこ |明治天皇第6皇女 |[[竹田宮恒久王]]と婚姻 |1888-1940 |- |[[成久王妃房子内親王|房子]] |ふさこ |明治天皇第7皇女 |[[北白川宮成久王]]と婚姻 |1890-1974 |- |[[鳩彦王妃允子内親王|允子]] |のぶこ |明治天皇第8皇女 |[[朝香宮鳩彦王]]と婚姻 |1891-1933 |- |[[東久邇聡子|聡子]] |としこ |明治天皇第9皇女 |[[東久邇宮稔彦王]]と婚姻 |1896-1978 |- |[[貞宮多喜子内親王|多喜子]] |たきこ |明治天皇第10皇女 |(夭折) |1897-1899 |- |[[東久邇成子|成子]] |しげこ |[[昭和天皇]]第1皇女 |[[盛厚王]]と婚姻 |1925-1961 |- |[[久宮祐子内親王|祐子]] |さちこ |昭和天皇第2皇女 |(夭折) |1927-1928 |- |[[鷹司和子|和子]] |かずこ |昭和天皇第3皇女 |[[鷹司平通]]に降嫁 |1929-1989 |- |[[池田厚子|厚子]] |あつこ |昭和天皇第4皇女 |[[池田隆政]]に降嫁 |1931- |- |[[島津貴子|貴子]] |たかこ |昭和天皇第5皇女 |[[島津久永]]に降嫁 |1939- |- |[[近衞甯子|甯子]] |やすこ |[[三笠宮崇仁親王]]第1女子 |[[近衞忠煇]]に降嫁 |1944- |- |[[千容子|容子]] |まさこ |三笠宮崇仁親王第2女子 |[[千宗室 (16代)]]に降嫁 |1951- |- |[[黒田清子|清子]] |さやこ |[[明仁|上皇]]第1皇女子 |[[黒田慶樹]]に降嫁 |1969- |- |[[小室眞子|眞子]] |まこ |[[秋篠宮文仁親王]]第1女子 |[[小室圭]]に降嫁 |1991- |} <ref>『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2009</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参照文献 == * 鈴木正幸著『皇室制度』(岩波書店、2005年) ISBN 4004302897 * 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X * 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059 == 関連項目 == *[[宮家一覧]] *[[公主]] *[[翁主]] == 外部リンク == {{Wiktionary|内親王}} *{{Egov law|322AC0000000003|皇室典範}} {{日本の内親王一覧}} {{近現代日本の内親王}} {{天皇項目}} {{Imperial-stub}} {{DEFAULTSORT:ないしんのう}} [[Category:身位]] [[Category:日本の内親王|*]] [[Category:女性の称号]]
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親王
親王()は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本やベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンス(英:prince)の訳語として用いることもままある。 「王」は本来は君主を指す語であるが、漢朝以後、王よりも上級の君主号として皇帝号が位置づけられるようになると、「王」の称号は、皇帝の配下のうち特に高位の者に対して用いられ、諸侯の称号として(諸侯王)だけでなく、皇族男子の称号としても用いられるようになった。そして、魏以後、皇族男子としての「王」のうち、特に皇帝と近縁であるなど一定の者に対しては「親王」というさらに位が与えられるようになり、これが後に日本や大韓帝国に波及した。 現在は天皇の嫡出の男子(皇子)、および天皇の嫡男系嫡出の男子(嫡出子である皇子から生まれた嫡出子の皇孫)である皇族を親王という(皇室典範第6条参照)。なお、親王の内、今上天皇の皇男子たる皇嗣(皇位継承順位1位)である者を皇太子といい、皇孫たる皇嗣である者を皇太孫という。また、親王の内、天皇・皇太子の男子には御称号が与えられる。また、皇室典範第7条により、王が皇位継承をした場合には、その兄弟たる王も親王に身位が変更される。天皇の子や男系の孫であっても、庶子または庶子の子である者は皇族とならず、身位はつかない。 なお、女子の親王号を内親王という。また嫡男系嫡出の子であって3世以下(曾孫の代以降)にあたる皇族は男子は王、女子は女王という。 皇族身位令(皇室令。既に廃止)に準じて、成年となった場合は大勲位の勲等に叙せられ、大勲位菊花大綬章が授けられる。なお、内親王は勲一等に叙せられ、勲一等宝冠章が授けられ、王は勲一等に叙せられ、勲一等旭日桐花大綬章が授けられ、女王は勲二等に叙せられ、勲二等宝冠章が授けられることになっていた。戦後でも親王には、大勲位菊花大綬章が授けられ、親王妃、内親王には勲一等宝冠章(現、宝冠大綬章)が、王妃、女王には勲二等宝冠章(現、宝冠牡丹章)が授けられている。 現代の皇室において、特定の天皇及び皇族の子女らの呼称として「親王(男性)」及び「内親王(女性)」のみが用いられるが、第一皇子(第一皇男子)、第二皇子(第二皇男子)、第一皇女(第一皇女子)というように、天皇との続柄を指す場合に限っては皇子(皇男子)及び皇女(皇女子)が使用され、「第一親王」や「第一内親王」といった呼称は使わない。 清朝以前の王朝では、皇族の等級としての親王は存在したが、「親王」を直接冠する称号は存在しなかった。(等級としての)親王には一般に王号が与えられ、封地を取って「○○王」と呼んだ。これを歴史用語では諸侯王と呼ぶが、これが日本の(称号としての)「親王」に相当する。王に対応する女性皇族の号は公主である。王の下位の称号として郡王があり、日本の「王」に相当する。郡王に対応する女性皇族の号は郡主である。 また、皇太子や王は相対的な概念であるため、皇太子に立てられた際には王の身分を失った。 清朝における親王は、旗王である清朝皇族愛新覚羅氏爵位の最高位であり、世襲親王と非世襲親王があった。世襲特権が認められている者には、建国時期に活躍した6人の親王と2人の郡王の他に、清朝中期、末期に特別な功績があるとして世襲が許された4人の親王がいた。その他の非世襲親王は1代ごとに爵位が下がり、鎮国公まで下がってからは世襲になった。 なお、モンゴル王侯や、初期には清朝の中国制覇に大功のあった呉三桂(平西王)をはじめとした三藩の漢人将軍にも親王位が授けられており、旗王と同格とされた。 清朝初期の世襲皇族 中期、末期に認められた世襲皇族 李氏朝鮮では、王族の男子には「○○君」といった称号が与えられていた。大韓帝国に国号を改めた際に、皇帝に近い皇族の爵位として王位が定められた。大韓帝国ではしばしば「親王」という呼称も用いられたが、これは王への敬意を込めて呼称する際に用いられたもので、正確な称号は「王」である。 日本においては、条約締結などの席において相手の君主国の君主を一律に皇帝と読み替えていた(皇帝#日本の皇帝も参照)。この流れから、「皇帝」の親族たる「皇族」男子を親王と読み替える慣例が生まれた。 平成時代においても、同じアジアのタイ王室において王族成員を(個人単位で)親王・内親王と読み替える事例が散見されるが、ラーマ9世崩御前後ともなるとマスコミなどでも王子・王女と報道することが殆どである。 親王呼びは主に王子呼びなどにとって代わられたが、これは国王を皇帝と読み替える官報の方針が転換されたことも大きい。また、マスコミなどを通じて世界各国の「王子様、王女様」がゴシップ的に掲載されるようになったことなどで、そうした場で親王と呼ばれることは(日本の皇室成員を紹介する場合を除いて)見られない。 一方で旧オーストリア帝室における男子成員につけられた「オーストリア大公」(Erzherzog、英語ではArchduke)や旧ロシア帝室のロシア大公(Великий князь、英語ではGrand Duke)などにおいても、慣例的に「王子」と呼ぶかあるいは一律に「大公」と呼び、親王と呼ぶことがない。これは英訳からくる「duke」の綴りから大公と訳したことも大きい。しかしながら両称号とも、支配地であるオーストリアやロシアの統治者・主権者としての意味合いを有しており、その点では王(爵)に上回る地位として用意された親王に近い。オーストリアやロシアでは帝政が廃止され、現在の成員が国家的に皇族と認められたわけではないため、この用法に対する公的な意見の場も設けられてはいない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "親王()は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本やベトナムにおいても採用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンス(英:prince)の訳語として用いることもままある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「王」は本来は君主を指す語であるが、漢朝以後、王よりも上級の君主号として皇帝号が位置づけられるようになると、「王」の称号は、皇帝の配下のうち特に高位の者に対して用いられ、諸侯の称号として(諸侯王)だけでなく、皇族男子の称号としても用いられるようになった。そして、魏以後、皇族男子としての「王」のうち、特に皇帝と近縁であるなど一定の者に対しては「親王」というさらに位が与えられるようになり、これが後に日本や大韓帝国に波及した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在は天皇の嫡出の男子(皇子)、および天皇の嫡男系嫡出の男子(嫡出子である皇子から生まれた嫡出子の皇孫)である皇族を親王という(皇室典範第6条参照)。なお、親王の内、今上天皇の皇男子たる皇嗣(皇位継承順位1位)である者を皇太子といい、皇孫たる皇嗣である者を皇太孫という。また、親王の内、天皇・皇太子の男子には御称号が与えられる。また、皇室典範第7条により、王が皇位継承をした場合には、その兄弟たる王も親王に身位が変更される。天皇の子や男系の孫であっても、庶子または庶子の子である者は皇族とならず、身位はつかない。", "title": "日本の皇室における現在の親王" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、女子の親王号を内親王という。また嫡男系嫡出の子であって3世以下(曾孫の代以降)にあたる皇族は男子は王、女子は女王という。", "title": "日本の皇室における現在の親王" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "皇族身位令(皇室令。既に廃止)に準じて、成年となった場合は大勲位の勲等に叙せられ、大勲位菊花大綬章が授けられる。なお、内親王は勲一等に叙せられ、勲一等宝冠章が授けられ、王は勲一等に叙せられ、勲一等旭日桐花大綬章が授けられ、女王は勲二等に叙せられ、勲二等宝冠章が授けられることになっていた。戦後でも親王には、大勲位菊花大綬章が授けられ、親王妃、内親王には勲一等宝冠章(現、宝冠大綬章)が、王妃、女王には勲二等宝冠章(現、宝冠牡丹章)が授けられている。", "title": "日本の皇室における現在の親王" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現代の皇室において、特定の天皇及び皇族の子女らの呼称として「親王(男性)」及び「内親王(女性)」のみが用いられるが、第一皇子(第一皇男子)、第二皇子(第二皇男子)、第一皇女(第一皇女子)というように、天皇との続柄を指す場合に限っては皇子(皇男子)及び皇女(皇女子)が使用され、「第一親王」や「第一内親王」といった呼称は使わない。", "title": "日本の皇室における現在の親王" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "清朝以前の王朝では、皇族の等級としての親王は存在したが、「親王」を直接冠する称号は存在しなかった。(等級としての)親王には一般に王号が与えられ、封地を取って「○○王」と呼んだ。これを歴史用語では諸侯王と呼ぶが、これが日本の(称号としての)「親王」に相当する。王に対応する女性皇族の号は公主である。王の下位の称号として郡王があり、日本の「王」に相当する。郡王に対応する女性皇族の号は郡主である。", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、皇太子や王は相対的な概念であるため、皇太子に立てられた際には王の身分を失った。", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "清朝における親王は、旗王である清朝皇族愛新覚羅氏爵位の最高位であり、世襲親王と非世襲親王があった。世襲特権が認められている者には、建国時期に活躍した6人の親王と2人の郡王の他に、清朝中期、末期に特別な功績があるとして世襲が許された4人の親王がいた。その他の非世襲親王は1代ごとに爵位が下がり、鎮国公まで下がってからは世襲になった。", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、モンゴル王侯や、初期には清朝の中国制覇に大功のあった呉三桂(平西王)をはじめとした三藩の漢人将軍にも親王位が授けられており、旗王と同格とされた。", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "清朝初期の世襲皇族", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中期、末期に認められた世襲皇族", "title": "中国諸王朝の親王" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "李氏朝鮮では、王族の男子には「○○君」といった称号が与えられていた。大韓帝国に国号を改めた際に、皇帝に近い皇族の爵位として王位が定められた。大韓帝国ではしばしば「親王」という呼称も用いられたが、これは王への敬意を込めて呼称する際に用いられたもので、正確な称号は「王」である。", "title": "大韓帝国の親王" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本においては、条約締結などの席において相手の君主国の君主を一律に皇帝と読み替えていた(皇帝#日本の皇帝も参照)。この流れから、「皇帝」の親族たる「皇族」男子を親王と読み替える慣例が生まれた。", "title": "諸外国の王室男子に対する呼称としての親王" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "平成時代においても、同じアジアのタイ王室において王族成員を(個人単位で)親王・内親王と読み替える事例が散見されるが、ラーマ9世崩御前後ともなるとマスコミなどでも王子・王女と報道することが殆どである。", "title": "諸外国の王室男子に対する呼称としての親王" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "親王呼びは主に王子呼びなどにとって代わられたが、これは国王を皇帝と読み替える官報の方針が転換されたことも大きい。また、マスコミなどを通じて世界各国の「王子様、王女様」がゴシップ的に掲載されるようになったことなどで、そうした場で親王と呼ばれることは(日本の皇室成員を紹介する場合を除いて)見られない。", "title": "諸外国の王室男子に対する呼称としての親王" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方で旧オーストリア帝室における男子成員につけられた「オーストリア大公」(Erzherzog、英語ではArchduke)や旧ロシア帝室のロシア大公(Великий князь、英語ではGrand Duke)などにおいても、慣例的に「王子」と呼ぶかあるいは一律に「大公」と呼び、親王と呼ぶことがない。これは英訳からくる「duke」の綴りから大公と訳したことも大きい。しかしながら両称号とも、支配地であるオーストリアやロシアの統治者・主権者としての意味合いを有しており、その点では王(爵)に上回る地位として用意された親王に近い。オーストリアやロシアでは帝政が廃止され、現在の成員が国家的に皇族と認められたわけではないため、この用法に対する公的な意見の場も設けられてはいない。", "title": "諸外国の王室男子に対する呼称としての親王" } ]
親王は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本やベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。
{{読み仮名|'''親王'''|しんのう}}は、[[東アジア]]において、[[嫡出]]の[[皇子]]や最高位の[[皇族]]男子に与えられる[[称号]]。もともと[[中国]]諸[[王朝]]([[西晋|晋]]以後)において用いられ、[[日本]]や[[ベトナム]]においても採用された。 これらに倣って、非[[漢字文化圏|漢字圏]]の[[君主]]の親族男子を親王と呼ぶことや、[[プリンス]]([[英語|英]]:prince)の訳語として用いることもままある。 == 概説 == {{Infobox Royal styles |royal name = 親王 |image = [[File:Japan Kouzoku Flag 16ben.svg|100px]] |dipstyle = [[殿下]]<br>''His Imperial Highness the Prince'' |color = #FFFFFF |background = #BE0026 }} {{see also|男性皇族一覧}} 「[[王]]」は本来は君主を指す語であるが、[[漢|漢朝]]以後、王よりも上級の[[君主号]]として[[皇帝]]号が位置づけられるようになると、「王」の称号は、皇帝の配下のうち特に高位の者に対して用いられ、諸侯の称号として([[諸侯王]])だけでなく、皇族男子の称号としても用いられるようになった。そして、[[魏 (三国)|魏]]以後、皇族男子としての「王」のうち、特に皇帝と近縁であるなど一定の者に対しては「親王」というさらに位が与えられるようになり、これが後に日本や大韓帝国に波及した。 == 日本の皇室における現在の親王 == {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! ! !読み !生年月日 !現年齢 !第126代天皇[[徳仁]]から<br />見た続柄 ![[皇位継承順位|皇位継承<br />順位]] ![[摂政]]就任<br />順位 !世数<ref>直系尊属の天皇から数えた数</ref> ![[御称号]] |- |[[ファイル:Prince Fumihito Brazil 2015 (1).jpg|100px]] |[[秋篠宮文仁親王]] |ふみひと |1965年(昭和40年)11月30日 |{{年数|1965|11|30}}歳 |弟 / [[明仁]]第二皇男子 |第1位 |第1位 |一世 |礼宮(あやのみや) |- |[[ファイル:Prince Hisahito of Akishino 20201130.jpg|100px]] |[[悠仁親王]] |ひさひと |2006年(平成18年)9月6日 |{{年数|2006|9|6}}歳 |甥 / [[秋篠宮文仁親王]]第一男子 |第2位 | |二世 | |- |[[ファイル:Prince Masahito cropped 2 Prince Masahito Prince Albert II Princess Hanako and Yukiya Amano 20100713.jpg|100px]] |[[常陸宮正仁親王]] |まさひと |1935年(昭和10年)11月28日 |{{年数|1935|11|28}}歳 |叔父 / [[昭和天皇]]第二皇男子 |第3位 |第2位 |一世 |義宮(よしのみや) |} 現在は[[天皇]]の[[嫡出]]の男子([[皇子]])、および天皇の[[嫡男]]系嫡出の男子(嫡出子である皇子から生まれた嫡出子の皇孫)である[[皇族]]を'''親王'''という([[皇室典範]]第6条参照)。なお、親王の内、[[今上天皇]]の皇男子たる[[皇嗣]]([[皇位継承順位]]1位)である者を'''[[皇太子]]'''といい、皇孫たる皇嗣である者を皇太孫という。また、親王の内、天皇・皇太子の男子には[[御称号]]が与えられる。また、皇室典範第7条により、[[王 (皇族)|王]]が[[皇位継承]]をした場合には、その兄弟たる王も親王に身位が変更される。天皇の子や男系の孫であっても、庶子または庶子の子である者は皇族とならず、身位はつかない。 なお、女子の親王号を'''[[内親王]]'''という。また嫡男系嫡出の子であって3世以下(曾孫の代以降)にあたる皇族は男子は'''[[王 (皇族)|王]]'''、女子は'''[[女王 (皇族)|女王]]'''という。 [[皇族身位令]]([[皇室令]]。既に廃止)に準じて、成年となった場合は大勲位の[[勲等]]に叙せられ、[[大勲位菊花大綬章]]が授けられる。なお、内親王は勲一等に叙せられ、[[宝冠章|勲一等宝冠章]]が授けられ、王は勲一等に叙せられ、[[勲一等旭日桐花大綬章]]が授けられ、女王は勲二等に叙せられ、勲二等宝冠章が授けられることになっていた。戦後でも親王には、大勲位菊花大綬章が授けられ、[[親王妃]]、内親王には勲一等宝冠章(現、宝冠大綬章)が、[[王妃]]、女王には勲二等宝冠章(現、宝冠牡丹章)が授けられている。 現代の[[皇室]]において、特定の天皇及び皇族の子女らの呼称として「親王(男性)」及び「内親王(女性)」のみが用いられるが、第一皇子(第一皇男子)、第二皇子(第二皇男子)、第一皇女(第一皇女子)というように、天皇との[[続柄]]を指す場合に限っては皇子(皇男子)及び皇女(皇女子)が使用され、「第一親王」や「第一内親王」といった呼称は使わない。 == 中国諸王朝の親王 == [[清|清朝]]以前の王朝では、皇族の等級としての親王は存在したが、「親王」を直接冠する称号は存在しなかった。(等級としての)親王には一般に'''王'''号が与えられ、封地を取って「○○王」と呼んだ。これを歴史用語では[[諸侯王]]と呼ぶが、これが日本の(称号としての)「親王」に相当する。王に対応する女性皇族の号は[[公主]]である。王の下位の称号として'''郡王'''があり、日本の「[[王 (皇族)|王]]」に相当する。郡王に対応する女性皇族の号は郡主である。 また、皇太子や王は相対的な概念であるため、皇太子に立てられた際には王の身分を失った。 === 清朝の親王 === [[清|清朝]]における親王は、[[八旗|旗王]]である清朝皇族[[愛新覚羅氏]]爵位の最高位であり、世襲親王と非世襲親王があった。世襲特権が認められている者には、建国時期に活躍した6人の親王と2人の郡王の他に、清朝中期、末期に特別な功績があるとして世襲が許された4人の親王がいた。その他の非世襲親王は1代ごとに爵位が下がり、鎮国公まで下がってからは世襲になった。 なお、モンゴル王侯や、初期には清朝の中国制覇に大功のあった[[呉三桂]](平西王)をはじめとした三藩の漢人将軍にも親王位が授けられており、旗王と同格とされた。 ==== 清朝皇族の爵位 ==== * ホショイ・チン・ワン(hošoi cin wang、和碩親王) * 世子(šidzi、親王の嗣子) * ドロイ・ギュン・ワン(doroi giyūn wang、多羅郡王) * 長子(jangdzi、郡王の嗣子) * ドロイ・ベイレ(doroi beile、多羅貝勒) * グサイ・ベイセ(gūsai beise、固山貝子) * 鎮国公(gurun be dalire gung) * 輔国公(gurun de aisilara gung) * 不入八分鎮国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung) * 不入八分輔国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun de aisilara gung) * 鎮国将軍(gurun be dalire janggin) * 輔国将軍(gurun de aisilara janggin) * 奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin) * 奉恩将軍(hesi be tuwakiyara janggin) ==== 世襲皇族 ==== 清朝初期の世襲皇族 * 礼親王(doronggo cin wang) ダイシャン(Daišan、代善) * 睿親王(mergen cin wang) [[ドルゴン]](Dorgon、多爾袞) * 豫親王(erke cin wang) ドド(Dodo、多鐸) * [[粛親王]](fafungga cin wang) [[ホーゲ]](Hooge、豪格) * 承沢親王(kesingge cin wang) ショセ(Šose、碩塞) - 後に荘親王(tob cin wang)と改称。 * 鄭親王(ujen cin wang) ジルガラン(Jirgalang、済爾哈朗) * 克勤郡王(kicehe giyūn wang) ヨト(Yoto、岳託) * 順承郡王(dahashūn giyūn wang) レクデフン(Lekdehun、勒克徳渾) 中期、末期に認められた世襲皇族 * [[怡親王]](urgun cin wang) [[愛新覚羅胤祥|胤祥]] * [[恭親王]](gungnecuke cin wang) [[愛新覚羅奕訢|奕訢]] * [[醇親王]](hatan cin wang) [[愛新覚羅奕譞|奕譞]] * [[慶親王]](fengšen cin wang) [[愛新覚羅奕劻|奕劻]] == 大韓帝国の親王 == [[李氏朝鮮]]では、王族の男子には「○○君」といった称号が与えられていた。[[大韓帝国]]に国号を改めた際に、皇帝に近い皇族の爵位として王位が定められた。大韓帝国ではしばしば「親王」という呼称も用いられたが、これは王への敬意を込めて呼称する際に用いられたもので、正確な称号は「王」である<ref>{{Cite book|和書|author=新城道彦|authorlink=新城道彦|date=2015年3月|title=朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-102309-4}} Kindle版、位置No.全266中 54 / 21%.</ref>。 * 義王([[李堈]]) * 英王([[李垠]]) * 興王([[李載冕|李熹]]) * 完王({{仮リンク|李墡|ko|완친왕}}、追贈) == 諸外国の王室男子に対する呼称としての親王 == 日本においては、条約締結などの席において相手の君主国の君主を一律に皇帝と読み替えていた([[皇帝#日本の皇帝]]も参照)。この流れから、「皇帝」の親族たる「皇族」男子を親王と読み替える慣例が生まれた。 平成時代においても、同じアジアのタイ王室において王族成員を(個人単位で)親王・内親王と読み替える事例が散見されるが、[[ラーマ9世]]崩御前後ともなるとマスコミなどでも王子・王女と報道することが殆どである。 親王呼びは主に王子呼びなどにとって代わられたが、これは国王を皇帝と読み替える官報の方針が転換されたことも大きい。また、マスコミなどを通じて世界各国の「王子様、王女様」がゴシップ的に掲載されるようになったことなどで、そうした場で親王と呼ばれることは(日本の皇室成員を紹介する場合を除いて)見られない。 一方で旧オーストリア帝室における男子成員につけられた「[[オーストリア大公]]」(Erzherzog、英語ではArchduke)や旧ロシア帝室の[[ロシア大公一覧|ロシア大公]](Великий князь、英語ではGrand Duke)などにおいても、慣例的に「王子」と呼ぶかあるいは一律に「大公」と呼び、親王と呼ぶことがない。これは英訳からくる「duke」の綴りから大公と訳したことも大きい。しかしながら両称号とも、支配地であるオーストリアやロシアの統治者・主権者としての意味合いを有しており、その点では王(爵)に上回る地位として用意された親王に近い。オーストリアやロシアでは帝政が廃止され、現在の成員が国家的に皇族と認められたわけではないため、この用法に対する公的な意見の場も設けられてはいない。 == 脚注 == <references /> == 参照文献 == === 文献資料 === * 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X * 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059 == 関連項目 == {{Wiktionary|親王}} * [[皇子]] * [[世襲親王家]] * [[入道親王]] * [[法親王]] * [[御息所]] * [[親王給]] * [[親王領]] * [[親王任国]] * [[親王宣下]] * [[親王将軍]] {{天皇項目}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:しんのう}} [[Category:身位]] [[Category:皇族・王族の称号]] [[Category:中国の爵位]] [[Category:日本の親王|*]] [[Category:朝鮮の爵位]]
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松村明仁
松村 明仁(まつむら あきひと、1941年6月13日 - )は医師(医学博士)、元厚生官僚。満洲国生まれ、山梨県出身。 薬害エイズ事件当時の厚生省生物製剤課長(前任者は、郡司篤晃)。1985年8月、血友病患者ら3人が、危険な非加熱濃縮製剤の市場からの早期回収を製薬会社に指導するよう陳情する為、松村課長を訪れた。これに対し、同氏は、「それは出来ない。非加熱製剤が(HIVに)すべて汚染されているとは限らない。厚生省が指導すれば製薬会社は従わざるを得ず、企業に損害を与えてしまう」と述べたとのことである。また、当時、不凍液入りのワインが市場に出回り大騒ぎとなっており、患者たちが「どうしてワインは回収できて、非加熱製剤はだめなのか」と詰め寄ると、同氏は、「ワインは一般国民が飲むが、凝固因子(血漿製剤のこと)の使用者は限られているから」と答えたという。「薬害エイズ訴訟において加熱製剤認可後も危険な非加熱製剤の回収命令を出さず被害を大きく広げたことにより、特に患者2名の死について業務上過失致死罪に問われ被告人となった。ただし、うち1名の1985年5月から6月に投与された部分についてはその当時では結果回避義務は否定され無罪とし、1986年4月に投与された患者1名に対する分について有罪とされた。 なお、当時の薬務局長だった小林功典や事務次官らは不起訴となっている。
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松村 明仁は医師(医学博士)、元厚生官僚。満洲国生まれ、山梨県出身。
'''松村 明仁'''(まつむら あきひと、[[1941年]][[6月13日]] - )は[[医師]]([[医学博士]])、[[労働衛生コンサルタント]]、元[[厚生技官]]。[[満洲国]]生まれ、[[山梨県]]出身。 == 人物 == [[薬害エイズ事件]]当時の[[厚生省]]生物製剤課長(前任者は、[[郡司篤晃]])。1985年8月、血友病患者ら3人が、危険な非加熱濃縮製剤の市場からの早期回収を製薬会社に指導するよう陳情する為、松村課長を訪れた。これに対し、同氏は、「それは出来ない。非加熱製剤が(HIVに)すべて汚染されているとは限らない。厚生省が指導すれば製薬会社は従わざるを得ず、企業に損害を与えてしまう」と述べたとのことである。また、当時、不凍液入りのワインが市場に出回り大騒ぎとなっており、患者たちが「どうしてワインは回収できて、非加熱製剤はだめなのか」と詰め寄ると、同氏は、「ワインは一般国民が飲むが、凝固因子(血漿製剤のこと)の使用者は限られているから」と答えたという<ref>[[櫻井よし子]]他『薬害エイズ「無罪判決」、どうしてですか?』2001年12月20日、中央公論新社刊</ref>。「薬害エイズ訴訟において加熱製剤認可後も危険な非加熱製剤の回収命令を出さず被害を大きく広げたことにより、特に患者2名の死について[[業務上過失致死罪]]に問われ[[被告人]]となった。ただし、うち1名の1985年5月から6月に投与された部分についてはその当時では[[結果回避義務]]は否定され無罪とし、1986年4月に投与された患者1名に対する分について有罪とされた。 なお、当時の薬務局長だった[[小林功典]]や事務次官らは不起訴となっている。 == 経歴 == * [[1966年]]:[[北海道大学]][[医学部]]卒業(24歳) * [[1971年]]:北海道大学大学院医学研究科博士課程修了、[[北海道]]庁入庁(29歳) * [[1975年]]1月:厚生省公衆衛生局保健情報課長補佐として入省(33歳) * [[1977年]]:環境衛生局食品衛生課長補佐 * [[1979年]]:公衆衛生局地域保健課長補佐 * [[1981年]]:山口県衛生部長(出向) * [[1984年]][[7月16日]]( - [[1986年]][[6月29日]]):薬務局生物製剤課長 * [[1985年]][[7月1日]]:加熱血液製剤の認可 * 1986年[[6月30日]]:健康政策局指導課長 * [[1988年]]:労働省労働基準局安全衛生部労働衛生課長 * [[1990年]]:厚生省保健医療局国立療養所課長 * [[1991年]]:同局国立病院課長 * [[1992年]]:同局国立病院部経営指導課長、 * [[1993年]]:労働省労働基準局安全衛生部長 * [[1995年]]1月:厚生省保健医療局長 * [[1996年]][[7月2日]]:退官(55歳) * [[2002年]]3月:[[労働衛生コンサルタント]]試験(保健衛生)合格<ref>官報平成14年本紙第3324号 12頁</ref> == 薬害刑事訴訟 == * 1996年[[10月4日]]:逮捕 * [[2001年]][[9月28日]]:第1審 [[東京地方裁判所|東京地裁]]([[永井敏雄]]裁判長)[[禁錮]]1年執行猶予2年の有罪(1985年の血友病患者投与に関する部分は無罪) * [[2005年]][[3月25日]]:控訴審 東京高等裁判所(河辺義正裁判長)1審判決を支持し検察、弁護側双方の控訴を棄却(検察側は上告せず、1985年の血友病患者投与に関する部分についての無罪は確定) * [[2008年]][[3月3日]]:上告審 [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷([[古田佑紀]]裁判長)原判決を支持し、弁護側の上告を棄却し有罪が確定<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=35923 最高裁判例 業務上過失致死被告事件] - 最決平成20年3月3日</ref><ref>[http://www.47news.jp/CN/200803/CN2008031101000843.html 47NEWS 元厚生省課長の有罪確定薬害エイズ公判が終結] 『共同通信』2008年3月11日</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[後天性免疫不全症候群|エイズ]] * [[薬害エイズ事件]] {{先代次代|厚生省保健医療局長|1995年 - 1996年|[[谷修一]]|[[小林秀資]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:まつむら あきひと}} [[Category:日本の厚生労働技官]] [[Category:日本の医師]] [[Category:HIV/AIDS]] [[Category:薬害エイズ事件の人物]] [[Category:日本の引揚者]] [[Category:北海道大学出身の人物]] [[Category:満洲国出身の人物]] [[Category:山梨県出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:存命人物]]
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6,021
本州
本州()は、島国である日本の最大の島である。極東そして東アジアの沿岸沖に位置し、最高標高3,776m、面積227,942.85km。世界の島の中では、面積はインドネシアのスマトラ島に次ぐ第7位、人口はジャワ島に次ぐ第2位である。また日本のGDPの8割以上を生産し、2位のグレートブリテン島(イギリス)を抑えて経済規模が世界最大の島でもある。 地質学や考古学などでは本州島という名称も使用される。 本州には34の都府県(1都2府31県)がある。日本国内では、本州とその付随する島を合わせて「本州地方」と言うが、単に「本州」と呼称する場合もある。 「本州」という名は、日本の主要な島であることに由来し、古代の呼称は「秋津島」・「秋津洲」(あきつしま、あきづしま)などが知られる(本州#歴史書における呼称)。 ユーラシアの東端(欧米から極東と呼ばれる地域)そして東アジアの中でも特に東方の沿岸沖に位置し、北海道島、四国島、九州島、付随する島とともに日本列島を構成している。日本列島は日本海を囲むように弓状に伸びており(写真参照)、こうした形状はプレートの境界域に形成された列島によく見られる弧状列島の特徴である。 本州は主に付加体(プレートテクトニクスにより、海洋のプレートが海溝に沈み込む際に、海洋プレートの上に堆積したさまざまな岩石が陸側のプレートに押しつけられて付加したもの)と火山活動による岩盤からなる。 地質学的には、ユーラシアプレート東端、北アメリカプレート南西端、フィリピン海プレートの北端がこの本州付近で衝突しており、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界線がフォッサマグナとなっている。また、このフォッサマグナを中心に、本州の東西軸と南北軸が入れ替わり、弓状となっている。 本州は日本の国土の面積の約60%を占め、人口の約80%を擁する。同島内に都府県庁所在地を置く都府県の2005年(平成17年)国勢調査人口の合計(本州と付随する島を含む)は1億333万9272人、2014年(平成26年)10月1日の面積合計(本州と付随する島を含む)は227,943.05km。 首都たる東京都は、太平洋側で、島のほぼ東西軸と南北軸が入れ替わる中央に位置する。34の都府県に分かれる。 日本列島の他の主要な3つの島(北海道、九州、四国)とは青函トンネル、本州四国連絡橋(神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルート)、関門橋、関門トンネル(山陽本線)、新関門トンネル(山陽新幹線)、関門トンネル(車道・人道)で連結されている。 日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (712年献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 ) この中で8番目に登場する「本州」の原文での呼称表記は2つ示されており、「大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」と「天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)」である。後者は本州の神名であり、『古事記』の男神女神の交互の順から女神の扱いになるはずだが、あえて明記されていない(この前後の島は明確に男神女神と記されている)。 『日本書紀』(720年完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「本州」を、「大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)」と表記している。 「本州」とは端的には本州島(および場合によっては本州島に付属するとされる島嶼)を指すが、初代沖縄県令である鍋島直彬が『言語風俗ヲシテ本州卜同一ナラシムルハ当県施政上最モ急務ニシテ其法固ヨリ教育二外ナラス』と大蔵省に上申したように、「本土」あるいは「内地」的な意味で使用される場合がある。特に北海道では札幌やその周辺部で東北以南を「本州」とする用法がある。 気象庁の定義では、本州に四国・九州を加え、その周辺海域を含める形で「本州付近」と呼んでいる。 動物地理区上日本列島は、鹿児島県の屋久島・種子島と奄美大島との間の渡瀬線という分布境界線により二分されている。渡瀬線より北は旧北区に属し(渡瀬線より南は東洋区)、さらに対馬海峡線によって対馬と、またブラキストン線によって北海道と区分される。その内側のうち本州は本州南岸線(江崎悌三が提唱した昆虫の分布限界線。年平均最低気温-3.5°Cの等温線)によって南北に区分され、南側は四国・九州と共通の地理区をなす。 植物区系においては、全北区系界(マツ、モミ、サクラ、カエデ、ユリの各属などに固有種が多い)に属する。植生は本州の気候では、1)南西諸島から東北南部に広がる常緑広葉樹(照葉樹)の森林、2)九州南部から北海道南部までの落葉広葉樹の森林が気候的極相となるが、そうした地域は多くない。 菌類は様々な固有種が分布する。
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本州は、島国である日本の最大の島である。極東そして東アジアの沿岸沖に位置し、最高標高3,776m、面積227,942.85km2。世界の島の中では、面積はインドネシアのスマトラ島に次ぐ第7位、人口はジャワ島に次ぐ第2位である。また日本のGDPの8割以上を生産し、2位のグレートブリテン島(イギリス)を抑えて経済規模が世界最大の島でもある。 地質学や考古学などでは本州島という名称も使用される。 本州には34の都府県(1都2府31県)がある。日本国内では、本州とその付随する島を合わせて「本州地方」と言うが、単に「本州」と呼称する場合もある。 「本州」という名は、日本の主要な島であることに由来し、古代の呼称は「秋津島」・「秋津洲」(あきつしま、あきづしま)などが知られる(本州#歴史書における呼称)。
{{出典の明記|date=2021年2月}} {{Infobox 島 |島名 = 本州 |画像 = [[ファイル:Satellite image of Honshu in May 2003.png|300px]] |画像説明=本州の衛星写真 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 0 | 緯度秒 = 0 | 経度度 = 135 |経度分 = 0 | 経度秒 = 0 |面積 = 227,942.85<ref name="island area">{{Cite web|和書|date=2016-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201610/f3_shima.pdf|title=平成28年全国都道府県市区町村別面積調 島面積|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2017-02-27}}</ref> |周囲 = 10,084<ref name="toukei2014">『日本統計年鑑 平成26年』(2013年)p.17 - [[1986年]]([[昭和]]61年)、[[海上保安庁]]による計測。</ref> |標高 = 3,776 |最高峰 = [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]] |最大都市 = [[東京]] |諸島 = [[日本列島]] |海域 = [[太平洋]]([[日本海]]・[[フィリピン海]]) |国 = {{JPN}} |人口=1億397万4,388人(2010年[[国勢調査]])}} {{読み仮名|'''本州'''|ほんしゅう}}は、[[島国]]である[[日本]]の最大の[[島]]である{{efn|日本の島の面積上位10島は、本州、[[北海道]]、[[九州]]、[[四国]]、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[沖縄本島]]、[[佐渡島]]、[[奄美大島]]、[[対馬]]<ref>『理科年表 平成19年版』(2006年)p.565</ref>。}}{{efn|name="islands"|[[島国]]([[領土]]がすべて'''島'''から成る国)である'''[[日本]]'''を構成する'''6,852'''の'''島'''に対する『'''[[国土交通省]]'''』による区分け '''6,852島'''('''[[本土]] 5島''' ・ '''[[離島]] 6,847島''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015年8月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071113053915/http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html |archivedate=2007年11月13日 |deadlinkdate=2017年10月}}『'''国土交通省'''』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)2009年11月27日閲覧。</ref>。ただし、'''島'''について地理学上はこのような分類・区分けはない。('''島''' :オーストラリア大陸の面積未満で、四方を'''水域'''に囲まれる陸地)}}{{efn|【参考】 [[島国一覧]] ([[領土]]がすべて島で構成される国)}}。[[極東]]そして[[東アジア]]の沿岸沖に位置し、最高[[標高]]3,776m、[[面積]]227,942.85[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="island area"/>。[[世界]]の島の中では、面積は[[インドネシア]]の[[スマトラ島]]に次ぐ第7位{{efn| 世界の'''島'''の面積順位より抜粋(出典 '''[[:en:List of islands by area|List of islands by area]]''') :第1位 [[グリーンランド]] ------------------------- :第5位 [[バフィン島]]([[カナダ]]) '''*''' 人口10,745人(2006年) - 本州の2.23倍、[[日本]]の1.34倍の面積 :第6位 [[スマトラ島]]([[インドネシア共和国]]) :第7位 '''本州''' :第8位 [[ビクトリア島]](カナダ) '''*''' 人口1,707人(2001年) - 本州の95%、日本の57%の面積 :第9位 [[グレートブリテン島]]([[イギリス]]〈[[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[ウェールズ]]〉) ------------------------- :第20位 [[アイルランド島]]([[アイルランド共和国]]およびイギリス〈[[北アイルランド]]〉) :第21位 '''[[北海道]]''' :第27位 [[デヴォン島]](カナダ) '''*''' 世界最大の[[無人島]] ------------------------- :第36位 [[スピッツベルゲン島]]([[ノルウェー]]) :第37位 '''[[九州]]''' ------------------------- :第49位 [[バナナル島]]([[ブラジル]]) '''*''' 世界最大の川の中の島 :第50位 '''[[四国]]'''}}、人口は[[ジャワ島]]に次ぐ第2位である{{efn|世界の島の人口順位([[島の一覧 (人口順)]])}}。また日本のGDPの8割以上を生産し、2位の[[グレートブリテン島]]([[イギリス]])を抑えて経済規模が世界最大の島でもある。 [[地質学]]や[[考古学]]などでは'''本州島'''という名称も使用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sci.u-toyama.ac.jp/earth/staff_personal_old/dyna_at.html|title=地球ダイナミクス講座|publisher=[[竹内章 (地質学者)|竹内 章]] [[富山大学]][[理学部]][[教授]]|accessdate=2009年4月}}</ref><ref>{{Cite book|title=本州島東北部の弥生社会誌|Author=[[高瀬克範]]|publisher=[[六一書房]]|date=2004年6月|isbn=978-4947743220}}</ref>。 本州には34の[[都道府県|都府県]](1[[都]]2[[府]]31[[県]])がある。{{要出典範囲|日本国内では、本州とその付随する島を合わせて「本州地方」と言う|date=2023年1月}}が、単に「本州」と呼称する場合もある{{efn|海外では、「本州」の表記として、「'''Honshu'''」、「'''Honshu Island'''」、「'''the main island of Japan'''」などが、一般的にまた報道分野においても使用されている。}}。 「'''本州'''」という名は、[[日本]]の主要な島であることに由来し、古代の呼称は[[秋津島|「'''秋津島'''」・「'''秋津洲'''」]](あきつしま、あきづしま)などが知られる([[本州#歴史書における呼称]])。 == 地理 == {{座標一覧}}{{出典の明記| date = 2023年1月| section = 1}} [[File:Satellite View of Japan 1999.jpg|thumb|260px|[[日本列島]](中央の最大の島が本州)]] [[File:Japan_honshu_map.svg|thumb|260px|本州の地図]] {{See also|日本の地理#本州}} [[ユーラシア]]の東端(欧米から[[極東]]と呼ばれる地域)そして[[東アジア]]の中でも特に東方の沿岸沖に位置し、[[北海道|北海道島]]、[[四国|四国島]]、[[九州|九州島]]、付随する島とともに[[日本列島]]を構成している。日本列島は[[日本海]]を囲むように弓状に伸びており(写真参照)、こうした形状は[[プレート]]の境界域に形成された列島によく見られる[[弧状列島]]の特徴である。 本州は主に付加体([[プレートテクトニクス]]により、海洋のプレートが海溝に沈み込む際に、海洋プレートの上に堆積したさまざまな岩石が陸側のプレートに押しつけられて付加したもの)と[[火山活動]]による岩盤からなる。 [[地質学]]的には、[[ユーラシアプレート]]東端、[[北アメリカプレート]]南西端、[[フィリピン海プレート]]の北端がこの本州付近で衝突しており、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界線が[[フォッサマグナ]]となっている。また、このフォッサマグナを中心に、本州の東西軸と南北軸が入れ替わり、弓状となっている。 本州は[[日本]]の[[国土]]の[[面積]]の約60[[パーセント|%]]を占め、[[人口]]の約80%を擁する。同島内に[[都道府県庁所在地|都府県庁所在地]]を置く[[都道府県|都府県]]の[[2005年]]([[平成]]17年)[[国勢調査]][[人口]]の合計(本州と付随する島を含む)は1億333万9272人<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001007609&cycle=0&layout=datalist 平成17年 都道府県・市区町村別統計表(一覧表)]([[独立行政法人]][[統計センター]]「平成17年国勢調査」)</ref>、[[2014年]](平成26年)[[10月1日]]の面積合計(本州と付随する島を含む)は227,943.05[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="H26">{{PDFlink|[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20141001.pdf 島面積 平成26年10月1日時点]}} 国土地理院</ref>。 [[首都]]たる[[東京都]]は、[[太平洋]]側で、島のほぼ東西軸と南北軸が入れ替わる中央に位置する。34の[[都道府県|都府県]]に分かれる。 日本列島の他の主要な3つの島([[北海道]]、[[九州]]、[[四国]])とは[[青函トンネル]]、[[本州四国連絡橋]](神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルート)、[[関門橋]]、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル(山陽本線)]]、[[新関門トンネル|新関門トンネル(山陽新幹線)]]、[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル(車道・人道)]]で連結されている。 * 北端:[[青森県]][[下北郡]][[大間町]]の[[大間崎]]([[北緯]]41度33分、{{ウィキ座標|41|32|46.9|N|140|54|45.3|E|region:JP|地図|name=本州最北端:大間崎(北緯41度33分)}}) * 南端:[[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]]の[[クレ崎]](北緯33度26分、{{ウィキ座標|33|25|59.6|N|135|45|44.9|E|region:JP|地図|name=本州最南端:クレ崎(北緯33度26分)}}) * 東端:[[岩手県]][[宮古市]]の[[魹ヶ崎]]([[東経]]142度4分、{{ウィキ座標|39|32|52.6|N|142|4|20.7|E|region:JP|地図|name=本州最東端:魹ヶ崎(東経142度4分)}}) * 西端:[[山口県]][[下関市]]の[[毘沙ノ鼻]](東経130度51分、{{ウィキ座標|34|6|38.9|N|130|51|37.8|E|region:JP|地図|name=本州最西端:毘沙ノ鼻(東経130度51分)}}) == 行政 == ; [[東北地方]] : [[青森県]]・[[岩手県]]・[[宮城県]]・[[秋田県]]・[[山形県]]・[[福島県]] ; [[関東地方]] : [[茨城県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[東京都]]・[[神奈川県]] ; [[中部地方]] :; [[北陸地方]] :: [[新潟県]]{{efn|[[北陸3県]]としては含まれない。}}・[[富山県]]・[[石川県]]・[[福井県]] :; [[甲信地方]] :: [[山梨県]]・[[長野県]] :; [[東海地方]] :: [[岐阜県]]・[[静岡県]]{{efn|[[東海3県]]としては含まれない。}}・[[愛知県]] ; [[近畿地方]] : [[三重県]]{{efn|[[東海地方]]及び[[東海3県]]として中部地方に入れられることもある。}}・[[滋賀県]]・[[京都府]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[奈良県]]・[[和歌山県]] ; [[中国地方]] : [[鳥取県]]・[[島根県]]・[[岡山県]]・[[広島県]]・[[山口県]] == 歴史書における呼称 == {{main|国産み}}{{出典の明記| date = 2023年1月| section = 1}} [[日本]]は6,852の島で構成される[[島国]]であるが{{efn|name="islands"}}、[[日本]]最古の[[歴史書]] 『[[古事記]]』 ([[712年]]献上) では、「日本」を「'''大八島国'''」(おおやしまのくに)と呼び、「'''八つの島'''」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、[[淡路島|淡路(あわじ)]]、[[四国]]、[[隠岐諸島|隠岐(おき)]]、[[九州]]、[[壱岐島|壱岐(いき)]]、[[対馬|対馬(つしま)]]、[[佐渡島|佐渡]]、本州 ) この中で8番目に登場する「'''本州'''」の原文での呼称表記は2つ示されており、「'''大倭豊秋津島'''(おおやまととよあきつしま)」と「'''天御虚空豊秋津根別'''(あまつみそらとよあきつねわけ)」である。後者は本州の神名であり、『[[古事記]]』の男神女神の交互の順から女神の扱いになるはずだが、あえて明記されていない(この前後の島は明確に男神女神と記されている)。 『[[日本書紀]]』([[720年]]完成)では、「日本」を「'''大八洲国'''」(おおやしまのくに)、「本州」を、「'''大日本豊秋津洲'''(おおやまととよあきつしま)」と表記している。 == その他 == <!--本土、あるいは非正式な用語である「内地」の誤用として「本州」と呼ぶ場合や、札幌やその周辺部において本州以南(≒「内地」)の意味で本州と呼ぶ場合について。-->「本州」とは端的には'''本州島'''(および場合によっては本州島に付属するとされる島嶼)を指すが、初代[[沖縄県知事一覧|沖縄県令]]である[[鍋島直彬]]が『言語風俗ヲシテ'''本州'''卜同一ナラシムルハ当県施政上最モ急務ニシテ其法固ヨリ教育二外ナラス』と大蔵省に上申したように<ref>『沖縄県史』第12巻.</ref>、「[[本土]]」あるいは「[[内地]]」的な意味で使用される場合がある{{efn|なお鍋島は九州の佐賀出身(もと佐賀藩主)である。また当時は北海道が編入(1869年)され、琉球王国が併合され沖縄県となって(1879年)から、間もない時期であった。}}。特に北海道では札幌やその周辺部で東北以南を「本州」とする用法がある<ref>明治34年『殖民広報』1号掲載の「内地と云ふ用語」に記述。桑原真人「北海道の経営」『岩波講座日本通史第16巻 近代I』岩波書店、356頁。</ref><ref>デジタル大辞泉(小学館)「内地」の項</ref>。 気象庁の定義では、本州に四国・九州を加え、その周辺海域を含める形で「本州付近」と呼んでいる<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/tiikimei.html 地域名]</ref>。 == 動物・植物・菌類 == [[動物地理区]]上日本列島は、鹿児島県の屋久島・種子島と奄美大島との間の[[渡瀬線]]という[[分布境界線]]により二分されている。渡瀬線より北は[[旧北区]]に属し(渡瀬線より南は[[東洋区]])、さらに対馬海峡線によって[[対馬]]と、また[[ブラキストン線]]によって北海道と区分される。その内側のうち'''本州'''は本州南岸線([[江崎悌三]]が提唱した昆虫の分布限界線。年平均最低気温-3.5℃の等温線<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤正己 |date=1969-12-25 |url=https://hdl.handle.net/10109/10430 |title=生物地理学における地域区分 |journal=茨城大学地域総合研究所年報 |publisher=茨城大学地域総合研究所 |issue=1 |pages=7-27 |CRID=1050845762800728192 |hdl=10109/10430}}</ref>)によって南北に区分され、南側は四国・九州と共通の地理区をなす<ref>{{Cite web|和書|title=環境白書 |url=https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h15/13502.html |website=www.env.go.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 植物区系においては、全北区系界(マツ、モミ、サクラ、カエデ、ユリの各属などに固有種が多い)に属する<ref>{{Cite web|和書|title=植物区系(しょくぶつくけい)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%8C%BA%E7%B3%BB-534318 |website=コトバンク |access-date=2023-03-14 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。[[植生]]は'''本州'''の気候では、1)南西諸島から東北南部に広がる[[常緑広葉樹林|常緑広葉樹(照葉樹)の森林]]、2)九州南部から北海道南部までの[[落葉広葉樹林|落葉広葉樹の森林]]が気候的[[極相]]となるが、そうした地域は多くない<ref>{{Cite web|和書|title=環境白書 |url=https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h15/13502.html |website=www.env.go.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 菌類は様々な固有種が分布する<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010910274.pdf |title=日本産固有菌類目録の作成に向けて |access-date=2023年7月11日 |author=細矢剛、埋橋志穂美、保坂健太郎、工藤伸一}}</ref>。 {| class="wikitable sortable" |+ 動物・植物・菌類 |- !名前 !タイプ !ノート |- |[[ニホンツキノワグマ]] |動物 |ツキノワグマの1亜種で'''本州'''、四国に分布するが、九州では絶滅したものとみなされている<ref>{{Cite web|和書|title=ツキノワグマ(つきのわぐま)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%82%B0%E3%83%9E-99131 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[ニホンザル]] |動物 |日本の'''本州'''、四国、九州とその周辺の島々に分布するサル。南限は屋久島(鹿児島県)、北限は下北半島(青森県)である<ref>{{Cite web|和書|title=ニホンザルとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%AB-110167 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=最新 心理学事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[ニホンオオカミ]] |動物 |絶滅。'''本州'''、[[四国]]、[[九州]]に生息していた[[オオカミ]]の1[[亜種]]。 |- |[[ニホンジカ]] |動物 |[[日本]](北海道、'''本州'''、四国、九州(一部の島嶼を含む)<ref>{{Cite web|和書|title=森林生物データベース 00120 ニホンジカ |url=https://www.ffpri.affrc.go.jp/labs/seibut/bcg/bcg00120.html |website=www.ffpri.affrc.go.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>)、[[中国大陸]]、[[ロシア]]。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ベトナム]]では絶滅したと考えられ、[[大韓民国|韓国]]では絶滅した。[[台湾]]に再導入。 |- |[[ニホンモモンガ]] |動物 |[[日本]][[固有種]]('''本州'''・[[四国]]・[[九州]])。 |- |[[ホンドタヌキ]] |動物 |[[タヌキ]]の日本産[[亜種]]。'''本州'''、[[四国]]、[[九州]]<ref name="梟と狸 p79">『[[#フクロウとタヌキ|フクロウとタヌキ]]』(p79)より。</ref>。[[平野|平地]]から[[亜高山帯針葉樹林|亜高山帯]]([[高さ#地理|標高]]2,000m超)まで、多様な環境で棲息している<ref name="ズーラシア">「[[#ズーラシア ホンドタヌキ|ホンドタヌキ]]」『よこはま動物園 ズーラシア - 動物紹介』より。</ref>。[[佐渡島]]や[[壱岐島]]、[[屋久島]]などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体である<ref name="梟と狸 p80">『[[#フクロウとタヌキ|フクロウとタヌキ]]』(p80)より。</ref>。 |- |[[ニホンカモシカ]] |動物 |日本特産種<ref>{{Cite web|和書|title=ニホンカモシカ(にほんかもしか)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%82%AB-110108 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,世界大百科事典内言及}}</ref>。北海道を除く日本各地('''本州'''、四国、九州)に分布する。 |- |[[ムササビ]] |動物 |北海道を除く日本各地('''本州'''、四国、九州)と朝鮮半島、中国(四川省、雲南省など)に分布する<ref>{{Cite web|和書|title=ムササビ(むささび)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A0%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%83%93-140394 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[イノシシ#日本のイノシシ|ニホンイノシシ]] |動物 |[[イノシシ]]の亜種<ref>{{Cite web|和書|title=ニホンイノシシ / Japanese Wild Boar|menu02_動物紹介|安佐動物公園 asazoo |url=http://www.asazoo.jp/animal/zone06/1409.php |website=www.asazoo.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>、[[:en:Japanese_boar|Japanese boar]]。'''本州'''、四国、九州、淡路島に分布<ref>{{Cite web|和書|title=三重県総合博物館 ニホンイノシシ(Sus scrofa leucomystax) |url=https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82990046677.htm |website=www.bunka.pref.mie.lg.jp |access-date=2023-03-14 |language=ja}}</ref>。 |- |[[ニホンノウサギ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''・四国・九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=ニホンノウサギ - 広島大学デジタル博物館 |url=https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php?title=%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE&mobileaction=toggle_view_desktop |website=www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[ヤマネ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=ヤマネ - 岐阜県公式ホームページ(環境生活政策課) |url=https://www.pref.gifu.lg.jp/page/4366.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BA%E6%9C%89%E7%A8%AE%E3%80%82,%E3%81%8C%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82&text=%E4%B8%BB%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%A8%B9%E6%B4%9E%E3%81%AB%E5%B7%A3,%E3%81%AF%E6%B8%9B%E5%B0%91%E5%82%BE%E5%90%91%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 |website=www.pref.gifu.lg.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[ハタネズミ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、九州および佐渡島に分布<ref>{{Cite web|和書|title=森林生物データベース 00124 ハタネズミ |url=https://www.ffpri.affrc.go.jp/labs/seibut/bcg/bcg00124.html |website=www.ffpri.affrc.go.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[アズマモグラ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''中部以北、四国、中国、近畿の山地に分布<ref>{{Cite web|和書|title=アズマモグラ(あずまもぐら)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%A9-815192 |website=コトバンク |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[コウベモグラ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州、種子島、屋久島、隠岐諸島、対馬などに分布<ref>{{Cite web|和書|title=コウベモグラ(こうべもぐら)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%99%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%A9-834559 |website=コトバンク |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[ヒミズ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''・四国・九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=森林総合研究所 多摩森林科学園/ヒミズ |url=https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/kengakuannai/midokoro/honyurui/himizu.html |website=www.ffpri.affrc.go.jp |access-date=2023-08-01}}</ref>。 |- |[[ヒメヒミズ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州の山地に分布<ref>{{Cite web|和書|title=ヒメヒミズ(ひめひみず)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%83%9F%E3%82%BA-1400548 |website=コトバンク |access-date=2023-10-12 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[モリアブラコウモリ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=モリアブラコウモリ - 岐阜県公式ホームページ(環境生活政策課) |url=https://www.pref.gifu.lg.jp/page/4351.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BA%E6%9C%89%E7%A8%AE%E3%80%82,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 |website=www.pref.gifu.lg.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[クロホオヒゲコウモリ]] |動物 |日本固有種。中国地方を除く'''本州'''及び四国に分布<ref>{{Cite web|和書|title=クロホオヒゲコウモリ_18594 - 岐阜県公式ホームページ(環境生活政策課) |url=https://www.pref.gifu.lg.jp/page/4920.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BA%E6%9C%89%E7%A8%AE%E3%80%82,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82&text=%E6%A8%B9%E6%B4%9E%E3%82%92%E3%80%8C%E3%81%AD%E3%81%90%E3%82%89%E3%80%8D%E3%81%AB,%E3%81%AE%E5%A3%AE%E9%BD%A2%E6%9E%97%E3%81%8C%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%80%82 |website=www.pref.gifu.lg.jp |access-date=2023-07-27}}</ref>。 |- |[[秋田犬]] |動物 |[[日本犬]]の一種。秋田県原産。 |- |[[甲斐犬]] |動物 |日本犬の一種。山梨県原産。 |- |[[紀州犬]] |動物 |日本犬の一種。三重県から和歌山県にかけてが原産。 |- |[[柴犬]] |動物 |日本犬の一種。1930年、[[島根県]]の二川村(現在 益田市[[美都町]])で日本の古来種である石見犬から誕生した。 |- |日本の[[イヌワシ]] |動物 |''[[:en:Japanese_golden_eagle|Japanese golden eagle]]'' ユーラシア大陸・北米大陸に分布する「イヌワシ」の亜種である。日本では、北海道、'''本州'''、とくに東北から北陸にかけて分布する<ref>{{Cite web|和書|title=那須どうぶつ王国 |url=https://www.nasu-oukoku.com/ |website=www.nasu-oukoku.com |access-date=2023-03-16 |language=en |last=那須どうぶつ王国}}</ref>。 |- |[[ウグイス]] |動物 |日本と、アムール川(黒竜江)から揚子江(ようすこう)にかけての東アジアにのみ産する。日本では小笠原(おがさわら)諸島、南西諸島などにも分布している<ref>{{Cite web|和書|title=ウグイス(うぐいす)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9-34381 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典}}</ref>。 |- |[[ヤマドリ]] |動物 |'''本州'''、四国、九州にのみ分布する日本特産種<ref>{{Cite web|和書|title=ヤマドリ(やまどり)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA-144234 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[キジ]] |動物 |'''本州'''から屋久島(やくしま)、種子島(たねがしま)まで生息し、アジア大陸では西はカスピ海から東は中国東北部、ウスリー地方まで、南は中国南部まで分布している<ref>{{Cite web|和書|title=キジ(きじ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%82%B8-50334 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,栄養・生化学辞典,知恵蔵}}</ref>。 |- |[[アオサギ]] |動物 |ユーラシア大陸、北アフリカに広く分布。日本では北海道、'''本州'''中部に分布<ref>{{Cite web|和書|title=青鷺(あおさぎ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E9%9D%92%E9%B7%BA-422258 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=精選版 |last=日本国語大辞典,デジタル大辞泉,動植物名よみかた辞典 普及版}}</ref>。 |- |[[オオコノハズク]] |動物 |[[:en:Japanese_scops_owl|''Japanese scops owl'']] ロシアのウスリー地方,サハリン島から日本に繁殖分布し、一部は東アジア北部,朝鮮半島に渡って越冬する。日本では北海道では夏鳥で、'''本州'''以南では留鳥として分布する<ref>{{Cite web|和書|title=オオコノハズク|京都府レッドデータブック2015 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/bio/db/bird0046.html |website=www.pref.kyoto.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[アオゲラ]] |動物 |日本固有種で3亜種があり、アオゲラが'''本州'''、佐渡島、粟島、飛島、隠岐諸島に,カゴシマアオゲラが四国地方から九州地方に、タネアオゲラが屋久島と種子島にそれぞれ分布している<ref>{{Cite web|和書|title=アオゲラとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%A9-24116 |website=コトバンク |access-date=2023-03-14 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[ニホンカナヘビ]] |動物 |日本固有種([[北海道]]、'''本州'''、[[四国]]、[[九州]]および周辺の島嶼、[[壱岐]]、[[隠岐諸島|隠岐]]、[[佐渡島]]、[[種子島]]、[[屋久島]]、[[五島列島]])。 |- |[[ニホンイシガメ]] |動物 |単にイシガメと呼ばれることも多い。日本固有種で、'''本州'''、四国、九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=イシガメ(いしがめ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%AC%E3%83%A1-30479 |website=コトバンク |access-date=2023-03-16 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典}}</ref>。 |- |[[オオサンショウウオ]] |動物 |[[日本列島|日本列島南西部]]([[岐阜県]]以西の'''本州'''、[[四国]]、[[九州]]の一部)における固有種。 |- |[[アカハライモリ]] |動物 |日本固有種で'''本州'''、四国、九州と一部離島に分布<ref>{{Cite web|和書|title=新潟市水族館 マリンピア日本海 生物図鑑 ≫ 「アカハライモリ」 |url=https://www.marinepia.or.jp/picturebook/public/detail/73?mode=taxon&contents_id=6 |website=www.marinepia.or.jp |access-date=2023-08-01}}</ref>。 |- |[[モリアオガエル]] |動物 |日本固有種。'''本州'''のほとんどすべての都府県に分布するが、四国、九州に確実な産地は知られていない。 |- |[[サケ]] |動物 |狭義には[[種 (分類学)|種]]としての''O. keta'' の[[和名|標準和名]]である(通称「シロザケ」)が、広義には[[サケ類]]一般を指すことが多い。シロザケの生息域は[[北太平洋]]([[ベーリング海]]、[[オホーツク海]]、[[日本海]]を含む)と[[北極海]]の一部。 日本では北海道,'''本州'''の利根川以北太平洋側と九州以北日本海側の沿岸に分布<ref>{{Cite web|和書|title=サケ / 国立環境研究所 侵入生物DB |url=https://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/50820.html |website=www.nies.go.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[ビワコオオナマズ]] |動物 |[[琵琶湖]]・[[淀川]]水系のみに生息する日本固有種<ref>{{Cite web|和書|title=ビワコオオナマズ | 淡水魚図鑑(在来種) | 図鑑 | 大阪府立環境農林水産総合研究所 |url=https://www.knsk-osaka.jp/zukan/zukan_database/tansui/6550b2c290c751e/8350b6fca4664f5.html |website=www.knsk-osaka.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[クニマス]] |動物 |絶滅種とされている。秋田県田沢湖(たざわこ)の特産種であった<ref>{{Cite web|和書|title=クニマス(くにます)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%82%B9-188988 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |last=知恵蔵,日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。 |- |[[ミヤコタナゴ]] |動物 |日本固有種。関東平野の一部に局所的に生息する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/kisho/hogozoushoku/miyakotanago.html#:~:text=%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%B9%B3%E9%87%8E%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8,%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%81%AB%E7%94%9F%E6%81%AF%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%80%82 |title=ミヤコタナゴ |access-date=2023.7.27 |publisher=[[環境省]]}}</ref>。 |- |[[ゲンゴロウブナ]] |動物 |琵琶湖・淀川水系原産の日本固有種であるが、各地に移殖されている<ref>{{Cite web|和書|title=ゲンゴロウブナ(琵琶湖の固有種)/詳細:こころに残る滋賀の風景 |url=https://www.pref.shiga.lg.jp/site/kokoro/area_sonota/details/a0126_details.html#:~:text=%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%9A%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E3%81%AE%E5%9B%BA%E6%9C%89%E7%A8%AE,%E6%94%B9%E8%89%AF%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.pref.shiga.lg.jp |access-date=2023-03-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゲンゴロウブナとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%96%E3%83%8A-60490 |website=コトバンク |access-date=2023-03-14 |language=ja |first=百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[ニゴロブナ]] |動物 |琵琶湖本体や琵琶湖につながる河川、用水路などに生息する日本固有種<ref>{{Cite web|和書|title=ニゴロブナ | 淡水魚図鑑(在来種) | 図鑑 | 大阪府立環境農林水産総合研究所 |url=https://www.knsk-osaka.jp/zukan/zukan_database/tansui/3850b2c288a93a2/6750b6f58957101.html#:~:text=%E6%9C%AC%E7%A8%AE%E3%81%AF%E3%82%B3%E3%82%A4%E7%A7%91,%E5%93%81%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E7%8F%8D%E9%87%8D%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82 |website=www.knsk-osaka.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。 |- |[[ゼゼラ]] |動物 |日本固有種。濃尾平野、琵琶湖・淀川水系、山陽地方、九州北部に不連続に自然分布する<ref>{{Cite web|和書|title=日本の淡水魚~絶滅危惧種図鑑~ |url=https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/4094.html |website=WWFジャパン |date=2023-07-13 |access-date=2023-08-01 |last=WWFジャパン}}</ref>。 |- |[[コシノハゼ]] |動物 |日本固有種。新潟県と山形県に生息する淡水魚<ref>{{Cite web|和書|title=コシノハゼの生息地の発見と飼育 {{!}} 新潟市水族館 マリンピア日本海 |url=https://www.marinepia.or.jp/study/20200328_12683.html#:~:text=%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%82%BCGymnogobius%20nakamurae%E3%81%AF%E3%80%81%E6%96%B0%E6%BD%9F,%E3%81%AB%E7%94%A8%E3%81%84%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.marinepia.or.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。 |- |[[ノコギリヨウジ]]<ref>{{Cite web|和書|title=ノコギリヨウジ - WEB魚図鑑 |url=http://zukan.com/fish/internal2095 |website=ズカンドットコム |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref> |動物 |[[:en:Doryrhamphus_japonicus|''Doryrhamphus japonicus'']] 八丈島、相模湾~九州までの太平洋側、山口県、琉球列島。~台湾、インドネシア。岩礁域にすむ<ref>{{Cite web|和書|title=ノコギリヨウジ - WEB魚図鑑 |url=http://zukan.com/fish/internal2095 |website=ズカンドットコム |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>。 |- |[[オオムラサキ]] |動物 |日本全土(北海道西部、'''本州'''、四国、九州<ref>{{Cite web|和書|title=オオムラサキ |url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/Bio/terrest/index186.htm |website=www.cgr.mlit.go.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>)、台湾、朝鮮、中国に分布する。 1957年日本昆虫学会によって日本の国チョウに指定<ref>{{Cite web|和書|title=オオムラサキとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%82%AD-39610 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。 |- |[[ギフチョウ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''のみに分布し北は秋田県から南は山口県まで見られる<ref>{{Cite web|和書|title=ギフチョウ - 岐阜県公式ホームページ(環境生活政策課) |url=https://www.pref.gifu.lg.jp/page/5185.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BA%E6%9C%89%E7%A8%AE%E3%80%82,%E3%81%AB%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82&text=%E4%BD%8E%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%81%AF%E5%9C%B0,%E9%A1%9E%E3%81%AE%E6%B8%9B%E5%B0%91%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%80%82 |website=www.pref.gifu.lg.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。 |- |[[イボタガ]] |動物 |インドから中国南部を経て日本に分布し、日本産は''japonica''という亜種に分類される<ref>{{Cite web|和書|title=イボタガ(いぼたが)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%82%AC-32178 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア}}</ref>。北海道、'''本州'''、四国、九州、屋久島に分布する。 |- |[[キュウシュウエゾゼミ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''(中国地方西部)・四国・九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=キュウシュウエゾゼミ|昆虫類|レッドデータブック検索|レッドデータブックまつやま2012 |url=http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/hozen/red/group5/43/ |website=www.city.matsuyama.ehime.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。 |- |[[ムカシヤンマ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、九州に分布<ref>{{Cite web|和書|title=ムカシヤンマ|京都府レッドデータブック2015 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/bio/db/ins0216.html |website=www.pref.kyoto.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。 |- |[[ダイリフキバッタ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''(鳥取県・岡山県から長野県西部まで局地的に分布)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/704255/5-2.pdf |title=レッドデータブックとっとり改訂版 |access-date=2023.7.27 |publisher=鳥取県 |author=井上靖}}</ref> |- |[[アオタマムシ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州に局所的に分布<ref>{{Cite web|和書|title=アオタマムシ|京都府レッドデータブック2015 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/bio/db/ins0058.html |website=www.pref.kyoto.jp |access-date=2023-03-16}}</ref>。 |- |[[ゲンジボタル]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州に分布する<ref>{{Cite web|和書|title=「ゲンジボタル」と「ヘイケボタル」の違いって? |url=https://kotokurabe.com/firefly/ |website=ことくらべ |access-date=2023-07-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゲンジボタルとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%AB-60635 |website=コトバンク |access-date=2023-07-27 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。 |- |[[サワガニ]] |動物 |日本固有種。'''本州'''、四国、九州の谷川の清流にすむ。南限は吐噶喇列島北端の口之島<ref>{{Cite web|和書|title=サワガニ(さわがに)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%AF%E3%82%AC%E3%83%8B-70257 |website=コトバンク |access-date=2023-07-26 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[タカアシガニ]] |動物 |日本での生息域は岩手県から九州までの太平洋沿岸。日本近海の[[固有種]]と言われていたが、[[1989年]]に[[台湾]]の東方沖で見つかっている<ref>{{Cite web|和書|title=【竹島水族館だより】カニの中では世界最大!「タカアシガニ」|地球にやさしい子ども達を育む環境教育メディア |url=https://www.ecochil.net/article/13799/ |website=地球にやさしい子ども達を育む環境教育メディア {{!}} 学校や家庭でのエコライフ推進を目的としたメディア −−子ども環境情報紙「エコチル」の公式ホームページです。 |date=2022-07-11 |access-date=2023-03-14 |language=ja}}</ref>。 |- |[[ヌカエビ]] |動物 |日本固有種<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nature-sanbe.jp/sahimel/wp-content/uploads/2022/03/2022_03.pdf |title=上田コレクション標本のヌマエビ Paratya compressa(島根県産)の分類学的再検討 |access-date=2023年3月16日 |author=辻井要介}}</ref>。愛知県知多半島と新潟県村上市を結ぶ線より北の'''本州'''に分布する<ref>{{Cite web|和書|title=ヌカエビ(ぬかえび)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8C%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%93-110927 |website=コトバンク |access-date=2023-03-16 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,百科事典マイペディア,世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[ハマナス]] |植物 |アジア東部の温帯と亜寒帯に広く生じ、日本では北海道に多く、南は太平洋側は茨城県、日本海側は鳥取県まで分布する<ref>{{Cite web|和書|title=ハマナスとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B9-682290 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |first=百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref>。 |- |[[コアジサイ]] |植物 |日本固有種で、'''本州'''の[[関東地方]]以西、[[四国]]、[[九州]]に分布する<ref>{{Cite book|和書 |title=『樹木ガイドブック』 |date=1997年5月10日 |year= |publisher=[[永岡書店]] |page=206 |isbn=4-522-21557-6}}</ref>。 |- |[[ツガ]] |植物 |福島県以西の'''本州'''から九州、および韓国の鬱陵島に分布する<ref>{{Cite web|和書|title=ツガ(つが)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%84%E3%82%AC-852725 |website=コトバンク |access-date=2023-02-07 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア}}</ref>。 |- |[[チャキツネノカラカサタケ]] |菌類 |日本固有種(京都・滋賀に分布)<ref name=":0" /> |- |[[キヒダカラカサタケ]] |菌類 |日本固有種(京都・滋賀に分布)<ref name=":0" /> |- |[[キウロコテングタケ]] |菌類 |日本固有種(京都・滋賀・熊本に分布)<ref name=":0" /> |- |[[ササクレシロオニタケ]] |菌類 |日本固有種(長野・新潟・大阪・鳥取に分布)<ref name=":0" /> |- |[[ドウシンタケ]] |菌類 |日本固有種('''本州'''から九州に分布)<ref name=":0" /> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[日本]]、[[日本列島]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]] *[[日本の地理]]、[[日本の地域]]、[[東日本]]、[[西日本]] *[[島]]、[[島国]]、[[島国一覧]]([[領土]]がすべて島で構成される国) *[[:en:List of islands by area|世界の島の面積順位・英語版]] *[[世界の地理]]、[[アジアの地理]]、[[アジア]]、[[東アジア]] *[[国の一覧 (大陸別)]] *[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲(防護巡洋艦)]] - [[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。艦名は本州の古称である'''秋津洲'''に因む。 *[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲(水上機母艦)]] - 旧日本海軍の[[水上機母艦]]。 *[[しきしま型巡視船|あきつしま(巡視船)]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Honshu|Honshu}} * {{PDFlink|[http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201510/shima.pdf 島面積 平成27年10月1日時点]}} - [[国土地理院]] {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほんしゆう}} [[Category:本州|*]] [[Category:日本の島|*02ほんしゆう]]
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日清戦争
・・・・・・・日清戦争(にっしんせんそう、旧字体: 日淸戰爭)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 ・壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。 ・・甲午農民戦争と日清駐兵 ・1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能なことを悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も先年締結の天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、5日に大本営を設置した。日本側も部隊を送り込んできたことを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと主張して、安全保障のための内政改革の必要性を唱え、15日に日清共同による朝鮮内政改革案を清国側に提示したが、清国政府はこれを拒絶した上で日清双方の同時撤兵を提案した。これを受けた日本政府は24日に朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送った。同時に日本の追加部隊が朝鮮半島に派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し、日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。 ・・・・・・日清開戦 ・・・・1894年7月上旬、日清同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を要求する日本側の間で交渉が続けられたが決裂状態となり、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に日英通商航海条約を結ぶことに成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を襲撃・占拠して、捕えた高宗に日本に協力的姿勢を示していた大院君を新政府首班とすることを認めさせ、さらに大院君から清国兵追放を要請する文書を得た。この大義名分の下、7月25日の海戦と28日の陸戦によって清国駐留部隊を駆逐し、ソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。 戦争の推移 1894年8月から朝鮮半島の北上進撃を開始した日本陸軍は、清国陸軍を撃破しつつ9月中に朝鮮半島を制圧した後に鴨緑江を越え、翌1895年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領した。日本海軍は1894年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍北上のための海上補給路を確保していた。1894年11月に陸軍が遼東半島の旅順港を占領し、翌1895年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して日本軍は黄海と渤海の制海権を掌握した。制海権の掌握がこの戦争の鍵であった。 近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地になったのは、朝鮮半島と遼東半島と満州最南部および黄海と山東半島東端であった。 講和条約の調印 1895年(明治28年)4月17日に調印された日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。 日本 ‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ...」 『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。 日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。 三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。 清国 宣戦詔勅「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ...」 西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。 日清戦争について1)江華島事件(外交面)を、2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、3)帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。 19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった。 大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ。 日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府が鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権や文明開化や富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。 朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年(同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた。 1868年(明治元年、同治7年)末、日本の新政府は、朝鮮に王政復古を伝える書契を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に宗主国清の皇帝だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。 1871年(明治4年)9月13日(同治10年7月29日)、対日融和外交を主張した李鴻章の尽力により、日清修好条規および通商章程が締結された。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない1873年(明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない西郷隆盛の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と板垣退助と江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な士族反乱である佐賀の乱が起こった。 日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)11月(同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、鎖国攘夷に固執していた摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、1875年(明治8年)2月(同治14年1月)に森山茂を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大礼服を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した。 日本は朝鮮半島沿岸の測量を名目に軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接は効果がなく、依然交渉は停滞していた。同年9月20日(光緒元年8月21日)、軍艦「雲揚」が江華島周辺に停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘が始まった。12月(11月)、日本は、特命全権大使に黒田清隆を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月(光緒2年2月)に日朝修好条規が調印された。 日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、1871年の宮古島島民遭難事件を契機とした1874年(明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、1879年(明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。当時、日清は興亜会を設立するなどアジア主義と呼ばれる観点から西洋列強を共通敵とする動きもあった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。そして、その動きが日本の軍備拡張を促進させることになる。 朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が既定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。 1882年(明治15年)7月(光緒8年6月)、首都漢城で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった。8月30日(7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。 日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて......といえども、......清国の淮湘各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識を持つ翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。 1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナム(阮朝)を巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日(10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。 政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した。なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日『時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。 1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。 旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。 清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日(3月1日)に巨文島を占領した。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまう。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した。 朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる(原田(2008), p. 47)。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった。 明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。 軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した(同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった。 軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、1888年(明治21年)に山縣は、内閣総理大臣の伊藤博文に対し、次のように上申した。 現実に1884年(明治17年、光緒10年) - 翌年の清仏戦争(ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年、光緒11年) - 1887年(明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があった。 その上、1884年(明治17年、光緒10年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年(明治19年、光緒12年)の北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」等)来航時の長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定で考えられていた(1885年(明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。 なお、1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに1888年(明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、元勲で第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の井上馨宛てに次のように書き送った(原田(2008), p. 81)。 軍拡の結果、現役の陸軍軍人・軍属数は、西南戦争前年の1876年(明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の1893年(明治26年)に73,963人となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)となった。 1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。 しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた。 1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、第2次伊藤内閣も第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長の川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。 甲申政変後に締結された天津条約(1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された独立党が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の1893年(明治26年、光緒19年)、日本公使大石正巳の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)。 このように開戦前年の伊藤内閣は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌1894年(明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。 1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた。1894年(光緒20年)春、朝鮮で東学教団構成員の全琫準を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日(4月27日)、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、6月10日または11日(5月7日または8日)、清と日本の武力介入を避けるため、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結んだとする話が伝わっている(一次資料が発見されていない)。 当時の第2次伊藤内閣は、条約改正のために3月に解散総選挙(第3回)を行ったものの、5月15日に開会した第六議会で難局に直面していた。同日、駐英公使青木周蔵より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、対外硬六派による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、外務大臣陸奥宗光が伊藤首相に「今後の模様により......軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡)。 5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案が可決されたため、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、文部大臣井上毅が伊藤首相に対し、天津条約に基づく朝鮮出兵の事前通知方法と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた。 開会から18日後の6月2日、伊藤内閣は、枢密院議長山縣有朋を交えた閣議で、衆議院の解散(総選挙(第4回))と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて大本営を設置し(実態上戦時に移行)、大本営の命令を受けた第五師団長が歩兵第九旅団長に動員(充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった。 日本が大本営を設置した6月5日(5月2日)、清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を牙山に集結させ、25日(22日)に400人を増派した。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使大鳥圭介に海軍陸戦隊・警察官430人をつけ、首都漢城に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。 朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、15日の閣議に伊藤は1案を提出した。1)朝鮮の内政改革を日清共同で進める、2) それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。出兵の目的は当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は国内の対外強硬論を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった。21日、清国は日本の提案を拒否し、「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はない」と反駁した。日本側はこの清国の拒絶を受けて、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、さきに大鳥公使の要請により仁川にとどまっていた混成旅団残部の輸送再開を決定し、23日に京城へ到着した。同日、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。27日、出発を延期していた混成旅団の後続部隊が8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸した。日本軍はこれで牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。27日、陸奥、「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。 しかし28日、条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せた。更に30日、ロシア公使ヒトロウォ(ロシア語版)は陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかった。7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。7月9日清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相当)慶親王が、「日本の撤兵」が前提としてイギリスの調停案を拒絶した。10日、ドイツとの対立を重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。同日、駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどいた。11日、伊藤内閣は清の調停拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。12日、陸奥、大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令。14日、日本の「第二次絶交書」に光緒帝が激怒し、帝の開戦意思が李鴻章(天津市)に打電された。15日、李は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした(豊島沖海戦の発端)。なお16日、懸案の日英通商航海条約が調印され(ただし悲願の一つ「領事裁判権撤廃」を達成したものの、8月27日の勅令による批准公布まで発表が伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦の大きな障害がなくなった。 7月20日午後、大島公使は朝鮮政府に対して、1)清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、2)属邦保護を名目として朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった。22日夜半、朝鮮政府は、1)国内の改革は自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍は撤兵することを回答した。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が漢城に向け進軍を開始。朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、日本は金弘集への実権移譲を求め、大院君も了承した。日本政府は朝鮮政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行ったが、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させる消極的なものであった。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。 なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。 もっとも、一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ)。また、開戦前夜の海軍大臣西郷従道海軍中将について次のように伝えられている。 清に駐在する領事と、武官から清軍増派の動きを知った大本営は、7月19日編成されたその日に連合艦隊に対し、1)朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2)兵員増派を発見しだい輸送船団と護衛艦隊の「破砕」を指示した。25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三海軍少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦「済遠」「広乙」を発見し、海戦が始まった。すぐに「済遠」が逃走を計ったため、直ちに「吉野」と「浪速」は追撃した。その途上、清の軍艦「操江」と高陞号(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮に向けて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が停船を命じて臨検を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った(高陞号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」「広乙」が損傷し、「操江」が鹵獲(ろかく)された。イギリス商船旗を掲揚していた高陞号が撃沈された事で、一時期イギリス国内で反日世論が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威ジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論は沈静化した。 7月24日、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた。混成第九旅団長大島義昌陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、山砲8門。なお従軍記者14社14人)。 日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの成歓駅周辺に、聶士成率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の公州に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、松崎直臣陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。 なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに歩兵第21連隊第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、7月27日早朝、同大隊長古志正綱陸軍少佐が引責自刃した。 8月26日、日本は、朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結した。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約に基づき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった。 開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の騎兵隊が偵察任務に就いており、7月末「平壌に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、8月14日に第三師団に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊(歩兵第18連隊が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長野津道貫陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した9月1日、同師団と第三師団その他で第一軍が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)。 李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。9月7日、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した誉田甚八陸軍大佐は、分進合撃する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる左宝貴が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。 9月15日、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長立見尚文陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ......」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く(大同江右岸)まで前進したものの、右岸の堡塁と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等、夕方近くになると戦況が膠着(こうちゃく)していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。 なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討と制海権掌握を担うとされていた。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の丁汝昌提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍軍令部長樺山資紀海軍中将が西京丸で最前線の黄海まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。 9月16日午前1時近く、陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港威海衛から出てきていた北洋艦隊が大連湾を離れた(艦14隻と水雷艇4隻)。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊と遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる単縦陣をとっていた(ほかの2隻、樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」も、予定と異なり戦闘に巻き込まれた)。12時50分、横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた(距離6,000m)。 海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦「松島」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。 なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ掌握した(後日、制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略が目指されることとなる)。 9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。 第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日、第一師団が金州城の攻略に成功。14日、第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日、偵察部隊等が遭遇戦を行った。21日、総攻撃をかけると、清軍の士気などが低いこともあり(約12,000人のうち約9,000人が新募兵)、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人(うち金州とそこから旅順までで約2,000人)、捕虜600人。 旅順を簡単に攻略できたものの、大きな問題が生じた。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(12月12日付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した有賀長雄は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在この事件は、旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。なお同事件は、日本の外交上、深刻な事態を招きかねなかった。条約改正交渉中のアメリカでは、一連の報道によって一時、上院で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、日本の重要な外交懸案が危殆に瀕した。このため、『ニューヨーク・ワールド』紙上で陸奥外相が弁明するような事態に陥った。しかし翌年2月、上院で日米新条約が批准された。 10月中旬、清は、国土防衛のため、朝鮮との境界鴨緑江に沿って将兵30,400人と大砲90門を配置していた。もっとも、平壌から敗走した約10,000人(うち傷病2,000人)が含まれる部隊は、士気が低い上に新募兵が多い等、自然の要害九連城の防衛などに困難が予想された。さらに、総指揮を執る宋慶にも問題があり、やがて諸将間で不協和音が生じることになる。 10月15日、糧食不足に苦しむ第一軍は、司令部が安州(平壌と義州の中間地点)にようやく到着し、大本営から「前面の敵をけん制し、間接に第二軍の作戦を援助」との電報を受け取った。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が虎山砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。 その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し(30日、兵站司令部を開設)、11月5日補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。 朝鮮では、東学が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。10月9日、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も開化も斥ける)をスローガンに、全琫準率いる東学農民軍が再蜂起した。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の後備歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の両班士族や土豪などが参加する民堡(みんぽ)で編成された。11月下旬からの公州攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端海南・珍島まで追いつめて殲滅(せんめつ)した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている。 10月8日イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また11月22日清が講和交渉を申し入れてきた。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、山海関や台湾や威海衛の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)渤海湾北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、8月31日に定めた「冬季作戦大方針」を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が海城攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。 12月1日、第一軍司令部は、第三師団長桂太郎陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに牛荘(遼河河口の港町)が、東北70kmに遼陽が、南西60kmに蓋平がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年2月27日まで4回の攻防戦と、小ぜりあいが続くことになる。 12月30日着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年1月10日に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。 12月14日、大本営が山東作戦の実施を決定した。第二軍司令部・連合艦隊司令部との調整後、翌年1月8日に実施計画が固まった。作戦の目的は、直隷決戦に向けて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。20日、4艦の砲撃援護の下、山東半島先端に海軍陸戦隊等が上陸し、栄城湾に歩兵第16連隊等が上陸を始めた(26日夜、最後の輸送船4隻が到着)。26日、第二師団と第六師団が並進を開始した(目標地点まで移動距離、約60km)。30日、陸戦用の防御設備があったにもかかわらず、清軍の抵抗が強くなかったため、半日で威海衛湾の南岸要塞を制圧した(日本軍の戦死54人、負傷152人)。陸上での清軍の抵抗は、2月1日で終わり、翌日、日本軍は、北岸要塞などを無血占領し、湾の出入口にある要衝の劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお1月30日、占領砲台を視察していた歩兵第11旅団長大寺安純陸軍少将が敵艦の砲撃を受け、戦傷死した。 劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、孤立しても健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦を続けた。しかし、水雷艇による魚雷攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃を続け、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の提督丁汝昌に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は、北洋通商大臣李鴻章に打電後、服毒自決。14日の両軍の合意に基づき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。 2度目の海城防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた。前者は、遼陽と営口付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。3月2日、第五師団は、前衛が鞍山站に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、2月28日死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、3月2日鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が牛荘を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。 2月21日、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。3月4日、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、遼河対岸の渡河地点田荘台を攻撃した(清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨(きすう)が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「田荘台焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。 なお作戦完了により、第五師団と後備諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、鳳凰城、九連城までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時第七師団(屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。3月16日、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、山海関東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。 台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領することとした。南方派遣艦隊(司令長官伊東祐亨海軍中将)の旗艦吉野が座礁し、予定より遅れたものの、3月23日、混成支隊が澎湖列島に上陸を始めた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)。 1895年(明治28年)3月19日(光緒21年2月23日)、清の全権大使李鴻章が門司に到着した。下関での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。5月8日(4月14日)、清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。 調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。4月23日、フランス・ドイツと共に、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。翌24日、広島の御前会議で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床に就く陸奥外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、1) 列国会議は三国以外の干渉を招く可能性が、2) 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた。 5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。なお11月8日、清と遼東還付条約を締結した。 日本は、5月8日の日清講和条約発効後、割譲された台湾に近衛師団(歩兵連隊と砲兵連隊が二箇大隊で編成され、他師団より小規模)を派遣した。29日に近衛第一旅団が北部に上陸を始め、6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われた後、19日に南進が始まった。しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗が激しいため、予定していた近衛第二旅団の南部上陸を中止し、北部制圧後の南進再開に作戦が変更された。増援部隊として編成された混成第四旅団(第二師団所属の歩兵第四旅団が基幹)と警備用の後備諸部隊が到着する中、7月29日、ようやく旧台北府管内を制圧した。 8月28日、近衛師団が中部の彰化と鹿港まで進出し(ただし病気等で兵員が半減)、9月16日、台南を目指す南進軍が編成された。10月、すでに台湾平定に参加していた混成第四旅団を含む第二師団が南部に分散上陸し、10月21日、日本軍が台南に入った。11月18日、大本営に全島平定が報告された(参加兵力:二箇師団と後備諸部隊などを含め、将校同等官1,519人、下士官兵卒48,316人の計49,835人、また民間人の軍夫26,214人)。軍政から民政に移行した翌日、1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散された。 なお犠牲者は、平定した日本側が戦死者164人、マラリア等による病死者4,642人に上った。女性子供も参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人死亡と推測されている。 (以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアが日清間の紛争に介入) 日本は、日清戦争全体を通して主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていた。開戦前の5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、条約改正など外交政策をめぐって伊藤内閣と激しく対立する対外硬六派も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。解散総選挙後、広島に召集された臨時第七議会で、政府提出の臨時軍事費予算案(その額1億5,000万円は前年度一般会計歳出決算額8,458万円の1.77倍)を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり開戦により、反政府的な排外主義的ナショナリズムが、これを抑えてきた政府の支持に回ったのである。また、反政府派の衆議院議員だけでなく、知識人も清との戦争を支持した。たとえば、対清戦争について福澤諭吉は「文野〔文明と野蛮〕の戦争」と位置づけ(『時事新報』1894年7月29日)、内村鑑三は「義戦」と位置づけた。なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる田中正造も、対清戦争を支持していた。そうした一種の戦争熱は、民間の義勇兵運動の広がり、福沢や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。 6月5日、参謀本部内に史上初めて大本営が設置され、形式上戦時に移行した。8月4日、大本営が「作戦大方針」を完成させ、翌日、天皇に上奏された。大方針では、渤海湾沿岸に陸軍主力を上陸させて清と雌雄を決すること(直隷決戦)が目的とされ、このための作戦が二期に分けられた。第一期作戦は、朝鮮に第五師団を送って清軍をけん制、残りの陸海軍が出動準備と国内防衛、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と黄海・渤海湾の制海権掌握とされた。第二期作戦は、第一期作戦の進行、つまり制海権で三つが想定された。(甲)制海権を掌握した場合、直隷平野(北京周辺)で決戦を遂行、(乙)日本近海だけ制海権を確保した場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力、(丙)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内防衛とされた。8月14日、朝鮮半島南部に待機中の連合艦隊から「自重ノ策」をとると打電された大本営は、第二期作戦を(乙)で進めることにし、各師団長に訓示した(第三師団には出動命令)。31日、大本営は、「冬季作戦大方針」を定め、上記「作戦大方針」の(乙)を(甲)に変更し、直隷決戦を行うことにした。しかし、実際に制海権をまだ掌握していないため、1)直隷決戦の根拠地として旅順半島の攻略確保、2)清軍を南満洲に引きつけるための陽動作戦(奉天攻撃)を実施、3)陽動作戦の準備として清軍が集結する平壌を攻略するとされた。翌9月1日、まず3)を実施するため、第一軍が編成された。 なお、当時の戦争指導は、政治主導であった。天皇の特旨により、本来メンバーではない山縣枢密院議長と伊藤首相と陸奥外相が大本営に列席し、伊藤首相は西洋列強の思惑を踏まえた意見書を提出することもあった(山東作戦の実施決定と台湾攻略に大きく影響)。 政治が軍事をリードできた要因として、第一に統帥権独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導層の性格が挙げられる。当時の指導層は、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(陸軍大学校・海軍兵学校卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者に上りつめていない時代)。関連して藩閥の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」つまり「藩閥の優位」でもあった。なお、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われたものの、第一次世界大戦後にはいわゆる「大正デモクラシー」を経て議会制民主主義が根付くと見られた。しかし1930年代初頭の世界恐慌後に軍による主導にシフトすることになる。 日本と比して広大な国土と莫大な兵力を持つ清は、1884年当時、圧倒的に優勢と思われていた。 しかし、挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。光緒帝の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する総理衙門(慶親王等)と軍務を所管する軍機処(礼親王等)とが分離したままであった(開戦後の9月29日、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都北京)と、天津港に限られるとはいえ、欽差大臣として全権を持つ北洋通商大臣李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出したイリ条約締結年の1881年(光緒7年)以降、礼部から兵権をもつ北洋通商大臣の直轄に移行し、朝鮮で総理朝鮮交渉通商事宜をつとめる袁世凱と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。 軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり(実質的な私兵化)、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。同大臣の李は、元々渤海沿岸の3省(直隷・山東・奉天)の海防とそのための兵権、3省の総督に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。また、北洋水師(北洋艦隊)を統監するとともに、私費を投じて編成した勇軍の一つ、いわゆる北洋陸軍を抱えていた。しかし開戦後、盛京将軍宋慶に隷属する東三省の錬軍(正規軍八旗の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたので、二元統帥に陥る可能性があった。そのため12月2日、欽差大臣劉坤一に山海関以東の全兵権が与えられた。 このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李や官僚の一部、西太后等の無視できない戦争回避派がいた。7月16日、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。そのこともあって李は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし9月15日、平壌で敗れると、戦略を大きく転換した。19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけ直し、持久戦をとるよう提案した。持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから日本との講和に臨む構想であった。9月29日、恭親王に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられ始めた。 しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要な役割を果たす海軍力は、増強が進んでいなかった。さらに、軍事史家は海軍が無残な敗北を喫した背景として軍幹部の腐敗(砲弾の火薬を転売し砂に換えていた、など)を挙げている。 たとえば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の1890年(明治23年)に就役した巡洋艦「平遠」(排水量2,100t)が最後に配備された新造艦であった。実質的に制海権の帰趨(きすう)を決めた黄海海戦では、1892年(明治25年)に就役し、広東水師(広東艦隊)から編入されていた「広丙」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、1891年(明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)が参加した。 問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の従軍記者は、清の弱兵ぶり、木口小平など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った)。 戦費は、2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)(内訳:臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。うち臨軍特別会計(1894年6月1日〜1896年3月末日)の支出額構成比は、陸軍費が82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%)、海軍費が17.9%(人件費1.1%、艦船費6.4%、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)であった。臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が公債金(内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の日本銀行を含む全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。 1894年8月16日、軍事公債条例が公布された(勅令)(5000万円を限度とする)。 8月17日、大蔵省は、軍事公債条例による軍事公債3000万円の募集を公示した(告示)。9月10日から発行、応募額は7700万円余にのぼり、実収額は3006万円。 8月18日、大蔵大臣渡辺国武は、関東同盟銀行幹事渋沢栄一・山本直哉・安田善治郎代理長谷川千蔵をまねき、軍事公債募集について協力を要請した。 また8月に渡辺蔵相は、各地方官にたいし、軍事公債条例について、管内の有志に応募させるよう内訓した。11月22日、2度目の内訓。 11月21日、伊藤首相、渡辺蔵相は、東京の銀行家5人(荘田平五郎・中上川彦次郎・山本直哉・園田孝吉・安田善治郎)をまねき、軍事公債募集方法を協議した。 11月22日、大蔵省は、軍事公債5000万円の募集を公布した(省令)。応募額は9030万円余、実収額は4763万余円。 1893年(明治26年)、陸軍が戦時編制を改め、翌年度から新編成が適用された。その1894年度動員計画では、野戦七箇師団と兵站部、守備諸部隊(北海道の屯田兵団を含む)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった。なお、動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。 実際の動員(充員召集)は、6月5日に第五師団の歩兵第九旅団から始まり、7月12日に残りの歩兵第十旅団が続いた(朝鮮半島の地形等が考慮され、野戦砲兵連隊の装備が野砲から山砲に変更)。7月24日に第六師団が、8月4日に第三師団が、8月30日に第一師団が動員に入り、また10月上旬に第二師団が動員を終えた。近衛師団は10月8日戦闘部隊の動員が終わったものの、派兵が決まらなかったため、兵站部などを含めた動員の完了が翌年2月16日となった。第四師団も12月4日戦闘部隊の動員が終わり、翌年3月上旬に動員が完了した。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年3月9日に田荘台を攻略)、第二期作戦(直隷決戦)の準備が始まった。3月16日に参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、直隷決戦で先陣を務める近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。 最終的に計画を上回る240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(10年後の日露戦争では、軍夫(民間人)の雇用に代わり、兵役経験のない未教育者を補助輸卒として多数動員)。なお、20-32歳の兵役年齢層について戦闘員の動員率5.7%(国外動員率4.1%)と推計される。 近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人(背負子(しょいこ)と一輪車、大八車)に頼った主因は、馬と馬糧の制約にあった。特に馬の制約は、最初に出動した第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまった(上記の通り装備から野砲を外したため、砲兵用の輓馬0頭)。しかも徒歩車輌(大八車)を用意せず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬がしばしば逃亡したため、兵站部所属の軍夫1,022人(戦闘部隊所属を含む軍夫の総計5,191人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬するだけで足りず、ときに戦闘員も兵站部の物資運搬に従事した。 戦地軍法会議による処罰者が1,851人いた。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割に当たる370人(重罪3人)が陸軍刑法違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が刑法などその他の法令違反であった。 国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰された。内訳は、対上官暴行が6人(重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外は307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった旅順虐殺事件が発生しており、1894年(明治27年)6月29日付けの参謀総長から混成旅団長宛の訓令「糧食等の運搬は全て徴発の材料を用うべき事」を受けて「およそ、通行の牛馬は荷物を載せたると否とに関わらず之を押掌する」(杉村濬「明治二十七年在韓苦心録」)ような行為が公然と行われていた。また被疑者を特定できない等、処罰に至らなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。 参謀本部「明治二十七八年日清戦史」では、軍人・軍属の戦死 1,132、戦傷死 285、病死 11,894、戦傷病 3,758、合計13,488人、服役免除(疾病、刑罰等)3794人で、全体の減耗人員数の合計は17282人と報告された。これによれば、軍人・軍属の戦死、戦傷死、病死の合計死者数は13,311人となる。 歴史学者の井上清は昭和41年の著書で、日本陸軍12万人のうち戦死者数は5417人とする。 防衛ハンドブック(1992年、朝雲新聞社)によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)。 歴史学者の原田敬一は2007年の著書で、参謀本部『明治廿七八年日清戦史』には全動員力24万616人、うち17万4017人が派遣され、軍夫は15万4000人のうち5000人国内使役のほかは派遣されたとあることから、軍夫も武装した輜重輸卒であったことからこれを含めると、日本軍の動員は39万5000人であったとする。原田は、軍夫の死者数は調査されなかったが、7000人以上と推定する。 陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)。しばしば議論の的になった脚気については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人)であった。なお脚気問題の詳細は、「陸軍での脚気大流行」を参照のこと。 当時の朝鮮半島は衛生状態が悪いこともあり、また発展途上国で日本と違いトイレットペーパーが不足していた(当時の日本では山村でない限り普及していた)ことから、戦地で伝染病がはやった。とりわけ台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリアで陣没し、近衛第二旅団長山根信成陸軍少将も戦病死したほどであった。ただし、広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王陸軍大将が腸チフスを発症したなど、国内も安全ではなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) がコレラによるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)。次いで消化器疾患1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、赤痢1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、マラリア542人 (4.1%)、凍傷88人 (0.7%)。 最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり、その後、似島(広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。 当時の陸軍は、しっかりした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法とを持っていなかった。しかも、非戦闘時の兵士は硬くて履き心地の良くない軍靴よりも草履を履くことが多く、また物資運搬を担った民間人の軍夫は軍靴を支給されなかった。結果的に多くの兵士と軍夫が凍傷に罹り、相当な戦力低下を招いた。凍傷は、山東半島での威海衛攻略戦、大陸での冬営、遼河平原の作戦などで多発した。このため戦後、そうした戦訓を基に防寒具研究と冬季訓練が行われた。そして後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが八甲田雪中行軍遭難事件である。 日本軍は、戦地で食糧を調達するときに対価を支払っており、現地の民間人に対して略奪等の行為が皆無との見解がある。とくに軍の規律は、欧米を中心とした国際社会より高い評価を受けた。これは当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性があったためであり、東洋の君子国(徳義と礼儀を重んじる国)と称えられた。現地の人々との関係も良好で、たとえば日本軍が朝鮮半島を北上する際、畑で農作業中の農民に出会ったりすると、その作業を手伝った等の微笑ましい話も残された(保坂前掲書)。 ただし、そうした光と異なり、影の部分もあった。地方出身者で低学歴者が殆どの兵士たちは、鉄道のない道路の悪い戦地で、補給線が伸びきったために食糧を略奪し(徴発が略奪に変わり、抵抗する清国人を殴る行為を「大愉快」と表現した軍夫もいた。『東北新聞』1895年2月14日)、ときに寒さをしのぐ燃料を得るために民家を壊して生き延びた。また、満州の戦闘では、市街(田荘台)を焼き払っており、戦時国際法を適用しなかった台湾平定では、集落ぐるみで子供も参加するようなゲリラ戦に対し、予防・懲罰的な殺戮(さつりく)と集落の焼夷とが普通の戦闘手段になっていた。 戦時経済について後年、財界の大御所渋沢栄一が次のように回顧した。 実際、開戦当初の悲観的な見通しと異なり、戦時経済は大過なく運営された。その要因として、1)日清戦争が比較的短期かつ小規模であったことが挙げられる。このため、兵役適齢層(20-32歳)の動員率が5.7%(推計値)にとどまり、その多くが10か月以内に復員した。2)当時の日本は、潜在的に過剰労働力が少なくなく、とくに主要産業の農業でその傾向が強かった。しかも、農村や農山村などで過剰労働力が滞留する中(東京で車夫が余るなど都市も働き口が少なかった)、出征兵士留守宅への農作業支援もあった。結局のところ、戦時下で農業生産額(実質)が増加した。 3)最も懸念されたのが、兵器や弾薬など軍需品の輸入増による国際収支の赤字化(正貨流出)とその増大であった。政府は、できるだけ国産品を調達したものの、それでも戦費の約1/3が外国に支払われるような状態であったため、民需品の輸入を抑制した。しかし、輸出の伸びと、戦地の支払いで日本の貨幣が円滑に流通したこともあり、結果的に国際収支は大幅な赤字に陥らず、正貨準備額も激減しなかった。 もっとも、戦争の影響は、産業などによって異なった。商業への悪影響は、民需品の物流を滞らせた船舶不足(開戦で国内船主の汽船がほとんど徴用)を除くと、大きなものが無かった。工業への悪影響は、原料高など商業より大きかったものの、全体として打撃が小さかった。むしろ、兵器関連業や綿糸紡績業など、兵站にかかわる産業は、特需で活況を呈した。ただし、戦費調達(多額の軍事公債発行)のための資金統制により、鉄道敷設の起工延期など新規事業が抑制された。 日清戦争では、清軍からは1790人が捕虜として捕えられ、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を科せられることもなく講和後には帰国した。この戦争自体が日本軍の連戦連勝で短期間で収束したことからの日本兵の捕虜が少数であることは確かだが清から引き渡されたのは11名、そのうち10名は軍夫だった。これは清軍は、通信の未熟や中央の威令が各部隊に届かず末端が暴走し捕虜をとらず殺害したためと考えられる。 帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争を初めて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。また戦後、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる。さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。 対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。1897年(明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。 憲法発布(1889年)、部分的な条約改正(1894年日英通商航海条約で領事裁判権撤廃)、日清戦争(1894 - 95年)の3点セットは、脱亜入欧の第一歩であった。とりわけ、近代的戦争の遂行とその勝利は、帝国主義時代の国際社会で大きな意味をもった。ただし、欧米の大国で、日本の「公使館」が「大使館」に格上げされるのは、日露戦争後である。また開戦をきっかけに、国内の政局が大きく変わった。衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、伊藤内閣への対決姿勢をとってきた対外硬六派なども、同内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり、歴代内閣と反政府派の議員とが対立してきた帝国議会初期の混沌とした政治状況が一変したのである(戦時下の政治休戦。戦後も1895年11月に伊藤内閣(藩閥)と自由党が提携し、第九議会で日本勧業銀行法をはじめ、懸案の民法典第一編 - 第三編など重要法案を含む過去最多の93法案が成立)。 もっとも世間では、清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられた。なぜなら、歴史的に中国を崇め(あがめ)ても、見下すような感覚がなかったためである。明治天皇が清との戦争を逡巡(しゅんじゅん)したように、日清戦争の勃発に戸惑う国民も少なくなかった。しかし、勝利の報が次々に届くと、国内は大いに湧き、戦勝祝賀会などが頻繁に行われ、「帝国万歳」が流行語になった。戦後の凱旋行事も盛んであり、しばらくすると各地に記念碑が建てられた。戦時中、男児の遊びが戦争一色となり、少年雑誌に戦争情報があふれ、児童が清国人に小石を投げる事件も起こった。ただし、陸奥宗光のように、制御の難しい好戦的愛国主義(排外主義)を危ぶむ為政者もいた。 国民に向けて最も多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞社は、費用増が経営にのしかかったものの、従軍記者を送るなど戦争報道の強かった『大阪朝日新聞』と『中央新聞』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『郵便報知新聞』『毎日新聞』『やまと新聞』が没落した。また、忠勇美談(西南戦争以前と異なり、徴兵された「無名」兵士の英雄化)など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、報道機関の発達を促した。その報道機関は、一面的な情報を増幅して伝える等、人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。たとえば、新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れている、とのことを繰り返し伝えた(開明的な近代国家として日本を礼賛)。国民の側も、そのような対外蔑視の記事を求めた。 日清戦争は、近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、この体験を通して日本は近代的な国民国家に脱皮した。つまり、檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である(戦争の統合作用)。たとえば、戦争遂行の過程で国家は人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。戦争の統合作用で重要な役割を果たしたのが大元帥としての明治天皇であり、天皇と大本営の広島移転は、国民に天皇親征を強く印象づけた。反面、清との交戦とその勝利は、日本人の中国観に大きな影響を与え、中国蔑視の風潮が見られるようになった。戦場からの手紙に多様な中国観が書き記されていたにもかかわらず、戦後、多くの人々の記憶に残ったのは、一面的で差別的な中国観であった。なお、国内が日清戦争に興奮していたとき、上田万年が漢語世界から脱却した国語の確立を唱道し、さらに領土拡大(台湾取得)などを踏まえ標準語の創出を提起した。 日清戦争が一段落付くと、領土・賠償金等での勝敗落差の実感(かつて普仏戦争が軍拡の必要性を説くときに好例とされた)や賠償金の使途や三国干渉やロシアのシベリア鉄道建設(南下政策への警戒)などを背景に、政府内で戦後経営にかかわる意見が出された。1895年(明治28年)4月、山縣有朋が「軍備拡充意見書」を上奏し、8月15日に大蔵大臣松方正義が「財政意見書」(軍拡と殖産興業を主張)を閣議に、11月に後任の渡辺国武蔵相が「財政意見書」を閣議に提出した。政府は、渡辺案を若干修正した「戦後財政計画案」(1896 - 1905年)を第九議会(1895年12月25日召集)に参考資料として提出した。 その後、一般会計の歳出決算額が開戦前の1893年(明治26年)度8,458万円(軍事費27.0%、国債費23.1%)から1896年(明治29年)度1億6,859万円(軍事費43.4%、国債費18.1%)に倍増し、翌1897年度から日露戦争中の1904年(明治37年)度まで2億円台で推移した。歳出増大に伴う歳入不足が3回の増税、葉たばこ専売制度、国債で補われ(戦前、衆議院の反対多数で増税が困難な状況と一変)、「以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した」とされる。さらに公共投資も、1893年度3,929万円から1896年度6,933万円に76.4%増加し、翌1897年度から1億円台で推移した。 財政と公共投資の膨張に現れた積極的な政策姿勢(富国強兵の推進)は、負の側面もあったものの、戦後の経済発展の主因になった。たとえば、日清戦争(軍事・戦時経済の両面)で海運の重要性を認識した日本は、1896年(明治29年)3月24日の「航海奨励法」・「造船奨励法」公布ならびに船員養成施策などにより、海運を発展させることになる。なお財政上、見送られてきた二番目の帝国大学が1897年の勅令で京都に設置されること、つまり京都帝国大学の創設が決まった。 また1897年(明治30年)10月1日、イギリス金貨(ポンド)で受領する清の賠償金と還付報奨金を元に貨幣法などが施行され、銀本位制から金本位制に移行した(ただしイギリスの金融街シティに賠償金等を保蔵し、日本銀行の在外正貨として兌換券を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)。本位貨幣の切り替えによって日本は、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」になりつつあったイギリスを中心にする国際金融決済システムの利用、日露戦争での戦費調達(多額の外債発行)、対日投資の拡大など、金本位制のメリットを享受することになる。 以上を要約すると、日清戦争後の日本は、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)することになる。さらに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策(海運業振興策など)や金融制度(金本位制に移行・日本勧業銀行など特殊銀行の相次ぐ設立)や税制体系(新税導入・たばこ専売制)など、以後の政策制度の原型が作られることとなる。 1896年(明治23年)3月4日、清の賠償金と遼東半島還付報奨金を管理運用するため、償金特別会計法が公布された。1902年(明治35年)度末現在、同特別会計の収入総額が3億6,451万円になっていた。内訳は、賠償金が3億1,107万円 (85.3%)、還付報奨金が4,491万円 (12.3%)、運用利殖・差増が853万円 (2.4%) であった。また、同特別会計の支出総額が3億6,081万円で、差し引き370万円の残高があった。支出の内訳は、日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった。このように清の賠償金などは、戦費と軍拡費に3億502万円84.5%が使われた。 なお、1896年度から1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円であった(ただし第三期の海軍拡張計画を含まない第一期と第二期の計画分)。使途の構成比は、陸軍が32.4%(砲台建築費8.6%、営繕と初年度調弁費16.0%、砲兵工廠工場拡張費5.8%、その他1.9%)、六六艦隊計画を立てた海軍が67.6%(造船費40.0%、造兵費21.2%、建築費6.4%)。また財源の構成比は、清の賠償金・還付報奨金が62.6%、租税が12.7%、公債金が24.7%であった。 西洋列強から大国と認識されていた清が日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序を揺るがす一大事件であった。日清戦争によって列強は、清への認識をそれまでの「眠れる獅子」といった大国的なものから改めることになる。 その清は、戦費調達と賠償金支払いのために列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また良港など要衝のいくつかを租借地にされて失った。敗北は洋務運動の失敗を意味し、対外的危機が高まる中、いわゆる変法派により、日本の明治維新に倣った変法自強運動が唱えられ、康有為らは明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を求める上奏を行った。1898年(光緒24年)、光緒帝が変法派と結び、急激な変革(戊戌の変法)が行われつつあったものの、失敗した(戊戌の政変)。一方、1890年代、孫文らは共和制革命を唱え、日本、アメリカなどで活動した。1890年には輔仁文社が香港で設立され、孫文は1894年にハワイで興中会を結成した。1895年に武装蜂起に失敗、日本に亡命。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生(章炳麟、鄒容、陳天華など)の間では革命思想が浸透した。1900年(光緒26年)の義和団の乱では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都北京を占領される非常事態になり、国権の一部否定を含む北京議定書を締結するなど大きな代償を払った。さらに、南下政策をとるロシアの満洲占領を招いた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡(辛亥革命)することとなる。 1894年7月23日(光緒20年6月21日)、日本主導の政変により、金弘集内閣が誕生すると、日清戦争中、魚允中や金允植など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次甲午改革)(岡本(2008), p. 4-5,162-164,181)。高宗・閔妃派・大院君派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した井上馨公使の要請により、亡命中の朴泳孝と徐光範を加えた第2次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年4月17日(翌年3月23日)、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の三国干渉で日本の威信が失墜し、6月に第2次金内閣が崩壊した。そうした情勢の下、10月8日(8月20日)に乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、太陽暦採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根を張る両班や儒学者たちも反発した。翌1896年(建陽元年)1月、「衛正斥邪」を掲げる伝統的な守旧派が政権打倒を目指して挙兵した(初期義兵運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派がクーデターを決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を殺害された高宗とその子供をロシア公使館に移し、2月11日に新政府を樹立した(露館播遷)。同日、総理大臣の金弘集は、光化門外で群衆に打ち殺された(甲申政変での急進的開化派(独立党)の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。 こうして日清開戦から続く、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年も経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であった。その結果、義和団の乱後にロシアが満洲を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つことになる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、1897年(光武元年)10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、大韓帝国の成立を宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった「迎恩門」および「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑が倒され、前者の跡地にフランスのエトワール凱旋門を模した「独立門」が建てられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "・・・・・・・日清戦争(にっしんせんそう、旧字体: 日淸戰爭)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "・壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "・・甲午農民戦争と日清駐兵", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "・1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能なことを悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も先年締結の天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、5日に大本営を設置した。日本側も部隊を送り込んできたことを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと主張して、安全保障のための内政改革の必要性を唱え、15日に日清共同による朝鮮内政改革案を清国側に提示したが、清国政府はこれを拒絶した上で日清双方の同時撤兵を提案した。これを受けた日本政府は24日に朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送った。同時に日本の追加部隊が朝鮮半島に派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し、日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "・・・・・・日清開戦", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "・・・・1894年7月上旬、日清同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を要求する日本側の間で交渉が続けられたが決裂状態となり、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に日英通商航海条約を結ぶことに成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を襲撃・占拠して、捕えた高宗に日本に協力的姿勢を示していた大院君を新政府首班とすることを認めさせ、さらに大院君から清国兵追放を要請する文書を得た。この大義名分の下、7月25日の海戦と28日の陸戦によって清国駐留部隊を駆逐し、ソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦争の推移", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1894年8月から朝鮮半島の北上進撃を開始した日本陸軍は、清国陸軍を撃破しつつ9月中に朝鮮半島を制圧した後に鴨緑江を越え、翌1895年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領した。日本海軍は1894年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍北上のための海上補給路を確保していた。1894年11月に陸軍が遼東半島の旅順港を占領し、翌1895年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して日本軍は黄海と渤海の制海権を掌握した。制海権の掌握がこの戦争の鍵であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地になったのは、朝鮮半島と遼東半島と満州最南部および黄海と山東半島東端であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "講和条約の調印", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1895年(明治28年)4月17日に調印された日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ...」", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "清国", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "宣戦詔勅「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ...」", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日清戦争について1)江華島事件(外交面)を、2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、3)帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府が鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権や文明開化や富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年(同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1868年(明治元年、同治7年)末、日本の新政府は、朝鮮に王政復古を伝える書契を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に宗主国清の皇帝だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1871年(明治4年)9月13日(同治10年7月29日)、対日融和外交を主張した李鴻章の尽力により、日清修好条規および通商章程が締結された。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない1873年(明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない西郷隆盛の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と板垣退助と江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な士族反乱である佐賀の乱が起こった。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)11月(同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、鎖国攘夷に固執していた摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、1875年(明治8年)2月(同治14年1月)に森山茂を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大礼服を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本は朝鮮半島沿岸の測量を名目に軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接は効果がなく、依然交渉は停滞していた。同年9月20日(光緒元年8月21日)、軍艦「雲揚」が江華島周辺に停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘が始まった。12月(11月)、日本は、特命全権大使に黒田清隆を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月(光緒2年2月)に日朝修好条規が調印された。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、1871年の宮古島島民遭難事件を契機とした1874年(明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、1879年(明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。当時、日清は興亜会を設立するなどアジア主義と呼ばれる観点から西洋列強を共通敵とする動きもあった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。そして、その動きが日本の軍備拡張を促進させることになる。", "title": "前史1:日本の開国と近代国家志向" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が既定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1882年(明治15年)7月(光緒8年6月)、首都漢城で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった。8月30日(7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて......といえども、......清国の淮湘各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識を持つ翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナム(阮朝)を巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日(10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した。なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日『時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日(3月1日)に巨文島を占領した。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまう。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる(原田(2008), p. 47)。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した(同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、1888年(明治21年)に山縣は、内閣総理大臣の伊藤博文に対し、次のように上申した。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現実に1884年(明治17年、光緒10年) - 翌年の清仏戦争(ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年、光緒11年) - 1887年(明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その上、1884年(明治17年、光緒10年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年(明治19年、光緒12年)の北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」等)来航時の長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定で考えられていた(1885年(明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに1888年(明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、元勲で第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の井上馨宛てに次のように書き送った(原田(2008), p. 81)。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "軍拡の結果、現役の陸軍軍人・軍属数は、西南戦争前年の1876年(明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の1893年(明治26年)に73,963人となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)となった。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、第2次伊藤内閣も第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長の川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "甲申政変後に締結された天津条約(1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された独立党が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の1893年(明治26年、光緒19年)、日本公使大石正巳の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "このように開戦前年の伊藤内閣は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌1894年(明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。", "title": "前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた。1894年(光緒20年)春、朝鮮で東学教団構成員の全琫準を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日(4月27日)、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、6月10日または11日(5月7日または8日)、清と日本の武力介入を避けるため、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結んだとする話が伝わっている(一次資料が発見されていない)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "当時の第2次伊藤内閣は、条約改正のために3月に解散総選挙(第3回)を行ったものの、5月15日に開会した第六議会で難局に直面していた。同日、駐英公使青木周蔵より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、対外硬六派による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、外務大臣陸奥宗光が伊藤首相に「今後の模様により......軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案が可決されたため、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、文部大臣井上毅が伊藤首相に対し、天津条約に基づく朝鮮出兵の事前通知方法と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "開会から18日後の6月2日、伊藤内閣は、枢密院議長山縣有朋を交えた閣議で、衆議院の解散(総選挙(第4回))と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて大本営を設置し(実態上戦時に移行)、大本営の命令を受けた第五師団長が歩兵第九旅団長に動員(充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本が大本営を設置した6月5日(5月2日)、清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を牙山に集結させ、25日(22日)に400人を増派した。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使大鳥圭介に海軍陸戦隊・警察官430人をつけ、首都漢城に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、15日の閣議に伊藤は1案を提出した。1)朝鮮の内政改革を日清共同で進める、2) それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。出兵の目的は当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は国内の対外強硬論を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった。21日、清国は日本の提案を拒否し、「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はない」と反駁した。日本側はこの清国の拒絶を受けて、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、さきに大鳥公使の要請により仁川にとどまっていた混成旅団残部の輸送再開を決定し、23日に京城へ到着した。同日、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。27日、出発を延期していた混成旅団の後続部隊が8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸した。日本軍はこれで牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。27日、陸奥、「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし28日、条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せた。更に30日、ロシア公使ヒトロウォ(ロシア語版)は陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかった。7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。7月9日清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相当)慶親王が、「日本の撤兵」が前提としてイギリスの調停案を拒絶した。10日、ドイツとの対立を重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。同日、駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどいた。11日、伊藤内閣は清の調停拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。12日、陸奥、大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令。14日、日本の「第二次絶交書」に光緒帝が激怒し、帝の開戦意思が李鴻章(天津市)に打電された。15日、李は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした(豊島沖海戦の発端)。なお16日、懸案の日英通商航海条約が調印され(ただし悲願の一つ「領事裁判権撤廃」を達成したものの、8月27日の勅令による批准公布まで発表が伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦の大きな障害がなくなった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "7月20日午後、大島公使は朝鮮政府に対して、1)清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、2)属邦保護を名目として朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった。22日夜半、朝鮮政府は、1)国内の改革は自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍は撤兵することを回答した。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が漢城に向け進軍を開始。朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、日本は金弘集への実権移譲を求め、大院君も了承した。日本政府は朝鮮政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行ったが、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させる消極的なものであった。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "もっとも、一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ)。また、開戦前夜の海軍大臣西郷従道海軍中将について次のように伝えられている。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "清に駐在する領事と、武官から清軍増派の動きを知った大本営は、7月19日編成されたその日に連合艦隊に対し、1)朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2)兵員増派を発見しだい輸送船団と護衛艦隊の「破砕」を指示した。25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三海軍少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦「済遠」「広乙」を発見し、海戦が始まった。すぐに「済遠」が逃走を計ったため、直ちに「吉野」と「浪速」は追撃した。その途上、清の軍艦「操江」と高陞号(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮に向けて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が停船を命じて臨検を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った(高陞号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」「広乙」が損傷し、「操江」が鹵獲(ろかく)された。イギリス商船旗を掲揚していた高陞号が撃沈された事で、一時期イギリス国内で反日世論が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威ジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論は沈静化した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "7月24日、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた。混成第九旅団長大島義昌陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、山砲8門。なお従軍記者14社14人)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの成歓駅周辺に、聶士成率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の公州に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、松崎直臣陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに歩兵第21連隊第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、7月27日早朝、同大隊長古志正綱陸軍少佐が引責自刃した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "8月26日、日本は、朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結した。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約に基づき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の騎兵隊が偵察任務に就いており、7月末「平壌に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、8月14日に第三師団に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊(歩兵第18連隊が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長野津道貫陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した9月1日、同師団と第三師団その他で第一軍が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。9月7日、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した誉田甚八陸軍大佐は、分進合撃する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる左宝貴が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "9月15日、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長立見尚文陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ......」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く(大同江右岸)まで前進したものの、右岸の堡塁と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等、夕方近くになると戦況が膠着(こうちゃく)していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討と制海権掌握を担うとされていた。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の丁汝昌提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍軍令部長樺山資紀海軍中将が西京丸で最前線の黄海まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "9月16日午前1時近く、陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港威海衛から出てきていた北洋艦隊が大連湾を離れた(艦14隻と水雷艇4隻)。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊と遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる単縦陣をとっていた(ほかの2隻、樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」も、予定と異なり戦闘に巻き込まれた)。12時50分、横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた(距離6,000m)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦「松島」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ掌握した(後日、制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略が目指されることとなる)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日、第一師団が金州城の攻略に成功。14日、第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日、偵察部隊等が遭遇戦を行った。21日、総攻撃をかけると、清軍の士気などが低いこともあり(約12,000人のうち約9,000人が新募兵)、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人(うち金州とそこから旅順までで約2,000人)、捕虜600人。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "旅順を簡単に攻略できたものの、大きな問題が生じた。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(12月12日付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した有賀長雄は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在この事件は、旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。なお同事件は、日本の外交上、深刻な事態を招きかねなかった。条約改正交渉中のアメリカでは、一連の報道によって一時、上院で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、日本の重要な外交懸案が危殆に瀕した。このため、『ニューヨーク・ワールド』紙上で陸奥外相が弁明するような事態に陥った。しかし翌年2月、上院で日米新条約が批准された。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "10月中旬、清は、国土防衛のため、朝鮮との境界鴨緑江に沿って将兵30,400人と大砲90門を配置していた。もっとも、平壌から敗走した約10,000人(うち傷病2,000人)が含まれる部隊は、士気が低い上に新募兵が多い等、自然の要害九連城の防衛などに困難が予想された。さらに、総指揮を執る宋慶にも問題があり、やがて諸将間で不協和音が生じることになる。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "10月15日、糧食不足に苦しむ第一軍は、司令部が安州(平壌と義州の中間地点)にようやく到着し、大本営から「前面の敵をけん制し、間接に第二軍の作戦を援助」との電報を受け取った。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が虎山砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し(30日、兵站司令部を開設)、11月5日補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "朝鮮では、東学が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。10月9日、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も開化も斥ける)をスローガンに、全琫準率いる東学農民軍が再蜂起した。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の後備歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の両班士族や土豪などが参加する民堡(みんぽ)で編成された。11月下旬からの公州攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端海南・珍島まで追いつめて殲滅(せんめつ)した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "10月8日イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また11月22日清が講和交渉を申し入れてきた。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、山海関や台湾や威海衛の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)渤海湾北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、8月31日に定めた「冬季作戦大方針」を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が海城攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "12月1日、第一軍司令部は、第三師団長桂太郎陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに牛荘(遼河河口の港町)が、東北70kmに遼陽が、南西60kmに蓋平がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年2月27日まで4回の攻防戦と、小ぜりあいが続くことになる。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "12月30日着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年1月10日に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "12月14日、大本営が山東作戦の実施を決定した。第二軍司令部・連合艦隊司令部との調整後、翌年1月8日に実施計画が固まった。作戦の目的は、直隷決戦に向けて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。20日、4艦の砲撃援護の下、山東半島先端に海軍陸戦隊等が上陸し、栄城湾に歩兵第16連隊等が上陸を始めた(26日夜、最後の輸送船4隻が到着)。26日、第二師団と第六師団が並進を開始した(目標地点まで移動距離、約60km)。30日、陸戦用の防御設備があったにもかかわらず、清軍の抵抗が強くなかったため、半日で威海衛湾の南岸要塞を制圧した(日本軍の戦死54人、負傷152人)。陸上での清軍の抵抗は、2月1日で終わり、翌日、日本軍は、北岸要塞などを無血占領し、湾の出入口にある要衝の劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお1月30日、占領砲台を視察していた歩兵第11旅団長大寺安純陸軍少将が敵艦の砲撃を受け、戦傷死した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、孤立しても健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦を続けた。しかし、水雷艇による魚雷攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃を続け、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の提督丁汝昌に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は、北洋通商大臣李鴻章に打電後、服毒自決。14日の両軍の合意に基づき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2度目の海城防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた。前者は、遼陽と営口付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。3月2日、第五師団は、前衛が鞍山站に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、2月28日死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、3月2日鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が牛荘を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2月21日、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。3月4日、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、遼河対岸の渡河地点田荘台を攻撃した(清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨(きすう)が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「田荘台焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお作戦完了により、第五師団と後備諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、鳳凰城、九連城までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時第七師団(屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。3月16日、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、山海関東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領することとした。南方派遣艦隊(司令長官伊東祐亨海軍中将)の旗艦吉野が座礁し、予定より遅れたものの、3月23日、混成支隊が澎湖列島に上陸を始めた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1895年(明治28年)3月19日(光緒21年2月23日)、清の全権大使李鴻章が門司に到着した。下関での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。5月8日(4月14日)、清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。4月23日、フランス・ドイツと共に、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。翌24日、広島の御前会議で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床に就く陸奥外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、1) 列国会議は三国以外の干渉を招く可能性が、2) 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。なお11月8日、清と遼東還付条約を締結した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "日本は、5月8日の日清講和条約発効後、割譲された台湾に近衛師団(歩兵連隊と砲兵連隊が二箇大隊で編成され、他師団より小規模)を派遣した。29日に近衛第一旅団が北部に上陸を始め、6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われた後、19日に南進が始まった。しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗が激しいため、予定していた近衛第二旅団の南部上陸を中止し、北部制圧後の南進再開に作戦が変更された。増援部隊として編成された混成第四旅団(第二師団所属の歩兵第四旅団が基幹)と警備用の後備諸部隊が到着する中、7月29日、ようやく旧台北府管内を制圧した。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "8月28日、近衛師団が中部の彰化と鹿港まで進出し(ただし病気等で兵員が半減)、9月16日、台南を目指す南進軍が編成された。10月、すでに台湾平定に参加していた混成第四旅団を含む第二師団が南部に分散上陸し、10月21日、日本軍が台南に入った。11月18日、大本営に全島平定が報告された(参加兵力:二箇師団と後備諸部隊などを含め、将校同等官1,519人、下士官兵卒48,316人の計49,835人、また民間人の軍夫26,214人)。軍政から民政に移行した翌日、1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散された。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "なお犠牲者は、平定した日本側が戦死者164人、マラリア等による病死者4,642人に上った。女性子供も参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人死亡と推測されている。", "title": "戦争の経過" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "(以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアが日清間の紛争に介入)", "title": "年表" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "日本は、日清戦争全体を通して主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていた。開戦前の5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、条約改正など外交政策をめぐって伊藤内閣と激しく対立する対外硬六派も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。解散総選挙後、広島に召集された臨時第七議会で、政府提出の臨時軍事費予算案(その額1億5,000万円は前年度一般会計歳出決算額8,458万円の1.77倍)を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり開戦により、反政府的な排外主義的ナショナリズムが、これを抑えてきた政府の支持に回ったのである。また、反政府派の衆議院議員だけでなく、知識人も清との戦争を支持した。たとえば、対清戦争について福澤諭吉は「文野〔文明と野蛮〕の戦争」と位置づけ(『時事新報』1894年7月29日)、内村鑑三は「義戦」と位置づけた。なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる田中正造も、対清戦争を支持していた。そうした一種の戦争熱は、民間の義勇兵運動の広がり、福沢や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "6月5日、参謀本部内に史上初めて大本営が設置され、形式上戦時に移行した。8月4日、大本営が「作戦大方針」を完成させ、翌日、天皇に上奏された。大方針では、渤海湾沿岸に陸軍主力を上陸させて清と雌雄を決すること(直隷決戦)が目的とされ、このための作戦が二期に分けられた。第一期作戦は、朝鮮に第五師団を送って清軍をけん制、残りの陸海軍が出動準備と国内防衛、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と黄海・渤海湾の制海権掌握とされた。第二期作戦は、第一期作戦の進行、つまり制海権で三つが想定された。(甲)制海権を掌握した場合、直隷平野(北京周辺)で決戦を遂行、(乙)日本近海だけ制海権を確保した場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力、(丙)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内防衛とされた。8月14日、朝鮮半島南部に待機中の連合艦隊から「自重ノ策」をとると打電された大本営は、第二期作戦を(乙)で進めることにし、各師団長に訓示した(第三師団には出動命令)。31日、大本営は、「冬季作戦大方針」を定め、上記「作戦大方針」の(乙)を(甲)に変更し、直隷決戦を行うことにした。しかし、実際に制海権をまだ掌握していないため、1)直隷決戦の根拠地として旅順半島の攻略確保、2)清軍を南満洲に引きつけるための陽動作戦(奉天攻撃)を実施、3)陽動作戦の準備として清軍が集結する平壌を攻略するとされた。翌9月1日、まず3)を実施するため、第一軍が編成された。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "なお、当時の戦争指導は、政治主導であった。天皇の特旨により、本来メンバーではない山縣枢密院議長と伊藤首相と陸奥外相が大本営に列席し、伊藤首相は西洋列強の思惑を踏まえた意見書を提出することもあった(山東作戦の実施決定と台湾攻略に大きく影響)。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "政治が軍事をリードできた要因として、第一に統帥権独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導層の性格が挙げられる。当時の指導層は、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(陸軍大学校・海軍兵学校卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者に上りつめていない時代)。関連して藩閥の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」つまり「藩閥の優位」でもあった。なお、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われたものの、第一次世界大戦後にはいわゆる「大正デモクラシー」を経て議会制民主主義が根付くと見られた。しかし1930年代初頭の世界恐慌後に軍による主導にシフトすることになる。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "日本と比して広大な国土と莫大な兵力を持つ清は、1884年当時、圧倒的に優勢と思われていた。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "しかし、挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。光緒帝の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する総理衙門(慶親王等)と軍務を所管する軍機処(礼親王等)とが分離したままであった(開戦後の9月29日、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都北京)と、天津港に限られるとはいえ、欽差大臣として全権を持つ北洋通商大臣李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出したイリ条約締結年の1881年(光緒7年)以降、礼部から兵権をもつ北洋通商大臣の直轄に移行し、朝鮮で総理朝鮮交渉通商事宜をつとめる袁世凱と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり(実質的な私兵化)、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。同大臣の李は、元々渤海沿岸の3省(直隷・山東・奉天)の海防とそのための兵権、3省の総督に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。また、北洋水師(北洋艦隊)を統監するとともに、私費を投じて編成した勇軍の一つ、いわゆる北洋陸軍を抱えていた。しかし開戦後、盛京将軍宋慶に隷属する東三省の錬軍(正規軍八旗の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたので、二元統帥に陥る可能性があった。そのため12月2日、欽差大臣劉坤一に山海関以東の全兵権が与えられた。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李や官僚の一部、西太后等の無視できない戦争回避派がいた。7月16日、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。そのこともあって李は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし9月15日、平壌で敗れると、戦略を大きく転換した。19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけ直し、持久戦をとるよう提案した。持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから日本との講和に臨む構想であった。9月29日、恭親王に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられ始めた。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要な役割を果たす海軍力は、増強が進んでいなかった。さらに、軍事史家は海軍が無残な敗北を喫した背景として軍幹部の腐敗(砲弾の火薬を転売し砂に換えていた、など)を挙げている。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "たとえば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の1890年(明治23年)に就役した巡洋艦「平遠」(排水量2,100t)が最後に配備された新造艦であった。実質的に制海権の帰趨(きすう)を決めた黄海海戦では、1892年(明治25年)に就役し、広東水師(広東艦隊)から編入されていた「広丙」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、1891年(明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)が参加した。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の従軍記者は、清の弱兵ぶり、木口小平など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った)。", "title": "両国の戦争指導と軍事戦略" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "戦費は、2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)(内訳:臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。うち臨軍特別会計(1894年6月1日〜1896年3月末日)の支出額構成比は、陸軍費が82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%)、海軍費が17.9%(人件費1.1%、艦船費6.4%、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)であった。臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が公債金(内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の日本銀行を含む全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1894年8月16日、軍事公債条例が公布された(勅令)(5000万円を限度とする)。 8月17日、大蔵省は、軍事公債条例による軍事公債3000万円の募集を公示した(告示)。9月10日から発行、応募額は7700万円余にのぼり、実収額は3006万円。 8月18日、大蔵大臣渡辺国武は、関東同盟銀行幹事渋沢栄一・山本直哉・安田善治郎代理長谷川千蔵をまねき、軍事公債募集について協力を要請した。 また8月に渡辺蔵相は、各地方官にたいし、軍事公債条例について、管内の有志に応募させるよう内訓した。11月22日、2度目の内訓。 11月21日、伊藤首相、渡辺蔵相は、東京の銀行家5人(荘田平五郎・中上川彦次郎・山本直哉・園田孝吉・安田善治郎)をまねき、軍事公債募集方法を協議した。 11月22日、大蔵省は、軍事公債5000万円の募集を公布した(省令)。応募額は9030万円余、実収額は4763万余円。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1893年(明治26年)、陸軍が戦時編制を改め、翌年度から新編成が適用された。その1894年度動員計画では、野戦七箇師団と兵站部、守備諸部隊(北海道の屯田兵団を含む)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった。なお、動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "実際の動員(充員召集)は、6月5日に第五師団の歩兵第九旅団から始まり、7月12日に残りの歩兵第十旅団が続いた(朝鮮半島の地形等が考慮され、野戦砲兵連隊の装備が野砲から山砲に変更)。7月24日に第六師団が、8月4日に第三師団が、8月30日に第一師団が動員に入り、また10月上旬に第二師団が動員を終えた。近衛師団は10月8日戦闘部隊の動員が終わったものの、派兵が決まらなかったため、兵站部などを含めた動員の完了が翌年2月16日となった。第四師団も12月4日戦闘部隊の動員が終わり、翌年3月上旬に動員が完了した。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年3月9日に田荘台を攻略)、第二期作戦(直隷決戦)の準備が始まった。3月16日に参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられ、直隷決戦で先陣を務める近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "最終的に計画を上回る240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(10年後の日露戦争では、軍夫(民間人)の雇用に代わり、兵役経験のない未教育者を補助輸卒として多数動員)。なお、20-32歳の兵役年齢層について戦闘員の動員率5.7%(国外動員率4.1%)と推計される。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人(背負子(しょいこ)と一輪車、大八車)に頼った主因は、馬と馬糧の制約にあった。特に馬の制約は、最初に出動した第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまった(上記の通り装備から野砲を外したため、砲兵用の輓馬0頭)。しかも徒歩車輌(大八車)を用意せず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬がしばしば逃亡したため、兵站部所属の軍夫1,022人(戦闘部隊所属を含む軍夫の総計5,191人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬するだけで足りず、ときに戦闘員も兵站部の物資運搬に従事した。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "戦地軍法会議による処罰者が1,851人いた。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割に当たる370人(重罪3人)が陸軍刑法違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が刑法などその他の法令違反であった。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰された。内訳は、対上官暴行が6人(重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外は307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった旅順虐殺事件が発生しており、1894年(明治27年)6月29日付けの参謀総長から混成旅団長宛の訓令「糧食等の運搬は全て徴発の材料を用うべき事」を受けて「およそ、通行の牛馬は荷物を載せたると否とに関わらず之を押掌する」(杉村濬「明治二十七年在韓苦心録」)ような行為が公然と行われていた。また被疑者を特定できない等、処罰に至らなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。", "title": "戦費と動員" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "参謀本部「明治二十七八年日清戦史」では、軍人・軍属の戦死 1,132、戦傷死 285、病死 11,894、戦傷病 3,758、合計13,488人、服役免除(疾病、刑罰等)3794人で、全体の減耗人員数の合計は17282人と報告された。これによれば、軍人・軍属の戦死、戦傷死、病死の合計死者数は13,311人となる。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "歴史学者の井上清は昭和41年の著書で、日本陸軍12万人のうち戦死者数は5417人とする。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "防衛ハンドブック(1992年、朝雲新聞社)によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "歴史学者の原田敬一は2007年の著書で、参謀本部『明治廿七八年日清戦史』には全動員力24万616人、うち17万4017人が派遣され、軍夫は15万4000人のうち5000人国内使役のほかは派遣されたとあることから、軍夫も武装した輜重輸卒であったことからこれを含めると、日本軍の動員は39万5000人であったとする。原田は、軍夫の死者数は調査されなかったが、7000人以上と推定する。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)。しばしば議論の的になった脚気については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人)であった。なお脚気問題の詳細は、「陸軍での脚気大流行」を参照のこと。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "当時の朝鮮半島は衛生状態が悪いこともあり、また発展途上国で日本と違いトイレットペーパーが不足していた(当時の日本では山村でない限り普及していた)ことから、戦地で伝染病がはやった。とりわけ台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリアで陣没し、近衛第二旅団長山根信成陸軍少将も戦病死したほどであった。ただし、広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王陸軍大将が腸チフスを発症したなど、国内も安全ではなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) がコレラによるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)。次いで消化器疾患1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、赤痢1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、マラリア542人 (4.1%)、凍傷88人 (0.7%)。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり、その後、似島(広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "当時の陸軍は、しっかりした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法とを持っていなかった。しかも、非戦闘時の兵士は硬くて履き心地の良くない軍靴よりも草履を履くことが多く、また物資運搬を担った民間人の軍夫は軍靴を支給されなかった。結果的に多くの兵士と軍夫が凍傷に罹り、相当な戦力低下を招いた。凍傷は、山東半島での威海衛攻略戦、大陸での冬営、遼河平原の作戦などで多発した。このため戦後、そうした戦訓を基に防寒具研究と冬季訓練が行われた。そして後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが八甲田雪中行軍遭難事件である。", "title": "日本軍の損害" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "日本軍は、戦地で食糧を調達するときに対価を支払っており、現地の民間人に対して略奪等の行為が皆無との見解がある。とくに軍の規律は、欧米を中心とした国際社会より高い評価を受けた。これは当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性があったためであり、東洋の君子国(徳義と礼儀を重んじる国)と称えられた。現地の人々との関係も良好で、たとえば日本軍が朝鮮半島を北上する際、畑で農作業中の農民に出会ったりすると、その作業を手伝った等の微笑ましい話も残された(保坂前掲書)。", "title": "民間人の被害" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "ただし、そうした光と異なり、影の部分もあった。地方出身者で低学歴者が殆どの兵士たちは、鉄道のない道路の悪い戦地で、補給線が伸びきったために食糧を略奪し(徴発が略奪に変わり、抵抗する清国人を殴る行為を「大愉快」と表現した軍夫もいた。『東北新聞』1895年2月14日)、ときに寒さをしのぐ燃料を得るために民家を壊して生き延びた。また、満州の戦闘では、市街(田荘台)を焼き払っており、戦時国際法を適用しなかった台湾平定では、集落ぐるみで子供も参加するようなゲリラ戦に対し、予防・懲罰的な殺戮(さつりく)と集落の焼夷とが普通の戦闘手段になっていた。", "title": "民間人の被害" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "戦時経済について後年、財界の大御所渋沢栄一が次のように回顧した。", "title": "戦時経済" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "実際、開戦当初の悲観的な見通しと異なり、戦時経済は大過なく運営された。その要因として、1)日清戦争が比較的短期かつ小規模であったことが挙げられる。このため、兵役適齢層(20-32歳)の動員率が5.7%(推計値)にとどまり、その多くが10か月以内に復員した。2)当時の日本は、潜在的に過剰労働力が少なくなく、とくに主要産業の農業でその傾向が強かった。しかも、農村や農山村などで過剰労働力が滞留する中(東京で車夫が余るなど都市も働き口が少なかった)、出征兵士留守宅への農作業支援もあった。結局のところ、戦時下で農業生産額(実質)が増加した。", "title": "戦時経済" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "3)最も懸念されたのが、兵器や弾薬など軍需品の輸入増による国際収支の赤字化(正貨流出)とその増大であった。政府は、できるだけ国産品を調達したものの、それでも戦費の約1/3が外国に支払われるような状態であったため、民需品の輸入を抑制した。しかし、輸出の伸びと、戦地の支払いで日本の貨幣が円滑に流通したこともあり、結果的に国際収支は大幅な赤字に陥らず、正貨準備額も激減しなかった。", "title": "戦時経済" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "もっとも、戦争の影響は、産業などによって異なった。商業への悪影響は、民需品の物流を滞らせた船舶不足(開戦で国内船主の汽船がほとんど徴用)を除くと、大きなものが無かった。工業への悪影響は、原料高など商業より大きかったものの、全体として打撃が小さかった。むしろ、兵器関連業や綿糸紡績業など、兵站にかかわる産業は、特需で活況を呈した。ただし、戦費調達(多額の軍事公債発行)のための資金統制により、鉄道敷設の起工延期など新規事業が抑制された。", "title": "戦時経済" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "日清戦争では、清軍からは1790人が捕虜として捕えられ、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を科せられることもなく講和後には帰国した。この戦争自体が日本軍の連戦連勝で短期間で収束したことからの日本兵の捕虜が少数であることは確かだが清から引き渡されたのは11名、そのうち10名は軍夫だった。これは清軍は、通信の未熟や中央の威令が各部隊に届かず末端が暴走し捕虜をとらず殺害したためと考えられる。", "title": "捕虜" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争を初めて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。また戦後、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる。さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。1897年(明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "憲法発布(1889年)、部分的な条約改正(1894年日英通商航海条約で領事裁判権撤廃)、日清戦争(1894 - 95年)の3点セットは、脱亜入欧の第一歩であった。とりわけ、近代的戦争の遂行とその勝利は、帝国主義時代の国際社会で大きな意味をもった。ただし、欧米の大国で、日本の「公使館」が「大使館」に格上げされるのは、日露戦争後である。また開戦をきっかけに、国内の政局が大きく変わった。衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、伊藤内閣への対決姿勢をとってきた対外硬六派なども、同内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり、歴代内閣と反政府派の議員とが対立してきた帝国議会初期の混沌とした政治状況が一変したのである(戦時下の政治休戦。戦後も1895年11月に伊藤内閣(藩閥)と自由党が提携し、第九議会で日本勧業銀行法をはじめ、懸案の民法典第一編 - 第三編など重要法案を含む過去最多の93法案が成立)。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "もっとも世間では、清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられた。なぜなら、歴史的に中国を崇め(あがめ)ても、見下すような感覚がなかったためである。明治天皇が清との戦争を逡巡(しゅんじゅん)したように、日清戦争の勃発に戸惑う国民も少なくなかった。しかし、勝利の報が次々に届くと、国内は大いに湧き、戦勝祝賀会などが頻繁に行われ、「帝国万歳」が流行語になった。戦後の凱旋行事も盛んであり、しばらくすると各地に記念碑が建てられた。戦時中、男児の遊びが戦争一色となり、少年雑誌に戦争情報があふれ、児童が清国人に小石を投げる事件も起こった。ただし、陸奥宗光のように、制御の難しい好戦的愛国主義(排外主義)を危ぶむ為政者もいた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "国民に向けて最も多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞社は、費用増が経営にのしかかったものの、従軍記者を送るなど戦争報道の強かった『大阪朝日新聞』と『中央新聞』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『郵便報知新聞』『毎日新聞』『やまと新聞』が没落した。また、忠勇美談(西南戦争以前と異なり、徴兵された「無名」兵士の英雄化)など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、報道機関の発達を促した。その報道機関は、一面的な情報を増幅して伝える等、人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。たとえば、新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れている、とのことを繰り返し伝えた(開明的な近代国家として日本を礼賛)。国民の側も、そのような対外蔑視の記事を求めた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "日清戦争は、近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、この体験を通して日本は近代的な国民国家に脱皮した。つまり、檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である(戦争の統合作用)。たとえば、戦争遂行の過程で国家は人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。戦争の統合作用で重要な役割を果たしたのが大元帥としての明治天皇であり、天皇と大本営の広島移転は、国民に天皇親征を強く印象づけた。反面、清との交戦とその勝利は、日本人の中国観に大きな影響を与え、中国蔑視の風潮が見られるようになった。戦場からの手紙に多様な中国観が書き記されていたにもかかわらず、戦後、多くの人々の記憶に残ったのは、一面的で差別的な中国観であった。なお、国内が日清戦争に興奮していたとき、上田万年が漢語世界から脱却した国語の確立を唱道し、さらに領土拡大(台湾取得)などを踏まえ標準語の創出を提起した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "日清戦争が一段落付くと、領土・賠償金等での勝敗落差の実感(かつて普仏戦争が軍拡の必要性を説くときに好例とされた)や賠償金の使途や三国干渉やロシアのシベリア鉄道建設(南下政策への警戒)などを背景に、政府内で戦後経営にかかわる意見が出された。1895年(明治28年)4月、山縣有朋が「軍備拡充意見書」を上奏し、8月15日に大蔵大臣松方正義が「財政意見書」(軍拡と殖産興業を主張)を閣議に、11月に後任の渡辺国武蔵相が「財政意見書」を閣議に提出した。政府は、渡辺案を若干修正した「戦後財政計画案」(1896 - 1905年)を第九議会(1895年12月25日召集)に参考資料として提出した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "その後、一般会計の歳出決算額が開戦前の1893年(明治26年)度8,458万円(軍事費27.0%、国債費23.1%)から1896年(明治29年)度1億6,859万円(軍事費43.4%、国債費18.1%)に倍増し、翌1897年度から日露戦争中の1904年(明治37年)度まで2億円台で推移した。歳出増大に伴う歳入不足が3回の増税、葉たばこ専売制度、国債で補われ(戦前、衆議院の反対多数で増税が困難な状況と一変)、「以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した」とされる。さらに公共投資も、1893年度3,929万円から1896年度6,933万円に76.4%増加し、翌1897年度から1億円台で推移した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "財政と公共投資の膨張に現れた積極的な政策姿勢(富国強兵の推進)は、負の側面もあったものの、戦後の経済発展の主因になった。たとえば、日清戦争(軍事・戦時経済の両面)で海運の重要性を認識した日本は、1896年(明治29年)3月24日の「航海奨励法」・「造船奨励法」公布ならびに船員養成施策などにより、海運を発展させることになる。なお財政上、見送られてきた二番目の帝国大学が1897年の勅令で京都に設置されること、つまり京都帝国大学の創設が決まった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "また1897年(明治30年)10月1日、イギリス金貨(ポンド)で受領する清の賠償金と還付報奨金を元に貨幣法などが施行され、銀本位制から金本位制に移行した(ただしイギリスの金融街シティに賠償金等を保蔵し、日本銀行の在外正貨として兌換券を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)。本位貨幣の切り替えによって日本は、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」になりつつあったイギリスを中心にする国際金融決済システムの利用、日露戦争での戦費調達(多額の外債発行)、対日投資の拡大など、金本位制のメリットを享受することになる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "以上を要約すると、日清戦争後の日本は、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)することになる。さらに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策(海運業振興策など)や金融制度(金本位制に移行・日本勧業銀行など特殊銀行の相次ぐ設立)や税制体系(新税導入・たばこ専売制)など、以後の政策制度の原型が作られることとなる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1896年(明治23年)3月4日、清の賠償金と遼東半島還付報奨金を管理運用するため、償金特別会計法が公布された。1902年(明治35年)度末現在、同特別会計の収入総額が3億6,451万円になっていた。内訳は、賠償金が3億1,107万円 (85.3%)、還付報奨金が4,491万円 (12.3%)、運用利殖・差増が853万円 (2.4%) であった。また、同特別会計の支出総額が3億6,081万円で、差し引き370万円の残高があった。支出の内訳は、日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった。このように清の賠償金などは、戦費と軍拡費に3億502万円84.5%が使われた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "なお、1896年度から1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円であった(ただし第三期の海軍拡張計画を含まない第一期と第二期の計画分)。使途の構成比は、陸軍が32.4%(砲台建築費8.6%、営繕と初年度調弁費16.0%、砲兵工廠工場拡張費5.8%、その他1.9%)、六六艦隊計画を立てた海軍が67.6%(造船費40.0%、造兵費21.2%、建築費6.4%)。また財源の構成比は、清の賠償金・還付報奨金が62.6%、租税が12.7%、公債金が24.7%であった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "西洋列強から大国と認識されていた清が日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序を揺るがす一大事件であった。日清戦争によって列強は、清への認識をそれまでの「眠れる獅子」といった大国的なものから改めることになる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "その清は、戦費調達と賠償金支払いのために列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また良港など要衝のいくつかを租借地にされて失った。敗北は洋務運動の失敗を意味し、対外的危機が高まる中、いわゆる変法派により、日本の明治維新に倣った変法自強運動が唱えられ、康有為らは明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を求める上奏を行った。1898年(光緒24年)、光緒帝が変法派と結び、急激な変革(戊戌の変法)が行われつつあったものの、失敗した(戊戌の政変)。一方、1890年代、孫文らは共和制革命を唱え、日本、アメリカなどで活動した。1890年には輔仁文社が香港で設立され、孫文は1894年にハワイで興中会を結成した。1895年に武装蜂起に失敗、日本に亡命。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生(章炳麟、鄒容、陳天華など)の間では革命思想が浸透した。1900年(光緒26年)の義和団の乱では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都北京を占領される非常事態になり、国権の一部否定を含む北京議定書を締結するなど大きな代償を払った。さらに、南下政策をとるロシアの満洲占領を招いた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡(辛亥革命)することとなる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "1894年7月23日(光緒20年6月21日)、日本主導の政変により、金弘集内閣が誕生すると、日清戦争中、魚允中や金允植など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次甲午改革)(岡本(2008), p. 4-5,162-164,181)。高宗・閔妃派・大院君派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した井上馨公使の要請により、亡命中の朴泳孝と徐光範を加えた第2次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年4月17日(翌年3月23日)、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の三国干渉で日本の威信が失墜し、6月に第2次金内閣が崩壊した。そうした情勢の下、10月8日(8月20日)に乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、太陽暦採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根を張る両班や儒学者たちも反発した。翌1896年(建陽元年)1月、「衛正斥邪」を掲げる伝統的な守旧派が政権打倒を目指して挙兵した(初期義兵運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派がクーデターを決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を殺害された高宗とその子供をロシア公使館に移し、2月11日に新政府を樹立した(露館播遷)。同日、総理大臣の金弘集は、光化門外で群衆に打ち殺された(甲申政変での急進的開化派(独立党)の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "こうして日清開戦から続く、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年も経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であった。その結果、義和団の乱後にロシアが満洲を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つことになる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、1897年(光武元年)10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、大韓帝国の成立を宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった「迎恩門」および「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑が倒され、前者の跡地にフランスのエトワール凱旋門を模した「独立門」が建てられた。", "title": "影響" } ]
・・・・・・・日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。 ・壬午軍乱以後、閔妃によって清国が李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた。
{{Battlebox | battle_name = 日清戦争 | campaign = 日清戦争 | colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:Sino Japanese war 1894.jpg|300px]] | caption = 日本軍歩兵の一斉射撃 | conflict = 日清戦争 | date = [[1894年]][[7月25日]] ~ [[1895年]][[4月17日]]<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89-109866 |title=日清戦争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-03-23}}</ref> | place = [[朝鮮半島]]、[[黄海]]、[[鴨緑江]]、[[遼東半島]]、[[山東半島]]、[[台湾]]など{{R|"kotobank"}}。 | result = 日本側の勝利。[[下関条約]]の締結により講和し、朝鮮は独立、遼東半島、台湾、[[澎湖諸島]]は日本領となった{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = {{JPN1889}} | combatant2 = {{CHN1889}} | commander1 = {{flagicon image|Flag of the Japanese Emperor.svg}} [[明治天皇]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[伊藤博文]]<br/>{{Flagicon|JPN1889}} [[山縣有朋]]<br/> {{flagicon image|War flag of the Imperial Japanese Army.svg}} [[大山巌]]<br/> {{flagicon image|Naval Ensign of Japan.svg}} [[伊東祐亨]] | commander2 = {{Flagicon|Qing Dynasty}} [[光緒帝]]<br/>{{Flagicon|Qing Dynasty}} [[西太后]]<br/>{{Flagicon|Qing Dynasty}} [[李鴻章]]<br/>{{Flagicon|Qing Dynasty}} [[劉坤一]]<br/>{{Flagicon|Qing Dynasty}} [[丁汝昌]] | strength1 = [[大日本帝国陸軍|陸軍]]<br/>兵力240,000人<br/>[[大日本帝国海軍|海軍]]<br/>[[軍艦]]28隻<br/>[[水雷艇]]24隻<ref name="webrekishi">{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6547 |title=陸軍兵力・軍艦数で劣る日本が、日清戦争で勝てた理由 |publisher=WEB歴史街道 |date=2019-06-30 |accessdate=2023-03-23}}</ref> | strength2 = [[清の兵制|陸軍]]<br/>勇軍・練軍350,000人<br/>募集兵630,000人<br/>計980,000人<br/>[[清国海軍|海軍]]<br/>軍艦82隻<br/>水雷艇25隻<br/>実質的<br/>[[北洋艦隊]]<br/>軍艦22隻<br/>水雷艇12隻<br/>[[広東艦隊]]<br/>軍艦3隻<br/>海軍合計<br/>軍艦25隻<br/>水雷艇12隻{{R|"webrekishi"}} | casualties1 = 13,800人[[戦死]]<ref name="人間自然科学研究所">{{Cite web|和書|url=https://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf |title=戦争による国別犠牲者数 |publisher=人間自然科学研究所 |accessdate=2023-03-23}}</ref> | casualties2 = 35,000人戦死{{R|"人間自然科学研究所"}} |写真=https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fyattoke.com%2F2019%2F03%2F06%2Fchina-war-russo-war%2F&psig=AOvVaw2Rc4a1StFiECL0UDSrVnxK&ust=1682730576962000&source=images&cd=vfe&ved=0CA4QjRxqFwoTCICj3Ieyy_4CFQAAAAAdAAAAABAV}} {{Chinese | title = 日清戦争 | pic = 16126.d.1%2846%29-Long_live_the_Great_Japanese_Empire%21_Our_army%27s_victorious_attack_on_Seonghwan.jpg | t = 甲午戰爭 | s = 甲午战争 | p = Jiǎwǔ Zhànzhēng | bpmf = ㄐㄧㄚˇ ㄨˇ ㄓㄢˋ ㄓㄥ | hangul = 청일전쟁 | hanja = 淸日戰爭 |lang2=en |lang2_content=First Sino-Japanese War }} '''日清戦争'''(にっしんせんそう、{{旧字体|'''日淸戰爭'''}})は、[[1894年]]([[明治]]27年)[[7月25日]]から[[1895年]](明治28年)[[4月17日]]にかけて[[大日本帝国|日本]]と[[清国]]の間で行われた[[戦争]]である。なお、正式に[[宣戦布告]]されたのは1894年[[8月1日]]で、完全な終戦は[[清朝統治時代の台湾|台湾]]の平定を終えた1895年[[11月30日]]とする見方もある。[[李氏朝鮮]]の地位確認と[[朝鮮半島]]の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]および[[黄海]]で交戦し、日本側の勝利と見なす[[日清講和条約|日清講和条約(下関条約)]]の調印によって終結した。 [[壬午軍乱]]以後、[[閔妃]]によって清国が[[李氏朝鮮]]に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は[[李氏朝鮮]]に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から[[清朝統治時代の台湾|台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の[[三国干渉]]により[[遼東半島]]は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、[[アジア]]の[[近代国家]]と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた<ref>[https://heiwa.yomitan.jp/4/3215.html 安全な接続が出来ませんでした]{{404|date=2023-04}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=小野一一郎 |date=1964-09 |url=https://doi.org/10.14989/133017 |title=日清戦争賠償金の領収と幣制改革 - 日本における金本位制の成立(3) - |journal=經濟論叢 |ISSN=0013-0273 |publisher=京都大學經濟學會 |volume=94 |issue=3 |pages=166-182 |doi=10.14989/133017 |id={{CRID|1390290699818947072}} |hdl=2433/133017}}</ref>。 == 概要 == '''甲午農民戦争と日清駐兵'''[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63.jpg|代替文=|境界|右|フレームなし]] 1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の[[東学党]]の指導下で蜂起し大規模な[[甲午農民戦争|農民反乱]]が勃発した。自力での鎮圧が不可能なことを悟った[[李氏朝鮮|李氏朝鮮政府]]は、[[宗主国]]である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も先年締結の[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、5日に[[大本営]]を設置した。日本側も部隊を送り込んできたことを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと主張して、安全保障のための内政改革の必要性を唱え、15日に日清共同による朝鮮内政改革案を清国側に提示したが、清国政府はこれを拒絶した上で日清双方の同時撤兵を提案した。これを受けた日本政府は24日に朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送った。同時に日本の追加部隊が朝鮮半島に派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し、日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。 '''日清開戦''' 1894年7月上旬、日清同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を要求する日本側の間で交渉が続けられたが決裂状態となり、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に[[日英通商航海条約]]を結ぶことに成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を襲撃・占拠して、捕えた[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]に日本に協力的姿勢を示していた大院君を新政府首班とすることを認めさせ、さらに大院君から清国兵追放を要請する文書を得た<ref>{{Cite web |url=https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html |title=描かれた日清戦争 ~錦絵・年画と公文書~ {{!}} 日清戦争とは |access-date=2023-12-16 |publisher=国立公文書館 アジア歴史資料センター}}</ref>。この大義名分の下、7月25日の[[豊島沖海戦|海戦]]と28日の[[成歓の戦い|陸戦]]によって清国駐留部隊を駆逐し、ソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。 '''戦争の推移'''[[ファイル:First_Chinese_Japanese_war_map_of_battles_Ja.png|代替文=|境界|右|フレームなし|236x236ピクセル]] 1894年8月から[[朝鮮半島]]の北上進撃を開始した日本陸軍は、清国陸軍を撃破しつつ9月中に朝鮮半島を制圧した後に[[鴨緑江]]を越え、翌1895年3月上旬までに[[遼東半島]]をほぼ占領した。日本海軍は1894年9月の[[黄海]]の[[黄海海戦 (日清戦争)|艦隊決戦]]に勝利して陸軍北上のための海上補給路を確保していた。1894年11月に陸軍が[[遼東半島]]の[[旅順港]]を占領し、翌1895年2月には陸海共同で[[山東半島]]の[[威海衛]]を攻略して日本軍は[[黄海]]と[[渤海]]の制海権を掌握した。制海権の掌握がこの戦争の鍵であった。 [[ファイル:Generals_Pyongyang_MigitaToshihide_October1894.jpg|サムネイル|270x270ピクセル|日本に敗北したため、[[土下座]]をする清(1894年)]] 近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都[[北京市|北京]]と[[天津市|天津]]一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地になったのは、[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]と[[満州]]最南部および[[黄海]]と[[山東半島]]東端であった。 '''講和条約の調印''' 1895年(明治28年)4月17日に調印された[[下関条約|日清講和条約]]の中で、日本は[[李氏朝鮮]]の独立を清国に認めさせた。また[[清朝統治時代の台湾|台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する[[最恵国待遇]]も承認させた。講和直後の23日に[[三国干渉|露仏独三国の外交要求]]が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に[[大本営]]が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。 == 戦争目的と動機 == [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|境界|20x20ピクセル]] '''[[大日本帝国|日本]]''' ‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」 『[[s:清国ニ対スル宣戦ノ詔勅|清国ニ対スル宣戦ノ詔勅]]』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある{{Refnest|group="注釈"|アンドルー・ゴードン『日本の200年』上、みすず書房、2006年、248頁。ISBN 4-622-07246-7。「このように、日清戦争は、朝鮮にたいする支配権をめぐる日中間の戦いだった。……下関で調印された[[日清講和条約]]で日本は、自国の「利益線」を朝鮮半島よりもさらに遠くへ拡張したいという強い願望を明確に打ち出した。」<ref>[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]『日本近代史 1』岩波書店、2007年、199、203頁。ISBN 978-4-00-021887-0</ref><ref>[[隅谷三喜男]]『大日本帝国の試練』日本の歴史<22>中公文庫、中央公論新社、2006年、29-30、35-36頁。ISBN 4-12-200131-5。</ref><br />これらは遼東半島領有が陸軍の、台湾領有が海軍の戦争中からの主張であったことを指摘している。開戦準備ならびに講和条約の項と脚注も参照。{{harv|原田(2008)|p=96}}<ref>[[中塚明]]『歴史の偽造をただす』高文研、1997年、165-168頁。ISBN 4874981992</ref><ref>中塚明『日清戦争の研究』青木書店、1968年。ISBN 4-250-68000-2</ref>。}}。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」<ref>{{harv|佐々木(2010)|p=144}}なお、その佐々木は、朝鮮問題(朝鮮半島の安定化)は、[[条約改正]]問題とともに「明治期の二大外交課題」とした。13-15頁。</ref>あるいは「事実上の保護国化」<ref group="注釈">開戦直後、1894年[[8月17日]]の閣議で、外務大臣[[陸奥宗光]]が提出した4案のうち、乙案「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠もしくはある長時間その独立を保翼扶持し他の侮りを防ぐの労を取る事」が採択された。乙案の採択は、かつて日本が呼びかけていた多国間の承認による[[日清戦争#日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立|朝鮮中立化案と、日清での朝鮮共同保護案]]の放棄を意味した。以上、岡本 (2008)、159-160頁。</ref>と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の[[南下政策]]等があった<ref group="注釈">中国を巡る英露対立「イギリスとロシアが睨み合うのはアフガニスタン国境だけではない。太平洋もまた、イギリスにとって重要で、日本の願いを肝要に扱って大きな義理を負わせ、イギリスと協調させるようにすれば、イギリスの中国への進出に直接的にも間接的にも大きく貢献してくれることになる」(「[[タイムズ]]」より。「イギリス・ロシアからみた日清戦争」、比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争』未來社、1996年。「日清戦争をめぐる国際関係」『近代中国研究彙報』18号、1996年。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所『19世紀末におけるロシアと中国』アジア史資料叢刊第1輯、巌南堂書店、1993年。</ref>(日本の安全保障上、[[対馬]]などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった<ref group="注釈">[[1888年]](明治21年)、[[元勲]]の一人で陸軍の実質的トップ[[山縣有朋]]が内閣総理大臣[[伊藤博文]]に対し、「我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り」と上申していた(「軍事意見書」)。当時の状況は、当記事「日清戦争」の[[日清戦争#日本の軍備拡張|「朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢#日本の軍備拡張」]]が詳しい。</ref>)。 日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣[[陸奥宗光]]は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『[[蹇蹇録]]』岩波文庫p277)。 [[三谷博]]・[[並木頼寿]]・[[月脚達彦]]編集の『大人のための近現代史』([[東京大学出版会]]、[[2009年]])の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる<ref>[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p78-p79</ref>。 [[画像:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|border|20x18px]] '''[[清|清国]]''' '''宣戦詔勅'''「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」 西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の[[宗主国|宗主]]・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。){{sfn|岡本(2008)|p=12}}を近代的な宗主国と[[植民地]]の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした<ref>[[茂木敏夫]]『変容する近代東味の国際秩序』山川出版社、1997年。{{harv|岡本(2008)}}</ref>。 == 前史1:日本の開国と近代国家志向 == 日清戦争について1)[[江華島事件]](外交面)を、2)1890年代の日本初の[[恐慌]](経済面)を、3)[[帝国議会]]初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある<ref>中塚明「日本近代史研究と朝鮮半島問題」『歴史学研究』No.867、2010年、7頁。</ref>。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。 === 西力東漸と「日清朝」の外交政策等 === 19世紀半ばから[[東アジア]]は、西洋[[列強]]の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった{{sfn|岡本(2008)|p=56}}。 {{Main|アヘン戦争|アロー戦争}} 大国の清では、[[広州]]一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の[[戦争賠償|賠償金]]を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また[[不平等条約]]を締結した。このため、1860年代から漢人官僚[[曽国藩]]、[[李鴻章]]等による近代化の試みとして[[洋務運動]]が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた([[中体西用]])。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係([[冊封体制]])をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ{{sfn|岡本(2008)|p=58-60}}。 {{Main|黒船来航|明治維新}} 日本では、アメリカ艦隊の来航([[幕末の砲艦外交#マシュー・ペリーの来航と日米和親条約|幕末の砲艦外交]])を契機に、[[江戸幕府]]が[[鎖国]]から[[開国]]に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、[[幕藩体制]]に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で[[中央集権]]や[[文明開化]]や[[富国強兵]]などを推進するとともに、外交で[[条約改正]]、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築([[国際法]]に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。 {{Main|李氏朝鮮#攘夷と開国}} 朝鮮では、[[摂政]]の[[興宣大院君|大院君]]も進めた[[衛正斥邪]]運動が高まる中、[[1866年]]([[同治]]5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された([[丙寅教獄]])。報復として[[江華島]]に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた([[丙寅洋擾]])。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった([[ジェネラル・シャーマン号事件]])。翌[[1867年]](同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った([[辛未洋擾]])。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた{{sfn|岡本(2008)|p=60-63}}。 ===「日朝」国交交渉の難航とその影響 === [[1868年]]([[明治]]元年、[[同治]]7年)末、日本の新政府は、朝鮮に[[王政復古]]を伝える[[書契]]を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に[[宗主国]]清の[[皇帝]]だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。 {{Main|日清修好条規|征韓論|明治六年政変}} [[1871年]](明治4年)[[9月13日]](同治10年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]])、対日融和外交を主張<ref group="注釈">清の政府内では、かつて[[倭寇]]として認識されていた日本が清に先駈けて近代化を果たせば軍事的脅威になる、との認識が醸成されていた。この中で李鴻章は、近代化に努める日清両国が提携して欧米列強に対抗することも念頭に置き、日本との条約締結を強く主張した。ただし、[[1874年]](明治7年、同治13年)の日本による[[台湾出兵]]後、日本を仮想敵国とした海軍建設を主張した。戸高 (2011)、71-75頁。</ref>した[[李鴻章]]の尽力により、[[日清修好条規]]および通商章程が締結された{{sfn|岡本(2008)}}。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない[[1873年]](明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない[[西郷隆盛]]の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、[[明治天皇]]の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と[[板垣退助]]と[[江藤新平]]など5人の[[参議#明治政府|参議]]および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な[[士族反乱]]である[[佐賀の乱]]が起こった。 {{Main|江華島事件|日朝修好条規}} 日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)[[11月]](同治12年[[9月 (旧暦)|9月]])、朝鮮では、[[閔妃]]一派による宮中[[クーデター]]が成功し、鎖国[[攘夷]]に固執していた摂政の大院君(国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、[[1875年]](明治8年)[[2月]](同治14年[[1月 (旧暦)|1月]])に[[森山茂]]を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大[[礼服]]を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した<ref group="注釈">朝鮮政府の一部には、国際社会では独立国の王が「皇帝」の称号を使っており、日本の書契に「皇」「勅」の文字があることを理由に外交交渉を拒否すべきでない、との意見もあった。呉 (2000)、49頁。</ref>。 日本は朝鮮半島沿岸の測量を名目に軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接は効果がなく、依然交渉は停滞していた。同年[[9月20日]]([[光緒]]元年8月21日)、軍艦「[[雲揚 (砲艦)|雲揚]]」が[[江華島]]周辺に停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘が始まった{{Refnest|group="注釈"|「大日本外交文書」所収の明治八年十月八日付けの「雲揚」艦長井上良馨の報告書では、接近目的を「探水」とし、九月二十日それを求めて溯上したボートへの朝鮮側の発砲があったため、「雲揚」が応戦し、同日に砲台の破壊と占領に及んだとした。しかし、新たに発見された防衛庁防衛研究所保存の同艦長の九月二十九日付け報告書の写しでは、測量及び朝鮮側官吏との面会などを目的に上陸を試み、ボートでの遡上中砲撃を受け、三日間の戦闘へと及んだ経緯がより詳細に記されている<ref>鈴木淳『維新の構想と展開』日本の歴史20、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年(原本2002年、129頁)</ref>。}}。12月(11月)、日本は、特命全権大使に[[黒田清隆]]を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果([[砲艦外交]])、翌[[1876年]](明治9年)2月(光緒2年2月)に[[日朝修好条規]]が調印された<ref group="注釈">半年後の8月(7月)、同条規の付録と貿易規則が定められ、規則第六則で米穀の輸出入が認められた。これによって朝鮮では、日本への米穀輸出が増加するとともに、米価高騰など食糧事情が悪化した。また、付録付属の往復書簡では、相互に無関税として[[関税自主権]]を否定したため(経済力で優位に立つ日本にとって有利)、日本の経済進出が容易になった。</ref>。 ===「日清」間の国境問題 === {{Main|台湾出兵|琉球処分|分島問題}} {{See also|宮古島島民遭難事件}} 日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、[[琉球王国]]の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、[[日清講和条約|日清戦争の講和条約]]で国境画定)<ref>以下、明記されていない出典は、{{harv|岡本(2008)|p=197-200}}と戸高 (2011)、58-59頁。</ref>。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、[[1871年]]の[[宮古島島民遭難事件]]を契機とした[[1874年]](明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、[[1879年]](明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。当時、日清は[[興亜会]]を設立するなど[[アジア主義]]と呼ばれる観点から西洋列強を共通敵とする動きもあった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に[[北洋艦隊|北洋水師]](艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。そして、その動きが[[日清戦争#日本の軍備拡張|日本の軍備拡張]]を促進させることになる。 == 前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢 == === 朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変 === 朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「[[開化派]]」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、[[開国]]が既定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、[[1882年]][[5月22日]](光緒8年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]])、[[米朝修好通商条約]]調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り[[壬午事変]]後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派([[事大党]])と、これを不当とする急進的開化派([[独立党]])との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した{{sfn|岡本(2008)|p=72-73,96-100}}。 {{Main|壬午事変}} 1882年(明治15年)[[7月]](光緒8年[[6月 (旧暦)|6月]])、首都[[漢城府|漢城]]で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な[[興宣大院君|大院君]]らの思惑も重なり、日本人の[[軍事顧問]]等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の[[花房義質]]に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった{{sfn|岡本(2008)|p=84-85}}。[[8月30日]]([[7月17日 (旧暦)|7月17日]])、日朝間で[[済物浦条約]]が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。 日本は、[[日清戦争#日本の軍備拡張|12月に「軍拡八カ年計画」を決定]]するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「[[中国朝鮮商民水陸貿易章程]]」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の[[北洋通商大臣]]とが同格、外国人の中で清国人だけが[[領事裁判権]]と貿易特権を得る等とされた{{sfn|佐々木(2010)|p=125}}。その後、朝鮮に清国人の[[居留地]]が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした<ref>川島 (2010)、3頁</ref>。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の[[淮軍|淮]][[湘軍|湘]]各軍に比し、はるかに劣れり」{{small|(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}等の認識を持つ[[翰林院]]の[[張佩綸]]が「東征論」(日本討伐論)を上奏した<ref>渡辺 (2008)、44-45頁。</ref>。 {{Main|甲申政変}} [[1884年]](明治17年、光緒10年)、ベトナム([[阮朝]])を巡って清とフランスの間に緊張が高まったため([[清仏戦争]]勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた[[金玉均]]など急進開化派は、日本公使[[竹添進一郎]]の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒する[[クーデター]]を計画した。[[12月4日]]([[10月17日 (旧暦)|10月17日]])にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、[[袁世凱]]率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。 政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した<ref>井上 (2010)、70頁。</ref>。なお、日本国内では、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が締結される1か月前の[[1885年]](明治18年)[[3月16日]]『[[時事新報]]』に[[脱亜論]](無署名の社説)が掲載された。 {{Main|天津条約 (1885年4月)}} [[1885年]](明治18年)[[4月18日]](光緒11年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]])、全権大使[[伊藤博文]]と北洋通商大臣[[李鴻章]]の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。 === 朝鮮情勢の安定化を巡る動き === [[画像:Une-Partie-De-Peche-Rus-Jpn-Qing-Dispute-Korea-Feb-15-1887.png|thumb|250px|[[ジョルジュ・ビゴー]]による当時の風刺画(1887年)<br />日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。]] 旧来、朝鮮の対外的な[[安全保障政策]]は、宗主国の清一辺倒であった<ref>以下、明記されていない出典は{{harv|岡本(2008)|p=125-136}}</ref>。しかし、[[1882年]](明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力<ref group="注釈">[[1881年]](光緒7年)、清の[[北洋通商大臣]][[李鴻章]]は、イリ地方の紛争に対して武力鎮圧を決断し、その行動の結果、自国に有利な条件でロシアと[[イリ条約]]を結んだ。そして同年、対朝鮮政策の所管を[[礼部]]から北洋通商大臣の直轄にかえ、翌1882年の壬午事変で派遣した部隊(3,000名)をそのまま朝鮮に駐留させた。加藤 (2009)、93-96頁。</ref>が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ<ref group="注釈">1881年末から朝鮮とアメリカの間で条約締結交渉が始まると、李鴻章と朝鮮の吏曹参議[[金允植]]が協議し、朝鮮側の条約草案が作成された。草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。{{harv|岡本(2008)|p=76}}</ref>。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。 清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)<ref group="注釈">[[1882年]](明治15年)[[11月]](光緒8年[[10月 (旧暦)|]])から[[日清戦争#日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立|山縣有朋の意を汲んだ井上馨]]は、外務省を通して朝鮮中立化に動いており、この日本側の構想は卓抜していた。しかし、朝鮮の従属化を望む清、条約の批准もまだで時期尚早とする西洋諸国の反応がよくなかった。そして外交上の進展がないまま日本は、甲申政変を迎えた。{{harv|岡本(2008)|p=125-128}} 井上 (2010)。</ref>、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副[[領事]]ブドラーの朝鮮中立化案、のちに[[露朝密約事件#第一次露朝密約事件|露朝密約事件]]の当事者になる[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]のロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアと[[グレート・ゲーム]]を繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして[[1885年]](光緒11年)、[[アフガニスタン]]での紛争をきっかけに、ロシア艦隊による[[永興湾要塞|永興湾]]([[元山市|元山]]沖)一帯の占領の機先を制するため、[[4月15日]]([[3月1日 (旧暦)|3月1日]])に[[巨文島]]を占領した<ref group="注釈">巨文島の占領についてイギリスは、朝鮮に通告せず、清(宗主国)の駐英[[外交官]]に伝えて了承を得ていた。もっとも、この外交官は、清にも朝鮮にも連絡をしなかった。また朝鮮は、日本から知らされるまでイギリス艦隊が巨文島に集結していることに気づかず、抗議など政治行動もとらなかった。しかし、李鴻章の警告書により、ようやく認識を改め、事態の収拾を図るものの、相手にされないなど効果がなかった。その後、清がイギリスとロシアの両者に働きかけ、前者による巨文島の占領が終わった([[1885年]]4月 - [[1887年]]3月)。呉 (2000)、152-154頁。</ref>。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫<ref group="注釈">[[1891年]](明治24年)、ロシアがフランス資本などの資金援助を受けながら、[[シベリア鉄道|シベリア横断鉄道]]の建設に着手した。この鉄道建設は、[[シベリア鉄道#歴史|イギリスに大きな衝撃を与えた]]。やがて日本にも、[[日露戦争#背景|危機感を抱かせることになる]]。</ref>してしまう。ロシアは[[ウラジオストク]]基地保護のために[[朝鮮半島]]制圧を意図した<ref name="inoki9to17">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、9~17頁。</ref>。 朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、[[1891年]](明治24年)の[[露仏同盟]]やフランス資本の資金援助による[[シベリア鉄道]]建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の[[1894年]](明治27年)[[7月16日]]、[[日英通商航海条約]]に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる{{harv|原田(2008)|p=47}}。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった<ref group="注釈">日清関係は[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]で、清露関係は李鴻章・ラデュジェンスキーの秘密合意(相互不可侵)で結ばれており、清朝関係は「属国」と「自主」が拮抗していた。</ref>。 === 日本の軍備拡張 === [[明治維新]]が対外的危機をきっかけとしたように[[帝国主義]]の時代、西洋[[列強]]の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、[[血税一揆]]と[[士族反乱]]を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された<ref>以上、戸部 (1998)、102-104、108-109頁。</ref>。ただし、[[1877年]](明治10年)の[[西南戦争]]後、陸軍の実力者[[山縣有朋]]が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)<ref>井上 (2010)、47-48頁。</ref>するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。 軍拡路線への転機は、[[1882年]](明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した[[壬午事変]]であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月[[岩倉具視]]は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した<ref>加藤 (2002)、72頁。</ref>(同年度の一般会計[[歳出]]決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌[[1883年]](明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の[[1892年]](明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった<ref name="名前なし-1">戸部 (1998)、109頁。</ref>。 軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、[[1888年]](明治21年)に山縣は、[[内閣総理大臣]]の[[伊藤博文]]に対し、次のように上申した。 {{Quotation|我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り。|「軍事意見書」}}現実に[[1884年]](明治17年、光緒10年) - 翌年の[[清仏戦争]](ベトナムがフランスの保護領に)、[[1885年]](明治18年、光緒11年) - [[1887年]](明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、[[露朝密約事件]](ロシアと朝鮮の接近)、ロシアの[[シベリア鉄道|シベリア横断鉄道]]敷設計画([[1891年]](明治24年)起工)があった。 その上、[[1884年]](明治17年、光緒10年)の[[甲申政変]](日清の駐留軍が武力衝突)、[[1886年]](明治19年、光緒12年)の[[北洋艦隊]](最新鋭艦「[[定遠 (戦艦)|定遠]]」と「[[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]]」等)来航時の[[長崎事件]]など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定<ref group="注釈">[[1877年]]の[[西南戦争]]を乗り切ると、1880年代の陸軍の主任務は、「治安維持」から外的脅威に備える「国土防衛」に変質しつつあった。1880年代中頃、[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]ドイツ陸軍少佐が指導した[[参謀]]演習旅行では、敵の上陸部隊への反撃が主な想定であったとされ、また[[1890年]]に初めて実施された陸海軍連合大演習は、敵の侵攻・上陸部隊に対する迎撃を目的とした。戸部 (1998)、108-114頁。</ref>で考えられていた([[1885年]](明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、[[松島 (防護巡洋艦)#概要|日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦]]であった)。 なお、1885年(明治18年)[[5月]]、兵力倍増の軍拡計画にそった[[鎮台]]条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに[[1888年]](明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された[[近衛師団]]を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある<ref group="注釈">たとえば、[[1878年]](明治11年)末に参謀本部と[[監軍部|監軍本部]]が設置されて以来の[[有事]]即応体制の完成との見解(桑田悦の説)。また陸軍の軍備計画では、師団制の採用に伴う部隊拡充のほか、海岸砲台と[[要塞]]構築にも重点が置かれていた。戸部 (1998)、111-112頁。</ref>。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため<ref group="注釈">一例として開戦前夜、[[海軍大臣]][[西郷従道]]海軍中将は「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」と伝えられている(外務次官[[林董]]の回想録『後は昔の記』)。戸高 (2011)、164頁。</ref>、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|制海権で三つの想定]]があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、[[元勲]]で[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の[[井上馨]]宛てに次のように書き送った{{harv|原田(2008)|p=81}}。{{Quotation|[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌陥落]]は実に意外の結果……引き続き[[黄海海戦 (日清戦争)|〔黄海〕海戦]]大捷これまた予想の外……{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}}} 軍拡の結果、現役の陸軍軍人<ref group="注釈">[[1873年]](明治6年)[[1月]]に制定された[[徴兵令]]は、日清戦争までに大改正が3回あった。大改正の主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあった。また、一年志願制の導入など高学歴者に特例を設けた(当初、専門知識が必要な[[衛生兵]]養成のために導入され、その後、[[動員]]に不可欠な[[予備役]]将校の養成としても運用された)。戸田 (1998)、117-118頁。</ref>・軍属数は、[[西南戦争]]前年の[[1876年]](明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の[[1893年]](明治26年)に73,963人<ref>以下の人員数と総トン数は、[[総務省|総務庁]] (1988) 第5巻、527、530頁。</ref>となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)<ref name="名前なし-1"/>となった。 === 日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立 === 1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように[[山県有朋意見書|朝鮮の中立化を構想した]]<ref>以下、明記されていない出典は、井上 (2010)、62、69-80頁。</ref>。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。 しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の[[青木周蔵]]、陸軍大臣の[[大山厳]]、海軍大臣の[[樺山資紀]]が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など[[#両国の戦争指導と軍事戦略|元勲の指導する前者が優位に立っていた]]。 1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、[[第2次伊藤内閣]]も[[第1次山縣内閣]]と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣([[陸奥宗光]])と軍部([[参謀本部 (日本)|参謀次長]]の[[川上操六]]陸軍中将)の連携が再現されることとなる。 === 朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係 === [[甲申政変]]後に締結された[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]](1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった<ref>以下、明記されていない出典は{{harv|佐々木(2010)|p=117-118,125}}</ref>。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された[[独立党]]が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の[[1893年]](明治26年、光緒19年)、日本公使[[大石正巳]]の強硬な態度により、日朝間で[[防穀令事件]]が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、[[大鳥圭介]]が公使に就任)。 このように開戦前年の[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌[[1894年]](明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。 == 戦争の経過 == [[画像:First Chinese Japanese war map of battles Ja.png|341x341px|thumb|両軍の進撃経路|代替文=]] === 開戦期 === ==== 朝鮮国内の甲午農民戦争 ==== {{Main|甲午農民戦争}} 1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた<ref>姜在彦『朝鮮近代史』新訂版、平凡社、1986年。</ref>。[[1894年]](光緒20年)春、朝鮮で[[東学]]教団構成員の[[全琫準]]を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱[[甲午農民戦争]](東学党の乱)が起きた。[[5月31日]]([[4月27日 (旧暦)|4月27日]])、農民軍が全羅道首都[[全州市|全州]]を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、[[6月10日]]または11日([[5月7日 (旧暦)|5月7日]]または8日)、清と日本の武力介入を避けるため、農民軍の弊政改革案を受け入れて[[全州和約|全州和約を結んだとする話が伝わっている]](一次資料が発見されていない)。 ==== 日清の朝鮮出兵 ==== 当時の[[第2次伊藤内閣]]は、[[条約改正]]のために3月に解散[[第3回衆議院議員総選挙|総選挙(第3回)]]を行ったものの<ref group="注釈">[[1890年]](明治23年)の第一議会から[[1892年]](明治25年)の第四議会まで、「[[富国強兵]]」か[[地租改正|地租]]軽減など「民力休養」かが争点になっていた。しかし、[[1893年]](明治26年)11月の第五議会では、[[排外主義|排外]]的な[[ナショナリズム]]にかかわる議論が高まった。悲願の[[条約改正]]が現実味を帯びる中、外国人の往来自由への嫌悪感、その自由な経済活動による輸入増加への警戒などを背景に、外国人の内地雑居への反対論が強くなったのである(条約励行、つまり「[[関税自主権]]回復を含む完全な条約改正でなければ、現状の不平等条約をそのまま維持」との主張で、まず[[領事裁判権]](治外法権)撤廃から達成できそうな条約改正の大きな障害になっていた)。強硬的な外交([[対外硬]])に全体の論調が動いたものの、民党連合が分裂し、政府と対決する[[硬六派]]が形成された。硬六派は、[[衆議院]]解散後の[[1894年]](明治27年)3月1日に行われた[[第3回衆議院議員総選挙|第3回総選挙]]でも、過半数を上回った。御厨 (2001)、270-277頁。</ref>、[[5月15日]]に開会した[[第4回衆議院議員総選挙#概説|第六議会で難局に直面していた]]。同日、駐英公使[[青木周蔵]]より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、[[対外硬|対外硬六派]]による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた{{sfn|佐々木(2010)|p=119}}。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]が伊藤首相に「今後の模様により……軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡){{sfn|原田(2008)|p=10}}。 [[5月30日]]、衆議院で[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]が可決されたため<ref group="注釈">5月17日、[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]弾劾上奏案が提出された。144対149の僅差で否決されたものの、[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の迷走により、[[5月31日]]、微細な予算問題で提出されていた別の[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]が153対139で可決された。御厨 (2001)、277-279頁。</ref>、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、[[文部科学大臣|文部大臣]][[井上毅]]が伊藤首相に対し、天津条約に基づく[[天津条約 (1885年4月)#条約の内容|朝鮮出兵の事前通知方法]]と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた<ref group="注釈">5月27日か28日、[[外交官|代理公使]]の杉村から機密文書が届いていた。その内容は、朝鮮が「兵を[[支那]]に借り」て乱を鎮圧する動きがあり、万一に備え、出兵の可否を決めておくべきとの進言であった。31日、朝鮮は、清への援兵を決議した。翌[[6月1日]]、公文で朝鮮駐在の[[袁世凱]]に伝達しようとするものの、延着した(3日夜)。1日午後、代理公使の杉村は、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたりと」と打電した。{{harv|原田(2008)|p=56-58}}{{harv|岡本(2008)|p=147-149}}</ref>。 開会から18日後の[[6月2日]]、伊藤内閣は、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長山縣有朋を交えた[[閣議 (日本)|閣議]]で、衆議院の解散([[第4回衆議院議員総選挙|総選挙(第4回)]])と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成[[旅団]](戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて[[大本営]]を設置し(実態上[[戦時]]に移行)、大本営の命令を受けた[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]長が歩兵第九旅団長に[[動員]](充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった<ref group="注釈">たとえば、派兵決定の6月2日時点で新鋭艦の「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」は、[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]が置かれた4港の中で、朝鮮から最も離れた[[横須賀港|横須賀]]に停泊していた。また、主力艦として期待された[[松島型防護巡洋艦|松島型]]3隻のうち「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」は、「[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]」とともに清の[[福建省]]沖を航行中であった。残る2隻のうち「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」は、大本営が設置された翌6日に修理が命じられており(工期60日)、「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」は、修理改造中であった([[7月4日]]に整備も訓練も不十分なまま艦隊に編入された)。戸高 (2011)、110、164頁。</ref>。 日本が大本営を設置した[[6月5日]]([[5月2日 (旧暦)|5月2日]])、清の[[巡洋艦]]2隻が[[仁川広域市|仁川]]沖に到着。日清両国は、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を[[牙山]]に集結させ、25日(22日)に400人を増派した{{sfn|岡本(2008)|p=148-150}}。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使[[大鳥圭介]]に[[海軍陸戦隊]]・[[警察官]]430人をつけ、首都[[漢城]]に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。 ==== 日本軍の王宮占領・日清開戦 ==== 朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、15日の閣議に伊藤は1案を提出した。1)朝鮮の内政改革<ref group="注釈">開戦を主導した外務大臣[[陸奥宗光]]は、朝鮮の内政改革について次のように書き記した。{{Quotation|余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。|陸奥 (1994) 、62頁。}}</ref>を日清共同で進める、2) それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。出兵の目的は当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は国内の[[対外硬|対外強硬論]]を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった<ref>井上 (2010)、86-87頁。</ref>。21日、清国は日本の提案を拒否し、「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はない」と反駁した。日本側はこの清国の拒絶を受けて、伊藤内閣と[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]・[[軍令部|海軍軍令部]]の合同会議で、さきに大鳥公使の要請により仁川にとどまっていた混成[[旅団]]残部の輸送再開を決定し、23日に京城へ到着した。同日、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。27日、出発を延期していた混成旅団の後続部隊が8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸した。日本軍はこれで牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。27日、陸奥、「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。 しかし28日、条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せた。更に30日、ロシア公使{{仮リンク|ミハイル・ヒトロヴォ|label=ヒトロウォ|ru|Хитрово, Михаил Александрович}}は陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかった。7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。[[7月9日]]清の[[総理各国事務衙門|総理衙門]]総領大臣(外務大臣に相当)[[愛新覚羅奕劻|慶親王]]が、「日本の撤兵」が前提としてイギリスの調停案を拒絶した{{sfn|佐々木(2010)|p=135}}。10日、ドイツとの対立を重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。同日、駐露公使[[西徳二郎]]より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどいた。11日、伊藤内閣は清の調停拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。12日、陸奥、大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令。14日、日本の「第二次絶交書」に[[光緒帝]]が激怒し、帝の開戦意思が李鴻章(天津市)に打電された{{sfn|原田(2008)|p=29}}。15日、李は牙山の清軍に[[平壌直轄市|平壌]]への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした([[豊島沖海戦]]の発端)。なお16日、懸案の[[日英通商航海条約]]が調印され(ただし悲願の一つ「[[領事裁判権]]撤廃」を達成したものの、[[8月27日]]の[[勅令]]による批准公布まで発表が伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦の大きな障害がなくなった。 7月20日午後、大島公使は朝鮮政府に対して、1)清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、2)属邦保護を名目として朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった{{sfn|岡本(2008)|p=152}}。22日夜半、朝鮮政府は、1)国内の改革は自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍は撤兵することを回答した。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が[[漢城府|漢城]]に向け進軍を開始。朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html|title=2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告|accessdate=2021/10/30|publisher=アジア歴史資料センター|quote=王宮は日本軍の占領下に置かれました。国王高宗はこの戦闘中に身を隠していたところを日本兵に発見されてその身を確保され、また一方の興宣大院君は戦闘が終了した後に日本軍の護衛の下で王宮に入りました。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=近代日鮮関係の研究(下巻)|year=1940|publisher=朝鮮総督府中枢院|page=443|author=田保橋潔|quote=七月二十三日午前政変後戚臣以下多く逃亡して、景福宮は国王及び少数の宗臣・近臣を残留して、殆ど空虚に帰したが……既に日本国公使が兵力によって戚族を廟堂より駆逐し、大院君を首脳とした新政権を樹立した以上、国王・王妃の好む好まぬに関せず、廟堂を改造し、内政改革に着手せざるを得ない。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276051/253}}</ref>。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した<ref>{{Cite book|和書|title=日清戦史. 第1-4巻|year=1895|publisher=経済雑誌社|pages=33-34|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993957|author=塩島仁吉}}</ref>。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、日本は[[金弘集 (政治家)|金弘集]]への実権移譲を求め、大院君も了承した<ref>{{Cite book|和書|title=近代日鮮関係の研究(下巻)|year=1940|publisher=朝鮮総督府中枢院|page=445|author=田保橋潔|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276051/254|quote=杉村書記官は大院君が既に古稀の齢に達し、時勢に通ぜず、徒らに私見を主張して、政務を渋滞せしめるのを見て、早くも金弘集を以て之に代へようとし、其領議政任命を要した。大院君も之に従ひ、七月二十五日領議政金炳始の辞職を待ち、金弘集を後任とした。}}</ref>。日本政府は朝鮮政府に対して[[牙山市|牙山]]に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行った<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html#code13|title=2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告|accessdate=2021年10月24日|publisher=アジア歴史資料センター|quote=興宣大院君による新政府の成立を果たした日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、間もなく興宣大院君から受けます(→関係公文書⑬)}}</ref>が、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させる消極的なものであった<ref>{{Cite book|和書|title=近代日鮮関係の研究(下巻)|year=1940|publisher=朝鮮総督府中枢院|page=|author=田保橋潔|quote=大鳥公使は七月二十三日政変が一段落告げると共に、清韓宗属関係の廃棄に注意し、七月二十五日景福宮に於て、大院君及び督弁趙督弁趙秉稷に会見し、明治二十七年七月二十日最後通牒の趣旨に従ひ、中朝商民水陸貿易章程の廃棄を宣言し、並に朝鮮国駐留清国軍の駆逐を請求する件について協議した。然るに大院君、趙秉稷共に将来清より報復懲戒を加へられることを恐怖して、躊躇決することが出来ない。最後に大鳥公使の強硬な要求に屈して承諾し、同日清代理交渉通商事宜唐紹儀に清韓通商三章程破棄を通告したが、清兵駆逐に関する大鳥公使宛照会は頗る不満足のものであった……朝鮮国内駐留清国軍の駆逐については、統理衙門照会の内容が頗る不満足なため、大鳥公使より修正を要求したが、督弁は容易に同意を与へない。けれども形式的には朝鮮国政府が日本国公使に清兵駆逐を依頼したと見るも支障がないので、大鳥公使は七月二十六日混成旅団長大島陸軍少将に左の如く通告した。  在牙山清兵ヲ撤回セシムル儀に付キ、昨二十五日朝鮮政府ヨリ、外務督弁ノ記名調印ヲ以テ、右取計方代弁ノ依頼有之候間、御承知ノ上、可然御取計相成度此段申進候也。明治二十七年七月二十六日 特命全権公使大鳥圭介  大島陸軍少将は既に前日二十五日混成旅団の主力を率ゐて南下の途に就き、又仁川水道豊島沖に於ては、日清両国艦隊既に戦闘を開始したので、此照会の修正は問題外となったのである。|pages=447-449}}</ref>。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。2日後の25日に[[豊島沖海戦]]が、29日に[[成歓の戦い]]が行われた後、[[8月1日]]に日清両国が[[宣戦布告]]をした<ref group="注釈">日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由([[s:清国ニ対スル宣戦ノ詔勅|清国ニ対スル宣戦ノ詔勅]])の要旨は、次の通り。 {{Quotation| 「そもそも、朝鮮は日本と[[日朝修好条規]]を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清は朝鮮を[[属邦]]と称して[[内政干渉]]し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は[[済物浦条約]]に基づき、出兵して変に備えさせて朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清に協同して事に従おうと提案した。しかし清は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため、朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。清はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の[[軍艦]]を攻撃した([[豊島沖海戦]])。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清の計画は明白である。清は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」}}</ref>。 なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。{{Quotation|外交にありては被動者〔受け身〕たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ。|『蹇蹇録』}}もっとも、一連の開戦工作について[[明治天皇]]は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ){{sfn|佐々木(2010)|p=140}}。また、開戦前夜の[[海軍大臣]][[西郷従道]]海軍中将について次のように伝えられている<ref>戸高 (2011)、164頁。</ref>。 {{Quotation|北洋艦隊の優勢なるを憚{{small|(はばか)}}るが為に躊躇{{small|(ちゅうちょ)}}したり。|外務次官[[林董]]の回想録『後は昔の記』}} ==== 豊島沖海戦・高陞号事件 ==== [[画像:Chinese vessel sinking SinoJap War.jpg|thumb|150px|高陞号撃沈の場面を描いた絵]] {{Main|豊島沖海戦}} 清に駐在する領事と、武官から清軍増派の動きを知った大本営は<ref>五十嵐憲一郎「[http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200103/04.pdf 日清戦争開戦前後の帝国陸海軍の情勢判断と情報活動]」[[防衛省防衛研究所]]戦史研究年報4号、2001年3月。</ref>、[[7月19日]]編成されたその日に[[連合艦隊]]に対し、1)朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2)兵員増派を発見しだい輸送船団と護衛艦隊の「破砕」を指示した{{sfn|原田(2008)|p=47}}。25日、豊島沖で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]第1遊撃隊(司令官[[坪井航三]]海軍少将、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」)が清の軍艦「[[済遠]]」「広乙」を発見し、海戦が始まった。すぐに「済遠」が逃走を計ったため、直ちに「吉野」と「浪速」は追撃した。その途上、清の軍艦「[[操江]]」と高陞号([[イギリス|英国]][[商船旗]]を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮に向けて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長[[東郷平八郎]]海軍大佐が停船を命じて[[臨検]]を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った([[高陞号事件]])。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」「広乙」が損傷し、「操江」が鹵獲{{small|(ろかく)}}された。イギリス商船旗を掲揚していた高陞号が撃沈された事で、一時期イギリス国内で[[反日]][[世論]]が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威[[ジョン・ウェストレーキ]]と[[トーマス・アースキン・ホランド]]博士によって国際法に則った処置であることが[[タイムズ]]紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論は沈静化した。 ==== 成歓の戦い ==== [[画像:Triumphal return from Battle of Seonghwan.png|thumb|成歓の戦いから万里倉に凱旋し居留民や朝鮮重臣などの歓迎を受ける混成旅団。1894年8月5日。]] {{Main|成歓の戦い}} [[7月24日]]、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、[[葉志超]]提督([[中将]]に相当)率いる[[牙山市|牙山]]県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた<ref>以下、{{harv|原田(2008)|p=76-84}}</ref>。混成第九旅団長[[大島義昌]]陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」{{small|〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕}}ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、[[山砲]]8門。なお従軍記者14社14人<ref group="注釈">翌8月初めて無名兵士の[[木口小平#成歓の戦い|忠勇美談]]が報じられた。</ref>)。 日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの[[成歓駅]]周辺に、[[聶士成]]率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の[[公州]]に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、[[松崎直臣]]陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、[[大鳥圭介]]公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた<ref>{{Cite book|和書 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year=2003 |title=幕末・明治古写真帖 : 愛蔵版 |publisher=[[新人物往来社]] |page=92 |id= |isbn=4404031122 }}</ref>。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。 なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに[[歩兵第21連隊]]第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、[[7月27日]]早朝、同大隊長[[古志正綱]]陸軍少佐が引責自刃した。 === 展開期 === ==== 大日本大朝鮮両国盟約 ==== [[画像:Korean soldiers and Chinese captives in First Sino-Japanese War.png|right|thumb|250px|朝鮮人兵士と中国人捕虜]] [[8月26日]]、日本は、朝鮮と[[大日本大朝鮮両国盟約]]を締結した<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=118232&servcode=A00&sectcode=A00 【その時の今日】日清戦争の引き金引いた日本、10時間後に蹂躙された景福宮]、[[中央日報]]、2009年7月22日。</ref>。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約に基づき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった<ref>[http://japanese.historyfoundation.or.kr/?sub_num=46 韓日関係のあゆみ 近代 2、日清戦争と韓日関係]、[[東北アジア歴史財団]]。</ref>。 ==== 平壌の戦い ==== [[画像:Battle of Pyongyang by Mizuno To.jpg|thumb|300px|平壌の戦い]] {{Main|平壌の戦い (日清戦争)}} 開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の[[騎兵|騎兵隊]]が偵察任務に就いており、7月末「[[平壌直轄市|平壌]]に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた<ref>以下、{{harv|原田(2008)|p=102-125}}</ref>。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、[[8月14日]]に[[第3師団 (日本軍)|第三師団]]に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊([[歩兵第18連隊]]が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長[[野津道貫]]陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した[[9月1日]]、同師団と第三師団その他で[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した{{small|(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)}}。 李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。[[9月7日]]、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した[[誉田甚八]]陸軍大佐は、[[分進合撃]]する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる[[左宝貴]]が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。 [[9月15日]]、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長[[立見尚文]]陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ……」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く([[大同江]]右岸)まで前進したものの、右岸の[[堡塁]]と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等<ref group="注釈">混成第九旅団は、堡塁の存在を知らず、要塞攻撃に不向きな[[山砲]]しか装備していない上に砲弾の選択ミスなどが重なり、大きな損害を出した。</ref>、夕方近くになると戦況が膠着{{small|(こうちゃく)}}していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。 なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)<ref group="注釈">『日清戦史』によると、糧食不足の要因は、1)農村の疲弊によって現地調達が困難、2)糧食運搬を担う朝鮮人人夫が集められない上に逃亡もあった、3)ときに戦闘員を兵站部の物資運搬に使わざるを得ず、4)道路がよくなく、5)炎暑で気候もよくなかった。{{harv|原田(2008)|p=113-114}}</ref>。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。 ==== 黄海海戦 ==== {{Main|黄海海戦 (日清戦争)}} [[画像:Matsushima(Bertin).jpg|thumb|200px|連合艦隊旗艦松島]] [[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|大本営の「作戦大方針」]]では、海軍が清の[[北洋艦隊]]掃討と制海権掌握を担うとされていた<ref>以下、{{harv|原田(2008)|p=128-136}}</ref>。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の[[丁汝昌]]提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍[[軍令部長]][[樺山資紀]]海軍中将が[[西京丸]]で最前線の[[黄海]]まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。 [[9月16日]]午前1時近く、陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港[[威海衛]]から出てきていた北洋艦隊が[[大連]]湾を離れた(艦14隻と[[水雷艇]]4隻)。同日[[東港市#観光|大狐山]]での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた<ref>戸高 (2011)、186頁。</ref>。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊と遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官[[坪井航三]]海軍少将率いる4隻が前に、連合艦隊司令長官[[伊東祐亨]]海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる[[単縦陣]]をとっていた<ref group="注釈">当時の日本海軍は、艦隊運動(信号によって複数艦が整然と行動)が未熟であった。伊東長官が「この不熟練なる艦隊では、正々堂々と一挙一動信号の下に行動することは困難」と「非常に心配」し、[[佐世保市|佐世保]]から出航するまでの一月足らずの間、訓練が行われた。対する北洋艦隊は、艦長の多くが欧米への軍事留学経験者で占められていたものの、信号書の不足など、日本艦隊と同じように艦隊運動に不安があった。{{harv|原田(2008)|p=44,131}}</ref>(ほかの2隻、樺山軍令部長を乗せた西京丸と「[[赤城 (砲艦)|赤城]]」も、予定と異なり戦闘に巻き込まれた)。12時50分、[[横陣]]をとる北洋艦隊の旗艦「[[定遠 (戦艦)|定遠]]」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた(距離6,000m)。 海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長[[坂元八郎太]]海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「[[揚威型防護巡洋艦|超勇]]」「[[致遠型防護巡洋艦|致遠]]」「[[經遠型装甲巡洋艦|経遠]]」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「[[揚威型防護巡洋艦|揚威]]」「[[広甲 (巡洋艦)|広甲]]」が擱座した。 なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ掌握した(後日、制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略が目指されることとなる)。 ==== 第二軍による旅順攻略 ==== {{Main|旅順口の戦い|旅順虐殺事件}} [[9月21日]]、海戦勝利の報に接した大本営は、[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|「冬季作戦大方針」]]の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]の編成に着手した<ref>以下、{{harv|原田(2008)|p=140-147}}</ref>。その後、まず[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]と混成第十二旅団([[第6師団 (日本軍)|第六師団]]の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に[[旅順要塞]]の規模などを偵察してから[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]の出動を判断することにした。[[10月8日]]、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を[[金州区|金州]]城の東・約100kmの花園口に決定した。 第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。[[11月6日]]、第一師団が[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/kinshujou.html 金州城の攻略に成功]。14日、第二軍は、金州城の西南50km[[旅順口区|旅順]]を目指して前進し、18日、[[斥候|偵察部隊]]等が[[遭遇戦]]を行った。21日、総攻撃をかけると<ref group="注釈">ただし、期待された臨時攻城廠の砲兵連隊([[カノン砲]]16門、[[臼砲]]14門)は、大型砲の故障と運搬に手間どり、結局のところ[[榴弾]]73発、[[榴散弾]]22発の砲撃にとどまった。</ref>、清軍の士気などが低いこともあり(約12,000人のうち約9,000人が新募兵)、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人(うち金州とそこから旅順までで約2,000人)、捕虜600人。 旅順を簡単に攻略できたものの、大きな問題が生じた。『[[タイムズ]]』(1894年[[11月28日]]付)や『[[ニューヨーク・ワールド]]』([[12月12日]]付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した[[有賀長雄]]は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在この事件は、[[旅順虐殺事件]](英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。なお同事件は、日本の外交上、深刻な事態を招きかねなかった。[[条約改正]]交渉中のアメリカでは、一連の報道によって一時、[[アメリカ合衆国上院|上院]]で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、日本の重要な外交懸案が危殆に瀕した。このため、『ニューヨーク・ワールド』紙上で陸奥外相が弁明するような事態に陥った。しかし翌年2月、上院で日米新条約が批准された。 ==== 第一軍の鴨緑江渡河 ==== {{Main|鴨緑江作戦}} 10月中旬、清は、国土防衛のため、朝鮮との境界[[鴨緑江]]に沿って将兵30,400人と大砲90門を配置していた<ref>以下、{{harv|原田(2008)|p=159-174}}</ref>。もっとも、平壌から敗走した約10,000人(うち傷病2,000人)が含まれる部隊は、士気が低い上に新募兵が多い等、自然の要害[[振安区|九連城]]の防衛などに困難が予想された。さらに、総指揮を執る[[宋慶]]にも問題があり、やがて諸将間で不協和音が生じることになる。 [[10月15日]]、糧食不足に苦しむ第一軍は<ref group="注釈">戦闘員が糧食運搬に従事しても、平壌に運べる糧食が一箇師団分に足りず、ときに過酷な現地徴発をした。[[10月12日]]、「物資の揚陸可能地点を発見」との知らせが入り、進軍を再開した。{{harv|原田(2008)|p=161-162}}</ref>、司令部が[[安州市|安州]](平壌と[[義州郡|義州]]の中間地点)にようやく到着し、大本営から「前面の敵をけん制し、間接に第二軍の作戦を援助」との電報を受け取った。第二軍の第一波が[[遼東半島]]に上陸した24日、陽動部隊<ref group="注釈">清軍の防衛拠点[[振安区|九連城]]を攻撃するには、地形上、架橋による敵前渡河が避けられなかったため、24日未明に支隊(歩兵2箇大隊など)が敵前徒渉することとなっていた。しかし、ここでも糧食補充の遅れにより、山砲2門の砲撃援護の下、11時過ぎに歩兵中隊が敵前徒渉を始め、40分ほどで対岸に着いた。同中隊は、迎撃にきた清軍の騎兵200騎を撃退した。</ref>が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、[[臼砲]]6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が[[虎山長城|虎山]]砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。 その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の[[東港市|大東溝]]を占領し(30日、[[兵站]]司令部を開設)、[[11月5日]]補給線確保のために黄海沿岸の[[東港市#観光|大狐山]]を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝[[鳳城市|鳳凰城]]攻略戦を開始した。[[10月29日]]、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。 ==== 東学農民軍の再蜂起と鎮圧 ==== 朝鮮では、[[東学]]が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、[[兵站]]部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。[[10月9日]]、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も[[開化]]も斥ける)をスローガンに、[[全琫準]]率いる[[甲午農民戦争#第二次蜂起|東学農民軍が再蜂起]]した<ref>呉 (2000)、162頁。</ref>。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の[[役種#日本陸軍|後備]]歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の[[両班]]士族や土豪などが参加する[[民堡]]{{small|(みんぽ)}}で編成された。11月下旬からの[[公州]]攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端[[海南]]・[[珍島]]まで追いつめて殲滅{{small|(せんめつ)}}した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている<ref>「知っておきたい韓国・朝鮮」歴史教育者協議会編 青木書店ISBN 4250920046。原田(2007)、71-72頁。</ref>。 === 講和期 === ==== 冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦 ==== [[10月8日]]イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また[[11月22日]]清が講和交渉を申し入れてきた<ref>以下、{{harvnb|原田(2008)|p=189-211}}</ref>。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、[[山海関]]や[[清朝統治時代の台湾|台湾]]や[[威海衛]]の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)[[渤海湾]]北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、[[8月31日]]に定めた[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|「冬季作戦大方針」]]を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が[[海城市|海城]]攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。 [[12月1日]]、第一軍司令部は、第三師団長[[桂太郎]]陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]([[遼河]]河口の港町)が、東北70kmに[[遼陽市|遼陽]]が、南西60kmに[[蓋州市|蓋平]]がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年[[2月27日]]まで[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/kaijo.html 4回の攻防戦]と、小ぜりあいが続くことになる。 [[12月30日]]着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年[[1月10日]]に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。 ==== 陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏) ==== [[画像:First Sino-Japanese War Keio University.jpg|right|thumb|[[1895年]](明治28年)に戦勝祝賀を行う[[慶應義塾大学]]の炬火行列大運動会(カンテラ行列)]] [[File:Weihaiwei surrender.jpg|thumb|「威海衝陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」 [[右田年英]]画 1895年(明治28年)。外国軍顧問団を連れて降伏する丁を描いた絵。ただし、丁は降伏せずに自殺しており、この絵は想像で描かれたもの。]] [[File:Great Victory of Pyongyang and Capture of Chinese Qing Generals by Migita Toshihide 1894.jpg|thumb|「平壌大捷清将生捕之図」 [[右田年英]]画 1894年10月。]] [[File:Admiral Ding Juchang of the Chinese Beiyang Fleet, Totally Destroyed at Weihaiwei,.jpg|thumb|「提督丁汝昌於官宅自殺図」 [[水野年方]]画 1895年(明治28年)]] {{Main|威海衛の戦い}} [[12月4日|12月14日]]、大本営が山東作戦の実施を決定した。第二軍司令部・連合艦隊司令部との調整後、翌年[[1月8日]]に実施計画が固まった。作戦の目的は、直隷決戦に向けて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。20日、4艦の砲撃援護の下、[[山東半島]]先端に[[海軍陸戦隊]]等が上陸し、栄城湾に[[歩兵第16連隊]]等が上陸を始めた(26日夜、最後の輸送船4隻が到着)。26日、[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]と[[第6師団 (日本軍)|第六師団]]が並進を開始した(目標地点まで移動距離、約60km)。30日、陸戦用の防御設備があったにもかかわらず、清軍の抵抗が強くなかったため、半日で威海衛湾の南岸[[要塞]]を制圧した(日本軍の戦死54人、負傷152人)。陸上での清軍の抵抗は、[[2月1日]]で終わり、翌日、日本軍は、北岸要塞などを無血占領し、湾の出入口にある要衝の劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお[[1月30日]]、占領砲台を視察していた歩兵第11旅団長[[大寺安純]]陸軍少将が敵艦の砲撃を受け、戦傷死した。 劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、孤立しても健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦を続けた。しかし、水雷艇による[[魚雷]]攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃を続け、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の提督[[丁汝昌]]に降伏を求めた。[[2月11日]]、降伏を拒否していた丁提督は、北洋通商大臣[[李鴻章]]に打電後、服毒自決。14日の両軍の合意に基づき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。 ==== 遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領) ==== 2度目の[[海城市|海城]]防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた<ref>以下、{{harvnb|原田(2008)|p=207-223}}</ref>。前者は、[[遼陽市|遼陽]]と[[営口市|営口]]付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。[[3月2日]]、第五師団は、前衛が[[鞍山市|鞍山站]]に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、[[2月28日]]死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、[[3月2日]]鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。 [[2月21日]]、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。[[3月4日]]、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、[[遼河]]対岸の渡河地点[http://ww1.m78.com/sib/denshodai.html 田荘台を攻撃した](清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨<small>(きすう)</small>が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「[[大窪県|田荘台]]焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。 なお作戦完了により、第五師団と[[役種#日本陸軍|後備]]諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、[[鳳城市|鳳凰城]]、[[振安区|九連城]]までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時[[第7師団 (日本軍)|第七師団]](屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。[[3月16日]]、参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、[[山海関]]東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。 ==== 台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領 ==== 台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、[[澎湖諸島|澎湖列島]](馬公湾が天然の良港)を占領することとした<ref group="注釈">福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵、「日清戦史」草案中の「第十六編第七十二章第二草案 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」には、開戦後間もない1884年8月9日の陸海軍参謀会議で澎湖列島、台湾の領有が「将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要」とされていた。中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、165-168頁。もっとも両島領有の構想は、開戦以前にさかのぼる。山本四郎『日本史研究』75号、1964年11月。中塚明『日清戦争の研究』青木書店。なお、これらの研究は、1887年2月陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第二局長[[小川又次]]陸軍大佐による「清国征討対策案」も紹介した。この「第二編 作戦計画」では「明治25年に準備を完了し、乗ずべき機を窺うべきである」とし、「第三編 善後処置」では「戦勝条約の時に在りて必ず左の六要衛を本邦の版図に帰せざるべからず」として1)旅順半島、2)山東登州府、3)浙江省舟山群島、4)澎湖群島、5)台湾全島、6)揚子江沿岸左右十里の地、を挙げていた。</ref>。南方派遣艦隊(司令長官[[伊東祐亨]]海軍中将)の旗艦[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]が座礁し、予定より遅れたものの、[[3月23日]]、混成支隊<ref group="注釈">戦闘部隊は、東京湾警備の後備歩兵第一連隊(後備連隊は二箇大隊編成)、下関海峡警備の[[歩兵第12連隊]]第二大隊、山砲一箇中隊(6門)、騎兵5騎。</ref>が澎湖列島に上陸を始めた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)<ref>大谷 (2006)、141-142頁。</ref>。 ==== 休戦・講和 ==== [[画像:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|1895年4月17日に調印された下関条約]] {{Main|下関条約}} [[1895年]](明治28年)[[3月19日]](光緒21年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]])、清の全権大使[[李鴻章]]が[[北九州市|門司]]に到着した。[[下関市|下関]]での交渉の席上、日本側の[[清朝統治時代の台湾|台湾]]割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。[[4月17日]]、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲([[遼東半島]]・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当<ref>川島 (2010)、9頁。</ref>)、日本に[[最恵国待遇]]を与えること等が決まった。[[5月8日]]([[4月14日 (旧暦)|4月14日]])、清の[[煙台|芝罘]]で批准書が交換され、条約が発効した。 === 三国干渉 === [[画像:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|thumb|1895年11月8日、遼東還付条約に調印]] {{Main|三国干渉}} 調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。[[4月23日]]、フランス・ドイツと共に、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。翌24日、広島の[[御前会議]]で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床に就く[[陸奥宗光|陸奥]]外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、1) 列国会議は三国以外の干渉を招く可能性が、2) 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた{{sfn|佐々木(2010)|p=146-147頁}}。 [[5月4日]]、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。なお[[11月8日]]、清と[[遼東還付条約]]を締結した。 === 台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)=== {{Main|台湾民主国|乙未戦争}} 日本は、[[5月8日]]の日清講和条約発効後、割譲された[[清朝統治時代の台湾|台湾]]に[[近衛師団]](歩兵[[連隊]]と砲兵連隊が二箇[[大隊]]で編成され、他師団より小規模)を派遣した。29日に近衛第一[[旅団]]が北部に上陸を始め、[[6月17日]]に台北で[[台湾総督府]]始政式が行われた後、19日に南進が始まった。しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗が激しいため、予定していた近衛第二旅団の南部上陸を中止し、北部制圧後の南進再開に作戦が変更された。増援部隊として編成された混成第四旅団([[第2師団 (日本軍)|第二師団]]所属の歩兵第四旅団が基幹)と警備用の後備諸部隊が到着する中、[[7月29日]]、ようやく旧台北府管内を制圧した。 [[8月28日]]、近衛師団が中部の[[彰化市|彰化]]と[[鹿港鎮|鹿港]]まで進出し(ただし病気等で兵員が半減)、[[9月16日]]、[[台南市|台南]]を目指す南進軍が編成された。10月、すでに台湾平定に参加していた混成第四旅団を含む第二師団が南部に分散上陸し、[[10月21日]]、日本軍が台南に入った。[[11月18日]]、大本営に全島平定が報告された(参加兵力:二箇師団と後備諸部隊などを含め、[[将校]]同等官1,519人、[[下士官]][[兵|兵卒]]48,316人の計49,835人、また民間人の軍夫26,214人<ref>大谷 (2006)、164頁。</ref>)。軍政から民政に移行した翌日、[[1896年]](明治29年)[[4月1日]]に大本営が解散された。 なお犠牲者は、平定した日本側が戦死者164人、[[マラリア]]等による病死者4,642人に上った。女性子供も参加した[[ゲリラ]]戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人死亡と推測されている<ref>原田 (2007)。隅谷三喜雄『大日本帝国の試練』日本の歴史22、中央公論新社〈中央文庫〉、2006年。ISBN 4-12-200131-5</ref>。 == 年表 == ;1894年 * 3月 東学党、朝鮮[[全羅道]]で蜂起(その後[[甲午農民戦争]]に拡大) * 5月27日か28日 代理公使[[杉村濬]]より、朝鮮が「兵を[[支那]]に借り」る動きあり、と外務省に通報 * 5月31日 朝鮮政府、清への援兵を決議。[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]、[[内閣不信任|内閣弾劾上奏決議]]案が可決されて難局に直面 * 6月1日 杉村、「[[袁世凱]]いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電 * 6月2日 伊藤内閣、衆議院解散と清が朝鮮に出兵した場合に公使館・居留民保護のための朝鮮出兵とを閣議決定 * 6月4日 清の[[北洋通商大臣]][[李鴻章]]、朝鮮出兵を指令 * 6月5日 参謀本部内に[[大本営]]を設置(形式上[[戦時]]に移行) * 6月6日 [[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づき、清が日本に朝鮮出兵を通告 * 6月7日 日本も同条約に基づき、清に朝鮮出兵を通告 (以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアが日清間の紛争に介入) * 7月9日 清の[[総理各国事務衙門|総理衙門]]がイギリスの調停案を拒絶 * 7月10日 駐露公使[[西徳二郎]]より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省に届く。 * 7月11日 伊藤内閣、清のイギリス調停案拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定 * 7月16日 [[日英通商航海条約]]の調印([[領事裁判権]]撤廃を達成)。清、[[軍機処]]などの合同会議で開戦自重を結論とし、18日に上奏 * 7月20日 駐朝公使[[大鳥圭介]]、朝鮮政府に対して最後通牒(回答期限22日) * 7月23日 日本軍、朝鮮王宮を占領。国王高宗を手中にする。日本側の圧力により、[[興宣大院君|大院君]]が国政総裁に就任 * 7月25日 大院君、清との宗藩関係解消を宣言し、大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。[[豊島沖海戦]]([[高陞号事件]]) * 7月29日 牙山に向かった日本軍と清軍が交戦し、日本軍が勝利([[成歓の戦い]]) * 8月1日 日清両国、互いに宣戦布告 * 8月5日 大本営、参謀本部内から[[宮中]]に移動 * 9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転([[広島大本営]]) * 9月15日 明治天皇、広島に入る。[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]で日本軍が勝利 * 9月17日 [[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]で日本艦隊が勝利。その結果、日本が制海権をほぼ掌握 * 9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)等を上奏 * 10月24日 日本の[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が[[鴨緑江]]渡河を開始し、[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]が[[遼東半島]]上陸を開始 * 11月21日 第二軍、[[旅順|旅順口]]を占領。 ;1895年 * 2月1日 広島で清との第一次講和会議(翌日、日本が委任状不備を理由に交渉拒絶) * 2月中旬 陸海軍共同の[[威海衛|山東作戦]]完了。日本が制海権を完全に掌握 * 3月上旬 第一軍、[[日清戦争#遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)|遼河平原作戦]]完了。日本が遼東半島全域を占領 * 3月16日 [[直隷]]決戦に備え、参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられる。 * 3月19日 講和全権の李鴻章、[[北九州市|門司]]到着(翌日から[[下関市|下関]]で交渉) * 3月24日 李鴻章、暴漢に狙撃される(日本、条件を緩和して講和を急ぐ)。 * 3月30日 日清休戦条約の調印 * 4月17日 [[下関条約|日清講和条約]]の調印(5月8日、発効) * 4月23日 ロシア・フランス・ドイツ、清への遼東半島返還を要求([[三国干渉]]) * 5月4日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定 * 5月5日 日本がロシア・フランス・ドイツに遼東半島返還を伝える。 * 5月29日 日本軍、割譲された[[清朝統治時代の台湾|台湾]]北部に上陸を開始 * 5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸 * 6月17日 日本が[[日本統治時代の台湾|台湾]]に[[台湾総督府]]を設置 * 8月6日 台湾総督府条例により、台湾で[[軍政]]を敷く。 * 10月8日 朝鮮で[[乙未事変]]([[閔妃]]暗殺事件)発生 * 11月8日 清と[[遼東還付条約]]を締結 * 11月18日 [[台湾総督]]、大本営に全島平定を報告 ;1896年 * 2月 朝鮮で親露派のクーデターが成功し([[露館播遷]])、日本が政治的に大きく後退 * 3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行 * 4月1日 大本営の解散 ;1900年 * [[台湾製糖]]の設立 ;1906年 * [[大日本製糖]]の台湾進出 == 両国の戦争指導と軍事戦略 == === 日本 === 日本は、日清戦争全体を通して[[ジンゴイズム|主戦論]]で固まり、政治と軍事が統一されていた<ref>この項目の出典は、原田 (2007)、68-71頁</ref>。開戦前の[[5月30日]]、衆議院で[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]を可決する等、条約改正など外交政策をめぐって伊藤内閣と激しく対立する[[硬六派|対外硬六派]]も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。解散総選挙後、広島に召集された[[第7回帝国議会|臨時第七議会]]で、政府提出の臨時軍事費[[予算]]案(その額1億5,000万円は前年度一般会計歳出[[決算]]額8,458万円の1.77倍)を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり開戦により、反政府的な[[排外主義]]的ナショナリズムが、これを抑えてきた政府の支持に回ったのである。また、反政府派の衆議院議員だけでなく、知識人も清との戦争を支持した。たとえば、対清戦争について[[福澤諭吉]]は「文野〔文明と野蛮〕の戦争」<ref group="注釈">「文野〔文明と野蛮〕の戦争」とは、文明開化を図る国(日本)とそれを妨げる国(清)との戦争を意味する。加藤 (2002)、115頁。</ref>と位置づけ(『時事新報』1894年7月29日)、[[内村鑑三]]は「義戦」と位置づけた<ref>佐谷 (2009)、38-44頁。</ref>。なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる[[田中正造]]も、対清戦争を支持していた<ref>加藤 (2009)、124頁。</ref>。そうした一種の戦争熱は、民間の義勇兵運動の広がり、福沢や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。 [[6月5日]]、参謀本部内に史上初めて[[大本営]]が設置され、形式上[[戦時]]に移行した。[[8月4日]]、大本営が「作戦大方針」を完成させ、翌日、天皇に上奏された。大方針では、[[渤海湾]]沿岸に陸軍主力を上陸させて清と雌雄を決すること([[直隷]]決戦)が目的とされ、このための作戦が二期に分けられた。第一期作戦は、朝鮮に[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]を送って清軍をけん制、残りの陸海軍が出動準備と国内防衛、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と[[黄海]]・渤海湾の制海権掌握とされた。第二期作戦は、第一期作戦の進行、つまり制海権で三つが想定された。(甲)制海権を掌握した場合、直隷平野([[北京市|北京]]周辺)で決戦を遂行、(乙)日本近海だけ制海権を確保した場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力、(丙)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内防衛とされた。[[8月14日]]、朝鮮半島南部に待機中の[[連合艦隊]]から「自重ノ策」をとると打電された大本営は、第二期作戦を(乙)で進めることにし、各師団長に訓示した([[第3師団 (日本軍)|第三師団]]には出動命令)。31日、大本営は、「冬季作戦大方針」を定め、上記「作戦大方針」の(乙)を(甲)に変更し、直隷決戦を行うことにした。しかし、実際に制海権をまだ掌握していないため、1)直隷決戦の根拠地として旅順半島の攻略確保、2)清軍を南満洲に引きつけるための陽動作戦([[瀋陽市|奉天]]攻撃)を実施、3)陽動作戦の準備として清軍が集結する[[平壌直轄市|平壌]]を攻略するとされた。翌[[9月1日]]、まず3)を実施するため、[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が編成された。 なお、当時の戦争指導は、政治主導であった<ref>以下、明記されていない出典は、戸部 (1998)、159-163頁。</ref>。天皇の特旨により、本来メンバーではない山縣[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]と伊藤首相と陸奥外相が大本営に列席し<ref group="注釈">開戦前の7月17日、大本営で開かれた最初の[[御前会議]]に山縣枢密院議長が列席し、同月26日の会議に伊藤首相の出席が認められた。黒野 (2004)、89-90頁。</ref>、伊藤首相は西洋列強の思惑を踏まえた意見書を提出することもあった(山東作戦の実施決定と台湾攻略に大きく影響)。 政治が軍事をリードできた要因として、第一に[[統帥権]]独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導層の性格が挙げられる。当時の指導層は、政治と軍事が未分化の[[江戸時代]]に生まれ育った[[武士]]出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた([[陸軍大学校]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者に上りつめていない時代)。関連して[[藩閥]]の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」つまり「藩閥の優位」でもあった。なお、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われたものの、[[第一次世界大戦]]後にはいわゆる「[[大正デモクラシー]]」を経て[[議会制民主主義]]が根付くと見られた。しかし[[1930年代]]初頭の[[世界恐慌]]後に軍による主導にシフトすることになる。 === 清 === 日本と比して広大な国土と莫大な兵力を持つ清は、1884年当時、圧倒的に優勢と思われていた<ref>{{Cite news |title = 中国は今の人民解放軍で本当に戦えるのか 中国株式会社の研究(253)〜自衛隊と人民解放軍の違い |author = [[宮家邦彦]] |newspaper = [[日本ビジネスプレス]] |date = 2014-08-22 |url = http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41549 |accessdate = 2014-08-23 }}</ref>。 しかし、挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。[[光緒帝]]の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する[[総理各国事務衙門|総理衙門]]([[愛新覚羅奕劻|慶親王]]等)と軍務を所管する[[軍機処]]([[礼親王]]等)とが分離したままであった(開戦後の[[9月29日]]、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都[[北京市|北京]])と、[[天津市|天津港]]に限られるとはいえ、[[欽差大臣]]として全権を持つ[[北洋通商大臣]]李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出した[[イリ条約]]締結年の[[1881年]](光緒7年)以降、[[礼部]]から兵権をもつ北洋通商大臣の直轄に移行し、朝鮮で[[総理朝鮮交渉通商事宜]]をつとめる[[袁世凱]]と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。 軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり(実質的な[[私兵]]化)、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。同大臣の李は、元々[[渤海 (海域)|渤海]]沿岸の3省([[河北省|直隷]]・[[山東省|山東]]・[[遼寧省|奉天]])の海防とそのための兵権、3省の[[総督]]に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。また、北洋水師([[北洋艦隊]])を統監するとともに、私費を投じて編成した勇軍の一つ、いわゆる[[北洋軍閥|北洋陸軍]]を抱えていた。しかし開戦後、[[瀋陽市|盛京]]将軍[[宋慶]]に隷属する[[東三省]]の錬軍(正規軍[[八旗]]の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたので、二元統帥に陥る可能性があった[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/qing%20military%20system.html]。そのため[[12月2日]]、欽差大臣[[劉坤一]]に[[山海関]]以東の全兵権が与えられた。 このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李や官僚の一部、[[西太后]]等の無視できない戦争回避派がいた。[[7月16日]]、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。そのこともあって李は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし[[9月15日]]、[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌で敗れる]]と、戦略を大きく転換した。19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけ直し、[[持久戦]]をとるよう提案した。持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから日本との講和に臨む構想であった。[[9月29日]]、[[恭親王]]に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられ始めた。 しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要な役割を果たす海軍力は、増強が進んでいなかった。さらに、軍事史家は海軍が無残な敗北を喫した背景として軍幹部の腐敗(砲弾の火薬を転売し砂に換えていた、など)を挙げている<ref>{{Cite magazine|title = [[ニューズウィーク]]日本版(2023年8月15日-22日号) |chapter = ロケット軍司令官を習近平が解任した理由 |newspaper = |publisher = CCCメディアハウス |date = 2023-8-22 |page=51 }}</ref>。 たとえば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の[[1890年]](明治23年)に就役した巡洋艦「[[平遠 (装甲巡洋艦)|平遠]]」([[排水量]]2,100t)が最後に配備された新造艦であった。実質的に制海権の帰趨{{small|(きすう)}}を決めた[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]では、[[1892年]](明治25年)に就役し、広東水師([[広東艦隊]])から編入されていた「[[広丙 (装甲巡洋艦)|広丙]]」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、[[1891年]](明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)<ref group="注釈">「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」と「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」と「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」の[[松島型防護巡洋艦|松島型]]3艦、「[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]」、「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」の計6隻</ref>が参加した。 問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/qing%20military%20system.html 開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。]しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の[[従軍記者]]は、清の弱兵ぶり、[[木口小平]]など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った<ref group="注釈">{{Quotation|操江号に乗れる〔清の〕募集兵のいふ所によれば、一ケ月の給料は三両の取極めにして、無事に帰国したる時は別に三十両を給与せらる。その外、何の条件もなしとか。此説を聞ける[[長崎市|長崎]]居留の西洋人等は、さすが[[支那]]なり、……、戦死したる時は遺族にかうするとか、負傷者にはどうするとか云はざるは旨い考えなり。しかし兵卒の方でも、生きて帰れば三十両にあり付き、死んでしまへばそれきりということを知りておるから、討死する馬鹿なく、[[軍旗]]でも鉄砲でも打棄て逃げるのは当り前だと冷評し……{{small|(注:原文は句読点がなく、また漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}|『東京日日新聞』1894年8月10日。}}以上、佐谷 (2009)、65-68頁。</ref>)。 == 戦費と動員 == === 戦費 === 戦費は、2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)(内訳:[[臨時軍事費特別会計]]支出2億48万円、[[一般会計]]の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計[[歳出]]決算額8,458万円の2.76倍に相当した<ref>坂入 (1988)、75-76頁。</ref>。うち臨軍特別会計(1894年6月1日〜1896年3月末日)の支出額構成比は、陸軍費が82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%)、海軍費が17.9%(人件費1.1%、艦船費6.4%、兵器弾薬費・[[水雷]]費5.0%、その他5.4%)であった<ref>『明治大正財政詳覧 {{small|<創立80周年記念復刻>}}』東洋経済新報社、1975年(1926年初版)、496-497頁。江見・塩野谷 (1966)、190頁。</ref>。臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が[[国債|公債金]](内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の[[国庫]]剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の[[日本銀行]]を含む全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。 1894年8月16日、軍事公債条例が公布された(勅令)(5000万円を限度とする)。 8月17日、大蔵省は、軍事公債条例による軍事公債3000万円の募集を公示した(告示)。9月10日から発行、応募額は7700万円余にのぼり、実収額は3006万円。 8月18日、大蔵大臣渡辺国武は、関東同盟銀行幹事渋沢栄一・山本直哉・安田善治郎代理長谷川千蔵をまねき、軍事公債募集について協力を要請した。 また8月に渡辺蔵相は、各地方官にたいし、軍事公債条例について、管内の有志に応募させるよう内訓した。11月22日、2度目の内訓。 11月21日、伊藤首相、渡辺蔵相は、東京の銀行家5人(荘田平五郎・中上川彦次郎・山本直哉・園田孝吉・安田善治郎)をまねき、軍事公債募集方法を協議した。 11月22日、大蔵省は、軍事公債5000万円の募集を公布した(省令)。応募額は9030万円余、実収額は4763万余円。 === 動員(軍夫の大規模雇用) === [[1893年]](明治26年)、陸軍が戦時編制を改め、翌年度から新編成が適用された。その1894年度[[動員]]計画では、野戦七箇師団<ref group="注釈">近衛師団は他師団と異なり、歩兵連隊と砲兵連隊が三箇大隊ではなく二箇大隊で編成されていた。</ref>と[[兵站|兵站部]]、守備諸部隊(北海道の[[屯田]]兵団を含む)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった<ref>大谷 (2006)、7頁。</ref>。なお、動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。 実際の動員([[召集令状#陸軍省|充員召集]])は、[[6月5日]]に[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]の歩兵第九旅団から始まり、[[7月12日]]に残りの歩兵第十旅団が続いた(朝鮮半島の地形等が考慮され、野戦砲兵連隊の装備が[[野砲]]から[[山砲]]に変更)。[[7月24日]]に[[第6師団 (日本軍)|第六師団]]が、[[8月4日]]に[[第3師団 (日本軍)|第三師団]]が、[[8月30日]]に[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]が動員に入り、また10月上旬に[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]が動員を終えた<ref group="注釈">第二師団は、10月末から広島に移動を始めたものの、そこにしばらく滞在した。翌年[[1月6日]]午前11時、広島城内の大本営で将校が天皇に拝謁し、午後3時半より旧藩主、浅野邸で立食と「義勇」の金文字が入った天盃とを下賜された。宴は無礼講になり、午後7時に解散。[[威海衛]]を攻略するため、12日頃から宇品を出航し、20・21日に山東半島に上陸した。大谷 (2006)、97頁。</ref>。[[近衛師団]]は[[10月8日]]戦闘部隊の動員が終わったものの、派兵が決まらなかったため、兵站部などを含めた動員の完了が翌年[[2月16日]]となった。[[第4師団 (日本軍)|第四師団]]も[[12月4日]]戦闘部隊の動員が終わり、翌年3月上旬に動員が完了した。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年[[3月9日]]に[[大窪県|田荘台]]を攻略)、第二期作戦([[直隷]]決戦)の準備が始まった。[[3月16日]]に参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられ、直隷決戦で先陣を務める近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。 最終的に計画を上回る240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫<ref group="注釈">1)軍夫は、兵站部だけでなく、野戦師団にも多数配属された。野戦師団では、輜重兵大隊(糧食縦列)、弾薬大隊(歩兵と砲兵弾薬縦列)、工兵隊の架橋縦列の主な担い手であった。しかし軍夫の衣服は、出発時に自弁であったため(ただし山形県のように有料で衣服一式を支給したケースもある)、笠{{small|(かさ)}}をかぶって法被{{small|(はっぴ)}}と股引{{small|(ももひき)}}を着て草鞋{{small|(わらじ)}}を履くといった当時の和装であった。しかも日本刀を差し、ピストルを所持する軍夫もいたため、来日経験のない外国人に不正規兵と見られることもあった。その後、[[戦時国際法]]に抵触しないよう日本刀などが取り上げられた。_2)軍夫の募集は、軍指定の請負業者が担当した。その末端に博徒がいるケースも少なくなく(ただし第二師団は、県の兵事担当者に軍夫募集への協力を要請し、行政機関が募集の軸になった)、素行のよくない軍夫もいたので、広島など滞在地で「軍夫問題」が生じた。問題の多くが請負業者の[[ピンはね]]、飲酒によるトラブルであった。軍夫の日給は、国内40銭、国外50銭であったが、ピンはねだけでなく、賭博に誘われた純朴な軍夫が金を巻き上げられる等の問題もあった。大谷 (2006)。</ref>10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(10年後の日露戦争では、軍夫(民間人)の雇用に代わり、兵役経験のない未教育者を補助輸卒として多数動員)。なお、20-32歳の[[役種#日本陸軍|兵役年齢]]層について戦闘員の動員率5.7%(国外動員率4.1%)と推計される<ref group="注釈">20-32歳の兵役年齢を超える[[将官]]等を含む陸軍戦闘員240,616人(うち国外動員174,017人)/ 4,235,114人(開戦前[[1893年]]の19-31歳男性人口の推計値)。なお19-31歳層は、男性総数の20.3%を占めたと推計。資料:[[総務省|総務庁]]統計局 (1987)、72頁。</ref>。 近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人([[背負子]]{{small|(しょいこ)}}と一輪車、[[大八車]])に頼った主因は、馬と馬糧の制約<ref group="注釈">馬と馬糧の制約としては、日本産馬が質量ともに貧弱であったこと(馬の数が少なく、在来種の体躯が貧弱な上に、牡馬が去勢されず、蹄鉄が不完全など調教法にも問題があった)、馬産地が北海道と東北、九州に偏在していたこと、朝鮮半島など戦地での馬糧確保が困難と想定されていたことが挙げられる。なお、戦地に携行する携帯馬糧は[[玄米]]二升五合で、干し草は現地調達が原則であり、仮に1894年度の動員計画通り戦地で4万頭ほどの馬を使うと、この馬糧の重量と体積は、兵士数十万人分の食糧に相当するとされる。大谷 (2006)、6、8頁。</ref>にあった。特に馬の制約は、最初に出動した第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまった(上記の通り装備から野砲を外したため、砲兵用の輓馬0頭)。しかも徒歩車輌(大八車)を用意せず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬がしばしば逃亡したため、[[兵站]]部所属の軍夫1,022人(戦闘部隊所属を含む軍夫の総計5,191人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬するだけで足りず、ときに戦闘員も兵站部の物資運搬に従事した。 === 軍紀(戦地軍法会議での処罰者数) === 戦地[[軍法会議]]による処罰者が1,851人いた<ref>この項目の出典は、戸部 (1998)、144-147頁。</ref>。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割に当たる370人(重罪3人)が[[陸軍刑法]]違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が[[刑法 (日本)|刑法]]などその他の法令違反であった。 国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰された。内訳は、対上官暴行が6人(重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外は307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった[[旅順虐殺事件]]が発生しており、1894年(明治27年)[[6月29日]]付けの参謀総長から混成旅団長宛の訓令「糧食等の運搬は全て徴発の材料を用うべき事」を受けて「およそ、通行の牛馬は荷物を載せたると否とに関わらず之を押掌する」(杉村濬「明治二十七年在韓苦心録」)ような行為が公然と行われていた。また[[被疑者]]を特定できない等、処罰に至らなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。 == 日本軍の損害 == === 戦死者 === [[File:Monument in Commemoration of China Japan War, Nagoya.jpg|thumb|700人以上の戦没者を出した第三師団の鎮魂のために名古屋市中心地に建てられた日清戦争戦没記念碑<ref>[http://www.nagoya-rekishi.com/meiji/chapter2/1895.html 日清戦争勝利]愛知千年企業</ref>]] <!--年代順に記載---> [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]「[{{NDLDC|774128/90}} 明治二十七八年日清戦史]」では、軍人・軍属の戦死 1,132、戦傷死 285、病死 11,894、戦傷病 3,758、合計13,488人、服役免除(疾病、刑罰等)3794人で、全体の減耗人員数の合計は17282人と報告された<ref>参謀本部「明治二十七八年日清戦史」第8巻、p154-155,「 [{{NDLDC|774128/90}} 減耗人員階級別一覧表]」</ref>。これによれば、軍人・軍属の戦死、戦傷死、病死の合計死者数は13,311人となる。 歴史学者の[[井上清 (歴史学者)|井上清]]は昭和41年の著書で、日本陸軍12万人のうち戦死者数は5417人とする<ref name="inoue">井上清『日本の歴史20 明治維新』中央公論社、昭和41、p.131-132.</ref>。 防衛ハンドブック(1992年、[[朝雲新聞社]])によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)<ref>『防衛ハンドブック(平成4年版)』朝雲新聞社、1992年。[http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM 第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(近代における戦争の死傷者と戦費)]</ref>。 ;軍夫の損害 歴史学者の[[原田敬一 (歴史学者)|原田敬一]]は2007年の著書で、参謀本部『[{{NDLDC|774122}} 明治廿七八年日清戦史]』には全動員力24万616人<ref>『[{{NDLDC|774122}} 明治廿七八年日清戦史]』,p64-69.</ref>、うち17万4017人が派遣され、[[軍夫]]は15万4000人のうち5000人国内使役のほかは派遣された<ref name="harada"/>とあることから、軍夫も武装した[[輜重輸卒]]であったことからこれを含めると、日本軍の動員は39万5000人であったとする<ref name="harada">原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』(岩波書店[岩波新書]、2007年),p.77-80.</ref>。原田は、軍夫の死者数は調査されなかったが、7000人以上と推定する<ref name="harada"/>。 === 病死者 === 陸軍省医務局編『[[明治二十七八年役陸軍衛生事蹟]]』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち[[脚気]]以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)<ref>山下 (2008)、114頁</ref>。しばしば議論の的になった[[脚気]]については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人<ref group="注釈">朝鮮は357日間、清は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。山下 (2008)、114頁。</ref>)であった。なお脚気問題の詳細は、[[日本の脚気史#日清戦争での陸軍脚気流行|「陸軍での脚気大流行」]]を参照のこと。 当時の[[朝鮮半島]]は衛生状態が悪いこともあり、また[[発展途上国]]で日本と違い[[トイレットペーパー]]が不足していた(当時の日本では[[山村]]でない限り普及していた)ことから、戦地で[[伝染病]]がはやった<ref group="注釈">食糧と水の不足が拍車をかけるケースもあった。たとえば、山東作戦では、道路事情が悪く、前線で食糧が不足した上に、[[威海衛]]が水不足で炊飯にも苦しんだ。大谷 (2006)、119頁。 {{Quotation|25石の米をすすぐだけの水なしのため、一通り水をかけたるままにて釜に入れ……、平時にては中々食すること能わず、しかるに……争うて食し、ことに軍夫のごときは毎朝未明より午後10時頃まで働きおるをもって、非常の空腹ゆえに飯釜に付着しおる飯粒をひろい食する者多く、ために[[赤痢]]病にかかる者は軍夫に多くそうろう。{{small|漢字の一部を平仮名に書き換えた}}|「大場軍曹の書簡」『奥羽日日新聞』1895年2月12日。}}</ref>。とりわけ台湾では、暑い季節に[[ゲリラ]]戦にまきこまれたため<ref group="注釈">台湾[[兵站|兵站部]]軍医部長[[藤田嗣章]]陸軍軍医(マラリアにかかって後送された[[伍堂卓爾]]の後任)は、次のように記述した。 {{Quotation|我軍を悩ましたのは[[亜熱帯]]地の暑中行軍もさることながら、実に各種伝染病の流行にあった。……やはりこれ〔マラリア〕にかかる者が多く、加ふるにコレラ病の猖獗{{small|(しょうけつ。悪いものが猛威をふるう意)}}がありチフス・赤痢も流行したので、戦闘死傷者に比すると病死者が多かった。|山下 (2008)、163-164頁。}}</ref>、[[近衛師団]]長の[[北白川宮能久親王]]陸軍中将がマラリアで陣没し<ref group="注釈">北白川宮能久親王の戦病死は、政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。</ref>、近衛第二旅団長[[山根信成]]陸軍少将も戦病死したほどであった<ref group="注釈">また1895年5月末から台湾に上陸した近衛師団のうち、ある大隊は、「台湾熱と下痢病および戦死あるいは負傷のため」、東京出発時の1,600人から600人前後まで減少した(「谷田三等軍医の書簡」『奥羽日日新聞』1895年9月26日)。大谷 (2006)、164-165頁。</ref>。ただし、[[広島大本営]]で[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]の[[有栖川宮熾仁親王]]陸軍大将が[[腸チフス]]を発症したなど、国内も安全ではなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) が[[コレラ]]によるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)<ref>大谷 (2006)、131頁。</ref>。次いで[[消化器疾患]]1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、[[赤痢]]1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、[[マラリア]]542人 (4.1%)、[[凍傷]]88人 (0.7%)。 最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した<ref group="注釈">とくに上記の通り、[[澎湖諸島|澎湖列島]]の占領を担当した混成支隊では、輸送船内で発生したコレラが上陸後に蔓延した。このため、混成支隊6,194人(軍夫2,448人)のコレラ死亡率が20.3% (23.7%) に達した。大谷 (2006)、142頁。</ref>。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり<ref group="注釈">たとえば、1895年7月、[[第2師管]]から占領地警備に派遣された後備歩兵第三連隊と同第四連隊が凱旋すると、疑似コレラ症状の兵卒が収容され、部隊が隔離されたものの、宮城県内でコレラが大流行した。同年9月末までに患者が2,000人になり、この7割が死亡したとされる。『仙台市史』資料編七、『宮城県史』本編七・警察の項。以上、大谷 (2006)、151-153頁。</ref>、その後、[[似島検疫所|似島]](広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された<ref group="注釈">濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』1972年によれば、入浴や消毒液に浸かる等の対策をしていた。http://uraji.paslog.jp/article/689420.html </ref>(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った<ref group="注釈">1895年は、日本のコレラ死亡者数が1万人を超えた最後の年でもあった。総務庁 (1988) 第5巻、144頁。</ref>)。 === 凍傷 === 当時の陸軍は、しっかりした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法とを持っていなかった。しかも、非戦闘時の兵士は硬くて履き心地の良くない軍靴よりも草履を履くことが多く、また物資運搬を担った民間人の軍夫は軍靴を支給されなかった。結果的に多くの兵士と軍夫が[[凍傷]]に罹り、相当な戦力低下を招いた。凍傷は、[[山東半島]]での威海衛攻略戦<ref group="注釈">戦地では道路がよくない上に、雪質が硬く凍った満州の氷雪より悪いため、行軍中の凍傷が多かった。大谷 (2006)、117-120頁。{{Quotation|[[山東省]]の寒気は盛京省〔[[遼寧省]]の旧称〕に比して甚だしからず、しかれども……草履をうがち氷雪の中を馳騁{{small|(ちてい。2.奔走すること)}}したる事なれば、……。[[歩兵第4連隊|第四連隊]]第二中隊第二小隊の兵士72人のうち56人まで凍傷にかかりたるがごとき……今日にいたりては既に過半平癒せし……軍夫中にはその数最も多かりしと({{small|漢字を一部、平仮名に書き換えた}})|「威海衛雑記」『奥羽日日新聞』、1895年2月24日。}}</ref>、大陸での冬営、遼河平原の作戦<ref group="注釈">[[海城市|海城]]で孤立していた第三師団に第一師団と第五師団など援軍が送られ、1895年3月4日に[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]、3月6日に[[営口市|営口]]、3月9日に[[大窪県|田荘台]]を攻略して終わった。旅順から増援に向かった[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]の野砲第二連隊第二大隊第三中隊・弾薬車担当、山下貴一は、1895年5月『東北新聞』に連載された「征清記」で、雪中行軍の様子を次のように書き記した。大谷 (2006)、133-135頁。{{Quotation|〔同年2月15日〕午前八時[[金州区|金州]]を発す、寒さは肌をそぐばかり、雪にきたえし奥州武士も顔見合わせて苦笑ひ、声さへたたぬ大吹雪、寒暖計は零度の下20度にあり…。16日早朝出発、見渡す限りの銀世界行けども行けどもはかどらず、日は暮れて…。……艱苦〔艱難辛苦{{small|(かんなん-しんく)}}のことか?〕といふ艱苦をなめつくしてようやく…。17日午前3時といふに携帯口糧をかみ砕き……出発す、……山嵐に狂へる雪片……その風雨の激しさ予が26年間まだかつて知らざる所にこそ、輸卒1名、軍夫1名はこの日ゆくえ知れずなり(抜粋。{{small|漢字を一部、平仮名に書き換えた}})}}</ref>などで多発した。このため戦後、そうした戦訓を基に防寒具研究と冬季訓練が行われた。そして後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが[[八甲田雪中行軍遭難事件]]である。 == 民間人の被害 == 日本軍は、戦地で食糧を調達するときに対価を支払っており、現地の民間人に対して[[強奪|略奪]]等の行為が皆無との見解がある。とくに軍の規律は、欧米を中心とした国際社会より高い評価を受けた<ref group="注釈">[[保坂正康]]『あの戦争は何だったのか』新潮社、2005年。</ref>。これは当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に[[国際法]]を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性があったためであり<ref>[[児島襄]]『日清戦争』文藝春秋社、1977年。</ref>、[[東洋]]の君子国(徳義と礼儀を重んじる国)と称えられた。現地の人々との関係も良好で、たとえば日本軍が朝鮮半島を北上する際、畑で農作業中の農民に出会ったりすると、その作業を手伝った等の微笑ましい話も残された(保坂前掲書)。 ただし、そうした光と異なり、影の部分もあった。[[地方]]出身者で[[低学歴]]者が殆どの兵士たちは、鉄道のない道路の悪い戦地で、補給線が伸びきったために食糧を略奪し(徴発が略奪に変わり、抵抗する清国人を殴る行為を「大愉快」と表現した軍夫<!--「軍夫」は、「動員(戦時編成)と軍夫の大規模雇用」で説明済み。なお、軍が動員した「軍夫」は、国内で軍指定の請負業者に雇用させた民間人であり、たとえば「軍夫」が賃金を払って戦地の住民を手伝わせたようなケースは、動員にカウントされていない。つまり、軍として「軍夫」と認めていないし、「軍夫」の呼称を使っていない。-->もいた。『東北新聞』1895年2月14日)、ときに寒さをしのぐ燃料を得るために民家を壊して生き延びた<ref group="注釈">大谷 (2006)、120、212頁。たとえば、第一軍司令部に所属する太田資重は、次のように書き記した。 {{Quotation|[[1894年]](明治27年)[[10月26日]]、無血で「[[九連城]]市を占領したるに精米二千石余、牛馬、味噌、酒、醤油、器物、衣服山をなし、分捕品にて今日などは寒防いたしおり候{{small|(そうろう)}}。……第一軍はまたまた前進の様子なれども、糧食のため前進できず……。〔11月3日〕[[天長節]]なればマネ祝をなす心にて候。本日も近傍の村落に出かけ芋、豚、牛、鶏、里芋などを分捕り用意でき申候、敵地なれば分捕りは勝手自由、薪なければ家を焼き、山にきり申候。{{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。}}|「太田一等軍曹の手翰」『東北新聞』1894年11月27・28日。大谷 (2006)、85頁。}}また凍傷のため、[[山東半島]]から[[仙台市|仙台]]に後送された軍夫は、寒気が仙台と大差ないものの、強風と薪炭不足に悩まされ、人家の飾り付け、家具を見つけしだい燃やして暖を取っていたこと、糧食縦列から離れると携行食の[[道明寺糒]]{{small|(ほしい)}}とわずかな缶詰しかなく、民家に貯蔵されていた[[サツマイモ]]を徴発して飢えをしのいだことを語った(「帰朝軍夫の談話」『奥羽日日新聞』1895年3月6日)。大谷 (2006)、120頁。</ref>。また、満州の戦闘では、市街(田荘台)を焼き払っており、[[戦時国際法]]を適用しなかった台湾平定では、集落ぐるみで子供も参加するような[[ゲリラ戦]]に対し、予防・懲罰的な殺戮{{small|(さつりく)}}と集落の焼夷とが普通の戦闘手段になっていた<ref group="注釈">大谷 (2006)、212頁。なお、[[新竹]]で孤立した日本軍を救援するための台湾北部掃討作戦では、軍に同行した初代[[台湾総督]][[樺山資紀]]海軍大将が両親に次のように書き送った。 {{Quotation|沿道の住民ノ良否判明せざるに付残酷ながら一網打尽。|『現代史資料・台湾』第一巻。大谷 (2006)、159頁。}}</ref>。 == 戦時経済 == 戦時経済について後年、財界の大御所[[渋沢栄一]]が次のように回顧した。{{Quotation|開戦当初の予想では、戦争〔戦費調達〕のため金詰まりが甚だしく、どの商売も不景気になるというので皆低姿勢をとった<ref group="注釈">{{Quotation|朝鮮事件の葛藤を生ぜし以来は、金融界の不況ますます甚だしく……新規事業はいずれも躊躇{{small|(ちゅうちょ)}}しおれる風情あり{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}。|『[[国民新聞]]』1894年8月5日。原田 (2007)、88頁。}}その背景として開戦当初、最悪の事態も考えられていたことが挙げられる。たとえば、「軍事消費の増大→労働力不足による生産減と輸出減で国際収支の赤字化→[[正貨]]流出→[[兌換]]停止による経済破綻」といった負の連鎖である。そのため、8月9日、[[渡辺国武]][[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]名の「軍費意見書」で、「今や世上往々兌換停止、[[国債|外債]]募集の事を説くものなきにあらず、依って特に一言す」と、経済への悪影響に触れざるを得なかった。高橋 (1973)、245頁。</ref>。ところが戦争が進むと、案外のように、不景気どころか、むしろ好景気の有様であった。|総合雑誌『[[太陽 (博文館) |太陽]]』1897年1月20日号。高橋 (1973)、245頁。}} 実際、開戦当初の悲観的な見通しと異なり、戦時経済は大過なく運営された<ref>高橋 (1973)、246-247頁。</ref>。その要因として、1)日清戦争が比較的短期かつ小規模であったことが挙げられる。このため、兵役適齢層(20-32歳)の[[日清戦争#動員(軍夫の大規模雇用)|動員率が5.7%(推計値)]]にとどまり、その多くが10か月以内に[[復員]]した。2)当時の日本は、潜在的に過剰労働力が少なくなく、とくに主要産業の農業<ref group="注釈">[[国内総生産#国内純生産|国内純生産]]([[国内総生産]]-固定[[資本]]減耗)の部門別構成比は、農林水産業41.5%、鉱工業15.8%、運輸・通信・公益事業3.1%、建設業4.5%、商業サービス業35.1%と推計(1894年-1900年の平均値)。大川ほか (1974)、46頁。</ref>でその傾向が強かった。しかも、農村や農山村などで過剰労働力が滞留する中(東京で[[人力車|車夫]]が余るなど都市も働き口が少なかった)、出征兵士留守宅への農作業支援もあった。結局のところ、戦時下で農業生産額(実質)が増加した<ref group="注釈">実質農業生産額指数(ウエイト指数1904-1906年、1934-1936年平均=100)は、1893年が54.6、1894年が59.8、1895年が60.1、1896年が55.3と推計。梅村ほか (1966)、222頁。</ref>。 3)最も懸念されたのが、兵器や弾薬など軍需品の輸入増による[[国際収支]]の赤字化([[本位貨幣|正貨]]流出)とその増大であった。政府は、できるだけ国産品を調達したものの、それでも戦費の約1/3が外国に支払われるような状態であったため、民需品の輸入を抑制した。しかし、輸出の伸びと<ref group="注釈">輸出額の推移は、1893年が8,971万円(対前年比1.5%減)、1894年が11,324万円(26.2%増)、1895年が13,611万円(20.2%増)、1896年が11,784万円(13.4%減)。このうち清への輸出額は、1893年が771万円、1894年が881万円、1895年が913万円、1896年が1,382万円と、戦時中も増加していた。また、[[香港]](イギリスの植民地と租借地)への輸出額も、1893年が1,569万円、1894年が1,620万円、1895年が1,836万円、1896年が1,997万円と増加していた。総務庁(1988)第3巻、6、69頁。</ref>、戦地の支払いで日本の貨幣が円滑に流通したこともあり、結果的に国際収支は大幅な赤字に陥らず<ref group="注釈">国際収支([[経常収支]]に相当する額)は、1893年が0.2百万円、1894年が△10.5百万円、1895年が117.6百万円(清の賠償金を含む)と推移した。安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年、4-5頁。</ref>、正貨準備額も激減しなかった<ref group="注釈">[[日本銀行]]券[[本位貨幣|正貨]]準備額は、1893年末が8,593万円、1894年末が8,172万円、1895年末が6,037万円、1896年末が13,273万円と推移した。安藤ほか前掲書、70頁。</ref>。 もっとも、戦争の影響は、産業などによって異なった<ref>高橋 (1973)、245-246頁。</ref>。商業への悪影響は、民需品の物流を滞らせた船舶不足(開戦で国内船主の[[汽船]]がほとんど徴用)<ref group="注釈">戦時中、船舶不足を補うため、多数の外国汽船が購入された。なお輸入された汽船は、開戦前年の1893年が12隻(購入総額86万円)、1894年が38隻(820万円)、1895年が39隻(470万円)、戦後の1896年が18隻(172万円)であった。総務庁(1988)第3巻、58頁。</ref>を除くと、大きなものが無かった。工業への悪影響は、原料高など商業より大きかったものの、全体として打撃が小さかった。むしろ、[[兵器]]関連業や綿糸[[紡績|紡績業]]など、兵站にかかわる産業は、[[特需]]で活況を呈した。ただし、戦費調達(多額の軍事公債発行)のための資金統制により、鉄道敷設の起工延期など新規事業が抑制された。 == 捕虜 == [[ファイル:Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers by Utagawa Kokunimasa 1894.png|サムネイル|警護にあたる巡査の帯剣を奪い斬りつけるなどの暴行を働いた捕虜を処刑する日本軍を描いた浮世絵]] 日清戦争では、清軍からは1790人が[[捕虜]]として捕えられ、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を科せられることもなく講和後には帰国した。この戦争自体が日本軍の連戦連勝で短期間で収束したことからの日本兵の捕虜が少数であることは確かだが清から引き渡されたのは11名、そのうち10名は軍夫だった。これは清軍は、通信の未熟や中央の威令が各部隊に届かず末端が暴走し捕虜をとらず殺害したためと考えられる。 == 影響 == === 概略 === [[画像:JapanPunch29September1894.jpg|thumb|[[パンチ (雑誌)|パンチ]]の風刺画。小国の日本が、大国の清を破る様子を描いている。]][[帝国主義]]時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争を初めて経験することで[[日清戦争#影響|「国民国家」に脱皮]]し、この戦争を転機に経済が飛躍した<ref group="注釈">{{Quotation|日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。|高橋 (1973) 、219頁。}}</ref>。また戦後、[[藩閥政府]]と[[民党]]側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など[[日清戦争#財政・公共投資の膨張と経済発展|以後の政策制度の原型]]が作られることとなる<ref>高橋 (1973)、219頁。中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 {{small|下}}』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。</ref>。さらに、[[日清戦争#賠償金の使途|清の賠償金などを元に拡張した軍備]]で、[[日露戦争]]を迎えることとなる。 対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の[[借款]]([[関税]]収入を担保にする等)を受け、また[[租借地#清国における租借地|要衝のいくつかを租借地]]にされて失った。その後、[[義和団の乱]]で半植民地化が進み、滅亡([[辛亥革命]])に向かうこととなる。清の「[[冊封]]」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で[[甲午改革]]が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や[[露館播遷|親露派のクーデター]]等によって改革が失速した。[[1897年]](明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、[[満洲]]にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、[[大韓帝国]]が成立することになる。 === 日本の戦中戦後 === ==== 近代的な国民国家の形成 ==== [[大日本帝国憲法|憲法発布]](1889年)、部分的な[[条約改正]](1894年[[日英通商航海条約]]で[[領事裁判権]]撤廃)、日清戦争(1894 - 95年)の3点セットは、[[脱亜入欧]]の第一歩であった<ref>御厨 (2001)、281-282頁。</ref>。とりわけ、近代的戦争の遂行とその勝利は、[[帝国主義]]時代の国際社会で大きな意味をもった<ref group="注釈">1)戦時中、留学先の[[ドイツ]]から[[松川敏胤]]大尉は、[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]での勝利の報がドイツ陸軍の配属先[[師団]]に届いたときの興奮を次のように伝えた。{{Quotation|登営の[[士官]]等は小生を目して日本万歳、松川君万歳と異口同音に唱へ、〔所属大隊では〕整列の兵士は同じく万歳を唱へて小生を迎へ、〔その結果〕昨日まで一留学生と見なしおりたる小生を今日は一大強国の陸軍士官と認められたり、嗚呼愉快ならざるや、けだし実戦に臨まざる小生の名誉すら斯く{{small|(かく)}}のごとし({{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた}})。|「松川大尉の書信」『東北新聞』1894年11月1日。}}また、ロンドン留学中の[[相原裕弥]]も次のように伝えた。 {{Quotation|ピョンヤンの陸戦、ヤルー河上の海戦〔黄海海戦〕において大勝利を得し以来、……「タイムス」は本邦人を目してNew Powerとなし、東洋人として軽蔑し来りたる迷夢を払去りて大いに本邦に対し畏敬の心を起こしたり、これに至りたるは実に一大快事に有これそうろう({{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた}})。|「在英国[[ロンドン|倫敦府]]相原法学士の書信」『東北新聞』1894年11月1日。}}以上、大谷 (2006)、86-87頁。_2)東田雅博によれば、戦後のヨーロッパでは、日本のイメージが侍から鎧をつけた武者に、また子供(非ヨーロッパ世界)から男性的なものに変化し、その傾向は[[義和団の乱]]で強まることになる。御厨 (2001)、313-315頁。</ref>。ただし、欧米の大国で、日本の「公使館」が「大使館」に格上げされるのは、[[日露戦争]]後である。また開戦をきっかけに、国内の政局が大きく変わった。衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、伊藤内閣への対決姿勢をとってきた[[硬六派|対外硬六派]]なども、同内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり、歴代内閣と反政府派の議員とが対立してきた[[帝国議会]]初期の混沌とした政治状況が一変したのである(戦時下の政治休戦。戦後も1895年11月に伊藤内閣(藩閥)と[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]が提携し、第九議会で[[日本勧業銀行]]法をはじめ、懸案の[[民法 (日本)|民法典]]第一編 - 第三編など重要法案を含む過去最多の93法案が成立)。 もっとも世間では、清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられた<ref>御厨 (2001)、287頁。</ref>。なぜなら、歴史的に中国を崇め{{small|(あがめ)}}ても、見下すような感覚がなかったためである。明治天皇が清との戦争を逡巡{{small|(しゅんじゅん)}}したように、日清戦争の勃発に戸惑う国民も少なくなかった。しかし、勝利の報が次々に届くと、国内は大いに湧き<ref group="注釈">[[田山花袋]]は、当時の様子を次のように回想した。 {{Quotation|その年の秋、私は……浜街道を[[水戸市|水戸]]から[[仙台市|仙台]]の方へと行った。どんな田舎でもどんな山の中でも、戦捷{{small|(せんしょう)}}の日章旗を風になびいていないところはないのを私は見た。人々は戦捷の祝だと言っては飲み、出発の別離だと言っては集まって騒いだ。……/維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲{{small|(みなぎ)}}りあがった日清の役〔日清戦争〕の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった。|『東京の三十年』。佐谷 (2009) 、152-153頁。}}</ref>、戦勝祝賀会などが頻繁に行われ、「帝国万歳」が流行語になった。戦後の凱旋行事も盛んであり、しばらくすると各地に記念碑が建てられた。戦時中、男児の遊びが戦争一色となり、少年雑誌に戦争情報があふれ、児童が清国人に小石を投げる事件も起こった<ref>佐谷 (2009)、178-179頁。</ref>。ただし、[[陸奥宗光]]のように、制御の難しい好戦的愛国主義([[排外主義]])を危ぶむ為政者もいた<ref>御厨 (2001)、300-301頁。</ref>。 国民に向けて最も多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞社は、費用増が経営にのしかかったものの、[[従軍記者]]を送る<ref group="注釈">従軍記者は、全国66社から129人と伝えられている。佐谷 (2009)、48頁。</ref>など戦争報道の強かった『[[大阪朝日新聞]]』と『[[中央新聞]]』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『[[報知新聞#歴史|郵便報知新聞]]』『[[横浜毎日新聞|毎日新聞]]』『[[やまと新聞]]』が没落した<ref group="注釈">大谷 (2006)、26頁。 {{Quotation|日清戦争において新聞紙の購読者は非常に参加した。子弟を戦地に送れる家庭は皆競うて新聞紙を購読し、号外は地方の寒村まで配達されて購読熱をあおった{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}。|小野秀雄『日本新聞発達史』1982年。}}</ref>。また、忠勇美談([[西南戦争]]以前と異なり、徴兵された「無名」兵士の英雄化)など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、[[メディア (媒体)|報道機関]]の発達を促した<ref>以下の出典は、佐谷 (2009)、68-70、111頁。</ref>。その報道機関は、一面的な情報を増幅して伝える等、人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。たとえば、新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れている、とのことを繰り返し伝えた(開明的な近代国家として日本を礼賛)。国民の側も、そのような対外蔑視の記事を求めた。 日清戦争は、近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、この体験を通して日本は近代的な[[国民国家]]に脱皮した<ref>佐谷 (2009)、7、11頁。</ref>。つまり、檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である(戦争の統合作用<ref group="注釈">ポーターは、戦争の作用の一つとして「統合作用」を挙げた。つまり対外戦争は、敵に対抗するために国内対立を緩和させ、統一を促し、また戦争を遂行する過程で、国民の国家への統合が強まるのである。以上、戸部 (1998)、138-139頁。</ref>)。たとえば、戦争遂行の過程で[[国家]]は人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。戦争の統合作用で重要な役割を果たしたのが大[[元帥]]としての[[明治天皇]]であり、天皇と[[大本営]]の[[広島市|広島]]移転は、国民に天皇親征を強く印象づけた<ref>以上、戸部 (1998)、139頁。</ref>。反面、清との交戦とその勝利は、日本人の中国観に大きな影響を与え、中国蔑視の風潮が見られるようになった。戦場からの手紙に多様な中国観が書き記されていたにもかかわらず、戦後、多くの人々の記憶に残ったのは、一面的で差別的な中国観であった<ref>大谷 (2006)、214頁。</ref>。なお、国内が日清戦争に興奮していたとき、[[上田万年]]が漢語世界から脱却した[[国語]]の確立を唱道し、さらに領土拡大(台湾取得)などを踏まえ[[標準語]]の創出を提起した<ref>御厨 (2001)、317-321頁。</ref>。 ==== 財政・公共投資の膨張と経済発展 ==== 日清戦争が一段落付くと、領土・賠償金等での勝敗落差の実感(かつて[[普仏戦争]]が軍拡の必要性を説くときに好例とされた)<ref group="注釈">{{Quotation|経済への悪影響を心配して平時の軍事支出を削減しても、ひとたび戦争に負けてしまえば莫大な賠償金を支払わねばならないので、平常の軍事費を削減してはいけないのだ、という論理|加藤 (2002)、36-40頁。}}</ref>や賠償金の使途や[[三国干渉]]やロシアのシベリア鉄道建設([[南下政策]]への警戒)などを背景に、政府内で戦後経営にかかわる意見が出された。[[1895年]](明治28年)[[4月]]、山縣有朋が「軍備拡充意見書」を上奏し、[[8月15日]]に[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]][[松方正義]]が「財政意見書」(軍拡と[[殖産興業]]を主張)<ref group="注釈">{{Quotation|……欧州列強はすでに我国に対する外交の面目をあらため三国の同盟を訂約せり〔三国干渉〕……「サイベリア」大鉄道〔シベリア鉄道〕の成るは正に五箇年の内にあるなり、我国軍備の拡張は実に一日も緩にすへからす……〔増税の必要性を説き〕……明治29年〔1896年〕度以後において臨時大計画に属する歳出の増加は、第一陸軍拡張、第二海軍拡張、第三製鉄所設置、第四鉄道および電話拡張……(抄。{{small|注:文中に読点を入れ、漢字の一部とカタカナを平仮名に書き換えた}})。|安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年。}}</ref>を閣議に、11月に後任の[[渡辺国武]]蔵相が「財政意見書」を閣議に提出した。政府は、渡辺案を若干修正した「戦後財政計画案」(1896 - 1905年)を第九議会(1895年[[12月25日]]召集)に参考資料として提出した。 その後、一般会計の歳出決算額が開戦前の[[1893年]](明治26年)度8,458万円(軍事費27.0%、国債費23.1%)から[[1896年]](明治29年)度1億6,859万円(軍事費43.4%、国債費18.1%)に倍増し、翌1897年度から日露戦争中の[[1904年]](明治37年)度まで2億円台で推移した<ref>坂入 (1988)、61、162頁。</ref>。歳出増大に伴う歳入不足が3回の増税、葉たばこ[[専売制#日本|専売制度]]、国債<ref group="注釈">国債の発行残高は、1893年度末2億3,481万円から1896年度末3億5,112万円に49.5%増加した。その後、1899年度末から4億円台(外債割合がゼロから20.4%)、1902年度末から5億円台になる。坂入 (1988)、163頁。</ref>で補われ(戦前、衆議院の反対多数で増税が困難な状況と一変)、「以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した」<ref group="注釈">{{Quotation|戦前から調査を重ねてきた葉たばこ専売制度、営業税制と法人所得税制などの新税を大胆に取り入れ、酒税や[[地租改正|地租]]制度の整備と相まって、以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した。|[[財務省 (日本)|大蔵省]]百年史編集室『大蔵省百年史』上巻、1969年、171頁。}}</ref>とされる。さらに公共投資も、1893年度3,929万円から1896年度6,933万円に76.4%増加し、翌1897年度から1億円台で推移した<ref>坂入 (1988)、163頁。</ref>。 財政と公共投資の膨張に現れた積極的な政策姿勢([[富国強兵]]の推進)は<ref group="注釈">地方を含む政府支出の対GNP([[国民総生産]])比は、戦前(1890-93年)の9.8%から、戦後(1897-1900年)の17.3%に急上昇した。浜野潔ほか『日本経済史 1600-2000』慶應義塾大学出版会、2009年、134頁。</ref>、負の側面もあったものの、戦後の経済発展の主因になった<ref group="注釈">高橋 (1973)、263-264頁。後年、過酷な労働条件が問題になる綿糸[[紡績業]]・[[蚕糸業]]が発展する中、[[国民総生産]]について戦前(1891-93年3か年平均)と戦後(1897-99年3か年平均)を比べれば、名目で86.8%、実質で26.2%増加したと推計される。資料:大川ほか (1974)、200頁。また戦中から戦後にかけ、都市下層の収入が実質20%ほど上昇し、主な食物が[[兵営]]や学校などの残飯から米食(安い外国米)に変わったとされる。原田 (2007)、88-89頁。</ref>。たとえば、日清戦争(軍事・戦時経済の両面)で[[海運]]の重要性を認識した日本は、[[1896年]](明治29年)[[3月24日]]の「[[航海奨励法]]」・「[[造船奨励法]]」公布ならびに[[船員]]養成施策などにより、海運を発展させることになる<ref group="注釈">戦前の三大遠洋航路(欧州線・北米線・[[オーストラリア|豪州]]線)は、1896年3月15日 - 10月3日の半年間に開かれた。なお、貿易貨物の日本船積載比率は、明治20年代(1887 - 1896年)が平均9%であったものの、貿易が拡大する中、日清戦争後の30年代(1897 - 1906年)が30%台で推移し([[日露戦争]]期を除く)、40年代(1907 - 1912年)に40%を超え、日清戦争から20年後に勃発した[[第一次世界大戦]]期に50%を超えた。松好貞夫・安藤良雄『日本輸送史』日本評論社、1971年、402-405頁。</ref>。なお財政上、見送られてきた二番目の[[帝国大学]]が1897年の[[勅令]]で京都に設置されること、つまり[[京都大学#略歴|京都帝国大学の創設]]が決まった<ref group="注釈">日清戦争の前後は、普通教育の未就学率が大幅に低下した時期でもあった。男・女の未就学率は、1881年が31.0%・65.9%、1886年が29.8%・61.9%、1891年が26.6%・60.1%、1896年が10.6%・34.8%、1901年が5.4%・15.8%。梅村ほか (1988)、24-25頁。</ref>。 また[[1897年]](明治30年)[[10月1日]]、イギリス金貨([[スターリング・ポンド|ポンド]])で受領する清の賠償金と還付報奨金を元に[[貨幣法]]などが施行され、[[銀本位制]]から[[金本位制]]に移行した(ただしイギリスの金融街[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]に賠償金等を保蔵し、[[日本銀行]]の在外[[本位貨幣|正貨]]として[[兌換券]]を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)<ref>坂入 (1988)、195頁。</ref>。本位貨幣の切り替えによって日本は、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」になりつつあったイギリス<ref group="注釈">20世紀初頭のイギリスは、「世界の工場」(他国の追随をゆるさない最大輸出国)から、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」(金融・サービスの中心地)に変貌しながら、世界経済の中心地としての地位を維持していた。秋田茂「パクス・ブリタニカの時代」『イギリスの歴史』、川北稔・木畑洋一[編]、有斐閣、2000年、136-137頁。</ref>を中心にする国際金融[[決済]]システムの利用、日露戦争での戦費調達(多額の外債発行)、対日[[投資]]の拡大など、金本位制のメリットを享受することになる。 以上を要約すると、日清戦争後の日本は、[[藩閥政府]]と[[民党]]側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)することになる。さらに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策(海運業振興策など)や金融制度(金本位制に移行・日本勧業銀行など[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]の相次ぐ設立)や税制体系(新税導入・たばこ専売制)など、以後の政策制度の原型が作られることとなる<ref group="注釈">中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 {{small|下}}』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。{{Quotation|日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。|高橋 (1973)、219頁。}}</ref>。 ==== 賠償金の使途 ==== [[1896年]](明治23年)[[3月4日]]、清の賠償金と[[遼東半島]]還付報奨金を管理運用するため、償金特別会計法が公布された<ref>この項目の出典は、坂入 (1988)、166-167、173-186頁。</ref>。[[1902年]](明治35年)度末現在、同特別会計の収入総額が3億6,451万円になっていた。内訳は、賠償金が3億1,107万円 (85.3%)、還付報奨金が4,491万円 (12.3%)、運用利殖・差増が853万円 (2.4%) であった。また、同特別会計の支出総額が3億6,081万円で、差し引き370万円の残高があった。支出の内訳は、日清戦争の戦費([[臨時軍事費特別会計]]に繰入)が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%([[官営八幡製鐵所|製鉄所]]創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、[[日本統治時代の台湾|台湾]]経営費補足1,200万円3.3%、[[皇室|帝室]]御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった<ref>安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年、68頁。</ref>。このように清の賠償金などは、戦費と軍拡費に3億502万円84.5%が使われた。 なお、1896年度から1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円であった(ただし第三期の海軍拡張計画を含まない第一期と第二期の計画分)。使途の構成比は、陸軍が32.4%(砲台建築費8.6%、営繕と初年度調弁費16.0%、砲兵[[工廠]]工場拡張費5.8%、その他1.9%)、[[六六艦隊計画]]を立てた海軍が67.6%(造船費40.0%、[[軍隊#造兵能力|造兵費]]21.2%、建築費6.4%)。また財源の構成比は、清の賠償金・還付報奨金が62.6%、租税が12.7%、公債金が24.7%であった。 === 清の戦後 === {{main|清#半植民地化・滅亡}} 西洋列強から大国と認識されていた清が日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序を揺るがす一大事件であった。日清戦争によって列強は、清への認識をそれまでの「眠れる獅子」といった大国的なものから改めることになる。 その清は、戦費調達と賠償金支払いのために列強から多額の[[借款]]([[関税]]収入を担保にする等)を受け、また[[租借地#清国における租借地|良港など要衝のいくつかを租借地]]にされて失った。敗北は[[洋務運動]]の失敗を意味し、対外的危機が高まる中、いわゆる変法派により、日本の[[明治維新]]に倣った[[変法自強運動]]が唱えられ、[[康有為]]らは[[明治維新]]をモデルとして[[立憲君主制]]に基づく改革を求める上奏を行った{{sfn|和田民子|2007|pp=287-290}}。[[1898年]](光緒24年)、[[光緒帝]]が変法派と結び、急激な変革([[戊戌の変法]])が行われつつあったものの、失敗した([[戊戌の政変]])。一方、[[1890年代]]、[[孫文]]らは[[共和制]][[革命]]を唱え、日本、アメリカなどで活動した。[[1890年]]には[[輔仁文社]]が[[香港]]で設立され、孫文は[[1894年]]に[[ハワイ]]で興中会を結成した。[[1895年]]に武装蜂起に失敗、日本に亡命。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生([[章炳麟]]、[[鄒容]]、[[陳天華]]など)の間では革命思想が浸透した。[[1900年]](光緒26年)の[[義和団の乱]]では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都[[北京]]を占領される非常事態になり、[[国権]]の一部否定を含む[[北京議定書]]を締結するなど大きな代償を払った。さらに、[[南下政策]]をとるロシアの[[満州|満洲]]占領を招いた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡([[辛亥革命]])することとなる。 === 朝鮮の戦中戦後 === [[1894年]][[7月23日]](光緒20年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]])、日本主導の政変により、[[金弘集 (政治家)|金弘集]]内閣が誕生すると、日清戦争中、[[魚允中]]や[[金允植]]など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次[[甲午改革]]){{harv|岡本(2008)|p=4-5,162-164,181}}<ref>呉 (2000)、164-176頁</ref>。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]・[[閔妃]]派・[[興宣大院君|大院君]]派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した[[井上馨]]公使の要請により、亡命中の[[朴泳孝]]と[[徐光範]]を加えた第2次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年[[4月17日]](翌年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]])、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の[[三国干渉]]で日本の威信が失墜し、6月に第2次金内閣が崩壊した<ref>以上、呉 (2000)、164-165頁。</ref>。そうした情勢の下、[[10月8日]]([[8月20日 (旧暦)|8月20日]])に[[乙未事変]](閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、[[太陽暦]]採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根を張る[[両班]]や[[儒学|儒学者]]たちも反発した。翌[[1896年]]([[建陽]]元年)1月、「[[衛正斥邪]]」を掲げる伝統的な守旧派<ref group="注釈">「国母復讐」を叫び、断髪令が「[[小中華思想|小中華]]」を捨てて「[[夷狄]]」に堕落するもの、と糾弾した。{{harv|岡本(2008)|p=163}}</ref>が政権打倒を目指して挙兵した(初期[[義兵]]運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派が[[クーデター]]を決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を殺害された高宗とその子供をロシア公使館に移し、[[2月11日]]に新政府を樹立した([[露館播遷]])。同日、総理大臣の金弘集は、[[光化門]]外で群衆に打ち殺された([[甲申政変]]での急進的開化派([[独立党]])の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。 こうして日清開戦から続く、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年も経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であった。その結果、義和団の乱後にロシアが[[満州|満洲]]を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つことになる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下<ref group="注釈">この時期も様々な外交交渉が行われた。たとえば、[[1896年]](明治29年、建陽元年)5月に漢城で[[小村・ウェーバー覚書|小村・ウェーベル覚書]](朝鮮政府の現状維持と日露の軍事的配置)が交わされた。皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の戴冠式の舞台裏では、日露と露清の秘密外交が行われ、6月に[[山縣・ロバノフ協定]]と[[露清密約]]が結ばれた。朝鮮も特命全権大使を派遣しており、ロシアの援助を取りつけた(国王の護衛、日本人に代わるロシア人の軍事・財政顧問の派遣、[[借款]]の約定をはかること、電信線での連絡など)。また[[1898年]](明治31年)4月(光緒24年閏3月)、[[西・ローゼン協定]]が結ばれ、日本はロシアの[[旅順]]・[[大連]]租借を黙認した。</ref>、[[1897年]]([[光武 (元号)|光武]]元年)[[10月12日]]、高宗は、[[皇帝]]即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、[[大韓帝国]]の成立を宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった「[[迎恩門]]」および「恥辱碑」といわれる[[大清皇帝功徳碑]]が倒され、前者の跡地にフランスの[[エトワール凱旋門]]を模した「[[独立門]]」が建てられた。 == その他 == * 欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は、欧米からの武器輸入を進めていた。しかし、各軍(日本の場合は[[藩|旧藩]])が個別に輸入したため、さまざまな国籍・形式のものが混在し、[[弾薬]]補給とメンテナンスに支障をきたしていた。[[1880年]](明治13年)、日本陸軍の[[村田経芳]]が最初の国産[[小銃]]の開発に成功した。陸軍は、それを[[村田銃]]と命名し、小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていなかったものの、弾薬と主要部品で村田銃の新旧型に互換性があったため、弾薬などの大量生産が行われるとともに効率的な補給が可能であった。 * 1894年の秋、軍需品になった牛肉[[缶詰]]が高騰するとともに、[[東京府]]下の缶詰屋が大繁盛した(24時間操業、職工が1日で3日分の賃金を稼ぎ、と畜された牛が1日150頭ほど)。牛乳400gが4[[通貨の補助単位#主な通貨と補助単位の対応|銭]]から10銭に、[[沢庵漬け|たくあん]]100樽が57円から100円以上に高騰した。西東秋男『日本食生活史年表』楽游書房、1983年、94-95頁。 * 戦後の[[1896年]][[8月1日]]、戦中に病没した[[北白川宮能久親王|能久親王]]と[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]の肖像を描いた2銭と5銭の計4種類の[[切手]]が発行された。これらは、日本で発行された最初の肖像切手であった。[[記念切手]]など銘が記されていないものの、当時の新聞<ref>東京朝日新聞 1896年6月14日紙面</ref>で「明治廿七八戦役戦捷記念」と紹介されたほか、現在の[[さくら日本切手カタログ]]([[日本郵趣協会]]編)等で「日清戦争勝利記念」切手と紹介された。 * 清兵に比べると日本兵は、平均身長が1.8センチ低いものの、平均体重が6.5キロ重く、握力が10キロ強いなど筋肉量が多く、肺活量も遥かに上回っていた<ref>[http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-02/01/content_27862791.htm 第二次世界大戦時の日本の徴兵検査] [[中国網]] 2013-02-01</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 関連項目 == * [[中華思想]] - [[華夷秩序]] * [[グレート・ゲーム]] * [[近代における世界の一体化]] * [[長崎事件]] * [[大不況]] * [[天皇・皇后と日清戦争]] * [[義和団の乱]] * [[八カ国連合軍]] == 参考文献(五十音順) == <!--「Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)」に従った。なお、「[[浅野豊美]]『帝国日本の植民地法制――{{small|法域統合と帝国秩序}}』名古屋大学出版会、2008年。」「[[浦辺登]]『太宰府天満宮の定遠館』[[弦書房]]、2009年。」「[[陸軍省]] 編『日清戦争統計集』海路書院。ISBN 4-902796-32-5」は、出典として利用されていない文献--> * [[井上寿一]]『山県有朋と明治国家』NHK出版、2010年。 * [[井上晴樹]]『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995年。 * [[大谷正]]『兵士と軍夫の日清戦争 {{small|戦場からの手紙をよむ}}』有志舎、2006年。 * [[呉善花]]『韓国併合への道』文藝春秋〈文春新書086〉、2000年。 * {{Cite book|和書|author=岡本隆司 |author-link=岡本隆司 |title=世界のなかの日清韓関係史 : 交隣と属国、自主と独立 |publisher=講談社 |year=2008 |series=講談社選書メチエ |NCID=BA86750846 |ISBN=9784062584203 |id={{全国書誌番号|21469257}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000130-I000075136-00 |ref={{harvid|岡本(2008)}}}} * 岡本隆司『中国「反日」の源流』講談社〈講談社選書メチエ〉、2011年。 * [[加藤陽子]]『戦争の日本近現代史』講談社〈講談社現代新書1599〉、2002年。 *{{Cite |和書 |author = 加藤陽子 |title = それでも、日本人は「戦争」を選んだ |date = 2009年7月 |publisher = [[朝日出版社]] |isbn = 978-4255004853 }} * [[川島真]]『近代国家への模索 1894-1925』岩波書店〈岩波新書1250:シリーズ中国近現代史2〉、2010年。 * [[黒野耐]]『参謀本部と陸軍大学校』講談社〈講談社現代新書1707〉、2004年。 * [[斎藤聖二]]『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003年。 * [[坂入長太郎]]『明治後期財政史』酒井書店〈日本財政史研究II〉、1988年。 * {{Cite book|和書 |author=佐々木隆 |author-link=佐々木隆 (歴史学者) |title=明治人の力量 |publisher=講談社 |year=2010 |series=講談社学術文庫 |NCID=BB01392654 |ISBN=9784062919210 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I089936609-00 |ref={{harvid|佐々木(2010)}}}} **【原本】{{Cite book|和書|author=佐々木隆 |title=明治人の力量 |publisher=講談社 |year=2002 |series=日本の歴史 |ISBN=4062689219 |id={{全国書誌番号|20384784}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000003577556}} * [[佐谷眞木人]]『日清戦争 {{small|「国民」の誕生}}』講談社〈講談社現代新書1986〉、2009年。 * [[高橋亀吉]]『日本近代経済発達史』第一巻、東洋経済新報社、1973年。 * 長南政義・森重和雄・川崎華菜解説/陸地測量部撮影『日清戦況写真』国書刊行会、2013年。 * [[戸高一成]]『海戦からみた日清戦争』角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2011年。 * [[戸部良一]]『逆説の軍隊』中央公論新社〈日本の近代9〉、1998年。 * [[原田敬一 (歴史学者)|原田敬一]]『日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書1044:シリーズ日本近現代史3〉、2007年。 * {{Cite book|和書|author=原田敬一 |title=日清戦争 |publisher=吉川弘文館 |year=2008 |series=戦争の日本史 |ISBN=9784642063296 |id={{全国書誌番号|21467109}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009428023-00 |ref={{harvid|原田(2008)}}}} * [[檜山幸夫]] 編著『近代日本の形成と日清戦争―戦争の社会史』雄山閣出版、2001年。 * [[藤村道生]]『日清戦争』岩波書店〈岩波新書;青版880〉、1973年。 * [[御厨貴]]『明治国家の完成 1890〜1905』中央公論新社〈日本の近代3〉、2001年。 * [[陸奥宗光]] 『新訂 蹇蹇録 {{small|日清戦争外交秘録}}』[[中塚明]]校注、岩波書店〈新訂ワイド版岩波文庫255〉、1994年。 * [[山下政三]]『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年。 * [[渡辺利夫]]『新 脱亜論』文藝春秋〈文春新書634〉、2008年。 * 大谷正『日清戦争』中央公論新社、2014年。 * {{Cite journal|和書 |author=和田民子 |year=2007 |title=19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性 |journal=日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 |issue=8 |pages=285-294 |publisher=日本大学大学院総合社会情報研究科 |issn=13461656 |url=http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf08/8-285-294-wada.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-06 |ref=harv }} * {{Cite book|和書|author=ユン・チアン|title=西太后秘録 近代中国の創始者(上)|publisher=講談社|translator=川副智子|date=2015-02-10|isbn=978-4-06-219402-0|ref={{SfnRef|ユン・チアン|2015}} }} === 統計資料 === * [[大川一司]]ほか『長期経済統計1 国民所得』東洋経済新報社、1974年。 * [[梅村又次]]ほか『長期経済統計2 労働力』東洋経済新報社、1988年。 * 梅村又次ほか『長期経済統計9 農林業』東洋経済新報社、1966年。 * [[江見康一]]・[[塩野谷祐一]]『長期経済統計7 財政支出』東洋経済新報社、1966年。 * [[総務省|総務庁]]統計局監修『日本長期統計総覧』第1巻、日本統計協会、1987年。 * 総務庁統計局監修『日本長期統計総覧』第3巻・第5巻、日本統計協会、1988年。 == 外部リンク == {{Commonscat|First Sino-Japanese War}} {{wikisourcecat}} * [https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m27_1894_02.html 宣戦ノ詔勅](国立公文書館) * [[日本外交文書デジタルアーカイブ]]([[外務省]])日清戦争関係部分 ** 明治27年/1894年:[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/27-2.html 第27巻第2冊] ** 明治28年/1895年:[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/28-1.html 第28巻第1冊]・[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/28-2.html 第28巻第2冊] ** 明治29年/1896年:[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/29.html 第29巻] ** ※ 閲覧には[[DjVu]]ビューアが必要 * 凱旋紀念帖 ** [{{NDLDC|994001}} 凱旋紀念帖 天の巻] 陸海軍士官素養会 1895年 ** [{{NDLDC|994002}} 凱旋紀念帖 地の巻] 陸海軍士官素養会 1895年 ** [{{NDLDC|994003}} 凱旋紀念帖 人の巻] 陸海軍士官素養会 1895年 * [https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009243941-00 日清戦争錦絵]、[{{NDLDC|1311472}} デジタル化資料]-[[国立国会図書館]] *[http://ocw.u-tokyo.ac.jp/movie?id=1213&r=961479952 日清戦争研究の現在] - [[加藤陽子]]、[[東京大学]]講演、2013 *[https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/index.html 描かれた日清戦争 〜錦絵・年画と公文書〜] アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展 * {{Kotobank}} {{戦前日本の経済史}} {{日本の条約}} {{日本の戦時法}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:につしんせんそう}} [[Category:日清戦争|*]] [[Category:山縣有朋]] [[Category:大山巌]] [[Category:李鴻章]] [[Category:丁汝昌]]
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1393年
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1393年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1393}} {{year-definition|1393}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[癸酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明徳]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2053年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]]:[[洪武]]26年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[李成桂|太祖]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3726年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]]:[[光泰]]6年 * [[仏滅紀元]]:1935年 - 1936年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:795年 - 796年 * [[ユダヤ暦]]:5153年 - 5154年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1393|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[増上寺]]創建 *[[第二次ブルガリア帝国]]が[[オスマン帝国]]に滅ぼされる == 誕生 == {{see also|Category:1393年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月24日]] - [[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]、[[フランス王国]]の軍人、[[フランス元帥]]、[[ブルターニュ君主一覧|ブルターニュ公]]アルテュール3世(+ [[1458年]]) * [[義天玄詔]]、[[室町時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](+ [[1462年]]) * [[久我清通]]、室町時代の[[公卿]](+ [[1453年]]) * [[伊達持宗]]、室町時代の[[守護大名]](+ [[1469年]]) == 死去 == {{see also|Category:1393年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月20日]] - [[ネポムクのヨハネ]]、[[ボヘミア]]の[[司祭]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1340年]]?) * [[4月15日]] - [[エリーザベト・フォン・ポンメルン]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の皇后(* [[1347年]]) * [[6月4日]](明徳4年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[綽如]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[浄土真宗]]の僧(* [[1350年]]) * [[6月6日]](明徳4年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]) - [[後円融天皇]]、南北朝時代の[[北朝 (日本)|北朝]]第5代[[天皇]](* [[1359年]]) * [[12月4日]] - [[フリードリヒ (バイエルン公)|フリードリヒ]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]](* [[1339年]]) * [[シャー・マンスール]]、[[ムザッファル朝]]の最後の君主(* 生年未詳) * [[田原氏能]]、南北朝時代の武将(* 生年未詳) * [[藍玉 (明)|藍玉]]、[[明]]の将軍(* 生年未詳) * [[李芳雨]]、[[李氏朝鮮]]の初代国王[[李成桂|太祖]]の長男(* [[1354年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1393}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1393ねん}} [[Category:1393年|*]]
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日露戦争
日露戦争(にちろせんそう、旧字体: 日露戰爭/日魯戰爭、ロシア語: Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国(日本)と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされ、陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となったほか、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本は朝鮮半島における権益をロシアに認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得するに至った。しかし交渉の末、賠償金を獲得するには至らず戦後に外務省に対する不満が軍民などから高まった。 大日本帝国の動機 大日本帝国はロシア帝国の南下政策による勢力圏拡大を防ぎ朝鮮半島・満洲における利権を守ることで大日本帝国の安全保障や利益を確保し、進んでは満洲・樺太・沿海州等における日本の勢力拡大ないしロシア側からの利権奪取を主な目的とした。また、後の講和時の日本側代表による交渉姿勢や日本国民の反応からは、勝ち戦となった以上は賠償金取得を期待していたことが窺える。 開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、満州での勢力拡大により大韓帝国の保全が脅かされることが日本の安全保障上・極東平和への脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している。 朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。 此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。 ロシア帝国の動機 ロシア帝国は満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満洲還付条約不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配と日本による抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。 戦争の性格 日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。 ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は黄禍論者であったことからロシア寄りであったが、ロシアがドイツと対立を続けているフランスの同盟国ということもあり、国家としては具体的な行動は行っていない。後に皇帝同士で結んだ「ビヨルケの密約」は、戦争の勝敗が決定的になった後に結ばれている。 観戦武官 日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはダグラス・マッカーサーの父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。 観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく、東洋特有の事情として一蹴された。しかしやがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。 大韓帝国は清の冊封体制を日清戦争後日本によって解かれたが、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの財政基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増大し、着実に勢力拡大をしていった。ロシアの南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを大韓帝国の代わりに買い戻し、回復させた。 当初、日本は外交努力で衝突を回避しようと努力したが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、国の近代化・独自改革が困難であると主張する進歩会は、日韓合邦を目指すために鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。 一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は近代化の名目で彼らの利権をなくし、自国利権と支配力の強化を図る日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。 ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。 近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア・フランス・ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、東清鉄道を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し(旅順大連租借条約)、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満洲への進出を押し進めていった。 1900年(明治33年)、ロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾という論理を展開、満洲へ侵攻、全土を侵略した。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる。日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満洲から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになる。 同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた(龍岩浦事件)。 日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな憶測を報じたが、実質的な成果がないことに失望した。また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。 6月10日、戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出し(七博士建白事件)、6月24日にはその全文が新聞紙上に掲載された。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった。さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満洲撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。 1903年8月からの日露交渉において、「日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置く」という妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。 日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。 戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。 開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。アメリカでも同様であったが、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトと面識があった金子堅太郎は再度渡米して直接説明したほか、全米各地で講演を開き日本の立場を訴えた。また金子と伊沢修二は留学中にアレクサンダー・グラハム・ベルの元に出向いて電話の通話体験していたが、ベルも要人らに日本の実情を説明し募債に協力した。 是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長ユーウェン・キャメロン(英語版)はのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。 第1回は1904年5月2日に仮調印に漕ぎ着けた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど)も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。 終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった。 結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなった。 日本政府の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる。 大日本帝国 大日本帝国軍の戦闘序列。 ロシア帝国 モンテネグロ公国 大日本帝国海軍は1904年2月6日午後2時に佐世保港を出航し、3手に分かれてそれぞれ仁川、旅順、大連に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名・死者4名以上となった。 2月8日、大日本帝国陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。ロシア軍は104名が死傷した。 日本政府は2月10日にロシア政府への宣戦布告を行い、2月11日に大本営を設置、2月23日には大韓帝国との間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書を締結、3月15日に元老の松方正義、井上馨らが帝国軍人援護会を結成するなど準備を整えていった。 フランス軍に救出されたヴァリャーグの乗員24名を含め、負傷兵は仁川に臨時に設けられた仁川赤十字病院に送られた(ここには京城の漢城病院、仁川共立病院の医師や従軍看護婦が派遣された)。仁川の日本兵84名とロシア兵22名は3月3日から4日間かけて博愛丸に収容され、3月10日に門司港に到着し、さらに伊予・松山地域の赤十字臨時病院に移された。 外交交渉を一方的に打ち切り、宣戦布告前の攻撃に及んだことに対しロシア政府は日本政府へ抗議した。当時は「攻撃開始の前に宣戦布告しなければならない」という国際法上の規定はなかったが、「ハーグ陸戦条約の『武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力』規定に違反した」と主張した。 日本側は戦時の開始を2月6日とすることを決め、これが認められたために釜山沖での拿捕も承認された。 3月6日、上村彦之丞海軍中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「八雲」、「吾妻」、「磐手」、「浅間」、防護巡洋艦「笠置」、「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げた。ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。 連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。 一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。この時は上村彦之丞中将率いる第二艦隊が再びウラジオストク港を攻撃しようとしていた時であり、以降第三艦隊に代わり第二艦隊が一部を除いて対馬海峡警備に当たった。 黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日から5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。 旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団から構成される攻城軍を編成することを決定した。しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12日 - 13日に実施されたが失敗した。 ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。 6月20日現地総司令部として満洲軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。 これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊は旗艦と司令長官、巡洋艦と駆逐艦の過半を事実上失い、残った艦艇も大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する(常陸丸事件)など活発な通商破壊戦を続けていたが、旅順艦隊に呼応して出撃すると8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。 8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日 - 9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日 - 10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。 10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。しかし10月21日、北海ドッガーバンク海上で、日本海軍の船と誤認してイギリスのトロール船を攻撃したドッガーバンク事件が発生。元々日英同盟を結んでいた事に加え、トラファルガー海戦記念日当日に起こった出来事であった事から、英世論の激高を買った事はおろか、当時のイギリス国王エドワード7世をして「最も卑怯な暴行事件」と評させただけでなく、英国海軍艦艇28隻に補給地であるスペイン・ビーゴまで追跡される事となるなど、一触即発の事態に発展した。 第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら、港湾への大弧山からの観測射撃を8月 - 10月まで黄海海戦を挟んで実施し、旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。 第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。 この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼすべてを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引きこもっている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請する。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満洲軍 (日本軍)は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促した。 11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取りやめ、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月5日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領した。 これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などでほとんどの艦は船底を貫通されることはなく、ほとんどの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないようにすべて自沈させられた。 沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。 清は万国紅十字上海支会の救護班を満州南部に派遣して救護にあたった。日本軍負傷兵は、日本郵船の病院船である神戸丸で佐世保の佐世保海軍病院にも搬送された。旅順赤十字病院はロシアが1900年に設立したものだったが、日本がのちに旅順の租借権をロシアから引き継いだあとは日本赤十字社が運営した。 日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。 この結果を受けて、日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、まもなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方、両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。 バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に東郷平八郎率いる連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。ロシア側史料を紹介した稲葉千晴によると、海戦のロシア側死亡者4866名、負傷者799名に比して捕虜約6140名である。 これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。 また欧米各国における「ロシア有利」との予想を覆すだけでなく、バルチック艦隊の壊滅という予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の有色人種の民衆を熱狂させた。 米大統領セオドア・ルーズベルトは、日本海海戦の後に外務大臣小村寿太郎(第1次桂内閣)から要請を受け、1905年6月6日に日本・ロシア両国政府に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。 日本軍は和平交渉の進むなか、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。 ロシアでは、ロシア第一革命が起こり、ロシア国内は混乱状態になり、戦争の継続が困難となった。 日本も講和の提案を受け入れる形をとった。国民への増税や、動員兵力が109万人へ達したり、死傷者も27万人と国力の消耗が激しく戦争の継続は望むところでは無かった。 アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。日本はポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春〜大連の支線、朝鮮半島の監督権を得た。鉄道守備隊はのちに関東軍となった。10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し、軍政を敷いた。清国がこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対して英米が反発、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、関東総督府を関東都督府として改組した。1906年11月、民間企業で日本最大のコンツェルンとして南満洲鉄道株式会社を設立、以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった。 日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した。またアメリカとも桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認した。フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907年、日仏協約を締結。ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年日露協約(第二次日露協商)を締結し、日本が南満洲、ロシアが北満洲を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認した。日本は列強の承認の下、1910年に韓国併合にいたった。満洲は「10万の生霊と20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした。イギリスは、フランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立した。日米関係は満洲権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し悪化していたが、1907年の日米紳士協定、1908年の高平・ルート協定によって緊張を宥和させ、1911年の日米通商航海条約によって日本は関税自主権を獲得し、日本は従属的な立場を解消させた。 明治天皇は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下した。 日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により、相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保したうえ、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益を得ることとなった。 こうして、日本は国家として最大の目標は達成した。しかし国民にとっては、講和条約の内容は賠償金を取れないなど予想外に厳しい内容だった。これは、いかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利した日本も戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動からきているものである。例として、1905年9月1日、大阪朝日新聞は社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請ひ奉る」を掲載し、つづいて国民新聞を除く有力紙はこぞって条約反対の論説を展開した。このため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるまでに至って戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。 賠償金が取れなかったことから、日本はジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会に対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争でもっとも儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。 開戦前から財政難だった政府は、戦費調達のため非常特別税により課税強化や塩や煙草などの専売制を開始したが戦費をまかなえる額には及ばず、賠償金による補填もできず金利の支払いと併せて赤字となった。非常特別税は1906年12月31日に廃止される予定だったが、政府は1906年3月になると廃止規定を削除し恒久税とした。世論の反発を抑えるため後に減税などを行ったが、法令が廃止された1913年以降も一般の税制に組み込まれて継続することとなった。 当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、のちには「五大国」の一角をも占めることとなった。 この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった収容所が同戦争では最初に開設された収容所でありまた将校収容所として著名であったため、ロシア将兵側では降伏することを日本語で「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。7万人余りにふくれあがった捕虜を収容するため、日本国内の29か所に捕虜収容所が設置された。陸軍・海軍の別、将兵の別、捕獲戦闘の別により各地に分散して収容された。戦闘地域からは主に広島の似島、門司の大里で検疫を受け、上陸後列車や船で収容所に向かった。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している。(詳細は「捕虜」の日露戦争の捕虜を参照) 日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。なお、戦争中における日本軍の脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」や「海軍の状況」を参照のこと。 1907年9月21日、山縣有朋、伊藤博文、大山巌は公爵を授与された。元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱え、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案がまとめられた。しかし、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非をめぐって2個師団増設問題が発生することになった。 日露戦争の状況は映画として記録され、各地で上映されていた。1904年に仙台に留学中だった魯迅は、ロシアのスパイとして処刑される中国人を写した映画と聴衆の反応をきっかけに、医学から文学に転向した。 不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカン半島に向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの進出を要求するオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。 また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱などより始まるロシア第一革命が発生することになる。 日清戦争で勝利した日本が下関条約で自国の領土に割譲させた台湾において「日本統治下の台湾にロシアが侵攻してくる」という情報が広まると、日本政府は4月13日に沿岸部と澎湖の馬公島、5月13日に全島に戒厳令を発令した。 5月、台湾の通信士がロシア艦隊を発見し、日本海軍が対馬海峡でロシア艦隊を撃破するのに合わせて目撃情報を報告した。 同年7月7日に戒厳令が解除され、台湾は約2カ月間、史上初の戒厳令を経験することになった。 この間、縦貫鉄道の豊原28号水上間線の完成と開通を祝い、台中駅で中央鉄道の開通式が行われ、その後、日本の勝利により、全島が祝賀ムードに包まれた、台湾総督府は「日露戦争記念碑」を台湾苗栗市の虎頭山に建立した。 台湾では、1898年以降、国民学校が設立され、教育率が大幅に向上した。 こうした日本の教育を受けた台湾人は、次第に自らを日本人として認識し、日本が台湾人が強大だと考えていたロシアに勝つことができたことで、彼らの名誉意識は大きく向上した。 特に、歴代の台湾総督のうち、乃木希典(第3代、1896.10.-1898.2.)、児玉源太郎(第4代、1898.2.-1906.4.)、後に明石元二郎(第7代、1918.6.-1919.10)は日露戦争で重要な将官であり、児玉源太郎も前線指揮に当たるなどした。 ドイツ帝国は1902年に農工業保護政策として関税改革を実施したことで、ドイツに対する農産物輸出を産業としているロシア帝国、スイス、ルーマニア、オーストリア・ハンガリー帝国ほか欧州諸国との熾烈な通商交渉を展開していたが、日露戦争によりロシア国内情勢が緊迫化したことで、ロシアの妥協を得た。 イギリスは日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。 すでに締結されていた英仏協商とあわせて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうして、イギリスは仮想敵国を日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していく。 アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満洲でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフ商会であった。この協定は、小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。 ルーズベルト大統領は、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞した。また、ルーズベルトは新渡戸稲造の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。しかし、彼の対日感情はこの後から急速に悪化していく。 急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情にあわせて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の駐日アメリカ公使館などが襲撃の対象となった。これに対してアメリカの世論は憤慨し、黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。 これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた。 また、日本の勝利は、米国の白人至上主義と戦っていたアフリカ系アメリカ人の活動家たちに刺激を与え、アメリカの黒人社会において、日本への興味と称賛、連帯を促す言説が多く行われた。 日露戦争の戦場であった満洲は清朝の主権下にあった。満洲民族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルビンをはじめとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに、義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。 終戦後は、日本は当初唱えていた満洲における列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は、直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4,000人から1,783万6,000人まで増加している。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。 辛亥革命により1912年に宣統帝が退位し、袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任した。日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満洲国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満洲国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華民国から領土を奪い取った中華人民共和国がソ連から満洲を完全に返還されたのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。 孫文は、「今ではアジアに日本があることで、白人はアジア人を軽視できなくなってきた。アジア人全体の国際的地位が高くなった」と述べている。 開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していた。その後、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。 戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国はさまざまな権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合された。 モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満洲に派遣していた。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。のちに第一次世界大戦ではともに連合国として戦うことになったが、モンテネグロ王国はその最中セルビア王国によって併合された(ユーゴスラビア王国)。その後、第二次世界大戦においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、1952年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は日本国との平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された。 しかしその後、セルビア・モンテネグロ(旧名・ユーゴスラビア連邦共和国)からモンテネグロが独立する際にこの問題が取り上げられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦の継承国であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男衆議院議員は、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出した。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している。 2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は6月16日に独立を承認、山中燁子外務大臣政務官を総理特使として派遣した。UPI通信社は6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)。 なお、日英同盟の規定により、当時の日本が2か国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった。 当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者たちの回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気づけた」と記されるなど、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。 また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし1804年に独立したハイチはナポレオン率いるフランス軍を撃退して世界初の黒人共和国となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、来日していたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。 実際に、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会、オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモなどに影響を与えている。日露戦争研究で知られるイスラエルの歴史学者ロテム・コウナー(en:Rotem Kowner)は、「白人は打ち負かされうる存在であると思わせた日露戦争の結果はアジアにおけるすべての国民解放運動に影響を与えた」と述べている。 インドのネルーは、「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてそれがインドにできないといえようか」「だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドでは我々が長くとらわれていた劣等感を取り除いてくれた」「日本が大国ロシアを破った時、インド全国民は非常に刺激を受け、大英帝国をインドから放逐すべきだとして独立運動が全インドに広がった」「インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、アジアは遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救った」と述べている。チャンドラ・ボースは、来日の折「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大国のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると興奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりとなり、子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました」というメッセージを日本国民に送っている。 ビルマのバー・モウは、「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点であった」と回想しており、ウー・オッタマ(英語版)は、『日本』なる著書を刊行し、「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからだ。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外にない」と述べている。 フィリピンでは、アメリカからの独立を目指す革命軍総司令官リカルテから一般庶民に至るまで、日露戦争を独立の好機と捉え、日本海海戦での日本の勝報に接するや、民衆はそれを祝福する挨拶を交し合い、マニラでは旗行列まで行われた。 アゼルバイジャンの思想家・ターレボフは、『人生の諸問題』において、「日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。もし王たちが狩猟や黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになる」と記して、大日本帝国憲法も掲載した。また、日本との同盟や日本軍将校の招聘を求める声も上がっていた。 イランの詩人、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィーは、明治天皇を称える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を出版し、叙事詩の形で明治天皇の即位から明治維新、近代改革、日清戦争、三国干渉、そして日露戦争までを語っており、立憲体制下の日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美した。 イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈したガージャール朝における革新的な運動が台頭するが、こうした運動が台頭したのは、日本がロシアに勝利を収めたことが関連しており、日本がロシアに勝利を収めたという事実は、多くのイラン人に変革への欲求をもたらした。日本の勝利の原因についてイラン人が考えたことは、立憲国家(日本)の非立憲国家(ロシア)に対する勝利であり、憲法こそが日本の勝利の秘訣という結論に至り、憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「カーヌーン(憲法)、カーヌーン」と叫んで憲法を要求し、イラン立憲革命の運動へと広がった。 ペルシアの雑誌『ハブラル・マタン』(1912年8月)は、明治天皇の崩御を受けて、「日本先帝陛下はロシアを撃破した後、アジア全般に立憲思想を普及させた。日本の立憲政体に倣った最初の帝国はペルシャであり、それにトルコ、最後に清国がつづいた。そもそもこの三帝国は終始ロシアの圧迫、威嚇を受け、専制君主国であるロシアに配慮して立憲は不可能だった。それゆえに日本先帝陛下は全アジアに対する解放の神であり、アジアの真の仁恵者であると明言することができる」という論説を掲載した。 トルコでは、日露戦争中、上は皇帝から下は庶民まで、日本に声援を送り、赤十字社や新聞社を通じ、日本に寄付金を送るものも多く、ハリデ・エディプ・アドゥヴァルは、東郷大将にちなみ、次男をハサン・ヒクメトッラー・トーゴーと名付けるなど、トルコでは日露戦争で活躍した東郷将軍や乃木将軍の名前が、人名や通りの名前に付けられており、現在でもイスタンブールには「トーゴー通り」「ノギ通り」がある。 エジプトの政治家・ムスタファー・カーミル(英語版)は、「日本人こそ、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」といい、『昇る太陽』という日本紹介書を著した。「昇る太陽」という表現にはエジプト独立への期待や希望が込められており、イギリスからのエジプトの完全独立を達成するために日本から教訓を得ようという考えのもと、明治の日本の発展の秘談が日本人の愛国心と、それを支える教育、政治、経済などの諸制度にあると主張した。また、詩人のハーフィズ・イブラヒム(英語版)は「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いに身を挺し、傷病兵に尽くすはわが務め」と、日本の従軍看護婦を称える「日本の乙女」という詩を作った。 なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール(Amiraali Olut)」のうちのひとつにすぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも山本五十六、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。 日本がロシア皇帝ニコライ2世に対し宣戦布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃したことから、1907年の万国平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行われた。日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した(日本における効力発生は1912年)。 満洲へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係は敵対関係から大きく転換してほとんど同盟状態に近いものとなった。しかし、ロシア革命の勃発とその後のソビエト連邦の成立によってこの関係は崩壊することになる。 1906年4月29日に特殊切手として、1銭5厘、3銭の切手が発行された。 「Category:日露戦争を題材とした作品」も参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日露戦争(にちろせんそう、旧字体: 日露戰爭/日魯戰爭、ロシア語: Русско-японская война〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国(日本)と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされ、陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となったほか、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "講和条約の中で日本は朝鮮半島における権益をロシアに認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得するに至った。しかし交渉の末、賠償金を獲得するには至らず戦後に外務省に対する不満が軍民などから高まった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大日本帝国の動機", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大日本帝国はロシア帝国の南下政策による勢力圏拡大を防ぎ朝鮮半島・満洲における利権を守ることで大日本帝国の安全保障や利益を確保し、進んでは満洲・樺太・沿海州等における日本の勢力拡大ないしロシア側からの利権奪取を主な目的とした。また、後の講和時の日本側代表による交渉姿勢や日本国民の反応からは、勝ち戦となった以上は賠償金取得を期待していたことが窺える。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、満州での勢力拡大により大韓帝国の保全が脅かされることが日本の安全保障上・極東平和への脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ロシア帝国の動機", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ロシア帝国は満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満洲還付条約不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配と日本による抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "戦争の性格", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。", "title": "戦争目的と動機" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は黄禍論者であったことからロシア寄りであったが、ロシアがドイツと対立を続けているフランスの同盟国ということもあり、国家としては具体的な行動は行っていない。後に皇帝同士で結んだ「ビヨルケの密約」は、戦争の勝敗が決定的になった後に結ばれている。", "title": "関与国・勢力" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "観戦武官", "title": "関与国・勢力" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデン(英語版)をはじめ33名を数えた。アメリカからはダグラス・マッカーサーの父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。", "title": "関与国・勢力" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく、東洋特有の事情として一蹴された。しかしやがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。", "title": "関与国・勢力" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大韓帝国は清の冊封体制を日清戦争後日本によって解かれたが、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの財政基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増大し、着実に勢力拡大をしていった。ロシアの南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを大韓帝国の代わりに買い戻し、回復させた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初、日本は外交努力で衝突を回避しようと努力したが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、国の近代化・独自改革が困難であると主張する進歩会は、日韓合邦を目指すために鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は近代化の名目で彼らの利権をなくし、自国利権と支配力の強化を図る日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア・フランス・ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、東清鉄道を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し(旅順大連租借条約)、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満洲への進出を押し進めていった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)、ロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾という論理を展開、満洲へ侵攻、全土を侵略した。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる。日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満洲から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになる。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた(龍岩浦事件)。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな憶測を報じたが、実質的な成果がないことに失望した。また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "6月10日、戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出し(七博士建白事件)、6月24日にはその全文が新聞紙上に掲載された。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった。さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満洲撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1903年8月からの日露交渉において、「日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置く」という妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。アメリカでも同様であったが、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトと面識があった金子堅太郎は再度渡米して直接説明したほか、全米各地で講演を開き日本の立場を訴えた。また金子と伊沢修二は留学中にアレクサンダー・グラハム・ベルの元に出向いて電話の通話体験していたが、ベルも要人らに日本の実情を説明し募債に協力した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長ユーウェン・キャメロン(英語版)はのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第1回は1904年5月2日に仮調印に漕ぎ着けた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど)も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本政府の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "大日本帝国 大日本帝国軍の戦闘序列。", "title": "戦闘序列" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ロシア帝国 モンテネグロ公国", "title": "戦闘序列" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大日本帝国海軍は1904年2月6日午後2時に佐世保港を出航し、3手に分かれてそれぞれ仁川、旅順、大連に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名・死者4名以上となった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2月8日、大日本帝国陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。ロシア軍は104名が死傷した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本政府は2月10日にロシア政府への宣戦布告を行い、2月11日に大本営を設置、2月23日には大韓帝国との間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書を締結、3月15日に元老の松方正義、井上馨らが帝国軍人援護会を結成するなど準備を整えていった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "フランス軍に救出されたヴァリャーグの乗員24名を含め、負傷兵は仁川に臨時に設けられた仁川赤十字病院に送られた(ここには京城の漢城病院、仁川共立病院の医師や従軍看護婦が派遣された)。仁川の日本兵84名とロシア兵22名は3月3日から4日間かけて博愛丸に収容され、3月10日に門司港に到着し、さらに伊予・松山地域の赤十字臨時病院に移された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "外交交渉を一方的に打ち切り、宣戦布告前の攻撃に及んだことに対しロシア政府は日本政府へ抗議した。当時は「攻撃開始の前に宣戦布告しなければならない」という国際法上の規定はなかったが、「ハーグ陸戦条約の『武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力』規定に違反した」と主張した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本側は戦時の開始を2月6日とすることを決め、これが認められたために釜山沖での拿捕も承認された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "3月6日、上村彦之丞海軍中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「八雲」、「吾妻」、「磐手」、「浅間」、防護巡洋艦「笠置」、「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げた。ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。この時は上村彦之丞中将率いる第二艦隊が再びウラジオストク港を攻撃しようとしていた時であり、以降第三艦隊に代わり第二艦隊が一部を除いて対馬海峡警備に当たった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日から5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団から構成される攻城軍を編成することを決定した。しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12日 - 13日に実施されたが失敗した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "6月20日現地総司令部として満洲軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊は旗艦と司令長官、巡洋艦と駆逐艦の過半を事実上失い、残った艦艇も大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する(常陸丸事件)など活発な通商破壊戦を続けていたが、旅順艦隊に呼応して出撃すると8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日 - 9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日 - 10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。しかし10月21日、北海ドッガーバンク海上で、日本海軍の船と誤認してイギリスのトロール船を攻撃したドッガーバンク事件が発生。元々日英同盟を結んでいた事に加え、トラファルガー海戦記念日当日に起こった出来事であった事から、英世論の激高を買った事はおろか、当時のイギリス国王エドワード7世をして「最も卑怯な暴行事件」と評させただけでなく、英国海軍艦艇28隻に補給地であるスペイン・ビーゴまで追跡される事となるなど、一触即発の事態に発展した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら、港湾への大弧山からの観測射撃を8月 - 10月まで黄海海戦を挟んで実施し、旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼすべてを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引きこもっている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請する。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満洲軍 (日本軍)は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取りやめ、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月5日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などでほとんどの艦は船底を貫通されることはなく、ほとんどの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないようにすべて自沈させられた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "清は万国紅十字上海支会の救護班を満州南部に派遣して救護にあたった。日本軍負傷兵は、日本郵船の病院船である神戸丸で佐世保の佐世保海軍病院にも搬送された。旅順赤十字病院はロシアが1900年に設立したものだったが、日本がのちに旅順の租借権をロシアから引き継いだあとは日本赤十字社が運営した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "この結果を受けて、日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、まもなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方、両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "バルチック艦隊は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に東郷平八郎率いる連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。ロシア側史料を紹介した稲葉千晴によると、海戦のロシア側死亡者4866名、負傷者799名に比して捕虜約6140名である。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また欧米各国における「ロシア有利」との予想を覆すだけでなく、バルチック艦隊の壊滅という予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の有色人種の民衆を熱狂させた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "米大統領セオドア・ルーズベルトは、日本海海戦の後に外務大臣小村寿太郎(第1次桂内閣)から要請を受け、1905年6月6日に日本・ロシア両国政府に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本軍は和平交渉の進むなか、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ロシアでは、ロシア第一革命が起こり、ロシア国内は混乱状態になり、戦争の継続が困難となった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "日本も講和の提案を受け入れる形をとった。国民への増税や、動員兵力が109万人へ達したり、死傷者も27万人と国力の消耗が激しく戦争の継続は望むところでは無かった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。日本はポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春〜大連の支線、朝鮮半島の監督権を得た。鉄道守備隊はのちに関東軍となった。10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し、軍政を敷いた。清国がこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対して英米が反発、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、関東総督府を関東都督府として改組した。1906年11月、民間企業で日本最大のコンツェルンとして南満洲鉄道株式会社を設立、以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した。またアメリカとも桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認した。フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907年、日仏協約を締結。ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年日露協約(第二次日露協商)を締結し、日本が南満洲、ロシアが北満洲を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認した。日本は列強の承認の下、1910年に韓国併合にいたった。満洲は「10万の生霊と20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした。イギリスは、フランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立した。日米関係は満洲権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し悪化していたが、1907年の日米紳士協定、1908年の高平・ルート協定によって緊張を宥和させ、1911年の日米通商航海条約によって日本は関税自主権を獲得し、日本は従属的な立場を解消させた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "明治天皇は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により、相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保したうえ、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益を得ることとなった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "こうして、日本は国家として最大の目標は達成した。しかし国民にとっては、講和条約の内容は賠償金を取れないなど予想外に厳しい内容だった。これは、いかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利した日本も戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動からきているものである。例として、1905年9月1日、大阪朝日新聞は社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請ひ奉る」を掲載し、つづいて国民新聞を除く有力紙はこぞって条約反対の論説を展開した。このため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるまでに至って戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "賠償金が取れなかったことから、日本はジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会に対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争でもっとも儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "開戦前から財政難だった政府は、戦費調達のため非常特別税により課税強化や塩や煙草などの専売制を開始したが戦費をまかなえる額には及ばず、賠償金による補填もできず金利の支払いと併せて赤字となった。非常特別税は1906年12月31日に廃止される予定だったが、政府は1906年3月になると廃止規定を削除し恒久税とした。世論の反発を抑えるため後に減税などを行ったが、法令が廃止された1913年以降も一般の税制に組み込まれて継続することとなった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、のちには「五大国」の一角をも占めることとなった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった収容所が同戦争では最初に開設された収容所でありまた将校収容所として著名であったため、ロシア将兵側では降伏することを日本語で「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。7万人余りにふくれあがった捕虜を収容するため、日本国内の29か所に捕虜収容所が設置された。陸軍・海軍の別、将兵の別、捕獲戦闘の別により各地に分散して収容された。戦闘地域からは主に広島の似島、門司の大里で検疫を受け、上陸後列車や船で収容所に向かった。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している。(詳細は「捕虜」の日露戦争の捕虜を参照)", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。なお、戦争中における日本軍の脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」や「海軍の状況」を参照のこと。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1907年9月21日、山縣有朋、伊藤博文、大山巌は公爵を授与された。元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱え、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案がまとめられた。しかし、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非をめぐって2個師団増設問題が発生することになった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "日露戦争の状況は映画として記録され、各地で上映されていた。1904年に仙台に留学中だった魯迅は、ロシアのスパイとして処刑される中国人を写した映画と聴衆の反応をきっかけに、医学から文学に転向した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカン半島に向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの進出を要求するオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱などより始まるロシア第一革命が発生することになる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日清戦争で勝利した日本が下関条約で自国の領土に割譲させた台湾において「日本統治下の台湾にロシアが侵攻してくる」という情報が広まると、日本政府は4月13日に沿岸部と澎湖の馬公島、5月13日に全島に戒厳令を発令した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "5月、台湾の通信士がロシア艦隊を発見し、日本海軍が対馬海峡でロシア艦隊を撃破するのに合わせて目撃情報を報告した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "同年7月7日に戒厳令が解除され、台湾は約2カ月間、史上初の戒厳令を経験することになった。 この間、縦貫鉄道の豊原28号水上間線の完成と開通を祝い、台中駅で中央鉄道の開通式が行われ、その後、日本の勝利により、全島が祝賀ムードに包まれた、台湾総督府は「日露戦争記念碑」を台湾苗栗市の虎頭山に建立した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "台湾では、1898年以降、国民学校が設立され、教育率が大幅に向上した。 こうした日本の教育を受けた台湾人は、次第に自らを日本人として認識し、日本が台湾人が強大だと考えていたロシアに勝つことができたことで、彼らの名誉意識は大きく向上した。 特に、歴代の台湾総督のうち、乃木希典(第3代、1896.10.-1898.2.)、児玉源太郎(第4代、1898.2.-1906.4.)、後に明石元二郎(第7代、1918.6.-1919.10)は日露戦争で重要な将官であり、児玉源太郎も前線指揮に当たるなどした。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ドイツ帝国は1902年に農工業保護政策として関税改革を実施したことで、ドイツに対する農産物輸出を産業としているロシア帝国、スイス、ルーマニア、オーストリア・ハンガリー帝国ほか欧州諸国との熾烈な通商交渉を展開していたが、日露戦争によりロシア国内情勢が緊迫化したことで、ロシアの妥協を得た。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "イギリスは日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "すでに締結されていた英仏協商とあわせて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうして、イギリスは仮想敵国を日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していく。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満洲でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフ商会であった。この協定は、小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ルーズベルト大統領は、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞した。また、ルーズベルトは新渡戸稲造の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。しかし、彼の対日感情はこの後から急速に悪化していく。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情にあわせて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の駐日アメリカ公使館などが襲撃の対象となった。これに対してアメリカの世論は憤慨し、黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "また、日本の勝利は、米国の白人至上主義と戦っていたアフリカ系アメリカ人の活動家たちに刺激を与え、アメリカの黒人社会において、日本への興味と称賛、連帯を促す言説が多く行われた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日露戦争の戦場であった満洲は清朝の主権下にあった。満洲民族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルビンをはじめとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに、義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "終戦後は、日本は当初唱えていた満洲における列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は、直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4,000人から1,783万6,000人まで増加している。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "辛亥革命により1912年に宣統帝が退位し、袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任した。日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満洲国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満洲国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華民国から領土を奪い取った中華人民共和国がソ連から満洲を完全に返還されたのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "孫文は、「今ではアジアに日本があることで、白人はアジア人を軽視できなくなってきた。アジア人全体の国際的地位が高くなった」と述べている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していた。その後、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国はさまざまな権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満洲に派遣していた。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。のちに第一次世界大戦ではともに連合国として戦うことになったが、モンテネグロ王国はその最中セルビア王国によって併合された(ユーゴスラビア王国)。その後、第二次世界大戦においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、1952年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は日本国との平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "しかしその後、セルビア・モンテネグロ(旧名・ユーゴスラビア連邦共和国)からモンテネグロが独立する際にこの問題が取り上げられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦の継承国であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男衆議院議員は、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出した。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は6月16日に独立を承認、山中燁子外務大臣政務官を総理特使として派遣した。UPI通信社は6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "なお、日英同盟の規定により、当時の日本が2か国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者たちの回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気づけた」と記されるなど、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし1804年に独立したハイチはナポレオン率いるフランス軍を撃退して世界初の黒人共和国となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、来日していたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "実際に、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会、オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモなどに影響を与えている。日露戦争研究で知られるイスラエルの歴史学者ロテム・コウナー(en:Rotem Kowner)は、「白人は打ち負かされうる存在であると思わせた日露戦争の結果はアジアにおけるすべての国民解放運動に影響を与えた」と述べている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "インドのネルーは、「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてそれがインドにできないといえようか」「だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドでは我々が長くとらわれていた劣等感を取り除いてくれた」「日本が大国ロシアを破った時、インド全国民は非常に刺激を受け、大英帝国をインドから放逐すべきだとして独立運動が全インドに広がった」「インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、アジアは遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救った」と述べている。チャンドラ・ボースは、来日の折「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大国のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると興奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりとなり、子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました」というメッセージを日本国民に送っている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ビルマのバー・モウは、「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点であった」と回想しており、ウー・オッタマ(英語版)は、『日本』なる著書を刊行し、「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからだ。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外にない」と述べている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "フィリピンでは、アメリカからの独立を目指す革命軍総司令官リカルテから一般庶民に至るまで、日露戦争を独立の好機と捉え、日本海海戦での日本の勝報に接するや、民衆はそれを祝福する挨拶を交し合い、マニラでは旗行列まで行われた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "アゼルバイジャンの思想家・ターレボフは、『人生の諸問題』において、「日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。もし王たちが狩猟や黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになる」と記して、大日本帝国憲法も掲載した。また、日本との同盟や日本軍将校の招聘を求める声も上がっていた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "イランの詩人、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィーは、明治天皇を称える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を出版し、叙事詩の形で明治天皇の即位から明治維新、近代改革、日清戦争、三国干渉、そして日露戦争までを語っており、立憲体制下の日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈したガージャール朝における革新的な運動が台頭するが、こうした運動が台頭したのは、日本がロシアに勝利を収めたことが関連しており、日本がロシアに勝利を収めたという事実は、多くのイラン人に変革への欲求をもたらした。日本の勝利の原因についてイラン人が考えたことは、立憲国家(日本)の非立憲国家(ロシア)に対する勝利であり、憲法こそが日本の勝利の秘訣という結論に至り、憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「カーヌーン(憲法)、カーヌーン」と叫んで憲法を要求し、イラン立憲革命の運動へと広がった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "ペルシアの雑誌『ハブラル・マタン』(1912年8月)は、明治天皇の崩御を受けて、「日本先帝陛下はロシアを撃破した後、アジア全般に立憲思想を普及させた。日本の立憲政体に倣った最初の帝国はペルシャであり、それにトルコ、最後に清国がつづいた。そもそもこの三帝国は終始ロシアの圧迫、威嚇を受け、専制君主国であるロシアに配慮して立憲は不可能だった。それゆえに日本先帝陛下は全アジアに対する解放の神であり、アジアの真の仁恵者であると明言することができる」という論説を掲載した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "トルコでは、日露戦争中、上は皇帝から下は庶民まで、日本に声援を送り、赤十字社や新聞社を通じ、日本に寄付金を送るものも多く、ハリデ・エディプ・アドゥヴァルは、東郷大将にちなみ、次男をハサン・ヒクメトッラー・トーゴーと名付けるなど、トルコでは日露戦争で活躍した東郷将軍や乃木将軍の名前が、人名や通りの名前に付けられており、現在でもイスタンブールには「トーゴー通り」「ノギ通り」がある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "エジプトの政治家・ムスタファー・カーミル(英語版)は、「日本人こそ、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」といい、『昇る太陽』という日本紹介書を著した。「昇る太陽」という表現にはエジプト独立への期待や希望が込められており、イギリスからのエジプトの完全独立を達成するために日本から教訓を得ようという考えのもと、明治の日本の発展の秘談が日本人の愛国心と、それを支える教育、政治、経済などの諸制度にあると主張した。また、詩人のハーフィズ・イブラヒム(英語版)は「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いに身を挺し、傷病兵に尽くすはわが務め」と、日本の従軍看護婦を称える「日本の乙女」という詩を作った。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール(Amiraali Olut)」のうちのひとつにすぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも山本五十六、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "日本がロシア皇帝ニコライ2世に対し宣戦布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃したことから、1907年の万国平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行われた。日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した(日本における効力発生は1912年)。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "満洲へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係は敵対関係から大きく転換してほとんど同盟状態に近いものとなった。しかし、ロシア革命の勃発とその後のソビエト連邦の成立によってこの関係は崩壊することになる。", "title": "その後の日露関係" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "1906年4月29日に特殊切手として、1銭5厘、3銭の切手が発行された。", "title": "発行物" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "「Category:日露戦争を題材とした作品」も参照。", "title": "日露戦争を題材とした作品" } ]
日露戦争は、1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国(日本)と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされ、陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となったほか、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本は朝鮮半島における権益をロシアに認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得するに至った。しかし交渉の末、賠償金を獲得するには至らず戦後に外務省に対する不満が軍民などから高まった。
{{Battlebox |battle_name = 日露戦争 |campaign = 日露戦争 |colour_scheme = background:#ffccaa |image = [[画像:RUSSOJAPANESEWARIMAGE.jpg|300px]] |caption =上から時計回りに[[旅順]]で砲撃される[[パルラーダ (防護巡洋艦)|巡洋艦パルラダ]]、[[瀋陽市|奉天]]でのロシア軍騎兵、ケムルポ湾での[[ヴァリャーグ (防護巡洋艦)|巡洋艦ヴァリャーグ]]と[[コレーエツ (航洋砲艦・初代)|砲艦コレーツ]]、[[旅順]]での日本軍戦死者、[[鴨緑江]]を渡る日本軍歩兵。 |conflict = 明治三十七八年戦役 日露戦争 |date = [[1904年]][[2月6日]] - [[1905年]][[9月5日]] |place = [[満洲]]南部{{efn|[[露清密約]](特に1900年締結第二次露清密約)により、ロシア帝国の事実上の植民地状態にあった。}}、[[遼東半島]]、[[黄海]]、[[日本海]] |result = [[日本]]の勝利、[[ポーツマス条約]]締結。[[朝鮮半島]]からロシアの影響力を排除 |combatant1 = {{JPN1889}} |combatant2 = {{RUS1883}} |commander1 = {{flagicon image|Flag of the Japanese Emperor.svg}} [[明治天皇]] *[[桂太郎]] {{flagicon image|War flag of the Imperial Japanese Army.svg}} [[大山巌]] *[[児玉源太郎]] *[[黒木為楨]] *[[奥保鞏]] *[[乃木希典]] *[[野津道貫]] *[[川村景明]] {{flagicon image|Naval Ensign of Japan.svg}} [[東郷平八郎]] *[[島村速雄]] *[[上村彦之丞]] *[[片岡七郎]] |commander2 = {{flagicon image|Imperial Standard of the Emperor of Russia (1858–1917).svg}} [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]] {{Flagicon|RUS1883}} [[アレクセイ・クロパトキン]] *{{Flagicon|RUS1883}} [[ニコライ・リネウィッチ]] *{{Flagicon|RUS1883}} [[アレクサンドル・カウリバルス]] *{{Flagicon|RUS1883}} [[アレクサンドル・ビルデルリング]] *{{Flagicon|RUS1883}} [[オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク]] *{{Flagicon|RUS1883}} [[ロマン・コンドラチェンコ]]{{KIA}} *{{Flagicon|RUS1883}} [[アナトーリイ・ステッセリ]] {{flagicon image|Naval Ensign of Russia.svg}} [[ステパン・マカロフ]]{{KIA}}<br /> {{flagicon image|Naval Ensign of Russia.svg}} [[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]<br /> {{flagicon image|Naval Ensign of Russia.svg}} [[エヴゲーニイ・アレクセーエフ]] |strength1 = 108万人(うち49万人が戦地勤務)<ref>瀬戸利春著『「日露激突」奉天大会戦』31項</ref> |strength2 = 136万5000人<ref> куки Wikimedia FoundationPowered by MediaWiki Mitchell, T.J.; Smith, G.M. Casualties and Medical Statistics of the Great War (англ.). — London: HMSO, 1931. — P. 6. </ref> |casualties1 = 戦没8万8,429人, うち戦死戦傷死は 5万5,655人{{efn|靖国神社資料、靖国神社戦争別合祀者数による。日本長期統計総覧によれば死没8万4,435人<ref name="帝国書院04">{{Cite web|和書|publisher=帝国書院 |url=http://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index04.html |accessdate=2018-10-14 |title=帝国書院|統計資料 歴史統計 戦争別死傷者数}}</ref>、戦死戦病死は「日清戦争ヨリ満洲事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失」によれば55,655人<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jacar.go.jp/nichiro/keyword06.htm |title=テーマで見る日露戦争 VI 統計 |publisher=国立公文書館 アジア歴史資料センター |accessdate=2018-10-14}}</ref>。}}<br />病死2万7,192人<br />負傷者15万3,584人<ref name="帝国書院04" /><br />捕虜1,800人<ref name="jiji121126">{{Cite news |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2012112600446 |title=時事ドットコム:日露戦争のロシア将兵捕虜 |date=2012-11-26 |archiveurl=https://archive.is/Jzl5s |archivedate=2013-04-26 |archiveservice=archive.today |deadlinkdate=2018-10-14}}</ref> | casualties2 = 戦没8万1210人、 うち戦死戦傷死は 5万2,623人<br />病死2万人<br />負傷14万6,032人<br /><ref name=DumasV-P23>{{cite book |last1=Dumas |first1=S. |last2=Vedel-Petersen |first2=K.O. |year=1923 |title=Losses of Life Caused By War |location=Oxford |publisher=Clarendon Press |pp=57-9 |url=https://archive.org/details/lossesoflifecaus00samu}}</ref><br />捕虜7万9,000人<ref name="jiji121126" />。 }} '''日露戦争'''(にちろせんそう、{{旧字体|'''日露戰爭'''/'''日魯戰爭'''}}、{{lang-ru|Русско-японская война}}〈ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー〉)は、[[1904年]]([[明治]]37年)[[2月]]{{efn|戦時が[[2月6日|6日]]、直接戦闘が[[2月8日|8日]]に始まり、宣戦布告が[[2月10日|10日]]であり、どの日を戦争開始とするかは資料により異なる。}}から[[1905年]](明治38年)[[9月]]にかけて[[大日本帝国]]([[日本]])と[[南下政策]]を行う[[ロシア帝国]]との間で行われた戦争である。[[三国干渉]]後、[[満洲]]([[中国東北部]])と[[朝鮮半島]]の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされ<ref>{{Cite web|和書|title=日露戦争(にちろせんそう)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89-109776 |website=コトバンク |access-date=2023-08-27 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,防府市歴史用語集,世界大百科事典 第2版,山川 世界史小辞典 改訂新版,山川 日本史小辞典 |last=改訂新版,世界大百科事典内言及}}</ref>、陸戦では満洲南部の[[遼東半島]]や[[奉天]]が主な戦場となったほか、海戦では[[日本海|日本近海]]にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国は[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]の斡旋の下で、[[平和条約|講和条約]]として[[ポーツマス条約]]を締結した。 講和条約の中で日本は[[朝鮮半島]]における権益をロシアに認めさせ、ロシア領であった[[樺太]]の南半分を割譲させ、またロシアが[[清国]]から受領していた[[大連市|大連]]と[[旅順港|旅順]]の[[租借権]]を獲得した。同様に[[東清鉄道]]の[[旅順]] - [[長春]]間支線の租借権も獲得するに至った。しかし交渉の末、賠償金を獲得するには至らず戦後に[[外務省]]に対する不満が軍民などから高まった。 == 戦争目的と動機 == [[画像:Battlefields in the Russo Japanese War.jpg|thumb|戦場全域の俯瞰図|代替文=]] '''大日本帝国の動機''' 大日本帝国{{efn|公文書において対外的には 大日本国 日本帝国 あるいは単に帝国と表記された。}}はロシア帝国の南下政策による勢力圏拡大を防ぎ朝鮮半島・満洲における利権を守ることで大日本帝国の[[安全保障]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume031.html NHK高校日本史・日清戦争 〜中国観の変化〜]</ref>や利益を確保し、進んでは満洲・樺太・沿海州等における日本の勢力拡大ないしロシア側からの利権奪取を主な目的とした<ref>{{Cite web |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2017 |title=日露戦争|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典|ジャパンナレッジ |access-date=2023-12-17 |publisher=ネットアドバンス}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://rekishiclub.jp/nichiro-sensou/ |title=日露戦争とは何か?発生の目的・その後の影響をわかりやすく解説しました |access-date=2023-12-17 |publisher=勝田健太郎 |website=東京歴史倶楽部}}</ref>。また、後の講和時の日本側代表による交渉姿勢<ref>{{Cite journal|和書|author=内山正熊 |date=1979-12 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-19791215-0033 |title=ポーツマス条約成立秘史 |journal=法學研究 : 法律・政治・社会 |ISSN=0389-0538 |publisher=慶應義塾大学法学研究会 |volume=52 |issue=12 |pages=33-57 |CRID=1050845763886312832 |access-date=2023-12-27}}</ref>や日本国民の反応<ref>{{Cite web |url=https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p09.html |title=知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 {{!}} ポーツマス講和会議 ~小村寿太郎と交渉の「舞台裏」~ |access-date=2023-12-17 |publisher=アジア歴史資料センター}}</ref>からは、勝ち戦となった以上は賠償金取得を期待していたことが窺える。 開戦後に[[明治天皇]]の名により公布された『[[s:露国ニ対スル宣戦ノ詔勅|露国ニ対スル宣戦ノ詔勅]]』では、満州での勢力拡大により[[大韓帝国]]の保全が脅かされることが日本の安全保障上・極東平和への脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは[[信教の自由]]を強調し開戦の不幸を強調している<ref>[[#ito|伊藤]]、p.p.150。原文は旧表記。</ref>。{{quotation| 朕先に、[[大日本帝国憲法|憲法]]の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。 }} {{quotation| 此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。 }} '''ロシア帝国の動機''' ロシア帝国は満洲および[[関東州]]の[[租借]]権・鉄道敷設権などの[[利権]]の確保、[[露清密約|満洲還付条約]]不履行の維持(満洲に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における半島支配と日本による抵抗の排除、直接的には日本側からの[[攻撃 (軍事)|攻撃]]と[[宣戦布告]]を戦争理由とした。 '''戦争の性格''' 日露戦争は20世紀初の近代[[総力戦]]の要素を含んでおり、また2国間のみならず[[帝国主義]](宗主国)各国の[[外交]]関係が関与したグローバルな規模をもっていた。 == 関与国・勢力 == {|class="wikitable" style=font-size:small ! !style="text-align:center;width:45%"|日本側 !style="text-align:center;width:45%""|ロシア側 |- !戦争参加国・勢力 |valign=top| {{JPN1889}} |valign=top| {{Flagicon|RUS1883}} [[ロシア帝国]]<br /> [[画像:Flag of Montenegro (people's flag until 1905 Constitution).svg|border|25x20px|モンテネグロの旗]] [[モンテネグロ公国]](ただし[[宣戦布告]]はしたが、戦闘には参加せず) |- !支持勢力 |valign=top| |valign=top| [[画像:Flag of Korea 1882.svg|border|20x18px|大韓帝国の旗]] 大韓帝国([[高宗 (朝鮮王)|高宗]]をはじめとする支配者階級(王族と両班)とロシア利権を持つ親露派) |- !同盟国・支援国 |valign="top"| {{Flagicon|GBR}} [[イギリス帝国]]([[日英同盟]])<br />[[画像:Flag of Korea 1882.svg|border|20x18px|大韓帝国の旗]] [[大韓帝国]]([[日韓議定書]])<br />[[画像:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|27x23px|清の旗]] [[大清帝国]]<br />(厳正中立を宣言していたが、ロシアの事実上の植民地となっている[[東三省]]を回復すべく暗に協力したとの説あり<ref>{{cite web |language = 簡体中文 |publisher = 環球網>歴史頻道>中国史>正文 |title = 日俄戦争時清政府中立:“聯日拒俄” |url = http://history.huanqiu.com/china/2015-01/5506944.html |author = 《北京日報》;記者:董少東;責任編輯:王敏 |date = 2015-01-26 |accessdate = 2015-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170803212534/http://history.huanqiu.com/china/2015-01/5506944.html |archivedate=2015-09-23 |archiveservice=Wayback Machine |deadlinkdate=2018-10-14 }}</ref><ref>{{cite web |language = 簡体中文 |publisher = 《老年生活報》電子版>第05版 歴史透視 |title = 日俄戦争中清廷為何暗助日本 |url = http://epaper.qingdaonews.com/html/lnshb/20111014/lnshb323753.html |author = 《老年生活報》電子版 |date = 2011-10-14 |accessdate = 2011-10-14 }}</ref>。[[袁世凱]]は配下の[[北洋軍閥]]を用いて諜報や[[馬賊]]隊編成などで日本に協力、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣) |valign="top"| {{FRA}}([[露仏同盟]])<br />[[画像:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|border|27x23px|清の旗]] [[大清帝国]]([[露清密約]]、開戦後同年5月18日に破棄。[[張作霖]]など一部の馬賊は協力) |} [[ドイツ帝国]][[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は[[黄禍論]]者であったことからロシア寄りであったが、ロシアがドイツと対立を続けているフランスの同盟国ということもあり、国家としては具体的な行動は行っていない。後に皇帝同士で結んだ「ビヨルケの密約」は、戦争の勝敗が決定的になった後に結ばれている。 '''観戦武官''' [[画像:General Kuroki and his Staffs, Foreign Officiers and Correspondents.jpg|thumb|第一軍司令部と観戦武官|代替文=]] 日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの[[観戦武官]]が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍は[[イギリス帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]、[[スペイン]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[スイス]]、[[スウェーデン=ノルウェー|スウェーデン]]、[[ブラジル]]、[[チリ]]、[[アルゼンチン]]、[[オスマン帝国|オスマン=トルコ]]であった。同盟国であるイギリスからが最多で、{{仮リンク|エイルマー・ホールデン|en|Aylmer Haldane}}をはじめ33名を数えた。アメリカからは[[ダグラス・マッカーサー]]の父親である[[アーサー・マッカーサー・ジュニア|アーサー・マッカーサー・Jr]]が赴任していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150619-XUMHINL4TNJZDOL4KWMLCGR7WM/?outputType=amp |title=【安保改定の真実】新条約の真の設計者はマッカーサー2世だった… 骨の髄まで反共主義者 「中ソの日本中立化を阻止せねば…」|date=2015-06-19|publisher=産経新聞|accessdate=2022-04-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20220407140802/https://www.sankei.com/article/20150619-XUMHINL4TNJZDOL4KWMLCGR7WM/?outputType=amp |archivedate=2022-04-07}}</ref>。 観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に[[機関銃]]が戦場を支配していたことと[[騎兵]]が無用の長物と化していたことは、いまだに[[ナポレオン戦争]]時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく{{要出典|date=2019-02-11}}、[[東洋]]特有の事情として一蹴された。しかしやがて彼らは[[第一次世界大戦]]でその現実に直面することになった。 == 背景 == === 朝鮮半島を巡る日露対立 === [[大韓帝国]]は清の[[冊封体制]]を日清戦争後日本によって解かれたが、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。[[ロシア帝国|ロシア]]は[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]を通じ、売り払われた[[鍾城郡|鍾城]]・[[セビョル郡|慶源]]の[[鉱山]]採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの財政基盤を取得し[[朝鮮半島]]での影響力を増大し、着実に勢力拡大をしていった。ロシアの南下政策に危機感([[1861年]]([[文久]]元年)に[[ロシア軍艦対馬占領事件]]があったため)を持っていた日本がこれらを大韓帝国の代わりに買い戻し、回復させた。 当初、日本は外交努力で衝突を回避しようと努力したが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)[[2月23日]]、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため[[日韓議定書]]を締結し、開戦後8月には[[第一次日韓協約]]を締結。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも[[李氏朝鮮]]による旧体制が維持されている状況では、国の近代化・独自[[改革]]が困難であると主張する[[進歩会]]は、日韓合邦を目指すために[[鉄道]]敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。 一方、高宗や[[両班]]などの旧李朝支配者層は近代化の名目で彼らの利権をなくし、自国利権と支配力の強化を図る日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。 === 日英同盟 === {{See also|日英同盟}} ロシア帝国は、[[不凍港]]を求めて[[南下政策]]を採用し、[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]などの勝利によって[[バルカン半島]]における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒する[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ国首相|宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]は列強の代表を集めて[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]を主催し、露土戦争の講和条約である[[サン・ステファノ条約]]の破棄と[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。 近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。[[朝鮮]]を属国としていた[[清]]との[[日清戦争]]に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、[[中国]]への進出を目論むロシア・[[フランス第三共和政|フランス]]・ドイツからの[[三国干渉]]によって、[[下関条約]]で割譲を受けた[[遼東半島]]は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では[[伊藤博文]]ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは[[露清密約]]を結び、[[東清鉄道]]を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する[[旅順]]・[[大連市|大連]]を[[1898年]](明治31年)に[[租借]]し([[旅順・大連租借に関する露清条約|旅順大連租借条約]])、旅順に[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の基地を作るなど、満洲への進出を押し進めていった。 [[1900年]](明治33年)、ロシアは清で発生した[[義和団の乱]](義和団事変、義和団事件)の混乱収拾という論理を展開、[[満洲]]へ侵攻、全土を侵略した。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。[[ボーア戦争]]を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であった[[イギリス]]は、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、[[1902年]](明治35年)に長年墨守していた孤立政策([[栄光ある孤立]])を捨て、日本との同盟に踏み切った([[日英同盟]])。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる<ref>[[セルゲイ・ゴルシコフ]]著『ソ連海軍戦略』(宮内邦子訳,原書房,1978年、論文「戦時と平時の海軍」の翻訳)</ref>。日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、[[露清密約]]による[[清国]]の参戦は阻止された。そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満洲から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった<ref name="inoki26to34">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、26〜34頁。</ref>。 === 開戦に至るまでの議論・世論 === {{seealso|龍岩浦事件}} [[File:Kisaburō_Ohara,_Europe_and_Asia_Octopus_Map,_1904_Cornell_CUL_PJM_1145_01.jpg|thumb|220px|反ロシアの風刺地図。[[慶應義塾大学|慶應義塾]]の学生が作った(1904年)]] 日本政府内では[[小村壽太郎|小村寿太郎]]、[[桂太郎]]、[[山縣有朋]]らの対露主戦派と、[[伊藤博文]]、[[井上馨]]ら戦争回避派との論争が続き、[[1903年]](明治36年)[[4月21日]]に[[京都]]にあった山縣の別荘・[[無鄰菴]]で伊藤・山縣・桂・小村による「[[無鄰菴#無鄰庵会議|無鄰庵会議]]」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること<ref>徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』541ページ(原本の漢字表記は旧字)</ref>」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず<ref>徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』539-540ページ(原本の漢字表記は旧字)</ref>」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになる。 同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し<ref name="toakankei-783">[https://books.google.co.jp/books?id=qNEEuFrD5UkC&pg=frontcover 東亜関係特種条約彙纂] P.783 東亜同文会 1904年5月22日</ref>、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた([[龍岩浦事件]])<ref>{{Kotobank|竜巌浦事件|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。 日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日、[[アレクセイ・クロパトキン]][[陸軍大臣]]が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな憶測を報じたが、実質的な成果がないことに失望した<ref name="Katayama">片山慶隆『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』 <講談社選書メチエ> 講談社 2009年 ISBN 9784062584531 pp.58-81.</ref>。また、同時期に[[ベッサラビア]]で行われたユダヤ人に対する[[ポグロム]]の情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。 6月10日、[[戸水寛人]]や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出し([[七博士建白事件]])、6月24日にはその全文が新聞紙上に掲載された。[[万朝報]]紙上で非戦論の論陣を張っていた[[幸徳秋水]]は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった<ref name="Katayama" />。さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満洲撤兵論者[[セルゲイ・ウィッテ|セルゲイ・ヴィッテ]]大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった<ref name="Katayama" />。 === 直前交渉 === [[画像:Military Strength in the Russo Japanese War.jpg|thumb|right|300px|開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)]] 1903年8月からの日露交渉において、「日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置く」という妥協案、いわゆる[[満韓交換論]]をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していた[[ロシア海軍]]や関東州総督の[[エヴゲーニイ・アレクセーエフ]]らは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらに[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの[[十月詔書]]で[[首相]]相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の[[緯度|北緯]]39度以北を[[中立]]地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。 日本側では、この提案では[[日本海]]に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。また[[シベリア鉄道]]が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして[[1904年]][[2月6日]]、日本の外務大臣[[小村壽太郎|小村寿太郎]]は当時のロシアの[[ロマン・ローゼン|ローゼン]][[公使]]を[[外務省]]に呼び、[[国交]]断絶を言い渡した。同日、駐露公使[[栗野慎一郎]]は、[[ウラジーミル・ラムスドルフ|ラムスドルフ]]外相に国交断絶を通知した。<!--日本では対露強硬論が噴出し、また朝鮮半島、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂した<ref name="inoki26to34"/>。---> === 外貨調達 === 戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、[[日本銀行]]副総裁[[高橋是清]]は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。 開戦とともに日本の既発の[[外債]]は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟([[露仏同盟]])の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。アメリカでも同様であったが、ハーバード留学時代に[[セオドア・ルーズベルト]]と面識があった[[金子堅太郎]]は再度渡米して直接説明したほか、全米各地で講演を開き日本の立場を訴えた。また金子と[[伊沢修二]]は留学中に[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]の元に出向いて[[電話]]の通話体験していたが、ベルも要人らに日本の実情を説明し募債に協力した<ref name=kaneko>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234839/174 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏]『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935)</ref>。 是清は4月にイギリスで、額面100[[ポンド (通貨)|ポンド]]に対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の[[関税]]収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやく[[ロンドン]]での500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の[[香港上海銀行]]ロンドン支店長{{仮リンク|ユーウェン・キャメロン|en|Ewen Cameron (banker)}}はのちのイギリス首相[[デーヴィッド・キャメロン]]の高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある<ref>{{cite news |title = 日露戦争の戦費、英首相の高祖父から助力…首相 |newspaper = [[読売新聞]] |date = 2013-6-20 |url = http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20130620-OYT1T00639.htm |accessdate = 2013-6-20 |archiveurl=https://archive.is/1zyPE |archivedate=2013-06-25 |archiveservice=archive.today |deadlinkdate=2018-10-14 }}</ref>。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視する[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のドイツ系[[ユダヤ人]]銀行家[[ジェイコブ・シフ]]の知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した<ref>「財務省今昔物語7」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/finance/zaisei07.pdf]{{リンク切れ|date=2018-10-14}}[http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/finance/monogatari.htm]{{リンク切れ|date=2018-10-14}}</ref>。 第1回は1904年5月2日に仮調印に漕ぎ着けた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況は[[ロンドン]]が大盛況で募集額の約26倍、[[ニューヨーク]]で3倍となり大成功の発行となった。[[1904年]]5月に[[鴨緑江会戦]]でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団([[M・M・ヴァールブルク&CO]]など<ref>ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.175.</ref>)も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達{{efn|3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益。}}に成功した。この3月および続く7月の募集で[[デーヴィッド・キャメロン#家族|パンミュア・ゴードン]]が引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件は[[ベアリング家]]の貢献もあった<ref name=wedge>[[日本興業銀行]] 『日本外債小史』 1948年1月 第三章第二節</ref>。 終戦後、1907年の第6回では[[N・M・ロスチャイルド&サンズ]]と[[ナサニエル・ド・ロスチャイルド#ワイン用地|ロチルド・フレール]]も参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった<ref name=wedge/>。 結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した<ref name=wedge/>。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために[[鉄道国有法]]を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、[[第一次世界大戦]]のあとまで残ることとなった<ref>[[麻生太郎]](副総理、金融担当内閣府特命担当大臣)の令和3年の国会答弁によれば最終的にすべて償還されたのは1988年であるとする。第204回国会 財務金融委員会 第3号(令和3年2月16日(火曜日))[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009520420210216003.htm]</ref>。 日本政府の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history/detail/6/ |title=帝国書院 | 統計資料 歴史統計 戦争別戦費 |publisher=帝国書院 |accessdate=2022-6-28}}</ref>{{efn|日露戦争ではしばしば高橋による外債工面が注目されるが、[[金本位制度|金本位制]]においては正金は交換の媒体にすぎず、海外からの物資調達は日本からの交易品輸出により支弁され正金はその融通のための仮の穴埋め(ヴェール)にすぎない。高橋の外貨調達がなければ決済資金不足により海外との交易が途絶する可能性があったためロンドン金融街とシフらによる与信供与の重要さは特筆されるものであるが、彼らが日本人の為に費用を負担してくれたのかと言えばそうではなく、日本人を信用して資金を用立ててくれたという事である。最終的な戦費は(外債用の支払い利息を含め)全て日本政府(すなわち日本国民)が負担した。[[ポーツマス条約]]で[[戦争賠償金]]が期待できないことが明らかになるとロンドンにおける日本国外債の評価は一時混乱した。}}。 == 戦闘序列 == === 日本軍 === {{JPN1889}} [[大日本帝国軍]]の戦闘序列<ref>この戦闘序列及び師団長の階級は[[遼陽会戦]]時のものでる。『なぜロシアは敗れたか』R・M・コナフトンP396</ref>。 *[[大日本帝国軍]] - [[大山巌]]元帥総司令官 *[[山縣有朋]][[陸軍大将|大将]]大将参謀総長 **[[第1軍 (日本軍)|第1軍]] - [[黒木為楨]]大将 ***[[近衛師団]] - [[長谷川好道]]中将 ****第1近衛旅団 ****第2近衛旅団 ***[[第2師団 (日本軍)|第2師団]] - [[西寛二郎]]中将 ****第3旅団 ****第15旅団 ***[[第12師団 (日本軍)|第12師団]] - [[井上光]]中将 ****第12旅団 ****第23旅団 ***近衛後備旅団(梅沢旅団) - [[梅沢道治]]少将 **[[第2軍 (日本軍)|第2軍]] - [[奥保鞏]]大将 ***[[第3師団 (日本軍)|第3師団]] - [[大島義昌]]中将 ****第15旅団 ****第72旅団 ***[[第4師団 (日本軍)|第4師団]] - [[小川又次]]中将<ref>後に1904年(明治37年)9月3日に[[塚本勝嘉]]中将が師団長になる。</ref> ****第17旅団 ****第19旅団 ***[[第6師団 (日本軍)|第6師団]] - [[大久保春野]]中将 ****第11旅団 ****第24旅団 ***後備第1旅団 ***[[騎兵第1旅団 (日本軍)| 騎兵第1旅団]] - [[秋山好古]]少将 ***第1野戦砲兵旅団 **[[第3軍 (日本軍)|第3軍]] - [[乃木希典]]大将<ref>第3軍の戦闘序列については『日露激突』瀬戸利春 P196-197</ref> ***[[第1師団 (日本軍)|第1師団]] - [[松村務本]]中将<ref> 松村務本がなる前は[[伏見宮貞愛親王]]であった。</ref>→[[飯田俊助]]中将<ref>松村務本中将が1905年2月に戦病死したため</ref> ***[[第7師団 (日本軍)|第7師団]] - [[大迫尚敏]]中将 ***[[第9師団 (日本軍)|第9師団]] - [[大島久直]]中将 ***[[第11師団 (日本軍)|第11師団]] - [[土屋光春]]中将 **[[第4軍 (日本軍)|第4軍]] - [[野津道貫]]大将 ***[[第5師団 (日本軍)|第5師団]] - [[上田有沢]]中将<ref>後に1904年(明治37年)11月2日に[[木越安綱]]が師団長になる</ref> ****第9旅団 ****第21旅団 ***[[第10師団 (日本軍)|第10師団]] - [[川村景明]]中将 ****第8旅団 ****第20旅団 ***第18後備旅団 === ロシア軍 === {{RUS1883}} <br/> {{MNE1876}} == 経過 == [[画像:nichirojp.png|thumb|right|280px|日露戦争の経過]] [[画像:Japanese soldiers near Chemulpo Korea August September 1904 Russo Japanese War.jpg|thumb|朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)]] === 開戦時の両軍の基本戦略 === ;{{flagicon|JPN1889}} 日本側 : 戦闘領域の北限はハルビンまでに限局しシベリアまでの追撃は行わなず、戦争期間は1年程度と想定していた<ref>{{Cite journal|和書|author=松村正義 |date=1982-08 |title=黄禍論と日露戦争 |url=https://doi.org/10.11375/kokusaiseiji1957.71_38 |journal=国際政治 |publisher=日本国際政治学会 |issn=04542215 |volume=1982 |issue=71 |pages=38-53,L7 |doi=10.11375/kokusaiseiji1957.71_38 |naid=130004302482 |CRID=1390001205334296832}}</ref>。[[大日本帝国海軍|海軍]]が[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]と[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]をもって[[旅順]]にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]をもって[[対馬海峡]]を抑え制海権を確保する。その後、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]が[[第1軍 (日本軍)|第一軍]]をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに[[第3軍 (日本軍)|第三軍]]、[[第4軍 (日本軍)|第四軍]]を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストクの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想される[[バルチック艦隊]]の到着までに行う。 :[[1904年]][[2月11日]][[大本営]]が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により[[軍事参議院]]が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]、海軍の[[軍令部|海軍軍令部長]]の両名ともに[[幕僚長]]とされた。 ;{{flagicon|RUS1883}} ロシア側 :陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。[[鴨緑江]]付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次[[ハルビン市|ハルビン]]まで後退し、[[後方連絡線|補給線]]の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦[[オスリャービャ (戦艦)|オスリャービャ]]が間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。 === 開戦 === [[画像:Gentaro Kodama 2.jpg|270px|thumb|right|[[児玉源太郎]]]] [[画像:Orzvezd photo.jpg|サムネイル|270px|満洲で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真]]<!-- ;開戦時の艦隊と主な戦闘艦艇 ;連合艦隊 司令長官:[[東郷平八郎]]中将 参謀長:[[島村速雄]]大佐 参謀:[[有馬良橘]]中佐、[[秋山真之]]少佐、[[松村菊勇]]大尉 副官:[[永田泰次郎]]少佐 艦隊機関長:[[山本安次郎]]機関大監 艦隊付軍医:[[鈴木重道]]軍医大監 ;第一艦隊(連合艦隊司令部が兼務) *第一戦隊(司令官:[[梨羽時起]]少将 参謀:[[塚本善五郎]]少佐) **戦艦 ***[[三笠 (戦艦)|三笠]](艦長:[[伊地知彦次郎]]大佐) ***[[朝日 (戦艦)|朝日]](艦長:[[山田彦八]]大佐) ***[[敷島 (戦艦)|敷島]](艦長:[[寺垣猪三]]大佐) ***[[富士 (戦艦)|富士]](艦長:[[松本和]]大佐) ***[[八島 (戦艦)|八島]](艦長:[[坂本一 (海軍軍人)|坂本一]]大佐) ***[[初瀬 (戦艦)|初瀬]](艦長:[[中尾雄]]大佐) **通報艦 ***[[宮古 (通報艦)|宮古]](艦長:[[栃内曾次郎]]大佐) *第三戦隊(司令官:[[出羽重遠]]少将 参謀:[[山路一善]]少佐、[[竹内重利]]大尉) **防護巡洋艦 ***[[千歳 (防護巡洋艦)|千歳]](艦長:[[高木助一]]大佐) ***[[高砂 (防護巡洋艦)|高砂]](艦長:[[石橋甫]]大佐) ***[[笠置 (防護巡洋艦)|笠置]](艦長:[[井手麟六]]大佐) ***[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]](艦長:[[佐伯闇]]大佐) *第一駆逐隊(司令:[[浅井正次郎]]大佐) **駆逐艦:[[白雲型駆逐艦|白雲]](艦長:[[狭間光太]]中佐)、朝潮(艦長:[[松永光敬]]少佐)、霞(艦長:[[大島正毅]]中佐)、[[暁型駆逐艦|暁]](艦長:[[末次直次郎]]大尉) *第二駆逐隊(司令:[[石田一郎]]中佐) **駆逐艦:[[雷 (雷型駆逐艦)|雷]](艦長:[[三村錦三郎]]大尉)、朧、電、曙 *第三駆逐隊(司令:[[土屋光金]]中佐) **駆逐艦:薄雲(艦長:[[大山鷹之助]]少佐)、[[東雲型駆逐艦|東雲]](艦長:[[吉田孟子]]大尉)、漣 *第一艇隊(司令:[[関重孝]]少佐) **水雷艇:第69号艇、[[第六七号型水雷艇|第67号艇]]、第68号艇、第70号艇 *第十四艇隊(司令:[[桜井吉丸]]少佐) **水雷艇:千鳥(艇長:隊司令兼務)、[[隼型水雷艇|隼]]、真鶴(艦長:[[飯田延太郎]]大尉)、鵲(艇長:[[吉川安平]]大尉) ;第二艦隊 司令長官:[[上村彦之丞]]中将 参謀長:[[加藤友三郎]]大佐 参謀:[[佐藤鉄太郎]]中佐、[[下村延太郎]]少佐、[[山本英輔]]大尉 副官:[[舟越楫四郎]]少佐 艦隊機関長:[[山崎鶴之助]]機関大監 艦隊付軍医:鈴木重道軍医大監(兼任) *第二戦隊(司令官:[[三須宗太郎]]少将 参謀:[[松井健吉]]少佐、[[飯田久恒]]大尉) **装甲巡洋艦 ***[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]](艦長:[[伊地知季珍]]大佐) ***[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]](艦長:[[八代六郎]]大佐) ***[[常磐 (装甲巡洋艦)|常盤]](艦長:[[野元綱明]]大佐) ***[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]](艦長:[[松本有信]]大佐) ***[[吾妻 (装甲巡洋艦)|吾妻]](艦長:[[藤井較一]]大佐) ***[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]](艦長:[[武富邦鼎]]大佐) **通報艦 ***[[千早 (通報艦)|千早]](艦長:[[福井正義]]中佐) *第四戦隊(司令官:[[瓜生外吉]]少将 参謀:[[森山慶三郎]]少佐、[[谷口尚真]]大尉) **防護巡洋艦 ***[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]](艦長:[[和田兼助]]大佐) ***[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]](艦長:[[毛利一兵衛]]大佐) ***[[新高 (防護巡洋艦)|新高]](艦長:[[荘司義基]]大佐) ***[[明石 (防護巡洋艦)|明石]](艦長:[[宮地貞辰]]大佐) *第四駆逐隊(司令:[[長井群吉]]中佐) **駆逐艦:速鳥(艦長:[[竹内次郎]]少佐)、[[春雨型駆逐艦|春雨]]、村雨(艦長:[[水町元]]少佐)、朝霧 *第五駆逐隊(司令:[[真野厳次郎]]中佐) **駆逐艦:陽炎、叢雲(艦長:[[松岡修蔵]]少佐)、夕霧、不知火(艦長:[[西尾雄次郎]]少佐) *第九艇隊(司令:[[矢島純吉]]中佐) **水雷艇:蒼鷹、鴿、雁、燕 *第二十艇隊(司令:[[荒川仲吾]]少佐) **水雷艇:第62号艇、第63号艇、第64号艇、第65号艇 *第二艦隊付属特務艦船 **砲艦 ***[[大島 (砲艦)|大島]](艦長:[[広瀬勝比古]]中佐) ***[[赤城 (砲艦)|赤城]](艦長:[[藤本秀四郎]]中佐) **特務船:台中丸、日光丸、日本丸、春日丸、香港丸、台南丸、三池丸、神戸丸、金州丸、江都丸、山口丸、福岡丸、仁川丸、太郎丸 ;第三艦隊 司令長官:[[片岡七郎]]中将 参謀長:[[中村静嘉]]大佐 参謀:[[岩村団次郎]]中佐、[[松本直吉]]少佐、[[横山伝]]大尉 副官:[[高橋雄一]]少佐 艦隊機関長:[[斎藤利晶]]機関大監 艦隊付軍医:鈴木重道軍医大監(兼任) *第五戦隊(第三艦隊司令部が兼務) **防護巡洋艦 ***[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]](艦長:[[成田勝郎]]大佐) ***[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]](艦長:[[加藤定吉]]大佐) ***[[松島 (防護巡洋艦)|松島]](艦長:[[川島令次郎]]大佐) **二等戦艦 ***[[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]](艦長:[[今井兼昌]]大佐) *第六戦隊(司令官:[[東郷正路]]少将 参謀:[[吉田清風]]少佐) **防護巡洋艦 ***[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]](艦長:[[山屋他人]]大佐) ***[[和泉 (防護巡洋艦)|和泉]](艦長:[[池中小十郎]]大佐) ***[[須磨 (防護巡洋艦)|須磨]](艦長:[[土屋保]]大佐) ***[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]](艦長:[[村上格一]]大佐) *第七戦隊(司令官:[[細谷資氏]]少将 参謀:[[西禎蔵]]少佐) **二等戦艦 ***[[扶桑 (甲鉄艦)|扶桑]](艦長:[[奥宮衛]]中佐) **砲艦 ***[[平遠 (装甲巡洋艦)|平遠]](艦長:[[浅羽金三郎]]中佐) ***[[海門 (スループ)|海門]](艦長:[[高橋守道]]大佐) ***[[磐城_(砲艦)|磐城]](艦長:[[佐伯胤貞]]中佐) ***[[鳥海 (砲艦)|鳥海]](艦長:[[山澄太郎三]]中佐) ***[[愛宕 (砲艦)|愛宕]](艦長:[[久保田彦七]]中佐) ***[[済遠 (防護巡洋艦)|済遠]](艦長:[[但馬惟孝]]中佐) ***[[筑紫 (巡洋艦)|筑紫]](艦長:[[西山保吉]]中佐) ***[[摩耶 (砲艦)|摩耶]](艦長:[[中川重光]]中佐) ***[[宇治 (砲艦・初代)|宇治]](艦長:[[金子満喜]]少佐) *第十艇隊(司令:[[大瀧道助]]少佐) **水雷艇:第43号艇、第42号艇、第40号艇、第41号艇 *第十一艇隊(司令:[[武部岸郎]]中佐) **水雷艇:第73号艇、第72号艇、第74号艇、第75号艇 *第十六艇隊(司令:[[若林欽]]中佐) **水雷艇:[[白鷹 (水雷艇)|白鷹]]、第71号艇、[[第三九号型水雷艇|第39号艇]]、第66号艇) *第三艦隊付属特務艦船:豊橋、有明丸、亜米利加丸--><!-- ;開戦時の極東ロシア海軍の主な戦闘艦艇 *[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]](旅順艦隊) **戦艦7隻:[[ツェサレーヴィチ (戦艦)|ツェサレーヴィチ]]、[[レトヴィザン (戦艦)|レトヴィザン]]、[[相模 (戦艦)|ペレスヴェート]]、[[丹後 (戦艦)|ポルターヴァ]]、[[ペトロパブロフスク級戦艦|ペトロパヴロフスク]]、[[ペトロパブロフスク級戦艦|セヴァストーポリ]]、[[周防 (戦艦)|ポベーダ]] **装甲巡洋艦1隻:[[阿蘇 (装甲巡洋艦)|バヤーン]] **防護巡洋艦8隻:[[パルラーダ (防護巡洋艦)|パラーダ]]、ジアーナ ([[:ru:Диана (бронепалубный крейсер)|Диана]])、アスコリド ([[:ru:Аскольд (бронепалубный крейсер)|Аскольд]])、ボヤーリン ([[:ru:Боярин (бронепалубный крейсер)--><!-- [[:ja:ボヤーリン (防護巡洋艦)]] とリンク --><!-- |Боярин]])、[[鈴谷 (通報艦)|ノヴィーク]]、ザビヤーカ ([[:ru:Забияка (клипер)|Забияка]])、ラズボイニク ([[:ru:Разбойник (клипер, 1878)|Разбойник]])、ジギート ([[:ru:Джигит (клипер, 1876)|Джигит]]) **砲艦・水雷砲艦6隻:グレミャーシチイ ([[:ru:Гремящий (канонерская лодка)|Гремящий]])、オトヴァージヌイ ([[:ru:Отважный (канонерская лодка)|Отважный]])、ギリャーク ([[:ru:Гиляк (канонерская лодка)|Гиляк]])、ボーブル ([[:ru:Бобр (канонерская лодка)|Бобр]])、[[敷波型駆逐艦|フサードニク]] ([[:ru:Всадник (минный крейсер)|Всадник]])、[[敷波型駆逐艦|ガイダマーク]] ([[:ru:Гайдамак (минный крейсер)|Гайдамак]]) **駆逐艦18隻(詳細略。他に開戦後の竣工艦が数隻) *[[ウラジオストク巡洋艦隊]]の主な戦闘艦艇 **装甲巡洋艦3隻:ロシーヤ ([[:ru:Россия (крейсер)|Россия]])、[[グロモボーイ (装甲巡洋艦)|グロモボーイ]]、[[リューリク (装甲巡洋艦・初代)|リューリク]] **防護巡洋艦1隻:ボガトィーリ ([[:ru:Богатырь (бронепалубный крейсер)|Богатырь]]) **水雷艇17隻 *[[仁川]]港に所在した戦闘艦艇 **防護巡洋艦1隻:[[ヴァリャーグ (防護巡洋艦)|ヴァリャーグ]] **砲艦1隻:[[コレーエツ_(航洋砲艦・初代)|コレーエツ]]--> [[画像:Russian cruiser Variag on fire, Chemulpo harbour 1904.jpg|thumb|right|270px|仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)]] [[画像:Japanese Troops Crossing the Yalu River.jpg|thumb|right|270px|鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊]] [[画像:Russian Baloon in the Battle of Liaoyang 1.jpg|thumb|right|270px|遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢]] [[大日本帝国海軍]]は[[1904年]][[2月6日]]午後2時に[[佐世保港]]を出航し、3手に分かれてそれぞれ仁川、旅順、[[大連]]に向かった。釜山沖ではロシア船2隻を拿捕したが<ref>{{アジア歴史資料センター|C05110189500|第3編 開戦の際に於る行動/第2章 兵力衝突前に於る船舶拿捕}}、6 - 11枚目</ref>、この戦闘で日本軍の重軽傷者は54名・死者4名以上となった<ref name="名前なし-20230316122943">後藤頑鉄『[https://dl.ndl.go.jp/pid/774410/1/91 日露戦争史]』。1908年。</ref>。 2月8日、[[大日本帝国陸軍]]は先遣部隊の[[第12師団 (日本軍)|第12師団]][[木越安綱|木越]]旅団が日本海軍の第2艦隊[[瓜生外吉|瓜生]]戦隊の護衛を受けながら朝鮮の[[仁川広域市|仁川]]に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦[[コレーエツ (航洋砲艦・初代)|コレーエツ]]が小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍[[駆逐艦]]の[[奇襲|奇襲攻撃]]([[旅順口攻撃]])も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦[[ヴァリャーグ (防護巡洋艦)|ヴァリャーグ]]とコレーエツを攻撃し[[自沈]]に追い込んだ([[仁川沖海戦]])。ロシア軍は104名が死傷した<ref name="名前なし-20230316122943"/>。 日本政府は[[2月10日]]にロシア政府への[[宣戦布告]]を行い、2月11日に[[大本営]]を設置、2月23日には[[大韓帝国]]との間で日本軍の補給線の確保を目的とした[[日韓議定書]]を締結、3月15日に[[元老]]の[[松方正義]]、[[井上馨]]らが[[帝国軍人援護会]]を結成するなど準備を整えていった。 === 負傷兵の搬送 === [[フランス軍]]に救出されたヴァリャーグの乗員24名を含め<ref name="名前なし-20230316122943"/>、負傷兵は[[仁川広域市|仁川]]に臨時に設けられた[[仁川赤十字病院]]に送られた(ここには[[京城]]の[[漢城病院]]、[[仁川共立病院]]の医師や[[従軍看護婦#従軍看護婦と外国|従軍看護婦]]が派遣された)。仁川の日本兵84名とロシア兵22名は3月3日から4日間かけて[[博愛丸]]に収容され、3月10日に[[門司港]]に到着し、さらに[[伊予市|伊予]]・[[松山市|松山]]地域の赤十字臨時病院に移された<ref>医海時報社『[https://dl.ndl.go.jp/pid/11183069/1/3 医海時報]』1904年3月。</ref><ref>時事画報社『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1574764/1/16 日露戦争時事画報]』1904年「我が仁川赤十字病院」。国立国会図書館デジタルコレクション。</ref>。 === ロシア側の抗議 === 外交交渉を一方的に打ち切り、宣戦布告前の攻撃に及んだことに対しロシア政府は日本政府へ抗議した<ref>{{アジア歴史資料センター|C05110189600|第3編 開戦の際に於る行動/第3章 我か行動に関する露国の異議}}</ref>。当時は「攻撃開始の前に[[宣戦布告]]しなければならない」という国際法上の規定はなかったが、「[[ハーグ陸戦条約]]の『武力行使の前に第三国による調停を依頼する努力』規定<ref>Hague_Convention Title II, Article 2, 1989に依る</ref>に違反した」と主張した。 日本側は戦時の開始を[[2月6日]]とすることを決め<ref>{{アジア歴史資料センター|C05110188200|第2編 国際法関係の法令/第1章 戦時の始期に関する件}}</ref>、これが認められたために釜山沖での拿捕も承認された。 [[3月6日]]、[[上村彦之丞]]海軍中将が率いる装甲巡洋艦「[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]」、「[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]」、「[[吾妻 (装甲巡洋艦)|吾妻]]」、「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」、「[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]」、防護巡洋艦「[[笠置 (防護巡洋艦)|笠置]]」、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」が[[ピョートル大帝湾|ウスリー湾]]方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げた。ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の[[連合艦隊]]との正面決戦を避けて旅順港に待機した。 連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった([[旅順港閉塞作戦]])。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦[[ペトロパブロフスク級戦艦|ペトロパヴロフスク]]を撃沈、旅順艦隊司令長官[[シュテファン・オシュポヴィッチ・マカロフ|マカロフ]]中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任は[[ヴィリゲリム・ヴィトゲフト]]少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「[[八島 (戦艦)|八島]]」と「[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]」がロシアの機雷によって撃沈される。 一方で、[[ウラジオストク]]に配備されていたロシアの[[ウラジオストク巡洋艦隊]]は、積極的に出撃して[[通商破壊|通商破壊戦]]を展開する。ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の[[輸送艦]][[金州丸]]を撃沈している。このとき[[捕虜]]となった日本海軍の[[少佐]]は、戦後[[免官]]となった<ref>鎌田芳朗『海軍兵学校物語』「江田島移転のころ」(原書房)、アジア歴史資料センター「????三隻の被補者員数取調の件」(Ref:C04014276700 )</ref>。この時は[[上村彦之丞]]中将率いる[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]が再びウラジオストク港を攻撃しようとしていた時であり、以降第三艦隊に代わり第二艦隊が一部を除いて対馬海峡警備に当たった。 === 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦 === {{main|黄海海戦 (日露戦争)|遼陽会戦}} [[黒木為楨]]大将率いる日本陸軍の[[第1軍 (日本軍)#日露戦争における第1軍|第一軍]]は朝鮮半島に上陸し、[[4月30日]]から[[5月1日]]の戦闘で、安東(現・[[丹東]])近郊の[[鴨緑江]]岸でロシア軍を破った([[鴨緑江会戦]])。続いて[[奥保鞏]]大将率いる[[第2軍 (日本軍)#日露戦争における第2軍|第二軍]]が[[遼東半島]]の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した([[南山の戦い]])。南山は[[旅順要塞]]のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の[[大本営]]は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は[[大連市|大連]]占領後、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を[[得利寺の戦い]]で撃退、7月23日には[[大石橋の戦い]]で勝利した。 旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後[[3月14日]]、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団から構成される攻城軍を編成することを決定した。しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した[[大本営]]海軍幕僚もいたと伝えられる。[[4月6日]]に行われた陸軍の[[大山巌]]参謀総長、[[児玉源太郎]]次長と海軍軍令部次長[[伊集院五郎]]との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある<ref>長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)132p。他にも同書132pには期日が不明ながら軍令部参謀[[山下源太郎]]の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。</ref>ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は[[機雷]]による封鎖策に転換し、4月12日 - 13日に実施されたが失敗した。 ロシアバルト海艦隊([[バルチック艦隊]])の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする[[第3軍 (日本軍)#日露戦争における第3軍|第三軍]]の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった[[乃木希典]]大将が命された。 6月20日現地総司令部として[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]]総司令部が設置され、[[大本営]]から指揮権が移された。<!-- 以降の陸軍の組織は以下の通り。 *満洲軍総司令部(総司令官:[[大山巌]]、総参謀長:[[児玉源太郎]]) **[[第1軍 (日本軍)|第1軍]](司令官:[[黒木為楨]]、参謀長:[[藤井茂太]]) ***[[近衛師団]](師団長:[[浅田信興]]) ****近衛歩兵第1旅団(旅団長:[[木村有恒]]) ****近衛歩兵第2旅団(旅団長:[[渡辺章 (陸軍軍人)|渡辺章]] → [[谷山隆英]]) ***[[第2師団 (日本軍)|第2師団]](師団長:[[西寛二郎]] → [[西島助義]]) ****歩兵第3旅団(旅団長:[[石橋健蔵]]) ****歩兵第15旅団(旅団長:[[小原芳次郎]]) ***[[第12師団 (日本軍)|第12師団]](師団長:[[井上光]]) ****歩兵第12旅団(旅団長:[[島村干雄]]) ****歩兵第23旅団(旅団長:[[今村信敬]]) ****近衛後備歩兵旅団(旅団長:[[酒井元太郎]]) ***近衛後備混成旅団(旅団長:[[梅沢道治]]) ***後備歩兵第5旅団(旅団長:[[粟飯原常世]]) ***後備歩兵第13旅団(旅団長:[[河野通行]]) **[[第2軍 (日本軍)|第2軍]](司令官:[[奥保鞏]]、参謀長:[[落合豊三郎]], [[大迫尚道]]) ***[[第3師団 (日本軍)|第3師団]](師団長:[[大島義昌]] → [[松永正敏]]) ****歩兵第5旅団(旅団長:[[山口圭蔵]] → [[南部辰丙]] → [[田部正壮]]) ****歩兵第17旅団(旅団長:[[児玉恕忠]]) ***[[第4師団 (日本軍)|第4師団]](師団長:[[小川又次]] → [[塚本勝嘉]]) ****歩兵第7旅団(旅団長:[[西島助義]] → [[須永武義]] → [[仁田原重行]]) ****歩兵第19旅団(旅団長:[[安東貞美]] → [[林太一郎]] → [[渡辺勝重]]) ***[[第6師団 (日本軍)|第6師団]](師団長:[[大久保春野]]) ****歩兵第11旅団(旅団長:[[飯田俊助]] → [[石原応恒]]) ****歩兵第24旅団(旅団長:[[小泉正保]] → [[香川富太郎]]) ***[[第8師団 (日本軍)|第8師団]](師団長:[[立見尚文]]) ****歩兵第4旅団(旅団長:[[依田広太郎]]) ****歩兵第16旅団(旅団長:[[田部正壮]] → [[鎌田宣正]]) ***[[騎兵第1旅団 (日本軍)|騎兵第1旅団]](旅団長:[[秋山好古]]) ***[[野戦砲兵第1旅団 (日本軍)|野戦砲兵第1旅団]](旅団長:[[内山小二郎]] → [[福永宗之助]]) ***後備歩兵第5旅団(旅団長:[[友安治延]] → [[隠岐重節]]) ***後備歩兵第8旅団(旅団長:[[岡見正美]]) ***後備歩兵第14旅団(旅団長:[[斎藤徳明]]) **[[第3軍 (日本軍)|第3軍]](司令官:[[乃木希典]]、参謀長:[[伊地知幸介]] → [[小泉正保]] → [[松永正敏]] → [[一戸兵衛]]) ***[[第1師団 (日本軍)|第1師団]](師団長:[[伏見宮貞愛親王]] → [[松村務本]] → [[飯田俊助]]) ****歩兵第1旅団(旅団長:[[松村務本]] → [[山本信之]] → [[馬場命英]]) ****歩兵第2旅団(旅団長:[[中村覚]] → [[中村正雄]]) ***[[第7師団 (日本軍)|第7師団]](師団長:[[大迫尚敏]]) ****歩兵第13旅団(旅団長:[[吉田清一]]) ****歩兵第14旅団(旅団長:[[斎藤太郎]]) ***[[第9師団 (日本軍)|第9師団]](師団長:[[大島久直]]) ****歩兵第6旅団(旅団長:[[一戸兵衛]] → [[小泉正保]]) ****歩兵第18旅団(旅団長:[[平佐良蔵]]) ***[[騎兵第2旅団 (日本軍)|騎兵第2旅団]](旅団長:[[閑院宮載仁親王]] → [[田村久井]]) ***[[野戦砲兵第2旅団 (日本軍)|野戦砲兵第2旅団]](旅団長:[[大迫尚道]] → [[永田亀]]) ***後備歩兵第4旅団(旅団長:[[武内正策]]) ***後備歩兵第15旅団(旅団長:[[松居吉統]]) ***攻城砲兵司令部(司令官:[[豊島陽蔵]]) ***[[旅順要塞]]司令部(司令官:[[税所篤文]]) **[[第4軍 (日本軍)|第4軍]](司令官:[[野津道貫]]、参謀長:[[上原勇作]]) ***[[第5師団 (日本軍)|第5師団]](師団長:[[上田有沢]] → [[木越安綱]]) ****歩兵第9旅団(旅団長:[[山田保永]] → [[櫂沢静雄]]) ****歩兵第21旅団(旅団長:[[塚本勝嘉]] → [[村山邦彦]]) ***[[第10師団 (日本軍)|第10師団]](師団長:[[川村景明]] → [[安東貞美]]) ****歩兵第8旅団(旅団長:[[東条英教]] → [[大谷喜久蔵]] → [[石田正珍]]) ****歩兵第20旅団(旅団長:[[丸井政亜]] → [[今橋知勝]]) ***後備歩兵第3旅団(旅団長:[[大久保利貞]]) ***後備歩兵第10旅団(旅団長:[[門司和太郎]]) ***後備歩兵第11旅団(旅団長:[[隠岐重節]]) **[[鴨緑江軍 (日本軍)|鴨緑江軍]](司令官:[[川村景明]]、参謀長:[[内山小二郎]]) ***[[第11師団 (日本軍)|第11師団]](師団長:[[土屋光春]] → [[鮫島重雄]]) ****歩兵第10旅団(旅団長:[[山中信儀]] → [[山田忠三郎]]) ****歩兵第22旅団(旅団長:[[神尾光臣]] → [[前田隆礼]] → [[谷山隆英]]) ***後備第1師団(師団長:[[阪井重季]]) ***後備歩兵第16旅団(旅団長:[[丸井政亜]]) **[[遼東守備軍 (日本軍)|遼東守備軍]](司令官:[[西寛二郎]]、参謀長:[[神尾光臣]]) -->6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より[[海軍陸戦隊|海軍陸戦重砲隊]]が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。 これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊は旗艦と司令長官、巡洋艦と駆逐艦の過半を事実上失い、残った艦艇も大きな損害を受けて旅順へ引き返した([[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]・[[コルサコフ海戦]])。ロシアの[[ウラジオストク]]艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する([[常陸丸事件]])など活発な通商破壊戦を続けていたが、旅順艦隊に呼応して出撃すると8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した([[蔚山沖海戦]])。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。 8月末、日本の第一軍、第二軍および[[野津道貫]]大将率いる[[第4軍 (日本軍)#日露戦争における第4軍|第四軍]]は、満洲の戦略拠点[[遼陽]]へ迫った。8月24日 - 9月4日の[[遼陽会戦]]では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官[[アレクセイ・クロパトキン|クロパトキン]]大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日 - 10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する([[沙河会戦]])。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・[[瀋陽]])の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。 10月15日には[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー|ロジェストヴェンスキー]]中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。しかし[[10月21日]]、[[北海]][[ドッガーバンク]]海上で、日本海軍の船と誤認してイギリスのトロール船を攻撃した[[ドッガーバンク事件]]が発生。元々日英同盟を結んでいた事に加え、[[トラファルガーの海戦|トラファルガー海戦記念日]]当日に起こった出来事であった事から、英世論の激高を買った<ref>リチャード・マイケル・コンノートン「The War of the Rising Sun and Tumbling Bear」(1988) 247・250・259頁。</ref>事はおろか、当時の[[イギリスの君主|イギリス国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]をして「最も卑怯な暴行事件」と評させた<ref>『日露戦争全史』463頁</ref>だけでなく、英国海軍艦艇28隻に補給地である[[スペイン]]・[[ビーゴ (スペイン)|ビーゴ]]まで追跡される事となる<ref>[http://www.hullwebs.co.uk/content/l-20c/disaster/dogger-bank/voyage-of-dammed.htm Dogger Bank - Voyage of the Damned] 'Hullwebs - History of Hull' 2020年6月15日閲覧。</ref>など、一触即発の事態に発展した。 === 旅順攻略 === {{main|旅順攻囲戦}} [[画像:Nogi and Stessel.jpg|thumb|270px|旅順水師営で降伏したステッセル将軍(中央右)]] [[画像:Japanese_11_inch_siege_gun_shells_Port_Stanley_1904.jpg|thumb|right|270px|旅順要塞への28センチ砲の砲撃]] [[第3軍 (日本軍)|第三軍]]は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら、港湾への大弧山からの観測射撃を8月 - 10月まで黄海海戦を挟んで実施し、旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。 第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、[[203高地]]以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。 この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼすべてを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引きこもっている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる[[203高地]]の攻略を優先するよう要請する。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である[[満洲軍 (日本軍)]]は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促した。 11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取りやめ、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した[[児玉源太郎]][[大将]]は、[[大山巌]][[元帥]]の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月5日に旅順港内を一望できる[[203高地]]の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領した。 これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官[[アナトーリイ・ステッセリ|ステッセル]][[中将]]は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに[[艦砲]]と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などでほとんどの艦は船底を貫通されることはなく、ほとんどの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないようにすべて自沈させられた。 沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任した[[オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク|グリッペンベルク]]大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、[[秋山好古]]少将、[[立見尚文]]中将らの奮戦により危機を脱した([[黒溝台会戦]])。2月には第三軍が戦線に到着した。 === 負傷兵の救護=== [[清]]は[[中国紅十字会|万国紅十字上海支会]]の救護班を満州南部に派遣して救護にあたった。日本軍負傷兵は、[[日本郵船]]の病院船である[[神戸丸]]で[[佐世保]]の[[佐世保海軍病院]]にも搬送された{{sfn|時事画報社|1904}}。旅順赤十字病院はロシアが1900年に設立したものだったが、日本がのちに旅順の租借権をロシアから引き継いだあとは日本赤十字社が運営した<ref>[https://web.archive.org/web/20230108034455/https://blog.goo.ne.jp/hmb09/e/88c04952e9ad0aa0afa8b15cd2ee8a8b 旅順 旧赤十字病院] - [[goo]]</ref>。 === 奉天会戦 === {{main|奉天会戦}} [[画像:Retreat of the Russian Army after the Battle of Mukden.jpg|thumb|渡河を実施する奉天のロシア軍]] 日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する([[奉天会戦]])。2月21日、日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。 この結果を受けて、日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領[[セオドア・ルーズベルト]]が和平交渉を開始したが、まもなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方、両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで[[四平街]]付近での対峙が続いた。 === 日本海海戦 === {{main|日本海海戦}}<!-- [[画像:Russo-Japanese War Shunga.jpg|thumb|right|270px|日露戦争期の春画風諷刺画. ロスケ: ワタクシ モヲ シニソヲ デス (Wa Ta Ku Shi Mo O Shi Ni So O De Zu). 日兵: スグ トヾメヲ サシテヤロウ. ロスケ: ハヤク ニケロ.]]--><!--来歴不明画像によりコメントアウト。この戯画はweb上の匿名アップロダより転載されたものですが、①誰の所蔵する戯画であるか、あるいはどの版本から公開されたものか、とくに無名の個人が単に「戯れに描いた」落書き程度であれば史料的価値は相当程度低くなります。あるいはどの時代に描いたものかという点も不明。現代に製作されたものである可能性があれば、やはりただの落書きであり史料としての価値がない可能性がある。②その真贋、とくに日露戦争当時に描かれたものかどうか、鑑定をうけたものかどうか③鑑定をおこなったのは誰か、の3点について情報が必要です。信頼できる情報源ルール。また個人所蔵でありWebの匿名アップロダ以外に公開されていない画像である場合は検証可能性ルールに抵触の可能性。--> [[バルチック艦隊]]は7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に[[東郷平八郎]]率いる連合艦隊と激突した([[日本海海戦]])。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。ロシア側史料を紹介した稲葉千晴によると、海戦のロシア側死亡者4866名、負傷者799名に比して捕虜約6140名である<ref>プレシャコフ『日本海海戦:悲劇への航海』下(稲葉千晴訳、NHK出版、2020年)所収の稲葉千晴「解説・解題」の「バルチック艦隊死傷者数一覧」より</ref>。 これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに[[水雷艇]]3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。 また欧米各国における「ロシア有利」との予想を覆すだけでなく、バルチック艦隊の壊滅という予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、[[トルコ]]のようにロシアの脅威にさらされた国、[[ポーランド]]や[[フィンランド]]のようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカや[[オランダ]]などの[[白人]]国家による[[植民地]]支配に甘んじていた[[アジア]]各地の有色人種の民衆を熱狂させた。 === 講和勧告と樺太攻略 === {{main|樺太の戦い (1905年)}} [[アメリカ合衆国大統領|米大統領]][[セオドア・ルーズベルト]]は、[[日本海海戦]]の後に[[外務大臣]][[小村寿太郎]]([[第1次桂内閣]])から要請を受け、[[1905年]][[6月6日]]に日本・ロシア両国政府に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。 日本軍は和平交渉の進むなか、7月に[[樺太]]攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる<ref>北海道新聞「[http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/123270.php サハリンの日本兵慰霊碑再建を 苫小牧の梅木さん訴え]」2008年10月14日{{リンク切れ|date=2018-10-14}}</ref>。講和以降の[[樺太]]には[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]、[[富士製紙]]、[[樺太工業]]などのパルプ産業企業が進出した。 === 講和へ === {{main|ポーツマス条約}} ロシアでは、[[ロシア第一革命]]が起こり、ロシア国内は混乱状態になり、戦争の継続が困難となった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 {{!}} ポーツマス講和会議 ~小村寿太郎と交渉の「舞台裏」~ |url=https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p09.html |website=www.jacar.go.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>。 日本も講和の提案を受け入れる形をとった。国民への増税や、動員兵力が109万人へ達したり、死傷者も27万人と国力の消耗が激しく戦争の継続は望むところでは無かった。 アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・[[ニューハンプシャー州]]・[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]近郊で終戦交渉に臨み、[[1905年]][[9月5日]]に締結された[[ポーツマス条約]]により講和した。日本はポーツマス条約によって[[遼東半島]]([[関東州]])の租借権、[[東清鉄道]]の長春〜大連の支線、朝鮮半島の監督権を得た<ref name="eguchi9to13">[[江口圭一]]「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、9〜13頁。</ref>。鉄道守備隊はのちに[[関東軍]]となった<ref name="usu3">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、3頁。</ref>。10月、満洲軍総司令官下に[[関東総督府]]を設置し、軍政を敷いた<ref name="usu3"/>。清国がこれに抗議し、日本の門戸閉鎖に対して英米が反発<ref name="inoki73to84">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、73〜84頁。</ref>、1906年3月に満洲の[[門戸開放政策|門戸開放]]を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、[[関東総督府]]を[[関東都督府]]として改組した<ref name="eguchi9to13"/>。1906年11月、民間企業で日本最大の[[コンツェルン]]として[[南満洲鉄道]]株式会社を設立、以降、[[南満洲鉄道]]を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった<ref name="eguchi9to13"/>。 [[日英同盟]]は攻守同盟へと強化され、日本の[[朝鮮半島]]支配とイギリスの[[インド]]支配を相互承認した<ref name="eguchi9to13"/>。またアメリカとも[[桂・タフト協定]]で日本の朝鮮半島支配権とアメリカの[[フィリピン]]支配権を相互に確認した<ref name="eguchi9to13"/>。フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907年、[[日仏協約]]を締結<ref name="eguchi9to13"/>。ロシアも国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近し、1907年[[日露協約]](第二次日露協商)を締結し、日本が南満洲、ロシアが北満洲を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の「特殊利益」を相互承認した<ref name="eguchi9to13"/><ref name="sakuraiyoshiki">櫻井良樹、「[https://doi.org/10.18901/00000407 近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) -漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治-]」『経済社会総合研究センター Working Paper』 2008年 29巻 p.1-41, {{naid|120005397534}}, 麗澤大学経済社会総合研究センター</ref>。日本は列強の承認の下、1910年に[[韓国併合]]にいたった<ref name="eguchi9to13"/>。満洲は「10万の生霊と20億の国帑」で購われた「特殊地域」と日本はみなした<ref name="isikawa77">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、77頁。</ref>。イギリスは、フランス、ロシア、日本によるドイツ包囲網を形成したが、日本国内では親英路線と親露路線とが対立した<ref name="eguchi9to13"/>。日米関係は満洲権益をめぐって対立、また日系移民排斥問題などが発生し悪化していたが<ref name="eguchi9to13"/>、1907年の[[排日移民法|日米紳士協定]]、1908年の[[高平・ルート協定]]によって緊張を宥和させ、1911年の[[日米通商航海条約]]によって日本は[[関税自主権]]を獲得し、日本は従属的な立場を解消させた<ref name="eguchi9to13"/>。 [[明治天皇]]は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、[[帝国軍人後援会]]に対し慰労の[[勅語]]を下した<ref>{{Cite web|和書|title=中野文庫 - 勅語(明治39年) 帝国軍人援護会ヘ勅語(明治39年6月7日) |url=http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/cm39.htm |publisher=NAKANO Makoto |accessdate=2018-10-14}}</ref>。 {{quotation|明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す。}} === 年表 === [[ファイル:Japanese infantry 1905.jpg|thumb|300px|right|日露戦争での日本陸軍歩兵(ヨハネス・ヘルマン・バレンド・コッコエク)]] {|class="wikitable" style="font-size:small" !月!!分類!!出来事 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月{{0}}6日||日露戦争||日本が、ロシアに対して[[最後通牒]]を発令。 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月{{0}}8日||日露戦争||[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]先遣隊が[[仁川広域市|仁川]]に上陸 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月{{0}}8日||日露戦争||[[大日本帝国海軍|日本海軍]]、[[旅順]]港外のロシア艦隊を夜襲 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月{{0}}9日||日露戦争||[[仁川沖海戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月10日||日露戦争||相互[[宣戦布告]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月11日||日本国内||[[大本営]]を設置 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月12日||世界情勢||[[清|清国]]が局外中立を宣言する |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月23日||日本国内||[[大韓帝国]]と[[日韓議定書]]を結ぶ |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}2月24日||日露戦争||第一次[[旅順口閉塞作戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}3月27日||日露戦争||第二次旅順口閉塞作戦 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}4月{{0}}1日||日本国内||[[非常特別税]]法、[[煙草専売法]]を公布する |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}4月{{0}}8日||世界情勢||[[英仏協商]]が締結される |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}5月{{0}}1日||日露戦争||[[鴨緑江会戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}5月{{0}}8日||日露戦争||日本軍、[[遼東半島]]に上陸開始 |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}6月15日||日本国内||[[常陸丸事件]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}6月20日||日本国内||[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]]総司令部を設置する |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}7月28日||ロシア国内||[[ヴャチェスラフ・プレーヴェ]]内務大臣、暗殺される |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}8月10日||日露戦争||[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}8月22日||日本国内||大韓帝国と[[第一次日韓協約]]を結ぶ |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}8月14日||日露戦争||[[蔚山沖海戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}8月19日||日露戦争||第一回[[旅順攻囲戦|旅順総攻撃]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年{{0}}8月30日||日露戦争||[[遼陽会戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年10月{{0}}9日||日露戦争||[[沙河会戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1904年10月15日||日露戦争||バルチック艦隊出航 |- |style="white-space:nowrap"|1904年11月26日||日露戦争||第二回旅順総攻撃 |- |style="white-space:nowrap"|1904年12月{{0}}5日||日露戦争||日本軍、旅順口203高地を占領 |- |style="white-space:nowrap"|1904年12月31日||日露戦争||第三回旅順総攻撃 |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}1月{{0}}1日||日本国内||非常特別税法改正法、[[塩専売法]]、[[相続税法]]を公布する |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}1月{{0}}2日||日露戦争||旅順開城 |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}1月22日||ロシア国内||[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が起きる<br />各地でストライキが起きる |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}1月25日||日露戦争||[[黒溝台会戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}1月28日||日本国内||[[竹島 (島根県)|竹島]]を命名し島根県の管轄とする[[閣議決定]] |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}3月{{0}}1日||日露戦争||[[奉天会戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}3月{{0}}8日||日本国内||[[鉱業法]]を公布する |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}3月31日||世界情勢||[[第一次モロッコ事件]] |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}5月25日||日本国内||台湾全島に戒厳令を敷く |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}5月27日||日露戦争||[[日本海海戦]] |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}6月||ロシア国内||各地で反乱・暴動起きる([[ロシア第一革命]]の始まり) |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}6月{{0}}7日||世界情勢||[[ノルウェー]]が[[スウェーデン]]からの分離独立を宣言する |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}6月{{0}}9日||日露戦争||セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告 |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}6月14日||ロシア国内||[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)#ポチョムキンの叛乱|戦艦ポチョムキンの反乱]]が起きる |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}6月12日||日露戦争||ロシア、講和勧告を正式に受諾 |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}7月{{0}}7日||日露戦争||日本軍、樺太へ上陸([[樺太の戦い (1905年)|樺太作戦]]開始) |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}7月23日||ロシア国内||ニコライ2世、[[ドイツ帝国]]皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]と[[ビヨルケ密約]]を結ぶ |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}7月29日||日本国内||[[桂・タフト協定]]を締結する |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}7月31日||日露戦争||日本軍、[[樺太]]を占領 |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}8月{{0}}9日||日露戦争||ポーツマスで日露講和会議が始まる |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}8月12日||日本国内||[[日英同盟]]を改訂する |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}8月20日||世界情勢||[[孫文]]、[[中国同盟会]]を結成(於[[東京]]) |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}9月{{0}}1日||日露戦争||日露両国、休戦議定書に調印(休戦) |- |style="white-space:nowrap"|1905年{{0}}9月{{0}}5日||日露戦争||日露両国、日露講和条約([[ポーツマス条約]])調印 |- |style="white-space:nowrap"|1905年10月||ロシア国内||[[ゼネラル・ストライキ]]が起きる |- |style="white-space:nowrap"|1905年10月14日||日露戦争||日露両国、日露講和条約([[ポーツマス条約]])批准(終戦) |- |style="white-space:nowrap"|1905年10月17日||ロシア国内||ニコライ2世、[[十月詔書]]に署名する |- |style="white-space:nowrap"|1905年12月20日||日本国内||[[大本営]]を解散 |}<!-- == 日露戦争における韓国軍 == 1904年[[4月16日]]に、ロシア騎兵が[[城津]]に進出して日本人家屋(日本人は引揚済み)に火を放って翌日に撤収した際,ロシア軍と韓国軍が接触している。また,別方面で日本軍に敗れて敗走してきたロシア騎兵が5月19日に[[咸興]]で韓国軍と交戦し1時間後に撤退、損害は韓国兵1名戦死,ロシア軍1名重傷であった。もとより、これはいずれも偶発的な交戦であった。--> <gallery> Japanese General Kuroki and his Chief of Staff Shigeta Fujii.jpg|第一軍司令官[[黒木為楨]] Formation of a division of the Japanese 1st. Army after the Battle of Mukden.jpg|奉天会戦後に点呼をとる日本軍一師団 Foreign Officers and Correspondents after the Battle of Shaho.jpg|第一軍に同行する[[観戦武官]][[イアン・ハミルトン]]および[[マックス・ホフマン]] Japan Russia Treaty of Peace 5 September 1905.jpg|[[ポーツマス条約|日露講和条約]]の正文(日本外務省蔵) Fire of the Oil Depot Caused by Our Gunfire.jpg|[[旅順攻囲戦]]での砲撃戦 Bulla 1904-1905 Russo-Japanese War-3.jpg|[[旅順攻囲戦]]での塹壕内のロシア兵 M. Plinzner - Auf Rekognoszierung in Korea.jpg|「朝鮮を偵察する露兵」プリッツナー画 </gallery> == 影響 == {{出典の明記|date=2021年9月|section=1}} === 日本 === 日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に[[日露協約]]が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により、相互の勢力圏は確定され日本は[[朝鮮半島]]の権益を確保したうえ、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに[[東清鉄道]]の一部である[[南満洲鉄道]]を獲得するなど[[満洲]]における権益を得ることとなった。 こうして、日本は国家として最大の目標は達成した。しかし国民にとっては、講和条約の内容は賠償金を取れないなど予想外に厳しい内容だった。これは、いかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、[[新聞]]以下[[マスメディア|マスコミ]]各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利した日本も戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動からきているものである。例として、[[1905年]]9月1日、[[大阪朝日新聞]]は社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請ひ奉る」を掲載し、つづいて[[國民新聞|国民新聞]]を除く有力紙はこぞって条約反対の論説を展開した。このため、[[日比谷焼打事件]]をはじめとして各地で暴動が起こり、[[戒厳令]]が敷かれるまでに至って戦争を指導してきた[[第1次桂内閣|桂内閣]]は退陣した。 賠償金が取れなかったことから、日本は[[ジェイコブ・シフ]]の[[クーン・ローブ]]商会に対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争でもっとも儲けた」シフは、[[ロシア帝国]]の[[ポグロム]]([[反ユダヤ主義]])への報復が融資の動機といわれ、のちに[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[レフ・トロツキー|トロツキー]]にも資金援助をした。 開戦前から財政難だった政府は、戦費調達のため[[非常特別税]]により課税強化や[[塩]]や[[タバコ|煙草]]などの専売制を開始したが戦費をまかなえる額には及ばず、賠償金による補填もできず金利の支払いと併せて赤字となった。非常特別税は[[1906年]][[12月31日]]に廃止される予定だったが、政府は1906年3月になると廃止規定を削除し恒久税とした。世論の反発を抑えるため後に減税などを行ったが、法令が廃止された[[1913年]]以降も一般の税制に組み込まれて継続することとなった。 当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった[[不平等条約]]改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、のちには「五大国」の一角をも占めることとなった。 この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官の[[アナトーリイ・ステッセリ|ステッセル]]が降伏した際に帯剣を許すなど、[[武士道]]精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、[[戦争捕虜]]を非常に人道的に扱い[[日本赤十字社]]もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。<!--極東に動員されたロシア兵はロシア帝国の支配下にあった[[ポーランド]]人や[[フィンランド]]人が多く、これらの国で良好な対日感情が醸成される原因となった(稲葉千晴「松山のポーランド人捕虜」、松山大学編『マツヤマの記憶─日露戦争100年とロシア兵捕虜』成文社、2004年、所収)-->日本軍は国内各地に[[捕虜収容所]]を設置したが、愛媛県の[[松山市|松山]]にあった収容所が同戦争では最初に開設された収容所でありまた将校収容所として著名であったため、ロシア将兵側では降伏することを日本語で「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある{{efn|[[捕虜]]も参照。}}。7万人余りにふくれあがった捕虜を収容するため、日本国内の29か所に捕虜収容所が設置された。陸軍・海軍の別、将兵の別、捕獲戦闘の別により各地に分散して収容された。戦闘地域からは主に広島の似島、門司の大里で検疫を受け、上陸後列車や船で収容所に向かった<ref>{{Cite book|和書|edition=Shohan|title=ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ|url=https://www.worldcat.org/oclc/122987011|publisher=愛媛新聞社|date=2005|location=Matsuyama-shi|isbn=4-86087-038-7|oclc=122987011|others=宮脇昇}}</ref>。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、[[熊本県]]の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している{{efn|このうち、東部シベリア狙撃第13連隊に所属していた「イグナティアン・ドレヴイチャセウイチ」の墓が[[熊本市]]のフランシスコ修道院の近くに現存する<ref>[[熊本市]]教育委員会(編) 『島崎:歴史と文化財』 熊本市教育委員会、1988年3月。{{要ページ番号|date=2018-10-14}}</ref>。}}。(詳細は「[[捕虜]]」の'''日露戦争の捕虜'''を参照) 日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、[[ロマン・コンドラチェンコ]]によって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、[[永久堡塁 (習志野)|永久防塁]]と呼ばれた演習用構造物を[[陸軍習志野錬兵場]]内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。なお、戦争中における日本軍の[[脚気|脚気惨害]]については、「[[日本の脚気史#日露戦争での陸軍脚気惨害|陸軍での脚気惨害]]」や「[[日本の脚気史#麦食縮小以降、脚気が増加する海軍|海軍の状況]]」を参照のこと。 [[1907年]]9月21日、[[山縣有朋]]、[[伊藤博文]]、[[大山巌]]は[[公爵]]を授与された<ref>官報</ref>。[[元老]]でありながら[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]として戦争を指揮した[[山縣有朋]]の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論{{efn|従来は、[[島国]]である日本本土の防衛を重視して海軍の充実が主唱されてきたが、アジア大陸最東部の満洲・韓国を支配圏に置いた以上は、日本も[[大陸国家]]としての備え(即ち強力な陸軍)が必要であるとする主張のこと}}とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱え、[[1907年]]には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「[[帝国国防方針]]」案がまとめられた。しかし、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非をめぐって[[2個師団増設問題]]が発生することになった。 日露戦争の状況は映画として記録され、各地で上映されていた。1904年に[[仙台市|仙台]]に留学中だった[[魯迅]]は、ロシアのスパイとして処刑される中国人を写した映画と聴衆の反応をきっかけに、医学から文学に転向した。 === ロシア === 不凍港を求め、伝統的な[[南下政策]]がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再び[[バルカン半島]]に向かい、ロシアは[[汎スラヴ主義]]を全面に唱えることになる。このことが[[汎ゲルマン主義]]を唱えるドイツや、同じくバルカンへの進出を要求する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]との対立を招き、[[第一次世界大戦]]の引き金となった。 また、戦時中の国民生活の窮乏により、[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]や[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|戦艦ポチョムキン]]の叛乱などより始まる[[ロシア第一革命]]が発生することになる。 === 台湾 === [[日清戦争]]で勝利した日本が[[下関条約]]で自国の領土に割譲させた台湾において「[[日本統治下の台湾]]にロシアが侵攻してくる」という情報が広まると、日本政府は[[4月13日]]に沿岸部と澎湖の馬公島、[[5月13日]]に全島に戒厳令を発令した。 5月、台湾の通信士がロシア艦隊を発見し、日本海軍が対馬海峡でロシア艦隊を撃破するのに合わせて目撃情報を報告した。 同年7月7日に戒厳令が解除され、台湾は約2カ月間、史上初の戒厳令を経験することになった。 この間、縦貫鉄道の豊原28号水上間線の完成と開通を祝い、台中駅で中央鉄道の開通式が行われ、その後、日本の勝利により、全島が祝賀ムードに包まれた、台湾総督府は「日露戦争記念碑」を台湾[[苗栗市]]の虎頭山に建立した。 台湾では、1898年以降、国民学校が設立され、教育率が大幅に向上した。 こうした日本の教育を受けた台湾人は、次第に自らを日本人として認識し、日本が台湾人が強大だと考えていたロシアに勝つことができたことで、彼らの名誉意識は大きく向上した。 特に、歴代の[[台湾総督]]のうち、[[乃木希典]](第3代、1896.10.-1898.2.)、[[児玉源太郎]](第4代、1898.2.-1906.4.)、後に[[明石元二郎]](第7代、1918.6.-1919.10)は日露戦争で重要な将官であり、児玉源太郎も前線指揮に当たるなどした。 ===ドイツ帝国=== [[ドイツ帝国]]は1902年に農工業保護政策として[[関税]]改革を実施したことで、ドイツに対する農産物輸出を産業としている[[ロシア帝国]]、[[スイス]]、[[ルーマニア]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]ほか欧州諸国との熾烈な通商交渉を展開していたが、日露戦争によりロシア国内情勢が緊迫化したことで、ロシアの妥協を得た{{sfn|藤村幸雄|1967}}。 === イギリス === [[イギリス]]は日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年[[8月12日]]にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ[[日露協約]]、[[英露協商]]を締結した。 すでに締結されていた[[英仏協商]]とあわせて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の[[三国協商]]と独墺伊の[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]の対立へと向かった。こうして、イギリスは[[仮想敵国]]を日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの[[建艦競争]]を拡大していく。 === アメリカ合衆国 === [[画像:Treaty of Portsmouth.jpg|thumb|right|240px|ポーツマスにおける日露両政府代表団]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]はポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満洲でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた([[桂・ハリマン協定]]、[[1905年]]10月12日)。これはアメリカの鉄道王[[エドワード・ヘンリー・ハリマン|ハリマン]]を参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者が[[クーン・ローブ]]すなわち[[ジェイコブ・シフ]]商会であった。この協定は、小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「[[門戸開放政策|機会均等]]」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。 [[セオドア・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領は、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され[[1906年]]の[[ノーベル平和賞]]を受賞した。また、ルーズベルトは[[新渡戸稲造]]の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。しかし、彼の対日感情はこの後から急速に悪化していく。 急激に国力と存在感を高めた[[モンゴロイド|黄色人種]]国である日本への[[人種差別]]感情にあわせて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに[[日比谷焼打事件]]の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の駐日アメリカ公使館などが襲撃の対象となった。これに対してアメリカの世論は憤慨し、[[モンゴロイド|黄色人種]]への[[人種差別]]感情をもとにした[[黄禍論]]が高まっていく。 これら[[日米関係]]の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた<ref>{{Cite web|和書|title=日露戦争と日本外交 |author=[[伊藤之雄]] |url=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2004/forum_j2004_06.pdf |page=63 |archiveurl=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2004/forum_j2004_06.pdf |archivedate=2010-12-06 |archiveservice=Wayback Machine |deadlinkdate=2018-10-14}}</ref>。 また、日本の勝利は、米国の[[白人至上主義]]と戦っていた[[アフリカ系アメリカ人]]の活動家たちに刺激を与え、アメリカの[[黒人]]社会において、日本への興味と称賛、連帯を促す言説が多く行われた<ref>[http://www.columbia.edu/cu/ccbh/souls/vol3no3/vol3num3art2.pdf African Americans and Japan Confront White Supremacy] - Gerald Horne, コロンビア大学『Souls』2001年夏号</ref>。 === 清朝 === 日露戦争の戦場であった[[満洲]]は[[清]]朝の主権下にあった。[[満洲民族]]による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという[[封禁政策]]を取り、[[中国内地]]のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の[[遼東半島|遼東]]・[[遼西]]を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、[[東清鉄道]]や[[ハルビン]]をはじめとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに、義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の[[北京議定書]]締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、[[張之洞]]や[[袁世凱]]は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。 終戦後は、日本は当初唱えていた満洲における列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は、直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の[[1907年]]には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、[[1880年]]から[[1910年]]にかけて、東三省の人口は743万4,000人から1,783万6,000人まで増加している<ref>曹樹基著『中国人口史 第5巻』[[復旦大学]]出版社、2001年5月、p.704。やや時間のとっているスパンが長いが、同時期の人口の急激な増加がうかがえる。</ref>。さらに同年には袁世凱の[[北洋軍閥|北洋軍]]の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。 [[辛亥革命]]により1912年に[[宣統帝]]が退位し、袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任した。日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、[[1917年]]のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、[[1932年]]には[[満洲国]]を建国した。[[第二次世界大戦]]で日本が敗れて満洲国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残した[[インフラストラクチャー|インフラ]]を持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。[[中華民国]]から領土を奪い取った[[中華人民共和国]]がソ連から満洲を完全に返還されたのは[[1955年]]のことであり、日露戦争から50年後のことであった。 [[孫文]]は、「今ではアジアに日本があることで、[[白人]]はアジア人を軽視できなくなってきた。アジア人全体の国際的地位が高くなった」と述べている。 === 大韓帝国 === [[File:일본과 러시아에 압사당하는 한국.png|thumb|日露戦争の風刺画]] 開戦前の[[大韓帝国]]では、日本派とロシア派での政争が継続していた。その後、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から[[一進会]]が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。 戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国はさまざまな権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の[[保護国]]となる。[[1910年]](明治43年)の[[日韓併合条約]]の締結により、大韓帝国は[[大日本帝国]]に併合された。 {{main|[[韓国併合]]}} === モンテネグロ公国 === [[モンテネグロ]]はロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を[[満洲]]に派遣していた<ref>''Montenegrina, digitalna biblioteka crnogorske kulture'' (Montegreina, digital library of Montenegrin culture), [http://montenegrina.net/pages/pages1/istorija/cg_od_20vij_do_1_svj_rata/crnogorci_u_rusko_japanskom_ratu.htm ''Istorija: Đuro Batrićević''], citing Batrićević, Đuro. (1996). ''Crnogorci u rusko-japanskom ratu'' (''Montegegrans in the Russo-Japanese War''); retrieved 2011-05-12; compare ''Dr Anto Gvozdenović: general u tri vojske. Crnogorci u rusko-japanskom ratu'' (''Dr. Anto Gvozdenovic: General in Three Armies; Montegegrans in the Russo-Japanese War'')</ref>。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。のちに第一次世界大戦ではともに[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として戦うことになったが、[[モンテネグロ王国]]はその最中[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]によって併合された([[ユーゴスラビア王国]])。<!--モンテネグロとユーゴスラビアの間の条約や戦争状態引き継ぎに関する出典を-->その後、[[第二次世界大戦]]においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、[[1952年]]に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は[[日本国との平和条約]]発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-284.pdf 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について]- 外務省</ref>。 {{See also|モンテネグロの歴史#連邦再編から再独立へ}} しかしその後、[[セルビア・モンテネグロ]](旧名・[[ユーゴスラビア連邦共和国]])からモンテネグロが独立する際にこの問題が取り上げられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦の[[継承国]]であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。[[2006年]]([[平成]]18年)[[2月14日]]に[[鈴木宗男]]衆議院議員は、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の[[質問主意書]]を提出した<ref>{{Cite news|url =http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm|title =一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書|publisher =|date =|accessdate =2011-03-19|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110324071542/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm|archivedate =2011年3月24日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している<ref>{{Cite news|url =http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm|title =衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書|publisher =|date =|accessdate =2011-03-19|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110324071546/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm|archivedate =2011年3月24日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。 2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は6月16日に独立を承認、[[山中燁子]]外務大臣政務官を総理特使として派遣した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/seimu/yamanaka/sm_06/index.html モンテネグロの承認及び山中総理特使のモンテネグロ訪問について 外務省 平成18年6月16日]</ref>。[[UPI通信社]]は6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した<ref>[http://www.upi.com/Top_News/2006/06/16/Montenegro_Japan_to_declare_truce/UPI-82871150474764/ "Montenegro, Japan to declare truce,"] ''[[UPI通信社]]'' (US). June 16, 2006; [http://hnn.us/roundup/entries/26860.html "Montenegro, Japan End 100 Years' War,"] ''History News Network'' (US). citing ''World Peace Herald'', June 16, 2006; 2014年8月9日閲覧</ref>。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/seimu/yamanaka/sm_06/gaiyo.html 山中外務大臣政務官のモンテネグロ共和国訪問(概要) 外務省 平成18年6月]</ref>(参考:[[外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧]])。 なお、[[日英同盟]]の規定により、当時の日本が2か国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった{{efn|日英同盟の主旨の一つは、日本とロシアが戦争に突入した際に、フランスなどロシアの友好国が参戦するのを牽制することである。イギリスが簡単に参戦してしまっては、逆にロシアの友好国が参戦する呼び水になってしまう。}}。 === その他各国 === 当時、欧米列強の支配下にあり、[[第二次世界大戦]]後に独立した国々の指導者たちの回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけ、人種差別下にあった人々を勇気づけた」と記される<ref>ネルー『父が子に語る世界史』{{Full citation needed|date=2018-10-14|title=ネルーによる同名の本は出版年が異なる5バージョンがあり、どれを用いたか不明。ページ番号も不明。}}</ref>など、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる{{efn|たとえば[[カナダ]][[サスカチュワン州]]のウクライナ系移民は自分達の町に[[ミカド (サスカチュワン州)|ミカド]]と名付けている。}}。 また、[[第一次エチオピア戦争]]で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし[[1804年]]に独立した[[ハイチ]]は[[ナポレオン]]率いる[[大陸軍 (フランス)|フランス軍]]を撃退して世界初の[[黒人]][[共和国]]となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、[[絶対君主制]]([[ツァーリズム]])を続ける国に対する[[立憲君主国]]の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、来日していた[[ドイツ帝国]]の医者[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。 実際に、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における[[孫文]]の[[辛亥革命]]、[[オスマン帝国]]における[[青年トルコ革命]]、[[カージャール朝]]における[[イラン立憲革命|立憲革命]]、[[仏領インドシナ]]における[[ファン・ボイ・チャウ]]の[[東遊運動]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]における[[インド国民会議#国民会議カルカッタ大会|インド国民会議カルカッタ大会]]、[[オランダ領東インド]]における[[ブディ・ウトモ]]などに影響を与えている。日露戦争研究で知られるイスラエルの歴史学者ロテム・コウナー([[:en:Rotem Kowner]])は、「白人は打ち負かされうる存在であると思わせた日露戦争の結果はアジアにおけるすべての国民解放運動に影響を与えた」と述べている<ref>“Historical Dictionary of the Russo-Japanese War”Rotem Kowner, Rowman & Littlefield, 2017, p20</ref>。 [[イギリス領インド帝国|インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]は、「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大な[[ヨーロッパ]]の一国に対して勝つことができたならば、どうしてそれがインドにできないといえようか」「だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドでは我々が長くとらわれていた[[劣等感]]を取り除いてくれた」「日本が[[大国]]ロシアを破った時、インド全国民は非常に刺激を受け、[[イギリス帝国|大英帝国]]をインドから放逐すべきだとして独立運動が全インドに広がった」「インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、[[アジア]]は遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救った」と述べている<ref name="黄文雄291">{{Cite book|和書 |author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家) |url=|title=大日本帝国の真実―西欧列強に挑んだ理想と悲劇 |series= |publisher=[[扶桑社]] |date=2005-07-01 |isbn=4594049729 |page=291|quote=}}</ref>。[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]は、来日の折「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大国のロシアと戦い大敗させました。この[[ニュース]]がインドへ伝わると興奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりとなり、子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました」というメッセージを日本国民に送っている<ref name="黄文雄292">{{Cite book|和書 |author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家) |url=|title=大日本帝国の真実―西欧列強に挑んだ理想と悲劇 |series= |publisher=[[扶桑社]]|date=2005-07-01 |isbn=4594049729 |page=292|quote=}}</ref>。 [[ビルマ]]の[[バー・モウ]]は、「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点であった」と回想しており、{{仮リンク|ウー・オッタマ|en|U Ottama}}は、『日本』なる著書を刊行し、「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからだ。われわれも[[仏陀]]の教えを中心に[[青年]]が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外にない」と述べている{{sfn|黄文雄|2005|p=292}}。 [[フィリピン]]では、アメリカからの独立を目指す革命軍総司令官[[アルテミオ・リカルテ|リカルテ]]から一般庶民に至るまで、日露戦争を独立の好機と捉え、日本海海戦での日本の勝報に接するや、民衆はそれを祝福する挨拶を交し合い、[[マニラ]]では旗行列まで行われた{{sfn|黄文雄|2005|p=292}}。 [[アゼルバイジャン]]の[[思想家]]・ターレボフは、『人生の諸問題』において、「日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。もし王たちが[[狩猟]]や[[金|黄金]]をちりばめた[[王宮の一覧|王宮]]での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになる」と記して、[[大日本帝国憲法]]も掲載した。また、日本との同盟や日本軍将校の招聘を求める声も上がっていた{{sfn|黄文雄|2005|p=294}}。 [[ガージャール朝|イラン]]の[[詩人]]、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィーは、明治天皇を称える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を出版し、[[叙事詩]]の形で明治天皇の即位から[[明治維新]]、近代改革、[[日清戦争]]、[[三国干渉]]、そして日露戦争までを語っており{{sfn|黄文雄|2005|p=294}}、立憲体制下の日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美した<ref name="宮田律82">{{Cite book|和書|author=宮田律|authorlink=宮田律|date=2017-03-15|title=イスラム唯一の希望の国 日本|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4569835899|page=82|url=|quote=}}</ref>。 {{quotation|東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。<br/>眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。<br/>文明の夜明けが日本から拡がったとき、<br/>この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。|ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィー|ミカド・ナーメ}} イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈した[[ガージャール朝]]における革新的な運動が台頭するが、こうした運動が台頭したのは、日本がロシアに勝利を収めたことが関連しており、日本がロシアに勝利を収めたという事実は、多くの[[ペルシア人|イラン人]]に変革への欲求をもたらした。日本の勝利の原因についてイラン人が考えたことは、[[立憲主義|立憲国家]](日本)の非立憲国家(ロシア)に対する勝利であり、[[憲法]]こそが日本の勝利の秘訣という結論に至り、憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「カーヌーン(憲法)、カーヌーン」と叫んで憲法を要求し、[[イラン立憲革命]]の運動へと広がった<ref name="宮田律81"/>。 ペルシアの雑誌『ハブラル・マタン』(1912年8月)は、明治天皇の崩御を受けて、「日本先帝陛下はロシアを撃破した後、アジア全般に[[立憲主義|立憲思想]]を普及させた。日本の立憲政体に倣った最初の[[帝国]]はペルシャであり、それにトルコ、最後に清国がつづいた。そもそもこの三帝国は終始ロシアの圧迫、威嚇を受け、[[専制政治|専制君主国]]であるロシアに配慮して立憲は不可能だった。それゆえに日本先帝陛下は全アジアに対する解放の神であり、アジアの真の仁恵者であると明言することができる」という論説を掲載した{{sfn|黄文雄|2005|p=294}}。 [[オスマン帝国|トルコ]]では、日露戦争中、上は[[オスマン帝国の君主|皇帝]]から下は[[庶民]]まで、日本に声援を送り、[[赤十字社]]や[[新聞社]]を通じ、日本に寄付金を送るものも多く{{sfn|黄文雄|2005|p=294}}、[[ハリデ・エディプ・アドゥヴァル]]は、東郷大将にちなみ、次男をハサン・ヒクメトッラー・トーゴーと名付けるなど、トルコでは日露戦争で活躍した東郷将軍や乃木将軍の名前が、人名や通りの名前に付けられており、現在でも[[イスタンブール]]には「トーゴー通り」「ノギ通り」がある<ref name="宮田律82"/>。 [[エジプト]]の[[政治家]]・{{仮リンク|ムスタファー・カーミル|en|Mustafa Kamil Pasha}}は、「[[日本人]]こそ、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の[[アジア系民族|東洋人]]である」といい<ref name="黄文雄295">{{Cite book|和書 |author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家) |url=|title=大日本帝国の真実―西欧列強に挑んだ理想と悲劇 |series= |publisher=[[扶桑社]]|date=2005-07-01|isbn=4594049729 |page=295|quote=}}</ref>、『昇る太陽』という日本紹介書を著した。「昇る太陽」という表現にはエジプト独立への期待や希望が込められており、イギリスからのエジプトの完全独立を達成するために日本から教訓を得ようという考えのもと、明治の日本の発展の秘談が日本人の[[愛国心]]と、それを支える[[教育]]、[[政治]]、[[経済]]などの諸制度にあると主張した<ref name="宮田律81">{{Cite book|和書|author=宮田律|authorlink=宮田律|date=2017-03-15|title=イスラム唯一の希望の国 日本|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4569835899|page=81|url= |quote=}}</ref>。また、[[詩人]]の{{仮リンク|ハーフィズ・イブラヒム|en|Hafez Ibrahim}}は「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いに身を挺し、傷病兵に尽くすはわが務め」と、日本の[[従軍看護婦]]を称える「日本の乙女」という詩を作った<ref name="黄文雄295"/>。 なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあった[[フィンランド]]をも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール(Amiraali Olut)」のうちのひとつにすぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも[[山本五十六]]、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。 ===「開戦に関する条約」の創設=== 日本が[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に対し[[宣戦布告]]をしないまま旅順港の[[旅順口攻撃|ロシア旅順艦隊]]を襲撃したことから、1907年の[[万国平和会議]]では[[開戦に関する条約]]創設の討議が行われた。また[[ハーグ陸戦条約]]の改訂が行われた。日本は双方に署名し、1911年の[[第2次桂内閣]]期に批准した(日本における効力発生は[[1912年]])。 == その後の日露関係 == 満洲へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次[[日露協約]]を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係は敵対関係から大きく転換してほとんど同盟状態に近いものとなった<ref>{{Cite journal|和書|author=バールィシェフ・エドワード |title=第一次世界大戦期における日露接近の背景--文明論を中心として |url=https://hdl.handle.net/2115/39076 |journal=スラヴ研究|publisher=北海道大学スラブ研究センター |volume=52 |page=205-240 |year=2005}}</ref>。しかし、[[ロシア革命]]の勃発とその後の[[ソビエト連邦]]の成立によってこの関係は崩壊することになる。 == 発行物 == 1906年[[4月29日]]に特殊切手として、1銭5厘、3銭の切手が発行された。 == 日露戦争を題材とした作品 == 「[[:Category:日露戦争を題材とした作品]]」も参照。 === 小説 === * [[司馬遼太郎]] 『[[坂の上の雲]]』全8巻、文春文庫、1999年、ISBN 4167105764、ISBN 4167105772、ISBN 4167105780、ISBN 4167105799、ISBN 4167105802、ISBN 4167105810、ISBN 4167105829、ISBN 4167105837 *[[吉村昭]] 『海の史劇』、新潮文庫、1981年、ISBN 4101117101 * [[田山花袋]] 『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1066.html 一兵卒]』([[青空文庫]]) * [[芝村裕吏]] 『[[遙か凍土のカナン]]』全7巻、[[星海社FICTIONS]]、2013年11月 - 2016年6月 === 詩 === *[[与謝野晶子]]『君死にたまふことなかれ』(1904年9月、雑誌『[[明星 (文芸誌)|明星]]』に掲載) === 映画 === * 『[[明治天皇と日露大戦争]]』(1957年、新東宝、監督:[[渡辺邦男]]) * 『[[日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里]]』(1957年、監督:[[森一生]]) * 『[[明治大帝と乃木将軍]]』(1959年、監督:[[小森白]]) * 『[[明治大帝御一代記]]』(1964年、監督:[[大蔵貢]]) * 『[[日本海大海戦]]』(1969年、監督:[[丸山誠治]]) * 『[[二百三高地]]』(1980年、監督:[[舛田利雄]]) * 『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』(1983年、監督:舛田利雄) * 『[[ソローキンの見た桜]]』(2019年、監督:[[井上雅貴]]) === テレビドラマ === * 『[[海は甦える]]』(3時間ドラマ、[[TBSテレビ|TBS]]、1977年8月29日) * 『[[二百三高地]] 愛は死にますか』(全8回、TBS、1981年1月 - 2月) * 『[[ポーツマスの旗]]』(全4回、[[日本放送協会|NHK総合]]、1981年12月) * 『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』(全13回、[[NHKスペシャル]]ドラマ) - 2009年から2011年まで足かけ3年にわたり年末に放送された。 === 漫画 === * [[江川達也]]『[[日露戦争物語]]』 - ただし、この作品は日清戦争の途中で打ち切りになっている。 * [[安彦良和]]『[[天の血脈]]』 * [[野田サトル]]『[[ゴールデンカムイ]]』 - 日露戦争終結直後の北海道や樺太を舞台とし、主人公をはじめ多くの帰還兵が登場する。 === ゲーム === * 『[http://www.boardgamegeek.com/game/8759 Tsushima]』『[http://www.boardgamegeek.com/game/8760 Port Arthur]』Marc W. Miller / [[GDW]] 1975年、[[国際通信社 (出版社)|国際通信社]]、[[コマンドマガジン日本版]]30号、1995年、ボードゲーム * 『二百三高地』[[バンダイifシリーズ]]、ボードゲーム * 『日本海海戦』バンダイifシリーズ、ボードゲーム * 『日露戦争』[[エポック社]] 1982年、国際通信社、2001年・2010年、ボードゲーム * 『日本海大海戦』エポック社、1983年、ウォーゲームエレクトロニクス * 『奉天会戦』コマンドマガジン第16号、国際通信社、1997年、ボードゲーム * 『[[日露戦争 (コンピュータゲーム)|日露戦争]]』[[ジェネラル・サポート]]、1999年・2002年・2004年、PC向け * ''[[:en:Great War at Sea series#Vol. 4: 1904-1905: The Russo-Japanese War|en:1904-1905: The Russo-Japanese War]]''(Avalanche Press, 1999)、ボードゲーム * 『[[らいむいろ戦奇譚]]』[[エルフ (ブランド)|エルフ]] 2002年、※18禁ゲーム * 『旅順攻略/奉天決戦』コマンドベスト第11号、国際通信社、2009年、ボードゲーム * 『[http://www.stormeaglestudios.com/public/html/se_distantguns.html Distance Guns:Russian-Japanese War at Sea]』Storm Eagle Studios - 日露戦争の海戦ゲームで、日本未発売。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2008年4月|section=1}} === 歴史書 === *デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(著)、妹尾作太男・三谷庸雄(共訳)『日露戦争全史』、時事通信社、1978年、ISBN 4788778254 *軍事史学会編 『日露戦争(一)-国際的文脈』、錦正社、2004年、ISBN 4764603187 *軍事史学会編 『日露戦争(二)-戦いの諸相と遺産』、錦正社、2005年、ISBN 4764603195 * {{Citation|和書| author=[[藤村幸雄]]| date=1967-02| url =https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007758 | title=ドイツ帝国主義と貿易政策 ― 1902年関税改革を中心として ―| issue=5| volume-title=社会科学| publisher=同志社大学 | page=1-18| quote=| ref =harv}}。 ====戦時史料==== * {{Citation|和書| author=時事画報社| year=1904| url =https://dl.ndl.go.jp/pid/1574760/1/10 | title=佐世保海軍病院負傷者収容室| volume=| volume-title=日露戦争時事画報 (5)| publisher= | page=| quote=| ref =harv}} * <div id="ito">『[{{NDLDC|1257421/81}} 御詔勅草案]』、[[伊藤博文]]『秘書類纂. 雑纂 其1』、秘書類纂刊行会(1935)</div> * 川本九右衛門『[{{NDLDC|774406}} 日露戦争国民的後援演説集]』、[[大日本実業学会]](1904年)。 *『[{{NDLDC|4434063}} 英語青年 The rising generation]』、[[英語青年|英語青年社]](1904年) *『[{{NDLDC|1616791}} 征露戦報]』(1900年 - 1909年)、[[実業之日本社]]。 === 従軍記・回想録 === *[[水野廣徳]] 『[[此一戦]]』、明元社、2004年、ISBN 490-2622017 *[[櫻井忠温]] 『[[肉弾]]』、明元社、2004年、ISBN 490-2622025 *[[アレクセイ・ノビコフ=プリボイ]]『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅』上・下、上脇進訳、原書房、新版2004年、ISBN 4562037865。ISBN 4562037873 *{{仮リンク|ニコライ・エドゥアルドヴィチ・ゲインツェ|ru|Гейнце, Николай Эдуардович}} 『[http://ru.wikisource.org/wiki/В_действующей_армии_(Гейнце) В действующей армии (Письма военного корреспондента)]』(軍では ─従軍記者の手紙より─) {{ru icon}} *『ロシアの満洲と日露戦争』大竹博吉編訳、[[書肆心水]]、2021年、ISBN 4910213155。ウィッテやクロパトキン他の証言集 === 近年刊行の関連書籍 === *[[野村實]]『日本海海戦の真実』、[[講談社現代新書]]、1999年、ISBN 4061494619 *[[長山靖生]]『日露戦争 もうひとつの「物語」』[[新潮新書]]、2004年 *[[柘植久慶]]『あの頃日本は強かった 日露戦争100年』、中公新書ラクレ、2003年、ISBN 4121501063 *[[山室信一]]『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界』、[[岩波新書]]、2005年、ISBN 4004309581 *[[黒岩比佐子]]『日露戦争 勝利のあとの誤算』、[[文春新書]]、2005年、ISBN 4166604732 *[[横手慎二]]『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』[[中公新書]]、2005年、ISBN 4121017927 *森貞彦『日露戦争と「菊と刀」』、東京図書出版会、2004年、ISBN 4434040065 *日露戦争研究会『日露戦争研究の新視点』、成文社、2005年、ISBN 4915730492 *[[児島襄]]『日露戦争』全8巻、文春文庫、1994年 *#ISBN 4167141469 *#ISBN 4167141477 *#ISBN 4167141485 *#ISBN 4167141493 *#ISBN 4167141507 *#ISBN 4167141515 *#ISBN 4167141523 *#ISBN 4167141531 *{{Cite |和書 |author = [[加藤陽子]] |title = それでも、日本人は「戦争」を選んだ |date = 2009年7月 |publisher = [[朝日出版社]] |isbn = 978-4255004853 }} *[[岡田和裕]]『ロシアから見た日露戦争』、2010年、ISBN 4769826680 *[[ゲームジャーナル]]編集部『坂の上の雲5つの疑問』、2011年、ISBN 4890632840 *[[松山大学]]編『マツヤマの記憶─日露戦争100年とロシア兵捕虜』[[成文社]]、2004年 *宮脇昇『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』[[愛媛新聞社]]、2005年 *{{Cite book|和書 |author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家) |title=大日本帝国の真実―西欧列強に挑んだ理想と悲劇 |publisher=[[扶桑社]] |date=2005-07-01 |isbn=4594049729 |ref=harv}} == 関連項目 == {{commonscat|Russo-Japanese War|日露戦争}} {{wikisourcecat}} *{{仮リンク|日露戦争の戦闘一覧|en|List of battles of the Russo-Japanese War}} *[[第0次世界大戦]] *[[大戦景気]] *[[水師営]] - 旅順攻防戦の停戦条約がなされた場所。 *[[日清戦争]] *[[与謝野晶子]] *[[日本の脚気史]] *[[満韓交換論]] *[[近代における世界の一体化]] *[[グレート・ゲーム]] *[[モシン・ナガンM1891/30]] - ロシア帝国の主用小銃 *[[正露丸]] - 衛生管理が不十分だったこの頃、正露丸によって兵士たちの腹痛、下痢が激減したという。元々は「征露丸」と表記していた。 *[[ヘンリー・デニソン]] - 日本[[外務省]]の顧問。 *[[朝鮮通信使#江戸時代の通信使の編成、行程|朝鮮通信使]] *[[壊血病]] *[[脚気]] == 外部リンク == * [http://www.russojapanesewar.com/ {{lang|en|The Russo-Japanese War Research Society}}] - 日露戦争の研究ページ。英語。 * [http://rjw.narod.ru/ {{lang|ru|Русско-Японская война на море 1904-1905 г.г.}}] - 「海における日露戦争 1904-1905年」海軍中心の日露戦争研究ページ。ロシア語。 * [http://grandwar.kulichki.net/ Дедовские войны] - 主に19世紀ロシアの戦争を扱ったページ。ロシア語。書庫 (библиотека) にノビコフ・プリボイ作「ツシマ」などを収める。 * [https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm 日露戦争特別展―公文書にみる日露戦争] - 国立公文書館 アジア歴史資料センター * [https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録] - 国立公文書館 アジア歴史資料センター * [https://visualizingcultures.mit.edu/yellow_promise_yellow_peril/yp_visnav01.html Yellow Promise/Yellow Peril] - 西洋のポストカードに描かれた日露戦争(日本の指揮官の肖像や黄禍論などを描いたもの) * [https://www.youtube.com/watch?v=c-Qh9om_MN0 日露戦争 - No.ED-001(動画)]・[http://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社] * {{Kotobank}} {{大日本帝国}} {{戦前日本の経済史}} {{日本の条約}} {{日本の戦時法}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にちろせんそう}} [[Category:日露戦争|*]] [[Category:1904年の日本]] [[Category:1905年の日本]] [[Category:1904年のロシア]] [[Category:1905年のロシア]] [[Category:1904年の中国]] [[Category:1905年の中国]] [[Category:1904年の朝鮮]] [[Category:1905年の朝鮮]] [[Category:日露関係史]] [[Category:乃木希典]] [[Category:ニコライ2世]] [[Category:アレクセイ・クロパトキン]]
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北京市
北京市(ペキンし、中国語: 北京市、拼音: Běijīngshì、英語: Municipality of Beijing)は、中華人民共和国の首都。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末)。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。 日本では一般的に「ペキン」と読む。この読みは中国南部の方言の唐音に由来する歴史的な読み方である。1906年制定の郵政式アルファベット表記でもPekingと表記されている。 中国の共通語である普通話では、 Běijīng と発音し、カタカナに転記すると「ペイチン」。英語では Beijing と表記し、 [beɪˈdʒɪŋ] ( 音声ファイル)「ベイジン」と発音している。国連や北京市の公式サイトにおいても、Beijing を英語の名称として採用している。ただ以前は英語圏でもPeking「ピーキン」という表記を多用していたこともあり、北京大学を英語で Peking University と表記するなど、その名残を残している。 満洲語ではベギン(満洲文字:ᠪᡝᡤᡳᠩ、メレンドルフ転写: beging)またはゲムン・ヘチェン(ᡤᡝᠮᡠᠨᡥᡝᠴᡝᠨ、転写:gemun hecen、「京城」の意)、ギン・ヘチェン(ᡤᡳᠩᡥᡝᠴᡝᠨ、転写:ging hecen)と呼ばれていた。 江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次「大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。 紀元前11世紀頃から紀元前222年、春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(中国語版)(けい)」という諸侯国と称された。燕が滅ぼし薊へ遷都した。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。燕は劇辛や楽毅などの名将によって斉を攻め、70余城を取った。怒れる秦は王翦を率い、首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した。秦漢には北平(ほくへい、ペイピン Běipíng)と称されるが、満洲開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。4世紀には高句麗が幽州地域を征服し、北京一帯を支配した。北京に隣接する河北涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。 唐末五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきた遼は、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京(別名:燕京)と定めた。 その後金が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、1153年に第4代皇帝海陵王が会寧から遷都を行って中都とした。皇統の和議(宋側では紹興の和議)によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、モンゴル帝国の侵攻まで都城が存在した。 モンゴル帝国のハーン位を巡る争いに勝利して、元王朝を事実上創建したフビライ・ハンは、1264年に燕京を中都とし、1270年にはこれを大都と改めて、カラコルムに代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には通恵河を開通させて大都と大運河をつなげた。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い開平(上都)に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した。 朱元璋(洪武帝)が元朝を北方に駆逐し明が成立すると、名称は北平に戻され、都城は南京に定められた。しかし、燕王に封じられ北平を拠点とした朱棣(後の永楽帝)は、1402年に建文帝に対し軍事攻撃を行い政権を奪取(靖難の変)。皇帝に即位した永楽帝は1403年に地名を北京に改めて南京の応天府に対して順天府と命名、遷都を前提とした大規模な工事を開始した。1406年から準備が始まった宮殿の工事の準備は物資搬送のための大運河の整備と平行して行われ、実際の宮殿の工事が行われたのは1417年に入ってからであった。しかし、朝廷内部には洪武帝の祖法を覆すこの方針に反対論が根強く、永楽帝も3度にわたる北京巡行を経て、1421年の朝賀に合わせて遷都を実行した。しかし、反対論が納まること無く、永楽帝の後を継いだ洪熙帝は1425年に南京への還都を宣言して、北京はそれまでの「行在」とされた。しかし、洪熙帝が間もなく崩御したことで還都計画は中断した。ただし、還都の中止が正式に発表されたのは正統帝の時代に入った1441年のことである。遷都の理由としては燕王としての永楽帝の根拠地であると共に、1靖難の変で顕在化した政治的対立や経済的格差の解消を図る「南北統一」の実現のために重視されるべき華北地域の中心であったこと、2元(モンゴル帝国)の登場によって広がった新たな中華世界の主として迫られた「華夷一統」を実現させるために農耕地域と遊牧・狩猟地域の境界線上にある北京が新しい都城の所在地として相応しかったとする政治的・経済的目的が主であったと考えられている。なお、北京遷都の一因としてモンゴルに対する備えとする軍事的目的も指摘されているが、永楽帝が即位した直後の北方情勢は深刻では無く、むしろ遷都の正当化のための後付けの理由だったものが、状況の変化に伴って皇帝親征が必要になる深刻なものになった可能性も指摘されている。明王朝による「華夷一統」の実現の試みは冊封体制の再興という形で実現され、北京は多くの朝貢使節が来訪するようになった。 1644年、李自成の反乱軍が明を滅ぼすと、その間隙を突いて満洲から清が南下をして北京を占領した。北京に入城した清の摂政王ドルゴンは、北京遷都を計画し、盛京にいた順治帝を迎え入れて、同年10月1日に北京遷都を宣言した。ドルゴンは清は異民族王朝であるが、逆賊である李自成を伐って後継王朝になったという中国支配の大義名分を掲げており、それを引き継ぐ意味でも北京に都を引き継ぐ必要があった。ただし、満洲族の本拠地である盛京にも依然として機能の一部を残している。 1911年の辛亥革命後は中華民国北洋政府は北京を首都と定めた。清室優待条件が締結された。1928年に蔣介石を中心とする国民政府は、南京を首都に定め、6月には「政府直轄地域」を意味する直隷省を河北省へ、北の首都を意味する北京を北平へと、改称した。1937年から1945年まで続いた日本軍占領期は北京の名称が用いられた(公式には1940年に改名)。1945年の日本の敗戦によって、再び北平に改称された。 1949年10月1日の中華人民共和国成立により新中国の首都とされた北平は再び北京と改称され現在に至っている。しかし、中華民国(台湾)は、中華人民共和国の存在を承認せず、南京を公式な首都として大陸地区への統治権を主張し、現在でも公式名称として「北平」の名称を用いている。しかしながら、現在は「北京当局」という名称で「北京」を用いる例がある。 北京は華北平原の東北端に位置する。東部は山地、西部は太行山脈支脈の西山、北部は燕山山脈一部の軍都山に接しており、南部以外は山に囲まれていて全市域の約62%を山地が占めている。北京の最高峰は万里の長城が延々と続いている北部山脈にある東霊山である。北京市街地はこうした山岳地域に囲まれた盆地の中にあり、その平均海抜は20〜60mである。海河流域に属し、永定河や潮白河などが流れるが、これらの河川には普段水が流れておらず水不足が深刻になっている。面積は日本の四国に相当する。またモンゴル南部で発生した黄砂に度々見舞われる。 ケッペンの気候区分では、かつては亜寒帯冬季少雨気候(Dwa)に属していたが、最新の平年値ではステップ気候(BSk)に移行した。気温の年較差が大きい。また、春と秋はとても短い。春は乾燥していて強い砂埃の風が立つ。夏は高温多湿となり、霧や靄が降りる日が比較的多く雨は少ない。秋には雨がやや増えるが夕立など特定の時刻に集中的に降ることが多い。冬は低温乾燥で厳しい寒波が襲うが、乾燥のため雪はそれほどは降らない。1981~2010年平年値では1月の平均気温が-3.1度、7月の平均気温が26.7°C、年平均気温が12.9°C、年降水量は532.0mmである。最高気温極値は41.9°C(1999年7月24日)で最低気温極値は-27.4°C(1966年2月22日)。 下部には16市轄区を管轄する。 北京市の人口は2000万人を突破し、2014年には2152万人となった。戸籍人口1,755万人(2009年末)あまりで、他に公安機関(警察)に一時住居登録している流動人口が364.9万人、都心人口が917.61万人(2008年12月)いる。構成は96%が漢民族で、残り4%は55の少数民族で構成されている。 都市的地域の人口は1,395万人であり、世界第16位である。 2014年の北京市の市内総生産は約2兆1320億元であり、上海市に次いで中国本土第2位である。2014年の北京都市圏の総生産は4811億ドルであり、世界11位の経済規模を有する。 アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京に次ぐ世界5位の都市と評価され、特にビジネス活動の分野ではニューヨークに次いで高い評価を受けた。2022年9月のイギリスのシンクタンクによると、世界8位の金融センターであり、中国では香港や上海に次ぐ3位である。 イギリスの「グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク」(GaWC)が2020年に公表した金融、会計、法律、広告、経営コンサルタントなどビジネス分野を対象とした世界都市格付けにおいて、最高峰のロンドンとニューヨークの2都市に次ぎ、パリ、東京と同じく"アルファ+"級世界都市として選定された。2013年からはフォーチュン・グローバル500においては、東京を超えて世界で最も大企業の本社が集積している都市との評価を受けている。2015年にはニューヨーク、ロシアのモスクワを超えて世界で最も億万長者が多い都市となった。 北京市統計局が公表した2010年の全従業員の平均賃金は年50,415元(約63万円)である。月当たりだと4,201元(約5万円)である。また、2012年の最低賃金基準は1時間当たり7.2元(約90円)、月当たり1,260元(約1万6000円)である。一方、非全日制就業労働者の1時間あたり最低賃金は14元(約170円)である。 北京市は、ハイテク民営企業、研究開発拠点、中国ビジネスの統括拠点としての発展を目指すものと見られる。産業構造では第三次産業への依存が高い。2003年GDPの61.4%が第三次産業である一方、第二次産業の比率は36.0%で、第一次産業に至ってはわずか2.6%に過ぎない。ちなみに中国全体では第三次産業の比率は32.3%で、上海でも48.4%である。近年では外資企業の第三次産業での進出も加速している。市中心部では、CBD構想(北京CBD計画)が着々と進むなど、北京市は上海と並ぶ中国ビジネスの統括拠点としての役割も強めている。この他、北京市は環渤海経済圏、京津冀都市経済圏における中心都市として、周辺地域との経済的な協調を図りながら効率性の高い発展を志向するものとみられる。 また、北京には多くの大学・研究機関が集中しており、多くの優秀な人材が社会へと巣立っている。 故宮の西側に隣接する中南海には最高領導人(最高指導者)の居住地や中国共産党の本部と中央政府の国務院などが所在し、人民大会堂では最高権力機関である全国人民代表大会が毎年開催されている。 中部戦区司令部所在地であり、首都警備の任にあたる衛戍部隊3個師団が市内に駐屯する。国際的な国境警備の任にあたる上海協力機構の本部も所在する。 1960年代 - 70年代に街の交通の障害になるという理由で、明代の内城の城壁が撤去された。その跡には新たに移動の大動脈として一周約32kmの第二環状線が築かれている。その外側にさらに3つの環状線が敷かれており、現在6つの環状道路が開通。第7環状道路は現在計画中である。さらに環状2号線から放射状に12の国道が国内各地にのびる。北京から天津を経由して、渤海沿岸の塘沽までなど、6本の高速道路が建設された。 2010年、北京では、自動車の登録台数が1年で75万台超も増え、470万台を突破している。自動車の普及に道路や駐車場などインフラ整備が追いつかず、渋滞が深刻化している。8月の米誌フォーリン・ポリシーの記事では、世界で最も交通渋滞が深刻な都市に北京を挙げている。北京市ではこの状態を少しでも改善するため、公共交通優先措置、自動車のナンバープレートによる運行制限などを実施、年間の登録台数の制限も実施するとしている。 2013年になり大気汚染は悪化の一途をたどり、北京市も対策に乗り出した。 同年9月29日には市の大気汚染が最悪レベルになった。 北京は中国国鉄の中心地であり、国内全省都への直通列車や、近隣諸国への国際列車が発着する。モスクワ、ウランバートル、平壌行きの国際列車をはじめ、国内全ての省、市、自治区の首府を結ぶ直行列車が発着する。2011年6月には、経済の中心地である上海とを結ぶ京滬高速鉄道が開業した。巨大ターミナル駅として、中央駅の北京駅や北京西駅、北京南駅が挙げられる。またその他に大きな駅として、北京東駅、北京北駅、北京大興駅、豊台駅、通州西駅がある。 市中心部、郊外の交通は、北京地下鉄が担っている。また、2006年には北京市政交通カードとよばれるICカードを導入、自動改札機も全線・全駅で導入されている。2008年8月の北京オリンピックの開催を契機に路線網が急速に拡大し、2020年末現在では総延長はおよそ727Kmとなる。 北京には多くのロック専門のミュージシャンが集まり、北京を彼らの音楽人生の始まりとして見る。前衛的なアーティスト達も活躍している。 北京電視台が国営放送網として北京に所在し、主として1から10までの番号をふられたチャンネルをそれぞれ放送する。 2008年8月8日から8月24日にかけて、北京市で中国初の夏季オリンピックである北京オリンピックが開催された。さらに2022年2月4日から2月20日にかけては、同じく北京市で中国初の冬季オリンピックとなる2022年北京オリンピックが開催された。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった。 北京市にはプロサッカークラブとして、中国サッカー・スーパーリーグに所属する北京中赫国安と、甲級リーグに所属する北京北体大が存在している。かつては北京人和も存在していたが、2021年に債務問題と給与未払い問題が発覚しクラブは解散した。なお、北京中赫国安は中国国内最大級のスタジアムである「北京国家体育場」をホームスタジアムとしており、この場所は2008年北京五輪および2022年北京五輪のメインスタジアムとしても知られる。 北京は、中国国内で最も大学の数が多い。また、清華大学や北京大学など、国内最上級の優秀な大学が所在している。 日本人の語学留学生(標準中国語)の行き先は、北京が一番多い。これは語学留学生を受け入れている学校(大学)数が、中国国内で最も多いことが関係している。また、中国の中心地であるため有名な建築物が多く、比較的標準語に近い言葉を話している地域である。 中国の代表的な観光都市として知られ、50万年前からの人類が生活してきた歴史、3000余年の街造りの歴史、700余年も全国的な政権が都をこの地に置いた歴史があり、中国の七大古都の1つである。北京は古都にふさわしい第一級の名勝史跡に恵まれており、外国人観光客数、観光外貨収入は国内第1位である。紫禁城や天安門広場、庭園、古くから市民の居住する街並みである衚衕などがあり海外からの観光客も多く訪れる都市である。 典拠:
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北京市(ペキンし、中国語: 北京市、拼音: Běijīngshì、英語: Municipality of Beijing)は、中華人民共和国の首都。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末)。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では一般的に「ペキン」と読む。この読みは中国南部の方言の唐音に由来する歴史的な読み方である。1906年制定の郵政式アルファベット表記でもPekingと表記されている。", "title": "北京の読み方" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中国の共通語である普通話では、 Běijīng と発音し、カタカナに転記すると「ペイチン」。英語では Beijing と表記し、 [beɪˈdʒɪŋ] ( 音声ファイル)「ベイジン」と発音している。国連や北京市の公式サイトにおいても、Beijing を英語の名称として採用している。ただ以前は英語圏でもPeking「ピーキン」という表記を多用していたこともあり、北京大学を英語で Peking University と表記するなど、その名残を残している。", "title": "北京の読み方" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "満洲語ではベギン(満洲文字:ᠪᡝᡤᡳᠩ、メレンドルフ転写: beging)またはゲムン・ヘチェン(ᡤᡝᠮᡠᠨᡥᡝᠴᡝᠨ、転写:gemun hecen、「京城」の意)、ギン・ヘチェン(ᡤᡳᠩᡥᡝᠴᡝᠨ、転写:ging hecen)と呼ばれていた。", "title": "北京の読み方" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次「大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。", "title": "北京の読み方" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "紀元前11世紀頃から紀元前222年、春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(中国語版)(けい)」という諸侯国と称された。燕が滅ぼし薊へ遷都した。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。燕は劇辛や楽毅などの名将によって斉を攻め、70余城を取った。怒れる秦は王翦を率い、首都の薊は紀元前226年に秦によって陥落した。秦漢には北平(ほくへい、ペイピン Běipíng)と称されるが、満洲開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。4世紀には高句麗が幽州地域を征服し、北京一帯を支配した。北京に隣接する河北涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "唐末五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきた遼は、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京(別名:燕京)と定めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後金が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、1153年に第4代皇帝海陵王が会寧から遷都を行って中都とした。皇統の和議(宋側では紹興の和議)によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、モンゴル帝国の侵攻まで都城が存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "モンゴル帝国のハーン位を巡る争いに勝利して、元王朝を事実上創建したフビライ・ハンは、1264年に燕京を中都とし、1270年にはこれを大都と改めて、カラコルムに代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には通恵河を開通させて大都と大運河をつなげた。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い開平(上都)に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"北京市は、ハイテク民営企業、研究開発拠点、中国ビジネスの統括拠点としての発展を目指すものと見られる。産業構造では第三次産業への依存が高い。2003年GDPの61.4%が第三次産業である一方、第二次産業の比率は36.0%で、第一次産業に至ってはわずか2.6%に過ぎない。ちなみに中国全体では第三次産業の比率は32.3%で、上海でも48.4%である。近年では外資企業の第三次産業での進出も加速している。市中心部では、CBD構想(北京CBD計画)が着々と進むなど、北京市は上海と並ぶ中国ビジネスの統括拠点としての役割も強めている。この他、北京市は環渤海経済圏、京津冀都市経済圏における中心都市として、周辺地域との経済的な協調を図りながら効率性の高い発展を志向するものとみられる。 また、北京には多くの大学・研究機関が集中しており、多くの優秀な人材が社会へと巣立っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "故宮の西側に隣接する中南海には最高領導人(最高指導者)の居住地や中国共産党の本部と中央政府の国務院などが所在し、人民大会堂では最高権力機関である全国人民代表大会が毎年開催されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中部戦区司令部所在地であり、首都警備の任にあたる衛戍部隊3個師団が市内に駐屯する。国際的な国境警備の任にあたる上海協力機構の本部も所在する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1960年代 - 70年代に街の交通の障害になるという理由で、明代の内城の城壁が撤去された。その跡には新たに移動の大動脈として一周約32kmの第二環状線が築かれている。その外側にさらに3つの環状線が敷かれており、現在6つの環状道路が開通。第7環状道路は現在計画中である。さらに環状2号線から放射状に12の国道が国内各地にのびる。北京から天津を経由して、渤海沿岸の塘沽までなど、6本の高速道路が建設された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年、北京では、自動車の登録台数が1年で75万台超も増え、470万台を突破している。自動車の普及に道路や駐車場などインフラ整備が追いつかず、渋滞が深刻化している。8月の米誌フォーリン・ポリシーの記事では、世界で最も交通渋滞が深刻な都市に北京を挙げている。北京市ではこの状態を少しでも改善するため、公共交通優先措置、自動車のナンバープレートによる運行制限などを実施、年間の登録台数の制限も実施するとしている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2013年になり大気汚染は悪化の一途をたどり、北京市も対策に乗り出した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "同年9月29日には市の大気汚染が最悪レベルになった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "北京は中国国鉄の中心地であり、国内全省都への直通列車や、近隣諸国への国際列車が発着する。モスクワ、ウランバートル、平壌行きの国際列車をはじめ、国内全ての省、市、自治区の首府を結ぶ直行列車が発着する。2011年6月には、経済の中心地である上海とを結ぶ京滬高速鉄道が開業した。巨大ターミナル駅として、中央駅の北京駅や北京西駅、北京南駅が挙げられる。またその他に大きな駅として、北京東駅、北京北駅、北京大興駅、豊台駅、通州西駅がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "市中心部、郊外の交通は、北京地下鉄が担っている。また、2006年には北京市政交通カードとよばれるICカードを導入、自動改札機も全線・全駅で導入されている。2008年8月の北京オリンピックの開催を契機に路線網が急速に拡大し、2020年末現在では総延長はおよそ727Kmとなる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "北京には多くのロック専門のミュージシャンが集まり、北京を彼らの音楽人生の始まりとして見る。前衛的なアーティスト達も活躍している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "北京電視台が国営放送網として北京に所在し、主として1から10までの番号をふられたチャンネルをそれぞれ放送する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年8月8日から8月24日にかけて、北京市で中国初の夏季オリンピックである北京オリンピックが開催された。さらに2022年2月4日から2月20日にかけては、同じく北京市で中国初の冬季オリンピックとなる2022年北京オリンピックが開催された。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "北京市にはプロサッカークラブとして、中国サッカー・スーパーリーグに所属する北京中赫国安と、甲級リーグに所属する北京北体大が存在している。かつては北京人和も存在していたが、2021年に債務問題と給与未払い問題が発覚しクラブは解散した。なお、北京中赫国安は中国国内最大級のスタジアムである「北京国家体育場」をホームスタジアムとしており、この場所は2008年北京五輪および2022年北京五輪のメインスタジアムとしても知られる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北京は、中国国内で最も大学の数が多い。また、清華大学や北京大学など、国内最上級の優秀な大学が所在している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本人の語学留学生(標準中国語)の行き先は、北京が一番多い。これは語学留学生を受け入れている学校(大学)数が、中国国内で最も多いことが関係している。また、中国の中心地であるため有名な建築物が多く、比較的標準語に近い言葉を話している地域である。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "中国の代表的な観光都市として知られ、50万年前からの人類が生活してきた歴史、3000余年の街造りの歴史、700余年も全国的な政権が都をこの地に置いた歴史があり、中国の七大古都の1つである。北京は古都にふさわしい第一級の名勝史跡に恵まれており、外国人観光客数、観光外貨収入は国内第1位である。紫禁城や天安門広場、庭園、古くから市民の居住する街並みである衚衕などがあり海外からの観光客も多く訪れる都市である。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "典拠:", "title": "姉妹都市" } ]
北京市は、中華人民共和国の首都。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末)。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。
{{redirect|北京}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{基礎情報 中国の都市 |name = 北京市 |shortname = 平・京 |nickname = 燕京、北平 |usedname = 宛平、北平、燕京、中都、[[大都]] |nameorigin = |image_city = Beijing montage 2019.png |image_caption = 上から時計回り: [[北京商務中心区]]、[[八達嶺長城]]、[[天壇]]、[[中国国家大劇院]]、[[北京国家体育場]]、[[天安門]] |image_flag = |image_map = China Beijing.svg |map_caption = [[中華人民共和国]]中の北京市の位置 |latd=39 |latm=54 |lats=20 |latNS=N |longd=116 |longm=23 |longs=29 |longEW=E |simplified = 北京 |traditional = 北京 |pinyin = Běijīng |katakana = ペイチン |class = [[直轄市]] |subdivision_type = 国家 |subdivision_name = 中華人民共和国 |subdivision_type1 = |subdivision_name1 = |leader_title = 市党委書記 |leader_name = [[尹力]](20期[[中国共産党中央政治局]]委員、前中国共産党[[福建省]]委員会書紀) |leader_title1 = 市長 |leader_name1 = [[:zh:殷勇 (1969年)|殷勇]](前北京市副市長) |established_title = 成立 |established_date = [[紀元前473年]] |established_title1= |established_date1 = |area_total = 16,410.54<ref>[https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/asia/cn/kahoku/pdf/overview_beijing_201006.pdf#page=3 北京市 概況と投資環境] 日本貿易振興機構(JETRO)北京センター</ref> |population_total=2184.3 |population_as_of=2022 |population_density= |registered = |registered_as_of = |permanent = |permanent_as_of = 2022<ref name="population">{{Cite web |url=https://www.beijing.gov.cn/renwen/bjgk/rk/202303/t20230322_2941847.html |title=人口 |publisher=北京市人民政府 |date=2023-03-22 |accessdate=2023-08-22}}</ref> |density_permanent = |population_urban = |population_urban_as_of = 2022<ref name="population" /> |elevation = 43.5 |GDP = 42620.7億 |GDP_as_of = 2021 |GDPPC = 197313 |areacode = 010 |postcode = '''1000'''00 - 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"[https://books.google.ch/books?id=UD8Nvn7Ca18C&pg=PA105 Dai]"}}</ref><ref>[[馮夢竜]]《[[東周列国志]]》“王賁兵渡鴨緑江,圍平壌城,破之,虜燕王喜,送入咸陽,廢為庶人。”但純属小説家之言,不足為信。</ref>。秦[[漢]]には'''北平'''(ほくへい、ペイピン {{pinyin|Běipíng}})と称されるが、[[満洲]]開発が進み、[[高句麗]]など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。4世紀には[[高句麗]]が幽州地域を征服し、北京一帯を支配した<ref>https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001826146</ref>。北京に隣接する河北[[涿郡]](たくぐん)は[[三国志]]の英雄[[劉備]]の故郷で知られるとともに[[隋]]の[[煬帝]]が築いた[[大運河]]の北の起点とされている。 [[唐]]末[[五代十国時代|五代]]の騒乱期、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]から南下してきた[[遼]]は、[[後晋]]に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む[[燕雲十六州]]を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ'''南京'''(別名:'''燕京''')と定めた。 その後[[金 (王朝)|金]]が遼を滅ぼして支配権を獲得したが、[[1153年]]に第4代皇帝[[海陵王]]が[[会寧府|会寧]]から遷都を行って'''中都'''とした。皇統の和議([[宋 (王朝)|宋]]側では[[紹興の和議]])によって、金の河北支配が確定すると、それまでの会寧では北に偏りすぎていることが大きな要因とみられ、また合わせて中国式の官制改革なども行われた。海陵王は政変で滅ぼされるが、[[モンゴル帝国]]の侵攻まで都城が存在した<ref>新宮、2017年、P21.</ref>。 [[モンゴル帝国]]のハーン位を巡る争いに勝利して、[[元 (王朝)|元]]王朝を事実上創建した[[フビライ・ハン]]は、[[1264年]]に燕京を'''中都'''とし、[[1270年]]にはこれを'''大都'''と改めて、[[カラコルム]]に代わってモンゴル帝国の中心とした。フビライは従来の中都の北東に新たな都城(カンバリク)を築くことにし、1266年から始まった工事は1274年に宮殿を、1276年には城壁を完成させた。更に1293年には[[通恵河]]を開通させて大都と[[大運河]]をつなげた<ref>新宮、2017年、P22.</ref>。ただし、元王朝はモンゴル帝国の要素を引き継いだ国家であり、元の皇帝(ハーン)は夏の間はモンゴル高原に近い[[上都|開平(上都)]]に、冬の間は大都に居住する「両都巡行制」を採用した<ref>新宮、2017年、P23.</ref>。 [[朱元璋]](洪武帝)が元朝を北方に駆逐し[[明]]が成立すると、名称は北平に戻され、都城は[[南京市|南京]]に定められた{{efn|『明太祖実録』洪武2年9月癸卯条によれば、朱元璋が明の都を何処にすべきか家臣に討議させた時に、大都の宮殿をそのまま使うことを提案した者がいたが、元と明の制度が異なり宮殿の改装が大規模になって容易ではないことを理由に却下したという<ref>新宮、2017年、P29.</ref>。}}。しかし、燕王に封じられ北平を拠点とした朱棣(後の[[永楽帝]])は、[[1402年]]に[[建文帝]]に対し軍事攻撃を行い政権を奪取([[靖難の変]])。皇帝に即位した永楽帝は[[1403年]]に地名を'''北京'''に改めて南京の応天府に対して順天府と命名、遷都を前提とした大規模な工事を開始した。[[1406年]]から準備が始まった宮殿の工事の準備は物資搬送のための大運河の整備と平行して行われ、実際の宮殿の工事が行われたのは[[1417年]]に入ってからであった。しかし、朝廷内部には洪武帝の[[祖法]]を覆すこの方針に反対論が根強く、永楽帝も3度にわたる北京巡行を経て、[[1421年]]の[[朝賀]]に合わせて遷都を実行した。しかし、反対論が納まること無く、永楽帝の後を継いだ[[洪熙帝]]は[[1425年]]に南京への還都を宣言して、北京はそれまでの「行在」とされた。しかし、洪熙帝が間もなく崩御したことで還都計画は中断した。ただし、還都の中止が正式に発表されたのは[[正統帝]]の時代に入った[[1441年]]のことである<ref>新宮、2017年、P23-24・31.</ref>。遷都の理由としては燕王としての永楽帝の根拠地であると共に、①靖難の変で顕在化した政治的対立や経済的格差の解消を図る「南北統一」の実現のために重視されるべき華北地域の中心であったこと、②元(モンゴル帝国)の登場によって広がった新たな中華世界の主として迫られた「華夷一統」を実現させるために農耕地域と遊牧・狩猟地域の境界線上にある北京が新しい都城の所在地として相応しかったとする政治的・経済的目的が主であったと考えられている。なお、北京遷都の一因としてモンゴルに対する備えとする軍事的目的も指摘されているが、永楽帝が即位した直後の北方情勢は深刻では無く、むしろ遷都の正当化のための後付けの理由だったものが、状況の変化に伴って皇帝親征が必要になる深刻なものになった可能性も指摘されている<ref>新宮、2017年、P24-26.</ref>。明王朝による「華夷一統」の実現の試みは冊封体制の再興という形で実現され、北京は多くの朝貢使節が来訪するようになった<ref>新宮、2017年、P35-39.</ref>。 [[1644年]]、[[李自成]]の反乱軍が明を滅ぼすと、その間隙を突いて[[満洲]]から[[清]]が南下をして北京を占領した。北京に入城した清の摂政王[[ドルゴン]]は、北京遷都を計画し、[[盛京]]にいた[[順治帝]]を迎え入れて、同年10月1日に北京遷都を宣言した。ドルゴンは清は異民族王朝であるが、逆賊である李自成を伐って後継王朝になったという中国支配の大義名分を掲げており、それを引き継ぐ意味でも北京に都を引き継ぐ必要があった。ただし、満洲族の本拠地である盛京にも依然として機能の一部を残している<ref>新宮、2017年、P27-28.</ref>。 [[1911年]]の[[辛亥革命]]後は[[北京政府|中華民国北洋政府]]は北京を首都と定めた。[[清室優待条件]]が締結された。[[1928年]]に[[蔣介石]]を中心とする[[国民政府]]は、南京を首都に定め、6月には「政府直轄地域」を意味する直隷省を河北省へ、北の首都を意味する北京を北平へと、改称した。[[1937年]]から[[1945年]]まで続いた日本軍占領期は北京の名称が用いられた(公式には[[1940年]]に改名)。[[1945年]]の日本の敗戦によって、再び北平に改称された<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-01/25/content_97374.htm 北京の歴史] 人民中国、2021年6月13日閲覧</ref><ref>[https://www.y-history.net/appendix/wh0801-029.html 北京/北平] 世界史の窓、2021年6月13日閲覧</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/北京-177734 日本大百科全書] コトバンク、ニツポニカ、2021年6月13日閲覧</ref>。 [[1949年]][[10月1日]]の[[中華人民共和国]]成立により新中国の首都とされた北平は再び'''北京'''と改称され現在に至っている。しかし、[[中華民国]]([[台湾]])は、中華人民共和国の存在を承認せず、南京を公式な首都として大陸地区への統治権を主張し、現在でも公式名称として「北平」の名称を用いている。しかしながら、現在は「'''北京当局'''」という名称で「北京」を用いる例がある<ref name=中央社フォーカス台湾日本語版20200520>{{Cite news|title=蔡総統、「一国二制度受け入れない」 世界との連携強化へ=2期目就任|newspaper=中央通訊社|date=2020-5-20|url= http://mjapan.cna.com.tw/news/apol/202005200002.aspx|accessdate=2020-5-21}}</ref>。 == 地理 == 北京は[[華北平原]]の東北端に位置する。東部は山地、西部は[[太行山脈]]支脈の[[西山 (北京市)|西山]]、北部は[[燕山山脈]]一部の軍都山に接しており、南部以外は山に囲まれていて全市域の約62%を山地が占めている。北京の最高峰は[[万里の長城]]が延々と続いている北部山脈にある東霊山である。北京市街地はこうした山岳地域に囲まれた盆地の中にあり、その平均海抜は20〜60mである。[[海河]]流域に属し、[[永定河]]や潮白河などが流れるが、これらの河川には普段水が流れておらず水不足が深刻になっている。面積は[[日本]]の[[四国]]に相当する。またモンゴル南部で発生した黄砂に度々見舞われる。 === 気候 === [[ケッペンの気候区分]]では、かつては[[亜寒帯冬季少雨気候]](Dwa)に属していたが、最新の平年値では[[ステップ気候]](BSk)に移行した<ref>[https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/news/map_geo/kikouku/hosei2013.pdf 世界の気候区の更新]</ref>。気温の年較差が大きい。また、春と秋はとても短い。[[春]]は乾燥していて強い砂埃の風が立つ。[[夏]]は高温多湿となり、霧や靄が降りる日が比較的多く雨は少ない。[[秋]]には雨がやや増えるが夕立など特定の時刻に集中的に降ることが多い。[[冬]]は低温乾燥で厳しい寒波が襲うが、乾燥のため雪はそれほどは降らない。1981~2010年平年値では1月の平均気温が-3.1度、7月の平均気温が26.7℃、年平均気温が12.9℃、年降水量は532.0mmである。最高気温極値は41.9℃(1999年7月24日)で最低気温極値は-27.4℃(1966年2月22日)。 {{Beijing weatherbox}} == 市政 == * 中国共産党北京市委員会書記:尹力(2022 -) * 北京人民政府市長:殷勇(2022年10月28日 -) * 北京市人民代表大会常務委員会主任:李偉 * 中国人民政治協商会議北京市委員会主席:吉林 == 行政区域 == 下部には16[[市轄区]]を管轄する。 {|class="wikitable" !北京市の地図 |- |<div class="center" style="position: relative"> {{Image label begin|image=Administrative Division Beijing.svg|width=600|link=}} {{Image label|x=293|y=420|scale=600/600|text=[[東城区 (北京市)|<span style="color: black;">'''1'''</span>]]}} {{Image label|x=275|y=420|scale=600/600|text=[[西城区|<span style="color: black;">'''2'''</span>]]}} {{Image label|x=320|y=395|scale=600/600|text={{vtext|[[朝陽区 (北京市)|<span style="color: black;">'''朝陽区'''</span>]]}}}} {{Image label|x=230|y=440|scale=600/600|text=[[豊台区|<span 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label|x=470|y=310|scale=600/600|text=[[平谷区|<span style="color: black;">'''平谷区'''</span>]]}} {{Image label|x=430|y=185|scale=600/600|text=[[密雲区|<span style="color: black;">'''密雲区'''</span>]]}} {{Image label|x=200|y=210|scale=600/600|text=[[延慶区|<span style="color: black;">'''延慶区'''</span>]]}} {{Image label|x=100|y=040|scale=600/600|text=[[東城区 (北京市)|<span style="color: black;">'''1. 東城区'''</span>]]}} {{Image label|x=100|y=060|scale=600/600|text=[[西城区|<span style="color: black;">'''2. 西城区'''</span>]]}} {{Image label|x=100|y=080|scale=600/600|text=[[石景山区|<span style="color: black;">'''3. 石景山区'''</span>]]}} {{Image label end}} </div> |} [[File:皇城1.jpg|thumb|260px|[[北京の城門]]]] [[File:Beijing 1914.jpg|thumb|200px|北京の古地図(1914年)]] ; 旧城区 :* [[東城区 (北京市)|東城区]] 中心市街地東部に位置する。繁華街・[[王府井]]、安定門、東直門、[[天壇]]などがある。 :* [[西城区]] 中心市街地西部に位置し、人民大会堂や繁華街・[[西単]]、[[白雲観]]がある。 ::*[[2010年]][[7月1日]]まで[[崇文区]](中心市街地南東部)と[[宣武区]](中心市街地南西部)があったが、それぞれ旧[[東城区]]・旧[[西城区]]と新設合併した。旧城区を構成する元の四区から一文字ずつとって、この地域を「東西文武」と呼ぶことがある。 ; 新城区 :* [[朝陽区 (北京市)|朝陽区]] 市街地北郊から東郊にかけて位置する。[[北京商務中心区]](CBD)や[[北京首都国際空港|首都国際空港]]の一部を含む。 :* [[海淀区]] 市街地西北郊に位置し、[[北京大学]]、[[清華大学]]、[[中関村]]などがある。 :* [[豊台区]] 市街地南郊から西南郊に位置し、[[北京西駅]]がある。 :* [[石景山区]] 市街地西郊に位置し、[[北京地下鉄1号線|地下鉄1号線]]が延びる。[[人民解放軍]]の大拠点がある。 ; その他 :* [[順義区]] 市東北部に位置し、[[1998年]]県から区に昇格した。 :* [[昌平区]] 市北西部に位置し、[[明の十三陵]]がある。 :* [[門頭溝区]] 市西部の山間部に位置し、1958年区成立。 :* [[通州区 (北京市)|通州区]] 市東部に位置する。1958年市に編入、1997年区に昇格。[[京杭大運河]]が流れる。 :* [[房山区]] 市南西部に位置する。[[周口店]]がある。1999年区に昇格。 :* [[大興区]] 市南部に位置する。1958年市に編入、2001年区に昇格。2019年9月25日開港の[[北京大興国際空港]]を含む。 :* [[懐柔区]] 市北部の山間部に位置する。1368年建県、2001年区に昇格。 :* [[平谷区]] 市東北部に位置する。1958年北京市に編入、2002年区に昇格。 :* [[延慶区]] 市北西部に位置する。2015年区に昇格。 :* [[密雲区]] 市東北部に位置する。2015年区に昇格。北京の水源である[[密雲ダム]]がある。 {{Clear}} === 年表 === <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">沿革<ref>[http://xzqh.mca.gov.cn/description?dcpid=1 县级以上行政区划变更情况] - [[中華人民共和国民政部]]</ref><ref>[https://www.xzqh.org/html/list/3.html 北京市 - 区划地名网]</ref></div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> ====北京市==== * 1949年10月1日 - [[中華人民共和国]]'''北平市'''が'''北京市'''に改称。一区から二十区までの市轄区が成立。(20区) * 1950年6月 - 市内行政区域の再編により、一区から十六区までの区が成立。(16区) * 1950年10月9日 - [[河北省]]通県専区[[昌平区|昌平県]]の一部が十三区に編入。(16区) * 1950年4月7日 - 十三区の一部が十五区に編入。(16区) * 1950年4月27日 - 十三区の一部が二区に編入。(16区) * 1950年4月28日 - 十三区の一部が四区に編入。(16区) * 1950年7月 - 十三区の一部が四区に編入。(16区) * 1951年11月20日 - 河北省通県専区昌平県の一部が十三区に編入。(16区) * 1952年9月1日 (13区) ** 一区が'''[[東単区]]'''に、二区が'''[[西単区]]'''に、三区が'''[[東四区]]'''に、四区が'''[[西四区]]'''に、六区が'''[[前門区]]'''に、七区が'''[[崇文区]]'''に、八区が'''[[宣武区]]'''に、十区が'''[[朝陽区 (北京市)|東郊区]]'''に、十一区が'''[[南苑区]]'''に、十二区が'''[[豊台区]]'''に、十三区が'''[[海淀区]]'''に、十五区が'''[[石景山区]]'''に、十六区が'''[[門頭溝区]]'''にそれぞれ改称。 ** 五区が東単区・西単区・東四区・西四区に分割編入。 ** 九区が崇文区・宣武区に分割編入。 ** 十四区が西四区・東郊区・海淀区に分割編入。 ** 東郊区の一部が東四区に編入。 * 1952年7月23日 - 河北省通県専区'''[[宛平県]]'''を編入。(13区1県) * 1952年9月 (13区) ** 門頭溝区および宛平県・石景山区の各一部が河北省通県専区[[房山区|房山県]]・[[良郷県]]の各一部と合併し、'''[[京西鉱区]]'''が発足。 ** 宛平県の残部が海淀区に編入。 * 1955年4月 - 南苑区の一部が崇文区に編入。(13区) * 1955年6月 - 東郊区の一部が東四区・東単区・崇文区に分割編入。(13区) * 1955年12月21日 (13区) ** 東単区の一部(大庭房)が東四区に編入。 ** 東四区の一部(八条下坡)が東単区に編入。 * 1956年3月9日 - 河北省通県専区'''昌平県'''を編入。(14区) ** 昌平県が区制施行し、'''[[昌平区]]'''となる。 ** 河北省通県専区[[通県]]の一部が東郊区に編入。 * 1956年3月17日 (14区) ** 東郊区の一部が海淀区に編入。 ** 海淀区の一部が西単区・西四区・石景山区に分割編入。 ** 京西鉱区の一部が石景山区・豊台区に分割編入。 ** 南苑区の一部が豊台区に編入。 ** 豊台区の一部が宣武区に編入。 * 1957年9月30日 - 河北省通県専区[[大興区|大興県]]の一部が南苑区に編入。(14区) * 1957年12月4日 - 河北省通県専区[[順義県]]の一部が東郊区に編入。(14区) * 1958年2月25日 - 昌平区の一部が海淀区に編入。(14区) * 1958年3月7日 - 河北省通県専区'''[[通州市]]'''・'''[[通県]]'''・'''[[順義県]]'''・'''[[大興区|大興県]]'''・'''[[良郷県]]'''・'''[[房山区|房山県]]'''を編入。(14区1市5県) * 1958年4月8日 - 前門区が崇文区・宣武区に分割編入。(13区1市5県) * 1958年5月3日 (12区1市5県) ** 石景山区が豊台区・海淀区・門頭溝区に分割編入。 ** 東郊区が'''[[朝陽区 (北京市)|朝陽区]]'''に改称。 ** 京西鉱区が'''門頭溝区'''に改称。 * 1958年5月16日 (10区1市5県) ** 西単区・西四区が合併し、'''[[西城区]]'''が発足。 ** 東四区および東単区の一部が合併し、'''[[東城区 (北京市)|東城区]]'''が発足。 ** 東単区の残部が朝陽区に編入。 * 1958年5月29日 (13区) ** 通州市および通県の一部が合併し、'''通州区'''が発足。 ** 房山県および良郷県の一部が合併し、'''[[周口店区]]'''が発足。 ** 大興県および南苑区の一部が合併し、'''大興区'''が発足。 ** 順義県が区制施行し、'''順義区'''となる。 ** 通県の残部が朝陽区・大興区に分割編入。 ** 良郷県の残部が豊台区に編入。 ** 南苑区の残部が豊台区・朝陽区に分割編入。 ** 門頭溝区の一部が周口店区に編入。 * 1958年8月 - 海淀区の一部が昌平区・豊台区に分割編入。(13区) * 1958年9月 - 朝陽区の一部が通州区に編入。(13区) * 1958年10月20日 - 河北省承徳専区'''[[懐柔県]]'''・'''[[密雲県]]'''、唐山専区'''[[平谷県]]'''、張家口専区'''[[延慶県]]'''を編入。(13区4県) * 1958年10月 (13区4県) ** 通州区の一部が朝陽区に編入。 ** 昌平区の一部が海淀区に編入。 ** 河北省唐山専区[[薊県]]の一部が平谷県に編入。 * 1959年11月 (13区4県) ** 密雲県の一部が順義県に編入。 ** 海淀区の一部が昌平区に編入。 * 1960年1月7日 (8区9県) ** 昌平区が県制施行し、'''[[昌平区|昌平県]]'''となる。 ** 通州区が県制施行し、'''[[通県]]'''となる。 ** 順義区が県制施行し、'''[[順義県]]'''となる。 ** 大興区が県制施行し、'''[[大興区|大興県]]'''となる。 ** 周口店区が県制施行し、'''[[房山区|房山県]]'''となる。 * 1960年6月18日 - 順義県の一部([[北京首都国際空港]])が朝陽区に編入。(8区9県) * 1963年7月8日 - 豊台区・海淀区・門頭溝区の各一部が合併し、'''[[石景山区|石景山弁事処]]'''が発足。(8区9県1弁事処) * 1964年2月 - 石景山弁事処の一部が豊台区に編入。(8区9県1弁事処) * 1967年8月7日 - 石景山弁事処が区制施行し、'''[[石景山区]]'''となる。(9区9県) * 1970年10月21日 - 豊台区の一部が宣武区に編入。(9区9県) * 1974年8月1日 - 房山県の一部が分立し、'''[[燕山区|石油化工区弁事処]]'''が発足。(9区9県1弁事処) * 1980年10月20日 - 石油化工区弁事処が区制施行し、'''[[燕山区]]'''となる。(10区9県) * 1986年11月11日 - 房山県・燕山区が合併し、'''[[房山区]]'''が発足。(10区8県) * 1987年11月30日 - 朝陽区の一部が西城区に編入。(10区8県) * 1996年6月24日 - 大興県の一部が豊台区に編入。(10区8県) * 1997年4月29日 - 通県が区制施行し、'''[[通州区 (北京市)|通州区]]'''となる。(11区7県) * 1998年3月3日 - 順義県が区制施行し、'''[[順義区]]'''となる。(12区6県) * 1999年9月16日 - 昌平県が区制施行し、'''[[昌平区]]'''となる。(13区5県) * 2001年1月9日 - 大興県が区制施行し、'''[[大興区]]'''となる。(14区4県) * 2001年12月30日 (16区2県) ** 懐柔県が区制施行し、'''[[懐柔区]]'''となる。 ** 平谷県が区制施行し、'''[[平谷区]]'''となる。 * 2002年9月12日 - 豊台区の一部が宣武区に編入。(16区2県) * 2010年6月28日 (14区2県) ** 東城区・崇文区が合併し、'''[[東城区 (北京市)|東城区]]'''が発足。 ** 西城区・宣武区が合併し、'''[[西城区]]'''が発足。 * 2015年10月13日 (16区) ** 密雲県が区制施行し、'''[[密雲区]]'''となる。 ** 延慶県が区制施行し、'''[[延慶区]]'''となる。 ====河北省通県専区==== * 1949年10月1日 - 中華人民共和国[[河北省]]'''通県専区'''が成立。'''[[通県]]'''・'''[[順義県]]'''・'''[[密雲県]]'''・'''[[懐柔県]]'''・'''[[昌平区|昌順県]]'''・'''[[大興区|大興県]]'''・'''[[宛平県]]'''・'''[[良郷県]]'''・'''[[房山区|房山県]]'''・'''[[薊県]]'''・'''[[香河県]]'''・'''[[三河市|三河県]]'''・'''[[平谷県]]'''が発足。(13県) * 1949年10月17日 - 昌順県が'''[[昌平区|昌平県]]'''に改称。(13県) * 1949年10月 (13県) ** 昌平県の一部(董家溝村・里長溝村・景児溝村・慈母川村・鉄炉子村・露破石村・沙塘溝村)が[[察哈爾省]]察南専区[[延慶県]]に編入。 ** 察哈爾省察南専区延慶県の一部(三堡地区)が昌平県に編入。 ** 唐山専区[[玉田県]]の一部が薊県に編入。 * 1949年12月19日 - 通県の一部が分立し、'''[[通州区 (北京市)|通県鎮]]'''が発足。(13県1鎮) * 1950年2月 - 通県の一部が三河県に編入。(13県1鎮) * 1950年4月19日 - 房山県の一部が保定専区[[淶水県]]に編入。(13県1鎮) * 1950年4月 - 順義県の一部が昌平県に編入。(13県1鎮) * 1950年5月29日 - 密雲県の一部が平谷県に編入。(13県1鎮) * 1950年6月1日 - 順義県の一部が通県・三河県・平谷県・密雲県に分割編入。(13県1鎮) * 1950年6月 (13県1鎮) ** 通県の一部が三河県に編入。 ** 密雲県の一部が平谷県に編入。 * 1950年7月 - 天津専区[[武清県]]の一部が香河県に編入。(13県1鎮) * 1950年9月 - 薊県の一部が唐山専区玉田県に編入。(13県1鎮) * 1950年10月9日 - 昌平県の一部が北京市十三区に編入。(13県1鎮) * 1950年11月14日 - 通県の一部が天津専区武清県に編入。(13県1鎮) * 1950年12月11日 - 密雲県の一部が[[熱河省 (中華人民共和国)|熱河省]][[興隆県]]に編入。(13県1鎮) * 1951年1月11日 - 通県鎮が通県に編入。(13県) * 1951年7月6日 - 通県の一部が分立し、'''[[通州区 (北京市)|通県鎮]]'''が発足。(13県1鎮) * 1951年11月20日 - 昌平県の一部が北京市十三区に編入。(13県1鎮) * 1951年12月28日 - 熱河省[[灤平県]]の一部が懐柔県に編入。(13県1鎮) * 1951年12月 - 密雲県の一部が熱河省興隆県に編入。(13県1鎮) * 1952年5月 - 薊県の一部が三河県に編入。(13県1鎮) * 1952年6月1日 - 熱河省灤平県の一部が懐柔県に編入。(13県1鎮) * 1952年7月23日 - 宛平県が'''北京市'''に編入。(12県1鎮) * 1952年9月 - 房山県・良郷県の各一部が北京市[[門頭溝区]]および宛平県・[[石景山区]]の各一部と合併し、北京市'''[[京西鉱区]]'''となる。(12県1鎮) * 1952年9月18日 - 熱河省灤平県の一部が懐柔県に編入。(12県1鎮) * 1952年12月12日 - 熱河省興隆県の一部が密雲県に編入。(12県1鎮) * 1953年4月 - 通県の一部が昌平県・香河県・大興県に分割編入。(12県1鎮) * 1953年6月 (12県1鎮) ** 平谷県の一部(太保荘・高各荘)が密雲県に編入。 ** 密雲県の一部(李家峪)が平谷県に編入。 * 1953年7月1日 - 香河県の一部が天津専区武清県に編入。(12県1鎮) * 1953年11月6日 - 通県鎮が市制施行し、'''[[通州市]]'''となる。(1市12県) * 1953年12月30日 - 薊県の一部が三河県・平谷県に分割編入。(1市12県) * 1954年3月 - 通県の一部が香河県に編入。(1市12県) * 1954年4月24日 - 保定専区'''[[固安県]]'''を編入。(1市13県) * 1955年3月3日 - 三河県・香河県の各一部が合併し、'''[[大廠回族自治県]]'''が発足。(1市13県1自治県) * 1955年3月14日 - 張家口専区[[赤城県]]の一部が懐柔県に編入。(1市13県1自治県) * 1955年3月29日 - 固安県の一部が大興県に編入。(1市13県1自治県) * 1955年8月12日 - 懐柔県の一部が密雲県に編入。(1市13県1自治県) * 1956年2月 - 昌平県の一部が大興県に編入。(1市13県1自治県) * 1956年3月9日 (1市12県1自治県) ** 昌平県が'''北京市'''に編入。 ** 通県の一部が北京市[[朝陽区 (北京市)|東郊区]]に編入。 * 1956年5月24日 (1市12県1自治県) ** 房山県の一部が良郷県に編入。 ** 順義県の一部が懐柔県・密雲県に分割編入。 ** 密雲県の一部が平谷県に編入。 ** 三河県の一部が大廠回族自治県に編入。 * 1956年9月18日 - 懐柔県の一部が張家口専区延慶県に編入。(1市12県1自治県) * 1957年4月2日 - 保定専区淶水県の一部が房山県に編入。(1市12県1自治県) * 1957年9月30日 - 大興県の一部が北京市[[南苑区]]に編入。(1市12県1自治県) * 1957年10月11日 - 三河県の一部が大廠回族自治県に編入。(1市12県1自治県) * 1957年12月4日 - 順義県の一部が北京市東郊区に編入。(1市12県1自治県) * 1958年3月7日 - 通州市・通県・順義県・大興県・良郷県・房山県が'''北京市'''に編入。(7県1自治県) * 1958年4月28日 ** 平谷県・薊県・三河県・香河県・大廠回族自治県が'''唐山専区'''に編入。 ** 密雲県・懐柔県が'''承徳専区'''に編入。 ** 固安県が'''天津専区'''に編入。 </div></div> == 人口 == 北京市の人口は2000万人を突破し、2014年には2152万人となった<ref>[http://data.stats.gov.cn]</ref>。戸籍人口1,755万人(2009年末)あまりで、他に公安機関(警察)に一時住居登録している[[流動人口]]が364.9万人、都心人口が917.61万人(2008年12月)いる。構成は96%が[[漢民族]]で、残り4%は55の少数民族で構成されている。 [[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域の人口]]は1,395万人であり、世界第16位である<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。 == 経済 == [[ファイル:Beijing_Financial_Street_(overlook).jpg|thumb|200px|right|西二環路にある[[北京金融街]]は、北京経済の中心地である]] [[ファイル:中关村广场.jpg|thumb|200px|IT産業や研究所が集積し、中国の[[シリコンバレー]]とも呼ばれる[[中関村]]]] [[2014年]]の北京市の市内総生産は約2兆1320億元であり<ref>[http://baike.baidu.com/link?url=M-3vYXqnZq8JdXDsCMPZth6gXRiXIj6suoT6fW6CzmuwHvtrX8vQA3rooTzGvt2AJcWHLmP14VVHgMc0iipYJ7AcMdtA8J1S7-KxXFEpSDnz2SkKPAB33tU7zJVtczB7GQTy5HEAqsYO-4RO5eF6Nq]</ref>、[[上海市]]に次いで中国本土第2位である。[[2014年]]の北京都市圏の総生産は4811億ドルであり、世界11位の経済規模を有する<ref>[https://www.thechicagocouncil.org/issue/global-cities Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World] Chicago Council on Global Affairs 2016年10月28日閲覧。</ref>。 アメリカの[[シンクタンク]]が[[2020年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、[[ニューヨーク]]、[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[東京]]に次ぐ世界5位の[[都市]]と評価され、特にビジネス活動の分野ではニューヨークに次いで高い評価を受けた<ref>{{Cite web|title=Read @Kearney: 2020 Global Cities Index: New priorities for a new world|url=https://www.kearney.com/global-cities/2020|website=www.kearney.com|accessdate=2021-01-27|language=en-US}}</ref>。[[2022年]]9月のイギリスの[[シンクタンク]]によると、世界8位の[[金融センター]]であり、中国では香港や上海に次ぐ3位である<ref>[https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/ The Global Financial Centres Index] 2022年9月24日閲覧。</ref>。 イギリスの「[[:en:Globalization and World Cities Research Network|グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク]]」(GaWC)が2020年に公表した[[金融]]、[[会計]]、[[法律]]、[[広告]]、[[経営コンサルタント]]などビジネス分野を対象とした世界都市格付けにおいて、最高峰の[[ロンドン]]と[[ニューヨーク]]の2都市に次ぎ、[[パリ]]、[[東京]]と同じく"アルファ+"級世界都市として選定された<ref>{{Cite web|title=GaWC - The World According to GaWC 2020|url=https://www.lboro.ac.uk/gawc/world2020t.html|website=www.lboro.ac.uk|accessdate=2021-01-27}}</ref>。[[2013年]]からは[[フォーチュン・グローバル500]]においては、[[東京]]を超えて世界で最も大企業の本社が集積している都市との評価を受けている<ref>{{Cite web|和書|date=2014-06-22|url=http://www.focus-asia.com/socioeconomy/economy/386576/|format|title=フォーチュン500社の企業、北京本社が最多に 東京抜く―中国メディア|publisher=[[フォーカス・アジア]]|accessdate=2016-07-31}}</ref>。[[2015年]]には[[ニューヨーク]]、[[ロシア]]の[[モスクワ]]を超えて世界で最も億万長者が多い都市となった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-02-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3078309|format|title=北京、世界で最も多く億万長者が住む都市にNYを上回る|publisher=[[フランス通信社|AFP]]|accessdate=2016-03-01}}</ref>。 北京市統計局が公表した[[2010年]]の全従業員の平均賃金は年50,415元(約63万円)である<ref>[http://www.919myts.com.cn/topics/newsDetail.php?news_id=110509163111104157 北京:従業員平均月収は4201元]</ref>。月当たりだと4,201元(約5万円)である。また、[[2012年]]の最低賃金基準は1時間当たり7.2元(約90円)、月当たり1,260元(約1万6000円)である<ref>[http://www.nacglobal.net/2012/01/2012minimum-wage-law-in-beijing/ 北京市2012年最低賃金基準調整に関する通知]</ref>。一方、非全日制就業労働者の1時間あたり最低賃金は14元(約170円)である。 北京市は、[[ハイテク]]民営企業、研究開発拠点、中国ビジネスの統括拠点としての発展を目指すものと見られる。産業構造では[[第三次産業]]への依存が高い。2003年[[国内総生産|GDP]]の61.4%が第三次産業である一方、[[第二次産業]]の比率は36.0%で、[[第一次産業]]に至ってはわずか2.6%に過ぎない。ちなみに中国全体では第三次産業の比率は32.3%で、[[上海]]でも48.4%である。近年では外資企業の第三次産業での進出も加速している。市中心部では、[[中心業務地区|CBD]]構想([[北京商務中心区|北京CBD]]計画)が着々と進むなど、北京市は上海と並ぶ中国ビジネスの統括拠点としての役割も強めている。この他、北京市は[[環渤海経済圏]]、京津冀都市経済圏における中心都市として、周辺地域との経済的な協調を図りながら効率性の高い発展を志向するものとみられる。 また、北京には多くの大学・研究機関が集中しており、多くの優秀な人材が社会へと巣立っている。 == 政治 == [[ファイル:中南海 傍晚 东南侧.jpg|thumb|中国の権力の象徴である[[中南海]]]] [[紫禁城#故宮博物院|故宮]]の西側に隣接する[[中南海]]には[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高領導人]](最高指導者)の居住地や[[中国共産党]]の本部と中央政府の[[中華人民共和国国務院|国務院]]などが所在し、[[人民大会堂]]では最高権力機関である[[全国人民代表大会]]が毎年開催されている。 == 軍事 == [[中部戦区]]司令部所在地であり、首都警備の任にあたる衛戍部隊3個師団が市内に駐屯する。国際的な国境警備の任にあたる[[上海協力機構]]の本部も所在する。 == 交通 == [[ファイル:Chang'an avenue in Beijing.jpg|thumb|230px|[[長安街]]]] [[ファイル:Beijing Railway Station China.jpg|thumb|230px|[[北京駅]]]] [[ファイル:Beijing West train station 01 edit.jpg|thumb|230px|[[北京西駅]]]] [[ファイル:Beijing South Railway Station 200808.jpg|thumb|230px|[[北京南駅]]]] === 道路 === [[1960年代]] - 70年代に街の交通の障害になるという理由で、[[明|明代]]の内城の城壁が撤去された。その跡には新たに移動の大動脈として一周約32kmの第二環状線が築かれている。その外側にさらに3つの環状線が敷かれており、現在6つの[[環状道路]]が開通。第7環状道路は現在計画中である。さらに環状2号線から放射状に12の国道が国内各地にのびる。北京から[[天津]]を経由して、[[渤海 (海域)|渤海]]沿岸の[[塘沽]]までなど、6本の高速道路が建設された。 2010年、北京では、自動車の登録台数が1年で75万台超も増え、470万台を突破している。自動車の普及に道路や駐車場などインフラ整備が追いつかず、渋滞が深刻化している。8月の米誌[[:en:Foreign Policy|フォーリン・ポリシー]]の記事では、世界で最も交通渋滞が深刻な都市に北京を挙げている。北京市ではこの状態を少しでも改善するため、公共交通優先措置、自動車のナンバープレートによる運行制限などを実施、年間の登録台数の制限も実施するとしている<ref>[https://www.recordchina.co.jp/b47771-s0-c70-d0000.html 渋滞に大気汚染…まん延する「自動車病」―中国]</ref>。 2013年になり[[北京咳|大気汚染]]は悪化の一途をたどり、北京市も対策に乗り出した。 同年[[9月29日]]には市の大気汚染が最悪レベルになった<ref>[http://biwako-otsu.keizai.biz/gpnews/43727/ 北京の大気汚染、最悪レベルに=中国] - びわ湖大津経済新聞(2013年9月29日閲覧)</ref>。 === 鉄道 === 北京は[[中国国鉄]]の中心地であり、国内全省都への直通列車や、近隣諸国への[[国際列車]]が発着する。[[モスクワ]]、[[ウランバートル]]、[[平壌直轄市|平壌]]行きの[[国際列車]]をはじめ、国内全ての省、市、自治区の首府を結ぶ直行列車が発着する。2011年6月には、経済の中心地である[[上海市|上海]]とを結ぶ[[京滬高速鉄道]]が開業した<ref>{{Wayback|url=http://japanese.cri.cn/881/2011/06/30/162s177169.htm|title=京滬高速鉄道開通、中国鉄道の新時代を切り開く|date=20120521162548}}{{リンク切れ|date=2020-5}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://agora-web.jp/archives/1356229.html|title=北京-上海間の高速鉄道に乗ってみる|author=小谷まなぶ|date=2011-7-11 |accessdate=2020-5-23|publisher=アゴラ}}</ref>。巨大ターミナル駅として、中央駅の[[北京駅]]や[[北京西駅]]、[[北京南駅]]が挙げられる。またその他に大きな駅として、[[北京東駅]]、[[北京北駅]]、[[北京大興駅]]、[[豊台駅]]、[[通州西駅]]がある。 市中心部、郊外の交通は、[[北京地下鉄]]が担っている。また、2006年には[[北京市政交通カード]]とよばれるICカードを導入、自動改札機も全線・全駅で導入されている。2008年8月の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の開催を契機に路線網が急速に拡大し、2020年末現在では総延長はおよそ727Kmとなる<ref>{{cite news|accessdate=2021-09-01|url= http://www.bj.chinanews.com/news/2021/0101/80324.html|title=3条轨道交通线路开通 本市路网总里程增至727公里}}</ref>。 ; 中国国鉄の主な路線 {{div col}} * [[京滬線]] * [[京広線]] * [[京哈線]] * [[京九線]] * [[京承線]] * [[京包線]] * [[京原線]] * [[京通線]] * [[豊沙線]] * [[大秦線]] * [[京津都市間鉄道]] * [[京滬高速鉄道]] * [[京港旅客専用線]] * [[京雄都市間鉄道]] * [[京張都市間鉄道]] {{div col end}} ; 地下鉄の路線 {{main|北京地下鉄}} [[ファイル:Beijing-Subway.png|thumb|right|450px|2020年12月31日現在の地下鉄路線図]] {{div col}} * [[北京地下鉄1号線|1号線]] * [[北京地下鉄2号線|2号線]] * [[北京地下鉄4号線|4号線]] * [[北京地下鉄5号線|5号線]] * [[北京地下鉄6号線|6号線]] * [[北京地下鉄7号線|7号線]] * [[北京地下鉄8号線|8号線]] * [[北京地下鉄9号線|9号線]] * [[北京地下鉄10号線|10号線]] * [[北京地下鉄11号線|11号線]] * [[北京地下鉄13号線|13号線]] * [[北京地下鉄14号線|14号線]] * [[北京地下鉄15号線|15号線]] * [[北京地下鉄16号線|16号線]] * [[北京地下鉄17号線|17号線]] * [[北京地下鉄19号線|19号線]] * [[北京地下鉄八通線|八通線]] * [[北京地下鉄大興線|大興線]] * [[北京地下鉄亦荘線|亦荘線]] * [[北京地下鉄房山線|房山線]] * [[北京地下鉄燕房線|燕房線]] * [[北京地下鉄昌平線|昌平線]] * [[北京地下鉄首都機場線|首都機場線]] * [[北京地下鉄大興機場線|大興機場線]] * [[北京地下鉄S1線|S1線]] {{div col end}} ; ライトレールの路線 * [[北京地下鉄西郊線|西郊線]]荘 * [[北京亦荘新城現代路面電車T1線|亦荘T1線]] === 航空 === [[ファイル:Beijing_New_Airport.jpg|thumb|right|230px|[[北京大興国際空港]]]] [[ファイル:Beijing satellite image, LandSat-5, 2010-08-08.jpg|thumb|right|230px|北京の衛星写真]] *北京の玄関口として[[北京首都国際空港]]が北京中心部から約25キロ北東に位置する。この空港は中国最大級の空港かつ、もっとも忙しい空港である。[[アジア]]でも最大級の規模を持つ[[中国国際航空]]及び[[海南航空]]、[[中国南方航空]]の[[ハブ空港]]である。 *北京中心部から約13キロ南には、[[清]]の時代から続く中国最古の[[北京南苑空港]]がある。この空港は軍民共用であり、市内へのアクセスが[[北京首都国際空港]]よりも良い。北京南苑空港は[[北京大興国際空港]]が開港したことを受け、2019年10月に閉鎖された。 *軍用空港である[[北京西郊空港]]は、北京では南苑空港に次ぐ古い空港で市街から最も近い。 *[[北京大興国際空港]]が2019年9月25日に軍民共用として開港した<ref>{{cite journal|url= https://www.j-cfa.com/report/feature/世界最大規模の北京大興国際空港が開港/|title= 世界最大規模の北京大興国際空港が開港 |publisher=公益社団法人日本中国友好協会|journal=会報「日本と中国」|date=2020-1-1|accessdate=2020-5-23}}</ref>。 == 文化 == [[ファイル:Beijing Egg.jpg|thumb|200px|[[中国国家大劇院]]]] * [[北京語]] * [[北京料理]] * [[京劇]] * [[798芸術区]] * [[膀爺]]<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3280613|title=北京市、「非文明的」行為を禁止 公衆衛生の向上目指す|publisher=AFPBB News|accessdate=2020-5-23|date=2020-4-27}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.cnn.co.jp/travel/35139528.html |publisher=CNN.co.jp |title=男性が腹を出す「北京ビキニ」、中国済南市で禁止に 「非文明的」|accessdate=2020-5-23|date=2019-7-5}}</ref> === 音楽 === 北京には多くの[[ロック (音楽)|ロック]]専門の[[ミュージシャン]]が集まり、北京を彼らの音楽人生の始まりとして見る。前衛的なアーティスト達も活躍している<ref>[http://www.yaogun.com/link/history.htm]</ref>。 === メディア === {{Main|北京の報道メディアの一覧}} [[北京電視台]]が[[国営放送]]網として北京に所在し、主として1から10までの番号をふられた[[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]をそれぞれ放送する。 == スポーツ == {{Main|Category:北京のスポーツチーム}} === オリンピック === [[2008年]][[8月8日]]から[[8月24日]]にかけて、北京市で中国初の[[夏季オリンピック]]である[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]が開催された。さらに[[2022年]][[2月4日]]から[[2月20日]]にかけては、同じく北京市で中国初の[[冬季オリンピック]]となる[[2022年北京オリンピック]]が開催された<ref>{{cite news |url= https://www.olympic.org/news/beijing-named-host-city-of-olympic-winter-games-2022 |title=Beijing named host city of Olympic Winter Games 2022 |work=[[国際オリンピック委員会|International Olympic Committee]] |date=31 July 2015 |accessdate=2018-01-01}}</ref>。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった<ref>{{cite news|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=6715 |title=北京で22年冬季五輪 史上初の夏冬両大会開催 |publisher=[[日本オリンピック委員会]] |date=2015-07-31 |accessdate=2018-01-01}}</ref>。 === サッカー === {{Main|北京中赫国安足球倶楽部}} 北京市にはプロ[[サッカー]]クラブとして、[[中国サッカー・スーパーリーグ]]に所属する'''[[北京中赫国安足球倶楽部|北京中赫国安]]'''と、[[中国サッカー・甲級リーグ|甲級リーグ]]に所属する'''[[北京北体大足球倶楽部|北京北体大]]'''が存在している。かつては'''[[北京人和足球倶楽部|北京人和]]'''も存在していたが、[[2021年]]に債務問題と給与未払い問題が発覚しクラブは解散した。なお、北京中赫国安は中国国内最大級の[[スタジアム]]である「[[北京国家体育場]]」をホームスタジアムとしており、この場所は[[2008年北京オリンピック|2008年北京五輪]]および[[2022年北京オリンピック|2022年北京五輪]]の[[オリンピック・スタジアム|メインスタジアム]]としても知られる。 == 教育 == 北京は、中国国内で最も大学の数が多い。また、[[清華大学]]や[[北京大学]]など、国内最上級の優秀な大学が所在している。 日本人の語学留学生([[標準中国語]])の行き先は、北京が一番多い。これは語学留学生を受け入れている学校(大学)数が、中国国内で最も多いことが関係している。また、中国の中心地であるため有名な建築物が多く、比較的[[標準語]]に近い言葉を話している地域である。 === 大学 === {{main|北京市の大学一覧}} === 日本人学校 === * [[北京日本人学校]] === 博物館 === {{div col}} * [[明の十三陵]] 長陵分館、定陵分館、昭陵分館、神道分館 * [[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]] * 首都博物館 * [[北京古観象台]] * 中国長城博物館 * [[中国国家博物館]] * 山戎文化陳列館 * [[周口店遺跡]]博物館 * 西周燕都遺跡博物館 * 中国人民抗日戦争記念館 * [[茅盾]]故居 * [[宋慶齢]]故居 * [[老舎]]記念館 * [[郭沫若]]記念館 * 北京[[魯迅]]博物館 * [[北京天文館]] * [[北京自然博物館]] * [[中国地質博物館]] * 中国農業博物館 * 中国科学技術館 * 中華宇宙博物館 * [[中国鉄道博物館]] * [[中国空軍航空博物館]] * [[中国美術館]] * 中央民族大学民族博物館 * [[中国人民革命軍事博物館]] * 密雲区博物館 * 通州区博物館 {{div col end}} {{Wide image|The Calligraphy Model Mid-Autumn by Wang Xianzhi.jpg|3000px|中秋帖([[王献之]]作、[[東晋]]時代)|dir=rtl}} == 観光 == {{see also|北京市の公園の一覧}} [[ファイル:Taihe Palace in twilight.JPG|thumb|240px|[[紫禁城]]]] 中国の代表的な観光都市として知られ、50万年前からの人類が生活してきた歴史、3000余年の街造りの歴史、700余年も全国的な政権が都をこの地に置いた歴史があり、中国の七大古都の1つである。北京は古都にふさわしい第一級の名勝史跡に恵まれており、外国人観光客数、観光外貨収入は国内第1位である。[[紫禁城]]や[[天安門広場]]、[[庭園]]、古くから[[市民]]の居住する街並みである[[胡同|衚衕]]などがあり海外からの観光客も多く訪れる都市である。 === 世界遺産 === * [[北京と瀋陽の明・清王朝皇宮]] - [[紫禁城|北京故宮]](文化遺産、1987年) * [[万里の長城]] - [[八達嶺長城]](文化遺産、1987年) * [[周口店の北京原人遺跡]](文化遺産、1987年) * [[頤和園]](文化遺産、1998年) * [[天壇]](文化遺産、1998年) * [[明・清王朝の皇帝墓群]] - [[明の十三陵]](文化遺産、2000年) * [[京杭大運河|大運河]](文化遺産、2014年) ===娯楽施設=== *[[石景山遊楽園]] *[http://www.bluezoo.com.cn/ 富国海底世界] *[http://www.bfshoot.com/ 中国北方国際射撃場](中国兵器装備研究所内) {{Gallery | width= 140 | height=140 |ファイル:Tiananmen.JPG|[[天安門]] |ファイル:Tiananmen Square.JPG|[[天安門広場]] |File:Monument_to_the_People's_Heroes,_Beijing,_from_southwest.jpg|[[人民英雄紀念碑]] |ファイル:Forbidden City Beijing Shenwumen Gate.JPG|[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]] |ファイル:WPJingshanParkHill.jpg|[[景山公園]] |ファイル:中南海_傍晚_东南侧.jpg|[[中南海]] |ファイル:Tiananmen_Square3.jpg|[[正陽門]] |File:北京内城东南角楼.jpg|{{仮リンク|北京内城東南角楼|zh|北京内城东南角楼}} |ファイル:The Beijing Gulou.JPG|{{仮リンク|北京鼓楼|zh|北京鼓楼和钟楼}} |File:Zhonglou.jpg|{{仮リンク|北京鐘楼|zh|北京鼓楼和钟楼}} |File:Beijing hutong area 5.jpg|[[南鑼鼓巷]] |File:Gongwangfu.JPG|[[:zh:恭王府|恭王府]] |File:Miaoying Temple main palace.jpg|[[:zh:妙应寺|妙応寺]] |ファイル:Wangfujing street, Beijing.JPG|[[王府井]] |ファイル:Beijing Cathedral 1.jpg|[[王府井天主堂]] |ファイル:Beijinglifepic3.jpg|[[宣武門天主堂]] |ファイル:Beihai park - bridge to white pagoda.JPG|[[北海公園]] |File:Beijing Shichahai.jpg|[[:zh:什刹海|什刹海]](前海、後海、西海) |ファイル:Old Planetarium - view from back.JPG|[[:en:Beijing Ancient Observatory|北京古観象台]] |ファイル:SA Temple of Heaven.jpg|[[天壇]] |File:North Holy Gate (Temple of Moon).JPG|[[月壇]] |ファイル:Erdaltar_01.jpg|[[地壇]] |ファイル:Qianmen Street 1.jpg|[[前門大街]] |File:Beijing hutong 2005-3.JPG|[[琉璃厰]] |ファイル:Hutong 1 (Snowyowls).jpg|[[胡同]]の[[四合院]] |File:WhiteCloudpic1.jpg|[[白雲観]] |ファイル:Babaoshan_cemetery_entrance_2012_01.jpg|[[八宝山革命公墓]] |ファイル:Stade national Beijing0707.jpg|[[北京国家体育場]] |ファイル:National Grand Theatre.jpg|[[中国国家大劇院]] |ファイル:China Millennium Monument.jpg|[[中華世紀壇]] |ファイル:Niujie Mosques02.jpg|[[牛街清真寺]] |ファイル:Lamatempel vor-Yonghe-Gong-Halle.jpg|[[雍和宮]] |File:CCTV-new-building.jpg|[[中国中央電視台本部ビル]] |ファイル:CCTV Tower, Beijing.jpg|[[中央広播電視塔]] |ファイル:Front Gate of Beijing Zoo.JPG|[[北京動物園]] |ファイル:Oldsummerpalaceruin.jpg|[[円明園]] |ファイル:Summerpalace beijing.jpg|[[頤和園]] |File:Fragrant Hills-pagoda.JPG|[[:zh:香山公园|香山公園]] |File:Lugouqiao2.jpg|[[盧溝橋]] |File:Cuandixia Village.jpg|[[川底下村]] |ファイル:Ling En Gate, Chang Ling.jpg|[[明の十三陵]] |ファイル:The_Great_wall_-_by_Hao_Wei.jpg|[[万里の長城]] |File:Old_Dragon's_Head_of_Great_Wall.jpg|[[山海関]] }} == 姉妹都市 == {| class="wikitable sortable" border="1" ! 都市 ! 国 ! 姉妹都市になった日付<ref>{{Cite web|url=http://tjj.beijing.gov.cn/nj/main/2018-tjnj/zk/html/ch10-12.JPG|title=北京統計年鑑2018 10-12 北京市級友好城市|accessdate=2019/10/09|publisher=北京市統計局}}</ref> !姉妹都市関係終了の日付 |- |[[東京都]] |{{JPN}} |[[1979年]][[3月14日]] | |- |[[ニューヨーク]] |{{USA}} |[[1980年]][[2月25日]] | |- |[[ベオグラード]] |{{SRB}} |1980年[[10月14日]] | |- |[[リマ]] |{{PER}} |[[1983年]][[11月21日]] | |- |[[ワシントンD.C.]] |{{USA}} |[[1984年]][[5月15日]] | |- |[[マドリード]] |{{ESP}} |[[1985年]][[9月16日]] | |- |[[リオデジャネイロ]] |{{BRA}} |1986年[[11月24日]] | |- |[[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地域圏]] |{{FRA}} |[[1987年]][[7月2日]] | |- |[[ケルン]] |{{GER}} |1987年[[9月14日]] | |- |[[アンカラ]] |{{TUR}} |[[1990年]][[6月20日]] | |- |[[カイロ県]] |{{EGY}} |1990年[[10月28日]] | |- |[[ジャカルタ]] |{{IDN}} |[[1992年]][[8月4日]] | |- |[[イスラマバード]] |{{PAK}} |1992年[[10月8日]] | |- |[[バンコク]] |{{THA}} |[[1993年]][[5月26日]] | |- |[[ブエノスアイレス]] |{{ARG}} |1993年[[7月13日]] | |- |[[ソウル特別市]] |{{ROK}} |1993年[[10月23日]] | |- |[[キエフ|キーウ]] |{{UKR}} |1993年[[12月13日]] | |- |[[ベルリン]] |{{DEU}} |[[1994年]][[4月5日]] | |- |[[ブリュッセル]] |{{BEL}} |1994年[[9月22日]] | |- | [[ハノイ]] |{{VNM}} |1994年[[10月6日]] | |- |[[アムステルダム]] |{{NLD}} |1994年[[10月29日]] | |- |[[モスクワ]] |{{RUS}} |[[1995年]][[5月16日]] | |- |[[パリ]] |{{FRA}} |[[1997年]][[10月23日]] | |- |[[ローマ]] |{{ITA}} |[[1998年]][[5月28日]] | |- |[[ハウテン州]] |{{ZAF}} |1998年[[12月6日]] | |- |[[オタワ]] |{{CAN}} |[[1999年]][[10月18日]] | |- |[[キャンベラ]] |{{AUS}} |[[2000年]][[9月14日]] | |- |[[マドリード州]] |{{ESP}} |[[2005年]][[1月17日]] | |- |[[アテネ]] |{{GRC}} |2005年[[5月10日]] | |- |[[ブダペスト]] |{{HUN}} |2005年[[6月16日]] | |- |[[ブカレスト]] |{{ROU}} |2005年[[6月21日]] | |- |[[ハバナ]] |{{CUB}} |2005年[[9月24日]] | |- |[[マニラ]] |{{PHL}} |2005年[[11月14日]] | |- |[[ロンドン]] |{{GBR}} |[[2006年]][[4月11日]] | |- |[[ウェリントン]] |{{NZL}} |2006年[[5月10日]] | |- |[[アディスアベバ]] |{{ETH}} |2006年[[4月17日]] | |- |[[ヘルシンキ]] |{{FIN}} |2006年[[7月14日]] | |- |[[アスタナ]] |{{KAZ}} |2006年[[11月16日]] | |- |[[テルアビブ|テル・アビブ]] |{{ISR}} |2006年[[11月21日]] | |- |[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]] |{{CHL}} |[[2007年]][[8月6日]] | |- |[[リスボン]] |{{PRT}} |2007年[[10月22日]] | |- |[[ティラナ]] |{{ALB}} |[[2008年]][[1月15日|3月21日]] | |- |[[ドーハ]] |{{QAT}} |2008年[[6月23日]] | |- |[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]] |{{CRI}} 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<ref>{{Wayback|url=http://www.ebeijing.gov.cn/ying/default.htm|title=Beijing Official Web Portal|date=20080516222136}}</ref> == 北京を舞台とした作品 == {{See|:Category:北京を舞台とした作品}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <ref name="population">{{Cite web |url=https://www.beijing.gov.cn/renwen/bjgk/rk/202303/t20230322_2941847.html |title=人口 |publisher=北京市人民政府 |date=2023-03-22 |accessdate=2023-08-22}}</ref> }} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=櫻井澄夫、人見豊、森田憲司編|title=北京を知るための52章|publisher=明石書店|date=2017年}} *{{Cite book|和書|author=竹内実|title=世界の都市の物語(9) 北京|publisher=文藝春秋|date=1992年|isbn=4-16-509610-5}} *{{Cite book|和書|author=陣内秀信ほか編|title=北京都市空間を読む|publisher=鹿島出版会|date=1998年|isbn=4-306-07212-6}} *{{Cite book|和書|author=多田貞一|title=北京地名誌|date=1938年|publisher=新民印書館}}(北京で中国語版も出版された) *{{Cite book|和書|author=松木民雄|title=北京地名考|publisher=朋友書店|date=1988年|isbn=978-4892810145}} *{{Cite book|和書|author=櫻井澄夫|title=中国・食と地名の雑学考|publisher=田畑書店|date=2005年|isbn=978-4803803181}} *新宮学「近世中国における首都北京の確立」『明清都市商業史の研究』汲古書院、2017年 ISBN 978-4-7629-6041-3 P13-46.(初出:鈴木博之, 石山修武, 伊藤毅, 山岸常人 編『近代都市の成立』〈シリーズ都市・建築・歴史5〉(東京大学出版会、2005年)) == 関連項目 == * [[中国の首都]] * [[北京語]] * [[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]] * [[:zh:北京城市副中心|北京城市副中心(中国語)]] * [[雄安新区]] * [[小惑星]][[北京 (小惑星)|(2045) Peking]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|中国|[[画像:National Emblem of the People's Republic of China (2).svg|36px|Portal:中国]]}} {{Commons&cat|北京|Beijing}} {{Wiktionary|北京}} {{Wikivoyage|zh:北京|北京{{zh-cn icon}}}} {{Wikivoyage|Beijing|北京{{en icon}}}} ; 公式 * [http://www.beijing.gov.cn/ 北京市公式サイト] {{zh icon}}{{en icon}}{{ja icon}}{{ko icon}}{{de icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{ru icon}}{{ar icon}} ; 日本政府 * [https://www.cn.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在中国日本国大使館]、[https://www.cn.emb-japan.go.jp/cul_edu_j.htm 日本大使館広報文化センター] ; 観光 * [http://japan.visitbeijing.com.cn/ 北京観光局] {{ja icon}} * [http://www.chinatrip.jp/beijing/ 北京観光案内] 桂林市天元国際旅行社有限公司{{ja icon}} ; 歴史地図 * [http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/google-maps/ 約250年前の北京の古地図『乾隆京城全図』] * [http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/landscape/ 北京古景観(要Google Earth)] * [http://dsr.nii.ac.jp/ppp/ 北京今昔写真] ; 新聞 * [http://cn.the-news-daily.com/city/北京 来自北京的最新消息] ; その他 * {{Kotobank|北京}} {{中国地理大区}} {{中華人民共和国の行政区画}} {{北京市の行政区画}} {{中華人民共和国の主要都市}} {{中華人民共和国国家歴史文化名城}} {{アジアの首都}} {{夏季オリンピック開催都市}} {{夏季パラリンピック開催都市}} {{冬季オリンピック開催都市}} {{冬季パラリンピック開催都市}} {{世界20大都市圏}} {{メガシティ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へきん}} [[Category:北京市|*]] [[Category:中華人民共和国の直轄市]] [[Category:中華人民共和国の省級行政区画]] [[Category:アジアの首都]] [[Category:国家歴史文化名城]]
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1207年
1207年(1207 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1207年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1207}} {{year-definition|1207}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建永]]2年、[[承元]]元年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1867年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[開禧]]3年 *** {{仮リンク|呉曦 (南宋)|zh|吴曦 (南宋)|label=呉曦}} : [[転運]]元年旧正月 - 旧2月 ** [[金 (王朝)|金]] : [[泰和 (金)|泰和]]7年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]30年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[応天 (西夏)|応天]]2年 ** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])2年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[熙宗 (高麗王)|熙宗]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3540年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[治平龍応]]3年 * [[仏滅紀元]] : 1749年 - 1750年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 603年 - 604年 * [[ユダヤ暦]] : 4967年 - 4968年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1207|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1207年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月7日]] - [[エルジェーベト (ハンガリー王女)|エルジェーベト]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ルートヴィヒ4世 (テューリンゲン方伯)|ルートヴィヒ4世]]の妻(+ [[1231年]]) * [[9月8日]] - [[サンシュ2世 (ポルトガル王)|サンシュ2世]]、第4代[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(+ [[1248年]]) * [[9月30日]] - [[ジャラール・ウッディーン・ルーミー]]、[[アフガニスタン]]出身の[[神学者]]、[[詩人]]、[[スーフィズム|神秘主義者]](+ [[1273年]]) * [[10月1日]] - [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]、[[プランタジネット朝]]第4代[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1272年]]) * [[康円]]、[[鎌倉時代]]の[[仏師]](+ 没年未詳) * [[佐々木重綱]]、鎌倉時代の[[御家人]](+ [[1267年]]) * [[三条有子]]、[[後堀河天皇]]の[[皇后]](+ [[1286年]]) * [[寂円]]、[[南宋]]から渡来した鎌倉時代の[[曹洞宗]]の[[僧]](+ [[1299年]]) * [[心地覚心]]、鎌倉時代の[[臨済宗]]の僧(+ [[1298年]]) * [[バトゥ]]、[[ジョチ・ウルス|キプチャック・ハン国]]の実質的な創設者(+ [[1256年]]) == 死去 == {{see also|Category:1207年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月9日]](建永2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[住蓮]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[浄土宗]]の[[僧]](* 生年未詳) * 3月9日(建永2年2月9日) - [[遵西]]、平安時代、鎌倉時代の浄土宗の僧(* 生年未詳) * [[4月27日]](承元元年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]) - [[姫の前]]、[[鎌倉幕府]]第2代[[執権]][[北条義時]]の正室(* 生年未詳) * [[5月3日]](承元元年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[九条兼実]]、平安時代、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1149年]]) * [[9月27日]](建永2年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[熊谷直実]]<ref>「四十八巻伝」27では、蓮生は[[建永]]2年9月4日(1207年[[9月27日]]))に往生したとある。</ref>、平安時代、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](* [[1141年]]) * [[韓侂冑]]、[[南宋]]の[[官人]](* [[1152年]]) * [[辛棄疾]]、南宋の[[政治家]]、[[詩人]](* [[1140年]]) * [[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]、[[モンフェッラート侯国|モンフェラート侯]]、[[テッサロニキ王国|テッサロニキ王]](* [[1150年]]?) * [[ラインバウト・デ・ヴァケイラス]]、[[フランス]]の[[トルバドゥール]]、[[騎士]](* 生年未詳) == フィクションのできごと == * [[11代目ドクター]]が[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]]で隠居していたところ、[[2013年]]の[[クララ・オズワルド]]から電話を受ける。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1207}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1207ねん}} [[Category:1207年|*]]
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1507年
1507年(1507 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1507年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1507}} {{year-definition|1507}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永正]]4年 *** [[弥勒 (私年号)|弥勒]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2167年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3840年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[端慶]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2049年 - 2050年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 912年 - 913年 * [[ユダヤ暦]] : 5267年 - 5268年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1507|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[8月1日]](永正4年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[永正の錯乱]]。管領 [[細川政元]]、自邸内にて殺害される。 * [[9月7日]](永正4年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[細川澄元]]、養父の仇討ちという形で、同じ養子の[[細川澄之]]を敗死させ[[細川氏#京兆家|細川京兆家]]の家督を奪う。 * [[12月24日]] - [[玉之浦納の反乱]] == 誕生 == {{see also|Category:1507年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]] - [[カタリナ・デ・アウストリア]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]の王妃 (+ [[1578年]]) * [[2月11日]] - [[フィリップ2世 (モスクワ府主教)|フィリップ2世]]、[[モスクワ府主教]]、[[正教会]]の[[聖人]] (+ [[1569年]]) * [[2月22日]] (永正4年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[九条稙通]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[公卿]]、[[九条家]]の第16代当主 (+ [[1594年]]) * [[3月7日]] - [[マグダレーネ・フォン・ザクセン]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世]]の最初の妻 (+ [[1534年]]) * [[6月5日]] - [[フェルナンド (グアルダ公)|フェルナンド]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の王子 (+ [[1534年]]) * [[6月6日]] (永正4年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]) - [[山科言継]]、戦国時代の公卿 (+ [[1579年]]) * [[6月25日]] - [[マリア・ヤコベア・フォン・バーデン]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]]の妻 (+ [[1580年]]) * [[7月25日]] - [[チャーマ・ラージャ4世]]、[[インド]]の[[マイソール王国]]の国王 (+ [[1576年]]) * [[8月10日]] (永正4年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[佐竹義篤 (十六代当主)|佐竹義篤]]、戦国時代の[[戦国大名]]、[[佐竹氏]]の第16代当主 (+ [[1545年]]) * [[9月27日]] - [[ギヨーム・ロンドレ]]、[[フランス王国|フランス]]の[[解剖学|解剖学者]]、[[博物学者]] (+ [[1566年]]) * [[10月1日]] - [[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]、[[イタリア]]の建築家 (+ [[1573年]]) * [[10月23日]] (永正4年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[曲直瀬道三]]、戦国時代の医師 (+ [[1594年]]) * [[10月29日]] - [[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]]、[[スペイン]]の将軍。第3代[[アルバ公|アルバ公爵]] (+ [[1582年]]) * [[12月18日]] (永正4年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[大内義隆]]、戦国時代の[[守護大名]]・戦国大名 (+ [[1551年]]) * [[アルタン・ハーン]]、[[モンゴル]]の[[ハーン]] (+ [[1582年]]) * [[蠣崎季広]]、戦国時代の武将。[[蠣崎氏]]の第5代当主 (+ [[1595年]]) * [[嘉靖帝]]、[[明]]の第12代皇帝(+ [[1566年]]) * [[川上忠克]]、戦国時代の武将 (+ [[1592年]]) * [[熊谷信直]]、戦国時代の武将 (+ [[1593年]]) * [[久我邦通]]、戦国時代の公卿 (+ [[1531年]]) * [[里見義堯]]、戦国時代の戦国大名 (+ [[1574年]]) * [[長尾景誠]]、戦国時代の武将、[[長尾氏|白井長尾家]]の第7代当主 (+ [[1528年]]) * [[北高全祝]]、戦国時代の[[曹洞宗]]の禅僧 (+ [[1587年]]) == 死去 == {{see also|Category:1507年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月23日]] - [[ジェンティーレ・ベリーニ]]、イタリアの[[画家]](* [[1429年]]) * [[3月12日]] - [[チェーザレ・ボルジア]]、イタリアのルネサンス期の軍人、政治家 (* [[1475年]]) * [[3月16日]] (永正4年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[京極材宗]]、室町時代、戦国時代の武将 (* 生年不詳) * [[3月23日]]? (永正4年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]?) - [[南部政康]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[南部氏]]の第22代当主 (* [[1461年]]) * [[3月27日]] (永正4年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[武田信縄]]、室町時代、戦国時代の[[甲斐国]]の[[守護大名]]、[[戦国大名]] (* [[1471年]]) * [[5月19日]] (永正4年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[三条公敦]]、室町時代、戦国時代の公卿。[[三条家]]の第14代当主 (* [[1439年]]) * [[7月29日]] - [[マルティン・ベハイム]]、ドイツの[[天文学者]]・[[地理学者]]・[[探検家]](* [[1459年]]) * [[8月1日]](永正4年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[細川政元]]、[[室町幕府]]の[[管領]]、守護大名(* [[1466年]]) * [[8月4日]] (永正4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[赤沢朝経]]、室町時代、戦国時代の武将 (* 生年不詳) * [[9月7日]] (永正4年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[香西元長]]、室町時代、戦国時代の武将 (* 生年不詳) * 9月7日 (永正4年8月1日) - [[細川澄之]]、戦国時代の戦国大名 (* [[1489年]]) * 9月7日 (永正4年8月1日) - [[薬師寺長忠]]、戦国時代の武将 (* 生年不詳) * [[9月13日]] (永正4年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - [[上杉房能]]、室町時代、戦国時代の守護大名。[[越後国]]守護 (* [[1474年]]) * [[越智家令]]、室町時代、戦国時代の武将 (* 生年不詳) * [[ピエトロ・クリニート]]、イタリアのルネサンス期の[[人文主義者]]、詩人 (* [[1465年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1507}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1507ねん}} [[Category:1507年|*]]
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959年
959年(959 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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959年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|959}} {{year-definition|959}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[己未]] * [[日本]] ** [[天徳 (日本)|天徳]]3年 ** [[皇紀]]1619年 * [[中国]] ** 五代 *** [[後周]] : [[顕徳]]6年 ** 十国 *** [[南唐]] : 顕徳6年(後周の元号を使用) *** [[呉越]] : 顕徳6年(後周の元号を使用) *** [[南漢]] : [[大宝 (南漢)|大宝]]2年 *** [[後蜀 (十国)|後蜀]] : [[広政]]22年 *** [[北漢]] : [[天会 (北漢)|天会]]3年 ** その他 *** [[遼]] : [[応暦]]9年 *** [[于闐]] : [[同慶 (于闐)|同慶]]48年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=959|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[後周]]の[[柴栄|世宗]]、[[遼|契丹]]を攻撃し、[[燕雲十六州]]中の南方の2州を奪還する。 == 誕生 == {{see also|Category:959年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月12日]]([[天徳 (日本)|天徳]]3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[円融天皇]]、第64代[[天皇]](+ [[991年]]) * [[趙徳芳]]、[[北宋|宋]]の太祖[[趙匡胤]]の第3子(+ [[981年]]) * [[源俊賢]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1027年]]) == 死去 == {{see also|Category:959年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月1日]] - [[エドウィ]]、[[イギリス君主一覧|イングランド王]](* [[941年]]?) * [[11月9日]] - [[コンスタンティノス7世]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の[[皇帝]](* [[905年]]?) * [[高模翰]]、[[遼]]の[[軍人]](* 生年未詳) * [[呉昌岌]]、[[ベトナム]][[呉朝]]の君主(* 生年未詳) * [[柴栄]]、[[五代十国時代]][[後周]]の第2代[[皇帝]](* [[921年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|959}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=10|年代=900}} {{デフォルトソート:959ねん}} [[Category:959年|*]]
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紀元前331年
紀元前331年(きげんぜんさんびゃくさんじゅういちねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前331年(きげんぜんさんびゃくさんじゅういちねん)は、ローマ暦の年である。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|350}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|340}} | 10年紀= {{紀元前/年代|330}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|320}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|310}} | 3年前= {{紀元前/年|334}} | 2年前= {{紀元前/年|333}} | 1年前= {{紀元前/年|332}} | 1年後= {{紀元前/年|330}} | 2年後= {{紀元前/年|329}} | 3年後= {{紀元前/年|328}} |}} '''[[紀元前]]331年'''(きげんぜんさんびゃくさんじゅういちねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚寅]] * [[日本]] ** [[皇紀]]330年 ** [[孝安天皇]]62年 * [[中国]] ** [[周]] - [[顕王]]38年 ** [[秦]] - [[恵文王 (秦)|恵文君]]7年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[威王 (楚)|威王]]9年 ** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]26年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[易王]]2年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[粛侯 (趙)|粛侯]]19年 ** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]後元4年 ** [[韓 (戦国)|韓]] - [[宣恵王 (韓)|宣恵王]]2年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]2003年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 214年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === マケドニア === * [[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]が[[古代エジプト|エジプト]]を発ち、軍を[[フェニキア]]に向けた。彼は[[ナウクラティスのクレオメネス]]にエジプトの統治をゆだねた。 * [[10月1日]]- アレクサンダー大王は[[ガウガメラの戦い]]に勝利し、[[ダレイオス3世]]のペルシア軍を打ち破った。ダレイオス3世は部下が戦い続ける中逃走した。アレクサンダー大王の軍はペルシア軍を[[アルビール|アルベラ]]に追撃したが、ダレイオス3世は[[バクトリア]]人騎兵、ギリシャ人傭兵と共に[[メディア王国]]に逃げ込んだ。 * アレクサンダー大王は初めて[[戦象]]に遭遇した。戦闘の後ダレイオス3世の軍の野営地で15頭のペルシア戦象を捕獲した。 * アレクサンダー大王は[[アケメネス朝]]を滅亡させた。[[バビロン]]と[[スーサ]]は門を開けて降伏した。彼は首都のスーサで5万[[タレント (単位)|タレント]]の金を発見した。 === ギリシャ === * アレクサンダー大王がアジアで戦っている間、[[スパルタ王]][[アギス3世]]はその不在に乗じてギリシャのいくつかの都市をマケドニアに対する反乱へと導いた。彼は軍資金と8,000名のギリシャ人傭兵を援助し、自ら最高司令官としてマケドニア軍に宣戦を布告した([[メガロポリスの戦い]])。[[ペロポネソス]]で[[コラゴス]]麾下のマケドニア軍を破る。[[アテナイ]]は中立だったものの、[[エーリス]]、[[アハイア県|アカイア]]、[[アルカディア]]の協力を得、[[メガロポリス (地名)|メガロポリス]]を包囲した。激戦が続いたものの、アギス軍は敗北し、アギス3世も戦死した。 === イタリア === * [[エピロス王]][[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]は{{仮リンク|ルカニア人|en|Lucani (ancient people)}}から{{仮リンク|ヘラクレア・ルカニア|en|Heraclea Lucania}}を奪い取り、{{仮リンク|ブルッティ|en|Bruttii}}からは{{仮リンク|テリナ|en|Terina}}とシポンタム (Sipontum) を奪い取った。[[ターラント|タレントゥム]]は南イタリアに自らの王国を建設しようとし、アレクサンドロス1世に対峙した。アレクサンドロス1世は{{仮リンク|パンドシアの戦い|en|Battle of Pandosia}}において[[アケローン川]]のほとりで殺害された。 === ローマ === * [[ガリア人]]の[[セノネス族]]と[[共和政ローマ|ローマ人]]が平和条約を結び、友好関係は紀元前4世紀末まで継続した。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前331年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:紀元前331年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]:[[エピロス王]] == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|331 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん331ねん}} [[Category:紀元前331年|*]]
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アジア・太平洋戦争
アジア・太平洋戦争(アジア・たいへいようせんそう、英: Asia-Pacific War)は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月7日にかけて大日本帝国が遂行した戦争の呼称。 「太平洋戦争」や「大東亜戦争」に代わる呼称として提唱された。 この項目では「アジア・太平洋戦争」(アジア太平洋戦争)という呼称に関する議論について記述する。 戦争の経過や使用兵器・人物などに関しては「太平洋戦争」を参照。また、呼称に関する議論については「支那事変」「大東亜戦争」も参照。 戦争当時は「大東亜戦争」が公式名称であり、敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により「大東亜戦争」の呼称が軍国主義と切り離せないという理由により使用が禁止されたため、「太平洋戦争」という呼称が広く使用されるようになり、「大東亜戦争」という呼称は主に大日本帝国や大東亜共栄圏を肯定する論者によって用いられている。しかし、「太平洋戦争」はもっぱら対米戦争の局面のみを示し、この戦争が中国・東南アジアを含む戦争であったことを正しく反映していない、他方「大東亜戦争」は「大東亜共栄圏」を正当化する名称で現在では不適切であるとして、「アジア太平洋戦争」の呼称が1980年代に提唱された[1]。 「アジア太平洋戦争」、「アジア・太平洋戦争」の両方の表記がある。もともと上記の理由で「太平洋戦争」に代わる呼称として提唱されたが、満洲事変から敗戦までを含む戦争全体の呼称として用いる者もいる。 このほか、第二次世界大戦より前の1879年(明治12年)に「太平洋戦争 (Guerra del Pacífico)」と呼ばれる戦争が南米で発生しており、日本語名を見ただけでは区別できず、非常に紛らわしいという大きな欠陥を抱えている。先に「太平洋戦争」と呼ばれるようになったのは当然ながら南米の太平洋戦争である。しかも南米の太平洋戦争と第二次世界大戦の太平洋戦争には全く関連性がない。「アジア太平洋戦争」はこれらの呼称上の問題点を解決しているといえる。 また、1931年(昭和6年)の満洲事変から太平洋戦争までを一体のものと捉える「十五年戦争」という呼称があるが、徳田秋声の『縮図』にも、1941年(昭和16年)のことを書いたときに「戦争が足かけ5年続いている」という表現をとっているなどの証言がある。この呼称は岩波書店の出版する図書のタイトルや、左翼的な考えを持つ一部の歴史教科書などにおいて使用されている。また、文学研究者では西田勝なども使用している。 この戦争の性格として次の3点が挙げられる。一つ目は対英戦と対米戦の関係、二つ目は日米戦における戦争責任問題、三つ目はこの戦争を日本側から見た時、欧米列強のアジア支配からの解放を主張して開始されたのかという問題である。 戦争目的については、1941年(昭和16年)12月8日の午前11時40分に公表された宣戦の詔書では「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と宣言されており、明らかに自衛のための戦争という認識であった。また、「宣戦の布告に当り国民に愬う」(12月8日の午後7時30分からのラジオ放送で発表された奥村喜和男情報局次長の談話)では「国民諸君、同朋諸君 今正に時は至ったのであります。われらの祖国日本は今、蹶然立って雄々しく戦いを開始いたしたのであります。(中略)アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い回すのであります。アジア人のアジアを創りあげるのであります」とアジア解放のための戦争という位置づけをしている。「自衛のための戦争」論と「アジア解放の戦争」論が併存していた。 一方で問題点も指摘されており、太平洋戦争の期間だけでなく日中戦争の期間を含めてこの名称を用いるものがいるなど混乱が見られることや、「太平洋戦争」や「大東亜戦争」という名称を否定し置き換えるという観点から新たに作られた用語であるため、「歴史的状況から離れている」、「「大東亜戦争」とは逆のイデオロギー性を含んだ言葉である」という批判もある。
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アジア・太平洋戦争は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月7日にかけて大日本帝国が遂行した戦争の呼称。 「太平洋戦争」や「大東亜戦争」に代わる呼称として提唱された。 この項目では「アジア・太平洋戦争」(アジア太平洋戦争)という呼称に関する議論について記述する。 戦争の経過や使用兵器・人物などに関しては「太平洋戦争」を参照。また、呼称に関する議論については「支那事変」「大東亜戦争」も参照。
{{otheruses|「アジア・太平洋戦争」(アジア・たいへいようせんそう)という呼称に関する議論|この戦争の経過や使用兵器・人物などに関すること|太平洋戦争}} '''アジア・太平洋戦争'''(アジア・たいへいようせんそう、英: Asia-Pacific War)は、[[1941年]]([[昭和16年]])[[12月8日]]から[[1945年]](昭和20年)[[9月7日]]にかけて[[大日本帝国]]が遂行した[[戦争]]の呼称。 「[[太平洋戦争]]」や「[[大東亜戦争]]」に代わる呼称として提唱された<ref>副島昭一[http://12sun.on.coocan.jp/warname/asiapacific.html 「日中戦争とアジア太平洋戦争」](大阪歴史科学協議会『歴史科学』102号、1985年)。<br />  木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」(歴史学研究会・日本史研究会編集『講座日本歴史(10)近代4』、東京大学出版会、1985年)<br />  江口圭一『十五年戦争小史』(青木書店、1986年/新版1991年、ISBN 9784250910098) </ref>。 この項目では「アジア・太平洋戦争」(アジア太平洋戦争)という呼称に関する議論について記述する。 戦争の経過や使用兵器・人物などに関しては「[[太平洋戦争]]」を参照。また、呼称に関する議論については「[[支那事変]]」「[[大東亜戦争]]」も参照。 == 概要 == 戦争当時は「大東亜戦争」が公式名称であり、[[日本の降伏|敗戦]]後は[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) の指令により「[[大東亜戦争]]」の呼称が[[軍国主義]]と切り離せないという理由により使用が禁止されたため、「太平洋戦争」という呼称が広く使用されるようになり、「大東亜戦争」という呼称は主に[[大日本帝国]]や[[大東亜共栄圏]]を肯定する論者によって用いられている。しかし、「太平洋戦争」はもっぱら対米戦争の局面のみを示し、この戦争が[[中華民国 (1912年-1949年)|中国]]・[[東南アジア]]を含む戦争であったことを正しく反映していない、他方「大東亜戦争」は「大東亜共栄圏」を正当化する名称で現在では不適切であるとして、「アジア太平洋戦争」の呼称が[[1980年代]]に提唱された[1]。 「アジア太平洋戦争」、「アジア・太平洋戦争」の両方の表記がある。もともと上記の理由で「太平洋戦争」に代わる呼称として提唱されたが、[[満洲事変]]から敗戦までを含む戦争全体の呼称として用いる者もいる。 このほか、第二次世界大戦より前の[[1879年]]([[明治]]12年)に「[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争 ({{lang|es|Guerra del Pacífico}})]]」と呼ばれる戦争が[[南アメリカ|南米]]で発生しており、日本語名を見ただけでは区別できず、非常に紛らわしいという大きな欠陥を抱えている。先に「太平洋戦争」と呼ばれるようになったのは当然ながら南米の太平洋戦争である。しかも南米の太平洋戦争と第二次世界大戦の太平洋戦争には全く関連性がない。「アジア太平洋戦争」はこれらの呼称上の問題点を解決しているといえる。 また、[[1931年]](昭和6年)の[[満洲事変]]から太平洋戦争までを一体のものと捉える「[[十五年戦争]]」という呼称があるが、[[徳田秋声]]の『縮図』にも、[[1941年]](昭和16年)のことを書いたときに「戦争が足かけ5年続いている」という表現をとっているなどの証言がある。この呼称は[[岩波書店]]の出版する図書のタイトルや、[[左翼]]的な考えを持つ一部の[[歴史教科書]]などにおいて使用されている。また、文学研究者では[[西田勝]]なども使用している。 この戦争の性格として次の3点が挙げられる。一つ目は対英戦と対米戦の関係、二つ目は日米戦における[[戦争責任]]問題、三つ目はこの戦争を日本側から見た時、欧米[[列強]]のアジア支配からの解放を主張して開始されたのかという問題である<ref>[[#吉田2007|吉田 2007]]、pp.9-29</ref>。 戦争目的については、[[1941年]](昭和16年)12月8日の午前11時40分に公表された[[日本の対米英宣戦布告|宣戦の詔書]]では「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と宣言されており、明らかに[[自衛権|自衛]]のための戦争という認識であった。また、「宣戦の布告に当り国民に愬う」<ref name="奥村">{{Cite web|和書|url=https://ironna.jp/article/1854 |title=宣戦の布告に当り国民に愬(うつた)ふ |author=[[奥村喜和男]] |website=iRONNA |publisher=産経新聞社 |date=2015年7月 |deadlinkdate=2021年3月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101073554/https://ironna.jp/article/1854 |archivedate=2020-11-1 |accessdate=2023-5-15}}※昭和16年12月8日のラジオで放送された談話の原稿で、活字での初出は[[内閣情報局]]『週報』第271号(昭和16年12月17日号)7-15頁([https://dl.ndl.go.jp/pid/1594929/1/5 国立国会図書館デジタルコレクション]、[https://www.ndl.go.jp/jp/use/digital_transmission/individuals_index.html 図書館向けデジタル化資料送信サービス]にて閲覧可能)。</ref>(12月8日の午後7時30分からのラジオ放送で発表された[[奥村喜和男]][[情報局]]次長の談話)では「国民諸君、同朋諸君 今正に時は至ったのであります。われらの祖国日本は今、蹶然立って雄々しく戦いを開始いたしたのであります。(中略)アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い回すのであります。アジア人のアジアを創りあげるのであります」<ref name="奥村" />とアジア解放のための戦争という位置づけをしている。「自衛のための戦争」論と「アジア解放の戦争」論が併存していた<ref>[[#吉田2007|吉田 2007]]、pp.27 f</ref>。 一方で問題点も指摘されており、太平洋戦争の期間だけでなく日中戦争の期間を含めてこの名称を用いるものがいるなど混乱が見られることや、「太平洋戦争」や「大東亜戦争」という名称を否定し置き換えるという観点から新たに作られた用語であるため、「歴史的状況から離れている」、「「大東亜戦争」とは逆のイデオロギー性を含んだ言葉である」という批判もある<ref>防衛研究所紀要第13巻第3号(2011年3月)の日本における戦争呼称に関する問題の一考察 {{Cite web|和書|url=http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_3.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015-08-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150528125955/http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_3.pdf |archivedate=2015-05-28 |deadlinkdate=2018-03}} p.65およびp.80</ref>。 == その他 == *イギリスの歴史家[[クリストファー・ソーン (歴史家)|クリストファー・ソーン]]は「[[極東戦争]]」という呼称を提唱している<ref>[[#ソーン1989|ソーン 1989]]、[[#ソーン2005|ソーン 2005]]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|1=和書|editor=倉沢愛子ほか|editor-link=倉沢愛子|date=2005年-2006年|title=岩波講座 アジア・太平洋戦争|volume=全8巻|publisher=[[岩波書店]]|id=ISBN 4000105035・ISBN 4000105043・ISBN 4000105051・ISBN 400010506X・ISBN 4000105078・ISBN 4000105086・ISBN 4000105094・ISBN 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同時代人はどう見ていたか|publisher=岩波書店|isbn=4-00-022029-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/2/0220290.html|ref=山中2005|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051126232527/http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/2/0220290.html|archivedate=2005年11月26日|deadlinkdate=2018年3月}} *{{Cite book|1=和書|author=吉田裕|authorlink=吉田裕 (歴史学者)|date=2007-08|title=アジア・太平洋戦争〈日本近現代史 6〉|series=岩波新書(新赤版)1047|publisher=岩波書店|isbn=4-00-431047-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/4/4310470.html|ref=吉田2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080430233634/http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/4/4310470.html|archivedate=2008-04-30|deadlinkdate=2018-03}} == 関連項目 == * [[極東戦争]] * [[支那事変]] * [[十五年戦争]] * [[昭和戦争]] * [[大東亜戦争]] * [[田中メモリアル]] == 外部リンク == * [https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/books-and-monographs/the-final-months-of-the-war-with-japan-signals-intelligence-u-s-invasion-planning-and-the-a-bomb-decision/csi9810001.html The Final Months of the War with Japan](対日戦争末期):対日戦争における[[中央情報局|CIA]]の役割等を分析している、CIAの公開資料。 {{デフォルトソート:あしあたいへいようせんそう}} [[Category:歴史認識問題]] [[Category:日中戦争]] [[Category:太平洋戦争]] [[Category:日本の呼称問題]]
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文化の日
文化の日()は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月3日。1946年11月3日の日本国憲法公布を記念して制定された。 文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。 1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。 休日としては、1873年(明治6年)に公布された年中祭日祝日の休暇日を定む(明治6年太政官布告第344号)以降1911年(明治44年)までは天長節、1927年(昭和2年)に改正された休日に関する件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による祝日となっている。 祝日法制定当時、参議院文化委員長として祝日法制定の際中心的役割を担った山本勇造が政界引退後に書いた当時の回顧録「文化の日ができるまで」には明治節に関する記述は一切ない。山本によれば、元々、憲法発布は11月1日の予定であったが、施行日がメーデーと重なるという理由で直前に11月3日に変更されたのだという。山本ら参議院側は11月3日を憲法記念日とすることを強硬に主張したが、GHQ側が、11月3日だけは絶対にだめだと主張し、衆議院が5月3日を憲法記念日とすることに同意してしまい、参議院側が孤立する事態になった。そのとき突然GHQ側から、憲法記念日という名でない記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたという。 1948年(昭和23年)6月18日の参議院文化委員会において、山本勇造は「憲法において、如何なる國もまだやつたことのない戰爭放棄ということを宣言した重大な日でありまして、日本としては、この日は忘れ難い日なので、是非ともこの日は残したい。そうして戰爭放棄をしたということは、全く軍國主義でなくなり、又本当に平和を愛する建前から、あの宣言をしておるのでありますから、この日をそういう意味で、『自由と平和を愛し、文化をすすめる。』、そういう『文化の日』ということに我々は決めたわけなのです」と説明している。 また、同年7月4日の参議院本会議においては「十一月の三日を文化の日といたしましたのは、これは明治天皇がお生まれになった日であり、明治節の祝われた日でございますが、立法の精神から申しますと、この日は御承知のように、新憲法が公布された日でございます。そうしてこの新憲法において、世界の如何なる國も、未だ曾て言われなかつたところの戰争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本國民にとつて忘れ難い日でありますと共に、國際的にも文化的意義を持つ重要な日でございます。そこで平和を図り、文化を進める意味で、この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが、それは別に講和締結の日を予定しておるのでございますので、それを避けたのでございます」と説明しており、明治節だからではなく、新憲法、特に戦争放棄を謳った第9条が公布された日であるから祝日としたという説明がなされている。 また、憲法公布日が11月3日になったことについては、入江俊郎によれば、施行の候補日として挙がっていた5月1日、5月3日、5月5日のうち、5月1日はメーデーであるためふさわしくないと判断され、5月5日は端午の節句であり、男の子の祭りであるから男女平等の憲法にふさわしくないこと、また武の祭りであるから戦争放棄の憲法にふさわしくないと判断されたため、消去法で5月3日に施行することになり、その半年前である11月3日に公布することが決まったとされており、明治節に合わせて公布日を決めたのではないということである。 また、この日は晴天になる確率が高い「晴れの特異日」とされる。 1948年7月20日に施行された国民の祝日に関する法律により、11月3日は明治節ではなくなり、「文化の日」となった。しかし近年、明治天皇の誕生日へと由来を戻し「明治の日」への改称を目指す動きがある。 2011年10月1日、「明治の日推進協議会」が結成され、集会のチラシがただち全国会議員へ配布された。初代会長には元民社党衆議院議員の塚本三郎が就任した。2016年11月1日、明治の日推進協議会は国会内で集会を開き、祝日法改正を目指すための超党派の議員連盟設立を与野党議員に要請した。集会には自民党の稲田朋美、古屋圭司、民進党(当時)の鷲尾英一郎、無所属の野間健ら国会議員13人が出席した。自民党議員は古屋を会長とする「明治の日を実現するための議員連盟」を設立した。 明治の日推進協議会会長の塚本は2020年5月20日に死去。後任には日本会議会長の田久保忠衛が就いた。副会長は日本会議元副会長の小田村四郎。そのほか代表委員に日本会議副会長の小堀桂一郎が、参与に櫻井よしこ、日本会議代表委員の板垣正、同常任理事の伊藤哲夫らが名を連ねるなど、日本会議との結びつきが強い。事務局は新しい歴史教科書をつくる会会長の高池勝彦の事務所に置かれている。 改称について批判的な識者や政治家もいる。宗教学者の島薗進は「戦後、祝日を通して国家神道復興を進める動きが反復されている。政治的に利用される『戦前回帰』の可能性があり、『明治の日』も、いつの間にか国家主義的な方向へと国民の意識を向かわせようとする動きに思えてならない」と述べ、法学者の古関彰一は「憲法が定める国民主権の意味を考えるべきだ。今の時代に『明治の日』などつくれば、世界の笑いものになるのではないか」と懸念を示している。鳩山由紀夫元首相は「『文化の日』は日本を自由と平和を愛する文化の国にするために制定された。明治は教育勅語を奉読させられ、富国強兵の掛け声の下で植民地獲得のために戦争に突入していった時代だ。私は変えることに反対する。」とTwitterで述べている。 2022年4月7日、自民党有志による「明治の日を実現するための議員連盟」は、超党派議連に切り替え、名前はそのままで新たな議員連盟の設立総会を衆議院議員会館で開いた。自民党、立憲民主党、日本維新の会、国民民主党4党などの議員計92人が入会し、会長にはひきつづき古屋が就任した。
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文化の日は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月3日。1946年11月3日の日本国憲法公布を記念して制定された。
[[File:Katsushika Hokusai - Fine Wind, Clear Morning (Gaifū kaisei) - Google Art Project.jpg|thumb|240px|[[浮世絵]]・[[凱風快晴]]、[[葛飾北斎]]作]] {{国民の祝日}} {{読み仮名|'''文化の日'''|ぶんかのひ}}は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである。日付は[[11月3日]]。[[1946年]][[11月3日]]の[[日本国憲法]]公布を記念して制定された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100215254X05919480704&current=1|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-11-04}}</ref><ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=文化の日-Japanese Culture Day-の開催|url=https://www.seattle.us.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000780.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2021-11-04|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=子どもと本に関する記念日|子どもの読書に関する情報提供|子どもの読書活動推進|国立国会図書館国際子ども図書館|url=https://www.kodomo.go.jp/info/anniversary/index.html|website=www.kodomo.go.jp|accessdate=2021-11-04}}</ref>。 ==概要== === 歴史 === [[File:Okazaki-Ida-Hachimangu-2.jpg|thumb|240px|left|憲法公布を祝い神社に集う人々(1946年11月3日、愛知県[[岡崎市]])]] 文化の日は、[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]をすすめる」ことを趣旨としている。 [[1946年]](昭和21年)に[[日本国憲法]]が[[公布]]された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、[[1948年]](昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は、公布から半年後の[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行されたため、5月3日も[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]として国民の祝日となっている。 休日としては、[[1873年]](明治6年)に公布された[[年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム|年中祭日祝日の休暇日を定む]](明治6年太政官布告第344号)以降[[1911年]](明治44年)までは[[天長節]]、[[1927年]](昭和2年)に改正された[[休日ニ関スル件|休日に関する件]](昭和2年3月4日勅令第25号)以降[[1947年]](昭和22年)までは[[明治節]]として、[[明治天皇]]の[[誕生日]]による祝日となっている。 祝日法制定当時、[[参議院]]文化委員長として祝日法制定の際中心的役割を担った[[山本有三|山本勇造]]が政界引退後に書いた当時の回顧録「文化の日ができるまで」には明治節に関する記述は一切ない。山本によれば、元々、憲法発布は11月1日の予定であったが、施行日が[[メーデー]]と重なるという理由で直前に11月3日に変更されたのだという。山本ら参議院側は11月3日を憲法記念日とすることを強硬に主張したが、[[連合軍総司令部|GHQ]]側が、11月3日だけは絶対にだめだと主張し、[[衆議院]]が5月3日を憲法記念日とすることに同意してしまい、参議院側が孤立する事態になった。そのとき突然GHQ側から、憲法記念日という名でない記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたという。 1948年(昭和23年)6月18日の参議院文化委員会において、山本勇造は「憲法において、如何なる國もまだやつたことのない戰爭放棄ということを宣言した重大な日でありまして、日本としては、この日は忘れ難い日なので、是非ともこの日は残したい。そうして戰爭放棄をしたということは、全く軍國主義でなくなり、又本当に平和を愛する建前から、あの宣言をしておるのでありますから、この日をそういう意味で、『自由と平和を愛し、文化をすすめる。』、そういう『文化の日』ということに我々は決めたわけなのです」と説明している<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100215069X00719480618&current=1|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-11-04}}</ref>。 また、同年7月4日の参議院本会議においては「十一月の三日を文化の日といたしましたのは、これは明治天皇がお生まれになった日であり、明治節の祝われた日でございますが、立法の精神から申しますと、この日は御承知のように、新憲法が公布された日でございます。そうしてこの新憲法において、世界の如何なる國も、未だ曾て言われなかつたところの戰争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本國民にとつて忘れ難い日でありますと共に、國際的にも文化的意義を持つ重要な日でございます。そこで平和を図り、文化を進める意味で、この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが、それは別に講和締結の日を予定しておるのでございますので、それを避けたのでございます」と説明しており、明治節だからではなく、新憲法、特に戦争放棄を謳った[[日本国憲法第9条|第9条]]が公布された日であるから祝日としたという説明がなされている<ref name=":0" />。 また、憲法公布日が11月3日になったことについては、[[入江俊郎]]によれば、施行の候補日として挙がっていた5月1日、5月3日、5月5日のうち、5月1日は[[メーデー]]であるためふさわしくないと判断され、5月5日は端午の節句であり、男の子の祭りであるから男女平等の憲法にふさわしくないこと、また武の祭りであるから戦争放棄の憲法にふさわしくないと判断されたため、消去法で5月3日に施行することになり、その半年前である11月3日に公布することが決まったとされており、明治節に合わせて公布日を決めたのではないということである<ref>{{Cite web|和書|title=[日本国憲法成立の経緯原稿5](テキスト) {{!}} 日本国憲法の誕生|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_34/002_34tx.html|website=www.ndl.go.jp|accessdate=2021-11-11|language=ja}}</ref>。 === 行事 === *[[皇居]]で[[文化勲章]]の親授式が行われる。 *[[海上自衛隊]]で、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において、[[満艦飾]]が行われる。 *文化の日を中心に、[[文化庁]]主催による[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]が開催される。 *[[博物館]]や[[美術館]]の中には、入館料を[[無料]]にしたり、様々な催し物を開催する所もある。 *[[日本武道館]]で[[全日本剣道選手権大会]]が開催され、[[NHK総合テレビジョン]]で[[生放送]]される。 また、この日は晴天になる確率が高い「晴れの[[特異日]]」とされる。 == 改称への動き == 1948年7月20日に施行された[[国民の祝日に関する法律]]により、[[11月3日]]は[[明治節]]ではなくなり、「文化の日」となった。しかし近年、明治天皇の誕生日へと由来を戻し「'''明治の日'''」への改称を目指す動きがある。 2011年10月1日、「明治の日推進協議会」が結成され、集会のチラシがただち全国会議員へ配布された<ref>{{Cite web|和書|url=https://meijinohi.com/?page_id=18 | title=明治の日推進協議会とは/本協議会沿革 |website=明治の日推進協議会 |date= | accessdate=2022-4-18 }}</ref>。初代会長には元[[民社党]]衆議院議員の[[塚本三郎]]が就任した<ref name="meijinohi16">{{Cite web|和書|url=https://meijinohi.com/?page_id=16 | title=明治の日推進協議会役員一覧 | website=明治の日推進協議会 |date= | accessdate=2022-4-18 }}</ref>。2016年11月1日、明治の日推進協議会は国会内で集会を開き、祝日法改正を目指すための超党派の議員連盟設立を与野党議員に要請した。集会には[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[稲田朋美]]、[[古屋圭司]]、[[民進党]](当時)の[[鷲尾英一郎]]、無所属の[[野間健]]ら国会議員13人が出席した<ref>{{Cite news|author=奥原慎平 |url=https://www.sankei.com/article/20161101-R56QO6FRHBIK3MVALETEXNSHSY/|title=「明治の日」集会で露見した民進党の“バラバラ感” 自民・古屋圭司氏が民進・鷲尾英一郎氏にチクリと放った一言とは…|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2016-11-01|accessdate=2016-11-02}}</ref>。自民党議員は古屋を会長とする「明治の日を実現するための議員連盟」を設立した<ref name="tokyo20191031">{{cite news |author=大杉はるか |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/15000 | title=「文化の日」を「明治の日」に!? 自民内で法改正の動き | newspaper=東京新聞 | date=2022-4- | accessdate=2022-4-19 }}</ref>。 明治の日推進協議会会長の塚本は2020年5月20日に死去。後任には[[日本会議]]会長の[[田久保忠衛]]が就いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://meijinohi.com/?p=1215 | title=【謹告】新会長の就任について |website=明治の日推進協議会 |date= | accessdate=2022-4-18 }}</ref>。副会長は日本会議元副会長の[[小田村四郎]]。そのほか代表委員に日本会議副会長の[[小堀桂一郎]]が、参与に[[櫻井よしこ]]、日本会議代表委員の[[板垣正]]、同常任理事の[[伊藤哲夫 (政治活動家)|伊藤哲夫]]らが名を連ねるなど、日本会議との結びつきが強い。事務局は[[新しい歴史教科書をつくる会]]会長の[[高池勝彦]]の事務所に置かれている<ref name="meijinohi16"/>。 改称について批判的な識者や政治家もいる。宗教学者の[[島薗進]]は「戦後、祝日を通して国家神道復興を進める動きが反復されている。政治的に利用される『戦前回帰』の可能性があり、『明治の日』も、いつの間にか国家主義的な方向へと国民の意識を向かわせようとする動きに思えてならない」と述べ<ref>{{cite news |author=藤生明 |url=https://www.asahi.com/articles/ASK4Y3RLRK4YULZU001.html | title=「明治の日実現を」昭和の日に集会 「戦前回帰」警戒も | newspaper=朝日新聞 | date=2017-4-29 | accessdate=2022-4-19 }}</ref>、法学者の[[古関彰一]]は「憲法が定める[[国民主権]]の意味を考えるべきだ。今の時代に『明治の日』などつくれば、世界の笑いものになるのではないか」と懸念を示している<ref name="tokyo20191031"/>。[[鳩山由紀夫]]元[[内閣総理大臣|首相]]は「『文化の日』は日本を自由と平和を愛する文化の国にするために制定された。[[明治]]は[[教育勅語]]を奉読させられ、[[富国強兵]]の掛け声の下で植民地獲得のために戦争に突入していった時代だ。私は変えることに反対する。」と[[Twitter]]で述べている<ref>{{Twitter status2|hatoyamayukio|1513326105675337728|2022年4月11日|accessdate=2022-4-20}}</ref>。 2022年4月7日、自民党有志による「明治の日を実現するための議員連盟」は、超党派議連に切り替え、名前はそのままで新たな議員連盟の設立総会を衆議院[[議員会館]]で開いた。自民党、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]、[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]4党などの議員計92人が入会し、会長にはひきつづき古屋が就任した<ref>{{cite news |author= |url=https://web.archive.org/web/20220407122546/https://nordot.app/884774889942335488 | title=「明治の日」へ超党派議連 11月3日、法改正目指す | newspaper=共同通信 | date=2022-4-7 | accessdate=2022-4-18 }}</ref><ref>{{cite news |author= |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022040701079 | title=「明治の日」制定へ超党派議連 文化の日を改称 | newspaper=時事ドットコムニュース | date=2022-4- | accessdate=2022-4-18 }}</ref>。 == 同じ日付の記念日 == * まんがの日 [[日本漫画家協会]]と出版社5社が「[[漫画]]を文化として認知してもらいたい」と制定。 * レコードの日 [[日本レコード協会]](RIAJ)が「[[レコード]]は文化財」として制定。 * 文具の日 東京都文具事務用品商業組合等が「[[文具]]と文化は歴史的にみて同義」として制定。 * [[関西文化の日]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[日本の文化]] *[[文明開化]] *[[鹿鳴館]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#bunka 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{DEFAULTSORT:ふんかのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:11月の記念日]] [[Category:日本の文化]] [[Category:明治天皇]]
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パイオニア
パイオニア株式会社(英: Pioneer Corporation)は、東京都文京区に本社を置く、カーナビゲーションの製造販売などを手掛ける日本の電機メーカーである。かつては、日本を代表するオーディオメーカー(東証1部上場)であった。1938年(昭和13年)創業。 2023年現在は非上場企業であり、財務諸表は非公開である。同社が公式サイトで公表している直近の連結売上高は約2685億円(2023年3月期)である。 2023年現在、カーナビゲーション(カーナビ)の大手で、日本国内ではパナソニックに次ぐ2位である。 個人向け製品としては、カーナビ、カーオーディオ、ドライブレコーダーなど車載機器の製造・販売を主に行っている。法人向けとしては、モビリティソリューションサービスを主力として展開している。カーナビは、自社ブランド「カロッツェリア」の他、自動車メーカーの純正カーナビへのOEM供給も行っている。2020年より独コンチネンタル社と提携し、次世代自動車CASE(Connected、Autonomous、Shared & Service、Electric)に対応した統合コックピットの開発を進めている。経営悪化の末、2018年に上場廃止となったが、カーナビメーカーからデータサービス企業へと変革を果たすことで経営が好転し、2025年度をめどに再上場を目指している。 スピーカー製造に始まるパイオニアは、高度経済成長期から2000年頃までは「日本を代表するオーディオメーカー」の地位を有していたが、その後は次第に経営が悪化した。 プラズマテレビ事業の失敗による巨額の損失(→ #プラズマテレビで失敗)もあり、2010年代に入って経営危機に陥ったパイオニアは、自社の祖業であるオーディオ事業のほとんどを、2015年に、オーディオ事業の拡大を目指していた、パイオニアと同じ「日本を代表するオーディオメーカー」であったオンキョー(総称)に事実上譲り渡し、オーディオ事業から撤退した。 なお、オンキョー(総称)が拡大を図ったオーディオ事業は、複雑な経緯を経て、7年後の2022年に「オンキヨーホームエンターテイメント株式会社」が破綻したことで、オンキョー(総称)と共に終焉した。 ただし、パイオニアが、オーディオメーカーとしての全盛期の1970年代に、「PIONEER」ブランドとは別の最高級ブランドとして創設した「TAD」(1975年創設)と「EXCLUSIVE」(1977年創設)の2つのブランド(その後「TAD」ブランドに一本化)は、欧米からの輸入品に匹敵する、最高級オーディオブランドとしての高評価が定着するに至った。 未だパイオニアに余力があった2007年に、「TAD」ブランドは、本体である「パイオニア株式会社」とは別の法人として新規設立された「株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ」(通称:TADラボラトリーズ)に移管された。 TADブランドとTADラボラトリーズは、既述したパイオニア株式会社の経営危機によるオーディオ事業からの撤退(2015年)の後も、「最高級オーディオブランドとしての高評価の維持」「独自のオーディオ事業の継続」「企業としての存続」に成功し、「全盛期のパイオニアを源流とする、日本の最高級オーディオメーカー」の地位を現在も守っている。 なお、TADラボラトリーズは、現在もパイオニアのグループ会社の1つである。 カーナビ地図などを手掛ける地図事業(MapFan)は2021年にポラリス・キャピタル・グループに売却し、2023年現在はジオテクノロジーズとしてパイオニア本体から独立して展開している。 創業者である松本望は、アメリカ製のダイナミックスピーカーを聴いて「いつか必ず自分の手で純国産のスピーカー(ユニット)を作りたい」と志し、1937年(昭和12年)に初の純国産ダイナミックスピーカー「A-8」を自らの手で開発して「パイオニア (PIONEER)」を商標とした。1938年(昭和13年)1月に福音商会電機製作所を設立して販売を開始した。松本は後に印刷会社も興して「フクイン(旧称・福音印刷)」とし、パイオニア製品の取扱説明書やカタログを印刷して収益の独占化を図る。1961年(昭和36年)に商標であったパイオニアを社名とした。 1962年には世界初のセパレート型ステレオを発売。1960年から1970年代にかけてのオーディオブーム全盛期はサンスイ、トリオと並び「オーディオ御三家」として「サン・トリ・パイ」とも広く俗称され、オーディオファンから「スピーカーのパイオニア」として親しまれた。 1975年に車でカセットテープが聞ける世界初のカーコンポ「KP-55G」を発売。カーコンポは、1977年より「LONESOME CAR-BOY」のブランドで展開する(1986年以降は「carrozzeria」ブランド)。1984年には車でCDが聞ける世界初のカーCDプレーヤ「CDX-1」を発売。カーオーディオで他社をリードした。 1979年にビデオディスクの規格レーザーディスク (LD)陣営に参画し、世界初の業務用LDプレーヤーを発売。1980年代におけるビデオディスクの規格競争において、他メーカーの撤退によって一時はパイオニア一社のみとなったLD陣営を率いて圧倒的多数派のVHD連合に勝利する。 1983年に「音と光の未来をひらく」の企業スローガンを導入。LDプレーヤー、コンポ、ラジカセなどを中心に、家庭用AV機器メーカーとして飛躍を遂げた。特にラジカセ「ランナウェイ」の最上位機種「Runaway SK-900」は非常な人気を博し、アオシマから1/6プラモデルまで発売された(1980年代のバブル時代を象徴する、いわゆる「バブルラジカセ」の一つ)。 1989年、レーザーディスク普及のために設立したレーザーディスク社(Pioneer Laser Disc Company)を「パイオニアLDC」として改変。OVAやアニメソングなど自社ソフトを多展開することで、LDプレーヤーやコンポなどの自社ハードを売ることにつなげるという、メディアミックスの文字通りのパイオニアとなり、ハードのみならずアニメ、ゲーム、音楽などソフトでも大手メーカーとなった。『天地無用! 魎皇鬼』(1992年)や『神秘の世界エルハザード』(1995年)などOVAを中心としたメディアミックス作品でヒット作を連発し、1990年代のオタク文化を支えた。 1990年6月には「道は星に聞く」のキャッチコピーの元、「carrozzeria」ブランドで世界初の市販GPS式カーナビ「AVIC-1」を発売。 1993年、世界初のDJ用CDプレイヤー(CDJ)「CDJ-50」を発売。この分野では、デュアルデッキやピッチ可変など機能が豊富だったデノンの製品に当初は押されていたが、CDJでありながらアナログプレーヤーのようなスクラッチ機能を搭載した「CDJ-1000」(2001年)の大ヒットによってDJ機器最大手となった。 1993年、LDゲーム機のレーザーアクティブを発売。本体だけで最低12万円という非常な高価格なうえにソフトも少なかったので一般的に普及はしなかったものの、『タイムギャル』(1995年)などゲームセンターのLDゲーム機とほぼ同じ画質でゲームが遊べるということでマニアに人気を博した。1995年にパソコン(Macintosh互換機)のMPCシリーズを発売。自社製CD-ROMドライブに加え、AV機器メーカーらしく高品質なアンプとスピーカーを搭載しているのがウリだった。 1995年、パイオニアLDCから『天地無用! 魎皇鬼』の第二期OPソングとして『ぼくはもっとパイオニア』(横山智佐)をリリース。自社規格であるLDでリリースした、自社制作のOVAに、自社の名を冠したテーマソングを載せるという、この頃にはハード・ソフト共にマルチメディアにおいて強力なブランドを確立していた。バブル崩壊で苦戦する競合の電機メーカーを尻目に業績を伸ばし、2000年には株価がバブル絶頂期に迫る5000円近くに達した。 1995年にDVDフォーラムに加盟。1996年に世界初のDVD-Video/LDのコンパチブルプレーヤー「DVL-9」、1997年に世界初のDVD-Rドライブ「DVR-S101」、同年に世界初の50インチプラズマディスプレイ、1999年に世界初のDVDレコーダー「DVR-1000」を発売した。1990年代末から2000年代にかけてはアナログからデジタルに移行できずに衰退した古参オーディオメーカーも多い中、パイオニアはこのようにAV機器のデジタル化の波を先導し、オーディオのみならず映像機器、また光ディスクメディアなどの記憶媒体においても有力メーカーの一つとなった。 ソニー、パナソニック、日立製作所、東芝、三菱電機などの総合電機メーカーと比べると規模は小さいが、自社の得意分野への「選択と集中」を進めることで、1980年代から2000年代にかけて家庭用AV機器に関してはこれらの大手メーカーと同等以上のブランド力を持っていた。2003年にはパイオニアLDCを売却してノンコア事業とされたソフト制作から撤退、プラズマテレビを中心とするホームエレクトロニクス事業に資源を集中した。しかし、2000年代においてはプラズマテレビへの「選択と集中」が裏目に出た。 2003年、パイオニア社はそれまでオーディオの生産をしていた静岡工場をプラズマパネル工場「パイオニア・ディスプレイ・プロダクツ」に改変、また2004年には500億円でNECのプラズマ事業を買収するなど、プラズマ事業に多大な投資を行い、パイオニアは2004年にプラズマパネルの生産量で世界シェア1位となった。プラズマへの投資により2005年には800億円を超える巨額の赤字を出したものの、2006年には売上が8000億円近くに達し、売上で見た場合はこの時期が絶頂期である。しかし、プラズマにパイオニアを傾けるほどの投資を行っても、プラズマに5000億円を超える投資を行った大手のパナソニックには投資額ではかなわず、プラズマテレビが液晶テレビとの市場競争によって薄型テレビ市場から淘汰されるのを待たずに2008年に撤退。 2008年はテレビなどホームエレクトロニクス事業の不振に加え、リーマン・ショックによる世界的な景気悪化もあってカーナビ事業も不振で、合計で1300億円の赤字を出した。2004年以降に赤字が続いて経営が悪化したことから、リーマン・ショック直後の2009年に、目黒本社の不動産を売却して川崎事業所に移転し、資金創出に努めるとともに事業体制のスリム化を図った。2011年以降のカーエレの需要回復を見越してカーエレ事業に経営資源を集中する方針を取った。 2010年代以降は音楽をスマートフォンで聞く時代となり、同社がそれまで主力としていた家庭用AV機器も販売不振に陥り、キャッシュフローが悪化。2014年には、販売不振が続いた家庭用AV機器事業に加え、かなりの利益が出ていたDJ機器事業(Pioneer DJ、DJ機器の世界最大手)も今後の成長にむけた資金調達のために売却。カーナビゲーションシステムなど自動車関連に特化した電機メーカーとして自主再建を模索したが、スマホの普及などによりカーナビの売り上げが鈍化。 2018年、香港の企業再生ファンドのファンドであるベアリング・プライベート・エクイティ・アジア (BPEA) の傘下に入り、2019年3月に完全子会社化された。同時に上場廃止。 2019年に社内カンパニー制を導入し、データソリューション事業を担う「モビリティサービスカンパニー」と、市販事業とOEM事業を担う「モビリティプロダクトカンパニー」の2社を新設。2020年3月期に黒字化し、2021年には経営再建の完了を宣言。ソリューションサービス企業へと変革し、再上場を目指している。 構造改革の一環として、2009年11月に本社機能を東京都目黒区から神奈川県川崎市の川崎事業所へ移転し、目黒旧本社は2010年7月に88億円で売却された。 2015年10月に、経営体制のスリム化を目的として川崎の本社不動産を売却し、本社を再度東京へ移転することを発表した。2016年3月7日に東京都文京区の文京グリーンコートへ移転した。文京区が本社となるのは1964年以来、およそ52年ぶりである。 2000年代半ばにかけ、ホームエレクトロニクス事業としてPDP(プラズマテレビ)、DVDレコーダー、PC用DVDマルチドライブ、Blu-ray Discプレイヤー、PC用BDマルチドライブなどを手がけた。「カロッツェリア」ブランドで車載用AV機器(カーナビゲーション、カーオーディオ)を展開している。これらホームエレクトロニクスおよびカーエレクトロニクス事業が売上の2本柱であり、2006年(平成18年)3月期の売上はそれぞれ3,546億円、3,305億円で合計して90%以上を占めていた。 しかし、その後の経営危機により、ディスプレイ事業からは撤退、光ディスク事業はシャープとの合弁とし(それぞれ後述)、2013年3月期においてはカーエレクトロニクスが3,126億円、ホームエレクトロニクスが959億円と、カーエレクトロニクス事業に経営資源をシフトさせた。 プロフェッショナル向けオーディオブランドとして、TAD (Technical Audio Devices) を持ち、多くのスタジオにモニタースピーカーなどを納入している。一般向け高級オーディオブランド Exclusiveと並び、オーディオマニアに著名である。欧米市場では1970年代初頭までCENTREXというブランド名が使われた。日本国内ではパイオニアブランドのみ展開する。 家庭用オーディオ機器でも、中-高級品の価格帯で強い販売力を維持していたが、1980年代に「プライベート」ブランドで他社に先駆けて小型コンポを投入。若者をターゲットにすることでシェアを伸ばした。1990年ごろまでは、アナログディスクプレーヤー、アンプ、チューナー、スピーカー、アナログカセットデッキ、DATデッキ(生録用の可搬型モデル「D-C88」を含む)、MDデッキ(ただしポータブルタイプ及び一部のミニコンポ用はシャープのOEM)、CDレコーダーなど、ほぼ全種類の民生用オーディオ機器を生産していたが、バブル崩壊により他のメーカーと同様に大きく販売を落とし、生産機種の大幅な整理を行った。 AV機器を含むホームオーディオ機器事業は、先述の通り2013年7月1日から2015年3月1日までは同社の完全子会社(当時)のパイオニアホームエレクトロニクスが取り扱っていたが、2015年3月2日よりオンキヨーの完全子会社のオンキヨー&パイオニア(2020年10月1日付をもって親会社のオンキヨー(旧法人、存続会社)に吸収合併される形でオンキヨーホームエンターテイメントへ社名変更、ならびに法人消滅)が取り扱うこととなったが、2019年12月より全世界で発生しているコロナ禍の影響による業績悪化を理由に2022年5月13日付でオンキヨーホームエンターテイメントが経営破綻。これによりカーオーディオとPC用デスクトップマルチメディアオーディオを除く純粋なオーディオブランドとしてのパイオニアは、2022年7月20日に(かつてパイオニアやオンキヨー〈2代目〉と資本提携していた)ティアックが米国プレミアム・オーディオ・カンパニー社 (PAC) と代理店契約を締結したことを発表。その後、2022年10月以降を目途にオンキヨーブランドと共に(日本市場向け)ドルビーアトモス対応高級AVアンプが投入される予定であることが明らかとなった。このほか、2021年度まで旧OPC時代を含むOHEから製造・発売されていた一部のパイオニアブランド・オンキヨーブランド・インテグラブランド等の各種AV製品の修理等のサポートもティアックが担当することとなった。 車載用のオーディオとしては、1975年11月に世界初のコンポーネントカーステレオを発売し、市場占有率を伸ばした(日本初のカーラジオ(1948年)、カーステレオ(1963年)はクラリオンが先に開発・発売)。1970年代末に発売されたフェラーリ・512BBでは、純正カーステレオに採用されており、後にF1フェラーリチームへスポンサー参加するきっかけとなっている。 日本車への純正カーオーディオの供給も盛んであり、日本国内全メーカーへ供給経験がある。日本車では、日産自動車、三菱自動車、マツダ、SUBARU、ダイハツ工業、スズキにラインナップ されている。配線は各社用に加工されており、2000年代前半までの機種では、最大出力を落とすなどの配慮もなされた。 パイオニア/カロッツェリアともに、オーディオ、カーナビゲーション、スピーカー、ウーファーの型番の最後にZy、ZZと入る場合は純正オプションであることを表している。 その後、GPS搭載の世界初カーナビゲーションシステムを開発した。その後、DVD搭載型、HDD搭載型を開発し、カーコンポーネント事業で世界トップの技術とシェアを持つ企業に成長した。 ユーザーから走行情報を収集し、渋滞情報を作成してユーザーに提供する「スマートループ渋滞情報」があり、パイオニア製品だけでなく、他社製品でも利用できる。 日本ではレーザーディスクの盟主としても知られており、日本ビクター(現・JVCケンウッド)の開発したVHDに日本国内の主要電機メーカーのほとんどが賛同した不利な状況にもかかわらず、当時の社長で「パイオニア中興の祖」とされる石塚庸三が、創業者・松本望をはじめとする社内の反対派を押し切り、販売導入に漕ぎ着けた。 初期は一時的な販売不振に陥ったが、最終的にレーザーディスクがシェア争いに勝利した。その過程で商品化された「絵の出るレコード」レーザーディスク・カラオケはバブル期に一世を風靡、パイオニアのドル箱事業に成長し、会社の屋台骨を支えた。カラオケ以外の娯楽分野では100円を入れてビデオクリップを見る「Laser Jukebox」や Visualに特化したゲーム用「Laser Active」があった。レーザーディスクのランダムアクセス機能を活用した業務用機器も多数開発され、全世界の博物館や企業で映像送出用機器として使用された。 米国では小中学校向けの視聴覚教材として採用され、Apple Computerとの協業で全米の学校に普及が進み、Appleとの関係が構築された。その後も、DVD-RやDVD-RWを開発するなど、光ディスク事業においても技術力を保持し続けていた。 DVD普及後、レーザーディスク事業はプレーヤーの少量生産のみで実質撤退していたが、2009年(平成21年)1月、LDプレーヤーの生産も終了した。 DVDメディアの製造販売からは早期に撤退し、DVD業界におけるパイオニアの功績は高い技術力を反映したPC用DVDマルチドライブにあった。DVDマルチドライブ黎明期から高性能なドライブを発売すると共に廉価普及版も投入し、DVDドライブのスタンダードとなった。パソコン周辺機器メーカーのバッファローやロジテック、アイ・オー・データ向けに、DVDドライブをOEM納入している。 パイオニア製ドライブの書き込み品質の高さは、ドライブ自体の高性能さと併せ、ディスク(特に太陽誘電が製造及びOEM供給したDVD-Rディスク)との相性の良さがあったからといわれる。だが、2007年、DVR-A12シリーズでピックアップの不具合によるリコールを招いた。以前より、本件はユーザーの間では話題になっており、対応の遅さが批判を浴びた。同時期に光ディスクドライブ市場の急激な価格低下に苦しみ、2007年9月、パイオニアはシャープと資本業務提携を行い、合弁会社「パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリング株式会社」を設立した。しかし、この提携は2014年8月に解消され、パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリングはパイオニア単独の子会社となった。 Blu-ray Disc (BD) ではHD DVDと規格争いした頃からBD陣営に属し、最も初期からドライブの出荷を開始したメーカーの一つである。OEM向けのBDマルチドライブユニットの生産量、および供給量のシェアとしては2021年(令和3年)時点で日立LGデータストレージやパナソニックに次ぐ大手のメーカーとなっている。 民生用DVDレコーダーを世界で最初に発売したメーカーであり、パナソニックや東芝と共に旧御三家の一つであった。当時は画質・音質のこだわりや充実した編集機能により一定の支持を受けていたが、後の低価格化競争によって利益を圧迫する状態が続いた。 2006年(平成18年)6月にDVDレコーダーの新規開発を中止すると報道されたが否定した。2007年(平成19年)は新機種が発売されないまま既存モデルが相次いで生産終了し、2008年4月に発表されたモデルはシャープからのOEMとなった。以後に新製品の発売は無く、事実上完全撤退する。 ディスプレイ分野では、レーザーディスクやBeta hi-fi式ビデオデッキ Hi-Vista(ソニーからパイオニア仕様にカスタマイズされたOEM)などのAV製品と共にCRT方式のコンポビジュアルシステム「SEEDシリーズ」で家庭用モニター市場に参入。同社オーディオ機器とのデザイン統合性、チューナーやテレビゲームパックなどの拡張ユニットにより、他社との差別化を図った。 CRT方式のリアプロジェクションテレビ(パネルは他社製)を日本国外向けに販売するなど大きなシェアは持っていなかったが、1997年(平成9年)12月に世界初の民生用高精細50インチ型ワイドプラズマテレビを発売した(42型ワイドプラズマテレビは同年11月に富士通ゼネラルが世界で初めて発売)。パネルの自社生産可能な日本メーカーの一つで(チューナーは他社からOEM)、擬似輪郭や消費電力などプラズマテレビの弱点を克服した独自の映像技術や、祖業のオーディオ技術を搭載した高音質も高く評価された。かつては43V型と50V型のみを製造したが、NECプラズマディスプレイの買収により、61V型をラインナップに加えた。 先行メーカーとして多数の関連特許を取得し、2006年にサムスン電子のディスプレイが、アメリカ国内で申請した2件の特許に抵触しているとして、テキサス州東部地区連邦地方裁判所へ提訴する。基本的特許として2008年10月29日の判決で合計5900万ドルの損害賠償を得る。 日本国内では液晶テレビの低価格化に圧され、2007年(平成19年)8月から高級路線に特化した新ブランド「KURO」を展開したが、ライバルの松下電器産業にはシェアで及ばず、2008年(平成20年)3月7日にプラズマパネルの自社生産の中止を発表した。ならびにPDP技術者の大半をパナソニックのPDP部門へ転籍させ、パナソニックからパネルを調達し、組立と自社ブランド販売のみに専念する予定を発表した。世界金融危機による世界経済の急激な落ち込みを受けて、2009年2月12日にディスプレイ事業からの撤退を発表した。2008年にシャープから液晶パネルの供給を受けて自社ブランドの液晶テレビ参入を予定したが、実現しないままディスプレイ事業撤退した。 パイオニアは、有機ELディスプレイも古くから研究開発し、カーオーディオの照明や液晶のバックライト、携帯電話の背面、カーオーディオの単色ディスプレイ用などで既に製品化している。2005年(平成17年)に京都大学、三菱化学、ロームと共にフレキシブルな有機ELディスプレイの試作に成功した。2017年にコニカミノルタと合弁企業(コニカミノルタパイオニアOLED)を立ち上げ、照明分野への活用も模索したが、2019年に合弁を解消した。合弁解消後は、コニカミノルタが事業を継承した。 2016年現在も一部中国市場で発売されている同社ブランドの液晶テレビ、スマートフォン、デジタルカメラなどは、販売店に対する商標ライセンス貸与に伴う中国メーカー製造品であり、メーカーとしてのパイオニアとはブランド以外の関わりは一切ない。 1970年代からアンサホンの商品名で留守番電話を開発して製造する。1980年代に、無線機器の技術を応用して家庭用コードレス電話機の製造へ進出、シェアを伸ばした。電話機事業は、パイオニアが出資し、後に完全子会社となったパイオニアコミュニケーションズが承継した後、同社を吸収合併したパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニアを経て、2020年10月よりオンキヨーホームエンターテイメントが取り扱っていたが、こちらも先述の通りオンキヨーホームエンターテイメントの経営破綻に伴い停止する。 1990年代にDDIセルラーグループ(セルラー、現・KDDI/沖縄セルラー電話連合(各auブランド))および日本移動通信(IDO、現・KDDI(auブランド))、J-PHONE(デジタルツーカー向けを含む。現・SoftBank)向けに携帯電話機の供給も行っていた。特に携帯初の全面タッチパネル式のDP-211は、付属のペンで手書き入力も可能で、オプションのカーオーディオに取り付ければハンズフリーにも対応する時代を先取りした商品であったが、デザインで人気を得ることは無く、携帯電話事業から撤退する。兄弟機種のDP-211SWは、携帯初の文字メッセージサービス(旧・スカイウォーカー、現・スカイメール)対応機種である。 1983年(昭和58年)、レーザーディスクと組み合わせ、画像をスーパーインポーズさせてゲームが楽しめるMSXパソコンを発売する。 1995年(平成7年)から1997年まで、Apple Computerからライセンスを受け、デスクトップ型のMacintosh互換機を開発・販売していたが、スティーブ・ジョブズ復帰によるAppleの戦略転換で、3機種を発売したのみで終わった。 (2022年5月現在) 全て過去のもの、特記がないものは日本テレビ系列で放送。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パイオニア株式会社(英: Pioneer Corporation)は、東京都文京区に本社を置く、カーナビゲーションの製造販売などを手掛ける日本の電機メーカーである。かつては、日本を代表するオーディオメーカー(東証1部上場)であった。1938年(昭和13年)創業。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年現在は非上場企業であり、財務諸表は非公開である。同社が公式サイトで公表している直近の連結売上高は約2685億円(2023年3月期)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2023年現在、カーナビゲーション(カーナビ)の大手で、日本国内ではパナソニックに次ぐ2位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "個人向け製品としては、カーナビ、カーオーディオ、ドライブレコーダーなど車載機器の製造・販売を主に行っている。法人向けとしては、モビリティソリューションサービスを主力として展開している。カーナビは、自社ブランド「カロッツェリア」の他、自動車メーカーの純正カーナビへのOEM供給も行っている。2020年より独コンチネンタル社と提携し、次世代自動車CASE(Connected、Autonomous、Shared & Service、Electric)に対応した統合コックピットの開発を進めている。経営悪化の末、2018年に上場廃止となったが、カーナビメーカーからデータサービス企業へと変革を果たすことで経営が好転し、2025年度をめどに再上場を目指している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スピーカー製造に始まるパイオニアは、高度経済成長期から2000年頃までは「日本を代表するオーディオメーカー」の地位を有していたが、その後は次第に経営が悪化した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "プラズマテレビ事業の失敗による巨額の損失(→ #プラズマテレビで失敗)もあり、2010年代に入って経営危機に陥ったパイオニアは、自社の祖業であるオーディオ事業のほとんどを、2015年に、オーディオ事業の拡大を目指していた、パイオニアと同じ「日本を代表するオーディオメーカー」であったオンキョー(総称)に事実上譲り渡し、オーディオ事業から撤退した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、オンキョー(総称)が拡大を図ったオーディオ事業は、複雑な経緯を経て、7年後の2022年に「オンキヨーホームエンターテイメント株式会社」が破綻したことで、オンキョー(総称)と共に終焉した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、パイオニアが、オーディオメーカーとしての全盛期の1970年代に、「PIONEER」ブランドとは別の最高級ブランドとして創設した「TAD」(1975年創設)と「EXCLUSIVE」(1977年創設)の2つのブランド(その後「TAD」ブランドに一本化)は、欧米からの輸入品に匹敵する、最高級オーディオブランドとしての高評価が定着するに至った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "未だパイオニアに余力があった2007年に、「TAD」ブランドは、本体である「パイオニア株式会社」とは別の法人として新規設立された「株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ」(通称:TADラボラトリーズ)に移管された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "TADブランドとTADラボラトリーズは、既述したパイオニア株式会社の経営危機によるオーディオ事業からの撤退(2015年)の後も、「最高級オーディオブランドとしての高評価の維持」「独自のオーディオ事業の継続」「企業としての存続」に成功し、「全盛期のパイオニアを源流とする、日本の最高級オーディオメーカー」の地位を現在も守っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、TADラボラトリーズは、現在もパイオニアのグループ会社の1つである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カーナビ地図などを手掛ける地図事業(MapFan)は2021年にポラリス・キャピタル・グループに売却し、2023年現在はジオテクノロジーズとしてパイオニア本体から独立して展開している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "創業者である松本望は、アメリカ製のダイナミックスピーカーを聴いて「いつか必ず自分の手で純国産のスピーカー(ユニット)を作りたい」と志し、1937年(昭和12年)に初の純国産ダイナミックスピーカー「A-8」を自らの手で開発して「パイオニア (PIONEER)」を商標とした。1938年(昭和13年)1月に福音商会電機製作所を設立して販売を開始した。松本は後に印刷会社も興して「フクイン(旧称・福音印刷)」とし、パイオニア製品の取扱説明書やカタログを印刷して収益の独占化を図る。1961年(昭和36年)に商標であったパイオニアを社名とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1962年には世界初のセパレート型ステレオを発売。1960年から1970年代にかけてのオーディオブーム全盛期はサンスイ、トリオと並び「オーディオ御三家」として「サン・トリ・パイ」とも広く俗称され、オーディオファンから「スピーカーのパイオニア」として親しまれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1975年に車でカセットテープが聞ける世界初のカーコンポ「KP-55G」を発売。カーコンポは、1977年より「LONESOME CAR-BOY」のブランドで展開する(1986年以降は「carrozzeria」ブランド)。1984年には車でCDが聞ける世界初のカーCDプレーヤ「CDX-1」を発売。カーオーディオで他社をリードした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1979年にビデオディスクの規格レーザーディスク (LD)陣営に参画し、世界初の業務用LDプレーヤーを発売。1980年代におけるビデオディスクの規格競争において、他メーカーの撤退によって一時はパイオニア一社のみとなったLD陣営を率いて圧倒的多数派のVHD連合に勝利する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1983年に「音と光の未来をひらく」の企業スローガンを導入。LDプレーヤー、コンポ、ラジカセなどを中心に、家庭用AV機器メーカーとして飛躍を遂げた。特にラジカセ「ランナウェイ」の最上位機種「Runaway SK-900」は非常な人気を博し、アオシマから1/6プラモデルまで発売された(1980年代のバブル時代を象徴する、いわゆる「バブルラジカセ」の一つ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1989年、レーザーディスク普及のために設立したレーザーディスク社(Pioneer Laser Disc Company)を「パイオニアLDC」として改変。OVAやアニメソングなど自社ソフトを多展開することで、LDプレーヤーやコンポなどの自社ハードを売ることにつなげるという、メディアミックスの文字通りのパイオニアとなり、ハードのみならずアニメ、ゲーム、音楽などソフトでも大手メーカーとなった。『天地無用! 魎皇鬼』(1992年)や『神秘の世界エルハザード』(1995年)などOVAを中心としたメディアミックス作品でヒット作を連発し、1990年代のオタク文化を支えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1990年6月には「道は星に聞く」のキャッチコピーの元、「carrozzeria」ブランドで世界初の市販GPS式カーナビ「AVIC-1」を発売。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1993年、世界初のDJ用CDプレイヤー(CDJ)「CDJ-50」を発売。この分野では、デュアルデッキやピッチ可変など機能が豊富だったデノンの製品に当初は押されていたが、CDJでありながらアナログプレーヤーのようなスクラッチ機能を搭載した「CDJ-1000」(2001年)の大ヒットによってDJ機器最大手となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1993年、LDゲーム機のレーザーアクティブを発売。本体だけで最低12万円という非常な高価格なうえにソフトも少なかったので一般的に普及はしなかったものの、『タイムギャル』(1995年)などゲームセンターのLDゲーム機とほぼ同じ画質でゲームが遊べるということでマニアに人気を博した。1995年にパソコン(Macintosh互換機)のMPCシリーズを発売。自社製CD-ROMドライブに加え、AV機器メーカーらしく高品質なアンプとスピーカーを搭載しているのがウリだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1995年、パイオニアLDCから『天地無用! 魎皇鬼』の第二期OPソングとして『ぼくはもっとパイオニア』(横山智佐)をリリース。自社規格であるLDでリリースした、自社制作のOVAに、自社の名を冠したテーマソングを載せるという、この頃にはハード・ソフト共にマルチメディアにおいて強力なブランドを確立していた。バブル崩壊で苦戦する競合の電機メーカーを尻目に業績を伸ばし、2000年には株価がバブル絶頂期に迫る5000円近くに達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1995年にDVDフォーラムに加盟。1996年に世界初のDVD-Video/LDのコンパチブルプレーヤー「DVL-9」、1997年に世界初のDVD-Rドライブ「DVR-S101」、同年に世界初の50インチプラズマディスプレイ、1999年に世界初のDVDレコーダー「DVR-1000」を発売した。1990年代末から2000年代にかけてはアナログからデジタルに移行できずに衰退した古参オーディオメーカーも多い中、パイオニアはこのようにAV機器のデジタル化の波を先導し、オーディオのみならず映像機器、また光ディスクメディアなどの記憶媒体においても有力メーカーの一つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ソニー、パナソニック、日立製作所、東芝、三菱電機などの総合電機メーカーと比べると規模は小さいが、自社の得意分野への「選択と集中」を進めることで、1980年代から2000年代にかけて家庭用AV機器に関してはこれらの大手メーカーと同等以上のブランド力を持っていた。2003年にはパイオニアLDCを売却してノンコア事業とされたソフト制作から撤退、プラズマテレビを中心とするホームエレクトロニクス事業に資源を集中した。しかし、2000年代においてはプラズマテレビへの「選択と集中」が裏目に出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2003年、パイオニア社はそれまでオーディオの生産をしていた静岡工場をプラズマパネル工場「パイオニア・ディスプレイ・プロダクツ」に改変、また2004年には500億円でNECのプラズマ事業を買収するなど、プラズマ事業に多大な投資を行い、パイオニアは2004年にプラズマパネルの生産量で世界シェア1位となった。プラズマへの投資により2005年には800億円を超える巨額の赤字を出したものの、2006年には売上が8000億円近くに達し、売上で見た場合はこの時期が絶頂期である。しかし、プラズマにパイオニアを傾けるほどの投資を行っても、プラズマに5000億円を超える投資を行った大手のパナソニックには投資額ではかなわず、プラズマテレビが液晶テレビとの市場競争によって薄型テレビ市場から淘汰されるのを待たずに2008年に撤退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2008年はテレビなどホームエレクトロニクス事業の不振に加え、リーマン・ショックによる世界的な景気悪化もあってカーナビ事業も不振で、合計で1300億円の赤字を出した。2004年以降に赤字が続いて経営が悪化したことから、リーマン・ショック直後の2009年に、目黒本社の不動産を売却して川崎事業所に移転し、資金創出に努めるとともに事業体制のスリム化を図った。2011年以降のカーエレの需要回復を見越してカーエレ事業に経営資源を集中する方針を取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年代以降は音楽をスマートフォンで聞く時代となり、同社がそれまで主力としていた家庭用AV機器も販売不振に陥り、キャッシュフローが悪化。2014年には、販売不振が続いた家庭用AV機器事業に加え、かなりの利益が出ていたDJ機器事業(Pioneer DJ、DJ機器の世界最大手)も今後の成長にむけた資金調達のために売却。カーナビゲーションシステムなど自動車関連に特化した電機メーカーとして自主再建を模索したが、スマホの普及などによりカーナビの売り上げが鈍化。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年、香港の企業再生ファンドのファンドであるベアリング・プライベート・エクイティ・アジア (BPEA) の傘下に入り、2019年3月に完全子会社化された。同時に上場廃止。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2019年に社内カンパニー制を導入し、データソリューション事業を担う「モビリティサービスカンパニー」と、市販事業とOEM事業を担う「モビリティプロダクトカンパニー」の2社を新設。2020年3月期に黒字化し、2021年には経営再建の完了を宣言。ソリューションサービス企業へと変革し、再上場を目指している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "構造改革の一環として、2009年11月に本社機能を東京都目黒区から神奈川県川崎市の川崎事業所へ移転し、目黒旧本社は2010年7月に88億円で売却された。", "title": "事業所" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2015年10月に、経営体制のスリム化を目的として川崎の本社不動産を売却し、本社を再度東京へ移転することを発表した。2016年3月7日に東京都文京区の文京グリーンコートへ移転した。文京区が本社となるのは1964年以来、およそ52年ぶりである。", "title": "事業所" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2000年代半ばにかけ、ホームエレクトロニクス事業としてPDP(プラズマテレビ)、DVDレコーダー、PC用DVDマルチドライブ、Blu-ray Discプレイヤー、PC用BDマルチドライブなどを手がけた。「カロッツェリア」ブランドで車載用AV機器(カーナビゲーション、カーオーディオ)を展開している。これらホームエレクトロニクスおよびカーエレクトロニクス事業が売上の2本柱であり、2006年(平成18年)3月期の売上はそれぞれ3,546億円、3,305億円で合計して90%以上を占めていた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、その後の経営危機により、ディスプレイ事業からは撤退、光ディスク事業はシャープとの合弁とし(それぞれ後述)、2013年3月期においてはカーエレクトロニクスが3,126億円、ホームエレクトロニクスが959億円と、カーエレクトロニクス事業に経営資源をシフトさせた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "プロフェッショナル向けオーディオブランドとして、TAD (Technical Audio Devices) を持ち、多くのスタジオにモニタースピーカーなどを納入している。一般向け高級オーディオブランド Exclusiveと並び、オーディオマニアに著名である。欧米市場では1970年代初頭までCENTREXというブランド名が使われた。日本国内ではパイオニアブランドのみ展開する。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "家庭用オーディオ機器でも、中-高級品の価格帯で強い販売力を維持していたが、1980年代に「プライベート」ブランドで他社に先駆けて小型コンポを投入。若者をターゲットにすることでシェアを伸ばした。1990年ごろまでは、アナログディスクプレーヤー、アンプ、チューナー、スピーカー、アナログカセットデッキ、DATデッキ(生録用の可搬型モデル「D-C88」を含む)、MDデッキ(ただしポータブルタイプ及び一部のミニコンポ用はシャープのOEM)、CDレコーダーなど、ほぼ全種類の民生用オーディオ機器を生産していたが、バブル崩壊により他のメーカーと同様に大きく販売を落とし、生産機種の大幅な整理を行った。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "AV機器を含むホームオーディオ機器事業は、先述の通り2013年7月1日から2015年3月1日までは同社の完全子会社(当時)のパイオニアホームエレクトロニクスが取り扱っていたが、2015年3月2日よりオンキヨーの完全子会社のオンキヨー&パイオニア(2020年10月1日付をもって親会社のオンキヨー(旧法人、存続会社)に吸収合併される形でオンキヨーホームエンターテイメントへ社名変更、ならびに法人消滅)が取り扱うこととなったが、2019年12月より全世界で発生しているコロナ禍の影響による業績悪化を理由に2022年5月13日付でオンキヨーホームエンターテイメントが経営破綻。これによりカーオーディオとPC用デスクトップマルチメディアオーディオを除く純粋なオーディオブランドとしてのパイオニアは、2022年7月20日に(かつてパイオニアやオンキヨー〈2代目〉と資本提携していた)ティアックが米国プレミアム・オーディオ・カンパニー社 (PAC) と代理店契約を締結したことを発表。その後、2022年10月以降を目途にオンキヨーブランドと共に(日本市場向け)ドルビーアトモス対応高級AVアンプが投入される予定であることが明らかとなった。このほか、2021年度まで旧OPC時代を含むOHEから製造・発売されていた一部のパイオニアブランド・オンキヨーブランド・インテグラブランド等の各種AV製品の修理等のサポートもティアックが担当することとなった。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "車載用のオーディオとしては、1975年11月に世界初のコンポーネントカーステレオを発売し、市場占有率を伸ばした(日本初のカーラジオ(1948年)、カーステレオ(1963年)はクラリオンが先に開発・発売)。1970年代末に発売されたフェラーリ・512BBでは、純正カーステレオに採用されており、後にF1フェラーリチームへスポンサー参加するきっかけとなっている。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本車への純正カーオーディオの供給も盛んであり、日本国内全メーカーへ供給経験がある。日本車では、日産自動車、三菱自動車、マツダ、SUBARU、ダイハツ工業、スズキにラインナップ されている。配線は各社用に加工されており、2000年代前半までの機種では、最大出力を落とすなどの配慮もなされた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "パイオニア/カロッツェリアともに、オーディオ、カーナビゲーション、スピーカー、ウーファーの型番の最後にZy、ZZと入る場合は純正オプションであることを表している。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、GPS搭載の世界初カーナビゲーションシステムを開発した。その後、DVD搭載型、HDD搭載型を開発し、カーコンポーネント事業で世界トップの技術とシェアを持つ企業に成長した。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ユーザーから走行情報を収集し、渋滞情報を作成してユーザーに提供する「スマートループ渋滞情報」があり、パイオニア製品だけでなく、他社製品でも利用できる。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本ではレーザーディスクの盟主としても知られており、日本ビクター(現・JVCケンウッド)の開発したVHDに日本国内の主要電機メーカーのほとんどが賛同した不利な状況にもかかわらず、当時の社長で「パイオニア中興の祖」とされる石塚庸三が、創業者・松本望をはじめとする社内の反対派を押し切り、販売導入に漕ぎ着けた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "初期は一時的な販売不振に陥ったが、最終的にレーザーディスクがシェア争いに勝利した。その過程で商品化された「絵の出るレコード」レーザーディスク・カラオケはバブル期に一世を風靡、パイオニアのドル箱事業に成長し、会社の屋台骨を支えた。カラオケ以外の娯楽分野では100円を入れてビデオクリップを見る「Laser Jukebox」や Visualに特化したゲーム用「Laser Active」があった。レーザーディスクのランダムアクセス機能を活用した業務用機器も多数開発され、全世界の博物館や企業で映像送出用機器として使用された。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "米国では小中学校向けの視聴覚教材として採用され、Apple Computerとの協業で全米の学校に普及が進み、Appleとの関係が構築された。その後も、DVD-RやDVD-RWを開発するなど、光ディスク事業においても技術力を保持し続けていた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "DVD普及後、レーザーディスク事業はプレーヤーの少量生産のみで実質撤退していたが、2009年(平成21年)1月、LDプレーヤーの生産も終了した。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "DVDメディアの製造販売からは早期に撤退し、DVD業界におけるパイオニアの功績は高い技術力を反映したPC用DVDマルチドライブにあった。DVDマルチドライブ黎明期から高性能なドライブを発売すると共に廉価普及版も投入し、DVDドライブのスタンダードとなった。パソコン周辺機器メーカーのバッファローやロジテック、アイ・オー・データ向けに、DVDドライブをOEM納入している。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "パイオニア製ドライブの書き込み品質の高さは、ドライブ自体の高性能さと併せ、ディスク(特に太陽誘電が製造及びOEM供給したDVD-Rディスク)との相性の良さがあったからといわれる。だが、2007年、DVR-A12シリーズでピックアップの不具合によるリコールを招いた。以前より、本件はユーザーの間では話題になっており、対応の遅さが批判を浴びた。同時期に光ディスクドライブ市場の急激な価格低下に苦しみ、2007年9月、パイオニアはシャープと資本業務提携を行い、合弁会社「パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリング株式会社」を設立した。しかし、この提携は2014年8月に解消され、パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリングはパイオニア単独の子会社となった。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Blu-ray Disc (BD) ではHD DVDと規格争いした頃からBD陣営に属し、最も初期からドライブの出荷を開始したメーカーの一つである。OEM向けのBDマルチドライブユニットの生産量、および供給量のシェアとしては2021年(令和3年)時点で日立LGデータストレージやパナソニックに次ぐ大手のメーカーとなっている。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "民生用DVDレコーダーを世界で最初に発売したメーカーであり、パナソニックや東芝と共に旧御三家の一つであった。当時は画質・音質のこだわりや充実した編集機能により一定の支持を受けていたが、後の低価格化競争によって利益を圧迫する状態が続いた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)6月にDVDレコーダーの新規開発を中止すると報道されたが否定した。2007年(平成19年)は新機種が発売されないまま既存モデルが相次いで生産終了し、2008年4月に発表されたモデルはシャープからのOEMとなった。以後に新製品の発売は無く、事実上完全撤退する。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ディスプレイ分野では、レーザーディスクやBeta hi-fi式ビデオデッキ Hi-Vista(ソニーからパイオニア仕様にカスタマイズされたOEM)などのAV製品と共にCRT方式のコンポビジュアルシステム「SEEDシリーズ」で家庭用モニター市場に参入。同社オーディオ機器とのデザイン統合性、チューナーやテレビゲームパックなどの拡張ユニットにより、他社との差別化を図った。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "CRT方式のリアプロジェクションテレビ(パネルは他社製)を日本国外向けに販売するなど大きなシェアは持っていなかったが、1997年(平成9年)12月に世界初の民生用高精細50インチ型ワイドプラズマテレビを発売した(42型ワイドプラズマテレビは同年11月に富士通ゼネラルが世界で初めて発売)。パネルの自社生産可能な日本メーカーの一つで(チューナーは他社からOEM)、擬似輪郭や消費電力などプラズマテレビの弱点を克服した独自の映像技術や、祖業のオーディオ技術を搭載した高音質も高く評価された。かつては43V型と50V型のみを製造したが、NECプラズマディスプレイの買収により、61V型をラインナップに加えた。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "先行メーカーとして多数の関連特許を取得し、2006年にサムスン電子のディスプレイが、アメリカ国内で申請した2件の特許に抵触しているとして、テキサス州東部地区連邦地方裁判所へ提訴する。基本的特許として2008年10月29日の判決で合計5900万ドルの損害賠償を得る。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本国内では液晶テレビの低価格化に圧され、2007年(平成19年)8月から高級路線に特化した新ブランド「KURO」を展開したが、ライバルの松下電器産業にはシェアで及ばず、2008年(平成20年)3月7日にプラズマパネルの自社生産の中止を発表した。ならびにPDP技術者の大半をパナソニックのPDP部門へ転籍させ、パナソニックからパネルを調達し、組立と自社ブランド販売のみに専念する予定を発表した。世界金融危機による世界経済の急激な落ち込みを受けて、2009年2月12日にディスプレイ事業からの撤退を発表した。2008年にシャープから液晶パネルの供給を受けて自社ブランドの液晶テレビ参入を予定したが、実現しないままディスプレイ事業撤退した。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "パイオニアは、有機ELディスプレイも古くから研究開発し、カーオーディオの照明や液晶のバックライト、携帯電話の背面、カーオーディオの単色ディスプレイ用などで既に製品化している。2005年(平成17年)に京都大学、三菱化学、ロームと共にフレキシブルな有機ELディスプレイの試作に成功した。2017年にコニカミノルタと合弁企業(コニカミノルタパイオニアOLED)を立ち上げ、照明分野への活用も模索したが、2019年に合弁を解消した。合弁解消後は、コニカミノルタが事業を継承した。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2016年現在も一部中国市場で発売されている同社ブランドの液晶テレビ、スマートフォン、デジタルカメラなどは、販売店に対する商標ライセンス貸与に伴う中国メーカー製造品であり、メーカーとしてのパイオニアとはブランド以外の関わりは一切ない。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1970年代からアンサホンの商品名で留守番電話を開発して製造する。1980年代に、無線機器の技術を応用して家庭用コードレス電話機の製造へ進出、シェアを伸ばした。電話機事業は、パイオニアが出資し、後に完全子会社となったパイオニアコミュニケーションズが承継した後、同社を吸収合併したパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニアを経て、2020年10月よりオンキヨーホームエンターテイメントが取り扱っていたが、こちらも先述の通りオンキヨーホームエンターテイメントの経営破綻に伴い停止する。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1990年代にDDIセルラーグループ(セルラー、現・KDDI/沖縄セルラー電話連合(各auブランド))および日本移動通信(IDO、現・KDDI(auブランド))、J-PHONE(デジタルツーカー向けを含む。現・SoftBank)向けに携帯電話機の供給も行っていた。特に携帯初の全面タッチパネル式のDP-211は、付属のペンで手書き入力も可能で、オプションのカーオーディオに取り付ければハンズフリーにも対応する時代を先取りした商品であったが、デザインで人気を得ることは無く、携帯電話事業から撤退する。兄弟機種のDP-211SWは、携帯初の文字メッセージサービス(旧・スカイウォーカー、現・スカイメール)対応機種である。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)、レーザーディスクと組み合わせ、画像をスーパーインポーズさせてゲームが楽しめるMSXパソコンを発売する。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)から1997年まで、Apple Computerからライセンスを受け、デスクトップ型のMacintosh互換機を開発・販売していたが、スティーブ・ジョブズ復帰によるAppleの戦略転換で、3機種を発売したのみで終わった。", "title": "事業展開" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "(2022年5月現在)", "title": "主な商品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "全て過去のもの、特記がないものは日本テレビ系列で放送。", "title": "提供番組" } ]
パイオニア株式会社は、東京都文京区に本社を置く、カーナビゲーションの製造販売などを手掛ける日本の電機メーカーである。かつては、日本を代表するオーディオメーカー(東証1部上場)であった。1938年(昭和13年)創業。 2023年現在は非上場企業であり、財務諸表は非公開である。同社が公式サイトで公表している直近の連結売上高は約2685億円(2023年3月期)である。
{{Otheruses|日本の電機メーカー}} {{基礎情報 会社 | 社名 = パイオニア株式会社 | 英文社名 = Pioneer Corporation | ロゴ = [[File:Pioneer logo.svg|250px]] | 画像 = [[File:Bunkyo_green_court_honkomagome.JPG|300px]] | 画像説明 = パイオニアの本社が入居する文京グリーンコート | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場(以下は過去のデータ)<br/>{{上場情報 | 東証1部 | 6773 | 1961年10月2日 | 2019年3月27日}} | 略称 = | 本社郵便番号 = 113-0021 | 本社所在地 = [[東京都]][[文京区]][[本駒込]]二丁目28番8号<br/>[[文京グリーンコート]] | 国籍 = {{JPN}} | 設立 = [[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月8日]]<br />(福音電機株式会社) | 業種 = 3650 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[カーオーディオ|車載用音響機器]]および[[パーソナルコンピュータ|PC]]用[[光学ドライブ]]の製造販売 | 代表者 = [[代表取締役]]兼[[社長]][[執行役員]] 矢原 史郎 | 資本金 = 928億8,100万円<br />([[2018年]]3月31日現在) | 発行済株式総数 = 3億8,334万株<br />(2018年3月31日現在) | 売上高 = 連結:3,654億17百万円<br />単独:2,092億19百万円<br />(2018年3月期) | 経常利益 = 連結:△31億21百万円<br />単独:△88億32百万円<br />(2018年3月期) | 純利益 = 連結:△71億23百万円<br />単独:△87億66百万円<br />(2018年3月期) | 純資産 = 連結:849億34百万円<br />単独:957億26百万円<br />(2018年3月31日現在) | 総資産 = 連結:2,875億10百万円<br />単独:2,951億21百万円<br />(2018年3月31日現在) | 従業員数 = 連結:10,293名<br />(2021年9月30日現在) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = {{flagicon|IRE}} Wolfcrest Limited 100%<br />(2019年3月31日現在) | 主要子会社 = [[東北パイオニア|東北パイオニア(株)]] 100%<br />[[パイオニアマイクロテクノロジー|パイオニア・マイクロ・テクノロジー(株)]] 100% | 関係する人物 = [[松本望 (実業家)|松本望]]([[創業者]]) | 外部リンク = https://jpn.pioneer/ja/ | 特記事項 = }} '''パイオニア株式会社'''({{Lang-en-short|Pioneer Corporation}})は、[[東京都]][[文京区]]に本社を置く、[[カーナビゲーション]]の製造販売などを手掛ける[[日本]]の[[電機メーカー]]である。かつては、日本を代表するオーディオメーカー([[東京証券取引所|東証1部]][[上場]])であった。[[1938年]](昭和13年)創業。 2023年現在は非[[上場|上場企業]]であり、[[財務諸表]]は非公開である。同社が公式サイトで公表している直近の[[連結財務諸表|連結]][[売上高]]は約2685億円([[2023年]]3月期)である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/info/outline/?ref=header |title=会社概要 |access-date=2023-7-8 |publisher=パイオニア株式会社 |website=パイオニア株式会社 公式サイト}}</ref>。 == 概要 == === 現在の事業内容 === 2023年現在、[[カーナビゲーション]](カーナビ)の大手で、日本国内では[[パナソニック]]に次ぐ2位である。 個人向け製品としては、カーナビ、[[カーオーディオ]]、[[ドライブレコーダー]]など車載機器の製造・販売を主に行っている。法人向けとしては、モビリティソリューションサービスを主力として展開している。カーナビは、自社ブランド「[[カロッツェリア (AV機器)|カロッツェリア]]」の他、自動車メーカーの純正カーナビへのOEM供給も行っている。2020年より独[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタル]]社と提携し、次世代自動車[[CASE]](Connected、Autonomous、Shared & Service、Electric)に対応した統合コックピットの開発を進めている。経営悪化の末、2018年に上場廃止となったが、カーナビメーカーからデータサービス企業へと変革を果たすことで経営が好転し、2025年度をめどに再上場を目指している。 === 過去に手掛けていた主な事業 === ==== オーディオ事業(2015年に撤退) ==== スピーカー製造に始まるパイオニアは、[[高度経済成長|高度経済成長期]]から[[2000年]]頃までは「日本を代表するオーディオメーカー」の地位を有していたが、その後は次第に経営が悪化した。 プラズマテレビ事業の失敗による巨額の損失([[パイオニア#プラズマテレビで失敗|→ #プラズマテレビで失敗]])もあり、2010年代に入って経営危機に陥ったパイオニアは、自社の祖業であるオーディオ事業のほとんどを{{Efn2|[[2007年]]にパイオニアから独立していた[[TAD]]は無関係であった。}}、[[2015年]]に、オーディオ事業の拡大を目指していた、パイオニアと同じ「日本を代表するオーディオメーカー」であった'''オンキョー(総称){{Efn2|経営の迷走・離合集散を繰り返した'''オンキョー(総称)'''の中核だったのは、[[2022年]]に[[倒産|破綻]]した「[[オンキヨーホームエンターテイメント|オンキヨーホームエンターテイメント株式会社]]。}}'''に事実上譲り渡し、オーディオ事業から撤退した。 なお、'''オンキョー(総称)'''が拡大を図ったオーディオ事業は、複雑な経緯を経て、7年後の[[2022年]]に「[[オンキヨーホームエンターテイメント]]株式会社」が[[倒産|破綻]]したことで、'''オンキョー(総称)'''と共に終焉した。 {{Main2|パイオニアが、'''オンキョー(総称)'''にオーディオ事業を事実上譲り渡した経緯、その後|オンキヨーホームエンターテイメント#沿革}}{{See also|オンキヨー&パイオニア|オンキヨー|オンキヨーテクノロジー}} ===== TAD(当社が創設、2007年に別法人化、オーディオ事業を継続) ===== ただし、パイオニアが、オーディオメーカーとしての全盛期の1970年代に、「PIONEER」ブランドとは別の最高級ブランドとして創設した「'''[[TAD]]'''」([[1975年]]創設)と「'''EXCLUSIVE'''」([[1977年]]創設)の2つのブランド(その後「TAD」ブランドに一本化)は、'''欧米からの輸入品に匹敵する、最高級オーディオブランドとしての高評価'''{{Efn2|「欧米からの輸入品に匹敵する、最高級オーディオブランドとしての高評価」が定着し、現在も独立企業として存続している日本の最高級オーディオメーカーは、[[TAD]]の他に、[[アキュフェーズ]]、[[ESOTERIC|エソテリック]]、[[ラックスマン]]がある。}}が定着するに至った<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://tad-labs.com/jp/corporate/brand-story/chronology/ |title=TAD年表 |access-date=2023-7-8 |publisher=[[TAD]](株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ)}}</ref>。 未だパイオニアに余力があった[[2007年]]に、「'''TAD'''」ブランドは、本体である「パイオニア株式会社」とは別の[[法人]]として新規設立された「'''株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ'''」(通称:'''TADラボラトリーズ'''<ref name=":0" />)に移管された<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://tad-labs.com/jp/corporate/profile/ |title=COMPANY PROFILE:TADとは |access-date=2023-7-8 |publisher=[[TAD]](株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ)}}</ref>。 '''TAD'''ブランドと'''TADラボラトリーズ'''は、既述した'''パイオニア株式会社の経営危機によるオーディオ事業からの撤退([[2015年]])'''の後も、「最高級オーディオブランドとしての高評価の維持」「独自のオーディオ事業の継続」「企業としての存続」に成功し、「全盛期のパイオニアを源流とする、日本の最高級オーディオメーカー」の地位を現在も守っている。 {{See|TAD}} なお、TADラボラトリーズは、現在もパイオニアの[[関連会社|グループ会社]]の1つである{{Efn2|「パイオニア株式会社公式サイト:企業情報:グループ会社」の「カ行」欄に、「株式会社 テクニカル オーディオ デバイセズ ラボラトリーズ」(通称:TADラボラトリーズ<ref name=":0" />)が記載されている([[2023年]]7月現在)<ref>{{Cite web|和書|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/group/ |title=企業情報:グループ会社 |access-date=2023-7-17 |publisher=パイオニア株式会社 |website=パイオニア株式会社 公式サイト}}</ref>。}}。 ==== 地図事業(2015年に撤退) ==== カーナビ地図などを手掛ける地図事業(MapFan)は2021年に[[ポラリス・キャピタル・グループ]]に売却し、2023年現在は[[ジオテクノロジーズ]]としてパイオニア本体から独立して展開している。 == 歴史 == === オーディオメーカーとして創業 === 創業者である[[松本望 (実業家)|松本望]]は、アメリカ製のダイナミック[[スピーカー]]を聴いて「いつか必ず自分の手で純国産のスピーカー(ユニット)を作りたい」と志し、[[1937年]]([[昭和]]12年)に初の純国産ダイナミックスピーカー「'''A-8'''」を自らの手で開発して「'''パイオニア''' ('''PIONEER''')」を[[商標]]とした。[[1938年]](昭和13年)1月に'''福音商会電機製作所'''を設立して販売を開始した<ref>[https://pioneer-headphones.com/japanese/se-master1/philosophy/ A-8と箱の写真] - パイオニアのヘッドフォン「SE-MASTER1」の紹介ページ。箱には「PIONEER」と「FUKUIN SHOKAI DENKI SEISAKUSHO」の字が書かれている。</ref>。松本は後に印刷会社も興して「[[フクイン]](旧称・福音印刷)」とし、パイオニア製品の取扱説明書やカタログを印刷して収益の独占化を図る。[[1961年]](昭和36年)に商標であったパイオニアを<!--正式に-->社名とした。 1962年には世界初のセパレート型ステレオを発売。1960年から1970年代にかけてのオーディオブーム全盛期は[[山水電気|サンスイ]]、[[ケンウッド|トリオ]]と並び「オーディオ御三家」として「'''サン・トリ・パイ'''」とも広く俗称され、[[オーディオマニア|オーディオファン]]から「'''スピーカーのパイオニア'''」として親しまれた<ref>[https://biz-journal.jp/2014/12/post_8265.html パイオニア、オーディオ王者の没落 自ら成長の道閉ざし巨額負債、カーエレ注力も周回遅れ] ビジネスジャーナル、2014年12月12日</ref>。 1975年に車でカセットテープが聞ける世界初のカーコンポ「KP-55G」を発売。カーコンポは、1977年より「LONESOME CAR-BOY」のブランドで展開する(1986年以降は「carrozzeria」ブランド)。1984年には車でCDが聞ける世界初のカーCDプレーヤ「CDX-1」を発売。カーオーディオで他社をリードした。 === AV機器メーカーとして発展 === 1979年に[[ビデオディスク]]の規格'''[[レーザーディスク]]''' ('''LD''')陣営に参画し、世界初の業務用LDプレーヤーを発売。1980年代におけるビデオディスクの[[規格争い|規格競争]]において、他メーカーの撤退によって一時はパイオニア一社のみとなったLD陣営を率いて圧倒的多数派の[[VHD]]連合に勝利する。 1983年に「'''音と光の未来をひらく'''」の企業スローガンを導入。LDプレーヤー、コンポ、ラジカセなどを中心に、家庭用AV機器メーカーとして飛躍を遂げた。特にラジカセ「ランナウェイ」の最上位機種「Runaway SK-900」は非常な人気を博し、[[アオシマ]]から1/6プラモデルまで発売された(1980年代のバブル時代を象徴する、いわゆる「バブルラジカセ」の一つ)。 1989年、レーザーディスク普及のために設立したレーザーディスク社(Pioneer Laser Disc Company)を「パイオニアLDC」として改変。OVAやアニメソングなど自社ソフトを多展開することで、LDプレーヤーやコンポなどの自社ハードを売ることにつなげるという、[[メディアミックス]]の文字通りのパイオニアとなり、ハードのみならずアニメ、ゲーム、音楽などソフトでも大手メーカーとなった。『[[天地無用! 魎皇鬼]]』(1992年)や『[[神秘の世界エルハザード]]』(1995年)などOVAを中心としたメディアミックス作品でヒット作を連発し、1990年代のオタク文化を支えた。 1990年6月には「'''道は星に聞く'''」のキャッチコピーの元、「carrozzeria」ブランドで世界初の市販GPS式カーナビ「AVIC-1」を発売。 1993年、世界初のDJ用CDプレイヤー([[CDJ]])「CDJ-50」を発売。この分野では、デュアルデッキやピッチ可変など機能が豊富だった[[デノン]]の製品に当初は押されていたが、CDJでありながらアナログプレーヤーのようなスクラッチ機能を搭載した「CDJ-1000」(2001年)の大ヒットによってDJ機器最大手となった。 1993年、[[LDゲーム]]機の[[レーザーアクティブ]]を発売。本体だけで最低12万円という非常な高価格なうえにソフトも少なかったので一般的に普及はしなかったものの、『[[タイムギャル]]』(1995年)などゲームセンターのLDゲーム機とほぼ同じ画質でゲームが遊べるということでマニアに人気を博した。1995年にパソコン([[Macintosh互換機]])の[[MPC (パーソナルコンピュータ)|MPCシリーズ]]を発売。自社製CD-ROMドライブに加え、AV機器メーカーらしく高品質なアンプとスピーカーを搭載しているのがウリだった。 1995年、パイオニアLDCから『天地無用! 魎皇鬼』の第二期OPソングとして『[[ぼくはもっとパイオニア]]』([[横山智佐]])をリリース。自社規格であるLDでリリースした、自社制作のOVAに、自社の名を冠したテーマソングを載せるという、この頃にはハード・ソフト共にマルチメディアにおいて強力なブランドを確立していた。バブル崩壊で苦戦する競合の電機メーカーを尻目に業績を伸ばし、2000年には株価がバブル絶頂期に迫る5000円近くに達した。 1995年に[[DVDフォーラム]]に加盟。1996年に世界初の[[DVD-Video]]/LDのコンパチブルプレーヤー「DVL-9」、1997年に世界初の[[DVD-R]]ドライブ「DVR-S101」、同年に世界初の50インチ[[プラズマディスプレイ]]、1999年に世界初の[[DVDレコーダー]]「DVR-1000」を発売した。1990年代末から2000年代にかけてはアナログからデジタルに移行できずに衰退した古参オーディオメーカーも多い中、パイオニアはこのようにAV機器のデジタル化の波を先導し、オーディオのみならず[[映像機器]]、また光ディスクメディアなどの[[記憶媒体]]においても有力メーカーの一つとなった。 === プラズマテレビで失敗 === [[ソニー]]、[[パナソニック]]、[[日立製作所]]、[[東芝]]、[[三菱電機]]などの総合電機メーカーと比べると規模は小さいが、自社の得意分野への「選択と集中」を進めることで、1980年代から2000年代にかけて家庭用AV機器に関してはこれらの大手メーカーと同等以上のブランド力を持っていた。2003年にはパイオニアLDCを売却してノンコア事業とされたソフト制作から撤退、[[プラズマテレビ]]を中心とするホームエレクトロニクス事業に資源を集中した。しかし、2000年代においてはプラズマテレビへの「選択と集中」が裏目に出た。 2003年、パイオニア社はそれまでオーディオの生産をしていた静岡工場をプラズマパネル工場「パイオニア・ディスプレイ・プロダクツ」に改変、また2004年には500億円でNECのプラズマ事業を買収するなど、プラズマ事業に多大な投資を行い、パイオニアは2004年にプラズマパネルの生産量で世界シェア1位となった<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040203/pionpd.htm パイオニア、NECのプラズマディスプレイ生産会社を買収] AV Watch</ref>。プラズマへの投資により2005年には800億円を超える巨額の赤字を出したものの、2006年には売上が8000億円近くに達し、売上で見た場合はこの時期が絶頂期である。しかし、プラズマにパイオニアを傾けるほどの投資を行っても、プラズマに5000億円を超える投資を行った大手のパナソニックには投資額ではかなわず、プラズマテレビが[[液晶テレビ]]との市場競争によって[[薄型テレビ]]市場から淘汰されるのを待たずに2008年に撤退。 2008年はテレビなどホームエレクトロニクス事業の不振に加え、[[リーマン・ショック]]による世界的な景気悪化もあってカーナビ事業も不振で、合計で1300億円の赤字を出した<ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2009-02-12/KEXIVZ1A1I4H01 パイオニア:1万人削減へ、テレビ撤退-今期最終赤字1300億円に(4)] - Bloomberg</ref>。2004年以降に赤字が続いて経営が悪化したことから、リーマン・ショック直後の2009年に、目黒本社の不動産を売却して川崎事業所に移転し、資金創出に努めるとともに事業体制のスリム化を図った。2011年以降のカーエレの需要回復を見越してカーエレ事業に経営資源を集中する方針を取った。 === 上場廃止 === 2010年代以降は音楽をスマートフォンで聞く時代となり、同社がそれまで主力としていた家庭用AV機器も販売不振に陥り、キャッシュフローが悪化<ref>[https://web.archive.org/web/20181207140607/https://japanese.engadget.com/2018/12/07/pioneer/ パイオニアが上場廃止へ 香港系ファンドの完全子会社に] - Engadget 日本版</ref>。2014年には、販売不振が続いた家庭用AV機器事業に加え、かなりの利益が出ていたDJ機器事業([[Pioneer DJ]]、DJ機器の世界最大手)も今後の成長にむけた資金調達のために売却<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ1606J_W4A910C1TJ1000/ パイオニア、AV手放す グループ2200人削減へ] - 日本経済新聞</ref>。カーナビゲーションシステムなど自動車関連に特化した電機メーカーとして自主再建を模索したが、スマホの普及などによりカーナビの売り上げが鈍化。 2018年、[[香港]]の[[企業再生ファンド]]の[[投資ファンド|ファンド]]である[[ベアリング・プライベート・エクイティ・アジア]] (BPEA) の傘下に入り、2019年3月に完全子会社化された。同時に上場廃止。 === 経営再建 === 2019年に社内カンパニー制を導入し、データソリューション事業を担う「モビリティサービスカンパニー」と、市販事業とOEM事業を担う「モビリティプロダクトカンパニー」の2社を新設。2020年3月期に黒字化し、2021年には経営再建の完了を宣言。ソリューションサービス企業へと変革し、再上場を目指している。 == 沿革 == [[File:Pioneerhonsha.jpg|thumb|200px|2009年までの本社ビル(東京都目黒区)]] [[File:Pioneer Kawasaki.jpg|thumb|200px|2009年から2016年までの本社(川崎市幸区)]] [[File:Pioneer Corporation logo 1969.svg|thumb|200px|二代目ロゴマーク(1969年 - 1998年)]] * [[1938年]](昭和13年)1月1日 - 福音商会電機製作所として東京府東京市品川区大崎で創業。日本国産初のダイナミックスピーカーユニット「A-8」を発売。 * [[1940年]](昭和15年)1月 - 東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)音羽9丁目に移転し、音羽工場開設 * [[1944年]](昭和19年)5月 - 音羽6丁目へ本社・工場を移転 * [[1947年]]([[昭和]]22年)5月8日 - '''福音電機株式会社'''設立(会社組織化)。 * [[1946年]](昭和21年)12月 - 電気抵抗を示す「オーム」と「音叉」を組み合わせたパイオニアマークを商標登録 * [[1952年]](昭和27年)12月 - 東京都新宿区下落合に菓子工場を買収して落合工場開設 * [[1957年]](昭和32年)9月 - 東京都文京区に巣鴨工場開設 * [[1958年]](昭和33年)8月 -東京都大田区に大森工場開設 * [[1960年]](昭和35年)8月 - 埼玉県所沢市に所沢工場開設 * [[1961年]](昭和36年)6月 - パイオニア株式会社に商号を変更。これと同時にロゴマーク ([[コーポレートアイデンティティ|CI]]) を変更。当初はオーディオ専業であった。 * [[1962年]](昭和37年) - 世界初、セパレートステレオ発売。 * [[1963年]](昭和38年) - [[北アメリカ|北米]]でカーステレオを発売開始。 * [[1964年]](昭和39年) ** 7月 - 欧州、および中南米諸国への販売を目的とする「パイオニア・インターナショナル」を設立。 ** 11月 - 本社を[[東京都]][[文京区]][[音羽]]から[[大田区]][[大森西]]四丁目に本社を移転。 * [[1965年]](昭和40年)10月 - 首都高速5号線建設の為に音羽工場閉鎖 * [[1966年]](昭和41年) - 日本国内でカーステレオを発売開始。 ** 8月 - 山形県天童市に東北パイオニア株式会社を設立 * [[1967年]](昭和42年)12月 - 創業30周年を機に「パイオニア音楽鑑賞境域振興会」を設立。 * [[1968年]](昭和43年)2月 - [[東京証券取引所]]市場第2部銘柄から第1部銘柄へ指定替え。 * [[1969年]](昭和44年)9月 - ロゴマークを変更する。製品へ採用は1970年1月以降に発売された製品より実施。 * [[1970年]](昭和45年) - 米国ワーナーブラザース・レコード(のちの米国[[ワーナー・レコード]])、[[渡辺プロダクション]]との合弁会社、[[ワーナー・ブラザース|ワーナーブラザーズ]]・パイオニア(のちのワーナー・パイオニア → [[ワーナーミュージック・ジャパン]])を設立。 * [[1971年]](昭和46年) ** 1月 - 同社初の[[コンパクトカセット]]方式によるステレオカセットデッキ「T-3300」発売。 ** 3月 - 同社初の[[4チャンネルステレオ]]再生用ステレオアンプ「QA-80」「QM-80」「QC-80」発売。 * [[1974年]](昭和49年) - 本社を東京都[[目黒区]]の自社ビルへ移転。売却後、建て替えられて新目黒東急ビルとなった。社屋は目黒区と[[品川区]]にかけて位置した。 * [[1975年]](昭和50年) - 世界初、コンポーネントカーステレオを発売。 * [[1979年]](昭和54年) ** 2月 - 同社初の[[メタルポジション]]録再対応ステレオカセットデッキ「CT-600M」発売。 ** 5月 - 世界初のリボンセンダストヘッドを録音/再生コンビネーションヘッドに採用した3ヘッドタイプの高級カセットデッキ「CT-A1」(価格23万円(当時))発売。 ** 10月 - 録再オートリバース機としては業界初となるメタルポジション録再対応ステレオカセットデッキ「CT-620」発売。 * [[1980年代]] - [[レーザーディスク]]を展開し映像分野に進出し、のちに[[CD-ROM]]などのデバイスも手がける。 * [[1980年]](昭和55年)1月 - 「山梨パイオニア株式会社」を設立。 * [[1981年]](昭和56年) - LDソフトの製作子会社'''レーザーディスク株式会社'''を設立。 * [[1982年]](昭和57年) - 「'''音と光の未来をひらく'''」を[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]とする。 * [[1983年]](昭和58年) - 世界初の半導体レーザーを使用した家庭用LDプレーヤー、LD-7000を発売<ref group="注">それ以前のモデルに比べて小型化・安定化・低コスト化を実現した</ref><ref name="shashin" />。 * [[1984年]](昭和59年) - 世界初、CD、LD両方の再生が可能なLD/CDコンパチブルプレーヤー発売<ref name="shashin">『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p103</ref><ref group="注">新しいメディアとの互換性をプレーヤー側で確保する考え方が業界で定着し、その流れはDVDやBlu-rayにも受け継がれている。</ref>。 * [[1986年]](昭和61年) - 静止画やコマ送りなどの特殊再生をデジタルメモリの搭載によって可能にした、フルアナログ処理のLDプレーヤーとしての最高級機である、LD-S1を発売<ref name="shashin" />。 * [[1987年]](昭和62年) - カーオーディオ用ブランドを「[[ロンサム・カーボーイ]](Lonesome Car-boy)」から「[[カロッツェリア (AV機器)|カロッツェリア]](carrozzeria)」に名称変更。 * [[1988年]](昭和63年) ** 1月1日 - 創業[[半世紀]](50周年)。 ** [[ダカール・ラリー|パリ - ダカール・ラリー]]へ協賛を開始( -[[1991年]]) * [[1989年]](平成元年) - レーザーディスク社をパイオニアLDCに改組。 * [[1990年]](平成2年) ** ワーナー・パイオニアから資本撤退。 ** 市販品として世界で初めてGPSカーナビゲーションシステム発売。 * [[1992年]](平成4年) - 民生用では世界初の[[ハイレゾリューションオーディオ|96kHz/16bit・ハイサンプリング]]対応[[DAT]]レコーダー「D-07」(価格14万円(当時・税別))発売。 * [[1993年]](平成5年) ** - [[バブル崩壊]]と円高による不況が深刻化する中、 50 歳以上の管理職 330 人のうち 35 人に対し早期退職勧告(事実上の指名解雇)を行う。当時終身雇用が当たり前だった日本社会で大きく報道され、「パイオニア・ショック」と呼ばれる。 ** - [[レーザーアクティブ]]発売 ** - [[埼玉県]][[鶴ヶ島市]]の[[富士見工業団地]]内に総合研究所新棟完成<ref>[https://global.pioneer/en/crdl_design/crdl/rd/pdf/14-1-12.pdf 部門紹介 総合研究所紹介] パイオニア R&D 2004年 VOL.14 NO.1</ref>。2009年に閉鎖後、[[明治 (企業)|明治]]が建物を取得し、2012年菓子開発研究所を移転して使用<ref>[https://www.meiji.co.jp/corporate/r_d/history/ 研究開発のあゆみ|研究開発|株式会社明治]</ref>。 * [[1994年]](平成6年) - 96&nbsp;kHz/16bit・ハイサンプリング対応の民生用普及型DATレコーダー「D-05」(価格7万5千円〈当時・税別〉)<!--1994年当時の民生用としては96kHz/16bit・ハイサンプリング対応ながら最低価格だった-->発売。発売直後、同機は後に民生用据置型DATレコーダーとしてロングセラーモデルとなった([[2001年]]3月に販売終了)。 **5月1日 - デジタル地図事業の子会社'''[[ジオテクノロジーズ|インクリメントP]]株式会社'''を設立。 * [[1995年]](平成7年) - [[Macintosh互換機]]発売。 * [[1996年]](平成8年) - DVDプレーヤーおよび世界初の家庭用DVD/LD/CDコンパチブルプレーヤー発売。 * [[1997年]](平成9年) - [[ハイビジョン]]対応プラズマディスプレイシステム(価格250万円(当時・税別))・世界初、DVDカーナビゲーションシステム発売。 * [[1998年]](平成10年) ** 8月 - 創業60周年( ← 同年1月1日)に伴い、ロゴマークを現在のものに変更(変更後に発売された製品でも一部旧ロゴが使われた製品もあったが、これらの製品も順次新ロゴに変更された)。 * [[1999年]](平成11年) ** 6月29日 - 英語の社名を“PIONEER ELECTRONIC CORPORATION”から"'''PIONEER CORPORATION'''"に変更<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/index/662 英文社名の変更について] - 報道資料 1999年6月29日</ref>。 ** 12月 - 世界初、[[DVD-RW]]フォーマット対応DVDレコーダー発売(価格25万円(当時・税別))。 * [[2001年]](平成13年) - 世界統一ブランドスローガン“'''sound.vision.soul'''”導入(2008年(平成20年)3月31日まで)。 * 2001年(平成13年) - 業界初(車載機器として)『ミュージックサーバー機能』搭載HDD(ハードディスクドライブ)カーナビゲーションシステム発売。 * [[2003年]](平成15年) - パイオニアLDCの株式を[[電通]]に売却。のちに[[NBCユニバーサル]]に売却、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパンを経て[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン合同会社]]に改称。 * [[2004年]](平成16年) - [[日本電気]]から、プラズマディスプレイ事業(NECプラズマディスプレイ株式会社)を買収、パイオニアプラズマディスプレイ株式会社としてパイオニアグループに組み込む。 * [[2007年]](平成19年) * 4月 - 所沢工場閉鎖 ** 6月 - 東北パイオニアに対し、[[株式公開買い付け]] (TOB) を実施。 ** [[シャープ]]と資本業務提携。第三者増資でシャープが14%保有し筆頭株主になる。 * [[2008年]](平成20年) - プラズマパネルの自社生産から撤退。組み立ては継続し、パネルは[[パナソニック]]から調達する。 * [[2009年]](平成21年) ** 3月 - プラズマテレビの開発、生産から完全撤退を発表。 ** 5月 - [[本田技研工業]]に第三者増資により資本提携。ホンダが第2位の大株主となる予定。 ** 11月 - シャープと合弁会社「パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリング株式会社」を設立し、光学ドライブ事業を移管<ref>{{PDFlink|https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2009/pdf/0806-2.pdf}}</ref><ref>{{PDFlink|https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2009/pdf/1111-1.pdf}}</ref><ref>https://corporate.jp.sharp/news/091111-a.html</ref><ref>https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/296627.html</ref>。 ** 11月24日 - 本社を東京都目黒区目黒一丁目4番1号から[[川崎市]][[幸区]]新小倉1番1号に移転<ref>{{PDFlink|[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2009/pdf/1105-1.pdf パイオニア本社を川崎事業所に移転]}} - 報道資料 2009年[[11月5日]]</ref>。登記上の本店は2010年6月25日の定款変更を経て同地に移転<ref>{{PDFlink|[https://jpn.pioneer/ja/corp/ir/shares/meeting/pdf/64ResolutionNotice.pdf 第64回定時株主総会決議ご通知(パイオニア株式会社)]}} 2010年6月25日</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** 2月9日 - [[三菱化学]]と有機EL照明に関する業務・資本提携することで合意、同社へ第三者割当による新株式発行することを発表<ref>{{PDFlink|[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2010/pdf/0209-3.pdf 三菱化学株式会社との業務提携および第三者割当による新株式発行についてのお知らせ]}}(2010年2月9日付プレスリリース)</ref>。[[三菱電機]]とカーナビ分野で業務提携を強化し、同社へ第三者割当による新株式発行することを発表した<ref>{{PDFlink|[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2010/pdf/0209-4.pdf 三菱電機株式会社との業務提携強化および第三者割当による新株式発行についてのお知らせ]}}(2010年2月9日付プレスリリース)</ref>。 ** 3月15日 - [[新卒]]採用中止を決定・発表<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/recruit/recruit/ 採用情報]</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** 6月21日 - [[ストリートファッション]]、[[ストリートダンス|ストリートダンサー]]向けのカルチャーブランド「'''STEEZ'''」(スティーズ)を発足<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/index/995 〜ダンサー向けのカルチャーブランド「STEEZ」を立ち上げ、ストリートダンス市場に参入〜 新アイテムの先行体験ダンスイベント“STEEZ PARTY KIDS” “STEEZ PARTY TOKYO”を開催 ](2011年6月21日付プレスリリース)</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** 5月13日 - 株式会社[[NTTドコモ]]と資本業務提携、および第三者割当による新株式発行を発表した<ref>{{PDFlink|[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2013/pdf/0513-6.pdf 株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモとの資本業務提携および第三者割当による新株式発行についてのお知らせ]}}(2013年5月13日付プレスリリース)</ref>。 ** 7月1日 - ホームAV事業を'''パイオニアマーケティング株式会社'''に統合し、'''[[オンキヨー&パイオニア|パイオニアホームエレクトロニクス]]株式会社''' (PHE) へ商号変更。 ** 9月 - 次世代オートアフタービジネス研究会を株式会社NTTドコモ、並びに[[オートバックスセブン|株式会社オートバックスセブン]]、他と設立。 ** 12月 - カーライフ支援サービス「ドコモ ドラブネットインフォ」を株式会社NTTドコモと共同開発(ドコモのサービスとして提供開始)。 * [[2014年]](平成26年) ** 3月 - 株式会社[[資生堂]]専用「メーク用有機EL照明」を製品化、並びに世界初の発光層塗布型の有機EL照明モジュールの量産出荷を開始。 ** 8月28日 - シャープとの資本提携を解消<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ2806F_Y4A820C1TJ1000/ シャープ、パイオニアと提携解消 株売却で財務強化(2014年8月28日)] - [[日本経済新聞]] 2015年2月28日閲覧</ref>。 ** 9月10日 - PHEはオンキヨーの吸収合併・経営統合を発表し、オンキヨーの保有株式を14.95%取得して第3位株主となり、経営に不関与の方針を発表する。 ** 11月7日 - オンキヨーと経営統合の形態変更を発表する。パイオニアのヘッドホン事業を吸収分割によりPHEが承継し、オンキヨーが第三者割当により発行する株式(総議決権数の14.95%)をパイオニアが引き受け、パイオニアが保有するPHEの全株式をオンキヨーに譲渡する。2015年7月1日にPHEがオンキヨーのAV事業を吸収分割によって承継する<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/675077.html パイオニアとオンキヨーのAV事業統合の詳細決定。オンキヨーのAV事業を分割し、PHEが承継] AV Watch、2014年11月7日</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** 1月 - 業務用車両向けテレマティクスサービス「ビークルアシスト」の提供を開始する。 ** 3月2日 - ホームAV事業、電話機事業、ヘッドフォン関連事業を担う子会社PHEをオンキヨーへ譲渡し、商号を'''[[オンキヨー&パイオニア]]株式会社'''に変更して両社のホームAV事業を継承する<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2015/pdf/0302-2.pdf オンキヨー株式会社の新株式引受、ホームAV事業等の譲渡完了に関するお知らせ (報道資料 2015年3月2日)] - パイオニア 2015年3月2日閲覧。</ref><ref>[https://www.jp.onkyo.com/ir/ir_pdf/20150302_JQIR_kogaisya.pdf パイオニア株式会社からの事業取得に関するお知せ(子会社の異動を伴う株式取得 および海外事業の取得 )] - オンキヨー 2015年3月2日閲覧。</ref>。販売を手がけるオンキヨーマーケティングジャパンは商号を「'''オンキヨー&パイオニアマーケティングジャパン株式会社'''」に変更する。DJ機器事業の「プロSV事業部」を世界有数の投資ファンドKKRへ事業譲渡し、「[[AlphaTheta|Pioneer DJ]]株式会社」<ref group="注">現・AlphaTheta。2020年に[[ノーリツ鋼機]]グループ入り。</ref>が発足する。 ** 6月 - 東京海上日動火災保険株式会社とテレマティクスサービス事業で協業する。 * [[2016年]](平成28年) ** 3月7日 - 東京都文京区[[本駒込]]二丁目28番8号の[[文京グリーンコート]]へ移転<ref name="Pioneer-Bunkyo" />。 ** 11月 - 既販売車に搭載可能な先進運転支援システム「Intelligent Pilot」を開発。 ** 12月 - ドライバーの眠気を検知して改善する「ドライバーモニタリングシステム」を開発。医療用電子聴診器の出荷を開始。 * [[2017年]](平成29年) ** 8月31日 - [[経営共創基盤|みちのりホールディングス]]と、[[路線バス]]の[[自動運転車|自動運転]]化に関する技術開発に向けて共同で実証実験を実施することに合意<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2017/pdf/0831-1.pdf パイオニアとみちのりホールディングス 路線バスの自動運転化の技術開発に向けた実証実験に合意] パイオニア、みちのりホールディングス 2017年8月31日</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** 1月1日 - 創業80周年。 ** 6月 - ハイエンドオーディオ カーナビ 「サイバーナビ Xシリーズ」を発売。 ** 9月 - 計測距離が異なるMEMSミラー方式の「3D-LiDARセンサー」の提供を開始。呼気アセトン計測用の光バイオ方式センサモジュールを東京医科歯科大学と共同開発 ** 12月7日 - [[香港]]の投資ファンドベアリング・プライベート・エクイティ・アジア(BPEA)の出資を受け入れ、同投資ファンドの完全子会社になることを決めたと発表<ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2018/pdf/1207-2.pdf 第三者割当による新株式発行(現物出資(デット・エクイティ・スワップ)および金銭出資)および定款の一部変更、株式併合および単元株式数の定めの廃止ならびに親会社および主要株主である筆頭株主の異動についてのお知らせ ] パイオニア 2018年12月7日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20181209124303/https://www.jiji.com/jc/article?k=2018120700634&g=eco パイオニア、香港ファンド完全子会社に=来年3月上場廃止(時事ドットコムニュース)] - [[時事通信社]] 2018年12月7日(2018年12月7日閲覧)</ref>。第三者割当増資による払い込み金額は1株50円で、既存株主に対する株の買い取り価格は66.1円と発表された為、7日の終値で88円あった株価はその後一気に売り込まれる事となった<ref name="pionner20190125">[https://www.asahi.com/articles/DA3S13865450.html パイオニア、売却決定 1株66.1円でファンドへ 株主総会] 朝日新聞 2019年1月26日</ref>。 * [[2019年]](平成31年) ** 1月25日 - 臨時株主総会にてBPEAの完全子会社となる案が全会一致で可決<ref name="pionner20190125" />。 ** 3月8日 - BPEAの子会社であるWolfcrest Limitedに対する[[第三者割当増資]]を実施し、Wolfcrest Limitedの子会社となる<ref name="pionner20190308">[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2019/pdf/0308-1.pdf 第三者割当による新株式発行の払込完了についてのお知らせ] パイオニア 2019年3月8日</ref>。 ** 3月27日 - [[東京証券取引所]]第一部上場廃止<ref>[https://www.jpx.co.jp/news/1021/20190308-11.html 上場廃止等の決定:パイオニア(株)] 東京証券取引所 2019年3月8日</ref>。 ** 3月31日 - 株式併合により、Wolfcrest Limitedの完全子会社となる<ref name="pionner20190308" />。 ** 4月 - キヤノン株式会社との「3D-LiDARセンサー」共同開発を発表。 * [[2020年]](令和2年) 自動車用統合コックピットの開発で、[[ドイツ]]の[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタル]]社と戦略的パートナーシップを締結。 * [[2021年]](令和3年) ** 3月10日 - 100%子会社であるインクリメント・ピーを、PIPホールディングス(株)に譲渡する契約を締結<ref><{{Cite web|和書| url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2021/pdf/0310-1.pdf | title=パイオニア連結子会社の地図事業の譲渡に関するお知らせ | accessdate=July 27, 2021}}</ref>。同年6月1日譲渡を実行し、インクリメント・ピーは子会社ではなくなる。 * [[2022年]](令和4年) ** 5月13日 - 当時パイオニアブランドを展開していたオンキヨーホームエンターテイメントが経営破綻。家庭用AV機器におけるパイオニアブランドが一時的に停止するが、流通・アフターサービス体制が整い次第、オンキヨーホームエンターテイメントのホームAV事業を引き継いだ米国PREMIUM AUDIO COMPANY社傘下の[[オンキヨーテクノロジー]]によって再開される<ref>[https://www.phileweb.com/interview/article/202206/01/883.html 「人生をかけてオンキヨーのブランドとDNAを継続」。親会社CEOら来日インタビュー] - PHILE WEB 2022年6月1日(2022年6月1日閲覧)</ref>。 == 事業所 == * 本社 [[東京都]][[文京区]][[本駒込]][[文京グリーンコート]] * 川越事業所 [[埼玉県]][[川越市]]山田 === 本社移転 === 構造改革の一環として、[[2009年]]11月に本社機能を東京都目黒区から神奈川県川崎市の川崎事業所へ移転し、目黒旧本社は[[2010年]]7月に88億円で売却された<ref>{{Cite web|和書|date=2010年3月30日|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2010/pdf/0330-1.pdf|format=PDF|title=固定資産の譲渡についてのお知らせ|publisher=パイオニア株式会社|accessdate=2015年11月1日}}</ref>。 2015年10月に、経営体制のスリム化を目的として川崎の本社不動産を売却し、本社を再度東京へ移転することを発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2015年10月5日|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2015/pdf/1005-1.pdf|format=PDF|title=パイオニア株式会社 本社不動産売却および移転についてのお知らせ|publisher=パイオニア株式会社|accessdate=2015年11月1日}}</ref>。[[2016年]]3月7日に[[東京都]][[文京区]]の[[文京グリーンコート]]へ移転した<ref>{{Cite web|和書|date=2015年11月6日|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2015/pdf/1106-1.pdf|format=PDF|title=パイオニア株式会社 本社移転についてのお知らせ|publisher=パイオニア株式会社|accessdate=2016年1月17日}}</ref><ref name="Pioneer-Bunkyo">[https://jpn.pioneer/ja/corp/info/profile/access/ 東京都文京区への本社移転に伴い、会社情報を更新しました。] - パイオニア 2016年3月7日閲覧。</ref>。文京区が本社となるのは[[1964年]]以来、およそ52年ぶりである{{Sfn|回顧と前進|1978}}。 == 事業展開 == [[2000年代]]半ばにかけ、ホームエレクトロニクス事業として[[プラズマディスプレイ|PDP]](プラズマテレビ)、[[DVDレコーダー]]、PC用[[DVD]]マルチドライブ、[[Blu-ray Disc]]プレイヤー、PC用[[Blu-ray Disc|BD]]マルチドライブなどを手がけた。「[[カロッツェリア (AV機器)|カロッツェリア]]」ブランドで車載用AV機器([[カーナビゲーション]]、[[カーオーディオ]])を展開している。これらホームエレクトロニクスおよびカーエレクトロニクス事業が売上の2本柱であり、[[2006年]]([[平成]]18年)3月期の売上はそれぞれ3,546億円、3,305億円で合計して90%以上を占めていた。 しかし、その後の経営危機により、ディスプレイ事業からは撤退、光ディスク事業はシャープとの合弁とし(それぞれ後述)、[[2013年]]3月期においてはカーエレクトロニクスが3,126億円、ホームエレクトロニクスが959億円と、カーエレクトロニクス事業に経営資源をシフトさせた。 === オーディオ機器 === プロフェッショナル向けオーディオブランドとして、[[TAD|TAD (Technical Audio Devices)]] を持ち、多くのスタジオに[[モニタースピーカー]]などを納入している。一般向け高級オーディオブランド [[Exclusive]]と並び、オーディオマニアに著名である。欧米市場では[[1970年代]]初頭までCENTREXというブランド名が使われた。日本国内ではパイオニアブランドのみ展開する。 家庭用オーディオ機器でも、中-高級品の価格帯で強い販売力を維持していたが、[[1980年代]]に「プライベート」ブランドで他社に先駆けて小型コンポを投入。若者をターゲットにすることでシェアを伸ばした。1990年ごろまでは、アナログディスクプレーヤー、アンプ、チューナー、スピーカー、[[コンパクトカセット|アナログカセット]][[テープレコーダー|デッキ]]、[[DAT]]デッキ(生録用の可搬型モデル「[[パイオニアのDATレコーダー|D-C88]]」を含む)、[[ミニディスク|MD]]デッキ(ただしポータブルタイプ及び一部のミニコンポ用は[[シャープ]]のOEM)、[[CDレコーダー]]など、ほぼ全種類の民生用オーディオ機器を生産していたが、[[バブル崩壊]]により他のメーカーと同様に大きく販売を落とし、生産機種の大幅な整理を行った。 AV機器を含むホームオーディオ機器事業は、先述の通り2013年7月1日から2015年3月1日までは同社の完全子会社(当時)のパイオニアホームエレクトロニクスが取り扱っていたが、2015年3月2日よりオンキヨーの完全子会社のオンキヨー&パイオニア(2020年10月1日付をもって親会社のオンキヨー(旧法人、存続会社)に吸収合併される形で[[オンキヨーホームエンターテイメント]]へ社名変更、ならびに法人消滅)が取り扱うこととなったが、[[2019年]]12月より全世界で発生している[[コロナ禍]]の影響による業績悪化を理由に2022年5月13日付でオンキヨーホームエンターテイメントが経営破綻。これによりカーオーディオとPC用デスクトップマルチメディアオーディオを除く純粋なオーディオブランドとしてのパイオニアは、2022年7月20日に(かつてパイオニアやオンキヨー〈2代目〉と資本提携していた)[[ティアック]]が米国プレミアム・オーディオ・カンパニー社 (PAC) と代理店契約を締結したことを発表。その後、'''2022年10月以降を目途にオンキヨーブランドと共に(日本市場向け)ドルビーアトモス対応高級AVアンプが投入される予定'''であることが明らかとなった。このほか、'''2021年度まで旧OPC時代を含むOHEから製造・発売されていた一部のパイオニアブランド・オンキヨーブランド・インテグラブランド等の各種AV製品の修理等のサポートもティアックが担当'''することとなった。 === 車載機器 === {{Main|カロッツェリア (AV機器)}} 車載用のオーディオとしては、1975年11月に世界初のコンポーネントカーステレオを発売し、[[市場占有率]]を伸ばした(日本初のカーラジオ(1948年)、カーステレオ(1963年)はクラリオンが先に開発・発売)。1970年代末に発売された[[フェラーリ・512BB]]では、純正カーステレオに採用されており、後に[[フォーミュラ1|F1]]フェラーリチームへ[[スポンサー]]参加するきっかけとなっている。 [[日本車]]への純正カーオーディオの供給も盛んであり、日本国内全メーカーへ供給経験がある。日本車では、[[日産自動車]]、[[三菱自動車]]、[[マツダ]]、[[SUBARU]]、[[ダイハツ工業]]、[[スズキ (企業)|スズキ]]にラインナップ されている<ref group="注">ただし、[[トヨタ自動車]]と[[本田技研工業]]の場合はラインナップとしては存在せず、いずれも自動車メーカー純正オリジナル製品([[OEM]])扱いとして供給される。</ref>。配線は各社用に加工されており、[[2000年代]]前半までの機種では、最大出力を落とすなどの配慮もなされた。 パイオニア/カロッツェリアともに、オーディオ、カーナビゲーション、スピーカー、[[ウーファー]]の型番の最後にZy、ZZと入る場合は純正オプションであることを表している。 その後、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]搭載の世界初[[カーナビゲーション]]システムを開発した。その後、[[DVD]]搭載型、[[ハードディスクドライブ|HDD]]搭載型を開発し、カーコンポーネント事業で世界トップの技術とシェアを持つ企業に成長した。 ==== 渋滞情報 ==== {{Main|スマートループ}} ユーザーから走行情報を収集し、渋滞情報を作成してユーザーに提供する「スマートループ渋滞情報」があり、パイオニア製品だけでなく、他社製品でも利用できる。 === 光ディスク === ==== レーザーディスク ==== [[ファイル:PIONEER CLD-01 1992.jpg|thumb|right|250px|レーザーディスクプレーヤー<br/>CLD-01(1992年)]] 日本では[[レーザーディスク]]の盟主としても知られており、[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])の開発した[[VHD]]に日本国内の主要電機メーカーのほとんどが賛同した不利な状況にもかかわらず、当時の社長で「パイオニア中興の祖」とされる[[石塚庸三]]が、創業者・松本望をはじめとする社内の反対派を押し切り、販売導入に漕ぎ着けた。 初期は一時的な販売不振に陥ったが、最終的にレーザーディスクがシェア争いに勝利した。その過程で商品化された「絵の出るレコード」レーザーディスク・カラオケはバブル期に一世を風靡、パイオニアのドル箱事業に成長し、会社の屋台骨を支えた。カラオケ以外の娯楽分野では100円を入れてビデオクリップを見る「Laser Jukebox」や Visualに特化したゲーム用「[[レーザーアクティブ|Laser Active]]」があった。レーザーディスクのランダムアクセス機能を活用した業務用機器も多数開発され、全世界の博物館や企業で映像送出用機器として使用された。 米国では小中学校向けの視聴覚教材として採用され、[[Apple|Apple Computer]]との協業で全米の学校に普及が進み、Appleとの関係が構築された。その後も、[[DVD-R]]や[[DVD-RW]]を開発するなど、光ディスク事業においても技術力を保持し続けていた。 DVD普及後、レーザーディスク事業はプレーヤーの少量生産のみで実質撤退していたが、[[2009年]](平成21年)1月、LDプレーヤーの生産も終了した<ref>{{Cite web|和書|date=2009年1月14日 |url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/index/422 |title=レーザーディスクプレーヤー生産終了のお知らせ |publisher=パイオニア株式会社 |accessdate=2015年11月1日}}</ref>。 ==== DVD/Blu-ray マルチドライブユニット ==== DVDメディアの製造販売からは早期に撤退し、[[DVD]]業界におけるパイオニアの功績は高い技術力を反映したPC用DVDマルチドライブにあった。DVDマルチドライブ黎明期から高性能なドライブを発売すると共に廉価普及版も投入し、DVDドライブのスタンダードとなった。パソコン周辺機器メーカーの[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]や[[ロジテック]]、[[アイ・オー・データ機器|アイ・オー・データ]]向けに、DVDドライブをOEM納入している。 パイオニア製ドライブの書き込み品質の高さは、ドライブ自体の高性能さと併せ、ディスク(特に[[太陽誘電]]が製造及びOEM供給したDVD-Rディスク)との相性の良さがあったからといわれる。だが、2007年、DVR-A12シリーズでピックアップの不具合によるリコールを招いた。以前より、本件はユーザーの間では話題になっており、対応の遅さが批判を浴びた。同時期に光ディスクドライブ市場の急激な価格低下に苦しみ、2007年9月、パイオニアはシャープと資本業務提携を行い、合弁会社「パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリング株式会社」を設立した<ref>{{Cite web|和書|date=2007年9月20日 |url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/pdf/Organization070920_1.pdf |format=PDF |title=シャープ株式会社とパイオニア株式会社の業務・資本提携に関するお知らせ |publisher=シャープ株式会社、パイオニア株式会社 |accessdate=2015年11月1日}}</ref>。しかし、この提携は2014年8月に解消され<ref>{{Cite web|和書|date=2014年8月28日 |url=https://corporate.jp.sharp/ir/pdf/2014/140828.pdf |title=パイオニア株式会社との資本提携の解消に関するお知らせ |publisher= |accessdate=2015年11月1日}}</ref>、パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリングはパイオニア単独の子会社となった。 [[Blu-ray Disc]] (BD) では[[HD DVD]]と[[規格争い]]した頃からBD陣営に属し、最も初期からドライブの出荷を開始したメーカーの一つである。OEM向けのBDマルチドライブユニットの生産量、および供給量<ref group="注">主に外付けポータブル用、および[[ウルトラブック]]などの薄型モバイルタイプを除く[[ノートパソコン]]内蔵用が多い。</ref>のシェアとしては[[2021年]]([[令和]]3年)時点で[[日立LGデータストレージ]]やパナソニックに次ぐ大手のメーカーとなっている。 === DVDレコーダー === 民生用[[DVDレコーダー]]を世界で最初に発売したメーカーであり、[[パナソニック]]や[[東芝]]と共に旧御三家の一つであった。当時は画質・音質のこだわりや充実した編集機能により一定の支持を受けていたが、後の低価格化競争によって利益を圧迫する状態が続いた。 [[2006年]](平成18年)6月にDVDレコーダーの新規開発を中止すると報道されたが否定した。[[2007年]](平成19年)は新機種が発売されないまま既存モデルが相次いで生産終了し、2008年4月に発表されたモデルはシャープからのOEMとなった。以後に新製品の発売は無く、事実上完全撤退する。 === 民生用テレビ === ディスプレイ分野では、レーザーディスクやBeta hi-fi式ビデオデッキ Hi-Vista(ソニーからパイオニア仕様にカスタマイズされたOEM)などのAV製品と共に[[ブラウン管|CRT]]方式のコンポビジュアルシステム「SEEDシリーズ」で家庭用モニター市場に参入。同社オーディオ機器とのデザイン統合性、チューナーやテレビゲームパックなどの拡張ユニットにより、他社との差別化を図った。 [[ブラウン管|CRT]]方式のリアプロジェクションテレビ(パネルは他社製)を日本国外向けに販売するなど大きなシェアは持っていなかったが、[[1997年]](平成9年)12月に世界初の民生用高精細50インチ型ワイド[[プラズマテレビ]]を発売した(42型ワイド[[プラズマテレビ]]は同年11月に[[富士通ゼネラル]]が世界で初めて発売)。パネルの自社生産可能な日本メーカーの一つで(チューナーは他社から[[OEM]])、擬似輪郭や消費電力などプラズマテレビの弱点を克服した独自の映像技術や、祖業のオーディオ技術を搭載した高音質も高く評価された。かつては43V型と50V型のみを製造したが、[[NECプラズマディスプレイ]]の買収により、61V型をラインナップに加えた。 先行メーカーとして多数の関連特許を取得し、2006年に[[サムスン電子]]のディスプレイが、アメリカ国内で申請した2件の特許に抵触しているとして、[[テキサス州東部地区連邦地方裁判所]]へ提訴する。基本的特許として2008年10月29日の判決で合計5900万ドルの損害賠償を得る。 日本国内では液晶テレビの低価格化に圧され、[[2007年]](平成19年)8月から高級路線に特化した新ブランド「KURO」を展開したが、ライバルの[[パナソニックホールディングス|松下電器産業]]にはシェアで及ばず、[[2008年]](平成20年)3月7日にプラズマパネルの自社生産の中止を発表した。ならびにPDP技術者の大半をパナソニックのPDP部門へ転籍させ、パナソニックからパネルを調達し、組立と自社ブランド販売のみに専念する予定を発表した。[[世界金融危機]]による世界経済の急激な落ち込みを受けて、2009年2月12日にディスプレイ事業からの撤退を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2009年2月12日 |format=PDF|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/2009/pdf/release_3q09j_03.pdf |title=構造改革についてのお知らせ |publisher=パイオニア株式会社|accessdate=2015年11月1日}}</ref>。2008年にシャープから液晶パネルの供給を受けて自社ブランドの液晶テレビ参入を予定したが、実現しないままディスプレイ事業撤退した。 パイオニアは、[[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]ディスプレイも古くから研究開発し、カーオーディオの照明や液晶のバックライト、携帯電話の背面、カーオーディオの単色ディスプレイ用などで既に製品化している。[[2005年]](平成17年)に[[京都大学]]、[[三菱化学]]、[[ローム]]と共にフレキシブルな有機ELディスプレイの試作に成功した。2017年に[[コニカミノルタ]]と合弁企業(コニカミノルタパイオニアOLED)を立ち上げ、照明分野への活用も模索したが、2019年に合弁を解消した。合弁解消後は、コニカミノルタが事業を継承した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-04-24 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44129470U9A420C1X20000/ |title=コニカミノルタ、パイオニアと有機ELの合弁解消 |publisher= 日本経済新聞|accessdate=2019-05-03}}</ref>。 2016年現在も一部中国市場で発売されている同社ブランドの液晶テレビ、スマートフォン、デジタルカメラなどは、販売店に対する商標ライセンス貸与に伴う中国メーカー製造品であり、メーカーとしてのパイオニアとはブランド以外の関わりは一切ない。 === 電話機 === [[1970年代]]からアンサホンの商品名で留守番電話を開発して製造する。[[1980年代]]に、無線機器の技術を応用して家庭用コードレス電話機の製造へ進出、シェアを伸ばした。電話機事業は、パイオニアが出資し、後に完全子会社となった[[パイオニアコミュニケーションズ]]が承継した後、同社を吸収合併したパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニアを経て、2020年10月よりオンキヨーホームエンターテイメントが取り扱っていたが、こちらも先述の通りオンキヨーホームエンターテイメントの経営破綻に伴い停止する。 [[1990年代]]に[[DDIセルラーグループ]](セルラー、現・[[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]]連合(各[[au (携帯電話)|auブランド]]))および[[日本移動通信]](IDO、現・KDDI(auブランド))、[[J-PHONE]]([[デジタルツーカー]]向けを含む。現・[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]])向けに[[携帯電話]]機の供給も行っていた。特に携帯初の全面[[タッチパネル]]式の[[DP-211]]は、付属のペンで手書き入力も可能で、オプションのカーオーディオに取り付ければハンズフリーにも対応する時代を先取りした商品であったが、デザインで人気を得ることは無く、携帯電話事業から撤退する。兄弟機種の[[DP-211SW]]は、携帯初の文字メッセージサービス(旧・スカイウォーカー、現・[[スカイメール]])対応機種である。<!-- 明確な記述はありませんが、パイオニアコミュニケーションズ(PCC)の紹介(http://pioneer.jp/en/crdl_design/crdl/rd/pdf/15-1-10.pdf)の中に携帯電話事業がないことから、固定電話事業はPCC、携帯電話事業はパイオニアが行っていたものと思われます。 --> === パソコン === [[1983年]](昭和58年)、レーザーディスクと組み合わせ、画像を[[スーパーインポーズ (映像編集)|スーパーインポーズ]]させてゲームが楽しめる[[MSX]]パソコンを発売する。 [[1995年]](平成7年)から1997年まで、[[Apple|Apple Computer]]からライセンスを受け、デスクトップ型の[[MPC (パーソナルコンピュータ)|Macintosh互換機]]を開発・販売していたが、[[スティーブ・ジョブズ]]復帰によるAppleの戦略転換で、3機種を発売したのみで終わった。 == 主な商品 == === 発売中・発売予定 === (2022年5月現在) * カーエレクトロニクス ** [[カロッツェリア (AV機器)|カロッツェリア]] * プロフェッショナルハイエンドオーディオ ** [[TAD]] * [[パーソナルコンピュータ|PC]]関連 ** [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用BDマルチドライブ(販売委託は株式会社エスティトレードが担当) ** [[Stellanova]](ステラノヴァ。パソコン、および[[スマートフォン]]、[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]用デスクトップマイクロオーディオシステム) === かつて発売していたもの === * [[パーソナルコンピュータ|パソコン]] ** [[MSX]] (Palcom) *** 同社のレーザーディスクと接続可能だった。 ** [[Macintosh互換機]] ** [[X68000]] *** [[シャープ]]からのOEM。 * [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]周辺機器 ** [[CD-ROM]]ドライブ ** [[DVD]]ドライブ ** オーサリング用[[DVD-R]]ライター * [[携帯電話]] ** [[DDIセルラーグループ]]、[[日本移動通信|IDO]]向け([[TACS]]方式) *** [[モトローラ]]からのOEM。 ** [[J-PHONE]]向け *** J-PHONE向けに「全面液晶携帯」と称する機種を生産し、独自の使いやすさを追求した。 *** 初代モデル・[[DP-211SW]]は、カーオーディオのヘッドユニットに組み込み可能な構造など、独自の商品価値を確立していた。 *** 3回モデルチェンジするも、液晶はカラー化されなかった(全面液晶携帯の最終モデルは1999年発売のJ-PE02)。 * [[ラジカセ]] ** マルチボーイ(1970年代末期) ** [[ランナウェイ (ラジオカセット)|ランナウェイ]](1980年代初期 - 中期) * 大型システムコンポ ** [[プロジェクト (ステレオシステム)|プロジェクト]](1970年代中期 - 1980年代初期) ** オールディーズコンポ(1980年代初期) * ミニコンポ ** セルフィー ** [[プライベート (ミニコンポ)|プライベート]] - 最末期はCD&LDコンパチブルプレイヤー付きミニコンポとして発売された。「プライベート」は2017年にデジタルオーディオプレイヤーのブランドとして復活している。 ** コレクション - 同社初の本格的なハイコンポで、後述するFILLの前身にあたるブランド ** WAVE(詳細は[[CL-X919|別項]]を参照) ** [[FILL]] ** RMX ** L+ ** FX ** HAPPY TUNE * ポータブルオーディオ ** ポータブルヘッドフォンステレオ(ポータブルステレオカセットプレーヤー)「ターザン」 - 1980年代初期に発売された世界初の防水機能付きヘッドフォンステレオ ** ポータブル[[ミニディスク|MD]]レコーダー/プレーヤー(シャープからのOEM) ** ポータブル[[コンパクトディスク|CD]]プレーヤー「ループマスター」 * 家庭用8トラックカラオケ ** カラオケ「真打ち」 * 業務用カラオケ ** レーザーカラオケ ** アルファビジョン(CD動画カラオケ) ** 通信カラオケ「[[BeMAX|ビーマックス]]」シリーズ * ハイバンド・ベータ対応ビデオカセットデッキ ** HiVista([[ソニー]]からOEM) * [[テープレコーダー|テープデッキ]] ** [[オープンリール|オープンデッキ]] ** [[8トラック|8トラックデッキ]] ** [[コンパクトカセット|カセットデッキ]] ** [[DAT|DATデッキ]](据置型と可搬型が混在。詳細は[[パイオニアのDATレコーダー]]を参照) * [[ミニディスク|MDデッキ]] * [[CDレコーダー]] * [[液晶テレビ]] ** Pure Vision([[2002年]]、[[シャープ]]のOEMで参入。PDL-30HDの1機種のみで撤退。) ** KURO LCD TV([[2007年]](平成19年)にシャープと業務提携が発表された際、液晶テレビ再参入がアナウンスされ、[[2008年]]に欧州向けモデルとして「KURO」ブランドで3サイズ導入(シャープ・[[アクオス|AQUOS]]のOEM受給)。この液晶テレビは、日本で発売されないまま撤退。) * [[プラズマディスプレイ]] ** [[Pure Vision]](ピュアビジョン) → [[2007年]](平成19年)8月に、後述の「KURO」にブランド名変更。 ** [[KURO (テレビ)|KURO]]([[2009年]](平成21年)4月に生産終了。同時にディスプレイ事業から撤退) * [[プロジェクションテレビ]] * [[プロジェクター]] ** KURO PROJECTOR([[2008年]]に海外向けモデルとして発売([[日本ビクター]]製D-ILAプロジェクターのOEM受給)。日本で発売されないまま、1機種のみで撤退。) * [[レーザーディスク]] * [[レーザーアクティブ]] * DVDレコーダー ** スグレコ ** たっぷり録り ** 最末期はシャープからOEM受給(シャープ機と異なり、光学ドライブ部のみ自社オリジナルの光学ドライブが搭載されている)。 * [[Blu-ray Disc|BD]]レコーダー ** 2008年(平成20年)10月に新規参入。シャープからOEM受給(シャープ機と異なり、光学ドライブ部のみ自社オリジナルの光学ドライブが搭載されている)。2機種のみで撤退。 * [[パーソナル無線]] * 脳力開発機「リラクティブ」 * ボディソニック(体感音響システム) * サイクルスポーツ事業 ** サイクルコンピューターやペダリングモニターなど[[ロードバイク]]用のパーツ。経営合理化のため2020年に[[シマノ]]へ譲渡された。 ==== オンキヨーグループ取り扱いのパイオニアブランドの製品 ==== ; 以下は2022年5月13日までオンキヨーホームエンターテイメントが取り扱ったパイオニアブランドの製品。 * DVD・BDプレーヤー(DVD-Vido、BD、音楽用CD、[[DVD-Audio]]、SACDが再生可能なごく一部のユニバーサルディスクプレーヤー含む) * AVアンプを含むホームシアターシステム * ポータブルタイプを含むヘッドホンアンプ内蔵型[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]-[[D/Aコンバーター|DAC]] * 家庭用電話 * 単品ピュアオーディオ各種(ピュアオーディオ用アンプ、CD/SACDプレーヤー、ネットワークオーディオプレーヤー、スピーカーシステムなど) * 高級[[ミニコンポ]](プレミアムミニコンポ・ハイコンポ)各種(一部のCDレシーバー XC-HMシリーズ、一部の小型スピーカーシステムS-HMシリーズなど) * [[ゼネラルオーディオ]]各種(一部の低価格帯ミニコンポ X-CMシリーズ、X-EMシリーズなど) * [[デジタルオーディオプレーヤー]](Privateシリーズ) * 一般[[住宅]]用[[シーリング]]([[ビルトイン]])オーディオ ** ACCO*(アッコ) == 国内グループ会社 == {{columns-list|colwidth=15em| * [[インクリメント・ピー|インクリメントP株式会社]] * グローバル・サーベイ株式会社 * テーピーエス株式会社 * 株式会社テクニカルオーディオデバイセズラボラトリー * 株式会社テック・エキスパーツ * [[東北パイオニア|東北パイオニア株式会社]] * パイオテック株式会社 * パイオニアウェルフェアサービス株式会社 * パイオニアOLEDライティングデバイス株式会社 * パイオニアサービスネットワーク株式会社 * パイオニアシステムテクノロジー株式会社 * パイオニアデジタルデザインアンドマニュファクチャリング株式会社 * パイオニア販売株式会社 * パイオニアファインテック株式会社 * [[パイオニアマイクロテクノロジー|パイオニア・マイクロ・テクノロジー株式会社]] * 最上電機株式会社 }} == ブランドスローガン == * 「'''ステレオのパイオニア'''」(1958年 - 1964年) * 「'''世界のステレオ'''」(1964年 - 1979年) * 「'''音と光の未来をひらく'''」(1982年 - 1998年) * 「'''PIONEER AIR -未体験しかつくらない-'''」(1994年 - 1998年) * 「'''sound.vision.soul'''」(2001年 - 2008年) == 提供番組 == 全て過去のもの、特記がないものは[[日本テレビ系列]]で放送。 * 一社提供 ** Pioneerステレオ音楽館(1979年 - 1980年頃、[[テレビ東京]]) ** [[金曜娯楽館]] - 1980年4月 - 9月までの間 ** [[今夜は最高!]] - 1981年4月4日 - 1982年4月3日(この間中断)、1982年9月4日 - 1989年10月7日 ** [[日曜はダメ!!]] - 上記「今夜は最高!」の中断期間中放送 ** [[爆風スランプのお店]] ** [[夜も一生けんめい。]] - 後期は同社を筆頭とした複数社提供 * 複数社提供 ** [[THE夜もヒッパレ]] - ※番組開始から提供、末期は降板。 ** [[金曜ロードショー]] - 2003年 - 2004年ごろ ** [[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]共同制作報道番組枠 *** [[情報ライブ EZ!TV]]→[[スタ☆メン]]→[[新報道プレミアA]]→[[サキヨミLIVE]]→[[情報エンタメLIVE ジャーナる!]]→[[Mr.サンデー]] - ※途中降板 ** [[堂本兄弟|新堂本兄弟]](フジテレビ) ** [[F1グランプリ]](フジテレビ) ** [[カーグラフィックTV]](テレビ朝日) * ラジオ ** [[TOKIO HOT 100]]([[J-WAVE]]) - 放送開始当初 ** [[ランナウェイ!サウンドレポート]]([[ニッポン放送]]) ** [[武田久美子 パイオニア・サウンド・ハイスクール]](ニッポン放送) == 広告 == === モータースポーツ関連 === * [[ダカール・ラリー]] - [[1988年]]から[[1991年]]までの4年間、冠スポンサーを務めた。 * [[フォーミュラ1|F1]]・[[スクーデリア・フェラーリ]] - [[1991年]] - [[1997年]]までスポンサー参加。カーナビゲーションの広告に当時在籍していた[[ジャン・アレジ]]を起用。イタリア・グランプリの冠スポンサーも務めた。 * [[ラリージャパン]] - [[2008年]]より[[冠スポンサー]]を務める。 === その他 === * [[後楽園球場]] - 1970年代〜80年代にスコアボードのスポンサーを務めていた。 * [[東京ドーム]] - [[1988年]] - [[2008年]]まで看板広告のスポンサーだった。2023年7月に開催される「オールドサマーシリーズ」ではビジョンスポンサーとして協賛し、同期間中はメインビジョンがかつて後楽園球場で掲示していた電光掲示板スタイルになり、スコアボードの両端に掲示していた「パイオニア」ロゴを復活させる<ref>[https://jpn.pioneer/ja/support/oshirase_etc/other/info230612.php 7月に東京ドームで開催される「オールドサマーシリーズ」に協賛パイオニアロゴが入った後楽園球場の電光掲示板が復活!] - パイオニア 2023年6月12日(2023年6月15日閲覧)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=松本望 |authorlink=松本望 |year=1978 |date=1978-06 |title=回顧と前進 |url=https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/ |chapter=第13話 本社移転のあとさき(3) |chapterurl=https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/contents/kaikotozenshin/13/3/ |publisher=[[電波新聞社]] |oclc=703879390 |ncid=BN04704496 |asin=B000J8M3TY |id={{全国書誌番号|78032377}} |ref={{Sfnref|回顧と前進|1978}} }} == 関連項目 == * [[S-180]] * [[サントリー]] - 同社の[[山崎蒸溜所]]で実際に使用したウイスキー樽の廃材をスピーカーシステムのエンクロージャーやスピーカースタンド、オーディオラック等に加工利用した「'''ピュアモルトオーディオシリーズ'''」のコラボレーション企画に直接関わっており、オンキヨー&パイオニア移管後も継続していたが、近年の慢性的なピュアオーディオ市場の縮小・販売不振などの理由により、2018年末までにそのまま提携終了となった。 * [[松本記念音楽迎賓館]] - 松本望の居宅を利用している。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Pioneer Corporation}} * [https://jpn.pioneer/ja/ パイオニア株式会社 公式サイト] * [https://pioneer.onkyo.com/jp/ オンキヨーホームエンターテイメント株式会社 パイオニアブランド製品サイト] * [https://www.pioneer-audio.jp/ Premium Audio Company, LLC. PIONEER] * [https://jpn.pioneer/ja/corp/group/tohokupioneer/ 東北パイオニア株式会社]  * [https://www.micro-technology.co.jp/ YITOAマイクロテクノロジー株式会社] * [https://www.fukuin.co.jp/ 株式会社フクイン] * [https://web.archive.org/web/19970516081024/http://www.pioneer.co.jp/index-j.html パイオニア株式会社 アーカイブ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいおにあ}} [[Category:パイオニア (企業)|*]] [[Category:文京区の企業]] [[Category:1961年上場の企業]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:日本の電気機器メーカー]] [[Category:日本の音響機器メーカー]] [[Category:日本の映像機器メーカー]] [[Category:かつての携帯電話メーカー]] [[Category:かつての音響機器メーカー]] [[Category:かつての映像機器メーカー]] [[Category:1947年設立の企業]] [[Category:シャープの歴史]]
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みどりの日
みどりの日()は、日本の国民の祝日の一つである。日付は5月4日である。1989年(平成元年)から2006年(平成18年)までは4月29日であった。国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む」ことを趣旨とする。ゴールデンウィークを構成する休日の一つである。 英語では「Greenery day」(緑樹や草木の日という意味)と表記される(Green Dayではない)。 1948年(昭和23年)の祝日法施行以来、昭和天皇の誕生日である4月29日は国民の祝日である「天皇誕生日」とされていた。1989年(昭和64年)1月7日に明仁が即位し、天皇誕生日は明仁の誕生日である12月23日となった。ゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止すると国民の生活へ影響が懸念されるため、4月29日は「みどりの日」と改めて祝日とした。 国民の祝日に「みどりの日」を新設する際の説明として次のように述べている。 「飛躍的な経済成長の結果、我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、「みどりの日」として国民の祝日とするものであります。」 2005年(平成17年)の祝日法改正により2007年(平成19年)以降は、「みどりの日」を、祝日に挟まれる平日で「国民の休日」であった5月4日へ移動し、4月29日は「昭和の日」とした。経緯は昭和の日に詳述がある。 「みどりの日」は、小渕恵三官房長官の私的諮問機関で有識者らによる「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」で、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしい」とする大勢の意見により定められた。ほかにも「科学の日」など昭和天皇の博識を頂く意見が多かった。 みどりの月間(みどりのげっかん)は、「みどりの日」についての国民の関心と理解を一層促進して「みどり」について国民の造詣を深める月である。「みどりの日」の改正に伴い、2006年(平成18年)8月8日の閣議で「みどりの週間」を廃止して4月15日から5月14日を「みどりの月間」と定めた。期間中は地方公共団体及び一般の協力を得て「みどり」に関する各種行事等を全国的に実施した。 みどりの週間(みどりのしゅうかん)は「みどりの日」改正以前の2006年まで存在した。「みどりの日の趣旨を広く普及し、緑豊かな自然と国土の形成及び国民生活の向上に資すること」を目的とする。国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成元年法律第5号)で「みどりの日」が国民の祝日と制定され、1989年(平成元年)4月18日の閣議で、4月23日から4月29日「みどりの日」までを「みどりの週間」と定めた。期間中は地方公共団体及び一般の協力を得て「みどり」に関する各種行事等を全国的に実施した。 2007年以降は「みどりの日」に国公立公園の無料開放するなど、国民が自然に親しむための各種行事等を各地で実施している。 当日は毎日新聞の題字が青から緑色になる。 1991年から、グリーンレガッタと称して中央大学・法政大学・日本体育大学・東京経済大学の定期戦が戸田漕艇場で実施され、早慶レガッタに次いで人気がある。
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みどりの日は、日本の国民の祝日の一つである。日付は5月4日である。1989年(平成元年)から2006年(平成18年)までは4月29日であった。国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む」ことを趣旨とする。ゴールデンウィークを構成する休日の一つである。 英語では「Greenery day」(緑樹や草木の日という意味)と表記される。
{{出典の明記|date=2021年11月}} [[File:Forest01s2048.jpg|thumb|日本・[[上高地]]の森林]] {{国民の祝日}} {{読み仮名|'''みどりの日'''|みどりのひ}}は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである。日付は[[5月4日]]である。[[1989年]](平成元年)から[[2006年]](平成18年)までは[[4月29日]]であった<ref>{{kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「[[自然]]に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む」ことを趣旨とする。[[ゴールデンウィーク]]を構成する[[休日]]の一つである。 英語では「Greenery day」(緑樹や草木の日という意味)と表記される([[グリーン・デイ|Green Day]]ではない)。 == 概要 == [[1948年]](昭和23年)の祝日法施行以来、[[昭和天皇]]の誕生日である4月29日は国民の祝日である「[[天皇誕生日]]」とされていた。[[1989年]](昭和64年)1月7日に[[明仁]]が[[即位]]し、天皇誕生日は明仁の誕生日である12月23日となった。ゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止すると国民の生活へ影響が懸念されるため、4月29日は「みどりの日」と改めて祝日とした。 国民の祝日に「みどりの日」を新設する際の説明として次のように述べている。 「飛躍的な[[経済成長]]の結果、我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、「みどりの日」として国民の祝日とするものであります。」<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/txt/111404889X00219890210 第114回国会 衆議院 内閣委員会 平成元年2月10日]</ref><!-- 1989年1月の新聞各紙報道による --> [[2005年]](平成17年)の祝日法改正により[[2007年]](平成19年)以降は、「みどりの日」を、祝日に挟まれる平日で「[[国民の休日]]」であった5月4日へ移動し、4月29日は「[[昭和の日]]」とした。経緯は[[昭和の日]]に詳述がある。 == 名称 == 「みどりの日」は、[[小渕恵三]][[内閣官房長官|官房長官]]の[[懇談会|私的諮問機関]]で有識者らによる「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」で、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしい」とする大勢の意見により定められた。ほかにも「科学の日」など昭和天皇の博識を頂く意見が多かった。<!-- 1989年1月の新聞各紙報道による --> == みどりの月間 == みどりの月間(みどりのげっかん)<ref>{{kotobank|みどりの月間}}</ref>は、「みどりの日」についての国民の関心と理解を一層促進して「みどり」について国民の造詣を深める月である。「みどりの日」の改正に伴い、[[2006年]](平成18年)8月8日の閣議で「みどりの週間」を廃止して4月15日から5月14日を「みどりの月間」と定めた。期間中は地方公共団体及び一般の協力を得て「みどり」に関する各種行事等を全国的に実施した。 == みどりの週間 == みどりの週間(みどりのしゅうかん)<ref>{{kotobank|緑の週間}}</ref>は「みどりの日」改正以前の2006年まで存在した。「みどりの日の趣旨を広く普及し、緑豊かな自然と国土の形成及び国民生活の向上に資すること」を目的とする。[[国民の祝日に関する法律]]の一部を改正する法律(平成元年法律第5号)で「みどりの日」が国民の祝日と制定され、[[1989年]](平成元年)4月18日の閣議で、4月23日から4月29日「みどりの日」までを「みどりの週間」と定めた。期間中は地方公共団体及び一般の協力を得て「みどり」に関する各種行事等を全国的に実施した。 == 雑記 == 2007年以降は「みどりの日」に国公立公園の無料開放するなど、国民が自然に親しむための各種行事等を各地で実施している。<!-- 2006年8月8日の閣議決定による --> 当日は[[毎日新聞]]の題字が青から緑色になる。 1991年から、グリーンレガッタと称して[[中央大学]]・[[法政大学]]・[[日本体育大学]]・[[東京経済大学]]の定期戦が[[戸田漕艇場]]で実施され、[[早慶レガッタ]]に次いで人気がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Div col}} <references /> {{Div col end}} == 関連項目 == {{Div col}} * [[全国植樹祭]] * [[愛林日]] * [[みどりの学術賞]] * [[日本の月間一覧]] * [[日本の週間一覧]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#midori 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{森林破壊}} {{デフォルトソート:みとりのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:5月の記念日]]
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VHD
VHD(Video High Density Disc、ブイエイチディ)は、1980年代に日本ビクター(現・JVCケンウッド)が開発したレコード盤形状のビデオディスク規格である。 日本ビクターがレコード製造事業の延長として、1974年からビデオディスク開発の研究所を発足させ、1978年9月に発表。日本ビクターの母体であったRCAが商用化したCEDビデオディスクと同じく、レコードの針に相当するダイヤモンド製のプローブ電極センサーをレコード盤へ直接に接触させてディスク表面の信号を読み出す。信号記録面がアナログレコード同様露出している構造上、傷やホコリ対策のためのキャディー(ジャケット)にディスクが封入されており、ディスクそのものは分解をしない限り直接触れたり見ることはできないが、レーザーディスクと良く似た黒光りした光沢を持ち虹色を呈する。表面は50nm程度の潤滑層で覆われており、センサーの面積あたり接触圧力もアナログレコードと比べて1桁少ないことから、ディスクやセンサーの寿命を長くすることが可能とされた。外見上CEDと類似するが、レコード盤に構造上の溝が無く、表面の静電容量の変化で情報を記録する「溝無し静電容量方式」であることがCEDとの大きな違いである。 映像の水平解像度は240本程度とVHSやベータと同程度だが、相反する解像度とS/N比のバランスが良く、高画質で片面1時間・両面で計2時間の収録が可能。記録方式はCAV、色信号低域変換方式採用、ディスクの回転数は900rpm、ディスクの直径は26cm。音声はアナログFMオーディオが基本で、後にデジタルオーディオ規格もオプションで追加された。 再生するときは、ディスクをキャディーごとプレイヤー本体に差し込むと、中のディスクだけが本体に取り込まれ、キャディーは排出される。取り出し時には、キャディーを差し込むとディスクがキャディー内に戻される。キャディーの裏面にはサイド確認窓があり、白線が見えればB面、見えなければA面である。片面ディスクでB面を上にして入れると回転せずに即座に取り出しモードになる。ディスクはキャディーに収納されているため、レーザーディスクやDVDなどで生ずる傷、指紋、ホコリに煩わされることもなく取り扱いは簡便だった。 ディスクとセンサーが接触し信号を拾っている関係上摩耗は生じるが、1時間以上にわたる静止画再生などの通常考えられない方法を取らない限り、一般家庭での視聴環境ではほぼ無視できるレベルであるとされた。日本ビクターは、業務用に使われているカラオケでも1,000回の再生、2年は大丈夫なので実用上の問題はないとした。ただしカラオケでは同じディスクをかなりの回数再生する都合上、カラオケボックスやスナックバーなどの業務用途では稀に摩耗による障害が生じた。さらにVHDpc INTER ACTIONとしてパソコンのデータディスクとして使用した場合は、無視できない問題となった。 同じ接触式の針を用いたビデオディスクとして、1981年にアメリカで商用化されたRCAのCEDのほか、ドイツのテルデック/デッカ/テレフンケンが開発したTeD(Television Electronic Disc)、松下電器産業(現・パナソニック)が開発したVISC(未発売)もある。これらはレコード同様に溝があり、VHDとの互換性は全くない。 VHDディスクの生産はレコード盤からの応用で1回のプレスで両面が出来上がり、レーザーディスクのような両面貼り合わせが不要で製造コストが安いとされていた。VHDはアナログレコードの生産設備を利用できる点からも普及が有力視されたが、神奈川県大和市の林間工場(JVCケンウッド・クリエイティブメディアとして分社化のち閉鎖)の専用レーンで生産され、市販ソフトの製造・販売は日本ビクター映像事業部が担っていた。 なお、レーザーディスク(LD)同様、ソフトのレンタルは全面禁止だった。 当時はVTRがある程度普及し、次は絵の出るレコードとしてビデオディスクが待望されており、VHDはレーザーディスク (LD) との規格争いが行われた。 VHDのファミリー作りは当初は難航した。1978年9月のVHDの発表時、日本ビクターの当時の親会社の松下電器産業は1977年11月に発表していた自社方式のビデオディスクVISCの開発を進めていたが、1980年1月になって松下電器はVISC方式を放棄することとVHD方式を採用することを発表。松下グループでのビデオディスクの統一が行われた。次いで同年9月には東京芝浦電気(現・東芝)をVHD陣営に引き込む。これをきっかけに、三洋電機、シャープ、三菱電機、赤井電機、オーディオテクニカ、山水電気、ゼネラル(現・富士通ゼネラル)、トリオ(現・JVCケンウッド)、日本楽器製造(現・ヤマハ)、日本電気ホームエレクトロニクスの日本の11社、日本国外のメーカーはアメリカのゼネラル・エレクトリック (GE)、イギリスのソーンEMI(英語版)が参入した。 当初はパイオニア(ホームAV事業部。現・オンキヨーテクノロジー)1社のみのLD陣営に対し、VHD陣営は13社と陣容は圧倒的で、「日の丸規格」とも言われ、マスコミはVHD陣営の圧勝を予想した。ただし、VHD陣営は数こそ多かったものの、名乗りを上げてはみたがOEM供給で発売しただけで、自社での開発や生産の計画がないメーカーも多かったとも言われる。後にVHD規格の賛同会社には、アイワ(初代法人。現・ソニーマーケティング)、クラリオンも加わった。 通産省(現・経済産業省)はVHS方式とベータ方式のビデオ戦争時と同じく、ビデオディスクについても規格統一を働きかけたが、LD方式を推進したパイオニアは、LD方式が優れており、技術発展のために安易な規格統一はせず、市場で決着をつけるべきだとしてこれを拒み、1社のみでLDの発売に踏み切った。 当初はどちらの陣営にも参加しなかった主なメーカーとしては、ベータ方式のビデオテープレコーダーを擁して日本ビクターとライバル関係にあり、1981年から業務用LDソフトを生産していたソニー、アメリカでRCA社にCED方式のビデオディスクプレイヤーをOEM供給してアーケードゲームのLDゲームで業務用でLDに参入していた日立製作所、当時日立グループでデンオン(DENON。現・デノン)ブランドを擁していた日本コロムビア(オーディオ事業部。現・ディーアンドエムホールディングス)、光学式ビデオディスクシステムを開発したフィリップス傘下だった日本マランツ(現・ディーアンドエムホールディングス)、オーディオ機器メーカーティアックなどがあり、いずれもその後LD陣営に参入した。 VHD方式はプレーヤー生産の目処はたったものの、ディスク生産の技術開発は予想以上に難航し、技術的問題の解決に3年を要した。そのため、発売は当初予定の1981年4月から大幅にずれ込み、1982年4月には無期限の延期が発表され、実際の発売開始は1983年4月となった。そして同年5月までに日本ビクターを含むVHDファミリー5社から自社ブランドで製品が発売された。 市販化まで年月を要したことでLDの躍進を許した格好となり、日本国外でゼネラル・エレクトリック、ソーンEMI、日本ビクター、松下電器産業の4社が行っていたVHDソフトウェア、VHDハードウェア供給合弁企業は本格始動前に空中分解し、GEとソーンEMIは合弁を解消してVHDから撤退。VHDの海外戦略は破綻する結果となった。 1984年にCD/LDコンパチブル再生機がパイオニアやソニーなど複数社から順次発売されたことでLDソフトのセル市場が確立。1985年にはVHD陣営だった日本楽器製造がLD陣営に鞍替えし、LD陣営は7社に増加するなどLDを採用するメーカーは拡大していった。 1987年に日本ビクターは立体映像とQX方式に対応したフラッグシップ機の「HD-V1」を発売したが、それまでVHDファミリーの一角として「ディスクロード」のシリーズ名で販売していた松下電器産業がVHDプレーヤーの販売を終了し、LD陣営に鞍替えした。これにより新規ユーザーはLDを嗜好するようになり、パイオニア1社で始まったLD陣営は1989年時点で19社となった。その結果、LDのビデオディスク市場でのシェアは、1987年には75%、1988年には87%、1989年には95%を獲得しVHDは敗れ去った。世帯普及率が5%程度のビデオディスクは嗜好商品であり、価格の優位よりも性能が消費者に重視されたためと言われる。 VHDの敗退は採用メーカー数で圧倒しても市場を制覇することはできない例として引用されることがある。これは、技術的に優位だったベータマックスがVHSに敗退した例と比較して語られることもある。IEC(国際電気標準会議)で規格がはかられていたのは、光学式ではなくVHD方式だった。 日本ビクターはLDプレイヤーを発売しなかったが、VHDがビデオディスク市場で縮小してからは、自社ソフト部門もVHDからLDへとシフトが進み、日本ビクター製作の邦画・洋画(主に傘下のラルゴエンタテインメント作品)・アニメ・カラオケなど積極的にLD化していた。また、関連会社のRVC(RCAビクター。現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)が1985年に、メイジャーズ(JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントの子会社)とパック・イン・ビデオが1990年(平成2年)にLDソフトを発売開始した。日本ビクター及びビクターエンタテインメントでLDソフト発売を手がける以前は、ポリドール・レコード(現・ユニバーサル ミュージック)や創美企画(映像ソフト部門は現在のハピネット)など他社レーベルより一部の作品を発売していた。 また、日本ビクターがVHDで発売していたシティーハンターシリーズなどは、最大のライバルであるパイオニアの子会社パイオニアLDC(現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)よりLDを発売していた。機器面でも日本ビクターが製造発売していたMUSEデコーダーにはHi-Vision LD専用端子を備えていた。 DVD以前は他の規格も含めてVHSの牙城を崩すほどの商品が登場しなかった。 片面1時間収録のLDではフレームサーチは不可能なのに対し、VHD方式は全てのディスクでタイムサーチ、フレームサーチ、チャプターサーチが出来る。これは、片面1時間収録のLDがCLVなのに対し、VHD方式はCAVで、かつアナログレコードのような溝が存在しない溝無し静電容量方式を採用しているため、高速ランダムアクセスが可能となっているためである。このことから、比較的初期のVHDプレイヤーであってもレーザーディスク以上の操作性の良さを楽しむことが可能である。溝がないVHDはセンサーが横方向への移動が自在で、希望のトラックを早く探せ、アクセスに要する時間はレーザーディスクの半分以下と有利で、スタート地点からラストまででも5秒以内で再生ができた。 LDがデジタルメモリを利用するまで片面1時間の長時間ディスクでは静止画やトリックプレイが出来なかったのに対して、VHD方式はそれらの静止画やコマ送りなど特殊再生が可能なことも優位な点だった。ただしVHDでは1トラックに2フレームを収録していた関係から、動きの激しい画面では静止画がブレる場合もあった。これを解消するには、1トラックに同じフレームを2つ収録して倍速で再生させるエキストラ編集というものがあったが、全編にエキストラ編集を施すと収録時間は30分になった。 1980年代後半に発売されたVHDプレイヤーには3-D立体映像再生機能を有しているものも存在する。1986年から日本ビクター、シャープ、松下電器産業の3社から対応プレイヤーの発売が開始され、高級モデルは標準対応、普及モデルは外付けアダプターで対応した。 原理としては左右の映像が交互に収録されたディスクを再生して、液晶シャッター式スコープを本体に接続し、眼鏡を掛ける要領で視聴すれば、立体映像を楽しむことが可能だった。3D-VHDのディスクは通常のプレイヤーでも通常の映像として再生できる互換性を保った仕様で、そのために収録時間は半分の片面30分となっていた。1986年から1987年にかけて既存の立体映画やアニメやビデオマガジンなどオリジナル作品の対応ソフトが、日本ビクターから22タイトルが発表された。この液晶シャッター・メガネ方式による3Dは、VHD以外にも同時期に、ファミリーコンピュータやセガ・マークIII、アーケードゲームのゲーム分野でも採用されていてちょっとしたブームだったが、激しいチラつきが目立つこともあり、VHD方式の躍進には殆ど繋がらず、1988年には消滅した。 2008年より、デジタル3-D映画や立体テレビ放送技術の躍進により、3D再生対応のBlu-ray Discソフトが市販化されている。こちらの3D表示は対応する3次元ディスプレイの機能に依存している点とメガネは無線(赤外線通信)接続である点が、VHDのそれと大きく異なる。 真のリージョンフリーメディアを目指していたことから、3つの異なるテレビ方式(NTSC・PAL・SECAM)の再生が可能となっている。ただしNTSC方式のテレビでPAL/SECAMのソフトを再生すると19%縦長になり、PAL/SECAMのテレビでNTSCのソフトを再生すると16%縮むことになる。 この考え方はビクターが発売していたDVD機器にも反映され、PAL方式のDVDビデオをNTSC方式に変換して再生する機能を有している。 VHDは水平解像度240本以上で、350本以上のLDに後れをとっていた。 1980年代後期には水平解像度400本以上の高画質を実現したQX (Quality eXcellent) VHD方式と、音質を根本から見直しCDと同一の高音質を実現するVHD DigitalAudio方式(16 Bit, 44.1 kHz, リニアPCM)を日本ビクターが開発した。両方式に対応したVHDプレイヤーHD-V1を市場へ投入するも、一般家庭向けQX VHDソフト、VHD DigitalAudioソフトは日本ビクターを含め、どこのメーカーからも供給されなかった。 また、規格にある色信号を低域変換する原理(ホームビデオと同様)から、色再現性はLDを超える事が出来なかった。 来るハイビジョン時代を想定し、MUSE方式によるHi-Vision VHDの開発も日本ビクターと松下電器産業の手で行われていたが、市場に出ることはなかった。 アナログレコードに代わるデジタルオーディオディスク規格として日本ビクターが考案したのがAHDである。VHDは1978年9月に発表されたが、発表時から単なるビデオディスクではなく、このAHD方式との共用が考えられており、VHD/AHDシステムとして発表されたものである。 日本ビクターは、DAD懇談会にVHDシステムを応用したAHD (Advanced High Density Disc) を提案した。DAD懇談会では、提案された3方式の中からソニーとフィリップスのCDがオーディオ専用としてとAHDがビデオディスクとの共用型として採択された。国内ではVHDpcマーク付きプレイヤーに外付けするAHDプロセッサAD-7000として、1985年に198,000円で発売された。 AHDの記憶容量は両面で2.54GB。デジタルオーディオのスペックは、量子化数が16bit、サンプリング周波数が44.1kHz、チャンネル数は最大4チャンネル。チャンネル数を2チャンネルにした場合は、456×572ドット、1600万色の高精細デジタル静止画像を両面で片面に1,500枚、両面で3,000枚を収録できた。静止画1枚の表示には2.4秒を要する。静止画を使用する際にはリニアPCM音声を使わず、静止画の説明用に文字データを1枚あたり87キロバイトで合計260MB分、静止画1枚あたり19.2秒の圧縮音声を16時間で合計950MBを割り当てることもでき、図鑑などの利用が想定された。AHDソフトは20タイトル程度日本ビクターから発表されたものの、松下電器産業が光学方式のCDを支持したことでAHDファミリー作りができなかったため、昭和の時代と共にほぼ消滅した。 VHDpcマーク付きプレイヤー、VHDインターフェイスユニット及びMSX、シャープX1などパーソナルコンピュータとの組み合わせで、VHDpc INTER ACTIONを楽しむことが可能だった。 VHD言語というグラフィックとサウンドをサポートしたBASICの文法に近い言語仕様を策定。グラフィック座標やRGB値は実数値を使用、機種毎に可能な表示を行うなど異機種間共通の言語として考えられていた。対応のインタプリタを用意すれば異なった機種のパソコンでも同一のVHDディスクを使用してゲーム等のソフトが楽しめるという発想だった。VHD言語のプログラムはディスクには中間言語の形で、音声チャンネルBのトラックにデジタル記録され、ディスク片面で約1.3Mバイトの容量があった。転送速度は2880bps。 最初に発売されたのはオートバイレースゲーム「VROOM」、ギャンブルゲーム「The Players Club」、教育ソフト「アリスの化学実験室」。 「サンダーストーム」、「ロードブラスター」、「タイムギャル」など、当時ゲームセンターで流行したLDゲームも移植されたが、これらのアクションゲームは実行速度の遅いインタプリタであるVHD言語非対応で、VHDの他にカセットテープで発売された各機種個別のソフトウェアを必要とした。 将来的にVHD言語コンパイラがパソコンに用意されれば、ソースを書いて中間言語に変換し、VHDのディスクに記録せずにパソコン上でユーザー開発したVHD言語によるプログラムが実行できるとされていた。しかしVHD言語がユーザーに提供されることはなく、VHD言語によるソフト開発は事実上不可能で、MSXは拡張BASIC、X1も機械語のコントロールプログラムを読み込んで、VHDpcマーク付きのプレイヤーをコントロールした。 センサとディスクが接触しているのがVHDの特色であるが、普通にビデオソフトを再生する分にはまず問題無いとされた。しかしVHDpc INTER ACTIONにおいては無視できない問題となり、何度もゲームをプレイするうちに摩耗による障害が出るケースが見られた。 レーザーディスクとの競争で敗れてのちは、VHDはカラオケ用での生き残りをはかることとなった。そして1990年頃には「EXTRA SOUND方式」という、従来のモノラルカラオケ+モノラル歌の2チャンネルの音声のほかにステレオのカラオケを収録したVHDソフトと再生するプレイヤーが発売されたが、一般には認知されることはなかった。 VHDカラオケソフトはビクターエンタテインメントより販売・生産が長期間に亘り継続され、2003年6月の新譜を最後にVHDの歴史に幕を下ろすこととなった。
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"原理としては左右の映像が交互に収録されたディスクを再生して、液晶シャッター式スコープを本体に接続し、眼鏡を掛ける要領で視聴すれば、立体映像を楽しむことが可能だった。3D-VHDのディスクは通常のプレイヤーでも通常の映像として再生できる互換性を保った仕様で、そのために収録時間は半分の片面30分となっていた。1986年から1987年にかけて既存の立体映画やアニメやビデオマガジンなどオリジナル作品の対応ソフトが、日本ビクターから22タイトルが発表された。この液晶シャッター・メガネ方式による3Dは、VHD以外にも同時期に、ファミリーコンピュータやセガ・マークIII、アーケードゲームのゲーム分野でも採用されていてちょっとしたブームだったが、激しいチラつきが目立つこともあり、VHD方式の躍進には殆ど繋がらず、1988年には消滅した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2008年より、デジタル3-D映画や立体テレビ放送技術の躍進により、3D再生対応のBlu-ray Discソフトが市販化されている。こちらの3D表示は対応する3次元ディスプレイの機能に依存している点とメガネは無線(赤外線通信)接続である点が、VHDのそれと大きく異なる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "真のリージョンフリーメディアを目指していたことから、3つの異なるテレビ方式(NTSC・PAL・SECAM)の再生が可能となっている。ただしNTSC方式のテレビでPAL/SECAMのソフトを再生すると19%縦長になり、PAL/SECAMのテレビでNTSCのソフトを再生すると16%縮むことになる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この考え方はビクターが発売していたDVD機器にも反映され、PAL方式のDVDビデオをNTSC方式に変換して再生する機能を有している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "VHDは水平解像度240本以上で、350本以上のLDに後れをとっていた。", "title": "上位規格" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1980年代後期には水平解像度400本以上の高画質を実現したQX (Quality eXcellent) VHD方式と、音質を根本から見直しCDと同一の高音質を実現するVHD DigitalAudio方式(16 Bit, 44.1 kHz, リニアPCM)を日本ビクターが開発した。両方式に対応したVHDプレイヤーHD-V1を市場へ投入するも、一般家庭向けQX VHDソフト、VHD DigitalAudioソフトは日本ビクターを含め、どこのメーカーからも供給されなかった。", "title": "上位規格" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、規格にある色信号を低域変換する原理(ホームビデオと同様)から、色再現性はLDを超える事が出来なかった。", "title": "上位規格" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "来るハイビジョン時代を想定し、MUSE方式によるHi-Vision VHDの開発も日本ビクターと松下電器産業の手で行われていたが、市場に出ることはなかった。", "title": "上位規格" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アナログレコードに代わるデジタルオーディオディスク規格として日本ビクターが考案したのがAHDである。VHDは1978年9月に発表されたが、発表時から単なるビデオディスクではなく、このAHD方式との共用が考えられており、VHD/AHDシステムとして発表されたものである。", "title": "AHD" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本ビクターは、DAD懇談会にVHDシステムを応用したAHD (Advanced High Density Disc) を提案した。DAD懇談会では、提案された3方式の中からソニーとフィリップスのCDがオーディオ専用としてとAHDがビデオディスクとの共用型として採択された。国内ではVHDpcマーク付きプレイヤーに外付けするAHDプロセッサAD-7000として、1985年に198,000円で発売された。", "title": "AHD" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "AHDの記憶容量は両面で2.54GB。デジタルオーディオのスペックは、量子化数が16bit、サンプリング周波数が44.1kHz、チャンネル数は最大4チャンネル。チャンネル数を2チャンネルにした場合は、456×572ドット、1600万色の高精細デジタル静止画像を両面で片面に1,500枚、両面で3,000枚を収録できた。静止画1枚の表示には2.4秒を要する。静止画を使用する際にはリニアPCM音声を使わず、静止画の説明用に文字データを1枚あたり87キロバイトで合計260MB分、静止画1枚あたり19.2秒の圧縮音声を16時間で合計950MBを割り当てることもでき、図鑑などの利用が想定された。AHDソフトは20タイトル程度日本ビクターから発表されたものの、松下電器産業が光学方式のCDを支持したことでAHDファミリー作りができなかったため、昭和の時代と共にほぼ消滅した。", "title": "AHD" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "VHDpcマーク付きプレイヤー、VHDインターフェイスユニット及びMSX、シャープX1などパーソナルコンピュータとの組み合わせで、VHDpc INTER ACTIONを楽しむことが可能だった。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "VHD言語というグラフィックとサウンドをサポートしたBASICの文法に近い言語仕様を策定。グラフィック座標やRGB値は実数値を使用、機種毎に可能な表示を行うなど異機種間共通の言語として考えられていた。対応のインタプリタを用意すれば異なった機種のパソコンでも同一のVHDディスクを使用してゲーム等のソフトが楽しめるという発想だった。VHD言語のプログラムはディスクには中間言語の形で、音声チャンネルBのトラックにデジタル記録され、ディスク片面で約1.3Mバイトの容量があった。転送速度は2880bps。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "最初に発売されたのはオートバイレースゲーム「VROOM」、ギャンブルゲーム「The Players Club」、教育ソフト「アリスの化学実験室」。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「サンダーストーム」、「ロードブラスター」、「タイムギャル」など、当時ゲームセンターで流行したLDゲームも移植されたが、これらのアクションゲームは実行速度の遅いインタプリタであるVHD言語非対応で、VHDの他にカセットテープで発売された各機種個別のソフトウェアを必要とした。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "将来的にVHD言語コンパイラがパソコンに用意されれば、ソースを書いて中間言語に変換し、VHDのディスクに記録せずにパソコン上でユーザー開発したVHD言語によるプログラムが実行できるとされていた。しかしVHD言語がユーザーに提供されることはなく、VHD言語によるソフト開発は事実上不可能で、MSXは拡張BASIC、X1も機械語のコントロールプログラムを読み込んで、VHDpcマーク付きのプレイヤーをコントロールした。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "センサとディスクが接触しているのがVHDの特色であるが、普通にビデオソフトを再生する分にはまず問題無いとされた。しかしVHDpc INTER ACTIONにおいては無視できない問題となり、何度もゲームをプレイするうちに摩耗による障害が出るケースが見られた。", "title": "VHDpc INTER ACTION" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "レーザーディスクとの競争で敗れてのちは、VHDはカラオケ用での生き残りをはかることとなった。そして1990年頃には「EXTRA SOUND方式」という、従来のモノラルカラオケ+モノラル歌の2チャンネルの音声のほかにステレオのカラオケを収録したVHDソフトと再生するプレイヤーが発売されたが、一般には認知されることはなかった。", "title": "カラオケVHDと、EXTRA SOUNDカラオケVHD" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "VHDカラオケソフトはビクターエンタテインメントより販売・生産が長期間に亘り継続され、2003年6月の新譜を最後にVHDの歴史に幕を下ろすこととなった。", "title": "カラオケVHDと、EXTRA SOUNDカラオケVHD" } ]
VHDは、1980年代に日本ビクター(現・JVCケンウッド)が開発したレコード盤形状のビデオディスク規格である。
{{Otheruses|ビデオディスク|バーチャルハードディスクのファイル形式|VHD (ファイルフォーマット)}} [[ファイル:Japanese VHD (Video High Density) cassette of "La Ragazza con la Valigia".jpg|thumb|200px|VHDメディア]] '''VHD'''(''Video High Density Disc''、ブイエイチディ)は、1980年代に[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])が開発した[[レコード]]盤形状の[[ビデオディスク]]規格である。 == 製品概要 == 日本ビクターがレコード製造事業の延長として、[[1974年]]からビデオディスク開発の研究所を発足させ{{sfn|神尾|1985|pp=48-49}}、[[1978年]]9月に発表{{sfn|山川|1986|p=31}}。日本ビクターの母体であった[[RCA]]が商用化した[[RCA#CEDビデオディスク|CEDビデオディスク]]と同じく、レコードの針に相当する[[ダイヤモンド]]製の[[プローブ]]電極センサーをレコード盤へ直接に接触させてディスク表面の信号を読み出す。信号記録面がアナログレコード同様露出している構造上、傷やホコリ対策のためのキャディー(ジャケット)<ref>このキャディーの裏面中心部付近には小さな穴が開けられており、そこから見えるディスク最内周に印刷された白線の有無で、A面B面の識別ができる</ref>にディスクが封入されており、ディスクそのもの<ref>店頭では内部のディスクが見える透明キャディーのVHD(プレイヤーへの挿入は不可)が展示された。</ref>は分解をしない限り直接触れたり見ることはできない{{sfn|山川|1986|p=105}}が、[[レーザーディスク]]と良く似た黒光りした光沢を持ち虹色を呈する。表面は50[[ナノメートル|nm]]程度の潤滑層で覆われており、センサーの面積あたり接触圧力もアナログレコードと比べて1桁少ないことから、ディスクやセンサーの寿命を長くすることが可能とされた<ref>{{Cite journal|和書|author=松村純孝 |title=LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査 |date=2014-05 |publisher=[[国立科学博物館]] |journal=国立科学博物館技術の系統化調査報告 |volume=21 |url=https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/085.pdf#page=10 |format=PDF |accessdate=2022-05-17 |page=150}}</ref>。外見上CEDと類似するが、レコード盤に構造上の溝が無く、表面の静電容量の変化で情報を記録する「溝無し静電容量方式」であることがCEDとの大きな違いである。 映像の水平解像度は240本程度と[[VHS]]や[[ベータマックス|ベータ]]と同程度だが、相反する解像度とS/N比のバランスが良く、高画質で片面1時間・両面で計2時間の収録が可能。記録方式は[[CAV]]、色信号低域変換方式採用、ディスクの回転数は900[[rpm (単位)|rpm]]、ディスクの直径は26[[センチメートル|cm]]。音声は[[周波数変調|アナログFM]]オーディオが基本で、後に[[デジタルオーディオ]]規格もオプションで追加された。 再生するときは、ディスクをキャディーごとプレイヤー本体に差し込むと、中のディスクだけが本体に取り込まれ、キャディーは排出される。取り出し時には、キャディーを差し込むとディスクがキャディー内に戻される{{sfn|山川|1986|pp=63-64}}。キャディーの裏面にはサイド確認窓があり、白線が見えればB面、見えなければA面である。片面ディスクでB面を上にして入れると回転せずに即座に取り出しモードになる。ディスクはキャディーに収納されているため、[[レーザーディスク]]や[[DVD]]などで生ずる傷、指紋、ホコリに煩わされることもなく取り扱いは簡便だった。 ディスクとセンサーが接触し信号を拾っている関係上摩耗は生じるが、1時間以上にわたる静止画再生などの通常考えられない方法を取らない限り、一般家庭での視聴環境ではほぼ無視できるレベルであるとされた。日本ビクターは、業務用に使われているカラオケでも1,000回の再生、2年は大丈夫なので実用上の問題はないとした{{sfn|岩淵|1988|p=200}}。ただし[[カラオケ]]では同じディスクをかなりの回数再生する都合上、[[カラオケボックス]]や[[スナックバー (飲食店)|スナックバー]]などの業務用途では稀に摩耗による障害が生じた。さらに[[VHDpc INTER ACTION]]としてパソコンのデータディスクとして使用した場合は、無視できない問題となった。 同じ接触式の針を用いたビデオディスクとして、1981年にアメリカで商用化されたRCAのCEDのほか、ドイツの[[テルデック]]/[[デッカ・レコード|デッカ]]/[[テレフンケン]]が開発したTeD([[:en:Television Electronic Disc|Television Electronic Disc]])、松下電器産業(現・[[パナソニック]])が開発した[[VISC]](未発売)もある。これらはレコード同様に溝があり、VHDとの互換性は全くない。 VHDディスクの生産はレコード盤からの応用で1回のプレスで両面が出来上がり、レーザーディスクのような両面貼り合わせが不要で製造コストが安いとされていた{{sfn|山川|1986|p=31}}。VHDはアナログレコードの生産設備を利用できる点からも普及が有力視されたが、神奈川県大和市の林間工場([[JVCケンウッド・クリエイティブメディア]]として分社化のち閉鎖)の専用レーンで生産され、市販ソフトの製造・販売は日本ビクター映像事業部が担っていた。 なお、[[レーザーディスク]](LD)同様、ソフトのレンタルは全面禁止だった{{sfn|岩淵|1988|pp=72,85-86}}。 == ビデオディスクの規格争い == 当時は[[ビデオテープレコーダ|VTR]]がある程度普及し、次は絵の出るレコードとして[[ビデオディスク]]が待望されており、VHDは[[レーザーディスク]] (LD) との[[規格争い]]が行われた。 VHDのファミリー作りは当初は難航した。1978年9月のVHDの発表時、日本ビクターの当時の親会社の松下電器産業は[[1977年]]11月に発表していた自社方式のビデオディスクVISCの開発を進めていたが、[[1980年]]1月になって松下電器はVISC方式を放棄することとVHD方式を採用することを発表。松下グループでのビデオディスクの統一が行われた{{sfn|神尾|1985|pp=46-47}}{{sfn|佐藤|2003|pp=480-483}}。次いで同年9月には東京芝浦電気(現・[[東芝]])をVHD陣営に引き込む。これをきっかけに、[[三洋電機]]、[[シャープ]]、[[三菱電機]]、[[赤井電機]]、[[オーディオテクニカ]]、[[山水電気]]、ゼネラル(現・[[富士通ゼネラル]])、トリオ(現・[[JVCケンウッド]])、日本楽器製造(現・[[ヤマハ]])、[[日本電気ホームエレクトロニクス]]の日本の11社、日本国外のメーカーはアメリカの[[ゼネラル・エレクトリック]] (GE)、イギリスの{{仮リンク|ソーンEMI|en|Thorn EMI}}が参入した{{sfn|村瀬|林|2004|p=153}}。 当初は[[パイオニア]](ホームAV事業部。現・[[オンキヨーテクノロジー]])1社のみのLD陣営に対し、VHD陣営は13社と陣容は圧倒的で、「日の丸規格」とも言われ{{sfn|神尾|1985|p=71}}、マスコミはVHD陣営の圧勝を予想した。ただし、VHD陣営は数こそ多かったものの、名乗りを上げてはみたが[[OEM]]供給で発売しただけで、自社での開発や生産の計画がないメーカーも多かったとも言われる{{sfn|佐藤|2003|p=491}}。後にVHD規格の賛同会社には、[[アイワ]](初代法人。現・[[ソニーマーケティング]])、[[クラリオン]]も加わった。 通産省(現・[[経済産業省]])は[[VHS]]方式と[[ベータマックス|ベータ方式]]の[[ビデオ戦争]]時と同じく、ビデオディスクについても規格統一を働きかけたが、LD方式を推進したパイオニアは、LD方式が優れており、技術発展のために安易な規格統一はせず、市場で決着をつけるべきだとしてこれを拒み、1社のみでLDの発売に踏み切った{{sfn|岩淵|1988|p=199}}。 当初はどちらの陣営にも参加しなかった主なメーカーとしては、ベータ方式のビデオテープレコーダーを擁して日本ビクターとライバル関係にあり、[[1981年]]から業務用LDソフトを生産していた[[ソニー]]{{sfn|岩淵|1988|p=194}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[RCA]]社にCED方式のビデオディスクプレイヤーを[[OEM|OEM供給]]して[[アーケードゲーム]]の[[LDゲーム]]で業務用でLDに参入していた[[日立製作所]]{{sfn|神尾|1995|p=197}}、当時[[日立グループ]]でデンオン(DENON。現・[[デノン]])ブランドを擁していた[[日本コロムビア]](オーディオ事業部。現・[[ディーアンドエムホールディングス]])、光学式ビデオディスクシステムを開発した[[フィリップス]]傘下だった[[日本マランツ]](現・ディーアンドエムホールディングス)、オーディオ機器メーカー[[ティアック]]などがあり、いずれもその後LD陣営に参入した。 VHD方式はプレーヤー生産の目処はたったものの、ディスク生産の技術開発は予想以上に難航し、技術的問題の解決に3年を要した{{sfn|神尾|1985|p=71}}{{sfn|佐藤|2003|p=491}}{{sfn|村瀬|林|2004|p=153}}。そのため、発売は当初予定の[[1981年]]4月から大幅にずれ込み、[[1982年]]4月には無期限の延期が発表され、実際の発売開始は[[1983年]]4月となった{{sfn|神尾|1985|pp=72-73}}。そして同年5月までに日本ビクターを含むVHDファミリー5社から自社ブランドで製品が発売された{{sfn|佐藤|2003|p=492}}。 市販化まで年月を要したことでLDの躍進を許した格好となり、日本国外で[[ゼネラル・エレクトリック]]、ソーンEMI、日本ビクター、松下電器産業の4社が行っていたVHDソフトウェア、VHDハードウェア供給合弁企業は本格始動前に空中分解し、GEとソーンEMIは合弁を解消してVHDから撤退。VHDの海外戦略は破綻する結果となった{{sfn|神尾|1995|pp=201-204}}。 1984年に[[コンパクトディスク|CD]]/LDコンパチブル再生機がパイオニアやソニーなど複数社から順次発売されたことでLDソフトのセル市場が確立。[[1985年]]にはVHD陣営だった日本楽器製造がLD陣営に鞍替えし、LD陣営は7社に増加するなどLDを採用するメーカーは拡大していった{{sfn|佐藤|2003|p=492}}。 [[1987年]]に日本ビクターは立体映像とQX方式に対応したフラッグシップ機の「HD-V1」を発売したが、それまでVHDファミリーの一角として「ディスクロード」のシリーズ名で販売していた松下電器産業がVHDプレーヤーの販売を終了し、LD陣営に鞍替えした。これにより新規ユーザーはLDを嗜好するようになり、パイオニア1社で始まったLD陣営は1989年時点で19社となった{{sfn|荒井|1990|pp=260-261}}。その結果、LDのビデオディスク市場でのシェアは、[[1987年]]には75%、[[1988年]]には87%、[[1989年]]には95%を獲得しVHDは敗れ去った{{sfn|荒井|1990|pp=260-261}}。[[世帯普及率]]が5%程度のビデオディスクは嗜好商品であり、価格の優位よりも性能が消費者に重視されたためと言われる{{sfn|小林|1987|p=110}}。 VHDの敗退は採用メーカー数で圧倒しても市場を制覇することはできない例として引用されることがある。これは、技術的に優位だったベータマックスがVHSに敗退した例と比較して語られることもある。IEC([[国際電気標準会議]])で規格がはかられていたのは、光学式ではなくVHD方式だった。 日本ビクターはLDプレイヤーを発売しなかったが、VHDがビデオディスク市場で縮小してからは、自社ソフト部門もVHDからLDへとシフトが進み、日本ビクター製作の邦画・洋画(主に傘下のラルゴエンタテインメント作品)・アニメ・カラオケなど積極的にLD化していた。また、関連会社のRVC(RCAビクター。現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])が[[1985年]]に、メイジャーズ([[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]の子会社)と[[パック・イン・ビデオ]]が[[1990年]](平成2年)にLDソフトを発売開始した。日本ビクター及びビクターエンタテインメントでLDソフト発売を手がける以前は、[[ポリドール・レコード]](現・[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック]])や[[創美企画]](映像ソフト部門は現在の[[ハピネット]])など他社レーベルより一部の作品を発売していた。 また、日本ビクターがVHDで発売していた[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]]シリーズなどは、最大のライバルであるパイオニアの子会社パイオニアLDC(現・[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]])よりLDを発売していた。機器面でも日本ビクターが製造発売していたMUSEデコーダーにはHi-Vision LD専用端子を備えていた。 DVD以前は他の規格も含めてVHSの牙城を崩すほどの商品が登場しなかった。 == 特徴 == === フルランダムアクセス === 片面1時間収録のLDではフレームサーチは不可能なのに対し、VHD方式は全てのディスクでタイムサーチ、フレームサーチ、チャプターサーチが出来る。これは、片面1時間収録のLDが[[CLV]]なのに対し、VHD方式は[[CAV]]で、かつアナログレコードのような溝が存在しない溝無し静電容量方式を採用しているため、高速ランダムアクセスが可能となっているためである{{sfn|山川|1986|p=31}}。このことから、比較的初期のVHDプレイヤーであっても[[レーザーディスク]]以上の操作性の良さを楽しむことが可能である。溝がないVHDはセンサーが横方向への移動が自在で、希望のトラックを早く探せ{{sfn|山川|1986|p=42}}、アクセスに要する時間はレーザーディスクの半分以下と有利で、スタート地点からラストまででも5秒以内で再生ができた{{sfn|山川|1986|p=52}}。 === 特殊再生 === LDがデジタルメモリを利用するまで片面1時間の長時間ディスクでは静止画やトリックプレイが出来なかったのに対して{{sfn|山川|1986|p=102}}、VHD方式はそれらの静止画やコマ送りなど特殊再生が可能なことも優位な点だった。ただしVHDでは1トラックに2フレームを収録していた関係から、動きの激しい画面では静止画がブレる場合もあった。これを解消するには、1トラックに同じフレームを2つ収録して倍速で再生させるエキストラ編集というものがあったが、全編にエキストラ編集を施すと収録時間は30分になった{{sfn|山川|1986|p=54}}。 === 3-D立体映像対応 === 1980年代後半に発売されたVHDプレイヤーには[[3次元映像|3-D立体映像]]再生機能を有しているものも存在する。[[1986年]]から日本ビクター、シャープ、松下電器産業の3社から対応プレイヤーの発売が開始され<ref name="eigadotcom20101122">{{Cite web|和書|author=大口孝之 |url=https://eiga.com/extra/oguchi/11/ |title=3Dテレビの長い歴史(3) : 第三の革命 立体3D映画の時代 |website=映画.com |date=2010-11-22 |accessdate=2022-05-17}}</ref>、高級モデルは標準対応、普及モデルは外付けアダプターで対応した。 原理としては左右の映像が交互に収録されたディスクを再生して{{sfn|山川|1986|pp=60-61}}、液晶シャッター式スコープを本体に接続し、眼鏡を掛ける要領で視聴すれば、立体映像を楽しむことが可能だった<ref name="eigadotcom20101122" />。3D-VHDのディスクは通常のプレイヤーでも通常の映像として再生できる互換性を保った仕様で、そのために収録時間は半分の片面30分となっていた{{sfn|山川|1986|pp=60-61}}。1986年から1987年にかけて既存の立体映画やアニメや[[ビデオマガジン]]などオリジナル作品の対応ソフトが、日本ビクターから22タイトルが発表された<ref name="eigadotcom20101122" />。この液晶シャッター・メガネ方式による3Dは、VHD以外にも同時期に、[[ファミリーコンピュータ]]や[[セガ・マークIII]]、[[アーケードゲーム]]のゲーム分野でも採用されていてちょっとしたブームだったが、激しいチラつきが目立つこともあり、VHD方式の躍進には殆ど繋がらず、1988年には消滅した<ref name="eigadotcom20101122" />。 [[2008年]]より、[[立体映画|デジタル3-D映画]]や[[立体テレビ放送]]技術の躍進により、3D再生対応の[[Blu-ray Disc]]ソフトが市販化されている。こちらの3D表示は対応する[[3次元ディスプレイ]]の機能に依存している点とメガネは[[無線]]([[赤外線通信]])接続である点が、VHDのそれと大きく異なる。 === 放送三方式対応 === 真のリージョンフリーメディアを目指していたことから、3つの異なる[[テレビ方式]]([[NTSC]]・[[PAL]]・[[SECAM]])の再生が可能となっている。ただしNTSC方式のテレビでPAL/SECAMのソフトを再生すると19%縦長になり、PAL/SECAMのテレビでNTSCのソフトを再生すると16%縮むことになる{{sfn|平田|1985|p=35}}。 この考え方はビクターが発売していたDVD機器にも反映され、PAL方式のDVDビデオをNTSC方式に変換して再生する機能を有している。 == 上位規格 == VHDは水平解像度240本以上で、350本以上のLDに後れをとっていた。 1980年代後期には水平解像度400本以上の高画質を実現したQX (Quality eXcellent) VHD方式と、音質を根本から見直しCDと同一の高音質を実現するVHD DigitalAudio方式(16 Bit, 44.1 kHz, リニアPCM)を日本ビクターが開発した。両方式に対応したVHDプレイヤー'''HD-V1'''を市場へ投入するも、一般家庭向けQX VHDソフト、VHD DigitalAudioソフトは日本ビクターを含め、どこのメーカーからも供給されなかった。 また、規格にある色信号を低域変換する原理(ホームビデオと同様)から、色再現性はLDを超える事が出来なかった。 来る[[ハイビジョン]]時代を想定し、[[MUSE方式]]によるHi-Vision VHDの開発も日本ビクターと松下電器産業の手で行われていた<!--←共同開発のようにも読めてしまいますが実際はどうなのでしょうか。←この節の大半は「日本ビクター」の項から転記のようです←更新履歴を今一度ご確認下さい。「日本ビクター」項がこちらの転記をしています。-->が、市場に出ることはなかった。 == AHD == アナログレコードに代わるデジタルオーディオディスク規格として日本ビクターが考案したのがAHDである。VHDは1978年9月に発表されたが、発表時から単なるビデオディスクではなく、このAHD方式との共用が考えられており、VHD/AHDシステムとして発表されたものである{{sfn|神尾|1985|pp=52-53}}。 日本ビクターは、[[DAD懇談会]]にVHDシステムを応用したAHD (''Advanced High Density Disc'') を提案した。DAD懇談会では、提案された3方式の中からソニーとフィリップスのCDがオーディオ専用としてとAHDがビデオディスクとの共用型として採択された{{sfn|神尾|1985|pp=158-159}}。国内ではVHDpcマーク付きプレイヤーに外付けするAHDプロセッサ'''AD-7000'''として、[[1985年]]に198,000円で発売された{{sfn|山川|1986|p=108}}{{sfn|村瀬|林|2004|pp=153-154}}。 AHDの記憶容量は両面で2.54GB。デジタルオーディオのスペックは、量子化数が16bit、サンプリング周波数が44.1kHz、チャンネル数は最大4チャンネル。チャンネル数を2チャンネルにした場合は、456×572ドット、1600万色の高精細デジタル静止画像を両面で片面に1,500枚、両面で3,000枚を収録できた。静止画1枚の表示には2.4秒を要する。静止画を使用する際にはリニアPCM音声を使わず、静止画の説明用に文字データを1枚あたり87キロバイトで合計260MB分、静止画1枚あたり19.2秒の圧縮音声を16時間で合計950MBを割り当てることもでき、図鑑などの利用が想定された{{sfn|平田|1985|pp=30-31}}{{sfn|山川|1986|pp=62, 109}}。AHDソフトは20タイトル程度日本ビクターから発表されたものの、松下電器産業が光学方式のCDを支持したことでAHDファミリー作りができなかったため、昭和の時代と共にほぼ消滅した。 == VHDpc INTER ACTION == VHDpcマーク付きプレイヤー、VHDインターフェイスユニット及び[[MSX]]、シャープ[[X1 (コンピュータ)|X1]]など[[パーソナルコンピュータ]]との組み合わせで、'''VHDpc INTER ACTION'''を楽しむことが可能だった。 VHD言語というグラフィックとサウンドをサポートした[[BASIC]]の文法に近い言語仕様を策定{{sfn|平田|1985|pp=65, 121}}。グラフィック座標やRGB値は実数値を使用、機種毎に可能な表示を行うなど異機種間共通の言語として考えられていた{{sfn|平田|1985|p=69}}。対応の[[インタプリタ]]を用意すれば異なった機種のパソコンでも同一のVHDディスクを使用してゲーム等のソフトが楽しめるという発想だった。VHD言語のプログラムはディスクには[[中間言語]]の形で、音声チャンネルBのトラックにデジタル記録され、ディスク片面で約1.3Mバイトの容量があった。転送速度は2880bps{{sfn|平田|1985|pp=56-61}}。 最初に発売されたのはオートバイレースゲーム「VROOM」、ギャンブルゲーム「The Players Club」、教育ソフト「アリスの化学実験室」。 「[[サンダーストーム]]」、「[[ロードブラスター]]」、「[[タイムギャル]]」など、当時[[ゲームセンター]]で流行したLDゲームも移植されたが、これらのアクションゲームは実行速度の遅いインタプリタであるVHD言語非対応で、VHDの他に[[カセットテープ]]で発売された各機種個別のソフトウェアを必要とした。 将来的にVHD言語コンパイラがパソコンに用意されれば、ソースを書いて中間言語に変換し、VHDのディスクに記録せずにパソコン上でユーザー開発したVHD言語によるプログラムが実行できるとされていた{{sfn|平田|1985|pp=124-125}}。しかしVHD言語がユーザーに提供されることはなく、VHD言語によるソフト開発は事実上不可能で、MSXは拡張BASIC、X1も機械語のコントロールプログラムを読み込んで、VHDpcマーク付きのプレイヤーをコントロールした{{sfn|平田|1985|pp=126, 162}}。 センサとディスクが接触しているのがVHDの特色であるが、普通にビデオソフトを再生する分にはまず問題無いとされた。しかしVHDpc INTER ACTIONにおいては無視できない問題となり、何度もゲームをプレイするうちに摩耗による障害が出るケースが見られた。 == カラオケVHDと、EXTRA SOUNDカラオケVHD == レーザーディスクとの競争で敗れてのちは、VHDはカラオケ用での生き残りをはかることとなった。そして[[1990年]]頃には「EXTRA SOUND方式」という、従来のモノラルカラオケ+モノラル歌の2チャンネルの音声のほかにステレオのカラオケを収録したVHDソフトと再生するプレイヤーが発売されたが、一般には認知されることはなかった。 VHDカラオケソフトはビクターエンタテインメントより販売・生産が長期間に亘り継続され、[[2003年]]6月の新譜を最後にVHDの歴史に幕を下ろすこととなった。 == VHDプレイヤーの愛称 == * 日本ビクター「ディスクワールド」(DiscWorld) * 松下電器産業「ディスクロード」(DiscLord) * 東芝「マイドリーム」(MyDream) * シャープ「マイディスク」(MyDisc) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考書籍 == * {{Cite book|和書|author=神尾三郎 |title=ビデオディスクが開く世界 円盤上の技術革命 |year=1985 |publisher=中央公論社 |series=[[中公新書]] |isbn= |ref={{sfnref|神尾|1985}} }} * {{Cite book|和書|author=平田渥美 |title=パソコンでVHDを楽しむ本 |year=1985 |publisher=工学社 |isbn= |ref={{sfnref|平田|1985}} }} * {{Cite book|和書|author=山川正光 |title=ビデオディスクを買う前に読む本 |year=1986 |publisher=誠文堂新光社 |isbn= |ref={{sfnref|山川|1986}} }} * {{Cite book|和書|author=小林紀興 |title=ソニーの大逆襲に松下電器があせる理由 パイオニア・ビクターまじえてAV大混戦 |year=1987 |publisher=光文社 |isbn= |ref={{sfnref|小林|1987}} }} * 『スーパーハイバンド2 50万ビデオマニア衝撃の必読版』([[1987年]])、[[電波新聞社]]) * {{Cite book|和書|author=岩淵明男 |title=新ビデオ時代の衝撃 AV業界で生き残れるのはどこか |year=1988 |publisher=[[ソフトバンク|日本ソフトバンク]] |isbn= |ref={{sfnref|岩淵|1988}} }} * {{Cite book|和書|author=荒井敏由紀 |title=パイオニア1vs13の賭け 「ドキュメント」孤立からの逆転 |year=日本能率協会 |publisher=1990 |isbn= |ref={{sfnref|荒井|1990}} }} * {{Cite book|和書|author=神尾健三 |title=画の出るレコードを開発せよ! |year=1995 |publisher=草思社 |isbn= |ref={{sfnref|神尾|1995}} }} * 佐藤正明『映像メディアの世紀 ビデオ・男たちの産業史』([[1999年]]、[[日経BP]]) * {{Cite book|和書|author=佐藤正明 |title=陽はまた昇る 映像メディアの世紀 |year=2003 |publisher=文藝春秋 |series=[[文春文庫]] |isbn= |ref={{sfnref|佐藤|2003}} }} * {{Cite book|和書|author=村瀬孝矢 |author2=林正儀 |title=放送技術80年のドラマ |year=2004 |publisher=毎日コミュニケーションズ |isbn= |ref={{sfnref|村瀬|林|2004}} }} == 関連項目 == * [[映像機器]] * [[ビデオ戦争]] * [[オタクの用心棒]] - [[山浦章]]の[[ギャグ漫画]]。「VHDは失敗した、手にする価値さえ無い機材だ」というオチの[[4コマ漫画]]が、何度も登場する。 * [[プローブ顕微鏡]] - [[原子間力顕微鏡]](略称は[[AFM]])、特に接触モード(ダイナミック・フォース・モード、略称はDFM)での使用および[[走査型キャパシタンス顕微鏡]]。情報記録ではなく観察を目的とする全く異なる概念であるが、技術は同じである。 {{Video storage formats}} {{デフォルトソート:ふいえいちてい}} [[Category:ビデオディスク]] [[Category:日本ビクター]]
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2030年代
2030年代(にせんさんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2030年から2039年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2030年代について記載する。
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2030年代(にせんさんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2030年から2039年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2030年代について記載する。
{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2030 | 年 = 2030 }} '''2030年代'''(にせんさんじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[2030年]]から[[2039年]]までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた2030年代について記載する。 == 予定・予測されるできごと == * [[日本]]の総[[人口]]は減少していくが、65歳以上の[[高齢者]]の数は[[2031年]]([[1966年]]の[[丙午]]〈ひのえうま〉生まれが高齢者になる年)を除き増加すると予測されている。 === 2030年 === {{main|2030年}} * [[2030年冬季オリンピック|第26回冬季オリンピック]]開催。 * [[2030 FIFAワールドカップ|第24回FIFAワールドカップ]]開催。 * [[6月1日]]の夕刻に[[北海道]]で[[金環食]](日本国内で観測できるのは[[2012年5月20日の日食|2012年5月21日]]以来18年ぶり)。 * [[9月21日]]に[[地球近傍天体|小惑星状物体]] [[2000 SG344|2000 SG<sub>344</sub>]] が[[月]]までの距離の13倍程度まで地球に接近する。 * [[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) はこの年の末に[[国際宇宙ステーション]]の運用を終了([[2024年]]から延長)し、その後に[[南太平洋]]の[[ポイント・ネモ]]に落下させる計画を発表している<ref>[https://www.cnn.co.jp/fringe/35183016.html 国際宇宙ステーション、2030年で引退 南太平洋に落下へ NASA] - CNN (2022年2月3日)</ref>。 * NASAでは、この年に人間を[[火星]]に送り込む構想がある。 * [[2015年]]の[[国際連合総会]]で採択された「[[持続可能な開発のための2030アジェンダ]]」の中核となる[[持続可能な開発目標]] (SDGs) の達成目標年。 * この頃までに[[携帯電話]]や[[モノのインターネット|IoT]]など[[無線通信]]システムの新たな方式として、[[第6世代移動通信システム]] (6G) の実用化を目指している。 * [[国際連合|国連]]の[[世界人口]]推計2019年版(中位推計)によると、[[地球]]の総人口がこの年には85億人に達する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/33798/ |title=世界人口推計2019年版:要旨 10の主要な調査結果(日本語訳) |date=2019-07-02 |accessdate=2022-08-07 |website=[[国際連合]]広報センター}}</ref>。 *[[2030年問題]] - [[少子高齢化]]、[[超高齢化社会]]がさらに進み、国内人口の3人に1人が65歳以上になると想定され、また、高齢者が増える一方、[[少子化]]による[[生産年齢人口]]の減少により発生する諸問題。 ** この頃までに日本の人口が1億2000万人を割り込む([[国立社会保障・人口問題研究所]]「出生・死亡中位推計」)。 ** この頃までに日本の高齢者の割合が30%を超えると予測されている([[日本の高齢化]])。  ** この頃までにドライバー不足が深刻になり全国の約3割以上の荷物が運べなくなると予想される[[物流危機]]。 === 2031年 === {{main|2031年}} * この年の3月まで(2030年度中)に、[[北海道新幹線]]が[[新函館北斗駅]] - [[札幌駅]]間で開業となる予定。 * [[なにわ筋線]]の[[北梅田駅]](仮称)〜[[新今宮駅]]及び[[JR難波駅]]間が春に開業予定。 * [[団塊ジュニア]]世代が[[還暦]]を迎える(ただし、この頃は[[定年]]制を廃止する企業が増加したり、シニア労働市場も整備されているため産業界への影響は少ないと考えられる)。 * 日本では、[[1966年]]の[[丙午]]生まれが高齢者に入るため、この年だけ高齢者数が16.8万人減少する(出生・死亡中位の場合)<ref>[https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/suikei07/suikei.html#chapt1-1 日本の将来推計人口(平成18年12月推計)] - [[国立社会保障・人口問題研究所]]</ref>。 * [[2020年]]12月に地球を離れた[[宇宙探査機|小惑星探査機]]「[[はやぶさ2]]」が、新たな探査目標としてこの年の7月に[[小惑星]]「[[1998 KY26|{{mp|1998 KY|26}}]]」に到着し、近接観測を行う予定<ref>[https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/11506_hayabusa2 地球帰還後の「はやぶさ2」は2031年に小惑星1998 KY26へ]([[アストロアーツ]] 2020年9月15日)</ref>。 * [[さいたま市役所]]が、現所在地である[[さいたま市]][[浦和区]]の[[浦和駅]]西口から[[大宮区]]の[[さいたま新都心駅]]東口([[さいたま新都心]]に隣接する[[さいたま新都心#北袋町1丁目地区|北袋町1丁目地区]])にある[[さいたま新都心バスターミナル]]敷地へ移転予定(2031年度を目途)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210203-OYT1T50107/ |title=さいたま市役所の本庁舎、浦和から新都心に移転へ…大宮出身の議員「市長への信頼感増した」 |access-date=2022-09-11 |publisher=読売新聞オンライン |date=2021-02-03}}</ref><ref>[https://www.saitama-np.co.jp/articles/14667 さいたま市役所の移転決定 浦和からさいたま新都心へ…2031年度をめど、新庁舎の移転整備を目指す] - 埼玉新聞 (2022年4月30日) 、2022年9月11日閲覧。</ref>。 === 2032年 === {{main|2032年}} * [[ブリスベン]]にて[[2032年ブリスベンオリンピック|第35回夏季オリンピック]]('''ブリスベンオリンピック''')が開催予定。 === 2033年 === {{main|2033年}} * [[旧暦2033年問題]]が発生する。 *[[厚生年金]]の積立金が枯渇するという試算がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=年金:2037年に積立金は枯渇、40代で1000万円の払い損に -「定年後の5大爆弾」の正体【2】|url=https://president.jp/articles/-/10301|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2013-08-22|accessdate=2022-01-14|language=ja}}</ref>。 === 2034年 === {{main|2034年}} * [[2034年冬季オリンピック|第27回冬季オリンピック]]開催。 * 第25回[[FIFAワールドカップ]]開催。 * [[アメリカ合衆国]]の社会保障信託基金の資産がゼロになると試算されている。 === 2035年 === {{main|2035年}} * [[9月2日]]に日本で26年ぶりの[[皆既日食]](皆既となるのは[[富山県]]と[[茨城県]]を結んだ一帯、日本の陸上で観測できるのは[[1963年7月20日の日食|1963年7月20日]]以来72年ぶり)。 *[[首都高速都心環状線]]日本橋トンネル、竣工予定。 === 2036年 === {{main|2036年}} * [[2月6日]]6時28分 (UTC) 、[[2036年問題]]により[[Network Time Protocol|NTP]]の誤動作が懸念されている。 * [[4月13日]]に[[小惑星]][[アポフィス (小惑星)|アポフィス]]が地球に接近([[2029年]]以来の再接近)。 * 第36回[[夏季オリンピック]]開催。 * [[明治神宮外苑]]地区の再開発が完了。 === 2037年 === {{main|2037年}} * 多くの電子時計のカレンダーは、この年までとなっている([[2038年問題]]の関係)。 * [[国民年金]]の積立金が枯渇するという試算がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=年金:2037年に積立金は枯渇、40代で1000万円の払い損に -「定年後の5大爆弾」の正体【2】|url=https://president.jp/articles/-/10301|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2013-08-22|accessdate=2022-01-14|language=ja}}</ref>。 * 国連の世界人口推計2022年版(中位推計)では、この頃に地球の総人口が90億人に達すると予測している<ref>[https://www.jircas.go.jp/ja/program/proc/blog/20220713 578. 国連「世界人口予測2022」~2022年11月15日 80億人到達と予測~](国立研究開発法人[[国際農林水産業研究センター]] 2022年7月13日、2022年8月7日閲覧)</ref>。 === 2038年 === {{main|2038年}} * [[1月19日]]12時14分08秒 (JST) 、[[2038年問題]]により[[コンピュータ]]の誤動作が懸念されている。 * 第28回[[冬季オリンピック]]開催。 * 第26回[[FIFAワールドカップ]]開催。 === 2039年 === {{main|2039年}} * [[土星の環]]の消失現象観測(地球から見て完全に水平になる)。 == フィクションのできごと == * 初頭 - [[宇宙マイクロ波背景放射|宇宙背景放射]]の[[スペクトル]]が[[紫外線]]や紫の[[可視光線|可視光]]まで広がる「全天紫外可視光輻射現象(AUVR)」が発生し、30年代半ばには夜空が紫色になる。[[Dブレーン|ブレーン]]論的多世界解釈などに基づくAUVRの原因についての複数の解釈で、AUVRは時空異常現象によるものであり、数十年以内に太陽系が滅亡すると予測される。(小説『[[シンギュラリティ・コンクェスト]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 山口優|authorlink=山口優 (作家) |title = シンギュラリティ・コンクェスト 女神の誓約 |publisher = [[徳間書店]] |year = 2010 |pages = 21-24,115,116 |isbn = 978-4-19-893262-6}}</ref> * [[2038年]][[8月15日]] - [[人造人間|アンドロイド]]が自分の意思を持ち始める。(ゲーム 『[[デトロイト ビカム ヒューマン]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:2030ねんたい}} [[Category:2030年代|*]]
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光()は広義には電磁波を意味し, 狭義には電磁波のうち可視光(波長が380 nmから760 nmのもの)をいう。狭義の光は非電離放射線の一つ。 光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である(太陽神も参照可)。プラトンの有名な「洞窟の比喩」では、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけている。 新プラトン主義では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、哲学と神秘主義が融合している。例えばプロティノスは「一者」「叡智(ヌース)」「魂」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は魔術、ヘルメス主義、グノーシス主義にまで影響を及ぼした、とも言われている。 『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。しばしば光=正義、闇=悪の二元対立としてたとえて語られた。 グノーシス主義では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。 仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。 「光は粒子なのか? それとも波なのか?」 この問題は20世紀前半まで、学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである(詳細は後述)。 この問題は、20世紀に量子力学が確立していく中でようやく解決することになった。不確定性原理によって生じた問題を説明するため、1927年にニールス・ボーアが、一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量は、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られるとする、相補性という概念を提唱したのである。この考え方が受け入れられ、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現されるようになった。 ニュートンによって、光は粒子だとする説が唱えられた(粒子説)。アインシュタインは光子の概念を提唱し、これは現在まで用いられている。 粒子(量子)としての光を光子(光量子)という。光子は電磁場の量子化によって現れる量子の1つで、電磁相互作用を媒介する。 このため波長の短いX線などにおいて、光の粒子性は特に顕著となる。 光は波動として振る舞い反射・屈折・回折などの現象を起こす。 ヤングの実験(1805年)により光の波動説として証明され、その後マクスウェルらにより光波は電磁波であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式で記述されるベクトル波であり偏光を持つが、波動光学では簡略化のためにスカラー波として扱うことが多い。 波動としての光を光波と呼ぶ。
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光は広義には電磁波を意味し, 狭義には電磁波のうち可視光をいう。狭義の光は非電離放射線の一つ。
{{Redirect|光波|測量に用いる計測機器|光波測距儀}} {{Otheruses||作品名や人名などの固有名称|ひかり|春秋の光|光 (春秋)}} {{wt|光}} [[ファイル:USA Antelope-Canyon.jpg|thumb|250px|上方から入ってきた光の道筋が、散乱によって見えている様子。(米国の[[アンテロープ・キャニオン]]にて)]] {{読み仮名|'''光'''|ひかり}}は広義には[[電磁波]]を意味し, 狭義には電磁波のうち[[可視光線|可視光]](波長が380 nmから760 nmのもの)をいう<ref name="syoumei7">{{Cite book |和書 |author=照明学会 |title=照明ハンドブック 第2版 |year=2003|page=7}}</ref>。狭義の光は[[非電離放射線]]の一つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h27kisoshiryo/attach/201606mat1-01-14.pdf|title=「放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(平成27年度版)」第1章 放射線の基礎知識|publisher=[[環境省]]|format=pdf|accessdate=2021-05-31}}</ref>。 == 基本的性質 == [[ファイル:Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation.jpg|thumb|300px|レーザー光]] * 直進 ** 光は均質な媒質の内部では直進する<ref name="syoumei7" />([[エウクレイデス]]の「光の直進の法則」)。厳密には、[[重力場]]では光の経路も彎曲する<ref>{{Cite |和書 |author = [[アルバート・アインシュタイン]]|translator=金子務|title = わが相対性理論 |date = 1981| pages = 147|publisher = 白揚社 |isbn=|ref = harv }}</ref>。 * [[反射 (物理学)|反射]]・[[屈折]] ** 光は異なる媒質の境界面で反射あるいは屈折する<ref name="syoumei7" />。[[屈折率]]も参照。 ** 凸凹の無い平面鏡に当たった光は、鏡に当たったときと同じ角度で反射する(エウクレイデスの「光の反射の法則」)。 ** 光の屈折の際は、[[スネルの法則]]が成立する。 * [[透過]]・[[吸収]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}} ** 光が透明な媒質の境界面に当たったとき、その一部は境界面で反射するが、残りは媒質の内部を通過する現象を透過という<ref name="syoumei7" />。 ** 光が透明な媒質の内部を通過するとき、その内部へ吸収変換される現象を吸収という<ref name="syoumei7" />。 * [[干渉]]・[[回折]] ** 二つの光波(位相差が時間とともに変化しない同一周波数の[[コヒーレンス|コヒーレント]]な二つの光)が重なり合うことで光が強くなったり弱くなったりする現象を干渉という<ref name="syoumei7" />。 ** 光が伝搬するときに障害物の後方に回り込む現象を回折という<ref name="syoumei7" />。 * 自然光と[[偏光]] ** 光速(光の速さ)は、光源の運動状態にかかわらず、不変である([[特殊相対性理論|光速度不変の原理]])。また、光は[[媒質]]を必要とせず、[[真空]]中を[[伝播]]することができる。 {{Main|偏光}} == 光の理解 == {{出典の明記|date=2019年2月|section=1}} === 思想史 === 光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。[[古代エジプト]]の神、[[アメン]]・[[ラー]]などはその一例である([[太陽神]]も参照可)。[[プラトン]]の有名な「[[洞窟の比喩]]」では、光の源である[[太陽]]と最高原理「善の[[イデア]]」とを結びつけている。 [[新プラトン主義]]では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、[[哲学]]と[[神秘主義]]が融合している。例えば[[プロティノス]]は「一者」「叡智([[ヌース]])」「[[魂]]」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は[[魔術]]、[[ヘルメス主義]]、[[グノーシス主義]]にまで影響を及ぼした、とも言われている。 『[[新約聖書]]』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」([[ヨハネ福音書]] 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」([[地の塩、世の光]])と語る。[[偽ディオニシウス・アレオパギタ|ディオニュシオス・アレオパギテース]]においては、父なる神が光源であり、光が[[救世主イエス・キリスト|イエス]]であり、イエスは天上界の[[イデア]]を明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。しばしば光=正義、闇=悪の二元対立としてたとえて語られた。 [[グノーシス主義]]では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。 [[仏教]]では、光は、[[仏]]や[[菩薩]]などの[[智慧]]や[[慈悲]]を象徴するものとされる。 === 科学史 === ==== 粒子説と波動説 ==== 「光は粒子なのか? それとも波なのか?」 この問題は20世紀前半まで、学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の[[干渉 (物理学)|干渉]]、[[分光]]など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば[[光電効果]]など)が存在していたからである(詳細は後述)。 この問題は、[[20世紀]]に[[量子力学]]が確立していく中でようやく解決することになった。[[不確定性原理]]によって生じた問題を説明するため、[[1927年]]に[[ニールス・ボーア]]が、一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量は、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られるとする、'''[[相補性]]'''という概念を提唱したのである。この考え方が受け入れられ、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現されるようになった。 ==== 光の粒子性 ==== [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]によって、光は粒子だとする説が唱えられた([[粒子説]])。[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]は[[光子]]の概念を提唱し、これは現在まで用いられている。 粒子([[量子]])としての光を[[光子]]([[光量子]])という。光子は[[電磁場]]の[[量子化 (物理学)|量子化]]によって現れる量子の1つで、[[電磁相互作用]]を媒介する。 * <math>E = h \nu</math> ... 光のエネルギー''E''は[[振動数]] <math>\nu</math> に比例する(比例定数 ''h'' は[[プランク定数]]) * <math>p = \frac{h}{\lambda}</math> ... 光の[[運動量]]の大きさ''p''は[[波長]] <math>\lambda</math> に反比例する このため波長の短い[[X線]]などにおいて、光の粒子性は特に顕著となる。 {{main|光電効果|コンプトン効果}} ==== 光の波動性 ==== 光は波動として振る舞い[[反射 (物理学)|反射]]・[[屈折]]・[[回折]]などの現象を起こす。 [[ヤングの実験]](1805年)により[[光の波動説]]として証明され、その後[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]らにより光波は[[電磁波]]であることが示された。厳密には[[マクスウェルの方程式]]で記述される[[ベクトル場|ベクトル]]波であり[[偏光]]を持つが、[[波動光学]]では簡略化のために[[スカラー (物理学)|スカラー]]波として扱うことが多い。 波動としての光を光波と呼ぶ。 * 光のエネルギーは[[電場]]の[[振幅]]の2乗に比例する * 運動量は[[ポインティング・ベクトル]]に比例する ==== 光の理論のタイム・テーブル ==== * [[紀元前4世紀]] [[エウクレイデス]](ユークリッド)、光の直進の法則、光の反射の法則を発見。 * 10世紀 - 11世紀、[[イブン・アル=ハイサム]]([[アルハゼン]]とも。965年-1040年)『[[光学の書]]』、アラビア語(原語): Kitāb al-Manāẓir (كتاب المناظر)、 ラテン語: De Aspectibus or Perspectiva、英語 Book of Optics。七巻にもおよぶ光学の書。13世紀にはラテン語に翻訳されヨーロッパで広まった。科学的方法で光を研究しており、ベーコン、ウィテロ、ケプラー、ニュートンなどに大きな影響を与え、彼らの研究手法(科学的方法)や光学研究などに多大な影響を与えている。[[バーゼル]]での初版は[[1572年]](『[[光学法典]]』)。 * [[1611年]] [[ヨハネス・ケプラー]]、光の逆2乗の法則を発見。 * [[1621年]] [[ヴィレブロルト・スネル|スネル]]が光の屈折の法則([[スネルの法則]])を発見。 * [[1637年]] [[ルネ・デカルト|デカルト]]が『屈折光学』で光の屈折反射を論じる。 * [[17世紀]]{{いつ|date=2012年11月}}<!--具体的に何年か--> [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]による光の分散の実験 * [[17世紀]]{{いつ|date=2012年11月}}<!--具体的に何年か--> [[オーレ・レーマー|レーマー]]による光速度の測定 * [[1690年]] [[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]『光についての論考』 - [[ホイヘンスの原理]] * [[1704年]] ニュートン『[[光学 (アイザック・ニュートン)|光学]]』 * [[1800年]]ごろ、[[ヤングの実験]] * [[1847年]] [[マイケル・ファラデー]]による[[偏光]]の実験 * [[1850年]]ごろ、[[レオン・フーコー]]や[[アルマン・フィゾー]]の光速度の測定 * ウェーバによる[[電磁波]]の速度の測定 * [[19世紀]] [[マクスウェルの方程式]] * [[1881年]] [[マイケルソン・モーリーの実験]] * [[1905年]] [[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の光量子仮説 * [[1958年]] [[チャールズ・タウンズ]]によるレーザーの発明 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2019年5月}} ; 理論 * [[粒子説]] ** [[光電効果]] - [[光量子仮説]] * [[波動説]] * [[光速度]] - [[光速度不変の原理]] * [[光学]] - [[幾何光学]] - [[量子光学]] - [[波動光学]] - [[電磁光学]] ** [[光エレクトロニクス|光電子工学]] * [[光化学]] * [[太陽光]] * [[光線]] * [[放射光]] ; 応用 * [[レーザー光]] - [[コヒーレンス]] * [[ルミネセンス]]([[蛍光]]、[[燐光]]) * [[色]] - [[光の三原色]] - [[スペクトル]] * [[照明]] - [[光源]] * [[光による通信]] * [[光ファイバー]] - [[FTTH]] * [[光ディスク]] ; 機能 * 光物理機能 ** [[化学発光]] ** [[エレクトロルミネセンス|電界発光]] (EL) * 光化学機能 ** [[フォトレジスト]] ** [[光触媒]] * 光波機能 ** [[光ファイバー]] == 外部リンク == {{Sisterlinks }} * [http://www.anfoworld.com/LightsMF.html 光と光の記録] * [http://www.oitda.or.jp/ 財団法人 光産業技術振興協会] * [http://osj-jsap.jp 日本光学会] * [http://photochemistry.jp/ 光化学協会] *{{コトバンク}} {{電磁波}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひかり}} [[Category:哲学の概念]] [[Category:光|*]] [[Category:エネルギー]] [[Category:物理学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89
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心理学
心理学()は、科学的な手法によって研究される心と行動の学問である。そのアプローチとしては、行動主義のように行動や認知を客観的に観察しようとするものと、一方で、主観的な内面的な経験を理論的な基礎におくものとがある。研究法を質的研究と量的研究とに大別した場合、後者を主に学ぶ大学では、理数系学問として心理学を位置付けている。 起源は哲学をルーツに置かれるが、近代の心理学としては、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが「実験心理学の父」と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも「心理学の父」と呼ばれることもある。心理学の主な流れは、実験心理学の創設、精神分析学、行動主義心理学、人間性心理学、認知心理学、社会心理学、発達心理学である。差異心理学は人格や知能、性などを統計的に研究する。 20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた精神分析学、学習理論をもとに行動へと関心を向けた行動主義心理学とが大きな勢力であったが、1950年代には行動主義は批判され認知革命がおこり、21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める。 現在の心理学の停滞は、『心』という働きと、『神経』という物質的構造を混同した、ドイツのヴィルヘルム・ヴントに端を発しているとも言われている。このことが、心理学を複雑化させ停滞させている主な要因だとの見解も存在する。 語源は、心や魂を意味する古代ギリシア語のプシュケー(ψυχή )と、研究や説明を意味するロギアとでの、プシューコロギア(psychologia)である。 現在の心理学の用語の意味は、心理学の教材である『ヒルガードの心理学』では「行動と心的過程についての科学的学問」とされ、2012年の『心理学大図鑑』では「心や行動の科学を研究する」という意味であるとされる。アメリカ心理学会(APA)は「心と行動の研究」と定義している。 ギリシャ文字のΨ(英:PSI)が心理学の象徴として、しばしば用いられる。 大きくは、基礎心理学と応用心理学に大別される。 科学的経験主義の立場から観察・実験・調査等の方法によって一般法則の探求を推し進める。 基礎心理学の知見を活かして現実生活上の問題の解決や改善に寄与する。 文字が発明される以前から伝承されるヴェーダは、直接的に感覚する経験を対象とし、自己の内的な観察を極度に純化させ、智慧と呼ばれる精神の状態を目指した。主に東洋に広く存在する心理学である。1980年代以降に、トランスパーソナル心理学が研究対象としている。 この流れにない西洋の心理学の伝統は、外側から様々な対象を理性的に観察することによって法則性を見出すといった、実験主義的なものである。 1912年の大槻快尊の『心理學概論』では、古くはタレスの哲学でも心について付言されているが、心理学の開祖と呼べる哲学者は「心は脳髄にあり」と述べたアリストテレスであり、哲学から心理学へ独立した学問へと小径を開いたのはルネ・デカルトであり、そして、心理学という全く別の科学的な学問を成立させたのはジョン・ロックであると云ってよい、としている。 紀元前4世紀にアリストテレスは Περὶ Ψυχῆς ペリ・プシュケース(『心について』『霊魂論』)にて、血流と怒りが無関係ではないことから、心身不分離とした。 それに対し、後の17世紀にルネ・デカルトは心身二元論を提唱し、「魂は非物質的で身体は物質的だが、動物精気というもので身体を機械的に動かしている」とした。デカルトは、「動物は反射によって動く機械でしかない」としたが、現在では遺伝や感覚の研究によって、動物も意識を持っていると考えられている。 ジョン・ロックは、ニュートン物理学の登場によって、分子から成り立つ物質と、心的なイメージを成り立たせる感覚と、不滅の魂を仮定した。 18世紀には、ドイツのフランツ・アントン・メスメルが、動物磁気説による治療行為を行い、1779年に『動物磁気の発見と回想』を出版し、後の催眠へとつながっていった。心理療法におけるラポールの概念などもこの流れで生まれた。 1870年代には、ドイツのヴィルヘルム・ヴントと、アメリカのウィリアム・ジェームズは、心理学の研究室を設け、心理学の諸理論を提唱した。ドイツのヴィルヘルム・ヴントが実験心理学の父と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも心理学の父と呼ばれることもある。 ヴントは1879年にライプツィヒ大学に研究室を創設し、彼の言う実験心理学とは、内観として自己観察的な思考や感情の出来事を記録することであった。 ジェームズは1875年にハーバード大学にて講義をはじめた。内省や哲学に基づいたアプローチで心理学に接近した。1890年にはジェームズが大著『心理学原理』を公開し、その2年後にはこれを短縮した『心理学要論』が公開され教科書として広まった。1892年には、アメリカ心理学会が、ウィリアム・ジェームズの心理学を元にして設立される。 1880年代には、フランスのエミール・クーエが偽薬効果についての『自己暗示』を出版する。1900年には、ドイツのウィーンで、神経症とヒステリーの研究を行っていたジークムント・フロイトは、人々は無意識の影響を受けて行動しているという理論を公表する。 1885年には、ジークムント・フロイトはパリに行き、催眠によってヒステリー患者を治療しようとしていたシャルコーの下で学び、同僚と共に1893年に『ヒステリー研究』出版したが、その限界を感じ自由連想法を用い始めた。1894年以降、フロイトは精神分析学の基礎となる理論を発見し、1900年には『夢判断』を出版してその初期の理論を公開し、1902年には、ウィーンの医者が群れとなって精神分析学研究のセミナーに参加し比較的短期間で世界規模となる。最初の国際精神分析学会は1908年、最初の『国際精神分析学雑誌』は1909年に出版されたが、追従者のアドラーは1910年に、ユングは1913年にはフロイトの下を離れていった。アルフレッド・アドラーは1910年には国際精神分析学会の会長にも推薦されていたが、フロイトのリビドー(性欲)の理論を受け入れず、翌年には個人心理学会を設立した。1916年までは精神分析学の研究はドイツ語圏に限られており、アメリカやイギリスに飛び火したのは、1918年以降であり、1920年には『精神分析学入門』が翻訳され読者を広く読者を得、ニューヨークの研究所は1931年に開設された。 娘のアンナ・フロイトは自我心理学を提唱した。フロイトに師事したカール・グスタフ・ユングは分析心理学を提唱、ユング心理学はユング派としてアメリカでプロセス指向心理学などを生んだ。この時代には、フロイトや現象学の影響をうけたルートヴィヒ・ビンスワンガーの現存在分析、 ヴィクトール・フランクルによるロゴセラピーがある。対人関係療法は、新フロイト派とよばれるハリー・スタック・サリヴァンらの流れを組む。 イギリスではメラニー・クライン、ドナルド・ウィニコットらの対象関係論が展開し、アメリカでは対象関係論に影響をうけたオットー・カーンバーグが転移焦点化精神療法を考案した。 ハインツ・コフートは、自己愛性パーソナリティ障害の研究者として著名で、ウィーンの出身だが1964年にはアメリカ精神分析学会の会長も務めた。 心理学の第二世代として行動主義心理学が登場し、心理学を科学とみなすために行動を実験環境で観察し計測すると主張した。1913年のジョン・B・ワトソンの「行動主義の見地から見た心理学」は、心理学の方向転換のための行動主義宣言とされている。行動主義の基礎となるのは、行動を変化させる学習は、報酬と嫌悪刺激(罰)によって変化するという理論である。行動主義は、戦争をはさんだ軍事学的な統制にも用いられた。20世紀半ばには、アメリカでは精神分析と行動主義は2大勢力であった。 動物実験により1903年にはイワン・パブロフによる古典的条件づけが発表された。B.F.スキナーの表記でよく知られるバラス・スキナーは徹底的行動主義を推し進め、1938年にはオペラント条件づけの研究が盛んになった。治療に関しては、1960年にハンス・アイゼンクが『行動療法と神経症』を出版する。行動主義のその行きすぎた傾向においては、心という概念なしに客観的な心理学としての観察研究ができるとした。しかし報酬と罰が人間の学習の決定的条件であるとする行動主義は様々な矛盾に陥った。 動物行動学は学習された行動ではない本能の重要性を明らかにし、条件づけの概念に疑問を呈し、コンラート・ローレンツは孵化したガチョウが最初に見た動物を親として学習する刷り込みや、遺伝的にプログラムされた求愛といった行動パターンを明らかにした。スキナーへの反発から成る「認知の革命」は心的過程へと再び焦点を戻したが、その契機となったのはノーム・チョムスキーである。オペランド条件づけでは報酬と強化による結果として人間が言語を学習すると考えたが、ノーム・チョムスキーは言語は生得的な普遍文法に沿って獲得され、遺伝的な能力で成長と共に成長することを提唱した。 第三の勢力は、人間性心理学である。1960年代には、人間性心理学が、自己実現理論を提唱したアブラハム・マズローらによって組織される。1942年に、カール・ロジャースが『カウンセリングと心理療法』を出版し、後に来談者中心療法と呼ばれ、さらに後期には人間中心アプローチと呼ばれることになる非指示的な理論を紹介した。ロジャースは、集団に対応させたエンカウンターグループも開発した。アメリカのビッグサーのエサレン協会を中心として、ニューエイジなどもくわわり、瞑想といった技法も研究されるようになった。ゲシュタルト療法は、エサレンを中心として発達した。 1969年にはトランスパーソナル心理学会が、LSDによる神秘体験を研究していたスタニスラフ・グロフと、上記人間性心理学のアブラハム・マズローによって設立される。瞑想などの伝統技法は第3世代の認知行動療法に影響した。 1967年にナイサーが情報処理の理論を取り入れた『認知心理学』という著作を公開し新しい時代を形作っていった。観察研究ができない精神分析の無意識と、行動主義の、行動および報酬と罰にしか焦点を当てない心理学ではなく、思考などの観察可能な認知に焦点を当てた手法が登場した。 アルバート・バンデューラは1977年に『社会的学習理論』を出版し、報酬や罰による誘導がなくても、他者の観察を通して単に真似することで学習するというモデリングの理論を唱えた。エドワード・L・デシは、自己決定理論(英語: Self-determination theory)を提唱し、自らがそれを行いたいから行動するようになるという自律性や内発的動機の理論を提唱した。マーティン・セリグマンは当初、回避できない罰を与えられた場合の学習性無力感の研究者であったが、次第にポジティブな学習に言及することが増え、ポジティブ心理学を1990年代に提唱する。 21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める。 その研究領域は広範囲に及ぶため、隣接する他の学問との相互連携が多様な形で行なわれてきた。これは学際という状態である。例えば、心理学では仮説の域を超えられなかったものが、脳科学の知見によってその妥当性が検証できるのではないかという期待がある。ヒューマンエラーについての知見が、人間工学分野で取り入れられたりするなどの試みがある。プロスペクト理論などの行動経済学も盛んに研究されている。こうした動きは今後も加速すると思われる。 脳を損傷すると精神機能に異変が生じる事から、「脳が感情や思考などの精神現象を生み出す中枢である、とみなし、脳を構成する神経系を調べることで精神現象を解明できる可能性がある」との発想が生まれた。これは、古くはデカルトが心身合一の問題として言及しているが、実験的に調べられるようになったのは19世紀以降である。 19世紀のポール・ピエール・ブローカやカール・ウェルニッケらの失語症と脳損傷の関係調査により、ブローカ野やウェルニッケ野などの言語中枢とされる脳部位 (言語野) が推定された。この研究により、言語を扱う精神機能が脳という生理学的土台によって生じることが明らかにされた。脳損傷と精神機能失調との関係調査は20世紀初頭の第一次世界大戦以降、戦争で脳を損傷した患者の治療の過程で大きく進んだ。1960年代からは、CTにより脳血管障害患者の脳を非侵襲的に調べられるようになり、さらに進展した。 イワン・パブロフは1902年に唾液腺の研究過程で俗に「パブロフの犬」とよばれる条件反射を発見した。この研究を嚆矢として、正常な動物における生理的現象と精神現象の関係が論じられるようになった。この分野はパブロフの犬のような巨視的なものから薬物投与、神経細胞の分子生物学的解析など様々なものがあるが、全体的には神経細胞の振る舞いを調べるものが多い。 1936年にハンス・セリエは「各種有害作因によって引き起こされる症候群」を発表し、この有害作因がストレスという用語に変わり受け入れられていったが、ストレスを引き起こすものをストレッサーと呼んだ。1956年に、『現代社会とストレス』(The Stress of Life)を出版し一般向けに初めて概説した。 アショフらはドイツのマックスプランツ行動生理学研究所において、ヒトの睡眠と覚醒の概日リズムが昼夜の環境変化のない隔離室では25時間周期であり、24時間よりも1時間長く、深部体温や、コルチゾールやメラトニンといった体内ホルモンこのリズムに同調していることを見出した。 1960 - 70年代にかけて急速に進展した視覚伝導路の神経細胞の特性研究は知覚心理学に重大な影響を与えた。両者は視覚刺激を提示し反応を測定するという共通の手法を持ち、測定対象が神経細胞という微視的なものか、ヒトなどの動物全体という巨視的なものか、という点で違うと見ることもできる。海馬の神経細胞で発見された長期増強などのシナプス可塑性は、記憶の生理的基盤であると期待され、認知心理学に少なからぬ影響を与えた。 1980年代以降、神経活動を観測する脳機能イメージングの手法が発展するにつれて、脳機能局在論による神経機構の解明が試みられており、少なからず成功を収めている。その一方、こうした研究は現代的骨相学に陥る危険もはらんでおり、それを克服する試みとして計算論的神経科学などとの協力がある。神経機構の数理的解析は情報工学に影響を与えてもいる。 医学の分野において、精神疾患患者の治療という応用的な要請から、疾患の原因となる精神の構造の解明を試みる精神病理学が起こった。 米国ではベトナム帰還兵の中に精神疾患となる人が多数出て社会問題となった。特に快楽殺人などセンセーショナルな事件が起こったため、広義の精神疾患が広く社会に認知されるとともに、「PTSD」などの概念が確立し、研究が急速に発展した。 1970年代より精神疾患に対する薬物療法の研究が進み、統合失調症・双極性障害に著効を顕した。これは神経細胞における受容体を介したシグナル伝達研究と並列に進展し、てんかん治療での外科的病巣切除とあわせて精神病理学を生理学と結びつける土台が作られた。 高齢化が現実の問題となった1980年代から1990年代以降、認知症に関する研究も数が多くなった。この分野でも神経の可塑性減少や細胞死など生理学的知見と密接に対応をつけた上で研究が進んでいる。 ヒト以外の動物の行動の研究である動物行動学は、実験心理学と手法の一部や生理学に対する関係を共有して発展してきた。特に(ヒトの)心理学(と動物の行動学)との対比において、「比較行動学」という訳語が当てられることもある。 狭義の動物行動学である、野外で野生の状態を観察する生態学については、心理学とは直接の関係を持たず、ヒトの機能の進化の過程における生態学的妥当性の検討、あるいは社会的行動の人間との対比において関連づけられる。 広義の動物行動学である、研究室内でラットやチンパンジーなどを用いる研究は心理学と密接な関係を持ち、多くの手法を共有する。こうした研究手法は他分野にも輸出され、医学などでも用いられるようになった。この分野はパブロフの条件反射研究に強く影響され発展してきたもので、動物の研究では古典的条件づけやオペラント条件づけの研究に発展し、ヒトを対象とした実験心理学でも内観法を徹底的に排除するなどの影響を与え、行動主義心理学と呼ばれる一派が成立した。ただしこのアプローチは極端であるとして、行動を重視する点では同様でもより生体の内部状態にも注目する新行動主義も出現した。現在の実験心理学の手法は基本的にこの影響下にあるものが多い。 ノーム・チョムスキーは経験主義や極端な行動主義を批判し、人間が言語を獲得できるのはそれに専門化された生得的な器官(言語獲得装置)を脳の中に持っているためだと主張した。チョムスキーに始まるこの議論は現在でも継続中であり、言語獲得と概念獲得は発達心理学の中心的なトピックである。 言語や思考の能力及びその成長発展を評価する必要から、現在の心理学の領域へと踏み込んだ。 近年は、学童の精神保健に関する領域においても教育心理学の立場から扱われるが、前述の思考能力に関するものとは元々の系統が異なっていることに留意が必要である。 教育現場では、心理学を使ったコーチングを導入している学校もある。 脳を一種のコンピュータとみなし、精神を脳の機能として情報工学的に解析するという立場が現れた。認知心理学では、この立場をとる。 「心理テスト、カウンセリング、サイコセラピーといった臨床領域が心理学研究の中心的課題である」とか、「カウンセラーや精神科医は皆、心理学の専門家である」といった、事実とは異なる認識が広く流布している。こうした通俗的な理解を、「ポピュラー心理学」ないし「通俗心理学」と呼ぶ事がある。「このような通俗的な理解・誤解が好まれ、広まる現象も、心理学に対する社会の要請の現われであるとして無視すべきでない」という意見もある。この現象自体が心理学や社会学の研究対象となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "心理学()は、科学的な手法によって研究される心と行動の学問である。そのアプローチとしては、行動主義のように行動や認知を客観的に観察しようとするものと、一方で、主観的な内面的な経験を理論的な基礎におくものとがある。研究法を質的研究と量的研究とに大別した場合、後者を主に学ぶ大学では、理数系学問として心理学を位置付けている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "起源は哲学をルーツに置かれるが、近代の心理学としては、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが「実験心理学の父」と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも「心理学の父」と呼ばれることもある。心理学の主な流れは、実験心理学の創設、精神分析学、行動主義心理学、人間性心理学、認知心理学、社会心理学、発達心理学である。差異心理学は人格や知能、性などを統計的に研究する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた精神分析学、学習理論をもとに行動へと関心を向けた行動主義心理学とが大きな勢力であったが、1950年代には行動主義は批判され認知革命がおこり、21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める。 現在の心理学の停滞は、『心』という働きと、『神経』という物質的構造を混同した、ドイツのヴィルヘルム・ヴントに端を発しているとも言われている。このことが、心理学を複雑化させ停滞させている主な要因だとの見解も存在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "語源は、心や魂を意味する古代ギリシア語のプシュケー(ψυχή )と、研究や説明を意味するロギアとでの、プシューコロギア(psychologia)である。", "title": "語源と定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の心理学の用語の意味は、心理学の教材である『ヒルガードの心理学』では「行動と心的過程についての科学的学問」とされ、2012年の『心理学大図鑑』では「心や行動の科学を研究する」という意味であるとされる。アメリカ心理学会(APA)は「心と行動の研究」と定義している。", "title": "語源と定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ギリシャ文字のΨ(英:PSI)が心理学の象徴として、しばしば用いられる。", "title": "語源と定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大きくは、基礎心理学と応用心理学に大別される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "科学的経験主義の立場から観察・実験・調査等の方法によって一般法則の探求を推し進める。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "基礎心理学の知見を活かして現実生活上の問題の解決や改善に寄与する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "文字が発明される以前から伝承されるヴェーダは、直接的に感覚する経験を対象とし、自己の内的な観察を極度に純化させ、智慧と呼ばれる精神の状態を目指した。主に東洋に広く存在する心理学である。1980年代以降に、トランスパーソナル心理学が研究対象としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この流れにない西洋の心理学の伝統は、外側から様々な対象を理性的に観察することによって法則性を見出すといった、実験主義的なものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1912年の大槻快尊の『心理學概論』では、古くはタレスの哲学でも心について付言されているが、心理学の開祖と呼べる哲学者は「心は脳髄にあり」と述べたアリストテレスであり、哲学から心理学へ独立した学問へと小径を開いたのはルネ・デカルトであり、そして、心理学という全く別の科学的な学問を成立させたのはジョン・ロックであると云ってよい、としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "紀元前4世紀にアリストテレスは Περὶ Ψυχῆς ペリ・プシュケース(『心について』『霊魂論』)にて、血流と怒りが無関係ではないことから、心身不分離とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "それに対し、後の17世紀にルネ・デカルトは心身二元論を提唱し、「魂は非物質的で身体は物質的だが、動物精気というもので身体を機械的に動かしている」とした。デカルトは、「動物は反射によって動く機械でしかない」としたが、現在では遺伝や感覚の研究によって、動物も意識を持っていると考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ジョン・ロックは、ニュートン物理学の登場によって、分子から成り立つ物質と、心的なイメージを成り立たせる感覚と、不滅の魂を仮定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "18世紀には、ドイツのフランツ・アントン・メスメルが、動物磁気説による治療行為を行い、1779年に『動物磁気の発見と回想』を出版し、後の催眠へとつながっていった。心理療法におけるラポールの概念などもこの流れで生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1870年代には、ドイツのヴィルヘルム・ヴントと、アメリカのウィリアム・ジェームズは、心理学の研究室を設け、心理学の諸理論を提唱した。ドイツのヴィルヘルム・ヴントが実験心理学の父と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも心理学の父と呼ばれることもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ヴントは1879年にライプツィヒ大学に研究室を創設し、彼の言う実験心理学とは、内観として自己観察的な思考や感情の出来事を記録することであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ジェームズは1875年にハーバード大学にて講義をはじめた。内省や哲学に基づいたアプローチで心理学に接近した。1890年にはジェームズが大著『心理学原理』を公開し、その2年後にはこれを短縮した『心理学要論』が公開され教科書として広まった。1892年には、アメリカ心理学会が、ウィリアム・ジェームズの心理学を元にして設立される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1880年代には、フランスのエミール・クーエが偽薬効果についての『自己暗示』を出版する。1900年には、ドイツのウィーンで、神経症とヒステリーの研究を行っていたジークムント・フロイトは、人々は無意識の影響を受けて行動しているという理論を公表する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": 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"paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アルバート・バンデューラは1977年に『社会的学習理論』を出版し、報酬や罰による誘導がなくても、他者の観察を通して単に真似することで学習するというモデリングの理論を唱えた。エドワード・L・デシは、自己決定理論(英語: Self-determination theory)を提唱し、自らがそれを行いたいから行動するようになるという自律性や内発的動機の理論を提唱した。マーティン・セリグマンは当初、回避できない罰を与えられた場合の学習性無力感の研究者であったが、次第にポジティブな学習に言及することが増え、ポジティブ心理学を1990年代に提唱する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その研究領域は広範囲に及ぶため、隣接する他の学問との相互連携が多様な形で行なわれてきた。これは学際という状態である。例えば、心理学では仮説の域を超えられなかったものが、脳科学の知見によってその妥当性が検証できるのではないかという期待がある。ヒューマンエラーについての知見が、人間工学分野で取り入れられたりするなどの試みがある。プロスペクト理論などの行動経済学も盛んに研究されている。こうした動きは今後も加速すると思われる。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "脳を損傷すると精神機能に異変が生じる事から、「脳が感情や思考などの精神現象を生み出す中枢である、とみなし、脳を構成する神経系を調べることで精神現象を解明できる可能性がある」との発想が生まれた。これは、古くはデカルトが心身合一の問題として言及しているが、実験的に調べられるようになったのは19世紀以降である。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "19世紀のポール・ピエール・ブローカやカール・ウェルニッケらの失語症と脳損傷の関係調査により、ブローカ野やウェルニッケ野などの言語中枢とされる脳部位 (言語野) が推定された。この研究により、言語を扱う精神機能が脳という生理学的土台によって生じることが明らかにされた。脳損傷と精神機能失調との関係調査は20世紀初頭の第一次世界大戦以降、戦争で脳を損傷した患者の治療の過程で大きく進んだ。1960年代からは、CTにより脳血管障害患者の脳を非侵襲的に調べられるようになり、さらに進展した。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イワン・パブロフは1902年に唾液腺の研究過程で俗に「パブロフの犬」とよばれる条件反射を発見した。この研究を嚆矢として、正常な動物における生理的現象と精神現象の関係が論じられるようになった。この分野はパブロフの犬のような巨視的なものから薬物投与、神経細胞の分子生物学的解析など様々なものがあるが、全体的には神経細胞の振る舞いを調べるものが多い。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1936年にハンス・セリエは「各種有害作因によって引き起こされる症候群」を発表し、この有害作因がストレスという用語に変わり受け入れられていったが、ストレスを引き起こすものをストレッサーと呼んだ。1956年に、『現代社会とストレス』(The Stress of Life)を出版し一般向けに初めて概説した。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アショフらはドイツのマックスプランツ行動生理学研究所において、ヒトの睡眠と覚醒の概日リズムが昼夜の環境変化のない隔離室では25時間周期であり、24時間よりも1時間長く、深部体温や、コルチゾールやメラトニンといった体内ホルモンこのリズムに同調していることを見出した。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1960 - 70年代にかけて急速に進展した視覚伝導路の神経細胞の特性研究は知覚心理学に重大な影響を与えた。両者は視覚刺激を提示し反応を測定するという共通の手法を持ち、測定対象が神経細胞という微視的なものか、ヒトなどの動物全体という巨視的なものか、という点で違うと見ることもできる。海馬の神経細胞で発見された長期増強などのシナプス可塑性は、記憶の生理的基盤であると期待され、認知心理学に少なからぬ影響を与えた。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1980年代以降、神経活動を観測する脳機能イメージングの手法が発展するにつれて、脳機能局在論による神経機構の解明が試みられており、少なからず成功を収めている。その一方、こうした研究は現代的骨相学に陥る危険もはらんでおり、それを克服する試みとして計算論的神経科学などとの協力がある。神経機構の数理的解析は情報工学に影響を与えてもいる。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "医学の分野において、精神疾患患者の治療という応用的な要請から、疾患の原因となる精神の構造の解明を試みる精神病理学が起こった。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "米国ではベトナム帰還兵の中に精神疾患となる人が多数出て社会問題となった。特に快楽殺人などセンセーショナルな事件が起こったため、広義の精神疾患が広く社会に認知されるとともに、「PTSD」などの概念が確立し、研究が急速に発展した。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1970年代より精神疾患に対する薬物療法の研究が進み、統合失調症・双極性障害に著効を顕した。これは神経細胞における受容体を介したシグナル伝達研究と並列に進展し、てんかん治療での外科的病巣切除とあわせて精神病理学を生理学と結びつける土台が作られた。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "高齢化が現実の問題となった1980年代から1990年代以降、認知症に関する研究も数が多くなった。この分野でも神経の可塑性減少や細胞死など生理学的知見と密接に対応をつけた上で研究が進んでいる。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヒト以外の動物の行動の研究である動物行動学は、実験心理学と手法の一部や生理学に対する関係を共有して発展してきた。特に(ヒトの)心理学(と動物の行動学)との対比において、「比較行動学」という訳語が当てられることもある。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "狭義の動物行動学である、野外で野生の状態を観察する生態学については、心理学とは直接の関係を持たず、ヒトの機能の進化の過程における生態学的妥当性の検討、あるいは社会的行動の人間との対比において関連づけられる。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "広義の動物行動学である、研究室内でラットやチンパンジーなどを用いる研究は心理学と密接な関係を持ち、多くの手法を共有する。こうした研究手法は他分野にも輸出され、医学などでも用いられるようになった。この分野はパブロフの条件反射研究に強く影響され発展してきたもので、動物の研究では古典的条件づけやオペラント条件づけの研究に発展し、ヒトを対象とした実験心理学でも内観法を徹底的に排除するなどの影響を与え、行動主義心理学と呼ばれる一派が成立した。ただしこのアプローチは極端であるとして、行動を重視する点では同様でもより生体の内部状態にも注目する新行動主義も出現した。現在の実験心理学の手法は基本的にこの影響下にあるものが多い。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ノーム・チョムスキーは経験主義や極端な行動主義を批判し、人間が言語を獲得できるのはそれに専門化された生得的な器官(言語獲得装置)を脳の中に持っているためだと主張した。チョムスキーに始まるこの議論は現在でも継続中であり、言語獲得と概念獲得は発達心理学の中心的なトピックである。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "言語や思考の能力及びその成長発展を評価する必要から、現在の心理学の領域へと踏み込んだ。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "近年は、学童の精神保健に関する領域においても教育心理学の立場から扱われるが、前述の思考能力に関するものとは元々の系統が異なっていることに留意が必要である。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "教育現場では、心理学を使ったコーチングを導入している学校もある。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "脳を一種のコンピュータとみなし、精神を脳の機能として情報工学的に解析するという立場が現れた。認知心理学では、この立場をとる。", "title": "学際" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「心理テスト、カウンセリング、サイコセラピーといった臨床領域が心理学研究の中心的課題である」とか、「カウンセラーや精神科医は皆、心理学の専門家である」といった、事実とは異なる認識が広く流布している。こうした通俗的な理解を、「ポピュラー心理学」ないし「通俗心理学」と呼ぶ事がある。「このような通俗的な理解・誤解が好まれ、広まる現象も、心理学に対する社会の要請の現われであるとして無視すべきでない」という意見もある。この現象自体が心理学や社会学の研究対象となっている。", "title": "誤解" } ]
心理学は、科学的な手法によって研究される心と行動の学問である。そのアプローチとしては、行動主義のように行動や認知を客観的に観察しようとするものと、一方で、主観的な内面的な経験を理論的な基礎におくものとがある。研究法を質的研究と量的研究とに大別した場合、後者を主に学ぶ大学では、理数系学問として心理学を位置付けている。 起源は哲学をルーツに置かれるが、近代の心理学としては、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが「実験心理学の父」と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも「心理学の父」と呼ばれることもある。心理学の主な流れは、実験心理学の創設、精神分析学、行動主義心理学、人間性心理学、認知心理学、社会心理学、発達心理学である。差異心理学は人格や知能、性などを統計的に研究する。 20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた精神分析学、学習理論をもとに行動へと関心を向けた行動主義心理学とが大きな勢力であったが、1950年代には行動主義は批判され認知革命がおこり、21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた認知心理学が支配的な位置を占める。 現在の心理学の停滞は、『心』という働きと、『神経』という物質的構造を混同した、ドイツのヴィルヘルム・ヴントに端を発しているとも言われている。このことが、心理学を複雑化させ停滞させている主な要因だとの見解も存在する。
{{redirect|心理|アルバム|心理 (アルバム)}} {{redirect|サイコロジー|蒼井翔太の楽曲|PSYCHO:LOGY}} {{心理学のサイドバー}} {{ウィキプロジェクトリンク|心理学}} {{読み仮名|'''心理学'''|しんりがく}}は、[[科学]]的な[[手法]]によって[[研究]]される[[心]]と[[行動]]の学問である<ref name="APA"/>{{sfn|ヒルガードの心理学第15版|2012|p=6}}{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=10}}。その[[アプローチ]]としては、[[行動主義心理学|行動主義]]のように[[行動]]や[[認知]]を客観的に観察しようとするものと、一方で、主観的な内面的な経験を理論的な基礎におくものとがある<ref>{{Cite book|和書|author=ケン・ウィルバー|coauthors=松永太郎訳|title=統合心理学への道|publisher=春秋社|date=2004|isbn=4-393-36035-4|pages=10-11}}</ref>。研究法を[[質的研究]]と[[量的研究]]とに大別した場合、後者を主に学ぶ大学では、[[自然科学|理数系学問]]として心理学を位置付けている。 起源は[[哲学]]をルーツに置かれるが、近代の心理学としては、ドイツの[[ヴィルヘルム・ヴント]]が「[[実験心理学]]の父」と呼ばれ、アメリカの[[ウィリアム・ジェームズ]]も「心理学の父」と呼ばれることもある{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=目次, 35, 45}}。心理学の主な流れは、実験心理学の創設、[[精神分析学]]、[[行動主義心理学]]、[[人間性心理学]]、[[認知心理学]]、[[社会心理学]]、[[発達心理学]]である。差異心理学は人格や知能、性などを統計的に研究する。 20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた[[精神分析学]]、学習理論をもとに行動へと関心を向けた[[行動主義心理学]]とが大きな勢力であったが、1950年代には行動主義は批判され認知革命がおこり、21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた[[認知心理学]]が支配的な位置を占める{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=158-159}}。 現在の心理学の停滞は、『心』という働きと、『神経』という物質的構造を混同した、ドイツのヴィルヘルム・ヴントに端を発しているとも言われている。このことが、心理学を複雑化させ停滞させている主な要因だとの見解も存在する。 == 語源と定義 == {{See also|心理学の歴史#語源と初期の語法}} 語源は、[[心]]や魂を意味する古代ギリシア語の[[プシュケー]](ψυχή )と、研究や説明を意味するロギアとでの、プシューコロギア(psychologia)である{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=10}}。 現在の心理学の用語の意味は、心理学の教材である『ヒルガードの心理学』では「行動と心的過程についての科学的学問」とされ{{sfn|ヒルガードの心理学第15版|2012|p=6}}、2012年の『心理学大図鑑』では「心や行動の科学を研究する」という意味であるとされる{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=10}}。[[アメリカ心理学会]](APA)は「心と行動の研究」と定義している<ref name="APA">{{cite web|title=How does the APA define "psychology"? |url=http://www.apa.org/support/about/apa/psychology.aspx#answer | accessdate=2015-07-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150422170750/http://www.apa.org/support/about/apa/psychology.aspx|archivedate=2015-04-22|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。 [[ギリシャ文字]]の[[Ψ]](英:PSI)が心理学の象徴として、しばしば用いられる。 == 分類 == {{独自研究|section=1|date=2015年9月}} 大きくは、基礎心理学と応用心理学に大別される。 ===基礎心理学=== 科学的経験主義の立場から[[観察]]・[[実験]]・[[調査]]等の方法によって一般法則の探求を推し進める。 ;基礎心理学の下位分類 * [[一般心理学]]([[標準心理学]]) * [[知覚心理学]] * [[認知心理学]] * [[学習心理学]] * [[発達心理学]] ** 乳幼児心理学 ** 児童心理学 ** 青年心理学 ** 老年心理学 * [[人格心理学]] * [[異常心理学]] * [[社会心理学]] * [[比較心理学]] * [[深層心理学]] * [[生理心理学]] * [[神経心理学]] * [[言語心理学]] * [[計量心理学]] * [[数理心理学]] * [[生態心理学]] * {{ill2|色彩心理学|en|Color psychology}} * 自己心理学 === 応用心理学 === 基礎心理学の知見を活かして現実生活上の問題の解決や改善に寄与する。 ;応用心理学の下位分類 * [[臨床心理学]] * [[教育心理学]] * [[学校心理学]] * [[産業心理学]] * [[産業保健心理学]] * [[犯罪心理学]] * [[法廷心理学]] * [[災害心理学]] * [[家族心理学]] * [[交通心理学]] * [[観光心理学]] * [[スポーツ心理学]] * [[軍事心理学]] * [[環境心理学]] * [[経済心理学]] * [[恋愛心理学]] == 歴史 == {{Main|心理学の歴史}} === 永遠の哲学 === {{Seealso|永遠の哲学}} 文字が発明される以前から伝承される[[ヴェーダ]]は、直接的に感覚する経験を対象とし、自己の内的な観察を極度に純化させ、[[知恵|智慧]]と呼ばれる精神の状態を目指した。主に東洋に広く存在する心理学である。1980年代以降に、[[トランスパーソナル心理学]]が研究対象としている。 この流れにない西洋の心理学の伝統は、外側から様々な対象を理性的に観察することによって法則性を見出すといった、実験主義的なものである。 === ギリシャ哲学からの起源 === 1912年の[[大槻快尊]]の『心理學概論』では、古くは[[タレス]]の哲学でも心について付言されているが、心理学の開祖と呼べる哲学者は「心は脳髄にあり」と述べた[[アリストテレス]]であり、哲学から心理学へ独立した学問へと小径を開いたのは[[ルネ・デカルト]]であり、そして、心理学という全く別の科学的な学問を成立させたのは[[ジョン・ロック]]であると云ってよい、としている{{Sfn|大槻快尊・述|1912|p=4}}。 紀元前4世紀に[[アリストテレス]]は ''Περὶ Ψυχῆς'' [[霊魂論|ペリ・プシュケース]](『心について』『[[霊魂論]]』)にて、[[血流]]と[[怒り]]が無関係ではないことから<ref>{{Cite book|和書|author=加藤信明|chapter=アリストテレス『魂について』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|pages=12-13}}</ref>、'''心身不分離'''とした。 それに対し、後の17世紀に[[ルネ・デカルト]]は[[実体二元論|心身二元論]]を提唱し、「魂は非物質的で身体は物質的だが、動物精気というもので身体を機械的に動かしている」とした{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=20-21}}。デカルトは、「動物は[[反射 (生物学)|反射]]によって動く機械[[還元主義|でしかない]]」としたが、現在では遺伝や感覚の研究によって、動物も[[意識]]を持っていると考えられている{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=34}}。 [[ジョン・ロック]]は、[[ニュートン力学|ニュートン物理学]]の登場によって、分子から成り立つ物質と、心的なイメージを成り立たせる感覚と、不滅の魂を仮定した。 {{See also|心の哲学}} === 心理学の創成期 === {{Seealso|催眠}} 18世紀には、ドイツの[[フランツ・アントン・メスメル]]が、[[動物磁気説]]による治療行為を行い、1779年に『動物磁気の発見と回想』を出版し、後の[[催眠]]へとつながっていった{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=22-23}}。心理療法における[[ラポール]]の概念などもこの流れで生まれた。 1870年代には、ドイツの[[ヴィルヘルム・ヴント]]と、アメリカの[[ウィリアム・ジェームズ]]は、心理学の研究室を設け、心理学の諸理論を提唱した。ドイツのヴィルヘルム・ヴントが[[実験心理学]]の父と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも心理学の父と呼ばれることもある{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=目次, 35, 45}}。 ヴントは1879年に[[ライプツィヒ大学]]に研究室を創設し、彼の言う実験心理学とは、[[内観]]として自己観察的な思考や感情の出来事を記録することであった{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=目次, 35, 45}}。 ジェームズは1875年に[[ハーバード大学]]にて講義をはじめた{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=目次, 35, 45}}。内省や哲学に基づいたアプローチで心理学に接近した{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=58-59}}。1890年にはジェームズが大著『[[心理学原理]]』を公開し、その2年後にはこれを短縮した『心理学要論』が公開され教科書として広まった。1892年には、[[アメリカ心理学会]]が、[[ウィリアム・ジェームズ]]の心理学を元にして設立される。 1880年代には、フランスの[[エミール・クーエ]]が偽薬効果についての『自己暗示』を出版する{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=22-23}}。1900年には、ドイツのウィーンで、神経症とヒステリーの研究を行っていた[[ジークムント・フロイト]]は、人々は[[無意識]]の影響を受けて行動しているという理論を公表する。 === 精神分析 === {{Main|精神分析学}} 1885年には、[[ジークムント・フロイト]]はパリに行き、催眠によってヒステリー患者を治療しようとしていたシャルコーの下で学び、同僚と共に1893年に『ヒステリー研究』出版したが、その限界を感じ[[自由連想法]]を用い始めた<ref name="フロイドの系譜"/>。1894年以降、フロイトは[[精神分析学]]の基礎となる理論を発見し、1900年には『夢判断』を出版してその初期の理論を公開し、1902年には、ウィーンの医者が群れとなって精神分析学研究のセミナーに参加し比較的短期間で世界規模となる<ref name="フロイドの系譜"/>。最初の国際精神分析学会は1908年、最初の『国際精神分析学雑誌』は1909年に出版されたが、追従者のアドラーは1910年に、ユングは1913年にはフロイトの下を離れていった<ref name="フロイドの系譜"/>。[[アルフレッド・アドラー]]は1910年には国際精神分析学会の会長にも推薦されていたが、フロイトの[[リビドー]](性欲)の理論を受け入れず、翌年には[[アドラー心理学|個人心理学]]会を設立した<ref>{{Cite book|和書|author=中河原通夫|chapter=アードラー『人間知』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|page=6-7}}</ref>。1916年までは精神分析学の研究はドイツ語圏に限られており、アメリカやイギリスに飛び火したのは、1918年以降であり、1920年には『精神分析学入門』が翻訳され読者を広く読者を得、ニューヨークの研究所は1931年に開設された<ref name="フロイドの系譜">{{Cite book|和書|author=J.A.C.ブラウン|coauthors=(翻訳)宇津木保、大羽蓁|title=フロイドの系譜―精神分析学の発展と問題点|publisher=誠信書房|date=1982|isbn=441442710X|pages=28-29、42-43、59-60、92-93}} ''Freud and the Post-Freudians'', 1961</ref>。 娘の[[アンナ・フロイト]]は[[自我心理学]]を提唱した。フロイトに師事した[[カール・グスタフ・ユング]]は[[分析心理学]]を提唱、ユング心理学はユング派としてアメリカで[[プロセス指向心理学]]などを生んだ。この時代には、フロイトや[[現象学]]の影響をうけた[[ルートヴィヒ・ビンスワンガー]]の[[現存在分析]]、 [[ヴィクトール・フランクル]]による[[ロゴセラピー]]がある。[[対人関係療法]]は、新フロイト派とよばれる[[ハリー・スタック・サリヴァン]]らの流れを組む。 イギリスでは[[メラニー・クライン]]、[[ドナルド・ウィニコット]]らの[[対象関係論]]が展開し、アメリカでは対象関係論に影響をうけた[[オットー・カーンバーグ]]が[[転移焦点化精神療法]]を考案した。 [[ハインツ・コフート]]は、[[自己愛性パーソナリティ障害]]の研究者として著名で、ウィーンの出身だが1964年にはアメリカ精神分析学会の会長も務めた<ref>{{Cite book|和書|author=水野信義|chapter=コフート『自己の分析』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|page=185}}</ref>。 === 行動主義の台頭と変容 === {{Main|行動主義心理学}} 心理学の第二世代として[[行動主義心理学]]が登場し、心理学を科学とみなすために行動を実験環境で観察し計測すると主張した{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=58-59}}。1913年の[[ジョン・ブローダス・ワトソン|ジョン・B・ワトソン]]の「行動主義の見地から見た心理学」は、心理学の方向転換のための行動主義宣言とされている{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=58-59}}。行動主義の基礎となるのは、行動を変化させる学習は、報酬と嫌悪刺激(罰)によって変化するという理論である。行動主義は、戦争をはさんだ軍事学的な統制にも用いられた。20世紀半ばには、アメリカでは精神分析と行動主義は2大勢力であった。 動物実験により1903年には[[イワン・パブロフ]]による[[古典的条件づけ]]が発表された。B.F.スキナーの表記でよく知られる[[バラス・スキナー]]は徹底的行動主義を推し進め{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=80}}、1938年には[[オペラント条件づけ]]の研究が盛んになった。治療に関しては、1960年に[[ハンス・アイゼンク]]が『行動療法と神経症』を出版する。行動主義のその行きすぎた傾向においては、心という概念なしに客観的な心理学としての観察研究ができるとした。しかし報酬と罰が人間の学習の決定的条件であるとする行動主義は様々な矛盾に陥った。 [[動物行動学]]は学習された行動ではない[[本能]]の重要性を明らかにし、条件づけの概念に疑問を呈し{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=58-59}}、[[コンラート・ローレンツ]]は孵化したガチョウが最初に見た動物を親として学習する[[刷り込み]]や、遺伝的にプログラムされた求愛といった行動パターンを明らかにした{{sfn|心理学大図鑑|2013|p=77}}。スキナーへの反発から成る「認知の革命」は心的過程へと再び焦点を戻したが、その契機となったのはノーム・チョムスキーである{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=58-59}}。オペランド条件づけでは報酬と強化による結果として人間が言語を学習すると考えたが、[[ノーム・チョムスキー]]は言語は生得的な[[普遍文法]]に沿って獲得され、遺伝的な能力で成長と共に成長することを提唱した{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=294-296}}。 === 人間性の回復 === {{Main|人間性心理学}} 第三の勢力は、[[人間性心理学]]である。1960年代には、[[人間性心理学]]が、[[自己実現理論]]を提唱した[[アブラハム・マズロー]]らによって組織される。1942年に、[[カール・ロジャース]]が『カウンセリングと心理療法』を出版し、後に[[来談者中心療法]]と呼ばれ、さらに後期には人間中心アプローチと呼ばれることになる非指示的な理論を紹介した<ref name="事典ロジャース">{{Cite book|和書|author=浅井直樹|chapter=ロジャース『カウンセリングとサイコセラピィ』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|page=534}}</ref>。ロジャースは、集団に対応させた[[エンカウンターグループ]]も開発した<ref name="事典ロジャース"/>。アメリカの[[ビッグサー#ビッグサーの芸術家と大衆文化|ビッグサー]]の[[エサレン協会]]を中心として、[[ニューエイジ]]などもくわわり、[[瞑想]]といった技法も研究されるようになった。[[ゲシュタルト療法]]は、エサレンを中心として発達した。 1969年には[[トランスパーソナル心理学]]会が、LSDによる神秘体験を研究していた[[スタニスラフ・グロフ]]と、上記人間性心理学のアブラハム・マズローによって設立される。[[瞑想]]などの伝統技法は第3世代の認知行動療法に影響した。 === 行動から認知へ === {{Main|認知心理学}} 1967年にナイサーが[[情報処理]]の理論を取り入れた『認知心理学』という著作を公開し新しい時代を形作っていった。観察研究ができない精神分析の無意識と、行動主義の、行動および報酬と罰にしか焦点を当てない心理学ではなく、思考などの観察可能な認知に焦点を当てた手法が登場した。 [[アルバート・バンデューラ]]は1977年に『[[社会的学習理論]]』を出版し、報酬や罰による誘導がなくても、他者の観察を通して単に真似することで学習するという[[モデリング (心理学)|モデリング]]の理論を唱えた{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=288-289}}。[[エドワード・L・デシ]]は、{{日本語版にない記事リンク|自己決定理論|en|Self-determination theory}}を提唱し、自らがそれを行いたいから行動するようになるという自律性や内発的動機の理論を提唱した。[[マーティン・セリグマン]]は当初、回避できない罰を与えられた場合の[[学習性無力感]]の研究者であったが、次第にポジティブな学習に言及することが増え、[[ポジティブ心理学]]を1990年代に提唱する。 === 現状 === 21世紀初頭において、認知的な心的過程に関心を向けた[[認知心理学]]が支配的な位置を占める{{sfn|心理学大図鑑|2013|pp=158-159}}。 == 学際 == {{未検証|section=1|date=2015年6月}} その研究領域は広範囲に及ぶため、隣接する他の学問との相互連携が多様な形で行なわれてきた。これは[[学際]]という状態である。例えば、心理学では仮説の域を超えられなかったものが、[[脳科学]]の知見によってその妥当性が検証できるのではないかという期待がある。[[ヒューマンエラー]]についての知見が、[[人間工学]]分野で取り入れられたりするなどの試みがある。[[プロスペクト理論]]などの[[行動経済学]]も盛んに研究されている。こうした動きは今後も加速すると思われる。 === 生理学からの発展 === 脳を損傷すると[[精神]]機能に異変が生じる事から、「脳が感情や[[思考]]などの[[精神現象]]を生み出す中枢である、とみなし、脳を構成する[[神経系]]を調べることで精神現象を解明できる可能性がある」との発想が生まれた。これは、古くはデカルトが[[心身合一]]の問題として言及しているが、実験的に調べられるようになったのは19世紀以降である。 19世紀の[[ポール・ピエール・ブローカ]]や[[カール・ウェルニッケ]]らの[[失語症]]と[[脳損傷]]の関係調査により、[[ブローカ野]]や[[ウェルニッケ野]]などの[[言語中枢]]とされる脳部位 ([[言語野]]) が推定された。この研究により、言語を扱う[[精神機能]]が脳という[[生理学]]的土台によって生じることが明らかにされた。脳損傷と精神機能失調との関係調査は[[20世紀]]初頭の[[第一次世界大戦]]以降、[[戦争]]で脳を損傷した[[患者]]の[[治療]]の過程で大きく進んだ。[[1960年]]代からは、[[コンピュータ断層撮影|CT]]により[[脳血管障害]]患者の脳を非侵襲的に調べられるようになり、さらに進展した。 [[イワン・パブロフ]]は[[1902年]]に[[唾液腺]]の研究過程で俗に「パブロフの犬」とよばれる[[条件反射]]を発見した。この研究を嚆矢として、正常な動物における生理的現象と精神現象の関係が論じられるようになった。この分野はパブロフの犬のような[[巨視的]]なものから[[薬物投与]]、[[神経細胞]]の[[分子生物学]]的解析など様々なものがあるが、全体的には神経細胞の振る舞いを調べるものが多い。 1936年に[[ハンス・セリエ]]は「各種有害作因によって引き起こされる症候群」を発表し、この有害作因が[[ストレス (生体)|ストレス]]という用語に変わり受け入れられていったが、ストレスを引き起こすものを[[ストレッサー]]と呼んだ<ref name="事典セリエ">{{Cite book|和書|author=久保田正春|chapter=セリエ『現代社会とストレス』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|page=251}}</ref>。1956年に、『現代社会とストレス』(''The Stress of Life'')を出版し一般向けに初めて概説した<ref name="事典セリエ"/>。 アショフらはドイツのマックスプランツ行動生理学研究所において、ヒトの睡眠と覚醒の[[概日リズム]]が昼夜の環境変化のない隔離室では25時間周期であり、24時間よりも1時間長く、深部体温や、[[コルチゾール]]や[[メラトニン]]といった体内ホルモンこのリズムに同調していることを見出した<ref>{{Cite book|和書|author=内山真|chapter=アショフほか『ヒト概日リズムの脱同調』|title=精神医学文献事典|publisher=弘文堂|date=2003|isbn=978-4-335-65107-6|page=2-3}}</ref>。 1960 - 70年代にかけて急速に進展した[[視覚#視覚神経科学|視覚伝導路]]の神経細胞の特性研究は知覚心理学に重大な影響を与えた。両者は視覚刺激を提示し反応を測定するという共通の手法を持ち、測定対象が神経細胞という微視的なものか、ヒトなどの動物全体という巨視的なものか、という点で違うと見ることもできる。[[海馬 (脳)|海馬]]の神経細胞で発見された[[長期増強]]などの[[シナプス可塑性]]は、記憶の生理的基盤であると期待され、[[認知心理学]]に少なからぬ影響を与えた。 1980年代以降、神経活動を観測する[[脳機能イメージング]]の手法が発展するにつれて、[[脳機能局在論]]による神経機構の解明が試みられており、少なからず成功を収めている。その一方、こうした研究は現代的[[骨相学]]に陥る危険もはらんでおり、それを克服する試みとして[[計算論的神経科学]]などとの協力がある。神経機構の数理的解析は[[情報工学]]に影響を与えてもいる。<!--生理学と心理学の関係は、物理現象から精神現象が生起するのかという[[心身問題]]を常にはらんでおり、哲学上の重大な未解決問題となっている{{要出典|date=2014年9月}}。--><!--また、心理学が社会的に注目されるようになるにつれ、適切な研究成果に基づかない右脳・左脳論、ゲーム脳など疑似科学が出現した{{要出典|date=2014年9月}}。--> === 病理学からの発展 === [[医学]]の分野において、[[精神疾患]]患者の治療という応用的な要請から、疾患の原因となる精神の構造の解明を試みる'''[[精神病理学]]'''が起こった。 * [[精神分析学|精神分析]] * [[戦闘ストレス反応|戦闘神経症]] 米国では[[ベトナム帰還兵]]の中に精神疾患となる人が多数出て社会問題となった。特に[[快楽殺人]]などセンセーショナルな事件が起こったため、広義の精神疾患が広く社会に認知されるとともに、「[[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]」などの概念が確立し、研究が急速に発展した。 1970年代より精神疾患に対する[[化学療法|薬物療法]]の研究が進み、[[統合失調症]]・[[双極性障害]]に著効を顕した。これは神経細胞における[[受容体]]を介した[[シグナル伝達]]研究と並列に進展し、[[てんかん]]治療での[[外科学|外科]]的病巣切除とあわせて精神病理学を生理学と結びつける土台が作られた。 [[高齢化社会|高齢化]]が現実の問題となった1980年代から1990年代以降、[[認知症]]に関する研究も数が多くなった。この分野でも神経の可塑性減少や細胞死など生理学的知見と密接に対応をつけた上で研究が進んでいる。 === 動物行動学からの発展 === ヒト以外の[[動物]]の行動の研究である[[動物行動学]]は、実験心理学と手法の一部や生理学に対する関係を共有して発展してきた。特に(ヒトの)心理学(と動物の行動学)との対比において、「比較行動学」という訳語が当てられることもある。 狭義の動物行動学である、野外で野生の状態を観察する[[生態学]]については、心理学とは直接の関係を持たず、ヒトの機能の進化の過程における生態学的妥当性の検討、あるいは社会的行動の人間との対比において関連づけられる。 広義の動物行動学である、研究室内でラットやチンパンジーなどを用いる研究は心理学と密接な関係を持ち、多くの手法を共有する。こうした研究手法は他分野にも輸出され、医学などでも用いられるようになった。この分野はパブロフの条件反射研究に強く影響され発展してきたもので、動物の研究では[[古典的条件づけ]]や[[オペラント条件づけ]]の研究に発展し、ヒトを対象とした実験心理学でも[[内観]]法を徹底的に排除するなどの影響を与え、'''[[行動主義心理学]]'''と呼ばれる一派が成立した。ただしこのアプローチは極端であるとして、行動を重視する点では同様でもより生体の内部状態にも注目する新行動主義も出現した。現在の実験心理学の手法は基本的にこの影響下にあるものが多い。 === 言語学からの発展{{要出典|date=2022年3月}} === [[ノーム・チョムスキー]]は経験主義や極端な行動主義を批判し、人間が言語を獲得できるのはそれに専門化された生得的な器官([[言語獲得装置]])を脳の中に持っているためだと主張した。チョムスキーに始まるこの議論は現在でも継続中であり、[[言語獲得]]と[[概念獲得]]は[[発達心理学]]の中心的なトピックである。 === 教育学からの発展 === 言語や思考の能力及びその成長発展を評価する必要から、現在の心理学の領域へと踏み込んだ。 * [[知能指数]] 近年は{{いつ|date=2015年2月}}、学童の精神保健に関する領域においても教育心理学の立場から扱われるが、前述の思考能力に関するものとは元々の系統が異なっていることに留意が必要である。 教育現場では、心理学を使った[[コーチング]]を導入している学校もある。 === 情報科学との接近 === 脳を一種の[[コンピュータ]]とみなし、精神を脳の機能として情報工学的に解析するという立場が現れた。[[認知心理学]]では、この立場をとる。 * [[ドナルド・ヘッブ]] * [[人工知能]]・[[ニューラルネット]]・[[遺伝的アルゴリズム]]・[[進化的計算]]・[[強化学習]] など == 誤解 == {{独自研究|section=1|date=2015年9月}} 「[[心理検査|心理テスト]]、[[カウンセリング]]、[[心理療法|サイコセラピー]]といった臨床領域が心理学研究の中心的課題である」とか、「[[カウンセラー]]や[[精神科医]]は皆、心理学の専門家である」といった、事実とは異なる認識が広く流布している。こうした通俗的な理解を、「[[ポピュラー心理学]]」ないし「通俗心理学」と呼ぶ事がある。「このような通俗的な理解・誤解が好まれ、広まる現象も、心理学に対する社会の要請の現われであるとして無視すべきでない」という意見もある{{要出典|date=2014年9月}}。この現象自体が心理学や社会学の研究対象となっている。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == <!--{{Cite book|ref=harv}}にしたので{{Harv}}や{{Sfn}}などを使って関連付けてください。--> * {{Cite book|和書|author=大槻快尊・述 |authorlink=大槻快尊 |year=1912 |title=心理學概論 |publisher=早稲田大学出版部 |id={{全国書誌番号|43056228}} |oclc=33766818|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=キャサリン・コーリンほか|coauthors=(監修)池田健(翻訳)[[小須田健]]|title=心理学大図鑑|publisher=三省堂|date=2013|isbn=978-4-385-16224-9|ref={{sfnRef|心理学大図鑑|2013}}}}''The Psychology Book'', 2012 *{{Cite book|和書|author=Susan Nolen-Hoeksema, Barbara L.Fredrickson, Geoff R.Loftus, Willem A.Wagenaar|coauthors=(監訳)内田一成|title=ヒルガードの心理学|edition=15版|publisher=|date=2012-05|isbn=978-4-7724-1233-9|ref={{SfnRef|ヒルガードの心理学第15版|2012}}}} ''Atkinson & Hilgard's Introduction to Psychology'', 15ed. == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2023年3月}} * [[行動科学]] * [[認知神経科学]] * [[認知科学]] * [[哲学]] - [[現象学]] - [[分析哲学]] - [[心の哲学]] * [[認識論]] * [[言語学]] - [[心理言語学]] - [[認知言語学]] * [[経済学]] - [[行動経済学]] * [[社会学]] - [[社会心理学]] - [[シンボリック相互作用論]] - [[エスノメソドロジー]] - [[社会的構築主義]] * [[人類学]] - [[文化人類学]] * [[生物学]] - [[生理学]] - [[認知神経科学]] - [[動物行動学]] - [[霊長類学]] - [[社会生物学]] - [[進化心理学]] - [[進化論]] * [[人間工学]] * [[医学]] - [[生理学]] - [[神経学]] - [[脳科学]] - [[脳神経外科学]] * [[精神医学]] - [[精神病理学]] * [[心身医学]] * [[統計学]] - [[質的研究]] * [[心理検査]] - [[性格検査]] - [[知能検査]] - [[発達検査]] * [[心理療法]] * [[超心理学]] * [[類型論]] * [[錯覚]] - [[錯視]] * [[表象]] * [[感情]] * [[日本の心理学に関する資格一覧]] == 外部リンク == {{Wikibooks}} {{wikiversity|School:心理学|心理学}} * [http://www.psych.or.jp/ 社団法人日本心理学会] * [http://www.apa.org/ American Psychological Association] アメリカ心理学会 {{en icon}} * [http://www.psychologicalscience.org/ Association for Psychological Science] {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20080106211354/http://www.am.org/iupsys/ International Union of Psychological Science] {{en icon}} * [http://psychclassics.yorku.ca/index.htm Classics in the History of Psychology] {{en icon}} - 心理学史上の古典的論文が英語で読めるサイト。 * {{Kotobank}} * {{CRD|2000020059|心理学に関する情報の調べ方|近畿大学中央図書館}} {{心理学}} {{社会科学のフッター}} {{人文科学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんりかく}} [[Category:心理学|*]] [[Category:人間科学]] [[Category:和製漢語]] [[Category:哲学の和製漢語]]
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システム
システム(英: system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い概念であるため、文脈に応じて系、体系、制度、方式、機構、組織といった多種の言葉に該当する。系 (自然科学) の記事も参照。 それ自身がシステムでありながら同時に他のシステムの一部でもあるようなものをサブシステムという。 「組み立てた物」を意味する古代ギリシア語 σύστημα(スュステーマ)を語源にもつ。この σύστημα は同じくギリシア語の συνίστημι(スュニステーミ)「組み立てる」を元に作られた語句である。 これは「共に」を意味する σύν(スュン)と「立てる」を意味する ἵστημι(ヒステーミ)を組み合わせた動詞である。 対象が広範なこともあり、厳密で統一的な定義は存在しない(物質主義的には機構の意味合いが体系よりも大きくなる)。ここではいくつかの例を示す。 JIS Z 8115「ディペンダビリティ(信頼性)用語」は、信頼性に関係する分野・目的(たとえば信頼性工学)のために用語の定義を与えるものであり、必ずしも一般的な定義とは言えないかもしれないが、日本産業規格(JIS)では次のように「システム」を定義している。
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システムは、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い概念であるため、文脈に応じて系、体系、制度、方式、機構、組織といった多種の言葉に該当する。系 (自然科学) の記事も参照。 それ自身がシステムでありながら同時に他のシステムの一部でもあるようなものをサブシステムという。
{{otheruses||雑誌|システム (雑誌)}} {{出典の明記|date=2023年3月}} [[File:System boundary.svg|right|240px]] '''システム'''({{lang-en-short|system}})は、[[相互に影響を及ぼしあう要素]]から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い[[概念]]であるため、[[文脈]]に応じて'''系'''、'''体系'''、'''[[制度]]'''、'''方式'''、'''[[機構]]'''、'''[[組織]]'''といった多種の言葉に該当する。[[系 (自然科学)]] の記事も参照。 それ自身がシステムでありながら同時に他のシステムの一部でもあるようなものをサブシステムという。 == 語源 == 「組み立てた物」を意味する[[古代ギリシア語]] {{lang|el|σύστημα}}(スュステーマ)を[[語源]]にもつ。この {{lang|el|σύστημα}} は同じくギリシア語の {{lang|el|συνίστημι}}(スュニステーミ)「組み立てる」を元に作られた語句である。 これは「共に」を意味する {{lang|el|σύν}}(スュン)と「立てる」を意味する {{lang|el|ἵστημι}}(ヒステーミ)を組み合わせた[[動詞]]である。 == 概念 == 対象が広範なこともあり、厳密で統一的な定義は存在しない([[物質主義]]的には[[機構]]の意味合いが体系よりも大きくなる)。ここではいくつかの例を示す。 * システムはいくつかの要素によって構成されている * システムに含まれる全ての要素は、必ず自分以外の要素に対してなんらかの影響を及ぼす * システムは時間、または時間に[[写像]]できる[[順序集合]](全順序集合)に沿って動作する === JIS Z 8115 === JIS Z 8115「ディペンダビリティ(信頼性)用語」は、[[信頼性]]に関係する分野・目的(たとえば[[信頼性工学]])のために[[用語]]の定義を与えるものであり、必ずしも一般的な定義とは言えないかもしれないが、[[日本産業規格]](JIS)では次のように「システム」を定義している。 {{Quotation|所定の任務を達成するために, 選定され, 配列され, 互いに連係して動作する一連のアイテム ([[ハードウェア]], [[ソフトウェア]], 人間[[要素]]) の組合せ.}} === システムの分類 === ==== システムの境界による分類 ==== {| class="wikitable" |- !開かれたシステム |システム外部からの[[入力]]を受け付けたり、システム外部への[[出力]]を行ったりするシステム |- !閉じたシステム |移動体なしの構成要素の間でのみ動作し、外部との入出力がないシステム |} ==== 決定性による分類 ==== {| class="wikitable" |- ![[決定論|決定的]](deterministic)システム |システムの挙動や結果が、時間とその方向に対して一意に決まるシステム |- !非決定的(non-deterministic)システム |システムの挙動や結果が、[[確率]]的要因に影響され、時間とその方向に対して一意に決まらないシステム |} <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{Wiktionary|system}} * [[システム論]]、[[システム理論]] * [[システム工学]]・[[システム科学]]、[[システムアーキテクチャ]] * [[有機体論]] * [[状態]]、[[遷移]] * [[神経系]]、[[消化系]]、[[循環系]]… * [[力学系]] * [[制御理論]] * [[入力]]、[[出力]] * [[からくり]] - 日本における古い時代の機械的仕組みのことであるが、システム全般の意味でも使われている。 * [[スタニスラフスキー・システム]] {{Systems science}} {{Systems engineering}} {{理論社会学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しすてむ}} [[Category:システム|*]]
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大阪湾
大阪湾(おおさかわん)は、大阪平野と淡路島の間に位置する湾である。 瀬戸内海の一角を形成し、明石海峡と紀淡海峡の2箇所の開口部をもつ閉鎖性海域である。古称・別称は「茅渟の海(ちぬのうみ)」や「和泉灘(いずみなだ)」。 瀬戸内海の最東端で、おおむね淀川の延長線上に約60kmの長軸、直交して約30kmの短軸をもつ楕円形をしている。明石海峡で播磨灘に、紀淡海峡で紀伊水道さらに太平洋へと通じる。水深は淡路島側が深く、明石海峡から紀淡海峡へ約1ノットの潮流が生じている。 南は紀淡海峡、西北は明石海峡及び本州によって囲まれた海域であり、これは「大阪湾再生行動計画」による定義である。 北岸と東岸は三大都市圏の一つである近畿圏の中心地で、沿岸部は阪神工業地帯を形成している。複数の大規模な港湾が並び、関西国際空港と神戸空港という二つの海上空港も建設されている。これらの工場・港湾・空港用地を確保するために埋立地の造成も盛んに行われ、空港島のほかにも様々な人工島が並ぶ。また、ごみ最終処分場として大阪湾広域臨海環境整備センターが設置され、近畿2府4県の160を超える自治体が共同利用している。 臨海部の埋立地には工場や物流・交通施設だけでなく、商業・娯楽施設、医療関連の施設・研究機関、マンションなども立地している。 大阪の別称「なにわ」は「魚(な)庭」を語源とする説があるほど、魚介類が豊富な海域として古来知られていた。流入する武庫川、猪名川、淀川、大和川、大津川などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。 しかし、都市圏に隣接する閉鎖性水域であり、比較的早い時期から水質悪化などの環境問題が生じた。第二次世界大戦後に進んだ沿岸の開発や都市化で干潟など自然海岸の消失や水質汚濁が進んだが、現在でも大阪府の泉州地方の南部や神戸市の須磨区や垂水区、淡路島の東岸には比較的に自然に近い海岸も残されており、海水浴場などの行楽地や漁港が点在し、漁業やマリンスポーツとしての釣りが行われている。 生態系の破壊や環境破壊が深刻化する以前は、鯨類やニホンアシカやウミガメや大型魚が大阪湾を含む瀬戸内海に普遍的に回遊・分布していたとみられる。 近年でも、天然記念物のスナメリが関西国際空港周辺に定着し始めていると判明し、ウミガメの産卵地点もいくつか存在し、ハセイルカなども時折現れる。また、今でこそ瀬戸内海への通常の回遊こそ消滅したが、近代になってからもクジラやシャチやサメやクロマグロなどの確認例も存在し、特筆すべき事例もいくつか含まれる。 古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだことが由来となっている。 瀬戸内海航路の起点として、古代の朝廷は淀川の河口に難波津や住吉津などを置いた。これらはシルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄えた。内陸の飛鳥や平城京、平安京とは河川舟運で結ばれ、さらに陸路で東日本へ繋がっていた。また国が対外的に開かれた時期は難波宮や難波京、福原京(計画)などの都が置かれた。 淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇が即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。 平安時代末期には平清盛が大輪田泊を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。戦国時代には兵庫津や堺港が日明貿易と南蛮貿易で栄えた。西日本の交通の要衝であるため交易だけでなく、戦国時代には度々戦場となった(木津川口の戦い)。鎖国で対外交易が途絶えた江戸時代には安治川口・木津川口が繁栄して北前船、樽廻船、菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。 近現代の海軍省や海上保安庁が刊行する海図においては、1954年まで別称の「和泉灘」と表記されており、以降も1966年まで「大阪湾(和泉灘)」と併記されていた。 淀川以南には、住吉の浜や高師浜など白砂青松の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。天智天皇の子の長皇子が住吉の浜の霰松原の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「住吉模様」は、住吉大社の社前の景色を図案化したものである。 堺以南には明治以降に多くの海水浴場が設置され、海浜リゾート地として賑わっていたが、高度成長期に工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。 現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる六甲山地の掬星台が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。 大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また、堺泉北臨海工業地帯などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも1980年代以降の産業構造の変化に対応しきれない状態があった。 現在は官民協力で湾岸の再生が構想されておりシャープが堺市堺区の新日本製鐵堺製鐵所の高炉跡に液晶パネル工場、パナソニックが尼崎市にプラズマパネル工場を建設している。また、パナソニックが大阪市住之江区の関西電力大阪発電所跡地に、三洋電機が貝塚市にリチウムイオン電池工場を建設している。 堺市付近は新エネルギーの開発拠点ともなっており、堺市西区にはバイオエタノール・ジャパン・関西の稼動、関西電力による大型太陽光発電所が建築中である。 本土と淡路島とは1949年(昭和24年)から1999年まで兵庫県洲本市 - 大阪府岬町間に定期航路「洲本 - 深日航路」があった。2017年から航路の復活の社会実験を行う「深日洲本ライナー」が運航されている。 自然砂浜の消失、水質汚濁、生物多様性の低下などの問題がある。 雨水も家庭排水などの下水も、下水道を通じて下水処理場まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での大腸菌数の増加など、環境影響が発生している。 江戸時代以前には、大阪市街にも津波が襲来した記録がある。大阪府と兵庫県は、南海トラフ巨大地震を想定した津波ハザードマップを作成・公表している。
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大阪湾(おおさかわん)は、大阪平野と淡路島の間に位置する湾である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {| class="wikitable" width="400px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" |- | align=center|<div style="width:400px;float:center;margin:0;position:relative;">[[File:Osaka-Bay 1.png|400px]] <!--地名--> <div style="position:absolute;left:215px;top:25px;font-size:12px">[[神戸市|{{Color|white|神戸]]}}</div> <div style="position:absolute;left:368px;top:50px;font-size:12px">[[大阪市|{{Color|white|大阪]]}}</div> <div style="position:absolute;left:10px;top:210px;font-size:12px">[[淡路島|{{Color|white|淡路島}}]]</div> <div style="position:absolute;left:200px;top:360px;font-size:12px">[[和歌山市|{{Color|white|和歌山]]}}</div> <div style="position:absolute;left:110px;top:80px;font-size:10px">[[明石海峡|{{Color|aqua|明石海峡}}]]</div> <div style="position:absolute;left:10px;top:110px;font-size:12px">[[播磨灘|{{Color|aqua|播磨灘}}]]</div> <div style="position:absolute;left:175px;top:170px;font-size:12px">{{Color|aqua|大阪湾}}</div> <div style="position:absolute;left:90px;top:330px;font-size:10px">[[紀淡海峡|{{Color|aqua|紀淡海峡}}]]</div> <div style="position:absolute;left:60px;top:380px;font-size:12px">[[紀伊水道|{{Color|aqua|紀伊水道}}]]</div> </div> |- |<small>[[ランドサット]]7号 (Landsat 7) が撮影した大阪湾<ref group="注">表示環境によっては文字がずれることがある。</ref>。</small> |} '''大阪湾'''(おおさかわん)は、[[大阪平野]]と[[淡路島]]の間に位置する[[湾]]である。 [[画像:Views from Venus Bridge in Kobe 001.jpg|thumb|350px|[[神戸市]][[諏訪山公園]]からの大阪湾夕景。遠くは[[和歌山県|和歌山]]と[[淡路島]]間の[[紀淡海峡]]が見える。]] == 概説 == [[瀬戸内海]]の一角を形成し、[[明石海峡]]と[[紀淡海峡]]の2箇所の開口部をもつ[[閉鎖性海域]]である<ref name="kkr">[https://www.kkr.mlit.go.jp/plan/suishin/index500.html 大阪湾の現状] 大阪湾再生推進会議、2020年9月4日閲覧。</ref>。古称・別称は「'''茅渟の海'''(ちぬのうみ)」や「'''[[和泉国|和泉]]灘'''(いずみなだ)」。 [[瀬戸内海]]の最東端で、おおむね[[淀川]]の延長線上に約60kmの長軸、直交して約30kmの短軸をもつ[[楕円]]形をしている。明石海峡で[[播磨灘]]に、紀淡海峡で[[紀伊水道]]さらに[[太平洋]]へと通じる。水深は淡路島側が深く、明石海峡から紀淡海峡へ約1[[ノット]]の潮流が生じている。 南は[[紀淡海峡]]<ref group="注">[[和歌山市]]の[[田倉崎]]と淡路島の[[生石鼻]]を結ぶ線。</ref>、西北は[[明石海峡]]<ref group="注">淡路島の[[松帆崎]]と[[明石市]]の朝霧川河口左岸を結ぶ線。</ref>及び[[本州]]<ref group="注">[[兵庫県]]・[[大阪府]]・[[和歌山県]]</ref>によって囲まれた[[海域]]であり、これは「大阪湾再生行動計画」<ref group="注">大阪湾再生推進会議:[[内閣官房]]都市再生本部事務局、[[国土交通省]]、[[農林水産省]]、[[経済産業省]]、[[環境省]]、大阪府などの沿岸[[地方公共団体|自治体]]。</ref>による定義である<ref>[http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/outline/outline_p02.aspx 大阪湾とは/大阪湾環境データベース]国土交通省近畿地方整備局(2018年2月15日閲覧)</ref>。 北岸と東岸は[[三大都市圏]]の一つである[[近畿圏]]の中心地で、沿岸部は[[阪神工業地帯]]を形成している。複数の大規模な[[港湾]]<ref group="注">西から時計回りに[[神戸港]]、[[尼崎西宮芦屋港]]、[[大阪港]]、[[堺泉北港]]、[[阪南港]]など。</ref>が並び、[[関西国際空港]]と[[神戸空港]]という二つの海上[[空港]]も建設されている。これらの工場・港湾・空港用地を確保するために[[埋立地]]の造成も盛んに行われ、空港島のほかにも様々な[[人工島]]<ref group="注">[[ポートアイランド]]や[[六甲アイランド]]、[[夢洲]]、[[舞洲]]、[[咲洲]]など。</ref>が並ぶ。また、[[ごみ]][[最終処分場]]として[[大阪湾広域臨海環境整備センター]]<ref group="注">大阪湾フェニックスセンター</ref>が設置され、近畿2府4県の160を超える自治体が共同利用している。 臨海部の埋立地には工場や物流・交通施設だけでなく、商業・娯楽施設<ref group="注">[[大阪海遊館]]や[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]など。</ref>、医療関連の施設・研究機関、マンションなども立地している。 == 自然環境 == 大阪の別称「なにわ」は「魚(な)庭」を語源とする説があるほど、[[魚介類]]が豊富な海域として古来知られていた。流入する[[武庫川]]、[[猪名川]]、淀川、[[大和川]]、[[大津川 (大阪府)|大津川]]などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。[[クロダイ|黒鯛]]がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。 しかし、都市圏に隣接する[[閉鎖性水域]]であり<ref group="注">沿岸の人口が多く、埋め立てなど地形の破壊もふくめた経済活動も活発である。</ref>、比較的早い時期から水質悪化などの[[環境問題]]が生じた。[[第二次世界大戦]]後に進んだ沿岸の開発や都市化で[[干潟]]など自然海岸の消失や水質汚濁が進んだが<ref>[http://www.osakagyoren.or.jp/naniwa/index.html 大阪湾について]大阪府漁業協同組合連合会(2018年2月15日閲覧)</ref>、現在でも[[大阪府]]の泉州地方の南部や[[神戸市]]の[[須磨区]]や[[垂水区]]、淡路島の東岸には比較的に自然に近い海岸も残されており、[[海水浴場]]などの行楽地や[[漁港]]が点在し、[[漁業]]やマリンスポーツとしての[[釣り]]が行われている。 [[生態系]]の破壊や環境破壊が深刻化する以前は、[[鯨類]]<ref group="注">[[セミクジラ]]などの[[ヒゲクジラ]]類や[[シャチ]]や[[イルカ]]や[[スナメリ]]。</ref><ref name=Minami>{{cite web|author=|date=2010-12|url=http://www.minami-net.jp/?p=726 |title=ナミを東西に貫く地下街 ~「なんばウォーク」をあるく~|work=ミナミまちある記|pages=|website=ミナミまち育てネットワーク事務局|access-date=2023-11-18}}</ref><ref>村上晴澄, [https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/666/666PDF/murakami.pdf 今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』にみる鯨島](PDF), [[立命館大学]]</ref><ref name=Shikoku>[https://web.archive.org/web/20150623231438/http://www.shikoku-np.co.jp/feature/rensa/3/3/ クジラがいた(下)「受難の海」変わらず]</ref><ref name=Sumasui>[https://www.city.kobe.lg.jp/documents/33639/umisui201503.pdf スマスイいきもの History - シャチ(骨格標本)]</ref>や[[ニホンアシカ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[日本放送協会|NHK]] 戦後証言アーカイブス|year=1948|title=日本ニュース 戦後編大117号 チャプター (6) 淀川にアシカ現る <時の話題>(1948年(昭和23年)4月6日)|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001310117_00000&chapter=006|accessdate=2020-05-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2010-01-18|url=http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/126379259331.html|title=人魚伝説 歴史探検隊江戸中期の鳴門に記録|work=ふるさと歴史探検隊|publisher=[[徳島新聞]] |accessdate=2010年4月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101017045012/http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/126379259331.html |archivedate=2010-10-17}}</ref>や[[ウミガメ]]や大型魚<ref group="注">[[サメ]]や[[クロマグロ]]など。</ref><ref name=ECO />が大阪湾を含む[[瀬戸内海]]に普遍的に回遊・分布していたとみられる。 近年でも、[[天然記念物]]の[[スナメリ]]<ref group="注">小型で背びれを持たない[[イルカ]]であり、瀬戸内海全体で激減したとされる。</ref>が[[関西国際空港]]周辺に定着し始めていると判明し<ref>{{cite web|author=|date=2023-05-21|url=https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230531/2000074117.html |title=大阪湾のスナメリ 調査に密着|work=関西 NEWS WEB|website=[[日本放送協会]]|access-date=2023-11-16}}</ref>、[[ウミガメ]]の産卵地点もいくつか存在し<ref>{{cite web|author=|date=2007-08-26|url=https://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/pdf/news/event/20070826.pdf |title=大阪湾周辺のウミガメの現状―産卵や砂浜の環境について― |work=みなとまちづくり生涯学習講座シリーズ うみ ふね みなと〔第4回〕|website=[[国土交通省]] 近畿地方整備局 港湾空港部|access-date=2023-11-16}}</ref>、[[ハセイルカ]]なども時折現れる<ref>{{cite web|author=加戸靖史|date=2019-01-07|url=https://www.asahi.com/articles/ASM1455LLM14PPTB00G.html |title=大阪)泉佐野沖にイルカの群れ 夏から大阪湾で目撃|work=|website=[[朝日新聞デジタル]]|access-date=2023-11-16}}</ref>。また、今でこそ瀬戸内海への通常の[[回遊]]こそ消滅したが、近代になってからも[[クジラ]]<ref name=Shikoku /><ref>{{cite web|author=|date=2023-01-11|url=https://www.mbs.jp/news/feature/kansai/article/2023/01/092696.shtml |title=【解説】淀川の"迷いクジラ"専門家「エサはほぼない」が「体に油...1か月ほど食べなくても生きられる」過去には2週間留まり自力で帰ったクジラも|work=|website=[[毎日放送]]|access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{cite web|author=|date=2011-10-10|url=https://web.archive.org/web/20111012091539/http://sankei.jp.msn.com/life/news/111010/trd11101001040000-n1.htm |title=海辺に思わぬ“珍客”大阪湾にクジラ出没|work=関西 NEWS WEB|website=[[日本放送協会]]|access-date=2023-11-16}}</ref>や[[シャチ]]<ref name=Sumasui />や[[サメ]]や[[クロマグロ]]<ref name=ECO>{{cite web|author=|date=2015-09-30|url=https://www.osaka-eco.ac.jp/contents/ecobiyori/2015/09/30/2117 |title=9月の出来事|work=|website=[[大阪ECO動物海洋専門学校]]|access-date=2023-11-16}}</ref>などの確認例<ref group="注">迷入、捕獲、[[混獲]]、漂着など。</ref>も存在し、特筆すべき事例もいくつか含まれる<ref group="注">[[ナガスクジラ]]や[[マッコウクジラ]]の漂着事例の2つは[[大阪市立自然史博物館]]に骨格標本が展示されている。</ref><ref group="注">通常は[[オホーツク海]]や[[北極圏]]にしか生息しない[[ホッキョククジラ]]が[[1969年]]に[[淀川]]の[[河口]]で捕獲されており、これは同種の迷入では世界最南端の記録であり、生体の記録は国内初確認であった。</ref><ref>{{cite web|author=|date=|url=https://www.omnh.jp/language/ja/guide/column-makko.html |title=電子版 博物館電子ブック・関連コラム - 「ナガスクジラ」「マッコウクジラ」|work=|website=[[大阪市立自然史博物館]]|access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{cite web|author=|date=|url=http://www.osakagyoren.or.jp/naniwa/index.html |title=大阪湾について|work=|website=大阪府漁業協同組合連合会|access-date=2023-11-16}}</ref>。 <gallery> Objects in Namba Walk.JPG|かつては大阪湾でも見られたとされる[[セミクジラ]]<ref name=Minami />を模した[[なんばウォーク]]のオブジェ。 PXL 20230117 075441442.jpg|[[2023年]]に[[淀川]]河口に漂着した[[マッコウクジラ]]の「[[淀ちゃん]]」。 </gallery> == 歴史 == === 交易の海 === [[画像:Osakaharbornorth-2.jpg|thumb|300px|[[大阪港]]]] [[画像:Rokko Tenrandai Night View.jpg|thumb|300px|六甲山天覧台(六甲山上展望台)のパノラマ夜景写真]] 古称の「茅渟の海」は、[[日本神話]]の[[神武東征]]において、[[神武天皇]]の兄の[[五瀬命]]が[[矢]]を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから「血沼(ちぬ)の海」と呼んだことが由来となっている。 [[瀬戸内海]]航路の起点として、古代の[[朝廷 (日本)|朝廷]]は淀川の河口に[[難波津]]や[[住吉津]]などを置いた。これらは[[シルクロード]]の日本の玄関口となり、[[遣隋使]]や[[遣唐使]]の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄えた。内陸の[[飛鳥]]や[[平城京]]、[[平安京]]とは河川舟運で結ばれ、さらに陸路で東日本へ繋がっていた。また国が対外的に開かれた時期は[[難波宮]]や[[難波京]]、[[福原京]](計画)などの都が置かれた。 淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて[[天皇]]が[[即位]]する際に斎行されていた[[八十嶋祭]]の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。[[平安時代]]後期においては、<!--[[嵯峨源氏]]の流れを汲み、[[摂津国]][[渡辺]]([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]])に住み、[[渡辺津]]を本拠地とした-->[[渡辺綱]](源綱)を祖とする[[渡辺氏]]が、[[滝口]]武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、[[瀬戸内海]]の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の[[松浦氏]]である。 平安時代末期には[[平清盛]]が[[大輪田泊]]を修築拡大して[[日宋貿易]]の拠点とした。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[兵庫津]]や[[堺泉北港#歴史|堺港]]が[[日明貿易]]と[[南蛮貿易]]で栄えた。西日本の交通の要衝であるため交易だけでなく、戦国時代には度々戦場となった([[木津川口の戦い]])。[[鎖国]]で対外交易が途絶えた[[江戸時代]]には[[旧淀川|安治川]]口・[[木津川 (大阪府)|木津川]]口が繁栄して[[北前船]]、[[樽廻船]]、[[菱垣廻船]]などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。 近現代の[[海軍省]]や[[海上保安庁]]が刊行する[[海図]]においては、[[1954年]]まで別称の「和泉灘」と表記されており、以降も[[1966年]]まで「大阪湾(和泉灘)」と併記されていた。 *[[1173年]] [[平清盛]]が[[大輪田泊]](現在の神戸港)を改修 *[[1868年]] [[大阪港]]及び[[神戸港]]が開港 *[[1966年]] [[ポートアイランド]]着工 *[[1994年]] [[関西国際空港]]が開港 *[[1998年]] [[明石海峡大橋]]が供用開始 *[[2006年]] [[神戸空港]]が開港 === 景勝地 === 淀川以南には、住吉の浜や高師浜など[[白砂青松]]の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。[[天智天皇]]の子の[[長皇子]]が住吉の浜の[[安立|霰松原]]の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「[[住吉模様]]」は、[[住吉大社]]の社前の景色を図案化したものである。 [[堺市|堺]]以南には[[明治]]以降に多くの海水浴場が設置され、海浜リゾート地として賑わっていたが、[[高度成長期]]に工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。 現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる[[六甲山地]]の[[掬星台]]が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。 === 工業地帯と将来 === [[画像:Industrial-Town-of-Takaishi001.JPG|thumb|300px|[[堺泉北臨海工業地帯]]]] 大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また、[[堺泉北臨海工業地帯]]などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも[[1980年代]]以降の産業構造の変化に対応しきれない状態があった。 現在は官民協力で湾岸の再生が構想されており[[シャープ]]が堺市[[堺区]]の[[新日本製鐵堺製鐵所]]の高炉跡に[[液晶]]パネル工場、[[パナソニック]]が[[尼崎市]]に[[プラズマ]]パネル工場を建設している。また、パナソニックが[[大阪市]][[住之江区]]の[[関西電力]]大阪発電所跡地に、[[三洋電機]]が[[貝塚市]]に[[リチウムイオン電池]]工場を建設している。 堺市付近は[[新エネルギー]]の開発拠点ともなっており、堺市[[西区 (堺市)|西区]]には[[バイオエタノール・ジャパン・関西]]の稼動、関西電力による大型太陽光発電所が建築中である。 == 交通 == 本土と淡路島とは1949年(昭和24年)から1999年まで兵庫県洲本市 - 大阪府[[岬町]]間に定期航路「洲本 - [[深日港|深日]]航路」があった<ref name="kobe-np20210601">[https://www.kobe-np.co.jp/news/awaji/202106/0014375885.shtml 洲本-深日航路、復活へ実験最終年度 26日から土日祝に運行] [[神戸新聞]]、2021年6月1日閲覧。</ref>。2017年から航路の復活の社会実験を行う「深日洲本ライナー」が運航されている<ref name="kobe-np20210601" />。 == 環境問題 == 自然砂浜の消失、水質汚濁、生物多様性の低下などの問題がある<ref name="kkr" />。 === 海底の環境 === *[[1980年代|1970]] - [[1980年代]]にかけて[[埋め立て]]などの理由で海底の土砂が大量に削られたため海底に窪地ができている。この窪地は湾内に十数個あり、面積は最大で約126[[ヘクタール]]、深さは約12[[メートル]]に及ぶ。近年、ここから浮上する[[酸素]]濃度の低い[[海水]]などが原因となって[[青潮]]の被害が発生しているため、大阪府は[[阪神港]]の[[浚渫]]で生じる土砂で埋めもどすことを検討している<ref>朝日新聞 2006年5月19日付 朝刊、社会面、P.28</ref>。 *海面の浮遊ゴミ撤去など大阪湾の環境保全は進んでいるが、古くからの工業都市である大阪から流れ出した有害物質は[[ヘドロ]]となって水底に堆積しており<ref>昭和46年版公害白書</ref>(詳細は「[[底質汚染]]」を参照)、かつては[[ダイオキシン類]]の[[底質]][[環境基準]]の超過が湾内各地であったが、現在は徐々に低減している(調査地点の一つである神崎川河口では2004年まで環境基準(150pg-TEQ/g)を超過していたが、2005年は環境基準以下の100pg-TEQ/gとなった)<ref>[http://www.env.go.jp/chemi/dioxin/report.html ダイオキシン類対策・環境・施設の状況・環境の各年度ダイオキシン類に係る環境調査結果]</ref>。但し、大阪湾に流入する[[水質]]の改善に比べて大阪湾の水質の改善が遅れているのは、底質汚染が要因の一つとされている(大阪市港湾部や神戸遠矢浜の[[底質汚染]]が調査され測定結果が公開されている<ref>[http://www.epcc.pref.osaka.jp/books/hakusho/h18/main/index.html 平成18年版大阪府環境白書]</ref>)。 *大阪湾の[[海底]]環境は全国的に見て悪い状態にあり、[[2007年]]から[[2008年]]に行なった[[環境省]]の調査では推定で1[[平方キロメートル]]当たり約210[[キログラム]]ものゴミが沈んでいることがわかった<ref>朝日新聞 2008年2月14日付 朝刊、社会面、P.29</ref>。 === 大阪湾の水質 === * 環境基本法(環境省,1993) に基づく利用目的の適応性に応じた海域別の類型指定がなされ、それぞれCOD基準値が定められている。湾口部から湾奥部に向かって A、B、C の順で 3類型が指定され、それぞれのCOD基準値は、水浴、自然環境保全を利用目的としたA類型では 2 mg/L、工業用水を利用目的としたB類型では 3mg/L、環境保全を利用目的とした C 類型では 8 mg/Lとされた。 * 大阪湾の沿岸域における水質の変動傾向については、過去約 20 年で全窒素、全リンともに減少傾向にあるにもかかわらず、COD は低下していないことが報告されている(藤原,2014;環境省,2019; 大阪湾再生推進会議,2021;藤原ほか,2021)。このような現象は総量規制が行われてきた他の沿岸域にもみられる現象であるが,いずれも決定的な原因は明らかになっていない。 * 総量規制の効果は、大阪湾内全体で一様に進行するのではなく、河川からの負荷の影響が海域によって、また、COD、窒素、リンそれぞれによっても異なって発現し、それには湾内における内部生産が影響していることが示唆されている<ref>{{Cite journal|last=坂田|first=晴香|last2=中川|first2=耕三|last3=北澤|first3=健二|last4=山本|first4=澪|last5=森|first5=航大|last6=高柳|first6=和史|last7=菊田|first7=昌義|last8=合田|first8=賀彦|last9=立花|first9=義裕|date=2022|title=2004–2018 年の夏季における大阪湾の水質特性の変遷: 河川負荷と Cod 濃度に焦点を当てて|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/lamer/59/3-4/59_79/_article/-char/ja/|journal=La mer|volume=59|issue=3-4|pages=79–100|doi=10.32211/lamer.59.3-4_79}}</ref>。 === 合流式下水道越流水問題 === 雨水も家庭排水などの下水も、下水道を通じて下水処理場まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での大腸菌数の増加など、環境影響が発生している。 == 災害リスク == 江戸時代以前には、大阪市街にも[[津波]]が襲来した記録がある<ref>[https://web.archive.org/web/20130429012200/https://www.nhk.or.jp/sonae/column/20121014.html 大阪を襲った歴史津波]NHK そなえる防災 コラム(2018年2月15日閲覧)</ref>。大阪府と兵庫県は、[[南海トラフ巨大地震]]を想定した津波[[ハザードマップ]]を作成・公表している<ref>[http://www.pref.osaka.lg.jp/kikikanri/keikaku_higaisoutei/tunami_soutei.html 大阪府津波浸水想定](2018年2月15日閲覧)</ref><ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk37/nantorashinsuisouteizu.html 南海トラフ巨大地震津波浸水想定図]兵庫県(2018年2月15日閲覧)</ref>。 == 沿岸の自治体 == *[[兵庫県]] *:[[洲本市]]、[[淡路市]]、[[明石市]]、[[神戸市]]([[垂水区]]・[[須磨区]]・[[長田区]]・[[兵庫区]]・[[中央区 (神戸市)|中央区]]・[[灘区]]・[[東灘区]])、[[芦屋市]]、[[西宮市]]、[[尼崎市]] *[[大阪府]] *:[[大阪市]]([[西淀川区]]・[[此花区]]・[[港区 (大阪市)|港区]]・[[大正区]]・[[住之江区]])、[[堺市]]([[堺区]]・[[西区 (堺市)|西区]])、[[高石市]]、[[泉大津市]]、[[忠岡町]]、[[岸和田市]]、[[貝塚市]]、[[泉佐野市]]、[[田尻町]]、[[泉南市]]、[[阪南市]]、[[岬町]] *[[和歌山県]] *:[[和歌山市]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[大阪湾見守りネット]] *[[瀬戸内海]] *[[淡路島]] == 外部リンク == {{Commonscat|Osaka Bay}} * [http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/ 大阪湾環境データベース] - 国土交通省近畿地方整備局 * [https://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/ 第五管区海上保安本部] ** [https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN5/kankyo/kankyotop.htm 大阪湾環境保全調査] - [[第五管区海上保安本部]] * [https://www.kkr.mlit.go.jp/plan/suishin/ 大阪湾再生推進会議] * [http://www.o-bay.or.jp/ 一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構] * [https://www.osaka-wan.jp/ 大阪湾環境保全協議会] * [http://www.pref.osaka.lg.jp/bu_kowan/ 大阪港湾局] - 大阪府 * [http://www.kannousuiken-osaka.or.jp/shisetsu/suisan/ 大阪府水産技術センター] - 大阪府立環境農林水産総合研究所 * [https://www.city.kobe.lg.jp/a74134/shise/about/construction/soshiki/1700/index.html 港湾局] - 神戸市 * [http://www.osakawan.or.jp/ 大阪湾沿岸域環境創造研究センター] * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC1000000110 大阪湾臨海地域開発整備法(平成四年法律第百十号)] <!-- 1998年6月2日公布、2000年4月1日施行版を閲覧。--> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおさかわん}} [[Category:大阪湾|*]] [[Category:瀬戸内海]] [[Category:大阪府の地形]] [[Category:兵庫県の地形]] [[Category:和歌山県の地形]]
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6,044
1861年
1861年(1861 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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1861年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1861}} {{year-definition|1861}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[辛酉]] * [[日本]]([[天保暦]]) ** [[万延]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]] - 万延2年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]、[[文久]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]] - 文久元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]] ** [[皇紀]]2521年 * [[清]] ** [[咸豊]]10年11月21日 - 咸豊11年12月1日  * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4194年 <!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし--> * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[嗣徳]]14年  * [[仏滅紀元]]:2403年 - 2404年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1277年6月18日 - 1278年6月28日 * [[ユダヤ暦]]:5621年4月19日 - 5622年4月28日 * [[修正ユリウス日]](MJD):776 - 1140 * [[リリウス日]](LD):101617 - 101981 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1861}} == できごと == === 1月 === * [[1月2日]] - プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]が崩御し、[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が即位 * [[1月11日]] - [[ベニート・フアレス]]が[[メキシコシティ]]に入る * [[1月14日]](万延元年12月4日) - 米国駐日総領事館の通弁官[[ヘンリー・ヒュースケン]]が攘夷派薩摩藩士に殺害される * [[1月10日]] - 中国で[[総理各国事務衙門]]創設 * [[1月24日]](万延元年12月14日) - [[日普修好通商条約]]調印 * [[1月29日]] - 米国で[[カンザス州|カンザス]]が34番目に州となる === 2月 === * [[2月]] - [[オーストリア帝国]]憲法発布 * [[2月4日]] - [[南北戦争]]: 南部7州が[[アメリカ連合国]]を設立、独立を宣言。 * [[2月18日]] - [[南北戦争]]: [[ジェファーソン・デイヴィス]]が[[アメリカ連合国]]の大統領に就任 * [[2月28日]] - [[コロラド準州]]が成立。 === 3月 === * [[3月3日]] - [[ロシア帝国]]で[[農奴解放令]] * [[3月4日]] ** [[エイブラハム・リンカーン]]が第16代米大統領に就任 ** [[南北戦争]]: [[アメリカ連合国の国旗]]として"The Stars and Bars"が採用される * [[3月13日]](万延2年2月3日) - [[ロシア軍艦対馬占領事件]]: ロシア軍艦[[ポサードニク (コルベット)|ポサードニク]]号が対馬の尾崎湾に来航 * [[3月17日]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]による[[イタリア王国]]の成立宣言 * [[3月28日]](文久元年2月19日) - [[元号]]が万延から文久に[[改元]] * [[3月30日]] - [[ウィリアム・クルックス]]が[[タリウム]]を発見 === 4月 === * [[4月12日]] - [[南北戦争]]: [[サムター要塞の戦い]]により戦争勃発 * [[4月13日]](文久元年3月4日) - [[ロシア軍艦対馬占領事件]]: ポサードニク号が芋崎浦に投錨し永住の構えをみせる === 5月 === * [[5月]] - [[フレデリック・タウンゼント・ウォード]]、[[常勝軍]]を再組織 === 6月 === * [[6月1日]] - [[ドイツ進歩党]]結党 * [[6月22日]](文久元年5月15日) - 長崎大浦居留地に日本初の[[ボウリング場]]が開設 === 7月 === * [[7月1日]] - [[バチカン]]新聞[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]創刊 * [[7月2日]](文久元年5月25日) - [[ニコライ・カサートキン]]が[[箱館]]に上陸し[[正教会|正教]]を伝道 * [[7月5日]](文久元年5月28日) - 攘夷派水戸藩浪士らが英国駐日公使館([[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]])を襲撃([[東禅寺事件]]) * [[7月21日]] - [[南北戦争]]: [[第一次ブルランの戦い]] === 8月 === * 9月初旬 - [[ロシア軍艦対馬占領事件]]: [[ジェームズ・ホープ]]中将率いるイギリス支那方面艦隊が神奈川に入港、うち2隻を対馬に急行 * [[8月5日]] - [[アメリカ陸軍|米陸軍]]が[[鞭打ち]]刑を廃止 === 9月 === * [[9月29日]](文久元年8月25日) - [[ロシア軍艦対馬占領事件]]: ポサードニク号が芋崎浦を退去 === 10月 === * [[10月21日]] - [[南北戦争]]: [[ボールズブラフの戦い]] === 11月 === * [[11月7日]] - [[南北戦争]]: [[ベルモントの戦い]] * [[11月8日]] - [[南北戦争]]: [[トレント号事件]]起こる * [[11月11日]] - [[同治帝]]即位 * [[11月22日]](文久元年10月20日) - [[和宮親子内親王]]が[[徳川家茂]]との婚儀のため京都を出発 === 12月 === * [[12月8日]] - フランス皇帝[[ナポレオン3世]]、イギリス、スペインの[[メキシコ出兵]] * 12月、プロイセン衆議院総選挙。自由主義派の圧勝。政府派はほとんど議席取れず。 === 日付不詳 === * ドイツで[[始祖鳥]]の標本が発表される * [[ニコライ・ネクラーソフ]]が雑誌『ソヴレメンニク(Современник、同時代人)』で[[コロベイニキ]]を発表 == 誕生 == {{see also|Category:1861年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]](万延元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[原田豊吉]]、[[地質学者]](+ [[1894年]]) * [[1月12日]](万延元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])- [[半井桃水]]、[[小説家]](+ [[1926年]]) * [[1月14日]] - [[メフメト6世]]、[[オスマン帝国]]第36代[[スルタン]](+ [[1926年]]) * [[1月26日]] - [[ルイ・アンクタン]]、[[画家]](+ [[1932年]]) * [[1月31日]](万延元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[池田輝知]] - 侯爵、旧[[鳥取藩]]主[[池田氏]]第13代当主、[[徳川慶喜]]の甥(+ [[1890年]]) * [[2月15日]] - [[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、[[哲学者]]・数学者(+ [[1947年]]) * 2月15日 - [[ハルフォード・マッキンダー]]、[[地理学者]]・[[政治家]](+ [[1947年]]) * [[2月17日]] - [[スタンプ・ウィードマン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1905年]]) * [[2月25日]] - [[サンティアゴ・ルシニョール]]、画家(+ [[1931年]]) * [[2月26日]] - [[ファンニ・ブラーテ]]、画家(+ [[1940年]]) * [[2月27日]] - [[ルドルフ・シュタイナー]]、[[神秘思想家]](+ [[1925年]]) * [[3月26日]](万延2年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[内村鑑三]]、[[キリスト教]][[思想家]](+ [[1930年]]) * [[4月1日]](文久元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[加藤友三郎]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]・第21代[[内閣総理大臣]](+ [[1923年]]) * [[4月14日]] - [[ジョン・カーティー]]、[[電子工学]]者(+ [[1932年]]) * [[5月6日]] - [[ラビンドラナート・タゴール]]、[[詩人]](+ [[1941年]]) * [[6月17日]] - [[ピート・ブラウニング]]、メジャーリーガー(+ [[1905年]]) * [[7月1日]] - [[ジョン・クラークソン]]、メジャーリーガー(+ [[1909年]]) * [[7月15日]](文久元年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[広津柳浪]]、小説家(+ [[1928年]]) * [[7月17日]](文久元年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[ラグーザ玉]]、画家(+ [[1939年]]) * [[7月20日]](文久元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[白瀬矗]]、[[探検家]](+ [[1946年]]) * [[8月8日]] - [[ウィリアム・ベイトソン]]、[[遺伝学者]](+ [[1926年]]) * [[10月1日]] - [[フィリップ・バーン=ジョーンズ]]、[[画家]](+ 1926年) * [[10月9日]] - [[アンリ・プリヴァ=リヴモン]]、画家(+ [[1936年]]) * [[10月10日]] - [[フリチョフ・ナンセン]]、[[科学者]]・[[探検家]](+ [[1930年]]) * [[10月12日]](文久元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]) - [[藤沢利喜太郎]]、[[数学者]](+ [[1933年]]) * [[10月13日]](文久元年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[中橋徳五郎]]、政治家・[[実業家]](+ [[1934年]]) * [[10月23日]] - [[ジェイムズ・ガスコイン=セシル (第4代ソールズベリー侯爵)]] - イギリスの政治家・貴族(+ [[1947年]]) * [[10月30日]] - [[アントワーヌ・ブールデル]]、[[彫刻家]](+ [[1929年]]) * [[11月6日]] - [[ジェームズ・ネイスミス]]、[[バスケットボール]]考案者(+ [[1939年]]) * [[11月13日]](文久元年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[武内桂舟]]、[[挿絵]][[画家]](+ [[1942年]]) * [[11月24日]](文久元年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - [[牧野伸顕]]、政治家(+ [[1949年]]) * [[11月25日]] - [[フィリス・アレン]]、[[俳優|女優]](+ [[1938年]]) * [[12月8日]] - [[アリスティド・マイヨール]]、[[彫刻家]]・[[画家]](+ [[1944年]]) * 12月8日 - [[ウィリアム・C・デュラント]]、[[ゼネラルモーターズ]]創業者(+ [[1947年]]) * [[12月16日]](文久元年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]])- [[落合直文]]、[[国文学者]]・[[歌人]](+ [[1903年]]) * [[12月19日]] - [[コンスタンス・ガーネット]]、[[翻訳家]](+ [[1946年]]) * 杉村文一-日本のテロリスト * '''瀬田宗次郎-'''十本刀の一人 == 死去 == {{see also|Category:1861年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月20日]] - [[ウジェーヌ・スクリーブ]]、[[劇作家]]・[[小説家]](* [[1791年]]) * [[3月10日]] - [[タラス・シェフチェンコ]]、[[詩人]]・[[画家]](* [[1814年]]) * [[3月16日]] - [[ジョン・スティーブンス・ヘンズロー]]、[[植物学者]]・[[地質学者]](* [[1796年]]) * [[3月30日]] - [[ルイ・コルディエ]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](* [[1777年]]) * [[4月4日]] - [[ジョン・マクレーン (郵政長官)|ジョン・マクレーン]]、第9代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1785年]]) * [[4月8日]] - [[エリシャ・オーチス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Elisha-Otis Elisha Otis American inventor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、発明家 (*[[1811年]]) * [[4月14日]] - [[歌川国芳]]、[[浮世絵師]](*[[1798年]]) * [[7月19日]] - [[ミケーレ・テノーレ]]、[[植物学者]](* [[1780年]]) * [[10月25日]] - [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]、[[法学者]](* [[1779年]]) * [[11月26日]] - [[ヴィルヘルム・ヘンゼル]]、[[画家]](* [[1794年]]) * [[12月14日]] - [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]、[[イギリス]]の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の夫(* [[1819年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1861}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1861ねん}} [[Category:1861年|*]]
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アレイスター・クロウリー
アレイスター・クロウリー(アリステア・クローリイ、Aleister Crowley 発音、1875年10月12日 - 1947年12月1日)は、イギリスのオカルティスト、儀式魔術師、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱し『法の書』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。 クロウリーは、英国ウォリックシャー州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。キリスト教福音主義の一派プリマス・ブレザレンの敬虔な信徒であった両親の方針により、教派運営の寄宿学校で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な(年齢にそぐわず勇敢で、家族に対しては無心があった)性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に深く尊敬する父親と死別した事も彼を大きく打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。 父が残した莫大な遺産を相続し、1895年にケンブリッジ大学に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「黄金の夜明け団」に参入したクロウリーは、先輩団員アラン・ベネット(英語版)の指導下で数々の秘儀知識を習得した。また彼の影響で同団の首領であるマグレガー・マサースに師事するようになった。1900年春に発生した団内の内紛で師匠マサースと共に黄金の夜明け団を追放されると、ネス湖の畔に購入した邸宅で半ば隠棲してアブラメリン魔術の実践に着手したという。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、また登山史に残るK2登頂にも挑戦している。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトのカイロで魔術儀式を行い、その中でアイワスと名乗る霊的存在からの幻聴を『法の書』として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求するセレマ思想提唱の起点になった。 1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、セレマ思想の価値を巡る論争からマサースと対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。この間にマサースによる魔術攻撃を受けて不幸に見舞われたと手記に残しているが、同年夏の長女リリスの誕生によって彼は喜びに包まれている。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、ヒマラヤ山脈でカンチェンジュンガ登頂に挑戦し、またビルマの黄金の三角地帯では阿片の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこでチフス熱に感染したのが原因だった。愛娘を失ったクロウリーの悲嘆の矛先はローズに向けられてしまい、二人の仲も急速に冷え込んだ。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。 1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「銀の星」を結成した。自身を魔術師エリファス・レヴィの生まれ変わりと称してセレマ思想の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年にアルコール依存症に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。直後のアルジェリア滞在で成された悪魔コロンゾンの召喚儀式は近代魔術史に残る事象とされている。1912年になるとドイツのオカルト団体「東方聖堂騎士団」の指導者テーオドール・ロイス(英語版)に見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者と書き立てられた。その理由の一つとなった事象に、パリ作業と呼ばれるホモセクシュアルをモチーフにしたメルクリウス召喚儀式がある。1914年、東方聖堂騎士団の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされている。ようやく帰国したクロウリーは1920年に念願のセレマ修道院(英語版)をシチリア島に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を開始した。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。 イタリアを追われた後のクロウリーは、チュニジアに向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。1923年に死去した東方聖堂騎士団の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂騎士団の同志に招かれての活動を続けた。彼の高名ないし悪名が鳴り響く中で、1928年に後の魔術研究家イスラエル・リガルディーを秘書として迎え入れている。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して東方聖堂騎士団の運営に力を注ぐようになった。セレマ思想の伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産は幾度も底を突いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こしてそれも資金源にしている。1933年のナチス政権成立による社会統制の強化で東方聖堂騎士団の活動も困難になると、クロウリーはドイツでの後事をカール・ゲルマー(英語版)に託してイギリスに帰国した。 1935年にクロウリーは自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、執筆活動の方は精力的に続けられており、1938年からトート・タロットの制作に取り組んでいる。すでに還暦を過ぎており無一文になり果てていたクロウリーは、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。1939年に第二次世界大戦が勃発し翌年から始まったロンドン大空襲の難を避けて、クロウリーはデヴォン州トーキーに移住した。この大戦中に東方聖堂騎士団は壊滅状態になり、銀の星もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、トート・タロットが完成しその解説書『トートの書』が上梓された。同時期に後の儀式魔術家ケネス・グラントを秘書にしている。この頃のクロウリーは慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。終戦後、イーストサセックス州に転居したクロウリーは、その波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に同州沿海の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。時に1947年12月1日、享年72歳であった。 生前のクロウリーは麻薬常習やバイセクシャルといった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、カウンターカルチャーに大きな影響を与えた稀有の人物として、スピリチュアルからヒッピー文化、はたまたニューエイジ運動に到るまでの近現代思想史に特にその名を刻まれることになった。また、彼の遺産「汝の意志することを行なえ」をモットーとするセレマ思想は、その後のウィッカ、ネオペイガニズム、ケイオスマジック、そしてサタニズムの根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。 数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、タロット愛好者の間では名作トート・タロットの考案者として知られている。ヘヴィメタルファンには、オジー・オズボーンのアルバム『ブリザード・オブ・オズ』に収録されている「ミスター・クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、映画監督のケネス・アンガーらがいる。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにもクロウリーの肖像が見られる。 魔術結社内で用いられる個人名。ラテン語の銘(モットー)を用いることが多い。 日本語訳されたもののみ記載。 小説 漫画 アダルトアニメ ゲーム テレビドラマ 音楽
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アレイスター・クロウリーは、イギリスのオカルティスト、儀式魔術師、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱し『法の書』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。
{{出典の明記|date=2019-02-24}} {{Infobox 作家 | name = アレイスター・クロウリー<br>Aleister Crowley | image = Aleister Crowley as Baphomet X° O.T.O.jpg | caption = [[東方聖堂騎士団|O.T.O]]グランドマスター在任時(1919年) | pseudonym = <!--ペンネーム--> | birth_name = Edward Alexander Crowley | birth_date = {{生年月日と年齢|1875|10|12|no}} | birth_place = 英国[[ウォリックシャー]]州[[レミントン・スパー]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1875|10|12|1947|12|1}} | death_place = 英国[[イーストサセックス]]州[[ヘイスティングス]] | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = オカルティスト、著述家、登山家 | nationality = {{GBR}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> | alma_mater = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]] | period = <!--作家としての活動期間、処女作出版から最終出版まで--> | genre = <!--全執筆ジャンル--> | subject = | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = [[セレマ]] | notable_works = [[トート・タロット]]<br/>『[[法の書]]』 | spouse = ローズ・イーディス・ケリー | partner = | children = | relations = | influences = [[エリファス・レヴィ]]、[[H・P・ブラヴァツキー]]、[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マサース]]、{{仮リンク|チャールズ・ヘンリー・アラン・ベネット|label=アラン・ベネット|en|Charles Henry Allan Bennett}} | influenced = [[イスラエル・リガルディー|イズレエル・レガーディー]]、[[ダイアン・フォーチュン|ディオン・フォーチュン]]、[[ジャック・パーソンズ]]、[[ケネス・グラント]]、{{仮リンク|ジェラルド・ヨーク|en|Gerald Yorke}}、{{仮リンク|チャールズ・スタンスフェルド・ジョーンズ|en|Charles Stansfeld Jones}}、{{仮リンク|チェスワフ・チンスキ|pl|Czesław Czyński}}、[[ロバート・アントン・ウィルソン]]、[[アントン・ラヴェイ|アントン・サンダー・ラヴィ]]、[[ケネス・アンガー]]、[[ジミー・ペイジ]]、[[ジェネシス・P・オリッジ]]([[サイキックTV]])、{{仮リンク|ジョン・バランス|en|John Balance}}([[COIL (イギリス)|コイル]])、{{仮リンク|デヴィッド・チベット|en|David Tibet}}([[カレント93]])、[[キリング・ジョーク]]、Rob “The Baron” Miller([[アメビックス]])、{{仮リンク|フィールズ・オブ・ザ・ネフィリム|en|Fields of the Nephilim}} | awards = <!--主な受賞歴--> | debut_works = <!--処女作--> | signature = <!--署名・サイン--> | footnotes = <!--脚注・小話--> }} '''アレイスター・クロウリー<ref>[https://www.futabasha.co.jp/book/97845753037420000000?type=1 世界の悪魔ミステリー]{{出典無効|date=2019-10-17}}</ref>'''(アリステア・クローリイ<ref>青木日出夫 (1997). 悪魔がつくった世界史. 河出書房新社. pp.88-</ref>、''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[イギリス]]の[[神秘学|オカルティスト]]、[[近代魔術|儀式魔術師]]、著述家、[[登山家]]。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。[[スピリチュアリティ|スピリチュアル哲学]]の[[セレマ|セレマ思想]]を提唱し『[[法の書]]』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。 == 経歴 == === 1875 - 1904年(少年 - 青年期) === クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。キリスト教[[福音主義]]の一派[[プリマス・ブレザレン]]の敬虔な信徒であった両親の方針により、教派運営の寄宿学校で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な(年齢にそぐわず勇敢で、家族に対しては無心があった)性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に深く尊敬する父親と死別した事も彼を大きく打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。 [[File:Aleister Crowley 1902 K2.jpg|thumbnail|[[K2]]遠征時のクロウリー、1902年]] 父が残した莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入したクロウリーは、先輩団員{{仮リンク|チャールズ・ヘンリー・アラン・ベネット|en|Charles Henry Allan Bennett|label=アラン・ベネット}}の指導下で数々の秘儀知識を習得した。また彼の影響で同団の首領である[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マサース]]に師事するようになった<ref name="Drury">Drury, Nevill (2011). ''Stealing Fire from Heaven: The Rise of Modern Western Magic''. Oxford University Press. p.83.</ref>。1900年春に発生した団内の内紛で師匠マサースと共に黄金の夜明け団を追放されると、[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲して[[術士アブラメリンの聖なる魔術の書|アブラメリン魔術]]の実践に着手したという。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、また登山史に残る[[K2]]登頂にも挑戦している。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在からの幻聴を『[[法の書]]』として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点になった。 === 1904 - 1923年(壮年期) === [[ファイル:Crowley Family.png|サムネイル|282x282px|クロウリーと妻ローズ、息女ローラ|代替文=]] 1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争からマサースと対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。この間にマサースによる魔術攻撃を受けて不幸に見舞われたと手記に残しているが、同年夏の長女リリスの誕生によって彼は喜びに包まれている。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、ヒマラヤ山脈で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。愛娘を失ったクロウリーの悲嘆の矛先はローズに向けられてしまい、二人の仲も急速に冷え込んだ。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。 1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称してセレマ思想の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。直後の[[アルジェリア]]滞在で成された悪魔[[コロンゾン]]の召喚儀式は近代魔術史に残る事象とされている。1912年になるとドイツのオカルト団体「[[東方聖堂騎士団]]」の指導者{{仮リンク|テーオドール・ロイス|en|Theodor Reuss}}に見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。その理由の一つとなった事象に、パリ作業と呼ばれる[[ホモセクシュアル]]をモチーフにした[[メルクリウス]]召喚儀式がある。1914年、東方聖堂騎士団の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされている。ようやく帰国したクロウリーは1920年に念願の{{仮リンク|セレマ修道院|en|Abbey of Thelema}}を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を開始した。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。 === 1923 - 1947年(中高年 - 老年期) === イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。1923年に死去した[[東方聖堂騎士団]]の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂騎士団の同志に招かれての活動を続けた。彼の高名ないし悪名が鳴り響く中で、1928年に後の魔術研究家[[イスラエル・リガルディー]]を秘書として迎え入れている。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して東方聖堂騎士団の運営に力を注ぐようになった。セレマ思想の伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産は幾度も底を突いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こしてそれも資金源にしている。1933年の[[ナチス政権]]成立による社会統制の強化で東方聖堂騎士団の活動も困難になると、クロウリーはドイツでの後事を{{仮リンク|カール・ゲルマー|en|Karl Germer |label=}}に託してイギリスに帰国した。 1935年にクロウリーは自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、執筆活動の方は精力的に続けられており、1938年から[[トート・タロット]]の制作に取り組んでいる。すでに還暦を過ぎており無一文になり果てていたクロウリーは、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。1939年に第二次世界大戦が勃発し翌年から始まった[[ロンドン大空襲]]の難を避けて、クロウリーは[[デヴォン]]州トーキーに移住した。この大戦中に東方聖堂騎士団は壊滅状態になり、[[銀の星]]もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、[[トート・タロット]]が完成しその解説書『トートの書』が上梓された。同時期に後の儀式魔術家[[ケネス・グラント]]を秘書にしている。この頃のクロウリーは慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。終戦後、[[イーストサセックス]]州に転居したクロウリーは、その波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に同州沿海の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。時に1947年12月1日、享年72歳であった。 === 没後の世評 === [[ファイル:Aleister Crowley abode of Chaos.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|混沌の邸宅]] 生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として、[[スピリチュアリティ|スピリチュアル]]から[[ヒッピー|ヒッピー文化]]、はたまた[[ニューエイジ|ニューエイジ運動]]に到るまでの近現代思想史に特にその名を刻まれることになった。また、彼の遺産「汝の意志することを行なえ」をモットーとする[[セレマ|セレマ思想]]は、その後の[[ウイッカ|ウィッカ]]、[[ネオペイガニズム]]、[[ケイオスマジック]]、そして[[サタニズム]]の根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。 数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「ミスター・クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』のアルバムジャケットにもクロウリーの肖像が見られる。 == 年譜 == * [[1875年]][[10月12日]] - 英国[[ウォリックシャー]]州[[レミントン・スパー|レミントンスパー]]の地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(''Edward Alexander'')と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派[[プリマス・ブレザレン]]の信徒であった。 * 1883年 - [[ブラザレン派]]の寄宿学校に入るが、1年余りで退学した。以降の彼は厳格なキリスト教教育に反発するようになる。 * 1887年 - 父エドワード死去。父を深く尊敬していたクロウリーはひどく打ちのめされ、非行にも手を染め始めたという。父が残した莫大な遺産は彼の後々までの活動資金になった。 * 189x年 - 二つの[[パブリックスクール]]に入退学した後に、イーストボーン・カレッジで化学を専攻した。 *1895年 - [[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学する。 * 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った隠秘学結社「[[黄金の夜明け団]]」のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。 * 1900年 - 黄金の夜明け団から追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、セイロン島を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。 *1902年 - インドからヒマラヤ山脈に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。 * 1904年 - 妻ローズと結婚。ハネムーン中にローズの妊娠が発覚。訪れたエジプトの[[カイロ]]で[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作『[[法の書]]』の内容となった。5月には[[マグレガー・メイザース|マサース]]と仲違いする。長女リリスことNuit Ma Ahathoor Hecate Sappho Jezebel Lilith誕生。 *1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後に、ビルマ、中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む。 *1907年 - 次女ローラことLola Zazaが誕生する。[[銀の星]](A∴A∴)を結成し、春秋分点(''The Equinox'')と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。[[ネス湖]]の畔で[[術士アブラメリンの聖なる魔術の書|アブラメリン魔術]]を実践する。 *1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し悪魔[[コロンゾン]]の召喚儀式を行なう。 *1912年 - [[東方聖堂騎士団]](O.T.O.)の指導者テーオドール・ロイスに見込まれて英国支部長となる。 *1913年 - 年末からフランスのパリで[[メルクリウス]]召喚儀式を行う。 *1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。 *1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。 *1923年 - 東方聖堂騎士団 (O.T.O.) の指導者ロイスが死去。その後、クロウリーがO.T.O.の首領職に就任し、その運営と発展に力を注いだ。 *1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。 *1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。 *1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。 *1933年 - カール・ゲルマーにドイツの東方聖堂騎士団を託してイギリスに帰国する。 *1938年 - 女流画家[[フリーダ・ハリス]]に[[トート・タロット]]の制作を依頼する。これは44年に完成した。 *1944年 - [[ケネス・グラント]]を秘書にする。クロウリーの著作遺産管理人になる作家ジョン・シモンズと出会う。なお、彼の息子は日本人女性と結婚したのでシモンズ本人も度々来日していたという。 *1947年12月1日 - 英国[[イーストサセックス]]州[[ヘイスティングス]]の地で死去。享年72歳。 == 魔法名 == 魔術結社内で用いられる個人名。ラテン語の銘(モットー)を用いることが多い。 * {{読み仮名|{{lang|en|Perdurabo}}|ペルデュラボー}}<!--ラテン語だが英語読み併記で特殊なラテン文字も含まないので言語コードを英語に指定--> ({{Unicode|0°&#61;0<sup>&#x25A1;</sup>}}, [[黄金の夜明け団|G∴D∴]]) - [[ラテン語]]で「われ耐え忍ばん」。 * {{読み仮名|{{lang|grc|ΟΥ ΜΗ}}|オミクロン・ユプシロン ミュー・エータ}} ({{Unicode|7°&#61;4<sup>&#x25A1;</sup>}}, [[銀の星|A∴A∴]]) * {{Lang|la|Vi Veri Vniversum Vivus Vici}} ({{Unicode|8°&#61;3<sup>&#x25A1;</sup>}}, A∴A∴) - ラテン語で「われ、真実の力によりて生きながらに万象に打ち克てり」。 * {{読み仮名|{{lang|en|To Mega Therion}}|ト・メガ・セリオン}}〔{{読み仮名|{{lang|grc|Τὸ Μεγα Θηρίον}}|ト・メガ・テーリオン}}〕({{Unicode|9°&#61;2<sup>&#x25A1;</sup>}}, A∴A∴) - [[ギリシア語]]で「大いなる獣」。 * {{読み仮名|{{lang|en|Baphomet}}|バフォメット}}({{Unicode|X°}}, [[東方聖堂騎士団|O.T.O.]]) == 著書 == 日本語訳されたもののみ記載。 * 『法の書』 Sor. Raven訳(O.T.O. Japan公式日本語訳、詳細は[[法の書]]の項を参照) * 『法の書』 [[島弘之]]・植松靖夫訳、[[国書刊行会]]、1983年、ISBN 978-4-336-02438-1 ** 『法の書 増補新訳』 植松靖夫訳、国書刊行会、2022年、ISBN 978-4-336-07319-8。普及版・愛蔵版が刊 * 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(上)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02590-6 * 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(下)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02594-4 ** (合本新装版)『魔術 - 理論と実践』 島弘之・植松靖夫・江口之隆訳、国書刊行会、1997年、ISBN 978-4-336-04043-5 * 『アレイスター・クロウリー著作集1 神秘主義と魔術』 島弘之訳、国書刊行会、1986年、ISBN 978-4-336-02615-6 * 『アレイスター・クロウリー著作集2 {{仮リンク|トートの書 (クロウリー)|label=トートの書|en|The Book of Thoth (Crowley)}}』 榊原宗秀訳、1991年、ISBN 978-4-336-03095-5 ** (新装版)『トートの書』 榊原宗秀訳、2004年、ISBN 978-4-336-04647-5 * 『アレイスター・クロウリー著作集3 麻薬常用者の日記』 [[植松靖夫]]訳、国書刊行会、1987年、ISBN 978-4-336-02616-3 **(改訳新装版)『麻薬常用者の日記』 国書刊行会(全3巻)、2017年 * 『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』 [[飯野友幸]]訳、国書刊行会、1988年、ISBN 978-4-336-02617-0 * 『アレイスター・クロウリー著作集5 777の書』 [[江口之隆]]訳、国書刊行会、1992年、ISBN 978-4-336-03096-2 ** (新装版)『777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、2013年、ISBN 978-4-336-05781-5 * 『ムーンチャイルド』 江口之隆訳、[[東京創元社]]〈[[創元推理文庫]]〉、1990年、ISBN 978-4-488-55201-5 * 『黒魔術の娘』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1991年、ISBN 978-4-488-55202-2 * 『アレイスター・クロウリーの魔術日記』 スティーヴン・スキナー編、江口之隆訳、「著作集 別巻2」国書刊行会、1998年、ISBN 978-4-336-03097-9 ===伝記研究=== *フランシス・キング『アレイスター・クロウリーの魔術世界』 山岸映自訳、「著作集 別巻1」国書刊行会、1987年 *[[ケネス・グラント]]『アレイスター・クロウリーと甦る秘神』 植松靖夫訳、「著作集 別巻3」国書刊行会、1987年 == 登場作品 == '''小説''' * [[トマス・ウィーラー]]『[[神秘結社アルカーヌム]]』 * [[ランダル・コリンズ]]『[[シャーロック・ホームズ対オカルト怪人]]』 * [[サマセット・モーム]]『[[魔術師 (小説)|魔術師]]』([[:en:The Magician (Maugham novel)|The Magician]]) - 魔術師オリヴァー・ハドゥーはクロウリーがモデル。 * [[コリン・ウィルソン]]『ジェラード・ソーム氏の性の日記』- 自称魔術師カラドック・カニンガムはクロウリーがモデル。 * [[鎌池和馬]]『[[とある魔術の禁書目録]]』 - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アレイスター本人が現代まで生き延びたという設定であり、作品の根幹を担うキーキャラクターである。アニメ版の担当[[声優]]は[[関俊彦]]。 '''漫画''' * [[氷室奈美]]『タロットウォーズ』 - 死後のクロウリーが幽体(アストラル体)で登場。 * [[星野桂]]『[[D.Gray-man]]』 - 吸血鬼のような[[エクソシスト]]がアレイスター・クロウリー三世という名で登場。作者はキャラクター設定において、「[[ユースケ・サンタマリア]]がモデルだ」と公言している。 * [[CLAMP]]『[[カードキャプターさくら]]』 - 精霊を封印するクロウカードの制作者クロウ・リードの名前のモデル。 * [[外薗昌也]]『[[犬神 (漫画)|犬神]]』 - 作中に登場する「23細胞」命名の由来となる「生命の樹宇宙論」の提唱者。 '''アダルトアニメ''' * 『[[Bible Black|新・バイブルブラック]]』 - アレイスターの孫娘、ジョディ・クロウリーが登場。 '''ゲーム''' * 『[[遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム]]』 - アレイスターをモデルにしたモンスター《召喚師アレイスター》や《魔導原典クロウリー》が存在する。 * 『[[真・女神転生II]]』 - 魔界ネツァクのボスとして登場。 '''テレビドラマ''' * 『[[木曜の怪談]]』 - 怪奇倶楽部の小学生編でクラスターに解説された。 '''音楽''' * 「Mr. Crowley」 - [[オジー・オズボーン]]の楽曲。アルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説]]』に収録。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Aleister Crowley}} {{Wikisource author}} * [[近代魔術]] * [[セレマ]] * [[黄金の夜明け団]] * [[銀の星]] * [[東方聖堂騎士団]] * [[法の書]] * [[アイワス]] * [[コロンゾン]] == 外部リンク == * {{Gutenberg author | id=Crowley,+Aleister | name=Aleister Crowley}} * {{Internet Archive author|name=Aleister Crowley}} * {{Librivox author |id=3219}} *[https://anima-mystica.net/imn/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC/biography/index/ アレイスター・クロウリー伝(anima mystica)] * [http://www.genpaku.org/skepticj/crowley.html The Skeptic's Dictionary 日本語版 アレイスター・クロウリーの項] {{100名の最も偉大な英国人}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くろうりい あれいすたあ}} [[Category:アレイスター・クロウリー|*]] [[Category:19世紀イングランドの著作家]] [[Category:20世紀イングランドの著作家]] [[Category:イングランドの自伝作家]] [[Category:神秘思想家]] [[Category:オカルティスト]] [[Category:オカルト作家]] [[Category:イングランド出身のLGBTの著作家]] [[Category:イングランド出身のLGBTのスポーツ選手]] [[Category:魔術師]] [[Category:黒魔術]] [[Category:西洋魔術の人物]] [[Category:セレマ]] [[Category:ヘルメス主義]] [[Category:新宗教の開祖]] [[Category:バイセクシュアルの著作家]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人物]] [[Category:ロイヤル・レミントン・スパ出身の人物]] [[Category:1875年生]] [[Category:1947年没]]
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精神世界
精神世界(せいしんせかい)は、ニューエイジと呼ばれる北米発の思潮に由来するもの、古今のオカルティズムや日本固有の霊学、「自己探求」や精神変容にかんする情報など、さまざまな思想が共存する雑多な文化領域である。「精神世界」という語は1970年代末頃から日本で使われるようになった。スピリチュアリティとも言葉として近縁関係にある。 北米のニューエイジ(およびその周辺領域)と日本の精神世界は、おおむね同等のカテゴリに属しているとみなすことができる。両者は同一ではないが、まったく無縁でもなく、多大な共通部分のある類似現象である。精神世界という用語は日本語圏以外では通用せず、欧米の研究者のあいだでは日本の精神世界はニューエイジとして総括される。 精神世界を研究対象にしてきた宗教学者の島薗進の推察によると、「精神世界」という言葉が使われ始めたのは1977年のことである。この年に阿含宗の関連会社である平河出版社から季刊『ザ・メディテーション』が創刊され、同年末の号に特集企画「精神世界の本・ベスト100」が掲載された。 書店の売場では、1978年に新宿の紀伊国屋書店で「インドネパール精神世界の本」というブックフェアが組まれたのが最初であった。これに続いて他の書店でも「精神世界の本」のフェアが行われ、やがて常設の「精神世界」コーナーが置かれるようになった。 『精神世界総カタログ』2000年版では、10588冊もの書籍が掲載されている。 島薗は、ニューエイジ運動という言葉を学術用語として用いるのは不適切だとして、日本の「精神世界」や欧米の「ニューエイジ」を「通文化的」に総括する「新霊性運動」もしくは「新霊性文化」という用語を作った。この定義からすると、精神世界とニューエイジはともに新霊性運動の部分集合である。 精神世界とニューエイジはそれぞれ日本発、北米発の地域的文化であったが、これらはゆるやかに関連しあう同時多発的な現象であり、自生的かつ多元的に展開するグローバルな運動群として捉える必要があると島薗進は論じている。新霊性運動は、そのような世界的現象を包括的に比較・考察するための用語として提起されたものである。 島薗によれば、精神性と訳しうるスピリチュアリティは言葉の意味の上でも精神世界と近縁関係にある。 スピリチュアリティ(英: spirituality)はもともとキリスト教において時代や場面によってさまざまな意味に使われてきた語であるが、神学用語としては「霊性」と訳され、殊に20世紀に入ってから注目されるようになった概念である。 その一方で、1970年頃から盛んになってきたニューエイジ運動では、伝統的なキリスト教の枠を超えた新しいスピリチュアリティが展開され、北米では特に1980年代から spirituality という言葉がよく聞かれるようになった。 日本でも1990年代後半からスピリチュアリティというカタカナ語が使われるようになり、中でもホスピスや死生学の分野では形容詞の「スピリチュアル」や抽象名詞の「スピリチュアリティ」が用語として定着した。 2000年代に入るとそれらとは別の流れでスピリチュアルという言葉が広まり、スピリチュアルブームが話題になった。浅野和三郎に始まる日本的心霊学の流れを汲む江原啓之は、スピリチュアル・カウンセリングと称するパフォーマンスを行い、タイトルにスピリチュアルの語を付した著書がベストセラーになったり、マスメディアに登場して有名になった。島薗は、スピリチュアルという語が現代日本で大衆的に普及した要因として江原の成功は無視できないと推察している。スピリチュアルと聞いて霊的存在や前世、オーラといった心霊主義的なものを連想する人が増え、2008年の読売新聞の宗教意識調査で取り上げられた「スピリチュアル」もこのような意味においてであった。江原のいうスピリチュアルはスピリチュアリズムに由来しており、死生学や医療・看護の文脈で言われるスピリチュアリティとは系譜を異にするが、両方面でのスピリチュアリティを混同したり、同じ潮流に属するものとして論じる向きもある。 他にスピリチュアルブームを代表するものに、2002年から毎年開催されている癒しをテーマにした精神世界の見本市「スピリチュアル・コンベンション」(略称すぴこん)が挙げられる(後に「スピリチュアルマーケット」)。こうした現代日本の通俗的なスピリチュアリティ文化では、「スピリチュアリティ」の語自体はあまり用いられず、本来は形容詞であるスピリチュアルを名詞として扱ったような語法が目立つ。
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精神世界は、ニューエイジと呼ばれる北米発の思潮に由来するもの、古今のオカルティズムや日本固有の霊学、「自己探求」や精神変容にかんする情報など、さまざまな思想が共存する雑多な文化領域である。「精神世界」という語は1970年代末頃から日本で使われるようになった。スピリチュアリティとも言葉として近縁関係にある。 北米のニューエイジ(およびその周辺領域)と日本の精神世界は、おおむね同等のカテゴリに属しているとみなすことができる。両者は同一ではないが、まったく無縁でもなく、多大な共通部分のある類似現象である。精神世界という用語は日本語圏以外では通用せず、欧米の研究者のあいだでは日本の精神世界はニューエイジとして総括される。
{{スピリチュアリティ}} '''精神世界'''(せいしんせかい<!--、{{lang-en|spiritual world}}-->{{efn|[[井上順孝]]編『現代宗教事典』は {{En|spiritual world}} を英語の訳語に当てている{{sfn|井上編|2005|loc=[[樫尾直樹]]「精神世界」|p=307}}。}})は、'''[[ニューエイジ]]'''と呼ばれる[[北米]]発の思潮に由来するもの、古今の[[神秘学|オカルティズム]]や日本固有の[[神道霊学|霊学]]{{sfn|大田|2013|p=180}}、「自己探求」や精神変容にかんする情報など{{sfn|島薗|2007b|p=5}}、さまざまな思想が共存する雑多な文化領域である。「精神世界」という語は1970年代末頃から日本で使われるようになった{{sfn|島薗|2007a|p=166}}。[[スピリチュアリティ]]とも言葉として近縁関係にある{{sfn|島薗|2007b|p=5}}。 北米のニューエイジ(およびその周辺領域)と日本の精神世界は、おおむね同等のカテゴリに属しているとみなすことができる{{sfn|島薗|2007a|p=47}}。両者は同一ではないが、まったく無縁でもなく、多大な共通部分のある類似現象である{{sfn|島薗|2007b|p=46}}。精神世界という用語は日本語圏以外では通用せず{{sfn|島薗|2007b|p=47}}、欧米の研究者のあいだでは日本の精神世界はニューエイジとして総括される{{sfn|島薗|2007b|p=46}}。 == 用語の歴史 == 精神世界を研究対象にしてきた宗教学者の[[島薗進]]の推察によると、「精神世界」という言葉が使われ始めたのは1977年のことである{{sfn|島薗|2007a|pp=12-13}}。この年に[[阿含宗]]の関連会社である[[平河出版社]]から季刊『ザ・メディテーション』が創刊され{{Sfn|いとう|絓|中沢|1995|loc=精神世界年表 国内編}}、同年末の号に特集企画「精神世界の本・ベスト100」が掲載された{{sfn|島薗|2007a|p=168}}。 書店の売場では、1978年に新宿の紀伊国屋書店で「インドネパール精神世界の本」というブックフェアが組まれたのが最初であった{{sfn|島薗|2007a|p=167}}。これに続いて他の書店でも「精神世界の本」のフェアが行われ、やがて常設の「精神世界」コーナーが置かれるようになった{{sfn|島薗|2007a|pp=167-168}}。 『精神世界総カタログ』2000年版では、10588冊もの書籍が掲載されている{{sfn|ブッククラブ回|2000}}。 == 精神世界と「新霊性運動」== 島薗は、ニューエイジ運動という言葉を学術用語として用いるのは不適切だとして、日本の「精神世界」や欧米の「ニューエイジ」を「通文化的」{{sfn|井上編|2005|loc=島薗進「新霊性運動」|p=289}}に総括する「新霊性運動」もしくは「新霊性文化」という用語を作った{{sfn|島薗|2007a|p=46}}。この定義からすると、精神世界とニューエイジはともに新霊性運動の部分集合である{{sfn|Gebhardt|深澤・飛鳥井訳|2013|p=26}}。 精神世界とニューエイジはそれぞれ日本発、北米発の地域的文化であったが、これらはゆるやかに関連しあう同時多発的な現象であり、自生的かつ多元的に展開するグローバルな運動群として捉える必要があると島薗進は論じている{{sfn|島薗|2007a|p=48}}。新霊性運動は、そのような世界的現象を包括的に比較・考察するための用語として提起されたものである{{sfn|島薗|2007b|p=47}}。 == 精神世界とスピリチュアリティ == {{See|スピリチュアリティ}} 島薗によれば、精神性と訳しうる[[スピリチュアリティ]]は言葉の意味の上でも精神世界と近縁関係にある{{sfn|島薗|2007b|p=5}}。 [[スピリチュアリティ]]({{lang-en-short|spirituality}})はもともと[[キリスト教]]において時代や場面によってさまざまな意味に使われてきた語であるが、神学用語としては「[[霊性]]」と訳され、殊に20世紀に入ってから注目されるようになった概念である{{sfn|大貫ら編|2002|p=1213|loc=宮本久雄「霊性」}}{{efn|キリスト教の霊性の定義としては「超感覚的な現実に触れることを可能にする態度、信条、行為」{{sfn|Richardson et al.|2005|p=596}}などがある。とはいえ、霊性という語には大多数の人の認める定義というものは確立していない{{sfn|荒井|2009|p=1}}。}}。 その一方で、1970年頃から盛んになってきた[[ニューエイジ]]運動では、伝統的なキリスト教の枠を超えた新しいスピリチュアリティが展開され{{sfn|島薗|2007b|p=74}}、北米では特に1980年代から spirituality という言葉がよく聞かれるようになった。 === 日本におけるスピリチュアリティ === 日本でも1990年代後半からスピリチュアリティというカタカナ語が使われるようになり{{sfn|星野ら編|2010|loc=島薗進「新霊性運動=文化」|p=598}}、中でも[[ホスピス]]や[[死生学]]の分野では形容詞の「スピリチュアル」や抽象名詞の「スピリチュアリティ」が用語として定着した。 ==== スピリチュアルブーム==== 2000年代に入るとそれらとは別の流れで[[スピリチュアル]]という言葉が広まり、スピリチュアルブームが話題になった。[[浅野和三郎]]に始まる日本的[[スピリチュアリズム|心霊学]]の流れを汲む{{sfn|原田|杉並|2006|p=382}}{{efn|江原は、浅野和三郎の心霊科学研究会を母体とする団体の一つである日本心霊科学協会の流れを汲む{{sfn|星野ら編|2010|loc=[[吉永進一]]「スピリチュアリズム」|p=443}}。}}[[江原啓之]]は、スピリチュアル・カウンセリングと称するパフォーマンスを行い、タイトルにスピリチュアルの語を付した著書がベストセラーになったり、マスメディアに登場して有名になった。島薗は、スピリチュアルという語が現代日本で大衆的に普及した要因として江原の成功は無視できないと推察している{{sfn|島薗|2007b|p=34}}。スピリチュアルと聞いて霊的存在や前世、オーラといった心霊主義的なものを連想する人が増え、2008年の読売新聞の宗教意識調査で取り上げられた「スピリチュアル」もこのような意味においてであった{{sfn|林|2011|p=24}}。江原のいうスピリチュアルは[[スピリチュアリズム]]に由来しており、死生学や医療・看護の文脈で言われるスピリチュアリティとは系譜を異にするが、両方面でのスピリチュアリティを混同したり、同じ潮流に属するものとして論じる向きもある{{sfn|林|2011|pp=25-26}}。 他にスピリチュアルブームを代表するものに、2002年から毎年開催されている癒しをテーマにした精神世界の見本市「スピリチュアル・コンベンション」(略称すぴこん)が挙げられる{{sfn|林|2011|p=220}}(後に「スピリチュアルマーケット」)。こうした現代日本の通俗的なスピリチュアリティ文化では、「スピリチュアリティ」の語自体はあまり用いられず{{sfn|林|2011|pp=24, 181}}、本来は形容詞であるスピリチュアルを名詞として扱ったような語法が目立つ{{sfn|林|2011|p=222}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == <!--編集にあたって実際に参考にした書籍のみを記載してください--> <!--{{Cite book}}などの出典テンプレートの使用をご検討ください--> {{Refbegin}} ; 主要参照文献 :* {{Cite book|和書|author=島薗進|authorlink=島薗進 |date=2007-05 |origyear=1996 |title=精神世界のゆくえ - 宗教・近代・霊性 |publisher=秋山書店 |isbn=9784870236103 |ref={{SfnRef|島薗|2007a}}}} :* {{Cite book|和書|author=島薗進 |year=2007-01 |title=スピリチュアリティの興隆 - 新霊性文化とその周辺 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000010740 |ref={{SfnRef|島薗|2007b}}}} :* {{Cite book|和書|author=林貴啓 |year=2011 |title=問いとしてのスピリチュアリティ - 「宗教なき時代」に生死を語る |publisher=京都大学学術出版会 |isbn=9784876985593 |ref={{SfnRef|林|2011}}}} ; その他の参照文献 :* {{Cite book|和書|author=荒井献|authorlink=荒井献 |year=2009 |title=初期キリスト教の霊性 - 宣教・女性・異端 |publisher=岩波書店 |ref={{SfnRef|荒井|2009}}}} :* {{Cite book|和書|author1=いとうせいこう|authorlink1=いとうせいこう|author2=絓秀実|authorlink2=絓秀実|author3=中沢新一監修|authorlink3=中沢新一 |year=1995 |title=それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド |publisher=太田出版 |isbn=9784872332544 |ref={{SfnRef|いとう|絓|中沢|1995}}}} :* {{Cite book|和書|editor=井上順孝|editor-link=井上順孝 |year=2005 |title=現代宗教事典 |publisher=弘文堂 |isbn=9784335160370 |ref={{SfnRef|井上編|2005}}}} :* {{Cite book|和書|author=大田俊寛 |title=現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇 |series=ちくま新書 |publisher=筑摩書房 |year=2013 |isbn=978-4-480-06725-8 |ref={{SfnRef|大田|2013}}}} :* {{Cite book|和書|author=大貫隆・宮本久雄・名取四郎・百瀬文晃編 |year=2002 |title=[[岩波キリスト教辞典]] |publisher=岩波書店 |ref={{SfnRef|大貫ら編|2002}}}} :* {{Cite book|和書|author1=原田実|authorlink1=原田実 (作家) |author2=杉並春男 |year=2006 |title=と学会レポート 原田実の日本霊能史講座 |publisher=楽工社 |isbn=9784903063058 |ref={{SfnRef|原田|杉並|2006}}}} :* {{Cite book|和書|author=星野秀紀・池上良正・氣多雅子・島薗進・鶴岡賀雄編 |year=2010 |title=宗教学辞典 |publisher=丸善 |isbn=9784621082553 |ref={{SfnRef|星野ら編|2010}}}} :* {{Cite book|和書|author=リゼット・ゲーパルト |others=深澤英隆・飛鳥井雅友訳 |year=2013 |title=現代日本のスピリチュアリティ - 文学・思想にみる新霊性文化 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000227889 |ref={{SfnRef|Gebhardt|深澤・飛鳥井訳|2013}}}} :* {{Cite book|和書|author1=A. リチャードソン |author2=J. ボウデン |others=古屋安雄監修、佐柳文男訳 |year=2005 |title=キリスト教神学事典 |publisher=教文館 |ref={{SfnRef|Richardson et al.|2005}}}} {{Refend}} == 関連書籍 == * 島薗進『精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動』東京堂出版、1996年 {{ISBN2|4490202989}} * 『精神世界の本』平河出版社、1981年 * 内藤景代『わたし探し・精神世界入門―ヨガと冥想で広がる「心の宇宙」』実業之日本社、1993年 {{ISBN2|4408340421}} * 関野直行『あなたにやさしい精神世界』PHP研究所、1996年 {{ISBN2|4569554490}} * 北川隆三郎『精神世界がわかる事典:こころの不思議が見えてくる』日本実業出版社、1998年 *『精神世界が見えてくる: 人間とは何か気づきとは何か』サンマーク出版 1999年 * 山本茂喜『ワクワク精神世界』文芸社、2001年 {{ISBN2|4835515692}} * [[山川健一]]『ヒーリング・ハイ オーラ体験と精神世界』幻冬舎、2009年 * [[栗本慎一郎]]『人類新世紀終局の選択―「精神世界」は「科学」である』青春出版社、1991年 {{ISBN2|4413030184}} * {{Cite book|和書|author=ブッククラブ回 |year=1999 |title=精神世界総カタログ - 専門書店が選んだ、心と人と世界をめぐる本 |publisher=ブッククラブ回 |ref={{SfnRef|ブッククラブ回|2000}}}} ** 精神世界の本を百以上のジャンルに分けて紹介。1994年から1999年まで毎年出版されたシリーズの2000年版。 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|スピリチュアリティ|[[画像:P psychology2.png|none|34px|Portal:スピリチュアリティ]]}} * [[ニューエイジ]] / [[チャネリング]] * [[スピリチュアリティ]] * [[サイエントロジー]] * [[心霊主義]] * [[超自然]] * [[神智学]] * [[神秘学]] <!--* [[哲学]] * [[神秘主義]]--> * [[異次元]] ** [[異世界]]([[異界]]) {{DEFAULTSORT:せいしんせかい}} [[Category:世界観]] [[Category:神秘主義]] [[Category:精神]]
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沙悟浄
沙 悟浄(さ ごじょう、繁体字: 沙悟淨; 簡体字: 沙悟净; 拼音: Shā Wùjìng; ウェード式: Sha Wu Ching; 粤拼: saa1 ng zeng、タイ語: ซัวเจ๋ง)は、小説『西遊記』に主要登場する神仙。 元々は天界の役人で捲簾大将()。天帝の御側役の一人で、霊霄殿()で謁見を求める者が罷り出た時に、天帝の前の御簾の側にいて、天帝と謁見を受ける者の間に入り、天帝を守護する役目。近衛兵の大将であり、「霊山の大将」と称される。“捲簾”の職名からしばしば誤解されるが、御簾の揚げ降ろしをする担当ではなく、高官であり、西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。雑劇でも水官大帝が四海竜王達へ差し向けた上使の役回りである。 蟠桃会のおりに、天帝の宝である玻璃の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから三千里もあるという弱水の流沙河で人を喰らう妖仙となった。 ある日、天竺に経典を取りに行く取経者を探していた観音菩薩と出会って突然襲いかかるが、お供の恵岸行者に阻止されて戦う。ひとかどではないと悟って相手の名を聞いてみると菩薩の一行であったので、平伏して慈悲を乞い、これまでに9名の取経者を殺したことを告白する。菩薩は次に来る取経者の弟子となるように諭し、沙悟浄という法名と戒律を与え、さらに殺した取経者の髑髏は持っておくように命じた。なお、悟浄という名は「実名敬避俗」に準じ師や兄など目上の者からの呼びかけのみに使用される。普通は通称の「沙和尚()」と僧侶名で呼ばれる(孫悟空の「孫行者」、猪悟能の「猪八戒」と同じ)。 その後、観音菩薩の約束どおり玄奘三蔵の一行が流沙河を通りかかるが、また相手が誰か確かめることなく、旋風のように襲いかかる。三蔵を掠おうとした試みは、水戦が得意な猪八戒に阻止されたが、三度戦ってもなかなか打ち破れないので、孫悟空が觔斗雲()でわざわざ観音菩薩を呼びに行った。菩薩は恵岸を派遣して、悟浄を降参させ、ひょうたんを渡して、9つの髑髏とあわせて法船(筏)とし、三蔵一行を流沙河の向こう岸へと渡した。法船は渡りきった後に、またひょうたんと髑髏に戻り、ひょうたんは恵岸が持ち帰るが、9つの髑髏は九筋の陰風()となって音もなく消え去った。 以後、三蔵に弟子入りし、剃髪して僧形となると、孫悟空、猪八戒らと共に天竺まで経典を求めて旅をすることになった。このように原作では、弟子の中では唯一、僧形をしているが人間とは異なる濃色の容姿から「竈君」(竈の神様)としばしば間違われる様が見られる。 その後天竺にたどりついた沙悟浄は西天如来(釈迦如来)から金身羅漢(金身阿羅漢菩薩)になることを約束された。 元代の朝鮮の資料『朴通事諺解()』には悟空と八戒のみが紹介されているが、これは沙悟浄が登場する流沙河の段が現存していないためで、西遊記物語への登場は悟空や八戒よりも早い。『大唐三蔵取経詩話』(北宋末から南宋に成立したと推定される通俗小説話本)に登場する、玄奘三蔵が流沙河という砂漠で幻想に見、励まされた深沙神がモデルと推測される。ほかに、ヨウスコウカワイルカをモデルに考え出されたという説もある。岩波文庫の『西遊記』の翻訳元である蘇州刊本『李卓吾先生批評西遊記』の翻訳を引き継いだ中野美代子は、後に自著内でヨウスコウカワイルカ説をヨウスコウアリゲーター説に移行した。 日本では河童とされることがあるが、それは水の妖怪というイメージからで、最初に流沙河の水中から現れたとする間違った解釈に由来する、日本の児童向け作品固有の意訳である。 以下の物を持っている。 原作での個性の薄さ故、日本の『西遊記』の翻案では、思い切った演出がなされる事がある。 などである。
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沙 悟浄は、小説『西遊記』に主要登場する神仙。
[[Image:Xyj-shaseng.jpg|thumb|300px|西遊原旨の挿絵より。原作のイメージは河童ではない、僧形の人物]] [[Image:Sha Wujing in Beijing opera.JPG|thumb|[[京劇]]の沙悟浄]] {{中華圏の事物 |タイトル= 沙悟浄 |画像種別= |画像= [[File:Xyj-sha seng.jpg|180px]] |画像の説明= |英文= |簡体字= 沙悟净 |繁体字= 沙悟淨 |ピン音= Shā Wùjìng |通用 = |注音符号= ㄕㄚㄨˋㄐㄧㄥˋ |ラテン字= Sha<sup>1</sup> Wu<sup>4</sup>-ching<sup>4</sup> |広東語ピン音= Saa<sup>1</sup> Ng<sup>6</sup> Zing<sup>6</sup> |広東語= |上海語= |台湾語= |カタカナ= シャウージン |ひらがな= さ ごじょう }} '''沙 悟浄'''(さ ごじょう、{{Lang-zh | t=沙悟淨| s=沙悟净| hp=Shā Wùjìng||w =Sha Wu Ching|j =saa¹ ng{{sup|6}} zeng{{sup|6}}| first=t}}、{{Lang-th|ซัวเจ๋ง}})は、小説『[[西遊記]]』に主要登場する[[神仙]]。 == 概要 == 元々は天界の役人で{{読み仮名|'''捲簾大将'''|けんれんたいしょう}}。[[玉皇大帝|天帝]]の御側役の一人で、{{読み仮名|霊霄殿|れいしょうでん}}で謁見を求める者が罷り出た時に、天帝の前の[[すだれ|御簾]]の側にいて、天帝と謁見を受ける者の間に入り、天帝を守護する役目。[[近衛兵]]の大将であり、「'''霊山の大将'''」と称される。“捲簾”の職名からしばしば誤解されるが、御簾の揚げ降ろしをする担当ではなく、高官であり、西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。雑劇でも水官大帝が[[四海竜王]]達へ差し向けた上使の役回りである。 [[蟠桃会]]のおりに、天帝の宝である[[玻璃]]の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた<ref>二次作品には天界で悟空との絡みを描くものが多いが、原作では地上で会うのが初対面。天界を追われた理由は単なる過失。</ref>。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから三千里もあるという弱水<ref>[[書経]]の[[禹貢]]篇に「弱水を導きて合黎に至り余波は流砂に至る(=消えるの意味)」とある。中国の川はすべて東に向かって流れるのだが、この川は西に向かうので古くから伝説の舞台として登場した。場所は判然としないが現在の[[エチナ川|黒河]]のことと推測されている</ref>の流沙河<ref>もともとは流砂河は文字通りの[[流砂]]の広がる砂漠のことであったが、かなり早い段階で川と誤解され、西遊記の中でも川や水中のような描写になっている。なお幅は800里とのこと</ref>で人を喰らう妖仙となった。 ある日、[[天竺]]に[[経典]]を取りに行く取経者を探していた[[観音菩薩]]と出会って突然襲いかかるが、お供の[[恵岸行者]]に阻止されて戦う。ひとかどではないと悟って相手の名を聞いてみると菩薩の一行であったので、平伏して慈悲を乞い、これまでに9名の取経者を殺したことを告白する。菩薩は次に来る取経者の弟子となるように諭し、'''沙悟浄'''という法名と[[戒律]]を与え、さらに殺した取経者の髑髏は持っておくように命じた。なお、悟浄という名は「[[諱#実名敬避俗|実名敬避俗]]」に準じ師や兄など目上の者からの呼びかけのみに使用される。普通は通称の「{{読み仮名|'''沙和尚'''|しゃおしょう}}<ref>この渾名は、三蔵に弟子入りしたときに剃髪して、礼儀作法や仕草に僧侶の風格があったことからきている</ref>」と僧侶名で呼ばれる(孫悟空の「孫行者」、猪悟能の「猪八戒」と同じ)。 その後、観音菩薩の約束どおり[[玄奘三蔵]]の一行が流沙河を通りかかるが、また相手が誰か確かめることなく、旋風のように襲いかかる。三蔵を掠おうとした試みは、水戦が得意な[[猪八戒]]に阻止されたが、三度戦ってもなかなか打ち破れないので、[[孫悟空]]が{{読み仮名|觔斗雲|きんとうん}}でわざわざ観音菩薩を呼びに行った。菩薩は恵岸を派遣して、悟浄を降参させ、ひょうたんを渡して、9つの[[髑髏]]とあわせて法船(筏)とし、三蔵一行を流沙河の向こう岸へと渡した。法船は渡りきった後に、またひょうたんと髑髏に戻り、ひょうたんは恵岸が持ち帰るが、9つの髑髏は九筋の{{読み仮名|陰風|いんぷう}}<ref>陰気で無気味な風の意</ref>となって音もなく消え去った。 以後、三蔵に弟子入りし、[[剃髪]]して僧形となると、孫悟空、猪八戒らと共に天竺まで経典を求めて旅をすることになった。このように原作では、弟子の中では唯一、僧形をしているが人間とは異なる濃色の容姿から「竈君」([[竃|竈]]の神様)としばしば間違われる様が見られる。 その後天竺にたどりついた沙悟浄は西天如来(釈迦如来)から金身羅漢(金身阿羅漢菩薩)になることを約束された。 == 名前の遍歴 == * 捲簾大将([[玉皇大帝|天帝]]の任命) * [[河伯]](流沙河の水怪) * 沙悟浄(観音菩薩の命名) * 金身羅漢(釈迦如来の命名) * 沙和尚(三蔵法師が付けた呼び名) * 沙僧(「沙和尚」の別の呼び方) == 原作における容姿と特徴 == * 紅い炎のような色の毛で、ふわふわの髪(ただし三蔵に弟子入りするときに髪を剃った) * 光る円い目玉 * 黒いとも青いとも言えないような、藍色の顔 * 雷や太鼓の音のような恐ろしい声 * 美しい黄錦の{{読み仮名|直裰|じきとつ}}、腰は白藤を束ねたもので隠す * 9個の髑髏の首飾り、手に宝杖 * 孫悟空とは直接対決はしておらず、猪八戒とは三回も互角の戦いをした * 雲に乗って飛ぶことが出来る<ref>黄袍怪と戦いに行く前に宴席で酒を飲んだ後、猪八戒と二人で別々に雲に乗って飛んで行く</ref> *本編では、妖仙が現れると悟空から三蔵の警護を命じられる役回りで、大きな活躍はない。自由奔放で、コミカルな掛け合いのある2人の兄弟子と比べると、やや生真面目で実直な性質であるように描写されている。 [[元 (王朝)|元]]代の[[朝鮮]]の資料『{{読み仮名|朴通事諺解|ぼくつうじげんかい}}』には悟空と八戒のみが紹介されているが、これは沙悟浄が登場する流沙河の段が現存していないためで、西遊記物語への登場は悟空や八戒よりも早い。『大唐三蔵取経詩話』(北宋末から南宋に成立したと推定される通俗小説話本)に登場する、玄奘三蔵が流沙河という砂漠で幻想に見、励まされた[[深沙神]]がモデルと推測される。ほかに、[[ヨウスコウカワイルカ科|ヨウスコウカワイルカ]]をモデルに考え出されたという説もある。岩波文庫の『西遊記』の翻訳元である蘇州刊本『李卓吾先生批評西遊記』の翻訳を引き継いだ[[中野美代子]]は、後に自著内でヨウスコウカワイルカ説を[[ヨウスコウアリゲーター]]説に移行した。 == 日本の沙悟浄 == 日本では'''[[河童]]'''とされることがあるが、それは水の[[妖怪]]というイメージからで、最初に流沙河の水中から現れたとする間違った解釈に由来する、日本の児童向け作品固有の意訳である。 以下の物を持っている。 * 半月刃の付いた杖「降妖宝杖」(こんようほうじょう) - 「降魔の宝杖」とも呼ばれる。材質は[[月宮殿]]に生えている月桂で、芯には[[金]]の[[鉄筋|筋]]が1本通されて絶対に折れたりせず切断も出来ない。[[如意宝珠]]が付いている。重さは[[経蔵 (建築)|経蔵]]1軒分の経典と同じ、5040斤(およそ3トン)。日本のドラマで[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|1978年の西遊記]]の影響からそれ以降の作品ではしばしば一方の側に月牙(三日月刃)、もう片側に鏟(平らな幅広いスコップのような刃)が付いた[[月牙鏟]]を使用するが、本来の[[鏟]]は[[農具]]の[[踏み鋤]]の一種で西洋農具の[[スコップ]]と[[相同]]であり、[[少林寺]]系の僧侶の埋葬道具兼武器として発達したものである。[[西遊記 (2006年のテレビドラマ)|2006年の西遊記]]では[[釵]]を使用している。 * 髏の首飾り - 一説には玄奘三蔵の[[前世]]の9人の首とされる。三蔵一行が流沙河を渡る際に首から外され、恵岸行者の持参した瓢箪と組み合わせて[[いかだ|筏]]にされた。 原作での個性の薄さ<ref>原作では無口でメンバーの仲裁ぐらいしか大して話さない上、自分について語る発言が無く性格や個性が把握できない。『[[西遊記]]解体新書』コーエー発刊、マジック・モンキーズ編</ref>故、日本の『西遊記』の翻案では、思い切った演出がなされる事がある。 # 妖怪でありながら妖怪を憎み、常に「自分とは何か」を自問している存在 # 一攫千金を目論むマイペースな存在 # 冷静沈着なクールな存在 などである。 === 代表例 === ; [[手塚治虫]] : 翻案作品『[[ぼくのそんごくう]]』では、髑髏を下げている描写が省略された以外は比較的原作に近いが、この作品をもとにつくられた『[[悟空の大冒険]]』では、持ち物がスコップに変えられ(なんらかの風刺と思われるが)宝物にしか興味のない変人となっている。ただし、このアニメ版の制作には手塚はほとんどタッチしておらず、大胆な改変は監督の[[杉井ギサブロー]]らアニメ版スタッフによるものである。 ; [[中島敦]] : 沙悟浄を主役とした小説『[[わが西遊記|悟浄出世』、『悟浄歎異]]』では、虚無的な性格となっている。 ; ドラマなど実写作品 : 以下の俳優が沙悟浄を演じている。沙悟浄役としてもっとも知名度の高い岸部シローが、長身であった影響で、背が高いか、細身の俳優が演じることが多い。 :* [[金井俊夫]] :* [[岸部四郎|岸部シロー]] :* [[嶋田久作]] :* [[柄本明]] :* [[内村光良]] :* [[仲本工事]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sha Seng}} * [[西遊記の成立史]] * [[深沙大将]] {{西遊記}} {{lit-stub}} {{DEFAULTSORT:さこしよう}} [[Category:西遊記]] [[Category:架空の僧]] [[Category:フィクションの妖怪]]
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2023-04-24T04:43:09Z
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鎌倉市
鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。 鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。年間平均気温は16.9°C。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。 江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現在の横浜市戸塚区)に置かれた。 明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。鎌倉山などは高級住宅街である。 市内を流れる河川は主な物で三本。全て二級河川である。これに支流や準用河川が加わる。 鎌倉市内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 東京都特別区部への通勤率は23.5%・横浜市への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。 当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は東京都特別区部の17,093人、2位は横浜市の13,459人、3位は藤沢市の4,418人、4位は川崎市の1,675人、5位は横須賀市の974人である(平成22年国勢調査による)。 鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)があるが(※特に旧鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている)、旧石器時代~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、関谷や玉縄、大船など、主に旧鎌倉の外側にあたる市域北西部に分布している。 弥生時代に入ると、台地以外でも、滑川沿いの沖積地(大倉幕府周辺遺跡群)や、由比ヶ浜沿岸の砂丘(由比ヶ浜南遺跡・長谷小路周辺遺跡など)で弥生時代集落が出現する。 古墳時代中頃後半(5世紀末)には、この砂丘地帯に向原古墳群という古墳群が造られ、埴輪が出土している。また古代豪族「鎌倉別(かまくらのわけ)」の本拠であったと考えられており、丘陵部に横穴墓群が多数形成された。鎌倉市から隣の横浜市栄区あたりまで存在している横穴墓遺跡の中には、特徴的な形をした玄室を持つものがあり、旧鎌倉郡に分布しているとして「鎌倉型横穴墓」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある。また、浦賀水道の海路を介して房総半島へ抜けるルートの古東海道が通っており、古代交通の要衝であった。 奈良時代から平安時代前期には、鎌倉郡の郡衙が設置された。郡衙跡は御成小学校を中心とする今小路西遺跡で、コの字形に並ぶ大型掘立柱建物や、「天平5年(733年)」銘の木簡が出土している。 平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。 なお、九条兼実の日記『玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、中世当時の鎌倉は全域が城郭都市と見なされていたとする説がある。ただしこの言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設遺構の例として挙げられた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝(源氏)の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある。 貞応3年6月28日(1224年7月16日)には北条泰時が執権に就き、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉幕府から宇都宮辻子沿いの宇都宮辻子幕府に移し、貞永元年(1232年)には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした(1236年(嘉禎2年)には、宇都宮辻子幕府から若宮大路幕府へ移転または改築)。 元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国(群馬県)の河内源氏義家流・新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏流北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。由比ヶ浜沿岸部の由比ヶ浜南遺跡や由比ガ浜中世集団墓地遺跡は、発掘調査により中世に集団墓地であったことが解っているが、1953年(昭和28年)の鈴木尚による調査では大量の刀創などのある人骨が出土している。 京都で後醍醐天皇の建武の新政が始まると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に功のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。 室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立したことなどにより上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などの騒乱が起こる。享徳4年(1455年)には享徳の乱で足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させたことにより鎌倉は衰退する。 戦国時代には小田原の北条早雲が鎌倉地域に進出して、玉縄城を築いて東相模地域を支配する軍事拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見氏との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。上杉謙信・武田信玄・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。 近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、大山の阿夫利神社、江の島の江島神社などへの参拝を目的とした講が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。 1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。 明治中期に観光地化される少し前の1883年(明治16年)に「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県の鎌倉の地域の海を地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであった。今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされるが、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に賑わい、湘南の一部として一般に認識されている。 昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。 1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。 市章は、源氏の家紋だったといわれる「笹りんどう」。 首長の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では (a)(b) を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代(a)」「代(b)」という名で2種類を記載した。「代(a)」は、就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、「代(b)」は、同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。鎌倉市は「代(a)」の方式を採っているが(他の例:八王子市歴代市長、弘前市歴代市長、浜松市歴代市長)、「代(b)」の方式を採る自治体も多く(例:京都市歴代市長、大垣市歴代市長)、(a) と (b) の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、鎌倉市にこれを当てはめると磯部が2回就任しているため、(b) の代数から 1 が引かれる。 医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「#町名」節の記載順を基準としている。 鎌倉市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町)である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。 鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、古都保存法によって新たな中継局設置も困難なことから、地上デジタル放送の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市ではケーブルテレビによる解決を図っている。 名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を溶融固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった。 鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画道路整備率が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。 バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている。 この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともにパークアンドライドが2001年度から本格実施されている。 また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる鎌倉)を中心に大規模な交通規制が実施される。 オムニバスタウン政策をとっていることもあり、コミュニティバスの普及も見られる。 明治・大正期に隆盛を極めたが、自動車の普及で衰退して一時途絶したものの、人力車は市内観光用として昭和末期に復活した。現代では個人営業以外に人力車を運用する企業も市内に存在する。 同様に観光馬車も復活しているが、複数の車が営業を行っている人力車に比べるとマイナー存在である。 鎌倉市は、横浜ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。 バイクの場合は、江ノ電が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。 年間延べ観光客数は約1902万人。以下に主要な名所などを掲げる。なお、国宝・国指定文化財は216件であり、鎌倉の歴史的建造物群には「武家の古都・鎌倉」として、日本の世界遺産暫定リストに登録されているものがある。 「#鎌倉文士」も参照。 国木田独歩は1902年(明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の押川春浪が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる。 その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、1908年(明治41年)に、結核によってこの世を去った。享年38歳。 芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。 その後1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町字辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職し、田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端、現在の東京都北区田端1-19-18。田端文士村も参照)に戻るまで暮らした。 おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に文化人が鎌倉へ移住し「鎌倉文士」と呼ばれた時代の先駆けとされる。 大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へ移住し、鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなむもの、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際にあわてて名付けたとされる。 流行作家となった大佛は、鎌倉でたびたび転居し住まいを変えているが、これは生来の猫好きが原因だったようで、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、畳を変えた上に襖や障子も新調し「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、実際には十数匹の飼い猫が残した惨状を回復するためそうせざる得なかったという。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた際にもここを住まいとしていた。この鎌倉の邸宅は大佛の没後、「大佛茶廊」として2019年8月まで週末のみ一般公開されていた。 1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。 鎌倉文士も参照。 基本的に五十音順で表記。 注記のないものは連載終了した作品
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。年間平均気温は16.9°C。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現在の横浜市戸塚区)に置かれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。鎌倉山などは高級住宅街である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "市内を流れる河川は主な物で三本。全て二級河川である。これに支流や準用河川が加わる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "鎌倉市内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東京都特別区部への通勤率は23.5%・横浜市への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は東京都特別区部の17,093人、2位は横浜市の13,459人、3位は藤沢市の4,418人、4位は川崎市の1,675人、5位は横須賀市の974人である(平成22年国勢調査による)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)があるが(※特に旧鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている)、旧石器時代~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、関谷や玉縄、大船など、主に旧鎌倉の外側にあたる市域北西部に分布している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "弥生時代に入ると、台地以外でも、滑川沿いの沖積地(大倉幕府周辺遺跡群)や、由比ヶ浜沿岸の砂丘(由比ヶ浜南遺跡・長谷小路周辺遺跡など)で弥生時代集落が出現する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古墳時代中頃後半(5世紀末)には、この砂丘地帯に向原古墳群という古墳群が造られ、埴輪が出土している。また古代豪族「鎌倉別(かまくらのわけ)」の本拠であったと考えられており、丘陵部に横穴墓群が多数形成された。鎌倉市から隣の横浜市栄区あたりまで存在している横穴墓遺跡の中には、特徴的な形をした玄室を持つものがあり、旧鎌倉郡に分布しているとして「鎌倉型横穴墓」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある。また、浦賀水道の海路を介して房総半島へ抜けるルートの古東海道が通っており、古代交通の要衝であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "奈良時代から平安時代前期には、鎌倉郡の郡衙が設置された。郡衙跡は御成小学校を中心とする今小路西遺跡で、コの字形に並ぶ大型掘立柱建物や、「天平5年(733年)」銘の木簡が出土している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、九条兼実の日記『玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、中世当時の鎌倉は全域が城郭都市と見なされていたとする説がある。ただしこの言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設遺構の例として挙げられた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝(源氏)の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "貞応3年6月28日(1224年7月16日)には北条泰時が執権に就き、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉幕府から宇都宮辻子沿いの宇都宮辻子幕府に移し、貞永元年(1232年)には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした(1236年(嘉禎2年)には、宇都宮辻子幕府から若宮大路幕府へ移転または改築)。", "title": "歴史" }, { 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"医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「#町名」節の記載順を基準としている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "鎌倉市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町)である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、古都保存法によって新たな中継局設置も困難なことから、地上デジタル放送の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市ではケーブルテレビによる解決を図っている。", "title": "情報・通信" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を溶融固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画道路整備率が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。 バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともにパークアンドライドが2001年度から本格実施されている。 また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる鎌倉)を中心に大規模な交通規制が実施される。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "オムニバスタウン政策をとっていることもあり、コミュニティバスの普及も見られる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "明治・大正期に隆盛を極めたが、自動車の普及で衰退して一時途絶したものの、人力車は市内観光用として昭和末期に復活した。現代では個人営業以外に人力車を運用する企業も市内に存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同様に観光馬車も復活しているが、複数の車が営業を行っている人力車に比べるとマイナー存在である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鎌倉市は、横浜ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "バイクの場合は、江ノ電が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "年間延べ観光客数は約1902万人。以下に主要な名所などを掲げる。なお、国宝・国指定文化財は216件であり、鎌倉の歴史的建造物群には「武家の古都・鎌倉」として、日本の世界遺産暫定リストに登録されているものがある。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「#鎌倉文士」も参照。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国木田独歩は1902年(明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の押川春浪が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、1908年(明治41年)に、結核によってこの世を去った。享年38歳。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その後1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町字辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職し、田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端、現在の東京都北区田端1-19-18。田端文士村も参照)に戻るまで暮らした。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に文化人が鎌倉へ移住し「鎌倉文士」と呼ばれた時代の先駆けとされる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へ移住し、鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなむもの、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際にあわてて名付けたとされる。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "流行作家となった大佛は、鎌倉でたびたび転居し住まいを変えているが、これは生来の猫好きが原因だったようで、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、畳を変えた上に襖や障子も新調し「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、実際には十数匹の飼い猫が残した惨状を回復するためそうせざる得なかったという。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた際にもここを住まいとしていた。この鎌倉の邸宅は大佛の没後、「大佛茶廊」として2019年8月まで週末のみ一般公開されていた。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "鎌倉文士も参照。", "title": "出身関連著名人" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "基本的に五十音順で表記。", "title": "鎌倉市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "注記のないものは連載終了した作品", "title": "鎌倉市を舞台とした作品" } ]
鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。
{{Otheruseslist|現在の[[地方公共団体]](行政組織)および行政的なこと|三浦半島西岸基部の地名や歴史的都市、あまり行政的ではないこと|鎌倉|その他|鎌倉 (曖昧さ回避)}} {{日本の市 | 画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 290 | image_style = border:1; | perrow = 1/2/2 | image1 = TsurugaokaHachiman-M8867.jpg | image2 = 230128 Kamakura Daibutsu Japan01s3.jpg | image3 = Kencho-ji 108599196 ac1ef7203f o.jpg | image4 = Kamakuragu Main Hall.jpg | image5 = EgaratenJinja20120716.jpg }} |画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto;border-collapse:collapse"> <tr><td colspan="2">市のランドマーク・[[鶴岡八幡宮]]</td></tr> <tr><td style="width:50%">[[高徳院|鎌倉大仏]](高徳院)</td><td>[[建長寺]]</td></tr> <tr><td>[[鎌倉宮]](大塔宮)</td><td>[[荏柄天神社]]</td></tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Kamakura, Kanagawa.svg|100px|border|鎌倉市旗]] | 市旗の説明 = 鎌倉[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:神奈川県鎌倉市市章.svg|75px|鎌倉市章]] | 市章の説明 = 鎌倉[[市町村章|市章]]<br />昭和27年11月3日制定 | 自治体名 = 鎌倉市 | 都道府県 = 神奈川県 | コード = 14204-2 | 隣接自治体 = [[横浜市]]、[[逗子市]]、[[藤沢市]] | 木 = [[ヤマザクラ]] | 花 = [[リンドウ]] | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = - | 郵便番号 = 248-8686 | 所在地 = 鎌倉市御成町18番10号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[画像:Kamakura City Hall 20120630.JPG|250px|center|鎌倉市役所本庁舎]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|204|image=Location of Kamakura city Kanagawa prefecture Japan.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市域(赤線内)と市庁舎位置}} | 特記事項 = [[市外局番]]:0467(市内全域) }} '''鎌倉市'''(かまくらし)は、[[神奈川県]]の南部に位置する[[市]]。人口は約17万人。[[三浦半島]]西側の付け根にあり、歴史的都市[[鎌倉]]が市域の中心にある。 ==概要== 鎌倉市は[[横浜市]]の南西、[[藤沢市]]の東、[[逗子市]]の北西に位置し、南は[[相模湾]]に面している。年間平均気温は16.9℃。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては'''[[鎌倉幕府]]'''が置かれ政権の要の地となり、[[日本史]]の時代区分でもある「'''[[鎌倉時代]]'''」の由来にもなった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「[[古都]]」であるが、後述の通り[[室町時代]]中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。 [[江戸時代]]後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、[[明治]]初期の段階でも[[高徳院|鎌倉大仏]](高徳院)や[[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]]を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。明治初期、現鎌倉市域を含む[[鎌倉郡]]を管轄する郡役所は[[戸塚区|戸塚]](現在の横浜市戸塚区)に置かれた。 明治中期以降、[[リゾート|保養]]・[[別荘|別荘地]]として、[[昭和]]以降に[[観光地]]として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。[[鎌倉山]]などは[[高級住宅街]]である。 ==地理== ===地形=== ====河川==== 市内を流れる[[河川]]は主な物で三本。全て[[二級河川]]である。これに支流や[[準用河川]]が加わる。 ;二級河川 *[[滑川 (神奈川県)|滑川]] *[[柏尾川]] *神戸川 ;準用河川 *神戸川 *[[砂押川 (神奈川県)|砂押川]] *小袋谷川 *新川 ===地域=== 鎌倉市内では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 {{hidden begin |title = 鎌倉市役所管内(100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[鎌倉地域]](100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |[[扇ヶ谷|'''扇ヶ谷一丁目''']] |rowspan="4" |おうぎがやつ | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[扇ヶ谷|'''扇ヶ谷二丁目''']] | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[扇ヶ谷|'''扇ヶ谷三丁目''']] | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[扇ヶ谷|'''扇ヶ谷四丁目''']] | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町一丁目]]''' |rowspan="7"|おおまち | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町二丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町三丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町四丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町五丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町六丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |'''[[大町 (鎌倉市)|大町七丁目]]''' | 1939年4月1日 |1966年4月1日 | | |- |[[御成町 (鎌倉市)|'''御成町''']] |おなりまち | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[極楽寺 (鎌倉市)|'''極楽寺一丁目''']] |rowspan="4"|ごくらくじ | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[極楽寺 (鎌倉市)|'''極楽寺二丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[極楽寺 (鎌倉市)|'''極楽寺三丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[極楽寺 (鎌倉市)|'''極楽寺四丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[小町 (鎌倉市)|'''小町一丁目''']] |rowspan="3"|こまち | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[小町 (鎌倉市)|'''小町二丁目''']] | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[小町 (鎌倉市)|'''小町三丁目''']] | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[材木座 (鎌倉市)|'''材木座''']] |ざいもくざ | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[坂ノ下 (鎌倉市)|'''坂ノ下''']] |さかのした | 1889年4月1日 | 1972年2月1日 | | |- |'''[[笹目町]]''' |ささめちょう | 1965年4月1日 | 1965年4月1日 | | |- |[[佐助|'''佐助一丁目''']] |rowspan="2"|さすけ | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[佐助|'''佐助二丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[十二所 (鎌倉市)|'''十二所''']] |じゅうにそ | 1870年4月1日 | 1870年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺一丁目''']] |rowspan="6"|じょうみょうじ | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺二丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺三丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺四丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺五丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|'''浄明寺六丁目''']] | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | | |- |[[二階堂 (鎌倉市)|'''二階堂''']] |にかいどう | 1939年4月1日 | 未実施 | | |- |[[西御門 (鎌倉市)|'''西御門一丁目''']] |rowspan="2"|にしみかど | 1968年1月1日 | 1968年1月1日 | | |- |[[西御門 (鎌倉市)|'''西御門二丁目''']] | 1968年1月1日 | 1968年1月1日 | | |- |[[長谷 (鎌倉市)|'''長谷一丁目''']] |rowspan="5"|はせ | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | | |- |[[長谷 (鎌倉市)|'''長谷二丁目''']] | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | | |- |[[長谷 (鎌倉市)|'''長谷三丁目''']] | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | | |- |[[長谷 (鎌倉市)|'''長谷四丁目''']] | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | | |- |[[長谷 (鎌倉市)|'''長谷五丁目''']] | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | | |- |[[由比ヶ浜|'''由比ガ浜一丁目''']] |rowspan="4"|ゆいがはま | 1965年2月1日 | 1965年2月1日 | | |- |[[由比ヶ浜|'''由比ガ浜二丁目''']] | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | | |- |[[由比ヶ浜|'''由比ガ浜三丁目''']] | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | | |- |[[由比ヶ浜|'''由比ガ浜四丁目''']] | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | | |- |[[雪ノ下|'''雪ノ下一丁目''']] |rowspan="5"|ゆきのした | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[雪ノ下|'''雪ノ下二丁目''']] | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[雪ノ下|'''雪ノ下三丁目''']] | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[雪ノ下|'''雪ノ下四丁目''']] | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | | |- |[[雪ノ下|'''雪ノ下五丁目''']] | 1991年4月1日 | 1991年4月1日 | | |- |[[稲村ヶ崎|'''稲村ガ崎一丁目''']] |rowspan="5"|いなむらがさき | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[稲村ヶ崎|'''稲村ガ崎二丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[稲村ヶ崎|'''稲村ガ崎三丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[稲村ヶ崎|'''稲村ガ崎四丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |[[稲村ヶ崎|'''稲村ガ崎五丁目''']] | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[腰越地域]](100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |[[腰越|'''腰越一丁目''']] |rowspan="5"|こしごえ | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | | |- |[[腰越|'''腰越二丁目''']] | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | | |- |[[腰越|'''腰越三丁目''']] | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | | |- |[[腰越|'''腰越四丁目''']] | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | | |- |[[腰越|'''腰越五丁目''']] | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜一丁目''']] |rowspan="2"|しちりがはま | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜二丁目''']] | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜東一丁目''']] |rowspan="5"|しちりがはまひがし | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜東二丁目''']] | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜東三丁目''']] | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜東四丁目''']] | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[七里ガ浜|'''七里ガ浜東五丁目''']] | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | | |- |[[津 (鎌倉市)|'''津''']] |つ | 1960年4月1日 |未実施 | | |- |[[津西|'''津西一丁目''']] |rowspan="2"|つにし | 1970年1月1日 | 1970年1月1日 | | |- |[[津西|'''津西二丁目''']] | 1970年1月1日 | 1970年1月1日 | | |- |[[西鎌倉|'''西鎌倉一丁目''']] |rowspan="4"|にしかまくら | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | | |- |[[西鎌倉|'''西鎌倉二丁目''']] | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | | |- |[[西鎌倉|'''西鎌倉三丁目''']] | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | | |- |[[西鎌倉|'''西鎌倉四丁目''']] | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[深沢地域]](100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原一丁目''']] |rowspan="6"|かじわら |1889年4月1日 |1983年2月7日 |梶原 | |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原二丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |梶原 | |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原三丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |梶原 | |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原四丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |梶原 | |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原五丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |梶原 | |- |[[梶原 (鎌倉市)|'''梶原''']] |1889年4月1日 |未実施 | |大字梶原は住居表示未実施 |- |[[鎌倉山|'''鎌倉山一丁目''']] |rowspan="4"|かまくらやま |1985年8月5日 |1985年8月5日 |笛田・腰越・津 | |- |[[鎌倉山|'''鎌倉山二丁目''']] |1985年8月5日 |1985年8月5日 |笛田・腰越・津 | |- |[[鎌倉山|'''鎌倉山三丁目''']] |1985年8月5日 |1985年8月5日 |笛田・腰越・津 | |- |[[鎌倉山|'''鎌倉山四丁目''']] |1985年8月5日 |1985年8月5日 |笛田・腰越・津 | |- |'''[[上町屋]]''' |かみまちや |1889年4月1日 |未実施 | | |- |[[手広|'''手広一丁目''']] |rowspan="7"|てびろ |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |[[手広|'''手広二丁目''']] |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |[[手広|'''手広三丁目''']] |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |[[手広|'''手広四丁目''']] |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |[[手広|'''手広五丁目''']] |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |[[手広|'''手広六丁目''']] |1889年4月1日 |2006年11月6日 |手広 | |- |'''[[手広]]''' |1889年4月1日 |未実施 | |大字手広は住居表示未実施 |- |[[寺分 (鎌倉市)|'''寺分一丁目''']] |rowspan="4"|てらぶん |1889年4月1日 |1983年2月7日 |寺分 | |- |[[寺分 (鎌倉市)|'''寺分二丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |寺分 | |- |[[寺分 (鎌倉市)|'''寺分三丁目''']] |1889年4月1日 |1983年2月7日 |寺分 | |- |[[寺分 (鎌倉市)|'''寺分''']] |1889年4月1日 |未実施 | |大字寺分は住居表示未実施 |- |[[常盤 (鎌倉市)|'''常盤''']] |ときわ |1889年4月1日 |未実施 | | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田一丁目''']] |rowspan="7"|ふえだ |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田二丁目''']] |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田三丁目''']] |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田四丁目''']] |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田五丁目''']] |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田六丁目''']] |1889年4月1日 |2000年5月8日 |笛田 | |- |[[笛田 (鎌倉市)|'''笛田''']] |1889年4月1日 |未実施 | |大字笛田は住居表示未実施 |- |[[山崎 (鎌倉市)|'''山崎''']] |やまさき |1889年4月1日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[大船地域]](100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |[[今泉 (鎌倉市)|'''今泉一丁目''']] |rowspan="5"|いまいずみ | | | | |- |[[今泉 (鎌倉市)|'''今泉二丁目''']] | | | | |- |[[今泉 (鎌倉市)|'''今泉三丁目''']] | | | | |- |[[今泉 (鎌倉市)|'''今泉四丁目''']] | | | | |- |[[今泉 (鎌倉市)|'''今泉五丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台一丁目''']] |rowspan="7"|いまいずみだい | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台二丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台三丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台四丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台五丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台六丁目''']] | | | | |- |[[今泉台 (鎌倉市)|'''今泉台七丁目''']] | | | | |- |[[岩瀬 (鎌倉市)|'''岩瀬''']] |rowspan="2"|いわせ | | | | |- |[[岩瀬 (鎌倉市)|'''岩瀬一丁目''']] | | | | |- |'''[[大船]]''' |rowspan="7"|おおふな | | | | |- |[[大船|'''大船一丁目''']] | | | | |- |[[大船|'''大船二丁目''']] | | | | |- |[[大船|'''大船三丁目''']] | | | | |- |[[大船|'''大船四丁目''']] | | | | |- |[[大船|'''大船五丁目''']] | | | | |- |[[大船|'''大船六丁目''']] | | | | |- |'''[[小袋谷]]''' |rowspan="3"|こぶくろや | | | | |- |[[小袋谷|'''小袋谷一丁目''']] | | | | |- |[[小袋谷|'''小袋谷二丁目''']] | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台''']] |rowspan="5"|だい | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台二丁目''']] | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台三丁目''']] | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台四丁目''']] | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台五丁目''']] | | | | |- |[[高野 (鎌倉市)|'''高野''']] |たかの | | | | |- |[[山ノ内 (鎌倉市)|'''山ノ内''']] |やまのうち | | | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[玉縄地域]](100町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町名の読み !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |[[植木 (鎌倉市)|'''植木''']] |うえき | | | | |- |[[岡本 (鎌倉市)|'''岡本''']] |rowspan="3"|おかもと | | | | |- |[[岡本 (鎌倉市)|'''岡本一丁目''']] | | | | |- |[[岡本 (鎌倉市)|'''岡本二丁目''']] | | | | |- |[[玉縄|'''玉縄一丁目''']] |rowspan="5"|たまなわ | | | | |- |[[玉縄|'''玉縄二丁目''']] | | | | |- |[[玉縄|'''玉縄三丁目''']] | | | | |- |[[玉縄|'''玉縄四丁目''']] | | | | |- |[[玉縄|'''玉縄五丁目''']] | | | | |- |[[関谷 (鎌倉市)|'''関谷''']] |せきや | | | | |- |[[台 (鎌倉市)|'''台一丁目''']] |だい | | | | |- |} {{hidden end}} [[File:230128 Yuigahama Kamakura Kanagawa pref Japan02s3.jpg|thumb|right|200px|[[由比ガ浜]]]] ; [[鎌倉地域]] : [[扇ガ谷]]、[[大町 (鎌倉市)|大町]]、[[御成町 (鎌倉市)|御成町]]、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]、[[小町 (鎌倉市)|小町]]、[[材木座 (鎌倉市)|材木座]]、[[坂ノ下 (鎌倉市)|坂ノ下]]、[[笹目町]]、[[佐助]]、[[十二所 (鎌倉市)|十二所]]、[[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]、[[二階堂 (鎌倉市)|二階堂]]、[[西御門 (鎌倉市)|西御門]]、[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]、[[由比ガ浜]]、[[雪ノ下]]、[[稲村ガ崎]] ; [[腰越地域]] : [[腰越]]、[[七里ヶ浜]]、[[七里ガ浜東]]、[[津 (鎌倉市)|津]]、[[津西]]、[[西鎌倉 (大字)|西鎌倉]] ; [[深沢地域]] : [[梶原 (鎌倉市)|梶原]]、[[鎌倉山]]、[[上町屋]]、[[手広]]、[[寺分 (鎌倉市)|寺分]]、[[常盤 (鎌倉市)|常盤]]、[[笛田 (鎌倉市)|笛田]]、[[山崎 (鎌倉市)|山崎]] ; [[大船地域]] : [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]、[[今泉台]]、[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]、[[大船]]、[[小袋谷]]、[[台 (鎌倉市)|台]](一丁目を除く)、[[高野 (鎌倉市)|高野]]、[[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]] ; [[玉縄地域]] : [[植木 (鎌倉市)|植木]]、[[岡本 (鎌倉市)|岡本]]、[[城廻 (鎌倉市)|城廻]]、[[台 (鎌倉市)|台一丁目]]、[[玉縄]]、[[関谷 (鎌倉市)|関谷]] ===人口=== {{人口統計|code=14204|name=鎌倉市|image=Demography14204.svg}} ====通勤率と就業者==== [[東京都特別区部]]への通勤率は23.5%・[[横浜市]]への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。 当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は[[東京都]]特別区部の17,093人、2位は[[横浜市]]の13,459人、3位は[[藤沢市]]の4,418人、4位は[[川崎市]]の1,675人、5位は[[横須賀市]]の974人である(平成22年国勢調査による)。 ===隣接自治体・行政区=== ;[[神奈川県]] * [[横浜市]]([[栄区]]、[[戸塚区]]、[[金沢区]]) * [[藤沢市]] * [[逗子市]] ==歴史== ===古代=== ====旧石器~縄文==== 鎌倉市内には多くの[[遺跡]]([[埋蔵文化財包蔵地]]<ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/maibun.html 「鎌倉の埋蔵文化財シリーズ」より]鎌倉市公式HP</ref>)があるが(※特に旧[[鎌倉]]中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている<ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/isekiichiran.pdf 「鎌倉市周知の埋蔵文化財包蔵地一覧」]鎌倉市公式HP</ref><ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/isekichizu2021.html 「鎌倉市遺跡地図について」]鎌倉市公式HP</ref>)、[[旧石器時代]]~[[縄文時代]]の遺跡(東正院遺跡・[[玉縄城]]遺跡・粟船山遺跡など)は、[[関谷 (鎌倉市)|関谷]]や[[玉縄]]、[[大船]]など、主に旧鎌倉の外側にあたる市域北西部に分布している<ref>[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021 pp.17-25</ref>。 ====弥生時代==== [[弥生時代]]に入ると、[[台地]]以外でも、[[滑川 (神奈川県)|滑川]]沿いの[[沖積地]]([[大倉幕府]]周辺遺跡群)や、[[由比ヶ浜]]沿岸の[[砂丘]]([[由比ヶ浜南遺跡]]・長谷小路周辺遺跡など)で弥生時代[[集落]]が出現する<ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun2.pdf 鎌倉市教育委員会 1998] p.3</ref><ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun4.pdf 鎌倉市教育委員会 2001] p.3</ref><ref>[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021 pp.26-27</ref>。 ====古墳時代==== [[古墳時代]]中頃後半([[5世紀]]末)には、この砂丘地帯に[[向原古墳群]]という[[古墳群]]が造られ、[[埴輪]]が出土している<ref>鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史(考古篇)』(1959年)84~88ページ</ref>。また[[古代]][[豪族]]「鎌倉別(かまくらのわけ)」の本拠であったと考えられており、[[丘陵]]部に[[横穴墓]]群が多数形成された<ref>[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021 pp.32-33</ref>。鎌倉市から隣の[[横浜市]][[栄区]]あたりまで存在している[[横穴墓]]遺跡の中には、特徴的な形をした[[玄室]]を持つものがあり<ref>埋蔵文化財センター(横浜市)『埋文よこはま31』(2015年)1-3ページ</ref>、旧[[鎌倉郡]]に分布しているとして「[[鎌倉型横穴墓]]」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある<ref>埋蔵文化財センター(横浜市)『栄区の重要遺跡』(2015年)20-30ページ</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/new_contents/detail.php?seq=2|title=栄区横穴墓探訪記(1)|website=[[埋蔵文化財センター (横浜市)|埋蔵文化財センター(横浜市)]]|accessdate=2022-01-09}}</ref>。また、[[浦賀水道]]の海路を介して[[房総半島]]へ抜けるルートの古[[東海道]]が通っており、古代交通の要衝であった<ref>[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021 p.59</ref>。 ====奈良時代==== [[奈良時代]]から[[平安時代]]前期には、[[鎌倉郡]]の[[郡衙]]が設置された。郡衙跡は[[鎌倉市立御成小学校|御成小学校]]を中心とする[[今小路西遺跡]]で、コの字形に並ぶ大型[[掘立柱建物]]や、「[[天平]]5年(733年)」銘の[[木簡]]が出土している<ref>[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021 pp.50-53</ref>。 ===中世=== ;平安時代 [[平忠常の乱]]の際、[[平直方]]による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した[[源頼信]]の功により、その子[[源頼義]]の頃に[[畿内]]の[[河内国]]石川郡壷井(現・[[大阪府]][[羽曳野市]]壷井)を本拠地とした[[河内源氏]]の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の[[源義家|八幡太郎義家]]の4代後の[[源頼朝]]が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、[[鎌倉街道]]も整備される。幕府の要職に就いた有力[[御家人]]は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、[[鎌倉五山]]なども置かれ関東における文化的中心地となる。 なお、[[九条兼実]]の[[日記]]『[[玉葉]]』の[[寿永]]2年([[1183年]])の記事に「[[鎌倉城]]」という言葉があることから、[[赤星直忠]]の研究以来、[[中世]]当時の鎌倉は全域が[[城郭都市]]と見なされていたとする説がある<ref>平井ほか 1980 pp.335-336</ref>。ただしこの言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設[[遺構]]の例として挙げられた「[[お猿畠の大切岸]]」などに代表される山上の[[切岸]]状人工地形が、建築土木材用の石切場([[採石場]])であることが[[発掘調査]]で判明したことや<ref>[https://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syakyou/newbunkazai/nagoe/nagoe.html 「国指定史跡 名越切通」]逗子市公式HP</ref>、『玉葉』での「城」という言葉が、[[城郭]]というより[[源頼朝]]([[源氏]])の「本拠地」という意味合いで使われているとする[[齋藤慎一]]の指摘などがあり<ref name="名前なし-1">齋藤 2006 pp.184-185</ref>、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある<ref>岡 2004 pp.41-64</ref><ref name="名前なし-1"/>。 ;鎌倉時代 [[ファイル:Juoiwa - Kamakura 02.jpg|thumb|丘陵上から臨む旧[[鎌倉]]中心部]] [[貞応]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1224年]][[7月16日]])には[[北条泰時]]が[[執権]]に就き、[[連署]]や[[評定衆]]を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた[[大倉幕府]]から[[宇都宮辻子]]沿いの[[宇都宮辻子幕府]]に移し、[[貞永]]元年([[1232年]])には[[御成敗式目]]を制定して幕府の体制を磐石なものとした(1236年(嘉禎2年)には、宇都宮辻子幕府から[[若宮大路幕府]]へ移転または改築)。 ;南北朝時代 [[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]の討幕に呼応した[[上野国]]([[群馬県]])の[[河内源氏]][[源義家|義家流]]・[[新田義貞]]は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した[[桓武平氏]]流[[北条氏]]の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]で北条氏一族を滅亡させた([[東勝寺合戦]])。[[由比ヶ浜]]沿岸部の[[由比ヶ浜南遺跡]]や由比ガ浜中世集団墓地遺跡は、[[発掘調査]]により中世に集団墓地であったことが解っているが、[[1953年]](昭和28年)の[[鈴木尚]]による調査では大量の刀創などのある[[人骨]]が出土している。 [[京都]]で後醍醐天皇の[[建武の新政]]が始まると義貞は召還され、京都の[[六波羅探題]]を滅亡させるなど討幕に功のあった一族の[[足利尊氏]]の弟である[[足利直義]]や一門の[[細川氏]]などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。[[北条氏]]一族の残党が[[中先代の乱]]を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け[[九州]]落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の[[足利基氏]]が鎌倉へ派遣されて[[鎌倉府]]を設置し、以後[[鎌倉公方]]として関東統治を行う。 ;室町時代 [[室町時代]]には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する[[関東管領]]とも対立したことなどにより[[上杉禅秀の乱]]、[[永享の乱]]、[[結城合戦]]などの騒乱が起こる。[[享徳]]4年([[1455年]])には[[享徳の乱]]で[[足利成氏]]が下総国古河へ移り[[古河公方]]を成立させたことにより鎌倉は衰退する。 ;戦国時代 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には小田原の[[北条早雲]]が鎌倉地域に進出して、[[玉縄城]]を築いて東相模地域を支配する軍事拠点とした。[[北条氏綱]]の治世時代に安房の[[里見氏]]との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。[[上杉謙信]]・[[武田信玄]]・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は[[徳川家康]]の支配下に入った。 ===近世=== ;江戸時代 近世には[[江戸]]が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、[[大山 (神奈川県)|大山]]の[[大山阿夫利神社|阿夫利神社]]、[[江の島]]の[[江島神社]]などへの参拝を目的とした[[講]]が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。 === 近代 === ==== 明治 ==== [[1889年]](明治22年)に東京と軍港のある[[横須賀市|横須賀]]を結ぶ目的で[[横須賀線]]が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。 明治中期に観光地化される少し前の[[1883年]](明治16年)に「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した[[長与専斎]]が、神奈川県の鎌倉の地域の海を地形的な特徴から「[[海水浴場]]として最適」と紹介した。当時は[[海水浴]]が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであった。今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされるが、[[由比ヶ浜]]、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に賑わい、[[湘南]]の一部として一般に認識されている。 <!--法的に遡った明治改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)なので、それ以降。法と違って現実にはその時点で元号「明治」が存在しなかったから、年表上は明治時代の冒頭に「慶応4年」の一部が入る。--> * [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月18日]] - [[神奈川県]]で[[郡区町村編制法]]が施行され、近代[[行政区画]]としての鎌倉郡が発足。 * [[1888年]](明治21年) ** [[11月1日]] - 官設[[鉄道]](この頃は[[鉄道省#鉄道部門幹部(鉄道省以前)|工部省]][[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|鉄道寮]]管轄の鉄道)が、[[日本海軍]]の[[軍港]]都市・[[横須賀市|横須賀]]までの延伸が予定される軍用主体路線(後の[[横須賀線]])の[[始発駅]]的位置付けで[[大船駅]]を開業/この時点での大船駅は[[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]であった。 ** 11月1日かその近日 - [[実業家]]・[[富岡周蔵]](後の[[大船軒]]創業者)が、大船駅の開業を機に大船に移り住み、駅前で旅館を営み始める。 * [[1889年]](明治22年) ** [[4月1日]] - 30余りの村があった鎌倉で[[日本の市町村の廃置分合|村の廃置分合]]が行われたうえで[[町村制|村制]]が施行され、近代[[村#行政村|行政村]]としての[[東鎌倉村]]・[[西鎌倉村]]・腰越津村・[[深沢村 (神奈川県)|深沢村]]・[[大船町|小坂村]]・[[玉縄村]]が発足する<ref name="教育委">鎌倉市教育委員会『かまくら34』第2版、1995年3月31日、98頁</ref>。 ** [[6月16日]] - 官設鉄道([[工部省]]鉄道寮管轄の鉄道)の軍用主体路線として大船駅-[[横須賀駅]]間(後の横須賀線)が開通し、[[鎌倉駅]]・[[逗子駅]]が途中駅として、横須賀駅が終着駅として開業。 * [[1893年]](明治26年)某月某日 - [[由比ガ浜]]にて、尋常由比浜小学校([[鎌倉市立第一小学校]]の前身)の開校。 * [[1894年]](明治27年)[[7月7日]] - [[東鎌倉村]]と[[西鎌倉村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[町村制|町制]]を施行し、'''[[鎌倉町]]を発足する'''<ref name="教育委" />。 * [[1897年]](明治30年)[[12月28日]] - [[鎌倉大仏]](指定名称:銅造阿弥陀如来坐像)が、[[旧国宝]]([[重要文化財]])に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 * [[1898年]](明治31年)[[5月16日]] - [[岡本 (鎌倉市)|岡本村]]にて、大船軒が営業を開始。 * [[1899年]](明治32年) ** [[4月5日]] - [[円覚寺]][[舎利殿]]が、特別保護建造物([[重要文化財]])に指定される<ref name="市-定財覧-20180309">{{Cite web|和書|author=文化財部文化財課 |date=2018年3月9日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/shiteibunkazai-kensu-list.html |title=鎌倉市指定文化財一覧表 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-26 |ref=市-定財覧-20180309 }}</ref>。 ** 9月 - 鎌倉郡鎌倉町[[大町 (鎌倉市)|大町]](現・鎌倉市[[御成町 (鎌倉市)|御成町]])にて、[[鎌倉御用邸]]の造営。 * [[1903年]](明治36年) ** [[6月20日]] - 江之島電気鉄道路線(現・[[江ノ島電鉄線]]。直近までは[[藤沢駅]]-片瀬駅〈現・[[江ノ島駅]]〉間)が鎌倉方面へ延伸し、片瀬駅-田辺駅(現・[[七里ヶ浜駅]])間が開通する。 ** [[7月17日]] - 江之島電気鉄道路線の鎌倉方面への延伸に追揚駅(現在は廃駅)の1駅が追加される。 * [[1904年]](明治37年)[[4月1日]] - 江之島電気鉄道路線の鎌倉方面へ延伸し、追揚駅-[[極楽寺駅]]間が開通する。 * [[1906年]](明治39年)6月 - 江之島電気鉄道路線の極楽寺駅-[[長谷駅 (神奈川県)|長谷駅]]間にて、極楽洞(極楽トンネル)の着工/当時は、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]側では[[曾禰荒助]](元[[大蔵大臣]])の[[揮毫]]から「極楽洞」、[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]側では[[松方正義]](元[[総理大臣]])の揮毫から「千歳開道」と呼んだ。 * [[1907年]](明治40年) ** 2月某日 - 極楽洞(極楽トンネル)の竣工。 ** [[8月16日]] - 江之島電気鉄道路線の鎌倉方面へ延伸し、極楽寺駅-大町駅(現在は廃駅)間が開通する。 * [[1909年]](明治42年) ** [[4月5日]] - [[円覚寺]]の梵鐘と[[建長寺]]の梵鐘が、旧国宝(重要文化財)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 ** [[10月12日]] - [[鉄道省#鉄道院|鉄道院]](旧・[[鉄道省#鉄道部門幹部(鉄道省以前)|工部省]][[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|鉄道寮]]、直近の[[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|逓信省鉄道局]]と[[鉄道省#帝国鉄道庁|帝国鉄道庁]]の統合機関)が[[国鉄・JR線路名称一覧|官設鉄道線路名称]]を制定し、東海道線の一支線であった「大船駅-横須賀駅間」には「横須賀線」の名称が与えられる。 * [[1910年]](明治43年)[[11月4日]] - 江之島電気鉄道路線(現・江ノ島電鉄線)が鎌倉方面へ延伸し、大町駅(現在は廃駅)-小町駅(鎌倉駅の前身にあたる廃駅)間が開通し、これをもって全線開通する。 * 明治末期 - [[豊島屋 (製菓業)|豊島屋]]が[[洋菓子]]「鳩三郎(現在の[[鳩サブレー]])」を発売。 ==== 大正 ==== * [[1916年]]([[大正]]5年)11月 - [[芥川龍之介]]の鎌倉暮らしが始まる/詳しくは「[[#文士と鎌倉|芥川龍之介]]」節を参照。 * 大正中期{{efn|大正時代(1912-1926年)の中期ということで、記載位置は1919年とする。}} - 山縣ホテル(今では[[クラシックホテル]]として[[鎌倉市指定景観重要建築物]]となっている[[ホテルニューカマクラ]])の開業。 * [[1920年]](大正9年) - 鎌倉郡[[大船町|小坂村]]岩瀬(現・鎌倉市[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]])にて、[[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]が開設され、食用蛙(食用[[ウシガエル]])の養殖が始まる/これを機に当地域では米国向け輸出用の食用蛙の養殖業が大々的に行われるようになる。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]] - 関東大震災の発生。鎌倉にも大きな被害あり。円覚寺では[[舎利殿]]や仏殿が倒壊。 ** この大震災をきっかけとして、壊滅状態となった東京に比べれば遥かに被害の少なかった鎌倉と[[浦和地区|浦和]](現在の[[さいたま市]][[浦和区]])に多くの文化人が居を移す時代が到来する。この時期を中心とした鎌倉と浦和の文化人をそれぞれに「[[鎌倉文士]]」「[[浦和画家]]」と呼ぶようになる。 ==== 昭和(戦前) ==== [[昭和]]に入ると、[[久米正雄]]など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「[[鎌倉文士]]」という言葉が生みだされた。[[1936年]](昭和11年)、[[松竹]]が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。 [[1928年]](昭和3年)の[[鎌倉山]]の分譲を嚆矢に、[[1930年]](昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊の[[ベッドタウン]]としての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった[[鶴岡八幡宮]]裏の「御谷」開発中止を求める、作家[[大佛次郎]]を中心とした市民運動は、[[古都保存法]]制定の契機となり、異論はあるが日本における[[ナショナル・トラスト]]運動の嚆矢ともいわれている。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** [[5月20日]] - 帝国鉄道([[日本国有鉄道]]の前身)横須賀線北鎌倉仮停車場([[北鎌倉駅]]の前身)の開業。 ** 某月 - 鎌倉食用蛙養殖場を始めとする岩瀬の食用蛙(食用ウシガエル)養殖業者が蛙の餌として[[アメリカザリガニ]]を使用し始める。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[4月3日]] - [[神武天皇祭]]のこの日、鶴岡八幡宮境内にて、[[鎌倉国宝館]]の設立・開館。 ** [[4月4日]] - [[徳川吉宗]][[奉納]]、鶴岡八幡宮所蔵の、[[太刀]][[銘文|銘]][[青江派|正恒]](指定名称:太刀 銘正恒 附 糸巻太刀拵)が、旧国宝(重要文化財)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[4月14日]] - 岡本の仏海山[[大船観音寺]]にて、[[大船観音寺#大船観音|大船聖観世音菩薩立像]](大船観音菩薩立像)の起工式が執り行われる<ref name="大船観音寺-史">{{Cite web |url=http://www.oofuna-kannon.or.jp/01enkaku/index.html |title=沿革 |work=公式ウェブサイト |publisher=大船観音寺 |accessdate=2018-03-24 |ref=大船観音寺-史 }}</ref>。 ** 某月某日 - 円覚寺舎利殿の再建。 * [[1930年]](昭和5年)[[10月1日]] - 帝国鉄道(日本国有鉄道の前身)横須賀線の北鎌倉仮停車場が駅へ昇格し、北鎌倉駅が開業。 * [[1931年]](昭和6年) ** [[1月1日]] - 腰越津村が単独で町制を施行し、[[腰越町]]を発足する<ref name="教育委" />。 ** 某月某日 - 鎌倉御用邸の閉鎖。 * [[1933年]](昭和8年) ** [[2月11日]] - 小坂村が単独で町制を施行し、[[大船町]]を発足<ref name="教育委" />。 ** [[4月2日]] - [[玉縄村]]が大船町に編入<ref name="教育委" />。 * [[1934年]](昭和9年) - 岡本の大船聖観世音菩薩立像(大船観音菩薩立像)の建造が、[[世界恐慌]]影響下の資金難から中断を余儀なくされ、その後、23年もの間放置されることとなる<ref name="大船観音寺-史" />。 * [[1936年]](昭和11年)[[1月15日]] - 大船に[[松竹大船撮影所]]が開所。 * [[1937年]](昭和12年) - [[鎌倉文士]]ら手により夏の風物詩、[[鎌倉カーニバル]]が始まる(戦時中の中断をはさみ1962年まで)<ref>{{Cite web|和書|date=2015年8月14日 |url=https://www.townnews.co.jp/0602/2015/08/14/295420.html |title= 鎌倉が日本が熱狂したカーニバル |publisher=タウンニュース |accessdate=2019-12-24}}</ref>。 * [[1938年]](昭和13年) ** 7月 - 豪雨で砂押川が氾濫し、岩鎌倉食用蛙養殖場の食用蛙とアメリカザリガニが大量に逃げ、周辺環境に拡散されてしまう。 ** 12月 - 鎌倉町と藤沢町の間で、片瀬町と腰越町を合併するための争奪戦が発生。 * [[1939年]](昭和14年)[[11月3日]] - 鎌倉町と腰越町が新設合併したうえで市制を施行し、'''鎌倉市を発足する'''<ref>昭和14年内務省告示第515号</ref>。 * [[1940年]](昭和15年)[[4月9日]] - 旧鎌倉町最後の町長・[[清川来吉|清川來吉]]が、初代鎌倉市長に就任。 * [[1940年代]]前半 - 鎌倉食用蛙養殖場を始めとする岩瀬の食用蛙養殖業が、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の勃発に先立つ欧米諸国の禁輸政策の影響をまともに受けて立ち行かなくなり、急速に衰退する。 * [[1942年]](昭和17年)7月 - [[深沢村 (神奈川県)|深沢村]](現在の[[深沢地域]][[梶原 (鎌倉市)|梶原]]・[[寺分 (鎌倉市)|寺分]]付近)にて、[[横須賀海軍工廠深沢分工場]]の着工。 ** 建設の際、「[[泣塔]]」と呼ばれる[[宝篋印塔]]を破却しようとしたところ、地元住民が反対するなか、様々な凶事と変事が立て続けに起こって祟りが噂されるうちに、当局は計画の微調整を余儀なくされ、塔に手を着けないまま敷地脇に残す形で工事を続けることとなった。 * [[1943年]](昭和18年)10月 - 横須賀海軍工廠深沢分工場の竣工と操業開始。 * [[1944年]][[8月5日]] - 鎌倉を含む[[神奈川県]]沿岸の大部分で軍事上の理由で[[海水浴]]を制限。遊泳は学校などの団体に限り、警察署の許可を得ることが条件とされた<ref>東京湾、三浦半島などの海水浴に制限令(昭和19年8月11日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p68 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[1月9日]] - 最初の[[鎌倉空襲]]。 ** [[5月1日]] - 鶴岡八幡宮の鳥居近くにて、[[鎌倉文士]]達が貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を開店。 **5月~8月‐[[大船収容所事件]]が発生。 ===現代=== ==== 昭和(戦後) ==== *[[1945年]]([[昭和]]20年) ** 9月 - 京浜女子家政理学専門学校([[鎌倉女子大学]]の前身校)が、横浜市[[神奈川区]]から鎌倉市岩瀬へ[[キャンパス]]を移転。 * [[1946年]](昭和21年)5月某日 - [[材木座海岸|材木座]]の天照山[[光明寺 (鎌倉市)|光明寺]]を仮校舎として、[[鎌倉アカデミア]]が開校。 * [[1948年]](昭和23年) ** 1月1日 - 深沢村が鎌倉市に編入<ref name="県告示458">昭和22年[[12月26日]]、神奈川県告示第458号</ref>。 ** [[6月1日]] - 大船町が鎌倉市に編入<ref name="県告示233">昭和22年[[5月29日]]、神奈川県告示第233号</ref>。これをもって'''鎌倉郡が消滅'''。 * [[1949年]](昭和24年)- 鎌倉花火大会が開始<ref name="花火大会"/>。 * [[1951年]](昭和26年) ** [[6月9日]] - 重要文化財(旧国宝)指定物件である円覚寺舎利殿が、[[国宝]](新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 ** [[11月17日]] - 鶴岡八幡宮境内にて、[[神奈川県立近代美術館]]鎌倉館の開館。 * [[1952年]](昭和27年) ** [[3月29日]] - 重要文化財(旧国宝)指定物件である、鶴岡八幡宮所蔵の太刀銘正恒(指定名称:太刀 銘正恒 附 糸巻太刀拵)が、国宝(新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 ** [[11月3日]] - 鎌倉[[市町村章|市章]]の制定。 * [[1953年]](昭和28年)[[11月14日]] - 重要文化財(旧国宝)指定物件である円覚寺の梵鐘と建長寺の梵鐘が、国宝(新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[2月8日]] - 重要文化財(旧国宝)指定物件である、[[高徳院]]所有の[[鎌倉大仏]](指定名称:銅造阿弥陀如来坐像)が、国宝(新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。 * [[1959年]](昭和34年) 某月某日<!--※4月1日と推定。--> - 京浜女子家政理学専門学校を母体として京浜女子大学([[1989年]]に校名を[[鎌倉女子大学]]に変更)が設立される。 * [[1960年]](昭和35年)[[4月28日]] - 岡本の仏海山大船観音寺にて、大船聖観世音菩薩立像(大船観音菩薩立像)の[[開眼法要]]<ref name="大船観音寺-史" />。 * [[1961年]](昭和36年)[[10月25日]] - 鎌倉市と藤沢市の境界を変更<ref name="省告示322">[[s:市の境界変更 (昭和36年自治省告示第322号)|同日、自治省告示第322号]]</ref>。 * [[1964年]](昭和39年) - 円覚寺仏殿の再建。 * [[1965年]](昭和40年) ** 2月1日 - [[住居表示]]の際、かつて鎌倉御用邸のあった地域一帯(大町、小町、扇ガ谷の一部)が、その歴史を地名に留めるべく、新町名「御成町」を誕生させる<ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/juukyohyouji/machimei.html 「鎌倉市の町名及び住居表示の実施状況」(鎌倉市サイト)]</ref>。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[11月9日]] - 鎌倉市と[[ニース]]市([[フランス]] [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]])が[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。 * [[1967年]](昭和42年)某月某日 - 岡本にて、[[神奈川県立フラワーセンター大船植物園]]の開園。 * [[1968年]](昭和43年)[[6月16日]] - 大船駅近くで[[横須賀線電車爆破事件]]が発生。 * [[1970年]](昭和45年)[[3月7日]] - [[湘南モノレール江の島線]]の大船駅-[[西鎌倉駅]]間が開業。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[7月1日]] - [[湘南モノレール江の島線]]の西鎌倉駅-[[湘南江の島駅]]間が開業し、全線開通。 ** この年より[[歴史学者]]の[[竹内理三]]が『[[鎌倉遺文]]』の[[編纂]]に着手、[[1995年]](平成7年)まで25年をかけた。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月15日]] - [[七里ガ浜東]]にて、[[下水処理場|下水道終末処理場]]「七里ガ浜浄化センター」の運転開始<ref name="市-汚水-20170418" />。 ** [[5月1日]] - 鎌倉市と[[逗子市]]の境界に変更あり<ref name="省告示111">[[s:市の境界変更 (昭和47年自治省告示第111号)|同年4月20日、自治省告示第111号]]</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[10月25日]] - [[リンドウ]]を「市の花」に、[[ヤマザクラ]](オオシマザクラを含む)を「市の木」に制定。 * [[1976年]](昭和51年) ** 某月某日 - [[防災行政無線]]の運用開始。 ** 某月某日 - 鎌倉市が、岩瀬の鎌倉食用蛙養殖場跡地を地権者より借り受け、「[[岩瀬下関防災公園#いわせ下関青少年広場|いわせ下関青少年広場]]」として整備する。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[1月12日]] - [[鎌倉彫]]が、通商産業大臣指定伝統的工芸品(現・[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]])になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kamakurabori-kougeikan.jp/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BD%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ |title=鎌倉彫について |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉彫工芸館 |accessdate=2018-03-26 |ref=鎌倉彫館 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=鎌倉市市民活動部観光商工課商工担当 |date=2017年2月27日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shoukou/kamakurabori.html |title=鎌倉彫 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-26 |ref=市-鎌倉彫-20170227 }}</ref>。 ** [[11月2日]] - 鎌倉市と[[萩市]]([[山口県]])が[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。 ** [[11月5日]] - 鎌倉市と[[上田市]]([[長野県]])が姉妹都市提携の盟約を締結。 * [[1982年]](昭和57年)[[4月26日]] - 鎌倉市と[[足利市]]([[栃木県]])が姉妹都市提携の盟約を締結。 * [[1983年]](昭和58年)某月某日 - [[鎌倉ニュージャーマン]]が[[洋菓子]]「[[鎌倉カスター]]」を発売。 * [[1985年]](昭和60年)[[10月31日]] - 長谷にて、[[鎌倉文学館]]の開館。 * [[1987年]](昭和62年)[[6月9日]]~10日 - 大船近くのアパートで、[[不動塾事件]]が発生。 ==== 平成 ==== * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[4月12日]] - 鎌倉市の日本飛行機専務宅にて、[[日本飛行機専務宅放火殺人事件]]の発生。 ** [[10月1日]] - 鎌倉文学館が[[鎌倉市指定景観重要建築物]]の第1号となる。 * [[1993年]](平成5年) ** [[6月1日]] - [[山崎 (鎌倉市)|山崎]]にて、「山崎浄化センター」の運転開始<ref name="市-汚水-20170418" />。 ** 10月某日 - 大船にて、[[鎌倉芸術館]]の開館。 * [[1994年]](平成6年)[[12月24日]] - かまくらFM([[鎌倉エフエム放送]])の開局。 * [[1995年]](平成7年) ** [[10月10日]] - [[松竹]]創立100周年記念事業として、[[松竹大船撮影所]]の敷地内に[[鎌倉シネマワールド]]がグランドオープン。 ** 某月 - 歴史学者・[[竹内理三]]が『[[鎌倉遺文]]』の編纂を終える。 * [[1996年]](平成8年) ** [[8月4日]] - [[松竹映画]]の看板俳優・[[渥美清]]が死去。これを機に[[鎌倉シネマワールド]]の入場者数が激減し始める。 ** 11月某日 - [[鎌倉七口]]が、[[文化庁]]選定「[[歴史の道百選]]」に「鎌倉街道-七口切通」として選出される。 * [[1998年]](平成10年)[[12月15日]] - 巨額の営業赤字を抱えた[[鎌倉シネマワールド]]が閉鎖。 * [[1997年]](平成9年)某月某日 - 「[[関東の駅百選]]」の第1回選定駅リストに、北鎌倉駅([[東日本旅客鉄道|JR東日本]])と[[鎌倉高校前駅]]([[江ノ島電鉄]])が選出される。 * [[1998年]](平成10年)[[9月28日]] - 鎌倉市と[[敦煌市]]([[中華人民共和国|中国]][[甘粛省]])が[[姉妹都市#「姉妹都市」と「友好都市」|友好都市]]提携の盟約を締結。 * [[1999年]](平成11年) ** [[10月14日]] - 「関東の駅百選」の第3回選定駅リストに、極楽寺駅([[江ノ島電鉄]])が選出される。 ** 某月某日 - 閉鎖が決まった松竹大船撮影所の跡地を[[鎌倉女子大学]]が取得。 * [[2000年]](平成12年) ** 4月某日 - 鎌倉市が生み出す[[廃棄物]]の焼却処理を担う名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターが、発生する焼却残渣の全量の[[溶融スラグ|溶融]]固化処理を開始し、[[最終処分場]]での埋め立てを廃止する<ref name="環境部-20180228" />。 ** [[6月30日]] - 松竹大船撮影所の閉鎖。 ** 某月某日 - 「関東の駅百選」の第4回選定駅リストに、鎌倉駅([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]。[[江ノ島電鉄]]は選定対象外)が選出される。 ** 某月某日 - [[稲村ヶ崎]]で温泉発見。後に[[稲村ヶ崎温泉]]となる。 * [[2002年]](平成14年)7月某日 - 稲村ヶ崎海水浴場、最後の海開き。この年を最後に海水浴場の指定から外されたが、原因は浸蝕による砂浜の減少であった。 * [[2003年]](平成15年)某月某日 - 鎌倉女子大学が、松竹大船撮影所跡地を、[[大学院]]・[[大学]]・[[短期大学]]部の大船キャンパスとして使用し始める。 * [[2004年]](平成16年)[[2月27日]] - [[高徳院]][[境内]]一帯が国の史跡に指定される(指定名称:鎌倉大仏殿跡)<ref name="市-定財覧-20180309" />。 * [[2007年]](平成19年)[[6月17日]] - 鎌倉商工会議所主催の[[ご当地検定]]「[[鎌倉観光文化検定]]」の第1回試験が開催される。 * [[2008年]](平成20年)[[3月31日]] - 『[[鎌倉遺文]]』全46巻の[[CD-ROM]]版が刊行される。 * [[2009年]](平成21年)某月某日 - [[社団法人]][[土木学会]]が、[[小坪隧道]]と[[名越隧道]](逗子市-鎌倉市間の[[隧道]])を「小坪隧道・名越隧道」名義で、[[土木学会選奨土木遺産|平成21年度選奨土木遺産]]の一つに選定する<ref name="JSCE">{{Cite web|和書|url=https://www.jsce.or.jp/contents/isan/index.html |title=土木学会選奨土木遺産 |work=公式ウェブサイト |publisher=[[社団法人]][[土木学会]] |accessdate=2018-03-23 |ref=JSCE }}</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[1月12日]] - 防災行政無線の夕方のチャイム([[夕焼け小焼け]]の新音源)の放送開始。 ** [[3月10日]] - 鶴岡八幡宮境内で、強風のために[[鶴岡八幡宮#大銀杏の倒伏|大銀杏が倒伏]]。 ** [[12月24日]] - 鎌倉市役所屋上(御成町18-10)にて、[[鎌倉テレビ中継局]](鎌倉の[[地上デジタルテレビ放送]][[中継局]])が本放送を開始。 * [[2011年]](平成23年)[[8月1日]] - 鎌倉を貫流する[[滑川 (神奈川県)|滑川]](滑川橋-太刀洗川間)で行われたこの日の調査において、[[ヒメヌマエビ]]の棲息が、[[神奈川県]]で初めて確認される<ref>{{Cite web|和書|author=丸山 智朗([[東京大学]]大学院農学生命科学研究科水域保全学研究室) |date=2012-09-22 |url=http://nh.kanagawa-museum.jp/files/data/pdf/nhr/33/nhr33_041-044_maruyama_s.pdf |title=鎌倉市滑川におけるヒメヌマエビ(節足動物門;十脚目;ヌマエビ科)の記録 |format=PDF |publisher=[[神奈川県立生命の星・地球博物館]] |accessdate=2018-03-23 }}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)某月某日 - 公益社団法人土木学会が、神奈川県営水道施設群の6施設を、「神奈川県営水道施設群(記念館他)」名義で[[土木学会選奨土木遺産|平成25年度選奨土木遺産]]の一つに選定<ref name="JSCE" />。鎌倉市域にある施設としては「鎌倉配水池」(現・佐助配水池)がこれに含まれる<ref name="JSCE" />。 * [[2014年]](平成26年)某月某日 - 公益社団法人土木学会が、[[江ノ島電鉄]]([[藤沢市]]・鎌倉市)を[[土木学会選奨土木遺産|平成26年度選奨土木遺産]]の一つに選定<ref name="JSCE" />。 * [[2015年]](平成27年)[[5月24日]] - 岩瀬下関防災公園の開園。鎌倉市が、2011年(平成23年)に地権を取得した「いわせ下関青少年広場」をの再整備を終え、この日、開園式を執り行う。 * [[2016年]](平成28年)[[3月31日]] - [[神奈川県立近代美術館]]鎌倉館が閉館。 * [[2017年]](平成29年)[[5月15日]] - [[扇ガ谷]]にて、[[鎌倉歴史文化交流館]]の開館。 ==== 令和 ==== * [[2019年]](令和元年) ** 6月 - [[神奈川県立近代美術館]]鎌倉館が鎌倉文華館鶴岡ミュージアムにリニューアルオープン。 ** [[9月10日]] - [[令和元年房総半島台風]](台風15号)の影響で[[二階堂 (鎌倉市)|二階堂]]地区が被災。鎌倉市からの要請で[[災害派遣]]要請された[[陸上自衛隊]]が、[[鎌倉宮]]を避難所([[一時避難場所]])として指定して本部を設置し、[[9月10日]]から[[9月14日]]にかけて災害救助活動を実施。 === 行政区域の変遷 === * [[1939年]](昭和14年)[[11月3日]] - [[鎌倉町]]と[[腰越町]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]し、'''鎌倉市'''が発足<ref>同日、[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第515号</ref>。 {{Wikisource|村廃止市境界変更 (昭和23年1月17日神奈川県公告)|深沢村を廃し、鎌倉市に編入する件|神奈川県[[公告]]文}} {{Wikisource|市町村の廃置分合 (昭和23年総理庁告示第139号)|大船町を廃し、鎌倉市に編入する件|[[総理府|総理庁]][[告示]]文}} * [[1948年]](昭和23年) ** [[1月1日]] - [[深沢村 (神奈川県)|深沢村]]を[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]<ref name="県告示458" />。 ** [[6月1日]] - [[大船町]]を編入<ref name="県告示233" />。これをもって[[鎌倉郡]]が消滅する。 * [[1961年]](昭和36年)[[10月25日]] - [[藤沢市]]と境界変更<ref name="省告示322" />。 * [[1972年]](昭和47年)[[5月1日]] - [[逗子市]]と境界変更<ref name="省告示111" />。 == 行政 == 市章は、源氏の家紋だったといわれる「[[ササ|笹]][[リンドウ|りんどう]]」。 ===市長=== ;現職市長 * [[市町村長|市長]] ** [[松尾崇|松尾 崇]](まつお たかし) ::: [[2009年]](平成21年)10月25日初当選(36歳、[[無所属]])<ref name="選挙.com">選挙ドットコム</ref>、11月1日就任<ref name="市-歴長-20150123">{{Cite web|和書|author=経営企画部秘書広報課 |date=2015年1月23日 |url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/hisyo/rekidaishichou.html |title=歴代市長 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20150123 }}</ref>、[[2013年]](平成25年)10月31日退任。同年10月27日再選(40歳、無所属)<ref name="選挙.com" />、11月1日再任<ref name="市-歴長-20150123" />、[[2017年]](平成29年)10月31日退任。同年10月22日再選(44歳、無所属)<ref name="選挙.com" />、11月1日再任。[[2021年]](令和3年)10月31日退任。同年10月17日再選<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/senkan/kaihyou_sokuho20211017.html|title=鎌倉市長選挙開票速報|accessdate=2021年12月16日|publisher=鎌倉市}}</ref>(48歳、無所属)。11月1日再任。現在は4期目で、[[任期]]満了日は[[2025年]](令和7年)10月31日。 * [[副市町村長|副市長]] ** 比留間 彰(ひるま あきら):[[2022年]](令和4年)4月1日初就任<ref>{{Cite news|title=副市長に比留間氏|newspaper=タウンニュース 鎌倉版|date=2022-03-25|url=https://www.townnews.co.jp/0602/2022/03/25/618423.html|accessdate=2022-04-11}}</ref>。任期満了日は[[2026年]](令和8年)3月31日。 ** [[千田勝一郎|千田 勝一郎]](ちだ しょういちろう):[[2019年]](平成31年)1月7日初就任<ref>[https://www.kanaloco.jp/news/government/entry-146776.html 新副市長に知事特別秘書の千田氏 鎌倉市議会が同意] [[神奈川新聞]] 2018年12月21日 政治・行政</ref>。任期満了日は[[2023年]](令和5年)1月7日。 ;歴代市長 * 出典1 - {{Cite web|和書|author=選挙管理委員会事務局 |date=2015年10月15日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/senkan/26about_shi.html |title=過去の選挙記録 - 鎌倉市の選挙 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=選管-歴長-20151015 }} ※第21代まで。 * 出典2 - {{Cite web|和書|author=経営企画部秘書広報課 |date=2015年1月23日 |url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/hisyo/rekidaishichou.html |title=歴代市長 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20150123 }} ※第22代まで。 [[首長]]の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では (a)(b) を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代(a)」「代(b)」という名で2種類を記載した。「代(a)」は、就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、「代(b)」は、同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。鎌倉市は「代(a)」の方式を採っているが(他の例:[[八王子市#歴代市長|八王子市歴代市長]]、[[弘前市#行政|弘前市歴代市長]][http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/rekishi/shuchou/]<!--※歴代の首長-弘前市(公式)-->、[[浜松市#行政|浜松市歴代市長]][http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hisho/intro/101_01d.html]<!--※歴代市長-浜松市(公式)-->)、「代(b)」の方式を採る自治体も多く(例:[[京都市#地域|京都市歴代市長]][http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000033357.html]<!--※歴代市長-京都市情報館(京都市公式)-->、[[大垣市#行政|大垣市歴代市長]][http://www.city.ogaki.lg.jp/0000000749.html]<!--※歴代市長-大垣市(公式)-->)、(a) と (b) の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、鎌倉市にこれを当てはめると磯部が2回就任しているため、(b) の代数から 1 が引かれる。 {|class="wikitable" style="width:100%" ! | 代(a) !! | 代(b) !! | 氏名 !! | 就任年月日 !! | 退任年月日 !! | 備考 |- | <center>1 || <center>1 || <center>{{Ruby|[[清川来吉|清川 來吉]]|きよかわ らいきち}} || [[1940年]]([[昭和]]15年)[[4月9日]] || 1940年(昭和15年)11月16日 || <small>[[1939年]](昭和14年)[[11月3日]]、鎌倉市が発足。市長が選出されて就任するまでの間は、市長[[権限#権限の委任|職務代行者]]が置かれるが、旧[[市町村の合併の特例に関する法律|合併特例法]]に基づく特例事項で[[都道府県知事]]等もしくは施行前の[[首長]]がこれを務める。鎌倉市の係る資料は確認できないが、おそらく旧[[鎌倉町]]長・清川來吉が務めた。その後、清川が選出され、初代市長に就任した。 |- | <center>2 || rowspan="2" | <center>2 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[鈴木富士彌|鈴木 富士彌]]|すずき ふじや}} || 1940年(昭和15年)12月24日 || [[1944年]](昭和19年)12月23日 || <small>1期目4年を満了。 |- | <center>3 || 1944年(昭和19年)12月24日 || 1945年(昭和20年)12月10日 || <small>2期目の1周年を目前に体調を崩して辞任か。辞任のおよそ1か月後に死亡している。 |- | <center>4 || rowspan="2" | <center>3 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[磯部利右衛門|磯部 利右衛門]]|いそべ りえもん}} || 1946年(昭和21年)1月25日 || [[1947年]](昭和22年)3月25日 || <small>[[無所属]]。1期4年を満了せず。 |- | <center>5 || 1947年(昭和22年)4月5日 || [[1951年]](昭和26年)4月4日 || <small>無所属。1期分4年を満了。 |- | <center> 6 || <center>4 || <center>{{Ruby|[[草間時光|草間 時光]]|くさま ときみつ}} || 1951年(昭和26年)4月24日 || [[1955年]](昭和30年)4月23日 || <small>無所属。1期4年を満了。 |- | <center>7 || <center>5 || <center>磯部 利右衛門 || 1955年(昭和30年)5月1日 || [[1958年]](昭和33年)7月17日 || <small>無所属。在任中に死亡<ref name="市-歴長-20130507">{{Cite web|和書|date=2013年5月7日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/qa/gyousei/gyousei0005.html |title=歴代市長について知りたい。|work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20130507 }}</ref>。 |- | <center>8 || rowspan="3" | <center>6 || rowspan="3" | <center>{{Ruby|[[山本正一|山本 正一]]|やまもと しょういち}} || 1958年(昭和33年)9月3日 || [[1962年]](昭和37年)9月2日 || <small>[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]。1期目4年を満了。 |- | <center>9 || 1962年(昭和37年)9月3日 || [[1966年]](昭和41年)9月2日 || <small>自由民主党。2期目4年を満了。 |- | <center>10 || 1966年(昭和41年)9月3日 || [[1970年]](昭和45年)9月2日 || <small>自由民主党。3期目4年を満了。 |- | <center>11 || rowspan="2" | <center>7 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[正木千冬|正木 千冬]]|まさき ちふゆ}} || 1970年(昭和45年)9月3日 || [[1974年]](昭和49年)9月2日 || <small>鎌倉市民連合。1期目4年を満了。 |- | <center>12 || 1974年(昭和49年)9月3日 || [[1978年]](昭和53年)9月2日 || <small>鎌倉市民連合。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 |- | <center>13 || <center>8 || <center>{{Ruby|[[渡辺 隆|渡辺 隆]]|わたなべ たかし}} || 1978年(昭和53年)9月3日 || [[1981年]](昭和56年)9月10日 || <small>無所属。在任中に病死<ref name="市-歴長-20130507" />。 |- | <center>14 || <center>9 || <center>{{Ruby|[[小島寅雄|小島 寅雄]]|こじま とらお}} || 1981年(昭和56年)11月1日 || [[1985年]](昭和60年)10月31日 || <small>無所属。1期4年を満了。 |- | <center>15 || rowspan="2" | <center>10 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[中西功 (鎌倉市長)|中西 功]]|なかにし いさお}} || 1985年(昭和60年)11月1日 || [[1989年]](平成元年)10月31日 || <small>無所属。1期目4年を満了。 |- | <center>16 || 1989年(平成元年)11月1日 || [[1993年]](平成5年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 |- | <center>17 || rowspan="2" | <center>11 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[竹内謙|竹内 謙]]|たけうち けん}} || 1993年(平成5年)11月1日 || [[1997年]](平成9年)10月31日 || <small>鎌倉を愛する市民の会。1期目4年を満了。 |- | <center>18 || 1997年(平成9年)11月1日 || [[2001年]](平成13年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 |- | <center>19 || rowspan="2" | <center>12 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[石渡徳一|石渡 德一]]|いしわた とくかず}} || 2001年(平成13年)11月1日 || [[2005年]](平成17年)10月31日 || <small>2001年(平成13年)10月21日、48歳で初当選<ref name="選挙.com" />。無所属。1期目4年を満了。 |- | <center>20 || 2005年(平成17年)11月1日 || [[2009年]](平成21年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 |- | <center>21 || rowspan="4" | <center>13 || rowspan="4" | <center>{{Ruby|[[松尾崇|'''松尾 崇''']]|まつお たかし}} || 2009年(平成21年)11月1日 || [[2013年]](平成25年)10月31日 || <small>2009年(平成21年)10月25日、36歳で初当選<ref name="選挙.com" />。無所属。1期目4年を満了。 |- | <center>22 || 2013年(平成25年)11月1日 || [[2017年]](平成29年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。 |- |<center>23 |2017年(平成29年)11月1日 |[[2021年]](令和3年)10月31日 |<small>無所属。3期目4年を満了。</small> |- | <center>'''24''' || 2021年(令和3年)11月1日 || <center>'''( 現 職 )''' || <small>無所属。現在は4期目で、任期満了日は[[2025年]](令和7年)10月31日。 |- | |} ===市政機関=== ;市役所 * 鎌倉市役所 - 御成町18-10に所在。 ** 深沢支所 - 常盤111-3に所在。 ** 腰越支所 - 腰越864に所在。 ** 大船支所 - 大船2-1-26に所在。 ===不祥事等=== * [[1970年]](昭和45年)に革新市長・[[正木千冬]]が誕生すると、勧奨退職金の最高額を90ヶ月分から130ヶ月分にまで大幅にアップした<ref>“役所天国・鎌倉市”お手盛り給与「わたり」 市議会から「即時廃止」迫られ「組合」熾烈防戦 産経新聞 2014年10月27日</ref>。これを受けて、[[1980年代]]には市職員が各省事務次官をしのぐ5千万円以上の高額退職金をもらう事例が続出し、「退職金日本一のお役所天国」と揶揄された。 * [[2012年]](平成24年)4月頃から2年間にわたり、市役所の生活福祉課の[[生活保護]]相談窓口の前に棚や衝立などを設置し、窓口を利用できない状態にしていたことが発覚した<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/78832 鎌倉市の生活保護申請窓口についたて 2年以上 外部指摘で撤去] - [[神奈川新聞|カナロコ]]、2014年7月1日</ref><ref>[http://apital.asahi.com/article/news/2014070200005.html ふさがれた生活保護窓口 鎌倉市「棚置く場所なく」] - [[朝日新聞]]、2014年7月2日</ref>。隣の窓口で生活保護相談を受け付ける旨の表示はあったが、同課を訪れた市民が窓口で引き返した例もあり、支援団体からの指摘を受けて窓口を再開した。[[松尾崇]]市長は[[ツイッター]]上で本件について謝罪した<ref>[https://twitter.com/takashi_matsuo/status/484511988324651008 2014年7月3日のツイート]</ref>。 ==議会== ===市議会=== {{Main|鎌倉市議会}} ===県議会=== {{Main|2019年神奈川県議会議員選挙}} * 選挙区:鎌倉市選挙区 * 定数:2人 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 * 投票日:2019年4月7日 * 当日有権者数:148,003人 * 投票率:39.78% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 永田磨梨奈 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 36 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 20,900票 |- | 飯野眞毅 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 18,735票 |- | 三宅真里 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 61 || 神奈川ネットワーク運動 || style="text-align:center" | 新 || 10,979票 |- | 岩田薫 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 66 || 諸派 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 6,623票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[神奈川県第4区|神奈川4区]]([[横浜市]][[栄区]]、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:332,708人 * 投票率:61.70% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[早稲田夕季]] || align="center" | 62 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 66,841票 || align="center" | ○ |- | || [[浅尾慶一郎]] || align="center" | 57 || [[無所属]] || align="center" | 元 || 63,687票 || |- |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[山本朋広]] || align="center" | 46 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 47,511票 || align="center" | ○ |- | || 高谷清彦 || align="center" | 42 || 日本維新の会 || align="center" | 新 || 16,559票 || align="center" | ○ |- | || 大西恒樹 || align="center" | 57 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 7,790票 || |} ==国家機関== ===財務省=== ;[[税務署]] *鎌倉税務署 - [[佐助]]1-9-30に所在。管轄区域は、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦郡]][[葉山町]]。 ===法務省=== ;[[検察庁]] *鎌倉区検察庁 - 庁舎は横浜地方検察庁本庁舎([[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]日本大通9)内に所在。管轄区域は、鎌倉市、横浜市([[戸塚区]]、[[栄区]]、[[泉区 (横浜市)|泉区]])。 ===裁判所=== *[[鎌倉簡易裁判所]] - 由比ガ浜2-23-22に所在。 ==施設== === 警察 === *[[鎌倉警察署]](由比ガ浜2-11-26) **交番 - [[鎌倉駅]]前交番など、9ヶ所。鎌倉市南部 **駐在所 - 6ヶ所。 *[[大船警察署]](大船1709-2) **交番 - 大船駅前交番など、4ヶ所。鎌倉市北部 **駐在所 - 今泉駐在所のみ。 ===消防=== ;本部 *[[鎌倉市消防本部]] - 大船3-5-10に所在。管轄区域は、鎌倉市全域。 ;消防署 * 鎌倉消防署 - [[由比ガ浜]]4-1-10に所在。 ** 腰越出張所 - [[腰越]]4-9-12に所在。 ** 深沢出張所 - [[手広]]1-16-12に所在。 ** 浄明寺出張所 - [[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]6-2-7に所在。 ** 七里ガ浜出張所 - [[七里ガ浜東]]1-2-5に所在。 * 大船消防署 - 大船3-5-10に所在。 ** 玉縄出張所 - [[玉縄]]2-5-2に所在。 ** 今泉出張所 - [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]2-4-25に所在。 ;消防団 * 鎌倉市[[消防団]] - 本部は鎌倉市消防本部消防総務課に所在<ref name="FDMA-20160401">{{Cite web|和書|date=2016年(平成28年)4月1日 |url=http://www.fdma.go.jp/syobodan/search/pdf/kanagawa/32.pdf |title=鎌倉市消防団 - 消防団の組織概要 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=[[総務省]][[消防庁]] |accessdate=2018-03-22 |ref=FDMA-20160401 }}</ref>。全28分団、[[鎌倉]]地区11分団、[[深沢地域|深沢地区]]6分団、[[大船]]地区10分団(2016年時点)<ref name="FDMA-20160401" />。女性団員数は2人と少ない(2016年時点)<ref name="FDMA-20160401" />。 ===医療=== [[医療法#医療提供施設|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「[[#町名]]」節の記載順を基準としている。 ; 一次医療圏 [[ファイル:Shonan Kamakura General Hospital3.jpg|thumb|[[湘南鎌倉総合病院]]]] * 鎌倉市医師会休日夜間急患診療所 - [[材木座]]3-5-35に所在。 * 額田記念病院 - [[総合病院]]。[[大町 (鎌倉市)|大町]]4-6-6に所在。 * 清川病院 - 総合病院。[[救急指定病院]]([[輪番]]制)。[[小町 (鎌倉市)|小町]]2-13-7に所在。 * 鎌倉ヒロ病院 - 救急指定病院(輪番制)。材木座1-7-22に所在。 * 鎌倉病院 - 救急指定病院(輪番制)。[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]3-1-8に所在。 * 医療法人社団 南浜会 鈴木病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[腰越]]1-1-1に所在。 * [[湘南記念病院]] - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[笛田 (鎌倉市)|笛田]]2-2-60に所在。 * [[大船中央病院]] - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[大船]]6-2-24に所在。 * [[湘南鎌倉総合病院]] - 総合病院。救急指定病院(鎌倉市唯一の[[救命救急センター]])。[[岡本 (鎌倉市)|岡本]]1370-1に所在。 ; 広域医療圏 鎌倉市が属する広域[[医療計画#医療圏|医療圏]]は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:[[横須賀市]]、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦市]]、[[葉山町]])<ref name="JMAP-2015">{{Cite web|和書|date=2015年 |url=http://jmap.jp/cities/detail/medical_area/1406 |title=横須賀・三浦医療圏 |work=JMAP(公式ウェブサイト) |publisher=[[日本医師会]] |accessdate=2018-03-25 |ref=JMAP-2015 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=神奈川県保健福祉局保健医療部医療課 |date=2015年8月17日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f533183/p950707.html |title=平成26年度 二次保健医療圏別(横須賀・三浦圏域)の医療機能ごとの病床の状況 |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-25 |ref=県-2次医圏-20150817 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=神奈川県保健福祉局保健医療部医療課 |date=2017年6月26日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/573948.pdf |title=II 各二次保健医療圏・政令市の課題と施策の方向性 - 神奈川県保健医療計画 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-25 |ref=県-2次医圏-20170626 }}</ref>である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。 ===郵便=== [[ファイル:Kamakura post-office.jpg|thumb|[[鎌倉郵便局]]]] [[ファイル:Ofuna Post Office.JPG|thumb|[[大船郵便局]]]] <!--※記載順は「地域」節を基準にしました。--> * [[鎌倉郵便局]] - [[小町 (鎌倉市)|小町]]1-10-3に所在。 * 鎌倉材木座郵便局 - [[材木座]]3-17-30に所在。 * 鎌倉浄明寺郵便局 - [[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]3-2-20に所在。 * 鎌倉長谷郵便局 - [[長谷 (鎌倉市)|長谷]]1-15-11に所在。 * 鎌倉由比ヶ浜郵便局 - [[由比ガ浜]]3-9-45に所在。 * 鎌倉雪ノ下郵便局 - [[雪ノ下]]1-10-6に所在。 * 鎌倉稲村ガ崎郵便局 - [[稲村ガ崎]]1-15-18に所在。 * 腰越郵便局 - [[腰越]]3-1-23に所在。 * 鎌倉津西郵便局 - [[津西]]1-1-14に所在。 * 西鎌倉郵便局 - 西鎌倉1-3-4に所在。 * 鎌倉梶原郵便局 - [[梶原 (鎌倉市)|梶原]]2-34-8に所在。 * 深沢郵便局 - [[常盤 (鎌倉市)|常盤]]60-3に所在。 * 鎌倉手広郵便局 - [[笛田 (鎌倉市)|笛田]]1-8-4に所在。 * 鎌倉今泉台郵便局 - [[今泉 (鎌倉市)|今泉台]]4-19-17に所在。 * 大船ルミネウィング内郵便局 - [[大船]]1-4-1 大船ルミネウィング内に所在。 * [[大船郵便局]] - 大船2-20-23に所在。 * 鎌倉大船三郵便局 - 大船3-15-29に所在。 * 鎌倉台郵便局 - [[台 (鎌倉市)|台]]3-11-21に所在。 * 鎌倉小坂郵便局 - [[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]739に所在。 * 鎌倉植木郵便局 - [[植木 (鎌倉市)|植木]]580に所在。 * 鎌倉岡本郵便局 - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]2-12-4に所在。 ===文化施設=== ====図書館==== {{Main|鎌倉市図書館}} * 鎌倉市中央図書館 - 御成町20-35に所在。 * 鎌倉市大船図書館 - 大船2-1-26に所在。 * 鎌倉市玉縄図書館 - 岡本2-16-3に所在。 * 鎌倉市深沢図書館 - 常盤111-3に所在。 * 鎌倉市腰越図書館 - 腰越864に所在。 ====交流施設==== *[[鎌倉歴史文化交流館]] - [[扇ガ谷]]1-5-1に所在。 ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ====海外==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|FRA}} [[ニース]]市([[フランス共和国]] [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏|プロヴァンス・アルプ・コートダジュール地方]]) *:[[1966年]](昭和41年)[[11月9日]] - [[姉妹都市]]提携の盟約締結。 *{{Flagicon|CHN}} [[敦煌市]]([[中華人民共和国]] [[甘粛省]]) *:[[1998年]](平成10年)[[9月28日]] - [[姉妹都市#「姉妹都市」と「友好都市」|友好都市]]提携の盟約締結。 ====国内==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|山口県}}[[萩市]]([[中国地方]] [[山口県]]) *:[[1979年]](昭和54年)[[11月2日]] - 姉妹都市提携の盟約締結。 *{{Flagicon|長野県}}[[上田市]]([[中部地方]] [[長野県]]) *:1979年(昭和54年)[[11月5日]] - 姉妹都市提携の盟約締結。 *{{Flagicon|栃木県}}[[足利市]]([[関東地方]] [[栃木県]]) *:[[1982年]](昭和57年)[[4月26日]] - 姉妹都市提携の盟約締結。 ==情報・通信== 鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法|古都保存法]]によって新たな中継局設置も困難なことから、[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市では[[ケーブルテレビ]]による解決を図っている<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.townnews.co.jp/020area_page/03_fri/01_kama/2009_3/07_10/kama_top2.html |title = 2011年7月24日 地デジ移行・7,000世帯が受信困難か |publisher = [[タウンニュース]] |accessdate = 2010-03-10 }}{{deadlink|date=2018-03}}</ref>。 ===マスメディア=== ====放送局==== ;テレビ放送 * [[J:COM 鎌倉]]([[ケーブルテレビ]]) ;ラジオ放送 * [[鎌倉エフエム放送]]([[コミュニティ放送]]) ==生活基盤== ===ライフライン=== ====水道==== ; [[上水道]] * 鎌倉水道営業所 - [[御成町 (鎌倉市)|御成町]]12-18に所在。管轄区域は、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦郡]][[葉山町]]([[湘南国際村]]を除く)の全域<ref>{{Cite web|和書|author=企業局水道部水道施設課 |date=2018年3月14日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/div/3112/ |title=鎌倉水道営業所 |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-22 |ref=県-鎌水営-20180314 }}</ref>。 ; [[下水道]] * 山崎浄化センター - [[山崎 (鎌倉市)|山崎]]354-2に所在。[[大船]]、[[今泉 (鎌倉市)|今泉]]、[[玉縄]]、[[植木 (鎌倉市)|植木]]などの地域の[[汚水]]を処理するための[[下水処理場|下水道終末処理場]]。放流先水域は、山崎川雨水幹線。1993年(平成5年)6月1日運転開始<ref name="市-汚水-20170418">{{Cite web|和書|date=2017年4月18日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kurashi/suidou/osui_jigyou/joukacenter/index.html |title=浄化センター - 上下水道 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-汚水-20170418 }}</ref>。 * 七里ガ浜浄化センター - [[七里ガ浜東]]5-3-1に所在。鎌倉旧市街、[[七里ガ浜]]、[[腰越]]、西鎌倉などの地域の汚水を処理するための下水道終末処理場。放流先水域は、七里ガ浜雨水幹線([[行合川]])。1972年(昭和47年)3月15日運転開始<ref name="市-汚水-20170418" />。 ====清掃事業==== ; 清掃 * 名越クリーンセンター - [[大町 (鎌倉市)|大町]]5-11-16に所在<ref name="環境部-20180223">{{Cite web|和書|author= |date=2018年2月23日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shisei/soshikiannai/kankyou.html |title=環境部 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=環境部-20180223 }}</ref><ref name="環境部-20180228">{{Cite web|和書|author=環境部 |date=2018年2月28日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kurashi/gomi/shorishisetsu/index.html |title=処理施設 - ごみ・リサイクル |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=環境部-20180228 }}</ref>。 * 今泉クリーンセンター - [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]4-1-1に所在。 * 深沢クリーンセンター - [[笛田 (鎌倉市)|笛田]]3-24-1に所在。 * 笛田リサイクルセンター - 笛田1-11-34に所在。 ; [[最終処分場|最終処分]] 名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を[[溶融スラグ|溶融]]固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった<ref name="環境部-20180228" />。 * 一般廃棄物最終処分場 - [[関谷 (鎌倉市)|関谷]][[町字|字]]島ノ神1522-1外に所在<ref name="環境部-20180223" /><ref name="環境部-20180228" />。 == 教育 == :鎌倉市では、「鎌倉市奨学金制度」という[[奨学金]]制度がある。 === 大学・短期大学 === * [[鎌倉女子大学|鎌倉女子大学・短期大学部]] * [[湘南鎌倉医療大学]] === 専門学校 === * 鎌倉早見美容芸術専門学校 === 高等学校 === ;公立 * [[神奈川県立鎌倉高等学校]] * [[神奈川県立七里ガ浜高等学校]] * [[神奈川県立深沢高等学校]] * [[神奈川県立大船高等学校]] ;私立 * [[栄光学園中学校・高等学校|栄光学園高等学校]] * [[鎌倉学園中学校・高等学校|鎌倉学園高等学校]] * [[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学院高等学校]] * [[鎌倉女子大学中等部・高等部|鎌倉女子大学高等部]] * [[清泉女学院中学高等学校|清泉女学院高等学校]] * [[北鎌倉女子学園中学校・高等学校|北鎌倉女子学園高等学校]] === 中学校 === ;公立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * 鎌倉市立第一中学校 * 鎌倉市立第二中学校 * 鎌倉市立大船中学校 {{Col-break}} * 鎌倉市立岩瀬中学校 * 鎌倉市立玉縄中学校 * 鎌倉市立御成中学校 {{Col-break}} * 鎌倉市立腰越中学校 * 鎌倉市立手広中学校 * [[鎌倉市立深沢中学校]] {{Col-end}} ;国立 * [[横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校]] ;私立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[栄光学園中学校・高等学校|栄光学園中学校]] * [[鎌倉学園中学校・高等学校|鎌倉学園中学校]] {{Col-break}} * [[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学院中学校]] * [[鎌倉女子大学中等部・高等部|鎌倉女子大学中等部]] {{Col-break}} * [[清泉女学院中学高等学校|清泉女学院中学校]] * [[北鎌倉女子学園中学校・高等学校|北鎌倉女子学園中学校]] {{Col-end}} === 小学校 === ;公立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[鎌倉市立第一小学校]] * 鎌倉市立第二小学校 * 鎌倉市立大船小学校 * [[鎌倉市立稲村ケ崎小学校]] * 鎌倉市立関谷小学校 * [[鎌倉市立玉縄小学校]] {{Col-break}} * [[鎌倉市立御成小学校]] * [[鎌倉市立腰越小学校]] * 鎌倉市立今泉小学校 * 鎌倉市立山崎小学校 * 鎌倉市立七里ガ浜小学校 {{Col-break}} * 鎌倉市立小坂小学校 * 鎌倉市立植木小学校 * [[鎌倉市立深沢小学校]] * [[鎌倉市立西鎌倉小学校]] * 鎌倉市立富士塚小学校 {{Col-end}} ;国立 * [[横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校]](旧神奈川師範学校跡地) ;私立 * [[清泉小学校]] * [[鎌倉女子大学初等部]] === 特別支援学校 === * [[神奈川県立鎌倉養護学校]] ==交通== [[File:Mt. Fuji from Inamuragasaki.jpg|thumb|200px|国道134号]] [[File:Wakamiya Oji.jpg|thumb|200px|県道21号([[若宮大路]])]] 鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画[[道路整備率]]が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。 バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている<ref>鎌倉市都市マスタープラン「III部門別方針 5 交通システム整備の方針 1現況と課題」[http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/plan/masterplan_plan_3syou_3-5_5home.html]</ref>。 : この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともに[[パークアンドライド]]が2001年度から本格実施されている。 また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる[[鎌倉]])を中心に大規模な交通規制が実施される。 ===鉄道=== ;[[東日本旅客鉄道]] *[[横須賀線]]: [[大船駅]] - [[北鎌倉駅]] - '''[[鎌倉駅]]''' *[[東海道本線]] [[東海道線 (JR東日本)]]: [[大船駅]] *[[根岸線]]: [[大船駅]] ;[[湘南モノレール]] *[[湘南モノレール江の島線|江の島線]]: [[大船駅]] - [[富士見町駅 (神奈川県)|富士見町駅]] - [[湘南町屋駅]] - [[湘南深沢駅]] - [[西鎌倉駅]] - [[片瀬山駅]] ;[[江ノ島電鉄]] *[[江ノ島電鉄線]]: [[腰越駅]] - [[鎌倉高校前駅]] - [[七里ヶ浜駅]] - [[稲村ヶ崎駅]] - [[極楽寺駅]] - [[長谷駅 (神奈川県)|長谷駅]] - [[由比ヶ浜駅]] - [[和田塚駅]] - [[鎌倉駅]] ===バス=== [[オムニバスタウン]]政策をとっていることもあり、[[コミュニティバス]]の普及も見られる。 ====路線バス==== * [[京浜急行バス]] ** [[京浜急行バス鎌倉営業所|鎌倉営業所]] * [[江ノ電バス]]([[江ノ島電鉄]]) ** [[江ノ電バス湘南営業所|湘南営業所]]・[[江ノ電バス横浜・鎌倉営業所|鎌倉営業所]]・[[江ノ電バス横浜・横浜営業所|横浜営業所]] * [[神奈川中央交通]]・神奈川中央交通東 ===人力車・馬車=== 明治・大正期に隆盛を極めたが、自動車の普及で衰退して一時途絶したものの、[[人力車]]は市内[[観光]]用として昭和末期に復活した<ref>1983年(昭和58年)に鎌倉有風亭の青木 登によって復活。『人力車が案内する鎌倉』(光文社新書)、ISBN 4334032133 より。</ref>。現代では個人営業以外に人力車を運用する企業も市内に存在する。 同様に観光[[馬車]]も復活しているが、複数の車が営業を行っている人力車に比べるとマイナー存在である。 ;人力車 *鎌倉有風亭 - [[1983年]]、鎌倉で最初に人力車を復活させたパイオニア。人力車屋業界では箱根以東で、もっとも歴史が古い店舗。 *鎌倉力車 - 東京都[[台東区]]([[浅草]])にある東京力車の系列会社。 *人力車えびす屋鎌倉 - [[1992年]]に[[京都]]で創業された人力車会社、えびす屋の系列店。同店は鎌倉店以外に京都[[東山 (京都府)|東山]]、[[小樽]]、浅草、[[厳島|宮島]]、[[倉敷]]、[[門司港 (地区名)|関門]]、[[湯布院町|湯布院]]に店舗が存在。 ===道路=== ====国道==== *[[国道134号]] ====県道==== *[[神奈川県道21号横浜鎌倉線]] *[[神奈川県道23号原宿六ツ浦線]] *[[神奈川県道32号藤沢鎌倉線]] *[[神奈川県道203号大船停車場矢部線]] *[[神奈川県道204号金沢鎌倉線]] *[[神奈川県道301号大船停車場線]] *[[神奈川県道302号小袋谷藤沢線]] *[[神奈川県道303号鎌倉停車場線]] *[[神奈川県道304号腰越大船線]] *[[神奈川県道311号鎌倉葉山線]] *[[神奈川県道312号田谷藤沢線]] *[[神奈川県道402号阿久和鎌倉線]] ===ナンバープレート=== 鎌倉市は、横浜ナンバー([[神奈川運輸支局]])を割り当てられている。 ; 横浜ナンバー割り当て地域 * 横浜市・鎌倉市・逗子市・横須賀市・三浦市・三浦郡(葉山町) バイクの場合は、[[江ノ電]]が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。 ==観光== 年間延べ観光客数は約1902万人。以下に主要な名所などを掲げる。なお、国宝・国指定文化財は216件であり、鎌倉の歴史的建造物群には「[[武家の古都・鎌倉]]」として、[[世界遺産#暫定リスト|日本の世界遺産暫定リスト]]に登録されているものがある。 <!-- 主要な施設のみを記載しています。無節操に追加するのは迷惑なのでお止めください --> [[ファイル:Zeniarai Benten Kamakura torii.jpg|thumb|銭洗弁財天宇賀福神社]] [[ファイル:Syakadou kiridoushi.jpg|thumb|釈迦堂切通し/浄明寺側より望む。通行禁止前]] [[ファイル:円覚寺正読院.JPG|thumb|円覚寺舎利殿/[[国宝]]]] ===名所・旧跡=== * [[鶴岡八幡宮]] * [[段葛]] * [[和田塚]] ===観光スポット=== * [[神奈川県立近代美術館]] * [[鎌倉国宝館]] * [[鎌倉文学館]] * [[寿福寺]] - [[鎌倉五山]]の一つ。 * [[宇賀福神社]] - 銭洗弁天とも呼ばれる。■右列に画像あり * [[高徳院]](鎌倉大仏) * [[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]] * [[極楽寺 (鎌倉市)|極楽]][[稲村ヶ崎]] * [[鎌倉七口]] **[[釈迦堂切通し]]- 七口には含まれないが、[[洞門]]状の偉容が鎌倉[[切通し]]の象徴的な存在であった。現在崩落の危険があって通行禁止。■右列に画像あり * 北鎌倉(山ノ内) ** [[建長寺]] - 鎌倉五山の一つ。 ** [[円覚寺]] - 鎌倉五山の一つ。[[円覚寺#伽藍|舎利殿]]は、[[関東大震災]]で倒壊したが、復旧された。神奈川県唯一の[[国宝]]建造物。■右列に画像あり ** [[明月院]] - あじさい寺とも呼ばれる * 大船 ** [[大船観音寺|大船観音]] ** [[常楽寺 (鎌倉市)|常楽寺]] * [[由比ヶ浜南遺跡]] <!-- 主要な施設のみを記載しています。無節操に追加するのは迷惑なのでお止めください --> === レジャー === * [[材木座海岸]]・[[由比ヶ浜]]・[[七里ヶ浜]]・[[湘南海岸]] * [[神奈川県立フラワーセンター大船植物園]] * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ |title=ハイキングコース(裏大仏コース、天園コースなど) |date=20031126060403}} * [[鎌倉芸術館]] * [[都市公園|自然・都市公園]]:[[鎌倉中央公園]]<ref>[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koen/p_cyuuou.html 鎌倉中央公園の紹介(鎌倉市)]</ref>、[[鎌倉広町緑地]]、[[源氏山公園 (鎌倉市)|源氏山公園]]、[[散在ガ池森林公園]]など === その他 === * [[稲村ヶ崎温泉]] ==文化・名物== ===祭事・催事=== [[ファイル:Yabusame1.jpg|thumb|鶴岡八幡宮 流鏑馬]] * [[鶴岡八幡宮]]で催される祭事については、当該項目も参照のこと。 ** 東日本大震災復興祈願祭(3月) ** 鎌倉祭り(4月) ** 夏越(なごし)祭り(8月) ** ぼんぼり祭り(8月) ** 鶴岡八幡宮秋期例大祭(9月) ** [[面掛行列]](9月) ** 御鎮座記念祭(12月) *: 鎌倉祭りと鶴岡八幡宮秋期[[例大祭]]では、[[流鏑馬]]が奉納される(画像を参照)。 * 鎌倉花火大会(8月) ** 1949年(昭和24年)より開始。材木座・由比ヶ浜海岸を会場とし、海岸に打ち上げ用の船を停泊させて海上から花火を打ち上げる<ref name="花火大会">[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh421_0721.html 鎌倉花火大会(かまくらはなびたいかい)] 鎌倉市、2022年5月16日更新、2022年7月24日閲覧。</ref>。 *[[洪鐘弁天大祭]](60年に1度) **[[円覚寺]]と[[江島神社]]([[藤沢市]])が共同開催する祭礼。[[1301年]]([[正安]]3年)に鋳造された[[国宝]]の[[梵鐘]]「洪鐘(おおがね/こうしょう)」の完成を祝い、60年に1度の[[庚子|庚子年]]周期で開催される。[[2020年]](令和2年)の庚子年開催が[[コロナ禍]]で延期され、[[2023年]](令和5年)10月29日に開催。 ===名産・特産=== * [[鎌倉彫]] * [[鎌倉丼]] * [[しらす丼]] * [[たたみいわし]] * [[しらすの沖漬け]] * [[鳩サブレー]] - 豊島屋が[[明治]]時代から販売している[[サブレー]]。 * [[けんちん汁]] - 建長寺が由来とされている * [[大船軒]]サンドウィッチ - 大船軒が[[1899年|明治32年]]から大船駅で販売している日本初の[[サンドイッチ]]駅弁。 * [[鯵の押し寿司]] - 大船軒が[[1913年|大正2年]]から販売している[[大船駅]]の駅弁。 * [[鎌倉カスター|かまくらカスター]] * [[鎌倉野菜]] * [[鎌倉ハム]] - 発祥は旧[[鎌倉郡]](現横浜市戸塚区)だが、鎌倉市の富岡商会でも[[明治]]時代より製造販売している。 === 文士と鎌倉 === 「#[[鎌倉文士]]」も参照。 ==== 国木田独歩 ==== [[国木田独歩]]は[[1902年]](明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の[[押川春浪]]が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる<ref>[[JTB]] 『文士の愛した鎌倉』 文芸散策の会編 {{ISBN2|4-533-02815-2}} 22-24頁。</ref>。 その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、[[1908年]](明治41年)に、[[結核]]によってこの世を去った。享年38歳。 ==== 芥川龍之介 ==== [[芥川龍之介]]は、[[1916年]]([[大正]]5年)7月に東京帝国大学(現・[[東京大学]])[[イギリス文学|英吉利文学]][[学科 (学校)|科]]を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある[[海軍機関学校]][[英語]]教授[[嘱託制度|嘱託]]として12月付けで赴任することになり、東京から[[鎌倉町]]和田塚(現・[[由比ガ浜]]4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・[[江ノ島電鉄]])沿線で[[下宿]]生活を始める。 その後[[1917年]](大正8年)9月にいったん[[横須賀市]][[汐入町 (横須賀市)|汐入町]]へ転居したが、[[1918年]](大正7年)3月になって[[大町 (鎌倉市)|大町]][[町字|字]]辻の小山別邸内に[[借家]]として新居を構え、[[1919年]](大正8年)3月末に海軍機関学校を退職し、[[田端 (東京都北区)|田端]]の自宅([[東京府]][[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]]田端、現在の[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]田端1-19-18。[[田端文士村]]も参照)に戻るまで暮らした。 おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、[[1923年]](大正12年)の関東大震災発生以降に[[文化人]]が鎌倉へ移住し「[[鎌倉文士]]」と呼ばれた時代の先駆けとされる。 ==== 大佛次郎 ==== [[大佛次郎]]は、1921年(大正10年)2月に妻となる[[俳優#性別での分類|女優]]の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へ移住し、鎌倉女学校(現・[[鎌倉女学院]])で教鞭を執った。大佛と言えば『[[鞍馬天狗]]』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは[[関東大震災]]の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも[[高徳院|鎌倉の大仏]]にちなむもの、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際にあわてて名付けたとされる<ref> 『文士の愛した鎌倉』 57-59頁。</ref>。 流行作家となった大佛は、鎌倉でたびたび転居し住まいを変えているが、これは生来の[[ネコ|猫]]好きが原因だったようで、ひととき住んでいた[[材木座海岸|材木座]]の借家は退去する際、[[畳]]を変えた上に[[襖]]や[[障子]]も新調し「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、実際には十数匹の飼い猫が残した惨状を回復するためそうせざる得なかったという<ref> 『文士の愛した鎌倉』 50-54頁。</ref>。この家を退去後、1928年(昭和4年)に[[雪ノ下]](神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に[[鎌倉文庫]]設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた際にもここを住まいとしていた。この鎌倉の邸宅は大佛の没後、「大佛茶廊」として2019年8月まで週末のみ一般公開されていた<ref>[[三木卓]]『鎌倉日記』、かまくら春秋社、2002年、215-219頁。</ref>。 1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の[[寿福寺]]に葬られた。 ===スポーツ=== ====野球==== *[[WIEN BASEBALL CLUB]]([[日本野球連盟|JABA]]) ====ソフトボール==== {{See also|鎌倉リーグ}} =====男子===== *植木シャトーズ(鎌倉リーグ1部) *鎌倉第一スターズ(鎌倉リーグ1部) *三菱電機 鎌倉(鎌倉リーグ1部) *EST(鎌倉リーグ1部) *深沢ピジョンズ(鎌倉リーグ1部) *ゼオン梶原(鎌倉リーグ1部) *サンダース V(鎌倉リーグ1部) *腰越ソフトボールクラブ(鎌倉リーグ1部) *SKAP(鎌倉リーグ2部) *HolyBacchus(鎌倉リーグ2部) *御成倶楽部(鎌倉リーグ2部) *西鎌倉ベアーズ(鎌倉リーグ2部) *クマーズ(鎌倉リーグ2部) *FUNKEES(鎌倉リーグ2部) *稲村アロハビアーズ(鎌倉リーグ2部) *シーガルズ(鎌倉リーグ2部) *鎌倉サンライズ(鎌倉リーグ3部) *ESTプレミアム(鎌倉リーグ3部) *ISG・UFO(鎌倉リーグ3部) *Cool Wave(鎌倉リーグ3部) *ナスラック(鎌倉リーグ3部) *トータス(鎌倉リーグ3部) *七里ガハマーズ(鎌倉リーグ3部) *ウラニワーズ(鎌倉リーグ3部) *MSC(鎌倉リーグ3部) =====女子===== *鎌倉エンジェルス(鎌倉リーグ) *深沢レグルス(鎌倉リーグ) ====サッカー==== *[[湘南ベルマーレ]]([[Jリーグ]]) *鎌倉インターナショナルFC([[神奈川県社会人サッカーリーグ]]2部) *鎌倉インターナショナルFCサテライト([[神奈川県社会人サッカーリーグ]]2部) *鎌倉サブーレ([[神奈川県社会人サッカーリーグ]]3部) *鎌倉市役所([[神奈川県社会人サッカーリーグ]]3部) ==出身関連著名人== ===出身著名人=== {{columns-list|2| * [[有坂美香]]([[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]][[歌手]]) * [[アンジェリカ (タレント)|アンジェリカ]]([[シンガーソングライター]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[タレント]]) * [[飯田美心]] (元[[子役]]、[[起業家]]) * [[井口綾子]]([[グラビアアイドル]]) * [[伊地知潔]]([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]のドラム、[[ロックバンド]]) * [[石渡明]]([[地質学者]]) * [[磯見輝夫]]([[版画家]]、元[[愛知県立芸術大学]]学長) * [[井田真木子]](ノンフィクション作家) * [[一色洋平]](俳優) * [[井原芳隆]] (元[[三井製糖]]社長) * [[今井敬]](元[[日本経済団体連合会|経団連]]会長) * [[今井洋介]]([[写真家]]) * [[岩崎俊男]]([[実業家]]・キャピタリスト) * [[上野章子]]([[俳人]]、[[随筆家]]、[[高浜虚子]]の六女) * [[上野水香]]([[東京バレエ団]] [[バレエ]]ダンサー) * [[内山圭]]([[サッカー選手]]) * [[大橋マキ]]([[フリーアナウンサー]]) * [[小笠原泰]](経営コンサルタント、大学教授) * [[岡本行夫]](外交官) * [[小澤昭博]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]][[アナウンサー]]) * [[遠藤嘉人]]([[俳優]]) * [[草上仁]]([[小説家]]) * [[日下太平]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手) * [[桑野光正]](元[[ヤマダ電機]]社長) * [[小泉淳作]]([[日本画家]]) * [[小泉博]]([[アナウンサー]]、俳優) * [[神津健]](衆議院議員) * [[後藤芳光]]([[福岡ソフトバンクホークス]]球団社長) * [[小林完吾]](アナウンサー) * [[境鶴丸]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー) * [[佐々木葉]]([[土木工学者]]、[[早稲田大学]]教授) * [[佐藤アサト]](ナレーター) * [[佐野隼平]](ミュージカル俳優) * [[紫雷美央]]([[プロレスラー]]) * [[紫雷イオ]](プロレスラー) * [[菅原一剛]](写真家) * [[鈴木寛史]]([[バレーボール]]選手) * [[鈴木涼美]](作家) * [[関健一郎]](衆議院議員) * [[立川祐路]]([[レーシングドライバー]]) * [[鶴田真由]]([[俳優|女優]]) * [[寺島よしき]]([[予備校講師]]) * [[直崎人士]]([[作家]]、写真家、[[音楽家]]) * [[長崎玄弥]](英語教育評論家) * [[長島一由]](元鎌倉市議会議員、元逗子市長、元衆議院議員) * [[中原茂]]<ref name="localdream">{{Cite web|和書|url=http://localdream.jp/nakahara|title=中原茂|publisher=ローカルドリームプロダクション|accessdate=2020-11-05}}</ref>([[声優]]) * [[中山恒]](工学者、[[東京工業大学]]名誉教授) * [[二階堂瑠美]]([[競技麻雀]]のプロ雀士) * [[二階堂亜樹]]([[競技麻雀]]のプロ雀士) * [[根本雄伯]]([[ホルン]]奏者) * [[橋爪大三郎]]([[社会学]]者) * [[服部陽介]](フリーアナウンサー) * [[馬場憲治]](タレント) * [[浜野秀昭]](元俳優、実業家) * [[林美桜]]([[テレビ朝日]]アナウンサー) * [[日野美歌]](歌手) * [[平松千花]]([[テレビ山梨]]アナウンサー) * [[福山芳樹]](歌手) * [[藤岡真]](作家) * [[藤村俊二]](タレント) * [[前田美波里]](女優) * [[ますいさくら]](作家) * [[ますい志保]](タレント) * [[眞野あずさ|真野あずさ]](女優) * [[真野響子]](女優) * [[三谷たくみ]] (歌手・元[[おかあさんといっしょ]]うたのおねえさん) * [[三橋大樹]]([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[皆川真里奈]](ヴァイオリニスト) * [[宮川祥子]]([[情報学者]]、[[慶應義塾大学]]准教授) * [[宮崎緑]](アナウンサー、[[千葉商科大学]]教授) * [[守田誠司]]([[東海大学医学部]]教授) * [[山ノ井高洋|山ノ井髙洋]]([[北海学園大学]]教授) * [[友里千賀子]](女優) * [[養老孟司]]([[解剖学]]者、[[東京大学]]名誉教授) * [[若田部健一]](元・[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の投手) * [[渡邊あゆみ]](NHKアナウンサー) * [[松本悠里]](元[[宝塚歌劇団]][[専科 (宝塚歌劇)|専科]]女役) * [[朝美絢]](宝塚歌劇団[[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]男役) * [[星空美咲]](宝塚歌劇団[[花組 (宝塚歌劇)|花組]]娘役) }} ===ゆかりのある有名人=== ====居住者==== [[鎌倉文士]]も参照。 {{columns-list|2| * [[青木淳一]](生物学者。稲村ガ崎に居住) * [[芥川龍之介]](作家。由比ガ浜に居住) * [[阿部義晴]](ミュージシャン) * [[荒川静香]](プロ[[フィギュアスケート|フィギュアスケーター]]。幼少時に居住) * [[有島生馬]](作家。稲村ガ崎に居住) * [[有島武郎]](作家) * [[井川邦子]](女優。扇ガ谷に居住) * [[石田ひかり]](女優) * [[石塚友二]](俳人。稲村ガ崎に居住) * [[石橋湛山]](政治家。第55代内閣総理大臣、鎌倉郡鎌倉町の町議) * [[伊集院静]](作家) * [[泉鏡花]](作家) * [[宇佐美淳]](俳優。大町に居住) * [[梅原龍三郎]](画家) * [[江藤淳]](作家。極楽寺、西御門に居住) * [[エリアナ・パヴロワ]]([[バレエ|バレリーナ]]。[[ロシア]]より亡命。[[1932年]](昭和7年)七里ガ浜にバレエスクールを建設) * [[正親町公和]](作家) * [[太田水穂]](歌人) * [[岡村文子]](女優。長谷に居住) * [[小倉遊亀]](画家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。山ノ内に居住) * [[尾崎左永子]](歌人) * [[大佛次郎]](作家) * [[小津安二郎]](映画監督) * [[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]](外交官・初代国連大使・鎌倉市名誉市民) * [[桂木洋子]](女優。長谷に居住) * [[鏑木清方]](画家) * [[唐木順三]](歌人) * [[河口恭吾]](歌手・シンガーソングライター) * [[川端康成]](作家・[[ノーベル文学賞]]受賞者・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。浄明寺宅間ヶ谷、二階堂、長谷に居住。長谷には川端康成記念会がある) * [[蒲原有明]](詩人。二階堂に居住) * [[菊地信義]](装幀家。腰越に居住) * [[岸田劉生]](画家) * [[国木田独歩]](作家) * [[久米正雄]](作家) * [[倉田百三]](作家) * [[小林米珂]](弁護士) * [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]([[文芸評論家]]。雪ノ下ほかに居住) * [[堺駿二]](俳優。大町に居住) * [[堺正章]](歌手・俳優・司会者。幼少期に住居) * [[佐佐木信綱]](歌人) * [[佐田啓二]](俳優。材木座に居住) * [[里見弴]](作家。文化勲章受章・扇ガ谷に居住) * [[澁澤龍彦]](仏文学) * [[島崎藤村]](作家) * [[菅虎雄]](独文学) * [[鈴木大拙]](仏教学。文化勲章受章) * [[千家元麿]](作家) * [[園池公致]](作家) * [[高浜虚子]](俳人。文化勲章受章・由比ガ浜に居住) * [[田島英三]]<ref>{{cite book|title=ある原子物理学者の生涯|year=1995|publisher=[[新人物往来社]]|author=田島英三|place=東京|isbn=4-404-02208-5}}</ref> ([[放射線]][[物理学者]]。『日米原爆線量再評価検討委員会報告書』<ref>{{Cite web|和書|title=広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86)|website=日米共同研究機関 公益財団法人放射線影響研究所|url=https://www.rerf.or.jp/library/list/scids/ds86/|accessdate=October 14, 2020}}</ref>での日本側委員長<ref>{{Cite journal|和書|author=田島英三 |title=日米原爆線量再評価検討委員会報告書について |url=https://doi.org/10.3327/jaesj.29.690 |journal=日本原子力学会誌 |issn=0004-7120 |publisher=日本原子力学会 |year=1987 |volume=29 |issue=8 |pages=690-701 |naid=130003909751 |doi=10.3327/jaesj.29.690|accessdate=2020-10-17}}</ref>) * [[立原正秋]](作家) * [[田中絹代]](女優。鎌倉山に居住) * [[玉木正之]](作家・スポーツライター) * [[田村隆一]](詩人。稲村ガ崎に居住) * [[月丘夢路]](女優。大町に居住) * [[鶴田浩二]](俳優。大船に居住) * [[東郷慎十郎]](篤志家。坂の下に居住) * [[内藤洋子 (女優)|内藤洋子]](女優) * [[直木三十五]](作家。稲村ガ崎に居住) * [[永井龍男]](国文学) * [[永井路子]](作家・鎌倉市名誉市民) * [[長洲一二]](経済学・神奈川県知事。稲村ガ崎に居住) * [[中原中也]](詩人) * [[長与専斎]](医師。由比ガ浜に居住) * [[長与善郎]](作家) * [[夏目漱石]](作家。[[円覚寺]][[塔頭]]に居住) * [[夏目雅子]](女優) * [[夏八木勲]](俳優) * [[西田幾太郎]](哲学。文化勲章受章・稲村ガ崎姥ヶ谷に居住 記念歌碑がある) * [[西脇順三郎]](詩人) * [[昇曙夢]](露文学。稲村ガ崎に居住) * [[萩原朔太郎]](詩人) * [[橋本明]](ジャーナリスト) * [[橋本乾三]](検事) * [[蓮田修吾郎]](金属造型。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民) * [[早見一十一]](美容家。鎌倉市に居住) * [[林房雄]](作家。名越、長谷、浄明寺に居住) * [[原節子]](女優) * [[日守新一]](俳優。小町に居住) * [[平山郁夫]](画家。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民) * [[深田久弥]](作家。二階堂に居住) * [[福澤幸雄]]([[レーシングドライバー]]、[[モデル (職業)|モデル]]) * [[藤沢周]](作家、第119回芥川賞受賞、法政大学教授) * [[藤田泰子]](女優。大町に居住) * [[星野立子]](俳人) * [[前田青邨]](画家・文化勲章受章。[[円覚寺]]境内に居住) * [[三浦光子]](女優。二階堂に居住) * [[三橋健 (神道学者)|三橋健]](日本の[[神道]]学者。「日本の神道文化研究会」主宰) * [[水木一郎]](アニソン歌手) * [[水の江瀧子]](女優。材木座に居住) * [[三井弘次]](俳優。大船に居住) * [[みのもんた]](タレント) * [[三好達治]](詩人。稲村ガ崎に居住) * [[山口達也]](タレント、元[[TOKIO]]メンバー) * [[山口淑子]](女優。鎌倉山に居住) * [[山田ミネコ]](漫画家) * [[山本五十六]](軍人)<!--山本義正著「父・山本五十六」より--> * [[山本道子 (作家)|山本道子]](作家、稲村ガ崎に居住) * [[山本容子]](版画家・挿画家)<!--山本容子著「マイ・ストーリー」より--> * [[山本義正]](著述家、山本五十六の子)<!--山本義正著「父・山本五十六」より--> * [[横山隆一]](漫画家・鎌倉市名誉市民) * [[吉川文夫]](鉄道研究家。鎌倉市在住だが[[2007年]](平成19年)死去) * [[吉田秀和]](評論家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民) * [[吉野秀雄]](歌人) * [[吉屋信子]](作家。長谷に居住。記念館がある) * [[笠智衆]](俳優) }} ====その他==== *[[鈴木保奈美]](女優):[[神奈川県立鎌倉高等学校]]卒業 *[[桑田佳祐]](ミュージシャン):[[鎌倉学園高等学校]]卒業 *[[中村拓志]](建築家):[[神奈川県立七里ガ浜高等学校]]卒業 <!--* [[若田部健一]](プロ野球選手):出身地かつ、鎌倉学園高等学校卒業→上記出身者に記載。--><!--[[若田部遥]]([[HKT48]])→ わずかに関わっただけの項目をいちいち挙げないこと。あとアルバムを分解して無駄に長いリストを作らないこと--> *[[原由子]](ミュージシャン):おばが鎌倉に住んでいる<ref>2022年10月18日放送『[[マツコの知らない世界]]』にて</ref>。 ===マスコットキャラクター=== * 牛若にゃん丸、源ポン太、静姫 - 鎌倉市の[[かまくら]]3R推進キャラクター * 玉竜くん、タマナワくん、タマちゃん - [[玉縄城]]築城500年祭のマスコットキャラクター * 大船観音[[のんちゃん]] - [[大船観音寺]]のマスコットキャラクター * [[落ち武者のおちむん]] - 鎌倉市非公認キャラクター ==鎌倉市を舞台とした作品== {{出典の明記|section=1|date=2019年11月}} 基本的に五十音順で表記。 === 映画 === * 『[[稲村ジェーン]]』 (1990年、東宝、[[桑田佳祐]]監督) * 『[[海街diary (映画)|海街diary]]』(2015年、東宝、[[是枝裕和]]監督) * 『[[美味しんぼ]]』 (1996年) * 『[[駆込み女と駆出し男]]』 (2015年、監督:[[原田眞人]]) * 『[[サンセットドライブ]]』 (2015年、監督:[[樋本淳]]) * 『[[シン・ゴジラ]]』 (2016年、東宝、[[庵野秀明]]総監督) * 『[[早春物語]]』 (1985年、東宝、[[澤井信一郎]]監督) * 『[[タイヨウのうた]]』 (2006年、松竹、[[小泉徳宏]]監督) * 『[[鎌倉ものがたり|DESTINY 鎌倉ものがたり]]』(2017年、監督:山崎貴) * 『[[テラスハウス クロージング・ドア]]』 (2015年、監督:[[前田真人]]) * 『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963年、東宝、[[黒澤明]]監督) - 江ノ電が犯人逮捕の重要な手掛かりとなる。 * 『[[ねらわれた学園 (2012年の映画)|ねらわれた学園]]』 (2012年、監督:[[中村亮介]]) * 『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』 (1951年、松竹、小津安二郎監督) * 『[[はつ恋 (1975年の映画)|はつ恋]]』 (1975年、東宝、[[小谷承靖]]監督) * 『[[浜の記憶]]』 (2019年 監督:[[大嶋拓]]) * 『[[晩春 (映画)|晩春]]』 (1949年、松竹、[[小津安二郎]]監督) * 『[[武曲|武曲 MUKOKU]]』 (2017年、監督:[[熊切和嘉]]) * 『[[ビブリア古書堂の事件手帖]]』 (2018年、監督:[[三島有紀子]]) * 『[[真木栗ノ穴]]』 (2008年、監督:[[深川栄洋]]) * 『[[山の音]]』 (1954年、東宝、[[成瀬巳喜男]]監督) * 『[[461個のおべんとう]]』 (2020年 監督:[[兼重淳]]) * 『[[ラヴァーズ・キス]]』 (2002年、東北新社、[[及川中]]監督) * 『[[江ノ島プリズム]]』 (2013年) === 小説 === * 『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』 [[横溝正史]] 著 * 『[[丘の家のミッキー]]』 [[久美沙織]] 著 - 主な舞台は[[葉山]]だが、鎌倉もしばしば登場。 * 『鏡の中は日曜日』 [[殊能将之]] 著 * 『鎌倉江ノ電殺人事件』 [[西村京太郎]] 著 * 『鎌倉釈迦堂殺人事件』 [[木谷恭介]] 著 * 『鎌倉十二神将の誘拐』 [[斎藤栄]] 著 * 『断崖の女』石川真介 著 * 『鮎川哲也の女たち』石川真介 著 * 『鎌倉夫人』 [[国木田独歩]] 著 * 『鎌倉・流鏑馬神事の殺人』 [[西村京太郎]] 著 * 『鎌倉擾乱』 [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]] 著 * 『コズミック・ゼロ』 [[清涼院流水]] 著 * 『[[純白の夜]]』 [[三島由紀夫]] 著 * 『[[センチメンタルプレリュード]]』 [[大倉らいた]] 著 * 『[[ビブリア古書堂の事件手帖]]』 [[三上延]] 著 === 漫画 === 注記のないものは連載終了した作品 * 『[[青い花 (漫画)|青い花]]』[[志村貴子]]([[太田出版]][[マンガ・エロティクスF]]連載中) * 『[[吸血姫美夕]]』(ヴァンパイア ミユ)[[垣野内成美]]([[秋田書店]]サスペリアに不定期掲載) - 主人公がヴァンパイアとして覚醒する場所が鎌倉である。 * 『[[海街diary]]』(うみまちダイアリー)吉田秋生作(小学館[[月刊フラワーズ|月刊flowers]]連載) * 『[[エルフェンリート]]』[[岡本倫]]([[集英社]]ヤングジャンプ連載) * 『[[オチビサン]]』[[安野モヨコ]]([[朝日新聞]]、朝日新聞出版[[AERA]]連載) * 『[[各駅停車 (漫画)|各駅停車]]』[[谷川史子]]([[集英社]]りぼんオリジナルに掲載された) * 『[[鎌倉ものがたり]]』[[西岸良平]]([[双葉社]]月刊まんがタウン連載中) * 『[[源平伝NEO]]』(げんぺいでんネオ)[[あかほりさとる]]/[[別天荒人]]([[角川書店]]月刊少年エース) * 『[[甲子園へ行こう!]]』[[三田紀房]](講談社ヤングマガジン) - 主人公の通う高校が「鎌倉西高校(架空)」である。 * 『[[菜 (漫画)|菜]]』(さい)[[わたせせいぞう]]([[講談社]]週刊モーニング) * 『[[さえずり少女、しんしん鎌倉]]』[[matoba]]([[まんがホーム]]連載) - 主人公のホームステイ先は鎌倉の和菓子屋。また、主人公が佐助稲荷から由比ヶ浜の海岸線を経て、極楽寺に至る連作風の扉絵が毎回掲載されていた。 * 『[[侵略!イカ娘]]』([[安部真弘]]』(秋田書店[[週刊少年チャンピオン]]連載) - 主要キャラの相沢千鶴と嵐山悟郎のデートの待ち合わせ場所に[[鎌倉駅]]と駅前の時計塔の描写がある。 * 『[[ストライクウィッチーズ]]』(角川書店企画のメディアミックス作品)- 宮藤芳佳の本籍地が神奈川県鎌倉市になっている。 * 『[[SLAM DUNK]]』(スラムダンク)[[井上雄彦]](集英社週刊少年ジャンプ)- [[鎌倉高校前1号踏切]]付近にある[[神奈川県立鎌倉高等学校]]が、劇中の神奈川県立湘北高校のモデルとなっている。 *『[[天国から見ていた海]]』 [[青州嘉]]原作[[桜井優]]漫画([[富士見書房]][[月刊ドラゴンエイジ]]連載) * 『[[とめはねっ! 鈴里高校書道部]]』([[河合克敏]](小学館[[週刊ヤングサンデー]]) * 『[[なぎさMe公認]]』([[北崎拓]]([[小学館]]週刊少年サンデー) * 『[[花右京メイド隊]]』[[もりしげ]](秋田書店月刊少年チャンピオン) - 主人公の太郎が観光で訪れる回がある。江ノ島から鎌倉高校駅前付近にかけての海岸線を散策し、鶴ヶ岡八幡宮や江ノ電も登場。 * 『[[ハナヤマタ]]』[[浜弓場双]]([[芳文社]][[まんがタイムきららフォワード]]連載中) - 主人公らが通う由比浜学園中学周辺の描写が七里ヶ浜近辺で、登場人物の名字(関谷、笹目、西御門、常盤など)が鎌倉の地名から取られている。 * 『[[はるかリフレイン]]』[[伊藤伸平]]([[ベネッセ]]中三チャレンジ) - 鎌倉駅旧時計塔の描写がある。 * 『[[最終戦争伝説]]』(ハルマゲドンでんせつ)[[山田ミネコ]]([[朝日ソノラマ]]) - 主人公は[[1981年]]の鎌倉市民。タイムスリップで未来へと連れ去られてしまう。 * 『[[まかせてイルか!]]』[[大地丙太郎]]/[[たかしたたかし]]([[徳間書店]]月刊アニメージュ) * 『[[まなびや]]』[[小島あきら]](スクウェア・エニックス[[月刊ガンガンJOKER]]) * 『[[みずたまリンドウ]]』[[宗我部としのり]]([[メディアファクトリー]]) - 主人公達の通うのが「鎌倉浜高校(架空)」で、江ノ電も登場。 * 『[[南鎌倉高校女子自転車部]]』[[松本規之]]([[月刊コミックブレイド]]連載中) * 『[[ラヴァーズ・キス]]』[[吉田秋生]](上記同名映画の原作。小学館別冊少女コミック) * 『[[ロイアルミストブレード]]』[[大星由良]](委託市場ドットコム掲載中) * 『[[わ!]]』小島あきら(スクウェア・エニックス[[ガンガンONLINE]]→月刊ガンガンJOKER) - 上記のまなびやと同じ高校、世界観を共有している。 * 『[[かくしごと]]』[[久米田康治]]([[月刊少年マガジン]]掲載中) === ドラマ === * 『[[青い瞳の聖ライフ]]』[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列 - [[七里ヶ浜]]周辺がロケ地。 * 『[[明日の約束]]』[[関西テレビ放送|関西テレビ]] * 『[[あなたには帰る家がある]]』[[TBSテレビ|TBS]] * 『[[海まで5分]]』TBS系列 - 舞台は鎌倉の海近くという設定。 <!-- * [[ウルトラマンティガ]](第46話「いざ鎌倉!」)- 登場怪獣が江ノ電の警笛の音を母親の声と勘違いして降りてきた。最後はティガが車両によって怪獣を誘導し、母親の元に帰した。--> * 『[[駅弁刑事・神保徳之助]]4 古都鎌倉殺人篇』TBS * 『[[おいしいごはん 鎌倉・春日井米店]]』[[テレビ朝日]] / [[石原プロモーション]] - 舞台は鎌倉の米屋という設定。 * 『[[俺たちの朝]]』[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] - [[江ノ島電鉄]]・[[極楽寺駅]]周辺が舞台となった。 * 『[[顔で笑って]]』[[TBSテレビ|TBS]] / [[大映テレビ]] - 舞台は鎌倉市の私立病院(最寄り駅は[[北鎌倉駅]])。 * 『[[最後から二番目の恋]]』フジテレビ ** 『[[続・最後から二番目の恋]]』フジテレビ- 続編。 * 『[[さよならドビュッシー|さよならドビュッシー ~ピアニスト探偵 岬洋介~]]』日本テレビ * 『[[さわやか3組]]』[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]] - 2000年度放送分の舞台となった。 * 『[[湘南女子寮物語]]』テレビ朝日 - 七里ヶ浜周辺が舞台。 * 『[[湘南探偵物語]]~鎌倉逗子、[[葉山]]~』テレビ朝日 * 『[[好きな人がいること]]』フジテレビ * 『[[ツバキ文具店#テレビドラマ|ツバキ文具店〜鎌倉代書屋物語〜]]』[[日本放送協会|NHK]] * 『[[鉄道警察官・清村公三郎]]』(8) [[鎌倉]]・[[江の島]]~追憶の殺人~ * 『[[ナツコイ]]』TBS * 『[[西村京太郎サスペンス]]』([[十津川警部シリーズ]]48「[[江ノ電]]に消えた女〜十津川警部への挑戦状〜」) TBS * 『[[日本沈没]]』 TBS - 小野寺周二の家業が[[鶴岡八幡宮]]前の[[鎌倉彫]]屋との設定なのでしばしば登場。また、市内も地震で[[鎌倉大仏]]が陥没するなどの被害に遭う。 * 『[[はぐれ刑事純情派]]』 (第13話)テレビ朝日 * 『[[花咲くあした]]』NHK BSプレミアム * 『[[花嫁のさけび]]』 テレビ朝日 * 『[[ビブリア古書堂の事件手帖 (テレビドラマ)|ビブリア古書堂の事件手帖]]』フジテレビ - 上記小説のドラマ化。 * 『[[緑川警部シリーズ]]』 TBS * 『[[リバウンド (テレビドラマ)|リバウンド]]』日本テレビ系列 - [[北鎌倉駅]]周辺がロケ地。 * 『[[おカネの切れ目が恋のはじまり]]』TBS === アニメ === * 『[[青い花 (漫画)|青い花]]』(2009年、監督 - [[カサヰケンイチ]]、制作 - [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]])- 上述の漫画のアニメ版。2009年7月より[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『NOISE』にて放送された。 * 『[[亜人ちゃんは語りたい]]』(2017年、監督 - [[安藤良]]、制作 - [[A-1 Pictures]]) - 北鎌倉駅周辺や鎌倉駅付近、極楽寺駅、稲村ケ崎が登場するほか、江ノ電バスをモチーフとしたバスも登場する。<!-- * 『[[あずきちゃん]]』(NHKアニメ)- 最終話「勇之助くん!さよならはいわないで」における、お別れ遠足の場所。--> * 『[[うた∽かた]]』(2004年、監督 - [[後藤圭二]]、制作 - [[ハルフィルムメーカー]])([[UHFアニメ]]、地元局[[テレビ神奈川|tvk]]でも放送された) - 主人公は雪ノ下に居を構え、鎌倉女子学園(架空)に通う女子中学生。由比ヶ浜(鎌倉花火大会、鎌倉プリンスホテル)や鎌倉駅(江ノ電。喫茶店「銀の鈴」、作中では「金の鈴」)、大町(「八雲神社」、作中では「九雲神社」)や鶴岡八幡宮をはじめ、登場する舞台はほとんど鎌倉市内である。 * 『[[エルフェンリート]]』(2002年、監督 -神戸守、製作 - [[アームス]])(CS([[アニメシアターX|AT-X]]で放送及びUHFアニメ)- 上述の漫画のアニメ版。 * 『[[オチビサン]]』(2023年、監督 - 鬼塚大輔、釣井省吾、制作 - [[スタジオカラー]])- 上述の漫画のアニメ版。[[NHK総合]]にて放送。 * 『[[キテレツ大百科 (アニメ)|キテレツ大百科]]』 - 第87話「迷い子にサヨナラ! 方向音虫ブローチ!!」で出て来る。 * 『[[きみの声をとどけたい]]』(2017年、監督 - 伊藤尚往、製作 - [[マッドハウス]]。[[東北新社]]配給のオリジナル作品) - 舞台の「日ノ坂町」が[[腰越]]をモデルとしており、[[腰越駅]]、腰越協栄会(駅前商店街)、腰越漁港、[[神奈川県立鎌倉高等学校|鎌倉高校]]などを元にした場所が登場しており、隣接する[[藤沢市]]の施設も登場している。 * 『[[project575|GO!GO!575]]』(2014年、監督 - [[安斎剛文]]、制作 - レイ・デュース / [[C2C (アニメ制作会社)|C2C]]、2014年1月に、TOKYO-MXやtvkなどで放送された) - オープニングでは、若宮大路、鎌倉中央公園、#1では山ノ内の女子学園前の信号機、#2で池に落ちるシーンは鎌倉中央公園の上池と下池の間、お風呂は材木座の銭湯(清水湯)、帰路は水道路付近、#3では北鎌倉駅構内、小町のコーヒーショップ(イワタコーヒー)、下馬近くの大町踏切、#4では極楽寺駅前、ダンスシーンは鎌倉中央公園の生垣見本(庭園植物園内)、ラストは同公園の芝生広場の前が登場。個々の場所はそれぞれ離れているものの、鎌倉市内に実在する場所が随所に登場する。 * 『[[Cosmic Baton Girl コメットさん☆]]』(2001年、監督 - [[神戸守]]、制作 - [[日本アニメーション]]、[[テレビ大阪]]) - 二代目鎌倉駅時計塔他、江ノ電鎌倉駅周辺をモチーフにした場所が登場する。 * 『[[Just Because!]]』(2017年、監督 - [[小林敦]]、制作 - [[PINE JAM]]) - 2017年10月より[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]他で放送。#1では、深沢地域の常盤から手広にかけての実在する場所が随所に登場する。舞台の県立柏尾川高等学校は、[[神奈川県立深沢高等学校|深沢高校]]がモデルになっている。 * 『[[侵略!イカ娘]]』(2010年、監督 - [[水島努]]、制作 - [[ディオメディア]]) - 上述の漫画のアニメ版。2010年10月より[[テレビ東京]]系で放送された。イカ娘が初めて上陸した海岸、海の家「れもん」周辺の風景描写に、由比ヶ浜近辺の風景が登場する。 **『[[侵略!?イカ娘]]』(2011年、総監督 - 水島努、監督 - [[山本靖貴]]、制作 - ディオメディア) - 上記の第2期シリーズ。高徳院の鎌倉大仏が描かれている。 * 『[[スクールランブル (アニメ)|スクールランブル]]』(2004年(第1期)、監督 - [[高松信司]]、制作 - [[スタジオコメット]]) - 上述の漫画のアニメ版。テレビ東京系で放送された。劇中の舞台は架空の「神奈川県矢神市」だが、第1期では江ノ電、第2期(2006年)では鎌倉大仏を模した場面が登場する。 * 『[[セイクリッドセブン]]』(2011年、監督 - [[大橋誉志光]]、制作 - サンライズ、2011年7月より[[毎日放送]]を制作局として、関東地区では[[テレビ神奈川|tvk]]、[[テレビ埼玉|テレ玉]]などで放送された) - 企画段階から鎌倉観光フォーラムの働きかけで鎌倉市や由比ガ浜中央商店街、江ノ島電鉄(株)が製作に協力。劇中では、主人公の丹童子アルマの出身地が鎌倉市となっており、#8ではヒロインの藍羽ルリと鎌倉市内の実在する店舗等を巡っている。 * 『[[青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]]』(2018年、監督 - [[増井壮一]]、制作 - [[CloverWorks]])- 主人公の住まいの中心地は[[藤沢市|藤沢]]を舞台にしているが、通っている峰ヶ原高校は七里ガ浜地域周辺を舞台にしている。 * 『[[千年女優]]』(2002年、監督 - 今敏、製作 - [[マッドハウス]])- [[大船撮影所]]をモデルとした銀映撮影所。江ノ電旧500型や七里ヶ浜海岸などが登場。 * 『[[TARI TARI]]』(2012年、監督 - [[橋本昌和]]、制作 - [[ピーエーワークス|P.A.WORKS]]) - 2012年7月よりtvkなどで放送された。[[湘南藤沢フィルム・コミッション]]、藤沢市&江の島の皆様、[[江ノ電|江ノ島電鉄株式会社]]がエンディングの協力でクレジットされており、藤沢市江ノ島から鎌倉市周辺を舞台にしている。鎌倉市内の描写としては、オープニングで坂ノ下の海岸付近を走るシーンや、#1では、江ノ島にある土産物店に住んでいる主人公・坂井和奏らが通学する「白浜坂高等学校」の最寄駅が、鎌倉高校前駅を模しており、駅からの通学路として七里ガ浜の住宅地、鎌倉駅西口旧駅舎時計台の前で宮本来夏が歌うシーンなどが描写されている。 * 『[[ちびまる子ちゃん|ちびまる子ちゃん×桑田佳祐〜100万年の幸せ!! スペシャル〜]]』(2017年) - 『もしかして鎌倉?』の巻で鎌倉が出て来る * 『[[つり球]]』(2012年、監督 - [[中村健治 (アニメ演出家)|中村健治]]、制作 - [[A-1 Pictures]]、2012年4月より[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ノイタミナ]]枠で放送された) - 江ノ島に引っ越してきた主人公・真田ユキらが通学する高校の最寄駅の名称が「江ノ電腰越東高校前」で鎌倉高校前駅を模している。 * 『[[天空のエスカフローネ]]』(1996年、監督 - [[赤根和樹]]、製作 - [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]、[[テレビ東京]]をキー局に放送されたアニメ) - ヒロインの実家が北鎌倉。江ノ電も登場。 * 『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』 - 第539話「愚か者への遺産」、第925話「心のこもったストラップ(前編)」では、路線図に[[大船]]の[[大船駅]]が出て来る。 * 『[[ハナヤマタ]]』(2014年。監督 - [[いしづかあつこ]]、製作 - マッドハウス) - 上述の漫画のアニメ版。2014年7月よりテレビ東京などで放送された。 * 『[[ふたりはプリキュア Splash Star]]』(2006年、監督 - [[小村敏明]]、製作 - [[東映アニメーション]])([[朝日放送テレビ|朝日放送]]・[[テレビ朝日]]系で放送されたアニメ) - 作中の舞台は「海原市夕凪」だが、鎌倉高校前駅を模した駅や江ノ電、七里ヶ浜周辺を模した海岸等が登場する。 * 『[[美鳥の日々]]』(2004年、監督 - [[小林常夫]]、製作 - [[ぴえろ]]) - アニメ版のみ湘南モノレールが登場する地域を舞台としている。 * 『[[南鎌倉高校女子自転車部]]』(2017年、監督 - [[工藤進]]、制作 - [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]]、[[エー・シー・ジー・ティー|A.C.G.T]]) - 上述漫画のアニメ版。#1では、極楽寺駅から七里ガ浜近辺、#2では[[御霊神社 (鎌倉市)|御霊神社]]や[[佐助稲荷神社|佐助稲荷]]などが描かれ、タイトル通り鎌倉市の南側に当たる旧鎌倉地域から腰越地域のリアルな描写が随所に見られる。 * 『[[無彩限のファントム・ワールド]]』(2016年、監督 - [[石原立也]]、製作 - [[京都アニメーション]]) - ホセア学院(学校)は京都府庁旧本館がモチーフで、必ずしも舞台の全てが鎌倉・藤沢地域とはなっていないが、オープニングでは由比ガ浜や腰越付近、本編でも(モノレールのカラーリングは異なるが)湘南モノレールの西鎌倉駅周辺の描写があり、繰り返し登場する学院の最寄駅・南金倉駅は、同線の湘南江の島駅(藤沢市)が基となっている。 * 『[[老人Z]]』(1991年、監督 - [[北久保弘之]]、制作 - [[アナザープッシュピンプランニング|A.P.P.P.]]) - 劇場アニメ。ラストに向かうシーンで、湘南モノレールから高徳院清浄泉寺に向かうトンネル等が描かれている。 * 『[[炎の闘球児 ドッジ弾平]]』 - 鎌倉市がモチーフになっている。 === ゲーム === * 『[[うた詠み♪]]』iOS用アプリ - 当初は『うた詠み575』の名でリリースされたが、後に『うた詠み♪』にリニューアルした。 * 『[[うた組み575]]』[[セガ]] - うた組みアクションゲーム。 * 『[[シルバーレイン]]』[[トミーウォーカー]]の[[プレイバイウェブ]] - 参加[[プレイヤー (ゲーム)|PL]]の登録キャラクターは全て、鎌倉にある銀誓館学園の生徒か卒業生となる。 * 『[[すぴぱら - Alice the magical conductor.]]』[[minori]] - インタラクティブ・ノベル。 * 『[[センチメンタルプレリュード]]』[[インターチャネル]] - 恋愛アドベンチャーゲーム。 * 『[[装甲悪鬼村正]]』[[ニトロプラス]] - 18禁恋愛アドベンチャーゲーム。 * 『[[超時空爆恋物語〜door☆pi☆chu〜]]』[[PrimRose]]の18禁恋愛アドベンチャーゲーム - 鎌倉を模した「釜蔵」が舞台。「くノ電(くノ一電鉄)」や「鳩岡八幡宮」が登場する。 * 『[[電車でGO!]]旅情編』[[タイトー]] - [[江ノ島電鉄線|江ノ電]]を全線で運転できる。 * 『[[NOëL]] 〜La neige〜』パイオニアLDC(現・[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン]])より発売されたプレイステーション(PS)向けゲーム) * 『[[姉、ちゃんとしようよっ!]]』[[きゃんでぃそふと]] - 18禁恋愛アドベンチャーゲーム * 『[[遙かなる時空の中で3 運命の迷宮(ラビリンス)]]』[[ルビーパーティー]]作の恋愛シミュレーションゲーム * 『[[晴れときどきお天気雨]]』[[ぱれっと (ゲームブランド)|ぱれっと]]の18禁美少女ゲーム。[[北鎌倉駅]]周辺がモデル。 * 『[[Memories Offシリーズ]]』[[KID (ゲームブランド)|KID]]作の恋愛アドベンチャーゲーム - 江ノ電(ゲーム中ではシカ電)沿線を中心に、鎌倉・藤沢一帯が舞台となっている。 === 音楽 === * 『[[青空の扉 〜THE DOOR FOR THE BLUE SKY〜#収録曲|紫陽花のうた]]』([[浜田省吾]]) * 『縁切寺』([[グレープ (ユニット)|グレープ]] 作詞・作曲:[[さだまさし]]) * 『[[大船音頭]]』 * 『鎌倉』([[文部省唱歌]]) - 作者の大和田建樹の歴史・景勝好みが影響している為4番に渡って歌ったと見られている。 * 『鎌倉天気雨』 (emiko) - [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『うた∽かた』のイメージアルバム。「ずっとこの街で」「Only your friend」「Yell 〜あなたの隣で〜 '04 AUTUMN」「どんなにつらい事があったとしても '04 AUTUMN」「横顔」を収録。 * 『[[KAMAKURA#Disc 1|鎌倉物語]]』『[[KAMAKURA#Disc 1|古戦場で濡れん坊は昭和のHero]]』『[[KAMAKURA#Disc 2|夕陽に別れを告げて]]』『[[希望の轍]]』『[[愛の言霊 〜Spiritual Message]]』『[[TSUNAMI#収録曲|通りゃんせ]]』『[[君こそスターだ/夢に消えたジュリア|君こそスターだ]]』『北鎌倉の思い出』([[サザンオールスターズ]]) - メインボーカリスト・[[桑田佳祐]]は[[鎌倉学園]]の出身。「鎌倉」をモチーフとしたアルバム『[[KAMAKURA]]』は鎌倉にまつわる楽曲を多数収められ、ノスタルジックな作品としてファン層外からも人気を集めている。 * 『サーフ ブンガク カマクラ』ASIAN KUNG-FU GENERATION - 藤沢から鎌倉までの江ノ電の駅名を冠した曲名の入ったアルバム全10曲。 * 『さらば愛の日々』([[ヒデとロザンナ]]、[[ハイファイセット]]) * 『せぷてんばぁ』[[クレイジーケンバンド]]) * 『[[鉄道唱歌]]』(第1集東海道編 第6番-第9番) * 『[[水の中のライオン#収録曲|花を飾って (Kamakura)]]』([[谷山浩子]]) * 『花火』[[レミオロメン]] * 『まりのうた』[[Oh!MOMONGA]] * 『鎌倉旅行』平尾昌晃&畑中葉子 * 『鎌倉ラブソング』SHOW-SKA * 『鎌倉ラブソング〜Sunset』SHOW-SKA * 『鎌倉に向かう靴』友部正人 * 『鎌倉ロストラブ』狩人 * 『鎌倉に包まれて』eyes * 『鎌倉グラフィティ』SEA MY PAST * 『鎌倉サイクリング』[[アイラヴミー]] * 『鎌倉は子守唄』[[上条恒彦]] * 『鎌倉の風』[[青木由有子]] * 『鎌倉哀愁クラブ』[[タブレット純]] * 『カマクライフ』[[CLIMBER]] * 『鎌倉海岸通り」[[黛ジュン]] * 『鎌倉ひとり旅』[[氷川きよし]] * 『古都鎌倉』[[SONOCO]] * 『KAMAKURAYAMA』[[せきぐちゆき]] * 『鎌倉 On The Beach』[[原由子]] {{節スタブ}} ==== ミュージックビデオ ==== * 『はよつけ鎌倉』[[TUBE]] * 『[[夏色]]』ゆず * 『[[Beautiful (倉木麻衣の曲)|Beautiful]]』 [[倉木麻衣]] - [[七里ヶ浜]] * 『[[Grow Slowly]]』[[井口裕香]] - [[七里ヶ浜]] * 『さよなら』[[大原櫻子]] - [[江ノ電]]、[[極楽寺駅]]、湘南の海など * 『[[地球が丸いなら]]』[[乃木坂46]] * 『透明電車が走る』[[キイチビール&ザ・ホーリーティッツ]] - 鎌倉市、江ノ電 * 『鎌倉 On The Beach』[[原由子]] {{節スタブ}} == その他 == * [http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koutsu/kankyotegata1.html 鎌倉フリー環境手形]は、地域の交通を自由に使える共通の切符。 *市街地には、景観に配慮して白地の看板が多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *鎌倉市史編纂委員会・[[赤星直忠]]『鎌倉市史(考古篇)』84~88ページ 1959年(昭和34年)発行 *[[平井聖]]ほか 1980「鎌倉城」『[[日本城郭大系]]6(神奈川・千葉)』pp.335-336 [[新人物往来社]] *鎌倉市教育委員会 1998「由比ヶ浜南遺跡」『[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun2.pdf 鎌倉の埋蔵文化財2-平成8年度発掘調査の概要-]』鎌倉市 pp.10-11 *鎌倉市教育委員会 2001「長谷小路周辺遺跡」『[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun4.pdf 鎌倉の埋蔵文化財4-平成10・11年度発掘調査の概要-]』鎌倉市 p.3 *岡陽一郎([[五味文彦]]・馬淵和雄編)2004「幻影の鎌倉城」『中世都市鎌倉の実像と境界』pp.41-64 高志書院 *[[齋藤慎一]] 2006『中世武士の城』[[吉川弘文館]] *[[埋蔵文化財センター (横浜市)|埋蔵文化財センター(横浜市)]]『[https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/my031-hi.pdf 埋文よこはま31号(㹨川流域の横穴墓群)]』2015年(平成27年)3月20日発行 *[[埋蔵文化財センター (横浜市)|埋蔵文化財センター(横浜市)]]『栄区の重要遺跡』2015年(平成27年)11月13日発行 *松葉崇 2018「都市空間の変遷とその背景」『考古学ジャーナル』(2018年9月号、通算716号)pp.6-10 [[ニュー・サイエンス社]] *[[鎌倉歴史文化交流館]] 2021『頼朝以前~源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか~』(2021年鎌倉歴史文化交流館企画展「[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/before_yoritomo.html 頼朝以前]」展示図録)<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍や論文、ウェブページなど〉のみを列挙して下さい。さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目のウィキ間リンク、ウィキリンク --> {{Sisterlinks |commons=鎌倉 |commonscat=Kamakura, Kanagawa |wikt=鎌倉 |q=no |v=no |voy=ja:鎌倉市 |d=Q200267 }} {{See also|Category:鎌倉市}} * [[やぐら]] * [[鎌倉市指定景観重要建築物]] - 鎌倉市都市景観条例に基づき指定 * [[鎌倉市内の寺院一覧]] * [[鎌倉市内の神社一覧]] * [[鎌倉物語 (曖昧さ回避)]] * [[鎌倉町 (曖昧さ回避)]] * {{Prefix|鎌倉}} == 外部リンク == {{osm box|r|2689445}} * {{Official website}} * {{Twitter|kamakura_kankou|鎌倉市観光課}} * [https://www.trip-kamakura.com/ 鎌倉市観光協会] * {{ウィキトラベル インライン|鎌倉市|鎌倉市}} * {{Googlemap|鎌倉市}} {{神奈川県の自治体}} {{世界歴史都市連盟加盟都市}} {{鎌倉市の町・字}}{{SDGs未来都市}}{{Normdaten}} {{デフォルトソート:かまくらし}} [[Category:神奈川県の市町村]] [[Category:鎌倉市|*]] [[Category:世界歴史都市連盟]] [[Category:1939年設置の日本の市町村]]
2003-04-04T09:05:28Z
2023-12-03T23:58:34Z
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2040年代
2040年代(にせんよんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2040年~2049年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2040年代について記載する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "2040年代(にせんよんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2040年~2049年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2040年代について記載する。", "title": null } ]
2040年代(にせんよんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2040年~2049年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2040年代について記載する。
{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2040 | 年 = 2040 }} '''2040年代'''(にせんよんじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])2040年~2049年までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた2040年代について記載する。 == 予定・予測されるできごと == * この頃までに[[世界人口]]が90億人に達する([[国際連合]]の中位予測)。 * [[国立社会保障・人口問題研究所]]のデータによると、日本では[[高齢者]]数が2041年から2042年にかけてピークを迎え、以降は[[人口]]が急速に減少し始めると予測している。 ** 「死亡低位」の場合は4002.7万人(2042年)、「死亡中位」の場合は3863.2万人(2042年)、「死亡高位」の場合は3725.6万人(2041年)がピークとなる<ref>[https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/suikei07/suikei.html 日本の将来推計人口(平成18年12月推計)]</ref>。 === 2040年 === {{main|2040年}} * この年までに[[ホンダ]]は[[ガソリンエンジン]]を用いた自動車の生産・販売を全面停止し、販売する全ての車種を[[電気自動車]]と[[燃料電池自動車]]に切り替える予定。 * [[福井県]][[敦賀市]]にある研究用[[原子炉]]([[新型転換炉]])「[[ふげん]]」の[[廃炉]]作業が完了予定(年度内)<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ8B0BM7Q89PISC003.html ふげんの廃炉完了が7年延期 地元は心配と理解] - 朝日新聞デジタル (2022年8月10日)、2022年8月11日閲覧。</ref>。 * [[2月5日]]に[[小惑星]] [[(367789) 2011 AG5|2011 AG<sub>5</sub>]] が地球に接近。 === 2041年 === {{main|2041年}} * [[1991年]]施行の[[借地借家法]]22条で規定された一般[[定期借地権]]の期限満了(50年以上)により、地主に対して更地化(建造物取壊)後の土地返還が開始される。 === 2042年 === {{main|2042年}} * [[アメリカ合衆国国勢調査局]] (USCB) の推計では、この年までに[[アメリカ合衆国]]の人口に占める[[白人]]の割合が過半数を割る。 * [[4月20日]]、[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]近海で[[皆既日食]]が観測される。 === 2044年 === {{main|2044年}} * [[ロシア連邦軍]]の[[アルメニア]]駐留期限。 === 2045年 === {{main|2045年}} * [[人工知能]] (AI) に関する[[技術的特異点]]が到来する年と予測されている。 * 早ければこの頃から[[世界人口]]がピーク(81億人強)に達し、以降の世界人口は減少していく可能性がある(国連の下位予測)<ref>[http://esa.un.org/unpd/wpp/unpp/panel_population.htm 国際連合経済社会局の人口推計2010年版] 下位予測による</ref>。 === 2046年 === {{main|2046年}} * 米軍[[クラーク空軍基地]]の軍事基地協定の期限。[[1991年]]に返還済み。 * [[香港]]が[[イギリス]]から、また[[澳門]]([[マカオ]])が[[ポルトガル]]から[[中国]]に[[1997年]]に返還される前の制度維持を保証された期限。 * 第35回[[参議院議員通常選挙]] === 2047年 === {{main|2047年}} * 2040年代半ばまでに、高レベル[[放射性廃棄物]]の最終処分場の操業を開始する計画になっている。 === 2048年 === {{main|2048年}} * [[6月3日]]に小惑星 [[2007 VK184|2007 VK<sub>184</sub>]] が地球に接近。 == フィクションのできごと == * 前半 ** フォースター教授率いる7名のチームが宇宙船「アーノルド・トインビー号」で木星の[[アマルテア (衛星)|第五衛星]]を調査し、第五衛星が[[宇宙人|地球外文化]]「X文化」が太陽系外から訪れる際に用いた巨大宇宙船であることを発見する。(小説『{{仮リンク|木星第五衛星|en|Jupiter Five}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 明日にとどく |publisher = [[早川書房]] |year = 1986 |pages = 219-241 |isbn = 978-4-15-010660-7}}</ref> ** 2040年に発生した新種の[[ウイルス]]「MKウイルス」によって男性たちが死滅していく中、全世界の統治権は女性による国際連盟「United Women」 (UW) に委譲され、一部の男性たちが特効薬に望みをかけて[[コールドスリープ]]に入るが、[[人工知能|超AI]]でも開発には至らず数年が経過する。(漫画『[[終末のハーレム]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=LINK(原作)|author2=宵野コタロー(作画)|authorlink2=宵野コタロー |year = 2016 |title = 終末のハーレム 1 |pages = 53-55 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4-08-880819-2}}</ref> * 後半 ** [[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]]を本拠地とするリリスター星人と人類が接触。その後、リリスター星人との間に結ばれた平和条約によって、地球連邦はリリスター星人と[[プロキシマ・ケンタウリ|プロクシマ]]系のリーグ星人の間で戦われている惑星間軍事戦争に参加することになる。(小説『{{仮リンク|去年を待ちながら|en|Now Wait for Last Year}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フィリップ・K・ディック|authorlink=フィリップ・K・ディック |title = 去年を待ちながら |publisher = [[東京創元社]] |year = 1989 |pages = 20,21,27,36-38,44,108-110,160 |isbn = 978-4-488-69601-6}}</ref> ** 「バルカンIV」をはじめとする世界連邦宇宙研究所のOSO(軌道上太陽観測所)衛星群が、太陽の活動の不規則変動を原因とする異常現象を確認。それを基礎として、ベン・モルディク教授らのグループにより、2年後には地球上の生命に破壊的影響をおよぼすほどの[[太陽嵐]]が発生するとの予測が立てられる。(小説『[[果しなき流れの果に]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 小松左京|authorlink=小松左京 |title = 果しなき流れの果に |publisher = 早川書房 |year = 1973 |pages = 148-157 |isbn = 978-4-15-030001-2}}</ref> * リング帝国の[[恒星船|恒星間宇宙片]]「フィールド・サーカス」が、[[ワームホール]]を用いる恒星間[[パケット]]交換ネットワークのルーターが周囲に存在するとされる[[褐色矮星]]ヒュンダイ+4904/-56に接近中、ヒュンダイ+4904/-56で待機していた異種知性「博愛商会(ワンチ)」の通商代表団からのコンタクトを受ける。(小説『[[アッチェレランド (小説)|アッチェレランド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= チャールズ・ストロス|authorlink=チャールズ・ストロス |title = アッチェレランド |publisher = 早川書房 |year = 2009 |pages = 99,100,194,199,200,202-205,228-231,237-241 |isbn = 978-4-15-209003-4}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === --> {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:2040ねんたい}} [[Category:2040年代|*]]
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稲村ヶ崎
稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている。 地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。 奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、 と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。 鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉に迫った(鎌倉の戦い)。 5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている。 幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。 1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。 1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には住居表示実施に伴う町名変更で旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となった。 現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。 2000年に温泉が発見され、後に「稲村ヶ崎温泉」となる。 1333年(元弘3年5月)の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。 稲村ガ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市の町名。現行行政地名は稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目。住居表示実施済み区域。 旧・極楽寺から1969年2月1日に分立して住居表示が施行され、稲村ガ崎一-五丁目が置かれた。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、稲村ガ崎4-6-18の地点で18万5000円/m、稲村ガ崎5丁目732番72の地点で17万4000円/mとなっている。 2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。 国勢調査による人口の推移。 国勢調査による世帯数の推移。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)。 2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。 経済センサスによる事業所数の推移。 経済センサスによる従業員数の推移。 サザンオールスターズの桑田佳祐が監督を務めた映画『稲村ジェーン』(1990年)の舞台ともなった場所である。しかし以前は自殺の名所としても知られていた。また、彼らのシングル曲である「君こそスターだ」には、歌い出し冒頭で「稲村ヶ崎は今日も雨」という部分があり、最初の部分のミュージックビデオも稲村ヶ崎で撮影している。 ほかにも、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲で「稲村ヶ崎ジェーン」、テレビ東京「出没!アド街ック天国」主題歌の小川コータ&とまそん 「夕焼け岬」、渡辺大地 「稲村ヶ崎駅」という曲がある。 約3m以上の高波が来た時だけ開催されるサーフィン大会、「イナムラサーフィンクラシック」の会場でもある。1981年に「ナガヌマクラシック」の名前で初開催され、現在の名前では1989年と2013年しか開催されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉に迫った(鎌倉の戦い)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には住居表示実施に伴う町名変更で旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2000年に温泉が発見され、後に「稲村ヶ崎温泉」となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1333年(元弘3年5月)の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。", "title": "史跡指定" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "稲村ガ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市の町名。現行行政地名は稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目。住居表示実施済み区域。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "旧・極楽寺から1969年2月1日に分立して住居表示が施行され、稲村ガ崎一-五丁目が置かれた。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、稲村ガ崎4-6-18の地点で18万5000円/m、稲村ガ崎5丁目732番72の地点で17万4000円/mとなっている。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "国勢調査による人口の推移。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "国勢調査による世帯数の推移。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "経済センサスによる事業所数の推移。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "経済センサスによる従業員数の推移。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "サザンオールスターズの桑田佳祐が監督を務めた映画『稲村ジェーン』(1990年)の舞台ともなった場所である。しかし以前は自殺の名所としても知られていた。また、彼らのシングル曲である「君こそスターだ」には、歌い出し冒頭で「稲村ヶ崎は今日も雨」という部分があり、最初の部分のミュージックビデオも稲村ヶ崎で撮影している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ほかにも、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲で「稲村ヶ崎ジェーン」、テレビ東京「出没!アド街ック天国」主題歌の小川コータ&とまそん 「夕焼け岬」、渡辺大地 「稲村ヶ崎駅」という曲がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "約3m以上の高波が来た時だけ開催されるサーフィン大会、「イナムラサーフィンクラシック」の会場でもある。1981年に「ナガヌマクラシック」の名前で初開催され、現在の名前では1989年と2013年しか開催されていない。", "title": "その他" } ]
稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている。
[[File:Inamuragasaki - 01.jpg|thumb|300px|稲村ヶ崎を西側から望む(2017年7月10日撮影) - 中腹に広場のように見えるのが鎌倉海浜公園稲村ガ崎地区。なお砂が全体的に黒っぽいのは地中に含まれる砂鉄のせいである]] {{Location map many | 100x100 | AlternativeMap = Miura Peninsula Relief Map, SRTM-1.jpg | float = right | width = 220px | caption = 三浦半島における稲村ヶ崎の位置 | label1 = | position1 = | background1 =  | mark1 = Cercle rouge 50%.svg | mark1size =20 | lat1_deg = 62 | lon1_deg = 22 }} '''稲村ヶ崎'''(いなむらがさき)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]南西部にある[[岬]]で、[[由比ヶ浜]]と[[七里ヶ浜]]の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては[[住居表示]]に伴う町名変更で'''稲村ガ崎一丁目'''から'''稲村ガ崎五丁目'''となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/juukyohyouji/machimei.html |title=鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況 |publisher=鎌倉市|accessdate=2015-05-21}}</ref><ref name="kokuji24">1969年(昭和44年)2月24日自治省告示第24号「住居表示が実施された件」</ref><ref>『鎌倉の地名由来辞典』(東京堂出版)稲村ガ崎の項より。</ref>。 == 地名の由来 == 地名の由来は、[[稲穂]]を重ねたように見えるためだと言われている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=[[大日本地誌大系]]24 [[新編相模国風土記稿]]第六巻 |publisher=長坂一雄 |year=1980-02-05 |page=110 |isbn=}}</ref>。古来良質な[[砂鉄]]が採取できることで知られ、古代にはこの地で[[製鉄]]がおこなわれていたと考えられる。 == 歴史 == === 古代 === [[奈良時代]]の[[鎌倉]]には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、[[万葉集]]に、 {{Quotation|鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ|万葉集 巻14-3365}} と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]の[[甘縄神明神社|甘縄神社]]裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。 === 中世 === [[File:Nitta Sachūjō Yoshisada.jpg|thumb|新田義貞による稲村ヶ崎突破の場面。義貞が太刀を海に投げ入れると竜神の奇跡により潮が引き、そこから鎌倉を攻めたという伝説がある]] [[鎌倉時代]]末期の[[元弘]]3年([[1333年]])5月に[[上野国]]([[群馬県]])[[新田荘]]を本拠とする[[新田義貞]]が挙兵し、[[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]]と[[関戸の戦い]]で[[北条氏]]の軍に勝利して[[鎌倉]]に迫った([[鎌倉の戦い]])。 5月18日、新田軍は[[極楽寺_(鎌倉市)|極楽寺]]口より攻撃を加え、21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて[[剣]]を投じると、その後潮が引いて[[干潟]]となったので岬の南から[[鎌倉]]に攻め入ったという[[伝説]]が『[[太平記]]』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている<ref>細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 P22</ref>。 === 近世以降 === [[幕末]]には外国船監視のための[[台場]]が置かれ、[[長州藩]]が防衛にあたった。 [[1928年]]([[昭和]]3年)、県道片瀬鎌倉線(後の[[国道134号]])の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、[[第二次世界大戦]]中には[[伏龍]]隊の地下基地があった。 1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には[[住居表示]]実施に伴う町名変更で旧大字[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となった<ref name="kokuji24"/>。 === 現代 === 現在は'''鎌倉海浜公園'''として整備されていて、園内には[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成中学校]]ボート部七里ヶ浜沖遭難事件([[1910年]])の慰霊碑(『[[真白き富士の根]]』の歌詞を刻む)、[[ロベルト・コッホ|コッホ博士]]記念碑などもある。[[サーフィン]]の[[メッカ]]として有名であると同時に、[[海水浴場]]としても使用されてきたが、近年、[[砂]]の流出が進み、[[2003年]]([[平成]]15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。 2000年に[[温泉]]が発見され、後に「[[稲村ヶ崎温泉]]」となる。 == 史跡指定 == [[1333年]]([[元弘]]3年5月)の新田義貞の[[鎌倉幕府]]攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「'''稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)'''」として、 [[1934年]]([[昭和]]9年)[[3月13日]]、国の[[史跡]]に指定された<ref>{{Cite book|和書 |title=鎌倉の指定・登録文化財目録 |date=2018-2-15 |year=2018 |publisher=鎌倉市教育委員会 |page=43 |author=鎌倉市教育委員会}}</ref>。 == アクセス == *[[江ノ島電鉄]][[稲村ヶ崎駅]]から徒歩5分。 == ギャラリー == <gallery mode=packed style="font-size:85%"> 稲村ヶ崎石碑.jpg|新田義貞徒渉伝説の石碑(2004年11月9日撮影) - 鎌倉海浜公園内に所在。1917年(大正6年)建立 Inamuragasaki_tottanbu.jpg|稲村ヶ崎突端部。画面中央の横穴は[[第140師団 (日本軍)|第140師団]]麾下の部隊が構築した横穴陣地とされている inamura.jpg|稲村ヶ崎駅から坂を下って徒歩5分程度のところに所在する Mt. Fuji from Inamuragasaki 02.jpg|[[相模湾]]越しに[[富士山]]を望むことができる Inamuragasaki - 02.jpg|稲村ヶ崎を東側から望む </gallery> == 町名 == {{Pathnav|日本|神奈川県|鎌倉市|'''稲村ガ崎'''|hide=1|frame=1}} {{Infobox 日本の町・字 |名称 = 稲村ガ崎 |種類 = [[町丁]] |画像 = {{Infobox mapframe|zoom=12|stroke-width=1|id=Q121433552}} |画像サイズ = 270px | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 18 | 緯度秒 = 21.88 | 経度度 = 139 | 経度分 = 31 | 経度秒 = 15.69 |座標位置備考=<!--座標位置の情報--> |マップ表示 = no |座標右上表示 = no |地図ズーム = 12 |都道府県 = 神奈川県 |市町村 = [[File:Flag of Kamakura, Kanagawa.svg|border|25px]] [[鎌倉市]] |地域 = [[鎌倉|鎌倉地域]] |人口 = 3147 |世帯数 = 1371 |人口時点 = [[2023年]](令和5年)[[9月1日]]現在<ref name="population">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/opendata/documents/r05jinko_kakuteichi.xlsx|format=XLSX|title=町丁字別・地域別人口と世帯数(国勢調査基準・各月・平成13年~)|publisher=鎌倉市|language=日本語|quote=[https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/opendata/jinkou.html (ファイル元のページ)]|date=2023-09-12|accessdate=2023-09-17}}([[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC-BY-4.0]])</ref> |面積 = 0.74 |面積時点 = <ref name="area">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/soumu/toukei/kamakuratoukei/top2/documents/r04kamakuranotoukei20230623.pdf|format=PDF|title=令和4年(2022年)版 鎌倉の統計|publisher=鎌倉市|language=日本語|accessdate=2023-08-14}}([[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC-BY-4.0]])</ref> |標高 = <!--- 標高 ---> |標高備考 = <!--- 標高(<ref>) ---> |設置日 = <!--- 設置日 ---> |郵便番号 = 248-0024<ref name="postal">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=2480024|title=稲村ガ崎の郵便番号|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2023-08-09}}</ref> |市外局番 = 0467([[日本の市外局番#番号区画|藤沢MA]])<ref name="areacode">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2019-06-24}}</ref> |ナンバープレート = [[神奈川運輸支局|横浜]] |備考 = }} '''稲村ガ崎'''(いなむらがさき)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]の[[町丁|町名]]。現行行政地名は稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目。[[住居表示]]実施済み区域<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/juukyohyouji/machimei.html|title=鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況|publisher=鎌倉市|date=2017-02-07|accessdate=2018-02-22}}</ref>。 旧・[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]から[[1969年]][[2月1日]]に分立して[[住居表示]]が施行され、[[稲村ガ崎]]一-五丁目が置かれた<ref name="kokuji24"/>。 === 地価 === 住宅地の地価は、[[2023年]]([[令和]]5年)[[1月1日]]の[[公示地価]]によれば、稲村ガ崎4-6-18の地点で18万5000円/m{{sup|2}}、稲村ガ崎5丁目732番72の地点で17万4000円/m{{sup|2}}となっている<ref name="chika">{{Cite web|和書|url=https://www.land.mlit.go.jp/landPrice/AriaServlet?MOD=2&TYP=0|title=国土交通省地価公示・都道府県地価調査|publisher=国土交通省|language=日本語|accessdate=2023-08-09}}</ref>。 === 町名の変遷 === {| class="wikitable" |- !実施後 !実施年月日 !実施前(特記なければ各字名ともその一部) |- |稲村ガ崎一丁目 |rowspan="5"|[[1969年]][[2月1日]] |大字[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]字金山・字砂子坂・字追揚 |- |稲村ガ崎二丁目 |大字極楽寺字砂子坂・字追揚・字一ツ谷 |- |稲村ガ崎三丁目 |大字極楽寺字追揚・字姥ケ谷(全域) |- |稲村ガ崎四丁目 |大字極楽寺字一ツ谷 |- |稲村ガ崎五丁目 |大字極楽寺字一ツ谷・字正福寺、大字[[津 (鎌倉市)|津]]字東ノ谷 |} === 世帯数と人口 === [[2023年]](令和5年)[[9月1日]]現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである{{r|population}}。 {| class="wikitable" ![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]] |- |稲村ガ崎一丁目 |style="text-align:right"|222世帯 |style="text-align:right"|420人 |- |稲村ガ崎二丁目 |style="text-align:right"|189世帯 |style="text-align:right"|385人 |- |稲村ガ崎三丁目 |style="text-align:right"|216世帯 |style="text-align:right"|549人 |- |稲村ガ崎四丁目 |style="text-align:right"|156世帯 |style="text-align:right"|411人 |- |稲村ガ崎五丁目 |style="text-align:right"|588世帯 |style="text-align:right"|1,382人 |- |style="text-align:center"|計 |style="text-align:right"|1,371世帯 |style="text-align:right"|3,147人 |} ==== 人口の変遷 ==== [[国勢調査]]による人口の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=人口推移 |data_max=4000 |label_type=年 |data_type=人口 |label1=[[1995年]](平成7年)<ref name="jinko1995">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000023630093|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data1=3176 |label2=[[2000年]](平成12年)<ref name="jinko2000">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000025137597|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data2=3117 |label3=[[2005年]](平成17年)<ref name="jinko2005">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000025513790|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data3=3192 |label4=[[2010年]](平成22年)<ref name="jinko2010">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000012671702|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2012-01-20|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data4=3407 |label5=[[2015年]](平成27年)<ref name="jinko2015">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000031522046|title=平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2017-01-27|accessdate=2019-08-16|language=ja}}</ref> |data5=3334 |label6=[[2020年]](令和2年)<ref name="jinko2020">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000032163289|title=令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等|publisher=総務省統計局|date=2022-02-10|accessdate=2022-02-20|language=ja}}</ref> |data6=3261 }} ==== 世帯数の変遷 ==== [[国勢調査]]による世帯数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=世帯数推移 |data_max=2000 |label_type=年 |data_type=世帯数 |label1=[[1995年]](平成7年){{r|jinko1995}} |data1=1121 |label2=[[2000年]](平成12年){{r|jinko2000}} |data2=1157 |label3=[[2005年]](平成17年){{r|jinko2005}} |data3=1246 |label4=[[2010年]](平成22年){{r|jinko2010}} |data4=1346 |label5=[[2015年]](平成27年){{r|jinko2015}} |data5=1332 |label6=[[2020年]](令和2年){{r|jinko2020}} |data6=1383 }} === 学区 === 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)<ref name="school_1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gakumu/gakuhyou02.html|title=鎌倉市の市立小学校通学区域|publisher=鎌倉市|accessdate=2017-07-06}}</ref><ref name="school_2">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gakumu/gakuhyou03.html|title=鎌倉市の市立中学校通学区域|publisher=鎌倉市|accessdate=2017-07-06}}</ref>。 {| class="wikitable" !丁目!!番地!!小学校!!中学校 |- ||稲村ガ崎一丁目||全域||rowspan=5|[[鎌倉市立稲村ケ崎小学校]]||rowspan=5|[[鎌倉市立御成中学校]] |- ||稲村ガ崎二丁目||全域 |- ||稲村ガ崎三丁目||全域 |- ||稲村ガ崎四丁目||全域 |- |rowspan=2|稲村ガ崎五丁目||1~6番<br/>9番1~6号<br/>10番1~33号<br/>11番<br/>12番1~5号<br/>12番8~13号 |- ||7〜8番<br/>9番7~20号<br/>10番34~40号<br/>12番6〜7号<br/>13~39番||[[鎌倉市立七里ガ浜小学校]]||[[鎌倉市立腰越中学校]] |} === 事業所 === [[2021年]](令和3年)現在の[[経済センサス]]調査による事業所数と従業員数は以下の通りである{{r|keizai2021}}。 {| class="wikitable" ![[丁目]]!!事業所数!!従業員数 |- |稲村ガ崎一丁目 |style="text-align:right"|19事業所 |style="text-align:right"|105人 |- |稲村ガ崎二丁目 |style="text-align:right"|18事業所 |style="text-align:right"|73人 |- |稲村ガ崎三丁目 |style="text-align:right"|35事業所 |style="text-align:right"|128人 |- |稲村ガ崎四丁目 |style="text-align:right"|10事業所 |style="text-align:right"|119人 |- |稲村ガ崎五丁目 |style="text-align:right"|21事業所 |style="text-align:right"|51人 |- |style="text-align:center"|計 |style="text-align:right"|103事業所 |style="text-align:right"|476人 |} ==== 事業者数の変遷 ==== 経済センサスによる事業所数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=事業者数推移 |data_max=300 |label_type=年 |data_type=事業者数 |label1=[[2016年]](平成28年)<ref name="keizai2016">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000031727451|title=経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果|publisher=総務省統計局|date=2018-06-28|accessdate=2019-10-23|language=ja}}</ref> |data1=87 |label2=[[2021年]](令和3年)<ref name="keizai2021">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000040068160|title=経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)|publisher=総務省統計局|date=2023-06-27|accessdate=2023-09-15|language=ja}}</ref> |data2=103 }} ==== 従業員数の変遷 ==== 経済センサスによる従業員数の推移。<!--- data_maxがdataより超えたらdata_maxも変更してください。---> {{Bar chart |title=従業員数推移 |data_max=1000 |label_type=年 |data_type=従業員数 |label1=[[2016年]](平成28年){{r|keizai2016}} |data1=503 |label2=[[2021年]](令和3年){{r|keizai2021}} |data2=476 }} === その他 === ==== 日本郵便 ==== * 郵便番号 : 248-0024{{r|postal}}(集配局 : [[鎌倉郵便局]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/dl/bangobo/zip_bgb.pdf|format=PDF|title=郵便番号簿 2022年度版|publisher=日本郵便|language=日本語|accessdate=2023-07-17}}</ref>)。 == その他 == [[サザンオールスターズ]]の[[桑田佳祐]]が監督を務めた映画『[[稲村ジェーン]]』([[1990年]])の舞台ともなった場所である。しかし以前は[[自殺]]の名所としても知られていた。また、彼らのシングル曲である「[[君こそスターだ/夢に消えたジュリア|君こそスターだ]]」には、歌い出し冒頭で「稲村ヶ崎は今日も雨」という部分があり、最初の部分の[[ミュージックビデオ]]も稲村ヶ崎で撮影している。 ほかにも、[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]の曲で「[[サーフ ブンガク カマクラ|稲村ヶ崎ジェーン]]」、テレビ東京「[[出没!アド街ック天国]]」主題歌の[[小川コータ&とまそん]] 「夕焼け岬」、[[渡辺大地]] 「[[鎌倉高校前〜江ノ電から見える風景〜|稲村ヶ崎駅]]」という曲がある。 約3m以上の高波が来た時だけ開催されるサーフィン大会、「[[イナムラサーフィンクラシック]]」の会場でもある。1981年に「ナガヌマクラシック」の名前で初開催され、現在の名前では1989年と2013年しか開催されていない<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY201309260010.html 来た!ビッグウェーブ 湘南・稲村ケ崎で伝説の大会開幕]([[朝日新聞デジタル]], 2013年9月26日)</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/130926/kng13092622590013-n1.htm 「一生に一度」伝説の波…稲村ケ崎、サーフィン見物に3000人 神奈川]([[産経新聞|MSN産経ニュース]], 2013年9月26日)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[関東地方の史跡一覧]] * [[真白き富士の根]] * [[伏龍]] == 外部リンク == {{Commonscat|Gokurakuji}} * [https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 国指定文化財等データベース] {{Geographic Location |Centre = 稲村ガ崎 |North = [[鎌倉山]] |Northeast = |East = [[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]] |Southeast = [[坂ノ下 (鎌倉市)|坂ノ下]] |South = |Southwest = |West = [[七里ガ浜東]] |Northwest = |image = }} {{鎌倉市の町・字}} {{DEFAULTSORT:いなむらかさき}} [[Category:関東地方の岬]] [[Category:神奈川県の自然景勝地]] [[Category:神奈川県にある国指定の史跡]] [[Category:神奈川県の地形]] [[Category:鎌倉市の地理]] [[Category:相模湾]] [[Category:関東の富士見百景]] [[Category:鎌倉市の町・字]]
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グランドナショナル
グランドナショナル(Grand National)とは毎年4月にイギリスのリヴァプール郊外にあるエイントリー競馬場で行われる障害競走である。 距離は4マイルと2ハロンと74ヤード(約6,907メートル)、計16個設置されている障害を延べ30回飛越する。 イギリスでは最も人気のあるレースであり、馬券の売上額もダービーステークスやチェルトナムゴールドカップを上回りイギリス国内最高を誇る。 ブックメーカーなどを含め、ベッティングに投じられた金額は、2007年で2.75億ポンド(約655億円)、2015年で3億ポンド(約540億円)に達すると推定されている。ロイターによると、2019年の売り上げは推定3億ポンド(約437億円)である。年によっては世界一の馬券売上額を誇る日本の有馬記念を上回ることもある。 この競走はグランドナショナルミーティングのメイン競走としてハンデキャップで行われる。 ほぼ毎年出走可能頭数の限界の40頭の出走馬を集めるが、年によっては完走頭数は10頭を切ることも珍しく無い事から世界一過酷な障害レースと言われている。 以前は発走の際スターティングバリアーの直後に整列していたが発走の遅延が絶えなかったため、2008年より他の競走同様にバリアー後方から整列せずにスタートを行う方式に変更されたが、2021年より再び発馬機を使用するスタートに変更された。 このレースに範を取った「グランドナショナル」という名の競走は世界各地で行われている。日本では伝統の障害重賞である中山大障害がこのレースに範を取ったものである。 2005年からはビール会社のジョン・スミスズ(John Smith's)がスポンサーとなっていたが、2014年に酒造会社のクラビーズ(Crabbie's)に代わり、さらに2017年からは、5年契約で化学検査会社のランドックス・ヘルス(Randox Health)がスポンサーとなった。 2017年現在の賞金総額は100万ポンドで、障害競走としては世界最高の賞金額となっている。 出走馬は満7歳以上で、かつステープルチェイス競走で10勝以上の勝利があり、過去に3マイルのステープルチェイス競走で4着以内に入った実績を持つことが必要とされる(2012年より)。2011年までは年齢制限はなく、勝利数も「ハードル競走(en:Hurdling (horse 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グランドナショナルのコースは初期に石壁障害が水濠障害に変更され、その後も幾度か障害の形状、大きさに変更が加えられている。初期は天然の障害も使用していたため18インチ(約46センチメートル)の土塁など小規模なものも存在した。1885年の時点では最後の直線の3つの障害などで3フィート6インチ(約107センチメートル)のハードルを7基使用し計11回飛越を行っていたほか、現在では全障害の中で最も低い4フィート6インチ(約137センチメートル)のフォイネイボンが当時は5フィート6インチ(168センチメートル)と最も高い障害だった。 1888年にハードルがフェンスに置き換えられ、そして20世紀を過ぎると大幅な変更は行われなくなった。しかし1961年に危険すぎるとの批判を受け、障害に傾斜そして踏み切り板を設けるなどの安全対策が行われた。その後も何度か障害の形状に変更が加えられ、1990年にはビーチャーズブルックの着地側のスロープが埋め立てられた(これは、1989年にビーチャーズブルックで2頭が死亡したことによる)。このため、ビーチャーズブルックをはじめ多くの障害がその難易度を低下させている。 同じコースを2周するグランドナショナルだが2周目に入った際、1周目で多重落馬事故があり整理がつかない場所がある場合や故障した馬の処分をその場で行い、障害の飛越が危険であると判断された場合は障害前方で係員がチェッカーフラッグを振る。その場合は障害横の退避通路を通り、障害をパスする事が許される。2011年は2周目の20号障害・22号障害(ビーチャーズブルック)において故障馬が留まったため、ともにパスされている。 グランドナショナルは1836年2月29日にリヴァプールのホテル経営者ウィリアム・リンによって創設された。1839年から回数カウントを始めているが実際は1836年から同等の競走が始まっており、1860年代半ばまでは公式記録として認められていた。かつて1836年から1838年までの3競走は以前はエイントリー競馬場以外で行われたと考えられていたが、現在はこれらもエイントリー競馬場で行われたことが判明している。 1836年の初の競走は出走馬10頭で行われ、マーティン・ビーチャー(英語版)大佐騎乗の2番人気馬ザデューク(英語版)が優勝した。完走は4頭。 1839年の競走ではコンラッドに騎乗したビーチャー大佐が1周目の小川で落馬し、その小川が「ビーチャーズブルック」と命名された。 1844年にハンデキャップ競走に改められる。 1862年にはグランドナショナルでは唯一となる騎手の死亡事故が発生した。 1928年はキャナルターンで集団落馬が発生。出走馬42頭のなかで優勝馬ティペラリーティム(Tipperary Tim)のみが無事故で完走。そして2着に再騎乗のビリーバートンが入り、この2頭のみが完走した。これを受けて、翌1929年よりキャナルターンの乾壕が取り除かれた。また全くの無名馬が優勝したため同年の競走は多数の出馬登録が行われ、グランドナショナル史上最多の66頭が出走した。完走は10頭。 1954年は4頭が死亡した。 1956年は競馬の歴史上でも最も不可解なレースの1つとして名高い。ディック・フランシス騎手が乗るクイーンマザー(エリザベス王太后)所有のデヴォンロック(英語版)は最終障害を大差でクリアーして楽勝するかと思われたが、残り50メートルに満たない地点で突然四肢を投げ出して座り込んでしまった。この際、特に故障などは何もなく直後に立ち上がっている。この事故が起こった場所は1周目に飛越した水濠障害のすぐ脇であり、この障害の影に驚いたのではないかと言われた。フランシス本人は大きな歓声に驚いてそのようになったと語っている。 1964年にエイントリー競馬場の所有者のトッパム夫人が競馬場を売りに出すと宣言し、以来1973年にビル・デイビスが300万ポンドで購入するまで毎年が「最後のナショナル」と言われた。デイビスの所有時も経営はいま一つ安定せず1983年にジョッキークラブが340万ポンドで購入、これにより英国の競馬が続く限りグランドナショナルは存続することになった。 1967年は馬群の先頭を走っていたカラ馬が23番目のフェンス直前で急にストップするというアクシデントのため後続の20頭以上の馬が落馬または立往生してしまい、先頭から50馬身近く離されていたフォイネイボン(英語版)だけがスムーズに追い越し、逆に後続に50馬身をつける独走態勢となる。結局そのまま後続を振り切って1着でゴールイン、101倍の配当となった。なお、この23番目(1周目は7番目)のフェンスにはこの年の勝ち馬の名前である「フォイネイボン」の名がつけられている。 1981年は1年半前にガンで余命8か月の宣告を受けていたボブ・チャンピオン(英語版)が治療を受けガンを克服し、オールダニーティ(アルダニティ)(英語版)でグランドナショナルを制覇した。オールダニーティ自身も1年前の障害レースで骨折し、1度は安楽死処分にされそうになった状況からの復活であった。このエピソードは1984年に『チャンピオンズ(Champions)』というタイトルで映画化されている(ボブ・チャンピオン役をジョン・ハートが演じた)。 1993年はスターティングバリヤーの白いテープがうまく跳ね上がらず発走やり直し、2度目も馬や騎手がテープに絡まりスターターはフォルススタートを宣言したが合図の赤旗が誰にも目撃されることなく39頭中30頭がスタート。2周目のスタンド前で再び赤旗が振られたが反対派の抗議と解釈した多くの騎手はレースを続行し7頭が完走。J・ホワイト騎乗のエシャーネスが1位入線したが競走不成立により幻の優勝となった。これにより1993年のグランドナショナルは中止となり、翌1994年からはスターティングバリヤーが手動式から電動式に変わるなど多くの改善がなされた。 1997年はグランドナショナルの始まる1時間前にIRA暫定派を名乗る人物から競馬場に爆弾を仕掛けたとの電話があり、観客を競馬場から全員避難させ競走は中止となった。その2日後に改めてレースが行われた。調教師のジェニー・ピットマン(英語版)はこの事件に対し涙で抗議した。 1998年は1周目の名物障害の1つであるビーチャーズブルックの前の障害で計3頭が死亡し、動物愛護団体が抗議行動を行った。 2001年は1周目の名物障害の1つであるキャナルターンで空馬が障害の手前を横切り、多重が落馬する大事故があった。1着のレッドマローダーと2着のスマーティが無事故で完走。3着に再騎乗したブローイングウインド、4着に同じく再騎乗したパピヨンが入り、この4頭が完走した。4頭が完走するのは、1980年以来21年ぶり。 2005年は152頭が1次登録し、最多記録を塗り替えた。 2014年は出走馬のうち、1頭がスタートを拒否しそのまま走る事なく競走中止するアクシデントが発生した。 2019年、タイガーロール(英語版)がレッドラム以来45年ぶりにグランドナショナル連覇の快挙を成し遂げた。 2020年は新型コロナウイルスの影響で初の中止になった。 2年ぶりの開催となった2021年は、女性騎手のレイチェル・ブラックモア騎手騎乗のミネラタイムズが勝利し、史上初の女性騎手によるグランドナショナル制覇となった。 2023年は動物愛護団体の活動家がコースに乱入するなどの妨害を行ったため、発走時刻が約15分遅れて118名が逮捕された。なお、第2号障害から先に進めなかった馬は8頭と過去3年と比較しても明らかに多く、発走時刻の遅れがレース序盤に影響を与えた可能性がある。 以下より公式大会として回数をカウント。 ※1916〜1918年は第一次世界大戦の影響でエイントリー競馬場が戦争省に徴発されたことにより、施行場所をガトウィック競馬場に移し、「The Racecourse Association Steeplechase」(1916年)、「The War Steeplechase」(1917年〜1918年)と異なる競走名で行われた。 過去に1頭だけこの競走に参戦した競走馬がいる。日本の中山大障害を4勝したフジノオーである(1966年)。 日本の障害チャンピオンホースとして参戦したフジノオーには当時の規定により最重ハンデの76.2kgのハンデキャップが与えられた。これは、イギリスにおいて必要な競走数をこなしていないため規定により最も重いハンデが課せられた(チャンピオンホースにはハンデを軽くすることは失礼に値するという紳士的な考え方に基づくものという説もある)。なおフジノオーは15番目の障害で馬が飛越を拒否、競走中止となっている。 また日本人騎手として1995年には田中剛がアイルランドのザコミッティ(The Committee)に騎乗、こちらも転倒により競走中止に終わった。 この他、グランドマーチスが挑戦する話があり一部新聞報道されたが計画が具体化する前に故障を発症して引退した。 バーチャルグランドナショナル(Virtual Grand National)とは2017年から毎年開催されているバーチャル版のグランドナショナルである。 歴代優勝馬 このグランドナショナルに倣って、各国でグランドナショナルの名称のつくあるいはそれに準じる競走が行われている。以下がその例である。
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National)とは2017年から毎年開催されているバーチャル版のグランドナショナルである。", "title": "バーチャルグランドナショナル" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "歴代優勝馬", "title": "バーチャルグランドナショナル" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "このグランドナショナルに倣って、各国でグランドナショナルの名称のつくあるいはそれに準じる競走が行われている。以下がその例である。", "title": "各国の「グランドナショナル」" } ]
グランドナショナルとは毎年4月にイギリスのリヴァプール郊外にあるエイントリー競馬場で行われる障害競走である。
{{競馬の競走 |馬場 = 障害 |競走名 = グランドナショナル<br />''Grand National Handicap Chase'' |画像 = [[File:Hedgehunter 2.jpg|275px]] |画像説明=2005年優勝馬ヘッジハンター |開催国 = {{Flagicon|UK}}イギリス |競馬場 = [[エイントリー競馬場]] |年次 = 2023 |格付け = PrH<ref group=注釈>プレミアムハンデキャップの事。</ref> |1着賞金 = 50万[[スターリング・ポンド|ポンド]] |賞金総額 = 100万[[スターリング・ポンド|ポンド]]<ref name="ICSC2014">[http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/ICSC-partIV_GreatBritain.pdf ICSC 014 International Cataloguing Standards Book GREAT BRITAIN JUMP RACES ]2014年11月11日閲覧。</ref> |距離 = 芝34[[ハロン (単位)|ハロン]](4マイル2ハロン74ヤード)<br />(約6,907メートル) |条件 = 7歳以上 |負担重量 = [[ハンデキャップ競走|ハンデキャップ]] |創設 = [[1839年]]2月26日 }} '''グランドナショナル'''(''Grand National'')とは毎年4月に[[イギリス]]の[[リヴァプール]]郊外にある[[エイントリー競馬場]]で行われる[[障害競走]]である。 == 概要 == 距離は4[[マイル]]と2[[ハロン (単位)|ハロン]]と74[[ヤード]](約6,907[[メートル]])、計16個設置されている障害を延べ30回飛越する。 イギリスでは最も人気のあるレースであり、馬券の売上額も[[ダービーステークス]]や[[チェルトナムゴールドカップ]]を上回りイギリス国内最高を誇る。 ブックメーカーなどを含め、ベッティングに投じられた金額は、2007年で2.75億ポンド(約655億円)、2015年で3億ポンド(約540億円)に達すると推定されている。ロイターによると、2019年の売り上げは推定3億ポンド(約437億円)<ref>[https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-horseracing/update-2-horse-racing-iconic-grand-national-axed-as-sporting-cull-continues-idUSL8N2B9A9Q]</ref>である。年によっては世界一の馬券売上額を誇る[[日本]]の[[有馬記念]]を上回ることもある。 この競走は[[グランドナショナルミーティング]]のメイン競走として[[ハンデキャップ競走|ハンデキャップ]]で行われる。 ほぼ毎年出走可能頭数の限界の40頭の出走馬を集めるが、年によっては完走頭数は10頭を切ることも珍しく無い事から世界一過酷な障害レースと言われている。 以前は発走の際[[発馬機|スターティングバリアー]]の直後に整列していたが発走の遅延が絶えなかったため、[[2008年]]より他の競走同様にバリアー後方から整列せずにスタートを行う方式に変更されたが、2021年より再び発馬機を使用するスタートに変更された。 このレースに範を取った「グランドナショナル」という名の競走は世界各地で行われている。日本では伝統の障害重賞である[[中山大障害]]がこのレースに範を取ったものである。 [[2005年]]からは[[ビール]]会社のジョン・スミスズ(John Smith's)がスポンサーとなっていたが、[[2014年]]に酒造会社のクラビーズ(Crabbie's)に代わり、さらに[[2017年]]からは、5年契約で化学検査会社のランドックス・ヘルス(Randox Health)がスポンサーとなった。 [[2017年]]現在の賞金総額は100万ポンドで<ref group=注釈>イギリス障害競走で賞金総額第2位の[[チェルトナムゴールドカップ]]は57万5,000ポンド。</ref>、障害競走としては世界最高の賞金額となっている。 出走馬は満7歳以上で、かつステープルチェイス競走で10勝以上の勝利があり、過去に3マイルのステープルチェイス競走で4着以内に入った実績を持つことが必要とされる(2012年より)。2011年までは年齢制限はなく、勝利数も「ハードル競走([[:en:Hurdling (horse race)]])を含めた障害競走で15勝以上」という基準だったが、同年のレースで2頭の馬がレース中に亡くなった事故を受けて、出走基準が厳格化された<ref>[https://www.theguardian.com/sport/2011/nov/02/minimum-age-grand-national-runners New minimum age set for Grand National runners in safety review] - The Guardian・2011年11月2日</ref>。 2022年まではグレード3<ref group=注釈>イギリスの障害重賞は"group"でなく"grade"で表記される。</ref>の重賞だったが、2023年からハンデキャップ重賞の「プレミアムハンデキャップ」の新設によりPrH重賞となっている。 == コース == === コースの形状 === この競走ではエイントリー競馬場のナショナルコースという特別なコースを2周する。このコースは4月開催でトッパムチェイス、フォックスハンターズチェイス、グランドナショナルの3競走、11月開催でグランドセフトンチェイス、ビーチャーチェイスの5競走のみに使用される。1周2.25マイル(3,600メートル)の周回コースであり直線距離は494ヤード(451メートル)。全体として起伏は少なくほぼ平坦となっている。 === 障害の形状 === [[ファイル:Aintreenationalcropped.jpg|thumb|400px|コース]] グランドナショナルに使用される障害は英愛で一般的なものと異なり、[[トウヒ]]の枝を組み合わせて作られている。全部で16の障害が設けられ、ザ・チェアと呼ばれる障害と水濠障害を除いて2度飛越することになる。6番目(22番目)及び7番目(23番目)、8番目(24番目)、9番目(25番目)、15番目の障害にはそれぞれ固有の名称が付いており順にビーチャーズブルック(Becher's Brook)、フォイネイボン(Foinavon)、キャナルターン(Canal Turn)、バレンタインズブルック(Valentine's Brook)、そしてザチェア(The Chair)である。 最難関とされるのはビーチャーズブルックである。障害は踏み切り地点より着地側が低くなっているため、バランスを取ることが難しく毎年複数の馬が落馬する。またザチェアは踏み切り地点の乾壕をもち、そして最も高い障害である。そしてキャナルターンとフォイネイボンについては、前者は着地後に直角に曲がるコーナーがあり後者もカーブの途中に設置されているため馬が内側に密集しやすく年によっては多重落馬が発生している。 2001年のレースではキャナルターンで空馬が障害の手前を横切り、多重落馬が発生する大事故が起こった<ref group=注釈>この落馬もあって1周目を終えた頃には僅か7頭のみとなり、2周目での更なる落馬の結果2頭のみが無事故で完走。他に2頭が落馬後再騎乗してゴールインし、計4頭が完走した。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=eCRMhWbxs40 2001 grand national HQ]</ref>。これ以降、キャナルターンの障害右手に退避通路が設置され空馬がレースの馬群に混ざらないように配慮されている。 ==== 全障害の規模 ==== * 第1・第17障害(THORN FENCE) 4[[フィート]]6[[インチ]](約137センチメートル) * 第2・第18障害(FENCE) 4フィート7インチ(140センチメートル) * 第3・第19障害(WESTHEAD) 4フィート10インチ(147センチメートル) 飛越側に幅6フィート(182センチメートル)の乾壕 * 第4・第20障害(PLAIN FENCE) 4フィート10インチ * 第5・第21障害(SPRUCE FENCE) 5フィート(152センチメートル) * 第6・第22障害(BECHER'S BROOK) 5フィート着地側は6フィート(213センチメートル) * 第7・第23障害(FOINAVON FENCE) 4フィート6インチ * 第8・第24障害(CANAL TURN) 5フィート * 第9・第25障害(VALENTINE'S BROOK) 5フィート * 第10・第26障害(THORN FENCE) 5フィート * 第11・第27障害(BOOTH) 5フィート 飛越側に幅6フィートの乾壕 * 第12・第28障害(FENCE) 5フィート * 第13・第29障害(FENCE) 4フィート7インチ * 第14・第30障害(FENCE) 4フィート6インチ * 第15障害(THE CHAIR) 5フィート2インチ(157センチメートル) 飛越側に幅6フィートの乾壕 * 第16障害(WATER JUNP) 2フィート9インチ(84センチメートル) 着地側に幅9フィート7インチ(297センチメートル)の水濠 === 障害の変遷 === グランドナショナルのコースは初期に石壁障害が水濠障害に変更され、その後も幾度か障害の形状、大きさに変更が加えられている。初期は天然の障害も使用していたため18インチ(約46センチメートル)の土塁など小規模なものも存在した。[[1885年]]の時点では最後の直線の3つの障害などで3フィート6インチ(約107センチメートル)のハードルを7基使用し計11回飛越を行っていたほか、現在では全障害の中で最も低い4フィート6インチ(約137センチメートル)のフォイネイボンが当時は5フィート6インチ(168センチメートル)と最も高い障害だった。 [[1888年]]にハードルがフェンスに置き換えられ、そして[[20世紀]]を過ぎると大幅な変更は行われなくなった。しかし[[1961年]]に危険すぎるとの批判を受け、障害に傾斜そして踏み切り板を設けるなどの安全対策が行われた。その後も何度か障害の形状に変更が加えられ、[[1990年]]にはビーチャーズブルックの着地側のスロープが埋め立てられた(これは、[[1989年]]にビーチャーズブルックで2頭が死亡したことによる)。このため、ビーチャーズブルックをはじめ多くの障害がその難易度を低下させている。 === チェッカーフラッグ === 同じコースを2周するグランドナショナルだが2周目に入った際、1周目で多重落馬事故があり整理がつかない場所がある場合や故障した馬の処分をその場で行い、障害の飛越が危険であると判断された場合は障害前方で係員が[[チェッカーフラッグ]]を振る。その場合は障害横の退避通路を通り、障害をパスする事が許される。[[2011年]]は2周目の20号障害・22号障害(ビーチャーズブルック)において故障馬が留まったため、ともにパスされている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=GllKThibSLo John Smiths Grand National Chase 2011]</ref>。 == 歴史 == グランドナショナルは[[1836年]][[2月29日]]にリヴァプールのホテル経営者ウィリアム・リンによってリバプール・グランドナショナル・スティープルチェイスという名で創設された。[[1839年]]から回数カウントを始めているが実際は1836年から同等の競走が始まっており、[[1860年代]]半ばまでは公式記録として認められていた。かつて1836年から[[1838年]]までの3競走は以前はエイントリー競馬場以外で行われたと考えられていたが、現在はこれらもエイントリー競馬場で行われたことが判明している。 * 1836年、初の競走は出走馬10頭で行われ、{{仮リンク|マーティン・ビーチャー|en|Martin Becher}}大佐騎乗の2番人気馬{{仮リンク|ザデューク|en|The Duke (racehorse)}}が優勝した。完走は4頭。 * 1839年、コンラッドに騎乗したビーチャー大佐が1周目の小川で落馬し、その小川が「ビーチャーズブルック」と命名された。 * [[1844年]]、ハンデキャップ競走に改められる。 * [[1847年]]、現在のグランドナショナルに改名。 * [[1862年]]、グランドナショナルでは唯一となる騎手の死亡事故が発生した。 * [[1928年]]、キャナルターンで集団落馬が発生。出走馬42頭のなかで優勝馬ティペラリーティム(Tipperary Tim)のみが無事故で完走。そして2着に再騎乗のビリーバートンが入り、この2頭のみが完走した。 * [[1929年]]、前年の事故を受けキャナルターンの乾壕が取り除かれた。また前大会で全くの無名馬が優勝したため同年の競走は多数の出馬登録が行われ、グランドナショナル史上最多の66頭が出走した。完走は10頭。 * [[1954年]]、4頭が死亡した。 * [[1956年]]の大会は競馬の歴史上でも最も不可解なレースの1つとして名高い。[[ディック・フランシス]]騎手が乗る[[エリザベス・ボーズ=ライアン|クイーンマザー(エリザベス王太后)]]所有の{{仮リンク|デヴォンロック|en|Devon Loch}}は最終障害を大差でクリアーして楽勝するかと思われたが、残り50メートルに満たない地点で突然四肢を投げ出して座り込んでしまった。この際、特に故障などは何もなく直後に立ち上がっている。この事故が起こった場所は1周目に飛越した水濠障害のすぐ脇であり、この障害の影に驚いたのではないかと言われた。フランシス本人は大きな歓声に驚いてそのようになったと語っている<ref>『ディック・フランシス読本』早川書房編集部編、早川書房、[[1992年]] 83-85頁</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=62fPLtL8h7s Devon Loch Grand National Disaster, 1956]</ref>。 * [[1964年]]、エイントリー競馬場の所有者のトッパム夫人が競馬場を売りに出すと宣言し、以来[[1973年]]にビル・デイビスが300万ポンドで購入するまで毎年が「最後のナショナル」と言われた。デイビスの所有時も経営はいま一つ安定せず[[1983年]]に[[ジョッキークラブ]]が340万ポンドで購入、これにより英国の競馬が続く限りグランドナショナルは存続することになった。 * [[1967年]]、馬群の先頭を走っていたカラ馬が23番目のフェンス直前で急にストップするというアクシデントのため後続の20頭以上の馬が落馬または立往生してしまい、先頭から50馬身近く離されていた{{仮リンク|フォイネイボン|en|Foinavon}}だけがスムーズに追い越し、逆に後続に50馬身をつける独走態勢となる。結局そのまま後続を振り切って1着でゴールイン、101倍の配当となった<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Tls18p0AYjM Foinavon Wins Grand National after Huge Pile Up Causes Race Shambles(1967)]</ref>。なお、この23番目(1周目は7番目)のフェンスにはこの年の勝ち馬の名前である「フォイネイボン」の名がつけられている。 * [[1981年]]、1年半前に[[癌|ガン]]で余命8か月の宣告を受けていた{{仮リンク|ボブ・チャンピオン|en|Bob Champion}}が治療を受けガンを克服し、{{仮リンク|オールダニーティ|label=オールダニーティ(アルダニティ)|en|Aldaniti}}でグランドナショナルを制覇した。オールダニーティ自身も1年前の障害レースで骨折し、1度は安楽死処分にされそうになった状況からの復活であった。このエピソードは[[1984年]]に『チャンピオンズ(Champions)』というタイトルで映画化されている(ボブ・チャンピオン役を[[ジョン・ハート (俳優)|ジョン・ハート]]が演じた)。 * [[1993年]]、スターティングバリヤーの白いテープがうまく跳ね上がらず発走やり直し、2度目も馬や騎手がテープに絡まりスターターはフォルススタートを宣言したが合図の赤旗が誰にも目撃されることなく39頭中30頭がスタート。2周目のスタンド前で再び赤旗が振られたが反対派の抗議と解釈した<ref>[[日本放送協会|NHK]]『[https://www.youtube.com/watch?v=g-oklVDJbIg 世界の競馬 1997年 ドバイワールドカップ]』04分20秒〜05分55秒</ref>多くの騎手はレースを続行し7頭が完走。J・ホワイト騎乗のエシャーネスが1位入線したが競走不成立により幻の優勝となった<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=b2jHwZ1JerY 1993 Grand National]</ref>。これにより1993年のグランドナショナルは中止となり、翌[[1994年]]からはスターティングバリヤーが手動式から電動式に変わるなど多くの改善がなされた。 * [[1997年]]、グランドナショナルの始まる1時間前に[[IRA暫定派]]を名乗る人物から競馬場に爆弾を仕掛けたとの電話があり、観客を競馬場から全員避難させ競走は中止となった。その2日後に改めてレースが行われた。調教師の{{仮リンク|ジェニー・ピットマン|en|Jenny Pitman}}はこの事件に対し涙で抗議した<ref>NHK『[https://www.youtube.com/watch?v=g-oklVDJbIg 世界の競馬 1997年 ドバイワールドカップ]』00分54秒〜04分11秒、06分07秒〜06分20秒</ref>。 * [[1998年]]、1周目の名物障害の1つであるビーチャーズブルックの前の障害で計3頭が死亡し、動物愛護団体が抗議行動を行った。 * [[2001年]]、1周目の名物障害の1つであるキャナルターンで空馬が障害の手前を横切り、多重が落馬する大事故があった。1着の[[レッドマローダー]]と2着の[[スマーティ]]が無事故で完走。3着に再騎乗したブローイングウインド、4着に同じく再騎乗した[[パピヨン (競走馬)|パピヨン]]が入り、この4頭が完走した。4頭が完走するのは、1980年以来21年ぶり。 * [[2005年]]、152頭が1次登録し、最多記録を塗り替えた。 * [[2014年]]、出走馬のうち1頭がスタートを拒否しそのまま走る事なく競走中止するアクシデントが発生した。 * [[2019年]]、{{仮リンク|タイガーロール|en|Tiger Roll}}が[[レッドラム]]以来45年ぶりにグランドナショナル連覇の快挙を成し遂げた。 * [[2020年]]、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の影響で初の中止になった<ref>[https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202003170000033&year=2020&month=03&day=17&utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp 世界一有名な障害戦グランドナショナルが中止決定] 日刊スポーツ極ウマ・プレミアム 2020年3月17日</ref>。 * [[2021年]]、2年ぶりの開催となる。女性騎手の[[レイチェル・ブラックモア]]騎手騎乗の[[ミネラタイムズ]]が勝利し、史上初の女性騎手によるグランドナショナル制覇となった<ref>{{Cite web |title=レイチェル・ブラックモア騎手、女性で初めてグランドナショナル優勝(イギリス)[その他] |url=https://www.jairs.jp/contents/newsprot/2021/14/1.html |website=公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |access-date=2023-07-04}}</ref>。 * [[2023年]]、[[動物愛護団体]]の活動家がコースに乱入するなどの妨害を行ったため、発走時刻が約15分遅れて118名が逮捕された<ref>{{Cite web |title=コーラックランブラーが優勝 動物愛護団体の妨害行為に大量逮捕者も/英グランドナショナル - 海外 {{!}} 競馬 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/keiba/news/202304160000388.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-07-04 |language=ja}}</ref>。なお、第2号障害から先に進めなかった馬は8頭と過去3年と比較しても明らかに多く<ref group="注釈">2019年2頭、2021年1頭、2022年2頭。</ref>、発走時刻の遅れがレース序盤に影響を与えた可能性がある<ref group="注釈">第1障害で飛越に失敗して[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となったヒルシックスティーンを手掛けたサンディ・トムソン調教師は、発走が遅延している間にテンションが上がったと言い、抗議者たちの行動がヒルシックスティーンの競走歴初の飛越失敗の一員となったと感じた。</ref><ref>{{Cite web |title=グランドナショナルでの抗議行動に対し競馬界は断固とした態度が必要(イギリス)[開催・運営] |url=https://www.jairs.jp/contents/newsprot/2023/15/3.html |website=公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |access-date=2023-07-04}}</ref>。 === 各種記録 === * レースレコード - 8:47.8 ミスターフリスク(1990年) * 最多出走頭数 - 66頭(1929年) * 最多完走頭数 - 23頭(1984年) * 最少完走頭数 - 2頭(1928年) * 最多勝利馬 - [[レッドラム]] 3勝(1973、1974、1977年) * 最多勝利騎手 - ジョージ・スティーヴンス 5勝(1856、1863、1864、1869、1870年) * 最多勝利調教師 - フレッド・リメル(1956、1961、1970、1976年) ジンジャー・マッケイン(1973、1974、1977、2004年)各4勝 * 最高齢勝利馬 - ピーターシンプル 15歳(1953年) * 最高齢勝利騎手 - ディック・サウンダーズ 48歳(1982年) * 最年少勝利騎手 - ブルース・ホッブズ 17歳(1938年) === 歴代優勝馬 === {| class="wikitable" !施行日!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |[[1836年]][[2月29日]]||The Duke||騸7||20:10||M.Becher||||W.Sirdefield |- |[[1837年]][[3月4日]]||The Duke||騸8||14:00||H.Potts||||T.Chawner |- |[[1838年]][[3月5日]]||Sir William||牡7||||A.McDonough||||A.McDonough |} 以下より公式大会として回数をカウント。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||[[1839年]][[2月26日]]||Lottery||騸9||14:53||J.Mason||G.Dockeray||J.Elmore |- |style="text-align:center"|第2回||[[1840年]]3月5日||Jerry||騸10||12:30||B.Bretherton||G.Dockeray||H.Villebois |- |style="text-align:center"|第3回||[[1841年]][[3月3日]]||Charity||騸11||13:25||A.Powell||W.Vevers||Lord Craven |- |style="text-align:center"|第4回||[[1842年]][[3月2日]]||Gay Lad||騸8||13:30||T.Olliver||G.Dockeray||J.Elmore |- |style="text-align:center"|第5回||[[1843年]][[3月1日]]||Vanguard||騸8||||T.Olliver||||Lord Chesterfield |- |style="text-align:center"|第6回||[[1844年]][[2月28日]]||Discount||牡6||13:58||H.Crickmere||||Quartermaine |- |style="text-align:center"|第7回||[[1845年]]3月5日||Cure All||騸7||10:47||W.Loft||W.Loft||W.Crawford |- |style="text-align:center"|第8回||[[1846年]]3月4日||Pioneer||騸6||||W.Taylor||||Adams |- |style="text-align:center"|第9回||[[1847年]]3月3日||Matthew||騸9||||D.Wynne||J.Murphy||J.Courtenay |- |style="text-align:center"|第10回||[[1848年]]3月1日||Chandler||騸12||||J.Little||T.Eskrett||J.Little |- |style="text-align:center"|第11回||[[1849年]]2月28日||Peter Simple||騸11||10:56||T.Cunningham||T.Cunningham||T.Mason Jr. |- |style="text-align:center"|第12回||[[1850年]][[2月27日]]||Abd-el-Kader||騸8||10:20||C.Green||J.Osborne||Wilson |- |style="text-align:center"|第13回||[[1851年]]2月26日||Abd-el-Kader||騸9||9:59||T.Abbot||J.Osborne||J.Osborne |- |style="text-align:center"|第14回||[[1852年]]3月3日||Miss Mowbray||牝8||9:58||A.Goodman||G.Dockeray||T.Mason |- |style="text-align:center"|第15回||[[1853年]]3月2日||Peter Simple||騸15||10:15||T.Oliver||T.Oliver||J.Little |- |style="text-align:center"|第16回||[[1854年]]3月1日||Bourton||騸11||9:59||J.Tasker||H.Wadlow||W.Moseley |- |style="text-align:center"|第17回||[[1855年]][[3月7日]]||Wanderer||牡10||10:25||J.Hanlon||||Dennis |- |style="text-align:center"|第18回||[[1856年]]3月7日||Freetrader||牡7||10:00||G.Stevens||W.Holman||W.Barnett |- |style="text-align:center"|第19回||[[1857年]]3月4日||Emigrant||騸11||||C.Boyce||C.Boyce||G.Hodgman |- |style="text-align:center"|第20回||[[1858年]]3月6日||Little Charley||騸12||||W.Archer||W.Holman||C.Capel |- |style="text-align:center"|第21回||[[1859年]][[3月8日]]||Half Caste||牡6||||C.Green||C.Green||Willoughby |- |style="text-align:center"|第22回||[[1860年]]3月7日||Anatis||牝10||||T.Pickernell||W.Holman||C.Capel |- |style="text-align:center"|第23回||[[1861年]][[3月13日]]||Jealousy||牝7||||J.Kendall||C.Balchin||J.Bennett |- |style="text-align:center"|第24回||[[1862年]][[3月12日]]||Huntsman||牡9||9:30||H.Lamplugh||H.Lamplugh||Viscount de Namur |- |style="text-align:center"|第25回||[[1863年]][[3月11日]]||Emblem||牝7||||G.Stevens||E.Weever||Lord Coventry |- |style="text-align:center"|第26回||[[1864年]][[3月9日]]||Emblematic||牝6||||G.Stevens||E.Weever||Lord Coventry |- |style="text-align:center"|第27回||[[1865年]]3月8日||Alcibiade||騸5||||H.Coventry||C.Cornell||B."Cherry" Angell |- |style="text-align:center"|第28回||[[1866年]]3月7日||Salamander||騸7||||A.Goodman||J.Walters||E.Studd |- |style="text-align:center"|第29回||[[1867年]]3月6日||Cortolvin||騸8||||J.Page||H.Lamplugh||Duke of Hamilton |- |style="text-align:center"|第30回||[[1868年]]3月4日||The Lamb||牡6||||G.Edwards||B.Land||Lord Poulett |- |style="text-align:center"|第31回||[[1869年]]3月3日||The Colonel||牡6||||G.Stevens||R.Roberts||J.Weyman |- |style="text-align:center"|第32回||[[1870年]]3月9日||The Colonel||牡7||||G.Stevens||R.Roberts||M.Evans |- |style="text-align:center"|第33回||[[1871年]][[3月21日]]||The Lamb||牡9||9:35 4/5||T.Pickernell||C.Green||Lord Poulett |- |style="text-align:center"|第34回||[[1872年]][[月日]]||Casse Tete||牝7||||J.Page||A.Cowley||E.Brayley |- |style="text-align:center"|第35回||[[1873年]][[3月27日]]||Disturbance||牡6||||J.Richardson||J.Richardson||J.Machell |- |style="text-align:center"|第36回||[[1874年]][[3月26日]]||Reugny||牡6||||J.Richardson||J.Richardson||J.Machell |- |style="text-align:center"|第37回||[[1875年]][[3月18日]]||Pathfinder||騸8||||T.Pickernell||W.Reeves||H.Bird |- |style="text-align:center"|第38回||[[1876年]][[3月24日]]||Regal||騸5||||J.Cannon||J.Jewitt||J.Machell |- |style="text-align:center"|第39回||[[1877年]][[3月23日]]||Austerlitz||牡5||||F.Hobson||R.l'Anson||F.Hobson |- |style="text-align:center"|第40回||[[1878年]][[3月29日]]||Shifnal||牡9||||J.Jones||J.Nightongall||J.Nightongall |- |style="text-align:center"|第41回||[[1879年]][[3月28日]]||The Liberator||騸10||||G.Moore||J.Moore||G.Moore |- |style="text-align:center"|第42回||[[1880年]][[3月19日]]||Empress||牝5||10:29 0/5||T.Beasley||H.Linde||P.Ducrot |- |style="text-align:center"|第43回||[[1881年]][[3月25日]]||Woodbrook||騸7||11:50 0/5||T.Beasley||H.Linde||T.Kirkwood |- |style="text-align:center"|第44回||[[1882年]][[3月24日]]||Seaman||騸6||||Lord Manners||J.Machell||Lord Manners |- |style="text-align:center"|第45回||[[1883年]][[3月30日]]||Zoedone||牝6||||C.Kinsky||W.Jenkins||C.Kinsky |- |style="text-align:center"|第46回||[[1884年]]3月28日||Voluptuary||騸6||||E.Wilson||W.Wilson||H.Boyd |- |style="text-align:center"|第47回||[[1885年]]3月26日||Roquefort||騸6||10:10 0/5||E.Wilson||A.Yates||A.Cooper |- |style="text-align:center"|第48回||[[1886年]]3月26日||Old Joe||騸7||9:14 3/5||T.Skelton||G.Mulcaster||A.Douglas |- |style="text-align:center"|第49回||[[1887年]]3月25日||Gamecock||騸8||||W.Daniels||J.Gordon||E.Jay |- |style="text-align:center"|第50回||[[1888年]]3月23日||Playfair||騸7||||G.Mawson||T.Cannon||E."Ned" Baird |- |style="text-align:center"|第51回||[[1889年]]3月29日||Frigate||牝11||10:04 2/5||T.Beasley||M.Maher||M.Maher |- |style="text-align:center"|第52回||[[1890年]]3月28日||Ilex||騸6||10:41 4/5||A.Nightingall||J.Nightingall||G.Masterman |- |style="text-align:center"|第53回||[[1891年]][[3月20日]]||Come Away||騸7||||H.Beasley||H.Beasley||W.Jameson |- |style="text-align:center"|第54回||[[1892年]]3月25日||Father O'Flynn||騸7||||E.Owen||G.Wilson||G.Wilson |- |style="text-align:center"|第55回||[[1893年]]3月24日||Cloister||騸9||||B.Dollery||A.Yates||C.Duff |- |style="text-align:center"|第56回||[[1894年]]3月30日||Why Not||騸13||||A.Nightingall||W.Moore||C.Fenwick |- |style="text-align:center"|第57回||[[1895年]]3月29日||Wild Man||騸7||||J.Widger||J.Gatland||J.Widger |- |style="text-align:center"|第58回||[[1896年]]3月27日||The Soarer||騸7||10:11 1/5||T.Kavanagh||W.McAuliffe||W.Hall-Walker |- |style="text-align:center"|第59回||[[1897年]][[3月26日]]||[[マニフェスト (競走馬)|Manifesto]]||騸9||||T.Kavanagh||W.McAuliffe||H.Dyas |- |style="text-align:center"|第60回||[[1898年]]3月25日||Drogheda||騸6||||J.Gourley||R.Dawson||C.Adams |- |style="text-align:center"|第61回||[[1899年]]3月24日||Manifesto||騸11||||G.Williamson||W.Moore||J.Bulteel |- |style="text-align:center"|第62回||[[1900年]]3月30日||Ambush II||騸6||10:01 0/5||A.Anthony||A.Anthony||H R H Prince of Wales |- |style="text-align:center"|第63回||[[1901年]]3月29日||Grudon||牡11||||A.Nightingall||B.Bletsoe||B.Bletsoe |- |style="text-align:center"|第64回||[[1902年]]3月21日||Shannon Lass||牝7||||D.Read||J.Hackett||A.Gorham |- |style="text-align:center"|第65回||[[1903年]]3月27日||Drumcree||騸9||10:09 2/5||P.Woodland||C.Nugent||J.Morrison |- |style="text-align:center"|第66回||[[1904年]]3月25日||Moifaa||騸8||||A.Birch||W.Hickey||S.Gollan |- |style="text-align:center"|第67回||[[1905年]]3月31日||Kirkland||騸9||||F.Mason||E.Thomas||F.Bibby |- |style="text-align:center"|第68回||[[1906年]]3月30日||Ascetic's Silver||牡9||9:34 0/5||A.Hastings||A.Hastings||Prince F.Hatzfeldt |- |style="text-align:center"|第69回||[[1907年]][[3月22日]]||Eremon||騸7||9:47 1/5||A.Newey||T.Coulthwaite||S.Howard |- |style="text-align:center"|第70回||[[1908年]]3月27日||Rubio||騸10||||H.Bletsoe||F.Withington||F.Douglas-Pennant |- |style="text-align:center"|第71回||[[1909年]]3月26日||Lutteur III||騸5||||G.Parfrement||H.Escott||J.Hennessy |- |style="text-align:center"|第72回||[[1910年]]3月18日||Jenkinstown||騸9||||R.Chadwick||T.Coulthwaite||S.Howard |- |style="text-align:center"|第73回||[[1911年]]3月24日||Glenside||騸9||10:35 0/5||J.Anthony||R.H.Collis||F.Bibby |- |style="text-align:center"|第74回||[[1912年]]3月29日||Jerry M||騸9||||E.Piggott||R.Gore||C.Assheton-Smith |- |style="text-align:center"|第75回||[[1913年]][[4月4日]]||Covertcoat||騸7||||P.Woodland||R.Gore||C.Assheton-Smith |- |style="text-align:center"|第76回||[[1914年]]3月27日||Sunloch||騸8||||B.Smith||T.Tyler||T.Tyler |- |style="text-align:center"|第77回||[[1915年]]3月26日||Ally Sloper||騸6||||J.R.Anthony||A.Hastings||M.Nelson |} ※1916〜1918年は[[第一次世界大戦]]の影響で[[エイントリー競馬場]]が[[戦争省]]に徴発されたことにより、施行場所をガトウィック競馬場に移し、「The Racecourse Association Steeplechase」(1916年)、「The War Steeplechase」(1917年〜1918年)と異なる競走名で行われた。 {| class="wikitable" !施行日!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |[[1916年]]3月24日||Vermouth||騸6||||J.Reardon||J.Bell||P.Heybourn |- |[[1917年]]3月21日||Ballymacad||騸10||||E.Driscoll||A.Hastings||G.Bullough |- |[[1918年]]3月21日||Poethlyn||騸8||||E.Piggott||H.Escott||Mrs. H.Peel |} {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第78回||style="white-space:nowrap"|[[1919年]]3月28日||Poethlyn||騸9||||E.Piggott||H.Escott||H.Peel |- |style="text-align:center"|第79回||[[1920年]]3月26日||Shaun Spadah||騸7||||J.Anthony||A.Anthony||T.Gerrard |- |style="text-align:center"|第80回||[[1921年]]3月18日||Althorp||style="white-space:nowrap"|騸10||||F.Rees||G.Poole||M.McAlpine |- |style="text-align:center"|第81回||[[1922年]]3月24日||Music Hall||騸9||||L.Rees||O.Anthony||H.Kershaw |- |style="text-align:center"|第82回||[[1923年]]3月23日||Sergeant Murphy||騸13||||G.Bennet||G.Blackwell||S.Sanford |- |style="text-align:center"|第83回||[[1924年]]3月28日||Master Robert||騸11||||R.Trudgill||A.Hastings||Earl of Airlie |- |style="text-align:center"|第84回||[[1925年]]3月27日||Double Chance||騸9||9:42 3/5||J.Wilson||F.Archer||D.Goold<BR>F.Archer |- |style="text-align:center"|第85回||[[1926年]]3月26日||Jackhorner||騸9||9:36 0/5||W.Watkinson||H.Leader||A.Schwartz |- |style="text-align:center"|第86回||[[1927年]]3月25日||Sprig||騸10||||T.Leader||T.Leader||M.Partridge |- |style="text-align:center"|第87回||[[1928年]]3月20日||Tipperary Tim||騸10||||W.Dutton||J.Dodd||H.Kenyon |- |style="text-align:center"|第88回||[[1929年]]3月22日||Gregalach||騸7||9:47 3/5||R.Everett||T.Leader||M.Gemmell |- |style="text-align:center"|第89回||[[1930年]]3月28日||Shaun Gollin||騸10||||T.Cullinan||F.Hartigan||W.Midwood |- |style="text-align:center"|第90回||[[1931年]]3月27日||Grakle||騸9||||R.Lyall||T.Coulthwaite||C.Taylor |- |style="text-align:center"|第91回||[[1932年]]3月18日||Forbra||騸7||||T.Hamey||T.Rimell||W.Parsonage |- |style="text-align:center"|第92回||[[1933年]]3月24日||Kellsboro' Jack||騸7||||D.Williams||I.Anthony||F.Clark |- |style="text-align:center"|第93回||[[1934年]]3月23日||[[ゴールデンミラー|Golden Miller]]||騸7||9:20 2/5||G.Wilson||B.Briscoe||D.Paget |- |style="text-align:center"|第94回||[[1935年]]3月29日||Reynolds Town||騸8||||F.Furlong||N.Furlong||N.Furlong |- |style="text-align:center"|第95回||[[1936年]]3月27日||Reynolds Town||騸9||||F.Walwyn||N.Furlong||N.Furlong |- |style="text-align:center"|第96回||[[1937年]]3月19日||Royal Mail||騸8||||E.Williams||I.Anthony||H.Thomas |- |style="text-align:center"|第97回||[[1938年]]3月25日||Battleship||牡9||||B.Hobbs||R.Hobbs||M.Scott |- |style="text-align:center"|第98回||[[1939年]]3月24日||Workman||騸9||||T.Hyde||J.Ruttle||A.Maguire |- |style="text-align:center"|第99回||[[1940年]][[4月5日]]||Bogskar||騸7||9:21 0/5||M.Jones||Lord Stalbridge||Lord Stalbridge |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第100回||[[1946年]]月日||Lovely Cottage||騸9||||B.Petre||T.Rayson||J.Morant |- |style="text-align:center"|第101回||[[1947年]]3月29日||Caughoo||騸8||||E.Dempsey||H.McDowell||J.McDowell |- |style="text-align:center"|第102回||[[1948年]]3月20日||Sheila's Cottage||牝9||||style="white-space:nowrap"|A.Thompson||N.Crump||J.Procter |- |style="text-align:center"|第103回||[[1949年]]3月26日||Russian Hero||騸9||||L.McMorrow||G.Owen||F.Williamson |- |style="text-align:center"|第104回||[[1950年]]3月25日||Freebooter||騸9||9:23 3/5||J.Power||B.Renton||L.Brotherton |- |style="text-align:center"|第105回||[[1951年]][[4月7日]]||Nickel Coin||牝9||9:48 4/5||J.Bullock||J.O'Donoghue||J.Royle |- |style="text-align:center"|第106回||[[1952年]][[4月5日]]||Teal||騸10||9:20 3/5||A.Thompson||N.Crump||H.Lane |- |style="text-align:center"|第107回||[[1953年]]3月28日||Early Mist||騸8||||B.Marshall||[[ヴィンセント・オブライエン|M.V.O'Brien]]||J.Griffin |- |style="text-align:center"|第108回||[[1954年]]3月27日||Royal Tan||騸10||9:32 4/5||B.Marshall||M.V.O'Brien||J.Griffin |- |style="text-align:center"|第109回||[[1955年]]3月26日||Quare Times||騸9||||P.Taaffe||M.V.O'Brien||W.Welman |- |style="text-align:center"|第110回||[[1956年]]3月24日||E.S.B.||騸10||9:21 2/5||D.Dick||F.Rimell||L.Carver |- |style="text-align:center"|第111回||[[1957年]]3月29日||Sundew||騸11||||F.Winter||F.Hudson||G.Kohn |- |style="text-align:center"|第112回||[[1958年]]3月29日||Mr What||騸8||||A.Freeman||T.Taaffe||D.Coughlan |- |style="text-align:center"|第113回||[[1959年]]3月21日||Oxo||騸8||||M.Scudamore||W.Stephenson||J.Bigg |- |style="text-align:center"|第114回||[[1960年]]3月26日||Merryman II||牡9||9:27 0/5||G.Scott||N.Crump||W.Wallace |- |style="text-align:center"|第115回||[[1961年]]3月25日||Nicolaus Silver||騸9||9:22 0/5||H.Beasley||F.Rimell||C.Vaughan |- |style="text-align:center"|第116回||[[1962年]]3月31日||Kilmore||騸12||9:50 0/5||F.Winter||R.Price||N.Cohen |- |style="text-align:center"|第117回||[[1963年]]3月30日||Ayala||騸9||9:35 0/5||P.Buckley||K.Piggott||P.Raymond |- |style="text-align:center"|第118回||[[1964年]]3月21日||Team Spirit||騸12||9:46 0/5||G.Robinson||F.Walwyn||J.Goodman |- |style="text-align:center"|第119回||[[1965年]]3月27日||Jay Trump||騸8||9:31 4/5||T.Smith||F.Winter||M.Stephenson |- |style="text-align:center"|第120回||[[1966年]]3月26日||Anglo||騸8||9:53 0/5||T.Norman||F.Winter||S.Levy |- |style="text-align:center"|第121回||[[1967年]][[4月8日]]||Foinavon||騸9||9:49 2/5||J.Buckingham||J.Kempton||C.Watkins |- |style="text-align:center"|第122回||[[1968年]]3月30日||Red Alligator||騸9||9:29 0/5||B.Fletcher||D.Smith||J.Manners |- |style="text-align:center"|第123回||[[1969年]]3月29日||Highland Wedding||騸12||9:29 4/5||E.Harty||T.Balding||T.McKoy Jr. |- |style="text-align:center"|第124回||[[1970年]]4月4日||Gay Trip||騸8||9:38 0/5||P.Taaffe||F.Rimell||A.Chambers |- |style="text-align:center"|第125回||[[1971年]][[4月3日]]||Specify||騸9||9:34 1/5||J.Cook||J.Sutcliffe||F.Pontin |- |style="text-align:center"|第126回||[[1972年]]4月8日||Well To Do||騸9||style="white-space:nowrap"|10:08 2/5||G.Thorner||T.Forster||T.Forster |- |style="text-align:center"|第127回||[[1973年]][[3月31日]]||[[レッドラム|Red Rum]]||騸8||9:01.9||B.Fletcher||G.McCain||N.le Mare |- |style="text-align:center"|第128回||[[1974年]]3月30日||Red Rum||騸9||9:20.2||B.Fletcher||G.McCain||N.le Mare |- |style="text-align:center"|第129回||[[1975年]]4月5日||L'Escargot||騸12||9:31.0||T.Carberry||D.Moore||R.Guest |- |style="text-align:center"|第130回||[[1976年]]4月3日||Rag Trade||騸10||9:20.9||J.Burke||F.Rimell||P.Raymond |- |style="text-align:center"|第131回||[[1977年]][[4月2日]]||Red Rum||騸12||||T.Stack||G.McCain||N.le Mare |- |style="text-align:center"|第132回||[[1978年]][[4月1日]]||Lucius||騸9||9:33.9||B.Davies||[[ゴードン・リチャーズ|G.Richards]]||F.Whitaker |- |style="text-align:center"|第133回||[[1979年]]3月31日||Rubstic||騸10||9:52.9||M.Barnes||J.Leadbetter||J.Douglas |- |style="text-align:center"|第134回||[[1980年]]3月29日||Ben Nevis||騸12||10:17.4||C.Fenwick||T.Forster||R.Stewart Jr. |- |style="text-align:center"|第135回||[[1981年]]4月4日||Aldaniti||騸11||9.47.2||B.Champion||J.Gifford||N.Embiricos |- |style="text-align:center"|第136回||[[1982年]]4月3日||Grittar||騸9||9:12.6||C.Saunders||F.Gilman||F.Gilman |- |style="text-align:center"|第137回||[[1983年]]4月9日||Corbiere||騸8||9:47.4||B.de Haan||J.Pitman||B.Burrough |- |style="text-align:center"|第138回||[[1984年]]3月31日||Hallo Dandy||騸10||9:21.4||N.Doughty||G.Richards||R.Shaw |- |style="text-align:center"|第139回||[[1985年]]3月30日||Last Suspect||騸11||9:42.7||H.Davies||T.Forster||A.of Westminster |- |style="text-align:center"|第140回||[[1986年]]4月5日||West Tip||騸9||9:33.0||R.Dunwoody||M.Oliver||P.Luff |- |style="text-align:center"|第141回||[[1987年]]4月4日||Maori Venture||騸11||9:19.3||S.Knight||A.Turnell||J.Joel |- |style="text-align:center"|第142回||[[1988年]][[4月9日]]||Rhyme'n'Reason||騸9||9:53.5||B.Powell||D.Elsworth||J.Reed |- |style="text-align:center"|第143回||[[1989年]]4月8日||Little Polveir||騸12||10:06.9||J.Frost||T.Balding||E.Harvey |- |style="text-align:center"|第144回||[[1990年]][[4月7日]]||Mr Frisk||騸11||8:47.8||M.Armytage||K.Bailey||L.Duffey |- |style="text-align:center"|第145回||[[1991年]][[4月6日]]||Seagram||騸11||9:29.9||N.Hawke||D.Barons||E.Parker |- |style="text-align:center"|第146回||[[1992年]]4月4日||Party Politics||騸8||9:06.4||C.Llewellyn||N.Gaselee||P.Thompson |- |style="text-align:center"|第147回||[[1994年]]4月9日||[[ミネホーマ|Miinnehoma]]||騸11||10:18.8||R.Dunwoody||M.Pipe||F.Star |- |style="text-align:center"|第148回||[[1995年]]4月8日||Royal Athlete||騸12||9:04.1||J.Titley||J.Pitman||G. & L. Johnson |- |style="text-align:center"|第149回||[[1996年]]3月30日||[[ラフクエスト|Rough Quest]]||騸10||9:00.8||M.Fitzgerald||T.Casey||A.Wates |- |style="text-align:center"|第150回||[[1997年]]4月7日||Lord Gyllene||騸9||9:05.9||A.Dobbin||S.Brookshaw||S.Clarke |- |style="text-align:center"|第151回||[[1998年]]4月4日||[[アースサミット (競走馬)|Earth Summit]]||騸10||10:51.5||C.Llewellyn||style="white-space:nowrap"|N.Twiston-Davies||The Summit Partnership |- |style="text-align:center"|第152回||[[1999年]][[4月10日]]||[[ボビージョー|Bobbyjo]]||騸9||9:14.1||T.Carberry||T.Carberry||B.Burke |- |style="text-align:center"|第153回||[[2000年]]4月8日||[[パピヨン (競走馬)|Papillon]]||騸9||9:09.7||[[ルビー・ウォルシュ|R.Walsh]]||T.Walsh||B.Morgan |- |style="text-align:center"|第154回||[[2001年]]4月7日||[[レッドマローダー|Red Marauder]]||騸11|||11:00.1||R.Guest||N.Mason||N.Mason |- |style="text-align:center"|第155回||[[2002年]]4月6日||[[ビンダリー|Bindaree]]||騸8||9:08.6||J.Culloty||N.Twiston-Davies||R.Mould |- |style="text-align:center"|第156回||[[2003年]]4月5日||[[モンティズパス|Monty's Pass]]||騸10||9:21.7||B.Geraghty||J.Mangan||Dee Racing Syndicate |- |style="text-align:center"|第157回||[[2004年]]4月3日||[[アンバリーハウス|Amberleigh House]]||騸12||9:20.3||G.Lee||G.McCain||Halewood International |- |style="text-align:center"|第158回||[[2005年]]4月9日||[[ヘッジハンター|Hedgehunter]]||騸9||9:20.8||R.Walsh||W.Mullins||T.Hemmings |- |style="text-align:center"|第159回||[[2006年]]4月8日||style="white-space:nowrap"|[[ナンバーシックスヴァルヴァーディ|Numbersixvalverde]]||騸10||9:41.0||N.Madden||M.Brassil||O.Carroll |- |style="text-align:center"|第160回||[[2007年]][[4月14日]]||[[シルバーバーチ (競走馬)|Silver Birch]]||騸10||9:13.6||R.Powerl||G.Elliott||B.Walsh |- |style="text-align:center"|第161回||[[2008年]]4月5日||[[コンプライオアダイ|Comply or Die]]||騸9||9:16.6||T.Murphy||D.Pipe||D.Johnson |- |style="text-align:center"|第162回||[[2009年]]4月4日||[[モンモーム|Mon Mome]]||騸9||9:32.9||L.Treadwell||V.Williams||V.Bingham |- |style="text-align:center"|第163回||[[2010年]]4月10日||Don't Push It||騸10||9:04.5||[[トニー・マッコイ|A.McCoy]]||J.O'Neill||J.McManus |- |style="text-align:center"|第164回||[[2011年]][[4月11日]]||Ballabriggs||騸10||9:01.2||J.Maguire||D.McCain||T.Hemmings |- |style="text-align:center"|第165回||[[2012年]]4月14日||Neptune Collonges||騸11||9:05.1||D.Jacob||P.Nicholls||J.Hales |- |style="text-align:center"|第166回||[[2013年]]4月6日||Auroras Encore||騸11||9:12.0||R.Mania||S.Smith||D.Pryde, J.Beaumont, D.van Der Hoeven |- |style="text-align:center"|第167回||[[2014年]]4月5日||Pineau de Re||騸11||9:09.9||L.Aspell||R.Newland||J.Proven |- |style="text-align:center"|第168回||[[2015年]]4月11日||Many Clouds||騸8||8:56.8||L.Aspell||O.Sherwood||T.Hemmings |- |style="text-align:center"|第169回||[[2016年]]4月9日||Rule The World||騸9||9:29.0||D.Mullins ||M.Morris|| |- |style="text-align:center"|第170回||[[2017年]]4月8日||One For Arthur||8||9:03.5||D.Fox ||L.Russell|| |- |style="text-align:center"|第171回||[[2018年]]4月14日|| Tiger Roll||騸8||9:40.1||D.Russell|| G.Elliott|| |- |style="text-align:center"|第172回||[[2019年]]4月6日||Tiger Roll||騸9|| ||D.Russell||G.Elliott|| |- |style="text-align:center"|第173回||[[2020年]]4月4日|| colspan="6" |新型コロナウイルスの影響で中止 |- |style="text-align:center"|第174回||[[2021年]]4月10日||Minella Times||騸8||9:15.42||[[レイチェル・ブラックモア|R.Blackmore]]||H.Bromhead||J.P.McManus |- |style="text-align:center"|第175回||[[2022年]]4月9日||Noble Yeats||騸7||9:03.6||S.Waley-Cohen||E.Mullins|| |- |style="text-align:center"|第176回||[[2023年]]4月15日||Corach Rambler||騸9||9:10.62||D.Fox||L.Russell|| |} * 競走名:1836年〜第4回 「The Grand Liverpool Steeplechase」、第5〜8回 「The Liverpool and National Steeplechase」 == 日本調教馬の参戦 == 過去に1頭だけこの競走に参戦した競走馬がいる。日本の中山大障害を4勝した[[フジノオー]]である([[1966年]])。 日本の障害チャンピオンホースとして参戦したフジノオーには当時の規定により最重ハンデの76.2kgのハンデキャップが与えられた。これは、イギリスにおいて必要な競走数をこなしていないため規定により最も重いハンデが課せられた(チャンピオンホースにはハンデを軽くすることは失礼に値するという紳士的な考え方に基づくものという説もある)。なおフジノオーは15番目の障害で馬が飛越を拒否、競走中止となっている。 また日本人騎手として[[1995年]]には[[田中剛]]が[[アイルランド]]のザコミッティ(The Committee)に騎乗、こちらも転倒により競走中止に終わった。 この他、[[グランドマーチス]]が挑戦する話があり一部新聞報道されたが計画が具体化する前に故障を発症して引退した。 == バーチャルグランドナショナル == '''バーチャルグランドナショナル'''(Virtual Grand National)とは[[2017年]]から毎年開催されているバーチャル版のグランドナショナルである。 '''歴代優勝馬''' *2017:Cause of Causes *2018:Tiger Roll *2019:Rathvinden *2020:Potters Corner *2021:Cloth Cap == 各国の「グランドナショナル」 == このグランドナショナルに倣って、各国でグランドナショナルの名称のつくあるいはそれに準じる競走が行われている。以下がその例である。 * [[ウェールズ]] - [[ウェルシュナショナル]] * [[スコットランド]] - [[スコティッシュグランドナショナル]] * [[アイルランド]] - [[アイリッシュグランドナショナル]] * [[フランス]] - [[パリ大障害]] 創設時の名称はグランナショナル・ド・フランス(Grand National de France) * [[チェコ]] - [[ヴェルカパルドゥビツカ]] * [[アメリカ合衆国]] - [[グランドナショナルハードル (アメリカ)|グランドナショナルハードル]] * [[オーストラリア]] - グランドナショナルハードル、グランドナショナルスティープルチェイス * [[ニュージーランド]] - グランドナショナルハードル、グランドナショナルスティープルチェイス * [[日本]] - [[中山グランドジャンプ]]、[[中山大障害]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} === 各回競走結果の出典 === * [[レーシング・ポスト]]より(最終閲覧日:2017年8月16日) **{{Racing Post|23802|1988|04|09|32|aintree}}, {{Racing Post|29353|1989|04|08|32|aintree}}, {{Racing Post|34757|1990|04|07|32|aintree}}, {{Racing Post|40399|1991|04|06|32|aintree}}, {{Racing Post|45936|1992|04|04|32|aintree}}, {{Racing Post|57601|1994|04|09|32|aintree}}, {{Racing Post|62988|1995|04|08|32|aintree}}, {{Racing Post|200402|1996|03|30|32|aintree}}, {{Racing Post|233919|1997|04|07|32|aintree}}, {{Racing Post|247613|1998|04|04|32|aintree}}, ** {{Racing Post|262162|1999|04|10|32|aintree}}, {{Racing Post|276313|2000|04|08|32|aintree}}, {{Racing Post|295995|2001|04|07|32|aintree}}, {{Racing Post|310979|2002|04|06|32|aintree}}, {{Racing Post|326818|2003|04|05|32|aintree}}, {{Racing Post|344211|2004|04|03|32|aintree}}, {{Racing Post|368041|2005|04|09|32|aintree}}, {{Racing Post|398944|2006|04|08|32|aintree}}, {{Racing Post|423603|2007|04|14|32|aintree}}, {{Racing Post|448236|2008|04|05|32|aintree}}, ** {{Racing Post|473559|2009|04|04|32|aintree}}, {{Racing Post|497800|2010|04|10|32|aintree}}, {{Racing Post|522853|2011|04|09|32|aintree}}, {{Racing Post|546536|2012|04|14|32|aintree}}, {{Racing Post|571196|2013|04|06|32|aintree}}, {{Racing Post|576664|2014|04|05|32|aintree}}, {{Racing Post|599739|2015|04|11|32|aintree}}, {{Racing Post|642825|2016|04|09|32|aintree}}, {{Racing Post|671145|2017|04|22|3}}, {{Racing Post|692569|2018|04|14|32|aintree}} ** {{Racing Post|831493|2023|04|15|32|aintree}} == 外部リンク == * [http://www.aintree.co.uk/ Aintree Racecourse] - エイントリー競馬場 * [http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/other_sports/horse_racing/grand_national_2005/ BBC SPORT] - 英国の放送局[[英国放送協会|BBC]]による2005年のグランドナショナル紹介ページ {{Keiba-stub}} {{DEFAULTSORT:くらんとなしよなる}} [[Category:イギリスの競馬の競走]] [[Category:障害競走]]
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イングランド国教会
イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、英: Church of England, C of E)は、16世紀(1534年)のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称で、世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。 英国国教会(えいこくこっきょうかい)、イギリス国教会(イギリスこっきょうかい)、イングランド教会(イングランドきょうかい)、または聖公会内部では英国聖公会(えいこくせいこうかい)とも呼ばれる。 聖公会(アングリカン・チャーチ、英:Anglican Church)という名称は、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。 イングランドにおけるキリスト教伝道は、ローマ帝国時代に遡るが、グレートブリテン島に異教のアングロ・サクソンが侵入すると、キリスト教布教は停滞した。その後、アングロ・サクソンの侵入を受けなかったアイルランドで広まったローマ教皇の管轄外のケルト系宣教師によって再びグレートブリテン島にキリスト教がもたらされることとなった。 597年、カンタベリーのアウグスティヌスがケント王国に上陸し布教を進めると、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会の一員として再編されることとなり、王権と教皇権の相克にもかかわらず正常な関係を維持した。アイルランドから伝わったケルト系キリスト教とローマ・カトリックの間では、対立が強まっていったが、664年のウィットビー教会会議以降はローマ・カトリックがイングランド各地で影響力を拡大していくこととなった。 中世を通じてカトリック教会の一部であったが、近世となり16世紀のイングランド国王ヘンリー8世から女王エリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離別し、1534年に独立した教会となった。 プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって、カトリック教会の教義自体は否定せずに分裂したため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。 立憲君主制であるイングランド(イギリス)の統治者である国王(イギリスの君主)が教会の首長(英語版)(Defender of the Faith、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。2022年9月8日より現在、チャールズ3世国王がその地位にある。 イングランド国教会の大主教であるカンタベリー大主教には、ジャスティン・ウェルビーがその職に就いている(第105代、在任:2013年1月10日 - )。 グレートブリテン島にキリスト教が初めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年頃のことであると考えられている。イングランド(ブリタンニア)はローマ帝国に征服されたため、禁教時代でも、軍人、貿易商人のなかに信者がいた。イングランド南部にセント・オールバンズという市があるが、ここで3世紀初めに聖オルバン(英語版)が殉教したという伝説も生まれている。キリスト教はウェールズ、スコットランド、アイルランドへも別々に宣教されて、ローマ人の撤退後も残った。 しかし、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教は、カンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であると見なしている。アウグスティヌスは教皇グレゴリウス1世の命により、ケントのエゼルベルト王の元へと派遣された宣教師であった。597年、アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教に着座する。これが聖公会の起源の一つとされる。664年に行われたウィットビー教会会議ではノーサンブリアのオスウィの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。 他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。 王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、ヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇に婚姻の無効を宣言するよう求めたにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。 ヘンリー8世は1527年に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議を行った。しかし、ここに至ってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。 1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には上告禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1534年に国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され修道院解散が断行、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイングランドの修道院は破壊され、荒廃した。 ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の6箇条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。 変革を嫌ったヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革を断行した。それは典礼・祈祷書の英語翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『イングランド国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂が行われた。 エドワード6世の死後、異母姉でキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世が王位に就いた。熱心なカトリック教徒であったメアリー1世はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。 真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に王位に就いたアン・ブーリンの娘でメアリー1世の異母妹エリザベス1世の下で切られることになる。エリザベス1世は教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。 イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス1世を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。 このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命(イングランド内戦)が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。非国教徒は名誉革命以降、1828年に審査律が廃止されるまで公職に着く事が禁じられた。 イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派(長老派教会など)もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に、バプテスト教会、クエーカー、メソジスト、会衆派教会(独立派)などがある。 宗教的シンクレティズムに基づくユニテリアン主義も国教会の賛同を得られずに、1774年に分離独立し、アメリカ大陸植民地ではピューリタン等が会衆制を形成し、アメリカの独立に至った。 1829年のカトリック教解放法(英語版)は、カトリック解放に待望久しかった市民的諸権利の回復を保障し、16世紀以来非合法化されてきたカトリック教会の再建を可能とした。1833年に始まったオックスフォード運動は国教会のカトリック文化遺産意識を反映している。オックスフォード大学内に始まったこの運動は、ジョン・ヘンリー・ニューマン(最終的に国教会からカトリックに改宗した)とエドワード・プュージー(英語版)らによって主導されたものであった。 現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的に乗り出し、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。ただしカトリック側は1903年、教皇レオ13世の大勅書(Apostolicae Curae et Caritatis)で、聖職者の叙任は無効と宣言しており、東方教会とは若干差別がある。 20世紀末から21世紀初頭にかけてイングランド教会で女性の聖職者の叙任が進み、2015年には初めての主教が生まれて話題となった。 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の君主がイングランド教会の最高ガバナー (Supreme Governor of the Church of England) である。2022年9月8日より現在、国王チャールズ3世がその地位にある。 イングランド国教会の管轄する地域はグレートブリテン島、マン島、チャンネル諸島、およびジブラルタルの外地教区(ヨーロッパ教区)などを含む。アイルランド聖公会、ウェールズ聖公会、スコットランド聖公会(更に別に、長老派に属するスコットランド国教会がある)はイングランド国教会とは別の独立した組織になっている。 イングランド国教会には2つの管区がある。イングランド南部を管轄する「カンタベリー管区」と北部を管轄する「ヨーク管区」で、各管区では大主教が選ばれ管区長として代表となる。こうしてカンタベリー大主教(2013年1月からロンドン生まれのジャスティン・ウェルビー)とヨーク大主教(2020年10月からエセックス生まれのスティーブン・コットレル(英語版))がいるが、歴史的な経緯により前者がイングランド国教会の長である。またカンタベリー大主教は全世界のアングリカン・コミュニオンの長であり、10年毎のランベス会議の議長でもある。 各管区は複数の教区に区分され、各教区では主教が選出されて教区を代表する。各地の教会はその地域の教区に属している。教区は教会行政の最も基本的な単位で、複数の教会からなる。 主教区には主教座聖堂があり、席首司祭と参事会員から構成される参事会が聖堂の管理運営にあたる。 イングランド国教会は教会会議(Synod)の総会 (General Synod) により重要な決定を行っている。 総会には、カンタベリーとヨークの管区会議、主教会議、聖職者会議、信徒会議から参加があり、1月にロンドンで、7月にヨークで開催される。 イギリス議会の上院である貴族院には26人の聖職貴族が議席を有し、国政に参加している。 イングランド国教会の教会法は、聖書をその根本としている。加えて、その教義は教父の教え、公会議のエキュメニカルな信経(ニケヤ信経など)が聖書の教えと合致する限り、それらを元としている。教義内容は「39箇条」教義要綱と祈祷書に表れており、また執事、司祭、主教からなる聖職者の聖別を認める。神学者では、16世紀後半に活躍したリチャード・フッカーが大きな影響を与えた。 イングランド国教会の典礼(礼拝順序など)は『祈祷書』(Book of Common Prayer)にあると、イングランド法に規定されている。これに加えて、2000年から『新祈祷書」 (Common Worship) も使われている。 礼拝の音楽は聖書内容(特に『詩編』)を簡単な節で歌うことから『古今聖歌集』、『英語聖歌集』(English Hymnal)などへと数世紀にわたってさまざまに変化してきたが、主教座聖堂および一部教会では「合唱付きの夕の祈り」 (Choral evensong) を守っている。 もともとイングランド国教会はクエーカー、メソジストなど多くのプロテスタント宗派を生み出した母体で、さまざまな考えの人々を包含していて、それを許容している。その状態を、カトリック的な要素を残す「ハイ・チャーチ」 (high church) 、福音的な「ロウ・チャーチ」 (low church) に分類して説明したり、自由神学的な「ブロード・チャーチ」 (Broad church) もあるとしているが、そうした確立した組織があるわけではなく、教区内に様々な考え方の教会が混在している。 イングランド国教会の名だたる修道会には次がある。 などがある。 次のような主な海外宣教団体があり、日本での聖公会宣教にも深く関わってきた。 1986年に女性の執事が正式に認められ、翌1987年に初めて聖別(任命)されている。1992年には女性の司祭任命が総会で決定され、1994年に初めての女性司祭が誕生し、2010年には男性司祭の任命数(273名)より女性司祭の任命数(290名)が多い状況になっている。 2013年6月、女性主教の任命が教会会議で決まっている。その後いくつかの会の審議で圧倒的賛成多数(例えば主教会では賛成37、反対2、棄権1)で決定されて、イギリス議会の宗教委員会の承認も経て、2014年11月に執行可能になった。初めての女性副主教 (suffragan bishop) はチェスター教区で誕生して2015年1月にヨーク大聖堂で聖別された。2015年3月には2015年聖職貴族(女性)法が成立し、同法の施行から10年後までに聖職貴族に空位が生じ、後任になれる者に女性がいる場合、必ず女性を任命するよう規定された(第1条)。女性初の教区主教はグロスター教区で誕生しカンタベリー大聖堂で2015年7月に聖別されている。 同性結婚とLGBTについては、近年イングランド国教会内で議論が続いている。公式には「教会法では同性婚を司式することは禁止されている」が、「各地の教会では同性婚のあなたをサポートする祈りを受けることもできる」ともしている。実際には、各地の教会で同性婚の司式が非公式に行われている。 2014年にはジャスティン・ウェルビー大主教が「同性婚が英国の法律になった以上、それを認めなければならない」と言ったと伝えられた後、「彼は基本的に同性婚は反対である」という声明をランベス宮殿(ウェルビー大主教公邸)が発表している。 救世軍と類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、英: Church of England, C of E)は、16世紀(1534年)のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称で、世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英国国教会(えいこくこっきょうかい)、イギリス国教会(イギリスこっきょうかい)、イングランド教会(イングランドきょうかい)、または聖公会内部では英国聖公会(えいこくせいこうかい)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "聖公会(アングリカン・チャーチ、英:Anglican Church)という名称は、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イングランドにおけるキリスト教伝道は、ローマ帝国時代に遡るが、グレートブリテン島に異教のアングロ・サクソンが侵入すると、キリスト教布教は停滞した。その後、アングロ・サクソンの侵入を受けなかったアイルランドで広まったローマ教皇の管轄外のケルト系宣教師によって再びグレートブリテン島にキリスト教がもたらされることとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "597年、カンタベリーのアウグスティヌスがケント王国に上陸し布教を進めると、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会の一員として再編されることとなり、王権と教皇権の相克にもかかわらず正常な関係を維持した。アイルランドから伝わったケルト系キリスト教とローマ・カトリックの間では、対立が強まっていったが、664年のウィットビー教会会議以降はローマ・カトリックがイングランド各地で影響力を拡大していくこととなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中世を通じてカトリック教会の一部であったが、近世となり16世紀のイングランド国王ヘンリー8世から女王エリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離別し、1534年に独立した教会となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって、カトリック教会の教義自体は否定せずに分裂したため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "立憲君主制であるイングランド(イギリス)の統治者である国王(イギリスの君主)が教会の首長(英語版)(Defender of the Faith、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。2022年9月8日より現在、チャールズ3世国王がその地位にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イングランド国教会の大主教であるカンタベリー大主教には、ジャスティン・ウェルビーがその職に就いている(第105代、在任:2013年1月10日 - )。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "グレートブリテン島にキリスト教が初めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年頃のことであると考えられている。イングランド(ブリタンニア)はローマ帝国に征服されたため、禁教時代でも、軍人、貿易商人のなかに信者がいた。イングランド南部にセント・オールバンズという市があるが、ここで3世紀初めに聖オルバン(英語版)が殉教したという伝説も生まれている。キリスト教はウェールズ、スコットランド、アイルランドへも別々に宣教されて、ローマ人の撤退後も残った。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教は、カンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であると見なしている。アウグスティヌスは教皇グレゴリウス1世の命により、ケントのエゼルベルト王の元へと派遣された宣教師であった。597年、アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教に着座する。これが聖公会の起源の一つとされる。664年に行われたウィットビー教会会議ではノーサンブリアのオスウィの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、ヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇に婚姻の無効を宣言するよう求めたにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヘンリー8世は1527年に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議を行った。しかし、ここに至ってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には上告禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1534年に国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され修道院解散が断行、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイングランドの修道院は破壊され、荒廃した。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の6箇条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "変革を嫌ったヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革を断行した。それは典礼・祈祷書の英語翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『イングランド国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂が行われた。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エドワード6世の死後、異母姉でキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世が王位に就いた。熱心なカトリック教徒であったメアリー1世はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に王位に就いたアン・ブーリンの娘でメアリー1世の異母妹エリザベス1世の下で切られることになる。エリザベス1世は教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス1世を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命(イングランド内戦)が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。非国教徒は名誉革命以降、1828年に審査律が廃止されるまで公職に着く事が禁じられた。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派(長老派教会など)もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に、バプテスト教会、クエーカー、メソジスト、会衆派教会(独立派)などがある。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "宗教的シンクレティズムに基づくユニテリアン主義も国教会の賛同を得られずに、1774年に分離独立し、アメリカ大陸植民地ではピューリタン等が会衆制を形成し、アメリカの独立に至った。", "title": "イングランドのキリスト教史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": 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"同性結婚とLGBTについては、近年イングランド国教会内で議論が続いている。公式には「教会法では同性婚を司式することは禁止されている」が、「各地の教会では同性婚のあなたをサポートする祈りを受けることもできる」ともしている。実際には、各地の教会で同性婚の司式が非公式に行われている。", "title": "教義と実践" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2014年にはジャスティン・ウェルビー大主教が「同性婚が英国の法律になった以上、それを認めなければならない」と言ったと伝えられた後、「彼は基本的に同性婚は反対である」という声明をランベス宮殿(ウェルビー大主教公邸)が発表している。", "title": "教義と実践" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "救世軍と類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。", "title": "社会奉仕活動" } ]
イングランド国教会は、16世紀(1534年)のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称で、世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。 英国国教会(えいこくこっきょうかい)、イギリス国教会(イギリスこっきょうかい)、イングランド教会(イングランドきょうかい)、または聖公会内部では英国聖公会(えいこくせいこうかい)とも呼ばれる。 聖公会という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。
{{出典の明記|date=2016年9月20日 (火) 23:33 (UTC)}} '''イングランド国教会'''(イングランドこっきょうかい、{{lang-en-short|Church of England, C of E}})は、[[16世紀]]([[1534年]])の[[イングランド王国]]で成立した[[キリスト教会]]の名称で、世界に広がる[[聖公会]]([[アングリカン・コミュニオン]])のうち最初に成立し、その母体となった[[教会]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d36f710410dd6338fa23266b388d666101885a60|title=大航海の時代、日本では大地震が頻発する中、3英傑が天下統一を果たす|author= 福和伸夫 |authorlink= 福和伸夫 |website=Yahoo!ニュース|date=2020-07-13|accessdate=2020-10-20}}</ref>。 '''英国国教会'''(えいこくこっきょうかい)、'''イギリス国教会'''(イギリスこっきょうかい)<ref>『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館</ref>、'''イングランド教会'''(イングランドきょうかい)<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=3ZJtFcb1WVEC&pg=PA137&lpg=PA137#v=onepage&q&f=false 下楠昌哉 編 『イギリス文化入門』 p137]</ref>、または聖公会内部では'''英国聖公会'''<ref>[http://www.nskk.org/province/daitou.html 日本聖公会代祷表]</ref>(えいこくせいこうかい)とも呼ばれる。 聖公会('''アングリカン・チャーチ'''、英:Anglican Church)という名称は、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の[[日本語]]訳である<ref>{{Cite journal ja-jp|author=石村耕治|title=イギリスの宗教法文献紹介(1)|url=http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/200814.pdf|format=PDF|journal=宗教法|issue =27|publisher=宗教法学会|issn=02886820|serial=2008年11月|pages=203-284}}、特に207頁参照。2021年5月7日閲覧。</ref>。 == 概要 == イングランドにおけるキリスト教伝道は、[[ローマ帝国]]時代に遡るが、[[グレートブリテン島]]に異教の[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]が侵入すると、キリスト教布教は停滞した。その後、アングロ・サクソンの侵入を受けなかった[[アイルランド]]で広まった[[教皇|ローマ教皇]]の管轄外の[[ケルト系キリスト教|ケルト系]]宣教師によって再びグレートブリテン島にキリスト教がもたらされることとなった。 597年、[[カンタベリーのアウグスティヌス]]が[[ケント王国]]に上陸し布教を進めると、ローマ教皇を頂点とする[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の一員として再編されることとなり、王権と教皇権の相克にもかかわらず正常な関係を維持した<ref>『日本大百科全書(ニッポニカ』小学館</ref>。アイルランドから伝わった[[ケルト系キリスト教]]と[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の間では、対立が強まっていったが、664年の[[ウィットビー教会会議]]以降はローマ・カトリックがイングランド各地で影響力を拡大していくこととなった。 [[中世]]を通じてカトリック教会の一部であったが、[[近世]]となり[[16世紀]]のイングランド国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]から女王[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の時代にかけて[[ローマ教皇庁]]から離別し、[[1534年]]に独立した[[教会 (キリスト教)|教会]]となった。 [[プロテスタント]]に分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題([[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の離婚問題)が原因となって、カトリック教会の教義自体は否定せずに分裂したため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。 [[立憲君主制]]であるイングランド([[イギリス]])の統治者である国王([[イギリスの君主]])が{{仮リンク|イングランド国教会首長|label=教会の首長|en|Supreme Governor of the Church of England}}({{en|Defender of the Faith}}、直訳は『[[信仰の擁護者]]』)であるということが最大の特徴である。[[2022年]][[9月8日]]より現在、[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]国王がその地位にある。 イングランド国教会の大主教である[[カンタベリー大主教]]には、[[ジャスティン・ウェルビー]]がその職に就いている(第105代、在任:2013年1月10日 - )。 == イングランドのキリスト教史 == {{see also|イングランド教会史|聖公会#歴史}} [[File:Canterbury Cathedral - Portal Nave Cross-spire.jpeg|thumb|right|200px|カンタベリー管区の[[カンタベリー大聖堂]]]] [[File:York.mstr..jpg|thumb|right|200px|ヨーク管区の[[ヨーク大聖堂]]]] === キリスト教の到来 === [[グレートブリテン島]]に[[キリスト教]]が初めて到来したのは、[[ローマ帝国]]時代の紀元[[200年]]頃のことであると考えられている。イングランド([[ブリタンニア]])はローマ帝国に征服されたため、禁教時代でも、軍人、貿易商人のなかに信者がいた。イングランド南部に[[セント・オールバンズ]]という市があるが、ここで3世紀初めに{{仮リンク|オルバン (聖人)|label=聖オルバン|en|Saint Alban}}が殉教したという伝説も生まれている。キリスト教は[[ウェールズ]]、[[スコットランド]]、[[アイルランド島|アイルランド]]へも別々に宣教されて、ローマ人の撤退後も残った。 しかし、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教は、[[カンタベリーのアウグスティヌス]]によるものを最初であると見なしている。アウグスティヌスは[[教皇]][[グレゴリウス1世_(ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]の命により、[[ケント王国|ケント]]の[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]王の元へと派遣された[[宣教師]]であった。[[597年]]、アウグスティヌスは初代[[カンタベリー大司教]]に着座する。これが[[聖公会]]の起源の一つとされる。[[664年]]に行われた[[ウィットビー教会会議]]では[[ノーサンブリア]]のオスウィの指導により、それまで用いられてきた[[ケルト系キリスト教|ケルト的典礼]]を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている{{Refnest|group="注釈"|のちの時代の[[聖公会]]においては、ブリテン諸島ではローマ・カトリックより前から独自のキリスト教文化があったとして、ケルト系キリスト教にアイデンティティーを見出す動きが一部に見られ、近代に建てられた各国の聖公会の聖堂や墓碑などにも、ケルト十字が好んで用いられるという傾向もある<ref>{{citation|和書|last=西原|first=廉太|title=聖公会が大切にしてきたもの|publisher=[[教文館]]|year=2016|page=37-45|isbn=978-4-7642-6125-9}}</ref>}}。 他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも[[中世]]後期以降、[[王権]]と[[教皇権]]の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、[[聖職者]]に対する[[裁判管轄|裁判権]]、[[聖職叙任権]]などであった。特に[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]と[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]の時代に王と教皇が激しく争った。 === ローマとの分裂 === 王権と[[教皇権]]の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、[[キャサリン・オブ・アラゴン]]を離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇に[[婚姻の無効]]を宣言するよう求めたにもかかわらず、教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。 ヘンリー8世は[[1527年]]に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。[[1529年]]までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて[[1531年]]にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万[[スターリング・ポンド|ポンド]]を支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。[[1531年]][[2月11日]]、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議を行った。しかし、ここに至ってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。 [[1532年]]5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。[[1533年]]には[[上告禁止法]]が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、[[カンタベリー]]と[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]の大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであった[[トマス・クランマー]]が[[カンタベリー大司教]]の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王は[[アン・ブーリン]]と再婚した。教皇がヘンリー8世を[[破門]]したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は[[1534年]]に[[国王至上法]](首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがて[[トマス・クロムウェル]]のもとで委員会が結成され[[修道院解散]]が断行、[[修道院]]が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイングランドの修道院は破壊され、荒廃した。 === プロテスタント運動との関係 === ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]から「[[信仰の擁護者]]」({{en|Defender of the Faith}})という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、[[聖人暦]]の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、[[1539年]]のイングランド教会の6箇条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。 変革を嫌ったヘンリー8世と違った息子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の下で、イングランド教会は最初の変革を断行した。それは典礼・祈祷書の英語翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが[[1549年]]の『[[聖公会祈祷書|イングランド国教会祈祷書]]』であり、[[1552年]]に最初の改訂が行われた。 === 分裂反動と「中道」(Via Media)=== {{wikisource|:en:The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII/Anglican Orders|The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII/Anglican Orders}} [[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の死後、異母姉でキャサリン・オブ・アラゴンの娘[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]が王位に就いた。熱心なカトリック教徒であったメアリー1世はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。 真の意味でのイングランド国教会のスタートは、[[1558年]]に王位に就いたアン・ブーリンの娘でメアリー1世の異母妹[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の下で切られることになる。エリザベス1世は教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は[[1570年]]、[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]の時代まで破門されることはなかった。 イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは[[1559年]]である。議会はエリザベス1世を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は[[1563年]]の聖職者会議で「イングランド国教会の[[39箇条]]」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。 {{main|聖公会#中道(Via Media)の教会}} === 清教徒革命 === このころから、イングランドにおける清教徒([[ピューリタン]])と国教会派の対立が深刻化した。[[1603年]]に即位した[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]は強く国教会派を支持、また[[王権神授説]]を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で[[欽定訳聖書]]の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世では国教会派が[[スコットランド王国|スコットランド]]にも教化しようとしたために、反発した人々の手によって[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])が勃発し、敗れたチャールズ1世は[[1649年]]に処刑された。しかしその後、[[イングランド王政復古|王政復古]]や[[名誉革命]]を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]は名誉革命以降、1828年に[[審査律]]が廃止されるまで[[公職]]に着く事が禁じられた。 === バプテスト・ユニテリアン等諸派の分離 === イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派([[長老派教会]]など)もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を[[イングランド国教会の分離派|分離派]]と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に、[[バプテスト教会]]、[[クエーカー]]、[[メソジスト]]、[[会衆派教会]]([[独立派 (宗教)|独立派]])などがある。 [[習合|宗教的シンクレティズム]]に基づく[[ユニテリアン]]主義も国教会の賛同を得られずに、1774年に分離独立し{{efn|神学者・聖職者の{{仮リンク|セオフィルス・リンジー|en|Theophilus_Lindsey|preserve=1}}は{{仮リンク|エセックス・ストリート教会|en|Essex_Street_Chapel|preserve=1}}を建立した。1928年には{{仮リンク|ユニテリアン及び自由キリスト教会総会|en|General Assembly of Unitarian and Free Christian Churches|preserve=1}}の本部となる。}}、アメリカ大陸植民地ではピューリタン等が[[会衆制]]を形成し、[[アメリカの独立]]に至った{{efn|ピューリタンの{{仮リンク|ブラトル・ストリート教会|en|Brattle Street Church|preserve=1}} は後にユニテタリアンの教会となる。}}。 === カトリック解放 === [[1829年]]の{{仮リンク|カトリック教解放法|en|Roman Catholic Relief Act 1829}}は、[[カトリック解放]]に待望久しかった市民的諸権利の回復を保障し、16世紀以来非合法化されてきたカトリック教会の再建を可能とした。[[1833年]]に始まった[[オックスフォード運動]]は国教会のカトリック文化遺産意識を反映している。オックスフォード大学内に始まったこの運動は、[[ジョン・ヘンリー・ニューマン]](最終的に国教会からカトリックに改宗した)と{{仮リンク|エドワード・プュージー|en|Edward Bouverie Pusey}}らによって主導されたものであった。 === 現代 === 現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的に乗り出し、[[エキュメニカル運動]]にも積極的な役割を果たしている。ただしカトリック側は[[1903年]]、教皇[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]の大勅書({{en|Apostolicae Curae et Caritatis}})で、聖職者の[[叙任]]は無効と宣言しており、[[東方教会]]とは若干差別がある。 20世紀末から21世紀初頭にかけてイングランド教会で女性の聖職者の叙任が進み、2015年には初めての[[主教]]が生まれて話題となった<ref>{{Cite news|url= https://www.huffingtonpost.jp/2014/12/18/church-of-england-women-bishop-libby-lane_n_6345836.html |title= イギリス国教会に初の女性主教が誕生 |newspaper= ハフポスト |date= 2014-12-19 |accessdate= 2021-12-11 }}</ref>。 == 教会組織 == [[File:Dioceses of Church of England.svg|thumb|right|イングランド国教会の教区{{legend|#ff3|outline=#00|カンタベリー管区}}{{legend|#f99|outline=#00|ヨーク管区}}]] ===管轄=== [[イギリスの君主|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の君主]]がイングランド教会の最高ガバナー{{enlink|Supreme Governor of the Church of England}}である。[[2022年]][[9月8日]]より現在、国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]がその地位にある。 イングランド国教会の管轄する地域は[[グレートブリテン島]]、[[マン島]]、[[チャンネル諸島]]、および[[ジブラルタル]]の外地教区([[ヨーロッパ教区]])などを含む。[[アイルランド聖公会]]、[[ウェールズ聖公会]]、[[スコットランド聖公会]](更に別に、[[長老派教会|長老派]]に属する[[スコットランド国教会]]がある)はイングランド国教会とは別の独立した組織になっている。 === 2つの管区 === イングランド国教会には2つの[[教会管区|管区]]がある。イングランド南部を管轄する「[[カンタベリー管区]]」と北部を管轄する「[[ヨーク管区]]」で、各管区では[[大主教]]が選ばれ管区長として代表となる。こうして[[カンタベリー大主教]](2013年1月からロンドン生まれの[[ジャスティン・ウェルビー]])と[[ヨーク大主教]](2020年10月から[[エセックス]]生まれの{{仮リンク|スティーブン・コットレル|en|Stephen Cottrell}})がいるが、歴史的な経緯により前者がイングランド国教会の長である。またカンタベリー大主教は全世界の[[アングリカン・コミュニオン]]の長であり、10年毎の[[ランベス会議]]の議長でもある。 === 教区主教 === 各管区は複数の[[教区]]に区分され、各教区では[[主教]]が選出されて教区を代表する。各地の教会はその地域の教区に属している。教区は教会行政の最も基本的な単位で、複数の教会からなる。 主教区には[[大聖堂|主教座聖堂]]があり、席首司祭と参事会員から構成される参事会が聖堂の管理運営にあたる。 === 代表組織 === イングランド国教会は[[教会会議]](Synod)の総会{{enlink|General Synod of the Church of England|General Synod}}により重要な決定を行っている。 総会には、カンタベリーとヨークの管区会議、主教会議、聖職者会議、信徒会議から参加があり、1月に[[ロンドン]]で、7月に[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で開催される<ref>[https://www.churchofengland.org/about-us/structure/general-synod.aspx General Synod (The Church of England)]</ref>。 === 貴族院 === [[イギリスの議会|イギリス議会]]の[[上院]]である[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]には26人の[[貴族院 (イギリス)#聖職貴族|聖職貴族]]が議席を有し、国政に参加している。 ===ギャラリー=== <gallery> File:Ev Cambridge 129v.jpg|[[カンタベリーのアウグスティヌス]]司教 File:Hooker-Statue.jpeg|[[リチャード・フッカー]]([[エクセター大聖堂]]にある像) File:Official portrait of The Lord Archbishop of Canterbury crop 2.jpg|[[ジャスティン・ウェルビー]]<br>カンタベリー管区大主教(在任:2013年 - ) File:John Sentamu.jpg|[[:en:John Sentamu|ジョン・センタム]]<br>ヨーク管区大主教<br>(写真:[[ヨーク大聖堂]]、2005年) File:Charles Prince of Wales.jpg|国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]([[イギリスの君主]])<br>[[:en:Supreme Governor of the Church of England|イングランド国教会首長]](2022年9月8日 - ) </gallery> == 教義と実践 == [[File:CommonWorshipBooks.jpg|thumb|right|200px|新祈祷書''[[:en:Common Worship|Common Worship]]''の3分冊]] ===教義=== {{main|聖公会#教義・様式}} イングランド国教会の[[教会法]]は、[[聖書]]をその根本としている。加えて、その[[教義]]は[[教父]]の教え、[[公会議]]の[[エキュメニズム|エキュメニカルな]][[信条|信経]]([[ニカイア信条|ニケヤ信経]]など)が聖書の教えと合致する限り、それらを元としている。教義内容は「[[39箇条]]」教義要綱と[[祈祷書]]に表れており、また[[執事 (キリスト教)#聖公会|執事]]、[[司祭#聖公会|司祭]]、[[主教]]からなる[[聖職者#キリスト教における聖職者|聖職者]]の[[聖別]]を認める<ref> [https://www.churchofengland.org/about-us/structure/churchlawlegis/canons.aspx Canon of the Church of England]</ref>。神学者では、16世紀後半に活躍した[[リチャード・フッカー]]が大きな影響を与えた。 === 礼拝と典礼 === イングランド国教会の[[典礼]](礼拝順序など)は『祈祷書』(Book of Common Prayer)にあると、[[イングランド法]]に規定されている。これに加えて、2000年から『[[聖公会祈祷書#2000年新祈祷書 Common Worship|新祈祷書]]」{{enlink|Common Worship}}も使われている。 礼拝の音楽は聖書内容(特に『[[詩編]]』)を簡単な節で歌うことから『[[古今聖歌集 (イングランド教会)|古今聖歌集]]』、『[[英語聖歌集]]』([[:en:English Hymnal|English Hymnal]])などへと数世紀にわたってさまざまに変化してきたが、主教座聖堂および一部教会では「[[合唱]]付きの[[夕の祈り]]」{{enlink|Evening Prayer (Anglican)|Choral evensong}}を守っている。 === ハイ・チャーチとロウ・チャーチ === {{main|聖公会#ハイ・チャーチとロウ・チャーチ}} もともとイングランド国教会は[[クエーカー]]、[[メソジスト]]など多くのプロテスタント宗派を生み出した母体で、さまざまな考えの人々を包含していて、それを許容している。その状態を、カトリック的な要素を残す「[[高教会派|ハイ・チャーチ]]」{{enlink|high church}}、福音的な「ロウ・チャーチ」{{enlink|low church}}に分類して説明したり、自由神学的な「ブロード・チャーチ」{{enlink|Broad church}}もあるとしているが、そうした確立した組織があるわけではなく、教区内に様々な考え方の教会が混在している<ref>[http://www.y-history.net/appendix/wh0903-051.html イギリス国教会(世界史の窓)]</ref>{{信頼性要検証|個人サイトは信頼できる情報源ではありません。|date=2021年2月}}。 ===修道会=== イングランド国教会の名だたる[[修道会]]には次がある<ref>[http://kurihon.seesaa.net/article/412565795.html 日本聖公会の男子修士会/女子修女会(付:イングランド国教会の修道会]</ref>。 *{{仮リンク|聖ヨハネ修士会 (イギリス)|en|Society of St. John the Evangelist|label=聖ヨハネ修士会}}({{lang|en|Society of St. John the Evangelist}}、略称:SSJE、1866年創立) - 日本の[[聖ヨハネ修士会]]も参照 *{{仮リンク|聖使修士会|en|Society of the Sacred Mission}}({{lang|en|Society of the Sacred Mission}}、通称:{{lang|en|Kelham Fathers}}、1892年創立) - 日本の[[聖ヨハネ修士会#その他の修士会と修女会|聖使修士会]]も参照 *{{仮リンク|復活修士会|en|Community of the Resurrection}}({{lang|en|Community of the Resurrection}}、通称:{{lang|en|Mirfield Fathers}}、1892年創立) などがある。 ===海外宣教=== 次のような主な海外宣教団体があり、[[日本聖公会|日本での聖公会宣教]]にも深く関わってきた。 *[[英国聖公会宣教協会]] (CMS) *[[イギリス海外福音伝道会]] (SPG) *[[ミッション・トゥー・シーフェアラーズ]] (MTS) === 女性聖職者 === 1986年に女性の[[執事 (キリスト教)|執事]]が正式に認められ、翌1987年に初めて[[聖別#聖職者の聖別|聖別]](任命)されている。1992年には女性の[[司祭]]任命が[[教会会議#聖公会での用法|総会]]で決定され、1994年に初めての女性司祭が誕生し、2010年には男性司祭の任命数(273名)より女性司祭の任命数(290名)が多い状況になっている。 2013年6月、女性[[主教]]の任命が教会会議で決まっている。その後いくつかの会の審議で圧倒的賛成多数(例えば主教会では賛成37、反対2、棄権1)で決定されて、[[イギリスの議会|イギリス議会]]の宗教委員会の承認も経て、2014年11月に執行可能になった。初めての女性副主教{{enlink|suffragan bishop}}はチェスター教区で誕生して2015年1月に[[ヨーク・ミンスター|ヨーク大聖堂]]で聖別された<ref>[http://www.reuters.com/article/us-religion-anglican-women-idUSKBN0KZ0Z820150126 After turmoil, Church of England consecrates first woman bishop (Reuters)]</ref>。2015年3月には[[2015年聖職貴族(女性)法|2015年聖職貴族(女性)法]]が成立し、同法の施行から10年後までに[[聖職貴族]]に空位が生じ、後任になれる者に女性がいる場合、必ず女性を任命するよう規定された(第1条<ref>{{Cite web2|language=en|website=legislation.gov.uk|title=Lords Spiritual (Women) Act 2015|url=https://www.legislation.gov.uk/ukpga/2015/18/enacted|access-date=28 February 2021}}</ref>)。女性初の教区主教は[[グロスターシャー|グロスター]]教区で誕生し[[カンタベリー大聖堂]]で2015年7月に聖別されている<ref name="anglicannews1">[http://www.anglicannews.org/news/2015/07/first-female-diocesan-bishop-in-c-of-e-consecrated.aspx First female diocesan bishop in C of E consecrated (Anglican Communion News Service)]</ref>。 === 同性結婚とLGBTの権利 === {{see also|:en:Same-sex marriage in the United Kingdom}} {{see also|:en:LGBT rights in the United Kingdom}} [[同性結婚]]と[[LGBT]]については、近年イングランド国教会内で議論が続いている。公式には「教会法では同性婚を司式することは禁止されている」が、「各地の教会では同性婚のあなたをサポートする祈りを受けることもできる」ともしている<ref>[https://www.yourchurchwedding.org/article/information-for-same-sex-couples/ Information for same sex couples (Your Church Wedding Org, The Church of England)]</ref>。実際には、各地の教会で同性婚の司式が非公式に行われている<ref> [http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1410695/Vicars-bless-hundreds-of-gay-couples-a-year.html Vicars bless hundreds of gay couples a year (The Telegraph, 2002)]</ref>。 2014年には[[ジャスティン・ウェルビー]]大主教が「同性婚が英国の法律になった以上、それを認めなければならない」と言ったと伝えられた後、「彼は基本的に同性婚は反対である」という声明を[[ランベス宮殿]](ウェルビー大主教公邸)が発表している<ref> [http://www.telegraph.co.uk/news/religion/10828762/Archbishop-of-Canterbury-Justin-Welby-says-gay-marriage-is-great.html Lambeth Palace reaffirms Justin Welby’s opposition in principle to gay marriage (The Telegraph, 2014)]</ref>。 == 社会奉仕活動 == {{節スタブ}} [[救世軍]]と類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * 世界の[[聖公会]]の各組織は、[[アングリカン・コミュニオン]]参照。 ** [[日本聖公会]] ** [[米国聖公会]] * [[ベーダ・ヴェネラビリス]] * [[ジョナサン・スウィフト]] - イングランド国教会とローマ・カトリックとの訣別と清教徒との相克を風刺した『[[桶物語]]』を書いた。 *[[ロナルド・ノックス]] - マンチェスター主教の息子だったが、カトリックに改宗後に大司教となった聖職者。推理作家としても活動していた。 * [[国教忌避]] == 外部リンク == * {{Kotobank|イングランド教会}} {{信条}} {{Authority control}} {{Christ-stub}} {{UK-stub}} {{DEFAULTSORT:いんくらんとこつきようかい}} [[Category:イングランド国教会|*]] [[Category:イギリスの聖公会]] [[Category:イングランドのキリスト教]] [[Category:イングランドの宗教改革]] [[Category:聖公会]] [[Category:16世紀のヨーロッパ]] [[Category:国教会]] [[Category:国民教会]] [[Category:ヘンリー8世]] [[Category:1534年設立]]
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ハブ
ハブ、HUB、HUV
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ハブ、HUB、HUV ハブ (機械) - 車輪の中心部にあって、リムと車軸とをつなぐスポークが集中する部分・構造。 ハブ・アンド・スポーク - 物流や運輸、IT部門で使用される概念。 交通結節点 - 各種の交通機関において路線や航路が集中する場所。ハブ港(中枢国際港湾)、ハブ空港など。 ハブ (ネットワーク機器) - イーサネット、USB、IEEE 1394 などにおいて、ネットワークの中心に位置する集線装置であり、複数のネットワーク機器を接続する装置。 ハブ (動物) - 南西諸島に広く棲息するクサリヘビ科ハブ属の毒蛇、 同属の構成種の総称。また、同科マムシ亜科に属する他の複数の属にも、「ハブ」の名を冠するものがある。 上記に由来する、沖縄地方におけるSR-71 (航空機)の俗称。 ハブソウ - 名前が上記のハブに由来する、マメ科の薬草。 ハブ (企業) - 英国風パブチェーンの経営を行う企業。 HUB (プロレスラー) - 日本のプロレスラー。 häv - 日本のミクスチャーロックバンド。 吉本興業所属のお笑い芸人歩子の旧芸名。 仲間はずれを意味する若者言葉(「省く」が語源とされる)。「ハブ」「ハブにする」「ハブる」「ハブく」など。→ いじめ#学校でのいじめ ハブとマングース - 日本の音楽グループ「きいやま商店」の楽曲。
{{Wiktionary|はぶ|ハブ}} '''ハブ'''、'''HUB'''、'''HUV''' ;拠点 * [[ハブ (機械)]] - [[車輪]]の中心部にあって、[[リム (機械)|リム]]と[[軸 (機械要素)|車軸]]とをつなぐ[[スポーク]]が集中する部分・構造。 * [[ハブ・アンド・スポーク]] - 物流や運輸、IT部門で使用される概念。 ** [[交通結節点]] - 各種の[[交通機関]]において路線や航路が集中する場所。[[ハブ港]]([[中枢国際港湾]])、[[ハブ空港]]など。 * [[ハブ (ネットワーク機器)]] - [[イーサネット]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]、[[IEEE 1394]] などにおいて、ネットワークの中心に位置する集線装置であり、複数のネットワーク機器を接続する装置。 ;生物 * [[ハブ (動物)]] - 南西諸島に広く棲息する[[クサリヘビ科]][[ハブ属]]の毒蛇、 ** 同属の構成種の総称。また、同科[[マムシ亜科]]に属する他の複数の属にも、「ハブ」の名を冠するものがある。 ** 上記に由来する、沖縄地方における[[SR-71 (航空機)]]の[[通称|俗称]]。 ;植物 * [[ハブソウ]] - 名前が上記のハブに由来する、[[マメ科]]の[[薬草]]。 ;固有名詞 *[[ハブ (企業)]] - 英国風パブチェーンの経営を行う企業。 *[[HUB (プロレスラー)]] - 日本のプロレスラー。 *[[häv]] - [[日本]]の[[ミクスチャー]][[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]。 *[[吉本興業]]所属のお笑い芸人[[歩子]]の旧芸名。 ;スラング *仲間はずれを意味する[[若者言葉]](「省く」が語源とされる)。「ハブ」「ハブにする」「ハブる」「ハブく」など。→ [[いじめ#学校でのいじめ]] ;作品 *[[ロックンロールびーちゃー|ハブとマングース]] - 日本の音楽グループ「[[きいやま商店]]」の楽曲。 {{aimai}} {{デフォルトソート:はふ}} [[Category:英語の語句]]
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D2
D2、d2
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D2、d2
'''D2'''、'''d2''' ==一覧== * [[D2-VTR]] * 映像機器のアナログ映像信号を伝送するための規格の一つ。{{main|[[D端子#対応規格|D端子]]}} * ドイツの携帯電話キャリア。現在は[[ボーダフォン]]。 * ゲームソフト、[[Dの食卓2]]の略称。 * [[ケーヨー]]が運営するホームセンター。ケーヨーD2(デイツー) * [[ニコン]]のデジタル一眼レフカメラ。{{main|[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D1桁シリーズ|D2H・D2X・D2Hs・D2Xs]]}} * [[国鉄7010形蒸気機関車#5100形|国鉄5100形蒸気機関車]]の鉄道作業局時代の形式(D2) * [[富士重工業]]製の鉄道車両である[[ソ連運輸省D2系気動車|D2系気動車]]の通称 * テレビアニメ『機甲戦記ドラグナー』に登場する人型機動兵器メタルアーマーの一種。{{main|[[メタルアーマー#ドラグナー2型(D-2)|ドラグナー2型(D-2)]]}} * [[データサーブ D2]] - 1960年代にスウェーデンのデータサーブ社で開発されたコンピュータ。 * [[D2 (ワタナベエンターテインメント)]] - ワタナベエンターテインメントに所属するD-BOYSの弟的グループ。 * [[三菱・デリカD:2]] - 三菱自動車工業が販売する自動車。 * ブレーキメーカーおよびそれを母体としたレーシングチーム D2レーシングスポーツ及び日本法人である[http://www.d2japan.com/ D2ジャパン]。 * [[二面体群]] {{math|''D''{{sub|2}}}} * [[D2 (ラジオ番組)]] * [[D-2 (ミックステープ)]] - [[BTS (音楽グループ)|BTS]][[SUGA]]の二枚目のミックステープ。 * D2 - [[博士課程]](Doctor's course)2年生。 == 関連項目 == *[[D0]] - [[D1]] - '''D2''' - [[D3]] - [[D4 (曖昧さ回避)|D4]] - [[D5]] - [[D6]] - [[D7]] - [[D8]] - [[D9]] - [[D10]] - [[D11]] - [[D12 (曖昧さ回避)|D12]] - [[D36]] *[[D]] {{aimai}} [[Category:系番ごとの鉄道車両|D02]]
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D1-VTR
D-1 VTRとはITU-R BT.601フォーマット(4:2:2コンポーネント方式)で符号化されたデジタルビデオ信号を、19mm(約3/4インチ)カセットテープに非圧縮で記録する放送業務用VTRである。 1982年に日米欧で共通のデジタルビデオ記録・伝送フォーマットを策定する目的で標準化が行われた。この結果決まった4:2:2コンポーネント符号化規格がCCIR 601、現在のITU-R BT.601である。ITU-R BT.601規格のサンプリング(標本化)周波数は、輝度信号Yが13.5MHz、色差信号R-Y, B-Yが各々6.75MHzである。ITU-R BT.601規格に則った信号(D-1 VTRの入出力インターフェース信号)を「D-1信号」と呼ぶこともある。 続いてこの方式による放送業務用VTRの規格化が行われ、1986年にCCIR 657として制定後、ソニーとBTS(ボッシュとフィリップスとの合弁放送機器メーカー、その後フランスのThomsonに買収され現在はGrass Valleyが継承)が対応するVTRを発売した。 SDTV用VTRとしては当時最高画質であり、テレビコマーシャルの編集やコンピュータグラフィックスの出力など高画質を要求される分野で用いられたが、放送局では機器が高価なこと(VTRだけでなく編集設備もコンポーネント信号に対応させる必要がある、コンポジット映像信号用機器も残るので変換機器が必要など)、ビデオテープのランニングコストが高いことなどからD-2 VTRの方が普及した。 D-1 VTRの入出力インターフェースの物理規格は初代機のDVR-1000ではECLレベルのパラレル式(ITU-R BT.656)であったが、ソニーが同軸ケーブルを用いたシリアル伝送方式を開発し、2世代目のDVR-2000に実装し普及させた(SMPTE 259Mとして規格化。SDIと略される。)ため、のちの圧縮技術を用いた放送業務用デジタルVTRの多くがSDIをインターフェース規格として採用した。また、プロダクションスイッチャー等のビデオ編集・制作機器も「D-1信号」の「SDI」に対応した製品が普及している。 ※525/59.94/2:1インターレース方式の場合を“525”、625/50/2:1インターレース方式の場合を“625”と付記。 前述の様に当時最高画質のSDTV用VTRであったが、8bitで量子化するフォーマットだったため ポストプロダクションでの画面合成(キーイングなど)には十分とは言えず、その後10bit量子化のD-5 VTRやDigital BETACAM VTRなどの商品化に繋がった。
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D-1 VTRとはITU-R BT.601フォーマット(4:2:2コンポーネント方式)で符号化されたデジタルビデオ信号を、19mm(約3/4インチ)カセットテープに非圧縮で記録する放送業務用VTRである。
{{出典の明記|date=2018年6月}} [[File:Sony DVR-2000 20070525.jpg|thumb|Sony D-1 VTR DVR-2000]] [[File:BOSCH BTS D1 DCR 500.jpg|thumb|BTS D-1 VTR DCR-500]] '''D-1 VTR'''とは[[:en:Rec. 601|ITU-R BT.601]]フォーマット(4:2:2[[コンポーネント映像信号|コンポーネント方式]])で符号化された[[デジタル]]ビデオ信号を、19mm(約3/4インチ)カセットテープに非圧縮で記録する放送業務用[[ビデオテープレコーダ|VTR]]である。 == 概要 == 1982年に日米欧で共通のデジタルビデオ記録・伝送フォーマットを策定する目的で標準化が行われた。この結果決まった4:2:2コンポーネント符号化規格がCCIR 601、現在のITU-R BT.601である。ITU-R BT.601規格の[[サンプリング]](標本化)周波数は、輝度信号Yが13.5MHz、色差信号R-Y, B-Yが各々6.75MHzである。ITU-R BT.601規格に則った信号(D-1 VTRの入出力インターフェース信号)を「D-1信号」と呼ぶこともある。 続いてこの方式による放送業務用VTRの規格化が行われ、1986年にCCIR 657として制定後、[[ソニー]]<ref>{{Cite web|和書|title=放送業務用制作機材の歴史 {{!}} 映像制作機材 {{!}} 法人のお客様 {{!}} ソニー|url=https://www.sony.jp/products/Professional/c_c/tracks/|website=Sony 映像制作機材|accessdate=2021-06-04|language=ja|first=Sony Marketing(Japan)|last=Inc}}</ref>と[[:en:Broadcast Television Systems Inc.|BTS]](ボッシュとフィリップスとの合弁放送機器メーカー、その後フランスのThomsonに買収され現在はGrass Valleyが継承)が対応するVTRを発売した。 [[SDTV]]用VTRとしては当時最高画質であり、[[テレビコマーシャル]]の[[映像編集|編集]]や[[コンピュータグラフィックス]]の出力など高画質を要求される分野で用いられたが、放送局では機器が高価なこと(VTRだけでなく編集設備もコンポーネント信号に対応させる必要がある、[[コンポジット映像信号]]用機器も残るので変換機器が必要など)、ビデオテープのランニングコストが高いことなどから[[D2-VTR|D-2 VTR]]の方が普及した。 D-1 VTRの入出力インターフェースの物理規格は初代機のDVR-1000ではECLレベルのパラレル式([[:en:ITU-R BT.656|ITU-R BT.656]])であったが、ソニーが[[同軸ケーブル]]を用いた[[シリアル通信|シリアル]]伝送方式を開発し、2世代目のDVR-2000に実装し普及させた([[:en:SMPTE 259M|SMPTE 259M]]として規格化。'''[[:en:SMPTE 259M|SDI]]'''と略される。)ため、のちの[[データ圧縮|圧縮技術]]を用いた放送業務用デジタルVTRの多くが[[:en:SMPTE 259M|SDI]]をインターフェース規格として採用した。また、プロダクションスイッチャー等のビデオ編集・制作機器も「D-1信号」の「SDI」に対応した製品が普及している。 == D-1 フォーマット概要 == ※525/59.94/2:1[[走査|インターレース方式]]の場合を“525”、625/50/2:1インターレース方式の場合を“625”と付記。 *記録方式:[[ヘリカルスキャン方式]] *ヘッドドラム回転数:150Hz/1.001(525)/150Hz(625)(9,000rpm) *記録ヘッド数:4 *総トラック数/sec:600track/sec(10track/Field:525/12track/Field:625) *ヘッドドラム径:75mm *巻き付け角:約270° *ヘッド相対速度:約35.6m/s *記録トラック幅:35μm *トラックピッチ:45μm(内、ガードバンド10μm) *アジマス角:0° *カセットテープサイズ: 254×150×33mm(M)、他にLとSがあり *テープ磁性体:酸化鉄塗布型(保磁力:850 Oe) *テープ幅:19mm(約3/4インチ) *テープ厚:16μmまたは13μm *テープ送り速度:約286.6mm/s *記録時間:94分(13μmテープ、Lカセット) *信号記録方式:デジタル記録 **情報源[[符号化方式]] ***映像:4:2:2コンポーネントデジタル * 8bit量子化 * 8-8変換(非圧縮) ****映像帯域幅(±0.1dB) - Y:5.75MHz、B-Y/R-Y:2.75MHz ****標本化周波数 - Y:13.5MHz、B-Y/R-Y:6.75MHz ****総サンプル数/line - 858(525)/ 864(625) ****有効サンプル数/line - 720(525/625) ****総記録ライン数/Frame- 500(525)/ 600(625) ***音声:非圧縮 48kHz/20ビット直線量子化×4ch *2重書き **チャネル記録速度:約80Mbps/ヘッド(正味、約176Mbps) **記録(チャネル)符号化方式:スクランブルドNRZ*RS積符号(Inner[60,64]/Outer[30,32]) 前述の様に当時最高画質のSDTV用VTRであったが、8bitで量子化するフォーマットだったため ポストプロダクションでの画面合成(キーイングなど)には十分とは言えず、その後10bit量子化のD-5 VTRやDigital BETACAM VTRなどの商品化に繋がった。 == 規格名称 == *CCIR 657:CCIR Recommendation 657:Digital Television Tape Recording *SMPTE ST 224:[[SMPTE]]による記録方式規格<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 224:2003 - SMPTE Standard - For Television Digital Component Recording — 19-mm Type D-1 — Tape Record|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7291626|journal=ST 224:2003|pages=1–5|doi=10.5594/SMPTE.ST224.2003}}</ref> *SMPTE ST 225:磁気テープ規格<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 225:2003 - SMPTE Standard - For Television Digital Component Recording — 19-mm Type D-1 — Magnetic Tape|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7290597|journal=ST 225:2003|pages=1–3|doi=10.5594/SMPTE.ST225.2003}}</ref> *SMPTE ST 226:テープカセット規格(D-1/D-2共通)<ref>{{Cite journal|date=1996-10|title=ST 226:1996 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Tape Cassettes|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7292025|journal=ST 226:1996|pages=1–26|doi=10.5594/SMPTE.ST226.1996}}</ref> *SMPTE ST 227:テープへの記録フォーマット(映像データ)<ref>{{Cite journal|date=1996-08|title=ST 227:1996 - SMPTE Standard - For Television Digital Component Recording — 19-mm Type D-1 — Helical Data and Control Records|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7291296|journal=ST 227:1996|pages=1–37|doi=10.5594/SMPTE.ST227.1996}}</ref> *SMPTE ST 228:同上([[タイムコード]]、制御、キューデータ)<ref>{{Cite journal|date=1996-08|title=ST 228:1996 - SMPTE Standard - For Television Digital Component Recording — 19-mm Type D-1 — Time and Control Code and Cue Records|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7289955|journal=ST 228:1996|pages=1–2|doi=10.5594/SMPTE.ST228.1996}}</ref> *SMPTE ST 125:パラレルインターフェース規格<ref>{{Cite journal|date=2013-12|title=ST 125:2013 - SMPTE Standard - SDTV Component Video Signal Coding 4:4:4 and 4:2:2 for 13.5 MHz and 18 MHz Systems|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7290423|journal=ST 125:2013|pages=1–26|doi=10.5594/SMPTE.ST125.2013}}</ref> *[[:en:SMPTE 259M|SMPTE ST 259]]:[[シリアルデジタルインターフェイス]]規格<ref>{{Cite journal|date=2008-01|title=ST 259:2008 - SMPTE Standard - For Television — SDTV - Digital Signal/Data — Serial Digital Interface|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7292109|journal=ST 259:2008|pages=1–18|doi=10.5594/SMPTE.ST259.2008}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[D2-VTR|D-2 VTR]] *[[D3-VTR]] *[[D5-VTR]] *[[D6-VTR]] *[[HDCAM]] *[[DVCPRO]] *[[P2]] *[[D-VHS]] *[[W-VHS]] {{Video formats}} {{Video storage formats}} [[Category:ビデオテープ]]
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D5-VTR
D5-VTRとはパナソニックがD3-VTRの走行系を元に開発した、ITU-R601フォーマットのコンポーネントデジタルビデオ信号を1/2インチカセットテープに非圧縮で記録するビデオテープレコーダである。 D3-VTRと異なり、ビデオ信号はコンポーネント10ビット量子化記録が可能である。また、16:9のワイドアスペクトのビデオ信号を8ビット量子化で記録する機能も備える。記録レートは301Mb/s。HD(ハイビジョン)の圧縮記録も可能。 HD放送の普及とともにマスターVTRとして特にNHKとWOWOWでのみ中心的な規格として採用されている。D5はNHKと共同で開発したもので、NHKの番組の送出の際の完プロ(NHK用語で言う完パケ)などは全てD5を使用している(ニュースの取材やドラマの収録はソニーのHDCAMを使用することが殆どである)。また、IMAGICA等に保存されている映画会社の決まりロゴなどもD5規格が採用されている。 民放のハイビジョンはHDCAMやDVCPROHDを使っており、D5は補助的な役割が多い。最近ではP2HDと呼ばれるテープレスへの移行が進んでいる。現在は録画・再生機器の生産は完了しており、既存ユーザーのためのD5用ビデオテープの供給のみ行われている。
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D5-VTRとはパナソニックがD3-VTRの走行系を元に開発した、ITU-R601フォーマットのコンポーネントデジタルビデオ信号を1/2インチカセットテープに非圧縮で記録するビデオテープレコーダである。 D3-VTRと異なり、ビデオ信号はコンポーネント10ビット量子化記録が可能である。また、16:9のワイドアスペクトのビデオ信号を8ビット量子化で記録する機能も備える。記録レートは301Mb/s。HD(ハイビジョン)の圧縮記録も可能。 HD放送の普及とともにマスターVTRとして特にNHKとWOWOWでのみ中心的な規格として採用されている。D5はNHKと共同で開発したもので、NHKの番組の送出の際の完プロ(NHK用語で言う完パケ)などは全てD5を使用している(ニュースの取材やドラマの収録はソニーのHDCAMを使用することが殆どである)。また、IMAGICA等に保存されている映画会社の決まりロゴなどもD5規格が採用されている。 民放のハイビジョンはHDCAMやDVCPROHDを使っており、D5は補助的な役割が多い。最近ではP2HDと呼ばれるテープレスへの移行が進んでいる。現在は録画・再生機器の生産は完了しており、既存ユーザーのためのD5用ビデオテープの供給のみ行われている。
{{出典の明記|date=2018年6月}} {{右| [[ファイル:Panasonic_AJ_HD3700H.jpg|thumb|none|250px|パナソニック D5-VTR AJ-HD3700H]] [[ファイル:Panasonic_AJ_TD90L.jpg|thumb|none|250px|D5-VTR用カセットテープ(Mサイズ)]] }} '''D5-VTR'''とは[[パナソニック]]が[[D3-VTR]]の走行系を元に開発した、[[ITU-R601]]フォーマットのコンポーネントデジタルビデオ信号を1/2インチカセットテープに非圧縮で記録する[[ビデオテープレコーダ]]である。 D3-VTRと異なり、ビデオ信号はコンポーネント10ビット量子化記録が可能である。また、16:9のワイドアスペクトのビデオ信号を8ビット量子化で記録する機能も備える。記録レートは301Mb/s。HD([[ハイビジョン]])の圧縮記録も可能。 HD放送の普及とともにマスターVTRとして特に[[日本放送協会|NHK]]と[[WOWOW]]でのみ中心的な規格として採用されている。D5は[[日本放送協会|NHK]]と共同で開発したもので、NHKの番組の送出の際の完プロ(NHK用語で言う[[完全パッケージメディア|完パケ]])などは全てD5を使用している(ニュースの取材やドラマの収録は[[ソニー]]の[[HDCAM]]を使用することが殆どである)。また、[[IMAGICA]]等に保存されている映画会社の決まりロゴなどもD5規格が採用されている。 民放のハイビジョンはHDCAMや[[DVCPRO]]HDを使っており、D5は補助的な役割が多い。最近では[[P2]]HDと呼ばれるテープレスへの移行が進んでいる。現在は録画・再生機器の生産は完了しており、既存ユーザーのためのD5用ビデオテープの供給のみ行われている。 == 関連項目 == * [[ITU-R601]] * [[D1-VTR]] * [[D3-VTR]] * [[D6-VTR]] * [[D9-VTR]] * [[UNIHI]] * [[HDCAM]] * [[DVCPRO]] * [[P2]] * [[D-VHS]] * [[W-VHS]] {{Video formats}} {{Video storage formats}} [[Category:ビデオテープ]] [[Category:パナソニックのAV機器]]
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D3-VTR
D3-VTRとはD2-VTRと同じコンポジットデジタルビデオ信号を、1/2インチカセットテープに非圧縮で記録するビデオテープレコーダである。 D2-VTRの1/2インチカセット版、あるいはD5-VTRのコンポジット版ともいえる。 1991年に発売され、開発は日本放送協会(NHK)と松下電器産業(現:パナソニック)が共同で行った。MIIの後継規格の位置づけである。 NHKや放送大学の番組制作および番組送出用として使用されたがソニーがDigital BETACAMのリリースを早々と予告していた事もあり、民放での採用実績はほとんどなかった。 1992年開催のバルセロナオリンピックにおいて公式記録用として採用され、松下電器産業が機材を投入した。しかし毎分9,000回転というヘッドシリンダーが発する騒音がカメラマンには不評だったという。
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{{出典の明記|date=2018年6月}} {{右| [[ファイル:Panasonic AJ-D350 20020110.jpg|thumb|none|250px|松下電器産業 D3-VTR AJ-D350]] [[ファイル:Panasonic D3 Casette (rotated cropped).jpg|thumb|none|250px|D3-VTR用カセットテープ(Mサイズ)]] }} '''D3-VTR'''とは[[D2-VTR]]と同じコンポジットデジタルビデオ信号を、1/2インチカセットテープに非圧縮で記録する[[ビデオテープレコーダ]]である。 D2-VTRの1/2インチカセット版、あるいは[[D5-VTR]]のコンポジット版ともいえる。 1991年に発売され、開発は[[日本放送協会]](NHK)と松下電器産業(現:[[パナソニック]])が共同で行った。[[MII]]の後継規格の位置づけである。 NHKや[[放送大学]]の番組制作および番組送出用として使用されたがソニーが[[Digital BETACAM]]のリリースを早々と予告していた事もあり、[[民間放送|民放]]での採用実績はほとんどなかった。 [[1992年]]開催の[[バルセロナオリンピック]]において公式記録用として採用され、松下電器産業が機材を投入した。しかし毎分9,000回転というヘッドシリンダーが発する騒音がカメラマンには不評だったという。 == 関連項目 == * [[ITU-R601]] * [[D1-VTR]] * [[D2-VTR]] * [[D5-VTR]] * [[Digital BETACAM]] * [[BETACAM-SX]] * [[M規格]] * [[MII]] * [[DVCAM]] * [[HDCAM]] * [[DVCPRO]] * [[P2]] * [[D-VHS]] * [[W-VHS]] {{Video formats}} {{Video storage formats}} [[Category:ビデオテープ]] [[Category:パナソニックのAV機器]]
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ニュースサイト
ニュースサイトとはインターネット上で無料または有料にてニュースを掲載・提供しているウェブサイトの総称。 インターネットのニュースサイトには、新聞社やテレビ局などが自社で報道した内容を一定期間提供するものと、新聞社・通信社やテレビ局などと提携しニュースの配信を受けて掲載するタイプがある。 日本の新聞社や通信社のニュースサイトは、英数字にも全角文字を用いることが多いが、これは縦書きで原稿を書いていた習慣が形式として残ったものである。 大半は、一定期間(大半は数週間から1ヶ月程度)を過ぎるとウェブサイト上から参照できなくなるか、無料での閲覧ができなくなる(有料での提供をしている場合がある)。
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ニュースサイトとはインターネット上で無料または有料にてニュースを掲載・提供しているウェブサイトの総称。
{{複数の問題 |出典の明記=2013年6月5日 (水) 09:32 (UTC) |独自研究=2013年6月5日 (水) 09:32 (UTC) }} [[File:English Wikinews Main Page screenshot with Facebook promotion.png|thumb|[[ウィキニュース]]英語版のメインページ]] '''ニュースサイト'''とは[[インターネット]]上で[[無料]]または[[有料]]にて[[ニュース]]を掲載・提供している[[ウェブサイト]]の総称。 == 概要 == [[インターネット]]のニュースサイトには、[[新聞社]]や[[テレビ局]]などが自社で報道した内容を一定期間提供するものと、新聞社・[[通信社]]やテレビ局などと提携しニュースの配信を受けて掲載するタイプがある。 日本の新聞社や通信社のニュースサイトは、[[アルファベット|英]][[アラビア数字|数字]]にも[[全角と半角#歴史|全角]][[文字]]を用いることが多いが、これは縦書きで原稿を書いていた習慣が形式として残ったものである<ref>{{Cite web|和書|url= https://hbol.jp/212977/|title= 四半世紀の時を経て、新聞系サイトが英数字の表記を半角へ |publisher=[[ハーバー・ビジネス・オンライン]] |accessdate=2021-10-3}}</ref>。 大半は、一定期間(大半は数週間から1ヶ月程度)を過ぎるとウェブサイト上から参照できなくなるか、無料での閲覧ができなくなる(有料での提供をしている場合がある)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * 平井智尚 「{{PDFlink|[https://www.mediacom.keio.ac.jp/publication/pdf2010/hirai.pdf 個人ニュースサイトの「ニュース」について考える]}}」 『{{PDFlink|[http://www.mediacom.keio.ac.jp/blog/%E5%88%8A%E8%A1%8C%E7%89%A9/pubkiyo/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%80%94%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E7%B4%80%E8%A6%81%E3%80%95no-60/ 慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要]}}』 No.60 慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所 2010年3月 * [https://www.sdki.jp/reports 市場調査レポート] (世界市場産業の将来動向と成長レポート) == 関連項目 == * [[個人ニュースサイト]] * [[ネットニュース]] * [[コタツ記事]] * [[検索エンジン]] * [[ニュース・アグリゲーター]] {{DEFAULTSORT:にゆうすさいと}} [[Category:ニュースサイト|*]] [[Category:オンライン情報源]] [[Category:報道]] {{Internet-stub}}
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下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。 現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。 『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐()」と呼び、これが「しもふさ」「しもうさ」に転じたという。 この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。 律令制以前には印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のち豊田郡が加わる)。元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、宝亀2年(771年)に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更された。国府は市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。 古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し、源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。鎌倉・室町時代と守護の地位を確保し、中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、「千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。一方、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。 15世紀前半の永享の乱やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。結城氏は結城合戦で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も享徳の乱における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と千葉から佐倉に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい小田原の北条氏と対抗した。1538年(天文7年)と1564年(永禄7年)の国府台合戦においてはじめに足利義明が敗死、また義明の後に台頭した安房国の里見氏が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と上杉氏や佐竹氏との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。 徳川家康の関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は結城城で11万石余を領して家康の次男である結城秀康を養子に迎えて後を継がせていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に秀康が越前北庄(現・福井市)に転封されると、名字も松平氏と改め、結城城も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである(姫路藩→前橋藩)松平家が行った)。 結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他の藩はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに幕府領や旗本領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年 - 1643年)に、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は天保期には約1620か村を数えた。 1867年(慶応3年)の大政奉還の時点で下総国内には結城、古河、関宿、佐倉、高岡、多古、小見川の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。1868年(慶応4年、明治元年)、幕府が崩壊して明治政府が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は下総知県事(佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は武蔵知県事または安房上総知県事の所管)。1869年(明治2年)に下総知県事の管轄区域に葛飾県が置かれ、水筑龍が知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに曾我野藩が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に印旛県が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は常陸国の南半部とともに新治県となった。1873年(明治6年)、印旛県は木更津県(上総・安房両国を管轄区域とする)と合併して千葉県となり、1875年(明治8年)に新治県が廃止されると南半の下総国3郡が千葉県に編入され、逆に(旧)千葉県管下で利根川以北の区域(結城、豊田、岡田、猿島の4郡および葛飾・相馬両郡の一部)が茨城県に編入された。また同時に、葛飾郡のうち江戸川以西の区域が埼玉県に移管された。この結果、下総国は茨城・千葉・埼玉の3県に分割された。 市川市国府台では、国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。国府の中心である国庁の正確な位置はわかっていないが、1995年からの和洋女子大学敷地内の発掘調査などでは国衙の周囲の溝と推測される跡が発見された。この発見により、国府台地区に国府があったことが考古学的にも確実視されるようになった。2023年に市川市教育委員会が調査を実施した結果、下総国の国衙跡に関連すると考えられる区画溝や掘立柱建物などが見つかり、区画溝からは土器が数点出土したようである。これにより、千葉商科大学の駐車場周辺は、より重要な施設が存在していたのではないかと推測されるようになり、その結果、地元研究者の間では「今の市営野球場の位置にあったのでは」と推測されるようになった。ところが、その頃、施設の改修や建て替え工事が相次いでおり、埋まったままの遺構が工事で破壊されかねないと、地元の市民団体が「調査体制の整備を」と市川市や千葉県に要望を続けているところである。 郡衙は、下総の郡家のうち埴生郡家は栄町大畑遺跡、また郡家に関連する下総相馬郡の田祖・正税を入れる正倉が我孫子市日秀西遺跡と想定されている。 一宮の香取神宮の力が非常に大きいため、二宮以下は実質的には存在しなかったという説もある。 いずれも律令時代の駅。 太字は主要なもの。 カッコ内には補足(他の呼称・管理者・成立年等)を記述する。 特記事項のない限り、須田茂『房総諸藩録』(崙書房、1985年)による。ただし、徳川家康の関東入部後に配置され、関ケ原の合戦後に大名となって転出した1万石以下の知行地も含む。 出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
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下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 下総国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|下総国}} |別称 = [[総州]](そうしゅう)<ref group="注釈">別称「総州」は[[上総国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref> |領域 = [[千葉県]]北部、[[茨城県]]南西部、[[埼玉県]]東辺、[[東京都]]東辺([[隅田川]]東岸) |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 11郡91郷 |国府 = 千葉県[[市川市]] |国分寺 = 千葉県市川市([[下総国分寺#下総国分寺跡|下総国分寺跡]]) |国分尼寺 = 千葉県市川市([[下総国分尼寺跡]]) |一宮 = [[香取神宮]](千葉県[[香取市]]) }} '''下総国'''(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属し、現在の[[千葉県]]北部と[[茨城県]]南西部が主たる領域にあたる。 == 概要 == 現在の千葉県北部と[[茨城県]]南西部を主たる領域とする旧国名。北で[[常陸国]]と[[下野国]]、西で[[上野国]]と[[武蔵国]]、南で[[上総国]]、[[東京湾|内海]]を挟んで[[相模国]]と接する。 『[[古語拾遺]]』によると、よき[[アサ|麻]]の生いたる土地というところより[[総国|捄国]](ふさのくに・総国)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「{{読み仮名|'''之毛豆不佐'''|しもつふさ}}」と呼び、これが「しもふさ」「しもうさ」に転じたという。 この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも[[首都|都]](近代以前の概念では[[畿内#日本の畿内|畿内]])に近いほうが「上」「前」と考えられている<ref>{{CRD|1000115193|栃木県の旧国名「下野」について、上下で区別されているのはなぜか。上野・下野、上総・下総以外は、越前・越後のように全て前後で区別されているが。|栃木県立図書館}}</ref>。上総国と下総国の場合、[[西国]]からの[[移住]]や[[開拓]]が[[黒潮]]にのって外房側からはじまり、そのため[[房総半島]]の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった<ref>[[石井進]]他・編 『千葉県の歴史』 [[山川出版社]]、2000年、ISBN 4-634-32120-3、「千葉と房総三国の名の由来」の項。</ref>。また、[[毛野]]から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を[[6世紀]]中葉とみる説もある<ref>[[楠原佑介]]他・編『古代地名語源辞典』 [[東京堂出版]]、1981年、ISBN 4-490-10148-1、「総」の項。</ref>。 == 沿革 == [[律令制#日本の律令制|律令制]]以前には[[印波国造|印波]]、[[千葉国造|千葉]]、[[下海上国造|下海上]]の[[国造]]が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、[[葛飾郡|葛飾]]、[[千葉郡|千葉]]、[[印旛郡|印旛]]、[[匝瑳郡|匝瑳]]、[[相馬郡 (下総国)|相馬]]、[[猿島郡|猿島]]、[[結城郡|結城]]、[[岡田郡|岡田]]、[[海上郡|海上]]、[[香取郡|香取]]、[[下埴生郡|埴生]]の11の[[郡]]([[評]])をもって令制国としての下総国とした(のち[[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]]が加わる)。元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、[[宝亀]]2年([[771年]])に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更された。国府は[[市川市]][[国府台 (市川市)|国府台]]付近に置かれ、国級は[[大国]]に位置づけられた。 [[古代]]末期から[[中世]]にかけて[[千葉氏]]が台頭し、[[源頼朝]]を支援して[[鎌倉幕府]]創設に尽力した。[[鎌倉時代|鎌倉]]・[[室町時代]]と守護の地位を確保し、中世には千葉氏の歴代当主が下総の[[守護]]と[[国司|権介]]を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて'''千葉介'''(ちばのすけ、「[[千葉郡]]を領する(権)介」)と呼称された。一方、最北部の[[結城郡]]を中心とした[[下野国]]との境界付近に根拠を持つ[[小山氏]]の庶流・[[結城氏]]も鎌倉幕府の創設に貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。 [[15世紀]]前半の[[永享の乱]]やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。結城氏は[[結城合戦]]で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も[[享徳の乱]]における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と[[亥鼻城|千葉]]から[[本佐倉城|佐倉]]に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った[[小弓御所]][[足利義明]]が勢威をふるい[[小田原城|小田原]]の[[後北条氏|北条氏]]と対抗した。[[1538年]]([[天文 (日本)|天文]]7年)と[[1564年]]([[永禄]]7年)の[[国府台合戦]]においてはじめに[[足利義明]]が敗死、また義明の後に台頭した[[安房国]]の[[里見氏]]が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた[[原氏]]、また[[高城氏 (下総国)|高城氏]]らが従属下に置かれるようになった。[[1590年]]([[天正]]18年)、[[豊臣秀吉]]の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と[[上杉氏]]や[[佐竹氏]]との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。 [[徳川家康]]の[[関東]]入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は[[結城城]]で11万石余を領して家康の次男である[[結城秀康]]を養子に迎えて後を継がせていたが、[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]後に秀康が[[越前国|越前]]北庄(現・[[福井市]])に転封されると、名字も[[松平氏]]と改め、結城城<ref group="注釈">元禄年間には[[結城藩]]が再置されて、結城城も再建されたものの、石高は明治維新まで1.8万石であった。</ref>も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである[[越前松平家|(姫路藩→前橋藩)松平家]]が行った)。 結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは[[古河藩]](最大16万石)、[[佐倉藩]](最大14.2万石)、[[関宿藩]](最大7.3万石)のみで、その他の[[藩]]はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに[[幕府領]]や[[旗本]]領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期([[1683年]](貞享3年)また一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]] - [[1643年]])に、下総の[[葛飾郡]]から[[利根川]](現在の[[江戸川]]下流)以西の地域を割き、[[武蔵国]]の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は[[天保]]期には約1620か村を数えた。 [[1867年]]([[慶応]]3年)の[[大政奉還]]の時点で下総国内には[[結城藩|結城]]、古河、関宿、佐倉、[[高岡藩|高岡]]、[[多古藩|多古]]、[[小見川藩|小見川]]の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。[[1868年]](慶応4年、[[明治]]元年)、[[江戸幕府|幕府]]が崩壊して[[明治政府]]が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は[[下総知県事]](佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は[[武蔵知県事]]または[[安房上総知県事]]の所管)。[[1869年]](明治2年)に下総知県事の管轄区域に[[葛飾県]]が置かれ、水筑龍が知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに[[曾我野藩]]が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に[[印旛県]]が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は[[常陸国]]の南半部とともに[[新治県]]となった。[[1873年]](明治6年)、印旛県は[[木更津県]]([[上総国|上総]]・[[安房国|安房]]両国を管轄区域とする)と合併して[[千葉県]]となり、[[1875年]](明治8年)に新治県が廃止されると南半の下総国3郡が千葉県に編入され、逆に(旧)千葉県管下で[[利根川]]以北の区域(結城、豊田、岡田、猿島の4郡および葛飾・相馬両郡の一部)が茨城県に編入された。また同時に、葛飾郡のうち[[江戸川]]以西の区域が[[埼玉県]]に移管された<ref group="注釈">埼玉県は既に武蔵国葛飾郡の北半部を管下に置いている。</ref>。この結果、下総国は茨城・千葉・埼玉の3県に分割された<ref group="注釈">埼玉県に編入された下総国葛飾郡は[[中葛飾郡]]となったのち、武蔵国葛飾郡北半を以て編成された[[北葛飾郡]]に編入された。これは下総国であった区域が武蔵国に編入されたことになるので、通常、埼玉県は全域が武蔵国であったとして扱われる。</ref>。 === 明治以後の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,640村・685,804石7斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[葛飾郡]](337村・125,308石余) - [[天領|幕府領]]、'''[[関宿藩]]'''、'''[[古河藩]]'''、[[下野国|下野]][[壬生藩]]、[[駿河国|駿河]][[田中藩]] ** [[猿島郡]](82村・45,915石余) - 幕府領、関宿藩、古河藩、下野壬生藩、[[丹後国|丹後]][[峰山藩]] ** [[結城郡]](53村・35,007石余) - 幕府領、[[一橋徳川家]]領、'''[[結城藩]]'''、下野壬生藩 ** [[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]](80村・38,251石余) - 幕府領、[[出羽国|出羽]][[長瀞藩]]、[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]、[[常陸国|常陸]][[牛久藩]]、下野[[烏山藩]] ** [[岡田郡]](42村・22,573石余) - 幕府領、常陸牛久藩 ** [[千葉郡]](136村・44,943石余) - 幕府領、'''[[生実藩]]'''、佐倉藩、出羽長瀞藩 ** [[印旛郡]](272村・69,228石余) - 幕府領、'''[[佐倉藩]]'''、高岡藩、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]]、[[山城国|山城]][[淀藩]] ** [[下埴生郡|埴生郡]](62村・25,791石余) - 幕府領、[[田安徳川家]]領、佐倉藩、出羽長瀞藩、山城淀藩 ** [[香取郡]](296村・149,119石余) - 幕府領、田安徳川家領、'''[[小見川藩]]'''、'''[[多古藩]]'''、'''[[高岡藩]]'''、佐倉藩、[[上総国|上総]][[飯野藩]]、[[安房国|安房]][[館山藩]]、安房[[船形藩]]、[[上野国|上野]][[安中藩]]、[[三河国|三河]][[西端藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]、山城淀藩 ** [[匝瑳郡]](68村・37,491石余) - 幕府領、佐倉藩、生実藩、上野安中藩、三河西端藩 ** [[海上郡]](70村・27,258石余) - 幕府領、佐倉藩、小見川藩、生実藩、上野[[高崎藩]]、上野安中藩 ** [[相馬郡 (下総国)|相馬郡]](142村・64,913石余) - 幕府領、田安徳川家領、関宿藩、高岡藩、上総[[一宮藩]]、常陸[[土浦藩]]、常陸牛久藩、下野烏山藩、駿河田中藩、山城淀藩 * [[慶応]]4年 ** [[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1868年]][[8月15日]]) - 結城郡、猿島郡、豊田郡、岡田郡の幕府領・旗本領が'''[[常陸知県事]]'''の管轄となる。 ** [[7月2日 (旧暦)|7月2日]](1868年[[8月19日]]) - 海上郡、匝瑳郡および香取郡の一部の幕府領・旗本領、廃藩となった安房船形藩領(香取郡のうち)が'''[[安房上総知県事]]'''の管轄となる。 ** [[7月10日 (旧暦)|7月10日]](1868年[[8月27日]]) - 葛飾郡の一部が'''[[武蔵知県事]]'''の管轄となる。 ** [[7月13日 (旧暦)|7月13日]](1868年[[8月30日]]) - 駿河田中藩が安房[[長尾藩]]に[[転封]]され、飛地領の一部(葛飾郡のうち)が武蔵知県事の管轄となる。 ** [[8月8日 (旧暦)|8月8日]](1868年[[9月23日]]) - 相馬郡、千葉郡、印旛郡、埴生郡および葛飾郡、香取郡の一部が'''[[下総知県事]]'''の管轄となる。旧田中藩飛地領の残部(葛飾郡のうち)も管轄。 * 明治元年 ** [[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1868年[[11月7日]]) - 遠江浜松藩が上総鶴舞藩に転封。飛地領(印旛郡のうち)が下総知県事の管轄となる。 ** 領地替えにより武蔵[[岩槻藩]]が葛飾郡の一部を管轄。 * 明治2年 ** [[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1869年]][[2月23日]]) - 下総知県事の管轄区域に'''[[葛飾県]]'''を、武蔵知県事の管轄区域(葛飾郡のうち)に'''[[小菅県]]'''をそれぞれ設置。 ** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]](1869年[[3月21日]]) - 安房上総知県事の管轄区域に'''[[宮谷県]]'''を、常陸知県事の管轄区域に'''[[若森県]]'''をそれぞれ設置。 ** [[11月19日 (旧暦)|11月19日]](1869年[[12月21日]]) - 羽前長瀞藩が上総[[大網藩]]に転封。飛地領は存続。 * 明治4年 ** [[2月17日 (旧暦)|2月17日]]([[1871年]][[4月6日]]) - 上総大網藩が常陸[[龍ヶ崎藩]]に転封。飛地領は存続。 ** [[3月19日 (旧暦)|3月19日]](1871年[[5月8日]]) - 下野[[高徳藩]]が転封により'''[[曾我野藩]]'''となり、千葉郡の一部を管轄。[[幕藩体制]]および[[府藩県三治制]]を通じて最後の[[藩]]の成立となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[佐倉県]]'''、'''[[古河県]]'''、'''[[関宿県]]'''、'''[[結城県]]'''、'''[[生実県]]'''、'''[[曾我野県]]'''、'''[[多古県]]'''、'''[[小見川県]]'''、'''[[高岡県]]'''および[[高崎県]]、[[安中県]]、[[壬生県]]、[[烏山県]]、[[土浦県]]、[[牛久県]]、[[龍ヶ崎県]]、[[一宮県]]、[[飯野県]]、[[館山県]]、[[西端県]]、[[津県]]、[[淀県]]、[[峰山県]]の飛地となる。 ** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次府県統合により、高崎県・安中県の飛地が[[群馬県]]の管轄となる。 ** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、峰山県の飛地が[[豊岡県]]の管轄となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、香取郡・匝瑳郡・海上郡が'''[[新治県]]'''、残部が'''[[印旛県]]'''に統合。おおむね多古県・小見川県・高岡県および宮谷県の一部が新治県に、佐倉県・古河県・関宿県・結城県・生実県・曾我野県・葛飾県および小菅県の一部が印旛県に統合された。 * 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 印旛県が[[木更津県]]と統合して'''千葉県'''が発足。 * 明治8年([[1875年]])[[5月7日]] - 第2次府県統合により、新治県のうち下総国を千葉県に、[[常陸国]]を茨城県に合併。それに伴う千葉県・茨城県の再編に合わせて、千葉県管下の下総国のうち[[利根川]]および旧利根川(現[[中川]]、[[行幸湖|権現堂川]])以北の区域(のちの[[西葛飾郡]]、[[北相馬郡]])が'''[[茨城県]]'''に、江戸川以西の村(のちの[[中葛飾郡]])が'''[[埼玉県]]'''に移管。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[File:下総総社跡.JPG|thumb|200px|right|[[六所神社 (市川市)|下総総社]]跡<br/>現在は国府台公園。国府跡も周辺と推定される。]] 市川市国府台では、国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。国府の中心である[[国庁]]の正確な位置はわかっていないが、1995年からの[[和洋女子大学]]敷地内の発掘調査などでは[[国衙]]の周囲の溝と推測される跡が発見された。この発見により、国府台地区に国府があったことが考古学的にも確実視されるようになった。2023年に市川市教育委員会が調査を実施した結果、下総国の国衙跡に関連すると考えられる区画溝や掘立柱建物などが見つかり、区画溝からは土器が数点出土したようである。これにより、[[千葉商科大学]]の駐車場周辺は、より重要な施設が存在していたのではないかと推測されるようになり<ref>[https://www.cuc.ac.jp/news/2023/mstsps000002xp23.html 最新情報:本学駐車場の埋蔵文化財発掘調査を実施]千葉商科大学 2023年7月23日閲覧</ref>、その結果、地元研究者の間では「今の市営野球場の位置にあったのでは」と推測されるようになった。ところが、その頃、施設の改修や建て替え工事が相次いでおり、埋まったままの遺構が工事で破壊されかねないと、地元の市民団体が「調査体制の整備を」と市川市や千葉県に要望を続けているところである<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/256031 <ちばライブ>市川・国府台 下総国の国庁の位置確定したい 市民団体、工事での遺構破壊懸念][[東京新聞]]千葉版 2023年7月23日閲覧</ref>。 [[郡衙]]は、下総の郡家のうち埴生郡家は栄町大畑遺跡、また郡家に関連する下総相馬郡の田祖・正税を入れる正倉が我孫子市日秀西遺跡と想定されている。 === 国分寺・国分尼寺 === * [[下総国分寺|下総国分寺跡]] (千葉県[[市川市]]国分、{{Coord|35|44|38.91|N|139|54|59.47|E|region:JP-12_type:landmark|name=下総国分寺跡}}) :: 国の史跡。跡地上に後継の国分山国分寺(市川市国分、本尊:薬師如来)があり、法灯を伝承する。 * [[下総国分尼寺跡]] (千葉県市川市国分、{{Coord|35|44|47.56|N|139|54|46.70|E|region:JP-12_type:landmark|name=下総国分尼寺跡}}) :: 国の史跡。僧寺跡の北西に所在。南大門・中門・金堂・講堂が並び、一番奥に尼坊が配置されていた。後継はない。 === 神社 === ; [[延喜式内社]]<!--他の令制国同様、名神大社に限定:一覧項があるので--> : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社1座1社・小社10座10社の計11座11社が記載されている([[下総国の式内社一覧]]参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。 * [[香取郡]] [[香取神宮]] (千葉県[[香取市]]香取、{{Coord|35|53|10.03|N|140|31|43.33|E|region:JP-12_type:landmark|name=下総国一宮、名神大社:香取神宮}}) ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社:[[六所神社 (市川市)|六所神社]] (千葉県市川市[[須和田]]、{{Coord|35|44|11.73|N|139|55|01.30|E|region:JP|name=下総国総社:六所神社}}) - 元は同市国府台の国府跡近くにあったが、旧陸軍の駐屯により現在地に遷座した。 * 一宮:[[香取神宮]] * 二宮 ** [[二宮神社 (船橋市)|二宮神社]] (千葉県[[船橋市]]、{{Coord|35|42|06.4|N|140|03|08.2|E|region:JP-12_type:landmark|name=下総国二宮:二宮神社}}) ** [[玉崎神社]] (千葉県[[旭市]]、{{Coord|35|41|51.36|N|140|43|35.76|E|region:JP-12_type:landmark|name=下総国二宮:玉崎神社}}) 一宮の香取神宮の力が非常に大きいため、二宮以下は実質的には存在しなかったという説もある。 === 安国寺利生塔 === * 安国寺 - 茨城県[[古河市]]にあったと伝えられるが廃寺である * 利生塔 - 雲富山[[大慈恩寺 (成田市)|大慈恩寺]](千葉県[[成田市]]吉岡、本尊:釈迦如来)が継承 === 駅 === いずれも律令時代の駅。 * [[井上駅 (宿駅)|井上駅]]([[千葉県]][[市川市]][[市川 (市川市)|市川]]付近)馬10頭 * [[浮嶋駅]]([[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張町]]付近)馬5頭 * [[河曲駅 (宿駅)|河曲駅]](千葉市[[中央区 (千葉市)|中央区]]中央・本千葉付近)馬5頭 * [[茜津駅]]([[柏市]]北柏・[[松戸市|松戸]]・[[我孫子市]]船戸付近)馬10頭 * [[於賦駅]]([[我孫子市]]新木・布佐付近)馬10頭 * [[鳥取駅 (宿駅)|鳥取駅]]([[佐倉市]]神門・宮本付近)805年に廃止 * [[山方駅]]([[成田市]]郷部付近)805年に廃止 * [[真敷駅]](成田市南敷・乗馬里付近)805年に廃止 * [[荒海駅 (宿駅)|荒海駅]](成田市荒海・磯部付近)805年に廃止 === 馬牧 === * [[諸国牧]](飛鳥時代) ** [[高津馬牧]]([[八千代市]][[高津 (八千代市)|高津]]を中心とした一帯または[[香取郡]][[多古町]]高津付近とする説もある) ** [[大結馬牧]]([[船橋市]][[夏見]]付近一帯または[[茨城県]][[常総市]]大生郷町から同市古間木一帯とする説もある) ** [[浮島牛牧]]([[千葉市]][[花見川区]][[幕張]]一帯または[[東京都]][[墨田区]][[浮島]]一帯とする説もある) ** [[木島牧]] ** [[長洲牧]] * [[江戸幕府]]直轄牧馬 ** [[小金牧]] ** [[佐倉牧]] === 城館 === * [[千葉県の城#下総国]]を参照 === 湊・津 === 太字は主要なもの。 ====内海==== {{div col|cols=4}} * 船橋湊 * '''検見川湊''' * '''曽我野湊''' * '''登戸湊''' * 寒川湊 {{div col end}} ====外海==== {{div col|cols=4}} * '''飯沼湊''' {{div col end}} ====利根川・香取海==== {{div col|cols=4}} * 垣根津 * 野尻津 * 森戸津 * '''笹本津''' * 今泉津 * 石出津 * 笹川津 * '''小見川津''' * '''側高津''' * 篠原津 * 井戸庭津 * '''佐原津''' * 関戸津 * 岩ヶ崎津 * '''神崎津''' {{div col end}} == 地域 == ===古代-中世=== ====郡と荘園==== {| width="415px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" ! style="text-align:center"| |- | style="text-align:center"|<div style="width:415px;float:center;margin:0;position:relative;">[[image:Shimousa no kuni-gray.gif|400px]] <div style="position:absolute;left:80px;top:190px;font-size:12px">(1)[[葛飾郡]]</div> <div style="position:absolute;left:120px;top:160px;font-size:12px">(2)[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]</div> <div style="position:absolute;left:150px;top:250px;font-size:12px">(3)[[千葉郡]]</div> <div style="position:absolute;left:180px;top:210px;font-size:12px">(4)[[印旛郡]]</div> <div style="position:absolute;left:200px;top:190px;font-size:12px">(5)[[下埴生郡]]</div> <div style="position:absolute;left:270px;top:170px;font-size:12px">(6)[[香取郡]]</div> <div style="position:absolute;left:350px;top:220px;font-size:12px">(7)[[海上郡]]</div> <div style="position:absolute;left:290px;top:240px;font-size:12px">(8)[[匝瑳郡]]</div> <div style="position:absolute;left:40px;top:45px;font-size:12px">(9)[[結城郡]]</div> <div style="position:absolute;left:30px;top:80px;font-size:12px">(10)[[猿島郡]]</div> <div style="position:absolute;left:100px;top:110px;font-size:12px">(11)[[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]]</div> <div style="position:absolute;left:80px;top:90px;font-size:12px">(12)[[岡田郡]]</div> |} カッコ内には補足(他の呼称・管理者・成立年等)を記述する。 *(1)'''[[葛飾郡]]''' **[[風早郷]]、[[松戸荘]]、[[矢木郷]]、[[国分郷]](国分寺領)、[[八幡荘 (下総国)|八幡荘]](不明)、[[夏見御厨]] ([[伊勢神宮]]・[[1138年]] - )、[[下河辺荘]] ([[八条院]]・[[1186年]] - )、[[下河辺野方荘]]、[[大島郷]]、[[葛西御厨]]、[[葛西猿俣荘]]、[[島俣里]]、[[仲村里]]、[[甲和里]]、[[栗原郷]]、[[駅家郷]]、[[桑原郷]] *(2)'''[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]'''(全6郷) **[[相馬御厨]]([[伊勢神宮]]・[[1130年]] - )、[[相馬郷]]、[[大井郷]]、[[古溝郷]]、[[布佐郷]]、[[意部郷]] *(3)'''[[千葉郡]]''' **[[萓田郷]]・[[神保郷]](後に萓田神保御厨となる)、[[吉橋郷]]、[[千葉荘]]、[[白井荘]]([[延暦寺]]・[[1186年]] - )、[[菊田荘]]、[[武石郷]]、[[物部郷]]、[[山梨郷]]、[[三枝郷]]、[[池田郷]]、[[山家郷]]、[[糠郷]]、[[千葉郷]] *(4)'''[[印旛郡]]''' **[[印西条]]、[[平塚郷]]、[[臼井荘|臼井郷]] (臼井荘1331)、印東荘 (成就寺(仁和寺成就院ヵ・[[1186年]]([[1155年]]以前より荘園)、[[言美郷]]、[[三宅郷]]、[[村神郷]]、[[船穂郷]]、[[日理郷]]、[[吉高郷]]、[[印旛郷]]、[[余戸郷]]、[[鳥矢郷]]、[[長隅郷]] *(5)'''[[下埴生郡|埴生郡]]''' **[[埴生西条]]、[[富谷郷]]、[[河栗郷]]、[[遠山方御厨]](伊勢神宮・[[1249年]])、[[埴生荘園]](不明・[[1197年]])、[[酢取郷]]、[[麻在郷]]、[[玉作郷]]、[[山方郷]] *(6)'''[[香取郡]]''' **[[大須賀郷]](大須賀保・[[1271年]])、[[香取社領]](摂関家)、[[大戸荘]](摂関家・[[1186年]])、[[神崎荘]]([[1186年]])、[[小川郷]]、[[香取郷]]、[[大倉郷]]、[[山幡郷]]、[[大槻郷]]、[[磯々郷]] *(7)'''[[海上郡]]''' **[[小見荘]]、[[三崎荘]](海上荘)([[九条家]]・[[1186年]])、[[橘荘]](東荘)/[[木内荘]]([[藤原兼房 (太政大臣)|二位大納言]]家・[[1186年]])、[[松沢荘]](不明・[[1197年]])、[[三前郷]]、[[三宅郷]]、[[橘川郷]]、[[石田郷]]、[[軽部郷]]、[[神代郷]]、[[布方郷]]、[[編玉郷]]、[[小野郷]]、[[城上郷|城上(内)郷]] *(8)'''[[匝瑳郡]]''' **[[匝瑳北条荘]](不明・[[1197年]])、[[匝瑳南条荘]](匝瑳荘)([[熊野三山|熊野山]]・[[1186年]])、[[千田荘]](本家[[皇嘉門院]]、領家[[藤原親政]][[1180年]])、[[玉造荘]](園城寺・[[1186年]])、[[飯塚荘]](不明・[[1254年]])、[[田部郷]]、[[玉作郷]]、[[中村郷]]、[[石室郷]]、[[須賀郷]]、[[大田郷]]、[[辛川郷]]、[[珠浦郷]] *(9)'''[[結城郡]]''' **[[高橋郷]]、[[結城郷]]、[[茂治郷]]、[[小埇郷]]、[[余戸郷]] *(10)'''[[猿島郡]]''' **[[石井郷]]、[[葦津郷]]、[[八俣郷]] *(11)'''[[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]]''' **[[岡田郷]]、[[飯猪郷]]、[[太方郷]] *(12)'''[[岡田郡]]'''(豊田郡が分割成立) **[[手向郷]] === 中世 - 近世 === ==== 下総国の藩 ==== 特記事項のない限り、[[須田茂 (日本近世史学者)|須田茂]]『房総諸藩録』([[崙書房]]、1985年)による。ただし、徳川家康の関東入部後に配置され、関ケ原の合戦後に大名となって転出した1万石以下の知行地も含む。 {{div col|cols=4}} * [[小篠藩]]{{efn|[[本多康俊]](5000石)。慶長6年(1601年)に三河[[西尾藩]]に移封<ref name="kadokawanihonshi_1302">『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1302「近世大名配置表」</ref>。}} * [[蘆戸藩]]{{efn|[[木曾義利]](1万石)。慶長5年(1600年)除封<ref name="kadokawanihonshi_1302"/>。}} * [[小南藩]]{{efn|[[松平定勝]](3000石)。慶長6年(1601年)に遠江[[掛川藩]]に移封<ref name="kadokawanihonshi_1302"/>。}} * [[上代藩]]{{efn|[[松平家忠]](1万石)。[[小見川藩]]に移転。}} * [[小見川藩]] * [[矢作藩]] * [[多古藩]] * [[大須賀藩]]{{efn|[[天野康景]](5000石)。慶長5年(1600年)に駿河[[興国寺藩]]に移封。『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)「近世大名配置表」には大須賀(藩)の記載がない。}} * [[高岡藩]] * [[生実藩]] * [[曾我野藩]] * [[岩富藩]] * [[佐倉藩]] * [[臼井藩]] * [[栗原藩]] * [[下総山崎藩|山崎藩]] * [[関宿藩]] * [[布川藩]]{{efn|[[松平信一]](5000石)。慶長6年(1601年)に常陸[[土浦藩]]に移封<ref name="kadokawanihonshi_1302"/>。}} * [[井野藩]]{{efn|[[本多成重]](3000石→5000石)。慶長18年(1613年)に越前[[丸岡藩]]に移封<ref name="kadokawanihonshi_1301">『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)p.1301「近世大名配置表」</ref>。}} * [[守谷藩]] * [[大輪藩]] * [[下総山川藩|山川藩]] * [[結城藩]] * [[古河藩]] {{div col end}} ==== 郡と村 ==== ===近代以降=== ====郡と村==== {{div col|cols=4}} * [[葛飾郡]] * [[相馬郡 (下総国)|相馬郡]] * [[千葉郡]] * [[印旛郡]] * [[埴生郡]] * [[香取郡]] * [[海上郡]] * [[匝瑳郡]] * [[結城郡]] * [[猿島郡]] * [[豊田郡 (茨城県)|豊田郡]] * [[岡田郡]] {{div col end}} === 石高 === * 681,062 === 人口 === * 1721年(享保6年) - 54万2661人 * 1750年(寛延3年) - 56万5614人 * 1756年(宝暦6年) - 48万3526人 * 1786年(天明6年) - 46万8413人 * 1792年(寛政4年) - 46万4641人 * 1798年(寛政10年) - 48万4641人 * 1804年(文化元年) - 47万8721人 * 1822年(文政5年) - 41万9106人 * 1828年(文政11年) - 49万7758人 * 1834年(天保5年) - 40万2093人 * 1840年(天保11年) - 49万9507人 * 1846年(弘化3年) - 52万5041人 * 1872年(明治5年) - 64万5029人 出典: 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。 == 人物 == === 国司 === ==== 下総守 ==== * [http://www14.plala.or.jp/nikorobin/siryou.html 下総国司等一覧] * [[橘佐臣]] 従五位下 * [[橘仲任]] 従五位下 ==== 下総介 ==== * [[忌部広万呂]] * [[田中浄人]]:[[延暦]]9年([[790年]])任官 ==== 武家官位としての下総守 ==== * [[安田義定]] * [[若槻頼胤]] 従五位下 * [[多賀谷家重]] * [[多賀谷政経]] * [[蒲田致重]] * [[成田正等]] * [[成田顕泰]] * [[成田親泰]] * [[成田長泰]] * [[土田政久]] * [[滝川雄利]] 従五位下 * [[松平忠明]]([[1600年]]〈[[慶長]]5年〉 - )従五位下 * [[本多俊次]] 従五位下 * [[市橋長政]] 従五位下 * [[松平忠弘]]([[1645年]]〈[[正保]]2年〉- ) 従五位下 * [[堀田正仲]] 従四位下 * [[松平忠雅]] 従四位下 * [[庄田安利]]([[1695年]][[1月21日]]〈[[元禄]]7年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]〉 - )従五位下 * [[間部詮言]] 従五位下 * [[市橋政信]] 従五位下 * [[市橋信直]] 従五位下 * [[田村誠顕]] 従五位下 * [[畠山義紀]] 従四位上 * [[田村村隆]] 従五位下 * [[間部詮茂]] 従五位下 * [[市橋直挙]] 従五位下 * [[大沢基季]] 従四位下 * [[市橋長昭]] 従五位下 * [[保科正徳]]([[1810年]]〈[[文化 (元号)|文化]]7年6月〉 - )従五位下 * [[間部詮勝]]([[1818年]]〈[[文政]]元年12月〉{{年代要検証|年号|1818|date=2012年4月15日 (日) 02:56 (UTC)}} - )従五位下 * [[松平忠国 (武蔵国忍藩主)|松平忠国]] 従四位下 * [[市橋長和]] 正四位 * [[間部詮道]] 正五位 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * 1180年 - 1189年 : [[千葉常胤]] * 1209年 - ? : [[千葉成胤]] * 1250年 - ? : [[千葉頼胤]] * 1321年 - 1333年 : [[千葉貞胤]] ==== 室町幕府 ==== * 1336年 - 1351年 : 千葉貞胤 * 1353年 - 1365年 : [[千葉氏胤]] * 1365年 - 1417年 : [[千葉満胤]] * 1417年 - 1430年 : [[千葉兼胤]] * 1430年 - 1441年 : [[千葉胤直]] * 1441年 - 1454年 : [[千葉胤将]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Shimosa Province}} * [[令制国一覧]] * [[総武]] * [[しもうさ号]] - ([[2010年]]より運行を開始した、[[武蔵野線]][[西船橋駅]]方面と[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]を結ぶ直通列車) {{s-start}} {{s-bef|before=[[総国]]|表記=前}} {{s-ttl|title=区域の変遷 |years= [[6世紀|6世紀中葉]] - [[1868年]]|years2=}} {{s-aft|after=([[葛飾県|下総知県事]])<br />([[宮谷県|安房上総知県事]])|表記=次}} {{end}} {{令制国一覧}} {{房総三国の郡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しもうさのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国しもうさ]] [[Category:千葉県の歴史]] [[Category:茨城県の歴史]] [[Category:埼玉県の歴史]] [[Category:東京の歴史]] [[Category:下総国|*]]
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北海道旅客鉄道
北海道旅客鉄道株式会社(ほっかいどうりょかくてつどう、英: Hokkaido Railway Company) は、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)に基づき、北海道地方を中心として旅客鉄道等を運営する、日本の特殊会社。1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から北海道総局、釧路・旭川・青函船舶の各鉄道管理局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足したJRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR北海道(ジェイアールほっかいどう)、英語略称はJR Hokkaido。コーポレートカラーは萌黄色。 北海道を中心に鉄道路線を有し、本社を札幌市中央区に置く。切符の地紋には「北」と記されている。 国鉄分割民営化により鉄道21路線3,176.6 km、航路113.0 kmおよびバス事業を承継した、JR会社法による特殊会社で、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が全ての株式を所有している。 発足後、鉄道路線は在来線2線区と北海道新幹線が開業した一方、特定地方交通線の廃止や利用客の少ない線区の廃止により減少している。2023年4月1日時点での総営業キロは新幹線を含む幹線が6路線1,460.6 km、地方交通線が8路線876.0 kmの14路線計2,336.6 kmである。 航路(青函連絡船)は海峡線(青函トンネル)の開業に伴い、1988年3月13日に廃止され、バス事業は2000年4月1日に100%子会社のジェイ・アール北海道バスへ移管された。 かつては、海峡線を通じて、在来線の定期旅客列車が本州およびJR他社の路線へ乗り入れていたが、2016年3月26日の北海道新幹線開業後は同新幹線が定期旅客営業路線で唯一本州へ乗り入れる路線となり、JR他社への在来線の定期旅客列車の乗り入れがない唯一の会社となっている。 JR旅客各社のうち、本州以外で営業するJR北海道・JR四国・JR九州のいわゆる「三島(さんとう)会社」は、発足前から経営難が予想されていた。北海道の人口は札幌市への一極集中の傾向が続いており、札幌以外の道内市町村では人口減少が深刻化している。JR他社と比較して人口希薄地帯を走る路線が大半を占め、単価が高い長距離利用者が少なく、長距離利用に関しても道路網延伸や自家用車の普及、航空路線や高速バスとの競争が激しい。加えて全道が豪雪地帯・寒冷地であるため、除雪や車両・施設の維持管理費や光熱費等をはじめとして膨大な経費を要するなど、JR北海道の経営基盤は非常に弱い。 会社発足前から経営難が予想されていたことから、国による経営支援スキームとして経営安定基金が設けられている。また、JR四国やJR貨物と同様に、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(発足当初は日本国有鉄道清算事業団)が株式を100%保有している。 JR北海道に対しては、元本6,822億円が交付され、元本の取崩しはせず、運用益を営業外収益として営業収支の不足分を穴埋めすることが当初の目的であった。しかしながら、バブル崩壊によりバブル景気の只中であった会社発足当時と比べ市中金利は大幅に下落し計画が崩れ、当初見込んだ運用益が大きく減少している。 会社発足時からの厳しい経営状況により車両や設備の保守費用等削減を続けた結果、2011年の石勝線列車脱線火災事故をはじめとした数々の不祥事が連続し、2014年1月に国土交通大臣より「輸送の安全に関する事業改善命令及び事業の適切かつ健全な運営に関する監督命令」が行われた。これを受けて国土交通省からJR北海道への指導や監査と共に鉄道・運輸機構からの600億円の設備投資支援が行われた。 以後、軌道の補修工事やキハ40系をはじめとした老朽車両の新型車両への置き換えが行われている。その後も2019 - 2020年度に400億円程度の財政支援を行う計画を公表した。また、2021年3月26日に国鉄清算事業団債務等処理法の改正法が参議院本会議で可決・成立され、2030年度まで国の財政支援が可能になり、3年間で1,302億円支援する事が発表された。2021年9月28日には、今後10年間で約1,450億円を支援し、6,822億円のうち2,900億円を鉄道建設・運輸施設整備支援機構が借り入れ、年5%の利息を払うことが決定された。 また、JR四国とともに民営化時から固定資産税と都市計画税の減免などの特例措置を受けている。民営化時は10年間の特例措置とされたが、その後5年単位で更新されている。2022年度税制改正大綱で、減免措置の5年間延長が盛り込まれたが、この時点での試算では減免措置を廃止すると収益に30億円程度の影響が出るとみられている。 2016年11月16日、の島田修社長(当時)らが記者会見を開き、当時の営業路線2,500km余りの半分にあたる1,236kmについて、JR北海道単独で維持することが難しいとして、バスへの転換や運行にあたって自治体からの財政支援が不可欠だと明らかにした。路線1kmあたりの平均乗客数である輸送密度で2,000人に満たない路線が対象となっていて、特に200人に満たない3区間についてバスへの転換、それ以外の区間は自治体の財政支援を求め、今後協議を進めていくとしている。 一方で、同年11月26日に北海道経済連合会は「道内の公共交通ネットワークのあり方についての『提言書』概要」をまとめ、JR貨物が第二種鉄道事業路線として北海道支社が利用している区間の線路使用料設定が低水準であり、制度見直しと支援策を要求すべきとした。食関連産業や観光を基幹産業ととらえ、道路・鉄道・航空・港湾に関しての代替手段や相互補完を考察しながらの整備・活用することが必要と提言した。 また、北海道の地域公共交通検討会議が2017年3月28日にまとめた報告書案では、道内交通網を、中核都市間の「幹線交通」、観光移動を支える「広域交通」、市町村の生活に密着した「市町村交通」に3分類し、最適な交通サービスを追求すべきとしている。 2017年12月6日にはJR北海道再生会議の有志からJR北海道および北海道知事、道内市町村長、道民、国土交通大臣に向けて声明が出された。JR北海道に対しては事業者としてできること、できないこと、よい情報も悪い情報も道民に徹底的に開示する姿勢を求め、維持できない路線については「もっと便利になる」「具体的な提案」を積極的に提示すべきとし、これに対しJR北海道は国に甘えない体制を作ると発表した。 2022年7月1日現在 ラインカラーは「日本の鉄道ラインカラー一覧」を参照。 2007年(平成19年)10月1日から、一部路線には駅ナンバリング制を導入している。詳細は「北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー」を参照。 JR北海道発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する(廃止列車は廃止時点)。詳細は各列車の記事を参照。 道内の半数以上の路線が非電化のため、所有車両の多くは気動車である。北海道で使用する車両は国鉄時代から特別の寒冷対策を施している。一般的な仕様として、小型化のうえ二重窓とした客室窓、開口幅の小さい片開き式の客用扉・出入台と客室を仕切るデッキ扉などが挙げられる。車体各部には凍結を防止するヒーターが設けられ、暖房容量も本州以南の車両に比べ大きい。電車も所有しているが、電化区間が全て交流電化であるため全て交流型電車である。JR旅客6社で両開き扉の車両と直流型電車を全く所有していないのは、JR北海道が唯一である。また国鉄時代に製造された電車全数の除籍はJR旅客6社中ではJR北海道が最速である。 JR北海道発足後に開発された車両ではデッキ扉に代わる寒冷対策として、エアカーテンの設置・客用扉の開閉を乗客のボタン操作で行う「半自動扉」の装備など、室内を物理的に分断せずに外気流入を最小限に抑える工夫がなされている。また、1991年1月8日に発生した日高本線での踏切脱線転覆事故を契機として乗務員保護対策が進められ、運転席を高い位置に設ける「高運転台仕様」としたうえで衝撃吸収構造とした車両が相次いで開発された。 過去には高速バス・航空機などの競合交通機関への対抗策として、優等列車の所要時間短縮・増発の対策もなされてきた。JR北海道発足後に開発された特急用気動車では、曲線区間の多い路線向けに振り子式の281系・283系気動車、車体傾斜式の261系気動車を投入して曲線通過速度を向上させ、特急用電車では785系・789系電車の投入によって、それぞれ所要時間の短縮と増発を実現した。 しかし、厳しい経営状況を背景に保守管理費の削減とそれに伴う整備不良から、営業運行中の発煙事故や出火事故が度々発生し、2013年からは車両や設備への負担を抑えることを目的に列車の減便とスピードダウンに踏み切ることとなった。その結果、2014年から特急気動車の130km/h運転を廃止し、車体傾斜機構の使用を停止している。 北海道新幹線の車両はJR東日本E5系新幹線電車をベースとしたH5系新幹線電車4編成を運用している。外装・内装のデザインが異なるが、性能面ではE5系と同一の車両である。 自社の新幹線車両はJR東日本の東北新幹線へ直通運転し、自社営業エリア外である岩手県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都に乗り入れている。自社エリア外への乗り入れを行う都道府県の数はJR西日本、JR東海に次いで多い。 一方、在来線車両はJR他社線・第三セクター鉄道線・私鉄線・地下鉄のいずれにも乗り入れていない。 JR北海道の車両基地と略号、乗務員区所は以下の通り。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。 社歌はダークダックスの『北の大地』(作詞:山上路夫、作曲:森田公一)。1988年8月21日にダークダックスのシングル『一枚の切符から』(『遠くへ行きたい』挿入歌、JR北海道イメージソング)のカップリングとしてCD発売された。 民営化された1987年度から、JR北海道の開催するイベントやキャンペーン活動への参加やポスター撮影などの活動を行うキャンペーンガールを採用してきた。当初は「JR北海道フレッシュガール」の名前で、途中から「ミス・ツインクル」と改称された。当初の採用人数は本社で4人、各支社で3人ずつの13人で、2008年度から各支社の採用を2人に減らして合計10人とした。しかし応募者の減少やイベントへの参加機会の減少などもあり、経費削減の観点から2009年度一杯で採用を打ち切った。 公式サイト「会社・グループ情報」、「JR北海道グループ 2021年度決算」による。JR他社のグループ会社のカタカナ表記が「ジェイアール」であるのに対し、「ジェイ・アール」と「・」(中黒)が入る表記が多い。 2018年現在、4つの労働組合がある。カッコ内は略称。 JR北海道労組及びJR北労組は会社との間で労働協約を締結している(国労・建交労については未詳)。組合員数が最大なのは北海道旅客鉄道労働組合であるが、深刻な労使癒着や労組同士の激しい対立、アルコール検査拒否などの根深い労使問題があるとされる。
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北海道旅客鉄道株式会社 は、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)に基づき、北海道地方を中心として旅客鉄道等を運営する、日本の特殊会社。1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から北海道総局、釧路・旭川・青函船舶の各鉄道管理局が管理していた鉄道事業を引き継いで発足したJRグループの旅客鉄道会社の一つ。通称はJR北海道(ジェイアールほっかいどう)、英語略称はJR Hokkaido。コーポレートカラーは萌黄色。 北海道を中心に鉄道路線を有し、本社を札幌市中央区に置く。切符の地紋には「北」と記されている。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2022年7月15日 (金) 15:54 (UTC) | 雑多な内容の箇条書き = 2022年7月15日 (金) 15:54 (UTC) | 内容過剰 = 2022年7月15日 (金) 15:54 (UTC) }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 北海道旅客鉄道株式会社 | 英文社名 = Hokkaido Railway Company | ロゴ = JR logo (hokkaido).svg | ロゴサイズ = 150px | 画像 = JR-Hokkaido main office.JPG | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 本社ビル(2009年4月) | 種類 = {{Ublist| [[株式会社 (日本)|株式会社]] | [[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]]による[[特殊会社]] }} | 市場情報 = | 略称 = JR北海道<ref group="注釈">その他、JR Hokkaido、JRH、JR北等の表記がある。</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 060-8644 | 本社所在地 = [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]][[北○条西 (札幌市)|北11条西15丁目]]1番1号<ref name="jrhokkaido/corporate/company/comtop" /> | 本社緯度度 = 43 | 本社緯度分 = 4 | 本社緯度秒 = 15.5 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 141 | 本社経度分 = 19 | 本社経度秒 = 55.9 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP-01 | 設立 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]]<ref name="jrhokkaido/corporate/company/comtop" /> | 業種 = 陸運業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 旅客鉄道事業 他 | 代表者 = {{Ublist| [[島田修 (実業家)|島田修]]([[代表取締役]][[会長]]) | [[綿貫泰之]](代表取締役[[社長]]) }} | 資本金 = * 90億円 (2023年3月31日現在)<ref name="ir">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/mi/kessan/2022/index.html |title=北海道旅客鉄道株式会社 2023(令和5)年3月期決算公告 |publisher=北海道旅客鉄道 |accessdate=2023-07-01}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = * 単独: 672億8500万円 * (鉄道事業営業収益) * 単独: 56億3900万円 * (関連事業営業収益) (2023年3月期)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = * 単独: △639億7100万円 * (全事業営業損失) (2023年3月期)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = * 単独: △243億8200万円 (2023年3月期)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = * 単独: △180億6900万円 (2023年3月期)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = * 単独: 8450億2200万円 (2023年3月31日現在)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = * 単独: 1兆3518億5400万円 (2023年3月31日現在)<ref name="ir"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 6,084人(2023年4月1日現在)<ref name="jrhokkaido/corporate/company/comtop" /> | 決算期 = 3月31日 | 主要株主 = [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] 100% | 主要子会社 = [[#グループ会社]]参照 | 関係する人物 = {{Ublist| [[柿沼博彦]](元特別[[顧問]]・[[技監]]) | [[須田征男]](元代表取締役会長) }} | 外部リンク = {{Official URL}} | 特記事項 = }} '''北海道旅客鉄道株式会社'''(ほっかいどうりょかくてつどう、{{lang-en-short|Hokkaido Railway Company}})<ref group="注釈">[[ロゴタイプ|ロゴ]]では「'''北海道旅客&#37443;道株式会社'''」となっており、「鉄」の文字は使われていない。会社発足が国鉄の赤字経営が主因となっており、「鉄」の字は“金を失う”という意味になり縁起が悪いとして、ロゴ文字では「&#37443;」(金偏に弓矢の矢)という字を採用しているが、正式[[商号]]では[[常用漢字]]の「鉄」である([[四国旅客鉄道]]以外のJR他社も同様)。</ref> は、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]](JR会社法)に基づき、[[北海道|北海道地方]]を中心として[[旅客輸送|旅客鉄道]]等を運営する、[[日本]]の[[特殊会社]]。[[1987年]]([[昭和]]62年)[[4月1日]]に[[日本国有鉄道]](国鉄)から北海道総局、釧路・旭川・青函船舶の各[[鉄道管理局]]{{efn|民営化後、北海道総局は本社鉄道事業本部に、釧路鉄道管理局は釧路支社に、旭川鉄道管理局は旭川支社、青函船舶鉄道管理局は函館支社になっている。}}が管理していた[[鉄道]]事業を引き継いで発足した[[JR|JRグループ]]の旅客鉄道会社の一つ。通称は'''JR北海道'''(ジェイアールほっかいどう)、英語略称は'''JR Hokkaido'''。[[コーポレートカラー]]は[[萌黄色]]。 北海道を中心に[[鉄道路線]]を有し、本社を[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]に置く。[[切符]]の地紋には「北」<ref group="注釈">JR旅客会社では唯一、英文社名の頭文字(JR東日本は「E」、JR西日本は「W」など)が地紋に記されていない。</ref>と記されている。 == 概要 == [[ファイル:JR Sapporo Sta03n3200.jpg|代替文=JR北海道札幌駅南口|サムネイル|JR北海道最大の拠点駅である[[札幌駅]]]] [[国鉄分割民営化]]により[[鉄道路線|鉄道]]21路線3,176.6 [[キロメートル|km]]、[[鉄道連絡船|航路]]113.0 kmおよび[[国鉄バス|バス事業]]を承継した、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]による[[特殊会社]]で、[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が全ての株式を所有している。 発足後、鉄道路線は[[在来線]]2線区と[[北海道新幹線]]が開業した一方、[[特定地方交通線]]の廃止や利用客の少ない線区の廃止により減少している。[[2023年]]4月1日時点での総[[営業キロ]]は新幹線を含む[[幹線]]が6路線1,460.6 km、[[地方交通線]]が8路線876.0 kmの14路線計2,336.6 kmである<ref name="jrhokkaido/corporate/company/com02" />。 航路([[青函連絡船]])は[[海峡線]]([[青函トンネル]])の開業に伴い、[[1988年]][[3月13日]]に廃止され<ref group="注釈">[[津軽海峡]]を渡る旅客航路は民間企業の[[津軽海峡フェリー]]、[[青函フェリー]]により現在も運航されている。</ref>、バス事業は[[2000年]]4月1日に100%[[子会社]]の[[ジェイ・アール北海道バス]]へ移管された。 かつては、海峡線を通じて、在来線の定期旅客列車が[[本州]]およびJR他社の路線へ乗り入れていたが、[[2016年]][[3月26日]]の北海道新幹線開業後は同新幹線が定期旅客営業路線で唯一本州へ乗り入れる路線となり、JR他社への在来線の定期旅客列車の乗り入れがない唯一の会社となっている<ref group="注釈">路線としての海峡線は現存しており、[[貨物列車]]のほか、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]のクルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」が乗り入れることがある。</ref>。 == 経営問題 == {{出典の明記| date = 2022年7月|section=1}} JR旅客各社のうち、本州以外で営業するJR北海道・[[四国旅客鉄道|JR四国]]・[[九州旅客鉄道|JR九州]]のいわゆる「三島(さんとう)会社」は、発足前から経営難が予想されていた。北海道の人口は[[札幌市]]への[[一極集中]]の傾向が続いており、札幌以外の道内市町村では[[人口減少]]が深刻化している。JR他社と比較して人口希薄地帯を走る路線が大半を占め、単価が高い長距離利用者が少なく、長距離利用に関しても道路網延伸や[[モータリゼーション|自家用車の普及]]、[[航空|航空路線]]や[[高速バス]]との競争が激しい。加えて全道が[[豪雪地帯]]・[[寒冷地]]であるため、[[除雪]]や車両・施設の維持管理費や光熱費等をはじめとして膨大な経費を要するなど、JR北海道の経営基盤は非常に弱い。 会社発足前から経営難が予想されていたことから、国による経営支援スキームとして'''[[経営安定基金]]'''が設けられている。また、JR四国や[[日本貨物鉄道|JR貨物]]と同様に、[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](発足当初は[[日本国有鉄道清算事業団]])が[[株式]]を100%保有している。 JR北海道に対しては、元本6,822億円が交付され、元本の取崩しはせず、運用益を[[営業外収益]]として営業収支の不足分を穴埋めすることが当初の目的であった。しかしながら、[[バブル崩壊]]により[[バブル景気]]の只中であった会社発足当時と比べ市中[[金利]]は大幅に下落し計画が崩れ<ref group="新聞">[https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230502-OYT1T50007/ 万年赤字のJR北海道、消える路線「朝ドラが予言に」…地元町長は涙「憤り感じる」] - 読売新聞オンライン、2023年5月2日</ref>、当初見込んだ運用益が大きく減少している。 会社発足時からの厳しい経営状況により車両や設備の保守費用等削減を続けた結果、[[2011年]]の[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#石勝線特急列車脱線火災事故|石勝線列車脱線火災事故]]をはじめとした数々の不祥事が連続し、[[2014年]]1月に国土交通大臣より「輸送の安全に関する事業改善命令及び事業の適切かつ健全な運営に関する監督命令」が行われた。これを受けて国土交通省からJR北海道への指導や監査と共に鉄道・運輸機構からの600億円の設備投資支援が行われた。 以後、軌道の補修工事や[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]をはじめとした老朽車両の新型車両への置き換えが行われている。その後も2019 - 2020年度に400億円程度の[[財政]]支援を行う計画を公表した<ref group="新聞">「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO33505730X20C18A7L41000/ JR北、施設修繕に充当 国交省400億円支援/非鉄道の収益拡大 経営改善も徹底]」『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年7月29日(北海道経済面)2018年8月24日閲覧。</ref>。また、[[2021年]][[3月26日]]に[[国鉄清算事業団債務等処理法]]の改正法が[[参議院]]本会議で可決・成立され、[[2030年]]度まで国の財政支援が可能になり、3年間で1,302億円支援する事が発表された<ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=JR北海道・四国、再建へ険しい道のり 財政支援継続へ:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASP3V65T0P3VULFA017.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-04-25 |language=ja}}</ref>。2021年[[9月28日]]には、今後10年間で約1,450億円を支援し、6,822億円のうち2,900億円を鉄道建設・運輸施設整備支援機構が借り入れ、年5%の利息を払うことが決定された<ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=JR2社に1千億円超の財政支援 北海道と四国、10年間で |url=https://web.archive.org/web/20210928051020/https://nordot.app/815429471195332608?c=39546741839462401 |publisher=[[共同通信社]] |access-date=2022-04-26 |language=ja}}</ref>。 また、JR四国とともに民営化時から[[固定資産税]]と[[都市計画税]]の減免などの特例措置を受けている。民営化時は10年間の特例措置とされたが、その後5年単位で更新されている。[[2022年]]度税制改正大綱で、減免措置の5年間延長が盛り込まれたが、この時点での試算では減免措置を廃止すると収益に30億円程度の影響が出るとみられている<ref name="hokkaido-np20211210">[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/621608 JR北海道への特例措置5年延長 22年度税制改正大綱] - 北海道新聞 2021年12月10日</ref>。 === 維持困難路線の公表 === [[2016年]]11月16日、の島田修社長(当時)らが記者会見を開き、当時の営業路線2,500km余りの半分にあたる1,236kmについて、JR北海道単独で維持することが難しいとして、バスへの転換や運行にあたって自治体からの財政支援が不可欠だと明らかにした<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" />。路線1kmあたりの平均乗客数である[[輸送密度]]で2,000人に満たない路線が対象となっていて、特に200人に満たない3区間についてバスへの転換、それ以外の区間は自治体の財政支援を求め、今後協議を進めていくとしている。 一方で、同年11月26日に[[北海道経済連合会]]は「道内の公共交通ネットワークのあり方についての『提言書』概要」をまとめ、JR貨物が第二種鉄道事業路線として北海道支社が利用している区間の線路使用料設定が低水準であり、制度見直しと支援策を要求すべきとした。食関連産業や観光を基幹産業ととらえ、道路・鉄道・航空・港湾に関しての代替手段や相互補完を考察しながらの整備・活用することが必要と提言した<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-11-27/news/economy/economy/1-0342465" />。 また、[[北海道]]の地域公共交通検討会議が[[2017年]]3月28日にまとめた報告書案では、道内交通網を、中核都市間の「幹線交通」、観光移動を支える「広域交通」、市町村の生活に密着した「市町村交通」に3分類し、最適な交通サービスを追求すべきとしている<ref group="新聞" name="nikkei/DGXLASFB28HB4_Y7A320C1L41000" />。 2017年12月6日にはJR北海道再生会議の有志からJR北海道および北海道[[知事]]、道内市町村長、道民、[[国土交通大臣]]に向けて声明が出された。JR北海道に対しては事業者としてできること、できないこと、よい情報も悪い情報も道民に徹底的に開示する姿勢を求め、維持できない路線については「もっと便利になる」「具体的な提案」を積極的に提示すべきとし、これに対しJR北海道は国に甘えない体制を作ると発表した<ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2017/171206-1" />。 == 事業所 == {{Location map+|Japan|float=right|width=300|places= {{Location map~|Japan|label=釧路|lat_deg=42|lat_min=59|lat_sec=26|lon_deg=144|lon_min=22|lon_sec=53|mark=Blue pog.svg |position=right}} {{Location map~|Japan|label=旭川|lat_deg=43|lat_min=45|lat_sec=53|lon_deg=142|lon_min=21|lon_sec=22|mark=Blue pog.svg |position=top}} {{Location map~|Japan|label=函館|lat_deg=41|lat_min=46|lat_sec=36|lon_deg=140|lon_min=43|lon_sec=42|mark=Blue pog.svg |position=bottom}} {{Location map~|Japan|label=本社|lat_deg=43|lat_min=04|lat_sec=15|lon_deg=141|lon_min=19|lon_sec=56|position=left}} |caption=JR北海道 [[image:Red pog.svg|8px]]&nbsp;本社 [[image:Blue pog.svg|8px]]&nbsp;支社 }} {| class="wikitable" !名称!!所在地 |- |本社||北海道[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]北11条西15丁目1番1号 |- |[[北海道旅客鉄道釧路支社|釧路支社]]||北海道[[釧路市]]北大通14丁目5番地 |- |[[北海道旅客鉄道旭川支社|旭川支社]]||北海道[[旭川市]]宮下通6丁目4152番地2 |- |[[北海道旅客鉄道函館支社|函館支社]]||北海道[[函館市]]若松町12番5号 |} == 本社組織 == 2022年7月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=組織図・役員|企業|JR北海道- Hokkaido Railway Company |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/company/com_01.html |website=www.jrhokkaido.co.jp |access-date=2023-06-03}}</ref> * 監査部 * 総合企画本部 ** 経営企画部 ** 地域交通改革部 ** 新幹線計画部 ** 地域計画部 ** 札幌駅周辺開発部 ** 情報システム部 * [[北海道旅客鉄道鉄道事業本部|鉄道事業本部]] ** 安全推進部 ** 企画室 ** 新幹線統括部 ** 駅業務部 ** 営業部 ** 東京営業部 ** 仙台営業所 ** 運輸部 *** 管理課 *** 輸送課 *** 運用課 *** 運行管理課 *** 運行管理センター *** 新幹線運行管理センター *** 乗務員養成室 ** 車両部 *** 検修課 *** 計画課 *** 新幹線検修課 ** 工務部 *** 業務支援室 *** 管理課 *** 保線課 *** 設備課 *** 工事課 *** 工務技術センター ** 電気部 *** 企画課 *** 情報制御課 *** 電力技術課 *** システム課 ** 新幹線工事部 *** 札幌新幹線工事事務所 ** CS推進部 * 開発事業本部 ** 資産管理センター * 東京事務所 * 広報部 * 財務部 * 資金運用室 * 総務部 ** 社員研修センター * [[JR札幌病院]] == 歴史 == * [[1987年]]([[昭和]]62年) ** 4月1日:[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[国鉄分割民営化|分割民営化]]に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)発足。 ** 7月13日:[[幌内線]]廃止。 * [[1988年]](昭和63年) ** 2月1日:[[松前線]]廃止。 ** 3月13日:[[一本列島|ダイヤ改正]]。 *** [[海峡線]]開業。これに伴い、[[快速列車|快速]]「[[海峡 (列車)|海峡]]」、特急「[[はつかり (列車)|はつかり]]」、[[急行列車|急行]]「[[はまなす (列車)|はまなす]]」、[[寝台列車|寝台特急]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」を運転開始。寝台特急「[[日本海 (列車)|日本海]]」のうち1往復が[[函館駅]]乗り入れ開始。[[青函連絡船|青函航路]]の通常運航がこの日限りで終了。 *** 特急「[[オホーツク (列車)#おおとり|おおとり]]」を廃止し、[[札幌駅]]を境に特急「[[北斗 (列車)|北斗]]」と特急「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」に系統分離。臨時急行「大雪」(82・83号)を[[特別快速]]「[[きたみ (列車)|きたみ]]」に変更。 *** 急行「[[カムイ (列車)#急行「かむい」「そらち」|かむい]]」が急行「[[カムイ (列車)#急行「かむい」「そらち」|そらち]]」に統合され、廃止。 *** [[千歳基地|千歳空港]]へのアクセス列車として、[[エアポート (列車)#沿革|快速「空港ライナー」「マリンライナー」]]を運転開始。 ** 4月25日:[[歌志内線]]廃止。 ** 9月19日:前日をもって青函連絡船の暫定復活運航(6月3日開始)が終了し、青函航路が正式に廃止。 ** 11月3日:[[JR北海道721系電車|721系電車]]が営業運転開始。快速「[[いしかりライナー]]」運転開始。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 4月1日:[[消費税#日本|消費税]]導入に伴い[[運賃]]改定<ref name=JRR1990>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=168 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。 ** 4月30日:[[標津線]]廃止{{R|JRR1990}}。 ** 5月1日:[[名寄本線]]、[[天北線]]廃止{{R|JRR1990}}。急行「天北」の運転経路を天北線経由から[[宗谷本線]]経由に変更し、急行「[[宗谷 (列車)|宗谷]]」に統合{{R|JRR1990}}。急行「[[ノサップ (列車) |ノサップ]]」を快速列車に変更{{R|JRR1990}}。 ** 6月4日:[[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|池北線]]廃止([[北海道ちほく高原鉄道]]に転換){{R|JRR1990}}。 ** 7月21日:[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」が[[大阪駅]] - 札幌駅間で運転開始。 * [[1990年]](平成2年)9月1日:ダイヤ改正。 ** 特急「ホワイトアロー」に[[JR北海道785系電車|785系電車]]が導入され、特急「[[カムイ (列車)|スーパーホワイトアロー]]」として運転開始<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=190 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。急行「ちとせ」「そらち」が特急「ライラック」に統合され、廃止。 ** 特急「[[おおぞら (列車)|おおぞら]]」の[[帯広駅]]発着列車が分離され、特急「[[おおぞら (列車)|とかち]]」として運転開始{{R|JRR1991}}。急行「狩勝」と快速「十勝」を快速「[[狩勝 (列車)|狩勝]]」へ統合・再編。 ** 宗谷本線の快速「ピヤシリ」「えんれい」「すずいし」「てしおがわ」の愛称が統一され、快速「[[なよろ (列車)|なよろ]]」となる。 * [[1991年]](平成3年)7月27日:ダイヤ改正<ref name=JRR1992>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=180 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。特急「とかち」が特急「スーパーとかち」に改称{{R|JRR1992}}。 * [[1992年]](平成4年) ** [[1月20日]]:[[改札鋏]]を廃止し、スタンプ押印となる{{R|JRR1992}}。 ** 3月14日:[[夜行列車|夜行]]の急行「大雪」が特急「オホーツク」(9・10号)に編入され、廃止{{R|JRR1992}}。 ** 7月1日:ダイヤ改正。 *** [[千歳線]]支線([[南千歳駅]] - [[新千歳空港駅]]間。通称「空港線」)開業。快速「空港ライナー」が快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」に改称され、快速「マリンライナー」と共に同区間への乗り入れを開始。 *** 特急「ライラック」が札幌駅を境に系統分離され、[[室蘭駅]] - 札幌駅間を特急「[[すずらん (列車)|すずらん]]」として運転開始。また、特急「ライラック」と快速「エアポート」の直通運転開始。 * [[1993年]](平成5年)3月18日:ダイヤ改正。夜行急行「[[まりも (列車)|まりも]]」が特急「おおぞら」13・14号として編入され、廃止。 * [[1994年]](平成6年) ** [[3月1日]]:ダイヤ改正。特急「北斗」の一部に[[JR北海道キハ281系気動車|281系気動車]]が導入され、特急「スーパー北斗」として運転開始。 ** 5月16日:[[函館本線]] [[砂川駅]] - [[上砂川駅]]間([[上砂川支線]])廃止<ref name="mlit haishi">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001482062.pdf |title=鉄軌道の廃止実績(平成5年度以降) |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-08-06}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年) ** 9月4日:[[深名線]]廃止<ref name="mlit haishi" />。 ** 12月4日:本社を札幌駅から[[桑園駅]]前の新本社ビルに移転<ref group="新聞">{{cite news|和書|title=新本社での業務開始 JR北海道 大森社長が訓示|newspaper=[[交通新聞]]|date=1995-12-06|publisher=交通新聞社|page=1}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年) ** 1月10日:JR北海道を含むJR三島会社が運賃を改定し、運賃格差が発生<ref group="新聞">{{cite news|和書|title=JR3島会社の運賃改定 運輸省きょう認可|newspaper=交通新聞|date=1995-12-22|publisher=交通新聞社|page=1}}</ref><ref group="新聞">{{cite news|和書|title=運賃改定きょう実施 JR3島会社 特急料金据え置き|newspaper=交通新聞|date=1996-01-10|publisher=交通新聞社|page=1}}</ref>。これにより国鉄時代より続いてきたJRグループの日本全国同一運賃体系が崩れる。 ** 4月1日:[[富良野線]]に[[優先席|シルバーシート]]を導入(JR北海道で初めての導入)<ref group="新聞">{{cite news|和書|title=シルバーシート富良野線に登場 JR北海道で初|newspaper=交通新聞|date=1996-04-08|publisher=交通新聞社|page=3}}</ref>。 ** 12月24日:[[JR北海道731系電車|731系電車]]が営業運転開始<ref name=JRR1997>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年) ** 3月1日:公式ウェブサイトを開設(<nowiki>http://www.hjsd.co.jp/jrhokkaido/</nowiki>){{R|JRR1997}}。 ** 3月22日:ダイヤ改正。特急「おおぞら」の一部に[[JR北海道キハ283系気動車|283系気動車]]が導入され、特急「スーパーおおぞら」として運転開始{{R|JRR1997}}。特急「スーパーとかち」の一部が再び特急「とかち」として運転開始{{R|JRR1997}}。[[JR北海道キハ201系気動車|201系気動車]]が営業運転開始{{R|JRR1997}}。 ** 4月1日:消費税増税に伴い運賃改定<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 ** 10月1日:普通・快速の全列車に[[優先席]]を設置<ref>{{Cite news |和書 |title=JR北海道 列車内の携帯電話自粛を ペースメーカー使用者への配慮 「優先席」妊婦もどうぞ |newspaper=[[北海道新聞]] |date=1997-09-30 |edition=朝刊 |publisher=[[北海道新聞社]] |page=29 }}</ref>。 * [[1998年]](平成10年) ** 11月17日:帯広ステーションビル株式会社の過度な設備投資が原因で[[エスタ帯広]]の経営が破綻し[[倒産]]。 ** 11月21日:[[自動改札機]]導入。 * [[1999年]](平成11年)7月16日:寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」運転開始。これに伴い、寝台特急「北斗星」の定期運転を2往復に減便。 * [[2000年]](平成12年) ** 3月11日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/2000-02-28/press/pressdaiya" group="報道" />。 *** 急行「宗谷」「[[宗谷 (列車)#礼文|礼文]]」に[[JR北海道キハ261系気動車|261系気動車]](基本番台)が導入され、特急「[[宗谷 (列車)|スーパー宗谷]]」として運転開始。急行「サロベツ」「[[利尻 (列車)|利尻]]」を特急列車に変更。 *** 快速「マリンライナー」が快速「エアポート」「[[ニセコライナー]]」に再編され、廃止。 ** 4月1日:バス事業を[[ジェイ・アール北海道バス]]に譲渡。 * [[2001年]](平成13年) ** 6月22日:改正[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律|JR会社法]]が施行。本州3社が本法の適用から除外されたものの、指針によりJR北海道を含むJR三島会社とJR貨物との協力関係の維持を規定。 ** 7月1日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/2001-04-25/press/2001/daikai" group="報道" />。 *** 特急「おおぞら」がすべて特急「スーパーおおぞら」に統一される。夜行の特急「おおぞら」13・14号を特急「まりも」として分離。 *** 特急「ライラック」の指定席として「[[uシート]]」を導入。「いしかりライナー」の列車種別を快速から区間快速に変更。 * [[2002年]](平成14年)12月1日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/2002-09-20/press/2002/1412daiya" group="報道" />。特急「はつかり」と快速「海峡」を廃止し、[[国鉄485系電車|485系電車]]による特急「白鳥」、[[JR北海道789系電車|789系電車]](基本番台)による特急「[[スーパー白鳥]]」運転開始。 * [[2003年]](平成15年)3月6日:札幌駅南口[[駅ビル]]「[[JRタワー]]」開業。 * [[2004年]](平成16年) ** 線路と道路の両方を走行できる車両[[デュアル・モード・ビークル]] (DMV) を公開。 ** 3月13日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2003/031226" group="報道" />。特急「ライラック」「スーパーホワイトアロー」「すずらん」、特別快速「きたみ」が全車禁煙化。 * [[2006年]](平成18年)3月18日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2005/051222" group="報道" />。夜行列車は寝台特急「日本海」の函館乗り入れを廃止。特急「利尻」を臨時特急「はなたび利尻」、特急「オホーツク」(9・10号)が臨時特急「オホーツク」(81・82号)にそれぞれ変更。道内完結の全列車が全面禁煙化<ref name="jrhokkaido/press/2005/050914-3" group="報道" />。 * [[2007年]](平成19年) ** 3月18日:前年の道内完結の全列車に引き続き、寝台列車を除く特急列車が全面禁煙化<ref name="jrhokkaido/press/2006/061222" group="報道" />。 ** 9月30日:夜行の臨時特急「はなたび利尻」が廃止<ref name="jrhokkaido/press/2008/080418-1" group="報道" />。 ** 10月1日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2007/070711-1" group="報道" />。789系電車(1000番台)の営業運転開始に伴い、特急「ライラック」「スーパーホワイトアロー」を統合し、「[[カムイ (列車)|スーパーカムイ]]」運転開始。[[国鉄781系電車|781系電車]]の運用を終了。「スーパーとかち」に261系気動車(1000番台)が投入。夜行列車は臨時特急「オホーツク」81・82号を廃止し、特急「まりも」を臨時列車に変更<ref name="jrhokkaido/press/2008/080418-1" group="報道" />。同日より[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー|駅ナンバリング]]を実施<ref name="jrhokkaido/press/2007/070912-3" group="報道" />。一部特急列車・電車・201系の自動放送を従来の[[加藤純子 (アナウンサー)|加藤純子]]から[[大橋俊夫]]、[[ジーン・ウィルソン]]に変更。 * [[2008年]](平成20年) ** 3月15日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2007/071220-1" group="報道" />。[[青函トンネル]]内における[[北海道新幹線]]工事のため、寝台特急「北斗星」の1往復(旧:1・4号)を廃止し、定期運転を1往復に減便。 ** 3月16日:夜行の臨時特急「オホーツク」(81・82号)の運転を終了<ref name="jrhokkaido/press/2008/080418-1" group="報道" />。 ** 9月1日:臨時特急「まりも」の運転が終了。これにより、道内完結の夜行特急列車が消滅<ref name="jrhokkaido/press/2008/080418-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2008/080715-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2008/080825-2" group="報道" />。 ** 10月16日:ホテル「[[JRイン札幌]]」がオープン。 ** 10月25日:札幌圏にICカード乗車券「[[Kitaca]]」(キタカ)を導入<ref name="jrhokkaido/press/2008/080910-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2008/081021-1" group="報道" />。 * [[2009年]](平成21年) ** 3月14日:KitacaとJR東日本のICカード乗車券[[Suica]]との相互利用の開始<ref name="jrhokkaido/press/2008/081222-2" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2009/090309-1" group="報道" />。 ** 9月30日:この日限りで北海道自社管内で完結する在来線特急から車内[[公衆電話]]サービスを全廃<ref name="jrhokkaido/press/2009/090910-1" group="報道" />。 ** 10月1日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2009/090708-1" group="報道" />。特急「とかち」が全て特急「スーパーとかち」に統一される。 * [[2010年]](平成22年)12月4日:ダイヤ改正。17時以降の「いしかりライナー」の札幌駅から[[江別駅]]までの区間を各駅停車化など<ref name="jrhokkaido/press/2010/100924-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2010/100928-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2010/101116-1" group="報道" />。 * [[2011年]](平成23年) ** 5月27日:[[石勝線]] 第1ニニウトンネル内([[占冠村]])で特急「スーパーおおぞら14号」が脱線・炎上し、車両6両を全焼する事故が発生([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#石勝線特急列車脱線火災事故|石勝線特急列車脱線火災事故]])<ref name="jrhokkaido/press/2011/110528-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2011/110531-1" group="報道" />。 ** 6月18日:[[国土交通省]]から事業改善命令を受ける。 ** 9月:代表取締役社長の[[中島尚俊]]が死去。自殺と見られる<ref name="asahi/2011-09-18/national/update/0918/TKY201109180091" group="新聞" />。 * [[2012年]](平成24年) ** 5月1日:[[JR北海道735系電車|735系電車]]が営業運転開始。 ** 6月1日:[[札沼線]]の一部区間(桑園駅 - [[北海道医療大学駅]]間)電化開業<ref name="jrhokkaido/press/2011/111013-3" group="報道" />。[[JR北海道733系電車|733系電車]](0番台)が営業運転開始<ref name="jrhokkaido/press/2012/120314-1" group="報道" />。 * [[2013年]](平成25年) ** 3月23日:[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用]]が開始され、Kitacaが[[PASMO]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[PiTaPa]]、[[ICOCA]]、[[はやかけん]]、[[nimoca]]、[[SUGOCA]]とも相互利用可能に<ref name="jrhokkaido/press/2012/121218-1" group="報道" />。 ** 9月19日:函館本線[[大沼駅]]構内で貨物列車が脱線する事故が発生([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線貨物列車脱線事故(大沼事故)|函館本線貨物列車脱線事故]])。原因究明の過程で、レール検査データの改ざんが発覚する。 ** 11月1日:特急「北斗」「スーパー北斗」「スーパーおおぞら」「スーパーカムイ」「すずらん」で、減速・減便を伴うダイヤ変更を実施<ref name="jrhokkaido/press/2013/130904-1" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2013/130920-1" group="報道" />。 * [[2014年]](平成26年) ** 1月14日:元代表取締役社長の[[坂本眞一 (実業家)|坂本眞一]]が死去。自殺と見られる<ref name="nikkei/2014-01-15/article/DGXNASFC15019_V10C14A1000000" group="新聞" />。 ** 2月10日:レール検査データ改竄による検査妨害を理由として、国土交通省に[[鉄道事業法]]違反の容疑で告発される。 ** 3月15日:特急「スーパー宗谷」の最高速度を引き下げ<ref name="jrhokkaido/press/2013/131220-1" group="報道" />。 ** 4月1日:消費税増税に伴い運賃改定。 ** 5月12日:[[江差線]] [[木古内駅]] - [[江差駅]]間廃止<ref name="mlit haishi" /><ref name="jrhokkaido/press/2013/130426-1" group="報道" />。 ** 7月19日:733系電車(3000番台)が営業運転を開始<ref name="jrhokkaido/press/2014/140514-1" group="報道" />。 ** 8月30日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2014/140704-1" group="報道" />。特急「スーパーとかち」と快速「エアポート」の最高速度を引き下げ。特急「スーパー宗谷」「スーパーとかち」に使用されている261系気動車(基本番台・1000番台)の車体傾斜装置の使用を停止。 ** 12月22日:[[JR北海道予約サービス]]の一部「寝台特急予約」と、「特急列車空席案内」サービスが終了<ref name="jrhokkaido/press/2014/141219-3" group="報道" />。 * [[2015年]](平成27年) ** 3月13日:寝台特急「トワイライトエクスプレス」廃止<ref name="jrhokkaido/press/2015/150123-1" group="報道" />。 ** 3月14日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2014/141219-1" group="報道" />。寝台特急「北斗星」の定期運転を終了。[[国鉄711系電車|711系]]電車が営業運転を終了。 ** 8月21日・[[8月22日|22日]]:寝台特急「北斗星」の運転を完全に終了<ref name="jrhokkaido/press/2015/150123-2" group="報道" />。 * [[2016年]](平成28年) ** 3月26日:ダイヤ改正<ref name="jrhokkaido/press/2015/151218-3" group="報道" />。 *** [[北海道新幹線]] [[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]](渡島大野駅から改称)間開業<ref name="mlit kaigyo">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001482057.pdf |title=鉄軌道開業一覧(平成5年度以降) |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-08-06}}</ref>。[[新幹線E5系電車|H5系電車]]が営業運転を開始。JR東日本の[[東北新幹線]]との相互直通運転を開始。 *** 江差線 [[五稜郭駅]] - 木古内駅間を経営分離し、[[道南いさりび鉄道]]に移管{{Refnest|group="注釈"|name="五稜郭・木古内間廃止"|2015年(平成27年)3月2日に廃止届が提出された時点では、「北海道新幹線(新青森駅 - 新函館北斗駅間)の開業日」が廃止予定日として発表されていたが<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150302-1" />、同年9月16日付のプレスリリースで北海道新幹線(新青森駅 - 新函館北斗駅間)の開業日が「2016年(平成28年)3月26日」と発表された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150916-3" />。}}。 *** 寝台特急「カシオペア」(上野駅発3月19日・札幌駅発3月20日を最後に運転終了)<ref name="jrhokkaido/press/2015/151218-1" group="報道" />、特急「白鳥」「スーパー白鳥」(3月21日を最後に運転終了)<ref name="jrhokkaido/press/2015/151218-1" group="報道" />、急行「はまなす」(札幌駅発3月20日・青森駅発3月21日を最後に運転終了)<ref name="jrhokkaido/press/2015/151218-1" group="報道" />廃止。これに伴い、[[国鉄24系客車|24系客車]]が営業運転を終了。 *** 函館本線 五稜郭駅 - 新函館北斗駅間が電化。函館駅 - 新函館北斗駅間で733系電車(1000番台)<ref name="jrhokkaido/press/2014/141120-3" group="報道" />による普通・快速「[[はこだてライナー]]」が運転を開始。快速「[[アイリス (列車)|アイリス]]」を廃止<ref name="jrhokkaido/press/2016/160208-2" group="報道" />。 *** 特急「スーパーカムイ」と快速「エアポート」の直通運転を終了。 ** 8月31日-12月22日:[[平成28年台風第10号]]による大雨で石勝線及び[[根室本線]]の[[トマム駅]] - [[芽室駅]]間の複数箇所が被災し不通となる<ref group="報道">[https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161214-1.pdf 石勝線・根室線 トマム-芽室間の運転再開について] 北海道旅客鉄道、2016年12月14日</ref>(なお、根室本線[[富良野駅]] - [[東鹿越駅]]間は10月17日運転再開。東鹿越駅 - [[新得駅]]間は代行バス運行開始)<ref group="報道">[https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161013-1.pdf 一連の台風による石勝線・根室線の災害復旧の状況について] 北海道旅客鉄道、2016年10月13日</ref>。 ** 11月16日:社長の島田修らが会見し、JR北海道単独では維持が難しい路線・区間を公表<ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" group="報道" /><ref name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" group="報道" />。 ** 12月5日:[[留萌本線]] [[留萌駅]] - [[増毛駅]]間廃止<ref name="mlit haishi" />{{Refnest|group="注釈"|name="留萌・増毛間廃止"|2016年(平成28年)4月28日に提出された廃止届では、廃止予定日を「2017年(平成29年)4月29日」としていたが<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160428-3" />、その後同年6月28日に廃止日繰り上げの届け出がなされ、「2016年(平成28年)12月5日」に変更された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160628-1" />。}}。 * [[2017年]](平成29年) ** 3月4日:ダイヤ改正により、特急「ライラック」「大雪」の愛称が復活。札幌駅 - [[稚内駅]]・[[網走駅]]間の直通特急の往復数を減らして、一部を旭川駅にて「ライラック」と接続するようにした。また、特急「スーパーカムイ」を「カムイ」と改称し、特急「すずらん」も含めたJR北海道内の[[エル特急]]指定も廃止した<ref name="jrhokkaido/press/2016/161216-3" group="報道" />。 ** 5月2日:5月1日運行開始のJR東日本のクルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」がJR北海道の路線に乗り入れ開始<ref name="jreast.co.jp_20160502.pdf" group="報道" />。 ** 5月11日:維持困難路線区間(留萌本線、根室本線(富良野-新得間)、札沼線を除く)の無人駅を地方自治体などに開放することを発表<ref name="jrhokkaido/170511-1" group="報道" />。 ** 8月7日:札幌駅8:00発[[滝川駅]]行き普通列車(721系3両編成)が[[厚別駅]] - [[森林公園駅 (北海道)|森林公園駅]]間の西通り踏切で、3両目の空調配電盤から発煙<ref name="jrhokkaido/170807-2" group="報道" />。翌朝までに同形の配電盤を使用している721系車両、785系車両の点検を終えた<ref name="jrhokkaido/170808-1" group="報道" />。 * [[2018年]](平成30年) ** 3月17日:ダイヤ改正により、特急「北斗」を[[国鉄キハ183系気動車|183系気動車]]から261系気動車に置き換えて、「スーパー北斗」に統一<ref name="mynavi.jp/article/20171215-557824/" group="新聞" />。 ** 6月17日:札沼線(北海道医療大学駅 - [[新十津川駅]]間)、留萌本線([[深川駅]] - 留萌駅間)、根室本線(富良野駅 - 新得駅間)、[[日高本線]]([[鵡川駅]] - [[様似駅]]間)を2020年度を目処に廃止する方針を示す<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.htb.co.jp/news/archives_1624.html |title=JR北海道 札沼線など4線区廃止へ |accessdate=2018-06-18 |date=2018-06-17 |work=HTBニュース |publisher=[[北海道テレビ放送]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180617104841/https://www.htb.co.jp/news/archives_1624.html |archivedate=2018-06-17}}</ref>。 ** 9月6日:未明に発生した[[北海道胆振東部地震]]の影響でJR北海道全線で運休。翌7日より一部路線で順次運転を再開。 * [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年) ** 2月1日:大規模災害時や事前に運休や運転見合わせを決定した際の、短文投稿サイト「[[Twitter]]」での列車運行情報の配信を開始<ref name="hokkaido20190117" group="報道" />。 ** 3月16日:ダイヤ改正。北海道新幹線青函トンネル内での最高運転速度を160km/hに向上、東京駅 - 新函館北斗駅間を「[[はやぶさ (列車)|はやぶさ]]」最速列車が3時間58分で運転<ref name="hokkaido20181214" group="報道" />。 ** 4月1日:石勝線 [[新夕張駅]] - [[夕張駅]]間(夕張支線)廃止<ref name="mlit haishi" /><ref name="hokkaido20180323" group="報道" />。 ** 7月-9月:宗谷本線でJR東日本の観光列車「[[びゅうコースター風っこ]]」を使用した臨時列車「風っこそうや」を運転<ref name="sightseeing" group="報道">{{PDFlink|[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20190214_KO_Kankou.pdf 2019年度以降の新たな観光列車の取り組みについて]}} - JR北海道、ニュースリリース2019年2月14日</ref>。 ** 10月1日:消費税増税に伴い運賃改定<ref name="jrhokkaido/fare" />。100キロメートル以下の運賃に対キロ区間制を採用<ref name="hokkaido20190510" group="報道" />。 * [[2020年]](令和2年) ** 3月14日:ダイヤ改正により、快速「エアポート」が1時間あたり最大5往復に増発され、うち一部の列車(朝夕の合計2往復)の種別が「特別快速」となる。区間快速「いしかりライナー」が普通列車(各駅停車)に格下げされ廃止。特急「スーパー北斗」「スーパーおおぞら」「スーパーとかち」がそれぞれ「北斗」「おおぞら」「とかち」に改称され、管内から「スーパー」を冠する特急列車がなくなる。[[JR北海道H100形気動車|H100形気動車]]が営業運転開始<ref name="press/20191213_KO_kaisei" group="報道" />。 ** 4月17日:[[北海道における2019年コロナウイルス感染症の流行|新型コロナウイルス感染症の影響]]により予定を前倒しして、札沼線北海道医療大学駅 - 新十津川駅間最終運行、以降廃止日まで運休<ref name="jrhokkaido20200416" group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200416_KO_Sassyouline.pdf |format=PDF |date=2020-04-16 |title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)最終運行について |publisher=北海道旅客鉄道 |accessdate=2020-04-17}}</ref><ref name="asahi20200416" group="新聞">{{Cite news|title=JR札沼線、廃線をさらに前倒し 緊急事態宣言受け|newspaper=朝日新聞|date=2020-04-16|url=https://www.asahi.com/articles/ASN4J7FMYN4JIIPE020.html|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-04-18}}</ref>。 ** 5月7日:札沼線北海道医療大学駅 - 新十津川駅間廃止<ref name="mlit haishi" /><ref name="JR北ニュース 2018年12月21日" group="報道" />。 ** 8月 - 9月:[[東急]]・[[伊豆急行]]の観光列車「[[THE ROYAL EXPRESS]]」を使用した団体臨時列車「THE ROYAL EXPRESS 〜HOKKAIDO CRUISE TRAIN〜」を運転<ref name="hokkaido20200116" group="報道">{{Cite press release|和書|title=「THE ROYAL EXPRESS 〜HOKKAIDO CRUISE TRAIN〜」について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-01-16|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/ab2b7bc2a60dbbe48a5a849ca3e61e02_1.pdf|format=PDF|accessdate=2020-02-26}}</ref>。 ** 9月 - 12月:北海道での鉄道開業140周年記念事業を展開<ref>[https://www.jrhokkaido.co.jp/140/index.html 北海道鉄道140年] 北海道旅客鉄道(2020年12月10日閲覧)</ref>(「[[官営幌内鉄道]]」も参照)。 ** 10月17日:キハ261系5000番台「はまなす」編成運用開始<ref group="報道">[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/af9da5296d29e99c3bfd1b223add980e_1.pdf 北海道鉄道140年の節目に「はまなす」編成がデビューします!] 北海道旅客鉄道、2020年8月19日(2021年10月5日閲覧)</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** 3月13日:ダイヤ改正により、減便・減車、定期列車の[[臨時列車]]化が本格化。 ** 4月1日:日高本線 鵡川駅 - 様似駅間廃止<ref name="mlit haishi" /><ref name="hakkaido-np20210401" group="新聞">{{Cite news|title=JR日高線 鵡川―様似間1日廃止 代行バス最終便|newspaper=北海道新聞|date=2021-04-01|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/528226/|accessdate=2021-04-01}}</ref>。 ** 5月8日:キハ261系5000番台「ラベンダー」編成運用開始<ref group="報道">[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210412_KO_lavender.pdf 261系5000代多目的特急車両「ラベンダー」編成を公開します!] 北海道旅客鉄道、2021年4月12日(2021年10月5日閲覧)</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** 2月:例年以上の降雪の影響から、列車運休が恒常化。末端区間だけでなく、中核を占める札幌圏の被害が甚大で、道庁と北海道運輸局から検証要請を受ける。 ** 3月12日:ダイヤ改正<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20211217_KO_kaisei.pdf |title=2022年3月ダイヤ改正について |date=2021-12-17 |access-date=2022-05-15 |publisher=北海道旅客鉄道}}</ref>。283系気動車が特急「おおぞら」での営業運転を終了。 ** 3月16日:[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]で、東北新幹線上を走行していたH5系電車が被災し脱線する。のちにH5系電車の損失額として特別損失に14億円を計上する<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20220428_KO_2021.pdf |title=JR北海道グループ 2021年度決算 |access-date=2022-05-01 |publisher=北海道旅客鉄道株式会社}}</ref> ** 7月13日:社長会見にて、2022年度末で183系特急用気動車の定期運用終了、JR北海道最後のリゾート列車「[[ノースレインボーエクスプレス]]」の運行終了、2022年9月で281系気動車の定期運用の終了を発表する<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220713_KO_183.pdf |title=~キハ183系車両の運行終了~ キハ183系車両で運転する特急列車に乗ろう! |date=2022-07-13 |access-date=2022-07-13 |publisher=北海道旅客鉄道}}</ref><ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220713_KO_281.pdf |title=~28年間ありがとう~ キハ281系車両ラストラン |date=2022-07-13 |access-date=20220713 |publisher=北海道旅客鉄道}}</ref>。 ** 9月30日:281系気動車の定期運用を終了。 * [[2023年]](令和5年) ** 3月31日:[[五稜郭車両所]]が廃止<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR北海道、函館の五稜郭車両所23年3月末に閉鎖 |newspaper=日本経済新聞 |date=2022-08-04 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFC042UM0U2A800C2000000/ |access-date=2023-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/454031/ |title=【JR北海道】伝統の…五稜郭車両所が閉鎖 |access-date=2023-06-12 |publisher=ネコ・パブリッシング |date=2023-04-01 |website=鉄道ホビダス |work=鉄道投稿情報局}}</ref>。 ** 4月1日:留萌本線 石狩沼田駅 - 留萌駅間廃止<ref name="toyokeizai.net/articles/-/654008">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/654008 |title=留萌本線「石狩沼田ー留萌」廃線、苦渋の決断の裏 3月末で終了、また一つ消えるJR北海道の路線 |access-date=2023-04-01 |publisher=東洋経済新報社 |author=鉄道ジャーナル編集部 |date=2023-02-24 |website=東洋経済オンライン}}</ref>。 == 歴代会長・社長 == {|class=wikitable |+歴代の北海道旅客鉄道会長 |- !代数||氏名||在任期間||出身校 |- |初代||[[東条猛猪]]||1987年 - 1991年||[[東京帝国大学法学部]] |- |第2代||[[鈴木茂 (経営者)|鈴木茂]]||1991年 - 1996年||[[東京商科大学]](現・[[一橋大学]]) |- |第3代||[[大森義弘]]||1996年 - 2002年||[[東京大学法学部]] |- |第4代||[[坂本眞一 (実業家)|坂本眞一]]||2003年 - 2007年||[[北海道大学工学部]] |- |第5代||[[小池明夫]]||2007年 - 2011年||[[東京大学経済学部]] |- |第6代||[[柿沼博彦]]||2011年 - 2013年||[[北海道大学大学院工学研究科]] |- |第7代||小池明夫||2013年 - 2014年||東京大学経済学部 |- |第8代||[[須田征男]]||2014年 - 2018年||[[東京大学工学部]] |- |第9代||[[白川保友]]||2018年 - 2020年||[[東京大学理学部]] |- |第10代||[[田浦芳孝]]||2020年 - 2022年 ||[[早稲田大学政治経済学部]] |- |第11代||[[島田修 (実業家)|島田修]]||2022年 - ||東京大学経済学部 |} {|class=wikitable |+歴代の北海道旅客鉄道社長 |- !代数||氏名||在任期間||出身校 |- |初代||[[大森義弘]]<ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-11-29/news/economy/economy/1-0343055" />||1987年 - 1996年||東京大学法学部 |- |第2代||[[坂本眞一 (実業家)|坂本眞一]]<ref group="新聞" name="nikkei/2014-01-15/article/DGXNASFC15019_V10C14A1000000" />||1996年 - 2003年||北海道大学工学部 |- |第3代||[[小池明夫]]||2003年 - 2007年||東京大学経済学部 |- |第4代||[[中島尚俊]]<ref group="新聞" name="asahi/2011-09-18/national/update/0918/TKY201109180091" />||2007年 - 2011年||東京大学経済学部 |- |第5代||小池明夫||2011年 - 2013年||東京大学経済学部 |- |第6代||[[野島誠]]||2013年 - 2014年||東京大学工学部 |- |第7代||[[島田修 (実業家)|島田修]]||2014年 - 2022年 ||東京大学経済学部 |- |第8代||[[綿貫泰之]]<ref group="新聞">{{Cite news|title=新幹線札幌延伸に向け立て直し加速へ JR北海道が久々のトップ交代 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ5N67GYQ5NULFA018.html |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2022-05-20 |access-date=2022-05-20}}</ref>||2022年 - ||[[北海道大学経済学部]] |} == 路線 == [[File:Railway map of JR Hokkaido.svg|thumb|500px|北海道旅客鉄道の路線図(2023年4月1日時点)]] * '''総営業キロ数''':2,336.6 km(14路線・2023年4月1日現在)<ref name="jrhokkaido/corporate/company/com02" /> **'''[[新幹線]]''':148.8 km(1路線) ** '''[[幹線]]''':1,311.8 km(5路線) ** '''[[地方交通線]]''':876.0 km(8路線) * '''総駅数''':334駅(2023年4月1日現在)<ref name="jrhokkaido/corporate/company/comtop" /> **'''有人駅''':96駅 ** '''無人駅''':238駅 * '''[[信号場]]数''':43箇所 ラインカラーは「[[日本の鉄道ラインカラー一覧#北海道旅客鉄道(JR北海道)|日本の鉄道ラインカラー一覧]]」を参照。 === 現有路線 === 2007年(平成19年)10月1日から、一部路線には[[駅ナンバリング]]制を導入している<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2007/070912-3" />。詳細は「[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー]]」を参照。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all" |- !style="width:1em;"|分類 !style="width:7em;"|路線名 !区間 !style="width:5em;"|[[営業キロ]] !愛称・通称 !備考 |- !style="width:1em;"|[[新幹線]] ![[北海道新幹線]] |[[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]] |style="text-align:right;"|148.8 km |&nbsp; |[[新中小国信号場]] - 木古内駅間 85.5 km は海峡線と線路・施設を共用。<br />鉄道施設は鉄道・運輸機構が保有。 |- !style="width:1em;" rowspan="9"|[[幹線]] !rowspan="3"|[[函館本線]] |[[函館駅]] - [[大沼公園駅]] - [[小樽駅]] - [[旭川駅]] |style="text-align:right;"|423.1 km |&nbsp; |&nbsp; |- |[[大沼駅]] - [[渡島砂原駅]] - [[森駅 (北海道)|森駅]] |style="text-align:right;"|35.3 km |砂原支線 |&nbsp; |- |[[七飯駅]] - 大沼駅 |style="text-align:right; white-space:nowrap;"|なし |藤城線 |下り専用 本線区間([[仁山駅]]経由)と同一として扱われ、総営業キロにも加算されていない。 |- ![[根室本線]] |[[滝川駅]] - [[帯広駅]] - [[根室駅]] |style="text-align:right;"|443.8 km |style="white-space:nowrap;"|[[根室本線#釧路駅 - 根室駅間(花咲線)|花咲線]]([[釧路駅]] - 根室駅) | 2016年8月の台風被害で[[東鹿越駅]] - 新得駅間が運休中(バス代行)。富良野駅 - 新得駅間は[[2024年]]4月1日にバス転換される予定<ref group="新聞" name="asahi.com/articles/ASR3Z555SR3ZIIPE00L" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2023/230331_KO_Nemuro_Line" />。<br /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />新得駅 - 帯広駅間を除く残りの区間についても自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- !rowspan="2"|[[千歳線]] |[[沼ノ端駅]] - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]] |style="text-align:right;"|56.6 km |&nbsp; |JR線路名称上は沼ノ端駅 - [[苗穂駅]]間 60.2km([[札幌貨物ターミナル駅]] - 苗穂駅間は函館本線と重複)とされているが、事業基本計画および『[[鉄道要覧]]』では沼ノ端駅 - 白石駅間 56.6 km(札幌貨物ターミナル駅 - 白石駅間は函館本線と重複)とされている。 |- |[[南千歳駅]] - [[新千歳空港駅]] |style="text-align:right;"|2.6 km |空港線 |国鉄分割民営化以後に開業 |- !rowspan="2"|[[室蘭本線]] |style="white-space:nowrap;"|[[長万部駅]] - [[追分駅 (北海道)|追分駅]] - [[岩見沢駅]] |style="text-align:right;"|211.0 km |&nbsp; |沼ノ端駅 - 岩見沢駅間は自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- |[[東室蘭駅]] - [[室蘭駅]] |style="text-align:right;"|7.0 km |室蘭支線 |&nbsp; |- ![[石勝線]] |南千歳駅 - [[新得駅]] |style="text-align:right;"|132.4 km |&nbsp; |[[上落合信号場]] - 新得駅間 24.1 km は根室本線と重複。 |- !style="width:1em;" rowspan="8"|[[地方交通線]] ![[富良野線]] |[[富良野駅]] - 旭川駅 |style="text-align:right;"|54.8 km |&nbsp; |全区間について自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[留萌本線]] |[[深川駅]] - [[石狩沼田駅]] |style="text-align:right;"|14.4 km |&nbsp; |「バス転換」の方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[宗谷本線]] |旭川駅 - [[名寄駅]] - [[稚内駅]] |style="text-align:right;"|259.4 km |&nbsp; |日本最長の地方交通線。<br />名寄駅 - 稚内駅間は自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[釧網本線]] |[[東釧路駅]] - [[網走駅]] |style="text-align:right;"|166.2 km |&nbsp; |全区間について自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[石北本線]] |[[新旭川駅]] - [[北見駅]] - 網走駅 |style="text-align:right;"|234.0 km |&nbsp; |全区間について自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[札沼線]] |[[桑園駅]] - [[北海道医療大学駅]] |style="text-align:right;"|28.9 km |学園都市線 | |- ![[日高本線]] |[[苫小牧駅]] - [[鵡川駅]] |style="text-align:right;"|30.5 km |&nbsp; |残存区間についても自治体支援・利用促進が必要との方針が示されている<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3" />。 |- ![[海峡線]] |[[中小国駅]] - [[木古内駅]] |style="text-align:right;"|87.8 km |&nbsp; |国鉄分割民営化以後に開業<br />中小国駅 - 新中小国信号場間 2.3 km はJR東日本[[津軽線]]と重複。<br />新中小国信号場 - 木古内駅間 85.5 km は北海道新幹線と線路・施設を共用。 |- |} === 廃止路線 === {| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all" |- !style="width:1em;"|分類 !style="width:7em;"|路線名 !区間 !style="width:5em;"|営業キロ !通称 !廃止年月日 !備考 |- !style="width:1em;" rowspan="2"|幹線 ![[函館本線]] |[[砂川駅]] - [[上砂川駅]] |style="text-align:right;"|7.3 km |[[上砂川支線]] |1994年5月16日<ref name="mlit haishi"/> |[[北海道中央バス]]に転換 |- ![[石勝線]] |[[新夕張駅]] - [[夕張駅]] |style="text-align:right;"|16.1 km |夕張支線 |2019年4月1日<ref name="mlit haishi" /> |[[夕張鉄道|夕張鉄道バス]]に転換。 |- !style="width:1em;" rowspan="17"|地方交通線 !rowspan="2"|[[幌内線]] |岩見沢駅 - [[幾春別駅]] |style="text-align:right;"|18.1 km |&nbsp; |rowspan="2"|1987年7月13日 |rowspan="2"|[[特定地方交通線#第2次廃止対象路線|第2次特定地方交通線]]の指定を受けて廃止。<br />北海道中央バスに転換。<br />JR発足後廃止第1号。 |- |[[三笠駅 (北海道)|三笠駅]] - [[幌内駅]] |style="text-align:right;"|2.7 km |style="white-space:nowrap;"|(貨物支線) |- ![[松前線]] |木古内駅 - [[松前駅 (北海道)|松前駅]] |style="text-align:right;"|50.8 km |&nbsp; |1988年2月1日 |第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[函館バス]]に転換。 |- ![[歌志内線]] |砂川駅 - [[歌志内駅]] |style="text-align:right;"|14.5 km |&nbsp; |1988年4月25日 |第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />北海道中央バスに転換。 |- !rowspan="2"|[[標津線]] |[[標茶駅]] - [[根室標津駅]] |style="text-align:right;"|69.4 km |&nbsp; |rowspan="2"|1989年4月30日 |rowspan="2"|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />本線は[[阿寒バス]]、支線は[[根室交通]](バス)に転換。 |- |[[中標津駅]] - [[厚床駅]] |style="text-align:right;"|47.5 km |(支線) |- !rowspan="2"|[[名寄本線]] |[[名寄駅]] - [[紋別駅]] - [[遠軽駅]] |style="text-align:right;"|138.1 km |&nbsp; |rowspan="3"|1989年5月1日 |rowspan="2"|第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[名士バス]]、[[北紋バス]]、[[北海道北見バス|北見バス]]、[[湧別町営バス|上湧別町営バス]]に転換。 |- |[[中湧別駅]] - [[湧別駅]] |style="text-align:right;"|4.9 km |(支線) |- ![[天北線]] |[[音威子府駅]] - [[浜頓別駅]] - [[南稚内駅]] |style="text-align:right;"|148.9 km |&nbsp; |第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[宗谷バス]]に転換。 |- ![[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|池北線]] |[[池田駅 (北海道)|池田駅]] - 北見駅 |style="text-align:right;"|140.0 km |&nbsp; |1989年6月4日 |第2次特定地方交通線の指定を受けて廃止。<br />[[北海道ちほく高原鉄道]]に転換後、2006年4月21日に廃止<ref name="mlit haishi" />。<br />([[帯広駅|帯広]] - 池田 - [[陸別駅|陸別]]間は[[十勝バス]]、陸別 - 北見間は北海道北見バスに転換) |- ![[深名線]] |深川駅 - [[幌加内駅]] - 名寄駅 |style="text-align:right;"|121.8 km |&nbsp; |1995年9月4日<ref name="mlit haishi"/> |[[ジェイ・アール北海道バス]]に転換。 |- !rowspan="2"|[[江差線]] |木古内駅 - [[江差駅]] |style="text-align:right;"|42.1 km |&nbsp; |2014年5月12日<ref name="mlit haishi"/> |函館バスに転換。 |- |[[五稜郭駅]] - 木古内駅 |style="text-align:right;"|37.8 km |[[津軽海峡線]] |2016年3月26日<ref group="注釈" name="五稜郭・木古内間廃止" /> |北海道新幹線 新青森駅 - 新函館北斗駅間開業に伴い経営分離。<br />[[道南いさりび鉄道]]に移管。 |- !rowspan="2"|[[留萌本線]] |[[留萌駅]] - [[増毛駅]] |style="text-align:right;"|16.7 km |&nbsp; |2016年12月5日<ref name="mlit haishi"/> |[[沿岸バス]]に転換。 |- |[[石狩沼田駅]] - 留萌駅 |style="text-align:right;"|35.7 km |&nbsp; |2023年4月1日<ref name="toyokeizai.net/articles/-/654008" /> |沿岸バスに転換。 |- ![[札沼線]] |[[北海道医療大学駅]] - [[新十津川駅]] |style="text-align:right;"|47.6&nbsp;km |学園都市線 |2020年5月7日<ref name="mlit haishi" /> |2020年4月17日に列車運行終了<ref group="報道" name="jrhokkaido20200416" /><ref group="新聞" name="asahi20200416" />。<br />[[下段モータース]]および[[美唄自動車学校]]のバスと北海道中央バスに転換。 |- ![[日高本線]] |[[鵡川駅]] - [[様似駅]] |style="text-align:right;"|116.0&nbsp;km | |2021年4月1日<ref name="mlit haishi" /> |2015年1月の[[高波]]被害で運休([[バス代行]])となっていた。<br />[[道南バス]]、ジェイ・アール北海道バスに転換。 |- !style="width:1em;"|[[鉄道連絡船|航路]] ![[青函連絡船|青函航路]] |[[青森駅]] - 函館駅 |style="text-align:right;"|113.0 km |&nbsp; |1988年3月13日 |海峡線開業に伴い廃止<br />1988年6月3日から9月18日まで暫定(復活)運航を実施。 |- |} * かつて、函館本線の函館駅 - 五稜郭駅間、江差線の五稜郭駅 - 木古内駅間、海峡線の全線、およびJR東日本[[津軽線]]の青森駅 - 中小国駅間が「'''津軽海峡線'''」の愛称で呼ばれていたが、北海道新幹線開業により海峡線を通る在来線旅客列車が消滅したため、愛称が廃止された。ただし海峡線自体は正式に廃止も休止もされていないため「定期旅客列車ゼロの営業路線」という扱いである。 === 予定路線 === {| class="wikitable" style="font-size:85%;" rules="all" |+整備中の鉄道路線<ref name="mlit seibi">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001482056.pdf |title=整備中の鉄軌道路線一覧 |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-08-06}}</ref> |- !style="width:1em;"|分類 !路線名 !区間 !営業キロ !開業予定 !備考 |- !style="width:1em;"|新幹線 !北海道新幹線 |新函館北斗駅 - [[札幌駅]] |style="text-align:right;"|211.7 km |2030年度末 |鉄道・運輸機構が建設主体 |- |} == 列車 == JR北海道発足以降に同社の路線で運行されている、もしくはかつて運行されていた愛称付きの列車を挙げる。種別が変更された列車は変更後のもので記載し、他社の車両による運行のものはその会社名も記載する(廃止列車は廃止時点)。詳細は各列車の記事を参照。 <div style="float:left; width:50%"> === 現行列車 === <!-- 臨時列車は2シーズン以上運転され恒例化しているもの --> * [[新幹線]] ** [[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]](<!--2016年 -、-->[[東北新幹線]]直通、一部を除きJR東日本の車両) ** [[はやて (列車)|はやて]](<!--2016年 -、-->一部東北新幹線直通、JR東日本の車両のみ使用) * [[特別急行列車|特急列車]] ** [[カムイ (列車)|カムイ]]<!--(2017年 -)--> ** [[カムイ (列車)|ライラック]](1980年 - 2007年、2017年 -) ** [[カムイ (列車)#ライラック旭山動物園号|ライラック旭山動物園号]]([[臨時列車|臨時]]) ** [[カムイ (列車)#フラノラベンダーエクスプレス|フラノラベンダーエクスプレス]](臨時) ** [[宗谷 (列車)|宗谷]]<!--(2017年 -)--> ** [[宗谷 (列車)|サロベツ]](<!--(2017年 - -->一部特定日運休) ** [[オホーツク (列車)|オホーツク]]<!--(1972年 -)--> ** [[オホーツク (列車)|大雪]](<!--(2017年 - -->特定日運休) ** [[すずらん (列車)|すずらん]]<!--(1992年 -)--> ** [[北斗 (列車)|北斗]](1965年 - 2018年、2020年 -) ** [[おおぞら (列車)|おおぞら]](1961年 - 2001年、2020年 -) ** [[おおぞら (列車)|とかち]](1990年 - 1991年、1997年 - 2009年、2020年 -) ** [[ニセコライナー#臨時列車|ニセコ]](臨時) * [[快速列車]]・ライナー ** [[エアポート (列車)|エアポート]]<!--(1992年 -)-->(朝夕の一部は特別快速) ** [[ニセコライナー]]<!--(2000年 -)--> ** [[なよろ (列車)|なよろ]] ** [[きたみ (列車)|きたみ]](特別快速) ** [[狩勝 (列車)|狩勝]] ** [[しれとこ摩周号]] ** [[ノサップ (列車)|ノサップ]] ** [[ノサップ (列車)|はなさき]] ** [[はこだてライナー]](一部普通列車) ** [[ホームライナー#JR北海道|ホームライナー]] * [[観光列車]] ** [[くしろ湿原ノロッコ号]] ** [[富良野・美瑛ノロッコ号]] ** [[ふらの・びえい号]](2018年は「快速」として運転) ** [[SL冬の湿原号]] ** [[流氷ノロッコ号|流氷物語号]] * [[団体専用列車]] ** [[TRAIN SUITE 四季島]](臨時・JR東日本<!--、2017年 - -->) </div><div style="float:left; width:50%"> === 廃止列車 === <!-- 臨時列車は2シーズン以上運転され恒例化していたもの --> * 特急列車 ** [[カムイ (列車)#エル特急「ライラック」「ホワイトアロー」の登場|ホワイトアロー]]<!--(1986年 - 1990年)--> ** [[カムイ (列車)#国鉄分割民営化から「スーパーホワイトアロー」の登場|スーパーホワイトアロー]]<!--(1990年 - 2007年)--> ** [[カムイ (列車)#エル特急「スーパーカムイ」|スーパーカムイ]]<!--(2007年 - 2017年)--> ** [[カムイ (列車)|モーニングエクスプレス]](臨時) ** [[カムイ (列車)#旭山動物園号|旭山動物園号]](臨時) ** [[カムイ (列車)#フラノ紅葉エクスプレス|フラノ紅葉エクスプレス]](臨時) ** [[カムイ (列車)#フラノラベンダーエクスプレス|フラノスキーエクスプレス]](臨時) ** [[宗谷 (列車)|スーパー宗谷]]<!--(2000年 - 2017年)--> ** [[宗谷 (列車)#利尻|利尻]]<!--(2000年 - 2006年)--> ** [[宗谷 (列車)#利尻|はなたび利尻]](臨時) ** [[宗谷 (列車)#宗谷本線高速化後|まんぷくサロベツ号]] ** [[オホーツク (列車)|おおとり]]<!--(1964年 - 1988年)--> ** [[オホーツク (列車)#臨時列車|流氷特急オホーツクの風]](臨時) ** [[北斗 (列車)|スーパー北斗]](1994年 - 2020年、→「北斗」に改称) ** [[北斗 (列車)#臨時列車|道南さくらエクスプレス]](臨時) ** [[おおぞら (列車)|スーパーおおぞら]](1997年 - 2020年、→「おおぞら」に改称) ** [[まりも (列車)|まりも]] ** [[おおぞら (列車)|スーパーとかち]](1991年 - 2020年、→「とかち」に改称) ** [[おおぞら (列車)#トマムサホロスキーエクスプレス|トマムサホロスキーエクスプレス]](臨時) ** [[ニセコライナー#「ニセコスキーエクスプレス」|ニセコエクスプレス]](臨時) ** [[ニセコライナー#「ニセコスキーエクスプレス」|ニセコスキーエクスプレス]](臨時) ** [[ニセコライナー#臨時列車|ワッカ・ヌプリ]](臨時) ** [[はつかり (列車)|はつかり]](<!--1988年 - 2002年、-->JR東日本)<ref group="注釈">2000年3月11日から2002年11月30日まで、同一系統の列車として「スーパーはつかり」も運転されていたが、使用車両([[JR東日本E751系電車|E751系]])が青函トンネルを通過できないため、道内に乗り入れることはなかった。</ref> ** [[スーパー白鳥|白鳥、スーパー白鳥]](<!--2002年 - 2016年、-->白鳥はJR東日本) ** [[スーパー白鳥#さくらエクスプレス|さくらエクスプレス]](臨時) ** [[スーパー白鳥#ドラえもん海底列車|ドラえもん海底列車]](臨時) ** [[スーパー白鳥#ねぶたエクスプレス|ねぶたエクスプレス]](臨時) ** [[北斗星 (列車)|北斗星]](<!--1988年 - 2015年、-->一部はJR東日本) ** [[北斗星 (列車)|エルム]](臨時・一部はJR東日本) ** [[カシオペア (列車)#寝台特急「カシオペア」|カシオペア]](臨時・JR東日本) ** [[日本海 (列車)|日本海]](<!--1988年 - 2006年、-->JR西日本)<ref group="注釈">JR西日本所属車両を使用した1往復(1・4号)が函館駅まで乗り入れていたが、2006年3月18日に青森駅 - 函館駅間が廃止された。</ref> ** [[トワイライトエクスプレス]](臨時・JR西日本) * [[急行列車]] ** [[カムイ (列車)|かむい]] ** [[カムイ (列車)|そらち]] ** [[宗谷 (列車)|礼文]] ** [[宗谷 (列車)|天北]] ** [[オホーツク (列車)|大雪]] ** [[すずらん (列車)|ちとせ]] ** [[はまなす (列車)|はまなす]]<!--(1988年 - 2016年)--> * 快速列車 ** [[エアポート (列車)|空港ライナー]](1988年 - 1992年、→「エアポート」に改称) ** [[ニセコライナー|マリンライナー]]<!--(1988年 - 2000年)--> ** [[いしかりライナー]](1988年11月3日から2001年6月30日までは「快速」、以降2020年までは「区間快速」) ** [[留萌本線#運行形態|るもい]] ** [[なよろ (列車)|ピヤシリ、えんれい、すずいし、てしおがわ]] ** [[石北本線#運行形態|あばしり]] ** [[トマムサホロエクスプレス|マウントレイク摩周]](臨時) ** [[しれとこ摩周号|しれとこ]] ** [[狩勝 (列車)|ホリデーあさひかわ]](臨時) ** [[狩勝 (列車)|ホリデーおびひろ]](臨時) ** [[きたみ (列車)#ホリデーきたみ|ホリデーきたみ]](臨時) ** [[狩勝 (列車)|十勝]] ** [[おおぞら (列車)#根室本線優等列車|ぬさまい]] ** [[アイリス (列車)|アイリス]] ** [[トマムサホロエクスプレス|マウントレイク大沼]](臨時) ** [[海峡 (列車)|海峡]] ** [[はまなす (列車)|ミッドナイト]] ** ヘルシーウォーキング号(臨時) * 普通列車 ** [[日高本線#ホリデー日高|ホリデー日高]] ** [[日高本線#優駿浪漫号|優駿浪漫号]](臨時、2010年までは「快速」として運転) * 観光列車 ** [[流氷ノロッコ号]] ** [[流氷ノロッコ号#原生花園ノロッコ号|原生花園ノロッコ号]] ** [[くしろ湿原ノロッコ号|くしろ湿原紅葉ノロッコ号]] ** 十勝大平原ノロッコ号 ** [[C62ニセコ号]] ** [[留萌本線#SLすずらん号|SLすずらん号]] ** [[SLニセコ号]] ** [[SL函館大沼号]] ** SLはこだてクリスマスファンタジー号 ** [[流氷ノロッコ号#原生花園スタンディングトレイン|原生花園スタンディングトレイン]] ** [[JR北海道ナハ29000形客車|塩狩峠さくらノロッコ号]] ** [[JR北海道ナハ29000形客車|大沼・流山温泉バーベキュー号]] ** [[留萌本線#増毛ノロッコ号|増毛ノロッコ号]] * 団体専用列車 ** [[カシオペア (列車)# 団体専用列車「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」|カシオペア紀行、カシオペアクルーズ]](臨時・JR東日本<!--、2016年 - 2017年-->) </div>{{clear}} == 車両 == {{See also|JR北海道の車両形式}} [[ファイル:Limited express super hakucho 789 kei.JPG|代替文=JR北海道789系電車|サムネイル|JR北海道789系電車]] [[ファイル:Kiha-261-1201 Ozora.jpg|代替文=JR北海道キハ261系気動車|サムネイル|JR北海道キハ261系気動車]] [[ファイル:H5系 H1編成 仙台駅入線.JPG|代替文=JR北海道H5系新幹線電車|サムネイル|JR北海道H5系新幹線電車]] 道内の半数以上の路線が[[非電化]]のため、所有車両の多くは[[気動車]]である。北海道で使用する車両は国鉄時代から特別の寒冷対策を施している。一般的な仕様として、小型化のうえ[[二重窓]]とした客室窓、開口幅の小さい片開き式の客用扉・出入台と客室を仕切るデッキ扉などが挙げられる。車体各部には凍結を防止するヒーターが設けられ、暖房容量も本州以南の車両に比べ大きい。[[電車]]も所有しているが、電化区間が全て[[交流電化]]であるため全て[[交流型電車]]である。JR旅客6社で両開き扉の車両と[[直流型電車]]を全く所有していないのは、JR北海道が唯一である。また国鉄時代に製造された電車全数の除籍はJR旅客6社中ではJR北海道が最速である。 JR北海道発足後に開発された車両ではデッキ扉に代わる寒冷対策として、エアカーテンの設置・客用扉の開閉を乗客のボタン操作で行う「半自動扉」の装備など、室内を物理的に分断せずに外気流入を最小限に抑える工夫がなされている。また、[[1991年]]1月8日に発生した[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#日高本線勇払沼ノ端通踏切事故|日高本線での踏切脱線転覆事故]]を契機として乗務員保護対策が進められ、[[操縦席|運転席]]を高い位置に設ける「高運転台仕様」としたうえで[[クラッシャブルゾーン|衝撃吸収構造]]とした車両が相次いで開発された。 過去には高速バス・航空機などの競合交通機関への対抗策として、優等列車の所要時間短縮・増発の対策もなされてきた。JR北海道発足後に開発された特急用気動車では、曲線区間の多い路線向けに[[振り子式車両|振り子式]]の[[JR北海道キハ281系気動車|281系]]・[[JR北海道キハ283系気動車|283系]]気動車、[[車体傾斜式車両#採用車両(日本国内)|車体傾斜式]]の[[JR北海道キハ261系気動車|261系]]気動車を投入して曲線通過速度を向上させ、特急用電車では[[JR北海道785系電車|785系]]・[[JR北海道789系電車|789系]]電車の投入によって、それぞれ所要時間の短縮と増発を実現した。 しかし、厳しい経営状況を背景に保守管理費の削減とそれに伴う整備不良から、営業運行中の発煙事故<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130409-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130415-2" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130416-1" />や出火事故<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130708-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130715-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130809-1" />が度々発生し<ref group="新聞" name="newsweekjapan/2013-09-05/reizei/2013/09/post-587" />、[[2013年]]からは車両や設備への負担を抑えることを目的に列車の減便とスピードダウンに踏み切ることとなった<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130904-1" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130920-1" />。その結果、[[2014年]]から特急気動車の130km/h運転を廃止し、車体傾斜機構の使用を停止している<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140704-1" /><ref group="新聞" name="nikkei/2014-07-04/article/DGXNZO73789670U4A700C1L41000" />。 北海道新幹線の車両は[[新幹線E5系・H5系電車|JR東日本E5系新幹線電車]]をベースとしたH5系新幹線電車4編成を運用している。外装・内装のデザインが異なるが、性能面ではE5系と同一の車両である。 自社の新幹線車両はJR東日本の[[東北新幹線]]へ直通運転し、自社営業エリア外である[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[福島県]]、[[栃木県]]、[[茨城県]]、[[埼玉県]]、[[東京都]]に乗り入れている。自社エリア外への乗り入れを行う都道府県の数はJR西日本、JR東海に次いで多い。 一方、在来線車両はJR他社線・[[第三セクター鉄道]]線・私鉄線・地下鉄のいずれにも乗り入れていない。 == 現業機関 == === 車両基地・乗務員区所 === JR北海道の[[車両基地]]と略号、乗務員区所は以下の通り。 * 本社 ** [[札幌運転所]]「札サウ」 ** [[苗穂運転所]]「札ナホ」「苗」 ** [[苫小牧運転所]]「札トマ」 ** [[岩見沢運転所]]「札イワ」 ** [[小樽運転所]](車両配置はなく、運転士のみ所属) ** [[札幌車掌所]] ** [[室蘭運輸所]] * 釧路支社 ** [[釧路運輸車両所]]「釧クシ」「釧」 ** [[帯広運転所]]「釧オヒ」 * 旭川支社 ** [[旭川運転所]]「旭アサ」「旭」 ** [[北見運転所]] * 函館支社 ** [[函館運輸所]]「函ハコ」「函」 ** [[函館新幹線総合車両所]]「函ハシ」 === 車両工場 === * [[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]] 「NH」(本社鉄道事業本部) * [[釧路運輸車両所]] 「KR」(釧路支社) === 設備保全区所 === * 本社 ** 札幌保線所 ** 札幌電力所 ** 札幌信号通信所 ** 札幌建築所 ** 札幌構造物検査センター ** 岩見沢保線所 ** 岩見沢電気所 ** [[岩見沢レールセンター]] ** 室蘭保線所 ** 苫小牧電気所 ** 追分保線所 * 釧路支社 ** 釧路保線所 ** 釧路設備所 ** 釧路構造物検査センター ** 帯広保線所 * 旭川支社 ** 旭川保線所 ** 旭川電気所 ** 旭川設備所 ** 旭川構造物検査センター ** 北見保線所 ** 名寄保線所 * 函館支社 ** 函館保線所 ** 函館電気所 ** 函館設備所 ** 函館構造物検査センター ** 函館新幹線工務所 == 運賃 == 大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満の端数切り下げ)。2019年(令和元年)10月1日改定<ref>{{Cite press release |和書 |title=普通旅客運賃 |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2019年9月5日 |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/fare/pdf/02_03.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-01}}</ref>。 * [[函館本線]][[大沼駅]] - [[森駅 (北海道)|森駅]]間を通過する場合は、[[大沼公園駅]]経由の[[営業キロ]]または運賃計算キロによって計算する。片道101キロ以上の乗車券であれば、[[東森駅]]経由でも途中下車が可能。 * [[幹線]]と[[地方交通線]]を跨ぐ場合、10kmまでは地方交通線の運賃を適用する。11kmからは幹線の営業キロと地方交通線の換算キロを合算し、幹線の運賃を適用する。 ** 例として、[[札幌駅]] - [[太平駅]]間の営業キロは8.9kmであるため、地方交通線の運賃を適用する。札幌駅 - [[百合が原駅]]間の営業キロは10.2kmであるが、営業キロが10kmを超えているため幹線の営業キロ(札幌駅 - [[桑園駅]]間:1.6km)と地方交通線の換算キロ(桑園駅 - 百合が原駅間:9.5km)を合算し、幹線の運賃を適用する。 * [[千歳線]][[南千歳駅]] - [[新千歳空港駅]]間は20円の加算運賃を適用する。 * [[特定都区市内]]である札幌市内にある駅と、札幌駅から片道の営業キロが200kmを超える駅との相互間の片道普通旅客運賃は、札幌駅を起点または終点とした営業キロまたは運賃計算キロによって計算する。 ** 例として、[[手稲駅]] - [[八雲駅]]間([[小樽駅]]経由)の営業キロは194.6kmであるが、札幌駅から片道の営業キロが200kmを超えるため、札幌駅を起点とした営業キロ(205.2km)を適用する。券面表示は「札幌市内→八雲」となり、札幌市内発であれば同一運賃となる。 * 801km以上の幹線運賃は外部リンク参照のこと。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em; font-size:85%" |- !style="text-align:center;" colspan="6"| 幹線 !style="text-align:center;" colspan="6"| 地方交通線 |- ! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円) ! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円) !! キロ程 !! 運賃(円) |- |初乗り3km||style="text-align:right;"|200||101 - 120||style="text-align:right;"|2,420||441 - 460||style="text-align:right;"|8,250 |初乗り3km||style="text-align:right;"|200||101 - 110||style="text-align:right;"|2,420||401 - 419||style="text-align:right;"|8,250 |- |4 - 6||style="text-align:right;"|250||121 - 140||style="text-align:right;"|2,860||461 - 480||style="text-align:right;"|8,470 |4 - 6||style="text-align:right;"|250||111 - 128||style="text-align:right;"|2,860||420 - 437||style="text-align:right;"|8,470 |- |7 - 10||style="text-align:right;"|290||141 - 160||style="text-align:right;"|3,190||481 - 500||style="text-align:right;"|8,800 |7 - 10||style="text-align:right;"|300||129 - 146||style="text-align:right;"|3,190||438 - 455||style="text-align:right;"|8,800 |- |11 - 15||style="text-align:right;"|340||161 - 180||style="text-align:right;"|3,630||501 - 520||style="text-align:right;"|9,130 |11 - 15||style="text-align:right;"|340||147 - 164||style="text-align:right;"|3,630||456 - 473||style="text-align:right;"|9,020 |- |16 - 20||style="text-align:right;"|440||181 - 200||style="text-align:right;"|4,070||521 - 540||style="text-align:right;"|9,350 |16 - 20||style="text-align:right;"|440||165 - 182||style="text-align:right;"|4,070||474 - 491||style="text-align:right;"|9,350 |- |21 - 25||style="text-align:right;"|540||201 - 220||style="text-align:right;"|4,510||541 - 560||style="text-align:right;"|9,680 |21 - 23||style="text-align:right;"|540||183 - 200||style="text-align:right;"|4,510||492 - 510||style="text-align:right;"|9,680 |- |26 - 30||style="text-align:right;"|640||221 - 240||style="text-align:right;"|4,840||561 - 580||style="text-align:right;"|9,900 |24 - 28||style="text-align:right;"|640||201 - 219||style="text-align:right;"|4,840||511 - 528||style="text-align:right;"|9,900 |- |31 - 35||style="text-align:right;"|750||241 - 260||style="text-align:right;"|5,280||581 - 600||style="text-align:right;"|10,230 |29 - 32||style="text-align:right;"|750||220 - 237||style="text-align:right;"|5,280||529 - 546||style="text-align:right;"|10,230 |- |36 - 40||style="text-align:right;"|860||261 - 280||style="text-align:right;"|5,610||601 - 640||style="text-align:right;"|10,560 |33 - 37||style="text-align:right;"|860||238 - 255||style="text-align:right;"|5,610||547 - 582||style="text-align:right;"|10,450 |- |41 - 45||style="text-align:right;"|970||281 - 300||style="text-align:right;"|5,940||641 - 680||style="text-align:right;"|10,780 |38 - 41||style="text-align:right;"|970||256 - 273||style="text-align:right;"|5,940||583 - 619||style="text-align:right;"|10,780 |- |46 - 50||style="text-align:right;"|1,130||301 - 320||style="text-align:right;"|6,270||681 - 720||style="text-align:right;"|11,110 |42 - 46||style="text-align:right;"|1,130||274 - 291||style="text-align:right;"|6,270||620 - 655||style="text-align:right;"|11,110 |- |51 - 60||style="text-align:right;"|1,290||321 - 340||style="text-align:right;"|6,490||721 - 760||style="text-align:right;"|11,440 |47 - 55||style="text-align:right;"|1,290||292 - 310||style="text-align:right;"|6,490||656 - 691||style="text-align:right;"|11,440 |- |61 - 70||style="text-align:right;"|1,490||341 - 360||style="text-align:right;"|6,820||761 - 800||style="text-align:right;"|11,770 |56 - 64||style="text-align:right;"|1,490||311 - 328||style="text-align:right;"|6,820||692 - 728||style="text-align:right;"|11,770 |- |71 - 80||style="text-align:right;"|1,680||361 - 380||style="text-align:right;"|7,150||colspan="2"|&nbsp; |65 - 73||style="text-align:right;"|1,680||329 - 346||style="text-align:right;"|7,150||729 - 764||style="text-align:right;"|11,990 |- |81 - 90||style="text-align:right;"|1,890||381 - 400||style="text-align:right;"|7,370||colspan="2"|&nbsp; |74 - 82||style="text-align:right;"|1,890||347 - 364||style="text-align:right;"|7,370||765 - 800||style="text-align:right;"|12,320 |- |91 - 100||style="text-align:right;"|2,100||401 - 420||style="text-align:right;"|7,700||colspan="2"|&nbsp; |83 - 91||style="text-align:right;"|2,100||365 - 382||style="text-align:right;"|7,700||colspan="2"|&nbsp; |- |colspan="2"|&nbsp;||421 - 440||style="text-align:right;"|7,920||colspan="2"|&nbsp; |92 - 100||style="text-align:right;"|2,320||383 - 400||style="text-align:right;"|7,920||colspan="2"|&nbsp; |} * 本州3社(JR東日本・JR東海・JR西日本)と通しで乗る際は本州3社の幹線運賃を適用するが、境界駅(新青森駅)からの営業キロに応じて下表の加算額を加える。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;" |- ! キロ程 !! 運賃(円) !! 備考 |- |36 - 40km||style="text-align:right;"|180||style="text-align:left;"|[[奥津軽いまべつ駅]] のみ適用。 |- |101 - 120km||style="text-align:right;"|440||style="text-align:left;"|木古内駅のみ適用。 |- |121 - 180km||style="text-align:right;"|550|| |- |181 - 200km||style="text-align:right;"|660|| |- |201km - ||style="text-align:right;"|770|| |} == 社歌 == {{Infobox Song |Name=北の大地 |Type= |Artist=[[ダークダックス]] |alt Artist= |from Album= |from Album2= * [[シングル]]『一枚の切符から』 * 『社歌』(2009年、[[キングレコード]]) * 『鉄歌〜鉄道会社の歌』(2009年、キングレコード) |Released=1988年8月21日 |Format=シングル |track_no= |Recorded= |Genre=[[J-POP]]、[[社歌]] |Length= |Writer=[[山上路夫]] |Composer=[[森田公一]] |Label=トライエム |Producer= |Chart position= |Tracks= #一枚の切符から #'''北の大地''' |prev= |prev_no= |next= |next_no= |Misc= }} [[社歌]]は[[ダークダックス]]の『北の大地』(作詞:[[山上路夫]]、作曲:[[森田公一]])。1988年8月21日にダークダックスのシングル『一枚の切符から』(『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』挿入歌、JR北海道イメージソング)のカップリングとして[[コンパクトディスク|CD]]発売された。 == 広報活動 == {{節スタブ}} === CM出演者 === * [[中嶋朋子]] - ダイヤ改正 * [[戸田菜穂]] - 新千歳空港駅、冬こそJR * [[大山のぶ代]] - ドラえもん海底列車(声) * [[大泉洋]] - 学園都市線ダイヤ改正、札幌〜函館、得割きっぷ、冬こそJR * [[小笠原道大]] - ダイヤ改正(2004年) * [[稲葉篤紀]] - レール&ホテルパック * [[森崎博之]] - ラジオCM(2011年) * [[安田顕]]・[[音尾琢真]] - HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス(2022年)<ref>{{Cite web|和書|title=GLAYの「FRIED GREEN TOMATOES」が、“HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス”CMソングに起用 |url=https://www.thefirsttimes.jp/news/0000071657/ |website=THE FIRST TIMES |accessdate=2022-01-28 |language=ja}}</ref> === 提供番組 === ;過去 :* [[水曜どうでしょう]]([[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]) - 現在は降板している。放送番組出演者の[[大泉洋]]も一時期CMに出演していた。 :* [[土曜エクスプレス・週刊洋二]]([[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]) === キャンペーンガール === 民営化された1987年度から、JR北海道の開催するイベントやキャンペーン活動への参加やポスター撮影などの活動を行うキャンペーンガールを採用してきた。当初は「JR北海道フレッシュガール」の名前で、途中から「ミス・ツインクル」と改称された。当初の採用人数は本社で4人、各支社で3人ずつの13人で、2008年度から各支社の採用を2人に減らして合計10人とした。しかし応募者の減少やイベントへの参加機会の減少などもあり、経費削減の観点から2009年度一杯で採用を打ち切った<ref group="新聞" name="交通新聞/2010-01-21" />。 == グループ会社 == 公式サイト「会社・グループ情報」<ref>[https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/group/grotop.html 会社・グループ情報] - 北海道旅客鉄道、2022年5月2日閲覧</ref>、「JR北海道グループ 2021年度決算」による<ref name=":3" />。JR他社のグループ会社のカタカナ表記が「ジェイアール」であるのに対し、「ジェイ・アール」と「・」([[中黒]])が入る表記が多い。 ; 運輸業(鉄道事業) :; 株式会社ドウデン [http://www.kdod.co.jp/] :: 電気設備施工・監理を行う。 :; 北海道軌道施設工業株式会社 [http://www.h-kidou.jp/] :: 軌道の施工・保守を行う。 :; 株式会社[[北海道ジェイ・アール・サービスネット]] :: 駅業務受託、添乗業務および[[旅行会社|旅行業]]・[[金券ショップ]]の運営や[[労働者派遣事業]]、教育ビジネスを行う。 :: [[1988年]]2月17日に「日交観北海道」として設立。[[2001年]]4月1日付で現在の社名に変更した。 :; ジェイアール北海道エンジニアリング株式会社 [https://jrhe.co.jp/] :: 鉄道等の構造物の設計調査、施工、保守を行う。 :: [[1962年]]4月16日に前身会社が設立、[[2000年]]6月1日に「北海道ジェイアール・コンサルタンツ」と改称。[[2016年]]10月1日付で「北海道ジェイ・アール・ビルト」を吸収合併し、現在の社名に変更した<ref name="jrhe/company" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160129-1" />。 :; 北海道ジェイ・アール運輸サポート株式会社 [https://www.jrunyu.co.jp/] :: 車両の清掃・整備、運転所構内入換業務を受託する。 :; [[札幌交通機械]]株式会社 :: 車両の検修・改造、建造物の空調・衛生工事を行う。[[札幌市交通局]]の車両も扱う。 :; [[北海道高速鉄道開発]]株式会社 :: 高速化に関する車両や施設の貸出を行う。当初は[[札幌駅]] - [[釧路駅]]間の鉄道高速化のために主に[[北海道]]と[[釧路市]]などが出資して設立した[[第三セクター]]で、後に[[宗谷本線]]高速化事業などにも関わる。 ; 運輸業(その他) :; [[ジェイ・アール北海道バス]]株式会社 :: 路線バス、貸切バスの運行、桑園[[自動車学校]]の運営を行う。 :; 株式会社JR北海道ソリューションズ [https://www.jrh-sol.co.jp/] :: [[駅レンタカー]]、カーリース、駐車場管理のほか、駅内・車内[[広告]]掲示や[[コマーシャルメッセージ|CM]]制作、車内誌「The JR Hokkaido」の発行、札幌駅南口広場のイベント企画の運営などを行う。 :: [[2020年]]4月1日に[[広告代理店|広告代理業]]の「北海道ジェイ・アール・エージェンシー」を吸収合併して、「ジェイアール北海道レンタリース」から社名変更した<ref name="jrhokkaido/20191010" group="報道" />。 ; 小売業 :; [[JR北海道フレッシュキヨスク]]株式会社 :: 駅売店[[キヨスク]]の運営や[[札幌市営地下鉄]]を含む札幌圏の駅周辺の[[コンビニエンスストア]]、ジェイアール生鮮市場などの運営。「[[Kitaca]]」グッズのなどの開発を行う。 :: 「クロフォード・イン・大沼」が[[2015年]]11月2日付で[[鶴雅ホールディングス|鶴雅観光開発]]に売却されるまでは<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150408-2" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150717-2" />、クロフォード・イン・大沼の運営、また[[流山温泉]]の運営も受託していた。[[2021年]]10月1日に「北海道ジェイ・アール・フレッシュネス・リテール」を合併して、「北海道キヨスク」から社名を変更した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=連結子会社2社の合併に関するお知らせ|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-03-16|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20210316_KO_Kiosk.pdf|format=PDF|accessdate=2021-10-06}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=「JR北海道フレッシュキヨスク」発足 JR北海道グループ小売2社が経営統合|newspaper=交通新聞電子版|date=2021-10-01|url=https://news.kotsu.co.jp/Contents/20211001/ed8c3183-67e8-43af-963b-a9b2eb2422d8|accessdate=2021-10-06}}</ref>。 ; 不動産賃貸業 :; 北海道ジェイ・アール都市開発株式会社 [https://www.hjt.co.jp/] :: 高架下用地などの開発・賃貸を行う。 :; 札幌駅総合開発株式会社 [https://www.jr-tower.com/] :: [[JRタワー]]の管理・運営を行う。 :: [[2005年]]10月1日に前身の「札幌駅南口開発」が「札幌ターミナルビル」、「札幌駅地下街開発」、「札幌ステーション開発」を吸収合併して発足。JR北海道の経営難による資金繰りから、[[2016年]]8月1日付で株式の一部がJR北海道グループ外の第三者に売却された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160615-1" />。 ; ホテル業 :; [[JR北海道ホテルズ]]株式会社 :: JRタワーホテル日航札幌、[[ホテル日航ノースランド帯広]]、JRインの運営を行う。 ; その他 :; 株式会社北海道ジェイ・アール商事 [http://www.h-jrshoji.jp/] :: 鉄道用資材などの調達や[[リース]]を行う。 :; [[北海道クリーン・システム]]株式会社 :: JR北海道管内の[[鉄道駅|駅]]や一般ビルの清掃・警備、函館駅ホーム案内放送を受託する。かつては[[竜飛定点|竜飛海底駅]]の見学案内・誘導も行っていた。 :; 株式会社[[北海道ジェイ・アール・システム開発]] :: ソフトウェア開発・設計・製造、情報システムの運用・保守、情報処理機器の販売、情報処理システムのコンサルティング、[[電気通信事業]]を行う。 :; 札建工業株式会社 [https://www.sakkenkogyo.jp/] :: 土木・建築・軌道・造園等工事の請負、建築設計ならびにこれらに付帯する一切の事業を行う。 :; 匿名組合ジェイエイチホスピタルアセット ホールディングズ<ref>{{Cite web|和書|title=別表1 JR北海道の子会社等一覧表 |work=北海道、四国、九州各旅客鉄道株式会社の経営状況等について |publisher=会計検査院 |url=https://report.jbaudit.go.jp/org/h27/ZUIJI2/2015-h27-Z4051-0.htm |accessdate=2020-11-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dbj.jp/pdf/CSR_disclo/2008/04.pdf|title=DSRディスクロージャ|accessdate=2020年11月12日|publisher=日本政策投資銀行}}</ref> :: [[JR札幌病院]]の建物の資金を不動産ファンドにて調達、建築及び所有をし、建物を[[証券会社]]を通じて現金化、JR北海道に賃貸をする。 === かつてのグループ会社 === ; 株式会社[[北海道ジェイ・アール・ダイエー]] : [[1992年]]8月21日設立。[[ダイエー]]との[[合弁会社]]<ref group="新聞" name="news.nissyoku/Contents/urn/newsml/nissyoku/19920729/nss-7409-0006/1" />で、「JRダイエー (JR Daiei)」のブランド名で札幌市内に出店していた。[[1999年]]3月に清算された。 ; [[ユーノス]]ジェイアール北海道 : [[マツダ]]のユーノス販売網に参加し[[自動車ディーラー]]として営業。札幌駅付近の高架下および[[帯広市]]に店舗を構えていた。[[1998年]]3月末、メーカー資本の地元ディーラー「[[マツダアンフィニ]]北海道」に営業譲渡して撤退・清算した。札幌店は「マツダアンフィニ北海道・JR札幌駅東口店」として営業していたが、のちに閉店している。 ; 北海道企画開発株式会社 : [[1989年]]12月27日設立。ゴルフ練習場、駐車場等の運営、ホテル及び温泉施設の運営受託、食料品等の販売・取次等を行っていた。[[2007年]]10月1日付で「北海道クリーン・システム」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2007/070529" />。 ; 株式会社[[北海道ジェイ・アール・トラベルサービス]] : [[1997年]]4月21日設立。旅行業・金券ショップの運営などを行っていた。[[2007年]]12月1日付で「北海道ジェイ・アール・サービスネット」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2007/070731-2" />。 ; 株式会社北海道ジェイ・アール・フーズ : [[1990年]]10月25日に{{R|JRR1991}}「にっしょく北海道」の事業を継承する形で設立。札幌・旭川・小樽の駅構内での飲食店やJR北海道ホテルグループの「ホテルさっぽろ弥生」の運営を行っていた。[[2010年]]10月1日付で「北海道キヨスク」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2010/100330-1" />。 ; [[ジェイ・アールはこだて開発]]株式会社 : [[1986年]]12月24日に「はこだて開発株式会社」として設立され、[[2005年]]7月1日付で「ジェイ・アールはこだて開発」に社名変更。[[北海道旅客鉄道函館支社|函館支社]]管内での駅業務受託、駅構内売店・食堂の営業、流山温泉および「クロフォード・イン・大沼」の運営受託を行っていたが、[[2014年]]10月1日付で「北海道キヨスク」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140228-2" />。 ; 北海道リネンサプライ株式会社 : [[1967年]]9月1日設立。寝台座席などの寝具、座席の背当て等の[[ドライクリーニング|クリーニング]]を行っていた。[[2016年]]6月28日付で「北海道クリーン・システム」保有株式の92.5%内の82.5%を[[白洋舍]]および廣瀬商会に売却され、白洋舍のグループ会社となることでJR北海道グループから離脱した<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160622-2" />。 ; 旭川ターミナルビル株式会社 : [[1980年]]4月8日設立。[[旭川駅]]構内および[[旭山動物園]]の店舗、旭川エスタ駐車場の運営をしていたが、赤字が続いていたため、2016年6月頃に清算された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150731-4" />。[[2015年]]10月1日付で[[フォートレス・インベストメント・グループ]]に売却するまでは<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150408-2" /><ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150717-2" />、「[[アートホテル旭川|ロワジールホテル旭川]]」の運営も行っていた。 ; 株式会社北海道ジェイ・アール・ビルト : [[1992年]]12月15日設立。建物・設備の施工・修繕、JR北海道が所有する施設の維持管理等を行っていた。2016年10月1日付で「北海道ジェイアール・コンサルタンツ」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160129-1" />。 ; 北海道ジェイ・アール・サイバネット株式会社 : 車両その他の電子設備やシステムの開発を行っていた。2016年12月1日付で「札幌交通機械」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160527-1" />。 ; [[ジェイ・アール道東トラベルサービス]]株式会社 : 釧路支社管内での駅業務受託、添乗業務を行っていた。[[2017年]]2月1日付で「北海道ジェイ・アール・サービスネット」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160803-1" />。 ; 札幌工営株式会社 : 車両工場での作業を受託していた。[[2018年]]4月1日付で「札幌交通機械」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/171006-1" />。[[北海道公安委員会]]から[[警備業法]]違反により既存の警備会社が営業停止処分を受けたため、2018年3月1日より他の警備会社に切り替えている<ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2018/180301-6" />。 ; 株式会社北海道JRインマネジメント : 宿泊特化型ホテル([[JRイン札幌]]、JRイン帯広、JRイン旭川)の運営をしていたが、経営資源の集中・効率化を図るため、2018年4月1日付で「JR北海道ホテルズ」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/180123-1" />。 ; 札新開発株式会社 : 桑園自動車学校の運営を行っていたが、[[2020年]]4月1日にバス事業者の「ジェイ・アール北海道バス」に吸収合併<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20191010_KO_Merger.pdf|format=PDF|title=連結子会社合併のお知らせ|accessdate=2020-06-29|publisher=北海道旅客鉄道株式会社}}</ref>された。 ; 株式会社北海道ジェイ・アール・エージェンシー : 駅内・車内広告の企画、CM制作、札幌駅南口のイベント広場の管理などを行っていた。[[2004年]]までは時刻表『北海道ダイヤ』も出版していた。2020年4月1日に「ジェイアール北海道レンタリース」に吸収合併された<ref group="報道" name="jrhokkaido/20191010">{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20191010_KO_Merger.pdf#page=2|format=PDF|title=連結子会社の合併に関するお知らせ|accessdate=2020-06-29|publisher=北海道旅客鉄道株式会社}}</ref>。 == 労働組合 == <!--組合が解散あるいは他の組合と統合した場合は、単に消すのではなくその旨注記や、解散・統合に至った経緯を記述してください。--> 2018年現在、4つの[[労働組合]]がある<ref name="toyokeizai20180616"/>。カッコ内は略称。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1" |- !名称 !上部組織 |- |[[北海道旅客鉄道労働組合]](JR北海道労組) |[[全日本鉄道労働組合総連合会]](JR総連) |- |[[JR北海道労働組合]](JR北労組) |[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合) |- |[[国鉄労働組合]]北海道本部(国労北海道本部) |国鉄労働組合(国労) |- |[[全日本建設交運一般労働組合]]北海道鉄道本部(建交労北海道) |全日本建設交運一般労働組合(建交労) |} JR北海道労組及びJR北労組は会社との間で[[労働協約]]を締結している(国労・建交労については未詳<!--情報お持ちの方は追記願う-->)。組合員数が最大なのは北海道旅客鉄道労働組合であるが、深刻な労使癒着や労組同士の激しい対立、[[アルコール検査]]拒否などの根深い労使問題があるとされる<ref name="toyokeizai20180616">[https://toyokeizai.net/articles/-/565978 JR北海道 労使癒着の深い闇 集中連載 JR歪んだ労使関係(2)] - 東洋経済オンライン(2018年6月16日)、2022年5月7日閲覧</ref>。 {{main|北海道旅客鉄道労働組合#問題}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="jrhokkaido/corporate/company/comtop">{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/company/comtop.html |title=会社概要 |accessdate=2023-09-07 |date=2023-04-01 |work=会社・グループ情報 |publisher=北海道旅客鉄道 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="jrhokkaido/corporate/company/com02">{{Cite web|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/company/com_02.html |title=営業エリア|accessdate=2023-04-01 |date= |work=会社・グループ情報 |publisher=北海道旅客鉄道 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="jrhe/company">{{Cite web|author= |url=http://jrhe.co.jp/company/index.html|language=日本語|title=会社概要|work= |publisher=ジェイアール北海道エンジニアリング|date= |accessdate=2016-11-30|archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="jrhokkaido/fare">{{Cite web|和書|title=新しい運賃・料⾦について|work=お知らせ|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/fare/index.html|publisher=北海道旅客鉄道 |accessdate=2019-10-04}}</ref> }} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|2|group="報道"|refs= <ref group="報道" name="jrhokkaido/2000-02-28/press/pressdaiya">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/pressdaiya.html|language=日本語|title=平成12年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2000-02-28|accessdate=2000-05-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000511205659/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/pressdaiya.html|archivedate=2000年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/2001-04-25/press/2001/daikai">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2001/daikai.html|language=日本語|title=平成13年7月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2001-04-25|accessdate=2014-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020613013510/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2001/daikai.html|archivedate=2002年6月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/2002-09-20/press/2002/1412daiya">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2002/1412daiya.html|language=日本語|title=平成14年12月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2002-09-20|accessdate=2014-06-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021010072608/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2002/1412daiya.html|archivedate=2002年10月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2003/031226">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2003/031226.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成16年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2003-12-26|accessdate=2014-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031231131233/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2003/031226.pdf|archivedate=2003年12月31日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2005/050914-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/050914-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北海道内の特急列車全面禁煙化について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2005-09-14|accessdate=2005-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051211134727/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/050914-3.pdf|archivedate=2005年12月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2005/051222">{{Cite press 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夜行特急「まりも号」|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-07-15|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624135859/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080715-1.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2008/080825-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080825-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=夜行特急「まりも号」ラストランイベントを開催します!|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-08-25|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624135657/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080825-2.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2008/080910-1">{{Cite press 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清風山信号場構内で発生した列車脱線事故について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-05-31|accessdate=2011-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110617080555/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110531-1.pdf|archivedate=2011年6月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2011/110610-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110610-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=運転士が列車を運転中に居眠りをしていたことについて|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-06-10|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110626171310/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110610-1.pdf|archivedate=2011年6月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2011/110615-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110615-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=石勝線 追分駅構内における信号機の誤表示について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-06-15|accessdate=2013-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130605135551/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110615-1.pdf|archivedate=2013年6月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2011/110907-1">{{Cite press release|author=|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110907-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=36協定違反(労働基準法違反)について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-09-07|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120417084827/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110907-1.pdf|archivedate=2012年4月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2011/110916-1">{{Cite press 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特急北斗20号の床下から煙が出た事象について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-04-09|accessdate=2013-05-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521164205/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130409-1.pdf|archivedate=2013年5月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130415-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130415-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=特急「北斗」号の車両変更による列車の遅れについて|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-04-15|accessdate=2013-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513023421/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130415-2.pdf|archivedate=2013年5月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130416-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130416-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月8日発生 特急北斗20号のエンジンが破損した事象について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-04-16|accessdate=2013-05-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521135010/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130416-1.pdf|archivedate=2013年5月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130426-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130426-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=江差線(木古内・江差間)の鉄道事業廃止届の提出について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-04-26|accessdate=2013-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513023910/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130426-1.pdf|archivedate=2013年5月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130708-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130708-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=7月6日 特急北斗14号のエンジン付近から出火した事故の概要について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-07-06|accessdate=2013-07-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130717054513/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130708-1.pdf|archivedate=2013年7月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130715-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130715-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=7月15日 特急スーパーおおぞら3号の3号車配電盤から出火したトラブルの概要について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-07-15|accessdate=2013-08-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130810030542/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130715-1.pdf|archivedate=2013年8月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130809-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130809-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=7月15日発生 特急スーパーおおぞら3号の配電盤から出火したトラブルの原因と対策について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-07-15|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624130418/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130809-1.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130904-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130904-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=安全性向上に向けた輸送サービス抑制へのご理解について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-04|accessdate=2013-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053616/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130904-1.pdf|archivedate=2013年9月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/130920-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130920-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=11月以降のダイヤについて|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-20|accessdate=2013-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053935/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130920-1.pdf|archivedate=2013年9月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2013/131220-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年3月ダイヤ改正について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-12-20|accessdate=2013-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224105741/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|archivedate=2013年12月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140228-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140228-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=連結子会社2社の合併に関するお知らせ|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-02-28|accessdate=2014-08-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140826113855/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140228-2.pdf|archivedate=2014年8月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140416-1">{{Cite press release|author=|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140416-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北海道新幹線用車両について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-04-16|accessdate=2014-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140416081225/https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140416-1.pdf|archivedate=2014年4月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140514-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140514-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=733系電車増備と快速「エアポート」への投入について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-05-14|accessdate=2014-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140514185604/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140514-1.pdf|archivedate=2014年5月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140704-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140704-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年8月ダイヤ改正について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-07-04|accessdate=2014-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714153703/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140704-1.pdf|archivedate=2014年7月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140910-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140910-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新型特急車両の開発中止について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-09-10|accessdate=2014-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140910093118/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140910-1.pdf|archivedate=2014年9月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/141028-3">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141028-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=会計検査院による「鉄道施設の維持管理についての意思表示」について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-10-28|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141102044952/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141028-3.pdf|archivedate=2014年11月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/141120-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「函館〜新函館北斗」アクセス列車用の車両について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141120063846/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-3.pdf|archivedate=2014年11月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/141219-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141219-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年春ダイヤ改正について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-12-19|accessdate=2014-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141219081840/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141219-1.pdf|archivedate=2014年12月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/141219-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141219-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR北海道予約サービス「寝台特急予約」終了のお知らせ|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-12-19|accessdate=2014年12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141222073638/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141219-3.pdf|archivedate=2014年12月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150123-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150123-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=春の臨時列車のお知らせ|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-01-23|accessdate=2015-03-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150330111020/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150123-1.pdf|archivedate=2015年3月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150123-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150123-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=急行「はまなす」及び寝台特急「カシオペア」・「北斗星」の平成27年上期(4月〜9月)運転計画について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-01-23|accessdate=2015-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150212153802/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150123-2.pdf|archivedate=2015年2月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150302-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150302-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=江差線(五稜郭・木古内間)の廃止届出書の提出について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-03-02|accessdate=2015-03-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150330111154/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150302-1.pdf|archivedate=2015年3月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150320-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150320-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=安全投資と修繕に関する5年間の計画|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-03-20|accessdate=2015-03-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150321135822/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150320-1.pdf|archivedate=2015年3月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150404-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150404-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=特急スーパー白鳥34号車両から白煙が出た事象について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-04|accessdate=2015-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150404154323/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150404-1.pdf|archivedate=2015年4月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150408-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150408-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「ロワジールホテル旭川」及び「クロフォード・イン大沼」の売却について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-08|accessdate=2015-04-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150413052907/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150408-2.pdf|archivedate=2015年4月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150508-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150508-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=安全投資と修繕に関する5年間計画について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-03-20|accessdate=2015-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624035149/https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150508-1.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150610-2">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150610-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新型一般気動車(量産先行車)の製作について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-06-10|accessdate=2016-01-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150615183250/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150610-2.pdf|archivedate=2015年6月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150717-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150717-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「ロワジールホテル旭川」及び「クロフォード・イン大沼」の売却先の決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-07-17|accessdate=2015-08-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150807044809/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150717-2.pdf|archivedate=2015年8月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150731-4">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150731-4.pdf|format=PDF|language=日本語|title=子会社の会社清算方針の決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-07-31|accessdate=2015-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150801034627/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150731-4.pdf|archivedate=2015年8月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150916-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150916-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北海道新幹線 新青森〜新函館北斗間開業に伴う運行計画の概要について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-09-16|accessdate=2015-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150916100107/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150916-3.pdf|archivedate=2015年9月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/151007-1">{{Cite press 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release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151218-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北海道新幹線設備切替に伴う列車の運休について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151219022806/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151218-1.pdf|archivedate=2015年12月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/151218-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151218-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成28年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151218154545/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151218-3.pdf|archivedate=2015年12月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160129-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160129-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=連結子会社2社の合併について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-01-29|accessdate=2016-11-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131030204/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160129-1.pdf|archivedate=2016年1月31日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160208-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160208-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月26日以降の普通列車時刻について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-08|accessdate=2016-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160320093820/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160208-2.pdf|archivedate=2016年3月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160210-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-10|accessdate=2016-02-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160210105033/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-1.pdf|archivedate=2016年2月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160413-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160413-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=特急車両の老朽・劣化の状況について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-04-13|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160413185823/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160413-1.pdf|archivedate=2016年4月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160428-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160428-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=留萌線(留萌・増毛間)の鉄道事業廃止届の提出について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-04-28|accessdate=2016-04-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160429052355/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160428-3.pdf|archivedate=2016年4月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-05-09|accessdate=2016-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160519034311/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|archivedate=2016年5月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160527-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160527-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=グループ会社2社の合併について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-05-27|accessdate=2016-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160528062854/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160527-1.pdf|archivedate=2016年5月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/180123-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180123-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=グループ会社2社の合併について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-01-23|accessdate=2018-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180717154113/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180123-1.pdf|archivedate=2018年1月23日|deadlinkdate=2018年12月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160615-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160615-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=札幌駅総合開発(株)の一部株式の売却等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-06-15|accessdate=2016-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160616203935/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160615-1.pdf|archivedate=2016年6月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160622-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160622-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北海道リネンサプライ株式会社(当社グループ会社)の非グループ会社化について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-06-22|accessdate=2016-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160625210805/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160622-2.pdf|archivedate=2016年6月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160628-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160628-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=留萌線(留萌・増毛間)の廃止日繰上げの届出について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-06-29|accessdate=2016-07-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160701083826/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160628-1.pdf|archivedate=2016年7月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160729-1">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「持続可能な交通体系のあり方」について(PPT版)|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160729111508/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-1.pdf|archivedate=2016年7月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160729-2">{{Cite press release|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「持続可能な交通体系のあり方」について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160729111755/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160729-2.pdf|archivedate=2016年7月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160803-1">{{Cite press release|和書|author=|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160803-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=連結子会社2社の合併について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-08-03|accessdate=2016-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160803071155/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160803-1.pdf|archivedate=2016年8月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=当社単独では維持することが困難な線区について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-18|accessdate=2016-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161118050351/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-3.pdf|archivedate=2016年11月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-4">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-4.pdf|format=PDF|language=日本語|title=当社単独では維持することが困難な線区について(PPT版)|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-18|accessdate=2016-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161118121205/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-4.pdf|archivedate=2016年11月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="報道" name="jreast/press/2016/20160403">{{Cite press release|url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160403.pdf|format=PDF|language=日本語|title=E26系「カシオペア」車両を使用した臨時列車を運転します|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2016-04-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406100520/http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160403.pdf|archivedate=2016年4月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jreast/press/2016/20161209">{{Cite press release|url=http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161209.pdf|format=PDF|language=日本語|title=E26系「カシオペア」車両を使用した臨時列車の運転について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-12-06|accessdate=2016-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161207021431/http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161209.pdf|archivedate=2016年12月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="mlit.go/2013-09-21/report/press/tetsudo09_hh_000041">{{Cite press release|url=http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000041.html|language=日本語|title=軌道の保守管理に係る緊急点検について|publisher=国土交通省|date=2013-09-21|accessdate=2013-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131010124215/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000041.html|archivedate=2013年10月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="mlit.go/2013-10-04/report/press/tetsudo09_hh_000044">{{Cite press release|url=http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000044.html|language=日本語|title=軌道の保守管理に係る緊急点検結果について|publisher=国土交通省|date=2013-10-04|accessdate=2013-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131010124058/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000044.html|archivedate=2013年10月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="mlit.go/2014-01-21/report/press/tetsudo07_hh_000052">{{Cite press release|url=http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo07_hh_000052.html|language=日本語|title=「JR北海道の安全確保のために講ずべき措置―JR北海道の再生へ―」の公表について|publisher=国土交通省|date=2014-01-21|accessdate=2014-12-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141227204826/http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo07_hh_000052.html|archivedate=2014年12月27日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/170327-1">{{Cite press release |title=北海道新幹線 開業1年のご利用状況について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年3月27日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170327-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170329005222/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170327-1.pdf |archivedate=2017年3月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/170227-1">{{Cite press release |title=鉄道高架橋からのコンクリート片の落下について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年2月27日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170227-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170326080716/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170227-1.pdf |archivedate=2017年3月26日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/170316-3">{{Cite press release |title=鉄道高架橋からのコンクリート片の落下について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年3月16日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170316-3.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170316134104/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170316-3.pdf |archivedate=2017年3月16日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/170328-1">{{Cite press release |title=鉄道高架橋からのコンクリート片の落下について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年3月28日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170328-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170329005122/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170328-1.pdf |archivedate=2017年3月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> --> <ref group="報道" 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|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170808-1.pdf|format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年8月09日}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/171012-3">{{Cite press release |和書 |title=当社単独では維持困難な線区の経営情報等の説明状況について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年10月12日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171012-3.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年10月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171015093015/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171012-3.pdf |archivedate=2017年10月15日}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/171006-1">{{Cite press release |和書 |title=連結子会社2社の合併に関するお知らせ |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年10月6日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171006-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年10月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171015092906/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171006-1.pdf |archivedate=2017年10月15日}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2017/171206-1">{{Cite press release |和書 |title=平成29年12月6日再生推進会議有志による声明文に関する当社の受け止めについて |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2017年12月6日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171206-1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年3月6日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171209095140/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171206-1.pdf |archivedate=2017年12月9日}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2018/180301-6">{{Cite press release |和書 |title=グループ会社における警備業法違反に伴う営業停止処分について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2018年3月1日 |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180301-6.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年3月6日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180303102205/https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180301-6.pdf |archivedate=2018年3月3日}}</ref> <ref group="報道" name="hokkaido20180323">{{Cite press release |和書 |title=石勝線(新夕張・夕張間)の鉄道事業廃止について |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2018/180323-1.pdf |publisher=北海道旅客鉄道 / 夕張市 |format=PDF |date=2018-03-23 |accessdate=2018-03-23}}</ref> <ref group="報道" name="hokkaido20181214">{{Cite press release |和書 |title=2019年3月ダイヤ改正について|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181214_KO_H31Kaisei.pdf|publisher=北海道旅客鉄道 |format=PDF |date=2018-12-14 |accessdate=2019-02-17}}</ref> <ref group="報道" name="JR北ニュース 2018年12月21日">{{Cite press release |和書 |title=札沼線(北海道医療大学・新十津川間)の鉄道事業廃止届の提出について |url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181221_KO_Sassyoline.pdf |publisher=北海道旅客鉄道 |format=PDF |date=2018-12-21 |accessdate=2018-12-21}}</ref> <ref group="報道" name="hokkaido20190117>{{Cite press release |和書 |title=「大規模災害時」や「事前に運休や運転見合わせを決定した際」のTwitter配信を始めます |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20190117_KO_Twitter%20start.pdf |format=PDF |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2019-01-17 |accessdate=2019-02-01}}</ref> <ref group="報道" name="hokkaido20190510">{{Cite press release |和書 |title=運賃・料金改定の申請について |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20190510_KO_Revision.pdf|publisher=北海道旅客鉄道 |format=PDF |date=2019-05-10 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|newspaper=北海道新聞(16版)|agency= |publisher=北海道新聞社|pages=33面|date=2013-09-22|accessdate= |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np/2014-03-13/news/economic/526714">{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/526714.html|language=日本語|title=北海道新幹線4編成40両、年内に納入開始 JR社長会見、総額180億円|newspaper=北海道新聞(朝刊)|agency=どうしんウェブ(電子版/経済)|publisher=北海道新聞社|date=2014-03-13|accessdate=2014-03-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140320010337/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/526714.html|archivedate=2014年3月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np/2014-05-10/news/economic/538331">{{Cite news|author=|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/538331.html|language=日本語|title=87%が採算割れ路線のJR北海道 新たな赤字ローカル存廃論議浮上も|newspaper=[[北海道新聞]](朝刊)|agency=どうしんウェブ(電子版/経済)|publisher=[[北海道新聞社]]|date=2014-05-10|accessdate=2014-05-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140511110133/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/538331.html|archivedate=2014年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np/2014-11-01/news/economic/571982">{{Cite news|author=|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/571982.html|language=日本語|title=フル編成、堂々 北海道新幹線、線路に 七飯|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ(電子版/経済)|publisher=北海道新聞社|date=2014-11-01|accessdate=2014-11-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141101150500/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/571982.html|archivedate=2014年11月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2015-04-03/news/society/society/1-0119424">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0119424.html|language=日本語|title=青函トンネルで緊急停止 特急から煙 乗客124人、地上避難|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ(電子版/社会)|publisher=北海道新聞社|date=2015-04-03|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150403165602/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0119424.html|archivedate=2015年4月3日|deadlinkdate=2017年9月}}(JST時刻:18時41分、2015年4月4日2時35分更新)</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-01-29/news/economy/economy/1-0228850">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0228850.html|language=日本語|title=道内全区間で赤字 JR北海道が営業係数公表|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ(電子版/経済)|publisher=北海道新聞社|date=2016-01-29|accessdate=2016-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160130100213/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0228850.html|archivedate=2016年1月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-04-17/news/economy/economy/1-0258171">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0258171.html|language=日本語|title=老朽特急「サロベツ」「オホーツク」の運行縮小検討 JR北海道|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ(電子版/経済)|publisher=北海道新聞社|date=2016-04-12|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160412081423/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0258171.html|archivedate=2016年4月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-04-20/news/society/society/1-0261288">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0261288.html|language=日本語|title=消防機関とJR協定 いさりび鉄道も 災害時の対応強化|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ(電子版/社会)|publisher=北海道新聞社|date=2016-04-20|accessdate=2016-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160420081408/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0261288.html|archivedate=2016年4月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-05-18/cont/shinkansen_20160515/2-0059648">{{Cite news|author=佐藤木郎(経済部)|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/shinkansen_20160515/2-0059648.html|language=日本語|title=<4>経営悪化 在来線の見直し進む|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ/電子版(北海道新幹線開業50日、その先に)|publisher=北海道新聞社|date=2016-05-18|accessdate=2016-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160519033156/http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/shinkansen_20160515/2-0059648.html|archivedate=2016年5月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-11-27/news/economy/economy/1-0342465">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0342465.html|language=日本語|title=線路使用料 見直し必要 道経連提言書、JRに指摘|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ/電子版(経済)|publisher=北海道新聞社|date=2016-11-27|accessdate=2016-12-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161127082619/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0342465.html|archivedate=2016年11月27日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="dd.hokkaido-np/2016-11-29/news/economy/economy/1-0343055">{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0343055.html|language=日本語|title=JR北海道初代社長、大森義弘さん死去 87歳、道経済界に貢献|newspaper=北海道新聞|agency=どうしんウェブ/電子版(経済)|publisher=北海道新聞社|date=2016-11-29|accessdate=2016-11-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161129124918/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0343055.html|archivedate=2016年11月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="新聞" name="sankei/2008-02-20/msn/affairs/disaster/080220/dst0802201139008-n1">{{Cite news|author=|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080220/dst0802201139008-n1.htm|language=日本語|title=JR北海道でまた線路破断 江差線、運行一時ストップ|newspaper=[[産経新聞]]|agency=[[MSN]]産経ニュース(事故・災害)|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2008-02-20|accessdate=2008-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080310195012/http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080220/dst0802201139008-n1.htm|archivedate=2008年3月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="sankei/msn/2013-09-23/affairs/news/130923/dst13092303330001-n1">{{Cite news|author=|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130923/dst13092303330001-n1.htm|language=日本語|title=【主張】JR北海道 信頼回復の誓いどうした|newspaper=産経新聞|agency=MSN産経ニュース|publisher=産業経済新聞社|date=2013-09-23|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130923053339/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130923/dst13092303330001-n1.htm|archivedate=2013年9月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="sankei/msn/2013-09-23/affairs/news/130923/dst13092310400002-n1">{{Cite news|author=|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130923/dst13092310400002-n1.htm|language=日本語|title=国交省、札幌保線所も特別監査 JR北海道レール異常放置|newspaper=産経新聞|agency=MSN産経ニュース|publisher=産業経済新聞社|date=2013-09-23|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131009032552/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130923/dst13092310400002-n1.htm|archivedate=2013年10月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="sankeibiz/2013-07-15/compliance/news/130715/cpb1307152213002-n1">{{Cite news|author=|url=http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/130715/cpb1307152213002-n1.htm|language=日本語|title=特急また出火、135人避難 JR北海道でトラブル続発 夏観光への影響懸念|newspaper=[[フジサンケイ ビジネスアイ]]|agency=Sankeibiz(社会)|publisher=産業経済新聞社|date=2013-07-15|accessdate=2013-08-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130805200833/http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/130715/cpb1307152213002-n1.htm|archivedate=2013年8月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="yomiuri/2012-11-05/otona/railwaynews/01/hokkaido/20121105-OYT8T00308">{{Cite news|author=|url=http://www.yomiuri.co.jp/otona/railwaynews/01/hokkaido/20121105-OYT8T00308.htm|language=日本語|title=JR北海道車両検査 28%で基準守られず…検査院指摘|newspaper=[[読売新聞]]|agency=[[YOMIURI ONLINE]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2012-11-05|accessdate=2015-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121121024843/http://www.yomiuri.co.jp/otona/railwaynews/01/hokkaido/20121105-OYT8T00308.htm|archivedate=2012年11月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="yomiuri/2013-07-17/national/news/20130717-OYT1T00724">{{Cite news|author=|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130717-OYT1T00724.htm|language=日本語|title=JR北海道の特急、乗客の腕をドアに挟み走行|newspaper=読売新聞|agency=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2013-07-17|accessdate=2015-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130721021134/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130717-OYT1T00724.htm|archivedate=2013年7月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="nikkei/2016-02-29/article/DGKKZO97772930W6A220C1ML0000">{{Cite news|author=|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO97772930W6A220C1ML0000/|language=日本語|title=悲願の新幹線秒読み JR北海道、苦しむ在来線 老朽化深刻、減便・廃線へ|newspaper=[[日本経済新聞]](朝刊27面)|agency=日経電子版|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2016-02-29|accessdate=2016-04-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160424201302/http://www.nikkei.com/article/DGKKZO97772930W6A220C1ML0000/|archivedate=2016年4月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> --> <ref group="新聞" name="nikkei/2014-01-15/article/DGXNASFC15019_V10C14A1000000">{{Cite news|author=|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFC15019_V10C14A1000000/|language=日本語|title=港の遺体、元JR北海道社長と確認 自殺か|newspaper=日本経済新聞|agency=日経電子版(社会)|publisher=日本経済新聞社|date=2014-01-15|accessdate=2014-01-15|archiveurl=https://archive.is/20140115133806/http://www.nikkei.com/article/DGXNASFC15019_V10C14A1000000/|archivedate=2014年1月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="nikkei/2014-07-04/article/DGXNZO73789670U4A700C1L41000">{{Cite news|author=|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO73789670U4A700C1L41000/|language=日本語|title=北海道の特急、120キロに減速 JR北、8月ダイヤ改正|newspaper=日本経済新聞|agency=日経電子版|publisher=日本経済新聞社|date=2014-07-04|accessdate=2014-07-13|archiveurl=https://archive.is/20140713011142/http://www.nikkei.com/article/DGXNZO73789670U4A700C1L41000/|archivedate=2014年7月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="asahi/2011-09-18/national/update/0918/TKY201109180091">{{Cite news|author=|url=http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY201109180091.html|language=日本語|title=小樽沖の男性遺体、JR北海道社長と確認|newspaper=[[朝日新聞]]|agency=[[朝日新聞デジタル|asahi.com]](事件・事故)|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2011-09-18|accessdate=2011-09-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110920003451/http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY201109180091.html|archivedate=2011年9月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <!-- <ref group="新聞" name="j-cast/2013-09-25/2013/09/25184638/">{{Cite news|author=|url=http://www.j-cast.com/2013/09/25184638.html|language=日本語|title=赤字拡大する一方のJR北海道 それでも「倒産」しないカラクリ(全文表示)|newspaper=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]]|agency=J-CASTニュース|publisher=[[ジェイ・キャスト]]|date=2013-09-25|accessdate=2015-01-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150121153952/http://www.j-cast.com/2013/09/25184638.html?p=all|archivedate=2015年1月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="mainichi/2013-04-21/select/news/20130421k0000e040129000c">{{Cite news|author=|url=http://mainichi.jp/select/news/20130421k0000e040129000c.html|language=日本語|title=JR北海道:トラブル全国の倍 車両不具合多く|newspaper=[[毎日新聞]]|agency=[[ニュースサイト「毎日新聞」|毎日jp]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2013-04-21|accessdate=2015-12-26|archiveurl=https://archive.is/20130702213838/http://mainichi.jp/select/news/20130421k0000e040129000c.html|archivedate=2013年7月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="mainichi/2014-10-29/shimen/news/20141029ddm001020167000c">{{Cite news|author= |url=http://mainichi.jp/shimen/news/20141029ddm001020167000c.html|language=日本語|title=JR2社:重要線路未検査 北海道・四国12カ所|newspaper=毎日新聞|agency=毎日jp|publisher=毎日新聞社|date=2014-10-29|accessdate=2016-01-29|archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate=2016年1月}}</ref> <ref group="新聞" name="mainichi/2015-04-03/select/news/20150404k0000m040055000c">{{Cite news|author=|url=http://mainichi.jp/select/news/20150404k0000m040055000c.html|language=日本語|title=青函トンネル:特急から煙、124人徒歩で避難…過電流か|newspaper=毎日新聞|agency=毎日.jp|publisher=毎日新聞社|date=2015-04-03|accessdate=2016-01-29|archiveurl=https://archive.is/20150403134713/http://mainichi.jp/select/news/20150404k0000m040055000c.html|archivedate=2015年4月3日|deadlinkdate=2017年9月}}(JST時刻:21時29分、最終更新:4月3日22時12分)</ref> --> <ref group="新聞" name="news.nissyoku/Contents/urn/newsml/nissyoku/19920729/nss-7409-0006/1">{{Cite news|author=|url=http://news.nissyoku.co.jp/Contents/urn/newsml/nissyoku.co.jp/19920729/nss-7409-0006/1|language=日本語|title=ダイエー、JR北海道と「(株)北海道ジェイ・アール・ダイエー」設立。道内で大規模小売事業|newspaper=[[日本食糧新聞]]|agency=食の情報源-日本食糧新聞社-食品業界ニュース(新会社・合併・提携/小売)|publisher=日本食糧新聞社|date=1992-07-29|accessdate=2012-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120124035407/http://news.nissyoku.co.jp/Contents/urn/newsml/nissyoku.co.jp/19920729/nss-7409-0006/1|archivedate=2012年1月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" 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|accessdate=2017年4月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140911153336/http://news.mynavi.jp/news/2014/09/10/557/ |archivedate=2014年9月11日}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np/1-0263551">{{Cite news |author= |date=2016年4月26日 |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0263551.html |title=新型特急285系 未使用で廃車へ 開発に25億円 JR北海道 |publisher=北海道新聞社 |newspaper=[[北海道新聞]](どうしんウェブ)|accessdate=2017年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160426113813/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0263551.html |archivedate=2016年4月26日}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np/1-0374633">{{Cite news |author= |date=2017年3月3日 |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0374633.html |title=開発費25億円の夢、鉄くずに JR北海道、新型特急試作車を解体 |publisher=北海道新聞社 |newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ) |accessdate=2017年4月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170303021120/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0374633.html |archivedate=2017年3月3日}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/news/donai/494579">{{Cite news |author= |date=2013年10月5日 |url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/494579.html |title=DMV運行時期、白紙に JR北海道 営業線区の選定作業中断 |publisher=北海道新聞社 |newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ) |accessdate=2017年4月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131005045909/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/494579.html |archivedate=2013年10月5日}}</ref> <ref group="新聞" name="asahi/2014-09-11/articles/ASG9B5SW1G9BIIPE01H">{{Cite news |date=2014年9月11日 |url=http://www.asahi.com/articles/ASG9B5SW1G9BIIPE01H.html |title=線路・道路両用車の導入を断念 JR北海道 |newspaper=朝日新聞|agency=[[朝日新聞デジタル|asahi.com]]|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140910204119/http://www.asahi.com/articles/ASG9B5SW1G9BIIPE01H.html |archivedate=2014年9月10日}}</ref> <ref group="新聞" name="sankei.com/economy/news/150814/ecn1508140019-n1">{{Cite news |author=|date=2015年8月14日 |url=http://www.sankei.com/economy/news/150814/ecn1508140019-n1.html |title=JR北海道が「DMV」実用化を断念 資金手当てが困難に |newspaper=産経新聞|agency=産経ニュース(経済)|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2017年4月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150814065133/http://www.sankei.com/economy/news/150814/ecn1508140019-n1.html |archivedate=2015年8月14日}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0168131">{{Cite news |date=2015年8月14日 |url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0168131.html |title=DMV実用化、JR北海道が断念 安全対策優先で投資困難 |publisher=北海道新聞社 |newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|accessdate=2017年4月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150814013902/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0168131.html |archivedate=2015年8月14日}}</ref> <ref group="新聞" name="nikkei.com/article/DGXLZO12516500T00C17A2LA0000">{{Cite news |date=2017年2月4日 |title=阿佐海岸鉄道、線路・道路両用車両を20年までに導入 |publisher=日本経済新聞社 |agency=日本経済新聞電子版 |newspaper=[[日本経済新聞]] |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12516500T00C17A2LA0000/|accessdate=2017年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170203222932/http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12516500T00C17A2LA0000/ |archivedate=2017年3月3日}}</ref> <ref group="新聞" name="mynavi/news/2017/05/12/306/">{{Cite news |author=佐々木康弘 |url=http://news.mynavi.jp/news/2017/05/12/306/ |title=JR北海道「単独で維持することが困難な線区」無人駅を自治体などに無料貸出 |newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date= |accessdate=2017年5月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170515044931/http://news.mynavi.jp/news/2017/05/12/306/ |archivedate=2017年5月15日}}</ref> <ref group="新聞" name="response.jp/article/2017/08/08/298423">{{Cite news |url=https://response.jp/article/2017/08/08/298423.html |title=空調用配電盤から白い煙…8月7日に発生した函館本線の発煙トラブル |newspaper=レスポンス |publisher=イード|date=2017-08-08|accessdate=2019-04-21}}</ref> --> <ref group="新聞" name="mynavi.jp/article/20171215-557824/">{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/article/20171215-557824/ |title=JR北海道3/17ダイヤ改正「スーパー北斗」統一でキハ183系置換え |newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2017年12月15日 |accessdate=2018年3月19日 }}</ref> <ref group="新聞" name="asahi.com/articles/ASR3Z555SR3ZIIPE00L">{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASR3Z555SR3ZIIPE00L.html |title=根室線新得―富良野間、24年3月廃止・バス転換で合意 JRと地元 |newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2023-03-30 |accessdate=2023-04-01 }}</ref> }} == 関連項目 == * [[JR]] * [[北海道の鉄道]] * [[北海道の鉄道路線]] * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[日本の鉄道事業者一覧]] * [[日本の鉄道]] * [[JR札幌病院]] * [[JR北海道硬式野球部]] * [[デュアル・モード・ビークル]] * [[青函連絡船]] * [[モジャくん]] * [[JR北海道予約サービス]] * [[悠遊旅倶楽部]] * [[夏見円]] - スキー部に所属。[[ソルトレイクシティオリンピック]]、[[トリノオリンピック]]日本代表。 * [[キュービーネット]] - [[フランチャイズ]]契約により「QBハウス」6店舗を運営。 * [[ランシステム]] - フランチャイズ契約により「スペースクリエイト自遊空間」1店舗(JR[[琴似駅 (JR北海道)|琴似駅]]店)を運営。 * [[札幌鉄道少年団]] - 北海道内の[[鉄道少年団]]の一つで、JR北海道の支援を受けている。北海道内では他に旭川鉄道少年団が結成されている。 * [[北海道日本ハムファイターズ]] - 「グランドパートナー」として他の北海道の主要企業とともに名を連ねている。 <!--* 旭川鉄道少年団 -旭川の鉄道少年団。--> == 外部リンク == {{Commonscat|JR Hokkaido|<br />北海道旅客鉄道}} * {{Official website|name=北海道旅客鉄道}} - 公式ウェブサイト * [https://hospital.jrhokkaido.co.jp/ JR札幌病院] {{JR}} {{JR北海道}} {{特殊法人}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほつかいとうりよかくてつとう}} [[Category:北海道旅客鉄道|*]] [[Category:特殊会社]] [[Category:災害対策基本法指定公共機関]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:かつて存在した日本のバス事業者]] [[Category:札幌市中央区の企業]] [[Category:北海道の交通]] [[Category:特殊法人]] [[Category:1987年設立の企業]]
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マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(英語: Martin Luther King Jr.、1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、ガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し、アフリカ系アメリカ人公民権運動の穏健派指導者として非暴力差別抵抗活動を行った。 「I Have a Dream(私には夢がある)」の一節で知られる有名な演説を行った人物。1964年にノーベル平和賞を受賞。1968年に暗殺された後、2004年の議会名誉黄金勲章を受章。アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)とその克服への闘いの歴史を語る上で、逆に非暴力運動に批判的だった急進派のマルコムXとともに特に重要な人物の一人である。 1929年、ジョージア州アトランタでバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれた。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング・シニア」と呼ばれる。 幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。1942年にはアトランタのブーカー・T・ワシントン高校に入学した。高校時代には弁論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。 1944年にはモアハウス大学に入学し、法律家と聖職のどちらを選ぶかで迷ったものの、結局父と同じ聖職者の道を選ぶことにし、1947年には牧師の資格を取得、父親と同じくバプテスト派の牧師となった。1948年に卒業すると、ペンシルベニア州のクローザー神学校に入学してさらに3年間大学院生として学んだ。この時にマハトマ・ガンディーの思想を知り、深く傾倒してのちの活動に非常に大きな影響をもたらした。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。 ボストン大学に在学中、ニューイングランド音楽院の学生であったコレッタ・スコット(Coretta Scott)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその遺志を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。 なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているアメリカ北部のマサチューセッツ州、ボストンであったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。 1863年1月1日にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、特にレコンストラクション(南部再建)期が1870年代に終了するとともに南部諸州は次々と人種差別主義立法を通過させ、その後も人種によっての差別的な取り扱いは容認されたままであった。南部の多くの州ではジム・クロウ法と呼ばれる黒人が一般公共施設の利用を禁止制限した法律が制定されており、これに基づいて、特に学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人と非白人等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。 この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義の橋頭堡」であると自称として参戦した第二次世界大戦後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる差別を義務付けていたことすらあった。 キングは1954年9月にアラバマ州モンゴメリーのデクスター・アベニュー・バプテスト教会の牧師に就任した。キングは1年ほど平穏に牧師を務めていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件が彼の運命に大きな変動をもたらした。この事件は、黒人であるローザ・パークスがバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件に激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を計画し、運動の先頭に立った。この運動は382日間に及んで続けられ、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。この運動の結果、1956年11月に連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。 モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動に一般の民衆が参加した初めての運動だった。この運動の成功によって公民権運動はアメリカ全土に広範な広がりを見せるようになり、バス・ボイコットは南部の各都市に広がっていった。また、ボイコットの成功によってキングは公民権運動の最も有力なリーダーの一人となり、これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。1957年には南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し、その会長となった。1958年9月20日にはハーレムで黒人女性によってナイフを胸に突き立てられたが、この暗殺計画は未遂に終わり、キングは一命を取り留めた。1959年2月には、インド首相のジャワハルラール・ネルーに招かれインドを訪問している。1960年1月にはモンゴメリーからジョージア州のアトランタに移った。 1960年2月1日には、ノースカロライナ州グリーンズボロにおいてキングの影響を受けた学生たちが、差別的な扱いに抗議して座り込みを開始した。このグリーンズボロ座り込みはキングの統括の下南部全域に拡大し、2月13日から5月10日までテネシー州ナッシュビルで行われたナッシュビル座り込みをはじめとして各都市で大きな成果を上げた。 1961年の秋には、ジョージア州のオールバニで起きた解放運動を指導したが、1962年の夏まで続くこのオールバニ運動はオールバニ市側の巧妙な対策によって失敗に終わった。運動が失敗に終わったことで、キングは運動の戦略を練り直し、別の都市で運動を再び行うことにした。 キングはアラバマ州のバーミングハムを新たな運動を起こす場所として選んだ。当時バーミングハム市の人口の7割は黒人で占められるといわれていたが、同時に南部でも最も人種差別の激しい場所として知られていた。こうして、1963年のはじめにバーミングハムでの解放運動が開始された。このバーミングハム運動は大きな成功をおさめた。理由の一つとして、当時のバーミングハム市側が暴力的な弾圧も辞さなかったことがあげられる。当時の警察署長であるブル・コナー(ユージーン・コナー)はデモ隊に対し非常に高圧的な態度で臨み、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの対策を行った。こうした警官による事件映像はテレビや新聞によって映し出され、アメリカの世論は次第にそれらの白人の人種差別主義者による暴力に拒絶反応を示していった。なおキングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。このときは、同じく公民権運動家でもある歌手のハリー・ベラフォンテが保釈金を支払い、キングは釈放された。釈放されるとすぐにキングは活動を再開し、同年5月にはバーミングハムでの運動はかなりの成功をおさめた。 キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、1957年9月の「リトルロック高校事件」など複数のケースにおいて、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。 アメリカ各地で公民権運動が盛り上がりを見せる中で、キングたちは首都ワシントンにおいて、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大集会を企画した。1963年8月28日に行われたワシントン大行進は参加者が20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動家や芸能人など多くの著名人も参加した。この集会においてキングは、リンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。 キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。 ジョンソンは人種差別感情が根強いテキサス州選出であったものの、人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、ケネディは議会内において強い政治的影響力を持たなかった。そのケネディ大統領を副大統領として後押しし続けたジョンソンが、自らが大統領となったことをきっかけにキングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。 公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。 これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、当時史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。しかし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がマーティンに同意していたわけではなく、一部の過激派・急進派はマルコムXを支持し、キングの非暴力的で融和的な方針に反発した。 キングとマルコムXは黒人解放運動でも穏健派と過激派の中核とみなされており、しばしば対立した。暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにもかかわらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、キング自身も暗殺されてしまう。暗殺されたのも彼と同じく39歳の時であった。 両者は直接長期間対談したことはなく、直接対面したのも1964年3月26日にアメリカ合衆国議会議事堂で偶然顔を合わせた時のみだった。 一時期は公然とキングの姿勢を批判し、自らの演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・ムスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。 同時にマルコムXは、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。 ワシントンD.C.への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。 1965年3月7日には、アラバマ州のセルマから州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、催涙ガスや警棒を使って攻撃をし、かれらをセルマに追い返した。「血の日曜日事件」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」運動を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れ、ブラックパンサー党が結成されたり、1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。それに呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。 そして、国内問題の解決が行われないままに遠い地で行われていたベトナム戦争に対する反対の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。 その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。 1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。 その後メンフィス市内にあるロレイン・モーテルの306号室前のバルコニーで、その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、そのまま帰らぬ人となった(満39歳没)。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。 レイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンのヒースロー空港で逮捕され、禁錮99年の判決を受ける。その後、彼は服役中の1998年4月23日にC型肝炎による腎不全で死去した。なお、暗殺した動機や、海外へ逃亡した資金源などはわかっていない。 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなった。 キングの暗殺を受けて、アメリカ国内の多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動が巻き起こったが、葬儀が行われるとその怒りは悲しみに変わり、アフリカ系アメリカ人のみならず、多くのアメリカ人が葬儀に参列しその死を悼んだ。また、暗殺現場となったモーテルは国立公民権博物館となっている。 アメリカではキングの栄誉を称え、ロナルド・レーガン政権下の1986年よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日をキング牧師記念日(Martin Luther King, Jr. Day)として祝日としている。またキングの誕生日を祝日に制定する事を渋ったばかりに、アリゾナ州は1993年のスーパーボウルの開催権を失った。代替会場となったカリフォルニア州のローズボウルで開かれたその大会は、ハーフタイムショーにマイケル・ジャクソンが出演し、伝説的なステージを繰り広げた事でも有名である。 アメリカにおいて生前の業績から祝日が制定された故人は、他にクリストファー・コロンブスとジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーン(誕生日2月12日は1892年に連邦の休日と宣言されたが、後にジョージ・ワシントンの誕生日と併せて大統領の日とされ毎年2月第3月曜日に制定されている)の3人しかいない。 またアメリカ国内の多くの大都市に「マーチン・ルーサー・キング通り」が作られたほか、ベトナムのホーチミン市7区にも、ベトナム史の偉人の名にまじり、「マーチン・ルーサー・キング通り」が存在する。 2011年10月16日には、アメリカの首都ワシントンD.C.にあるナショナル・モール国立公園内にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア記念碑が完成し、バラク・オバマ大統領らを招いて完成式典が行われた。 アメリカ国内において、アングロサクソン系を中心とした白人による、アフリカ系アメリカ人やインディアン、ヒスパニック、アジア系アメリカ人、中東系アメリカ人(特にイスラム教徒へのもの)をはじめとする少数民族に対する人種差別は未だ根絶されていないが、キングの運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。 公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、遠く離れた日本の公立中学校3年英語教科書の教材として使用されている。ストーリーの最後に登場する、「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。 そしてキングの死から40年後にアメリカ人とケニア人の混血であるバラク・オバマが大統領に就任した。ミシェル・オバマ夫人は黒人奴隷の子孫であるため、アフリカ系アメリカ人初の大統領とファーストレディが同時に誕生した。バラク・オバマ大統領就任式はアフリカ系初であるために記録的な観客に満ち、キングの子のマーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同名)も参加し、第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(A New Birth of Freedom)」とされた。 LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。 小惑星(2305) Kingはキングの名前にちなんで命名された。 姉のクリスティン・キング・ファリス(英語版)は人権活動家として人種差別の撤廃や平等を求める闘いに人生を費やし、2023年6月25日に95歳でこの世を去った。 ケネディ政権時代の1963年にも、連邦捜査局(FBI)はキングの監視を当時の司法長官ロバート・ケネディに願い出て、許可されていた。「アイ・ハブ・ア・ドリーム」スピーチを行った後、FBIはキングを「国内で最も危険で効果的な黒人指導者」と表現した。FBIはキングについて「共産主義者に故意に、積極的にそして定期的に協力し、指導を受けていた」と主張した。 キングが共産主義者であることを証明する試みは、「南部の黒人は現状に満足しているが、共産主義者と外部の扇動者によって刺激されている」という、多くの分離主義者・人種差別主義者の感情に関連していた。1950年代と60年代の市民権運動は、世界大戦前にさかのぼる黒人コミュニティ内の活動から生じた。キングは、「黒人革命は、すべてを生み出す同じ胎内から生まれた真の革命である。それは大規模な社会的激変—耐え難い状況と耐えられない状況の胎内である」と述べていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(英語: Martin Luther King Jr.、1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、ガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し、アフリカ系アメリカ人公民権運動の穏健派指導者として非暴力差別抵抗活動を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「I Have a Dream(私には夢がある)」の一節で知られる有名な演説を行った人物。1964年にノーベル平和賞を受賞。1968年に暗殺された後、2004年の議会名誉黄金勲章を受章。アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)とその克服への闘いの歴史を語る上で、逆に非暴力運動に批判的だった急進派のマルコムXとともに特に重要な人物の一人である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1929年、ジョージア州アトランタでバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれた。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング・シニア」と呼ばれる。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。1942年にはアトランタのブーカー・T・ワシントン高校に入学した。高校時代には弁論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1944年にはモアハウス大学に入学し、法律家と聖職のどちらを選ぶかで迷ったものの、結局父と同じ聖職者の道を選ぶことにし、1947年には牧師の資格を取得、父親と同じくバプテスト派の牧師となった。1948年に卒業すると、ペンシルベニア州のクローザー神学校に入学してさらに3年間大学院生として学んだ。この時にマハトマ・ガンディーの思想を知り、深く傾倒してのちの活動に非常に大きな影響をもたらした。その後1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ボストン大学に在学中、ニューイングランド音楽院の学生であったコレッタ・スコット(Coretta Scott)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその遺志を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているアメリカ北部のマサチューセッツ州、ボストンであったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1863年1月1日にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、特にレコンストラクション(南部再建)期が1870年代に終了するとともに南部諸州は次々と人種差別主義立法を通過させ、その後も人種によっての差別的な取り扱いは容認されたままであった。南部の多くの州ではジム・クロウ法と呼ばれる黒人が一般公共施設の利用を禁止制限した法律が制定されており、これに基づいて、特に学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人と非白人等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義の橋頭堡」であると自称として参戦した第二次世界大戦後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる差別を義務付けていたことすらあった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "キングは1954年9月にアラバマ州モンゴメリーのデクスター・アベニュー・バプテスト教会の牧師に就任した。キングは1年ほど平穏に牧師を務めていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件が彼の運命に大きな変動をもたらした。この事件は、黒人であるローザ・パークスがバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件に激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を計画し、運動の先頭に立った。この運動は382日間に及んで続けられ、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。この運動の結果、1956年11月に連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動に一般の民衆が参加した初めての運動だった。この運動の成功によって公民権運動はアメリカ全土に広範な広がりを見せるようになり、バス・ボイコットは南部の各都市に広がっていった。また、ボイコットの成功によってキングは公民権運動の最も有力なリーダーの一人となり、これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。1957年には南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し、その会長となった。1958年9月20日にはハーレムで黒人女性によってナイフを胸に突き立てられたが、この暗殺計画は未遂に終わり、キングは一命を取り留めた。1959年2月には、インド首相のジャワハルラール・ネルーに招かれインドを訪問している。1960年1月にはモンゴメリーからジョージア州のアトランタに移った。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1960年2月1日には、ノースカロライナ州グリーンズボロにおいてキングの影響を受けた学生たちが、差別的な扱いに抗議して座り込みを開始した。このグリーンズボロ座り込みはキングの統括の下南部全域に拡大し、2月13日から5月10日までテネシー州ナッシュビルで行われたナッシュビル座り込みをはじめとして各都市で大きな成果を上げた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1961年の秋には、ジョージア州のオールバニで起きた解放運動を指導したが、1962年の夏まで続くこのオールバニ運動はオールバニ市側の巧妙な対策によって失敗に終わった。運動が失敗に終わったことで、キングは運動の戦略を練り直し、別の都市で運動を再び行うことにした。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "キングはアラバマ州のバーミングハムを新たな運動を起こす場所として選んだ。当時バーミングハム市の人口の7割は黒人で占められるといわれていたが、同時に南部でも最も人種差別の激しい場所として知られていた。こうして、1963年のはじめにバーミングハムでの解放運動が開始された。このバーミングハム運動は大きな成功をおさめた。理由の一つとして、当時のバーミングハム市側が暴力的な弾圧も辞さなかったことがあげられる。当時の警察署長であるブル・コナー(ユージーン・コナー)はデモ隊に対し非常に高圧的な態度で臨み、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの対策を行った。こうした警官による事件映像はテレビや新聞によって映し出され、アメリカの世論は次第にそれらの白人の人種差別主義者による暴力に拒絶反応を示していった。なおキングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。このときは、同じく公民権運動家でもある歌手のハリー・ベラフォンテが保釈金を支払い、キングは釈放された。釈放されるとすぐにキングは活動を再開し、同年5月にはバーミングハムでの運動はかなりの成功をおさめた。", "title": 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"p", "text": "当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ジョンソンは人種差別感情が根強いテキサス州選出であったものの、人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、ケネディは議会内において強い政治的影響力を持たなかった。そのケネディ大統領を副大統領として後押しし続けたジョンソンが、自らが大統領となったことをきっかけにキングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、当時史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。しかし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がマーティンに同意していたわけではなく、一部の過激派・急進派はマルコムXを支持し、キングの非暴力的で融和的な方針に反発した。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "キングとマルコムXは黒人解放運動でも穏健派と過激派の中核とみなされており、しばしば対立した。暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにもかかわらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、キング自身も暗殺されてしまう。暗殺されたのも彼と同じく39歳の時であった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "両者は直接長期間対談したことはなく、直接対面したのも1964年3月26日にアメリカ合衆国議会議事堂で偶然顔を合わせた時のみだった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一時期は公然とキングの姿勢を批判し、自らの演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・ムスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同時にマルコムXは、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1965年3月7日には、アラバマ州のセルマから州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、催涙ガスや警棒を使って攻撃をし、かれらをセルマに追い返した。「血の日曜日事件」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」運動を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れ、ブラックパンサー党が結成されたり、1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。それに呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そして、国内問題の解決が行われないままに遠い地で行われていたベトナム戦争に対する反対の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その後メンフィス市内にあるロレイン・モーテルの306号室前のバルコニーで、その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、そのまま帰らぬ人となった(満39歳没)。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "レイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンのヒースロー空港で逮捕され、禁錮99年の判決を受ける。その後、彼は服役中の1998年4月23日にC型肝炎による腎不全で死去した。なお、暗殺した動機や、海外へ逃亡した資金源などはわかっていない。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなった。", "title": "公民権運動" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "キングの暗殺を受けて、アメリカ国内の多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動が巻き起こったが、葬儀が行われるとその怒りは悲しみに変わり、アフリカ系アメリカ人のみならず、多くのアメリカ人が葬儀に参列しその死を悼んだ。また、暗殺現場となったモーテルは国立公民権博物館となっている。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカではキングの栄誉を称え、ロナルド・レーガン政権下の1986年よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日をキング牧師記念日(Martin Luther King, Jr. Day)として祝日としている。またキングの誕生日を祝日に制定する事を渋ったばかりに、アリゾナ州は1993年のスーパーボウルの開催権を失った。代替会場となったカリフォルニア州のローズボウルで開かれたその大会は、ハーフタイムショーにマイケル・ジャクソンが出演し、伝説的なステージを繰り広げた事でも有名である。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アメリカにおいて生前の業績から祝日が制定された故人は、他にクリストファー・コロンブスとジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーン(誕生日2月12日は1892年に連邦の休日と宣言されたが、後にジョージ・ワシントンの誕生日と併せて大統領の日とされ毎年2月第3月曜日に制定されている)の3人しかいない。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "またアメリカ国内の多くの大都市に「マーチン・ルーサー・キング通り」が作られたほか、ベトナムのホーチミン市7区にも、ベトナム史の偉人の名にまじり、「マーチン・ルーサー・キング通り」が存在する。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2011年10月16日には、アメリカの首都ワシントンD.C.にあるナショナル・モール国立公園内にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア記念碑が完成し、バラク・オバマ大統領らを招いて完成式典が行われた。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ国内において、アングロサクソン系を中心とした白人による、アフリカ系アメリカ人やインディアン、ヒスパニック、アジア系アメリカ人、中東系アメリカ人(特にイスラム教徒へのもの)をはじめとする少数民族に対する人種差別は未だ根絶されていないが、キングの運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、遠く離れた日本の公立中学校3年英語教科書の教材として使用されている。ストーリーの最後に登場する、「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "そしてキングの死から40年後にアメリカ人とケニア人の混血であるバラク・オバマが大統領に就任した。ミシェル・オバマ夫人は黒人奴隷の子孫であるため、アフリカ系アメリカ人初の大統領とファーストレディが同時に誕生した。バラク・オバマ大統領就任式はアフリカ系初であるために記録的な観客に満ち、キングの子のマーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同名)も参加し、第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(A New Birth of Freedom)」とされた。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "小惑星(2305) Kingはキングの名前にちなんで命名された。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "姉のクリスティン・キング・ファリス(英語版)は人権活動家として人種差別の撤廃や平等を求める闘いに人生を費やし、2023年6月25日に95歳でこの世を去った。", "title": "キングの死後" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ケネディ政権時代の1963年にも、連邦捜査局(FBI)はキングの監視を当時の司法長官ロバート・ケネディに願い出て、許可されていた。「アイ・ハブ・ア・ドリーム」スピーチを行った後、FBIはキングを「国内で最も危険で効果的な黒人指導者」と表現した。FBIはキングについて「共産主義者に故意に、積極的にそして定期的に協力し、指導を受けていた」と主張した。", "title": "FBI・CIA・NSAによる監視" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "キングが共産主義者であることを証明する試みは、「南部の黒人は現状に満足しているが、共産主義者と外部の扇動者によって刺激されている」という、多くの分離主義者・人種差別主義者の感情に関連していた。1950年代と60年代の市民権運動は、世界大戦前にさかのぼる黒人コミュニティ内の活動から生じた。キングは、「黒人革命は、すべてを生み出す同じ胎内から生まれた真の革命である。それは大規模な社会的激変—耐え難い状況と耐えられない状況の胎内である」と述べていた。", "title": "FBI・CIA・NSAによる監視" } ]
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。市民やメディアからキング牧師と呼ばれ、ガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し、アフリカ系アメリカ人公民権運動の穏健派指導者として非暴力差別抵抗活動を行った。 「I Have a Dream(私には夢がある)」の一節で知られる有名な演説を行った人物。1964年にノーベル平和賞を受賞。1968年に暗殺された後、2004年の議会名誉黄金勲章を受章。アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)とその克服への闘いの歴史を語る上で、逆に非暴力運動に批判的だった急進派のマルコムXとともに特に重要な人物の一人である。
{{Infobox 人物 | 氏名 = マーティン・ルーサー・キング・ジュニア<br />Martin Luther King Jr. | ふりがな = | 画像 = Martin Luther King Jr NYWTS.jpg | 画像サイズ = 210px | 画像説明 = [[1964年]]のキング牧師 | 出生名 = マイケル・キング・ジュニア | 生年月日 = {{生年月日|1929|1|15}} | 生誕地 = {{USA1912}}<br/>[[ジョージア州]][[アトランタ]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1929|1|15|1968|4|4}} | 死没地 = {{USA}}<br/>[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]] | 死因 = 暗殺 | 墓地 = | 記念碑 = マーティン・ルーサー・キング・ジュニア記念碑(ワシントンD.C.) | 住居 = | 国籍 = {{USA}} | 別名 = MLK | 民族 = | 市民権 = | 教育 = | 出身校 = [[モアハウス大学]]<br/>クローザー神学校<br/>[[ボストン大学]] | 職業 = 牧師 | 活動期間 = | 雇用者 = | 団体 = 南部キリスト教指導者会議 (SCLC) | 著名な実績 = 非暴力による差別撤廃推進活動 | 業績 = | 政治運動 = 非暴力の[[アフリカ系アメリカ人公民権運動]]<br/>平和運動 | 宗教 = [[キリスト教]] | 宗派 = [[バプテスト教会]] プログレッシブ・ナショナル・バプテスト連盟 | 配偶者 = [[コレッタ・スコット・キング]] | 非婚配偶者 = | 子供 = ヨランダ・キング<br/>マーティン・ルーサー・キング3世<br/>デクスター・スコット・キング<br/>バーニス・キング | 親 = マーティン・ルーサー・キング・シニア<br/>アルバータ・ウィリアムズ・キング | 親戚 = | 受賞 = [[ノーベル平和賞]](1964年)<br/>[[大統領自由勲章]](1977年、死後)<br/>[[議会名誉黄金勲章]](2004年、死後) | 署名 = Martin Luther King Jr Signature2.svg | 署名サイズ = 160px | 公式サイト = | 補足 = }} {{Thumbnail:begin}} {{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1964年|ノーベル平和賞|アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動}} {{Thumbnail:end}} '''マーティン・ルーサー・キング・ジュニア'''({{lang-en|Martin Luther King Jr.}}、[[1929年]][[1月15日]] - [[1968年]][[4月4日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[プロテスタント]][[バプテスト派]]の[[牧師]]である。市民やメディアから'''キング牧師'''と呼ばれ、ガンジーの非暴力的抵抗の教えに共感し、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動]]の穏健派指導者として非暴力差別抵抗活動を行った<ref>{{Cite web|和書|title=キング牧師生誕90年、非暴力で差別と闘った39年の生涯 |url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/26474/20190121/martin-luther-king-jr.htm |website=クリスチャントゥデイ |access-date=2023-01-18 |language=ja}}</ref>。 「'''[[I Have a Dream]]'''(私には夢がある)」の一節で知られる有名な[[演説]]を行った人物。[[1964年]]に[[ノーベル平和賞]]を受賞。1968年に暗殺された後、[[2004年]]の[[議会名誉黄金勲章]]を受章。アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた[[人種差別]](特に[[アフリカ系アメリカ人]]に対する差別)とその克服への闘いの歴史を語る上で、逆に非暴力運動に批判的だった急進派の[[マルコムX]]とともに特に重要な人物の一人である。 == 生い立ち == === 牧師になる前 === 1929年、[[ジョージア州]][[アトランタ]]で[[バプテスト派]][[牧師]]マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれた。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは[[1935年]]に'''マーティン'''と改名し、息子も同様に改名したため「'''マーティン・ルーサー・キング・ジュニア'''」となった。[[宗教改革]]をはじめた[[マルティン・ルター]]から父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング・シニア」と呼ばれる。 幼少の頃隣に[[白人]]の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「([[黒人]]とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての[[差別]]体験であった<ref>「人物アメリカ史(下)」p346-347 ロデリック・ナッシュ、グレゴリー・グレイヴズ著 足立康訳 講談社学術文庫 2007年9月10日第1刷</ref>。[[1942年]]には[[アトランタ]]のブーカー・T・ワシントン高校に入学した。高校時代には弁論大会で優勝したが帰り道に[[バス (交通機関)|バス]]の中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後の'''バス・ボイコット'''につながっていく。 1944年には[[モアハウス大学]]に入学し、法律家と聖職のどちらを選ぶかで迷ったものの、結局父と同じ聖職者の道を選ぶことにし、1947年には牧師の資格を取得、父親と同じくバプテスト派の牧師となった。[[1948年]]に卒業すると、[[ペンシルベニア州]]のクローザー神学校に入学してさらに3年間大学院生として学んだ。この時にマハトマ・ガンディーの思想を知り、深く傾倒してのちの活動に非常に大きな影響をもたらした。その後[[1955年]]に[[ボストン大学]]神学部で[[博士号]]を取得した。 ボストン大学に在学中、[[ニューイングランド音楽院]]の学生であった[[コレッタ・スコット・キング|コレッタ・スコット]](Coretta Scott)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て<ref>[https://web.archive.org/web/20180116133508/https://www.sankei.com/world/news/180116/wor1801160027-n1.html キング牧師の子どもがトランプ大統領を批判]</ref>、夫が亡くなった後もその遺志を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は[[2005年]]8月16日に[[脳卒中]]で倒れて[[半身不随]]となり、[[2006年]][[1月31日]]に78歳で死去した。 なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているアメリカ北部のマサチューセッツ州、ボストンであったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。 == 公民権運動 == === 人種差別 === [[ファイル:ColoredDrinking.jpg|thumb|250px|right|男性有色人種専用の水飲み場で水を飲む黒人男性([[1950年代]])]] [[1863年]]1月1日に[[エイブラハム・リンカーン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって行われた[[奴隷解放宣言]]によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに[[人種差別]]の撤廃を意味するものではなく、特に[[レコンストラクション]](南部再建)期が1870年代に終了するとともに南部諸州は次々と人種差別主義立法を通過させ、その後も人種によっての差別的な取り扱いは容認されたままであった。南部の多くの州では[[ジム・クロウ法]]と呼ばれる黒人が一般公共施設の利用を禁止制限した法律が制定されており、これに基づいて、特に[[学校]]や[[便所|トイレ]]、[[プール]]などの公共施設や[[バス (交通機関)|バス]]などの公共交通等において[[白人]]と[[非白人]]等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。 この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「[[民主主義]]の[[橋頭堡]]」であると自称として参戦した{{efn2|[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領はミシガン州デトロイト市の大工業地帯を「民主主義の工廠」と呼んだ。}}[[第二次世界大戦]]後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる差別を義務付けていたことすらあった。 === モンゴメリー・バス・ボイコット事件 === キングは[[1954年]]9月に[[アラバマ州]][[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]のデクスター・アベニュー・バプテスト教会の牧師に就任した。キングは1年ほど平穏に牧師を務めていたが、[[1955年]]12月にモンゴメリーで発生した[[ローザ・パークス]]逮捕事件が彼の運命に大きな変動をもたらした。この事件は、黒人であるローザ・パークスがバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件に激しく抗議して[[モンゴメリー・バス・ボイコット事件]]運動を計画し、運動の先頭に立った。この運動は382日間に及んで続けられ、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。この運動の結果、[[1956年]]11月に[[アメリカ連邦最高裁判所|連邦最高裁判所]]からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における[[人種差別]]容認に対する違憲判決)を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。 モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動に一般の民衆が参加した初めての運動だった。この運動の成功によって公民権運動はアメリカ全土に広範な広がりを見せるようになり、バス・ボイコットは南部の各都市に広がっていった。また、ボイコットの成功によってキングは公民権運動の最も有力なリーダーの一人となり、これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。[[1957年]]には南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し、その会長となった。1958年9月20日にはハーレムで黒人女性によってナイフを胸に突き立てられたが、この暗殺計画は未遂に終わり、キングは一命を取り留めた。[[1959年]]2月には、[[インド]]首相の[[ジャワハルラール・ネルー]]に招かれインドを訪問している。[[1960年]]1月にはモンゴメリーから[[ジョージア州]]のアトランタに移った。 1960年2月1日には、[[ノースカロライナ州]][[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]においてキングの影響を受けた学生たちが、差別的な扱いに抗議して座り込みを開始した。この[[グリーンズボロ座り込み]]はキングの統括の下南部全域に拡大し、2月13日から5月10日まで[[テネシー州]][[ナッシュビル]]で行われた[[ナッシュビル座り込み]]をはじめとして各都市で大きな成果を上げた。 [[1961年]]の秋には、[[ジョージア州]]の[[オールバニ (ジョージア州)|オールバニ]]で起きた解放運動を指導したが、[[1962年]]の夏まで続くこの[[オールバニ運動]]はオールバニ市側の巧妙な対策によって失敗に終わった。運動が失敗に終わったことで、キングは運動の戦略を練り直し、別の都市で運動を再び行うことにした。 キングは[[アラバマ州]]の[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]を新たな運動を起こす場所として選んだ。当時バーミングハム市の人口の7割は黒人で占められるといわれていたが、同時に南部でも最も人種差別の激しい場所として知られていた。こうして、[[1963年]]のはじめにバーミングハムでの解放運動が開始された。この[[バーミングハム運動]]は大きな成功をおさめた。理由の一つとして、当時のバーミングハム市側が暴力的な弾圧も辞さなかったことがあげられる。当時の警察署長である[[ブル・コナー]](ユージーン・コナー)はデモ隊に対し非常に高圧的な態度で臨み、丸腰の黒人青年に対し、[[警察犬]]をけしかけ襲わせたり、[[警棒]]で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの対策を行った。こうした警官による事件映像はテレビや新聞によって映し出され、アメリカの世論は次第にそれらの白人の人種差別主義者による暴力に拒絶反応を示していった。なおキングも[[1963年]][[4月12日]]にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、[[4月19日]]まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。このときは、同じく公民権運動家でもある歌手の[[ハリー・ベラフォンテ]]が保釈金を支払い、キングは釈放された<ref>「人物アメリカ史(下)」p374 ロデリック・ナッシュ、グレゴリー・グレイヴズ著 足立康訳 講談社学術文庫 2007年9月10日第1刷</ref>。釈放されるとすぐにキングは活動を再開し、同年5月にはバーミングハムでの運動はかなりの成功をおさめた。 === 「非暴力主義」 === キングの提唱した運動の特徴は徹底した「[[非暴力|非暴力主義]]」である。[[インド]]独立の父、[[マハトマ・ガンディー]]に啓蒙され<ref name="ReferenceA">「ノーベル賞の百年 創造性の素顔」p141 ウルフ・ラーショーン編 津金・レイニウス・豊子訳 株式会社ユニバーサル・アカデミー・プレス 2002年3月19日発行</ref>、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、1957年9月の「[[リトルロック高校事件]]」など複数のケースにおいて、州政府ないしは[[州兵]]に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。 === 「I Have a Dream」 === [[ファイル:Martin Luther King - March on Washington.jpg|thumb|250px|right|[[1963年]]8月、[[ワシントン大行進]]にて、“[[I Have a Dream]]”の演説を行うキング]] アメリカ各地で公民権運動が盛り上がりを見せる中で、キングたちは首都ワシントンにおいて、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大集会を企画した。[[1963年]][[8月28日]]に行われた[[ワシントン大行進]]は参加者が20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動家や芸能人など多くの著名人も参加した。この集会においてキングは、[[リンカーン記念堂]]の前で有名な“[[I Have a Dream]]”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ<ref>{{YouTube|60m831gtz_U|Martin Luther King "I have a dream" (full)}}</ref>。 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価され、[[1961年]][[1月20日]]に就任した[[ジョン・F・ケネディ]]の大統領就任演説と並び[[20世紀]]のアメリカを代表する名演説として有名である。 === 「公民権法」制定による勝利 === [[ファイル:Lyndon_Johnson_signing_Civil_Rights_Act,_July_2,_1964.jpg|thumb|250px|left|[[ホワイトハウス]]で公民権法施行の文書に署名する[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]大統領(後列中央がキング)]] キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついに[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]政権下の[[1964年]][[7月2日]]に[[1964年公民権法|公民権法]](Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。 ジョンソンは人種差別感情が根強いテキサス州選出であったものの、人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]であったケネディ政権時代のことであるが、ケネディは議会内において強い政治的影響力を持たなかった。そのケネディ大統領を副大統領として後押しし続けたジョンソンが、自らが大統領となったことをきっかけにキングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。 公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための[[非暴力]]抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度の[[ノーベル平和賞]]が授与されることに決まった<ref name="ReferenceA"/>(受賞発表は[[10月14日]]で、授賞式は[[12月10日]]だった)。 これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、当時史上最年少の受賞であり{{efn2|1977年に、1976年度の受賞者として表彰された[[マイレッド・コリガン・マグワイア]]が33歳で更新。その後、2011年の[[タワックル・カルマン]](32歳)、2014年の[[マララ・ユスフザイ]](17歳)によって記録が更新されている。}}、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。しかし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がマーティンに同意していたわけではなく、一部の過激派・急進派は[[マルコムX]]を支持し、キングの非暴力的で融和的な方針に反発した。 === マルコムXとの関係 === [[ファイル:MartinLutherKingMalcolmX.jpg|thumb|250px|マルコムX(右)とキング(1964年3月26日)]] キングと[[マルコム・X|マルコムX]]は黒人解放運動でも穏健派と過激派の中核とみなされており、しばしば対立した。暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていた[[マルコム・X|マルコムX]]が[[1965年]]2月に[[暗殺]]されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにもかかわらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、キング自身も暗殺されてしまう。暗殺されたのも彼と同じく39歳の時であった。 両者は直接長期間対談したことはなく、直接対面したのも1964年3月26日に[[アメリカ合衆国議会議事堂]]で偶然顔を合わせた時のみだった<ref>「マルコムX 人権への闘い」p184 荒このみ 岩波新書 2009年12月18日第1刷</ref>。 一時期は公然とキングの姿勢を批判し、自らの演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・ムスリムの[[ネーション・オブ・イスラム]]教団と手を切っていた。 同時にマルコムXは、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人[[社会学者]]ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。 === 黒人解放運動の分裂 === {{See also|血の日曜日事件 (1965年)|[[:en:Poor People's Campaign|Poor People's Campaign]]}} [[ワシントンD.C.]]への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。 1965年3月7日には、アラバマ州の[[セルマ (アラバマ州)|セルマ]]から州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、[[催涙剤|催涙ガス]]や[[警棒]]を使って攻撃をし、かれらをセルマに追い返した。「[[血の日曜日事件 (1965年)|血の日曜日事件]]」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。 黒人運動は暴力的なものになり「[[ブラック・パワー]]」運動を提唱する[[ストークリー・カーマイケル]]に代表されるような強硬的な指導者が現れ、[[ブラックパンサー党]]が結成されたり、[[1967年]][[夏]]に[[ニュージャージー州]]で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。それに呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。 # 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなくゴールだとは認識していなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。 # 深く根付いた差別意識は依然として教育や[[雇用]]の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。 # 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の[[失業]]問題は、白人に比べ深刻である。 # [[ベトナム戦争]]により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で[[民主主義]]の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。 # 大都市では[[スラム街]]に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。 === ベトナム反戦運動 === {{Main|ベトナム反戦運動}} そして、国内問題の解決が行われないままに遠い地で行われていたベトナム戦争に対する反対の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。 その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「[[ベトナム反戦運動]]」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。 === 暗殺 === [[ファイル:Martin Luther King was shot here Small Web view.jpg|thumb|250px|キングが暗殺されたモーテル]] [[ファイル:MLK tomb 2.jpg|thumb|250px|キング牧師の棺]] {{Main|{{仮リンク|マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件|en|Assassination of Martin Luther King, Jr.}}}} [[1968年]][[4月4日]]に遊説活動中の[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]にあるメイソン・テンプルで “[[I've Been to the Mountaintop]]”(私は山頂に達した)と遊説。 その後メンフィス市内にあるロレイン・モーテルの306号室前の[[バルコニー]]で、その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯の[[ジェームズ・アール・レイ]]に撃たれる。弾丸は喉から[[脊髄]]に達し病院に搬送されたが、そのまま帰らぬ人となった(満39歳没)。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。 レイは国外に逃亡し、数ヵ月後、[[ロンドン]]の[[ヒースロー空港]]で逮捕され、[[禁錮]]99年の判決を受ける。その後、彼は服役中の[[1998年]][[4月23日]]に[[C型肝炎]]による[[腎不全]]で死去した。なお、暗殺した動機や、海外へ逃亡した資金源などはわかっていない。{{main|[[ジェームズ・アール・レイ]]}} 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『[[申命記]]』32章の[[モーセ]]を思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなった。 :''…前途に困難な日々が待っています。'' :''でも、もうどうでもよいのです。'' :''私は山の頂上に登ってきたのだから。'' :''皆さんと同じように、私も長生きがしたい。'' :''長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。'' :''神の意志を実現したいだけです。'' :''神は私が山に登るのを許され、'' :''私は頂上から約束の地を見たのです。'' :''私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、'' :''ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。'' :''今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。'' :''神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。'' == キングの死後 == {{社会的キリスト教}} [[File:Westminster Abbey C20th martyrs.jpg|thumb|left|[[ウェストミンスター寺院]]に飾られている「20世紀の10人の殉教者」のレリーフの一部。左から[[ロシア大公妃]][[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリザヴェータ]]、キング牧師、[[オスカル・ロメロ|ロメロ]][[大司教]]、[[ディートリヒ・ボンヘッファー|ボンヘッファー]]牧師。]] {{See also|[[:en:King assassination riots|King assassination riots]]|[[:en:Robert F. Kennedy's speech on the assassination of Martin Luther King, Jr.|Robert F. Kennedy's speech on the assassination of Martin Luther King, Jr.]]}} キングの暗殺を受けて、アメリカ国内の多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動が巻き起こったが、葬儀が行われるとその怒りは悲しみに変わり、アフリカ系アメリカ人のみならず、多くのアメリカ人が葬儀に参列しその死を悼んだ。また、暗殺現場となったモーテルは国立公民権博物館となっている<ref>[http://www.cnn.co.jp/travel/35049665-3.html CNN.co.jp : 世界の11の暗殺現場 - (3/6)] CNN.co.jp 2014年9月23日</ref>。 アメリカではキングの栄誉を称え、[[ロナルド・レーガン]]政権下の[[1986年]]よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日を[[キング牧師記念日]](Martin Luther King, Jr. Day)として[[祝日]]としている。またキングの誕生日を祝日に制定する事を渋ったばかりに、[[アリゾナ州]]は[[第27回スーパーボウル|1993年のスーパーボウル]]の開催権を失った。<ref>{{Cite web|和書|title=キング牧師記念日とスーパーボウルの絆に歴史あり(前編) |url=https://www.sportingnews.com/jp/nfl/news/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%89%A7%E5%B8%AB%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%B5%86%E3%81%AB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%82%E3%82%8A%E5%89%8D%E7%B7%A8/f6kd6luyy3hg1mfcbh0shnzgz |website=www.sportingnews.com |accessdate=2022-01-20 |language=ja}}</ref>代替会場となった[[カリフォルニア州]]の[[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]]で開かれたその大会は、[[スーパーボウルのハーフタイムショー|ハーフタイムショー]]に[[マイケル・ジャクソン]]が出演し、伝説的なステージを繰り広げた事でも有名である。 アメリカにおいて生前の業績から祝日が制定された故人は、他に[[クリストファー・コロンブス]]と[[ジョージ・ワシントン]]、[[エイブラハム・リンカーン]](誕生日2月12日は1892年に連邦の休日と宣言されたが、後にジョージ・ワシントンの誕生日と併せて大統領の日とされ毎年2月第3月曜日に制定されている)の3人しかいない。 またアメリカ国内の多くの大都市に「マーチン・ルーサー・キング通り」が作られたほか、ベトナムの[[ホーチミン市]]7区にも、ベトナム史の偉人の名にまじり、「マーチン・ルーサー・キング通り」が存在する。 2011年10月16日には、アメリカの首都ワシントンD.C.にある[[ナショナル・モール]]国立公園内にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア記念碑が完成し、[[バラク・オバマ]]大統領らを招いて完成式典が行われた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2835499 「米首都にキング牧師記念碑、「あきらめなければ変革できる」と大統領」AFPBB 2011年10月17日] 2015年12月20日閲覧</ref>。 アメリカ国内において、[[アングロサクソン]]系を中心とした白人による、アフリカ系アメリカ人や<!--[[ネイティブアメリカン]]は民族名ではありません-->[[インディアン]]、[[ヒスパニック]]、[[アジア系アメリカ人]]、[[中東系アメリカ人]](特にイスラム教徒へのもの)をはじめとする[[少数民族]]に対する[[人種差別]]は未だ根絶されていないが、キングの運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。 公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、遠く離れた[[日本]]の公立[[中学校]]3年英語教科書の教材として使用されている。ストーリーの最後に登場する、「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。 そしてキングの死から40年後にアメリカ人と[[ケニア]]人の混血であるバラク・オバマが大統領に就任した。[[ミシェル・オバマ]]夫人は黒人奴隷の子孫であるため、アフリカ系アメリカ人初の大統領とファーストレディが同時に誕生した。[[バラク・オバマ大統領就任式]]はアフリカ系初であるために記録的な観客に満ち、キングの子のマーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同名)も参加し、第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(A New Birth of Freedom)」とされた。 LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。 [[小惑星]][[キング (小惑星)|(2305) King]]はキングの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2305|title=(2305) King = 1929 TM = 1931 AJ = 1934 VM = 1941 FO = 1952 SB = 1955 HE = 1966 RE = 1969 FB = 1971 TT = 1976 YK6 = 1978 EY4 = 1980 RJ1|publisher=MPC|accessdate=2021-09-26}}</ref>。 姉の{{ill2|クリスティン・キング・ファリス|en|Christine King Farris}}は人権活動家として人種差別の撤廃や平等を求める闘いに人生を費やし、2023年6月25日に95歳でこの世を去った<ref>{{Cite news|url=https://edition.cnn.com/2023/06/29/us/christine-king-farris-death/index.html|title=Christine King Farris, sister of Dr. Martin Luther King, dies at 95|work=CNN.com|agency=[[CNN]]|date=2023-06-29|accessdate=2023-06-30}}</ref>。 == 楽曲 == * [[ディオン (歌手)|ディオン]] 「[[アブラハム、マーティン・アンド・ジョン]]」 - 1968年発売のシングル。キング、[[エイブラハム・リンカーン]]、[[ジョン・F・ケネディ]]、[[ロバート・ケネディ]]に対する鎮魂歌である。 * [[ラスカルズ]] 「[[自由への讃歌]](People Got To Be Free)」 - 1968年7月発売のシングル。キングの暗殺に触発されて書かれた。 * ラスカルズ 「[[希望の光 (ラスカルズの曲)|希望の光]](A Ray of Hope)」 - 1968年11月発売のシングル。キングと[[ロバート・ケネディ]]の暗殺に触発されて書かれた。 * [[ニーナ・シモン]] 「ホワイ?(ザ・キング・オブ・ラブ・イズ・デッド)」 - 1968年発売のアルバム『ナフ・セッド!』に収録。シモンのバンドのベーシスト、ジーン・テイラーが書いた。 * [[ポール・マッカートニー]]&[[ウイングス]] 「[[幸せのノック]](Let 'em In)」 - 1976年発売のアルバム『[[スピード・オブ・サウンド (アルバム)|スピード・オブ・サウンド]]』に収録。歌詞にキングの名前が登場する。 * [[スティーヴィー・ワンダー]] 「[[ハッピー・バースデイ (スティーヴィー・ワンダーの曲)|ハッピー・バースデイ]]」 - 1980年発売のアルバム『[[ホッター・ザン・ジュライ]]』に収録。「キングの誕生日を祝日にしよう」という運動に捧げた曲である。 * [[U2]] 「MLK」「[[プライド (U2の曲)|プライド]]」 - 1984年発売のアルバム『[[焰 (アルバム)|焰]]』に収録。両曲ともキングに捧げられている。 * [[マイケル・ジャクソン]] 「[[マン・イン・ザ・ミラー]]」 - 1987年発売のアルバム『[[バッド (アルバム)|バッド]]』に収録。[[ビデオクリップ]]にガンディーらと共に一瞬ではあるがキングの映像が登場する。[They don't care about us]に(もしマーティン・ルーサーが生きていたら、このような事態を放っておかなかった)という部分がある。 * マイケル・ジャクソン 「[[ヒストリー/ゴースト]]」 - 1995年発売のアルバム『[[ヒストリー パスト、プレズント・アンド・フューチャー ブック1]]』に収録。キングの演説の一部(“[[I Have a Dream]]”)が使われている。 * [[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]] 「ファミリー・ネーム」 - 2001年発売のアルバム『レインボー・チルドレン』に収録。曲末に63年の演説の最後の部分、"Free at last"の部分がそのままキングの声で収録されている。 * [[リンキン・パーク]] 「Wisdom, Justice and Love」 - 2010年発売のアルバム『[[ア・サウザンド・サンズ]]』に収録。キングのスピーチの音源がサンプリングされている。 * ジェームズ・L・ホセイ作曲 「ひとつの声に導かれる時(And the Multitude with One Voice Spoke)」 - キングの公民権運動がテーマとなっている。 *[[ルチアーノ・ベリオ]]作曲「[[シンフォニア (ベリオ)|シンフォニア ''Sinfonia'']]」(1968-69)第2楽章 - O Kingの副題。キングの名前を歌詞の素材として使用。キングへの追悼として作曲(ECD 88151のライナーノーツより)。 == FBI・CIA・NSAによる監視 == ケネディ政権時代の1963年にも、[[連邦捜査局]](FBI)はキングの監視を当時の司法長官[[ロバート・ケネディ]]に願い出て、許可されていた。「アイ・ハブ・ア・ドリーム」スピーチを行った後、FBIはキングを「国内で最も危険で効果的な黒人指導者」と表現した。FBIはキングについて「共産主義者に故意に、積極的にそして定期的に協力し、指導を受けていた」と主張した。 キングが共産主義者であることを証明する試みは、「南部の黒人は現状に満足しているが、共産主義者と外部の扇動者によって刺激されている」という、多くの分離主義者・人種差別主義者の感情に関連していた。1950年代と60年代の市民権運動は、世界大戦前にさかのぼる黒人コミュニティ内の活動から生じた。キングは、「黒人革命は、すべてを生み出す同じ胎内から生まれた真の革命である。それは大規模な社会的激変—耐え難い状況と耐えられない状況の胎内である」と述べていた。 ; CIAの監視 : 2017年に機密解除された[[中央情報局]]の「CIAファイル」は、1964年11月4日付けのワシントンポストの記事により、キングがソビエト連邦に招待されたと主張した。また、ラルフ・アバーナシーがキングのスポークスマンとしてコメントを拒否した後、エージェンシーがキングと共産主義の間の可能なリンクを調査していることを明らかにした。キングおよび他の公民権活動家に属するメールは、CIAプログラム、HTLINGUAL(ソ連・中国からの郵便・通信を傍受するシステム)によって傍受された。 ; FBIからの脅迫 : また死後、1964年には、FBI長官[[ジョン・エドガー・フーヴァー]]率いる[[コインテルプロ|FBIからの執拗な脅迫]]を受けていたことが分かっている。フーヴァーとFBIは脅迫状を送り、盗聴・録音したキングの不倫テープとともに、キングを罵り脅迫していた。 : 手紙の書き出しは「汚らわしい、異常な野獣よ、よく聞け。おまえは録音されている。おまえの浮気行為、乱交ぶりは過去の過去まで録音されている。これはそのほんの見本だ」と始まり、さらに「おまえに残された道は一つだけだ。分かっているだろう」と続き、表舞台から手を引く、または自殺するよう暗に迫っていた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3031719 「キング牧師を「邪悪な野獣」と呼ぶFBI脅迫状、全文を初公開」AFPBB 2014年11月14日] 2019年10月13日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 書籍案内 == * 『マーティン・ルーサー・キング自伝』 [[日本基督教団出版局]] ISBN 4818404306 * 『[[私には夢がある]]――M・L・キング説教・講演集』 [[新教出版社]] ISBN 4400421228 * 『汝の敵を愛せよ』 新教出版社 ISBN 4400520099 * 『自由への大いなる歩み――非暴力で闘った黒人たち』 [[岩波書店]]([[岩波新書]]) ISBN 4004150035 * 『良心のトランペット』 [[みすず書房]] ISBN 4622049406 * 『黒人はなぜ待てないか』 みすず書房 ISBN 4622049392 * 『キング牧師とマルコムX』[[上坂昇]] [[講談社]]([[講談社現代新書]])1994年 ISBN 4061492314 *『マーティン・ルーサー・キング』黒崎真 岩波書店(岩波新書)2018年 == 関連項目 == * [[公民権運動]] * [[非暴力]] * [[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]] * [[マハトマ・ガンディー]] * [[ジェシー・ジャクソン]] * [[マルコムX]] * [[フレデリック・ダグラス]] * [[バラク・オバマ]] * [[南部バプテスト連盟]] * [[オジー・デイヴィス]] * [[グローリー/明日への行進]] * [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・プラザ駅]] - [[オハイオ州]][[トレド (オハイオ州)|トレド]]の駅。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにちなんで2001年にこの名がつけられた。 * [[バーミングハム刑務所からの手紙]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = no | n = no | v = no }} * [http://www.stanford.edu/group/King/ スタンフォード大学 マーティン・ルーサー・キング・プロジェクト]{{en icon}} * [https://www.americanrhetoric.com/speeches/mlkihaveadream.htm American Rhetoric : I Have A Dream]{{en icon}}スピーチ全文・音声(20世紀の名スピーチ100中1位にランク) * [http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_01.html 公民権運動・史跡めぐり]{{ja icon}}より ** 10. [http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_18.html Selma→Montgomery(アラバマ州)選挙権獲得をめざす大行進 (1965)] ** 12. [http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_22.html キング牧師の暗殺 (1968)](暗殺現場の現在のレポートも載せている) * [https://aafocusblog.blogspot.com/2016/01/blog-post.html ノーベル賞受賞直前のロンドンでの演説]{{ja icon}} {{ノーベル平和賞受賞者 (1951年-1975年)}} {{パーソン・オブ・ザ・イヤー|state=expanded|state2=expanded}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きんく まあていんるうさあ}} [[Category:マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|*]] [[Category:20世紀のキリスト教聖職者]] [[Category:20世紀のプロテスタント信者]] [[Category:20世紀の活動家]] [[Category:アメリカ合衆国の活動家]] [[Category:公民権運動]] [[Category:アメリカ合衆国の牧師]] [[Category:大統領自由勲章受章者]] [[Category:アメリカ合衆国のノーベル賞受賞者]] [[Category:ノーベル平和賞受賞者]] [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]] [[Category:アメリカ合衆国の死刑廃止論者]] [[Category:バプテスト派の牧師]] [[Category:アメリカ合衆国のバプテストの人物]] [[Category:ガンディー主義者]] [[Category:非暴力]] [[Category:反人種差別]] [[Category:タイム誌が選ぶパーソン・オブ・ザ・イヤー]] [[Category:アメリカ合衆国のキリスト教平和主義者]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の宗教家]] [[Category:アトランタ出身の人物]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の人物]] [[Category:1929年生]] [[Category:1968年没]]
2003-04-04T12:20:23Z
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学問
学問(、英: learning, study, science(s))または学術()とは、学び習うこと、新知識の学習、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法。歴史学・心理学・言語学などの人文学、政治学・法律学などの社会科学、物理学・化学などの自然科学などの総称。 なお、「学術」は技術などを含む専門的・研究的な学問を指したり、学問と芸術・学問と技芸を指したりすることもある。「科学」は一般に哲学・宗教・芸術などとは区別されており、狭義または一般の「科学」は自然科学を指す。 「学問」に相当する英語は"learning"、"study"、"science(s)"、"academic discipline"、"scholarship"、"knowledge"など。 学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。 学問については体系化された知識を指すことが多い。ただし、学問を知識のことだとするのは、あくまで一例であり具体的な意味や目的による定義は多数存在する。また主観的にも意味合いが違ってくる。 基本的に学問の名前は、接尾語である「学」を付けて言い表すが、「学」が付いていないもの(省略されているもの)も多数有る。 学問に対し「学術」という言葉には、次のような意味がある。 なお古代ギリシア哲学では、技術(テクネー)は学術・芸術・知識(エピステーメー)などをも意味し、数学や天文学や学問全般が技術に含まれていた。本質の、または真の理知(ロゴス)は技術に備わっているとされた。アリストテレスの論では、技術も自然も本来的には美であり、善はそれを際立たせるとされていた。 歴史的に見れば、学問は様々な場所で行われてきた。例えば江戸時代の日本では、私塾が、藩校などとともに、大いに学問の発展を荷ってきた(→日本の私塾一覧)。大学制度が整えられている現在では、学問は大学(私立大学、公立大学)によって主導されていることが多いが、その他の様々な研究所(公立・私立とも)で行われていることもある。 近代教育が確立される以前の「学問」は知の体系を指すという意味以外にも今日の言葉で言う「人間学」や「教養」を意味する使われ方もしてきた。儒学でいう「聖人の学」などという言葉の文脈で使われる「学問」は、今日の自然科学・社会科学・人文科学という意味での学問ではなく、人格を修養する手段としての学問である。日本においても、江戸時代の儒学者などのいう「学問」は人間の修養と、社会を治める知識としての学問の両方を意味していた。 現在、ある学問が存在すれば、一般的には、それに関連する学会が(ひとつ乃至複数)存在しており、その学問の発展に関与しており、各学者は一般的には、当該学問のいずれかの学会の(多くは複数の学会の)会員となっていて、自身の研究の成果を発表することで認知を得たり、あるいは他の学者の発表を確認することで当該学問の最新の情報を把握し、自身の研究に役立てようと努めている。 学問の追究によって得られた知識などは、学会での発表だけでなく、各種学術雑誌での公表(大学の紀要・論文集への掲載を含む)、著書(単著・共著)の出版など、様々な方法で公表される可能性がある。ただし、特に自然科学系の学問においては、数限られた定評ある学術雑誌などで査読を経たうえで公表された知識のほうが、最も正式なものと認知され、そうではない知識に比べて格段に信頼される傾向が強い。 学問の分類は人によって異なる。大まかには、日常会話や文献検索時の共通キーワードとして、時と場合により下記の分類のいずれかとすることが多い(これ以外の分類も多数存在するが、一般的で無い)。なお、科学、技術、工学などの言葉は、定義が無数にあり、統一的な定義は存在しないため、科学と技術をベースとした学問の分類とその範囲を厳密に決めることは困難である。 内容と場合によっては人文科学とも呼称する。上記の分類以外に、大学の文学部で行っている学問を指す解釈もある。 下記の小分類の幾つかは、人文科学に含める場合も有る。最も大まかな分類では、社会科学全体が人文科学に含まれる。 この分類以外に、大学の法学部、経済学部、教育学部などで行っている学問を指す解釈もある。 基本的には、大学の理学部で行っている学問を指す。 基礎科学も、自然科学と同等に扱われる場合が多い。 自然科学や社会科学との境界が曖昧なものもある。 応用科学(実学、英:art、希:τεχνη)とは、基本的に、医学部、薬学部、歯学部、工学部、農学部で行っている学問を指すことが多いが、人文科学や社会科学の応用分野についても応用科学とされることもある。実学はその時代の文明や人間活動の役に立つと同時に、基礎科学分野にも影響を与え(例えばモルの研究は蒸気機関発明後になされている)、かつ後世にも多くの普遍的な知識・技術を与えるものである。 学際分野とは、複数の小分類の学問を組み合わせたり、目的別によるテーマ(例えば環境問題)ごとに複数分野の学問の観点からアプローチする新分野の学問のことである。また、このような学際分野が体系性を持った科学であることを強調するときに、「総合科学」の語が用いられることもある。 各大学では学際分野の学問を指向することもあり、総合科学のほかにも総合人間学などの多様な呼称があり、独自の名称で呼ばれていることもあり、世間への認知は広がりつつある段階である。また、学際的な大学の新組織も、各々の教員は、小分類の学会などでも活動を行っており、新学問を指向した教育研究組織のほとんどは、各教員が有する学位の専攻分野などは異なっている。 学問は様々な側面から分類できる。
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学問(がくもん、または学術とは、学び習うこと、新知識の学習、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法。歴史学・心理学・言語学などの人文学、政治学・法律学などの社会科学、物理学・化学などの自然科学などの総称。 なお、「学術」は技術などを含む専門的・研究的な学問を指したり、学問と芸術・学問と技芸を指したりすることもある。「科学」は一般に哲学・宗教・芸術などとは区別されており、狭義または一般の「科学」は自然科学を指す。 「学問」に相当する英語は"learning"、"study"、"science"、"academic discipline"、"scholarship"、"knowledge"など。 学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。
{{読み仮名|'''学問'''|がくもん|{{Lang-en-short|learning<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」">[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%AD%A6%E5%95%8F#:~:text=%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A4%BE%20%E6%96%B0%E5%92%8C%E8%8B%B1%E4%B8%AD%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%81%A7%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%8B%B1%E8%A8%B3 「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」]</ref>, study<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/>, [[科学|science(s)]]<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/><ref name="『広辞苑』第六版">[[広辞苑]]第六版「学問」"</ref>}}}}または{{読み仮名|'''学術'''|がくじゅつ}}とは<ref name="『精選版 日本国語大辞典』「学術」">『精選版 日本国語大辞典』「[https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E8%A1%93-460349#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 学術]」</ref>、[[学習|学び習うこと]]<ref name="『デジタル大辞泉』「学問」">[https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E5%95%8F-460791 『デジタル大辞泉』「学問」]</ref>、新[[知識]]の学習<ref name="『デジタル大辞泉』「学問」"/>、一定の[[理論]]に基づいて体系化された[[知識]]と[[方法]]<ref 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WEB|quote=「science」 1.〔自然現象を研究する〕自然科学  2. 〔特定の学問分野の〕科学|accessdate=2022-06-05}}</ref>。 「学問」に相当する[[英語]]は"learning"<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」">[https://ejje.weblio.jp/content/%E5%AD%A6%E5%95%8F#:~:text=%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A4%BE%20%E6%96%B0%E5%92%8C%E8%8B%B1%E4%B8%AD%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%81%A7%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%8B%B1%E8%A8%B3 「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」]</ref>、"study"<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/>、"[[科学|science(s)]]"<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/><ref name="『広辞苑』第六版"/>、"[[アカデミー|academic]] [[ディシプリン|discipline]]"<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/>、"[[:wikt:scholarship#名詞|scholarship]]"<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/>、"knowledge"など<ref name="「研究社 新和英中辞典での「学問」の英訳」"/>。 学問の[[専門家]]を一般に「[[学者]]」と呼ぶ。研究者<ref group="注釈">研究者はresearcherの[[訳語]]でもある。なお、researcherのほかの訳語としては、調査員などがある。</ref>、[[科学者]]と呼ばれる場合もある。 == 概要 == 学問については体系化された知識を指すことが多い。ただし、学問を知識のことだとするのは、あくまで一例であり具体的な[[意味]]や[[目的]]による[[定義]]は多数存在する。また主観的にも意味合いが違ってくる。 基本的に学問の名前は、[[接尾語]]である「学」を付けて言い表すが、「学」が付いていないもの(省略されているもの)も多数有る。 === 学問と学術 === 学問に対し「学術」という言葉には、次のような意味がある<ref name="『精選版 日本国語大辞典』「学術」"/><ref name="『デジタル大辞泉』「学術」">『デジタル大辞泉』「[https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E8%A1%93-460349#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 学術]」</ref>。 # 学問<ref name="『精選版 日本国語大辞典』「学術」"/>。[[原理]]・[[応用科学|応用]]・[[技術]]を含む[[専門家|専門]]的な学問<ref name="『デジタル大辞泉』「学術」"/>、[[研究]]的な学問<ref name="『精選版 日本国語大辞典』「学術」"/>。 # 学問と[[芸術]]<ref name="『デジタル大辞泉』「学術」"/>、学問と[[:wikt:技芸|技芸]]<ref name="『精選版 日本国語大辞典』「学術」"/>。 なお[[古代ギリシア哲学]]では、[[技術知|技術(テクネー)]]は学術・芸術・[[知識]]([[エピステーメー]])などをも意味し{{sfn|山崎|2021|p=技術}}{{sfn|加藤|2021|p=ギリシア哲学/用語}}、[[数学]]{{Sfn|プラトン|2022|p=31}}や[[天文学]]{{Sfn|プラトン|2022|p=34}}や学問全般が技術に含まれていた{{Sfn|アリストテレス|2016|p=52}}。[[本質]]の、または[[真理|真]]の[[理知]]([[ロゴス]])は技術に備わっているとされた{{sfn|樋笠|2021|p=テクネー}}。[[アリストテレス]]の論では、技術も[[自然]]も[[本質|本来]]的には[[美]]であり、[[善]]はそれを際立たせるとされていた{{Sfn|アリストテレス|2015|p=73}}。 {{See also|[[自由人の諸技術|リベラル・アーツ(自由人の諸技術)]]}} === 学問の略史 === 歴史的に見れば、学問は様々な場所で行われてきた。例えば[[江戸時代]]の[[日本]]では、[[私塾]]が、[[藩校]]などとともに、大いに学問の発展を荷ってきた(→[[日本の私塾一覧]])。大学制度が整えられている現在では、学問は[[大学]]([[私立大学]]、[[公立大学]])によって主導されていることが多いが、その他の様々な[[研究所]](公立・私立とも)で行われていることもある。 近代教育が確立される以前の「学問」は知の体系を指すという意味以外にも今日の[[言葉]]で言う「[[人間学]]」や「[[教養]]」を意味する使われ方もしてきた。[[儒学]]でいう「聖人の学」などという言葉の[[文脈]]で使われる「学問」は、今日の自然科学・社会科学・人文科学という意味での学問ではなく、人格を修養する手段としての学問である。日本においても、江戸時代の儒学者などのいう「学問」は人間の修養と、社会を治める知識としての学問の両方を意味していた。 現在、ある学問が存在すれば、一般的には、それに関連する[[学会]]が(ひとつ乃至複数)存在しており、その学問の発展に関与しており、各学者は一般的には、当該学問のいずれかの学会の(多くは複数の学会の)会員となっていて、自身の研究の成果を発表することで認知を得たり、あるいは他の学者の発表を確認することで当該学問の最新の情報を把握し、自身の研究に役立てようと努めている。 学問の追究によって得られた知識などは、[[学会]]での発表だけでなく、各種[[学術雑誌]]での公表(大学の[[紀要]]・論文集への掲載を含む)、著書(単著・共著)の出版など、様々な方法で公表される可能性がある。ただし、特に自然科学系の学問においては、数限られた定評ある[[学術雑誌]]などで[[査読]]を経たうえで公表された知識のほうが、最も正式なものと認知され、そうではない知識に比べて格段に信頼される傾向が強い。 <!-- [[大学]]や[[大学院]]は、学問の教育と研究を中心とした機関である。大学の[[学部]]・学科や大学院の研究科・専攻は、学問の分類にほぼ従って設定されている。(ただし、学際系などはその限りではない。) --> == 学問の分類 == 学問の分類は人によって異なる。大まかには、日常会話や文献検索時の共通キーワードとして、時と場合により下記の分類のいずれかとすることが多い(これ以外の分類も多数存在するが、一般的で無い)。なお、[[科学]]、[[技術]]、[[工学]]などの言葉は、定義が無数にあり、統一的な定義は存在しないため、科学と技術をベースとした学問の分類とその範囲を厳密に決めることは困難である。 # [[文系]]、[[理系]]の大雑把な分類 # [[学会]]による分類 # [[本|図書]]による分類([[日本十進分類法]]など) # [[公務員]]試験、[[企業]]の[[就職]]試験、[[資格]]試験に見られる区分け # 1991年以前の半数以上の大学に共通して見られる組織による分類([[工学]]、[[理学]]、[[農学]]、[[医学]]、[[薬学]]、[[文学]]、[[経済学]]、[[法学]]など。[[大学設置基準]]などの改正で、大学における学問の基本分類が撤廃された後にも、従前の分類は有名大学を中心に根強く残る。) # [[学位]]の分類(5.とほぼリンクしている) # 科学技術行政の統計を作成する場合の分類(例えば[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]勧告[http://www.mext.go.jp/unesco/horei/pdf/k023.pdf]) # 一般的または慣例的に使用される、人文・社会・自然科学による分類および、基礎と応用の区分けなどによる分類(下記に、この分類の一例を示す。この例以外の、分類解釈も存在する。) == 分類 == {{main|学問の一覧}} === 人文学 === *[[哲学]] *[[倫理学]] *[[美学]] *[[宗教学]] *[[心理学]](心理生理学は自然科学に分類される) *[[言語学]] *[[文学]] *[[芸術学]] *[[歴史学]] *[[考古学]] *[[地理学]](特に[[人文地理学]]) *[[人類学]](特に[[文化人類学]]) *[[民俗学]] 内容と場合によっては人文科学とも呼称する。上記の分類以外に、大学の文学部で行っている学問を指す解釈もある。 === 社会科学 === 下記の小分類の幾つかは、人文科学に含める場合も有る。最も大まかな分類では、社会科学全体が人文科学に含まれる。 ;統治系 *[[政治学]] *[[行政学]] *[[政策学]]([[オペレーションズリサーチ]]という側面が有る場合には応用科学に分類) *[[経営学]] *[[法学]] *[[軍事学]] - [[軍学]] ;経済系 *[[経済学]] *[[商学]] *[[会計学]] ;一般系 *[[社会学]] *[[地理学]](特に[[人文地理学]]) ;教育系 *[[教育学]]([[教育科学]]) この分類以外に、大学の法学部、経済学部、教育学部などで行っている学問を指す解釈もある。 === 自然科学 === 基本的には、大学の[[理学部]]で行っている学問を指す。 [[基礎科学]]も、[[自然科学]]と同等に扱われる場合が多い。 *[[数学]](形式科学とすることもある) *[[理学]] **[[物理学]] **[[化学]] **地球惑星科学([[地球科学]]および[[惑星科学]]) **[[生物学]] **[[天文学]] **[[気象学]] **[[鉱物学]] === 形式科学 === 自然科学や社会科学との境界が曖昧なものもある。 *[[数学]](自然科学とすることもある) *[[計算機科学]](応用科学とすることもある) === 応用科学 === [[画像:Raffael 058.jpg|thumb|[[ラファエロ・サンティ]]「[[アテナイの学堂]]」1510-11 フレスコ {{要出典範囲|左の天を指すのが[[プラトン]](虚学の象徴)であり、右の大地を指さすのが[[アリストテレス]](実学の象徴)である|date=2010年2月}}]] [[応用科学]](実学、英:[[:en:art|art]]、希:{{lang|gr|τεχ&nu;η}})とは、基本的に、医学部、薬学部、歯学部、工学部、農学部で行っている学問を指すことが多いが、人文科学や社会科学の応用分野についても応用科学とされることもある。実学はその時代の文明や人間活動の役に立つと同時に、基礎科学分野にも影響を与え(例えばモルの研究は蒸気機関発明後になされている)、かつ後世にも多くの普遍的な知識・技術を与えるものである。 *[[医学]] ** [[遺伝医学]] ** [[救急医学]] ** [[再生医学]] ** [[予防医学]] ** [[放射線医学]] *[[伝統医学]] ** [[中医学]] *[[歯学]] *[[薬学]] *[[看護学]]  *[[農学]] - [[林学]] - [[水産学]] - [[獣医学]] *[[工学]] - [[機械工学]]<!--、[[教育工学]]-->、[[経営工学]]、[[原子力工学]]、[[材料工学]]、[[情報工学]]、[[化学工学]]、[[応用化学]]、[[生物工学]]、[[電気工学]]、[[電子工学]]、[[運送工学|運送工学、]][[土木工学]]、[[計算機工学]]、[[建築学]] *[[計算機科学]](形式科学とすることもある) *[[図書館情報学]] === 総合科学・学際分野 === [[学際]]分野とは、複数の小分類の学問を組み合わせたり、目的別によるテーマ(例えば[[環境問題]])ごとに複数分野の学問の観点からアプローチする新分野の学問のことである。また、このような学際分野が体系性を持った科学であることを強調するときに、「[[総合科学]]」の語が用いられることもある。 各大学では学際分野の学問を指向することもあり、[[総合科学]]のほかにも総合人間学などの多様な呼称があり、独自の名称で呼ばれていることもあり、世間への認知は広がりつつある段階である。また、学際的な大学の新組織も、各々の教員は、小分類の学会などでも活動を行っており、新学問を指向した教育研究組織のほとんどは、各教員が有する学位の専攻分野などは異なっている。 * [[環境学]] * [[経営情報学]] * [[健康科学]] * [[社会福祉学]] * 運動学([[スポーツ科学]]・[[運動生理学]]) * [[情報学]] * [[性科学]] * [[生活科学]]([[家政学]]) * [[地理学]] * [[脳神経科学]] * [[博物館学]] ==様々な分類法== 学問は様々な側面から分類できる。 ;文系か理系か *文系:人文科学、社会科学、人文社会科学、形式科学の一部([[哲学]]・[[伝統的論理学]]など) *理系:自然科学、応用科学、形式科学の一部([[数学]]・[[数理論理学]]など) **文理系:自然社会科学 ;実学か非実学か *[[実学]]:応用科学、社会科学の一部([[法学]]・[[経営学]]など)、自然科学の一部([[理工学]]など)、自然社会科学の一部([[神経法学]]など)、形式科学の一部([[応用数学]]・[[数理工学]]など) *非実学:基礎科学、人文科学、社会科学の一部([[歴史学]]・[[社会学]]など)、自然社会科学の一部([[社会生物学]]など)、形式科学の一部([[数学]]・[[数理論理学]]など) ;経験科学か形式科学か *[[経験科学]]:人文科学(哲学の一部を除く)、社会科学、自然科学、応用科学 *形式科学:哲学の一部、数学 ;歴史科学か否か *[[歴史科学]]:人文科学の一部([[歴史学]]・[[考古学]]など)、自然科学の一部([[地質学]]・[[古生物学]]など) *非歴史科学:その他 ;数学(数式)を用いる程度 *大:物理学、天文学、工学、経済学 *中:化学、地球惑星科学 *小:生物学、農学、薬学、医学、歯学、人文科学、経済学を除く社会科学 {|class="wikitable" style="width: 100%; word-break: break-all; word-wrap: break-all;" |- !style="width:0.01%;"| !colspan=2 style="width:1%;"|[[形式科学]] !colspan=6 style="width:1%;"|[[経験科学]] |- ! !style="font-weight:normal"|'''[[文系]]'''/<br>[[文学部]]系研究 !style="font-weight:normal"|'''[[理系]]'''/<br>[[理学部]]・[[理工学部]]系研究 !colspan=3 style="font-weight:normal;"|'''[[理系]]'''/'''[[自然科学]]'''/<br>natural science !colspan=3 style="font-weight:normal;"|'''[[文系]]'''/'''[[人文科学]]'''・'''[[社会科学]]'''/<br>cultural science, social science |- ! !style="white-space:nowrap; width:1%;"|伝統的研究 !style="white-space:nowrap; width:1%;"|現代的研究 !style="white-space:nowrap; width:12%;"|[[基礎科学]] !style="white-space:nowrap; width:12%;"|[[応用科学]] !style="font-weight:normal; width:12%;"|'''自然社会科学'''/<br>[https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&lr=&as_sdt=0%2C5&q=%22natural+social+science%22 natural social science] !style="white-space:nowrap; width:1%;"|[[社会科学]] !style="font-weight:normal; width:12%;"|'''人文社会科学'''/<br>[https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&lr=&as_sdt=0%2C5&q=%22cultural+social+science%22 cultural social science] !style="white-space:nowrap; width:12%;"|[[人文科学]] |- !style="writing-mode: vertical-rl; width:0.01%;"|非実学 |[[伝統的論理学]]/[[論理学]]<br>[[言語学]]の一部 |[[数学]]<br>[[数理論理学]]/現代論理学<br>[[コンピュータ科学]]/[[情報科学]]の一部<br>[[統計学]]の一部<br>[[計算言語学]]の一部 |[[数学]]<br>[[物理学]]<br>[[化学]]<br>[[生物学]]の大半<br>[[地球惑星科学]]の大半<br>[[宇宙科学]]の大半 |[[応用数学]]の一部<br>[[数理科学]]<br>[[数理物理学]]<br>[[数理生物学]]<br>[[:en:mathematical_chemistry|数理化学]]<br>[[:en:Mathematical_Medicine_and_Biology|数理医学]] |[[データ科学]]の一部<br>[[社会生物学]]<br>[[図書館情報学]]<br>[[数理経済学]]<br>[[計算言語学]]の一部<br>[[地質学]]([[地史学]]・[[古生物学]])<br>[[宇宙科学]]の一部 |[[教育学]]<br>[[政治学]]<br>[[社会学]]<br>[[歴史科学]]/[[歴史学]]の一部 |[[社会言語学]]<br>[[文化人類学]]の一部<br>[[考古学]]<br>[[歴史科学]]/[[歴史学]]の大半 |[[心理学]]<br>[[言語学]]の大半<br>[[人文地理学]]<br>[[文化人類学]]の大半<br>[[哲学]]([[美学]]・[[倫理学]]・[[認識論]]など)<br>[[宗教学]]<br>[[文学]]/[[文芸学]]<br>[[美学]]/[[芸術学]] |- !style="writing-mode: vertical-rl; width:0.01%;"|[[実学]] | |[[数理工学]]<br>[[応用数学]]の一部<br>[[コンピュータ科学]]/[[情報科学]]の一部<br>[[統計学]]の一部<br>[[自然言語処理]]の一部 |[[理工学]]<br>[[応用数学]]の一部<br>[[応用生物学]]/[[生物工学]]<br>[[応用物理学]]/[[物理工学]]<br>[[応用化学]]/[[化学工学]]<br>[[応用地学]]/[[地球工学]]<br>[[応用宇宙科学]]/[[宇宙工学]] |[[工学]]<br>[[医学]]<br>[[薬学]]<br>[[農学]]<br>[[コンピュータ工学]]/[[情報工学]]<br>[[データ科学]]の一部 |[[データ科学]]の一部<br>[[自然言語処理]]の一部<br>[[神経法学]]<br>[[:en:social informatics|社会情報科学]]<br>[[:en:neuroeconomics|神経経済学]] |[[法学]]<br>[[経営学]]<br>[[経済学]] | | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 | author = アリストテレス | authorlink = アリストテレス | translator = [[渡辺邦夫]]・[[立花幸司]] | date = 2015-12-20 | title = [[ニコマコス倫理学]] | edition = 初版第1刷 | volume = 上巻 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シスター・プリンセス
『シスター・プリンセス』(Sister Princess)は、『電撃G'sマガジン』(メディアワークス)の読者参加企画に端を発する一連のメディアミックス作品群の総称。通称「シスプリ」。 12人の妹たちが、遠く離れて暮らす兄を思慕する様子を描いたものである。キャラクター設定および文は公野櫻子が、挿絵は天広直人が担当した。 シスター・プリンセスの起源は、『電撃G'sマガジン』1999年3月号に初掲載された誌上ゲーム『シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き♥〜』にまで遡る。この企画が同誌の読者に人気を博したため、後に誌上連載イラストストーリーも同時掲載されるようになった。また、同作品を元にした恋愛アドベンチャーゲームやテレビアニメ、ラジオ番組なども次々と企画され、一大メディアミックスへと発展していった。これらは、電撃G'sマガジン本誌掲載の誌上ゲームや誌上連載イラストストーリー(以下原作)の掲載時期にならい、時期ごとに「第1期」「第2期」「第3期」「第4期」と大別される。例えば、2001年4月からテレビ東京系列局などで放送されたテレビアニメ第1作目の『シスター♥プリンセス』は、時期的には第3期の作品である。 シスター・プリンセスの基本設定は全メディア一律ではなく、メディアごとに差異が見られる。原作においては、妹たちが兄と会うことを許されるのは基本的に「お兄ちゃんの日」だけであり、それ以外の日には兄に手紙またはメールを出しながら直接会える日が来るのを心待ちにしている。しかし、ゲーム版やアニメ版においてはこのような制限はあまり無く、原作に比べれば比較的自由に兄と会っている。特にアニメ第1作目においては「兄と12人の妹(プラス、実は妹ではないもう一人)たちの共同生活」がメインテーマになっており、「お兄ちゃんの日」という言葉は最終回以外では全く出てこない。 また、兄と妹の関係も各メディアでかなり異なっている。原作においては2人兄妹で、兄と妹一対一の関係で描かれているが、ゲーム版とアニメ版においては兄1人に対し妹が12人もいるという設定で、妹たちは姉妹のような間柄で描かれている。このゲーム版とアニメ版のギャルゲー的設定がインターネットサイト各所や同人誌二次創作などでブレイクし、ここで生まれた「12人の妹たち」という言葉がこの作品自体を象徴するものとなった。なお、原作もゲーム第1作目とアニメ第1作目のリリースに合わせて、一時的に12人の妹たちが一堂に集う設定にシフトしていたことがある。 大別して第1期から第4期までに分けられる。途中、単行本として発売された『キャラクターコレクション』全12巻は書き下ろし作であり、厳密には本誌連載ではないが、本項では発売時期から第2期に含める。 電撃G'sマガジン1999年3月号で連載開始。前号の予告で明らかにされたのは「天広直人がキャラクターデザイン」というだけで内容については全く掲載されず、非常に突発的なスタートであった。この時点で登場した妹は可憐・花穂・衛・咲耶・雛子・鞠絵・白雪・鈴凛・千影の9人。特に白雪は髪型が違っていたり二人称が「あに兄」であるなど設定がかなり異なるが、4月号からは髪型と二人称が修正された。 当初は隔月連載の予定でスタートしたが、あまりにも読者の反響が大きかったため、急遽毎月連載に変更した上で誌上ゲームを展開した(SDキャラクター担当作画・霧賀ユキ)。その内容は、相手となる妹を1人選んでメール交換やお泊まり・料理・テニスなどをするというものであった。 この時点では、妹にはそれぞれ兄がいる「一対一の関係」が前提とされており、妹同士の横の繋がりは家族関係でなく交友関係と見られていた。妹たちの共通項は、どの妹も家庭の事情で兄とは離れて暮らしており、「お兄ちゃんの日」に限り兄と会えるという設定である。 『電撃G'sマガジン』連載の読者参加企画としては過去最高の人気に支えられて、2000年3月号より誌上ゲームは第2期(セカンドステージ)へ移行するとともに、画 - 天広直人・文 - 公野櫻子のイラストストーリーの同時連載も開始した。それにともない、春歌・四葉・亞里亞の3人が従来までの9人に追加される形で新登場した。 また、同時期に同作品がゲーム化されることが決定したが、発表されたゲームの内容が「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」というおおよそ常識とかけ離れた内容だった。この章は、後に単行本『オリジナルストーリーズ』と題して刊行された。 一方、本誌連載のイラストストーリーと並行して、全12巻の書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』と事実上の第1期総集編である『オフィシャルキャラクターズブック』がそれぞれ刊行された。特にキャラクターコレクションでは、第1巻冒頭から可憐が同級生の綾小路君に兄とは結婚できないことを指摘され、半泣きで彼に平手打ちを食らわせるなどの展開が繰り広げられた。 2000年3月号から、連載終了(2003年9月号)まで、『G's』本誌の表紙は、本作のイラストがメインとして起用されている。 2001年3月8日のゲーム第1作目の発売と4月4日のアニメ第1作目の放送開始に前後して、同年5月号よりイラストストーリーの新章が開始された。ゲーム版のストーリーの延長線上で描かれたこの新章には、原作では初となる「兄1人に対して妹12人」の設定が持ち込まれた。また、妹同士が互いを呼び合う時は全て「 - ちゃん」付けであることが明らかになった。この章は、後に単行本『ポケットストーリーズ』と題して全4巻が刊行された。 しかし、アニメの方は製作段階から迷走。放送開始直前に『電撃Animation Magazine』が休刊に見舞われる不吉なスタートを切った上、監督が途中で交代するなどドタバタぶりが目立ち、さらには第12話で航がウニを踏んづけて溺れる場面から「ウニメ」なる蔑称を命名されるという始末であった。 2002年4月号からのイラストストーリーの新章は再び一対一の関係へ戻り、「お兄ちゃんへの手紙」をテーマに連載を開始。この章は、後に単行本『Sincerely Yours』と題して刊行された。 2002年夏に再度のアニメ化が決定。その一方で、翌年春にゲーム第2作目が発売されるという事情も重なったため、折衷案的にAパートにてゲーム版のテーマ「兄1人に対して妹12人」を持ち込んだ作品を放送し、Bパートにて原作書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』内のエピソードをアニメ化した作品を放送するという手法が採られた。こうして同年10月から始まったアニメ『シスター・プリンセス RePure』は放送を終了。2003年3月にはゲーム第2作目『Sister Princess 2』が発売され、本誌の連載は2003年8月号を以て終了した。 『G's』での連載を終えた後も、本作は度々『G's』本誌内外で新規展開をしている。 イベント「電撃15年祭」(2007年)では妹たちを演じた桑谷夏子、望月久代、小林由美子、堀江由衣、神崎ちろ、かかずゆみ、テレビアニメ第2期主題歌を担当したcan/gooが登壇するステージイベントが行われ、その数か月後にテレビアニメ版のDVD-BOXが発売した。 イベント「電撃20年祭」(2012年)では完全新作の単行本「Brother's day」を刊行した他、同日開催の「DENGEKI MUSIC LIVE!!」で堀江がテレビアニメ第1期の主題歌を歌唱、また連動イベント「電撃20年祭 銀幕編」ではテレビアニメ版が上映され、桑谷、小林、プロデューサーの高野希義が登壇した。 『G's』2013年2月号では、天広直人描き下ろしイラストを使用したポスターが付録となった。 2017年3月にはテレビアニメ版BD-BOXが発売され、桑谷・望月によるラジオ特番や秋葉原での街頭広告、パネル展が行なわれるなどした。 イベント「KING SUPER LIVE 2018」(2018年)では、堀江が「Love Destiny」、can/gooが「まぼろし」、そして桑谷・望月・小林・水樹奈々がPritsとして「Sakura Revolution」「Private Emotion」を披露した。この4曲は連続して披露されたため、「シスター・プリンセスゾーン」と称したメディアもあった。 2018年10月から放送開始したテレビアニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』第1話では、12人の妹たちに加え、テレビアニメ第1期に登場した眞深を含めた13人のキャラクターがゲスト出演した。『いもいも』の監督・キャラクターデザインを手掛けた古川博之は、本作のテレビアニメ第1期にて初めて原画をした縁もあり、このコラボレーションを提案したという。 2019年1月30日をもって連載開始から20周年を迎えた記念に、以下の企画が行なわれた。 ここでは、いわゆる「原作」と呼ばれるタイトルを挙げる。全てメディアワークスまたはアスキー・メディアワークスから発売。ここに挙げた以外の関連書籍については#ゲーム、#テレビアニメ、シスター・プリンセス RePure#関連商品を参照。 メディアワークスより5タイトル、マーベラスエンターテイメント(現・マーベラス)より1タイトルが発売されている。なお、これ以外にもWindows 95からWindows XPまでのOSに対応の『タイピング シスター・プリンセス』(4タイトル)という製品が制作されていたが、こちらは発売中止になっている。理由については「世界観の不一致」であるという。 2001年3月8日にメディアワークスより発売。開発はSTACKが担当。対応機種はPlayStationで、ジャンルは恋愛アドベンチャーゲーム。2002年3月28日には『Sister Princess PREMIUM EDITION』のタイトルでドリームキャスト版が発売されている。 シリーズで初めて、「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」という設定が持ち込まれ、プレイヤーはバレンタインデー直前の2月11日から1か月の間に12人の妹たちとメール交換をしながら街中で会ったり、「お兄ちゃんの日」に自宅へ妹を呼んだりしながらストーリーを進めて行く。 ストーリーは、9人の妹たちが帰国子女である春歌・四葉・亞里亞の3人の歓迎会を開く場面から始まる。それぞれの妹が実妹(血縁)か義妹(非血縁)かはプレイヤーの選択肢によって変化するという思い切ったシステムが採用されており、12人それぞれに、血縁・非血縁×ベスト・グッドの4種エンディングが用意されているため、総エンディング数は48(誰ともエンディングを迎えないバッドエンディングを含めて49)と非常に多い。 また、PocketStation(DC版はビジュアルメモリ)対応でミニゲーム(内容は「後ろの正面だあれ?」)がプレイ可能。 2001年12月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStationで、ドリームキャスト版は前作の『PREMIUM EDITION』に合本として収録されている。 前作を補完するファンディスク的な要素が強いために、正規の続編ではなく番外編的な扱いになっている。 2003年3月20日にメディアワークスより発売。前作と同様に、開発はSTACKが担当。対応機種はPlayStation。ゲームシステムは基本的に前作と同じだが、バックログ機能の追加など多少の改善がなされている。 ストーリーは、前作から1年半弱が経過した7月25日からの夏休みの1か月間を描く。前作では描かれなかった、妹の誕生日(本作は8月15日の雛子)のイベントが存在する。また、前作と比較し、複数人の妹が同一イベント上で登場するシチュエーションが少なくなっている。 本誌連載終了後の2003年11月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStation。『ピュア・ストーリーズ』と同じく、ゲーム本編を補完する番外編的な意味合いが強い作品である。 初回限定特典は『プレミアムムービーDVD』で、前作『Sister Princess 2』のオープニングムービーやアニメ『RePure』内で放送された同作品のCM、電撃G'sマガジン本誌での広告、その他の各種プロモーション映像などが収録されている。 全てメディアワークスから発売。なお、ゲーム内に登場するエピソードの一部は、公野櫻子がゲームのシナリオ用に書き下ろしたプロットを用いて『GAME STORIES』のタイトルで書籍化されている(同シリーズのイラストは、天広直人でなく後藤潤二が担当)。PS one Books版『Sister Princess』の説明書に第3巻、第4巻が2003年春発売予定との記述があったが、発売されることはなかった。 テレビ東京系列を中心に、『シスター♥プリンセス』と『シスター・プリンセス RePure』の2作品が放送された。 一部テレビ東京系列局と一部系列外局にて放送された作品で、キー局のテレビ東京では2001年4月4日から同年9月26日まで放送。全26話。初回放送1週間前の2001年3月28日には、テレビ東京で『シスター♥プリンセス 前夜祭』が放送されている。この特番では、製作発表記者会見の様子や担当声優へのインタビューなどが放送された。2017年3月のBD-BOX発売に先駆け、2016年12月20日よりキッズステーションにてHDリマスター版が放送されることが、同年10月18日に発表された。 このアニメは「兄1人に対し妹が12人」という点はゲーム版と同様だが、それ以外は原作ともゲーム版ともほとんど共通点が見られなく、独自のキャラクターも多数登場している。作画については、テレビ放送後に順次発売されたDVD版で修正された箇所が多数ある。 進学塾のナンバー1でありながら高校受験に失敗した海神航は父親に代わって自分の世話をしてくれたじいやとも別れ、途方に暮れていた。ところが、突然現れた黒服の男たちに「星見が丘西学園」への推薦入学が決まったと告げられ、学園のある「プロミストアイランド」と呼ばれる島へ引っ越すことに。 船上でやはり新学期から同じ学園に入学するという山田太郎と眞深の2人と知り合った航は、島の船着き場で桟橋へ飛び移り損ねて溺れてしまうが、見知らぬ少女のおかげで命拾いする。その後、街で3人の少女たちと出会い、さらに助けてくれた少女とも再会し、彼女たちがいるなら島の生活も楽しみだと思うようになる。 だが、新居で航を待ち受けていたのは、街で出会った少女たち――可憐・咲耶・花穂・雛子の4人だった。しかも、この4人全員が航の妹であるという事実を告げられ、航は困惑する。さらに翌日、衛・鞠絵・白雪・鈴凛・千影・春歌・四葉・亞里亞と名乗る妹が続々と登場した上、船に同乗していた眞深まで航の妹であると名乗り、数奇な運命の許に集った14人の共同生活が始まる。 慣れない共同生活にとまどっていた航だが、妹たちの純真な想いや数々の出来事により、次第に兄として成長していく。 やがて妹たちとの生活が丸一年を迎えようとした頃、東京時代の親友・燦緒が来島し、航の志望校不合格は書類ミスによるものであり、希望すれば4月から2年生として編入できることが告げられる。東京と島の間で揺れる航を、燦緒は半ば強引に東京へ連れ戻す。そこで航は、プロミストアイランドでの妹たちとの生活も、父親の考えによるものであることを知る。周囲に振り回されていることを知った航は、燦緒に連れられて志望校へ行こうとするが、追い駆けてきた眞深の説得によって、勉強やエリートとしての人生よりも大切なものが島での生活にあると思い直し、編入しないことを決めた。 島に戻った航を妹たちが出迎える。本当は航の妹ではなく燦緒の妹であり、航を連れ戻す役割を負っていたことが知られた眞深は戻ってこなかったが、新学期を迎えた星見が丘西学園に、眞深と燦緒が編入生としてやってくる。新たな仲間を迎えたプロミストアイランドで、航たちの新たな生活が始まるのだった。 日本国内ではキングレコードから以下の収録メディアが発売されている。 また、日本国外ではADVフィルムから同作品の北米版『Sister Princess』収録メディアが発売されている。 そして、e-kids社からは同作品の香港・台湾版『妹妹公主』収録メディアが発売されている。 なお、北米版および香港・台湾版収録メディアにおける12人の妹たち(+1人)の兄に対しての呼び方は以下のようになっている。 メディアワークスから発売。 ポスター、トレーディングカード、ぬいぐるみ、ガレージキットなど、メディアワークス公認・非公認のものを含め多数のグッズが発売ないしは頒布されている。 正式なプロジェクト名は「シスター・プリンセス20周年VTuberプロジェクト」。2019年、1999年の企画開始から20周年を迎えたことを記念して始まった、妹たちをバーチャルYouTuberとして活動させるプロジェクト。単独での生配信の他、ファンクラブでの静止画・音声・動画コンテンツの配信、グッズ販売、ライブを含めたアーティスト活動、他のVTuberや企業とのコラボレーションが行なわれた。2021年10月1日の生配信番組をもって活動休止となった。 2019年9月23日(可憐の誕生日)から、毎週月曜、バーチャルYouTuberとなった可憐が『VTuber可憐の「シスタープリンセス~お兄ちゃん♡大好き~」』という番組を生配信。 2019年12月にVTuber咲耶デビューが発表され、2020年1月より活動開始。2020年4月には花穂が3人目のVTuberとしてデビューすることが発表され、同年5月より活動開始。 2020年9月にVTuber衛とVTuber亞里亞のデビューと、5人でのバーチャルライブを目標にクラウドファンディングが開始され、プロジェクト目標を大きく超え達成された。翌2021年2月14日にライブが開催され、同日にVTuber衛とVTuber亞里亞がデビューとなった。 2021年5月29日にクラウドファンディング特典であるVTuber可憐の水着ライブをSHOWSTAGEにて開催。8月15日にプロジェクトの活動休止が発表され、9月23日に5人のVTuberによるオンラインライブを開催、10月1日の生配信をもって活動休止となった。12月25日、アニメ主題歌やVTuberプロジェクトで楽曲制作に協力したcan/gooのライブイベント「Merry X’mas & Happy 20 year」にVTuber可憐がゲスト出演した。 2022年2月16日、クラウドファンディングのストレッチゴールの目標達成により制作決定したフルアルバム「シスター・プリンセス VTuber project ~song♥collection~」を発売。11月から12月にかけて開催されたcan/gooのライブイベント「デビュー20周年記念!メモリアルアルバム発売ライブツアー」にVTuber可憐が再びゲスト出演した。 丸括弧内の日付はデビュー日。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『シスター・プリンセス』(Sister Princess)は、『電撃G'sマガジン』(メディアワークス)の読者参加企画に端を発する一連のメディアミックス作品群の総称。通称「シスプリ」。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "12人の妹たちが、遠く離れて暮らす兄を思慕する様子を描いたものである。キャラクター設定および文は公野櫻子が、挿絵は天広直人が担当した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シスター・プリンセスの起源は、『電撃G'sマガジン』1999年3月号に初掲載された誌上ゲーム『シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き♥〜』にまで遡る。この企画が同誌の読者に人気を博したため、後に誌上連載イラストストーリーも同時掲載されるようになった。また、同作品を元にした恋愛アドベンチャーゲームやテレビアニメ、ラジオ番組なども次々と企画され、一大メディアミックスへと発展していった。これらは、電撃G'sマガジン本誌掲載の誌上ゲームや誌上連載イラストストーリー(以下原作)の掲載時期にならい、時期ごとに「第1期」「第2期」「第3期」「第4期」と大別される。例えば、2001年4月からテレビ東京系列局などで放送されたテレビアニメ第1作目の『シスター♥プリンセス』は、時期的には第3期の作品である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "シスター・プリンセスの基本設定は全メディア一律ではなく、メディアごとに差異が見られる。原作においては、妹たちが兄と会うことを許されるのは基本的に「お兄ちゃんの日」だけであり、それ以外の日には兄に手紙またはメールを出しながら直接会える日が来るのを心待ちにしている。しかし、ゲーム版やアニメ版においてはこのような制限はあまり無く、原作に比べれば比較的自由に兄と会っている。特にアニメ第1作目においては「兄と12人の妹(プラス、実は妹ではないもう一人)たちの共同生活」がメインテーマになっており、「お兄ちゃんの日」という言葉は最終回以外では全く出てこない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、兄と妹の関係も各メディアでかなり異なっている。原作においては2人兄妹で、兄と妹一対一の関係で描かれているが、ゲーム版とアニメ版においては兄1人に対し妹が12人もいるという設定で、妹たちは姉妹のような間柄で描かれている。このゲーム版とアニメ版のギャルゲー的設定がインターネットサイト各所や同人誌二次創作などでブレイクし、ここで生まれた「12人の妹たち」という言葉がこの作品自体を象徴するものとなった。なお、原作もゲーム第1作目とアニメ第1作目のリリースに合わせて、一時的に12人の妹たちが一堂に集う設定にシフトしていたことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大別して第1期から第4期までに分けられる。途中、単行本として発売された『キャラクターコレクション』全12巻は書き下ろし作であり、厳密には本誌連載ではないが、本項では発売時期から第2期に含める。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "電撃G'sマガジン1999年3月号で連載開始。前号の予告で明らかにされたのは「天広直人がキャラクターデザイン」というだけで内容については全く掲載されず、非常に突発的なスタートであった。この時点で登場した妹は可憐・花穂・衛・咲耶・雛子・鞠絵・白雪・鈴凛・千影の9人。特に白雪は髪型が違っていたり二人称が「あに兄」であるなど設定がかなり異なるが、4月号からは髪型と二人称が修正された。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当初は隔月連載の予定でスタートしたが、あまりにも読者の反響が大きかったため、急遽毎月連載に変更した上で誌上ゲームを展開した(SDキャラクター担当作画・霧賀ユキ)。その内容は、相手となる妹を1人選んでメール交換やお泊まり・料理・テニスなどをするというものであった。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この時点では、妹にはそれぞれ兄がいる「一対一の関係」が前提とされており、妹同士の横の繋がりは家族関係でなく交友関係と見られていた。妹たちの共通項は、どの妹も家庭の事情で兄とは離れて暮らしており、「お兄ちゃんの日」に限り兄と会えるという設定である。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『電撃G'sマガジン』連載の読者参加企画としては過去最高の人気に支えられて、2000年3月号より誌上ゲームは第2期(セカンドステージ)へ移行するとともに、画 - 天広直人・文 - 公野櫻子のイラストストーリーの同時連載も開始した。それにともない、春歌・四葉・亞里亞の3人が従来までの9人に追加される形で新登場した。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、同時期に同作品がゲーム化されることが決定したが、発表されたゲームの内容が「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」というおおよそ常識とかけ離れた内容だった。この章は、後に単行本『オリジナルストーリーズ』と題して刊行された。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、本誌連載のイラストストーリーと並行して、全12巻の書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』と事実上の第1期総集編である『オフィシャルキャラクターズブック』がそれぞれ刊行された。特にキャラクターコレクションでは、第1巻冒頭から可憐が同級生の綾小路君に兄とは結婚できないことを指摘され、半泣きで彼に平手打ちを食らわせるなどの展開が繰り広げられた。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2000年3月号から、連載終了(2003年9月号)まで、『G's』本誌の表紙は、本作のイラストがメインとして起用されている。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2001年3月8日のゲーム第1作目の発売と4月4日のアニメ第1作目の放送開始に前後して、同年5月号よりイラストストーリーの新章が開始された。ゲーム版のストーリーの延長線上で描かれたこの新章には、原作では初となる「兄1人に対して妹12人」の設定が持ち込まれた。また、妹同士が互いを呼び合う時は全て「 - ちゃん」付けであることが明らかになった。この章は、後に単行本『ポケットストーリーズ』と題して全4巻が刊行された。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、アニメの方は製作段階から迷走。放送開始直前に『電撃Animation Magazine』が休刊に見舞われる不吉なスタートを切った上、監督が途中で交代するなどドタバタぶりが目立ち、さらには第12話で航がウニを踏んづけて溺れる場面から「ウニメ」なる蔑称を命名されるという始末であった。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2002年4月号からのイラストストーリーの新章は再び一対一の関係へ戻り、「お兄ちゃんへの手紙」をテーマに連載を開始。この章は、後に単行本『Sincerely Yours』と題して刊行された。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2002年夏に再度のアニメ化が決定。その一方で、翌年春にゲーム第2作目が発売されるという事情も重なったため、折衷案的にAパートにてゲーム版のテーマ「兄1人に対して妹12人」を持ち込んだ作品を放送し、Bパートにて原作書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』内のエピソードをアニメ化した作品を放送するという手法が採られた。こうして同年10月から始まったアニメ『シスター・プリンセス RePure』は放送を終了。2003年3月にはゲーム第2作目『Sister Princess 2』が発売され、本誌の連載は2003年8月号を以て終了した。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『G's』での連載を終えた後も、本作は度々『G's』本誌内外で新規展開をしている。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イベント「電撃15年祭」(2007年)では妹たちを演じた桑谷夏子、望月久代、小林由美子、堀江由衣、神崎ちろ、かかずゆみ、テレビアニメ第2期主題歌を担当したcan/gooが登壇するステージイベントが行われ、その数か月後にテレビアニメ版のDVD-BOXが発売した。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イベント「電撃20年祭」(2012年)では完全新作の単行本「Brother's day」を刊行した他、同日開催の「DENGEKI MUSIC LIVE!!」で堀江がテレビアニメ第1期の主題歌を歌唱、また連動イベント「電撃20年祭 銀幕編」ではテレビアニメ版が上映され、桑谷、小林、プロデューサーの高野希義が登壇した。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『G's』2013年2月号では、天広直人描き下ろしイラストを使用したポスターが付録となった。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2017年3月にはテレビアニメ版BD-BOXが発売され、桑谷・望月によるラジオ特番や秋葉原での街頭広告、パネル展が行なわれるなどした。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "イベント「KING SUPER LIVE 2018」(2018年)では、堀江が「Love Destiny」、can/gooが「まぼろし」、そして桑谷・望月・小林・水樹奈々がPritsとして「Sakura Revolution」「Private Emotion」を披露した。この4曲は連続して披露されたため、「シスター・プリンセスゾーン」と称したメディアもあった。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2018年10月から放送開始したテレビアニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』第1話では、12人の妹たちに加え、テレビアニメ第1期に登場した眞深を含めた13人のキャラクターがゲスト出演した。『いもいも』の監督・キャラクターデザインを手掛けた古川博之は、本作のテレビアニメ第1期にて初めて原画をした縁もあり、このコラボレーションを提案したという。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2019年1月30日をもって連載開始から20周年を迎えた記念に、以下の企画が行なわれた。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ここでは、いわゆる「原作」と呼ばれるタイトルを挙げる。全てメディアワークスまたはアスキー・メディアワークスから発売。ここに挙げた以外の関連書籍については#ゲーム、#テレビアニメ、シスター・プリンセス RePure#関連商品を参照。", "title": "本誌連載" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "メディアワークスより5タイトル、マーベラスエンターテイメント(現・マーベラス)より1タイトルが発売されている。なお、これ以外にもWindows 95からWindows XPまでのOSに対応の『タイピング シスター・プリンセス』(4タイトル)という製品が制作されていたが、こちらは発売中止になっている。理由については「世界観の不一致」であるという。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2001年3月8日にメディアワークスより発売。開発はSTACKが担当。対応機種はPlayStationで、ジャンルは恋愛アドベンチャーゲーム。2002年3月28日には『Sister Princess PREMIUM EDITION』のタイトルでドリームキャスト版が発売されている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "シリーズで初めて、「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」という設定が持ち込まれ、プレイヤーはバレンタインデー直前の2月11日から1か月の間に12人の妹たちとメール交換をしながら街中で会ったり、「お兄ちゃんの日」に自宅へ妹を呼んだりしながらストーリーを進めて行く。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ストーリーは、9人の妹たちが帰国子女である春歌・四葉・亞里亞の3人の歓迎会を開く場面から始まる。それぞれの妹が実妹(血縁)か義妹(非血縁)かはプレイヤーの選択肢によって変化するという思い切ったシステムが採用されており、12人それぞれに、血縁・非血縁×ベスト・グッドの4種エンディングが用意されているため、総エンディング数は48(誰ともエンディングを迎えないバッドエンディングを含めて49)と非常に多い。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、PocketStation(DC版はビジュアルメモリ)対応でミニゲーム(内容は「後ろの正面だあれ?」)がプレイ可能。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2001年12月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStationで、ドリームキャスト版は前作の『PREMIUM EDITION』に合本として収録されている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "前作を補完するファンディスク的な要素が強いために、正規の続編ではなく番外編的な扱いになっている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年3月20日にメディアワークスより発売。前作と同様に、開発はSTACKが担当。対応機種はPlayStation。ゲームシステムは基本的に前作と同じだが、バックログ機能の追加など多少の改善がなされている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ストーリーは、前作から1年半弱が経過した7月25日からの夏休みの1か月間を描く。前作では描かれなかった、妹の誕生日(本作は8月15日の雛子)のイベントが存在する。また、前作と比較し、複数人の妹が同一イベント上で登場するシチュエーションが少なくなっている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本誌連載終了後の2003年11月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStation。『ピュア・ストーリーズ』と同じく、ゲーム本編を補完する番外編的な意味合いが強い作品である。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "初回限定特典は『プレミアムムービーDVD』で、前作『Sister Princess 2』のオープニングムービーやアニメ『RePure』内で放送された同作品のCM、電撃G'sマガジン本誌での広告、その他の各種プロモーション映像などが収録されている。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "全てメディアワークスから発売。なお、ゲーム内に登場するエピソードの一部は、公野櫻子がゲームのシナリオ用に書き下ろしたプロットを用いて『GAME STORIES』のタイトルで書籍化されている(同シリーズのイラストは、天広直人でなく後藤潤二が担当)。PS one Books版『Sister Princess』の説明書に第3巻、第4巻が2003年春発売予定との記述があったが、発売されることはなかった。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "テレビ東京系列を中心に、『シスター♥プリンセス』と『シスター・プリンセス RePure』の2作品が放送された。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一部テレビ東京系列局と一部系列外局にて放送された作品で、キー局のテレビ東京では2001年4月4日から同年9月26日まで放送。全26話。初回放送1週間前の2001年3月28日には、テレビ東京で『シスター♥プリンセス 前夜祭』が放送されている。この特番では、製作発表記者会見の様子や担当声優へのインタビューなどが放送された。2017年3月のBD-BOX発売に先駆け、2016年12月20日よりキッズステーションにてHDリマスター版が放送されることが、同年10月18日に発表された。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このアニメは「兄1人に対し妹が12人」という点はゲーム版と同様だが、それ以外は原作ともゲーム版ともほとんど共通点が見られなく、独自のキャラクターも多数登場している。作画については、テレビ放送後に順次発売されたDVD版で修正された箇所が多数ある。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "進学塾のナンバー1でありながら高校受験に失敗した海神航は父親に代わって自分の世話をしてくれたじいやとも別れ、途方に暮れていた。ところが、突然現れた黒服の男たちに「星見が丘西学園」への推薦入学が決まったと告げられ、学園のある「プロミストアイランド」と呼ばれる島へ引っ越すことに。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "船上でやはり新学期から同じ学園に入学するという山田太郎と眞深の2人と知り合った航は、島の船着き場で桟橋へ飛び移り損ねて溺れてしまうが、見知らぬ少女のおかげで命拾いする。その後、街で3人の少女たちと出会い、さらに助けてくれた少女とも再会し、彼女たちがいるなら島の生活も楽しみだと思うようになる。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "だが、新居で航を待ち受けていたのは、街で出会った少女たち――可憐・咲耶・花穂・雛子の4人だった。しかも、この4人全員が航の妹であるという事実を告げられ、航は困惑する。さらに翌日、衛・鞠絵・白雪・鈴凛・千影・春歌・四葉・亞里亞と名乗る妹が続々と登場した上、船に同乗していた眞深まで航の妹であると名乗り、数奇な運命の許に集った14人の共同生活が始まる。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "慣れない共同生活にとまどっていた航だが、妹たちの純真な想いや数々の出来事により、次第に兄として成長していく。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": 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『シスター・プリンセス』は、『電撃G'sマガジン』(メディアワークス)の読者参加企画に端を発する一連のメディアミックス作品群の総称。通称「シスプリ」。
{{pp-vandalism|small=yes}} <!--{{redirect|可憐|その他の'''カレン'''|カレン}} --> {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = シスター・プリンセス | ジャンル = [[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]、[[恋愛]]([[妹]][[萌え]]) }} {{Infobox animanga/Novel | 著者 = [[公野櫻子]] | イラスト = [[天広直人]] | 出版社 = [[メディアワークス]] | 掲載誌 = [[電撃G's magazine|電撃G'sマガジン]] | レーベル = | 開始号 = 2000年3月号 | 終了号 = 2003年8月号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = (キャラコレ)全12巻 / (第2期)全1巻<br />(第3期)全4巻 / (第4期)全1巻 | 話数 = | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス | 原作 = | 総監督 = | 監督 = [[大畑清隆]](第1話 - 第12話)<br />伊灘郁志(第13話 - 第26話) | シリーズディレクター = | シリーズ構成 = [[あみやまさはる]] | 脚本 = | キャラクターデザイン = [[新田靖成]] | メカニックデザイン = | 音楽 = [[服部隆之]] | アニメーション制作 = [[ZEXCS]] | 製作 = シスプリ製作委員会 | 放送局 = [[テレビ東京]]ほか | 放送開始 = [[2001年]][[4月4日]] | 放送終了 = [[9月26日]] | 話数 = 全26話 | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス 〜12の約束〜 | 作者 = [[壱河きづく]] | 作画 = | 出版社 = [[メディアワークス]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[月刊コミック電撃大王]] | レーベル = | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = 2001年6・7月合併号 | 終了号 = 2002年7月号 | 開始日 = | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 未単行本化 | 話数 = 10話 | その他 = 未完 | インターネット = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]]・[[プロジェクト:美少女ゲーム系|美少女ゲーム系]]<br />[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]・[[プロジェクト:漫画|漫画]] | ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]]・[[Portal:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''シスター・プリンセス'''』(''Sister Princess'')は、『[[電撃G's magazine|電撃G'sマガジン]]』([[メディアワークス]])の[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]に端を発する一連の[[メディアミックス]]作品群の総称。通称「'''シスプリ'''」。 == 概要 == 12人の[[妹]]たちが、遠く離れて暮らす[[兄]]を思慕する様子を描いたものである。キャラクター設定および文は[[公野櫻子]]が、挿絵は[[天広直人]]が担当した。 シスター・プリンセスの起源は、『電撃G'sマガジン』1999年3月号に初掲載された誌上ゲーム『シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜』にまで遡る。この企画が同誌の読者に人気を博したため、後に誌上連載イラストストーリーも同時掲載されるようになった。また、同作品を元にした[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]]や[[テレビアニメ]]、[[ラジオ番組]]なども次々と企画され、一大メディアミックスへと発展していった。これらは、電撃G'sマガジン本誌掲載の誌上ゲームや誌上連載イラストストーリー(以下原作)の掲載時期にならい、時期ごとに「第1期」「第2期」「第3期」「第4期」と大別される<ref name="G's 200309">{{Cite journal |和書 |journal=電撃G's magazine |publisher=メディアワークス |issue=2003年9月号 |pages=163 - 168}}</ref>。例えば、2001年4月から[[TXNネットワーク|テレビ東京系列局]]などで放送されたテレビアニメ第1作目の『シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス』は、時期的には第3期の作品である。 シスター・プリンセスの基本設定は全メディア一律ではなく、メディアごとに差異が見られる。原作においては、妹たちが兄と会うことを許されるのは基本的に「お兄ちゃんの日」だけであり、それ以外の日には兄に[[手紙]]または[[電子メール|メール]]を出しながら直接会える日が来るのを心待ちにしている。しかし、ゲーム版やアニメ版においてはこのような制限はあまり無く、原作に比べれば比較的自由に兄と会っている。特にアニメ第1作目においては「兄と12人の妹(プラス、実は妹ではないもう一人)たちの共同生活」がメインテーマになっており、「お兄ちゃんの日」という言葉は最終回以外では全く出てこない。 また、兄と妹の関係も各メディアでかなり異なっている。原作においては2人兄妹で、兄と妹一対一の関係で描かれているが、ゲーム版とアニメ版においては兄1人に対し妹が12人もいるという設定で、妹たちは姉妹のような間柄で描かれている。このゲーム版とアニメ版の[[ギャルゲー]]的設定がインターネットサイト各所や同人誌二次創作などでブレイクし、ここで生まれた「12人の妹たち」という言葉がこの作品自体を象徴するものとなった。なお、原作もゲーム第1作目とアニメ第1作目のリリースに合わせて、一時的に12人の妹たちが一堂に集う設定にシフトしていたことがある。 == 登場人物 == {{main|シスター・プリンセスの登場人物}} ; 可憐(かれん) : ピアノが得意なお嬢様タイプの妹。 ; 花穂(かほ) : チアリーディングをしているドジっ子の妹。 ; 衛(まもる) : スポーツが得意なボーイッシュな妹。 ; 咲耶(さくや) : オシャレが好きな小悪魔な妹。 ; 雛子(ひなこ) : 12人の中で最も小さい、素直で元気な妹。 ; 鞠絵(まりえ) : 本が好きで、遠慮深い妹。 ; 白雪(しらゆき) : 自分を「姫」と呼ぶ、料理好きな妹。 ; 鈴凛(りんりん) : 発明が趣味の、理系の妹。 ; 千影(ちかげ) : 魔法が使えるらしい、ミステリアスな妹。 ; 春歌(はるか) : ドイツから来た、大和撫子な妹。 ; 四葉(よつば) : イギリスから来た、自称名探偵な妹。 ; 亞里亞(ありあ) : フランスから来た、泣き虫な妹。 ; 兄(読者) : とある事情で妹(たち)とは離れ離れに暮らしていて、2か月に1度の「お兄ちゃんの日」にしか会えない。 == 本誌連載 == 大別して第1期から第4期までに分けられる。途中、単行本として発売された『キャラクターコレクション』全12巻は書き下ろし作であり、厳密には本誌連載ではないが、本項では発売時期から第2期に含める。 === 第1期(1999年3月号 - 2000年2月号) === 電撃G'sマガジン1999年3月号で連載開始。前号の予告で明らかにされたのは「天広直人がキャラクターデザイン」というだけで内容については全く掲載されず、非常に突発的なスタートであった。この時点で登場した妹は可憐・花穂・衛・咲耶・雛子・鞠絵・白雪・鈴凛・千影の9人。特に白雪は髪型が違っていたり二人称が「あに兄」であるなど設定がかなり異なるが、4月号からは髪型と二人称が修正された。 当初は隔月連載の予定でスタートしたが、あまりにも読者の反響が大きかったため<ref name="G's 200309"/>、急遽毎月連載に変更した上で誌上ゲームを展開した(SDキャラクター担当作画・[[霧賀ユキ]])。その内容は、相手となる妹を1人選んでメール交換やお泊まり・料理・テニスなどをするというものであった。 この時点では、妹にはそれぞれ兄がいる「一対一の関係」が前提とされており、妹同士の横の繋がりは家族関係でなく交友関係と見られていた。妹たちの共通項は、どの妹も家庭の事情で兄とは離れて暮らしており、「お兄ちゃんの日」に限り兄と会えるという設定である。 === 第2期(2000年3月号 - 2001年4月号) === 『電撃G'sマガジン』連載の読者参加企画としては過去最高の人気に支えられて、2000年3月号より誌上ゲームは第2期(セカンドステージ)へ移行するとともに、画 - 天広直人・文 - 公野櫻子のイラストストーリーの同時連載も開始した。それにともない、春歌・四葉・亞里亞の3人が従来までの9人に追加される形で新登場した。 また、同時期に同作品がゲーム化されることが決定したが、発表されたゲームの内容が「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」というおおよそ常識とかけ離れた内容だった。この章は、後に単行本『オリジナルストーリーズ』と題して刊行された。 一方、本誌連載のイラストストーリーと並行して、全12巻の書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』と事実上の第1期総集編である『オフィシャルキャラクターズブック』がそれぞれ刊行された。特にキャラクターコレクションでは、第1巻冒頭から可憐が同級生の綾小路君に兄とは結婚できないことを指摘され、半泣きで彼に平手打ちを食らわせるなどの展開が繰り広げられた。 2000年3月号から、連載終了(2003年9月号)まで、『G's』本誌の表紙は、本作のイラストがメインとして起用されている。 === 第3期(2001年5月号 - 2002年4月号) === 2001年3月8日のゲーム第1作目の発売と4月4日のアニメ第1作目の放送開始に前後して、同年5月号よりイラストストーリーの新章が開始された。ゲーム版のストーリーの延長線上で描かれたこの新章には、原作では初となる「兄1人に対して妹12人」の設定が持ち込まれた。また、妹同士が互いを呼び合う時は全て「 - ちゃん」付けであることが明らかになった。この章は、後に単行本『ポケットストーリーズ』と題して全4巻が刊行された。 しかし、アニメの方は製作段階から迷走。放送開始直前に『[[電撃アニマガ|電撃Animation Magazine]]』が休刊に見舞われる不吉なスタートを切った上、監督が途中で交代するなどドタバタぶりが目立ち、さらには第12話で航が[[ウニ]]を踏んづけて溺れる場面から「ウニメ」なる[[侮蔑#侮蔑表現の分類と種類|蔑称]]を命名されるという始末であった<ref>{{同人用語の基礎知識|7c_yashigani|ヤシガニアニメ/ ヤシガニ屠る/ ウニメ}}</ref>。 === 第4期(2002年5月号 - 2003年8月号) === 2002年4月号からのイラストストーリーの新章は再び一対一の関係へ戻り、「お兄ちゃんへの手紙」をテーマに連載を開始。この章は、後に単行本『Sincerely Yours』と題して刊行された。 2002年夏に再度のアニメ化が決定。その一方で、翌年春にゲーム第2作目が発売されるという事情も重なったため、折衷案的にAパートにてゲーム版のテーマ「兄1人に対して妹12人」を持ち込んだ作品を放送し、Bパートにて原作書き下ろし単行本『キャラクターコレクション』内のエピソードをアニメ化した作品を放送するという手法が採られた。こうして同年10月から始まったアニメ『[[シスター・プリンセス RePure]]』は放送を終了。2003年3月にはゲーム第2作目『Sister Princess 2』が発売され、本誌の連載は2003年8月号を以て終了した。 === 連載終了以降 === 『G's』での連載を終えた後も、本作は度々『G's』本誌内外で新規展開をしている。 イベント「[[電撃15年祭]]」(2007年)では妹たちを演じた[[桑谷夏子]]、[[望月久代]]、[[小林由美子]]、[[堀江由衣]]、[[神崎ちろ]]、[[かかずゆみ]]、テレビアニメ第2期主題歌を担当した[[can/goo]]が登壇するステージイベントが行われ、その数か月後にテレビアニメ版のDVD-BOXが発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://dengekionline.com/data/news/2007/11/25/06358533416df187f932000f96e170aa.html|title=【電撃15年祭】妹たちが帰ってきた!歌にトークに大盛況の『シスプリ』ステージ!|accessdate=2018-09-26}}</ref>。 イベント「[[電撃20年祭]]」(2012年)では完全新作の単行本「Brother's day」を刊行した他、同日開催の「DENGEKI MUSIC LIVE!!」で堀江がテレビアニメ第1期の主題歌を歌唱、また連動イベント「電撃20年祭 銀幕編」ではテレビアニメ版が上映され、桑谷、小林、プロデューサーの高野希義が登壇した。 『G's』2013年2月号では、天広直人描き下ろしイラストを使用したポスターが付録となった。 2017年3月にはテレビアニメ版BD-BOXが発売され、[[シスター・プリンセス〜お兄ちゃんといっしょ|桑谷・望月によるラジオ特番]]や[[秋葉原]]での街頭広告、パネル展が行なわれるなどした<ref>{{Cite web|和書|url=http://gs.dengeki.com/news/95680/|title=『シスター・プリンセス』Blu-ray BOX発売!! 秋葉原には壁面広告が展開中♡|accessdate=2018-09-26}}</ref>。 イベント「[[KING SUPER LIVE 2018]]」(2018年)では、堀江が「Love Destiny」、can/gooが「まぼろし」、そして桑谷・望月・小林・[[水樹奈々]]が[[Prits]]として「Sakura Revolution」「Private Emotion」を披露した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/301073|title=水樹奈々、宮野真守ら熱演「KING SUPER LIVE」8年ぶりPrits復活も|accessdate=2018-09-26}}</ref>。この4曲は連続して披露されたため、「シスター・プリンセスゾーン」と称したメディアもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1537838584|title=9月24日開催!キングレコード主催の大型フェス「KING SUPER LIVE 2018」 東京ドーム公演レポート!|accessdate=2018-09-26}}</ref>。 2018年10月から放送開始したテレビアニメ『[[俺が好きなのは妹だけど妹じゃない]]』第1話では、12人の妹たちに加え、テレビアニメ第1期に登場した眞深を含めた13人のキャラクターがゲスト出演した。『いもいも』の監督・キャラクターデザインを手掛けた古川博之は、本作のテレビアニメ第1期にて初めて原画をした縁もあり、このコラボレーションを提案したという<ref>{{Cite web|和書|url=http://gs.dengeki.com/news/122255/|title=【『シスプリ』キャスト&監督コメント到着!】奇跡のコラボ♡ 10月アニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』の第1話に『シスター・プリンセス』の妹たちが大集結!|accessdate=2018-10-10}}</ref>。 2019年1月30日をもって連載開始から20周年を迎えた記念に、以下の企画が行なわれた。 * 2019年 ** 1月30日 - 『G's』2019年3月号にて特集を掲載。 ** 2月28日 - 前述の『いもいも』の登場シーンを使用した新作グッズの注文受付開始(3月29日まで)。 ** 3月30日 - 「Brother's Day」の電子書籍版を配信開始。 ** 9月9日 - [[YouTube]]に専用チャンネルを開設。同日より毎日1話ずつ、[[#テレビアニメ|アニメ版]]を配信。 ** 9月23日 - シスター・プリンセス20周年VTuberプロジェクト開始(詳細は[[#VTuberプロジェクト]]を参照)。以降、『G's』誌上で毎月特集が組まれるようになる。 * 2020年 ** 6月30日 - 関連書籍25冊を電子書籍として再販<ref>[http://gs.dengeki.com/news/139548/ 『シスター・プリンセス』電子書籍25冊が、本日より一挙配信スタート]</ref>。 === 関連書籍(原作) === ここでは、いわゆる「原作」と呼ばれるタイトルを挙げる。全てメディアワークスまたはアスキー・メディアワークスから発売。ここに挙げた以外の関連書籍については[[#ゲーム]]、[[#テレビアニメ]]、[[シスター・プリンセス RePure#関連商品]]を参照。 ; 電撃G's PREMIUM シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 オフィシャルキャラクターズブック : 2000年7月29日発売、{{ISBN2|4-8402-1607-X}} ; 電撃G'sマガジン キャラクターコレクション シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 :# 可憐 - 2000年11月30日発売、{{ISBN2|4-8402-1717-3}} :# 花穂 - 2000年11月30日発売、{{ISBN2|4-8402-1718-1}} :# 衛 - 2000年11月30日発売、{{ISBN2|4-8402-1719-X}} :# 咲耶 - 2001年2月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1750-5}} :# 雛子 - 2001年2月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1751-3}} :# 鞠絵 - 2001年2月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1752-1}} :# 白雪 - 2001年3月8日発売、{{ISBN2|4-8402-1789-0}} :# 鈴凛 - 2001年3月8日発売、{{ISBN2|4-8402-1790-4}} :# 千影 - 2001年3月8日発売、{{ISBN2|4-8402-1791-2}} :# 春歌 - 2001年4月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1803-X}} :# 四葉 - 2001年4月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1804-8}} :# 亞里亞 - 2001年4月28日発売、{{ISBN2|4-8402-1805-6}} ; 電撃G's PREMIUM シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 オリジナルストーリーズ : 2001年7月30日発売、{{ISBN2|4-8402-1902-8}} ; 電撃G'sマガジン キャラクターコレクション シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 ポケットストーリーズ :# 2001年12月20日発売、{{ISBN2|4-8402-1969-9}} :# 2002年2月28日発売、{{ISBN2|4-8402-2083-2}} :# 2002年4月30日発売、{{ISBN2|4-8402-2120-0}} :# 2002年6月28日発売、{{ISBN2|4-8402-2136-7}} ; 電撃G's PREMIUM シスター・プリンセス 〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 Sincerely Yours : 2004年2月28日発売、{{ISBN2|4-8402-2645-8}} ; Sister Princess 〜Brother's Day〜 : 2012年10月20日発売。電撃20年祭会場で販売された書籍であり、一般の書店には流通しないことからISBNは無い。2019年3月30日に電子書籍化された。 == ゲーム == [[メディアワークス]]より5タイトル、マーベラスエンターテイメント(現・[[マーベラス (企業)|マーベラス]])より1タイトルが発売されている。なお、これ以外にも[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]から[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]までのOSに対応の『タイピング シスター・プリンセス』(4タイトル)という製品が制作されていたが、こちらは発売中止になっている。理由については「世界観の不一致」であるという。 === Sister Princess === {{美少女ゲーム系 | タイトル = Sister Princess | 対応機種 = PlayStation [PS]<br />ドリームキャスト [DC] | 発売元 = メディアワークス | 開発 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = | シナリオ = | 音楽 = | オープニング = | エンディング = | ジャンル = 恋愛アドベンチャー | 発売日 = [PS] 2001年3月8日<br />[DC] 2002年3月28日 | 価格 = | レイティング = 全年齢 | コンテンツアイコン = | キャラクター名設定 = 設定可能 | エンディング数 = 48 | セーブファイル数 = 12 | セーブファイル容量 = | メディア = | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | ゲームエンジン = | 画面サイズ = | BGMフォーマット = | キャラクターボイス = 主人公以外全員 | CGモード = あり | 音楽モード = あり | 回想モード = なし | メッセージスキップ = あり | オートモード = なし | 備考 = DC版は『PREMIUM EDITION』(PS『Sister Princess〜ピュア・ストーリーズ〜』との合本) }} 2001年3月8日にメディアワークスより発売。開発は[[オーバーフロー (ブランド)|STACK]]が担当。対応機種は[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]で、ジャンルは[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]]。2002年3月28日には『'''Sister Princess PREMIUM EDITION'''』のタイトルで[[ドリームキャスト]]版が発売されている。 シリーズで初めて、「兄1人(プレイヤー)に対して妹12人」という設定が持ち込まれ、プレイヤーは[[バレンタインデー]]直前の2月11日から1か月の間に12人の妹たちとメール交換をしながら街中で会ったり、「お兄ちゃんの日」に自宅へ妹を呼んだりしながらストーリーを進めて行く。 ストーリーは、9人の妹たちが[[帰国子女]]である春歌・四葉・亞里亞の3人の歓迎会を開く場面から始まる。それぞれの妹が実妹(血縁)か義妹(非血縁)かはプレイヤーの選択肢によって変化するという思い切ったシステムが採用されており、12人それぞれに、血縁・非血縁×ベスト・グッドの4種エンディングが用意されているため、総エンディング数は48(誰ともエンディングを迎えないバッドエンディングを含めて49)と非常に多い。 また、[[PocketStation]](DC版はビジュアルメモリ)対応で[[ミニゲーム]](内容は「後ろの正面だあれ?」)がプレイ可能。 === Sister Princess 〜ピュア・ストーリーズ〜 === {{美少女ゲーム系 | タイトル = Sister Princess 〜ピュア・ストーリーズ〜 | 対応機種 = PlayStation [PS] | 発売元 = メディアワークス | 開発 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = | シナリオ = | 音楽 = | オープニング = | エンディング = | ジャンル = 恋愛アドベンチャー | 発売日 = 2001年12月13日 | 価格 = | レイティング = 全年齢 | コンテンツアイコン = | キャラクター名設定 = | エンディング数 = | セーブファイル数 = | セーブファイル容量 = | メディア = | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | ゲームエンジン = | 画面サイズ = | BGMフォーマット = | キャラクターボイス = | CGモード = | 音楽モード = | 回想モード = | メッセージスキップ = | オートモード = | 備考 = }} 2001年12月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStationで、ドリームキャスト版は前作の『PREMIUM EDITION』に合本として収録されている。 前作を補完するファンディスク的な要素が強いために、正規の続編ではなく番外編的な扱いになっている。 ; クリスマス・ストーリー : 兄と12人の妹たちが一堂に集い、彼らがクリスマスパーティーを開くまでを描いたアドベンチャーゲーム。 ; バレンタイン・ストーリー : 前作のダイジェストを「妹視点」で描くアドベンチャーゲーム。 ; ミニプリコーナー : 各種のミニゲーム([[神経衰弱 (トランプゲーム)|神経衰弱]]・[[15パズル]]など)や、本誌連載のCGギャラリーが収録されている。 === Sister Princess 2 === {{美少女ゲーム系 | タイトル = Sister Princess 2 | 対応機種 = PlayStation [PS] | 発売元 = メディアワークス | 開発 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = | シナリオ = | 音楽 = | オープニング = | エンディング = | ジャンル = 恋愛アドベンチャー | 発売日 = 2003年3月20日 | 価格 = | レイティング = 全年齢 | コンテンツアイコン = | キャラクター名設定 = 設定可能 | エンディング数 = 49 | セーブファイル数 = 12 | セーブファイル容量 = | メディア = | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | ゲームエンジン = | 画面サイズ = | BGMフォーマット = | キャラクターボイス = 主人公以外全員 | CGモード = あり | 音楽モード = あり | 回想モード = なし(ファンディスクに収録) | メッセージスキップ = あり | オートモード = あり | 備考 = }} 2003年3月20日にメディアワークスより発売。前作と同様に、開発はSTACKが担当。対応機種はPlayStation。ゲームシステムは基本的に前作と同じだが、バックログ機能の追加など多少の改善がなされている。 ストーリーは、前作から1年半弱が経過した7月25日からの夏休みの1か月間を描く。前作では描かれなかった、妹の誕生日(本作は8月15日の雛子)のイベントが存在する。また、前作と比較し、複数人の妹が同一イベント上で登場するシチュエーションが少なくなっている。 === Sister Princess 2 PREMIUM FAN DISC === {{美少女ゲーム系 | タイトル = Sister Princess 2 PREMIUM FAN DISC | 対応機種 = PlayStation [PS] | 発売元 = メディアワークス | 開発 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = | シナリオ = | 音楽 = | オープニング = | エンディング = | ジャンル = 恋愛アドベンチャー | 発売日 = 2003年11月13日 | 価格 = | レイティング = 全年齢 | コンテンツアイコン = | キャラクター名設定 = | エンディング数 = | セーブファイル数 = | セーブファイル容量 = | メディア = | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | ゲームエンジン = | 画面サイズ = | BGMフォーマット = | キャラクターボイス = | CGモード = | 音楽モード = | 回想モード = | メッセージスキップ = | オートモード = | 備考 = }} 本誌連載終了後の2003年11月13日にメディアワークスより発売。対応機種はPlayStation。『ピュア・ストーリーズ』と同じく、ゲーム本編を補完する番外編的な意味合いが強い作品である。 初回限定特典は『プレミアムムービーDVD』で、前作『Sister Princess 2』のオープニングムービーやアニメ『RePure』内で放送された同作品のCM、電撃G'sマガジン本誌での広告、その他の各種プロモーション映像などが収録されている。 ; スプリング・ストーリー : 兄と12人の妹たちの春休みを描いたアドベンチャーゲーム。内容は『ピュア・ストーリーズ』に収録のクリスマス・ストーリーよりも長めに設定されており、より楽しめるものになっている。 ; サマー・ストーリー : 前作のシナリオを「妹視点」の回想で描くアドベンチャーゲーム。 ; ギャラリーモード・BGMモード : 本編のイベント回想モードが収録されている。 === シスター・プリンセス RePure (GBA) === {{main|シスター・プリンセス RePure#ゲーム}} === 関連書籍(ゲーム) === 全てメディアワークスから発売。なお、ゲーム内に登場するエピソードの一部は、公野櫻子がゲームのシナリオ用に書き下ろしたプロットを用いて『GAME STORIES』のタイトルで書籍化されている(同シリーズのイラストは、天広直人でなく[[後藤潤二]]が担当)。[[PS one]] Books版『Sister Princess』の説明書に第3巻、第4巻が2003年春発売予定との記述があったが、発売されることはなかった。 ; 電撃G's PREMIUM Sister Princess ビジュアル & 完全攻略ブック : 2001年3月8日発売、{{ISBN2|4-8402-1794-7}} ; 電撃G's PREMIUM Sister Princess 2 ビジュアル & 完全攻略ブック : 2003年3月20日発売、{{ISBN2|4-8402-2352-1}} ; 電撃G'sマガジン キャラクターコレクション シスター・プリンセス GAME STORIES :# 2002年11月30日発売、{{ISBN2|4-8402-2233-9}} :# 2002年12月24日発売、{{ISBN2|4-8402-2245-2}} == テレビアニメ == [[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]を中心に、『'''シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス'''』と『[[シスター・プリンセス RePure]]』の2作品が放送された。 === シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス === 一部テレビ東京系列局と一部系列外局にて放送された作品で、キー局の[[テレビ東京]]では2001年4月4日から同年9月26日まで放送。全26話。初回放送1週間前の2001年3月28日には、テレビ東京で『シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス 前夜祭』が放送されている。この特番では、製作発表記者会見の様子や担当声優へのインタビューなどが放送された。2017年3月のBD-BOX発売に先駆け、2016年12月20日より[[キッズステーション]]にてHDリマスター版が放送されることが、同年10月18日に発表された。 このアニメは「兄1人に対し妹が12人」という点はゲーム版と同様だが、それ以外は原作ともゲーム版ともほとんど共通点が見られなく、独自のキャラクターも多数登場している。作画については、テレビ放送後に順次発売されたDVD版で修正された箇所が多数ある。 ==== あらすじ ==== 進学塾のナンバー1でありながら高校受験に失敗した海神航は父親に代わって自分の世話をしてくれたじいやとも別れ、途方に暮れていた。ところが、突然現れた黒服の男たちに「星見が丘西学園」への推薦入学が決まったと告げられ、学園のある「プロミストアイランド」と呼ばれる島へ引っ越すことに。 船上でやはり新学期から同じ学園に入学するという山田太郎と眞深の2人と知り合った航は、島の船着き場で桟橋へ飛び移り損ねて溺れてしまうが、見知らぬ少女のおかげで命拾いする。その後、街で3人の少女たちと出会い、さらに助けてくれた少女とも再会し、彼女たちがいるなら島の生活も楽しみだと思うようになる。 だが、新居で航を待ち受けていたのは、街で出会った少女たち――可憐・咲耶・花穂・雛子の4人だった。しかも、この4人全員が航の妹であるという事実を告げられ、航は困惑する。さらに翌日、衛・鞠絵・白雪・鈴凛・千影・春歌・四葉・亞里亞と名乗る妹が続々と登場した上、船に同乗していた眞深まで航の妹であると名乗り、数奇な運命の許に集った14人の共同生活が始まる。 慣れない共同生活にとまどっていた航だが、妹たちの純真な想いや数々の出来事により、次第に兄として成長していく。 やがて妹たちとの生活が丸一年を迎えようとした頃、東京時代の親友・燦緒が来島し、航の志望校不合格は書類ミスによるものであり、希望すれば4月から2年生として編入できることが告げられる。東京と島の間で揺れる航を、燦緒は半ば強引に東京へ連れ戻す。そこで航は、プロミストアイランドでの妹たちとの生活も、父親の考えによるものであることを知る。周囲に振り回されていることを知った航は、燦緒に連れられて志望校へ行こうとするが、追い駆けてきた眞深の説得によって、勉強やエリートとしての人生よりも大切なものが島での生活にあると思い直し、編入しないことを決めた。 島に戻った航を妹たちが出迎える。本当は航の妹ではなく燦緒の妹であり、航を連れ戻す役割を負っていたことが知られた眞深は戻ってこなかったが、新学期を迎えた星見が丘西学園に、眞深と燦緒が編入生としてやってくる。新たな仲間を迎えたプロミストアイランドで、航たちの新たな生活が始まるのだった。 ==== スタッフ ==== * 監督 - [[大畑清隆]](第1話 - 第12話)→伊灘郁志(第13話 - 第26話) * 助監督 - 下田屋つばめ * シリーズ構成 - [[あみやまさはる]] * キャラクターデザイン - [[新田靖成]] * デザイン→デザインワークス - 橋本英樹(第1話 - 第13話)、須藤裕子、[[志田ただし]](第14話 - 第26話) * チーフ演出 - アサミマツオ(第14話 - 第26話) * 美術監督 - 針生勝文 * 色彩設定 - 海鋒重信 * 舞台監督 - [[きむらひでふみ]] * 編集 - 関一彦 * 撮影監督 - 谷内潤 * 音響監督 - [[千葉繁]] * 音楽 - [[服部隆之]] * 音楽製作 - [[スターチャイルド|スターチャイルドレコード]] * プロデューサー - [[高野希義]]、[[森山敦]]、渡辺和哉、川崎とも子 * アニメーションプロデューサー - 八木充夫 * 制作協力 - [[ガンジス (映像企画会社)|ガンジス]] * アニメーション制作 - [[ゼクシズ]] * 製作 - シスプリ製作委員会([[メディアワークス]]、[[キングレコード]]、[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]])、[[読売広告社]] ==== 主題歌 ==== ; オープニングテーマ「[[Love Destiny]]」 : 作詞・作曲 - 伊藤千夏 / 編曲 - 小林信吾 / 歌 - [[堀江由衣]] ; エンディングテーマ「[[Love Destiny|翼]]」 : 作詞 - [[有森聡美]] / 作曲 - 池田浩雄 / 編曲 - [[太田美知彦]] / 歌 - 堀江由衣 ==== タイトルリスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督 |- |1||僕のグラデュエーション||rowspan="2"|[[あみやまさはる]]||[[大畑清隆]]||下田屋つばめ||[[志田ただし]] |- |2||お兄ちゃん、大好き!||[[池端隆史]]||のがみかずお||小林理 |- |3||お兄様といっしょ||[[滝晃一]]||[[松本淳]]||薮下昌二||志田ただし |- |4||くまさんどこ?||あみやまさはる||[[岩崎良明]]||笠麻美||小原充 |- |5||アニキとメール\(^◇^)/||佐藤勝一||大畑清隆<br />下田屋つばめ||蓮尾廣輝||山田一郎 |- |6||お兄ちゃんは王子様{{JIS2004フォント|♥}}||堀井明子||池端隆史||渡辺健一郎||志田ただし |- |7||恋する季節||滝晃一||松本淳||山内東生雄||小林理<br />大河原晴男 |- |8||いつの日かふたりで||あみやまさはる||破荒汰||冬川岬||高瀬言 |- |9||夏がきました||rowspan="2"|佐藤勝一||幹樹昴||水無月弥生||関口雅弘<br />小林理 |- |10||頑張って、あにぃ!||岩崎良明||蓮尾廣輝||長谷川和美 |- |11||アニキとシークレットツアー||rowspan="2"|滝晃一||岩崎良明<br />大畑清隆||[[ふじもとよしたか|藤本義孝]]||飯飼一幸 |- |12||バカンスはラブよ||松本淳||山内東生雄||rowspan="2"|志田ただし |- |13||お兄ちゃんとの夏||佐藤勝一||下田屋つばめ<br />水無月弥生||アサミマツオ |- |14||本当のキモチ{{JIS2004フォント|♥}}||あみやまさはる||夷一<br />嵯峨敏||横山広実||服部憲知 |- |15||亞里亞のおリボン||佐藤勝一||岩崎良明||蓮尾廣輝||長谷川和美 |- |16||花穂、がんばっちゃう!||滝晃一||幹樹昴||江島奏男||大河原晴男 |- |17||おキューですわ……ポッ{{JIS2004フォント|♥}}||彩乃小路||colspan="2" style="text-align:center"|嵯峨敏||志田ただし |- |18||……永久の……契りを……||滝晃一||幹樹昴<br />水無月弥生||藤本義孝||飯飼一幸 |- |19||愛のお弁当ですのっ||佐藤勝一||高橋丈夫||横山広実||服部憲知 |- |20||Christmas Love Destiny||彩乃小路||破荒汰<br />岩崎良明||アサミマツオ||飯飼一幸 |- |21||アニキにme two\(^o^)/〜{{JIS2004フォント|♥}}||あみやまさはる||幹樹昴<br />松本淳||水無月弥生||志田ただし |- |22||兄チャマ、チェキデス{{JIS2004フォント|♥}}||滝晃一||夷一<br />幹樹昴||藤本義孝||飯飼一幸 |- |23||はじめてのお客様||あみやまさはる||池端隆史<br />幹樹昴||[[木村寛]]||[[長森佳容]] |- |24||さよならの予感||佐藤勝一||破荒汰<br />島津奔||アサミマツオ||浦野達也<br />佐野英敏 |- |25||あいたい…お兄ちゃん||滝晃一||岩崎良明||藤本義孝||志田ただし |- |26||約束の島||あみやまさはる||島津奔<br />水無月弥生<br />下田屋つばめ||水無月弥生<br />下田屋つばめ||[[新田靖成]] |} ==== 放送局 ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]]||rowspan="2"|[[2001年]][[4月4日]] - [[9月26日]]||rowspan="2"|水曜 24:45 - 25:15|| rowspan="3" |[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]] |- |[[大阪府]]||[[テレビ大阪]] |- |[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]||2001年[[4月5日]] - [[9月27日]]||木曜 25:15 - 25:45 |- |[[奈良県]]||[[奈良テレビ放送|奈良テレビ]]||2001年[[4月14日]] - [[10月6日]]||土曜 25:15 - 25:15||[[全国独立放送協議会|独立UHF局]] |- |[[愛媛県]]||[[南海放送]]||2001年[[4月16日]] - [[10月8日]]||月曜 25:50 - 26:20||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]] |- |[[和歌山県]]||[[テレビ和歌山]]||2001年[[4月17日]] - [[10月9日]]||火曜 25:10 - 25:40||独立UHF局 |} ==== 作品収録メディア ==== 日本国内ではキングレコードから以下の収録メディアが発売されている。 ; シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス -the Eve- : 2001年8月発売、DVD全1巻 : 2001年2月11日開催のライブイベント「バレンタインパーティー」および、同年3月28日放送の『シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス 前夜祭』を収録。 ; シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス : 2001年11月 - 2002年7月発売、[[DVD]]全9巻・[[VHS]]全9巻 ; シスター・プリンセス & シスター・プリンセス リピュア : 2005年11月 - 2006年5月発売、[[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]全7巻 : アニメ第1作目と第2作目の合本。 ; シスター・プリンセス & シスター・プリンセス RePure FOREVER PRINCESS BOX : 2008年2月14日発売 : アニメ第1作目と第2作目を収録したDVD BOX。全13枚組。 ; シスター・プリンセス 15th Anniversary Blu-ray BOX : 2017年3月1日発売 : アニメ第1作目と第2作目の合本のBD BOX。タイトル通り、アニメシリーズ15周年記念として発売された。全映像がHDリマスター化されている。 また、日本国外では[[ADVフィルム]]から同作品の[[北アメリカ|北米]]版『Sister Princess』収録メディアが発売されている。 ; Sister Princess : 2004年10月 - 2005年8月発売、DVD全7巻(6巻・7巻のみ3話収録、他は4話ずつ収録) : 各巻には以下の副題が付けられている。 # Sister Princess -Oh, Brother!- # Sister Princess -Sibling Revelry- # Sister Princess -Sisters and Sunshine- # Sister Princess -Brotherly Love- # Sister Princess -Gifts from the Heart- # Sister Princess -One Big Happy Family- # Sister Princess -Brother, Where Art Thou?- そして、e-kids社からは同作品の[[香港]]・[[中華民国|台湾]]版『妹妹公主』収録メディアが発売されている。 ; 妹妹公主 : 2002年発売、DVD全9巻・[[ビデオCD|VCD]]全13巻 なお、北米版および香港・台湾版収録メディアにおける12人の妹たち(+1人)の兄に対しての呼び方は以下のようになっている。 {| class="wikitable" |- ! !!日本版!!北米版!!香港・台湾版 |- !可憐 |お兄ちゃん||{{Lang|en|big brother}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !花穂 |お兄ちゃま||{{Lang|en|brother}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !衛 |あにぃ||{{Lang|en|big bro}}||{{Lang|zh|老哥}} |- !咲耶 |お兄様||{{Lang|en|dear brother}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !雛子 |おにいたま||{{Lang|en|bro-bro}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !鞠絵 |兄上様||{{Lang|en|brother mine}}||{{Lang|zh|哥哥殿下}} |- !白雪 |にいさま||{{Lang|en|elder brother}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !鈴凛 |アニキ||{{Lang|en|bro}}||{{Lang|zh|老哥}} |- !千影 |兄くん||{{Lang|en|brother darling}}||{{Lang|zh|大哥}} |- !春歌 |兄君さま||{{Lang|en|beloved brother}}||{{Lang|zh|哥哥大人}} |- !四葉 |兄チャマ||{{Lang|en|brother dearest}}||{{Lang|zh|哥哥}} |- !亞里亞 |兄や||{{Lang|fr|mon frère}}<ref>[[フランス語]]。</ref>||{{Lang|zh|哥哥}} |- !眞深 |あんちゃん||{{Lang|en|bud}}||{{Lang|zh|哥哥}} |} {{前後番組 | 放送局 = [[テレビ東京]] | 放送枠 = [[テレビ東京の深夜アニメ枠|水曜24:45枠]] | 番組名 = シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス<br />(2001年4月4日 - 2001年9月26日) | 前番組 = [[真ゲッターロボ 世界最後の日]](OVA)<br />(2001年1月17日 - 2001年3月21日) | 次番組 = [[機動警察パトレイバー|機動警察パトレイバー レイバーセレクション]]<br />(2001年10月3日 - 2002年3月27日) }} === 第2期 === {{main|シスター・プリンセス RePure}} === 関連書籍(アニメ) === メディアワークスから発売。 ; Dセレクション アニメ シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス 完全ビジュアルブック : 2002年2月発売、ISBN 4-8402-2042-5 == ラジオ番組 == ; [[シスター・プリンセス〜お兄ちゃんといっしょ]] : キーステーション - [[文化放送]]、2001年10月 - 2002年10月 ; [[電撃G's Radio]]内の一部コーナー : キーステーション - 文化放送、2002年10月 - 2004年6月 == CD == === 原作関連 === * [[シスター・プリンセス 〜12人の天使たち〜]](2001年2月7日発売、[[キングレコード]]) * VOICE CD Sister Princess〜お兄ちゃん大好き♥〜 シリーズ(キングレコード) ** 後述の「Sweet Good Night」と同一内容。ジャケットはシンボルマーク以外、既存のフォントでタイトルを打ったシンプルなもの。 * Sister Princess〜お兄ちゃん大好き{{JIS2004フォント|♥}}〜 ラジオドラマ収録CD(電撃G'sマガジン誌上にて通販を実施、全6巻) ** 「Sweet Good Night」「My Little Wish」「Dream of you」各2巻ずつ。ジャケットは前述のキャラクターコレクション表紙絵柄と同一で、ブックレットの表紙と裏表紙に使用。 === ゲーム関連 === * [[MELODY/shining★star]]({{vau|SISTER PRINCESS}}、2001年1月24日発売、[[ランティス]]) * DREAMIN'/LOVE BLOOM([[伊藤真澄]]、2001年2月発売、ランティス) ** Pure Melody ** DREAMIN'(伊藤真澄) ** 告白 ** LOVE BLOOM(伊藤真澄) ** sentimental ** Melody(unplugged)(伊藤真澄) ** Good Night * Sister Princess OriginalSoundtrack PLUS(2001年3月21日発売、ランティス) * 瞳の中に(2001年12月29日発売、ランティス) ** 瞳の中に(伊藤真澄) ** MELODY(伊藤真澄) * [[LOVE FLOWERS]]({{vau|SISTER PRINCESS}}、2003年3月26日発売、ランティス) * Sister Princess 2 ヴォーカル&オリジナルサウンドトラック Angelhood(2003年5月21日発売、ランティス) * [[そらいろFairy]]({{vau|SISTER PRINCESS}}、2003年12月26日発売、ランティス) === アニメ関連 === * [[Prologue of Sister Princess 〜Dear My Brother〜]](2001年4月4日発売、スターチャイルド) * [[Love Destiny]](堀江由衣、2001年5月16日発売、スターチャイルド) * [[笑顔がNo.1!やっぱりネ]](2001年7月4日発売、スターチャイルド) * [[Angel Jukebox|Sister Princess Original Sound Track Angel Jukebox]](2001年8月29日発売、スターチャイルド) * [[Sister Princess Kaleidoscope]](2001年9月29日発売、スターチャイルド) * [[シスター・プリンセス&シスター・プリンセス Re Pure X'mas Song Collection]](2003年12月21日) * Sister Princess Official Fan Club Message CD ** オフィシャルファンクラブのバリュー会員にのみ配布された。アニメ本編の台詞を一部抜粋し、新録音した内容となっている。一部、収録順序に誤りがあり、後日修正版が配布された。 === Prits === {{main|Prits}} * [[Sakura Revolution]](2002年1月1日発売、スターチャイルド) * [[告白“決めてよ!”]](2002年2月1日発売、スターチャイルド) * [[Private Emotion]](2002年3月1日発売、スターチャイルド) * [[cherry blossom (Pritsのアルバム)|cherry blossom]](2002年12月25日発売、スターチャイルド) === VTuber関連 === * SONG LETTER 〜大好きなお兄ちゃんへ♡〜(Vチューバー【可憐】、2020年2月12日発売、キングレコード) == その他のメディア展開 == === 漫画 === ; シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス 〜12の約束〜 : 作画 - [[壱河きづく]]、『[[月刊コミック電撃大王]]』2001年6+7月号から2002年10月号まで連載。未単行本化作品。 : 内容はアニメ『シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス』に準拠。16号中9号に掲載、7号は休載(内、休載告知掲載が3号)。最終号(2002年10月号)では休載と共に、加筆による単行本出版を告知。 === PC用ソフト === ; シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス デスクトップアクセサリー : 2001年11月発売、マーベラスエンターテイメント ; シスター{{JIS2004フォント|♥}}プリンセス デスクトップアクセサリー 2 マテリアルコレクション : 2002年7月発売、M3エンターテイメント === キャラクターグッズ === ポスター、トレーディングカード、ぬいぐるみ、ガレージキットなど、メディアワークス公認・非公認のものを含め多数のグッズが発売ないしは頒布されている。 === コラボレーション === * [[住めば都のコスモス荘]] - 2003年に放送されたテレビアニメ版第8話にて、劇中ゲーム『Thirteen Sisters』のキャラクターとして、12人の妹たちに加え、本作テレビアニメ版第1期に登場した眞深が登場した。可憐役の桑谷夏子と雛子役の千葉千恵巳が全員の声を担当した。 * [[マリッジロワイヤル]] - 2010年に発売されたゲーム版にて、劇中ゲームのキャラクターとして、可憐が登場した(文章上のみで、絵はなし)。同作に登場するキャラクター・美宇は、桑谷夏子が演じており、可憐の声も桑谷が担当した。 * [[俺が好きなのは妹だけど妹じゃない]] - 2018年のテレビアニメ版第1話にて、主人公が見た夢のキャラクターとして、12人の妹たちに加え、本作テレビアニメ版第1期に登場した眞深が登場した。全員、オリジナルキャストが声を担当した。 === VTuberプロジェクト === 正式なプロジェクト名は「'''シスター・プリンセス20周年VTuberプロジェクト'''」。2019年、1999年の企画開始から20周年を迎えたことを記念して始まった、妹たちを[[バーチャルYouTuber]]として活動させるプロジェクト。単独での生配信の他、ファンクラブでの静止画・音声・動画コンテンツの配信、グッズ販売、ライブを含めたアーティスト活動、他のVTuberや企業とのコラボレーションが行なわれた。2021年10月1日の生配信番組をもって活動休止となった。 ==== 沿革 ==== 2019年9月23日(可憐の誕生日)から、毎週月曜、[[バーチャルYouTuber]]となった可憐が『VTuber可憐の「シスタープリンセス~お兄ちゃん♡大好き~」』<ref>{{Cite web|和書|title=「シスター・プリンセス」20周年チャンネル - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCjn4Tr-nppf18fIFNyv0Qzg|website=www.youtube.com|accessdate=2021-03-01}}</ref>という番組を生配信。 2019年12月にVTuber咲耶デビューが発表され、2020年1月より活動開始<ref>[https://animeanime.jp/article/2019/12/03/50121.html 「シスター・プリンセス」妹のひとり“咲耶”がVTuberデビュー決定! 3Dビジュアルお披露目]アニメ!アニメ! 2019年12月3日</ref>。2020年4月には花穂が3人目のVTuberとしてデビューすることが発表され、同年5月より活動開始。 2020年9月にVTuber衛とVTuber亞里亞のデビューと、5人でのバーチャルライブを目標にクラウドファンディング<ref>{{Cite web|和書|title=【シスター・プリンセス】バーチャルライブで、お兄ちゃんたちに元気をとどけたい!|url=https://camp-fire.jp/projects/view/293424|website=camp-fire.jp|accessdate=2021-03-01|language=ja}}</ref>が開始され、プロジェクト目標を大きく超え達成された。翌2021年2月14日にライブが開催され、同日にVTuber衛とVTuber亞里亞がデビューとなった。 2021年5月29日にクラウドファンディング特典であるVTuber可憐の水着ライブをSHOWSTAGEにて開催<ref>[https://dengekionline.com/articles/79929/ 『シスプリ』VTuber可憐の水着姿が解禁!]</ref>。8月15日にプロジェクトの活動休止が発表され<ref>[https://dengekionline.com/articles/91775/ 『シスプリ』Vtuberプロジェクト活動休止。9/23にラストライブを開催!]</ref>、9月23日に5人のVTuberによるオンラインライブを開催<ref>[https://dengekionline.com/articles/92583/ 『シスプリ』VTuber企画休止前最後のライブチケットが販売開始!]</ref>、10月1日の生配信をもって活動休止となった。12月25日、アニメ主題歌やVTuberプロジェクトで楽曲制作に協力した[[can/goo]]のライブイベント「Merry X’mas & Happy 20 year」にVTuber可憐がゲスト出演した<ref>[https://twitter.com/cangoo_info/status/1461590262119997442]</ref>。 2022年2月16日、クラウドファンディングのストレッチゴールの目標達成により制作決定したフルアルバム「シスター・プリンセス VTuber project ~song♥collection~」を発売<ref>[https://dengekionline.com/articles/117547/ “シスター・プリンセス VTuber project ~song♥collection~”の全曲試聴動画が公開!]</ref>。11月から12月にかけて開催されたcan/gooのライブイベント「デビュー20周年記念!メモリアルアルバム発売ライブツアー」にVTuber可憐が再びゲスト出演した<ref>[https://twitter.com/cangoo_info/status/1577127051198595072]</ref>。 ==== VTuber妹一覧 ==== 丸括弧内の日付はデビュー日。 * VTuber可憐 (2019年9月23日<ref>[https://www.moguravr.com/sister-princess-vtuber/ 20周年の「シスター・プリンセス」より、可憐がVTuberデビュー!]MoguLive 2019年9月9日</ref>) * VTuber咲耶 (2020年1月20日<ref>[https://www.moguravr.com/sister-princess-vtuber-7/ 【シスター・プリンセス】咲耶のVTuberデビューが1月20日に決定]MoguLive 2020年1月14日</ref>) * VTuber花穂 (2020年5月25日<ref name="example">{{Cite web|和書|title=【シスター・プリンセス】VTuber花穂の3Dビジュアル公開、デビュー日も決定 {{!}} Mogura VR|url=https://www.moguravr.com/sister-princess-vtuber-11/|website=MoguraVR|date=2020-05-19|accessdate=2020-08-31}}</ref>) * VTuber衛 (2021年2月14日<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「シスタープリンセス」20周年特設サイト|url=http://sister-princess20th.com/|website=「シスタープリンセス」20周年特設サイト|accessdate=2021-03-01|language=ja}}</ref>) * VTuber亞里亞(2021年2月14日<ref name=":0" />) ==== 企業案件 ==== * スマホもしも保険([[ヤマトロジスティクス]])<ref>{{Citation|title=「企業案件です♡お兄ちゃん」編|url=https://www.youtube.com/watch?v=yMfzVnIcpxQ|accessdate=2021-03-01|language=ja-JP}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="メンバー"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{wayback|url=http://archive.asciimw.jp/mediamix/sispri/|title=AMW|シスター・プリンセス|date=20121004084613}} * [http://king-cr.jp/special/sister_princess/ KING AMUSEMENT CREATIVE:スペシャル:シスター・プリンセス&シスタープリンセスRePure] * [http://king-cr.jp/special/sispri_bdbox/ 「シスター・プリンセス」15th Anniversary Blu-ray BOX] * [http://sister-princess20th.com/ 「シスタープリンセス」20周年特設サイト] ** {{pixivFANBOX|43994881|シスプリ 20周年 VTuberプロジェクト ファンクラブ}} ** {{Twitter|sis_pri20th|【公式】シスター・プリンセス20周年}} ** {{YouTube|channel=UCjn4Tr-nppf18fIFNyv0Qzg|「シスター・プリンセス」20周年チャンネル}} ** {{SHOWROOM|sisterprincess20th |VTuber可憐のシスタープリンセス ~お兄ちゃん♡大好き~}} * [https://web.archive.org/web/20030419082922/http://sispulink.g-com.ne.jp/ しすぷりんく] - リンク集 * [https://web.archive.org/web/20020207123705/http://www.tv-tokyo.co.jp/sister_princess/ テレビ東京ホームページ] {{シスター・プリンセス}} {{G's}} {{ゼクシズ}} {{デフォルトソート:しすたあふりんせす}} [[Category:シスター・プリンセス|*]] [[Category:電撃G's magazineの読者参加企画]] [[Category:メディアミックス作品]] [[Category:アニメ作品 し|すたあふりんせす]] [[Category:2001年のテレビアニメ]] [[Category:テレビ東京の深夜アニメ]] [[Category:ゼクシズ]] [[Category:アスキー・メディアワークスのアニメ作品]] [[Category:スターチャイルドのアニメ作品]] [[Category:ブロッコリーのアニメ作品]] [[Category:読売広告社のアニメ作品]] [[Category:読者参加企画を原作とするアニメ作品]] [[Category:兄弟姉妹を題材としたアニメ作品]] [[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]] [[Category:島を舞台としたアニメ作品]] [[Category:アスキー・メディアワークスのゲームソフト]] 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1598年
1598年(1598 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1598年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1598}} {{year-definition|1598}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2258年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]26年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]31年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3931年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]21年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2140年 - 2141年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1006年 - 1007年 * [[ユダヤ暦]] : 5358年 - 5359年 * [[ユリウス暦]] : 1597年12月22日 - 1598年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1598}} == できごと == * [[1月 (旧暦)|1月]] - 豊臣秀吉、[[蒲生騒動]]を理由に[[陸奥国]][[会津若松城]]主の[[蒲生秀行]]を[[下野国]][[宇都宮城]]主として[[減封]]の上[[移封]]する。会津には[[越後国]]から[[上杉景勝]]が加増の上で移封、越後国には[[堀秀治]]が[[越前国]]から加増の上で移封となる。 * [[8月5日 (旧暦)|8月5日]] - 豊臣秀吉が[[五大老]]に宛てて[[遺言]]状を作成する。 * [[9月18日]](慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[豊臣秀吉]]が死去し、3男で[[嫡子]]の[[豊臣秀頼|秀頼]]が跡を継ぐ。 * [[ナントの勅令]]が[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]により発布される。 == 誕生 == {{see also|Category:1598年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[11月7日]] - [[フランシスコ・デ・スルバラン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francisco-de-Zurbaran Francisco de Zurbarán Spanish painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1664年]]) * [[12月7日]] - [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/ベルニーニ-130706 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-03-26 }}</ref>、[[彫刻家]]・画家・[[建築家]](+ [[1680年]]) * [[陳洪綬]] - 画家(+ [[1652年]]) == 死去 == {{see also|Category:1598年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月19日]](慶長3年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]])[[六角義賢]]、戦国時代の[[武将]](* [[1521年]]) * [[8月4日]] - 初代バーリー男爵[[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]、[[イングランド王国|イングランド]]の[[政治家]](* [[1520年]]) * [[9月13日]] - [[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]、[[スペイン王]](* [[1527年]]) * [[9月18日]](慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[豊臣秀吉]]、[[関白]](* [[1537年]]) * [[12月16日]] - [[李舜臣]]、[[文禄・慶長の役]]時の[[李氏朝鮮]]の[[将軍]](* [[1545年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1598}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1598ねん}} [[Category:1598年|*]]
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一休宗純
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤と伝えられている。母親の出自は不詳だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存する。 幼名は千菊丸と伝承され、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。 6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となった。 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったという。 応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。 応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、権威を否定する一休は辞退した。その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出したと伝わる。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。 文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。 文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持を任せられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。 文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終の際の言葉は「死にとうない」であったと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。 以下のような逸話が伝わっている。 こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも窺える。 このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。 一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。 著書(偽書を含む)に、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『一休骸骨』などがある。 東山文化を代表する人物でもある。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。 アントニオ猪木らによって「一休の言葉」として流布されていた「この道を行けばどうなるものか...」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られる。同じく、一休の遺言書として「大丈夫、心配するな、何とかなる」というものがあったという話も広く知られているが、原典は不明であり、一休に関する事象と断言できない。ある伝記作家が創作したという説もある。
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一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。
{{redirect|一休}} {{出典の明記|date=2019年5月18日 (土) 09:37 (UTC)}} {{Infobox Buddhist |名前=一休宗純 |生没年=[[明徳]]5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]] - [[文明 (日本)|文明]]13年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]<br/>([[1394年]][[2月1日]] - [[1481年]][[12月12日]])<ref>{{Kotobank|一休}}</ref> |幼名=千菊丸 |名=周建 |法名=一休 |号={{読み仮名|狂雲子|きょううんし}}、{{読み仮名|瞎驢|かつろ}}、{{読み仮名|夢閨|むけい}}、{{読み仮名|国景|こっけい}} |法号= |院号= |諱=宗純(宗順) |諡号= |尊称= |生地=[[京都]] |没地=[[酬恩庵]]([[京都府]][[京田辺市]]) |画像=[[ファイル:Portrait_of_Ikkyū_by_Bokusai.jpg]] |説明文=紙本淡彩一休和尚像([[重要文化財|重文]]) |宗旨=[[臨済宗]] |宗派=[[臨済宗大徳寺派|大徳寺派]] |寺院= |師=[[華叟宗曇]] |弟子= |著作=『[[狂雲集]]』『[[一休骸骨]]』ほか |廟=酬恩庵 }} '''一休宗純'''(いっきゅうそうじゅん)は、[[室町時代]]の[[臨済宗]][[臨済宗大徳寺派|大徳寺派]]の[[僧]]、[[詩人]]。[[説話]]のモデルとしても知られる。 == 生涯 == 出生地は[[京都]]で、出自は[[後小松天皇]]の[[落胤]]と伝えられている<ref>有力視されている一休皇胤説については、[[東坊城和長]]の『[[和長卿記]]』[[明応]]3年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1494年]][[8月31日]])の条に「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」とある</ref>。母親の出自は不詳だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の[[官女]]で、その父親は[[楠木正成]]の孫と称する[[楠木正澄]]と伝えられ、三ツ島(現・[[大阪府]][[門真市]])に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる[[墓]]が現存する<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kadoma.osaka.jp/shisei/shokai/5375.html |title= 名所、史跡、文化財 |work= 門真市 - 門真市紹介 |publisher= 門真市 |date=|accessdate=2020-03-02}}</ref>。 [[幼名]]は千菊丸と伝承され<ref>後世史料による。</ref>、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号した。[[戒名]]は宗純で、'''宗順'''とも書く。一休は[[道号]]。 6歳で京都の[[北禅寺|安国寺]]{{efn2|かつて京都四条街大宮西に位置した[[禅寺]]で、現在は廃寺。[[足利直義]]や一休の高祖父である[[光厳上皇]]によって、[[元弘の変]]以降の戦没者の霊を弔うために建てられた。[[京都十刹]]の一つ。}}の[[像外集鑑]](ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、'''周建'''と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年([[1406年]])13歳の時に作った[[漢詩]]『長門春草』、応永15年([[1408年]])15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となった。 応永17年([[1410年]])、17歳で[[謙翁宗為]](けんおうそうい)の弟子となり戒名を'''宗純'''と改める。ところが、謙翁は応永21年([[1414年]])に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており<ref>『図解仏教』成美堂出版122頁</ref>、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったという<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 6 |publisher=講談社 }}</ref>。 応永22年([[1415年]])には、京都の[[大徳寺]]の高僧、[[華叟宗曇]]の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より'''一休'''の道号を授かる。「[[有漏]]路(うろじ)」とは迷い([[煩悩]])の世界、「[[無漏]]路(むろじ)」とは悟り([[仏]])の世界を指す。 応永27年([[1420年]])、ある夜に[[カラス]]の鳴き声を聞いて俄かに[[悟り|大悟]]する。華叟は[[印可]]状を与えようとするが、権威を否定する一休は辞退した。その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出したと伝わる。以後は詩、狂歌、書画と[[風狂]]の生活を送った。 [[文明 (日本)|文明]]2([[1470年]])、[[摂津国]][[住吉大社]][[神宮寺]]の[[新羅寺]]本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。 文明6年([[1474年]])、[[後土御門天皇]]の勅命により大徳寺の住持{{efn2|大徳寺第48世。[[虚堂智愚]]から7世、大徳寺開山・[[宗峰妙超]]からは5世<ref>[[小松茂美]]編『特別展 日本の書』、[[東京国立博物館]]、初版1978年、図版257の解説。</ref>。}}を任せられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、[[塔頭]]の[[真珠庵]]は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった[[妙勝寺]]を中興し草庵・[[酬恩庵]]を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。 文明13年([[1481年]])、酬恩庵([[京都府]][[京田辺市]]の薪地区)において[[マラリア]]により死去。満87歳没(享年88)。臨終の際の言葉は「死にとうない」であったと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれるが、[[宮内庁]]が管理している[[陵墓]]である{{efn2|宮内庁では落胤説にもとづいて「後小松天皇皇子'''宗純王'''墓」としている。}}ため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。 == 逸話・作品 == [[File:Portrait of Ikkyu 1447.jpg|thumb|伝・墨渓筆『一休宗純像』([[奈良国立博物館]]所蔵)。1447年(文安4年)、一休が54歳の頃の作で、曲彔に座す一休は傍らに「朱鞘の大太刀」を立てる<ref>[https://www.narahaku.go.jp/collection/505-0.html 一休宗純像] - 奈良国立博物館、2020年4月8日閲覧。</ref>。上部は一休の自賛。]] 以下のような逸話が伝わっている。 * 印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。 * [[男色]]はもとより、[[仏教]]の菩薩戒で禁じられていた[[飲酒]]・[[肉食]]や[[女犯]]を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や[[岐翁紹禎]]という実子の弟子がいた。 * 木製の刀身の朱鞘の[[大太刀]]を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。 * 親交のあった[[本願寺]][[門主]][[蓮如]]の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の[[阿弥陀如来]]像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。 * 正月に[[杖]]の頭に[[ドクロ]]をしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。 こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・[[普化]]など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における[[風狂]]の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『[[七仏通誡偈]]』が残されていることからも窺える。 このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。[[江戸時代]]には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される[[頓智話|頓知咄]](とんちばなし)を生み出す元となった。 一休は[[能筆]]で知られる。また、一休が[[村田珠光]]の師であるという伝承もあり、茶人の間で[[禅林墨跡|墨蹟]]が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。 著書([[偽書]]を含む)に、『[[狂雲集]]』『続狂雲集』『自戒集』『[[一休骸骨]]』などがある。 [[東山文化]]を代表する人物でもある。また、[[足利義政]]とその妻[[日野富子]]の幕政を批判したことも知られる。 == 名言 == {{Wikiquote|一休}} * 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000013178 |title=一休さん(一休宗純)の歌「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」はこれで正しいか。この... |website=レファレンス協同データベース |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2019-05-18}}</ref>{{efn2|『一休蜷川狂歌問答』に「門松はめいどのたびの一里づか馬かごもなくとまり屋もなし」という類似の歌がある。}} * 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな * 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ) * 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む * 世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり * 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ * えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり([[本願寺]]で行われた開祖[[親鸞]]の二百回遠忌に、他宗の僧侶としてはただ一人参拝し、山門の扉に貼り付けて帰った紙に書かれていた) * 分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月こそ見れ [[アントニオ猪木]]らによって「一休の言葉」として流布されていた「この道を行けばどうなるものか…」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく文言に多少の相違はあるものの、もとは[[清沢哲夫]]の「道」という詩であったと見られる<ref>『無常断章』に収録:一部、抜け・間違いあり。</ref>。同じく、一休の遺言書として「大丈夫、心配するな、何とかなる」というものがあったという話も広く知られているが、原典は不明であり、一休に関する事象と断言できない。ある伝記作家が創作したという説もある。 == 評伝・現代語訳 == * 『一休:乱世に生きた禅者』([[市川白弦]]著 東京:[[日本放送出版協会]]、1970年12月(NHKブックス 132)) * 『一休:風狂の精神』([[西田正好]]著 東京:[[講談社現代新書]]、1977年5月 * 『一休:「狂雲集」の世界』([[柳田聖山]]著 京都:[[人文書院]]、1980年8月) * 『一休』([[水上勉]]著 東京:[[中央公論社]]([[中公文庫]])、改版1997年5月) * 『一休:その破戒と風狂』([[栗田勇]]著 東京:[[祥伝社]]、2005年11月) ISBN 4396612567 * 『一休:「狂雲集」訳注』(柳田聖山ほか訳著 東京:[[講談社]]〈禅入門〉7、新版、1994年5月) ** 初版は〈日本の禅語録〉12、1978年、柳田訳で[[中公クラシックス]]でも2001年に刊行。 * 『一休和尚全集』(東京:[[春秋社]]全5巻、1997年 - 2003年) * 『一休和尚大全』([[石井恭二]]/訓読・現代文訳・解読 東京:[[河出書房新社]]上下巻、2008年) * 『書と禅』([[大森曹玄]]著 春秋社 新装版第二版 1975年 p.127 自由人・一休宗純) == 登場作品 == ; 説話 : 『一休咄』で知られている。 : {{main|[[一休さん]]}} ; 伝記 : 幼少期は[[頓知]]小僧で、青年期に厳しい修行を積んで名僧となったという逸話が多い。なお幼少期の一休の名前や寺の名前、生まれについては明示するものとしないものがある。 ; テレビアニメ :*『[[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]]』 :*『[[オトナの一休さん]]』 :*『[[R.O.D -READ OR DIE-]]』 : ; テレビドラマ :*『一休さん』(1985年の単発テレビドラマ。[[富田靖子]]主演。[[月曜ドラマランド]]のうちの一本として放送) :*『一休さん』(1986年の単発テレビドラマ。[[浅香唯]]主演。月曜ドラマランドのうちの一本として放送) :*『[[一休さん・喝!]]』(1986年の連続テレビドラマ) :*『[[花の乱]]』(1994年の[[大河ドラマ]]、演:[[奥田瑛二]]) :*『[[えなりかずきの一休さん]]』(2004年の単発テレビドラマ) :*『[[一休さん (2012年のテレビドラマ)|一休さん]]』(2012年の単発テレビドラマ。[[鈴木福]]主演。翌2013年に続編『一休さん2』が製作された) : ; 漫画 :*『[[あっかんべェ一休]]』([[坂口尚]]) :*『一休伝』(原案:[[水上勉]]、脚色:[[佐々木守]]、作画:[[小島剛夕]]) :*『[[探偵ボーズ21休さん]]』(原作:新徳丸、作画:[[三浦とりの]]) : ; 小説 :*『一休暗夜行』『一休闇物語』『一休虚月行』『一休破軍行』『一休魔仏行』『ぬばたま一休』([[朝松健]]) :*『一休さんの門』『一休さんの道』([[川口松太郎]])([[講談社文庫]]ほか) : ; バラエティー :*『[[日本史サスペンス劇場]]』(2008年、一休宗純:[[加藤茶]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/nihonshi/contents/20080521.html#002 |title=日本史サスペンス劇場 |publisher=日本テレビ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150219085657/http://www.ntv.co.jp:80/nihonshi/contents/20080521.html |archivedate=2015-02-19 |accessdate=2019-05-18}}</ref> : ; 舞台 :* 『TABOO』([[野田秀樹]]・作) : ; 音楽 :*「一休さん」(作詞:[[若杉雄三郎]]、作曲:[[中山晋平]]) :*「とんちの一休さん」(作詞:[[市原三郎]]、作曲:[[山口保治]]) :*「一休禅師〜いま宿花知徳の道へ〜」(作曲:[[櫛田胅之扶]]) :*「一休さん」(作詞・作曲:オオルタイチ、歌:[[水曜日のカンパネラ]]。2017年発売のアルバム『SUPERMAN』に収録) : ; 玩具 :*超合金GA-68『名作シリーズ 一休さん』(ポピー) :** アニメ版ではなく歴史上の人物で、現在唯一超合金として発売。定価1300円(当時) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Ikkyu}} * [[思想家一覧]] * [[日本の書家一覧]] * [[大徳寺納豆]] * [[智蘊]](蜷川新右衛門親当) * [[地獄太夫]] * [[禅林墨跡]] * [[山崎二休]] * [[一尾三休]] == 外部リンク == * [http://www.ikkyuji.org/index.html 酬恩庵一休寺] * [https://www.bs-tbs.co.jp/retsuden/bknm/38.html 風狂の破戒僧 一休宗純] {{禅}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いつきゆう そうしゆん}} [[Category:一休宗純|*]] [[Category:14世紀日本の僧]] [[Category:15世紀日本の僧]] [[Category:14世紀日本の詩人]] [[Category:15世紀日本の詩人]] [[Category:14世紀の能書家]] [[Category:15世紀の能書家]] [[Category:日本の能書家]] [[Category:日本の漢詩人]] [[Category:日本の禅僧 (臨済宗)]] [[Category:室町・安土桃山時代の僧]] [[Category:講談の人物]] [[Category:後小松天皇|伝]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:LGBTの聖職者]] [[Category:マラリアで死亡した日本の人物]] [[Category:山城国の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1394年生]] [[Category:1481年没]]
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