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アプロディーテー
アプロディーテー(古典ギリシア語:ΑΦΡΟΔΙΤΗ, Ἀφροδίτη, Aphrodītē)またはアプロディタ(アイオリス方言:ΑΦΡΟΔΙΤΑ, Ἀφροδιτα, Aphrodita)は、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。美において誇り高く、パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれている。また、戦の女神としての側面も持つ。日本語では、アプロディテ、アフロディテ、アフロディーテ、アフロダイティ(英: Aphrodite)などとも表記される。 元来は、古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられる。アプロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあった。 ホメーロスの『イーリアス』では「黄金のアプロディーテー」や「笑いを喜ぶアプロディーテー」など特有の形容語句を持っている。プラトンの『饗宴』では純粋な愛情を象徴する天上の「アプロディーテー・ウーラニアー(英語版)」と凡俗な肉欲を象徴する大衆の「アプロディーテー・パンデーモス(英語版)」という二種類の神性が存在すると考えられている。 ヘーシオドスの『神統記』によれば、クロノスによって切り落とされたウーラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス、aphros)から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた西風が彼女を運び、キュテラ島に運んだ後、キュプロス島に行き着いたという。彼女が島に上陸すると愛と美が生まれ、それを見つけた季節の女神ホーラーたちが彼女を飾って服を着せ、オリュンポス山に連れて行った。オリュンポスの神々は出自の分からない彼女に対し、美しさを称賛して仲間に加え、ゼウスが養女にした。これは、Ἀφροδίτη が「泡の女神」とも解釈可能なことより生じた通俗語源説ともされるが、アプロディーテーが男性器から生まれるという猥雑な誕生の仕方をしているのはヘーシオドスが極度の女嫌いであったためといわれる。ホメーロスはゼウスとディオーネーの娘だと述べている。 美と優雅を司る三美神カリスたちは彼女の侍女として従っている。また、アプロディーテーのつけた魔法の宝帯には「愛」と「憧れ」、「欲望」とが秘められており、自らの魅力を増し、神や人の心を征服することが出来る。 気が強く、ヘーラーやアテーナーと器量比べをしてトロイア戦争の発端となったり、アドーニスの養育権をペルセポネーと奪い合ったりすることもある。 キュプロスとアプロディーテーのあいだには本質的な連関があり、女神が最初にキュプロスに上陸したというのは、アプロディーテーの起源とも密接に関係する。 結婚相手・愛人を含め関係があったものは多々いるが主なものは、ヘーパイストス、アレース、アドーニスである。 聖獣はイルカで、聖鳥は白鳥、鳩、雀、燕。聖樹は薔薇、芥子、花梨、銀梅花。真珠、帆立貝、林檎もその象徴とされる。また、牡山羊や鵞鳥に乗った姿でも描かれる。 アドーニス(Adonis)は、アッシリア王テイアースの娘スミュルナの生んだ子であるとされる。スミュルナは、アプロディーテーへの祭祀を怠ったため父親に対して愛情を抱く呪をかけられ、策を弄してその想いを遂げた。しかし、これが露見したため父に追われ、殺される所を神に祈って没薬の木(スミュルナ)に変じた。その幹の中で育ち、生まれ落ちたのがアドーニスといわれる。また、アドーニスの出生についてはまったく別の説話も多い。例えば、アポロドーロスの述べるところでは、エーオースの子孫で、キュプロスにパポス市を建設したキニュラースの息子がアドーニスである。 アプロディーテーはこのアドーニスの美しさに惹かれ、彼を自らの庇護下においた。だがアドーニスは狩猟の最中に野猪の牙にかかって死んだ。女神は嘆き悲しみ、自らの血をアドーニスの倒れた大地に注いだ(アドーニス本人の血とする説も)。その地から芽生えたのがアネモネといわれる。アプロディーテーはアドーニスの死後、彼を祀ることを誓ったが、このアドーニス祭は、アテーナイ、キュプロス、そして特にシリアで執り行われた。この説話は、地母神と死んで蘇る穀物霊としての少年というオリエント起源の宗教の特色を色濃く残したものである。 ゼウスはたびたびアプロディーテーによって人間の女を愛したので、この女神にも人間へ愛情を抱くよう画策し、アンキーセースをその相手に選んだ。女神はアンキーセースを見るとたちまち恋に落ち、彼と臥所を共にした。こうして生まれたのがアイネイアースであり、彼はトロイア戦争の後ローマに逃れ、その子イーロス(ラテン語名:ユールス)が、ユリウス家の祖とされたため、非常によく崇拝された。 古くは東方の豊穣・多産の女神アスタルテー、イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神で、『神統記』に記されているとおり、キュプロスを聖地とする。オリエント的な地母神且つ金星神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、庭園や公園に祀られる点にその名残を留めている。そして愛の女神としての性格を強め、自ら恋愛をする傍ら神々や人々の情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出している。同じく愛の神エロースと共にいる事もしばしばである。また、これとは別に航海の安全を司る神として崇拝されたが、これはフェニキアとの関連を示唆するものと考えられる。 スパルタやコリントスでは、アテーナーのように、甲冑を着けた軍神として祀られていた。特にコリントスはギリシア本土の信仰中心地とされ、コリントスのアクロポリス(アクロコリントス)のアプロディーテー神殿には、女神の庇護下の神殿娼婦が存在した。この所作もまた東洋起原のものとされる。 古くから崇拝されていた神ではないために伝えられる説話は様々である。ヘーパイストスの妻とされるが、アレースと情を交わしてエロースなどを生んだという伝承もある。アプロディーテーとエロースを結び付ける試みは、紀元前5世紀の古典期以降に盛んとなった。 本来、豊穣多産の植物神としてイシュタルやアスタルテー同様に金星の女神であったが、このことはホメーロスやヘーシオドスでは明言されていない。しかし古典期以降、再び金星と結び付けられ、ギリシアでは金星を「アプロディーテーの星」と呼ぶようになった。現代のヨーロッパ諸言語で、ラテン語の「ウェヌス」に相当する語で金星を呼ぶのはこれに由来する。 グレゴリオ聖歌でも歌われる中世の聖歌『アヴェ・マリス・ステラ』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味であるが、この星は金星であるとする説がある。聖母マリアがオリエントの豊穣の女神、すなわちイシュタルやアスタルテーの系譜にあり、ギリシアのアプロディーテーや、ローマ神話のウェヌスの後継であることを示しているとされる。 ローマ神話ではウェヌス(Venus)をアプロディーテーに対応させる。この名の英語形は「ヴィーナス」で、金星を意味すると共に「愛と美の女神」である。 別名として、レスボス島の詩人サッポーはアプロディタ(Ἀφροδιτα, Aphrodita)と呼んでいる。また、キュプリス(「キュプロスの女神」の意)という別名もある。キュプロス島には古くからギリシア人植民地があったが、キュプロスを経由して女神の信仰がオリエントより招来されたためとも考えられる。アプロディーテーとキュプロスには本質的な関係があった。 その海からの生誕と関係して「キュテレイア(キュテーラの女神)」と呼ばれるほか、キュプロスの都市パポスにちなみ「パピアー(パポスの女神)」とも称される。ヘーラーは、毎年1回沐浴して、元の純潔な処女に戻ったが、アプロディーテーもパポスで同じ沐浴を行っている。
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アプロディーテーまたはアプロディタは、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。美において誇り高く、パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれている。また、戦の女神としての側面も持つ。日本語では、アプロディテ、アフロディテ、アフロディーテ、アフロダイティなどとも表記される。 元来は、古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられる。アプロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあった。 ホメーロスの『イーリアス』では「黄金のアプロディーテー」や「笑いを喜ぶアプロディーテー」など特有の形容語句を持っている。プラトンの『饗宴』では純粋な愛情を象徴する天上の「アプロディーテー・ウーラニアー(英語版)」と凡俗な肉欲を象徴する大衆の「アプロディーテー・パンデーモス(英語版)」という二種類の神性が存在すると考えられている。
{{Redirect|アフロディーテ}} {{redirect|アフロディテ|ギュスターヴ・モローの絵画|アフロディテ (ギュスターヴ・モロー)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = アプロディーテー<br/>{{lang|grc|Ἀφροδίτη}} | image = NAMA Aphrodite Syracuse.jpg | image_size = 200px | caption = {{small|紀元前4世紀のギリシアの原物を紀元2世紀にローマが複製したアプロディーテー像。<br/>[[アテネ国立考古学博物館]]所蔵。}} | deity_of = {{small|愛と美と性の女神, 生殖と豊穣の女神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[パフォス|パポス]], [[キプロス島|キュプロス島]], [[キティラ島|キュテラ島]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = | symbol = [[イルカ]], [[鳩]], [[ハクチョウ|白鳥]], [[バラ|薔薇]], [[リンゴ|林檎]], [[真珠]] | consort = [[ヘーパイストス]], [[アレース]], [[アドーニス]] | parents = [[ホメーロス]]『[[イーリアス]]』:[[ゼウス]], [[ディオーネー]]<br/>[[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』:[[ウーラノス]]の男性器から生まれた。 | siblings = [[アテーナー]], [[アポローン]], [[アルテミス]], アレース, ヘーパイストス, ヘルメース, ディオニューソス, [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]], [[メリアス]], [[エリーニュス]] | children = アレースとの間:[[エロース]], [[ポボス]], [[デイモス]], [[ハルモニアー]], [[アンテロース]]<br/>ヘルメースとの間:[[ヘルマプロディートス]]<br/>ポセイドーンとの間:[[エリュクス]]、ロードス<br/>ディオニューソスとの間:[[プリアーポス]]、[[ペイトー]]、[[カリス]]たち<br/>アンキーセースとの間:[[アイネイアース]] | mount = | Roman_equivalent = [[ウェヌス]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''アプロディーテー'''(<small>[[古代ギリシア語|古典ギリシア語]]</small>:{{lang|grc|'''ΑΦΡΟΔΙΤΗ''', Ἀφροδίτη}}, {{ラテン翻字|el|Aphrodītē}})または'''アプロディタ'''(<small>[[アイオリス]]方言</small>:{{lang|grc|'''ΑΦΡΟΔΙΤΑ''', Ἀφροδιτα}}, {{ラテン翻字|el|Aphrodita}})は、[[愛]]と[[美]]と[[性 (生物学)|性]]を司る[[ギリシア神話]]の[[女神]]で、[[オリュンポス十二神]]の一柱である<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』。</ref>。美において誇り高く、[[パリス]]による[[パリスの審判|三美神の審判]]で、最高の美神として選ばれている<ref name="G" />。また、戦の女神としての側面も持つ。日本語では、'''アプロディテ'''<ref name="G" />、'''アフロディテ'''、'''アフロディーテ'''、'''アフロダイティ'''({{lang-en-short|[[w:Aphrodite|Aphrodite]]}})などとも表記される。 元来は、[[古代オリエント]]や[[アナトリア半島|小アジア]]の豊穣の植物神・植物を司る精霊・[[地母神]]であったと考えられる<ref name="F">フェリックス・ギラン『ギリシア神話』。</ref>。アプロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあった。 [[ホメロス|ホメーロス]]の『[[イーリアス]]』では「黄金のアプロディーテー」や「笑いを喜ぶアプロディーテー」など特有の[[形容語句]]を持っている。[[プラトン]]の『[[饗宴]]』では純粋な愛情を象徴する天上の「[[:en:Aphrodite Urania|アプロディーテー・ウーラニアー]](英語版)」と凡俗な肉欲を象徴する大衆の「[[:en:Aphrodite Pandemos|アプロディーテー・パンデーモス]](英語版)」という二種類の神性が存在すると考えられている<ref>[[戸塚七郎]]/訳『饗宴』、グーテンベルク21 2012年。</ref>。 == 概説 == [[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によれば、[[クロノス]]によって切り落とされた[[ウーラノス]]の男性器にまとわりついた泡(アプロス、{{lang|grc-latn|aphros}})から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた[[アネモイ#西風ゼピュロス|西風]]が彼女を運び、[[キティラ島|キュテラ島]]に運んだ後、[[キプロス島|キュプロス島]]に行き着いたという<ref name="F" />。彼女が島に上陸すると愛と美が生まれ、それを見つけた季節の女神[[ホーラー]]たちが彼女を飾って服を着せ、[[オリュンポス山]]に連れて行った<ref name="F" />。オリュンポスの神々は出自の分からない彼女に対し、美しさを称賛して仲間に加え、[[ゼウス]]が養女にした。これは、{{lang|grc|Ἀφροδίτη}} が「泡の女神」とも解釈可能なことより生じた通俗語源説ともされるが<ref name="G" />、アプロディーテーが男性器から生まれるという猥雑な誕生の仕方をしているのはヘーシオドスが極度の女嫌いであったためといわれる<ref>芝崎みゆき『古代ギリシアがんちく図鑑』、[[バジリコ (出版社)|バジリコ]]。</ref>。ホメーロスはゼウスと[[ディオーネー]]の娘だと述べている<ref name="G" />。 美と優雅を司る三美神[[カリス]]たちは彼女の侍女として従っている。また、アプロディーテーのつけた魔法の宝帯には「愛」と「憧れ」、「欲望」とが秘められており<ref>[[松村一男]]『歴史がおもしろいシリーズ! 図解 ギリシア神話』103頁。</ref>、自らの魅力を増し、神や人の心を征服することが出来る。 気が強く、[[ヘーラー]]や[[アテーナー]]と器量比べをして[[トロイア戦争]]の発端となったり、[[アドーニス]]の養育権を[[ペルセポネー]]と奪い合ったりすることもある。 キュプロスとアプロディーテーのあいだには本質的な連関があり、女神が最初にキュプロスに上陸したというのは、アプロディーテーの起源とも密接に関係する<ref name="G" />。 結婚相手・愛人を含め関係があったものは多々いるが主なものは、[[ヘーパイストス]]、[[アレース]]、アドーニスである<ref name="G" />。 聖獣は[[イルカ]]で、聖鳥は[[ハクチョウ|白鳥]]、[[鳩]]、[[スズメ|雀]]、[[ツバメ|燕]]。聖樹は[[バラ|薔薇]]、[[ケシ|芥子]]、[[カリン (バラ科)|花梨]]、[[ギンバイカ|銀梅花]]。[[真珠]]、[[ホタテガイ|帆立貝]]、[[リンゴ|林檎]]もその象徴とされる。また、[[ヤギ|牡山羊]]や[[ガチョウ|鵞鳥]]に乗った姿でも描かれる。 == 物語 == === アドーニス === [[アドーニス]]({{lang|en|Adonis}})は、[[アッシリア]]王テイアースの娘<ref group="注">[[オウィディウス]]によると、[[ピュグマリオーン]]の孫キニュラースの娘。</ref>スミュルナの生んだ子であるとされる<ref name="G" />。スミュルナは、アプロディーテーへの祭祀を怠ったため父親に対して愛情を抱く呪をかけられ、策を弄してその想いを遂げた<ref name="G" />。しかし、これが露見したため父に追われ、殺される所を神に祈って[[没薬]]の木(スミュルナ)に変じた<ref name="G" />。その幹の中で育ち、生まれ落ちたのがアドーニスといわれる<ref name="G" />。また、アドーニスの出生についてはまったく別の説話も多い。例えば、[[アポロドーロス]]の述べるところでは、[[エーオース]]の子孫で、キュプロスにパポス市を建設したキニュラースの息子がアドーニスである。 アプロディーテーはこのアドーニスの美しさに惹かれ、彼を自らの庇護下においた<ref name="G" />。だがアドーニスは狩猟の最中に野猪の牙にかかって死んだ。女神は嘆き悲しみ、自らの血をアドーニスの倒れた大地に注いだ(アドーニス本人の血とする説も)。その地から芽生えたのが[[アネモネ]]といわれる<ref name="G" />。アプロディーテーはアドーニスの死後、彼を祀ることを誓ったが、この[[アドーニス祭]]は、[[アテナイ|アテーナイ]]、キュプロス、そして特に[[シリア]]で執り行われた。この説話は、地母神と[[死と再生の神|死んで蘇る穀物霊]]としての少年というオリエント起源の宗教の特色を色濃く残したものである<ref name="G" />。 === アイネイアース === ゼウスはたびたびアプロディーテーによって人間の女を愛したので、この女神にも人間へ愛情を抱くよう画策し、[[アンキーセース]]をその相手に選んだ<ref name="G" />。女神はアンキーセースを見るとたちまち恋に落ち、彼と臥所を共にした<ref name="G" />。こうして生まれたのが[[アイネイアース]]であり、彼はトロイア戦争の後[[古代ローマ|ローマ]]に逃れ、その子イーロス([[ラテン語]]名:ユールス)が、[[ユリウス氏族|ユリウス家]]の祖とされたため、非常によく崇拝された<ref name="G" />。 == 信仰 == === 東方起源の性格 === 古くは東方の豊穣・多産の女神[[アスタルト|アスタルテー]]、[[イシュタル]]などと起源を同じくする外来の女神で、『[[神統記]]』に記されているとおり、キュプロスを聖地とする<ref name="F" />。オリエント的な地母神且つ[[金星]]神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、庭園や公園に祀られる点にその名残を留めている。そして愛の女神としての性格を強め、自ら恋愛をする傍ら神々や人々の情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出している。同じく愛の神[[エロース]]と共にいる事もしばしばである。また、これとは別に航海の安全を司る神として崇拝されたが、これは[[フェニキア]]との関連を示唆するものと考えられる。 [[スパルタ]]や[[コリントス]]では、アテーナーのように、甲冑を着けた軍神として祀られていた<ref name="F" />。特にコリントスはギリシア本土の信仰中心地とされ、コリントスのアクロポリス([[アクロコリントス]])のアプロディーテー神殿<!-- 説の出所が不明なのでコメントアウト <ref>政府公認の売春宿を作ってその利益が神殿建設資金になったという説がある。</ref> -->には、女神の庇護下の[[神聖娼婦|神殿娼婦]]<ref group="注">ヒエロドゥーライ({{lang|grc-latn|hierodoulai}}、「神聖奴隷」「神婢」)。ただし、[[娼婦]]と[[男娼]]の場合があるため、男娼のみの場合、または両性をまとめて呼ぶ場合は、ヒエロドゥーロイ({{lang|grc-latn|hierodouloi}})と称する。</ref>が存在した。この所作もまた東洋起原のものとされる。 古くから崇拝されていた神ではないために伝えられる説話は様々である。[[ヘーパイストス]]の妻とされるが、[[アレース]]と情を交わして[[エロース]]などを生んだという伝承もある<ref name="G" />。アプロディーテーとエロースを結び付ける試みは、[[紀元前5世紀]]の古典期以降に盛んとなった。 === 金星の女神 === 本来、豊穣多産の植物神としてイシュタルやアスタルテー同様に[[金星]]の女神であったが、このことはホメーロスやヘーシオドスでは明言されていない。しかし古典期以降、再び金星と結び付けられ、ギリシアでは金星を「アプロディーテーの星」と呼ぶようになった。現代のヨーロッパ諸言語で、ラテン語の「[[ウェヌス]]」に相当する語で金星を呼ぶのはこれに由来する。 [[グレゴリオ聖歌]]でも歌われる中世の聖歌『[[アヴェ・マリス・ステラ]]』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味であるが、この星は金星であるとする説がある。[[聖母マリア]]がオリエントの豊穣の女神、すなわちイシュタルやアスタルテーの系譜にあり、ギリシアのアプロディーテーや、[[ローマ神話]]のウェヌスの後継であることを示しているとされる。 === ローマ神話での対応と別名 === ローマ神話では'''ウェヌス'''({{lang|la|Venus}})をアプロディーテーに対応させる<ref name="G" />。この名の英語形は「ヴィーナス」で、金星を意味すると共に「愛と美の女神」である。 別名として、[[レスボス島]]の詩人[[サッポー]]は'''アプロディタ'''({{lang|grc|Ἀφροδιτα}}, Aphrodita)<ref group="注">アイオリス方言と考えられる。</ref>と呼んでいる。また、'''キュプリス'''(「キュプロスの女神」の意)という別名もある<ref name="G" />。キュプロス島には古くからギリシア人植民地があったが、キュプロスを経由して女神の信仰がオリエントより招来されたためとも考えられる<ref name="G" />。アプロディーテーとキュプロスには本質的な関係があった。 その海からの生誕と関係して「キュテレイア(キュテーラの女神)」と呼ばれるほか、キュプロスの都市[[パフォス|パポス]]にちなみ「パピアー(パポスの女神)」とも称される。ヘーラーは、毎年1回沐浴して、元の純潔な処女に戻ったが、アプロディーテーもパポスで同じ沐浴を行っている<ref>ロバート・グレーヴス『ギリシア神話 上巻』、12章6。</ref>。 == ギャラリー == <center><gallery widths="140" heights="140"> Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpg|{{small|[[サンドロ・ボッティチェッリ]]『[[ヴィーナスの誕生]]』(1484年-1485年頃) [[ウフィツィ美術館]]所蔵}} The Birth of Venus - Eduard Steinbrück.jpg|{{small|{{仮リンク|エドゥアルト・シュタインブリュック|de|Eduard Steinbrück}}『ヴィーナスの誕生』(1846年) 個人蔵}} Gerome venus.jpg|{{small|[[ジャン=レオン・ジェローム]]『[[ヴィーナスの誕生 (ジェロームの絵画)|ヴィーナスの誕生]]』(1890年) 個人蔵}} Die Geburt der Venus - Arnold Böcklin.jpg|{{small|[[アルノルト・ベックリン]]『海から上がるヴィーナス』(1869年) {{仮リンク|ダルムシュタット州立博物館|en|Hessisches Landesmuseum Darmstadt}}所蔵}} Arnold Böcklin - Venus Anadyomene.jpg|{{small|アルノルト・ベックリン『海から上がるヴィーナス』(1872年) [[セントルイス美術館]]所蔵}} The Birth of Venus by Gustave Moreau.jpg|{{small|[[ギュスターヴ・モロー]]『海から上がるヴィーナス』(1866年頃) 個人蔵}} Annibale Carracci - Venus and Adonis - WGA4429.jpg|{{small|[[アンニーバレ・カラッチ]]『ヴィーナスとアドーニス』(1595年頃) [[美術史美術館]]所蔵}} 1525 Lotto Venus und Amor anagoria.JPG|{{small|[[ロレンツォ・ロット]]『[[ヴィーナスとキューピッド (ロット)|ヴィーナスとクピードー]]』(1520年代末) [[メトロポリタン美術館]]所蔵}} Pompeo Batoni - Venus Caressing Cupid.jpg|{{small|[[ポンペオ・バトーニ]]『ヴィーナスとクピードー』(18世紀頃) 個人蔵}} Herbert James Draper, The Pearls of Aphrodite, 1907.jpg|{{small|[[ハーバート・ジェームズ・ドレイパー]]『真珠を戴くアプロディーテー』(1907年) 個人蔵}} Jacques-Louis David - Mars desarme par Venus.JPG|{{small|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]『ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマールス』(1824年) [[ベルギー王立美術館]]所蔵}} Guillemot, Alexandre Charles - Mars and Venus Surprised by Vulcan - Google Art Project.jpg|{{small|アレクサンドレ・シャルル・ギルモ『ウルカヌスに情事を発見されたヴィーナスとマールス』(1827年) [[インディアナポリス美術館]]所蔵}} Venus at the Forge of Vulcan, Le Nain.jpg|{{small|[[ル・ナン兄弟]]『鍛造場にあるヴィーナスとウルカヌス』(1641年) [[ランス美術館]]所蔵}} Venus of Arles Louvre Ma439 n01.jpg|{{small|彫像『{{仮リンク|アルルのヴィーナス|en|Venus of Arles}}』(紀元前1世紀末) [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Venus and Cupid, Louvre, MR 386.jpg|{{small|彫像『ヴィーナスとクピードー』 ルーヴル美術館所蔵}} Venus de Milo Louvre Ma399 n3.jpg|{{small|[[アンティオキアのアレクサンドロス]]『[[ミロのヴィーナス]]』 ルーヴル美術館所蔵}} Venus by Joseph Nollekens.jpg|{{small|{{仮リンク|ジョセフ・ノルキンズ|en|Joseph Nollekens}} ヴィーナス像(1773年) [[ゲッティ・センター]]所蔵}} Aphrodite of Cnidus - Vatican Museums - DSC01264.jpg|{{small|彫像『[[クニドスのアプロディーテー]]』(紀元前4世紀) [[バチカン美術館]]所蔵}} </gallery></center> == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * [[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』、[[岩波書店]]、1960年。ISBN ISBN 4-00-080013-2。 * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』高津春繁(訳)、岩波書店、1978年。ISBN 978-4003211014。 * [[ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]](訳)、岩波文庫、1984年。ISBN 4-00-321071-9。 * [[ホメーロス]]『イリアス(上・下)』[[松平千秋]](訳)岩波文庫、1992年。 * ホメーロス『オデュッセイア(上・下)』松平千秋(訳)、岩波文庫、1994年。 * マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『[[ギリシア・ローマ神話事典]]』木宮直仁(訳)、[[大修館書店]]、1988年。ISBN 978-4469012217。 * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健(訳)、[[青土社]]、1991年。ISBN 978-4791751440。 * [[呉茂一]]『ギリシア神話』[[新潮社]]、1994年。ISBN 978-4103071037。 * M. G. Howatson et al. ''Concise Companion to Classsical Literature'', Oxford Univ. Press == 関連項目 == {{commons|Aphrodite|アプロディーテー}} * [[愛]] - [[美]] - [[性欲]] * [[ウェヌス]] - [[イシュタル]] - [[アスタルテ]] * [[死と再生の神]] - [[地母神]] * [[アドーニス]] * [[不和の林檎]] - [[パリスの審判]] * [[ヘルマプロディートス]] - [[ヘルメース]]との間の子 * [[パフォス|パポス]] - [[キプロス島|キュプロス島]] - [[キティラ島|キュテラ島]] - 共にアプロディーテー崇拝の中心地 * [[ヴィーナスの誕生]] * [[うお座]] * [[媚薬]] {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あふろていいてえ}} [[Category:アプロディーテー|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:愛の神]] [[Category:美の神]] [[Category:豊穣神]] [[Category:軍神]] [[Category:金星神]] [[Category:女神]]
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ポセイドーン
ポセイドーン(古希: ΠΟΣΕΙΔΩΝ, Ποσειδῶν, Poseidōn)は、ギリシア神話の海と地震を司る神である。オリュンポス十二神の一柱で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇る。海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドーンの力によって支えられている。地震をもコントロール出来るとされる。また、地下水の支配者でもあり、泉の守護神ともされる。 イオニア方言系ではポセイダーオーンとも呼ばれる。エノシガイオスという名もある。日本語では長母音を省略してポセイドンとも呼ぶ。 ポセイドーンの地位と実力は、ゼウス・エナリオス(海のゼウス)と呼ばれるほど高く、その支配力は全物質界に及んだ。ティーターノマキアーの際にキュクロープスから贈られた三叉の矛(トリアイナ)を最大の武器とし、これによって大海と大陸を自在に支配する。これを使えば容易く嵐や津波を引き起こし、大陸をも沈ませることができる上に、万物を木端微塵に砕くことができる。世界そのものを揺さぶる強大な地震を引き起こすことも可能で、そのあまりの凄まじさに、地球が裂けて冥界が露わになってしまうのではないかと冥王ハーデースが危惧したほどである。また、山脈を真っ二つに引き裂いて河の通り道を造ったり、山々と大地を深く切り抜いて海中へと投げて島を造ったこともある。 古くはペラスゴイ人に崇拝された大地の神(特に地震を司る)であったと考えられ、異名の1つに「大地を揺らす神」というものがある。また、馬との関わりが深く、競馬の守護神としても崇められた。故にその象徴となる聖獣は馬、牡牛、イルカであり、聖樹は松である。真鍮の蹄と黄金のたてがみを持った馬、またはヒッポカムポスの牽く戦車に乗る。ポセイドーンの宮殿は大洋の中にあり、珊瑚と宝石で飾られているとされる。 また、大地の神であった特質からデーメーテールの夫の位置にいることもあり、ピガリア(英語版)ではデーメーテールとの婚姻も伝えられている。ポセイドーンの名前の意味も、「ポシス=ダー(大地の夫)」からきているとされているが、ジョン・チャドウィックは「ダー dā という語彙はギリシア語には1度しか現れないし『大地』という意味でもない」としてこの説を斥けている。 神話では、クロノスとレアーの子。ハーデースの弟でゼウスの兄。オリュンポス十二神の1柱である。ネーレーイデスの1人であるアムピトリーテーを妻とし、トリートーン、ロデー、ベンテシキューメーが彼女との子である。愛人も数多く存在し、その中でとりわけ有名な人物は後述するメドゥーサである。愛人との間の子にはオーリーオーン、ペーガソスなどがいる。 アムピトリーテーは美しい海の女神であるが、大波を引き起こしたり、巨大な怪魚や海獣を数多く飼っているなど、強力な力を秘めていた。ポセイドーンは彼女に求婚するが、アムピトリーテーは彼を嫌い、その追跡の手から逃れるべくオーケアノスの宮殿に隠れてしまった。ポセイドーンはイルカたちにアムピトリーテーを探させた。すると、一頭のイルカが彼女を発見し、説得してポセイドーンの元へと連れて行った。その結果、ポセイドーンはアムピトリーテーと結婚することができ、この功績を讃えられてイルカは宇宙に上げられ、いるか座になった。 また、ナクソス島で踊っている時にポセイドーンに誘拐されたという説や、馬やイルカを創造して彼女に贈り、それに気を良くしたアムピトリーテーが結婚を承諾したという説もある。 強力な海の女神であるアムピトリーテーを正妻にしたことで、ポセイドーンは大地と共に海をも司るようになったと言われる。この説はポセイドーンは古くは大地を司る神であったことに由来する。 メドゥーサは美しい長髪の女性であり、ポセイドーンが愛するほどの美貌を持っていた。ポセイドーンはメドゥーサと密通を重ねるが、あろうことか処女神アテーナーの神殿で彼女と交わってしまった。アテーナーは怒り狂ったが、高位な大神であるポセイドーンを罰することはできず、代わりにメドゥーサを罰した。アテーナーの怒りによりメドゥーサの自慢の長髪は蛇となり、見る者を石化させてしまう恐ろしい怪物となった。これに抗議したメドゥーサの姉たち、ステンノーとエウリュアレーも同様の姿に変えられた。後にメドゥーサはペルセウスによって首を取られ、その時に飛び散った血と共にポセイドーンとの子であるペーガソスが生まれた。黄金の剣と共にクリューサーオールも生まれ、ペーガソスとは双子にあたる。また、メドゥーサの首はアテーナーの盾に取り付けられ、古代ギリシアでも魔除けとしてメドゥーサの首の絵が描かれるようになった。 ポセイドーンら兄弟は、王位簒奪を恐れたクロノスによって呑み込まれていたが、ゼウスによって救出された。ポセイドーンはオリュンポス側としてティーターノマキアーに参戦し、ゼウスやハーデースと共にティーターン神族と戦った。その際、キュクロープスから海と大地を操ることのできる三叉の矛を贈られ、以後彼の主要な武器となる。三叉の矛によって宇宙を揺さぶり、ゼウスたちとの共闘によってティーターン神族を敗北させた。 ポセイドーンは巨人族との戦争であるギガントマキアーにも参戦し、火山や島々を投げ飛ばしては巨人ギガースを戦闘不能にさせていた。また、コス島の岩山をもぎ取り、ギガースの一人であるポリュボーテースに打ち付け、その岩山は後にニーシューロスという火山島になった。岩山に封印されたポリュボーテースが重みに耐えかねて火炎を吹くのである。 トロイア戦争ではトロイアの王ラーオメドーンが城壁を建造した際の報酬を踏み倒した事を根に持っていたため、彼はアカイア側に属している。アカイア勢を常に鼓舞し、ゼウスから参戦許可が下りた後は積極的に介入し、三叉の矛で全世界を揺さぶって威圧した。この宇宙規模の地震は冥界に座するハーデースが恐れおののくほどであった。 ポセイドーンは、アテーナイの支配権をめぐりアテーナーと争ったといわれる。2人がアテーナイの民に贈り物をして、より良い贈り物をした方がアテーナイの守護神となることが裁定で決まり、ポセイドーンは三叉の矛で地を撃って塩水の泉を湧かせ、アテーナーはオリーブの木を生じさせた。オリーブの木がより良い贈り物とみなされ、アテーナイはアテーナーのものとなったという。この結果に納得がいかなかったポセイドーンはアテーナイに洪水を起こしたが、ゼウスが仲介してアテーナイのアクロポリスにアテーナーの神殿を、エーゲ海に突き出すスーニオン岬にポセイドーンの神殿を築き、2人は和解した。アテーナイのアクロポリスには、この塩水の泉が枯れずに残っていたといわれる。この他にも、ゼウスやヘーラー、ディオニューソス、ヘーリオスとも領有地争いを起こしている。 プラトーンは対話編の中で、この神話について、神々が己にふさわしい地を知らないはずがなく、このような争いがあったとは思われないと批判している。 プラトーンは対話編『クリティアス』の中で、ポセイドーンは伝説の大陸アトランティスを自らの割り当ての地として引き受け、その中心に人間の女たちに生ませた子を住まわせたとしている。アトランティス大陸はリビアとアジアを合わせたよりも巨大であり、幻の金属オリハルコンが産出されるなど地下資源に富んでいた。アトランティスの人々はポセイドーンを崇拝し、ポセイドーン神殿や戦車に跨がるポセイドーン像を金や銀、オリハルコンで建造してはポセイドーンに捧げていた。 しかし、アトランティス原住民と交わり続けたことでアトランティス市民の神性が薄まっていき、堕落の果てに神々を敬わなくなってしまった。これに憤慨したゼウスはオリュンポス山に神々を召集すると、アトランティス大陸を沈めることを知らせた。ゼウスは大雨を降らせてアトランティス大陸を海中に沈ませた。また、ポセイドーンが三叉の矛で大陸を海に引きずり込んだとする説もある。 ポセイドーンの性格は荒ぶる海洋に喩えられ、粗野で狂暴な性格で、しばしば傲慢な人間たちを罰した。また、高潮や嵐といった自然現象の脅威によって罰することもあれば、海に住まう巨大な怪物に都市を襲わせることもあった。当時、神々と人類の関係は今日のような個々の関係ではなく、各共同体との関係であったため、傲慢な人間が住まう共同体ごと罰することが基本であった。 神々の中での地位は極めて高く、全物質界を支配しているだけあってその威厳は並外れているが、神々の王ゼウスには逆らえないようである。イーリアスではゼウスと口論をする場面もあるが、ポセイドーンは怒りながらもゼウスの主張を受け入れている。しかし、かつてはポセイドーンがゼウスに対して反乱を起こしたこともあり、実力はゼウスに比肩することを示している。ポセイドーンの反乱はイーリアス内のみでしか言及されておらず、ホメーロスの創作とも言われている。 一番有名なエピソードはエチオピア王妃のカッシオペイアへの罰である。彼は、自らの美貌は女神にも勝ると豪語したカッシオペイアに対して海の怪物ケートスを送り込んでエチオピアを滅ぼそうとした。ポセイドーンの怒りを鎮めるためにアンドロメダを生け贄として捧げるのだが、通りかかったペルセウスによってアンドロメダは救出され、ケートスも彼の持っていたメドゥーサの首によって石化して退治された。 報酬を支払う約束を反故にしたトロイア王ラーオメドーンにも海の怪物を送り込んでいる。この海の怪物は巨大であり、凄まじい力を持っていたが、通りかかったヘーラクレースによって退治された。ヘーラクレースはわざと呑み込まれてこの怪物の胃袋に入り込み、三日間も腹の中を暴れ回って内臓を破壊し、この怪物を討伐したのであった。 オデュッセウスの放浪の原因を作ったのも彼の怒りであった。ホメーロスの『オデュッセイア』ではキュクロープスのポリュペーモスはポセイドーンの子といわれる。ポリュペーモスは恐ろしい巨人で、オデュッセウス一行が彼の島を訪れた際に、彼らを洞窟へ閉じ込めた。しかしオデュッセウスは得意の策略でポリュベーモスを盲目にし、事なきを得た。このことに怒ったポセイドーンはオデュッセウスの艦隊に嵐を送り込み、オデュッセウスは海上を流されて更に放浪する運命となった。 オデュッセウスの帰郷を手助けしたパイエーケス人にも罰を下している。巨大な船でオデュッセウスを故郷イタケーへと送り返した帰り、ポセイドーンはその船を石に変えてしまった。同時に船から根を生やして海底に突き刺し、沈まないようにし、石化した船をオデュッセウスを助けたことへの戒めとして海上で固定した。これにより、パイエーケス人はもう二度と客人の帰郷を助けることをしなくなった。 ポセイドーンは海洋を支配する神であったので、海上交易が盛んなイオニア系ギリシア人が特に信仰していた。そのため、イオニア人の英雄であるテーセウスはポセイドーンが父親の半神半人であったという伝承も残されている。これは、ドリス系ギリシア人の英雄であるヘーラクレースの父親がゼウスとされることに対抗する意味も含まれていた。 ポセイドーンは、ギリシア彫刻の多くにおいて堂々とした威厳ある壮年の男性の姿で描かれる。アルテミシオン沖で発掘された古代盛期の青銅像が著名である。この像ではポセイドーンは裸体で三叉の矛(紛失してしまっている)を構えた立像となっている。これを雷霆を投げるゼウスの像とする説もあり、ゼウス像として紹介する場合も少なくない。 古代ギリシアでは、2年に1度、古代オリンピックの前後の年に、ポセイドーンを讃えるイストミア大祭という競技会が開かれていた。この大祭は全ギリシア的競技祭であり、古代オリンピック、ピューティア大祭、ネメア大祭と並んでギリシア四大競技会のひとつに数えられた。 元はシーシュポスがメリケルテースの慰霊祭として始めたが、ポセイドーンの息子とも言われるテーセウスが大規模な改革を施した。閉鎖的な夜の儀式に過ぎなかった慰霊祭は、本格的な大競技会へと発展を遂げ、ヘーラクレースが創始したと伝えられる古代オリンピックに匹敵する大祭となった。競技の優勝者には、ポセイドーンの聖木である松の冠が与えられ、像や祝勝歌などが作られた。イストミア大祭はアテーナイ人との繋がりが強く、ペロポネソス戦争中であっても、アテーナイ人はイストミア大祭に出場しに来たという。 ローマ神話におけるネプトゥーヌス(ネプチューン)と同一視された。古代ローマでは、はじめ馬の神として崇拝され、また競馬の神とされた。ローマでは競馬場の近くにネプトゥーヌスの神殿が建てられた(紀元前25年)。祭日ネプトゥーナーリアは7月23日に行われた。ネプチューンは海王星の名前の由来となった。
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"paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、大地の神であった特質からデーメーテールの夫の位置にいることもあり、ピガリア(英語版)ではデーメーテールとの婚姻も伝えられている。ポセイドーンの名前の意味も、「ポシス=ダー(大地の夫)」からきているとされているが、ジョン・チャドウィックは「ダー dā という語彙はギリシア語には1度しか現れないし『大地』という意味でもない」としてこの説を斥けている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "神話では、クロノスとレアーの子。ハーデースの弟でゼウスの兄。オリュンポス十二神の1柱である。ネーレーイデスの1人であるアムピトリーテーを妻とし、トリートーン、ロデー、ベンテシキューメーが彼女との子である。愛人も数多く存在し、その中でとりわけ有名な人物は後述するメドゥーサである。愛人との間の子にはオーリーオーン、ペーガソスなどがいる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アムピトリーテーは美しい海の女神であるが、大波を引き起こしたり、巨大な怪魚や海獣を数多く飼っているなど、強力な力を秘めていた。ポセイドーンは彼女に求婚するが、アムピトリーテーは彼を嫌い、その追跡の手から逃れるべくオーケアノスの宮殿に隠れてしまった。ポセイドーンはイルカたちにアムピトリーテーを探させた。すると、一頭のイルカが彼女を発見し、説得してポセイドーンの元へと連れて行った。その結果、ポセイドーンはアムピトリーテーと結婚することができ、この功績を讃えられてイルカは宇宙に上げられ、いるか座になった。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、ナクソス島で踊っている時にポセイドーンに誘拐されたという説や、馬やイルカを創造して彼女に贈り、それに気を良くしたアムピトリーテーが結婚を承諾したという説もある。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "強力な海の女神であるアムピトリーテーを正妻にしたことで、ポセイドーンは大地と共に海をも司るようになったと言われる。この説はポセイドーンは古くは大地を司る神であったことに由来する。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "メドゥーサは美しい長髪の女性であり、ポセイドーンが愛するほどの美貌を持っていた。ポセイドーンはメドゥーサと密通を重ねるが、あろうことか処女神アテーナーの神殿で彼女と交わってしまった。アテーナーは怒り狂ったが、高位な大神であるポセイドーンを罰することはできず、代わりにメドゥーサを罰した。アテーナーの怒りによりメドゥーサの自慢の長髪は蛇となり、見る者を石化させてしまう恐ろしい怪物となった。これに抗議したメドゥーサの姉たち、ステンノーとエウリュアレーも同様の姿に変えられた。後にメドゥーサはペルセウスによって首を取られ、その時に飛び散った血と共にポセイドーンとの子であるペーガソスが生まれた。黄金の剣と共にクリューサーオールも生まれ、ペーガソスとは双子にあたる。また、メドゥーサの首はアテーナーの盾に取り付けられ、古代ギリシアでも魔除けとしてメドゥーサの首の絵が描かれるようになった。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ポセイドーンら兄弟は、王位簒奪を恐れたクロノスによって呑み込まれていたが、ゼウスによって救出された。ポセイドーンはオリュンポス側としてティーターノマキアーに参戦し、ゼウスやハーデースと共にティーターン神族と戦った。その際、キュクロープスから海と大地を操ることのできる三叉の矛を贈られ、以後彼の主要な武器となる。三叉の矛によって宇宙を揺さぶり、ゼウスたちとの共闘によってティーターン神族を敗北させた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ポセイドーンは巨人族との戦争であるギガントマキアーにも参戦し、火山や島々を投げ飛ばしては巨人ギガースを戦闘不能にさせていた。また、コス島の岩山をもぎ取り、ギガースの一人であるポリュボーテースに打ち付け、その岩山は後にニーシューロスという火山島になった。岩山に封印されたポリュボーテースが重みに耐えかねて火炎を吹くのである。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "トロイア戦争ではトロイアの王ラーオメドーンが城壁を建造した際の報酬を踏み倒した事を根に持っていたため、彼はアカイア側に属している。アカイア勢を常に鼓舞し、ゼウスから参戦許可が下りた後は積極的に介入し、三叉の矛で全世界を揺さぶって威圧した。この宇宙規模の地震は冥界に座するハーデースが恐れおののくほどであった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ポセイドーンは、アテーナイの支配権をめぐりアテーナーと争ったといわれる。2人がアテーナイの民に贈り物をして、より良い贈り物をした方がアテーナイの守護神となることが裁定で決まり、ポセイドーンは三叉の矛で地を撃って塩水の泉を湧かせ、アテーナーはオリーブの木を生じさせた。オリーブの木がより良い贈り物とみなされ、アテーナイはアテーナーのものとなったという。この結果に納得がいかなかったポセイドーンはアテーナイに洪水を起こしたが、ゼウスが仲介してアテーナイのアクロポリスにアテーナーの神殿を、エーゲ海に突き出すスーニオン岬にポセイドーンの神殿を築き、2人は和解した。アテーナイのアクロポリスには、この塩水の泉が枯れずに残っていたといわれる。この他にも、ゼウスやヘーラー、ディオニューソス、ヘーリオスとも領有地争いを起こしている。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "プラトーンは対話編の中で、この神話について、神々が己にふさわしい地を知らないはずがなく、このような争いがあったとは思われないと批判している。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プラトーンは対話編『クリティアス』の中で、ポセイドーンは伝説の大陸アトランティスを自らの割り当ての地として引き受け、その中心に人間の女たちに生ませた子を住まわせたとしている。アトランティス大陸はリビアとアジアを合わせたよりも巨大であり、幻の金属オリハルコンが産出されるなど地下資源に富んでいた。アトランティスの人々はポセイドーンを崇拝し、ポセイドーン神殿や戦車に跨がるポセイドーン像を金や銀、オリハルコンで建造してはポセイドーンに捧げていた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、アトランティス原住民と交わり続けたことでアトランティス市民の神性が薄まっていき、堕落の果てに神々を敬わなくなってしまった。これに憤慨したゼウスはオリュンポス山に神々を召集すると、アトランティス大陸を沈めることを知らせた。ゼウスは大雨を降らせてアトランティス大陸を海中に沈ませた。また、ポセイドーンが三叉の矛で大陸を海に引きずり込んだとする説もある。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ポセイドーンの性格は荒ぶる海洋に喩えられ、粗野で狂暴な性格で、しばしば傲慢な人間たちを罰した。また、高潮や嵐といった自然現象の脅威によって罰することもあれば、海に住まう巨大な怪物に都市を襲わせることもあった。当時、神々と人類の関係は今日のような個々の関係ではなく、各共同体との関係であったため、傲慢な人間が住まう共同体ごと罰することが基本であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "神々の中での地位は極めて高く、全物質界を支配しているだけあってその威厳は並外れているが、神々の王ゼウスには逆らえないようである。イーリアスではゼウスと口論をする場面もあるが、ポセイドーンは怒りながらもゼウスの主張を受け入れている。しかし、かつてはポセイドーンがゼウスに対して反乱を起こしたこともあり、実力はゼウスに比肩することを示している。ポセイドーンの反乱はイーリアス内のみでしか言及されておらず、ホメーロスの創作とも言われている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一番有名なエピソードはエチオピア王妃のカッシオペイアへの罰である。彼は、自らの美貌は女神にも勝ると豪語したカッシオペイアに対して海の怪物ケートスを送り込んでエチオピアを滅ぼそうとした。ポセイドーンの怒りを鎮めるためにアンドロメダを生け贄として捧げるのだが、通りかかったペルセウスによってアンドロメダは救出され、ケートスも彼の持っていたメドゥーサの首によって石化して退治された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "報酬を支払う約束を反故にしたトロイア王ラーオメドーンにも海の怪物を送り込んでいる。この海の怪物は巨大であり、凄まじい力を持っていたが、通りかかったヘーラクレースによって退治された。ヘーラクレースはわざと呑み込まれてこの怪物の胃袋に入り込み、三日間も腹の中を暴れ回って内臓を破壊し、この怪物を討伐したのであった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "オデュッセウスの放浪の原因を作ったのも彼の怒りであった。ホメーロスの『オデュッセイア』ではキュクロープスのポリュペーモスはポセイドーンの子といわれる。ポリュペーモスは恐ろしい巨人で、オデュッセウス一行が彼の島を訪れた際に、彼らを洞窟へ閉じ込めた。しかしオデュッセウスは得意の策略でポリュベーモスを盲目にし、事なきを得た。このことに怒ったポセイドーンはオデュッセウスの艦隊に嵐を送り込み、オデュッセウスは海上を流されて更に放浪する運命となった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オデュッセウスの帰郷を手助けしたパイエーケス人にも罰を下している。巨大な船でオデュッセウスを故郷イタケーへと送り返した帰り、ポセイドーンはその船を石に変えてしまった。同時に船から根を生やして海底に突き刺し、沈まないようにし、石化した船をオデュッセウスを助けたことへの戒めとして海上で固定した。これにより、パイエーケス人はもう二度と客人の帰郷を助けることをしなくなった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ポセイドーンは海洋を支配する神であったので、海上交易が盛んなイオニア系ギリシア人が特に信仰していた。そのため、イオニア人の英雄であるテーセウスはポセイドーンが父親の半神半人であったという伝承も残されている。これは、ドリス系ギリシア人の英雄であるヘーラクレースの父親がゼウスとされることに対抗する意味も含まれていた。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ポセイドーンは、ギリシア彫刻の多くにおいて堂々とした威厳ある壮年の男性の姿で描かれる。アルテミシオン沖で発掘された古代盛期の青銅像が著名である。この像ではポセイドーンは裸体で三叉の矛(紛失してしまっている)を構えた立像となっている。これを雷霆を投げるゼウスの像とする説もあり、ゼウス像として紹介する場合も少なくない。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古代ギリシアでは、2年に1度、古代オリンピックの前後の年に、ポセイドーンを讃えるイストミア大祭という競技会が開かれていた。この大祭は全ギリシア的競技祭であり、古代オリンピック、ピューティア大祭、ネメア大祭と並んでギリシア四大競技会のひとつに数えられた。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "元はシーシュポスがメリケルテースの慰霊祭として始めたが、ポセイドーンの息子とも言われるテーセウスが大規模な改革を施した。閉鎖的な夜の儀式に過ぎなかった慰霊祭は、本格的な大競技会へと発展を遂げ、ヘーラクレースが創始したと伝えられる古代オリンピックに匹敵する大祭となった。競技の優勝者には、ポセイドーンの聖木である松の冠が与えられ、像や祝勝歌などが作られた。イストミア大祭はアテーナイ人との繋がりが強く、ペロポネソス戦争中であっても、アテーナイ人はイストミア大祭に出場しに来たという。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ローマ神話におけるネプトゥーヌス(ネプチューン)と同一視された。古代ローマでは、はじめ馬の神として崇拝され、また競馬の神とされた。ローマでは競馬場の近くにネプトゥーヌスの神殿が建てられた(紀元前25年)。祭日ネプトゥーナーリアは7月23日に行われた。ネプチューンは海王星の名前の由来となった。", "title": "信仰" } ]
ポセイドーンは、ギリシア神話の海と地震を司る神である。オリュンポス十二神の一柱で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇る。海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドーンの力によって支えられている。地震をもコントロール出来るとされる。また、地下水の支配者でもあり、泉の守護神ともされる。 イオニア方言系ではポセイダーオーンとも呼ばれる。エノシガイオスという名もある。日本語では長母音を省略してポセイドンとも呼ぶ。
{{Redirect|ポセイドン}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ポセイドーン<br/>{{lang|grc|Ποσειδῶν}} | image = Poseidon Statue.JPG | image_size = 250px | caption = {{small|[[ミロス島]]から出土した紀元前2世紀のポセイドーン像<br/>[[アテネ国立考古学博物館]]所蔵}} | deity_of = {{small|[[海神]] [[地震]]の神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[コリントス]], {{仮リンク|カラウレイア|en|Kalaureia}}, [[スニオン岬]], [[タイナロンのポセイドン神殿|タイナロン岬]] | abode = | weapon = [[三叉戟]](トライデント) | symbol = [[三叉戟]], [[イルカ]], [[馬]], [[牡牛]] | consort = [[アムピトリーテー]] | parents = [[クロノス]], [[レアー]] | siblings = [[ヘスティアー]], [[ヘーラー]], [[デーメーテール]], [[ハーデース]], [[ケイローン]] | children = [[トリートーン]], [[ロデー]], [[ベンテシキューメー]] | Roman_equivalent = [[ネプトゥーヌス]] | festivals = [[イストミア競技祭]] }} {{Greek mythology}} '''ポセイドーン'''({{lang-grc-short|'''ΠΟΣΕΙΔΩΝ''', Ποσειδῶν}}, {{ラテン翻字|el|Poseidōn}})は、[[ギリシア神話]]の[[海]]と[[地震]]を司る[[神]]である<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]</ref>。[[オリュンポス十二神]]の一柱で、最高神[[ゼウス]]に次ぐ圧倒的な強さを誇る。海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドーンの力によって支えられている。地震をもコントロール出来るとされる。また、地下水の支配者でもあり、泉の守護神ともされる。 [[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]系では'''ポセイダーオーン'''とも呼ばれる。'''エノシガイオス'''という名もある<ref name="G" />。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''ポセイドン'''とも呼ぶ<ref name="G" />。 == 概説 == ポセイドーンの地位と実力は、ゼウス・エナリオス(海のゼウス)と呼ばれるほど高く、その支配力は全物質界に及んだ<ref name="F">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 [[青土社]]</ref>。[[ティーターノマキアー]]の際に[[キュクロープス]]から贈られた三叉の矛([[トリアイナ]])を最大の武器とし、これによって大海と大陸を自在に支配する。これを使えば容易く嵐や津波を引き起こし、大陸をも沈ませることができる上に、万物を木端微塵に砕くことができる。世界そのものを揺さぶる強大な地震を引き起こすことも可能で、そのあまりの凄まじさに、[[地球]]が裂けて[[霊界|冥界]]が露わになってしまうのではないかと冥王[[ハーデース]]が危惧したほどである。また、山脈を真っ二つに引き裂いて河の通り道を造ったり、山々と大地を深く切り抜いて海中へと投げて島を造ったこともある。 古くはペラスゴイ人に崇拝された大地の神(特に[[地震]]を司る)であったと考えられ、異名の1つに「大地を揺らす神」というものがある<ref name="F" /><ref name="G" />。また、[[ウマ|馬]]との関わりが深く、[[競馬]]の守護神としても崇められた<ref name="F" />。故にその象徴となる聖獣は馬、[[ウシ|牡牛]]、[[イルカ]]であり、聖樹は[[マツ|松]]である。[[黄銅|真鍮]]の蹄と黄金のたてがみを持った馬、または[[ヒッポカムポス]]の牽く戦車に乗る。ポセイドーンの宮殿は大洋の中にあり、[[サンゴ|珊瑚]]と宝石で飾られているとされる。 また、大地の神であった特質から[[デーメーテール]]の夫の位置にいることもあり、{{仮リンク|ピガリア|en|Phigalia}}ではデーメーテールとの婚姻も伝えられている。ポセイドーンの名前の意味も、「ポシス=ダー(大地の夫)」からきているとされているが、[[ジョン・チャドウィック]]は「ダー dā という語彙はギリシア語には1度しか現れないし『大地』という意味でもない」としてこの説を斥けている。 == 系譜 == 神話では、[[クロノス]]と[[レアー]]の子<ref name="G" />。[[ハーデース]]の弟で[[ゼウス]]の兄<ref name="G" />。[[オリュンポス十二神]]の1柱である。[[ネーレーイス|ネーレーイデス]]の1人である[[アムピトリーテー]]を妻とし、[[トリートーン]]、[[ロデー]]、[[ベンテシキューメー]]が彼女との子である<ref name="G" />。愛人も数多く存在し、その中でとりわけ有名な人物は後述する[[メドゥーサ]]である<ref name="G" />。愛人との間の子には[[オーリーオーン]]、[[ペーガソス]]などがいる。 === アムピトリーテー === アムピトリーテーは美しい海の女神であるが、大波を引き起こしたり、巨大な怪魚や海獣を数多く飼っているなど、強力な力を秘めていた。ポセイドーンは彼女に求婚するが、アムピトリーテーは彼を嫌い、その追跡の手から逃れるべく[[オーケアノス]]の宮殿に隠れてしまった<ref group="注">逃げ込んだのは[[アトラース]]の元だとする説もある。</ref>。ポセイドーンは[[イルカ]]たちにアムピトリーテーを探させた。すると、一頭のイルカが彼女を発見し、説得してポセイドーンの元へと連れて行った。その結果、ポセイドーンはアムピトリーテーと結婚することができ、この功績を讃えられてイルカは宇宙に上げられ、[[いるか座]]になった。 また、[[ナクソス島]]で踊っている時にポセイドーンに誘拐されたという説や、馬やイルカを創造して彼女に贈り、それに気を良くしたアムピトリーテーが結婚を承諾したという説もある。 強力な海の女神であるアムピトリーテーを正妻にしたことで、ポセイドーンは大地と共に海をも司るようになったと言われる。この説はポセイドーンは古くは大地を司る神であったことに由来する。 === メドゥーサ === [[メドゥーサ]]は美しい長髪の女性であり、ポセイドーンが愛するほどの美貌を持っていた。ポセイドーンはメドゥーサと密通を重ねるが、あろうことか処女神[[アテーナー]]の神殿で彼女と交わってしまった。アテーナーは怒り狂ったが、高位な大神であるポセイドーンを罰することはできず、代わりにメドゥーサを罰した。アテーナーの怒りによりメドゥーサの自慢の長髪は蛇となり、見る者を石化させてしまう恐ろしい怪物となった。これに抗議したメドゥーサの姉たち、[[ステンノー]]と[[エウリュアレー]]も同様の姿に変えられた。後にメドゥーサは[[ペルセウス]]によって首を取られ、その時に飛び散った血と共にポセイドーンとの子であるペーガソスが生まれた。黄金の剣と共に[[クリューサーオール]]も生まれ、ペーガソスとは双子にあたる。また、メドゥーサの首はアテーナーの盾に取り付けられ、[[古代ギリシア]]でも魔除けとしてメドゥーサの首の絵が描かれるようになった。 == 神話 == === ティーターノマキアー === ポセイドーンら兄弟は、王位簒奪を恐れた[[クロノス]]によって呑み込まれていたが、ゼウスによって救出された。ポセイドーンはオリュンポス側として[[ティーターノマキアー]]に参戦し、ゼウスやハーデースと共に[[ティーターン|ティーターン神族]]と戦った。その際、キュクロープスから海と大地を操ることのできる三叉の矛を贈られ、以後彼の主要な武器となる。[[三叉槍|三叉の矛]]によって宇宙を揺さぶり、ゼウスたちとの共闘によってティーターン神族を敗北させた。 === ギガントマキアー === ポセイドーンは巨人族との戦争である[[ギガントマキアー]]にも参戦し、火山や島々を投げ飛ばしては巨人[[ギガース]]を戦闘不能にさせていた。また、コス島の岩山をもぎ取り、ギガースの一人である[[ポリュボーテース]]に打ち付け、その岩山は後にニーシューロスという火山島になった。岩山に封印されたポリュボーテースが重みに耐えかねて火炎を吹くのである。 === トロイア戦争 === [[トロイア戦争]]では[[イリオス|トロイア]]の王[[ラーオメドーン]]が城壁を建造した際の報酬を踏み倒した事を根に持っていたため、彼は[[アカエア|アカイア]]側に属している<ref name="G" />。アカイア勢を常に鼓舞し、ゼウスから参戦許可が下りた後は積極的に介入し、三叉の矛で全世界を揺さぶって威圧した。この宇宙規模の地震は冥界に座するハーデースが恐れおののくほどであった。 === アテーナーとの争い === ポセイドーンは、[[アテナイ|アテーナイ]]の支配権をめぐり[[アテーナー]]と争ったといわれる<ref name="G" />。2人がアテーナイの民に贈り物をして、より良い贈り物をした方がアテーナイの[[守護神]]となることが裁定で決まり、ポセイドーンは三叉の矛で地を撃って塩水の泉を湧かせ、アテーナーは[[オリーブ]]の木を生じさせた<ref name="G" />。オリーブの木がより良い贈り物とみなされ、アテーナイはアテーナーのものとなったという<ref name="G" />。この結果に納得がいかなかったポセイドーンはアテーナイに洪水を起こしたが、ゼウスが仲介して[[アテナイのアクロポリス|アテーナイのアクロポリス]]にアテーナーの神殿を、[[エーゲ海]]に突き出す[[スニオン岬|スーニオン岬]]にポセイドーンの神殿を築き、2人は和解した。アテーナイのアクロポリスには、この塩水の泉が枯れずに残っていたといわれる。この他にも、ゼウスや[[ヘーラー]]、[[ディオニューソス]]、[[ヘーリオス]]とも領有地争いを起こしている<ref name="F" />。 <gallery widths="254px" heights="200px" perrow="5" caption=""> File:René-Antoine Houasse - The Dispute of Minerva and Neptune, 1689.jpg| アテーナーとポセイドーンの紛争([[ルネ=アントワーヌ・ウアス]]作、1689-1706年頃、[[ヴェルサイユ宮殿]]蔵) File:Poseidon temple.JPG | スニオン岬にあるポセイドーン神殿 </gallery> ==== プラトーンの批判 ==== [[プラトン|プラトーン]]は対話編の中で、この神話について、神々が己にふさわしい地を知らないはずがなく、このような争いがあったとは思われないと批判している。 === アトランティス === プラトーンは対話編『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』の中で、ポセイドーンは伝説の大陸[[アトランティス]]を自らの割り当ての地として引き受け、その中心に人間の女たちに生ませた子を住まわせたとしている。アトランティス大陸は[[リビア]]と[[アジア]]を合わせたよりも巨大であり、幻の金属[[オリハルコン]]が産出されるなど地下資源に富んでいた。アトランティスの人々はポセイドーンを崇拝し、ポセイドーン神殿や戦車に跨がるポセイドーン像を金や銀、オリハルコンで建造してはポセイドーンに捧げていた。 しかし、アトランティス原住民と交わり続けたことでアトランティス市民の神性が薄まっていき、堕落の果てに神々を敬わなくなってしまった。これに憤慨したゼウスは[[オリュンポス山]]に神々を召集すると、アトランティス大陸を沈めることを知らせた。ゼウスは大雨を降らせてアトランティス大陸を海中に沈ませた。また、ポセイドーンが三叉の矛で大陸を海に引きずり込んだとする説もある。 == 人物 == ポセイドーンの性格は荒ぶる海洋に喩えられ、粗野で狂暴な性格で、しばしば傲慢な人間たちを罰した。また、高潮や嵐といった自然現象の脅威によって罰することもあれば、海に住まう巨大な怪物に都市を襲わせることもあった。当時、神々と人類の関係は今日のような個々の関係ではなく、各共同体との関係であったため、傲慢な人間が住まう共同体ごと罰することが基本であった。 神々の中での地位は極めて高く、全物質界を支配しているだけあってその威厳は並外れているが、神々の王ゼウスには逆らえないようである。[[イーリアス]]ではゼウスと口論をする場面もあるが、ポセイドーンは怒りながらもゼウスの主張を受け入れている。しかし、かつてはポセイドーンがゼウスに対して反乱を起こしたこともあり、実力はゼウスに比肩することを示している。ポセイドーンの反乱はイーリアス内のみでしか言及されておらず、[[ホメーロス]]の創作とも言われている。 === ポセイドーンの罰 === ==== カッシオペイアへの罰 ==== 一番有名なエピソードは[[エチオピア]]王妃の[[カッシオペイア]]への罰である。彼は、自らの美貌は女神にも勝ると豪語したカッシオペイアに対して海の怪物[[ケートス]]を送り込んでエチオピアを滅ぼそうとした。ポセイドーンの怒りを鎮めるために[[アンドロメダ]]を生け贄として捧げるのだが、通りかかった[[ペルセウス]]によってアンドロメダは救出され、ケートスも彼の持っていたメドゥーサの首によって石化して退治された。 ==== ラーオメドーンへの罰 ==== 報酬を支払う約束を反故にしたトロイア王[[ラーオメドーン]]にも海の怪物を送り込んでいる。この海の怪物は巨大であり、凄まじい力を持っていたが、通りかかった[[ヘーラクレース]]によって退治された。ヘーラクレースはわざと呑み込まれてこの怪物の胃袋に入り込み、三日間も腹の中を暴れ回って内臓を破壊し、この怪物を討伐したのであった。 ==== オデュッセウスへの罰 ==== [[オデュッセウス]]の放浪の原因を作ったのも彼の怒りであった。ホメーロスの『[[オデュッセイア]]』ではキュクロープスの[[ポリュペーモス]]はポセイドーンの子といわれる<ref name="G" />。ポリュペーモスは恐ろしい巨人で、オデュッセウス一行が彼の島を訪れた際に、彼らを洞窟へ閉じ込めた。しかしオデュッセウスは得意の策略でポリュベーモスを盲目にし、事なきを得た。このことに怒ったポセイドーンはオデュッセウスの艦隊に嵐を送り込み、オデュッセウスは海上を流されて更に放浪する運命となった<ref name="G" />。 ==== パイエーケス人への罰 ==== オデュッセウスの帰郷を手助けしたパイエーケス人にも罰を下している。巨大な船でオデュッセウスを故郷[[イタケー]]へと送り返した帰り、ポセイドーンはその船を石に変えてしまった。同時に船から根を生やして海底に突き刺し、沈まないようにし、石化した船をオデュッセウスを助けたことへの戒めとして海上で固定した。これにより、パイエーケス人はもう二度と客人の帰郷を助けることをしなくなった。 == 信仰 == ポセイドーンは海洋を支配する神であったので、海上交易が盛んな[[イオニア]]系[[ギリシア人]]が特に信仰していた。そのため、イオニア人の英雄である[[テーセウス]]はポセイドーンが父親の[[半神|半神半人]]であったという伝承も残されている。これは、[[ドリス]]系ギリシア人の英雄である[[ヘーラクレース]]の父親がゼウスとされることに対抗する意味も含まれていた。 === 彫刻 === [[File:ポセイドーン像.JPG|thumb|有名なポセイドーンの青銅像([[アテネ国立考古学博物館]]蔵)]] ポセイドーンは、ギリシア彫刻の多くにおいて堂々とした威厳ある壮年の男性の姿で描かれる。[[アルテミス神殿|アルテミシオン]]沖で発掘された古代盛期の[[青銅]]像が著名である。この像ではポセイドーンは裸体で三叉の矛(紛失してしまっている)を構えた立像となっている。これを雷霆を投げるゼウスの像とする説もあり、ゼウス像として紹介する場合も少なくない。 === イストミア大祭 === [[古代ギリシア]]では、2年に1度、[[古代オリンピック]]の前後の年に、ポセイドーンを讃える[[イストミア大祭]]という競技会が開かれていた。この大祭は全ギリシア的競技祭であり、古代オリンピック、[[ピューティア大祭]]、[[ネメア大祭]]と並んでギリシア四大競技会のひとつに数えられた。 元は[[シーシュポス]]がメリケルテースの慰霊祭として始めたが、ポセイドーンの息子とも言われる[[テーセウス]]が大規模な改革を施した。閉鎖的な夜の儀式に過ぎなかった慰霊祭は、本格的な大競技会へと発展を遂げ、[[ヘーラクレース]]が創始したと伝えられる古代オリンピックに匹敵する大祭となった。競技の優勝者には、ポセイドーンの聖木である松の冠が与えられ、像や祝勝歌などが作られた。イストミア大祭は[[アテーナイ]]人との繋がりが強く、[[ペロポネソス戦争]]中であっても、アテーナイ人はイストミア大祭に出場しに来たという。 === ローマ神話 === [[ローマ神話]]における[[ネプトゥーヌス]](ネプチューン)と同一視された<ref name="G" />。[[古代ローマ]]では、はじめ[[ウマ|馬]]の神として崇拝され、また競馬の神とされた。ローマでは競馬場の近くにネプトゥーヌスの神殿が建てられた([[紀元前25年]])。祭日ネプトゥーナーリアは7月23日に行われた。ネプチューンは[[海王星]]の名前の由来となった。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Poseidon}} * [[オーケアノス]] - 大洋を司る神([[ティーターン]])。 * [[キングベルI世]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]][[湘南ベルマーレ]]のチームマスコット。ポセイドーンをモチーフとして制作された。 * [[ネプチューンオオカブト]] - ネプテューヌス(ローマ神話でのポセイドーンの呼び方)に因んで命名された。 * [[サウロポセイドン]] - ポセイドーンが名前の由来。 {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほせいとおん}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:海神]] [[Category:水神]]
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プロメーテウス
プロメーテウス(古代ギリシャ語: Προμηθεύς、Promētheús [ pro.mɛː.theú̯s])は、ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟、デウカリオーンの父。ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。日本語では長音を省略してプロメテウスと表記するのが一般的である。ヘルメースと並んでギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。 ギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、対比的な命名をされている。 他にも、"Promē"(促進する、昇進させる)+"theus / theos"(神)と解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る。 プロメーテウスはティーターン神族の子であるため、兄弟ともに広義のティーターンに含まれる。系譜については諸説ある。ヘーシオドスの『神統記』によるとイーアペトスとクリュメネーの子で、アトラースとメノイティオスの弟であり、エピメーテウスの兄となっている。 しかしアポロドーロスの『ビブリオテーケー』によると母の名はアシアーであり、アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』では女神テミスである。アレクサンドリアの詩人エウポリオーン(英語版)は、ギガースの王エウリュメドーンが結婚前のヘーラーを犯し、プロメーテウスを生んだという異説を伝えている。 妻に関してもクリュメネー、プロノエー、ヘーシオネー、あるいはパンドーラーとも言われる。 ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、プロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。ゼウスはプロメーテウスの考えを見抜いていたが、敢えて騙され、脂身に包まれた骨を選んだが、その代わりに人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。 プロメーテウスは、ゼウスによって火を取り上げられ、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。 これに怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓をテューポーンとエキドナの子である巨大な鷲(アイトーン)についばまれる責め苦を強いた。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘーラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。 プロメーテウスが「ゼウスがテティスと結婚すると父より優れた子が生まれ、ウーラノスがクロノスに、クロノスがゼウスに追われたように、ゼウスも追われることとなる」という予言を知っており、それを教える事を交換条件として解放されたという説、逆に、横暴なゼウスに屈しないがために、たとえそれが交換条件になろうとも教えなかったという説の両方が説かれている。 不死の者がプロメーテウスのために不死を捨てると申し出ない限り解放されない筈だったが、毒矢に当たって苦しむも死ねずにいたケイローンが自らの不死を放棄したため、ヘーラクレースによって解放された。また、プロメーテウスの不死は、ケイローンがゼウスに頼んでプロメーテウスに譲ったものともされるが、これはヘーラクレースによる解放後とされており、時期が合わない。 プロメーテウスが人間に火を与えた神話の後日譚については「パンドーラーの神話」を参照。 土星の第19衛星プロメテウスと小惑星帯プロメテウスはプロメーテウスにちなんで名付けられた。
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プロメーテウスは、ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟、デウカリオーンの父。ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。日本語では長音を省略してプロメテウスと表記するのが一般的である。ヘルメースと並んでギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。
{{Redirect|プロメテウス}} {{Infobox deity | type = Greek | name = プロメーテウス<br/>Προμηθεύς | image = Prometheus Adam Louvre MR1745 edit atoma.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|[[ニコラ・セバスティアン・アダム]]によるプロメーテウス像([[1762年]])<br/>[[ルーヴル美術館]]所蔵}} | deity_of = | birth_place = | death_place = | cult_center = | affiliation = [[ティーターン]] | abode = | weapon = | symbol = | consort = | parents = [[イーアペトス]], [[クリュメネー]] | siblings = [[アトラース]], [[メノイティオス]], [[エピメーテウス]] | children = [[デウカリオーン]] | mount = | Roman_equivalent = | festivals = }} {{Greek mythology}} '''プロメーテウス'''({{翻字併記|grc|'''Προμηθεύς'''|Promētheús|n|区=、}} {{IPA| pro.mɛː.tʰeú̯s}})は、[[ギリシア神話]]に登場する男[[神]]で、[[ティーターン]]の一柱である。[[イーアペトス]]の子で、[[アトラース]]、[[メノイティオス]]、[[エピメーテウス]]と兄弟<ref name="He_507_511">ヘーシオドス『神統記』507行-511行。</ref><ref name="Ap_1_2_3">アポロドーロス、1巻2・3。</ref>、[[デウカリオーン]]の父<ref>アポロドーロス、1巻7・2。</ref>。[[ゼウス]]の反対を押し切り、天界の[[火]]を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を[[創造神話|創造]]したとも言われる<ref>アポロドーロス、1巻7・1。</ref>。日本語では長音を省略して'''プロメテウス'''と表記するのが一般的である。[[ヘルメース]]と並んでギリシア神話における[[トリックスター]]的存在であり、[[文化英雄]]としての面を有する。 == 概説 == === 名前の意味 === ギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、対比的な命名をされている。 他にも、"Promē"(促進する、昇進させる)+"theus / theos"(神)と解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る。 == 系譜 == プロメーテウスは[[ティーターン]]神族の子であるため、兄弟ともに広義のティーターンに含まれる。系譜については諸説ある。[[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によるとイーアペトスと[[クリュメネー]]の子で、[[アトラース]]と[[メノイティオス]]の弟であり、[[エピメーテウス]]の兄となっている<ref name="He_507_511" />。 しかし[[アポロドーロス]]の『[[ビブリオテーケー]]』によると母の名は[[アシアー]]であり<ref name="Ap_1_2_3" />、[[アイスキュロス]]の[[ギリシア悲劇|悲劇]]『[[縛られたプロメテウス]]』では女神[[テミス]]である<ref>アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』210行。</ref>。[[アレクサンドリア]]の詩人{{仮リンク|カルキスのエウポリオーン|en|Euphorion of Chalcis|label=エウポリオーン}}は、[[ギガース]]の王[[エウリュメドーン]]が結婚前の[[ヘーラー]]を犯し、プロメーテウスを生んだという異説を伝えている<ref>『イーリアス』14巻295行への古註([[カール・ケレーニイ]]『プロメテウス』p.61、99)。</ref>。 妻に関してもクリュメネー<ref name="Od_sc_10_2">『[[オデュッセイア]]』10巻2行への古註。</ref>、[[プロノエー]]<ref>ヘーシオドス断片5(『オデュッセイア』10巻2行への古註)。</ref>、[[ヘーシオネー]]<ref>[[アクーシラーオス]]断片33(『オデュッセイア』10巻2行への古註)。</ref><ref>[[アイスキュロス]]『[[縛られたプロメテウス]]』560。</ref>、あるいは[[パンドーラー]]とも言われる<ref>ヘーシオドス断片3。『名婦列伝』1巻([[ロドスのアポローニオス]]『[[アルゴナウティカ]]』3巻1086行への古註)。</ref>。 == 神話 == [[ファイル:Jan Cossiers - Prometeo trayendo el fuego, 1637.jpg|left|180px|thumb|{{仮リンク|ヤン・コシエール|en|Jan Cossiers}}の[[1637年]]の絵画『火を運ぶプロメテウス』。[[プラド美術館]]所蔵。]] [[ゼウス]]が人間と神を区別しようと考えた際、プロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。彼は大きな[[ウシ|牛]]を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み{{Refnest|肉と内臓を胃袋で包み皮の上に置いたとも<ref name="S">『ヘシオドス 全作品』126頁。</ref>。|group="注"}}、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。ゼウスはプロメーテウスの考えを見抜いていたが、敢えて騙され、脂身に包まれた骨を選んだが、その代わりに人類から火を取り上げた<ref name="G">フェリックス・ギラン『ギリシア神話』[[青土社]]新装版1991年、36頁。</ref>{{Refnest|『神統記』では、ゼウスはプロメーテウスの考えを見抜き、不死の神々にふさわしい腐る事のない骨を選んだことになっている<ref name="S"/>。|group="注"}}。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。 プロメーテウスは、ゼウスによって火を取り上げられ、自然界の猛威や寒さに怯える[[人類]]を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、[[ヘーパイストス]]の作業場の炉の中に[[オオウイキョウ]]を入れて点火し{{Refnest|[[ヘーリオス]]の戦車の車輪から火を採ったともいわれる<ref name="G"/>。|group="注"}}、それを地上に持って来て人類に「[[火]]」を渡した。人類は火を基盤とした[[文明]]や[[技術]]など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って[[武器]]を作り[[戦争]]を始めるに至った<ref group="注">このことから「プロメテウスの火」はしばしば、[[原子力]]など、人間の力では制御できないほど強大でリスクの大きい[[科学技術]]の暗喩として用いられる。 これに関連して、1975年にアメリカの小説家、トーマス・N.スコーシアとフランク・M.ロビンソンが『プロメテウス・クライシス』("The Prometheus Crisis")を著した。 </ref>。 [[ファイル:Prometheus - Luca Giordano (1660).jpg|200px|thumb|[[ルカ・ジョルダーノ]]の[[1660年]]の絵画『縛られたプロメテウス』。[[ブダペスト国立西洋美術館]]所蔵。]] これに怒ったゼウスは、権力の神[[クラトス]]と暴力の神[[ビアー]]に命じてプロメーテウスを[[コーカサス|カウカーソス]]山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日[[肝臓]]をテューポーンとエキドナの子である巨大な鷲(アイトーン<ref>ヒュギーヌス、31話。</ref>)についばまれる責め苦を強いた<ref>{{Cite book|和書|author=高津春繁|authorlink=高津春繁|title=ギリシャ・ローマ神話辞典|publisher=[[岩波書店]]|page=224|year=1960|id={{全国書誌番号|60006167}}}}</ref>。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちに[[ヘーラクレース]]により解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった<ref>[[里中満智子]]『マンガ ギリシア神話1 神々と世界の誕生』 [[中央公論新社]] 1999年、160,163頁。</ref><ref group="注">ただし刑期については諸説ある</ref>。 プロメーテウスが「ゼウスが[[テティス]]と結婚すると父より優れた子が生まれ、[[ウーラノス]]が[[クロノス]]に、クロノスがゼウスに追われたように、ゼウスも追われることとなる」という予言を知っており、それを教える事を交換条件として解放されたという説、逆に、横暴なゼウスに屈しないがために、たとえそれが交換条件になろうとも教えなかったという説の両方が説かれている。 不死の者がプロメーテウスのために不死を捨てると申し出ない限り解放されない筈だったが、毒矢に当たって苦しむも死ねずにいた[[ケイローン]]が自らの不死を放棄したため、ヘーラクレースによって解放された<ref>芝崎みゆき『古代ギリシアがんちく図鑑』 [[バジリコ (出版社)|バジリコ]]、56頁。</ref>。また、プロメーテウスの不死は、ケイローンがゼウスに頼んでプロメーテウスに譲ったものともされるが、これはヘーラクレースによる解放後とされており、時期が合わない<ref>[[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』225頁。</ref>。 プロメーテウスが人間に火を与えた神話の後日譚については「[[パンドーラー#神話|パンドーラーの神話]]」を参照。 == 影響 == [[土星]]の第16[[衛星]][[プロメテウス (衛星)|プロメテウス]]と[[小惑星帯]][[プロメテウス (小惑星)|プロメテウス]]はプロメーテウスにちなんで名付けられた。 == 系図 == {{デウカリオーンの系図}} == ギャラリー == <gallery> Creation of man Prometheus Berthelemy Louvre INV20043 n2.jpg|{{small|{{仮リンク|ジャン=シモン・ベルテレミー|en|Jean-Simon Berthélemy}}と{{仮リンク|ジャン=バティスト・モーゼース|en|Jean-Baptiste Mauzaisse}}『プロメテウスの創造物』(1802年 & 1826年) [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Heinrich fueger 1817 prometheus brings fire to mankind.jpg|{{small|[[ハインリヒ・フリードリヒ・フューガー]]『火を盗んだプロメテウス』(1817年頃) [[リヒテンシュタイン美術館]]所蔵}} Peter Paul Rubens - Prometheus Bound - WGA20279.jpg|{{small|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]『縛られたプロメテウス』(1610年と1611年の間) [[フィラデルフィア美術館]]所蔵}} Luca Giordano - Priklenjeni Prometej.jpg|{{small|[[ルカ・ジョルダーノ]]『縛られたプロメテウス』(1666年頃) [[スロベニア国立美術館]]所蔵}} Carl Bloch, Prometheus' befrielse, 1864, RKMm0671, Ribe Kunstmuseum.jpg|{{small|[[カール・ハインリッヒ・ブロッホ]]『ヘラクレスによって解放されたプロメテウス』(1864年) {{仮リンク|リーベ美術館|en|Ribe Kunstmuseum}}所蔵}} </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == === 一次資料 === * [[アポロドーロス]]『ギリシア神話』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * 『ギリシア悲劇I [[アイスキュロス]]』[[ちくま文庫]](1985年) * 『ソクラテス以前哲学者断片集 第1分冊』[[内山勝利]]他訳、[[岩波書店]](1996年) * [[ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』[[松田治]]・青山照男訳、[[講談社学術文庫]](2005年) * [[ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * 『ヘシオドス 全作品』[[中務哲郎]]訳、[[京都大学学術出版会]](2013年) === 二次資料 === * [[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店(1960年) * [[カール・ケレーニイ]]『ギリシアの神話 神々の時代』[[植田兼義]]訳、[[中公文庫]](1985年) * カール・ケレーニイ『プロメテウス』辻村誠三訳、[[法政大学出版局]] == 関連項目 == {{Commons|Prometheus (mythology)}} * [[文化英雄]] * [[バナナ型神話]] * [[エンキ]] - [[メソポタミア神話]]の神。人間に文明を教えた。 * 「[[フランケンシュタイン|フランケンシュタイン、または現代のプロメテウス]]」 - [[メアリー・シェリー]]の[[ゴシック小説]]。 * [[プロメテの火]] == 外部リンク == * {{Kotobank|プロメテウス}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろめえてうす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:火神]] [[Category:文化英雄]]
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デーメーテール
デーメーテール(古希: ΔΗΜΗΤΗΡ, Δημήτηρ, Dēmētēr)は、ギリシア神話に登場する女神である。長母音を省略してデメテルとも表記される。豊穣神であり、穀物の栽培を人間に教えた神とされる。オリュンポス十二神の一柱。その名は古典ギリシア語で「母なる大地」を意味する。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポロス」という別名がある。ローマ神話ではケレースと同一視された。 クロノスとレアーの娘で、ゼウスの姉にあたる。ゼウスとの間に娘コレー(後の冥府の王妃ペルセポネー)をもうけたものの、その経緯はゼウスがデーメーテールに無理やり迫った挙句、無理やり子供を作らされたため、ゼウスにあまり良い印象を持っていなかった(ただし子供であるペルセポネーには愛情を注いでいた)。さらに弟の海神ポセイドーンからも無理強いされ、秘儀の女神デスポイナと1頭の名馬アレイオーン(アリーオーン)を生んだ。最も有名な恋人のイーアシオーンは愛する者をとられたゼウスの嫉妬によって稲妻に撃たれた。イーアシオーンとの間にプルートスとピロメーロスを生んだ。 普段は温厚だが怒ると飢餓をもたらすため、ゼウスも一目置いている。テッサリアー地方の王エリュシクトーンがデーメーテールの聖地である森の木を根こそぎ伐採したときは、彼の下へ「飢餓」を遣わして、エリュシクトーンをいくら食べても満たされない激しい飢えで苦しめ、最終的にはエリュシクトーンが自身の体を貪り食う形で死に追いやった。この火が燃えるような飢えの苦しみのため、彼はアイトーン(燃え盛るの意)と呼ばれるほどであった。 デーメーテール信仰の歴史は非常に古く、紀元前10世紀(紀元前17~15世紀頃からデーメーテールの祭儀であるエレウシースの秘儀が始まっていることからさらに古い可能性もある)にも遡ると考えられる。デーメーテールの名前も後半「メーテール」は古代ギリシャ語の母を意味する言葉である。前半の「デー」ははっきりとはしないが、大地を意味する「ゲー」(ガイア)が変形したものであるとの説が有力である。この名前が示す通り、彼女は本来、ギリシャの土着の農耕民族に崇拝された大地の女神、豊穣の女神と考えられている。 後世にギリシャに侵入した遊牧民族(と考えられる)は農耕民族を征服し、被征服民族のこの信仰を弾圧した。デーメーテールがゼウスに辱めを受ける神話は豊穣の女神に奉じる農耕民族が雷の神を奉じる遊牧民族に征服されたことを、ペルセポネーが攫われたことでデーメーテールが放浪する神話は彼女の信仰の拠点が弾圧によって各地を転々としたことを示していると考えられている。 しかし結局、被征服者のデーメーテール信仰を無視できず自らの神である雷の神の姉であり愛人の地位を与えて取り込んだものと考えられる。神話でもデーメーテールは神々の始祖であるガイアからレアーに続く地母神の正当な後継であり、数多の女神の中でも最高位の存在とされ「大女神」と呼ばれている。 デーメーテールの娘コレー(ペルセポネー)は、行方が分からなくなる。何か悪いことに巻き込まれたのではないかと考えたデーメーテールは、犯罪に詳しい神と言われるヘカテーに問い掛ける。ヘカテーは「ペルセポネーはハーデースに冥界に連れ去られた」と答えた。女神は、ハーデースがペルセポネーを誘拐したことを知る。しかし、ゼウスたち他の姉弟と違い純真で心優しい性格であるハーデースがそんなことをするはずがないと考えたデーメーテールは、地上のことは何でも知っているとされるヘーリオスに確認を求めた。 ヘーリオスは、「ゼウスが、ペルセポネーを后に迎えたいと言ったハーデースを唆し拉致させた」と女神に教える。デーメーテールはゼウスがこの誘拐に加担したことを知る(詳細は、ハーデース、ペルセポネーの項を参照)。デーメーテールはゼウスに抗議するが、ゼウスは「冥界の王であるハーデースならば夫として不釣合いではないだろう」と言い訳する。デーメーテールはこれに激怒し、天界を捨て老女に変身しアッティカ地方のエレウシースに下った。この放浪の間のデーメーテールの行動についての伝説が各所に残されている。 デーメーテールが地を放浪する間、大地は荒廃した。ゼウスは虹の女神イーリスを遣わしデーメーテールを説得したが、女神は怒りを解かず、コレー(ペルセポネー)の帰還を求め、それを条件として大地の豊穣神としての管掌を果たすことを答える。 ゼウスはハーデースに女神の意向を伝え、ペルセポネーを地上に帰還させた。ペルセポネーの帰還はデーメーテールに喜びをもたらし、それによって大地は再び豊穣と実りを取り戻した。これは穀物が地下に播かれ、再び芽吹いて現れることを象徴する神話とされる。 ペルセポネーは地上に帰還したが、冥府においてザクロの実を幾つか口にしてしまった。冥府の食物を食べたものは、冥府の住民となる定めがあったが、デーメーテールはこれにも抗議した。ペルセポネーがどのような経緯で冥府の食物を食べたのか、自発的にか、ハーデースなどの策略によってか諸説ある。ザクロを食べた説でも、何粒食べたかについて、複数の説がある。 オリュンポスの秩序は守らねばならないが、デーメーテールの抗議も考慮せねばならないとして、ゼウスあるいは神々は、1年(12ヶ月)を食べてしまったザクロの実の数(4粒または6粒)で割り、1/3(または1/2)を冥府で、残りをデーメーテールの元で暮らすことで決着を付けた。デーメーテールはペルセポネーがハーデースの元で暮らしている間は実りをもたらすのをやめるようになった。これは季節・四季の起源譚である。 オウィディウスやアポロドーロスの主張によると、ペルセポネーがザクロを食べたことが明らかになったのは、河神アケローンと冥府のニュムペーのオルプネーあるいはゴルギューラの子アスカラポスの告げ口が原因であるという。これを恨んだデーメーテールは冥府の入口付近でアスカラポスの上に巨岩を置いた。後にアスカラポスはヘーラクレースによって助けられたが、デーメーテールは彼をミミズクに変えた。 デーメーテールの祭儀の中心はアッティカ地方のエレウシースにあり、その秘儀は有名であった。他に「二柱の女神」の名でギリシア各地でコレー(ペルセポネー)と共に祀られた。アテーナイにはテスモポリア祭(英語版)というデーメーテールのための祭があり、豊穣を祈るために、秋(ピュアネプシオン月11日から13日)に女たちが祝った。アリストパネースの『女だけの祭』はこのテスモポリア祭を題材とする。 アルカディア地方に伝わる神話では、デーメーテールは娘を捜して地上を放浪していた際、ポセイドーンに迫られた。デーメーテールは彼を避けて牝馬の姿となり、オンコス王の馬群の中に紛れ込んだ。しかしポセイドーンは彼女を発見し、自分も牡馬の姿となって女神と交わった。 この結果、デーメーテールは一人の娘と名馬アレイオーンを生んだ。娘の名はデスポイナと呼ばれるが、これは単に「女君主」の意に過ぎず、実際の名は密儀の参加者以外には明らかにされていない。この時のポセイドーンに対するデーメーテールの怒りはすさまじく、怒りの女神エリーニュスと呼ばれたほどであった。風光明媚で名高いラードーン川の流れで沐浴するまで女神の怒りは続いたとされる。 アルカディア地方のピガリア(英語版)にはデーメーテールとポセイドーンの婚姻が伝わる洞窟があり、ポセイドーンに対する怒りと、娘を攫われた悲しみから、黒衣を纏い、その洞窟に籠った。そのため大地は実らず、人々は飢えで滅びかけたという。この洞窟には馬の頭を持つデーメーテール像が祀られていたと伝えられている。これによればデーメーテールはゼウスを中心とする神話確立以前の馬を表徴とする大地母神で、ポセイドーンと対をなす女神だったと考えられる。 暗緑色の衣を纏った姿で描かれ、その象徴は小麦、芥子、水仙、豊穣の角、松明で、聖獣は豚である。
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デーメーテールは、ギリシア神話に登場する女神である。長母音を省略してデメテルとも表記される。豊穣神であり、穀物の栽培を人間に教えた神とされる。オリュンポス十二神の一柱。その名は古典ギリシア語で「母なる大地」を意味する。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポロス」という別名がある。ローマ神話ではケレースと同一視された。
{{Infobox deity | type = Greek | name = デーメーテール<br/>{{lang|grc|Δημήτηρ}} | image = Demeter Altemps Inv8546.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|デーメーテール像<br/>[[ローマ国立博物館]]所蔵}} | deity_of = {{small|大地と豊穣の女神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[エレウシース]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = | symbol = [[麦]], [[コルヌコピア]], [[松明]] | consort = | parents = [[クロノス]], [[レアー]] | siblings = [[ヘスティアー]], [[ヘーラー]], [[ゼウス]], [[ハーデース]], [[ポセイドーン]], [[ケイローン]] | children = ゼウスとの間:[[ペルセポネー]]([[コレー]])<br/>ポセイドーンとの間:{{仮リンク|デスポイナ|en|Despoina}}, [[アレイオーン]]<br/>[[イーアシオーン]]との間:[[プルートス]], [[ピロメーロス]] | Roman_equivalent = [[ケレース]] | festivals = {{仮リンク|テスモポリア祭|en|Thesmophoria}} }} {{Greek mythology}} '''デーメーテール'''({{lang-grc-short|'''ΔΗΜΗΤΗΡ''', Δημήτηρ}}, {{ラテン翻字|el|Dēmētēr}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[女神]]である。[[長母音]]を省略して'''デメテル'''とも表記される。[[地母神|豊穣神]]であり、[[穀物]]の栽培を人間に教えた[[神]]とされる。[[オリュンポス十二神]]の一柱。その名は[[古典ギリシア語]]で「[[母なる大地]]」を意味する<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』、203頁。</ref>。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポロス」という別名がある。[[ローマ神話]]では[[ケレース]]と同一視された<ref>呉茂一、261頁。</ref>。 == 概説 == [[クロノス]]と[[レアー]]の娘で、[[ゼウス]]の姉にあたる<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/デメテル-576895|title = 百科事典マイペディアの解説|publisher = コトバンク|accessdate = 2018-01-28}}</ref>。ゼウスとの間に娘[[コレー]](後の冥府の王妃[[ペルセポネー]])をもうけたものの<ref>ヘーシオドス『神統記』912行。</ref>、その経緯はゼウスがデーメーテールに無理やり迫った挙句、無理やり子供を作らされたため、ゼウスにあまり良い印象を持っていなかった(ただし子供であるペルセポネーには愛情を注いでいた)。さらに弟の海神[[ポセイドーン]]からも無理強いされ、秘儀の女神デスポイナと1頭の名馬[[アレイオーン]](アリーオーン)を生んだ<ref>パウサニアス、8巻25・5。</ref>。最も有名な恋人の[[イーアシオーン]]は愛する者をとられたゼウスの嫉妬によって稲妻に撃たれた。イーアシオーンとの間に[[プルートス]]と<ref>ヘーシオドス『神統記』969行-971行。</ref><ref>シケリアのディオドロス、5巻49・4。</ref><ref>シケリアのディオドロス、5巻77・1。</ref><ref>シケリアのディオドロス、5巻77・2。</ref><ref name=HYA247>{{Cite web|和書|title=ヒュギーヌス『天文譜』2巻4話 |accessdate=2022/02/10 |url=https://topostext.org/work/207#2.4.7 |publisher=ToposText}}</ref>[[ピロメーロス]]を生んだ<ref name=HYA247 /><ref>Pierre Grimal 1986, p.366.</ref>。 普段は温厚だが怒ると飢餓をもたらすため、ゼウスも一目置いている。[[テッサリアー]]地方の王[[エリュシクトーン]]がデーメーテールの聖地である森の木を根こそぎ伐採したときは、彼の下へ「飢餓」を遣わして、エリュシクトーンをいくら食べても満たされない激しい飢えで苦しめ、最終的にはエリュシクトーンが自身の体を貪り食う形で死に追いやった<ref>オウィディウス『変身物語』8巻。</ref>。この火が燃えるような飢えの苦しみのため、彼はアイトーン(燃え盛るの意)と呼ばれるほどであった<ref>アイリアーノス、1巻27。</ref><ref>リュコプローン『アレクサンドラ』1393行への古註。</ref><ref>ヘーシオドス断片69、5行-6行(Papyrus Cairensis Instituti Francogallici、322 fr.)</ref>。 デーメーテール信仰の歴史は非常に古く、紀元前10世紀(紀元前17~15世紀頃からデーメーテールの祭儀である[[エレウシース]]の秘儀が始まっていることからさらに古い可能性もある)にも遡ると考えられる。デーメーテールの名前も後半「メーテール」は古代ギリシャ語の母を意味する言葉である。前半の「デー」ははっきりとはしないが、大地を意味する「ゲー」([[ガイア]])が変形したものであるとの説が有力である。この名前が示す通り、彼女は本来、ギリシャの土着の農耕民族に崇拝された大地の女神、豊穣の女神と考えられている。 後世にギリシャに侵入した遊牧民族(と考えられる)は農耕民族を征服し、被征服民族のこの信仰を弾圧した。デーメーテールがゼウスに辱めを受ける神話は豊穣の女神に奉じる農耕民族が雷の神を奉じる遊牧民族に征服されたことを、ペルセポネーが攫われたことでデーメーテールが放浪する神話は彼女の信仰の拠点が弾圧によって各地を転々としたことを示していると考えられている。 しかし結局、被征服者のデーメーテール信仰を無視できず自らの神である雷の神の姉であり愛人の地位を与えて取り込んだものと考えられる。神話でもデーメーテールは神々の始祖であるガイアから[[レアー]]に続く地母神の正当な後継であり、数多の女神の中でも最高位の存在とされ「大女神」と呼ばれている。 == 神話 == === ペルセポネーの略奪 === [[File:Callet - Jupiter and Ceres, 1777.jpg|left|thumb|[[アントワーヌ=フランソワ・カレ]]の[[1777年]]の絵画『ゼウスに抗議するデーメーテール』。[[ボストン美術館]]所蔵。]] デーメーテールの娘コレー(ペルセポネー)は、行方が分からなくなる。何か悪いことに巻き込まれたのではないかと考えたデーメーテールは、犯罪に詳しい神と言われる[[ヘカテー]]に問い掛ける。ヘカテーは「ペルセポネーは[[ハーデース]]に冥界に連れ去られた」と答えた。女神は、ハーデースがペルセポネーを誘拐したことを知る。しかし、ゼウスたち他の姉弟と違い純真で心優しい性格であるハーデースがそんなことをするはずがないと考えたデーメーテールは、地上のことは何でも知っているとされる[[ヘーリオス]]に確認を求めた。 ヘーリオスは、「ゼウスが、ペルセポネーを后に迎えたいと言ったハーデースを唆し拉致させた」と女神に教える。デーメーテールはゼウスがこの誘拐に加担したことを知る(詳細は、[[ハーデース]]、[[ペルセポネー]]の項を参照)。デーメーテールはゼウスに抗議するが、ゼウスは「冥界の王であるハーデースならば夫として不釣合いではないだろう」と言い訳する。デーメーテールはこれに激怒し、天界を捨て老女に変身し[[アッティカ]]地方の[[エレウシス|エレウシース]]に下った。この放浪の間のデーメーテールの行動についての伝説が各所に残されている。 === ペルセポネーの帰還 === デーメーテールが地を放浪する間、大地は荒廃した。ゼウスは虹の女神[[イーリス]]を遣わしデーメーテールを説得したが、女神は怒りを解かず、コレー(ペルセポネー)の帰還を求め、それを条件として大地の豊穣神としての管掌を果たすことを答える。 ゼウスはハーデースに女神の意向を伝え、ペルセポネーを地上に帰還させた。ペルセポネーの帰還はデーメーテールに喜びをもたらし、それによって大地は再び豊穣と実りを取り戻した。これは穀物が地下に播かれ、再び芽吹いて現れることを象徴する神話とされる。 ==== 季節の起源 ==== [[File:Replica of the Great Eleusinian relief in the National Archaeological Museum of Athens.jpg|thumb|right|220px|デーメーテール、[[トリプトレモス]]、ペルセポネー(紀元前490年頃の[[大理石]][[レリーフ]]、[[アテネ国立考古学博物館]]所蔵)]] ペルセポネーは地上に帰還したが、冥府において[[ザクロ]]の実を幾つか口にしてしまった。冥府の食物を食べたものは、冥府の住民となる定めがあったが、デーメーテールはこれにも抗議した。ペルセポネーがどのような経緯で冥府の食物を食べたのか、自発的にか、ハーデースなどの策略によってか諸説ある。ザクロを食べた説でも、何粒食べたかについて、複数の説がある。 オリュンポスの秩序は守らねばならないが、デーメーテールの抗議も考慮せねばならないとして、ゼウスあるいは神々は、1年(12ヶ月)を食べてしまったザクロの実の数(4粒または6粒)で割り、1/3(または1/2)を冥府で、残りをデーメーテールの元で暮らすことで決着を付けた。デーメーテールはペルセポネーがハーデースの元で暮らしている間は実りをもたらすのをやめるようになった。これは季節・四季の起源譚である。 [[オウィディウス]]や[[アポロドーロス]]の主張によると、ペルセポネーがザクロを食べたことが明らかになったのは、河神[[アケローン]]と冥府のニュムペーの[[オルプネー]]<ref>オウィディウス『変身物語』5巻539行-541行。</ref>あるいはゴルギューラの子[[アスカラポス]]の告げ口が原因であるという。これを恨んだデーメーテールは冥府の入口付近でアスカラポスの上に巨岩を置いた<ref>アポロドーロス、1巻5・3。</ref>。後にアスカラポスは[[ヘーラクレース]]によって助けられたが、デーメーテールは彼を[[ミミズク]]に変えた<ref>アポロドーロス、2巻5・12。</ref>。 === 秘儀の二柱女神 === デーメーテールの祭儀の中心はアッティカ地方のエレウシースにあり、その秘儀は有名であった。他に「二柱の女神」の名でギリシア各地でコレー(ペルセポネー)と共に祀られた。[[アテナイ|アテーナイ]]には{{仮リンク|テスモポリア祭|en|Thesmophoria}}というデーメーテールのための祭があり、豊穣を祈るために、秋(ピュアネプシオン月11日から13日)に女たちが祝った。[[アリストパネス|アリストパネース]]の『[[女だけの祭]]』はこのテスモポリア祭を題材とする。 == デーメーテールとポセイドーン == [[アルカディア]]地方に伝わる神話では、デーメーテールは娘を捜して地上を放浪していた際、ポセイドーンに迫られた。デーメーテールは彼を避けて[[牝馬]]の姿となり、[[オンコス]]王の馬群の中に紛れ込んだ。しかしポセイドーンは彼女を発見し、自分も[[牡馬]]の姿となって女神と交わった<ref>パウサニアース、8巻25・5。</ref>。 この結果、デーメーテールは一人の娘と名馬[[アレイオーン]]を生んだ<ref name=PA8257>パウサニアース、8巻25・7。</ref>。娘の名はデスポイナと呼ばれるが<ref name=PA8421>パウサニアース、8巻42・1。</ref>、これは単に「女君主」の意に過ぎず<ref>呉茂一改版、319頁。</ref>、実際の名は密儀の参加者以外には明らかにされていない<ref name=PA8257 /><ref>パウサニアース、8巻37・9。</ref>。この時のポセイドーンに対するデーメーテールの怒りはすさまじく、怒りの女神[[エリーニュス]]と呼ばれたほどであった。風光明媚で名高い[[ラードーン川]]の流れで[[沐浴]]するまで女神の怒りは続いたとされる<ref>パウサニアース、8巻25・6。</ref>。 <!-- === 馬の誕生の神話 === 別の話では、自らに求愛してくるポセイドーンに最も美しい陸上の生物を贈るように女神は伝えた。今まで海の[[ニュンペー]]を驚かせるためのタコやイソギンチャクのような奇怪な姿の海の生物しか作らなかったポセイドーンにとっては難しい話であったが、苦労を重ね一体の動物を完成させた。これによってできあがったのが[[ウマ|馬]]だとされる。馬が完成するまでに[[ラクダ]]、[[キリン]]、[[カバ]]、[[シマウマ]]のような数多くの失敗作が生まれることとなった。この後、馬の仕上がりに満足したポセイドーンはデーメーテールのことを忘れたとも、馬のできばえに感心したデーメーテールはポセイドーンと打ち解け、不仲だった二人の関係が改善したともされる<ref name="B">[[シブサワ・コウ]]編『爆笑ギリシア神話』[[コーエー|光栄]]。</ref>。--> アルカディア地方の{{仮リンク|ピガリア|en|Phigalia}}にはデーメーテールとポセイドーンの婚姻が伝わる洞窟があり<ref name=PA8421 />、ポセイドーンに対する怒りと、娘を攫われた悲しみから、黒衣を纏い、その洞窟に籠った。そのため大地は実らず、人々は飢えで滅びかけたという<ref>パウサニアース、8巻42・2。</ref>。この洞窟には馬の頭を持つデーメーテール像が祀られていたと伝えられている<ref>パウサニアース、8巻42・4。</ref>。これによればデーメーテールはゼウスを中心とする神話確立以前の馬を表徴とする大地母神で、ポセイドーンと対をなす女神だったと考えられる<ref>呉茂一改版、320頁。</ref>。 == その他 == 暗緑色の衣を纏った姿で描かれ、その象徴は[[コムギ|小麦]]、[[ケシ|芥子]]、[[スイセン属|水仙]]、[[コルヌコピア|豊穣の角]]、[[松明]]<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』、204頁。</ref>で、聖獣は[[ブタ|豚]]である<!--<ref name="B" />--><ref>豊田和二『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] ギリシア神話』[[ナツメ社]]。</ref><ref>創元社編集部『ギリシア神話ろまねすく』[[創元社]]。</ref><ref>クレア・ギブソン『シンボルの謎を解く』産調出版。</ref>。 == ギャラリー == <center><gallery widths="140" heights="140"> Giovanni Francesco Romanelli - Ceres - WGA19670.jpg|{{small|{{仮リンク|ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ|en|Giovanni Francesco Romanelli}}『ケレス』(1660年頃) 個人蔵}} Ceres by Antoine Watteau (1717-1718).jpg|{{small|[[アントワーヌ・ヴァトー]]『ケレス』(1717年と1718年の間) [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]所蔵}} Demeter mourning Persephone 1906.jpg|{{small|[[イーヴリン・ド・モーガン]]『ペルセポネーを悼んだデーメーテール』(1906年頃) {{仮リンク|ド・モーガン・センター|en|De Morgan Centre}}所蔵}} Evelyn de Morgan - The Vision, 1914.jpg|{{small|イーヴリン・ド・モーガン『幻覚:ペルセポネー、デーメーテール、ヘカテー』(1914年) 個人蔵}} Francesco Sleter - Arethusa Tells Ceres of Proserpine's Fate, 1732.jpg|{{small|{{仮リンク|フランチェスコ・スレーター|en|Francesco Sleter}}『アレトゥーサはデーメーテールにペルセポネーの行方を教えた』(1732年) {{仮リンク|ムーア・パーク|en|Moor Park (house)}}所蔵}} Frederic Leighton - The Return of Persephone (1891).jpg|{{small|[[フレデリック・レイトン]]『ペルセポネーの帰還』(1891年) {{仮リンク|リーズ美術館|en|Leeds Art Gallery|label=リーズ美術館}}所蔵}} Deméter tipo Madrid-Capitolio (Museo del Prado) 01.jpg|{{small|マドリード・カピトリオのデーメーテールの大理石像<br/>[[プラド美術館]]所蔵}} Marble Statue of Demeter.jpg|{{small|クニドスのデーメーテール像<br/>[[大英博物館]]所蔵}} Déméter et Ploutos.jpg|{{small|デーメーテールとプルートス}} Demeter-Rotunda of Altes Museum.jpg|{{small|ロトンダのデーメーテール像<br/>[[旧博物館 (ベルリン)|旧博物館]]所蔵}} Statue called Agrippina as Ceres.jpg|{{small|アグリッピナのケレス像}} DEMETER at Ohori Park in Fukuoka City 483by641pix.jpg|{{small|[[福岡市]][[大濠公園]]のデーメーテール像}} </gallery></center> == 出典 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[アイリアノス]]『ギリシャ奇談集』[[松平千秋]]、[[中務哲郎]]訳、[[岩波文庫]](1989年) * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、岩波文庫(1953年) * [[オウィディウス]]『[[変身物語]](上)』[[中村善也]]訳、岩波文庫(1981年) * [[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]『神代地誌』飯尾都人訳、龍溪書舎(1999年) * [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) * [[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * 『[[ヘシオドス]] 全作品』中務哲郎訳、[[京都大学学術出版会]](2013年) * 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]](1960年) * [[呉茂一]]『ギリシア神話 上・下』[[新潮文庫]](1979年、2007年改版) * マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』木宮直仁 ほか訳、[[大修館書店]](1988年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年) * [[ピエール・グリマル|Pierre Grimal]], ''The Dictionary of Classical Mythology''. Blackwell Publishers, 1986. == 関連項目 == {{commonscat|Demeter}} * [[おとめ座]] * [[エレウシスの秘儀]] * [[デメテルの法則]](最小知識の原則) - [[ソフトウェア]]設計、特に[[オブジェクト指向]][[プログラミング]]において、ソフトウェアの複雑化を防ぐために知識の「分配」を制限する原則の一つ。デメテルプロジェクトという研究の成果物であるためにこの名があるが、研究自体は穀物の「分配」を司るデーメーテールにあやかって名付けられた。 * [[メドゥーサ]] - 本来は同一の存在だったと考えられている。 * [[イシス]] - デーメーテールと同一視されたエジプトの女神。 * [[ブリトマルティス]] * [[プルートス]] * [[クロエ (小惑星)]] {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てえめえてえる}} [[Category:デーメーテール|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:農耕神]] [[Category:豊穣神]] [[Category:大地神]] [[Category:地母神]] [[Category:女神]]
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エピメーテウス
エピメーテウス(古希: Ἐπιμηθεύς, Epimētheus)は、ギリシア神話に登場する神で、ティーターンの一柱である。プロメーテウスの弟で、ヘーシオドスが『仕事と日』において、対比的に神話を語っている。日本語では長母音を省略してエピメテウスとも表記する。 土星の第11衛星エピメテウスのエポニムである。 「エピメーテウス」はギリシア語で ἐπί(上に、さらに)+ μάθη(学び)であり、「加えて考える者」の意である。兄のプロメーテウスの名が、「先の学び」すなわち「先見の明を持つ・行動する前に熟慮する」を意味するのに対し、「後知恵」のニュアンスを持つ。 イーアペトスとクリュメネー(またはアシアー)の息子とされる。アトラース、プロメーテウス、メノイティオスの兄弟でティーターンの血族に連なる。 彼の兄弟は、皆ゼウスに反逆して敗れ、過酷な責め苦を受けたティーターンの戦士達だが、エピメーテウスは愚鈍であったとされ、特にゼウスと敵対したという説話は伝えられていない。 愚鈍な理由として有名なのは、「自身の能力を他の兄弟に奪われた」などである。しかし、兄のプロメーテウスの巻き添えになる形で、結局はゼウスに煮え湯を飲まされる事となる。 プロメーテウスがゼウスから火を盗んで人類に与えた後、ゼウスは人類が神々より強くなるのを恐れ、人類に厄災をもたらそうと謀った。そのためヘーパイストスに美女パンドーラーを作らせ、エピメーテウスに贈り物として与えた。プロメーテウスはエピメーテウスに警告したが、エピメーテウスは聞き入れず、パンドーラーを妻とした。のちにパンドーラーはゼウスから与えられた壺(箱とする説もある)を開け、その中にあった厄災を解き放ったという。これがいわゆるパンドーラーの箱である。エピメーテウスとパンドーラーの夫婦自身は厄災を免れ、その後起きた大洪水をも生き延びている。
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エピメーテウスは、ギリシア神話に登場する神で、ティーターンの一柱である。プロメーテウスの弟で、ヘーシオドスが『仕事と日』において、対比的に神話を語っている。日本語では長母音を省略してエピメテウスとも表記する。 土星の第11衛星エピメテウスのエポニムである。
{{Redirect|エピメテウス}} '''エピメーテウス'''({{lang-grc-short|'''Ἐπιμηθεύς'''}}, {{ラテン翻字|el|Epimētheus}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[神]]で、[[ティーターン]]の一柱である。[[プロメーテウス]]の弟で、[[ヘーシオドス]]が『[[仕事と日]]』において、対比的に神話を語っている。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''エピメテウス'''とも表記する。 [[土星]]の第11[[衛星]][[エピメテウス (衛星)|エピメテウス]]の[[エポニム]]である。 == 概説 == === 名前の意味 === 「エピメーテウス」は[[ギリシア語]]で ἐπί(上に、さらに)+ μάθη(学び)であり、「加えて考える者」の意である。兄のプロメーテウスの名が、「先の学び」すなわち「先見の明を持つ・行動する前に熟慮する」を意味するのに対し、「後知恵」のニュアンスを持つ。 === 家系 === [[イーアペトス]]と[[クリュメネー]](または[[アシアー]])の息子とされる。[[アトラース]]、[[プロメーテウス]]、[[メノイティオス]]の兄弟で[[ティーターン]]の血族に連なる。 == 人物・神話 == 彼の兄弟は、皆[[ゼウス]]に反逆して敗れ、過酷な責め苦を受けたティーターンの戦士達だが、エピメーテウスは愚鈍であったとされ、特にゼウスと敵対したという説話は伝えられていない。 愚鈍な理由として有名なのは、「自身の能力を他の兄弟に奪われた」などである。しかし、兄のプロメーテウスの巻き添えになる形で、結局はゼウスに煮え湯を飲まされる事となる。 プロメーテウスがゼウスから火を盗んで人類に与えた後、ゼウスは人類が神々より強くなるのを恐れ、人類に厄災をもたらそうと謀った。そのため[[ヘーパイストス]]に美女[[パンドーラー]]を作らせ、エピメーテウスに贈り物として与えた。プロメーテウスはエピメーテウスに警告したが、エピメーテウスは聞き入れず、パンドーラーを妻とした。のちにパンドーラーはゼウスから与えられた壺(箱とする説もある)を開け、その中にあった厄災を解き放ったという。これがいわゆるパンドーラーの箱である。エピメーテウスとパンドーラーの夫婦自身は厄災を免れ、その後起きた[[大洪水]]をも生き延びている。 == 系図 == {{デウカリオーンの系図}} == 関連項目 == * [[プロメーテウス]] * [[パンドーラー]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えひめてうす}} [[Category:ギリシア神話の神]]
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アテーナー
アテーナー(古代ギリシア語:Ἀθηνᾶ, Athēnā、イオーニア方言:Ἀθήνη, Athēnē アテーネー、ドーリス方言:Ἀθάνα, Athana アターナー、叙事詩体:Ἀθηναίη, Athēnaiē アテーナイエー)は、知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと同じく処女神である。 女神の崇拝の中心はアテーナイであるが、起源的には、ギリシア民族がペロポネーソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシアの地に固有の女神だが、ヘレーネス(古代ギリシア人)たちは、この神をギリシアの征服と共に自分たちの神に組み込んだのである。 日本語では主に長母音を省略してアテナ、アテネと表記される場合が多い。 アテーナーは、古くからギリシアの地にあった城塞都市にあって、「都市の守護女神」として崇拝されて来た。この崇拝の伝統は、ミーノーア文明まで遡る。その神殿は都市を象徴する小高い丘、例えばアテーナイであれば、アクロポリスに築かれており、女神を都市の守護者とする崇拝は、ギリシア全土に及んでおり、アテーナイ、ミュケーナイ、コリントス、テーバイなどの有力な都市でも、その中心となる丘上には、女神の神殿があった。アテーナイは多くのポリスにおいて、「ポリウーコス(都市守護者)」の称号で呼ばれていた。 このようにアテーナーは、都市の守護者であり、アテーナーの戦いは、都市の自治と平和を守るための戦いで、ただ血生臭く暴力が優越する軍神アレースの戦いとは異なるものである。 女神は、アテーナイのアクロポリスにパルテノーン(処女宮、Parthenon)の神殿を持ち、フクロウを自己の聖なる動物として持っていた。ホメーロスは女神を、グラウコーピス・アテーネー(glaukopis Athene)と呼ぶが、この定型修飾称号の「グラウコーピス」は、「輝く瞳を持った者」「灰色・青い瞳を持った者」というのが本来の意味と考えられるが、これを、梟(グラウクス)と関連付け、「梟の貌を持った者」というような解釈も行われていた。女神はまた、知恵を表す蛇や、平和の印としてオリーブをその象徴としていた。 ヘーシオドスが『神統記』に記すところでは、アテーナーはゼウスの頭頂部より武装して鎧を纏った姿で出現したとされる。 ギリシア神話の神々の系譜においては、オリエントの神々の系譜と同様に、三世代にわたる神々の「王権」の移譲・強奪があった。ギリシア神話では、天の神ウーラノスが第一の王権を持ち、原初の大地大神ガイアとの間に多数の息子・娘をなした。これがティーターンの一族である。ウーラノスの末子がクロノスであり、クロノスは母ガイアに教唆されて、絶対の権力を振るった父ウーラノスを不意打ちで攻撃し、ウーラノスの男性器を切り落とした。こうしてクロノスが神々の王権の第二の支配者となる。しかしクロノスはガイアとウーラノスの予言によって、彼もまた自分の子によって支配権を奪われるだろうとされたため、生まれてくる子供達を飲み込んだが、ゼウスだけはクレタ島に逃れ、やがて成長したゼウスは兄弟姉妹達を復活させ、クロノスの王権を簒奪する。 このようにしてゼウスを主権者とするオリュンポスの王権が誕生したが、ゼウスもまたガイアとウーラノスによる予言を受けた。それは、最初の配偶者である女神メーティスとの間に生まれる子供は、最初に、母に似て智慧と勇気を持つ娘が生まれ、次には傲慢な息子が生まれるだろう。そしてゼウスの王権は再度、彼らによって簒奪されるだろうというものである。その後メーティスが身籠もると、ゼウスは妊娠したままのメーティスを素早く飲み込み、禍根を断とうとした。 アポロドーロスが『ギリシア神話』で述べるところでは、胎児は、ゼウスの身体の中で生き続け成長し、ゼウスは激しい頭痛を感じるようになったため、プロメーテウスに(また一説では、ヘーパイストスに)斧(ラブリュス)でみずからの頭部を割らせると、中から出てきたのが、甲冑を纏った成人した姿のアテーナーであった。アテーナーが生まれると同時に、宇宙は大きくよろめき、大地と大海は轟音を発しながら揺れ動き、太陽は軌道上で停止した。こうして、形式上、アテーナーを生んだのはメーティスではなくゼウス本人だということになったので、ゼウスによるオリュンポスの支配は揺らぎないものとなった。ゼウスの子供たちの中で、アテーナーはゼウスの最も気に入りの娘であり、アテーナーに対する偏愛により、他の神々は嫉妬した。 ロバート・グレイヴズが『ギリシア神話』で記すところでは、アテーナーはヘレーネスがギリシアに到来する以前から、母権制社会のペラスゴイ人(英語版)によって崇拝されていた、人面蛇身で顔を見た者を石に変える大地の女神メテュスであったとする(ただしグレイヴズの主張に学術的裏づけはない)。ペラスゴイ人の伝承では、女神はリビアのトリートーニス湖のほとりに誕生したとされる。土地の三柱のニュムペーが女神を養育した。 女神は山羊革の衣類を纏うリビアで成長した。少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという。成長した女神はクレータ島を訪れ、そしてギリシア本土のアテーナイへとやって来た。 他にも、雲の中に隠れていたアテーナーをゼウスが雲に頭をぶつけることによって誕生させたともいわれる。 アテーナーの祭儀でもっとも著名なものは、その崇拝の中心地であるアテーナイ市で7月に行われるパンアテーナイア祭である。これはアテーナーの誕生日(ヘカトンバイオーンの月の28日)を祝う祭りで、アッティケー都市連合の成立も記念して祝われた。馬術、詩歌、音楽、文芸などの競技が催された。この祭りは4年に一度大祭が行われ、パンアテーナイア祭はとくにこの大祭を指すことがある。このときはパルテノーン神殿にあるアテーナーの神像の衣が取り替えられ、乙女たちが新しく織った衣を着せた。アテーナイのアクロポリスのパルテノーン神殿のメトープには、この衣を運ぶ行列の模様が彫られている。 女神の神殿はアクロポリスの頂にあるパルテノーン神殿が著名で、また同じくアクロポリスに、女神は「エレクテウスの宮居」を備えていたとされる。エレクテウスは人名であるが、これは恐らく、古代アテーナイの伝説の王であるエリクトニオスの別名と考えられる。アテーナイの支配権をめぐって、かつて海神ポセイドーンとアテーナーが争ったことがあり、初代アテーナイ王ケクロプスが女神を支持したことで、アテーナー女神が勝利を得た。 梟とオリーブが女神の聖なる象徴としてコインのテトラドラクマなどに刻まれるが、有翼の女神ニーケー(Nike、勝利の意、ローマ神話ではウィクトーリア(Victoria)と呼ばれる)も、彼女の化身であるとして登場することがある。戦の女神としてのアテーナーは父神ゼウスと同様に、アイギス(山羊革楯)を持ち、その楯にはゴルゴーンの頭部が付けられている。おもに後ろに並んだ100人の歩兵を隠すほど大きい前立ての付いた兜を被り、槍とアイギスを持った若い威厳のある乙女の姿で表される。一説には梟のように大きな灰色の目を持つ凛々しい姿と言われ、みずからの聖鳥、梟との関連性を示している。 ローマ神話では、はるか古くから、エトルスキー系の知恵と工芸を司る女神ミネルウァがアテーナーに対応する女神として崇拝されていた。ミネルウァの神殿もやはり都市の中心の丘の上にあるのが普通で、都市守護者であった。ロマンス語ではミネルウァは、ミネルヴァという発音になる。ラテン語:Minerva、英語読みはミナーヴァ。ミネルウァの聖鳥は、やはり梟である。 アテーナーはさまざまな別名を持つ。イオーニア方言系のホメーロスは、アテーネーと呼び、あるいは方言形でアターナーとも呼ばれる。またアテーナイアーとも呼ばれる(この名のイオーニア方言形は、アテーナイエーである)。アテーナイアーを約めてアテーナーと呼ぶのだともされる。 それ以外に、パルラス・アテーネーの形でホメーロスが歌うように、パラス(Pallas)という別名がある。トリート・ゲネイア(トリート生まれの者の意)、トリートーニスなどの別名も持つ。これらの名前が何の意味かは色々な解釈があるが明確には分からない。ただ、海神トリートーンや、アムピトリーテーなどと同じ語幹から造られている可能性が高く、「水・水辺」に関係する名前だと解釈されている。 アポロドーロスによれば、アテーナーはトリートーンの娘パラスと一緒に育てられた。二人は親友となり、戦の技に励んでいたが、喧嘩となった。パラスが一撃を女神に与えようとした際、ゼウスは危惧して、空よりアイギスを差し出した。パラスは驚き、直後のアテーナーの攻撃が彼女の命を奪った。女神は親友の死を悲しみ、パラスに似せてパラディオンと呼ばれる木像を造った(パラディオンとは、イーリオスを建設したイーロスが、「徴を示してほしい」とゼウスに祈ると、天から降って来た木像である)。 なお、フランスのトランプでは、パラスの名前でスペードのクイーンのモデルとされていて、一般的なカード(インターナショナル・フェイス)では、クイーンの中で唯一武器を所持している。 ティーターン族をタルタロスに幽閉したゼウスに対して、ガイアは怒り、多くのギガース達を生み出してゼウスを脅かし、戦をけしかけた。これがギガントマキアーである。この時、アテーナーはギガースたちの中で最も強力なエンケラドスと戦い、シケリア島を投げつけて、これを圧殺した。また、トラーキアにあっては不死であったアルキュオネウス(英語版)をヘーラクレースとともに引きずり出し、打殺したとされる。また、アテーナーはギガースの一人パッラースを殺してその皮で盾を作ったためパラス・アテーナーと名乗るようになったともいわれる。 アテーナーにはエリクトニオスの出生にまつわる伝承が伝えられる。アポロドーロスの伝承では、アテーナーが武器を作るためにヘーパイストスを訪れた際、欲情したヘーパイストスに襲われた。アテーナーは逃げ出したが追いついたヘーパイストスはアテーナーの脚に精液を撒いた。アテーナーは怒り精液を毛(羊毛)で拭うと地に投げ捨てた。この精液が落ちた土からエリクトニオスが生まれた。アテーナーはエリクトニオスを隠し育て、のちに箱に詰めアテーナイ王ケクロプスの娘パンドロソスへと預けた。この時、箱を開けることを禁じられたが、パンドロソスの姉妹は好奇心に負け箱を開け、赤子を巻いている大蛇を見てしまう。彼女たちは大蛇によって滅ぼされたとも、アテーナーの怒りによって狂いアクロポリスから墜死したとも伝えられる。その後エリクトニオスはアテーナーによってエレクテイオンで育てられ、のちにアテーナイの王となった。 ヒュギーヌスの伝承では、ポセイダーオーンによって唆されたヘーパイストスがアテーネーを妻にしようと寝室へと忍び込んだが、アテーネーは武器をもって抵抗し純潔を守った。このときヘーパイストスは精液を大地へと漏らし、そこから下半身が蛇の形をしたエリクトニオスが生まれた。アテーネーはこの子を育てようと小さな籠に入れ、ケクロプスの3人の娘たちに託した。娘たちが籠を開けたときカラスがその秘密を漏らしたために、娘たちはアテーネーによって狂い海へと身投げした。 神話ではトロイア戦争のきっかけは黄金の林檎を巡るアテーナー、ヘーラー、アプロディーテーの対立にあると伝えられる。黄金の林檎の行先はトロイアの王子パリスに委ねられ、アプロディーテーはパリスに「最も美しい女を与える」と約束をすることで黄金の林檎を手に入れた(パリスの審判)。しかしながら、この「最も美しい女」がスパルタ王メネラーオスのヘレネー妃であったことからトロイア戦争が引き起こされた。トロイア側にはアプロディーテーが、ギリシア側にはパリスを憎むアテーナーとヘーラーがついた。 アテーナーは戦場でギリシア勢のアキレウスやディオメーデースらの働きを助けている。『イーリアス』第5巻ではアテーナーはヘーラーとともに戦車に乗って戦場に赴き、ギリシア軍を助けようとする。トロイア側で激昂したアレースを阻止するため、ハーデースの兜で姿を隠したアテーナーは自ら戦車の御者となりディオメーデースを乗せアレースへ攻めかかった。ディオメーデースが槍を投げるとアテーナーがその槍を導いた。槍はアレースの下腹部へと突き刺さり、アレースは大きな叫び声をあげて空へと逃げ去った。『イーリアス』第21巻では、アテーナーは神々同士の戦いの中でアレースに対して、標識として置いてあった黒い大岩を持ち上げて、アレースの頭に投げつけ、昏倒させた。さらにアテーナーが目を離したすきにアプロディーテーがアレースを助けようとするが、ヘーラーの指示のもと、アテーナーはアプロディーテーの胸に拳を叩きつけ、アプロディーテーをアレースとともに大地へ撃ち落とした。トロイアの王子で防衛戦の総大将であったヘクトールがアキレウスに追い詰められた際、アポローンはヘクトールが逃げ切れるよう疲れ知らずの体に変えたが、アテーナーはヘクトールの弟デーイポボスの姿でヘクトールの横へと現れ、加勢があるようにみせかけ逃げるのを止めさせた。この為にヘクトールはアキレウスによって討ち取られた。 また、良く知られる「トロイアの木馬」について、ギリシア軍は「アテーナーの怒りを鎮めるために作られた捧げ物である」としトロイア軍に奪わせている。巨大な木馬をトロイアの城内に運び込んだことに反対した神官ラーオコオーンは、怒ったアテーナーによって両目を潰された。ラーオコオーンは痛みに苦しみながらも木馬を焼き払えと主張を曲げなかったために、アテーナーはテネドスから2匹の大蛇を呼び寄せてラーオコオーンとその2人の息子を襲わせ、息子たちをかみ殺させた。その後、2匹の大蛇はアテーナー神殿に登り姿を消した。 トロイア陥落後、トロイアの王女カッサンドラーはアテーナー神殿へと逃げ出した。カッサンドラーはアテーナーの神体にすがり助けを願うも小アイアースに捕えられ凌辱された。アテーナーはこれに激怒し、小アイアースへと神罰を下した。
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アテーナーは、知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと同じく処女神である。 女神の崇拝の中心はアテーナイであるが、起源的には、ギリシア民族がペロポネーソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシアの地に固有の女神だが、ヘレーネス(古代ギリシア人)たちは、この神をギリシアの征服と共に自分たちの神に組み込んだのである。 日本語では主に長母音を省略してアテナ、アテネと表記される場合が多い。
{{Redirect|アテナ}} {{Infobox deity | type = Greek | name = アテーナー<br/>{{lang|grc|{{unicode|Ἀθηνᾶ}}}} | image = NAMA Athéna Varvakeion.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|[[ペイディアス]]が制作したアテーナー・パルテノス像の[[ローマ時代]]のコピー。[[アテネ国立考古学博物館]]所蔵}} | deity_of = {{small|戦い、知恵の女神, 都市の守護女神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[アテーナイ]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = [[アイギス]] | symbol = [[フクロウ]], [[オリーブ]] | consort = | parents = [[ゼウス]], [[メーティス]] | siblings = [[アポローン]], [[アルテミス]], [[アレース]], [[ヘーパイストス]], [[ヘルメース]], [[ディオニューソス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]] | children = | mount = | Roman_equivalent = [[ミネルウァ]] | festivals = [[パンアテーナイア祭]], アレーポリア祭, スキーポリア祭 }} {{Greek mythology}} '''アテーナー'''(<small>[[古代ギリシア語]]</small>:{{lang|grc|{{unicode|'''Ἀθηνᾶ'''}}, ''Athēnā''}}、<small>[[ギリシア語イオニア方言|イオーニア方言]]</small>:{{lang|grc|{{unicode|'''Ἀθήνη'''}}, ''Athēnē''|アテーネー}}、<small>ドーリス方言</small>:{{lang|grc|{{unicode|'''Ἀθάνα'''}}, ''Athana''|アターナー}}、<small>叙事詩体</small>:{{lang|grc|{{unicode|'''Ἀθηναίη'''}}, ''Athēnaiē''|アテーナイエー}})は、[[知恵]]、[[芸術]]、[[工芸]]、[[戦略]]を司る[[ギリシア神話]]の[[女神]]で、[[オリュンポス十二神]]の一柱である。[[アルテミス]]、[[ヘスティアー]]と同じく処女神である。 女神の崇拝の中心は[[アテナイ|アテーナイ]]であるが、起源的には、[[ギリシャ人|ギリシア民族]]が[[ペロポネソス半島|ペロポネーソス半島]]を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシアの地に固有の女神だが、ヘレーネス([[古代ギリシア人]])たちは、この神をギリシアの征服と共に自分たちの神に組み込んだのである。 [[日本語]]では主に[[長母音]]を省略して'''アテナ'''、'''アテネ'''と表記される場合が多い。 == 説明 == === 都市守護神 === [[File:Tétradrachme athénien représentant Athéna.jpg|thumb|left|[[アテーナイ]]の[[テトラドラクマ]]には、表面(左)にはアテーナーの頭部が、裏面(右)にはアテーナイのポリスを象徴する[[ミネルヴァのフクロウ|フクロウ]]と[[オリーブ]]の小枝と三日月が刻印されていた。]] アテーナーは、古くからギリシアの地にあった城塞都市にあって、「都市の守護女神」として崇拝されて来た。この崇拝の伝統は、[[ミーノーア文明]]まで遡る。その[[神殿]]は都市を象徴する小高い丘、例えばアテーナイであれば、[[アクロポリス]]に築かれており、女神を都市の守護者とする崇拝は、ギリシア全土に及んでおり、アテーナイ、[[ミケーネ|ミュケーナイ]]、[[コリントス]]、[[テーバイ]]などの有力な都市でも、その中心となる丘上には、女神の神殿があった。アテーナイは多くのポリスにおいて、「ポリウーコス(都市守護者)」の称号で呼ばれていた。 このようにアテーナーは、[[ポリス|都市]]の守護者であり、アテーナーの戦いは、都市の自治と平和を守るための戦いで、ただ血生臭く暴力が優越する軍神[[アレース]]の戦いとは異なるものである。 女神は、[[アテナイのアクロポリス|アテーナイのアクロポリス]]に[[パルテノン神殿|パルテノーン]](処女宮、Parthenon)の神殿を持ち、フクロウ<!-- 狭義のフクロウである''Strix uralensis''とは別のものなので、フクロウへリンクを貼らないこと -->を自己の聖なる動物として持っていた。[[ホメーロス]]は女神を、'''グラウコーピス・アテーネー'''(glaukopis Athene)と呼ぶが、この定型修飾称号の「グラウコーピス」は、「輝く瞳を持った者」「灰色・青い瞳を持った者」というのが本来の意味と考えられるが、これを、梟(グラウクス)と関連付け、「梟の貌を持った者」というような解釈も行われていた。女神はまた、知恵を表す[[ヘビ|蛇]]や、[[平和]]の印として[[オリーブ]]をその象徴としていた<ref>[[岡田温司]]『聖書と神話の象徴図鑑』より。</ref>。 === 三代の王権とアテーナーの誕生 === [[ヘーシオドス]]が『[[神統記]]』に記すところでは、アテーナーは[[ゼウス]]の頭頂部より武装して鎧を纏った姿で出現したとされる。 ギリシア神話の神々の系譜においては、[[古代オリエント|オリエント]]の神々の系譜と同様に、三世代にわたる神々の「王権」の移譲・強奪があった。ギリシア神話では、天の神[[ウーラノス]]が第一の王権を持ち、原初の大地大神[[ガイア]]との間に多数の息子・娘をなした。これが[[ティーターン]]の一族である。ウーラノスの末子が[[クロノス]]であり、クロノスは母ガイアに教唆されて、絶対の権力を振るった父ウーラノスを不意打ちで攻撃し、ウーラノスの男性器を切り落とした。こうしてクロノスが神々の王権の第二の支配者となる。しかしクロノスはガイアとウーラノスの予言によって、彼もまた自分の子によって支配権を奪われるだろうとされたため、生まれてくる子供達を飲み込んだが、[[ゼウス]]だけはクレタ島に逃れ、やがて成長したゼウスは兄弟姉妹達を復活させ、クロノスの王権を簒奪する。 このようにしてゼウスを主権者とする[[オリュンポス十二神|オリュンポス]]の王権が誕生したが、ゼウスもまたガイアとウーラノスによる予言を受けた。それは、最初の配偶者である女神[[メーティス]]との間に生まれる子供は、最初に、母に似て智慧と勇気を持つ娘が生まれ、次には傲慢な息子が生まれるだろう。そしてゼウスの王権は再度、彼らによって簒奪されるだろうというものである。その後メーティスが身籠もると、ゼウスは妊娠したままのメーティスを素早く飲み込み、禍根を断とうとした。 [[File:René-Antoine Houasse - Minerva.jpg|thumb|『アテーナーの誕生』 ([[ルネ=アントワーヌ・ウアス]]作、1688年より前、[[ヴェルサイユ宮殿]]所蔵)]] [[アポロドーロス]]が『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』で述べるところでは、胎児は、ゼウスの身体の中で生き続け成長し、ゼウスは激しい頭痛を感じるようになったため、[[プロメーテウス]]に(また一説では、[[ヘーパイストス]]に)斧([[ラブリュス]])でみずからの頭部を割らせると、中から出てきたのが、[[甲冑]]を纏った成人した姿のアテーナーであった<ref>[[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』 一巻III 6。</ref>。アテーナーが生まれると同時に、宇宙は大きくよろめき、大地と大海は轟音を発しながら揺れ動き、太陽は軌道上で停止した<ref>ホメーロス、『アテナ賛歌』。</ref>。こうして、形式上、アテーナーを生んだのはメーティスではなくゼウス本人だということになったので、ゼウスによるオリュンポスの支配は揺らぎないものとなった。ゼウスの子供たちの中で、アテーナーはゼウスの最も気に入りの娘であり、アテーナーに対する偏愛により、他の神々は嫉妬した<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』69頁。</ref>。 ==== 女神の誕生に関する異説 ==== [[ロバート・グレーヴス|ロバート・グレイヴズ]]が『[[ギリシア神話 (ロバート・グレーヴス)|ギリシア神話]]』で記すところでは、アテーナーはヘレーネスがギリシアに到来する以前から、[[母権制]]社会の{{仮リンク|ペラスゴイ人|en|Pelasgians}}によって崇拝されていた、人面蛇身で顔を見た者を石に変える大地の女神メテュスであったとする(ただしグレイヴズの主張に学術的裏づけはない)。ペラスゴイ人の伝承では、女神は[[リビア]]のトリートーニス湖のほとりに誕生したとされる。土地の三柱の[[ニュムペー]]が女神を養育した。 女神は山羊革の衣類を纏うリビアで成長した。少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという<ref>[[ロバート・グレーヴス|R・グレイヴズ]]『ギリシア神話』69頁。</ref>。成長した女神は[[クレタ島|クレータ島]]を訪れ、そしてギリシア本土のアテーナイへとやって来た。 他にも、雲の中に隠れていたアテーナーをゼウスが雲に頭をぶつけることによって誕生させたともいわれる。 === 女神の祭儀と神殿 === [[File:Jacques Stella - Minerva with the Muses (1640-45).jpg|thumb|『アテーナーと[[ムーサ]]たち』 ([[:en:Jacques Stella|ジャック・ステラ]]作、1640-1645年頃、[[ルーヴル美術館]]所蔵)]] [[File:Rubens - Judgement of Paris.jpg|thumb|『[[パリスの審判]]』 [[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]画 (1636年、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|国立美術館]]所蔵)]] アテーナーの祭儀でもっとも著名なものは、その崇拝の中心地であるアテーナイ市で7月に行われる[[パナテナイア祭|パンアテーナイア祭]]である。これはアテーナーの誕生日(ヘカトンバイオーンの月の28日)を祝う祭りで、アッティケー都市連合の成立も記念して祝われた。[[馬術]]、[[詩歌]]、[[音楽]]、[[文芸]]などの競技が催された。この祭りは4年に一度大祭が行われ、パンアテーナイア祭はとくにこの大祭を指すことがある。このときはパルテノーン神殿にあるアテーナーの神像の衣が取り替えられ、乙女たちが新しく織った衣を着せた。[[アテナイのアクロポリス|アテーナイのアクロポリス]]のパルテノーン神殿の[[メトープ]]には、この衣を運ぶ行列の模様が彫られている。 女神の神殿はアクロポリスの頂にあるパルテノーン神殿が著名で、また同じくアクロポリスに、女神は「エレクテウスの宮居」を備えていたとされる。エレクテウスは人名であるが、これは恐らく、古代アテーナイの伝説の王である[[エリクトニオス]]の別名と考えられる。アテーナイの支配権をめぐって、かつて海神[[ポセイドーン]]とアテーナーが争ったことがあり、初代アテーナイ王[[ケクロプス]]が女神を支持したことで、アテーナー女神が勝利を得た。 === 女神の象徴 === [[フクロウ|梟]]と[[オリーブ]]が女神の聖なる象徴として[[硬貨|コイン]]の[[テトラドラクマ]]などに刻まれるが、有翼の女神[[ニーケー]](Nike、勝利の意、ローマ神話では[[ウィクトーリア]](Victoria)と呼ばれる)も、彼女の化身であるとして登場することがある。戦の女神としてのアテーナーは父神ゼウスと同様に、[[アイギス]](山羊革楯)を持ち、その楯には[[ゴルゴーン]]の頭部が付けられている。おもに後ろに並んだ100人の歩兵を隠すほど大きい前立ての付いた兜を被り、槍とアイギスを持った若い威厳のある乙女の姿で表される。一説には梟のように大きな灰色の目を持つ凛々しい姿と言われ、みずからの聖鳥、梟との関連性を示している。 === ローマ神話での対応 === [[ローマ神話]]では、はるか古くから、[[エトルスキ|エトルスキー]]系の知恵と工芸を司る女神[[ミネルウァ]]がアテーナーに対応する女神として崇拝されていた。ミネルウァの神殿もやはり都市の中心の丘の上にあるのが普通で、都市守護者であった。[[ロマンス諸語|ロマンス語]]ではミネルウァは、ミネルヴァという発音になる。ラテン語:Minerva、英語読みはミナーヴァ。ミネルウァの聖鳥は、やはり梟である。 === 別名 === アテーナーはさまざまな別名を持つ。イオーニア方言系の[[ホメーロス]]は、'''アテーネー'''と呼び、あるいは方言形でアターナーとも呼ばれる。また'''アテーナイアー'''とも呼ばれる(この名のイオーニア方言形は、アテーナイエーである)。アテーナイアーを約めて'''アテーナー'''と呼ぶのだともされる。 それ以外に、'''パルラス・アテーネー'''の形でホメーロスが歌うように、'''パラス'''(Pallas)という別名がある。トリート・ゲネイア(トリート生まれの者の意)、トリートーニスなどの別名も持つ。これらの名前が何の意味かは色々な解釈があるが明確には分からない。ただ、海神[[トリートーン]]や、[[アムピトリーテー]]などと同じ語幹から造られている可能性が高く、「水・水辺」に関係する名前だと解釈されている。 == 物語 == === パラスとパラディオン === [[アポロドーロス]]によれば、アテーナーはトリートーンの娘[[パラス]]と一緒に育てられた。二人は親友となり、戦の技に励んでいたが、喧嘩となった。パラスが一撃を女神に与えようとした際、ゼウスは危惧して、空より[[アイギス]]を差し出した。パラスは驚き、直後のアテーナーの攻撃が彼女の命を奪った。女神は親友の死を悲しみ、パラスに似せて[[パラディウム|パラディオン]]と呼ばれる木像を造った<ref name=AP3123>アポロドーロス『ギリシア神話』 三巻XII 3。</ref>(パラディオンとは、[[イリオス|イーリオス]]を建設したイーロスが、「徴を示してほしい」とゼウスに祈ると、天から降って来た木像である<ref name=AP3123 />)。 <!-- 以下、出典不明なので、コメントアウト。アテーナーとパラスは、元々同一か双子の女神だったとする説もある。 -->なお、フランスの[[トランプ]]では、パラスの名前でスペードのクイーンのモデルとされていて、一般的なカード(インターナショナル・フェイス)では、クイーンの中で唯一武器を所持している。 === ギガントマキアー === [[File:Athena Herakles Staatliche Antikensammlungen 2648.jpg|thumb|紀元前480から470年製の[[アッティカ]]の赤絵式の[[キュリクス]]に描かれたアテーナー及び[[ヘーラクレース]]。]] ティーターン族を[[タルタロス]]に幽閉したゼウスに対して、ガイアは怒り、多くの[[ギガース]]達を生み出してゼウスを脅かし、戦をけしかけた。これが[[ギガントマキアー]]である。この時、アテーナーはギガースたちの中で最も強力な[[エンケラドス]]と戦い、[[シチリア|シケリア島]]を投げつけて、これを圧殺した。また、[[トラキア|トラーキア]]にあっては不死であった{{仮リンク|アルキュオネウス|en|Alcyoneus}}を[[ヘーラクレース]]とともに引きずり出し、打殺したとされる。また、アテーナーはギガースの一人パッラースを殺してその皮で盾を作ったためパラス・アテーナーと名乗るようになったともいわれる<ref>マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』。<!-- 高津春繁の著作は「事典」ではなく「辞典」なのでグラント、ヘイゼルの著作と判断しましたが、もしグラント、ヘイゼルに該当する記述がない場合は編集して下さい。 --></ref>。 === エリクトニオス === アテーナーには[[エリクトニオス]]の出生にまつわる伝承が伝えられる。アポロドーロスの伝承では、アテーナーが武器を作るために[[ヘーパイストス]]を訪れた際、欲情したヘーパイストスに襲われた。アテーナーは逃げ出したが追いついたヘーパイストスはアテーナーの脚に精液を撒いた。アテーナーは怒り精液を毛(羊毛<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0022%3Atext%3DLibrary%3Abook%3D3%3Achapter%3D14%3Asection%3D6 Apollodorus, Library, book 3, chapter 14, section 6]</ref>)で拭うと地に投げ捨てた。この精液が落ちた土からエリクトニオスが生まれた<ref name="Apollodorus_3">アポロドーロス『ギリシア神話』 三巻。</ref>。アテーナーはエリクトニオスを隠し育て、のちに箱に詰めアテーナイ王ケクロプスの娘パンドロソスへと預けた。この時、箱を開けることを禁じられたが、パンドロソスの姉妹は好奇心に負け箱を開け、赤子を巻いている大蛇を見てしまう。彼女たちは大蛇によって滅ぼされたとも、アテーナーの怒りによって狂いアクロポリスから墜死したとも伝えられる<ref name="Apollodorus_3"/>。その後エリクトニオスはアテーナーによって[[エレクテイオン]]で育てられ、のちに[[アテーナイ]]の王となった<ref name="Apollodorus_3"/>。 [[ヒュギーヌス]]の伝承では、[[ポセイドーン|ポセイダーオーン]]によって唆されたヘーパイストスがアテーネーを妻にしようと寝室へと忍び込んだが、アテーネーは武器をもって抵抗し純潔を守った。このときヘーパイストスは精液を大地へと漏らし、そこから下半身が蛇の形をしたエリクトニオスが生まれた<ref name="Hyginus_166">ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』166話。</ref>。アテーネーはこの子を育てようと小さな籠に入れ、ケクロプスの3人の娘たちに託した。娘たちが籠を開けたとき[[カラス]]がその秘密を漏らしたために、娘たちはアテーネーによって狂い海へと身投げした<ref name="Hyginus_166"/>。 === トロイア戦争 === [[File:(12) Flaxman Ilias 1795, Zeichnung 1793, 186 x 402 mm.jpg|left|thumb|300px|[[ジョン・フラックスマン]]が描いた『イーリアス』挿絵(1795年)。[[ホーラー]]たちに導かれ、ヘーラーとアテーナーが戦車に乗ってオリュムポスからトロイア戦争の戦場へと向かう様子を描いている。]] 神話では[[トロイア戦争]]のきっかけは[[黄金の林檎]]を巡るアテーナー、[[ヘーラー]]、[[アプロディーテー]]の対立にあると伝えられる<ref name="tomas">{{Cite book|和書|author=トマス・ブルフィンチ|authorlink=トマス・ブルフィンチ|translator=大久保博 |title=完訳 ギリシア・ローマ神話 下|publisher=角川文庫 |year=2012 }}27-28章。</ref>。黄金の林檎の行先は[[トロイア]]の王子[[パリス]]に委ねられ、アプロディーテーはパリスに「最も美しい女を与える」と約束をすることで黄金の林檎を手に入れた([[パリスの審判]])。しかしながら、この「最も美しい女」が[[スパルタ|スパルタ王]][[メネラーオス]]の[[ヘレネー]]妃であったことからトロイア戦争が引き起こされた<ref name="tomas"/>。トロイア側にはアプロディーテーが、ギリシア側にはパリスを憎むアテーナーとヘーラーがついた<ref name="tomas"/>。 アテーナーは戦場でギリシア勢の[[アキレウス]]や[[ディオメーデース]]らの働きを助けている。『[[イーリアス]]』第5巻ではアテーナーはヘーラーとともに戦車に乗って戦場に赴き、ギリシア軍を助けようとする。<!--彼がトロイアの勇士でアプロディーテーの子[[アイネイアース]]の腰を砕き、とどめを刺そうとしたところ、アプロディーテーは我が子を守るためにその姿を隠し抱き上げた。これが不愉快であったディオメーデースは槍でアプロディーテーの腕に傷をつけた。血を流したアプロディーテーがアイネイアースを取り落とすと[[アポローン]]がこれを掬いあげた。それから-->トロイア側で激昂した[[アレース]]を阻止するため、[[ハーデース]]の兜で姿を隠したアテーナーは自ら戦車の御者となりディオメーデースを乗せアレースへ攻めかかった。ディオメーデースが槍を投げるとアテーナーがその槍を導いた。槍はアレースの下腹部へと突き刺さり、アレースは大きな叫び声をあげて空へと逃げ去った<ref>ホメーロス『イーリアス』5巻。</ref><ref name="matsuda1">{{Cite book|和書|author=松田治 |title=トロイア戦争全史 |publisher=講談社学術文庫 |year=2008 |page= |isbn= }}「58 奮戦するディオメーデース」(Kindle版:1620-1647/3807)</ref>。『イーリアス』第21巻では、アテーナーは神々同士の戦いの中でアレースに対して、標識として置いてあった黒い大岩を持ち上げて、アレースの頭に投げつけ、昏倒させた。さらにアテーナーが目を離したすきにアプロディーテーがアレースを助けようとするが、ヘーラーの指示のもと、アテーナーはアプロディーテーの胸に拳を叩きつけ、アプロディーテーをアレースとともに大地へ撃ち落とした<ref>『イーリアス』21巻400行‐433行。</ref>。トロイアの王子で防衛戦の総大将であった[[ヘクトール]]がアキレウスに追い詰められた際、[[アポローン]]はヘクトールが逃げ切れるよう疲れ知らずの体に変えたが、アテーナーはヘクトールの弟[[デーイポボス]]の姿でヘクトールの横へと現れ、加勢があるようにみせかけ逃げるのを止めさせた。この為にヘクトールはアキレウスによって討ち取られた<ref name="tomas"/>。 また、良く知られる「[[トロイアの木馬]]」について、ギリシア軍は「アテーナーの怒りを鎮めるために作られた捧げ物である」としトロイア軍に奪わせている<ref name="tomas"/>。巨大な木馬をトロイアの城内に運び込んだことに反対した神官[[ラーオコオーン]]は、怒ったアテーナーによって両目を潰された。ラーオコオーンは痛みに苦しみながらも木馬を焼き払えと主張を曲げなかったために、アテーナーはテネドスから2匹の大蛇を呼び寄せてラーオコオーンとその2人の息子を襲わせ、息子たちをかみ殺させた。その後、2匹の大蛇はアテーナー神殿に登り姿を消した{{Refnest|name=Virgil|ウェルギリウス『アエネーイス』II。<ref>{{Cite book|和書|last= |first= |author=ウェルギリウス|translator=小野塚友吉 |title=アエネイス |publisher=グーテンベルク21 |year=2014 |quote=Kindle版:635-1066/5368}}</ref>}}<ref name="matsuda">{{Cite book|和書|author=松田治 |title=トロイア戦争全史 |publisher=講談社学術文庫 |year=2008 |page= |isbn= }}「123 ラーオコオーンの悲劇」(Kindle版:3194-3221/3807)</ref>。 トロイア陥落後、トロイアの王女[[カッサンドラー]]はアテーナー神殿へと逃げ出した。カッサンドラーはアテーナーの神体にすがり助けを願うも[[小アイアース]]に捕えられ凌辱された。アテーナーはこれに激怒し、小アイアースへと神罰を下した<ref name="matsuda2">{{Cite book|和書|author=松田治 |title=トロイア戦争全史 |publisher=講談社学術文庫 |year=2008 |page= |isbn= }}「131 カサンドレー凌辱さる」(Kindle版:3425-3439/3807)</ref>。 == その他 == [[File:The Combat of Mars and Minerva by Jacques-Louis David.jpg|thumb|『アレースとアテーナーの戦争』 ([[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]作、1771年、[[リヨン美術館]]所蔵)]] * 英雄たちに対しては好意的で、[[ペルセウス]]のメドゥーサ退治の際には表面が鏡のように磨かれた盾を貸し与え、ヘーラクレースの[[ステュムパーロスの鳥]]退治の際にはヘーパイストスの作った青銅の鳴子を与え、[[ベレロポーン]]に[[ペーガソス]]を調教できる黄金のくつわを与えたり、[[オデュッセウス]]に助言をして妻に会わせたりしている。 * アテーナーは神話の中では非常に気が強く、プライドの高い一面を見せており、涜聖的人物に対して容赦なく罰を与えている。例えばアレースには「勝手気ままに振る舞っている」と指摘されており、自分と張り合った[[メドゥーサ]]や[[アラクネー]]、アテーナーの裸体を目撃した[[テイレシアース]]らが罰せられている。さらに[[イーリオスの陥落|イーリオス陥落]]の際、アテーナーの神殿で[[カッサンドラー]]が[[小アイアース]]に凌辱されると、アテーナーは激怒して小アイアースに報復している。 * 美と知恵を兼ね備えたアテーナーは自分の容貌の美しさに敏感であり、アテーナーと美を競ったメドゥーサを容赦なく処罰し、[[パリスの審判]]で[[ヘーラー]]や[[アプロディーテー]]と美を競った。また、アテーナーは神々の宴会で自分の発明した[[アウロス]](二本管の笛)を吹くと頬が膨れ、顔が醜くなるということでヘーラーとアプロディーテーに笑われた。演奏している自分の顔を湖面に映して見たアテーナーは笑われる理由を知り、そのアウロスに呪いを掛けて捨てた。 * アテーナーが水浴をしている時、[[カリクロー]]の息子であるテイレシアースはアテーナーの全裸の姿を見てしまった。アテーナーはテイレシアースを罰し、盲目にしたが、カリクローに盲目の治癒を乞われたため、アテーナーは代わりに未来を予言する能力を授けた<ref>アポロドーロス『ギリシア神話』 三巻VI 7。</ref><ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』72頁。</ref>。 * アテーナーはヘーラーとも仲が良く、ヘーラーの命令に従うこともある。アテーナーはヘーラーを支援して[[アルゴナウタイ]]を庇護して冒険を助けた。また、パリスの審判を根に持ちトロイア殲滅を望む二人は、ギリシア側に助力した。ヘーラーの豪華な[[刺繡]]入りの[[ローブ]]もアテーナーによって織られたものである<ref>ホメーロス『イーリアス』14巻178-180行。</ref><ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』62,74頁。</ref>。ヘーラーが起こしたゼウスに対する反乱にも参加した。また、ゼウスの立場に合わせて行動することもあり、ゼウスとアテーナーの策略でヘーラーの母乳を飲んだヘーラクレース(赤子の頃)は不死の体と驚異的な怪力を手に入れている。 * アテーナーはギリシャの他の神々がそうであるように傲慢でみずからを貶める存在には容赦ない報復を行うが、一方でゼウスの嫡男である同じ戦の神のアレースが血なまぐさい戦いの残忍さを象徴する神であるのに対し、アテーナーは理知的で気高い戦士として登場する。海の神ポセイドーンとの争いでは、ポセイドーンが馬を作りだし人間に与えたのに対し、アテーナーはオリーブの木を作り出し人間に与え勝利するなど思慮深い面を見せる。アテーナーの信仰では学者は啓示を、裁判官は明晰を求め、軍人は戦術を磨こうとアテーナーに祈りを捧げたと言われる<ref>[[バーナード・エヴスリン]]『ギリシア神話小事典』19頁。</ref>。 == ギャラリー == === 西洋絵画 === <center><gallery widths="140" heights="140"> Andrey Ivanovich Ivanov - Minerva in the Heavens, 1820.jpg|{{small|{{仮リンク|アンドレイ・イヴァノヴィチ・イワノフ|en|Andrey Ivanovich Ivanov}}『天にあるアテナ』(1820年) [[ロシア美術館]]所蔵}} Johann Heinrich Tischbein - Minerva in Military Clothes, 1779.jpg|{{small|[[ヨハン・ハインリヒ・ティシュバイン]]『アテナ』(1779年) {{仮リンク|ニュー・ギャラリー|en|New Gallery (Kassel)}}所蔵}} Pallas Athena by Franz von Stuck.jpg|{{small|[[フランツ・フォン・シュトゥック]]『パラス・アテナ』(1898年) 個人蔵}} Poseidon and Athena battle for control of Athens - Benvenuto Tisi da Garofalo (1512).jpg|{{small|[[ガロファロ]]『ポセイドンとアテナイの所有権を争ったアテナ』(1512年) [[アルテ・マイスター絵画館]]所蔵}} Noel Halle, Спор Афины и Посейдона, 1748.jpg|{{small|[[ノエル・アレ]]『アテナとポセイドンの競争』(1748年) [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Athena Scorning the Advances of Hephaestus.jpg|{{small|[[パリス・ボルドーネ]]『アテナに迫ったヘパイストス』(1555-1560年頃) 個人蔵}} Theodoor van Thulden - Athena and Pegasus (1654).jpg|{{small|[[テオドール・ファン・テュルデン]]『アテナとペガサス』(1654年) 個人蔵}} René-Antoine Houasse - Story of Minerva - Minerva Watering her Horses into the Sea, 1688.jpg|{{small|[[ルネ=アントワーヌ・ウアス]]『馬を調教したアテナ』(1688年) [[ベルサイユ宮殿]]所蔵}} René-Antoine Houasse - Story of Minerva - Minerva Giving her Shield to Perseus, 1697.jpg|{{small|ルネ=アントワーヌ・ウアス『ペルセウスに盾を貸し与えたアテナ』(1697年) ベルサイユ宮殿所蔵}} Giuseppe Bottani - Ulysses transformed by Athena into beggar, 1775.jpg|{{small|{{仮リンク|ジュゼッペ・ポターニ|en|Giuseppe Bottani}}『アテナによって乞食に変身させたオデュッセウス』(1775年) {{仮リンク|マラスピーナ絵画館|it|Pinacoteca Malaspina}}所蔵}} Joseph Benoit Suvee - Battle Between Minerva and Mars, 1771.jpg|{{small|{{仮リンク|ジョセフ=ブノワ・シュヴァ|en|Joseph-Benoît Suvée}}『アテナとアレスの戦争』(1771年) [[リール宮殿美術館]]所蔵}} Jacques Louis Dubois - Minerva.jpg|{{small|ジャック・ルイ・デュボワ『アテナ』(19世紀)}} </gallery></center> === 彫刻 === [[File:Athena Parthenos Altemps Inv8622.jpg|thumb|180px|紀元前1世紀の「{{仮リンク|アンティオコス (彫刻家)|en|Antiochus (sculptor)|label=アンティオコス}}」と署名された大理石の複製品。紀元前5世紀の[[アクロポリス]]に立っていた[[ペイディアス]]の[[アテナ・プロマコスの像]]とは異なる。]] <center><gallery widths="140" heights="140"> Minerva by Joseph Nollekens.jpg|{{small|{{仮リンク|ジョセフ・ノルキンズ|en|Joseph Nollekens}} アテナ像(1775年) {{仮リンク|ゲッティ・センター|en|Getty Center|redirect=1}}所蔵}} Mattei Athena Louvre Ma530 n2.jpg|{{small|『マテイのアテナ』 [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Statue of Athena, MA 464 2010.jpg|{{small|『ヴェレトリのアテナ』 ルーヴル美術館所蔵}} Athena Giustiniani - Braccio Nuovo, Museo Chiaramonti - Vatican Museums - DSC00910.jpg|{{small|『アテナ・ジュスティニアニ』 [[バチカン美術館]]所蔵}} Algardi Altemps 01.JPG|{{small|『アテナ・アルガルディ・アルテンプス』 [[ローマ国立博物館]] アルテンプス宮所蔵}} 7347 - Piraeus Arch. Museum, Athens - Athena - Photo by Giovanni Dall'Orto, Nov 14 2009.jpg|{{small|ピレウスのアテナ女神の青銅像(紀元前360年頃) [[ピレウス考古学博物館]]所蔵}} Aphaia pediment Athena W-I Glyptothek Munich 74.jpg|{{small|[[アパイアー]]女神神殿のアテナ女神の像 [[グリュプトテーク]]所蔵}} Austria-00892 - Pallas Athene Statue (20882553519).jpg|{{small|[[ウィーン]]の[[国会議事堂 (オーストリア)|国会議事堂]]前にあるパラス・アテナ女神の像}} Athena at Parthenon in Nashville, TN, US.jpg|{{small|[[テネシー州]]の[[ナッシュビル]]にあるアテナ・パルテノン女神の像}} Acropole Musée Athéna pensante.JPG|{{small|{{仮リンク|嘆きのアテナ|en|Mourning Athena}}(紀元前460年頃) [[アクロポリス博物館]]所蔵}} </gallery></center> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、[[岩波書店]](1984年) * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、岩波書店(1953年) * [[オウィディウス]]『[[変身物語]](上・下)』[[中村善也]]訳、[[岩波文庫]](1981・1984年) * [[ホメーロス]]『[[イーリアス|イリアス]](上・下)』[[松平千秋]]訳、岩波文庫(1992年) * ホメーロス『[[オデュッセイア]](上・下)』松平千秋訳、岩波文庫(1994年) * ホメーロス『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロスの諸神讃歌]]』[[沓掛良彦]]訳、[[ちくま学芸文庫]](2004年) * 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店(1960年) * [[呉茂一]]『ギリシア神話 上・下』[[新潮文庫]](1979年) * [[岡田温司]]監修『聖書と神話の象徴図鑑』[[ナツメ社]](2011年) * [[ロバート・グレーヴス|ロバート・グレイヴズ]]『ギリシア神話 新版』[[高杉一郎]]訳、[[紀伊國屋書店]](1998年) * マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』木宮直仁 ほか訳、[[大修館書店]](1988年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]](1991年) * [[バーナード・エヴスリン]]『ギリシア神話小事典』小林稔訳、[[社会思想社]](1979年) * [[ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』[[松田治]]・青山照男訳、[[講談社学術文庫]](2005年) == 関連項目 == {{commonscat|Athena}} * [[アテネ (小惑星)]] * {{ill2|Nyctimene (mythology)|en|Nyctimene (mythology)}} - 神話で、アテーナーにフクロウに変えられた人。 {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{国の擬人化}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あてえなあ}} [[Category:アテーナー|*]] [[category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:アテナイ]] [[Category:地母神]] [[Category:知識の神]] [[Category:軍神]] [[Category:女神]]
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ヘーパイストス
ヘーパイストス(古希: ΗΦΑΙΣΤΟΣ, Ἥφαιστος, Hēphaistos)は、ギリシア神話に登場する神である。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスらを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金鎚、矢床である。 その名前の語源は「炉」「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、インド神話の火の神・ヤヴィシュタに由来するともいわれる。古くから小アジアおよびレームノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神といわれる。 ローマ神話ではウゥルカーヌス(Vulcānus)に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みしたヴァルカン(Vulcan)や、日本語では長母音を省略してヘパイストスやヘファイストスとも呼ばれる。 小惑星のヘファイストスはヘーパイストスにちなんで命名された。 ゼウスとヘーラーの息子で第1子。ゼウスは、前妻であるテミスとの間にホーライ3姉妹やモイライ3姉妹などをもうけた。ゼウスが前妻との間に立派な子を儲けていたことに焦ったヘーラーが、正妻としての名誉を挽回するべく単性生殖して産んだ子供であるとされる。ところが、生まれたヘーパイストスは両足の曲がった醜い奇形児であった。これに怒ったヘーラーは、生まれたばかりのわが子を天から海に投げ落とした。その後、ヘーパイストスは海の女神テティスとエウリュノメーに拾われ、9年の間育てられた後、天に帰ったという。ヘーパイストスはその礼として、テティスとエウリュノメーに自作の宝石を送っている。 他の説では、ヘーラクレースの航海を妨害するために、嵐で船を漂流させたヘーラーが、ゼウスから罰せられるのを、ヘーパイストスがかばおうとしたことから、ゼウスによって地上へ投げ落され、1日かかってレームノス島に落ち、シンティエス人に助けられた。この時に足が不自由になったとされる。 一般にはゼウスとヘーラーの息子とされるが、ヘーラーが1人で生んだという伝承もある。それによればヘーラーはゼウスと対立し、ゼウスと交わらずに1人で生んだという。またゼウスは男性ながら、美貌と才気を兼ね備えた女神アテーナーを生んだが、ヘーラーの生んだヘーパイストスは醜い子供だったので、これにより正妻としての面目を失ったヘーラーは、対抗してティーターンの力を借り、自分も1人で子テューポーンをもうけたという。 ヘーパイストスはオリュンポスの神々に加えられたが、ヘーラーの彼への冷遇は続き、彼は母への不信感を募らせていった。そんなある日、ヘーパイストスからヘーラーに豪華な椅子が届けられた。宝石をちりばめ、黄金でつくられ、大変美しい椅子で、その出来に感激した上機嫌のヘーラーが椅子に座ったとたん体を拘束され身動きが取れなくなってしまった。その後ディオニューソスがヘーパイストスを酔わせて天上に連れてきて解放させたといわれる。 神々の武具を作ることで有名なヘーパイストスだが、自ら戦うこともある。『イーリアス』ではヘーラーに命じられて、アキレウスを襲う河の神スカマンドロスと対決し、決して弱まらぬ炎を放って巨大な河そのものを瞬時に沸騰・蒸発させ、河の神を屈服させた。また軍神アテーナーは、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたという。 なお、ヘーラーが一人で生んだのはアレースとする伝承もある。詳しくはフローラを参照。 ヘーパイストスの妻はアプロディーテーとも、カリスのアグライアーともいわれる。一説には天上の妻はアプロディーテーであり、地上の妻はカリスであるという。 ヘーパイストスの子供にはアテーナイの王エリクトニオス、テーセウスに退治されたペリペーテース、アルゴナウタイの1人であるパライモーンなどがいる。 ホメーロスの『オデュッセイア』ではヘーパイストスはアプロディーテーと結婚している。ゼウス自らヘーパイストスにアプロディーテーを妻として与えたという。しかし、彼女はヘーパイストスの醜さを嫌っていた。そこに軍神アレースが現れた。アレースはゼウスとヘーラーの子であるものの、争いの神であり残虐な性格である事から、神々や人々からの評判はすこぶる悪かったが、オリュンポスの男神の中でも一二を争う美男子だった。やがて醜い夫との生活に疲れていたアプロディーテーは、美形のアレースと恋愛関係となる。当のヘーパイストスは、妻の浮気にまったく気付かず、夫婦仲の悪さはアプロディーテーの機嫌が悪いだけだと妻を信じていた。しかしヘーリオスから事実を知らされたヘーパイストスは落胆し、同時にアプロディーテーへの激しい憎悪が芽生えた。 ある日、ヘーパイストスは「仕事場に行く。しばらく家には戻れない」と言い家を出て行く。これ幸いと浮気に浸るアレースとアプロディーテーだが、二人で寝床に入ったとたんに見えない網で捕えられ、裸で抱き合ったまま動けなくなってしまった。この網は、妻への復讐の為にヘーパイストスが作った特製の網で、彼以外解く事が出来ない物だったのである。何とか解こうとする二人であったが、動けば動くほど体に食い込み、完全に身動きが取れなくなってしまった。 妻とアレースの密通現場を押さえたヘーパイストスであったが、妻が自分には見せなかった媚態の艶やかなる美しさをアレースに晒したことに激怒、更なる辱めを与えてやろうと考えていた。すると、そこへ伝令の神であるヘルメースが偶然にも通りかかる。ヘルメースがアプロディーテーに片思いしていることを知っていたヘーパイストスは、密通現場を彼に見せれば興味を持つと考え、ヘルメースを招き入れた。彼の目論見通り、ヘルメースは興味を示し釘付けになる。すると、ヘーパイストスは「他の十二神を呼んで来て頂きたい。特に結婚の仲人をして頂いた母上を呼んで来て欲しい」とヘルメースに頼んだ。伝令の神であるヘルメースは、瞬く間にオリンポス中を駆け巡って面白いものが見られると触れ回り、十二神をヘーパイストスの神殿の前に連れて来た。 そして、集まった神々を前にヘーパイストスは「これから面白い見世物をご覧に入れましょう」と言って、アプロディーテーとアレースの密通現場を晒したのである。密通現場を見せられた神々は、皆困った顔をしてしまう。と言うのもアプロディーテーとアレースの二人の様が余りにも面白く、大声で笑いたかったのだが、神である自分たちが品もなく馬鹿笑い出来なかったことと、結婚を取り仕切ったヘーラーの手前、笑うことが出来なかった為である。ところが、アポローンが「ヘルメース殿、貴殿は以前からアプロディーテーと臥所を供にしたいと申していたそうではないか。丁度良い機会だ、アレースと代わって貰ったらどうだ?」と問うたのに対し、ヘルメースが「入りたいのは山々なれど、私の一物はアレース殿の物と比べ、頑丈でも逞しくもございませぬ」と返したことで、我慢していた神々は思わず吹き出してしまった。アレースは恥ずかしさのあまり、解放された途端逃げるように自領へ去ったが、アプロディーテーはただその場で微笑んでいた。 神々の笑い声が響く中、この結婚を取り仕切ったヘーラーだけは笑えずにいた。そんなヘーラーに対しヘーパイストスは『母上、貴方様より拝領いたしました花嫁は、他の神々と臥所を共にするふしだらな女にございます。されば、ここにのしを着けてお返し申し上げますので、どうぞお引取りください』と言った。再び神々の前で恥を掻かされたヘーラーはアプロディーテーを連れ、神々の失笑が木霊す中、退散していった。 その後、ポセイドーンの仲介の元、ヘーパイストスはアプロディーテーと離婚し、アレースから賠償を受け取った。そして、アレースはトラーキア、アプロディーテーはクレータ島での謹慎を命じられた。後にアプロディーテーはポセイドーンにこの仲介の礼を与えている。 結婚後、アプロディーテーに相手にされなかったヘーパイストスは、アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという。 ヘーパイストスの作ったとされるものには、エピメーテウスの妻となった美女パンドーラー、ゼウスの盾アイギス、ゼウスの雷、自分で歩くことのできる真鍮の三脚器、アポローンとアルテミスの矢、「アキレウスの盾」を含むアキレウスの武具一式、青銅の巨人タロース、ヘーラクレースがステュムパーロスの鳥退治の際に使った青銅の鉦などがある。 また、主神とその妻たる神の間の最初の子が奇形である点から、日本神話における蛭子神との類似性も語られる。
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ヘーパイストスは、ギリシア神話に登場する神である。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスらを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金鎚、矢床である。 その名前の語源は「炉」「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、インド神話の火の神・ヤヴィシュタに由来するともいわれる。古くから小アジアおよびレームノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神といわれる。 ローマ神話ではウゥルカーヌス(Vulcānus)に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みしたヴァルカン(Vulcan)や、日本語では長母音を省略してヘパイストスやヘファイストスとも呼ばれる。 小惑星のヘファイストスはヘーパイストスにちなんで命名された。
{{Otheruses||その他|ヘファイストス}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ヘーパイストス<br/>{{lang|grc|Ἥφαιστος}} | image = Vulcan Coustou Louvre MR1814.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|ヘーパイストス像。[[ルーヴル美術館]]所蔵。}} | deity_of = {{small|炎と鍛冶の神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[リムノス島|レームノス島]], [[シチリア|シチリア島]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = | symbol = [[帽子]], [[武具]], [[金床]], [[槌|金鎚]], [[やっとこ|矢床]] | consort = [[ホメーロス]]『[[イーリアス]]』:[[カリス (ギリシア神話)|カリス]](あるいは[[カレー (ギリシア神話)|カレー]])<br/>ホメーロス『[[オデュッセイア]]』:[[アプロディーテー]]<br/>[[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』:[[アグライアー]] | parents = [[ゼウス]], [[ヘーラー]] | siblings = [[アテーナー]], [[アポローン]], [[アルテミス]], [[アレース]], [[ヘルメース]], [[ディオニューソス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]] | children = アグライアーとの子供:[[エウクレイア (ギリシア神話)|エウクレイア]], エウペーメー, {{仮リンク|ピロプロシュネー|en|Philophrosyne}}, [[エウテニアー]]<br/>[[カベイロー]]との子供:[[カベイロス]]<br/>{{仮リンク|アイトネー|en|Aetna (nymph)}}との子供:タレイア | mount = | Roman_equivalent = [[ウゥルカーヌス]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''ヘーパイストス'''({{lang-grc-short|'''ΗΦΑΙΣΤΟΣ''', Ἥφαιστος}}, {{ラテン翻字|el|Hēphaistos}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[神]]である。古くは[[雷]]と[[火山]]の神であったと思われるが、後に[[炎]]と[[鍛冶]]の神とされた。[[オリュンポス十二神]]の一柱。神話では[[キュクロープス]]らを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の[[帽子]]、[[武具]]、[[金床]]、[[槌|金鎚]]、[[やっとこ|矢床]]である<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』。</ref>。 その名前の語源は「炉」「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、[[インド神話]]の火の神・[[アグニ|ヤヴィシュタ]]に由来するともいわれる。古くから[[アナトリア半島|小アジア]]および[[リムノス島|レームノス島]]、[[シチリア|シチリア島]]における火山帯で崇拝された神といわれる。 [[ローマ神話]]では[[ウゥルカーヌス]]({{lang|la|Vulcānus}})に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みした'''ヴァルカン'''({{lang|en|Vulcan}})や、[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''ヘパイストス'''や'''ヘファイストス'''とも呼ばれる。 [[小惑星]]の[[ヘファイストス (小惑星)|ヘファイストス]]はヘーパイストスにちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2212|title=(2212) Hephaistos = 1978 SB|publisher=MPC|accessdate=2021-09-25}}</ref>。 == 概説 == [[ゼウス]]と[[ヘーラー]]の息子で第1子。ゼウスは、前妻である[[テミス]]との間に[[ホーライ]]3姉妹や[[モイラ (ギリシア神話)|モイライ]]3姉妹などをもうけた。ゼウスが前妻との間に立派な子を儲けていたことに焦ったヘーラーが、正妻としての名誉を挽回するべく単性生殖して産んだ子供であるとされる<ref>{{Cite book|和書|title=あなたが知らなかったギリシア神話|year=1999|publisher=河出書房新社|pages=104|author=ミヒャエル・ケールマイアー|translator=池田香代子|isbn=4309203256}}</ref>。ところが、生まれたヘーパイストスは両足の曲がった醜い[[奇形|奇形児]]であった。これに怒ったヘーラーは、生まれたばかりのわが子を天から海に投げ落とした。その後、ヘーパイストスは海の女神[[テティス]]と[[エウリュノメー]]に拾われ、9年の間育てられた後、天に帰ったという<ref name=Il18>『イーリアス』18巻。</ref>。ヘーパイストスはその礼として、テティスとエウリュノメーに自作の[[宝石]]を送っている。 他の説では、[[ヘーラクレース]]の航海を妨害するために、嵐で船を漂流させたヘーラーが、ゼウスから罰せられるのを、ヘーパイストスがかばおうとしたことから、ゼウスによって地上へ投げ落され、1日かかってレームノス島に落ち、シンティエス人に助けられた。この時に足が不自由になったとされる<ref>『イーリアス』1巻。アポロドーロス、1巻3・5。</ref>。 一般にはゼウスとヘーラーの息子とされるが、ヘーラーが1人で生んだという伝承もある<ref>アポロドーロス、1巻3・5。</ref>。それによればヘーラーはゼウスと対立し、ゼウスと交わらずに1人で生んだという<ref>ヘーシオドス『神統記』927〜928。</ref>。またゼウスは男性ながら、美貌と才気を兼ね備えた女神アテーナーを生んだが、ヘーラーの生んだヘーパイストスは醜い子供だったので、これにより正妻としての面目を失ったヘーラーは、対抗して[[ティーターン]]の力を借り、自分も1人で子[[テューポーン]]をもうけたという<ref>『[[ホメーロス風讃歌]]』第3歌(「アポローン讃歌」)。</ref>。 ヘーパイストスはオリュンポスの神々に加えられたが、ヘーラーの彼への冷遇は続き、彼は母への不信感を募らせていった。そんなある日、ヘーパイストスからヘーラーに豪華な椅子が届けられた。宝石をちりばめ、黄金でつくられ、大変美しい椅子で、その出来に感激した上機嫌のヘーラーが椅子に座ったとたん体を拘束され身動きが取れなくなってしまった<ref>ヒュギーヌス、166。パウサニアス、1巻20・3。</ref>。その後[[ディオニューソス]]がヘーパイストスを酔わせて天上に連れてきて解放させたといわれる<ref>『ギリシア・ローマ神話辞典』231頁。</ref>。 神々の武具を作ることで有名なヘーパイストスだが、自ら戦うこともある。『[[イーリアス]]』では[[ヘーラー]]に命じられて、[[アキレウス]]を襲う河の神[[スカマンドロス]]と対決し、決して弱まらぬ炎を放って巨大な河そのものを瞬時に沸騰・蒸発させ、河の神を屈服させた<ref>『イーリアス』21巻。</ref>。また軍神[[アテーナー]]は、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧([[ラブリュス]])で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたという<ref>アポロドーロス、1巻3・6。[[ピンダロス]]『オリンピア祝勝歌』第7歌35〜37。ルキアーノス『神々の対話』。</ref>。 なお、ヘーラーが一人で生んだのは[[アレース]]とする伝承もある。詳しくは[[フローラ]]を参照。 ヘーパイストスの妻は[[アプロディーテー]]とも<ref>『オデュッセイア』8巻ほか</ref>、[[カリス]]の<ref name=Il18 />[[アグライアー]]ともいわれる<ref>ヘーシオドス『神統記』945〜946。</ref>。一説には天上の妻はアプロディーテーであり、地上の妻はカリスであるという<ref>ルキアーノス『神々の対話』。</ref>。 ヘーパイストスの子供には[[アテナイ|アテーナイ]]の王[[エリクトニオス]]<ref>アポロドーロス、3巻14・6。ヒュギーヌス、166ほか。</ref>、[[テーセウス]]に退治された[[ペリペーテース]]<ref>アポロドーロス、3巻16・1。[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]、2巻1・4。</ref>、[[アルゴナウタイ]]の1人である[[パライモーン]]などがいる<ref>アポロドーロス、1巻9・16。</ref>。 == アプロディーテーとの結婚 == [[ファイル:Vulcan, Venus and Mars - Maarten van Heemskerck (1540).jpg|left|thumb|250px|『ヘーパイストス、アレースとアプロディーテー』 ([[マールテン・ファン・ヘームスケルク]]作、1540年、[[美術史美術館]]所蔵)]] [[ホメーロス]]の『[[オデュッセイア]]』ではヘーパイストスはアプロディーテーと結婚している。ゼウス自らヘーパイストスにアプロディーテーを妻として与えたという<ref>『ギリシア・ローマ神話辞典』232頁。</ref>。しかし、彼女はヘーパイストスの醜さを嫌っていた。そこに軍神[[アレース]]が現れた。アレースはゼウスとヘーラーの子であるものの、争いの神であり残虐な性格である事から、神々や人々からの評判はすこぶる悪かったが、オリュンポスの男神の中でも一二を争う美男子だった。やがて醜い夫との生活に疲れていたアプロディーテーは、美形のアレースと恋愛関係となる。当のヘーパイストスは、妻の浮気にまったく気付かず、夫婦仲の悪さはアプロディーテーの機嫌が悪いだけだと妻を信じていた。しかしヘーリオスから事実を知らされたヘーパイストスは落胆し、同時にアプロディーテーへの激しい憎悪が芽生えた。 ある日、ヘーパイストスは「仕事場に行く。しばらく家には戻れない」と言い家を出て行く。これ幸いと浮気に浸るアレースとアプロディーテーだが、二人で寝床に入ったとたんに見えない網で捕えられ、裸で抱き合ったまま動けなくなってしまった。この網は、妻への復讐の為にヘーパイストスが作った特製の網で、彼以外解く事が出来ない物だったのである。何とか解こうとする二人であったが、動けば動くほど体に食い込み、完全に身動きが取れなくなってしまった<ref>『オデュッセイア』8巻。</ref>。 妻とアレースの密通現場を押さえたヘーパイストスであったが、妻が自分には見せなかった媚態の艶やかなる美しさをアレースに晒したことに激怒、更なる辱めを与えてやろうと考えていた。すると、そこへ伝令の神である[[ヘルメース]]が偶然にも通りかかる。ヘルメースがアプロディーテーに片思いしていることを知っていたヘーパイストスは、密通現場を彼に見せれば興味を持つと考え、ヘルメースを招き入れた。彼の目論見通り、ヘルメースは興味を示し釘付けになる。すると、ヘーパイストスは「他の十二神を呼んで来て頂きたい。特に結婚の仲人をして頂いた母上を呼んで来て欲しい」とヘルメースに頼んだ。伝令の神であるヘルメースは、瞬く間にオリンポス中を駆け巡って面白いものが見られると触れ回り、十二神をヘーパイストスの神殿の前に連れて来た。 そして、集まった神々を前にヘーパイストスは「これから面白い見世物をご覧に入れましょう」と言って、アプロディーテーとアレースの密通現場を晒したのである。密通現場を見せられた神々は、皆困った顔をしてしまう。と言うのもアプロディーテーとアレースの二人の様が余りにも面白く、大声で笑いたかったのだが、神である自分たちが品もなく馬鹿笑い出来なかったことと、結婚を取り仕切ったヘーラーの手前、笑うことが出来なかった為である。ところが、[[アポローン]]が「ヘルメース殿、貴殿は以前からアプロディーテーと臥所を供にしたいと申していたそうではないか。丁度良い機会だ、アレースと代わって貰ったらどうだ?」と問うたのに対し、ヘルメースが「入りたいのは山々なれど、私の一物はアレース殿の物と比べ、頑丈でも逞しくもございませぬ」と返したことで、我慢していた神々は思わず吹き出してしまった。アレースは恥ずかしさのあまり、解放された途端逃げるように自領へ去ったが、アプロディーテーはただその場で微笑んでいた。 神々の笑い声が響く中、この結婚を取り仕切ったヘーラーだけは笑えずにいた。そんなヘーラーに対しヘーパイストスは『母上、貴方様より拝領いたしました花嫁は、他の神々と臥所を共にするふしだらな女にございます。されば、ここにのしを着けてお返し申し上げますので、どうぞお引取りください』と言った。再び神々の前で恥を掻かされたヘーラーはアプロディーテーを連れ、神々の失笑が木霊す中、退散していった。 その後、[[ポセイドーン]]の仲介の元、ヘーパイストスはアプロディーテーと離婚し、アレースから賠償を受け取った。そして、アレースは[[トラキア|トラーキア]]、アプロディーテーは[[クレータ島]]での謹慎を命じられた。後にアプロディーテーはポセイドーンにこの仲介の礼を与えている。 === その他の説・補足 === * 実はヘーラーとは不仲ではなかったとする説もある。ある時、ゼウスとヘーラーが夫婦喧嘩をした際に、ヘーパイストスがヘーラーを擁護した(或は、単に止めに入っただけとも)。これがゼウスの逆鱗に触れ、天界から突き落とされ足に障害を負ったとされる。 * アレースの醜態を笑い飛ばしたアポローンとヘルメースだが、逆に「アプロディーテーと臥所を共に出来るのならば、二重・三重に巻かれても構わない」と羨ましがったとする説もある。 * アレースはアプロディーテーと浮気をするとき、従者である[[アレクトリュオーン]]に見張りをさせた。ところがある日アレクトリュオーンは居眠りをしてしまい、ヘーリオスが天に昇っても2人は気付かなかった。このため2人はヘーリオスに見つかり、ヘーパイストスの罠にかかった。アレクトリュオーンは神々の前で大恥を掻かされたことに激怒したアレースの怒りを買い、[[ニワトリ|鶏]]へ変えられてしまった。それ以来、鶏は[[太陽]]が昇ると「ヘーリオスが来たぞ(コケコッコー)」と鳴くようになったと言われている<ref>ルキアーノス『にわとり』3。</ref>。 == エリクトニオスの誕生 == 結婚後、アプロディーテーに相手にされなかったヘーパイストスは、アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという<ref>アポロドーロス、3巻14・6。</ref>。 == ヘーパイストスの仕事 == [[ファイル:Rubens - Vulcano forjando los rayos de Júpiter.jpg|thumb|『ゼウスの雷を鍛えるヘーパイストス』 ([[ピーテル・パウル・ルーベンス]]作、1636-1638年頃、[[プラド美術館]]所蔵)]] ヘーパイストスの作ったとされるものには、[[エピメーテウス]]の妻となった美女[[パンドーラー]]<ref>ヘーシオドス『[[仕事と日]]』。</ref>、ゼウスの盾[[アイギス]]、ゼウスの雷、自分で歩くことのできる[[黄銅|真鍮]]の三脚器、アポローンと[[アルテミス]]の矢<ref>ヒュギーヌス、140。</ref>、「[[アキレウスの盾]]」を含む[[アキレウス]]の武具一式<ref>『イーリアス』18巻ほか。</ref>、青銅の巨人[[タロース (ギリシア神話)|タロース]]<ref>アポロドーロス、1巻9・26。</ref>、ヘーラクレースが[[ステュムパーロスの鳥]]退治の際に使った青銅の鉦などがある<ref>アポロドーロス、2巻5・6。</ref>。 また、主神とその妻たる神の間の最初の子が奇形である点から、[[日本神話]]における[[ヒルコ|蛭子神]]との類似性も語られる。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Commons|Hephaestus}} * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、[[岩波文庫]](1953年) * [[ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス|ヒュギーヌス]]『ギリシャ神話集』[[松田治]]・青山照夫訳、[[講談社学術文庫]](2005年) * [[ヘーシオドス|ヘシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波文庫(1984年) * [[ホメーロス]]『[[イーリアス|イリアス]](上・下)』[[松平千秋]]訳、[[岩波書店]](1992年) * ホメーロス『[[オデュッセイア]](上)』松平千秋訳、岩波文庫(1994年) * [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) * [[ルキアノス|ルキアーノス]]『神々の対話 他六篇』[[呉茂一]]・山田潤二訳、岩波文庫(1953年) * 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]](1960年) * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、[[青土社]] 新装版(1991年) {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へはいすとす}} [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:鍛冶神]] [[Category:火神]] [[Category:ヘーラー]] [[Category:アプロディーテー]] [[Category:リムノス島]]
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憲法記念日
憲法記念日()は、憲法の制定(公布、施行など)を記念する日。祝日に指定されることが多い。
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憲法記念日は、憲法の制定(公布、施行など)を記念する日。祝日に指定されることが多い。
{{otheruses||[[日本]]の[[祝日]]|憲法記念日 (日本)}} [[File:United_States_Constitution.jpg|thumb|[[アメリカ合衆国憲法]]]] {{読み仮名|'''憲法記念日'''|けんぽうきねんび}}は、[[憲法]]の制定([[公布]]、[[施行]]など)を記念する日。[[祝日]]に指定されることが多い。 ==一覧== {| class="sortable wikitable" ! 国名 !! 日付 !! class="unsortable" |備考(制定年等) |- | {{AZE}} || {{Display none|11/12_}}[[11月12日]] || [[1995年]] |- | {{USA}} || {{Display none|09/17_}}[[9月17日]] || [[1787年]]、[[アメリカ合衆国憲法]] |- | {{ARM}} || {{Display none|07/05_}}[[7月5日]] ||[[1995年]] |- | {{UKR}} || {{Display none|06/28_}}[[6月28日]] ||[[1996年]] |- | {{UZB}} || {{Display none|12/08_}}[[12月8日]] ||[[1992年]] |- | {{URU}} || {{Display none|07/18_}}[[7月18日]] ||[[1830年]] |- | {{AUS}} || {{Display none|01/01_}}[[1月1日]] ||[[1901年]] |- | {{NED}} || {{Display none|12/15_}}[[12月15日]] || |- | {{GIB}} || {{Display none|01/29_}}[[1月29日]] ||[[2006年]] |- | {{SWE}} || {{Display none|06/06_}}[[6月6日]] ||([[1809年]], [[1974年]]) |- | {{ESP}} || {{Display none|12/06_}}[[12月6日]] ||[[1978年]]、[[スペイン1978年憲法]] |- | {{SVK}} || {{Display none|09/01_}}[[9月1日]] ||[[1992年]] |- | {{SRB}} || {{Display none|04/27_}}[[4月27日]] ||[[1835年]] |- | {{THA}} || {{Display none|12/10_}}[[12月10日]] ||[[1932年]] |- | {{KOR}} || {{Display none|07/17_}}[[7月17日]] ||[[1948年]]、[[大韓民国憲法]] |- | {{ROC}} || {{Display none|12/25_}}[[12月25日]] ||[[1946年]]、[[中華民国憲法]]、[[行憲記念日]] |- | {{TJK}} || {{Display none|11/06_}}[[11月6日]] ||[[1994年]] |- | {{DEN}} || {{Display none|06/05_}}[[6月5日]] ||([[1849年]], [[1953年]]) |- | {{GER}} || {{Display none|05/23_}}[[5月23日]] ||[[1949年]]、[[ドイツ連邦共和国基本法]] |- | {{DMA}} || {{Display none|11/06_}}[[11月6日]] ||[[1844年]] |- | {{NIU}} || {{Display none|10/19_}}[[10月19日]] ||[[1974年]] |- | {{JPN}} || {{Display none|05/03_}}[[5月3日]] ||[[1947年]]、[[日本国憲法]]、[[憲法記念日 (日本)]] |- | {{NOR}} || {{Display none|05/17_}}[[5月17日]] ||[[1814年]] |- | {{PUR}} || {{Display none|07/25_}}[[7月25日]] ||[[1952年]] |- | {{FRO}} || {{Display none|06/05_}}[[6月5日]] || |- | {{BEL}} || {{Display none|11/15_}}[[11月15日]]|| |- | {{BLR}} || {{Display none|03/15_}}[[3月15日]] ||[[1994年]]、[[ベラルーシ共和国憲法]] |- | {{POL}} || {{Display none|05/03_}}[[5月3日]] ||[[1791年]]、[[5月3日憲法]] |- | {{FSM}} || {{Display none|05/10_}}[[5月10日]] ||[[1979年]] |- | {{MEX}} || {{Display none|02/01_}}2月第1月曜日||[[1857年メキシコ憲法]]と[[1917年メキシコ憲法]]がともに[[2月5日]]に批准されたことに由来 |- | {{MDA}} || {{Display none|07/29_}}[[7月29日]]||[[1994年]] |- | {{LTU}} || {{Display none|10/25_}}[[10月25日]]||[[1992年]] |- | {{ROU}} || {{Display none|12/08_}}[[12月8日]] ||[[1991年]] |- | {{RUS}} || {{Display none|12/12_}}[[12月12日]] ||[[1993年]]、[[ロシア連邦憲法]] |- | {{MHL}} || {{Display none|05/01_}}[[5月1日]] ||[[1979年]] |- | {{PLW}} || {{Display none|07/09_}}[[7月9日]] ||[[1981年]] |- | {{IND}} || {{Display none|01/26_}}[[1月26日]] ||[[1949年]]、[[インド憲法]] |- | {{PRK}} || {{Display none|12/27_}}[[12月27日]] ||[[1972年]]、[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]] |- | {{VUT}} || {{Display none|10/05_}}[[10月5日]] ||[[1979年]] |- | {{SRB}} || {{Display none|02/15_}}[[2月15日]] ||[[1835年]] |} {{デフォルトソート:けんほうきねんひ}} [[Category:祝日]] [[Category:憲法]] {{Law-stub}}
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1606年
1606年(1606 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1606年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1606}} {{year-definition|1606}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2266年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]34年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]39年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3939年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]7年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]14年 * [[仏滅紀元]] : 2148年 - 2149年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1014年 - 1015年 * [[ユダヤ暦]] : 5366年 - 5377年 * [[ユリウス暦]] : 1605年12月22日 - 1606年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1606}} == できごと == * [[2月10日]](ユリウス暦1月31日) - 火薬陰謀事件の実行責任者ガイ・フォークスが首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑される{{要出典|date=2021-04}}。 * [[4月12日]] - [[イギリス|英国]]で[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が[[ユニオン・フラッグ]]を制定。 * [[シク教]]5代目[[グル]]のアルジュンが[[ムガル帝国]]の弾圧を受け死亡。以降、教団の武装化が進む。 * [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』初演。 == 誕生 == {{see also|Category:1606年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月6日]] - [[ピエール・コルネイユ]]、フランスの[[劇作家]](+ [[1684年]]) * [[7月15日]] - [[レンブラント・ファン・レイン]]、[[オランダ]]の[[画家]](+ [[1669年]]) * [[9月18日]]([[万暦]]34年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[張献忠]]、[[明]]末の農民反乱の指導者(+ [[1646年]]) * [[李自成]]、[[明]]末の農民反乱の指導者(+ [[1645年]]) * [[徳川忠長]]、[[大名]]。[[徳川秀忠]]の三男(+ [[1634年]]) == 死去 == {{see also|Category:1606年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]] - [[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ|ヴァリニャーノ]]、[[イタリア]]人の[[イエズス会]][[宣教師]](* [[1539年]]) * [[1月31日]] - [[ガイ・フォークス]]、[[火薬陰謀事件]]の実行責任者(* [[1570年]]) * [[9月2日]] - [[カレル・ヴァン・マンデル]]、画家(* [[1548年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1606}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1606ねん}} [[Category:1606年|*]]
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1669年
1669年(1669 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1669}} {{year-definition|1669}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2329年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]8年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]23年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]10年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4002年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]7年 * [[仏滅紀元]] : 2211年 - 2212年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1079年 - 1080年 * [[ユダヤ暦]] : 5429年 - 5430年 * [[ユリウス暦]] : 1668年12月22日 - 1669年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1669}} == できごと == * [[3月]] - [[イタリア]]の[[シチリア島]]にある[[エトナ火山]]が[[1669年のエトナ山噴火|噴火]]。主に溶岩流により、約1万人が死亡。 * [[5月]] - [[イギリス]]により[[カナダ]]に[[ハドソン湾会社]]設立。 * [[6月]] - [[シャクシャインの戦い]]。 * [[サミュエル・ピープス]]、[[失明]]のため[[日記]]の執筆を終了。 * [[錬金術師]][[ヘニッヒ・ブラント]]、[[リン|燐]]を発見。 * [[ブレーズ・パスカル]]、『[[パンセ]]』刊行。 * [[オスマン帝国]]、[[ヴェネツィア]]より[[クレタ島]]獲得。 * [[フェルディナント・フェルビースト]]、[[欽天監]]に入る。 == 誕生 == {{see also|Category:1669年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[ルイ・マルシャン]]、[[作曲家]]、[[鍵盤楽器]]奏者(+ [[1732年]]) * [[2月3日]]([[寛文]]9年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[荷田春満]]、[[国学者]]、[[歌人]](+ [[1736年]]) * [[5月26日]] - [[セバスティアン・ヴァイヤン]]、[[植物学者]](+ [[1722年]]) * [[7月4日]]([[寛文]]9年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[水野忠之]]、[[老中]](+ [[1731年]]) * [[8月24日]] - [[アレッサンドロ・マルチェッロ]]、作曲家、[[数学者]]、[[哲学者]](+ [[1747年]]) * [[9月16日]]([[寛文]]9年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[公弁法親王]]、[[天台宗]][[僧侶]](+ [[1716年]]) * [[10月10日]] - [[ヨハン・ニコラウス・バッハ]]、[[バッハ家]]の作曲家(+ [[1753年]]) * 月日不明 - [[紀伊國屋文左衛門]]、[[商人]](+ [[1734年]]?) * 月日不明 - [[伊奈忠篤]]、[[関東郡代]](+ [[1697年]]) * 月日不明 - [[香林院|石束りく]]、[[大石良雄]]の妻(+ [[1736年]]) * 月日不明 - [[赤埴重賢]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[潮田高教]]、赤穂浪士(+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[近松行重]]、赤穂浪士(+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[金森頼旹]]、[[側用人]](+ [[1736年]]) * 月日不明 - [[本因坊道的]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]](+ [[1690年]]) * 月日不明 - [[ヤコブ・ブルース]]([[w:Jacob Bruce|Jacob Bruce]])、[[政治家]]、[[軍人]]、[[科学者]](+ [[1735年]]) == 死去 == {{see also|Category:1669年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月10日]] - [[ジョン・デナム]]([[w:John Denham (poet)|John Denham]])、[[詩人]](* [[1615年]]) * [[3月17日]] - [[ウィレム・ファン・デル・ザーン]]([[w:Willem van der Zaan|Willem van der Zaan]])、[[提督]](* [[1621年]]) * [[4月17日]] - [[アントニオ・ベルターリ]]、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](* [[1605年]]) * [[5月16日]] - [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Pietro-da-Cortona Pietro da Cortona Italian artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](* [[1596年]]) * [[8月31日]](寛文9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[山内忠豊]]、[[土佐藩]]第3代[[藩主]](* [[1609年]]) * [[9月10日]] - [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]王妃(* [[1609年]]) * [[10月4日]] - [[レンブラント・ファン・レイン]]、画家(* [[1606年]]) * [[10月14日]] - [[アントニオ・チェスティ]]、[[オペラ]]作曲家(* [[1623年]]) * [[11月4日]] - [[ヨハネス・コクツェーユス]]([[w:Johannes Cocceius|Johannes Cocceius]])、[[神学者]](* [[1603年]]) * [[11月16日]](寛文9年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[シャクシャイン]]、[[アイヌ]]首長(* [[1606年]]?) * [[12月9日]] - [[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]、[[ローマ教皇]](* [[1600年]]) * 月日不明 - [[ピーテル・ポスト]]([[w:Pieter Post|Pieter Post]])、[[建築家]]、画家(* [[1608年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1669}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1669ねん}} [[Category:1669年|*]]
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消費税
消費税(、英: consumption tax)は、商品の販売やサービスの提供などの取引に対して課される租税である。 日本における消費税は、諸外国の付加価値税(value-added tax, VAT)に相当する税制度である。付加価値税(消費税)はフランスで1959年に初めて導入され、その後160カ国以上で導入された。OECD加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税(sales Tax)と物品税(excise tax)が導入されているアメリカ合衆国のみである。州税と地方税の合計である売上税の税率は各州の市ごとに0%~10%と異なっている。ただし、フランスによる1950年代の付加価値税を真似た各国は制度導入時の国内の反対論に妥協し、後に専門家から事務コストの高さから単一税率にすべきと批判される軽減税率を導入した。 消費税が社会保障の安定財源とされる背景には、他税との比較において、現役世代といった特定世代に負担が集中しない点、税収が景気などの変化に左右されにくい点、経済活動に中立的である点から適していることにある。 日本国では1989年の消費税法制定で導入され、消費税税率1%の上下で約2.6兆円の税収が増減する。事業者が事業として対価を得て行う資産の譲渡、資産の貸付け及び役務の提供、商品の販売や運送、広告など、対価を得て行う国内の取引のほとんどは課税の対象となり、外国から製品を輸入する場合も課税される。 消費税(付加価値税)とは財貨・サービスの取引により生じる付加価値に着目して課税する仕組みである。2012年時点でOECD諸国の平均では付加価値税は税収の約31%を占めており、これはGDPの6.6%に相当する。EUの加盟国には付加価値税の標準税率を15%以上にすることが義務付けられている。 租税体系からの分類方法の一つとして、所得課税(所得税、法人税)、資産課税(相続税、固定資産税)、そして消費課税に大別する方法がある。 この消費課税はさらに、消費した本人へ直接的に課税する直接消費税と、消費行為を行った者が担税者であるものの納税義務者ではない間接消費税に分類できる。前者の「直接消費税」にはゴルフ場利用税などが該当し、納税義務者が消費行為を行った者であって、物品またはサービスの提供者が徴収納付義務者(地方税の場合は特別徴収義務者)として課税主体に代わって徴収を行い、課税主体に納付することとなる。後者の「間接消費税」には酒税などが該当し、納税義務者は、物品の製造者、引取者または販売者、あるいはサービスの提供者であり、税目によって異なる。間接消費税はさらに課税対象とする物品・サービスの消費を特定のものに限定するかどうかに応じ、個別消費税と一般消費税に分類される。 一般消費税はさらに単段階課税(製造業者売上税、卸売売上税、小売売上税)と多段階課税に分類でき、この多段階課税は累積的取引高税と付加価値税とに分類され、これが日本の消費税法でいう狭義の消費税に相当する。さらに付加価値税はGNP型、所得型、消費型に分類され、この消費型付加価値税が現在多くの国で導入されている付加価値税に相当する。さらに消費型付加価値税は前段階税額控除方式(EU)と仕入控除方式(日本)とに分類できる。前段階税額控除方式はEUなどのインボイス制度とも呼ばれ、カナダ、オーストラリアではGoods and Services Tax(GST,財貨サービス税)と呼ばれる。日本では2023年10月1日から適格請求書等保存方式(インボイス制度)が導入された。 日本でいう「消費税法に規定する消費税」と「地方税法に規定する地方消費税」は、消費税等として一般消費税に区分される。 消費は所得の存在を前提として発生することから、消費に課税することによって所得税などで十分に把握できない所得に対して間接的に課税することになる。ただし、所得の中には貯蓄に回される部分があるために、所得の大小と消費の大小は必ずしも一致せず、消費者の消費性向が実際の消費税の負担に対して影響を与える。 一般消費税は、さらに以下に分類される。 かつての日本の経済学では一般売上税(general sales tax; GST)とも呼ばれていた税方式がモデルとなっている。一般売上税の課税方法として製造・卸売・小売の各段階のいずれか1段階で課税される単一段階課税と2つ以上の段階で課税される多段階課税がある。 多段階課税を採用した場合、次の段階に税負担を転嫁させていく「ピラミッド効果」が発生し、それぞれ異なる商品に同じように課税をすることによって商品に対する税負担の格差が生じることになる。こうした問題点を解消するために、納税義務者はその売上げに係る消費税ではなく、差額に係る消費税を納税する方法が考え出された。これが今日の一般消費税(VAT)である。一般消費税は付加価値の算定方法により所得型付加価値税と消費型付加価値税に分けることが出来る。前者は仕入計算時において資本財の控除は減価償却分しか認められないが、後者では資本財全額が控除の対象となり、消費部分のみが課税対象となる。 消費税と一般消費税は外見的には類似しているが、一般消費税には所得に対して課税する所得税や法人税などの直接税に対する批判に由来する代替的な要素も含まれている。所得に課税する場合には、納税者がそもそも正直な所得の申告をし正確な納付をしているかを把握するのに行政側のコストがかかり、公平性・水平性の点でも問題が多い。直接税に批判的な人々は「消費による支出を通じてより正確な所得が把握できる」という考えから一般消費税による代替を求める。 一般消費税が初めて導入されたのは1954年のフランスであるが、その前身は1917年に導入された「支払税(la taxe sur les paiements)」である。その後、1920年に「売上税(la taxe sur le chiffre d’affaires)」、1936年に「生産税(la taxe à la production)」と名称を変更しながら現在の形になっていった。その後、1967年にEC閣僚理事会においてフランスと同様の消費型付加価値税に基づく一般消費税を中心とした加盟国間の税制統一運動の推進が確認され、この方針に基づいて1968年に西ドイツが一般売上税を一般消費税に変更した。 これをきっかけに1969年にオランダ、1970年にルクセンブルク、1971年にベルギー、1973年にイギリス・イタリアと加盟国間において一般消費税への転換が進んだ。日本でも大平正芳内閣の時に導入を目指し、他の先進国の導入から10-20年後に議論の末に商品ごとに税額の異なる売上税から商品均一税率であるVAT型の消費税が1989年に竹下登内閣で導入されることになった。 個別消費税(Selected excise duties)は特定あるいは一群の財貨・サービスに対する課税である。課税の対象になる財貨・サービスは特定的で税率も統一されていない。税率は、量・重さ・強度・オクタン価・アルコール度数などが基準として使われている。 この方式で課税される対象としては3つの分類が考えられ、酒や煙草のような嗜好品に賦課する「嗜好品課税」、ガソリンのように応益原則・受益者負担の原則に基づいて特定の公共サービスを行うために関連した商品・サービスにかける「目的税」、その他の物を対象とした「奢侈品・娯楽用品・サービス課税」と呼ばれる奢侈品や日常生活で用いられてはいるが生活必需品とはいえない商品に課される。かつて日本に存在した物品税の多くがこれに含まれている。 個別消費税は、元は内国消費税(excise)として、16世紀末期にスペインからの独立戦争を継続していたオランダで軍費調達のために始められたと言われている。イングランドではこれを範として内国消費税を導入して財政難を克服しようとした。これに対するイングランド議会の反発が、清教徒革命へと発展するが、皮肉にも革命軍の軍事費を得るためにジョン・ピムやオリバー・クロムウェルが採用したのが内国消費税であった。 その後、王政復古期に王権と議会の対立の原因となっていた徴発権などの国王大権を国王が返上する代わりに内国消費税の半分を国王の生活のための供与金として認めることで合意が成立した。その後も財政難を理由として何度か内国消費税の引き上げが行われた。1733年に当時(初代)の首相ロバート・ウォルポールが地租の削減・廃止と関税の引き下げの代償に更なる内国消費税の大幅引き上げを図った。 これに対して政敵のボリングブルック子爵が噛み付き、民衆も生活苦から暴動を起こす騒ぎとなったためにウォルポールは提案を撤回した。これを「消費税危機」(excise crisis)という。産業革命以後には産業育成のために内国消費税を削減して関税に転嫁する方針が採用された。フランスではジャン=バティスト・コルベールが導入した塩の専売制に付随してかけられたガベル(gabelle)と飲料品税に由来するエード(aides)が知られ、絶対王政期のフランス財政を支えた。ドイツでも17世紀後半以後盛んに導入されたが、余りの高率に国民生活の不安定と国家財政の極度の個別消費税依存を招きフェルディナント・ラッサールから厳しい批判を浴びた。 この他アメリカでも独立戦争時にイギリスを真似て個別消費税を導入したが、1794年にウィスキー税に反対するウィスキー反乱が発生してジョージ・ワシントン政権を揺るがした。 日本では、江戸時代以前の運上・冥加が一種の個別消費税に相当するが、近代的な税制は明治維新以後に各種の間接税が導入されて以後である。特に酒税は一時は歳入中最大の割合を占めるほどになった。戦後になってシャウプ勧告と消費税法施行に伴って2度にわたって間接税の整理が行われる。 総合消費税(general expenditure tax)は、イギリスの経済学者ニコラス・カルドアが提唱した方法で、spendings tax(支出税)とも呼ばれる。個々の消費者がその年度内に発生した財貨・サービス支出を税務署に自己申告をおこない、累進課税にもとづく税額の算定にもとづいて納付する。元は所得税を補完する税法として考案され、キャピタル・ゲインなどの所得からも支出に対する課税の形で税を徴収でき、かつ預貯金とその金利は支出に相当せずに課税されないために節約と貯蓄奨励にもなるとされ、インドなどで一時導入が検討された。 だが、全ての人が正確な納付をおこなうためには、各個人が自己の支出に関する正確な記録を作成して、収入・支出・貯蓄に関するバランス・シートを作成しなければならないことから、本格的に導入した国は存在しなかった。また、税務署が全居住者の収入・支出・貯蓄情報を把握する必要があるため、事務の煩雑さから実施が困難であると言える。 OECD各国平均の税収構造(2014年) 一般消費税による税収の全税収における割合はOECD加盟国平均で20.2%であり、一般消費税による税収の対GDP比はOECD加盟国平均で6.7%である(2022年)。ちなみにOECD加盟国の中で欧州連合に属する国家は標準税率を15%以上にすることが義務づけられている。 OECD諸国における消費税 日本の低負担・中福祉への提言 日本は2015年度時点でOECD加盟国の中でデータのないトルコを除いた33カ国のうち、国民負担率は27位である。NHKによると先進国中、フランスは68.2%、1位のルクセンブルクは93.7%などヨーロッパでは高く、日本の国民負担率は全体で下位であり、 日本はいわゆる「低負担・中福祉」の国と報道している。高齢者向けになっている社会保障を「全世代型」の社会保障を目指している日本政府の方針を伝えている。民主党政権下の政府税制調査会専門家委員会委員を務めた三木義一青山学院大学法学部教授は日本は低負担中福祉となっていることについて、「高福祉高負担、低負担低福祉のどちらか又は中間の中負担中福祉なのかを日本は選ぶ必要がある」と指摘している。三木は「増税が必要な局面では、政治家が前面に出てその必要性を訴えなければ国民の理解も深まりません。それなのに、与党も野党も選挙での人気取りのために、社会保障の充実と減税を同時にアピールするような都合のよい主張が目立ちます」と日本経済新聞とともに日本にはびこる財政ポピュリズムを批判している。 2018年時点のOECD加盟国の(標準)消費税率平均は約19.6%で、時事通信社によると高福祉・高負担の代表国のスウェーデンの消費税率は25%と国民負担率負担が高い半面、大学までの学費が無料など恩恵は大きい。国民負担率33.1%で低福祉・低負担とされる米国では政府が徴収する消費税がなく、市や州が税率を定めて小売売上税(地方税)を課している。日本は中福祉・低負担国であり、福田慎一東大教授は、増税による応分負担または、国債と併せると歳出の58%を占める上に膨張し続けている社会保障費約36兆削減の選択の議論が必要だとしている。木寺元は日本の消費税が他国より低い理由に取引高税失敗とシャウプ勧告で官僚主導時代に一般消費税の導入自体が遅れたこと、一般消費税導入を目指した時の自民党政権が選挙に負け続けたことで、「相当な覚悟がないと消費税には手を出せない」という空気が政界で支配的となったからと解説している。 デンマークの歳入内訳 2017年のデンマーク歳入の構成は、OECD(データ対象: 2017)によると所得税52.9%で半分以上を占めている。残りは消費税31.8%、法人税7.2%資産課税(固定資産税、相続税など)3.9%、 社会保険料:0.1%、 その他:4.1%である。 1986年に広い免税範囲・7種類の従価税率と12種類の特別税率という複雑な税率構造・サービス業非課税・製造業者から直接購入できる大規模小売業者に有利などの従来の卸売売上税の歪みを是正・歳入における個人所得税への極端な依存を是正・社会保障給付の増加と保護主義的な経済政策で拡大した財政赤字の削減などのために10%で導入され、1989年に12.5%へ増税された。1994年からGDP比の財政収支がプラスに転じた。軽減税率を導入せずに消費税の税率が全て一律なため、世界で最も課税ベースが広く、経済に対して最も中立的な付加価値税であるのでC効率性は世界最高の96.4%となっている。1999年にニュージーランド政府は最小のコストで安定した税収を得るためには、課税ベースの拡大と単一かつ定率の消費税だとの方針を確認している。1986年の軽減税率無しの10%の消費税導入に日本のような国民の反発はなかった。背景として、ニュージーランドでは社会保障費の制度を中負担中福祉にすることや低所得者への対応を消費税による税収から後で再分配する方が小売店も役所の負担が軽減されて効率的との政府の方針を国民が受け入れたためである。2006年に付加価値税収の総税収に占める割合は24.4%である。 1967年に福祉国家建設のための公的部門への需要増加に対応して、より広く安定した課税ベースを確立することを目的にデンマーク社会民主党によって10%で導入された。1970年代に20.25%台にまで引き上げられた後に、1992年から現行の25%になった。軽減税率は歳入減少の財政負担・徴収の効率化・軽減税率の適用対象品目の区別などが困難などとして、一律25%の消費税による税収を後で社会保障給付によって逆進性への対処として再分配を行う方が効率的として導入しなかった。デンマークで唯一例外的な軽減税率の対象は新聞のみである。2006年の対総税収比では個人所得税負担の割合が 51.3%と突出しており、付加価値税の割合は21.3%である。これは手厚い社会保障が基本的に国民の所得税と消費税で7割以上も賄われていることによる。同じ北欧で6%の軽減税率ありで、25%の消費税であるスウェーデンの47.3を上回る51.6のC効率性である。スウェーデンの付加価値税がデンマークよりもC効率性は低い理由には、 軽減税率と消費者を顧客とする小売・サービス業で発生しやすい脱税や電子商取引の発達や税率の低い隣国での国境を越えた租税回避がある。 アメリカ合衆国では、連邦政府によるVATにあたる税金はないが、州ごとに業者間取引には課されず、最終的な消費者のみに課される売上税(Sales Tax)がある。50の州のうち、5つの州において、州ごとの売上税が課せられない。州ごとの売上税(State Sales Tax)がないのは、アラスカ州・デラウェア州・[[モンタナ州]]・ニューハンプシャー州・オレゴン州である。 アメリカ合衆国議会では何十年にもわたって、VATの導入について議論が持たれてきたが、法人税・所得税に代表される直接税に比べて、消費税・付加価値税など間接税が優れているとは見なせないという理由で、国全体での採用は見送りとなっている(アメリカの国税における直間比率は9対1)。 VATの場合は特に、輸出に還付金が渡され輸入には課税される点、法人税引き下げとセットにされやすい点など、議論の焦点となってきたことが、アメリカの公文書に多く残っている。 イタリアは1973年に12%で導入された。1997年には20%にまで増税された。欧州危機不況で社会保障費支出は増大して、財政赤字が増加していた。そのため。2011年9月にイタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ政権が付加価値税(VAT)の税率を20%から1%引き上げたが、同税の受取額は減少し、4月末までの1年間の徴収額は2006年以降で最低に落ち込んだ。「歳出を減らす方がはるかに良い」と提言された。2013年には22%に増税された。2016年予算安定化法案で2017年1月から24%への増税が定められていたが、2017年予算法で増税時期は先送りされ、2018年1月に引き上げ実施予定になった。軽減税率は4%と10%の二つがあることもあり、C効率性は38.2%である。 中華人民共和国において付加価値税(VAT)は「増値税」と呼ばれている。増値税は1984年に17%で導入された。現在では納税人と商品に対し、それぞれ違う税率が適用される(例えば、農産物や自己販売の中古品は免税、現代サービス業納税人には6%、図書・ガスには9%、一般の製品には13%)。なお、中国では値段はほぼ全部税込価格である。増値税が中国の総税収の60%以上を占めている。 日本の一般政府歳入(%, 2019年) 財政ポピュリズムによる導入の遅れ 日本では財政ポピリュズムを訴える社会党や日本共産党など野党が消費税導入を政争の具にし、導入しようとした自民党の政権は敗北し続けたために、財政不足を理解する与野党の合意で即座に導入された諸外国より遅れに遅れ、フランスにおける1959年の世界初導入から三十年後の1989年(平成元年)4月1日に3%で初めて消費税が導入された。これは2019年の時点の日本の左派ポピュリズムでも共通する「耳当たりのよい政策を掲げる一方で、安定財源をいかに確保するのかという意識が欠如している点」が経済成長期やバブル景気末期より前に導入出来なかったことで、積み重なる赤字国債を招いた。実際に自民党からの政権交代に成功した細川連立政権、民主党連立政権は両方とも理想論を捨てないといけない立場となると、国民福祉税導入や消費税増税など野党時代に批判してきたやり方で赤字国債削減を行おうとした。この消費税(VAT)導入に伴う間接税の整理によって、パチンコ場等などの娯楽施設を対象とした地方税の娯楽施設利用税・トランプ類税・物品税等などの間接税が廃止され、酒税やたばこ消費税などが改定された。税の用途は、社会保障と少子化対策として規定されている(2012年法改正)。 消費税法 第1条第2項消費税の収入については、地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする。 諸外国との比較 日本のVATはOECD 諸国中で3番目に低く、OECD平均である19%の半分にすぎない。C効率性は65.3である。日本のVAT率が、OECD平均を下回っている理由について、木寺元はシャウプ勧告、フランスで世界初導入された付加価値税が世界に広がったり、自民党が与党だったとしても一般消費税導入・税率引き上げを目指す度に歴代政権が選挙に負け続けたために「相当な覚悟がないと消費税には手を出せないという空気が政界(自民党内部)では支配的となった」ことが消費税の導入自体を遅らせたからだと指摘している。 VAT8%への引き上げで、経済に影響をうける日本に対して、欧州が20%台で平気でいるのは1970年代から日本より元々VATが高かったからだと指摘されている。日本の低いVATでは引き上げ幅分3%が引き上げ前の5%の6割に相当するのに対して、イギリスでは2011年11月4日に実施した17.5%から20%への2.5%の引き上げは、従来の税率の14%相当の上げ幅に過ぎないため、景気後退も招かなかった。スペインはVAT 16%を2010年以降、2段階にわたり3年間で21%に引き上げた。イタリアも2段階の措置を経て、2011年に20%を22%に増税した。 イギリスでも1979年にVATを7.5%から15%に2倍引き上げた時には景気後退を招いている。財政赤字のイギリスが20%に増税した2011年直後にイギリス人記者のコリン・ジョイスは日本のVATが過去に3%から5%への引き上げられただけで、あんなに怒っていた当時の日本人が理解できないと述べた。財政赤字(en:fiscal deficit)にはVATを増税して税収を増やすことと、公共支出を減らすことの両方が必要だと指摘した。 高齢者社会保障費費用問題と増税 その後、2014年4月1日に日本の消費税率は5%から8%に上げられた。また、2019年10月に8%から10%への消費税率引き上げと同時に、複数税率(8%の軽減税率)が導入された。安倍政権は増収分を赤字国債返済と「3~5歳までの子どもの保育料の無償化」、待機児童解消などに用いた。 安倍首相(当時)は当初案だと増収分で肥大する高齢者向け社会保障費による赤字国債返済に回す割合が多いこと、現行の社会保障費の使い道が高齢者向けの政策に偏っていることを問題視し、「もっと現役世代に振り向けるべきだ」と指摘し、上記のように子供向けの割合を増やす形で使い道を変えた。 2020年度において、消費税21.0兆円、所得税19.2兆円、法人税11.2兆円と、歳入の租税及印紙収入において消費税が最大の歳入になっている。なお、国債発行による歳入である公債金は、2020年当初予算において90.2兆円にまで肥大化し、国債の利払い費用だけで9兆円にも及んでおり、さらに3回の補正予算による追加で、公債金の総額は112.6兆円に達している。 財政破綻、Debt crisis、日本の福祉、日本の医療も参照のこと。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "消費税(、英: consumption tax)は、商品の販売やサービスの提供などの取引に対して課される租税である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本における消費税は、諸外国の付加価値税(value-added tax, VAT)に相当する税制度である。付加価値税(消費税)はフランスで1959年に初めて導入され、その後160カ国以上で導入された。OECD加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税(sales Tax)と物品税(excise tax)が導入されているアメリカ合衆国のみである。州税と地方税の合計である売上税の税率は各州の市ごとに0%~10%と異なっている。ただし、フランスによる1950年代の付加価値税を真似た各国は制度導入時の国内の反対論に妥協し、後に専門家から事務コストの高さから単一税率にすべきと批判される軽減税率を導入した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "消費税が社会保障の安定財源とされる背景には、他税との比較において、現役世代といった特定世代に負担が集中しない点、税収が景気などの変化に左右されにくい点、経済活動に中立的である点から適していることにある。 日本国では1989年の消費税法制定で導入され、消費税税率1%の上下で約2.6兆円の税収が増減する。事業者が事業として対価を得て行う資産の譲渡、資産の貸付け及び役務の提供、商品の販売や運送、広告など、対価を得て行う国内の取引のほとんどは課税の対象となり、外国から製品を輸入する場合も課税される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "消費税(付加価値税)とは財貨・サービスの取引により生じる付加価値に着目して課税する仕組みである。2012年時点でOECD諸国の平均では付加価値税は税収の約31%を占めており、これはGDPの6.6%に相当する。EUの加盟国には付加価値税の標準税率を15%以上にすることが義務付けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "租税体系からの分類方法の一つとして、所得課税(所得税、法人税)、資産課税(相続税、固定資産税)、そして消費課税に大別する方法がある。", "title": "租税体系からの分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この消費課税はさらに、消費した本人へ直接的に課税する直接消費税と、消費行為を行った者が担税者であるものの納税義務者ではない間接消費税に分類できる。前者の「直接消費税」にはゴルフ場利用税などが該当し、納税義務者が消費行為を行った者であって、物品またはサービスの提供者が徴収納付義務者(地方税の場合は特別徴収義務者)として課税主体に代わって徴収を行い、課税主体に納付することとなる。後者の「間接消費税」には酒税などが該当し、納税義務者は、物品の製造者、引取者または販売者、あるいはサービスの提供者であり、税目によって異なる。間接消費税はさらに課税対象とする物品・サービスの消費を特定のものに限定するかどうかに応じ、個別消費税と一般消費税に分類される。", "title": "租税体系からの分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一般消費税はさらに単段階課税(製造業者売上税、卸売売上税、小売売上税)と多段階課税に分類でき、この多段階課税は累積的取引高税と付加価値税とに分類され、これが日本の消費税法でいう狭義の消費税に相当する。さらに付加価値税はGNP型、所得型、消費型に分類され、この消費型付加価値税が現在多くの国で導入されている付加価値税に相当する。さらに消費型付加価値税は前段階税額控除方式(EU)と仕入控除方式(日本)とに分類できる。前段階税額控除方式はEUなどのインボイス制度とも呼ばれ、カナダ、オーストラリアではGoods and Services Tax(GST,財貨サービス税)と呼ばれる。日本では2023年10月1日から適格請求書等保存方式(インボイス制度)が導入された。", "title": "租税体系からの分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本でいう「消費税法に規定する消費税」と「地方税法に規定する地方消費税」は、消費税等として一般消費税に区分される。", "title": "租税体系からの分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "消費は所得の存在を前提として発生することから、消費に課税することによって所得税などで十分に把握できない所得に対して間接的に課税することになる。ただし、所得の中には貯蓄に回される部分があるために、所得の大小と消費の大小は必ずしも一致せず、消費者の消費性向が実際の消費税の負担に対して影響を与える。", "title": "租税体系からの分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一般消費税は、さらに以下に分類される。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "かつての日本の経済学では一般売上税(general sales tax; GST)とも呼ばれていた税方式がモデルとなっている。一般売上税の課税方法として製造・卸売・小売の各段階のいずれか1段階で課税される単一段階課税と2つ以上の段階で課税される多段階課税がある。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "多段階課税を採用した場合、次の段階に税負担を転嫁させていく「ピラミッド効果」が発生し、それぞれ異なる商品に同じように課税をすることによって商品に対する税負担の格差が生じることになる。こうした問題点を解消するために、納税義務者はその売上げに係る消費税ではなく、差額に係る消費税を納税する方法が考え出された。これが今日の一般消費税(VAT)である。一般消費税は付加価値の算定方法により所得型付加価値税と消費型付加価値税に分けることが出来る。前者は仕入計算時において資本財の控除は減価償却分しか認められないが、後者では資本財全額が控除の対象となり、消費部分のみが課税対象となる。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "消費税と一般消費税は外見的には類似しているが、一般消費税には所得に対して課税する所得税や法人税などの直接税に対する批判に由来する代替的な要素も含まれている。所得に課税する場合には、納税者がそもそも正直な所得の申告をし正確な納付をしているかを把握するのに行政側のコストがかかり、公平性・水平性の点でも問題が多い。直接税に批判的な人々は「消費による支出を通じてより正確な所得が把握できる」という考えから一般消費税による代替を求める。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般消費税が初めて導入されたのは1954年のフランスであるが、その前身は1917年に導入された「支払税(la taxe sur les paiements)」である。その後、1920年に「売上税(la taxe sur le chiffre d’affaires)」、1936年に「生産税(la taxe à la production)」と名称を変更しながら現在の形になっていった。その後、1967年にEC閣僚理事会においてフランスと同様の消費型付加価値税に基づく一般消費税を中心とした加盟国間の税制統一運動の推進が確認され、この方針に基づいて1968年に西ドイツが一般売上税を一般消費税に変更した。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "これをきっかけに1969年にオランダ、1970年にルクセンブルク、1971年にベルギー、1973年にイギリス・イタリアと加盟国間において一般消費税への転換が進んだ。日本でも大平正芳内閣の時に導入を目指し、他の先進国の導入から10-20年後に議論の末に商品ごとに税額の異なる売上税から商品均一税率であるVAT型の消費税が1989年に竹下登内閣で導入されることになった。", "title": "一般消費税" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "個別消費税(Selected excise duties)は特定あるいは一群の財貨・サービスに対する課税である。課税の対象になる財貨・サービスは特定的で税率も統一されていない。税率は、量・重さ・強度・オクタン価・アルコール度数などが基準として使われている。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この方式で課税される対象としては3つの分類が考えられ、酒や煙草のような嗜好品に賦課する「嗜好品課税」、ガソリンのように応益原則・受益者負担の原則に基づいて特定の公共サービスを行うために関連した商品・サービスにかける「目的税」、その他の物を対象とした「奢侈品・娯楽用品・サービス課税」と呼ばれる奢侈品や日常生活で用いられてはいるが生活必需品とはいえない商品に課される。かつて日本に存在した物品税の多くがこれに含まれている。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "個別消費税は、元は内国消費税(excise)として、16世紀末期にスペインからの独立戦争を継続していたオランダで軍費調達のために始められたと言われている。イングランドではこれを範として内国消費税を導入して財政難を克服しようとした。これに対するイングランド議会の反発が、清教徒革命へと発展するが、皮肉にも革命軍の軍事費を得るためにジョン・ピムやオリバー・クロムウェルが採用したのが内国消費税であった。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、王政復古期に王権と議会の対立の原因となっていた徴発権などの国王大権を国王が返上する代わりに内国消費税の半分を国王の生活のための供与金として認めることで合意が成立した。その後も財政難を理由として何度か内国消費税の引き上げが行われた。1733年に当時(初代)の首相ロバート・ウォルポールが地租の削減・廃止と関税の引き下げの代償に更なる内国消費税の大幅引き上げを図った。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これに対して政敵のボリングブルック子爵が噛み付き、民衆も生活苦から暴動を起こす騒ぎとなったためにウォルポールは提案を撤回した。これを「消費税危機」(excise crisis)という。産業革命以後には産業育成のために内国消費税を削減して関税に転嫁する方針が採用された。フランスではジャン=バティスト・コルベールが導入した塩の専売制に付随してかけられたガベル(gabelle)と飲料品税に由来するエード(aides)が知られ、絶対王政期のフランス財政を支えた。ドイツでも17世紀後半以後盛んに導入されたが、余りの高率に国民生活の不安定と国家財政の極度の個別消費税依存を招きフェルディナント・ラッサールから厳しい批判を浴びた。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この他アメリカでも独立戦争時にイギリスを真似て個別消費税を導入したが、1794年にウィスキー税に反対するウィスキー反乱が発生してジョージ・ワシントン政権を揺るがした。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本では、江戸時代以前の運上・冥加が一種の個別消費税に相当するが、近代的な税制は明治維新以後に各種の間接税が導入されて以後である。特に酒税は一時は歳入中最大の割合を占めるほどになった。戦後になってシャウプ勧告と消費税法施行に伴って2度にわたって間接税の整理が行われる。", "title": "個別消費税" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "総合消費税(general expenditure tax)は、イギリスの経済学者ニコラス・カルドアが提唱した方法で、spendings tax(支出税)とも呼ばれる。個々の消費者がその年度内に発生した財貨・サービス支出を税務署に自己申告をおこない、累進課税にもとづく税額の算定にもとづいて納付する。元は所得税を補完する税法として考案され、キャピタル・ゲインなどの所得からも支出に対する課税の形で税を徴収でき、かつ預貯金とその金利は支出に相当せずに課税されないために節約と貯蓄奨励にもなるとされ、インドなどで一時導入が検討された。", "title": "総合消費税" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "だが、全ての人が正確な納付をおこなうためには、各個人が自己の支出に関する正確な記録を作成して、収入・支出・貯蓄に関するバランス・シートを作成しなければならないことから、本格的に導入した国は存在しなかった。また、税務署が全居住者の収入・支出・貯蓄情報を把握する必要があるため、事務の煩雑さから実施が困難であると言える。", "title": "総合消費税" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "OECD各国平均の税収構造(2014年)", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一般消費税による税収の全税収における割合はOECD加盟国平均で20.2%であり、一般消費税による税収の対GDP比はOECD加盟国平均で6.7%である(2022年)。ちなみにOECD加盟国の中で欧州連合に属する国家は標準税率を15%以上にすることが義務づけられている。", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "OECD諸国における消費税", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本の低負担・中福祉への提言", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本は2015年度時点でOECD加盟国の中でデータのないトルコを除いた33カ国のうち、国民負担率は27位である。NHKによると先進国中、フランスは68.2%、1位のルクセンブルクは93.7%などヨーロッパでは高く、日本の国民負担率は全体で下位であり、 日本はいわゆる「低負担・中福祉」の国と報道している。高齢者向けになっている社会保障を「全世代型」の社会保障を目指している日本政府の方針を伝えている。民主党政権下の政府税制調査会専門家委員会委員を務めた三木義一青山学院大学法学部教授は日本は低負担中福祉となっていることについて、「高福祉高負担、低負担低福祉のどちらか又は中間の中負担中福祉なのかを日本は選ぶ必要がある」と指摘している。三木は「増税が必要な局面では、政治家が前面に出てその必要性を訴えなければ国民の理解も深まりません。それなのに、与党も野党も選挙での人気取りのために、社会保障の充実と減税を同時にアピールするような都合のよい主張が目立ちます」と日本経済新聞とともに日本にはびこる財政ポピュリズムを批判している。", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2018年時点のOECD加盟国の(標準)消費税率平均は約19.6%で、時事通信社によると高福祉・高負担の代表国のスウェーデンの消費税率は25%と国民負担率負担が高い半面、大学までの学費が無料など恩恵は大きい。国民負担率33.1%で低福祉・低負担とされる米国では政府が徴収する消費税がなく、市や州が税率を定めて小売売上税(地方税)を課している。日本は中福祉・低負担国であり、福田慎一東大教授は、増税による応分負担または、国債と併せると歳出の58%を占める上に膨張し続けている社会保障費約36兆削減の選択の議論が必要だとしている。木寺元は日本の消費税が他国より低い理由に取引高税失敗とシャウプ勧告で官僚主導時代に一般消費税の導入自体が遅れたこと、一般消費税導入を目指した時の自民党政権が選挙に負け続けたことで、「相当な覚悟がないと消費税には手を出せない」という空気が政界で支配的となったからと解説している。", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "デンマークの歳入内訳", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2017年のデンマーク歳入の構成は、OECD(データ対象: 2017)によると所得税52.9%で半分以上を占めている。残りは消費税31.8%、法人税7.2%資産課税(固定資産税、相続税など)3.9%、 社会保険料:0.1%、 その他:4.1%である。", "title": "OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1986年に広い免税範囲・7種類の従価税率と12種類の特別税率という複雑な税率構造・サービス業非課税・製造業者から直接購入できる大規模小売業者に有利などの従来の卸売売上税の歪みを是正・歳入における個人所得税への極端な依存を是正・社会保障給付の増加と保護主義的な経済政策で拡大した財政赤字の削減などのために10%で導入され、1989年に12.5%へ増税された。1994年からGDP比の財政収支がプラスに転じた。軽減税率を導入せずに消費税の税率が全て一律なため、世界で最も課税ベースが広く、経済に対して最も中立的な付加価値税であるのでC効率性は世界最高の96.4%となっている。1999年にニュージーランド政府は最小のコストで安定した税収を得るためには、課税ベースの拡大と単一かつ定率の消費税だとの方針を確認している。1986年の軽減税率無しの10%の消費税導入に日本のような国民の反発はなかった。背景として、ニュージーランドでは社会保障費の制度を中負担中福祉にすることや低所得者への対応を消費税による税収から後で再分配する方が小売店も役所の負担が軽減されて効率的との政府の方針を国民が受け入れたためである。2006年に付加価値税収の総税収に占める割合は24.4%である。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1967年に福祉国家建設のための公的部門への需要増加に対応して、より広く安定した課税ベースを確立することを目的にデンマーク社会民主党によって10%で導入された。1970年代に20.25%台にまで引き上げられた後に、1992年から現行の25%になった。軽減税率は歳入減少の財政負担・徴収の効率化・軽減税率の適用対象品目の区別などが困難などとして、一律25%の消費税による税収を後で社会保障給付によって逆進性への対処として再分配を行う方が効率的として導入しなかった。デンマークで唯一例外的な軽減税率の対象は新聞のみである。2006年の対総税収比では個人所得税負担の割合が 51.3%と突出しており、付加価値税の割合は21.3%である。これは手厚い社会保障が基本的に国民の所得税と消費税で7割以上も賄われていることによる。同じ北欧で6%の軽減税率ありで、25%の消費税であるスウェーデンの47.3を上回る51.6のC効率性である。スウェーデンの付加価値税がデンマークよりもC効率性は低い理由には、 軽減税率と消費者を顧客とする小売・サービス業で発生しやすい脱税や電子商取引の発達や税率の低い隣国での国境を越えた租税回避がある。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、連邦政府によるVATにあたる税金はないが、州ごとに業者間取引には課されず、最終的な消費者のみに課される売上税(Sales Tax)がある。50の州のうち、5つの州において、州ごとの売上税が課せられない。州ごとの売上税(State Sales Tax)がないのは、アラスカ州・デラウェア州・[[モンタナ州]]・ニューハンプシャー州・オレゴン州である。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国議会では何十年にもわたって、VATの導入について議論が持たれてきたが、法人税・所得税に代表される直接税に比べて、消費税・付加価値税など間接税が優れているとは見なせないという理由で、国全体での採用は見送りとなっている(アメリカの国税における直間比率は9対1)。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "VATの場合は特に、輸出に還付金が渡され輸入には課税される点、法人税引き下げとセットにされやすい点など、議論の焦点となってきたことが、アメリカの公文書に多く残っている。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イタリアは1973年に12%で導入された。1997年には20%にまで増税された。欧州危機不況で社会保障費支出は増大して、財政赤字が増加していた。そのため。2011年9月にイタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ政権が付加価値税(VAT)の税率を20%から1%引き上げたが、同税の受取額は減少し、4月末までの1年間の徴収額は2006年以降で最低に落ち込んだ。「歳出を減らす方がはるかに良い」と提言された。2013年には22%に増税された。2016年予算安定化法案で2017年1月から24%への増税が定められていたが、2017年予算法で増税時期は先送りされ、2018年1月に引き上げ実施予定になった。軽減税率は4%と10%の二つがあることもあり、C効率性は38.2%である。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "中華人民共和国において付加価値税(VAT)は「増値税」と呼ばれている。増値税は1984年に17%で導入された。現在では納税人と商品に対し、それぞれ違う税率が適用される(例えば、農産物や自己販売の中古品は免税、現代サービス業納税人には6%、図書・ガスには9%、一般の製品には13%)。なお、中国では値段はほぼ全部税込価格である。増値税が中国の総税収の60%以上を占めている。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本の一般政府歳入(%, 2019年)", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "財政ポピュリズムによる導入の遅れ", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本では財政ポピリュズムを訴える社会党や日本共産党など野党が消費税導入を政争の具にし、導入しようとした自民党の政権は敗北し続けたために、財政不足を理解する与野党の合意で即座に導入された諸外国より遅れに遅れ、フランスにおける1959年の世界初導入から三十年後の1989年(平成元年)4月1日に3%で初めて消費税が導入された。これは2019年の時点の日本の左派ポピュリズムでも共通する「耳当たりのよい政策を掲げる一方で、安定財源をいかに確保するのかという意識が欠如している点」が経済成長期やバブル景気末期より前に導入出来なかったことで、積み重なる赤字国債を招いた。実際に自民党からの政権交代に成功した細川連立政権、民主党連立政権は両方とも理想論を捨てないといけない立場となると、国民福祉税導入や消費税増税など野党時代に批判してきたやり方で赤字国債削減を行おうとした。この消費税(VAT)導入に伴う間接税の整理によって、パチンコ場等などの娯楽施設を対象とした地方税の娯楽施設利用税・トランプ類税・物品税等などの間接税が廃止され、酒税やたばこ消費税などが改定された。税の用途は、社会保障と少子化対策として規定されている(2012年法改正)。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "消費税法 第1条第2項消費税の収入については、地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "諸外国との比較", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本のVATはOECD 諸国中で3番目に低く、OECD平均である19%の半分にすぎない。C効率性は65.3である。日本のVAT率が、OECD平均を下回っている理由について、木寺元はシャウプ勧告、フランスで世界初導入された付加価値税が世界に広がったり、自民党が与党だったとしても一般消費税導入・税率引き上げを目指す度に歴代政権が選挙に負け続けたために「相当な覚悟がないと消費税には手を出せないという空気が政界(自民党内部)では支配的となった」ことが消費税の導入自体を遅らせたからだと指摘している。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "VAT8%への引き上げで、経済に影響をうける日本に対して、欧州が20%台で平気でいるのは1970年代から日本より元々VATが高かったからだと指摘されている。日本の低いVATでは引き上げ幅分3%が引き上げ前の5%の6割に相当するのに対して、イギリスでは2011年11月4日に実施した17.5%から20%への2.5%の引き上げは、従来の税率の14%相当の上げ幅に過ぎないため、景気後退も招かなかった。スペインはVAT 16%を2010年以降、2段階にわたり3年間で21%に引き上げた。イタリアも2段階の措置を経て、2011年に20%を22%に増税した。 イギリスでも1979年にVATを7.5%から15%に2倍引き上げた時には景気後退を招いている。財政赤字のイギリスが20%に増税した2011年直後にイギリス人記者のコリン・ジョイスは日本のVATが過去に3%から5%への引き上げられただけで、あんなに怒っていた当時の日本人が理解できないと述べた。財政赤字(en:fiscal deficit)にはVATを増税して税収を増やすことと、公共支出を減らすことの両方が必要だと指摘した。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "高齢者社会保障費費用問題と増税", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "その後、2014年4月1日に日本の消費税率は5%から8%に上げられた。また、2019年10月に8%から10%への消費税率引き上げと同時に、複数税率(8%の軽減税率)が導入された。安倍政権は増収分を赤字国債返済と「3~5歳までの子どもの保育料の無償化」、待機児童解消などに用いた。 安倍首相(当時)は当初案だと増収分で肥大する高齢者向け社会保障費による赤字国債返済に回す割合が多いこと、現行の社会保障費の使い道が高齢者向けの政策に偏っていることを問題視し、「もっと現役世代に振り向けるべきだ」と指摘し、上記のように子供向けの割合を増やす形で使い道を変えた。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2020年度において、消費税21.0兆円、所得税19.2兆円、法人税11.2兆円と、歳入の租税及印紙収入において消費税が最大の歳入になっている。なお、国債発行による歳入である公債金は、2020年当初予算において90.2兆円にまで肥大化し、国債の利払い費用だけで9兆円にも及んでおり、さらに3回の補正予算による追加で、公債金の総額は112.6兆円に達している。", "title": "各国の制度・C効率性" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "財政破綻、Debt crisis、日本の福祉、日本の医療も参照のこと。", "title": "各国の制度・C効率性" } ]
消費税(しょうひぜい、は、商品の販売やサービスの提供などの取引に対して課される租税である。 日本における消費税は、諸外国の付加価値税に相当する税制度である。付加価値税はフランスで1959年に初めて導入され、その後160カ国以上で導入された。OECD加盟国で付加価値税を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税と物品税が導入されているアメリカ合衆国のみである。州税と地方税の合計である売上税の税率は各州の市ごとに0%~10%と異なっている。ただし、フランスによる1950年代の付加価値税を真似た各国は制度導入時の国内の反対論に妥協し、後に専門家から事務コストの高さから単一税率にすべきと批判される軽減税率を導入した。 消費税が社会保障の安定財源とされる背景には、他税との比較において、現役世代といった特定世代に負担が集中しない点、税収が景気などの変化に左右されにくい点、経済活動に中立的である点から適していることにある。 日本国では1989年の消費税法制定で導入され、消費税税率1%の上下で約2.6兆円の税収が増減する。事業者が事業として対価を得て行う資産の譲渡、資産の貸付け及び役務の提供、商品の販売や運送、広告など、対価を得て行う国内の取引のほとんどは課税の対象となり、外国から製品を輸入する場合も課税される。 消費税とは財貨・サービスの取引により生じる付加価値に着目して課税する仕組みである。2012年時点でOECD諸国の平均では付加価値税は税収の約31%を占めており、これはGDPの6.6%に相当する。EUの加盟国には付加価値税の標準税率を15%以上にすることが義務付けられている。
{{Otheruses|総論|日本の制度|消費税法}} {{課税}} {{読み仮名|'''消費税'''|しょうひぜい|{{lang-en-short|consumption tax}}}}は、[[商品]]の販売や[[サービス]]の提供などの取引に対して課される[[租税]]である<ref name="kokuzei">{{Cite web|和書|url=https://www.nta.go.jp/publication/pamph/koho/kurashi/html/01_3.htm|title=消費税のしくみ|website=[[国税庁]]|accessdate=2021-06-28}}</ref>。 日本における消費税は、諸外国の'''[[付加価値税]]'''(value-added tax, VAT)に相当する税制度である{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=6}}。付加価値税(消費税)は[[フランス]]で[[1959年]]に初めて導入され、その後160カ国以上で導入された。[[OECD]]加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、[[売上税]]('''sales Tax''')と[[物品税]]('''excise tax'''){{Efn|アメリカ合衆国には売上税に加算されるホテル税や外食税など売上税と別途の税とある。日本のかつての[[物品税]]のように特定の品目ごとに税が異なるExcise Taxもあり、タバコやお酒、タイヤ、石油製品、トレーラーなど限られた商品に売上税に更に課せられる。売上税が最も高いのが、ルイジアナ州ワシタのモンロー市の税率12.95%である。州レベルでの税率はイリノイ州、マサチューセッツ州、テキサス州は6.25%、フロリダ州は6%、ニューヨーク州、ハワイ州は4%である。アラスカ、デラウェア、モンタナ、ニューハンプシャー、オレゴンの5州では、州が課す売上税は0%となっている。}}が導入されている[[アメリカ合衆国]]のみである。[[州税]]と[[地方税]]の合計である売上税の税率は各州の市ごとに0%~10%と異なっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wise.com/jp/vat/consumption-tax/usa|title=アメリカの消費税|website=[[Wise (企業)|Wise]]|accessdate=2022-08-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ja.sekaiproperty.com/article/3564/no-sales-tax-in-the-united-states|title=アメリカに消費税はない?その理由を徹底解説|website=SEKAI PROPERTY|publisher=BEYOND BORDERS|date=2020-02-02|accessdate=2022-08-13}}</ref>。ただし、フランスによる1950年代の付加価値税を真似た各国は制度導入時の国内の反対論に妥協し、後に専門家から事務コストの高さから単一税率にすべきと批判される[[軽減税率]]を導入した<ref>{{Cite web|和書|title=今なぜ軽減税率なのか?|NIRA総合研究開発機構 |url=https://www.nira.or.jp/paper/my-vision/2016/post-46.html |website=www.nira.or.jp |access-date=2023-09-28 |language=ja}}</ref>。 消費税が社会保障の安定財源とされる背景には、他税との比較において、現役世代といった特定世代に負担が集中しない点、税収が景気などの変化に左右されにくい点、経済活動に中立的である点から適していることにある<ref>{{Cite web|和書|title=先般の消費税率10%への引上げは、なぜ行われたのですか。 |url=https://www.mof.go.jp/faq/tax_policy/02eb.htm |website=財務省 |access-date=2023-09-28 |language=ja}}</ref>。 [[日本|日本国]]では[[1989年]]の[[消費税法]]制定で導入され、消費税税率1%の上下で'''約2.6兆円'''の税収が増減する<ref>{{Cite web|和書|title=税金クイズ|url=http://www.kanzeikai.jp/index.asp?patten_cd=11&page_no=169|website=全国間税会総連合会|accessdate=2021-11-14}}</ref>。事業者が事業として対価を得て行う資産の譲渡、資産の貸付け及び役務の提供、商品の販売や運送、広告など、対価を得て行う国内の取引のほとんどは課税の対象となり、外国から[[製品]]を輸入する場合も課税される<ref name="kokuzei" />。 消費税(付加価値税)とは財貨・サービスの取引により生じる[[付加価値]]に着目して課税する仕組みである。2012年時点でOECD諸国の平均では付加価値税は税収の約31%を占めており、これはGDPの6.6%に相当する{{Sfn|OECD|2014|p=9}}。[[欧州連合|EU]]の加盟国には付加価値税の標準税率を15%以上にすることが義務付けられている<ref name=":0" />。 {{See|付加価値税}} == 租税体系からの分類 == 租税体系からの分類方法の一つとして、所得課税([[所得税]]、[[法人税]])、資産課税([[相続税]]、[[固定資産税]])、そして'''消費課税'''に大別する方法がある{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=6-9}}。 この消費課税はさらに、消費した本人へ直接的に課税する'''直接消費税'''と、消費行為を行った者が担税者であるものの納税義務者ではない'''間接消費税'''に分類できる{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=6}}。前者の「直接消費税」にはゴルフ場利用税などが該当し、納税義務者が消費行為を行った者であって、物品またはサービスの提供者が徴収納付義務者(地方税の場合は特別徴収義務者)として課税主体に代わって徴収を行い、課税主体に納付することとなる。後者の「間接消費税」には酒税などが該当し、納税義務者は、物品の製造者、引取者または販売者、あるいはサービスの提供者であり、税目によって異なる。間接消費税はさらに課税対象とする物品・サービスの消費を特定のものに限定するかどうかに応じ、'''個別消費税'''と'''一般消費税'''に分類される{{Sfn|OECD|2014|p=15}}。 一般消費税はさらに単段階課税(製造業者売上税、卸売売上税、小売売上税)と多段階課税に分類でき、この多段階課税は累積的取引高税と'''[[付加価値税]]'''とに分類され、これが日本の消費税法でいう狭義の消費税に相当する{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=6}}。さらに付加価値税はGNP型、所得型、消費型に分類され、この'''消費型付加価値税'''が現在多くの国で導入されている付加価値税に相当する。さらに消費型付加価値税は前段階税額控除方式(EU)と仕入控除方式(日本)とに分類できる。前段階税額控除方式は[[EU]]などの[[インボイス制度]]とも呼ばれ、カナダ、オーストラリアではGoods and Services Tax(GST,財貨サービス税)と呼ばれる{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=7}}。日本では2023年10月1日から適格請求書等保存方式(インボイス制度)が導入された。 [[日本]]でいう「[[消費税法]]に規定する消費税」と「[[地方税法]]に規定する[[地方消費税]]」は、消費税等として一般消費税に区分される。 {{Squote| ;租税体系における分類{{Sfn|鎌倉治子|2008|p=6-7}} *所得課税([[所得税]]、[[法人税]]) *資産課税([[相続税]]、[[固定資産税]]) *'''消費課税''' ** 直接消費税 ** 間接消費税 *** [[関税]] *** 個別消費税(Taxes on Specific goods and service){{Sfn|OECD|2014|p=15}} *** 一般消費税(General Tax){{Sfn|OECD|2014|p=15}} **** 単段階課税(製造業者売上税、卸売売上税、小売売上税) **** 多段階課税 ***** 累積的取引高税 ***** '''[[付加価値税]]''' ****** GNP型付加価値税 ****** 所得型付加価値税(課税ベースに投資を含むので、狭義の消費課税ではない) ****** '''消費型付加価値税''' ******* 前段階税額控除方式([[EU]]) ******* 仕入控除方式(日本):日本の[[消費税法]]で規定される'''消費税''' }} 消費は所得の存在を前提として発生することから、消費に課税することによって所得税などで十分に把握できない所得に対して間接的に課税することになる。ただし、所得の中には貯蓄に回される部分があるために、所得の大小と消費の大小は必ずしも一致せず、消費者の消費性向が実際の消費税の負担に対して影響を与える。 == 一般消費税 == 一般消費税は、さらに以下に分類される{{Sfn|鎌倉治子|2008}}。 * 単段階課税 ** [[売上税]] - たとえば小売売上税では、最終消費者への小売者のみが徴収納付義務者 * 多段階課税 ** [[付加価値税]](Value-Added Tax:'''VAT''')、もしくは物品サービス税(Goods and Services Tax:'''GST''') かつての日本の経済学では'''一般売上税'''(general sales tax; '''GST''')とも呼ばれていた税方式がモデルとなっている。一般売上税の課税方法として製造・卸売・小売の各段階のいずれか1段階で課税される単一段階課税と2つ以上の段階で課税される多段階課税がある。 [[ファイル:OECD General Consumption Taxes.svg|thumb|right|350px|OECD諸国における付加価値税(VAT)標準税率(2020年){{Sfn|OECD|2014|loc=Chapt.4}}]] [[ファイル:Countries with VAT.svg|260px|thumb|付加価値税(VAT)を採用する国 {{legend|#0000f6|VATなし}} {{legend|#f08481|VATあり}}]] 多段階課税を採用した場合、次の段階に税負担を転嫁させていく「ピラミッド効果」が発生し、それぞれ異なる商品に同じように課税をすることによって商品に対する税負担の格差が生じることになる。こうした問題点を解消するために、納税義務者はその売上げに係る消費税ではなく、差額に係る消費税を納税する方法が考え出された。これが今日の一般消費税(VAT)である。一般消費税は付加価値の算定方法により所得型付加価値税と消費型付加価値税に分けることが出来る。前者は仕入計算時において資本財の控除は減価償却分しか認められないが、後者では資本財全額が控除の対象となり、消費部分のみが課税対象となる。 消費税と一般消費税は外見的には類似しているが、一般消費税には所得に対して課税する所得税や法人税などの直接税に対する批判に由来する代替的な要素も含まれている。所得に課税する場合には、納税者がそもそも正直な所得の申告をし正確な納付をしているかを把握するのに行政側のコストがかかり、公平性・水平性の点でも問題が多い。直接税に批判的な人々は「消費による支出を通じてより正確な所得が把握できる」という考えから一般消費税による代替を求める。 一般消費税が初めて導入されたのは[[1954年]]のフランスであるが、その前身は[[1917年]]に導入された「支払税(la taxe sur les paiements)」である。その後、[[1920年]]に「売上税(la taxe sur le chiffre d’affaires)」、[[1936年]]に「生産税(la taxe à la production)」と名称を変更しながら現在の形になっていった。その後、[[1967年]]に[[EC閣僚理事会]]においてフランスと同様の消費型付加価値税に基づく一般消費税を中心とした加盟国間の税制統一運動の推進が確認され、この方針に基づいて[[1968年]]に[[西ドイツ]]が一般売上税を一般消費税に変更した。 これをきっかけに[[1969年]]に[[オランダ]]、[[1970年]]に[[ルクセンブルク]]、[[1971年]]に[[ベルギー]]、[[1973年]]に[[イギリス]]・[[イタリア]]と加盟国間において一般消費税への転換が進んだ。日本でも大平正芳内閣の時に導入を目指し、他の先進国の導入から10-20年後に議論の末に商品ごとに税額の異なる売上税から商品均一税率であるVAT型の消費税が1989年に竹下登内閣で導入されることになった{{Sfn|鎌倉治子|2008}}。 {{Main2|税率、軽減税率、免税品|付加価値税}} == 個別消費税 == {{Seealso|物品税}} {{Multiple image | width = 100 | image1=Breezeicons-emotes-22-drink-beer.svg | caption1=[[酒税]] | image2=Pictograms-nps-misc-smoking.svg | caption2=[[たばこ税]] | image3=Pictograms-nps-gas_station-2.svg |caption3=[[ガソリン税]]}} '''個別消費税'''(Selected excise duties)は特定あるいは一群の財貨・サービスに対する課税である{{Sfn|OECD|2014|loc=Chapt.4}}。課税の対象になる財貨・サービスは特定的で税率も統一されていない。税率は、量・重さ・強度・オクタン価・[[アルコール度数]]などが基準として使われている{{Sfn|OECD|2014|loc=Chapt.4}}。 この方式で課税される対象としては3つの分類が考えられ、酒や煙草のような嗜好品に賦課する「嗜好品課税」、ガソリンのように応益原則・受益者負担の原則に基づいて特定の公共サービスを行うために関連した商品・サービスにかける「目的税」、その他の物を対象とした「奢侈品・娯楽用品・サービス課税」と呼ばれる奢侈品や日常生活で用いられてはいるが生活必需品とはいえない商品に課される。かつて日本に存在した[[物品税]]の多くがこれに含まれている。 個別消費税は、元は'''内国消費税'''(''excise'')として、[[16世紀]]末期に[[スペイン]]からの独立戦争を継続していた[[オランダ]]で軍費調達のために始められたと言われている。[[イングランド]]ではこれを範として内国消費税を導入して財政難を克服しようとした。これに対する[[イギリスの議会|イングランド議会]]の反発が、[[清教徒革命]]へと発展するが、皮肉にも革命軍の軍事費を得るために[[ジョン・ピム]]や[[オリバー・クロムウェル]]が採用したのが内国消費税であった。 その後、王政復古期に王権と議会の対立の原因となっていた[[徴発権]]などの国王大権を国王が返上する代わりに内国消費税の半分を国王の生活のための供与金として認めることで合意が成立した。その後も財政難を理由として何度か内国消費税の引き上げが行われた。[[1733年]]に当時(初代)の[[イギリスの首相|首相]][[ロバート・ウォルポール]]が地租の削減・廃止と関税の引き下げの代償に更なる内国消費税の大幅引き上げを図った。 これに対して政敵の[[ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)|ボリングブルック子爵]]が噛み付き、民衆も生活苦から暴動を起こす騒ぎとなったためにウォルポールは提案を撤回した。これを「消費税危機」(excise crisis)という。[[産業革命]]以後には産業育成のために内国消費税を削減して関税に転嫁する方針が採用された。[[フランス]]では[[ジャン=バティスト・コルベール|ジャン=バティスト・コルベール]]が導入した塩の専売制に付随してかけられた[[ガベル]](gabelle)と飲料品税に由来するエード(aides)が知られ、[[絶対王政期]]のフランス財政を支えた。[[ドイツ]]でも17世紀後半以後盛んに導入されたが、余りの高率に国民生活の不安定と国家財政の極度の個別消費税依存を招き[[フェルディナント・ラッサール]]から厳しい批判を浴びた。 この他アメリカでも[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]時にイギリスを真似て個別消費税を導入したが、[[1794年]]に[[ウィスキー]]税に反対するウィスキー反乱が発生して[[ジョージ・ワシントン]]政権を揺るがした。 日本では、[[江戸時代]]以前の[[運上]]・[[冥加]]が一種の個別消費税に相当するが、近代的な税制は[[明治維新]]以後に各種の間接税が導入されて以後である。特に[[酒税]]は一時は歳入中最大の割合を占めるほどになった。戦後になって[[シャウプ勧告]]と消費税法施行に伴って2度にわたって間接税の整理が行われる。 == 総合消費税 == '''総合消費税'''(general expenditure tax)は、[[イギリス]]の[[経済学者]][[ニコラス・カルドア]]が提唱した方法で、''spendings tax''('''支出税''')とも呼ばれる。個々の消費者がその年度内に発生した財貨・サービス支出を[[税務署]]に自己申告をおこない、[[累進課税]]にもとづく税額の算定にもとづいて納付する。元は[[所得税]]を補完する税法として考案され、[[キャピタル・ゲイン]]などの所得からも支出に対する課税の形で税を徴収でき、かつ預貯金とその金利は支出に相当せずに課税されないために節約と貯蓄奨励にもなるとされ、[[インド]]などで一時導入が検討された。 だが、全ての人が正確な納付をおこなうためには、各個人が自己の支出に関する正確な記録を作成して、収入・支出・貯蓄に関する[[バランス・シート]]を作成しなければならないことから、本格的に導入した国は存在しなかった。また、税務署が全居住者の収入・支出・貯蓄情報を把握する必要があるため、事務の煩雑さから実施が困難であると言える。 == OECD加盟国ごとの消費税率・歳入に占める割合 == {{OECD平均の税収構造}} 一般消費税による税収の全税収における割合はOECD加盟国平均で20.2%であり<ref name=OECDvat2022 />、一般消費税による税収の対GDP比はOECD加盟国平均で6.7%である(2022年)<ref name=OECDvat2022 />。ちなみにOECD加盟国の中で[[欧州連合]]に属する国家は標準税率を'''15%以上'''にすることが義務づけられている<ref name="mof2">[https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/consumption/103.pdf 諸外国における付加価値税の標準税率の推移 (2017年1月現在)]</ref>。 '''OECD諸国における消費税''' [[File:Revenue of General taxes on goods and services in OECD.svg|thumb|none|600px|OECD諸国の一般消費税収(GDP比)]] {| class="wikitable sortable" style="font-size:85%; text-align:right" |+ 2022年データ <ref name=OECDvat2022>{{Cite |publisher=OECD |title=Consumption Tax Trends 2022 |doi=10.1787/6525a942-en |date=2022-12}}</ref> ! !! VAT税率(%) !! GDPに占める<br>VAT税収比(%) !! 全税収に占める<br>VAT比率(%) |- |{{rh}}| 米国 || 0 || 0 || 0 |- |{{rh}}| カナダ || 5 || 4.5 || 13.2 |- |{{rh}}| チェコ || 7.7 || 3.1 || 11.3 |- |{{rh}}| 豪州 || 10 || 3.5 || 12.4 |- |{{rh}}| 日本 || 10 || 4.9 || 14.9 |- |{{rh}}| 韓国 || 10 || 4.2 || 15.1 |- |{{rh}}| コスタリカ || 13 || 4.5 || 19.7 |- |{{rh}}| ニュージーランド || 15 || 10.4 || 30.6 |- |{{rh}}| メキシコ || 16 || 4.2 || 23.8 |- |{{rh}}| イスラエル || 17 || 7.1 || 23.9 |- |{{rh}}| ルクセンブルク || 17 || 5.7 || 14.9 |- |{{rh}}| トルコ || 18 || 4.6 || 19.2 |- |{{rh}}| チリ || 19 || 8 || 41.1 |- |{{rh}}| コロンビア || 19 || 5.4 || 28.7 |- |{{rh}}| ドイツ || 19 || 6.5 || 17.2 |- |{{rh}}| OECD平均 || 19.2 || 6.7 || 20.2 |- |{{rh}}| オーストリー || 20 || 7.4 || 17.6 |- |{{rh}}| エストニア || 20 || 8.9 || 26.7 |- |{{rh}}| フランス || 20 || 7 || 15.4 |- |{{rh}}| 英国 || 20 || 6.5 || 20.1 |- |{{rh}}| スロバキア || 20 || 7.4 || 21 |- |{{rh}}| ベルギー || 21 || 6.4 || 15 |- |{{rh}}| チェコ || 21 || 7.4 || 21.3 |- |{{rh}}| スペイン || 21 || 6.3 || 17.1 |- |{{rh}}| リトアニア || 21 || 7.9 || 25.6 |- |{{rh}}| ラトビア || 21 || 8.7 || 27.5 |- |{{rh}}| オランダ || 21 || 7.4 || 18.5 |- |{{rh}}| イタリア || 22 || 6 || 14.1 |- |{{rh}}| スロベニア || 22 || 7.5 || 20.2 |- |{{rh}}| アイルランド || 23 || 3.4 || 17.2 |- |{{rh}}| ポーランド || 23 || 7.8 || 22.4 |- |{{rh}}| ポルトガル || 23 || 8.4 || 23.8 |- |{{rh}}| フィンランド || 24 || 9.2 || 22.1 |- |{{rh}}| ギリシャ || 24 || 7.8 || 20.1 |- |{{rh}}| イスラエル || 24 || 8 || 22 |- |{{rh}}| デンマーク || 25 || 9.8 || 20.8 |- |{{rh}}| ノルウェー || 25 || 9.1 || 23.6 |- |{{rh}}| スウェーデン || 25 || 9.2 || 21.6 |- |{{rh}}| ハンガリー || 27 || 9.8 || 27.1 |} '''日本の低負担・中福祉への提言''' 日本は2015年度時点でOECD加盟国の中でデータのないトルコを除いた33カ国のうち、国民負担率は'''27位'''である<ref>{{Cite web|和書|title=こんなに払っても、日本の税はまだ軽いという現実|マネー研究所|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO8399041005032015000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-09-10|language=ja|last=[[日本経済新聞社]]・[[日経BP社]]|publisher=|quote=経済協力開発機構(OECD)の加盟国からデータのないトルコを除いた33カ国のうち、日本の国民負担率は27位です。}}</ref>。NHKによると先進国中、フランスは68.2%、1位のルクセンブルクは93.7%などヨーロッパでは高く、日本の国民負担率は全体で下位であり、 日本はいわゆる「低負担・中福祉」の国と報道している。高齢者向けになっている社会保障を「全世代型」の社会保障を目指している日本政府の方針を伝えている<ref>{{Cite web|和書|title=高すぎる? 国民負担率 |サクサク経済Q&A| NHK NEWS WEB|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/sakusakukeizai/articles/20200302.html|website=www3.nhk.or.jp|accessdate=2020-10-01|last=日本放送協会}}</ref>。民主党政権下の政府税制調査会専門家委員会委員を務めた[[三木義一]]青山学院大学法学部教授は日本は低負担中福祉となっていることについて、「高福祉高負担、低負担低福祉のどちらか又は中間の中負担中福祉なのかを日本は選ぶ必要がある」と指摘している。三木は「増税が必要な局面では、政治家が前面に出てその必要性を訴えなければ国民の理解も深まりません。それなのに、与党も野党も選挙での人気取りのために、社会保障の充実と減税を同時にアピールするような都合のよい主張が目立ちます」と日本経済新聞とともに日本にはびこる'''財政ポピュリズム'''を批判している<ref>{{Cite web|和書|title=こんなに払っても、日本の税はまだ軽いという現実|マネー研究所|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO8399041005032015000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-10-01|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社|publisher=|quote=増税が必要な局面では、政治家が前面に出てその必要性を訴えなければ国民の理解も深まりません。それなのに、与党も野党も選挙での人気取りのために、社会保障の充実と減税を同時にアピールするような都合のよい主張が目立ちます。ドイツでは05年の総選挙のとき、野党の財務相候補が所得税率を引き下げると宣言して国民の猛反発を受けましたが、日本だったら「不当な減税」にノーと言えたでしょうか。}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=財政ポピュリズムの危険|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO18522230V00C17A7EN2000/|website=日本経済新聞|date=2017-07-06|accessdate=2020-09-10|language=ja|publisher=|quote=マクロン仏大統領の誕生で欧州の極右ポピュリズム(大衆迎合主義)は下火になったが、日本では財政ポピュリズムがはびこる。}}</ref>。 2018年時点のOECD加盟国の(標準)消費税率平均は'''約19.6%'''で、時事通信社によると高福祉・高負担の代表国のスウェーデンの消費税率は25%と国民負担率負担が高い半面、大学までの学費が無料など恩恵は大きい。国民負担率33.1%で低福祉・低負担とされる米国では政府が徴収する消費税がなく、市や州が税率を定めて小売売上税(地方税)を課している。日本は中福祉・低負担国であり、[[福田慎一]][[東京大学|東大]]教授は、'''増税による応分負担'''または、[[国債]]と併せると[[歳出]]の58%を占める上に膨張し続けている社会保障費約36兆<ref>{{Cite web|和書|title=国の財政 財政のしくみと役割 {{!}} 税の学習コーナー|publisher=国税庁|url=https://www.nta.go.jp/taxes/kids/hatten/page03.htm#:~:text=%E6%AD%B3%E5%87%BA%20%E3%81%AE%20%E5%86%85%E8%A8%B3,%E3%82%92%20%E5%8D%A0%20%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-09-10}}</ref>削減の選択の議論が必要だとしている<ref>{{Cite web|和書|title=海外の消費税、平均19%=税と社会保障、重い課題:時事ドットコム|url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2275768|website=時事ドットコム|accessdate=2020-06-04|language=ja|publisher=}}{{リンク切れ|date=2022年8月}}</ref>。木寺元は日本の消費税が他国より低い理由に取引高税失敗とシャウプ勧告で官僚主導時代に一般消費税の導入自体が遅れたこと、一般消費税導入を目指した時の自民党政権が選挙に負け続けたことで、「相当な覚悟がないと消費税には手を出せない」という空気が政界で支配的となったからと解説している<ref name="nippon20180426">{{Cite web|和書|title=なぜ日本の消費税率はOECD平均を下回っているのか?|url=https://www.nippon.com/ja/in-depth/a05702/|website=nippon.com|date=2018-04-26|accessdate=2020-06-04|language=ja}}</ref>。 '''デンマークの歳入内訳''' 2017年のデンマーク歳入の構成は、OECD(データ対象: 2017)によると所得税52.9%で半分以上を占めている。残りは消費税31.8%、法人税7.2%資産課税(固定資産税、相続税など)3.9%、 社会保険料:0.1%、 その他:4.1%である<ref>{{Cite web|和書|title=デンマークの財政 |url=https://ecodb.net/country/DK/public_finance/ |website=世界経済のネタ帳 |access-date=2022-06-14 |language=ja}}</ref>。 == 各国の制度・C効率性 == ===消費税(付加価値税)の導入年度・最低標準税率義務化年度=== * [[1954年]] - 前年に[[フランス大蔵省]]の官僚モーリス・ローレが考案し、世界で最初に旧付加価値税制度を導入<ref name="mof2" /><ref group="注釈">標準税率は20%、食品・レストランのサービスなどに軽減税率がある。軽減税率は10%, 5.5%, 2.1%の三つある。</ref><ref name=":0">[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/42/motiduki/ronsou.pdf 消費税の複数税率化を巡る諸問題] 望月 俊浩 - 国税庁</ref> * [[1964年]] - フィンランドで導入<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=付加価値税(消費税)を実施の国々|url=http://www.aile.or.jp/business/type/kanzei/_1107/_1109.html|website=佐賀県中小企業団体中央会|accessdate=2020-10-01}}</ref> * [[1967年]] - デンマークで導入<ref name="mof2" />。EC閣僚理事会において、フランスのような一般消費税を中心とした加盟国間で税制統一を推進することを加盟各国が確認<ref name=":0" /> * [[1968年]]1月 - 現行の付加価値税の形で(西)ドイツで10%、フランスで20%で導入<ref name="mof2" /><ref name=":0" /><ref>[https://www.mizuho-ri.co.jp/service/research/column/chief/pdf/kh_c200727.pdf 消費税減税〜ドイツの 歴史的決断の真相] 2020年7月27日 みずほ総合研究所 チーフエコノミスト ⻑⾕川克之</ref><ref group="注釈">1968年に10%で導入し、1%ずつ適宜引き上げたことで1998年に16%。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=いずれ議論不可避 消費税の「段階的増税論」とは(産経新聞)|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191024-00000506-san-bus_all|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2019-10-24|language=ja}}{{リンク切れ|date=2022年8月}}</ref> * [[1969年]] - スウェーデンとオランダで導入<ref name="mof2" /> * [[1970年]] - ルクセンブルクとノルウェーで導入<ref name=":1" /> * [[1971年]] - ベルギーで導入<ref name=":1" /> * [[1972年]] - アイルランドで導入<ref name=":1" /> * [[1973年]] - イギリスとイタリア、オーストリアで導入<ref name=":1" /><ref name="mof2" /> * [[1977年]] - 韓国で導入<ref name=":1" /> * [[1986年]] - ニュージーランドとポルトガル、スペインで導入<ref name=":1" /> * [[1987年]] - ギリシャで導入<ref name=":1" /> * [[1989年]] - 日本で導入<ref name="mof2" /> * [[1991年]] - カナダで導入<ref name=":1" /> * [[1993年]] - 1992年のEC([[欧州共同体]])指令改正により、1993年以降は[[欧州連合]](EU)加盟国は標準税率'''15%以上'''が義務化<ref name=":1" /><ref name="mof2" /> ===単一税率国・軽減税率国と日本=== {{See also|C効率性}} ====単一税率==== ===== ニュージーランド ===== 1986年に広い免税範囲・7種類の[[従価税]]率と12種類の特別税率という複雑な税率構造・サービス業非課税・製造業者から直接購入できる大規模小売業者に有利などの従来の卸売売上税の歪みを是正・歳入における個人所得税への極端な依存を是正・社会保障給付の増加と保護主義的な経済政策で拡大した財政赤字の削減などのために10%で導入され、1989年に'''12.5%'''へ増税された。1994年からGDP比の[[財政収支]]がプラスに転じた。[[軽減税率]]を導入せずに<ref group="注釈">一定の事業者向けの金融のみ[[0税率]]。</ref>消費税の税率が全て一律なため、世界で最も課税ベースが広く、経済に対して最も中立的な付加価値税であるのでC効率性<ref group="注釈">すべての国内消費に標準税率で課税された場合に得られる仮定での税収に対する実際の税収の比率。</ref>は世界最高の96.4%となっている。1999年にニュージーランド政府は最小のコストで安定した税収を得るためには、課税ベースの拡大と単一かつ定率の消費税だとの方針を確認している。1986年の軽減税率無しの10%の消費税導入に日本のような国民の反発はなかった。背景として、ニュージーランドでは社会保障費の制度を中負担中福祉にすることや低所得者への対応を消費税による税収から後で再分配する方が小売店も役所の負担が軽減されて効率的との政府の方針を国民が受け入れたためである。2006年に付加価値税収の総税収に占める割合は'''24.4%'''である<ref name="mof2" />{{Sfn|鎌倉治子|2008}}。 ===== デンマーク ===== 1967年に福祉国家建設のための公的部門への需要増加に対応して、より広く安定した課税ベースを確立することを目的に[[デンマーク社会民主党]]によって10%で導入された。1970年代に20.25%台にまで引き上げられた後に、1992年から現行の'''25%'''になった。軽減税率は歳入減少の財政負担・徴収の効率化・軽減税率の適用対象品目の区別などが困難などとして、一律25%の消費税による税収を後で社会保障給付によって逆進性への対処として再分配を行う方が効率的として導入しなかった。デンマークで唯一例外的な軽減税率の対象は'''新聞のみ'''である。2006年の対総税収比では個人所得税負担の割合が 51.3%と突出しており、付加価値税の割合は21.3%である。これは手厚い社会保障が基本的に国民の所得税と消費税で7割以上も賄われていることによる。'''同じ北欧で6%の軽減税率ありで、25%の消費税であるスウェーデンの47.3を上回る51.6のC効率性である'''。スウェーデンの付加価値税がデンマークよりもC効率性は低い理由には、 '''軽減税率と消費者を顧客とする小売・サービス業で発生しやすい脱税や電子商取引の発達や税率の低い隣国での国境を越えた租税回避'''がある{{Sfn|鎌倉治子|2008}}<ref name="mof2" />。 ====軽減税率==== ===== アメリカ合衆国 ===== アメリカ合衆国では、連邦政府によるVATにあたる税金はないが、州ごとに業者間取引には課されず、最終的な消費者のみに課される[[売上税]](Sales Tax)がある。50の州のうち、5つの州において、州ごとの売上税が課せられない。州ごとの売上税(State Sales Tax)がないのは、[[アラスカ州]]・[[デラウェア州]]・[[モンタナ州]]・[[ニューハンプシャー州]]・[[オレゴン州]]である<ref>[http://www.retirementliving.com/taxes-by-state Taxes by State] Retirement Living Information Center, Inc.</ref>。 [[アメリカ合衆国議会]]では何十年にもわたって、VATの導入について議論が持たれてきたが、[[法人税]]・[[所得税]]に代表される直接税に比べて、消費税・付加価値税など間接税が優れているとは見なせないという理由で、国全体での採用は見送りとなっている(アメリカの国税における直間比率は9対1)<ref name="president2013916">{{Cite web|和書|author=岩本沙弓|url=http://president.jp/articles/-/10632|title=米国が今も消費税を導入しない「もっともな理由」|website=PRESIDENT Online|publisher=プレジデント|date=2013-09-16|accessdate=2022-008-13}}</ref>。 VATの場合は特に、輸出に還付金が渡され輸入には課税される点、法人税引き下げとセットにされやすい点など、議論の焦点となってきたことが、アメリカの公文書に多く残っている<ref name="president2013916" />。 =====イタリア ===== イタリアは1973年に12%で導入された。1997年には20%にまで増税された。[[欧州危機]]不況で社会保障費支出は増大して、財政赤字が増加していた。そのため。2011年9月にイタリアの[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]政権が付加価値税(VAT)の税率を20%から1%引き上げたが、同税の受取額は減少し、4月末までの1年間の徴収額は2006年以降で最低に落ち込んだ。「歳出を減らす方がはるかに良い」と提言された。2013年には'''22%'''に増税された。2016年予算安定化法案で2017年1月から24%への増税が定められていたが、2017年予算法で増税時期は先送りされ、2018年1月に引き上げ実施予定になった。軽減税率は'''4%'''と'''10%'''の二つがあることもあり、'''C効率性は38.2%'''である{{Sfn|鎌倉治子|2008}}<ref name="mof2" /><ref>[https://web.archive.org/web/20190221212758/http://opti.co.jp/vat/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A2%97%E7%A8%8E%E3%81%8C%E8%A3%8F%E7%9B%AE%E3%81%AB%E3%80%81%E4%BB%98%E5%8A%A0%E4%BE%A1%E5%80%A4%E7%A8%8E%E5%8F%8E%E6%B8%9B%E5%B0%91%EF%BC%8D%E7%B7%8A/#.XG8X7K1_qUk イタリアの増税が裏目に、付加価値税収減少-緊縮策強化で] Bloomberg 2012年6月13日</ref>。 =====中華人民共和国 ===== {{Main|zh:增值税 (中华人民共和国)}} [[中華人民共和国]]において[[付加価値税]](VAT)は「増値税」と呼ばれている。増値税は1984年に'''17%'''で導入された。現在では納税人と商品に対し、それぞれ違う税率が適用される(例えば、農産物や自己販売の中古品は免税、現代サービス業納税人には6%、図書・ガスには9%、一般の製品には13%)。なお、中国では値段はほぼ全部税込価格である。増値税が中国の'''総税収の60%以上'''を占めている。 ==== 日本 ==== {{Law|section=1}} {{日本の税収構造}} {{Main2|日本における歴史|消費税法#歴史}} {{seealso|日本の消費税議論|日本の財政問題}} '''財政ポピュリズムによる導入の遅れ''' 日本では財政ポピリュズムを訴える社会党や日本共産党など野党が消費税導入を政争の具にし、導入しようとした自民党の政権は敗北し続けたために、財政不足を理解する与野党の合意で即座に導入された諸外国より遅れに遅れ、フランスにおける1959年の世界初導入から三十年後の[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]]に3%で初めて消費税が導入された。これは2019年の時点の日本の左派ポピュリズムでも共通する「耳当たりのよい政策を掲げる一方で、安定財源をいかに確保するのかという意識が欠如している点」が経済成長期やバブル景気末期より前に導入出来なかったことで、積み重なる赤字国債を招いた。実際に自民党からの政権交代に成功した細川連立政権、民主党連立政権は両方とも理想論を捨てないといけない立場となると、国民福祉税導入や消費税増税など野党時代に批判してきたやり方で赤字国債削減を行おうとした{{Sfn|鎌倉治子|2008}}<ref name="nippon20180426" /><ref>「第三文明」2019年10月号p23-27、 第三文明編集部, 2019 </ref>。この消費税(VAT)導入に伴う間接税の整理によって、パチンコ場等などの娯楽施設を対象とした地方税の[[娯楽施設利用税]]・[[トランプ類税]]・[[物品税]]等などの間接税が廃止され、[[酒税]]やたばこ消費税などが改定された。税の用途は、社会保障と少子化対策として規定されている(2012年法改正)。 {{Quotation| '''[[消費税法]] 第1条第2項'''<br>'''消費税'''の収入については、[[地方交付税法]]([[1950年|昭和二十五年]]法律第二百十一号)に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された[[年金]]、[[医療]]及び[[介護]]の社会保障給付並びに[[少子化]]に対処するための施策に要する経費に充てるものとする。 }} '''諸外国との比較''' 日本のVATはOECD 諸国中で3番目に低く、OECD平均である'''19%'''の半分にすぎない。C効率性は65.3である{{Sfn|鎌倉治子|2008}}{{Sfn|OECD|2009|loc=Overview}}。日本のVAT率が、OECD平均を下回っている理由について、[[木寺元]]はシャウプ勧告、フランスで世界初導入された付加価値税が世界に広がったり、自民党が与党だったとしても一般消費税導入・税率引き上げを目指す度に歴代政権が選挙に負け続けたために「相当な覚悟がないと消費税には手を出せないという空気が政界(自民党内部)では支配的となった」ことが消費税の導入自体を遅らせたからだと指摘している<ref name="nippon20180426" />。 VAT8%への引き上げで、経済に影響をうける日本に対して、欧州が20%台で平気でいるのは1970年代から日本より元々VATが高かったからだと指摘されている。日本の低いVATでは引き上げ幅分3%が引き上げ前の5%の6割に相当するのに対して、イギリスでは2011年11月4日に実施した17.5%から20%への2.5%の引き上げは、従来の税率の14%相当の上げ幅に過ぎないため、景気後退も招かなかった。スペインはVAT 16%を2010年以降、2段階にわたり3年間で21%に引き上げた。イタリアも2段階の措置を経て、2011年に20%を22%に増税した。 イギリスでも1979年にVATを7.5%から15%に2倍引き上げた時には[[景気後退]]を招いている。財政赤字のイギリスが20%に増税した2011年直後にイギリス人記者の[[コリン・ジョイス]]は日本のVATが過去に3%から5%への引き上げられただけで、あんなに怒っていた当時の日本人が理解できないと述べた。<u>財政赤字</u>([[:en:fiscal deficit]])には<u>VATを増税して税収を増やす</u>ことと、<u>公共支出を減らす</u>ことの<u>両方が必要</u>だと指摘した<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NF9KLI6JIJUS01.html 消費税率8%で痛手受ける日本経済、欧州が20%でも耐える訳]{{リンク切れ|date=2022年8月}} Bloomberg 2014年11月19日 アーカイブ([https://archive.fo/FYDHK 消費税率8%で痛手受ける日本経済、欧州が20%でも耐える訳])</ref><ref>{{Cite web|和書|author=コリン・ジョイス|url=http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2011/01/post-36.php|title=税率アップでイギリスは倹約経済へ|website=ニューズウィーク日本版|date=2011-01-07|accessdate=2022-08-13}}</ref>。 '''高齢者社会保障費費用問題と増税''' その後、[[2014年]]4月1日に日本の消費税率は5%から8%に上げられた。また、[[2019年]]10月に8%から10%への消費税率引き上げと同時に、複数税率(8%の[[軽減税率]])が導入された。安倍政権は増収分を赤字国債返済と「3~5歳までの子どもの保育料の無償化」、待機児童解消などに用いた。 安倍首相(当時)は当初案だと増収分で肥大する高齢者向け社会保障費による'''赤字国債返済'''に回す割合が多いこと、'''現行の社会保障費の使い道が高齢者向けの政策に偏っていること'''を問題視し、「もっと現役世代に振り向けるべきだ」と指摘し、上記のように子供向けの割合を増やす形で使い道を変えた<ref>{{Cite web|和書|title=子ども予算の財源は「消費税増税しかない」“本気の少子化対策”で岸田総理が必ず直面する“壁”(TBS NEWS DIG Powered by JNN) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/9a6e848e184566f6a8043a50a9da8915b42032bf |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-12-18 |language=ja}}</ref>。 2020年度において、消費税21.0兆円、所得税19.2兆円、法人税11.2兆円と、歳入の租税及印紙収入において消費税が最大の歳入になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/tax_policy/reference/taxes_and_stamp_revenues/202105.pdf|title=令和2年度 3年5月末租税及び印紙収入、収入額調 |accessdate=2021-7-6|author=財務省 |date=2021-7-5|website=[[財務省]]}}</ref>。なお、国債発行による歳入である公債金は、2020年当初予算において90.2兆円にまで肥大化し、国債の利払い費用だけで9兆円にも及んでおり、さらに3回の補正予算による追加で、公債金の総額は112.6兆円に達している。 [[財政破綻]]、[[:en:Debt crisis|Debt crisis]]、[[日本の福祉]]、[[日本の医療]]も参照のこと。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite report|publisher=OECD |title=OECD Consumption Tax Trends 2018 |date=2018 |doi=10.1787/ctt-2018-en |ref={{SfnRef|OECD|2018}}}} ** {{Cite report|publisher=OECD |title=Consumption Tax Trends 2014 |date=2014 |doi=10.1787/ctt-2014-en |ref={{SfnRef|OECD|2014}} }} * {{Cite |publisher=OECD |date=2015-04 |title=OECD Economic Surveys: Japan 2015 |doi=10.1787/eco_surveys-jpn-2015-en |isbn=9789264232389 |ref={{SfnRef|OECD|2015}} }} * {{Cite report|title=諸外国の付加価値税(2008 年版) |author=鎌倉治子 |date=2008年10月 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |ncid=BA87703309 |url={{NDLDC|1000895}} |ref={{SfnRef|鎌倉治子|2008}} }} * 内野順雄「消費税」(『社会科学大事典 10』(鹿島研究所出版会、1975年) ISBN 978-4-306-09161-0) * [[仙田左千夫]]「消費税」(『歴史学事典 1 {{Small|交換と消費}}』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21031-0) {{参照方法|date=2014年8月|section=1}} == 関連項目 == * [[物品税]] - アメリカ合衆国では「Excise Tax」と呼ばれ、売上税と共に課税している。 * [[売上税]] - アメリカ合衆国の消費税に当たる税。物品ごとに別途定められた物品税率も売上税分に加えて課税される。 * [[付加価値税還付]] == 外部リンク == * [https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/consumption/consumption_tax/ 消費税率引上げについて] - 財務省 * [https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/consumption/ 消費税、酒税など(消費課税)] - 財務省 * [https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/zeimokubetsu/shohi.htm 消費税] - 国税庁 * [https://www.nta.go.jp/publication/pamph/koho/kurashi/html/01_3.htm 消費税のしくみ] - 国税庁 * [https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/consumption/d05.htm 消費税の使途に関する資料 - 消費税の使途(令和5年(2023年)度予算)] - 財務省 * [http://www.oecd.org/tax/consumption/ Consumption tax]{{en icon}} - OECD * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようひせい}} [[Category:租税]] [[Category:消費税|*]]
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1716年
1716年(1716 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1716年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1716}} {{year-definition|1716}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[正徳 (日本)|正徳]]6年、[[享保]]元年6月22日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2376年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]55年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]42年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4049年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]12年 * [[仏滅紀元]] : 2258年 - 2259年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1128年 - 1129年 * [[ユダヤ暦]] : 5476年 - 5477年 * [[ユリウス暦]] : 1715年12月21日 - 1716年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1716}} == できごと == * [[8月9日]](正徳6年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - 日本、改元して[[享保]]元年 * [[5月 (旧暦)|5月]] - [[徳川吉宗]]が[[新井白石]]や[[間部詮房]]らを罷免する。 * [[9月28日]](享保元年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[徳川吉宗]]、[[徳川幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]]となる * [[11月 (旧暦)|11月]] - [[大奥法度]]19か条が制定される。 * 江戸幕府第7代将軍・徳川家継が死去。 * [[享保の改革]]が始まる * 九州南部の霧島山中央部[[新燃岳]]で[[享保噴火]]が始まる * [[中川政七商店|株式会社中川政七商店]] 創業 == 誕生 == {{see also|Category:1716年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月21日]](正徳5年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]])- [[徳川宗武]]、[[御三卿]][[田安家]]初代当主(+ [[1771年]]) * [[3月1日]](正徳6年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]])- [[伊藤若冲]]、[[画家]](+ [[1800年]]) * [[3月25日]](康熙55年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]])- [[袁枚]]、詩人(+ [[1798年]]) == 死去 == {{see also|Category:1716年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月19日]]([[享保]]元年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[徳川家継]]、江戸幕府7代将軍(* [[1709年]]) * [[7月20日]](享保元年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[尾形光琳]]、[[画家]]・[[工芸家]](* [[1658年]]) * [[11月2日]] - [[エンゲルベルト・ケンペル]]、医師、[[博物学者]](* [[1651年]]) * [[11月14日]] - [[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[哲学者]]、[[数学者]](* [[1646年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1716}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1716ねん}} [[Category:1716年|*]]
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6,258
1644年
1644年(1644 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1644年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1644}} {{year-definition|1644}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]21年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2304年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]17年 *** [[順 (王朝)|順]]([[李自成]]) : [[永昌 (李自成)|永昌]]元年 *** [[張献忠]] : [[大順 (張献忠)|大順]]元年11月 - *** [[秦尚行]] : [[重興 (秦尚行)|重興]]元年 *** [[劉守分]] : [[天定 (劉守分)|天定]]元年 ** [[清]] : [[順治]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]22年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3977年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[福泰]]2年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]7年 * [[仏滅紀元]] : 2186年 - 2187年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1053年 - 1054年 * [[ユダヤ暦]] : 5404年 - 5405年 * [[ユリウス暦]] : 1643年12月22日 - 1644年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1644}} == できごと == * [[4月25日]](崇禎17年3月19日) - [[李自成]]が[[北京市|北京]]を陥落させ[[明]]王朝滅亡。 * [[5月26日]] - モンチージョの戦い([[:en:Battle of Montijo|Battle of Montijo]])。[[ポルトガル王国]]軍が[[スペイン・ハプスブルク朝|ハプスブルク朝スペイン]]を破る。一連の[[ポルトガル王政復古戦争]]における最初の大きな戦闘。 * [[6月6日]](順治元年5月2日) - 李自成に代わり[[清]]の摂政[[ドルゴン]]が北京入城。 * [[9月15日]] - [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]に代わり[[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]が第236代[[ローマ教皇]]となる。 * [[張献忠]]が[[成都]]([[四川省]])に大西国を建て、年号を[[大順 (張献忠)|大順]]と定める。 === イングランド === * [[1月26日]] - ナントウィッチの戦い([[:en:Battle of Nantwich|Battle of Nantwich]])。[[イングランド内戦]]の最初期の戦い{{要出典|date=2021-02}}。 * [[7月2日]] - [[マーストン・ムーアの戦い]]。イングランド内戦における戦闘のひとつ。 * [[9月2日 ]]- [[:en:Battle of Lostwithiel|Battle of Lostwithiel]]。イングランド内戦の戦闘のひとつ。 == 誕生 == {{see also|Category:1644年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月28日]]([[正保]]元年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[徳川綱重]]、[[徳川家光]]の子、[[徳川家宣]]の父(+ [[1678年]]) * [[8月12日]] - [[ハインリヒ・ビーバー|ハインリヒ・イグナツ・フォン・ビーバー]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1704年]]) * [[9月25日]] - [[オーレ・レーマー]]、[[天文学者]](+ [[1710年]]) * [[10月1日]] - [[アレッサンドロ・ストラデッラ]]、作曲家(+ [[1682年]]) * [[10月14日]] - [[ウィリアム・ペン]]、[[クエーカー]]教徒・[[ペンシルベニア州]]植民地の建設者(+ [[1718年]]) * [[松尾芭蕉]]、[[俳諧|俳諧師]](+ [[1694年]]) * [[アントニオ・ストラディバリ]]、[[弦楽器]]製作者(+ [[1737年]]) * [[ガルダン・ハーン]]、[[ジュンガル]]部の首長(+ [[1697年]]) == 死去 == {{see also|Category:1644年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月25日]] - [[崇禎帝]]、[[明]]朝第17代皇帝(* [[1610年]]) * [[5月1日]](寛永21年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[松平忠明]]、[[江戸幕府]]の[[宿老]](* [[1583年]]) * [[7月29日]] - [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1568年]]) * [[8月12日]] (寛永21年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[土井利勝]]、[[老中]]、[[大老]](* [[1573年]]) * [[11月13日]] - [[儀間真常|儀間親方真常]]、[[琉球の五偉人]]の一人(* [[1557年]]) * [[12月11日]] - [[ジョージ・ジェムソン]]、[[画家]](* [[1587年]]) * [[超然 (中国)|超然]]、中国から来日した僧(* [[1567年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1644}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1644ねん}} [[Category:1644年|*]]
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6,259
1694年
1694年(1694 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1694年(1694 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1694年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1694}} {{year-definition|1694}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]7年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2354年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]33年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]20年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4027年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]15年 * [[仏滅紀元]] : 2236年 - 2237年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1105年 - 1106年 * [[ユダヤ暦]] : 5454年 - 5455年 * [[ユリウス暦]] : 1693年12月22日 - 1694年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1694}} == できごと == * [[3月6日]](元禄7年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]])- [[高田馬場の決闘]]が行われる。 * [[7月27日]] - [[ウィリアム・パターソン]]と[[チャールズ・モンタギュー]][[イングランド王国財務府長官|財務長官]](当時)によって[[イングランド銀行]]が設置される。 == 誕生 == {{see also|Category:1694年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]](元禄6年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[相良長興]]、[[肥後国|肥後]][[人吉藩]]の第5代[[藩主]](+ [[1734年]]) * [[1月15日]](元禄6年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[野呂元丈]]、[[本草学者]](+ [[1761年]]) * [[2月1日]](元禄7年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[井伊直矩]]、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]の第4代藩主、[[越後国|越後]][[与板藩]]の初代藩主(+ [[1742年]]) * [[3月6日]](元禄7年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[有栖川宮正仁親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]]、[[有栖川宮]]第4代当主(+ [[1716年]]) * [[6月4日]] - [[フランソワ・ケネー]]、[[フランス]]の[[医師]]、[[経済学者]]、[[貴族]](+ [[1774年]]) * [[6月26日]] - [[イェオリ・ブラント]]、[[スウェーデン]]の[[化学者]]、[[鉱物]]学者 (+ [[1768年]]) * [[7月4日]] - [[ルイ=クロード・ダカン]]、フランスの[[作曲家]](+ [[1772年]]) * [[8月5日]] - [[レオナルド・レーオ]]、[[イタリア]]の[[バロック音楽]]の作曲家(+ [[1744年]]) * [[8月19日]] (元禄7年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[関長広]]、[[備中国]][[新見藩]]の第2代藩主(+ [[1716年]]) * [[8月29日]] - [[シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]、[[ロシア帝国|ロシア]]皇族[[アレクセイ・ペトロヴィチ]]の妃(+ [[1715年]]) * [[9月5日]] - [[フランティシェク・ヴァーツラフ・ミーチャ]]、[[チェコ人]]のオペラ[[指揮者]]、作曲家 (+ [[1744年]]) * [[9月25日]] - [[ヘンリー・ペラム]]、イギリスの[[ホイッグ党 (イギリス)|ウィッグ党]]の政治家、[[イギリスの首相|首相]](+ [[1754年]]) * [[10月21日]](元禄7年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[酒井親愛]]、[[上野国|上野]][[前橋藩]]の第7代藩主(+ [[1733年]]) * [[10月26日]] - [[ユーハン・ヘルミク・ルーマン]]、[[スウェーデン]]のバロック音楽の作曲家(+ [[1758年]]) * [[10月31日]] - [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]、[[李氏朝鮮]]の第21代国王(+ [[1776年]]) * [[11月14日]](元禄7年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[松平義孝]]、[[美濃国]][[高須藩]]の第2代藩主(+ [[1716年]]) * [[11月21日]] - [[ヴォルテール]]、フランスの[[哲学者]]、[[作家]](+ [[1778年]]) * [[12月22日]](元禄7年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[遠山友由]]、美濃国[[苗木藩]]の第5代藩主(+ [[1722年]]) * [[今川範高]]、江戸時代の[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]](+ [[1712年]]) * [[京極高本]]、江戸時代の高家旗本(+ [[1758年]]) * [[谷風梶之助 (初代)|谷風梶之助]]、江戸時代の[[大相撲]]の[[力士]](+ [[1736年]]) * [[保科正殷]]、[[上総国|上総]][[飯野藩]]の第4代藩主(+ [[1738年]]) * [[堀川広益]]、江戸時代の高家旗本(+ [[1756年]]) * [[森長孝]]、[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]の第2代藩主(+ [[1723年]]) * [[渡辺登綱]]、[[和泉国|和泉]][[伯太藩]]の第2代藩主(+ [[1767年]]) == 死去 == {{see also|Category:1694年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月17日]] - [[ヨハン・ミヒャエル・バッハ]]、[[バッハ家]]の作曲家(* [[1648年]]) * [[5月29日]](元禄7年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[三井高利]]、[[商人]]、三井中興の祖(* [[1622年]]) * [[6月10日]](元禄7年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[京極高豊]]、[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩]]2代藩主(* [[1655年]]) * [[7月25日]](元禄7年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[菱川師宣]]、[[浮世絵]]師(* [[1618年]]?) * [[11月27日]](元禄7年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[柳生厳包]]、[[剣術|剣術家]]、[[新陰流]]第五世(* [[1625年]]) * [[11月28日]](元禄7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[松尾芭蕉]]、[[俳諧師]]、『[[奥の細道]]』作者(* [[1644年]]) * [[12月22日]](元禄7年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[伊藤宗看 (初代)|初代伊藤宗看]]、[[将棋指し]](* [[1618年]]) * [[12月28日]] - [[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の共同統治者としてのイングランド女王(* [[1662年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1694}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1694ねん}} [[Category:1694年|*]]
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6,260
1634年
1634年(1634 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1634年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1634}} {{year-definition|1634}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2294年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]7年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3967年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳隆]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2176年 - 2177年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1043年 - 1044年 * [[ユダヤ暦]] : 5394年 - 5395年 * [[ユリウス暦]] : 1633年12月22日 - 1634年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1634}} == できごと == * [[2月25日]] - [[神聖ローマ帝国]]軍[[傭兵]]隊長[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]、神聖ローマ帝国軍将校(皇帝派)によって[[暗殺]]。 * [[9月6日]] - [[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]。 * [[オランダ]]が[[カリブ海]]に位置する[[キュラソー島]]を占領。 * [[リンダン・ハーン]]が死に、[[清]]朝が西進して[[チャハル]]を征服。 === 日本 === * [[12月26日]]([[寛永]]11年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[鍵屋の辻の決闘|鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)]]。 * [[長崎市|長崎]]に[[出島]]造成。 * [[両口屋是清]]が那古野本町(現[[名古屋市]])にて創業。 * [[琉球国王]]が[[江戸上り|江戸上り(琉球使節)]]を初めて派遣。([[1850年]]まで計18回行われた。) == 誕生 == {{see also|Category:1634年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月18日]] - [[ラファイエット夫人]]、[[フランス]]の[[小説家]](+ [[1693年]]) * [[6月20日]] - [[カルロ・エマヌエーレ2世]]、[[サヴォイア公]](+ [[1675年]]) * [[10月18日]] - [[ルカ・ジョルダーノ]]、画家(+ [[1705年]]) * [[10月19日]]([[崇禎]]7年閏[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[王士禎]]、[[清]]の[[詩人]](+ [[1711年]]) * [[12月31日]](寛永11年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[堀田正俊]]、[[大老]]、[[老中]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]主(+ [[1684年]]) * [[牧野成貞]]、[[徳川綱吉]]の[[側用人]](+ [[1712年]]) == 死去 == {{see also|Category:1634年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]](寛永10年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[徳川忠長]]、[[徳川秀忠]]の三男、[[駿府藩]][[藩主]](* [[1606年]]) * [[2月25日]] - [[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Albrecht-von-Wallenstein Albrecht von Wallenstein Bohemian military commander] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[軍人]]、神聖ローマ帝国軍傭兵隊長(* [[1583年]]) * [[4月6日]](寛永11年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]) - [[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]、[[将棋指し]]、初代[[名人 (将棋)|名人]](* [[1555年]]) * [[5月12日]] - [[ジョージ・チャップマン]]([[w:George Chapman|George Chapman]])、[[劇作家]]、[[詩人]](* [[1559年]]頃) * [[5月15日]] - [[ヘンドリック・アーフェルカンプ]]、[[画家]](* [[1585年]]) * [[6月18日]](寛永11年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[豪姫]]、[[宇喜多秀家]]の[[正室]](* [[1574年]]) * [[8月10日]](寛永11年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[飯坂の局]]、[[伊達政宗]]の[[側室]](* [[1569年]]) * [[9月3日]] - [[エドワード・コーク]]、[[イングランド]]の[[法律]]家(* [[1552年]]) * [[10月22日]](寛永11年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[京極竜子]]、[[豊臣秀吉]]の側室(* 生年不明) * [[アドリアーノ・バンキエリ]]、[[作曲家]]、詩人、[[オルガニスト]](* [[1568年]]) * [[ジョン・ウェブスター]]、劇作家(* [[1578年]]頃) * [[リンダン・ハーン]]、[[モンゴル帝国]]第40代皇帝([[ハーン]])(* [[1592年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1634}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1634ねん}} [[Category:1634年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1634%E5%B9%B4
6,263
ウーラノス
ウーラノス(古代ギリシア語: Οὐρανός、Ouranos)は、ギリシア神話に登場する天空神である。全宇宙を最初に統べた原初の神々の王とされる。ウーラノスとはギリシア語で 「天」 の意味で、天そのものの神格化である。日本語では長母音を省略してウラノスとも表記する。 ローマ神話にも取り入れられカイルス(Caelus)と呼ばれる。 ガイアの息子であると同時に夫でもあり、ガイアとの間にクロノスらティーターン12神をもうける。 また、キュクロープスやヘカトンケイルもウーラノスとガイアとの間の子供だが、ウーラノスはその醜怪さを嫌い、彼らをタルタロスに幽閉してしまう。これに怒ったガイアは末子クロノスに命じて、刃が魔法の金属・アダマスで作られた鎌でウーラノスの男性器を切り落とさせた。この時流れた血からエリーニュスたちやギガースたち、メリアスたちが生まれた。また、一説ではこの後、海に漂流していたウーラノスの陽物の周囲にできた泡から生まれたのがアプロディーテー女神である。 ギリシアでは、天は元来暗いものと考えられており、昼の光(ヘーメラー)は天の上のアイテール(清明な大気)にあるものとされていた。ウーラノスは「星ちりばめたる」という称号を持ち、全身に銀河を鏤めた宇宙の神と考えられていた。夜に暗くなるのは、彼がガイアと交わる為にニュクス(夜)を伴って大地に近づくためだという。 ガイアの息子にて夫であるウーラノスは星のきらめく空であり、ギリシアにおいて信仰の対象とはまったくされなかったようである。この空と大地の概念は原初的な二柱の神と考えられ、これは全てのインド=ヨーロッパ民族に共通する。すでにリグ・ヴェーダの中で空と大地は、「不滅の夫婦」、世界は二人の曾父母と呼ばれていた。 ドイツの法律家で同性愛者の活動家、カール・ハインリッヒ・ユルリクス(de)は、ウーラノスの逸話から男性同性愛を連想し、それを「ウールニング(Urning、ドイツ語で男性同性愛を意味する)」(en)と名付けた。日本では1913年(大正2年)に翻訳刊行されたクラフト=エビング『変態性慾心理』(後年の「性の精神病理」と同じ)で知られるようになった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウーラノス(古代ギリシア語: Οὐρανός、Ouranos)は、ギリシア神話に登場する天空神である。全宇宙を最初に統べた原初の神々の王とされる。ウーラノスとはギリシア語で 「天」 の意味で、天そのものの神格化である。日本語では長母音を省略してウラノスとも表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ローマ神話にも取り入れられカイルス(Caelus)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ガイアの息子であると同時に夫でもあり、ガイアとの間にクロノスらティーターン12神をもうける。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、キュクロープスやヘカトンケイルもウーラノスとガイアとの間の子供だが、ウーラノスはその醜怪さを嫌い、彼らをタルタロスに幽閉してしまう。これに怒ったガイアは末子クロノスに命じて、刃が魔法の金属・アダマスで作られた鎌でウーラノスの男性器を切り落とさせた。この時流れた血からエリーニュスたちやギガースたち、メリアスたちが生まれた。また、一説ではこの後、海に漂流していたウーラノスの陽物の周囲にできた泡から生まれたのがアプロディーテー女神である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ギリシアでは、天は元来暗いものと考えられており、昼の光(ヘーメラー)は天の上のアイテール(清明な大気)にあるものとされていた。ウーラノスは「星ちりばめたる」という称号を持ち、全身に銀河を鏤めた宇宙の神と考えられていた。夜に暗くなるのは、彼がガイアと交わる為にニュクス(夜)を伴って大地に近づくためだという。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ガイアの息子にて夫であるウーラノスは星のきらめく空であり、ギリシアにおいて信仰の対象とはまったくされなかったようである。この空と大地の概念は原初的な二柱の神と考えられ、これは全てのインド=ヨーロッパ民族に共通する。すでにリグ・ヴェーダの中で空と大地は、「不滅の夫婦」、世界は二人の曾父母と呼ばれていた。", "title": "解釈" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ドイツの法律家で同性愛者の活動家、カール・ハインリッヒ・ユルリクス(de)は、ウーラノスの逸話から男性同性愛を連想し、それを「ウールニング(Urning、ドイツ語で男性同性愛を意味する)」(en)と名付けた。日本では1913年(大正2年)に翻訳刊行されたクラフト=エビング『変態性慾心理』(後年の「性の精神病理」と同じ)で知られるようになった。", "title": "派生" } ]
ウーラノスは、ギリシア神話に登場する天空神である。全宇宙を最初に統べた原初の神々の王とされる。ウーラノスとはギリシア語で 「天」 の意味で、天そのものの神格化である。日本語では長母音を省略してウラノスとも表記する。 ローマ神話にも取り入れられカイルス(Caelus)と呼ばれる。
{{Infobox deity | type = Greek | name = ウーラノス<br/>Οὐρανός | image = Karl Friedrich Schinkel - Uranus and the Dance of the Stars.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|[[カルル・フリードリッヒ・シンケル]]の絵画『ウーラノスと踊る星々』(1834年)<br/>[[ベルリン工科大学建築美術館]]所蔵}} | deity_of = | birth_place = | death_place = | cult_center = | abode = 天空 | weapon = | symbol = | consort = [[ガイア]] | parents = ガイア | siblings = | children = [[クロノス]], [[オーケアノス]], [[コイオス]], [[クレイオス]], [[ヒュペリーオーン]], [[イーアペトス]], [[テイア]], [[レアー]], [[テミス]], [[ムネーモシュネー]], [[ポイベー]], [[テーテュース]], [[キュクロープス]], [[ヘカトンケイル]], [[ギガース]], [[メリアス]], [[アプロディーテー]], [[エリーニュス]] | mount = | Roman_equivalent = ウーラヌス, カイルス | festivals = }} {{Greek mythology}} '''ウーラノス'''({{lang-grc|Οὐρανός}}、Ouranos)は、[[ギリシア神話]]に登場する[[天空神]]である。全宇宙を最初に統べた原初の神々の[[王]]とされる。ウーラノスとは[[ギリシア語]]で 「天」 の意味で、天そのものの神格化である。日本語では長母音を省略して'''ウラノス'''とも表記する。 [[ローマ神話]]にも取り入れられ'''カイルス'''(Caelus)と呼ばれる<ref name="G">[[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]]、1960年、60,95,104,287頁。</ref>。 == 概説 == [[ファイル:The Mutilation of Uranus by Saturn.jpg|thumb|left|200px|[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]と{{仮リンク|クリストファーノ・ゲラルディ|en|Cristofano Gherardi}}の1560年の絵画『クロノスに[[去勢]]されるウーラノス』。[[ヴェッキオ宮殿]]所蔵。]] [[ガイア]]の息子であると同時に夫でもあり、ガイアとの間に[[クロノス]]ら[[ティーターン]]12神をもうける。 また、[[キュクロープス]]や[[ヘカトンケイル]]もウーラノスとガイアとの間の子供だが、ウーラノスはその醜怪さを嫌い、彼らを[[タルタロス]]に幽閉してしまう。これに怒ったガイアは末子クロノスに命じて、刃が魔法の金属・アダマスで作られた鎌でウーラノスの[[去勢|男性器を切り落とさせた]]。この時流れた血から[[エリーニュス]]たちや[[ギガース]]たち、[[メリアス]]たちが生まれた<ref name="G" />。また、一説ではこの後、海に漂流していたウーラノスの[[男性器|陽物]]の周囲にできた泡から生まれたのが[[アプロディーテー]]女神である。 ギリシアでは、天は元来暗いものと考えられており、昼の光([[ヘーメラー]])は天の上の[[アイテール]](清明な大気)にあるものとされていた。ウーラノスは「星ちりばめたる」という称号を持ち、全身に銀河を鏤めた宇宙の神と考えられていた。夜に暗くなるのは、彼がガイアと交わる為に[[ニュクス]](夜)を伴って大地に近づくためだという。 == 解釈 == ガイアの息子にて夫であるウーラノスは星のきらめく空であり、ギリシアにおいて信仰の対象とはまったくされなかったようである。この空と大地の概念は原初的な二柱の神と考えられ、これは全てのインド=ヨーロッパ民族に共通する。すでにリグ・ヴェーダの中で空と大地は、「不滅の夫婦」、世界は二人の曾父母と呼ばれていた。<ref>{{Cite book|title=Girishia shinwa.|url=https://www.worldcat.org/oclc/674720971|publisher=青土社|date=1991.11|isbn=4791751442|oclc=674720971|others=Guirand, Félix., Nakajima, Takeshi, 1931- Hon'yakuka., 中島, 健, 1931- 翻訳家}}</ref> == 派生 == ドイツの法律家で同性愛者の活動家、[[カール・ハインリッヒ・ユルリクス]]([[:de:Karl Heinrich Ulrichs|de]])は、ウーラノスの逸話から男性同性愛を連想し、それを「ウールニング(Urning、ドイツ語で男性同性愛を意味する)」([[:en:Uranian|en]])と名付けた。日本では1913年(大正2年)に翻訳刊行された[[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング|クラフト=エビング]]『変態性慾心理』(後年の「性の精神病理」と同じ)で知られるようになった。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[天王星]] - ラテン語形より、Uranus(ウラヌス)と名付けられた * [[ウラン]] * [[アヌ (メソポタミア神話)|アヌ]] * [[オウラノサウルス]] - 名前の由来の一つはウーラノスだとされている。 {{ギリシア神話}} {{ローマ神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ううらのす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:天空神]]
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6,264
クロノス
クロノス(古希: Κρόνος, Kronos)は、ギリシア神話の農耕の神である。巨神族ティーターンの長であり、ウーラノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもある。アダマスの鎌を武器とする。ゼウスの父親としてもよく知られており、ティーターン神族を率いてオリュンポスの神々と大戦争を行った。 時間の神クロノス (Χρόνος, Khronos) と発音が近い(英語では同音)ため、混同されることがあるが、別の神である。古典ギリシア語においては κ は無気音 [k] で、χ は有気音 [kh] であり、若干異なる。これらの発音はしばしば混同され、当のギリシア人やローマ人も混同することがあった。 ヘーシオドスの『神統記』によればウーラノスとガイアの息子でティーターンの末弟。レアーの夫であり、ハーデース、ポセイドーン、ゼウスおよびヘーラー、ヘスティアー、デーメーテールの父でもある。また、愛人であるニュンペーのピリュラーとの間に半人半馬の賢者ケイローンをもうけた。 父であるウーラノスの性器を、刃が魔法の金属・アダマスでできた鎌で切り取って追放するが、自身も父親と同様キュクロープスたちをガイアの胎内に押し込めていたためガイアの怒りを買い、後に息子であるゼウスに討たれた。彼は父同様、子にその権力を奪われるという予言を受けたため、子供が生まれるたびに(ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラー、ハーデース、ポセイドーンの順に)飲み込んでしまったという。 最後に生まれたゼウスだけは、母のレアーが偽って石をクロノスに飲ませたために助かった。クレータ島で(牝山羊アマルテイアによって)密かに育てられたゼウスは、クロノスに兄弟を(飲み込んだときとは逆の順に)吐き出させ(このとき、兄弟の序列が入れ替わり、末子であるゼウスが最高神となった)、兄弟は力を合わせて、クロノスらティーターン神族を倒した。 黄金時代に地上を統べた王、農耕神とする伝承もあり、収穫祭で盛大に祀られた。このことから、ローマ神話における農耕神サートゥルヌス(英語読みでサターン)と同一視される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クロノス(古希: Κρόνος, Kronos)は、ギリシア神話の農耕の神である。巨神族ティーターンの長であり、ウーラノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもある。アダマスの鎌を武器とする。ゼウスの父親としてもよく知られており、ティーターン神族を率いてオリュンポスの神々と大戦争を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "時間の神クロノス (Χρόνος, Khronos) と発音が近い(英語では同音)ため、混同されることがあるが、別の神である。古典ギリシア語においては κ は無気音 [k] で、χ は有気音 [kh] であり、若干異なる。これらの発音はしばしば混同され、当のギリシア人やローマ人も混同することがあった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヘーシオドスの『神統記』によればウーラノスとガイアの息子でティーターンの末弟。レアーの夫であり、ハーデース、ポセイドーン、ゼウスおよびヘーラー、ヘスティアー、デーメーテールの父でもある。また、愛人であるニュンペーのピリュラーとの間に半人半馬の賢者ケイローンをもうけた。", "title": "ギリシア神話" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "父であるウーラノスの性器を、刃が魔法の金属・アダマスでできた鎌で切り取って追放するが、自身も父親と同様キュクロープスたちをガイアの胎内に押し込めていたためガイアの怒りを買い、後に息子であるゼウスに討たれた。彼は父同様、子にその権力を奪われるという予言を受けたため、子供が生まれるたびに(ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラー、ハーデース、ポセイドーンの順に)飲み込んでしまったという。", "title": "ギリシア神話" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最後に生まれたゼウスだけは、母のレアーが偽って石をクロノスに飲ませたために助かった。クレータ島で(牝山羊アマルテイアによって)密かに育てられたゼウスは、クロノスに兄弟を(飲み込んだときとは逆の順に)吐き出させ(このとき、兄弟の序列が入れ替わり、末子であるゼウスが最高神となった)、兄弟は力を合わせて、クロノスらティーターン神族を倒した。", "title": "ギリシア神話" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "黄金時代に地上を統べた王、農耕神とする伝承もあり、収穫祭で盛大に祀られた。このことから、ローマ神話における農耕神サートゥルヌス(英語読みでサターン)と同一視される。", "title": "ローマ神話" } ]
クロノスは、ギリシア神話の農耕の神である。巨神族ティーターンの長であり、ウーラノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもある。アダマスの鎌を武器とする。ゼウスの父親としてもよく知られており、ティーターン神族を率いてオリュンポスの神々と大戦争を行った。
{{Otheruseslist|'''[[ギリシア神話]]の農耕の神'''|時間の神|クロノス (時間の神)|その他|クロノス (曖昧さ回避)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = クロノス<br/>Κρόνος | image = Cronos (Saturnus). - Engravings on Wood.jpg | image_size = 150px | caption = | deity_of = {{small|農耕の神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = | affiliation = [[ティーターン]] | abode = | weapon = アダマスの鎌([[ハルパー]]) | symbol = ハルパー | consort = [[レアー]] | parents = [[ウーラノス]], [[ガイア]] | siblings = [[オーケアノス]]、[[クレイオス]]、[[ヒュペリーオーン]]、[[イーアペトス]]、[[コイオス]]、[[テイアー]]、レアー、[[テミス]]、[[ムネーモシュネー]]、[[ポイベー]]、[[テーテュース]] | children = [[ヘスティアー]]、[[デーメーテール]]、[[ヘーラー]]、[[ハーデース]]、[[ポセイドーン]]、[[ゼウス]]、[[ケイローン]] | mount = | Roman_equivalent = [[サートゥルヌス]] | festivals = }} '''クロノス'''({{lang-grc-short|'''Κρόνος''', ''Kronos''}})は、[[ギリシア神話]]の農耕の[[神]]である。巨神族[[ティーターン]]の長であり、[[ウーラノス]]の次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもある。アダマスの鎌を武器とする。[[ゼウス]]の父親としてもよく知られており、ティーターン神族を率いて[[オリンポス山|オリュンポス]]の神々と大戦争を行った。 == 名称 == 時間の神[[クロノス (時間の神)|クロノス]] ({{lang|grc|'''Χρόνος''', ''Khronos''}}) と発音が近い(英語では同音)ため、混同されることがあるが、別の神である。古典ギリシア語においては {{lang|grc|κ}} は[[無気音]] {{IPA|k}} で、{{lang|grc|χ}} は[[有気音]] {{IPA|kʰ}} であり、若干異なる。これらの発音はしばしば混同され、当の[[ギリシア人]]や[[ローマ人]]も混同することがあった。 == ギリシア神話 == [[ファイル:The Mutilation of Uranus by Saturn.jpg|thumb|390 px|[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]の描いた、クロノスとウーラノス]] [[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によれば[[ウーラノス]]と[[ガイア]]の息子で[[ティーターン]]の末弟<ref>ヘーシオドス『神統記』133-138。[[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー]]』1巻1・3。</ref>。[[レアー]]の夫であり、[[ハーデース]]、[[ポセイドーン]]、[[ゼウス]]および[[ヘーラー]]、[[ヘスティアー]]、[[デーメーテール]]の父でもある<ref>ヘーシオドス、453 - 458。アポロドーロス、1巻1・5。</ref>。また、愛人である[[ニュンペー]]の[[ピリュラー]]との間に半人半馬の賢者[[ケイローン]]をもうけた<ref>[[ロドスのアポローニオス]]『アルゴナウティカ』2巻1231 - 1241。アポロードロス、1巻2・4。[[ヒュギーヌス]]『ギリシア神話集』序文、138。</ref>。 父であるウーラノスの性器を、刃が魔法の金属・[[アダマント|アダマス]]でできた鎌で切り取って追放するが、自身も父親と同様[[キュクロープス]]たちをガイアの胎内に押し込めていたためガイアの怒りを買い、後に息子である[[ゼウス]]に討たれた。彼は父同様、子にその権力を奪われるという[[予言]]を受けたため、子供が生まれるたびに(ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラー、ハーデース、ポセイドーンの順に)飲み込んでしまったという。 最後に生まれたゼウスだけは、母のレアーが偽って石をクロノスに飲ませたために助かった。[[クレータ島]]で(牝山羊[[アマルテイア]]によって)密かに育てられたゼウスは、クロノスに兄弟を(飲み込んだときとは逆の順に)吐き出させ(このとき、兄弟の序列が入れ替わり、末子であるゼウスが最高神となった)、兄弟は力を合わせて、クロノスらティーターン神族を倒した。 {|class="wikitable" |- !クロノスの子供たち |- |炉の女神ヘスティアー |- |豊穣の女神デーメーテール |- |結婚と出産の女神ヘーラー |- |冥界の王ハーデース |- |海の王ポセイドーン |- |神々の王ゼウス |- |石 <ref group="注">比較神話学的には、日の目を見なかった、ゼウスの[[双生児|双子]]の兄弟とも考えられる{{要出典|date=2023年1月}}。</ref> |- |ケイローン |} == ローマ神話 == [[黄金時代]]に地上を統べた王、農耕神とする伝承もあり、収穫祭で盛大に祀られた。このことから、[[ローマ神話]]における農耕神[[サートゥルヌス]]([[英語]]読みでサターン)と同一視される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{commons|Kronos}} * [[メーティス]] * [[黄金時代]] - クロノスが神々を支配していた時代 * [[エーリュシオン]] - 世界の西の果て、[[オーケアノス]]の流れのほとりにあるという、理想郷。「至福者の島」。[[タルタロス]]から解放されたクロノスを支配者とする説がある。 * [[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]『[[我が子を食らうサトゥルヌス]]』 - 連作「[[黒い絵]]」の1つ * [[サートゥルヌス]] * [[王殺し]] * [[末子相続]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くろのす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:農耕神]] [[Category:土星神]]
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アレース
アレースもしくはアーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)は、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る。ゼウスとヘーラーの息子。オリュンポス十二神の一柱。アイオリス方言ではアレウスもしくはアーレウス(Ἄρευς、Areus)とも。日本語では長母音を省略してアレスとも呼ばれる。ローマ神話のマールスと同一視され、火星とも結びつけられた。 聖獣はオオカミ、イノシシで聖鳥は啄木鳥、雄鶏。聖樹はトネリコ。 本来は戦闘時の狂乱を神格化したもので、恩恵をもたらす神というより荒ぶる神として畏怖された。戦争における栄誉や計略を表すアテーナーに対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表す。 戦いの神でありながら人間であるディオメーデースに敗北したほか(アテーナーがディオメーデースの支援をしていたが)、英雄ヘーラクレースからは半死半生の目に遭わされている。また、巨人の兄弟アローアダイ(オートスとエピアルテース)により青銅の壺の中に13か月間幽閉されるなど、神話ではいいエピソードがない。これはアレースの好戦的な神格がギリシア人にとって不評だったこと、主にギリシアにとって蛮地であるトラーキアで崇拝されていたことによる。 基本的に神々の中では嫌われているが、愛人のアプロディーテーや従者と子供達、そして彼が引き起こした戦争が冥界の住人を増やすことから、冥界の王・ハーデースとは交友がある。 戦場では普段は徒歩だが、場合によっては黄金の額帯を付けた足の速い4頭の神馬に戦車を引かせ、青銅の鎧を着込んで両手に巨大な槍を持ち、戦場を駆け巡った。 男神の中では一二を争う程の美貌を持っている。身長も高く、人間の前には大抵人間サイズの大きさで現れるが、真の姿だと、その身長は200メートルを優に超える。体重は不明である。 ヘーパイストスの妻であるアプロディーテーを恋人とし、ポボス(フォボス、敗走)とデイモス(恐慌)の兄弟、娘ハルモニアー(調和)の父となった。エロースをアレースとアプロディーテーの子に加える説もあるが、これは元々関係のなかったアプロディーテーとエロースを関連付けるために作られたものである。他にも、アマゾーンをはじめとする多くの蛮族の父である。 また、エリスやエニューオーも彼の従者であり一般的には妹とされているが、姉や妻とされることも多く、また特にエニューオーは母や娘とされていることもある。 ポセイドーンの息子の1人・ハリロティオスがアレースの娘アルキッペーを犯し、激怒したアレースはハリロティオスを撲殺した。ポセイドーンは激怒し、アレースを神々の裁判にかけることを主張し、それを認められた。こうしてアレースの丘で世界初の裁判が開かれることになった。アレースは情状酌量の余地があるとして無罪となり、これ以降重大事件の裁判がアレースの丘で行われるようになった。 コリントス王シーシュポスはゼウスの怒りを買い、死神タナトスによって冥界へ連行されようとしていたが、シーシュポスはタナトスを騙して監禁し、地上の人間が死ななくなったため、アレースは彼を救い出した。 怪物テューポーンがゼウスの王権を奪おうと攻撃し、神々は変身してエジプトへ逃げた時、アポローンは鷹に、ヘルメースはコウノトリに、アレースは魚に、アルテミスは猫に、ディオニューソスは山羊に、ヘーラクレースは子鹿に、ヘーパイストスは雄牛に、レートーはトガリネズミに変身した。 アレースとピュレーネー(またはペロピアー)の息子キュクノスをヘーラクレースが殺した際、アレースが息子の死を怒りヘーラクレースと闘おうとしたが、ゼウスはそれを良しとせず二人の間に雷を落とし闘いを止めた。 『ホメーロス風讃歌』「アレース讃歌(第8番)」では槍の使い手であり、黄金の兜と青銅の鎧と楯をまとい、火を吐く馬どもの戦車を操り天空を巡り(火星のこと)、オリュンポスや都市を護り、人間たちに光と武勇を与え、強い力でもって勝利と平和をもたらす神であり、掟の女神テミスの支援者であり、勝利の女神ニーケーの父であると歌われている。 ローマ神話のマールスに相当し、また火星と同一視される。このため黄道上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレスと呼ばれる。火星の衛星フォボスとダイモスはアレースの子の名から採られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アレースもしくはアーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)は、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る。ゼウスとヘーラーの息子。オリュンポス十二神の一柱。アイオリス方言ではアレウスもしくはアーレウス(Ἄρευς、Areus)とも。日本語では長母音を省略してアレスとも呼ばれる。ローマ神話のマールスと同一視され、火星とも結びつけられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "聖獣はオオカミ、イノシシで聖鳥は啄木鳥、雄鶏。聖樹はトネリコ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本来は戦闘時の狂乱を神格化したもので、恩恵をもたらす神というより荒ぶる神として畏怖された。戦争における栄誉や計略を表すアテーナーに対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表す。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "戦いの神でありながら人間であるディオメーデースに敗北したほか(アテーナーがディオメーデースの支援をしていたが)、英雄ヘーラクレースからは半死半生の目に遭わされている。また、巨人の兄弟アローアダイ(オートスとエピアルテース)により青銅の壺の中に13か月間幽閉されるなど、神話ではいいエピソードがない。これはアレースの好戦的な神格がギリシア人にとって不評だったこと、主にギリシアにとって蛮地であるトラーキアで崇拝されていたことによる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "基本的に神々の中では嫌われているが、愛人のアプロディーテーや従者と子供達、そして彼が引き起こした戦争が冥界の住人を増やすことから、冥界の王・ハーデースとは交友がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦場では普段は徒歩だが、場合によっては黄金の額帯を付けた足の速い4頭の神馬に戦車を引かせ、青銅の鎧を着込んで両手に巨大な槍を持ち、戦場を駆け巡った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "男神の中では一二を争う程の美貌を持っている。身長も高く、人間の前には大抵人間サイズの大きさで現れるが、真の姿だと、その身長は200メートルを優に超える。体重は不明である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ヘーパイストスの妻であるアプロディーテーを恋人とし、ポボス(フォボス、敗走)とデイモス(恐慌)の兄弟、娘ハルモニアー(調和)の父となった。エロースをアレースとアプロディーテーの子に加える説もあるが、これは元々関係のなかったアプロディーテーとエロースを関連付けるために作られたものである。他にも、アマゾーンをはじめとする多くの蛮族の父である。", "title": "係累" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、エリスやエニューオーも彼の従者であり一般的には妹とされているが、姉や妻とされることも多く、また特にエニューオーは母や娘とされていることもある。", "title": "係累" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ポセイドーンの息子の1人・ハリロティオスがアレースの娘アルキッペーを犯し、激怒したアレースはハリロティオスを撲殺した。ポセイドーンは激怒し、アレースを神々の裁判にかけることを主張し、それを認められた。こうしてアレースの丘で世界初の裁判が開かれることになった。アレースは情状酌量の余地があるとして無罪となり、これ以降重大事件の裁判がアレースの丘で行われるようになった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "コリントス王シーシュポスはゼウスの怒りを買い、死神タナトスによって冥界へ連行されようとしていたが、シーシュポスはタナトスを騙して監禁し、地上の人間が死ななくなったため、アレースは彼を救い出した。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "怪物テューポーンがゼウスの王権を奪おうと攻撃し、神々は変身してエジプトへ逃げた時、アポローンは鷹に、ヘルメースはコウノトリに、アレースは魚に、アルテミスは猫に、ディオニューソスは山羊に、ヘーラクレースは子鹿に、ヘーパイストスは雄牛に、レートーはトガリネズミに変身した。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アレースとピュレーネー(またはペロピアー)の息子キュクノスをヘーラクレースが殺した際、アレースが息子の死を怒りヘーラクレースと闘おうとしたが、ゼウスはそれを良しとせず二人の間に雷を落とし闘いを止めた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『ホメーロス風讃歌』「アレース讃歌(第8番)」では槍の使い手であり、黄金の兜と青銅の鎧と楯をまとい、火を吐く馬どもの戦車を操り天空を巡り(火星のこと)、オリュンポスや都市を護り、人間たちに光と武勇を与え、強い力でもって勝利と平和をもたらす神であり、掟の女神テミスの支援者であり、勝利の女神ニーケーの父であると歌われている。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ローマ神話のマールスに相当し、また火星と同一視される。このため黄道上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレスと呼ばれる。火星の衛星フォボスとダイモスはアレースの子の名から採られている。", "title": "命名" } ]
アレースもしくはアーレースは、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る。ゼウスとヘーラーの息子。オリュンポス十二神の一柱。アイオリス方言ではアレウスもしくはアーレウス(Ἄρευς、Areus)とも。日本語では長母音を省略してアレスとも呼ばれる。ローマ神話のマールスと同一視され、火星とも結びつけられた。 聖獣はオオカミ、イノシシで聖鳥は啄木鳥、雄鶏。聖樹はトネリコ。 本来は戦闘時の狂乱を神格化したもので、恩恵をもたらす神というより荒ぶる神として畏怖された。戦争における栄誉や計略を表すアテーナーに対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表す。
{{Redirect|アレス}} {{Infobox deity | type = Greek | name = アレース<br/>{{lang|grc|Ἄρης}} | image = Ares Ludovisi Altemps Inv8602 n2.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|紀元前約320年のギリシアの原物を摸したローマの{{仮リンク|ルドビシのアレス|en|Ludovisi Ares}}。紀元17世紀には[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]による修復が加えられている。<br/>[[ローマ国立博物館]]所蔵。}} | deity_of = {{small|戦いの神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[トラキア|トラーキア]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = 槍, 楯 | symbol = [[オオカミ]], [[イノシシ]], [[キツツキ目|啄木鳥]], [[ニワトリ|雄鶏]], [[トネリコ]] | consort = [[アプロディーテー]](恋人) | parents = [[ゼウス]], [[ヘーラー]] | siblings = [[アテーナー]], [[アポローン]], [[アルテミス]], [[ヘーパイストス]], [[ヘルメース]], [[ディオニューソス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]] | children = [[エロース]], [[ポボス]], [[デイモス]], [[ハルモニアー]], [[アンテロース]] | mount = | Roman_equivalent = [[マールス]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''アレース'''もしくは'''アーレース'''({{翻字併記|grc|'''ΑΡΗΣ'''|''Arēs''|N|区=、}}、{{翻字併記|grc|Ἄρης|''Ārēs''|N}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[神]]で、戦を司る<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]</ref>。[[ゼウス]]と[[ヘーラー]]の息子<ref>ヘーシオドス『神統記』921。</ref><ref>ホメーロス『イリアス』5巻888-898。</ref><ref>アポロドーロス『ギリシア神話』1巻3。</ref><ref>ヒュギーヌス『神話集』序文。</ref><ref name="G" />。[[オリュンポス十二神]]の一柱<ref name="G" />。アイオリス方言では'''アレウス'''もしくは'''アーレウス'''({{翻字併記|grc|'''Ἄρευς'''|''Areus''|N|区=、}})とも。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''アレス'''とも呼ばれる<ref name="G" />。[[ローマ神話]]の[[マールス]]と同一視され、[[火星]]とも結びつけられた<ref>『ホメーロス風讃歌』「アレース讃歌(第8番)」。</ref>。 聖獣は[[オオカミ]]、[[イノシシ]]で聖鳥は[[キツツキ目|啄木鳥]]、[[ニワトリ|雄鶏]]。聖樹は[[トネリコ]]。 本来は戦闘時の狂乱を神格化したもので、恩恵をもたらす神というより荒ぶる神として畏怖された<ref name="F">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 [[青土社]]</ref>。戦争における栄誉や計略を表す[[アテーナー]]に対して、戦場での狂乱と破壊の側面を表す<ref name="F" />。 == 概要 == 戦いの神でありながら人間である[[ディオメーデース]]に敗北したほか([[アテーナー]]がディオメーデースの支援をしていたが)、英雄[[ヘーラクレース]]からは半死半生の目に遭わされている<ref name="B">バーナード・エヴスリン『ギリシア神話小事典』ヘーラクレースの頁。</ref>。また、巨人の兄弟[[アローアダイ]](オートスと[[エピアルテース]])により青銅の壺の中に13か月間幽閉されるなど、神話ではいいエピソードがない<ref name="G" />。これはアレースの好戦的な神格が[[ギリシャ人|ギリシア人]]にとって不評だったこと、主に[[古代ギリシア|ギリシア]]にとって蛮地である[[トラキア|トラーキア]]で崇拝されていたことによる<ref name="F" />。 基本的に神々の中では嫌われているが、愛人の[[アプロディーテー]]や従者と子供達、そして彼が引き起こした戦争が[[冥界]]の住人を増やすことから、冥界の王・[[ハーデース]]とは交友がある。 戦場では普段は徒歩だが、場合によっては黄金の額帯を付けた足の速い4頭の神馬に戦車を引かせ、青銅の鎧を着込んで両手に巨大な槍を持ち、戦場を駆け巡った<ref name="F" />。 男神の中では一二を争う程の美貌を持っている。身長も高く、人間の前には大抵人間サイズの大きさで現れるが、真の姿だと、その身長は200メートルを優に超える。体重は不明である。 == 係累 == [[ヘーパイストス]]の妻であるアプロディーテーを恋人とし、[[ポボス]](フォボス、敗走)と[[デイモス]](恐慌)の兄弟、娘[[ハルモニアー]](調和)の父となった<ref name="G" />。[[エロース]]をアレースとアプロディーテーの子に加える説もあるが、これは元々関係のなかったアプロディーテーとエロースを関連付けるために作られたものである<ref name="G" />。他にも、[[アマゾーン]]をはじめとする多くの蛮族の父である<ref name="G" />。 また、[[エリス (ギリシア神話)|エリス]]や[[エニューオー]]も彼の従者であり一般的には妹とされているが<ref name="G" />、姉や妻とされることも多く、また特にエニューオーは母や娘とされていることもある。 == 神話 == [[ポセイドーン]]の息子の1人・ハリロティオスがアレースの娘アルキッペーを犯し、激怒したアレースはハリロティオスを撲殺した<ref name="G" />。[[ポセイドーン]]は激怒し、アレースを神々の裁判にかけることを主張し、それを認められた<ref name="G" />。こうして[[アレオパゴス会議|アレースの丘]]で世界初の裁判が開かれることになった<ref name="G" />。アレースは情状酌量の余地があるとして無罪となり、これ以降重大事件の裁判がアレースの丘で行われるようになった<ref name="F" />。 [[コリントス]]王[[シーシュポス]]はゼウスの怒りを買い、死神[[タナトス]]によって冥界へ連行されようとしていたが、シーシュポスはタナトスを騙して監禁し、地上の人間が死ななくなったため、アレースは彼を救い出した<ref>フェリックス・ギラン『ギリシア神話』英雄たち編 ベレロポーンとコリントスの英雄たち。</ref>。 怪物[[テューポーン]]がゼウスの王権を奪おうと攻撃し、神々は変身して[[エジプト]]へ逃げた時、[[アポローン]]は鷹に、[[ヘルメース]]はコウノトリに、アレースは魚に、[[アルテミス]]は猫に、[[ディオニューソス]]は山羊に、ヘーラクレースは子鹿に、[[ヘーパイストス]]は雄牛に、[[レートー]]はトガリネズミに変身した<ref>[[アントニヌス・リベラリス|アントーニーヌス・リーベラーリス]]『[[変身物語集]]』第28話。</ref>。 アレースと[[ピュレーネー]]<ref name="H">アポロドーロス『ギリシャ神話』2巻5・11。</ref>(または[[ペロピアー]]<ref name="I">アポロドーロス『ギリシャ神話』2巻7・7。</ref>)の息子[[キュクノス]]をヘーラクレースが殺した際、アレースが息子の死を怒りヘーラクレースと闘おうとしたが、ゼウスはそれを良しとせず二人の間に雷を落とし闘いを止めた<ref name="H" /><ref name="I" /><ref>ヒュギーヌス『神話集』 31 ヘラクレスの付随的功業。</ref>。 『[[ホメーロス風讃歌]]』「アレース讃歌(第8番)」では槍の使い手であり、黄金の兜と青銅の鎧と楯をまとい、火を吐く馬どもの戦車を操り天空を巡り(火星のこと)、オリュンポスや都市を護り、人間たちに光と武勇を与え、強い力でもって勝利と平和をもたらす神であり、掟の女神[[テミス]]の支援者であり、勝利の女神[[ニーケー]]の父であると歌われている。 == 命名 == [[ローマ神話]]の[[マールス]]に相当し<ref name="G" />、また[[火星]]と同一視される。このため[[黄道]]上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体である[[さそり座]]のα星は[[アンタレス]]<ref group="注">[[ギリシア語]]で「火星に似たもの」を意味する"{{Lang|el|Άντάρης}}"に由来。</ref>と呼ばれる<ref name="Kunitzsch">{{Cite book |author=Paul Kunitzsch |coauthor=Tim Smart |title=A Dictionary of Modern star Names: A Short Guide to 254 Star Names and Their Derivations |publisher=Sky Pub. Corp. |year=2006 |page=52 |isbn=978-1-931559-44-7}}</ref><ref name="Kaler">{{Cite web |url=http://stars.astro.illinois.edu/sow/antares.html |title=Antares |work=STARS |author=Jim Kaler |accessdate=2018-04-04}}</ref>。火星の衛星[[フォボス (衛星)|フォボス]]と[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]はアレースの子の名から採られている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Commons|Ares (god)}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== *ヘシオドス『神統記』[[廣川洋一]] 訳 [[岩波文庫]] *ホメロス『イリアス』[[松平千秋]] 訳 岩波文庫 *ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』 [[松田治]]・[[青山照男]] 訳 講談社学術文庫 *『ホメーロスの諸神讃歌』 沓掛良彦訳 ちくま学芸文庫(2004年) *アントニーヌス・リーベラーリス『メタモルフォーシス ギリシア変身物語集』安村典子訳 講談社文芸文庫 *フェリックス・ギラン『ギリシア神話』[[中島健]]訳 青土社 *マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』 大修館書店 *[[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]] {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あれえす}} [[Category:アレース|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:軍神]] [[Category:火星神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:ヘーラー]] [[Category:アプロディーテー]] [[Category:トラキア]]
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エロース
エロース(古希: Ἔρως,Erōs)は、ギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神である。ギリシア語で性的な愛や情熱を意味する動詞「ἔραμαι」が普通名詞形に変化、神格化された概念である。日本語では長母音を省略してエロスとも呼ぶ。 ローマ神話では、エロースには、ラテン語で受苦の愛に近い意味を持つアモール(Amor)またはクピードー(Cupido)を対応させる(ギリシャ語でいう「πάσχω」)。クピードーは後に幼児化して、英語読みでキューピッドと呼ばれる小天使のようなものに変化したが、元は、髭の生えた男性の姿でイメージされていた。古代ギリシアのエロースも同様で、古代には力強い有翼の男性あるいは若々しい青年であり、やがて、少年の姿でイメージされるようになった。エロースの象徴は弓矢及び松明である。 ヘーシオドスの『神統記』では、カオスやガイア、タルタロスと同じく、世界の始まりから存在した原初神 (Greek primordial deities)である。崇高で偉大で、どの神よりも卓越した力を持つ神であった。またこの姿が、エロースの本来のありようである。 後に、軍神アレースと愛の女神アプロディーテーの子であるとされるようになった。またエロースはアプロディーテーの傍に仕える忠実な従者とされる。 古代においては、若い男性の姿で描かれていたが、西欧文化では、近世以降、背中に翼のある愛らしい少年の姿で描かれることが多く、手には弓と矢を持つ(この姿の絵は、本来のエロースではなく、アモールあるいはクピードーと混同された絵である)。黄金で出来た矢に射られた者は激しい愛情にとりつかれ、鉛で出来た矢に射られた者は恋を嫌悪するようになる。 エロースはこの矢で人や神々を撃って遊んでいた。ある時、アポローンにそれを嘲られ、復讐としてアポローンを金の矢で、たまたまアポローンの前にいたダプネーを鉛の矢で撃った。アポローンはダプネーへの恋慕のため、彼女を追い回すようになったが、ダプネーはこれを嫌って逃れた。しかし、いよいよアポローンに追いつめられて逃げ場がなくなったとき、彼女は父に頼んでその身を月桂樹に変えた(ダプネー daphne とはギリシア語で、月桂樹という意味の普通名詞である)。このエピソードが示す寓意は、強い理性に凝り固まった者は恋愛というものを蔑みがちだが、自らの激しい恋慕の前にはその理性も瓦解するということである。 ヘレニズム時代になると、甘美な物語が語られるようになる。それが『愛と心の物語』である。地上の人間界で、王の末娘プシューケーが絶世の美女として噂になっていた。母アプロディーテーは美の女神としての誇りからこれを嫉妬し憎み、この娘が子孫を残さぬよう鉛の矢で撃つようにエロースに命じた。 だがエロースはプシューケーの寝顔の美しさに惑って撃ち損ない、ついには誤って金の矢で自身の足を傷つけてしまう。その時眼前にいたプシューケーに恋をしてしまうが、エロースは恥じて身を隠し、だが恋心は抑えられず、魔神に化けてプシューケーの両親の前に現れ、彼女を生贄として捧げるよう命じた。 晴れてプシューケーと同居したエロースだが、神であることを知られては禁忌に触れるため、暗闇でしかプシューケーに会おうとしなかった。姉たちに唆されたプシューケーが灯りをエロースに当てると、エロースは逃げ去ってしまった。 エロースの端正な顔と美しい姿を見てプシューケーも恋に陥り、人間でありながら姑アプロディーテーの出す難題を解くため冥界に行ったりなどして、ついにエロースと再会する。この話は、アプレイウスが『黄金の驢馬』のなかに記した挿入譚で、「愛と心」の関係を象徴的に神話にしたものである。プシューケーとはギリシア語で、「心・魂」の意味である。 プシューケーとの間にはウォルプタース(ラテン語で「喜び」、「悦楽」の意。古典ギリシア語ではヘードネー)という名の女神が生まれた。
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エロースは、ギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神である。ギリシア語で性的な愛や情熱を意味する動詞「ἔραμαι」が普通名詞形に変化、神格化された概念である。日本語では長母音を省略してエロスとも呼ぶ。
{{Redirect|エロス}} {{Redirect5|漫画・アニメ『ドラえもん』に登場するキューピッドの矢をモデルにした架空の道具|ドラえもんのひみつ道具 (きや-きん)#キューピッドの矢|クピドの矢|キューピッドの矢|キューピットの矢}} {{脚注の不足|date=2022年7月}} {{Infobox deity | type = Greek | name = エロース<br/>Ἔρως | image = Eros Farnese MAN Napoli 6353.jpg | image_size = 200px | caption = {{small|エロースの彫像<br/>[[ナポリ国立考古学博物館]]所蔵}} | deity_of = {{small|恋心と性愛の神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = | abode = [[オリンポス山|オリュムポス]] | weapon = | symbol = [[弓矢]], [[たいまつ|松明]], [[翼]] | consort = [[プシューケー]] | parents = [[カオス]]、[[ガイア]]のような原初神<br/>[[アレース]], [[アプロディーテー]] | siblings = [[ポボス]], [[デイモス]], [[ハルモニアー]], [[アンテロース]], {{仮リンク|アドレスティアー|en|Adrestia}} | children = [[ヘードネー]](ローマ神話ではウォルプタース) | mount = | Roman_equivalent = [[クピードー]], アモール | festivals = }} {{Greek mythology}} '''エロース'''({{lang-grc-short|'''Ἔρως'''}},{{ラテン翻字|el|Erōs}})は、[[ギリシア神話]]に登場する恋心と[[性愛]]を司る[[神]]である。[[ギリシア語]]で性的な愛や情熱を意味する動詞「ἔραμαι」が[[名詞|普通名詞]]形に変化、神格化された概念である。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''エロス'''とも呼ぶ。 == 概説 == === ローマ神話との対応・姿の変化 === [[ローマ神話]]では、エロースには、[[ラテン語]]で受苦の愛に近い意味を持つ'''アモール'''(Amor)または'''[[クピードー]]'''(Cupido)を対応させる(ギリシャ語でいう「πάσχω」)。クピードーは後に[[子供|幼児]]化して、英語読みでキューピッドと呼ばれる[[天使 (通用)|小天使]]のようなものに変化したが、元は、髭の生えた男性の姿でイメージされていた。[[古代ギリシア]]のエロースも同様で、古代には力強い有翼の男性あるいは若々しい[[青年]]であり、やがて、[[少年]]の姿でイメージされるようになった。エロースの象徴は[[弓矢]]及び[[たいまつ|松明]]である。 === 古代の記述 === [[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』では、[[カオス]]や[[ガイア]]、[[タルタロス]]と同じく、世界の始まりから存在した原初神 ([[:en:Greek primordial deities|Greek primordial deities]])である。崇高で偉大で、どの神よりも卓越した力を持つ神であった。またこの姿が、エロースの本来のありようである。 後に、軍神[[アレース]]と愛の女神[[アプロディーテー]]の子であるとされるようになった。またエロースはアプロディーテーの傍に仕える忠実な従者とされる<ref>[[松村一男]]/監修 『知っておきたい 世界と日本の神々』44頁。</ref>。 古代においては、若い男性の姿で描かれていたが、西欧文化では、近世以降、背中に[[翼]]のある愛らしい少年の姿で描かれることが多く、手には弓と矢を持つ(この姿の絵は、本来のエロースではなく、アモールあるいはクピードーと混同された絵である)。黄金で出来た矢に射られた者は激しい愛情にとりつかれ、[[鉛]]で出来た矢に射られた者は恋を嫌悪するようになる。 エロースはこの矢で人や神々を撃って遊んでいた。ある時、[[アポローン]]にそれを嘲られ、復讐としてアポローンを金の矢で、たまたまアポローンの前にいた[[ダプネー]]を鉛の矢で撃った。アポローンはダプネーへの恋慕のため、彼女を追い回すようになったが、ダプネーはこれを嫌って逃れた。しかし、いよいよアポローンに追いつめられて逃げ場がなくなったとき、彼女は父に頼んでその身を[[ゲッケイジュ|月桂樹]]に変えた(ダプネー daphne とはギリシア語で、月桂樹という意味の普通名詞である)。このエピソードが示す[[アレゴリー|寓意]]は、強い[[理性]]に凝り固まった者は[[恋愛]]というものを蔑みがちだが、自らの激しい恋慕の前にはその理性も瓦解するということである。 == 「愛と心の物語」 == [[File:L'Amour et Psyché (Picot).jpg|thumb|250px|left|[[フランソワ=エドゥアール・ピコ]]の1817年の絵画『アモルとプシュケ(愛と心)』。]] ヘレニズム時代になると、甘美な物語が語られるようになる。それが『愛と心の物語』である。地上の人間界で、王の末娘[[プシューケー]]が絶世の[[美人|美女]]として噂になっていた。母アプロディーテーは美の女神としての誇りからこれを嫉妬し憎み、この娘が子孫を残さぬよう鉛の矢で撃つようにエロースに命じた。 だがエロースはプシューケーの寝顔の美しさに惑って撃ち損ない、ついには誤って金の矢で自身の足を傷つけてしまう。その時眼前にいたプシューケーに恋をしてしまうが、エロースは恥じて身を隠し、だが恋心は抑えられず、魔神に化けてプシューケーの両親の前に現れ、彼女を[[生贄]]として捧げるよう命じた。 晴れてプシューケーと同居したエロースだが、神であることを知られては[[タブー|禁忌]]に触れるため、暗闇でしかプシューケーに会おうとしなかった。姉たちに唆されたプシューケーが灯りをエロースに当てると、エロースは逃げ去ってしまった。 エロースの端正な顔と美しい姿を見てプシューケーも恋に陥り、人間でありながら姑アプロディーテーの出す難題を解くため[[冥界]]に行ったりなどして、ついにエロースと再会する。この話は、[[アプレイウス]]が『黄金の驢馬』のなかに記した挿入譚で、「愛と心」の関係を象徴的に神話にしたものである。プシューケーとはギリシア語で、「心・魂」の意味である。 プシューケーとの間にはウォルプタース(ラテン語で「喜び」、「悦楽」の意。古典ギリシア語ではヘードネー)という名の女神が生まれた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考書籍 == * [[ヘシオドス]]『神統記』[[廣川洋一]]訳、[[岩波文庫]](1984年) * [[アプレイウス]]『愛と心の物語』[[呉茂一]]・[[国原吉之助]]訳注、[[岩波書店]](2013年、『黄金の驢馬』の作中話として挿入されている)。 * 呉茂一『ギリシア神話 上巻』、[[新潮社]](1956年) * [[高津春繁]]『ギリシア・ローマ神話辞典』、岩波書店(1960年) * [[松村一男]]監修『知っておきたい 世界と日本の神々』、[[西東社]](2007年) == 関連項目 == {{commonscat|Eros}} * [[ギリシア神話]] * [[ヘーシオドス]] - [[神統記]] * [[アプロディーテー]] * [[カーマ (ヒンドゥー教)]] - エロースと同じく、矢で射たものに恋情を引き起こす愛の神。 {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えろおす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:ギリシア語の語句]] [[Category:愛の神]] [[Category:アプロディーテー]] [[Category:アレース]] [[Category:愛]] [[Category:神話・伝説の弓術家]]
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ヘーラー
ヘーラー(古希: Ἥρα, Hērā、イオニア方言: Ἥρη, Hērē ヘーレー)は、ギリシア神話に登場する最高位の女神である。長母音を省略してヘラ、ヘレとも表記される。その名は古典ギリシア語で「貴婦人、女主人」を意味し、結婚と母性、貞節を司る。 ヘーラーの添え名はガメイラ(結婚の)、ズュギア(縁結びの)で、アルカディアのステュムパーロスでは女性の一生涯を表すパイス(乙女)、テレイアー(成人の女性、妻)、ケーラー(寡婦)の三つの名で呼ばれた。ホメーロスによる長編叙事詩『イーリアス』では「白い腕の女神ヘーレー」、「牝牛の眼をした女神ヘーレー」、「黄金の御座のヘーレー」など特有の形容語を持っている。 ヘーラーはオリュンポス十二神の一柱であるとともに、「神々の女王」でもあった。威厳のある天界の女王として絶大な権力を握り、権威を象徴する王冠と王笏を持っている。虹の女神イーリスと季節の女神ホーラーたちは、ヘーラーの腹心の使者や侍女の役目を務めた。また、アルゴス、スピンクス、ヒュドラー、ピュートーン、ラードーン、カルキノス、大サソリなどの怪物を使役する場面もある。世界の西の果てにある不死のリンゴの園・ヘスペリデスの園を支配していた。結婚・産児・主婦を守護する女神であり、古代ギリシアでは一夫一婦制が重視されていた。嫉妬深い性格であり、ゼウスの浮気相手やその間の子供に苛烈な罰を科しては様々な悲劇を引き起こした。夫婦仲も良いとは言えず、ゼウスとよく口論になっている。また、多くの神々や英雄たちの物語がヘーラーの敵意を軸にして展開することも多く見られる。 毎年春になるとナウプリアのカナートスの聖なる泉で沐浴して苛立ちを全て洗い流し、処女性を取り戻し、アプロディーテーにも劣らず天界で最も美しくなる。この時期にはゼウスも他の女に目もくれずにヘーラーと愛し合うという。 聖鳥は孔雀、郭公、鶴で聖獣は牝牛。その象徴は百合、柘榴、林檎、松明である。ローマ神話においてはユーノー(ジュノー)と同一視された。 このヘーラー(Hērā)の名が「英雄」(Hērōs, ヘーロース)の語源となっているという推測は、アウグスティヌスやセビーリャのイシドルスの著書に記されている。 神話ではクロノスとレアーの娘。ティーターノマキアーの間オーケアノスとテーテュースがヘーラーを預かり、世界の果てで養育した。もっとも、養育したのは他の神であるとの伝承もある。ヘーシオドスによればヘーラーはゼウスが三番目に兄弟姉妹婚した正妻であり、その婚礼の場には諸伝がある。ヘーラーとゼウスの婚礼は「聖なる婚姻」としてギリシア各地で行われ、2人は間にアレース、エイレイテュイア、ヘーベーをもうけた。ヘーパイストスはヘーラーの子であるが、ゼウスとの間の子か、ヘーラーが一人でもうけた子かについては異伝がある。 ゼウスと結婚するにあたって、以下のエピソードが有名である。掟の女神テミスと結婚していたゼウスは、ヘーラーの美しさに恋に落ち、カッコウに化けてヘーラーに近付き犯そうとした。しかし、ヘーラーは抵抗を続け、決してゼウスに身体を許さなかった。ヘーラーは交わることの条件として結婚を提示した。ヘーラーに魅了されていたゼウスは仕方なくテミスと離婚すると、ヘーラーと結婚した。また、ゼウスとヘーラーの関係は結婚前から久しく続いており、キタイローン山で交わっていたともいわれる。 ある時ヘーラーはゼウスと争った後にオリュンポスから離れキタイローン山に隠れた。ゼウスはヘーラーを誘い出すため、花嫁衣装で着飾った大きな女性の木偶人形を造り、新しく結婚すると言って同山中を通行した。それを聞いたヘーラーが飛び出して新しいゼウスの妃の衣装をむしり取ると、木像であることに気付いて和解した。 オリュンポス十二神の中でも情報収集能力に優れた描写が多く、ゼウスの浮気を迅速に察知するなど高い監視能力を発揮する。ギリシア神話に登場する男神は総じて女好きであり、ゼウスはその代表格である。そのため、結婚の守護神でもあるヘーラーは嫉妬心が深くゼウスの愛人(セメレー、レートー、カリストー、ラミアー、アイギーナとヘーラーに仕える女神官・イーオーなど)やその間に生まれた子供(ディオニューソス、ヘーラクレースなど)に復讐する。自分の子孫にも容赦の無い一面も持ち、ゼウスの愛人になった曾孫セメレーに人間が直視すると致命的な危険があるゼウスの真の姿を見たがるように仕向ける、ヘーラクレースに惚れ込んで黄金の帯を譲る約束をした孫のヒッポリュテーの部下を煽動してヘーラクレース一行を襲わせ、最終的には潔白を示すために無抵抗のまま弁明を試みるヒッポリュテーをヘーラクレースに殺させる、と両人に悲惨な最期を遂げさせている。しかし、浮気な夫とは対照的に、ヘーラー自身は貞淑である。 気が強く、ゼウスの浮気を手助けしたエーコー、ディオニューソスを育てたイーノーとアタマース、ヘーラーの容色の美しさを競ったシーデーとゲラナ、ヘーラーと意見を違えたテイレシアースなどを罰している。 ポセイドーン、アテーナー、アポローンと共にゼウスに対して反乱を起こしたこともあり、その際ゼウスはヘーラーを懲らし、天上から吊るし上げている。また、ヘーラクレースの船隊がトロイアから帰る途中、ヒュプノスにゼウスを眠らせ、嵐を送ってヘーラクレースの船をコース島に漂着させた。その後、目覚めたゼウスはヘーラーをオリュンポスから宙吊りにした。 最も特殊な異伝は、『ホメーロス風讃歌』の中の「アポローン讃歌」であろう。ゼウスが知恵の女神アテーナーをひとりで生み出したことや、彼女の産んだヘーパイストスがアテーナーに見劣りすることに腹を立て、ティーターン神族の助けを借りて単性でテューポーンを産んだとされる。 アルゴナウタイの物語では、自分を冒涜したペリアースを罰するためアルゴナウタイを庇護してその冒険を助けている。 ヘーラーの母乳は飲んだ人間の肉体を不死身に変える力があり、ヘーラクレースもこれを飲んだために乳児時代から驚異的な怪力を発揮できた。また、この時にヘーラクレースの母乳を吸う力があまりにも強かったため、ヘーラーはヘーラクレースを突き飛ばし、その際に飛び散ったヘーラーの母乳が天の川になった。なお、ヘーラクレースはヘーラーの子ではないが、「ヘーラーの栄光」という意味の名を持つ。ヘーラクレースが神の座に着く時、ヘーラーは娘のヘーベーを妻に与えた。 自分の美しさを認めないという理由でパリスを恨んでいるため、トロイアを滅ぼすことに執心しており、トロイア戦争ではアテーナーと組んでギリシア側に味方する。ギリシア側の英雄たちを助けて戦いながらアテーナーと力を合わせ、敵対したアプロディーテーの情人であり自らの息子でもある、戦いを司る神・アレースを撃退する。また、ギリシア軍の劣勢に気をもむヘーラーはアプロディーテーの宝帯(装着するとあらゆる神や人の心を征服することが出来る)を借りて、トロイア軍を助けたゼウスを魅了し、暫くトロイア戦争のことを忘れさせようとした。腕っぷしも強く、トロイア軍を支援したアルテミスを素手で打ちのめす逸話もある。 ヘーラーはサモス島で誕生したと考えられており、サモス島は古くからヘーラー信仰の中心地となっていた。また一説にサモス島におけるゼウスとヘーラーの結婚式の夜は三百年の間続いたという。 元来は、アルゴス、ミュケーナイ、スパルタ等のペロポネーソス半島一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつてアカイア人に信仰された地母神であったとされ、北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられる。 二神の不和は、両者の崇拝者が敵対関係にあったことの名残とも考えられている。 アルゴスの神殿にあるヘーラー像はカッコウのとまった玉杖と柘榴を持っていた。
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ヘーラーは、ギリシア神話に登場する最高位の女神である。長母音を省略してヘラ、ヘレとも表記される。その名は古典ギリシア語で「貴婦人、女主人」を意味し、結婚と母性、貞節を司る。 ヘーラーの添え名はガメイラ(結婚の)、ズュギア(縁結びの)で、アルカディアのステュムパーロスでは女性の一生涯を表すパイス(乙女)、テレイアー(成人の女性、妻)、ケーラー(寡婦)の三つの名で呼ばれた。ホメーロスによる長編叙事詩『イーリアス』では「白い腕の女神ヘーレー」、「牝牛の眼をした女神ヘーレー」、「黄金の御座のヘーレー」など特有の形容語を持っている。
{{Infobox deity | type = Greek | name = ヘーラー<br/>{{lang|grc|Ἥρα}} | image = Hera Campana Louvre Ma2283.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|[[ヘレニズム]]時代のヘーラー像を摸したローマンコピー<br/>[[ルーヴル美術館]]所蔵}} | deity_of = {{small|神々の女王, [[結婚]]の女神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]], [[サモス島]], [[エウボイア島]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = | symbol = [[牝牛]], [[孔雀]], [[ザクロ]] | consort = [[ゼウス]] | parents = [[クロノス]], [[レアー]] | siblings = [[ヘスティアー]], [[デーメーテール]], [[ゼウス]], [[ハーデース]], [[ポセイドーン]], [[ケイローン]] | children = [[アレース]], [[ヘーパイストス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]], [[アンゲロス]] | Roman_equivalent = [[ユーノー]] }} {{Greek mythology}} '''ヘーラー'''({{lang-grc-short|'''Ἥρα''', ''Hērā''}}、[[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]: {{lang|grc|Ἥρη, ''Hērē''|ヘーレー}})は、[[ギリシア神話]]に登場する最高位の[[女神]]である<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』。</ref>。[[長母音]]を省略して'''ヘラ'''、'''ヘレ'''とも表記される<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ヘラ-130152 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref>。その名は古典ギリシア語で「貴婦人、女主人」を意味し<ref name="G" />、[[結婚]]と[[母性]]、[[純潔|貞節]]を司る<ref name="G" /><ref name="F">フェリックス・ギラン『ギリシア神話』。</ref>。 ヘーラーの添え名は'''ガメイラ'''(結婚の)、'''ズュギア'''(縁結びの)で、[[アルカディア]]の[[ステュムパロス|ステュムパーロス]]では女性の一生涯を表す'''パイス'''(乙女)、'''テレイアー'''(成人の女性、妻)、'''ケーラー'''([[寡婦]])の三つの名で呼ばれた<ref>[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]、8巻22・2。</ref><ref name="G" />。[[ホメーロス]]による長編[[叙事詩]]『[[イーリアス]]』では「白い腕の女神ヘーレー」、「牝牛の眼をした女神ヘーレー」、「黄金の御座のヘーレー」など特有の[[形容詞|形容語]]を持っている<ref>[[呉茂一]]、[[高津春繁]]訳 世界古典文学全集第1巻『ホメーロス』[[筑摩書房]]、6,16,17頁。</ref>。 == 概要 == ヘーラーは[[オリュンポス十二神]]の一柱であるとともに、「神々の女王」でもあった。威厳のある天界の女王として絶大な権力を握り、権威を象徴する王冠と[[王笏]]を持っている。虹の女神[[イーリス]]と季節の女神[[ホーラー]]たちは、ヘーラーの腹心の使者や侍女の役目を務めた。また、[[アルゴス]]、[[スフィンクス|スピンクス]]、[[ヒュドラー]]、[[ピュートーン]]、[[ラードーン]]、[[かに座#神話|カルキノス]]、[[さそり座#神話|大サソリ]]などの怪物を使役する場面もある。世界の西の果てにある不死の[[黄金の林檎|リンゴ]]の園・[[ヘスペリデス]]の園を支配していた。[[結婚]]・[[出産|産児]]・[[主婦]]<ref>呉茂一『ギリシア神話 上巻』新潮社、1956年、78頁。</ref>を守護する女神であり、古代ギリシアでは[[一夫一婦制]]が重視されていた。嫉妬深い性格であり、[[ゼウス]]の浮気相手やその間の子供に苛烈な罰を科しては様々な悲劇を引き起こした。夫婦仲も良いとは言えず、ゼウスとよく口論になっている。また、多くの神々や英雄たちの物語がヘーラーの敵意を軸にして展開することも多く見られる<ref>バーナード・エヴスリン『ギリシア神話小事典』225頁。</ref>。 毎年春になると[[ナウプリア]]の[[カナートス]]の聖なる泉で沐浴して苛立ちを全て洗い流し、処女性を取り戻し<ref>パウサニアス、2巻38・2。</ref><ref>[[シブサワ・コウ]] 『爆笑ギリシア神話』 [[コーエー|光栄]]、9頁。</ref>、[[アプロディーテー]]にも劣らず天界で最も美しくなる。この時期にはゼウスも他の女に目もくれずにヘーラーと愛し合うという。 聖鳥は[[クジャク|孔雀]]、[[カッコウ|郭公]]、[[ツル|鶴]]で聖獣は[[ウシ|牝牛]]。その象徴は[[ユリ|百合]]、[[ザクロ|柘榴]]、[[リンゴ|林檎]]、[[松明]]である。[[ローマ神話]]においては[[ユーノー]](ジュノー)と同一視された<ref name="G" />。 このヘーラー({{lang|grc-latn|Hērā}})の名が「{{Ruby|英雄|ヒーロー}}」({{lang|grc-latn|Hērōs}}, ヘーロース)<ref>呉茂一『ギリシア神話 上巻』新潮社、1956年、79頁。</ref>の語源となっているという推測は、[[アウグスティヌス]]や[[イシドールス|セビーリャのイシドルス]]の著書に記されている<ref>{{Cite book|和書|author=G・ヴィーコ|year=2018|title=新しい学(上)|publisher=中公文庫|pages=593p}}</ref>。 == 神話 == === 生い立ち === 神話では[[クロノス]]と[[レアー]]の娘<ref>[[ヘーシオドス]]『神統記』454。</ref>。[[ティーターノマキアー]]の間[[オーケアノス]]と[[テーテュース]]がヘーラーを預かり、世界の果てで養育した<ref name="G" />。もっとも、養育したのは他の神であるとの伝承もある<ref name="G" />。[[ヘーシオドス]]によればヘーラーは[[ゼウス]]が三番目に[[兄弟姉妹婚]]した正妻であり、その婚礼の場には諸伝がある<ref name="G" />。ヘーラーとゼウスの婚礼は「[[ヒエロス・ガモス|聖なる婚姻]]」としてギリシア各地で行われ<ref name="G" />、2人は間に[[アレース]]、[[エイレイテュイア]]、[[ヘーベー]]をもうけた<ref>ヘーシオドス『神統記』922。</ref>。[[ヘーパイストス]]はヘーラーの子であるが、ゼウスとの間の子か、ヘーラーが一人でもうけた子かについては異伝がある<ref name="G" />。 === 結婚 === [[ファイル:Jupiter et Junon 2 by Annibale Carracci.jpg|thumb|270px|ゼウスとヘーラー ([[アンニーバレ・カラッチ]]/画, 1597)]] ゼウスと結婚するにあたって、以下のエピソードが有名である。掟の女神[[テミス]]と結婚していたゼウスは、ヘーラーの美しさに恋に落ち、[[カッコウ]]に化けてヘーラーに近付き犯そうとした。しかし、ヘーラーは抵抗を続け、決してゼウスに身体を許さなかった。ヘーラーは交わることの条件として結婚を提示した。ヘーラーに魅了されていたゼウスは仕方なくテミスと離婚すると、ヘーラーと結婚した。また、ゼウスとヘーラーの関係は結婚前から久しく続いており、[[キサイロナス|キタイローン山]]で交わっていたともいわれる<ref name="F" />。 ある時ヘーラーはゼウスと争った後に[[オリンポス山|オリュンポス]]から離れキタイローン山に隠れた<ref name="J">高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』233,242頁。</ref>。ゼウスはヘーラーを誘い出すため、花嫁衣装で着飾った大きな女性の木偶人形を造り、新しく結婚すると言って同山中を通行した<ref name="J" />。それを聞いたヘーラーが飛び出して新しいゼウスの妃の衣装をむしり取ると、木像であることに気付いて和解した<ref name="J" />。 === 嫉妬 === オリュンポス十二神の中でも情報収集能力に優れた描写が多く、ゼウスの浮気を迅速に察知するなど高い監視能力を発揮する。ギリシア神話に登場する男神は総じて女好きであり、ゼウスはその代表格である。そのため、結婚の守護神でもあるヘーラーは嫉妬心が深くゼウスの愛人([[セメレー]]、[[レートー]]、[[カリストー]]、[[ラミアー]]、[[アイギーナ]]とヘーラーに仕える女神官・[[イーオー]]など)やその間に生まれた子供([[ディオニューソス]]、[[ヘーラクレース]]など)に復讐する<ref name="G" />。自分の子孫にも容赦の無い一面も持ち、ゼウスの愛人になった曾孫[[セメレー]]に人間が直視すると致命的な危険があるゼウスの真の姿を見たがるように仕向ける、[[ヘーラクレース]]に惚れ込んで黄金の帯を譲る約束をした孫の[[ヒッポリュテー]]の部下を煽動してヘーラクレース一行を襲わせ、最終的には潔白を示すために無抵抗のまま弁明を試みるヒッポリュテーをヘーラクレースに殺させる、と両人に悲惨な最期を遂げさせている。しかし、浮気な夫とは対照的に、ヘーラー自身は貞淑である<ref name="G" />。 気が強く、ゼウスの浮気を手助けした[[エーコー]]、ディオニューソスを育てた[[イーノー]]と[[アタマース]]、ヘーラーの容色の美しさを競った[[シーデー]]と[[ゲラナ]]、ヘーラーと意見を違えた[[テイレシアース]]などを罰している。 [[ポセイドーン]]、[[アテーナー]]、[[アポローン]]と共にゼウスに対して反乱を起こしたこともあり、その際ゼウスはヘーラーを懲らし、天上から吊るし上げている。また、ヘーラクレースの船隊が[[イリオス|トロイア]]から帰る途中、[[ヒュプノス]]にゼウスを眠らせ、嵐を送ってヘーラクレースの船を[[コス島|コース島]]に漂着させた<ref name="J" />。その後、目覚めたゼウスはヘーラーをオリュンポスから宙吊りにした<ref name="J" />。 最も特殊な異伝は、『[[ホメーロス風讃歌]]』の中の「アポローン讃歌」であろう。ゼウスが知恵の女神アテーナーをひとりで生み出したことや、彼女の産んだヘーパイストスがアテーナーに見劣りすることに腹を立て、[[ティーターン]]神族の助けを借りて単性で[[テューポーン]]を産んだとされる<ref>『ホメーロス風讃歌』第3歌「アポローン讃歌」304-354。</ref>。 === アルゴナウタイ === [[アルゴナウタイ]]の物語では、自分を冒涜した[[ペリアース]]を罰するためアルゴナウタイを庇護してその冒険を助けている。 === 天の川 === [[ファイル:Peter Paul Rubens - The Birth of the Milky Way, 1636-1637.jpg|230px|thumb|天の川の起源 ([[ピーテル・パウル・ルーベンス]]/画, 1636-1637)]] ヘーラーの母乳は飲んだ人間の肉体を不死身に変える力があり、ヘーラクレースもこれを飲んだために乳児時代から驚異的な怪力を発揮できた。また、この時にヘーラクレースの母乳を吸う力があまりにも強かったため、ヘーラーはヘーラクレースを突き飛ばし、その際に飛び散ったヘーラーの母乳が[[天の川]]になった。なお、ヘーラクレースはヘーラーの子ではないが、「ヘーラーの栄光」という意味の名を持つ<ref name="G" />。ヘーラクレースが神の座に着く時、ヘーラーは娘のヘーベーを妻に与えた。 === イーリアス === 自分の美しさを認めないという理由で[[パリス]]を恨んでいるため、[[イリオス|トロイア]]を滅ぼすことに執心しており、[[トロイア戦争]]では[[アテーナー]]と組んでギリシア側に味方する<ref name="G" />。ギリシア側の英雄たちを助けて戦いながらアテーナーと力を合わせ、敵対した[[アプロディーテー]]の情人であり自らの息子でもある、戦いを司る神・アレースを撃退する<ref>ホメーロス『イーリアス』5巻。</ref>。また、ギリシア軍の劣勢に気をもむヘーラーはアプロディーテーの宝帯(装着するとあらゆる神や人の心を征服することが出来る)を借りて、トロイア軍を助けたゼウスを魅了し、暫くトロイア戦争のことを忘れさせようとした<ref>ホメーロス『イーリアス』14巻。</ref>。腕っぷしも強く、トロイア軍を支援した[[アルテミス]]を素手で打ちのめす逸話もある<ref name="G" /><ref>ホメーロス『イーリアス』21巻。</ref>。 == 信仰 == ヘーラーは[[サモス島]]で誕生したと考えられており、サモス島は古くからヘーラー信仰の中心地となっていた。また一説にサモス島におけるゼウスとヘーラーの結婚式の夜は三百年の間続いたという<ref>[[ロバート・グレーヴス]]『[[ギリシア神話 (ロバート・グレーヴス)|ギリシア神話]] 上巻』[[紀伊国屋書店]]、1973年、12章b。</ref>。 元来は、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]、[[ミケーネ|ミュケーナイ]]、[[スパルタ]]等の[[ペロポネソス半島|ペロポネーソス半島]]一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつて[[アカイア人]]に信仰された[[地母神]]であったとされ、北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられる<ref name="F" />。 二神の不和は、両者の崇拝者が敵対関係にあったことの名残とも考えられている<ref name="F" />。 [[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の神殿にあるヘーラー像はカッコウのとまった玉杖と柘榴を持っていた<ref>パウサニアス、2巻17・4。</ref>。 == ギャラリー == <center><gallery widths="140px" heights="140px"> James Barry 001.jpg|{{small|[[ジェームズ・バリー (画家)|ジェームズ・バリー]]『イデ山にあるゼウスとヘーラー』(1790-1799年頃) {{仮リンク|シェフィールド美術館|en|Category:Museums in Sheffield}}所蔵}} Zeus and Hera on Mount Ida.jpg|{{small|{{仮リンク|アンドリース・コルネーリス・レンズ|en|Andries Cornelis Lens}}『イデ山にあるゼウスとヘーラー』(1775年) [[美術史美術館]]所蔵}} Juno and Jupiter by Gavin Hamilton.jpg|{{small|[[ゲイヴィン・ハミルトン]]『ゼウスとヘーラー』(1770年)}} Giovanni Ambrogio Figino - Jupiter, Juno and Io.jpg|{{small|[[ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノ]]『ゼウス、ヘーラーとイーオー』(1599年) {{仮リンク|マラスピーナ絵画館|it|Pinacoteca Malaspina}}所蔵}} Michel Martin Drolling - The Law Descends to the Earth, 1827.jpg|{{small|[[ミシェル・マルタン・ドロラン]]『ヘーラーとアテーナーは天界から地上へ降りる』(1827年) [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Jacopo Tintoretto - The Origin of the Milky Way - Google Art Project.jpg|{{small|[[ティントレット]]『[[天の川の起源 (ティントレット)|天の川の起源]]』(1575年) [[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵}} Juno Borrowing the Girdle of Venus by Guy Head.jpg|{{small|ガイ・ヘッド『アプロディーテーの宝帯を借りたヘーラー』(1771年) [[ノッティンガム美術館]]所蔵}} Andrea Appiani - Venere allaccia il cinto a Giunone.jpg|{{small|[[アンドレア・アッピアーニ]]『アプロディーテーの宝帯を借りたヘーラー』(1811年) 個人蔵}} Andrea Appiani - Giunone abbigliata dalle Grazie.jpg|{{small|アンドレア・アッピアーニ『ヘーラーの化粧に仕えるカリスたち』(1811年) ブレシア市立美術館所蔵}} Joseph Paelinck - Juno, 1832.jpg|{{small|{{仮リンク|ヨーゼフ・ペリンク|en|Joseph Paelinck}}『ヘーラー』(1832年) [[ヘント美術館]]所蔵}} Jacques Louis Dubois - Juno.jpg|{{small|ジャック・ルイ・デュボワ『ヘーラー』(19世紀頃)}} Peter Paul Rubens - Juno and Argus - WGA20280.jpg|{{small|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]『ヘーラーとアルゴス』(1611年) [[ヴァルラフ・リヒャルツ美術館]]所蔵}} Gustave Moreau - Le Paon se plaignant à Junon.jpg|{{small|[[ギュスターヴ・モロー]]『ヘーラー』(1881年) [[ギュスターヴ・モロー美術館]]所蔵}} William Blake Richmond - Hera in the House of Hephaistos, 1902.jpg|{{small|{{仮リンク|ウィリアム・ブレイク・リッチモンド|en|William Blake Richmond}}『ヘーパイストスの部屋にあるヘーラー』(1902年) [[インディアナポリス美術館]]所蔵}} Divinità sul tipo della hera borghese, copia romana da originale della scuola di fidia, da tor bovacciana (ostia), inv. 2246.JPG|{{small|{{仮リンク|バルベリーニのヘラ|en|Barberini Hera}} [[バチカン美術館]]所蔵}} Juno Louvre Ma485.jpg|{{small|ヘーラー像(2世紀頃) ルーヴル美術館所蔵}} Naples Museum 163 (15208834267).jpg|{{small|ヘーラー像(4世紀頃) [[ナポリ国立考古学博物館]]所蔵}} Altes Museum (Berlin) (6340514990).jpg|{{small|ヘーラー像(日付不明) [[旧博物館 (ベルリン)|旧博物館]]所蔵}} Juno by Joseph Nollekens.jpg|{{small|{{仮リンク|ジョセフ・ノルキンズ|en|Joseph Nollekens}} ヘーラー像(1776年)[[J・ポール・ゲティ美術館]]所蔵}} Hera Ludovisi Altemps Inv8631.jpg|{{small|{{仮リンク|ヘラ・ルドヴィシ|en|Juno Ludovisi}}(1世紀頃) [[ローマ国立博物館]]所蔵}} </gallery></center> == 出典 == {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]](訳)、岩波書店、1953年。ISBN 978-4003211014。 * [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人(訳)、龍溪書舎、1991年。ISBN 978-4844783336。 * [[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]](訳)、岩波書店、1984年。ISBN 978-4003210710。 * [[ホメーロス]]『ホメーロスの諸神讃歌』[[沓掛良彦]](訳)、[[ちくま学芸文庫]]、2004年。ISBN 978-4480088697。 * フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健(訳)、[[青土社]]、1991年。ISBN 978-4791751440。 * マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『[[ギリシア・ローマ神話事典]]』木宮直仁(訳)、[[大修館書店|大修館書店、1988年。]]ISBN 978-4469012217。 * 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』[[岩波書店]]、1960年。ISBN 978-4000800136。 == 関連項目 == {{Commonscat|Hera}} * [[パリスの審判]] * [[ヘラ (小惑星103番)]] {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へら}} [[Category:ヘーラー|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:女神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:地母神]]
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ペルセポネー
ペルセポネー(古希: ΠΕΡΣΕΦΟΝΗ, ギリシア語: Περσεφόνη, ギリシア語ラテン翻字: Persephonē)は、ギリシア神話に登場する冥界の女王である。 ゼウスとデーメーテールの娘(一説にはゼウスとステュクスの娘)で、ハーデース(ローマ神話のプルートーに相当)の妻として傍らに座しているとされる。しばしばコレー(「乙女」の意)とも言及される(地上にいた時はコレーと呼ばれ、冥界に入ってからはペルセポネーと呼ばれた)。 ペルセフォネーとも。日本語では長母音を省略してペルセポネ、ペルセフォネとも呼ぶ。ローマ神話ではプロセルピナと呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっている。 神話によると、ペルセポネー(当時のコレー)は、アテーナーとアルテミスのように永遠の処女であることを誓ったため、アプロディーテーはエロースの矢で冥界の王ハーデースを射ることを画策した。ちょうどペルセポネーは、ニューサ(山地であるが、どこであるのか諸説ある)の野原でニュムペー(妖精)達と供に花を摘んでいた。するとそこに一際美しい水仙の花が咲いていた。ペルセポネーがその花を摘もうとニュムペー達から離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗ったハーデースが現れ、彼女は冥府に連れ去られてしまった。 オリュムポスでは、母デーメーテールがさらわれるペルセポネーの叫び声を聞きつけた。そして娘の姿がどこにもないことに気づくと、悲しみにくれながら、松明を片手に行方の分からない娘を探して地上を巡り歩いた。そして十日目に灯火を手にした月神ヘカテーと出会って、ペルセポネーが誘拐されたことを聞いた。そこで二柱の女神は太陽神ヘーリオスのところに行き、ヘーリオスから、ハーデースがペルセポネーを冥府へと連れ去ったことを知る(一説にはアレトゥーサが教えてくれた)。女神はゼウスの元へ抗議に行くが、ゼウスは取り合わず、「冥府の王であるハーデースであれば夫として不釣合いではない」と発言した。これを聞き、娘の略奪をゼウスらが認めていることにデーメーテールが激怒し、オリュンポスを去り大地に実りをもたらすのをやめ、地上に姿を隠す。 一方、冥府に連れ去られたペルセポネーは丁重に扱われるも、自分から進んで暗い冥府に来た訳ではないため、ハーデースのアプローチに対しても首を縦に振らなかった。 その後ゼウスがヘルメースを遣わし、ハーデースにペルセポネーを解放するように伝え、ハーデースもこれに応じる形でペルセポネーを解放した。その際、ハーデースがザクロの実を差し出す。それまで拒み続けていたペルセポネーであったが、ハーデースから丁重に扱われていたことと、何より空腹に耐えかねて、そのザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒(または6粒)を食べてしまった。 そして母であるデーメーテールの元に帰還したペルセポネーであったが、冥府のザクロを食べてしまったことを母に告げる。冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあったため、ペルセポネーは冥界に属さなければならない。デーメーテールはザクロは無理やり食べさせられたと主張してペルセポネーが再び冥府で暮らすことに反対するも、デーメーテールは神々の取り決めを覆せなかった。そして、食べてしまったザクロの数だけ冥府で暮らす(1年のうちの1/3(または1/2)を冥府で過ごす)こととなり、彼女は冥府の王妃ペルセポネーとしてハーデースの元に嫁いで行ったのである。そしてデーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止めるようになった。これが冬(もしくは夏)という季節の始まりだという。農作物の消長の原理はこの神話によって説明されている。 また、ペルセポネーが地上に戻る時期は、母である豊穣の女神デーメーテールの喜びが地上に満ち溢れるとされる。これが春という季節である。そのため、ペルセポネーは春の女神(もしくはそれに相当する芽吹きの季節の女神)とされる。ペルセポネーの冥界行きと帰還を中軸とするエレウシース秘儀は死後の復活や死後の世界における幸福、救済を保証するものだったと考えられている。メトロポリタン美術館に所蔵されているアッティカ赤絵式のクラテールでは、地上へと帰還するペルセポネーの姿が描かれている。ペルセポネーはヘカテーとヘルメースの案内で地面の裂け目から地上に戻り、地上でペルセポネーと再会を果たすデーメーテールは大地のサイクルの更新を受け取る。 デーメーテールがポセイドーンとの間に産んだ娘、デスポイナ(英語版)と同一視されることもあり、ギリシア神話が確立される以前はポセイドーンとデーメーテールの間に産まれた子だった。そもそもペルセポネー自体が本来デーメーテールと同じ神であり、同一神格の別の面が強調されただけではないかともいわれる。 このように、ペルセポネーは強制的にハーデースの妻にされてしまったが、ハーデースの妻であることを受け入れ、ギリシャ神話では夫のそばにいる場面が多い。またハーデースの恋人メンテーを厳罰に処すなど、強い嫉妬心を見せるようになった。しかしペルセポネー自身も美しい人間の男・アドーニスを深く愛し、ゼウス公認で1年の1/3の間、彼を恋人として堂々とそばにおいている。 このほかにオルペウス教の物語では、ゼウスは大蛇の姿となってペルセポネーと交わり、ザグレウスをもうけた。 コキュートス川のニュムペー、メンテーはペルセポネー以前にハーデースが愛した女性。 ハーデースは最初にメンテーを愛したが、後に地上からペルセポネーをさらって冥府に連れてきた。メンテーは嫉妬に狂ってペルセポネーに怒りや不満の言葉を浴びせた。自分の方がペルセポネーよりも美しいのだから、ハーデースもいずれ自分とよりを戻し、館からペルセポネーを追い出すだろう、と。しかしこの言葉が母デーメーテールの怒りを買った。メンテーはデーメーテールに足で踏みつぶされて死に、どこにでもある草ミントになった。別の話によると、メンテーを踏みつけて草に変えたのはペルセポネーで、ピュロス市の東にはメンテーの名に由来する山があった。 アッシリア王キニュラースの娘ミュラー(スミュルナ)が父王を愛し、その結果生まれたアドーニス。 この不幸な出生のアドーニスの養育を、愛の女神アプロディーテーは密かにペルセポネーに頼んだ。しかしアドーニスの美しさにペルセポネーもアドーニスを愛するようになった。そこでゼウスは1年の1/3をそれぞれアプロディーテー、ペルセポネーと暮らし、残る1/3をアドーニスが好きなように使うよう決めたのだが、アドーニスは自分の時間を全てアプロディーテーに与えた。これを知ったアレースは獰猛な猪に変身し、アドーニスを殺した。この時アドーニスが流した血からアネモネが生まれ、死を悲しみアプロディーテーが流した紅涙が白薔薇を赤く染めた。
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ペルセポネーは、ギリシア神話に登場する冥界の女王である。 ゼウスとデーメーテールの娘(一説にはゼウスとステュクスの娘)で、ハーデース(ローマ神話のプルートーに相当)の妻として傍らに座しているとされる。しばしばコレー(「乙女」の意)とも言及される(地上にいた時はコレーと呼ばれ、冥界に入ってからはペルセポネーと呼ばれた)。 ペルセフォネーとも。日本語では長母音を省略してペルセポネ、ペルセフォネとも呼ぶ。ローマ神話ではプロセルピナと呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっている。
{{redirectlist|ペルセポネ|[[ローマ神話]]|プロセルピナ|その他の用法|ペルセポネ (曖昧さ回避)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ペルセポネー<br/>{{lang|grc|Περσεφόνη}} | image = AMI - Isis-Persephone.jpg | image_size = 230px | caption = {{small|[[イシス|イーシス]]・ペルセポネー像<br/>[[イラクリオン]]にある考古学博物館所蔵。}} | deity_of = {{small|冥界の女王}} | birth_place = | death_place = | cult_center = | abode = [[冥界]] | weapon = | symbol = [[スイセン属|水仙]], [[ザクロ]], [[コウモリ|蝙蝠]], [[ヘビ|蛇]], [[松明]] | consort = [[ハーデース]] | parents = [[ゼウス]], [[デーメーテール]](あるいは[[ステュクス]]) | siblings = [[アテーナー]], [[アポローン]], [[アルテミス]], [[アレース]], [[ヘーパイストス]], [[ヘルメース]], [[ディオニューソス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]] | children = [[ザグレウス]] | mount = | Roman_equivalent = [[プロセルピナ]], [[リーベラ]], [[リビティーナ]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''ペルセポネー'''({{lang-grc-short|'''ΠΕΡΣΕΦΟΝΗ'''}}, {{lang-el| Περσεφόνη}}, {{lang-*-Latn|el|Persephonē}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[冥界]]の女王である。 [[ゼウス]]と[[デーメーテール]]の娘(一説にはゼウスと[[ステュクス]]の娘<ref>[[#AP|アポロードロス]]、第1巻3・1。</ref>)で、[[ハーデース]]([[ローマ神話]]の[[プルートー]]に相当)の妻として傍らに座しているとされる。しばしば[[コレー]](「乙女」の意)とも言及される(地上にいた時は'''コレー'''と呼ばれ、冥界に入ってからはペルセポネーと呼ばれた<ref>[[#FG|フェリックス・ギラン]]、p.209。</ref>)。 '''ペルセフォネー'''とも<ref>{{Cite journal |和書|author=石見衣久子|url = https://hdl.handle.net/10191/8808 |title = ノンノス『ディオニューソス譚』第七課 : 翻訳と解題 |journal=現代社会文化研究 |publisher = 新潟大学大学院現代社会文化研究科 |volume=43 |pages=193-205 |date=2008 |ncid=AN1046766X |accessdate = 2018-01-28 }}</ref>。[[日本語]]では[[長母音]]を省略して'''ペルセポネ'''、'''ペルセフォネ'''とも呼ぶ。[[ローマ神話]]では[[プロセルピナ]]と呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっている。 == 神話 == === ペルセポネーの略奪 === [[ファイル:Rembrandt - The Rape of Proserpine - Google Art Project.jpg|left|thumb|[[レンブラント・ファン・レイン]]の1631年頃の絵画『[[プロセルピナの略奪 (レンブラント)|プロセルピナの略奪]]』。[[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]所蔵。]] 神話によると、ペルセポネー(当時のコレー)は、[[アテーナー]]と[[アルテミス]]のように永遠の処女であることを誓ったため、[[アプロディーテー]]は[[エロース]]の矢で冥界の王ハーデースを射ることを画策した<ref>オウィディウス『変身物語』5巻354。</ref>。ちょうどペルセポネーは、ニューサ(山地であるが、どこであるのか諸説ある)の野原で[[ニュンペー|ニュムペー]]([[妖精]])達と供に花を摘んでいた<ref name="G">『ギリシア・ローマ神話辞典』p.165。</ref>。するとそこに一際美しい[[スイセン属|水仙]]の花が咲いていた。ペルセポネーがその花を摘もうとニュムペー達から離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗ったハーデースが現れ、彼女は冥府に連れ去られてしまった。 === デーメーテールの怒り === [[オリンポス山|オリュムポス]]では、母デーメーテールがさらわれるペルセポネーの叫び声を聞きつけた。そして娘の姿がどこにもないことに気づくと、悲しみにくれながら、[[松明]]を片手に行方の分からない娘を探して地上を巡り歩いた。そして十日目に灯火を手にした月神[[ヘカテー]]と出会って、ペルセポネーが誘拐されたことを聞いた<ref>『ホメーロス風讃歌』第2歌「デーメーテール讃歌」38行-58行。</ref>。そこで二柱の女神は太陽神[[ヘーリオス]]のところに行き、ヘーリオスから、ハーデースがペルセポネーを冥府へと連れ去ったことを知る<ref>『ホメーロス風讃歌』第2歌「デーメーテール讃歌」59行-87行。</ref><ref name="G" />(一説には[[アレトゥーサ]]が教えてくれた<ref>オウィディウス『変身物語』5巻407。</ref>)。女神はゼウスの元へ抗議に行くが、ゼウスは取り合わず、「冥府の王であるハーデースであれば夫として不釣合いではない」と発言した。これを聞き、娘の略奪をゼウスらが認めていることにデーメーテールが激怒し、オリュンポスを去り大地に実りをもたらすのをやめ、地上に姿を隠す。 一方、冥府に連れ去られたペルセポネーは丁重に扱われるも、自分から進んで暗い冥府に来た訳ではないため、ハーデースのアプローチに対しても首を縦に振らなかった。 === 四季の始まり === [[ファイル:FredericLeighton-TheReturnofPerspephone(1891).jpg|right|thumb|[[フレデリック・レイトン]]の1891年の絵画『ペルセポネの帰還』。{{ill|リーズ美術館|en|Leeds Art Gallery|label=リーズ美術館}}所蔵。]] その後ゼウスが[[ヘルメース]]を遣わし、ハーデースにペルセポネーを解放するように伝え、ハーデースもこれに応じる形でペルセポネーを解放した。その際、ハーデースが[[ザクロ]]の実を差し出す。それまで拒み続けていたペルセポネーであったが、ハーデースから丁重に扱われていたことと、何より空腹に耐えかねて、そのザクロの実の中にあった12粒のうちの4粒(または6粒)を食べてしまった。 そして母であるデーメーテールの元に帰還したペルセポネーであったが、冥府のザクロを食べてしまったことを母に告げる。冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあったため、ペルセポネーは冥界に属さなければならない。デーメーテールはザクロは無理やり食べさせられたと主張してペルセポネーが再び冥府で暮らすことに反対するも、デーメーテールは神々の取り決めを覆せなかった。そして、食べてしまったザクロの数だけ冥府で暮らす(1年のうちの1/3(または1/2)を冥府で過ごす)こととなり、彼女は冥府の王妃ペルセポネーとしてハーデースの元に嫁いで行ったのである<ref>[[#AP|アポロードロス]]、第1巻5・3。</ref>。そしてデーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止めるようになった。これが冬(もしくは夏)という季節の始まりだという。[[農作物]]の消長の原理はこの神話によって説明されている<ref>[[三品彰英]]『神話の世界』[[集英社]]、1974年、106頁。</ref>。 また、ペルセポネーが地上に戻る時期は、母である豊穣の女神デーメーテールの喜びが地上に満ち溢れるとされる。これが春という季節である。そのため、ペルセポネーは春の女神(もしくはそれに相当する芽吹きの季節の女神)とされる。ペルセポネーの冥界行きと帰還を中軸とする[[エレウシス|エレウシース]]秘儀は死後の復活や死後の世界における幸福、救済を保証するものだったと考えられている<ref>『[[#地獄(参考文献)|地獄]]』p.143。</ref>。[[メトロポリタン美術館]]に所蔵されている[[アッティカ]][[赤絵式]]の[[クラテール]]では、地上へと帰還するペルセポネーの姿が描かれている。ペルセポネーはヘカテーとヘルメースの案内で地面の裂け目から地上に戻り、地上でペルセポネーと再会を果たすデーメーテールは大地のサイクルの更新を受け取る<ref>{{cite web|title=Vases, Accession Number 28.57.23 |accessdate=2020/12/30 |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/252973 |publisher=メトロポリタン美術館公式サイト}}</ref>。 デーメーテールが[[ポセイドーン]]との間に産んだ娘、{{ill|デスポイナ|en|Despoina|redirect=1}}と同一視されることもあり、ギリシア神話が確立される以前はポセイドーンとデーメーテールの間に産まれた子だった。そもそもペルセポネー自体が本来デーメーテールと同じ神であり、同一神格の別の面が強調されただけではないかともいわれる<ref>『[[#早わかりギリシア神話|早わかりギリシア神話]]』p.82。</ref>。 ===冥府の女神としての神話=== このように、ペルセポネーは強制的にハーデースの妻にされてしまったが、ハーデースの妻であることを受け入れ、ギリシャ神話では夫のそばにいる場面が多い。またハーデースの恋人[[メンテー]]を厳罰に処すなど、強い嫉妬心を見せるようになった。しかしペルセポネー自身も美しい人間の男・[[アドーニス]]を深く愛し、ゼウス公認で1年の1/3の間、彼を恋人として堂々とそばにおいている。 このほかに[[オルペウス教]]の物語では、ゼウスは大蛇の姿となってペルセポネーと交わり、[[ザグレウス]]をもうけた<ref>『ギリシア・ローマ神話辞典』p.252。</ref>。 ====メンテー(ミント)==== [[コキュートス]]川のニュムペー、メンテーはペルセポネー以前にハーデースが愛した女性<ref>オッピアヌス『漁夫訓』3巻487行。</ref>。 ハーデースは最初にメンテーを愛したが、後に地上からペルセポネーをさらって冥府に連れてきた。メンテーは嫉妬に狂ってペルセポネーに怒りや不満の言葉を浴びせた。自分の方がペルセポネーよりも美しいのだから、ハーデースもいずれ自分とよりを戻し、館からペルセポネーを追い出すだろう、と。しかしこの言葉が母デーメーテールの怒りを買った。メンテーはデーメーテールに足で踏みつぶされて死に、どこにでもある草[[ミント]]になった<ref>オッピアヌス『漁夫訓』3巻488行-497行。</ref>。別の話によると、メンテーを踏みつけて草に変えたのはペルセポネーで、[[ピュロス (ギリシャ)|ピュロス]]市の東にはメンテーの名に由来する山があった<ref>ストラボン、8巻3・14。</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[オウィディウス]]もペルセポネーがメンテーを香しいミントに変えたと述べている<ref>オウィディウス『[[変身物語]]』10巻728行-731行。</ref>。}}。 ====アドーニス(アネモネ)==== アッシリア王[[キニュラース]]の娘[[ミュラー (ギリシア神話の人物)|ミュラー]](スミュルナ)が父王を愛し、その結果生まれたアドーニス。 この不幸な出生のアドーニスの養育を、愛の女神[[アプロディーテー]]は密かにペルセポネーに頼んだ。しかしアドーニスの美しさにペルセポネーもアドーニスを愛するようになった。そこでゼウスは1年の1/3をそれぞれアプロディーテー、ペルセポネーと暮らし、残る1/3をアドーニスが好きなように使うよう決めたのだが、アドーニスは自分の時間を全てアプロディーテーに与えた<ref>[[#AP|アポロードロス]]、第3巻14・4。</ref>。これを知ったアレースは獰猛な猪に変身し、アドーニスを殺した。この時アドーニスが流した血から[[アネモネ]]が生まれ、死を悲しみアプロディーテーが流した紅涙が白薔薇を赤く染めた。 == その他 == [[ファイル:Aidoneus & Persephone.png|right|thumb|ハーデースの傍らに座しているペルセポネー。]] * [[セイレーン]]は、元はペルセポネーに仕えていたニュムペーで、ペルセポネーがハーデースに誘拐されると、毎日悲しんでばかりで、「恋愛もせず、泣いてばかりで許せない」、とアプロディーテーの怒りを買い、怪鳥の姿に変えられてしまったとの説もある<ref>『オデュッセイア』エウスタティウス注より。</ref>。 * [[プシューケー]]がアプロディーテーの試練により冥府に来た際、美の箱を渡したり、冥府に連れて来られた[[シーシュポス]]の3日間だけ生き返らせてくれという頼みを叶えたりするなど、冥府の女王としての描写も多数ある。なおペルセポネーへの言及は『[[オデュッセイア]]』、[[オルペウス]]説話などにも見られる。また、[[ペイリトオス]]が冥界に行ってペルセポネーを誘拐して結婚しようとしたという話もある。 * [[ウェルギリウス]]はアウェルヌスの聖林の中にペルセポネーの聖なる樹木「[[金枝]]」があり、その枝を折り取ってペルセポネーに捧げることで、生きたまま冥界へと下って行き、また帰って来ることができるとしている。[[アイネイアース]]は巫女[[シビュラ]]の指示に従ってこの枝を折り、また渡守[[カローン]]に枝を見せることで冥府の川を渡り、亡き父[[アンキーセース]]の霊と会うことができた<ref>ウェルギリウス『アエネーイス』6巻125行以下。</ref>。 * また、[[ディオニューソス]]に[[ギンバイカ]]の木と引き替えに母親の[[セメレー]]を冥府から帰している。 * 後代には手に炬火を持ちその髪には蛇を纏わらせ、暗い不機嫌な相貌を持つ姿で描かれた<ref>呉茂一『ギリシア神話』新潮社、1994年、338頁。</ref>。 * 「ペルセポネー」という名前の意味については諸説がある。 **「光を破壊する女」あるいは「目も眩むような光」<ref>[[#FG|フェリックス・ギラン]]、p.252。</ref> **「死をもたらす者」<ref>[[松村一男]]他編『神の文化史事典』2013年、[[白水社]]、482頁。</ref> * その象徴は水仙、ザクロ<ref>『[[#「聖書」と「神話」の象徴図鑑|「聖書」と「神話」の象徴図鑑]]』 p.66f。</ref>、[[コウモリ|蝙蝠]]である<ref>[[#FG|フェリックス・ギラン]]、p.253。</ref>。 == ギャラリー == <center><gallery widths="150" heights="140" perrow="4" style="font-size:smaller"> Rape of Proserpine by C.Schwarz (c. 1573, Fitzwilliam).jpg|{{ill|クリストフェル・スワルト|en|Christoph Schwarz}}『プロセルピナの略奪』(1573年) [[フィッツウィリアム美術館]]所蔵 Peter Paul Rubens - The Rape of Proserpina, 1636-1638.jpg|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]『プロセルピナの略奪』(1636年と1638年の間) [[プラド美術館]]所蔵 Orpheus and Eurydice by Peter Paul Rubens.jpg|ピーテル・パウル・ルーベンス『[[オルペウスとエウリュディケ (ルーベンス)|オルペウスとエウリュディケ]]』(1636年と1638年の間) プラド美術館所蔵 Nicolò dell'Abate - The Rape of Proserpine - WGA00014.jpg|[[ニコロ・デッラバーテ]]『プロセルピナの略奪』(1570年頃) [[ルーヴル美術館]]所蔵 Heintz, Joseph the Elder - The Rape of Proserpina - c. 1595.jpg|[[ヨーゼフ・ハインツ]]『プロセルピナの略奪』(1595年頃) [[アルテ・マイスター絵画館]]所蔵 Natoire - Psyché et Proserpine.jpg|[[シャルル・ジョセフ・ナトワール]]『プシュケとプロセルピナ』(1735年) [[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]所蔵 </gallery></center> == 脚注 == === 注釈 === <div class="references-small"><references group="注釈" /></div> === 脚注 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == === 原典資料 === <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> * {{Cite book |和書 |author=アポロドーロス|authorlink=アポロドーロス |others=[[高津春繁]]訳 |title=[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]] |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] 4831-4833|date=1953-04 |id={{全国書誌番号|53005125}}、{{NCID|BN05599568}} |ref=AP }} * [[ヘーシオドス]]『[[神統記]]』[[廣川洋一]]訳、岩波書店(1984年) * [[オウィディウス]]『[[変身物語]](上・下)』[[中村善也]]訳、岩波文庫(1981・1984年) * [[ホメーロス]]『[[オデュッセイア]]』(エウスタティウス注) * ホメーロス『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロスの諸神讃歌]]』[[沓掛良彦]]訳、[[ちくま学芸文庫]](2004年) * [[アラトス]]/ニカンドロス/オッピアノス『ギリシア訓叙事詩集』伊藤照夫訳、[[京都大学学術出版会]](2007年) ISBN 4876981701 * [[ストラボン]]『ギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎(1994年) === 二次資料 === <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> * {{Cite book |和書 |author=高津春繁|authorlink=高津春繁 |title=ギリシア・ローマ神話辞典 |publisher=[[岩波書店]] |date=1960年 |isbn= |ref=ギリシア・ローマ神話辞典 }} * {{Cite book |和書 |author=木村点 |title=早わかりギリシア神話 - 文化が見える・歴史が読める |publisher=日本実業出版社 |date=2003-05 |isbn=978-4-534-03580-6 |ref=早わかりギリシア神話 }} * {{Cite book |和書 |author=フェリックス・ギラン |title=ギリシア神話 |publisher=[[青土社]] |edition=新装版 |date=1991年 |isbn= |ref=FG }} * {{Cite book |和書 |others=[[岡田温司]]監修 |title=「聖書」と「神話」の象徴図鑑 |publisher=ナツメ社 |date=2011年 |isbn= |ref=「聖書」と「神話」の象徴図鑑 }} * {{Cite book |和書 |author=草野巧 |title=地獄 |publisher=[[新紀元社]] |series=[[Truth In Fantasy]] 21 |date=1995-12 |isbn=978-4-88317-264-1 |ref=地獄(参考文献) }} == 関連項目 == {{Commonscat|Persephone}} * [[ハーデース]] * [[デーメーテール]] - [[コレー]] * [[ヘカテー]] * [[おとめ座]] * [[死と再生の神]] - [[エレウシスの秘儀]] * [[地母神]] * [[イザナミ]] - 冥府の食物を口にしたため、地上に戻れなくなったという。 * [[春ちゃん]] - [[日本放送協会|NHK]]のニュース番組「[[ニュースウオッチ9]]」に登場するお天気キャラクター。ペルセポネーをモチーフに考案された。 {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へるせほねえ}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:死神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:死と再生の神]] [[Category:地母神]] [[Category:女神]] [[Category:デーメーテール]] [[Category:オデュッセイアの登場人物]]
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ウェヌス
ウェヌス(古典ラテン語: Venus - [ˈwɛ.nʊs])は、ローマ神話の愛と美の女神。日本語では英語読み「ヴィーナス」([ˈvi.nəs])と呼ばれることが多い。 本来は囲まれた菜園を司る神であったが、後にギリシア神話におけるアプロディーテーと同一視され、愛と美の女神と考えられるようになった。一般には半裸或いは全裸の美女の姿で表される。ウェヌスは固有の神話が残っておらず、ローマ神話でウェヌスに帰せられる神話は本来アプロディーテーのものである。 ウゥルカーヌスの妻だが、マールス、メルクリウス、アドーニス、アンキーセースたちとのロマンスが伝えられている。このうちのアンキセスとの間の子アイネイアースはローマ建国の祖にして、ガイウス・ユリウス・カエサルの属するユリウス氏族の祖とされた。ここからカエサルはウェヌスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として軍神ともされた。 ギリシアではアプロディーテーが金星を司るとされ、それに影響を受けてラテン語でも金星をウェヌスと呼ぶ。ヨーロッパ諸語で金星をウェヌスに相当する名で呼ぶのはこのためである。また、ラテン語で金曜日はdies Veneris(ウェヌスの日)であり、多くのロマンス諸語でのこの曜日の名称はそれに由来する。 ウェヌス(ヴィーナス)は女性の美しさを表現する際の比喩として用いられたり、愛神の代名詞としても用いられる。近世以降は女性名にも使われるようにもなった。また、マールスが「戦争」「武勇」「男性」「火星」を象徴するのに対してウェヌスは「愛」「女性」「金星」の象徴として用いられることも多い。性別記号で女性は「♀」と表記されるが、本来はウェヌスを意味する記号である。 他の主要なローマの神々と同じように、ウェヌスは女神の異なる側面や役割りを指し示すためのさまざまな添え名があった。 ウェヌスのための他の重要な添え名は、ウェヌス・アミカ(Venus Amica, 友人としてのウェヌス)、ウェヌス・アルマタ(Venus Armata, 武装したウェヌス)、ウェヌス・カエレスティス(Venus Caelestis, 天のウェヌス)、そしてウェヌス・アウレア(Venus Aurea, 黄金のウェヌス)などであった。 (以下の作品名は慣用にしたがい「ヴィーナス」と表記する。)
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ウェヌスは、ローマ神話の愛と美の女神。日本語では英語読み「ヴィーナス」()と呼ばれることが多い。
{{redirect|ヴィーナス}} {{Infobox deity | type = Roman | name = ウェヌス | image = The Birth of Venus by William-Adolphe Bouguereau (1879).jpg | image_size = 270px | caption = {{small|[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー|ウィリアム・ブーグロー]]『[[ヴィーナスの誕生 (ブグロー)|ヴィーナスの誕生]]』<br />1879年 [[オルセー美術館]]所蔵}} | deity_of = 愛と美の女神 | cult_center = | abode = | symbol = [[バラ]], [[ギンバイカ]] | consort = [[マールス]], [[ウゥルカーヌス]] | parents = {{仮リンク|カイルス|en|Caelus}} | siblings = | children = [[キューピッド]], [[アエネアース]] | mount = | Greek_equivalent = [[アプロディーテー]] | festivals = [[ウェネラリア祭]], {{仮リンク|ウィナリア祭|en|Vinalia}} }} <!--[[File:Strabismo di Venere - Botticelli.jpg|thumb|right|180px|''[[ヴィーナスの誕生]]''<br />[[サンドロ・ボッティチェッリ]]<br />1482-1485年頃<br />[[ウフィツィ美術館]]所蔵]]--> <!--[[File:Aphrodite Anadyomene from Pompeii cropped.jpg|thumb|right|180px|[[ポンペイ]]の壁画]]--> {{Roman mythology}} '''ウェヌス'''([[古典ラテン語]]: '''{{lang|la|Venus}}''' - {{IPAc-en|ˈ|w|ɛ|.|n|ʊ|s}})は、[[ローマ神話]]の[[愛]]と[[美]]の[[女神]]。日本語では英語読み「'''ヴィーナス'''」({{IPAc-en|'|v|i|.|n|ə|s}})と呼ばれることが多い。 ==概要== 本来は囲まれた菜園を司る神であったが、後に[[ギリシア神話]]における[[アプロディーテー]]と同一視され、愛と美の女神と考えられるようになった。一般には半裸或いは全裸の美女の姿で表される。ウェヌスは固有の神話が残っておらず、ローマ神話でウェヌスに帰せられる神話は本来アプロディーテーのものである。 [[ウゥルカーヌス]]の妻だが、[[マールス]]、[[メルクリウス]]、[[アドーニス]]、[[アンキーセース]]たちとのロマンスが伝えられている。このうちのアンキセスとの間の子[[アイネイアース]]はローマ建国の祖にして、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の属する[[ユリウス氏族]]の祖とされた。ここからカエサルはウェヌスを祖神として、彼女を祀る為の壮麗な神殿を奉献したという。 また、カエサルの祖神として軍神ともされた。 ギリシアではアプロディーテーが[[金星]]を司るとされ、それに影響を受けて[[ラテン語]]でも金星をウェヌスと呼ぶ。ヨーロッパ諸語で金星をウェヌスに相当する名で呼ぶのはこのためである。また、ラテン語で[[金曜日]]は[[:la:dies Veneris|dies Veneris]](ウェヌスの日)であり、多くの[[ロマンス諸語]]でのこの[[曜日]]の名称はそれに由来する。 ウェヌス(ヴィーナス)は女性の美しさを表現する際の比喩として用いられたり、'''愛神'''の代名詞としても用いられる。近世以降は女性名にも使われるようにもなった。また、マールスが「戦争」「武勇」「男性」「火星」を象徴するのに対してウェヌスは「愛」「女性」「金星」の象徴として用いられることも多い。性別記号で女性は「'''♀'''」と表記されるが、本来はウェヌスを意味する記号である。 ==添え名== [[Image:1863 Alexandre Cabanel - The Birth of Venus.jpg|thumb|320px|[[アレクサンドル・カバネル]]『[[ヴィーナスの誕生 (カバネル)|ヴィーナスの誕生]]』([[1863年]])]] 他の主要なローマの神々と同じように、ウェヌスは女神の異なる側面や役割りを指し示すためのさまざまな[[形容語句|添え名]]があった。 ; ウェヌス・アキダリア(Venus Acidalia) : [[セルウィウス]]([[:en:Servius|Servius]])によれば<ref>[[:en:Virgil|Virgil]], ''[[:en:Aeneid|Aeneid]]'' i. 720</ref>、よくウェヌスが[[カリス|グラティア]]たちと沐浴したオルコメヌス近郊のアキダリウスの泉に由来する。他の人々はその名を[[ギリシア語]]の''acides''(άκιδες)、すなわち懸念または苦労と結びつける<ref>{{Citation | last = Schmitz | first = Leonhard | author-link = :en:Leonhard Schmitz | contribution = Acidalia | editor-last = Smith | editor-first = William | title = [[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]] | volume = 1 | pages = 12 | publisher = | place = Boston, MA | year = 1867 | contribution-url = http://www.ancientlibrary.com/smith-bio/0021.html }}</ref>。 ; ウェヌス・クロアキナ(Venus Cloacina, 浄化者ウェヌス) : ウェヌスと[[エトルリア]]の水の女神[[クロアキナ]]との習合で、おそらくは[[クロアカ・マクシマ]]([[:en:Cloaca Maxima|Cloaca Maxima]], ローマの下水道システム)の近くで目立っていたウェヌスの像に起因する。その像は[[ローマ人]]と[[サビニ人]]の間で和平が結ばれた場所に建てられた。 ; ウェヌス・エリュキナ(Venus Erycina, [[エリュクス (古代都市)|エリュクス]]のウェヌス、ウェヌス・エルキナ(Venus Erucina)とも呼ばれた) : 西[[シチリア]]のエリュクス山([[:en:Eryx (Sicily)|Mount Eryx]])を起源とした。彼女への神殿が[[カンピドリオ|カピトーリーヌスの丘]]とコッリーナ門の外とに建てられた。彼女は“不純な”愛を体現し、[[娼婦]]たちの守護女神だった。 ; ウェヌス・フェリクス(Venus Felix, 好意的なるウェヌス) : "''Venus Felix et Roma Aeterna''"(好意的なるウェヌスと永遠のローマ)に捧げられた[[ウェヌスとローマ神殿|神殿]]のために使われた添え名。この添え名はまた[[バチカン美術館]]の[[:en:Venus Felix (sculpture)|特定の彫刻]]にも使われる。 ; ウェヌス・ゲネトリークス(Venus Genetrix, 母なるウェヌス) : ローマの人々の祖先、母性と家庭生活の女神としての名称。彼女を敬った祝祭が9月26日に開催された。とりわけウェヌスはユリウス氏族の祖先とみなされたので、ユリウス・カエサルはローマにおいて彼女に神殿を捧げた。この名前はまた[[:en:Venus Genetrix (sculpture)|アプロディーテー及びウェヌスの像の一つの図像学的なタイプ]]に付随している。 [[ファイル:Capitoline Venus - Palazzo Nuovo - Musei Capitolini - Rome 2016.jpg|thumb|left|170px|カピトリーノのヴィーナス ([[カピトリーノ美術館]]、[[ローマ]])]] [[ファイル:The Forum of Caesar (built near the Forum Romanum in Rome in 46 BC) and the Temple of Venus Genetrix, Imperial Forums, Rome (21101482544).jpg|thumb|left|210px|[[カエサルのフォルム]]のウェヌス・ゲネトリークス神殿、ローマ]] ; [[尻の美しいウェヌス|ウェヌス・カッリピュゴス]](Venus Kallipygos, 綺麗なお尻のウェヌス) : [[シュラクサイ]]で崇拝された形態。 ; ウェヌス・リベルティナ(Venus Libertina, 解放女奴隷ウェヌス) : おそらく''lubentina''(“愉快な”または“情熱的な”を意味しているかもしれない)を''libertina''と間違えたローマ人による誤解から生じたウェヌスの添え名である。関連があるかもしれないのは、おそらく葬儀の女神[[リビティーナ]]と前述の''lubentina''との混同から生じ、リビティーナとウェヌスの融合を引き起こした添え名のウェヌス・リビティーナ(Venus Libitina)—またはLibentina, Libentia, Lubentina, Lubentini, Lubentiaとも呼ばれる—である。エスクイリヌスの丘の神殿がウェヌス・リビティーナに捧げられた。 ; ウェヌス・ムルキア(Venus Murcia, ミュルトゥスのウェヌス) : 女神をわずかしか知られていない神格ムルキアまたはムルティアと結びつけた添え名。ムルキアは[[ギンバイカ|ミュルトゥス]]の木と結びつけて考えられたが、他の資料では怠惰と無精の女神と呼ばれた。 ; ウェヌス・オブセクェンス(Venus Obsequens, いさぎよきウェヌスまたは寛大なるウェヌス) : [[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス (紀元前292年の執政官)|クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス]]によって第三次[[サムニウム戦争]]の間、紀元前3世紀初めに建立された神殿のための添え名。それは姦通で有罪判決を受けた女性たちからの罰金で建てられた。ローマにおける最も古いウェヌス神殿だったし、おそらくは[[キルクス・マクシムス]]近くの[[アヴェンティーノ|アウェンティヌスの丘]]の麓に位置した。その奉納式は8月19日で、[[ウィナリア・ルスティカ祭]]において祝われた。 ; ウェヌス・ウーラニアー(Venus Urania, 天のウェヌス) : バシリカ・フォン・ラムドーア([[:en:Basilius von Ramdohr|Basilius von Ramdohr]])の書物、ポンペオ・マルケージ([[:en:Pompeo Marchesi|Pompeo Marchesi]])のレリーフ、そして[[クリスティアン・グリーペンケール]](Christian Griepenkerl)の絵画のタイトルとして使われた添え名。 ; ウェヌス・ウェルティコルディア(Venus Verticordia, 心を変えるウェヌス) : 4月1日、悪徳からの保護者であるこの名のウェヌスを讃えて[[ウェネラリア祭]]が祝われた。ウェヌス・ウェルティコルディアの神殿は、3人の[[ウェスタの巫女]]たちの不貞の償いをするための[[シビュラの書]]の指示で、紀元前114年にローマで建設され、4月1日に除幕された。  ; ウェヌス・ウィクトリクス(Venus Victrix, 勝利のウェヌス) : ギリシア人が女神[[イシュタル]]を戦争の女神として東方から受け継いだ、武装したアプロディーテーの様相で、ウェヌスは[[スッラ]]にもカエサルにも勝利をもたらすことができた<ref>Thus [[:en:Walter Burkert|Walter Burkert]], in ''Homo Necans'' (1972) 1983:80, noting C. Koch on "Venus Victrix" in ''Realencyclopädie der klassischen Altertumswissenschaft'', '''8''' A860-64.</ref>。これは[[ポンペイウス]]が紀元前55年に、[[カンプス・マルティウス]](マールスの野)の彼の[[ポンペイウス劇場|劇場]]の上部に神殿を捧げたウェヌスだった。ウェヌス・ウィクトリクスへの社はカピトーリーヌスの丘にもあったし、彼女への祝祭が8月12日と10月9日に催された。彼女のための犠牲が年に一度、後者の日に捧げられた。[[新古典主義]]美術において、このタイトルは“男たちの心に対する勝利のウェヌス”の意味で、または[[パリスの審判]]の文脈でしばしば用いられた(たとえば、[[アントニオ・カノーヴァ|カノーヴァ]]による[[ポーリーヌ・ボナパルト]]の半裸の横たわる彫像である[[:en:Venus Victrix (Canova)|ウェヌス・ウィクトリクス]])。 ウェヌスのための他の重要な添え名は、ウェヌス・アミカ(Venus Amica, 友人としてのウェヌス)、ウェヌス・アルマタ(Venus Armata, 武装したウェヌス)、ウェヌス・カエレスティス(Venus Caelestis, 天のウェヌス)、そしてウェヌス・アウレア(Venus Aurea, 黄金のウェヌス)などであった。 == 芸術作品におけるウェヌス(ヴィーナス) == ===美術=== [[File:Jacopo Tintoretto - Venus, Mars, and Vulcan - WGA22664.jpg|thumb|upright=1.5|[[ティントレット]]による『[[ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス]]』。 ]] (以下の作品名は慣用にしたがい「ヴィーナス」と表記する。) * 『[[ミロのヴィーナス]]』 * 『[[ヴィーナスの誕生]]』([[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]) * 『[[ウルビーノのヴィーナス]]』([[ティツィアーノ]]) * 『[[鏡のヴィーナス]]』([[ディエゴ・ベラスケス]]) * 『[[ヴィーナスの誕生 (カバネル)|ヴィーナスの誕生]]』([[アレクサンドル・カバネル]]) ===文学=== * 『[[アエネイス]]』([[ウェルギリウス]]) * 『[[詩集(ホラティウス)|詩集]]』([[ホラティウス]]) * 『[[変身物語]]』([[オウィディウス]]) * 『[[黄金のろば]]』([[アプレイウス]]) ===演劇=== * 牧歌劇『[[アミンタ]]』([[トルクァート・タッソ]]) * オペラ『[[タンホイザー]]』のヴェーヌス([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]) == ギャラリー == <gallery> File:Venus von Willendorf 01.jpg|[[ヴィレンドルフのヴィーナス]](オーストリア) File:Venus de Lespugue (replica).jpg|[[レスピューグのヴィーナス]](フランス) File:Venus of Brassempouy.jpg|ブラッサンプイのヴィーナス(フランス) File:Vestonicka venuse edit.jpg|モラヴィアのヴィーナス(チェコ共和国) File:VenusHohlefels2.jpg|[[ホーレ・フェルスのヴィーナス]](ドイツ) File:Venus of Tan-Tan.jpg|タンタンのヴィーナス(モロッコ) File:Dogū of Jōmon Venus.JPG|[[縄文のビーナス]](日本、長野県) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{commons|Aphrodite|アプロディーテー}} {{commonscat|Venus (dea)|ウェヌス}} * [[ウェヌス・アナデュオメネ]] * [[ヴィレンドルフのヴィーナス]] * [[縄文のビーナス]] * [[アッピアデス]] {{ローマ神話}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:うえぬす}} [[Category:ローマ神話の神]] [[Category:愛の神]] [[Category:美の神]] [[Category:豊穣神]] [[Category:金星神]] [[Category:アプロディーテー]] [[Category:女神]] [[Category:性的シンボル]]
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ジュピター
ジュピター (Jupiter, jupiter /ˈdʒuːpətər/) は、ローマ神話に登場する気象現象を司る神ユーピテルの英語名。 イギリス海軍の艦艇
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ジュピター は、ローマ神話に登場する気象現象を司る神ユーピテルの英語名。 木星(太陽系の惑星の一つ)の英語名。 ジュピター (ゲーム会社) - ゲームソフトやマジッククラフトの企画・開発等を行う会社。 ジュピターコーヒー - 31都道府県でコーヒー豆やコーヒー関連商品、輸入食材、製菓材等を販売。 ジュピターテレコム - 日本のケーブルテレビ運営会社。 ジュピターTV - ジュピターテレコムのメディア事業部門(ケーブルテレビ・CS放送などへの番組供給統括)。 ジュピター (楽器メーカー) - 台湾の楽器メーカー。 ジュピター (芸能事務所) - 日本の芸能事務所。 ジュピター (映画) - 2015年のアメリカ映画。監督はウォシャウスキー姉弟。 Jupiter (バンド) - 日本のヴィジュアル系ロックバンド。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第41番の通称。 ホルストの組曲『惑星』の第4曲。日本語訳では『木星』。同曲のアレンジとして以下の楽曲が存在する。 I vow to thee, my country(我は汝に誓う、我が祖国よ) - イギリスの愛国歌、またイングランド国教会の聖歌。 Jupiter (平原綾香の曲) - 平原綾香のシングル曲。 ジュピター - 本田美奈子.のアルバムAVE MARIAに収録されている曲。 A little bird told me - 遊佐未森が1999年に発表したアルバム『庭』に収録された、遊佐自身の詩による曲。 The Voice 〜“Jupiter” English Version〜 - エリック・マーティンのアルバム「MR.VOCALIST」に収録されている曲。 With This Love (Jupiter) - Joy Enriquez (エンリケス・ジョイ)が2000年に発売したシングル曲。 ジュピター - スイッチが制作した東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅向けの発車メロディ。A~Gの7バージョンが存在。 JUPITER (BUCK-TICKの曲) - BUCK-TICKのシングル曲。 Jupiter - インディーズ・メロコアバンドdustboxの曲。 Jupiter〜平原綾香ベスト〜 - 平原綾香の2008年のアルバム。 Jupiter - BUMP OF CHICKENの2002年のアルバム。 Jupiter - Cave Inの2000年のアルバム。 Jupiter (甲田益也子のアルバム) - 甲田益也子の1998年のアルバム。 ジュピター (フロリダ州) - アメリカ合衆国フロリダ州南東部、マイアミ北郊のパームビーチ郡内にある町。 ジュピター - アメリカ海軍の給炭艦。後に改造されて米海軍最初の空母であるラングレーとなる。 ジュピターC - アメリカ陸軍のロケット。後にジュノーIと改名され、人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに使われる。 ジュピター (ミサイル) - アメリカ空軍の中距離弾道ミサイル。 イギリス海軍の艦艇 ジュピター (戦艦) - マジェスティック級戦艦。 ジュピター (駆逐艦) - J級駆逐艦。 ジュピター (フリゲート) - リアンダー級フリゲート。 三菱ふそう・ジュピター - 三菱自動車が製造していた中型トラック。 ブリストル ジュピター - ブリストル飛行機が戦間期に製造してベストセラーとなった航空機用レシプロエンジン。 Jupiter - 電子メールソフト(MUA)の一つ。Webメールのやりとりに特化している。 特撮テレビドラマ『電脳警察サイバーコップ』に登場する、主人公・武田真也が強化スーツ「ジュピタービット」を着用した状態の呼称。 ゲーム『ポケットモンスター ダイヤモンド・パール』の登場人物。ポケットモンスター ダイヤモンド・パールの登場人物#ギンガ団を参照。 セーラージュピター - 『美少女戦士セーラームーン』に登場する木野まことがセーラー戦士に変身した時の名称。 『THE IDOLM@STER』シリーズに登場する男性アイドルユニットの名前。 漫画『雷星伝ジュピターO.A.』の主人公・雪照透が変身するヒーロー、及び透に力を貸している存在。 ジュピター (機関車) - アメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道の完成式典にセントラル・パシフィック鉄道が用意した機関車。レプリカが現存する。 ジュピター号 - 秋北バスが運行する、池袋・大宮~大館・能代の夜行高速バスの愛称。運行開始当初は国際興業バスとの共同運行だった。 ジュピター (ニホンザル) - 大分県大分市にある高崎山自然動物園のαオス(ボス猿)。 ジュピター (コースター) - 城島高原パークにあるローラーコースター。
'''ジュピター''' (Jupiter, jupiter {{ipa|ˈdʒuːpətər}}) は、[[ローマ神話]]に登場する気象現象を司る神[[ユーピテル]]の英語名。 ; 天文学 * [[木星]]([[太陽系]]の[[惑星]]の一つ)の英語名。 ; 企業 * [[ジュピター (ゲーム会社)]] - ゲームソフトや[[マジッククラフト]]の企画・開発等を行う会社。 * [[ジュピターコーヒー]] - 31都道府県で[[コーヒー豆]]や[[コーヒー]]関連商品、輸入食材、製菓材等を販売。 * [[ジュピターテレコム]] - 日本の[[ケーブルテレビ]]運営会社。 ** [[ジュピターTV]] - ジュピターテレコムのメディア事業部門([[ケーブルテレビ]]・[[CS放送]]などへの番組供給統括)。 * {{仮リンク|ジュピター (楽器メーカー)|en|Jupiter_Band_Instruments}} [http://jupitermusic.com/international/] - [[台湾]]の楽器メーカー。 * [[ジュピター (芸能事務所)]] - [[日本]]の[[芸能事務所]]。{{要出典|date=2022年1月|title=現存が確認できない}} ; 映画 * [[ジュピター (映画)]] - 2015年のアメリカ映画。監督は[[ウォシャウスキー姉弟]]。 ; バンド * [[Jupiter (バンド)]] - 日本の[[ヴィジュアル系]][[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]。 ; 楽曲 *[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番]]の[[通称]]。 * [[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]の組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』の第4曲。日本語訳では『木星』。同曲のアレンジとして以下の楽曲が存在する。 ** I vow to thee, my country([[我は汝に誓う、我が祖国よ]]) - イギリスの愛国歌、またイングランド国教会の聖歌。 ** [[Jupiter (平原綾香の曲)]] - 平原綾香のシングル曲。 ** ジュピター - [[本田美奈子.]]のアルバム[[AVE MARIA (本田美奈子のアルバム)|AVE MARIA]]に収録されている曲([[惑星 (組曲)#「木星」の第4主題|惑星 (組曲)]]を参照)。 ** A little bird told me - [[遊佐未森]]が1999年に発表したアルバム『庭』に収録された、遊佐自身の詩による曲。 ** The Voice 〜“Jupiter” English Version〜 - [[エリック・マーティン]]のアルバム「MR.VOCALIST」に収録されている曲。 ** With This Love (Jupiter) - Joy Enriquez ([[エンリケス・ジョイ]])が2000年に発売したシングル曲。 ** ジュピター - [[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]が制作した[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]向けの[[発車メロディ]]。A~Gの7バージョンが存在。 * [[JUPITER (BUCK-TICKの曲)]] - [[BUCK-TICK]]のシングル曲。 *Jupiter - インディーズ・メロコアバンド[[dustbox]]の曲。 ; アルバム * [[Jupiter〜平原綾香ベスト〜]] - [[平原綾香]]の2008年のアルバム。 * [[Jupiter (BUMP OF CHICKENのアルバム)]] - [[BUMP OF CHICKEN]]の2002年のアルバム。 * {{仮リンク|Jupiter (Cave Inのアルバム)|en|Jupiter (Cave In album)}} - {{仮リンク|Cave In|en|Cave In}}の2000年のアルバム。 * [[Jupiter (甲田益也子のアルバム)]] - [[甲田益也子]]の1998年のアルバム。 ; 地名 * [[ジュピター (フロリダ州)]] - [[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]南東部、[[マイアミ]]北郊の[[パームビーチ郡 (フロリダ州)|パームビーチ郡]]内にある町。 ; 軍事 * ジュピター - [[アメリカ海軍]]の給炭艦(USS Jupiter AC-3)。後に改造されて米海軍最初の[[航空母艦|空母]]である[[ラングレー (CV-1)|ラングレー]]となる。 * ジュピターC - [[アメリカ陸軍]]のロケット。後にジュノーIと改名され、人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに使われる。 * [[ジュピター (ミサイル)]] - [[アメリカ空軍]]の[[ミサイル|中距離弾道ミサイル]](PGM-19 Jupiter)。 イギリス海軍の艦艇 *[[ジュピター (戦艦)]] - マジェスティック級戦艦。 *[[ジュピター (駆逐艦)]] - J級駆逐艦。 *[[ジュピター (フリゲート)]] - リアンダー級フリゲート。 ; 製品 * [[三菱ふそう・ジュピター]] - 三菱自動車が製造していた中型トラック。 * [[ブリストル ジュピター]] - [[ブリストル飛行機]]が[[戦間期]]に製造してベストセラーとなった[[航空機]]用[[レシプロエンジン]]。 * Jupiter - [[電子メール]]ソフト([[電子メールクライアント|MUA]])の一つ。[[Webメール]]のやりとりに特化している。 ; 架空のキャラクター * [[特撮]][[テレビドラマ]]『[[電脳警察サイバーコップ]]』に登場する、主人公・武田真也が強化スーツ「ジュピタービット」を着用した状態の呼称。 * ゲーム『[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パール]]』の登場人物。[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パールの登場人物#ギンガ団]]を参照。 * [[木野まこと#セーラージュピター|セーラージュピター]] - 『[[美少女戦士セーラームーン]]』に登場する[[木野まこと]]がセーラー戦士に変身した時の名称。 * [[アイドルマスターシリーズ|『THE IDOLM@STER』シリーズ]]に登場する男性アイドルユニットの名前。 * 漫画『[[雷星伝ジュピターO.A.]]』の主人公・雪照透が変身するヒーロー、及び透に力を貸している存在。 ; その他 * {{仮リンク|ジュピター (機関車)|en|Jupiter (locomotive)}} - アメリカ合衆国で[[最初の大陸横断鉄道]]の完成式典に[[セントラル・パシフィック鉄道]]が用意した機関車。レプリカが現存する。 * [[ジュピター号]] - [[秋北バス]]が運行する、池袋・大宮~大館・能代の夜行[[高速バス]]の愛称。運行開始当初は[[国際興業バス]]との共同運行だった。 * [[ジュピター (ニホンザル)]] - [[大分県]][[大分市]]にある[[高崎山自然動物園]]のαオス(ボス猿)。 * [[ジュピター (コースター)]] - [[城島高原パーク]]にある[[ローラーコースター]]。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:しゆひたあ}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の作品]]
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ジュノー
ジュノー
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ジュノー
'''ジュノー''' == Juno == * [[ローマ神話]]の女神[[ユーノー]]の英語名。 * [[ジュノー (小惑星)]] - [[小惑星帯]]にある[[小惑星]]。ユーノーにちなむ。 * [[ジュノー・テンプル]] - [[イギリス]]の女優。 * イギリス海軍の艦艇。 ** [[ジュノー (防護巡洋艦)]] - エクリプス級防護巡洋艦。 ** [[ジュノー (駆逐艦)]] - [[J級駆逐艦]]。 * [[ジュノーI]]、[[ジュノーII]] - アメリカ合衆国が開発した初期の[[人工衛星]]打ち上げ[[ロケット]]。それぞれ[[ジュピターC]]、[[ジュピター (ミサイル)]]を基に開発された。 * [[ジュノー (探査機)]] - [[アメリカ航空宇宙局]]の木星探査機。 * [[ジュノー賞]] - [[カナダ]]の音楽賞。 * [[JUNO/ジュノ]] - 2007年公開のアメリカ・カナダ映画。 * JUNOシリーズ - [[ローランド|ローランド株式会社]]のシンセサイザー・キーボードのシリーズブランド名。 == Juneau == * [[ジュノー (アラスカ州)]] - [[アメリカ合衆国]][[アラスカ州]]の州都。 * アメリカ海軍の艦艇。上記の都市にちなむ。 ** [[ジュノー (CL-52)]] - [[アトランタ級軽巡洋艦]]。 ** [[ジュノー (CL-119)]] - アトランタ級軽巡洋艦。 ** [[ジュノー (ドック型輸送揚陸艦)]] - [[クリーヴランド級ドック型輸送揚陸艦]]。 == その他 == * [[ジャン=アンドシュ・ジュノー]] (Jean-Andoche Junot) - [[フランス]]の将軍。 * [[マルセル・ジュノー]] (Marcel Junod) - [[スイス]]の医師。 * [[ジュノー (アニメ映画)]] - [[2010年]]公開の[[日本]]の[[アニメ映画]]。マルセル・ジュノーの生涯を描く。 ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:しゆのう}} [[Category:同名の船]] [[Category:イギリス海軍の同名艦]] [[Category:フランス語の姓]]
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ダイアナ
ダイアナ (Diana [daɪˈænə]) は、ラテン語ディアナの英語読み。 以下はイギリス海軍の艦艇。 英語の女性名。異形にダイアン(Diann, Diane, Dianne)がある。多くの言語のディアナ(Diana)、フランス語のディアヌ(Diane, Dianne)などにあたる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイアナ (Diana [daɪˈænə]) は、ラテン語ディアナの英語読み。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "以下はイギリス海軍の艦艇。", "title": "艦名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語の女性名。異形にダイアン(Diann, Diane, Dianne)がある。多くの言語のディアナ(Diana)、フランス語のディアヌ(Diane, Dianne)などにあたる。", "title": "人物" } ]
ダイアナ は、ラテン語ディアナの英語読み。
__NOTOC__ '''ダイアナ''' ({{en|Diana}} {{IPA-en|daɪˈænə|}}) は、[[ラテン語]]'''ディアナ'''の[[英語]]読み。 == 企業・商品 == * [[ダイアナ (靴販売業者)]] - 靴・バッグを販売している企業。ブランド名は「DIANA」。 * [[ダイアナ (企業)]] - 女性用補整下着、[[化粧品]]を主に販売する企業。 * [[ダイアナ (アダルトビデオ)]] - 日本の[[アダルトビデオメーカー]]。 * [[ダイアナカメラ]] - 香港のトイカメラ。 * [[大穴 (芸能事務所)]] - 読みは「ダイアナ」。 == 地名 == * [[ダイアナ (アメリカ合衆国)]]({{interlang|en|Diana, New York|Diana}}) - ニューヨーク州[[ルイス郡 (ニューヨーク州)|ルイス郡]]の町。 == 作品名 == * [[ダイアナ (ポール・アンカの曲)]] - [[ポール・アンカ]]の1957年の歌。全世界でのシングル売上は1000万枚に達する。日本では[[山下敬二郎]]のカバーも大ヒットした。 * [[ダイアナ (ブライアン・アダムスの曲)]] - [[ブライアン・アダムス]]の1984年の歌。1985年にシングルB面としてリリースされた。 * ''{{interlang|en|Diana (album)|Diana}}'' - [[ダイアナ・ロス]]の1980年のアルバム。 * ''{{interlang|en|Diana (TV series)|Diana}} - 1984年のイギリスのテレビドラマ。 * [[ダイアナ (映画)]] {{enlink|Diana (2013 film)|Diana|i=on}} - 2013年公開のイギリス映画。 == 艦名 == 以下は[[イギリス海軍]]の艦艇。 *[[ダイアナ (防護巡洋艦)]] - エクリプス級防護巡洋艦。 *[[ダイアナ (駆逐艦・初代)]] - D級駆逐艦。 *[[ダイアナ (駆逐艦・2代)]] - デアリング級駆逐艦。 == 人物 == 英語の女性名。異形に[[ダイアン (曖昧さ回避)|ダイアン]]({{en|Diann, Diane, Dianne}})がある。多くの言語の[[ディアナ]]({{la|Diana}})、[[フランス語]]の[[ディアヌ]]({{fr|Diane, Dianne}})などにあたる。 * [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)]] - イギリス国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]の即位前に離婚した最初の妃 (1961–1997)。。 * ダイアナ - [[ローマ神話]]の[[月]]の[[女神]]。[[ギリシア神話]]の[[アルテミス]]と同一視される。{{main|[[ディアーナ]]}} * [[ダイアナ・ガーネット]] - アメリカ出身の日本の歌手。 * [[ダイアナ・ヴリーランド]] - アメリカの雑誌編集者 (1903–1989)。 * [[ダイアナ・ドース]] - イギリスの映画女優 (1931–1984)。 * [[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]] - イギリスのファンタジー作家 (1934–2011)。『[[ハウルの動く城]]』原作で知られる。 * [[ダイアナ・ドイチュ]] - イギリスの認知心理学者 (1938–)。 * [[ダイアナ・ラッセル]] - 南アフリカのフェミニスト活動家 (1938–)。 * [[ダイアナ・リグ]] - イギリスの女優 (1938–)。 * [[ダイアナ・ロス]] - アメリカのR&B・ポップ歌手 (1944–)。 * [[ダイアナ・マーセラス]] - アメリカのファンタジー作家 (1951–)。 * [[ダイアナ・スカーウィッド]] - アメリカの女優 (1955–)。 * [[ダイアナ・ゴールデン]] - アメリカの障害者スキー選手 (1963–2001)。 * [[ダイアナ・クラール]] - カナダ出身のジャズ歌手 (1964–)。夫は[[エルヴィス・コステロ]]。 * [[ダイアナ・ローレン]] - アメリカのポルノ女優 (1965–)。 * [[ダイアナ・ヴァン・ラー]] - オランダ出身の元ヌードモデル (1969–)。 * [[ダイアナ・キング]] - ジャマイカ出身のレゲエ・R&B歌手 (1970–)。 * [[ダイアナ・エクストラバガンザ]] - 日本の女装家 (1975–)。 * [[ダイアナ・トーラジ]] - アメリカのバスケットボール選手 (1982–)。 * [[ダイアナ湯川]] - 日本出身のヴァイオリニスト (1985–)。 * [[ディアナ・アグロン]] - アメリカの女優 (1986–)。 * [[ダイアナ・メンドーサ]] - ベネズエラのファッションモデル (1986–)。 * [[ダイアナチアキ]] - 日本のファッションモデル (1987–)。 * [[斎藤アリーナ|斎藤安里奈ダイアナ]] - 日本のタレント (2000–)。 === 架空の人物 === * {{interlang|en|Diana Prince}} - [[DCコミックス]]刊行のアメリカンコミック『[[ワンダーウーマン]]』の主人公(ワンダーウーマン)。『[[ジャスティス・リーグ]]』にも登場する。{{main2|『[[ジャスティス・リーグ (アニメ)]]』も}} * 漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』に[[美少女戦士セーラームーンの登場人物#お供の猫たち|登場する猫]]。 * ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』の登場キャラクター。{{see|[[クーラ・ダイアモンド#ダイアナ]]}} * 特撮番組『[[愛の戦士レインボーマン]]』の登場人物。 * 特撮番組『[[時空戦士スピルバン]]』の登場人物。 * [[サンリオ]]『[[ジュエルペット]]』に登場する猫。 * テレビドラマ『[[V (テレビドラマ)|V]]』に登場する宇宙人。 * アニメ『[[メイプルタウン物語]]』の登場キャラクター。 * [[小説]]『[[赤毛のアン]]』の登場人物。 == その他 == * [[DIANA (鉄道)]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アルテミス (曖昧さ回避)]] * [[ディアナ]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}} {{DEFAULTSORT:たいあな}} [[Category:英語の女性名]] [[Category:英語の地名]] [[Category:イギリス海軍の同名艦]] [[Category:同名の作品]]
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ローマ神話
ローマ神話()とは、古代ローマで伝えられた神話である。そのうちローマの建国に関する部分について、歴史的事実を反映したものとして解釈した場合の詳細は王政ローマを参照のこと。 ローマ人も、ほかのインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)と同じく、先史時代から神話を語り継いできたと考えられている。しかし、ローマ人たちは、彼らの神話を巧妙に「歴史」や「祭儀」へと転換していったとしてこの過程をあきらかにしたのが、ジョルジュ・デュメジルである。彼はローマ初期の歴史や祭儀などとほかの印欧神話を比較検討し、ローマ人のあいだにも他の印欧語族と共通する神話があることを立証し、三機能体系の適用や、水の神の神話、やる気のない曙の女神の神話などいくつかの比較神話学的再構を主張した。デュメジルの主張のなかでとくに論争を呼んだのは、ロームルスもレムスもヌマ・ポンピリウスも、そしてサビニ人でさえ、純粋な歴史上の存在ではなく、神話の中の存在が歴史に読み替えられたか、または歴史的な存在に当てはめられたという説である。デュメジルは膨大な著作を著し、自説を裏付けるべく精力的に活動した。しかし、近年の研究の成果によって、伝説とされていたことの一部が史実と証明されており、そのため「神話の歴史化」説が疑問視されるのは不可避である。古代史研究者のあいだでは、デュメジルの説を無視するか、否定する者が多い。ただし、ギリシア神話の輸入以前からローマに独自の神話があったことは間違いない。 ローマ人は、紀元前6世紀から ギリシアの影響を受けて、ローマ古来の神々をギリシア神話の神々と同一視する、いわゆる「ギリシア語への翻訳(英語版)」が行われた。その結果、下記の「主な神々」の欄に記したように、ローマ固有の神に対応するギリシアの神が決まっていったのである。さらに、ギリシア神話の物語を積極的にローマ神話へ取り入れたため、ローマ神話はギリシア神話と密接な関係を持つようになった。 紀元前3世紀末、クィントゥス・ファビウス・ピクトルが初めてギリシア語で詳細なローマの起源に関する物語『年代記』を書いた。彼以降、ローマの創建者はロームルスとされる。 アウグストゥスの時代になると、ウェルギリウスやオウィディウスらにより、ローマ神話は文学にまで昇華した。 ローマ神話の神名は、近代西洋諸語の天体名・曜日名・月名などに広くとりいれられている。 日本語では、英語発音をカタカナ表記にしたものが多く使われるため、カッコ内に一般的な他言語(主に英語)由来の呼称を併記。「...に相当」とあるのは、ギリシア神話との間で同一視されている神(「同一」「同源」という意味ではない)。 ディー・コンセンテスを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ローマ神話()とは、古代ローマで伝えられた神話である。そのうちローマの建国に関する部分について、歴史的事実を反映したものとして解釈した場合の詳細は王政ローマを参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ローマ人も、ほかのインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)と同じく、先史時代から神話を語り継いできたと考えられている。しかし、ローマ人たちは、彼らの神話を巧妙に「歴史」や「祭儀」へと転換していったとしてこの過程をあきらかにしたのが、ジョルジュ・デュメジルである。彼はローマ初期の歴史や祭儀などとほかの印欧神話を比較検討し、ローマ人のあいだにも他の印欧語族と共通する神話があることを立証し、三機能体系の適用や、水の神の神話、やる気のない曙の女神の神話などいくつかの比較神話学的再構を主張した。デュメジルの主張のなかでとくに論争を呼んだのは、ロームルスもレムスもヌマ・ポンピリウスも、そしてサビニ人でさえ、純粋な歴史上の存在ではなく、神話の中の存在が歴史に読み替えられたか、または歴史的な存在に当てはめられたという説である。デュメジルは膨大な著作を著し、自説を裏付けるべく精力的に活動した。しかし、近年の研究の成果によって、伝説とされていたことの一部が史実と証明されており、そのため「神話の歴史化」説が疑問視されるのは不可避である。古代史研究者のあいだでは、デュメジルの説を無視するか、否定する者が多い。ただし、ギリシア神話の輸入以前からローマに独自の神話があったことは間違いない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ローマ人は、紀元前6世紀から ギリシアの影響を受けて、ローマ古来の神々をギリシア神話の神々と同一視する、いわゆる「ギリシア語への翻訳(英語版)」が行われた。その結果、下記の「主な神々」の欄に記したように、ローマ固有の神に対応するギリシアの神が決まっていったのである。さらに、ギリシア神話の物語を積極的にローマ神話へ取り入れたため、ローマ神話はギリシア神話と密接な関係を持つようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "紀元前3世紀末、クィントゥス・ファビウス・ピクトルが初めてギリシア語で詳細なローマの起源に関する物語『年代記』を書いた。彼以降、ローマの創建者はロームルスとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アウグストゥスの時代になると、ウェルギリウスやオウィディウスらにより、ローマ神話は文学にまで昇華した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ローマ神話の神名は、近代西洋諸語の天体名・曜日名・月名などに広くとりいれられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本語では、英語発音をカタカナ表記にしたものが多く使われるため、カッコ内に一般的な他言語(主に英語)由来の呼称を併記。「...に相当」とあるのは、ギリシア神話との間で同一視されている神(「同一」「同源」という意味ではない)。", "title": "主な神々" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ディー・コンセンテスを参照。", "title": "主な神々" } ]
ローマ神話とは、古代ローマで伝えられた神話である。そのうちローマの建国に関する部分について、歴史的事実を反映したものとして解釈した場合の詳細は王政ローマを参照のこと。
{{出典の明記|date=2016年7月}} {{Roman mythology}} {{読み仮名|'''ローマ神話'''|ローマしんわ}}とは、[[古代ローマ]]で伝えられた[[神話]]である。そのうちローマの建国に関する部分について、歴史的事実を反映したものとして解釈した場合の詳細は[[王政ローマ]]を参照のこと。 == 概要 == ローマ人も、ほかの[[インド・ヨーロッパ語族]](印欧語族)と同じく、先史時代から神話を語り継いできたと考えられている。しかし、ローマ人たちは、彼らの神話を巧妙に「歴史」や「祭儀」へと転換していったとしてこの過程をあきらかにしたのが、[[ジョルジュ・デュメジル]]である。彼はローマ初期の歴史や祭儀などとほかの印欧神話を比較検討し、ローマ人のあいだにも他の印欧語族と共通する神話があることを立証し、三機能体系の適用や、水の神の神話、やる気のない曙の女神の神話などいくつかの比較神話学的再構を主張した。デュメジルの主張のなかでとくに論争を呼んだのは、[[ロームルス]]も[[レムス]]も[[ヌマ・ポンピリウス]]も、そして[[サビニ人]]でさえ、純粋な歴史上の存在ではなく、神話の中の存在が歴史に読み替えられたか、または歴史的な存在に当てはめられたという説である。デュメジルは膨大な著作を著し、自説を裏付けるべく精力的に活動した。しかし、近年の研究の成果によって、伝説とされていたことの一部が史実と証明されており、そのため「神話の歴史化」説が疑問視されるのは不可避である。{{誰範囲|date=2016年7月|古代史研究者}}のあいだでは、デュメジルの説を無視するか、否定する者が多い。ただし、{{要出典範囲|ギリシア神話の輸入以前からローマに独自の神話があったことは間違いない|date=2016年7月}}。 ローマ人は、紀元前6世紀から [[ギリシャ|ギリシア]]の影響を受けて、ローマ古来の神々を[[ギリシア神話]]の神々と同一視する、いわゆる「{{仮リンク|ギリシア語への翻訳|en|Interpretatio graeca|explicit=1}}」が行われた。その結果、下記の「主な神々」の欄に記したように、ローマ固有の神に対応するギリシアの神が決まっていったのである。さらに、ギリシア神話の物語を積極的にローマ神話へ取り入れたため、ローマ神話はギリシア神話と密接な関係を持つようになった。 紀元前3世紀末、[[クィントゥス・ファビウス・ピクトル]]が初めてギリシア語で詳細なローマの起源に関する物語『年代記』を書いた。彼以降、ローマの創建者はロームルスとされる。 [[アウグストゥス]]の時代になると、[[ウェルギリウス]]や[[オウィディウス]]らにより、ローマ神話は文学にまで昇華した。 ローマ神話の神名は、近代西洋諸語の[[天体]]名・[[曜日]]名・[[月 (暦)|月]]名などに広くとりいれられている。 == 主な文学 == * 『[[変身物語]]』(オウィディウス) * 『[[アエネーイス]]』(ウェルギリウス) == 主な神々 == 日本語では、英語発音をカタカナ表記にしたものが多く使われるため、カッコ内に一般的な他言語(主に英語)由来の呼称を併記。「...に相当」とあるのは、ギリシア神話との間で'''同一視'''されている神(「同一」「同源」という意味ではない)。 <!--wikitableにした方が良いかも?--> === オリュンポス十二神相当 === [[ディー・コンセンテス]]を参照。 * [[ユーピテル]] (ユピテル、英:ジュピター) - [[ゼウス]]に相当 * [[ユーノー]] (ユノ、英:ジュノー、仏:ジュノン) - [[ヘーラー]]に相当 * [[ミネルウァ]] (ミネルヴァ、ミネルバ<!--英語由来ではない-->) - [[アテーナー]]に相当 * アポロー (希:[[アポローン]]、英:アポロ) - ギリシア神話から輸入 * [[マールス]] (マルス、英:マーズ、マース) - [[アレース]]に相当 * [[ウェヌス]] (英:ヴィーナス、ビーナス、伊:ヴェーネレ、露:ヴェネラ) - [[アプロディーテー]]に相当 * [[メルクリウス]] (英:マーキュリー、仏:メルキュール) - [[ヘルメース]]に相当 * [[ディアーナ]] (ディアナ、英:ダイアナ) - [[アルテミス]]に相当 * [[ネプトゥーヌス]] (ネプトゥヌス、英:ネプチューン) - [[ポセイドーン]]に相当 * [[ケレース]](ケレス、仏:セレス) - [[デーメーテール]]に相当 * [[ウゥルカーヌス]] (ウルカヌス、英:ヴァルカン、バルカン) - [[ヘーパイストス]]に相当 * [[ウェスタ]] (英:ヴェスタ、ベスタ) - [[ヘスティアー]]に相当 === その他 === * [[ユースティティア]](英:ジャスティス) * [[ヤーヌス]](英:ジェイナス) * [[ウーラノス|ウーラヌス]](カエルス、英:ユーラナス、カイルス、希:ウーラノス) - ギリシア神話から輸入 * [[サートゥルヌス]](英:サターン) - [[クロノス]]に相当 * [[クピードー]](英:キューピッド) - [[エロース]]に相当 * [[アウローラ]](英:オーロラ) - [[エーオース]]に相当 * [[バックス (ローマ神話)|バックス]](英:バッカス、希:バッコス) - ディオニュソスに相当 * [[プルートー]](希:プルートーン) - ハーデスに相当 * [[フォルトゥーナ]](英:フォテューナ) - [[テュケー]]に相当 * [[スアデラ]] - [[ペイトー]]に相当 * [[プロセルピナ]] - ペルセポネーに相当 == 主な英雄 == *[[アイネイアース|アエネーアース]](アエネアス、ギリシア神話のアイネイアス) *[[レムス]] *[[ロームルス]](ロムルス) == 参考文献 == {{commonscat|Roman mythology}} * [[丹羽隆子]]『ローマ神話 西欧文化の源流から』大修館書店 * アレクサンドル・グランダッジ『ローマの起源 神話と伝承、そして考古学』北野徹訳、白水社〈文庫クセジュ〉 * [[松田治]]『ローマ神話の発生』現代教養文庫 ** 改訂版『ローマ建国伝説 ロムルスとレムスの物語』講談社学術文庫 == 関連項目 == * [[オリュンポス十二神]] * [[ギリシア神話の神々の系譜]] * [[痴愚神礼讃|モリア]] ‐ [[痴愚神礼讃]]に出てくる、痴愚を司る女神。 * [[ギリシア神話]] * [[ローマの建国神話]] * [[エジプト神話]] * [[カトリック教会]]([[キリスト教]]) * [[ローマ哲学]] {{ローマ神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろおましんわ}} [[Category:ローマ神話|*]] [[Category:ヨーロッパの神話]]
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ウラヌス
ウラヌス
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ウラヌス ローマ神話の神で、ギリシア神話のウーラノスに相当する。 天王星のラテン語名、英語名。古代ギリシア語 ουρανόςのラテン語形。 『美少女戦士セーラームーン』のセーラーウラヌス⇒天王はるか 横山光輝の漫画『マーズ』に登場する六神体の一つ。 『六神合体ゴッドマーズ』に登場する六神ロボの一つ。 漫画『ONE PIECE』に登場する古代兵器の一つ。 ウラヌス (競技馬) - 1932年ロサンゼルスオリンピックで、馬術大賞典障害飛越競技に優勝した西竹一の乗馬の名。 ウラヌス作戦 - 第二次世界大戦中のソビエト連邦による作戦名。
'''ウラヌス''' * [[ローマ神話]]の[[神]]で、[[ギリシア神話]]の[[ウーラノス]]に相当する。 ** [[天王星]]の[[ラテン語]]名、英語名。[[古代ギリシア語]] {{Lang|el|ουρανός}}(ūranos ウーラノス)のラテン語形。 ** 『[[美少女戦士セーラームーン]]』のセーラーウラヌス⇒[[天王はるか]] ** [[横山光輝]]の漫画『[[マーズ (漫画)|マーズ]]』に登場する六神体の一つ。 ** 『[[六神合体ゴッドマーズ]]』に登場する六神ロボの一つ。 ** 漫画『[[ONE PIECE]]』に登場する古代兵器の一つ。 ** [[ウラヌス (競技馬)]] - [[1932年ロサンゼルスオリンピック]]で、馬術大賞典障害飛越競技に優勝した[[西竹一]]の乗馬の名。 ** [[ウラヌス作戦]] - [[第二次世界大戦]]中の[[ソビエト連邦]]による作戦名。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:うらぬす}}
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ミネルウァ (曖昧さ回避)
ミネルウァ、ミネルヴァまたはミネルバ(Minerva)とは、
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ミネルウァ、ミネルヴァまたはミネルバ(Minerva)とは、 ミネルウァ - ローマ神話の知恵と工芸の女神。 ミネルバ (小惑星) - 小惑星。 ミネルバ (ローバー) - はやぶさ搭載機器の1つ。 ミネルヴァ (巡洋艦) - イタリア海軍のパルテノーペ級巡洋艦。 ミナーヴァ (防護巡洋艦) - イギリス海軍のエクリプス級防護巡洋艦。 ミネルヴァ (自動車) - ベルギーにかつて存在した高級車メーカー。操業期間は1902年から1938年まで。 ミネルバ (インターネットセレブリティ) - インターネットでのウォン急落の予測などの書き込みにより2009年1月に大韓民国で逮捕されたユーザー。 ミネルバ (企業) - 人材採用、人材育成のコンサルティングを行う企業。 ミネルヴァ級コルベット - イタリア海軍のコルベット。 ミネルバ共和国 - マイケル・オリバーが建国しようとした国。現在はトンガ領。 ミネルヴァ書房 - 日本の学術出版社。 Minerva - 日本女子プロ将棋協会の公式ファンクラブ。 こども英会話のミネルヴァ。日本の英会話教室。 ミネルヴァ・ホールディングス - ナチュラムの旧社名。大阪市の釣り道具・アウトドア用具の通信販売を行う企業。 富士ゼロックスミネルヴァAFC - Xリーグ(アメリカンフットボール)のクラブチーム。 島村楽器のオリジナルブランド Minerva。 プリンセス・ミネルバ - コンピューターゲーム ミネルヴァ ミネルヴァ (フラ・バルトロメオ)
{{Wiktionary|Minerva}} '''ミネルウァ'''、'''ミネルヴァ'''または'''ミネルバ'''(Minerva)とは、 * [[ミネルウァ]] - [[ローマ神話]]の知恵と工芸の女神。 * [[ミネルバ (小惑星)]] - 小惑星(93 Minerva)。 * [[ミネルバ (ローバー)]] - [[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]搭載機器の1つ。 * [[ミネルヴァ (巡洋艦)]] - [[イタリア海軍]]の[[パルテノーペ級巡洋艦]]。 * [[ミナーヴァ (防護巡洋艦)]] - [[イギリス海軍]]の[[エクリプス級防護巡洋艦]]。 * {{仮リンク|ミネルヴァ (自動車)|en|Minerva (automobile)}} - [[ベルギー]]にかつて存在した[[高級車]]メーカー。操業期間は[[1902年]]から[[1938年]]まで。 * {{仮リンク|ミネルバ (インターネットセレブリティ)|en|Minerva (Internet celebrity)}} - インターネットでのウォン急落の予測などの書き込みにより[[2009年]]1月に[[大韓民国]]で逮捕されたユーザー<ref group="脚注">{{Cite news|title=ネットの預言者「ミネルバ」を逮捕した韓国 煽ったマスコミの罪|newspaper=IT-PLUS|date=2009-01-19|author=趙章恩|url=http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT13000019012009|accessdate=2017-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090120070418/http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT13000019012009|archivedate=2009-01-20}}</ref>。 * [[ミネルバ (企業)]] - 人材採用、人材育成のコンサルティングを行う企業。 * [[ミネルヴァ級コルベット]] - イタリア海軍の[[コルベット]]。 * [[ミネルバ共和国]] - マイケル・オリバーが建国しようとした国。現在は[[トンガ]]領。 * [[ミネルヴァ書房]] - 日本の学術出版社。 * Minerva - [[日本女子プロ将棋協会]]の公式ファンクラブ。 * [[こども英会話のミネルヴァ]]。日本の英会話教室。 * ミネルヴァ・ホールディングス - [[ナチュラム]]の旧社名。大阪市の釣り道具・アウトドア用具の通信販売を行う企業。 * [[富士ゼロックスミネルヴァAFC]] - Xリーグ(アメリカンフットボール)のクラブチーム。 * [[島村楽器]]のオリジナルブランド Minerva。 * [[プリンセス・ミネルバ]] - コンピューターゲーム * [[ミネルヴァ (F 551)]] * [[ミネルヴァ (フラ・バルトロメオ)]] ==架空== *[[ミネルバ・マクゴナガル]] - [[小説]]『[[ハリー・ポッター]]』シリーズの登場人物。 *ミネルバ - 日本のアニメ『[[クラッシャージョウ]]』に登場する[[架空]]の[[宇宙船]] *[[ミネルバ (ガンダムシリーズ)]] - 日本の[[テレビアニメ]]『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』に登場する架空の[[宇宙戦艦]]の一種。 *ミネルヴァ・マウス - [[ミニーマウス|ミニー・マウス]]の本名 <!-- 直接、記事に行けば済むのでコメント化。 *ミネルバ - コンピュータゲーム『[[ファイアーエムブレム]]』シリーズの登場人物。[[マケドニア白騎士団]]を参照。 *ミネルバ - [[小松左京]]の小説『[[さよならジュピター]]』において、[[木星]]衛星軌道上の[[宇宙ステーション]]。拡張工事後の正式名称はミネルバII。 *[[ジェイムズ・P・ホーガン]]の[[サイエンス・フィクション|SF]]、『[[星を継ぐもの]]シリーズ』において、[[火星]]と木星の間にあった、[[小惑星]]と[[冥王星]]の元となった[[惑星]]。 *ミネルバ - [[高千穂遙]]の小説『[[クラッシャージョウ]]シリーズ』において、主人公ジョウのチームが乗る[[宇宙船]]。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references group="脚注"/> == 関連項目 == * {{intitle|ミネルバ}} * {{intitle|ミネルヴァ}} * {{intitle|ミネルウァ}} * {{Prefix|ミネルバ}} * {{Prefix|ミネルヴァ}} * {{Prefix|ミネルウァ}} * [[Wikipedia:索引 みね#みねる]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:みねるうあ}} [[Category:同名の船]]
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ミネルウァ
ミネルウァ(ラテン語: Minerva)は、音楽・詩・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神。 なお、項目名の表記は古典ラテン語などの音写に基づくが、俗ラテン語などに基づくミネルヴァという読みでも知られる。英語読みはミナーヴァ。 芸術作品などでは、彼女の聖なる動物であり知恵の象徴でもあるフクロウと共に描かれることが多い。神話上では、フルートの発明者とされる。ギリシア神話のアテーナーと同一視され、戦争の女神ともなっている。 ミネルウァは、ユーピテル、ユーノーと共にローマのカピトリーノ三柱神とされた。 ミネルウァには女神としての側面がいくつかあり、"Minerva Medica"(ミネルウァ・メディカ)とされた場合、彼女は医師と医療を司る女神であった。"Minerva Achaea"(ミネルウァ・アカイア)とされた場合、彼女の聖堂(ディオメーデースのものとされる奉納品と武器が保存されている)があるプッリャ州ルチェーラで信奉された存在である。 『祭暦』の三巻においてオウィディウスは彼女を、"goddess of a thousand works."(千の仕事の女神)と呼んだ。ミネルウァはイタリア全土で信奉されていたが、唯一ローマにおいてはアテーナーの好戦的性格が共有され、戦いを司るようになった。また、ミネルウァ信仰はブリタンニアにも持ち込まれ、知恵を司る土着の女神スリス(英語版)と同一化されるなどした。 ローマ人は3月19日から23日の彼女の祭典の内、(中性の複数形で)"Quinquatria"と呼ばれる19日を祝い、職人の祝日とした。また、その縮小版である" the Minusculae Quinquatria"は、6月13日に宗教上大きな役割を果たすアウロス奏者によって行われた。紀元前207年、アウェンティーヌスにある彼女の寺院への奉納品を作るため、詩人と役者のギルドが作られた(ルキウス・リウィウス・アンドロニクスも参加していた)。 知恵を司る女神としての側面から、ミネルウァは教育機関などで紋章に取り入れられたりしている。
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ミネルウァは、音楽・詩・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神。 なお、項目名の表記は古典ラテン語などの音写に基づくが、俗ラテン語などに基づくミネルヴァという読みでも知られる。英語読みはミナーヴァ。 芸術作品などでは、彼女の聖なる動物であり知恵の象徴でもあるフクロウと共に描かれることが多い。神話上では、フルートの発明者とされる。ギリシア神話のアテーナーと同一視され、戦争の女神ともなっている。
{{Redirect5|||ミネルヴァ|ミネルバ}} {{Infobox deity | type = Roman | name = ミネルウァ | image = Mantegna, trionfo della virtù, dettaglio 02.jpg | image_size = 260px | caption = {{small|[[アンドレア・マンテーニャ]]によるミネルウァの絵画<br/>1499年と1502年の間、[[ルーヴル美術館]]所蔵}} | deity_of = 知恵の女神, 戦争の女神, 芸術の女神 | cult_center = | abode = | symbol = [[フクロウ]], [[オリーブ]], [[槍]], [[紡錘]] | consort = | parents = [[ユーピテル]], [[メーティス]] | siblings = | children = | mount = | Greek_equivalent = [[アテーナー]] | festivals = }} {{Roman mythology}} '''ミネルウァ'''({{lang-la|Minerva}})は、[[音楽]]・[[詩]]・[[医学]]・[[知恵]]・[[商業]]・[[製織]]・[[工芸]]・[[魔術]]を司る[[ローマ神話]]の[[女神]]<ref name="Candau">{{cite book | title=Coded Encounters: Writing, Gender, and Ethnicity in Colonial Latin America| url=https://books.google.com/books?isbn=0870238868| last=Candau| first=Francisco J. Cevallos| year=1994| pages=215| publisher=University of Massachusetts Press|isbn=0870238868}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ミネルバ-639340 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref>。 なお、項目名の表記は[[古典ラテン語]]などの音写に基づくが、[[俗ラテン語]]などに基づく'''ミネルヴァ'''という読みでも知られる。英語読みは'''ミナーヴァ'''。 芸術作品などでは、彼女の聖なる動物であり[[ミネルヴァのフクロウ|知恵の象徴でもあるフクロウ]]と共に描かれることが多い。神話上では、[[フルート]]の発明者とされる<ref>{{Cite web|url=https://www.theoi.com/Text/OvidFasti6.html|title=OVID, FASTI BOOK 6 - Theoi Classical Texts Library|website=www.theoi.com|access-date=2022-05-30}}</ref>。[[ギリシア神話]]の[[アテーナー]]と同一視され、戦争の女神ともなっている<ref>[[山北篤]]監修『西洋神名事典』[[新紀元社]]、p.246。</ref>。 == ローマでの信仰 == ミネルウァは、[[ユーピテル]]、[[ユーノー]]と共にローマの[[カピトリヌスの三神|カピトリーノ三柱神]]とされた。 ミネルウァには女神としての側面がいくつかあり、"''Minerva Medica''"(ミネルウァ・メディカ)とされた場合、彼女は医師と医療を司る女神であった。"''Minerva Achaea''"(ミネルウァ・アカイア)とされた場合、彼女の聖堂([[ディオメーデース]]のものとされる奉納品と武器が保存されている)がある[[プッリャ州]][[ルチェーラ]]で信奉された存在である<ref>Aristotle ''Mirab. Narrat.'' 117</ref><ref name="dgrbm">{{Cite book | last = Schmitz | first = Leonhard | author-link = :en:Leonhard Schmitz | contribution = Achaea (2) | editor-last = Smith | editor-first = William | title = [[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]] | volume = 1 | pages = 8 | publisher = | place = Boston | year = 1867 | contribution-url = http://www.ancientlibrary.com/smith-bio/0017.html | postscript = <!--None--> }}</ref>。 [[ファイル:Minerva from Bath.jpg|thumb|left|upright|{{仮リンク|ローマ浴場跡 (バース)|en|Roman Baths (Bath)<!-- [[:ja:サーメ・バース・スパ]] とリンク -->|label=バースのローマ浴場跡}}で見つかった"スリス-ミネルウァ"の頭像]] 『祭暦』の三巻において[[オウィディウス]]は彼女を、"goddess of a thousand works."(千の仕事の女神)と呼んだ。ミネルウァはイタリア全土で信奉されていたが、唯一ローマにおいてはアテーナーの好戦的性格が共有され、戦いを司るようになった。また、ミネルウァ信仰は[[ブリタンニア]]にも持ち込まれ、知恵を司る土着の女神{{仮リンク|スリス|en|Sulis}}と同一化されるなどした。 ローマ人は3月19日から23日の彼女の祭典の内、(中性の複数形で)"[[:en:Quinquatria|Quinquatria]]"と呼ばれる19日を祝い、[[職人]]の祝日とした。また、その縮小版である" the Minusculae Quinquatria"は、6月13日に宗教上大きな役割を果たす[[アウロス]]奏者によって行われた。[[紀元前207年]]、[[アヴェンティーノ|アウェンティーヌス]]にある彼女の寺院への奉納品を作るため、詩人と役者の[[ギルド]]が作られた([[ルキウス・リウィウス・アンドロニクス]]も参加していた)。 == 現代での使用 == === 大学及び教育施設 === [[ファイル:GiorcesBardo5.jpg|180px|right|ミネルウァ像]] 知恵を司る女神としての側面から、ミネルウァは教育機関などで[[紋章]]に取り入れられたりしている。 * {{仮リンク|デルタ・シグマ・シータ|en|Delta Sigma Theta}} - 知識の象徴として使用されている。 * [[カリフォルニア大学バークレー校]] - 中央図書館の正面入り口に、銅製の胸像が飾られている。 * [[ポルト大学]] - ミネルウァがシンボルとなっている。 * [[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]] - 校内の中心に像が建てられている。 * [[コロンビア大学]] - [[アルマ・マータ]]として、法律記念図書館(Low Memorial Library)前に展示されている。 * [[ウィーン大学]] - メイン棟の玄関上部に"The Birth of Minerva"(ミネルウァの誕生)と題された彫刻作品がある<ref>[http://public.univie.ac.at/index.php?id=6053&L=2 AC.at] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120316051458/http://public.univie.ac.at/index.php?id=6053&L=2 |date=2012年3月16日 }}</ref>。 * [[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|米陸軍士官学校]] - 図書館に像が飾られている。 * [[ブルガリア]]、[[ルセ]] - 外国語学校の学校名としてミネルウァが使用されている。 * [[ステレンボッシュ大学]]([[南アフリカ]]、[[ステレンボッシュ]]) - 女子生徒寮の名前としてミネルウァが使用されている。 *{{仮リンク|ノースカロライナ大学グリーンズボロ校|en|University of North Carolina at Greensboro}}([[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|ノースカロライナ州グリーンズボロ]]) - Elliot University Center(エリオット大学センター)の東に像が飾られている。公式紋章にも使用。 *{{仮リンク|ニューヨーク州立大学ポツダム校|en|State University of New York at Potsdam}} - ミネルウァ像と、彼女の名を冠した喫茶店がある。 [[ファイル:2007-07-06 Minerva.jpg|thumb|180px|upright|[[ハイデルベルク]]のAlte Brückeにあるミネルウァ像]] [[ファイル:Sbeitla 06.jpg|thumb|180px|right|[[チュニジア]]のミネルウァ神殿]] *[[ルイビル大学]]([[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]])- 公式紋章に使用。 *{{仮リンク|リンカン大学|en|University of Lincoln}}([[リンカン (イングランド)|リンカン]]) - ミネルウァの頭をロゴマークに使用している。また、リンカンのラグビーチームはミネルウァの騎士とされる。 * [[ニューヨーク州立大学オールバニ校]] - ロゴマークに使用されている。「知恵を司るローマの女神ミネルウァは、組織の永遠のシンボルであり続ける。」とされている<ref>[http://www.albany.edu/about_history_minerva.php www.albany.edu]</ref>。 * [[アラバマ大学]] - 紋章に使用。 * [[バージニア大学]] - 紋章に使用。 * [[ユニオン大学 (ニューヨーク州)|ユニオン大学]]([[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]]) - 同校の「第三の場所」プログラムの名称が「ミネルウァハウスシステム」とされている。また、{{仮リンク|シータ・デルタ・カイ|en|Theta Delta Chi}}の女神ともされている。 * [[リオデジャネイロ連邦大学]] - 紋章に使用。 * [[サンパウロ大学]] - [[ポリテクニック]]大学院の紋章に使用。 * [[ヘント大学]]([[ヘント]]) - 紋章に使用。 * [[アメリカ芸術科学アカデミー]] - 学長の紋章に使用。 * [[ボストン公共図書館]] - 玄関の[[要石]]の"Free to all"という文字の下に描かれている。 * [[学校法人ミネルヴァ学園]] - 園章に使用。並木幼稚園等。 *{{仮リンク|リバプール・ホープ大学|en|Liverpool Hope University}}([[リバプール]]) - 毎年政治学の最優秀生徒に贈られる賞の名称に使用されている。これは、ミネルウァが知恵を司る女神であるとともに、市行政の中枢であるリバプール市役所にミネルウァ像が置かれていることに由来する。 *{{仮リンク|シグマ・アルファ・イプシロン|en|Sigma Alpha Epsilon}} - 会の女神とされている。メンバーたちは、栄誉あるミネルウァの息子達として知られる。 *{{仮リンク|バース・スパ大学|en|Bath Spa University}} - 遠隔学習システムの名称に使用されている。 *{{仮リンク|オクラホマ科学芸術大学|en|University of Science and Arts of Oklahoma}} - 紋章に使用されている。 *{{仮リンク|ウェルズ・カレッジ|en|Wells College}}([[ニューヨーク]]) - メイン棟玄関に像が置かれてる。毎春、生涯の叡智と幸運を願って卒業生が像の足に口付をする伝統がある。 * [[リオデジャネイロ連邦大学]] - 大学のマスコットとなっている。 *{{仮リンク|マックロバートソン女子高等学校|en|Mac.Robertson Girls' High School}}([[メルボルン]]) - ロゴマークに使用。 *{{仮リンク|ケルビンサイド大学|en|Kelvinside Academy}}([[グラスゴー]]) - ロゴマークに使用。 *[[ディッキンソン大学]]([[カーライル (ペンシルベニア州)|カーライル]]) - 学生友愛会(Union Philosophical Society)のマスコットとなっている。 * [[イェール大学]] - {{仮リンク|イェール大学建築大学院|en|Yale School of Architecture|label=建築大学院}}の4階に像が置かれている。 *{{仮リンク|ベルゲン博物館|en|Bergen Museum}}([[ベルゲン]]) - 頭像が展示されている。 * [[マギル大学]] - ウェブインターフェースの名称に使用。 * [[ニューヨーク州立大学ジェネセオ校]] - 図書館ロビーに像が飾られている。 === 政府・協会など === [[ファイル:Seal of California.svg|thumb|180px|[[カリフォルニア州]]の紋章]] [[ファイル:Moh army mil.jpg|thumb|right|180px|[[名誉勲章]]]] * [[デザイナー公認協会]] - ミネルウァの頭は、1930年の設立時からロゴに使用されており、それ以来度々著名な[[グラフィックデザイナー]]によって改訂されている。現在のものは、1983年に作られた。 * [[カリフォルニア州]] - 州章にミネルウァが描かれている。 * [[グアテマラ]] - [[グアテマラの大統領|大統領]]の[[マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ]]がミネルウァ信仰を国内に流行させようとした。そのため、[[ギリシア建築]]式の「聖堂」が国内各所にある。 * [[マックス・プランク研究所]] - ロゴマークに使用。 *{{仮リンク|ウォルター・リード米軍医療センター|en|Walter Reed Army Medical Center}}([[ワシントンD.C.]]) - 紋章にミネルウァの兜があしらわれている。 * [[名誉勲章]] - ミネルウァがあしらわれている。 * [[アメリカ議会図書館]] - ミネルウァのモザイク画がある。 * [[ファンクラブMinerva]] - 日本女子プロ将棋協会 (LPSA) の公式ファンクラブ === 公共施設 === * [[チェスター]] - {{仮リンク|ミネルウァ神殿|en|Minerva's Shrine, Chester}}が存在している。 * [[バンガロール]] - 最も交通量の多い環状交差点の名がミネルウァ交差点である。この名前は、かつてその場所に存在した映画館の名からとられている。 * [[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]] - [[アドルフォ・ロペス・マテオス|ロペス・マテオス]]、ロペス・コティーヤ、{{仮リンク|アグスティン・ヤネス|en|Agustín Yáñez}}、コルテス湾通りの交差点のロータリーに「正義、叡智、そして力がこの高潔な都市を守護している。」という文句の彫られた台座に立つミネルウァ像が置かれている。 * [[ミネアポリス]] - ミネアポリス中央図書館に像が飾られている。 * [[パヴィーア]] - 駅の近くに像が飾られており、市のランドマークとなっている。 *グラスゴー - ミッチェル図書館ドーム上に像が飾られている。 * [[ブルックリン区]] - 区内の最高地点に7[[フィート]]のミネルウァ像が飾られている。 * [[ポートランド (メイン州)|ポートランド]] - 記念広場に銅像が横たわっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> === 非日本語文献 === * [https://books.google.co.jp/books?id=25-99UB4w0EC&dq=isbn:0543904326&hl=ja&redir_esc=y Origins of English History] 第十章(Chapter Ten)を参照 * [https://web.archive.org/web/20071221172031/http://www.romans-in-britain.org.uk/arl_roman_religion_and_beliefs.htm Romans in Britain - Roman religion and beliefs] "The Roman Gods"(ローマの神々)を参照 * 本記事は、[[パブリック・ドメイン]]である「[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]」[[ウィリアム・スミス (辞書編集者)|ウィリアム・スミス]]著 (1870) を基にしている。([https://web.archive.org/web/20070906042522/http://www.ancientlibrary.com/smith-bio/2198.html 1090頁]を参照) == 関連項目 == {{Commonscat|Minerva}} * [[ケルト神話]] * [[古代ローマ]] * [[カピトリヌスの三神]] * [[アッピアデス]] {{ローマ神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みねるうあ}} [[Category:ローマ神話の神]] [[Category:軍神]] [[Category:女神]] [[Category:アテーナー]]
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レバノン
レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهورية اللبنانية)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。 レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた。レバノンの面積は1万452平方キロメートルで、アジアの大陸側にある主権国家としては最も小さい。 レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前に遡る。レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。第1回十字軍によってトリポリ伯国(1102~1289)などを中心にこの地域に十字軍国家が興され、レバノンでは、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブ人のイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人はキリスト教・十字架とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派が定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。 その後レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた(フランス委任統治領シリア)。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年 - 1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年 - 2005年)とイスラエル(1985年 - 2000年)による軍事占領につながった。 レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた。また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため、中東の金融センターとして栄えた時期もある。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾岸の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている。 レバノンは1945年に国際連合(国連)の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。 正式名称は、アル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤ(アラビア語: الجمهوريّة البنانيّة、ラテン文字転写 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah)。通称ルブナーン(لبنان Lubnān)。 英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。フランス語ではRépublique libanaise。 日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。 レバノンの語源であるレバンはフェニキア語で「白い」を意味し、山頂が冠雪したレバノン山に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。 現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。紀元前10世紀にアッシリア帝国に飲み込まれ、紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、民族としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。日本の安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『月刊プレイボーイ』のインタビューの中で自らを「フェキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。 アッシリア帝国に代わって新バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となった。古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。 レバノンは歴史的シリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀ごろからマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。 現代レバノン史は、第一次世界大戦でオスマン帝国などが敗れ、戦勝国となったフランスによる1918年の占領とともに始まった(OETA北)。1919年のパリ講和会議で、同じく戦勝国となったアメリカ合衆国やイギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入れることが話し合われた。 1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)がハーシム家のファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。 キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を超え、イスラム教のシーア派やスンナ派などの他宗派に優越するようになった。こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。 1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(仏: République libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。 第二次世界大戦初期、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランス本国はドイツなどの占領下またはドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスの統治下に置かれた。亡命政府である自由フランスとイギリスなど連合国はシリア・レバノン戦役で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の公使として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。 大戦後のレバノンは自由経済を採用し、金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。 1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心にパレスチナ解放機構(PLO)をはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。1972年9月16日、イスラエル軍はミュンヘンオリンピック事件の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている。 しかし、中東戦争、ヨルダン内戦に伴うPLOの流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、1975年にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となってレバノン内戦が勃発した。 隣国シリアが平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル国防軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。これに周辺各国やアメリカ合衆国、欧州諸国、ソビエト連邦など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。また、シリアやイランのイスラム革命防衛隊の支援を受けたヒズボラなどのイスラム過激派が勢力を伸ばした。 1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争(英語版)。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領(英語版)した。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが(レバノン駐留多国籍軍(英語版))、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い(駐レバノンアメリカ大使館爆破事件(英語版))、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。 1990年にシリア軍が再侵攻(英語版)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「パクス・シリアーナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。 1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦(英語版))。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍のフィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。 1992年10月末、ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーへの組閣を要請した。その後反シリア派のハリーリーがレバノンの首相としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。この計画は「ホワイトゾン2000」と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。 2003年9月2日、国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号が採択された。 ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺(英語版)されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラなどから6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。 2006年7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(2006年のレバノン侵攻)。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港などの公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にはカナが空爆され、54人が死亡した。直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍は撤収した。 この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、ファランヘ党創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・アミーン・ジュマイエル(英語版)産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。 こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。 2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済再建を図った。 2019年、レバノン政府がWhatsAppなどのVoIP通話への課税方針の打ち出したことを端に発し、市民による大規模抗議デモが起きた。 レバノンは2019年11月から経済危機に陥った(「経済」で後述)。2020年3月7日、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て国債(12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかったデフォルト状態となった。原因は、GDPの170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした外貨準備高の急減など。これを受けてレバノン・ポンドは暴落。対ドル公式レートでは1ドルに対して1507レバノン・ポンドに設定されているものの、6-7月ごろには闇レートで1ドルが8000レバノン・ポンド超に急落し、食料品などの多くを輸入に頼るレバノン経済には大きな負担となった。同年6月30日には、レバノン軍が兵士に提供する食事から肉が抜かれることが発表された。 2020年8月4日にレバノンの首都ベイルートの湾岸地帯で大規模な爆発が2回発生、218人が死亡し、7,000人以上が負傷した(ベイルート港爆発事故)。衝撃は280キロメートル離れた地中海のキプロス島にも伝わった。杜撰に貯蔵されていた硝酸アンモニウムが原因だった。被害総額は数十億ドル規模に上るとみられている。同月6日には爆発を契機とする大規模な反政府のデモが発生。参加者らと治安部隊が衝突した。 デモ隊は外務省、環境省、経済省を占拠し、銀行協会のビルに放火した。ディアブ首相はデモ発生から数時間後、選挙の前倒しを表明した。 2020年8月6日にフランス大統領エマニュエル・マクロンが大規模爆発で壊滅的な被害を受けたレバノンの首都ベイルートを視察した。支援を約束するとともに、レバノンの政治や社会の改革を要請した。マクロンが大きな被害を受けた薬局を視察した際には、外に集まった市民が怒りを爆発させ、自国の政治家らを「テロリスト」と非難。「改革」や「国民は政権の終わりを望んでいる」といった声が響いた。 2020年8月10日にディアブ首相が内閣の総辞職を発表した。 大統領を元首とする共和制国家であり、国会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。 この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる。 総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。 選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。 1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席全てを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した。 1998年5月と6月に地方選挙が、1963年以来35年ぶりに行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された。 2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派が押さえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した。 2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。 など計9政党・ブロック など計15政党・ブロック 2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。 内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。 こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。 上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流 2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。 シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。 結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。 など など シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度にわたり麻痺に陥った。1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。 このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。 など計12政党・ブロック など計12政党・ブロック ※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった。 2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。 など など 南隣のイスラエルに対しては国家の承認をしておらず、イスラエル当局者との接触を法律で禁じている。両国沖の地中海には、イスラエル寄りに「カリシュ・ガス田」、レバノン寄りに「カナ・ガス田」があり、その開発を急ぐ意味もあって海洋境界について2020年10月から断続的に交渉してきた。イスラエルは2022年10月11日に境界画定で合意したと発表し、交渉を仲介したアメリカ合衆国と、イスラエルに抵抗運動を続けてきたヒズボラがそれぞれ妥結への寄与を主張した。同年10月27日に合意最終案への署名に至り、イスラエルの首相ヤイル・ラピドは「(レバノンが)イスラエルを国家として認めた」と主張したが、レバノンのミシェル・アウン大統領は「和平協定ではない」と否定した。 駐日イスラエル大使ギラッド・コーヘンは『毎日新聞』への寄稿で、この協定では、レバノンとの国境にあるイスラエル領ロシュ・ハニクラの5キロメートル沖に、イスラエルが2000年以降設置している浮標を 国境とする現状を維持して排他的経済水域(EEZ)の端まで境界を確定し、さらに今回の協定および両国海域にまたがる海底資源が将来発見された場合へのアメリカ合衆国の関与を定めており、レバノンによるイスラエルの事実上の国家承認を意味すると説明している。 レバノン国軍以外の準軍事組織としては、内務省所属の治安部隊、税関が存在する。 民兵組織としてはシーア派のヒズボラが存在する。それ以外のほとんどの民兵組織は、内戦終結時にシリア軍及び国軍によって武装解除させられた。南レバノン軍は政府の武装解除要求を拒否し、内戦終結後も南部の占有を続けていたが、ヒズボラとの闘争に敗れ、イスラエルの支援も途絶えたため、2000年に壊滅した。 ただし、民兵の武装解除は主力装備のみに留まったといわれており、現在でも多くは自動小銃など軽火器を保有しており、訓練や動員も行われている。また、内戦の影響から多くの市民は小銃や拳銃を所持している。 駐留外国兵力としては、南部に国連レバノン暫定駐留軍が駐留している。また、イランのイスラム革命防衛隊がヒズボラの支援のために駐留している。内戦以降長くシリア軍も駐留していたが、2005年に撤退している。 西に地中海、南はイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400km2で、日本でいえば岐阜県の面積とほぼ同じである。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。 西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。 ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。 レバノンは9つの県 (ムハーファザ、muhafaza) に分かれる。 レバノンは2019年11月から経済危機に陥り、同月以前の預金封鎖、通貨レバノン・ポンドの暴落、2020年3月の債務不履行(デフォルト)などにより、約680万人いる国民の4分の3が貧困に見舞われている。欧州への脱出を図る人が多いほか、銀行襲撃が相次ぐなど治安が悪化している。 21世紀初頭まで、特にレバノン内戦以前は経済的に繁栄していた。主な産業はオレンジやブドウの農業、また観光業や中継貿易である。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。レバノンはまず農業国として成立したが、世界大戦後は第三次産業が活況を呈した。戦後のレバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融センターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。 しかし、1975年から続いた内戦によって、国内の産業・経済は壊滅し、人材や駐在企業の多くが他国に退避したため、その地位は失われた。その後のレバノン政府は、内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画や観光施設の充実などで経済復興を図った。2022年に確定させたイスラエルとの海洋境界はカナ・ガス田の南西部を通り、開発権はレバノンが持ち、イスラエルもその一部収益と、イスラエル側海域にあるカリシュ・ガス田を得ることになった。 またレバノン人は投資家や商人として、南アメリカや独立間もないアフリカ諸国に移住し、現地で財を成しており、これら在外レバノン人からの送金も国家財政を大きく支えている。 レバノンには8,000km以上の道路が存在している。道路網は大部分が舗装されており、一般的には良好な状態を保っているとされているものの、周辺国との戦争が続いていた影響から維持管理が不十分な面を見せがちである為、通路の安全性は宜しくない。多くの高速道路はアラブ・マシュレク国際道路網(英語版、フランス語版)の一部となっている。港湾はベイルート港が有名。 現在、鉄道は運営されていない。内戦により1970年代に大部分が停止、残りの路線は1990年代に経済的な理由で閉業してしまっており、外国からの助成金を受ける形で再建へ向かっている。 複雑な宗派対立を繰り返してきた歴史から、レバノンは1932年以来総人口の統計を除いた国勢調査を行っておらず、現在に至るまでその時のデータを元にして政治権力の分配が行われている。国勢調査の大綱では、1924年8月の時点で大レバノン域内に居住していた住民に加え、国外へ移民した人々もレバノン国民とされた。実際の調査がどのように行われたかは不明だが、政治学者のラニア・マクタビは、既にレバノンを去ったキリスト教徒移住者を加えることで、ムスリムとの人口比率を操作したとものと推測している。 遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ(英語版))、各地で影響をあたえている。特にブラジルには、レバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。 国民ではないが、シリア内戦から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した。また、同国でのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制的に結婚させられているという深刻な問題を抱えている。 公用語はアラビア語で、人口の95%がアラブ人で話し言葉(アーンミーヤ)はレバノン方言が使われる。英語やフランス語も通用する 。フランス統治時代に広まったフランス語(レバノン・フランス語(英語版))は教育やメディア、ビジネスなどで日常的に使用され、準公用語的な地位を占めており、フランス語圏に分類される。他にアルメニア語、ギリシャ語、クルド語、アラム語なども話されている。 国民の54%がイスラム教、40.4%がキリスト教、5.6%がドゥルーズ派ほか他宗教。キリスト教の内訳はマロン派(マロン典礼カトリック教会)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ローマ・カトリック(ラテン典礼)なども存在する。正教会信徒はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。 アルメニア人は人口の4%で少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持と主張し、事実ファランヘ党などとは距離をおいていた)。 また、イスラム教にはスンナ派、シーア派のほかドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する。後者2派がイスラム教の枠に入るかどうかは教義的には議論が分かれ、異端と見なす向きも多いが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。 アラウィー派は独立時にはレバノンの政治構成要素ではなかったため、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内・同胞という意識を有していない。同派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立した後のシリアにおいて権力を掌握した集団である。シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきたが、それでも国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、ようやく2議席があてがわれた。 他、少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である。 主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(英語版)(1951年)などが挙げられる。 ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクールなどなどで、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している。 レバノンにおける社会文化では、家族生活は非常に重要なものとして捉えられており、特に父系の親族グループの存在は、レバノン人のアイデンティティを構築するものとして注視されている。家族は、レバノン社会において集産主義の価値などに関連している面を持つ 。 レバノンの治安は不安定さが著しい状態となっている。レバノンでは犯罪件数などに関する統計を公表していないが、連日各種犯罪の発生について報じられている一面がある。また、レバノン国内の経済・財政危機が深刻化し、燃料不足や停電、食料品および医療品などの生活必需品の不足・高騰が生じているなどの背景もあり、国内全域において窃盗、薬物犯罪(英語版)などの各種犯罪が増加傾向にある。 一方、過去の内戦の影響により国内には銃器が出回っている為、強盗や傷害事件では銃器を使用したケースが多く見られる他、死傷者を伴う銃撃事件なども発生している。 その他にも、薬物関連の犯罪が深刻化しており、バイクによるひったくり事件も確認されている。 レバノンの女性は1953年2月8日付で女性参政権を獲得しているが、ヒューマン・ライツ・ウォッチからは、「レバノン当局が『女性を暴力から保護し女性に対する差別をなくす』法的義務を果たせていない」と報告されている。 なお、レバノン政府は国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」第16条を未だ導入していない。 地中海世界の食文化の一つであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。 レバノンワイン(英語版)も古代オリエントがワイン発祥の地と謳われるだけあり、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。 20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をエジプトの首都カイロと争っていた。 文学においては、ブシャッリに生まれたハリール・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。 レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。 中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。 他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームやアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、'jabali'(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。 1981年に発表されたレバノンのアラブ演歌歌手であるアーザール・ハビブの楽曲である「 حبيتك (お前が好きだった)」が2000年にHatten ar dinという動画で使われ世界中で再生された。しかし、アラブ演歌としてではなく、スウェーデン語の空耳に聞こえるという動画作成者の勝手な解釈や関連の無い画像の面白さで流行した。 近年では、欧米のプログレッシヴ・ロックの影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。 レバノンに存在する劇場の大部分は首都ベイルートに拠点を構えている。 美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンの最も傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。 レバノンは石造りの城が多く遺されている場所として知られている。一例としてレイモンド・ド・サン・ジル城塞(英語版)やムッサ城(英語版)が存在する。 レバノン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。 1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した。 レバノン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。1934年にはプロサッカーリーグのレバノン・プレミアリーグが創設された。レバノンサッカー連盟(FLFA)によって構成されるサッカーレバノン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしAFCアジアカップには2度の出場歴をもつ。 著名なレバノン人選手としてはジョアン・オマリが存在する。当時ドイツ2部のFSVフランクフルトやJリーグのFC東京などで主に活躍した、レバノンを代表するセンターバックである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهورية اللبنانية)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた。レバノンの面積は1万452平方キロメートルで、アジアの大陸側にある主権国家としては最も小さい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前に遡る。レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。第1回十字軍によってトリポリ伯国(1102~1289)などを中心にこの地域に十字軍国家が興され、レバノンでは、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブ人のイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人はキリスト教・十字架とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派が定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた(フランス委任統治領シリア)。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年 - 1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年 - 2005年)とイスラエル(1985年 - 2000年)による軍事占領につながった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた。また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため、中東の金融センターとして栄えた時期もある。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾岸の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "レバノンは1945年に国際連合(国連)の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称は、アル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤ(アラビア語: الجمهوريّة البنانيّة、ラテン文字転写 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah)。通称ルブナーン(لبنان Lubnān)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。フランス語ではRépublique libanaise。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "レバノンの語源であるレバンはフェニキア語で「白い」を意味し、山頂が冠雪したレバノン山に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。紀元前10世紀にアッシリア帝国に飲み込まれ、紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、民族としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。日本の安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『月刊プレイボーイ』のインタビューの中で自らを「フェキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アッシリア帝国に代わって新バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となった。古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "レバノンは歴史的シリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀ごろからマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現代レバノン史は、第一次世界大戦でオスマン帝国などが敗れ、戦勝国となったフランスによる1918年の占領とともに始まった(OETA北)。1919年のパリ講和会議で、同じく戦勝国となったアメリカ合衆国やイギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入れることが話し合われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)がハーシム家のファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を超え、イスラム教のシーア派やスンナ派などの他宗派に優越するようになった。こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(仏: République libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦初期、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランス本国はドイツなどの占領下またはドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスの統治下に置かれた。亡命政府である自由フランスとイギリスなど連合国はシリア・レバノン戦役で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の公使として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大戦後のレバノンは自由経済を採用し、金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心にパレスチナ解放機構(PLO)をはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。1972年9月16日、イスラエル軍はミュンヘンオリンピック事件の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、中東戦争、ヨルダン内戦に伴うPLOの流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、1975年にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となってレバノン内戦が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "隣国シリアが平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル国防軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。これに周辺各国やアメリカ合衆国、欧州諸国、ソビエト連邦など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。また、シリアやイランのイスラム革命防衛隊の支援を受けたヒズボラなどのイスラム過激派が勢力を伸ばした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争(英語版)。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領(英語版)した。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが(レバノン駐留多国籍軍(英語版))、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い(駐レバノンアメリカ大使館爆破事件(英語版))、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年にシリア軍が再侵攻(英語版)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「パクス・シリアーナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦(英語版))。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍のフィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1992年10月末、ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーへの組閣を要請した。その後反シリア派のハリーリーがレバノンの首相としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。この計画は「ホワイトゾン2000」と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2003年9月2日、国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号が採択された。 ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺(英語版)されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラなどから6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2006年7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(2006年のレバノン侵攻)。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港などの公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にはカナが空爆され、54人が死亡した。直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍は撤収した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、ファランヘ党創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・アミーン・ジュマイエル(英語版)産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済再建を図った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2019年、レバノン政府がWhatsAppなどのVoIP通話への課税方針の打ち出したことを端に発し、市民による大規模抗議デモが起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "レバノンは2019年11月から経済危機に陥った(「経済」で後述)。2020年3月7日、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て国債(12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかったデフォルト状態となった。原因は、GDPの170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした外貨準備高の急減など。これを受けてレバノン・ポンドは暴落。対ドル公式レートでは1ドルに対して1507レバノン・ポンドに設定されているものの、6-7月ごろには闇レートで1ドルが8000レバノン・ポンド超に急落し、食料品などの多くを輸入に頼るレバノン経済には大きな負担となった。同年6月30日には、レバノン軍が兵士に提供する食事から肉が抜かれることが発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2020年8月4日にレバノンの首都ベイルートの湾岸地帯で大規模な爆発が2回発生、218人が死亡し、7,000人以上が負傷した(ベイルート港爆発事故)。衝撃は280キロメートル離れた地中海のキプロス島にも伝わった。杜撰に貯蔵されていた硝酸アンモニウムが原因だった。被害総額は数十億ドル規模に上るとみられている。同月6日には爆発を契機とする大規模な反政府のデモが発生。参加者らと治安部隊が衝突した。 デモ隊は外務省、環境省、経済省を占拠し、銀行協会のビルに放火した。ディアブ首相はデモ発生から数時間後、選挙の前倒しを表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2020年8月6日にフランス大統領エマニュエル・マクロンが大規模爆発で壊滅的な被害を受けたレバノンの首都ベイルートを視察した。支援を約束するとともに、レバノンの政治や社会の改革を要請した。マクロンが大きな被害を受けた薬局を視察した際には、外に集まった市民が怒りを爆発させ、自国の政治家らを「テロリスト」と非難。「改革」や「国民は政権の終わりを望んでいる」といった声が響いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2020年8月10日にディアブ首相が内閣の総辞職を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大統領を元首とする共和制国家であり、国会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席全てを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1998年5月と6月に地方選挙が、1963年以来35年ぶりに行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派が押さえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "など計9政党・ブロック", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "など計15政党・ブロック", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "など", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "など", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度にわたり麻痺に陥った。1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "など計12政党・ブロック", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "など計12政党・ブロック", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "など", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "など", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "南隣のイスラエルに対しては国家の承認をしておらず、イスラエル当局者との接触を法律で禁じている。両国沖の地中海には、イスラエル寄りに「カリシュ・ガス田」、レバノン寄りに「カナ・ガス田」があり、その開発を急ぐ意味もあって海洋境界について2020年10月から断続的に交渉してきた。イスラエルは2022年10月11日に境界画定で合意したと発表し、交渉を仲介したアメリカ合衆国と、イスラエルに抵抗運動を続けてきたヒズボラがそれぞれ妥結への寄与を主張した。同年10月27日に合意最終案への署名に至り、イスラエルの首相ヤイル・ラピドは「(レバノンが)イスラエルを国家として認めた」と主張したが、レバノンのミシェル・アウン大統領は「和平協定ではない」と否定した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "駐日イスラエル大使ギラッド・コーヘンは『毎日新聞』への寄稿で、この協定では、レバノンとの国境にあるイスラエル領ロシュ・ハニクラの5キロメートル沖に、イスラエルが2000年以降設置している浮標を 国境とする現状を維持して排他的経済水域(EEZ)の端まで境界を確定し、さらに今回の協定および両国海域にまたがる海底資源が将来発見された場合へのアメリカ合衆国の関与を定めており、レバノンによるイスラエルの事実上の国家承認を意味すると説明している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "レバノン国軍以外の準軍事組織としては、内務省所属の治安部隊、税関が存在する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "民兵組織としてはシーア派のヒズボラが存在する。それ以外のほとんどの民兵組織は、内戦終結時にシリア軍及び国軍によって武装解除させられた。南レバノン軍は政府の武装解除要求を拒否し、内戦終結後も南部の占有を続けていたが、ヒズボラとの闘争に敗れ、イスラエルの支援も途絶えたため、2000年に壊滅した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ただし、民兵の武装解除は主力装備のみに留まったといわれており、現在でも多くは自動小銃など軽火器を保有しており、訓練や動員も行われている。また、内戦の影響から多くの市民は小銃や拳銃を所持している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "駐留外国兵力としては、南部に国連レバノン暫定駐留軍が駐留している。また、イランのイスラム革命防衛隊がヒズボラの支援のために駐留している。内戦以降長くシリア軍も駐留していたが、2005年に撤退している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "西に地中海、南はイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400km2で、日本でいえば岐阜県の面積とほぼ同じである。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "レバノンは9つの県 (ムハーファザ、muhafaza) に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "レバノンは2019年11月から経済危機に陥り、同月以前の預金封鎖、通貨レバノン・ポンドの暴落、2020年3月の債務不履行(デフォルト)などにより、約680万人いる国民の4分の3が貧困に見舞われている。欧州への脱出を図る人が多いほか、銀行襲撃が相次ぐなど治安が悪化している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "21世紀初頭まで、特にレバノン内戦以前は経済的に繁栄していた。主な産業はオレンジやブドウの農業、また観光業や中継貿易である。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。レバノンはまず農業国として成立したが、世界大戦後は第三次産業が活況を呈した。戦後のレバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融センターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "しかし、1975年から続いた内戦によって、国内の産業・経済は壊滅し、人材や駐在企業の多くが他国に退避したため、その地位は失われた。その後のレバノン政府は、内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画や観光施設の充実などで経済復興を図った。2022年に確定させたイスラエルとの海洋境界はカナ・ガス田の南西部を通り、開発権はレバノンが持ち、イスラエルもその一部収益と、イスラエル側海域にあるカリシュ・ガス田を得ることになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "またレバノン人は投資家や商人として、南アメリカや独立間もないアフリカ諸国に移住し、現地で財を成しており、これら在外レバノン人からの送金も国家財政を大きく支えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "レバノンには8,000km以上の道路が存在している。道路網は大部分が舗装されており、一般的には良好な状態を保っているとされているものの、周辺国との戦争が続いていた影響から維持管理が不十分な面を見せがちである為、通路の安全性は宜しくない。多くの高速道路はアラブ・マシュレク国際道路網(英語版、フランス語版)の一部となっている。港湾はベイルート港が有名。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "現在、鉄道は運営されていない。内戦により1970年代に大部分が停止、残りの路線は1990年代に経済的な理由で閉業してしまっており、外国からの助成金を受ける形で再建へ向かっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "複雑な宗派対立を繰り返してきた歴史から、レバノンは1932年以来総人口の統計を除いた国勢調査を行っておらず、現在に至るまでその時のデータを元にして政治権力の分配が行われている。国勢調査の大綱では、1924年8月の時点で大レバノン域内に居住していた住民に加え、国外へ移民した人々もレバノン国民とされた。実際の調査がどのように行われたかは不明だが、政治学者のラニア・マクタビは、既にレバノンを去ったキリスト教徒移住者を加えることで、ムスリムとの人口比率を操作したとものと推測している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ(英語版))、各地で影響をあたえている。特にブラジルには、レバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "国民ではないが、シリア内戦から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した。また、同国でのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制的に結婚させられているという深刻な問題を抱えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "公用語はアラビア語で、人口の95%がアラブ人で話し言葉(アーンミーヤ)はレバノン方言が使われる。英語やフランス語も通用する 。フランス統治時代に広まったフランス語(レバノン・フランス語(英語版))は教育やメディア、ビジネスなどで日常的に使用され、準公用語的な地位を占めており、フランス語圏に分類される。他にアルメニア語、ギリシャ語、クルド語、アラム語なども話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "国民の54%がイスラム教、40.4%がキリスト教、5.6%がドゥルーズ派ほか他宗教。キリスト教の内訳はマロン派(マロン典礼カトリック教会)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ローマ・カトリック(ラテン典礼)なども存在する。正教会信徒はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "アルメニア人は人口の4%で少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持と主張し、事実ファランヘ党などとは距離をおいていた)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、イスラム教にはスンナ派、シーア派のほかドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する。後者2派がイスラム教の枠に入るかどうかは教義的には議論が分かれ、異端と見なす向きも多いが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アラウィー派は独立時にはレバノンの政治構成要素ではなかったため、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内・同胞という意識を有していない。同派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立した後のシリアにおいて権力を掌握した集団である。シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきたが、それでも国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、ようやく2議席があてがわれた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "他、少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(英語版)(1951年)などが挙げられる。 ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクールなどなどで、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "レバノンにおける社会文化では、家族生活は非常に重要なものとして捉えられており、特に父系の親族グループの存在は、レバノン人のアイデンティティを構築するものとして注視されている。家族は、レバノン社会において集産主義の価値などに関連している面を持つ 。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "レバノンの治安は不安定さが著しい状態となっている。レバノンでは犯罪件数などに関する統計を公表していないが、連日各種犯罪の発生について報じられている一面がある。また、レバノン国内の経済・財政危機が深刻化し、燃料不足や停電、食料品および医療品などの生活必需品の不足・高騰が生じているなどの背景もあり、国内全域において窃盗、薬物犯罪(英語版)などの各種犯罪が増加傾向にある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "一方、過去の内戦の影響により国内には銃器が出回っている為、強盗や傷害事件では銃器を使用したケースが多く見られる他、死傷者を伴う銃撃事件なども発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "その他にも、薬物関連の犯罪が深刻化しており、バイクによるひったくり事件も確認されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "レバノンの女性は1953年2月8日付で女性参政権を獲得しているが、ヒューマン・ライツ・ウォッチからは、「レバノン当局が『女性を暴力から保護し女性に対する差別をなくす』法的義務を果たせていない」と報告されている。 なお、レバノン政府は国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」第16条を未だ導入していない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "地中海世界の食文化の一つであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "レバノンワイン(英語版)も古代オリエントがワイン発祥の地と謳われるだけあり、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をエジプトの首都カイロと争っていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "文学においては、ブシャッリに生まれたハリール・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームやアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、'jabali'(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1981年に発表されたレバノンのアラブ演歌歌手であるアーザール・ハビブの楽曲である「 حبيتك (お前が好きだった)」が2000年にHatten ar dinという動画で使われ世界中で再生された。しかし、アラブ演歌としてではなく、スウェーデン語の空耳に聞こえるという動画作成者の勝手な解釈や関連の無い画像の面白さで流行した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "近年では、欧米のプログレッシヴ・ロックの影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "レバノンに存在する劇場の大部分は首都ベイルートに拠点を構えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンの最も傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "レバノンは石造りの城が多く遺されている場所として知られている。一例としてレイモンド・ド・サン・ジル城塞(英語版)やムッサ城(英語版)が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "レバノン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "レバノン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。1934年にはプロサッカーリーグのレバノン・プレミアリーグが創設された。レバノンサッカー連盟(FLFA)によって構成されるサッカーレバノン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしAFCアジアカップには2度の出場歴をもつ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "著名なレバノン人選手としてはジョアン・オマリが存在する。当時ドイツ2部のFSVフランクフルトやJリーグのFC東京などで主に活躍した、レバノンを代表するセンターバックである。", "title": "スポーツ" } ]
レバノン共和国、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。
{{otheruses}} {{出典の明記|date=2015年4月18日 (土) 22:46 (UTC)}} {{基礎情報 国 | 略名 =レバノン | 日本語国名 =レバノン共和国<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lebanon/data.html#01 レバノン共和国(Lebanese Republic)基礎データ] 日本国外務省(2022年9月26日閲覧)</ref> | 公式国名 ='''{{Lang|ar|الجمهورية اللبنانية}}''' | 国旗画像 =Flag of Lebanon.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Lebanon.svg|90px|レバノンの国章]] | 国章リンク =[[レバノンの国章|国章]] | 標語 =不明 | 位置画像 =Lebanon (orthographic projection).svg | 公用語 =[[アラビア語]]<ref name="日本国外務省"/> | 首都 =[[ベイルート]]<ref name="日本国外務省"/> | 最大都市 =ベイルート | 元首等肩書 =[[レバノンの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[ナジーブ・ミーカーティー]](代行) | 首相等肩書 =[[レバノンの首相|閣僚評議会議長]] | 首相等氏名 =ナジーブ・ミーカーティー | 他元首等肩書1 =[[国民議会 (レバノン)|国民議会議長]] | 他元首等氏名1 =ナビーフ・ベッリ | 面積順位 =161 | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =10,452<ref name="日本国外務省"/> | 水面積率 =1.6% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 122 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 5,296,814 | 人口密度値 = 509.3 | 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/lebanon/ |title=Lebanon |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月17日}}</ref> | GDP統計年元 =2019 | GDP値元 =80兆7360億<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=446,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-14}}</ref> | GDP統計年MER =2019 | GDP順位MER =86 | GDP値MER =523億7100万<ref name="imf2019" /> | GDP MER/人 =7639.101<ref name="imf2019" /> | GDP統計年 =2019 | GDP順位 =84 | GDP値 =1039億6000万<ref name="imf2019" /> | GDP/人 =1万5164.003<ref name="imf2019" /> | 建国形態 =[[独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 =[[自由フランス|フランス]]より<br />[[1943年]][[11月22日]] | 通貨 =[[レバノン・ポンド]]<ref name="日本国外務省"/> | 通貨コード =LBP | 時間帯 =+2 | 夏時間 =+3 | 国歌 = [[我等全ては我が国のため、我が栄光と国旗のため|{{lang|at|كلنـا للوطـن للعـلى للعـلم}}]]{{ar icon}}<br/>''我等全ては我が国のため、我が栄光と国旗のため''<br/>{{center|[[File:Lebanese_national_anthem.ogg]]}} | ISO 3166-1 =LB / LBN | ccTLD =[[.lb]] | 国際電話番号 =961 | 注記 = }} {{LebanonHistory}} '''レバノン共和国'''(レバノンきょうわこく、{{Lang-ar|الجمهورية اللبنانية}})、通称'''レバノン'''は、[[中東]]の[[レバント]]に位置する[[共和制]][[国家]]<ref name=":0">{{cite web|url=https://www.wipo.int/edocs/lexdocs/laws/en/lb/lb018en.pdf|title=THE LEBANESE CONSTITUTION: "Lebanon is Arab in its identity and in its affiliation. It is a founding and active member of the League of Arab States and abides by its pacts and covenants."|last=|first=|date=|website=|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2021-12-15}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|url=https://www.constituteproject.org/constitution/Lebanon_2004.pdf?lang=en|last=|first=|publisher=|year=|isbn=|location=|pages=}}</ref><ref name=":2">{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-middle-east-14647308|title=Lebanon country profile|date=14 May 2018|access-date=23 September 2019|language=en-GB}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.france24.com/en/20190119-lebanon-arab-league-aesd-economic-summit-host-urges-readmit-syria|title=Lebanon urges Arab League to readmit Syria ahead of regional summit|date=19 January 2019|website=France 24|language=en|access-date=23 September 2019}}</ref>。首都は[[ベイルート]]。北と東では[[シリア]]と、南では[[イスラエル]]と[[国境]]を接し、西には[[地中海]]を挟んで[[キプロス]]がある。 == 概要 == レバノンは[[地中海盆地]]と[[アラビア半島|アラビア]]内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、[[宗教]]的・[[民族]]的な[[多文化主義|多様性]]を持つ文化的アイデンティティを形成してきた<ref>{{cite book|last=McGowen|first=Afaf Sabeh|editor-last=Collelo|editor-first=Thomas|title=Lebanon: A Country Study|chapter=Historical Setting|series=Area Handbook Series|edition=3rd|location=Washington, D.C.|publisher=The Division|date=1989|oclc=18907889|chapter-url=http://hdl.loc.gov/loc.gdc/cntrystd.lb|accessdate=24 July 2009}}</ref>。レバノンの面積は1万452平方キロメートル<ref name="日本国外務省"/>で、[[アジア大陸|アジアの大陸]]側にある[[主権国家]]としては最も小さい。 レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前に遡る<ref name="byblos">{{cite book|title=Cities of the Middle East and North Africa|last1=Dumper|first1=Michael|last2=Stanley|first2=Bruce E.|last3=Abu-Lughod|first3=Janet L.|year=2006|publisher=ABC-CLIO|isbn=978-1-57607-919-5|page=104|quote=Archaeological excavations at Byblos indicate that the site has been continually inhabited since at least 5000 B.C.}}</ref>。レバノンは[[フェニキア|フェニキア人]]にとって、ほぼ3000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域は[[ローマ帝国]]の支配下に入り、最終的には[[キリスト教]]のその主要な中心地の一つとなった。[[第1回十字軍]]によって[[トリポリ伯国]](1102~1289)などを中心にこの地域に[[十字軍国家]]が興され、レバノンでは、[[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]として知られている[[修道院]]の伝統が生まれた。[[アラブ人]]の[[ムスリム|イスラム教徒]]がこの地域を征服しても、マロン人はキリスト教・十字架とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループである[[ドゥルーズ派]]が定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人は[[ローマ・カトリック教会]]との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。 その後レバノンは16世紀に[[オスマン帝国]]に征服され、その後400年間支配下に置かれた。[[第一次世界大戦]]後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州は[[フランス]]の[[委任統治]]下に置かれた([[フランス委任統治領シリア]])。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさい[[レバノン内戦]](1975年 - 1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年 - 2005年)とイスラエル(1985年 - 2000年)による軍事占領につながった。 レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のある[[ディアスポラ]]によって、[[アラブ世界]]のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている<ref name=":2" />。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた<ref name="dos-2010-03-22">{{cite web|url=https://2009-2017.state.gov/outofdate/bgn/lebanon/149912.htm|title=Background Note: Lebanon|publisher=U.S. Department of State|date=22 March 2010|accessdate=4 October 2010}}</ref>。また、ベイルートは「中東の[[パリ]]」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した<ref name="tourism">{{cite web|url=https://www.chron.com/default/article/Lebanon-hopes-for-stability-so-tourism-industry-1895818.php|author=Johnson, Anna|year=2006|title=Lebanon: Tourism Depends on Stability|accessdate=31 October 2006|archive-url=https://web.archive.org/web/20120113012527/http://www.chron.com/default/article/Lebanon-hopes-for-stability-so-tourism-industry-1895818.php|archive-date=13 January 2012|url-status=live|df=dmy-all}}</ref>。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため<ref name="Canada">{{cite web|url=http://www.acdi-cida.gc.ca/lebanon|title=Lebanon|date=28 May 2009|work=Canadian International Development Agency|publisher=Government of Canada|format=Governmental|accessdate=24 August 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080530095337/http://www.acdi-cida.gc.ca/lebanon|archivedate=30 May 2008}}</ref>、中東の[[金融センター]]として栄えた時期もある<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=古着を切って二重に…生理用品を毎月手作り、娘は恥ずかしいと泣いた|url=https://www.asahi.com/articles/ASPCF6WFPPBMUHBI02D.html|website=[[朝日新聞デジタル]]|accessdate=2021-11-15|language=ja}}</ref>。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、[[人間開発指数]]と一人当たりの[[国内総生産|GDP]]は[[ペルシャ湾]]岸の[[産油国]]を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない[[債務不履行]](デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている<ref name=":3" />。 レバノンは1945年に[[国際連合]]([[国連]])の創設メンバーとなり、[[アラブ連盟]](1945年)、[[非同盟運動]](1961年)、[[イスラム協力機構]](1969年)、[[フランコフォニー国際機関]](1973年)に加盟している。 == 国名 == アラビア語での正式名称は、「アル=ジュンフーリーヤ・アッ=ルブナーニーヤ」(アラビア語:<span lang="ar" dir="rtl">الجمهورية اللبنانية</span>, [[ラテン文字]]転写:al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah ないしは al-Jumhūrīya al-Lubnānīya)。 通常は「レバノン」という名称に対応する「ルブナーン」(لبنان, Lubnān)と呼ばれる。なおこの現地方言発音の代表例「リブナーン」(Libnān)<ref>{{Cite web |title=The Living Arabic Project - لبنان |url=https://www.livingarabic.com/en/search?q=%D9%84%D8%A8%D9%86%D8%A7%D9%86 |website= |access-date=2023-12-12 |language=en |first= |last=}}</ref>で口語会話の際にこのような発音が聞かれる。 英語表記は、'''Lebanese Republic'''。通称、'''Lebanon'''。フランス語では'''République libanaise'''。 日本語の表記は、'''レバノン共和国'''。通称、'''レバノン'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''黎巴嫩'''。 レバノンの語源であるレバンは[[フェニキア語]]で「白い」を意味し、山頂が冠雪した[[レバノン山]]に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。 == 歴史 == {{main|レバノンの歴史}} === 古代オリエント世界 === [[ファイル:Tyre Triumphal Arch.jpg|left|thumb|160px|[[ティルス]]の凱旋門]] 現在のレバノンに相当する地域は、[[古代]]は[[フェニキア人]]の故地であった。この地からフェニキア人は[[地中海]]を渡り、現[[チュニジア]]の[[カルタゴ]]<ref group="†">[[紀元前814年]]建国、ローマの[[伝承]]では[[紀元前753年]]の建国になっている。</ref>、[[バルセロナ]]、[[マルセイユ]]、[[リスボン]]など各地に[[植民地]]を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。[[紀元前10世紀]]に[[アッシリア帝国]]に飲み込まれ、[[紀元前875年]]から[[紀元前625年]]までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、[[民族]]としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。[[日本]]の[[安宅産業破綻]]に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『[[月刊プレイボーイ]]』のインタビューの中で自らを「フェキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。 アッシリア帝国に代わって[[新バビロニア]]が代わってフェニキアを支配し、[[紀元前525年]]には[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の[[マケドニア王国]]や、その後継の[[セレウコス朝]]シリアの一部となった。古代末期には[[ローマ帝国]]に征服され、[[7世紀]]には[[東ローマ帝国]]を破った[[アラブ人]]に征服されて[[イスラム世界]]に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。 === レバノンのアラブ化 === レバノンは[[歴史的シリア]]地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的[[マイノリティ|少数者]]の避難場所となり、[[キリスト教]]マロン派([[マロン典礼カトリック教会]])、イスラム教の[[ドゥルーズ派]]の信徒らが[[レバノン山地]]に移住して、[[オスマン帝国]]からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。[[19世紀]]ごろからマロン派に影響力を持つ[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]を通じて[[ヨーロッパ]]諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えた[[アラブ民族主義]]の中心地ともなった。ただしレバノンの[[キリスト教徒]]はアラブ人ではなかった。 === OETA北 === {{main|{{仮リンク|占領下敵国領政庁|en|Occupied Enemy Territory Administration}}}} 現代レバノン史は、[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国などが敗れ、戦勝国となったフランスによる1918年の占領とともに始まった([[OETA北]])。[[1919年]]の[[パリ講和会議]]で、同じく戦勝国となった[[アメリカ合衆国]]やイギリスの関係者とマロン派[[大司教]]のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、[[サイクス・ピコ協定]]に基づき[[フランス第四共和政|フランス]]の[[委任統治]]下に入れることが話し合われた。 === シリア王国の独立 === [[1920年]][[3月8日]]、{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}}が[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世]]を国王として独立。しかし、{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}で[[フランス軍]]と衝突すると、[[1920年]][[7月24日]]に4ヶ月あまりで瓦解した。 === フランス委任統治領時代 === {{main|大レバノン|フランス委任統治領大レバノン}} {{see also|フランス委任統治領シリア}} キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、[[正教会]]、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、[[プロテスタント]]を合計した[[キリスト教徒]]の割合が40%を超え、イスラム教の[[シーア派]]や[[スンナ派]]などの他宗派に優越するようになった。こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。[[9月1日]]、フランス占領下の独立国家'''大レバノン国'''({{lang-fr-short|État du Grand Liban}})が正式に布告された<ref group="†">レバノンの領土は拡大されたが、海岸の都市やベッカー高原のスンニ派、シーア派のムスリムたちは、アラブのイスラム世界から永遠に切り離されるのではないかと心配した。</ref>。[[1922年]]までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。 [[1923年]][[9月29日]]に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた([[大レバノン|フランス委任統治領大レバノン]]、[[フランス委任統治領シリア]])。[[1925年]]7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。[[1926年]]3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年'''レバノン共和国'''({{lang-fr-short|République libanaise}})が誕生した。'''初代大統領'''としてレバノン民族主義者の[[シャルル・ダッバス]]が同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]], pp.79-82</ref>。 === 独立=== [[第二次世界大戦]]初期、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]でフランス本国はドイツなどの占領下またはドイツの[[傀儡国家]][[ヴィシー・フランス]]の統治下に置かれた。[[亡命政府]]である[[自由フランス]]と[[イギリス]]など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[シリア・レバノン戦役]]で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の[[公使]]として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。 大戦後のレバノンは自由経済を採用し、[[金融]]や[[観光]]などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的[[リゾート]]地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「'''中東のパリ'''」と呼ばれるようになった。 1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心に[[パレスチナ解放機構]](PLO)をはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。[[1972年]][[9月16日]]、イスラエル軍は[[ミュンヘンオリンピック事件]]の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている<ref>「レバノンへ侵攻 半日で一部撤収 南部ゲリラ基地を掃討」『[[朝日新聞]]』昭和47年(1972年)9月17日13版1面</ref>。 === 内戦と戦争 === {{see also|レバノン内戦}} [[ファイル:Beirut2 i april 1978.jpg|thumb|レバノン内戦によって破壊された首都ベイルート([[1978年]])]] しかし、[[中東戦争]]、[[ヨルダン内戦]]に伴うPLOの流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、[[1975年]]にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となって[[レバノン内戦]]が勃発した。 隣国[[シリア]]が平和維持軍として進駐したが、[[1978年]]には[[イスラエル国防軍]]が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。これに周辺各国や[[アメリカ合衆国]]、欧州諸国、[[ソビエト連邦]]など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。また、シリアや[[イラン]]の[[イスラム革命防衛隊]]の支援を受けた[[ヒズボラ]]などの[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]が勢力を伸ばした。 [[1982年]]、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻({{仮リンク|レバノン戦争 (1982年)|en|1982 Lebanon War|label=レバノン戦争}}。ガリラヤの平和作戦とも)、{{仮リンク|ベイルート包囲戦|en|Siege of Beirut|label=西ベイルートを占領}}した。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが({{仮リンク|レバノン駐留多国籍軍|en|Multinational Force in Lebanon}})、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い({{仮リンク|駐レバノンアメリカ大使館爆破事件|en|1983 United States embassy bombing}})、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した([[ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件]])。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。 [[1990年]]に{{仮リンク|シリア軍のレバノン侵攻 (1990年)|en|October 13 massacre|label=シリア軍が再侵攻}}、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「[[パクス・シリアーナ]](シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。 [[1996年]]にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した({{仮リンク|怒りのブドウ作戦|en|Operation Grapes of Wrath}})。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた[[国連レバノン暫定駐留軍]]の[[フィジー軍]]部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。イスラエル軍は[[2000年]]に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。 [[1992年]]10月末、ヘラウィ大統領が[[ラフィーク・ハリーリー]]への組閣を要請した。その後反シリア派のハリーリーが[[レバノンの首相]]としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。この計画は「ホワイトゾン2000」{{refnest|group="†"|13年間に飛行場、道路、住宅、保健医療のプロジェクトを対象に、180億ドルの公共投資と420億ドルの民間投資を目指し、また、平均7.8%の経済成長を図り、この期間に一人当たりの[[実質所得]]を2倍にすることを目標にした。1993年から1994年にかけてレバノンの信頼が増し、1996年時点で外国からの資金は27億ドルに達し、経済成長率も伸びを見せた<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]], pp. 232-234.</ref>。}}と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。 [[2003年]][[9月2日]]、[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する[[国際連合安全保障理事会決議1559|安保理決議1559号]]{{refnest|group="†"|同決議は、レバノンの主権、領土保全、政治的独立などの尊重を求め、レバノンに駐留する全外国軍に対し、レバノンから撤退を要請し、また、レバノン人、非レバノン人の武装勢力の解散と武装解除を求め、さらに来るレバノン大統領選挙での公正・自由な選挙プロセスの支持を宣言するものであった<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]], p.273</ref>。}}が採択された。 ハリーリーが[[2005年]][[2月14日]]に爆弾テロにより{{仮リンク|ラフィーク・ハリーリー暗殺事件|en|Assassination of Rafic Hariri|label=暗殺}}されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「[[杉の革命]]」と呼ばれる抗議運動が始まった。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となった[[フアード・シニオラ]]を旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラなどから6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。 {{see also|杉の革命}} [[ファイル:Tyre air strike.jpg|thumb|[[イスラエル空軍]]による爆撃([[2006年]])]] [[2006年]]7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として[[7月12日]]に南部の[[発電所]]などを空爆した([[レバノン侵攻 (2006年)|2006年のレバノン侵攻]])。続いて空爆は全土に拡大されて[[ラフィク・ハリリ国際空港]]などの公共施設が被災、ベイルートは[[海上封鎖]]された。[[7月22日]]には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかし[[レバノン軍]]は基本的に中立を保った。[[7月27日]]、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。[[7月30日]]には[[カナ空爆|カナが空爆]]され、54人が死亡した。直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。[[8月2日]]空爆再開。[[8月7日]]レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。[[8月13日]]にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。[[8月14日]]停戦が発効し、[[10月1日]]にイスラエル軍は撤収した。 === 2000年代-2010年代のレバノン === この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年[[11月21日]]、[[ファランヘ党 (レバノン)|ファランヘ党]]創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人である{{仮リンク|ピエール・アミーン・ジュマイエル|en|Pierre Amine Gemayel}}産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。 こうした中、[[2007年]]11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、[[2008年]][[5月7日]]から両派間による大規模な武力衝突が継続している。 2008年[[8月13日]]にミシェル・スライマーン大統領とシリアの[[バッシャール・アル=アサド]]大統領が会談し、国交正常化に合意した。レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での[[天然ガス田]]探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済再建を図った。 2019年、レバノン政府が[[WhatsApp]]などの[[VoIP]]通話への課税方針の打ち出したことを端に発し、市民による[[:en:2019 Lebanese protests|大規模抗議デモ]]が起きた。 === 2020年代のレバノン === レバノンは2019年11月から経済危機に陥った<ref name="東京新聞20220926"/>(「[[#経済|経済]]」で後述)。[[2020年]][[3月7日]]、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て[[国債]](12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかった[[デフォルト (金融)|デフォルト]]状態となった。原因は、[[国内総生産|GDP]]の170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした[[外貨準備高]]の急減など<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-08 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3272165?cx_part=top_topstory&cx_position=3 |title=深刻な財政危機にあえぐレバノン、初のデフォルトへ |publisher=2020-03-08AFP |accessdate=2020-03-07}}</ref>。これを受けてレバノン・ポンドは暴落。対ドル公式レートでは1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]に対して1507レバノン・ポンドに設定されているものの、6-7月ごろには闇レートで1ドルが8000レバノン・ポンド超に急落し、食料品などの多くを輸入に頼るレバノン経済には大きな負担となった。同年6月30日には、レバノン軍が兵士に提供する食事から肉が抜かれることが発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-04 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3291985 |title=レバノン軍、すべての食事を肉抜きに 食料価格の高騰で |publisher=[[フランス通信社|AFP]] |accessdate=2020-07-03}}</ref>。 2020年8月4日にレバノンの首都ベイルートの湾岸地帯で大規模な爆発が2回発生、218人が死亡し、7,000人以上が負傷した([[ベイルート港爆発事故]])。衝撃は280キロメートル離れた地中海のキプロス島にも伝わった。杜撰に貯蔵されていた硝酸アンモニウムが原因だった。被害総額は数十億ドル規模に上るとみられている。同月6日には爆発を契機とする大規模な反政府のデモが発生。参加者らと治安部隊が衝突した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-07 |url=https://www.bbc.com/japanese/53689325 |title=レバノンで反政府デモ、治安部隊と衝突 爆発で不満高まる |publisher=[[英国放送協会|BBC]] |accessdate=2020-08-08}}</ref>。 デモ隊は外務省、環境省、経済省を占拠し、銀行協会のビルに[[放火]]した。ディアブ首相はデモ発生から数時間後、選挙の前倒しを表明した<ref>{{Cite web |date=2020-08-09 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35157948.html |title=ベイルートで反政府デモ、複数の省庁占拠 治安部隊と衝突 |publisher=CNN |accessdate=2020-08-11}}</ref>。 2020年8月6日に[[フランス大統領]][[エマニュエル・マクロン]]が大規模爆発で壊滅的な被害を受けたレバノンの首都ベイルートを視察した。支援を約束するとともに、レバノンの政治や社会の改革を要請した。マクロンが大きな被害を受けた薬局を視察した際には、外に集まった市民が怒りを爆発させ、自国の政治家らを「テロリスト」と非難。「改革」や「国民は政権の終わりを望んでいる」といった声が響いた。 2020年8月10日にディアブ首相が内閣の総辞職を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=レバノン、内閣総辞職 首相「惨事は国家の腐敗の結果」|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8C2WD6N8CUHBI009.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-08-11|language=ja}}</ref>。 == 政治 == {{main|レバノンの政治}} === 統治機構 === [[ファイル:BeirutParliament.jpg|right|thumb|260px|議会]] [[レバノンの大統領|大統領]]を[[元首]]とする共和制国家であり、国会は[[大統領]]の選出、[[政府]]([[内閣]])の承認、[[法律|法案]]、[[予算]]の承認を行う。任期は4年。現行の[[憲法]]により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領は[[キリスト教]][[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]、[[首相]]は[[イスラム教]][[スンナ派]]、国会議長は[[シーア派|イスラム教シーア派]]から選出されるのが慣例となっている。国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。 この大統領・首相(行政の長)・国会議長の[[トロイカ体制]]は、内戦を終わらせた[[1990年]]のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその[[政党]]やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる<ref>[[#青山 & 末近 (2009)|青山 & 末近 (2009)]] {{要ページ番号|date=2015年4月}}</ref>。 総選挙は[[大選挙区制|大選挙区]][[完全連記制]]をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。 選挙の段階は[[選挙区]]改変([[ゲリマンダリング]])、候補者リスト作成の2段階を経る。前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は[[選挙法]]の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。 === 1996年の国会議員選挙 === 1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、[[ベッカー高原|ベッカー]]地区23、南部地区23、北地区28、[[山岳レバノン県|山岳レバノン]]地区35に配分されることになった。1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では[[野党]]が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席全てを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]], pp.239-240</ref>。 === 1998年の地方選挙 === 1998年5月と6月に地方選挙が、1963年以来35年ぶりに行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]ではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、[[民主主義]]が浸透しているものと評価された<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]], pp.241-242</ref>。 === 2000年の国会議員選挙 === 2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派が押さえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した<ref>[[#堀口 (2005)|堀口 (2005)]] pp.266-267</ref>。 === 政治潮流と政党 === {{see also|レバノンの政党}} ==== ハリーリー元首相暗殺事件まで ==== 2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年の[[ラフィーク・ハリーリー|ラフィーク・アル=ハリーリー]]元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派の[[エミール・ラフード|エミール・ラッフード]]大統領の任期延長問題を中心に対立した。 * '''(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派)''' 〔 〕内は代表・党首。 ** 進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕 ** 民主刷新運動 ** ターイブ改革運動 ** [[レバノン軍団]](LF)〔サミール・ジャアジャア〕 ** 民主フォーラム ** 国民ブロック党 など計9政党・ブロック * '''(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)''' ** [[アマル]]運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕 ** ヒズボラ(抵抗への忠誠ブロック)〔[[ハサン・ナスルッラーフ|ハサン・ナスルッラー]]〕 ** マトン・ブロック ** トリポリ・ブロック ** [[バアス党]] ** レバノン民主党 ** ターシュナーク党 ** シリア民族社会党 ** ナセル人民機構 ** [[ファランヘ党 (レバノン)|レバノン・カターイブ党]] など計15政党・ブロック * '''(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)''' ** [[未来運動|ムスタクバル潮流]](ベイルート決定ブロック)〔[[ラフィーク・ハリーリー|ラフィーク・アル=ハリーリー]](当時)〕 ** 自由国民潮流〔[[ミシェル・アウン]](当時は仏に亡命中)〕 ==== ハリーリー元首相暗殺事件後 ==== 2005年の[[ラフィーク・ハリーリー|ハリーリー]]元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。 内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。 こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。 * '''(1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)''' 上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流 * '''(2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)''' ==== シリア軍撤退後 ==== 2005年4月、[[アメリカ合衆国|米国]]の主導する[[シリア]]・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。 シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。 結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。 * '''(3)「四者同盟」を中心とする「[[与党]]」''' ** ムスタクバル潮流((1)3月14日) ** 進歩社会主義党((1)3月14日) ** レバノン・カターイブ党((1)3月14日) ** レバノン軍団((1)3月14日) ** アマル運動((2)3月8日) ** ヒズボラ((2)3月8日) など * '''(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」''' ** 自由国民潮流((1)3月14日) ** 人民ブロック((2)3月8日) ** マトン・ブロック((2)3月8日) ** バアス党((2)3月8日) ** ナセル人民機構((2)3月8日) ** シリア民族社会党((2)3月8日) など ==== 2006年2月〜 ==== シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度にわたり麻痺に陥った。1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。 このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。 * '''(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)''' ** ムスタクバル潮流 ** 進歩社会主義党 ** 民主刷新運動 ** レバノン・カターイブ党 ** レバノン軍団(LF) ** 民主フォーラム ** 国民ブロック党 など計12政党・ブロック * '''(2)「3月8日勢力」(親シリア派)''' ** アマル運動 ** ヒズボラ ** 自由国民潮流((4)変化改革ブロック) ** マトン・ブロック((4)変化改革ブロック) ** トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック) ** [[バアス党]] ** レバノン民主党 ** ターシュナーク党 ** シリア民族社会党 ** ナセル人民機構 など計12政党・ブロック ※以上の分析は[[青山弘之]]・[[末近浩太]]著『現代シリア・レバノンの政治構造』 <small>([[岩波書店]]〈[[アジア経済研究所]]叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5)</small> によった{{要ページ番号|date=2015年4月}}。 ==== 2009年8月〜 ==== 2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。 <ref name=aoyama>[https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/2009/pdf/2009_405_ch4.pdf 青山「レバノン-宗派主義制度下の武力紛争-」(2010)]</ref> * '''「3月14日勢力」(対シリア慎重派)''' ** ムスタクバル潮流 ** ハンチャク党 ** 民主左派運動 ** ラームガヴァーン党 ** レバノン軍団(LF) ** 心のザフレブロック ** 国民合意ブロック など * '''「3月8日勢力」(親シリア派)''' ** アマル運動 ** ヒズボラ ** 自由国民潮流 ** バアス党 ** レバノン民主党 ** マラダ潮流 ** 団結党 ** ターシュナーク党 ** シリア民族社会党 など * '''無所属''' ** 進歩社会主義党 ** レバノン・カターイブ党 ** 団結ブロック == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|レバノンの国際関係|en|Foreign relations of Lebanon}}}} {{節スタブ}} === イスラエルとの関係 === 南隣のイスラエルに対しては[[国家の承認]]をしておらず、イスラエル当局者との接触を法律で禁じている<ref name="東京新聞20221029">「[https://www.chunichi.co.jp/article/572392 レバノン・イスラエル:海洋境界線 画定案に署名/意義付けには温度差]」『[[東京新聞]]』朝刊2022年10月29日(国際面)2022年11月12日閲覧</ref>。両国沖の地中海には、イスラエル寄りに「カリシュ・ガス田」、レバノン寄りに「カナ・ガス田」があり、その開発を急ぐ意味もあって海洋境界について2020年10月から断続的に交渉してきた<ref name="東京新聞20221029"/>。イスラエルは2022年10月11日に境界画定で合意したと発表し、交渉を仲介したアメリカ合衆国と、イスラエルに抵抗運動を続けてきたヒズボラがそれぞれ妥結への寄与を主張した<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20221012/k00/00m/030/016000c 中東敵対国 海の境界合意/イスラエル・レバノン ガス田開発へ]」/[https://mainichi.jp/articles/20221012/k00/00m/030/266000c 仲介の米「成果」アピール]『毎日新聞』朝刊2022年10月13日(国際面)同日閲覧</ref>。同年10月27日に合意最終案への署名に至り、[[イスラエルの首相]][[ヤイル・ラピド]]は「(レバノンが)イスラエルを国家として認めた」と主張したが、レバノンのミシェル・アウン大統領は「和平協定ではない」と否定した<ref name="東京新聞20221029"/>。 [[駐日イスラエル大使]][[ギラッド・コーヘン]]は『[[毎日新聞]]』への寄稿で、この協定では、レバノンとの国境にあるイスラエル領ロシュ・ハニクラの5キロメートル沖に、イスラエルが2000年以降設置している[[浮標]]を 国境とする現状を維持して[[排他的経済水域]](EEZ)の端まで境界を確定し、さらに今回の協定および両国海域にまたがる海底資源が将来発見された場合へのアメリカ合衆国の関与を定めており、レバノンによるイスラエルの事実上の国家承認を意味すると説明している<ref>[https://mainichi.jp/articles/20221122/ddm/007/030/029000c 【世界の見方】ギラッド・コーヘン駐日イスラエル大使:レバノンとの海洋協定 中東に変化]『毎日新聞』朝刊2022年11月22日(国際面)同日閲覧</ref>。 == 軍事 == {{main|レバノン軍}} レバノン国軍以外の準軍事組織としては、内務省所属の治安部隊、[[税関]]が存在する。 [[民兵]]組織としてはシーア派のヒズボラが存在する。それ以外のほとんどの民兵組織は、内戦終結時にシリア軍及び国軍によって武装解除させられた。[[南レバノン軍]]は政府の武装解除要求を拒否し、内戦終結後も南部の占有を続けていたが、ヒズボラとの闘争に敗れ、イスラエルの支援も途絶えたため、2000年に壊滅した。 ただし、民兵の武装解除は主力装備のみに留まったといわれており、現在でも多くは自動小銃など軽火器を保有しており<ref>『[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]』2009年6月号[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0906/feature05/_04.shtml 【特集】アラブのキリスト教徒] (2022年9月26日閲覧)</ref>、訓練や動員も行われている。また、内戦の影響から多くの市民は小銃や拳銃を所持している。 駐留外国兵力としては、南部に[[国連レバノン暫定駐留軍]]が駐留している。また、[[イラン]]の[[イスラム革命防衛隊]]がヒズボラの支援のために駐留している。内戦以降長くシリア軍も駐留していたが、[[2005年]]に撤退している。 == 地理 == [[File:Lebanon Topography.png|thumb|地形図]] {{main|レバノンの地理}} 西に[[地中海]]、南は[[イスラエル]]と接し、その他は[[シリア]]に囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400㎢で、日本でいえば[[岐阜県]]の面積とほぼ同じである。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。 西部には[[レバノン山脈]]が、東部のシリア国境周辺には[[アンチレバノン山脈]]が走り、その間に[[ベッカー高原]]が存在する。国内最大の河川は[[リタニ川]]である。 [[ケッペンの気候区分]]によれば、ほぼ全土が[[地中海性気候]]である。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Map_of_Lebanon.png|right|thumb|300px|レバノンの地図。]] {{main|レバノンの県|レバノンの都市の一覧}} レバノンは9つの'''県''' ([[ムハーファザ]]、muhafaza) に分かれる。 # [[アッカール県]]([[ハルバ (レバノン)|ハルバ]]) # [[バールベック=ヘルメル県]]([[バールベック]]) # [[ベイルート県]]([[ベイルート]]) # [[ベッカー県]]([[ザーレ]]) # [[ケセルワン=ジュベイル県]]([[ジュニーエ]]) # [[山岳レバノン県]]({{仮リンク|バアブダー|en|Baabda}}) # [[ナバティーエ県]]({{仮リンク|ナバティーエ|en|Nabatieh}}) # [[北レバノン県]]([[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]) # [[南レバノン県]]([[サイダ]]) ; その他の主要都市 * [[ヒブロス|ジュベイル]](ビブロス) * [[バールベック]]<!--([[ヘリオポリス]])--> * [[ザハレ]] * [[サイダ]](シドン) * [[ティルス|ティール]](ティルス) * [[カナ (レバノン)|カナ]] == 経済 == [[ファイル:Beirutcity.jpg|right|thumb|260px|レバノンの首都ベイルート]] {{Main|{{仮リンク|レバノンの経済|fr|Économie du Liban|en|Economy of Lebanon}}}} レバノンは2019年11月から経済危機に陥り、同月以前の[[預金封鎖]]、通貨[[レバノン・ポンド]]の暴落、2020年3月の債務不履行([[デフォルト (金融)|デフォルト]])などにより、約680万人いる国民の4分の3が貧困に見舞われている<ref name="東京新聞20220926"/>。欧州への脱出を図る人が多いほか、銀行襲撃が相次ぐなど治安が悪化している<ref name="東京新聞20220926">[https://www.chunichi.co.jp/article/551962 「レバノン 治安破綻危機/相次ぐ銀行襲撃■不法移民絶えず」]『[[東京新聞]]』朝刊2022年9月26日(国際面)同日閲覧</ref>。 21世紀初頭まで、特にレバノン内戦以前は経済的に繁栄していた。主な産業は[[オレンジ]]や[[ブドウ]]の農業、また観光業や中継貿易である。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち[[生糸]]生産である。レバノンはまず[[農業国]]として成立したが、[[世界大戦]]後は[[第三次産業]]が活況を呈した。戦後のレバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち[[保護貿易]]ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における[[金融センター]]としての地位を確立した。[[ハブ空港|航空路のハブ]]となったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東の[[パリ]]」とも呼ばれた。 しかし、1975年から続いた内戦によって、国内の産業・経済は壊滅し、人材や駐在企業の多くが他国に退避したため、その地位は失われた。その後のレバノン政府は、内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画や観光施設の充実などで経済復興を図った。2022年に確定させたイスラエルとの海洋境界はカナ・ガス田の南西部を通り、開発権はレバノンが持ち、イスラエルもその一部収益と、イスラエル側海域にあるカリシュ・ガス田を得ることになった<ref name="東京新聞20221029"/>。 またレバノン人は投資家や商人として、[[南アメリカ]]や独立間もない[[アフリカ]]諸国に移住し、現地で財を成しており、これら在外レバノン人からの送金も国家財政を大きく支えている。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|レバノンの交通|fr|Transport au Liban|en|Transport in Lebanon}}}} レバノンには8,000km以上の道路が存在している。道路網は大部分が舗装されており、一般的には良好な状態を保っているとされているものの、周辺国との戦争が続いていた影響から維持管理が不十分な面を見せがちである為、通路の安全性は宜しくない。多くの高速道路は{{仮リンク|アラブ・マシュレク国際道路網|en|Arab Mashreq International Road Network|fr|Routes internationales dans l'Arabie orientale}}の一部となっている。港湾は[[ベイルート港]]が有名。 {{節スタブ}} === 鉄道 === {{Main|レバノンの鉄道}} 現在、鉄道は運営されていない。内戦により1970年代に大部分が停止、残りの路線は1990年代に経済的な理由で閉業してしまっており、外国からの助成金を受ける形で再建へ向かっている。 {{節スタブ}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|レバノンの人口統計|en|Demographics of Lebanon}}}} === 民族 === 複雑な宗派対立を繰り返してきた歴史から、レバノンは[[1932年]]以来総人口の統計を除いた[[国勢調査]]を行っておらず<ref>{{Cite news|title=In Lebanon, a Census Is Too Dangerous to Implement|url=https://www.thenation.com/article/archive/lebanon-census/|date=2019-10-17|accessdate=2021-04-10|issn=0027-8378|language=en-US|first=Amos|last=Barshad}}</ref>、現在に至るまでその時のデータを元にして政治権力の分配が行われている<ref name="Aoyagi">[[青柳まちこ]]『国勢調査から考える人種・民族・国籍』(明石書店 2010年 ISBN 978-4-7503-3274-1)pp.146-155</ref>。国勢調査の大綱では、1924年8月の時点で大レバノン域内に居住していた住民に加え、国外へ[[移民]]した人々もレバノン国民とされた。実際の調査がどのように行われたかは不明だが<ref name="Aoyagi"/>、政治学者のラニア・マクタビは、既にレバノンを去った[[キリスト教徒]]移住者を加えることで、[[ムスリム]]との人口比率を操作したとものと推測している<ref>[https://doi.org/10.1080/13530199908705684 The Lebanese census of 1932 revisited. Who are the Lebanese?] Rania Maktabi 2007 </ref>。 ==== レバノン人離散 ==== 遥か昔から多くの[[レバノン人]]が紛争などの理由でアメリカ大陸、[[ヨーロッパ]]、アフリカなど世界中に離散しており({{仮リンク|レバノン人のディアスポラ|en|Lebanese diaspora}})、各地で影響をあたえている。特に[[ブラジル]]には、レバノンの総人口より多くの[[レバノン系ブラジル人]]が住んでいる。 ==== シリアからの難民 ==== 国民ではないが、[[シリア内戦]]から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した<ref>{{cite news |title=シリア難民、100万人に達する 国連 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2013-03-07 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35029195.html |accessdate=2013-03-07}}</ref>。また、同国でのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制的に結婚させられているという深刻な問題を抱えている<ref>{{Cite news|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/10/18/24-of-syrian-refugee-girls-in-lebanon-forced-to-marry-before-18-un_n_8327676.html|title=レバノンのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制結婚させられる|newspaper=HuffPost News|date=2015-10-18|accessdate=2022-05-14}}</ref>。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|レバノンの言語|fr|Langues au Liban}}}} [[公用語]]は[[アラビア語]]で、人口の95%がアラブ人<ref name="日本国外務省"/>で[[話し言葉]]([[アーンミーヤ]])は[[アラビア語レバノン方言|レバノン方言]]が使われる。[[英語]]や[[フランス語]]も通用する <ref name="日本国外務省"/>。フランス統治時代に広まったフランス語({{仮リンク|レバノン・フランス語|en|French language in Lebanon}})は教育やメディア、ビジネスなどで日常的に使用され、準公用語的な地位を占めており、[[フランス語圏]]に分類される。他に[[アルメニア語]]、[[ギリシャ語]]、[[クルド語]]、[[アラム語]]なども話されている。 === 宗教 === [[ファイル:St. Gregory the Illuminator Cathedral.jpg|thumb|{{仮リンク|聖エリアス大聖堂と聖グレゴリー大聖堂|en|Cathedral of Saint Elias and Saint Gregory the Illuminator}}]] {{main|{{仮リンク|レバノンの宗教|en|Religion in Lebanon}}}} 国民の54%が[[イスラム教]]、40.4%が[[キリスト教]]、5.6%が[[ドゥルーズ派]]ほか他宗教。キリスト教の内訳はマロン派([[マロン典礼カトリック教会]])が多数派だが、[[正教会]]、[[プロテスタント]]、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]](ラテン典礼)なども存在する。正教会信徒は[[パレスチナ国|パレスチナ]]やシリアなど他の[[アラブ世界|アラブ諸国]]にも多数存在していた事から、内戦時には[[左翼|左派]]としてマロン派と対峙した。 {{see also|[[:Category:レバノンの正教徒]]}} {{bar box |title=宗教構成(レバノン) |titlebar=#ddd |float=left |bars= {{bar percent|イスラム教シーア派・スンニ派|green|54}} {{bar percent|キリスト教諸派|blue|40.4}} {{bar percent|ドゥルーズ派・その他|gray|5.6}} }} {{clear}} [[アルメニア人]]は人口の4%で<ref name="日本国外務省"/>少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、[[アルメニア使徒教会]]、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持と主張し、事実ファランヘ党などとは距離をおいていた)。 また、イスラム教には[[スンナ派]]、[[シーア派]]のほかドゥルーズ派、[[アラウィー派]]などが存在する。後者2派がイスラム教の枠に入るかどうかは教義的には議論が分かれ、異端と見なす向きも多いが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。 アラウィー派は独立時にはレバノンの政治構成要素ではなかったため、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内・同胞という意識を有していない。同派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立した後のシリアにおいて権力を掌握した集団である。シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきたが、それでも国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、ようやく2議席があてがわれた。 他、少数であるが[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]の議席も設けられている。 {{See also|{{仮リンク|レバノンの信教の自由|en|Freedom of religion in Lebanon}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|レバノンの教育|en|Education in Lebanon}}}} 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/le.html 2009年5月23日閲覧</ref>。 主な[[高等教育]]機関としては[[ベイルート・アメリカン大学]](1866年)、{{仮リンク|レバノン大学|en|Lebanese University}}(1951年)などが挙げられる。 ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクールなどなどで、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している<ref>[[#小山 (1977)|小山 (1977)]], pp.77-78</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|レバノンの保健|en|Health in Lebanon}}}} {{節スタブ}} == 社会 == {{main|{{仮リンク|レバノンにおける社会|en|Lebanese society}}}} レバノンにおける社会文化では、家族生活は非常に重要なものとして捉えられており、特に父系の親族グループの存在は、レバノン人の[[アイデンティティ]]を構築するものとして注視されている。家族は、レバノン社会において[[集産主義]]の価値などに関連している面を持つ<ref>Kazarian, Shahe S. "Family Functioning, Cultural Orientation, and Psychological Well-Being Among University Students in Lebanon." The Journal of Social Psychology 145.2 (2005): 141-54.</ref> 。 {{節スタブ}} == 治安 == レバノンの治安は不安定さが著しい状態となっている。レバノンでは[[犯罪]]件数などに関する統計を公表していないが、連日各種犯罪の発生について報じられている一面がある。また、レバノン国内の経済・財政危機が深刻化し、燃料不足や停電、食料品および医療品などの生活必需品の不足・高騰が生じているなどの背景もあり、国内全域において[[窃盗]]、{{仮リンク|薬物犯罪|en|Drug-related crime}}などの各種犯罪が増加傾向にある。 一方、過去の内戦の影響により国内には[[銃器]]が出回っている為、強盗や傷害事件では銃器を使用したケースが多く見られる他、死傷者を伴う銃撃事件なども発生している。 その他にも、薬物関連の犯罪が深刻化しており、[[オートバイ|バイク]]による[[ひったくり]]事件も確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_055.html#ad-image-0|title=レバノン 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-5-14|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|レバノンにおける人権|en|Human rights in Lebanon}}}} {{節スタブ}} ==== 女性の権利 ==== {{main|{{仮リンク|レバノンの女性|en|Women in Lebanon}}}} レバノンの女性は1953年2月8日付で女性参政権を獲得しているが、[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]からは、「レバノン当局が『女性を暴力から保護し女性に対する差別をなくす』法的義務を果たせていない」と報告されている<ref>[https://www.hrw.org/news/2020/11/04/lebanon-broken-promises-womens-rights Lebanon: Broken Promises On Women’s Rights.] [[Human Rights Watch]](2020年11月4日)</ref>。 なお、レバノン政府は国連で1979年に採択された「[[女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約]](女子差別撤廃条約)」第16条を未だ導入していない<ref>{{Cite news|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/12/14/heartbreaking-reality-about-child-brides-in-lebanon_n_8802872.html|title=少女が高齢男性と結婚させられていたらどう思う? レバノンの衝撃的な社会実験|newspaper=HuffPost News|date=2015-12-15|accessdate=2022-05-14}}</ref>。 {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|レバノンのメディア|en|Mass media in Lebanon}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|レバノンにおける郵便と電気通信|en|Posts and telecommunications in Lebanon}}}} === 新聞 === {{main|{{仮リンク|レバノンの新聞の一覧|en|List of newspapers in Lebanon}}}} {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:Libanonzeder.jpg|right|thumb|220px|[[レバノン杉]]の木。]] {{main|{{仮リンク|レバノンの文化|en|Culture of Lebanon|fr|Culture du Liban}}}} === 食文化 === {{main|レバノン料理}} [[地中海世界]]の食文化の一つである[[レバノン料理]]は、[[野菜]]や[[ハーブ]]、[[オリーブ油]]を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名な[[フムス|フンムス]]や[[ファラフェル|ファラーフェル]]、[[ケバブ|ケバーブ]]料理はレバノンでも人気が高い。 {{仮リンク|レバノンワイン|en|Lebanese wine}}も古代オリエントが[[ワイン]]発祥の地と謳われるだけあり、多数の[[ワイナリー]]を抱え、世界的にも評価が高い。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|レバノン文学|fr|Littérature libanaise}}|アラビア語文学}} 20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位を[[エジプト]]の首都[[カイロ]]と争っていた。 文学においては、ブシャッリに生まれた[[ハリール・ジブラーン]]は特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された<ref>The Hindu (5 January 2003). [http://www.hinduonnet.com/thehindu/lr/2003/01/05/stories/2003010500320500.htm "Called by life";]. Retrieved 8 January 2007.</ref>。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、[[エリアス・フーリー]]、[[アミン・マアルーフ]]、[[ハナン・アル=シェイク]]などの名が挙げられる。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|レバノンの音楽|en|Music of Lebanon}}}} レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから[[西ヨーロッパ|西欧]]の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。 中東の歌姫として名高い[[ファイルーズ]]を始め、作曲家にして[[ウード]]の演奏家であるレバノン人でありながら[[パレスチナ国|パレスチナ]]を主題とした音楽を多く発表し、「[[パレスチナ人]]の中のパレスチナ人」と言われ[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]のArtist for Peaceを受賞した[[マルセル・ハリーファ]]などが有名である。その他の傑出したアーティストとしては[[ジュリア・ブトロス]]、[[マジダ・エル・ルウミ]]、[[サバー (歌手)|サバー]]、[[ワディー・エル・サフィー]]、修道女であり歌手である[[マリー・ケイルーズ]]、[[ナンシー・アジュラム]]などの名が挙げれる。 他のアーティストが[[西洋]]の音楽との融合を図る中、[[ナジワ・カラーム]]や[[アッシ・エル・ヘラーニ]]のようなレバノンのアーティストは、'jabali'(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。 [[1981年]]に発表されたレバノンの[[アラブ演歌]]歌手である[[アーザール・ハビブ]]の楽曲である「 حبيتك (お前が好きだった)」が[[2000年]]に[[Hatten ar din]]という動画で使われ世界中で再生された。しかし、アラブ演歌としてではなく、[[スウェーデン語]]の空耳に聞こえるという動画作成者の勝手な解釈や関連の無い画像の面白さで流行した。 近年では、欧米の[[プログレッシヴ・ロック]]の影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。 === 演劇 === レバノンに存在する劇場の大部分は首都ベイルートに拠点を構えている<ref>Carter, Dunston, and Thomas. Syria and Lebanon, page 257.</ref>。 {{See also|{{仮リンク|レバノンの劇場|en|Theatre of Lebanon}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|レバノンの映画|en|Cinema of Lebanon}}}} {{節スタブ}} === 美術 === 美術においては、[[ムスタファ・ファルーク]]が[[20世紀]]レバノンの最も傑出した画家の一人である。[[ローマ]]と[[パリ]]で学び、芸術家としての生涯を通してパリや[[ニューヨーク]]やベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。 {{See also|{{仮リンク|レバノンのアーティストの一覧|en|List of artists from Lebanon}}|{{仮リンク|レバノンの美術館の一覧|en|List of museums in Lebanon}}}} === 建築 === [[ファイル:Lebanon - Beit Eddin.jpg|thumb|{{仮リンク|ベイトエッディーン宮殿|en|Beiteddine Palace}}]] {{main|{{仮リンク|レバノンの建築|en|Architecture of Lebanon}}}} レバノンは石造りの城が多く遺されている場所として知られている。一例として{{仮リンク|レイモンド・ド・サン・ジル城塞|en|Citadel of Raymond de Saint-Gilles}}や{{仮リンク|ムッサ城|en|Moussa Castle}}が存在する。 {{See also|{{仮リンク|レバノンの建築家の一覧|en|List of Lebanese architects}}}} === 世界遺産 === {{main|レバノンの世界遺産}} レバノン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が5件存在する。 <gallery> ファイル:Anjar.jpg|[[アンジャル]](1984年) ファイル:Baalbek003.jpg|[[バールベック]](1984年) ファイル:ByblosObeliskTemple.jpg|[[ビブロス]](1984年) ファイル:TyreAlMinaAgora.jpg|[[ティルス]](1984年) ファイル:Qadisha.jpg|[[カディーシャ渓谷と神の杉の森]](1998年) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|レバノンの祝日|en|Public holidays in Lebanon}}}} {| class="wikitable" style= |+ '''祝祭日''' ! 日付 !! 日本語表記 |- | [[5月1日]] | [[メーデー]] |- | [[5月6日]] | 殉教者の日 |- | [[8月1日]] | 軍隊記念日 |- | [[11月22日]] | レバノン[[独立記念日]]([[1943年]]11月22日) |} 1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した<ref>[[#小山 (1977)|小山 (1977)]], p.78</ref>。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|レバノンのスポーツ|en|Sport in Lebanon}}}} {{See also|オリンピックのレバノン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|レバノンのサッカー|en|Football in Lebanon}}}} レバノン国内でも他の[[中東]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。[[1934年]]にはプロサッカーリーグの[[レバノン・プレミアリーグ]]が創設された。[[レバノンサッカー連盟]](FLFA)によって構成される[[サッカーレバノン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[AFCアジアカップ]]には2度の出場歴をもつ。 著名なレバノン人選手としては[[ジョアン・オマリ]]が存在する。当時[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]の[[FSVフランクフルト]]や[[J1リーグ|Jリーグ]]の[[FC東京]]などで主に活躍した、レバノンを代表する[[ディフェンダー (サッカー)|センターバック]]である。 == 人物 == {{main|レバノン人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書|author=小山茂樹|authorlink=小山茂樹 |title=レバノン アラブ世界を映す鏡 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公新書]]|date=1977-07-25 |id={{NDLJP|12176861}}|ref=小山(1977)}} *{{Cite book |和書|author=堀口松城 |date=2005-11 |title=レバノンの歴史 -フェニキア人の時代からハリーリ暗殺まで- |publisher=[[明石書店]] |series=世界歴史叢書 |isbn=978-4-7503-2231-5 |ref=堀口(2005)}} *{{Cite book |和書|author=青山弘之|author2=末近浩太 |date=2009-02 |title=現代シリア・レバノンの政治構造 |publisher=[[岩波書店]] |series=アジア経済研究所叢書 5 |isbn=978-4-00-009974-5 |ref=青山 & 末近(2009)}} *{{Cite book |和書|author=安武塔馬 |date=2011-7 |title=レバノン -混迷のモザイク国家- |publisher=[[長崎出版]] |isbn=978-4-86095-463-5 |ref=安武(2011)}} == 関連項目 == * [[レバノン関係記事の一覧]] * [[マロン派]] * [[レバノンスギ]] * [[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]] - 2006年2月にベイルートにて中東研究日本センター(JaCMES)を開設した。 == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no | v = no }} '''政府''' * [http://www.presidency.gov.lb レバノン大統領府]{{ar icon}}{{en icon}} '''日本国政府''' * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lebanon/ 日本外務省 - レバノン] {{ja icon}} * [https://www.lb.emb-japan.go.jp/itprtop_en/index.html 在レバノン日本国大使館] {{ja icon}} '''その他''' *[https://globalnewsview.org/archives/6980 地域大国に挟まれた国:レバノン](GNV){{ja icon}} *[http://www.destinationlebanon.gov.lb/arabic/index.asp レバノン観光省]{{リンク切れ|date=2022年1月}} {{ar icon}}{{en icon}} *[https://www.jccme.or.jp/08/08-07-23.html JCCME - レバノン] {{アジア}} {{OIC}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:れはのん}} [[Category:レバノン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:アラブ連盟]] [[Category:フランコフォニー加盟国]]
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セレス
セレス セレス (Ceres) は、ラテン語のケレス、または、チェレスのフランス語読み。ただし、フランス語での綴りは、Cérèsである。なお、英語読みはシーリーズ、または、シアリーズである。 セレス (Serres, Σέρρες)は、ギリシャ、中央マケドニア地方の県、またはそこに所在する都市。
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セレス
'''セレス''' == Ceres == セレス ({{lang|la|Ceres}}) は、[[ラテン語]]の[[ケレス]]、または、チェレスの[[フランス語]]読み。ただし、フランス語での綴りは、{{lang|fr|Cérès}}である。なお、[[英語]]読みはシーリーズ、または、シアリーズである。 * [[ケレース]] - [[ローマ神話]]に登場する女神。 * [[ケレス (準惑星)]] - [[小惑星帯]]で最も大きい天体、[[準惑星]]。 * [[トヨタ・カローラセレス]] - [[トヨタ自動車]]の[[セダン]]型[[自動車]]、[[トヨタ・カローラ]]の派生車種である4ドア[[ハードトップ]]型乗用車の名前。 * [[セレス小林]] - 日本の元プロボクサー。 ** [[セレスボクシングスポーツジム]] - セレス小林によって開設された日本のプロ[[ボクシングジム]]。 * [[セレス (インターネット関連企業)]] == Celes == * セレスブライダルグループ - [[千代田セレモニー]]が運営する、[[結婚式場]]等を運営する企業。 ** セレス高田馬場([[東京都]][[新宿区]]) ** セレス立川(東京都[[立川市]]) ** セレス相模原([[神奈川県]][[相模原市]]) ** [[セレス甲府]]([[山梨県]][[甲府市]]) == Seles == * [[モニカ・セレス]] - セルビアの[[テニス]]選手。 == Seres == * [[セレス (古代ローマ)]] - [[古代ローマ人]]、[[ギリシャ人]]が漠然と[[中国人]]、または[[タリム盆地]]の[[アーリア人]]系住民を指した語。「[[絹]]の生産者」を意味する。[[ローマ帝国]]は[[漢]]の絹を盛んに輸入していたことからそう呼んだ(アーリア人は、[[シルクロード]]を介して絹の[[中継貿易]]をしていた)。国名としては「[[セリカ (古代ローマ)|セリカ]](Serica)」が用いられた。 == Serres == セレス ({{lang|el|Serres, Σέρρες}})は、[[ギリシャ]]、[[中央マケドニア]]地方の県、またはそこに所在する都市。 * [[セレス県]] * [[セレス (ギリシャ)]] == フィクション == * セレス - [[高橋美由紀 (漫画家)|高橋美由紀]]の漫画『エル~海を守る者~』の「風の訪問者」の登場人物。フルネームは「セレスティーヌ・コバス」。 * セレス - ライトノベル『[[異世界居酒屋「のぶ」]]』の登場人物。帝国皇后セレスティーヌ・ド・オイリア。 == その他 == * [[キア・セレス]] - [[起亜自動車]]の商用車。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:せれす}} [[Category:同名の企業]]
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女性
女性(じょせい、希: γυναίκα、英: woman)は、男性と対比されるヒト(人間)の性別。女の人。 一般的に「女性」という語は成人の女性に対して使うことが適当である。別名では「婦人」や「婦女」である。 未成年の女子に対しては「少女」となり、小児の場合は「女の子」や「女児」となる。 英語の「woman」の語源は、古英語の「wifman」(「妻」を意味する「wif」と、「男・人」を意味する「man」を組み合わせたもの)に由来する。 英語「woman」の語源が、女性の象徴と比喩される子宮という意味から「womb(子宮)+man」であるという説が出回っていることもあるが、これは誤解である。 辞書では「女性」の定義は少しずつ差別を無くし、包括的なものに変化している。 オックスフォード英語辞典では2020年に異性愛規範を前提とした記述を改め、同性愛を含めたものとなった。ケンブリッジ英語辞典では性同一性が女性である人についても記載し、トランス女性を包括するように2022年に改善された。 生物学的な性としての女性は、一般的な動物のメスに相当する。 現代医学の立場から言えば、女性は元来主に性染色体としてX性染色体のみをもつ(XX)であり身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄が女性としての事実根拠となる。また、女性は、婦人科系が重要であり卵を生産し種々のホルモンを分泌する卵巣、胎児を体内で育てるための子宮などといった器官などを持っている。 女性の場合、思春期に卵巣が発達し、女性ホルモン分泌が増え、第二次性徴が出現する。乳房の発達が始まる(Thelarche・乳房のタナー段階II)ことで思春期に入るため、この時点で思春期に入った事に気づきやすい。次に、女性器が発達し始め、陰毛・腋毛が生え始める。身長の伸びがピークを迎えた後に筋肉に比べて皮下脂肪が急速に増大。これは子供を産むためにそなえているものだが、腰回りがふくよかになる。思春期開始から初経の1年以上前は大人の体型への変化し始めで骨盤がまだ前傾傾向(女児型)のままで子供の体型に近いが、初経を挟む前後1年間に急激に体型が変化し、骨盤が直立傾向(女性成人型)に転換し始め、腹がまっすぐに尻が大きくなり始め、初潮の1年後以降に骨盤が直立傾向(女性成人型)となり、腰がくびれ、大人の体型に近くなる。 このような生物学的性差は根本的には、染色体の型に由来する。上記のような解剖学的な意味での女性は、多くの場合、性染色体としてX性染色体のみをもつ(XX)。発生のない段階では、積極的なミューラー管のアポトーシスを起こす因子が存在せず、ウォルフ管から男性生殖器の一部を誘導するホルモンがないために、自然にウォルフ管のアポトーシスが起こり、ミューラー管が発達する。 また2018年にロート製薬が発表した研究成果によると、一定の年齢帯の女性の身体は特有の甘い匂いを放出しているとのことで、そのニオイの正体は桃やココナツなどの香りの構成成分と同じラクトンC10ならびラクトンC11という化合物であり、この匂いを感じると男性は「女性らしさ」「若々しさ」「魅力度」を感じる確率が高くなり、この匂いがあると匂いが無い場合よりもその女性の視覚的な印象すらも良かったと男性は思ってしまう(男性の脳はこの匂いに影響されてというか「惑わされて」、視覚が勘違いをする、実態以上に良いと感じてしまう)と研究結果で明かされている。この甘いニオイの放出量は年齢とともに変化し、10代と20代の女性からは多く放出されており、30代に入ると急激に減少し、35歳には放出量の谷底、グラフで見ると一種の「曲がり角」を迎え、35歳以降は低いままほぼ横ばいである、ということも同時に明かされた。 先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において女性は平均寿命が男性に比べ長い。 正常女性の性染色体はXX染色体でありY染色体より優性染色体とされ、正常女性では血友病や色盲にはならないもしくはなりづらい。 様々な遺伝的または外的要因により、厳密には当てはまらないケースも存在する(半陰陽参照のこと)。しかしながら、概ね上記に当てはまれば通常その人は、女性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は、非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。 性染色体がXY型またはXO型で発現が女性である実例はあるが、その多くは本人も周囲も女性として受けとめられている。前者は、例えばY性染色体上の因子によって作られるアンドロゲンの受容体が機能しないアンドロゲン不応症や、男性ホルモンの分泌障害である副腎性器症候群などであり、後者はいわゆるターナー症候群である。 稀に、性別の割り当てで男性として出生し生物学的性別と一致しない女性としての永続的な性同一性を持ち及び女性としての性表現を表すことで(性同一性障害の診断書を取得し)必須として女性ホルモン剤の投与と性別適合手術及び、場合によっては美容整形や医療脱毛・声帯手術・喉頭隆起切除術などを施術し女性に似た外見や印象などを持たせ、女性として生活歴や治療歴を表すことによって裁判所に書類等を全て揃え申し立てる事によって戸籍上の男性名から女性名への医学診断名の「性同一性障害」の診断名による改名や性同一性障害特例法の法的条件が認められた者は従前の戸籍は男性であった戸籍記録はそのまま残る部分はあるものの世帯戸籍から除籍されて新戸籍として編製され戸籍上も正式な女性となる。日本では2003年に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった。 生物学的な性差のほか、社会的・文化的に作られる性差(ジェンダー)によっても女性と男性は区分される。ジェンダーは社会的に構築されるものであるため各時代や各背景で異なり、また変化しうるものである。 列国議会同盟の調査による各国下院の2019年度男女議員比率において、女性議員の割合は次第に増えてきており、なかでもルワンダ 61.3%、キューバ53.2%、ボリビア 53.1%、と、これらの国では女性議員の割合のほうが50%を越えており男性議員より多い。50%越えまでいかない国々でも、メキシコ 48.2%、スウェーデン 47.3%、グレナダ 46.7%、ナミビア46.2%、コスタリカ 45.6%、ニカラグア 44.6%、南アフリカ 42.7%、セネガル 41.8%、フィンランド 41.5%、スペイン 41.1%、ノルウェー 40.8%、ニュージーランド 40.0%、フランス 39.7%、モザンビーク 39.6%...など、女性議員の割合が30%をはるかに越える割合になっている国は非常に多く、次第に増えてきている。 一国の首相や大統領が女性である国も次第に増えてきている。イギリスでは1979年5月から1990年11月まで首相がマーガレット・サッチャーであり、王も1952年から2022年までエリザベス2世(女王)であった。ドイツでは首相は2005年11月から2021年12月までアンゲラ・メルケルであり、国民からの評価が高くドイツ史に残る長期政権となった。ニュージーランドの首相は2017年10月よりジャシンダ・アーダーン。フィンランドの首相も2019年からサンナ・マリンである。モルドバの首相も2021年8月よりナタリア・ガブリリツァ(en:Natalia Gavrilița)であり、スウェーデンも首相は2021年11月から2022年10月までマグダレナ・アンデションであった。ハンガリーでも大統領が2022年3月からノバーク・カタリン(en:Katalin Novák)となった。 併せて、日本では2023年6月にLGBT理解増進法が施行され、全ての女性に対して社会環境が従前の女らしさを押し付けず、性表現等や性的指向などの多様性ある自分らしく生きれるよう社会的理解を守る法律が成立した。 男性と女性の果たす役割は、どの文化においても異なるものとされてきたが、その役割の性による差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれていた。父系制の場合父の権力が一般に強いのに対し、母系制社会では一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性の権力が強かった。「母方女性が社会権力を握る母権制社会」は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、歴史的な母権制社会は空想上の概念であると理解されている。 しかし母系制の中でも、イロコイ連邦のように、首長の任免権において女性が優越する例もある(首長自体は男性に限られていたが、この地位は平時においても戦時においても他の氏族員に対して権利において優越せず、氏族全体の意思と、罷免権を持つ女性の意思を尊重せねばならなかった)。さらに中国雲南省のモソ人(英語版)においては、財産と血統を母系で継承し、女家長が土地・家屋・財産を管理している(母方オジは女家長に次ぐ地位として、対外交渉などを担当する)。モソ人には女児選好があり、また葬儀の準備や屠殺などの不浄な役割は男性が担当する。 インドのメーガーラヤ州に分布するカーシ人(英語版)(プナール人(英語版))は母系制の妻方居住婚であり、女児選好があるうえ、末の娘が最大の財産を相続する。カーシ社会での父親や叔父の地位の低さに不満を持つ男性たちが、家父長制の導入を目指して1990年から「男性解放団体」を組織して活動しているが、その勢力は微弱である。 インドネシアのミナンカバウ人も母系制の妻方居住婚であり、イスラム以前からの慣習法であるアダト・ペルパティ(英語版)を保持している。ミナンカバウ社会においては女性が財産を相続し、伝統儀式や天然資源・家計の管理において実権を握っている。ギニアビサウのビジャゴ諸島では、女性が社会福祉・経済・司法・宗教・婚姻において優位であり、男性は「義務から解放された年少者」として扱われる。 女性が男性に比して不利な条件下に置かれることは多い。一例として、世界全体での女性の非識字率は男性の非識字率よりもはるかに高く、2000年の統計によると、男性の非識字者が14.8%で、女性の非識字者は25.8%だった。 その一方で、高等教育段階では女子学生の世界的に見ても、女子学生の進学率・卒業率が男子学生を上回っている。2009年の時点で、ヨーロッパと北米ではスイス1国を除き、すべての国で高等教育機関の女子学生割合が男子学生を上回っている。アメリカでは、1920年代にすべての州で高校の出席率・卒業率において女子が男子を上回った。2021年の時点で大学への入学率と卒業率も男子より高く、2014年の時点で学士号・修士号・博士号のすべての取得者数において、男子を上回っている。2022年のユネスコ報告書においても、高等教育段階への進学者数は世界平均で女子100人に対して男子88人に留まり、この男女格差はサブサハラを除いたすべての地域で共通している。高等教育段階で男子が立ち遅れる理由には、苛酷な規律、体罰など学校における暴力、ジェンダー化された規範と期待、そして貧困と児童労働があると指摘されている。 18世紀末以降、女性の権利拡大や男女同権を求めるフェミニズムが徐々に勢力を拡大した。初期フェミニズムの重要な目標は女性参政権の獲得であり、1893年のニュージーランドにおいて世界初の女性参政権が承認され(ただし、被選挙権は1919年から)、これを皮切りに世界各国で女性参政権が認められるようになった。1979年には国際連合で女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約が採択された。 日本では1972年に勤労婦人福祉法が成立し、さらに1985年にはこれを改正して「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(男女雇用機会均等法)が成立した。1999年には男女共同参画社会基本法が施行された。 ♀の記号は、惑星としては金星を表し、ローマ神話のウェヌス(ヴィーナス)、ギリシア神話ではアプロディーテーを表すが、生物学では女性の性を表すための記号となっている。。錬金術においては、この記号は銅を表わし、女性性と関連していた。 敬称は成人女性全般にご婦人を呼称する。既婚女性への呼びかけであるミセス・ マダムという呼称や、未婚女性ならミス・マドモワゼルに値するお嬢さん等を呼称などあるが、英語圏の北米をはじめ女性に対しての男女同権や婚姻の有無を問う失礼な呼びかけは日本も同様に倫理的に失礼な呼称となるために普段はあまり使用しない。全ての女性を平等に分け隔てなく呼称する際はミズやレディに値する淑女、お姉さん(おねえさん)・貴女(あなた又はきじょ)•ご婦人(ごふじん)・または「氏名〜さん」「氏名〜さま」等となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "女性(じょせい、希: γυναίκα、英: woman)は、男性と対比されるヒト(人間)の性別。女の人。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的に「女性」という語は成人の女性に対して使うことが適当である。別名では「婦人」や「婦女」である。 未成年の女子に対しては「少女」となり、小児の場合は「女の子」や「女児」となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語の「woman」の語源は、古英語の「wifman」(「妻」を意味する「wif」と、「男・人」を意味する「man」を組み合わせたもの)に由来する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語「woman」の語源が、女性の象徴と比喩される子宮という意味から「womb(子宮)+man」であるという説が出回っていることもあるが、これは誤解である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "辞書では「女性」の定義は少しずつ差別を無くし、包括的なものに変化している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オックスフォード英語辞典では2020年に異性愛規範を前提とした記述を改め、同性愛を含めたものとなった。ケンブリッジ英語辞典では性同一性が女性である人についても記載し、トランス女性を包括するように2022年に改善された。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "生物学的な性としての女性は、一般的な動物のメスに相当する。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現代医学の立場から言えば、女性は元来主に性染色体としてX性染色体のみをもつ(XX)であり身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄が女性としての事実根拠となる。また、女性は、婦人科系が重要であり卵を生産し種々のホルモンを分泌する卵巣、胎児を体内で育てるための子宮などといった器官などを持っている。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "女性の場合、思春期に卵巣が発達し、女性ホルモン分泌が増え、第二次性徴が出現する。乳房の発達が始まる(Thelarche・乳房のタナー段階II)ことで思春期に入るため、この時点で思春期に入った事に気づきやすい。次に、女性器が発達し始め、陰毛・腋毛が生え始める。身長の伸びがピークを迎えた後に筋肉に比べて皮下脂肪が急速に増大。これは子供を産むためにそなえているものだが、腰回りがふくよかになる。思春期開始から初経の1年以上前は大人の体型への変化し始めで骨盤がまだ前傾傾向(女児型)のままで子供の体型に近いが、初経を挟む前後1年間に急激に体型が変化し、骨盤が直立傾向(女性成人型)に転換し始め、腹がまっすぐに尻が大きくなり始め、初潮の1年後以降に骨盤が直立傾向(女性成人型)となり、腰がくびれ、大人の体型に近くなる。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このような生物学的性差は根本的には、染色体の型に由来する。上記のような解剖学的な意味での女性は、多くの場合、性染色体としてX性染色体のみをもつ(XX)。発生のない段階では、積極的なミューラー管のアポトーシスを起こす因子が存在せず、ウォルフ管から男性生殖器の一部を誘導するホルモンがないために、自然にウォルフ管のアポトーシスが起こり、ミューラー管が発達する。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また2018年にロート製薬が発表した研究成果によると、一定の年齢帯の女性の身体は特有の甘い匂いを放出しているとのことで、そのニオイの正体は桃やココナツなどの香りの構成成分と同じラクトンC10ならびラクトンC11という化合物であり、この匂いを感じると男性は「女性らしさ」「若々しさ」「魅力度」を感じる確率が高くなり、この匂いがあると匂いが無い場合よりもその女性の視覚的な印象すらも良かったと男性は思ってしまう(男性の脳はこの匂いに影響されてというか「惑わされて」、視覚が勘違いをする、実態以上に良いと感じてしまう)と研究結果で明かされている。この甘いニオイの放出量は年齢とともに変化し、10代と20代の女性からは多く放出されており、30代に入ると急激に減少し、35歳には放出量の谷底、グラフで見ると一種の「曲がり角」を迎え、35歳以降は低いままほぼ横ばいである、ということも同時に明かされた。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において女性は平均寿命が男性に比べ長い。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "正常女性の性染色体はXX染色体でありY染色体より優性染色体とされ、正常女性では血友病や色盲にはならないもしくはなりづらい。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "様々な遺伝的または外的要因により、厳密には当てはまらないケースも存在する(半陰陽参照のこと)。しかしながら、概ね上記に当てはまれば通常その人は、女性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は、非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "性染色体がXY型またはXO型で発現が女性である実例はあるが、その多くは本人も周囲も女性として受けとめられている。前者は、例えばY性染色体上の因子によって作られるアンドロゲンの受容体が機能しないアンドロゲン不応症や、男性ホルモンの分泌障害である副腎性器症候群などであり、後者はいわゆるターナー症候群である。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "稀に、性別の割り当てで男性として出生し生物学的性別と一致しない女性としての永続的な性同一性を持ち及び女性としての性表現を表すことで(性同一性障害の診断書を取得し)必須として女性ホルモン剤の投与と性別適合手術及び、場合によっては美容整形や医療脱毛・声帯手術・喉頭隆起切除術などを施術し女性に似た外見や印象などを持たせ、女性として生活歴や治療歴を表すことによって裁判所に書類等を全て揃え申し立てる事によって戸籍上の男性名から女性名への医学診断名の「性同一性障害」の診断名による改名や性同一性障害特例法の法的条件が認められた者は従前の戸籍は男性であった戸籍記録はそのまま残る部分はあるものの世帯戸籍から除籍されて新戸籍として編製され戸籍上も正式な女性となる。日本では2003年に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった。", "title": "生物学・医学的な説明" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "生物学的な性差のほか、社会的・文化的に作られる性差(ジェンダー)によっても女性と男性は区分される。ジェンダーは社会的に構築されるものであるため各時代や各背景で異なり、また変化しうるものである。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "列国議会同盟の調査による各国下院の2019年度男女議員比率において、女性議員の割合は次第に増えてきており、なかでもルワンダ 61.3%、キューバ53.2%、ボリビア 53.1%、と、これらの国では女性議員の割合のほうが50%を越えており男性議員より多い。50%越えまでいかない国々でも、メキシコ 48.2%、スウェーデン 47.3%、グレナダ 46.7%、ナミビア46.2%、コスタリカ 45.6%、ニカラグア 44.6%、南アフリカ 42.7%、セネガル 41.8%、フィンランド 41.5%、スペイン 41.1%、ノルウェー 40.8%、ニュージーランド 40.0%、フランス 39.7%、モザンビーク 39.6%...など、女性議員の割合が30%をはるかに越える割合になっている国は非常に多く、次第に増えてきている。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一国の首相や大統領が女性である国も次第に増えてきている。イギリスでは1979年5月から1990年11月まで首相がマーガレット・サッチャーであり、王も1952年から2022年までエリザベス2世(女王)であった。ドイツでは首相は2005年11月から2021年12月までアンゲラ・メルケルであり、国民からの評価が高くドイツ史に残る長期政権となった。ニュージーランドの首相は2017年10月よりジャシンダ・アーダーン。フィンランドの首相も2019年からサンナ・マリンである。モルドバの首相も2021年8月よりナタリア・ガブリリツァ(en:Natalia Gavrilița)であり、スウェーデンも首相は2021年11月から2022年10月までマグダレナ・アンデションであった。ハンガリーでも大統領が2022年3月からノバーク・カタリン(en:Katalin Novák)となった。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "併せて、日本では2023年6月にLGBT理解増進法が施行され、全ての女性に対して社会環境が従前の女らしさを押し付けず、性表現等や性的指向などの多様性ある自分らしく生きれるよう社会的理解を守る法律が成立した。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "男性と女性の果たす役割は、どの文化においても異なるものとされてきたが、その役割の性による差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれていた。父系制の場合父の権力が一般に強いのに対し、母系制社会では一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性の権力が強かった。「母方女性が社会権力を握る母権制社会」は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、歴史的な母権制社会は空想上の概念であると理解されている。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし母系制の中でも、イロコイ連邦のように、首長の任免権において女性が優越する例もある(首長自体は男性に限られていたが、この地位は平時においても戦時においても他の氏族員に対して権利において優越せず、氏族全体の意思と、罷免権を持つ女性の意思を尊重せねばならなかった)。さらに中国雲南省のモソ人(英語版)においては、財産と血統を母系で継承し、女家長が土地・家屋・財産を管理している(母方オジは女家長に次ぐ地位として、対外交渉などを担当する)。モソ人には女児選好があり、また葬儀の準備や屠殺などの不浄な役割は男性が担当する。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "インドのメーガーラヤ州に分布するカーシ人(英語版)(プナール人(英語版))は母系制の妻方居住婚であり、女児選好があるうえ、末の娘が最大の財産を相続する。カーシ社会での父親や叔父の地位の低さに不満を持つ男性たちが、家父長制の導入を目指して1990年から「男性解放団体」を組織して活動しているが、その勢力は微弱である。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "インドネシアのミナンカバウ人も母系制の妻方居住婚であり、イスラム以前からの慣習法であるアダト・ペルパティ(英語版)を保持している。ミナンカバウ社会においては女性が財産を相続し、伝統儀式や天然資源・家計の管理において実権を握っている。ギニアビサウのビジャゴ諸島では、女性が社会福祉・経済・司法・宗教・婚姻において優位であり、男性は「義務から解放された年少者」として扱われる。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "女性が男性に比して不利な条件下に置かれることは多い。一例として、世界全体での女性の非識字率は男性の非識字率よりもはるかに高く、2000年の統計によると、男性の非識字者が14.8%で、女性の非識字者は25.8%だった。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その一方で、高等教育段階では女子学生の世界的に見ても、女子学生の進学率・卒業率が男子学生を上回っている。2009年の時点で、ヨーロッパと北米ではスイス1国を除き、すべての国で高等教育機関の女子学生割合が男子学生を上回っている。アメリカでは、1920年代にすべての州で高校の出席率・卒業率において女子が男子を上回った。2021年の時点で大学への入学率と卒業率も男子より高く、2014年の時点で学士号・修士号・博士号のすべての取得者数において、男子を上回っている。2022年のユネスコ報告書においても、高等教育段階への進学者数は世界平均で女子100人に対して男子88人に留まり、この男女格差はサブサハラを除いたすべての地域で共通している。高等教育段階で男子が立ち遅れる理由には、苛酷な規律、体罰など学校における暴力、ジェンダー化された規範と期待、そして貧困と児童労働があると指摘されている。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "18世紀末以降、女性の権利拡大や男女同権を求めるフェミニズムが徐々に勢力を拡大した。初期フェミニズムの重要な目標は女性参政権の獲得であり、1893年のニュージーランドにおいて世界初の女性参政権が承認され(ただし、被選挙権は1919年から)、これを皮切りに世界各国で女性参政権が認められるようになった。1979年には国際連合で女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約が採択された。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本では1972年に勤労婦人福祉法が成立し、さらに1985年にはこれを改正して「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(男女雇用機会均等法)が成立した。1999年には男女共同参画社会基本法が施行された。", "title": "文化と社会" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "♀の記号は、惑星としては金星を表し、ローマ神話のウェヌス(ヴィーナス)、ギリシア神話ではアプロディーテーを表すが、生物学では女性の性を表すための記号となっている。。錬金術においては、この記号は銅を表わし、女性性と関連していた。", "title": "女性記号" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "女性記号" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "敬称は成人女性全般にご婦人を呼称する。既婚女性への呼びかけであるミセス・ マダムという呼称や、未婚女性ならミス・マドモワゼルに値するお嬢さん等を呼称などあるが、英語圏の北米をはじめ女性に対しての男女同権や婚姻の有無を問う失礼な呼びかけは日本も同様に倫理的に失礼な呼称となるために普段はあまり使用しない。全ての女性を平等に分け隔てなく呼称する際はミズやレディに値する淑女、お姉さん(おねえさん)・貴女(あなた又はきじょ)•ご婦人(ごふじん)・または「氏名〜さん」「氏名〜さま」等となる。", "title": "敬称" } ]
女性は、男性と対比されるヒト(人間)の性別。女の人。 一般的に「女性」という語は成人の女性に対して使うことが適当である。別名では「婦人」や「婦女」である。 未成年の女子に対しては「少女」となり、小児の場合は「女の子」や「女児」となる。
{{redirect|女}} {{Otheruses||[[太宰治]]の短編小説集|女性 (短編集)|[[南沙織]]のシングル曲|女性 (南沙織の曲)}} {{出典の明記|date=2012年7月}} {{Infobox |title= 女・女人・女性 |image= [[File:Woman_Montage_(1).jpg|right|thumb|300px|各国の女性]] |caption= <!-- 上段から左から右 --> }}<!--|caption = Left to right from top: [[Sappho]] {{•}} [[Venus (mythology)|Venus]] {{•}} [[Joan of Arc]] {{•}} [[Eva Perón]] {{•}} [[Marie Curie]] {{•}} [[Indira Gandhi]] {{•}} [[Venus of Willendorf]] {{•}} [[Wangari Maathai]] {{•}} [[Mother Teresa]] {{•}} [[Grace Hopper]] {{•}} Mamechiho, a [[Geisha]] {{•}} a [[Tibet]]ian farmer {{•}} [[Marilyn Monroe]] {{•}} [[Oprah Winfrey]] {{•}} [[Aung San Suu Kyi]] {{•}} [[Mata Hari]] {{•}} [[Isis]] {{•}} the [[Queen of Sheba]] {{•}} [[Elizabeth I]] {{•}} [[Florence Owens Thompson]]--> '''女性'''(じょせい、{{lang-el-short|γυναίκα}}、{{lang-en-short|woman}})は、[[男性]]と対比される[[ヒト]]([[人間]])の[[性別]]。女の人。 一般的に「女性」という語は[[成人]]の女性に対して使うことが適当である<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7_%28%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%9B%E3%81%84%29/ |title=女性(じょせい) とは? 意味・読み方・使い方 |access-date=2023-10-10 |publisher=goo辞書}}</ref>。別名では「[[婦人]]」や「[[婦女]]」である。 [[未成年者|未成年]]の女子に対しては「[[少女]]」となり、[[小児]]の場合は「[[女の子]]」や「[[女児]]」となる。 ==語源== 英語の「woman」の語源は、[[古英語]]の「wifman」(「妻」を意味する「wif」と、「男・人」を意味する「man」を組み合わせたもの)に由来する<ref name= etymonline >{{Cite web|url= https://www.etymonline.com/word/woman |title= woman; Etymology, origin and meaning of woman by etymonline |accessdate=2023/03/08|publisher= Online Etymology Dictionary |author= |date= }}</ref>。 英語「woman」の語源が、女性の象徴と比喩される[[子宮]]という意味<ref>{{Cite web |url=https://www.yokosuka-clinic.com/ovary |title=卵巣の病気・卵巣健診 |access-date=2023-11-21 |publisher=よこすか内科小児科・はるこレディースクリニック}}</ref>から「womb(子宮)+man」であるという説が出回っていることもあるが、これは誤解である<ref>{{cite book |last1=Stanton |first1=Elizabeth Cady |url=https://archive.org/details/womansbibleclass0000stan |title=The Woman's Bible: A Classic Feminist Perspective |date=2002 |publisher=[[Dover Publications]] |isbn=978-0486424910 |location=Mineola, New York |pages=21–22 |chapter=The Book of Genesis, Chapter II |quote=Next comes the naming of the mother of the race. "She shall be called Woman," in the ancient form of the word Womb-man. She was man and more than man because of her maternity. |url-access=registration}} (Originally published in two volumes, 1895 and 1898, by The European Publishing Company.)</ref><ref name= scmp >{{Cite web|url= https://www.scmp.com/magazines/post-magazine/short-reads/article/3052639/where-word-woman-comes-and-how-it-has-evolved |title= Where the word ‘woman’ comes from and how it has evolved with the times |accessdate=2023/03/08|publisher= South China Morning Post |author= |date=2020/03/03 }}</ref>。 ==定義== 辞書では「女性」の定義は少しずつ差別を無くし、包括的なものに変化している。 [[オックスフォード英語辞典]]では[[2020年]]に[[異性愛規範]]を前提とした記述を改め、[[同性愛]]を含めたものとなった<ref name=them201112>{{Cite web|url= https://www.them.us/story/oxford-dictionary-definition-of-woman-more-lgbtq-inclusive|title= Oxford Dictionary Updates Definition of “Woman” to Be More LGBTQ+ Inclusive |accessdate=2023/03/08|publisher= Them |author= |date=2020/11/12 }}</ref>。ケンブリッジ英語辞典では[[性同一性]]が女性である人についても記載し、[[トランス女性]]を包括するように[[2022年]]に改善された<ref name=them221214>{{Cite web|url= https://www.them.us/story/cambridge-dictionary-trans-woman-definition|title= Cambridge Dictionary Made Its “Man” and “Woman” Definitions More Trans-Inclusive |accessdate=2023/03/08|publisher= Them |author= |date=2022/12/14 }}</ref>。 == 生物学・医学的な説明 == {{一次資料|section=1|date=2023年3月}} [[File:Male vs female pelvis LT.PNG|thumb|240px|骨盤の形状の比較。右側が女性の骨盤(左側は男性の骨盤)。明らかに形状が異なる。]] [[ファイル:Woman.svg|thumb|120px|成人女性は[[骨盤]]や[[バスト]]が発達しているという特徴がある。([[パイオニア探査機の金属板]]の一部に描かれた成人した女性像。)]] 生物学的な[[性 (生物学)|性]]としての女性は、一般的な[[動物]]の[[雌|メス]]に相当する。 現代[[医学]]の立場から言えば、女性は元来主に[[性染色体]]としてX性染色体のみをもつ(XX)であり[[性別の割り当て|身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄]]が女性としての事実根拠となる。また、女性は、[[婦人科|婦人科系]]が重要であり[[卵]]を生産し種々の[[ホルモン]]を[[分泌]]する[[卵巣]]、[[胎児]]を体内で育てるための[[子宮]]などといった器官などを持っている。 女性の場合、[[思春期]]に卵巣が発達し、女性ホルモン分泌が増え、[[第二次性徴]]が出現する。[[乳房]]の発達が始まる(Thelarche・乳房の[[タナー段階]]II){{efn|思春期前の間に「思春期前乳房隆起」が発症する場合がある(ほとんどが2歳以下で発症)<ref>[http://senoopc.jp/disease/prethelar.html 妹尾小児科・早発乳房]</ref>。}}<ref>[https://web.archive.org/web/20181209195133/http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f7831/p28526.html お母さんの基礎知識(思春期・男の子編)(もっと詳しく…)-神奈川県ホームページ]</ref>ことで思春期に入るため、この時点で思春期に入った事に気づきやすい<ref>[https://www.takeda.co.jp/patients/pp/pp01.html 「思春期早発症」とは](武田薬品工業)</ref>。次に、女性器が発達し始め、[[陰毛]]・[[腋毛]]が生え始める。身長の伸びがピークを迎えた後に筋肉に比べて[[皮下脂肪]]が急速に増大。これは子供を産むためにそなえているものだが、腰回りがふくよかになる。思春期開始から[[月経|初経]]の1年以上前は大人の体型への変化し始めで[[骨盤]]がまだ前傾傾向(女児型)のままで子供の体型に近いが、初経を挟む前後1年間に急激に体型が変化し、骨盤が直立傾向(女性成人型)に転換し始め、[[腹]]がまっすぐに[[尻]]が大きくなり始め、初潮の1年後以降に骨盤が直立傾向(女性成人型)となり、[[腰]]がくびれ、大人の体型に近くなる<ref>[https://www.wacoal.jp/girlsbody/park/02.html バストと初経のヒミツの関係]</ref><ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20190417000834/http://www.cocoros.jp/data/pdf/wacoal/release/W-P-6.pdf 『初経』をキーにした現代ティーンの成長と体型変化について]}}</ref><ref>[https://www.wacoal.jp/girlsbody/library/special/shortssize.html パンツサイズ(ショーツサイズ)のはかり方|小学生・中学生女の子下着の悩み解決|ガールズばでなび]</ref><ref>{{cite journal|和書 |author=大山建司 |year=2004 |title=<総説> 思春期の発現 |url=https://doi.org/10.34429/00003695 |journal=山梨大学看護学会誌 |ISSN=1347-7714 |publisher=山梨大学看護学会 |volume=3 |issue=1 |pages=3-8 |doi=10.34429/00003695}}</ref>。 このような[[生物学的性差]]は根本的には、[[染色体]]の型に由来する。上記のような解剖学的な意味での女性は、多くの場合、[[性染色体]]としてX性染色体のみをもつ(XX)。発生のない段階では、積極的なミューラー管の[[アポトーシス]]を起こす因子が存在せず、[[ウォルフ管]]から男性生殖器の一部を誘導する[[ホルモン]]がないために、自然に[[ウォルフ管]]のアポトーシスが起こり、ミューラー管が発達する。 また2018年にロート製薬が発表した研究成果によると、一定の年齢帯の女性の身体は特有の甘い[[匂い]]を放出しているとのことで、そのニオイの正体は[[桃]]や[[ココナツ]]などの香りの構成成分と同じ[[ラクトンC10]]ならび[[ラクトンC11]]という化合物であり、この匂いを感じると男性は「女性らしさ」「若々しさ」「魅力度」を感じる確率が高くなり、この匂いがあると匂いが無い場合よりもその女性の視覚的な印象すらも良かったと男性は思ってしまう(男性の脳はこの匂いに影響されてというか「惑わされて」、視覚が勘違いをする、実態以上に良いと感じてしまう)と研究結果で明かされている。この甘いニオイの放出量は年齢とともに変化し、10代と20代の女性からは多く放出されており、30代に入ると急激に減少し、35歳には放出量の谷底、グラフで見ると一種の「曲がり角」を迎え、35歳以降は低いままほぼ横ばいである、ということも同時に明かされた<ref>[http://www.rohto.co.jp/news/release/2018/0214_01/ 女性の「若い頃のニオイ」を解明!「若い頃の甘いニオイ」の正体は「ラクトンC10/ラクトンC11」] 2018年2月14日 [[ロート製薬]]</ref>。 先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において女性は[[平均寿命]]が男性に比べ長い<ref>https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/03.html 「平均寿命の国際比較」日本国厚生労働省 2021年1月17日閲覧</ref>。 正常女性の性染色体はXX染色体でありY染色体より優性染色体とされ、正常女性では[[血友病]]や[[色盲]]にはならないもしくはなりづらい<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hemophilia-st.jp/about/faq/#:~:text=Q.-,%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AF%E8%A1%80%E5%8F%8B%E7%97%85%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F,%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E7%99%BA%E7%97%87%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |title=血友病Q&A(原因や症状 - ヘモフィリアステーション |access-date=2023-10-18 |publisher=武田薬品工業株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASM4R3VPQM4RPLBJ00M.html#:~:text=%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AF%EF%BC%B8%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%82%92,%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 |title=色覚異常、男女で違う割合 目にある3種類の細胞がカギ |access-date=2019-05-26 |publisher=朝日新聞デジタル}}</ref>。反面に女性の[[脊椎側彎症|側湾症]]の罹患率が[[男性]]と比較し高い<ref>{{Cite web |url=https://www.sokuwan.jp/patient/faq.html |title=側弯症のQ&A|側弯症TOWN(患者向けサイト) |access-date=2023-12-09 |publisher=日本側弯症学会}}</ref>。 様々な[[遺伝]]的または外的要因により、厳密には当てはまらないケースも存在する([[半陰陽]]参照のこと)。しかしながら、概ね上記に当てはまれば通常その人は、女性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は、非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。 性染色体がXY型またはXO型で発現が女性である実例はあるが、その多くは本人も周囲も女性として受けとめられている。前者は、例えばY性染色体上の因子によって作られる[[アンドロゲン]]の受容体が機能しない[[アンドロゲン不応症]]や、男性ホルモンの分泌障害である副腎性器症候群などであり、後者はいわゆる[[ターナー症候群]]である。{{main|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律}}稀に、[[性別の割り当て]]で[[男性]]として出生し生物学的性別と一致しない女性としての永続的な[[性同一性]]を持ち及び女性としての[[性表現]]を表すことで([[性同一性障害]]の[[診断書]]を取得し)必須として[[女性ホルモン]]剤の投与と[[性別適合手術]]及び、場合によっては[[美容整形]]や[[脱毛 (美容)#医師法との関係|医療脱毛]]・声帯手術・[[喉頭隆起削除術|喉頭隆起切除術]]などを施術し女性に似た外見や印象などを持たせ、女性として生活歴や治療歴を表すことによって裁判所に書類等を全て揃え申し立てる事によって戸籍上の男性名から女性名への[[医学診断|医学診断名]]の「性同一性障害」の診断名による[[改名]]や[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|性同一性障害特例法]]の法的条件が認められた者は従前の戸籍は男性であった戸籍記録はそのまま残る部分はあるものの[[住民票|世帯戸籍]]から[[除籍簿謄本|除籍]]されて新戸籍として編製され戸籍上も正式な女性となる<ref name=":1">[https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] 裁判所</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jsprs.or.jp/general/disease/sonota/seidoitsusei/ |title=性同一性障害 |access-date=2023-04-09 |publisher=一般社団法人 日本形成外科学会}}</ref><ref name=":02">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sei32/ |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第2項に規定する医師の診断書について |access-date=2023-09-16 |publisher=厚生労働省}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 |access-date=2023-09-16 |publisher=e-Gov法令検索}}</ref>。日本では2003年に[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった<ref>https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」e-Gov法令検索 2021年1月17日閲覧</ref>。 == 文化と社会 == [[ファイル:Joan_of_Arc_miniature_graded.jpg|thumb|200px|[[ジャンヌ・ダルク]]。イギリスとの闘いで劣勢に陥り苦境に陥っていたフランスに登場、兵たちを鼓舞し士気を高めるのに成功、リーダーとしてフランス軍を導き、勝利をもたらしたフランスの女傑。]] 生物学的な[[性差]]のほか、社会的・文化的に作られる性差([[ジェンダー]])によっても女性と男性は区分される<ref name="UN_WOMEN">[https://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/news/2018/9/definition-gender 「ジェンダーとは?」UN Women 日本事務所] 2018年9月21日 2020年1月17日閲覧</ref>。ジェンダーは社会的に構築されるものであるため各時代や各背景で異なり、また変化しうるものである<ref name="UN_WOMEN" />。 [[列国議会同盟]]の調査による各国[[下院]]の2019年度男女議員比率において、女性議員の割合は次第に増えてきており、なかでも[[ルワンダ]] 61.3%、[[キューバ]]53.2%、[[ボリビア]] 53.1%、と、これらの国では女性議員の割合のほうが50%を越えており男性議員より多い<ref>http://archive.ipu.org/wmn-e/classif.htm 「Women in parliament」列国議会同盟 2019年2月 2021年1月17日閲覧</ref>。50%越えまでいかない国々でも、[[メキシコ]] 48.2%、[[スウェーデン]] 47.3%、[[グレナダ]] 46.7%、[[ナミビア]]46.2%、[[コスタリカ]] 45.6%、[[ニカラグア]] 44.6%、[[南アフリカ]] 42.7%、[[セネガル]] 41.8%、[[フィンランド]] 41.5%、[[スペイン]] 41.1%、[[ノルウェー]] 40.8%、[[ニュージーランド]] 40.0%、[[フランス]] 39.7%、[[モザンビーク]] 39.6%...など、女性議員の割合が30%をはるかに越える割合になっている国は非常に多く、次第に増えてきている。 一国の首相や大統領が女性である国も次第に増えてきている。イギリスでは1979年5月から1990年11月まで首相が[[マーガレット・サッチャー]]であり、王も1952年から2022年まで[[エリザベス2世]](女王)であった。ドイツでは首相は2005年11月から2021年12月まで[[アンゲラ・メルケル]]であり、国民からの評価が高くドイツ史に残る長期政権となった。ニュージーランドの首相は2017年10月より[[ジャシンダ・アーダーン]]。[[フィンランド]]の首相も2019年から[[サンナ・マリン]]である。モルドバの首相も2021年8月より[[ナタリア・ガブリリツァ]]([[:en:Natalia Gavrilița]])であり、[[スウェーデン]]も首相は2021年11月から2022年10月まで[[マグダレナ・アンデション]]であった。[[ハンガリー]]でも大統領が2022年3月から[[ノバーク・カタリン]]([[:en:Katalin Novák]])となった。 併せて、[[日本]]では[[2023年]][[6月]]に[[性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律|LGBT理解増進法]]が施行され、全ての女性に対して[[社会環境]]が従前の[[女らしさ]]を押し付けず、[[ジェンダー表現|性表現]]等や[[性的指向]]などの多様性ある自分らしく生きれるよう[[社会的認知|社会的理解]]を守る法律が成立した。 <gallery> ファイル:Margaret_Thatcher.png|イギリス首相となった[[マーガレット・サッチャー]] ファイル:Angela Merkel. Tallinn Digital Summit.jpg|ドイツ首相となった[[アンゲラ・メルケル]](4期目当時の写真)。仕事ぶりが見事で、国民からの信頼・評価が高く、歴史的長期政権となった。 ファイル:Rt Hon Jacinda Ardern.jpg|ニュージーランド首相(2017年10月 - )[[ジャシンダ・アーダーン]] ファイル:Official Portrait of Ursula von der Leyen.jpg|[[欧州委員会委員長]](2019年12月 -)[[ウルズラ・フォン・デア・ライエン]] ファイル:平成29年5月11日東京都知事との面会1_(cropped).jpg|東京都知事{{refnest|group="注釈"|東京都の都民人口は1395万人(令和2年統計)、その予算は一般会計に特別会計と公営企業会計を合わせた都全体の予算規模は(単純合計で)14兆9594億円となりスウェーデンなどの国家予算を超える予算規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.zaimu.metro.tokyo.lg.jp/syukei1/zaisei/3104tozaisei.pdf 東京都の財政]}}</ref>。}}(2016年8月 -) [[小池百合子]]。2022年12月にはフォーブス誌の「世界で最も影響力がある女性100人」に選ばれた<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/38705 Forbes Japan公式サイト]</ref>。 ファイル:Izumi Nakamitsu Cropped.jpg|2017年に国連事務次長となった[[中満泉]]。2018年にはフォーチュン誌発表の「世界の最も偉大なリーダー50人」に選ばれた。 ファイル:Pääministeri Sanna Marin ja komissaari Jutta Urpilainen tapasivat Kesärannassa 12.4.2022 (51999556354) (cropped).jpg|[[フィンランドの首相|フィンランド首相]][[サンナ・マリン]](2019年12月 - ) ファイル:Наталья Гаврилица (30-11-2021).jpg|[[モルドバ]]首相[[ナタリア・ガブリリツァ]](2021年7月 - ) </gallery> <!--File:Liz Truss Official Photo (cropped).jpg|イギリス首相[[リズ・トラス]](2022年9月 - 10月 )--> {{Feminism sidebar}}{{Women in society sidebar}} ;歴史 男性と女性の果たす役割は、どの文化においても異なるものとされてきたが、その役割の性による差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった<ref name="bunkajinruigaku_62">「文化人類学キーワード」p62-63 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、[[父系制]]、[[母系制]]、そして[[双系制]]の3つに分かれていた。父系制の場合父の権力が一般に強いのに対し、母系制社会では一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性の権力が強かった。「母方女性が社会権力を握る母権制社会」は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、歴史的な母権制社会は空想上の概念であると理解されている<ref name="bunkajinruigaku_142">「文化人類学キーワード」p142-143 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。 しかし母系制の中でも、[[イロコイ連邦]]のように、首長の任免権において女性が優越する例もある(首長自体は男性に限られていたが、この地位は平時においても戦時においても他の氏族員に対して権利において優越せず、氏族全体の意思と、罷免権を持つ女性の意思を尊重せねばならなかった)<ref name="江守">{{cite book|和書|title= 母権と父権|author= [[江守五夫]]|publisher= 弘文堂|series= 弘文堂選書|year= 1973|pages= 149-151}}</ref>。さらに[[中国]][[雲南省]]の{{仮リンク|モソ人|en|Mosuo}}においては、財産と血統を母系で継承し、女家長が土地・家屋・財産を管理している(母方オジは女家長に次ぐ地位として、対外交渉などを担当する){{Sfn|金|2011|pp=96, 170}}。モソ人には女児選好があり{{Sfn|金|2011|p=25}}、また葬儀の準備や屠殺などの不浄な役割は男性が担当する<ref>{{cite book|和書|title= 女たちの王国――「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす|publisher= 草思社|author= 曹惠虹|translator= 秋山勝|year= 2017|origyear= 2017|page= 83}}</ref>。 [[インド]]の[[メーガーラヤ州]]に分布する{{仮リンク|カーシ人|en|Khasi people}}({{仮リンク|プナール人|en|Pnar people}})は母系制の妻方居住婚であり、女児選好があるうえ、末の娘が最大の財産を相続する<ref name="Bhaumik">{{cite news|title= Meghalaya: Where women call the shots|url= https://www.aljazeera.com/news/2013/10/16/meghalaya-where-women-call-the-shots|author= Subir Bhaumik|date= 2013-10-16|publisher= Al Jazzera|accessdate= 2023-11-27}}</ref>。カーシ社会での父親や叔父の地位の低さに不満を持つ男性たちが、家父長制の導入を目指して1990年から「男性解放団体」を組織して活動しているが、その勢力は微弱である<ref name="Bhaumik"/>。 [[インドネシア]]の[[ミナンカバウ人]]も母系制の妻方居住婚であり、イスラム以前からの慣習法である{{仮リンク|アダト・ペルパティ|en|Adat perpatih}}を保持している<ref name="Bhanbhro">{{cite web|title= Indonesia’s Minangkabau culture promotes empowered Muslim women|author= Sadiq Bhanbhro|url= https://theconversation.com/indonesias-minangkabau-culture-promotes-empowered-muslim-women-68077|date= 2017-01-13|accessdate= 2023-11-28|publisher= The Conversation}}</ref>。ミナンカバウ社会においては女性が財産を相続し、伝統儀式や天然資源・家計の管理において実権を握っている<ref name="Bhanbhro"/>。[[ギニアビサウ]]の[[ビジャゴ諸島]]では、女性が社会福祉・経済・司法・宗教・婚姻において優位であり、男性は「義務から解放された年少者」として扱われる<ref>{{cite news|title= Bijagos of Guinea-Bissau : Meet the African tribe where women rule and choose their own husbands|url= https://nationaldailyng.com/bijagos-of-guinea-bissau-meet-the-african-tribe-where-women-rule-and-choose-their-own-husbands/|date= 2022-01-30|accessdate= 2023-09-28|last= Emmanuel|first= Olu|publisher= National Daily Newspaper}}</ref>。 <!--昭和の古臭い写真はいらないかも。 [[ファイル:Japanese mother and sons.jpg|thumb|right|150px|[[1974年]]の(つまり今から50年ほど前の)[[東京]]の女性とその子供たち。]]--> 女性が男性に比して不利な条件下に置かれることは多い。一例として、世界全体での女性の非[[識字]]率は男性の非識字率よりもはるかに高く、2000年の統計によると、男性の非[[識字]]者が14.8%で、女性の非識字者は25.8%だった<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p39">「国際教育協力を志す人のために 平和・共生の構築へ」p39 千葉杲弘監修 寺尾明人・永田佳之編 学文社 2004年10月10日第1版第1刷</ref>。 その一方で、高等教育段階では女子学生の世界的に見ても、女子学生の進学率・卒業率が男子学生を上回っている。2009年の時点で、ヨーロッパと北米ではスイス1国を除き、すべての国で高等教育機関の女子学生割合が男子学生を上回っている<ref name="hauw">{{cite journal|author= Yolien De Hauw, André Grow, and Jan Van Bavel|journal= European Journal of Population|title= The Reversed Gender Gap in Education and Assortative Mating in Europe|date= 2017-10|volume= 33|issue= 4|pages= 445-474|url= https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6241077/}}</ref>。アメリカでは、1920年代にすべての州で高校の出席率・卒業率において女子が男子を上回った<ref name="ゴールディング">{{cite book|和書|author= [[クラウディア・ゴールディン]]|translator= 鹿田昌美|title= なぜ男女の賃金に格差があるのか――女性の生き方の経済学|year= 2023|origyear= 2021|publisher= 慶応義塾大学出版会|page= 103}}</ref>。2021年の時点で大学への入学率と卒業率も男子より高く<ref name="ゴールディング"/>、2014年の時点で学士号・修士号・博士号のすべての取得者数において、男子を上回っている<ref>{{cite book|和書|title= なぜ女は男のように自信をもてないのか|author= キャティー・ケイ、クレア・シップマン|translator= 田坂苑子|origyear= 2014|year= 2015|publisher= CCCメディアハウス|page= 134}}</ref>。2022年のユネスコ報告書においても、高等教育段階への進学者数は世界平均で女子100人に対して男子88人に留まり、この男女格差はサブサハラを除いたすべての地域で共通している<ref name="UNESCO">{{cite book|title= Leave no child behind: global report on boys’ disengagement from education|url= https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000381105|year= 2022|publisher= UNESCO}}</ref>。高等教育段階で男子が立ち遅れる理由には、苛酷な規律、体罰など学校における暴力、ジェンダー化された規範と期待、そして貧困と児童労働があると指摘されている<ref name="UNESCO"/>。 [[18世紀]]末以降、女性の権利拡大や男女同権を求める[[フェミニズム]]が徐々に勢力を拡大した。初期フェミニズムの重要な目標は[[女性参政権]]の獲得であり、[[1893年]]の[[ニュージーランド]]において世界初の女性参政権が承認され<ref>「オセアニアを知る事典」平凡社 p206 1990年8月21日初版第1刷</ref>(ただし、被選挙権は1919年から)、これを皮切りに世界各国で女性参政権が認められるようになった。1979年には[[国際連合]]で[[女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約]]が採択された<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/josi/index.html 「女子差別撤廃条約」日本国外務省 令和4年6月24日 2022年12月25日閲覧</ref>。 ;日本 [[日本]]では1972年に勤労婦人福祉法が成立し、さらに1985年にはこれを改正して「[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律]]」(男女雇用機会均等法)が成立した<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/josei-jitsujo/dl/15d.pdf Ⅲ 男女雇用機会均等法成立 30 年を迎えて]}} - 厚生労働省 p69 2020年1月17日閲覧</ref>。1999年には[[男女共同参画社会基本法]]が施行された<ref>「フェミニストたちの政治史 参政権、リブ、平等法」p204 大嶽秀夫 東京大学出版会 2017年2月28日初版</ref>。 == 女性記号 == [[♀]]の記号は、惑星としては金星を表し、[[ローマ神話]]の[[ウェヌス]](ヴィーナス)、[[ギリシア神話]]では[[アプロディーテー]]を表すが、[[生物学]]では女性の性を表すための記号となっている。<ref>{{cite book|editor1-last=Fadu|editor1-first=Jose A.|title=Encyclopedia of Theory & Practice in Psychotherapy & Counseling|date=2014|publisher=LuLu Press|page=337|isbn=978-1312078369}}</ref><ref name=Stearn1962>{{cite journal|author=Stearn, William T.|title=The Origin of the Male and Female Symbols of Biology|url=https://iapt-taxon.org/historic/Congress/IBC_1964/male_fem.pdf|journal=Taxon|date=May 1962|volume=11|issue=4|pages=109–113|doi=10.2307/1217734|issn=0040-0262|accessdate=19 July 2019|jstor=1217734|author-link=William T. Stearn|format=PDF}}</ref><ref name=Schott2005>{{cite journal|last1=Schott|first1=GD|title=Sex symbols ancient and modern: their origins and iconography on the pedigree|url=https://www.bmj.com/content/bmj/331/7531/1509.full.pdf|journal=The BMJ|date=December 2005|volume=331|issue=7531|pages=1509–10|doi=10.1136/bmj.331.7531.1509|pmid=16373733|pmc=1322246|issn=0959-8138|accessdate=19 July 2019|format=PDF}}</ref>。[[錬金術]]においては、この記号は[[銅]]を表わし、[[女性性]]と関連していた<ref name=Schott2005 />。 == 敬称 == {{国際化|date=2023年7月|section=1}} [[敬称]]は成人女性全般に[[婦人|ご婦人]]を呼称する。既婚女性への呼びかけである[[ミセス]]・ [[マダム]]という呼称や、未婚女性なら[[ミス]]・[[マドモワゼル]]に値する[[お嬢さん]]等を呼称などあるが、[[英語圏]]の[[北アメリカ|北米]]をはじめ女性に対しての[[男女同権]]や[[婚姻]]の有無を問う失礼な呼びかけは[[日本]]も同様に倫理的に失礼な呼称となるために普段はあまり使用しない<ref>{{Cite web |url=https://www.live-english.co.jp/post-1649/ |title=Miss. Mrs.は古い!?ジェンダーへの気遣いと英語の敬称 |access-date=2023-10-11 |publisher=live-english.co.jp}}</ref>。全ての女性を平等に分け隔てなく呼称する際は[[ミズ]]や[[レディ]]に値する[[淑女]]、お姉さん(おねえさん)・貴女(あなた又はきじょ)•ご婦人(ごふじん)・または「氏名〜さん」「氏名〜さま」等となる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|title= 東方女人国の教育――モソ族の母系社会における伝統文化の行方|author= 金龍哲|publisher= 大学教育出版|ref= {{SfnRef|金|2017}}}} == 関連項目 == {{Wiktionary|女性|女|おんな|女子|娘|婦人|めす}} {{Wikiquote|女}} {{Commons&cat|Women|Women}} {{ウィキポータルリンク|性|[[画像:Hermaphrodite_symbol.svg|none|32px]]}} * [[婦人]] * [[女らしさ]] * [[フェミニズム]] * [[女性学]] * [[女性差別]] * [[女人禁制]] * [[性 (文法)]] * [[言語と性]] * [[日本の女性史]] * [[母親]] * [[妻]] == 外部リンク == * [{{NDLDC|900741/1}} 『現代女性観』]([[1912年]]文献)[[国立国会図書館]] * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_858.html 女性・ジェンダーについて調べる] - 調べ方案内([[国立国会図書館]]) {{性}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:しよせい}} [[Category:女性|*]] [[Category:雌]]
2003-04-08T07:20:30Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7
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モニカ・セレシュ
モニカ・セレシュ (セレシュ・モーニカ、Monica Seles, Monika Seleš, セルビア語: Моника Селеш, ハンガリー語: Szeles Mónika, 1973年12月2日 - )は、ユーゴスラビア(セルビア)・ヴォイヴォディナ自治州ノヴィ・サド出身のハンガリー人(マジャル人)で、現在はアメリカ国籍の女子プロテニス選手。フロリダ州サラソタ在住。「セレス」と呼ばれることも多い。 左利きで、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちである。そこから繰り出される強烈なショット(特にバックハンドストロークはコンパクトなスイングから非常に強烈なショットを放った)と正確なコントロールを最大の持ち味とした。WTAツアーで4大大会9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。 1989年に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末にアメリカ・ヒューストンの大会でクリス・エバートを決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、WTAツアー初優勝を飾る。その年初出場した全仏オープンでいきなり準決勝進出を果たし、初対戦のシュテフィ・グラフに 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌1990年の全仏オープンでは、決勝でグラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時のオープン化以降4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も全仏オープン女子シングルスの大会最年少優勝記録である。4大大会女子シングルスの最年少優勝記録は、1997年全豪オープンに「16歳3ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスによって破られた。)1991年3月11日には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-1992年に全仏オープン3連覇、1991年-1993年に全豪オープン3連覇、1991年と1992年に全米オープン2連覇を達成するなど、1990年から1993年の4月までは彼女の絶頂期であった。 しかし1993年4月30日、セレシュはドイツ・ハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝でブルガリアのマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。セレシュはこの後遺症により(PTSDと考えられる)、2年半も試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュに怪我をさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の1994年3月、モニカ・セレシュはアメリカ市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。2001年に女子ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権がアメリカ・ニューヨークからドイツ・ミュンヘンに開催地を移転した時も、前年の2000年から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。) 1995年8月、セレシュはようやくカナダオープンで復帰を果たす。その準決勝ではガブリエラ・サバティーニ、決勝でアマンダ・クッツァーを破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の全米オープンでは第2シードで出場。決勝ではライバルのシュテフィ・グラフに 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌1996年、セレシュは全豪オープンで復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した4大大会女子シングルス通算9勝は、モーリーン・コノリーと並ぶ女子歴代8位タイ記録である。 その後はけがによる不振や、マルチナ・ヒンギス、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは1998年全仏オープンであった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードのマルチナ・ヒンギスを破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では1996年全米オープン以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗のアランチャ・サンチェス・ビカリオであり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これが彼女の最後の4大大会決勝戦になる。これはまた、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合でもあった。 2003年の全仏オープン1回戦でナディア・ペトロワ(ロシア)に敗退したのが、セレシュの最後の公式戦出場になる。その後は足の故障により、公式戦復帰への手がかりをつかむことができなかった。2005年12月には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と語り、近いうちの引退を示唆するコメントを発表した。最後の公式戦出場から5年後、セレシュは2008年2月14日(日本時間15日)に正式な現役引退を表明した。 現役引退表明と前後する2008年1月、セレシュはテニス番組の拡充に力を入れているWOWOWと契約を結び、「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始した。3月に来日し、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った。さらにローレウス・スポーツ賞のアカデミー選考委員にも加わり、多彩な活動を繰り広げている。 2009年7月11日、モニカ・セレシュはアンドレス・ヒメノ(スペイン)らとともに国際テニス殿堂入りを果たした。 2014年6月、大富豪のトム・ゴリサリーノ(英語版)との婚約を発表した。 著書に『私は負けない』(1996年刊行、原題:“From Fear to Victory”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。 W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.
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モニカ・セレシュ は、ユーゴスラビア(セルビア)・ヴォイヴォディナ自治州ノヴィ・サド出身のハンガリー人(マジャル人)で、現在はアメリカ国籍の女子プロテニス選手。フロリダ州サラソタ在住。「セレス」と呼ばれることも多い。 左利きで、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちである。そこから繰り出される強烈なショット(特にバックハンドストロークはコンパクトなスイングから非常に強烈なショットを放った)と正確なコントロールを最大の持ち味とした。WTAツアーで4大大会9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。
{{テニス選手 |選手名(日本語)=モニカ・セレシュ |写真=Monica Seles Canadian Open.jpg |写真サイズ=230px |写真のコメント=モニカ・セレシュのサービス |選手名(英語)=Monica Seles |フルネーム(英語名)= |愛称= |国籍={{YUG}}→{{USA}} |出身地={{YUG1945}}[[ノヴィ・サド]] |居住地=アメリカ・[[フロリダ州]][[サラソータ (フロリダ州)|サラソータ]] |誕生日={{生年月日と年齢|1973|12|2}} |没年日= |身長=179cm |体重=70kg |利き手=左 |バックハンド=両手打ち |殿堂入り=2009年 |デビュー年=1989年 |引退年=2008年 |ツアー通算=59勝 |シングルス=53勝 |ダブルス=6勝 |生涯通算成績=684勝167敗 |シングルス通算=595勝122敗 |ダブルス通算=89勝45敗 |生涯獲得賞金=$14,891,762 |全豪オープン=優勝(1991-93・96) |全仏オープン=優勝(1990-92) |ウィンブルドン=準優勝(1992) |全米オープン=優勝(1991・92) |優勝回数=9(豪4・仏3・米2) |全豪オープンダブルス=ベスト4(1991・2001) |全仏オープンダブルス=3回戦(1990) |ウィンブルドンダブルス=ベスト8(1999) |全米オープンダブルス=ベスト8(1999) |ダブルス優勝回数= |全豪オープン混合ダブルス= |全仏オープン混合ダブルス= |ウィンブルドン混合ダブルス= |全米オープン混合ダブルス= |混合ダブルス優勝回数= |フェドカップ=優勝(1996・99・2000) |ホップマンカップ=優勝(1991) |シングルス最高=1位(1991年3月11日) |ダブルス最高=16位(1991年4月22日) | medaltemplates = {{MedalSport|[[テニス]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]}} {{MedalBronze|[[2000年シドニーオリンピックのテニス競技|2000]]|女子シングルス}} }} '''モニカ・セレシュ''' ('''セレシュ・モーニカ'''、'''Monica 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(テニス)|4大大会]]女子シングルスの最年少優勝記録は、[[1997年全豪オープン]]に「16歳3ヶ月」で優勝した[[マルチナ・ヒンギス]]によって破られた。)[[1991年]][[3月11日]]には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-[[1992年全仏オープン|1992年]]に[[全仏オープン]]3連覇、[[1991年全豪オープン|1991年]]-[[1993年全豪オープン|1993年]]に[[全豪オープン]]3連覇、[[1991年全米オープン (テニス)|1991年]]と[[1992年全米オープン (テニス)|1992年]]に[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]2連覇を達成するなど、1990年から[[1993年]]の4月までは彼女の絶頂期であった。 しかし[[1993年]][[4月30日]]、セレシュは[[ドイツ]]・[[ハンブルク]]の「[[WTAハンブルク・カップ|シチズンカップ]]」準々決勝で[[ブルガリア]]の[[マグダレナ・マレーバ]]との対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。<!--これが最も重要なポイント-->セレシュはこの後遺症により([[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]と考えられる)、2年半も試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュに怪我をさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の[[1994年]]3月、モニカ・セレシュは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。[[2001年]]に女子ツアー年間最終戦の[[WTAツアー選手権]]がアメリカ・[[ニューヨーク]]からドイツ・[[ミュンヘン]]に開催地を移転した時も、前年の[[2000年]]から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。) [[1995年]]8月、セレシュはようやく[[カナダ・マスターズ|カナダオープン]]で復帰を果たす。その準決勝では[[ガブリエラ・サバティーニ]]、決勝で[[アマンダ・クッツァー]]を破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の[[1995年全米オープン (テニス)|全米オープン]]では第2シードで出場。決勝ではライバルの[[シュテフィ・グラフ]]に 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌[[1996年]]、セレシュは[[1996年全豪オープン|全豪オープン]]で復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルス通算9勝は、[[モーリーン・コノリー]]と並ぶ女子歴代8位タイ記録である。 その後はけがによる不振や、[[マルチナ・ヒンギス]]、[[ビーナス・ウィリアムズ|ビーナス]]と[[セリーナ・ウィリアムズ|セリーナ]]のウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは[[1998年全仏オープン]]であった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードの[[マルチナ・ヒンギス]]を破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では[[1996年全米オープン (テニス)|1996年全米オープン]]以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗の[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]であり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これが彼女の最後の4大大会決勝戦になる。これはまた、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合でもあった。 [[2003年]]の[[2003年全仏オープン|全仏オープン]]1回戦で[[ナディア・ペトロワ]]([[ロシア]])に敗退したのが、セレシュの最後の公式戦出場になる。その後は足の故障により、公式戦復帰への手がかりをつかむことができなかった。[[2005年]]12月には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と語り、近いうちの引退を示唆するコメントを発表した。最後の公式戦出場から5年後、セレシュは[[2008年]]2月14日(日本時間15日)に正式な現役引退を表明した。 現役引退表明と前後する2008年1月、セレシュはテニス番組の拡充に力を入れている[[WOWOW]]と契約を結び、「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始した。3月に来日し、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った<ref>{{Cite web|和書|date=2008-03-10|url=https://news.mynavi.jp/article/20080310-seles/|title=モニカ・セレス来日 - テニス4大会の魅力と錦織圭への期待を語る|publisher=マイコミジャーナル|accessdate=2009-06-04}}</ref>。さらに[[ローレウス世界スポーツ賞|ローレウス・スポーツ賞]]のアカデミー選考委員にも加わり、多彩な活動を繰り広げている<ref>{{Cite web|date=2010-02-10|url=http://www.laureus.com/members/176|title=Laureus Academy Member|publisher=Laureus.com|accessdate=2010-02-10}}</ref>。 [[2009年]]7月11日、モニカ・セレシュは[[アンドレス・ヒメノ]]([[スペイン]])らとともに[[国際テニス殿堂]]入りを果たした。 2014年6月、大富豪の{{仮リンク|トム・ゴリサリーノ|en|Tom Golisano}}との婚約を発表した<ref>{{cite web|url=http://www.upi.com/Sports_News/2014/06/08/Monica-Seles-engaged-to-Tom-Golisano/5971402264897/ |title=Monica Seles engaged to Tom Golisano |publisher=[[UPI通信]] |author=Danielle Haynes |date=2014-06-08 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>。 著書に『私は負けない』([[1996年]]刊行、原題:“''From Fear to Victory''”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。 ==記録== ;全豪オープン「3連覇」 :他4名とタイ記録。 ;全仏オープン「3連覇」 :ジュスティーヌ・エナンとタイ記録。 ;全仏オープン最年少優勝「16歳」 ;年間ですべてのグランドスラム決勝に進出 :他5名とタイ記録。 == 4大大会優勝 == * [[全豪オープン]]:4勝(1991年-1993年、1996年) [大会3連覇を含む] * [[全仏オープン]]:3勝(1990年-1992年) [大会3連覇。初優勝の1990年は大会史上最年少記録。準優勝1度:1998年] * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:2勝(1991年&1992年) [復帰後の1995年&1996年、2年連続準優勝] : ([[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]準優勝1度:1992年) {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #FC9;" | [[1990年]] || [[1990年全仏オープン|全仏オープン]] || {{flagicon|FRG}} [[シュテフィ・グラフ]] || 7-6, 6-4 |-style="background: #FD5" | [[1991年]] || [[1991年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|CSK}} [[ヤナ・ノボトナ]] || 5-7, 6-3, 6-1 |-style="background: #FC9;" | [[1991年]] || [[1991年全仏オープン|全仏オープン]] || {{flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] || 6-3, 6-4 |-style="background: #CCF;" | [[1991年]] || [[1991年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|USA}} [[マルチナ・ナブラチロワ]] || 7-6, 6-1 |-style="background: #FD5" | [[1992年]] || [[1992年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] || 6-2, 6-3 |-style="background: #FC9;" | [[1992年]] || [[1992年全仏オープン|全仏オープン]] || {{flagicon|GER}} [[シュテフィ・グラフ]] || 6-2, 3-6, 10-8 |-style="background: #CCF;" | [[1992年]] || [[1992年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] || 6-3, 6-3 |-style="background: #FD5" | [[1993年]] || [[1993年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|GER}} [[シュテフィ・グラフ]] || 4-6, 6-3, 6-2 |-style="background: #FD5" | [[1996年]] || [[1996年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|GER}} [[アンケ・フーバー]] || 6-4, 6-1 |- |} == 4大大会シングルス成績 == {{Performance key}} {| class="wikitable" |- ! 大会 !! 1989 !! 1990 !! 1991 !! 1992 !! 1993 !! 1994 !! 1995 !! 1996 !! 1997 !! 1998 !! 1999 !! 2000 !! 2001 !! 2002 !! 2003 !! 通算成績 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全豪オープン]] | align="center" | A | align="center" | A | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1991年全豪オープン|W]]''' | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1992年全豪オープン|W]]''' | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1993年全豪オープン|W]]''' | align="center" | A | align="center" | A | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1996年全豪オープン|W]]''' | align="center" | A | align="center" | A | align="center" style="background:yellow;"|[[1999年全豪オープン女子シングルス|SF]] | align="center" | A | align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2001年全豪オープン女子シングルス|QF]] | align="center" style="background:yellow;"|[[2002年全豪オープン女子シングルス|SF]] | align="center" style="background:#afeeee;"|[[2003年全豪オープン女子シングルス|2R]] |align="center" style="background:#EFEFEF;"|43-4 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全仏オープン]] | align="center" style="background:#yellow;"|[[1989年全仏オープン|SF]] | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1990年全仏オープン|W]]''' | align="center" 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テニス選手一覧
テニス選手一覧 (テニスせんしゅいちらん) 以下の個別記事を参照。
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テニス選手一覧 (テニスせんしゅいちらん)
'''テニス選手一覧 '''(テニスせんしゅいちらん) == 一覧 == 以下の個別記事を参照。 === 性別 === * [[男子テニス選手一覧]] * [[女子テニス選手一覧]] === 大会優勝者 === * [[グランドスラム男子シングルス優勝者一覧]] * [[グランドスラム女子シングルス優勝者一覧]] * [[オリンピックのテニス競技・メダリスト一覧]] ==関連項目== * [[テニス]] {{デフォルトソート:てにすせんしゆいちらん}} [[Category:テニス選手|*いちらん]] [[Category:スポーツ選手一覧 (競技別)]] [[Category:一覧の一覧]]
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ネプチューン
ネプチューン(Neptune、ネプトゥーン、あるいは、ネプテューヌ、ネプテューンとも)はローマ神話の神・ネプトゥーヌスの英語読み。ギリシア神話のポセイドンに相当する。以下これに因む。
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ネプチューン(Neptune、ネプトゥーン、あるいは、ネプテューヌ、ネプテューンとも)はローマ神話の神・ネプトゥーヌスの英語読み。ギリシア神話のポセイドンに相当する。以下これに因む。
'''ネプチューン'''(Neptune、ネプトゥーン、あるいは、ネプテューヌ、ネプテューンとも)は[[ローマ神話]]の神・[[ネプトゥーヌス]]の英語読み。[[ギリシア神話]]の[[ポセイドン]]に相当する。以下これに因む。 == 天体 == * [[海王星]]の英語名(Neptune)。 == 人名・団体名 == * [[イヴォン・ネプチューン]] - [[ハイチ]]の政治家。 * 株式会社ネプチューン - 輸送機器メーカー。{{main|[[レゾナント・システムズ]]}} * [[ザ・ネプチューンズ]] - [[アメリカ合衆国]]の音楽プロデュースグループ。 * [[ネプチューン (お笑いトリオ)]] - [[ワタナベエンターテインメント]]所属のお笑いトリオ。 * [[キュラソー・ネプテューヌス]] - [[オランダ]]・[[ロッテルダム]]を本拠地とする[[野球]]チーム。 * [[ネプテューヌス (ソフトボール)]] - [[オランダ]]・[[ロッテルダム]]を本拠地とする[[ソフトボール]]チーム。 == 乗り物 == * P-2ネプチューン - [[ロッキード]]社の対潜哨戒機。{{main|[[P-2 (航空機)]]}} * イギリス海軍の艦船。 ** [[ネプチューン (戦列艦・初代)]] - 1683年進水の90門2等戦列艦。 ** [[ネプチューン級戦列艦]] - トラファルガー海戦に参加した3隻の98門2等戦列艦。 ** [[ネプチューン (戦艦)]] - 1911年就役の戦艦。 ** [[ネプチューン (軽巡洋艦)]] - 1934年就役のリアンダー級軽巡洋艦。 * NEPTUNE - DRSテクノロジーズの無人航空機[[RQ-15 (航空機)]]の商標。 * Be-2500ネプトゥーン - [[ベリエフ]]の構想上の水陸両用飛行艇。{{main|[[Be-2500 (航空機)]]}} * [[三菱・4G4系エンジン|三菱・ネプチューンエンジン(4G4x系)]] - 三菱自動車の直列4気筒ガソリンエンジン。 == 書籍 == * [[ネプチューン (イギリスの雑誌)]] - 第二次世界大戦時に刊行されたイギリス海軍の対外宣伝雑誌。 * [[ネプチューン (小説)]] - [[新井素子]]の小説。 == 架空の事物 == * ネプチューン - 特撮『[[仮面ライダーX]]』に登場する怪人。 * ネプチューンマン - 漫画『[[キン肉マン]]』に登場する超人。モデルになったプロレスラー、[[ハルク・ホーガン]]のキャッチフレーズ「現代に蘇ったネプチューン」に由来する。 * ネプチューン - ゲーム『[[ロックマンワールド5]]』のボス。 * セーラーネプチューン - 漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』の登場人物。{{main|[[海王みちる]]}} * ネプチューン - [[OVA]]『[[ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日]]』に登場する人型ロボット。 * [[ONE PIECEの登場人物一覧#ネプチューン|ネプチューン]] - [[漫画]]『[[ONE PIECE]]』の登場人物。 == その他 == * [[ネプチューン (ニュージャージー州)]] - [[ニュージャージー州]]の都市。 * [[Neptune (久保田利伸のアルバム)]] - [[久保田利伸]]のアルバム。 * [[ネプチューンオオカブト]] - カブトムシの一種。 * [[ネプチューン計画]] - イギリスの[[海岸|海岸線]]保護の[[ナショナルトラスト運動]]。 *[[Microsoft Windows Neptune]]-Microsoftによって開発されていたOS。2000年1月開発中止。 *[[セガネプチューン]] - セガが開発していた[[メガドライブ]]と[[スーパー32X]]の一体型機。未発売。 *[[ネプチューン (巡航ミサイル)]] - [[ウクライナ軍]]が開発した[[対艦ミサイル]]。 == 関連項目 == * [[ポセイドン (曖昧さ回避)]] * {{prefixindex}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:ねふちゆうん}} [[Category:イギリス海軍の同名艦]] [[Category:英語の地名]] [[Category:同名の作品]]
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マーキュリー
マーキュリー(Mercury)とは、ローマ神話に登場する神、メルクリウスの英語名。ギリシア神話においてはヘルメースと同一視される。
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マーキュリー(Mercury)とは、ローマ神話に登場する神、メルクリウスの英語名。ギリシア神話においてはヘルメースと同一視される。
'''マーキュリー'''(Mercury)とは、[[ローマ神話]]に登場する[[神]]、[[メルクリウス]]の[[英語]]名。[[ギリシア神話]]においては[[ヘルメース]]と同一視される。 {{main2|曖昧さ回避に関しては[[ヘルメス (曖昧さ回避)]]も}} == 派生語 == ; 天文学 * [[水星]]の英語名。 ; 科学 * [[水銀]]の英語名。 ; 宇宙計画 * [[マーキュリー計画]] - [[アメリカ合衆国]]の有人宇宙飛行計画、およびそこで使われた[[宇宙船]]の名称。 == 人名== * [[フレディ・マーキュリー]] - [[イギリス]]のロックバンド[[クイーン (バンド)|Queen]]のメンバー。[[ミュージシャン]]。 * マーキュリー商事 - [[日本]]の[[YouTuber]]。元俳優<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/channel/UC31k7KPtTEsgty9lg5rxO1A|title=マーキュリー商事 - YouTube|accessdate=2021/03/23}}</ref> ; 架空のキャラクター * [[水野亜美#セーラーマーキュリー|セーラーマーキュリー]] - 『[[美少女戦士セーラームーン]]』シリーズに登場する[[水野亜美]]がセーラー戦士に変身した時の呼称。 * [[マーキュリー (帝都高速度交通営団)]] - [[帝都高速度交通営団]]が設置した[[マスコット]]。 * [[スレッタ・マーキュリー]]-「[[機動戦士ガンダム 水星の魔女]]」に登場する主人公。母とともに水星に移住している。 == 法人名 == ; 会社名 * [[マーキュリー (マーケティング会社)]] - 不動産を対象とした市場調査・マーケティング会社。 * [[マーキュリー (医療系コンサルティング会社)]] - 大阪市、東京都渋谷区、福岡市にオフィスを構える、医療系人材紹介、医院開業コンサルティングを主な事業とする企業。 * [[マーキュリー (行政書士法人)]] - [[さいたま市]][[桜区]]の行政書士法人。 * [[マーキュリー (行政書士法人)]] - [[群馬県]][[前橋市]]の行政書士法人。 * [[マーキュリー (不動産会社)]] - 東京都港区にある不動産会社。 * Mercury - [[AKB48グループ]]のひとつである[[HKT48]]を運営する会社。 * [[マーキュリー (暗号資産交換業者)]] - 暗号資産販売所[[コイントレード]]を運営する会社。[[セレス (インターネット関連企業)]]の子会社。 * [[マーキュリー・マリーン]] - アメリカの大手[[船外機]]メーカー。[[ブランズウィック コーポレーション]]の傘下企業。 ; 音楽・レコード会社 * [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]の[[交響曲第43番 (ハイドン)|交響曲第43番]]の通称。 * [[マーキュリー (行進曲)]] - [[ヤン・ヴァン・デル・ロースト]]の行進曲。 * [[マーキュリー・レコード]] - [[ユニバーサルミュージック]]傘下の[[レコードレーベル]]。 * 日本マーキュリーレコード - かつて日本に存在したレコード会社。{{main|[[タイヘイレコード]]}} * マーキュリー - [[東京メトロ半蔵門線]][[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]7番線の[[発車メロディ]]。[[福嶋尚哉]]作曲。 ; スポーツ * [[フェニックス・マーキュリー]] - [[アメリカ合衆国]]の女子プロ[[バスケットボール]]チーム。 * [[マーキュリーカップ]] - [[盛岡競馬場]]で施行されている[[競馬]]の競走名(統一JpnIII) ; 乗り物 * [[マーキュリー (自動車)]] - アメリカ合衆国の[[フォード・モーター]]社が製造する自動車ブランド名の一つ。 * [[マーキュリー・マリーン]] - アメリカ合衆国の[[ブランズウィック コーポレーション]]が製造・販売する[[船外機]]・[[船内外機]]のブランド。 * [[マーキュリー (客船)]] - [[セレブリティ・クルーズ]]社の[[クルーズ客船]]。後にセレブリティ・マーキュリーに改名、さらに[[TUIクルーズ]]に売却されマイン・シフ2となった。 == その他== * [[東急バス]]および東急グループのバス会社に見られるバスのカラーリングのひとつ。同社の貸切バスの愛称「SSマーキュリー109」から。 * [[花巻観光バス]]、非サロン仕様の貸切バスへ「銀河シリーズ」と銘打って付けられていた愛称「mercury・マーキュリー」 * プロジェクト・マーキュリー - [[セガ・エンタープライゼス]]の携帯ゲーム機[[ゲームギア]]のコードネーム。 * Mercury - 論理型プログラミング言語 * マーキュリー支店 - [[UI銀行]]の支店名(唯一の支店) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:まあきゆりい}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の企業]]
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サターン
サターン (Saturn) 日本語ではSaturn [sǽtərn] は「悪魔」の意味のサタン (Satan [séitn])と混同されることがあるが、綴りも発音も語源も異なる別語である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サターン (Saturn)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本語ではSaturn [sǽtərn] は「悪魔」の意味のサタン (Satan [séitn])と混同されることがあるが、綴りも発音も語源も異なる別語である。", "title": "一般語" } ]
サターン (Saturn)
{{Wikt|Saturn}} '''サターン''' (Saturn) == 一般語 == * [[ローマ神話]]の[[サートゥルヌス]]の英語名。 * [[土星]]の英語名。「サートゥルヌス」に由来。 日本語ではSaturn [sǽtərn] は「[[悪魔]]」の意味の[[サタン]] (Satan [séitn])と混同されることがあるが、綴りも発音も語源も異なる別語である。 == 商標 == * [[サターンロケット]] - [[アポロ計画]]に使った[[ロケット]]。 * [[セガゲームス]]の家庭用ゲーム機:[[セガサターン]]、[[Vサターン]]、[[Hiサターン]]の通称。 * [[サターン (自動車)]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ゼネラルモーターズ]]の自動車のブランド名。 * [[三菱自動車工業]]の[[自動車]]に搭載されたエンジンの愛称の一種。[[三菱・4G3系・6G3系エンジン]]を参照のこと。 * 除草剤の商品名。[[ベンチオカーブ]]50%配合。日本では[[1970年]](昭和45年)に農薬登録を受け、乳剤や粒剤の形で[[田|直播水田]]などに使用される。[[クミアイ化学工業]]を参照 == 架空のキャラクター == * 漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』の登場人物。[[土萠ほたる]]を参照 * アニメ『[[聖闘士星矢Ω]]』の登場人物。 * SR-70 サターン - [[機動警察パトレイバー#ヘッドギア|ヘッドギア]]原作の[[サイエンス・フィクション|SF]][[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]([[ロボットアニメ]])『[[機動警察パトレイバー]]』に登場する[[機動警察パトレイバー#レイバー|レイバー]](有人[[ロボット]])。[[機動警察パトレイバーの登場メカ#サターン]]を参照。 * 『[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パール]]』の登場人物。[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パールの登場人物#ギンガ団]]を参照。 == その他 == * [[サターンオオカブト]] (Dynastes satanus) - [[ヘラクレスオオカブト属]]の一種。 * [[SBI新生銀行|新生銀行]]の2008年(平成20年)1月現在における筆頭株主として知られる「サターン IV サブ・エルピー」(Saturn IV Sub LP)。 * [[サトゥルン・ラメンスコーエ]] - ロシアのサッカークラブ。 * [[サターン (ずっと真夜中でいいのに。の曲)]] - [[ずっと真夜中でいいのに。]]の1st[[ミニ・アルバム]]『[[正しい偽りからの起床]]』に収録されている楽曲。 == 関連項目 == * [[サタン (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:さたあん}} [[Category:英語の語句]]
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無神論
無神論(むしんろん、英語: atheism、ラテン語: atheismus)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、道教のような精神的、超自然的、または超越的な概念などが存在しない、または不要と主張する考え方である。 無神論の論拠は、哲学的なものから社会的・歴史的なアプローチまで多岐にわたる。神を信じない根拠としては、証拠の欠如、悪の問題、矛盾した啓示からの議論、改竄できない概念の拒絶、不信仰からの議論などがある。無神論者は、無神論は有神論よりもより簡潔な立場であり、誰もが神への信仰を持たずに生まれてくると主張している。したがって証明責任は無神論者が神の存在を反証するのではなく、有神論者が有神論の根拠を示すことにあると主張する。無神論者の中には世俗的な哲学(例:世俗的ヒューマニズム)を採用している者もいるが、すべての無神論者が遵守すべきイデオロギーや行動規範は存在しない。 無神論の概念は様々であるため、現在の無神論者の数を正確に推定することは困難である。WIN-Gallup Internationalの世界中を対象とした調査によると、2012年には回答者の13%が「確信を持った無神論者」であり、2015年には11%が「確信を持った無神論者」であり、2017年には9%が「確信を持った無神論者」であった。しかし何十年もの間同じ表現を使用し、より多くのサンプルサイズを持つ他の調査では、一貫してより低い数値が得られているため、他の研究者はWIN/Gallupの数値に注意を促している。2004年に英国放送協会(BBC)が行った古い調査では、無神論者は世界人口の8%を占めていると記録されている。他の古い推定では、無神論者は世界人口の2%を占め、無宗教者はさらに12%を加えているとされている。 どのように無神論を定義し分類するべきか、どのような精神的、超自然的、超越的な存在が神とみなされるのか、無神論はそれ自体が哲学的な立場なのか、それとも単に存在しないことなのか、そして意識的で明確な拒絶を必要とするのか、といった点で作家たちは意見を異にしている。無神論は不可知論と互換性があるとみなされてきたが、それと対比されることもあった。無神論の異なる形態を区別するために様々なカテゴリーが用いられてきた。 無神論が否定する現象の範囲に関しては、神の存在から、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、道教のような精神的、超自然的、または超越的な概念の存在まで、あらゆるものを含む。 神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってさまざまな考え方が無神論とみなされうるし、その逆も成り立つ。 古代ローマ人はキリスト教徒がペイガンの神々を崇拝していないことを無神論者と非難した。しかし次第に「有神論」があらゆる神々への信仰を含むものとして理解されるようになり、この見解は支持されなくなった。 無神論は、神の存在から、仏教、ヒンズー教、ジャイナ教、道教などの精神的、超自然的、超越的な概念の存在まで、あらゆる現象を否定している。ブリタニカ百科事典は、この区別についてこう書いている。 ジャーナリストのゲイリー・ウルフが2006年に提唱した新無神論(New Atheism)は、21世紀の無神論者たちの立場を表す。現代の無神論ではあらゆる宗教は容認されるべきではなく、政府や教育、政治など、過度な影響力を持つところでは、合理的な議論によって反論、批判、挑戦されるべきだと主張する思想家や作家たちによって進められている。 また無神論は、次の観点から分類されることもある。 無神論の明確な対義語は有神論である。理神論や汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部とみなされることもある。消極的無神論と不可知論は、時に見分けがつかないか重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって、反宗教主義と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者は、しばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであるとみなすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。 無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間にはあつれきが生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、近年でも保守的な地域では無神論に対する根強い不信感があり、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、科学と宗教の融合ないし折衷を称しつつも実質的には造物主の存在を前提にした運動も見られる。 また無神論者の側も極端な者は宗教を敵視することがある。「社会主義」を自称する全体主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い。 キリスト教の教義では神は、人間の「生前の行動が、最後の審判(死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを前もってわからないわけがないはずであり、このような「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)について、矛盾を指摘する言説が無神論では好まれる(全能の逆説、予定説を参照)。 フォイエルバッハやジークムント・フロイトのように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教の空を評価した。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある。仏教では、そのような問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ不可知論に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「不可知」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、諸法無我、ブッダ(仏)と神等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく衛生学であると(好意的に)解釈したニーチェのように、仏教を宗教とはみなさない者もいる。 神について「敬して遠ざける」としている儒教についても、無神論とみなされる場合がある。事実、儒学者の中には無神論を積極的に唱える者もおり、「宗教として扱われる思想ではない」という見解が多い。 より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。 共産主義国家、マルクス・レーニン主義政権国家の多くでは、宗教は国是としては否定されたが、東欧諸国におけるキリスト教のように容認される場合もあった(ドイツ民主共和国#宗教などを参照)。ただしアルバニア人民共和国は「世界初の無神国家」を標榜 した。マルクス・レーニン主義無神論(英語版)を参照。 一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。 キケロがラテン語で翻訳したことから、ラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。 古代インドにブッダと同時代人のアジタ・ケーサカンバリンがおり、彼を中心とする順世派(チャールヴァーカ Cārvāka)は無神論的な思想を展開した。神のような超越的な原理でなく、社会倫理やその改革を訴えた。 古代ギリシアでは、まずデモクリトスやエピクロスが唯物論に基づく無神論的な思想を提唱し、ローマ時代にはルクレティウスがそれをより明確な無神論の形で提唱した。 原義から、原始キリスト教徒は「ギリシアの神・ローマの神を信じない者」という意味で無神論者とされた時期があるが、中世や近代ではキリスト教の宗教観に反対する立場をとる者が無神論者を名乗ることが多い。反キリスト教的な無神論者の中には、マルクスやニーチェのように、むしろ古代ギリシャに傾倒した人物が少なからずいる。 日本においては幽鬼、すなわち霊魂や鬼といった妖怪の存在を否定する「無鬼論」として始まる。無鬼論は、儒学における「気(万物を構成する要素)」と「祭祀(招魂といった先祖崇拝)」の解釈(現象と関係)に伴う矛盾から発展していったものであり、西洋のような一神教による絶対的な世界観を科学解釈によって徐々に崩された(科学的な根拠の積み重ねによる否定の)上で成り立ったものとは異なる。中国の朱子は、気(現代でいえば、原子のようなもの)の集まりが「生」と捉え、気の離散が「死」と解釈した上で、気の離合集散によって魂魄の現象を合理的に説明しようとした(魂魄の項の「儒学における魂魄現象の解釈」も参照)。結果、霊性を否定しかねない矛盾した論考(一度、離散した気=魂魄は二度と戻らない=死と主張したために、祭祀による招魂儀礼を行うことに矛盾が生じた)に至ってしまい、後世、林羅山といった儒学者に鬼神(魂魄)の有無について半信半疑な立場を取らせ、江戸期日本の朱子学者を「無鬼論者」(伊藤仁斎)と「有鬼論者」(荻生徂徠)に二分させた。 多神教(道教や神道など)では、先祖を人物神として祀る信仰観から、祭祀による招魂儀礼が行なわれるが、魂魄=気の離散が死であり、離散した気は二度と戻らないとする朱子学の主張(仏教の輪廻転生を否定するために生み出した合理的論説) は、一部で無神論にも通じることになる。 フランスの啓蒙思想によって、無神論は飛躍的に発展した。 フランスの思想家ドルバックは無神論、唯物論、運命論を唱えた。ドルバックは、ヴォルテール流の理神論や汎神論ではなく、最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。おそらくドルバックに先行するのは、ジャン・メリエ(英語版)ただ一人である。ドルバックの自然観の根底には、人間は理性的な存在であるという確信がある。全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元するというのが彼の目論見であった。主著『自然の体系』では、あらゆる宗教的観念や理神論的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説く。しかし、しばしば矛盾とも思える様々な主張の寄せ集まりであると批判されてもいる。 19世紀後半のドイツは合理主義及び自由思想の影響を受けて無神論の卓越性が増し、フォイエルバッハやショーペンハウアー、マルクス、ニーチェなど多くの顕著な哲学者は神の存在を否定した。特にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841年)はマルクス、シュトラウス、ニーチェら若い哲学者に熱烈に歓迎され、キリスト教は前代未聞の激しい攻撃に晒された。唯物論者でもあるマルクスは「宗教は民衆の阿片である」とし、またニーチェはユダヤ教―キリスト教の精神構造を「ルサンチマン」にあると『道徳の系譜』で論じた。またラッセルは、宗教や信仰を死や神秘的なものへの恐怖にあるとした。 社会主義政権の中国で67%、日本で29%、過去に社会主義政権だったスロベニアで28%、同じくチェコで25%、韓国で23%、ベルギーとフランスで21%、スウェーデンで18%、アイスランドで17%が神を信じていないとの調査がある。 無神論者の指摘・主張・発言には以下のようなものがある。 現代では憲法によって信仰の自由が保障されているが、宗教的に保守的な国や地域(イスラム教国や、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国等の一部地域)では、無神論者であることを口にすることがタブーとされることが多い。神を信じず、信仰の対象を持たない人間は、悪魔を信仰する者(サタニズム)、道徳のない者、無教養扱いにされることがある。欧米では、これら有象無象の誤解や不利益を回避するための方便として、神や霊魂の存在を必ずしも肯定しない「思想」を持つと主張する場合もある。もっとも近年の欧米では、無神論を口にすることへのタブー意識は低くなってきている。それでも周囲との軋轢を避けるために、無神論の代替語として不可知論を用いる場合がある。リチャード・ドーキンスはこうした「無神論者」へのいわれなき差別を是正すべきだとしている。 欧米の保守的な一部地域では、「無神論者」という表現は非常に大胆な表現であり、無慈悲な人物像を連想させてしまうため、注意が必要となる。ただし、一般的には無神論は哲学上の立場として広く受け入れられている。 アメリカ軍の認識票には、葬儀を行う都合上、宗教を記入する欄が存在しており、略記号を用いて刻印されているが、無神論者は未申告として刻印される。ただし、第二次世界大戦中はナチスがユダヤ人を差別したため、ユダヤ教が未申告として刻印されていたこともあるので、一概に未申告=無神論者とは言えない。 イスラム教の価値観では、無神論であることは悪として扱われる。無神論者であるということは無明時代の人間であるということであり、文明を知らない原始人のような者と見なされ、異教徒(ズィンミー)よりも下位として扱われる。エジプト、イラン、サウジアラビアなど、戸籍や入出国に関する書類に宗教欄の記載が必須の国では、無神論者と宣言することが不利な扱いになる場合もある。特にイランやサウジアラビアなど、シャーリアが法制度となっている国では、法的権利の制限を受けることもある。
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無神論は、世界観の説明に神の存在、意思の介在、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、道教のような精神的、超自然的、または超越的な概念などが存在しない、または不要と主張する考え方である。 無神論の論拠は、哲学的なものから社会的・歴史的なアプローチまで多岐にわたる。神を信じない根拠としては、証拠の欠如、悪の問題、矛盾した啓示からの議論、改竄できない概念の拒絶、不信仰からの議論などがある。無神論者は、無神論は有神論よりもより簡潔な立場であり、誰もが神への信仰を持たずに生まれてくると主張している。したがって証明責任は無神論者が神の存在を反証するのではなく、有神論者が有神論の根拠を示すことにあると主張する。無神論者の中には世俗的な哲学を採用している者もいるが、すべての無神論者が遵守すべきイデオロギーや行動規範は存在しない。 無神論の概念は様々であるため、現在の無神論者の数を正確に推定することは困難である。WIN-Gallup Internationalの世界中を対象とした調査によると、2012年には回答者の13%が「確信を持った無神論者」であり、2015年には11%が「確信を持った無神論者」であり、2017年には9%が「確信を持った無神論者」であった。しかし何十年もの間同じ表現を使用し、より多くのサンプルサイズを持つ他の調査では、一貫してより低い数値が得られているため、他の研究者はWIN/Gallupの数値に注意を促している。2004年に英国放送協会(BBC)が行った古い調査では、無神論者は世界人口の8%を占めていると記録されている。他の古い推定では、無神論者は世界人口の2%を占め、無宗教者はさらに12%を加えているとされている。
{{参照方法|date=2010年6月}} {{Expand English|Atheism|date=2021年3月|fa=yes}} [[File:D'Holbach.jpg|thumb|right|200px|最初に無神論者と自称した[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]男爵]] [[File:Bezbozhnik u stanka 22-1929.jpg|thumb|right|200px|[[1920年代]]の[[ソビエト連邦|ソビエト]]の[[風刺]]雑誌「[[ベズボージュニク]]」の表紙。[[アブラハムの宗教]]の神々が押しつぶされている様子を描いている。]] '''無神論'''(むしんろん、{{Lang-en|atheism}}、{{Lang-la|atheismus}})は、世界観の説明に[[神]]の存在、意思の介在、[[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]、[[道教]]のような精神的、超自然的、または超越的な概念'''など'''が存在しない、または不要と主張する考え方である<ref name="eb2011-Rejection-of-all-religious-beliefs"/><ref name="atheists1" /><ref name="atheists2" />。 無神論の論拠は、哲学的なものから社会的・歴史的なアプローチまで多岐にわたる。神を信じない根拠としては、証拠の欠如<ref name="logical" /><ref>{{cite web |url=http://shook.pragmatism.org/skepticismaboutthesupernatural.pdf |title=Skepticism about the Supernatural |last=Shook |first=John R. |access-date=October 2, 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121018210402/http://shook.pragmatism.org/skepticismaboutthesupernatural.pdf |archive-date=October 18, 2012 |url-status=live }}</ref>、悪の問題、矛盾した啓示からの議論、改竄できない概念の拒絶、不信仰からの議論などがある<ref name=logical>{{cite web |author=Various authors |url=http://www.infidels.org/library/modern/nontheism/atheism/logical.html |title=Logical Arguments for Atheism |publisher=[[Internet Infidels]] |website=The Secular Web Library |access-date=October 2, 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121117012714/http://www.infidels.org/library/modern/nontheism/atheism/logical.html |archive-date=November 17, 2012 |url-status=live }}</ref><ref name="Drange-1996">{{cite web |first=Theodore M. |last=Drange |author-link=Theodore Drange |year=1996 |url=http://www.infidels.org/library/modern/theodore_drange/aeanb.html |title=The Arguments From Evil and Nonbelief |publisher=[[Internet Infidels]] |website=Secular Web Library |access-date=October 2, 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070110135633/http://www.infidels.org/library/modern/theodore_drange/aeanb.html |archive-date=January 10, 2007 |url-status=live }}</ref>。無神論者は、無神論は[[有神論]]よりもより簡潔な立場であり、誰もが神への信仰を持たずに生まれてくると主張している<ref name="encyc-unbelief-def-issues">{{cite book |last=Harvey |first=Van A. |title=Agnosticism and Atheism |postscript=,}} in {{harvnb|Flynn|2007|p=35}}: "The terms ''ATHEISM'' and ''AGNOSTICISM'' lend themselves to two different definitions. The first takes the privative ''a'' both before the Greek ''theos'' (divinity) and ''gnosis'' (to know) to mean that atheism is simply the absence of belief in the gods and agnosticism is simply lack of knowledge of some specified subject matter. The second definition takes atheism to mean the explicit denial of the existence of gods and agnosticism as the position of someone who, because the existence of gods is unknowable, suspends judgment regarding them&nbsp;... The first is the more inclusive and recognizes only two alternatives: Either one believes in the gods or one does not. Consequently, there is no third alternative, as those who call themselves agnostics sometimes claim. Insofar as they lack belief, they are really atheists. Moreover, since the absence of belief is the cognitive position in which everyone is born, the burden of proof falls on those who advocate religious belief. The proponents of the second definition, by contrast, regard the first definition as too broad because it includes uninformed children along with aggressive and explicit atheists. Consequently, it is unlikely that the public will adopt it."</ref>。したがって証明責任は無神論者が神の存在を反証するのではなく、有神論者が有神論の根拠を示すことにあると主張する<ref>{{harvnb|Stenger|2007|pp=17–18}}, citing {{cite book |last=Parsons |first=Keith M. |title=God and the Burden of Proof: Plantinga, Swinburne, and the Analytical Defense of Theism |year=1989 |location=Amherst, New York |publisher=Prometheus Books |isbn=978-0-87975-551-5}}</ref>。無神論者の中には世俗的な[[哲学]](例:[[世俗的ヒューマニズム]])を採用している者もいるが<ref name=honderich>Honderich, Ted (Ed.) (1995). "Humanism". ''The Oxford Companion to Philosophy''. Oxford University Press. p. 376. {{ISBN2|0-19-866132-0}}.</ref><ref>{{cite book |last=Fales |first=Evan |title=Naturalism and Physicalism |postscript=,}} in {{harvnb|Martin|2006|pp=122–131}}.</ref>、すべての無神論者が遵守すべきイデオロギーや行動規範は存在しない<ref>{{harvnb|Baggini|2003|pp=3–4}}.</ref>。 無神論の概念は様々であるため、現在の無神論者の数を正確に推定することは困難である<ref name="Martin2007">{{cite book |last=Zuckerman |first=Phil |editor=Martin, Michael T |title=The Cambridge Companion to Atheism |year=2007 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=978-0-521-60367-6 |ol=22379448M |page=56 |url=https://books.google.com/books?id=tAeFipOVx4MC&pg=PA56 |access-date=April 9, 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20151031223718/https://books.google.com/books?id=tAeFipOVx4MC&pg=PA56 |archive-date=October 31, 2015 |url-status=live }}</ref>。WIN-Gallup Internationalの世界中を対象とした調査によると、2012年には回答者の13%が「確信を持った無神論者」であり<ref name="WIN/GIA">{{cite web |author=<!--none specified--> |url=http://www.wingia.com/web/files/news/14/file/14.pdf |title=Religiosity and Atheism Index |publisher=[[WIN/GIA]] |date=July 27, 2012 |location=Zurich |access-date=October 1, 2013 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20131021065544/http://www.wingia.com/web/files/news/14/file/14.pdf |archive-date=October 21, 2013 }}</ref>、2015年には11%が「確信を持った無神論者」であり<ref name="wingia2">{{cite web |author=<!--none specified--> |url=https://www.npr.org/blogs/thetwo-way/2015/04/13/399338834/new-survey-shows-the-worlds-most-and-least-religious-places |title=New Survey Shows the World's Most and Least Religious Places |publisher=[[ナショナル・パブリック・ラジオ|NPR]] |date=April 13, 2015 |access-date=April 29, 2015 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150506110630/http://www.npr.org/blogs/thetwo-way/2015/04/13/399338834/new-survey-shows-the-worlds-most-and-least-religious-places |archive-date=May 6, 2015 |url-status=live }}</ref>、2017年には9%が「確信を持った無神論者」であった<ref name="WINGIA 2017">{{Cite web |url=http://www.wingia.com/web/files/news/370/file/370.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20171114113506/http://www.wingia.com/web/files/news/370/file/370.pdf|url-status=dead|archive-date=November 14, 2017 |title=Religion prevails in the world |date=November 14, 2017|access-date=February 27, 2018}}</ref>。しかし何十年もの間同じ表現を使用し、より多くのサンプルサイズを持つ他の調査では、一貫してより低い数値が得られているため、他の研究者はWIN/Gallupの数値に注意を促している<ref name="Demographics Oxford Keysar">{{cite book |last1=Keysar |first1=Ariela |last2=Navarro-Rivera |first2=Juhem|editor1-last=Bullivant|editor1-first=Stephen|editor2-last=Ruse|editor2-first=Michael |title=The Oxford Handbook of Atheism |date=2017 |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-964465-0 |chapter=36. A World of Atheism: Global Demographics}}</ref>。2004年に[[英国放送協会]](BBC)が行った古い調査では、無神論者は世界人口の8%を占めていると記録されている<ref name="BBC-2004-demographics">{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/wtwtgod/3518375.stm |title=UK among most secular nations |work=BBC News |access-date=January 14, 2015 |date=February 26, 2004 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170902202852/http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/wtwtgod/3518375.stm |archive-date=September 2, 2017 |url-status=live }}</ref>。他の古い推定では、無神論者は世界人口の2%を占め、無宗教者はさらに12%を加えているとされている<ref name="eb2007-demographics">{{cite web |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1360391/Religion-Year-In-Review-2007 |title=Worldwide Adherents of All Religions by Six Continental Areas, Mid-2007 |publisher=Encyclopædia Britannica |year=2007 |access-date=November 21, 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20131212154920/http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1360391/Religion-Year-In-Review-2007 |archive-date=December 12, 2013 |url-status=live }} * 2.3% Atheists: Persons professing atheism, skepticism, disbelief, or irreligion, including the militantly antireligious (opposed to all religion). * 11.9% Nonreligious: Persons professing no religion, nonbelievers, agnostics, freethinkers, uninterested, or dereligionized secularists indifferent to all religion but not militantly so.</ref>。 == 定義と範囲 == どのように無神論を定義し分類するべきか、どのような精神的、超自然的、超越的な存在が神とみなされるのか、無神論はそれ自体が哲学的な立場なのか、それとも単に存在しないことなのか、そして意識的で明確な拒絶を必要とするのか、といった点で作家たちは意見を異にしている<ref name="eb1911-atheism">{{cite EB1911 |wstitle=Atheism | quote = The term as generally used, however, is highly ambiguous. Its meaning varies (a) according to the various definitions of deity, and especially (b) according as it is (i.) deliberately adopted by a thinker as a description of his own theological standpoint, or (ii.) applied by one set of thinkers to their opponents. As to (a), it is obvious that atheism from the standpoint of the Christian is a very different conception as compared with atheism as understood by a Deist, a Positivist, a follower of Euhemerus or Herbert Spencer, or a Buddhist.}}</ref>。無神論は不可知論と互換性があるとみなされてきたが<ref name="agnosticism-compatible">{{harvnb|Martin|1990|pp=[https://archive.org/details/atheismphilosoph00mart_0/page/466 <!-- quote="compatible with negative atheism". --> 467–468]}}: "In the popular sense an agnostic neither believes nor disbelieves that God exists, while an atheist disbelieves that God exists. However, this common contrast of agnosticism with atheism will hold only if one assumes that atheism means positive atheism. In the popular sense, agnosticism is compatible with negative atheism. Since negative atheism by definition simply means not holding any concept of God, it is compatible with neither believing nor disbelieving in God."</ref><ref name="encyc-unbelief-compatible">{{cite book |last=Holland |first=Aaron |title=Agnosticism |url=https://archive.org/details/jstor-25667906 |postscript=,}} in {{harvnb|Flynn|2007|p=[https://books.google.com/books?ei=xvzhT-_WFIaQ8wSivd2GCA&id=YR4RAQAAIAAJ&dq=agnosticism+compatible+with+atheism&q=%22It+is+important+to+note+that+this+interpretation+of+agnosticism%22 34]}}: "It is important to note that this interpretation of agnosticism is compatible with theism or atheism, since it is only asserted that ''knowledge'' of God's existence is unattainable."</ref><ref name="martin-agnosticism-entails">{{harvnb|Martin|2006|p=2}}: "But agnosticism is compatible with negative atheism in that agnosticism ''entails'' negative atheism. Since agnostics do not believe in God, they are by definition negative atheists. This is not to say that negative atheism entails agnosticism. A negative atheist ''might'' disbelieve in God but need not."</ref><ref name="barker-agnostic-atheism">{{harvnb|Barker|2008|p=[https://books.google.com/books?id=fAjPWYgIfCoC&pg=PA96&dq=%22both+an+atheist+and+an+agnostic%22 96]}}: "People are invariably surprised to hear me say I am both an atheist and an agnostic, as if this somehow weakens my certainty. I usually reply with a question like, "Well, are you a Republican or an American?" The two words serve different concepts and are not mutually exclusive. Agnosticism addresses knowledge; atheism addresses belief. The agnostic says, "I don't have a knowledge that God exists." The atheist says, "I don't have a belief that God exists." You can say both things at the same time. Some agnostics are atheistic and some are theistic."</ref>、それと対比されることもあった<ref name="eb2011-atheism-critique">{{harvnb|Nielsen|2013}}: "atheism, in general, the critique and denial of metaphysical beliefs in God or spiritual beings. As such, it is usually distinguished from theism, which affirms the reality of the divine and often seeks to demonstrate its existence. Atheism is also distinguished from agnosticism, which leaves open the question whether there is a god or not, professing to find the questions unanswered or unanswerable."</ref><ref name="eb2011concise-atheism">{{cite encyclopedia |title=Atheism |url=http://www.merriam-webster.com/concise/atheism?show=0&t=1323944845 |encyclopedia=Encyclopædia Britannica Concise |publisher=Merriam Webster |access-date=December 15, 2011 |quote=Critique and denial of metaphysical beliefs in God or divine beings. Unlike agnosticism, which leaves open the question of whether there is a God, atheism is a positive denial. It is rooted in an array of philosophical systems. |archive-url=https://web.archive.org/web/20120121050128/http://www.merriam-webster.com/concise/atheism?show=0&t=1323944845 |archive-date=January 21, 2012 |url-status=live }}</ref><ref name="eb1911-atheism-sceptical">{{cite EB1911 |wstitle=Atheism | quote = But dogmatic atheism is rare compared with the sceptical type, which is identical with agnosticism in so far as it denies the capacity of the mind of man to form any conception of God, but is different from it in so far as the agnostic merely holds his judgment in suspense, though, in practice, agnosticism is apt to result in an attitude towards religion which is hardly distinguishable from a passive and unaggressive atheism.}}</ref>。無神論の異なる形態を区別するために様々なカテゴリーが用いられてきた。<!--独自研究・要検証範囲「[[無宗教]]」とは混同されがちだが、無宗教は特定の宗教を支持しない状況を指しており、[[神]]が存在しないことを主張する無神論とは全く異質の概念として考えられるべきである。[[唯物論]]や[[機械論]]を無神論とみなす者もいるが、これらの理論は霊魂や物質世界への超越的な力の'''介入'''を否定しているのであって、必ずしも神の'''存在'''を否定しないため、無神論とは限らない。--> 無神論が否定する現象の範囲に関しては、神の存在から、[[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]、[[道教]]のような精神的、超自然的、または超越的な概念の存在まで、あらゆるものを含む<ref name="eb2011-Rejection-of-all-religious-beliefs"/>。 === 類型 === 神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってさまざまな考え方が無神論とみなされうるし、その逆も成り立つ。 古代ローマ人はキリスト教徒がペイガンの神々を崇拝していないことを無神論者と非難した。しかし次第に「有神論」があらゆる神々への信仰を含むものとして理解されるようになり、この見解は支持されなくなった{{sfn|Martin|2006}}。 無神論は、神の存在から、[[仏教]]、[[ヒンズー教]]、[[ジャイナ教]]、[[道教]]などの精神的、超自然的、超越的な概念の存在まで、あらゆる現象を否定している<ref name="eb2011-Rejection-of-all-religious-beliefs">{{cite encyclopedia |title=Atheism as rejection of religious beliefs |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/40634/atheism |encyclopedia=[[Encyclopædia Britannica]] |edition=15th |volume=1 |page=666 |year=2011 |id=0852294735 |access-date=April 9, 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110512015453/http://www.britannica.com/EBchecked/topic/40634/atheism |archive-date=May 12, 2011 |url-status=live}} Atheism, however, casts a wider net and rejects all belief in “spiritual beings,” and to the extent that belief in spiritual beings is definitive of what it means for a system to be religious, atheism rejects religion. So atheism is not only a rejection of the central conceptions of Judaism, Christianity, and Islam; it is, as well, a rejection of the religious beliefs of such African religions as that of the Dinka and the Nuer, of the anthropomorphic gods of classical Greece and Rome, and of the transcendental conceptions of Hinduism and Buddhism. Generally atheism is a denial of God or of the gods, and if religion is defined in terms of belief in spiritual beings, then atheism is the rejection of all religious belief.</ref>。ブリタニカ百科事典は、この区別についてこう書いている。 {{quote|'''しかし無神論はもっと広く「霊的な存在」を信じることをすべて否定する。'''霊的な存在を信じることが、あるシステムが宗教的であることの決定的な意味である限り、無神論は宗教を否定することになる。無神論は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の中枢概念を否定するだけでない。ディンカ族やヌエル族のようなアフリカの宗教、古代ギリシャやローマの擬人化された神々、[[ヒンズー教]]や[[仏教]]の超越的な概念をも否定する。一般に無神論とは、神や神々の否認である。宗教を霊的存在への信仰の見地から定義するならば、無神論はあらゆる宗教的信仰を拒絶する<ref name="eb2011-Rejection-of-all-religious-beliefs" />。}}<!-- [[一神教]]徒が[[汎神論]]宗教や仏教を「無神論」とすることがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を「無神論」とすることもある。そのため無神論にはいくつかの定義が存在する。 * {{要検証|狭義には、「神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在'''すべてを'''認めない立場」を指して無神論と呼ぶ。|date=2021年7月}} * {{要検証|広義には、また歴史的には「一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場」を指す。|date=2021年7月}} {{独自研究範囲|[[仏教]]や[[儒教]]は広義の無神論に当てはまるが狭義の無神論には該当しない。|date=2021年7月}} {{独自研究範囲|現在の[[キリスト教]]的文脈で無神論というと広義の意味であることが多く、[[多神教]]的文脈では狭義で用いられることが多い。|date=2021年7月}}--> ジャーナリストのゲイリー・ウルフが2006年に提唱した新無神論(New Atheism)は、21世紀の無神論者たちの立場を表す<ref>Lois Lee & Stephen Bullivant, [https://books.google.com/books?id=XguDDQAAQBAJ&pg=PT48 ''A Dictionary of Atheism''] (Oxford University Press, 2016).</ref><ref>[https://www.wired.com/wired/archive/14.11/atheism.html?pg=1&topic=atheism&topic_set= Wolff, Gary, in ''The New Atheism'', The Church of the Non-Believers reprinted in Wired Magazine, November 2006]</ref>。現代の無神論ではあらゆる[[宗教]]は容認されるべきではなく、政府や教育、政治など、過度な影響力を持つところでは、合理的な議論によって反論、批判、挑戦されるべきだと主張する思想家や作家たちによって進められている<ref name="atheists1">{{cite web|url=http://www.iep.utm.edu/n-atheis/|title=New Atheists|website=The Internet Encyclopedia of Philosophy|access-date=14 April 2016|quote=The New Atheists are authors of early twenty-first century books promoting atheism. These authors include Sam Harris, Richard Dawkins, Daniel Dennett, and Christopher Hitchens. The 'New Atheist' label for these critics of religion and religious belief emerged out of journalistic commentary on the contents and impacts of their books.}}</ref><ref name="atheists2">{{cite news |url=https://edition.cnn.com/2006/WORLD/europe/11/08/atheism.feature/index.html |title=The rise of the New Atheists |publisher=CNN |first=Simon |last=Hooper |access-date=16 March 2010}}</ref>。 また無神論は、次の観点から分類されることもある。 * 神の存在についての考察や議論を避ける[[消極的無神論]] * 神の不在を明言する[[積極的無神論]] 無神論の明確な対義語は[[有神論]]である。[[理神論]]や[[汎神論]]は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部とみなされることもある。消極的無神論と[[不可知論]]は、時に見分けがつかないか重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって、[[反宗教主義]]と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者は、しばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであるとみなすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。 === 批判や議論 === 無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間にはあつれきが生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、近年でも保守的な地域では無神論に対する根強い不信感があり、[[アメリカ合衆国]]で台頭した[[インテリジェント・デザイン]]論のように、科学と宗教の融合ないし折衷を称しつつも実質的には造物主の存在を前提にした運動も見られる。 <!-- IDを『自然科学の排斥』という文脈で紹介すると唯神論なり科学否定論なりの一部になってしまい、無神論の記事中では論点をぼやかすだけかと思います -->また無神論者の側も極端な者は宗教を敵視することがある。「社会主義」を自称する全体主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い{{要出典|date=2010年7月}}。 キリスト教<!-- アブラハムの神を神とする中でもユダヤ教やイスラム教については、教義にくわしくないので詳しいヒトにお願いします。 -->の教義では神は、人間の「生前の行動が、[[最後の審判]](死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを前もってわからないわけがないはずであり、このような「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)について、矛盾を指摘する言説が無神論では好まれる([[全能の逆説]]、[[予定説]]を参照)。 <!-- 2021年7月に確認したところ出典のリンクから確認ができず独自研究と考えられる。[[仏教]]は宗教学の類型では無神的宗教と呼ばれ、無神論とされることが多い<ref>[http://atheism.about.com/b/a/220595.htm Buddhism and Atheism]</ref>。-->フォイエルバッハや[[ジークムント・フロイト]]のように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる<ref>''Walpola RahulaのWhat the Buddha Taught 1974 51~52頁''</ref>。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教の[[空 (仏教)|空]]を評価した<ref>「自然の弁証法」</ref>。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある{{要出典|date=2010年7月}}。仏教では、そのような問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ[[不可知論]]に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「'''不可知'''」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、[[諸法無我]]、'''[[神#ブッダ(仏)と神|ブッダ(仏)と神]]'''等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく[[衛生学]]であると(好意的に)解釈した[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]のように、仏教を宗教とはみなさない者もいる。 神について「敬して遠ざける」としている[[儒教]]についても、無神論とみなされる場合がある。事実、[[儒学]]者の中には無神論を積極的に唱える者もおり、「宗教として扱われる思想ではない」という見解が多い。<!--主観的であり独自研究と考えられる。 上述の通り、今日においても[[宗教学]]はキリスト教中心主義的な定義を行っており、[[唯一神教]]以外の宗教は無神論とみなされがちである。仏教などを無神論として分類する欧米の学者に対しては、それらの宗教の中で自説にあう側面のみを選択的に取り上げているという批判もある。--> より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。 [[共産主義]]国家、[[マルクス・レーニン主義]]政権国家の多くでは、宗教は国是としては否定されたが、東欧諸国におけるキリスト教のように容認される場合もあった([[ドイツ民主共和国#宗教]]などを参照)。ただし[[アルバニア人民共和国]]は「世界初の[[国家無神論|無神国家]]」を標榜<ref>{{cite web |url=https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-2007-04-18-0704170802-story.html |title=Albania finds religion after decades of atheism |date=2007-04-18 |website=[[シカゴ・トリビューン]] |access-date=2019-05-26}}</ref> した。{{仮リンク|マルクス・レーニン主義無神論|en|Marxist–Leninist atheism}}を参照。 == 語源 == 一般的な語源は[[古代ギリシャ]]の「''atheos''」「''asebs''」「''atheots''」である。古代ギリシアの民族や国家([[ポリス]]、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:[[アテナイ]]で女神[[アテナ]]を信じない人たち)を示した。 キケロが[[ラテン語]]で翻訳したことから、ラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。 == 歴史 == {{main|無神論の歴史}} === 古代から中世 === [[古代インド]]に[[ブッダ]]と同時代人の[[アジタ・ケーサカンバリン]]がおり、彼を中心とする[[順世派]](チャールヴァーカ Cārvāka)は無神論的な思想を展開した。神のような超越的な原理でなく、社会倫理やその改革を訴えた。 [[古代ギリシア]]では、まず[[デモクリトス]]や[[エピクロス]]が唯物論に基づく無神論的な思想を提唱し、[[古代ローマ|ローマ時代]]には[[ルクレティウス]]がそれをより明確な無神論の形で提唱した。 ==== キリスト教との関係 ==== [[File:Feuerbach andreas.jpg|thumb|right|200px|[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]が書いた『キリスト教の本質』(1841年)は [[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]や[[カール・マルクス|マルクス]]、[[ダーフィト・シュトラウス|シュトラウス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]などに多大な影響を与えた]] [[File:Christ saviour explosion.jpg|thumb|right|200px|爆破され崩れゆく、[[救世主ハリストス大聖堂]]]] 原義から、原始キリスト教徒は「ギリシアの神・ローマの神を信じない者」という意味で無神論者とされた時期があるが、中世や近代では[[キリスト教]]の宗教観に反対する立場をとる者が無神論者を名乗ることが多い。反キリスト教的な無神論者の中には、マルクスやニーチェのように、むしろ古代ギリシャに傾倒した人物が少なからずいる。 === 日本近世期における無鬼論 === 日本においては幽鬼、すなわち霊魂や鬼といった妖怪の存在を否定する「無鬼論」として始まる。無鬼論は、儒学における「気(万物を構成する要素)」と「祭祀(招魂といった先祖崇拝)」の解釈(現象と関係)に伴う矛盾から発展していったものであり<ref name="j">[[加地伸行]] 『儒教とは何か』 [[中公新書]] 11版1995年(初版1990年) p.207</ref>、西洋のような一神教による絶対的な世界観を科学解釈によって徐々に崩された(科学的な根拠の積み重ねによる否定の)上で成り立ったものとは異なる。中国の[[朱子]]は、気(現代でいえば、原子のようなもの)の集まりが「生」と捉え、気の離散が「死」と解釈した上で、気の離合集散によって[[魂魄#儒学における魂魄現象の解釈|魂魄の現象]]を合理的に説明しようとした(魂魄の項の「儒学における魂魄現象の解釈」も参照)。結果、霊性を否定しかねない矛盾した論考(一度、離散した気=魂魄は二度と戻らない=死と主張したために、祭祀による招魂儀礼を行うことに矛盾が生じた)に至ってしまい、後世、[[林羅山]]といった儒学者に鬼神(魂魄)の有無について半信半疑な立場を取らせ<ref name="j"/>、江戸期日本の[[朱子学]]者を「無鬼論者」([[伊藤仁斎]])と「有鬼論者」([[荻生徂徠]])に二分させた<ref name="j"/>。 多神教([[道教]]や[[神道]]など)では、先祖を人物神として祀る信仰観から、祭祀による招魂儀礼が行なわれるが、魂魄=気の離散が死であり、離散した気は二度と戻らないとする朱子学の主張(仏教の[[輪廻転生]]を否定するために生み出した合理的論説)<ref name="j"/> は、{{要検証|一部で無神論にも通じることになる。|date=2021年7月}} === 近代 === フランスの[[啓蒙思想]]によって、無神論は飛躍的に発展した。 フランスの思想家[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]は無神論、[[唯物論]]、[[運命論]]を唱えた。ドルバックは、[[ヴォルテール]]流の[[理神論]]や[[汎神論]]ではなく、最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。おそらくドルバックに先行するのは、{{仮リンク|ジャン・メリエ|en|Jean Meslier}}ただ一人である。ドルバックの自然観の根底には、人間は[[理性]]的な存在であるという確信がある。全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元するというのが彼の目論見であった。主著『自然の体系』では、あらゆる宗教的観念や[[理神論]]的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説く。しかし、しばしば矛盾とも思える様々な主張の寄せ集まりであると批判されてもいる。 [[19世紀]]後半のドイツは[[合理主義]]及び[[自由思想]]の影響を受けて無神論の卓越性が増し、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]や[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]など多くの顕著な哲学者は神の存在を否定した<ref>[https://books.google.co.jp/books?hl=en&lr=&id=BKz2FcDrFy0C&oi=fnd&pg=PA1&dq=nietzsche+schopenhauer+marx+feuerbach&ots=Uj5_B0kDbS&sig=1lXbokGVRbwxqAIbmcOwL033N88&redir_esc=y Subjectivity and Irreligion]</ref>。特にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841年)はマルクス、[[ダーフィト・シュトラウス|シュトラウス]]、ニーチェら若い哲学者に熱烈に歓迎され、キリスト教は前代未聞の激しい攻撃に晒された。唯物論者でもあるマルクスは「宗教は[[大衆のアヘン|民衆の阿片]]である」とし、またニーチェはユダヤ教―キリスト教の精神構造を「ルサンチマン」にあると『道徳の系譜』で論じた。またラッセルは、宗教や信仰を死や神秘的なものへの恐怖にあるとした<ref>「自由人の信仰」</ref>。 === 現代 === 社会主義政権の中国で67%、日本で29%、過去に社会主義政権だったスロベニアで28%、同じくチェコで25%、韓国で23%、ベルギーとフランスで21%、スウェーデンで18%、アイスランドで17%が神を信じていないとの調査がある<ref>[https://www.christiantoday.co.jp/articles/25615/20180601/religion-prevails-in-the-world-gallup-international.htm 世界の7割「神を信じる」 日本は無神論者の割合で世界2位 ギャラップ国際調査 : 国際 : クリスチャントゥデイ]</ref>。 == 主張・発言 == 無神論者の指摘・主張・発言には以下のようなものがある。 * [[神の存在証明|神の存在]]や、神が存在することで我々の世界、我々の精神にどのような影響があるのかを、飛躍や矛盾なく論理的に説明することができない。現時点でその存在や影響を証明できない、「神の存在」以外で説明がつくのであれば、存在しないものと考えても差し支えはない。([[オッカムの剃刀]]) * 「[[全知全能]]の神が存在するなら、その神は『全知全能の神が知らない物』(あるいは『全知全能の神が持ち上げられない大きさの岩』)を作れるか。」という[[パラドックス]]が解決できない以上、全知全能の神は存在しない。([[全能の逆説]]、ただしここでは神=全知全能と定義している。「神」という存在が全知全能であるかという問題があり、このままでは無神論を証明はできない) * 全知全能の神が存在するなら、なぜ社会悪や不幸が存在するのか説明できない。社会悪や不幸を神が解決できないのなら、それは全知全能ではないし、また全知全能であるにもかかわらず解決しようとしないのなら、それは神とはいえない。 * 信仰とは、立証責任を果たさずに、「あるものはある」という同語反復([[トートロジー]])で、押し付けてくるものである。(ドーキンス) * インドで、宗教とよばれるものは、あまりに恐ろしく、わたしは掃き清めたかった。それは盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取である。([[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]) == 無神論と社会 == 現代では[[憲法]]によって信仰の自由が保障されているが、宗教的に保守的な国や地域(イスラム教国や、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国等の一部地域)では、無神論者であることを口にすることがタブーとされることが多い。神を信じず、信仰の対象を持たない人間は、[[悪魔]]を信仰する者([[サタニズム]])、[[道徳]]のない者、無教養扱いにされることがある。欧米では、これら有象無象の誤解や不利益を回避するための方便として、神や[[霊魂]]の存在を必ずしも肯定しない「思想」を持つと主張する場合もある。もっとも近年の欧米では、無神論を口にすることへのタブー意識は低くなってきている。それでも周囲との軋轢を避けるために、無神論の代替語として[[不可知論]]を用いる場合がある。[[リチャード・ドーキンス]]はこうした「無神論者」へのいわれなき差別を是正すべきだとしている<ref>「神は妄想である」および項目「リチャード・ドーキンス」を参照</ref>。 === 西洋における意味=== 欧米の保守的な一部地域では、「無神論者」という表現は非常に大胆な表現であり、無慈悲な人物像を連想させてしまうため、注意が必要となる。ただし、一般的には無神論は哲学上の立場として広く受け入れられている。 アメリカ軍の[[認識票]]には、葬儀を行う都合上、宗教を記入する欄が存在しており、略記号を用いて刻印されているが、無神論者は未申告として刻印される。ただし、第二次世界大戦中はナチスがユダヤ人を差別したため、ユダヤ教が未申告として刻印されていたこともあるので、一概に未申告=無神論者とは言えない。 === イスラムにおける扱い === [[イスラム教]]の価値観では、無神論であることは悪として扱われる。無神論者であるということは[[無明時代]]の人間であるということであり、文明を知らない原始人のような者と見なされ、異教徒([[ズィンミー]])よりも下位として扱われる。エジプト、イラン、サウジアラビアなど、戸籍や入出国に関する書類に宗教欄の記載が必須の国では、無神論者と宣言することが不利な扱いになる場合もある。特にイランやサウジアラビアなど、[[シャーリア]]が法制度となっている国では、法的権利の制限を受けることもある。 == 著名な無神論者 == {{Main|無神論者の一覧}} * [[エピクロス]]、[[ルクレティウス]]、[[デモクリトス]] - 古代ギリシア * [[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]、[[ピエール・ガッサンディ|ガッサンディ]]、[[マルキ・ド・サド|サド]]、[[アルベール・カミュ|カミュ]]、[[サルトル]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]] - フランス * [[富永仲基]]([[儒教]]、[[仏教]]、[[神道]]を否定する無鬼論)、[[山片蟠桃]] - 日本 * [[カール・マルクス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]] - ドイツ * [[マリ・キュリー]] - ポーランド * [[ジークムント・フロイト]] - オーストリア * [[リチャード・ドーキンス|ドーキンス]]、[[スタンリー・キューブリック|キューブリック]]、[[スティーヴン・ホーキング|ホーキング]]、[[ピーター・アトキンス|アトキンス]]、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]、[[アラン・チューリング|チューリング]]、[[ジェームズ・ワトソン]] - イギリス * [[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|ラヴクラフト]]、[[ノーム・チョムスキー|チョムスキー]]、[[マービン・ミンスキー|ミンスキー]]、[[クロード・シャノン|シャノン]]、[[アイザック・アシモフ|アシモフ]] - アメリカ * [[アジタ・ケーサカンバリン|ケーサカンバリン]] - インド * [[ピーター・フランクル]] - ハンガリー == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * アンリ・アルヴォン『無神論』文庫クセジュ474、白水社。 * Zuckerman, Phil. "Atheism: Contemporary Numbers and Patterns." The Cambridge Companion to Atheism. Ed. Michael Martin. Cambridge University Press, 2007. Cambridge Collections Online. Cambridge University Press. 03 February 2012 {{doi|10.1017/CCOL0521842700.004}} * {{cite book |editor=Michael Martin & Ricki Monnier |title=The Improbability of God |year=2006 |publisher=Prometheus Books |location=Buffalo, New York |isbn=978-1-59102-381-4}} == 関連項目 == * [[有神論]] * [[非有神論]] * [[形式主義]] * [[不可知論]] * [[反実在論]] * [[汎神論]] * [[汎神論論争]] * [[理神論]] * [[無神論論争]] * [[無神論者の一覧]] * [[科学主義]] * [[反宗教主義]] * [[異教主義]] * [[国家無神論]] * [[キリスト教無神論]] * [[無神論者バスキャンペーン]] * [[無神論の歴史]] == 外部リンク == {{SEP|atheism-agnosticism|Atheism and Agnosticism|無神論と不可知論}} {{SkepDic|atheism|Atheism}} * {{Kotobank}} {{宗教的中立性}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:むしんろん}} [[Category:無神論|*]] [[Category:社会哲学]] [[Category:哲学の理論]] [[Category:宗教研究の哲学]] [[Category:機械論]] [[Category:科学哲学の理論]]
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ピュグマリオーン
ピュグマリオーン(古希: Πυγμαλίων, Pygmaliōn)は、ギリシア神話に登場するキプロス島の王である。長母音を省略してピュグマリオンとも表記される。 現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻した。その像を見ているうちに彼女が服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。 ジャン・ジャック・ルソーは戯曲『ピグマリオン(英語版)』を書き、これを原作とするオペラがいくつかある(ルイジ・ケルビーニの『ピンマリオーネ(英語版)』など)。像にガラテアという名前が与えられたのはルソーの作品が最初である。 フランツ・フォン・スッペのオペレッタ『美しきガラテア』はピグマリオンの話を元にしている。 ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』もピグマリオンの伝説を元にしている。 ウィリアム・S・ギルバートには戯曲『ピグマリオンとガラテア』 (Pygmalion and Galatea (play)) がある。 映画『マイ・フェア・レディ』の下敷きになったジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』はこの伝説に材をとったものである。また、和田慎二のファンタジー漫画『ピグマリオ』でも、石になった精霊ガラティアというモチーフが用いられている。 映画『リタと大学教授』の原作『リタの教育(英語版)』はショーの『ピグマリオン』を下敷きにしている。
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ピュグマリオーンは、ギリシア神話に登場するキプロス島の王である。長母音を省略してピュグマリオンとも表記される。 現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻した。その像を見ているうちに彼女が服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。
{{Redirect|ピグマリオン}} [[File:Girodet Pygmalion.jpg|thumb|260px|[[アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン]]の1819年の絵画『ピュグマリオンとガラテア』。[[ルーヴル美術館]]所蔵。]] [[file:Jean-Léon Gérôme, Pygmalion and Galatea, ca. 1890.jpg|thumb|260px|[[ジャン=レオン・ジェローム]]の1890年の絵画『ピグマリオンとガラテア』。[[メトロポリタン美術館]]所蔵。]] '''ピュグマリオーン'''({{lang-grc-short|'''Πυγμαλίων'''}}, {{ラテン翻字|el|Pygmaliōn}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[キプロス島]]の[[王]]である。[[長母音]]を省略して'''ピュグマリオン'''とも表記される。 現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻した。その像を見ているうちに彼女が服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが[[人間]]になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねた[[アプロディーテー]]がその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。 == 影響 == [[ジャン・ジャック・ルソー]]は戯曲『{{仮リンク|ピグマリオン (ルソー)|label=ピグマリオン|en|Pygmalion (Rousseau)}}』を書き、これを原作とするオペラがいくつかある([[ルイジ・ケルビーニ]]の『{{仮リンク|ピンマリオーネ|en|Pimmalione}}』など)。像に[[ガラテイア#ピュグマリオーンの妻|ガラテア]]という名前が与えられたのはルソーの作品が最初である<ref>{{cite journal|first=Helen H. |last=Law |title=The Name Galatea in the Pygmalion Myth|journal=The Classical Journal|volume=27|issue=5|year=1932|pages=337-342|jstor=3290617}}</ref>。 [[フランツ・フォン・スッペ]]の[[オペレッタ]]『[[美しきガラテア]]』はピグマリオンの話を元にしている。 [[ヴィリエ・ド・リラダン]]『[[未来のイヴ]]』もピグマリオンの伝説を元にしている。 [[ウィリアム・S・ギルバート]]には戯曲『ピグマリオンとガラテア』{{enlink|Pygmalion and Galatea (play)}}がある。 映画『[[マイ・フェア・レディ]]』の下敷きになった[[ジョージ・バーナード・ショー]]の戯曲『[[ピグマリオン (戯曲)|ピグマリオン]]』はこの伝説に材をとったものである。また、[[和田慎二]]の[[ファンタジー]]漫画『[[ピグマリオ]]』でも、石になった精霊ガラティアというモチーフが用いられている。 映画『[[リタと大学教授]]』の原作『{{仮リンク|リタの教育|en|Educating Rita}}』はショーの『ピグマリオン』を下敷きにしている。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Pygmalion and Galatea}} * [[ピグマリオン効果]] * [[ピグマリオンコンプレックス]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひゆくまりおん}} [[Category:ギリシア神話の人物]]
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映像 (ドビュッシー)
『映像』(えいぞう、Images)は、クロード・ドビュッシーが作曲したピアノ曲および管弦楽曲。全部で4集があり、第1集と第2集はピアノ曲、第3集は管弦楽曲である。ただし、第3集は単に「管弦楽のための映像」と呼ばれることが多い。この他に、生前には出版されなかったピアノのための1集があり、『忘れられた映像』と呼ばれている。 1903年7月にデュラン社と出版の契約を行った際には、独奏ピアノのための3曲+2台のピアノまたは管弦楽のための3曲の計6曲から成る『映像』を2セット作る予定になっていた(これより先、1901年末にピアニストのリカルド・ビニェスはプライベートの場でドビュッシー自身のピアノにより「水に映る影」と「動き」の2曲を聴いている。ただし「水に映る影」は後に破棄されたものであり、現行のものとは違う曲である)。この時点では以下の構成が計画されていた。 しかしこの企画は一旦棚上げとなり、この間に『版画』(1903年)や『海』(1905年)が作曲された。この頃、不倫騒動と離婚が原因で友人の多くを失ったドビュッシーは1905年7月から9月にかけて、内縁関係にあったエンマ・バルダックと共にイギリスのイーストボーンに渡り、この地で『映像』第1集の推敲を行った。この時に「水に映る影」は現行のものに差し替えられたが、そこには『海』を作曲した経験が影響していると考えられる。結局、当初の6曲ではなくピアノ独奏曲3曲だけが『映像』第1集として完成し、ドビュッシーはこの曲集について「シューマンの左かショパンの右に位置するだろう」と語るほどの自信を見せた。翌1906年からは残りの作品にも着手し、1907年10月には『映像』第2集が完成する。当初2台のピアノを想定していた残りの3曲は曲名に多少の変更を行い(「悲しきジーグ」→「ジーグ」、「ロンド」→「春のロンド」)、さらに「イベリア」と「ジグ」の曲順を入れ替えて、管弦楽曲として順次完成した(1908年に「イベリア」、1909年に「春のロンド」、1912年に「ジーグ」)。なお、ドビュッシーの死後、「春のロンド」のオーケストレーションを手伝ったアンドレ・カプレは、1.「春のロンド」、2.「ジーグ」、3.「イベリア」の曲順を採用した。 1904年-05年作曲。初演は1906年3月。リカルド・ビニェスによる。 1907年作曲。初演は1908年2月。同じくリカルド・ビニェスによる。 「ジーグ」、「イベリア」、「春のロンド」の3曲から構成され、各曲はそれぞれがイギリス(スコットランド)、スペイン、フランスの民族音楽的なイメージを持つ。組曲の体裁はとられているが各曲の作曲時期、楽器編成は異なっており、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。以下の曲順は全曲の作曲後に決められたものであるが、この順に演奏する場合と、完成順に演奏する場合とがある。また、『イベリア』はしばしば単独で演奏される。 1909年から1911年にかけて作曲された。演奏時間は約7分。「ジグ」と表記する場合もある。スコットランドの音楽を題材にしており、同様のテーマの作品には『スコットランド風行進曲』(1891年)がある。1905年の渡英時に触れたバグパイプの響きがオーケストレーションに影響していると言われる。 ピッコロ2、フルート2、オーボエ2、オーボエ・ダモーレ、コーラングレ、クラリネット3、バス・クラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、ティンパニ、スネアドラム、シンバル、シロフォン、チェレスタ、ハープ2、弦五部 1905年から1908年にかけて作曲された。これ自体が3曲からなる。演奏時間は約20分。ドビュッシーがスペインを題材にするのは『リンダラハ』(1901年)、『版画』(1903年)の第2曲「グラナダの夕暮れ」に続いてであり、さらに後の『前奏曲集』第1巻(1910年)の「とだえたセレナード(さえぎられたセレナード)」、同第2巻(1913年)の「ヴィーノの門」につながるものである。なお、「とだえたセレナード」には『イベリア』の「祭りの日の朝」の主題が引用されている。 ピッコロ、フルート3(持ち替えでピッコロ1)、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット3、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム、シンバル、タンブリン、カスタネット、シロフォン、鐘、ハープ、チェレスタ、弦五部 1905年から1909年にかけて作曲された。アンドレ・カプレの手を借りてオーケストレーションが完成されたと言われる。演奏時間は約8分。フランスの童謡「嫌な天気だから、もう森へは行かない」が使われている。(後述) フルート3(持ち替えでピッコロ2)、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット3、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、ティンパニ、タンブラン(プロヴァンス太鼓)、シンバル、トライアングル、チェレスタ、ハープ2、弦五部 1894年作曲。生前は未出版。ドビュッシーの死後から時を経て1977年に出版された際、上記のタイトルが付けられた。ドビュッシーの友人で画家アンリ・ルロルの娘イヴォンヌに献呈された ドビュッシーには全作品中4曲「嫌な天気だから、もう森へは行かない」というフランスの童謡に基づく曲がある。一つは『忘れられた映像』第3曲『嫌な天気だから“もう森へは行かない”の諸相』である。これは後に『版画』第3曲『雨の庭』において、同じ童謡の主題を用いながらもよりピアニスティックな技巧が映え、また主題の展開が『諸相』よりも散文的ではなくよりまとまりのある曲に書き改められた。さらに『管弦楽のための映像』第3曲『春のロンド』にも同じ童謡の主題が出てくる。もう一つは若い頃に書かれた歌曲『眠りの森の美女』で、これは歌の合間に出てくる対旋律中でやはりこの童謡が用いられている。 この童謡については他にも、ジャン・アランによる子供のためのピアノ教材用の2声カノンが出版されている。
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『映像』(えいぞう、Images)は、クロード・ドビュッシーが作曲したピアノ曲および管弦楽曲。全部で4集があり、第1集と第2集はピアノ曲、第3集は管弦楽曲である。ただし、第3集は単に「管弦楽のための映像」と呼ばれることが多い。この他に、生前には出版されなかったピアノのための1集があり、『忘れられた映像』と呼ばれている。
{{Portal クラシック音楽}} 『'''映像'''』(えいぞう、''Images'')は、[[クロード・ドビュッシー]]が作曲した[[ピアノ曲]]および[[管弦楽曲]]。全部で4集があり、第1集と第2集はピアノ曲、第3集は管弦楽曲である。ただし、第3集は単に「管弦楽のための映像」と呼ばれることが多い。この他に、生前には出版されなかったピアノのための1集があり、『'''忘れられた映像'''』と呼ばれている。 == 作曲の経緯 == [[File:Claude Debussy, half-length portrait, seated, facing left) - portrait by J.E. Blanche ; photo by Em. Crevaux, Paris LCCN89711902.jpg|thumb|right|250px|『映像』第2集完成の年、1907年当時のドビュッシー]] [[1903年]]7月に[[デュラン (出版社)|デュラン]]社と出版の契約を行った際には、独奏ピアノのための3曲+2台のピアノまたは管弦楽のための3曲の計6曲から成る『映像』を2セット作る予定になっていた(これより先、[[1901年]]末にピアニストの[[リカルド・ビニェス]]はプライベートの場でドビュッシー自身のピアノにより「水に映る影」と「動き」の2曲を聴いている。ただし「水に映る影」は後に破棄されたものであり、現行のものとは違う曲である)。この時点では以下の構成が計画されていた。 *『映像』第1集 : 1.「水に映る影」 2.「ラモー賛歌」 3.「動き」 4.「イベリア」 5.「悲しきジーグ」 6.「ロンド」 *『映像』第2集 : 1.「葉ずえを渡る鐘」 2.「荒れた寺にかかる月」 3.「金色の魚」 (4-6は未定) :(いずれも、1-3はピアノ独奏、4-6は2台ピアノもしくは管弦楽) しかしこの企画は一旦棚上げとなり、この間に『[[版画 (ドビュッシー)|版画]]』(1903年)や『[[海 (ドビュッシー)|海]]』(1905年)が作曲された。この頃、不倫騒動と離婚が原因で友人の多くを失ったドビュッシーは[[1905年]]7月から9月にかけて、内縁関係にあった[[エンマ・バルダック]]と共にイギリスの[[イーストボーン]]に渡り、この地で『映像』第1集の推敲を行った。この時に「水に映る影」は現行のものに差し替えられたが、そこには『海』を作曲した経験が影響していると考えられる<ref>松橋麻利『ドビュッシー』音楽之友社、2007年、112ページ</ref>。結局、当初の6曲ではなくピアノ独奏曲3曲だけが『映像』第1集として完成し、ドビュッシーはこの曲集について「シューマンの左かショパンの右に位置するだろう」と語るほどの自信を見せた。翌1906年からは残りの作品にも着手し、[[1907年]]10月には『映像』第2集が完成する。当初2台のピアノを想定していた残りの3曲は曲名に多少の変更を行い(「悲しきジーグ」→「ジーグ」、「ロンド」→「春のロンド」)、さらに「イベリア」と「ジグ」の曲順を入れ替えて、管弦楽曲として順次完成した([[1908年]]に「イベリア」、[[1909年]]に「春のロンド」、[[1912年]]に「ジーグ」)。なお、ドビュッシーの死後、「春のロンド」のオーケストレーションを手伝った[[アンドレ・カプレ]]は、1.「春のロンド」、2.「ジーグ」、3.「イベリア」の曲順を採用した。 == 映像 第1集 (Images I) == {{試聴 |header = 映像 第1集 (Images I)より |type = music |filename = Debussy , Reflets dans l'eau.ogg |title = 水に映る影(Reflets dans l'eau) |filename2 = Hommage à Rameau (Tribute to Rameau), Images I.ogg |title2 = ラモー賛歌(Hommage à Rameau) |description2 = 以上、何れも[[ギオルギ・ラッザビゼ]](P)《2017年5月13日》 }} [[1904年]]-[[1905年|05年]]作曲。初演は1906年3月。[[リカルド・ビニェス]]による。 *'''水に映る影'''(Reflets dans l'eau) *:『水の反映』とも訳され、そちらのほうがより直訳的である。ドビュッシーが数多く作曲したピアノ曲で、水を題材にした曲の中でも特に有名な曲。難易度については、繊細かつ高度な技術<!--的演奏-->が必要とされる。 *'''ラモー賛歌'''(Hommage à Rameau) *:『[[ジャン=フィリップ・ラモー|ラモー]]をたたえて』とも訳される。曲の中では教会旋法や全音音階などが使われ、主題はラモーが得意としたオルガンのような響きを持っている。 *'''動き'''(Mouvement) *:『運動』とも訳される。 == 映像 第2集 (Images II) == [[1907年]]作曲。初演は1908年2月。同じく[[リカルド・ビニェス]]による。 *'''葉ずえを渡る鐘'''(Cloches à travers les feuilles) *:『葉蔭を漏れる鐘の音』とも訳される。<ref>[[トリスタン・ミュライユ]]にこの曲名を逆にした「鐘を渡る葉ずえ Les feuilles à travers les cloches」という楽曲がある。</ref>[[全音音階]]と[[五音音階]]が特徴的に使われている。 *'''荒れた寺にかかる月'''(Et la lune descend sur le temple qui fut) *:『そして月は廃寺に落ちる』とも訳される。 *'''金色の魚'''(Poissons d'or) *:[[金魚]]ではなく、ドビュッシーの書斎に飾ってあった日本の漆器盆に金粉で描かれた[[ニシキゴイ|錦鯉]]に触発された作品。 == 管弦楽のための『映像』 == {{External media | width = 310px | topic = 「管弦楽のための『映像』」を試聴 | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=LVD-Eu-aWTY Debussy:Images] - [[ジョン・エリオット・ガーディナー]]指揮[[フランス放送フィルハーモニー管弦楽団]]による演奏。[[ラジオ・フランス|France Musique]]公式YouTube。 | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=jp-C3Lbgo5M Debussy:Images pour orchestre] - [[エマニュエル・クリヴィヌ]]指揮[[フランス国立管弦楽団]]による演奏。France Musique公式YouTube。 | audio3 = [https://www.youtube.com/watch?v=t20nBwcH3bQ Debussy:La Mer] - [[:en:Pablo Heras-Casado|パブロ・エラス=カサド]]指揮[[hr交響楽団]]による演奏《「ジーグ」と「春のロンド」の2曲を当該演奏の演目全4曲中後半2曲にて演奏》。hr交響楽団公式YouTube。 }} 「ジーグ」、「イベリア」、「春のロンド」の3曲から構成され、各曲はそれぞれがイギリス(スコットランド)、スペイン、フランスの民族音楽的なイメージを持つ。組曲の体裁はとられているが各曲の作曲時期、楽器編成は異なっており、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。以下の曲順は全曲の作曲後に決められたものであるが、この順に演奏する場合と、完成順に演奏する場合とがある。また、『イベリア』はしばしば単独で演奏される。<ref>『作曲家別名曲解説ライブラリー 10 ドビュッシー』音楽之友社、1993年、52ページ</ref> === ジーグ(Gigues) === [[1909年]]から[[1911年]]にかけて作曲された。演奏時間は約7分。「[[ジグ (音楽)|ジグ]]」と表記する場合もある。スコットランドの音楽を題材にしており、同様のテーマの作品には『[[スコットランド風行進曲]]』([[1891年]])がある。1905年の渡英時に触れた[[バグパイプ]]の響きがオーケストレーションに影響していると言われる。 ==== 編成 ==== [[ピッコロ]]2、[[フルート]]2、[[オーボエ]]2、[[オーボエダモーレ|オーボエ・ダモーレ]]、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]]3、[[バスクラリネット|バス・クラリネット]]、[[ファゴット]]3、[[コントラファゴット]]、[[ホルン]]4、[[トランペット]]4、[[トロンボーン]]3、[[ティンパニ]]、[[スネアドラム]]、[[シンバル]]、[[シロフォン]]、[[チェレスタ]]、[[ハープ]]2、[[弦楽合奏|弦五部]] === イベリア(Ibéria)=== [[1905年]]から[[1908年]]にかけて作曲された。これ自体が3曲からなる。演奏時間は約20分。ドビュッシーがスペインを題材にするのは『[[リンダラハ]]』([[1901年]])、『[[版画 (ドビュッシー)|版画]]』([[1903年]])の第2曲「グラナダの夕暮れ」に続いてであり、さらに後の『[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]]』第1巻([[1910年]])の「とだえたセレナード(さえぎられたセレナード)」、同第2巻([[1913年]])の「ヴィーノの門」につながるものである。なお、「とだえたセレナード」には『イベリア』の「祭りの日の朝」の主題が引用されている。 *'''街の道と田舎の道'''(Par les rues et par les chemins) *'''夜の薫り'''(Les parfums de la nuit) *'''祭りの日の朝'''(Le matin d'un jour de fête) ==== 編成 ==== [[ピッコロ]]、[[フルート]]3(持ち替えでピッコロ1)、[[オーボエ]]2、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]]3、[[ファゴット]]3、[[コントラファゴット]]、[[ホルン]]4、[[トランペット]]3、[[トロンボーン]]3、[[チューバ]]、[[ティンパニ]]、[[スネアドラム]]、[[シンバル]]、[[タンブリン]]、[[カスタネット]]、[[シロフォン]]、[[チューブラーベル|鐘]]、[[ハープ]]、[[チェレスタ]]、[[弦楽合奏|弦五部]] ===春のロンド(Rondes de printemps)=== [[1905年]]から[[1909年]]にかけて作曲された。[[アンドレ・カプレ]]の手を借りて[[管弦楽法|オーケストレーション]]が完成されたと言われる。演奏時間は約8分。フランスの童謡「嫌な天気だから、もう森へは行かない」が使われている。([[#もう森へは行かない|後述]]) ==== 編成 ==== [[フルート]]3(持ち替えでピッコロ2)、[[オーボエ]]2、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]]3、[[ファゴット]]3、[[コントラファゴット]]、[[ホルン]]4、[[ティンパニ]]、タンブラン([[プロヴァンス太鼓]])、[[シンバル]]、[[トライアングル]]、[[チェレスタ]]、[[ハープ]]2、[[弦楽合奏|弦五部]] == 忘れられた映像 (Images oubliées) == [[1894年]]作曲。生前は未出版。ドビュッシーの死後から時を経て1977年に出版された際、上記のタイトルが付けられた。ドビュッシーの友人で画家[[アンリ・ルロル]]の娘イヴォンヌ<ref>ルノアールの絵画「ピアノを弾くイボンヌとルロル」(1897年)に妹と共に描かれている。</ref>に献呈された *'''レント'''(Lent) *'''ルーヴルの思い出'''(Souvenir du Louvre) *:『ピアノのために』第2曲「サラバンド」に転用された。 *'''嫌な天気だから「もう森へは行かない」の諸相'''(Quelques aspects de “Nous n'irons plus au bois” parce qu'il fait un temps insupportable) *:『版画』第3曲「雨の庭」に改作された。 === もう森へは行かない === ドビュッシーには全作品中4曲「嫌な天気だから、もう森へは行かない」というフランスの童謡に基づく曲がある。一つは『忘れられた映像』第3曲『嫌な天気だから“もう森へは行かない”の諸相』である。これは後に『版画』第3曲『雨の庭』において、同じ童謡の主題を用いながらもよりピアニスティックな技巧が映え、また主題の展開が『諸相』よりも散文的ではなくよりまとまりのある曲に書き改められた。さらに『管弦楽のための映像』第3曲『春のロンド』にも同じ童謡の主題が出てくる。もう一つは若い頃に書かれた歌曲『眠りの森の美女』で、これは歌の合間に出てくる対旋律中でやはりこの童謡が用いられている。 この童謡については他にも、[[ジャン・アラン]]による子供のためのピアノ教材用の2声カノンが出版されている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *松橋麻利『ドビュッシー』音楽之友社、2007年 *『最新名曲解説全集(5)管弦楽曲II』音楽之友社、1980年 == 外部リンク == * {{IMSLP2| work=Images_(1ere_s%C3%A9rie)_(Debussy,_Claude) | cname=映像・第1集}} * {{IMSLP2| work=Images_(2%C3%A8me_S%C3%A9rie)_(Debussy,_Claude) | cname=映像・第2集}} * {{IMSLP2| work=Images_oubli%C3%A9es_(Debussy,_Claude) | cname=忘れられた映像}} * {{IMSLP2| work=Images_pour_orchestre_(Debussy,_Claude) | cname=管弦楽のための『映像』}} {{ドビュッシーのピアノ曲}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えいそう}} [[Category:ドビュッシーのピアノ独奏曲]] [[Category:ピアノ組曲]] [[Category:ドビュッシーの管弦楽曲]] [[Category:管弦楽組曲]]
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新古書店
新古書店()とは、比較的近年に出版された本を売買する日本の古書店のことである。 売買対象は主に漫画や文庫本など大量出版され希少価値の低い書籍である。稀少本や専門書も取り扱わない事もないが、後述するように従来の古書市場に比べてかなり低い価格で取り引きされる。それを利用して従来型の古書店が「仕入先」にしている事があるほか、個人が転売する「せどり」も存在する。買取は本の状態を重視しているので希少本でも買い取り拒否・破棄されるケースも多々ある。買い取った本は必要に応じてクリーニングを施して販売する。 売買対象は書籍に限らず、音楽CDや映像ソフト、ゲームソフト等も併せて取り扱っている店舗が多い。これらも古書同様に、古いタイトルについては専門の中古店と比較して大幅に低い価格で取引される。 新古書店も古物営業法により、買取には本人確認が義務付けられている。 店舗は比較的広く清潔感を心がけた内装で、古書特有の臭いを抑える対策も施されており、従来型の古書店よりむしろコンビニや新刊書店に似ている。主な客層は中高生など若年層で、若年層の人口が多い郊外のベッドタウンや、来店しやすいロードサイドに立地している事が多い。立ち読みもある程度許容されている。 経営方法としては、在庫管理のコストを徹底的に削減するために一風変わった方法が取られている。 こうした方法により非熟練労働者でも店舗運営が可能となり、コストを抑えて利益を上げられるようになっている。ただし単品管理の欠如ゆえにITを活用しての高度な在庫管理システムも採用できなくなっており、近年ネット古書店との競争において後れを取る原因ともなっている。 フランチャイズとして展開している事が多いが、充分なノウハウもないままにフランチャイジーを募集して不当にロイヤリティを得ているとの批判を受ける事がある(詳細はフランチャイズを参照)。
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新古書店とは、比較的近年に出版された本を売買する日本の古書店のことである。
{{出典の明記|date=2019年10月}} [[画像:ブックオフPA060699.jpg|thumb|200px|ブックオフ店舗]] [[File:The company vehicle of Book Off.jpg|thumb|出張買取等で使用されるブックオフの車両。]] {{読み仮名|'''新古書店'''|しんこしょてん}}とは、比較的近年に[[出版]]された[[本]]<!--新古本は[[ゾッキ本]]を指すためここで例に出すのは誤り-->を売買する[[日本]]の[[古書店]]のことである<ref>{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E6%9B%B8%E5%BA%97-183021|title=新古書店(シンコショテン)とは? 意味や使い方 - コトバンク|accessdate=2023-12-09}}</ref>。 ==特徴== 売買対象は主に漫画や文庫本など大量出版され希少価値の低い書籍である。稀少本や専門書も取り扱わない事もないが、後述するように従来の古書市場に比べてかなり低い価格で取り引きされる。それを利用して従来型の古書店が「仕入先」にしている事があるほか、個人が転売する「[[せどり]]」も存在する。買取は本の状態を重視しているので希少本でも買い取り拒否・破棄されるケースも多々ある。買い取った本は必要に応じてクリーニングを施して販売する。 売買対象は書籍に限らず、音楽CDや映像ソフト、ゲームソフト等も併せて取り扱っている店舗が多い。これらも古書同様に、古いタイトルについては専門の中古店と比較して大幅に低い価格で取引される。 新古書店も[[古物営業法]]により、買取には本人確認が義務付けられている。 店舗は比較的広く清潔感を心がけた内装で、古書特有の臭いを抑える対策も施されており、従来型の古書店よりむしろコンビニや新刊書店に似ている。主な客層は中高生など若年層で、若年層の人口が多い郊外のベッドタウンや、来店しやすい[[ロードサイド店舗|ロードサイド]]に立地している事が多い。立ち読みもある程度許容されている。 経営方法としては、在庫管理のコストを徹底的に削減するために一風変わった方法が取られている。 * 値付けの簡略化。従来の古書店では古書市場での相場や自らの鑑定眼を元に値付けを行うため店主が古書に精通している必要があるが、新古書店ではこれを行わず、商品の種類・出版年月・本の状態等を基準としてほぼ一律に価格を定めることとし、これにより値付けの手間を省いている。なお、{{要出典|範囲=これを可能にした原因は[[再販売価格維持|再販制度]]にある。再販制度の下では新刊の価格は需要や希少価値にかかわらず常に一定であるため、古書の側でも同様に価格を一定にしても問題ないのである|date=2023年12月}}。<!-- つまり、出版業界からしばしば批判を受けているにもかかわらず、再販制度から利益を得ているという点についてはある意味同じ立場にあるのである(この事は新古書店業態の草分け的存在であるブックオフの創業者も十分承知しているようである)。{{要出典}} --> * [[POSシステム]]を入れての単品管理を行わない。これによりオペレーションが簡略化でき、情報システムのコストも無くすことができた<ref group="注">ただし近年は一部のショップでは導入されつつある。</ref>。 こうした方法により非熟練労働者でも店舗運営が可能となり、コストを抑えて利益を上げられるようになっている。ただし単品管理の欠如ゆえにITを活用しての高度な在庫管理システムも採用できなくなっており、近年ネット古書店との競争において後れを取る原因ともなっている{{要出典|date=2012年7月|}}。 [[フランチャイズ]]として展開している事が多いが、充分なノウハウもないままにフランチャイジーを募集して不当にロイヤリティを得ているとの批判を受ける事がある(詳細は[[フランチャイズ]]を参照)。 ==主な新古書店チェーン== * [[ブックオフコーポレーション|ブックオフ]](ブックオフコーポレーション株式会社) * [[古本市場]](株式会社テイツー) * [[ブックマーケット]]([[エーツー|株式会社エーツー]]) ** [[エンターキング]](株式会社エーツー) - 株式会社サンセットコーポレイションの破産に伴い継承 * [[ブックアイランド]] * [[ブックセンターいとう]] ** [[ブックスーパーいとう]] * ワンダーグー(株式会社[[ワンダーコーポレーション]]) * [[ブックマート]](株式会社バイロン・ワールド・トレーディング・ジャパン) * [[ほんだらけ]](株式会社ドリーム) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} === 注釈 === {{Notelist2}} ==関連項目== * [[リサイクルブックストア協議会]] * [[古物]] {{デフォルトソート:しんこしよてん}} [[Category:古書店|*しんこしよてん]] [[Category:日本のリサイクル]]
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富野由悠季
富野 由悠季(とみの よしゆき、1941年〈昭和16年〉11月5日 - )は、日本のアニメーション監督、演出家、脚本家、漫画原作者、作詞家、小説家。本人は演出家・原案提供者としている。日本初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその創世期から知る人物。祖父は東京府大島町(現・東京都江東区の一部)町長を務めた富野喜平次。 代表作は『機動戦士ガンダム』などのガンダムシリーズ、『伝説巨神イデオン』、または『聖戦士ダンバイン』他のバイストン・ウェル関連作品など。 本名は漢字表記が異なる富野 喜幸(読み同じ;よしゆき)で、1982年以降は富野由悠季というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。喜幸という名前は、両親の喜平と幸子の一文字ずつをとって付けられた。 作詞家としては井荻 麟(いおぎ りん)で、日本サンライズ事務所のあった上井草駅が西武新宿線井荻駅の隣であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出にとみの善幸、斧谷 稔(よきたに みのる)、斧谷 喜幸(よきたに よしゆき)、作画監督に井草 明夫(いぐさ あきお)、声の出演に井荻 翼(いおぎ つばさ)などの別名義を使う。 富野家は代々地方の旧家であり、東京・大島(江東区)の大地主であった。祖父・喜平次は大島町長や大塚護謨工作所監査役を務めた。また伯父・徳次郎はのち家督を相続し、喜平次を襲名した。なお、父・喜平は兄8人姉8人の末っ子で両親に育てられず、本家で腹違いの長男(徳次郎)夫婦に育てられた。 1941年、神奈川県小田原市生まれ。同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、幼少期の冨野に「おまえは弱い子なんだよ」と刷り込みのように言い聞かせ、自身の虚弱体質ぶりを自覚させていたという。父は写真家を志し、20歳を過ぎて日大芸術学部の美術・美学専攻学科に入学して、30歳近くまで学生であったが、在学中に太平洋戦争が始まると、徴兵を嫌って化学分野の技術者として小田原の軍需工場で零戦の与圧服の開発スタッフとして勤め、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという。この父の影響で、小学4年の頃は航空宇宙学に携わる仕事に就きたいと考え、中学1年の頃には理工学系、若しくは機械系の仕事を志すようになるが、中学2年になって数学で挫折し、高校受験で工業高校に落ちたことで、理工学系の夢を捨て、文系に切り替えざるを得なくなり、高校の3年間は物語を書くための基礎的な勉強や、小説を書くための練習を行う傍ら投稿を行うようになる。 幼児期の冨野は食が細く、オムツ離れや走ることも遅い方だった。また神経が過敏なところがあり、空から降る雪や砂浜に押し寄せる波を極度に恐れていたという。小学生の頃は同級生たちから孤立していた。また、本人曰く「英単語や数字を覚えることが苦手で、あまり勉強出来なかった」という。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」(「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。 戦後に流入したアメリカ合衆国の『月世界征服』や『禁断の惑星』などのSF映画を鑑賞してショックを受けると同時に、映画作りは途方もない労力がかかることを知る。また工業系ではない普通の相洋高等学校に入学したことで、卒業後に就職が出来ず、大学に進まざるを得なくなり、日本大学芸術学部映画科しか入学できる余地がなかったため、親から借金をして進学する。同大学には一年先輩に山本晋也、同窓に神山征二郎がいるが、どちらも面識はなく、交流もなかった。映画学科の演出コースを専攻したものの、1年と2年の授業は一般教養が主で、それに付随する形で映画関係者の講座が散発的に行われる編成だった。1年の時に演出を志す者としてシナリオを理解するために、シナリオを数本書く課題があり、高校時代に小説を執筆した経験が活かされて無事こなすことが出来たが、映画関係者が行う講座には全く魅力を感じず、学生にアーカイブの映画フィルムを貸し出すシステムも存在しなかったので、1年の2学期から3年の1学期いっぱい迄、ほとんど授業には出なかった。また、当時の映画産業は先細りの時代を迎えており、富野が3年生となった年に、大手の映画会社は軒並み新規の採用を取りやめ、ドラマ業界は映画会社から移った関係者たちに独占されて、富野のような新卒者が入り込める場所はなくなっていた。 日大に入学した1960年は、俗に「60年安保」と呼ばれる安保闘争の年で、1年に学部の自治会に入会し、2年時には自治会長を務めていた富野も、自治会連合の執行部である中央執行委員会(以下、中執)に出入りするようになり、そこで初めて安保闘争の概要を把握するようになる。当時、日大の中執は全日本学生自治会総連合のような反社会的な行動は取らず、産学共同を命題に掲げた御用自治会あり、富野は突拍子もない発想を口にする学生たちが物珍しく、2年の秋頃まで入り浸っては彼らを傍観していたが、中執が御用自治会であると把握した途端に嫌気が差し、中執の事務所に隣接していた日本私立大学団体連合会(以下、私学連)の執行部に入り浸るようになる。しかし3年時の夏休みに、私学連の中執総会で副委員長に推薦された際、委員長への推薦ではなかったことに不満を抱き、総会の土壇場で副委員長への就任を拒否したため、総会終了後に周囲から糾弾され、執行部から、1年受諾を条件に卒業後の日大学生課への就職を打診されるも、これも拒否して中執を脱会した。中執とは確執を残したまま卒業したことから、学生課に就職した同期の職員たちから目の敵にされ、彼らが退職した後の2006年に特別講義として招かれるまで、日大とは不和が続いた。このように、学生運動には直接関わらず、一歩引いた立ち位置の傍観者であり続けた富野だったが、一度だけ、司法長官だったロバート・ケネディが1962年2月に来日した際、日大会頭だった古田重二良と面会する折のお先棒を担いだことがあり、学生課の課長からの動員で、赤坂にある日大の迎賓館内にある平屋に、会談が終わるまで他の動員者たちと共に待機し、帰りは古田会頭が手配したベンツのハイヤ-で、中執のメンバーの自宅まで帰った逸話を持っている。 1964年、手塚治虫の虫プロダクション入社。就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、上述の通り、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている。母親から虫プロが見込み(新卒)採用を行っているという話を聞き、大学から近かったことや、志望していた演出の仕事ができるならばこの際なんでも構わないという気持ちで学園祭の準備期間中に採用面接を受け、学園祭が終わった頃に採用が決まっていた。なお、虫プロが見込み採用を行ったのは、後にも先にもこの時一度きりであった。当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。 虫プロダクションでは制作進行および演出助手を担当する。虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後にシャフトを起こす若尾博司だった。後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる。富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか?」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く(切る)」ことだった。 『鉄腕アトム』では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当。1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」で、新田修介の名で演出家としてデビューした。同話では脚本と絵コンテも担当している。同話を含め『アトム』では合計25本の演出と絵コンテを担当。自ら脚本を書いたエピソードも多い。この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。元々メインだったりんたろうとは後年まで軋轢があったが現在では和解している。 当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている。ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている。 1967年、虫プロを退社。東京デザイナー学院で講師として講義を持つかたわら、オオタキ・プロダクション(シノ・プロ)でCM制作に関わる。1968年、オオタキ・プロダクションを退社、フリーとなる。講師やオオタキ・プロダクションとの付き合いも続けながら、アニメ界への復帰を模索するようになりタツノコプロで仕事を受注する。虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いがさらに強まる。ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。 当時、どこのスタジオに行っても見かける「さすらいのコンテマン」として有名だったという。この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。『未来少年コナン』ではコンテを宮崎駿に全て描き直され(ただし、宮崎は誰のコンテでも全て自分で手直しする)、畏敬の念もあり『機動戦士ガンダム』の制作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。しかし、スタジオジブリ代表取締役の鈴木敏夫は、富野が『アルプスの少女ハイジ』の各話演出スタッフを務めていた当時、高畑勲と宮崎駿が「富野さんの仕事には一目置いていた」と話している。苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『いなかっぺ大将』では何度もやり直しを受け「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」、また『巨人の星』については「アニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた」と吐露している。富野は2作の作者川崎のぼるについて著作で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している。他方、『ど根性ガエル』のような作品は「またやってみたい」と発言している。 1971年、結婚。結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。このころに埼玉県新座市に引っ越す(『無敵鋼人ダイターン3』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。 1972年、『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクター・監督・絵コンテを務める。手塚治虫の新聞連載漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて原作漫画も『海のトリトン』に改題して単行本化)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外には共通点は薄い。放送当時は視聴率が伸びずに2クールで終了した。 1974年、『宇宙戦艦ヤマト』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを西崎義展プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている。そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎を激怒させた。翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎からの依頼は来なかったと言う。のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ!』これです。他にありません。松崎君(松崎健一)も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている。 1975年、『勇者ライディーン』の監督、絵コンテも担当。オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作(鈴木良武)が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画作業に入ってから決まった放送局の方針と合わずに、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。後任の長浜忠夫は、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収することに努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している(後に長浜ロマンロボシリーズにも演出、絵コンテとして参加している)。同年、途中降板した出崎哲の後任として『ラ・セーヌの星』の最終話までの3クール目(第27話〜第39話)を、総監督の大隅正秋の下で監督を務める。 1977年、創映社が日本サンライズとして改組・独立。サンライズ初のアニメーション作品である『無敵超人ザンボット3』の総監督・原作(共同原作/鈴木良武)・演出・絵コンテ・原画を担当。『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。 1978年、『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。 1979年:自身の代表作といえる『機動戦士ガンダム』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、スポンサーの玩具売上で苦戦し、スポンサーであるクローバーの意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する。しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。 1980年7月にスポンサーではなかったバンダイから300円のキャラクタープラモデル(いわゆるガンプラ)が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応するようにラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。岡田斗司夫は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく"ガンプラブーム"なのだ」と語っている。1982年からは劇中設定から離れたオリジナル展開であるMSVの機体も多数発売されてユーザーの支持を受け、このバンダイの成功が後のΖガンダムの制作要請へと繋がっていく。 1980年、『伝説巨神イデオン』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。『機動戦士ガンダム』終了のわずか3ヶ月半後に放送開始された。前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が2本同時に劇場公開される運びとなる。 1981年、映画『機動戦士ガンダム』の総監督を務める。他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。劇場版3部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面(ランバ・ラルとの遭遇と、その後のギレン・ザビの演説)までのエピソード。当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。1981年5月22日、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。『アニメージュ』のアニメグランプリ演出家部門でこの年から3期連続で1位となる。1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠であるジャブローにたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただし売野雅勇との共同作詞)。再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督の安彦良和によるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。 同じ1982年、『THE IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇』の総監督・原作・絵コンテを務める。他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないというハードルの高さがあり、再放送の放映状況もあまり芳しくなかったためか、結局ガンダムのようなブームを起こすには至らなかった。とはいえ、イデオンが庵野秀明や福井晴敏をはじめ、後進のクリエーターに与えた影響は非常に大きい。 同1982年、『戦闘メカ ザブングル』原作(鈴木良武と共同)・総監督・ストーリーボード・作詞。元々は吉川惣司が監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯で人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」など、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない。1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。テレビ版の再編集版で、『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』、『チョロQダグラム』と併映。上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切って楽屋落ちにして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。 1983年、『聖戦士ダンバイン』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。放映がファミリーコンピュータの発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業のクローバーが倒産するなどのトラブルが発生した。舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。 1984年、『重戦機エルガイム』の原作・総監督・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。キャラクターデザインとメカニックデザインに永野護を起用。物語としては、前半は明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。過去に作られたロボットを使っているなどの世界観は永野が元々構想していたものであり、そこに富野による具体的なキャラクター原案や基本のストーリーラインが入ることで両者の共作のような形となった。ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野の『ファイブスター物語』とエルガイムの間に権利的な関連性はない。 1985年、自身初の続編シリーズ物の『機動戦士Ζガンダム』総監督。後の本人の口から良い意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によって彼らの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。 1986年、『Ζガンダム』の続編『機動戦士ガンダムΖΖ』原作・総監督・脚本・ストーリーボード・絵コンテ。井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。スポンサー側からの提案で前作『機動戦士Ζガンダム』放送中に急遽制作が決まった続編(ただし、本人は予測の内だったと語っている)。時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。しかし、中盤以降は『Zガンダム』と同様のシリアスなストーリーへと路線変更が行われた。 1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の原作・監督・脚本・絵コンテ。初の劇場版オリジナル作品。「シャアとアムロの物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『ハイ・ストリーマー』と角川書店版『ベルトーチカ・チルドレン』の二種類がある。角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。 1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『機動戦士ガンダムF91』の原作・監督・脚本(伊東恒久と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、立ち消えとなった。 1993年、『機動戦士Vガンダム』の原作・総監督・絵コンテ・構成。井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。制作における心労や上層部からの指示による軋轢・混乱が大きく、制作途中から数年間に渡って徐々に鬱状態が進行し、最終的には立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという。自らの評価も手厳しく、本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけ、「全てにおいて考えが足りなかった」「本当にひどい作品である」と記している。一方で、作品や人を褒めることが決して多くない富野にしては珍しく、音楽を担当した千住明を絶賛しており、逢坂浩司によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。 『Vガンダム』放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否して代わりに今川泰宏を指名し、戦争ものではなくロボットプロレスをやるようにと指示した。その結果誕生したのが、『機動武闘伝Gガンダム』である。ただし現場には顔を出し、いくつかの作業を手伝っている。前述の鬱状態から心身が回復するまでの期間は、いくつかの作品で脚本や絵コンテを手がけているが、監督は引き受けていない。Vガンダム以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が制作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。 1994年、『機動戦士ガンダムF91』の続編となる漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』の原作(作画は長谷川裕一)。原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わり、1997年まで連載された。 1996年、初のOVA作品の『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』の原作・監督・脚本・絵コンテ。『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品。富野が前述の鬱状態の中制作した作品。後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。 1997年、この頃に虫プロ時代の同期である高橋良輔から、高橋がプロデューサーを務めた『勇者王ガオガイガー』のシナリオ執筆を依頼されたものの、「ストーリーを考えるのが面倒だから嫌だ。コンテならいくらでも切るけど」という理由でこれを辞退している。 1998年、WOWOW初のオリジナル有料アニメ『ブレンパワード』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。1993年の『機動戦士Vガンダム』以来5年ぶりのテレビ作品放映。スクランブル放送だったため、視聴者数はある程度限られた。富野は「自分たちは子供たちを『親なし子』にしてしまったのではないか」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている。また、当時企画が進行中だったガンダム作品(『∀ガンダム』)の制作に向けた、鬱症状からアニメ制作現場へ戻るためのリハビリと位置づけている。『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。ロボットデザインに旧知の永野護を起用する一方、キャラクターデザインにいのまたむつみを抜擢した。 1998年、『機動戦士ガンダム』誕生20周年記念作品として、『∀ガンダム』の原作・総監督・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。「∀」は、数学や論理学などで「すべての〜」という意味で用いられる全称記号で、全てを包括して原点に返るという意味を込めて、タイトル「ターンエー」として用いられた。過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。キャラクターデザインにはカプコンの安田朗を、メカニックデザインはアメリカの工業デザイナー・シド・ミードを起用した。ミードがデザインした革新的なガンダムのデザイン(見た目と劇中の俗称から「ヒゲ」と呼称されることが多い)は放送前から意見が分かれたが、放送が始まると徐々に評価が高まり、2002年には劇場版2部作『∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶』として公開された。劇場版は『∀ガンダム』テレビシリーズ全50話に新作カットを加え再編集した作品。「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。43話の初代ガンダムでさえ映画は3部作だったが、50話の『∀ガンダム』を2部構成にまとめている上、∀には編集する上で省略しやすい戦闘シーンが少なく、ストーリーも複雑なので、非常に展開が早く、富野自身も、1stガンダムに比べて編集が困難と語る。なお、この作品のノベライズを福井晴敏と佐藤茂が個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。安田朗のカプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『機動戦士ガンダム vs.シリーズ』である。 2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『OVERMANキングゲイナー』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。富野と田中公平による元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた芸能・祭といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。富野は「当作品のライバルは『クレヨンしんちゃん』」と発言している。前作の『∀ガンダム』同様、スタッフの意見を取りまとめる立場を強く意識して制作に携わった。本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、中村嘉宏、西村キヌ、吉田健一の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用することによりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。メカニックデザインには安田朗を再起用。若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという。 監督、絵コンテ、演出をしながらも、しばしばオープニング・エンディング曲や挿入歌の作詞をする。さらに並行して小説(主に自分の作品の小説化や自分の作品の派生作品)も書く。ただ、「小説でうっぷんを吐き出してしまうという悪い癖がある」と自認し、後書きなどで反省している。また「富野節」と呼ばれる、独特の倒置表現や言い回しも監督作品の特徴の一つである。 フリーの若手だった頃、ジャンルを問わず多くの作品に参加し、コンテをかなりのスピードで上げていったことから「コンテ千本切りの富野」「さすらいのコンテマン」という異名をとるようになる。業界では「富野に頼めば3日でコンテが上がる」と言われていた。制作スケジュールの厳しいアニメ業界では、富野のように絵コンテを上げるのが早い人材が重宝された。一時期富野の片腕と言われたアニメーターの湖川友謙によると、一部に例外があるようだがと断りながら「おトミさんのコンテの画は、どうとでもとれるような描き方なんですよ。アニメーターがもっと面白い事をやってくれればいいかという感じにもとれるのね。」と語っている。元々映画系志望だっただけにリミテッド・アニメとは指向が違っていたと言われ、安彦良和によれば「画を描く手間を考えない『真面目にやっているのか?』というコンテ」、湖川友謙は「動かす意欲を刺激する良いコンテ、これぐらいでないとつまらない」、高畑勲は「いわゆる職業化された、システム化されたコンテマンからは窺えない意欲が感じられるコンテ」と評価。安彦の回想では、アニメーターからは不評で、画面の奥の方で関係のないキャラクターの芝居が入っているなど、処理に困るシーンがあると現場で適当にカットしていたそうである。それでも特に文句を言ってこないため「軽い演出家」との印象を持っていたが、ガンダム制作時に膨大な設定を持ち込むのをみて考えを改めたという。『∀ガンダム』開始時点での絵コンテ総数は、名前が確認できるもののみで少なくみて586本で、アニメ史上最多記録と推測される。監督業に就いてからも自ら多くのコンテを切り、スタッフに任せたコンテに満足できない時は忙しい時間を割いて自身で手直しをすることもある。『ザブングル』の時に顕著だった事例だが、ほとんど自分のコンテになってしまった時でもスタッフロールの記載を変えることはしない。これは「手直しされた人間にもプライドというものがあるだろう」という配慮からである。富野が絵コンテとして参加しクレジットもされた『未来少年コナン』において監督の宮崎駿がほとんど自分でコンテを書き替えたことも少なくなかったという経験も影響していると考えられている。しかし「ただ彼らを甘やかしただけだったかもしれない」とも書いている。 アニメーション監督で音楽プロデューサーの幾原邦彦は、『機動戦士ガンダム』の頃までは、画面に対する奥行きの描写まで考慮して絵コンテを切っていたと証言し、アニメーターで映画監督の庵野秀明は、機動戦士ガンダムについては、作画担当だった安彦良和の存在が無視できず、『機動戦士Zガンダム』で安彦氏を失った結果を思い知って以降、ドラマのための絵作りに割り切ってしまったと述べている。 話の流れを唐突に終える切り方が特徴的であるが、富野曰く、仕上がった作画絵が自分の要求を満たさない場合が多く、作品全体の帳尻を合わせるための切り方であって、もう1割増しほど作画の描き込みがあれば、オーソドックスな編集が出来る自信があるとして、各アニメーターの技術論もあるが、総監督として現場をコントロールし切れず、放り出している部分がかなりあり、申し訳ないと思うと述べている。 主にガンダムシリーズなど、テレビシリーズとして制作された作品が、放送終了後に新作カットを加えた総集編として劇場で公開されることがあるが、富野由悠季は『ツギハギ映画』と自称しており、その制作手順を簡単に説明している。 まず、絵コンテを再チェックして必要な箇所を指定し、既に出来上がっている映像部分を通しで繋ぐと、不快な部分や不要なストーリーが判別できるので、それらを直感的な判断で削除して行き、約3時間半の暫定版としてまとめる。次にストーリー全体の再構成を行い、テレビ版と話の前後を変更したり、必要不可欠な台詞をチェックして行く。それと並行してバンクシステムによる使い廻しの部分を、既存の映像で代替できるか、新規作画に差し替えるか判断して、3時間半の暫定版を2時間半に短縮させる。その後、新規作画の制作を発注し、最終的に出来上がった映像を編集して完成させる段取りとなる。 富野は、総集編という形をとった劇場版の制作は、既存の映像と相談しながら作り上げる行為であり、創作ではなく技術職であると語り、自己主張を持つ演出家では務まらず、「便利屋」或いは「捌き屋」に徹することが肝心であると、その心得を述べている。 監督を務めた作品には、ロボットアニメが主なジャンルである。本稿にもあるように、ロボットアニメ以外にも世界名作劇場シリーズを始め、広範にわたるジャンルにおいてコンテや脚本を手がけている。また『ガンダム』『イデオン』では登場するロボット群の大半のデザイン原案を自ら描いており、ほぼそのまま登場したものも多い。 富野作品全てに共通するテーマの主題として本人は「人の自立と義務と主権の発見と、人が作ってしまう悪癖(これを“業”と称している)の発見」と語っている。 主要な登場人物を一カ所(多くは戦艦)に放り込んでストーリーを展開するスタイルは「富野方式」と多少揶揄的に評されていると本人は述べている。 重要なキャラクターが死ぬ展開もいとわず、『無敵超人ザンボット3』『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』、テレビ版『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士Vガンダム』など終盤に近づくにつれ、主要登場人物の大半が相次いで死に至るような作品を作ることが多く、「皆殺しの富野」などの異名で呼ばれたこともあった。代表作『機動戦士ガンダム』では大半が生き残ったが、後の小説版では途中で主人公を戦死させるという展開が見られる。これについては「全員殺した方が、きれいさっぱり何も残らずまとまりがつく(=制作者・視聴者共に、作品全体へ未練を残さず完結させる『最も理想的な表現法』)」と語っている。また、『無敵鋼人ダイターン3』『戦闘メカ ザブングル』など、スラップスティック・コメディ的な作品も作っている。その場合は主要登場人物が悪役やライバルを含めてほとんど死なない。『ブレンパワード』以降は、『∀ガンダム』や『OVERMANキングゲイナー』『ガンダム Gのレコンギスタ』など昔と比べると人の死や悲惨な描写が少ない。 主人公は「家庭環境が悪いので、性格は理屈っぽく捻くれている」パターンが多い。また家庭環境の影響か、軍隊をはじめとする集団組織(チーム)の中に溶けこむことができなかったり、あるいは嫌悪を表明したりする。作品中では主人公と両親の関係が決して良好なものではなく、両親を殺したり存在を忘れさせたりするなどしている。その上「親子、兄弟姉妹、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」という家族愛へのアンチテーゼが込められる。両親であるキャラクターはその「死の瞬間」、まさに肉体が消滅するその瞬間までも醜悪な人間であり続けることが多い。富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。作品の一部の男性キャラクターは母性愛に飢えているマザコンという共通点もある。総括的に言えば、父親は一見社会人として正常な思考を持ち合わせた常識人に見えるが、子供に対しては無責任な一面のある人物として、母親は親としての自覚に欠けており、女性としてのエゴの強い人物として描かれる傾向が強い。 当時のヒロインの多くは、若かりし頃につきあいのあった「チョキ」というニックネームの女性をモデルとしていると記されており、ヒロインには芯の強さが目立つ。実年齢とは別に、主人公よりもやや大人びた感じや引っ張っていくような性格の強さが目立つ。また、ほとんどの作品で、富野自身の思想、境遇などの特徴と似た面を持つ政治家、権力者や野心家のキャラクターが登場している。これらのキャラクターは、同時に前述のような「主人公と敵対する父親」の役割をも備えている。その例として、ドン・ザウサー、デギン・ソド・ザビ、ドバ・アジバ、ドレイク・ルフト、アマンダラ・カマンダラ、ギワザ・ロワウ、バスク・オム、パプテマス・シロッコ、シャア・アズナブル、カロッゾ・ロナ、フォンセ・カガチ、クラックス・ドゥガチ、マスク(ルイン・リー)、クンパ・ルシータなどが挙げられる。これらのキャラクターはほぼ全ての作品において少なくとも体裁的には悪役であり、最終的には、主人公の少年の手によってその思想・野望を打ち砕かれる結末を迎えている。 登場する女性たちの中には、主人公を裏切り、対立する勢力に参加して、敵対する人物が登場する作品が幾つか存在するが、富野自身は自覚していないと後置きしながらも、『機動戦士ガンダム』で共に制作に携わった安彦良和と離別した影響が少なからずあると述べている。 アニメーターで映画監督の庵野秀明や、プロデューサーの井上伸一郎は、スキンヘッドで男性の敵側の首領は、制作時における富野由悠季の思想や心情が投影されたキャラクターであると指摘している。 主にガンダム作品で関わることが多かったアニメーターの北爪宏幸は、富野由悠季のキャラクター配置は独特で、通常のアニメ監督がやりがちな、主人公を起点として、それぞれの登場人物に役割を持たせた計算に基づく図式構成とは真逆の配置を行っており、作品やストーリー上の役割としては意味を持たないが、現実には必ず居そうなキャラクターを、モブやゲストとして主要人物の周辺に登場させることで、ロボットアニメのような虚構の世界であっても、身近でリアルなドラマが展開できる作りになっていると述べている。 主に男女間での肉体関係を想起させる描写に執心しており、性行為の想像無くしてキャラクターの創造は成立しないと断言している。『機動戦士ガンダム』の制作時に、登場人物であるランバ・ラルと内縁の妻であるクラウレ・ハモンが絡む場面で、偶然ながら肉体関係を示唆する描写を生み出せたことで、アニメでも表現できることを確信し、以降は、絵コンテの段階で演技論も踏まえた上で描くように心掛けているという。富野曰く、性行為を示唆する描写の創造は、遊びごとではなく真剣勝負の作業であるとして、仮に絵コンテで上手く描けたとしても、要求を満たさない作画表現となった場合は、描いたアニメーターに対して怒りが湧きあがり、要求を満たさない作画で妥協せざるを得なくなった場合には、気分が萎えて本気で落ち込むと述べている。 『巨人の星』の主人公星飛雄馬のイメージが強かった古谷徹を『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役に推したり、俳優の池田秀一、戸田恵子、舞台役者だった白鳥哲、朴璐美などを声優として発掘したりしている。 演技においては峻厳な指導で知られる。アフレコ現場には必ず立ち会って声優と演技の詳細を詰めるといわれ、その指導を受けたことで実力をつけた声優は少なくない。大のガンダムファンでもある子安武人も複数の作品で起用された結果、自身の演技の幅を広げた。要求に応えられないときはブースに駆け込んで罵声を飛ばすこともある。『機動戦士Vガンダム』で主役を務め、当時新人であった阪口大助をはじめ、『機動戦士Ζガンダム』の劇場版に出演した新井里美、浅川悠らはその峻厳性ゆえに泣き出したという。特に阪口に至っては殴ったこともあると噂されたが、後年阪口本人はそれを否定している。また、『重戦機エルガイム』で主役を務めた平松広和は「キャラを殺して降ろす」とまで言われたという逸話もある。しかし一方で、『機動戦士Ζガンダム』でカミーユ・ビダンを演じた飛田展男や、『ガンダム Gのレコンギスタ』でクリム・ニックを演じた逢坂良太のインタビューなどによれば、「監督自ら熱心に指導するのは女性声優に対してのみであって、男性声優の指導は本人任せか音響監督に任せっぱなしだった」と述べており、逢坂に至っては「何も心配していないから大丈夫」と優しい言葉をかけてもらったという。 最終的な決定稿は専門のメカニックデザイナーの手によるが、自ら登場メカをデザインすることもある。また、ダクトで覆われたゲルググの胴体やエルメスのビットやザクレロに配された多方面スラスターなどの機能的なデザインもある。俗に言われる「富野ラフ」にはほぼ決定デザインに等しい物も多く、ゾック以降のモビルスーツ、モビルアーマー、艦船の大半は、ほぼ富野のラフ通りにクリーンアップされている。 アニメーション作家で映画監督の庵野秀明は、個人的な感触として、富野由悠季が好むメカデザインは、一見すれば機能が把握できて肌で感じることができるものであり、これと最も相性が良かったのは宮武一貴のデザインで、『聖戦士ダンバイン』で絶縁関係になってしまったことが悔やまれると述べている。 ライトノベルレーベルから発行しており、アニメに関連した物が多い。作風はアニメ視聴者より上の対象年齢の層をターゲットにしているものの、漫画のような擬音を多用する。また人物描写・背景説明が簡素でアニメの脚本のように地の文が少なく、セリフが多い。 上述した、裏切る女性が度々作品に登場する傾向について、自身の女性観を述べており、男性から見れば裏切りに見えるが、女性は自衛本能によって男性を見切る能力に長けているため、変わり身が早いだけであるとして、「拠るべきものがないと暮らしていけない」という考えは、男性が刷り込ませた有史以来の認識論に過ぎず、その認識論に基づいた結果、女性は「自活」や「快楽」、「嗜好性の違い」などを判断して、素早く行動ができると指摘している。また、この認識論が形作られる以前の母系社会では、女性は逃げることが出来なかったが、度重なる戦争によって男性が社会の実権を握ったことで、自身や実子の死を避けるために、女性は戦争を男性に委ね、男性が戦争への勝利と引き換えに女性を庇護するという構造を構築したことで、女性は男性の庇護を相性で選択できる立場になったとしている。そのため、現在の経済社会は、戦争のない時代に前述の認識論を維持するために作り上げられたものであるとして、近代社会に於ける男尊女卑の図式が日常行為で発生する点についても、動物の種としての力関係が凌駕出来ないことによる反動であり、男性が「出産」という行為を軽んじたにも拘らず、女性から距離を置くことが出来なかったからだとしている。 富野は、将来アニメ業界に就きたいと思っている若者たちに対して、「文芸、演劇、物語を見ないで映画、アニメが作れると思うな」「アニメ以外のことにも奮闘しろ」「修身・道徳、格言を学べ」「大人から学ぶものなんて何もない」「映画産業全般に就きたいのなら学生時代から広くものを見なさい」「45歳までは君たちも挽回できる。人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。それが何だったか思いだせ」とアドバイスをしている。また、近年のアニメについて「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしてもステレオタイプになる」「必ずしも、現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」と述べている。 声優選考の際、記号的な演技をする声優を指摘して、ラブシーンのエチュードを引き合いに、「触れられたり抱かれたり、すぐ感じることしか知らない役者が多くて、僕はそういうのは大嫌いです」と嫌悪感を露にしている。 昭和時代の特撮映画に携わった監督たちに対して、「大学を卒業したインテリは、ミーハーな映画を作る平民的感覚を持っていない」「子供を馬鹿にしているから、この程度で良いと思っている」と語り、「本気で映画を作ろうと思っている映画人は日本にいない」と手厳しく批判して、本多猪四郎らが手掛けた東宝特撮映画の路線を全否定している。また、東宝特撮全盛期の高水準と謳われた合成技術に関しても、「日本人の判官贔屓に過ぎない」と一蹴し、「ガキに見せるから合成ラインが見えても良いと思っている。僕はそれが許せない」と語って、米国映画の『月世界征服』は、その辺りをクリアしていたことを指摘した上で、「子供じみたものでもリアリズムと言うのがある。それを追求していない」という怒りを、中学生の頃から持ち続けていたことを吐露している。 安彦良和とは、虫プロ制作のTVアニメ『さすらいの太陽』以来、『0テスター』等の幾つかの作品で接点があったが、本格的に関わったのは『勇者ライディーン』からである。 安彦良和のアニメーターとしての技量を「マンガ絵をアニメ的な画として完成させたという意味で、天才だと思っています」と語り、具体的には、「タイムシートの読み取り方と切り方が尋常じゃない」「リミテッドアニメの中割りの仕方を本能的に覚えた人です」と評価し、『勇者ライディーン』の制作時を引き合いに「『ライディーン』では明確に腕が上がっていました。作画枚数も数を守れる人でした。あれを真似できる人は、まだ出て来ていないんじゃないかな」と絶賛している。その一方で、『機動戦士ガンダム』以降、実質的に決別してしまったことについて、「安彦君は線のエロチシズムを本能的に出せたんです。困ったことにその自意識がないんです」と、無自覚に醸し出される色気を指摘した上で、「そこまで(互いの気持ちが)連動しなかったんで、ドギツイ言葉が言えなかったんです」と、ガンダムの制作当時、本音を交えたやり取りが出来なかった結果だとして、「安彦君は敵にしたくなかったけど、逃げて行ってしまって、仮想敵になって困ってしまった」と悔しさを滲ませる一方で、「自分の中には安彦君ほどの才能はなかった」と明言した上で、「安彦君みたいな人にまた出会えるなら、僕はこの仕事をもっと好きになれるだろう」と語っている。 宮崎駿とは同年の生まれ(宮崎が早生まれのため学年的には1年上で、富野はキャリアも含め宮崎の後輩にあたる)であり、「宮崎らスタジオジブリ制作作品にライバル意識を持っている」というような発言や、度々批判を行う。 だが一方で、「(オスカーを取った宮崎駿のように自分がなれなかったのは)能力の差であるということを認めざるを得ない」、「誤解を恐れず言えば、宮崎、高畑の演出論は黒澤明以上だ」、「学識の幅とか、深みが圧倒的に違う、僕では競争相手にならないと思いました」などと語っており、宮崎を自分以上の存在として高く評価している。 また、宮崎駿を良く知る押井守により「宮さん(宮崎駿)も富野さんのことが大好きなんだよ。宮さん、よく富野さんに電話しておしゃべりしていたからね。宮さんと富野さんって実は仲良しなんだよ。」と、仕事以外において宮崎本人と親交があったことが明かされている。 同じく、宮崎駿を良く知る鈴木敏夫曰く、『風の谷のナウシカ』の劇場公開が終了した頃に、富野由悠季の自宅を訪問すると、『未来少年コナン』の再放送を鑑賞しており、理由を訊ねると、「勉強してるんです」「やっぱり宮さん上手いねえ」「何回も見てますよ」と語った後で、「でもね、当たるのは僕の作品ですよ。良いものは宮さんが作り、当たるのは僕が作る」と対抗心を露にしていたという。 発言では宮崎同様、高畑勲を非常に高く評価している。『アルプスの少女ハイジ』で絵コンテを担当した際は、総合演出だった高畑から相当の直しが入ったが、構図的に凝った部分はそのまま使われ、「高畑さんがそういうのを認めて下さったんじゃないですか」と語り、「僕も東映動画出身の人間に舐められたくないと頑張った覚えはあります」と述べている。また高畑の人柄について、「丁々発止を人前で見せる方ではなく、いつもニコニコしていました」と証言している。 2018年の高畑没時の取材に対しては、 と述べ、自らに影響を与えたことを認めている。 『新世紀エヴァンゲリオン』に対し、「エヴァは病的。イデオンなどの後継的な作品とは言って欲しくない」との趣旨の発言をしている。一方で、庵野秀明監督については「新世紀エヴァンゲリオン」で大ブレイクしたけど、それ以降は実写を撮ったりして、さらになぜか声優業もやって、で、そこから脱却して今がある。彼はいろいろありつつも、その軌跡の中で「映像作品を作る!」という確かな視点を持っている人だと思う。と述べている。 富野と一時期深く関わり合いを持った安彦良和によれば、富野由悠季がエヴァを批判するのは近親憎悪であり、的確な怒りである一方で、富野自身もアニメ作家である以上、それを踏まえてどんな次回作を作るかで、自分自身を追い込んでいると指摘し、「大いに怒って下さい」「富野さん一番わかるでしょう。あなたがやったことなんだよ」と突き放したコメントを寄せている。 プライベートでは基本的に無趣味だと語るが、夫婦で家庭用テレビゲーム版『パズルボブル』などのパズルゲームをプレイして楽しんでいる様子をインタビューにおいて語っている。なお、ゲームに関しては自身の性格からして、のめり込んで身を滅ぼすだろうという想いから、触れないよう尋常ならざる努力をしてきたと語っている。『A,C,E2』の特典DVDでは、「ゲームは麻薬」「ゲームに携わる仕事をしている人間は嫌い」との発言をしているが、ゲーム技術の発展については理解を示している。 台北でのゲームショーへ赴くなどしており、積極的にゲーム関連のイベント(自身の関連した作品が出展されたからだろうが)に参加している。また、お蔵入りしたものの後にガンダムのゲーム作品を代表する『ガンダム vs.シリーズ』に結実する64DD向けゲームの企画にも関わり、この時訪問したカプコンで出会ったのが『∀ガンダム』以降の盟友となる安田朗である。 トランスフォーマーシリーズに関して富野は「ロボットだけで人間ドラマをやれるのはトランスフォーマーだけだろう」と評している。 一方「ウチの作品はトランスフォーマーじゃないんだから、変形機構の面白さだけ追い求めたいファンなら、そっちを見ればいいんじゃない?」という発言もしている。 演出家で映画監督のおおすみ正秋は、初めて会った時の記憶が定かではないと前置きした上で、作画が優先された当時のアニメ業界では珍しい文学青年で、絵コンテを発注すると、脚本の粗をしっかり補完して描き上げていたと評価し、厳しいプレッシャーの中でこそ、その才能を最大限に発起できる人物と評している。そして、ロボットアニメというジャンルで実績を残したことを「立派だと思う」と称賛している。 漫画家のあさりよしとおは、作家性が壊れた裸の王様だと断言し、ファーストガンダムの劇場3部作で大作家に祭り上げられたが、伝説巨神イデオンの劇場2部作で作家性の駆動力を永遠に失ってしまったと述べている。一方で、富野が虫プロ時代に培った「職人技」については、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』で富野が担当した暫定版のオープニングや、『ママは小学4年生』のオープニングを例に挙げて、「決して腐ってはいない」と評価した上で、「作家」ではなく「職人」であるとの評価を下している。 編集者でプロデューサーの井上伸一郎は、「こんなことで悩むのか思うほど律儀な人で、律儀過ぎて、偶におかしくなる時がある」と語り、他人の受け売りと前置きした上で、多くの作家は1種類の狂気しか出せないが、富野由悠季の作品には、異なる狂気を孕んだ人物を複数登場させる凄さがあると指摘している。また手掛ける作品に於いて、ほぼ毎回のように女性キャラが裏切る展開があり、その裏切った先で肉体関係を匂わせる描写がある点にも着目し、人間は、主義主張ではなく、本能で動く生き物であるという、彼なりの価値観に因るものではないかと分析している。 サンライズ代表取締役会長である内田健二は、「ガンダムのパッケージを使わなくても神話が作れる人」と評し、富野作品は、純粋に商品としては語れない部分があり、商売をするのが難しいと語っている。また、製作プロデューサーとして長く関わった経験から、既存のコンテンツを使って別のことをやりたがる傾向が強い反面、過去の作品に対しては関心が低く、ガンダムのような、歴史的な整合性が必要な作品に富野由悠季が関わる場合は、多くの人員を割いてのアフターケアが必要不可欠であると語る一方で、他人の意見には良く耳を傾ける性格で、多くの意見を聴いた上で、自身で咀嚼してアイディアとして使うため、人の意見を聞かないマイナスな印象が強くなっていることを指摘しつつ、他人の意見を聴きはするが、本人が作品でやりたいことが優先されるため、実行の優先度は限りなく低いという注釈をつけている。 映画監督でアニメーション演出家でもある押井守は、集団的な作業を信じない人と評し、登場人物の台詞に自身の思想を語らせ、作画では一切語らせないことを一例に挙げ、アニメーターを信用していないと指摘した上で、「あれは辛いと思う。自分の中じゃスッキリするかもしれないけど、僕だったら耐えられない」とコメントし、アニメーター不信の要因は、宮崎駿が監督した『未来少年コナン』の衝撃を受けて、コナン的なものを目指して監督した『戦闘メカ ザブングル』の惨敗や、スタジオの顔と呼べるような有能な美術監督と巡り合えなかったことにあると述べている。 映画プロデューサーで編集者である鈴木敏夫は、「あの人右翼だよね(笑)。はっきりそう思うよ」と指摘した上で、「無邪気で正直で、表裏のない」「すごく常識のある良い人」であるとして、「僕は富野さんが好きだったんです」と語り、日常的に付き合う分には嫌いになる人はまずいないと述べる一方で、この手のタイプは突出した物を作りがちで、自身と関わり合いが深い宮崎駿や高畑勲とは真逆の作家性を持っていると分析している。また、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の公開当時、鑑賞した中高生の多くが泣いていたことを引き合いに、大人でありながら、子供の味方で居ようとする人であるとして、「あの人そのものはあんまり大人じゃないが、そこが良い所でしょう」と語っている。そして、物事を斜に構えず、熱弁を奮う性格については、太平洋戦争に出征できなかった世代特有のものであり、ガンダムシリーズに代表される架空戦記に定評があることについても、GHQの出版物に関する検閲が廃止された後に復刊された軍国物を多感な時期に読んだ世代でもあるので、とても理解できると述べている。 映画監督でアニメ演出家だった高畑勲は、富野由悠季の強い拘りを生前に高く評価しており、交流のあった鈴木敏夫によれば、世界名作劇場シリーズで富野が手掛ける絵コンテには必ず良い所が1箇所はあり、それは富野本人が強い拘りを持つからこそ、その部分が生まれるのだと分析していたという。また世界名作劇場に関わっていた頃には、高畑の自宅に足繁く通っており、「とにかく一生懸命な人だった」とその人柄を評価し、ガンダムをテーマにした富野との対談が企画された際にも、断らずに応じたという。 漫画家でアニメーターの安彦良和は、駆け出しの頃の富野由悠季は、早描きで絵コンテを描き散らす傾向があり、実写映画の志向者に在りがちな、余計な描写を入れたアニメ的でないコンテを描いて、それをカットされても一切文句を言わないため、前述のように「軽い演出家」という評価だった。しかし、制作現場に保温タイプの弁当を持ち込むなど、意気込みだけは並々ならぬものがあり、『勇者ライディーン』が路線変更の憂き目に遭った際も、安彦が降板を口にすると、「そういうもんじゃないよ」と諭し、「視聴者にサービスしなければいけないんだ」と粘り強く職人に徹して、監督降板後も演出で残留するその姿勢に驚嘆すら覚えたが、富野由悠季の持ち味であるシリアスな作風を知るのは『無敵超人ザンボット3』からで、それ以前は、ウケるためなら何でもする商売人のイメージだったという。『機動戦士ガンダム』の制作の際は、便利屋扱いされた弊害から、演出家として一流になれない苦しみを味わっている印象を受けたが、テンプレの喜怒哀楽でない感情を、演出家として画作りに求める姿勢に、一人のアニメーターとして嬉しさを感じ、それに応えなければという気持ちになったという。しかし、制作中に急病で一時降板した際に設定されたニュータイプの概念が最後まで納得できず、思想的にそりが合わないと判断して、袂を分かつことにしたという。その上で、富野由悠季が心身共にベストな状態で作った作品は初代ガンダムであり、そんな富野と以心伝心で創作できたガンダムは良い思い出だと語る一方で、それ以降の作品については支持できないものばかりであるとも述べ、『伝説巨神イデオン』や『機動戦士Zガンダム』については「非常にエキセントリックで優しさがない」「心の余裕がなくなった事の反映」と酷評し、マイナーな演出家が一躍メジャーになり、富野教の教祖になって自分自身を見失ってしまったと指摘している。 庵野秀明や鈴木敏夫は、安彦良和が富野由悠季と離別したことは、お互いにとって不幸な出来事だったとした上で、最大の要因は、富野由悠季が監督として安彦良和を作画の道具として扱い、それに安彦氏が反感を覚えたからだとしている。 脚本家で映画監督の山賀博之は、富野由悠季の作品に触れて初めて、結婚をして子供を持ち、社会に参加しながら仕事をしている大人がいることを意識するようになったと語る一方で、男女の色気に対して異常なまでに執心したり、登場するキャラクターが端々で諦めや戸惑いの描写を見せることを挙げて、富野作品には純文学的な見っともなさがあるとも語り、玩具会社が主導するアニメの世界でしか居場所がないことへの抵抗感や情けなさが感じられて、彼自身の冷めた人生観が見受けられるとしている。 主な映像演出参加作品年表一覧 「さすらいのコンテ・マン」だった時代に関わりを持ったアニメには次のようなものがある。 以下の作品では、富野由悠季以外のスタッフの手によって制作された映像作品であっても、テロップでは「原作者」もしくは「原案者」とされ、矢立肇と名を連ねて表示される。なお、富野はガンダム第1作の企画案を当時サンライズへ30万円で売り渡したため(当時は業界の慣例としてそれが当たり前であった)、ガンダム関連商品の売上が富野自身に還元されることは長年なかった。 その他、漫画・小説のガンダム作品などにも必ず名前が入っている。これはサンライズの監修を受けた正式なガンダム作品であることを意味する名義にもなっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "富野 由悠季(とみの よしゆき、1941年〈昭和16年〉11月5日 - )は、日本のアニメーション監督、演出家、脚本家、漫画原作者、作詞家、小説家。本人は演出家・原案提供者としている。日本初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその創世期から知る人物。祖父は東京府大島町(現・東京都江東区の一部)町長を務めた富野喜平次。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "代表作は『機動戦士ガンダム』などのガンダムシリーズ、『伝説巨神イデオン』、または『聖戦士ダンバイン』他のバイストン・ウェル関連作品など。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本名は漢字表記が異なる富野 喜幸(読み同じ;よしゆき)で、1982年以降は富野由悠季というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。喜幸という名前は、両親の喜平と幸子の一文字ずつをとって付けられた。", "title": "ペンネーム" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "作詞家としては井荻 麟(いおぎ りん)で、日本サンライズ事務所のあった上井草駅が西武新宿線井荻駅の隣であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出にとみの善幸、斧谷 稔(よきたに みのる)、斧谷 喜幸(よきたに よしゆき)、作画監督に井草 明夫(いぐさ あきお)、声の出演に井荻 翼(いおぎ つばさ)などの別名義を使う。", "title": "ペンネーム" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "富野家は代々地方の旧家であり、東京・大島(江東区)の大地主であった。祖父・喜平次は大島町長や大塚護謨工作所監査役を務めた。また伯父・徳次郎はのち家督を相続し、喜平次を襲名した。なお、父・喜平は兄8人姉8人の末っ子で両親に育てられず、本家で腹違いの長男(徳次郎)夫婦に育てられた。", "title": "富野家" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1941年、神奈川県小田原市生まれ。同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、幼少期の冨野に「おまえは弱い子なんだよ」と刷り込みのように言い聞かせ、自身の虚弱体質ぶりを自覚させていたという。父は写真家を志し、20歳を過ぎて日大芸術学部の美術・美学専攻学科に入学して、30歳近くまで学生であったが、在学中に太平洋戦争が始まると、徴兵を嫌って化学分野の技術者として小田原の軍需工場で零戦の与圧服の開発スタッフとして勤め、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという。この父の影響で、小学4年の頃は航空宇宙学に携わる仕事に就きたいと考え、中学1年の頃には理工学系、若しくは機械系の仕事を志すようになるが、中学2年になって数学で挫折し、高校受験で工業高校に落ちたことで、理工学系の夢を捨て、文系に切り替えざるを得なくなり、高校の3年間は物語を書くための基礎的な勉強や、小説を書くための練習を行う傍ら投稿を行うようになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幼児期の冨野は食が細く、オムツ離れや走ることも遅い方だった。また神経が過敏なところがあり、空から降る雪や砂浜に押し寄せる波を極度に恐れていたという。小学生の頃は同級生たちから孤立していた。また、本人曰く「英単語や数字を覚えることが苦手で、あまり勉強出来なかった」という。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」(「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "戦後に流入したアメリカ合衆国の『月世界征服』や『禁断の惑星』などのSF映画を鑑賞してショックを受けると同時に、映画作りは途方もない労力がかかることを知る。また工業系ではない普通の相洋高等学校に入学したことで、卒業後に就職が出来ず、大学に進まざるを得なくなり、日本大学芸術学部映画科しか入学できる余地がなかったため、親から借金をして進学する。同大学には一年先輩に山本晋也、同窓に神山征二郎がいるが、どちらも面識はなく、交流もなかった。映画学科の演出コースを専攻したものの、1年と2年の授業は一般教養が主で、それに付随する形で映画関係者の講座が散発的に行われる編成だった。1年の時に演出を志す者としてシナリオを理解するために、シナリオを数本書く課題があり、高校時代に小説を執筆した経験が活かされて無事こなすことが出来たが、映画関係者が行う講座には全く魅力を感じず、学生にアーカイブの映画フィルムを貸し出すシステムも存在しなかったので、1年の2学期から3年の1学期いっぱい迄、ほとんど授業には出なかった。また、当時の映画産業は先細りの時代を迎えており、富野が3年生となった年に、大手の映画会社は軒並み新規の採用を取りやめ、ドラマ業界は映画会社から移った関係者たちに独占されて、富野のような新卒者が入り込める場所はなくなっていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日大に入学した1960年は、俗に「60年安保」と呼ばれる安保闘争の年で、1年に学部の自治会に入会し、2年時には自治会長を務めていた富野も、自治会連合の執行部である中央執行委員会(以下、中執)に出入りするようになり、そこで初めて安保闘争の概要を把握するようになる。当時、日大の中執は全日本学生自治会総連合のような反社会的な行動は取らず、産学共同を命題に掲げた御用自治会あり、富野は突拍子もない発想を口にする学生たちが物珍しく、2年の秋頃まで入り浸っては彼らを傍観していたが、中執が御用自治会であると把握した途端に嫌気が差し、中執の事務所に隣接していた日本私立大学団体連合会(以下、私学連)の執行部に入り浸るようになる。しかし3年時の夏休みに、私学連の中執総会で副委員長に推薦された際、委員長への推薦ではなかったことに不満を抱き、総会の土壇場で副委員長への就任を拒否したため、総会終了後に周囲から糾弾され、執行部から、1年受諾を条件に卒業後の日大学生課への就職を打診されるも、これも拒否して中執を脱会した。中執とは確執を残したまま卒業したことから、学生課に就職した同期の職員たちから目の敵にされ、彼らが退職した後の2006年に特別講義として招かれるまで、日大とは不和が続いた。このように、学生運動には直接関わらず、一歩引いた立ち位置の傍観者であり続けた富野だったが、一度だけ、司法長官だったロバート・ケネディが1962年2月に来日した際、日大会頭だった古田重二良と面会する折のお先棒を担いだことがあり、学生課の課長からの動員で、赤坂にある日大の迎賓館内にある平屋に、会談が終わるまで他の動員者たちと共に待機し、帰りは古田会頭が手配したベンツのハイヤ-で、中執のメンバーの自宅まで帰った逸話を持っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1964年、手塚治虫の虫プロダクション入社。就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、上述の通り、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている。母親から虫プロが見込み(新卒)採用を行っているという話を聞き、大学から近かったことや、志望していた演出の仕事ができるならばこの際なんでも構わないという気持ちで学園祭の準備期間中に採用面接を受け、学園祭が終わった頃に採用が決まっていた。なお、虫プロが見込み採用を行ったのは、後にも先にもこの時一度きりであった。当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "虫プロダクションでは制作進行および演出助手を担当する。虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後にシャフトを起こす若尾博司だった。後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる。富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか?」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く(切る)」ことだった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『鉄腕アトム』では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当。1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」で、新田修介の名で演出家としてデビューした。同話では脚本と絵コンテも担当している。同話を含め『アトム』では合計25本の演出と絵コンテを担当。自ら脚本を書いたエピソードも多い。この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。元々メインだったりんたろうとは後年まで軋轢があったが現在では和解している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている。ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1967年、虫プロを退社。東京デザイナー学院で講師として講義を持つかたわら、オオタキ・プロダクション(シノ・プロ)でCM制作に関わる。1968年、オオタキ・プロダクションを退社、フリーとなる。講師やオオタキ・プロダクションとの付き合いも続けながら、アニメ界への復帰を模索するようになりタツノコプロで仕事を受注する。虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いがさらに強まる。ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当時、どこのスタジオに行っても見かける「さすらいのコンテマン」として有名だったという。この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。『未来少年コナン』ではコンテを宮崎駿に全て描き直され(ただし、宮崎は誰のコンテでも全て自分で手直しする)、畏敬の念もあり『機動戦士ガンダム』の制作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。しかし、スタジオジブリ代表取締役の鈴木敏夫は、富野が『アルプスの少女ハイジ』の各話演出スタッフを務めていた当時、高畑勲と宮崎駿が「富野さんの仕事には一目置いていた」と話している。苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『いなかっぺ大将』では何度もやり直しを受け「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」、また『巨人の星』については「アニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた」と吐露している。富野は2作の作者川崎のぼるについて著作で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している。他方、『ど根性ガエル』のような作品は「またやってみたい」と発言している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1971年、結婚。結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。このころに埼玉県新座市に引っ越す(『無敵鋼人ダイターン3』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1972年、『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクター・監督・絵コンテを務める。手塚治虫の新聞連載漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて原作漫画も『海のトリトン』に改題して単行本化)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外には共通点は薄い。放送当時は視聴率が伸びずに2クールで終了した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1974年、『宇宙戦艦ヤマト』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを西崎義展プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている。そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎を激怒させた。翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎からの依頼は来なかったと言う。のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ!』これです。他にありません。松崎君(松崎健一)も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1975年、『勇者ライディーン』の監督、絵コンテも担当。オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作(鈴木良武)が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画作業に入ってから決まった放送局の方針と合わずに、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。後任の長浜忠夫は、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収することに努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している(後に長浜ロマンロボシリーズにも演出、絵コンテとして参加している)。同年、途中降板した出崎哲の後任として『ラ・セーヌの星』の最終話までの3クール目(第27話〜第39話)を、総監督の大隅正秋の下で監督を務める。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1977年、創映社が日本サンライズとして改組・独立。サンライズ初のアニメーション作品である『無敵超人ザンボット3』の総監督・原作(共同原作/鈴木良武)・演出・絵コンテ・原画を担当。『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1978年、『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1979年:自身の代表作といえる『機動戦士ガンダム』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、スポンサーの玩具売上で苦戦し、スポンサーであるクローバーの意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する。しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年7月にスポンサーではなかったバンダイから300円のキャラクタープラモデル(いわゆるガンプラ)が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応するようにラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。岡田斗司夫は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく\"ガンプラブーム\"なのだ」と語っている。1982年からは劇中設定から離れたオリジナル展開であるMSVの機体も多数発売されてユーザーの支持を受け、このバンダイの成功が後のΖガンダムの制作要請へと繋がっていく。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1980年、『伝説巨神イデオン』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。『機動戦士ガンダム』終了のわずか3ヶ月半後に放送開始された。前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が2本同時に劇場公開される運びとなる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1981年、映画『機動戦士ガンダム』の総監督を務める。他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。劇場版3部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面(ランバ・ラルとの遭遇と、その後のギレン・ザビの演説)までのエピソード。当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。1981年5月22日、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。『アニメージュ』のアニメグランプリ演出家部門でこの年から3期連続で1位となる。1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠であるジャブローにたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただし売野雅勇との共同作詞)。再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督の安彦良和によるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同じ1982年、『THE IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇』の総監督・原作・絵コンテを務める。他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないというハードルの高さがあり、再放送の放映状況もあまり芳しくなかったためか、結局ガンダムのようなブームを起こすには至らなかった。とはいえ、イデオンが庵野秀明や福井晴敏をはじめ、後進のクリエーターに与えた影響は非常に大きい。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "同1982年、『戦闘メカ ザブングル』原作(鈴木良武と共同)・総監督・ストーリーボード・作詞。元々は吉川惣司が監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯で人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」など、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない。1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。テレビ版の再編集版で、『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』、『チョロQダグラム』と併映。上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切って楽屋落ちにして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1983年、『聖戦士ダンバイン』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。放映がファミリーコンピュータの発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業のクローバーが倒産するなどのトラブルが発生した。舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1984年、『重戦機エルガイム』の原作・総監督・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。キャラクターデザインとメカニックデザインに永野護を起用。物語としては、前半は明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。過去に作られたロボットを使っているなどの世界観は永野が元々構想していたものであり、そこに富野による具体的なキャラクター原案や基本のストーリーラインが入ることで両者の共作のような形となった。ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野の『ファイブスター物語』とエルガイムの間に権利的な関連性はない。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1985年、自身初の続編シリーズ物の『機動戦士Ζガンダム』総監督。後の本人の口から良い意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によって彼らの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1986年、『Ζガンダム』の続編『機動戦士ガンダムΖΖ』原作・総監督・脚本・ストーリーボード・絵コンテ。井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。スポンサー側からの提案で前作『機動戦士Ζガンダム』放送中に急遽制作が決まった続編(ただし、本人は予測の内だったと語っている)。時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。しかし、中盤以降は『Zガンダム』と同様のシリアスなストーリーへと路線変更が行われた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の原作・監督・脚本・絵コンテ。初の劇場版オリジナル作品。「シャアとアムロの物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『ハイ・ストリーマー』と角川書店版『ベルトーチカ・チルドレン』の二種類がある。角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『機動戦士ガンダムF91』の原作・監督・脚本(伊東恒久と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、立ち消えとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1993年、『機動戦士Vガンダム』の原作・総監督・絵コンテ・構成。井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。制作における心労や上層部からの指示による軋轢・混乱が大きく、制作途中から数年間に渡って徐々に鬱状態が進行し、最終的には立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという。自らの評価も手厳しく、本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけ、「全てにおいて考えが足りなかった」「本当にひどい作品である」と記している。一方で、作品や人を褒めることが決して多くない富野にしては珍しく、音楽を担当した千住明を絶賛しており、逢坂浩司によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "『Vガンダム』放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否して代わりに今川泰宏を指名し、戦争ものではなくロボットプロレスをやるようにと指示した。その結果誕生したのが、『機動武闘伝Gガンダム』である。ただし現場には顔を出し、いくつかの作業を手伝っている。前述の鬱状態から心身が回復するまでの期間は、いくつかの作品で脚本や絵コンテを手がけているが、監督は引き受けていない。Vガンダム以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が制作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1994年、『機動戦士ガンダムF91』の続編となる漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』の原作(作画は長谷川裕一)。原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わり、1997年まで連載された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1996年、初のOVA作品の『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』の原作・監督・脚本・絵コンテ。『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品。富野が前述の鬱状態の中制作した作品。後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1997年、この頃に虫プロ時代の同期である高橋良輔から、高橋がプロデューサーを務めた『勇者王ガオガイガー』のシナリオ執筆を依頼されたものの、「ストーリーを考えるのが面倒だから嫌だ。コンテならいくらでも切るけど」という理由でこれを辞退している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1998年、WOWOW初のオリジナル有料アニメ『ブレンパワード』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。1993年の『機動戦士Vガンダム』以来5年ぶりのテレビ作品放映。スクランブル放送だったため、視聴者数はある程度限られた。富野は「自分たちは子供たちを『親なし子』にしてしまったのではないか」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている。また、当時企画が進行中だったガンダム作品(『∀ガンダム』)の制作に向けた、鬱症状からアニメ制作現場へ戻るためのリハビリと位置づけている。『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。ロボットデザインに旧知の永野護を起用する一方、キャラクターデザインにいのまたむつみを抜擢した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1998年、『機動戦士ガンダム』誕生20周年記念作品として、『∀ガンダム』の原作・総監督・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。「∀」は、数学や論理学などで「すべての〜」という意味で用いられる全称記号で、全てを包括して原点に返るという意味を込めて、タイトル「ターンエー」として用いられた。過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。キャラクターデザインにはカプコンの安田朗を、メカニックデザインはアメリカの工業デザイナー・シド・ミードを起用した。ミードがデザインした革新的なガンダムのデザイン(見た目と劇中の俗称から「ヒゲ」と呼称されることが多い)は放送前から意見が分かれたが、放送が始まると徐々に評価が高まり、2002年には劇場版2部作『∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶』として公開された。劇場版は『∀ガンダム』テレビシリーズ全50話に新作カットを加え再編集した作品。「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。43話の初代ガンダムでさえ映画は3部作だったが、50話の『∀ガンダム』を2部構成にまとめている上、∀には編集する上で省略しやすい戦闘シーンが少なく、ストーリーも複雑なので、非常に展開が早く、富野自身も、1stガンダムに比べて編集が困難と語る。なお、この作品のノベライズを福井晴敏と佐藤茂が個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。安田朗のカプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『機動戦士ガンダム vs.シリーズ』である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『OVERMANキングゲイナー』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。富野と田中公平による元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた芸能・祭といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。富野は「当作品のライバルは『クレヨンしんちゃん』」と発言している。前作の『∀ガンダム』同様、スタッフの意見を取りまとめる立場を強く意識して制作に携わった。本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、中村嘉宏、西村キヌ、吉田健一の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用することによりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。メカニックデザインには安田朗を再起用。若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "監督、絵コンテ、演出をしながらも、しばしばオープニング・エンディング曲や挿入歌の作詞をする。さらに並行して小説(主に自分の作品の小説化や自分の作品の派生作品)も書く。ただ、「小説でうっぷんを吐き出してしまうという悪い癖がある」と自認し、後書きなどで反省している。また「富野節」と呼ばれる、独特の倒置表現や言い回しも監督作品の特徴の一つである。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "フリーの若手だった頃、ジャンルを問わず多くの作品に参加し、コンテをかなりのスピードで上げていったことから「コンテ千本切りの富野」「さすらいのコンテマン」という異名をとるようになる。業界では「富野に頼めば3日でコンテが上がる」と言われていた。制作スケジュールの厳しいアニメ業界では、富野のように絵コンテを上げるのが早い人材が重宝された。一時期富野の片腕と言われたアニメーターの湖川友謙によると、一部に例外があるようだがと断りながら「おトミさんのコンテの画は、どうとでもとれるような描き方なんですよ。アニメーターがもっと面白い事をやってくれればいいかという感じにもとれるのね。」と語っている。元々映画系志望だっただけにリミテッド・アニメとは指向が違っていたと言われ、安彦良和によれば「画を描く手間を考えない『真面目にやっているのか?』というコンテ」、湖川友謙は「動かす意欲を刺激する良いコンテ、これぐらいでないとつまらない」、高畑勲は「いわゆる職業化された、システム化されたコンテマンからは窺えない意欲が感じられるコンテ」と評価。安彦の回想では、アニメーターからは不評で、画面の奥の方で関係のないキャラクターの芝居が入っているなど、処理に困るシーンがあると現場で適当にカットしていたそうである。それでも特に文句を言ってこないため「軽い演出家」との印象を持っていたが、ガンダム制作時に膨大な設定を持ち込むのをみて考えを改めたという。『∀ガンダム』開始時点での絵コンテ総数は、名前が確認できるもののみで少なくみて586本で、アニメ史上最多記録と推測される。監督業に就いてからも自ら多くのコンテを切り、スタッフに任せたコンテに満足できない時は忙しい時間を割いて自身で手直しをすることもある。『ザブングル』の時に顕著だった事例だが、ほとんど自分のコンテになってしまった時でもスタッフロールの記載を変えることはしない。これは「手直しされた人間にもプライドというものがあるだろう」という配慮からである。富野が絵コンテとして参加しクレジットもされた『未来少年コナン』において監督の宮崎駿がほとんど自分でコンテを書き替えたことも少なくなかったという経験も影響していると考えられている。しかし「ただ彼らを甘やかしただけだったかもしれない」とも書いている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アニメーション監督で音楽プロデューサーの幾原邦彦は、『機動戦士ガンダム』の頃までは、画面に対する奥行きの描写まで考慮して絵コンテを切っていたと証言し、アニメーターで映画監督の庵野秀明は、機動戦士ガンダムについては、作画担当だった安彦良和の存在が無視できず、『機動戦士Zガンダム』で安彦氏を失った結果を思い知って以降、ドラマのための絵作りに割り切ってしまったと述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "話の流れを唐突に終える切り方が特徴的であるが、富野曰く、仕上がった作画絵が自分の要求を満たさない場合が多く、作品全体の帳尻を合わせるための切り方であって、もう1割増しほど作画の描き込みがあれば、オーソドックスな編集が出来る自信があるとして、各アニメーターの技術論もあるが、総監督として現場をコントロールし切れず、放り出している部分がかなりあり、申し訳ないと思うと述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "主にガンダムシリーズなど、テレビシリーズとして制作された作品が、放送終了後に新作カットを加えた総集編として劇場で公開されることがあるが、富野由悠季は『ツギハギ映画』と自称しており、その制作手順を簡単に説明している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "まず、絵コンテを再チェックして必要な箇所を指定し、既に出来上がっている映像部分を通しで繋ぐと、不快な部分や不要なストーリーが判別できるので、それらを直感的な判断で削除して行き、約3時間半の暫定版としてまとめる。次にストーリー全体の再構成を行い、テレビ版と話の前後を変更したり、必要不可欠な台詞をチェックして行く。それと並行してバンクシステムによる使い廻しの部分を、既存の映像で代替できるか、新規作画に差し替えるか判断して、3時間半の暫定版を2時間半に短縮させる。その後、新規作画の制作を発注し、最終的に出来上がった映像を編集して完成させる段取りとなる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "富野は、総集編という形をとった劇場版の制作は、既存の映像と相談しながら作り上げる行為であり、創作ではなく技術職であると語り、自己主張を持つ演出家では務まらず、「便利屋」或いは「捌き屋」に徹することが肝心であると、その心得を述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "監督を務めた作品には、ロボットアニメが主なジャンルである。本稿にもあるように、ロボットアニメ以外にも世界名作劇場シリーズを始め、広範にわたるジャンルにおいてコンテや脚本を手がけている。また『ガンダム』『イデオン』では登場するロボット群の大半のデザイン原案を自ら描いており、ほぼそのまま登場したものも多い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "富野作品全てに共通するテーマの主題として本人は「人の自立と義務と主権の発見と、人が作ってしまう悪癖(これを“業”と称している)の発見」と語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "主要な登場人物を一カ所(多くは戦艦)に放り込んでストーリーを展開するスタイルは「富野方式」と多少揶揄的に評されていると本人は述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "重要なキャラクターが死ぬ展開もいとわず、『無敵超人ザンボット3』『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』、テレビ版『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士Vガンダム』など終盤に近づくにつれ、主要登場人物の大半が相次いで死に至るような作品を作ることが多く、「皆殺しの富野」などの異名で呼ばれたこともあった。代表作『機動戦士ガンダム』では大半が生き残ったが、後の小説版では途中で主人公を戦死させるという展開が見られる。これについては「全員殺した方が、きれいさっぱり何も残らずまとまりがつく(=制作者・視聴者共に、作品全体へ未練を残さず完結させる『最も理想的な表現法』)」と語っている。また、『無敵鋼人ダイターン3』『戦闘メカ ザブングル』など、スラップスティック・コメディ的な作品も作っている。その場合は主要登場人物が悪役やライバルを含めてほとんど死なない。『ブレンパワード』以降は、『∀ガンダム』や『OVERMANキングゲイナー』『ガンダム Gのレコンギスタ』など昔と比べると人の死や悲惨な描写が少ない。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "主人公は「家庭環境が悪いので、性格は理屈っぽく捻くれている」パターンが多い。また家庭環境の影響か、軍隊をはじめとする集団組織(チーム)の中に溶けこむことができなかったり、あるいは嫌悪を表明したりする。作品中では主人公と両親の関係が決して良好なものではなく、両親を殺したり存在を忘れさせたりするなどしている。その上「親子、兄弟姉妹、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」という家族愛へのアンチテーゼが込められる。両親であるキャラクターはその「死の瞬間」、まさに肉体が消滅するその瞬間までも醜悪な人間であり続けることが多い。富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。作品の一部の男性キャラクターは母性愛に飢えているマザコンという共通点もある。総括的に言えば、父親は一見社会人として正常な思考を持ち合わせた常識人に見えるが、子供に対しては無責任な一面のある人物として、母親は親としての自覚に欠けており、女性としてのエゴの強い人物として描かれる傾向が強い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "当時のヒロインの多くは、若かりし頃につきあいのあった「チョキ」というニックネームの女性をモデルとしていると記されており、ヒロインには芯の強さが目立つ。実年齢とは別に、主人公よりもやや大人びた感じや引っ張っていくような性格の強さが目立つ。また、ほとんどの作品で、富野自身の思想、境遇などの特徴と似た面を持つ政治家、権力者や野心家のキャラクターが登場している。これらのキャラクターは、同時に前述のような「主人公と敵対する父親」の役割をも備えている。その例として、ドン・ザウサー、デギン・ソド・ザビ、ドバ・アジバ、ドレイク・ルフト、アマンダラ・カマンダラ、ギワザ・ロワウ、バスク・オム、パプテマス・シロッコ、シャア・アズナブル、カロッゾ・ロナ、フォンセ・カガチ、クラックス・ドゥガチ、マスク(ルイン・リー)、クンパ・ルシータなどが挙げられる。これらのキャラクターはほぼ全ての作品において少なくとも体裁的には悪役であり、最終的には、主人公の少年の手によってその思想・野望を打ち砕かれる結末を迎えている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "登場する女性たちの中には、主人公を裏切り、対立する勢力に参加して、敵対する人物が登場する作品が幾つか存在するが、富野自身は自覚していないと後置きしながらも、『機動戦士ガンダム』で共に制作に携わった安彦良和と離別した影響が少なからずあると述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アニメーターで映画監督の庵野秀明や、プロデューサーの井上伸一郎は、スキンヘッドで男性の敵側の首領は、制作時における富野由悠季の思想や心情が投影されたキャラクターであると指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "主にガンダム作品で関わることが多かったアニメーターの北爪宏幸は、富野由悠季のキャラクター配置は独特で、通常のアニメ監督がやりがちな、主人公を起点として、それぞれの登場人物に役割を持たせた計算に基づく図式構成とは真逆の配置を行っており、作品やストーリー上の役割としては意味を持たないが、現実には必ず居そうなキャラクターを、モブやゲストとして主要人物の周辺に登場させることで、ロボットアニメのような虚構の世界であっても、身近でリアルなドラマが展開できる作りになっていると述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "主に男女間での肉体関係を想起させる描写に執心しており、性行為の想像無くしてキャラクターの創造は成立しないと断言している。『機動戦士ガンダム』の制作時に、登場人物であるランバ・ラルと内縁の妻であるクラウレ・ハモンが絡む場面で、偶然ながら肉体関係を示唆する描写を生み出せたことで、アニメでも表現できることを確信し、以降は、絵コンテの段階で演技論も踏まえた上で描くように心掛けているという。富野曰く、性行為を示唆する描写の創造は、遊びごとではなく真剣勝負の作業であるとして、仮に絵コンテで上手く描けたとしても、要求を満たさない作画表現となった場合は、描いたアニメーターに対して怒りが湧きあがり、要求を満たさない作画で妥協せざるを得なくなった場合には、気分が萎えて本気で落ち込むと述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "『巨人の星』の主人公星飛雄馬のイメージが強かった古谷徹を『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役に推したり、俳優の池田秀一、戸田恵子、舞台役者だった白鳥哲、朴璐美などを声優として発掘したりしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "演技においては峻厳な指導で知られる。アフレコ現場には必ず立ち会って声優と演技の詳細を詰めるといわれ、その指導を受けたことで実力をつけた声優は少なくない。大のガンダムファンでもある子安武人も複数の作品で起用された結果、自身の演技の幅を広げた。要求に応えられないときはブースに駆け込んで罵声を飛ばすこともある。『機動戦士Vガンダム』で主役を務め、当時新人であった阪口大助をはじめ、『機動戦士Ζガンダム』の劇場版に出演した新井里美、浅川悠らはその峻厳性ゆえに泣き出したという。特に阪口に至っては殴ったこともあると噂されたが、後年阪口本人はそれを否定している。また、『重戦機エルガイム』で主役を務めた平松広和は「キャラを殺して降ろす」とまで言われたという逸話もある。しかし一方で、『機動戦士Ζガンダム』でカミーユ・ビダンを演じた飛田展男や、『ガンダム Gのレコンギスタ』でクリム・ニックを演じた逢坂良太のインタビューなどによれば、「監督自ら熱心に指導するのは女性声優に対してのみであって、男性声優の指導は本人任せか音響監督に任せっぱなしだった」と述べており、逢坂に至っては「何も心配していないから大丈夫」と優しい言葉をかけてもらったという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "最終的な決定稿は専門のメカニックデザイナーの手によるが、自ら登場メカをデザインすることもある。また、ダクトで覆われたゲルググの胴体やエルメスのビットやザクレロに配された多方面スラスターなどの機能的なデザインもある。俗に言われる「富野ラフ」にはほぼ決定デザインに等しい物も多く、ゾック以降のモビルスーツ、モビルアーマー、艦船の大半は、ほぼ富野のラフ通りにクリーンアップされている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アニメーション作家で映画監督の庵野秀明は、個人的な感触として、富野由悠季が好むメカデザインは、一見すれば機能が把握できて肌で感じることができるものであり、これと最も相性が良かったのは宮武一貴のデザインで、『聖戦士ダンバイン』で絶縁関係になってしまったことが悔やまれると述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ライトノベルレーベルから発行しており、アニメに関連した物が多い。作風はアニメ視聴者より上の対象年齢の層をターゲットにしているものの、漫画のような擬音を多用する。また人物描写・背景説明が簡素でアニメの脚本のように地の文が少なく、セリフが多い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "上述した、裏切る女性が度々作品に登場する傾向について、自身の女性観を述べており、男性から見れば裏切りに見えるが、女性は自衛本能によって男性を見切る能力に長けているため、変わり身が早いだけであるとして、「拠るべきものがないと暮らしていけない」という考えは、男性が刷り込ませた有史以来の認識論に過ぎず、その認識論に基づいた結果、女性は「自活」や「快楽」、「嗜好性の違い」などを判断して、素早く行動ができると指摘している。また、この認識論が形作られる以前の母系社会では、女性は逃げることが出来なかったが、度重なる戦争によって男性が社会の実権を握ったことで、自身や実子の死を避けるために、女性は戦争を男性に委ね、男性が戦争への勝利と引き換えに女性を庇護するという構造を構築したことで、女性は男性の庇護を相性で選択できる立場になったとしている。そのため、現在の経済社会は、戦争のない時代に前述の認識論を維持するために作り上げられたものであるとして、近代社会に於ける男尊女卑の図式が日常行為で発生する点についても、動物の種としての力関係が凌駕出来ないことによる反動であり、男性が「出産」という行為を軽んじたにも拘らず、女性から距離を置くことが出来なかったからだとしている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "富野は、将来アニメ業界に就きたいと思っている若者たちに対して、「文芸、演劇、物語を見ないで映画、アニメが作れると思うな」「アニメ以外のことにも奮闘しろ」「修身・道徳、格言を学べ」「大人から学ぶものなんて何もない」「映画産業全般に就きたいのなら学生時代から広くものを見なさい」「45歳までは君たちも挽回できる。人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。それが何だったか思いだせ」とアドバイスをしている。また、近年のアニメについて「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしてもステレオタイプになる」「必ずしも、現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」と述べている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "声優選考の際、記号的な演技をする声優を指摘して、ラブシーンのエチュードを引き合いに、「触れられたり抱かれたり、すぐ感じることしか知らない役者が多くて、僕はそういうのは大嫌いです」と嫌悪感を露にしている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "昭和時代の特撮映画に携わった監督たちに対して、「大学を卒業したインテリは、ミーハーな映画を作る平民的感覚を持っていない」「子供を馬鹿にしているから、この程度で良いと思っている」と語り、「本気で映画を作ろうと思っている映画人は日本にいない」と手厳しく批判して、本多猪四郎らが手掛けた東宝特撮映画の路線を全否定している。また、東宝特撮全盛期の高水準と謳われた合成技術に関しても、「日本人の判官贔屓に過ぎない」と一蹴し、「ガキに見せるから合成ラインが見えても良いと思っている。僕はそれが許せない」と語って、米国映画の『月世界征服』は、その辺りをクリアしていたことを指摘した上で、「子供じみたものでもリアリズムと言うのがある。それを追求していない」という怒りを、中学生の頃から持ち続けていたことを吐露している。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "安彦良和とは、虫プロ制作のTVアニメ『さすらいの太陽』以来、『0テスター』等の幾つかの作品で接点があったが、本格的に関わったのは『勇者ライディーン』からである。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "安彦良和のアニメーターとしての技量を「マンガ絵をアニメ的な画として完成させたという意味で、天才だと思っています」と語り、具体的には、「タイムシートの読み取り方と切り方が尋常じゃない」「リミテッドアニメの中割りの仕方を本能的に覚えた人です」と評価し、『勇者ライディーン』の制作時を引き合いに「『ライディーン』では明確に腕が上がっていました。作画枚数も数を守れる人でした。あれを真似できる人は、まだ出て来ていないんじゃないかな」と絶賛している。その一方で、『機動戦士ガンダム』以降、実質的に決別してしまったことについて、「安彦君は線のエロチシズムを本能的に出せたんです。困ったことにその自意識がないんです」と、無自覚に醸し出される色気を指摘した上で、「そこまで(互いの気持ちが)連動しなかったんで、ドギツイ言葉が言えなかったんです」と、ガンダムの制作当時、本音を交えたやり取りが出来なかった結果だとして、「安彦君は敵にしたくなかったけど、逃げて行ってしまって、仮想敵になって困ってしまった」と悔しさを滲ませる一方で、「自分の中には安彦君ほどの才能はなかった」と明言した上で、「安彦君みたいな人にまた出会えるなら、僕はこの仕事をもっと好きになれるだろう」と語っている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "宮崎駿とは同年の生まれ(宮崎が早生まれのため学年的には1年上で、富野はキャリアも含め宮崎の後輩にあたる)であり、「宮崎らスタジオジブリ制作作品にライバル意識を持っている」というような発言や、度々批判を行う。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "だが一方で、「(オスカーを取った宮崎駿のように自分がなれなかったのは)能力の差であるということを認めざるを得ない」、「誤解を恐れず言えば、宮崎、高畑の演出論は黒澤明以上だ」、「学識の幅とか、深みが圧倒的に違う、僕では競争相手にならないと思いました」などと語っており、宮崎を自分以上の存在として高く評価している。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、宮崎駿を良く知る押井守により「宮さん(宮崎駿)も富野さんのことが大好きなんだよ。宮さん、よく富野さんに電話しておしゃべりしていたからね。宮さんと富野さんって実は仲良しなんだよ。」と、仕事以外において宮崎本人と親交があったことが明かされている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同じく、宮崎駿を良く知る鈴木敏夫曰く、『風の谷のナウシカ』の劇場公開が終了した頃に、富野由悠季の自宅を訪問すると、『未来少年コナン』の再放送を鑑賞しており、理由を訊ねると、「勉強してるんです」「やっぱり宮さん上手いねえ」「何回も見てますよ」と語った後で、「でもね、当たるのは僕の作品ですよ。良いものは宮さんが作り、当たるのは僕が作る」と対抗心を露にしていたという。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "発言では宮崎同様、高畑勲を非常に高く評価している。『アルプスの少女ハイジ』で絵コンテを担当した際は、総合演出だった高畑から相当の直しが入ったが、構図的に凝った部分はそのまま使われ、「高畑さんがそういうのを認めて下さったんじゃないですか」と語り、「僕も東映動画出身の人間に舐められたくないと頑張った覚えはあります」と述べている。また高畑の人柄について、「丁々発止を人前で見せる方ではなく、いつもニコニコしていました」と証言している。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2018年の高畑没時の取材に対しては、", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "と述べ、自らに影響を与えたことを認めている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "『新世紀エヴァンゲリオン』に対し、「エヴァは病的。イデオンなどの後継的な作品とは言って欲しくない」との趣旨の発言をしている。一方で、庵野秀明監督については「新世紀エヴァンゲリオン」で大ブレイクしたけど、それ以降は実写を撮ったりして、さらになぜか声優業もやって、で、そこから脱却して今がある。彼はいろいろありつつも、その軌跡の中で「映像作品を作る!」という確かな視点を持っている人だと思う。と述べている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "富野と一時期深く関わり合いを持った安彦良和によれば、富野由悠季がエヴァを批判するのは近親憎悪であり、的確な怒りである一方で、富野自身もアニメ作家である以上、それを踏まえてどんな次回作を作るかで、自分自身を追い込んでいると指摘し、「大いに怒って下さい」「富野さん一番わかるでしょう。あなたがやったことなんだよ」と突き放したコメントを寄せている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "プライベートでは基本的に無趣味だと語るが、夫婦で家庭用テレビゲーム版『パズルボブル』などのパズルゲームをプレイして楽しんでいる様子をインタビューにおいて語っている。なお、ゲームに関しては自身の性格からして、のめり込んで身を滅ぼすだろうという想いから、触れないよう尋常ならざる努力をしてきたと語っている。『A,C,E2』の特典DVDでは、「ゲームは麻薬」「ゲームに携わる仕事をしている人間は嫌い」との発言をしているが、ゲーム技術の発展については理解を示している。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "台北でのゲームショーへ赴くなどしており、積極的にゲーム関連のイベント(自身の関連した作品が出展されたからだろうが)に参加している。また、お蔵入りしたものの後にガンダムのゲーム作品を代表する『ガンダム vs.シリーズ』に結実する64DD向けゲームの企画にも関わり、この時訪問したカプコンで出会ったのが『∀ガンダム』以降の盟友となる安田朗である。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "トランスフォーマーシリーズに関して富野は「ロボットだけで人間ドラマをやれるのはトランスフォーマーだけだろう」と評している。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "一方「ウチの作品はトランスフォーマーじゃないんだから、変形機構の面白さだけ追い求めたいファンなら、そっちを見ればいいんじゃない?」という発言もしている。", "title": "発言" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "演出家で映画監督のおおすみ正秋は、初めて会った時の記憶が定かではないと前置きした上で、作画が優先された当時のアニメ業界では珍しい文学青年で、絵コンテを発注すると、脚本の粗をしっかり補完して描き上げていたと評価し、厳しいプレッシャーの中でこそ、その才能を最大限に発起できる人物と評している。そして、ロボットアニメというジャンルで実績を残したことを「立派だと思う」と称賛している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "漫画家のあさりよしとおは、作家性が壊れた裸の王様だと断言し、ファーストガンダムの劇場3部作で大作家に祭り上げられたが、伝説巨神イデオンの劇場2部作で作家性の駆動力を永遠に失ってしまったと述べている。一方で、富野が虫プロ時代に培った「職人技」については、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』で富野が担当した暫定版のオープニングや、『ママは小学4年生』のオープニングを例に挙げて、「決して腐ってはいない」と評価した上で、「作家」ではなく「職人」であるとの評価を下している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "編集者でプロデューサーの井上伸一郎は、「こんなことで悩むのか思うほど律儀な人で、律儀過ぎて、偶におかしくなる時がある」と語り、他人の受け売りと前置きした上で、多くの作家は1種類の狂気しか出せないが、富野由悠季の作品には、異なる狂気を孕んだ人物を複数登場させる凄さがあると指摘している。また手掛ける作品に於いて、ほぼ毎回のように女性キャラが裏切る展開があり、その裏切った先で肉体関係を匂わせる描写がある点にも着目し、人間は、主義主張ではなく、本能で動く生き物であるという、彼なりの価値観に因るものではないかと分析している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "サンライズ代表取締役会長である内田健二は、「ガンダムのパッケージを使わなくても神話が作れる人」と評し、富野作品は、純粋に商品としては語れない部分があり、商売をするのが難しいと語っている。また、製作プロデューサーとして長く関わった経験から、既存のコンテンツを使って別のことをやりたがる傾向が強い反面、過去の作品に対しては関心が低く、ガンダムのような、歴史的な整合性が必要な作品に富野由悠季が関わる場合は、多くの人員を割いてのアフターケアが必要不可欠であると語る一方で、他人の意見には良く耳を傾ける性格で、多くの意見を聴いた上で、自身で咀嚼してアイディアとして使うため、人の意見を聞かないマイナスな印象が強くなっていることを指摘しつつ、他人の意見を聴きはするが、本人が作品でやりたいことが優先されるため、実行の優先度は限りなく低いという注釈をつけている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "映画監督でアニメーション演出家でもある押井守は、集団的な作業を信じない人と評し、登場人物の台詞に自身の思想を語らせ、作画では一切語らせないことを一例に挙げ、アニメーターを信用していないと指摘した上で、「あれは辛いと思う。自分の中じゃスッキリするかもしれないけど、僕だったら耐えられない」とコメントし、アニメーター不信の要因は、宮崎駿が監督した『未来少年コナン』の衝撃を受けて、コナン的なものを目指して監督した『戦闘メカ ザブングル』の惨敗や、スタジオの顔と呼べるような有能な美術監督と巡り合えなかったことにあると述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "映画プロデューサーで編集者である鈴木敏夫は、「あの人右翼だよね(笑)。はっきりそう思うよ」と指摘した上で、「無邪気で正直で、表裏のない」「すごく常識のある良い人」であるとして、「僕は富野さんが好きだったんです」と語り、日常的に付き合う分には嫌いになる人はまずいないと述べる一方で、この手のタイプは突出した物を作りがちで、自身と関わり合いが深い宮崎駿や高畑勲とは真逆の作家性を持っていると分析している。また、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の公開当時、鑑賞した中高生の多くが泣いていたことを引き合いに、大人でありながら、子供の味方で居ようとする人であるとして、「あの人そのものはあんまり大人じゃないが、そこが良い所でしょう」と語っている。そして、物事を斜に構えず、熱弁を奮う性格については、太平洋戦争に出征できなかった世代特有のものであり、ガンダムシリーズに代表される架空戦記に定評があることについても、GHQの出版物に関する検閲が廃止された後に復刊された軍国物を多感な時期に読んだ世代でもあるので、とても理解できると述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "映画監督でアニメ演出家だった高畑勲は、富野由悠季の強い拘りを生前に高く評価しており、交流のあった鈴木敏夫によれば、世界名作劇場シリーズで富野が手掛ける絵コンテには必ず良い所が1箇所はあり、それは富野本人が強い拘りを持つからこそ、その部分が生まれるのだと分析していたという。また世界名作劇場に関わっていた頃には、高畑の自宅に足繁く通っており、「とにかく一生懸命な人だった」とその人柄を評価し、ガンダムをテーマにした富野との対談が企画された際にも、断らずに応じたという。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "漫画家でアニメーターの安彦良和は、駆け出しの頃の富野由悠季は、早描きで絵コンテを描き散らす傾向があり、実写映画の志向者に在りがちな、余計な描写を入れたアニメ的でないコンテを描いて、それをカットされても一切文句を言わないため、前述のように「軽い演出家」という評価だった。しかし、制作現場に保温タイプの弁当を持ち込むなど、意気込みだけは並々ならぬものがあり、『勇者ライディーン』が路線変更の憂き目に遭った際も、安彦が降板を口にすると、「そういうもんじゃないよ」と諭し、「視聴者にサービスしなければいけないんだ」と粘り強く職人に徹して、監督降板後も演出で残留するその姿勢に驚嘆すら覚えたが、富野由悠季の持ち味であるシリアスな作風を知るのは『無敵超人ザンボット3』からで、それ以前は、ウケるためなら何でもする商売人のイメージだったという。『機動戦士ガンダム』の制作の際は、便利屋扱いされた弊害から、演出家として一流になれない苦しみを味わっている印象を受けたが、テンプレの喜怒哀楽でない感情を、演出家として画作りに求める姿勢に、一人のアニメーターとして嬉しさを感じ、それに応えなければという気持ちになったという。しかし、制作中に急病で一時降板した際に設定されたニュータイプの概念が最後まで納得できず、思想的にそりが合わないと判断して、袂を分かつことにしたという。その上で、富野由悠季が心身共にベストな状態で作った作品は初代ガンダムであり、そんな富野と以心伝心で創作できたガンダムは良い思い出だと語る一方で、それ以降の作品については支持できないものばかりであるとも述べ、『伝説巨神イデオン』や『機動戦士Zガンダム』については「非常にエキセントリックで優しさがない」「心の余裕がなくなった事の反映」と酷評し、マイナーな演出家が一躍メジャーになり、富野教の教祖になって自分自身を見失ってしまったと指摘している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "庵野秀明や鈴木敏夫は、安彦良和が富野由悠季と離別したことは、お互いにとって不幸な出来事だったとした上で、最大の要因は、富野由悠季が監督として安彦良和を作画の道具として扱い、それに安彦氏が反感を覚えたからだとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "脚本家で映画監督の山賀博之は、富野由悠季の作品に触れて初めて、結婚をして子供を持ち、社会に参加しながら仕事をしている大人がいることを意識するようになったと語る一方で、男女の色気に対して異常なまでに執心したり、登場するキャラクターが端々で諦めや戸惑いの描写を見せることを挙げて、富野作品には純文学的な見っともなさがあるとも語り、玩具会社が主導するアニメの世界でしか居場所がないことへの抵抗感や情けなさが感じられて、彼自身の冷めた人生観が見受けられるとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "主な映像演出参加作品年表一覧", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "「さすらいのコンテ・マン」だった時代に関わりを持ったアニメには次のようなものがある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "以下の作品では、富野由悠季以外のスタッフの手によって制作された映像作品であっても、テロップでは「原作者」もしくは「原案者」とされ、矢立肇と名を連ねて表示される。なお、富野はガンダム第1作の企画案を当時サンライズへ30万円で売り渡したため(当時は業界の慣例としてそれが当たり前であった)、ガンダム関連商品の売上が富野自身に還元されることは長年なかった。", "title": "原作・原案名義作品" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "その他、漫画・小説のガンダム作品などにも必ず名前が入っている。これはサンライズの監修を受けた正式なガンダム作品であることを意味する名義にもなっている。", "title": "原作・原案名義作品" } ]
富野 由悠季は、日本のアニメーション監督、演出家、脚本家、漫画原作者、作詞家、小説家。本人は演出家・原案提供者としている。日本初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその創世期から知る人物。祖父は東京府大島町(現・東京都江東区の一部)町長を務めた富野喜平次。 代表作は『機動戦士ガンダム』などのガンダムシリーズ、『伝説巨神イデオン』、または『聖戦士ダンバイン』他のバイストン・ウェル関連作品など。
{{ActorActress | 芸名 = {{ruby|富野 由悠季|とみの よしゆき}} | 画像ファイル = Yoshiyuki Tomino 20181205.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = 文化功労者顕彰に際して公表された肖像 | 本名 = 富野 喜幸 | 別名義 = {{ruby|新田 修介|あらた しゅうすけ}}<br/>とみの {{ruby|喜幸|よしゆき}}<br>{{ruby|井荻 麟|いおぎ りん}}<br>{{ruby|斧谷 稔|よきたに みのる}}<br>{{ruby|斧谷 喜幸|よきたに よしゆき}}<br>{{ruby|井草 明夫|いぐさ あきお}}<br>{{ruby|阿佐|あさ}} みなみ<br>{{ruby|井荻 翼|いおぎ つばさ}}<br>など | 出生地 = {{JPN1870}} [[神奈川県]][[小田原市]] | 死没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 身長 = 168 [[センチメートル|cm]] | 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]] | 生年 = 1941 | 生月 = 11 | 生日 = 5 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[アニメ監督]]<br/>[[脚本家]]<br/>[[演出家]]<br/>[[作詞家]]<br/>[[小説家]] | ジャンル = [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]] | 活動期間 = [[1964年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = あり | 著名な家族 = 祖父:[[富野喜平次]]<br/>長女:富野アカリ<br/>次女:[[富野幸緒]] | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 =『[[夕やけ番長]]』(1968 - 1969年)<br />『[[さすらいの太陽]]』(1971年)<br />『[[海のトリトン]]』(1972年)<br />『[[勇者ライディーン]]』(1975 - 1976年)<br />『[[無敵超人ザンボット3]]』(1977 - 1978年)<br />『[[無敵鋼人ダイターン3]]』(1978 - 1979年)<br />『[[機動戦士ガンダム]]』(1979 - 1980年)<br />『[[伝説巨神イデオン]]』(1980 - 1981年)<br />『[[戦闘メカ ザブングル]]』(1982 - 1983年)<br />『[[聖戦士ダンバイン]]』(1983 - 1984年)<br />『[[重戦機エルガイム]]』(1984 - 1985年)<br />『[[機動戦士Ζガンダム]]』(1985 - 1986年)<br />『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』(1986 - 1987年)<br />『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』(1988年)<br />『[[機動戦士ガンダムF91]]』(1991年)<br />『[[機動戦士Vガンダム]]』(1993 - 1994年)<br />『[[ブレンパワード]]』(1998年)<br />『[[∀ガンダム|∀(ターンエー)ガンダム]]』(1999 - 2000年)<br />『[[OVERMANキングゲイナー]]』(2002 - 2003年)<br />『[[リーンの翼]]』(2005 - 2006年)<br />『[[ガンダム Gのレコンギスタ]]』(2014年 - 2015年) | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = 第42回[[シカゴ国際映画祭]] アニメーション特別功労賞(2006年)<br />第11回AMDアワード 功労賞(2006年)<br />[[ロカルノ国際映画祭]] 名誉豹賞(2009年)<br />[[文化功労者]](2021年)<br />ほか | 備考 = }} {{Portal|文学}} '''富野 由悠季'''(とみの よしゆき、[[1941年]]〈[[昭和]]16年〉[[11月5日]] - )は、[[日本]]の[[アニメーション監督]]、[[演出家]]、[[脚本家]]、[[作詞家|漫画原作者]]、[[作詞家]]、[[小説家]]。本人は演出家・原案提供者としている<ref>『∀の癒し』[[角川春樹事務所]], 2000年</ref>。日本初の30分テレビアニメシリーズ<ref>テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『[[鉄腕アトム]]』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその創世期から知る人物。祖父は[[東京府]][[大島町 (東京府)|大島町]](現・[[東京都]][[江東区]]の一部)町長を務めた[[富野喜平次]]<ref name=":2" /><ref name=":0" />。 代表作は『[[機動戦士ガンダム]]』などの[[ガンダムシリーズ]]、『[[伝説巨神イデオン]]』、または『[[聖戦士ダンバイン]]』他の[[バイストン・ウェル]]関連作品など。 == ペンネーム == 本名は漢字表記が異なる'''富野 喜幸'''<span style="speak:none">(読み同じ;よしゆき)</span>で、1982年以降は'''富野由悠季'''というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。喜幸という名前は、両親の'''喜平'''と'''幸子'''の一文字ずつをとって付けられた。 作詞家としては{{読み仮名_ruby不使用|'''井荻 麟'''|いおぎ りん}}で、[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|日本サンライズ]]事務所のあった[[上井草駅]]が[[西武新宿線]][[井荻駅]]の隣であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出に'''とみの善幸'''、{{読み仮名_ruby不使用|'''斧谷 稔'''|よきたに みのる}}、{{読み仮名_ruby不使用|'''斧谷 喜幸'''|よきたに よしゆき}}、作画監督に{{読み仮名_ruby不使用|'''井草 明夫'''|いぐさ あきお}}、[[声優|声の出演]]に{{読み仮名_ruby不使用|'''井荻 翼'''|いおぎ つばさ}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gundam.info/news/hot-topics/news_hot-topics_20150323_12806p.html|title=富野由悠季総監督が新人声優デビュー!「井荻 翼」としてGのレコンギスタ最終回に出演!|publisher=GUNDAM.INFO | 公式ガンダム情報ポータルサイト|accessdate=2016-02-02}}</ref>などの別名義を使う。 == 富野家 == [[ファイル:2代目大島町長・富野喜平次.png|サムネイル|245x245ピクセル|第2代大島町長・富野喜平次『大島町誌:大東京市併合記念』<ref>{{Cite web|和書|title=大島町誌 : 大東京市併合記念 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175611/17|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref>より]] 富野家は代々地方の[[旧家]]であり、[[東京都|東京]]・[[大島 (江東区)|大島(江東区)]]の[[地主|大地主]]であった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=人物と其勢力 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316/57|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|title=「アムロ父子の確執は創作ではなかった」 40周年『ガンダム』富野由悠季監督が語る戦争のリアル|url=https://www.asahi.com/and/article/20191229/8595254/|website=朝日新聞デジタルマガジン&[and]|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref>。祖父・喜平次は[[大島町 (東京府)|大島町]]長や大塚護謨工作所監査役を務めた<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=ガンダム監督の「敗北者宣言」【富野由悠季】|url=https://koken-publication.com/archives/706|website=公 研|date=2020-09-01|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=富野喜平次 (第8版) - 『人事興信録』データベース|url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-15213|website=jahis.law.nagoya-u.ac.jp|accessdate=2021-07-24}}</ref>。また伯父・徳次郎はのち家督を相続し、喜平次を襲名した。なお、父・喜平は兄8人姉8人の末っ子で両親に育てられず、本家で腹違いの長男(徳次郎)夫婦に育てられた<ref name=":2" /><ref name=":3" />。 * 曽祖父・'''喜平治'''([[1832年]]9月 - 没年不明) **地主<ref>{{Cite web|和書|title=日本紳士録. 第3版 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780092/98|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-08-26|language=ja}}</ref>。 * 祖父・'''[[富野喜平次|喜平次]]'''(前名:'''佐太郎'''、[[1857年]][[11月12日 (旧暦)|11月12日]] - 没年不明) **大島町長<ref name=":0" />。大塚護謨工作所監査役<ref name=":1" />。[[所得税]]調査委員。 * 父・'''喜平'''([[1909年]]2月 - 2005年頃) **喜平次の九男<ref name=":1" />。日本加工織布社員<ref name=":2" /><ref name=":6">{{Cite web|和書|title=人事興信録. 第13版(昭和16年) 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1070514/250|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-08-26|language=ja}}</ref>。[[日本大学]]文科卒<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=大衆人事録. 第14版 東京篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1683373/396|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref><ref name=":6" />。96歳で死去<ref name=":5" />。 * 母・'''幸子'''([[1915年]]生) **大島町会議員・田中佐吉の長女<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=大衆人事録. 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部 - 国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1688500/16 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2022-11-11 |language=ja}}</ref>。[[東京都立小松川高等学校|府立第七高等女学校]]卒<ref name=":6" /><ref name=":7" />。のち夫・喜平とともに分家<ref name=":4" />。実家は[[セルロイド]]玩具製造業<ref name=":7" />。富野曰く、大正期にはセルロイドの人形を[[アメリカ]]に輸出してかなり成功していたという<ref name=":2" />。 * 伯父・'''喜平次'''(前名:'''徳次郎'''、[[1886年]][[8月9日]] - [[1965年]][[3月13日]]) **喜平次の長男(または三男)<ref name=":0" /><ref name=":4" />。地主。[[東京府会]]議員<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=人事興信録. 第14版 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455/245|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-07-24|language=ja}}</ref>。 * 従兄・'''正男''' **徳次郎(喜平次)の長男<ref name=":4" />。[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]卒<ref name=":4" />。 == 経歴 == === 幼少期 === [[1941年]]、[[神奈川県]][[小田原市]]生まれ。同年生まれのアニメ監督に[[宮崎駿]]や同じ虫プロ出身の[[りんたろう]]がいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、幼少期の冨野に「おまえは弱い子なんだよ」と刷り込みのように言い聞かせ、自身の虚弱体質ぶりを自覚させていたという<ref name="名前なし-20231105131033">『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P41</ref>。父は写真家を志し、20歳を過ぎて日大芸術学部の美術・美学専攻学科に入学して、30歳近くまで学生であったが、在学中に太平洋戦争が始まると、徴兵を嫌って化学分野の技術者として小田原の軍需工場で[[零式艦上戦闘機|零戦]]の与圧服の開発スタッフとして勤め<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P40</ref><ref>[[BSアニメ夜話]],NHK</ref>、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという<ref>[[朝日新聞]]の連載コーナー『おやじのせなか』</ref>。この父の影響で、小学4年の頃は航空宇宙学に携わる仕事に就きたいと考え、中学1年の頃には理工学系、若しくは機械系の仕事を志すようになるが、中学2年になって数学で挫折し、高校受験で工業高校に落ちたことで、理工学系の夢を捨て、文系に切り替えざるを得なくなり、高校の3年間は物語を書くための基礎的な勉強や、小説を書くための練習を行う傍ら投稿を行うようになる<ref name="名前なし-20231105131033"/>。 幼児期の冨野は食が細く、オムツ離れや走ることも遅い方だった。また神経が過敏なところがあり、空から降る雪や砂浜に押し寄せる波を極度に恐れていたという<ref name="名前なし-20231105131033"/>。小学生の頃は同級生たちから孤立していた。また、本人曰く「英単語や数字を覚えることが苦手で、あまり勉強出来なかった」という<ref name="ki">『[[北日本新聞]]』2020年11月24日付24面『アニメを変えた男 上 創作の道へ 子供向け 手抜けない』より。</ref>。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に[[手塚治虫]]の「アトム大使」(「[[鉄腕アトム]]」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『[[少年 (雑誌)|少年]]』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる<ref>NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季</ref>。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。 === 学生時代 === 戦後に流入した[[アメリカ合衆国]]の『[[月世界征服]]』や『[[禁断の惑星]]』などのSF映画を鑑賞してショックを受けると同時に、映画作りは途方もない労力がかかることを知る<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P43~44</ref>。また工業系ではない普通の[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]に入学したことで、卒業後に就職が出来ず、大学に進まざるを得なくなり、[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]][[映画学|映画科]]<ref name="ki" />しか入学できる余地がなかったため、親から借金をして進学する<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P44</ref>。同大学には一年先輩に[[山本晋也]]、同窓に[[神山征二郎]]{{Efn|神山とは、90年代に同窓会の場で初めて面識を持ち、名刺交換をしたという<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P47</ref>}}がいるが、どちらも面識はなく、交流もなかった<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P47</ref>。映画学科の演出コースを専攻したものの、1年と2年の授業は一般教養が主で、それに付随する形で映画関係者の講座が散発的に行われる編成だった。1年の時に演出を志す者としてシナリオを理解するために、シナリオを数本書く課題があり、高校時代に小説を執筆した経験が活かされて無事こなすことが出来たが、映画関係者が行う講座には全く魅力を感じず、学生にアーカイブの映画フィルムを貸し出すシステムも存在しなかったので、1年の2学期から3年の1学期いっぱい迄、ほとんど授業には出なかった。また、当時の映画産業は先細りの時代を迎えており、富野が3年生となった年に、大手の映画会社は軒並み新規の採用を取りやめ、ドラマ業界は映画会社から移った関係者たちに独占されて、富野のような新卒者が入り込める場所はなくなっていた<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P45</ref>。 === 学生運動 === 日大に入学した[[1960年]]は、俗に「60年安保」と呼ばれる[[安保闘争]]の年で、1年に学部の自治会に入会し、2年時には自治会長を務めていた富野も、自治会連合の執行部である中央執行委員会(以下、中執)に出入りするようになり、そこで初めて安保闘争の概要を把握するようになる。当時、日大の中執は[[全日本学生自治会総連合]]のような反社会的な行動は取らず、産学共同を命題に掲げた御用自治会あり、富野は突拍子もない発想を口にする学生たちが物珍しく、2年の秋頃まで入り浸っては彼らを傍観していたが、中執が御用自治会であると把握した途端に嫌気が差し、中執の事務所に隣接していた日本私立大学団体連合会(以下、私学連)の執行部に入り浸るようになる。しかし3年時の夏休みに、私学連の中執総会で副委員長に推薦された際、委員長への推薦ではなかったことに不満を抱き、総会の土壇場で副委員長への就任を拒否したため、総会終了後に周囲から糾弾され、執行部から、1年受諾を条件に卒業後の日大学生課への就職を打診されるも、これも拒否して中執を脱会した。中執とは確執を残したまま卒業したことから、学生課に就職した同期の職員たちから目の敵にされ、彼らが退職した後の[[2006年]]に特別講義として招かれるまで<ref>http://sleepydrag.blog29.fc2.com/blog-entry-242.html</ref>、日大とは不和が続いた<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P45~47</ref>。このように、学生運動には直接関わらず、一歩引いた立ち位置の傍観者であり続けた富野だったが、一度だけ、司法長官だった[[ロバート・ケネディ]]が[[1962年]][[2月]]に来日した際、日大会頭だった[[古田重二良]]と面会する折のお先棒を担いだことがあり、学生課の課長からの動員で、赤坂にある日大の迎賓館内にある平屋に、会談が終わるまで他の動員者たちと共に待機し、帰りは古田会頭が手配したベンツのハイヤ-で、中執のメンバーの自宅まで帰った逸話を持っている<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P46</ref>。 === 虫プロ時代 === [[1964年]]、[[手塚治虫]]の[[虫プロダクション]]入社。就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、上述の通り、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている<ref name="mainichi" />。大学3年の10月に、3行広告を見た母親から<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P52</ref>虫プロが見込み(新卒)採用を行っているという話を聞き、大学から近かったことや<ref name="ki" />、志望していた演出の仕事ができるならばこの際なんでも構わないという気持ちで学園祭の準備期間中に採用面接を受け、学園祭が終わった11月頃に「3月の卒業前でも良いから早く来るように」と通知が届いて採用が決まった<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P52~53</ref>。なお、虫プロが見込み採用を行ったのは、後にも先にもこの時一度きりであった<ref>『だから僕は… ガンダムへの道』(角川スニーカー文庫、2003年)</ref>。採用には富野を含め3人が受かったが、残り2人の内の1人は[[高橋良輔]]だったと言われている<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P53</ref>。当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。 当時の[[虫プロダクション]](以下虫プロ)は全員を社員として採用しており、『[[ジャングル大帝]]』のアニメ制作で別棟を借りる迄、[[手塚治虫]]の自宅脇にあるスタジオに百数十人の社員が犇めき合っていた。富野は最初、[[制作進行]]および演出助手を担当し、動画→仕上げ→撮影を行うため、必要なカット袋を運ぶ係を担当した<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P53</ref>。虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後に[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]を起こす若尾博司だった。富野はそこでテレビアニメの業態と基本構造を学び、演出家として、スタジオ内での作業工程こそがアニメ制作の肝であることを身体に叩き込んだ<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P53</ref>。後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる<ref name="mainichi">「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(2)」 『毎日新聞』 2009年11月3日、12版、9面。</ref>。富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか?」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く(切る)」ことだった。 『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』{{Efn|[[手塚治虫]]が自身の[[鉄腕アトム|同名漫画]]を原作に制作した日本初30分のテレビアニメーションシリーズ(モノクロ)。}}では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当。1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」で、新田修介の名で演出家としてデビューした。同話では脚本と絵コンテも担当している。同話を含め『アトム』では合計25本の演出と絵コンテを担当。自ら脚本を書いたエピソードも多い。この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。元々メインだった[[りんたろう]]とは後年まで軋轢があったが現在では和解している。 当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている<ref>『アニメ大国の肖像』中日新聞連載、2006年</ref>。ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている<ref>産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」(2013年6月)</ref>。 === フリー時代 === 1967年、虫プロを退社。[[東京デザイナー学院]]で講師として講義を持つかたわら、オオタキ・プロダクション(シノ・プロ){{Efn|オオタキ・プロダクションの表記は著作『だから僕は…』に準拠。[[エッセイ]]『∀の癒し』には同一CM制作会社と思しき会社がシノ・プロの名で登場している。}}でCM制作に関わる。1968年、オオタキ・プロダクションを退社、フリーとなる。講師やオオタキ・プロダクションとの付き合いも続けながら、アニメ界への復帰を模索するようになり[[タツノコプロ]]で仕事を受注する。虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いがさらに強まる。ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。<!-- 1968年の『[[夕やけ番長]]』が初チーフディレクター作品だが、実際には初期数話に関わった程度であった。--><!--←別項に移動しました--> 当時、どこのスタジオに行っても見かける「'''さすらいのコンテマン'''」として有名だったという。この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。『[[未来少年コナン]]』ではコンテを[[宮崎駿]]に全て描き直され(ただし、宮崎は誰のコンテでも全て自分で手直しする)、畏敬の念もあり『[[機動戦士ガンダム]]』の制作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。しかし、[[スタジオジブリ]]代表取締役の[[鈴木敏夫]]は、富野が『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』の各話演出スタッフを務めていた当時、高畑勲と宮崎駿が「富野さんの仕事には一目置いていた」と話している<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/JP_GHIBLI/status/1381050616244473856|title=スタジオジブリ STUDIO GHIBLIさんはTwitterを使っていす|publisher=twitter.com | Twitter|accessdate=2021-05-30}}</ref>。苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『[[いなかっぺ大将]]』では何度もやり直しを受け「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」、また『[[巨人の星]]』については「アニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた」と吐露している。富野は2作の作者[[川崎のぼる]]について著作<ref>『だから僕は…』</ref>で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している<ref>『富野由悠季全仕事』</ref>。他方、『[[ど根性ガエル]]』のような作品は「またやってみたい」と発言している。 1971年、結婚。結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。このころに[[埼玉県]][[新座市]]に引っ越す(『[[無敵鋼人ダイターン3]]』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。 === 監督デビュー以降 === 1972年、『'''[[海のトリトン]]'''』で実質的に初のチーフディレクター・監督・絵コンテを務める{{Efn|『[[夕やけ番長]]』後半で、演出として初のチーフディレクターを務めたが、実際には前半で演出を務めた[[木下蓮三]]が引き続き作業をおこなっており、富野の作品への関与は数話程度にとどまるとしている{{要出典|date=2022-03}}。}}。[[手塚治虫]]の新聞連載漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて原作漫画も『海のトリトン』に改題して単行本化)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外には共通点は薄い。放送当時は視聴率が伸びずに2クールで終了した。 [[1974年]]、『'''[[宇宙戦艦ヤマト]]'''』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを[[西崎義展]]プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている<ref>著作『だから 僕は…』</ref>。そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎を激怒させた。翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎からの依頼は来なかったと言う。のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ!』これです。他にありません。松崎君([[松崎健一]])も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている<ref>『[[アニメック]]』第10号、1980年</ref>。 1975年、『'''[[勇者ライディーン]]'''』の監督、絵コンテも担当。オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作([[鈴木良武]])が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画作業に入ってから決まった放送局の方針と合わずに、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。後任の[[長浜忠夫]]は、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収することに努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している(後に[[長浜ロマンロボシリーズ]]にも演出、絵コンテとして参加している)。同年、途中降板した[[出崎哲]]の後任として『[[ラ・セーヌの星]]』の最終話までの3クール目(第27話〜第39話)を、総監督の[[おおすみ正秋|大隅正秋]]の下で監督を務める。 [[1977年]]、[[創映社]]が[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|日本サンライズ]]として改組・独立。サンライズ初のアニメーション作品である『'''[[無敵超人ザンボット3]]'''』の総監督・原作(共同原作/[[鈴木良武]])・演出・絵コンテ・原画{{Efn|ノンクレジットだが、富野本人が証言している{{要出典|date=2022-03}}。}}を担当。『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。 1978年、『'''[[無敵鋼人ダイターン3]]'''』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。 === ガンダム以降 === [[File:2008TaipeiGameShow_Day2_DigitalContentForum_Yoshiyuki_Tomino.jpg|thumb|220px|富野由悠季(2008年)]] [[File:Tomino Yoshiyuki "The World of Gundam" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival (22417922672).jpg|thumb|250px|2015年、[[第28回東京国際映画祭]]にて]] 1979年:自身の代表作といえる『'''[[機動戦士ガンダム]]'''』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞{{Efn|井荻麟名義で「[[翔べ! ガンダム]]」(オープニング)、「永遠にアムロ」(エンディング)、「シャアが来る」「いまはおやすみ」(挿入歌)、「きらめきのララァ」(挿入歌・本編未使用)作詞。}}を務める。それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「[[リアルロボット]]もの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、スポンサーの玩具売上で苦戦し、スポンサーである[[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]]の意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する<ref>TARKUS編「Chapter:1 ガンダムビッグ・バンへの道」『ガンプラ・ジェネレーション』[[講談社]]、1999年4月14日、{{ISBN2|4-06-330074-9}}、38頁。</ref>。しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。 1980年7月にスポンサーではなかった[[バンダイ]]から300円のキャラクタープラモデル(いわゆる[[ガンプラ]])が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応するようにラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。[[岡田斗司夫]]は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく"ガンプラブーム"なのだ」と語っている。1982年からは劇中設定から離れたオリジナル展開である[[モビルスーツバリエーション|MSV]]の機体も多数発売されてユーザーの支持を受け、このバンダイの成功が後のΖガンダムの制作要請へと繋がっていく。 1980年、『'''[[伝説巨神イデオン]]'''』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞{{Efn|井荻麟名義で「復活のイデオン」(オープニング)、「コスモスに君と」(エンディング)作詞。}}を務める。『機動戦士ガンダム』終了のわずか3ヶ月半後に放送開始された。前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が2本同時に劇場公開される運びとなる。 1981年、映画『[[機動戦士ガンダム]]』の総監督を務める。他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。劇場版3部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面([[ランバ・ラル]]との遭遇と、その後の[[ギレン・ザビ]]の演説)までのエピソード。当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。[[1981年]][[5月22日]]、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。『[[アニメージュ]]』の[[アニメージュ#アニメグランプリ|アニメグランプリ]]演出家部門でこの年から3期連続で1位となる<ref name="mainichi4" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://animage.jp/old/gp/gp_1981.html|title=第3回アニメグランプリ:'80年下半期|publisher=徳間書店|accessdate=2009-11-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100917165222/http://animage.jp/old/gp/gp_1981.html|archivedate=2010年9月17日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠である[[ジャブロー]]にたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただし[[売野雅勇]]との共同作詞)。再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督の[[安彦良和]]によるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。 同じ1982年、『THE IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇』の総監督・原作・絵コンテを務める。他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないというハードルの高さがあり、再放送の放映状況もあまり芳しくなかったためか、結局ガンダムのようなブームを起こすには至らなかった{{Efn|ガンダムは頻繁に再放送がなされており、また劇場版は物語の大筋を捉えていたため、テレビシリーズを見ていなくても特に問題はなかった。}}。とはいえ、イデオンが[[庵野秀明]]や[[福井晴敏]]をはじめ、後進のクリエーターに与えた影響は非常に大きい。 同1982年、『'''[[戦闘メカ ザブングル]]'''』原作([[鈴木良武]]と共同)・総監督・ストーリーボード・作詞。元々は[[吉川惣司]]が監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯で人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」など、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない<ref>参考文献『ロマンアルバム・エクストラ57 戦闘メカ ザブングル』(徳間書店)</ref>。1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。テレビ版の再編集版で、『[[太陽の牙ダグラム#ドキュメント 太陽の牙ダグラム|ドキュメント 太陽の牙ダグラム]]』、『[[太陽の牙ダグラム#チョロQダグラム|チョロQダグラム]]』と併映。上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切って[[楽屋落ち]]にして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。 1983年、『'''[[聖戦士ダンバイン]]'''』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。放映が[[ファミリーコンピュータ]]の発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業の[[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]]が倒産するなどのトラブルが発生した。舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。 1984年、『'''[[重戦機エルガイム]]'''』の原作・総監督・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。[[キャラクターデザイン]]と[[メカニックデザイン]]に[[永野護]]を起用。物語としては、前半は明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。過去に作られたロボットを使っているなどの世界観は永野が元々構想していたものであり、そこに富野による具体的なキャラクター原案や基本のストーリーラインが入ることで両者の共作のような形となった<ref>永野護『ファイブスター物語リブート 1』</ref>。ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野の『[[ファイブスター物語]]』とエルガイムの間に権利的な関連性はない。 1985年、自身初の続編シリーズ物の『'''[[機動戦士Ζガンダム]]'''』総監督。後の本人の口から良い意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によって彼らの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。 1986年、『Ζガンダム』の続編『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』原作・総監督・脚本・ストーリーボード・絵コンテ。井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。スポンサー側からの提案で前作『機動戦士Ζガンダム』放送中に急遽制作が決まった続編(ただし、本人は予測の内だったと語っている)。時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。しかし、中盤以降は『Zガンダム』と同様のシリアスなストーリーへと路線変更が行われた。 1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『'''[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]'''』の原作・監督・脚本・絵コンテ。初の劇場版オリジナル作品。「[[シャア・アズナブル|シャア]]と[[アムロ・レイ|アムロ]]の物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『[[ハイ・ストリーマー]]』{{Efn|前・中・後。徳間書店版は劇場版とほぼ同じストーリーだが、前半に劇場版以前の物語が追加されている。}}と角川書店版『[[ベルトーチカ・チルドレン]]』の二種類がある。角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。 1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『'''[[機動戦士ガンダムF91]]'''』の原作・監督・脚本([[伊東恒久]]と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、立ち消えとなった。 1993年、『'''[[機動戦士Vガンダム]]'''』の原作・総監督・絵コンテ・構成。井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。制作における心労や上層部からの指示による軋轢・混乱が大きく、制作途中から数年間に渡って徐々に[[鬱]]状態が進行し、最終的には立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという<ref>著作『∀の癒し』</ref>。自らの評価も手厳しく、本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけ、「全てにおいて考えが足りなかった」「本当にひどい作品である」と記している。一方で、作品や人を褒めることが決して多くない富野にしては珍しく、音楽を担当した[[千住明]]を絶賛しており、[[逢坂浩司]]によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。 『Vガンダム』放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否して代わりに[[今川泰宏]]を指名し、戦争ものではなくロボット[[プロレス]]をやるようにと指示した。その結果誕生したのが、『[[機動武闘伝Gガンダム]]』である。ただし現場には顔を出し、いくつかの作業を手伝っている。前述の鬱状態から心身が回復するまでの期間は、いくつかの作品で脚本や絵コンテを手がけているが、監督は引き受けていない。Vガンダム以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が制作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。 1994年、『機動戦士ガンダムF91』の続編となる漫画『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]』の原作(作画は[[長谷川裕一]])。原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わり、1997年まで連載された。 1996年、初の[[OVA]]作品の『[[ガーゼィの翼|バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼]]』の原作・監督・脚本・絵コンテ。『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品{{Efn|本編ビデオ各巻末には本人出演による、バイストン・ウェルの世界観、演出、作画に関する解説が収録されている。}}。富野が前述の鬱状態の中制作した作品。後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。 1997年、この頃に虫プロ時代の同期である[[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]から、高橋がプロデューサーを務めた『[[勇者王ガオガイガー]]』のシナリオ執筆を依頼されたものの、「ストーリーを考えるのが面倒だから嫌だ。コンテならいくらでも切るけど」という理由でこれを辞退している。 1998年、[[WOWOW]]初のオリジナル有料アニメ『[[ブレンパワード]]』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。1993年の『[[機動戦士Vガンダム]]』以来5年ぶりのテレビ作品放映。[[スクランブル放送]]だったため、視聴者数はある程度限られた。富野は「自分たちは子供たちを『親なし子』にしてしまったのではないか」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている<ref>本作DVD説明より</ref>。また、当時企画が進行中だったガンダム作品(『∀ガンダム』)の制作に向けた、鬱症状からアニメ制作現場へ戻るためのリハビリと位置づけている。『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。ロボットデザインに旧知の[[永野護]]を起用する一方、キャラクターデザインに[[いのまたむつみ]]を抜擢した。 1998年、『[[機動戦士ガンダム]]』誕生20周年記念作品として、『'''[[∀ガンダム]]'''』の原作・総監督・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。「∀」は、数学や論理学などで「すべての〜」という意味で用いられる[[全称記号]]で、全てを包括して原点に返るという意味を込めて、タイトル「ターンエー」として用いられた。過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。[[キャラクターデザイン]]には[[カプコン]]の[[安田朗]]を、[[メカニックデザイン]]はアメリカの[[工業デザイナー]]・[[シド・ミード]]を起用した。ミードがデザインした革新的なガンダムのデザイン(見た目と劇中の俗称から「ヒゲ」と呼称されることが多い)は放送前から意見が分かれたが、放送が始まると徐々に評価が高まり、2002年には劇場版2部作『∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶』として公開された<ref>[http://www.turn-a-gundam.net/special/index.html 富野道(劇場公開時のコラム)]</ref>。劇場版は『∀ガンダム』テレビシリーズ全50話に新作カットを加え再編集した作品。「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。43話の初代ガンダムでさえ映画は3部作だったが、50話の『∀ガンダム』を2部構成にまとめている上、∀には編集する上で省略しやすい戦闘シーンが少なく、ストーリーも複雑なので、非常に展開が早く、富野自身も、1stガンダムに比べて編集が困難と語る。なお、この作品のノベライズを[[福井晴敏]]と[[佐藤茂]]が個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。安田朗のカプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『[[機動戦士ガンダム vs.シリーズ]]』である<ref> [https://www.youtube.com/watch?v=EyOjmEuRiSU 世界の岡本吉起Chチャンネル 過去最高の売上を誇るガンダムゲームの開発に携わりました【機動戦士ガンダム 連邦vs.ジオン】]</ref>。 2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『'''[[OVERMANキングゲイナー]]'''』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。富野と[[田中公平]]による元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた[[芸能]]・[[祭]]といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。富野は「当作品のライバルは『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』」と発言している。前作の『∀ガンダム』同様、スタッフの意見を取りまとめる立場を強く意識して制作に携わった。本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、[[中村嘉宏]]、[[西村キヌ]]、[[吉田健一 (アニメーター)|吉田健一]]の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用することによりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。メカニックデザインには安田朗を再起用。若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという<ref>DVDブックレット</ref>。 === 近年 === * 2003年:[[金沢工業大学]]客員教授に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kanazawa-it.ac.jp/kyouinroku/m/tomino_yoshiyuki.htm|title=教員プロフィール|publisher=金沢工業大学|accessdate=2009-11-12}}</ref>。「ガンダム創出学」の講義を担当<ref name="mainichi5">「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(5)」 『毎日新聞』 2009年11月11日、12版、9面。</ref>。雑誌『[[ガンダムエース]]』で各界のスペシャリストとの対談記事『教えてください。富野です』が連載開始(2012年まで連載)。 * 2004年:[[上井草駅|上井草]](井荻の隣の駅)に転居。名実ともに「井荻麟」となった。 * 2005年:劇場版『[[機動戦士Ζガンダム]]』三部作を制作し、順次公開。映画『[[ローレライ (映画)|ローレライ]]』には、反乱軍として通信所を占拠する海軍大尉として[[カメオ出演]](画面での確認は困難)。12月から自身初のWEBアニメ『'''[[リーンの翼]]'''』の監督を務める。富野が初めてネット配信という形式で作ったアニメで、自身の小説『リーンの翼』を多少アレンジし、その数十年後の物語である。ダンバインで出てきた「オーラバトラー」が登場する。オーラバトラーなどにCGが使用されている。独特のセリフ回しと非常に早い展開が特徴。 * 2006年:映画『日本沈没』にカメオ出演(京都の高僧役)。 * 2008年:映画『[[少林少女]]』に主人公([[柴咲コウ]])の亡き祖父としてカメオ出演。<!--あくまでゲスト扱いであるが、昨今は実写映画への出演も目立ちつつある。--> * 2009年:[[ロカルノ国際映画祭]]で名誉豹賞を受賞<ref>{{Cite web|date=2009-08-09|url=http://www.pardo.ch/jahia/Jahia/home/News-and-press-releases/cache/offonce/lang/en/pid/564;jsessionid=7036D865F2ED622EAED8031D69DD4762?cnid=4119|title=Leopard in Honour of Yoshiyuki Tomino and Manga Night|publisher=Film Festival Locarno|language=英語|accessdate=2009-11-11}}</ref>。同年、[[アニマックス]]の「機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版」という番組に富野を初めとしたスタッフが出演。特に富野のガンダムに対するインタビューが多く語られた。8月、東京ビッグサイトで開催の「GUNDAM BIG EXPO」で初公開された短編アニメ『[[リング・オブ・ガンダム]]』を制作。 * 2010年:映画『[[日本のいちばん長い夏]]』に元陸軍大将・[[今村均]]役で出演。 * 2014年:TVアニメ『[[ガンダム Gのレコンギスタ]]』の原作・総監督を務める。 * 2016年:[[一般社団法人]]「[[アニメツーリズム協会]]」理事長に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160916-00000071-zdn_mkt-bus_all |title=「アニメ聖地」全国88カ所を選定、集客に活用「アニメツーリズム協会」設立 理事長に富野監督 |accessdate=2016年9月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916083027/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160916-00000071-zdn_mkt-bus_all |archivedate=2016年9月16日 |deadlinkdate=2019年5月 }}</ref>。 * 2019年:全国8か所の美術館で展覧会「富野由悠季の世界」が2022年にかけて開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tomino-exhibition.com/schedule.html|title=会場・会期|website=富野由悠季の世界|accessdate=2022-08-15}}</ref>。同じく2022年にかけて公開された劇場版『Gのレコンギスタ』五部作の原作・総監督を務める。 * 2021年:[[小田原市]]の[[ふるさと大使]]に就任 * 2021年秋:[[文化功労者]]に選出<ref>{{Cite news|title=長嶋茂雄氏らに文化勲章 文化功労者に石毛直道氏ら |newspaper=日本経済新聞 |date=2021-10-26|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE255000V21C21A0000000/ |accessdate=2021-10-26}}</ref>。集英社「[[kotoba]]」2021年秋号の特集「[[人間拡張]]は[[トランスヒューマニズム|ネオ・ヒューマン]]を生むか?」に[[平沢進]]、[[稲見昌彦]]などと共にインタビューが掲載<ref>kotoba2021年秋号 2021/9/6 https://www.amazon.co.jp/kotoba2021%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E5%8F%B7/dp/B09CRQNT6T</ref><ref>{{Cite web|和書|title=集英社クオータリー『kotoba』第45号 9月6日発売! (2021年8月25日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Dreamnews_0000242404/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-08-27|language=ja}}</ref>。 == 作風 == 監督、絵コンテ、演出をしながらも、しばしばオープニング・エンディング曲や挿入歌の作詞をする。さらに並行して小説(主に自分の作品の小説化や自分の作品の派生作品)も書く。ただ、「小説でうっぷんを吐き出してしまうという悪い癖がある」と自認し、後書きなどで反省している。また「富野節」と呼ばれる、独特の[[倒置|倒置表現]]や言い回しも監督作品の特徴の一つである。 === 絵コンテ === フリーの若手だった頃、ジャンルを問わず多くの作品に参加し、[[絵コンテ|コンテ]]をかなりのスピードで上げていったことから「'''コンテ千本切りの富野'''」「'''さすらいのコンテマン'''」という異名をとるようになる<ref name="mainichi4">「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO(4)」 『毎日新聞』 2009年11月10日、13版、9面。</ref>。業界では「富野に頼めば3日でコンテが上がる」と言われていた。制作スケジュールの厳しいアニメ業界では、富野のように絵コンテを上げるのが早い人材が重宝された。一時期富野の片腕と言われたアニメーターの[[湖川友謙]]によると、一部に例外があるようだがと断りながら「おトミさんのコンテの画は、どうとでもとれるような描き方なんですよ。アニメーターがもっと面白い事をやってくれればいいかという感じにもとれるのね。」と語っている<ref>[[アニメスタイル]]で連載されていた湖川友謙へのインタビューより抜粋</ref>。元々映画系志望だっただけにリミテッド・アニメとは指向が違っていたと言われ、[[安彦良和]]によれば「画を描く手間を考えない『真面目にやっているのか?』というコンテ」、[[湖川友謙]]は「動かす意欲を刺激する良いコンテ、これぐらいでないとつまらない」、[[高畑勲]]は「いわゆる職業化された、システム化されたコンテマンからは窺えない意欲が感じられるコンテ」と評価。安彦の回想では、アニメーターからは不評で<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P137</ref>、画面の奥の方で関係のないキャラクターの芝居が入っているなど、処理に困るシーンがあると現場で適当にカットしていたそうである。それでも特に文句を言ってこないため「軽い演出家」との印象を持っていたが、ガンダム制作時に膨大な設定を持ち込むのをみて考えを改めたという。『[[∀ガンダム]]』開始時点での絵コンテ総数は、名前が確認できるもののみで少なくみて586本で、アニメ史上最多記録と推測される<ref>『富野由悠季全仕事』の調査</ref>。監督業に就いてからも自ら多くのコンテを切り、スタッフに任せたコンテに満足できない時は忙しい時間を割いて自身で手直しをすることもある。『ザブングル』の時に顕著だった事例だが、ほとんど自分のコンテになってしまった時でもスタッフロールの記載を変えることはしない。これは「手直しされた人間にもプライドというものがあるだろう」という配慮からである。富野が絵コンテとして参加しクレジットもされた『[[未来少年コナン]]』において監督の[[宮崎駿]]がほとんど自分でコンテを書き替えたことも少なくなかったという経験も影響していると考えられている<ref>[[大塚康生]]が語るところによる{{要出典|date=2022-03}}。</ref>。しかし「ただ彼らを甘やかしただけだったかもしれない」とも書いている<ref>著書『映像の原則』の後書き。</ref>{{Efn|「ほとんど」という点についてであるが、コンテというものは1つのカットではなく、カットの連続に意味があるので、直す場合はどうしても全て直すということになる。}}。 アニメーション監督で音楽プロデューサーの[[幾原邦彦]]は、『[[機動戦士ガンダム]]』の頃までは、画面に対する奥行きの描写まで考慮して絵コンテを切っていたと証言し、アニメーターで映画監督の[[庵野秀明]]は、機動戦士ガンダムについては、作画担当だった[[安彦良和]]の存在が無視できず、『[[機動戦士Zガンダム]]』で安彦氏を失った結果を思い知って以降、ドラマのための絵作りに割り切ってしまったと述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P80</ref>。 === 編集 === 話の流れを唐突に終える切り方が特徴的であるが、富野曰く、仕上がった作画絵が自分の要求を満たさない場合が多く、作品全体の帳尻を合わせるための切り方であって、もう1割増しほど作画の描き込みがあれば、オーソドックスな編集が出来る自信があるとして、各アニメーターの技術論もあるが、総監督として現場をコントロールし切れず、放り出している部分がかなりあり、申し訳ないと思うと述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P102~103</ref>。 === 劇場版 === 主にガンダムシリーズなど、テレビシリーズとして制作された作品が、放送終了後に新作カットを加えた総集編として劇場で公開されることがあるが、富野由悠季は『'''ツギハギ映画'''』と自称しており、その制作手順を簡単に説明している。 まず、絵コンテを再チェックして必要な箇所を指定し、既に出来上がっている映像部分を通しで繋ぐと、不快な部分や不要なストーリーが判別できるので、それらを直感的な判断で削除して行き、約3時間半の暫定版としてまとめる。次にストーリー全体の再構成を行い、テレビ版と話の前後を変更したり、必要不可欠な台詞をチェックして行く。それと並行して[[バンクシステム]]による使い廻しの部分を、既存の映像で代替できるか、新規作画に差し替えるか判断して、3時間半の暫定版を2時間半に短縮させる。その後、新規作画の制作を発注し、最終的に出来上がった映像を編集して完成させる段取りとなる。 富野は、総集編という形をとった劇場版の制作は、既存の映像と相談しながら作り上げる行為であり、創作ではなく技術職であると語り、自己主張を持つ演出家では務まらず、「便利屋」或いは「捌き屋」に徹することが肝心であると、その心得を述べている<ref>『テレビマガジンデラックス④ アニメグラフブック 劇場版 機動戦士ガンダム』、1981年5月15日発行、講談社、P118~119</ref>。 === ジャンル === 監督を務めた作品には、[[ロボット]]アニメが主なジャンルである。本稿にもあるように、ロボットアニメ以外にも[[世界名作劇場]]シリーズを始め、広範にわたるジャンルにおいてコンテや脚本を手がけている。また『ガンダム』『イデオン』では登場するロボット群の大半のデザイン原案を自ら描いており、ほぼそのまま登場したものも多い。 === テーマ === 富野作品全てに共通するテーマの主題として本人は「人の自立と義務と主権の発見と、人が作ってしまう悪癖(これを“[[業]]”と称している)の発見」と語っている<ref>Check it Out! 1998 バンダイカタログ</ref>。 === ストーリー展開 === 主要な登場人物を一カ所(多くは戦艦)に放り込んでストーリーを展開するスタイルは「富野方式」と多少揶揄的に評されていると本人は述べている<ref>NHKBS、アニメ夜話</ref>。 重要なキャラクターが死ぬ展開もいとわず、『[[無敵超人ザンボット3]]』『[[伝説巨神イデオン]]』『[[聖戦士ダンバイン]]』、テレビ版『[[機動戦士Ζガンダム]]』『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』『[[機動戦士Vガンダム]]』など終盤に近づくにつれ、主要登場人物の大半が相次いで死に至るような作品を作ることが多く、「'''皆殺しの富野'''」などの異名で呼ばれたこともあった。代表作『[[機動戦士ガンダム]]』では大半が生き残ったが、後の小説版では途中で主人公を戦死させるという展開が見られる。これについては「全員殺した方が、きれいさっぱり何も残らずまとまりがつく(=制作者・視聴者共に、作品全体へ未練を残さず完結させる『'''最も理想的な表現法'''』)」と語っている<ref>『月刊アニメージュTV!』#63でのイデオン制作時のエピソードにて</ref>。また、『[[無敵鋼人ダイターン3]]』『[[戦闘メカ ザブングル]]』など、[[スラップスティック・コメディ]]的な作品も作っている。その場合は主要登場人物が悪役やライバルを含めてほとんど死なない。『[[ブレンパワード]]』以降は、『∀ガンダム』や『[[OVERMANキングゲイナー]]』『[[ガンダム Gのレコンギスタ]]』など昔と比べると人の死や悲惨な描写が少ない。 === 登場キャラクターの特徴 === 主人公は「家庭環境が悪いので、性格は理屈っぽく捻くれている」パターンが多い。また家庭環境の影響か、軍隊をはじめとする[[集団行動|集団組織]](チーム)の中に溶けこむことができなかったり、あるいは嫌悪を表明したりする。作品中では主人公と両親の関係が決して良好なものではなく、両親を殺したり存在を忘れさせたりするなどしている。その上「[[親子]]、[[兄弟]][[姉妹]]、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」という[[家族]][[愛]]へのアンチテーゼが込められる。両親であるキャラクターはその「死の瞬間」、まさに肉体が消滅するその瞬間までも醜悪な人間であり続けることが多い。富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。作品の一部の男性キャラクターは[[母性]]愛に飢えている[[マザーコンプレックス|マザコン]]という共通点もある。総括的に言えば、父親は一見社会人として正常な思考を持ち合わせた常識人に見えるが、子供に対しては無責任な一面のある人物として、母親は親としての自覚に欠けており、女性としてのエゴの強い人物として描かれる傾向が強い。 当時のヒロインの多くは、若かりし頃につきあいのあった「チョキ」というニックネームの女性をモデルとしていると記されており、ヒロインには芯の強さが目立つ。実年齢とは別に、主人公よりもやや大人びた感じや引っ張っていくような性格の強さが目立つ<ref>著書『だから 僕は…』にて</ref>。また、ほとんどの作品で、富野自身の思想、境遇などの特徴と似た面を持つ政治家、権力者や野心家のキャラクターが登場している。これらのキャラクターは、同時に前述のような「主人公と敵対する父親」の役割をも備えている。その例として、ドン・ザウサー、[[ザビ家#デギン・ソド・ザビ|デギン・ソド・ザビ]]、ドバ・アジバ、ドレイク・ルフト、[[重戦機エルガイム#アマン商会|アマンダラ・カマンダラ]]、[[重戦機エルガイム#13人衆|ギワザ・ロワウ]]、[[バスク・オム]]、[[パプテマス・シロッコ]]、[[シャア・アズナブル]]、[[機動戦士ガンダムF91の登場人物#カロッゾ・ロナ|カロッゾ・ロナ]]、[[機動戦士Vガンダムの登場人物#フォンセ・カガチ|フォンセ・カガチ]]、クラックス・ドゥガチ、[[ガンダム Gのレコンギスタ#キャピタル・アーミィ|マスク(ルイン・リー)]]、[[ガンダム Gのレコンギスタ#キャピタル・ガードの人物|クンパ・ルシータ]]などが挙げられる。これらのキャラクターはほぼ全ての作品において少なくとも体裁的には[[悪役]]であり、最終的には、主人公の少年の手によってその思想・野望を打ち砕かれる結末を迎えている。 登場する女性たちの中には、主人公を裏切り、対立する勢力に参加して、敵対する人物が登場する作品が幾つか存在するが、富野自身は自覚していないと後置きしながらも、『[[機動戦士ガンダム]]』で共に制作に携わった[[安彦良和]]と離別した影響が少なからずあると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P97</ref>。 アニメーターで映画監督の[[庵野秀明]]や、プロデューサーの[[井上伸一郎]]は、スキンヘッドで男性の敵側の首領は、制作時における富野由悠季の思想や心情が投影されたキャラクターであると指摘している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P28</ref>。 主にガンダム作品で関わることが多かったアニメーターの[[北爪宏幸]]は、富野由悠季のキャラクター配置は独特で、通常のアニメ監督がやりがちな、主人公を起点として、それぞれの登場人物に役割を持たせた計算に基づく図式構成とは真逆の配置を行っており、作品やストーリー上の役割としては意味を持たないが、現実には必ず居そうなキャラクターを、モブやゲストとして主要人物の周辺に登場させることで、ロボットアニメのような虚構の世界であっても、身近でリアルなドラマが展開できる作りになっていると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P40~42</ref>。 === 性的描写 === 主に男女間での肉体関係を想起させる描写に執心しており、性行為の想像無くしてキャラクターの創造は成立しないと断言している。『[[機動戦士ガンダム]]』の制作時に、登場人物である[[ランバ・ラル]]と内縁の妻である[[クラウレ・ハモン]]が絡む場面で、偶然ながら肉体関係を示唆する描写を生み出せたことで、アニメでも表現できることを確信し、以降は、絵コンテの段階で演技論も踏まえた上で描くように心掛けているという。富野曰く、性行為を示唆する描写の創造は、遊びごとではなく真剣勝負の作業であるとして、仮に絵コンテで上手く描けたとしても、要求を満たさない作画表現となった場合は、描いたアニメーターに対して怒りが湧きあがり、要求を満たさない作画で妥協せざるを得なくなった場合には、気分が萎えて本気で落ち込むと述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P99、101</ref>。 === 演技指導 === 『[[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]』の主人公[[星飛雄馬]]のイメージが強かった[[古谷徹]]を『機動戦士ガンダム』の[[アムロ・レイ]]役に推したり、[[俳優]]の[[池田秀一]]、[[戸田恵子]]、舞台役者だった[[白鳥哲]]、[[朴璐美]]などを声優として発掘したりしている。 演技においては峻厳な指導で知られる。アフレコ現場には必ず立ち会って声優と演技の詳細を詰めるといわれ、その指導を受けたことで実力をつけた声優は少なくない。大のガンダムファンでもある[[子安武人]]も複数の作品で起用された結果、自身の演技の幅を広げた。要求に応えられないときはブースに駆け込んで罵声を飛ばすこともある。『[[機動戦士Vガンダム]]』で主役を務め、当時新人であった[[阪口大助]]をはじめ、『機動戦士Ζガンダム』の劇場版に出演した[[新井里美]]、[[浅川悠]]らはその峻厳性ゆえに泣き出したという。特に阪口に至っては殴ったこともあると噂されたが、後年阪口本人はそれを否定している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.girls-style.jp/interview/012/02sop01_gs.php|title=【Style of the PRINCE】第12回ゲスト:阪口 大助さん Vol.2|accessdate=2011-11-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120105114307/http://girls-style.jp/interview/012/02sop01_gs.php|archivedate=2012年1月5日|deadlinkdate=2019年5月}}</ref>。また、『[[重戦機エルガイム]]』で主役を務めた[[平松広和]]は「キャラを殺して降ろす」とまで言われたという逸話もある。しかし一方で、『[[機動戦士Ζガンダム]]』で[[カミーユ・ビダン]]を演じた[[飛田展男]]や、『[[ガンダム Gのレコンギスタ]]』でクリム・ニックを演じた[[逢坂良太]]のインタビューなどによれば、「監督自ら熱心に指導するのは女性声優に対してのみであって、男性声優の指導は本人任せか音響監督に任せっぱなしだった」と述べており、逢坂に至っては「何も心配していないから大丈夫」と優しい言葉をかけてもらったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2201051/full/|title=劇場版『Gレコ』富野由悠季総監督の演技指導に見える出演者への信頼「いい意味で任せてもらえている」|publisher=ORICON NEWS|date=2021-07-26|accessdate=2022-06-16}}</ref>。 === メカデザイン === 最終的な決定稿は専門の[[メカニックデザイナー]]の手によるが、自ら登場メカをデザインすることもある。また、[[ダクト]]で覆われた[[ゲルググ]]の胴体や[[エルメス (ガンダムシリーズ)|エルメス]]のビットや[[ザクレロ]]に配された多方面スラスターなどの機能的なデザインもある。俗に言われる「富野ラフ」にはほぼ決定デザインに等しい物も多く、ゾック以降のモビルスーツ、モビルアーマー、艦船の大半は、ほぼ富野のラフ通りにクリーンアップされている。 アニメーション作家で映画監督の[[庵野秀明]]は、個人的な感触として、富野由悠季が好むメカデザインは、一見すれば機能が把握できて肌で感じることができるものであり、これと最も相性が良かったのは[[宮武一貴]]のデザインで、『[[聖戦士ダンバイン]]』で絶縁関係になってしまったことが悔やまれると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P29</ref>。 === 小説 === [[ライトノベル]]レーベルから発行しており、アニメに関連した物が多い。作風はアニメ視聴者より上の対象年齢の層をターゲットにしているものの、[[漫画]]のような擬音を多用する。また人物描写・背景説明が簡素でアニメの脚本のように地の文が少なく、セリフが多い。 == 人物像 == * 学生時代は、ロケットや宇宙が背景に描かれたポスタ-の映画しか鑑賞せず、無理をして見た普通の洋画や邦画の記憶は一切ないという。また東宝の特撮映画については、『[[モスラ]]』まで毎年鑑賞していたと証言し、例外として大映特撮映画の『[[宇宙人東京に現わる]]』を観た記憶があると証言している。また大学時代は[[ヌーヴェルヴァーグ]]の全盛期であったため、SF好きを公言することは一切なかった<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P44~45</ref>。 * 波打ち際を極度に恐れる恐怖症から海で泳げなかったが、学校の郊外授業で海の遠泳があったため、練習を繰り返して、高校2年生の時には海岸から100m離れた海上まで泳げるようになった<ref name="名前なし-20231105131033"/>。 * 高所恐怖症で、高いところは勿論、飛行機に乗ることも精神的に辛く。重い物が空を飛んでいる事実を、未だに受け入れていないという<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P42</ref>。 * [[趣味]]は[[スケッチ|素描]](ドローイング)で<ref>本人執筆の小説(『F91』他)の作者紹介欄などによる。</ref>、自身の小説の挿絵もしばしば描いている。 * たびたび[[オートバイ|バイク]]が富野作品で印象的に登場するが、スタッフによると富野自身バイク好き(ただしメカニックとして)であるということ。雑誌の表紙で半裸の女性がバイクに跨るようなものに対し、それは別に見たいものであって、一緒にして欲しくないと語っていた。 * [[ミリタリー|ミリタリー(軍事)]]に関しては「ミリタリーは妄想、かっこよくない」としており、戦争を格好良く描く『[[ガールズ&パンツァー]]』や『[[艦隊これくしょん]]』を批判している<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/49096 ガンダムの「生みの親」が語る戦争「ミリタリーは妄想、かっこよくない」「小さき者の視点、自覚を」:東京新聞 TOKYO Web]</ref>。 * 「これだけは言える」が口癖で、[[月刊アニメージュ]]の元編集長だった[[鈴木敏夫]]によれば、『[[鉄腕アトム]]』のロマンアルバムを出す際に企画された座談会で、発言の度に枕言葉として使っていたという<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P51</ref>。 * [[甘党|大変な甘いもの好き]]で、[[ショートケーキ]]などが好物。 * [[喫煙者]]であり、メイキングやインタビューなどでタバコを吸っている姿がたびたび目撃される。 * 物が捨てられない性格で、所有物をゴミに出す際、なかなか踏ん切りがつかない。さらに妻も衣類を捨てられない性格なので「家の中は地獄沙汰」と語っている。 * 家族構成は、妻{{Efn|著書『だから僕は…』や『「イデオン」ライナー・ノート』においては「亜々子」という名前で記されているが、本名かどうかは明らかにされていない。}}と2人の娘。長女は[[演劇集団 円]]文芸/演出の富野アカリ、次女は振付家の[[富野幸緒]]。 == 思想 == === 女性観 === 上述した、裏切る女性が度々作品に登場する傾向について、自身の女性観を述べており、男性から見れば裏切りに見えるが、女性は自衛本能によって男性を見切る能力に長けているため、変わり身が早いだけであるとして、「拠るべきものがないと暮らしていけない」という考えは、男性が刷り込ませた有史以来の認識論に過ぎず、その認識論に基づいた結果、女性は「自活」や「快楽」、「嗜好性の違い」などを判断して、素早く行動ができると指摘している。また、この認識論が形作られる以前の母系社会では、女性は逃げることが出来なかったが、度重なる戦争によって男性が社会の実権を握ったことで、自身や実子の死を避けるために、女性は戦争を男性に委ね、男性が戦争への勝利と引き換えに女性を庇護するという構造を構築したことで、女性は男性の庇護を相性で選択できる立場になったとしている。そのため、現在の経済社会は、戦争のない時代に前述の認識論を維持するために作り上げられたものであるとして、近代社会に於ける男尊女卑の図式が日常行為で発生する点についても、動物の種としての力関係が凌駕出来ないことによる反動であり、男性が「出産」という行為を軽んじたにも拘らず、女性から距離を置くことが出来なかったからだとしている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P97~98</ref>。 == 発言 == === 「アニメ業界への発言」 === 富野は、将来アニメ業界に就きたいと思っている若者たちに対して、「文芸、演劇、物語を見ないで映画、アニメが作れると思うな」「アニメ以外のことにも奮闘しろ」「[[修身]]・[[道徳]]、[[格言]]を学べ」「大人から学ぶものなんて何もない」「[[映画産業]]全般に就きたいのなら学生時代から広くものを見なさい」「45歳までは君たちも挽回できる。人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。それが何だったか思いだせ」とアドバイスをしている<ref>[[文化庁]]メディア芸術プラザ [http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/animation/vol2/ インタビュー] {{Wayback|url=http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/animation/vol2/ |date=20071012122218 }}において</ref>。また、近年のアニメについて「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしてもステレオタイプになる」「必ずしも、現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」と述べている<ref>[http://www.insightnow.jp/article/3856 富野由悠季氏、アニメを語る(1) 宮崎駿は作家であり、僕は…]</ref>。 アニメ制作が各プロダクションによる分業体制になったことについて、「(今の人は)共同作業という言葉は知っていても、意味は知らないでしょう」と語り、作業工程の全容を把握できない人物がアニメ作りの中心になっているとして、「分業体制では人が育って行かない」「演出が良い形で育って行かない環境だ」と断じて、「パートを束ねる演出が(共同作業を)知らないというのは、一番地獄ですね」と述べている<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P53~54</ref>。 === 「声優業界への発言」 === 声優選考の際、記号的な演技をする声優を指摘して、ラブシーンのエチュードを引き合いに、「触れられたり抱かれたり、すぐ感じることしか知らない役者が多くて、僕はそういうのは大嫌いです」と嫌悪感を露にしている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P101</ref>。 === 「特撮映画への発言」 === 昭和時代の特撮映画に携わった監督たちに対して、「大学を卒業したインテリは、ミーハーな映画を作る平民的感覚を持っていない」「子供を馬鹿にしているから、この程度で良いと思っている」と語り、「本気で映画を作ろうと思っている映画人は日本にいない」と手厳しく批判して、[[本多猪四郎]]らが手掛けた東宝特撮映画の路線を全否定している。また、東宝特撮全盛期の高水準と謳われた合成技術に関しても、「日本人の判官贔屓に過ぎない」と一蹴し、「ガキに見せるから合成ラインが見えても良いと思っている。僕はそれが許せない」と語って、米国映画の『[[月世界征服]]』は、その辺りをクリアしていたことを指摘した上で、「子供じみたものでもリアリズムと言うのがある。それを追求していない」という怒りを、中学生の頃から持ち続けていたことを吐露している<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P44</ref>。 === 安彦良和に関して === [[安彦良和]]とは、[[虫プロ]]制作のTVアニメ『[[さすらいの太陽]]』以来、『[[0テスター]]』等の幾つかの作品で接点があったが、本格的に関わったのは『[[勇者ライディーン]]』からである<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P136</ref>。 安彦良和のアニメーターとしての技量を「マンガ絵をアニメ的な画として完成させたという意味で、天才だと思っています」と語り、具体的には、「タイムシートの読み取り方と切り方が尋常じゃない」「リミテッドアニメの中割りの仕方を本能的に覚えた人です」と評価し、『勇者ライディーン』の制作時を引き合いに「『ライディーン』では明確に腕が上がっていました。作画枚数も数を守れる人でした。あれを真似できる人は、まだ出て来ていないんじゃないかな」と絶賛している<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P105</ref>。その一方で、『[[機動戦士ガンダム]]』以降、実質的に決別してしまったことについて、「安彦君は線のエロチシズムを本能的に出せたんです。困ったことにその自意識がないんです」と、無自覚に醸し出される色気を指摘した上で、「そこまで(互いの気持ちが)連動しなかったんで、ドギツイ言葉が言えなかったんです」と、ガンダムの制作当時、本音を交えたやり取りが出来なかった結果だとして、「安彦君は敵にしたくなかったけど、逃げて行ってしまって、仮想敵になって困ってしまった」と悔しさを滲ませる一方で、「自分の中には安彦君ほどの才能はなかった」と明言した上で、「安彦君みたいな人にまた出会えるなら、僕はこの仕事をもっと好きになれるだろう」と語っている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲の「シャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P96~97、103</ref>。 === 宮崎駿に関して === [[宮崎駿]]とは同年の生まれ(宮崎が早生まれのため学年的には1年上で、富野はキャリアも含め宮崎の後輩にあたる)であり、「宮崎ら[[スタジオジブリ]]制作作品にライバル意識を持っている」というような発言や、度々批判を行う。 だが一方で、「([[アカデミー賞|オスカー]]を取った宮崎駿のように自分がなれなかったのは)能力の差であるということを認めざるを得ない<ref name="insight1">{{Cite web|和書|website=INSIGHT NOW! |date=2009年7月21日 |url=https://www.insightnow.jp/article/3856?page=3 |title=富野由悠季氏、アニメを語る(1) 宮崎駿は作家であり、僕は… |publisher=南青山インサイト |accessdate=2018年4月22日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171102214224/https://www.insightnow.jp/article/3856?page=3 |archivedate=2017年11月2日 |deadlinkdate=}}</ref>」、「誤解を恐れず言えば、宮崎、高畑の演出論は[[黒澤明]]以上だ<ref name="interview">『富野由悠季全仕事』でのインタビューにて。</ref>」、「学識の幅とか、深みが圧倒的に違う、僕では競争相手にならないと思いました<ref>{{Cite news |date=2017-10-15 |url=http://www.oricon.co.jp/special/50344/ |title=『ガンダム』生みの親・富野由悠季が感じた手塚治虫・宮崎駿の凄み |publisher=[[オリコン]] |newspaper=ORRICON NEWS |accessdate=2018年4月22日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171015015530/http://www.oricon.co.jp/special/50344/ |archivedate=2017-10-15}}</ref>」などと語っており、宮崎を自分以上の存在として高く評価している。 また、宮崎駿を良く知る[[押井守]]により「宮さん(宮崎駿)も富野さんのことが大好きなんだよ。宮さん、よく富野さんに電話しておしゃべりしていたからね。宮さんと富野さんって実は仲良しなんだよ。」と、仕事以外において宮崎本人と親交があったことが明かされている<ref>{{Cite web|和書|title=1988年『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』編|url=http://rittorsha.jp/column/2020/01/1988_2.html|website=コラム|accessdate=2020-11-10|language=ja|publisher=}}</ref>。 同じく、宮崎駿を良く知る[[鈴木敏夫]]曰く、『[[風の谷のナウシカ]]』の劇場公開が終了した頃に、富野由悠季の自宅を訪問すると、『[[未来少年コナン]]』の再放送を鑑賞しており、理由を訊ねると、「勉強してるんです」「やっぱり宮さん上手いねえ」「何回も見てますよ」と語った後で、「でもね、当たるのは僕の作品ですよ。良いものは宮さんが作り、当たるのは僕が作る」と対抗心を露にしていたという<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P53</ref>。 === 高畑勲に関して === 発言では宮崎同様、[[高畑勲]]を非常に高く評価している<ref name="insight1" /><ref name="interview" />。『[[アルプスの少女ハイジ]]』で絵コンテを担当した際は、総合演出だった高畑から相当の直しが入ったが、構図的に凝った部分はそのまま使われ、「高畑さんがそういうのを認めて下さったんじゃないですか」と語り、「僕も東映動画出身の人間に舐められたくないと頑張った覚えはあります」と述べている。また高畑の人柄について、「丁々発止を人前で見せる方ではなく、いつもニコニコしていました」と証言している<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P101</ref>。 [[2018年]]の高畑没時の取材に対しては、 :「1分耐えられるセリフやストーリーが作れるのか、それがアニメの勝負だと教えられたんです。それに気づいたのはその仕事の20年後ですが、逆にいうと、高畑勲という人はずっとその方法論でやってきた方なのです。そういった意味でも、僕は高畑さんの“影響下”で仕事をしていた」 :「対象への理解が正確でなければならない、ということを追求してきた監督が高畑勲です」 :「街の風景、街灯がそこに立っている意味、つまりは物事の形が持っている意味は、なんとなくではありません。“それを意識する・考える”ということを高畑さんに教えられました。」 :「僕にとってもパクさん(引用者注:高畑)は『師匠』だったんです。でなければ、ただの宇宙モノ好きの僕が、ガンダム以降の作品を作れるはずがないよね。」 と述べ、自らに影響を与えたことを認めている<ref name="orn180421">{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/special/51017/|title=富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム” 「高畑さんは僕にとっても師匠」|newspaper=ORRICON NEWS|publisher=オリコン |date=2018-04-21|accessdate=2018-04-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180422003029/https://www.oricon.co.jp/special/51017/ |archivedate=2018-04-22}}</ref>。 === エヴァンゲリオンと庵野秀明に関して === 『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に対し、「エヴァは病的。イデオンなどの後継的な作品とは言って欲しくない」との趣旨の発言をしている<ref>[[吉本隆明]]『全マンガ論』大塚英志との対談 (過去に富野と対談した吉本の発言)</ref>。一方で、[[庵野秀明]]監督については「新世紀エヴァンゲリオン」で大ブレイクしたけど、それ以降は実写を撮ったりして、さらになぜか声優業もやって、で、そこから脱却して今がある。彼はいろいろありつつも、その軌跡の中で「映像作品を作る!」という確かな視点を持っている人だと思う。と述べている<ref>『[[アニメージュ]]』2017年2月号「富野に訊け!!」の対談にて。</ref>。 富野と一時期深く関わり合いを持った[[安彦良和]]によれば、富野由悠季がエヴァを批判するのは近親憎悪であり、的確な怒りである一方で、富野自身もアニメ作家である以上、それを踏まえてどんな次回作を作るかで、自分自身を追い込んでいると指摘し、「大いに怒って下さい」「富野さん一番わかるでしょう。あなたがやったことなんだよ」と突き放したコメントを寄せている<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P142</ref>。 === ビデオゲームに関して === プライベートでは基本的に無趣味だと語るが、夫婦で家庭用テレビゲーム版『[[パズルボブル]]』などのパズルゲームをプレイして楽しんでいる様子をインタビューにおいて語っている。なお、ゲームに関しては自身の性格からして、のめり込んで身を滅ぼすだろうという想いから、触れないよう尋常ならざる努力をしてきたと語っている。『[[Another Century's Episode|A,C,E2]]』の特典DVDでは、「ゲームは麻薬」「ゲームに携わる仕事をしている人間は嫌い」との発言をしているが、ゲーム技術の発展については理解を示している。 [[台北]]でのゲームショーへ赴くなどしており、積極的にゲーム関連のイベント(自身の関連した作品が出展されたからだろうが)に参加している。また、お蔵入りしたものの後にガンダムのゲーム作品を代表する『[[機動戦士ガンダム vs.シリーズ|ガンダム vs.シリーズ]]』に結実する[[64DD]]向けゲームの企画にも関わり、この時訪問した[[カプコン]]で出会ったのが『∀ガンダム』以降の盟友となる[[安田朗]]である。 === トランスフォーマーに関して=== [[トランスフォーマー]]シリーズに関して富野は「ロボットだけで人間ドラマをやれるのはトランスフォーマーだけだろう」と評している<ref>[https://nuryouguda.hatenablog.com/entry/20071212/1197473049 戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー]</ref>。 一方「ウチの作品はトランスフォーマーじゃないんだから、変形機構の面白さだけ追い求めたいファンなら、そっちを見ればいいんじゃない?」という発言もしている<ref>[https://pff.jp/jp/report/2019/11/report_y_tomino.html/20071212/1197473049 <特別採録・第41回PFF>富野由悠季、「映画」を語る!]|accessdate=2022年1月30日</ref>。 == 評価 == === おおすみ正秋 === 演出家で映画監督の[[おおすみ正秋]]は、初めて会った時の記憶が定かではないと前置きした上で、作画が優先された当時のアニメ業界では珍しい文学青年で、絵コンテを発注すると、脚本の粗をしっかり補完して描き上げていたと評価し、厳しいプレッシャーの中でこそ、その才能を最大限に発起できる人物と評している。そして、ロボットアニメというジャンルで実績を残したことを「立派だと思う」と称賛している<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月発行、株式会社キネマ旬報社、P126~127</ref>。 === あさりよしとお === 漫画家の[[あさりよしとお]]は、作家性が壊れた[[裸の王様]]だと断言し、ファーストガンダムの劇場3部作で大作家に祭り上げられたが、[[伝説巨神イデオン]]の劇場2部作で作家性の駆動力を永遠に失ってしまったと述べている。一方で、富野が虫プロ時代に培った「職人技」については、『[[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]]』で富野が担当した暫定版のオープニングや、『[[ママは小学4年生]]』のオープニングを例に挙げて、「決して腐ってはいない」と評価した上で、「作家」ではなく「職人」であるとの評価を下している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P6~7</ref>。 === 井上伸一郎 === 編集者でプロデューサーの[[井上伸一郎]]は、「こんなことで悩むのか思うほど律儀な人で、律儀過ぎて、偶におかしくなる時がある」と語り、他人の受け売りと前置きした上で、多くの作家は1種類の狂気しか出せないが、富野由悠季の作品には、異なる狂気を孕んだ人物を複数登場させる凄さがあると指摘している。また手掛ける作品に於いて、ほぼ毎回のように女性キャラが裏切る展開があり、その裏切った先で肉体関係を匂わせる描写がある点にも着目し、人間は、主義主張ではなく、本能で動く生き物であるという、彼なりの価値観に因るものではないかと分析している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P24、26、28</ref>。 === 内田健二 === サンライズ代表取締役会長である[[内田健二]]は、「ガンダムのパッケージを使わなくても神話が作れる人」と評し、富野作品は、純粋に商品としては語れない部分があり、商売をするのが難しいと語っている。また、製作プロデューサーとして長く関わった経験から、既存のコンテンツを使って別のことをやりたがる傾向が強い反面、過去の作品に対しては関心が低く、ガンダムのような、歴史的な整合性が必要な作品に富野由悠季が関わる場合は、多くの人員を割いてのアフターケアが必要不可欠であると語る一方で、他人の意見には良く耳を傾ける性格で、多くの意見を聴いた上で、自身で咀嚼してアイディアとして使うため、人の意見を聞かないマイナスな印象が強くなっていることを指摘しつつ、他人の意見を聴きはするが、本人が作品でやりたいことが優先されるため、実行の優先度は限りなく低いという注釈をつけている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P35~36、38</ref>。 === 押井守 === 映画監督でアニメーション演出家でもある[[押井守]]は、集団的な作業を信じない人と評し、登場人物の台詞に自身の思想を語らせ、作画では一切語らせないことを一例に挙げ、アニメーターを信用していないと指摘した上で、「あれは辛いと思う。自分の中じゃスッキリするかもしれないけど、僕だったら耐えられない」とコメントし、アニメーター不信の要因は、[[宮崎駿]]が監督した『[[未来少年コナン]]』の衝撃を受けて、コナン的なものを目指して監督した『[[戦闘メカ ザブングル]]』の惨敗や、スタジオの顔と呼べるような有能な美術監督と巡り合えなかったことにあると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P66、70</ref>。 === 鈴木敏夫 === 映画プロデューサーで編集者である[[鈴木敏夫]]は、「あの人右翼だよね(笑)。はっきりそう思うよ」と指摘した上で、「無邪気で正直で、表裏のない」「すごく常識のある良い人」であるとして、「僕は富野さんが好きだったんです」と語り、日常的に付き合う分には嫌いになる人はまずいないと述べる一方で、この手のタイプは突出した物を作りがちで、自身と関わり合いが深い[[宮崎駿]]や[[高畑勲]]とは真逆の作家性を持っていると分析している。また、『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』の公開当時、鑑賞した中高生の多くが泣いていたことを引き合いに、大人でありながら、子供の味方で居ようとする人であるとして、「あの人そのものはあんまり大人じゃないが、そこが良い所でしょう」と語っている。そして、物事を斜に構えず、熱弁を奮う性格については、太平洋戦争に出征できなかった世代特有のものであり、ガンダムシリーズに代表される架空戦記に定評があることについても、[[GHQ]]の出版物に関する検閲が廃止された後に復刊された軍国物を多感な時期に読んだ世代でもあるので、とても理解できると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P51~55</ref>。 === 高畑勲 === 映画監督でアニメ演出家だった[[高畑勲]]は、富野由悠季の強い拘りを生前に高く評価しており、交流のあった[[鈴木敏夫]]によれば、[[世界名作劇場]]シリーズで富野が手掛ける絵コンテには必ず良い所が1箇所はあり、それは富野本人が強い拘りを持つからこそ、その部分が生まれるのだと分析していたという。また世界名作劇場に関わっていた頃には、高畑の自宅に足繁く通っており、「とにかく一生懸命な人だった」とその人柄を評価し、ガンダムをテーマにした富野との対談が企画された際にも、断らずに応じたという<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P54</ref>。 === 安彦良和 === 漫画家でアニメーターの[[安彦良和]]は、駆け出しの頃の富野由悠季は、早描きで絵コンテを描き散らす傾向があり、実写映画の志向者に在りがちな、余計な描写を入れたアニメ的でないコンテを描いて、それをカットされても一切文句を言わないため、前述のように「軽い演出家」という評価だった。しかし、制作現場に保温タイプの弁当を持ち込むなど、意気込みだけは並々ならぬものがあり、『[[勇者ライディーン]]』が路線変更の憂き目に遭った際も、安彦が降板を口にすると、「そういうもんじゃないよ」と諭し、「視聴者にサービスしなければいけないんだ」と粘り強く職人に徹して、監督降板後も演出で残留するその姿勢に驚嘆すら覚えたが、富野由悠季の持ち味であるシリアスな作風を知るのは『[[無敵超人ザンボット3]]』からで、それ以前は、ウケるためなら何でもする商売人のイメージだったという。『[[機動戦士ガンダム]]』の制作の際は、便利屋扱いされた弊害から、演出家として一流になれない苦しみを味わっている印象を受けたが、テンプレの喜怒哀楽でない感情を、演出家として画作りに求める姿勢に、一人のアニメーターとして嬉しさを感じ、それに応えなければという気持ちになったという。しかし、制作中に急病で一時降板した際に設定された[[ニュータイプ]]の概念が最後まで納得できず、思想的にそりが合わないと判断して、袂を分かつことにしたという。その上で、富野由悠季が心身共にベストな状態で作った作品は初代ガンダムであり、そんな富野と以心伝心で創作できたガンダムは良い思い出だと語る一方で、それ以降の作品については支持できないものばかりであるとも述べ、『[[伝説巨神イデオン]]』や『[[機動戦士Zガンダム]]』については「非常にエキセントリックで優しさがない」「心の余裕がなくなった事の反映」と酷評し、マイナーな演出家が一躍メジャーになり、富野教の教祖になって自分自身を見失ってしまったと指摘している<ref>『キネ旬ムック 富野由悠季 全仕事』、1999年6月9日発行、株式会社キネマ旬報社、P136~142</ref>。 [[庵野秀明]]や[[鈴木敏夫]]は、安彦良和が富野由悠季と離別したことは、お互いにとって不幸な出来事だったとした上で、最大の要因は、富野由悠季が監督として安彦良和を作画の道具として扱い、それに安彦氏が反感を覚えたからだとしている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P54~55</ref>。 === 山賀博之 === 脚本家で映画監督の[[山賀博之]]は、富野由悠季の作品に触れて初めて、結婚をして子供を持ち、社会に参加しながら仕事をしている大人がいることを意識するようになったと語る一方で、男女の色気に対して異常なまでに執心したり、登場するキャラクターが端々で諦めや戸惑いの描写を見せることを挙げて、富野作品には純文学的な見っともなさがあるとも語り、玩具会社が主導するアニメの世界でしか居場所がないことへの抵抗感や情けなさが感じられて、彼自身の冷めた人生観が見受けられるとしている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P17、19~21</ref>。 == 作品 == 主な映像演出参加作品年表一覧 * [[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]](テレビシリーズ、1963年 - 1966年)- 脚本・演出 * [[海のトリトン]](テレビシリーズ、1972年)- 監督・脚本・絵コンテ * [[勇者ライディーン]](テレビシリーズ、1975年 - 1976年)- チーフディレクター(前期のみ)・絵コンテ・演出 * [[幸福な王子|しあわせの王子]](短編教育映画、1975年)- 演出 ** 1975年の教育映画祭一般教養部門児童劇・動画部門の最優秀作品賞、第17回厚生省児童福祉文化賞を受賞。[[オスカー・ワイルド]]原作。全国の幼稚園や小学校で情操教育などを目的に上映された教育映画。一般公開はされていない。 * [[ラ・セーヌの星]](テレビシリーズ、 1975年)- 監督(後半のみ)・絵コンテ * [[無敵超人ザンボット3]](テレビシリーズ、1977年 - 1978年)- 原作・総監督・絵コンテ・演出 * [[無敵鋼人ダイターン3]](テレビシリーズ、1978年 - 1979年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ・演出 * [[機動戦士ガンダム]](テレビシリーズ、1979年 - 1980年)- 原作・総監督・絵コンテ・演出 ** 機動戦士ガンダム(劇場用作品、1981年)- 原作・総監督 ** 機動戦士ガンダムII 哀・戦士編(劇場用作品、1981年)- 原作・総監督 ** 機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編(劇場用作品、1982年)- 原作・総監督 * [[伝説巨神イデオン]](テレビシリーズ、1980年 - 1981年)- 原作・総監督・絵コンテ ** The IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇(劇場用作品、1982年)- 原作・総監督 * [[戦闘メカ ザブングル]](テレビシリーズ、1982年 - 1983年)- 原作・監督・ストーリーボード ** ザブングル グラフィティ(劇場用作品、1983年)- 原作・監督 * [[聖戦士ダンバイン]](テレビシリーズ、1983年 - 1984年)- 原作・総監督・脚本・ストーリーボード * [[重戦機エルガイム]](テレビシリーズ、1984年 - 1985年)- 原作・総監督・ストーリーボード * [[機動戦士Ζガンダム]](テレビシリーズ、1985年 - 1986年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** 機動戦士Ζガンダム A New Translation 星を継ぐ者(劇場用作品、2005年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ *** 第10回[[アニメーション神戸#作品賞・劇場部門|アニメーション神戸賞・劇場部門作品賞]]、第20回[[デジタルコンテンツグランプリ]]・優秀賞を受賞。 ** 機動戦士ΖガンダムII A New Translation 恋人たち(劇場用作品、2005年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** 機動戦士ΖガンダムIII A New Translation 星の鼓動は愛(劇場用作品、 2006年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ * [[機動戦士ガンダムΖΖ]](テレビシリーズ、1986年 - 1987年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ * [[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]](劇場用作品、1988年)- 原案・原作・監督・脚本 * [[機動戦士ガンダムF91]](劇場用作品、 1991年)- 原作・監督・脚本 * [[機動戦士Vガンダム]](テレビシリーズ、1993年 - 1994年)- 原作・総監督・絵コンテ・構成 * 闇夜の時代劇 第2話「正体を見る」(テレビシリーズ、1995年)- 脚本・演出 * [[バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼]](OVA、1996年)- 原作・監督・脚本・絵コンテ * [[ブレンパワード]](テレビシリーズ、 1998年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ・演出 * [[∀ガンダム]](ターンエーガンダム)<!--カタカナも記しているのは検索エンジンが"∀"を認識しないため。-->(テレビシリーズ、1999年 - 2000年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** 劇場版 ∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶(劇場用作品、2002年)- 原作・総監督・絵コンテ * [[OVERMANキングゲイナー]](テレビシリーズ、2002年 - 2003年)- 原作・総監督・絵コンテ * [[リーンの翼]](OVA・ネット配信、2005年 - 2006年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ * [[リング・オブ・ガンダム]](イベント公開、2009年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ * [[ガンダム Gのレコンギスタ]](テレビシリーズ、2014年 - 2015年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ。最終話(第26話)のみ声優('''井荻翼'''名義)としても参加している。 ** Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター(劇場用作品、2019年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** Gのレコンギスタ II ベルリ撃進(劇場用作品、2020年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** Gのレコンギスタ III 宇宙からの遺産(劇場用作品、2021年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** Gのレコンギスタ IV 激闘に叫ぶ愛(劇場用作品、2022年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ ** Gのレコンギスタ V 死線を超えて(劇場用作品、2022年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ === フリー時代の参加作品 === 「さすらいのコンテ・マン」だった時代に関わりを持ったアニメには次のようなものがある。 {{div col|colwidth=25em}} * [[リボンの騎士]](1967-1968年) * [[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]](1968-1971年) * [[アニマル1]](1968年) * [[夕やけ番長]]{{Efn|後半の演出。つまり初のチーフディレクター作品ということになるが、実際には初期数話に関わった程度であり、演出は前半に引き続き木下蓮三が行っている<ref>『富野由悠季全仕事』p430</ref>。}}。(1968-1969年) * [[海底少年マリン]](1969年) * [[巨人の星対鉄腕アトム]](1969年) * [[いなかっぺ大将]](1970-1972年) * [[どろろ (アニメ)|どろろ]](1969年) * [[紅三四郎]](1969年) * [[ムーミン (アニメ)|ムーミン]](1969-1970年) * [[アタックNo.1]](1969-1971年) * [[男一匹ガキ大将]](1969-1970年) * [[シートン動物記]](1970-1971年)<ref>イラスト構成で見せる非アニメ作品。</ref> * [[あしたのジョー]](1970-1971年) * [[昆虫物語 みなしごハッチ]](1970-1971年) * [[さすらいの太陽]](1971年) * [[ふしぎなメルモ]](1971-1972年) * [[月光仮面#正義を愛する者 月光仮面 (1972年)|正義を愛する者 月光仮面]](1972年) * [[天才バカボン (アニメ)|天才バカボン]](1971-1972年)(阿佐みなみ名義) * [[オバケのQ太郎 (アニメ)|新・オバケのQ太郎]](1971-1972年) * [[モンシェリCoCo]](1972年) * [[ど根性ガエル]](1972-1974年) * [[ハゼドン]](1972-1973年) * [[けろっこデメタン]](1973年) * [[新造人間キャシャーン]](1973-1974年) * [[山ねずみロッキーチャック]](1973年) * [[ワンサくん]](1973年)(阿佐みなみ名義) * [[ゼロテスター]](1973-1974年) * [[宇宙戦艦ヤマト]](1974-1975年)(第4話のみ) * [[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]](1974年) * 新みなしごハッチ(1974年) * [[破裏拳ポリマー]](1974-1975年) * [[侍ジャイアンツ]](1973-1974年) * [[小さなバイキングビッケ]](1974-1975年) * [[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]](1975年) * [[アンデス少年ペペロの冒険]](1975-1976年) * [[まんが日本昔ばなし]](1975-1995年) * [[母をたずねて三千里]](1976年) * [[長浜ロマンロボシリーズ]](1976-1979年) ** [[超電磁ロボ コン・バトラーV]](1976-1977年) ** [[超電磁マシーン ボルテスV]](1977-1978年) ** [[闘将ダイモス]](1978年-1979年)(阿佐みなみ名義) * [[ゴワッパー5 ゴーダム]](1976年) * [[ろぼっ子ビートン]](1976-1977年) * [[あらいぐまラスカル]](1977年) * [[ヤッターマン]](1977-1979年)(第39話のみ) * [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]](1977-1980年)<ref>『まんだらけZENBU』No.5 特集 ルパン三世『アニメ「新・ルパン三世」作画監督 [[北原健雄]]インタビュー』</ref>{{要ページ番号|date=2023年6月}} * [[シートン動物記 くまの子ジャッキー]](1977年) * [[とびだせ!マシーン飛竜]](1977-1978年) * [[ペリーヌ物語]](1978年) * [[未来少年コナン]](1978年)(第14、21話のみ) * [[合身戦隊メカンダーロボ]](1977年) * [[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]](1979年) * [[宇宙大帝ゴッドシグマ]](1980-1981年)(第一話絵コンテ/斧谷稔名義) {{div col end}} === その他参加作品 === * [[ザ☆ウルトラマン]](テレビシリーズ 1979-1980年)- 絵コンテ * [[無敵ロボ トライダーG7]](テレビシリーズ 1980-1981年)- 絵コンテ * [[銀河漂流バイファム]]シリーズ(テレビシリーズ、OVA 1983-1998年)- 原案 ** 『[[十五少年漂流記]]』のように子供たちだけで宇宙をサバイバルする物語のプランは『機動戦士ガンダム』の企画時に出されたボツ案であり、改めてこのアイディアを用いたのが本作であるため「原案」としてクレジットされている。 * [[New Story of Aura Battler DUNBINE]](OVA 1988年)- 原作・監修 * [[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]](テレビシリーズ 1991年)- 初期オープニング * [[ママは小学4年生]](テレビシリーズ 1992年)- オープニングストーリーボード * [[機動武闘伝Gガンダム]](テレビシリーズ 1994年-1995年)- 原作・{{要出典範囲|date=2023年2月|絵コンテ(ノンクレジット)}} * スーパーロボット大戦 プロモーション(東京ゲームショー会場で上映 1997年)- 監督、脚本、絵コンテ{{Efn|クレジット表記はなし、上映時間は3分35秒<ref>『富野由悠季全仕事』p.364</ref>。}} * [[G-SAVIOUR]](特撮ドラマ、2000年)- 原作・特別監修 * [[GUNDAM THE RIDE]](劇場用作品、 2000年)- 原作・特別監修 * [[ガンダム新体験 ‐0087‐ グリーンダイバーズ]](劇場用作品、2001年)- 原作・特別監修 * [[ガンダムクライシス]](劇場用作品、 2007年)- 原作・特別監修 * [[GUNDAM EVOLVE#GUNDAM EVOLVE 5 RX-93 ν GUNDAM|GUNDAM EVOLVE 5 RX-93 ν GUNDAM]](OVA、2007年)- ストーリープロット・アイデア協力 **[[GUNDAM EVOLVE]]の作品のひとつ。クェスとハサウェイの悲劇的な結末を変更し、アムロが子供(クェス)のわがままを叱ることのできる父性的な面で描かれたり、クェスが死ななかったりと転化されている。富野自身が“映画版にのっとる必要はない”とのコンセプトで作られた。過去のGUNDAM EVOLVE作品と違い[[コンピュータグラフィックス|CG]]とセル画を合わせる手法、内部フレームがむき出しの[[νガンダム]]と変形ギミックが搭載されている[[α・アジール]]のアイデアは富野自身が出した。<!--コンビニエンスストア・[[ローソン]]限定予約販売作として過去のGUNDAM EVOLVE作品(EVOLVE 1からEVOLVE 4)と合わせた ([[DVD]]) '''『GUNDAM EVOLVE +』'''(収録時間は約30分)で販売していたが、購入できなかったファンから要望が多かったことなどから、2007年5月25日に音源を5.1ch仕様にした上で一般発売された。--><!--←販売状況は不用かと。--> * [[スーパーロボット大戦Z スペシャルディスク]](ゲーム、2009年) - 「XAN-斬-」戦闘アニメーションの絵コンテ修正<ref>{{Twitter status2|akiman7|10973460879|accessdate=2023-02-26}}</ref><ref>{{Twitter status2|akiman7|10973523700|accessdate=2023-02-26}}</ref> * [[花の詩女 ゴティックメード]](劇場用作品、2012年) - スペシャルサンクス == 著作== === 小説 === ; 機動戦士ガンダムシリーズ *『機動戦士ガンダム』全3巻([[朝日ソノラマ]]〈[[ソノラマ文庫]]〉、1979-1981年)、([[角川書店]]〈[[角川文庫]]〉、1987年)、新版・[[角川スニーカー文庫]] *: 角川版で若干の改訂が行われた。 * 『機動戦士Ζガンダム』全5巻 ([[講談社]]、1985-1986年)、(角川文庫、1987年)、新版・角川スニーカー文庫 *: 1巻:カミーユ・ビダン、2巻:アムロ・レイ、3巻:強化人間、4巻:ザビ家再臨、5巻:戻るべき処(ところ)。 *『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』全3巻(前篇・中篇・後篇)([[徳間書店]]〈[[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]]〉、1987-1988年、復刊2009年) **『機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』全3巻(1巻:アムロ篇、2巻:クェス篇、3巻:シャア篇)(徳間書店〈[[徳間デュアル文庫]]〉、2002年) *: 月刊『[[アニメージュ]]』に『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア#関連作品|機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー]]』のタイトルで連載された。 *『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』全1巻(角川文庫、1988年)、新版・角川スニーカー文庫 *『[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]]』全3巻(上・中・下)(角川スニーカー文庫、1989-1990年)。新版・KADOKAWA、2021年 *: 角川版の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』の続編で、現在流布している宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。 *『機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード』全2巻(上・下)(角川スニーカー文庫、1991年) *『[[ガイア・ギア]]』全5巻(角川スニーカー文庫、1988-1992年) *:『Vガンダム』から50年後の宇宙世紀0203年が舞台。宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。『[[月刊ニュータイプ]]』に1987年から1991年にかけて連載された。 *『機動戦士Vガンダム』全5巻(角川スニーカー文庫、2003-2004年) *:1巻:ウッソ・エヴィン、2巻:マルチプル・モビルスーツ、3巻:マリア・リーディング、4巻:コンビネーション、5巻:エンジェル・ハイロゥ。 *『[[密会〜アムロとララァ]]』上巻・下巻 -(角川mini文庫、1997年)、全1巻 -(角川スニーカー文庫、2000年) *:文庫版はmini文庫版の二冊を一冊にまとめた物で、加筆修正がなされている。 *『はじめたいキャピタルGの物語』 *:『[[ガンダムエース]]』創刊100号(2010年12月号)に寄稿したもので、地球から伸びる[[軌道エレベータ|宇宙エレベータ]]が舞台の未完の作品。挿絵も富野本人が描いている。『ガンダム Gのレコンギスタ』のプロトタイプ作品であり、同作の特別先行版上映劇場などで販売された『GUNDAM 35th ANNIVERSARY BOOK YOSHIYUKI TOMINO 1979-2014』に再録された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gundam.info/news/publications/news_publications_20141001_11643p.html|title=「GUNDAM 35th ANNIVERSARY BOOK YOSHIYUKI TOMINO 1979-2014」カドカワオフィシャルストアにて本日より予約受付開始!|website=GUNDAM.INFO|date=2014-10-01|accessdate=2022-08-15}}</ref>。 ; バイストン・ウェル物語シリーズ * 『[[リーンの翼]]』全6巻(角川書店 カドカワノベルス、1984-1986年) ** 文庫版全6巻(角川文庫、1986年)。新版・角川スニーカー文庫 ** 完全版全4巻(角川書店、2010年)。4冊組セットも刊行 *:『[[野性時代]]』(角川書店)に連載された。完全版は全面改稿および書き下ろしがなされている。 * 『ファウ・ファウ物語』全2巻(上・下{{Efn|下巻の初版は第17〜22章(総77頁分)が欠落している。}})(角川文庫、1986-1987年) *:月刊ニュータイプに『ファウファウ物語(リストリー) From BYSTON WELL STORIES』として1985年4月号〜1986年12月号に連載(全21回)。 * 『[[オーラバトラー戦記]]』全11巻(カドカワノベルス、1986-1992年/角川スニーカー文庫、2000-2001年) *:『野性時代』に連載。1巻:アの国の恋、2巻:戦士・美井奈、3巻:ガロウ・ラン・サイン、4巻:ギィ撃壊、5巻:離反、6巻:軟着陸、7巻:東京上空、8巻:マシン増殖、9巻:オーラ壊乱、10巻:重層の刻、11巻 完結編:ハイパー・ホリゾン。 * 『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』全5巻([[アスペクト (企業)|アスペクト]]〈ログアウト冒険文庫〉、1995〜1997年)新版・[[ファミ通文庫]] *: 『月刊[[LOGOUT]]』に連載(第1巻分のみ)。 ; その他の小説 * 『ブレンパワード』3巻記憶への旅立ちのみ斧谷稔名義で書いている。なおセリフは全てアニメ版と同じである。 (ハルキ文庫、1999年) * 『伝説巨神イデオン』全3巻(ソノラマ文庫、1981-1982年 / 角川文庫、1987-1988年)。新版・角川スニーカー文庫 *: 1巻:覚醒編、2巻:胎動編、3巻:発動編。 * 『[[破嵐万丈シリーズ]]』全4冊(ソノラマ文庫、1987-1992年) *: [[無敵鋼人ダイターン3]]の[[スピンオフ]]作品。―薔薇戦争、―憂鬱ミュージアム、―ヒット・カップル、―愛はシベリアから * 『シーマ・シーマ』全3巻(アニメージュ文庫、1988-1989年) *: 前篇:疾風の果てに、中篇:修羅に昇る、後篇:血族を払う * 『アベニールをさがして』全3巻(ソノラマ文庫、1995-1996年) * 『王の心』全3冊(カドカワノベルス、1995-1996年) *: ―死者の書、―天女生誕の書、―再臨飛翔の書 === 漫画原作 === * 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]](作画:[[長谷川裕一]])』全6巻(角川コミックス・エース、1994-1997年) *: 「機動戦士ガンダムF91」の続編。初めてガンダムシリーズの漫画原作者として、原作および企画に関わった。続編の『機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝』『機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人』『機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト』『機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST』などには関わっていない。 === エッセイ ほか === * 『だから僕は… 「ガンダム」への道』(徳間書店、1981年)、 **増訂版『だから、僕は…』(同・アニメージュ文庫、1983年) **再訂版『だから僕は… ガンダムへの道』(角川スニーカー文庫、2003年) *: 自伝的エッセイ。『ガンダム』のことはほとんど触れられていないが、それまでの仕事について詳しく書かれている。 * 『「イデオン」ライナー・ノート ―アニメの作り方 教えます』(徳間書店、1982年) *: 虚実入り混じる、TV版から番組打ち切りを経て映画版公開へといたる『イデオン』制作手記風創作。『[[アニメージュ]]』誌にTV放映時に同時進行で連載していたものをまとめたもの。 * 『∀(ターンエー)の癒し』([[角川春樹事務所]]、2000年 / ハルキ文庫、2002年) *: エッセイ。主に『Vガンダム』監督前から『∀ガンダム』放映終了までのもの。 * 『[[映像の原則]]-ビギナーからプロまでのコンテ主義』([[キネマ旬報社]]「キネ旬ムック」、2002年/ 改訂版・キネマ旬報ムック、2011年) *: 映像の特徴から編集・作画・演技・音響など、映像作りに必要なほとんどの作業についてを記した実務書。 * 『富野に訊け!』(徳間書店、2005年) **『富野に訊け!!』(同・アニメージュ文庫、2010年) **『富野に訊け!! 怒りの赤篇』(徳間書店、2017年) **『富野に訊け!! 悟りの青篇』(徳間書店、2017年) *: 『アニメージュ』誌上連載をまとめたもの。読者からの相談に富野が答える人生相談である。『劇場版 Ζガンダム』の主題歌を歌う[[Gackt]]との対談が収録されているほか、相談の中には声優・歌手の[[桃井はるこ]]からの相談もあった。 * 『「ガンダム」の家族論』([[ワニブックス]] ワニブックスPLUS新書、2011年) * 『情けない神の国の片隅で』 *: [[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコーミュージック]]のハードロック雑誌『炎』連載のコラム。 * 『アニメを作ることを舐めてはいけない -『G-レコ』で考えた事-』([[KADOKAWA]]、2021年) === 共著 === * 『戦争と平和』共著:[[大塚英志]]・[[上野俊哉]]・[[ササキバラ・ゴウ]](徳間書店、2002年) * 『教えてください。富野です』(角川書店、2005年) *: 富野がホスト役を務める『ガンダムエース』誌連載の対談企画をまとめたもの。対談相手は[[坂村健]]、[[上妻宏光]]、[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]、[[水谷修]]、[[野口聡一]]。装丁は[[樋口真嗣]]で、両手を掲げて咆哮する全裸の富野というビジュアルが強烈な印象を与える。解説は[[福井晴敏]]。 * 『ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集 I』、『II』、『III』(角川書店、2011年) *: ガンダムエース誌連載の対談企画(全100回)をまとめたもので、全3巻に96回分の対談が収録されている。 === 関連書籍 === * 『富野由悠季全仕事 1964-1999』(キネマ旬報社「キネ旬ムック」、1999年) *: ロングインタビューおよび、多くの業界人が富野を語っており、日本アニメ史の資料でもある。 * 『富野語録 富野由悠季インタビュー集(ラポートデラックス)』(ラポート、1999年) * 『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』編:[[氷川竜介]]・[[藤津亮太]](キネマ旬報社「キネ旬ムック」、2000年) * 『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(講談社、2002年) * 『富野由悠季の世界』(キネマ旬報社、2019年) === 作詞提供 === * 『ザ・ロンゲスト・ロード イン 破嵐万丈 / 鈴置洋孝』(1980年) *: [[声優]]:[[鈴置洋孝]]のレコードのプロデュース、ドラマ、作詞。A面がドラマレコード。井荻麟名義で『ハッシャ バイ』作詞(『劇場版 Ζガンダム』で挿入歌として使用される)。 * 『LOVE PROFILE』[[たいらいさお]](1983年) *: 井荻麟名義で全曲を作詞したアルバム。 * 『STARLIGHT SHOWER』MIO(現[[MIQ]])(1984年) *: 井荻麟名義で「阿母麗(アモレイ)」、「Good-bye Tokyo」を提供。LPアルバムであったが、2012年にCD化された。 * 『REVERBRATION IN GUNDAM』[[井上大輔]] * 『HEROES〜to my treasure〜』[[古谷徹]](2008年) *: 「ララの夜想曲 -nocturne-」を井荻麟名義で作詞。作曲はGacktが手がけた。 == 原作・原案名義作品== 以下の作品では、富野由悠季以外のスタッフの手によって制作された映像作品であっても、テロップでは「原作者」もしくは「原案者」とされ、[[矢立肇]]と名を連ねて表示される。なお、<!--当時金欠だった-->富野はガンダム第1作の企画案を当時サンライズへ30万円で売り渡したため(当時は業界の慣例としてそれが当たり前であった)、ガンダム関連商品の売上が富野自身に還元されることは長年なかった。 * [[重戦機エルガイム#OVA|重戦機エルガイム OVA]] 三部作(1986-1987年) * [[機動戦士SDガンダム]](1988-1991年)および、以降の[[SDガンダム]]シリーズ全作品 * [[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]](1989年) * [[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]](1991-1992年) * [[機動武闘伝Gガンダム]](1994-1995年)(他、ノンクレジットで絵コンテとして関与) * [[新機動戦記ガンダムW]] シリーズ(1995-1998年) * [[機動新世紀ガンダムX]](1996年) * [[機動戦士ガンダム 第08MS小隊]](1996-1999年) * [[機動戦士ガンダムSEED]] シリーズ(2002年-) * [[GUNDAM EVOLVE]] シリーズ(『EVOLVE 5』のみ原作・原案以外にも関与)(2003-2007年) * [[機動戦士ガンダム MS IGLOO]] シリーズ(2004-2009年) * [[機動戦士ガンダム00]] シリーズ(2007年-) * [[模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG]](2010年) * [[機動戦士ガンダムUC]](2010-2014年) * [[機動戦士ガンダムAGE]] シリーズ(2011-2013年) * [[ガンダムビルドファイターズ]] シリーズ(2013年-2016年) * [[機動戦士ガンダムさん#テレビアニメ|ガンダムさん]](2014年) * アニメ [[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]] シリーズ(2015-2018年) * [[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]] シリーズ(2015年-) * アニメ [[機動戦士ガンダム サンダーボルト]] シリーズ(2015年-) * アニメ [[機動戦士ガンダム Twilight AXIS]](2017年) * [[ガンダムビルドダイバーズ]] シリーズ(2018-2020年) * [[機動戦士ガンダムNT]](2018年) * [[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]] 劇場版三部作(2021年-) * [[機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島]](2022年) その他、漫画・小説のガンダム作品などにも必ず名前が入っている。これはサンライズの監修を受けた正式なガンダム作品であることを意味する名義にもなっている<ref name="allnightnippon20190501">{{Cite interview |和書 |subject=[[太田垣康男]] |date=2019-05-01 |url=https://news.1242.com/article/174085 |title=ガンダムサンダーボルト、作者がMSのデザインを自由に出来る権利を連載前に取得!? |interviewer=[[吉田尚記]] |work=[[オールナイトニッポン|オールナイトニッポン.com]] |publisher=[[ニッポン放送]] |accessdate=2019-11-11 }}</ref>。 == 受賞 == * 教育映画祭一般教養部門児童劇・動画部門の最優秀作品賞、第17回厚生省児童福祉文化賞:[[幸福な王子|しあわせの王子]]演出(1975年) * [[アニメージュ#アニメグランプリ|アニメグランプリ]]演出家部門、3期連続で1位<ref name="mainichi4" /> * [[東京アニメアワード#2003年|東京アニメアワード]]・優秀作品賞(『OVERMANキングゲイナー』) * 第10回アニメーション神戸賞・劇場部門作品賞、第20回[[デジタルコンテンツグランプリ]]・優秀賞(『機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者』) * 第11回AMDアワード 功労賞(2006年) * 第42回[[シカゴ国際映画祭]] アニメーション特別功労賞(2006年) * [[ロカルノ国際映画祭]] 名誉豹賞(2009年) * [[平成アニソン大賞]] 作詞賞(1989年 - 1999年)(「ターンAターン」(井荻麟名義)、2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anisong-taisho.jp/heisei/ |title=平成アニソン大賞 |work=アニソン大賞 |publisher=[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] |accessdate=2019-03-08}}</ref> * [[文化庁長官表彰]](2019年)<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2019/11/26/a1422878_02.pdf 令和元年度文化庁長官表彰名簿]</ref> * [[文化功労者]](2021年) == 出演 == === 映画出演 === * 『[[ローレライ (映画)|ローレライ]]』(2005年) - 間宮大尉役([[カメオ出演]])。 * 『[[日本沈没#2006年の映画|日本沈没]]』(2006年) - 京都の高僧役(カメオ出演)。 * 『[[少林少女]]』(2008年) - 凛の祖父(写真のみのカメオ出演) * 『[[日本のいちばん長い夏]]』(2010年) - [[今村均]]役 === 声の出演 === * 『ガンダム Gのレコンギスタ』(2015年) - 農家のお父さん役(井荻翼名義) === CM出演 === * 『[[スカパー!]]』(2013年)「「スカパー! ココロ動かすアニメ篇」本人出演 TV、ラジオCM<ref>[https://www.gundam.info/news/hot-topics/news_hot-topics_20131018_9536p.html 堺 雅人×富野監督共演のスカパー!最新CM「ココロ動かすアニメ篇」本日より全国オンエア開始!]</ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://blogs.skyperfectv.co.jp/20131017-135.html?p=1 |title=スカパー!ブランドTVCM堺雅人さん出演の最新CM共演はアニメーション監督の富野由悠季さん! |accessdate=2014年4月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304185231/http://blogs.skyperfectv.co.jp/20131017-135.html?p=1 |archivedate=2016年3月4日 |deadlinkdate=2019年5月 }} </ref> === ドキュメントムービー === * 『BEGINNING of GUNDAM RECONGUISTA in G 〜富野由悠季から君へ〜』(2014年8月23日)『ガンダム Gのレコンギスタ』特別先行版劇場限定販売Blu-ray。 * 『富野由悠季の暗号 〜The secret lesson of TOMINO directing in G〜』(2022年8月5日)『GのレコンギスタV』劇場限定販売Blu-ray。 == 立体作品 == ; From First : <!--富野は「彫刻とは違う」と述べている。-->バンダイのHY2M 1/12ザク多数とPGガンダム1体を使用したオブジェ。2005年に開催された美術展『[[GUNDAM―来たるべき未来のために―]]』の[[上野の森美術館]]での開催時に新しく展示物に加わった作品で、大阪[[サントリーミュージアム]]での開催時は展示されていない。 ; ZAKUの夢 : From Firstのリニューアル。以前に富野がプロデュースしたブロンズ像作品『大地より』(上井草駅前に展示)の鋳造失敗品を流用して作った壊れたガンダム像を、12体のザクが取り囲む作品。[[おもちゃのまちバンダイミュージアム#ミュージアム|おもちゃのまちバンダイミュージアム]]にて展示されている。 ; 1/1ガンダム(監修) : 静岡ガンダムでは、ビームサーベルへの投影映像を監修(コンテも作成)。元々富野は実物大ガンダムが作られていること自体を知らされていなかったが、完成間際に「頭部の可動、ミスト噴射、発光」を提案し、そのために工期が1か月遅延したとされている<!-- (ただし1993年に作られた「10mのVガンダム」では頭部および肘関節の可動が実現していることから、可動が考えられていなかったというのは多少不自然である) -->。また、2022年福岡に完成予定の『RX-93ff νガンダム』のカラーリングなども富野によるものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目および富野の制作関係者などの一覧 == {{Commonscat|Yoshiyuki Tomino}} * [[バンダイナムコフィルムワークス]] ** [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] * [[富野幸緒]] * [[長浜忠夫]] * [[鈴木良武]](五武冬史) * [[星山博之]] * [[安彦良和]] * [[湖川友謙]] * [[大河原邦男]] * [[出渕裕]] * [[永野護]] * [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]] * [[今川泰宏]] * [[安田朗]] * [[吉田健一 (アニメーター)|吉田健一]] * [[福井晴敏]] * [[ガンダムシリーズ一覧]] == 外部リンク == *[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0810/31/news118.html ITmedia News 「お前らの作品は所詮コピーだ」--富野由悠季さん、プロ論を語る(2008年10月31日)] * [https://web.archive.org/web/20090810220213/http://homepage3.nifty.com/mana/tomino-3.html 「ホワイトベース」は何故「宇宙戦艦ヤマト」より強いといいきれるのか] === 展覧会 === * [https://www.tomino-exhibition.com/index.html 富野由悠季の世界] - 展覧会「富野由悠季の世界」公式サイト ==== SNS ==== * {{Twitter|tominoexhibiti1|富野由悠季の世界展}} * {{Facebook|tominoExHibition|富野由悠季の世界}} * {{Instagram|tominoexhibition|巡回展「富野由悠季の世界」}} {{富野由悠季}} {{バイストン・ウェル}} {{ガンダムシリーズ}} {{長浜ロマンロボシリーズ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=井荻麟 |1-1=日本の作詞家 |1-2=アニメ音楽の作詞家 }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とみの よしゆき}} [[Category:富野由悠季|*]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:ガンダムシリーズの監督]] [[Category:20世紀日本の脚本家]] [[Category:21世紀日本の脚本家]] [[Category:アニメの脚本家]] [[Category:日本のテレビの脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本のファンタジー作家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:ガンダム]] [[Category:サンライズの人物]] [[Category:金沢工業大学の教員]] [[Category:京都精華大学の教員]] [[Category:文化功労者]] [[Category:日本大学出身の人物]] [[Category:相洋高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:存命人物]]
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マーズ
マーズ、マース、マルス(MARS、Mars、Maas、Maass、Maes、Murs、Maazou) その他、語源として関係はなくとも日本語で同様の表記を行うものについても、この項目で案内する。
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マーズ、マース、マルス(MARS、Mars、Maas、Maass、Maes、Murs、Maazou)
{{Wiktionary|Mars|mars}} '''マーズ'''、'''マース'''、'''マルス'''('''MARS'''、'''Mars'''、'''Maas'''、'''Maass'''、'''Maes'''、'''Murs'''、'''Maazou''') == 一般 == * '''[[マールス]]''' - [[ローマ神話]]に登場する[[神]]の[[英語]]名。[[ギリシア神話]]における[[アレース]]と同一視される。{{main2|[[曖昧さ回避]]に関しては[[アレス (曖昧さ回避)]]も}} * Mars - [[火星]]の英語名 * ヨーロッパ諸言語での[[3月]]の呼び名の一つ * ラテン語で[[リンゴ]](Malus) その他、語源として関係はなくとも日本語で同様の表記を行うものについても、この項目で案内する。 == 情報処理 == * [[マルス (システム)]](MARS)- [[日本国有鉄道|旧国鉄]]・[[JR|JRグループ]]の[[座席指定券]]類の予約・発券のためのコンピュータシステム * MARS([[:en:MARS (cipher)]])- [[IBM]]が開発した[[ブロック暗号]]アルゴリズム == 社名・商標・ブランド名 == * [[マース (企業)]](Mars, Incorporated) - アメリカの食品会社および販売しているキャンディーバー(チョコバー)の商標名。[[:en:Mars Bar|Mars Bar]]。 ** [[マース ジャパン]](Mars Japan Limited) - 上記マースの日本法人 * [[マースエンジニアリング]](Mars Engineering Corporation) - 日本の企業 * [[マーズ (ゲーム会社)]] - ゲームデザイナー[[桝田省治]]率いる有限会社。主に家庭用ゲームを企画・開発する。 * にぎわい市場マルス -[[愛知県]][[知多半島]]・[[西三河]]を中心にマルスフードショップが展開しているスーパーマーケット。[[マルヤス (三重県)]]の子会社。 == 音楽 == * [[マーズ (バンド)]](Mars) - 1975年に結成されたアメリカのバンド * [[M/A/R/R/S]] - 1987年に結成された[[イギリス]]の[[ハウス (音楽)|ハウス]]・ユニット * [[MARS (B'zのアルバム)]] - [[B'z]]のミニ・アルバム、「'''Mars'''」を収録(1991年) * [[MARS (GACKTのアルバム)]] - [[Gackt]]のアルバム(2000年) == 軍事 == === イギリス海軍 === * [[マーズ (戦列艦・初代)]] - 1665年にオランダから捕獲した50門艦 * [[マーズ (戦列艦・2代)]] - 1746年にフランスから捕獲した64門艦 * [[マーズ (戦列艦・3代)]] - [[ダブリン級戦列艦]] * [[マーズ (フリゲート)]] - 1794年にオランダから捕獲した32門艦 * [[マーズ (戦列艦・4代)]] - [[マーズ級戦列艦]] * [[マーズ (戦列艦・5代)]] - [[ヴァンガード級戦列艦]] * [[マーズ (戦艦)]] - [[マジェスティック級戦艦]] * [[マーズ (巡洋艦)]] - 1946年にキャンセル * マーズ - [[コロッサス級航空母艦]]。進水前に[[パイオニア (空母)|パイオニア]]に改名。 === アメリカ海軍 === * [[マーズ (ガレー)]] * [[マーズ (給炭艦)]] * [[マーズ (工作艦)]] * [[マーズ (補給艦)]] - [[マーズ級戦闘給糧艦]]の[[ネームシップ]] === ドイツ海軍 === * [[マルス (砲術練習艦)]] === ドイツ陸軍 === * MARS - アメリカが開発した[[MLRS|MLRS(M270 多連装ロケットシステム)]]のドイツ陸軍での名称 == 人名 == * [[ジェフ・マース]] - [[ベルギー]]の[[作曲家]] * [[ロマン・マース]] - ベルギーの[[自転車競技]]選手 * [[シルヴェール・マース]] - ベルギーの自転車競技選手 * [[ニコラース・マース]] - [[オランダ]]の[[画家]] * [[エリク・マース]] - オランダの[[サッカー]]選手 * [[ケビン・マース]] - [[アメリカ合衆国]]の[[プロ野球]]選手 * [[ブルーノ・マーズ]] - アメリカ合衆国のシンガーソングライター * [[オリー・マーズ]] - [[イギリス]]のシンガーソングライター * {{仮リンク|マース (俳優)|zh|蒋荣发}} - [[香港]]のスタントマン、[[俳優]] * [[ウウォ・ムサ・マーズ]] - [[ニジェール]]のサッカー選手 * {{仮リンク|ハンス・マース|en|Hans Maass}} - ドイツの数学者 == フィクション・ゲーム == === 作品 === * [[マーズ (漫画)]] - [[横山光輝]]著の[[漫画]]作品 ** 六神合体ゴッドマーズ - 同作品を原作とする[[テレビアニメ]] ** 神世紀伝マーズ - 同作品を原作とするテレビアニメ * [[ジェッターマルス]] - 1977年放送のテレビアニメ * [[MARS (漫画)]] - [[惣領冬実]]著の漫画作品 ** 戰神 MARS - 同作品を原作とする2004年の台湾ドラマ ** MARS〜ただ、君を愛してる〜 - 同作品を原作とする2016年の日本ドラマ・映画 * [[ヴェロニカ・マーズ]] - 2004年 - 2007年に放送されたアメリカのテレビドラマ * [[破滅のマルス]] - 2005年に[[アイディアファクトリー]]から発売された[[PlayStation 2]]ゲームソフト * [[マーズ (映画)]] - 2021年公開のイギリス・南アフリカ合作映画。原題:''Settlers''。 * [[マルス-ゼロの革命-]] - 2024年にテレビ朝日の「[[テレビ朝日火曜9時枠の連続ドラマ|火9ドラマ]]」枠で放送予定のドラマ === 架空の人物・事物 === * [[本島幸久]]著の漫画作品『[[蒼き神話マルス]]』に登場する主人公の競走馬 * [[マルス (ファイアーエムブレム)]](Marth) - ゲーム『[[ファイアーエムブレム]]』シリーズ(『[[ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣|暗黒竜と光の剣]]』、『[[ファイアーエムブレム 紋章の謎|紋章の謎]]』他リメイク作品)の主人公。OVA『[[ファイアーエムブレム 紋章の謎 (OVA)|ファイアーエムブレム 紋章の謎]]』での名前は、マルス・ローウェル。 * 漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』シリーズの登場人物{{see|[[火野レイ#セーラーマーズ]]}} * 『[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パール]]』の登場人物{{see|[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パールの登場人物#ギンガ団]]}} * 1966年放送の特撮テレビ番組『[[ウルトラマン]]』に登場する小型強力光線銃『マルス133』 * [[PlayStation 2|プレイステーション2]]用ゲームソフト『[[電脳戦機バーチャロン|電脳戦機バーチャロン マーズ]]』の通称ならびに主人公が属する組織の名前。表記はMARZ。 * [[テレビアニメ]]『[[プリティーリズム・オーロラドリーム]]』の主人公3人が劇中で結成する[[音楽ユニット|ユニット]]の名称。表記は[[プリティーリズム・オーロラドリーム#登場人物|MARs]]。 ** 配役の[[声優]]3人が「MARs」名義で行っている歌手活動{{see|[[LISP (声優ユニット)]]}} * テレビアニメ『[[聖闘士星矢Ω]]』の登場人物{{see|[[聖闘士星矢Ω登場人物一覧#マルスの軍勢]]}} * 特撮映画『[[劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦!黄金の果実争奪杯!]]』に登場する人物{{see|[[劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦!黄金の果実争奪杯!#仮面ライダーマルス]]}} == その他 == * [[メガドライブ]]の周辺機器『[[スーパー32X]]』の開発時のコードネーム * 近代建築研究者集団 - 近代建築国際会議[[CIAM]]のイギリス支部 * [[MARS (格闘技イベント)]] - 株式会社トリニティが主催する[[総合格闘技]]の興行 * [[マルス計画]] - ソビエト連邦による火星無人探査計画 * [[中部大西洋地域宇宙基地]] MARS(Mid-Atlantic Regional Spaceport) - アメリカ東部の商業打ち上げ施設 * [[中東呼吸器症候群]] MERS(Middle East respiratory syndrome)- [[MERSコロナウイルス]]により引き起こされる感染症 * モビリティのサービス化([[Mobility as a Service]])の略。マース(MaaS)。 * [[マース川]] - フランス、ベルギー、オランダを流れる川 * [[ステッドラー]]の鉛筆、消しゴムなどの文具ブランドの名称 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:まあす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:オランダ語の姓]] [[Category:英語の姓]] [[Category:同名の企業]] [[Category:同名の作品]] [[Category:同名の船]] [[Category:イギリス海軍の同名艦]]
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強結合近似
固体物理学において、強結合近似(きょうけつごうきんじ、英: tight-binding〔TB〕approximation)は電子バンド計算の際に用いられる近似の一つで、系の波動関数を各原子の場所に位置する孤立原子に対する波動関数の重ね合わせにより近似する手法である。この手法は量子化学で用いられるLCAO法と密接な関係がある。さまざまな固体に対して用いることができ、多くの場合で定量的に良い結果を得ることができる。そうでない場合は他の手法と組み合せることもできる。強結合近似は一電子近似であるが、表面準位計算や様々な多体問題、準粒子の計算などの進んだ計算の叩き台として用いられる。強束縛近似、タイトバインディング近似とも。 「強結合」という名前は、この電子バンド構造モデルが固体に強く結合した電子の量子力学的物性を記述することから来ている。このモデルにおける電子は、その属する原子に強く束縛されており、隣接する原子の状態やそれの作るポテンシャルや相互作用は限定されたものとなる。結果として、電子の波動関数はその属する原子が遊離状態にある時の原子軌道に似たものとなり、エネルギーも遊離原子およびイオンにおけるイオン化エネルギーに近くなる。 強結合近似の下の一粒子ハミルトニアンの数学的形式を初めて見るときは複雑に見えるかもしれないが、このモデルはまったく複雑ではなく、直感的理解が極めて容易である。この理論で重要な役割を果たすのは三種類の行列要素だけである。このうち二種類はゼロに近いことが多く、しばしば無視される。最も重要なのは原子間行列要素であり、化学の分野では単に結合エネルギーと呼ばれる。 一般に、このモデルではいくつかの原子エネルギー準位と原子軌道が用いられる。ここで、各軌道は異なる点群の表現に属することがあり、その場合はバンド構造が複雑になりがちである。逆格子およびブリュアンゾーンはしばしば格子の空間群とは異る空間群の表現に属することになる。ブリュアンゾーンの高対称点は異った点群表現に属する。単純な化合物を対象とする場合、高対称点の固有状態を解析的に計算するのは難しくない。そのため、強結合モデルは群論について学ぶ際の好例として挙げられることがある。 強結合モデルはその長い歴史上、様々な方法で様々な目的に用いられており、それぞれ異った結果をもたらしている。このモデルは自己完結的ではなく、部分的にほとんど自由な電子モデルなどの他のモデルや別の方法による計算の結果を組込む必要がある。このモデル全体、もしくは一部分が他の計算の基として用いられることがある。たとえば、導電性高分子や有機半導体、分子エレクトロニクスの分野においては、もともとの強結合モデルでは原子軌道を用いるところに共役系の分子軌道を用い、原子間行列成分を分子内・分子間ホッピング・トンネリングパラメータにおきかえたものが用いられている。これらの導電体のほぼ全ては非常に非等方性が強く、完全に一次元的であると見做せることもある。 1928年までに、フントの成果に影響されたマリケンは、分子軌道というアイデアを得ていた。B. N. FinklesteinとG. E. Horowitzにより分子軌道を近似する手法としてLCAO法が考案され、同時かつ独立に、固体に対するLCAO法がブロッホにより開発され、彼の1928年の博士論文として発表された。特に遷移金属のdバンドを近似するために、さらに単純なパラメトライズされたタイトバインディングモデルが1954年にスレイターとコスターにより提案された。これはSKタイトボンディングモデルと呼ばれることもある。このモデルでは、固体の電子バンド構造計算をもともとのブロッホの定理ほど厳密に行わず、ブリュアンゾーンの高対称点の計算のみを行って残りの点でのバンド構造は高対称点間の補間により求める。 この手法では、別の原子サイトとの相互作用は摂動(英語版)として扱われる。とり入れるべき相互作用として、数種類のものがある。結晶のハミルトニアンを各原子のハミルトニアンの和として表わすのはあくまで近似であり、また隣接する原子同士の波動関数は重なりを持つことから、真の波動関数を精度よく表現できるわけではない。 詳細な数学的形式については後述する。 3d遷移金属電子のように極めて局在化している電子は強相関と呼ばれる振舞いを示すことがあり、強相関電子系についての最近の研究には基礎的な近似として強結合近似が用いられる。この場合、電子電子相互作用のふるまいは多体系の物理学(英語版)を用いて記述する必要がある。 強結合近似モデルは静的な電子バンド構造計算およびバンドギャップ計算に用いられることが多いが、乱雑位相近似 (RPA) モデルなどの手法と組み合わせることにより系の動的応答の研究にも用いられることがある。 原子軌道 φ m ( r ) {\displaystyle \varphi _{m}({\boldsymbol {r}})} を単一孤立原子のハミルトニアン Hat の固有関数とする。原子が結晶中にある場合、原子の波動関数は隣接する原子サイトと重なりをもち、したがって原子軌道は結晶ハミルトニアンの真の固有関数にはならない。この近似を「強結合近似」と呼ぶのは、原子サイト間の相互作用は電子が原子により強く結合しているほど弱くなり、この近似が有効となるためである。結晶ハミルトニアン H を得るために必要な原子ポテンシャルへからのずれは全て ΔU で表わされ、かつ微小量と仮定する。 非時間依存一電子シュレーディンガー方程式の解 ψ r {\displaystyle \psi _{r}} は、原子軌道 φ m ( r − R n ) {\displaystyle \varphi _{m}({\boldsymbol {r}}-{\boldsymbol {R}}_{n})} の線形結合により以下のように近似される。 ここで m は原子エネルギー準位の添字であり、 Rn は結晶格子上の原子サイトを表わす。 ブロッホの定理により、並進によって結晶の波動関数は位相因子分しか変わらない。 ここで k は波動関数の波数ベクトルである。したがって、上の線形結合の係数は以下の式を満たす。 R p = R n − R l {\displaystyle {\boldsymbol {R}}_{p}={\boldsymbol {R}}_{n}-{\boldsymbol {R}}_{\ell }} のように置き換えると、 または 波動関数を規格化する。波動関数のノルムは、 よって規格化条件より b(0) は次のように定まる。 α (Rp ) は原子重なり積分で、しばしば無視されて次のように近似される。 すると波動関数は以下のようになる。 波動関数に強結合近似を適用するとき、m番目のエネルギーバンドにはm番目の原子エネルギー準位のみが重要となり、ブロッホエネルギー ε m {\displaystyle \varepsilon _{m}} は次のような表式となる。 さらに、他のサイト上の原子ハミルトニアンを含む項は無視する。するとこのエネルギーは以下のようになる。 ここで、 Em は m 番目の原子準位であり、 αm,l, βm, γm,l は強結合行列要素と呼ばれる。 行列要素 は隣接する原子のポテンシャルによる原子準位のシフトに由来する。この項はほとんどの場合比較的小さく、もしこれが大きいときは隣接する原子が原子準位に大きな影響を与えることを意味する。 次に、行列要素 は隣接する原子上の原子軌道 m と l の間の原子間行列要素と呼ばれる。結合エネルギー、または二中心積分とも呼ばれ、強結合模型上で最も重要な行列要素である。 最後に、行列要素 は隣接する原子上の原子軌道 m と l の間の重なり積分である。 上述のとおり、隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響は限られているので、行列要素 βm はイオン化エネルギーに比してあまり大きくない。もし、 βm があまり小さくないならば、それは隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響が小さくないことを意味する。そのような場合、何らかの理由でその系の電子構造には強結合模型があまりよくあてはまらないということである。例えば、原子間距離が近すぎたり、格子上の原子もしくはイオンの電荷が異ったりする場合が挙げられる。 原子間行列要素 γm,l は、原子軌道が詳しく分かっているならば直接計算することができる。しかし、ほとんどの場合でこれは不可能である。この行列要素をパラメトライズする方法は数多く存在する。化学結合エネルギー(英語版)のデータからパラメトライズする方法などが挙げられる。ブリュアンゾーン内の対称性の高い点におけるエネルギーと固有状態を計算し、別途調べたバンド構造と整合するように行列要素の積分内に表われる値を決めることができる。 原子間重なり行列要素 αm,l は小さいか、無視できる。この要素が大きいことはやはり強結合近似がうまくあてはまらないことを意味する。大きな重なりはたとえば原子間距離が小さすぎるときなどに見られる。典型金属や遷移金属のブロードなsバンドやspバンドは、第二近傍原子の影響を含めた行列要素および重なり積分を導入することでよりよく現実のバンドを再現することができるが、金属の波動関数を表わすための模型としてはあまり有用だとはいえない。凝集系におけるブロードなバンドはほとんど自由な電子模型のほうがより良く説明できる。 強結合模型はバンド幅が小さく、電子が強く局在しているdバンドやfバンドの場合に特によい近似となる。また、ダイヤモンドやシリコンなどの隣接する原子の少ない結晶構造の場合にもよくあてはまる。この模型とほとんど自由な電子モデルを組み合わせることは簡単にでき、NFE-TBハイブリッド模型と呼ばれる。 ブロッホ関数は周期的結晶格子における電子状態を説明する。ブロッホ関数は次のフーリエ級数により表現される。 ここで、 Rn は周期的結晶格子における原子サイト、 k はブロッホ波の波数ベクトル、 r は電子の位置座標、 m はバンド添字、そして N 個の原子サイトの総和を取るものとする。ブロッホ波は周期的結晶ポテンシャル中の電子についての、エネルギー固有値 Em(k) に対応する厳密解であり、結晶全体に広がっている。 フーリエ変換を用いて、複数のブロッホ関数から m 番目のエネルギーバンドに対応する空間的に局在した波動関数を構築することができる。 この実空間上の関数 a m ( R n , r ) {\displaystyle {a_{m}({\boldsymbol {R}}_{n},{\boldsymbol {r}})}} はワニエ関数と呼ばれ、原子サイト Rn に強く局在している。もちろん、厳密なワニエ関数が求まれば逆フーリエ変換によりブロッホ関数も求まる。 しかし、ブロッホ関数もワニエ関数も、直接に計算するのは簡単ではない。固体の電子構造を計算するためには、何らかの近似を導入する必要がある。ここで、孤立原子極限を考えれば、ワニエ関数は原子軌道に一致するはずである。この極限からワニエ関数の近似として原子軌道が有効であろうことが示唆され、この近似を強結合近似と呼ぶ。 t-J模型(英語版)やハバード模型のような新しい電子構造理論は、強結合近似を基礎としている。強結合近似を理解するために、第二量子化表示を用いることができる。 原子軌道を基底状態として用いると、強結合模型における第二量子化されたハミルトニアンは以下のように書ける。 ここで、ホッピング積分 t は強結合模型における移動積分 γ に相当する。 t → 0 {\displaystyle t\rightarrow 0} の極限は電子が隣のサイトに移れないことに相当する。この極限は孤立原子系と一致する。ホッピング項が存在する ( t > 0 {\displaystyle \displaystyle t>0} ) とき、電子はどちらのサイトにも存在でき、運動エネルギーが下がる。 強相関電子系では、電子電子相互作用を考慮する必要がある。この項は次のように書ける。 このハミルトニアンの相互作用項は直接クーロン相互作用および交換相互作用を含む。この項により金属絶縁体転移(英語版) (MIT) や高温超伝導、量子相転移(英語版)などの新しい物理が生まれる。 以下に、強結合模型をs軌道を一つだけ持つ原子が間隔 a で直線状に並び、σ結合したsバンド模型に適用した例を示す。 ハミルトニアンの近似固有状態を探すため、次のような原子軌道の線形結合を用いる。 ここで N はサイトの総数、 k は − π / a ≤ k ≤ π / a {\displaystyle -\pi /a\leq k\leq \pi /a} を満たす実数とする(原子軌道の重なりを無視すれば、この波動関数は規格化定数 1/√N により規格化される)。 最近接原子軌道のみが重なりを持つものとすると、ハミルトニアンの非零要素は以下のようになる。 エネルギー Ei は原子軌道に対応するイオン化エネルギーであり、 U は隣接する原子の作るポテンシャルによる軌道エネルギーシフトである。 ⟨ n ± 1 | H | n ⟩ = − Δ {\displaystyle \langle n\pm 1|H|n\rangle =-\Delta } という要素はスレーター・コスター原子間行列要素と呼ばれ、結合エネルギー Ei,j と一致する。この一次元sバンド模型ではs軌道同士の σ {\displaystyle \sigma } 結合しか存在せず、その結合エネルギーを Es,s = Vssσ とする。隣接原子間の重なり積分は S とする。ここで、状態 | k ⟩ {\displaystyle |k\rangle } のエネルギーを計算すると次のようになる。 したがってこの状態 | k ⟩ {\displaystyle |k\rangle } のエネルギーは次のようなよく知られたエネルギー分散を持つ。 この例はすぐに三次元に拡張することができる。例えば、体心立方格子ならば単純に a の部分を最近接サイトの位置ベクトルに置き換えればよい。同様に、各サイトに原子軌道を複数導入すれば複数のバンドを扱うことができる。 1954年、 スレーターとコスターは主に遷移金属のdバンドについて原子間行列要素の一覧を発表した。 これは忍耐力と努力があれば cubic harmonic 軌道から愚直に計算できる。この一覧は二つの隣接する原子上のcubic harmonic 軌道 i, j の間のLCAO二中心結合積分を表わしている。結合積分は例えばσ結合、π結合、δ結合に対してそれぞれ Vssσ,Vppπ,Vddδ のように表記する。 原子間ベクトルは次のように表わされる。 ここで、 d は原子間の距離、l, m, n は隣接原子への方向余弦である。 ここに示さなかった行列成分もあるが、それらはここに示した行列成分の添字と方向余弦を並べ変えれば得られる。 弱い磁場の状況で、ホッピング積分t(hopping)が位相係数でタイミングがとられます。
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Horowitzにより分子軌道を近似する手法としてLCAO法が考案され、同時かつ独立に、固体に対するLCAO法がブロッホにより開発され、彼の1928年の博士論文として発表された。特に遷移金属のdバンドを近似するために、さらに単純なパラメトライズされたタイトバインディングモデルが1954年にスレイターとコスターにより提案された。これはSKタイトボンディングモデルと呼ばれることもある。このモデルでは、固体の電子バンド構造計算をもともとのブロッホの定理ほど厳密に行わず、ブリュアンゾーンの高対称点の計算のみを行って残りの点でのバンド構造は高対称点間の補間により求める。", "title": "歴史的背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この手法では、別の原子サイトとの相互作用は摂動(英語版)として扱われる。とり入れるべき相互作用として、数種類のものがある。結晶のハミルトニアンを各原子のハミルトニアンの和として表わすのはあくまで近似であり、また隣接する原子同士の波動関数は重なりを持つことから、真の波動関数を精度よく表現できるわけではない。 詳細な数学的形式については後述する。", "title": "歴史的背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "3d遷移金属電子のように極めて局在化している電子は強相関と呼ばれる振舞いを示すことがあり、強相関電子系についての最近の研究には基礎的な近似として強結合近似が用いられる。この場合、電子電子相互作用のふるまいは多体系の物理学(英語版)を用いて記述する必要がある。", "title": "歴史的背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "強結合近似モデルは静的な電子バンド構造計算およびバンドギャップ計算に用いられることが多いが、乱雑位相近似 (RPA) モデルなどの手法と組み合わせることにより系の動的応答の研究にも用いられることがある。", "title": "歴史的背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "原子軌道 φ m ( r ) {\\displaystyle \\varphi 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のように置き換えると、", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "または", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "波動関数を規格化する。波動関数のノルムは、", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "よって規格化条件より b(0) は次のように定まる。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "α (Rp ) は原子重なり積分で、しばしば無視されて次のように近似される。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "すると波動関数は以下のようになる。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "波動関数に強結合近似を適用するとき、m番目のエネルギーバンドにはm番目の原子エネルギー準位のみが重要となり、ブロッホエネルギー ε m {\\displaystyle \\varepsilon _{m}} は次のような表式となる。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "さらに、他のサイト上の原子ハミルトニアンを含む項は無視する。するとこのエネルギーは以下のようになる。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ここで、 Em は m 番目の原子準位であり、 αm,l, βm, γm,l は強結合行列要素と呼ばれる。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "行列要素", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "は隣接する原子のポテンシャルによる原子準位のシフトに由来する。この項はほとんどの場合比較的小さく、もしこれが大きいときは隣接する原子が原子準位に大きな影響を与えることを意味する。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "次に、行列要素", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "は隣接する原子上の原子軌道 m と l の間の原子間行列要素と呼ばれる。結合エネルギー、または二中心積分とも呼ばれ、強結合模型上で最も重要な行列要素である。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "最後に、行列要素", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "は隣接する原子上の原子軌道 m と l の間の重なり積分である。", "title": "数学的形式" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上述のとおり、隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響は限られているので、行列要素 βm はイオン化エネルギーに比してあまり大きくない。もし、 βm があまり小さくないならば、それは隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響が小さくないことを意味する。そのような場合、何らかの理由でその系の電子構造には強結合模型があまりよくあてはまらないということである。例えば、原子間距離が近すぎたり、格子上の原子もしくはイオンの電荷が異ったりする場合が挙げられる。", "title": "行列要素の計算" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "原子間行列要素 γm,l は、原子軌道が詳しく分かっているならば直接計算することができる。しかし、ほとんどの場合でこれは不可能である。この行列要素をパラメトライズする方法は数多く存在する。化学結合エネルギー(英語版)のデータからパラメトライズする方法などが挙げられる。ブリュアンゾーン内の対称性の高い点におけるエネルギーと固有状態を計算し、別途調べたバンド構造と整合するように行列要素の積分内に表われる値を決めることができる。", "title": "行列要素の計算" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "原子間重なり行列要素 αm,l は小さいか、無視できる。この要素が大きいことはやはり強結合近似がうまくあてはまらないことを意味する。大きな重なりはたとえば原子間距離が小さすぎるときなどに見られる。典型金属や遷移金属のブロードなsバンドやspバンドは、第二近傍原子の影響を含めた行列要素および重なり積分を導入することでよりよく現実のバンドを再現することができるが、金属の波動関数を表わすための模型としてはあまり有用だとはいえない。凝集系におけるブロードなバンドはほとんど自由な電子模型のほうがより良く説明できる。", "title": "行列要素の計算" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "強結合模型はバンド幅が小さく、電子が強く局在しているdバンドやfバンドの場合に特によい近似となる。また、ダイヤモンドやシリコンなどの隣接する原子の少ない結晶構造の場合にもよくあてはまる。この模型とほとんど自由な電子モデルを組み合わせることは簡単にでき、NFE-TBハイブリッド模型と呼ばれる。", "title": "行列要素の計算" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ブロッホ関数は周期的結晶格子における電子状態を説明する。ブロッホ関数は次のフーリエ級数により表現される。", "title": "ワニエ関数との関連" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ここで、 Rn は周期的結晶格子における原子サイト、 k はブロッホ波の波数ベクトル、 r は電子の位置座標、 m はバンド添字、そして N 個の原子サイトの総和を取るものとする。ブロッホ波は周期的結晶ポテンシャル中の電子についての、エネルギー固有値 Em(k) に対応する厳密解であり、結晶全体に広がっている。", "title": "ワニエ関数との関連" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フーリエ変換を用いて、複数のブロッホ関数から m 番目のエネルギーバンドに対応する空間的に局在した波動関数を構築することができる。", "title": "ワニエ関数との関連" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この実空間上の関数 a m ( R n , r ) {\\displaystyle {a_{m}({\\boldsymbol {R}}_{n},{\\boldsymbol {r}})}} はワニエ関数と呼ばれ、原子サイト Rn に強く局在している。もちろん、厳密なワニエ関数が求まれば逆フーリエ変換によりブロッホ関数も求まる。", "title": "ワニエ関数との関連" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、ブロッホ関数もワニエ関数も、直接に計算するのは簡単ではない。固体の電子構造を計算するためには、何らかの近似を導入する必要がある。ここで、孤立原子極限を考えれば、ワニエ関数は原子軌道に一致するはずである。この極限からワニエ関数の近似として原子軌道が有効であろうことが示唆され、この近似を強結合近似と呼ぶ。", "title": "ワニエ関数との関連" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "t-J模型(英語版)やハバード模型のような新しい電子構造理論は、強結合近似を基礎としている。強結合近似を理解するために、第二量子化表示を用いることができる。", "title": "第二量子化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "原子軌道を基底状態として用いると、強結合模型における第二量子化されたハミルトニアンは以下のように書ける。", "title": "第二量子化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ここで、ホッピング積分 t は強結合模型における移動積分 γ に相当する。 t → 0 {\\displaystyle t\\rightarrow 0} の極限は電子が隣のサイトに移れないことに相当する。この極限は孤立原子系と一致する。ホッピング項が存在する ( t > 0 {\\displaystyle \\displaystyle t>0} ) とき、電子はどちらのサイトにも存在でき、運動エネルギーが下がる。", "title": "第二量子化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "強相関電子系では、電子電子相互作用を考慮する必要がある。この項は次のように書ける。", "title": "第二量子化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このハミルトニアンの相互作用項は直接クーロン相互作用および交換相互作用を含む。この項により金属絶縁体転移(英語版) (MIT) や高温超伝導、量子相転移(英語版)などの新しい物理が生まれる。", "title": "第二量子化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "以下に、強結合模型をs軌道を一つだけ持つ原子が間隔 a で直線状に並び、σ結合したsバンド模型に適用した例を示す。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンの近似固有状態を探すため、次のような原子軌道の線形結合を用いる。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ここで N はサイトの総数、 k は − π / a ≤ k ≤ π / a {\\displaystyle -\\pi /a\\leq k\\leq \\pi /a} を満たす実数とする(原子軌道の重なりを無視すれば、この波動関数は規格化定数 1/√N により規格化される)。 最近接原子軌道のみが重なりを持つものとすると、ハミルトニアンの非零要素は以下のようになる。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "エネルギー Ei は原子軌道に対応するイオン化エネルギーであり、 U は隣接する原子の作るポテンシャルによる軌道エネルギーシフトである。 ⟨ n ± 1 | H | n ⟩ = − Δ {\\displaystyle \\langle n\\pm 1|H|n\\rangle =-\\Delta } という要素はスレーター・コスター原子間行列要素と呼ばれ、結合エネルギー Ei,j と一致する。この一次元sバンド模型ではs軌道同士の σ {\\displaystyle \\sigma } 結合しか存在せず、その結合エネルギーを Es,s = Vssσ とする。隣接原子間の重なり積分は S とする。ここで、状態 | k ⟩ {\\displaystyle |k\\rangle } のエネルギーを計算すると次のようになる。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "したがってこの状態 | k ⟩ {\\displaystyle |k\\rangle } のエネルギーは次のようなよく知られたエネルギー分散を持つ。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この例はすぐに三次元に拡張することができる。例えば、体心立方格子ならば単純に a の部分を最近接サイトの位置ベクトルに置き換えればよい。同様に、各サイトに原子軌道を複数導入すれば複数のバンドを扱うことができる。", "title": "例: 一次元sバンド" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1954年、 スレーターとコスターは主に遷移金属のdバンドについて原子間行列要素の一覧を発表した。", "title": "原子間行列要素一覧" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "これは忍耐力と努力があれば cubic harmonic 軌道から愚直に計算できる。この一覧は二つの隣接する原子上のcubic harmonic 軌道 i, j の間のLCAO二中心結合積分を表わしている。結合積分は例えばσ結合、π結合、δ結合に対してそれぞれ Vssσ,Vppπ,Vddδ のように表記する。", "title": "原子間行列要素一覧" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "原子間ベクトルは次のように表わされる。", "title": "原子間行列要素一覧" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ここで、 d は原子間の距離、l, m, n は隣接原子への方向余弦である。", "title": "原子間行列要素一覧" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ここに示さなかった行列成分もあるが、それらはここに示した行列成分の添字と方向余弦を並べ変えれば得られる。", "title": "原子間行列要素一覧" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "弱い磁場の状況で、ホッピング積分t(hopping)が位相係数でタイミングがとられます。", "title": "磁場の効果" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "", "title": "磁場の効果" } ]
固体物理学において、強結合近似は電子バンド計算の際に用いられる近似の一つで、系の波動関数を各原子の場所に位置する孤立原子に対する波動関数の重ね合わせにより近似する手法である。この手法は量子化学で用いられるLCAO法と密接な関係がある。さまざまな固体に対して用いることができ、多くの場合で定量的に良い結果を得ることができる。そうでない場合は他の手法と組み合せることもできる。強結合近似は一電子近似であるが、表面準位計算や様々な多体問題、準粒子の計算などの進んだ計算の叩き台として用いられる。強束縛近似、タイトバインディング近似とも。
{{電子構造論}} [[固体物理学]]において、'''強結合近似'''(きょうけつごうきんじ、{{Lang-en-short|tight-binding〔TB〕approximation}})は[[バンド構造|電子バンド計算]]の際に用いられる近似の一つで、系の[[波動関数]]を各原子の場所に位置する孤立[[原子]]に対する波動関数の[[重ね合わせ]]により近似する手法である。この手法は量子化学で用いられる[[LCAO法]]と密接な関係がある。さまざまな固体に対して用いることができ、多くの場合で定量的に良い結果を得ることができる。そうでない場合は他の手法と組み合せることもできる。強結合近似は一電子近似であるが、[[表面準位]]計算や様々な[[多体問題 (量子論)|多体問題]]、[[準粒子]]の計算などの進んだ計算の叩き台として用いられる。'''強束縛近似'''、'''タイトバインディング近似'''とも。 == 概要 == 「強結合」という名前は、この[[バンド構造|電子バンド構造]]モデルが固体に強く結合した電子の[[量子力学]]的物性を記述することから来ている。このモデルにおける[[電子]]は、その属する[[原子]]に強く束縛されており、隣接する原子の[[量子状態|状態]]やそれの作るポテンシャルや相互作用は限定されたものとなる。結果として、電子の[[波動関数]]はその属する原子が[[遊離]]状態にある時の[[原子軌道]]に似たものとなり、エネルギーも遊離原子およびイオンにおける[[イオン化エネルギー]]に近くなる。 強結合近似の下の一粒子ハミルトニアンの数学的形式<ref name=SlaterKoster> {{cite journal | author = J. C. Slater, G. F. Koster | year = 1954 | title = Simplified LCAO method for the Periodic Potential Problem | journal=[[Physical Review]] | volume=94| issue=6 | pages = 1498–1524 | doi= 10.1103/PhysRev.94.1498 |bibcode = 1954PhRv...94.1498S }}</ref>を初めて見るときは複雑に見えるかもしれないが、このモデルはまったく複雑ではなく、直感的理解が極めて容易である。この理論で重要な役割を果たすのは三種類の行列要素だけである。このうち二種類はゼロに近いことが多く、しばしば無視される。最も重要なのは原子間行列要素であり、化学の分野では単に[[結合エネルギー]]と呼ばれる。 一般に、このモデルではいくつかの原子[[エネルギー準位]]と原子軌道が用いられる。ここで、各軌道は異なる[[3次元の点群|点群]]の表現に属することがあり、その場合はバンド構造が複雑になりがちである。[[逆格子ベクトル|逆格子]]および[[ブリュアンゾーン]]はしばしば格子の[[空間群]]とは異る空間群の表現に属することになる。ブリュアンゾーンの高対称点は異った点群表現に属する。単純な化合物を対象とする場合、高対称点の固有状態を解析的に計算するのは難しくない。そのため、強結合モデルは[[群論]]について学ぶ際の好例として挙げられることがある。 強結合モデルはその長い歴史上、様々な方法で様々な目的に用いられており、それぞれ異った結果をもたらしている。このモデルは自己完結的ではなく、部分的に[[ほとんど自由な電子|ほとんど自由な電子モデル]]などの他のモデルや別の方法による計算の結果を組込む必要がある。このモデル全体、もしくは一部分が他の計算の基として用いられることがある<ref name=Harrison> {{cite book |author=Walter Ashley Harrison |title=Electronic Structure and the Properties of Solids |year= 1989 |publisher=Dover Publications |url=https://books.google.co.jp/books?id=R2VqQgAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja |isbn=0-486-66021-4 }} </ref>。たとえば、[[導電性高分子]]や[[有機半導体]]、[[分子エレクトロニクス]]の分野においては、もともとの強結合モデルでは原子軌道を用いるところに[[共役系]]の[[分子軌道]]を用い、原子間行列成分を分子内・分子間ホッピング・[[トンネル効果|トンネリング]]パラメータにおきかえたものが用いられている。これらの導電体のほぼ全ては非常に非等方性が強く、完全に一次元的であると見做せることもある。 == 歴史的背景 == 1928年までに、[[フリードリッヒ・フント|フント]]の成果に影響された[[ロバート・マリケン|マリケン]]は、分子軌道というアイデアを得ていた。B. N. FinklesteinとG. E. Horowitzにより分子軌道を近似する手法としてLCAO法が考案され、同時かつ独立に、固体に対するLCAO法が[[フェリックス・ブロッホ|ブロッホ]]により開発され、彼の1928年の博士論文として発表された。特に[[遷移元素|遷移金属]]のdバンドを近似するために、さらに単純なパラメトライズされたタイトバインディングモデルが1954年に[[ジョン・クラーク・スレイター|スレイター]]とコスターにより提案された<ref name="SlaterKoster"/>。これはSKタイトボンディングモデルと呼ばれることもある。このモデルでは、固体の電子バンド構造計算をもともとの[[ブロッホの定理]]ほど厳密に行わず、[[ブリュアンゾーン]]の高対称点の計算のみを行って残りの点でのバンド構造は高対称点間の補間により求める。 この手法では、別の原子サイトとの相互作用は{{仮リンク|摂動論 (量子力学)|label=摂動|en|Perturbation_theory_(quantum_mechanics)}}として扱われる。とり入れるべき相互作用として、数種類のものがある。結晶の[[ハミルトニアン]]を各原子のハミルトニアンの和として表わすのはあくまで近似であり、また隣接する原子同士の波動関数は重なりを持つことから、真の波動関数を精度よく表現できるわけではない。 詳細な数学的形式については後述する。 3d[[遷移元素|遷移金属]]電子のように極めて局在化している電子は[[強相関電子系|強相関]]と呼ばれる振舞いを示すことがあり、強相関電子系についての最近の研究には基礎的な近似として強結合近似が用いられる。この場合、電子電子相互作用のふるまいは{{仮リンク|多体系の物理学|en|Many-body theory}}を用いて記述する必要がある。 強結合近似モデルは静的な[[バンド構造|電子バンド構造]]計算および[[バンドギャップ]]計算に用いられることが多いが、[[乱雑位相近似]] (RPA) モデルなどの手法と組み合わせることにより系の動的応答の研究にも用いられることがある。 == 数学的形式 == [[原子軌道]] <math>\varphi_m( \boldsymbol{r} )</math> を単一孤立原子の[[ハミルトニアン]] {{Math|''H''{{sub|at}}}} の[[固有関数]]とする。原子が結晶中にある場合、原子の波動関数は隣接する原子サイトと重なりをもち、したがって原子軌道は結晶ハミルトニアンの真の固有関数にはならない。この近似を「強結合近似」と呼ぶのは、原子サイト間の相互作用は電子が原子により強く結合しているほど弱くなり、この近似が有効となるためである。結晶ハミルトニアン {{Mvar|H}} を得るために必要な原子ポテンシャルへからのずれは全て {{Math|Δ''U''}} で表わされ、かつ微小量と仮定する。 :<math>H (\boldsymbol{r}) = \sum_{\boldsymbol{R}_n} H_{\mathrm{at}} (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) + \Delta U (\boldsymbol{r}) </math> 非時間依存一電子[[シュレーディンガー方程式]]の解 <math>\psi_r</math> は、原子軌道 <math>\varphi_m(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n)</math> の[[LCAO法|線形結合]]により以下のように近似される。 :<math>\psi(\boldsymbol{r}) = \sum_{m,\boldsymbol{R_n}} b_m (\boldsymbol{R}_n) \ \varphi_m (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n)</math> ここで {{Mvar|m}} は原子エネルギー準位の添字であり、 {{Mvar|'''R'''{{sub|n}}}} は[[結晶構造|結晶格子]]上の原子サイトを表わす。 === 並進対称性と規格化 === [[ブロッホの定理]]により、並進によって結晶の波動関数は位相因子分しか変わらない。 :<math>\psi(\boldsymbol{r} + \boldsymbol{R}_{\ell}) = e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_{\ell}} \psi(\boldsymbol{r}) </math> ここで {{Mvar|'''k'''}} は波動関数の[[波数ベクトル]]である。したがって、上の線形結合の係数は以下の式を満たす。 :<math>\sum_{m,\boldsymbol{R}_n} b_m (\boldsymbol{R_n}) ~ \varphi_m (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n + \boldsymbol{R}_{\ell}) = e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_{\ell}} \sum_{m,\boldsymbol{R}_n} b_m (\boldsymbol{R_n}) ~ \varphi_m (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n)</math> <math>\boldsymbol{R}_p= \boldsymbol{R}_n - \boldsymbol{R}_\ell</math> のように置き換えると、 :<math>b_m ( \boldsymbol{R}_p + \boldsymbol{R}_{\ell}) = e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_{\ell}} b_m (\boldsymbol{R}_p) </math> (ここで右辺はダミー添字 <math>\boldsymbol{R}_n</math> を <math>\boldsymbol{R}_p </math> で置き換えてある)<br> または :<math> b_m (\boldsymbol{R}_p) = e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_{p}} b_m (\boldsymbol{0}) </math> 波動関数を[[規格化]]する。波動関数のノルムは、 :<math>\begin{align} \int d^3 r ~ \psi^* (\boldsymbol{r}) \psi (\boldsymbol{r}) &= \sum_{\boldsymbol{R}_n} b^* (\boldsymbol{R}_n) \sum_{\boldsymbol{R}_{\ell}} b(\boldsymbol{R}_{\ell}) \int d^3 r ~ \varphi^* (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) \varphi (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_{\ell}) \\ &= b^*(0) b(0) \sum_{\boldsymbol{R}_n} e^{-i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \sum_{\boldsymbol{R}_{\ell}} e^ {i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_{\ell}} \int d^3 r ~ \varphi^* (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) \varphi (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_{\ell}) \\ &=N b^*(0) b(0) \sum_{\boldsymbol{R}_p} e^{-i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_p} \int d^3 r ~ \varphi^* (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_p) \varphi (\boldsymbol{r}) \\ &=N b^*(0) b(0) \sum_{\boldsymbol{R}_p} e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_p} \int d^3 r ~ \varphi^* (\boldsymbol{r}) \varphi (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_p) \end{align}</math> よって規格化条件より ''b''(0) は次のように定まる。 :<math> b^*(0) b(0) = \frac{1}{N} \frac{1}{1 + \sum_{\boldsymbol{R}_p \neq \boldsymbol{0}} e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_p} \alpha (\boldsymbol{R}_p)} </math> α ('''''R'''''<sub>p</sub> ) は原子重なり積分で、しばしば無視されて次のように近似される<ref name=Lowdin>重なり積分を無視するかわりに、原子軌道ではなく他のサイトの軌道と直交するような軌道([[レフディン軌道]])を基底として用いるという方法もある。{{cite book |title=Fundamentals of Semiconductors |author=PY Yu & M Cardona |url=https://books.google.co.jp/books?id=W9pdJZoAeyEC&pg=PA87&redir_esc=y&hl=ja |page=87 |chapter=Tight-binding or LCAO approach to the band structure of semiconductors |isbn=3-540-25470-6 |edition=3 |year=2005 |publisher=Springrer}}参照。</ref>。 : <math> b_n (0) \approx \frac {1} {\sqrt{N}} </math> すると波動関数は以下のようになる。 :<math>\psi (\boldsymbol{r}) \approx \frac{1}{\sqrt{N}} \sum_{m,\boldsymbol{R}_n} e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \varphi_m (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n)</math> === 強結合ハミルトニアン === 波動関数に強結合近似を適用するとき、{{Mvar|m}}番目のエネルギーバンドには{{Mvar|m}}番目の原子[[エネルギー準位]]のみが重要となり、ブロッホエネルギー <math>\varepsilon_m</math> は次のような表式となる。 :<math>\begin{align} \varepsilon_m &= \int d^3 r ~ \psi^*(\boldsymbol{r}) H(\boldsymbol{r}) \psi (\boldsymbol{r}) \\ &= \sum_{\boldsymbol{R}_n} b^*(\boldsymbol{R}_n) \int d^3 r ~ \varphi^*(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) H(\boldsymbol{r}) \psi (\boldsymbol{r}) \\ &= \sum_{\boldsymbol{R}_{\ell}} \sum_{\boldsymbol{R}_n} b^*(\boldsymbol{R}_n) \int d^3 r ~ \varphi^*(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) H_{\mathrm{at}}(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_{\ell}) \psi (\boldsymbol{r}) + \sum_{\boldsymbol{R}_n} b^*(\boldsymbol{R}_n) \int d^3 r ~ \varphi^*(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) \Delta U (\boldsymbol{r}) \psi(\boldsymbol{r}) \\ &\approx E_m + b^*(0) \sum_{\boldsymbol{R}_n} e^{-i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \int d^3 r ~ \varphi^* (\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) \Delta U (\boldsymbol{r}) \psi (\boldsymbol{r}) \end{align}</math> さらに、他のサイト上の原子ハミルトニアンを含む項は無視する。するとこのエネルギーは以下のようになる。 :<math>\begin{align} \varepsilon_m(\boldsymbol{k}) &= E_m - N |b (0)|^2 \left(\beta_m + \sum_{\boldsymbol{R}_n\neq 0} \sum_l \gamma_{m,l}(\boldsymbol{R}_n) e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \right) \\ &= E_m - \frac{\beta_m + \sum_{\boldsymbol{R}_n \neq 0} \sum_l e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \gamma_{m,l}(\boldsymbol{R}_n)}{1 + \sum_{\boldsymbol{R}_n \neq 0} \sum_l e^{i \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{R}_n} \alpha_{m,l} (\boldsymbol{R}_n)} \end{align}</math> ここで、 {{Mvar|E{{sub|m}}}} は {{Mvar|m}} 番目の原子準位であり、 {{Math|''&alpha;''{{sub|''m'',''l''}}, ''&beta;''{{sub|''m''}}, ''&gamma;''{{sub|''m'',''l''}}}} は強結合行列要素と呼ばれる。 === 強結合行列要素 === 行列要素 :<math> \beta_m = -\int d^3 r ~ \varphi_m^*(\boldsymbol{r}) \Delta U(\boldsymbol{r}) \varphi_m(\boldsymbol{r}) </math> は隣接する原子のポテンシャルによる原子準位のシフトに由来する。この項はほとんどの場合比較的小さく、もしこれが大きいときは隣接する原子が原子準位に大きな影響を与えることを意味する。 次に、行列要素 :<math> \gamma_{m,l}(\boldsymbol{R_n}) = -\int d^3 r ~ \varphi_m^*(\boldsymbol{r}) \Delta U(\boldsymbol{r}) \varphi_l(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n)</math> は隣接する原子上の原子軌道 {{Mvar|m}} と {{Mvar|l}} の間の[[#原子間行列要素一覧|原子間行列要素]]と呼ばれる。結合エネルギー、または二中心積分とも呼ばれ、強結合模型上で'''最も重要な行列要素'''である。 最後に、行列要素 :<math> \alpha_{m,l}(\boldsymbol{R_n}) = \int d^3 r ~ \varphi_m^*(\boldsymbol{r}) \varphi_l(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{R}_n) </math> は隣接する原子上の原子軌道 {{Mvar|m}} と {{Mvar|l}} の間の[[重なり積分]]である。 == 行列要素の計算 == 上述のとおり、隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響は限られているので、行列要素 {{Math|''&beta;''{{sub|''m''}}}} はイオン化エネルギーに比してあまり大きくない。もし、 {{Math|''&beta;''{{sub|''m''}}}} があまり小さくないならば、それは隣接原子の作るポテンシャルの中心原子への影響が小さくないことを意味する。そのような場合、何らかの理由でその系の電子構造には強結合模型があまりよくあてはまらないということである。例えば、原子間距離が近すぎたり、格子上の原子もしくはイオンの電荷が異ったりする場合が挙げられる。 原子間行列要素 {{Math|''&gamma;''{{sub|''m'',''l''}}}} は、原子軌道が詳しく分かっているならば直接計算することができる。しかし、ほとんどの場合でこれは不可能である。この行列要素をパラメトライズする方法は数多く存在する。{{仮リンク|化学結合エネルギー|en|Bond_energy}}のデータからパラメトライズする方法などが挙げられる。[[ブリュアンゾーン]]内の対称性の高い点におけるエネルギーと固有状態を計算し、別途調べたバンド構造と整合するように行列要素の積分内に表われる値を決めることができる。 原子間重なり行列要素 {{Math|''&alpha;''{{sub|''m'',''l''}}}} は小さいか、無視できる。この要素が大きいことはやはり強結合近似がうまくあてはまらないことを意味する。大きな重なりはたとえば原子間距離が小さすぎるときなどに見られる。典型金属や遷移金属のブロードなsバンドやspバンドは、第二近傍原子の影響を含めた行列要素および重なり積分を導入することでよりよく現実のバンドを再現することができるが、金属の波動関数を表わすための模型としてはあまり有用だとはいえない。凝集系におけるブロードなバンドは[[ほとんど自由な電子]]模型のほうがより良く説明できる。 強結合模型はバンド幅が小さく、電子が強く局在しているdバンドやfバンドの場合に特によい近似となる。また、[[ダイヤモンド]]や[[シリコン]]などの隣接する原子の少ない結晶構造の場合にもよくあてはまる。この模型とほとんど自由な電子モデルを組み合わせることは簡単にでき、NFE-TBハイブリッド模型と呼ばれる<ref name="Harrison"/>。 == ワニエ関数との関連 == [[ブロッホの定理|ブロッホ関数]]は周期的結晶格子における電子状態を説明する。ブロッホ関数は次の[[フーリエ級数]]により表現される<ref>Orfried Madelung, ''Introduction to Solid-State Theory'' (Springer-Verlag, Berlin Heidelberg, 1978).</ref>。 :<math>\psi_m(\boldsymbol{k},\boldsymbol{r}) = \frac{1}{\sqrt{N}} \sum_{n} a_m(\boldsymbol{R}_n,\boldsymbol{r}) e^{i\boldsymbol{k}\cdot \boldsymbol{R}_n}</math> ここで、 {{Math|'''''R'''''{{sub|n}}}} は周期的結晶格子における原子サイト、 {{Mvar|'''k'''}} はブロッホ波の[[波数ベクトル]]、 {{Mvar|'''r'''}} は電子の位置座標、 {{Mvar|m}} はバンド添字、そして {{Mvar|N}} 個の原子サイトの総和を取るものとする。ブロッホ波は周期的結晶ポテンシャル中の電子についての、エネルギー固有値 {{Math|''E''{{sub|''m''}}('''''k''''')}} に対応する厳密解であり、結晶全体に広がっている。 [[フーリエ変換]]を用いて、複数のブロッホ関数から {{Mvar|m}} 番目のエネルギーバンドに対応する空間的に局在した波動関数を構築することができる。 :<math>a_m(\boldsymbol{R}_n,\boldsymbol{r}) = \frac{1}{\sqrt{N}} \sum_{\boldsymbol{k}}{e^{i\boldsymbol{k}\cdot \boldsymbol{R}_n} \psi_m(\boldsymbol{k},\boldsymbol{r})} = \frac{1}{\sqrt{N}} \sum_{\boldsymbol{k}} e^{i\boldsymbol{k}\cdot \boldsymbol{R}_n}</math> この実空間上の関数 <math>{a_m(\boldsymbol{R}_n,\boldsymbol{r})}</math> は[[ワニエ関数]]と呼ばれ、原子サイト {{Math|'''''R'''''{{sub|n}}}} に強く局在している。もちろん、厳密なワニエ関数が求まれば逆フーリエ変換によりブロッホ関数も求まる。 しかし、ブロッホ関数もワニエ関数も、直接に計算するのは簡単ではない。固体の電子構造を計算するためには、何らかの近似を導入する必要がある。ここで、孤立原子極限を考えれば、ワニエ関数は原子軌道に一致するはずである。この極限からワニエ関数の近似として原子軌道が有効であろうことが示唆され、この近似を強結合近似と呼ぶ。 == 第二量子化 == {{仮リンク|t-J模型|en|T-J_model}}や[[ハバードモデル|ハバード模型]]のような新しい電子構造理論は、強結合近似を基礎としている<ref name=Altland>{{cite book |title=Condensed Matter Field Theory |author=Alexander Altland and Ben Simons |publisher=Cambridge University Press |pages=58 ''ff'' |chapter=Interaction effects in the tight-binding system |isbn=978-0-521-84508-3 |year=2006 |url=https://books.google.co.jp/books?id=0KMkfAMe3JkC&pg=RA4-PA58&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。強結合近似を理解するために、[[第二量子化]]表示を用いることができる。 原子軌道を基底状態として用いると、強結合模型における第二量子化されたハミルトニアンは以下のように書ける。 :<math> H = -t \sum_{\langle i,j \rangle,\sigma} \left( c^{\dagger}_{i,\sigma} c_{j,\sigma} + c_{i,\sigma} c^{\dagger}_{j,\sigma} \right)</math> : <math> c^\dagger_{i\sigma} , c_{j\sigma}</math> - 生成消滅演算子 : <math>\displaystyle\sigma</math> - スピン偏極 : <math>\displaystyle t</math> - ホッピング積分 : <math>\displaystyle \langle i,j \rangle </math> - 最近傍添字<br> ここで、ホッピング積分 {{Mvar|t}} は強結合模型における移動積分 {{Mvar|&gamma;}} に相当する。<math>t\rightarrow 0</math> の極限は電子が隣のサイトに移れないことに相当する。この極限は孤立原子系と一致する。ホッピング項が存在する (<math>\displaystyle t>0</math>) とき、電子はどちらのサイトにも存在でき、[[運動エネルギー]]が下がる。 強相関電子系では、電子電子相互作用を考慮する必要がある。この項は次のように書ける。 :<math>H_{\mathrm{ee}} = \frac{1}{2} \sum_{n,m,\sigma} \left\langle n_1 m_1, n_2 m_2 \left| \frac{e^2}{|\boldsymbol{r}_1 - \boldsymbol{r}_2|} \right| n_3 m_3, n_4 m_4 \right\rangle c^\dagger_{n_1 m_1 \sigma_1}c^\dagger_{n_2 m_2 \sigma_2}c_{n_4 m_4 \sigma_2} c_{n_3 m_3 \sigma_1}</math> このハミルトニアンの相互作用項は直接[[クーロンの法則|クーロン]]相互作用および[[交換相互作用]]を含む。この項により{{仮リンク|金属絶縁体転移|en|Metal-insulator_transition}} (MIT) や[[高温超伝導]]、{{仮リンク|量子相転移|en|Quantum_phase_transition}}などの新しい物理が生まれる。 == 例: 一次元sバンド == 以下に、強結合模型をs軌道を一つだけ持つ原子が間隔 {{Mvar|a}} で直線状に並び、[[σ結合]]した'''sバンド模型'''に適用した例を示す。 ハミルトニアンの近似固有状態を探すため、次のような原子軌道の線形結合を用いる。 : <math>|k\rangle =\frac{1}{\sqrt{N}}\sum_{n=1}^N e^{inka} |n\rangle </math> ここで {{Mvar|N}} はサイトの総数、 {{Mvar|k}} は <math>-\pi/a \le k \le \pi/a</math> を満たす実数とする(原子軌道の重なりを無視すれば、この波動関数は規格化定数 {{Math|{{sfrac|1|{{sqrt|''N''}}}}}} により規格化される)。 最近接原子軌道のみが重なりを持つものとすると、ハミルトニアンの非零要素は以下のようになる。 : <math> \langle n|H|n\rangle= E_0 = E_i - U</math> : <math> \langle n\pm 1|H|n\rangle=-\Delta </math> :<math> \langle n|n\rangle= 1, \langle n \pm 1|n\rangle= S</math> &#x2002; エネルギー {{Mvar|E{{sub|i}}}} は原子軌道に対応するイオン化エネルギーであり、 {{Mvar|U}} は隣接する原子の作るポテンシャルによる軌道エネルギーシフトである。<math> \langle n\pm 1|H|n\rangle=-\Delta </math> という要素は[[#原子間行列要素一覧|スレーター・コスター原子間行列要素]]と呼ばれ、[[化学結合|結合エネルギー]] {{Math|''E''{{sub|''i'',''j''}}}} と一致する。この一次元sバンド模型ではs軌道同士の<math>\sigma</math>結合しか存在せず、その結合エネルギーを {{Math|1 = ''E''{{sub|s,s}} = ''V''{{sub|ss&sigma;}}}} とする。隣接原子間の重なり積分は {{Mvar|S}} とする。ここで、状態 <math>|k\rangle</math> のエネルギーを計算すると次のようになる。 :<math>\begin{align} H|k\rangle &= \frac{1}{\sqrt{N}}\sum_n e^{inka} H |n\rangle \\ \langle k|H|k\rangle &= \frac{1}{N}\sum_{m,n} e^{i(n-m)ka} \langle m|H|n\rangle \\ &= \frac{1}{N} \sum_n \langle n|H|n\rangle + \frac{1}{N} \sum_n \langle n-1|H|n\rangle e^{+ika} + \frac{1}{N}\sum_n\langle n+1|H|n\rangle e^{-ika} \\ &= E_0 -2\Delta \cos ka \end{align}</math> したがってこの状態 <math>|k\rangle</math> のエネルギーは次のようなよく知られたエネルギー分散を持つ。 :<math> E(k)= \frac{E_0-2\Delta \cos ka}{1 + 2 S \cos ka}</math> * <math>k = 0</math> のときのエネルギーは <math>E = (E_0 - 2 \Delta)/ (1 + 2 S)</math> となり、波動関数は全ての原子軌道の和となる。この状態は[[分子軌道|結合性軌道]]の連なりと見ることができる。 *<math>k = \pi / 2a</math> のときのエネルギーは <math>E = E_0</math> となり、波動関数は位相因子 <math>e^{i \pi / 2}</math> のついた原子軌道の和となる。この状態は[[非結合性軌道]]の連なりと見ることができる。 * <math>k = \pi / a</math> のときのエネルギーは <math>E = (E_0 + 2 \Delta) / (1 - 2 S)</math> となり、波動関数は原子軌道を交互に足し引きしたものとなる。この状態は[[反結合性軌道]]の連なりと見ることができる。 この例はすぐに三次元に拡張することができる。例えば、体心立方格子ならば単純に {{Mvar|a}} の部分を最近接サイトの位置ベクトルに置き換えればよい<ref name= Mott>{{cite book |title= The theory of the properties of metals and alloys |url=https://books.google.co.jp/books?id=LIPsUaTqUXUC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja#PPA58,M1 |author=Sir Nevill F Mott & H Jones |year= 1958 |publisher=Courier Dover Publications |isbn=0-486-60456-X |edition=Reprint of Clarendon Press (1936) |chapter=II §4 Motion of electrons in a periodic field |pages=56 ''ff''}}</ref>。同様に、各サイトに原子軌道を複数導入すれば複数のバンドを扱うことができる。 == 原子間行列要素一覧 == [[1954年]]、 スレーターとコスターは主に[[遷移元素|遷移金属]]のdバンドについて原子間行列要素の一覧を発表した<ref name="SlaterKoster"/>。 :<math>E_{i,j}(\boldsymbol{r}_{n,n'}) = \langle n,i|H|n',j\rangle</math> これは忍耐力と努力があれば [[:en:Cubic_harmonic|cubic harmonic]]{{訳語疑問点||date = 2016年2月}} 軌道から愚直に計算できる。この一覧は二つの隣接する原子上のcubic harmonic 軌道{{訳語疑問点||date = 2016年2月}} {{Mvar|i}}, {{Mvar|j}} の間の[[LCAO法|LCAO]]二中心[[化学結合|結合積分]]を表わしている。結合積分は例えば[[σ結合]]、[[π結合]]、[[δ結合]]に対してそれぞれ {{Math|''V''{{sub|ss&sigma;}},''V''{{sub|pp&pi;}},''V''{{sub|dd&delta;}}}} のように表記する。 原子間ベクトルは次のように表わされる。 :<math>\boldsymbol{r}_{n,n'} = (r_x,r_y,r_z) = d (l,m,n)</math> ここで、 {{Mvar|d}} は原子間の距離、{{Math|''l'', ''m'', ''n''}} は隣接原子への[[方向#方向余弦|方向余弦]]である。 : <math>E_{s,s} = V_{ss\sigma}</math> : <math>E_{s,x} = l V_{sp\sigma}</math> : <math>E_{x,x} = l^2 V_{pp\sigma} + (1 - l^2) V_{pp\pi}</math> : <math>E_{x,y} = l m V_{pp\sigma} - l m V_{pp\pi}</math> : <math>E_{x,z} = l n V_{pp\sigma} - l n V_{pp\pi}</math> : <math>E_{s,xy} = \sqrt{3} l m V_{sd\sigma}</math> : <math>E_{s,x^2-y^2} = \frac{\sqrt{3}}{2} (l^2 - m^2) V_{sd\sigma}</math> : <math>E_{s,3z^2-r^2} = [n^2 - (l^2 + m^2) / 2] V_{sd\sigma}</math> : <math>E_{x,xy} = \sqrt{3} l^2 m V_{pd\sigma} + m (1 - 2 l^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{x,yz} = \sqrt{3} l m n V_{pd\sigma} - 2 l m n V_{pd\pi}</math> : <math>E_{x,zx} = \sqrt{3} l^2 n V_{pd\sigma} + n (1 - 2 l^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{x,x^2-y^2} = \frac{\sqrt{3}}{2} l (l^2 - m^2) V_{pd\sigma} + l (1 - l^2 + m^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{y,x^2-y^2} = \frac{\sqrt{3}}{2} m(l^2 - m^2) V_{pd\sigma} - m (1 + l^2 - m ^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{z,x^2-y^2} = \frac{\sqrt{3}}{2} n(l^2 - m^2) V_{pd\sigma} - n(l^2 - m^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{x,3z^2-r^2} = l[n^2 - (l^2 + m^2)/2]V_{pd\sigma} - \sqrt{3} l n^2 V_{pd\pi}</math> : <math>E_{y,3z^2-r^2} = m [n^2 - (l^2 + m^2) / 2] V_{pd\sigma} - \sqrt{3} m n^2 V_{pd\pi}</math> : <math>E_{z,3z^2-r^2} = n [n^2 - (l^2 + m^2) / 2] V_{pd\sigma} + \sqrt{3} n (l^2 + m^2) V_{pd\pi}</math> : <math>E_{xy,xy} = 3 l^2 m^2 V_{dd\sigma} + (l^2 + m^2 - 4 l^2 m^2) V_{dd\pi} + (n^2 + l^2 m^2) V_{dd\delta}</math> : <math>E_{xy,yz} = 3 l m^2 nV_{dd\sigma} + l n (1 - 4 m^2) V_{dd\pi} + l n (m^2 - 1) V_{dd\delta}</math> : <math>E_{xy,zx} = 3 l^2 m n V_{dd\sigma} + m n (1 - 4 l^2) V_{dd\pi} + m n (l^2 - 1) V_{dd\delta}</math> : <math>E_{xy,x^2-y^2} = \frac{3}{2} l m (l^2 - m^2) V_{dd\sigma} + 2 l m (m^2 - l^2) V_{dd\pi} + [l m (l^2 - m^2) / 2] V_{dd\delta}</math> : <math>E_{yz,x^2-y^2} = \frac{3}{2} m n (l^2 - m^2) V_{dd\sigma} - m n [1 + 2(l^2 - m^2)] V_{dd\pi} + m n [1 + (l^2 - m^2) / 2] V_{dd\delta}</math> : <math>E_{zx,x^2-y^2} = \frac{3}{2} n l (l^2 - m^2) V_{dd\sigma} + n l [1 - 2(l^2 - m^2)] V_{dd\pi} - n l [1 - (l^2 - m^2) / 2] V_{dd\delta}</math> : <math>E_{xy,3z^2-r^2} = \sqrt{3} \left[ l m (n^2 - (l^2 + m^2) / 2) ]V_{dd\sigma} - 2 l m n^2 V_{dd\pi} + [l m (1 + n^2) / 2] V_{dd\delta} \right]</math> : <math>E_{yz,3z^2-r^2} = \sqrt{3} \left[ m n (n^2 - (l^2 + m^2) / 2) V_{dd\sigma} + m n (l^2 + m^2 - n^2) V_{dd\pi} -[ m n (l^2 + m^2) / 2 ]V_{dd\delta} \right]</math> : <math>E_{zx,3z^2-r^2} = \sqrt{3} \left[ l n (n^2 - (l^2 + m^2) / 2) V_{dd\sigma} + l n (l^2 + m^2 - n^2) V_{dd\pi} - [l n (l^2 + m^2) / 2] V_{dd\delta} \right]</math> : <math>E_{x^2-y^2,x^2-y^2} = \frac{3}{4} (l^2 - m^2)^2 V_{dd\sigma} + [l^2 + m^2 - (l^2 - m^2)^2] V_{dd\pi} + [n^2 + (l^2 - m^2)^2 / 4] V_{dd\delta}</math> : <math>E_{x^2-y^2,3z^2-r^2} = \sqrt{3} \left[ (l^2 - m^2) [n^2 - (l^2 + m^2) / 2] V_{dd\sigma} / 2 + n^2 (m^2 - l^2) V_{dd\pi} + [(1 + n^2)(l^2 - m^2) / 4 ]V_{dd\delta}\right]</math> : <math>E_{3z^2-r^2,3z^2-r^2} = [n^2 - (l^2 + m^2) / 2]^2 V_{dd\sigma} + 3 n^2 (l^2 + m^2) V_{dd\pi} + \frac{3}{4} (l^2 + m^2)^2 V_{dd\delta}</math> ここに示さなかった行列成分もあるが、それらはここに示した行列成分の添字と方向余弦を並べ変えれば得られる。 ==磁場の効果== {{main|en:Peierls substitution}} 弱い磁場の状況で、ホッピング積分t(hopping)が位相係数でタイミングがとられます。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連文献 == * {{Cite book|author = Walter Ashley Harrison|title = Electronic Structure and the Properties of Solids|year = 1989|publisher = Dover Publications|url = https://books.google.co.jp/books?id=R2VqQgAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja|isbn = 0-486-66021-4}} * {{Cite book|author = N. W. Ashcroft and N. D. Mermin|title = Solid State Physics|publisher = Thomson Learning|location = Toronto|year = 1976}} * {{Cite book|last = Davies|first = John H.|title = The physics of low-dimensional semiconductors: An introduction|year = 1998|publisher = [[Cambridge University Press]]|location = Cambridge, United Kingdom|isbn = 0-521-48491-X}} * {{Cite journal|doi = 10.1088/0034-4885/60/12/001|title = Tight-binding modelling of materials|year = 1997|last1 = Goringe|first1 = C M|last2 = Bowler|first2 = D R|last3 = Hernández|first3 = E|journal = Reports on Progress in Physics|volume = 60|issue = 12|pages = 1447–1512|bibcode = 1997RPPh...60.1447G}} * {{Cite journal|doi = 10.1103/PhysRev.94.1498|title = Simplified LCAO Method for the Periodic Potential Problem|year = 1954|last1 = Slater|first1 = J. C.|last2 = Koster|first2 = G. F.|journal = Physical Review|volume = 94|issue = 6|pages = 1498–1524|bibcode = 1954PhRv...94.1498S}} * {{Cite book| chapterurl=http://www.cond-mat.de/events/correl12/manuscripts/pavarini.pdf | chapter=Crystal-field Theory, Tight-binding Method, and Jahn-Teller Effect | author1 = E. Pavarini | editors = E. Pavarini, E. Koch, F. Anders, and M. Jarrell (eds.) | title = Correlated Electrons: From Models to Materials | location = J&#xFC;lich | year = 2012 | ISBN = 978-3-89336-796-2}} == 関連項目 == * [[固体物理学]] * [[物性物理学]] * [[第一原理バンド計算]] * [[バンド構造]] * [[ほとんど自由な電子]] * [[ブロッホの定理]] * [[クローニッヒ・ペニーのモデル]] * [[フェルミ面]] * [[ワニエ関数]] * [[ハバードモデル|ハバード模型]] * {{仮リンク|t-J 模型|en|t-J model}} * [[有効質量]] * [[アンダーソンの法則]] * [[動力学的回折理論]] * [[LCAO法]] * {{仮リンク|ホルスタイン=ヘリング法|en|Holstein–Herring method}} {{DEFAULTSORT:きようけつこうきんし}} [[Category:バンド計算]] [[Category:量子化学]] {{physics-stub}}
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自由電子近似
自由電子近似(、英: Free electron approximation)とは、電子の感じるポテンシャルが非常に弱い場合、電子の振る舞いはほとんど自由な電子とみなすことができ、この自由電子として扱う近似が自由電子近似(自由電子モデル(英: Free electron model)自由電子模型とも)である。これの対極的な近似が強結合近似である。
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自由電子近似(じゆうでんしきんじ、とは、電子の感じるポテンシャルが非常に弱い場合、電子の振る舞いはほとんど自由な電子とみなすことができ、この自由電子として扱う近似が自由電子近似である。これの対極的な近似が強結合近似である。
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ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの自然哲学者、天文学者、数学者。 近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学をピサ大学で学んだが、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務。物理学(自然学)分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。鉛直方向に落下する物体)の運動法則の数学的定式化を完成させた。自然現象に対して、数学的手法および思考実験を用いて迫り、(仮説を)実験によって検証するというガリレオの方法は、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった。 天文学分野では、みずから改良したガリレオ式望遠鏡を使って木星の衛星、月面の凹凸(=クレーター)、太陽の黒点などを発見し、『星界の報告』(Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した。1610年に「トスカナ大公付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイ会員となった。 主著の『天文対話』Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『新科学対話』Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)イタリア語で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはラテン語で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、ガリレオ自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である。 トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる。イタリア語が分かる人にとっては、ガリレオの名は当時のヨーロッパの文化を反映した、キリスト教徒的な名前であり、「Galileo」は「ガリラヤの人(ガリラヤ人)」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。定冠詞を付けた単数形 「il Galileo 」はキリスト教徒にとっては、(ガリラヤ出身の人である)イエス・キリストを主に指す、婉曲表現である。 イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、ダンテ・アリギエーリ、レオナルド(ダ・ヴィンチ)、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。欧州ではオランダ、ドイツ、スカンジナビアではGalilei、フランスではGaliléeとファミリーネームで呼ばれているが、ほとんどの国ではファーストネームで呼ばれている。ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた。 ガリレオは1564年2月15日、ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)を父、ジュリア・アンマンナーティ(Giulia Ammannati)を母として、トスカーナ大公国領ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォは1520年フィレンツェ生まれの、禄高は微々たるものだったが一応は貴族の出身者で、生業(生活費を得るための職業)としては呉服商を営んでいたが、音程学の研究者や音楽家としても名が知られた人物であった。母はペーシャ生まれであった。2人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男のガリレオが生まれた。この後、ガリレオには弟4人、妹2人ができた。弟のひとり ミケランジェロ・ガリレイ(英語版)(1575年 - 1631年)は父のように音楽方面で活躍し、リュート奏者、作曲家として名を残した。 父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これがのちに息子ガリレオが運動研究でとった数的な手法に影響を与えることになった、と指摘されている。 1581年、ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年ごろからトスカーナ宮廷つきの数学者 オスティリオ・リッチ(英語版)にユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。 1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、ガリレオは多くの画期的発見や改良を成し遂げている。 前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をするときに(父にならって)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。ガリレオ以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパにはなかったと考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考えるときにアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験を行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法をとったと一般に考えられている。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。 1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのしかかることになった。 ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで6歳ほど年下のマリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年 - 1619年)と出会い、交際が始まった。当時パドヴァにあったガリレオの家で2人は一緒に暮らし始め、2女1男をもうけた。 ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたという理由である。 信仰の篤いガリレオは、2人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei、1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia、1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ(英語版)の聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年に修道女となりマリア・チェレステ(Maria Celeste)と改名した。この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたもので、Celesteとはイタリア語で「天」のことである。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通が、ガリレオの死後に彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年に修道女となりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio、1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。 当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦 に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい、ついにはガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ったりすることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637 - 1638年頃には失明した。 しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。 ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。 これを用いて1609年に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。 また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者(Sidereus Nuncius)』として論文発表された(この論文には3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えないわりには、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。 金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった。 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。 ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある。 ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見すぎであると考えられている。 ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。おもにこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。 そのほか、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した。 ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。 ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則はおもに2つからなる。1つ目は、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。その方程式は次のようにあらわされる。 X(t)=1/2at この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せたとも言われている(ガリレオによるピサの斜塔実験)。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(Viviani)の創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。このエピソードに先立ってすでに「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられることになる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。 実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくため、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。 アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのかというような反論を行っている。 また、1638年出版の『新科学対話』(『力学対話』)では、その後の物理学の出発点になり得る、力学、建築材料の強弱論、流体の問題、熱膨張、音響振動、光速度測定法、磁気現象などを扱った。 ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。 読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。また、実験結果を積極的に公表した最初期の人物で、落体運動の定量的研究はニュートンの研究を促した。さらに、人工的に設定された状況での物体の運動を実験した最初の人物の一人ともされる。 ガリレオが発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。 ガリレオが地動説を唱え、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている。 ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。その内容は、次のようなものであった。 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。 第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」 と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。 第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。 この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、というただし書き、 をつけて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。 1630年、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。 翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、ほかの書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないが、なかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。 1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。 1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。 有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。 その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言ったという説もある。 「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。 ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった。 死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。 この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。 フランスのルネ・デカルトは、Traité du monde et de la lumière (タイトルは『世界論』などと訳されている)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしいというのは、デカルトはTraité du monde ~で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme(太陽中心説)を展開していたからである。 当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったため、イタリア外では影響はあまりなかった。 この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること、第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。 Giorgio di Santillanaらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれをただちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのかいまだにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。 このほか、次のような説もある。 1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。 2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。 2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている。 作家イタロ・カルヴィーノは、『なぜ古典を読むのか』『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』で、文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている。 イタリアでは、1973年から1983年まで発行されていた2,000リラ紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。 ガリレオ自身が記述したホロスコープによれば、彼の生年月日は1654年2月16日である。『Galileo's Astrology』(Campion, Nicholas and Nick Kollerstrom, Bristol: Cinnabar Books 2004/Culture and Cosmos Vol. 7 no 1, Spring/Summer 2003.)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの自然哲学者、天文学者、数学者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最初は医学をピサ大学で学んだが、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務。物理学(自然学)分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。鉛直方向に落下する物体)の運動法則の数学的定式化を完成させた。自然現象に対して、数学的手法および思考実験を用いて迫り、(仮説を)実験によって検証するというガリレオの方法は、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった。 天文学分野では、みずから改良したガリレオ式望遠鏡を使って木星の衛星、月面の凹凸(=クレーター)、太陽の黒点などを発見し、『星界の報告』(Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した。1610年に「トスカナ大公付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイ会員となった。 主著の『天文対話』Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『新科学対話』Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)イタリア語で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはラテン語で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、ガリレオ自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる。イタリア語が分かる人にとっては、ガリレオの名は当時のヨーロッパの文化を反映した、キリスト教徒的な名前であり、「Galileo」は「ガリラヤの人(ガリラヤ人)」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。定冠詞を付けた単数形 「il Galileo 」はキリスト教徒にとっては、(ガリラヤ出身の人である)イエス・キリストを主に指す、婉曲表現である。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、ダンテ・アリギエーリ、レオナルド(ダ・ヴィンチ)、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。欧州ではオランダ、ドイツ、スカンジナビアではGalilei、フランスではGaliléeとファミリーネームで呼ばれているが、ほとんどの国ではファーストネームで呼ばれている。ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ガリレオは1564年2月15日、ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)を父、ジュリア・アンマンナーティ(Giulia Ammannati)を母として、トスカーナ大公国領ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォは1520年フィレンツェ生まれの、禄高は微々たるものだったが一応は貴族の出身者で、生業(生活費を得るための職業)としては呉服商を営んでいたが、音程学の研究者や音楽家としても名が知られた人物であった。母はペーシャ生まれであった。2人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男のガリレオが生まれた。この後、ガリレオには弟4人、妹2人ができた。弟のひとり ミケランジェロ・ガリレイ(英語版)(1575年 - 1631年)は父のように音楽方面で活躍し、リュート奏者、作曲家として名を残した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これがのちに息子ガリレオが運動研究でとった数的な手法に影響を与えることになった、と指摘されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1581年、ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年ごろからトスカーナ宮廷つきの数学者 オスティリオ・リッチ(英語版)にユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、ガリレオは多くの画期的発見や改良を成し遂げている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をするときに(父にならって)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。ガリレオ以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパにはなかったと考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考えるときにアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験を行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法をとったと一般に考えられている。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのしかかることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで6歳ほど年下のマリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年 - 1619年)と出会い、交際が始まった。当時パドヴァにあったガリレオの家で2人は一緒に暮らし始め、2女1男をもうけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたという理由である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "信仰の篤いガリレオは、2人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei、1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia、1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ(英語版)の聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年に修道女となりマリア・チェレステ(Maria Celeste)と改名した。この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたもので、Celesteとはイタリア語で「天」のことである。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通が、ガリレオの死後に彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年に修道女となりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio、1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦 に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい、ついにはガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ったりすることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637 - 1638年頃には失明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これを用いて1609年に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者(Sidereus Nuncius)』として論文発表された(この論文には3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えないわりには、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見すぎであると考えられている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。おもにこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そのほか、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則はおもに2つからなる。1つ目は、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。その方程式は次のようにあらわされる。 X(t)=1/2at", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せたとも言われている(ガリレオによるピサの斜塔実験)。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(Viviani)の創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。このエピソードに先立ってすでに「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられることになる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくため、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのかというような反論を行っている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、1638年出版の『新科学対話』(『力学対話』)では、その後の物理学の出発点になり得る、力学、建築材料の強弱論、流体の問題、熱膨張、音響振動、光速度測定法、磁気現象などを扱った。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。また、実験結果を積極的に公表した最初期の人物で、落体運動の定量的研究はニュートンの研究を促した。さらに、人工的に設定された状況での物体の運動を実験した最初の人物の一人ともされる。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ガリレオが発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ガリレオが地動説を唱え、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。その内容は、次のようなものであった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」 と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、というただし書き、", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "をつけて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1630年、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、ほかの書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないが、なかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言ったという説もある。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "フランスのルネ・デカルトは、Traité du monde et de la lumière (タイトルは『世界論』などと訳されている)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしいというのは、デカルトはTraité du monde ~で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme(太陽中心説)を展開していたからである。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったため、イタリア外では影響はあまりなかった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること、第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "Giorgio di Santillanaらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれをただちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのかいまだにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "このほか、次のような説もある。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "作家イタロ・カルヴィーノは、『なぜ古典を読むのか』『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』で、文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "イタリアでは、1973年から1983年まで発行されていた2,000リラ紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ガリレオ自身が記述したホロスコープによれば、彼の生年月日は1654年2月16日である。『Galileo's Astrology』(Campion, Nicholas and Nick Kollerstrom, Bristol: Cinnabar Books 2004/Culture and Cosmos Vol. 7 no 1, Spring/Summer 2003.)", "title": "その他" } ]
ガリレオ・ガリレイは、イタリアの自然哲学者、天文学者、数学者。 近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学をピサ大学で学んだが、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務。物理学(自然学)分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。鉛直方向に落下する物体)の運動法則の数学的定式化を完成させた。自然現象に対して、数学的手法および思考実験を用いて迫り、(仮説を)実験によって検証するというガリレオの方法は、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった。 天文学分野では、みずから改良したガリレオ式望遠鏡を使って木星の衛星、月面の凹凸(=クレーター)、太陽の黒点などを発見し、『星界の報告』を著した。1610年に「トスカナ大公付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイ会員となった。 主著の『天文対話』Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『新科学対話』Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)イタリア語で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはラテン語で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、ガリレオ自身は「nuove scienze」(「新たな知」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である。
{{otheruses}} {{未検証|date=2015年10月}} {{Infobox Scientist | name = ガリレオ・ガリレイ<br>(Galileo Galilei) | image = Galileo-sustermans2.jpg | caption = 1636年の肖像画([[ユストゥス・スステルマンス]] 画) | birth_date = [[ユリウス暦]][[1564年]][[2月14日]] | birth_place = [[ファイル:Medici_Flag_of_Tuscany.png|border|25x20px]] [[フィレンツェ公国]] [[ピサ]] | death_date = [[グレゴリオ暦]][[1642年]][[1月8日]] | death_place = [[ファイル:Bandiera del granducato di Toscana (1562-1737 ).png|border|25x20px]] [[トスカーナ大公国]] [[フィレンツェ]]郊外{{仮リンク|アルチェトリ|it|Arcetri}} | residence = | nationality = | field = [[数学]]<br>[[天文学]]<br>[[物理学]]<br>[[哲学]] | work_institution = [[ピサ大学]]<br>[[パドヴァ大学]] | alma_mater = [[ピサ大学]][[学芸学部]](途中退校) | doctoral_advisor = | doctoral_students = | known_for = [[天体観測]]に[[望遠鏡]]を導入<br>[[地動説]]への言及<br>[[木星]]の[[衛星]]の発見<br>[[金星]]の満ち欠け及び大きさの変化を発見<br>[[自由落下]]、[[速度]]、[[慣性系]]、[[振り子]]の開拓的研究 | prizes = | signature = Galileo Galilei Signature 2.svg | footnotes = | religion = }} [[ファイル:Lire_2000_Galileo_Galilei.JPG|250px|サムネイル|ガリレオ・ガリレイの肖像がデザインされている2000リラ紙幣]] '''ガリレオ・ガリレイ'''({{lang-it-short|Galileo Galilei}}、[[ユリウス暦]][[1564年]][[2月15日]] - [[グレゴリオ暦]][[1642年]][[1月8日]])は、[[イタリア]]の[[自然哲学者]]、[[天文学者]]、[[数学者]]<ref name="britannica"> ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ガリレイ」</ref><ref name="nipponica">小学館『[[日本大百科全書]]』(ニッポニカ)、「ガリレイ」</ref><ref>{{cite book|last=Helden |first=Albert Van |chapter=Galileo |title=Encyclopedia Britannica |date= 2022-08-24 |chapterurl=https://www.britannica.com/biography/Galileo-Galilei |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc. |accessdate=2022-09-29 |ref=harv}}</ref>。 [[科学的方法|近代科学的な手法]]を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる<ref>「近代科学の父」と呼ばれるのはガリレオだけではなく、他にも[[ロジャー・ベーコン]]もそう呼ばれることがある。</ref>。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学を[[ピサ大学]]で学んだが<ref name="britannica" />、[[ユークリッド]]や[[アルキメデス]]の本を読むうちに[[数学]]や[[力学]]へと関心が移った<ref name="britannica" />。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った<ref name="britannica" /> ものの、[[比重]]や[[重心]]の研究などで頭角を現し<ref name="britannica" />、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師<ref name="britannica" />、1592年~1610年には[[パドヴァ大学]]の[[数学]](および天文学などの)教授として勤務<ref name="britannica" />。[[物理学]]([[自然学]])分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。[[鉛直]]方向に落下する物体)の運動法則の数学的定式化を完成させた<ref name="britannica" />。自然現象に対して、数学的手法および[[思考実験]]を用いて迫り、(仮説を)[[実験]]によって検証するというガリレオの方法は<ref name="britannica" />、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった<ref name="britannica" />。 天文学分野では、みずから改良した[[ガリレオ式望遠鏡]]を使って木星の衛星、月面の凹凸(=[[クレーター]])、太陽の[[黒点]]などを発見し、『[[星界の報告]]』(''Sidereus Nuncius''、1610年刊行)を著した<ref name="britannica" />。1610年に「[[トスカーナの支配者一覧|トスカナ大公]]付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマの[[アッカデーミア・デイ・リンチェイ]]会員となった<ref name="britannica" />。 主著の『[[天文対話]]』''Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano''(1632年)や『[[新科学対話]]』''Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica''(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)[[イタリア語]]で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのは[[ラテン語]]で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、ガリレオ自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である<ref name="britannica" />。 == 名前 == [[トスカーナ州|トスカーナ]]地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]の第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる<ref>[[#佐藤(2000)|佐藤 (2000)]] p78</ref>。イタリア語が分かる人にとっては、ガリレオの名は当時のヨーロッパの文化を反映した、[[キリスト教徒]]的な名前であり、「Galileo」は「[[ガリラヤ]]の人([[ガリラヤ人]])」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。[[定冠詞]]を付けた単数形 「il Galileo 」は[[キリスト教徒]]にとっては、(ガリラヤ出身の人である)[[イエス・キリスト]]を主に指す、婉曲表現である。 イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、[[ダンテ・アリギエーリ]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ|レオナルド]](ダ・ヴィンチ)、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]](イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。欧州ではオランダ、ドイツ、スカンジナビアではGalilei、フランスではGaliléeとファミリーネームで呼ばれているが、ほとんどの国ではファーストネームで呼ばれている。ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p3</ref>。 == 生涯 == === 生い立ち === ガリレオは1564年2月15日、[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]](Vincenzo Galilei)を父、ジュリア・アンマンナーティ([[:it:Giulia Ammannati|Giulia Ammannati]])を母として、[[トスカーナ大公国]]領[[ピサ]]で誕生した。父のヴィンチェンツォは[[1520年]][[フィレンツェ]]生まれの、禄高は微々たるものだったが一応は貴族の出身者で<ref name="sekaidaihyakka">世界大百科事典 第2版「ガリレオ」</ref>、生業(生活費を得るための職業)としては呉服商を営んでいたが<ref name="sekaidaihyakka" />、[[音程]]学の研究者や[[音楽家]]としても名が知られた人物であった。母は[[ペーシャ]]生まれであった。2人は[[1563年]]に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男のガリレオが生まれた。この後、ガリレオには[[弟]]4人、[[妹]]2人ができた。弟のひとり {{仮リンク|ミケランジェロ・ガリレイ|en|Michelagnolo Galilei}}([[1575年]] - [[1631年]])は父のように音楽方面で活躍し、[[リュート]]奏者、[[作曲家]]として名を残した。 父ヴィンチェンツォは[[音響学]]の[[研究]]で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これがのちに息子ガリレオが運動研究でとった数的な手法に影響を与えることになった、と指摘されている。 === 学業と業績 === [[1581年]]、ガリレオは[[ピサ大学]]に入学するが、[[1585年]]に退学。1582年ごろからトスカーナ宮廷つきの[[数学者]] {{仮リンク|オスティリオ・リッチ|en|Ostilio Ricci}}に[[エウクレイデス|ユークリッド]]や[[アルキメデス]]を学び、[[1586年]]にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 [[1589年]]にピサ大学の教授の地位を得て、[[数学]]を教えた。<ref>『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)154頁</ref><ref>1『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)55頁</ref> [[ファイル:Galileo Galilei 2.jpg|thumb|right|160px|1605-1607年ころのガリレオ]] [[1592年]][[パドヴァ大学]]で教授の職を得、[[1610年]]まで[[幾何学]]、数学、[[天文学]]を教えた。この時期、ガリレオは多くの画期的発見や改良を成し遂げている。 [[ファイル:Galileo by leoni.jpg|thumb|right|160px|1624年のデッサン]] 前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をするときに(父にならって)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。ガリレオ以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパにはなかったと考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考えるときにアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験を行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法をとったと一般に考えられている<ref group="注">ただし、本当に誠実なやりかたでデータをとったのかどうか、という点に関しては怪しい点があるらしい。つまり自分の説・仮説に合うようにデータをいじっていたらしいとブロードやウェイドによって指摘されている。つまり「自然科学の父」と呼ばれるような人がすでに、現代で言う「[[科学における不正行為]]」に相当するようなことを行っていたのであり、不正行為の問題が20世紀になってにわかに始まったかのような印象を持つのは適切ではなく、実は自然科学はつきつめればその父(開拓者)まで腐っているような、かなり根深い問題だとブロードやウェイドは指摘しているのである。(出典:W.ブロード, N.ウェイド『[[背信の科学者たち]]』講談社、2006)</ref>。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。 {{See|#業績}} === 父の死と家族の扶養 === {{節スタブ|date=2020年1月}} [[1591年]]に父が死去し、その後は家族の[[扶養]]や妹の(結婚の)[[持参金]]の支払いはガリレオの肩にのしかかることになった<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] p24</ref><ref>[[#青木(1965)|青木 (1965)]] p24</ref>。 === 結婚と子供 === ガリレオはしばしば[[ヴェネツィア]]を訪れていたが、そのヴェネツィアで6歳ほど年下のマリナ・ガンバ([[:en:Marina Gamba|Marina Gamba]]、[[1570年]] - [[1619年]])と出会い、交際が始まった。当時[[パドヴァ]]にあったガリレオの家で2人は一緒に暮らし始め、2女1男をもうけた。 ガリレオは敬虔な[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の[[クリスチャン|教徒]]であった。教会が認める形の[[結婚]]をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたという理由である<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p64</ref>。 [[ファイル:Suor maria celeste.jpg|right|thumb|120px|愛娘のマリア・チェレステ]] [[ファイル:Costa san giorgio, casa di galileo 02.JPG|thumb|left|140px|フィレンツェでのガリレオの家]] 信仰の篤いガリレオは、2人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei、[[1600年]][[8月12日]] - [[1634年]][[4月2日]])とリヴィア(Livia、[[1601年]] - [[1659年]])を幼いうちに{{仮リンク|アルチェトリ|en|Arcetri}}の[[マタイ|聖マッテオ]][[修道院]]に入れた。ヴィルジニアは[[1616年]]に[[修道士|修道女]]となりマリア・チェレステ([[:en:Maria Celeste|Maria Celeste]])と改名した。この名は[[聖母マリア]]の名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたもので、Celesteとはイタリア語で「天」のことである。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通が、ガリレオの死後に彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは[[1617年]]に[[修道士|修道女]]となりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio、[[1606年]] - [[1649年]])は[[1619年]]に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。 === 晩年 === [[ファイル:Justus Sustermans - Portrait of Galileo Galilei, 1636.jpg|thumb|right|160px|晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。[[ユストゥス・スステルマンス]]([[:en:Justus Sustermans|en]])による肖像画。]] <!--[[File:Galileo.arp.300pix.jpg|thumb|right|160px]]--> 当時([[中世]]イタリア)の権力者たちの権力争いの渦<ref group="注">イタリアの[[貴族]]たち同士の激しい[[権力]]争いや、そうした貴族の中から選ばれる、きわめてきわどい立場の[[教皇]]の思惑など、泥沼の権力争いや様々な[[陰謀|策謀]]。</ref> に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい<ref name="romanogalileo">マリアーノ・アルティガス『ローマのガリレオ:天才の栄光と破滅』大月書店, 2005</ref>、ついにはガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に[[異端審問]]で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、[[軟禁]]状態での生活を送ったりすることになった<ref name="romanogalileo" />。職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知った[[ルネ・デカルト]]は、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637 - 1638年頃には失明した。 [[ファイル:Tomb of Galileo Galilei.JPG|right|thumb|180px|フィレンツェの[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]にあるガリレオの墓]] しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。 === 年譜 === *[[1564年]] イタリアの[[ピサ]]郊外で音楽家で呉服商の[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]の長男として生まれる(当時、この地は[[トスカーナ大公国]]領だった)。 *[[1581年]] [[ピサ大学]]に入学(医学専攻)。 *[[1585年]] ピサ大学退学。家族で[[フィレンツェ]]に移住。 *[[1586年]] 最初の論文『小天秤』を発表。 *[[1587年]] 初めて[[ローマ]]を訪問。当時の碩学[[クリストファー・クラヴィウス]]を尋ね、教授職の斡旋を願う。 *[[1589年]] ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。 *[[1591年]] 父ヴィンチェンツォ死去。 *[[1592年]] **ピサ大学の職が任期切れになる。 **([[ジョルダーノ・ブルーノ]]が捕縛される。) **[[ヴェネツィア共和国]](現在のイタリアの一部)の[[パドヴァ大学]]教授(6年契約)となり移住。このころ、落体の研究を行ったとされる。 *[[1597年]] [[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]宛の手紙で、[[地動説]]を信じていると記す。 *[[1599年]] パドヴァ大学教授に再任。このころ、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。 *([[1600年]] [[ジョルダノ・ブルーノ]]、[[ローマ教皇庁]]により火あぶりの刑になる。) *[[1601年]]からトスカーナ大公[[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]の息子[[コジモ2世]]の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。 *(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で[[望遠鏡]]の発明特許紛争。) *[[1608年]] トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。 *[[1609年]] 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。 *[[1609年]] 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。 *[[1610年]] **木星の衛星を発見、「[[メディチ家]](トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『[[星界の報告]]』(''Sidereus Nuncius'')として公刊する。このころから、地動説へ言及することが多くなる。 **(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。) **ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。 *[[1611年]] [[アッカデーミア・デイ・リンチェイ|リンチェイ・アカデミー]]入会。 *[[1613年]] 『[[太陽黒点]]論』を刊行。 *1613年ごろ マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。 *1613年ごろ 娘2人を修道院に入れる。 *[[1615年]] 地動説をめぐり[[ドミニコ会]]修道士ロリーニと論争となる。 *[[1616年]] 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう注意を受ける。 **[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の『[[天体の回転について]]』がローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。 *[[1623年]] 『贋金鑑識官』が[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]への献辞をつけて刊行される。 *[[1631年]] 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に居住。 *[[1632年]] **『二大世界体系についての対話(''Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo'')』(日本語版は『[[天文対話]]』)をフィレンツェで刊行。 **ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。 *[[1633年]] **第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。 **[[シエーナ|シエナ]]のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。 **アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。 *[[1634年]] ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。 *[[1637年]] 片目を[[失明]]。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。 *[[1638年]] オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子の[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]が行った。 *晩年 [[振り子時計]]を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。 *[[1642年]] アルチェトリにて没。 == 業績 == === 天文学 === [[画像:Galileo telescope replica.jpg|thumb|left|200px|ガリレオのものとされる望遠鏡(模造品(レプリカ)、グリフィス天文台)]] [[画像:Galileo.script.arp.600pix.jpg|right|thumb|200px|木星の衛星の初の発見を記した草稿とされたもの(20世紀の贋作)。<ref>{{cite web|title=The Galileo Manuscript|url=https://www.lib.umich.edu/collections/collecting-areas/special-collections-and-archives/history-astronomy-and-mathematics/galileo-manuscript|publisher=University of Michigan Library|date=2022|accessdate=2022-08-27}}</ref>]] [[画像:Sidereus Nuncius 1610.Galileo.jpg|right|thumb|200px|『[[星界の報告]]』(1610年)]] [[画像:Galileo moon phases.jpg|thumb|left|200px|ガリレオによる[[月]]の満ち欠けの観測図(1616年)]] [[画像:Assayertitle.png|right|thumb|200px|[[:it:Il Saggiatore (Galileo)|Il Saggiatore]]『贋金鑑識官』(1623年)。[[彗星]]が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。またこの書でガリレオは、[[自然]]という書物は数学の言葉で書かれている、という見解を示す。]] ガリレオは[[望遠鏡]]をもっとも早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] p54</ref>。 これを用いて1609年に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に[[凹凸]]、そして黒い部分(ガリレオはそこを[[海]]と考えた<ref group="注">この黒い部分は現在でも“[[月の海]]”(''lunar mare'' 、''mare''は“海”を意味するラテン語)と呼ばれている。[[ヨハネス・ケプラー]]も同様の考えを持っており、最初に''mare''と命名した。</ref>)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸は[[クレーター]]と呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] p61</ref>。 また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星は[[ガリレオ衛星]]と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者(''Sidereus Nuncius'')』として論文発表された(この論文には3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツの[[ヨハネス・ケプラー]]が4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は[[天動説]]を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えないわりには、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。 金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった。 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった<ref>最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p65 ISBN 978-4-621-08278-2</ref>。 ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある{{要出典|date=2010年6月}}。 ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見すぎであると考えられている<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p69</ref>。 ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに[[地動説]]を信じていると記しているが<ref>[[#青木(1965)|青木 (1965)]] p42</ref>、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。おもにこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。 そのほか、[[天の川]]が無数の[[恒星]]の集合であることなども発見した<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] p51など</ref>。 === 物理学 === [[画像:Galileo Galilei, Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze, 1638 (1400x1400).png|200px|thumb|right|Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊]] [[ピサ大聖堂]]で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、[[振り子の等時性]](同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p35</ref>。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、[[振り子時計]]を考案したが、実際には製作はしなかった。 ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則はおもに2つからなる。1つ目は、物体が[[自由落下]]するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである<ref name="tomonaga">[[#朝永(1981)|朝永(1981)]] p9</ref>。その方程式は次のようにあらわされる。 X(t)=1/2at<sup>2</sup><ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=234}}</ref> この法則を証明するために、[[ピサの斜塔]]の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せたとも言われている([[ガリレオによるピサの斜塔実験]])<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン(2007)]] p.22</ref>。この有名な故事はガリレオの弟子[[ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ]](Viviani)の創作で、実際には行われていないとする研究者も多い<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p.61</ref><ref>[[#青木(1965)|青木(1965)]] pp.20-22</ref>。このエピソードに先立ってすでに「落下の法則」を発見していたオランダ人の[[シモン・ステヴィン]]の実験と混同して後世に伝えられることになる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。<!-- 「ガリレオの求職活動ニュートンの家計簿 佐藤満彦著 中公新書 --> 実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくため、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである<ref name="tomonaga" />。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。 アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのかというような反論を行っている<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] pp.26-27</ref>。 また、[[1638年]]出版の『[[新科学対話]]』(『力学対話』)では、その後の物理学の出発点になり得る、[[力学]]、建築材料の強弱論、[[流体]]の問題、[[熱膨張]]、[[音響]][[振動]]、[[光速度]]測定法、[[磁気]]現象などを扱った<ref>{{cite book|title=物理学概論|year=1941|publisher=[[岩波書店]]|author=[[石原純]]|place=東京|ncid= BN00954866}}</ref>。 === 科学革命 === ガリレオは、[[ニコラウス・コペルニクス]]、[[ヨハネス・ケプラー]]、[[アイザック・ニュートン]]と並び、[[科学革命]]の中心人物とされている。 読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にも[[イブン・アル・ハイサム]](ラテン名アルハゼン)、[[ウイリアム・ハーベー]]、[[ウィリアム・ギルバート (物理学者)|ウィリアム・ギルバート]]などがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。また、実験結果を積極的に公表した最初期の人物で、落体運動の[[定量的研究]]は[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[自然哲学の数学的諸原理|研究]]を促した。さらに、人工的に設定された状況での物体の運動を実験した最初の人物の一人ともされる<ref>[[スティーヴン・ワインバーグ]](2015年)『科学の発見』(訳・赤根洋子) 文藝春秋(2016年第1版) p250-5</ref>。 ==== 有名な失敗 ==== ガリレオが発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。 *[[ケプラーの法則]]が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーの『[[ルドルフ表]]』が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p74</ref>。 * 地動説の証拠として[[潮汐]]を挙げた。実際には月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説のもっとも重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。 *光速の測定を試みたが、スケールを見誤っていた。遠く離れた2地点で、まずaがランプのカバーを外し、aのランプが明るくなったのを見たbがランプのカバーを外す。aがランプのカバーを外してからbのランプが明るくなるまでの時間を計測するというものである。当然ながら光速が速すぎて失敗した。 === その他のおもな業績 === *小天秤 *[http://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/museum/Mathematics_tools/military_compass/military_compass.htm 幾何学的・軍事的コンパス] :関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] pp.32-33</ref>。 == 裁判 == [[ファイル:Galileo before the Holy Office.jpg|thumb|upright=1.4|ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ]] ガリレオが地動説を唱え、それを理由に[[カトリック教会]]から有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて[[異端]]とされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりも[[キリスト教]]の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p120</ref>。 === 第1回の裁判 === ガリレオが地動説について言及し始めると、[[ドミニコ会|ドミニコ修道会士]]ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の[[異端審問|異端審問所]]が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この[[裁判]]の担当判事は[[イエズス会|イエズス会員]][[ロベルト・ベラルミーノ]][[枢機卿]]だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p122</ref>。その内容は、次のようなものであった。 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p122~123</ref> しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p123~124</ref>。 第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」<ref>[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p124</ref> と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。 第1回裁判の直後、[[1616年]]、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。 この後コペルニクスの著書は、単に数学的な[[仮説]]である、というただし書き、 {{Quotation|天体が“実際に”いかに動くかは[[形而上学]]の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮説的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為}} をつけて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。 === 第2回の裁判 === [[1630年]]、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、[[天動説]]と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] pp.337-338,343</ref>。『天文対話』は、[[1632年]][[2月22日]]、フィレンツェで印刷、発行された。 翌[[1633年]]、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、[[1616年]]の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった<ref name="青木 1965 p160">[[#青木(1965)|青木 (1965)]] p160</ref>。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] pp.340-341</ref>、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、ほかの書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] pp.217-218</ref>。 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した<ref name="toyota130">[[#豊田(1995)|豊田(1995)]] p130</ref>。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] p116</ref>。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは[[1621年]]に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった<ref name="青木 1965 p160"/>。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった<ref name="toyota130" />。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないが、なかったとは言い切れないと答えている<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p245</ref>。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p423</ref>。 [[1616年]]当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] pp.189-190</ref>。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。 1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p255</ref>。全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p481</ref>。 有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p450</ref>。 {{Quotation|ローマ ミネルヴァ修道院<br>1633年6月22日<br>故ヴィンツェンツォ・ガリレイの息子でありフィレンツェ在住、年齢70歳、この裁判所に召喚され、高貴なる枢機卿及びキリスト教世界全体の異端の罪を問う審問官の前にひざまずいております私、ことガリレオ・ガリレイが……検邪聖省により、世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽であるという思想を信じ、説いているのは、強い異端の疑いがあると糾弾されました。<br>私は猊下及び、この説で私に不信を抱いた敬虔なキリスト教徒に対し、その強い疑いを晴らすことを望み、誠実かつ心よりの信仰をもって、前述の誤りと異端の教えを放棄し、嫌悪いたします……そして今後は決して、口頭でも著述でも、同様の疑いを抱かせることを表現しないことを誓います。|ガリレオ・ガリレイ|『新科学対話』<ref name="isbn978-4-15-208893-2">{{Cite book |和書 |author=ガブリエル・ウォーカー |translator=渡会圭子 |year=2008 |title=大気の海 なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか |page=20 |publisher=[[早川書房]] |location=東京都 |isbn=978-4-15-208893-2 }}※引用部は、著者ウォーカーが Galileo Galilei, Dialogues Concerning Two New Sciences, H. Crew and A. de Salvio ( New York : Macmillan,1914 。原題は Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze. 『新科学対話』,ガリレオ・ガリレイ著,今野武雄,日田節次 訳,岩波書店,1937 )から参照した。( p.346,文献中注釈第1章2 参照)</ref>}} その後につぶやいたとされる [[:en:Eppur si muove|{{Lang|it|“E pur si muove”}}]]([[それでも地球は動く]])という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である<ref>[[#佐藤(2000)|佐藤 (2000)]] p99</ref><ref name="ReferenceA">[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p257</ref>。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなく[[ギリシア語]]で言った{{要出典|date=2014年5月}}という説もある。 「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経った[[1757年]]に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない<ref>{{Cite book|author=田中一郎|title=ガリレオ裁判-400年後の真実|date=2015-1020|year=2015|accessdate=2019-01-21|publisher=岩波書店|isbn=9784004315698|page=206|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === 裁判以後 === ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった<ref name="ReferenceA"/>。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。<!---ガリレオはこの時、地動説を撤回していたといわれる。 裁判所では撤回しましたが、本人の心の中では撤回していません。これはこの後の弟子などの言動でもわかります。記述を戻す場合は「いわれる」の根拠を提示してください。--->『天文対話』は[[禁書目録]]に載せられ、1822年まで撤回されなかった<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] pp.499-500</ref>。 死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は[[1737年]]3月12日にフィレンツェの[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]で行われた<ref>[[#シーア、アルティガス(2005)|シーア、アルティガス (2005)]] p264</ref>。 === 裁判の影響 === この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、[[プロテスタント]]教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。 フランスの[[ルネ・デカルト]]は、''[[:fr:Traité du monde et de la lumière|Traité du monde et de la lumière]]'' (タイトルは『世界論』などと訳されている)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『[[方法序説]]』(1637年刊)に記している<ref group="注">デカルトは''Traité du monde et de la lumière''の代わりに3部作''La Dioptrique''、 ''Les Météores''、 ''Géométrie''を出版し、その3部作の序文のような位置付けで書かれたのが有名な『[[方法序説]]』である。</ref>。さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしいというのは、デカルトは''Traité du monde ~''で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme([[太陽中心説]])を展開していたからである<ref group="注">結局デカルトのほうはリスクを避けて、自分の死後に 太陽中心説を含む完全版の''Traité du monde ~''を出版させる段取りをつけた。結果としてそれは1664年に出版された。</ref>。 当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったため、イタリア外では影響はあまりなかった。 === 裁判の検証 === この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた<ref name="ファントリ222">[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p222</ref>。第1の大きな疑問は、[[1616年]]の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること、第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。 Giorgio di Santillanaらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれをただちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている<ref group="注">[[ガリレオ・ガリレイ#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p222,259,260によれば、偽造したものだと唱える人物として、ヴォールヴィル(Wohlwill)やベレッタ(Beretta)がいる。<!---同書p235,268,269によると、di Santillanaの主張はこれとは少し違う気がするが…。--->ファントリ自身は、この文書は真正なものだとしている。</ref>。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのかいまだにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。<!---認めることはできないという宣言を誰がしたのか、その宣言が有効であるという証拠がどこにあるのか明示されていませんので、元のとおり「主張がある」をつけておきます。「主張がある」を削除する場合はそれを宣言した者の名と、その宣言が有効であるという根拠を提示してください。「でっちあげだ」という説の根拠は提示してあるとおりGiorgio di Santillanaです。---> このほか、次のような説もある。 #そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出るということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下したという噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらったという<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] pp.229-231</ref>。 #1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したもので、同席者がいたことはガリレオも認めている。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。 #1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判のなりゆきに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた<ref name="ファントリ222"/>。 #ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。これが結果的にはガリレオを異端者として扱う根拠になったとされる。実際、ウルバヌス8世はガリレオを当初は支持していたが、ガリレオが研究を重ね宗教論に基づかない科学的理論を広めるようになると、掌を返したかのようにガリレオを非難するようになった。ガリレオを有罪とするようにウルバヌス8世が直接命令を下したとも言われている。 === ローマ教皇庁の対応 === [[1965年]]にローマ教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった<ref>[[#ファントリ(2010)|ファントリ (2010)]] p506</ref>。最終的に[[1992年]]、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである<ref>[[#マクラクラン(2007)|マクラクラン (2007)]] pp.143-144</ref>。 [[2003年]]9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。 [[2008年]]1月16日の『[[毎日新聞]]』によると、[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が17日にイタリア国立[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]]での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、[[国際連合|国連]]や[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が定めた「[[世界天文年]]2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、[[地動説]]を改めて公式に認めている<ref group="注">当該説教の日本語翻訳文が[[カトリック中央協議会]]、教皇関連ページの [https://www.cbcj.catholic.jp/2008/12/21/5862/ 教皇ベネディクト十六世の2008年12月21日の「お告げの祈り」のことば] に掲載されている。</ref>。 == その他 == === ガリレオの文章の評価 === 作家[[イタロ・カルヴィーノ]]は、『なぜ古典を読むのか』『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』で、文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている<ref>{{Cite book|和書|title=なぜ古典を読むのか|author=イタロ・カルヴィーノ|authorlink=イタロ・カルヴィーノ|translator=[[須賀敦子]] |date=2012-04-05|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309463728}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ|author=イタロ・カルヴィーノ|authorlink=イタロ・カルヴィーノ|translator=[[米川良夫]] |date=1999-04|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022573650}}</ref>。 === ガリレオをしのぶ作品や博物館 === *(作品)ドイツの作家[[ベルトルト・ブレヒト]]は1947年に、戯曲『[[ガリレイの生涯]]』([[岩淵達治]]訳、[[岩波文庫]])を書いた。『戯曲ガリレオ 英語版』(笠啓一訳、績文堂出版、2009年)もある。 *(博物館)フィレンツェには[[ガリレオ博物館]]があり、ガリレオの残したノート類やガリレオが用いたさまざまな道具の実物などが展示されている。 === 紙幣の肖像 === イタリアでは、[[1973年]]から[[1983年]]まで発行されていた2,000[[イタリア・リラ|リラ]]紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。 === ガリレオの生年月日 === ガリレオ自身が記述したホロスコープによれば、彼の生年月日は1654年2月16日である。『Galileo's Astrology』(Campion, Nicholas and Nick Kollerstrom, Bristol: Cinnabar Books 2004/''Culture and Cosmos'' Vol. 7 no 1, Spring/Summer 2003.) == おもな著書 == * 『[[星界の報告]]』(''Sidereus Nuncius'' 1610年) ** [[山田慶児|山田慶兒]]・[[谷泰]]訳、[[岩波文庫]]、1976年 ** [[伊藤和行]]訳、[[講談社学術文庫]]、2017年 * 『太陽黒点論』(1613年) ** 上記の岩波版に併録、訳名は「太陽黒点に関する第二書簡」 * 『贋金鑑識官』(1623年) ** 山田慶兒・谷泰訳 『[[世界の名著]] ガリレオ』[[中央公論新社|中央公論社]]/[[中公クラシックス]](改訂版)、2009年 * 『天文対話』もしくは『二大世界体系にかんする対話』(1632年) **[[青木靖三]]訳、岩波文庫(上下) * 『[[新科学対話]]』(1638年) **『静力学について ガリレオ・ガリレイの「二つの新科学対話」』 加藤勉訳、[[鹿島出版会]]、2007年 * 『レ・メカニケ』(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年) ** [[豊田利幸]]解説・訳 『世界の名著 ガリレオ』中央公論社 * 『ガリレオ書簡集 天文学的発見から聖書解釈まで』 小林満訳、[[水声社]]、2022年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author= 青木靖三|authorlink=青木靖三 |year = 1965 |title = ガリレオ・ガリレイ |publisher = [[岩波新書]] 青版 |isbn = 4000038621 |ref = 青木(1965) }} * {{Cite book|和書 |author= 佐藤満彦|authorlink=佐藤満彦 |year = 2000 |title = ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿 |publisher = [[中公新書]] |isbn = 978-4121015488 |ref = 佐藤(2000) }} * {{Cite book|和書 |author = W・シーア、M・アルティガス |year = 2005 |title = ローマのガリレオ 天才の栄光と破滅 |others = [[浜林正夫]]、柴田知薫子訳 |publisher = [[大月書店]] |isbn = 4272440322 |ref = シーア、アルティガス(1965) }} * {{Cite book|和書 |author = アンニバレ・ファントリ |year = 2010 |title = ガリレオ コペルニクス説のために、教会のために |others = 大谷啓治監修、須藤和夫訳 |publisher = [[みすず書房]] |isbn = 4622075121 |ref = ファントリ(2010) }} * {{Cite book|和書 |author = ジェームズ・マクラクラン |year = 2007 |title = ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで(オックスフォード科学の肖像) |others = 野本陽代訳 |publisher = [[大月書店]] |isbn = 978-4272440436 |ref = マクラクラン(2007) }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 1992 |title = 学習漫画 世界の伝記 〔26〕 ガリレオ・ガリレイ |others = |publisher = [[集英社]] |isbn = 9784082400262 |ref = (2002) }} * {{Cite book|和書 |author=豊田利幸責任編集|authorlink=豊田利幸 |year = 1979 |title = [[世界の名著]]26 ガリレオ |others = 新版・中公バックス |publisher = 中央公論社 |isbn = 4-12-400636-5 |ref = 豊田(1995) }} * {{Cite book|和書 |author=朝永振一郎|authorlink=朝永振一郎 |year = 1981 |title = 物理学読本 |edition = 第2版 |others = |publisher = [[みすず書房]] |isbn = 4-622-02503-5 |ref = 朝永(1981) }} === 伝記・研究文献 === * {{Cite book|和書 |author= トンマーゾ・カンパネッラ|authorlink=トンマーゾ・カンパネッラ |others = [[澤井繁男]]訳 |year = 2002 |title = ガリレオの弁明 |publisher = [[ちくま学芸文庫]] }} * {{Cite book|和書 |author = スティルマン・ドレイク |others = 田中一郎訳 |year = 1984 |title = ガリレオの生涯 1 |publisher = [[共立出版]] |isbn = 4320008189 }} * {{Cite book|和書 |author = スティルマン・ドレイク |others = 田中一郎訳 |year = 1984-85 |title = ガリレオの生涯 2 |publisher = [[共立出版]] |isbn = 4320008197 }} * {{Cite book|和書 |author = スティルマン・ドレイク |others = 田中一郎訳 |year = 1984-85 |title = ガリレオの生涯 3 |publisher = [[共立出版]] |isbn = 4320008200 }} * {{Cite book|和書 |author= 田中一郎|authorlink=田中一郎 (科学史学者) |year = 1995 |title = ガリレオ 庇護者たちの網のなかで |publisher = [[中公新書]] |isbn = 412101250X }} * {{Cite book|和書 |author = 田中一郎 |year = 2015 |title = ガリレオ裁判 400年後の真実 |publisher = [[岩波新書]] |isbn = 4004315697 }} * {{Cite book|和書 |author= 伊藤和行|authorlink=伊藤和行 |year = 2013 |title = ガリレオ 望遠鏡が発見した宇宙 |publisher = 中公新書 |isbn = 4121022394 }} * {{Cite book|和書 |author= 高橋憲一|authorlink=高橋憲一 (科学史家) |year = 2006 |title = ガリレオの迷宮 自然は数学の言語で書かれているか? |publisher = [[共立出版]] |isbn = 4320005694 }} * {{Cite book|和書 |author= 伊東俊太郎|authorlink=伊東俊太郎 |year = 1985 |title = 人類の知的遺産31 ガリレオ |publisher = [[講談社]] }}後半に著作編訳を収録。 * {{Cite book|和書 |author= アレクサンドル・コイレ|authorlink=アレクサンドル・コイレ |others = 菅谷暁訳 |year = 1988 |title = ガリレオ研究 |series = 叢書ウニベルシタス |publisher = [[法政大学出版局]] }} * {{Cite book|和書 |author = ジョルジュ・ミノワ |others = [[幸田礼雅]]訳 |year = 2011 |title = ガリレオ 伝説を排した実像 |series = [[文庫クセジュ]] |publisher = [[白水社]] }} * {{Cite book|和書 |author = ジャン=ピエール・モーリ |others = 田中一郎監修、遠藤ゆかり訳 |year = 2008 |title = ガリレオ はじめて「宇宙」を見た男 |series =[[「知の再発見」双書]]140 |publisher = [[創元社]] }} * {{Cite book|和書 |author = デーヴァ・ソベル |others = 田中一郎監修、田中勝彦訳 |year = 2002 |title = ガリレオの娘 科学と信仰と愛についての父への手紙 |publisher = [[DHC]] |isbn = 4887242646 }} * {{Cite book|和書 |author = アルフレッド・エンゲルベルトヴィッチ・シテクリ |others = 松野武訳 |year = 1977(新版1986) |title = ガリレオの生涯 |publisher = 東京図書 }} == 関連項目 == * [[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]] - [[真空]]実験で有名な、ガリレオの晩年の弟子 * [[ガリレオ・ガリレイ国際空港]] - ガリレオの名を冠したピサの空港 * [[ガリレオ温度計]] * [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]] * [[天文学者の一覧#16世紀生まれの天文学者|16世紀生まれの天文学者]] == 外部リンク == {{wikisourcelang|it|Autore:Galileo Galilei|ガリレオ・ガリレイ}} {{Wikiquote|ガリレオ・ガリレイ}} {{Commons&cat|Galileo Galilei|Galileo Galilei}} * [https://www.museogalileo.it/en/ Museo Galileo] - [[ガリレオ博物館]]公式サイト * {{Kotobank|ガリレイ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かりれい かりれお}} [[Category:ガリレオ・ガリレイ|*]] [[Category:16世紀の天文学者]] [[Category:17世紀の天文学者]] [[Category:16世紀イタリアの人物]] [[Category:17世紀イタリアの人物]] [[Category:16世紀の物理学者]] [[Category:17世紀の物理学者]] [[Category:16世紀イタリアの哲学者]] [[Category:17世紀イタリアの哲学者]] [[Category:イタリアの物理学者]] [[Category:イタリアの天文学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:宗教と科学に関する著作家]] [[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]] [[Category:パドヴァ大学の教員]] [[Category:イタリア・リラ紙幣の人物]] [[Category:トスカーナ大公国の人物]] [[Category:ピサ出身の人物]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:1564年生]] [[Category:1642年没]]
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山内雅人
山内 雅人(やまのうち まさと、1929年4月3日 - 2003年4月7日)は、日本の声優、俳優。東京府(現東京都)出身。別芸名に、山ノ内雅人、山内幹也がある。 旧制芝中学(現芝中学校・高等学校)を経て、1950年に早稲田大学法学部を卒業。早大自由舞台創設。鎌倉アカデミア演劇科修了。1949年にNHK東京放送劇団へ4期生として入団。同期に黒沢良、川久保潔らがいる。 ラジオドラマ『笛吹童子』の霧ノ小次郎役でデビュー。以降は声優として活動し、海外ドラマ『マッコレー隊長』以降は洋画吹き替えにも多く出演、モンゴメリー・クリフトやタイロン・パワーなどの二枚目俳優を担当した。ラジオ『楽天くらぶ』の司会やテレビ『私だけが知っている』のナレーターとしても活躍し、出演本数は2万本以上とも言われる。 美しい話し言葉の普及と朗読に力を入れ、朗読会や朗読教室を主宰。1974年には国語学者の金田一春彦と共にNHK文化基金を元に、江戸と東京の言葉を聴衆する放送表現教育センターを設立。同センターは、日本初の朗読の専門学校でやがてナレーターや声優の養成所となり、山内は代表を務めて後進の指導にあたり、ドラマチックリーディングという読み聞かせ方法を提唱していた。 1977年にNHK東京放送劇団を退団した後は、Kプロダクションを経て、フリーで活動。 2003年4月7日に東京都目黒区で肺癌のため死去。満74歳没(享年75)。 声種はハイバリトン。NHKではNHK放送業務局長賞を受賞している。 洋画の吹き替えで印象に残った担当作品に、『長い灰色の線』『剃刀の刃』『ニュールンベルグ裁判』を挙げている。 ドラマ『ドクター・キルデア』では、日本語版制作を行なっていた太平洋テレビの「お偉いさん」が銀座のホステスたちに「良い声の役者は誰?」と聞いたところ皆が「山内雅人」と答えたため、その人物から指名されて主役のリチャード・チェンバレンを吹き替えることになったという。 山内の死後、持ち役を引き継いだのは以下の通り。
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山内 雅人は、日本の声優、俳優。東京府(現東京都)出身。別芸名に、山ノ内雅人、山内幹也がある。
{{声優 | 名前 = 山内 雅人 | ふりがな = やまのうち まさと | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 山内 幹雄(やまうち みきお){{R|yahoo|47news|コトバンク}} | 愛称 = | 性別 = [[男性]] | 出生地 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京府]](現[[東京都]]){{R|talent}} | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[目黒区]]{{R|47news}} | 生年 = 1929 | 生月 = 4 | 生日 = 3 | 没年 = 2003 | 没月 = 4 | 没日 = 7 | 血液型 = | 身長 = 158cm(1963年時点){{R|タレント名鑑63}} | 職業 = [[声優]]、[[俳優]] | 事務所 = | 配偶者 = あり{{R|yahoo}} | 著名な家族 = | 公式サイト = | 時点 = {{R|talent}} | 身長2 = 161 | 体重 = 56 | 活動期間 = [[1951年]] - [[2003年]] | デビュー作 = 霧ノ小次郎(『[[笛吹童子]]』){{R|yahoo}} | 活動 = }} '''山内 雅人'''(やまのうち まさと、[[1929年]][[4月3日]]{{R|タレント名鑑63}} - [[2003年]][[4月7日]]{{R|47news}}<ref name="コトバンク">{{Cite Kotobank|山内%20雅人-1674543|title=山内 雅人とは|accessdate=2022-01-10}}</ref><ref name="excite">{{Cite news |和書|url=https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PE1bf321e6495c679c6f2c0284a2db32b4c9623902/|title=山内 雅人|newspaper= Excite News |date= |agency=エキサイト株式会社|accessdate= 2023-11-05}}</ref>)は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優]]。[[東京府]](現[[東京都]])出身{{R|talent}}。別[[芸名]]に、'''山ノ内雅人'''<ref name="タレント名鑑63">{{Cite book|和書|year = 1963|title = タレント名鑑NO1改訂版|publisher = [[芸能春秋社]]|page =91}}</ref>、'''山内幹也'''がある。 == 来歴 == 旧制芝中学(現[[芝中学校・高等学校]])を経て<ref>{{Cite journal|和書 |author=猪熊建夫|year=2017|title=名門高校の校風と人脈226、芝高校(私立・東京都港区)|journal=週刊エコノミスト 2017年01月31日号|volume=|page=45}}</ref>、[[1950年]]に[[早稲田大学]]{{R|talent}}[[法学部]]を卒業。早大自由舞台創設{{R|タレント名鑑63}}。[[鎌倉アカデミア]]演劇科修了{{R|タレント名鑑63}}。[[1949年]]に[[日本放送協会|NHK]][[東京放送劇団]]へ4期生として入団{{R|47news}}。同期に[[黒沢良]]、[[川久保潔]]らがいる。 [[ラジオドラマ]]『[[笛吹童子]]』の霧ノ小次郎役でデビュー{{R|yahoo}}。以降は声優として活動し、海外ドラマ『[[マッコレー隊長]]』以降は<ref name="eiga">{{Cite journal |和書 |year=1980 |journal=[[SCREEN (雑誌)|スクリーン]] 1980年8月号 |publisher=近代映画社 |pages={{要ページ番号|date=2022年10月}} }}</ref>洋画吹き替えにも多く出演、[[モンゴメリー・クリフト]]や[[タイロン・パワー]]などの二枚目俳優を担当した。ラジオ『楽天くらぶ』の司会やテレビ『私だけが知っている』のナレーターとしても活躍し、出演本数は2万本以上とも言われる{{R|47news}}。 美しい話し言葉の普及と朗読に力を入れ、朗読会や朗読教室を主宰。[[1974年]]には国語学者の[[金田一春彦]]と共にNHK文化基金を元に、[[江戸]]と東京の言葉を聴衆する放送表現教育センターを設立{{R|47news}}<ref name="hhksdra">{{Wayback |url=http://www.hhksdra.com/profile.html |title=放送表現教育センター/Dramatic Reading | 会社概要・歩み |date=20110122112151}}</ref>。同センターは、日本初の朗読の専門学校で<ref>{{Wayback |url=https://www.mejiro.ac.jp/event/event2010/101127_child.html |title=目白大学/平成22年度目白大学子ども学科秋季公開講座「明日から使える保育実技講習会」|date=20101125000722}}</ref>やがてナレーターや声優の養成所となり、山内は代表を務めて後進の指導にあたり、ドラマチックリーディングという読み聞かせ方法を提唱していた{{R|hhksdra}}<ref>{{Wayback |url=http://hino-shakyo.com/lifelongstudy/service/b02/ |title=文化・教養 | サービスのカテゴリー | ひの社会教育センター・生涯学習教室(成人クラス) |date=20140228150448}}</ref>。 [[1977年]]にNHK東京放送劇団を退団した後は、Kプロダクション<ref name="声優の世界">{{Cite book|和書|author=|title=声優の世界-アニメーションから外国映画まで |series = [[ファンタスティックコレクション]]別冊|page=108|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=|date=1979-10-30}}</ref>を経て、[[フリーランス|フリー]]で活動。 [[2003年]][[4月7日]]に[[東京都]][[目黒区]]で[[肺癌]]のため死去。満74歳没(享年75){{R|47news}}。 == 人物 == [[音域#人声の音域|声種]]は[[バリトン|ハイバリトン]]{{R|声優の世界}}。NHKではNHK放送業務局長賞を受賞している。 洋画の吹き替えで印象に残った担当作品に、『[[長い灰色の線]]』『[[剃刀の刃 (1946年の映画)|剃刀の刃]]』『[[ニュールンベルグ裁判]]』を挙げている{{R|eiga}}。 ドラマ『[[ドクター・キルデア]]』では、日本語版制作を行なっていた[[太平洋テレビ]]の「お偉いさん」が[[銀座]]の[[ホステス]]たちに「良い声の役者は誰?」と聞いたところ皆が「山内雅人」と答えたため、その人物から指名されて主役の[[リチャード・チェンバレン]]を吹き替えることになったという{{R|eiga}}。 == 後任 == 山内の死後、持ち役を引き継いだのは以下の通り。 * [[阪脩]](『[[装甲騎兵ボトムズ 幻影篇]]』:ヴィアチェスラフ・ダ・モンテウェルズ役) * [[筈見純]](『[[Xファイル]]』テレビ朝日版:シガレット・スモーキング・マン役) * [[勝部演之]](『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊|GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0]]』:外務大臣役) == 出演 == === テレビドラマ === * [[大河ドラマ]]([[日本放送協会|NHK]]) ** [[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]](1964年) - [[上杉綱憲]] ** [[峠の群像]](1982年) - [[浅野綱長]] ** [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](1983年) - [[生駒親正]] * [[江戸特捜指令]](1976年、[[毎日放送]]) - 語り * [[旅路 (1967年のテレビドラマ)|旅路]](1967年、[[NHK連続テレビ小説]]) - ナレーション * [[あいつの季節]](1969年、[[TBSテレビ|TBS]]) - ナレーション === 吹き替え === ==== 俳優 ==== {{定義リスト2 | [[モンゴメリー・クリフト]] | * [[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]](ジョン・ショーネシー) * [[赤い河]](マシュー・ガース / マット) * [[荒馬と女]](パース・ハウランド)※テレビ朝日版 * [[去年の夏 突然に]](クックロヴィッツ博士) * [[ザ・スパイ]](ジェームズ・バウワー教授) * [[山河遥かなり]](ラルフ・スティーヴンスン) * [[終着駅 (映画)|終着駅]](ジョヴァンニ・ドリア)※NET版 * [[ニュールンベルグ裁判]](ルドルフ・ペーターゼン)※NET版 * {{仮リンク|フロイド/隠された欲望|en|Freud: The Secret Passion}}([[ジークムント・フロイト]]) * [[若き獅子たち (映画)|若き獅子たち]](ノア) | [[タイロン・パワー]] | * [[愛情物語 (1956年の映画)|愛情物語]]([[エディ・デューチン]]) * [[快傑ゾロ (1940年の映画)|怪傑ゾロ]](ゾロ / ディエゴ・ヴェガ) * [[剃刀の刃 (1946年の映画)|剃刀の刃]](ラリー・ダレル) * [[地獄への道]]([[ジェシー・ジェイムズ]]) * [[情婦 (映画)|情婦]](レナード・ヴォール) * [[スエズ (1938年の映画)|スエズ]]([[フェルディナン・ド・レセップス]]) * [[潜航決戦隊]](ウォード・スチュワート) * [[血と砂 (1941年の映画)|血と砂]](フワン・ギャラルド) * [[長い灰色の線]]([[マーティン・マー]]) * [[二十七人の漂流者]](アレック・ホームズ) * [[陽はまた昇る (1957年の映画)|陽はまた昇る]](ジェイク・バーンズ) | [[ジャン・マレー]] | * [[城塞の決闘]](ラガルデール) * {{仮リンク|快傑キャピタン|fr|Le Capitan (film, 1960)}}(フランソワ・デ・キャピタン) * [[戦火を駆ける快男児]] * [[パリの秘密]](ロドルフ) * [[美女と野獣 (1946年の映画)|美女と野獣]](野獣 / アヴナン) * [[ファントマ 危機脱出]](ファントマ) * [[ファントマ 電光石火]](ファントマ) * [[ファントマ ミサイル作戦]](ファントマ) }} ==== 映画 ==== * [[愛と死の間で (1991年の映画)|愛と死の間で]](フランクリン・マドソン〈[[デレク・ジャコビ]]〉) * [[アミスタッド]](ジョン・クィンシー・アダムズ〈[[アンソニー・ホプキンス]]〉)※DVD版 * [[ウォール街 (映画)|ウォール街]](カール・フォックス〈[[マーティン・シーン]]〉)※機内上映版<ref>{{Cite news|title=ウォール街[吹]機内上映版|date=2022-11-25|url=https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=31759|accessdate=2022-11-25}}</ref> * {{仮リンク|美しき冒険|de|Das schöne Abenteuer (1959)}}(マリウス〈[[ローベルト・グラーフ]]〉) * [[エクソシスト3]](ジョセフ・ダイアー神父〈[[エド・フランダース]])※ビデオ版 * [[エンゼル・ハート]](イーサン・クルーズマーク〈[[ストッカー・フォンテリュー]]〉)※テレビ朝日版 * [[女と男の名誉]](アンジェロ・"パパ"・パルタンナ〈[[ジョン・ランドルフ (俳優)|ジョン・ランドルフ]]〉) * [[悲しみは空の彼方に]](スティーブ〈[[ジョン・ギャヴィン]]〉) * [[金星ロケット発進す]]([[ユリウス・オンゲーベ]]) * [[結婚しない女]](ボブ〈[[アンドリュー・ダンカン]])※日本テレビ版 * [[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]](ジョニー・フォンテーン〈[[アル・マルティーノ]]〉)※日本テレビ版 * [[コレヒドール戦記]](ジョン・ブルックリー大尉〈[[ロバート・モンゴメリー]]〉)※東京12チャンネル * [[コンドル (1975年の映画)|コンドル]](ウィックス〈[[マイケル・ケーン]]〉)※テレビ朝日旧録版 * [[サーカス物語]](語り手) * [[シェイマス (映画)|シェイマス]](ハードコア中佐〈[[ジョン・P・ライアン]]〉) * [[地獄で眠れ]](クレメント・モーロック〈[[ジョゼフ・メイハー]]) * [[死にゆく者への祈り]](マイケル・ダ・コスタ神父〈[[ボブ・ホスキンス]]〉) * [[十二人の怒れる男#映画版|十二人の怒れる男]](陪審員6番〈[[エドワード・ビンズ]]〉)※日本テレビ版 * [[ジョー・ブラックをよろしく]](ウィリアム“ビル”・パリッシュ〈アンソニー・ホプキンス〉)※DVD版 * {{仮リンク|女性の反逆|en|A Woman Rebels}}(ジェラルド・ワニング・ガイソード〈[[ヴァン・ヘフリン|バン・ヘフリン]]〉) * [[新・おしゃれ泥棒]](マッセイ〈[[トレヴァー・ハワード]]〉) * [[侵略 (映画)|侵略]](マックホワイト〈[[マーロン・ブランド]]〉) * [[スタートレック|スタートレックシリーズ]]([[レナード・マッコイ|ドクター・マッコイ]]〈[[デフォレスト・ケリー]]〉) ** [[スタートレック (映画)|スタートレック]] ** [[スタートレックII カーンの逆襲]] ** [[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!]] ※日本テレビ版 * [[ダーティ・ダンシング]](ジェイク・ハウスマン〈[[ジェリー・オーバック]]〉)※フジテレビ版 * [[ターミネーター2]](ドクター・シルバーマン〈[[アール・ボーエン]]〉)※ソフト版 * [[第三の男]](管理人〈[[パウル・ヘルビガー]]〉) * [[大地震 (1974年の映画)|大地震]](サム・ロイス〈[[ローン・グリーン]]〉)※テレビ朝日版 * [[タイム・マシン 80万年後の世界へ]](ジョージ〈[[ロッド・テイラー]]〉) * [[ダイヤルMを廻せ!]](マーク・ハリディ〈[[ロバート・カミングス]]〉)※TBS版、テレビ朝日版 * [[打撃王 (映画)|打撃王]](語り手) * [[地球の静止する日]](トム・スティーブンス〈[[ヒュー・マーロウ]]〉) * [[超高層プロフェッショナル]](エディ・キャシディ〈[[ハリス・ユーリン]]〉) * [[月世界征服]](ジム・バーンズ〈ジョン・アーチャー〉) * {{仮リンク|デス・ミッション/怒りの戦場|en|Death Before Dishonor (film)}}(ハロラン大佐〈[[ブライアン・キース]]〉)※テレビ東京版 * {{仮リンク|デス・リバー/失なわれた帝国|en|River of Death (film)}}(ヘンリッチ・スパーツ〈[[ドナルド・プレザンス]]〉) * [[ドリトル先生不思議な旅]](アルバート・ブロッサム〈[[リチャード・アッテンボロー]]〉)※LD版・DVD版 * [[永遠に美しく…]](牧師〈[[ジョン・イングル]]〉)※日本テレビ版 * [[ナヴァロンの嵐#映画|ナバロンの嵐]](ペトロヴィッチ少佐〈[[アラン・バデル]]〉) ※テレビ東京版 * [[ナポリと女と泥棒たち]](ジャック〈[[ハリー・ガーディノ]]〉)※TBS版(名作洋画劇場VHS収録) * [[2ペンスの希望]](アントーニオ〈[[V.ムゾリーノ]]〉) * [[バス停留所 (映画)|バス停留所]](ヴァージル・ブレッシング〈[[アーサー・オコンネル]]〉)※テレビ東京版 * [[バット★21]](ジョージ・ウォーカー大佐〈[[ジェリー・リード]]〉)※VHS版 * [[バトルランナー (映画)|バトルランナー]](デーモン・キリアン〈[[リチャード・ドーソン (俳優)|リチャード・ドーソン]]〉)※テレビ朝日版(BD収録) * [[パラダイム (映画)|パラダイム]](司祭〈[[ドナルド・プレザンス]]〉) * [[遥かなる大地へ]](ダニエル・クリスティ〈[[ロバート・プロスキー]]〉) * [[ピンク・パンサー2]](ドレフュス主任警部〈[[ハーバート・ロム]]〉)※日本テレビ版 * [[フィラデルフィア・エクスペリメント]](ジェームズ・ロングストリート博士〈[[エリック・クリスマス]]〉)※テレビ朝日版 * [[ブレイブハート]]([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]〈[[パトリック・マクグーハン]]〉) ※テレビ朝日版 * [[蛇皮の服を着た男]](リー・クレイトン〈[[マーロン・ブランド]]〉) * [[ミズーリ横断]](語り手) * [[ミッドウェイ (1976年の映画)|ミッドウェイ]]([[南雲忠一]]〈[[ジェームズ繁田]]〉) ※テレビ朝日版 * {{仮リンク|夕陽の対決|en|Heaven with a Gun}}(ジム・キリアン / パスター・ジム〈[[グレン・フォード]]〉) * [[予期せぬ出来事]](レス・マングラム〈ロッド・テイラー〉)※東京12チャンネル版 * [[夜の訪問者 (映画)|夜の訪問者]](カタンガ〈[[ジャン・トパール]]〉<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=30492 |title= 夜の訪問者[吹]水曜ロードショー版 |publisher=スターチャンネル |accessdate=2023-07-10}}</ref>)※日本テレビ版(DVD収録) * [[ラストエンペラー]]([[張謙和]]〈[[ケイリー=ヒロユキ・タガワ]]〉) * [[レッド・スコルピオン]](ヴォルテーク将軍〈[[T・P・マッケンナ]]〉)※ソフト版 * [[ローマの休日]](アーヴィング・ラドビッチ〈[[エディ・アルバート]]〉)※フジテレビ版 * [[ロビンとマリアン]](ラナルフ卿〈[[ケネス・ヘイ]]〉)※テレビ朝日版 * [[わが心のボルチモア]](サム・クリチンスキー〈[[アーミン・ミューラー=スタール]]〉) * [[若者のすべて (映画)|若者のすべて]](シモーネ・パロンディ〈[[レナート・サルヴァトーリ]]〉) ==== 海外ドラマ ==== * [[アボンリーへの道]](ブレア医師) * [[いたずら幽霊]]([[グラハム・スタック|グラハム・スターク]]) * [[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]](マシュー) * 宇宙探検 * [[頑固じいさん孫3人]] ** 「老兵は消えず」(判事) * {{仮リンク|暗く長い夜|en|The Longest Night (1972 film)}}(ウィルス〈[[マイク・ファレル]]〉) * [[警部マクロード]] ** 「砂漠の陰謀」(イエーツ〈[[マーレイ・ハミルトン|マレー・ハミルトン]]〉) * [[ジェシカおばさんの事件簿]] ** 「仮面祭りの悪いやつ・刺客シラノの実体は?」(キャベット警部〈[[チェザーレ・ダノバ]]〉) * [[新・大草原の小さな家]] ** 「小さな隣人」(ルー〈[[ビリー・バーティ]]〉) * {{仮リンク|ドクター・ウェルビー|en|Marcus Welby, M.D.}} ** 「やすらぎの海」(ピーター〈[[ジョン・エリクソン]]〉) * {{仮リンク|ドクター・キルデア|en|Dr. Kildare (TV series)}}(ジェームズ・キルデア〈[[リチャード・チェンバレン]]〉) * [[謎の遺産]](キャシディ〈[[ビル・ハンター]]〉) * {{仮リンク|パパはメロメロ|en|My World and Welcome to It}}(ジョン・モンロー〈[[ウィリアム・ウィンダム (俳優)|ウィリアム・ウィンダム]]〉) * ひとすじの道 ** 「禁酒の誓い」(バートン〈[[ヒュー・サンダース]]〉) ** 「心の鎖」(バートン〈ロバート・バートン〉) ** 「かわいい天使」(バートン〈[[ポール・フィックス (俳優)|ポール・フィックス]]〉) ** 「目撃者の告白」(フォルソン([[ハーバート・ルスレイ]]〉) ** 「カストロの祈り」(ゴンザレス(ジョン・ベラディ〉) * {{仮リンク|弁護士ジャッド|en|Judd, for the Defense}} ** 「危険な依頼人」(エリス〈[[ウィリアム・シャラート|ウィリアム・シャーレット]]〉) ** 「死の農場」(ガスリー〈[[ジェームズ・グレゴリー (俳優)|ジェームス・グレゴリ]]〉) ** 「裏切り者」(フランク〈[[ハリー・タウネス]]〉) * [[マックス・ヘッドルーム]](ベン・シェビオット〈[[ジョージ・コー]]〉) * [[マッコレー隊長]] * {{仮リンク|ルクレール兄弟の旅|fr|Le Tour de France par deux enfants (série télévisée)}}(エペルラン、船長、黒い服の男) * 我が命つきるとも(テレビ映画) * [[Xファイル|X-ファイル]](スモーキング・マン〈[[ウィリアム・B・デイヴィス]]〉) ※テレビ朝日版 ==== 海外アニメ ==== * [[カレイジャス・キャット]] === テレビアニメ === {{dl2 | 1966年 | * [[レインボー戦隊ロビン]](シーザー) | 1971年 | * [[アニメンタリー 決断]]<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7433| title = 決断| website=[[メディア芸術データベース]] |publisher=[[文化庁]]| accessdate = 2022-10-29}}</ref> | 1973年 | * [[荒野の少年イサム]] * [[新造人間キャシャーン]](東光太郎博士<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7504| title = 新造人間キャシャーン| website=メディア芸術データベース |publisher=文化庁 |accessdate = 2022-10-29}}</ref>) | 1977年 | * [[あらいぐまラスカル]](ウィラード・ノース<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1061/| title = あらいぐまラスカル| publisher = [[日本アニメーション]]| accessdate = 2016-06-10}}</ref>) | 1978年 | * [[未来少年コナン]](おじい<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1295/| title = 未来少年コナン| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref>、ラオ博士、ルーケの父) * [[無敵鋼人ダイターン3]](ドン・ザウサー{{R|ダイターン3}}) | 1979年 | * [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世(第2作)]](ナポレオン11世) | 1981年 | * [[太陽の牙ダグラム]](ドナン・カシム<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.dougram.net/world/index.html#page02| title = スタッフ&キャスト| website = 太陽の牙ダグラム公式サイト |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]| accessdate = 2016-06-07}}</ref>、ナレーター) | 1983年 | * [[アルプス物語 わたしのアンネット]](ギベット) | 1985年 | * [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第3シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第3作)]](おじいさん) | 1986年 | * [[青春アニメ全集]]「[[姿三四郎]]」(山本半助) | 1989年 | * [[ジャングル大帝]](ヌー) | 1990年 | * [[楽しいムーミン一家]](ジャコウネズミ) | 1995年 | * [[ストリートファイターII V]](老人) | 1996年 | * [[少年サンタの大冒険!]]([[サンタ・クロース]]) * [[天空のエスカフローネ]](ドルンカーク<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.escaflowne.jp/story/index.html|title=作品紹介|work=天空のエスカフローネ|publisher=サンライズ|accessdate=2017-03-09}}</ref>) * [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](大木田) | 1997年 | * [[手塚治虫の旧約聖書物語]]([[サムエル]]) | 1998年 | * [[サイレントメビウス]](闇雲甲咆) * [[DTエイトロン]](おおじい様) }} === 劇場アニメ === {{dl2 | 1963年 | * [[わんぱく王子の大蛇退治]](ワダツミ、クシナダ姫の父) | 1966年 | * [[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]](ブラックゴースト団ボス<ref>{{Cite web|和書| url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_cyborg009/character/| title=サイボーグ009|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2023-01-13}}</ref>) | 1967年 | * サイボーグ009 怪獣戦争(ブラックゴースト団ボス<ref>{{Cite web|和書| url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_cyborg009_kaiju/character/| title=サイボーグ009 怪獣戦争|キャラクター/キャスト| publisher=東映アニメーション| accessdate=2023-01-13}}</ref>) | 1972年 | * [[魔犬ライナー0011変身せよ!]](林博士) | 1979年 | * [[未来少年コナン]](おじい<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1330/| title = 未来少年コナン (劇場版)| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref>) | 1980年 | * [[森は生きている|世界名作童話 森は生きている]](ひげの兵士<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C409799| title = 世界名作童話 森は生きている| website=メディア芸術データベース |publisher=文化庁 |accessdate = 2022-10-29}}</ref>) | 1981年 | * [[宇宙戦士バルディオス|劇場版 宇宙戦士バルディオス]](レイガン博士) | 1983年 | * チョロQダグラム * [[太陽の牙ダグラム|ドキュメント 太陽の牙ダグラム]](ナレーター、ドナン) | 1984年 | * 未来少年コナン 巨大機ギガントの復活(おじい<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nippon-animation.co.jp/work/1460/| title = 未来少年コナン 巨大機ギガントの復活| publisher = 日本アニメーション| accessdate = 2016-06-03}}</ref>) | 1986年 | * [[ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争]](キジム爺) | 1992年 | * [[楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星]](ジャコウネズミ) | 1995年 | * [[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]](外務大臣) | 1998年 | * [[バニパルウィット 突然!猫の国|とつぜん!ネコの国 バニパルウィット]](サンダダ) | 1999年 | * [[母をたずねて三千里|MARCO 母をたずねて三千里]](フェデリコ) }} === OVA === * [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]](1991年、オリベイラ) * [[装甲騎兵ボトムズ 赫奕たる異端]](1994年、モンテウェルズ) === ゲーム === * [[未来少年コナン#ゲーム|未来少年コナン]](1992年、おじい、ラオ博士) ※[[PCエンジン]]版 === ドラマCD === * [[花の慶次|集英社カセットコミックシリーズ 花の慶次 -雲のかなたに-]]([[徳川家康]]) === 特撮 === * [[スペクトルマン]](流星仮面の声) === 人形劇 === * [[こどもにんぎょう劇場]]「[[パンをふんだ娘|パンをふんだむすめ]]」(語り) === ラジオドラマ === * 天の川(1952年、NHK) - 店員<ref>{{Cite book|和書|author= 伊馬春部|authorlink=伊馬春部|year = 1955|title=天の川|publisher=[[宝文館]]|page = 136|chapter=天の川}}</ref> === ラジオパーソナリティ === * [[明日の農業・歌謡曲でおはよう]](1980年代、[[TBSラジオ]]) == 脚注 == {{Reflist |refs= <ref name="47news">{{Cite news |和書|title=山内雅人氏死去 声優 |newspaper=[[47NEWS]] |date=2003-04-08 |agency=[[共同通信社]] |url=http://www.47news.jp/CN/200304/CN2003040801000476.html |archiveurl=https://archive.ph/20140228110013/http://www.47news.jp/CN/200304/CN2003040801000476.html |archivedate=2014-02-18 |accessdate=2020-02-06 }}</ref> <ref name="talent">{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(1984年版)|page=234|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=|date=1983}}</ref> <ref name="yahoo">{{Cite news |和書|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030409-00000040-mai-peo |title=<訃報>山内雅人さん74歳=声優草分け、俳優 |newspaper=Yahoo!ニュース |agency=[[毎日新聞]] |publisher=Yahoo Japan |date=2003-04-08 |accessdate=2020-02-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030421141657/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030409-00000040-mai-peo|archivedate=2003-04-21}}</ref> <ref name="ダイターン3">{{Cite web | accessdate = 2022-11-14 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = CHARACTER | url = http://daitarn3.net/character/ | website = アニメ 無敵鋼人ダイターン3 公式サイト}}</ref> }} == 外部リンク == * [https://thetv.jp/person/0000025611/ 山内雅人のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン] * {{Wayback|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/山内雅人/#person-110074566_ |title=山内雅人の解説 - goo人名事典 |date=20220109204451}} * {{Kotobank|山内%20雅人-1674543|3=山内 雅人}} * {{Kinejun name|90198}} * {{Oricon name|213798}} * {{Movie Walker name|85127}} * {{映画.com name|74733}} * {{Allcinema name|131363}} * {{JMDb name|0148940}} {{デフォルトソート:やまのうち まさと}} [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の男性声優]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1929年生]] [[Category:2003年没]] [[Category:肺癌で亡くなった人物]]
2003-04-08T12:57:12Z
2023-11-19T23:18:41Z
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花婿失踪事件
『花婿失踪事件』(はなむこしっそうじけん、A Case Of Identity)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち3番目に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年9月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes) に収録された。 シャーロック・ホームズは、久しぶりに会ったワトスンと話しながら、手掛けている事件はどれも面白くないものだと愚痴をこぼしていた。そこへ依頼人メアリー・サザーランドが訪れる。 彼女は、母親とその再婚相手のウィンディバンクと、3人で暮らしていた。タイプライターを打ってそれなりの収入を得ているほかに、伯父の遺産からニュージーランド公債の利子分を、年間で100ポンドもらっているという。継父ウィンディバンクは、メアリーと5歳くらいしか違わぬほどに若く、彼女に男友達との交際を禁じているらしい。だがある日、ウィンディバンクがフランスに出かけているあいだに、彼女は舞踏会に行き、そこでホズマー・エンジェルという男と知り合い、間もなく婚約した。 ホズマー・エンジェルは、ある会社の会計係というがその会社名を教えてくれない。自宅の場所を聞けば、会社に寝泊まりしているという。連絡の手紙は郵便局の留置きで出してくれという。もっと不思議なのは、メアリー宛てによこす手紙は、すべてタイプライターで打たれているらしい。エンジェルは、ウィンディバンクがフランスに行っているうちに結婚式をあげ、そのことはあとで報告しようと言った。その結婚式の朝、エンジェルは何か良くない事が起こりそうだという様子を見せる。別々の馬車で教会に向かい、先に到着したメアリーと母親は、エンジェルが馬車から出てくるのを待つが、彼は一向に出てこない。御者が降りて中の様子を見ると、そこにエンジェルの姿はなく、忽然と失踪してしまったのだった。メアリーは、エンジェルは私を捨てるような人ではなく、何かよからぬことが起こったと考えていた。母親は、二度とこのことは話すなと言うし、帰国したウィンディバンクは、そのうち連絡があるだろうと話していた。だが、エンジェルからの手紙は一通も来ず、彼のことを誰に聞いても行方は分からなかった。困り果てたメアリーは、ホームズを頼って来たのだった。 ホームズに、ホズマー・エンジェルから送られてきた手紙4通を預け、メアリーは帰っていった。手紙を読んだホームズは、それの署名までタイプされていることに注目した。これは筆跡を知られると、身元がばれるためではないのか。ホームズは、ある会社とある人物に手紙を出した。会社から返事が来た。人物のほうからも、面会を承諾するという手紙が来た。面会の当日、やって来たのはメアリーの継父ウィンディバンクだ。ホームズは、ホズマー・エンジェルからの手紙とウィンディバンクの手紙が、同じタイプライターで打たれていることを指摘した。どちらも「e」の文字がぼやけていて「r」の文字は一部分が欠けている。ホズマー・エンジェルが捕まるはずがない、と言うウィンディバンク。ホームズは部屋の鍵をかけてから、私はもう捕らえた、と言った。ウィンディバンクは、青ざめて冷や汗を流し椅子にくずれた。 ホームズは、ホズマー・エンジェルとウィンディバンクが同一人物であると言った。メアリーが結婚すると、彼女の収入が入ってこなくなり痛手だ。そこでメアリーに、男性との交際を禁じていたのだが、いつまでも押し通すことはできない。ウィンディバンクは変装して舞踏会に行き、彼女と知り合うように仕向けた。ウィンディバンクが国外にいるときにしか、ホズマー・エンジェルが現れないことの説明もつく。結婚式での失踪も、あらかじめ母親と相談のうえで、馬車に乗るとすぐに反対側のドアから降りていたのだ。これを聞いたウィンディバンクは、冗談でしたことだが、娘があんなに本気になるとは思わなかった、と話した。ホームズが、個人的に鞭打ちの罰を加えると言うと、ウィンディバンクは慌てて部屋から逃げ出して行った。会社からの返事も、ホームズの書いたホズマー・エンジェルの人相に当てはまるのは、当社に勤めるウィンディバンクに間違いない、という内容だった。 ドイルの原稿や書簡の調査などから、短編で3番目に発表された「花婿失踪事件」は2番目の「赤毛組合」より先に書かれたことが判明している。発表順が前後したのは、ドイルの著作権エージェントであるA・P・ワットから『ストランド・マガジン』編集部へこの2編が同時に送られたため、編集部が順番を取り違えて「花婿失踪事件」を後に掲載してしまったのだと考えられている。「赤毛組合」の冒頭で「花婿失踪事件」について触れる場面があり、そこで「花婿失踪事件」が発表済みのような言い回しになっているのは、これが原因である。
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『花婿失踪事件』は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち3番目に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年9月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes) に収録された。
{{Portal|文学}} {{シャーロック・ホームズ|1891年|シャーロック・ホームズの冒険|メアリー・サザーランド|不明<ref>後述の通り、[[赤毛組合]]の事件の少し前である事は間違いない</ref>|ホズマー・エンジェル氏失踪事件}} 『'''花婿失踪事件'''』(はなむこしっそうじけん、''A Case Of Identity'')は、イギリスの小説家、[[アーサー・コナン・ドイル]]による短編小説。[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の一つで、56ある短編小説のうち3番目に発表された作品である。『[[ストランド・マガジン]]』1891年9月号初出。1892年発行の短編集『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』(''The Adventures of Sherlock Holmes'') に収録された<ref>ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、263頁</ref>。 == あらすじ == [[シャーロック・ホームズ]]は、久しぶりに会った[[ジョン・H・ワトスン|ワトスン]]と話しながら、手掛けている事件はどれも面白くないものだと愚痴をこぼしていた<ref>この台詞はのちに、[[ジェームズ・モリアーティ]]を倒した後に引き受ける事件『[[ノーウッドの建築業者]]』の中でも飛び出す。</ref>。そこへ依頼人メアリー・サザーランドが訪れる。 彼女は、母親とその再婚相手のウィンディバンクと、3人で暮らしていた。タイプライターを打ってそれなりの収入を得ているほかに、伯父の遺産からニュージーランド公債の利子分を、年間で100ポンドもらっているという。継父ウィンディバンクは、メアリーと5歳くらいしか違わぬほどに若く、彼女に男友達との交際を禁じているらしい。だがある日、ウィンディバンクがフランスに出かけているあいだに、彼女は舞踏会に行き、そこでホズマー・エンジェルという男と知り合い、間もなく婚約した。 ホズマー・エンジェルは、ある会社の会計係というがその会社名を教えてくれない。自宅の場所を聞けば、会社に寝泊まりしているという。連絡の手紙は郵便局の留置きで出してくれという。もっと不思議なのは、メアリー宛てによこす手紙は、すべてタイプライターで打たれているらしい。エンジェルは、ウィンディバンクがフランスに行っているうちに結婚式をあげ、そのことはあとで報告しようと言った。その結婚式の朝、エンジェルは何か良くない事が起こりそうだという様子を見せる。別々の馬車で教会に向かい、先に到着したメアリーと母親は、エンジェルが馬車から出てくるのを待つが、彼は一向に出てこない。御者が降りて中の様子を見ると、そこにエンジェルの姿はなく、忽然と失踪してしまったのだった。メアリーは、エンジェルは私を捨てるような人ではなく、何かよからぬことが起こったと考えていた。母親は、二度とこのことは話すなと言うし、帰国したウィンディバンクは、そのうち連絡があるだろうと話していた。だが、エンジェルからの手紙は一通も来ず、彼のことを誰に聞いても行方は分からなかった。困り果てたメアリーは、ホームズを頼って来たのだった。 ホームズに、ホズマー・エンジェルから送られてきた手紙4通を預け、メアリーは帰っていった。手紙を読んだホームズは、それの署名までタイプされていることに注目した。これは筆跡を知られると、身元がばれるためではないのか。ホームズは、ある会社とある人物に手紙を出した。会社から返事が来た。人物のほうからも、面会を承諾するという手紙が来た。面会の当日、やって来たのはメアリーの継父ウィンディバンクだ。ホームズは、ホズマー・エンジェルからの手紙とウィンディバンクの手紙が、同じタイプライターで打たれていることを指摘した。どちらも「e」の文字がぼやけていて「r」の文字は一部分が欠けている。ホズマー・エンジェルが捕まるはずがない、と言うウィンディバンク。ホームズは部屋の鍵をかけてから、私はもう捕らえた、と言った。ウィンディバンクは、青ざめて冷や汗を流し椅子にくずれた。 ホームズは、ホズマー・エンジェルとウィンディバンクが同一人物であると言った。メアリーが結婚すると、彼女の収入が入ってこなくなり痛手だ。そこでメアリーに、男性との交際を禁じていたのだが、いつまでも押し通すことはできない。ウィンディバンクは変装して舞踏会に行き、彼女と知り合うように仕向けた。ウィンディバンクが国外にいるときにしか、ホズマー・エンジェルが現れないことの説明もつく。結婚式での失踪も、あらかじめ母親と相談のうえで、馬車に乗るとすぐに反対側のドアから降りていたのだ。これを聞いたウィンディバンクは、冗談でしたことだが、娘があんなに本気になるとは思わなかった、と話した。ホームズが、個人的に鞭打ちの罰を加えると言うと、ウィンディバンクは慌てて部屋から逃げ出して行った。会社からの返事も、ホームズの書いたホズマー・エンジェルの人相に当てはまるのは、当社に勤めるウィンディバンクに間違いない、という内容だった。 == 執筆と発表の順番 == ドイルの原稿や書簡の調査などから、短編で3番目に発表された「花婿失踪事件」は2番目の「[[赤毛組合]]」より先に書かれたことが判明している。発表順が前後したのは、ドイルの[[著作権エージェント]]であるA・P・ワットから『ストランド・マガジン』編集部へこの2編が同時に送られたため、編集部が順番を取り違えて「花婿失踪事件」を後に掲載してしまったのだと考えられている。「赤毛組合」の冒頭で「花婿失踪事件」について触れる場面があり、そこで「花婿失踪事件」が発表済みのような言い回しになっているのは、これが原因である<ref>コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、507頁・671-672頁</ref>。 == 脚注 == <references /> ==外部リンク== * {{青空文庫|000009|54910|新字新仮名|同一事件}}(加藤朝鳥訳・大久保ゆう改訳) {{シャーロック・ホームズの冒険}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はなむこしつそうしけん}} [[Category:シャーロック・ホームズシリーズの短編小説]] [[Category:1890年代の小説]]
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ビデオカード
ビデオカード(英: video card)は、パーソナルコンピュータなどの各種のコンピュータで、映像を信号として出力または入力する機能を、拡張カード(拡張ボード)として独立させたものである。「ビデオボード」「グラフィックカード」「グラフィックボード(俗称グラボ)」「グラフィックスカード」「グラフィックスボード」「グラフィックスアクセラレーターカード」ともいう。本項目では便宜上「ビデオカード」に統一する。 カードに搭載されているチップやメモリによって、対応解像度、表現可能な色数、2D/3D描画性能や機能などが異なる。 GPUを利用したリアルタイムの3次元コンピュータグラフィックス描画や、GPUを汎用計算に用いるGPGPUのパフォーマンスを向上させるには、より高性能なGPUが必要となるが、CPU内蔵GPUなどのiGPU (integrated GPU) よりも交換や増設の容易なビデオカードによるdGPU (discrete GPU) のほうがスケーラビリティの面で優れている。 IBM PCおよびPC/AT互換機の多くの機種では、映像表示用の回路がマザーボード上には実装されておらず、拡張スロットにビデオカードを取り付けて映像出力機能を実現する。この方式は交換・増設が容易であるというメリットがある。しかし、ウェブサイト閲覧や電子メールのやり取り、オフィス作業など日常的な作業を行うには支障のない程度の性能を備えた表示回路を組み込んだチップセット(統合チップセット)と、それを搭載したマザーボードが出現し、そしてさらにGPUを内蔵したCPUが出現したことにより、安価なPCではビデオカードを搭載せず、オンボードグラフィックス機能やオンダイグラフィックス機能を用いるものが一般的となっている。このため、ビデオカードは高速な3D表示性能やマルチディスプレイ機能を目的として追加される場合が多い。また統合グラフィック機能のUMAによる性能低下を避けるためにビデオカードを追加する場合もある。 以上はパーソナルコンピュータ以外のUNIXワークステーションなどでもほぼ同様である。 2004年から、USB接続の製品も発売されている。当初は、PCI-USBブリッジを用いてSIS315を接続するというものであった。その後、2007年からは、DisplayLinkのチップを用いた製品が出回るようになっている。DisplayLinkの製品では、表示装置を仮想化し、ホスト側で映像を圧縮、ハードウェア側で伸張することによって、帯域が太いとは言えないUSB2.0などのバスで、ある程度のパフォーマンスを確保している。その様な構造になっているため、実際のドライバの処理はホスト側の演算コストとなるため、CPUパワーの低い環境でのパフォーマンスは低下する。また、BIOS等を持たないためOSやドライバが起動するまでは使用できないほか、他のビデオドライバと併用する形になるため、その相互の干渉によって不具合が生じたり、使用できないケースも存在する。これらの製品は、通常のビデオカードを複数増設するよりも条件のハードルは低く、パフォーマンスよりも制御できる画面の数、面積を要求するような状況で有用であるほか、NASなどの元々表示装置を持たない機器や、PDAなど、外部出力を持たない機器での利用例も存在する。 一般的なPC/AT互換機用ビデオカードは主に以下のモジュールにより構成される。 表示する描画情報を保持するためのフレームバッファとして利用されるメモリ領域。大容量化に伴い、オフスクリーンバッファやシェーディングバッファなどとしても利用されるようになっている。グラフィックチップとは専用バスでポイント・ツー・ポイント接続される。広帯域で接続したほうが性能的には有利だが、コスト・実装面積・発熱などを優先しグラフィックチップの仕様より狭い帯域幅で接続することもある。 ビデオメモリには高速性と低価格性の両立が求められるため、汎用のDRAMだけでなく専用のRAMが用いられることも多い。かつては専用モジュールにより、ビデオメモリの増設に対応する製品も存在したが、2000年代以降ビデオメモリの増設に対応したビデオカードの存在は確認されておらず、おおむね2GB~16GB程度に固定されている。 NVIDIA GeForce RTX 4090、NVIDIA RTX 6000 Ada 世代、NVIDIA H100 Tensor Core GPUなど、一部のハイエンド製品やワークステーション・サーバー向け製品では24GB/48GB/80GB/96GBといった大容量ビデオメモリを搭載するものも出現している。 さらに、Radeon RX 6700 XT 12GBやGeForce RTX 3060 12GBなど、ミドルレンジやミドルハイクラスの製品でも比較的大容量のビデオメモリを搭載するものも出現している。 実装面積を重視するモバイル用途ではグラフィックチップのLSIパッケージにビデオメモリ用RAMを同梱している製品も存在する。 Unified Memory Architecture (UMA) とは、独立したビデオメモリを持たず、メインメモリをCPUと共有するシステムである。シェアードメモリ(シェアメモリ)・共有メモリなどとも呼ばれる。 メインメモリは同世代の専用ビデオメモリと比較すると低速であり、システムとメモリ帯域を共有するためシステムパフォーマンスが低下するなどのデメリットがある。反面、実装面積が少なく省スペース性に優れる、部品点数が少なく安価であるなどのメリットがあり、チップセット統合グラフィックス機能で多く採用されている。SoCではeDRAMにより性能問題に対処している事例もある。 メインメモリの高速化に伴い、単体型のグラフィックチップにおいてもNVIDIA社のTurbo Cache、AMD社のHyperMemoryなどメインメモリをビデオメモリ領域として利用する技術が登場している。 ビデオカードとシステムを接続するためのインターフェイス。データ転送用に高速な専用バスを用いることが多い。 古いインターフェイス(2017年現在ではほとんど使われない) またHDMIの普及黎明期には、ビデオカード上のHDMI出力端子から音声を出力する為に、基板上にS/PDIF入力インターフェイスを供える製品も登場している。 その他、マルチGPU技術の制御用端子やビデオキャプチャカードとの連携用端子などのオプション機能用の端子が搭載されることも多い。 ビデオカードの出力をディスプレイなど表示デバイスに接続するためのインターフェイス。当初はアナログRGB出力(D-sub)が一般的だったが、2004年頃からDVI-I出力も備えマルチモニター機能に対応するものが一般的になった。S端子やコンポジットによるビデオ出力の他、コンポーネント出力を搭載する製品もあった。2018年現在は、DVI-D、HDMI、DisplayPortといったデジタル出力端子のみを搭載する製品が一般的である。 ビデオカードに搭載されているBIOS。起動直後などシステムがリアルモードで動作している際にVGA互換モード表示機能を提供するためVGA-BIOSなどと呼ばれることもある。ビデオカード基板上のROMチップに格納されている。PC/ATと異なるアーキテクチャであるPC-9821等では、メインボード上に専用の表示回路を持っているため、VGA-BIOSを必要とせず、BIOSのプログラムそのものが非互換であるため、使用可能なボードであっても、BIOSを無効にしておく必要がある。 ビデオカードはPC内部で最も消費電力や発熱量が大きいパーツの一つであり、特に高性能なハイエンド製品では強力な放熱・冷却が必要となる。隣接する拡張スロット用空間を占有してしまうほど巨大なファンやヒートシンクを備える製品が2003年頃から登場し、後に一般化した。1スロットのみ占有するタイプであっても、放熱性を保つよう隣のスロットはなるべく空けておくのが望ましい。また、2018年頃から発売された高性能なビデオカードは冷却装置が大型化し、重量が2.4kgに達するものもある。そのためマザーボードを選択する際は差し込むスロットが重量に耐えきれるか判断して購入する必要がある。大型のビデオカードを利用する際は、パーツの損傷を防ぐため、専用の支え(ステー)の利用を検討することが望ましい。 一方、消費電力の小さいローエンド製品では発熱が少なく軽量でファンレス仕様の物もある。しかし、ファンレスのものはケース内に空気の流れがないと十分に放熱できないことがあるため、冷却が困難な場合はファンがあるものを利用するのが賢明である。 ビデオカードの登場以来、駆動に必要な電力はデータインターフェイスから供給されるのが一般的であったが、2000年代初頭頃からのGPU消費電力の増大に伴い、PCIeスロットからの供給では追いつかなくなり、データインターフェイス経由の給電を補うための専用電源インターフェイスが登場し、ミドルレンジ以上の製品での搭載が一般化した。 一般に補助電源と呼ばれており、それぞれ6ピン 1つで75W、8ピン 1つで150W、12VHPWER 1つで最大600Wまでの電力が供給できる。 以下、IBM PC(とその末裔)のビデオ設計としてのビデオカードについて主に述べる。 1981年のIBM PCは、当時のみならず後のパーソナルコンピュータでも普通に見られた、ビデオ回りのハードウェアをオンボードで固定したものにはせず、ビデオカードとして独立させる設計を採用した。 IBM PCはビデオサブシステム(ビデオチップなど)を本体(マザーボード)にではなく、拡張カード(IBMはアダプターと呼ぶ)に搭載した。IBM PCの発売時には2種類のビデオカード(テキストモードのみのMDAと、グラフィックモードを持つCGA)が提供され、用途により選択・交換できた。また各アダプターは複数の表示モード(ビデオモード)を持ち、ビデオモードはBIOS割り込み(INT 10h, AH=00h, AL=ビデオモード)によってソフトウェアから切替可能である。更に後継のビデオ規格(EGA, VGA, XGA等)は、前身のビデオ規格の全てのビデオモードを含む。 この拡張性により、IBM PCファミリーおよびIBM PC互換機では、ユーザーは本体を買い換えなくても、各社から販売される多様なビデオカードに交換(種類によっては追加して共存)し、対応したディスプレイとソフトウェアを使用すれば、より高速・高解像度な表示環境を得られるようになった。中でもHerculesのHGCは広く使われた。日本での東芝のダイナブック(初代J-3100 SS)も、CGAをベースに独自の日本語モード(640x400)を追加したものだった。 一文字テキスト出力(int 10h, ah=0eh)のような、BIOSの提供する機能としては高水準の機能を用意し(この機能を提供するBIOS ROMは本体ではなくビデオカードに載る)、MS-DOSなどはそちらを使うようにすることで、ハードウェアの差異に対するソフトウェアの互換性を確保した。 1984年のPC/ATではEGAが標準搭載されたが、これはMDAおよびCGAの上位互換であり、MDAとCGAの主要な表示モードを含んでいた。表示モードはソフトウェアで容易に切替できたため、下位の画面モードにしか対応していないソフトウェアも継続して使用できた。この上位互換は、その後の主要なビデオ規格でも継承され、また複数の画面解像度(走査周波数)に自動対応できるマルチスキャン方式のディスプレイが普及した。 EGAは広く普及し、各社がEGA上位互換のグラフィックチップやカードを製造した。日本でのAX規格のJEGAボードも、EGAをベースに独自の日本語モード(640x480)を追加したものだった。 1987年のPS/2ではVGAが搭載された。PS/2ではVGAチップはマザーボード上に搭載された(規格名称もAdapterからArrayになった)が、ビデオカードによる拡張性(置換え可能)は維持された。また従来のPC/AT(および互換機)用にもATバス用のVGA搭載ビデオカードが提供された。EGAの時と同様に上位互換性も維持され、VGAはEGAの画面モードを含み(従ってビデオ規格としてのVGAは、今でもMDAやCGAの各画面モードも含んでいる)、さらに独自の画面モード(640x480、16色など)が追加された。 VGAは急速に普及し、PC/AT互換機でもVGAは事実上の標準となった。2017年現在でもOSのインストール画面などはVGA表示を使用しているものが多い。日本IBMのPS/55はPS/2ベースで、前半は日本独自のディスプレイアダプター(1024x768、XGAとは別規格)を搭載していたが、英語モード(英語DOSおよび後のDOS/V)ではマザーボード上のVGAが使用できた。さらにPS/55も後半(1990年の5535-S以降)は、徐々にVGA(のみ)や、後述のXGAや各種SVGAに移行した。 各社から多様なVGA上位互換 (SVGA) カード(チップ)が提供された。なおSVGAは各社のVGA上位互換カード(チップ)の総称であり、特定の規格や解像度ではない。ただし、各社独自の拡張モード間では互換性はなかったため、VESAがVBEとして共通となるモードを標準化した。この中で有名なのが初期の800x600画面解像度であり、俗に言われる「SVGAの解像度は800x600」の元となった。 1990年代の有名なXGAおよびSVGAのビデオカード(ビデオチップ)には以下があった。 IBMのXGAは、VGAと8514の上位互換(広義にはSVGAの一種だが、歴史的にSVGAと呼ばないことも多い)で、独自の1024x768 256色などの表示モードが追加され、MCA用とISA用のカードが登場した。XGAはマルチメディアを意識した設計であったが、高価な割には高速ではなかったためにIBM製のPC以外には広く普及せず、IBMはXGAの後には他社のSVGAチップを使用するようになった。 SVGAの中でもS3社の86C911は、ビデオサブシステム回路の複数のLSIをワンチップ化した世界初のグラフィックチップで、従来はCPUが行っていた描画処理のうち使用頻度の高いBitBltなどに対しアクセラレーションを行うことで非常な高速性を実現する画期的な製品となった。これらWindowsに特化したグラフィックアクセラレータはウィンドウアクセラレータとも呼ばれるようになった。 また1990年代は拡張バス規格の移行期でもあり、PC/AT互換機ではISA、VLバス、PCI、AGPなど各種のビデオカードが登場し、多数の組み合わせで競争や比較が行われた。またMacintoshも、Power Macintoshの第二世代から、NuBusからPCIに移行した。 世界の中でも日本だけは、PC-9801シリーズ、FMRシリーズ、マルチステーション5550などや、更にはIBM PC互換機ベースであるダイナブック、AX(JEGA)、PS/55(前半)でも、日本語表示モードでは固定解像度が主流の時代が続いた。 しかし1990年代にはDOS/VやMicrosoft Windowsなどグラフィック中心の使用形態が普及した影響もあり、各社はPC/AT互換機に移行した。この結果、日本でもビデオカードが一般化したが、以上の経緯により国内のPC/AT互換機の大多数は最初からVGA以上を搭載している。 SXGA以降のビデオカードや画面解像度の傾向については、下記関連項目を参照のこと。 なお、GPUはCPUと比較して価格・コストの割には性能および機能水準陳腐化のペースが速く、グラフィック処理の性能や機能を求められるアプリケーションソフトウェア(例:3DCGソフトウェアやCADソフトウェアのリアルタイムプレビュー用レンダラ、PCゲーム、動画加工オーサリングソフトなど)のバージョンアップに合わせ、買い替えが必要となるケースが生じやすい。オンボードGPUの場合は通例システム全体の刷新が必要になることが多いが、独立した外付けビデオカードであればカードのみを交換することで対処できる可能性がある。例えばDirectX (Direct3D) を利用する3Dゲームは、OSやハードウェアのサポート状況に合わせて、利用するDirectXのバージョンや描画品質のオプションを切り替えることができるようになっているものがあるが、最新世代の高性能なビデオカードに交換することで、描画品質や快適性の向上が見込める。 エントリーモデルのビデオカードは、ハイエンドのビデオカードほどの性能向上は見込めないものの、オンボードグラフィックスやCPU内蔵GPUでは対応していない高解像度出力機能や各種の豊富な接続インターフェイスをサポートし、性能よりも低コストで複数のモニターを利用する用途などに使われる。性能を抑えることで1スロット、ファンレス、補助電源不要など、小型化や静音性を実現した低価格モデルが提供されている。 ノートパソコンではビデオチップがオンボード実装されているか統合グラフィック機能を用いている製品が一般的であり、ビデオカードの増設は基本的に不可能である。miniAGPをはじめ、NVIDIAのMobile PCI Express Module(英語)やATIのAXIOMといった拡張インターフェイス規格が策定されているが、これらはPCの製造メーカーが複数ラインナップを揃えやすくすることを目的とした規格であり、エンドユーザーのアップグレード手段として意図されているものではない。このため、対応製品はほぼ出回っておらず、構造もユーザーによる交換を前提としていないことが多い。なお、マルチディスプレイ機能を提供するためのPCカード接続タイプやUSB接続タイプのグラフィックアダプタが一部で提供されている。 2016年3月にはAMDが、ノートPCに外付けGPUをつなぐ技術「AMD XConnect」を発表した。拡張カード接続に対応したPCとGPU格納ケースは、Thunderbolt 3規格で接続される。 マザーボードが持つグラフィックス機能を総括してオンボードグラフィックスまたはオンボードビデオと呼ぶことが多い。これは、単体のグラフィックチップをマザーボードの基板に直接実装したものと、統合チップセットのグラフィックス機能を利用したものに大別される。基板に実装するタイプは高性能ノートPCやサーバ向けマザーボードで用いられる。統合チップセットの登場以前は、低価格機のグラフィックス機能はこのタイプを用いたものが多く、「オンボード」という呼称はこの形態に由来する。 統合チップセットは1999年に発表されたIntel 810以降、安価かつ省スペース性に優れるため急速に普及し、PCグラフィックス機能の主流となった。スマートフォンやタブレットなどのモバイル端末では高性能かつ省電力のSoCが使われており、CPUとGPUがひとつのパッケージに統合されている。CPUの性能向上(特にシングルコア性能の向上)が頭打ちになる一方、GPUの性能向上には伸びしろがあることから、デスクトップ向けCPU製品でもGPUを統合したものが増えている。これらはオンダイグラフィックスあるいは統合グラフィックスと呼ぶべきだが、慣例的にオンボードグラフィックスとも呼ばれる。特にIntel製のCPUに統合されたGPU (Intel HD Graphics) はシェアが高い。ただしいずれも多くのユーザーがWeb閲覧やオフィスソフトなど一般的な用途で求める程度の性能に留まるため、ゲームのプレイや開発、CAD、マルチメディア作品の制作、GPGPUなど高負荷な2D/3D描画性能や演算性能を求められる用途には向いていない。ただしPlayStation 4などのゲーム専用機に採用実績のあるAMD APUのように、統合型であっても高いグラフィックス性能と演算性能を持つ製品もまた登場している。 Unified Memory Architecture (UMA) によりビデオメモリ用として確保・占有される一部のメインメモリ領域はシステムから使用できなくなり、実効メモリ容量が減少する。 なおビデオ会議のようなストリーミングやブラウザ上でのWebGL利用、OSのデスクトップ描画やプレゼンテーションソフトのGPUアクセラレーションなど、オフィスワークでもGPUパワーが必要となるケースも増えており、また4Kのような高解像度環境やマルチディスプレイ環境は特にGPUの負荷が大きく、CPU内蔵GPUではパフォーマンスに問題が出ることもある。 ゲーミング向けなどの高性能ノートPCに搭載されたオンボードのGPUは、電力供給や排熱などの問題から、デスクトップ向けのビデオカードに搭載されている同型のGPUと比べて意図的に性能が落とされてはいるものの、CPU内蔵GPUよりも高性能である。 かつてビデオカードはダイヤモンド・マルチメディア(英語版)やELSA(英語版)などの各ビデオカードメーカーがベンダーからGPUを購入し、設計・製造を行ったものが販売されていた。しかしこの方式はメーカーごとの製品の品質のばらつきが大きいという問題があった。このため、ベンダーがGPUに対応するビデオカードのリファレンスデザインをメーカーに提供し、メーカーはリファレンスデザインに沿った製品の販売を行うという形態が2000年代頃から主流になり、品質面での差異が少なくなった。メーカーでは冷却ファンやヒートシンクの形状、オーバークロック、ユーティリティソフトウェアなどで差別化を図っている。2000年代後半以降はASUSTeK Computer、GIGABYTE、MSIなどのマザーボードメーカーが手がけるビデオカード製品が多くを占めるようになったが、Palit(英語版)など拡張カードのみに製品を絞ったメーカーも存在する。 一般的なビデオカードメーカーは複数のGPUベンダーのビデオカード製品を取り扱うが、Sapphire Technology(英語版)のように特定のGPUベンダーのビデオカード製品しか扱わない例もある。またベンダー自身がビデオカードの販売までを行う例もある。これに該当する例としてはMatrox Graphicsが挙げられる他、かつてはATI Technologies、3Dfx、3DLabsもビデオカードの製造・販売を行っていた。 ビデオカードメーカーがビデオカードの販売時に独自のブランドを用いる場合もある。これらの例としてはInnoVision(中国語版、英語版)のInno3D、AOpenのXiAiなどがある。Palit(英語版)は他社のOEMの他、自社ブランドでも販売を行っている。 日本国内メーカーではアイ・オー・データ機器(挑戦者ブランドも展開)・バッファロー(玄人志向ブランドを含む)などの周辺機器メーカーがビデオカードの販売を手がけている。商品では、「グラフィックアクセラレータ」の名称が用いられた。アイ・オー・データ機器の製品は、設計こそリファレンスに準じたものになっていたものの、かつてはドライバが独自にチューニングされており、一定の評価を得ていた。その後、OEM供給を受けたATI/NVIDIA製品をラインナップしていたが、2010年12月発売のGA-RH5450を最後に、一旦取り扱いを終了していた。2014年には、4K UHD対応のビデオカードGA-GTX750TIを改めて取り扱うようになっているほか、2007年からDisplayLink社製のチップを用いたUSB接続の製品の販売を続けている。これら国内の取り扱い製品の中で特にカノープスはリファレンスデザインと異なる独自開発の基板およびドライバを採用したビデオカードの製造・販売を行い、マニア層を中心にかつて人気を博していたが、2002年に独自設計のビデオカードのリリースは終了し、2006年2月のMTVGA X1300Lのリリースを最後にビデオカード事業から撤退している。 産業用では自社が提供するソリューションの一部として生産を行っている企業がある。NECは放送局向けワークステーションのビデオカードを一部製造・販売している。EIZOでは航空交通管制ソリューションとして、管制用ディスプレイと共にビデオカードを製造している。 DirectX (Direct3D) と組み合わせて使うことが多い。 OpenGLと組み合わせて使うことが多い。 安価で安定しているものが選ばれることが多い。 NVIDIA QuadroやAMD FireProもサーバー用途に選ばれる。そのほか、グラフィックス出力機能を持たず、汎用計算(GPGPU)に特化したNVIDIA TeslaやAMD FirePro Sシリーズもサーバー上での演算用途に採用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ビデオカード(英: video card)は、パーソナルコンピュータなどの各種のコンピュータで、映像を信号として出力または入力する機能を、拡張カード(拡張ボード)として独立させたものである。「ビデオボード」「グラフィックカード」「グラフィックボード(俗称グラボ)」「グラフィックスカード」「グラフィックスボード」「グラフィックスアクセラレーターカード」ともいう。本項目では便宜上「ビデオカード」に統一する。 カードに搭載されているチップやメモリによって、対応解像度、表現可能な色数、2D/3D描画性能や機能などが異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "GPUを利用したリアルタイムの3次元コンピュータグラフィックス描画や、GPUを汎用計算に用いるGPGPUのパフォーマンスを向上させるには、より高性能なGPUが必要となるが、CPU内蔵GPUなどのiGPU (integrated GPU) よりも交換や増設の容易なビデオカードによるdGPU (discrete GPU) のほうがスケーラビリティの面で優れている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "IBM PCおよびPC/AT互換機の多くの機種では、映像表示用の回路がマザーボード上には実装されておらず、拡張スロットにビデオカードを取り付けて映像出力機能を実現する。この方式は交換・増設が容易であるというメリットがある。しかし、ウェブサイト閲覧や電子メールのやり取り、オフィス作業など日常的な作業を行うには支障のない程度の性能を備えた表示回路を組み込んだチップセット(統合チップセット)と、それを搭載したマザーボードが出現し、そしてさらにGPUを内蔵したCPUが出現したことにより、安価なPCではビデオカードを搭載せず、オンボードグラフィックス機能やオンダイグラフィックス機能を用いるものが一般的となっている。このため、ビデオカードは高速な3D表示性能やマルチディスプレイ機能を目的として追加される場合が多い。また統合グラフィック機能のUMAによる性能低下を避けるためにビデオカードを追加する場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以上はパーソナルコンピュータ以外のUNIXワークステーションなどでもほぼ同様である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2004年から、USB接続の製品も発売されている。当初は、PCI-USBブリッジを用いてSIS315を接続するというものであった。その後、2007年からは、DisplayLinkのチップを用いた製品が出回るようになっている。DisplayLinkの製品では、表示装置を仮想化し、ホスト側で映像を圧縮、ハードウェア側で伸張することによって、帯域が太いとは言えないUSB2.0などのバスで、ある程度のパフォーマンスを確保している。その様な構造になっているため、実際のドライバの処理はホスト側の演算コストとなるため、CPUパワーの低い環境でのパフォーマンスは低下する。また、BIOS等を持たないためOSやドライバが起動するまでは使用できないほか、他のビデオドライバと併用する形になるため、その相互の干渉によって不具合が生じたり、使用できないケースも存在する。これらの製品は、通常のビデオカードを複数増設するよりも条件のハードルは低く、パフォーマンスよりも制御できる画面の数、面積を要求するような状況で有用であるほか、NASなどの元々表示装置を持たない機器や、PDAなど、外部出力を持たない機器での利用例も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般的なPC/AT互換機用ビデオカードは主に以下のモジュールにより構成される。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "表示する描画情報を保持するためのフレームバッファとして利用されるメモリ領域。大容量化に伴い、オフスクリーンバッファやシェーディングバッファなどとしても利用されるようになっている。グラフィックチップとは専用バスでポイント・ツー・ポイント接続される。広帯域で接続したほうが性能的には有利だが、コスト・実装面積・発熱などを優先しグラフィックチップの仕様より狭い帯域幅で接続することもある。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ビデオメモリには高速性と低価格性の両立が求められるため、汎用のDRAMだけでなく専用のRAMが用いられることも多い。かつては専用モジュールにより、ビデオメモリの増設に対応する製品も存在したが、2000年代以降ビデオメモリの増設に対応したビデオカードの存在は確認されておらず、おおむね2GB~16GB程度に固定されている。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "NVIDIA GeForce RTX 4090、NVIDIA RTX 6000 Ada 世代、NVIDIA H100 Tensor Core GPUなど、一部のハイエンド製品やワークステーション・サーバー向け製品では24GB/48GB/80GB/96GBといった大容量ビデオメモリを搭載するものも出現している。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "さらに、Radeon RX 6700 XT 12GBやGeForce RTX 3060 12GBなど、ミドルレンジやミドルハイクラスの製品でも比較的大容量のビデオメモリを搭載するものも出現している。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "実装面積を重視するモバイル用途ではグラフィックチップのLSIパッケージにビデオメモリ用RAMを同梱している製品も存在する。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Unified Memory Architecture (UMA) とは、独立したビデオメモリを持たず、メインメモリをCPUと共有するシステムである。シェアードメモリ(シェアメモリ)・共有メモリなどとも呼ばれる。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "メインメモリは同世代の専用ビデオメモリと比較すると低速であり、システムとメモリ帯域を共有するためシステムパフォーマンスが低下するなどのデメリットがある。反面、実装面積が少なく省スペース性に優れる、部品点数が少なく安価であるなどのメリットがあり、チップセット統合グラフィックス機能で多く採用されている。SoCではeDRAMにより性能問題に対処している事例もある。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "メインメモリの高速化に伴い、単体型のグラフィックチップにおいてもNVIDIA社のTurbo Cache、AMD社のHyperMemoryなどメインメモリをビデオメモリ領域として利用する技術が登場している。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ビデオカードとシステムを接続するためのインターフェイス。データ転送用に高速な専用バスを用いることが多い。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "古いインターフェイス(2017年現在ではほとんど使われない)", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "またHDMIの普及黎明期には、ビデオカード上のHDMI出力端子から音声を出力する為に、基板上にS/PDIF入力インターフェイスを供える製品も登場している。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その他、マルチGPU技術の制御用端子やビデオキャプチャカードとの連携用端子などのオプション機能用の端子が搭載されることも多い。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ビデオカードの出力をディスプレイなど表示デバイスに接続するためのインターフェイス。当初はアナログRGB出力(D-sub)が一般的だったが、2004年頃からDVI-I出力も備えマルチモニター機能に対応するものが一般的になった。S端子やコンポジットによるビデオ出力の他、コンポーネント出力を搭載する製品もあった。2018年現在は、DVI-D、HDMI、DisplayPortといったデジタル出力端子のみを搭載する製品が一般的である。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ビデオカードに搭載されているBIOS。起動直後などシステムがリアルモードで動作している際にVGA互換モード表示機能を提供するためVGA-BIOSなどと呼ばれることもある。ビデオカード基板上のROMチップに格納されている。PC/ATと異なるアーキテクチャであるPC-9821等では、メインボード上に専用の表示回路を持っているため、VGA-BIOSを必要とせず、BIOSのプログラムそのものが非互換であるため、使用可能なボードであっても、BIOSを無効にしておく必要がある。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ビデオカードはPC内部で最も消費電力や発熱量が大きいパーツの一つであり、特に高性能なハイエンド製品では強力な放熱・冷却が必要となる。隣接する拡張スロット用空間を占有してしまうほど巨大なファンやヒートシンクを備える製品が2003年頃から登場し、後に一般化した。1スロットのみ占有するタイプであっても、放熱性を保つよう隣のスロットはなるべく空けておくのが望ましい。また、2018年頃から発売された高性能なビデオカードは冷却装置が大型化し、重量が2.4kgに達するものもある。そのためマザーボードを選択する際は差し込むスロットが重量に耐えきれるか判断して購入する必要がある。大型のビデオカードを利用する際は、パーツの損傷を防ぐため、専用の支え(ステー)の利用を検討することが望ましい。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方、消費電力の小さいローエンド製品では発熱が少なく軽量でファンレス仕様の物もある。しかし、ファンレスのものはケース内に空気の流れがないと十分に放熱できないことがあるため、冷却が困難な場合はファンがあるものを利用するのが賢明である。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ビデオカードの登場以来、駆動に必要な電力はデータインターフェイスから供給されるのが一般的であったが、2000年代初頭頃からのGPU消費電力の増大に伴い、PCIeスロットからの供給では追いつかなくなり、データインターフェイス経由の給電を補うための専用電源インターフェイスが登場し、ミドルレンジ以上の製品での搭載が一般化した。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一般に補助電源と呼ばれており、それぞれ6ピン 1つで75W、8ピン 1つで150W、12VHPWER 1つで最大600Wまでの電力が供給できる。", "title": "ビデオカードの構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "以下、IBM PC(とその末裔)のビデオ設計としてのビデオカードについて主に述べる。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1981年のIBM PCは、当時のみならず後のパーソナルコンピュータでも普通に見られた、ビデオ回りのハードウェアをオンボードで固定したものにはせず、ビデオカードとして独立させる設計を採用した。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "IBM PCはビデオサブシステム(ビデオチップなど)を本体(マザーボード)にではなく、拡張カード(IBMはアダプターと呼ぶ)に搭載した。IBM PCの発売時には2種類のビデオカード(テキストモードのみのMDAと、グラフィックモードを持つCGA)が提供され、用途により選択・交換できた。また各アダプターは複数の表示モード(ビデオモード)を持ち、ビデオモードはBIOS割り込み(INT 10h, AH=00h, AL=ビデオモード)によってソフトウェアから切替可能である。更に後継のビデオ規格(EGA, VGA, XGA等)は、前身のビデオ規格の全てのビデオモードを含む。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この拡張性により、IBM PCファミリーおよびIBM PC互換機では、ユーザーは本体を買い換えなくても、各社から販売される多様なビデオカードに交換(種類によっては追加して共存)し、対応したディスプレイとソフトウェアを使用すれば、より高速・高解像度な表示環境を得られるようになった。中でもHerculesのHGCは広く使われた。日本での東芝のダイナブック(初代J-3100 SS)も、CGAをベースに独自の日本語モード(640x400)を追加したものだった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一文字テキスト出力(int 10h, ah=0eh)のような、BIOSの提供する機能としては高水準の機能を用意し(この機能を提供するBIOS ROMは本体ではなくビデオカードに載る)、MS-DOSなどはそちらを使うようにすることで、ハードウェアの差異に対するソフトウェアの互換性を確保した。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1984年のPC/ATではEGAが標準搭載されたが、これはMDAおよびCGAの上位互換であり、MDAとCGAの主要な表示モードを含んでいた。表示モードはソフトウェアで容易に切替できたため、下位の画面モードにしか対応していないソフトウェアも継続して使用できた。この上位互換は、その後の主要なビデオ規格でも継承され、また複数の画面解像度(走査周波数)に自動対応できるマルチスキャン方式のディスプレイが普及した。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "EGAは広く普及し、各社がEGA上位互換のグラフィックチップやカードを製造した。日本でのAX規格のJEGAボードも、EGAをベースに独自の日本語モード(640x480)を追加したものだった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1987年のPS/2ではVGAが搭載された。PS/2ではVGAチップはマザーボード上に搭載された(規格名称もAdapterからArrayになった)が、ビデオカードによる拡張性(置換え可能)は維持された。また従来のPC/AT(および互換機)用にもATバス用のVGA搭載ビデオカードが提供された。EGAの時と同様に上位互換性も維持され、VGAはEGAの画面モードを含み(従ってビデオ規格としてのVGAは、今でもMDAやCGAの各画面モードも含んでいる)、さらに独自の画面モード(640x480、16色など)が追加された。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "VGAは急速に普及し、PC/AT互換機でもVGAは事実上の標準となった。2017年現在でもOSのインストール画面などはVGA表示を使用しているものが多い。日本IBMのPS/55はPS/2ベースで、前半は日本独自のディスプレイアダプター(1024x768、XGAとは別規格)を搭載していたが、英語モード(英語DOSおよび後のDOS/V)ではマザーボード上のVGAが使用できた。さらにPS/55も後半(1990年の5535-S以降)は、徐々にVGA(のみ)や、後述のXGAや各種SVGAに移行した。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "各社から多様なVGA上位互換 (SVGA) カード(チップ)が提供された。なおSVGAは各社のVGA上位互換カード(チップ)の総称であり、特定の規格や解像度ではない。ただし、各社独自の拡張モード間では互換性はなかったため、VESAがVBEとして共通となるモードを標準化した。この中で有名なのが初期の800x600画面解像度であり、俗に言われる「SVGAの解像度は800x600」の元となった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1990年代の有名なXGAおよびSVGAのビデオカード(ビデオチップ)には以下があった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "IBMのXGAは、VGAと8514の上位互換(広義にはSVGAの一種だが、歴史的にSVGAと呼ばないことも多い)で、独自の1024x768 256色などの表示モードが追加され、MCA用とISA用のカードが登場した。XGAはマルチメディアを意識した設計であったが、高価な割には高速ではなかったためにIBM製のPC以外には広く普及せず、IBMはXGAの後には他社のSVGAチップを使用するようになった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "SVGAの中でもS3社の86C911は、ビデオサブシステム回路の複数のLSIをワンチップ化した世界初のグラフィックチップで、従来はCPUが行っていた描画処理のうち使用頻度の高いBitBltなどに対しアクセラレーションを行うことで非常な高速性を実現する画期的な製品となった。これらWindowsに特化したグラフィックアクセラレータはウィンドウアクセラレータとも呼ばれるようになった。", "title": "ビデオカードの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また1990年代は拡張バス規格の移行期でもあり、PC/AT互換機ではISA、VLバス、PCI、AGPなど各種のビデオカードが登場し、多数の組み合わせで競争や比較が行われた。またMacintoshも、Power 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を利用する3Dゲームは、OSやハードウェアのサポート状況に合わせて、利用するDirectXのバージョンや描画品質のオプションを切り替えることができるようになっているものがあるが、最新世代の高性能なビデオカードに交換することで、描画品質や快適性の向上が見込める。", "title": "ビデオカードのメリットとデメリット" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "エントリーモデルのビデオカードは、ハイエンドのビデオカードほどの性能向上は見込めないものの、オンボードグラフィックスやCPU内蔵GPUでは対応していない高解像度出力機能や各種の豊富な接続インターフェイスをサポートし、性能よりも低コストで複数のモニターを利用する用途などに使われる。性能を抑えることで1スロット、ファンレス、補助電源不要など、小型化や静音性を実現した低価格モデルが提供されている。", "title": "ビデオカードのメリットとデメリット" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ノートパソコンではビデオチップがオンボード実装されているか統合グラフィック機能を用いている製品が一般的であり、ビデオカードの増設は基本的に不可能である。miniAGPをはじめ、NVIDIAのMobile PCI Express Module(英語)やATIのAXIOMといった拡張インターフェイス規格が策定されているが、これらはPCの製造メーカーが複数ラインナップを揃えやすくすることを目的とした規格であり、エンドユーザーのアップグレード手段として意図されているものではない。このため、対応製品はほぼ出回っておらず、構造もユーザーによる交換を前提としていないことが多い。なお、マルチディスプレイ機能を提供するためのPCカード接続タイプやUSB接続タイプのグラフィックアダプタが一部で提供されている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2016年3月にはAMDが、ノートPCに外付けGPUをつなぐ技術「AMD XConnect」を発表した。拡張カード接続に対応したPCとGPU格納ケースは、Thunderbolt 3規格で接続される。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マザーボードが持つグラフィックス機能を総括してオンボードグラフィックスまたはオンボードビデオと呼ぶことが多い。これは、単体のグラフィックチップをマザーボードの基板に直接実装したものと、統合チップセットのグラフィックス機能を利用したものに大別される。基板に実装するタイプは高性能ノートPCやサーバ向けマザーボードで用いられる。統合チップセットの登場以前は、低価格機のグラフィックス機能はこのタイプを用いたものが多く、「オンボード」という呼称はこの形態に由来する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "統合チップセットは1999年に発表されたIntel 810以降、安価かつ省スペース性に優れるため急速に普及し、PCグラフィックス機能の主流となった。スマートフォンやタブレットなどのモバイル端末では高性能かつ省電力のSoCが使われており、CPUとGPUがひとつのパッケージに統合されている。CPUの性能向上(特にシングルコア性能の向上)が頭打ちになる一方、GPUの性能向上には伸びしろがあることから、デスクトップ向けCPU製品でもGPUを統合したものが増えている。これらはオンダイグラフィックスあるいは統合グラフィックスと呼ぶべきだが、慣例的にオンボードグラフィックスとも呼ばれる。特にIntel製のCPUに統合されたGPU (Intel HD Graphics) はシェアが高い。ただしいずれも多くのユーザーがWeb閲覧やオフィスソフトなど一般的な用途で求める程度の性能に留まるため、ゲームのプレイや開発、CAD、マルチメディア作品の制作、GPGPUなど高負荷な2D/3D描画性能や演算性能を求められる用途には向いていない。ただしPlayStation 4などのゲーム専用機に採用実績のあるAMD APUのように、統合型であっても高いグラフィックス性能と演算性能を持つ製品もまた登場している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Unified Memory Architecture (UMA) によりビデオメモリ用として確保・占有される一部のメインメモリ領域はシステムから使用できなくなり、実効メモリ容量が減少する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なおビデオ会議のようなストリーミングやブラウザ上でのWebGL利用、OSのデスクトップ描画やプレゼンテーションソフトのGPUアクセラレーションなど、オフィスワークでもGPUパワーが必要となるケースも増えており、また4Kのような高解像度環境やマルチディスプレイ環境は特にGPUの負荷が大きく、CPU内蔵GPUではパフォーマンスに問題が出ることもある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ゲーミング向けなどの高性能ノートPCに搭載されたオンボードのGPUは、電力供給や排熱などの問題から、デスクトップ向けのビデオカードに搭載されている同型のGPUと比べて意図的に性能が落とされてはいるものの、CPU内蔵GPUよりも高性能である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "かつてビデオカードはダイヤモンド・マルチメディア(英語版)やELSA(英語版)などの各ビデオカードメーカーがベンダーからGPUを購入し、設計・製造を行ったものが販売されていた。しかしこの方式はメーカーごとの製品の品質のばらつきが大きいという問題があった。このため、ベンダーがGPUに対応するビデオカードのリファレンスデザインをメーカーに提供し、メーカーはリファレンスデザインに沿った製品の販売を行うという形態が2000年代頃から主流になり、品質面での差異が少なくなった。メーカーでは冷却ファンやヒートシンクの形状、オーバークロック、ユーティリティソフトウェアなどで差別化を図っている。2000年代後半以降はASUSTeK Computer、GIGABYTE、MSIなどのマザーボードメーカーが手がけるビデオカード製品が多くを占めるようになったが、Palit(英語版)など拡張カードのみに製品を絞ったメーカーも存在する。", "title": "ビデオカードメーカー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一般的なビデオカードメーカーは複数のGPUベンダーのビデオカード製品を取り扱うが、Sapphire Technology(英語版)のように特定のGPUベンダーのビデオカード製品しか扱わない例もある。またベンダー自身がビデオカードの販売までを行う例もある。これに該当する例としてはMatrox Graphicsが挙げられる他、かつてはATI Technologies、3Dfx、3DLabsもビデオカードの製造・販売を行っていた。", "title": "ビデオカードメーカー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ビデオカードメーカーがビデオカードの販売時に独自のブランドを用いる場合もある。これらの例としてはInnoVision(中国語版、英語版)のInno3D、AOpenのXiAiなどがある。Palit(英語版)は他社のOEMの他、自社ブランドでも販売を行っている。", "title": "ビデオカードメーカー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本国内メーカーではアイ・オー・データ機器(挑戦者ブランドも展開)・バッファロー(玄人志向ブランドを含む)などの周辺機器メーカーがビデオカードの販売を手がけている。商品では、「グラフィックアクセラレータ」の名称が用いられた。アイ・オー・データ機器の製品は、設計こそリファレンスに準じたものになっていたものの、かつてはドライバが独自にチューニングされており、一定の評価を得ていた。その後、OEM供給を受けたATI/NVIDIA製品をラインナップしていたが、2010年12月発売のGA-RH5450を最後に、一旦取り扱いを終了していた。2014年には、4K UHD対応のビデオカードGA-GTX750TIを改めて取り扱うようになっているほか、2007年からDisplayLink社製のチップを用いたUSB接続の製品の販売を続けている。これら国内の取り扱い製品の中で特にカノープスはリファレンスデザインと異なる独自開発の基板およびドライバを採用したビデオカードの製造・販売を行い、マニア層を中心にかつて人気を博していたが、2002年に独自設計のビデオカードのリリースは終了し、2006年2月のMTVGA X1300Lのリリースを最後にビデオカード事業から撤退している。", "title": "ビデオカードメーカー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "産業用では自社が提供するソリューションの一部として生産を行っている企業がある。NECは放送局向けワークステーションのビデオカードを一部製造・販売している。EIZOでは航空交通管制ソリューションとして、管制用ディスプレイと共にビデオカードを製造している。", "title": "ビデオカードメーカー" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "DirectX (Direct3D) と組み合わせて使うことが多い。", "title": "ビデオカードに使用される主なGPU" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "OpenGLと組み合わせて使うことが多い。", "title": "ビデオカードに使用される主なGPU" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "安価で安定しているものが選ばれることが多い。", "title": "ビデオカードに使用される主なGPU" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "NVIDIA QuadroやAMD FireProもサーバー用途に選ばれる。そのほか、グラフィックス出力機能を持たず、汎用計算(GPGPU)に特化したNVIDIA TeslaやAMD FirePro Sシリーズもサーバー上での演算用途に採用されている。", "title": "ビデオカードに使用される主なGPU" } ]
ビデオカードは、パーソナルコンピュータなどの各種のコンピュータで、映像を信号として出力または入力する機能を、拡張カード(拡張ボード)として独立させたものである。「ビデオボード」「グラフィックカード」「グラフィックボード(俗称グラボ)」「グラフィックスカード」「グラフィックスボード」「グラフィックスアクセラレーターカード」ともいう。本項目では便宜上「ビデオカード」に統一する。 カードに搭載されているチップやメモリによって、対応解像度、表現可能な色数、2D/3D描画性能や機能などが異なる。 GPUを利用したリアルタイムの3次元コンピュータグラフィックス描画や、GPUを汎用計算に用いるGPGPUのパフォーマンスを向上させるには、より高性能なGPUが必要となるが、CPU内蔵GPUなどのiGPU よりも交換や増設の容易なビデオカードによるdGPU のほうがスケーラビリティの面で優れている。
{{複数の問題 |出典の明記=2016年1月 |言葉を濁さない=2016年1月 |独自研究=2016年1月 }} [[ファイル:NVidia Riva 128.jpg|thumb|200px|right|NVIDIA RIVA 128 (1997年)]] '''ビデオカード'''({{lang-en-short|video card}})は、[[パーソナルコンピュータ]]などの各種の[[コンピュータ]]で、映像を信号として出力または入力する機能を、[[拡張カード]](拡張ボード)として独立させたものである。「'''ビデオボード'''」「'''グラフィックカード'''」「'''グラフィックボード'''(俗称グラボ)」「'''グラフィックスカード'''」「'''グラフィックスボード'''」「'''グラフィックスアクセラレーターカード'''」ともいう<ref>メーカーや[[パソコンショップ|販売店]]・[[販売代理店]]および時期などによって名称にばらつきがある。日本国内向けローカライズの際に「カード」が「ボード」に変更されることもある。</ref><ref>{{Cite web |title=Previous Generation Desktop Graphics Cards from NVIDIA Quadro |url=https://www.nvidia.com/en-us/design-visualization/previous-quadro-desktop-gpus/ |website=NVIDIA |access-date=2022-09-04 |language=en-us}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プロフェッショナルグラフィックスボードシリーズ - 株式会社 エルザ ジャパン |url=https://www.elsa-jp.co.jp/products/graphicsboard_pro/ |website=www.elsa-jp.co.jp |access-date=2022-09-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=グラフィックスカード - GIGABYTE Japan |url=https://www.gigabyte.com/jp/Graphics-Card |website=GIGABYTE |access-date=2022-09-04 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ビデオカード - 全シリーズ|ASUS 日本 |url=https://www.asus.com/jp/Motherboards-Components/Graphics-Cards/All-series/ |website=ASUS 日本 |access-date=2022-09-04 |language=ja-jp}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Graphics Cards {{!}} MSI Japan |url=https://jp.msi.com/@Request:fullUrl() |website=jp.msi.com |access-date=2022-09-04 |language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=MSI グラフィックボード 国内正規代理店 |url=https://www.ask-corp.jp/products/msi/graphicsboard/ |website=株式会社アスク |access-date=2022-09-04 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=NEC、3Dグラフィックスアクセラレーターカード『TE4E』を発売 |url=https://ascii.jp/elem/000/000/303/303699/ |website=ASCII.jp |access-date=2022-09-04 |language=ja |last=ASCII}}</ref>。本項目では便宜上「'''ビデオカード'''」に統一する。<!--日本の出版社では、PC-9801時代に用語統一が行われたためか、「拡張ボード」や「グラフィックボード」といった表現が使われるが、英語圏では他分野でも使われることもあり、PC用語としては一般的ではない。--> <!-- → 反論として、NVIDIAですら"graphics card"と"graphics board"の表記揺れがある。「一般的ではない」という根拠が不明。 -->カードに搭載されている[[集積回路|チップ]]や[[Dynamic Random Access Memory|メモリ]]によって、対応[[画面解像度|解像度]]、表現可能な色数、[[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]/[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]]描画性能や機能などが異なる。 [[Graphics Processing Unit|GPU]]を利用したリアルタイムの[[3次元コンピュータグラフィックス]]描画や、GPUを汎用計算に用いる[[GPGPU]]のパフォーマンスを向上させるには、より高性能なGPUが必要となるが、CPU内蔵GPUなどのiGPU (integrated GPU) よりも交換や増設の容易なビデオカードによるdGPU (discrete GPU) のほうがスケーラビリティの面で優れている。 == 概要 == [[IBM PC]]および[[PC/AT互換機]]の多くの機種では、映像表示用の[[電子回路|回路]]が[[マザーボード]]上には[[実装]]されておらず、[[拡張スロット]]にビデオカードを取り付けて映像出力機能を実現する。この方式は交換・増設が容易であるというメリットがある。しかし、[[ウェブサイト]]閲覧や[[電子メール]]のやり取り、[[オフィススイート|オフィス作業]]など日常的な作業を行うには支障のない程度の性能を備えた表示回路を組み込んだ[[チップセット]]([[チップセット#統合チップセット|統合チップセット]])と、それを搭載したマザーボードが出現し、そしてさらにGPUを内蔵したCPUが出現したことにより、安価なPCではビデオカードを搭載せず、'''[[オンボードグラフィック|オンボードグラフィックス]]'''機能や'''オンダイグラフィックス'''機能を用いるものが一般的となっている。このため、ビデオカードは高速な3D表示性能や[[マルチディスプレイ]]機能を目的として追加される場合が多い。また統合グラフィック機能の[[ユニファイドメモリアーキテクチャ|UMA]]による性能低下を避けるためにビデオカードを追加する場合もある。 以上はパーソナルコンピュータ以外の[[UNIX]]ワークステーションなどでもほぼ同様である。 [[2004年]]から、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続の製品も発売されている。当初は、PCI-USBブリッジを用いて[[SiS 315|SIS315]]を接続するというものであった。その後、[[2007年]]からは、DisplayLinkのチップを用いた製品が出回るようになっている。DisplayLinkの製品では、[[ディスプレイデバイス|表示装置]]を[[仮想化]]し、ホスト側で映像を圧縮、ハードウェア側で伸張することによって、帯域が太いとは言えない[[USB2.0]]などのバスで、ある程度のパフォーマンスを確保している。その様な構造になっているため、実際のドライバの処理はホスト側の演算コストとなるため、[[CPU]]パワーの低い環境でのパフォーマンスは低下する。また、[[Basic Input/Output System|BIOS]]等を持たないため[[オペレーティングシステム|OS]]や[[デバイスドライバ|ドライバ]]が起動するまでは使用できないほか、他のビデオドライバと併用する形になるため、その相互の干渉によって不具合が生じたり、使用できないケースも存在する。これらの製品は、通常のビデオカードを複数増設するよりも条件のハードルは低く、パフォーマンスよりも制御できる画面の数、面積を要求するような状況で有用であるほか、NASなどの元々表示装置を持たない機器や、[[携帯情報端末|PDA]]など、外部出力を持たない機器での利用例も存在する。 == ビデオカードの構成 == 一般的な[[PC/AT互換機]]用ビデオカードは主に以下の[[モジュール]]により構成される。 === ビデオメモリ (VRAM) === {{Main|VRAM}} 表示する描画情報を保持するための[[VRAM|フレームバッファ]]として利用されるメモリ領域。大容量化に伴い、オフスクリーンバッファや[[シェーディング]]バッファなどとしても利用されるようになっている。グラフィックチップとは専用[[バス (コンピュータ)|バス]]で[[ポイント・ツー・ポイント]]接続される。広帯域で接続したほうが性能的には有利だが、[[費用|コスト]]・実装面積・発熱などを優先しグラフィックチップの仕様より狭い[[帯域幅]]で接続することもある。 ビデオメモリには高速性と低価格性の両立が求められるため、汎用の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]だけでなく専用のRAMが用いられることも多い。かつては専用モジュールにより、ビデオメモリの増設に対応する製品も存在したが、2000年代以降ビデオメモリの増設に対応したビデオカードの存在は確認されておらず、おおむね2[[ギガバイト|GB]]~16[[ギガバイト|GB]]程度に固定されている。 [[NVIDIA GeForce]] RTX 4090、[[NVIDIA Quadro|NVIDIA RTX]] 6000 Ada 世代、NVIDIA H100 Tensor Core GPUなど、一部のハイエンド製品やワークステーション・サーバー向け製品では24GB/48GB/80GB/96GBといった大容量ビデオメモリを搭載するものも出現している。 さらに、Radeon RX 6700 XT 12GBやGeForce RTX 3060 12GBなど、ミドルレンジやミドルハイクラスの製品でも比較的大容量のビデオメモリを搭載するものも出現している。 実装面積を重視する[[携帯機器|モバイル]]用途ではグラフィックチップの[[LSI]]パッケージにビデオメモリ用RAMを同梱している製品も存在する。 ==== ビデオメモリとして用いられたRAM ==== * [[EDO DRAM]] * {{仮リンク|Window DRAM|rabel=WRAM|en|Dynamic random-access memory#WRAM|preserve=1}} * [[SDRAM]] * {{仮リンク|SGRAM|en|Synchronous dynamic random-access memory#SGRAM|preserve=1}} * [[DDR SDRAM]] * [[DDR2 SDRAM]] * [[DDR3 SDRAM]] * DDR SGRAM ([[GDDR]]) * {{仮リンク|GDDR2|en|DDR2 SDRAM#Relation to GDDR memory|preserve=1}} * [[GDDR3]] * [[GDDR4]] * [[GDDR5]] * [[GDDR5X]] * [[GDDR6]] * GDDR6X * [[High Bandwidth Memory|HBM]] ==== Unified Memory Architecture (UMA) ==== [[Unified Memory Architecture]] (UMA) とは、独立したビデオメモリを持たず、[[メインメモリ]]を[[CPU]]と共有するシステムである。シェアードメモリ(シェアメモリ)・共有メモリなどとも呼ばれる。 メインメモリは同世代の専用ビデオメモリと比較すると低速であり<ref>たとえば[[DDR3]]と[[GDDR5]]では[[帯域幅]]におよそ10倍程度の差がある。</ref>、システムとメモリ帯域を共有するためシステム[[パフォーマンス]]が低下するなどのデメリットがある。反面、実装面積が少なく省スペース性に優れる、部品点数が少なく安価であるなどのメリットがあり、[[チップセット#統合チップセット|チップセット統合グラフィックス機能]]で多く採用されている。[[System-on-a-chip|SoC]]では[[eDRAM]]により性能問題に対処している事例もある。 メインメモリの高速化に伴い、単体型のグラフィックチップにおいても[[NVIDIA]]社の[[Turbo Cache]]、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]社の[[HyperMemory]]などメインメモリをビデオメモリ領域として利用する技術が登場している。 === 内部インターフェイス === [[ファイル:Matrox_millennium_p650_pcie.jpg|thumb|right|PCI Expressインターフェイスを備えるビデオカードの例]] ビデオカードとシステムを接続するための[[インターフェイス]]。[[データ転送]]用に高速な専用[[バス (コンピュータ)|バス]]を用いることが多い。 ==== 主なビデオカード用内部インターフェイス ==== * [[Peripheral Component Interconnect|PCI]] * [[PCI Express]] * [[Thunderbolt]] 古いインターフェイス(2017年現在ではほとんど使われない) * [[Accelerated Graphics Port|AGP]] * [[Industry Standard Architecture|ISA]] * [[Micro Channel Architecture|MCA]] * [[Extended Industry Standard Architecture|EISA]] * [[VESA ローカルバス|VLバス]] ==== その他の内部インターフェイス ==== また[[HDMI]]の普及黎明期には、ビデオカード上のHDMI出力端子から[[音声]]を出力する為に、[[基板]]上に[[S/PDIF]]入力インターフェイスを供える製品も登場している。 その他、マルチGPU技術の制御用端子や[[キャプチャ (録画ソフト)|ビデオキャプチャカード]]との連携用端子などのオプション機能用の端子が搭載されることも多い。 === 外部インターフェイス === ビデオカードの出力を[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]など表示デバイスに接続するためのインターフェイス。{{いつ範囲|当初|date=2016年1月}}はアナログ[[RGB]]出力([[D-sub]])が一般的だったが、2004年頃から[[Digital Visual Interface|DVI-I]]出力も備え[[マルチモニター]]機能に対応するものが一般的になった。[[S端子]]や[[コンポジット映像信号|コンポジット]]によるビデオ出力の他、[[コンポーネント映像信号|コンポーネント]]出力を搭載する製品もあった。2018年現在は、DVI-D、[[HDMI]]、[[DisplayPort]]といったデジタル出力端子のみを搭載する製品が一般的である。 * [[VGA端子]] * [[Digital Visual Interface|DVI]] * [[HDMI]] * [[DisplayPort]] * [[USB Type-C]] * [[S端子|S-Video]] * [[コンポジット映像信号|コンポジット]] * [[コンポーネント端子|コンポーネント]] === ビデオBIOS === ビデオカードに搭載されている[[Basic Input/Output System|BIOS]]。起動直後などシステムが[[リアルモード]]で動作している際に[[Video Graphics Array|VGA]][[互換モード]]表示機能を提供するためVGA-BIOSなどと呼ばれることもある。ビデオカード基板上のROMチップに格納されている。PC/ATと異なるアーキテクチャである[[PC-9821シリーズ|PC-9821]]等では、メインボード上に専用の表示回路を持っているため、VGA-BIOSを必要とせず、BIOSのプログラムそのものが非互換であるため、使用可能なボードであっても、BIOSを無効にしておく必要がある。 === 冷却機構 === ビデオカードはPC内部で最も[[消費電力]]や発熱量が大きいパーツの一つであり、特に高性能な[[ハイエンド]]製品では強力な放熱・[[冷却]]が必要となる。隣接する[[拡張カード|拡張スロット]]用空間を占有してしまうほど巨大な[[送風機|ファン]]や[[ヒートシンク]]を備える製品が2003年頃から登場し、後に一般化した。1スロットのみ占有するタイプであっても、放熱性を保つよう隣のスロットはなるべく空けておくのが望ましい。また、2018年頃から発売された高性能なビデオカードは冷却装置が大型化し、重量が2.4kgに達するものもある。そのため[[マザーボード]]を選択する際は差し込むスロットが重量に耐えきれるか判断して購入する必要がある。大型のビデオカードを利用する際は、パーツの損傷を防ぐため、専用の支え(ステー)の利用を検討することが望ましい。 一方、消費電力の小さい[[ローエンド]]製品では発熱が少なく軽量でファンレス仕様の物もある。しかし、ファンレスのものはケース内に空気の流れがないと十分に放熱できないことがあるため、冷却が困難な場合はファンがあるものを利用するのが賢明である。 === 補助電源 === ビデオカードの登場以来、駆動に必要な電力はデータインターフェイスから供給されるのが一般的であったが、2000年代初頭頃からのGPU消費電力の増大に伴い、PCIeスロットからの供給では追いつかなくなり、データインターフェイス経由の給電を補うための専用電源インターフェイスが登場し、ミドルレンジ以上の製品での搭載が一般化した。 一般に補助電源と呼ばれており、それぞれ6ピン 1つで75W、8ピン 1つで150W、12VHPWER 1つで最大600Wまでの電力が供給できる。 == ビデオカードの歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2020-09}} {| class="wikitable" align="right" |+[[IBM PC]]系の主なビデオカードと主な表示モード |- ! ! 年 ! テキストモード<br />(桁×行) ! グラフィックモード<br />(解像度/色) ! メモリ |- align="center" | '''[[Monochrome Display Adapter|MDA]]''' | 1981 | 80×25 | - | 4 KB |- align="center" | '''[[Color Graphics Adapter|CGA]]''' | 1981 | 80×25 | 640×200 / 4 | 16 KB |- align="center" | '''[[Hercules Graphics Card|HGC]]''' | 1982 | 80×25 | 720×348 / 2 | 64 KB |- align="center" | '''[[Professional Graphics Controller|PGC]]''' | 1984 | 80×25 | 640×480 / 256 | 320 KB |- align="center" | '''[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]''' | 1984 | 80×25 | 640×350 / 16 | 256 KB |- align="center" | '''[[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]]''' | 1986 | 80×25 | 640×480 / 16 | 256 KB |- align="center" | '''[[8514/A|8514]]''' | 1987 | 80×25 | 1024×768 / 256 | 1 MB |- align="center" | '''[[Multicolor Graphics Adapter|MCGA]]''' | 1987 | 80×25 | 320×200 / 256 | ? |- align="center" | '''[[Video Graphics Array|VGA]]''' | 1987 | 80×25 | 640×480 / 16 | 256 KB |- align="center" | rowspan="2" | '''[[Super Video Graphics Array|SVGA]]'''<br />([[VESA BIOS Extensions|VBE 1.x]]) | rowspan="2" | 1989 | rowspan="2" | 80×25 | 800×600 / 256 | 512 KB |- align="center" | 640×480 / 256 等 | 512 KB+ |- align="center" | '''[[XGA]]''' | 1990 | 80×25 | 1024×768 / 256 | 1 MB |- align="center" | '''[[XGA|XGA-2]]''' | 1992 | 80×25 | 1024×768 / 65,536 | 2 MB |- align="center" | '''[[Super Video Graphics Array|SVGA]]'''<br />([[VESA BIOS Extensions|VBE 3.0]]) | 1998 | 132×60 | 1280×1024 / 16.8M | 色々 |} [[ファイル:Trident_TVGA9000.jpg|thumb|right|ISAインターフェイスを備える初期のビデオカードの例]] {{see also|Graphics Processing Unit#歴史|グラフィックコントローラ#歴史}} 以下、IBM PC(とその末裔)のビデオ設計としてのビデオカードについて主に述べる。 === IBM PCのビデオカード採用 === [[1981年]]の'''[[IBM PC]]'''は、当時のみならず後のパーソナルコンピュータでも普通に見られた、ビデオ回りのハードウェアをオンボードで固定したものにはせず、ビデオカードとして独立させる設計を採用した。 IBM PCはビデオサブシステム(ビデオチップなど)を本体([[マザーボード]])にではなく、[[拡張カード]]([[IBM]]はアダプターと呼ぶ)に搭載した。IBM PCの発売時には2種類のビデオカード(テキストモードのみの'''[[Monochrome Display Adapter|MDA]]'''と、グラフィックモードを持つ'''[[Color Graphics Adapter|CGA]]''')が提供され、用途により選択・交換できた。また各アダプターは複数の表示モード(ビデオモード)を持ち、ビデオモードは[[BIOS割り込みルーチン|BIOS割り込み]](INT 10h, AH=00h, AL=ビデオモード)によってソフトウェアから切替可能である。更に後継のビデオ規格(EGA, VGA, XGA等)は、前身のビデオ規格の全てのビデオモードを含む。 この'''[[拡張性]]'''により、IBM PCファミリーおよび[[PC/AT互換機|IBM PC互換機]]では、ユーザーは本体を買い換えなくても、各社から販売される多様なビデオカードに交換(種類によっては追加して共存)し、対応したディスプレイと[[ソフトウェア]]を使用すれば、より高速・高解像度な表示環境を得られるようになった。中でも[[:en:Hercules (corporation)|Hercules]]の'''[[Hercules Graphics Card|HGC]]'''は広く使われた。日本での[[東芝]]の[[ダイナブック (東芝)|ダイナブック]](初代J-3100 SS)も、CGAをベースに独自の日本語モード(640x400)を追加したものだった。 一文字テキスト出力(int 10h, ah=0eh)のような、BIOSの提供する機能としては高水準の機能を用意し(この機能を提供するBIOS ROMは本体ではなくビデオカードに載る)、MS-DOSなどはそちらを使うようにすることで、ハードウェアの差異に対するソフトウェアの[[互換性]]を確保した。 === EGAの登場と上位互換 === 1984年の[[PC/AT]]では'''[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]'''が標準搭載されたが、これはMDAおよびCGAの'''[[互換性|上位互換]]'''であり、MDAとCGAの主要な表示モードを含んでいた。表示モードはソフトウェアで容易に切替できたため、下位の画面モードにしか対応していないソフトウェアも継続して使用できた。この上位互換は、その後の主要なビデオ[[規格]]でも継承され、また複数の画面解像度([[走査]]周波数)に自動対応できる[[マルチスキャン]]方式のディスプレイが普及した。 EGAは広く普及し、各社がEGA上位互換のグラフィックチップやカードを製造した。日本での[[AX]]規格の'''[[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]]'''ボードも、EGAをベースに独自の日本語モード(640x480)を追加したものだった。 === VGAの登場と事実上の標準 === 1987年の[[IBM PS/2|PS/2]]では'''[[Video Graphics Array|VGA]]'''が搭載された。PS/2ではVGAチップはマザーボード上に搭載された(規格名称もAdapterからArrayになった)が、ビデオカードによる拡張性(置換え可能)は維持された。また従来のPC/AT(および互換機)用にも[[Industry Standard Architecture|ATバス]]用のVGA搭載ビデオカードが提供された。EGAの時と同様に上位互換性も維持され、VGAはEGAの画面モードを含み(従ってビデオ規格としてのVGAは、今でもMDAやCGAの各画面モードも含んでいる)、さらに独自の画面モード(640x480、16色など)が追加された。 VGAは急速に普及し、[[PC/AT互換機]]でもVGAは事実上の標準となった。{{要出典範囲|2017年現在でもOSのインストール画面などはVGA表示を使用しているものが多い|date=2017年1月}}<!-- 具体的には? -->。[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]の[[PS/55]]はPS/2ベースで、前半は日本独自のディスプレイアダプター(1024x768、XGAとは別規格)を搭載していたが、英語モード(英語DOSおよび後の[[DOS/V]])ではマザーボード上のVGAが使用できた。さらにPS/55も後半(1990年の5535-S以降)は、徐々にVGA(のみ)や、後述のXGAや各種SVGAに移行した。 === SVGAとXGA === 各社から多様なVGA上位互換 ('''[[Super Video Graphics Array|SVGA]]''') カード(チップ)が提供された。なおSVGAは各社のVGA上位互換カード(チップ)の総称であり、特定の規格や解像度ではない。ただし、各社独自の拡張モード間では互換性はなかったため、[[VESA]]が'''[[VESA BIOS Extensions|VBE]]'''として共通となるモードを標準化した。この中で有名なのが初期の800x600画面解像度であり、俗に言われる「SVGAの解像度は800x600」の元となった。 1990年代の有名なXGAおよびSVGAのビデオカード(ビデオチップ)には以下があった。 * [[IBM]]の[[XGA|XGA、XGA-2]] * [[:en:Tseng Labs|Tseng Labs]] の [[:en:Tseng Labs ET4000|ET4000]] シリーズ(多数の各社ビデオカードに搭載) * [[ATI Technologies|ATI]] の ATI Graphics Ultra シリーズ * [[:en:Diamond Multimedia|Diamond]] の Diamond Stealth シリーズ([[S3 Graphics|S3]] 86C911などを搭載) IBMの'''XGA'''は、VGAと8514の上位互換(広義にはSVGAの一種だが、歴史的にSVGAと呼ばないことも多い)で、独自の1024x768 256色などの表示モードが追加され、[[Micro Channel Architecture|MCA]]用と[[Industry Standard Architecture|ISA]]用のカードが登場した。XGAは[[マルチメディア]]を意識した設計であったが、高価な割には高速ではなかったためにIBM製のPC以外には広く普及せず、IBMはXGAの後には他社のSVGAチップを使用するようになった。 SVGAの中でも'''[[S3 Graphics|S3]]'''社の'''86C911'''は、ビデオサブシステム回路の複数の[[LSI]]をワンチップ化した世界初のグラフィックチップで、従来はCPUが行っていた描画処理のうち使用頻度の高い[[BitBlt]]などに対しアクセラレーションを行うことで非常な高速性を実現する画期的な製品となった。これらWindowsに特化した[[グラフィックアクセラレータ]]は[[ウィンドウアクセラレータ]]とも呼ばれるようになった。 また1990年代は[[拡張カード|拡張バス]]規格の移行期でもあり、PC/AT互換機では[[Industry Standard Architecture|ISA]]、[[VESA ローカルバス|VLバス]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]、[[Accelerated Graphics Port|AGP]]など各種のビデオカードが登場し、多数の組み合わせで競争や比較が行われた。また[[Macintosh]]も、[[Power Macintosh]]の第二世代から、[[NuBus]]からPCIに移行した。 === 日本での状況 === 世界の中でも日本だけは、[[PC-9800シリーズ|PC-9801シリーズ]]、[[FMRシリーズ]]、[[マルチステーション5550]]などや、更にはIBM PC互換機ベースであるダイナブック、[[AX]]([[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]])、[[PS/55]](前半)でも、日本語表示モードでは'''固定解像度'''が主流の時代が続いた。 しかし1990年代には[[DOS/V]]や[[Microsoft Windows]]などグラフィック中心の使用形態が普及した影響もあり、各社はPC/AT互換機に移行した。この結果、日本でもビデオカードが一般化したが、以上の経緯により国内のPC/AT互換機の大多数は最初からVGA以上を搭載している。 === SXGA以降 === SXGA以降のビデオカードや画面解像度の傾向については、下記関連項目を参照のこと。 {{main|Graphics Processing Unit#歴史|画面解像度}} {{clear}} == ビデオカードのメリットとデメリット == === メリット === * 描画性能の向上とスケーラビリティ(システムの電源容量が許す限りの高性能な製品を選択して搭載できるほか、マルチGPU構成にもできる<ref>[[Scalable Link Interface|NVIDIA SLI]]/[[AMD CrossFire]]対応マザーボードと複数枚の対応グラフィックスカードを用いた分散レンダリングのほか、[[CUDA]]/[[OpenCL]]/DirectX/[[Vulkan (API)|Vulkan]]のようなマルチデバイス対応APIによって分散コンピューティング・分散レンダリングを行なうこともできる。</ref>) * システム性能の向上<ref>オンボードグラフィックスやCPU内蔵GPUを用いたUMA構成の場合、システムメモリの一部がGPU用に予約・利用されることで、CPUが利用可能な[[メモリ空間]]が減少したり、GPU性能が比較的低速なメインメモリに律速されてしまったりする。外付けのビデオカード(専用VRAMを搭載するディスクリートGPU)を用いることで、これらの問題が解消され、システム全体の性能向上に寄与することがある。</ref> * [[マルチモニター]]機能などの対応 * [[保守性]]の向上 * CPUの負荷が軽減される(グラフィック描画の処理がCPUから外れる) === デメリット === * [[消費電力]]の増加(電気代などのランニングコストだけでなく、電源ユニットも比較的高額な高出力タイプが求められる) * 占有スペースの増加(ハイエンドのビデオカードは大型化する傾向があり、[[Micro-ATX]]規格などの省スペースPCでは搭載できない) * 排熱の増加(十分な[[エアフロー]]や冷却性能が確保できない場合は[[オーバーヒート]]してしまうこともある) * 接続部位の増加による信頼性の低下 * 隣接PCI Express等のスロットへの圧迫(厚みの大きいビデオカードを挿入することで隣接スロットで挿入できるスペースが取られ、物理的に使用不可となるケースが多い) なお、GPUはCPUと比較して価格・コストの割には性能および機能水準陳腐化のペースが速く、グラフィック処理の性能や機能を求められる[[アプリケーションソフトウェア]](例:[[3DCG]]ソフトウェアや[[CAD]]ソフトウェアのリアルタイムプレビュー用[[レンダラ]]、[[PCゲーム]]、動画加工[[オーサリングソフト]]など)の[[バージョンアップ]]に合わせ、買い替えが必要となるケースが生じやすい。オンボードGPUの場合は通例システム全体の刷新が必要になることが多いが、独立した外付けビデオカードであればカードのみを交換することで対処できる可能性がある。例えばDirectX (Direct3D) を利用する3Dゲームは、OSやハードウェアのサポート状況に合わせて、利用するDirectXのバージョンや描画品質のオプションを切り替えることができるようになっているものがあるが、最新世代の高性能なビデオカードに交換することで、描画品質や快適性の向上が見込める。 エントリーモデルのビデオカードは、ハイエンドのビデオカードほどの性能向上は見込めないものの、オンボードグラフィックスやCPU内蔵GPUでは対応していない高解像度出力機能や各種の豊富な接続インターフェイスをサポートし、性能よりも低コストで複数のモニターを利用する用途などに使われる。性能を抑えることで1スロット、ファンレス、補助電源不要など、小型化や静音性を実現した低価格モデルが提供されている<ref>{{Cite web|和書|title=ファンレス&長寿命、ASUSのGeForce GT 730ビデオカードをテスト ~あなたの知らない(?)ローエンドビデオカードの世界~ text by 瀬文茶 |url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/sp/672002.html |website=AKIBA PC Hotline! |date=2014-10-23 |accessdate=2022-03-13 |language=ja |author=瀬文茶 |publisher=株式会社インプレス}}</ref>。 == その他 == === ノートパソコン === [[ノートパソコン]]ではビデオチップがオンボード実装されているか統合グラフィック機能を用いている製品が一般的であり、ビデオカードの増設は基本的に不可能である。miniAGPをはじめ、[[NVIDIA]]の[[:en:Mobile PCI Express Module|Mobile PCI Express Module]]{{en icon}}や[[ATI Technologies|ATI]]の[[AXIOM]]といった拡張インターフェイス規格が策定されているが、これらはPCの製造メーカーが複数ラインナップを揃えやすくすることを目的とした規格であり、'''エンドユーザーのアップグレード手段として意図されているものではない。'''このため、対応製品はほぼ出回っておらず、構造もユーザーによる交換を前提としていないことが多い。なお、[[マルチディスプレイ]]機能を提供するための[[PCカード]]接続タイプや[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続タイプのグラフィックアダプタが一部で提供されている。 2016年3月には[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]が、ノートPCに外付けGPUをつなぐ技術「AMD XConnect」を発表した。拡張カード接続に対応したPCとGPU格納ケースは、[[Thunderbolt]] 3規格で接続される<ref>[http://ascii.jp/elem/000/001/133/1133324/ ASCII.jp:AMD、ノートPCに外付けGPUをつなぐ技術「AMD XConnect」を発表]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/747838.html AMD、Thunderbolt 3経由でノートPCに外部GPUを接続する技術「XConnect」 ~再起動不要で着脱可 - PC Watch]</ref><ref>[https://www.4gamer.net/games/302/G030238/20160311002/ AMD,Thunderbolt 3接続の外付けGPU技術「XConnect」を正式発表 - 4Gamer.net]</ref>。 === オンボード === [[ファイル:Sis_760gxlv.jpg|thumb|right|統合チップセットの例]] {{main|オンボードグラフィック}} マザーボードが持つグラフィックス機能を総括して'''オンボードグラフィックス'''または'''オンボードビデオ'''と呼ぶことが多い。これは、単体のグラフィックチップをマザーボードの基板に直接実装したものと、統合[[チップセット]]のグラフィックス機能を利用したものに大別される。基板に実装するタイプは高性能ノートPC<ref>[https://www.nvidia.com/ja-jp/geforce/gaming-laptops/ GeForce RTX 30 シリーズ ノート PC - NVIDIA]</ref>やサーバ向けマザーボードで用いられる。統合チップセットの登場以前は、低価格機のグラフィックス機能はこのタイプを用いたものが多く、「オンボード」という呼称はこの形態に由来する。 統合チップセットは1999年に発表された[[Intel 810]]以降、安価かつ省スペース性に優れるため{{要出典範囲|急速に普及し、PCグラフィックス機能の主流となった|date=2016年1月}}<!-- 事実だとは思われるが、Wikipediaに記載するからには根拠が必要。 -->。[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]などのモバイル端末では高性能かつ省電力の[[System-on-a-chip|SoC]]が使われており、CPUとGPUがひとつのパッケージに統合されている。CPUの性能向上(特にシングルコア性能の向上)が頭打ちになる一方、GPUの性能向上には伸びしろがあることから、デスクトップ向けCPU製品でもGPUを統合したものが増えている。これらは'''オンダイグラフィックス'''あるいは'''統合グラフィックス'''と呼ぶべきだが、慣例的にオンボードグラフィックスとも呼ばれる。特にIntel製のCPUに統合されたGPU ([[Intel HD Graphics]]) はシェアが高い<ref>[http://jonpeddie.com/press-releases/details/intel-gains-nvidia-flat-and-amd-loses-graphics-market-share-in-q1/ Intel gains, Nvidia flat, and AMD loses graphics market share in Q1 - Comments - Press Releases]</ref>。ただしいずれも多くのユーザーがWeb閲覧やオフィスソフトなど一般的な用途で求める程度の性能に留まるため、ゲームのプレイや開発、CAD、マルチメディア作品の制作、GPGPUなど高負荷な2D/3D描画性能や演算性能を求められる用途には向いていない。ただし[[PlayStation 4]]などのゲーム専用機に採用実績のある[[AMD Accelerated Processing Unit|AMD APU]]のように、統合型であっても高いグラフィックス性能と演算性能を持つ製品もまた登場している。 Unified Memory Architecture (UMA) によりビデオメモリ用として確保・占有される一部のメインメモリ領域はシステムから使用できなくなり、実効メモリ容量が減少する。 なおビデオ会議のようなストリーミングやブラウザ上での[[WebGL]]利用、OSのデスクトップ描画やプレゼンテーションソフトのGPUアクセラレーションなど、オフィスワークでもGPUパワーが必要となるケースも増えており、また4Kのような高解像度環境やマルチディスプレイ環境は特にGPUの負荷が大きく、CPU内蔵GPUではパフォーマンスに問題が出ることもある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日常作業や2D CADを快適に――AMDが1スロットサイズのGPU「Radeon PRO W6400」を2022年第1四半期に投入 229ドルから |url=https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2201/19/news168.html |website=ITmedia PC USER |accessdate=2022-03-13 |language=ja}}</ref>。 ゲーミング向けなどの高性能ノートPCに搭載されたオンボードのGPUは、電力供給や排熱などの問題から、デスクトップ向けのビデオカードに搭載されている同型のGPUと比べて意図的に性能が落とされてはいるものの、CPU内蔵GPUよりも高性能である。 == ビデオカードメーカー == {{出典の明記|section=1|date=2019-08}} かつてビデオカードは{{仮リンク|ダイヤモンド・マルチメディア|en|Diamond Multimedia}}や{{仮リンク|エルザ_(企業)|label=ELSA|en|ELSA Technology}}などの各ビデオカードメーカーが[[ベンダー]]から[[Graphics Processing Unit|GPU]]を購入し、[[設計]]・[[製造業|製造]]を行ったものが販売されていた。しかしこの方式はメーカーごとの製品の[[品質]]のばらつきが大きいという問題があった。このため、ベンダーがGPUに対応するビデオカードの[[リファレンス]]デザインをメーカーに提供し、メーカーはリファレンスデザインに沿った製品の販売を行うという形態が2000年代頃から主流になり、品質面での差異が少なくなった<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.dospara.co.jp/5info/cts_palit_sennyurepo |title=“謎の”ビデオカードメーカー「Palit」潜入レポート |accessdate=2022/03/15 |publisher=[[ドスパラ]]}}</ref>。メーカーでは冷却ファンやヒートシンクの形状、[[オーバークロック]]、ユーティリティソフトウェアなどで差別化を図っている<ref>{{Cite web|和書|title=「GeForce GT 1030」と「Radeon RX 550」直接対決。新世代のエントリー市場向けGPUをゲーマー目線でチェックする |url=https://www.4gamer.net/games/251/G025177/20170525163/ |website=4Gamer.net |accessdate=2022-03-15 |language=ja |publisher=[[Aetas]], Inc.}}</ref><ref name=":1" />。2000年代後半以降は[[ASUS|ASUSTeK Computer]]、[[GIGABYTE]]、[[Micro-Star International|MSI]]などのマザーボードメーカーが手がけるビデオカード製品が多くを占めるようになったが、{{仮リンク|Palit|en|Palit Microsystems}}など拡張カードのみに製品を絞ったメーカーも存在する<ref name=":0" />。 一般的なビデオカードメーカーは複数のGPUベンダーのビデオカード製品を取り扱うが、{{仮リンク|Sapphire Technology|en|Sapphire Technology}}のように特定のGPUベンダーのビデオカード製品しか扱わない例もある。またベンダー自身がビデオカードの販売までを行う例もある。これに該当する例としては[[Matrox|Matrox Graphics]]が挙げられる他、かつては[[ATI Technologies]]、[[3Dfx]]、[[3DLabs]]もビデオカードの製造・販売を行っていた。 ビデオカードメーカーがビデオカードの販売時に独自のブランドを用いる場合もある。これらの例としては{{仮リンク|InnoVision|zh|廷鑫興業|en|MAG Innovision}}のInno3D、[[AOpen]]のXiAiなどがある。{{仮リンク|Palit|en|Palit Microsystems}}は他社のOEMの他、自社ブランドでも販売を行っている<ref name=":1" />。 === 日本国内メーカー === 日本国内メーカーでは[[アイ・オー・データ機器]]([[挑戦者]]ブランドも展開)・[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]([[玄人志向]]ブランドを含む)などの[[周辺機器]]メーカーがビデオカードの販売を手がけている。商品では、「[[グラフィックアクセラレータ]]」の名称が用いられた。[[アイ・オー・データ機器]]の製品は、設計こそリファレンスに準じたものになっていたものの、かつては[[デバイスドライバ|ドライバ]]が独自に[[チューニング]]されており、一定の評価を得ていた。その後、OEM供給を受けたATI/NVIDIA製品をラインナップしていたが、2010年12月発売のGA-RH5450を最後に、一旦取り扱いを終了していた。2014年には、4K UHD対応のビデオカードGA-GTX750TIを改めて取り扱うようになっているほか、2007年からDisplayLink社製のチップを用いたUSB接続の製品の販売を続けている。これら国内の取り扱い製品の中で特に[[トムソン・カノープス|カノープス]]はリファレンスデザインと異なる独自開発の基板およびドライバを採用したビデオカードの製造・販売を行い、マニア層を中心にかつて人気を博していたが、2002年に独自設計のビデオカードのリリースは終了し、2006年2月のMTVGA X1300Lのリリースを最後にビデオカード事業から撤退している。 産業用では自社が提供するソリューションの一部として生産を行っている企業がある。[[日本電気|NEC]]は放送局向け[[ワークステーション]]のビデオカードを一部製造・販売している<ref>{{Cite web|和書|title=NEC、独自の3Dエンジンを搭載した業務用ビデオカードなど |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20011130/nec2.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |access-date=2022-09-04}}</ref>。[[EIZO]]では[[航空交通管制]]ソリューションとして、管制用ディスプレイと共にビデオカードを製造している<ref>{{Cite web|和書|title=航空管制 {{!}} EIZO株式会社 |url=https://www.eizo.co.jp/solutions/atc/ |website=www.eizo.co.jp |access-date=2022-09-04}}</ref>。 == ビデオカードに使用される主なGPU == === コンシューマー向け === [[DirectX]] ([[Direct3D]]) と組み合わせて使うことが多い。 * [[NVIDIA GeForce]]シリーズ * [[AMD Radeon]]シリーズ === プロフェッショナル向け === [[OpenGL]]と組み合わせて使うことが多い。 * [[NVIDIA Quadro]]シリーズ * [[AMD FirePro]](FireGL、FireMV、FireStream)シリーズ === サーバー向け === 安価で安定しているものが選ばれることが多い。 * [[Matrox]] [[Parhelia]]シリーズ {{いつ|date=2016年1月}}<!-- 2016年現在、すでに第一線を退いたレガシー製品のはず。採用事例や採用時期を出典付きで示したほうがよい。 --> * Matrox [[G200シリーズ|Millennium G200eH]] * [[ATI Rage]] XL {{いつ|date=2016年1月}}<!-- 2016年現在、すでに第一線を退いたレガシー製品のはず。採用事例や採用時期を出典付きで示したほうがよい。 --> * [http://www.aspeedtech.com/ Aspeed] (サーバー向けビデオチップベンダー) NVIDIA QuadroやAMD FireProもサーバー用途に選ばれる<ref>[http://h50146.www5.hp.com/products/servers/bladesystem/graphics_server_blade/component/nvidia.html NVIDIAグラフィックス カード - 概要 | 日本ヒューレット・パッカード]</ref>。そのほか、グラフィックス出力機能を持たず、汎用計算([[GPGPU]])に特化した[[NVIDIA Tesla]]やAMD FirePro Sシリーズもサーバー上での演算用途に採用されている<ref>{{Cite web|和書|title=AMD,メモリ容量32GBのサーバー向けGPU「FirePro S9170」を発売 |url=https://www.4gamer.net/games/133/G013322/20150709041/ |website=4Gamer.net |accessdate=2022-03-15 |language=ja |publisher=[[Aetas]], Inc.}}</ref>。 == 主なビデオカード製造企業 == {{出典の明記|section=1|date=2022-08}} <!-- 下記は「記述方法の変更」を理由にコメントアウトされていたが、ビデオカードの歴史を知る上でも関連企業は証人として重要。 --> * [[ASUS|ASUSTeK Computer]] * [[GIGABYTE]] (GIGABYTE Technology) * [[Micro-Star International|Micro-Star International (MSI)]] * [[Matrox|Matrox Graphics]] * [[AOpen]] * {{仮リンク|Sapphire Technology|en|Sapphire Technology}} * [[アイ・オー・データ機器]] ([[挑戦者]]ブランドも展開) * [[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]] (旧社名メルコ。[[玄人志向]]ブランドも展開) * [[ZOTAC]] * [[七彩虹|七彩虹(COLORFUL)]] * [[ギャラクシー|GALAXY]] * [[エルザ|ELSA]](エルザ ジャパン/ELSA Technology) * [[フォックスコン|FOXCONN]] * [[LEADTEK]](FOXCONNと協業) * [[ALBATRON]] * [[Hightech Information System Limited|HIS]] * [[XFX]] * [[GECUBE]] * [[PowerColor]] * [[INNOVATION]] * [[PNY Technologies]] * [[S3 Graphics]] (以前はコンシューマー向けの[[S3 Chrome]]シリーズを開発・販売していたが、2010年代に入るとコンシューマーからは撤退し、[[デジタルサイネージ]]向けに転向<ref>[https://www.4gamer.net/games/111/G011162/20110605006/ 4Gamer.net ― [COMPUTEX]S3 Graphics,「Chrome 5400E」を製品化。デジタルサイネージ向けに事業展開開始]</ref>) * {{仮リンク|Palit|en|Palit Microsystems}} * [[日本電気|NEC]] - 産業用のみ * [[EIZO]] - 産業用のみ <!-- いくつかの企業はWikipediaに項目が存在しないことを理由にコメントアウトされていたが、[[ノート:ビデオカード]]にも記載されているようにそれだといつまで経っても当該記事が作成されないことにつながりかねないので、あえて復帰している。 --> <!-- S3は撤退を理由にコメントアウトされていたが、かつての競合として記述を復帰しておく。記事を記述した時点で撤退しているかどうかは記述内容の重要性に関係しない。 --> === 過去にビデオカードを手がけていた企業 === * [[3dfx]] ([[NVIDIA]]に買収された) * [[3Dlabs]] ([[Wildcat]]シリーズなど、以前は[[ハイエンド]]のプロフェッショナル向け3DCGソフトウェア用製品を開発・販売していたが、2006年に事業から撤退<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0301/hot410.htm 元麻布春男の週刊PCホットライン]</ref>) * {{仮リンク|EVGA|en|EVGA Corporation}} (長年にわたり[[NVIDIA]]製GPU搭載ビデオカードを開発・販売していたが、2022年9月のGeforce RTX 4090/4080発表直前に撤退を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20220920-2459106/ |title=NVIDIAグラボ 北米トップのEVGA、グラボから事実上の撤退、その理由は? |author=Yoichi Yamashita |website=マイナビニュース |publisher=株式会社マイナビ |date=2022-09-20 |accessdate=2022-09-23}}</ref>。) * {{仮リンク|インターグラフ|label=Intergraph|en|Intergraph|preserve=1}} (20世紀末頃に[[Lynx]]{{要曖昧さ回避|date=2019年9月}}、[[Wildcat]]{{要曖昧さ回避|date=2019年9月}}、[[RealiZm]]、[[Intense 3D]]シリーズを手がける。2000年に開発部門である社内企業Intense 3D社を3DLabsに売却) * [[クリエイティブテクノロジー|Creative Technology]] ([[3Dlabs]]を買収。日本法人はクリエイティブメディア) * [[カノープス (企業)|カノープス]] * [[ロジテック]] * [[ATI Technologies]] ([[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]に買収された) * {{仮リンク|イマジネーションテクノロジーズ|en|Imagination Technologies}} (GPUを手がけていた開発部門がSondrelに買収された<ref>{{Cite web|url=https://www.sondrel.com/news/sondrel-agrees-to-acquire-img-works-division-imagination-technologies|title=Sondrel Agrees to Acquire IMG Works Division of Imagination Technologies|accessdate=2018-06-26|website=www.sondrel.com|language=en}}</ref>、のちに資産を投資ファンドに売却し解散<ref>{{Cite news|title=【電子版】半導体の英イマジネーション、米ファンドに身売り アップルのGPU内製化で存続困難に|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00444165|accessdate=2018-06-26|work=日刊工業新聞電子版}}</ref>) == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{commons|Category:Video cards}} * [[Graphics Processing Unit|GPU]] * [[グラフィックアクセラレータ]] * [[ウィンドウアクセラレータ]] * [[オンボードグラフィック]] * [[VRAM]] * [[OpenGL]] * [[Microsoft DirectX]] * [[Direct3D]] * [[Accelerated Graphics Port|AGP]] * [[Peripheral Component Interconnect|PCI]] * [[PCI Express]] * [[画面解像度]] * [[マルチモニター]] * [[カツ入れ]] {{Basic computer components}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひておかあと}} [[Category:グラフィックカード|*]] [[Category:拡張カード]] [[Category:コンピュータグラフィックス]]
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イロコイ
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イロコイ アメリカインディアンの言葉で「毒蛇」を意味する言葉とフランス語の語尾が合わさった言葉である。(Iroquois) イロコイ族 イロコイ連邦 イロコイ郡 (イリノイ州) オレンダ イロコイ カナダオレンダ・エンジンズ製ターボジェットエンジン。 イロクォイ級ミサイル駆逐艦 UH-1型汎用ヘリコプター。 ⇒ UH-1 (航空機) ソリッド・スネーク メタルギアソリッド2の作中で「イロコィ・プリスキン」の偽名を使っている。 色恋とは、男女間の恋愛や情事、色事の事。
'''イロコイ''' * [[インディアン|アメリカインディアン]]の言葉で「毒蛇」を意味する[[自然言語|言葉]]と[[フランス語]]の語尾が合わさった言葉である。(Iroquois) ** イロコイ族 ** [[イロコイ連邦]] ** [[イロコイ郡 (イリノイ州)]] ** [[オレンダ イロコイ]] カナダ[[オレンダ・エンジンズ]]製[[ターボジェットエンジン]]。 ** [[イロクォイ級ミサイル駆逐艦]] ** UH-1型汎用[[ヘリコプター]]。 ⇒ [[UH-1 (航空機)]] ** [[ソリッド・スネーク]] [[メタルギアソリッド2]]の作中で「イロコィ・プリスキン」の偽名を使っている。 * [[wikt:いろこい|色恋]] - [[恋愛]]や情事、[[色事]]の事。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:いろこい}}
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Accelerated Graphics Port
Accelerated Graphics Port(アクセラレーテッド グラフィックス ポート、AGP)とは、インテルが策定したビデオカード用の拡張ポート規格である。 インテルのPentium II・Celeron用Slot 1対応チップセットであるIntel 440LXでAGP 1.0が初採用され、以後、後継規格であるPCI Expressが制定・実用化されるまでパーソナル・コンピューターを中心に利用された。 信号プロトコルは32ビット 66 MHz動作のPCIバスのそれを基本としつつ、同バスでデータバスと時分割により共用とされていたアドレスバスを8ビット幅で別途用意し、必要に応じて両バスを分離可能とするサイドバンドアドレッシング機能や、CPUを介せず直接グラフィックコントローラでメインメモリの読み書きを可能とするDIME (DIrect Memory Execution) 機能を搭載する。 サイドバンドアドレッシング機能とDIME機能は共に本ポートに接続されるグラフィックコントローラからパソコン本体のメインメモリへのアクセスを高速化するためのものである。これらは当初、メインメモリをテクスチャやZバッファやバックプレーンとして使用することによって、ビデオカードに搭載されるビデオメモリの搭載量を必要最小限で済ませ、一定の描画性能を確保しつつ低コスト化を図る目的で開発された。だが、規格制定と前後してWindows搭載パソコンでの3Dグラフィック機能の搭載が急速に進展したことから、そうした低コストパソコンへの適用とは別に、ポリゴンによる3Dグラフィック機能をサポートするグラフィックコントローラにおいて、大容量テクスチャメモリをメインメモリ上に確保する手段として賞揚され、下位機種から上位機種まで幅広く普及するに至った。 最初のバージョンであるAGP 1.0は1996年8月に策定され、1997年夏頃から製品が出回るようになった。 上述の通りAGPは32ビットPCIの上位互換機能を備えており、適切なデバイスドライバが存在しない場合、本ポートに接続されたグラフィックコントローラは32ビット 66 MHzのPCIバスに接続されているのと同等の動作を行う。 後年、大量のメモリをビデオカードに実装するようになると、ビデオカードのメモリアクセスはビデオカード内で完結することも多くなり、メインメモリへのアクセス向上という意義はやや薄れた。だが、この時期には3Dゲームを中心に本ポート経由でやりとりされるデータそのものが急増しており、その要求に応える形で本ポートは規格の拡張・性能向上が繰り返された。これにより、基本となる1xモード (半二重266 MB/s) の機能に加えて信号の低電圧差動を行い、さらにクロック信号の立ち上がりに加え、立ち下がり、待ち時間などを検出することで同一クロックタイミングのまま転送速度を2倍・4倍・8倍と高速化させるAGP 2xモード (半二重533 MB/s) ・4xモード (半二重1,067 MB/s) ・8xモード (半二重2,133 MB/s) が開発されている。 AGPはこれまでに3つの規格がリリースされ、諸元は以下の表の通りである。 より高速な動作モードを備えたリリースであるほど、スルー・レートを高く維持するように信号電圧が低く設定されている。 データ転送速度は1x・2x・4x・8xの4種類があり、バースト転送時でそれぞれ 半二重266 MB/s・533 MB/s・1.07 GB/s・2.13 GB/sの速度となっている。 カードエッジ端子部分はPCIのような櫛状に端子を並べるのではなく、かつてのEISAバスと同様、端子を上下2列に千鳥配置としている。 また複数の動作電圧が設定されているので、対応電圧の異なるカード・スロットを区別するため、図に示すように、3.3 Vと1.5 Vの電圧にそれぞれ対応した位置に、カードには切り欠きが、スロットには突起が存在する。これにより電圧が非対応のカードの挿入を物理的に防いでいる。AGP 3.0の駆動電圧である0.8 Vに対応した切り欠き(突起)は存在しないが、0.8 Vで動作するカードは、0.8 V非対応のスロットに挿入されたときも適切に対処することが規格上定められており、AGP 3.0専用カードであっても1.5 Vの入力電圧に耐え(切り欠きにより3.3 V専用スロットへの挿入は物理的に回避できる)、非対応スロットであることを電気的に認識した後に動作を停止(あるいは1.5 V動作に自動切り替え)し、故障を回避する必要がある。なお、3.0対応スロットの場合、2.0のカードが装着された場合には自動的に2.0モードに切り替わる実装が多い。 過去には、切り欠きが不適切に設定されたカードにより、回路が焼損する事故が起きたこともある。 AGP対応カードが必ずしも全ての動作速度に対応しているわけではなく、動作モードは2xまでしかサポートしないというカードも存在する。 カードやスロットにより、対応する規格の範囲が異なり混乱を招くことがある。また、カードやスロットの物理的形状だけでは対応する動作モードを判断することが出来ないため、混乱に拍車をかけている。 拡張スロットの色は茶色が多く、CPUからは最も近い位置にあることが多い。 2005年末以降のマザーボードの新製品では、より高性能だがAGPと互換性のない後継規格PCI Express (PCIe) 規格スロットのみを搭載したマザーボードが一般的となったため、AGPは事実上旧規格(レガシーデバイス)となり、各ビデオカードベンダーの最新型製品におけるラインナップはPCIeを中心とした物に移り変わっていった。NVIDIAはGeForce 8シリーズ以降のAGP版をリリースしていない。AMDでは2009年現在のところRadeon HD 3000・4000シリーズのAGP版が発売されているが、HD 2000シリーズ以前に比べるとラインナップが大幅に減少し、HD 5000シリーズ以降AGP版のリリースは停止された。 PCIe用ビデオチップをAGPに転用するため、AGP-PCIeブリッジチップ(NVIDIA製品では「HSI」、AMD製品では「Rialto」と呼ばれる)を搭載するカードも存在していた。
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Accelerated Graphics Portとは、インテルが策定したビデオカード用の拡張ポート規格である。
{{redirect|AGP|バンダイのアクションフィギュアのシリーズ|アーマーガールズプロジェクト}} [[ファイル:AGP slot highlighted on Soyo SY-7VBA133 mainboard.jpg|thumb|250px|[[マザーボード]]上のAGPスロット]] '''Accelerated Graphics Port'''(アクセラレーテッド グラフィックス ポート、'''AGP''')とは、[[インテル]]が策定した[[ビデオカード]]用の[[拡張バス|拡張ポート]]規格である。 == 概要 == インテルの[[Pentium II]]・[[Celeron]]用[[Slot 1]]対応[[チップセット]]であるIntel 440LXでAGP 1.0が初採用され、以後、後継規格である[[PCI Express]]が制定・実用化されるまでパーソナル・コンピューターを中心に利用された。 信号プロトコルは32ビット 66 MHz動作の[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]バスのそれを基本としつつ、同バスでデータバスと時分割により共用とされていたアドレスバスを8ビット幅で別途用意し、必要に応じて両バスを分離可能{{Efn|基本的にはPCIバス互換の時分割共用モードで動作し、各対応デバイスのドライバで分離モード動作をサポートする。なお、この機能はAGP 2.0まではオプションとされサポートが必須でなく、AGPカードとチップセット間での互換性問題の一因となっていた。}}とするサイドバンドアドレッシング機能や、CPUを介せず直接[[グラフィックコントローラ]]でメインメモリの読み書きを可能とする{{en|DIME (DIrect Memory Execution)}} 機能を搭載する。 サイドバンドアドレッシング機能とDIME機能は共に本ポートに接続されるグラフィックコントローラからパソコン本体の[[主記憶装置|メインメモリ]]へのアクセスを高速化するためのものである。これらは当初、メインメモリを[[テクスチャ]]や[[Zバッファ]]やバックプレーンとして使用することによって、ビデオカードに搭載されるビデオメモリ{{Efn|デュアルポート[[VRAM]]、 [[SGRAM]]、[[WRAM]]など。本ポートの開発当時、これらは非常に高価であった。}}の搭載量を必要最小限で済ませ、一定の描画性能を確保しつつ低コスト化を図る目的で開発された{{Efn|従って、本ポート以前にビデオカード用の拡張バスに使われていた[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]や[[VESA ローカルバス|VLバス]]のデータ転送帯域の不足が、開発の直接的な動機となったわけではない。}}。だが、規格制定と前後してWindows搭載パソコンでの3Dグラフィック機能の搭載が急速に進展したことから、そうした低コストパソコンへの適用とは別に、[[ポリゴン]]による3Dグラフィック機能をサポートするグラフィックコントローラにおいて、大容量テクスチャメモリをメインメモリ上に確保する手段として賞揚され{{Efn|これらの機能を従来のPCIバス経由で実行した場合、データバスが飽和し転送帯域が不足することが危惧された。本ポートが複数のデバイスによる共有を前提とする「バス」ではなく単独のデバイスが占有する「ポート」とされたのも、この点に対する対応である。}}、[[ローエンド|下位機種]]から[[ハイエンド|上位機種]]まで幅広く普及するに至った。 最初のバージョンであるAGP 1.0は[[1996年]]8月に策定され、[[1997年]]夏頃から製品が出回るようになった{{Efn|一般市場で流通した最初の製品は[[ナンバー・ナイン・ビジュアル・テクノロジー|Number Nine Visual Technology]]社のRevolution 3Dで、これに[[Matrox]]社のMillennium IIや[[Intel 740]]などが続いた。}}。 上述の通りAGPは32ビットPCIの上位互換機能を備えており、適切な[[デバイスドライバ]]が存在しない場合、本ポートに接続されたグラフィックコントローラは32ビット 66 MHzのPCIバスに接続されているのと同等の動作を行う{{Efn|対応チップセットには仮想PCI-PCIバスブリッジ機能が搭載されており、ドライバでモード切替を行わない限りは本ポートは仮想的にセカンダリ以降のPCIバスとして振る舞う。これにより、サイドバンドアドレッシング機能やDIME機能をサポートしないWindows NTなどでも、これらの機能を無効化したドライバを用意することで、OSサポートの後方互換性が確保されている。また、上述のRevolution 3DやMillennium II、[[3dfx]]社の[[Voodoo Banshee]]、それに[[NVIDIA]]社のRIVA 128など初期に開発されたAGP対応グラフィックコントローラではこのサイドバンドアドレッシング機能はそもそもサポートされていない。この互換機能を生かした極端な例では、AGP用のグラフィックカードを、電圧の変換のみでPCI用として使用するアダプタが販売された事例もあった。}}。 後年、大量のメモリをビデオカードに実装するようになると、ビデオカードのメモリアクセスはビデオカード内で完結することも多くなり、メインメモリへのアクセス向上という意義はやや薄れた。だが、この時期には3Dゲームを中心に本ポート経由でやりとりされるデータそのものが急増しており、その要求に応える形で本ポートは規格の拡張・性能向上が繰り返された。これにより、基本となる1xモード ([[半二重]]266 MB/s) の機能に加えて信号の低電圧差動を行い、さらにクロック信号の立ち上がりに加え、立ち下がり、待ち時間などを検出することで同一クロックタイミングのまま転送速度を2倍・4倍・8倍と高速化させるAGP 2xモード (半二重533 MB/s) ・4xモード (半二重1,067 MB/s) ・8xモード (半二重2,133 MB/s) が開発されている。 == 規格のバージョンと互換性 == AGPはこれまでに3つの規格がリリースされ<ref>{{Cite web|url=http://www.playtool.com/pages/agpcompat/agp10.pdf |title=Accelerated Graphics Port Interface Specification Rev. 1.0 |author=Intel |language=en |format=PDF |accessdate=Dec. 14, 2007}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.smartcomputing.com/editorial/article.asp?article=articles/archive/g0801/35x01/04g01.asp |title=AGP 4X: Faster Data Transfer & Better-Quality Images |publisher=Smart Computing |date=January 2000 |accessdate=2007-10-18 |deadlinkdate=2020-09-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080611210609/http://www.smartcomputing.com/editorial/article.asp?article=articles/archive/g0801/35x01/04g01.asp |archivedate=2008-06-11}}</ref><ref name="AGP3.0">{{Cite web|url=http://download.intel.com/support/motherboards/desktop/sb/agp30.pdf |title=AGP 3.0 Specification |author=Intel |format=PDF |accessdate=Dec. 14, 2007 |deadlinkdate=2020-09-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071128083140/http://download.intel.com/support/motherboards/desktop/sb/agp30.pdf |archivedate=2007-11-28}}</ref>、諸元は以下の表の通りである。 {| class="wikitable" |+ AGP規格の各リリース ! !! AGP 1.0 !! AGP 2.0 !! AGP 3.0 |- ! 策定年月 | 1996年8月 || 1998年5月 || 2002年9月 |- ! 信号電圧 | 3.3 V || 1.5 V || 0.8 V |- ! 速度 | 1x, 2x || 1x, 2x, 4x || 4x, 8x |- ! 切り欠き(突起)の位置 | 3.3 V || 1.5 V, Universal || 1.5 V, Universal |} より高速な動作モードを備えたリリースであるほど、[[スルー・レート]]を高く維持するように信号電圧が低く設定されている。 データ転送速度は1x・2x・4x・8xの4種類があり、[[バースト転送]]時でそれぞれ [[半二重]]266 MB/s・533 MB/s・1.07 GB/s・2.13 GB/sの速度となっている。 [[ファイル:AGP & AGP Pro Keying.svg|thumb|300px|互換性, カードの切り欠き(上部)、スロットの突起(下部)]] カードエッジ端子部分はPCIのような櫛状に端子を並べるのではなく、かつての[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]バスと同様、端子を上下2列に千鳥配置としている。 また複数の動作電圧が設定されているので、対応電圧の異なるカード・スロットを区別するため、図に示すように、3.3 Vと1.5 Vの電圧にそれぞれ対応した位置に、カードには切り欠きが、スロットには突起が存在する。これにより電圧が非対応のカードの挿入を物理的に防いでいる。AGP 3.0の駆動電圧である0.8 Vに対応した切り欠き(突起)は存在しないが、0.8 Vで動作するカードは、0.8 V非対応のスロットに挿入されたときも適切に対処することが規格上定められており<ref name="AGP3.0"/>、AGP 3.0専用カードであっても1.5 Vの入力電圧に耐え(切り欠きにより3.3 V専用スロットへの挿入は物理的に回避できる)、非対応スロットであることを電気的に認識した後に動作を停止(あるいは1.5 V動作に自動切り替え)し、故障を回避する必要がある。なお、3.0対応スロットの場合、2.0のカードが装着された場合には自動的に2.0モードに切り替わる実装が多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/334/334932/ |title=AGP 3.0 |website=ASCII.jp |date=2003年1月11日 |accessdate=2020-09-06}}</ref>。 過去には、切り欠きが不適切に設定されたカードにより、回路が焼損する事故が起きたこともある。 AGP対応カードが必ずしも全ての動作速度に対応しているわけではなく、動作モードは2xまでしかサポートしないというカードも存在する。 カードやスロットにより、対応する規格の範囲が異なり混乱を招くことがある。また、カードやスロットの物理的形状だけでは対応する動作モードを判断することが出来ないため、混乱に拍車をかけている。 拡張スロットの色は茶色が多く、CPUからは最も近い位置にあることが多い。 ; AGP Pro<ref>{{Cite web|和書|date=1998-03-09 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980309/intel.htm |title=米Intel、ワークステーション向けの新AGP規格発表 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-30}}</ref> : 画像処理に特化した[[ワークステーション]]等で用いられる、より多くの電力を必要とするビデオカード向けに、ピン数を増やした AGP Pro 規格がある。 == 終焉 == [[2005年]]末以降の[[マザーボード]]の新製品では、より高性能だがAGPと互換性のない後継規格[[PCI Express]] (PCIe) 規格スロットのみを搭載したマザーボードが一般的となったため、AGPは事実上旧規格([[レガシーデバイス]])となり、各ビデオカード[[ベンダー]]の最新型製品におけるラインナップはPCIeを中心とした物に移り変わっていった。[[NVIDIA]]は[[GeForce]] 8シリーズ以降のAGP版をリリースしていない<!--2007年に開発発表があったようだがソース不明-->。[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]では2009年現在のところ[[Radeon]] HD 3000・4000シリーズのAGP版が発売されているが、HD 2000シリーズ以前に比べるとラインナップが大幅に減少し、HD 5000シリーズ以降AGP版のリリースは停止された。 PCIe用ビデオチップをAGPに転用するため、AGP-PCIeブリッジチップ(NVIDIA製品では「HSI」、AMD製品では「Rialto」と呼ばれる)を搭載するカードも存在していた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Extended Industry Standard Architecture]] (EISA) * [[Industry Standard Architecture]] (ISA) * [[Peripheral Component Interconnect]] (PCI) * [[XTバス]] * [[VESA ローカルバス]] * [[PCI Express]] * [[転送速度]] * [[レガシーデバイス]] {{コンピュータバス}} [[Category:グラフィックカード]] [[Category:コンピュータバス]]
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天使の一覧
天使の一覧()では天使を列挙する。 ここで挙げる天使、神使、御使い()などともとは、(いわゆるアブラハムの宗教として比較宗教学で並置される)ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承に登場する神の使いのことである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や宗教文学に直接的な根拠をもたない、あるいはその正式な教義に含まれない、キリスト教文化圏のオカルティズム等の伝統における天使については「その他の天使」を参照。 神秘思想家偽ディオニシウス・アレオパギタは著作『天上位階論(英語版)』の中で天上の位階(ヒエラルキア)について記述し、天上の存在者を三階層の三つ組に配した。新プラトン主義的な存在の階層構造に沿った、聖なる秩序の思想である。これが後の神学者にも引用され、天使の「天軍九隊」または「九歌隊」として広く知られるようになった。
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天使の一覧では天使を列挙する。 ここで挙げる天使、神使、御使いなどともとは、(いわゆるアブラハムの宗教として比較宗教学で並置される)ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承に登場する神の使いのことである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や宗教文学に直接的な根拠をもたない、あるいはその正式な教義に含まれない、キリスト教文化圏のオカルティズム等の伝統における天使については「その他の天使」を参照。
[[Image:Paradiso Canto 31.jpg|thumb|upright|right|160px|[[天国]](至高天)と天使たちをみつめるダンテとベアトリーチェ(『[[神曲]]』の挿絵、[[ギュスターヴ・ドレ]]画)]] {{読み仮名|'''天使の一覧'''|てんしのいちらん}}では[[天使]]を列挙する。 ここで挙げる天使、神使、{{読み仮名|[[御使い]]|みつかい}}などともとは、(いわゆる[[アブラハムの宗教]]として[[比較宗教学]]で並置される)[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]の[[聖典]]や伝承に登場する神の使いのことである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や宗教文学に直接的な根拠をもたない、あるいはその正式な教義に含まれない、キリスト教文化圏の[[神秘学|オカルティズム]]等の伝統における天使については「[[#その他の天使|その他の天使]]」を参照。 ==ヘブライ的伝統における天使== === 聖書正典に登場する天使の固有名 === {{div col|cols=3}} * [[ミカエル]] * [[ガブリエル]] {{div col end}} === 外典・偽典に登場する天使の固有名 === ====『[[エノク書|第一エノク書]]』に登場する天使名==== {{div col|cols=3}} *[[アキベエル]] *[[アサエル]] *[[アザゼル]] *[[アスファエル]] *[[アスベエル]] *[[アドナルエル]] *[[アナニエル]] *[[アラキバ]] *[[アルスヤラルユル]] *[[アルマロス]] *[[アルメルス]] *[[アルメン]] *[[アレスティキファ]] *[[イェクン]] *[[イェタルエル]] *[[イェハディエル]] *[[イェルミエル]] *[[イゼゼエル]] *[[イヤスサエル]] *[[ウリエル]] *[[エゼケエル]] *[[カマエル]] *[[ガデルエル]] *[[ガブリエル]] *[[ケエル]] *[[ゲダエル]] *[[コカビエル]] *[[ザキエル]] *[[サハリエル]] *[[サリエル|サラカエル]] *[[サルタエル]] *[[ザレブサエル]] *[[サンダルフォン]] *[[シェムハザ]] *[[シマピシエル]] *[[シャムシャエル]] *[[シャティエル]] *[[ダネル]] *[[タミエル]] *[[タルエル]] *[[トゥマエル]] *[[トゥルエル]] *[[トゥルヤル]] *[[ナレル]] *[[ヌカエル]] *[[バササエル]] *[[ハスデヤ]] *[[バタルヤル]] *[[バトラエル]] *[[バラキエル]] *[[ヘエル]] *[[ベカ]] *[[ペヌエル]] *[[ペネム]] *[[ヘルエムメレク]] *[[ベルケエル]] *[[ヘロヤセフ]] *[[ミカエル]] *[[メタトロン]] *[[メルエヤル]] *[[メルケエル]] *[[ヨムヤエル]] *[[ラグエル]] *[[ラファエル]] *[[ラミエル|ラムエル]] *[[ラミエル|ラメエル]] *[[ルマエル]] *[[ルムヤル]] {{div col end}} ====『[[トビト記|トビト書]]』に登場する天使名==== {{div col|cols=3}} *[[ラファエル]] {{div col end}} ====『[[ヨベル書]]』に登場する天使名==== {{div col|cols=3}} * [[マスティマ]] {{div col end}} ====『{{仮リンク|バルク黙示録|en|Apocalypse of Baruch}}』に登場する天使名==== {{div col|cols=3}} * [[ファマエル]] {{div col end}} === その他 === {{div col|cols=3}} *[[アウリエル]] *[[アカイアー]] *[[アスダイエ]] *[[アスモデル]] *[[アタリブ]] *[[アドナキエル]] *[[アナエル]] *[[アニエル]] *[[アフ]] *[[アフジエル]] *[[アブディエル]] *[[アポリオン]] *[[アムビエル]] *[[アラエル]] *[[アルミサエル]] *[[イオフィエル]] *[[イロウル]] *[[オク]] *[[オファニエル]] *[[オファニム]] *[[ガギエル]] *[[カシエル]] *[[カマエル]] *[[クシエル]] *[[コカビエル]] *[[ザアフィディエル]] *[[サキエル]] *[[サクルフ]] *[[ザドキエル]] *[[サハクィエル]] *[[ザフィエル]] *[[ザフキエル]] *[[サマエル]] *[[ザミエル]] *[[ザロピ]] *[[シャクジエル]] *[[シャティエル]] *[[シャルギエル]] *[[スイエル]] *[[スプグリグエル]] *[[ズルファス]] *[[ゼタル]] *[[ゼルエル]] *[[ソフィエル]] *[[タブリス]] *[[ダラ]] *[[トゥビエル]] *[[トルクアレト]] *[[テイアイエル]] *[[ハナエル]] *[[ハニエル]] *[[ハマリエル]] *[[バラキエル]] *[[パラシエル]] *[[バルキエル]] *[[バルディエル]] *[[バルビエル]] *[[ファヌエル]] *[[プリアオウス]] *[[プリアプス]] *[[ベルキエル]] *[[ポテー]] *[[マルキディエル]] *[[マルティエル]] *[[ムミアー]] *[[ムリエル]] *[[メハビアー]] *[[ライラ]] *[[ラシエル]] *[[ラティエル]] *[[ラミエル]] *[[リウェト]] *[[ルヒエル]] *[[レミエル]] *[[レリエル]] {{div col end}} ===特定の複数の天使の総称=== {{div col|cols=3}} * [[七大天使]] * [[御前天使]] * [[グリゴリ]] {{div col end}} == キリスト教の天使の階級 == {{Main|{{仮リンク|キリスト教の天使の階級|en|Christian angelic hierarchy}}}} 神秘思想家[[偽ディオニシウス・アレオパギタ]]は著作『{{仮リンク|天上位階論|en|De Coelesti Hierarchia}}』の中で天上の位階(ヒエラルキア)について記述し、天上の存在者を三階層の三つ組に配した。[[新プラトン主義]]的な存在の階層構造に沿った、聖なる秩序の思想である。これが後の神学者にも引用され、天使の「天軍九隊」または「九歌隊」として広く知られるようになった。 ===上位三隊 「父」の階層=== {{div col|cols=3}} * [[熾天使]](セラフィム) * [[智天使]](ケルビム) * [[座天使]](王座) {{div col end}} ===中位三隊 「子」の階層=== {{div col|cols=3}} * [[主天使]](主権) * [[力天使]](力) * [[能天使]](能力) {{div col end}} ===下位三隊 「聖霊」の階層=== {{div col|cols=3}} * [[権天使]](権勢) * [[大天使]] * [[天使]] {{div col end}} == イスラームの天使 == === 四大天使 === {{div col|cols=3}} * [[ガブリエル|ジブリール]] * [[ミカエル|ミーカール]](ミーカーイール) * [[アズラーイール]](イズラーイール) * [[イスラーフィール]] {{div col end}} === イスラームの伝承に特有の天使 === {{div col|cols=3}} * [[ザバーニーヤ]] * {{仮リンク|ムンカルとナキール|en|Munkar and Nakir}} * [[ハールートとマールート]] * {{仮リンク|マーリク|en|Maalik}} * [[リドワン]] {{div col end}} == グノーシス主義の天使 == ===[[ナグ・ハマディ文書]]中の複数の文献に言及される天使=== {{div col|cols=3}} *[[エーレーレート]] ([[エレレート]]とも、Eleleth) {{div col end}} ===バルク書<ref>[[第二正典]]の[[バルク書]]ではなく、ヒッポリュトスの『全異端駁論』に引用されたグノーシス主義ナハシュ派の「バルクの書」。</ref>に登場する天使<ref>{{Cite book|和書|author=吉田敦彦 |authorlink=吉田敦彦 |title=天地創造99の謎―世界の神話はなぜ不滅か |origdate= 1976-02-20 |date=1976-02-20 |publisher=サンポウ・ブックス |pages=146-151 |chapter=6 霊魂のはじまり - なぜ、男は「魂」的存在で女は「魄」的存在なのか}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=吉田敦彦 |authorlink=吉田敦彦 |title=天地創造神話の謎 古代学ミニエンサイクロペディア |origdate= 1976-02-20 |date=1985-05 |publisher=大和書房 |isbn=4-479-47005-0}}</ref>=== {{div col|cols=3}} * [[バルク (グノーシス主義)|バルク]]:エロヒムの天使 * [[ナハス]]:エデンの天使 * [[アフロディテ (グノーシス主義)|アフロディテ]](バベル):エデンの天使 {{div col end}} == その他の天使 == {{div col|cols=3}} * [[マラク・ターウース]] * [[黄道十二宮の天使]] * [[オリンピアの天使]] * [[セクンダデイ]] * [[占星術のデーモン]] * [[秘密書法のデーモン]] * {{仮リンク|イシューリエル|en|Ithuriel}}([[ジョン・ミルトン]]『[[失楽園]]』第4巻にも登場) {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連文献 == * 『図説 天使百科事典』 [[ローズマリ・エレン・グィリー]] Rosemary Ellen Guiley 著、大出健訳、[[原書房]]、2006年、ISBN 4562039795 * 『天使辞典』 グスタフ・デイヴィッドスン Gustav Davidson 著、[[吉永進一]]監訳、[[創元社]]、2004年、ISBN 4422202294 == 関連項目 == * [[神の一覧]] * [[悪魔の一覧]] * [[仏の一覧]] * [[生命の樹 (旧約聖書)]] {{christ-stub}} {{DEFAULTSORT:てんしのいちらん}} [[Category:天使|*いちらん]] [[Category:天使の階級|*]] [[Category:宗教関連の一覧]]
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天使
天使(てんし、英: angel、英語発音: [éɪndʒəl](エィンジェル))は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 の聖典や伝承に登場する神の使いである。 英語の angel はギリシア語のアンゲロス(αγγελος;angelos)に由来し、その原義は「伝令」「使いの者」である。古代ギリシア・ローマ世界では、アンゲロスは生身の人間としての伝令を表す言葉であると同時に、神々と人間の中間の霊的存在としての伝令を指す言葉でもあり得た。古代の非キリスト教徒のネオプラトニストは、アンゲロスを神々やダイモーンのような超自然的存在として扱った。また、「密使」を意味するペルシア語の「アンガロス」や「神の霊」の意であるサンスクリットの「アンギラス」も、ギリシア語のアンゲロスとともに語源に挙げられることがある。 天使は、ヘブライ語ではマルアハ (םַלְאָךְ [mal’aḵ]) という。これは「遣わす」を意味する語根 √l’k の派生語である。 ユダヤの伝承では、天使サンダルフォンやメタトロンなどが存在する。サンダルフォンなどは背の高さが世界の大きさの半分に達するなど、「御使い」としての天使とはかなりイメージや存在が異なる。 また、ユダヤ教の聖書(キリスト教でいう旧約聖書)に明確に記述される天使に関しては、キリスト教の天使と認識はあまり変わらない。 キリスト教において天使は主の御使いである。天使 (angel) の語源は「伝令」(messenger) を意味する後期ギリシア語(英語版)の ἄγγελος (ángelos) である。ヘブライ語聖書(キリスト教でいう旧約聖書)で天使を指しているヘブライ語の מלאך (mal'akh) も同じ意味である。 語源が示すように、旧約・新約双方において、天使が神のお告げを伝える伝令としての役目を負っている場面はいくつも描かれている。また、天使たちは人間が歩む道すべてで彼らを守るよう神から命じられている(詩91:11)。 しかし、ヨハネが天使より与えられた黙示を伝えるという体裁を取った黙示録では、伝令の枠に収まらない働きをしており、天使が吹きならすラッパにより世界に災厄が訪れたり、天使たちが天で悪魔と戦ったり(黙12:7-9)している。また マタ25:31-36 の記述から、最後の審判にも天使が関わるものと考えられている。 マタ24:36より、天使は全知ではないと考えられ、トマス・アクィナスもこれを支持している 。 ギリシア語原典ではアンゲロス(の変化形)となっている箇所は、『新共同訳聖書』等では「天使」と訳されているが、1954年版の日本聖書協会翻訳 のようにこれを「御使い」と訳しているものもある。 日本正教会ではアンゲロス等の訳語として「天使」、「神使」、「神の使い」が用いられる。 ただし、旧約聖書に登場する「神の使い」の中には、神として書かれているものもあり、それゆえ天使ではなく受肉前のイエス・キリストを表すものと考えられるものもある。 天使たちは肉体を持つのか、それとも完全に霊的 (spiritual) なものなのかについては、教父たちの間でも意見が分かれている。日本正教会は、天使は物質的な世界ではなく霊的な世界に属するが、「しばしば人間の目に見える形で現われたり」するとしている。 今日の絵画では天使に翼が描かれることが多いが、聖書には天使の翼に関する記述は少なく、初期の絵画では天使に翼は描かれないこともあった。天使に翼が描かれている中で知られているうちで最古のものは、テオドシウス1世の治世(379年–395年)に作られた「君主の石棺」である。 マルコ12:25から天使に性別はないものと思われる。絵画では天使を男性風に描く場合も女性風に描く場合もあるが、19世紀までは性別がわからないように書くのが普通で、女性に見える場合も胸がないのが普通であった。 宗教改革者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』でキリスト教徒を守るために遣わされる御使いについて教えており、今日の福音派においても、神の御使いとしての人格をもった天使が存在すると考えられている。ただし、カルヴァンは綱要でローマ・カトリックの天使に関する教えについて批判している。 自由主義神学(リベラル)では、天使は擬人的表現であるとも捉えられ、天使が実在するとは必ずしも考えられていない。一方、福音派では、聖書は天使の存在を当然としているのであって、人格をもった天使が存在することは聖書の教理であると信じられている。 2013年、ローマ・カトリック教会の最上位天使学者であるレンゾ・ラバトーリ神父は「天使は実在する。だが翼はない。それは光の筋のような存在である。」と発表した。ラバトーリ神父はさらに、「天使の存在を感じるほどには、その姿を見ることはない」、「クリスタル製の花瓶で屈折した太陽光に少し似ている」と語った。 万物は神によって造られたものなので (コロ1:16)、天使もまた神の被造物であると考えられ、カトリック教会では公会議でそのように規定された(第4ラテラン公会議、第1バチカン公会議)。天使の創造は人間の創造よりも前だとされる(第4ラテラノ公会議の第1カノンにおける信仰告白 Firmiter credimus [強くわれらは信ず......])。 日本正教会も、天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造されたものであり、よって特に天使は人間よりも前に創造されたとしている。 中世以降、天使の階級にはさまざまなものが提案されているが、それらにおいて広範な影響を与えたのは神秘思想家偽ディオニシウス・アレオパギタの著作『天上位階論(英語版)』が提示した図式である。 新プラトン主義的な存在の階層構造に沿った聖なる秩序の思想を示したこの著作は、天上の位階(ヒエラルキア)について記述し、天上の存在者を三階層の三つ組に配した。これが後の神学者にも引用され、天使の「天軍九隊」または「九歌隊」として広く知られるようになった。 なお、ユダヤ教ではこれとは異なる階級が想定されている。 上位三隊 「父」のヒエラルキー 中位三隊 「子」のヒエラルキー 下位三隊 「聖霊」のヒエラルキー 日本正教会は、この階級を聖伝として認めている(ただし訳語は異なる)。 聖書には大天使 (Archangel) という呼称が二度登場しており(一テサ4:16、ユダ1:9)、ミカエルという天使が大天使の一人として挙げられている。 ミカエル以外にも、ダニエル書には名前のついた天使としてガブリエルが登場し、聖書外典ないし第二正典のトビト書にはラファエルが登場する。カトリック教会ではこの2人も大天使とみなされている。また、ラファエルは自身を「聖者の栄光の御前に行き来する七人の聖なる天使の一人」(七大天使)と表現している(トビ12:15)。 教父たちはウリエルという天使に頻繁に言及しており、キリスト教では時に大天使とみなされるものの、これは聖書外典の第四エズラ書に登場するのみで、聖書正典には登場していない。 カトリック教会では聖書に名前が登場するガブリエル、ラファエル、ミカエル以外の天使に名前をつける行為を推奨していない。 正教会の聖伝では、千人もの大天使がいるとされるものの、名前で崇拝されているのは七大天使のみである。 正教会の七大天使は前述したミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルにセラフィエル、イェグディエル、バラキエルを加えたものである(8番目としてイェレミエルを加えることもある)。 一方、旧約聖書続編を認めないプロテスタントは ユダ1:9 に登場するミカエルのみを大天使とみなし、ダニ9:21 の記述によりガブリエルを(大天使ではない通常の)天使としている。 守護天使(しゅごてんし)は、キリスト教徒の一人一人に付き添って信仰を守り導く天使のこと。神が人間につけた天使で、その守護する対象に対して善を勧め悪を退けるようその心を導くとされる(カトリック教会参照)。 守護天使の存在がカトリック教会で肯定されている(『公教要理』、『カトリック教会のカテキズム』)。 イスラム教では、天使の存在は信徒(ムスリム)が信仰すべき六信のひとつである。アラビア語で単数形マラク (مَلَك [malak]) でヘブライ語からの借用語とみられるが、通例、複数形のマラーイカ ( مَلائِكة [malā'ika])、マラーイク ( مَلائِك [malā'ik]) で呼ばれる。マラーイカは唯一神であるアッラーフが創造した存在であるが、神と人間の間で仲立ちを務める、霊的に神と人間の中間の存在であるとされる。イスラム教での天使もユダヤ教、キリスト教での天使とほぼ同じである。 マラーイカは数多く存在するが、その頂点にあるのがジブリール (جبرئيل [Jabra'īl]、جبرائيل [Jabrā'īl, Jibrā'īl]、جبريل [Jibrīl])、ミーカーイール ( ميكائيل [Mīkā'īl])、イズラーイール ( عزرائيل [`Izrā'īl])、イスラーフィール ( اسرافيل [Isrāfīl]) の四大天使である。ジブリールとミーカーイールはクルアーンに登場する。クルアーンには名前と役割の明らかな天使はそれほど登場しないが、ハディースなどの伝承において天使に関する様々な言及が存在する。それによれば、天使は神が光から創造した存在で、主に天上にあって神を助ける役割を帯びている。 ジブリールはクルアーンに3度言及されており (Q 2:28-29, 66:4)、天使の筆頭とされる。イスラムの預言者ムハンマドに啓示を教えた存在として特に重要視されている。キリスト教での教義と同様にイエス(イーサー)の母マリア(マルヤム)に受胎告知を行った天使であり、またアブラハム(イブラーヒーム)がイサク(イスハーク)を犠牲に捧げようとした時に、神の命令によってこれを制止した天使もジブリールとされている。ミーカーイールはクルアーンで一度だけ「ミーカール ( مِيكَال [Mīkāl])」と表記されてジブリールと並んで出て来るが (Q 2:98)、イスラム諸文献ではジブリールに比べると言及される頻度はあまり多くない。イズラーイールはクルアーンにも言及されている「死の天使 ( ملك المَوْت [malak al-mawt])」(Q 32:11) のことと考えられており、死を司る天使とされている。魂を引き離す役割を担い、人間が世界のいついかなる場所にあっても予定された時に必ず現れて死をもたらす存在であるという。ただし、個人の死の予定については神が決めるため、イズラーイール自身には分からないという。イスラーフィールは終末の審判の時に、その到来を告げるラッパを吹く天使とされる。頭は天に達し足は地に至るというほどの巨体であるという。終末に天使がラッパを吹くことはクルアーンで述べられているが、イスラーフィールという名は出て来ず、ハディースなどでその名前が知られている。 イスラム教では後に創造されたものであるほど優れているという考えがあり、アッラーフは天使に、最初の人間であるアーダムを礼拝するように命じた。天使は神を称讃して止まぬ存在で、神の唯一性(タウヒード)や啓示の真正さを確証する存在でもあるとされる。そのため、神の啓示を預言者たちに伝える役割を担い、終末にはラッパを吹き鳴らし、死者の生前の善行や悪行など行いの全てについてやその判決を記録する者ともされている。多くは神の天の玉座の周りを神を讃美しながら幾重にも巡っているといい、天の楽園の番人たちも天使の役割とされている。また、場合によっては個人の救済のために現れることもある。総じて、イスラム教の天使は、神の補佐役として様々な役割を遂行する存在である。 旧約偽典「ヨベル書」によれば、アダムの子孫は代々天使と人間の間に生まれた娘と結婚し、その一族エノク、メトシェラ、ノアなどが生まれたという。 創世記のノアの洪水の部分と旧約聖書の偽典でエチオピア正教会の正典エノク書によれば、天使の一部グリゴリ(200名)が人間の娘と交わりネフィリム(天から落ちてきた者たちの意味、通常は巨人と訳されている)を生みだすという事件を起こしたが、大洪水でノアの方舟以外のネフィリムを含む人間は死に絶えている。キリスト教におけるヨハネの黙示録による学説では、天使の一部は神に反逆し堕天使となり、その長は元天使長暁の天使ルシファーで、争いに敗れて地獄の長となったとされる。 ヘレニズム期のユダヤ教セクト、クムラン教団で破壊をもたらす闇の天使とされたベリアルは、新約聖書の時代には悪魔の固有名詞として扱われるようになった。コリントの信徒への手紙二では、ベリアルがキリストと反対の位置にあることが示されている。 ヒッポリュトスの『全異端反駁』の報告するところでは、グノーシス主義ナハシュ派(蛇派)の『バルクの書』には以下のような神話が含まれていたという。 第二の男性原理エロヒム(万物の父)と第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の間に24の天使が生まれた。この天使をモーゼはパラダイスと呼んだ。エロヒムとエデンには各々に12の天使が仕えた。エロヒムの天使がエデンの人身の土からアダムとイヴの体を創った。エロヒムが天に昇ったので怒ったエデンはナハスとアフロディテ(バベル)により人間の霊を苦しめさせた。エロヒムの天使バルクはモーゼや他の預言者、ヘラクレスなどに働きかけて人間の霊を天上へ昇らせ救おうとするもモーゼ・預言者はナハス、ヘラクレスはアフロディテの誘惑に敗れる。バルクはイエスに全てを話し、ついにイエスの霊は天上に昇り後続の人間も救われた。 ダイアン・フォーチュンは、心霊現象から自分を防衛する必要がある時に魔法円を描いて天使に祈る方法を紹介している。 また、「天使うらない」という占いが行われている。 「仕える霊」としての「み使い」は捕囚期以降の観念であると考えられている。古い文書、とりわけモーセ五書に登場する「ヤハウェの使い」はむしろヤハウェの特別な顕現ないし密接な関係にある高次の霊と考えられた。セラフィムやケルブ・ケルビム、あるいはオファニムなども、「み使い」の意味での天使とは考えられていなかった。彼らは、神ヤハウェと密接な関係を持つ高次の霊ではあるが、何か異質な者と考えられていた(この考えはまた、初期のキリスト教の神学者たちも感じていた)。 バビロン捕囚期以降、神が多数の霊に仕えられているとする観念が生まれた。この「天の宮廷」にバビロニア神話の影響をみるものもいる。またおのおのの国にはそれを司る天使(国の君)がいるという考え方が生まれた。 3宗教の聖典であるモーセ五書における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、ヤハウェの顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。旧約聖書における「仕える霊」「天の軍勢」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人のバビロン捕囚期以降に成立した概念と考えられている。ミカエル、ラファエルなど固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。3世紀のラビ・シメオン・ベン・ラキシュはこのことを指摘し、これらの天使がバビロニア王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。 ここから、天使の概念は、アブラハムの宗教が広まり、他民族を取り込んでイスラエル民族が成立していく過程で、他宗教の神を、唯一神によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。またゾロアスター教の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、天国と地獄の概念、善悪の天使に分かれて戦う戦争の概念はゾロアスター教の考え方から影響があると言われている。しかし、天使が本来持っている霊的・神学的な概念を示す最古のものは、古代世界とはほとんど関係が無く、全ては旧約聖書と新約聖書に結びついている。 天使は主に二つの類に分かれる。第一は「み使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、オファニム(座天使)がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。これらは一般的な天使のイメージとはほど遠い怪物的なイメージで表現されている。 第一の天使は、『旧約聖書』『新約聖書』においては、姿が見えないか、翼など持たず普通の人と変わらない、成人か若い青年の姿で現れる。(なお、ガブリエルやミカエルは下級天使の位階である大天使とされるが、上級天使である熾天使や智天使の位階にあるとされる場合もある。これは、キリスト教で天使位階を論じて、彼らを最高位天使としたためである。彼らは、怪物のような姿では考えられていない)。 初期のキリスト教では、天使は(現在の一般的な天使イメージとは異なり)翼を持たない姿で描かれることもあったが、聖書中には4つの翼を持つケルビム と6つの翼を持つセラフィム の記述が存在する。この内、ケルビムの描写は翼の下に人間の手があるとされ、現在広く知られている天使の容姿と合致する内容である。聖書と内容を一部共有するクルアーンにおいても、天使は2対、3対、または4対の翼を持つ存在であるとされている。天使が有翼の姿であると普及するようになるのは、オリエント・ペルシアの天使・精霊のイメージなどが混合されてきたことも一因であると考えられる。 中世ヨーロッパにおいては、絵画から窺える限りでは、天使は有翼で、当時の西欧人の衣装をまとい、「天の聖歌隊」を構成する天使たちは美少年の姿に、悪と戦う使命を持ったミカエルなどは、鎧をまとい剣を帯びた、雄々しい戦士の姿で描かれていた。 近世以降、無垢な子供の姿や、女性の姿、やさしい男性の姿を取って表現されることが多くなった。これはルネサンス期にローマ神話のクピド(女神ウェヌスの子である愛の神)からイメージを借りたとされる。場合によっては童子の顔と翼だけで身体を持たない姿に描かれることもある。 2013年、ローマ・カトリック教会のレンツォ・ラヴァトーリ神父は、ローマで行われた天使美術に関する討論のなかで、翼の生えた子どもとして描かれる天使像は真の姿ではなく、天使は目には見えないが、譬えるならばクリスタルガラスの花瓶を通すことで人の目に映る姿を歪ませる陽光のようなものだと主張した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天使(てんし、英: angel、英語発音: [éɪndʒəl](エィンジェル))は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 の聖典や伝承に登場する神の使いである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語の angel はギリシア語のアンゲロス(αγγελος;angelos)に由来し、その原義は「伝令」「使いの者」である。古代ギリシア・ローマ世界では、アンゲロスは生身の人間としての伝令を表す言葉であると同時に、神々と人間の中間の霊的存在としての伝令を指す言葉でもあり得た。古代の非キリスト教徒のネオプラトニストは、アンゲロスを神々やダイモーンのような超自然的存在として扱った。また、「密使」を意味するペルシア語の「アンガロス」や「神の霊」の意であるサンスクリットの「アンギラス」も、ギリシア語のアンゲロスとともに語源に挙げられることがある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "天使は、ヘブライ語ではマルアハ (םַלְאָךְ [mal’aḵ]) という。これは「遣わす」を意味する語根 √l’k の派生語である。", "title": "ユダヤ教における天使" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ユダヤの伝承では、天使サンダルフォンやメタトロンなどが存在する。サンダルフォンなどは背の高さが世界の大きさの半分に達するなど、「御使い」としての天使とはかなりイメージや存在が異なる。", "title": "ユダヤ教における天使" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、ユダヤ教の聖書(キリスト教でいう旧約聖書)に明確に記述される天使に関しては、キリスト教の天使と認識はあまり変わらない。", "title": "ユダヤ教における天使" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "キリスト教において天使は主の御使いである。天使 (angel) の語源は「伝令」(messenger) を意味する後期ギリシア語(英語版)の ἄγγελος (ángelos) である。ヘブライ語聖書(キリスト教でいう旧約聖書)で天使を指しているヘブライ語の מלאך (mal'akh) も同じ意味である。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "語源が示すように、旧約・新約双方において、天使が神のお告げを伝える伝令としての役目を負っている場面はいくつも描かれている。また、天使たちは人間が歩む道すべてで彼らを守るよう神から命じられている(詩91:11)。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし、ヨハネが天使より与えられた黙示を伝えるという体裁を取った黙示録では、伝令の枠に収まらない働きをしており、天使が吹きならすラッパにより世界に災厄が訪れたり、天使たちが天で悪魔と戦ったり(黙12:7-9)している。また マタ25:31-36 の記述から、最後の審判にも天使が関わるものと考えられている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "マタ24:36より、天使は全知ではないと考えられ、トマス・アクィナスもこれを支持している 。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ギリシア語原典ではアンゲロス(の変化形)となっている箇所は、『新共同訳聖書』等では「天使」と訳されているが、1954年版の日本聖書協会翻訳 のようにこれを「御使い」と訳しているものもある。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本正教会ではアンゲロス等の訳語として「天使」、「神使」、「神の使い」が用いられる。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ただし、旧約聖書に登場する「神の使い」の中には、神として書かれているものもあり、それゆえ天使ではなく受肉前のイエス・キリストを表すものと考えられるものもある。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "天使たちは肉体を持つのか、それとも完全に霊的 (spiritual) なものなのかについては、教父たちの間でも意見が分かれている。日本正教会は、天使は物質的な世界ではなく霊的な世界に属するが、「しばしば人間の目に見える形で現われたり」するとしている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "今日の絵画では天使に翼が描かれることが多いが、聖書には天使の翼に関する記述は少なく、初期の絵画では天使に翼は描かれないこともあった。天使に翼が描かれている中で知られているうちで最古のものは、テオドシウス1世の治世(379年–395年)に作られた「君主の石棺」である。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マルコ12:25から天使に性別はないものと思われる。絵画では天使を男性風に描く場合も女性風に描く場合もあるが、19世紀までは性別がわからないように書くのが普通で、女性に見える場合も胸がないのが普通であった。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "宗教改革者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』でキリスト教徒を守るために遣わされる御使いについて教えており、今日の福音派においても、神の御使いとしての人格をもった天使が存在すると考えられている。ただし、カルヴァンは綱要でローマ・カトリックの天使に関する教えについて批判している。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自由主義神学(リベラル)では、天使は擬人的表現であるとも捉えられ、天使が実在するとは必ずしも考えられていない。一方、福音派では、聖書は天使の存在を当然としているのであって、人格をもった天使が存在することは聖書の教理であると信じられている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2013年、ローマ・カトリック教会の最上位天使学者であるレンゾ・ラバトーリ神父は「天使は実在する。だが翼はない。それは光の筋のような存在である。」と発表した。ラバトーリ神父はさらに、「天使の存在を感じるほどには、その姿を見ることはない」、「クリスタル製の花瓶で屈折した太陽光に少し似ている」と語った。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "万物は神によって造られたものなので (コロ1:16)、天使もまた神の被造物であると考えられ、カトリック教会では公会議でそのように規定された(第4ラテラン公会議、第1バチカン公会議)。天使の創造は人間の創造よりも前だとされる(第4ラテラノ公会議の第1カノンにおける信仰告白 Firmiter credimus [強くわれらは信ず......])。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本正教会も、天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造されたものであり、よって特に天使は人間よりも前に創造されたとしている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中世以降、天使の階級にはさまざまなものが提案されているが、それらにおいて広範な影響を与えたのは神秘思想家偽ディオニシウス・アレオパギタの著作『天上位階論(英語版)』が提示した図式である。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "新プラトン主義的な存在の階層構造に沿った聖なる秩序の思想を示したこの著作は、天上の位階(ヒエラルキア)について記述し、天上の存在者を三階層の三つ組に配した。これが後の神学者にも引用され、天使の「天軍九隊」または「九歌隊」として広く知られるようになった。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、ユダヤ教ではこれとは異なる階級が想定されている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "上位三隊 「父」のヒエラルキー", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中位三隊 「子」のヒエラルキー", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "下位三隊 「聖霊」のヒエラルキー", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本正教会は、この階級を聖伝として認めている(ただし訳語は異なる)。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "聖書には大天使 (Archangel) という呼称が二度登場しており(一テサ4:16、ユダ1:9)、ミカエルという天使が大天使の一人として挙げられている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ミカエル以外にも、ダニエル書には名前のついた天使としてガブリエルが登場し、聖書外典ないし第二正典のトビト書にはラファエルが登場する。カトリック教会ではこの2人も大天使とみなされている。また、ラファエルは自身を「聖者の栄光の御前に行き来する七人の聖なる天使の一人」(七大天使)と表現している(トビ12:15)。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "教父たちはウリエルという天使に頻繁に言及しており、キリスト教では時に大天使とみなされるものの、これは聖書外典の第四エズラ書に登場するのみで、聖書正典には登場していない。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "カトリック教会では聖書に名前が登場するガブリエル、ラファエル、ミカエル以外の天使に名前をつける行為を推奨していない。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "正教会の聖伝では、千人もの大天使がいるとされるものの、名前で崇拝されているのは七大天使のみである。 正教会の七大天使は前述したミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルにセラフィエル、イェグディエル、バラキエルを加えたものである(8番目としてイェレミエルを加えることもある)。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、旧約聖書続編を認めないプロテスタントは ユダ1:9 に登場するミカエルのみを大天使とみなし、ダニ9:21 の記述によりガブリエルを(大天使ではない通常の)天使としている。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "守護天使(しゅごてんし)は、キリスト教徒の一人一人に付き添って信仰を守り導く天使のこと。神が人間につけた天使で、その守護する対象に対して善を勧め悪を退けるようその心を導くとされる(カトリック教会参照)。 守護天使の存在がカトリック教会で肯定されている(『公教要理』、『カトリック教会のカテキズム』)。", "title": "キリスト教における天使" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イスラム教では、天使の存在は信徒(ムスリム)が信仰すべき六信のひとつである。アラビア語で単数形マラク (مَلَك [malak]) でヘブライ語からの借用語とみられるが、通例、複数形のマラーイカ ( مَلائِكة [malā'ika])、マラーイク ( مَلائِك [malā'ik]) で呼ばれる。マラーイカは唯一神であるアッラーフが創造した存在であるが、神と人間の間で仲立ちを務める、霊的に神と人間の中間の存在であるとされる。イスラム教での天使もユダヤ教、キリスト教での天使とほぼ同じである。", "title": "イスラム教における天使" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "マラーイカは数多く存在するが、その頂点にあるのがジブリール (جبرئيل [Jabra'īl]、جبرائيل [Jabrā'īl, Jibrā'īl]、جبريل [Jibrīl])、ミーカーイール ( ميكائيل [Mīkā'īl])、イズラーイール ( عزرائيل [`Izrā'īl])、イスラーフィール ( اسرافيل [Isrāfīl]) の四大天使である。ジブリールとミーカーイールはクルアーンに登場する。クルアーンには名前と役割の明らかな天使はそれほど登場しないが、ハディースなどの伝承において天使に関する様々な言及が存在する。それによれば、天使は神が光から創造した存在で、主に天上にあって神を助ける役割を帯びている。", "title": "イスラム教における天使" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ジブリールはクルアーンに3度言及されており (Q 2:28-29, 66:4)、天使の筆頭とされる。イスラムの預言者ムハンマドに啓示を教えた存在として特に重要視されている。キリスト教での教義と同様にイエス(イーサー)の母マリア(マルヤム)に受胎告知を行った天使であり、またアブラハム(イブラーヒーム)がイサク(イスハーク)を犠牲に捧げようとした時に、神の命令によってこれを制止した天使もジブリールとされている。ミーカーイールはクルアーンで一度だけ「ミーカール ( مِيكَال [Mīkāl])」と表記されてジブリールと並んで出て来るが (Q 2:98)、イスラム諸文献ではジブリールに比べると言及される頻度はあまり多くない。イズラーイールはクルアーンにも言及されている「死の天使 ( ملك المَوْت [malak al-mawt])」(Q 32:11) のことと考えられており、死を司る天使とされている。魂を引き離す役割を担い、人間が世界のいついかなる場所にあっても予定された時に必ず現れて死をもたらす存在であるという。ただし、個人の死の予定については神が決めるため、イズラーイール自身には分からないという。イスラーフィールは終末の審判の時に、その到来を告げるラッパを吹く天使とされる。頭は天に達し足は地に至るというほどの巨体であるという。終末に天使がラッパを吹くことはクルアーンで述べられているが、イスラーフィールという名は出て来ず、ハディースなどでその名前が知られている。", "title": "イスラム教における天使" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イスラム教では後に創造されたものであるほど優れているという考えがあり、アッラーフは天使に、最初の人間であるアーダムを礼拝するように命じた。天使は神を称讃して止まぬ存在で、神の唯一性(タウヒード)や啓示の真正さを確証する存在でもあるとされる。そのため、神の啓示を預言者たちに伝える役割を担い、終末にはラッパを吹き鳴らし、死者の生前の善行や悪行など行いの全てについてやその判決を記録する者ともされている。多くは神の天の玉座の周りを神を讃美しながら幾重にも巡っているといい、天の楽園の番人たちも天使の役割とされている。また、場合によっては個人の救済のために現れることもある。総じて、イスラム教の天使は、神の補佐役として様々な役割を遂行する存在である。", "title": "イスラム教における天使" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "旧約偽典「ヨベル書」によれば、アダムの子孫は代々天使と人間の間に生まれた娘と結婚し、その一族エノク、メトシェラ、ノアなどが生まれたという。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "創世記のノアの洪水の部分と旧約聖書の偽典でエチオピア正教会の正典エノク書によれば、天使の一部グリゴリ(200名)が人間の娘と交わりネフィリム(天から落ちてきた者たちの意味、通常は巨人と訳されている)を生みだすという事件を起こしたが、大洪水でノアの方舟以外のネフィリムを含む人間は死に絶えている。キリスト教におけるヨハネの黙示録による学説では、天使の一部は神に反逆し堕天使となり、その長は元天使長暁の天使ルシファーで、争いに敗れて地獄の長となったとされる。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヘレニズム期のユダヤ教セクト、クムラン教団で破壊をもたらす闇の天使とされたベリアルは、新約聖書の時代には悪魔の固有名詞として扱われるようになった。コリントの信徒への手紙二では、ベリアルがキリストと反対の位置にあることが示されている。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヒッポリュトスの『全異端反駁』の報告するところでは、グノーシス主義ナハシュ派(蛇派)の『バルクの書』には以下のような神話が含まれていたという。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "第二の男性原理エロヒム(万物の父)と第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の間に24の天使が生まれた。この天使をモーゼはパラダイスと呼んだ。エロヒムとエデンには各々に12の天使が仕えた。エロヒムの天使がエデンの人身の土からアダムとイヴの体を創った。エロヒムが天に昇ったので怒ったエデンはナハスとアフロディテ(バベル)により人間の霊を苦しめさせた。エロヒムの天使バルクはモーゼや他の預言者、ヘラクレスなどに働きかけて人間の霊を天上へ昇らせ救おうとするもモーゼ・預言者はナハス、ヘラクレスはアフロディテの誘惑に敗れる。バルクはイエスに全てを話し、ついにイエスの霊は天上に昇り後続の人間も救われた。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ダイアン・フォーチュンは、心霊現象から自分を防衛する必要がある時に魔法円を描いて天使に祈る方法を紹介している。 また、「天使うらない」という占いが行われている。", "title": "その他の天使" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「仕える霊」としての「み使い」は捕囚期以降の観念であると考えられている。古い文書、とりわけモーセ五書に登場する「ヤハウェの使い」はむしろヤハウェの特別な顕現ないし密接な関係にある高次の霊と考えられた。セラフィムやケルブ・ケルビム、あるいはオファニムなども、「み使い」の意味での天使とは考えられていなかった。彼らは、神ヤハウェと密接な関係を持つ高次の霊ではあるが、何か異質な者と考えられていた(この考えはまた、初期のキリスト教の神学者たちも感じていた)。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "バビロン捕囚期以降、神が多数の霊に仕えられているとする観念が生まれた。この「天の宮廷」にバビロニア神話の影響をみるものもいる。またおのおのの国にはそれを司る天使(国の君)がいるという考え方が生まれた。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "3宗教の聖典であるモーセ五書における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、ヤハウェの顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。旧約聖書における「仕える霊」「天の軍勢」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人のバビロン捕囚期以降に成立した概念と考えられている。ミカエル、ラファエルなど固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。3世紀のラビ・シメオン・ベン・ラキシュはこのことを指摘し、これらの天使がバビロニア王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ここから、天使の概念は、アブラハムの宗教が広まり、他民族を取り込んでイスラエル民族が成立していく過程で、他宗教の神を、唯一神によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。またゾロアスター教の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、天国と地獄の概念、善悪の天使に分かれて戦う戦争の概念はゾロアスター教の考え方から影響があると言われている。しかし、天使が本来持っている霊的・神学的な概念を示す最古のものは、古代世界とはほとんど関係が無く、全ては旧約聖書と新約聖書に結びついている。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "天使は主に二つの類に分かれる。第一は「み使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、オファニム(座天使)がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。これらは一般的な天使のイメージとはほど遠い怪物的なイメージで表現されている。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第一の天使は、『旧約聖書』『新約聖書』においては、姿が見えないか、翼など持たず普通の人と変わらない、成人か若い青年の姿で現れる。(なお、ガブリエルやミカエルは下級天使の位階である大天使とされるが、上級天使である熾天使や智天使の位階にあるとされる場合もある。これは、キリスト教で天使位階を論じて、彼らを最高位天使としたためである。彼らは、怪物のような姿では考えられていない)。", "title": "天使の概念史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "初期のキリスト教では、天使は(現在の一般的な天使イメージとは異なり)翼を持たない姿で描かれることもあったが、聖書中には4つの翼を持つケルビム と6つの翼を持つセラフィム 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天使は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 の聖典や伝承に登場する神の使いである。
{{Otheruses|宗教上の天使一般|その他}} {{Redirect|エンジェル}} [[画像:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Song of the Angels (1881).jpg|thumb|170px|歌を歌う天使達。[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]] (1881)。]] [[File:Ezekiel's vision.jpg|thumb|旧約聖書『[[エゼキエル書]]』1:4-5に登場する天使。左が[[オファニム]]、他に[[メルカバー]]、{{ill2|ハシュマル|en|Hashmal}}が書かれている。キリスト教の他の聖書(イザヤ書41:10、ルカによる福音書 2:9-10など)では、天使は度々「恐れるな」と一言添えてから登場することから、人間から一目見て恐れられることを自覚していると考えられる。]] [[画像:Серафимы.jpg|thumb|120px|セラフィム。[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]] (1885-1896頃の作品)。]] '''天使'''(てんし、{{lang-en-short|angel}}、{{IPA-en|éɪndʒəl}}('''エィンジェル'''))は、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]<ref group="注">これら三宗教は[[比較宗教学|比較宗教論]]上の共通点を有し、総称して[[アブラハムの宗教]]と呼ばれる。</ref> の[[聖典]]や伝承に登場する[[神]]の使いである。<!-- マニ教でも、マニに啓示を与えた天使・聖霊アル・タウムとして登場する。以下、しばしば[[アブラハムの宗教]]と呼ばれ、[[比較宗教学|比較宗教論]]の宗教分類で並置されるこの3宗教の天使について叙述する。--> == 語源 == [[英語]]の angel は[[ギリシア語]]のアンゲロス({{翻字併記|grc|αγγελος|angelos|N|区=;}})に由来し、その原義は「伝令」「使いの者」である。[[古典古代|古代ギリシア・ローマ世界]]では、アンゲロスは生身の人間としての[[伝令]]を表す言葉であると同時に、神々と人間の中間の[[スピリチュアル|霊的存在]]としての伝令を指す言葉でもあり得た。古代の非キリスト教徒の[[新プラトン主義|ネオプラトニスト]]は、アンゲロスを神々や[[ダイモーン]]のような超自然的存在として扱った<ref>Luck, Georg. ''Arcana Mundi - Magic and the Occult in the Greek and Roman Worlds''. The Johns and Hopkins University Press</ref>。また、「密使」を意味する[[ペルシア語]]の「アンガロス」や「神の霊」の意である[[サンスクリット]]の「[[アンギラス (インド神話)|アンギラス]]」も、ギリシア語のアンゲロスとともに語源に挙げられることがある<ref>グスタフ・デイヴィッドスン 『天使辞典』</ref>。 == ユダヤ教における天使 == {{main|{{ill2|ユダヤ教の天使|en|Angels in Judaism}}}} 天使は、[[ヘブライ語]]ではマルアハ ({{lang|he|םַלְאָךְ}} {{ラテン翻字|he|[mal’aḵ]}}) という。これは「遣わす」を意味する[[語根]] √l’k の派生語である。 ユダヤの伝承では、天使[[サンダルフォン]]や[[メタトロン]]などが存在する。サンダルフォンなどは背の高さが世界の大きさの半分に達するなど、「御使い」としての天使とはかなりイメージや存在が異なる。 また、ユダヤ教の聖書(キリスト教でいう[[旧約聖書]])に明確に記述される天使に関しては、キリスト教の天使と認識はあまり変わらない。 == キリスト教における天使 == {{See also|御使い}} [[キリスト教]]において天使は主の御使いである。天使 ({{En|angel}}) の語源は「伝令」({{En|messenger}}) を意味する{{仮リンク|後期ギリシア語|en|Late Greek}}の {{lang|grc|ἄγγελος}} ({{ラテン翻字|grc|ángelos}}) である。[[ヘブライ語聖書]](キリスト教でいう旧約聖書)で天使を指しているヘブライ語の {{lang|he|מלאך}} ({{ラテン翻字|he|mal'akh}}) も同じ意味である。 語源が示すように、旧約・新約双方において、天使が神のお告げを伝える伝令としての役目を負っている場面はいくつも描かれている。また、天使たちは人間が歩む道すべてで彼らを守るよう神から命じられている([https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#91:11 詩91:11])。 しかし、ヨハネが天使より与えられた黙示を伝えるという体裁を取った[[ヨハネの黙示録|黙示録]]では、伝令の枠に収まらない働きをしており、[[黙示録のラッパ吹き|天使が吹きならすラッパ]]により世界に災厄が訪れたり、天使たちが天で悪魔と戦ったり([https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#12:7 黙12:7-9])している。また [https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#25:31 マタ25:31-36] の記述から、最後の審判にも天使が関わるものと考えられている。 [[s:マタイによる福音書(口語訳)#24:36|マタ24:36]]より、天使は全知ではないと考えられ、[[トマス・アクィナス]]もこれを支持している <ref>{{cite book|author=Thomas Aquinas|title=[[Summa contra Gentiles]]|volume=2|chapter=46|chapter-url=http://dhspriory.org/thomas/ContraGentiles2.htm#46}}</ref><ref>{{cite book|author=[[トマス・アクィナス]]|title=Summa Theologica |work=Treatise on Angels|url=http://www.newadvent.org/summa/1050.htm |publisher=Newadvent.org}}</ref><ref>{{cite book |first=Thomas |last=Aquinas |title=De substantiis separatis |url=http://www.josephkenny.joyeurs.com/CDtexts/SubstSepar.htm |publisher=Josephkenny.joyeurs.com |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101212112433/http://www.josephkenny.joyeurs.com/CDtexts/SubstSepar.htm |archivedate=2010年12月12日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 === 訳語 === ギリシア語原典ではアンゲロス(の変化形)となっている箇所は、『[[新共同訳聖書]]』等では「'''天使'''」と訳されているが、[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8 1954年版の日本聖書協会翻訳] のようにこれを「'''御使い'''」と訳しているものもある。 [[日本ハリストス正教会|日本正教会]]ではアンゲロス等の訳語として「'''天使'''」、「'''神使'''」、「'''神の使い'''」が用いられる<ref name="seikyoukai-angel"/>。 ただし、旧約聖書に登場する「神の使い」の中には、神として書かれているものもあり、それゆえ天使ではなく受肉前の[[イエス・キリスト]]を表すものと考えられるものもある。<ref>{{Cite web|和書|title=60分でわかる旧約聖書(6)「ヨシュア記」|url=https://message-station.net/episode/1702/|website=メッセージステーション|accessdate=2019-09-09|language=ja|publisher=|quote=Ⅱ.カナンの地の征服( 5 : 13 ~ 12 : 24 )1.(3)① *この人物は、受肉前のイエス・キリストである。}}</ref> === 天使の姿、人格、実在性 === 天使たちは肉体を持つのか、それとも完全に霊的 (spiritual) なものなのかについては、[[教父]]たちの間でも意見が分かれている。日本正教会は、天使は物質的な世界ではなく霊的な世界に属するが<ref name="seikyoukai-angel">[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan02.html 日本正教会「天使と悪魔」]</ref>、「しばしば人間の目に見える形で現われたり」するとしている<ref name="seikyoukai-angel" />。 今日の絵画では天使に翼が描かれることが多いが、聖書には天使の翼に関する記述は少なく、初期の絵画では天使に翼は描かれないこともあった<ref>Proverbio (2007), pp. 81–89; cf. review in [[La Civiltà Cattolica]], 3795–3796 (2–16 August 2008), pp. 327–328.</ref>。天使に翼が描かれている中で知られているうちで最古のものは、[[テオドシウス1世]]の治世(379年–395年)に作られた「君主の石棺」である<ref>Proverbio, Cecilia (2007). La figura dell'angelo nella civiltà paleocristiana (in Italian). Assisi, Italy: Editrice Tau. p. 66.</ref>。 [[s:マルコによる福音書(口語訳)#12:25|マルコ12:25]]から天使に性別はないものと思われる。絵画では天使を男性風に描く場合も女性風に描く場合もあるが、19世紀までは性別がわからないように書くのが普通で、女性に見える場合も胸がないのが普通であった<ref>[[:en:Angels in art]]{{出典無効|date=2015-11}}</ref>。 宗教改革者[[ジャン・カルヴァン]]は『[[キリスト教綱要]]』でキリスト教徒を守るために遣わされる御使いについて教えており、今日の[[福音派]]においても、神の御使いとしての人格をもった天使が存在すると考えられている<ref>[[ビリー・グラハム]] 『天使』 [[いのちのことば社]]。</ref><ref>[[ヘンリー・シーセン]] 『組織神学』 [[聖書図書刊行会]]。</ref><ref>[[マーティン・ロイドジョンズ]] 『キリスト者の戦い』 [[いのちのことば社]]。</ref>。ただし、カルヴァンは綱要でローマ・カトリックの天使に関する教えについて批判している。 [[自由主義神学]](リベラル)では、天使は擬人的表現であるとも捉えられ、天使が実在するとは必ずしも考えられていない。一方、福音派では、聖書は天使の存在を当然としているのであって、人格をもった天使が存在することは聖書の教理であると信じられている<ref>[[尾山令仁]] 『聖書の教理』「神が造られた歴的世界」。</ref>。 ====ラバトーリによる説明==== {{duplication|date=2016-03|dupe=#天使像の変遷}} {{要出典範囲|2013年、ローマ・カトリック教会の最上位天使学者であるレンゾ・ラバトーリ神父は「天使は実在する。だが翼はない。それは光の筋のような存在である。」と発表した。ラバトーリ神父はさらに、「天使の存在を感じるほどには、その姿を見ることはない」、「クリスタル製の花瓶で屈折した太陽光に少し似ている」と語った|date=2016年3月}}。 === 天使の創造 === 万物は神によって造られたものなので ([[s:コロサイ人への手紙(口語訳)#1:16|コロ1:16]])、天使もまた神の被造物であると考えられ、カトリック教会では[[公会議]]でそのように規定された([[第4ラテラン公会議]]、[[第1バチカン公会議]])。天使の創造は人間の創造よりも前だとされる(第4ラテラノ公会議の第1カノンにおける信仰告白 {{la|''Firmiter credimus''}} [強くわれらは信ず……]<ref>Internet History Sourcebooks Project: [http://legacy.fordham.edu/halsall/basis/lateran4.asp Twelfth Ecumenical Council: Lateran IV 1215](2015年11月20日閲覧)</ref>)。 日本正教会も、天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造されたものであり<ref name="seikyoukai-angel" />、よって特に天使は人間よりも前に創造されたとしている<ref name="seikyoukai-angel" />。 === 天使の階級 === {{Main|{{仮リンク|キリスト教の天使の階級|en|Christian angelic hierarchy}}}} 中世以降、天使の階級にはさまざまなものが提案されているが、それらにおいて広範な影響を与えたのは神秘思想家[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニシウス・アレオパギタ]]の著作『{{仮リンク|天上位階論|en|De Coelesti Hierarchia}}』が提示した図式である。 [[新プラトン主義]]的な存在の階層構造に沿った聖なる秩序の思想を示したこの著作は、天上の位階(ヒエラルキア)について記述し、天上の存在者を三階層の三つ組に配した。これが後の神学者にも引用され、天使の「天軍九隊」または「九歌隊」として広く知られるようになった。 なお、ユダヤ教ではこれとは異なる階級が想定されている。 {{div col||15em}}{{no col break| 上位三隊 「父」のヒエラルキー * [[熾天使]](セラフィム) * [[智天使]](ケルビム) * [[座天使]](王座) }}{{no col break| 中位三隊 「子」のヒエラルキー * [[主天使]](主権) * [[力天使]](力) * [[能天使]](能力) }}{{no col break| 下位三隊 「聖霊」のヒエラルキー * [[権天使]](権勢) * [[大天使]] * 天使 }}{{div col end}} 日本正教会は、この階級を[[聖伝]]として認めている(ただし訳語は異なる)<ref name="seikyoukai-angel" />。 ===天使の名称=== [[Image:Archangels.JPG|200px|thumbnail|'''天使'''の[[集会]]<sub>([[:en:Synaxis|英語版]])</sub> ("Собор Архистратига Михаила"). [[七大天使]]を描いた[[正教会]]のイコン。左から右へと順に[[イェグディエル]]、[[ガブリエル]]、[[セラフィエル]]、[[ミカエル]]、[[ウリエル]]、[[ラファエル]]、[[バラキエル]]。中央にあるキリストの[[インマヌエル]]のマンドルラ(全身を包む楕円形の身光<ref>[https://kotobank.jp/word/mandorla-1254042 コトバンク「mandorla」]</ref>)の下に、青の[[智天使]]と赤の[[熾天使]]を描いている。]] 聖書には'''[[大天使]]''' ([[:en:Archangel|Archangel]]) という呼称が二度登場しており([https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B1%E4%BA%BA%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AC%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#4:16 一テサ4:16]、[https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#1:9 ユダ1:9]<ref group="注">リンク先ではそれぞれ「天使のかしら」、「御使のかしら」</ref>)、'''[[ミカエル]]'''という天使が大天使の一人として挙げられている。 ミカエル以外にも、[[ダニエル書]]には名前のついた天使として'''[[ガブリエル]]'''が登場し、聖書外典ないし第二正典の[[トビト書]]には'''[[ラファエル]]'''が登場する。カトリック教会ではこの2人も大天使とみなされている<ref>[[:en:Archangel]]{{出典無効|date=2015-11}}</ref>。また、ラファエルは自身を「聖者の栄光の御前に行き来する七人の聖なる天使の一人」('''[[七大天使]]''')と表現している([https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%88%E6%9B%B8_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%AB%A0 トビ12:15])。 [[教父]]たちは'''[[ウリエル]]'''という天使に頻繁に言及しており、キリスト教では時に大天使とみなされるものの、これは聖書[[外典]]の[[第四エズラ書]]に登場するのみで、聖書正典には登場していない<ref name=souvay>{{cite web|url=http://www.newadvent.org/cathen/05535a.htm |title=Souvay, Charles. "Esdras." The Catholic Encyclopedia. Vol. 5. New York: Robert Appleton Company, 1909. 5 Aug. 2013 |publisher=Newadvent.org |date=1909-05-01 |accessdate=2014-03-11}}</ref>。 カトリック教会では聖書に名前が登場するガブリエル、ラファエル、ミカエル以外の天使に名前をつける行為を推奨していない<ref>[http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20020513_vers-direttorio_en.html Congregation for Divine Worship and Discipline of the Sacraments, "Directory on Popular Piety and the Liturgy", §217]</ref>。 [[正教会]]の[[聖伝]]では、千人もの大天使がいるとされるものの<ref>[[Anaphora (linguistics)|anaphora]], [[Divine Liturgy]] of [[St. John Chrysostom]]</ref>、名前で崇拝されているのは七大天使のみである<ref>[http://www.holy-transfiguration.org/library_en/ang_heavhost.html The World of The Angels] Holy Transfiguration Russian Orthodox Church, Baltimore MD</ref>。 正教会の七大天使は前述した[[ミカエル]]、[[ガブリエル]]、[[ラファエル]]、[[ウリエル]]に[[セラフィエル]]、[[イェグディエル]]、[[バラキエル]]を加えたものである(8番目として[[イェレミエル]]を加えることもある)<ref name="Ohrid">[[Nicholai Velimirovic]], [http://www.westsrbdio.org/prolog/my.html?month=November&day=8&Go.x=13&Go.y=15 November 8] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081207012031/http://www.westsrbdio.org/prolog/my.html?month=November&day=8&Go.x=13&Go.y=15 |date=2008年12月7日 }} ''Prologe From Ochrid''</ref>。 一方、[[旧約聖書続編]]を認めないプロテスタントは [https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#1:9 ユダ1:9] に登場するミカエルのみを大天使とみなし<ref name="Billy Graham">[[ビリー・グラハム]] (1995) ''[https://books.google.co.jp/books?id=sDUbiV92-mIC&pg=PT31&redir_esc=y&hl=ja#v=snippet&q=archangel&f=false Angels]'' Thomas Nelson Inc, ISBN 9780849938719, p. PT31</ref><ref>Graham (1995) p. [https://books.google.co.jp/books?id=sDUbiV92-mIC&pg=PT32&redir_esc=y&hl=ja#v=snippet&q=Gabriel+not+archangel&f=false PT32]</ref>、[https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#9:21 ダニ9:21] の記述によりガブリエルを(大天使ではない通常の)天使としている。 ===守護天使=== '''[[守護天使]]'''(しゅごてんし)は、キリスト教徒の一人一人に付き添って信仰を守り導く'''天使'''のこと<ref>『岩波 キリスト教辞典』541頁、宮崎正美「守護聖人・守護天使」</ref>。神が人間につけた天使で、その守護する対象に対して善を勧め悪を退けるようその心を導くとされる<ref>[http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori6.html カトリック要理の友 第6課 天使 心のともしび運動本部編]</ref>([[カトリック教会]]参照)。 [[守護天使]]の存在が[[カトリック教会]]で肯定されている(『[[公教要理]]』、『[[カトリック教会のカテキズム]]』)。 == イスラム教における天使 == {{出典の明記|date=2010年12月}} イスラム教では、天使の存在は信徒([[ムスリム]])が信仰すべき[[六信]]のひとつである。[[アラビア語]]で単数形マラク (مَلَك [malak]) でヘブライ語からの[[借用語]]とみられるが、通例、複数形のマラーイカ ( مَلائِكة [malā'ika])、マラーイク ( مَلائِك [malā'ik]) で呼ばれる。マラーイカは唯一神である[[アッラーフ]]が創造した存在であるが、神と人間の間で仲立ちを務める、霊的に神と人間の中間の存在であるとされる。イスラム教での天使もユダヤ教、キリスト教での天使とほぼ同じである。 [[File:Rashid al-Din Tabib - Jami al-Tawarikh, f.45v detail - c. 1306-15.png|thumb|ジブリールから啓示を受ける預言者ムハンマド([[集史]]より)。]] マラーイカは数多く存在するが、その頂点にあるのが[[ガブリエル|ジブリール]] ({{ar|جبرئيل}} [Jabra'īl]、{{ar|جبرائيل}} [Jabrā'īl, Jibrā'īl]、{{ar|جبريل}} [Jibrīl])、[[ミカエル|ミーカーイール]] ( {{ar|ميكائيل}} [Mīkā'īl])、[[イズラーイール]] ( {{ar|عزرائيل}} [`Izrā'īl])、[[イスラーフィール]] ( {{ar|اسرافيل}} [Isrāfīl]) の四大天使である。ジブリールとミーカーイールは[[クルアーン]]に登場する。クルアーンには名前と役割の明らかな天使はそれほど登場しないが、[[ハディース]]などの伝承において天使に関する様々な言及が存在する。それによれば、天使は神が[[光]]から創造した存在で、主に天上にあって神を助ける役割を帯びている。 ジブリールはクルアーンに3度言及されており (Q 2:28-29, 66:4)、天使の筆頭とされる。イスラムの預言者[[ムハンマド]]に啓示を教えた存在として特に重要視されている。キリスト教での教義と同様にイエス([[イスラームにおけるイーサー|イーサー]])の母マリア(マルヤム)に受胎告知を行った天使であり、またアブラハム(イブラーヒーム)がイサク(イスハーク)を犠牲に捧げようとした時に、神の命令によってこれを制止した天使もジブリールとされている。ミーカーイールはクルアーンで一度だけ「ミーカール ( {{ar|مِيكَال}} [Mīkāl])」と表記されてジブリールと並んで出て来るが (Q 2:98)、イスラム諸文献ではジブリールに比べると言及される頻度はあまり多くない。イズラーイールはクルアーンにも言及されている「死の天使 ( {{ar|ملك المَوْت}} [malak al-mawt])」(Q 32:11) のことと考えられており、死を司る天使とされている。魂を引き離す役割を担い、人間が世界のいついかなる場所にあっても予定された時に必ず現れて死をもたらす存在であるという。ただし、個人の死の予定については神が決めるため、イズラーイール自身には分からないという。イスラーフィールは[[終末]]の[[最後の審判|審判]]の時に、その到来を告げるラッパを吹く天使とされる。頭は天に達し足は地に至るというほどの巨体であるという。終末に天使がラッパを吹くことはクルアーンで述べられているが、イスラーフィールという名は出て来ず、ハディースなどでその名前が知られている。 イスラム教では後に創造されたものであるほど優れているという考えがあり、アッラーフは天使に、最初の人間である[[アダム|アーダム]]を礼拝するように命じた。天使は神を称讃して止まぬ存在で、神の唯一性(タウヒード)や啓示の真正さを確証する存在でもあるとされる。そのため、神の啓示を預言者たちに伝える役割を担い、終末にはラッパを吹き鳴らし、死者の生前の善行や悪行など行いの全てについてやその判決を記録する者ともされている。多くは神の天の玉座の周りを神を讃美しながら幾重にも巡っているといい、天の[[楽園 (宗教)|楽園]]の番人たちも天使の役割とされている。また、場合によっては個人の救済のために現れることもある。総じて、イスラム教の天使は、神の補佐役として様々な役割を遂行する存在である。 == その他の天使 == {{出典の明記|date=2010年12月}} === 聖書偽典における天使 === ==== アダムの家系と天使 ==== 旧約[[偽典]]「[[ヨベル書]]」によれば、[[アダム]]の子孫は代々天使と人間の間に生まれた娘と結婚し、その一族[[エノク]]、[[メトシェラ]]、[[ノア (聖書)|ノア]]などが生まれたという。 ==== 堕天使 ==== {{Main|堕天使}} [[創世記]]の[[ノアの洪水]]の部分と旧約聖書の[[偽典]]で[[エチオピア正教会]]の正典[[エノク書]]によれば、天使の一部[[グリゴリ]](200名)が人間の娘と交わり[[ネフィリム]](天から落ちてきた者たちの意味、通常は[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]と訳されている)を生みだすという事件を起こしたが、大洪水で[[ノアの方舟]]以外のネフィリムを含む人間は死に絶えている。キリスト教における[[ヨハネの黙示録]]による学説では、天使の一部は神に反逆し堕天使となり、その長は元天使長暁の天使[[ルシファー]]で、争いに敗れて地獄の長となったとされる。 <!--要推敲--> [[ヘレニズム]]期のユダヤ教[[セクト]]、[[クムラン]]教団で破壊をもたらす闇の天使とされた[[ベリアル]]は、新約聖書の時代には[[悪魔]]の固有名詞として扱われるようになった<ref>[[南條竹則]] 『悪魔学入門』 講談社、2010年。</ref>。[[コリントの信徒への手紙二]]では、ベリアルがキリストと反対の位置にあることが示されている<ref>『新共同訳聖書』 [[コリントの信徒への手紙二|コリント第二]] 6章15節。</ref><!--<ref>『新共同訳聖書』 [[ヨハネの手紙一]] 3章8節。</ref>出典無効と思われるのでコメントアウト-->。 === 『バルクの書』の天使 === [[ヒッポリュトス]]の『[[全異端反駁]]』の報告するところでは、[[グノーシス主義]][[ナハシュ派]](蛇派)の『[[バルクの書]]』には以下のような神話が含まれていたという。 第二の[[男性原理]][[エロヒム]](万物の父)と第三の[[女性原理]][[エデン]]または[[イスラエル]](体は女性、足は蛇身)の間に24の天使が生まれた。この天使をモーゼは[[パラダイス]]と呼んだ<!--(聖書には、神や天使に性別がないので、聖書と違う解釈)-->。エロヒムとエデンには各々に12の天使が仕えた。エロヒムの天使がエデンの人身の土からアダムとイヴの体を創った。エロヒムが天に昇ったので怒ったエデンは[[ナハス]]と[[アフロディテ]](バベル)により人間の霊を苦しめさせた。エロヒムの天使バルクはモーゼや他の預言者、[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]などに働きかけて人間の霊を天上へ昇らせ救おうとするもモーゼ・預言者はナハス、ヘラクレスはアフロディテの誘惑に敗れる。<!--(ギリシャ神話と聖書と関係ないので、単なる後の創作)-->[[バルク (グノーシス主義)|バルク]]はイエスに全てを話し、ついにイエスの霊は天上に昇り後続の人間も救われた<ref>荒井献・他訳 『ナグ・ハマディ文書Ⅰ 救済神話』 岩波書店、1997年。</ref>。 === オカルティズムにおける天使 === [[ダイアン・フォーチュン]]は、[[心霊現象]]から自分を防衛する必要がある時に[[魔法円]]を描いて天使に祈る方法を紹介している<ref>[[ダイアン・フォーチュン]] 『心霊的自己防衛』 [[国書刊行会]]、pp.187-189。</ref>。 また、「天使うらない」という[[占い]]が行われている<ref>[[鏡リュウジ]] 『天使のしあわせ運び 』 [[二見書房]]。</ref><ref>[[鏡リュウジ]] 『天使うらない』 [[小学館]]。</ref>。 == 天使の概念史 == {{出典の明記|date=2010年12月}} 「仕える霊」としての「み使い」は捕囚期以降の観念であると考えられている。古い文書、とりわけモーセ五書に登場する「ヤハウェの使い」はむしろヤハウェの特別な顕現ないし密接な関係にある高次の霊と考えられた。[[セラフィム]]や[[ケルビム|ケルブ・ケルビム]]、あるいは[[オファニム]]なども、「み使い」の意味での天使とは考えられていなかった。彼らは、神ヤハウェと密接な関係を持つ高次の霊ではあるが、何か異質な者と考えられていた(この考えはまた、初期のキリスト教の[[神学者]]たちも感じていた)。 [[バビロン捕囚|バビロン捕囚期]]以降、神が多数の霊に仕えられているとする観念が生まれた。この「天の宮廷」に[[バビロニア神話]]の影響をみるものもいる。またおのおのの国にはそれを司る天使(国の君)がいるという考え方が生まれた。 === 天使と神々 === [[Image:Cherub1.jpg|thumb|多数の羽根を持つケルビム。作者不詳 (1156)。]] 3宗教の聖典である[[モーセ五書]]における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、[[ヤハウェ]]の顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。[[旧約聖書]]における「仕える霊」「[[天の軍勢]]」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人の[[バビロン捕囚|バビロン捕囚期]]以降に成立した概念と考えられている。[[ミカエル]]、[[ラファエル]]など固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。[[3世紀]]の[[ラビ・シメオン・ベン・ラキシュ]]はこのことを指摘し、これらの天使が[[バビロニア]]王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。 ここから、天使の概念は、[[アブラハムの宗教]]が広まり、他民族を取り込んで[[イスラエル民族]]が成立していく過程で、他宗教の神を、[[唯一神]]によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。また[[ゾロアスター教]]の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、[[天国]]と[[地獄]]の概念、[[善悪]]の天使に分かれて戦う戦争の概念はゾロアスター教の考え方から影響があると言われている。しかし、天使が本来持っている[[スピリチュアル|霊的]]・神学的な概念を示す最古のものは、古代世界とはほとんど関係が無く、全ては旧約聖書と[[新約聖書]]に結びついている。 ===2種類の天使=== 天使は主に二つの類に分かれる。第一は「み使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム([[熾天使]])、ケルビム([[智天使]])、オファニム([[座天使]])がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。これらは一般的な天使のイメージとはほど遠い[[怪物]]的なイメージで表現されている。 第一の天使は、『旧約聖書』『新約聖書』においては、姿が見えないか、翼など持たず普通の人と変わらない、成人か若い青年の姿で現れる。(なお、[[ガブリエル]]や[[ミカエル]]は下級天使の位階である[[大天使]]とされるが<ref>『岩波 キリスト教辞典』 p.780</ref>、上級天使である熾天使や智天使の位階にあるとされる場合もある。これは、キリスト教で天使位階を論じて、彼らを最高位天使としたためである。彼らは、怪物のような姿では考えられていない)。 {{-}} === 天使像の変遷 === 初期のキリスト教では、天使は(現在の一般的な天使イメージとは異なり)翼を持たない姿で描かれることもあったが、聖書中には4つの翼を持つケルビム<ref>旧約聖書 [[エゼキエル書]]10章21節</ref> と6つの翼を持つセラフィム<ref>旧約聖書 [[イザヤ書]]6章2節</ref> の記述が存在する。この内、ケルビムの描写は翼の下に人間の手があるとされ、現在広く知られている天使の容姿と合致する内容である。聖書と内容を一部共有するクルアーンにおいても、天使は2対、3対、または4対の翼を持つ存在であるとされている<ref>[[クルアーン]]35章1節</ref>。天使が有翼の姿であると普及するようになるのは、[[オリエント]]・[[ペルシア]]の天使<!--?-->・精霊のイメージなどが混合されてきたことも一因であると考えられる。 [[中世美術|中世ヨーロッパ]]においては、[[絵画]]から窺える限りでは、天使は有翼で、当時の[[西欧人]]の衣装をまとい、「天の[[聖歌隊]]」を構成する天使たちは美少年の姿に、悪と戦う使命を持ったミカエルなどは、鎧をまとい剣を帯びた、雄々しい戦士の姿で描かれていた。 [[近世]]以降、無垢な子供の姿や、女性の姿、やさしい男性の姿を取って表現されることが多くなった。これは[[ルネサンス]]期に[[ローマ神話]]の[[クピードー|クピド]](女神[[ウェヌス]]の子である愛の神)からイメージを借りたとされる。場合によっては童子の顔と翼だけで身体を持たない姿に描かれることもある。 [[2013年]]、[[ローマ・カトリック教会]]の[[レンツォ・ラヴァトーリ]][[神父]]は、ローマで行われた天使美術に関する討論のなかで、翼の生えた子どもとして描かれる天使像は真の姿ではなく、天使は目には見えないが、譬えるならばクリスタルガラスの花瓶を通すことで人の目に映る姿を歪ませる陽光のようなものだと主張した<ref>[http://news.sky.com/story/1185507/angels-exist-but-have-no-wings-says-church Angels Exist But Have No Wings, Says Church](2015年7月13日閲覧)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|24em}} == 参考文献 == === 一般 === * [[グスタフ・デイヴィッドスン]] 『天使辞典』 創元社、2004年。ISBN 4422202294 * マルコム・ゴドウィン 『天使の世界』 青土社、2004年。ISBN 4791761030 * ジョン・ロナー 『天使の事典―バビロニアから現代まで』 [[鏡リュウジ]]訳、柏書房。 * パオラ・ジオベッティ 『天使伝説』 [[鏡リュウジ]]訳、柏書房。 === 神話学・美術史 === * [[吉田敦彦]] 『世界の始まりの物語 天地創造神話はいかにつくられたか』 大和書房。 * ローラ・ウォード/ウィル・スティーズ 『天使の姿―絵画・彫刻で知る天使の物語』 新紀元社、2005年。ISBN 4775304186 === 哲学・神学史 === * [[稲垣良典]] 『天使論序説』 講談社〈講談社学術文庫〉、1996年。ISBN 4061592327 === キリスト教神学 === * [[トマス・アクィナス]] 『[[神学大全]]』第44冊 稲垣良典訳、創文社。 * [[ジャン・カルヴァン]] 『[[キリスト教綱要]]』 [[改革派教会]]。 * [[ヘンリー・シーセン]] 『組織神学』 [[聖書図書刊行会]]。 * [[ビリー・グラハム]] 『天使』 [[いのちのことば社]]。 == 関連項目 == {{Div col}} * [[世界の宗教]] * [[天使 (通用)]] * [[堕天使]] * [[針の上で天使は何人踊れるか]] * [[飛天]] * [[守護天使]] '''一覧''' * [[天使の一覧]] * [[神の一覧]] * [[仏の一覧]] * [[悪魔の一覧]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{commons&cat}} * {{kotobank}} * [https://angel-zaidan.org/contents/seiyoukaiga_tenshizou/ 西洋絵画の天使像] - 天使に関する講演、森永エンゼルカレッジ {{天使の階級}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんし}} [[Category:天使|*]] [[Category:聖書]]
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宇宙工学
宇宙工学(、英: astronautics、cosmonautics)は、宇宙開発を行うことに関連した工学の一分野である。地球の大気の外側を飛行するための理論および技術であり、言うなれば、宇宙飛行の科学技術である。 最近では宇宙工学は、航空工学とともに航空宇宙工学という領域をなしている。航空工学と宇宙工学は実際上重なっている領域が非常に多く、それらを分けて考えるのも作為的で不適切な面もあるので、航空宇宙工学として統合されており、学会や大学の学部なども「航空宇宙工学会」や「航空・宇宙工学科」などという名称になっていて、その中で2大柱のひとつとして宇宙工学が扱われる形になっていることが一般化してきているのである。 宇宙工学は多くの専門的分野からなり、技術者や科学者らはこれらの異なる多くの専門的知識を生かしながら働いている。 初期の宇宙航法の研究は理論的考察から始まった。宇宙旅行に必要な数学的基礎はアイザック・ニュートンが1687年に出版した『自然哲学の数学的諸原理』にて確立された。 スイスのレオンハルト・オイラーやイタリアのジョゼフ=ルイ・ラグランジュといった数学者たちは、18世紀から19世紀にかけて古典力学の数学的基礎づけに寄与した。しかし、これらの理論的可能性にもかかわらず、宇宙旅行が実際に実現できるようになるのは20世紀半ばまで待たねばならなかった。その一方で、宇宙飛行の興味はジュール・ヴェルヌ(1828年- 1905年)やH・G・ウェルズ(1866年 - 1946年)らによって小説の世界で描かれていたのだった。 20世紀初頭、ロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキーによってツィオルコフスキーの公式が導きだされた。この方程式のおかげでロケットの推進の理論的考察ができるようになった。この方程式は宇宙船の質量( m 1 {\displaystyle m_{1}} )、推進剤と宇宙船の質量の和( m 0 {\displaystyle m_{0}} )、推進剤の排出速度( v e {\displaystyle v_{e}} )、から宇宙船の最終速度を計算することができる。 より詳細な宇宙旅行の数学理論については、軌道力学を参照のこと。 1920年代初頭にアメリカ合衆国のロバート・ゴダードが液体燃料ロケットを開発し、それは後のV2ロケットやサターンVの設計思想にきわめて大きな影響を与えることになった。 宇宙工学において質量、温度、外部の力への制約は過酷な宇宙の環境で生き延びるために非常に重要である。とくに地上では再現できないような高レベルな真空、惑星間空間(英語版)やヴァン・アレン帯の強力な放射線などに耐えなければならない。 打ち上げには大きな速度が必要なため巨大な力がかかり、軌道上は温度変化も激しいため人工衛星はこれらに耐えられるように設計しなければならない。宇宙に持っていける質量にはペイロードにより厳しい制約が課せられるため、宇宙工学の技術者は設計にあたって、ペイロード限界を踏まえできる限り軽量な宇宙機を設計しなければならない。 宇宙工学により実現される各種の分野
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宇宙工学(うちゅうこうがく、は、宇宙開発を行うことに関連した工学の一分野である。地球の大気の外側を飛行するための理論および技術であり、言うなれば、宇宙飛行の科学技術である。 最近では宇宙工学は、航空工学とともに航空宇宙工学という領域をなしている。航空工学と宇宙工学は実際上重なっている領域が非常に多く、それらを分けて考えるのも作為的で不適切な面もあるので、航空宇宙工学として統合されており、学会や大学の学部なども「航空宇宙工学会」や「航空・宇宙工学科」などという名称になっていて、その中で2大柱のひとつとして宇宙工学が扱われる形になっていることが一般化してきているのである。
{{出典の明記|date=2013年10月}} {{読み仮名|'''宇宙工学'''|うちゅうこうがく|{{lang-en-short|astronautics、cosmonautics}}}}は、[[宇宙開発]]を行うことに関連した[[工学]]の一分野である。[[地球の大気]]の外側を飛行するための理論および技術であり、言うなれば、[[宇宙飛行]]の科学技術である。 最近では宇宙工学は、航空工学とともに'''[[航空宇宙工学]]'''という領域をなしている。航空工学と宇宙工学は実際上重なっている領域が非常に多く、それらを分けて考えるのも作為的で不適切な面もあるので、[[航空宇宙工学]]として統合されており、学会や大学の学部なども「航空宇宙工学会」や「航空・宇宙工学科」などという名称になっていて、その中で2大柱のひとつとして宇宙工学が扱われる形になっていることが一般化してきているのである。 == 概要 == [[File:Orbital_motion.gif|thumb|right|100px|軌道の計算]] [[File:Liquid_fuel_rocket_ja.png|thumb|right|140px|ロケットの設計・製造・運用 等々]] [[File:G801737smmassembly19800122.png|thumb|right|140px|人工衛星の設計・製造・運用 等々]] [[ファイル:CFD Shuttle.jpg|thumb|right|140px|宇宙船の設計・製造・運用 等々。この絵は、スペースシャトルの大気圏再突入時の周囲の空気の[[流れ]]をコンピュータ・[[シミュレーション]]で得たもの。]] ;宇宙工学の基本概念 宇宙工学は多くの専門的分野からなり、技術者や科学者らはこれらの異なる多くの専門的知識を生かしながら働いている。 * [[軌道力学]]:軌道の運動について研究する分野である。この分野は宇宙機の打ち上げに応用され、弾道学や天体物理学のような分野がある。 * [[宇宙機の推進方法]]:いかなる方法で宇宙機の軌道を変更し、いかなる方法で打ち上げるのか。多くの宇宙機はさまざまな種類の[[ロケットエンジン]]を採用しており、さまざまな[[ロケット]]の研究がすすめられている。推進方法としては従来の化学燃料ロケットのほかに、原子力や電気推進などの方法も研究されている。 * [[制御工学]]:人工衛星やロケットを軌道に保ちたい場合、宇宙機の誘導に、向きを変更したいなら[[姿勢制御]]に応用される。 ;宇宙工学の分野 * [[ロケット]] *: [[宇宙空間]]に[[人工衛星]]などを打ち上げる飛行体(launch vehicle) * [[人工衛星]](satellite、artificial satellite) *: [[地球]]を周回する人工の飛行体(spacecraft) * [[有人宇宙船]](manned spacecraft) *: 人間が乗り組んだ飛行体。 == 歴史 == 初期の宇宙航法の研究は理論的考察から始まった。宇宙旅行に必要な数学的基礎は[[アイザック・ニュートン]]が[[1687年]]に出版した『[[自然哲学の数学的諸原理]]』にて確立された<ref name="BMW">''Fundamentals of Astrodynamics'', Bate, Mueller, and White. Dover: New York (1971).</ref>。 スイスの[[レオンハルト・オイラー]]やイタリアの[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]といった数学者たちは、18世紀から19世紀にかけて[[古典力学]]の数学的基礎づけに寄与した。しかし、これらの理論的可能性にもかかわらず、宇宙旅行が実際に実現できるようになるのは[[20世紀]]半ばまで待たねばならなかった。その一方で、宇宙飛行の興味は[[ジュール・ヴェルヌ]](1828年- 1905年)や[[H・G・ウェルズ]](1866年 - 1946年)らによって小説の世界で描かれていたのだった。 20世紀初頭、[[ロシア]]の[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]によって[[ツィオルコフスキーの公式]]が導きだされた。この[[方程式]]のおかげで[[ロケット|ロケットの推進]]の理論的考察ができるようになった。この方程式は宇宙船の[[質量]](<math>m_1</math>)、[[推進剤]]と宇宙船の質量の和(<math>m_0</math>)、推進剤の排出速度(<math>v_e</math>)、から宇宙船の最終速度を計算することができる。 :<math>\Delta v\ = v_e \ln \frac {m_0} {m_1}</math> より詳細な宇宙旅行の数学理論については、[[軌道力学]]を参照のこと。 1920年代初頭に[[アメリカ合衆国]]の[[ロバート・ゴダード]]が[[液体燃料ロケット]]を開発し、それは後の[[V2ロケット]]や[[サターンV]]の設計思想にきわめて大きな影響を与えることになった。 === 人物 === *[[ニコライ・キバリチチ]](1853年10月31日 - 1881年4月15日) *[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]](1857年 9月17日 - 1935年9月19日) *[[ガエターノ・アルトゥーロ・クロッコ]](1877年10月26日 - 1968年1月19日) *[[ヴァルター・ホーマン]](1880年3月18日 - 1945年3月11日) *[[ロベール・エスノー=ペルトリ]] (1881年11月8日 - 1957年12月6日) *[[ロバート・ゴダード]](1882年10月5日 – 1945年8月10日) *[[フリードリッヒ・ザンデル]](1887年8月23日-1933年3月28日) *[[ヘルマン・オーベルト]](1894年6月25日 - ) *[[ヨハネス・ヴィンクラー]](1897年5月29日 - 1947年12月27日) *[[チャールズ・スターク・ドレイパー]](1901年10月2日 - 1987年7月25日) *[[オイゲン・ゼンガー]](1905年9月22日 - 1964年2月10日) *[[アルトゥール・ルドルフ]]( 1906年11月9日 - 1996年1月1日) *[[セルゲイ・コロリョフ]](1906年12月30日] – 1966年1月14日) *[[クラウス・リーデル]](1907年8月2日 - 1944年8月4日) *[[趙九章]](1907年10月15日 - 1968年10月26日) *[[ヴァレンティン・グルシュコ]](1908年9月2日 - 1989年1月10日) *[[ウイリアム・ヘイワード・ピカリング]](1910年12月24日 - 2004年3月15日) *[[ミハイル・ヤンゲリ]](1911年10月25日-1971年10月25日) *[[ボリス・チェルトック]](1912年3月1日 - 2011年12月14日) *[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]](1912年3月23日 - 1977年6月16日) *[[フランク・マリナ]](1912年10月2日 - 1981年11月9日) *[[ウラジーミル・チェロメイ]](1914年6月30日 - 1984年12月8日) *[[ヴァシーリー・ミシン]](1917年1月18日 - 2001年10月10日) *[[ヴァルター・ヤコビ]](1918年1月13日 - 2009年8月19日) *[[トーマス・ゴールド]](1920年5月22日 – 2004年6月22日) *[[アレクサンドル・ケムルジャン]](1921年10月4日 - 2003年2月25日) *[[ヘンリク・デ・クフャトコフスキ]](1924年2月22日 - 2003年3月17日) *[[コンスタンチン・フェオクチストフ]](1926年2月7日 - 2009年11月21日) *[[孫家棟]](1929年4月 - ) *[[王永志]](1932年11月17日 - ) *[[戚発軔]](1933年4月26日 - ) *[[竺苗龍]](1942年4月 - ) *[[バート・ルータン]](1943年 - ) *[[葉培建]](1945年1月 -  ) *[[ロバート・ズブリン]](1952年4月19日- ) *[[シェイック・モディボ・ディアラ]](1952年 - ) *[[孫来燕]](1957年10月 - ) *[[ミルスワミー・アナドゥライ]](1958年7月2日 - ) ;日本 *[[岡本哲史]](1908年2月13日 - 1996年10月23日) *[[糸川英夫]](1912年7月20日 - 1999年2月21日) *[[斎藤成文]](1919年9月17日 - 2020年10月7日) *[[林友直]](1927年12月 - ) *[[三浦公亮]](1930年2月23日 - ) *[[久保園晃]](1930年5月6日 - 2016年12月26日) *[[五代富文]](1932 - ) *[[山中龍夫]](1933年11月13日 - ) *[[加藤寛一郎]](1935年11月 - ) *[[的川泰宣]](1942年2月23日 – ) *[[上杉邦憲]](1943年-) *[[木田隆]](1949年-) *[[小松敬治]](1949年-) *[[川瀬成一郎]](1950年 - ) *[[川口淳一郎]](1955年9月24日 - ) *西田信一郎(1956年-) *[[大田治彦]](1952 - ) *[[國中均]](1960年 - ) *[[吉田和哉]](1960年-) *照井冬人(1960年-) *[[中須賀真一]](1961年-) *松永三郎(1963年-) *[[佐鳥新]](1964年10月6日 - 2021年12月31日) *[[小紫公也]](1968年-  ) *[[川勝康弘]](1968年 - ) *[[山崎直子 (宇宙飛行士)|山崎直子]](1970年 - ) *[[森治]](1973年 -) *[[津田雄一]](1975年-) == 宇宙工学の学生向けの教科書などに書かれている内容 == 宇宙工学において質量、温度、外部の力への制約は過酷な宇宙の環境で生き延びるために非常に重要である。とくに地上では再現できないような高レベルな[[真空]]、{{仮リンク|惑星間空間|en|interplanetary space}}や[[ヴァン・アレン帯]]の強力な[[放射線]]などに耐えなければならない。 打ち上げには大きな速度が必要なため巨大な力がかかり、軌道上は温度変化も激しいため[[人工衛星]]はこれらに耐えられるように設計しなければならない<ref name="Sellers">''Understanding Space: An Introduction to Astronautics'', Sellers. 2nd Ed. McGraw-Hill (2000)</ref>。宇宙に持っていける質量には[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]により厳しい制約が課せられるため、宇宙工学の技術者は設計にあたって、ペイロード限界を踏まえできる限り軽量な宇宙機を設計しなければならない。 == 関連分野 == 宇宙工学により実現される各種の分野 * 人工衛星による地球の観測([[リモートセンシング]]) ** [[気象衛星|気象観測]]、海洋観測、地表観測、測地測量 ** [[偵察衛星]]、[[早期警戒衛星]] * 人工衛星や[[宇宙探査機]]による宇宙空間や天体の観測・探査 ** 太陽系内の天体の観測・探査 *** [[サンプルリターン]] ** 太陽系外の宇宙の観測 ** [[宇宙望遠鏡]] [[File:Hubble Space Telescope over Earth (during the STS-109 mission).jpg|thumb|220px|地球を回る[[ハッブル宇宙望遠鏡]]([[STS-109]] ミッション中にて撮影)]] * 人工衛星による通信・放送([[衛星通信]]・[[衛星放送]]) * 人工衛星による地球上(あるいは大気圏内)での位置測定 ([[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]) * 宇宙空間における各種の実験を通じた研究([[スカイラブ計画|スカイラブ]]、[[スペースラブ]]、[[ミール]]、[[国際宇宙ステーション]]など) == 民間企業 == * [[スペースシップワン]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Astronautics}} * [[航空宇宙工学]] * [[宇宙技術]] * [[:Category:宇宙工学者|宇宙工学者の一覧]] * [[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]] * [[ロバート・ゴダード]] * [[ヴェルナー・フォン・ブラウン]] * [[フランク・マリナ]] * [[大気圏再突入]] * [[宇宙開発競争]] * [[民間宇宙飛行]] * [[アストロニクス]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Space-stub}} {{authority control}} {{Engineering fields}} {{DEFAULTSORT:うちゆうこうかく}} [[Category:工学の分野]] [[Category:宇宙開発]] [[Category:宇宙探査]] [[Category:天文学に関する記事]]
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租税
租税(、英: tax)とは、国や地方公共団体が公共財や公共サービスを提供するにあたって、法令の定めに基づいて国民や企業などの主体に、必要経費などの捻出方法として負担を強制する金銭(通貨、お金)で、日本では税金()と言われる。一部の国で国防に係る徴兵制などが見られるが、安定した税収を確保するため、物納や労働を採用することは減ってきている。 税制()(租税制度)は、歳入(財政)の根幹および政治や経済(経世済民)の要因となる。商売や契約・取引などの行為および所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税()、課税された税を納めることを納税()、徴収することを徴税()、それらについての事務を税務()という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税()、逆に増額することを増税()という。 政府は、国家の基盤的機能を維持するため、個人から生殺与奪の権利を取り上げ、社会的ジレンマや外部性(フリーライダー)を回避する施策を検討しなければならない。租税には、次の3つの機能・効果があるとされている。 一方、税金は経済全体を調整するための機能とみなす機能的財政論は、前述の公共サービスの費用調達機能に否定的である。この論によれば、租税は、財源確保の手段ではなく、物価調整の手段であり、政府が負債を増やすことで、貨幣供給量が増えて、インフレに向かい、政府が増税によって負債を返却したら、その分だけ貨幣が消え、貨幣供給量が減るから、デフレへと向かうとされる。そのほかに、炭素税のように、二酸化炭素の排出抑制の手段にもなり(ピグー税)所得再配分の手段としても重要である。 また、表券主義によれば、租税の目的は政府が発行する通貨に対する需要を生み出すことであり、歳入を生み出すためではない。通貨の利用者たる国民が、通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように仕向けるためである。政府が「お金」の価値を保証することと租税の制度を存続させることとは表裏一体で、日本においては、明治時代の紙幣・債権経済への移行期に地租改正を行い通貨による納税制度を取り入れている。政府が「お金」の価値を保証することは、近世社会以降において治安と並んで国家的機能の重要な働きの1つで、国内的なあらゆる取引における一定の価値および安全性を保証するものである。 租税制度に関する一般的な基本原則として、アダム・スミスの4原則やアドルフ・ワグナーの4大原則・9原則、マスグレイブの7条件などの租税原則が知られており、それらの理念は「公平・中立・簡素」の3点に集約できる。それらはトレードオフの関係に立つ場合もあり同時に満たされるものではなく、公正で偏りのない税体系を実現することは必ずしも容易ではない。種々の税目を適切に組み合わせて制度設計を行う必要がある。 租税法律主義とは、租税は、民間の富を強制的に国家へ移転させるものなので、租税の賦課・徴収を行うには必ず法律の根拠を要する、とする原則。この原則が初めて出現したのは、13世紀イギリスのマグナ・カルタである。 近代以前は、君主や支配者が恣意的な租税運用を行うことが多かったが、近代に入ると市民階級が成長し、課税するには課税される側の同意が必要だという思想が一般的となり始めていた。あわせて、公権力の行使は法律の根拠に基づくべしとする法治主義も広がっていた。そこで、課税に関することは、国民=課税される側の代表からなる議会が制定した法律の根拠に基づくべしとする基本原則、すなわち租税法律主義が生まれた。現代では、ほとんどの民主国家で租税法律主義が憲法原理とされている。 租税が課される根拠として、大きくは次の2つの考え方がある。 租税制度は仕組みの異なるさまざまな税目から成り立っている。それぞれの税目には長所と短所があり、観点の違いによって様々な分類方法がある。 OECD各国平均の税収構造(2014年) 税負担の尺度となる課税ベースに着目した分類として、「所得税」「消費税」「資産課税」などがある。OECD諸国における各国平均の課税割合を右に記す。 近年では就労の促進や所得再分配機能の強化などを目的として、所得課税などに対する給付付き税額控除の導入も進んでいる。給付付き税額控除は制度の複雑化や過誤支給、不正受給などの課題を伴う反面、課税最低限以下の層を含む低所得世帯への所得移転を税制の枠内で実現でき、労働供給を阻害しにくい制度設計も可能であることから、格差是正や消費税などの逆進性対策に適するとされる。勤労所得や就労時間の条件を加味して就労促進策の役割を担う勤労税額控除は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデン、カナダ、ニュージーランド、韓国など10か国以上が導入している。子育て支援を目的とする児童税額控除はアメリカ、イギリスなどが採用しているほか、ドイツやカナダなども同趣旨の給付制度を設けている。消費税の逆進性緩和を目的とする消費税逆進性対策税額控除はカナダやシンガポールなどが導入している。 租税は課税権者に応じて国税と地方税に区分できる。子ども手当のような生存保障の支出は、国が全額財源を負担するのが論理的には一貫するが、対人社会サービスなど現物給付については、地方自治体が供給主体となる。国税では富裕層への課税や矯正的正義(応能原則)が重視されるが、所得の多寡を問わないユニバーサリズムの視点からすれば、地方税に関してはむしろすべての参加者が負担する配分的正義(応益原則、水平的公平性)が基準となる。 国税の課税権者は国、地方税の課税権者は各地方自治体となるが、地方税に関する税率などの決定は必ずしも各自治体の自由裁量ではなく、税率の上下限など、国によって様々な形での制約が設けられている。チェコ、デンマー ク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、ポルトガル、スペインといった国々では地方税の税目に対して上限と下限両方の制限が存在し、オーストラリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、オランダ、ポーランド、スイス、イギリス、アメリカなどは上限のみが存在する。イタリアの州生産活動税のように、国が定めた標準税率を基準に税率の上下限幅が決められているケースもある。日本では法人課税を中心に税率の上限(制限税率)が設けられているが、直接的に下限を定めた規制は存在せず、法的拘束力の無い標準税率を地方債の起債許可や政府間財政移転制度(地方交付税交付金)の交付額算定と連動させることで、それを下回る税率の選択を抑制する制度設計となっている。上位政府による起債制限と政府間財政移転の双方を背景として地方税率が下方硬直的になっている例は、日本以外の主要国には見当たらず、日本の標準税率制度は国際的にみてもかなりユニークな制度であるといえる。 租税は、特にその使途を特定しないで徴収される普通税と、一定の政策目的を達成するために使途を特定して徴収される目的税とに区分できる。目的税は公的サービスの受益と負担とが密接に対応している場合は合理性を伴った仕組みとなる反面、財政の硬直化を招く傾向があり、継続的に妥当性を吟味していく必要がある。 租税を負担する者から直接徴収する租税を直接税と言い、納税者以外の者に転嫁する租税を間接税という。ただし、租税の転嫁の有無が税目ごとに不明確な場合もあり、直接税と間接税の分類の基準には諸説ある。 言い換えると、具体的な商品やサービスの価格を通じて税が納税義務者から消費者に転嫁されることを予定した租税を間接税と言い、それ以外の租税を直接税と呼ぶ。例えば、「たばこ税」や「法人税」は両者とも消費者に転嫁されているが、たばこ税は具体的な商品に転嫁されているので間接税となる。法人税は具体的な商品やサービスに転嫁されていないため、直接税である。 直接税はオフショア市場の活用により税収が減っている。 所得税・法人税・相続税、地方税における住民税・事業税・固定資産税 印紙税、登録税、通行税などの流通税、酒税、物品税、関税などの消費税、たばこ税 数量あたりで税率を定めた税を従量税、価額単位で課される税を従価税という。 納税者の担税力、すなわち租税の負担能力に応じて賦課する立場の考え方を応能課税、公共サービスの受益に応じて課税すべきとする考え方を応益課税という。租税は公益サービスのための財源であることから、少なからず応益課税の要素が内在するが、個別の受益と負担との関係が必ずしも明確でなく、応益負担だけでは成り立たない。地方税は地域住民による負担分任という性格上、応益課税の要素がより重視される。 法においては、税を誰から徴収するかを定めている。多くの国では、税は事業者に課されている(たとえば法人税や給与税)。しかし最終的に誰が税を支払うか(税を負担するか)は、その税が製品コストに組み込まれることで、市場が決定する。経済学理論では、税による経済的効果は、必ずしも法的課税者に降りかかるわけではない。たとえば雇用主が支払う雇用に対する税は、少なくとも長期的には従業員に影響を及ぼしている。 国民所得に占める租税の総額(国税と地方税を合わせた租税収入金額を国民所得で除した額)を租税負担率という。 また、国民所得に占める社会保障負担額の総額(医療保険や年金保険などを合わせた社会保障負担額を国民所得で除した額)を社会保障負担率という。 国民全体の所得に占める租税負担率と社会保障負担率の合算を 国民負担率(national burden ratio)という。なお、国民負担率に次世代の国民負担(財政赤字分)を加味して算出した割合を潜在的国民負担率という。 税の徴収方式としては、申告課税と賦課課税の二つの方式が主な方式となっている。賦課課税方式は各政府が納付義務を持つものに税額を計算して賦課するものであり、申告課税は逆に納付義務を持つものが自ら税額を計算して政府に申告するものである。賦課課税方式は近代までは中心的な徴収方式であったものの、20世紀後半に入ると申告課税が主流の納付方式となった。このほか、いくつかの国家においては納税者への給与などの支払いの際にその雇用者があらかじめ税額相当を天引きしておく、いわゆる源泉徴収が行われている。また、文書に対し収入印紙を貼り付けて納付する印紙納付もある。 租税の歴史は国家の歴史と密接に関連する。極端な増税は、農民など税の負担者を疲弊させ反乱を招き国家の滅亡につながることもあった。歴史的には、労働、兵役やその地方の特産物などによる納税が行われた時代があった。例えば万里の長城など歴史的な建造物の多くは、強制的な労働力の徴発より作られたものと考えられている。 租税制度は主に次のような変遷を遂げた。 原始には、神に奉じた物を再配分する、という形を取っていたとされている。社会的分業によって私的耕作や家内工業の発展とともに集団の中で支配者と被支配者が生じ、支配者は被支配者から財産の一部を得るようになった。これには、被支配者が支配者に差し出す犠牲的貢納と支配者が被支配者から徴収する命令的賦課があった。古代の税としては、物納と賦役が主に用いられた。物納は農村においては穀物を主とする収穫が主であり、それに古代においては貴重品であった布や、その地方の特産品を特別に納付させることも行われた。賦役は税として被支配者に課せられる労役のことであり、土木工事などの公共事業や、領主支配地における耕作など様々な形態を取った。 古代エジプトのパピルス文書に当時の農民に対する厳しい搾取と免税特権をもつ神官・書記に関する記述がある。 古代インドのマウリヤ朝では、農民に対し収穫高の四分の一程度を賦課し、強制労働も行われていた。 古代ギリシアには平常、所得税や財産税というものは無く、必要支出は資産家の自発的な公共奉仕によって賄われた 他に、エイスフォラ(Eisphora)という戦時特別財産税があった。紀元前5、4世紀、アテナイにおいて戦費捻出のために一定額以上の財産を所有する市民とメトイコイ(外国人)に課せられ、税率は財産総額の1%だった。 ローマ帝国の税制の基本は簡潔であり、属州民にのみ課される収入の10%に当たる属州税(10分の1税)、ローマ市民と属州民双方に課される商品の売買ごとに掛けられる2%の売上税(50分の1税)、ローマ市民にのみ課される遺産相続税や解放奴隷税などであった。3世紀のアントニヌス勅令以降は国庫収入が減少し、軍団編成費用などを賄うための臨時課税が行われることもあった。マルクス・ユニウス・ブルートゥスは属州の長官に赴任したとき、住民に10年分の税の前払いを要求した。 春秋時代の老子道徳経第75章には「民之飢 以其上食税之多 是以飢(民が飢えるのは政府が税を多く取りすぎるからである)」とある。 漢の主要財源は、算賦(人頭税及び財産税)、田租、徭役(労働の提供)であった。 北魏において均田制が成立したのち、これに基づいて北周が租庸調の税制をはじめ、唐でもこの税法を当初は引き継いだ。しかし玄宗期に入ると土地の集積が進み均田制が崩壊し、土地の存在が前提であった租庸調制も同時に崩壊したため、780年には徳宗の宰相楊炎によって両税法が導入された。これは税の簡素化と実情に合わせた変更によって税収を回復させる試みであり、以後明にいたるまで歴代王朝はこの税法を維持し続けた。しかし明代に入ると再び税制の実情とのかい離が起こり、税制は複雑化したため、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正が税を丁税(人頭税)と地税にまとめて銀で一括納入させる一条鞭法を導入した。清代に入ると、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した地丁銀制が導入された。 イスラームを国教とするいくつかの王朝では、ズィンミー(異教徒。キリスト教徒・ユダヤ教徒など)に対してジズヤ(人頭税)の徴収が行われた。この方式は7世紀のウマイヤ朝を起源としている。正統カリフ時代には税制はいまだ未整備であったが、ウマイヤ朝期に入るアラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)および異教徒からジズヤとハラージュ(土地税)の双方を徴収することとなった。しかしこの方式はマワーリーからの大きな反発を招き、アッバース革命を招くこととなった。こうして成立したアッバース朝はマワーリーからジズヤの納入義務を撤廃し、またアラブ人のイスラム教徒であってもハラージュの納入を義務付けた。こうして成立したジズヤ(異教徒への人頭税)とハラージュ(全国民対象の土地税)の二本立ての税制は、イスラーム諸王朝の基本税制となって広まっていった。 中世ヨーロッパでは教会が聖書 を典拠として収穫物の10分の1を徴収する十分の一税が教区民に課された。初めは教徒の自発的慣行だったが、8世紀からフランク王国で義務とされ、9世紀にはこの税をめぐって世俗領主との争奪戦がくりかえされ、10世紀には領主の封建的所有権として売買された。 中世ヨーロッパでは封建制が採られ、土地を支配する封建領主は土地を耕作する農民から貢納を得て生活していた。貢納のほか、領主直営地における賦役農耕も重要な税のひとつであった。その代り、領主は統治者として領民を外敵から守る役割を果たしていた。領主の主収入は地代であったが、私的収入と公的収入が同一となっており、しばしば戦費調達のために臨時収入が課された。フランスでは十字軍の戦費のためにフィリップ2世が1198年に臨時課税を始めた。 その後、領主は戦争や武器の改良、傭兵の台頭によって財政難に陥り、相続税・死亡税の新設や地代を上げる。しかし、それでも賄いきれなくなった領主は特権収入に頼るようになる。ここで言う特権とは、鋳貨・製塩・狩猟・探鉱(後に郵便・売店)を指し、領主はこの特権を売渡すことで収入を得た。特権収入の発生は実物経済から貨幣経済への移行の一つの表れとみられている。 貨幣経済が発達すると新しい階級として商人階級が生まれる。土地は売買の対象となり、領主と農民の関係は主従関係から貨幣関係へと変質した。貴族は土地の所有と地代収入を失ったため、商人たちに市場税・入市税・営業免許税・関税・運送税・鉱山特権税などを課す。これらは租税と手数料、両方の側面を持っていた。 14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国からの圧迫を受けた神聖ローマ帝国は戦費調達のために等族に資金供出を頼んだ。当時オスマン帝国は25万人の歩兵を確保していた。対して、当時神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していたハプスブルク家の世襲領収入は30万グルデンで、雇える傭兵は年6000人の歩兵、または2500人の騎兵だった。臨時戦費に当たって領主は等族に対して、本来資金供出要求の権利はないことや、等族の権利侵害をすることはないなどの諸条件をつけて資金供出を要求した。領主と等族との「共同の困難」からの財政需要が、租税国家を生み出していくことになった。 流通税については、イギリスでは印紙税が重要で、フランスでは登録税が重要な地位を占める。 イングランドでは1215年、ジョン欠地王が課税に反発した貴族たちとの戦いに敗れマグナ・カルタを受け入れた。同憲章には「一切の楯金もしくは 援助金は、朕の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課さない」 との規定があり、ここに租税法律主義の萌芽があるとされ、また「承諾なければ課税なし」の原則の起源ともなった。 1625年に即位したチャールズ1世は英西戦争戦費調達のための特別税を請求したが、議会が少額の14万ポンドしか承認せず、また王の終身収入 でもあった輸出入関税のトン税・ポンド税を1年の期限付きに限定した。王は議会を解散し、議会の同意なしでトン税・ポンド税、船舶税を徴収した。1628年、議会は「議会の同意無しの課税禁止」を第一項目とした権利の請願を提出した。王は一度は承認するものの翌年に議会を解散し、以降、11年間親政を敷いた。この間トン税・ポンド税、船舶税を継続し、また騎士強制に応じない者への罰金や、貴族の領地が王領林を侵害しているとして罰金を課していった。主教戦争戦費調達のために王は議会を開催したが、議会では課税禁止法案を次々と可決していった。1641年の大抗議文で対立が決定的となり、1642年にイングランド内戦に至った。1643年、議会は査定課税(Assessed Tax)を導入した。これは財産の評価額に応じた課税を課す直接税であり、所得税の前身となった。しかしこれはロンドン市に負担が集中したため、間接税の内国消費税(Excise Duty)を反対を押し切り導入した。査定課税は富裕層への課税であったのに対して内国消費税は庶民にも課税するもので、内戦後のイギリス財政では関税に並ぶ基幹税となっていった。イングランド共和国崩壊後の王政復古後も議会は財政権を確保する一方で、チャールズ2世は内国消費税の一部、トン税・ポンド税、関税収入の終身供与が承認された。名誉革命での権利の章典においても議会の承認なしの課税は禁止された。こうしてイギリス革命期には、1628年の権利の請願で国会による同意なしには税金その他同種の負担を強制されないことが再確認され、1689年の権利の章典において国会の承認なしに王が税金を徴収することは違法であると規定され、法の支配とともに租税法律主義も確立した。 ホッブズ、ロックなどの17世紀イギリス社会契約論では、個人は、国家が諸個人の生命と財産を保護する対価として租税を負担する。しかし国家がそれに反する行動をとれば租税の支払いを停止するとされ、こうして租税は個人が議会を通して同意した上で国家に支払うものとされた。 イギリスの内国消費税は経済理論家から以下の点が評価された。 ホッブズは1642年の「市民論」で財産への課税は浪費家と倹約家の区別を無視することになり、倹約家が重負担となるので、消費税の方が財産税よりも公平であると論じた。労働価値説を唱えた経済学者ウィリアム・ペティや重商主義経済学者ジェームズ・ステュアート(英語版)も内国消費税を支持した。ステュアートは租税を富のバランスを促進するための政策と見ており、国内の奢侈的需要による価格高騰が輸出を困難にする場合には、内国消費税や輸出奨励金によって是正することができると論じた。 他方、経済学者アダム・スミスは『国富論』第5篇で財産税や所得税と比べて消費税は収入比例的な課税を実現できないために不平等であると論じた。スミスは国防、司法、公共事業の三つを国家の仕事とし、これらを遂行するための経費を賄うために租税は徴収されるとみなした。スミスは租税は、利潤、地代、賃金の三つの本源的所得に課税されると論じ、直接税としての所得税を提唱した。 ここでスミスは支出に対してではなく、収入(所得)に比例して負担することが公平であると考えている。しかし、当時正確な所得調査は望めなかったためにスミスは所得税導入を提唱はしなかった。(なお、平成12年の税制調査会資料では「収入」が「利益」と翻訳されている) 1624年にはオランダにおいて収入印紙が初めて導入され、17世紀中にはヨーロッパの多くの国家に広まった。 イギリスはフレンチ・インディアン戦争(1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に砂糖法、翌年に印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された。1773年に茶法が成立するとボストン茶会事件が発生した。1774年の大陸会議宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、アメリカ独立戦争(1775-1783)へと発展していった。アメリカ独立宣言ではイギリスの権利章典よりも自然権思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった。独立戦争では、租税法律主義に由来する「代表なくして課税なし」という有名なスローガンも生まれ、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた。 封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀のフランスのアンシャン・レジームの下では、3つの身分のうち、第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)は免税の特権を持っていたが、第三身分(平民)は納税義務を課せられていた。しかも第三身分は国政に参加できなかった。1786年、国王と財務総監カロンヌは財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに名士会と高等法院が旧来の免税特権をもって反対し、1789年5月5日に三部会が開かれることとなった。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、国民議会を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った。8月に憲法制定国民議会が人間と市民の権利の宣言を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条でアメリカ独立戦争のスローガン同様に「代表なければ課税なし」の原則が規定された。こうしてヨーロッパの近世市民社会形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の財産権の保証が図られた。 こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説はグロチウス,ホッブズ,ジョン・ロック,ヒューム,ルソーらによって提唱されたものだった。 1733年、ウォルポール内閣は内国消費税改革に試みたが反対された。しかし、オーストリア継承戦争や七年戦争(1754年-1763年)に続いて、フランス干渉戦争では戦費のための政府債務が4000万ポンドにまで膨張した。1796年、ウィリアム・ピット首相は直接査定税を引き上げ、内国消費税の課税対象を拡大、1798年には富裕層への直接税トリプルアセスメント(Triple Assessment)を導入した。しかし、これは馬車、家屋、窓、柱時計などの「外形標準」から推定される所得に課税するもので、現実の所得に対するものでなく、また十分な収入にならなかったため半年しか実施されなかった。1799年に世界で初めて所得税が導入された。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった。1815年のナポレオン戦争終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった。これ以降、産業革命による資本主義の発達を背景に所得税を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった。 19世紀には資本主義の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった。ここにおいて近代国家の機能は夜警国家から福祉国家へと変化していき、生存権という新しい人権も生まれた。 19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックやアドルフ・ティエールらによって租税を保険料として解釈する 租税保険説が現れた。 1805年、ナポレオンに敗れて神聖ローマ帝国が瓦解した後のプロイセン王国ではハルデンベルク宰相がハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインと改革をすすめ、戦費償還のために1808年に所得税法案を成立させた。1812年にはフランス軍駐留経費を賄うために申告納税義務と累進税率を伴う所得税を導入したが、1814年にナポレオンが敗れると廃止された。プロイセンは1820年に階級税を導入したがこれはイギリスの馬車や窓を対象とした外形標準所得課税のようなもので、近代的所得税と言えるものではなかった。1851年の階級税及び階層別所得税では土地所有、資本財産、営業活動から発生する所得に課税された。 1891年に成立したヨハンネス・フォン・ミーケル蔵相による所得税法案では、租税負担の上限を撤廃したため、逆進的税負担は是正された。また効率的な納税申告の検査体制も確立し、ドイツにおける所得税は基幹税の地位を占めていくようになった。 国家財政学者のローレンツ・フォン・シュタインは『財政学教科書』(1885)で課税原則として、 と定立した。 シュタインは、プロレタリアートが独裁する共産主義思想を、国家が単一の階級の手中に落ちることで新たな不自由が生まれ、かつ有産階級が反撃すれば独裁体制を暴力で守るだろうと否定した上で、有産階級は資本主義の持つ問題を社会改良によって解決すれば社会革命の必要性は薄れると論じた。またシュタインは、課税の目的は再生産にあり、少なくとも同規模の税収を再創出することにあるとし、国家が税収と課税潜在力を促すように財政支出すべきだと主張した。このようなシュタインの租税論はイギリス古典派経済学の租税論にはなかった発想と評価されている。 アドルフ・ワーグナーは「財政学」(1890)で課税の目的を、自由競争によって生じた分配を修正することで国民所得と国富を規制する事にあると見て、租税は財政だけでなく社会政策でもあるべきだと主張した。ワーグナーは所得税を、物税(資産税)から人税(納税者に着目してかけられる)への切り替えを提唱した。 ドイツでは国家はその任務達成のために当然に課税権を持ち、租税はその任務達成のために国民が負担する犠牲ないし義務と考える租税犠牲説が登場した。イギリスでもジョン・スチュアート・ミルが租税利益説に反対し「課税における平等とは犠牲の均等を意味する」と主張した。ミルの租税義務説はアドルフ・ワーグナーが大成した。 明治維新後の日本では伊藤博文が憲法起草のためにドイツで直接シュタインの講義を受け、帝国大学での財政学はほとんどがドイツ財政学であった。ドイツの影響を受けた大日本帝国憲法でも納税の義務(第21条)が兵役の義務(第20条)と並ぶ古典的義務とされ、「国を維持する費用の分担として国民は当然有する」と解された。第二次世界大戦後に成立した日本国憲法では兵役の義務条項は削除されたが、納税の義務は踏襲され(第30条)、さらに国民の三大義務の一つとされている。 イタリアの経済学者マフェオ・パンタレオーニ、スウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルが、古典派経済学の租税利益説に対して,納税者が公共サービスから受ける便益の価格として租税負担額を決定することが効率的資源配分の条件であると論じた。北欧学派のエリック・R.リンダールはウィクセルの理論を発展させた。 近代化が進展するに従い、国家の財政収入の大部分を租税が占めるようになる。ヨーゼフ・シュンペーターは1918年に発表した論文『租税国家の危機』において、このような近代国家を「租税国家」と規定した。君主の私的収入と国庫収入が切り離され、租税収入が歳入の中心を占める公共財政が確立して言った。またこの時代になると近代化とともに賦役はほとんどの地域において廃止され、労働に対し国家が賃金を払って公共工事などを行うようになっていった。 20世紀には、社会主義の台頭や社会権の定着によって、所得税・相続税の累進税率が強化された。しかし、1980年代に入ると企業意欲・労働意欲を高めるために税率のフラット化が行われた。また20世紀も中盤にいたるまで消費課税はある特定の商品のみにかけられるものであったが、1954年に一般的な消費すべてにかけられる付加価値税がフランスにおいて導入され、以降世界各国において導入されるようになっていった。 南北戦争以前のアメリカでは所得税も法人税もなく、内国消費税はあったが微々たる収入で、関税が主な収入源だった。南北戦争開戦時には国庫は底をついていたために、議会は戦費調達のために新たな国債発行と内国消費税増税を提案したが反対を受けた。そこでイギリスで実施されている直接税の所得税と相続税の導入が検討され、1862年に成立した。 しかし、所得税は戦費調達のための臨時課税であったため、一年間の有効期限つきであった。戦後の1867年、所得税の撤廃が要求されると、戦債償還が残っているため課税最低限を600ドルから1000ドルに引き上げ、1870年には所得税法を失効させるとした。その後、1871年に相続税が廃止され、1872年に所得税も廃止された。イギリスでも1816年に所得税は戦費のための臨時課税であるとして廃止された。 アメリカで所得税が廃止されると、南部・西部選出議員らが所得税再導入を提唱した。これは農産物価格下落と資材価格上昇に困窮する南部・西部の農民を救済するために組織されたグレンジャー運動やグリーンバック運動や労働騎士団を背景にしており、彼らは1892年に人民党を結成した。人民党は、産業資本家や富裕層に対して所得に応じた負担を課すべきだとして所得税再導入を提唱した。 ヘンリー・ジョージは『進歩と貧困』(1879年)で土地私有制に反対し、土地から発生するあらゆる利益に課税し、その他の税を撤廃する土地単一税を提唱した。しかし、当時の経済権力は石油のジョン・ロックフェラー、銀行家ジョン・モルガン、鉄鋼界のアンドリュー・カーネギーなどの産業金融資本家の手にあり、そうした新しい経済秩序の問題を突き止めることにはならなかった。 当時北部の産業界を支持基盤としていた共和党のウィリアム・マッキンリー議員は1890年、平均関税率48%という史上最高の高関税を導入した。この保護政策は独占企業を形成していく誘因となった。 一方、民主党は南部・西部の農民や労働者を支持基盤としており、高関税は独占・寡占化を促すとして反対し、所得税再導入を提唱した。民主党のクリーブランド大統領は1893年の大統領教書で関税引き下げと小規模な所得課税に言及し、民主党マクミラン下院議員も関税は富の不公平な集中を促すとして所得税再導入を提唱し、1894年に関税所得税法案は可決した。しかしこの法案に対して、元共和党議員の憲法学者ジョージ・エドマンズらが違憲訴訟を起こした。 アメリカ合衆国憲法では以下のように規定されていた。 1895年4月、合衆国最高裁判所は所得税法案に対して、憲法第1条第2節に則り、「各州の人口に比例して、各州の間で配分される」形になっていないとして違憲と認定した。これに反発した所得税支持者は憲法改正運動を行った。 20世紀に入ると1901年恐慌や1907年恐慌が発生し、産業界は独占・寡占を強化していき、共和党も独占・寡占の弊害を認めるようになった。共和党のセオドア・ルーズベルト大統領は、ジェームズ・ジェローム・ヒルとジョン・モルガンらが形成した鉄道トラスト、ノーザン・セキュリティーズ、スタンダード・オイル・トラスト、USスチールなどのトラストを反トラスト法を持って告発していった。 革新主義時代と呼ばれる当時のアメリカにおいて続くタフト大統領も前大統領に倣い、トラストを促進する関税を引き下げようとする。しかし、共和党保守派の重鎮で北東部産業界の代弁者だったネルソン・オルドリッチは高関税を擁護し、1909年にはペイン=オルドリッチ関税法を成立させ、一部の品目の関税を引き下げつつ、鉄鉱石や石炭の税率を引き上げた。これを受けて共和党革新派は関税引き下げよりも所得税導入に向けて動き、5000$以上の所得には2%、十万$以上の所得には6%の累進税率を持つ所得税法案を目指した。これに強い危機感を抱いたオルドリッチは法人税を先に審議させて個人所得税審議を宙吊りにしようとし、さらにタフトに憲法改正に協力することを約束した。1909年7月に法人税法案は可決された。しかし、共和党革新派と民主党からは法人税は所得税代替とはならないと主張され、他方の保守派にも法人税導入は富裕層への課税強化に他ならないと見て不満に思うものもいた。法人税法案に対して保険会社や不動産業者による違憲訴訟も起こったが、最高裁は「法人税は直接税ではなく、法人形態で事業を営む特権の付与に対する免許税である」と判断し、原告の請求を退けた。法人税は財源調達手段として成功し、1910年に2100万ドルだった税収は1912年に3500万ドルにも増加した。 1909年6月28日にはオルドリッチは憲法改正として修正第16条を提案し、この修正憲法は1913年までに42州が批准した。 しかし、所得税法案そのものは宙吊りにされていたため、共和党革新派は、タフトに反発して1912年の大統領選挙で新たに革新党を設立し、セオドア・ルーズベルトを大統領候補として擁立した。しかし、選挙では民主党のウッドロウ・ウィルソンが勝利した。ウィルソン大統領は関税引き下げと所得税導入をセットにして改革に断行し、40%だった平均関税率を30%以下に引き下げ、1913年10月には国民の3000ドル以上の所得の1%を課し、高額所得者には1〜6%までの累進的構造を持つ付加税率(最高税率7%)を課す所得税法案が可決した。 大部分の政治哲学によると、彼らが必要でありそして社会に益するであるところの活動を集めるものとして税は正当化される。加えて、累進課税は社会での経済的不平等を減少させるのに用いることができる。この見解によれば、現代の国民国家において課税は人口の多数と社会変動に益するオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアによる違った文章の意訳の、この見解のひとつの通俗の表現は、「租税は文明の価格である」である。。 クラウドファンディングのような自発的であるよりもむしろ、税の支払いは義務的で法体系による執行であるので、幾らかの政治哲学は権力と弾圧を意味するのを通して租税を課税する政府を非難する、窃盗としての徴税、強要、(もしくは奴隷制度、もしくは財産権の侵害として)、もしくは暴政として見る。 実業家松下幸之助は、国家予算の単年度制を廃止して、節約したり効率をよくして余剰金を生み出し、それを運用することで収益を分配する無税国家を提唱した 。 なお、ブルネイでは個人への所得税などは存在せず、国内および海外で設立された企業が納税対象となる ことから無税国家とも呼ばれるが、租税体制がないわけではない。 カール・マルクスは共産主義の到来の後に課税は不必要になることを推量し、そして「国家死滅」を期待する。中国におけること のような社会主義経済では、大部分の政府の歳入は企業の所有権からの運用だったので、課税は重要でない役割を果たした。そして或る人々によってそれは金銭による課税は必要でなかったことを議論された。 租税選択は納税者が、彼らの各々の租税を割り当てる方法をもって、よりコントロールするであろうことの理論である。もし納税者らが彼らの租税を受け取る政府の仕組みを選択できるならば、機会費用の決定は彼らの部分的な知識(英語版)を寄せ集める。例えば、彼の租税を公立学校においてより割り当てる納税者は公費負担医療においてより少なく割り当てるかもしれない。 ジオイスト(英:Geoist、ジョージスト並びにジオリバタリアン(英語版))は、道義性と同じく経済的効果の両方の理由で、課税は基本的に地代、特にその地価税を徴集すべきであることを宣言する。(経済学者たちが同意する)課税に対して地代を用いることの有効性は、このような課税は渡るつまり脱税することができずかつ死重損失を生じないこと、並びにこのことが土地(英語版)において投機するような動機を除くこと、の事実に従う それの道義性は、私的所有権は労働の成果(英:products of labour)に対して正当化されるが土地と天然資源についてはそうでない、ところのジオイストの前提に基づく。。 ラッファー曲線の一つの可能な結果は、一定の値を超えた税率の増大は税収のさらなる増収にたいして反生産的になるであろう、ことである。任意の与えられた経済にたいする仮説的なラッファー曲線はただ見積もることだけができる。そしてこのような見積もりはしばしば論争になる。The New Palgrave Dictionary of Economics(英語版)は、税収最大化の税率の評価すなわち見積もりは、70%の近辺の中間の領域をもって、広く様々であることを報告する。 多くの政府は、歪のない租税によるかまたは或る二重の配当金を与えるものである諸租税を通して、割り当てられるもののところのものを超えたものである歳入を行う。最適課税は経済学の分野であって、それは最小の死重費用(英:dead-weight cost)を持つかまたは厚生の意味において最大の効用(英:outcome)を持つように課税をいかに構築するかを考える。 租税はしばしばおおかた税率と呼ばれる、或る割合として課せられる。税率についての議論でのひとつの重要な区別は限界税率(英:marginal tax rate、もしくはmarginal rate)と実効税率(英:effective tax rate)の間の区別である。実効税率は支払われた租税の総計で割ったその支払われた租税の合計である。これに対し限界税率は収入を得た次の円 によって支払われたその税率である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "租税(、英: tax)とは、国や地方公共団体が公共財や公共サービスを提供するにあたって、法令の定めに基づいて国民や企業などの主体に、必要経費などの捻出方法として負担を強制する金銭(通貨、お金)で、日本では税金()と言われる。一部の国で国防に係る徴兵制などが見られるが、安定した税収を確保するため、物納や労働を採用することは減ってきている。 税制()(租税制度)は、歳入(財政)の根幹および政治や経済(経世済民)の要因となる。商売や契約・取引などの行為および所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税()、課税された税を納めることを納税()、徴収することを徴税()、それらについての事務を税務()という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税()、逆に増額することを増税()という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "政府は、国家の基盤的機能を維持するため、個人から生殺与奪の権利を取り上げ、社会的ジレンマや外部性(フリーライダー)を回避する施策を検討しなければならない。租税には、次の3つの機能・効果があるとされている。", "title": "租税の機能" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方、税金は経済全体を調整するための機能とみなす機能的財政論は、前述の公共サービスの費用調達機能に否定的である。この論によれば、租税は、財源確保の手段ではなく、物価調整の手段であり、政府が負債を増やすことで、貨幣供給量が増えて、インフレに向かい、政府が増税によって負債を返却したら、その分だけ貨幣が消え、貨幣供給量が減るから、デフレへと向かうとされる。そのほかに、炭素税のように、二酸化炭素の排出抑制の手段にもなり(ピグー税)所得再配分の手段としても重要である。", "title": "租税の機能" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、表券主義によれば、租税の目的は政府が発行する通貨に対する需要を生み出すことであり、歳入を生み出すためではない。通貨の利用者たる国民が、通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように仕向けるためである。政府が「お金」の価値を保証することと租税の制度を存続させることとは表裏一体で、日本においては、明治時代の紙幣・債権経済への移行期に地租改正を行い通貨による納税制度を取り入れている。政府が「お金」の価値を保証することは、近世社会以降において治安と並んで国家的機能の重要な働きの1つで、国内的なあらゆる取引における一定の価値および安全性を保証するものである。", "title": "租税の機能" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "租税制度に関する一般的な基本原則として、アダム・スミスの4原則やアドルフ・ワグナーの4大原則・9原則、マスグレイブの7条件などの租税原則が知られており、それらの理念は「公平・中立・簡素」の3点に集約できる。それらはトレードオフの関係に立つ場合もあり同時に満たされるものではなく、公正で偏りのない税体系を実現することは必ずしも容易ではない。種々の税目を適切に組み合わせて制度設計を行う必要がある。", "title": "租税の基本原則" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "租税法律主義とは、租税は、民間の富を強制的に国家へ移転させるものなので、租税の賦課・徴収を行うには必ず法律の根拠を要する、とする原則。この原則が初めて出現したのは、13世紀イギリスのマグナ・カルタである。", "title": "租税の基本原則" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近代以前は、君主や支配者が恣意的な租税運用を行うことが多かったが、近代に入ると市民階級が成長し、課税するには課税される側の同意が必要だという思想が一般的となり始めていた。あわせて、公権力の行使は法律の根拠に基づくべしとする法治主義も広がっていた。そこで、課税に関することは、国民=課税される側の代表からなる議会が制定した法律の根拠に基づくべしとする基本原則、すなわち租税法律主義が生まれた。現代では、ほとんどの民主国家で租税法律主義が憲法原理とされている。", "title": "租税の基本原則" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "租税が課される根拠として、大きくは次の2つの考え方がある。", "title": "租税の基本原則" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "租税制度は仕組みの異なるさまざまな税目から成り立っている。それぞれの税目には長所と短所があり、観点の違いによって様々な分類方法がある。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "OECD各国平均の税収構造(2014年)", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "税負担の尺度となる課税ベースに着目した分類として、「所得税」「消費税」「資産課税」などがある。OECD諸国における各国平均の課税割合を右に記す。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "近年では就労の促進や所得再分配機能の強化などを目的として、所得課税などに対する給付付き税額控除の導入も進んでいる。給付付き税額控除は制度の複雑化や過誤支給、不正受給などの課題を伴う反面、課税最低限以下の層を含む低所得世帯への所得移転を税制の枠内で実現でき、労働供給を阻害しにくい制度設計も可能であることから、格差是正や消費税などの逆進性対策に適するとされる。勤労所得や就労時間の条件を加味して就労促進策の役割を担う勤労税額控除は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデン、カナダ、ニュージーランド、韓国など10か国以上が導入している。子育て支援を目的とする児童税額控除はアメリカ、イギリスなどが採用しているほか、ドイツやカナダなども同趣旨の給付制度を設けている。消費税の逆進性緩和を目的とする消費税逆進性対策税額控除はカナダやシンガポールなどが導入している。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "租税は課税権者に応じて国税と地方税に区分できる。子ども手当のような生存保障の支出は、国が全額財源を負担するのが論理的には一貫するが、対人社会サービスなど現物給付については、地方自治体が供給主体となる。国税では富裕層への課税や矯正的正義(応能原則)が重視されるが、所得の多寡を問わないユニバーサリズムの視点からすれば、地方税に関してはむしろすべての参加者が負担する配分的正義(応益原則、水平的公平性)が基準となる。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国税の課税権者は国、地方税の課税権者は各地方自治体となるが、地方税に関する税率などの決定は必ずしも各自治体の自由裁量ではなく、税率の上下限など、国によって様々な形での制約が設けられている。チェコ、デンマー ク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、ポルトガル、スペインといった国々では地方税の税目に対して上限と下限両方の制限が存在し、オーストラリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、オランダ、ポーランド、スイス、イギリス、アメリカなどは上限のみが存在する。イタリアの州生産活動税のように、国が定めた標準税率を基準に税率の上下限幅が決められているケースもある。日本では法人課税を中心に税率の上限(制限税率)が設けられているが、直接的に下限を定めた規制は存在せず、法的拘束力の無い標準税率を地方債の起債許可や政府間財政移転制度(地方交付税交付金)の交付額算定と連動させることで、それを下回る税率の選択を抑制する制度設計となっている。上位政府による起債制限と政府間財政移転の双方を背景として地方税率が下方硬直的になっている例は、日本以外の主要国には見当たらず、日本の標準税率制度は国際的にみてもかなりユニークな制度であるといえる。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "租税は、特にその使途を特定しないで徴収される普通税と、一定の政策目的を達成するために使途を特定して徴収される目的税とに区分できる。目的税は公的サービスの受益と負担とが密接に対応している場合は合理性を伴った仕組みとなる反面、財政の硬直化を招く傾向があり、継続的に妥当性を吟味していく必要がある。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "租税を負担する者から直接徴収する租税を直接税と言い、納税者以外の者に転嫁する租税を間接税という。ただし、租税の転嫁の有無が税目ごとに不明確な場合もあり、直接税と間接税の分類の基準には諸説ある。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "言い換えると、具体的な商品やサービスの価格を通じて税が納税義務者から消費者に転嫁されることを予定した租税を間接税と言い、それ以外の租税を直接税と呼ぶ。例えば、「たばこ税」や「法人税」は両者とも消費者に転嫁されているが、たばこ税は具体的な商品に転嫁されているので間接税となる。法人税は具体的な商品やサービスに転嫁されていないため、直接税である。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "直接税はオフショア市場の活用により税収が減っている。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "所得税・法人税・相続税、地方税における住民税・事業税・固定資産税", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "印紙税、登録税、通行税などの流通税、酒税、物品税、関税などの消費税、たばこ税", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "数量あたりで税率を定めた税を従量税、価額単位で課される税を従価税という。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "納税者の担税力、すなわち租税の負担能力に応じて賦課する立場の考え方を応能課税、公共サービスの受益に応じて課税すべきとする考え方を応益課税という。租税は公益サービスのための財源であることから、少なからず応益課税の要素が内在するが、個別の受益と負担との関係が必ずしも明確でなく、応益負担だけでは成り立たない。地方税は地域住民による負担分任という性格上、応益課税の要素がより重視される。", "title": "租税の種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "法においては、税を誰から徴収するかを定めている。多くの国では、税は事業者に課されている(たとえば法人税や給与税)。しかし最終的に誰が税を支払うか(税を負担するか)は、その税が製品コストに組み込まれることで、市場が決定する。経済学理論では、税による経済的効果は、必ずしも法的課税者に降りかかるわけではない。たとえば雇用主が支払う雇用に対する税は、少なくとも長期的には従業員に影響を及ぼしている。", "title": "税の帰着" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "国民所得に占める租税の総額(国税と地方税を合わせた租税収入金額を国民所得で除した額)を租税負担率という。 また、国民所得に占める社会保障負担額の総額(医療保険や年金保険などを合わせた社会保障負担額を国民所得で除した額)を社会保障負担率という。", "title": "国民所得に対する負担率" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国民全体の所得に占める租税負担率と社会保障負担率の合算を 国民負担率(national burden ratio)という。なお、国民負担率に次世代の国民負担(財政赤字分)を加味して算出した割合を潜在的国民負担率という。", "title": "国民所得に対する負担率" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "税の徴収方式としては、申告課税と賦課課税の二つの方式が主な方式となっている。賦課課税方式は各政府が納付義務を持つものに税額を計算して賦課するものであり、申告課税は逆に納付義務を持つものが自ら税額を計算して政府に申告するものである。賦課課税方式は近代までは中心的な徴収方式であったものの、20世紀後半に入ると申告課税が主流の納付方式となった。このほか、いくつかの国家においては納税者への給与などの支払いの際にその雇用者があらかじめ税額相当を天引きしておく、いわゆる源泉徴収が行われている。また、文書に対し収入印紙を貼り付けて納付する印紙納付もある。", "title": "徴収方式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "租税の歴史は国家の歴史と密接に関連する。極端な増税は、農民など税の負担者を疲弊させ反乱を招き国家の滅亡につながることもあった。歴史的には、労働、兵役やその地方の特産物などによる納税が行われた時代があった。例えば万里の長城など歴史的な建造物の多くは、強制的な労働力の徴発より作られたものと考えられている。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "租税制度は主に次のような変遷を遂げた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "原始には、神に奉じた物を再配分する、という形を取っていたとされている。社会的分業によって私的耕作や家内工業の発展とともに集団の中で支配者と被支配者が生じ、支配者は被支配者から財産の一部を得るようになった。これには、被支配者が支配者に差し出す犠牲的貢納と支配者が被支配者から徴収する命令的賦課があった。古代の税としては、物納と賦役が主に用いられた。物納は農村においては穀物を主とする収穫が主であり、それに古代においては貴重品であった布や、その地方の特産品を特別に納付させることも行われた。賦役は税として被支配者に課せられる労役のことであり、土木工事などの公共事業や、領主支配地における耕作など様々な形態を取った。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "古代エジプトのパピルス文書に当時の農民に対する厳しい搾取と免税特権をもつ神官・書記に関する記述がある。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "古代インドのマウリヤ朝では、農民に対し収穫高の四分の一程度を賦課し、強制労働も行われていた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "古代ギリシアには平常、所得税や財産税というものは無く、必要支出は資産家の自発的な公共奉仕によって賄われた 他に、エイスフォラ(Eisphora)という戦時特別財産税があった。紀元前5、4世紀、アテナイにおいて戦費捻出のために一定額以上の財産を所有する市民とメトイコイ(外国人)に課せられ、税率は財産総額の1%だった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の税制の基本は簡潔であり、属州民にのみ課される収入の10%に当たる属州税(10分の1税)、ローマ市民と属州民双方に課される商品の売買ごとに掛けられる2%の売上税(50分の1税)、ローマ市民にのみ課される遺産相続税や解放奴隷税などであった。3世紀のアントニヌス勅令以降は国庫収入が減少し、軍団編成費用などを賄うための臨時課税が行われることもあった。マルクス・ユニウス・ブルートゥスは属州の長官に赴任したとき、住民に10年分の税の前払いを要求した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "春秋時代の老子道徳経第75章には「民之飢 以其上食税之多 是以飢(民が飢えるのは政府が税を多く取りすぎるからである)」とある。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "漢の主要財源は、算賦(人頭税及び財産税)、田租、徭役(労働の提供)であった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北魏において均田制が成立したのち、これに基づいて北周が租庸調の税制をはじめ、唐でもこの税法を当初は引き継いだ。しかし玄宗期に入ると土地の集積が進み均田制が崩壊し、土地の存在が前提であった租庸調制も同時に崩壊したため、780年には徳宗の宰相楊炎によって両税法が導入された。これは税の簡素化と実情に合わせた変更によって税収を回復させる試みであり、以後明にいたるまで歴代王朝はこの税法を維持し続けた。しかし明代に入ると再び税制の実情とのかい離が起こり、税制は複雑化したため、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正が税を丁税(人頭税)と地税にまとめて銀で一括納入させる一条鞭法を導入した。清代に入ると、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した地丁銀制が導入された。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イスラームを国教とするいくつかの王朝では、ズィンミー(異教徒。キリスト教徒・ユダヤ教徒など)に対してジズヤ(人頭税)の徴収が行われた。この方式は7世紀のウマイヤ朝を起源としている。正統カリフ時代には税制はいまだ未整備であったが、ウマイヤ朝期に入るアラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)および異教徒からジズヤとハラージュ(土地税)の双方を徴収することとなった。しかしこの方式はマワーリーからの大きな反発を招き、アッバース革命を招くこととなった。こうして成立したアッバース朝はマワーリーからジズヤの納入義務を撤廃し、またアラブ人のイスラム教徒であってもハラージュの納入を義務付けた。こうして成立したジズヤ(異教徒への人頭税)とハラージュ(全国民対象の土地税)の二本立ての税制は、イスラーム諸王朝の基本税制となって広まっていった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパでは教会が聖書 を典拠として収穫物の10分の1を徴収する十分の一税が教区民に課された。初めは教徒の自発的慣行だったが、8世紀からフランク王国で義務とされ、9世紀にはこの税をめぐって世俗領主との争奪戦がくりかえされ、10世紀には領主の封建的所有権として売買された。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパでは封建制が採られ、土地を支配する封建領主は土地を耕作する農民から貢納を得て生活していた。貢納のほか、領主直営地における賦役農耕も重要な税のひとつであった。その代り、領主は統治者として領民を外敵から守る役割を果たしていた。領主の主収入は地代であったが、私的収入と公的収入が同一となっており、しばしば戦費調達のために臨時収入が課された。フランスでは十字軍の戦費のためにフィリップ2世が1198年に臨時課税を始めた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、領主は戦争や武器の改良、傭兵の台頭によって財政難に陥り、相続税・死亡税の新設や地代を上げる。しかし、それでも賄いきれなくなった領主は特権収入に頼るようになる。ここで言う特権とは、鋳貨・製塩・狩猟・探鉱(後に郵便・売店)を指し、領主はこの特権を売渡すことで収入を得た。特権収入の発生は実物経済から貨幣経済への移行の一つの表れとみられている。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "貨幣経済が発達すると新しい階級として商人階級が生まれる。土地は売買の対象となり、領主と農民の関係は主従関係から貨幣関係へと変質した。貴族は土地の所有と地代収入を失ったため、商人たちに市場税・入市税・営業免許税・関税・運送税・鉱山特権税などを課す。これらは租税と手数料、両方の側面を持っていた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国からの圧迫を受けた神聖ローマ帝国は戦費調達のために等族に資金供出を頼んだ。当時オスマン帝国は25万人の歩兵を確保していた。対して、当時神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していたハプスブルク家の世襲領収入は30万グルデンで、雇える傭兵は年6000人の歩兵、または2500人の騎兵だった。臨時戦費に当たって領主は等族に対して、本来資金供出要求の権利はないことや、等族の権利侵害をすることはないなどの諸条件をつけて資金供出を要求した。領主と等族との「共同の困難」からの財政需要が、租税国家を生み出していくことになった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "流通税については、イギリスでは印紙税が重要で、フランスでは登録税が重要な地位を占める。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イングランドでは1215年、ジョン欠地王が課税に反発した貴族たちとの戦いに敗れマグナ・カルタを受け入れた。同憲章には「一切の楯金もしくは 援助金は、朕の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課さない」 との規定があり、ここに租税法律主義の萌芽があるとされ、また「承諾なければ課税なし」の原則の起源ともなった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1625年に即位したチャールズ1世は英西戦争戦費調達のための特別税を請求したが、議会が少額の14万ポンドしか承認せず、また王の終身収入 でもあった輸出入関税のトン税・ポンド税を1年の期限付きに限定した。王は議会を解散し、議会の同意なしでトン税・ポンド税、船舶税を徴収した。1628年、議会は「議会の同意無しの課税禁止」を第一項目とした権利の請願を提出した。王は一度は承認するものの翌年に議会を解散し、以降、11年間親政を敷いた。この間トン税・ポンド税、船舶税を継続し、また騎士強制に応じない者への罰金や、貴族の領地が王領林を侵害しているとして罰金を課していった。主教戦争戦費調達のために王は議会を開催したが、議会では課税禁止法案を次々と可決していった。1641年の大抗議文で対立が決定的となり、1642年にイングランド内戦に至った。1643年、議会は査定課税(Assessed Tax)を導入した。これは財産の評価額に応じた課税を課す直接税であり、所得税の前身となった。しかしこれはロンドン市に負担が集中したため、間接税の内国消費税(Excise Duty)を反対を押し切り導入した。査定課税は富裕層への課税であったのに対して内国消費税は庶民にも課税するもので、内戦後のイギリス財政では関税に並ぶ基幹税となっていった。イングランド共和国崩壊後の王政復古後も議会は財政権を確保する一方で、チャールズ2世は内国消費税の一部、トン税・ポンド税、関税収入の終身供与が承認された。名誉革命での権利の章典においても議会の承認なしの課税は禁止された。こうしてイギリス革命期には、1628年の権利の請願で国会による同意なしには税金その他同種の負担を強制されないことが再確認され、1689年の権利の章典において国会の承認なしに王が税金を徴収することは違法であると規定され、法の支配とともに租税法律主義も確立した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ホッブズ、ロックなどの17世紀イギリス社会契約論では、個人は、国家が諸個人の生命と財産を保護する対価として租税を負担する。しかし国家がそれに反する行動をとれば租税の支払いを停止するとされ、こうして租税は個人が議会を通して同意した上で国家に支払うものとされた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イギリスの内国消費税は経済理論家から以下の点が評価された。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ホッブズは1642年の「市民論」で財産への課税は浪費家と倹約家の区別を無視することになり、倹約家が重負担となるので、消費税の方が財産税よりも公平であると論じた。労働価値説を唱えた経済学者ウィリアム・ペティや重商主義経済学者ジェームズ・ステュアート(英語版)も内国消費税を支持した。ステュアートは租税を富のバランスを促進するための政策と見ており、国内の奢侈的需要による価格高騰が輸出を困難にする場合には、内国消費税や輸出奨励金によって是正することができると論じた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "他方、経済学者アダム・スミスは『国富論』第5篇で財産税や所得税と比べて消費税は収入比例的な課税を実現できないために不平等であると論じた。スミスは国防、司法、公共事業の三つを国家の仕事とし、これらを遂行するための経費を賄うために租税は徴収されるとみなした。スミスは租税は、利潤、地代、賃金の三つの本源的所得に課税されると論じ、直接税としての所得税を提唱した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ここでスミスは支出に対してではなく、収入(所得)に比例して負担することが公平であると考えている。しかし、当時正確な所得調査は望めなかったためにスミスは所得税導入を提唱はしなかった。(なお、平成12年の税制調査会資料では「収入」が「利益」と翻訳されている)", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1624年にはオランダにおいて収入印紙が初めて導入され、17世紀中にはヨーロッパの多くの国家に広まった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "イギリスはフレンチ・インディアン戦争(1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に砂糖法、翌年に印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された。1773年に茶法が成立するとボストン茶会事件が発生した。1774年の大陸会議宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、アメリカ独立戦争(1775-1783)へと発展していった。アメリカ独立宣言ではイギリスの権利章典よりも自然権思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった。独立戦争では、租税法律主義に由来する「代表なくして課税なし」という有名なスローガンも生まれ、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀のフランスのアンシャン・レジームの下では、3つの身分のうち、第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)は免税の特権を持っていたが、第三身分(平民)は納税義務を課せられていた。しかも第三身分は国政に参加できなかった。1786年、国王と財務総監カロンヌは財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに名士会と高等法院が旧来の免税特権をもって反対し、1789年5月5日に三部会が開かれることとなった。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、国民議会を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った。8月に憲法制定国民議会が人間と市民の権利の宣言を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条でアメリカ独立戦争のスローガン同様に「代表なければ課税なし」の原則が規定された。こうしてヨーロッパの近世市民社会形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の財産権の保証が図られた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説はグロチウス,ホッブズ,ジョン・ロック,ヒューム,ルソーらによって提唱されたものだった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1733年、ウォルポール内閣は内国消費税改革に試みたが反対された。しかし、オーストリア継承戦争や七年戦争(1754年-1763年)に続いて、フランス干渉戦争では戦費のための政府債務が4000万ポンドにまで膨張した。1796年、ウィリアム・ピット首相は直接査定税を引き上げ、内国消費税の課税対象を拡大、1798年には富裕層への直接税トリプルアセスメント(Triple Assessment)を導入した。しかし、これは馬車、家屋、窓、柱時計などの「外形標準」から推定される所得に課税するもので、現実の所得に対するものでなく、また十分な収入にならなかったため半年しか実施されなかった。1799年に世界で初めて所得税が導入された。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった。1815年のナポレオン戦争終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった。これ以降、産業革命による資本主義の発達を背景に所得税を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "19世紀には資本主義の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった。ここにおいて近代国家の機能は夜警国家から福祉国家へと変化していき、生存権という新しい人権も生まれた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックやアドルフ・ティエールらによって租税を保険料として解釈する 租税保険説が現れた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1805年、ナポレオンに敗れて神聖ローマ帝国が瓦解した後のプロイセン王国ではハルデンベルク宰相がハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインと改革をすすめ、戦費償還のために1808年に所得税法案を成立させた。1812年にはフランス軍駐留経費を賄うために申告納税義務と累進税率を伴う所得税を導入したが、1814年にナポレオンが敗れると廃止された。プロイセンは1820年に階級税を導入したがこれはイギリスの馬車や窓を対象とした外形標準所得課税のようなもので、近代的所得税と言えるものではなかった。1851年の階級税及び階層別所得税では土地所有、資本財産、営業活動から発生する所得に課税された。 1891年に成立したヨハンネス・フォン・ミーケル蔵相による所得税法案では、租税負担の上限を撤廃したため、逆進的税負担は是正された。また効率的な納税申告の検査体制も確立し、ドイツにおける所得税は基幹税の地位を占めていくようになった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "国家財政学者のローレンツ・フォン・シュタインは『財政学教科書』(1885)で課税原則として、", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "と定立した。 シュタインは、プロレタリアートが独裁する共産主義思想を、国家が単一の階級の手中に落ちることで新たな不自由が生まれ、かつ有産階級が反撃すれば独裁体制を暴力で守るだろうと否定した上で、有産階級は資本主義の持つ問題を社会改良によって解決すれば社会革命の必要性は薄れると論じた。またシュタインは、課税の目的は再生産にあり、少なくとも同規模の税収を再創出することにあるとし、国家が税収と課税潜在力を促すように財政支出すべきだと主張した。このようなシュタインの租税論はイギリス古典派経済学の租税論にはなかった発想と評価されている。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アドルフ・ワーグナーは「財政学」(1890)で課税の目的を、自由競争によって生じた分配を修正することで国民所得と国富を規制する事にあると見て、租税は財政だけでなく社会政策でもあるべきだと主張した。ワーグナーは所得税を、物税(資産税)から人税(納税者に着目してかけられる)への切り替えを提唱した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ドイツでは国家はその任務達成のために当然に課税権を持ち、租税はその任務達成のために国民が負担する犠牲ないし義務と考える租税犠牲説が登場した。イギリスでもジョン・スチュアート・ミルが租税利益説に反対し「課税における平等とは犠牲の均等を意味する」と主張した。ミルの租税義務説はアドルフ・ワーグナーが大成した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "明治維新後の日本では伊藤博文が憲法起草のためにドイツで直接シュタインの講義を受け、帝国大学での財政学はほとんどがドイツ財政学であった。ドイツの影響を受けた大日本帝国憲法でも納税の義務(第21条)が兵役の義務(第20条)と並ぶ古典的義務とされ、「国を維持する費用の分担として国民は当然有する」と解された。第二次世界大戦後に成立した日本国憲法では兵役の義務条項は削除されたが、納税の義務は踏襲され(第30条)、さらに国民の三大義務の一つとされている。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "イタリアの経済学者マフェオ・パンタレオーニ、スウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルが、古典派経済学の租税利益説に対して,納税者が公共サービスから受ける便益の価格として租税負担額を決定することが効率的資源配分の条件であると論じた。北欧学派のエリック・R.リンダールはウィクセルの理論を発展させた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "近代化が進展するに従い、国家の財政収入の大部分を租税が占めるようになる。ヨーゼフ・シュンペーターは1918年に発表した論文『租税国家の危機』において、このような近代国家を「租税国家」と規定した。君主の私的収入と国庫収入が切り離され、租税収入が歳入の中心を占める公共財政が確立して言った。またこの時代になると近代化とともに賦役はほとんどの地域において廃止され、労働に対し国家が賃金を払って公共工事などを行うようになっていった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "20世紀には、社会主義の台頭や社会権の定着によって、所得税・相続税の累進税率が強化された。しかし、1980年代に入ると企業意欲・労働意欲を高めるために税率のフラット化が行われた。また20世紀も中盤にいたるまで消費課税はある特定の商品のみにかけられるものであったが、1954年に一般的な消費すべてにかけられる付加価値税がフランスにおいて導入され、以降世界各国において導入されるようになっていった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "南北戦争以前のアメリカでは所得税も法人税もなく、内国消費税はあったが微々たる収入で、関税が主な収入源だった。南北戦争開戦時には国庫は底をついていたために、議会は戦費調達のために新たな国債発行と内国消費税増税を提案したが反対を受けた。そこでイギリスで実施されている直接税の所得税と相続税の導入が検討され、1862年に成立した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし、所得税は戦費調達のための臨時課税であったため、一年間の有効期限つきであった。戦後の1867年、所得税の撤廃が要求されると、戦債償還が残っているため課税最低限を600ドルから1000ドルに引き上げ、1870年には所得税法を失効させるとした。その後、1871年に相続税が廃止され、1872年に所得税も廃止された。イギリスでも1816年に所得税は戦費のための臨時課税であるとして廃止された。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "アメリカで所得税が廃止されると、南部・西部選出議員らが所得税再導入を提唱した。これは農産物価格下落と資材価格上昇に困窮する南部・西部の農民を救済するために組織されたグレンジャー運動やグリーンバック運動や労働騎士団を背景にしており、彼らは1892年に人民党を結成した。人民党は、産業資本家や富裕層に対して所得に応じた負担を課すべきだとして所得税再導入を提唱した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ヘンリー・ジョージは『進歩と貧困』(1879年)で土地私有制に反対し、土地から発生するあらゆる利益に課税し、その他の税を撤廃する土地単一税を提唱した。しかし、当時の経済権力は石油のジョン・ロックフェラー、銀行家ジョン・モルガン、鉄鋼界のアンドリュー・カーネギーなどの産業金融資本家の手にあり、そうした新しい経済秩序の問題を突き止めることにはならなかった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "当時北部の産業界を支持基盤としていた共和党のウィリアム・マッキンリー議員は1890年、平均関税率48%という史上最高の高関税を導入した。この保護政策は独占企業を形成していく誘因となった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "一方、民主党は南部・西部の農民や労働者を支持基盤としており、高関税は独占・寡占化を促すとして反対し、所得税再導入を提唱した。民主党のクリーブランド大統領は1893年の大統領教書で関税引き下げと小規模な所得課税に言及し、民主党マクミラン下院議員も関税は富の不公平な集中を促すとして所得税再導入を提唱し、1894年に関税所得税法案は可決した。しかしこの法案に対して、元共和党議員の憲法学者ジョージ・エドマンズらが違憲訴訟を起こした。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法では以下のように規定されていた。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1895年4月、合衆国最高裁判所は所得税法案に対して、憲法第1条第2節に則り、「各州の人口に比例して、各州の間で配分される」形になっていないとして違憲と認定した。これに反発した所得税支持者は憲法改正運動を行った。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると1901年恐慌や1907年恐慌が発生し、産業界は独占・寡占を強化していき、共和党も独占・寡占の弊害を認めるようになった。共和党のセオドア・ルーズベルト大統領は、ジェームズ・ジェローム・ヒルとジョン・モルガンらが形成した鉄道トラスト、ノーザン・セキュリティーズ、スタンダード・オイル・トラスト、USスチールなどのトラストを反トラスト法を持って告発していった。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "革新主義時代と呼ばれる当時のアメリカにおいて続くタフト大統領も前大統領に倣い、トラストを促進する関税を引き下げようとする。しかし、共和党保守派の重鎮で北東部産業界の代弁者だったネルソン・オルドリッチは高関税を擁護し、1909年にはペイン=オルドリッチ関税法を成立させ、一部の品目の関税を引き下げつつ、鉄鉱石や石炭の税率を引き上げた。これを受けて共和党革新派は関税引き下げよりも所得税導入に向けて動き、5000$以上の所得には2%、十万$以上の所得には6%の累進税率を持つ所得税法案を目指した。これに強い危機感を抱いたオルドリッチは法人税を先に審議させて個人所得税審議を宙吊りにしようとし、さらにタフトに憲法改正に協力することを約束した。1909年7月に法人税法案は可決された。しかし、共和党革新派と民主党からは法人税は所得税代替とはならないと主張され、他方の保守派にも法人税導入は富裕層への課税強化に他ならないと見て不満に思うものもいた。法人税法案に対して保険会社や不動産業者による違憲訴訟も起こったが、最高裁は「法人税は直接税ではなく、法人形態で事業を営む特権の付与に対する免許税である」と判断し、原告の請求を退けた。法人税は財源調達手段として成功し、1910年に2100万ドルだった税収は1912年に3500万ドルにも増加した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1909年6月28日にはオルドリッチは憲法改正として修正第16条を提案し、この修正憲法は1913年までに42州が批准した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "しかし、所得税法案そのものは宙吊りにされていたため、共和党革新派は、タフトに反発して1912年の大統領選挙で新たに革新党を設立し、セオドア・ルーズベルトを大統領候補として擁立した。しかし、選挙では民主党のウッドロウ・ウィルソンが勝利した。ウィルソン大統領は関税引き下げと所得税導入をセットにして改革に断行し、40%だった平均関税率を30%以下に引き下げ、1913年10月には国民の3000ドル以上の所得の1%を課し、高額所得者には1〜6%までの累進的構造を持つ付加税率(最高税率7%)を課す所得税法案が可決した。", "title": "租税の歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "大部分の政治哲学によると、彼らが必要でありそして社会に益するであるところの活動を集めるものとして税は正当化される。加えて、累進課税は社会での経済的不平等を減少させるのに用いることができる。この見解によれば、現代の国民国家において課税は人口の多数と社会変動に益するオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアによる違った文章の意訳の、この見解のひとつの通俗の表現は、「租税は文明の価格である」である。。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "クラウドファンディングのような自発的であるよりもむしろ、税の支払いは義務的で法体系による執行であるので、幾らかの政治哲学は権力と弾圧を意味するのを通して租税を課税する政府を非難する、窃盗としての徴税、強要、(もしくは奴隷制度、もしくは財産権の侵害として)、もしくは暴政として見る。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "実業家松下幸之助は、国家予算の単年度制を廃止して、節約したり効率をよくして余剰金を生み出し、それを運用することで収益を分配する無税国家を提唱した 。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "なお、ブルネイでは個人への所得税などは存在せず、国内および海外で設立された企業が納税対象となる ことから無税国家とも呼ばれるが、租税体制がないわけではない。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "カール・マルクスは共産主義の到来の後に課税は不必要になることを推量し、そして「国家死滅」を期待する。中国におけること のような社会主義経済では、大部分の政府の歳入は企業の所有権からの運用だったので、課税は重要でない役割を果たした。そして或る人々によってそれは金銭による課税は必要でなかったことを議論された。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "租税選択は納税者が、彼らの各々の租税を割り当てる方法をもって、よりコントロールするであろうことの理論である。もし納税者らが彼らの租税を受け取る政府の仕組みを選択できるならば、機会費用の決定は彼らの部分的な知識(英語版)を寄せ集める。例えば、彼の租税を公立学校においてより割り当てる納税者は公費負担医療においてより少なく割り当てるかもしれない。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ジオイスト(英:Geoist、ジョージスト並びにジオリバタリアン(英語版))は、道義性と同じく経済的効果の両方の理由で、課税は基本的に地代、特にその地価税を徴集すべきであることを宣言する。(経済学者たちが同意する)課税に対して地代を用いることの有効性は、このような課税は渡るつまり脱税することができずかつ死重損失を生じないこと、並びにこのことが土地(英語版)において投機するような動機を除くこと、の事実に従う それの道義性は、私的所有権は労働の成果(英:products of labour)に対して正当化されるが土地と天然資源についてはそうでない、ところのジオイストの前提に基づく。。", "title": "租税に対する諸見解" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ラッファー曲線の一つの可能な結果は、一定の値を超えた税率の増大は税収のさらなる増収にたいして反生産的になるであろう、ことである。任意の与えられた経済にたいする仮説的なラッファー曲線はただ見積もることだけができる。そしてこのような見積もりはしばしば論争になる。The New Palgrave Dictionary of Economics(英語版)は、税収最大化の税率の評価すなわち見積もりは、70%の近辺の中間の領域をもって、広く様々であることを報告する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "多くの政府は、歪のない租税によるかまたは或る二重の配当金を与えるものである諸租税を通して、割り当てられるもののところのものを超えたものである歳入を行う。最適課税は経済学の分野であって、それは最小の死重費用(英:dead-weight cost)を持つかまたは厚生の意味において最大の効用(英:outcome)を持つように課税をいかに構築するかを考える。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "租税はしばしばおおかた税率と呼ばれる、或る割合として課せられる。税率についての議論でのひとつの重要な区別は限界税率(英:marginal tax rate、もしくはmarginal rate)と実効税率(英:effective tax rate)の間の区別である。実効税率は支払われた租税の総計で割ったその支払われた租税の合計である。これに対し限界税率は収入を得た次の円 によって支払われたその税率である。", "title": "理論" } ]
租税(そぜい、とは、国や地方公共団体が公共財や公共サービスを提供するにあたって、法令の定めに基づいて国民や企業などの主体に、必要経費などの捻出方法として負担を強制する金銭で、日本では税金と言われる。一部の国で国防に係る徴兵制などが見られるが、安定した税収を確保するため、物納や労働を採用することは減ってきている。 税制は、歳入の根幹および政治や経済の要因となる。商売や契約・取引などの行為および所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税、課税された税を納めることを納税、徴収することを徴税、それらについての事務を税務という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税、逆に増額することを増税という。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{読み仮名|'''租税'''|そぜい|{{lang-en-short|tax}}}}とは、[[国]]や[[地方公共団体]]が[[公共財]]や[[公共サービス]]を提供するにあたって、法令の定めに基づいて国民や企業などの主体に、必要経費などの捻出方法として負担を強制する[[金銭]]([[通貨]]、[[お金]])で、日本では{{読み仮名|'''税金'''|ぜいきん}}と言われる。一部の国で[[国防]]に係る[[徴兵制]]などが見られるが、安定した税収を確保するため、[[物納]]や[[労働]]を採用することは減ってきている。 {{読み仮名|'''税制'''|ぜいせい}}(租税制度)は、歳入([[財政]])の根幹および[[政治]]や[[経済]]([[経世済民]])の要因となる。商売や契約・取引などの行為および所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを{{読み仮名|'''課税'''|かぜい}}、課税された税を納めることを{{読み仮名|'''納税'''|のうぜい}}、徴収することを{{読み仮名|'''徴税'''|ちょうぜい}}、それらについての事務を{{読み仮名|'''税務'''|ぜいむ}}という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを{{読み仮名|'''減税'''|げんぜい}}、逆に増額することを{{読み仮名|'''増税'''|ぞうぜい}}という。 {{main2|日本の租税については、[[日本の租税]]の項を}} == 租税の機能 == 政府は、[[国家]]の基盤的機能を維持するため、個人から[[生殺与奪の権利]]を取り上げ、[[社会的ジレンマ]]や[[外部性]]([[フリーライダー]])を回避する施策を検討しなければならない。租税には、次の3つの機能・効果があるとされている。 #[[公共サービス]]の費用調達機能 - 「[[市場の失敗]]」という言葉に象徴される[[市場経済]]のもとでは提供困難なサービス(軍事、裁判、警察、消防、公共事業など)の提供のための費用を調達するための機能<ref>『「税と社会貢献」入門 税の役割とあり方を考える』p6-7 伏見俊行・馬欣欣共著 ぎょうせい 平成26年6月1日第1刷</ref>。 #[[所得]]の再分配機能 - 自由(私的財産権の保護)と平等(生存権の保障)は、究極的には矛盾する考え方であるが、今日の多くの国では、いわゆる[[福祉国家]]の理念のもと、国家が一定程度私的財産に干渉することもやむを得ないことと考えられている。このような考え方に基づいて持てる者から持たざる者に[[富の再分配|富を再分配]]する機能<ref>『「税と社会貢献」入門 税の役割とあり方を考える』p7 伏見俊行・馬欣欣共著 ぎょうせい 平成26年6月1日第1刷</ref>。 #[[景気]]の調整機能 - [[自由主義経済]]体制における特殊な調整機能。[[景気循環|景気の循環]]は不可避のものとされるが、景気の過熱期には増税を行うことにより余剰資金を減らし投資の抑制を図る。逆に後退期には減税を行うことにより余剰資金を増やし投資の活性化を行う。これにより、ある程度景気を調節することが可能であるとされる。現代の租税制度は[[累進課税]]を採用している租税が国などの主要な財源を占めているため、所得の変動に応じた税率の変動により、景気が自動的に調整されるという効果を有する。この効果は「自動景気調整機能([[ビルト・イン・スタビライザー]])」と称される<ref>『「税と社会貢献」入門 税の役割とあり方を考える』p8 伏見俊行・馬欣欣共著 ぎょうせい 平成26年6月1日第1刷</ref>。 一方、税金は経済全体を調整するための機能とみなす[[機能的財政論]]は、前述の公共サービスの費用調達機能に否定的である。この論によれば、'''租税は、財源確保の手段ではなく'''、物価調整の手段であり、政府が負債を増やすことで、貨幣供給量が増えて、インフレに向かい、政府が増税によって負債を返却したら、その分だけ貨幣が消え、貨幣供給量が減るから、デフレへと向かうとされる。そのほかに、炭素税のように、二酸化炭素の排出抑制の手段にもなり([[ピグー税]])所得再配分の手段としても重要である<ref>[[中野剛志]]『奇跡の経済教室』KKベストセラーズ、2019年、pp.151-154</ref>。 また、[[表券主義]]によれば、租税の目的は政府が発行する[[通貨]]に対する需要を生み出すことであり、[[歳入]]を生み出すためではない。通貨の利用者たる国民が、通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように仕向けるためである<ref>L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社2019年、pp.128-129</ref>。政府が「お金」の価値を保証することと租税の制度を存続させることとは表裏一体で、日本においては、明治時代の紙幣・債権経済への移行期に[[地租改正]]を行い[[通貨]]による納税制度を取り入れている。政府が「お金」の価値を保証することは、近世社会以降において治安と並んで国家的機能の重要な働きの1つで、国内的なあらゆる取引における一定の価値および安全性を保証するものである。 {{see also|グレシャムの法則}} == 租税の基本原則 == 租税制度に関する一般的な基本原則として、[[アダム・スミス]]の4原則や[[アドルフ・ワーグナー (経済学者)|アドルフ・ワグナー]]の4大原則・9原則、[[リチャード・マスグレイブ|マスグレイブ]]の7条件などの租税原則が知られており、それらの理念は「公平・中立・簡素」の3点に集約できる<ref name="zeicho2">税制調査会『[https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2000/zeicho.html わが国税制の現状と課題 -21世紀に向けた国民の参加と選択-]』2000年(1-2-2. 税制の基本原則)。</ref>。それらは[[トレードオフ]]の関係に立つ場合もあり同時に満たされるものではなく、公正で偏りのない税体系を実現することは必ずしも容易ではない。種々の税目を適切に組み合わせて制度設計を行う必要がある<ref name="zeicho">税制調査会『[https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2000/zeicho.html わが国税制の現状と課題 -21世紀に向けた国民の参加と選択-]』2000年(1-2-1. 租税の種類と税体系)。</ref>。 {| class="wikitable" style="margin:1em 5%; font-size:95%" |+ 租税原則<ref>税制調査会『[https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2000/zeicho.html わが国税制の現状と課題 -21世紀に向けた国民の参加と選択-]』2000年([https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2000/p020.html (資料2)租税原則])より引</ref> ! style="min-width:8em" | アダム・スミスの<br>4原則 | ;公平の原則 :税負担は各人の能力に比例すべきこと。言い換えれば、国家の保護の下に享受する利益に比例すべきこと。 ;明確の原則 :租税は、恣意的であってはならないこと。支払時期・方法・金額が明白で、平易なものであること。 ;便宜の原則 :租税は、納税者が支払うのに最も便宜なる時期と方法によって徴収されるべきこと。 ;最小徴税費の原則 :国庫に帰する純収入額と人民の給付する額との差をなるべく少なくすること。 |- !ワグナーの<br>4大原則・9原則 | '''財政政策上の原則''' :;課税の十分性 ::財政需要を満たすのに十分な租税収入があげられること。 :;課税の弾力性 ::財政需要の変化に応じて租税収入を弾力的に操作できること。 '''国民経済上の原則''' :;正しい税源の選択 ::国民経済の発展を阻害しないよう正しく税源の選択をすべきこと。 :;正しい税種の選択 ::租税の種類の選択に際しては、納税者への影響や転嫁を見極め、国民経済の発展を阻害しないで、租税負担が公平に配分されるよう努力すべきこと。 '''公正の原則''' :;課税の普遍性 ::負担は普遍的に配分されるべきこと。特権階級の免税は廃止すべきこと。 :;課税の公平性 ::負担は公平に配分されるべきこと。すなわち、各人の負担能力に応じて課税されるべきこと。負担能力は所得増加の割合以上に高まるため、累進課税をすべきこと。なお、所得の種類などに応じ担税力の相違などからむしろ異なった取扱いをすべきであること。 '''租税行政上の原則''' :;課税の明確性 ::課税は明確であるべきこと。恣意的課税であってはならないこと。 :;課税の便宜性 ::納税手続は便利であるべきこと。 :;最小徴税費への努力 ::徴税費が最小となるよう努力すべきこと。 |- ! マスグレイブの<br>7条件 | ;十分性 :歳入(税収)は十分であるべきこと。 ;公平 :租税負担の配分は公平であるべきこと。 ;負担者 :租税は、課税対象が問題であるだけでなく、最終負担者(転嫁先)も問題である。 ;中立(効率性) :租税は、効率的な市場における経済上の決定に対する干渉を最小にするよう選択されるべきこと。そのような干渉は「超過負担」を課すことになるが、超過負担は最小限にとどめなければならない。 ;経済の安定と成長 :租税構造は経済安定と成長のための財政政策を容易に実行できるものであるべきこと。 ;明確性 :租税制度は公正かつ恣意的でない執行を可能にし、かつ納税者にとって理解しやすいものであるべきこと。 ;費用最小 :税務当局及び納税者の双方にとっての費用を他の目的と両立し得る限り、できるだけ小さくすべきこと。 |} === 租税法律主義 === [[租税法律主義]]とは、租税は、民間の富を強制的に国家へ移転させるものなので、租税の賦課・徴収を行うには必ず法律の根拠を要する、とする原則。この原則が初めて出現したのは、13世紀イギリスの[[マグナ・カルタ]]である。 [[近代]]以前は、[[君主]]や支配者が恣意的な租税運用を行うことが多かったが、近代に入ると市民階級が成長し、課税するには課税される側の同意が必要だという思想が一般的となり始めていた。あわせて、[[公権力]]の行使は[[法律]]の根拠に基づくべしとする[[法治主義]]も広がっていた。そこで、課税に関することは、国民=課税される側の代表からなる議会が制定した法律の根拠に基づくべしとする基本原則、すなわち[[租税法律主義]]が生まれた。現代では、ほとんどの[[民主国家]]で[[租税法律主義]]が憲法原理とされている。 === 租税が課される根拠 === 租税が課される根拠として、大きくは次の2つの考え方がある。 #'''利益説''' - [[ジョン・ロック|ロック]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、アダム・スミスが唱えた。[[社会契約|国家契約説]]の視点から、租税は個人が受ける公共サービスに応じて支払う公共サービスの対価であるとする考え方。後述する応益税の理論的根拠といえる。 #'''能力説''' - [[ジョン・スチュアート・ミル]]、ワグナーが唱えた。租税は国家公共の利益を維持するための義務であり、人々は各人の能力に応じて租税を負担し、それによってその義務を果たすとする。「'''義務説'''」とも称される。後述する応能税の理論的根拠といえる。 == 租税の種類 == 租税制度は仕組みの異なるさまざまな税目から成り立っている<ref name="zeicho" />。それぞれの税目には長所と短所があり、観点の違いによって様々な分類方法がある<ref name="zeicho" />。 {{Wide image|Revenue of Government 2020 in OECD.svg|800px|OECD各国の主要税収構造(種類別, GDPに占める比率%)<br> 青は所得税、橙は法人税、緑は社会保険(被用者)、赤は社会保険(雇用者)、紫は給与税、桃は資産税、灰は消費税、薄緑は物品税}} === 所得税・消費税・資産課税など === {{OECD平均の税収構造}} 税負担の尺度となる課税ベースに着目した分類として、「[[所得税]]」「[[消費税]]」「資産課税」などがある<ref name="zeicho" />。OECD諸国における各国平均の課税割合を右に記す。 ; 所得税 : 個人の所得に対して課税される個人所得課税([[所得税]]など)と、法人の所得に対して課税される法人所得課税([[法人税]]など)がある<ref name="zeicho" />。累進課税による特性として、経済自動安定化機能([[ビルト・イン・スタビライザー]])をもたらすとされる<ref name="zeicho" />。 : 所得控除、[[医療費控除]]をはじめ、年金貯蓄や住宅投資などに対する優遇措置など、納税者の負担軽減のための様々な制度を導入しやすいことが利点でもある反面、それらの制度が既得権化すると公平性を損なうだけでなく、課税ベースの縮小によって税収調達機能の低下、非効率化といった問題を生じる<ref>森信茂樹「[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10248500/www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list6/r102/r102_02.pdf グローバル経済下での租税政策 ─消費課税の新展開─]」『フィナンシャル・レビュー』 2011年1号(通巻102号)、財務省財務総合政策研究所、p.11。</ref>。また、納税者個々の収入を把握し的確に課税し徴収する必要があるため正確な徴税が行いにくく、この制度を有効に活用するには税務当局の能力の向上が必須となる。このため3つの課税ベースのうちでもっとも開発が遅れ、所得課税が租税全体において大きな役割を果たすのは国家の徴税能力の向上した近代以降のことである。また同じ理由で、納税・徴税者双方に大きな事務的な負担がかかる課税である<ref>『「税と社会貢献」入門 税の役割とあり方を考える』p12 伏見俊行・馬欣欣共著 ぎょうせい 平成26年6月1日第1刷</ref>。このことから、所得課税は先進国の税収において大きな割合を占めることが多いが、発展途上国においてはそれほどの重要性を持たないことが多い。 ; 消費税 : 財・サービスの消費に対して課税される<ref name="zeicho" />。[[消費税]]のほか、[[関税]]や[[酒税]]などが含まれる。控除などによる特別措置の余地が少なく、業種ごとの課税ベース把握の不公平も生じないため、水平的公平、世代間の公平に優れており、広い課税ベースによる安定した歳入が見込める<ref>森信2011、p.13。</ref>。また所得税に比べて課税対象の把握が納税・徴税者双方にとってわかりやすく、税務当局の能力がそこまで必要ではないことから、特に[[発展途上国]]においては消費課税が税収の大半を占めていることが多い<ref name="ReferenceA">『「税と社会貢献」入門 税の役割とあり方を考える』p13 伏見俊行・馬欣欣共著 ぎょうせい 平成26年6月1日第1刷</ref>。反面、所得全体に占める税負担の割合が低所得者ほど大きくなるため、逆進的な性質を伴う<ref>[[佐藤主光]]「[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10248500/www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list6/r102/r102_05.pdf 所得税・給付つき税額控除の経済学 ─「多元的負の所得税」の構築─]」『フィナンシャル・レビュー』2011年1号(通巻102号)、財務省財務総合政策研究所、p.74。</ref>。 ; 資産課税など : 資産の取得・保有・移転などに対して課税される<ref name="zeicho" />。[[固定資産税]]や[[相続税]]、[[贈与税]]などが属する。他者からも明確に把握できる土地や資産を課税対象とすることから徴税が行いやすく、近代以前においては最も中心的な課税であった。また資産を有する富裕層に対しての課税という性格が強いため、所得課税と同じく所得格差の是正の機能を有するとされる。一方であくまでも有資産者に対する税であるため、課税対象が少なく税収の柱にはしにくい面がある<ref name="ReferenceA"/>。 近年では就労の促進や所得再分配機能の強化などを目的として、所得課税などに対する[[給付付き税額控除]]の導入も進んでいる<ref>鎌倉治子「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3050381 諸外国の給付付き税額控除の概要(調査と情報 -Issue Brief- 678号)]」国立国会図書館、2010年、表紙, pp.1-2。</ref>。給付付き税額控除は制度の複雑化や過誤支給、不正受給などの課題を伴う反面、課税最低限以下の層を含む低所得世帯への所得移転を税制の枠内で実現でき、労働供給を阻害しにくい制度設計も可能であることから<ref group="注">給付付き税額控除と並んで近年注目される[[ベーシックインカム]]については、[[就労可能]]な個人の労働意欲(就労インセンティブ)を損ないかねないという見方がある一方、それが労働市場に与える影響に関して現在様々な見解がある。ボランティアなど社会的活動への報酬として位置づけるという意見、稼得所得による給付額の逓減が無いことにより労働供給へのマイナス効果は小さいという意見、税制全体として給付の財源を賄うため累進課税の負担が増えると間接的に労働供給の阻害要因になるという意見など。(佐藤、p.93)</ref>、格差是正や消費税などの逆進性対策に適するとされる<ref>鎌倉、pp.1-11。佐藤、pp.73, 74。[[森信茂樹]]「[http://www.japantax.jp/iken/file/100401_2.pdf 給付付き税額控除の具体的設計]」『税経通信』922号、税務経理協会、2010、pp.38-40。</ref><ref group="注">森信2010では、給付付き税額控除をその政策目的によって勤労税額控除、児童税額控除、消費税逆進性対策税額控除の3種に分類している。ただし、森信「[http://www.japantax.jp/iken/file/080613.pdf 給付付き税額控除の4類型と日本型児童税額控除の提案]」(『国際税制研究』[https://www.nouzeikyokai.or.jp/yomimono/kenkyu/20.html 第20号]、納税協会、2008年、pp.24-34)では、現金給付の代わりに社会保険料の控除を行うオランダ型の社会保険料負担軽減税額控除も1類型に加えて4分類としている(白石浩介「[http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j42d02.pdf 給付つき税額控除による所得保障]」『会計検査研究第』[http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/index41-50.html 42号]、会計検査院、2010年、p.1)。</ref>。勤労所得や就労時間の条件を加味して就労促進策の役割を担う勤労税額控除は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデン、カナダ、ニュージーランド、韓国など10か国以上が導入している<ref>鎌倉、pp.2, 3。</ref>。子育て支援を目的とする児童税額控除はアメリカ、イギリスなどが採用しているほか、ドイツやカナダなども同趣旨の給付制度を設けている<ref>鎌倉、pp.2-6, 9。</ref><ref group="注">ドイツとカナダの児童手当は税額控除を伴わない給付のみの制度であるが、ドイツの児童手当は所得税法で規定されており児童控除との選択制、カナダでは税務当局である歳入庁が執行している(鎌倉、pp.6, 9)。</ref>。消費税の逆進性緩和を目的とする消費税逆進性対策税額控除はカナダやシンガポールなどが導入している<ref>鎌倉、pp.2, 8。</ref>。 === 国税と地方税 === [[File:OECD Tax revenue.svg|thumb|right|400px|OECD各国税収のタイプ別GDP比(%)。<br>赤は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は[[社会保険|社会保障拠出]]<ref name="OECDrevenue">{{Cite report|publisher=OECD |title=Revenue Statistics |doi=10.1787/19963726}}</ref>。]] 租税は課税権者に応じて[[国税]]と[[地方税]]に区分できる<ref name="zeicho" />。子ども手当のような生存保障の支出は、国が全額財源を負担するのが論理的には一貫するが、対人社会サービスなど現物給付については、地方自治体が供給主体となる<ref>日本財政転換の指針pp192スウェーデン型地方税制との違い(井手英策)岩波新書 ISBN 978-4-00-431403-5</ref>。国税では富裕層への課税や矯正的正義(応能原則)が重視されるが、所得の多寡を問わないユニバーサリズムの視点からすれば、地方税に関してはむしろすべての参加者が負担する配分的正義(応益原則、水平的公平性)が基準となる<ref>日本財政転換の指針pp193スウェーデン型地方税制との違い(井手英策)岩波新書 ISBN 978-4-00-431403-5</ref>。 国税の課税権者は国、地方税の課税権者は各地方自治体となるが、地方税に関する税率などの決定は必ずしも各自治体の自由裁量ではなく、税率の上下限など、国によって様々な形での制約が設けられている<ref name=" fukawzawa,pp.48-49">深澤映司「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3488876 地方税の標準税率と地方自治体の課税自主権]」『レファレンス』[https://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/2012/index.html 735号]、2012年、pp.48-49。</ref>。チェコ、デンマー ク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、ポルトガル、スペインといった国々では地方税の税目に対して上限と下限両方の制限が存在し、オーストラリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、オランダ、ポーランド、スイス、イギリス、アメリカなどは上限のみが存在する<ref name=" fukawzawa,pp.48-49" />。イタリアの州生産活動税のように、国が定めた標準税率を基準に税率の上下限幅が決められているケースもある<ref name=" fukawzawa,pp.48-49" />。日本では法人課税を中心に税率の上限([[制限税率]])が設けられているが、直接的に下限を定めた規制は存在せず、法的拘束力の無い[[標準税率]]を[[地方債]]の起債許可や政府間財政移転制度([[地方交付税交付金]])の交付額算定と連動させることで、それを下回る税率の選択を抑制する制度設計となっている<ref>深澤、pp.42-44, 48。</ref><ref group="注">1986年の参議院地方行政委員会において[[自治省]](当時)は、過度な減税による将来世代への負債転嫁や他地域住民への税負担の転嫁(国費による自治体財政への補填費用)を抑制するために各自治体が標準的な税収を確保することが必要との見解を示している(深澤、p.51)。</ref>。上位政府による起債制限と政府間財政移転の双方を背景として地方税率が下方硬直的になっている例は、日本以外の主要国には見当たらず、日本の標準税率制度は国際的にみてもかなりユニークな制度であるといえる<ref>深澤、p.50</ref>。 === 普通税と目的税 === 租税は、特にその使途を特定しないで徴収される普通税と、一定の政策目的を達成するために使途を特定して徴収される目的税とに区分できる<ref name="zeicho" />。[[目的税]]は公的サービスの受益と負担とが密接に対応している場合は合理性を伴った仕組みとなる反面、財政の硬直化を招く傾向があり、継続的に妥当性を吟味していく必要がある<ref name="zeicho" />。 === 直接税と間接税 === 租税を負担する者から直接徴収する租税を'''直接税'''と言い、納税者以外の者に[[転嫁]]する租税を'''間接税'''という<ref name=hay>林正寿「間接税」小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)、精選版日本国語大辞典:コトバンク</ref>。ただし、租税の転嫁の有無が税目ごとに不明確な場合もあり、直接税と間接税の分類の基準には諸説ある<ref name=hay/>。 言い換えると、具体的な[[商品]]や[[サービス]]の価格を通じて税が納税義務者から[[消費者]]に転嫁されることを予定した租税を間接税と言い、それ以外の租税を直接税と呼ぶ。例えば、「たばこ税」や「法人税」は両者とも消費者に転嫁されているが、たばこ税は具体的な商品に転嫁されているので間接税となる。法人税は具体的な商品やサービスに転嫁されていないため、直接税である<ref name="zeicho" />。 直接税は[[オフショア市場]]の活用により税収が減っている。 ;直接税の例 [[所得税]]・[[法人税]]・[[相続税]]、[[地方税]]における[[住民税]]・[[事業税]]・[[固定資産税]]<ref>「直接税」精選版日本国語大辞典:コトバンク</ref> ;間接税の例 [[印紙税]]、[[登録税]]、[[通行税]]などの[[流通税]]、[[酒税]]、[[物品税]]、[[関税]]などの[[消費税]]<ref name=hay/>、[[たばこ税]] <ref>石川県租税教育推進協議会ホームページ『[http://www.sosuikyou.jp/study/data/index.html 税の種類とあらまし]』2014年3月29日閲覧。</ref> === 従量税と従価税 === 数量あたりで税率を定めた税を従量税、価額単位で課される税を従価税という<ref name="zeicho" />。 === 応益課税と応能課税 === 納税者の担税力、すなわち租税の負担能力に応じて賦課する立場の考え方を応能課税、公共サービスの受益に応じて課税すべきとする考え方を応益課税という<ref name="zeicho2" />。租税は公益サービスのための財源であることから、少なからず応益課税の要素が内在するが、個別の受益と負担との関係が必ずしも明確でなく、応益負担だけでは成り立たない<ref name="zeicho2" />。地方税は地域住民による負担分任という性格上、応益課税の要素がより重視される<ref name="zeicho2" />。 {{see also|受益者負担の原則}} == 税の帰着 == {{Main|税の帰着}} 法においては、税を誰から徴収するかを定めている。多くの国では、税は事業者に課されている(たとえば[[法人税]]や[[給与税]])。しかし最終的に誰が税を支払うか(税を負担するか)は、その税が製品コストに組み込まれることで、市場が決定する。経済学理論では、税による経済的効果は、必ずしも法的課税者に降りかかるわけではない。たとえば雇用主が支払う雇用に対する税は、少なくとも長期的には従業員に影響を及ぼしている。 == 国民所得に対する負担率 == ===租税負担率と社会保障負担率=== {{Main2|各国の租税負担率一覧|:en:List of countries by tax revenue to GDP ratio}} [[国民所得]]に占める租税の総額(国税と地方税を合わせた租税収入金額を国民所得で除した額)を'''租税負担率'''という<ref name="nomura">{{Cite web|和書|url=https://www.nomura.co.jp/terms/japan/ko/A02494.html |title=国民負担率 |publisher=[[野村証券]] |accessdate=2020-06-28}}</ref>。 また、国民所得に占める社会保障負担額の総額([[医療保険]]や[[年金保険]]などを合わせた社会保障負担額を国民所得で除した額)を'''社会保障負担率'''という。 ===国民負担率=== 国民全体の所得に占める租税負担率と社会保障負担率の合算を''' [[国民負担率]]'''(national burden ratio)という<ref name="nomura" />。なお、国民負担率に次世代の国民負担(財政赤字分)を加味して算出した割合を'''潜在的国民負担率'''という<ref name="nomura" />。 == 徴収方式 == 税の徴収方式としては、申告課税と賦課課税の二つの方式が主な方式となっている。賦課課税方式は各政府が納付義務を持つものに税額を計算して賦課するものであり、申告課税は逆に納付義務を持つものが自ら税額を計算して政府に申告するものである<ref>関東信越税理士会埼玉県浦和支部「[http://www.zeirishikai-urawa.com/contents/startup/cat/2012/10/28-2346.html 知って納得!はじめての税金 身の回りの税金 申告納税方式と賦課課税方式]」2017年2月6日閲覧</ref>。賦課課税方式は近代までは中心的な徴収方式であったものの、20世紀後半に入ると申告課税が主流の納付方式となった。このほか、いくつかの国家においては納税者への給与などの支払いの際にその雇用者があらかじめ税額相当を天引きしておく、いわゆる源泉徴収が行われている<ref>財務省「[https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/income/058.pdf 主要国の給与に係る源泉徴収制度の概要]」、2020年8月8日閲覧。</ref>。また、文書に対し[[収入印紙]]を貼り付けて納付する印紙納付もある。 == 租税の歴史 == 租税の歴史は国家の歴史と密接に関連する。極端な増税は、農民など税の負担者を疲弊させ反乱を招き国家の滅亡につながることもあった。歴史的には、労働、[[兵役]]やその地方の特産物などによる納税が行われた時代があった。例えば[[万里の長城]]など歴史的な建造物の多くは、強制的な労働力の徴発より作られたものと考えられている。 租税制度は主に次のような変遷を遂げた<ref>山本守之『租税法の基礎理論』改訂版125 - 131ページ</ref>。 === 古代 === 原始には、神に奉じた物を[[再配分]]する、という形を取っていたとされている。[[社会的分業]]によって私的耕作や家内工業の発展とともに集団の中で支配者と被支配者が生じ、支配者は被支配者から財産の一部を得るようになった。これには、被支配者が支配者に差し出す犠牲的貢納と支配者が被支配者から徴収する命令的賦課があった。古代の税としては、[[物納]]と[[賦役]]が主に用いられた。物納は農村においては[[穀物]]を主とする収穫が主であり、それに古代においては貴重品であった[[布]]や、その地方の特産品を特別に納付させることも行われた。賦役は税として被支配者に課せられる労役のことであり、土木工事などの[[公共事業]]や、領主支配地における耕作など様々な形態を取った。 [[古代エジプト]]の[[パピルス]]文書に当時の農民に対する厳しい搾取と免税特権をもつ神官・書記に関する記述がある。 古代[[インド]]の[[マウリヤ朝]]では、農民に対し収穫高の四分の一程度を賦課し、[[強制労働]]も行われていた。 [[古代ギリシア]]には平常、所得税や財産税というものは無く、必要支出は資産家の自発的な公共奉仕によって賄われた<ref>[[雨宮健]]「古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想」金融研究 31(2), 2012-04,日本銀行金融研究所,p20</ref> 他に、[[エイスフォラ]](Eisphora)という戦時特別財産税があった。紀元前5、4世紀、[[アテナイ]]において戦費捻出のために一定額以上の財産を所有する市民と[[メトイコイ]](外国人)に課せられ、税率は財産総額の1%だった<ref>古川堅治 [https://kotobank.jp/word/エイスフォラ-35900 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)],平凡社世界大百科事典 第2版,コトバンク</ref>。 [[ローマ帝国]]の税制の基本は簡潔であり、属州民にのみ課される収入の10%に当たる[[属州]]税(10分の1税)、ローマ市民と属州民双方に課される商品の売買ごとに掛けられる2%の売上税(50分の1税)、ローマ市民にのみ課される遺産相続税や解放奴隷税などであった。3世紀の[[アントニヌス勅令]]以降は国庫収入が減少し、軍団編成費用などを賄うための臨時課税が行われることもあった。[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]は[[属州総督|属州の長官]]に赴任したとき、住民に10年分の税の前払いを要求した。 === 日本 === {{main|日本の租税#歴史}} === 中国 === [[春秋時代]]の[[老子道徳経]]第75章には「民之飢 以其上食税之多 是以飢(民が飢えるのは政府が税を多く取りすぎるからである)」とある<ref>前田安正「[https://www.kanjicafe.jp/detail/7179.html 漢字コラム21「税」 身ぐるみはがして取る?]」2016.10.25公益財団法人[[日本漢字能力検定協会]]</ref>。 [[漢]]の主要財源は、算賦(人頭税及び財産税)、田租、徭役(労働の提供)であった。 [[北魏]]において[[均田制]]が成立したのち、これに基づいて[[北周]]が[[租庸調]]の税制をはじめ、[[唐]]でもこの税法を当初は引き継いだ。しかし[[玄宗]]期に入ると土地の集積が進み均田制が崩壊し、土地の存在が前提であった租庸調制も同時に崩壊したため、[[780年]]には[[徳宗 (唐)|徳宗]]の宰相[[楊炎]]によって[[両税法]]が導入された。これは税の簡素化と実情に合わせた変更によって税収を回復させる試みであり、以後[[明]]にいたるまで歴代王朝はこの税法を維持し続けた。しかし明代に入ると再び税制の実情とのかい離が起こり、税制は複雑化したため、16世紀末の[[万暦帝]]期において、宰相[[張居正]]が税を丁税([[人頭税]])と地税にまとめて銀で一括納入させる[[一条鞭法]]を導入した。[[清]]代に入ると、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した[[地丁銀制]]が導入された。 === イスラム === [[イスラーム]]を[[国教]]とするいくつかの王朝では、[[ズィンミー]](異教徒。[[キリスト教徒]]・[[ユダヤ教徒]]など)に対して[[ジズヤ]]([[人頭税]])の徴収が行われた。この方式は[[7世紀]]の[[ウマイヤ朝]]を起源としている。[[正統カリフ]]時代には税制はいまだ未整備であったが、ウマイヤ朝期に入る[[アラブ人]]以外のイスラム教徒([[マワーリー]])および異教徒からジズヤと[[ハラージュ]](土地税)の双方を徴収することとなった。しかしこの方式はマワーリーからの大きな反発を招き、[[アッバース革命]]を招くこととなった。こうして成立したアッバース朝はマワーリーからジズヤの納入義務を撤廃し、またアラブ人のイスラム教徒であってもハラージュの納入を義務付けた。こうして成立したジズヤ(異教徒への人頭税)とハラージュ(全国民対象の土地税)の二本立ての税制は、イスラーム諸王朝の基本税制となって広まっていった。 === ヨーロッパ === [[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]では[[教会]]が[[聖書]]<ref>[[レビ記]]27章30節など</ref> を典拠として収穫物の10分の1を徴収する[[十分の一税]]が教区民に課された<ref name="1/10">「十分の一税」小学館 日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典 第2版,百科事典マイペディア, 旺文社世界史事典 三訂版:コトバンク</ref>。初めは教徒の自発的慣行だったが、8世紀から[[フランク王国]]で義務とされ、9世紀にはこの税をめぐって世俗領主との争奪戦がくりかえされ、10世紀には領主の封建的所有権として売買された<ref name="1/10"/>。 中世ヨーロッパでは[[封建制]]が採られ、土地を支配する[[封建領主]]は土地を耕作する農民から貢納を得て生活していた。貢納のほか、領主直営地における賦役農耕も重要な税のひとつであった。その代り、領主は統治者として領民を外敵から守る役割を果たしていた。領主の主収入は地代であったが、私的収入と公的収入が同一となっており、しばしば戦費調達のために臨時収入が課された。フランスでは[[十字軍]]の戦費のために[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が[[1198年]]に臨時課税を始めた<ref name=nakaza>中里実「フランスにおける流通税の歴史」税大ジャーナル 11 2009. 6 ,p.6</ref>。 その後、領主は戦争や武器の改良、[[傭兵]]の台頭によって財政難に陥り、相続税・死亡税の新設や地代を上げる。しかし、それでも賄いきれなくなった領主は特権収入に頼るようになる。ここで言う特権とは、[[鋳貨]]・[[製塩]]・[[狩猟]]・探鉱(後に[[郵便]]・[[売店]])を指し、領主はこの特権を売渡すことで収入を得た。特権収入の発生は[[実物経済]]から[[貨幣経済]]への移行の一つの表れとみられている。 貨幣経済が発達すると新しい階級として[[商人]]階級が生まれる。土地は売買の対象となり、領主と農民の関係は主従関係から貨幣関係へと変質した。貴族は土地の所有と地代収入を失ったため、商人たちに市場税・入市税・営業免許税・関税・運送税・鉱山特権税などを課す。これらは租税と手数料、両方の側面を持っていた。 14世紀から15世紀にかけて[[オスマン帝国]]からの圧迫を受けた[[神聖ローマ帝国]]は戦費調達のために[[等族]]に資金供出を頼んだ<ref name="mor21-23">諸富徹,p.21-23</ref>。当時オスマン帝国は25万人の歩兵を確保していた<ref name="mor21-23"/>。対して、当時神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していた[[ハプスブルク家]]の世襲領収入は30万グルデンで、雇える[[傭兵]]は年6000人の歩兵、または2500人の騎兵だった<ref name="mor21-23"/>。臨時戦費に当たって領主は等族に対して、本来資金供出要求の権利はないことや、等族の権利侵害をすることはないなどの諸条件をつけて資金供出を要求した<ref name="mor21-23"/>。領主と等族との「共同の困難」からの財政需要が、租税国家を生み出していくことになった<ref name="mor21-23"/>。 [[流通税]]については、イギリスでは[[印紙税]]が重要で、フランスでは[[登録税]]が重要な地位を占める<ref name=nakaza/>。 ==== イギリス ==== [[イングランド]]では[[1215年]]、[[ジョン (イングランド王)|ジョン欠地王]]が課税に反発した貴族たちとの戦いに敗れ[[マグナ・カルタ]]を受け入れた。同憲章には「一切の楯金もしくは 援助金は、朕の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課さない」 との規定があり、ここに'''[[租税法律主義]]'''の萌芽があるとされ<ref name=sim6-9>下村芳夫「[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/05/40/hajimeni.htm 現代における租税の意義について-租税法律主義の歴史的考察を中心として-]」税務大学校論叢5号、p.6-9,1972-03-00,国税庁</ref>、また「承諾なければ課税なし」の原則の起源ともなった<ref>片上孝洋「「代表なければ課税なし」の再考」ソシオサイエンス Vol.17 2011 年3月 ,p143,早稲田大学リポジトリ</ref>。 1625年に即位した[[チャールズ1世]]は英西戦争戦費調達のための特別税を請求したが、議会が少額の14万ポンドしか承認せず、また王の終身収入<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「トン税・ポンド税」</ref> でもあった輸出入関税のトン税・ポンド税を1年の期限付きに限定した<ref name="mor15-6">諸富徹,p.15-16</ref>。王は議会を解散し、議会の同意なしでトン税・ポンド税、船舶税を徴収した<ref name="mor15-6"/>。1628年、議会は「議会の同意無しの課税禁止」を第一項目とした[[権利の請願]]を提出した<ref name="mor15-6"/>。王は一度は承認するものの翌年に議会を解散し、以降、11年間[[親政]]を敷いた<ref name="mor15-6"/>。この間トン税・ポンド税、船舶税を継続し、また騎士強制に応じない者への罰金や、貴族の領地が王領林を侵害しているとして罰金を課していった<ref name="mor15-6"/>。[[主教戦争]]戦費調達のために王は議会を開催したが、議会では課税禁止法案を次々と可決していった<ref name="mor15-6"/>。1641年の[[大抗議文]]で対立が決定的となり、1642年に[[イングランド内戦]]に至った<ref name="mor17-20">諸富徹,p.17-20</ref>。1643年、議会は'''査定課税'''(Assessed Tax)を導入した<ref name="mor17-20"/><ref>https://www.british-history.ac.uk/no-series/acts-ordinances-interregnum/pp85-100</ref>。これは財産の評価額に応じた課税を課す直接税であり、所得税の前身となった<ref name="mor17-20"/>。しかしこれはロンドン市に負担が集中したため、間接税の'''内国消費税'''(Excise Duty)を反対を押し切り導入した<ref name="mor17-20"/><ref>[http://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C67 Records of the Boards of Customs, Excise, and Customs and Excise, and HM Revenue and Customs],[[イギリス国立公文書館]]</ref>。査定課税は富裕層への課税であったのに対して内国消費税は庶民にも課税するもので、内戦後のイギリス財政では関税に並ぶ基幹税となっていった<ref name="mor17-20"/>。[[イングランド共和国]]崩壊後の[[イングランド王政復古|王政復古]]後も議会は財政権を確保する一方で、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は内国消費税の一部、トン税・ポンド税、関税収入の終身供与が承認された<ref name="mor17-20"/>。[[名誉革命]]での[[権利の章典]]においても議会の承認なしの課税は禁止された。こうしてイギリス革命期には、[[1628年]]の[[権利の請願]]で国会による同意なしには税金その他同種の負担を強制されないことが再確認され、[[1689年]]の[[権利の章典]]において国会の承認なしに王が税金を徴収することは違法であると規定され、[[法の支配]]とともに租税法律主義も確立した<ref name=sim6-9/>。 ホッブズ、ロックなどの17世紀イギリス社会契約論では、個人は、国家が諸個人の生命と財産を保護する対価として租税を負担する<ref name="mor35-35">諸富徹,p.35-36</ref>。しかし国家がそれに反する行動をとれば租税の支払いを停止するとされ、こうして租税は個人が議会を通して同意した上で国家に支払うものとされた<ref name="mor35-35"/>。 イギリスの内国消費税は経済理論家から以下の点が評価された<ref name="mor41-8">諸富徹,p.41-48</ref>。 *1)生活必需品への軽課と奢侈品への重課(現在の[[軽減税率]])によって貧困層への負担を軽減した *2)消費は支払い能力なのでその支払い能力に応じた課税であり公平である *3)消費への課税によって浪費を抑制し、倹約を奨励するので、勤勉な人が報われるので公平である。倹約は貯蓄と投資を促す<ref name="mor41-8"/>。 [[ホッブズ]]は1642年の「市民論」で財産への課税は浪費家と倹約家の区別を無視することになり、倹約家が重負担となるので、消費税の方が財産税よりも公平であると論じた<ref name="mor41-8"/>。[[労働価値説]]を唱えた経済学者[[ウィリアム・ペティ]]や[[重商主義]]経済学者{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (経済学者)|en|James Steuart (economist)|label=ジェームズ・ステュアート}}も内国消費税を支持した<ref name="mor41-8"/>。ステュアートは租税を富のバランスを促進するための政策と見ており、国内の奢侈的需要による価格高騰が輸出を困難にする場合には、内国消費税や輸出奨励金によって是正することができると論じた<ref>[[木村元一]]「重商主義租税論の一体系-ジェームズ・ステュアートとの財政論その二」一橋論叢31巻4号、p297-300,1954-04</ref>。 他方、経済学者[[アダム・スミス]]は『[[国富論]]』第5篇で[[財産税]]や[[所得税]]と比べて[[消費税]]は収入比例的な課税を実現できないために不平等であると論じた<ref name="mor49-55">諸富徹,p.49-55</ref>。スミスは国防、司法、公共事業の三つを国家の仕事とし、これらを遂行するための経費を賄うために租税は徴収されるとみなした<ref name="mor49-55"/>。スミスは租税は、[[利潤]]、[[地代]]、[[賃金]]の三つの本源的所得に課税されると論じ、直接税としての所得税を提唱した<ref name="mor49-55"/>。 {{Quotation|あらゆる国家の臣民は、各人の能力にできるだけ比例して、いいかえれば、かれらがそれぞれ国家の保護の下に享受する収入に比例して、政府を維持するために貢納すべきでものある。|[[アダム・スミス]]|『[[国富論]]』<ref>大内兵衛・松川七郎 訳 『諸国民の富(四)』 岩波文庫,p116-118</ref>}} ここでスミスは支出に対してではなく、収入(所得)に比例して負担することが公平であると考えている<ref name="mor49-55"/>。しかし、当時正確な所得調査は望めなかったためにスミスは所得税導入を提唱はしなかった<ref name="mor49-55"/>。(なお、平成12年の税制調査会資料では「収入」が「利益」と翻訳されている<ref>[https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2000/p020.html 資料2)租税原則] 内閣府税制調査会資料平成12年7月</ref>) ==== オランダ ==== [[1624年]]には[[オランダ]]において[[収入印紙]]が初めて導入され、17世紀中にはヨーロッパの多くの国家に広まった。 ==== アメリカ独立•フランス革命 ==== イギリスは[[フレンチ・インディアン戦争]](1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に[[砂糖法]]、翌年に[[1765年印紙法|印紙法]]を、1767年には[[タウンゼンド諸法]]を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された<ref name=sim11-13>下村芳夫「[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/05/40/hajimeni.htm 現代における租税の意義について-租税法律主義の歴史的考察を中心として-]」税務大学校論叢5号、p.11-,131972-03-00,国税庁</ref><ref>「アリステア・クックのアメリカ史(上)」p142-144 アリステア・クック著 [[鈴木健次]]・櫻井元雄訳 NHKブックス 1994年12月25日第1刷発行</ref>。1773年に[[茶法]]が成立すると[[ボストン茶会事件]]が発生した。1774年の[[大陸会議]]宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、[[アメリカ独立戦争]](1775-1783)へと発展していった<ref name=sim11-13/>。[[アメリカ独立宣言]]ではイギリスの権利章典よりも[[自然権]]思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた<ref name=sim11-13/>。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった<ref name=sim11-13/>。独立戦争では、租税法律主義に由来する「[[代表なくして課税なし]]」という有名なスローガンも生まれ<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p60 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた<ref name=sim11-13/>。 [[ファイル:Troisordres.jpg|thumb|right|150px|[[聖職者]]と[[貴族]]を背負う[[第三身分]]]] 封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀の[[フランス]]の[[アンシャン・レジーム]]の下では、3つの身分のうち、第一[[身分]]([[聖職者]])・第二[[身分]]([[貴族]])は免税の特権を持っていたが、[[第三身分]](平民)は納税義務を課せられていた<ref name=sim14-17>下村芳夫「[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/05/40/hajimeni.htm 現代における租税の意義について-租税法律主義の歴史的考察を中心として-]」税務大学校論叢5号、p.14-,171972-03-00,国税庁</ref>。しかも第三身分は国政に参加できなかった<ref name=sim14-17/>。1786年、国王と[[財務総監]][[シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ|カロンヌ]]は財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに[[名士会]]と[[高等法院 (フランス)|高等法院]]が旧来の免税特権をもって反対し、[[1789年]][[5月5日]]に[[三部会]]が開かれることとなった<ref name=sim14-17/>。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、[[国民議会 (フランス革命)|国民議会]]を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った<ref name=sim14-17/>。8月に[[憲法制定国民議会]]が[[人間と市民の権利の宣言]]を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された<ref>樋口陽一・吉田善明編『改定版 解説世界憲法集』三省堂</ref>。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条で[[アメリカ独立戦争]]のスローガン同様に「[[代表なくして課税なし|代表なければ課税なし]]」の原則が規定された<ref name=sim14-17/>。こうしてヨーロッパの[[近世]][[市民社会]]形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の[[財産権]]の保証が図られた<ref name=sim14-17/>。 こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった<ref name=sim18-31>下村芳夫「[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/05/40/hajimeni.htm 現代における租税の意義について-租税法律主義の歴史的考察を中心として-]」税務大学校論叢5号、p.18-,311972-03-00,国税庁</ref>。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった<ref name=sim18-31/>。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる<ref name=sim18-31/>。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説は[[フーゴ・グロチウス|グロチウス]],[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]],[[ジョン・ロック]],[[デービッド・ヒューム|ヒューム]],[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]らによって提唱されたものだった<ref name=brit>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「利益説」</ref>。 ==== 租税国家の確立 ==== 1733年、ウォルポール内閣は内国消費税改革に試みたが反対された<ref name="mor41-8"/>。しかし、[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]](1754年-1763年)に続いて、[[フランス革命戦争|フランス干渉戦争]]では戦費のための政府債務が4000万ポンドにまで膨張した<ref name="mor41-8"/>。1796年、[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]首相は直接査定税を引き上げ、内国消費税の課税対象を拡大、1798年には富裕層への直接税トリプルアセスメント(Triple Assessment)を導入した<ref name="mor41-8"/>。しかし、これは馬車、家屋、窓、柱時計などの「外形標準」から推定される所得に課税するもので、現実の所得に対するものでなく、また十分な収入にならなかったため半年しか実施されなかった<ref name="mor41-8"/>。[[1799年]]に世界で初めて'''[[所得税]]'''が導入された<ref name="mor41-8"/><ref name="ikd">[[池田浩太郎]]「イギリス所得税の先駆的諸税について」一橋論叢35巻1号,p80.及び「イギリス所得税前史」成城大学経済研究 (7), p117, 1957-12</ref>。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった<ref name="mor41-8"/>。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった<ref name="mor41-8"/>。1815年の[[ナポレオン戦争]]終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった<ref name=ita>板倉孝信「英国における所得税廃止論争 (1816年) の再検討:―麦芽税廃止論争との関連性を中心に―」年報政治学 67(2), 2016年,日本政治学会,p289</ref>。これ以降、[[産業革命]]による[[資本主義]]の発達を背景に[[所得税]]を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった<ref>「租税の基礎研究」p43 石川祐三著 時潮社 2010年3月25日第1版第1刷</ref>。 19世紀には[[資本主義]]の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった<ref name=sim18-31/>。ここにおいて近代国家の機能は[[夜警国家]]から[[福祉国家]]へと変化していき、[[生存権]]という新しい人権も生まれた<ref name=sim18-31/>。 19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックや[[アドルフ・ティエール]]らによって租税を保険料として解釈する 租税保険説が現れた<ref name=brit/>。 ==== ドイツ ==== 1805年、ナポレオンに敗れて[[神聖ローマ帝国]]が瓦解した後の[[プロイセン王国]]では[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]宰相が[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]]と改革をすすめ、戦費償還のために1808年に所得税法案を成立させた<ref name="mor88-99"/>。1812年にはフランス軍駐留経費を賄うために申告納税義務と[[累進課税|累進税率]]を伴う所得税を導入したが、1814年にナポレオンが敗れると廃止された<ref name="mor88-99"/>。プロイセンは1820年に階級税を導入したがこれはイギリスの馬車や窓を対象とした外形標準所得課税のようなもので、近代的所得税と言えるものではなかった<ref name="mor88-99"/>。1851年の階級税及び階層別所得税では土地所有、資本財産、営業活動から発生する所得に課税された<ref>中田清「1891年プロイセン所得税と基準性原則」修道商学 48(1), 2007-09広島修道大学、p30</ref>。 1891年に成立した[[ヨハンネス・フォン・ミーケル]]蔵相による所得税法案では、租税負担の上限を撤廃したため、[[累進課税|逆進的税負担]]は是正された<ref name="mor88-99"/>。また効率的な納税申告の検査体制も確立し、ドイツにおける所得税は基幹税の地位を占めていくようになった<ref name="mor88-99"/>。 国家財政学者の[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]は『財政学教科書』(1885)で課税原則として、 *1)資本を減じてはならない *2)あらゆる課税は所得に対して行われる *3)課税は資本蓄積が不可能になる程大きくなってはならない と定立した<ref name="mor74-7">諸富徹,p.74-77</ref>。 シュタインは、[[プロレタリアート]]が独裁する[[共産主義]]思想を、国家が単一の階級の手中に落ちることで新たな不自由が生まれ、かつ有産階級が反撃すれば独裁体制を暴力で守るだろうと否定した上で、有産階級は資本主義の持つ問題を社会改良によって解決すれば社会革命の必要性は薄れると論じた<ref name="mor74-7">諸富徹,p.74-77</ref>。またシュタインは、課税の目的は再生産にあり、少なくとも同規模の税収を再創出することにあるとし、国家が税収と課税潜在力を促すように[[財政政策|財政支出]]すべきだと主張した<ref name="mor74-7"/>。このようなシュタインの租税論はイギリス古典派経済学の租税論にはなかった発想と評価されている<ref name="mor74-7"/>。 [[アドルフ・ワーグナー (経済学者)|アドルフ・ワーグナー]]は「財政学」(1890)で課税の目的を、自由競争によって生じた分配を修正することで国民所得と国富を規制する事にあると見て、租税は財政だけでなく社会政策でもあるべきだと主張した<ref name="mor88-99">諸富徹,p.88-99</ref>。ワーグナーは所得税を、物税(資産税)から人税(納税者に着目してかけられる)への切り替えを提唱した<ref name="mor88-99"/>。 ;租税義務説・租税犠牲説 ドイツでは国家はその任務達成のために当然に課税権を持ち、租税はその任務達成のために国民が負担する犠牲ないし義務と考える[[租税犠牲説]]が登場した<ref name=sim18-31/>。イギリスでも[[ジョン・スチュアート・ミル]]が租税利益説に反対し「課税における平等とは犠牲の均等を意味する」と主張した<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典[犠牲説sacrifice theory」</ref>。ミルの租税義務説は[[アドルフ・ワーグナー (経済学者)|アドルフ・ワーグナー]]が大成した<ref>百科事典マイペディア「租税義務説」</ref>。 [[明治維新]]後の日本では[[伊藤博文]]が憲法起草のためにドイツで直接シュタインの講義を受け、[[帝国大学]]での財政学はほとんどがドイツ財政学であった<ref name="mor88-99"/>。ドイツの影響を受けた[[大日本帝国憲法]]でも納税の義務([[大日本帝国憲法第21条|第21条]])が兵役の義務([[大日本帝国憲法第20条|第20条]])と並ぶ古典的義務とされ、「国を維持する費用の分担として国民は当然有する」と解された<ref name=ss/>。第二次世界大戦後に成立した[[日本国憲法]]では兵役の義務条項は削除されたが、納税の義務は踏襲され([[日本国憲法第30条|第30条]])、さらに[[国民の三大義務]]の一つとされている<ref name=ss>佐々木髙雄「納税の義務」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。 ==== 近代 ==== イタリアの経済学者[[マフェオ・パンタレオーニ]]、スウェーデンの経済学者[[クヌート・ヴィクセル]]が、[[古典派経済学]]の租税利益説に対して,納税者が公共サービスから受ける便益の価格として租税負担額を決定することが効率的資源配分の条件であると論じた<ref name=brit/>。[[スウェーデン学派|北欧学派]]のエリック・R.リンダールはウィクセルの理論を発展させた<ref name=brit/>。 [[近代化]]が進展するに従い、国家の財政収入の大部分を租税が占めるようになる。[[ヨーゼフ・シュンペーター]]は[[1918年]]に発表した論文『租税国家の危機』において、このような近代国家を「租税国家」と規定した<ref>東條隆進「日本における租税国家の形成と市民社会の問題」『早稲田社会科学総合研究』第12巻第1号、早稲田大学社会科学学会、2011年7月25日、 1頁</ref>。君主の私的収入と国庫収入が切り離され、租税収入が歳入の中心を占める[[公共財政]]が確立して言った。またこの時代になると近代化とともに賦役はほとんどの地域において廃止され、労働に対し国家が賃金を払って[[公共工事]]などを行うようになっていった。 [[20世紀]]には、[[社会主義]]の台頭や[[社会権]]の定着によって、所得税・相続税の[[累進税率]]が強化された。しかし、1980年代に入ると企業意欲・労働意欲を高めるために税率のフラット化が行われた。また20世紀も中盤にいたるまで消費課税はある特定の商品のみにかけられるものであったが、[[1954年]]に一般的な消費すべてにかけられる付加価値税がフランスにおいて導入され、以降世界各国において導入されるようになっていった<ref>「租税の基礎研究」p95 石川祐三著 時潮社 2010年3月25日第1版第1刷</ref>。 ==== アメリカ合衆国 ==== [[南北戦争]]以前のアメリカでは所得税も法人税もなく、内国消費税はあったが微々たる収入で、[[関税]]が主な収入源だった<ref name="mor106-121">諸富徹,p.106-121</ref>。南北戦争開戦時には[[国庫]]は底をついていたために、議会は戦費調達のために新たな国債発行と内国消費税増税を提案したが反対を受けた<ref name="mor106-121"/>。そこでイギリスで実施されている直接税の[[所得税]]と[[相続税]]の導入が検討され、1862年に成立した<ref name="mor106-121"/>。 しかし、所得税は戦費調達のための臨時課税であったため、一年間の有効期限つきであった<ref name="mor106-121"/>。戦後の1867年、所得税の撤廃が要求されると、戦債償還が残っているため課税最低限を600ドルから1000ドルに引き上げ、1870年には所得税法を失効させるとした<ref name="mor106-121"/>。その後、1871年に相続税が廃止され、1872年に所得税も廃止された<ref name="mor106-121"/>。イギリスでも1816年に所得税は戦費のための臨時課税であるとして廃止された<ref name="mor106-121"/>。 アメリカで所得税が廃止されると、南部・西部選出議員らが所得税再導入を提唱した<ref name="mor106-121"/>。これは農産物価格下落と資材価格上昇に困窮する南部・西部の農民を救済するために組織された[[グレンジャー運動]]や[[グリーンバック運動]]や[[労働騎士団]]を背景にしており、彼らは1892年に[[人民党 (アメリカ)|人民党]]を結成した<ref name="mor106-121"/>。人民党は、産業資本家や富裕層に対して所得に応じた負担を課すべきだとして所得税再導入を提唱した<ref name="mor106-121"/>。 [[ヘンリー・ジョージ]]は『進歩と貧困』(1879年)で土地私有制に反対し、土地から発生するあらゆる利益に課税し、その他の税を撤廃する土地単一税を提唱した<ref name="mor106-121"/>。しかし、当時の経済権力は石油の[[ジョン・ロックフェラー]]、銀行家[[ジョン・モルガン]]、鉄鋼界の[[アンドリュー・カーネギー]]などの産業金融資本家の手にあり、そうした新しい経済秩序の問題を突き止めることにはならなかった<ref name="mor106-121"/>。 当時北部の産業界を支持基盤としていた[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウィリアム・マッキンリー]]議員は1890年、平均関税率48%という史上最高の高関税を導入した<ref name="mor106-121"/>。この保護政策は独占企業を形成していく誘因となった<ref name="mor106-121"/>。 一方、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]は南部・西部の農民や労働者を支持基盤としており、高関税は独占・寡占化を促すとして反対し、所得税再導入を提唱した<ref name="mor106-121"/>。民主党の[[グロバー・クリーブランド|クリーブランド]]大統領は1893年の大統領教書で関税引き下げと小規模な所得課税に言及し、民主党マクミラン下院議員も関税は富の不公平な集中を促すとして所得税再導入を提唱し、1894年に関税所得税法案は可決した<ref name="mor106-121"/>。しかしこの法案に対して、元共和党議員の憲法学者ジョージ・エドマンズらが違憲訴訟を起こした<ref name="mor122-135">諸富徹,p.122-135</ref>。 [[アメリカ合衆国憲法]]では以下のように規定されていた。 {{quotation| 連邦議会は次の権限を有する。合衆国の国債を支払い、共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、[[関税]]、付加金、[[消費税]]を賦課徴収すること。ただし、すべての関税、付加金、消費税は、合衆国全土で同一でなければならない|合衆国憲法第1条第8節第1項}} {{quotation|下院議員および[[直接税]]は、この連邦に加入する各州の人口に比例して、各州の間で配分される|合衆国憲法第1条第2節第3項。}} 1895年4月、[[合衆国最高裁判所]]は所得税法案に対して、憲法第1条第2節に則り、「各州の人口に比例して、各州の間で配分される」形になっていないとして違憲と認定した<ref name="mor122-135"/>。これに反発した所得税支持者は憲法改正運動を行った<ref name="mor122-135"/>。 20世紀に入ると1901年恐慌や[[1907年恐慌]]が発生し、産業界は独占・寡占を強化していき、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]も独占・寡占の弊害を認めるようになった<ref name="mor122-135"/>。共和党の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領は、[[ジェームズ・ジェローム・ヒル]]と[[ジョン・モルガン]]らが形成した鉄道[[トラスト (企業形態)|トラスト]]、[[ノーザン・セキュリティーズ]]、[[スタンダード・オイル|スタンダード・オイル・トラスト]]、[[USスチール]]などのトラストを[[反トラスト法]]を持って告発していった<ref name="mor122-135"/><ref>当時のトラストについては浦野倫平「アメリカにおける第1次・第2次M &Aブームの特色と投資銀行」同志社商学 48(1), 1996-06,同志社大学商学会,P175-179.も参照</ref>。 [[革新主義時代]]と呼ばれる当時のアメリカにおいて続く[[ウィリアム・タフト|タフト]]大統領も前大統領に倣い、トラストを促進する関税を引き下げようとする<ref name="mor122-135"/>。しかし、共和党保守派の重鎮で北東部産業界の代弁者だった[[ネルソン・オルドリッチ]]は高関税を擁護し、1909年にはペイン=オルドリッチ関税法を成立させ、一部の品目の関税を引き下げつつ、鉄鉱石や石炭の税率を引き上げた<ref name="mor122-135"/>。これを受けて共和党革新派は関税引き下げよりも所得税導入に向けて動き、5000$以上の所得には2%、十万$以上の所得には6%の累進税率を持つ所得税法案を目指した<ref name="mor122-135"/>。これに強い危機感を抱いたオルドリッチは法人税を先に審議させて個人所得税審議を宙吊りにしようとし、さらにタフトに憲法改正に協力することを約束した<ref name="mor122-135"/>。1909年7月に法人税法案は可決された。しかし、共和党革新派と民主党からは法人税は所得税代替とはならないと主張され、他方の保守派にも法人税導入は富裕層への課税強化に他ならないと見て不満に思うものもいた<ref name="mor122-135"/>。法人税法案に対して保険会社や不動産業者による違憲訴訟も起こったが、最高裁は「法人税は直接税ではなく、法人形態で事業を営む特権の付与に対する免許税である」と判断し、原告の請求を退けた<ref name="mor122-135"/>。法人税は財源調達手段として成功し、1910年に2100万ドルだった税収は1912年に3500万ドルにも増加した<ref name="mor122-135"/>。 1909年6月28日にはオルドリッチは[[憲法改正]]として[[アメリカ合衆国憲法修正第16条|修正第16条]]を提案し、この修正憲法は1913年までに42州が批准した<ref name="mor122-135"/>。 {{quotation|連邦議会は、各州に徴税額を比例配分することなく、人口調査や人口計算に関わりなく、いかなる源泉から由来するものであっても、所得に税を課し徴収する権限を有する<ref name="mor122-135"/>|[[アメリカ合衆国憲法修正第16条]]}} しかし、所得税法案そのものは宙吊りにされていたため、共和党革新派は、タフトに反発して[[1912年アメリカ合衆国大統領選挙|1912年の大統領選挙]]で新たに[[進歩党 (アメリカ 1912)|革新党]]を設立し、[[セオドア・ルーズベルト]]を大統領候補として擁立した<ref name="mor122-135"/>。しかし、選挙では民主党の[[ウッドロウ・ウィルソン]]が勝利した<ref>諸富徹『私たちはなぜ税金をおさめるのか―租税の経済思想史』新潮選書、2013年、p.134</ref>。ウィルソン大統領は関税引き下げと所得税導入をセットにして改革に断行し、40%だった平均関税率を30%以下に引き下げ、1913年10月には国民の3000ドル以上の所得の1%を課し、高額所得者には1〜6%までの累進的構造を持つ付加税率(最高税率7%)を課す所得税法案が可決した<ref name="mor122-135"/>。 == 租税に対する諸見解 == === 支持もしくは肯定 === {{main |社会契約}} 大部分の[[政治哲学]]によると、彼らが必要でありそして[[社会]]に益するであるところの活動を集めるものとして税は正当化される。加えて、[[累進課税]]は社会での[[経済的不平等]]を減少させるのに用いることができる。この見解によれば、現代の[[国民国家]]において課税は[[人口]]の多数と[[社会変動]]に益する<ref>{{citation |url =https://web.archive.org/web/20040701064132/http://www.unescap.org/esid/psis/publications/theme2002/chap5.asp |title =Population and Social Integration Section (PSIS) |work =United Nations Social and Economic Commission for Asia and Pacific }}</ref>[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア]]による違った文章の意訳の、この見解のひとつの通俗の表現は、「租税は文明の価格である」である。<ref>{{cite book |author =Eugene C. Gerhart |title =Quote it Completely!: World Reference Guide to More Than 5,500 Memorable Quotations from Law and Literature |url =https://books.google.com/books?id=kjwVASsTUm0C&pg=PA1045 |year =1998 |publisher =W. S. Hein |isbn =978-1-57588-400-4 |page =1045 }}</ref>。 === 反対もしくは否定 === {{main article |en:Tax noncompliance |徴税と窃盗}} [[クラウドファンディング]]のような[[自由意志|自発的]]であるよりもむしろ、税の支払いは義務的で法体系による執行であるので、幾らかの政治哲学は[[権力]]と[[弾圧]]を意味するのを通して租税を課税する政府を非難する、[[徴税と窃盗|窃盗としての徴税]]、強要、(もしくは[[奴隷制|奴隷制度]]、もしくは[[財産権]]の侵害として)、もしくは[[暴政]]として見る<ref>課税における古典的な[[自由主義]]の正しい見方の概観については{{citation |url =http://www.irefeurope.org/en/content/tax-and-justice |title =www.irefeurope.org}}を見よ。</ref>。 実業家[[松下幸之助]]は、国家予算の単年度制を廃止して、節約したり効率をよくして余剰金を生み出し、それを運用することで収益を分配する無税国家を提唱した<ref>『Voice』1978年7月号 「[https://konosuke-matsushita.com/proposals/nation/muzeikokka.php 二十一世紀をめざして]」、「収益分配国家を目指して」『Voice』1984年12月号p308-314</ref> 。 なお、[[ブルネイ]]では個人への所得税などは存在せず、国内および海外で設立された企業が納税対象となる<ref> [https://www.asean.or.jp/ja/invest/country_info/brunei/guide/section06/] 日本アセアンセンタ</ref> ことから無税国家とも呼ばれるが、租税体制がないわけではない<ref> [https://shirube.zaikyo.or.jp/article/2010/02/08/2473.html]</ref>。 === 社会主義者の見解 === [[カール・マルクス]]は[[共産主義]]の到来の後に課税は不必要になることを推量し、そして「[[国家死滅]]」を期待する。[[中華人民共和国|中国]]におけること<ref group="注">現代中国の税制については[[中華人民共和国#税制という投資環境]]を参考にせよ。</ref> のような[[社会主義経済]]では、大部分の政府の歳入は企業の所有権からの運用だったので、課税は重要でない役割を果たした。そして或る人々によってそれは金銭による課税は必要でなかったことを議論された<ref>{{cite book |last =Li |first =Jinyan |title =Taxation in the People's Republic of China |publisher =Praeger |location =New York |year =1991 |isbn =0-275-93688-0 }}</ref>。 === 租税選択 === <!-- {{undue weight |section |dae =November 2012 }} --> {{main article |en:Tax choice}} '''租税選択'''は納税者が、彼らの各々の租税を割り当てる方法をもって、よりコントロールするであろうことの理論である。もし納税者らが彼らの租税を受け取る政府の仕組みを選択できるならば、[[機会費用]]の決定は彼らの{{仮リンク|分散知識|en|dispersed knowledge|label =部分的な知識}}を寄せ集める<ref>{{cite journal |title =Tax morale and conditional cooperation |url =http://www.bsfrey.ch/articles/453_07.pdf |doi =10.1016/j.jce.2006.10.006 |accessdate =3 January 2013 |volume =35 |journal =Journal of Comparative Economies |pages =136-59 |year =2007 |last1 =Frey |first1 =Bruno S. |last2 =Torgler |first2 =Benno |deadurl =yes |archiveurl =https://web.archive.org/web/20130120090643/http://www.bsfrey.ch/articles/453_07.pdf |archivedate =20 January 2013 |df =dmy-all }}</ref>。例えば、彼の租税を[[公立学校]]においてより割り当てる納税者は[[公費負担医療]]においてより少なく割り当てるかもしれない。 === ジオイストの見解 === {{main article |ジョージズム|en:Geolibertarianism|地価税}} ''[[ジョージズム|ジオイスト]]''(英:Geoist、ジョージスト並びに{{仮リンク|ジオリバタリアン|en|geolibertarian}})は、道義性と同じく経済的効果の両方の理由で、課税は基本的に[[地代]]{{refnest|group="注"|地代は永久不変ではなく[[市場メカニズム]]によって動くものであることに注意。<ref group ="注">ただし、歴史的な論争が今も残る。詳しくは[[地代論争]]を見よ。</ref>}}、特にその'''[[地価税]]'''を徴集すべきであることを宣言する。(経済学者たちが同意する<ref>{{cite book |authorlink =アダム・スミス |author =Adam Smith |title =The Wealth of Nations [[s:The Wealth of Nations/Book V/Chapter2|Book V.Chapter2]] |chapter =2, part 2, Article I: Taxes upon the Rent of Houses }}</ref><ref name ="McCluskey and Franzsen">{{cite book |last =McCluskey |first =William J. |last2 =Franzsen |first2 =Riël C. D. |title =Land Value Taxation: An Applied Analysis |page =4 |publisher =Ashgate Publishing, Ltd. |year =2005 |url =https://books.google.com/books?id=jkogP2U4k0AC&pg=PA73 |isbn =0-7546-1490-5}}</ref><ref>{{cite web |url =http://www.cooperativeindividualism.org/friedman-milton_interview-1978.html |title =Archived copy |accessdate =2015-03-29 |deadurl =yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150329223758/http://www.cooperativeindividualism.org/friedman-milton_interview-1978.html |archivedate =29 March 2015 |df = }}</ref>)課税に対して地代を用いることの有効性は、このような課税は渡るつまり[[脱税]]することができずかつ[[死重損失]]を生じないこと、並びにこのことが{{仮リンク|土地 (経済)|en|land (economies)|label =土地}}において[[投機]]するような動機を除くこと、の事実に従う<ref name ="McCluskey and Franzsen"/> それの道義性は、[[私的所有権]]は''[[労働の成果]]''(英:products of labour)に対して正当化されるが土地と[[天然資源]]についてはそうでない、ところのジオイストの前提に基づく。<ref name =pnp>{{cite book |last =Geoge |first =Henry |title =Progress and Poverty: An Inquiry ito the Cause of Industrial Depressions and of Increase of Want with Increase of Wealth |year =1879 }}</ref>。 == 理論 == {{main|租税理論}} === ラッファー曲線 === {{main|ラッファー曲線}} ラッファー曲線の一つの可能な結果は、一定の値を超えた税率の増大は税収のさらなる増収にたいして反生産的になるであろう、ことである。任意の与えられた経済にたいする仮説的なラッファー曲線はただ見積もることだけができる。そしてこのような見積もりはしばしば論争になる。{{仮リンク|The New Palgrave Dictionary of Economics|en|The New Palgrave Dictionary of Economics}}は、税収最大化の税率の評価すなわち見積もりは、70%の近辺の中間の領域をもって、広く様々であることを報告する<ref>{{cite book |title =Laffer curve |first =Don |last =Fullerton |work =The New Palgrave Dictionary of Economics |edition =2| publisher =Palglave Macmillan |year =2008 |quote =The mid-range for this elasticity is around 0.4, with a revenue peak around 70 per cent. |url =http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_L000015 |accessdate =5 July 2011}}</ref>。 === 最適な課税 === {{main |最適課税}} 多くの政府は、歪のない租税によるかまたは或る二重の配当金を与えるものである諸租税を通して、割り当てられるもののところのものを超えたものである歳入を行う。'''[[最適課税]]'''は[[経済学]]の分野であって、それは最小の''死重費用''(英:dead-weight cost)を持つかまたは厚生の意味において最大の[[効用]](英:outcome)を持つように課税をいかに構築するかを考える<ref name ="Human Capital Tax">{{cite journal |last1 =Simkovic |first1 =Michael |title =The knowledge Tax |journal =University of Chicago Law Review |ssrn =2551567 }}</ref>。 === 税率 === {{main|税率}} 租税はしばしばおおかた''税率''と呼ばれる、或る割合として課せられる。税率についての議論でのひとつの重要な区別は''限界税率''(英:marginal tax rate、もしくはmarginal rate)と''実効税率''(英:effective tax rate)の間の区別である。実効税率は支払われた租税の総計で割ったその支払われた租税の合計である。これに対し限界税率は収入を得た次の円<ref group="注">原文は''ドル''。</ref> によって支払われたその税率である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *片上孝洋「「代表なければ課税なし」の再考」ソシオサイエンス Vol.17 2011 年3月,早稲田大学リポジトリ *下村芳夫「[https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/05/40/hajimeni.htm 現代における租税の意義について-租税法律主義の歴史的考察を中心として-]」税務大学校論叢5号,1972-03-00,国税庁 *[[中里実]]「フランスにおける流通税の歴史」税大ジャーナル 11 2009. *[[諸富徹]]『私たちはなぜ税金をおさめるのか―租税の経済思想史』新潮選書、2013年 == 関連項目 == <!--五十音順--> * [[確定申告]] * [[公共経済学]] * [[公共サービス]] * [[財政]] * [[納税の義務]] * [[租税法]] - [[租税法律主義]] - [[租税公平主義]] * [[富の再分配]] * [[税理士]] * [[フラット・タックス]] * [[タックス・ヘイヴン]] * [[徴税と窃盗]] * [[納税者団体]] == 外部リンク == * Maria S. Cox,Charles E. McLure,[https://www.britannica.com/topic/taxation/History-of-taxation History of taxation],Britannica * [https://onlinebusiness.northeastern.edu/blog/a-brief-history-of-taxation/A Brief History of Taxation ] Northeastern University * [https://newint.org/features/2008/10/01/tax-history A SHORT HISTORY OF TAXATION],New Internationalist. * [http://www.nta.go.jp/shiraberu/ippanjoho/gakushu/ 税の学習コーナー(租税教育)] * [http://www.nta.go.jp/tokyo/shiraberu/gakushu/kyoshitsu/01.htm 租税教室案内(東京国税局)] * [http://www.oecd.org/tax/ Tax] - OECD * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そせい}} [[Category:租税|*]]
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イエメン
イエメン共和国(イエメンきょうわこく、アラビア語: الجمهورية اليمنية)、通称イエメンは、中東の共和制国家である。アラビア半島南端部に位置し、インド洋上の島々の一部も領有している。首都はサナア。 正式名称は、الجمهورية اليمنية(ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-Yamanīya)。アラビア語略称はاليمن(al-Yaman, アル=ヤマン)。 公式の英語表記は、Republic of Yemen。通称Yemen。国民・形容詞ともYemeni。 漢字表記は、也門。国名はアラビア語で右を意味するヤマン (يَمَن、yaman) から由来する。アラビア半島の南部に位置するため、朝日が上る東に向かって南側の地域と考えられた。一方、大部分が砂漠地域の中にあってイエメンの肥沃さを表すユムン (yumn) に由来するという説もある。古代ローマ人は「幸福のアラビア」と呼んでいた。 イエメンは、アラビア半島諸国において唯一共和制をとる立憲国家である。現行憲法は1991年に発布され、1994年および2001年に改正されたものである。民主化に強い意欲があり、言論の自由も認められているとされるが、サーレハ政権下ではサーレハ個人や一族に対する批判は認められておらず、厳しい取締りを受けていた。2014年2月11日には連邦制を正式に採択し、連邦国家へ移行する予定である。これは、旧南イエメン地域の分離運動を抑える狙いもある。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は7年で、3選禁止。その権限は強大で、形式上も事実上も国家の最高指導者である。副大統領と首相は大統領により任命される。 内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の助言に基づき大統領が任命する。 議会は二院制で、諮問評議会(111議席)と代議院(301議席)から構成される。諮問評議会議員は全員が大統領による任命制。代議院議員は国民の直接選挙で選出され、任期は6年。ただし、諮問評議会に立法権は無く、大統領の政策に対する助言機関に過ぎないことから、イエメン議会は実質的に立法権を行使しうる代議院人民代表院のみの一院制であるとする説もある。 主要政党には旧北イエメン与党でアリー・アブドッラー・サーレハ大統領率いる国民全体会議、旧南イエメンの政権党であったイエメン社会党、そしてイエメン改革会議の3党がある。 最高司法機関は最高裁判所。女性にも参政権が認められている。 イエメンには女児の結婚最低年齢に関する法律がない。これはイエメンは女子の結婚最低年齢に関して、イスラーム法上一般的な9歳という解釈を取っていない為である。そのため、イランやサウジアラビアなど、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されている。飲酒・強姦などをした場合、公開鞭打ちを執行された事例もある。 2009年には、17歳未満の結婚を禁止する法案が提案されたが、保守派の反対にあって不成立となっている。2013年9月、40歳の男性と結婚した8歳の少女が、新婚初夜の性行為の最中に子宮破裂などの臓器損傷を負い、死亡したと報道された。現地警察などの調査では、関係者はこの報道について否定したが、イエメンの人権担当大臣は未成年の結婚を禁止すると明言した。 WTF(世界経済フォーラム)は2019年12月17日に世界153カ国を対象とした『男女格差』の2019年版を発表し、イエメンが最下位となっている。 アラビア半島の南西、北緯12度から20度に位置する。紅海、アデン湾、アラビア海に面し、北でサウジアラビア、東でオマーンと国境を接し、アデン湾、紅海を挟んでソマリア、ジブチ、エリトリアに対面する。本土以外にソマリアの沖にあるインド洋のソコトラ島 (3625km) なども領有している。面積は約52万8000km。首都はサナア。地理学的には4つの地域に分けられる。紅海沿岸、西部山地、東部山地、北のルブアルハリ砂漠である。ティハーマと呼ばれる紅海沿岸部は非常に乾燥しており、山地から流れる川は見られずワジあるいは地下水になっている。西部山地は降水量が大きいため段々畑で農業が営まれる。ソルガムが主で、綿花とマンゴーなど果実も栽培される。昼夜の気温差が大きい。東部は標高2000mで、さらに気温差が大きく昼間30°C、夜間0°Cとなる。大麦や小麦が栽培される。ルブアルハリ砂漠ではベドウィンがラクダの遊牧を行っているだけである。 1人当たりの国内総生産は2013年で1,516ドルと産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低く、失敗国家や後発開発途上国にも挙げられている。2007年の失業率は40%。1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、LNGを輸出している。 モカコーヒーのモカは、南部にありコーヒー豆を生産する港湾都市ムハーに由来する。しかし砂漠地帯であるため農業は振るわず、昔ながらの遊牧を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。近年は石油開発で発展する隣国のサウジアラビアに出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。 南部の都市アデンは古来、交易で賑わったが1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。内戦後にイエメンはIMFや世界銀行の支援を受け、経済発展に取り組んでいる。 人口は1994年で1267万人、アラブ人が98%でアラビア語を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。 現代標準アラビア語がイエメンの公用語である。各地域の言語としてアラビア語の各方言(北イエメン方言、南イエメン方言、ハドラマウト方言)および南アラビア諸語(マフラ語、ソコトラ語、ホビョト語、バトハリ語)、ラジフ語がある。 国民ほぼ全てがイスラム教信者で、スンナ派が5割強、シーア派が4割弱である。シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つザイド派であるが、十二イマーム派も少数派ながら一定の勢力を持つ。 イエメンの教育は日本同様小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である。 国民のほとんどがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。ただし、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある。 一般的な成人男性は、腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している。この短剣は所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。実用面よりもシンボルとしての性格が強いため、刃が研がれていないことも多く日常的に使用することはない。都市部ではスラックスにワイシャツ姿の男性も多く見かけるが、その場合でも多くの男性は自宅に自分のジャンビーヤを持っている。 女性のイスラム服の着用の程度はイスラム復興などの社会傾向の影響も受けるが、イエメンの女性は一般的に他のイスラム国と比較して着用率が非常に高い。女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用しているが、サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられているわけではない。またスカーフの色も比較的自由である。これは個人やその家族の信仰の深さによって判断されるためで、信仰が深くなればそれだけ肌を隠す面積も多くなる。女性の社会進出は主に都市部で少しずつ進みつつある。 イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる植物の葉を噛む習慣が広く行われている。児童の就学率は約50%程度であり、学校に行けない子供のためにテレビ(衛星放送)による教育も試みられている。現存する最古の都市とされるサナア旧市街は世界遺産に登録されている。 イエメン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。1990年にはサッカーリーグのイエメンリーグが創設された。しかしイエメンクーデターとその後の内戦により、2014-15シーズン以降リーグ戦は行われていない。リーグの最多優勝クラブはアル・アハリ・サナア(英語版)。 イエメンサッカー協会(YFA)によって構成されるサッカーイエメン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。AFCアジアカップには2019年大会で念願の初出場を果たしたが、グループリーグ3戦全敗となり最下位で敗退した。
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"1人当たりの国内総生産は2013年で1,516ドルと産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低く、失敗国家や後発開発途上国にも挙げられている。2007年の失業率は40%。1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、LNGを輸出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "モカコーヒーのモカは、南部にありコーヒー豆を生産する港湾都市ムハーに由来する。しかし砂漠地帯であるため農業は振るわず、昔ながらの遊牧を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。近年は石油開発で発展する隣国のサウジアラビアに出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "南部の都市アデンは古来、交易で賑わったが1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。内戦後にイエメンはIMFや世界銀行の支援を受け、経済発展に取り組んでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "人口は1994年で1267万人、アラブ人が98%でアラビア語を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "現代標準アラビア語がイエメンの公用語である。各地域の言語としてアラビア語の各方言(北イエメン方言、南イエメン方言、ハドラマウト方言)および南アラビア諸語(マフラ語、ソコトラ語、ホビョト語、バトハリ語)、ラジフ語がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国民ほぼ全てがイスラム教信者で、スンナ派が5割強、シーア派が4割弱である。シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つザイド派であるが、十二イマーム派も少数派ながら一定の勢力を持つ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イエメンの教育は日本同様小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "国民のほとんどがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。ただし、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一般的な成人男性は、腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している。この短剣は所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。実用面よりもシンボルとしての性格が強いため、刃が研がれていないことも多く日常的に使用することはない。都市部ではスラックスにワイシャツ姿の男性も多く見かけるが、その場合でも多くの男性は自宅に自分のジャンビーヤを持っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "女性のイスラム服の着用の程度はイスラム復興などの社会傾向の影響も受けるが、イエメンの女性は一般的に他のイスラム国と比較して着用率が非常に高い。女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用しているが、サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられているわけではない。またスカーフの色も比較的自由である。これは個人やその家族の信仰の深さによって判断されるためで、信仰が深くなればそれだけ肌を隠す面積も多くなる。女性の社会進出は主に都市部で少しずつ進みつつある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる植物の葉を噛む習慣が広く行われている。児童の就学率は約50%程度であり、学校に行けない子供のためにテレビ(衛星放送)による教育も試みられている。現存する最古の都市とされるサナア旧市街は世界遺産に登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イエメン国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。1990年にはサッカーリーグのイエメンリーグが創設された。しかしイエメンクーデターとその後の内戦により、2014-15シーズン以降リーグ戦は行われていない。リーグの最多優勝クラブはアル・アハリ・サナア(英語版)。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "イエメンサッカー協会(YFA)によって構成されるサッカーイエメン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。AFCアジアカップには2019年大会で念願の初出場を果たしたが、グループリーグ3戦全敗となり最下位で敗退した。", "title": "スポーツ" } ]
イエメン共和国、通称イエメンは、中東の共和制国家である。アラビア半島南端部に位置し、インド洋上の島々の一部も領有している。首都はサナア。
{{基礎情報 国 |略名 =イエメン |日本語国名 =イエメン共和国 |公式国名 ={{lang|ar|الجمهورية اليمنية}} |国旗画像 =Flag of Yemen.svg |国章画像 =[[ファイル:Emblem of Yemen.svg|120px|イエメンの国章]] |国章リンク =([[イエメンの国章|国章]]) |標語 ={{lang|ar|الله، الوطن، الثورة، الوحدة}}{{ar icon}}<br>''神、国家、革命、団結'' |国歌 =[[連合共和国 (国歌)|الجمهورية المتحدة]]{{ar icon}}<br>''連合共和国''<br><center>[[file:National_Anthem_of_the_Republic_of_Yemen_(Instrumental).ogg]]<center> |位置画像 =Yemen (orthographic projection).svg |公用語 =[[アラビア語]] |首都 =[[サナア]](法律上。現在は[[フーシ]]派により占拠)<br>[[アデン]]([[臨時首都]]) |最大都市 =サナア |元首等肩書 =[[イエメンの大統領|大統領]]<br />(アデン) |元首等氏名 =[[ラシャード・アル=アリーミー]](大統領指導評議会議長) |首相等肩書 ={{ill2|イエメンの副大統領|en|Vice President of Yemen|label=副大統領}}<br />(アデン) |首相等氏名 ={{ill2|アイドルース・アッ=ズバイディー|en|Aidarus al-Zoubaidi}}(大統領指導評議会副議長) |他元首等肩書1 =[[イエメンの首相|首相]]<br />(アデン) |他元首等氏名1 ={{ill2|マイーン・アブドゥルマリク・サイード|en|Maeen Abdulmalik Saeed}} |他元首等肩書2 =[[最高政治評議会|最高政治評議会議長]]<br />(サナア) |他元首等氏名2 ={{ill2|マフディー・アル=マシャート|en|Mahdi al-Mashat}} |他元首等肩書3 =首相<br />(サナア) |他元首等氏名3 ={{ill2|アブドゥルアズィーズ・ビン・ハブトゥール|en|Abdel-Aziz bin Habtour}} |面積順位 =48 |面積大きさ =1 E11 |面積値 =527,970 |水面積率 =極僅か |人口統計年 =2021 |人口順位 =51 |人口大きさ =1 E7 |人口値 =30,491,000<ref>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ye.html |title=Yemen |publisher=[[国際連合]] |accessdate=2022年8月1日}}</ref> |人口密度値 =57.8 |GDP統計年元 =2013 |GDP値元 =8兆6,848億<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=474&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=45&pr.y=14|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-12-14}}</ref> |GDP統計年MER =2013 |GDP順位MER =90 |GDP値MER =404億<ref name="imf201410" /> |GDP統計年 =2013 |GDP順位 =80 |GDP値 =1,023億<ref name="imf201410" /> |GDP/人 =3,838<ref name="imf201410" /> |建国形態 =[[イエメン統一]] |確立形態1 =[[イエメン人民民主共和国|南]][[イエメン・アラブ共和国|北]]イエメンより |確立年月日1 =[[1990年]][[5月22日]] |通貨 =[[イエメン・リアル]] |通貨コード =YER |時間帯 =+3 |夏時間 =なし |ISO 3166-1 = YE / YEM |ccTLD =[[.ye]] |国際電話番号 =967 |注記 = }} '''イエメン共和国'''(イエメンきょうわこく、{{lang-ar|الجمهورية اليمنية}})、通称'''イエメン'''は、[[中東]]の[[共和制国家]]である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=イエメン基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/yemen/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-03-11 |language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=イエメンとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3-29876 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-11 |language=ja |first=百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,知恵蔵,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。[[アラビア半島]]南端部に位置し、インド洋上の島々の一部も領有している。首都は[[サナア]]<ref name=":0" />。 == 国名 == 正式名称は、{{lang|ar|'''الجمهورية اليمنية'''}}(ラテン文字転写は、{{Unicode|al-Jumhūrīya al-Yamanīya}})。アラビア語略称はاليمن(al-Yaman, アル=ヤマン)。 公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|''Republic of Yemen''}}。[[通称]]{{lang|en|''Yemen''}}。国民・形容詞ともYemeni。 [[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、也門。国名はアラビア語で[[右]]を意味するヤマン (يَمَن、yaman) から由来する。アラビア半島の南部に位置するため、朝日が上る東に向かって南側の地域と考えられた。一方、大部分が砂漠地域の中にあってイエメンの肥沃さを表すユムン (yumn) に由来するという説もある。古代ローマ人は「[[幸福のアラビア]]」と呼んでいた<ref name=":1" />。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|イエメンの歴史|en|History of Yemen}}|ジャーヒリーヤ|[[:en:List of Sunni Muslim dynasties#Arabian Peninsula]]}} === 交易による繁栄 === *[[古代]] - [[交易]]の中心地、および物資集散地として繁栄。[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]の時代には「幸福のアラビア ([[:en:Arabia Felix|Arabia Felix]]'')」として知られる([[サバア王国]]、early 1st millennium BC)。'' * [[紀元前8世紀]]ごろ - {{仮リンク|ハドラマウト王国|en|Pre-Islamic Arabia#Kingdom of Hadhramaut}}([[紀元前8世紀]] - [[3世紀]])が繁栄。 * [[紀元前7世紀]]ごろ - [[サバア王国]]が、[[農耕]]の発達や、[[インド]]産香料の[[中継貿易]]によって繁栄。{{仮リンク|アウサーン王国|en|Kingdom of Awsan}}の都市がサバア王国によって破壊された。 ==== 支配者の激しい入れ替わり ==== * [[紀元前110年]] - [[ヒムヤル王国]]([[紀元前110年]] - [[525年]])が建国される。 * [[350年]] - ヒムヤル王国が[[アクスム王国]]([[110年]] - [[940年]])から侵入を受ける。 * [[525年]] - ヒムヤル王国の[[:en:Dhu Nuwas|Dhu Nuwas]]王の治世に、[[ユスティニアヌス1世]]から侵入を受ける。 * [[531年]] - Abraha率いる[[エチオピア]]の勢力がイエメンに侵攻し、King of Sabaを宣言。 * [[575年]] - [[サーサーン朝]][[ペルシャ]]の支配を受ける。 === イスラム教の流入 === * [[7世紀]] - [[イスラム教]]が流入。 * [[9世紀]] - [[ズィヤード朝]]が成立。[[ザイド派]]の[[イマーム]](宗教指導者)が支配。 * [[11世紀]] - {{仮リンク|スライフ朝|en|Sulayhid dynasty}}(1047-1138年) * [[12世紀]]- [[ズライ朝]](1138-74年)を{{仮リンク|トゥーラーン・シャー (サラーフッディーンの兄)|en|Turan-Shah|label=トゥーラーン・シャー}}([[1174年]]-[[1180年]])が滅ぼし、彼と父[[ナジムッディーン・アイユーブ]]を同じくする弟[[サラーフッディーン]]を始祖とする[[アイユーブ朝]]の支配を受ける(1174-1229年) * [[13世紀]] - ザイド派([[シーア派]]の一派)の[[イマーム]]を祖とする([[:en:Imams of Yemen]])が成立。 * [[14世紀]] - [[Al Kathiri (Hadhramaut)]] 王家が成立、近年まで存続。 * [[15世紀]] - [[ラスール朝]](1229-1454年)が紅海・アラビア海・インド交易の拠点として繁栄する。同王朝に[[鄭和]]の艦隊が来航 ==== 一度目のオスマン帝国の支配 ==== * [[16世紀]] - [[オスマン帝国]]の支配下に入るが、イエメン人はオスマン帝国に対し抵抗。1世紀後にオスマン勢力を駆逐し、[[ザイド派]]勢力による支配を再び受ける。 * [[19世紀]]初頭 - [[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の勢力下に置かれる。 ==== 南部のイギリスの植民地化 ==== * [[1839年]] - イギリスがアデンを始めとする[[南イエメン]]を占領。以後、南イエメンはイギリスの[[植民地]]となる。 ==== 二度目のオスマン帝国の支配 ==== * [[1849年]] - オスマン帝国が[[北イエメン]]を再占領。 * [[1869年]] - [[イギリス帝国|イギリス]]が南イエメンに{{仮リンク|アデン保護領|en|Aden Protectorate}}([[1869年]] - [[1963年]])を設置。 === イエメン王国成立 === * [[1918年]] - オスマン帝国の[[第一次世界大戦]]敗北にともない、[[イエメン王国]]が[[独立]]。 * [[1934年]] - [[サウジ・イエメン戦争]]、{{仮リンク|アシール首長国|en|Emirate of Asir}}が[[サウジアラビア]]に併合される。 === イエメン王国崩壊 === * [[1962年]] - [[クーデター|軍事クーデター]]により、イエメン王国が崩壊。[[イエメン・アラブ共和国]]が成立するも、[[北イエメン内戦]]が勃発(~1970年)。 * [[1963年]] - アデン保護領を[[南アラビア保護領]]([[1963年]] - [[1967年]])に改称。 * [[1965年]] - [[マフラ県|アル=マフラ県]]に隣接する[[オマーン]]の[[ドファール地方]]で、[[南イエメン]]が支援する[[:en:Dhofar Liberation Front<!-- [[:ja:ドファール解放戦線]] とリンク -->|Dhofar Liberation Front]](DLF)による{{仮リンク|ドファールの反乱|en|Dhofar Rebellion}}([[1962年]]-[[1976年]])が激化。 [[File:Divided Yemen.svg|thumb|250px|[[イエメン・アラブ共和国|北イエメン]]と[[イエメン人民民主共和国|南イエメン]]]] === 英領南アラビア独立 === * [[1967年]] - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、[[イエメン人民民主共和国|南イエメン人民共和国]]([[1967年]] - [[1990年]])として独立。後に[[イエメン人民民主共和国]]へ改称。 * [[1989年]][[11月30日]] - [[アデン合意]]により南北統一への途が開かれる。 === 南北統一 === * [[1990年]][[5月22日]] - イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)が合併([[イエメン統一]])し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていた[[アリー・アブドッラー・サーレハ]]が務めることになる。 ==== 南部での再独立を求める反乱 ==== * [[1994年]][[5月4日]] - 旧南側勢力が再独立([[イエメン民主共和国]])を求め、[[イエメン内戦 (1994年)|イエメン内戦]]が勃発。しかし、南側勢力は国際的な支持を得られず、約2ヶ月で鎮圧される(~[[7月7日]])。 ==== 初の大統領選挙 ==== * [[1999年]][[9月23日]] - [[国民]]の[[直接選挙|直接投票]]による初めての[[イエメンの大統領|大統領]][[選挙]]が行われる。サーレハ大統領が再選する。 * [[2000年]][[6月12日]] - {{仮リンク|ジッダ条約 (2000年)|en|Treaty of Jeddah (2000)|label=ジッダ条約}}により、サウジアラビアとの国境線が画定し、領土面積が正式なものとなる。 ==== アルカーイダによる襲撃 ==== * 2000年10月 - 旧南イエメンの首都であった[[アデン]]にあるアデン港で、[[イスラム原理主義]]勢力[[アルカーイダ]]による[[米艦コール襲撃事件]]が起こる。なお、[[ハドラマウト]](イエメンの[[マフラ県|アル=マフラ県]]、オマーンの[[ドファール地方]]を含む)はアルカーイダの指導者だった[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]の父親の出身地。 ==== イエメンでアラブの春発生 ==== * [[2011年]]1月 - [[チュニジア]]での[[ジャスミン革命]]、[[エジプト]]での[[エジプト革命 (2011年)|民衆革命]]に影響を受けて市民による反政府デモが発生([[アラブの春]]、[[2011年イエメン騒乱]])。この結果、サーレハ大統領は退陣し、ハディ副大統領が翌年2月の暫定大統領選挙で当選。{{Main|en:2014–15 Yemeni coup d'état}} === 2015年内戦 === {{main|イエメン内戦 (2015年-)}} [[ファイル:Yemeni Civil War.svg|サムネイル|250x250ピクセル|内戦における勢力分布。赤がハーディー政権、緑がフーシ派、白はISIL、黄色は南部暫定評議会]] {| class="wikitable" |+年表 !年 !月 !日 !出来事 |- | rowspan="14" |2015 |1 |22 |[[イスラム教]][[シーア派]]武装組織の[[フーシ]]が[[クーデター]]を起こし、[[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー|ハーディー]]暫定大統領と{{仮リンク|ハーリド・マフフーズ・バハーハ|ar|خالد محفوظ بحاح|en|Khaled Mahfoudh Bahah|label=バハーハ}}首相が辞任、政権崩壊<ref name="The Huffington Post20150407">{{cite news|title=イエメンの内戦が取り返しのつかない事態になっている|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/04/07/yemen-war-photos_n_7015280.html|publisher=[[ハフィントン・ポスト]]|date=2015年4月7日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>(ハーディーは2月21日に辞意を撤回)。 |- |2 |6 |フーシが議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表。 |- |2 |21 |ハーディー暫定大統領が辞意を撤回、フーシ派との対立が開始<ref name="The Huffington Post20150407" />。 |- | rowspan="2" |3 |25 |フーシ派がハーディー暫定大統領の拠点である南部の港湾都市[[アデン]]へと進撃し、ハーディー暫定大統領は大統領宮殿からボートで脱出<ref name="wallstreet20150326">{{cite news|title=イエメン大統領、反体制派の迫るアデンを脱出|url=http://jp.wsj.com/articles/SB10580876513169934209404580540903922181436|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2015年3月26日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。フーシ派がハーディー暫定大統領の捕縛に2000万イエメン・リアル(約1100万円)の報奨金をかけ、行方を追う事態となった<ref name="wallstreet20150326" />。 |- |26 |ハーディー暫定大統領を支援するサウジアラビアなど[[スンナ派]]のアラブ諸国が空爆を開始<ref name="The Huffington Post20150407" />。フーシ派は[[イラン]]が支持し、スンナ派対[[シーア派]]の構図の内戦となった<ref name="The Huffington Post20150407" />。 |- |7 |17 |ハーディー政権派がフーシ派から、イエメン第2の都市である南部の[[アデン]]を奪還したと発表<ref name="asahi20150717">{{cite news|title=アデン奪還を宣言 イエメン暫定大統領派|url=http://www.asahi.com/articles/ASH7K66N8H7KUHBI01N.html|publisher=[[朝日新聞]]|date=2015年7月17日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。 |- | rowspan="5" |8 |4 |ハーディー政権派がイエメン最大のアルアナド空軍基地をフーシ派から奪還したと発表<ref name="sankei20150804">{{cite news|title=国内最大の空軍基地を奪還、暫定政権が反撃|url=http://www.sankei.com/world/news/150804/wor1508040058-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|date=2015年8月4日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。 |- |11 |中東のテレビ局「[[アルジャジーラ]]」がハーディー政権派がアビヤン州を制圧したと報道<ref name="mainichi20150812">{{cite news|title=イエメン:政権派が南部4州制圧…武装勢力に攻勢|url=http://mainichi.jp/select/news/20150813k0000m030041000c.html|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015年8月12日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。2015年3月以降、ハーディー政権派は国内の拠点をほとんど失っていたが、[[サウジアラビア]]や[[アラブ首長国連邦]]の軍事支援により失地回復を果した<ref name="mainichi20150812" />。 |- |15 |ハーディー政権派が中部シャブワ州を奪還<ref name="sankei20150815">{{cite news|title=イエメン・ハディ暫定政権、5つ目の州奪還|url=http://www.sankei.com/world/news/150815/wor1508150060-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|date=2015年8月15日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。5つ目の州の奪還となった<ref name="sankei20150815" />。ハーディー政権派はサウジアラビア主導の空爆支援を、アラブ首長国連邦などから武器供与や軍事顧問団の支援を受け、攻勢に転じていると報じられた<ref name="sankei20150815" />。 |- |19 |[[アムネスティ・インターナショナル]]が、イエメンの首都[[サナア]]、[[アデン]]、[[タイズ]]へ攻撃を行っているサウジアラビアを戦争犯罪を行なっているとして非難<ref name=amnesty>{{Cite web|和書|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2015/0826_5543.html|title=イエメン:戦争犯罪で市民多数が犠牲に|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2018-08-26|accessdate=2023-03-01}}</ref>。アムネスティーによれば、この紛争により少なくとも1900人以上の一般住民が死亡したという<ref name=amnesty />。 |- |24 |[[国際連合世界食糧計画|WFP]]が「(イエメンの人口の2割以上に当たる)600万人が深刻な食糧難に陥り、緊急支援を必要としている」と指摘<ref name="mainichi20150824">{{cite news|title=イエメン:飢える600万人、緊急支援を…世界食糧計画|url=http://mainichi.jp/select/news/20150824k0000e030191000c.html|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015年8月24日|accessdate=2015年8月29日}}</ref>。「数百万人規模の飢餓が引き起こされる恐れがある」と警告<ref name="mainichi20150824" />。 |- |9 |22 |[[サウジアラビア]]に逃れていたハーディー暫定大統領が、半年ぶりにイエメンに帰還し、イエメン南部の拠点都市アデンに入り、首都奪還に意欲を示した<ref name="nikkei20150926">{{cite news|title=イエメン軍事介入から半年 サウジ連合軍に犠牲拡大|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM24H9H_V20C15A9FF1000/|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2015年9月26日|accessdate=2015年10月8日}}</ref>。 |- | rowspan="2" |10 |3 |[[ジュネーブ]]で開かれた国連人権理事会の通常会期で、オランダが内戦状態のイエメンへの調査団派遣を求める決議案を提出したが、イエメンで空爆を続ける紛争当事国のサウジアラビアが阻止し、オランダは決議案を取り下げた<ref name="sankei20151003">{{cite news|title=イエメンへ調査団派遣阻止|url=http://www.sankei.com/world/news/151003/wor1510030060-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|date=2015年10月3日|accessdate=2015年10月25日}}</ref><ref name="nikkei201510.3">{{cite news|title=サウジ、イエメンへの調査団派遣阻止 人権団体が批判|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM03H40_T01C15A0FF8000/|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2015年10月3日|accessdate=2015年10月25日}}</ref>。 |- |15 |フーシ派がハーディー政権派を支援するサウジアラビアの空軍基地に[[弾道ミサイル]]を発射<ref name="Reuters20151015">{{cite news|title=イエメンのフーシ派、サウジ空軍基地に弾道ミサイルを発射|url=http://jp.reuters.com/article/2015/10/15/yemen-security-missile-idJPKCN0S912D20151015|publisher=[[トムソン・ロイター|ロイター]]|date=2015年10月15日|accessdate=2015年10月19日}}</ref>。 |- | rowspan="3" |2016 |4 |3 |ハーディー暫定大統領がバハーハ副大統領兼首相を解任し、副大統領に{{ill2|アリー・ムフシン・アル=アフマル|en|Ali Mohsen al-Ahmar}}、首相に{{ill2|アハマド・オベイド・ビン・ダグル|en|Ahmed Obeid bin Daghr}}を任命した<ref name="mainichi20160405">{{cite news|title=イエメン 副大統領に強硬派 和平協議に悪影響|url=https://mainichi.jp/articles/20160405/k00/00m/030/083000c|publisher=[[毎日新聞]]|date=2016年4月5日|accessdate=2016年4月9日}}</ref><ref name="meijkawara2016002">{{cite news|title=中東かわら版 No.2 イエメン:ハーディー前大統領派の副大統領、首相が交代|url=http://www.meij.or.jp/kawara/2016_002.html|publisher=[[中東調査会|公益財団法人中東調査会]]|date=2016年4月4日|accessdate=2016年4月9日}}</ref>。 |- |9 |6 |米軍とイエメン軍はイエメン南部で、国際テロ組織アルカイダ系武装勢力「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」にとらわれていた人質の救出作戦を実施したが、人質になっていた米国人フォトジャーナリスト、ルーク・サマーズ(33)と南アフリカ人教師のピエール・コーキー(57)、特殊部隊員1人が作戦中に死亡した。イエメン政府は、武装勢力の10人を殺害し、イエメン軍の4人が負傷したと発表した。コーキーは翌7日に解放されることが決まっていた。 |- |10 |4 |フーシ派がハーディー政権と対立する「救国政府」を樹立。救国政府は[[国民全体会議]]の政治局員である{{ill2|アブドゥルアズィーズ・ビン・ハブトゥール|en|Abdel-Aziz bin Habtour}}が率い、女性5人、無党派、南部独立主義者を含む27人の閣僚を擁する<ref name="afpbb3103333">{{cite news|title=イエメン反政府勢力が「救国政府」、政治的解決いっそう困難に|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3103333|publisher=[[AFPBB]]|date=2016年10月5日|accessdate=2016年10月7日}}</ref>。 |- | rowspan="7" |2017 |5 |? |国内のコレラ感染が深刻化し、フーシ側が[[非常事態宣言|非常事態を宣言]]<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK635G7HK63UHBI01T.html イエメン、コレラの拡大止まらず、1カ月で600人死亡] 朝日新聞デジタル(2017年6月3日)2017年6月4日閲覧</ref>。国民の半数以上が安全な飲み水にアクセスできない状況下にあり、7月19日段階でWHOが把握している感染者及び疑いのあるものは37万人近く、2017年4月末以降のコレラによる死者は1,828人に達している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3136707 イエメンの人道危機は「人類の恥」、国際NGO代表] AFP(2017年7月23日)2017年7月23日閲覧</ref>。 |- |6 |5 |政府側がサウジアラビアなどとともに[[カタール]]と断交。[[シーア派]]であるフーシ派に対するカタールの支援を理由として挙げた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170605-GWRTJCFNO5MSVOEACJA72GFT3M/|title=カタール断交、イエメンも「国内のシーア派武装組織支援」と非難|work=|publisher=[[産経新聞]]|date=2017年6月5日}}</ref>。{{main|2017年カタール外交危機}} |- | rowspan="3" |11 |4 |フーシ派がサウジアラビアの首都[[リヤド]]を標的とし弾道ミサイルを発射。上空での迎撃・破壊に成功したが破片の一部が[[キング・ハーリド国際空港]]敷地内に落下した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3149323|title=イエメンからサウジにミサイル攻撃、首都上空で迎撃・破壊|publisher=AFPBB NEWS|accessdate=2017-11-24|date=2017-11-5}}</ref>。 |- |6 |サウジアラビアがイランからの武器流入を防ぐ名目でイエメン国境を封鎖した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20171201041453/https://www.jiji.com/sp/article?k=2017110701249|title=国連支援機イエメン入れず=サウジアラビアが国境封鎖|publisher=時事通信|accessdate=2017-11-24|date=2017-11-7}}</ref>。 |- |7 |サウジアラビアの[[ムハンマド・ビン・サルマーン|ムハンマド]]皇太子、フーシ派に弾道ミサイルを供給することによりサウジアラビアに対する「直接的な軍事侵略」に及んでいるとして、イランを非難した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3149675|title=サウジ、イランが「軍事侵略」と非難 イエメンのミサイル攻撃で|publisher=AFPBB NEWS|accessdate=2017-11-24|date=2017-11-8}}</ref>。 |- | rowspan="2" |12 |2 |フーシ派と同盟関係にあるサーレハ前大統領がサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があることを表明。これに対しフーシ派指導者は、サレハ前大統領の「重大な裏切り」で前大統領とサウジ連合軍が「一つの戦線」になったと非難した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3153934|title=イエメン前大統領、サウジ連合と和平協議の「用意ある」 フーシ派と同盟崩壊か|newspaper=AFP|date=2017-12-03|accessdate=2017-12-03}}</ref>。 |- |4 |フーシ派がサーレハ前大統領の乗った車を攻撃して前大統領を殺害したと発表。当初、前大統領派は死亡を認めていなかったが、フーシ派がインターネット上に死亡した前大統領とされる動画を投稿したことを受け、死亡を認めた。フーシ派はサナア中心部にあるサーレハ前大統領の自宅も爆破した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3154120|title=イエメンの反政府武装勢力、サレハ前大統領の「殺害」を発表|newspaper=AFP|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-04}} {{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2017120401148|title=首都戦闘激化、前大統領殺害説も=6日間で125人死亡-イエメン|newspaper=時事通信|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-04}} {{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171204/k10011246501000.html|title=イエメン内戦 戦闘が拡大 前大統領も殺害|newspaper=NHK|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-05}}</ref>。 |} == 政治 == {{main|{{ill2|イエメンの政治|en|Politics of Yemen}}}} {{See also|{{ill2|イエメンの国際関係|en|Foreign relations of Yemen}}}} イエメンは、アラビア半島諸国において唯一[[共和制]]をとる立憲[[国家]]である。現行[[憲法]]は[[1991年]]に発布され、[[1994年]]および[[2001年]]に改正されたものである。民主化に強い意欲があり、[[言論の自由]]も認められているとされるが、サーレハ政権下ではサーレハ個人や一族に対する批判は認められておらず、厳しい取締りを受けていた。[[2014年]][[2月11日]]には[[連邦制]]を正式に採択し、連邦国家へ移行する予定である。これは、旧南イエメン地域の分離運動を抑える狙いもある<ref>[http://world.people.com.cn/n/2014/0211/c1002-24322679.html 也门正式宣布为联邦国] [http://www.sabanews.net/en/news341196.htm Yemen to become six-region federation, committee approves (Saba Net)] [http://www.bbc.com/news/world-middle-east-26125721 Yemen to become federation of six regions (BBC.News)]</ref>。 [[元首|国家元首]]である[[イエメンの大統領|大統領]]は、[[国民]]の直接選挙により選出される。任期は7年で、3選禁止。その権限は強大で、形式上も事実上も国家の最高指導者である。[[副大統領]]と[[イエメンの首相|首相]]は大統領により任命される。 [[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは、首相の助言に基づき大統領が任命する。 [[議会]]は[[両院制|二院制]]で、'''諮問評議会'''(111議席)と'''[[代議院 (イエメン)|代議院]]'''(301議席)から構成される。諮問評議会議員は全員が大統領による任命制。代議院議員は国民の直接選挙で選出され、任期は6年。ただし、諮問評議会に立法権は無く、大統領の政策に対する助言機関に過ぎないことから、イエメン議会は実質的に立法権を行使しうる代議院人民代表院のみの[[一院制]]であるとする説もある。 主要政党には旧[[北イエメン]]与党で[[アリー・アブドッラー・サーレハ]]大統領率いる[[国民全体会議]]、旧[[南イエメン]]の政権党であった[[イエメン社会党]]、そして[[アル=イスラ|イエメン改革会議]]の3党がある。 最高[[司法]]機関は[[最高裁判所]]。女性にも参政権が認められている。 === 人権 === {{main|{{仮リンク|イエメンにおける人権|en|Human rights in Yemen}}}} イエメンには女児の結婚最低年齢に関する法律がない。これはイエメンは女子の結婚最低年齢に関して、イスラーム法上一般的な9歳という解釈を取っていない為である。そのため、イランやサウジアラビアなど、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2378883?pid=2837848 イエメンの裁判所、8歳の少女の離婚を認める] [https://www.afpbb.com/articles/-/2425220?pid=3176062 強制結婚させられた8歳の少女、離婚が成立]</ref>。飲酒・[[強姦]]などをした場合、公開鞭打ちを執行された事例もある。 2009年には、17歳未満の結婚を禁止する法案が提案されたが、保守派の反対にあって不成立となっている。2013年9月、40歳の男性と結婚した8歳の少女が、[[新婚初夜]]の[[性行為]]の最中に子宮破裂などの臓器損傷を負い、死亡したと報道された。現地警察などの調査では、関係者はこの報道について否定したが、イエメンの人権担当大臣は未成年の結婚を禁止すると明言した<ref>{{cite news |title=8歳の「花嫁」死亡の報道、大臣が少女婚禁止を明言 イエメン |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2013-9-16|url=http://www.cnn.co.jp/world/35037260.html|accessdate=2013-9-16}}</ref>。 WTF(世界経済フォーラム)は2019年12月17日に世界153カ国を対象とした『男女格差』の2019年版を発表し、イエメンが最下位となっている<ref>{{Cite web|和書|title=男女平等、日本は121位 世界的解消は「99年半かかる」 | 共同通信|url=https://web.archive.org/web/20191217025738/https://this.kiji.is/579443529770075233|website=共同通信|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-17|language=ja|last=共同通信}}</ref>。 == 軍事 == {{Main|イエメン軍}} {{節スタブ}} == 地理 == {{main|{{仮リンク|イエメンの地理|en|Geography of Yemen}}}} [[ファイル:Yemen carte.png|thumb|right|250px|イエメン共和国とその主要都市]] [[アラビア半島]]の南西、[[北緯]]12度から20度に位置する。[[紅海]]、[[アデン湾]]、[[アラビア海]]に面し、北で[[サウジアラビア]]、東で[[オマーン]]と国境を接し、アデン湾、紅海を挟んで[[ソマリア]]、[[ジブチ]]、[[エリトリア]]に対面する。本土以外に[[ソマリア]]の沖にある[[インド洋]]の[[ソコトラ島]] (3625km<sup>2</sup>) なども領有している。面積は約52万8000km<sup>2</sup>。首都は[[サナア]]。地理学的には4つの地域に分けられる。紅海沿岸、西部山地、東部山地、北の[[ルブアルハリ砂漠]]である。[[ティハーマ]]と呼ばれる紅海沿岸部は非常に乾燥しており、山地から流れる川は見られず[[ワジ]]あるいは地下水になっている。西部山地は降水量が大きいため段々畑で農業が営まれる。[[ソルガム]]が主で、綿花とマンゴーなど果実も栽培される。昼夜の気温差が大きい。東部は標高2000mで、さらに気温差が大きく昼間30℃、夜間0℃となる。大麦や小麦が栽培される。ルブアルハリ砂漠では[[ベドウィン]]がラクダの遊牧を行っているだけである。 <gallery> ファイル:Sana.jpg|サナア ファイル:Shibam Wadi Hadhramaut Yemen.jpg|[[シバーム]]([[ハドラマウト]]) </gallery> == 地方行政区分 == {{main|イエメンの行政区画}} [[ファイル:Yemen governorates.png|right|thumb|350px|イエメンの地方行政区分]] #[[アデン県]] ('Adan) #[[アムラーン県]] ('Amran) #[[アビヤン県]] (Abyan) #[[ダーリウ県]] (Ad Dali') #[[バイダー県]] (Al Bayda') #[[フダイダ県]] (Al Hudaydah) #[[ジャウフ県]] (Al Jawf) #[[マフラ県]] (Al Mahrah) #[[マフウィート県]] (Al Mahwit) #[[サナア|サナア (首都)]] (Sana'a) #[[ザマール県]] (Dhamar) #[[ハドラマウト県]] (Hadramaout) #[[ハッジャ県]] (Hajjah) #[[イッブ県]] (Ibb) #[[ラヒジュ県]] (Lahj) #[[マアリブ県]] (Ma'rib) #[[ライマ県]] (Raymah) #[[サアダ県]] (Sa'dah) #[[サナア県]] (Sanaa) #[[シャブワ県]] (Shabwah) #[[タイズ県]] (Ta'izz) #[[ソコトラ県]](Soqatra) {{seealso|イエメンの都市の一覧}} == 経済 == {{main|{{仮リンク|イエメンの経済|en|Economy of Yemen}}}} [[File:Sanaa, Yemen view.jpg|thumb|首都[[サナア]]]] 1人当たりの[[国内総生産]]は2013年で1,516[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]と産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低く<ref name="imf201410" />、[[失敗国家]]や[[後発開発途上国]]にも挙げられている。2007年の[[失業率]]は40%。1980年代から[[石油]]を産出し、[[貿易]]収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは[[食料品]]や[[機械|機械類]]などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、[[LNG]]を輸出している。 [[モカ#モカコーヒー|モカ]]コーヒーのモカは、南部にあり[[コーヒー豆]]を生産する[[港湾都市]]ムハーに由来する。しかし砂漠地帯であるため農業は振るわず、昔ながらの遊牧を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。近年は石油開発で発展する隣国の[[サウジアラビア]]に出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。 南部の都市[[アデン]]は古来、交易で賑わったが1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。内戦後にイエメンは[[国際通貨基金|IMF]]や[[世界銀行]]の支援を受け、経済発展に取り組んでいる。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|イエメンの人口統計|en|Demographics of Yemen}}}} 人口は1994年で1267万人、[[アラブ人]]が98%で[[アラビア語]]を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。 ===言語=== [[現代標準アラビア語]]がイエメンの[[公用語]]である。各地域の言語としてアラビア語の各方言([[アラビア語北イエメン方言|北イエメン方言]]、[[アラビア語南イエメン方言|南イエメン方言]]、[[アラビア語ハドラマウト方言|ハドラマウト方言]])および[[南アラビア諸語]]([[マフラ語]]、[[ソコトラ語]]、[[ホビョト語]]、[[バトハリ語]])、[[ラジフ語]]がある。 ===宗教=== {{bar box |title=宗教構成(イエメン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]]([[スンナ派]])|green|55}} {{bar percent|[[イスラム教]]([[シーア派]])|yellowgreen|42}} {{bar percent|その他|red|3}} }} {{main|{{仮リンク|イエメンの宗教|en|Religion in Yemen}}}} {{see also|イエメンのイスラム教}} 国民ほぼ全てが[[イスラム教]]信者で、[[スンナ派]]が5割強、[[シーア派]]が4割弱である。シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つ[[ザイド派]]であるが、[[十二イマーム派]]も少数派ながら一定の勢力を持つ。<!--- その他、[[ヒンドゥー教]]などもいるらしい。---> <!--- === 部族 === [[部族]]がいて、部族の影響が強い。 {{節スタブ}} ---> === 教育 === イエメンの教育は日本同様小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/yemen_1.html</ref>。 == 文化 == {{Main|イエメンの文化}} === 食文化 === {{Main|イエメン料理}} {{節スタブ}} === 生活様式 === [[File:Muslim woman in Yemen.jpg|thumb|[[イスラム圏の女性の服装|ニカーブ]]をかぶったイエメンの女性]] [[ファイル:Qat man.jpg|thumb|[[カート (植物)|カート]]を噛むイエメンの男性]] 国民のほとんどがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。ただし、イスラムの教えよりも[[部族]]内のルールを優先することがある。 一般的な成人男性は、腰帯に[[ジャンビーヤ]]と呼ばれる半月形をした[[短剣]]を差している。この短剣は所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。実用面よりもシンボルとしての性格が強いため、刃が研がれていないことも多く日常的に使用することはない。都市部では[[スラックス]]に[[ワイシャツ]]姿の男性も多く見かけるが、その場合でも多くの男性は自宅に自分のジャンビーヤを持っている。 [[イスラム圏の女性の服装|女性のイスラム服]]の着用の程度は[[イスラム原理主義|イスラム復興]]などの社会傾向の影響も受けるが、イエメンの女性は一般的に他のイスラム国と比較して着用率が非常に高い。女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用しているが、サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられているわけではない。またスカーフの色も比較的自由である。これは個人やその家族の信仰の深さによって判断されるためで、信仰が深くなればそれだけ肌を隠す面積も多くなる。女性の社会進出は主に都市部で少しずつ進みつつある。 イスラム教で禁じられている酒の代わりに、[[カート (植物)|カート]]と呼ばれる[[植物]]の[[葉]]を噛む習慣が広く行われている。児童の[[就学率]]は約50%程度であり、学校に行けない子供のために[[テレビ]]([[衛星放送]])による教育も試みられている。現存する最古の都市とされる[[サナア|サナア旧市街]]は[[世界遺産]]に登録されている。 {{also|イエメンの世界遺産}} === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|イエメンの祝日|en|Public holidays in Yemen}}}} {| class="wikitable" !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||&nbsp;||&nbsp; |- |[[5月22日]]||国家統一記念日||&nbsp;||[[1990年]]の同日に南北イエメン統一 |- |[[7月7日]]||Unity Factory Day||&nbsp;||&nbsp; |- |[[9月26日]]||1962年革命記念日||&nbsp;||&nbsp; |- |[[10月14日]]||国家の日||&nbsp;||&nbsp; |- |[[ヒジュラ暦]]第1月1日||イスラム正月||Muharram||変動あり |- |ヒジュラ暦第10月1日||[[イード・アル=フィトル]](断食月明けの祭)||Eid al-Fit||変動あり |- |ヒジュラ暦第12月10日||[[イード・アル=アドハー]](犠牲祭)||Eid al-Adha||変動あり |} == スポーツ == {{Main|イエメンのスポーツ}} {{See also|オリンピックのイエメン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|イエメンのサッカー|en|Football in Yemen}}}} イエメン国内でも他の[[中東]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。[[1990年]]にはサッカーリーグの[[イエメンリーグ]]が創設された。しかしイエメン[[クーデター]]とその後の[[イエメン内戦 (2015年-)|内戦]]により、2014-15シーズン以降リーグ戦は行われていない<ref>{{Cite web |title=Asian Cup 2019: Does Yemen's Jan Kocian have the toughest job in world football? |url=https://www.bbc.com/sport/football/46721547 |website=[[BBCスポーツ]] |access-date=2023-03-11 |date=2019-01-07}}</ref>。リーグの最多優勝クラブは{{仮リンク|アル・アハリ・サナア|en|Al-Ahli Club Sanaa}}。 [[イエメンサッカー協会]](YFA)によって構成される[[サッカーイエメン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。[[AFCアジアカップ]]には[[AFCアジアカップ2019|2019年大会]]で念願の初出場を果たしたが、グループリーグ3戦全敗となり最下位で敗退した<ref>{{Cite web|和書|title=<アジア杯2019>パク・ハンソ監督率いるベトナム、イエメンを2-0で撃破=16強進出に望み |url=https://www.wowkorea.jp/news/korea/2019/0117/10227774.html |website=WoW!Korea |access-date=2023-03-11 |date=2019-01-17}}</ref>。 == 著名な出身者 == {{Main|イエメン人の一覧|Category:イエメンの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[イエメン・ユダヤ人]] * [[ヒムヤル王国]] * [[イエメンの政党]] * [[ハニーシュ群島紛争]] * [[イエメン海軍艦艇一覧]] * [[ハドラミー]] * [[ターイフ条約]] * [[イエメンのスポーツ]] ** [[オリンピックのイエメン選手団]] ** [[サッカーイエメン代表]] {{colend}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Yemen|Yemen}} ;政府 *[http://www.presidentsaleh.gov.ye/index.php イエメン大統領府] {{ar icon}}{{en icon}} *[https://www.yemen.jp/index_j.php 在日イエメン共和国大使館] {{ja icon}} ;日本政府 *[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/yemen/ 日本外務省 - イエメン共和国] {{ja icon}} *[https://www.ye.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在イエメン日本国大使館] {{ja icon}} ;観光 *[https://www.yementourism.com/ イエメン観光促進局] {{ar icon}}{{en icon}} ;その他 *[http://www.ican.or.jp 認定NPO法人アイキャン - イエメン難民への活動を実施] {{ja icon}} *[https://www.jccme.or.jp/08/08-07-04.html 一般財団法人 中東協力センター (JCCME) - イエメン] {{ja icon}} *[https://globalnewsview.org/archives/4118 大阪大学 Global News View (GNV) - イエメン紛争] {{ja icon}} * {{Kotobank}} * {{Kotobank|イエメン共和国}} <!-- ここに個人サイトなどのリンクを貼らないでください。--> <!-- また、「Wikipedia:外部リンクの選び方」をよく読まれるようにお願い致します。 --> {{アジア}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いえめん}} [[Category:イエメン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:アラブ連盟]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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オマーン
オマーン国(オマーンこく、英: Sultanate of Oman)、通称オマーンは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はマスカット。 アラビア半島の東端にあり、アラビア海(インド洋)とオマーン湾に面する。北西にアラブ首長国連邦(UAE)、西にサウジアラビア、南西にイエメンと隣接し、更にUAEを挟んだムサンダム半島先端部に飛地(ムサンダム特別行政区)を擁する。石油輸出ルートとして著名な、ペルシャ湾とアラビア海を結ぶホルムズ海峡の航路もオマーン飛地の領海内にある。 正式名称は、سلطنة عمان (salṭanat ʿumān サルタナト・ウマーン)。通称、عمان (ʿumān ウマーン)。旧称はマスカット・オマーン土侯国。 公式の英語表記は、Sultanate of Oman ([ˈsʌltəˌnɛɪt ʌv oʊˈmɑːn])。日本語の表記はオマーン国。通称オマーン。駐日オマーン大使館による『日本経済新聞』広告特集では、国名をオマーン・スルタン国と自称している。語源は、古アラビア語で「滞在地」の意味や人名が地名化した説がある。 正則アラビア語に従ったカタカナ表記では「ウマーン」だが現地の口語・方言では「オマーン」に近い発音になる。国民・形容詞の英語表記はOmani。 国王(スルタン)が政務を取り仕切る絶対君主制。国王は首相、外務大臣、国防大臣、財務大臣、軍最高司令官を兼任し、全ての法律は王室政令として発布され、行政官や裁判官の任免権も持つなど、絶大な権力を保持している。絶対君主制を維持しつつも、前国王カーブース・ビン・サイードは、近代的な法律の制定や諮問議会・国家評議会(いずれも政治的実権は持たない)の設置、毎年の地方巡幸などを通じて民心の掌握に努めていたため、体制の基盤は安定している。また、産油による高い国内総生産(GDP)も政治の安定に寄与している。2020年1月、長年在位したカーブースが崩御し、従兄弟にあたるハイサム・ビン・ターリク・アール=サイードが即位した。 オマーンは湾岸協力会議(GCC)の一員ではあるが、GCC盟主であるサウジアラビアとは一線を画し、多方面との友好関係を模索している。イランと良好な関係を有し、サウジアラビアなどによる対カタール断交にも参加しなかった(2017年カタール外交危機)。 一方で2018年10月には、イランや多くのイスラム教徒が敵視するイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の公式訪問を受け入れた。 前国王(スルタン)カーブース・ビン・サイードの祖父に当たる先々代国王タイムール・ビン・ファイサルは退位後の船旅で1935年に訪れた神戸で出会った日本人の大山清子と結婚しており、二人の間の子がブサイナ・ビント・タイムール王女である(前国王カーブースにとっては叔母にあたる)。 マスカットでは「オマーン・日本友好協会」が日本語教育などの活動を続けている。2001年には、マスカット近郊のナシーブ・マスカット公園の敷地にオマーン平安日本庭園が開園した。GCC諸国では最初の日本庭園である。 2011年(平成23年)3月に東日本大震災が日本で発生した際には、オマーンの王族系の企業から迅速な支援のために福島県南相馬市の落合工機に26億円の発注がされて話題となった。また、同年9月には日本人女性書道家・矢部澄翔がオマーンを訪問、18の学校や機関で書道の指導やパフォーマンスを行った。 駐日オマーン大使館は東京都渋谷区広尾四丁目にあり、広尾ガーデンヒルズと外苑西通りに挟まれた場所に位置している。駐日オマーン大使館は2009年(平成21年)5月まで、「お万(おまん)榎」で知られる、千駄ヶ谷・榎坂に所在していた。 2012年に、オマーン・日本外交関係樹立40周年を迎えた。外交樹立40周年記念特別企画として、茨城県つくば市にある地質標本館にて特別展「砂漠を歩いてマントルへ -中東オマーンの地質探訪-」が2011年4月〜7月に開催された。 陸海空三軍からなる。前述のとおりイランとの関係は比較的良好だが、歴史的にペルシア(現在のイラン)に幾度も支配された経緯もあり、海軍はイランと接するホルムズ海峡に主力を置いている。植民地であった関係からイギリス軍と関係が深い。イラク戦争やアメリカのアフガニスタン侵攻ではアメリカ軍に協力している。 国土面積は約30万9500平方キロメートルで、3165キロメートルの海岸線を有する。 北西部にはハジャル山地(英語版)、南部にはカラー山地が連なる。南部にワジ多数。また、飛地としてペルシア湾とホルムズ海峡に臨むムサンダム半島(ムサンダム特別行政区)とマダを領有する。最高地点はアフダル山地のシャムス山 (標高3075 m) である。 本土北部はオマーン湾とアラビア海(インド洋)に面する。東部沿岸沖にはマシーラ島が、南西海岸沖の40 kmにはクリアムリア諸島がある。全土が砂漠気候に属し、ワジを除き通常の河川が存在しない。古代より乳香の産地として知られる。マスカット、ソハール、スールといった都市が北部に、サラーラが南部にある。マスカットの年間降水量は100 mmで、降雨は12月〜4月にある。最高気温は5月から9月にかけ35 °Cを超える。南部のドファール地域はインド洋のモンスーンの影響を受け6月から9月にかけ降雨が多く、海岸で霧が発生し、ココナツヤシの成長を助ける。 国民生活や経済活動を支えてきた地下水は有事のために温存し、平時に使う水は海水淡水化で賄う事業を進めており、日本の伊藤忠商事などからプラントを導入している。海水淡水化プラント自体はオマーン国内に3つほどしかなく、雨水も多用している。 国際通貨基金(IMF)の統計によると、2019年のオマーンの国内総生産(GDP)は793億ドルであり、日本の岡山県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりGDPは1万8970ドルである。 オマーンは先々代サイード国王の下で鎖国的政策が行われ、経済は停滞していた。1970年に就任したカーブース国王は開国と近代化政策を進め、国内経済は大きく成長を遂げた。オマーンの鉱業の中心は原油生産(4469万トン、2003年時点)で、輸出額の76.7 %を占めており、天然ガスも産出する。原油関連設備の近代化による収入の安定はオマーンの成長に大きく寄与している。金属資源としては、クロム鉱石、銀、金を採掘するものの、量が少なく重要ではない。 2019年に公表した国家戦略『オマーン・ビジョン2040』ではGDPに占める非石油部門の比率を現状の6割程度から9割以上に引き上げる目標を掲げ、2020年に「石油・ガス省」を「エネルギー・鉱物資源省」に改組した。後述する経済特区による貿易・工業の拠点化だけでなく、太陽光発電や風力発電を増やして海水を電気分解して得る「グリーン水素」の生産を目指している。 オアシスを中心に国土の0.3 %が農地となっている。河川がないという悪条件にもかかわらず、人口の9 %が農業に従事している。主な農産物は、ナツメヤシ(25万トン、世界シェア8位、2002年時点)。穀物と根菜では、ジャガイモ(13キロトン)の生産が最も多い。その他、冬場の日本での生鮮サヤインゲンの流通を補うため、日本向けサヤインゲンの大規模生産も行われている。 オマーンは東アフリカ、中東、ペルシア湾岸、インドを結ぶ航路を扼する、戦略的に重要な位置にある。特に南部のサラーラには経済特区や大きなコンテナ港が設置されている。これらの経済政策で外資企業の誘致を進めている。マスカットとサラーラの中間にある東部沿岸のドゥクムでも港湾と製油所などを組み合わせた経済特区を開発中である。こうした対外開放・工業化政策の背景には、石油の可採年数(埋蔵原油を商業ベースで開発可能な年数)が2018年時点であと15年程度という事情がある。 紀元前4千年前から利用されてきた乳香は現在でも自生・栽培しており、イスラム圏で広く使用される。 現在、オマーン国内に鉄道は通っていない。 2020年時点の人口は約448万人(オマーン国立情報・統計センター)。 2010年の調査によると、全人口に占めるオマーン国籍の割合は70.6 %、外国人労働者は816,000人を数え、29.4 %を占める。大半のオマーン人はアラビア半島に祖先を持つアラブ人であるが、現在のパキスタン南部を起源とするバローチ人や中央アジアやイランを起源とするアジャム人のほか、東アフリカにルーツを持つものもいる。外国人労働者のうちインド人が465,660人を数える他、バングラデシュ人が107,125人、パキスタン人が84,658人などとなっている。家政婦として働くインドネシアやフィリピンから来た東南アジア人女性も多い。外国籍のアラブ人は68,986人を数える。 公用語はアラビア語。バローチ語や南アラビア諸語のシャフラ語も広く使われる。その他、スワヒリ語や外国人労働者の言語(ヒンディー語、シンド語、ウルドゥー語、タミル語、タガログ語)なども使われている。また、イギリス植民地であったことから英語は広く使われている。 アラビア語の口語(アーンミーヤ)として、オマーン方言、ドファール方言、シフフ方言、湾岸方言が使われている。 宗教はおよそ3/4がイスラム教のイバード派、1/4がスンナ派に属している。さらに、外国人労働者の間ではヒンドゥー教やキリスト教が信仰されている。宗教のほか人種や性別による差別は法で禁じられている。 オマーンの教育制度は小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である。教育は博士課程まで無償である。 オマーン国内には文化遺産が4件登録されている。かつて自然遺産も1件存在していたが、2007年に登録を抹消されている。 オマーン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1976年にサッカーリーグのオマーンリーグが創設された。オマーンサッカー協会(OFA)によって構成されるサッカーオマーン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしAFCアジアカップには4度出場しており、2019年大会ではベスト16の成績を収めた。オマーン出身の著名な選手としては、イングランド・プレミアリーグで長年活躍したアリ・アル・ハブシが知られている。 クリケットも人気スポーツの一つである。クリケットは1970年代に海外駐在員によって持ち込まれ、国内競技連盟であるオマーンクリケットは1979年に設立された。2000年に国際クリケット評議会に加盟し、2014年に準会員に昇格した。オマーン代表は大きな進歩を遂げ、2016年と2021年に2大会連続でICC T20ワールドカップに出場した。2016年大会ではアイルランド代表に勝利し、最大の番狂わせの一つを引き起こした。2021年大会はアラブ首長国連邦との共催での開催国となった。2019年にはODIステータスを獲得するなど中東を代表する国の一つとなった。オマーンの外国人労働者の大半がクリケットが非常に盛んなインドを中心とした南アジア出身者で占めていることもクリケット人気の要因の一つに挙げられる。
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オマーン国、通称オマーンは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はマスカット。 アラビア半島の東端にあり、アラビア海(インド洋)とオマーン湾に面する。北西にアラブ首長国連邦(UAE)、西にサウジアラビア、南西にイエメンと隣接し、更にUAEを挟んだムサンダム半島先端部に飛地(ムサンダム特別行政区)を擁する。石油輸出ルートとして著名な、ペルシャ湾とアラビア海を結ぶホルムズ海峡の航路もオマーン飛地の領海内にある。
{{Otheruses|アラビア半島にある独立国|その他}} {{基礎情報 国 | 略名 = オマーン | 日本語国名 = オマーン国 | 公式国名 = '''{{Lang|ar|سلطنة عمان}}''' | 国旗画像 = Flag of Oman.svg | 国章画像 = [[ファイル:National_emblem_of_Oman.svg|110px|オマーンの国章]] | 国章リンク = ([[オマーンの国章|国章]]) | 標語 = なし | 国歌 = [[スルタンの賛歌|نشيد وطني عماني]]<br />スルタンの賛歌{{center|[[file:Peace to the Sultan (نشيد السلام السلطاني).ogg]]}} | 位置画像 = Oman (better) (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[マスカット]] | 最大都市 = マスカット | 元首等肩書 = [[オマーンの国王|スルタン(国王)]] | 元首等氏名 = [[ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード]] | 首相等肩書 = 首相 | 首相等氏名 = ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード(スルターン兼任) | 他元首等肩書1 = 閣議担当副首相 | 他元首等氏名1 = {{ill2|ファハド・ビン・マフムード・アール=サイード|en|Fahd bin Mahmoud al Said}} | 面積順位 = 69 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 309,500 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 120 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 5,107,000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/om.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 16.5<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 243億6500万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月14日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=449,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 73 | GDP値MER = 633億6800万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 1万4255.089 | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 65 | GDP値 = 1391億9000万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 3万1312.039<ref name="economy" /> | 建国形態 = | 確立形態1 = [[ポルトガル]]勢力追放、全国統一 | 確立年月日1 = [[1650年]] | 確立形態2 = [[イギリス|英]]保護下より[[国家の独立|独立]]、<br /> [[国際連合]]加盟 | 確立年月日2 = [[1971年]][[10月7日]] | 通貨 = [[オマーン・リアル]] (YTL) | 通貨コード = OMR | 時間帯 = +4 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = OM / OMN | ccTLD = [[.om]] | 国際電話番号 = 968 | 注記 = }} '''オマーン国'''(オマーンこく、{{lang-en-short|Sultanate of Oman}})<ref name="日本外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/oman/data.html#section1 オマーン国(Sultanate of Oman)基礎データ] 日本外務省(2021年1月1日閲覧)</ref>、通称'''オマーン'''は、[[中東]]・[[西アジア]]に位置する[[絶対君主制]][[国家]]。[[首都]]は[[マスカット]]<ref name="日本外務省" />。 [[アラビア半島]]の東端にあり、[[アラビア海]]([[インド洋]])と[[オマーン湾]]に面する。北西に[[アラブ首長国連邦]](UAE)、西に[[サウジアラビア]]、南西に[[イエメン]]と隣接し、更にUAEを挟んだ[[ムサンダム半島]]先端部に[[飛地]]([[ムサンダム特別行政区]])を擁する。[[石油]]輸出ルートとして著名な、[[ペルシャ湾]]とアラビア海を結ぶ[[ホルムズ海峡]]の航路もオマーン飛地の[[領海]]内にある。 == 国名 == 正式名称は、{{lang|ar|سلطنة عمان}} ({{transl|ar|DIN|salṭanat ʿumān}} サルタナト・ウマーン)。通称、{{lang|ar|عمان}} ({{transl|ar|DIN|ʿumān}} ウマーン)。旧称は'''マスカット・オマーン土侯国'''。 公式の[[英語]]表記は、Sultanate of Oman ({{IPA-en|ˈsʌltəˌnɛɪt ʌv oʊˈmɑːn|}})。[[日本語]]の表記はオマーン国<ref name="日本外務省"/>。通称オマーン。[[駐日オマーン大使館]]による『[[日本経済新聞]]』広告特集では、国名を'''オマーン・スルタン国'''と自称している<ref name="日経20201118">【オマーン・スルタン国特集】モハメッド・アルプサイディ駐日オマーン・スルタン国特命全権大使「日本の投資を歓迎」『日本経済新聞』朝刊2020年11月18日26面</ref>。語源は、古アラビア語で「滞在地」の意味や人名が地名化した説がある<ref>[https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/olympic_paralympic/area_studies/index/oman/index.html オマーン国] [[東京都立図書館]](2021年1月1日閲覧)</ref>。 [[正則アラビア語]]に従ったカタカナ表記では「'''ウマーン'''」だが現地の口語・方言では「オマーン」に近い発音になる。国民・形容詞の英語表記はOmani。 == 歴史 == {{Main|{{仮リンク|オマーンの歴史|en|History of Oman}}}} {{See also|{{仮リンク|オマーンの考古学|en|Archaeology of Oman}}}} * [[紀元前3千年紀]] {{仮リンク|アフダル山脈 (オマーン)|en|Jebel Akhdar (Oman)|label=アフダル山脈}}にある[[バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群|バット遺跡]]の[[銅]]が[[シュメール]]({{仮リンク|ジェムデト・ナスル期|en|Jemdet Nasr period}})に輸出されていた。 * [[紀元前2世紀]]ごろ [[アラブ人]]が移動・定住。 * [[7世紀]] [[イスラーム]]に改宗し、当時影響力を及ぼしていた[[ペルシア人]]勢力を追放。 * [[1509年]] [[ポルトガル]]人が渡来。16世紀初頭にポルトガルの支配下に入る。 * [[1650年]] [[ヤアーリバ朝]]がポルトガルからマスカットを奪回し、オマーン全土を回復。この後、19世紀末までオマーンの商船は[[インド洋]]全域を商圏とし、[[東アフリカ]]海岸部を勢力下に置いた('''[[オマーン帝国|オマーン海洋帝国]]''')。 * その後、[[ヨーロッパ]][[列強]]が[[東洋進出]]への拠点として利用した。[[イギリス]]と[[フランス]]の争奪戦が起こり、18世紀の末、イギリスがオマーンと同盟条約を結んだ。 * [[1741年]] 現[[ブーサイード朝]]([[アラビア語]]:{{lang|ar|آل بوسعيد}})による支配が始まる。 * [[1798年]] [[グワーダル]](現在の[[パキスタン]]南西部)がオマーンの飛地となる。 * [[1804年]] [[サイイド・サイード]](サイード大王)第5代[[スルターン|スルタン]]に即位。 * [[1820年]] {{仮リンク|マスカット・オマーン|en|Muscat and Oman|label=オマーン帝国}}({{lang-ar|مسقط وعمان}})成立([[:en:Persian Gulf campaign of 1809|Persian Gulf campaign]]の休戦協定を[[トルーシャル首長国]]と締結)。 [[ファイル:Sultan's Palace, Zanzibar.JPG|thumb|[[ザンジバル]]のスルターン宮殿]] * [[1832年]] 東アフリカ沿岸の[[奴隷]]・[[象牙]]・[[香辛料貿易]]の拠点でもあった[[ザンジバル]]に遷都。オマーン、全盛期を迎える。 * [[1856年]] サイード大王、死去。国土はオマーンとザンジバルに分割される。[[帆船]]([[ダウ船]]など)から[[蒸気船]]の時代となり、オマーンは急速に衰退する。 * [[1891年]] イギリスの[[保護国]]となる。 * [[1954年]] {{仮リンク|アフダル山脈 (オマーン)|en|Jebel Akhdar (Oman)|label=アフダル山脈}}で{{仮リンク|ジェベル・アフダル戦争|en|Jebel Akhdar War}}([[1954年]]-[[1959年]])が始まる。 * [[1963年]][[12月10日]] [[ザンジバル王国]]が成立。 * [[1964年]][[1月12日]] [[ザンジバル革命]]で[[ザンジバル人民共和国]](後にアフリカ大陸本土側の[[タンザニア]]と統合)が成立。 * [[1965年]] 南部の[[ドファール地方]]で[[ドファール解放戦線]](Dhofar Liberation Front)による{{仮リンク|ドファールの反乱|en|Dhofar Rebellion}}([[1962年]]-[[1976年]])が激化。 * [[1967年]] [[石油]]輸出を開始。 * [[1970年]] [[皇太子]][[カーブース・ビン・サイード|カーブース]]が[[クーデター]]を起こし、父王[[サイード・ビン・タイムール|サイード]]を追放、自身は国王に即位。また、国名を{{仮リンク|マスカット・オマーン|en|Muscat and Oman}}から現国名「オマーン」に改める。 * [[1971年]] イギリス保護領より独立し、[[国際連合]]に加盟。 * [[1972年]][[7月19日]] [[オマーン解放人民戦線]]による[[ミルバートの戦い]]が勃発。 * [[1991年]] 立法権のない諮問議会の設置。 * [[1997年]] 立法権のない国家評議会の設置。 * [[2000年]] [[世界貿易機関]](WTO)に加盟。 * [[2011年]] [[アラブの春]]に触発された{{仮リンク|2011年オマーン反政府運動|en|2011 Omani protests|label=反政府運動}}。 * [[2020年]] [[ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード|ハイサム・ビン・ターリク・アル=サイード]]が国王即位(1月11日)<ref name="日本外務省"/>。 == 政治 == === 絶対君主制 === [[ファイル:Secretary Pompeo Meets with the Sultan of Oman Haitham bin Tariq Al Said (49565463757) (cropped).jpg|thumb|160px|現国王ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード]] {{Main|{{仮リンク|オマーンの政治|en|Politics of Oman}}|{{仮リンク|オマーンにおける人権|en|Human rights in Oman}}}} 国王([[スルタン]])が政務を取り仕切る[[絶対君主制]]。国王は[[首相]]、外務大臣、国防大臣、財務大臣、軍最高司令官を兼任し、全ての法律は王室政令として発布され、行政官や裁判官の任免権も持つなど、絶大な権力を保持している。絶対君主制を維持しつつも、前国王[[カーブース・ビン・サイード]]は、近代的な法律の制定や諮問議会・国家評議会(いずれも政治的実権は持たない)の設置、毎年の地方[[巡幸]]などを通じて民心の掌握に努めていたため、体制の基盤は安定している。また、産油による高い[[国内総生産]](GDP)も政治の安定に寄与している。2020年1月、長年在位したカーブースが[[崩御]]し、従兄弟にあたる[[ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード]]が即位した。 === 行政・立法 === {{Main|オマーン議会}} == 外交 == {{main|{{仮リンク|オマーンの国際関係|en|Foreign relations of Oman}}}} オマーンは[[湾岸協力会議]](GCC)の一員ではあるが、GCC盟主であるサウジアラビアとは一線を画し、多方面との友好関係を模索している。[[イラン]]と良好な関係を有し<ref>{{cite news|url=http://japanese.irib.ir/news/本日のトピック/item/43900-イランのパートナー国、オマーン|title=イランのパートナー国、オマーン|date=2014-03-13|publisher=[[イラン・イスラム共和国放送|IRIB]] |accessdate=2014-04-21}}</ref>、サウジアラビアなどによる対[[カタール]]断交にも参加しなかった([[2017年カタール外交危機]])。 一方で2018年10月には、イランや多くのイスラム教徒が敵視する[[イスラエル]]の[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]首相の公式訪問を受け入れた<ref>[https://www.sankei.com/world/news/181027/wor1810270010-n1.html 「オマーン訪問に不快感 イランがイスラエル批判」][[産経新聞]]ニュースが2018年10月27日掲載した[[共同通信]]配信記事(2018年10月31日閲覧)</ref>。 === 日本との関係 === {{Main|日本とオマーンの関係}} 前国王(スルタン)[[カーブース・ビン・サイード]]の祖父に当たる先々代国王[[タイムール・ビン・ファイサル]]は退位後の船旅で1935年に訪れた[[神戸市|神戸]]で出会った<ref name="日経20211118">【オマーン・スルタン国特集】日本の技術・投資に期待/グリーン水素の生産拠点に『日本経済新聞』朝刊2020年11月18日30-31面</ref>[[日本人]]の大山清子と結婚しており、二人の間の子が[[ブサイナ・ビント・タイムール]]王女である(前国王カーブースにとっては叔母にあたる)。 [[マスカット]]では「オマーン・日本友好協会<ref group="注釈">Oman Japan Friendship Association</ref>」が[[日本語]]教育などの活動を続けている。2001年には、マスカット近郊のナシーブ・マスカット公園の敷地に[[オマーン平安日本庭園]]が開園した。GCC諸国では最初の[[日本庭園]]である<ref>遠藤(2009)、200頁</ref>。 [[2011年]]([[平成]]23年)3月に[[東日本大震災]]が日本で発生した際には、オマーンの王族系の企業から迅速な支援のために[[福島県]][[南相馬市]]の落合工機に26億円の発注がされて話題となった<ref name="NHK">{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/sakidori/backnumber/110925.html |title=互いに支援!? 中東と東北 オマーンが被災地支援 中小企業の底力! |date=2012-01-11 |publisher=[[日本放送協会]](NHK) |accessdate=2012-05-11}}</ref><ref name="sekainomizujijyou">{{Cite web|和書|url=http://water-news.info/1429.html |title=福島第一原発事故-屋内退避範囲内の南相馬市に所在する落合工機にオマーンの企業から26億円分の浄水器などの大量発注 |date=2011-04-11 |publisher=世界の水事情 |accessdate=2012-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103011625/http://water-news.info/1429.html |archivedate=2012-11-03}}</ref><ref name="kahokusinpou">{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110408_10.htm |title=南相馬の町工場、浄水器を大量受注 オマーンの取引先が支援! |date=2011-04-08 |publisher=[[河北新報]] |accessdate=2012-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111220114119/http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110408_10.htm |archivedate=2011-12-20}}</ref>。また、同年9月には日本人女性[[書道家]]・矢部澄翔がオマーンを訪問、18の学校や機関で書道の指導やパフォーマンスを行った<ref name="skynetasia">{{cite web |url=http://www.yabe-chosho.com/siteinfo/media/20120111.html |title=【新聞/海外】 |date=2012-01-11 |publisher=矢部澄翔 |accessdate=2012-05-11}}</ref>。 [[駐日オマーン大使館]]は東京都[[渋谷区]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]四丁目にあり、[[広尾ガーデンヒルズ]]と[[外苑西通り]]に挟まれた場所に位置している<ref>[http://www.omanembassy.jp/ 駐日オマーン・スルタン国大使館] 公式ウェブサイト 2021年8月7日閲覧</ref>。駐日オマーン大使館は[[2009年]]([[平成]]21年)5月まで、「お万(おまん)榎」で知られる、[[千駄ヶ谷]]・[[榎坂 (渋谷区)|榎坂]]に所在していた。 2012年に、オマーン・日本外交関係樹立40周年を迎えた<ref name="aniversary40th">{{Cite web|和書|url=http://japanarab.jp/news/post-80.php |title=5月7日~11日オマーン大使館「天空へのメッセージ」展開催の案内 |date=2012-05 |publisher=日本アラブ協会 |accessdate=2012-05-11}}</ref>。外交樹立40周年記念特別企画として、[[茨城県]][[つくば市]]にある[[地質標本館]]にて特別展「砂漠を歩いて[[マントル]]へ -中東オマーンの地質探訪-」が2011年4月〜7月に開催された。 == 軍事 == {{Main|オマーン軍}} [[陸]][[海軍|海]][[空軍|空]]三軍からなる。[[#外交|前述]]のとおりイランとの関係は比較的良好だが、歴史的に[[ペルシア]](現在のイラン)に幾度も支配された経緯もあり、海軍はイランと接する[[ホルムズ海峡]]に主力を置いている。植民地であった関係から[[イギリス軍]]と関係が深い。[[イラク戦争]]やアメリカの[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]では[[アメリカ軍]]に協力している。 == 地方行政区分 == {{multiple image | direction = horizontal | align = right | width = | image1 = Oman_location_map_Topographic.png | width1 = 190 | caption1 = オマーンの地形と行政区画。 | image2 = Oman-map.png | width2 = 230 | caption2 = オマーンの地図。 }} {{Main|オマーンの行政区画}} === 主要都市 === {{Main|オマーンの都市の一覧}} == 地理 == {{Main|{{仮リンク|オマーンの地理|en|Geography of Oman}}|{{仮リンク|オマーンの地質|en|Geology of Oman}}}} {{Seealso|バーティナ地方|{{仮リンク|アフダル山脈 (オマーン)|en|Jebel Akhdar (Oman)|label=アフダル山脈}}|オマーン=アラブ首長国連邦国境}} [[ファイル:Oman-Oasis.jpg|thumb|right|内陸のオアシス]] 国土面積は約30万9500平方キロメートル<ref name="日本外務省"/>で、3165キロメートルの海岸線を有する<ref name="日経20201118"/>。 北西部には{{仮リンク|ハジャル山地|en|Al Hajar Mountains}}、南部には[[カラー山地]]が連なる。南部に[[ワジ]]多数。また、[[飛地]]としてペルシア湾とホルムズ海峡に臨む[[ムサンダム半島]]([[ムサンダム特別行政区]])と[[マダ (オマーン)|マダ]]を領有する。最高地点はアフダル山地のシャムス山 ([[標高]]3075 m) である。 本土北部は[[オマーン湾]]と[[アラビア海]]([[インド洋]])に面する。東部沿岸沖には[[マシーラ島]]が、南西海岸沖の40 kmには[[クリアムリア諸島]]がある。全土が[[砂漠気候]]に属し、[[ワジ]]を除き通常の[[河川]]が存在しない。古代より[[乳香]]の産地として知られる。[[マスカット]]、[[ソハール]]、[[スール (オマーン)|スール]]といった都市が北部に、[[サラーラ]]が南部にある。マスカットの年間[[降水量]]は100 mmで、降雨は12月〜4月にある。最高気温は5月から9月にかけ35 [[セルシウス度|℃]]を超える。南部の[[ドファール]]地域はインド洋の[[モンスーン]]の影響を受け6月から9月にかけ降雨が多く、海岸で霧が発生し、[[ココヤシ|ココナツヤシ]]の成長を助ける。 国民生活や経済活動を支えてきた[[地下水]]は有事のために温存し、平時に使う水は[[海水淡水化]]で賄う事業を進めており、日本の[[伊藤忠商事]]などからプラントを導入している<ref>「オマーンの淡水化プラント 伊藤忠、[[赤潮]]でも能力発揮 3段階前処理強み」『[[日経産業新聞]]』2018年10月31日(先端技術面)</ref>。海水淡水化プラント自体はオマーン国内に3つほどしかなく、雨水も多用している。 == 経済 == [[ファイル:Nakhalfarms.jpg|thumb|right|北部のバティナ地区のナツメヤシ農園]] {{Main|{{仮リンク|オマーンの経済|en|Economy of Oman}}}} [[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2019年]]のオマーンの[[国内総生産]](GDP)は793億ドルであり<ref name="IMF2">https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/oman/data.html<nowiki/>2021年8月18日閲覧。</ref>、日本の[[岡山県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 県民経済計算] [[内閣府]](2016年1月2日閲覧)</ref>。同年の一人当たりGDPは1万8970ドルである<ref name="IMF2"/>。 オマーンは先々代サイード国王の下で[[鎖国]]的政策が行われ、経済は停滞していた。1970年に就任したカーブース国王は開国と近代化政策を進め<ref name="日経20201118"/>、国内経済は大きく成長を遂げた。オマーンの鉱業の中心は[[原油]]生産(4469万トン、2003年時点)で、輸出額の76.7 %を占めており、[[天然ガス]]も産出する。原油関連設備の近代化による収入の安定はオマーンの成長に大きく寄与している。金属資源としては、[[クロム]]鉱石、[[銀]]、[[金]]を採掘するものの、量が少なく重要ではない。 2019年に公表した国家戦略『オマーン・ビジョン2040』ではGDPに占める非石油部門の比率を現状の6割程度から9割以上に引き上げる目標を掲げ、2020年に「石油・ガス省」を「エネルギー・鉱物資源省」に改組した<ref name="日経20211118"/>。後述する経済特区による貿易・工業の拠点化だけでなく、[[太陽光発電]]や[[風力発電]]を増やして海水を[[電気分解]]して得る「グリーン[[水素]]」の生産を目指している<ref name="日経20211118"/>。 オアシスを中心に国土の0.3 %が農地となっている。河川がないという悪条件にもかかわらず、人口の9 %が農業に従事している。主な農産物は、[[ナツメヤシ]](25万トン、世界シェア8位、2002年時点)。穀物と根菜では、[[ジャガイモ]](13キロトン)の生産が最も多い。その他、冬場の日本での生鮮[[インゲンマメ|サヤインゲン]]の流通を補うため、日本向けサヤインゲンの大規模生産も行われている。 オマーンは[[東アフリカ]]、[[中東]]、[[ペルシア湾]]岸、[[インド]]を結ぶ航路を扼する、戦略的に重要な位置にある。特に南部の[[サラーラ]]には[[経済特区]]や大きな[[コンテナターミナル|コンテナ港]]が設置されている。これらの経済政策で外資企業の誘致を進めている。マスカットとサラーラの中間にある東部沿岸のドゥクムでも港湾と製油所などを組み合わせた経済特区を開発中である。こうした対外開放・工業化政策の背景には、石油の可採年数(埋蔵原油を商業ベースで開発可能な年数)が2018年時点であと15年程度という事情がある<ref>【新興国ABC】オマーンのドゥクム経済特区 製油・物流の一大拠点『日経産業新聞』2018年10月15日(グローバル面)</ref>。 紀元前4千年前から利用されてきた[[乳香]]は現在でも自生・栽培しており、イスラム圏で広く使用される。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|オマーンの交通|en|Transport in Oman}}}} === 鉄道 === 現在、オマーン国内に[[鉄道]]は通っていない。 === 空港 === *[[マスカット国際空港]] *[[サラーラ国際空港]] *{{仮リンク|ドゥクム国際空港|en|Duqm International Airport}} *[[ハサブ空港]] {{main|[[オマーンの空港の一覧]]}} == 国民 == {{bar box |title=国籍 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|オマーン国籍|red|70.6}} {{bar percent|外国籍|silver|29.4}} }} {{main|{{仮リンク|オマーンの人口統計|en|Demographics of Oman}}}} 2020年時点の人口は約448万人(オマーン国立情報・統計センター)<ref name="日本外務省"/>。 2010年の調査によると、全人口に占めるオマーン国籍の割合は70.6 %、外国人労働者は816,000人を数え、29.4 %を占める。大半のオマーン人はアラビア半島に祖先を持つ[[アラブ人]]であるが、現在のパキスタン南部を起源とする[[バローチ人]]や[[中央アジア]]やイランを起源とする[[アジャム人]]のほか、東アフリカにルーツを持つものもいる。外国人労働者のうちインド人が465,660人を数える他、[[バングラデシュ]]人が107,125人、パキスタン人が84,658人などとなっている。[[家政婦]]として働く[[インドネシア]]や[[フィリピン]]から来た[[東南アジア]]人女性も多い。外国籍のアラブ人は68,986人を数える。 === 言語 === [[公用語]]は[[アラビア語]]。[[バローチ語]]や[[南アラビア諸語]]の[[シャフラ語]]も広く使われる。その他、[[スワヒリ語]]や外国人労働者の言語([[ヒンディー語]]、[[シンド語]]、[[ウルドゥー語]]、[[タミル語]]、[[タガログ語]])なども使われている。また、イギリス植民地であったことから[[英語]]は広く使われている<ref name="日経20211118"/>。 アラビア語の[[口語]]([[アーンミーヤ]])として、[[アラビア語オマーン方言|オマーン方言]]、[[アラビア語ドファール方言|ドファール方言]]、[[アラビア語シフフ方言|シフフ方言]]、[[アラビア語湾岸方言|湾岸方言]]が使われている。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|オマーンの宗教|en|Religion in Oman}}|{{仮リンク|オマーンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Oman}}}} 宗教はおよそ3/4が[[イスラム教]]の[[イバード派]]、1/4が[[スンナ派]]に属している。さらに、外国人労働者の間では[[ヒンドゥー教]]や[[キリスト教]]が信仰されている。宗教のほか人種や性別による差別は法で禁じられている<ref name="日経20201118"/>。 == 教育 == {{Main|{{仮リンク|オマーンの教育|en|Education in Oman}}}} オマーンの教育制度は小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間の、6・3・3・4制である<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/oman_1.html |title=世界の学校を見てみよう!オマーン|publisher=外務省 |accessdate=2019-11-3}}</ref>。教育は[[博士]]課程まで無償である<ref name="日経20201118"/>。 == 文化 == {{Main|オマーンの文化}} [[ファイル:Khanjar.jpg|thumb|160px|伝統的な[[剣|短剣]]の[[ハンジャル]]]] === 食文化 === {{main|オマーン料理}} [[ファイル:Traditional Omani Food.jpg|thumb|オマーンの伝統料理(Maqbous)]] === 音楽 === {{main|{{仮リンク|オマーンの音楽|en|Music of Oman}}}} === 世界遺産 === {{Main|オマーンの世界遺産}} オマーン国内には[[文化遺産]]が4件登録されている。かつて[[自然遺産]]も1件存在していたが、[[2007年]]に登録を抹消されている。 === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|オマーンの祝日|en|Public holidays in Oman}}}} {| class="wikitable" style="margin: 0 auto;" |+ style="font-weight:bold;font-size:120%"| !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]|| || |- |[[7月23日]]||ルネサンスの日|| ||国王の即位日を記念 |- |[[11月18日]]||ナショナルデー|| ||国王の誕生日を記念<ref name="日経20211118"/> |- | rowspan="5" | 移動祝日 ||ヒジュラ暦新年|| || rowspan="5" | [[ヒジュラ暦]]による |- |[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]生誕祭|| |- |[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者]]昇天祭|| |- |ラマダーン明け祭([[イード・アル=フィトル]])|| |- |犠牲祭([[イード・アル=アドハー]])|| |} == スポーツ == {{Main|オマーンのスポーツ}} {{See also|オリンピックのオマーン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|オマーンのサッカー|en|Football in Oman}}}} オマーン国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1976年]]にサッカーリーグの[[オマーンリーグ]]が創設された。[[オマーンサッカー協会]](OFA)によって構成される[[サッカーオマーン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[AFCアジアカップ]]には4度出場しており、[[AFCアジアカップ2019|2019年大会]]ではベスト16の成績を収めた。オマーン出身の著名な選手としては、[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]で長年活躍した'''[[アリ・アル・ハブシ]]'''が知られている。 === クリケット === [[クリケット]]も人気スポーツの一つである。クリケットは1970年代に海外駐在員によって持ち込まれ、[[国内競技連盟]]であるオマーンクリケットは1979年に設立された<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/128 Oman Cricket] 国際クリケット評議会 2023年9月30日閲覧。</ref>。2000年に[[国際クリケット評議会]]に加盟し、2014年に準会員に昇格した<ref name="ICC"/>。オマーン代表は大きな進歩を遂げ、2016年と2021年に2大会連続で[[ICC T20ワールドカップ]]に出場した<ref name="ICC"/>。2016年大会ではアイルランド代表に勝利し、最大の番狂わせの一つを引き起こした<ref name="ICC"/>。2021年大会はアラブ首長国連邦との共催での開催国となった<ref name="ICC"/>。2019年には[[ワン・デイ・インターナショナル|ODI]]ステータスを獲得するなど中東を代表する国の一つとなった<ref name="ICC"/>。オマーンの外国人労働者の大半がクリケットが非常に盛んなインドを中心とした[[南アジア]]出身者で占めていることもクリケット人気の要因の一つに挙げられる。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:オマーンの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 遠藤晴男『オマーン見聞録』展望社(ISBN 978-4-88546-199-6) == 関連項目 == * [[オマーン関係記事の一覧]] * [[オマーン海軍艦艇一覧]] * [[バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群]] ([[世界遺産]]) * [[スワーダ・アル・ムダファーラ]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Oman|Oman}} {{Wikivoyage|Oman|オマーン{{en icon}}}} ; 政府 :* [http://www.omanet.om/english/home.asp Ministry of Information, Sultanate of Oman] {{en icon}} :* {{Facebook|omanembassy|Embassy of the Sultanate of Oman - Tokyo(在日オマーン大使館の公式facebook)}} {{en icon}} ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/oman/ 日本外務省 - オマーン] {{ja icon}} :* [https://www.oman.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在オマーン日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 :* [http://www.omantourism.gov.om/ オマーン観光省] {{en icon}} :* [http://beitou.web.fc2.com/index.html OMAN 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ユーゴスラビア
ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。 国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義を生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。 なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。 国家の多様性から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。 首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年にユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。 しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。 バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。 ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈУГОСЛАВИЈА(スロベニア語: [juɡɔˈslàːʋija]、セルビア・クロアチア語: [juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija])。 日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた。 ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。 第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。 1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。 憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年1月6日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。 国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。 1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。 アレクサンダル暗殺後のユーゴスラビア政府はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認め、クロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。 ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。 同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印したが、 翌4月6日朝にはドイツ国防軍がイタリア王国、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始。 4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した。 ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。 ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。 ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスのロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし、旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。 大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍 など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。 社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。 第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。 このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。 1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。 東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。 1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている。 セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。 1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。 クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。 一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。 このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。 これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。 すべてカラジョルジェヴィチ家。 1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。 1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。 1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。 「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照。 1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。 1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。 1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。 1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。 また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。 通貨はユーゴスラビア・ディナールだった。 セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。 宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。 言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。 サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は1930年および1962年の4位である。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。 1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990 FIFAワールドカップでは準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。 しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応してFIFA、UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録はユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ→セルビアが引き継いでいる。 旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。1998 FIFAワールドカップではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002 FIFAワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに2014 FIFAワールドカップではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、2018 FIFAワールドカップではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。 サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。 第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。 有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。 しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年リレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。 ユーゴスラビアは1996年アトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年シドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義を生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国家の多様性から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年にユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈУГОСЛАВИЈА(スロベニア語: [juɡɔˈslàːʋija]、セルビア・クロアチア語: [juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija])。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年1月6日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アレクサンダル暗殺後のユーゴスラビア政府はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認め、クロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印したが、 翌4月6日朝にはドイツ国防軍がイタリア王国、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始。 4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスのロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし、旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍 など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "すべてカラジョルジェヴィチ家。", "title": "指導者" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "通貨はユーゴスラビア・ディナールだった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は1930年および1962年の4位である。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990 FIFAワールドカップでは準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応してFIFA、UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録はユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ→セルビアが引き継いでいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。1998 FIFAワールドカップではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002 FIFAワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに2014 FIFAワールドカップではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、2018 FIFAワールドカップではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年リレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアは1996年アトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年シドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。", "title": "文化" } ]
ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。 国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義を生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。 なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。 国家の多様性から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。
{{Otheruses|ユーゴスラビア全体|ユーゴスラビアの国家の一覧}} {{参照方法|date=2021年6月}} [[File:History of Yugoslavia.svg|300px|thumb|ユーゴスラビアの変遷]] '''ユーゴスラビア'''([[セルビア・クロアチア語]]: Jugoslavija/{{lang|sr|Југославија}})は、かつて[[東南ヨーロッパ|南東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]地域に存在した、[[南スラヴ人]]を主体に合同して成立した[[国家]]の枠組みである。 国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ユーゴスラビアとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2-176528 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-08 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>、こう名乗っていたのは[[1929年]]から[[2003年]]までの期間であるが、実質的な枠組みとしては[[1918年]]に建国された[[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]]に始まり、[[2006年]]6月に[[モンテネグロ]]の独立で解体された[[セルビア・モンテネグロ]]までを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後は[[チトー]]によって、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]となり、1948年にソ連率いる[[コミンフォルム]]から追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義を生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった<ref name=":0" />。また、その間に国名や[[国家体制]]、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する([[#国名]]参照)。 なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった[[北マケドニア]]が現在の国名に改名する[[2019年]]までの間、同国の[[国際連合]]等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。 国家の多様性から『七つの国境{{efn|イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア}}、六つの共和国{{efn|スロベニア、クロアチア、セルビア([[ヴォイヴォディナ]]、[[コソボ]]の2自治州が含まれる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア}}、五つの民族{{efn|スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、ムスリム人(ユーゴスラビア内ムスリム)。 また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。}}、四つの言語{{efn|スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語}}、三つの宗教{{efn|カトリック、正教、イスラム教。 宗教はスロベニア、クロアチアらほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。}}、二つの文字{{efn|ラテン文字とキリル文字}}、一つの国家』と形容される<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=特集 西バルカン地域 多民族社会の平和を目指して(1/4ページ) {{!}} 広報誌・パンフレット・マンガ {{!}} JICAについて - JICA|url=https://www.jica.go.jp/publication/monthly/0708/01.html|website=www.jica.go.jp|accessdate=2021-04-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=映画『灼熱』 公式サイト |url=http://www.magichour.co.jp/syakunetsu/ |website=www.magichour.co.jp |accessdate=2022-03-08 |language=ja}}</ref>。{{main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家}} == 概要 == 首都は[[ベオグラード]]。[[1918年]]に[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]を主体とした'''[[セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]]'''(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。[[1929年]]に'''[[ユーゴスラビア王国]]'''に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間は[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]率いる[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]を中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置した'''ユーゴスラビア民主連邦'''が正式なユーゴスラビア政府となり[[社会主義]]体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦は'''ユーゴスラビア連邦人民共和国'''に改称された{{efn|ユーゴスラビア連邦人民共和国の国家規模は([[社会主義国]]の連邦として)[[ソ連]]に次ぐものであった。}}。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国は'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]'''に改称された。 しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、[[1991年]]から[[2001年]]まで続いた[[ユーゴスラビア紛争]]により解体された。その後も[[連邦]]に留まった[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]により[[1992年]]に'''[[ユーゴスラビア連邦共和国]]'''が結成されたものの、[[2003年]]には緩やかな国家連合に移行し、国名を'''[[セルビア・モンテネグロ]]'''に改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も[[2006年]]にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]、[[北マケドニア]]となっている。また、セルビア国内の自治州であった[[コソボ]]は[[2008年]]にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり<ref>[http://www.kosovothanksyou.com/ KosovaThanksYou コソボ独立を承認した国の一覧]</ref>、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。 [[バルカン半島]]に位置し、北西に[[イタリア]]、[[オーストリア]]、北東に[[ハンガリー]]、東に[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、南に[[ギリシア]]、南西に[[アルバニア]]と国境を接し、西ではアドリア海に面していた。 == 国名 == ユーゴスラビアは[[スロベニア語]]、および[[セルビア・クロアチア語]]の[[ラテン文字]]表記で'''{{lang|sh|Jugoslavija}}'''、[[キリル文字]]表記で'''{{lang|sh|ЈУГОСЛАВИЈА}}'''(<small>スロベニア語:</small> {{IPA-sl|juɡɔˈslàːʋija|}}、{{IPA-sh|juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija|lang}})。 日本語での表記は'''ユーゴスラビア'''もしくは'''ユーゴスラヴィア'''である。しばしば'''ユーゴ'''と略される。過去には'''ユーゴースラヴィア'''という表記が使われていた<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-284.pdf 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について]</ref>。 ユーゴスラビアは「[[南スラヴ人]]の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、[[1918年]]のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]統治時代の[[1929年]]に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。 === 国名の変遷 === * [[1918年]] - [[セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]] * [[1929年]] - [[ユーゴスラビア王国]] * [[1943年]] - ユーゴスラビア民主連邦 * [[1946年]] - ユーゴスラビア連邦人民共和国 * [[1963年]] - [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]] * [[1992年]] - [[ユーゴスラビア連邦共和国]] * [[2003年]][[2月5日]] - [[セルビア・モンテネグロ]]独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。 == 歴史 == === 王国の成立 === {{Main|ユーゴスラビア王国}} [[ファイル:Flag of Yugoslavia (1918–1943).svg|thumb|left|200px|ユーゴスラビア王国の国旗]] [[第一次世界大戦]]中、[[汎スラヴ主義]]を掲げて[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]と戦った[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]は[[コルフ宣言]]を発表し、戦後の[[バルカン半島|バルカン]]地域の枠組みとして既に独立していた[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に併せて[[オーストリア・ハンガリー帝国]]内の[[クロアチア]]、[[スロベニア]]を合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。 [[1918年]]に第一次世界大戦が終了し[[オーストリア・ハンガリー帝国]]が解体されると[[クロアチア]]、[[スロベニア]]も[[オーストリア・ハンガリー帝国]]の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年に[[ユーゴスラビア王国]]へ改称)」が成立した。 憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立した[[ニコラ・パシッチ]]内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望む[[クロアチア農民党|クロアチア共和農民党]]などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「[[ヴィドヴダン憲法]]」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)の[[スチェパン・ラディチ|スティエパン・ラディッチ]]が暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、[[1929年]][[1月6日]]には国王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル]]が憲法を停止して[[1月6日独裁制|独裁制]]を布告し、'''ユーゴスラビア王国'''と国号を変更した。 [[ファイル:Kralj aleksandar1.jpg|thumb|right|200px|国王アレクサンダル1世]] 国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの[[バノヴィナ|州]](バノヴィナ)を配置した。 [[1931年]]に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。[[1934年]]、国王アレクサンダルが[[フランス]]外相とともに[[マルセイユ]]で[[暗殺]]され、[[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]]が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織[[ウスタシャ]]や、[[マケドニア]]の民族主義組織・[[内部マケドニア革命組織]]によるものと考えられている。 アレクサンダル暗殺後のユーゴスラビア政府はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、[[1939年]]にはクロアチア人の自治権を大幅に認め、{{仮リンク|バノヴィナ・クロアチア|sh|Banovina Hrvatska|en|Banovina of Croatia|label=クロアチア自治州}}を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループの[[ウスタシャ]]は、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。 === 第二次世界大戦 === [[Image:Axis occupation of Yugoslavia, 1941-43.png|thumb|right|250px]] [[Image:Axis occupation of Yugoslavia, 1943-44.png|thumb|right|250px]] ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、[[1941年]][[3月25日]]には[[日独伊三国軍事同盟]]に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、[[3月26日]]から[[3月27日|27日]]夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。 同年[[4月5日]]、ユーゴスラビアは[[ソビエト連邦|ソ連]]との間で[[不可侵条約|友好不可侵協定]]に調印した<ref>ユーゴ、ソ連と友好不可侵協定調印『東京日日新聞』昭和16年4月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>が、 翌[[4月6日]]朝には[[ドイツ国防軍]]が[[イタリア王国]]、[[ハンガリー]]、[[ブルガリア]]等の同盟国と共に[[ユーゴスラビア侵攻]]を開始<ref>ドイツ軍、ユーゴ・ギリシャへ侵入(『東京日日新聞』昭和16年4月7日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387</ref>。 [[4月17日]]、ユーゴスラビアはドイツ軍に[[無条件降伏]]の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した<ref>ユーゴ全軍が無条件降伏(『東京日日新聞』昭和16年4月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p388</ref>。 ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域では[[ウスタシャ]]を新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、[[ミラン・ネディッチ]]将軍率いる親独傀儡政権「[[セルビア救国政府]]」を樹立させた。 ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、'''[[クロアチア独立国]]'''を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、[[ヤセノヴァツ強制収容所|ヤセノヴァツ]]などの[[強制収容所]]にセルビア人を連行して虐殺した。 ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府は[[イギリス]]の[[ロンドン]]に亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心とした[[チェトニック]]を組織してドイツ軍に対抗した。しかし、旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任する[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)]]の率いる'''[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]'''だった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。 === 連邦人民共和国の成立 === {{Main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国}} [[ファイル:Flag of SFR Yugoslavia.svg|thumb|left|200px|[[ユーゴスラビアの国旗|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗]]]] 大戦中の[[1943年]]に成立した'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア民主連邦]]'''は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]'''の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党([[1952年]]に[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]と改称)は、[[1948年]]にチトーが[[ヨシフ・スターリン]]と対立して[[コミンフォルム]]を追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出した[[マーシャル・プラン]]を受け入れる姿勢を取り<ref>W. A. Brown & R. Opie, ''American Foreign Assistance, 1953''</ref>、東ヨーロッパ諸国を[[衛星国]]として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟である[[ワルシャワ条約機構]]に加盟せず、[[1953年]]には[[ギリシャ]]や[[トルコ]]との間で[[集団的自衛権]]を明記した軍事協定{{仮リンク|バルカン三国同盟|en|Balkan Pact (1953)}}を結んで[[北大西洋条約機構]]と事実上間接的な同盟国となる。[[社会主義国]]でありながら1950年代は米国の{{仮リンク|相互防衛援助法|en|Mutual Defense Assistance Act}}の対象となって[[M47パットン]]、[[M4中戦車]]、[[M36ジャクソン]]、[[M18 (駆逐戦車)|M18駆逐戦車]]、[[M3軽戦車]]、[[M8装甲車]]、[[M3装甲車]]、[[M7自走砲]]、[[M32 戦車回収車]]、[[M25戦車運搬車]]、[[GMC CCKW]]、[[M3ハーフトラック]]、[[M4トラクター]]、[[デ・ハビランド モスキート]]、[[P-47 (航空機)|P-47]]、[[F-86 (戦闘機)|F-86]]、[[F-84]]、[[T-33 (航空機)|T-33]]など大量の西側の兵器を米英から供与され<ref>[http://web.inter.nl.net/users/spoelstra/g104/yu.htm Sherman Register - Yugoslavia]</ref><ref>[https://acesflyinghigh.wordpress.com/2016/01/16/yugoslav-air-force-combat-aircraft-1953-to-1979-the-jet-age-i-us-soviet-aircraft/ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)]</ref>、1960年代には[[スターリン批判]]で[[ニキータ・フルシチョフ]]が指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から[[国際連合緊急軍]]<ref>[http://www.unmultimedia.org/s/photo/detail/147/0147113.html United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force]</ref> など[[国際連合平和維持活動]]にも積極的に参加し、[[冷戦]]下における安全保障策として[[非同盟運動]](Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、[[特殊潜航艇]] なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後の[[ユーゴスラビア紛争]]で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。 [[社会主義]]建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき[[自主管理社会主義]]である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の[[労働組合]]によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に[[市場]]を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、[[市場経済]]の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。 第二のユーゴスラビアは[[スロベニア社会主義共和国|スロベニア]]、[[クロアチア社会主義共和国|クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[セルビア社会主義共和国|セルビア]]、[[モンテネグロ社会主義共和国|モンテネグロ]]、[[マケドニア社会主義共和国|マケドニア]]の6つの共和国と、セルビア共和国内の[[ヴォイヴォディナ社会主義自治州|ヴォイヴォディナ]]と[[コソボ社会主義自治州|コソボ]]の2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは[[多民族国家]]であり、その統治の難しさは後に「七つの[[国境]]、六つの[[共和国]]、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの[[国家]]」と表現された。 {{main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家}} このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。[[1963年]]には国号を'''ユーゴスラビア社会主義連邦共和国'''に改称。[[1974年]]には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい[[憲法]]が施行された。 [[1980年]]にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に[[西ヨーロッパ]]に近いため経済的に最も成功していたが、[[1980年代]]中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。 [[東欧革命]]が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、[[1990年]]に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアでは[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]率いるセルビア[[民族主義|民族中心主義]]勢力が台頭した。クロアチアでは[[フラニョ・トゥジマン]]率いる民族主義政党・[[クロアチア民主同盟]]が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「[[反官憲革命]]」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌[[1991年]]にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。 === 崩壊 === {{Main|{{仮リンク|ユーゴスラビアの崩壊|en|Breakup of Yugoslavia|redirect=1}}}} {{See also|ユーゴスラビア紛争}} [[ファイル:Breakup of Yugoslavia.gif|thumb|right|240px|1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷]] 1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。[[ドイツ]]の[[ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー]]外務大臣は同年9月4日に[[欧州共同体]]内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。{{仮リンク|フランク・ウンバッハ|de|Frank Umbach}}はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている<ref>{{Cite news |url = https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-6/iciyanagi.htm|title = 旧ユーゴ内戦と国際社会 |accessdate = 2017-07-11}}</ref>。 セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に[[十日間戦争]]、クロアチアとの間に[[クロアチア紛争]]が勃発し、[[ユーゴスラビア紛争]]が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。[[1992年]]4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・[[ボシュニャク人]]([[ムスリム人]])の対立が軍事衝突に発展し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。 === 連邦共和国の成立 === {{Main|ユーゴスラビア連邦共和国}} [[1992年]][[4月28日]]に、連邦に留まっていた2つの共和国、[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]と[[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]]によって[[人民民主主義]]、社会主義を放棄した「[[ユーゴスラビア連邦共和国]]」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。 クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停や[[北大西洋条約機構|NATO]]の介入によって、[[1995年]]の[[デイトン合意]]によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。[[1998年]]には、過激派の[[コソボ解放軍]](KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間に[[コソボ紛争]]が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、[[1999年]]に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには[[国際連合コソボ暫定行政ミッション]](UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷|旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)]]に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。 一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は[[通貨]]、[[関税]]、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、[[2003年]][[2月5日]]にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「'''[[セルビア・モンテネグロ]]'''」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。 このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。[[2006年]][[5月23日]]に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年[[6月3日]]にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。 これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。 {{Yugo-timeline}} == 指導者 == === 王国 === すべて[[カラジョルジェヴィチ家]]。 # [[ペータル1世 (セルビア王)|ペータル1世]](1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王) # [[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]](1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王) # [[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]](1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年[[枢軸国]]の侵略により[[ロンドン]]亡命) === 共産主義者同盟 === # [[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)]](1939年3月-1980年5月4日) #* [[ブランコ・ミクリッチ]](クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理 #* [[ステヴァン・ドロニスキ]](ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理 # ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日) # [[ラザル・モイソフ]](マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日) # [[ドゥシャン・ドラゴサヴァツ]](クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日) # [[ミティア・リビチッチ]](スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日) # [[ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ]](セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日) # [[アリ・シュクリヤ]](コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日) # [[ヴィドイェ・ジャルコヴィチ]](モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日) # [[ミランコ・レノヴィツァ]](ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日) # [[ボシュコ・クルニッチ]](ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日) # [[スティペ・シュヴァル]](クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日) # [[ミラン・パンチェフスキ]](マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日) === 連邦人民共和国・社会主義連邦共和国 === # [[イヴァン・リヴァル]](1945年12月29日 - 1953年1月14日) # ヨシップ・ブロズ・ティトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領 # [[ラザル・コリシェヴスキ]](1980年5月4日 - 1980年5月15日) # [[ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ]](1980年5月15日 - 1981年5月15日) # [[セルゲイ・クライゲル]](1981年5月15日 - 1982年5月15日) # [[ペータル・スタンボリッチ]](1982年5月15日 - 1983年5月15日) # [[ミカ・シュピリャク]](1983年5月15日 - 1984年5月15日) # [[ヴェセリン・ジュラノヴィッチ]](1984年5月15日 - 1985年5月15日) # [[ラドヴァン・ヴライコヴィッチ]](1985年5月15日 - 1986年5月15日) # [[シナン・ハサニ]](1986年5月15日 - 1987年5月15日) # [[ラザル・モイソフ]](1987年5月15日 - 1988年5月15日) # [[ライフ・ディスダレヴィッチ]](1988年5月15日 - 1989年5月15日) # [[ヤネス・ドルノウシェク]](1989年5月15日 - 1990年5月15日) # [[ボリサヴ・ヨヴィッチ]](1990年5月15日 - 1991年5月15日) # [[スティエパン・メシッチ]](1991年6月30日 - 1991年10月3日) #* [[ブランコ・コスティッチ]](1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理 === 連邦共和国 === # [[ドブリツァ・チョシッチ]](1992年6月15日 - 1993年6月1日) #* [[ミロシュ・ラドゥロヴィッチ]](1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理 # [[ゾラン・リリッチ]](1993年6月25日 - 1997年6月25日) #* [[スルジャ・ボジョヴィッチ]](1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理 # [[スロボダン・ミロシェヴィッチ]](1997年7月23日 - 2000年10月7日) # [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]](2000年10月7日 - 2003年3月7日) == 政治 == 1918年から1941年までは[[カラジョルジェヴィチ家]]による王制。 1945年以降は[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその[[衛星国]]と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。 [[1989年]]にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌[[1990年]]に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。 == 地方行政区分 == 「[[ユーゴスラビアの構成体一覧]]」も参照。 === 1918年-1941年 === {{Main|ユーゴスラビア王国の地方行政区分}} 1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。[[1939年]]、[[ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意]]に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。 * [[ドラヴァ州]](Dravska banovina) * [[サヴァ州]](Savska banovina) * [[プリモリェ州]](Primorska banovina) * [[ヴルバス州]](Vrbaska banovina) * [[ドナウ州]](Dunavska banovina) * [[ドリナ州]](Drinska banovina) * [[モラヴァ州]](Moravska banovina) * [[ゼタ州]](Zetska banovina) * [[ヴァルダル州]](Vardarska banovina) * ベオグラード市(Grad Beograd、[[パンチェヴォ]]および[[ゼムン]]を含む) === 1945年-1990年 === {{Yugoslavia Labelled Map}} {{Main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分}} 1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。[[1974年]]には憲法を改正し、セルビア共和国の一部である[[ヴォイヴォディナ自治州 (1945年-1963年)|ヴォイヴォディナ自治州]]と[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)|コソボ自治州]]を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。 * [[スロベニア社会主義共和国]] * [[クロアチア社会主義共和国]] * [[マケドニア社会主義共和国]] *[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]] * [[セルビア社会主義共和国]] ** [[ヴォイヴォディナ社会主義自治州]] ** [[コソボ社会主義自治州]]<!-- ここはユーゴスラビア時代の行政区分の項目です。2008年以前の歴史のなかのコソボを独立させることはできません。 --> * [[モンテネグロ社会主義共和国]] === 1990年以降 === 1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連の[[ユーゴスラビア紛争]]が起こった。 * [[スロベニア共和国 (1990年-1991年)|スロベニア共和国]]([[1991年]]6月に独立を宣言し、[[スロベニア|スロベニア共和国]]となった) * [[クロアチア共和国 (1990年-1991年)|クロアチア共和国]](1991年6月に独立を宣言し、[[クロアチア|クロアチア共和国]]となった) * [[マケドニア共和国 (1991年)|マケドニア共和国]](1991年に独立を宣言、[[1992年]]3月に完全独立し、マケドニア共和国となった。[[2019年]]に[[北マケドニア|北マケドニア共和国]]に改称) * [[ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国 (1990年-1992年)|ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国]](1992年3月に独立を宣言し、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国]]となった。その後内戦に突入し、[[1995年]]12月和平に調印) * [[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]](2003年に「[[セルビア・モンテネグロ]]」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、[[セルビア|セルビア共和国]]となった) ** [[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]](セルビア共和国の[[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]]となっている) ** [[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]](2008年2月17日に独立を宣言し、[[コソボ|コソボ共和国]]となった)<!-- ここはユーゴスラビア時代の行政区分の項目です。2008年以前の歴史のなかのコソボを独立させることはできません。 --> * [[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]](2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立し[[モンテネグロ]]となった) == 地理 == === 河川 === * [[ドナウ川]] * [[サヴァ川]] * [[モラヴァ川 (セルビア)|モラヴァ川]] * [[ヴァルダル川]] * [[ドリナ川]] * [[ウナ川]] * [[ネレトヴァ川]] === 山脈 === * [[ディナル・アルプス]] == 経済 == 1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の[[社会主義国|社会主義国家]]とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を'''[[自主管理社会主義|自主管理方式]]'''と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。 また西側資本の受け入れにも積極的であり、[[西ドイツ]](当時)のスニーカーメーカーだった[[アディダス]]社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。 通貨は[[ユーゴスラビア・ディナール]]だった。 == 国民 == [[セルビア人]]、[[クロアチア人]]が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在として[[スロベニア人]]、[[モンテネグロ人]]、[[マケドニア人]]があった。[[ボシュニャク人]]も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、[[アルバニア人]]のために南部にコソボ自治州が、[[ハンガリー人]]のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。[[イタリア人]]も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「[[ユーゴスラビア人]]」であると名乗る者もあった。 宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主に[[カトリック教会|カトリック]]、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に[[正教会]]、[[ボシュニャク人]]は主に[[イスラーム]]である。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えて[[ムスリム人]]という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。 言語は[[セルビア・クロアチア語]]、[[スロベニア語]]、[[マケドニア語]]であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴って[[クロアチア語]]、[[セルビア語]]、[[ボスニア語]]の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語は[[ラテン文字]]と[[キリル文字]]二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。 == 文化 == === スポーツ === {{Main|ユーゴスラビアのスポーツ}} ==== サッカー ==== サッカーの強豪国のうちの一つだった。[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]には[[1930年]]の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は[[1930 FIFAワールドカップ|1930年]]および[[1962 FIFAワールドカップ|1962年]]の4位である。[[UEFA欧州選手権|ヨーロッパ選手権]]では[[1960 欧州ネイションズカップ|1960年大会]]、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]での準優勝がある。年齢別の大会では[[1987年]]の[[1987 FIFAワールドユース選手権|ワールドユース]]での優勝がある。 [[1960年代]]以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのは[[ドラガン・ストイコビッチ]]、[[デヤン・サビチェビッチ]]、[[ロベルト・プロシネチキ]]、[[ズボニミール・ボバン]]、[[スレチコ・カタネッツ]]、[[ダルコ・パンチェフ]]を擁した[[1980年代]]後半になってからで、監督は[[イビチャ・オシム]]だった。[[1990年]][[5月13日]]には国内リーグの[[ディナモ・ザグレブ]]対[[レッドスター・ベオグラード]]戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、[[1990 FIFAワールドカップ]]では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だった[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。 しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍が[[サラエヴォ]]に侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して[[国際サッカー連盟|FIFA]]、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国である[[スウェーデン]]入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録は[[サッカーセルビア・モンテネグロ代表|ユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ]]→[[サッカーセルビア代表|セルビア]]が引き継いでいる。 旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。[[1998 FIFAワールドカップ]]ではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも[[UEFA欧州選手権2000|2000年のヨーロッパ選手権]]本大会、[[2002 FIFAワールドカップ]]と続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに[[2014 FIFAワールドカップ]]ではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、[[2018 FIFAワールドカップ]]ではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。 ==== オリンピック ==== サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、[[近代オリンピック]]の重要な参加国となった。[[夏季オリンピック]]には建国後最初の大会になる[[1920年]]の[[アントワープオリンピック]]から参加した(前身のセルビア王国としては[[1912年]]の[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]で初参加)。[[1924年]]の[[パリオリンピック (1924年)|パリオリンピック]]では[[レオン・シュツケリ]]が男子[[体操]]の個人総合と種目別の[[鉄棒]]で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。 第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、[[1984年]]には社会主義国初となる[[冬季オリンピック]]として、招致活動で[[札幌市]]を抑えて[[サラエボオリンピック]]を開催した。この大会では[[ユーレ・フランコ]]が[[アルペンスキー]]の男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行った[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]にも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の[[1988年]][[ソウルオリンピック]]でも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。 有力種目は[[ハンドボール]]と[[水球]]だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]で金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子[[水球]]はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。 しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]は、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、[[国際オリンピック委員会]](IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「[[1992年バルセロナオリンピックの独立参加選手団|個人参加]]」として[[五輪旗]]と[[オリンピック賛歌]]の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は[[射撃]]で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、[[1994年リレハンメルオリンピック]]への参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。 ユーゴスラビアは[[1996年アトランタオリンピック]]で正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、[[2000年シドニーオリンピック]]がユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子[[バレーボール]]の金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社 *ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房 *柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社 *スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社 *柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店 *ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社 *徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房 *千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社 *千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房 *マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社 *最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店 *高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社 == 関連項目 == * [[ユーゴスラビア関係記事の一覧]] ** [[ユーゴスラビア紛争]] ** [[ボスニア紛争]] ** [[セルビア・モンテネグロ]] ** [[ユーゴスラビア共産主義者同盟]] ** [[ユーゴスラビア人]] ** [[ユーゴスラビア辞書協会百科事典]] * [[バルカン半島の歴史]] * [[ヨーロッパ史]] * [[アンダーグラウンド (映画)]] * [[石の花 (坂口尚の漫画)]] * [[さよなら妖精]] ([[米澤穂信]]) * [[ユーゴスラビア (小惑星)]](ユーゴスラビアに因んで命名された小惑星) * [[ロヴロ・フォン・マタチッチ]] * [[ユーゴノスタルギヤ]]: 無くなったユーゴスラビアに対する[[懐古]]感情。 * {{仮リンク|ユーゴスラビアの政治犯|en|Political prisoners in Yugoslavia}} == 外部リンク == * [https://royalfamily.org/ 最後の国王ペータル2世の皇太子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチの公式ウェブサイト]{{en icon}} * [https://www.imdb.com/title/tt1789083/ The Weight of Chains (2010)] - ユーゴスラビア解体を招いたアメリカ、EUの介入を暴いたカナダのドキュメンタリー映画 * {{NHK for School clip|D0005402949_00000|旧ユーゴスラビア}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうこすらひあ}} [[Category:ユーゴスラビア|*]] [[Category:汎スラヴ主義]] [[Category:かつてバルカンに存在した国家]] [[Category:過去の国際連合加盟国]]
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ネパール
ネパール(ネパール語: नेपालcode: ne is deprecated )は、南アジアに位置する連邦共和制国家。首都であり最大の都市はカトマンズ。 東、西、南の三方をインドに、北方を中華人民共和国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約147,000 km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教も仏教の開祖釈迦(仏陀)の生誕地であり、ヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズムなどとその習合が混在する。 農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一四角形でない国旗を持つ国である。 2008年に王制を廃止、2015年9月公布の憲法(英語版)により、7州による連邦制国家となった。 正式名称はネパール語のデバナガリ(デーヴァナーガリー)文字でनेपाल、ラテン文字転写表記は nepāl。 公式の英語表記は Nepal。 日本語表記は、ネパール。漢字表記は、尼婆羅。 国際連合におけるネパールの正式国名の変遷は以下の通り。 2020年9月27日、K.P.シャルマ・オリ内閣は正式国名を「ネパール連邦民主共和国」から政体名を含まない「ネパール」とすることを閣議決定。後日各政府機関へ通達した。これに対して議会委員会は、2015年憲法8章83条に「ネパール連邦民主共和国」と記載されているとして異議を唱えた。また最高裁判所は今回の決定について書面での回答を求めた。変更を支持する憲法専門家の主張では、違憲性はないと判断している。 オリ政権は2020年11月16日付けで国名変更を国際連合へ通達し、2020年12月14日に承認された。これに続き、2021年1月に中央情報局(CIA)のオンライン版ザ・ワールド・ファクトブックと国際標準化機構(ISO)は正式国名を「ネパール」へ変更した。 国旗は1962年12月16日に採択されたものであるが、2008年から連邦民主共和制に基づく新政府へ移行した現在もこの図案を採用している。 4世紀にインド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立した。リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた。また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営。またパンチャーヤト制やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。 リッチャヴィ朝の衰退に乗じて9世紀にはデーヴァ朝が興り、バクタブルに王都を築いた。ネワール文化が栄えた。続いて14世紀末にはマッラ朝が確立されたが、1450年ごろにバクタプル王国(バクタプル・マッラ朝)からカトマンズ王国(カトマンズ・マッラ朝)が独立する。その後1619年までにマッラ朝、パタン王国(パタン・マッラ朝)もカトマンズ王国から独立し、三王国並立時代となる。 マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、18世紀前半にはカトマンズ西方の山地でゴルカ王国(ゴルカ朝)が勢力を拡大する。そして1768年から1769年にかけて、第10代ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハによってマッラ王朝は滅ぼされる。そして350の小王国に分かれていたネパールが統一され、ゴルカ朝はカトマンズを首都にネパール王国を作った。 2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。 これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。 2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。ここにネパール王国及びゴルカ朝はその歴史に幕を閉じた。 2009年5月4日、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップのルークマングド・カタワル陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。 5月23日、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立によりマーダブ・クマール・ネパールが選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。しかしネパール首相は2010年6月に辞任を表明し、制憲議会は後継首相を選出することができない混乱状態に陥った。2011年1月にカナルが首相となったが辞任し、8月29日に毛派のバッタライが首相となった。しかし毛派の内紛も収まらず、憲法制定のための合意もできない状態が続いたままで制憲議会は任期満了を迎えた。2013年3月に最高裁長官のレグミを「議長」とする選挙管理内閣が発足し、新たな制憲議会選挙を11月29日に行うことが決定した。 2015年9月20日、新憲法が公布された。これにより、7つの州と、753の地方政府が成立した。 大統領は政治的実権を持たない、儀礼的な国家元首と規定されている。 大統領・首相は連邦議会における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は連邦議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領は軍の最高指揮権は持つが象徴的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領にはラーム・バラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が当選している。2015年9月の新憲法制定後、元国防相のビドヤ・デビ・バンダリが選出された。 大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。 毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。 一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、G.P.コイララを大統領に推してきた。統一共産党は前総書記マーダブ・クマール・ネパールを大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制活動家・ラム・ラジャ・プラサド・シンを支持、これをマデシ3党も支持したが、マデシ人権フォーラムは独自の副大統領候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派ラーム・バラン・ヤーダブ代表幹事(マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった。 7月19日の制憲議会では副大統領にマデシ人権フォーラムが推薦したパラマーナンダ・ジャー(305票)が当選したものの大統領選はラーム・バラン・ヤーダブ(283票)、ラム・ラジャ・プラサド・シン(270票)とも過半数を得られず、7月21日、再選挙することになった決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けたラーム・バラン・ヤーダブが、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。ラム・ラジャ・プラサド・シンは282票にとどまった。(欠席4)。 また7月19日の閣議で決定された官職の序列は以下の通り。第1位-大統領(元首)、第2位-首相、第3位-最高裁長官、第4位-制憲議会議長、第5位-副大統領。 なお、首相にはネパール共産党毛沢東主義派のプラチャンダ議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。7月22日毛派の中央委員会で野党の立場をとることを議決。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派のプラチャンダ議長を首相に推すこととなった。 8月15日投票が行われた結果、有効投票数551票の内、プラチャンダ(プシュパ・カマル・ダハル)が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推したシェール・バハドゥル・デウバ元首相は113票に留まった。プラチャンダ首相は連立与党(毛沢東派、統一共産党、マデシ人権フォーラム他)と組閣交渉に入ったが、最終的に8月31日、全閣僚が就任し、プラチャンダ内閣が成立した。制憲議会選挙から4か月でようやく新政権が発足した。 2009年5月3日、プラチャンダが毛派民兵組織(ネパール人民解放軍)の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌5月4日、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。 2009年5月23日、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、統一共産党元総書記・マーダブ・クマール・ネパールが統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票で当選した。 その後、1年前後で首相が交代していたが、第2次K.P.シャルマ・オリ政権は3年余り続いた。2021年7月13日、シェール・バハドゥル・デウバが首相に任命された。 本格憲法制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。2008年4月10日に選挙が行われた。通常の立法機関としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。議長は暫定的にクル・バハドゥール・グルン(ネパール会議派)が務めていたが、7月22日正式の議長としてスバス・ネムワン(統一共産党出身)が満場一致で選出された。 制憲議会は2次にわたり、2015年9月20日に新憲法公布、2017年11月26日連邦議会選挙が実施された。 2019年現在の連邦議会は、両院制であり、上院に当たる国民議会(National Assembly)が59議席、下院に当たる代議院(House of Representatives)が275議席、合計334議席となっている。両院とも、2019年時点で殆どを下記の4党が占めている。特に、ネパール共産党は、国民議会で59議席中42議席、代議院で275議席中174議席を占める。 政党 主要政党の詳細は各記事を、小政党の詳細はネパールの政党を参照。 ネパールの政府機構は非常に複雑である。官僚機構は内閣の各大臣(Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChief Secretary(直訳すれば官房長官、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば事務次官のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。 ネパールの外交の基本方針は非同盟中立である。また、隣国のインドと中国と深い関係を持っている。条約により、インドとネパールの国民はビザなし、パスポートなしで両国を行き来できる。また、ネパール国民はインドで自由に働くことができる。このようにネパールとインドが密接な関係を持っているにもかかわらず、ネパールはしばしば、問題の多い中印関係に翻弄されてきた。アメリカは長年、毛派をテロ集団と位置づけ、国王を援助してきたが、民主的な選挙で第一党となったことで、友好的な態度に変わった。 経済的依存が大きい。ネパール南部はマデシと呼ばれるインド移民がおり親インド的でインド政府は彼らを支援し影響力を維持しようとしている。領土問題もある。共産党に政権が変わってからはマデシの野党議員が領土問題でネパール政府の意見に異を唱えるなどインドの影響力の増加から反インド政策を打ち出している。 2008年8月22日、プラチャンダ内閣の外務大臣としてマデシ人権フォーラム党首・ウペンドラ・ヤーダブが就任した。 2009年6月4日、マーダブ・クマール・ネパール内閣の外務大臣として、ネパール会議派所属のスジャータ・コイララ(英語版)(女性)が就任した。 社会主義や共産主義を掲げる政党が多い為、現在においても親中政権だと言われている。 2008年中国のチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようネパールに要請した。2008年4月17日、ネパール警察は、中国との良好な関係を維持するため500人以上のチベット人の活動家を逮捕した。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、中国からの要請により、ネパールのチベット人は、政治的活動、文化活動、宗教活動を厳しく制限され、ネパール治安部隊から日常的に人権侵害を受けているとしている。また、ネパールは一部のチベット人を中国へ強制送還しているともされ、これはネパール政府と国連難民高等弁務官事務所との紳士協定や、ネパールにチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している。 8月15日選出されたプラチャンダ元首相は、最初の外遊として北京オリンピックの閉会式への参加という形で訪中し、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談している。慣例ではネパール首相が最初に訪れる外国はインドであり、異例の外交といえる。 2018年9月オリ首相は中国と天津など海港4ヶ所、蘭州など陸港3ヵ所の使用を合意。貿易を依存するインドによる度々の国境閉鎖が背景にあるという。 日本とネパールの関係は良好である。要点は次の通りである。 2007年10月10日にはサハーナ・プラダン元外相が訪日し、高村正彦外相と公式に会談した。プラダンは日本による投票箱の供与や国連監視団の協力に感謝し、日本の国連常任理事国入りを支持した(国連総会でも日本の常任理事国入りを支持する演説を行っている)。 また、毛沢東派のプラチャンダ議長は政権就任前、日本にガジュレル政治局員を非公式に派遣した。ガジュレルは、日本・ネパール友好議員連盟会長の二階俊博衆議院議員や当時の木村仁外務副大臣と会談し、また、共同通信のインタビューも受けている。 2008年7月16日には日本から宇野治外務大臣政務官がネパールを訪問、当時のギリジャー・プラサード・コイララ首相のほか、毛派のプラチャンダ議長ら、各党の幹部と個別に会談した。制憲議会発足後初めての要人訪問である。 また、8月中旬、ネパール統一共産党前総書記のマーダブ・クマール・ネパール元副首相(のちに首相)が訪日している。 2009年2月6日、プラチャンダ内閣の閣僚として初めてバーブラーム・バッタライ財務大臣が訪日した。 2009年6月4日現在の日本の在ネパール特命全権大使は水野達夫、ネパールの在日本特命全権大使はガネシュ・ヨンザン・タマンである。 2018年1月現在の駐ネパール日本大使は小川正史、駐日ネパール大使はプラティヴァ・ラナである。 社団法人日本ネパール協会が交流の中心になっている。 ネパール軍は、陸軍航空隊を含むネパール陸軍から構成される。王制時代は「王立ネパール陸軍」(Royal Nepal Army)と呼ばれていた。95,000人の兵員、各地方に置かれる6個師団および、航空旅団、空挺旅団、治安旅団の独立の3旅団からなる。 志願兵制であり、軍への登録は18歳から可能である。2004年の統計で、ネパールの軍事予算は9920万ドルで、GDP比は1.5%である。武器、装備の多くはインドから輸入されている。1990年の憲法では軍の最高指揮権は国王にあるとされたが、現在は大統領が最高指揮権を持っている。 また、今まで国軍と敵味方として戦ってきた毛沢東派のゲリラ組織、ネパール人民解放軍と合同するのか、しないのかも困難な課題として、制憲議会で議論されていた。2011年11月に主要政党の間で軍統合問題を含めた「7項目の合意」成立により軍統合の作業が始まった。当初の合意では、6,500人の戦闘員をネパール国軍に統合することになっていた。しかし、統合の方法が「侮辱的である」として引退を希望した人が多かったこと、学歴や年齢がネパール国軍の基準を満たさなかったために選抜から外された人がいたことにより、第一段階の分類作業では約17,000人(その内、統合希望者約9,500人)の戦闘員が参加したが、2度の分類作業により、最終的に士官候補71人を含む1,442人(女性105人を含む)がネパール国軍に統合されることになった。 これらの戦闘員は統合後の階級が決まらないままに、2012年11月25日からネパール国軍の施設で9ヶ月間の訓練に入った。戦闘員はネパール国軍に新たに設置されたGeneral Directorate of National Development, Forest Protection and Calamity Management(この部隊はマオイストの元戦闘員35パーセント、政府治安部隊員65パーセントの人員からなる。)に配属され、非戦闘員としてインフラ建設や森林保護、災害救助などの分野で働くことになっている。階級の問題については、2013年3月13日に成立した主要政党間の合意で、1人に大佐、2人に中佐のポストが与えられることになった。 2007年から2011年まで、政府軍と人民解放軍の停戦を国連(UNMIN)が監視していた。この国際連合ネパール支援団には日本の自衛隊からも6名が、現地時間2011年1月15日の国連の活動終了まで派遣されていた。 国防大臣は、2018年2月26日に就任したネパール共産党のイシュウォル・ポクレルである。国軍制服組のトップは、2018年9月9日に就任したプルナ・チャンドラ・タパ陸軍参謀総長である。プルナ・チャンドラ・タパは、2015年1月19日から2016年2月7日まで国際連合兵力引き離し監視軍の司令官を務めていた。 ネパールはグルカ兵を世界中に派遣する世界有数の民間軍事会社のコントラクター派遣国でもあり、中世スイスのように実質的な傭兵も大きな産業となっている。グルカ・セキュリティー・ガーズ (GSG) を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる民間軍事会社が形成されている。一人当たりのGDPが1200ドルほどしかなく農村の平均年収が300ドル以下のネパールでは月収1000ドル以上のコントラクターの給与は大変な高給であり、傭兵で一攫千金を夢見る人間が多く出ている。なお、ネパール政府は民間軍事会社の法規ともいえるモントルー文書を批准していない。 北を中華人民共和国のチベット自治区に、西をインドのウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州とビハール州に、東をシッキム州と西ベンガル州に接する。内陸国である。 国境の長さは合計2,926km、うち中国国境1,236km、インド国境1,690km。 中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8,000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿の平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8,848メートル。最低所は標高70メートルである。 面積は140,800km。本州を除いた日本(北海道 + 九州 + 四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalによる。 中国国境に接するネパール北部は世界の屋根とも称される8,000メートル級の山々が林立する高山地帯であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には氷河が多く形成されている。以下はネパール国内の主な高山である。 2015年公布の新憲法によれば、ネパールは7州(Province/ Pradesh)、77郡(District/ Jilla)、775市町村(Municipality/ Palika)から成る連邦民主共和国である。市町村には都市化の程度に応じて、大都市(Metropolitan/ Mahanagarpalika)、準大都市(Submetropolitan/ Upmahanagarpalika)、都市(Urban/ Nagarpalika)、農村(Rural/ Gaunpalika)の4区分が設けられている。市町村の下には複数の区(Ward/Wada)があり、これが行政の最小単位である。 ※ 1960年代のパンチャーヤト制導入時に設定された5つの開発区域(Development Region)と14のゾーン(Zone)は廃止された。 マデシとは、タライ、またはテライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネラル・ストライキ)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年の制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。 2008年の初代大統領、副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。 副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語(インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。 中国とインドに挟まれ、経済的な自立が極めて困難ではあったが、1990年の民主化以降、急速に経済が成長。一人当たりのGNPは170ドル(1990年)から200ドル(2000年)と緩やかではあるが、購買力平価で見ると1170ドル(2000年)とアフリカ諸国を上回るまでとなった。それでもアジア最貧国の一つであることは変わらず、IMFの統計によると、2013年のネパールのGDPは193億ドル。一人当たりのGDPは693ドルであり、非常に低い水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は2200万人と推定されており、国民の70%を超えている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている。 主な産業は農業であり就業人口の約7割、GDPの26%(2016年)を占める。米や小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、ジュートなどが主たる農産物である。それ以外の産業では、繊維産業と観光業が主たる産業となっている。しかし耕地面積が小さいため農業も小規模である。また、国王派とマオイストとの闘争の影響で観光客は減少している。 ヒマラヤ山脈を利用して水力発電が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、計画停電が行われている。計画停電は季節により時間帯が変わるが、毎日あり、夜の8時〜11時、朝の3時〜9時までが多く、毎日異なるため新聞に発表される(2012年現在)。 隣国であるインドとの結びつきが強く、輸出・輸入共にインドが最大の相手国である。 近年の政情不安や、地理的に工業が発展しづらい経済環境などから、収入の向上を求めて、外国への出稼ぎする者が多く、隣国インドの他、中東、東南アジア、そして日本などで、肉体労働、低賃金などの職に就いている者が多い。 彼らからの母国への送金は、ネパールの貴重な外貨収入ともなっていると言われる。 日本でも、21世紀に入ってから中長期在留者と呼ばれる出稼ぎのための来日者は増えており、2018年現在の法務省のデータでは、留学生を除き、60,000人ほどが在住している。 コンビニや惣菜工場、飲食(日本のインド料理店の従業員はネパール人が大半を占めている)、流通倉庫、ホテル清掃など、日本人の労働人口減少の影響を受けやすい業務の職に就き、日本の産業を支えている。 生まれたばかりの子供をネパールの祖父母などの家族に預け、夫婦で長期滞在している者も多いほか、そのまま定住する者も少なくなく、農村地帯の高齢過疎化が進んでいると言われる。 ちなみに、ネパールでは日本への出稼ぎ者並びに出稼ぎ者の子供はジャパニとも呼ばれる。 データはすべてCIA World Factbook-Nepal 観光はネパールにおいて最大の産業となっている。ヒマラヤ山脈を擁する同国では、山岳観光のほかネワール文化を今に伝えることの町並みやヒンドゥー教、仏教寺院、ジャングルサファリ、ラフティングなどの観光が盛んであり、外貨収入の一翼を担っている。 ヒマラヤ カトマンズ パタン - カトマンズの南、バグマティ川の向こう側に位置する古都。王宮をはじめとする建築群と町全体が古美術品のようなくすんだ色合いに包まれている。 バクタプル ナガルコート キルティプル ティミ - カトマンズから東へ10km、ネワール族の町。野菜栽培で有名。主にカトマンズへ出荷される。マッラ王朝以前の歴史を持つ。毎年4月のバイサーク・エクのころに行われるビスケート・ジャトラの行事は壮大なもの。 バネパ パナウティ - パネパから南へ6km、2つの小さな川の合流点にある小さな町。歴史的、学術的に優れたネワール建築が数多くあり、旅行者よりも学者などの訪問が多い。 ドゥリケル - カトマンズから32km、標高1524mの町でヒマラヤ展望ができる。特に朝のヒマラヤが美しい。町には小さな寺院が多くある。 フラッグ・キャリアのネパール航空が近隣諸国と路線を結んでいる。近年は、大韓航空が韓国・ソウル/仁川線、タイ国際航空がタイ・バンコク線、カタール航空がカタール・ドーハ線をそれぞれ運航している。複数の航空会社が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。中国国境とはアラニコ・ハイウェイ(英語版)と呼ばれる道路が建設されている。首都カトマンズからインド国境へも国道が通じているが、山脈を横断する必要があるため、土砂災害により交通が遮断されることが多々ある。なお、鉄道はジャナクプル鉄道しかないものの、中国からラサ・シガツェ鉄道でチベットとネパールを結ぶ計画がある。 ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。 チェトリ 15.5%, 丘陵ブラーマン 12.5%, マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%, ヤーダブ 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査) 公用語はネパール語。ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)。ただし、政府や企業、教育機関では英語が多用されている。 ネパール国内において結婚とは「家と家の問題」という見解が強く息衝いており、家柄でステータスを求める風潮も根強く残っている為に見合い結婚が主流となっている。 その背景にはカースト制度に基づくカースト間結婚(英語版)が深く影響している点が挙げられる。 ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) ヒンドゥー教は長らく国教とされていたが、2006年以降国教扱いは廃止されている。 キルティプルには国内最古・最大のトリブバン大学、カトマンズには2番目に古いカトマンズ大学(英語版)などの高等教育機関がある。 5歳以上で読み書きできる人の割合は65.9%。 ネパールの治安は不安定さが顕著に現れ易くなっている面が目立つ。ネパール国内では、発生する犯罪として窃盗事件が最も多く、在留邦人の住居への侵入強盗事件も発生している現状がある。また、観光地や繁華街では、日本人を含む外国人を狙ったスリや置き引き、薬物犯罪(英語版)事件などが発生している事が報告されている。加えて政府関係機関や公共施設、公共交通機関などに対する爆弾・爆発物を用いた事案が発生しており、特に首都よりも地方都市で発生する傾向が高くなっている点が挙げられる。 2020年7月以降、強盗および窃盗事件が増加しており、その他では詐欺やサイバー犯罪の発生が目立っている。 国の上部から下部に至るまで賄賂が蔓延し、例えば道路予算があっても政治家が懐に入れることに執心し、側近が咎めるとその口封じに賄賂を贈り、さらにそれを見ていた者への賄賂に使われ予算の数分の1ほどしか工事に回らないため、地方の町などでは道路事情が非常に悪い。 ネパールにおける人権は1996年から2006年に亘って続いた政府軍と共産党(CPN-毛沢東主義派)の紛争により、全土で人権侵害が増加の一途を辿っている。同国における現今の人権問題には、貧困(特に農村部)、教育格差、性の不平等(女性の人権含む)、健康問題、子どもの権利の侵害などが挙げられている。女性の人権に対しては著しく低い面があり、特に地位に関しては現在も非常に低い扱いとなっている状況が垣間見える。 2000年から2013までの間に、7,500人のネパール人が中東やマレーシアでの出稼ぎ中に死亡した。その内訳はサウジアラビアだけで3,500人を占める。出稼ぎの多くは若者だが、公式の報告書ではその死因のほとんどを自然死と分類しており詳しい調査がされていない。外国雇用省(DoFE)が、主要な出稼ぎ先でのネパール大使館など他の関係者と協力して行った調査では、厳しい気候条件、仕事関連のストレス、労働者の厳しい処遇、孤独な状況、労働者の無知、不健康な食習慣など様々な要因が示されている。「臓器採取のための殺人、厳しい拷問、あるいは警察の怠慢で自然死に分類されているだけではないとも、誰も分からない状況だ」と、調査を行っている国外雇用の専門家は話している。 Nepal Telecommunications Authority の MIS Reports(2018年9 - 10月版)によると、電話を利用する人のうち約2%が固定電話、約98%が携帯電話を利用している。固定電話の契約者は852,718件、携帯電話の契約者数は39,002,388件である。 ネパールの食文化は、インド料理と中華料理・チベット料理が融合したものである。これは、ネパールの位置がインドと中国・チベットに近いために生じた現象である。 味としては、インド料理に似ているものが多い。日本にも多数のネパール料理店があるが、純粋なネパール式のダル・バート・タルカリ(ご飯とおかずのセット)を出す店は少ない。 また、限りなくインド・中華・チベット料理に近い料理が存在していても、日本のラーメンが中華風の日本の料理と見なされるのと同様に、現地では外国料理ではなくネパール国内の料理と見なされている。 なお、ネパールでは昼食を食べる習慣があまり無く、日中は菓子やチャパティなどの軽いものを口にする程度で、食事は朝食と夕食の2回が多い。 ネパール語における文学は過去数百年の間、口頭の民間伝承に存在していたと考えられている。だが、ネパール語の詩人であるバヌバクタ・アーチャーリャの作品が登場する前に書かれた文学作品の存在を示す証拠は見つかっておらず、その一方、初期の学者の殆どが書物などをサンスクリット語で記していた為、ネパール語文学の歴史を正確に年代測定することは現在も困難となっている。 サランギなどを使った伝統的音楽や、『レッサム・フィリリ』などのポピュラーソングも盛んである。 ネパール映画は「チャラチトラ(ネパール語: नेपालीचलचित्रcode: ne is deprecated )」の別名を持っている。また、海外ではコリウッド(英語: Kollywood)とも呼ばれている。 伝統的な民族服にはダウラ・スルワル(英語版)と呼ばれる、インドの民族衣装の一つであるクルター(英語版、ヒンディー語版)(kurtaa कुरता)に似通った形状の服が存在する。 ネパールの建築は、インドやチベットならびに中国の建築文化の影響を強く受けている面を持ち合わせている。これにより、仏教建築の一つである仏塔が各所に散在している。 仏塔で有名となっているのはカトマンズの渓谷に在るボダナートである。 古くから『ダサイン』と呼ばれるヒンドゥー教の主要な宗教祭が開催されている。 ネパール国内にはユネスコの世界遺産リストに4件が登録されている。 ネパールの公式の暦として現在太陽暦のビクラム暦(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている。略号はवि. सं.(B.S.)。 それまで使用されていた太陰暦に代えて、宰相チャンドラ・シャムシェルがB.S.1961年の新年(1904年4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる。 歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまな暦が使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて太陰暦だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、シャハカ暦、ネパール暦(ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。 西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。 なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広く普及している暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、ネパール暦(नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で、新年が秋に来る太陰暦(太陽太陰暦)である。この暦は主にネワール族の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。 ビクラム暦は、インドのウッジャイニー(現ウッジャイン)を統治していたヴィクラマーディティヤ(ヴィクラマ・アーディティヤ)という王が、シャカ族との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている。この暦の起年は紀元前57年で、西暦2008年4月13日はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期カス・マッラ朝時代ごろからビクラム暦の使用が銘文などに認められる。 なお太陰暦(厳密には太陽太陰暦)のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦ではガテといい、太陰暦ではティティという。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度閏月をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している(太陽太陰暦)。祭り(ビスケート・ジャートラーを除く)や宗教行事などは基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。 近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月ごろに売り出される市販のカレンダーには太陽暦のビクラム暦をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム暦を併記しているものが多い。 クリケットは最も人気のあるスポーツである。大英帝国で様々な教育を受けてきたラナ貴族が1946年にネパールクリケット協会を設立した。1951年にラナ家が崩壊し、1961年に国王が乗っ取った後、この協会はネパール全土でクリケットの普及を図るために、スポーツ省の全国スポーツ評議会の管轄下に置かれた。 国際競技連盟の国際クリケット評議会には1988年に加盟し、1996年に準会員に昇格した。2014年にはICC T20ワールドカップに出場した。2022年にトゥエンティ20方式のリーグであるネパールT20リーグ(英語版)が開幕した。女子クリケットも盛んであり、2007年のACCトーナメントで決勝戦に進出するという好成績を収めた。2008年の19歳以下のACC女子選手権で優勝し、2010年にそのタイトルを防衛した。 ネパール国内では近年サッカーの人気が上昇しており、2021年にプロサッカーリーグのネパール・スーパーリーグが創設された。シーズンが1ヶ月のみと短いのが特徴で、全ての試合がダサラス・ランガシャラ・スタジアムにて行われる。フランチャイズ制が採用されており、さらにはネパールサッカー協会(ANFA)が技術的支援などを行なう。初年度の2021シーズン(英語版)はカトマンズ・レイザーズFC(英語版)が優勝を飾っている。 サッカーネパール代表は日本サッカー協会(JFA)との関係が深く、JFAアジア貢献事業により2016年から行徳浩二が同国代表の監督を務めており、AFCソリダリティーカップ2016では優勝し大会の初代王者に輝いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ネパール(ネパール語: नेपालcode: ne is deprecated )は、南アジアに位置する連邦共和制国家。首都であり最大の都市はカトマンズ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東、西、南の三方をインドに、北方を中華人民共和国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約147,000 km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教も仏教の開祖釈迦(仏陀)の生誕地であり、ヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズムなどとその習合が混在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一四角形でない国旗を持つ国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2008年に王制を廃止、2015年9月公布の憲法(英語版)により、7州による連邦制国家となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称はネパール語のデバナガリ(デーヴァナーガリー)文字でनेपाल、ラテン文字転写表記は nepāl。 公式の英語表記は Nepal。 日本語表記は、ネパール。漢字表記は、尼婆羅。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国際連合におけるネパールの正式国名の変遷は以下の通り。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2020年9月27日、K.P.シャルマ・オリ内閣は正式国名を「ネパール連邦民主共和国」から政体名を含まない「ネパール」とすることを閣議決定。後日各政府機関へ通達した。これに対して議会委員会は、2015年憲法8章83条に「ネパール連邦民主共和国」と記載されているとして異議を唱えた。また最高裁判所は今回の決定について書面での回答を求めた。変更を支持する憲法専門家の主張では、違憲性はないと判断している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オリ政権は2020年11月16日付けで国名変更を国際連合へ通達し、2020年12月14日に承認された。これに続き、2021年1月に中央情報局(CIA)のオンライン版ザ・ワールド・ファクトブックと国際標準化機構(ISO)は正式国名を「ネパール」へ変更した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国旗は1962年12月16日に採択されたものであるが、2008年から連邦民主共和制に基づく新政府へ移行した現在もこの図案を採用している。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "4世紀にインド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立した。リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた。また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営。またパンチャーヤト制やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "リッチャヴィ朝の衰退に乗じて9世紀にはデーヴァ朝が興り、バクタブルに王都を築いた。ネワール文化が栄えた。続いて14世紀末にはマッラ朝が確立されたが、1450年ごろにバクタプル王国(バクタプル・マッラ朝)からカトマンズ王国(カトマンズ・マッラ朝)が独立する。その後1619年までにマッラ朝、パタン王国(パタン・マッラ朝)もカトマンズ王国から独立し、三王国並立時代となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、18世紀前半にはカトマンズ西方の山地でゴルカ王国(ゴルカ朝)が勢力を拡大する。そして1768年から1769年にかけて、第10代ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハによってマッラ王朝は滅ぼされる。そして350の小王国に分かれていたネパールが統一され、ゴルカ朝はカトマンズを首都にネパール王国を作った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。ここにネパール王国及びゴルカ朝はその歴史に幕を閉じた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2009年5月4日、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップのルークマングド・カタワル陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "5月23日、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立によりマーダブ・クマール・ネパールが選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。しかしネパール首相は2010年6月に辞任を表明し、制憲議会は後継首相を選出することができない混乱状態に陥った。2011年1月にカナルが首相となったが辞任し、8月29日に毛派のバッタライが首相となった。しかし毛派の内紛も収まらず、憲法制定のための合意もできない状態が続いたままで制憲議会は任期満了を迎えた。2013年3月に最高裁長官のレグミを「議長」とする選挙管理内閣が発足し、新たな制憲議会選挙を11月29日に行うことが決定した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2015年9月20日、新憲法が公布された。これにより、7つの州と、753の地方政府が成立した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大統領は政治的実権を持たない、儀礼的な国家元首と規定されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大統領・首相は連邦議会における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は連邦議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領は軍の最高指揮権は持つが象徴的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領にはラーム・バラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が当選している。2015年9月の新憲法制定後、元国防相のビドヤ・デビ・バンダリが選出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、G.P.コイララを大統領に推してきた。統一共産党は前総書記マーダブ・クマール・ネパールを大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制活動家・ラム・ラジャ・プラサド・シンを支持、これをマデシ3党も支持したが、マデシ人権フォーラムは独自の副大統領候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派ラーム・バラン・ヤーダブ代表幹事(マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "7月19日の制憲議会では副大統領にマデシ人権フォーラムが推薦したパラマーナンダ・ジャー(305票)が当選したものの大統領選はラーム・バラン・ヤーダブ(283票)、ラム・ラジャ・プラサド・シン(270票)とも過半数を得られず、7月21日、再選挙することになった決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けたラーム・バラン・ヤーダブが、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。ラム・ラジャ・プラサド・シンは282票にとどまった。(欠席4)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また7月19日の閣議で決定された官職の序列は以下の通り。第1位-大統領(元首)、第2位-首相、第3位-最高裁長官、第4位-制憲議会議長、第5位-副大統領。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、首相にはネパール共産党毛沢東主義派のプラチャンダ議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。7月22日毛派の中央委員会で野党の立場をとることを議決。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派のプラチャンダ議長を首相に推すこととなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "8月15日投票が行われた結果、有効投票数551票の内、プラチャンダ(プシュパ・カマル・ダハル)が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推したシェール・バハドゥル・デウバ元首相は113票に留まった。プラチャンダ首相は連立与党(毛沢東派、統一共産党、マデシ人権フォーラム他)と組閣交渉に入ったが、最終的に8月31日、全閣僚が就任し、プラチャンダ内閣が成立した。制憲議会選挙から4か月でようやく新政権が発足した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2009年5月3日、プラチャンダが毛派民兵組織(ネパール人民解放軍)の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌5月4日、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年5月23日、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、統一共産党元総書記・マーダブ・クマール・ネパールが統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票で当選した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、1年前後で首相が交代していたが、第2次K.P.シャルマ・オリ政権は3年余り続いた。2021年7月13日、シェール・バハドゥル・デウバが首相に任命された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本格憲法制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。2008年4月10日に選挙が行われた。通常の立法機関としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。議長は暫定的にクル・バハドゥール・グルン(ネパール会議派)が務めていたが、7月22日正式の議長としてスバス・ネムワン(統一共産党出身)が満場一致で選出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "制憲議会は2次にわたり、2015年9月20日に新憲法公布、2017年11月26日連邦議会選挙が実施された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2019年現在の連邦議会は、両院制であり、上院に当たる国民議会(National Assembly)が59議席、下院に当たる代議院(House of Representatives)が275議席、合計334議席となっている。両院とも、2019年時点で殆どを下記の4党が占めている。特に、ネパール共産党は、国民議会で59議席中42議席、代議院で275議席中174議席を占める。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "政党 主要政党の詳細は各記事を、小政党の詳細はネパールの政党を参照。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ネパールの政府機構は非常に複雑である。官僚機構は内閣の各大臣(Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChief Secretary(直訳すれば官房長官、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば事務次官のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ネパールの外交の基本方針は非同盟中立である。また、隣国のインドと中国と深い関係を持っている。条約により、インドとネパールの国民はビザなし、パスポートなしで両国を行き来できる。また、ネパール国民はインドで自由に働くことができる。このようにネパールとインドが密接な関係を持っているにもかかわらず、ネパールはしばしば、問題の多い中印関係に翻弄されてきた。アメリカは長年、毛派をテロ集団と位置づけ、国王を援助してきたが、民主的な選挙で第一党となったことで、友好的な態度に変わった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "経済的依存が大きい。ネパール南部はマデシと呼ばれるインド移民がおり親インド的でインド政府は彼らを支援し影響力を維持しようとしている。領土問題もある。共産党に政権が変わってからはマデシの野党議員が領土問題でネパール政府の意見に異を唱えるなどインドの影響力の増加から反インド政策を打ち出している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2008年8月22日、プラチャンダ内閣の外務大臣としてマデシ人権フォーラム党首・ウペンドラ・ヤーダブが就任した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2009年6月4日、マーダブ・クマール・ネパール内閣の外務大臣として、ネパール会議派所属のスジャータ・コイララ(英語版)(女性)が就任した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "社会主義や共産主義を掲げる政党が多い為、現在においても親中政権だと言われている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2008年中国のチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようネパールに要請した。2008年4月17日、ネパール警察は、中国との良好な関係を維持するため500人以上のチベット人の活動家を逮捕した。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、中国からの要請により、ネパールのチベット人は、政治的活動、文化活動、宗教活動を厳しく制限され、ネパール治安部隊から日常的に人権侵害を受けているとしている。また、ネパールは一部のチベット人を中国へ強制送還しているともされ、これはネパール政府と国連難民高等弁務官事務所との紳士協定や、ネパールにチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "8月15日選出されたプラチャンダ元首相は、最初の外遊として北京オリンピックの閉会式への参加という形で訪中し、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談している。慣例ではネパール首相が最初に訪れる外国はインドであり、異例の外交といえる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2018年9月オリ首相は中国と天津など海港4ヶ所、蘭州など陸港3ヵ所の使用を合意。貿易を依存するインドによる度々の国境閉鎖が背景にあるという。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本とネパールの関係は良好である。要点は次の通りである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2007年10月10日にはサハーナ・プラダン元外相が訪日し、高村正彦外相と公式に会談した。プラダンは日本による投票箱の供与や国連監視団の協力に感謝し、日本の国連常任理事国入りを支持した(国連総会でも日本の常任理事国入りを支持する演説を行っている)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、毛沢東派のプラチャンダ議長は政権就任前、日本にガジュレル政治局員を非公式に派遣した。ガジュレルは、日本・ネパール友好議員連盟会長の二階俊博衆議院議員や当時の木村仁外務副大臣と会談し、また、共同通信のインタビューも受けている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2008年7月16日には日本から宇野治外務大臣政務官がネパールを訪問、当時のギリジャー・プラサード・コイララ首相のほか、毛派のプラチャンダ議長ら、各党の幹部と個別に会談した。制憲議会発足後初めての要人訪問である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、8月中旬、ネパール統一共産党前総書記のマーダブ・クマール・ネパール元副首相(のちに首相)が訪日している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2009年2月6日、プラチャンダ内閣の閣僚として初めてバーブラーム・バッタライ財務大臣が訪日した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2009年6月4日現在の日本の在ネパール特命全権大使は水野達夫、ネパールの在日本特命全権大使はガネシュ・ヨンザン・タマンである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2018年1月現在の駐ネパール日本大使は小川正史、駐日ネパール大使はプラティヴァ・ラナである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "社団法人日本ネパール協会が交流の中心になっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ネパール軍は、陸軍航空隊を含むネパール陸軍から構成される。王制時代は「王立ネパール陸軍」(Royal Nepal Army)と呼ばれていた。95,000人の兵員、各地方に置かれる6個師団および、航空旅団、空挺旅団、治安旅団の独立の3旅団からなる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "志願兵制であり、軍への登録は18歳から可能である。2004年の統計で、ネパールの軍事予算は9920万ドルで、GDP比は1.5%である。武器、装備の多くはインドから輸入されている。1990年の憲法では軍の最高指揮権は国王にあるとされたが、現在は大統領が最高指揮権を持っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、今まで国軍と敵味方として戦ってきた毛沢東派のゲリラ組織、ネパール人民解放軍と合同するのか、しないのかも困難な課題として、制憲議会で議論されていた。2011年11月に主要政党の間で軍統合問題を含めた「7項目の合意」成立により軍統合の作業が始まった。当初の合意では、6,500人の戦闘員をネパール国軍に統合することになっていた。しかし、統合の方法が「侮辱的である」として引退を希望した人が多かったこと、学歴や年齢がネパール国軍の基準を満たさなかったために選抜から外された人がいたことにより、第一段階の分類作業では約17,000人(その内、統合希望者約9,500人)の戦闘員が参加したが、2度の分類作業により、最終的に士官候補71人を含む1,442人(女性105人を含む)がネパール国軍に統合されることになった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "これらの戦闘員は統合後の階級が決まらないままに、2012年11月25日からネパール国軍の施設で9ヶ月間の訓練に入った。戦闘員はネパール国軍に新たに設置されたGeneral Directorate of National Development, Forest Protection and Calamity Management(この部隊はマオイストの元戦闘員35パーセント、政府治安部隊員65パーセントの人員からなる。)に配属され、非戦闘員としてインフラ建設や森林保護、災害救助などの分野で働くことになっている。階級の問題については、2013年3月13日に成立した主要政党間の合意で、1人に大佐、2人に中佐のポストが与えられることになった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2007年から2011年まで、政府軍と人民解放軍の停戦を国連(UNMIN)が監視していた。この国際連合ネパール支援団には日本の自衛隊からも6名が、現地時間2011年1月15日の国連の活動終了まで派遣されていた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "国防大臣は、2018年2月26日に就任したネパール共産党のイシュウォル・ポクレルである。国軍制服組のトップは、2018年9月9日に就任したプルナ・チャンドラ・タパ陸軍参謀総長である。プルナ・チャンドラ・タパは、2015年1月19日から2016年2月7日まで国際連合兵力引き離し監視軍の司令官を務めていた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ネパールはグルカ兵を世界中に派遣する世界有数の民間軍事会社のコントラクター派遣国でもあり、中世スイスのように実質的な傭兵も大きな産業となっている。グルカ・セキュリティー・ガーズ (GSG) を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる民間軍事会社が形成されている。一人当たりのGDPが1200ドルほどしかなく農村の平均年収が300ドル以下のネパールでは月収1000ドル以上のコントラクターの給与は大変な高給であり、傭兵で一攫千金を夢見る人間が多く出ている。なお、ネパール政府は民間軍事会社の法規ともいえるモントルー文書を批准していない。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "北を中華人民共和国のチベット自治区に、西をインドのウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州とビハール州に、東をシッキム州と西ベンガル州に接する。内陸国である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "国境の長さは合計2,926km、うち中国国境1,236km、インド国境1,690km。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8,000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿の平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8,848メートル。最低所は標高70メートルである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "面積は140,800km。本州を除いた日本(北海道 + 九州 + 四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalによる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "中国国境に接するネパール北部は世界の屋根とも称される8,000メートル級の山々が林立する高山地帯であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には氷河が多く形成されている。以下はネパール国内の主な高山である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2015年公布の新憲法によれば、ネパールは7州(Province/ Pradesh)、77郡(District/ Jilla)、775市町村(Municipality/ Palika)から成る連邦民主共和国である。市町村には都市化の程度に応じて、大都市(Metropolitan/ Mahanagarpalika)、準大都市(Submetropolitan/ Upmahanagarpalika)、都市(Urban/ Nagarpalika)、農村(Rural/ Gaunpalika)の4区分が設けられている。市町村の下には複数の区(Ward/Wada)があり、これが行政の最小単位である。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "※ 1960年代のパンチャーヤト制導入時に設定された5つの開発区域(Development Region)と14のゾーン(Zone)は廃止された。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "マデシとは、タライ、またはテライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネラル・ストライキ)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年の制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2008年の初代大統領、副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語(インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "中国とインドに挟まれ、経済的な自立が極めて困難ではあったが、1990年の民主化以降、急速に経済が成長。一人当たりのGNPは170ドル(1990年)から200ドル(2000年)と緩やかではあるが、購買力平価で見ると1170ドル(2000年)とアフリカ諸国を上回るまでとなった。それでもアジア最貧国の一つであることは変わらず、IMFの統計によると、2013年のネパールのGDPは193億ドル。一人当たりのGDPは693ドルであり、非常に低い水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は2200万人と推定されており、国民の70%を超えている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "主な産業は農業であり就業人口の約7割、GDPの26%(2016年)を占める。米や小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、ジュートなどが主たる農産物である。それ以外の産業では、繊維産業と観光業が主たる産業となっている。しかし耕地面積が小さいため農業も小規模である。また、国王派とマオイストとの闘争の影響で観光客は減少している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ヒマラヤ山脈を利用して水力発電が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、計画停電が行われている。計画停電は季節により時間帯が変わるが、毎日あり、夜の8時〜11時、朝の3時〜9時までが多く、毎日異なるため新聞に発表される(2012年現在)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "隣国であるインドとの結びつきが強く、輸出・輸入共にインドが最大の相手国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "近年の政情不安や、地理的に工業が発展しづらい経済環境などから、収入の向上を求めて、外国への出稼ぎする者が多く、隣国インドの他、中東、東南アジア、そして日本などで、肉体労働、低賃金などの職に就いている者が多い。 彼らからの母国への送金は、ネパールの貴重な外貨収入ともなっていると言われる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本でも、21世紀に入ってから中長期在留者と呼ばれる出稼ぎのための来日者は増えており、2018年現在の法務省のデータでは、留学生を除き、60,000人ほどが在住している。 コンビニや惣菜工場、飲食(日本のインド料理店の従業員はネパール人が大半を占めている)、流通倉庫、ホテル清掃など、日本人の労働人口減少の影響を受けやすい業務の職に就き、日本の産業を支えている。 生まれたばかりの子供をネパールの祖父母などの家族に預け、夫婦で長期滞在している者も多いほか、そのまま定住する者も少なくなく、農村地帯の高齢過疎化が進んでいると言われる。 ちなみに、ネパールでは日本への出稼ぎ者並びに出稼ぎ者の子供はジャパニとも呼ばれる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "データはすべてCIA World Factbook-Nepal", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "観光はネパールにおいて最大の産業となっている。ヒマラヤ山脈を擁する同国では、山岳観光のほかネワール文化を今に伝えることの町並みやヒンドゥー教、仏教寺院、ジャングルサファリ、ラフティングなどの観光が盛んであり、外貨収入の一翼を担っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ヒマラヤ", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "カトマンズ", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "パタン - カトマンズの南、バグマティ川の向こう側に位置する古都。王宮をはじめとする建築群と町全体が古美術品のようなくすんだ色合いに包まれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "バクタプル", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ナガルコート", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "キルティプル", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ティミ - カトマンズから東へ10km、ネワール族の町。野菜栽培で有名。主にカトマンズへ出荷される。マッラ王朝以前の歴史を持つ。毎年4月のバイサーク・エクのころに行われるビスケート・ジャトラの行事は壮大なもの。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "バネパ", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "パナウティ - パネパから南へ6km、2つの小さな川の合流点にある小さな町。歴史的、学術的に優れたネワール建築が数多くあり、旅行者よりも学者などの訪問が多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ドゥリケル - カトマンズから32km、標高1524mの町でヒマラヤ展望ができる。特に朝のヒマラヤが美しい。町には小さな寺院が多くある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "フラッグ・キャリアのネパール航空が近隣諸国と路線を結んでいる。近年は、大韓航空が韓国・ソウル/仁川線、タイ国際航空がタイ・バンコク線、カタール航空がカタール・ドーハ線をそれぞれ運航している。複数の航空会社が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。中国国境とはアラニコ・ハイウェイ(英語版)と呼ばれる道路が建設されている。首都カトマンズからインド国境へも国道が通じているが、山脈を横断する必要があるため、土砂災害により交通が遮断されることが多々ある。なお、鉄道はジャナクプル鉄道しかないものの、中国からラサ・シガツェ鉄道でチベットとネパールを結ぶ計画がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "チェトリ 15.5%, 丘陵ブラーマン 12.5%, マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%, ヤーダブ 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査)", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "公用語はネパール語。ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)。ただし、政府や企業、教育機関では英語が多用されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ネパール国内において結婚とは「家と家の問題」という見解が強く息衝いており、家柄でステータスを求める風潮も根強く残っている為に見合い結婚が主流となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "その背景にはカースト制度に基づくカースト間結婚(英語版)が深く影響している点が挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) ヒンドゥー教は長らく国教とされていたが、2006年以降国教扱いは廃止されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "キルティプルには国内最古・最大のトリブバン大学、カトマンズには2番目に古いカトマンズ大学(英語版)などの高等教育機関がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "5歳以上で読み書きできる人の割合は65.9%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ネパールの治安は不安定さが顕著に現れ易くなっている面が目立つ。ネパール国内では、発生する犯罪として窃盗事件が最も多く、在留邦人の住居への侵入強盗事件も発生している現状がある。また、観光地や繁華街では、日本人を含む外国人を狙ったスリや置き引き、薬物犯罪(英語版)事件などが発生している事が報告されている。加えて政府関係機関や公共施設、公共交通機関などに対する爆弾・爆発物を用いた事案が発生しており、特に首都よりも地方都市で発生する傾向が高くなっている点が挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2020年7月以降、強盗および窃盗事件が増加しており、その他では詐欺やサイバー犯罪の発生が目立っている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "国の上部から下部に至るまで賄賂が蔓延し、例えば道路予算があっても政治家が懐に入れることに執心し、側近が咎めるとその口封じに賄賂を贈り、さらにそれを見ていた者への賄賂に使われ予算の数分の1ほどしか工事に回らないため、地方の町などでは道路事情が非常に悪い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ネパールにおける人権は1996年から2006年に亘って続いた政府軍と共産党(CPN-毛沢東主義派)の紛争により、全土で人権侵害が増加の一途を辿っている。同国における現今の人権問題には、貧困(特に農村部)、教育格差、性の不平等(女性の人権含む)、健康問題、子どもの権利の侵害などが挙げられている。女性の人権に対しては著しく低い面があり、特に地位に関しては現在も非常に低い扱いとなっている状況が垣間見える。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2000年から2013までの間に、7,500人のネパール人が中東やマレーシアでの出稼ぎ中に死亡した。その内訳はサウジアラビアだけで3,500人を占める。出稼ぎの多くは若者だが、公式の報告書ではその死因のほとんどを自然死と分類しており詳しい調査がされていない。外国雇用省(DoFE)が、主要な出稼ぎ先でのネパール大使館など他の関係者と協力して行った調査では、厳しい気候条件、仕事関連のストレス、労働者の厳しい処遇、孤独な状況、労働者の無知、不健康な食習慣など様々な要因が示されている。「臓器採取のための殺人、厳しい拷問、あるいは警察の怠慢で自然死に分類されているだけではないとも、誰も分からない状況だ」と、調査を行っている国外雇用の専門家は話している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "Nepal Telecommunications Authority の MIS Reports(2018年9 - 10月版)によると、電話を利用する人のうち約2%が固定電話、約98%が携帯電話を利用している。固定電話の契約者は852,718件、携帯電話の契約者数は39,002,388件である。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ネパールの食文化は、インド料理と中華料理・チベット料理が融合したものである。これは、ネパールの位置がインドと中国・チベットに近いために生じた現象である。 味としては、インド料理に似ているものが多い。日本にも多数のネパール料理店があるが、純粋なネパール式のダル・バート・タルカリ(ご飯とおかずのセット)を出す店は少ない。 また、限りなくインド・中華・チベット料理に近い料理が存在していても、日本のラーメンが中華風の日本の料理と見なされるのと同様に、現地では外国料理ではなくネパール国内の料理と見なされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "なお、ネパールでは昼食を食べる習慣があまり無く、日中は菓子やチャパティなどの軽いものを口にする程度で、食事は朝食と夕食の2回が多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ネパール語における文学は過去数百年の間、口頭の民間伝承に存在していたと考えられている。だが、ネパール語の詩人であるバヌバクタ・アーチャーリャの作品が登場する前に書かれた文学作品の存在を示す証拠は見つかっておらず、その一方、初期の学者の殆どが書物などをサンスクリット語で記していた為、ネパール語文学の歴史を正確に年代測定することは現在も困難となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "サランギなどを使った伝統的音楽や、『レッサム・フィリリ』などのポピュラーソングも盛んである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ネパール映画は「チャラチトラ(ネパール語: नेपालीचलचित्रcode: ne is deprecated )」の別名を持っている。また、海外ではコリウッド(英語: Kollywood)とも呼ばれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "伝統的な民族服にはダウラ・スルワル(英語版)と呼ばれる、インドの民族衣装の一つであるクルター(英語版、ヒンディー語版)(kurtaa कुरता)に似通った形状の服が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ネパールの建築は、インドやチベットならびに中国の建築文化の影響を強く受けている面を持ち合わせている。これにより、仏教建築の一つである仏塔が各所に散在している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "仏塔で有名となっているのはカトマンズの渓谷に在るボダナートである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "古くから『ダサイン』と呼ばれるヒンドゥー教の主要な宗教祭が開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "ネパール国内にはユネスコの世界遺産リストに4件が登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ネパールの公式の暦として現在太陽暦のビクラム暦(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている。略号はवि. सं.(B.S.)。 それまで使用されていた太陰暦に代えて、宰相チャンドラ・シャムシェルがB.S.1961年の新年(1904年4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる。 歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまな暦が使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて太陰暦だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、シャハカ暦、ネパール暦(ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。 なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広く普及している暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、ネパール暦(नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で、新年が秋に来る太陰暦(太陽太陰暦)である。この暦は主にネワール族の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ビクラム暦は、インドのウッジャイニー(現ウッジャイン)を統治していたヴィクラマーディティヤ(ヴィクラマ・アーディティヤ)という王が、シャカ族との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている。この暦の起年は紀元前57年で、西暦2008年4月13日はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期カス・マッラ朝時代ごろからビクラム暦の使用が銘文などに認められる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "なお太陰暦(厳密には太陽太陰暦)のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦ではガテといい、太陰暦ではティティという。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度閏月をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している(太陽太陰暦)。祭り(ビスケート・ジャートラーを除く)や宗教行事などは基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月ごろに売り出される市販のカレンダーには太陽暦のビクラム暦をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム暦を併記しているものが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "クリケットは最も人気のあるスポーツである。大英帝国で様々な教育を受けてきたラナ貴族が1946年にネパールクリケット協会を設立した。1951年にラナ家が崩壊し、1961年に国王が乗っ取った後、この協会はネパール全土でクリケットの普及を図るために、スポーツ省の全国スポーツ評議会の管轄下に置かれた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "国際競技連盟の国際クリケット評議会には1988年に加盟し、1996年に準会員に昇格した。2014年にはICC T20ワールドカップに出場した。2022年にトゥエンティ20方式のリーグであるネパールT20リーグ(英語版)が開幕した。女子クリケットも盛んであり、2007年のACCトーナメントで決勝戦に進出するという好成績を収めた。2008年の19歳以下のACC女子選手権で優勝し、2010年にそのタイトルを防衛した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ネパール国内では近年サッカーの人気が上昇しており、2021年にプロサッカーリーグのネパール・スーパーリーグが創設された。シーズンが1ヶ月のみと短いのが特徴で、全ての試合がダサラス・ランガシャラ・スタジアムにて行われる。フランチャイズ制が採用されており、さらにはネパールサッカー協会(ANFA)が技術的支援などを行なう。初年度の2021シーズン(英語版)はカトマンズ・レイザーズFC(英語版)が優勝を飾っている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "サッカーネパール代表は日本サッカー協会(JFA)との関係が深く、JFAアジア貢献事業により2016年から行徳浩二が同国代表の監督を務めており、AFCソリダリティーカップ2016では優勝し大会の初代王者に輝いている。", "title": "スポーツ" } ]
ネパールは、南アジアに位置する連邦共和制国家。首都であり最大の都市はカトマンズ。 東、西、南の三方をインドに、北方を中華人民共和国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約147,000 km2。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教も仏教の開祖釈迦(仏陀)の生誕地であり、ヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズムなどとその習合が混在する。 農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一四角形でない国旗を持つ国である。 2008年に王制を廃止、2015年9月公布の憲法により、7州による連邦制国家となった。
{{Otheruses}} {{インド系文字}} {{基礎情報 国 | 略名 = ネパール | 日本語国名 = ネパール | 公式国名 = '''{{Lang|ne|नेपाल}}''' | 国旗画像 = Flag of Nepal.svg | 国旗幅 = 85 | 国旗縁 = no | 国章画像 = [[File:Emblem of Nepal.svg|125px|ネパールの国章]] | 国章リンク =([[ネパールの国章|国章]]) | 国歌=[[何百もの花束]] | 国歌追記 ={{center|[[File:Sayaun Thunga Phool Ka (instrumental).ogg]]}} | 標語 = ''{{Lang|sa|जननी जन्मभूमिष्च स्वर्गादपि गरियसि}}''<br />ラテン文字転写:{{lang|ne-Latn|Janani Janmabhumishcha Swargadapi Gariyasi}}<br />([[サンスクリット]]:祖国は天国より素晴らしい) | 位置画像 = Nepal (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ネパール語]] | 首都 = [[カトマンズ]] | 最大都市 = カトマンズ | 元首等肩書 = [[ネパールの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ラム・チャンドラ・パウデル]] | 首相等肩書 = [[ネパールの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{ill2|ラム・サハヤ・ヤーダブ|en|Ram Sahaya Yadav}} | 他元首等肩書1 = [[ネパールの首相|首相]] | 他元首等氏名1 = [[プラチャンダ]] | 面積順位 = 93 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 147,181 | 水面積率 = 2.8 | 人口統計年 = 2020 | 人口値 = 2913万7000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/np.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> | 人口順位 = 49 | 人口密度値 = 203.3<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 3兆4,643億1,900万<ref name="imf202010">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2020/October/weo-report?c=558,&s=NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,&sy=2017&ey=2020&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=World Economic Outlook Database, October 2020|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2020-10|accessdate=2021-01-27}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 107 | GDP値MER = 306億9,000万<ref name="imf202010" /> | GDP MER/人 = 1,079 | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 99 | GDP値 = 1019億<ref name="imf202010" /> | GDP/人 = 3,581<ref name="imf202010" /> | 建国形態 = 建国 |確立形態1 = [[ゴルカ朝]]の[[ネパールの統一|全土統一]] |確立年月日1 = [[1768年]][[9月25日]]<ref>{{Cite web |url=https://www.worldstatesmen.org/Nepal.html |title=Nepal |publisher=Worldstatemen.org |accessdate=2021-01-27}}</ref> |確立形態2 = [[清]]の[[冊封国]]となる |確立年月日2 = 1792年9月30日<sup>1</sup> |確立形態5 = [[ネパール王国|王政]]の廃止 |確立年月日5 = 2008年5月28日 |確立形態6 = 新憲法が公布 |確立年月日6 = 2015年9月20日 | 通貨 = [[ネパール・ルピー]] | 通貨コード = NPR | 時間帯 = +5:45 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = NP / NPL | ccTLD = [[.np]] | 国際電話番号 = 977 | 注記 = <sup>1</sup> 清との冊封関係は、清が1912年に崩壊するまで続いた。 }} '''ネパール'''({{Lang-ne|नेपाल}})は、[[南アジア]]に位置する[[連邦共和国|連邦共和制]][[国家]]。首都であり最大の都市は[[カトマンズ]]。 東、西、南の三方を[[インド]]に、北方を[[中華人民共和国]][[チベット自治区]]に接する西北から東南方向に細長い[[内陸国]]である。国土は世界最高地点[[エベレスト]](サガルマータ)を含む[[ヒマラヤ山脈]]および中央部丘陵地帯と、南部の[[マデシ|タライ]]平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。[[面積]]は約147,000 km<sup>2</sup>。[[多民族国家|多民族]]・[[多言語国家]]であり、[[民族]]と[[カースト]]が複雑に関係し合っている。また、[[宗教]]も[[仏教]]の開祖[[釈迦]](仏陀)の生誕地であり、[[ヒンドゥー教]](元[[国教]])、[[ネパールの仏教|仏教]]、[[アニミズム]]などとその習合が混在する。 [[農業]]を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの[[観光業]]も盛んである。[[後発開発途上国]]であると分類されている。[[ネパールの国旗|世界で唯一四角形でない国旗]]を持つ国である。 [[2008年]]に[[ネパール王国|王制]]を[[ロクタントラ・アンドラン|廃止]]、2015年9月公布の{{仮リンク|ネパールの憲法|en|Constitution of Nepal|label=憲法}}により、7州による[[連邦]]制国家となった<ref >[https://www.sankei.com/article/20150917-7CT3TYID6BIORBQ5CQI3K67USU/ ネパール「7州連邦制」新憲法を承認・公布へ 大地震で非難受け加速も州区割りに火種] - [[産経新聞|産経ニュース]] 2015.9.17 20:08</ref><ref name="nikkei20150921">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM20H49_Q5A920C1000000/ ネパールで新憲法公布 州連邦制、7年かけ制定] - [[日本経済新聞]] 2015/9/21 1:16</ref>。 == 国名 == 正式名称は[[ネパール語]]の[[デーヴァナーガリー|デバナガリ(デーヴァナーガリー)文字]]で{{lang|ne|'''नेपाल'''}}、[[ラテン文字]]転写表記は {{lang|ne-Latn|''nepāl''}}。 公式の[[英語]]表記は {{lang|en|'''Nepal'''}}。 日本語表記は、'''ネパール'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nepal/data.html |title=ネパール基礎データ |author= |publisher=外務省 |date=2022-03-09 |accessdate=2022-03-09}}</ref>。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''尼婆羅'''。 ; 国名の変遷 国際連合におけるネパールの正式国名の変遷は以下の通り<ref name="untern">{{Cite web |url=https://unterm.un.org/unterm/display/record/unhq/na/3922e336-a0f8-4780-b597-d9485555160e |title=The United Nations Terminology Database/Nepal |publisher=国際連合 ||accessdate=2021-01-27}}</ref>。 * - 2006年8月22日:[[ネパール王国]](Kingdom of Nepal) * 2006年8月22日 - 2008年8月4日:ネパール(Nepal) * 2008年8月4日 - 2020年12月14日:ネパール連邦民主共和国(Federal Democratic Republic of Nepal) * 2020年12月14日 - 現在:ネパール(Nepal) === 2020年の正式国名変更 === 2020年9月27日、[[K.P.シャルマ・オリ]]内閣は正式国名を「ネパール連邦民主共和国」から政体名を含まない「ネパール」とすることを閣議決定<ref>{{Cite web |url=https://www.livehindustan.com/international/story-dispute-over-nepal-official-name-change-decision-of-kp-sharma-oli-government-3619917.html |title=अब नेपाल के नाम पर ही खड़ा हो गया झगड़ा, जानिए क्या है पूरा विवाद |publisher=livehindustan.com |date=2020-12-09 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。後日各政府機関へ通達した。これに対して議会委員会は、[[:wikisource:Constitution of Nepal (2015)|2015年憲法8章83条]]に「ネパール連邦民主共和国」と記載されているとして異議を唱えた<ref>{{Cite web |url=https://kathmandupost.com/national/2020/11/09/it-is-federal-democratic-republic-nepal-not-just-nepal-parliamentary-committee-says |title=It is Federal Democratic Republic Nepal, not just Nepal, parliamentary committee says |publisher=カトマンズ・ポスト |date=2020-11-09 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。また最高裁判所は今回の決定について書面での回答を求めた<ref>{{Cite web |url=https://kathmandupost.com/national/2020/12/04/supreme-court-asks-written-response-from-government-on-decision-not-to-write-federal-democratic-republic-nepal |title=Supreme Court asks written response from government on decision not to write Federal Democratic Republic Nepal |publisher=カトマンズ・ポスト |date=2020-12-04 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。変更を支持する憲法専門家の主張では、違憲性はないと判断している<ref>{{Cite web |url=https://myrepublica.nagariknetwork.com/news/govt-decision-to-use-nepal-as-the-country-s-official-name-instead-of-federal-democratic-republic-of-nepal-is-okay-constitutional-experts/ |title=Govt decision to use ‘Nepal’ as the country’s official name, instead of ‘Federal Democratic Republic of Nepal’ is okay: Constitutional experts |publisher=myrepublica |date=2020-11-06 |accessdate=2021-01-27}}</ref>。 オリ政権は2020年11月16日付けで国名変更を[[国際連合]]へ通達し、2020年12月14日に承認された<ref name="untern" />。これに続き、2021年1月に[[中央情報局]](CIA)のオンライン版[[ザ・ワールド・ファクトブック]]<ref name="CIA" />と[[国際標準化機構]](ISO)<ref>{{Cite web |url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:code:3166:NP |title=ISO 3166:NP |publisher=国際標準化機構 |date=2021-01-20 |accessdate=2021-01-23}}</ref>は正式国名を「ネパール」へ変更した。 == 国旗 == {{Main|ネパールの国旗}} 国旗は1962年12月16日に採択されたものであるが、2008年から連邦民主共和制に基づく新政府へ移行した現在もこの図案を採用している。 {{節スタブ}} == 歴史 == {{Main|{{仮リンク|ネパールの歴史|ne|नेपालको इतिहास|en|History of Nepal}}}} === リッチャヴィ朝以前 === * ネパールの中心、[[カトマンズ盆地]]には[[旧石器時代]]から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、[[マデシ|タライ]]など旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている<ref>[[#佐伯(2003)|佐伯(2003):21]]</ref>。 * 伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ([[文殊菩薩]])が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという<ref>[[#佐伯(2003)|佐伯(2003):28]]</ref>。 * また、「ネ(ne)」という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治(pal)」 したので、「ネパール(Nepal)」の名が付けられたという伝説もある<ref>[[#佐伯(2003)|佐伯(2003):42]]</ref>。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。 * ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「[[ゴーパーラ朝|ゴーパーラ王朝]]」「[[マヒシャパーラー朝|マヒシャパーラー王朝]]」「{{仮リンク|キラータ朝|en|Kirata Kingdom|label=キラータ王朝}}」があったとされるが、信憑性は低い<ref>[[#佐伯(2003)|佐伯(2003):39-55]]</ref>。 [[ファイル:Lumbini 4.jpg|thumb|160px|仏陀生誕の地と言われる[[ルンビニ]]]] * [[紀元前6世紀]] - 現在ネパール領の[[カピラ城|カピラヴァストゥ]]の統治者の子として[[釈迦]](仏陀)が[[ルンビニ]]で生誕し、[[北インド]]に教えを広めた。これらの地域は当時は[[インド文化圏]]に含まれていた。 * [[紀元前3世紀]] - インドの[[アショーカ王]]が釈迦の生誕地である南ネパールに巡礼を行い、[[仏塔]]を建立した。 === リッチャヴィ朝時代 === [[4世紀]]に[[インド・アーリヤ語派]]の王族によるネーパーラ王国[[リッチャヴィ朝]]が成立した<ref name="AS33">[[#エリア・スタディーズ(2000)|エリア・スタディーズ(2000):33]]</ref>。リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた<ref name="AS33"/>。また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営<ref group="†">これらの王宮は現在の[[カトマンズ]]にあったと推測されているが、詳しい位置はわかっていない。</ref><ref name="AS33"/>。また[[パンチャーヤト制]]やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした<ref name="AS33"/>。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。 === 中世 === リッチャヴィ朝の衰退に乗じて[[9世紀]]には[[デーヴァ朝]]が興り、[[バクタブル]]に王都を築いた<ref name="AS34">[[#エリア・スタディーズ(2000)|エリア・スタディーズ(2000):34]]</ref>。[[ネワール族|ネワール]]文化が栄えた。続いて[[14世紀]]末には[[マッラ朝]]が確立されたが、[[1450年]]ごろに[[バクタプル]]王国([[バクタプル・マッラ朝]])から[[カトマンズ]]王国([[カトマンズ・マッラ朝]])が独立する<ref name="AS34"/>。その後[[1619年]]までにマッラ朝、[[パタン (ネパール)|パタン]]王国([[パタン・マッラ朝]])も[[カトマンズ]]王国から独立し、三王国並立時代となる<ref name="AS34"/>。 === ゴルカ朝前期 === [[ファイル:Prithvi Narayan Shah.jpg|thumb|200px|[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]]] マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、[[18世紀]]前半にはカトマンズ西方の山地で<ref name="AS35">[[#エリア・スタディーズ(2000)|エリア・スタディーズ(2000):35]]</ref>[[ゴルカ王国]]([[ゴルカ朝]])が勢力を拡大する。そして[[1768年]]から[[1769年]]にかけて、第10代ゴルカ王[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]によってマッラ王朝は滅ぼされる。そして350の小王国に分かれていた[[ネパールの統一|ネパールが統一]]され、ゴルカ朝はカトマンズを首都に[[ネパール王国]]を作った<ref name="AS35"/>。 * [[1790年]] - [[1791年]] - [[清・ネパール戦争]] * [[1814年]] - [[1816年]] - ネパール・イギリス戦争([[グルカ戦争]]) ** [[イギリス東インド会社]]との戦争の結果、善戦したが敗北。[[スガウリ条約|スガウリ講和条約]]により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍[[傭兵]]に志願できるという条項を加えた。イギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵は[[グルカ兵]](ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。 === ラナ家支配時代 === * [[1846年]] - 宮廷内の虐殺事件を機に[[ジャンガ・バハドゥル・ラナ]]が宰相となる。以後、宰相は[[ラナ家]]の世襲となり、[[1951年]]まで シャハ王家は傀儡となる。 [[ファイル:Jang Bahadur Rana.jpg|thumb|200px|[[ジャンガ・バハドゥル・ラナ]]]] [[ファイル:Kings Palace Gorkha Nepal.jpg|thumb|丘の上に建つ旧王宮]] * [[1854年]] - ジャンガ・バハドゥル、近代的な大法典'''ムルキー・アイン'''を公布。 * [[1857年]] - [[1859年]] [[インド大反乱]](セポイの乱)で英軍を援助。 * [[1914年]] - [[1918年]] [[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として[[第一次世界大戦]]に参戦。 * [[1910年代]] - [[ワジリスタン戦争(英領インド)]]英軍を援助。 * [[1919年]] - [[第三次アフガン戦争|第三次英・アフガン戦争]]で英軍を援助。 * [[1934年]] - [[1月15日]]に、[[ビハール・ネパール地震]]が発生。 * [[1939年]] - [[9月4日]]に、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]として[[第二次世界大戦]]に参戦。 * [[1947年]] - ネパール国民会議派(現在の[[ネパール会議派]]の前身)結成。 * [[1949年]] - [[ネパール共産党]]結成。 === 王政復古 === * [[1951年]] - '''[[トリブバン]]国王、'''亡命先のインドより帰国し王位に就く(王政復古)。[[ラナ家]]の支配終わる。[[立憲君主制]]を宣言。 * [[1953年]] - [[エドマンド・ヒラリー]]、[[テンジン・ノルゲイ]]、[[エベレスト]]初登頂。 * [[1955年]] - '''[[マヘンドラ]]国王'''即位。 * [[1956年]] - [[日本国]]との外交関係を樹立。 * [[1959年]] - 初の[[総選挙]]。[[ネパール会議派]]・[[B.P.コイララ]]が政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。 * [[1960年]] - [[マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|マヘンドラ]]国王が[[クーデター]]により議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。 * [[1962年]] - 新[[憲法]]制定。[[政党]]の禁止、国王に有利な複雑な[[間接民主主義]]「[[パンチャーヤト制]]」、[[ヒンドゥー教]]の実質[[国教]]化など。 * [[1972年]] - '''[[ビレンドラ]]国王'''即位。 * [[1980年]] - [[パンチャーヤト制]]の是非を問う[[国民投票]]。僅差で存続決まる。 === 民主化時代 === * [[1990年]] ** [[2月18日]]、[[パンチャーヤト制]]廃止、[[複数政党制]]復活を求めて[[民主化運動]]([[ジャナ・アンドラン]])起こる。[[ネパール会議派]]と共産系7政党が共闘。 ** [[4月8日]]、[[ビレンドラ]]国王、政党党首と[[テレビ]]出演。[[複数政党制]]導入を約束。 ** [[4月16日]]、国王、パンチャーヤト制の廃止を宣言。 ** [[4月19日]]、国王、[[ネパール会議派]]の[[クリシュナ・プラサード・バッタライ]]を首相に指名。 ** [[11月9日]]、[[国民主権]]を謳った新[[憲法]]制定(1990年憲法)。 * [[1991年]] ** [[5月12日]]複数政党制による30年ぶりの総選挙。ネパール会議派が勝ち、[[ギリジャー・プラサード・コイララ]]が首相に。 * [[1996年]] - [[ネパール共産党 (毛沢東主義派中央)|ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)]]が[[王制]]を打破すべく、「人民戦争」を開始。([[ネパール内戦]]) * [[2001年]]1月 - マオイスト、正式に[[ネパール人民解放軍|人民解放軍]]を創設。 [[ファイル:Gyanendra 01.jpg|thumb|180px|[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]国王]] * [[2001年]][[6月1日]] - [[ネパール王族殺害事件]]によりビレンドラ国王らが殺害され、'''[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]国王'''が王位につく。 **: ギャネンドラ国王は議会を停止。以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態。 **: 実質的には武力のない議会に力はなく国軍を掌握する国王派とマオイストによる内戦が続き、政府支配地域とマオイスト支配地域に分かれる。 **: [[アメリカ合衆国|アメリカ]]が国王を支援。武器を供給するなどしたが、武装した農民がマオイストに合流するなど混乱に拍車をかける結果に。 * [[2002年]][[10月4日]]、ギャネンドラ国王はクーデターによりネパール会議派の[[シェール・バハドゥル・デウバ|デウバ]]内閣を停止、国王の親政を行う。11日、王党派の[[ロケンドラ・バハドゥル・チャンダ|チャンダ]]を首相に任命。 * [[2004年]]6月 - 国民の声に圧されて国王は再びデウバを首相に任命。 * [[2005年]] ** [[2月1日]] - ギャネンドラ国王は再度議会・内閣を停止。[[絶対君主制]]を導入、[[非常事態宣言]](実質上の[[戒厳令]])を発令。4月末日に解除された。 ** 12月 - 議会内の[[7党連合]]と議会外の[[ネパール共産党毛沢東主義派|毛沢東派]]が和解、共にギャネンドラ国王の独裁と闘うことで合意。 * [[2006年]] ** 4月 - 7党連合、[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]を呼びかけ。[[民主化運動]]([[ロクタントラ・アンドラン]])が高まる。[[ネパール共産党毛沢東主義派|毛沢東派]]も抗議行動に参加。 ** [[4月24日]] - 国王が直接統治断念と国民への権力移譲、議会の復活を発表し、政党側に首相推薦を要請。[[4月27日|27日]]、コイララ政権が発足。 ** 5月 - ネパール政府、毛派をテロ指定解除。 ** [[5月18日]] - 議会が[[国歌]]変更と[[政教分離]]([[ヒンドゥー教]]の[[国教]]廃止)を満場一致で決定。 ** [[11月21日]] - 政府とマオイスト、無期限停戦を誓う「包括和平協定」に調印。2007年6月までに[[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙を実施することで合意。 * [[2007年]] ** [[1月15日]] - 下院、暫定[[憲法]]発布。その後、下院は解散。 ** [[1月23日]] - [[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]、[[国際連合ネパール支援団|国連ネパール支援団]](UNMIN)を設立する[[国際連合安全保障理事会決議1740|安保理決議1740]]を全会一致で採択。国軍と人民解放軍の停戦を監視。 ** 2月 - ネパール南東部では暫定憲法に反対し地位向上を訴える[[マデシ]](インド系少数民族)の抗議行動が続き、地元警察との衝突により少なくとも21人が死亡。 ** [[12月27日]] - 暫定議会、ネパールの政体が[[連邦]]民主[[共和制]]になる旨の暫定憲法改正案を承認。 * [[2008年]] ** [[4月10日]] - [[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず。 ** [[5月28日]] - ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を'''連邦民主共和制'''と宣言して正式に[[王制]]が廃止された<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.afpbb.com/articles/-/2397542?pid=2974742 |title = ネパール、王制を廃止 共和制を宣言 |publisher = AFPBB News |date = 2008-05-29 |accessdate = 2018-01-07 }}</ref>。ギャネンドラ国王は退位し、ここにネパール王国(ゴルカ朝)は終焉を迎えた。 === 王制廃止以降 === * [[2008年]] ** [[6月11日]] - ギャネンドラ前国王、王宮を退去。 ** [[7月19日]] - 初の[[大統領]]選挙。[[副大統領]]に[[パラマーナンダ・ジャー]]([[マデシ人権フォーラム]])当選。大統領はいずれの候補も過半数に達せず。 ** [[7月21日]] - 決選投票の結果ネパールの初代大統領に'''[[ラーム・バラン・ヤーダブ]]'''([[ネパール会議派]])が選出される。 ** [[7月23日]] - ヤーダブ大統領、正式に就任。ジャー副大統領、就任式に[[インド]]の言語・[[ヒンディー語]]で宣誓し、マデシ以外のネパール人から激しい抗議行動を受ける。 ** [[7月24日]] - ネパール外務省、各国[[外交団]]に国家の正式名称を"Federal Democratic Republic of Nepal",略称を“Republic of Nepal"とするよう要請。 ** [[7月28日]] - 日本国政府、正式にネパールの国号を「ネパール連邦民主共和国」に改める。 ** [[7月29日]] - ジャー副大統領、ヒンディー語で宣誓し、混乱を引き起こしたことを陳謝。 ** [[8月15日]] - 首相に[[ネパール共産党毛沢東主義派|毛沢東派]]・[[プラチャンダ]](プシュパ・カマル・ダハル)が選出される。 ** [[8月31日]] - [[プラチャンダ内閣]]、全閣僚が就任。毛派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラムほかの連立内閣。 * [[2009年]] ** [[1月12日]] - [[ネパール共産党毛沢東主義派]]と[[ネパール共産党統一センター・マサル派]]が合同し、[[ネパール共産党統一毛沢東主義派]](統一毛派)となる。 ** [[3月2日]] - [[統一毛派]]、145条からなる新憲法草案を発表。 ** [[5月3日]] - プラチャンダが毛派民兵組織の扱いを巡り対立していた[[ルークマングド・カタワル]]陸軍参謀総長を解任。これに対し連立与党、野党、国軍が一斉に反発。ヤーダブ大統領、解任を取り消し首相を非難。 ** [[5月4日]] - プラチャンダが首相辞任。連立政権崩壊。 ** [[5月23日]] - [[マーダブ・クマール・ネパール]]が首相に選出される。 * [[2010年]] ** [[6月30日]] - マーダブ・クマール・ネパールが辞任を表明。しかし、後継首相を選ぶための制憲議会の首班指名選挙で誰一人過半数を獲得出来ず、同年9月まで8回の選挙が繰り返し行われた。 ** [[12月11日]] - 元国王・ギャネンドラの長男の元皇太子・[[パラス・ビール・ビクラム・シャハ|パラス]]が泥酔、副首相・{{仮リンク|スジャータ・コイララ|en|Sujata Koirala}}の娘{{仮リンク|メラニー・コイララ・ジョスト|en|Melanie Koirala Jost}}の婿と口論した末に発砲した容疑で[[逮捕]]されたが、三日後の裁判前に双方から発砲は無かったという発表があり釈放された。政治の混乱が続き王制復活への期待が出始めた矢先の出来事であった<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101226-OYT1T00474.htm 王制復活へ期待の矢先、ネパール元皇太子が発砲]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 * [[2011年]] ** [[1月3日]] - マーダブ・ネパールの引退表明から後任が決まっていなかった首相職に[[ジャラ・ナート・カナール]]が指名されたが、混迷を収拾できず同年8月14日に辞表を提出した。 ** [[8月29日]] - [[ネパール共産党統一毛沢東主義派]]の[[バーブラーム・バッタライ]]が首相職に指名され、[[プラチャンダ内閣]]内閣以来2年ぶりに統一毛派政権となった。 ** [[11月1日]] - ネパールの主要政党が歴史的な和平プロセスに合意したと、統一毛派のスポークスマンDinanath Sharmaが発表した。<ref>http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/nepal/8864647/Nepal-Maoists-hail-historic-deal-as-path-to-peace.html</ref> ** [[12月2日]] - 統一毛派内部で主流派のプラチャンダと強硬派の[[キラン]]の間で、マオイスト軍戦闘員の内何人を国軍であるネパール軍に統合するか合意し、2,500人の更なる上積みを要求したところ、議会がこれを拒否し、Krishna Sitaula事務局長が「人数を増やして合意することは不可能だ。12月15日までの合意を不可能にするものである。」と指摘した。また、この動きで主流派内での権力争いはバッタライからプラチャンダに戻ったと観測されている。<ref>http://www.dnaindia.com/india/report_nepal-peace-process-in-for-trouble-as-maoists-ask-for-more_1620429</ref> ** [[12月16日]] - 合意が任期内に出来ず、議会の会期延長が決定し、6ヶ月後の[[2012年]][[5月13日]]までに全ての手続きを完了することになった。<ref>http://www.nepalnews.com/home/index.php/news/1/14893-ca-set-to-get-final-extension-of-six-months-taskforce-decides-to-go-with-govt-proposal.html</ref> * [[2012年]]5月- 合意が任期内に出来ず、制憲議会の任期満了。バッタライ首相は11月に選挙を行うとしていたが、政党間の調整がつかず失敗<ref name ="sankei2013212">[http://sankei.jp.msn.com/world/news/130212/asi13021200010000-n1.htm 「5月29日までに制憲議会選 ネパール主要政党が合意」] -MSN産経ニュース2013.2.12 00:01配信</ref>。 * [[2013年]] **[[2月11日]] - 主要政党が5月29日までに制憲議会選挙を行うことで合意<ref name ="sankei2013212"/>。 **3月14日 - 制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣発足。「内閣の議長」は最高裁長官であった[[キル・ラージ・レグミ]]<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/130314/asi13031419520002-n1.htm ネパール選挙管理内閣議長に最高裁長官] -MSN産経ニュース2013.3.14 19:51配信</ref><ref>[http://nepalreview.wordpress.com/2013/03/14/a-503/ レグミ最高裁長官,暫定選挙管理内閣「議長」就任]- ネパール評論 2013年03月14日記事 </ref>。 **7月6日 - 選挙管理内閣、制憲議会選挙を11月19日に行うと閣議決定<ref>[http://nichine.or.jp/JNS/?p=6975 制憲議会選挙11月19日へ、ボイコットの表明も] - [[日本ネパール協会]] 2013年7月6日 記事</ref>。 **11月19日 - 制憲議会選挙。ネパール会議派が第一党になり、毛派は大敗。毛派は不正選挙であると主張している<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122400953 制憲議会招集へ=政党対立が収束-ネパール]</ref>。 * [[2014年]] **1月 - 制憲議会開会 **2月 - ネパール会議派の新政権発足。首相は[[スシル・コイララ]]。 * [[2015年]] **4月25日 - 首都[[カトマンズ]]北西約80kmを震源とする[[マグニチュード]]7.8の地震発生([[ネパール地震 (2015年)]])。 **9月20日 - [[2008年]]から制定作業を続けてきた制憲議会により[[憲法]]が公布された<ref name="nikkei20150921" />。 * 2017年 ** 2017年5,6,9月 - 地方選挙を3回に分けて実施 ** 2017年11,12月 ‐ 州・連邦下院議会選挙実施  ** 2018年3月 - オリ(UML党首)政権発足 == 政治 == {{main|ネパールの政治|{{仮リンク|ネパール政府|en|Government of Nepal}}}} {{See|ネパールの政党|ネパールの大統領|ネパールの首相}} === 近況 === [[ファイル:Democracywallktm (73).JPG|300px|right|thumb|カトマンズ、民主の壁]] [[2006年]]の[[民主化運動]]([[ロクタントラ・アンドラン]])の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家[[元首]]としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。 これを受け、当時の与党・[[ネパール会議派]]は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力である[[ネパール共産党毛沢東主義派]](マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。 [[2008年]][[4月10日]]に投票された[[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)で[[プラチャンダ]]議長率いる[[ネパール共産党毛沢東主義派]]が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一[[国民民主党ネパール]](4議席)に留まった。同年[[5月28日]]に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。ここにネパール王国及びゴルカ朝はその歴史に幕を閉じた。 [[2009年]][[5月4日]]、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「[[ネパール人民解放軍]]」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップの[[ルークマングド・カタワル]]陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。 [[5月23日]]、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立により[[マーダブ・クマール・ネパール]]が選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。しかしネパール首相は2010年6月に辞任を表明し、制憲議会は後継首相を選出することができない混乱状態に陥った。2011年1月にカナルが首相となったが辞任し、8月29日に毛派のバッタライが首相となった。しかし毛派の内紛も収まらず、憲法制定のための合意もできない状態が続いたままで制憲議会は任期満了を迎えた。2013年3月に最高裁長官のレグミを「議長」とする選挙管理内閣が発足し、新たな[[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙を11月29日に行うことが決定した。 2015年9月20日、新憲法が公布された<ref name="nikkei20150921" />。これにより、7つの州と、753の地方政府が成立した。 === 大統領・首相 === [[ファイル:Dr. Ram Baran Yadav.jpg|thumb|200px|初代大統領となった[[ラーム・バラン・ヤーダブ]]]] [[ネパールの大統領|大統領]]は政治的実権を持たない、儀礼的な国家[[元首]]と規定されている<ref name="sankei20151028">[http://www.sankei.com/world/news/151028/wor1510280058-n1.html ネパールで初の女性大統領、バンダリ氏…儀礼的な職に限られ] - 産経ニュース 2015.10.28 23:22</ref>。 大統領・[[ネパールの首相|首相]]は[[連邦議会 (ネパール)|連邦議会]]における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は連邦議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領は[[ネパール軍|軍]]の最高指揮権は持つが[[象徴]]的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領には[[ラーム・バラン・ヤーダブ]](ネパール会議派)が当選している。2015年9月の新憲法制定後、元国防相の[[ビドヤ・デビ・バンダリ]]が選出された<ref name="sankei20151028" />。 ==== 初の大統領選挙 ==== 大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。 毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。 一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、[[G.P.コイララ]]を大統領に推してきた。統一共産党は前総書記[[マーダブ・クマール・ネパール]]を大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/nepal_journal/55900540.html カトマンズ・ジャーナル]</ref>結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制[[活動家]]・[[ラム・ラジャ・プラサド・シン]]を支持、これを[[マデシ]]3党も支持したが、[[マデシ人権フォーラム]]は独自の[[副大統領]]候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派'''[[ラーム・バラン・ヤーダブ]]'''代表幹事<ref group="†">英:General Secretary.ネパール会議派では党首ではなく、また複数いる場合があるので、「総書記」「幹事長」と訳すのは不適と考え、「代表幹事」の訳を充てた。</ref>(マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった<ref>カトマンズ・ジャーナル2008年7月19日</ref>。 [[7月19日]]の制憲議会では[[ネパールの副大統領|副大統領]]に[[マデシ人権フォーラム]]が推薦した[[パラマーナンダ・ジャー]](305票)が当選したものの大統領選は[[ラーム・バラン・ヤーダブ]](283票)、[[ラム・ラジャ・プラサド・シン]](270票)とも[[過半数]]を得られず、[[7月21日]]、再選挙することになった<ref>[http://www.kantipuronline.com/kolnews.php?&nid=154137 eKantipur.com]</ref>決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けた[[ラーム・バラン・ヤーダブ]]が、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。[[ラム・ラジャ・プラサド・シン]]は282票にとどまった。(欠席4)<ref>[http://www.kantipuronline.com/kolnews.php?&nid=154318 eKantipur.com]</ref>。 また[[7月19日]]の閣議で決定された[[官職]]の序列は以下の通り。第1位-大統領(元首)、第2位-首相、第3位-[[最高裁長官]]、第4位-[[ネパール制憲議会|制憲議会]]議長、第5位-副大統領<ref>[http://www.kantipuronline.com/kolnews.php?&nid=154230 eKantipur.com]</ref>。 ==== 首相選挙 ==== [[File:Prime Minister of Nepal, Shri Sher Bahadur Deuba, in Glasgow, Scotland on November 02, 2021 (1).jpg|thumb|200px|デウバ首相]] なお、首相には[[ネパール共産党毛沢東主義派]]の[[プラチャンダ]]議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。[[7月22日]]毛派の中央委員会で[[野党]]の立場をとることを議決<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/nepal_journal/55982317.html カトマンズ・ジャーナル]</ref>。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派の[[プラチャンダ]]議長を首相に推すこととなった。 [[8月15日]]投票が行われた結果、有効投票数551票の内、'''プラチャンダ'''('''プシュパ・カマル・ダハル''')が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推した[[シェール・バハドゥル・デウバ]]元首相は113票に留まった<ref>[http://www.thehimalayantimes.com/fullstory.asp?filename=6a1Ta1peo2am8&folder=aHaoamW&Name=Home&dtSiteDate=20080815 Himalayan Times 15 Aug 2008]</ref>。プラチャンダ首相は[[連立与党]]([[ネパール共産党毛沢東主義派|毛沢東派]]、[[ネパール統一共産党|統一共産党]]、[[マデシ人権フォーラム]]他)と[[組閣]]交渉に入ったが、最終的に[[8月31日]]、全閣僚が就任し、[[プラチャンダ内閣]]が成立した<ref>[http://www.nepalnews.com/archive/2008/aug/aug31/news10.php Nepalnews.com Aug.31 2008]</ref>。[[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙から4か月でようやく新政権が発足した。 [[2009年]][[5月3日]]、プラチャンダが毛派民兵組織([[ネパール人民解放軍]])の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌[[5月4日]]、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。 [[2009年]][[5月23日]]、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、[[ネパール統一共産党|統一共産党]]元[[総書記]]・'''[[マーダブ・クマール・ネパール]]'''が統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票で当選した<ref>[http://www.nepalnews.com/archive/2009/may/may23/news08.php 2009年5月23日"Nepalnews.com"]</ref>。 その後、1年前後で首相が交代していたが、第2次[[K.P.シャルマ・オリ]]政権は3年余り続いた。2021年7月13日、[[シェール・バハドゥル・デウバ]]が首相に任命された。 === 制憲議会 === {{main|ネパール制憲議会}} 本格[[憲法]]制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。[[2008年]][[4月10日]]に選挙が行われた。通常の[[立法機関]]としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。議長は暫定的に[[クル・バハドゥール・グルング|クル・バハドゥール・グルン]](ネパール会議派)が務めていたが、[[7月22日]]正式の議長として[[スバス・ネムバン|スバス・ネムワン]](統一共産党出身)が満場一致で選出された。 制憲議会は2次にわたり、2015年9月20日に新憲法公布、2017年11月26日[[連邦議会 (ネパール)|連邦議会]]選挙が実施された。 2019年現在の連邦議会は、両院制であり、上院に当たる国民議会([[:en:National_Assembly_(Nepal)|National Assembly]])が59議席、下院に当たる代議院([[:en:House_of_Representatives_(Nepal)|House of Representatives]])が275議席、合計334議席となっている。両院とも、2019年時点で殆どを下記の4党が占めている。特に、ネパール共産党は、国民議会で59議席中42議席、代議院で275議席中174議席を占める。 '''政党''' 主要政党の詳細は各記事を、小政党の詳細は[[ネパールの政党]]を参照。 [[ファイル:Prachanda.jpg|thumb|演説を行う[[プラチャンダ]]議長(統合前のネパール共産党統一毛沢東主義派の時)]] * '''[[ネパール共産党 (2018年)|ネパール共産党]]''':[[ネパール共産党統一毛沢東主義派]](旧・ネパール共産党毛沢東主義派、マオイスト、毛派とも。)と[[ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派]](日本では'''統一共産党'''の略称が一般的。)が2018年5月に統合してできた政党。しかし2021年3月に最高裁判所によって統合は無効とされ、現在は別々に活動している<ref>{{Cite web |url=https://indianexpress.com/article/world/nepal-top-court-quashes-2018-formation-of-ruling-nepal-communist-party-7218809/ |title=Nepal top court quashes 2018 formation of ruling Nepal Communist Party |publisher=Indian Express |date=2021-03-08 |accessdate=2021-05-01}}</ref>。 * '''[[ネパール会議派]]''':'''コングレス党'''とも。 *'''[[:en:Samajbadi Party, Nepal|ネパール社会党]]''':[[:en:Naya Shakti Party, Nepal|ネパールナヤ・シャクティ党]]と[[:en:Federal Socialist Forum, Nepal|ネパール連邦社会主義フォーラム]]が2019年5月に統合してできた政党。党首は、かつて首相[首相当時は、マオイスト所属]を務めた[[バーブラーム・バッタライ]]。また、ネパール連邦社会主義フォーラムは、[[マデシ人権フォーラム]](正しくは「マデシ人民の権利フォーラム」と訳すべきであるが、日本ではこの訳が定着してしまった。かつてマデス地方の人々の利益を代表する[[地域政党]]。)と[[:en:Federal Socialist Forum, Nepal|ネパール連邦社会党]]とカス・サマベシ党(Khas Samabeshi Party)が2015年6月に統合してできた政党であった。 *'''[[:en:Rastriya Janata Party Nepal|国家国民党ネパール]]''':[[タライ・マデシ民主党]]と[[友愛党]]と[[:en:Nepal Sadbhawana Party|ネパール・サドバハワナ党]]と[[:en:Tarai Madhes Sadbhawana Party|タライ・マデシ・サドバハワナ党]]と、マデシ人権フォーラム(共和派)と国民マデシ・サマジワディ党(Rastriya Madhesh Samajwadi Party)が2017年4月に統合してできた政党。マデシ系の政党である。 === 行政機構 === ネパールの政府機構は非常に複雑である。[[官僚]]機構は[[内閣]]の各[[大臣]](Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChief Secretary(直訳すれば[[官房長官]]、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば[[事務次官]]のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。 * '''外部リンク''' [http://www.opmcm.gov.np/body/Organisation_chart.htm ネパールの行政機構(ネパール政府首相府HP)] - 行政組織図(英語) == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ネパールの国際関係|en|Foreign relations of Nepal}}}} ネパールの外交の基本方針は[[非同盟]]中立である。また、隣国の[[インド]]と[[中華人民共和国|中国]]と深い関係を持っている。条約により、インドとネパールの国民は[[査証|ビザ]]なし、[[パスポート]]なしで両国を行き来できる。また、ネパール国民はインドで自由に働くことができる。このようにネパールとインドが密接な関係を持っているにもかかわらず、ネパールはしばしば、問題の多い[[中印関係]]に翻弄されてきた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は長年、毛派を[[テロ]]集団と位置づけ、国王を援助してきたが、民主的な選挙で第一党となったことで、友好的な態度に変わった。 === インドとの関係 === 経済的依存が大きい。ネパール南部は[[マデシ]]と呼ばれるインド移民がおり親インド的でインド政府は彼らを支援し影響力を維持しようとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150927-RT7O2WM66FJOPNAULJH3H42CKY/2/|title=親インド住民「圧迫だ」…ネパール、新憲法交付で対印関係悪化 中国台頭や地方議会選にらむ|accessdate=2020年7月4日|publisher=産経新聞}}</ref>。領土問題もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3283896|title=ネパール新地図にインドとの係争地域、領土問題激化必至|accessdate=2020年7月4日|publisher=AFP}}</ref>。共産党に政権が変わってからはマデシの野党議員が領土問題でネパール政府の意見に異を唱えるなどインドの影響力の増加から反インド政策を打ち出している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61075330S0A700C2FF1000/|title=ネパールが相次ぎ「反インド政策」、領土に続き帰化法制強化へ|accessdate=2020年7月4日|publisher=日経新聞}}</ref><ref>日本経済新聞7月3日8面「反インド政策」ネパールで拍車</ref>。 [[2008年]][[8月22日]]、[[プラチャンダ]]内閣の[[外務大臣]]として[[マデシ人権フォーラム]]党首・[[ウペンドラ・ヤーダブ]]が就任した。 [[2009年]][[6月4日]]、[[マーダブ・クマール・ネパール]]内閣の[[外務大臣]]として、[[ネパール会議派]]所属の{{仮リンク|スジャータ・コイララ|en|Sujata Koirala}}(女性)が就任した<ref>[http://www.nepalnews.com/archive/2009/jun/jun04/news06.php Nepalnews.com 2009年6月4日付け]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。 === 中国との関係 === 社会主義や共産主義を掲げる政党が多い為、現在においても親中政権だと言われている。 2008年中国の[[チベット]]政策に対する抗議活動を抑圧するようネパールに要請した。[[2008年]][[4月17日]]、ネパール警察は、中国との良好な関係を維持するため500人以上の[[チベット民族|チベット人]]の活動家を逮捕した。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は、中国からの要請により、ネパールのチベット人は、政治的活動、文化活動、宗教活動を厳しく制限され、ネパール治安部隊から日常的に人権侵害を受けているとしている。また、ネパールは一部のチベット人を中国へ[[退去強制|強制送還]]しているともされ、これはネパール政府と[[国際連合難民高等弁務官事務所|国連難民高等弁務官事務所]]との[[紳士協定]]や、ネパールにチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hrw.org/ja/news/2014/04/01|title=ネパール:中国の圧力強化で脅かされるチベット人|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|date=2014-4-1|accessdate=2014-8-11}}</ref>。 [[8月15日]]選出された[[プラチャンダ]]元[[首相]]は、最初の外遊として[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の閉会式への参加という形で訪中し、[[胡錦濤]][[中華人民共和国国家主席|国家主席]]、[[温家宝]]首相と会談している<ref>[http://uk.reuters.com/article/worldNews/idUKDEL14374320080819 Reuters Aug.19 2008]</ref>。慣例ではネパール首相が最初に訪れる外国はインドであり、異例の外交といえる。 2018年9月オリ首相は中国と天津など海港4ヶ所、蘭州など陸港3ヵ所の使用を合意。貿易を依存するインドによる度々の国境閉鎖が背景にあるという。 === 日本との関係 === {{Main|日本とネパールの関係}} 日本とネパールの関係は良好である。要点は次の通りである。 * 経済援助額はイギリスについで世界第二位である。 * 国連の停戦監視団に6名の自衛官を派遣している。 * [[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙に選挙監視団を派遣している。 [[2007年]]10月10日には[[サハーナ・プラダン]]元[[外相]]が訪日し、[[高村正彦]]外相と公式に会談した。プラダンは日本による投票箱の供与や国連監視団の協力に感謝し、日本の[[国連常任理事国]]入りを支持した(国連総会でも日本の常任理事国入りを支持する演説を行っている)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h19/10/1175724_814.html 外務省:高村外務大臣とプラダン・ネパール外務大臣の会談について]</ref>。 また、毛沢東派のプラチャンダ議長は政権就任前、日本に[[チャンドラ・プラサッド・ガジュレル|ガジュレル]]政治局員を非公式に派遣した。ガジュレルは、日本・ネパール友好議員連盟会長の[[二階俊博]]衆議院議員や当時の[[木村仁]]外務副大臣と会談し、また、[[共同通信]]のインタビューも受けている<ref>共同通信2008年6月18日 16:20</ref>。 [[2008年]]7月16日には日本から[[宇野治]]外務[[大臣政務官]]がネパールを訪問、当時の[[ギリジャー・プラサード・コイララ]]首相のほか、毛派のプラチャンダ議長ら、各党の幹部と個別に会談した。制憲議会発足後初めての要人訪問である<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/seimu/uno/nepal_08/gaiyo.html</ref>。 また、8月中旬、[[ネパール統一共産党]]前総書記の[[マーダブ・クマール・ネパール]]元[[副首相]](のちに首相)が訪日している。 [[2009年]]2月6日、[[プラチャンダ内閣]]の閣僚として初めて[[バーブラーム・バッタライ]]財務大臣が訪日した<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/21/2/1187504_1092.html</ref>。 [[2009年]]6月4日現在の日本の在ネパール[[特命全権大使]]は水野達夫、ネパールの在日本特命全権大使はガネシュ・ヨンザン・タマンである。 2018年1月現在の駐ネパール日本大使は小川正史、駐日ネパール大使はプラティヴァ・ラナである。 {{要出典範囲|社団法人[[日本ネパール協会]]が交流の中心になっている。|date=2014年10月}}<ref>{{Cite web|和書|title=協会について {{!}} 公益社団法人 日本ネパール協会|url=http://www.koeki.or.jp/aboutus/|website=www.koeki.or.jp|accessdate=2021-05-07}}</ref> == 軍事 == [[ファイル:DA-ST-96-01245 c1.JPEG|thumb|left|200px|国連軍として活動するネパール兵]] {{Main|ネパール軍}} [[ネパール軍]]は、陸軍航空隊を含むネパール陸軍から構成される。王制時代は「王立ネパール陸軍」(Royal Nepal Army)と呼ばれていた。95,000人の兵員、各地方に置かれる6個[[師団]]および、航空[[旅団]]、空挺旅団、治安旅団の独立の3旅団からなる。 [[志願兵]]制であり、軍への登録は18歳から可能である。2004年の統計で、ネパールの軍事予算は9920万ドルで、GDP比は1.5%である。武器、装備の多くはインドから輸入されている。[[1990年]]の憲法では軍の最高指揮権は[[国王]]にあるとされたが、現在は[[大統領]]が最高指揮権を持っている。 また、今まで国軍と敵味方として戦ってきた[[ネパール共産党毛沢東主義派|毛沢東派]]のゲリラ組織、[[ネパール人民解放軍]]と合同するのか、しないのかも困難な課題として、制憲議会で議論されていた。[[2011年]][[11月]]に主要政党の間で軍統合問題を含めた「7項目の合意」成立により軍統合の作業が始まった。当初の合意では、6,500人の戦闘員をネパール国軍に統合することになっていた。しかし、統合の方法が「侮辱的である」として引退を希望した人が多かったこと、[[学歴]]や[[年齢]]がネパール国軍の基準を満たさなかったために選抜から外された人がいたことにより、第一段階の分類作業では約17,000人(その内、統合希望者約9,500人)の戦闘員が参加したが、2度の分類作業により、最終的に士官候補71人を含む1,442人(女性105人を含む)がネパール国軍に統合されることになった<ref name="痛みを伴う軍統合">{{Cite journal|author=小倉清子|authorlink=小倉清子|title=武装勢力から議会政党へ――ネパールにおけるマオイストの変貌>Ⅱ 和平プロセスに入り、議会政党となったマオイスト>4 侮辱的な方法で行われた軍の統合と武装解除|journal=地域研究 |volume=15|issue=1|pages=93-95|publisher=[[地域研究コンソーシアム]]|date=2015-04|language=日本語|url=http://www.jcas.jp/jcasnavi/jcas/15-1-06_jcas_review_ogura.pdf|issn=1349-5038|accessdate=2019-04-08 }}</ref>。 これらの戦闘員は統合後の[[軍隊の階級|階級]]が決まらないままに、2012年11月25日からネパール国軍の施設で9ヶ月間の訓練に入った。戦闘員はネパール国軍に新たに設置されたGeneral Directorate of National Development, Forest Protection and Calamity Management(この部隊はマオイストの元戦闘員35パーセント、政府治安部隊員65パーセントの人員からなる。)に配属され、非戦闘員としてインフラ建設や[[自然保護|森林保護]]、[[災害救助]]などの分野で働くことになっている。階級の問題については、2013年3月13日に成立した主要政党間の合意で、1人に大佐、2人に中佐のポストが与えられることになった<ref name="痛みを伴う軍統合" />。 2007年から2011年まで、政府軍と人民解放軍の[[停戦]]を[[国際連合|国連]]([[国際連合ネパール支援団|UNMIN]])が監視していた。この[[国際連合ネパール支援団]]には日本の[[自衛隊]]からも6名が、現地時間2011年1月15日の国連の活動終了まで派遣されていた。 国防大臣は、2018年2月26日に就任したネパール共産党の[[:en:Ishwor Pokhrel|イシュウォル・ポクレル]]である<ref>{{Cite journal|和書|author=佐野麻由子|title=議席の3分の2に迫る第2次オリ政権の発足 : 2018年のネパール :2018年のネパール|publisher=日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所|series=アジア動向年報|date=2019|page=538|url=https://hdl.handle.net/2344/00051382|isbn=9784258010196|ncid=BN02174620}}</ref>。国軍制服組のトップは、2018年9月9日に就任した[[:en:Purna Chandra Thapa|プルナ・チャンドラ・タパ]]陸軍[[参謀総長]]である。プルナ・チャンドラ・タパは、2015年1月19日から2016年2月7日まで[[国際連合兵力引き離し監視軍]]の司令官を務めていた。 {{-}} === 民間軍事会社 === ネパールは[[グルカ兵]]を世界中に派遣する世界有数の[[民間軍事会社]]のコントラクター派遣国でもあり、中世スイスのように実質的な傭兵も大きな産業となっている。グルカ・セキュリティー・ガーズ (GSG) を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる民間軍事会社が形成されている。一人当たりのGDPが1200ドルほどしかなく農村の平均年収が300ドル以下のネパールでは月収1000ドル以上のコントラクターの給与は大変な高給であり、傭兵で一攫千金を夢見る人間が多く出ている。なお、ネパール政府は民間軍事会社の法規ともいえる[[モントルー文書]]を批准していない。 == 地理 == [[ファイル:Nepal topo en.jpg|thumb|300px|ネパールの標高図]] [[ファイル:Everest kalapatthar.jpg|right|200px|thumb|サガルマタ(エベレスト)]] [[ファイル:アンナプルナⅢ、マチャプチャレ1.jpg|thumb|240px|right|[[アンナプルナ]]Ⅲ、[[マチャプチャレ]]]] {{Main|{{仮リンク|ネパールの地理|ne|नेपालको भूगोल|en|Geography of Nepal}}}} 北を[[中華人民共和国]]の[[チベット自治区]]に、西を[[インド]]の[[ウッタラーカンド州]]に、南を[[ウッタル・プラデーシュ州]]と[[ビハール州]]に、東を[[シッキム州]]と[[西ベンガル州]]に接する。内陸国である。 [[国境]]の長さは合計2,926km、うち[[中国=ネパール国境|中国国境]]1,236km、[[インド=ネパール国境|インド国境]]1,690km。 中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称[[エベレスト]])を始めとする8,000m級の高峰を含む[[ヒマラヤ山脈]]が存在する。そのため[[高山気候]]となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿の[[平原]]地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所は[[エベレスト]]で標高8,848メートル。最低所は標高70メートルである。 面積は140,800km{{sup|2}}。[[本州]]を除いた日本(北海道 + 九州 + 四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalによる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/np.html#Geo |title=ネパール|publisher=CIA|accessdate=2020-9-3}} </ref>{{リンク切れ|date=2021年4月}}。 === ヒマラヤ山脈 === [[ファイル:Himalayas.jpg|thumb|250px|ヒマラヤ山脈]] {{Main|ヒマラヤ山脈}} 中国国境に接するネパール北部は'''世界の屋根'''とも称される8,000メートル級の山々が林立する[[高山地帯]]であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には[[氷河]]が多く形成されている。以下はネパール国内の主な高山である。 * [[エベレスト|サガルマタ]](エベレスト)8,848m * [[カンチェンジュンガ]]8,586m * [[ローツェ]]8,516m * [[マカルー]]8,462m * [[チョ・オユー]]8,201m * [[ダウラギリ]]8,167m * [[マナスル]]8,163m * [[アンナプルナ]]8,091m == 地方行政区画 == {{main|ネパールの行政区画|ネパールの州}} 2015年公布の新憲法によれば、ネパールは7州(Province/ Pradesh)、77郡(District/ Jilla)、775市町村(Municipality/ Palika)から成る連邦民主共和国である。市町村には都市化の程度に応じて、大都市(Metropolitan/ Mahanagarpalika)、準大都市(Submetropolitan/ Upmahanagarpalika)、都市(Urban/ Nagarpalika)、農村(Rural/ Gaunpalika)の4区分が設けられている。市町村の下には複数の区(Ward/Wada)があり、これが行政の最小単位である。 ※ 1960年代のパンチャーヤト制導入時に設定された5つの開発区域(Development Region)と14のゾーン(Zone)は廃止された。 {| class="wikitable" |+ | colspan="18" |ネパール |- | colspan="18" |ネパールは7州(7 Province / 7 Pradesh) |- | colspan="18" |77郡( 77 District / 77 Jilla) |- | colspan="18" |775市町村(Municipality/ Palika) |- | | colspan="17" |大都市(Metropolitan/ Mahanagarpalika) |- | | colspan="17" |準大都市(Submetropolitan/ Upmahanagarpalika) |- | | colspan="17" |都市(Urban/ Nagarpalika) |- | | colspan="17" |農村(Rural/ Gaunpalika) |- | | colspan="17" rowspan="2" |市町村の下には複数の区(Ward/Wada)があり、 これが行政の最小単位である。 |- | |} === ネパールの主な都市 === [[ファイル:Nepal_Map.PNG|thumb|right|400px|ネパール地図]] {{main|ネパールの都市の一覧}} {| class="wikitable sortable" |- ! 順位 !! 都市名 !! 2011年推計 !! 州 |- !align=right | 1 | [[カトマンズ]] || align=right | 1,003,285 || [[バグマティ州]] |- !align=right | 2 | [[ポカラ]] || align=right | 264,991 || [[ガンダキ州]] |- !align=right | 3 | [[パタン (ネパール)|パタン]] || align=right | 226,728 || [[バグマティ州]] |- !align=right | 4 | [[ビラートナガル]] || align=right | 204,949 || [[コシ州]] |- !align=right | 5 | [[ビールガンジ]] || align=right | 204,816 || [[マデシ州]] |- !align=right | 6 | [[ジャナクプル]] || align=right | 159,468 || [[マデシ州]] |- !align=right | 7 | [[バラトプル (ネパール)|バラトプル]] || align=right | 147,777 || [[バグマティ州]] |- !align=right | 8 | [[ブトワル]] || align=right | 120,982 || [[ルンビニ州]] |- !align=right | 9 | [[ダーラン (ネパール)|ダーラン]] || align=right | 119,915 || [[コシ州]] |- !align=right | 10 | [[マヘンドラナガル (マハカリ県)|マヘンドラナガル]] || align=right | 106,666 || [[スドゥパシュチム州]] |} === マデシ問題 === [[マデシ]]とは、タライ、またはテライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に[[北インド]]の影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派[[パルバテ・ヒンドゥー]]から差別を受けてきた。このため、近年、「[[マデシ人権フォーラム]]」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ([[ゼネラル・ストライキ]])・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。[[2008年]]の[[ネパール制憲議会|制憲議会]]選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。 [[2008年]]の初代[[大統領]]、[[副大統領]]選挙では、[[マデシ人権フォーラム]]がキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。 副大統領の[[パラマーナンダ・ジャー]]は就任式でマデシの共通言語として[[ヒンディー語]]([[インド]]の言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。 == 経済 == [[ファイル:Nepal - Kathmandu - 001 - streets of Thamel.jpg|thumb|首都[[カトマンズ]]のストリート]] {{Main|ネパールの経済}} 中国とインドに挟まれ、経済的な自立が極めて困難ではあったが、1990年の民主化以降、急速に経済が成長。一人当たりのGNPは170ドル(1990年)から200ドル(2000年)<ref name="AS67">[[#エリア・スタディーズ(2000)|エリア・スタディーズ(2000):67]]</ref>と緩やかではあるが、[[購買力平価]]で見ると1170ドル(2000年)とアフリカ諸国を上回るまでとなった<ref name="AS67"/>。それでもアジア最貧国の一つであることは変わらず、[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のネパールの[[国内総生産|GDP]]は193億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]。一人当たりのGDPは693ドルであり、非常に低い水準である<ref name="imf201404"/>。[[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は2200万人と推定されており、国民の70%を超えている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update]</ref>。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]に分類されている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html 外務省 後発開発途上国]</ref>。 主な産業は[[農業]]であり就業人口の約7割、[[国内総生産|GDP]]の26%(2016年)を占める。米や小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、[[ジュート]]などが主たる[[農産物]]である。それ以外の産業では、[[繊維産業]]と[[観光業]]が主たる産業となっている。しかし耕地面積が小さいため農業も小規模である。また、国王派とマオイストとの闘争の影響で観光客は減少している。 ヒマラヤ山脈を利用して[[水力発電]]が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、[[計画停電]]が行われている。計画停電は季節により時間帯が変わるが、毎日あり、夜の8時〜11時、朝の3時〜9時までが多く、毎日異なるため新聞に発表される(2012年現在)<ref name="burari">ウィリアムス春美『ぶらりあるき 天空のネパール』芙蓉書房出版 2012年6月15日</ref>。 隣国であるインドとの結びつきが強く、輸出・輸入共にインドが最大の相手国である。 === 外国への出稼ぎ === 近年の政情不安や、地理的に工業が発展しづらい経済環境などから、収入の向上を求めて、外国への出稼ぎする者が多く、隣国インドの他、中東、東南アジア、そして日本などで、肉体労働、低賃金などの職に就いている者が多い。 彼らからの母国への送金は、ネパールの貴重な外貨収入ともなっていると言われる。 日本でも、21世紀に入ってから中長期在留者と呼ばれる出稼ぎのための来日者は増えており、2018年現在の法務省のデータでは、留学生を除き、60,000人ほどが在住している。 コンビニや惣菜工場、飲食([[インド料理#日本のインド料理店|日本のインド料理店]]の従業員はネパール人が大半を占めている<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/special/izon/20181005india.html なぜ急増「街中のインド料理店」見えてきたものは(NHK、2018年)]</ref>)、流通倉庫、ホテル清掃など、日本人の労働人口減少の影響を受けやすい業務の職に就き、日本の産業を支えている。 生まれたばかりの子供をネパールの祖父母などの家族に預け、夫婦で長期滞在している者も多いほか、そのまま定住する者も少なくなく、農村地帯の高齢過疎化が進んでいると言われる。 ちなみに、ネパールでは日本への出稼ぎ者並びに出稼ぎ者の子供はジャパニとも呼ばれる。 === データ === ==== 通貨 ==== * 通貨(コード): ネパール・ルピー (NPR) * 為替レート: ネパール・ルピー /米ドル - 不明(2007年), 72.446(2006年), 72.16(2005年) データはすべて[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/np.html#Econ CIA World Factbook-Nepal] ==== 国家予算 ==== * 歳入: $11.53億 * 歳出: $19.27億 (2006財政年度) ==== 産業比率 ==== * GDP - 部門別割合: ** 農業: 38% ** 鉱工業: 20% ** サービス業: 42% (2005年会計年度) ==== 労働力 ==== * 労働力人口:1111万人(2006年推計) ** 特記:熟練労働力は著しく不足している。 * 産業別労働力人口の割合: ** 農業: 76% ** 鉱工業: 6% ** サービス業: 18% (2004年推計) * [[失業率]]:42% (2004年推計) * 貧困線以下の人口の割合:30.9% (2004年) ==== 鉱工業 ==== * 鉱工業生産成長率:2.2% (2005財政年度) ==== エネルギー ==== * 電力生産量:25.11億 kWh (2006年) * 電力消費:19.6 億 kWh (2006年) * 電力輸出:1.01億 kWh (2006年) * 電力輸入:2億6600万 kWh (2006年) * 石油生産高:0 bbl/1日 (2005年推計) * 石油消費量:11,550 bbl/1日 (2006年推計) * 石油輸出量:0 bbl/1日 (2004年) * 石油輸入量:11,530 bbl/1日 (2006年推計) * 石油備蓄量:0 bbl (2006年1月1日推計) * 天然ガス生産量:0 cu m (2005年推計) * 天然ガス消費量:0 cu m (2005年推計) * 天然ガス備蓄量:0 cu m (2006年1月1日推計) ==== 輸出入 ==== [[ファイル:Nepal treemap.png|thumb|色と面積で示したネパールの輸出品目]] * 輸出: $8億3000万 f.o.b.;注意 - 記録されていないインドへの輸出は含まず。(2006年) * 輸出商品: じゅうたん, 衣料, 革製品, ジュート製品, 穀物 * 輸出相手国 # インド67.9%, # アメリカ11.7%, # ドイツ 4.7% (2006年) * 輸入:$23. 98 億 f.o.b. (2006年) * 輸入商品: 金, 機械・装備, 石油製品, 肥料 * 輸入相手国 # インド 61.8%, # 中国 3.8%, # インドネシア 3.3% (2006年) * 経済援助 受給額:$42億7900万 (2005年) * 対外債務: $30億7000万(2006年3月) ==== 貧困問題 ==== [[ファイル:संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल nepal ネパール人Img186.jpg|thumb|180px|right|山村の子供たち]] [[ファイル:2015-03-18 Nagarkot DSCF2113.jpg|thumb|240px|right|屋外で学習をする山岳地帯の子供たち([[ナガルコット]])。]] * 干ばつや洪水で農作物が阻害を受けている。 * 土地保有者の割合は少なく、国の衛生状態は極めて悪い。 * 人口増加の影響により、食糧危機の状態にある。 ==== 家計 ==== * 家計収入の分配([[ジニ係数]]):47.2 (2004年) * 消費者物価指数インフレ率:6.4% (2007年推計) === 観光産業 === {{Main|{{仮リンク|ネパールの観光|en|Tourism in Nepal}}}} 観光はネパールにおいて最大の産業となっている。[[ヒマラヤ山脈]]を擁する同国では、山岳観光のほか[[ネワール]]文化を今に伝えることの町並みや[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]寺院、[[ジャングル (森林の型)|ジャングル]]サファリ、[[ラフティング]]などの観光が盛んであり、外貨収入の一翼を担っている<ref name="chikyu">『地球の歩き方 - ネパール』2014-2015</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ネパールにおける査証方針|en|Visa policy of Nepal}}|{{仮リンク|ネパール国民における査証要件|en|Visa requirements for Nepalese citizens}}|{{仮リンク|ネパールのパスポート|en|Nepalese passport}}}} ==== 主要な観光地 ==== '''ヒマラヤ''' [[ファイル:2015-03-18 Annapurna,Nagarkot DSCF2146a.jpg|thumb|800px|center|[[ナガルコット]]から見る[[ヒマラヤ山脈]]]] *[[トレッキング]]<ref name="chikyu"></ref> **[[アンナプルナ]]山群 - [[ポカラ]]から入山。[[ブーン・ヒル展望台]]や温泉の村[[タトパニ]](=[[タトパニ温泉]])を擁する。[[ジョムソン]]は[[チベット]]色の強い村である。2日間から1ヶ月までのトレッキングが行われている。 **[[ソル・クーンプ]]山群 - [[エヴェレスト]]の麓までトレッキングできる。[[サガルマータ国立公園]]になっており、ダイナミックな景観。治安はよい。 **ランタン山群 - 世界で最も美しい渓谷とも称されるがトレッカーが少ない。カトマンズから北へ32km。[[ランタン国立公園]]を形成している。チベット・タマン族が住んでいる。シーズンは9月中旬から5月上旬。 '''カトマンズ''' *[[ダルバール広場]] *[[クマリの館]] * [[インドラ・チョーク]] * [[アサン広場]] * [[スワヤンブナート]] * [[ネパール国立博物館]] * [[パシュパティナート]] * [[ボダナート]] * [[ゴカルナ森]] * [[バラジュー庭園]] * [[ブダニールカンタ]] * [[ゴダヴァリ植物園]] * [[ダクシンカリ]] '''パタン''' - カトマンズの南、バグマティ川の向こう側に位置する古都。王宮をはじめとする建築群と町全体が古美術品のようなくすんだ色合いに包まれている<ref name="chikyu"></ref>。 * [[ダルバール広場 (パタン)|ダルバール広場]] * [[ゴールデン・テンプル]] * [[クンベーシュワル寺院]] * [[マチェンドラナート寺院]] * [[パシュパティナート]] * [[マハボーダ寺院]] * [[チベット難民キャンプ]] '''[[バクタプル]]''' '''[[ナガルコート]]''' '''[[キルティプル]]''' '''[[ティミ]]''' - カトマンズから東へ10km、ネワール族の町。野菜栽培で有名。主にカトマンズへ出荷される。マッラ王朝以前の歴史を持つ。毎年4月のバイサーク・エクのころに行われるビスケート・ジャトラの行事は壮大なもの。 '''[[バネパ]]''' '''[[パナウティ]]''' - パネパから南へ6km、2つの小さな川の合流点にある小さな町。歴史的、学術的に優れたネワール建築が数多くあり、旅行者よりも学者などの訪問が多い。 '''[[ドゥリケル]]''' - カトマンズから32km、標高1524mの町でヒマラヤ展望ができる。特に朝のヒマラヤが美しい。町には小さな寺院が多くある。 <center><gallery> AnapurnaFromPokhara.jpg|[[ポカラ]]・[[ペワ湖]]と[[アンナプルナ連峰]] アンナプルナⅢ、マチャプチャレ8.jpg|[[アンナプルナ]]、[[マチャプチャレ]] 2015-03-18 Nagarkot at sunrise from Hotel Galaxy DSCF2047.jpg|[[ヒマラヤ]]の日の出が美しい[[ナガルコット]] Patan Durbar Square at early morning.JPG|[[ダルバール広場]] Kumari_Ghar_Basantapur_by_ST_(2).JPG|[[クマリの館]] Boudhanath Img291.jpg|[[ボダナート]] 2015-03-08 Swayambhunath,Katmandu,Nepal,சுயம்புநாதர் கோயில்,スワヤンブナート DSCF4238.jpg|2015年の大地震1ヵ月前の[[スワヤンブナート]] 2015-03-08 Swayambhunath,Katmandu,Nepal,Nirvana Cafe & Restaurant,スワヤンブナートDSCF4526.jpg|スワヤンブナートから見るカトマンズ盆地の夕暮れ パシュパテイナート(Pashupatinath)パグマティ川火葬場俯瞰Img753.jpg|[[パシュパティナート]]火葬場 </gallery></center> == 交通 == {{Main|{{仮リンク|ネパールの交通|en|Transport in Nepal}}}} [[フラッグ・キャリア]]の[[ネパール航空]]が近隣諸国と路線を結んでいる。近年は、[[大韓航空]]が[[大韓民国|韓国]]・[[仁川国際空港|ソウル/仁川]]線、[[タイ国際航空]]が[[タイ王国|タイ]]・[[スワンナプーム国際空港|バンコク]]線、[[カタール航空]]が[[カタール]]・[[ドーハ国際空港|ドーハ]]線をそれぞれ運航している。複数の[[航空会社]]が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。中国国境とは{{仮リンク|アラニコ・ハイウェイ|en|Araniko Highway}}と呼ばれる道路が建設されている。首都カトマンズからインド国境へも国道が通じているが、山脈を横断する必要があるため、土砂災害により交通が遮断されることが多々ある<ref>{{Cite journal |和書|author=國分裕|title=ネパールの道路防災|date=2007|publisher=砂防学会|journal=砂防学会誌|volume=60|issue=3|doi=10.11475/sabo1973.60.3_58|pages=58-61}} </ref>。なお、鉄道は[[ジャナクプル鉄道]]しかないものの、中国から[[ラサ・シガツェ鉄道]]でチベットとネパールを結ぶ計画がある。 {{see also|ネパールの空港の一覧|ネパールの鉄道|{{仮リンク|ネパールの道路標識|en|Road signs in Nepal}}}} == 国民 == [[ファイル:Nepalpop.svg|lang=ja|thumb|260px|ネパールの人口ピラミッド|リンク=ファイル:Nepalpop.svg%3Flang=ja]] {{Main|{{仮リンク|ネパールの人口統計|en|Demographics of Nepal}}}} ネパール政府は[[1958年]]に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度[[国勢調査]]を行うほか、[[国民所得]]統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。 === 人口関連 === [[ファイル:Densité de population du Népal.png|thumb|300px|人口密度を表した図]] ; [[人口]] : 29,519,114人(2008年推計) ; [[人口密度]] : 209.65人/km² ; 年齢別人口構成 : 0-14歳: 38% : 15-64歳: 58.2% : 65歳以上: 3.8%(2008年推計) ; [[平均年齢]]: : 全体: 20.7歳 : 男性: 20.5歳 : 女性: 20.8歳(2008年推計) ; [[人口増加率]] : 1.1% (2016年、外務省)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nepal/data.html#section1|title=ネパール基礎データ {{!}} 外務省|accessdate=2018年11月27日|publisher=外務省}}</ref> ; [[出生率]] : 人口千人あたり29.92人(2008年推計) ; [[死亡率]] : 人口千人あたり8.97人(2008年推計) ; [[乳児死亡率]] : 新生児千人あたり62人 ; 誕生時の平均余命 : 60.94年 === 民族 === [[ファイル:Nepal ethnic groups.png|thumb|260px|民族分布図]] [[ファイル:ロイヤル・チトワン国立公園近くのタルー族の村Img259.jpg|thumb|260px|right|少数民族の[[タルー族]]の村]] {{Main|ネパールの民族|ネパールの民族の一覧}} [[チェトリ]] 15.5%<ref group="†" name="caste">[[カースト#ネパール|ネパールのカースト]]の一つ</ref>, [[バフン|丘陵ブラーマン]] 12.5%<ref group="†" name="caste"/>, [[マガール]]族 7%, [[タルー]]族 6.6%, [[タマン族]] 5.5%,[[ネワール族]] 5.4%,[[イスラム教徒]] 4.2%,[[カミ (カースト)|カミ]] 3.9%<ref group="†" name="caste"/>, [[ヤーダブ]]<ref group="†" name="caste"/> 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査) * チェトリ、丘陵ブラーマン、カミなどの[[カースト#ネパール|カースト]]は共通の[[民族]]で、総称して[[パルバテ・ヒンドゥー]]と名づけられているが、この名称はネパール国内ではあまり用いられていない。[[インド・イラン語派]]の[[ネパール語]]を[[母語]]とし、国民の約半数を占める最大で支配的な民族である。 * 少数民族の一つに、ヒマラヤのガイドとして名高い[[シェルパ]]がある。 === 言語 === [[公用語]]は[[ネパール語]]。[[ネパール語]] 47.8%, [[マイティリ語]] 12.1%, [[ボージュプリー語]] 7.4%, [[タルー語]] 5.8%, [[タマン語]] 5.1%, [[ネワール語]] 3.6%, [[マガール語]] 3.3%, [[アワディー語]] 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)。ただし、政府や企業、教育機関では[[英語]]が多用されている。 {{See also|{{仮リンク|ネパール語音韻論|en|Nepali phonology}}}} === 婚姻 === [[ファイル:2015-3 Budhanilkantha,Nepal-Wedding DSCF5035.JPG|thumb|240px|right|ネパールの結婚式]] ネパール国内において結婚とは「家と家の問題」という見解が強く息衝いており、家柄でステータスを求める風潮も根強く残っている為に[[見合い結婚]]が主流となっている。 その背景には[[カースト制度]]に基づく{{仮リンク|カースト間結婚|en|Inter-caste marriage}}が深く影響している点が挙げられる。 {{See also|{{仮リンク|ネパールにおけるカースト間結婚|en|Inter-caste marriage in Nepal}}}} {{節スタブ}} === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|ネパールの宗教|en|Religion in Nepal}}}} {{bar box |title= ネパールの宗教 |titlebar=#ddd |left1= 宗教 |right1= パーセント |float= right |bars= {{bar percent|[[ヒンドゥー教]]|orange|80.6}} {{bar percent|[[仏教]]|red|10.7}} {{bar percent|[[イスラム教]]|green|4.2}} {{bar percent|[[キラント教]]|violet|3.6}} {{bar percent|その他|gray|0.9}} }} [[ヒンドゥー教]]徒 80.6%, [[仏教]]徒 10.7%, [[イスラム教]]徒 4.2%, [[キラント教]]徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) ヒンドゥー教は長らく国教とされていたが、2006年以降国教扱いは廃止されている。 {{See also|{{仮リンク|ネパールにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Nepal}}}} {{節スタブ}} === 教育 === [[ファイル:TU building.jpg|thumb|[[トリブバン大学]]]] {{main|{{仮リンク|ネパールの教育|en|Education in Nepal}}}} [[キルティプル]]には国内最古・最大の[[トリブバン大学]]、[[カトマンズ]]には2番目に古い{{仮リンク|カトマンズ大学|en|Kathmandu University}}などの[[高等教育|高等教育機関]]がある。 {{節スタブ}} === 識字率 === 5歳以上で読み書きできる人の割合は65.9%。 * うち男性 75.1% * うち女性 57.4%(2011年国勢調査) === 保健 === {{main|{{仮リンク|ネパールの保健|en|Health in Nepal}}}} {{節スタブ}} <!--== 社会 ==--> == 治安 == ネパールの治安は不安定さが顕著に現れ易くなっている面が目立つ。ネパール国内では、発生する[[犯罪]]として[[窃盗]]事件が最も多く、在留邦人の住居への侵入[[強盗]]事件も発生している現状がある。また、観光地や[[繁華街]]では、日本人を含む外国人を狙った[[スリ]]や[[置き引き]]、{{仮リンク|薬物犯罪|en|Drug-related crime}}事件などが発生している事が報告されている。加えて政府関係機関や公共施設、公共交通機関などに対する[[爆弾]]・爆発物を用いた事案が発生しており、特に首都よりも地方都市で発生する傾向が高くなっている点が挙げられる。 2020年7月以降、強盗および窃盗事件が増加しており、その他では[[詐欺]]や[[サイバー犯罪]]の発生が目立っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_010.html#ad-image-0|title=ネパール 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-5-14|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 賄賂 === 国の上部から下部に至るまで[[賄賂]]が蔓延し、例えば道路予算があっても政治家が懐に入れることに執心し、側近が咎めるとその口封じに賄賂を贈り、さらにそれを見ていた者への賄賂に使われ予算の数分の1ほどしか工事に回らないため、地方の町などでは道路事情が非常に悪い<ref name="burari">ウィリアムス春美『ぶらりあるき 天空のネパール』芙蓉書房出版 2012年6月15日</ref>。 === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ネパールにおける人権|en|Human rights in Nepal}}}} ネパールにおける[[人権]]は1996年から2006年に亘って続いた政府軍と共産党(CPN-毛沢東主義派)の紛争により、全土で人権侵害が増加の一途を辿っている。同国における現今の人権問題には、貧困(特に農村部)、教育格差、性の不平等([[女性]]の人権含む)、健康問題、子どもの権利の侵害などが挙げられている。女性の人権に対しては著しく低い面があり、特に[[地位]]に関しては現在も非常に低い扱いとなっている状況が垣間見える。 {{See also|{{仮リンク|ネパールにおける性の不平等|en|Gender inequality in Nepal}}|ネパールにおける女性の人権}} {{節スタブ}} ==== 移住者の人権問題 ==== 2000年から2013までの間に、7,500人のネパール人が[[中東]]や[[マレーシア]]での出稼ぎ中に死亡した。その内訳は[[サウジアラビア]]だけで3,500人を占める。出稼ぎの多くは若者だが、公式の報告書ではその死因のほとんどを自然死と分類しており詳しい調査がされていない。外国雇用省(DoFE)が、主要な出稼ぎ先でのネパール大使館など他の関係者と協力して行った調査では、厳しい気候条件、仕事関連の[[ストレス (生体)|ストレス]]、労働者の厳しい処遇、孤独な状況、労働者の無知、不健康な食習慣など様々な要因が示されている。「臓器採取のための殺人、厳しい[[拷問]]、あるいは警察の怠慢で自然死に分類されているだけではないとも、誰も分からない状況だ」と、調査を行っている国外雇用の専門家は話している<ref>http://www.ekantipur.com/2014/01/07/top-story/natural-deaths-raise-doubts/383506.html</ref>。 === 難民 === ; 難民(出身国) : 10万7803人([[ブータン]]); 2万0153人([[チベット]]・[[中華人民共和国|中国]]) ; 国内で家を失った人々 : 5万0000人-7万0000人(毛沢東派の「人民戦争」による。2006年終結)(2007年) * データはすべて[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/np.html#People CIA World Factbook-Nepalより] == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ネパールのメディア|en|Mass media in Nepal}}}} {{節スタブ}} === 通信 === Nepal Telecommunications Authority の MIS Reports(2018年9 - 10月版)によると、電話を利用する人のうち約2%が固定電話、約98%が携帯電話を利用している<ref name=":0">{{Cite web|url=https://nta.gov.np/wp-content/uploads/2075-Ashoj.pdf|title=NTA MIS-139|accessdate=2018年12月12日|publisher=Nepal Telecommunications Authority}}</ref>。固定電話の契約者は852,718件、携帯電話の契約者数は39,002,388件である<ref name=":0" />。 === 新聞 === {{main|{{仮リンク|ネパールの新聞の一覧|en|List of newspapers in Nepal}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ネパールの文化|en|Culture of Nepal|ne|नेपालको संस्कृति}}}} === 食文化 === {{Commonscat|Cuisine of Nepal|ネパール料理}} [[ファイル:Dalbath.jpg|thumb|right|[[ダルバート]](代表的な家庭料理で、[[ダール|ダル]](daal=豆スープ)と[[バート]](bhaat=米飯)の合成語)]] [[ファイル:Dalle_Khursani_And_Fermented_Bamboo_Shoot_Pickle.jpg|thumb|right|[[アチャール]](ネパールの漬物)]] [[ファイル:Chicken_Chow_Mein.JPG|thumb|right|ネパール風の焼きそば・[[炒麺|チョウメン]]]] [[ファイル:Momo_nepal.jpg|thumb|right|チベット文化圏で食べられる[[モモ (料理)|モモ]]]] {{Main|{{仮リンク|ネパール料理|en|Nepalese cuisine|preserve=1}}}} ネパールの食文化は、[[インド料理]]と[[中華料理]]・[[チベット料理]]が融合したものである。これは、ネパールの位置がインドと中国・チベットに近いために生じた現象である。 味としては、インド料理に似ているものが多い。日本にも多数のネパール料理店があるが、純粋なネパール式の[[ダルバート|ダル・バート・タルカリ]](ご飯とおかずのセット)を出す店は少ない。 また、限りなくインド・中華・チベット料理に近い料理が存在していても、日本のラーメンが中華風の日本の料理と見なされるのと同様に、現地では外国料理ではなくネパール国内の料理と見なされている。 なお、ネパールでは[[昼食]]を食べる習慣があまり無く、日中は[[菓子]]や[[チャパティ]]などの軽いものを口にする程度で、食事は[[朝食]]と[[夕食]]の2回が多い<ref>{{cite news |title=ネパール人をランチに誘ってはいけません? |author=竹村真紀子|newspaper= [[東洋経済オンライン]]|date=2014-9-3 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/46662 |accessdate=2014-9-6 }}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ネワ料理|en|Newa cuisine}}}} ; 主食 : [[ライス|バート]]([[インディカ種]]が多く食べられている)など : ディロ([[ソバ]]や[[トウモロコシ]]などの粉を粥状に煮た食べ物) : [[チャパティ]](日常では[[ナン]]よりもチャパティが多く食べられている) : ウォー、チャタマリ、バラ(豆の粉を用いて作る[[パンケーキ]]の一種) ; インド料理に近い食べ物 : [[ダルバート|タルカリ]]([[カレー]]) : [[ダール]](主にひき割りにした豆類のかけ汁) : [[アチャール]](ネパール式の[[ピクルス]]などの添え物) : [[ピラフ|プラオ]](インド風の炊き込みご飯) : [[ビリヤニ]](インド風の[[チャーハン]]) : ライタ([[ダヒ|ヨーグルト]]サラダ) : ティッカ(肉や魚を香辛料に漬けた物。辛い物が多い。[[チキンティッカ]]が有名) : [[サモサ]](インド風の揚げギョウザ) : [[パパド]](豆のせんべい) : [[ハルワ]](にんじんなどを原料にしたお菓子) : [[ラッシー]]([[ダヒ|ヨーグルト]]ドリンク) : [[チャイ|チヤ]](ネパールチャイ) ; 中華料理に近い食べ物 : [[炒麺|チョウメン]](ネパール風焼きそば) : [[チリソース|鶏チリソース]](中華料理よりも激辛に味付けされている) ; チベット料理に近い食べ物 : [[モモ (料理)|モモ]](ネパール式蒸しギョウザ、中華料理の[[餃子]]に似ている) : 茶:(チベッタンティー [[バター茶]]) ; アルコール : [[ラキシー]]([[蒸留酒]]) : [[チャン (酒)|チャン]]([[どぶろく]]) : [[ラム酒|ククリラム]](ラム酒) {{See also|{{仮リンク|ネパール料理の一覧|en|List of Nepalese dishes}}}} === 文学 === [[ファイル:Bhanubhakta Acharya.jpg|left|thumb|150px|[[バヌバクタ・アーチャーリャ]] <br> ネパール文学における最初の詩人であり、『史上初の詩人』を意味する「アーダ・カヴィ(Aadakavi आडकवि)」の称号を授けられている]] {{Main|{{仮リンク|ネパール文学|en|Nepali literature}}}} ネパール語における文学は過去数百年の間、口頭の民間伝承に存在していたと考えられている。だが、ネパール語の詩人である[[バヌバクタ・アーチャーリャ]]の作品が登場する前に書かれた文学作品の存在を示す証拠は見つかっておらず、その一方、初期の学者の殆どが書物などを[[サンスクリット語]]で記していた為、ネパール語文学の歴史を正確に年代測定することは現在も困難となっている。 {{節スタブ}} === 音楽 === [[ファイル:Teej.jpg|thumb|200px|ダンスを踊るネパール女性]] {{Main|{{仮リンク|ネパールの音楽|en|Music of Nepal|ne|नेपाली सङ्गीत}}}} [[サランギ (ネパール)|サランギ]]などを使った伝統的音楽や、『[[レッサム・フィリリ]]』などのポピュラーソングも盛んである。 {{節スタブ}} === 踊り === {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ネパールの舞踊|en|Dance in Nepal}}}} === 映画 === {{Main|ネパールの映画}} ネパール映画は「チャラチトラ({{lang-ne|नेपालीचलचित्र}})」の別名を持っている。また、海外では'''コリウッド'''({{lang-en|Kollywood}})とも呼ばれている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ネパール映画の一覧|en|List of Nepalese films}}|{{仮リンク|全国映画賞 (ネパール)|en|National Film Awards (Nepal)}}}} === 衣装 === [[ファイル:Daura Suruwal by Mahalaxmi Silwal.jpg|thumb|150px|{{仮リンク|ダウラ・スルワル|en|Daura-Suruwal}} <br> ネパールにおける男性用民族服の象徴とされている。]] 伝統的な民族服には{{仮リンク|ダウラ・スルワル|en|Daura-Suruwal}}と呼ばれる、インドの民族衣装の一つである{{仮リンク|クルター|en|Kurta|hi|कुर्ता}}(kurtaa कुरता)に似通った形状の服が存在する。 {{See also|{{仮リンク|ネワール族の民族衣装|en|Newar traditional clothing}}}} === 建築 === [[ファイル:Pashupatinaath0588.JPG|right|thumb|首都カトマンズに存在する伝統的な建築物]] {{Main|{{仮リンク|ネパールの建築|en|Architecture of Nepal}}}} ネパールの建築は、インドやチベットならびに中国の建築文化の影響を強く受けている面を持ち合わせている。これにより、仏教建築の一つである[[仏塔]]が各所に散在している。 仏塔で有名となっているのはカトマンズの渓谷に在る[[ボダナート]]である。 {{節スタブ}} === 祭礼 === 古くから『[[ダサイン]]』と呼ばれるヒンドゥー教の主要な宗教祭が開催されている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ネパールの祭礼の一覧|en|List of festivals in Nepal}}}} === 世界遺産 === [[ファイル:Durbar Square 2010.jpg|thumb|250px|ダルバール広場([[カトマンズの渓谷]])]] {{Main|ネパールの世界遺産}} ネパール国内には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに4件が登録されている。 * [[サガルマータ国立公園]] - (1979年、自然遺産) * [[カトマンズの渓谷]] - (1979年、文化遺産) * [[チトワン国立公園]] - (1984年、自然遺産) * [[ルンビニ|仏陀の生誕地ルンビニ]] - (1997年、文化遺産) === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|ネパールの祝日|en|Public holidays in Nepal}}}} <!-- {| class="wikitable" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- --> ==== 暦法 ==== {{seealso|ネパールの暦}} ネパールの公式の暦として現在[[太陽暦]]の'''[[ビクラム暦]]'''(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている<ref group="†">現代ネパール語でのविक्रमの発音はビクラムだが、学術的には[[サンスクリット語]]読みで[[ヴィクラマ暦]]と書かれることもある。ネパールに関する項では[[原音主義]]に基づき[[ビクラム暦]]とする。</ref>。略号はवि. सं.(B.S.)。 それまで使用されていた[[太陰暦]]に代えて、宰相[[チャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ|チャンドラ・シャムシェル]]がB.S.1961年の新年([[1904年]]4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる<ref>[http://meronepalonline.com/fullstory.aspx?Page=homepage&id=2304 नेपालमा प्रचलित संवत् र व्यावहरिक प्रयोग।मेरो नेपाल अनलाईन] なお英語版では1903年としている。</ref>。 歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまな[[暦]]が使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて[[太陰暦]]だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、[[シャハカ暦]]、[[ネパール暦]](ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。 西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。 なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広く普及している暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、[[ネパール暦]](नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で、新年が秋に来る[[太陰暦]]([[太陽太陰暦]])である。この暦は主に[[ネワール族]]の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。 ビクラム暦は、[[インド]]のウッジャイニー(現[[ウッジャイン]])を統治していた[[ヴィクラマーディティヤ (ウッジャイン王)|ヴィクラマーディティヤ]](ヴィクラマ・アーディティヤ)という王が、[[インド・スキタイ王国|シャカ族]]との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている<ref>[[グルプラサッド・マイナリ]]『ナソ・忘れ形見』 [[野津治仁]]訳、穂高書店、1992年、210頁下段。</ref>。この暦の起年は[[紀元前57年]]で、西暦[[2008年]][[4月13日]]はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期[[カス・マッラ朝]]時代ごろからビクラム暦の使用が[[銘文]]などに認められる<ref>[[#佐伯(2003)|佐伯(2003):212-213]]</ref>。 なお[[太陰暦]](厳密には[[太陽太陰暦]])のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦では[[ガテ]]といい、太陰暦では[[ティティ]]という。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度[[閏月]]をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している([[太陽太陰暦]])。祭り([[ビスケート・ジャートラー]]を除く)や宗教行事などは基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。 近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月ごろに売り出される市販の[[カレンダー]]には太陽暦のビクラム暦をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム暦を併記しているものが多い。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ネパールのスポーツ|en|Sports in Nepal}}}} {{See also|オリンピックのネパール選手団}} === クリケット === {{Main|{{仮リンク|ネパールのクリケット|en|Cricket in Nepal}}}} [[クリケット]]は最も人気のあるスポーツである<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/125 Cricket Association of Nepal] 国際クリケット評議会 2023年9月28日閲覧。</ref><ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月28日閲覧。</ref>。大英帝国で様々な教育を受けてきた[[ラナ家|ラナ]]貴族が1946年にネパールクリケット協会を設立した<ref name="ICC"/>。1951年にラナ家が崩壊し、1961年に国王が乗っ取った後、この協会はネパール全土でクリケットの普及を図るために、スポーツ省の全国スポーツ評議会の管轄下に置かれた<ref name="ICC"/>。 [[国際競技連盟]]の[[国際クリケット評議会]]には1988年に加盟し、1996年に準会員に昇格した<ref>[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/125 Cricket Association of Nepal] 国際クリケット評議会 2023年9月19日</ref>。2014年には[[ICC T20ワールドカップ]]に出場した。2022年に[[トゥエンティ20]]方式のリーグである{{仮リンク|ネパールT20リーグ|en|Nepal T20 League}}が開幕した。女子クリケットも盛んであり、2007年のACCトーナメントで決勝戦に進出するという好成績を収めた<ref name="ICC"/>。2008年の19歳以下のACC女子選手権で優勝し、2010年にそのタイトルを防衛した<ref name="ICC"/>。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ネパールのサッカー|en|Football in Nepal}}}} [[File:Dasarath Rangasala Stadium.jpg|thumb|240px|right|[[ダサラス・ランガシャラ・スタジアム]]]] ネパール国内では近年[[サッカー]]の人気が上昇しており、[[2021年]]にプロサッカーリーグの[[ネパール・スーパーリーグ]]が創設された。シーズンが1ヶ月のみと短いのが特徴で、全ての試合が[[ダサラス・ランガシャラ・スタジアム]]にて行われる。[[フランチャイズ]]制が採用されており、さらには[[ネパールサッカー協会]](ANFA)が技術的支援などを行なう。初年度の{{仮リンク|2021シーズン|en|2021 Nepal Super League}}は{{仮リンク|カトマンズ・レイザーズFC|en|Kathmandu Rayzrs F.C.}}が優勝を飾っている。 [[サッカーネパール代表]]は[[日本サッカー協会]](JFA)との関係が深く、'''JFAアジア貢献事業'''により[[2016年]]から[[行徳浩二]]が同国代表の監督を務めており、[[AFCソリダリティーカップ2016]]では優勝し大会の初代王者に輝いている。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|ネパール人の一覧|en|List of Nepalese people}}|Category:ネパールの人物}} * {{仮リンク|シェル・ウッパディヤ|en|Shail Upadhya}} - 元[[外交官]]、現[[ファッションデザイナー]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="imf201404">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=558&s=NGDP_R%2CNGDP_RPCH%2CNGDP%2CNGDPD%2CNGDPRPC%2CNGDPPC%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC%2CPPPSH%2CNGSD_NGDP&grp=0&a=&pr.x=58&pr.y=14|title=World Economic Outlook Database, April 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-04|accessdate=2014-10-04}}</ref> <ref name="CIA">{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/nepal/ |title=Nepal |publisher=中央情報局 |date=2021-01-19 |accessdate=2021-01-23}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author= |translator= |editor=日本ネパール協会 |others= |chapter= |title=ネパールを知るための60章 |series=エリア・スタディーズ |date=2000-09-25 |publisher=[[明石書店]] |isbn= |pages= |url=|ref=エリア・スタディーズ(2000)}} * {{Cite book|和書|author=佐伯和彦 |translator= |editor= |others= |chapter= |title=ネパール全史 |series= |date=2003-09-24 |publisher=[[明石書店]] |isbn= |pages= |url=|ref=佐伯(2003)}} <!--*[[ETV特集]]1998年放送「20世紀最強の軍隊 グルカ」 - グルカ兵に関するドキュメンタリー。訓練中の様子以外にも、イギリス軍の部隊縮小によって職を失ったグルカ兵が[[民間軍事会社]]へ転職を余儀なくされたり、国の家族へ送金する額が最盛期の半分に落ち込んだため、国の財政にも影響が出ていると報告している。--> == 関連項目 == * [[ネパール関係記事の一覧]] * [[ムスタン王国]] * [[カンティプル (新聞)|カンティプル]]、[[ゴルカパトラ]] - [[ネパール語]]の[[新聞]] * [[バングラデシュ]] * [[ブータン]] * [[近藤亨 (NPO理事長)]] * [[在日ネパール人]] <!-- * [[ネパールの通信]] * [[ネパールの交通]] * [[ネパールの軍事]] * [[ネパールの国際関係]] --> == 外部リンク == {{Sisterlinks|Wikt=ネパール|wikisource=Category:ネパール|commons=नेपाल|commonscat=Nepal|wikinews=Category:ネパール|voy=Nepal|d=Q837}} {{Wikipedia|ne}} ; 政府 : [https://nepal.gov.np/ ネパール国政府] {{ne icon}}{{en icon}} ; 在日ネパール大使館 : [https://jp.nepalembassy.gov.np/ja/ 在日ネパール大使館] {{en icon}} ; 日本政府 : [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nepal/index.html 日本外務省 - ネパール] {{ja icon}} : [https://www.np.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ネパール日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 : [https://ja.welcomenepal.com/ ネパール政府観光局] {{en icon}}{{ja icon}} : {{ウィキトラベル インライン|ネパール|ネパール}} ; ネパール生活情報 : [http://coope.jpn.org/nepal_life-infomation/ ネパール生活情報] {{ja icon}} ; その他 * {{CIA World Factbook link|np|Nepal}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Asia/Nepal}} {{en icon}} * {{Wikiatlas|Nepal}} {{en icon}} * {{Osmrelation|184633}} * {{Googlemap|ネパール}} {{アジア}} {{南アジア地域協力連合}} {{Normdaten}} {{Coord|26|32|N|86|44|E|region:NP_type:country|display=title|name=ネパール}} {{デフォルトソート:ねはある}} [[Category:ネパール|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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クロアチア
クロアチア共和国(クロアチアきょうわこく、クロアチア語: Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、南ヨーロッパ、バルカン半島にある共和制国家である。首都はザグレブ。 本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。 ユーゴスラビアを構成していたが、1991年に独立した。 クロアチア語での正式名称はRepublika Hrvatska 発音。通称 Hrvatska [xř̩ʋaːtskaː](フルヴァツカ)。 公式の英語表記は Republic of Croatia。通称 Croatia [kroʊˈeɪʃə] ( 音声ファイル)(クロエイシャ)。 日本語の表記はクロアチア共和国。通称クロアチア。漢字表記では克羅地亜、呉呂茶など。クロアチア語による正式名称の発音は片仮名表記にするならフルヴァツカが近いが、フルヴァツカと表記されることはあまりない。「クロアティア」とはラテン語読みである。 9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチア(Duchy of Croatia)はカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミル(英語版)がクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴのもとでクロアチア王国は発展をとげるが、彼の死後しばらくして、後継者争いから内乱へ突入した。 このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた(en)。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。 この後15世紀にはオスマン帝国に征服され(Ottoman wars in Europe)、その領域に組み込まれた(軍政国境地帯の内クロアチア軍政国境地帯とスラヴォニア軍政国境地帯にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。 18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている(ハプスブルク領クロアチア王国)。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチア=スラヴォニア王国に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。 一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。ラグサ共和国として半独立していた時期もあるが、ナポレオン期のフランス帝国領イリュリア州(1809年 - 1816年)を経て、以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領(ハプスブルク領イリュリア王国、ハプスブルク領ダルマチア王国)になるまでヴェネツィアの支配が続く。なお、オーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。 1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラビア王国に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州(セルビア・クロアチア語版、英語版)を設定したが、批判も多かった。 クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パヴェリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とするパルチザンおよび旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心としたチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる。 ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチを中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。 東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された(Croatian parliamentary election, 1990)。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。 1991年3月2日には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区(英語版)→クライナ・セルビア人自治区(英語版)、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍(英語版)の間でにらみ合う事態となり、3月31日にはプリトビツェ湖群で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件(英語版))。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。 一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国)として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争へと進む。結果1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民を生み出した。 これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化路線を完了させる。 なお、クロアチア政府は1992年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。 クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉は、2005年中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は2010年のEU加入を目標とした。 ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダのハーグに設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。 当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。 2008年、クロアチアのNATO(北大西洋条約機構)への加盟が認められ(実際の加盟は2009年4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。 その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を2011年6月に固めた。 2012年1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、2013年7月1日にクロアチアは正式にEUに加盟した。28番目のEU加盟国であり、旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となった。 2023年1月1日にユーロ通貨を導入し、シェンゲン協定にも参加した。 1990年の憲法制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年までは半大統領制、それ以降は議院内閣制を採用している。国家元首である共和国大統領は国民の直接選挙による選出で、任期は5年、2期までと定められている。 大統領は軍の最高司令官であり、議会の同意のもと首相を任命し、国家元首として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす。ザグレブの大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島とフヴァル島に邸宅を所有している。 サボル (クロアチア議会)は2001年まで二院制を取っていたが、上院(州議院)が廃止され、現在は一院制である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で比例代表制によって選出される。任期は4年。本会議は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。 2011年12月4日、議会(1院制、定数151)選挙が行われ、野党・社会民主党を中心とする中道左派連合の獲得議席数は78で、政権交代が確実となった。一方、与党・中道右派48議席にとどまり、大敗した。 政府(ヴラダ)は副首相と14名の閣僚を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvori(バンの宮殿、クロアチア社会主義共和国時代には大統領府)である。 クロアチアの国土は大まかに の4地方に分かれる。 ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムによって分離され、飛び地となっている。そのためユーゴスラビアからの独立後は本土とドゥブロヴニクの間の移動の際に同国の検問所を通過するため不便さがあったが、2022年に両地域の間に、長大橋「ペリェシャツ橋」が開通したことでこれらの地域が直接行き来できるようになった。 クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。 IMFによると、2013年の名目GDPは約574億ドルであり、日本の山口県とほぼ同じ経済規模である。一人当たりの名目GDPは13,401ドルで、旧ユーゴスラビア諸国の中ではスロベニアに次いで2番目に高く、隣国ハンガリーを若干上回る。 クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。 陸路、航空路、水路交通(ならびに河川舟運)は次のように整備されている(クロアチアの交通はザグレブ中心なので、ザグレブ#交通に詳述されている)。 国道には1号線(オーストリア国境〜ザグレブ〜スプリト)、3号線(ハンガリー国境〜ザグレブ〜リエカ)、8号線(リエカ〜ザダル〜スプリト〜ドブロブニク〜モンテネグロ国境)などがあり、高速道路はA1(ザグレブ〜ザダル〜スプリト〜プロツェ、E71)、A2(オーストリア国境〜ザグレブ、E59)、A3(スロベニア国境〜ザグレブ〜スラヴォンスキ・ブロド〜セルビア国境、E70)、A4(ザグレブ〜ハンガリー国境、E70=E65)などが近年急激に整備されてきた。 都市間の移動には中長距離バスが利用されていて、便利である。市内の移動には、バス、路面電車(ザグレブなど)、タクシーなどが利用できる。 ユーゴスラビア鉄道が解体されたあとのクロアチア鉄道(国有鉄道)が運営している。主な路線にはザグレブ〜ヴィンコヴツィ、ザグレブ〜オシエク、ザグレブ〜リエカ、ザグレブ〜スプリトなどがあり、さらに隣国のオーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビアなどへの国際列車も多い。 クロアチア航空がある。空港はザグレブ(ザグレブ国際空港)、リエカ、スプリト、ドブロヴニクなどにあり、各社の航空機が発着している。 リエカ、ザダル、スプリトに大きな港があり、アドリア海ではヤドロリニヤやブルーライン・インターナショナル(英語版)(スプリト〜アンコーナ)などの海運会社も活躍していて、アドリア海に面した有名観光都市(リエカ、ザダル、スプリト、ドブロヴニク、および諸島)へは各社の豪華客船の寄港も多い。ヴコヴァル(ドナウ川)、スラヴォンスキ・ブロド(サヴァ川)などでは河川も利用されている。 住民は、クロアチア人が90.4%である。その他、セルビア人が4.36%、ボシュニャク人が0.7%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡した一方で、ボスニアからのクロアチア系難民が多く流入したものと見られている。民族浄化の最も成功した例といえる。 言語はクロアチア語のラテン文字が公用語であり、広く使われている (96%)。一部セルビア語を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字とラテン文字を使用)程度でほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の共通語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。実際、旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語という一つの言語として扱われていた。 婚姻時、改姓しない夫婦別姓も、配偶者の姓に改姓することも、複合姓とすることもいずれも選択が可能である。 宗教は、大部分がローマ・カトリック(中心はザグレブ大聖堂)である (86.3%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。 2014年現在、ザグレブ大学とザダル大学で日本語教育が行われている。 クロアチアは、世界における平均余命で約50位にランクされており、男性は73歳、女性は79歳であり、乳児死亡率は出生1,000人あたり6人と低かった。 クロアチアの治安状況は、一般に中・東欧諸国の中で比較的安全とされている。しかし、観光シーズンである夏季を中心として、同国を訪れた日本人旅行者から「スリ被害に遭った」との情報が頻繁に寄せられているとの報告が続いている為、十分な注意が求められている。 ネクタイは元々がクロアチア人の風習であったことから、ネクタイを指す言葉が各国語で「クロアチア」を語幹に使っている例がある(フランス語: cravateやスペイン語: corbataなど)。 同国の料理は主に以下のものが知られている。 クロアチアの民俗音楽は地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。男性合唱による「クラパ」はダルマチア地方ではいまでも盛んに行われていて、観光客もよく耳にする。 また、1919年に創立されたザグレブ四重奏団も名高い。 1954年に設立されたプーラ映画祭(英語版)や1999年に設立のモトヴン映画祭(英語版)が有名であり、2003年からは首都ザグレブにおいてザグレブ映画祭(英語版)(ZFF)が開催されている。 また、「ZagrebDox」と呼ばれる国際ドキュメンタリー映画祭が毎年2月下旬から3月上旬にかけてザグレブで開催される。 クロアチアはヨーロッパ諸国において建築の歴史が長い国の一国に数えられている。 クロアチア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。 サッカーはクロアチア国内で圧倒的に1番人気のスポーツであり、旧ユーゴスラビア時代から数多くの世界的な名選手を輩出している。1992年にはサッカーリーグのプルヴァHNLが創設された。ディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリトのダービーマッチである『ヴィエチュニ・デルビ』は、地域主義に根差したライバル意識が強く、サポーター同士の衝突が頻繁に発生する。 クロアチアサッカー連盟(HNS)によって構成されるサッカークロアチア代表は、FIFAワールドカップには1998年大会で初出場を果たし、3位の好成績を収めた。さらに2018年大会では旧ユーゴ時代を通しても初となる決勝進出を果たし、フランス代表に2-4で敗れたものの準優勝に輝いた。キャプテンのルカ・モドリッチは、同大会でゴールデンボール(最優秀選手)を受賞し、さらに同年にはFIFA最優秀選手賞とバロンドールも獲得している。2022年大会では日本代表をPK戦で下した上で強豪ブラジル代表を破り、3位に入賞した。 クロアチアでは多くのNBA選手を輩出しており、クロアチア代表は独立後の1992年に結成された。初めてのオリンピックとなったバルセロナ五輪では、マイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンらを擁する初代ドリームチームを相手に決勝で敗れたものの、初出場で堂々の銀メダルを獲得した。また、1994年世界選手権でも銅メダルを獲得している。さらにユーロバスケットでは、1993年大会と1995年大会で銅メダルを獲得した。しかし、1996年のアトランタ五輪で7位に終わった後は長らく低迷が続いた。2008年の北京五輪でアトランタ大会以来の五輪出場を成し遂げ、再び復調の兆しをみせている。 クロアチアはテニスも盛んであり、世界ランク2位を記録したゴラン・イワニセビッチからイワン・リュビチッチ、イボ・カロビッチ、マリオ・アンチッチ、マリン・チリッチと、常に長身のビッグサーバーを輩出するテニス大国である。2005年には国別対抗戦であるデビスカップで、イワン・リュビチッチとマリオ・アンチッチの2人を中心に世界一に輝いた。
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"クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パヴェリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とするパルチザンおよび旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心としたチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチを中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された(Croatian parliamentary election, 1990)。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1991年3月2日には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区(英語版)→クライナ・セルビア人自治区(英語版)、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍(英語版)の間でにらみ合う事態となり、3月31日にはプリトビツェ湖群で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件(英語版))。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国)として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争へと進む。結果1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民を生み出した。 これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化路線を完了させる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、クロアチア政府は1992年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉は、2005年中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は2010年のEU加入を目標とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダのハーグに設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2008年、クロアチアのNATO(北大西洋条約機構)への加盟が認められ(実際の加盟は2009年4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を2011年6月に固めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2012年1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、2013年7月1日にクロアチアは正式にEUに加盟した。28番目のEU加盟国であり、旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2023年1月1日にユーロ通貨を導入し、シェンゲン協定にも参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1990年の憲法制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年までは半大統領制、それ以降は議院内閣制を採用している。国家元首である共和国大統領は国民の直接選挙による選出で、任期は5年、2期までと定められている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大統領は軍の最高司令官であり、議会の同意のもと首相を任命し、国家元首として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす。ザグレブの大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島とフヴァル島に邸宅を所有している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "サボル (クロアチア議会)は2001年まで二院制を取っていたが、上院(州議院)が廃止され、現在は一院制である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で比例代表制によって選出される。任期は4年。本会議は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2011年12月4日、議会(1院制、定数151)選挙が行われ、野党・社会民主党を中心とする中道左派連合の獲得議席数は78で、政権交代が確実となった。一方、与党・中道右派48議席にとどまり、大敗した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "政府(ヴラダ)は副首相と14名の閣僚を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvori(バンの宮殿、クロアチア社会主義共和国時代には大統領府)である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "クロアチアの国土は大まかに", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "の4地方に分かれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムによって分離され、飛び地となっている。そのためユーゴスラビアからの独立後は本土とドゥブロヴニクの間の移動の際に同国の検問所を通過するため不便さがあったが、2022年に両地域の間に、長大橋「ペリェシャツ橋」が開通したことでこれらの地域が直接行き来できるようになった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "IMFによると、2013年の名目GDPは約574億ドルであり、日本の山口県とほぼ同じ経済規模である。一人当たりの名目GDPは13,401ドルで、旧ユーゴスラビア諸国の中ではスロベニアに次いで2番目に高く、隣国ハンガリーを若干上回る。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "陸路、航空路、水路交通(ならびに河川舟運)は次のように整備されている(クロアチアの交通はザグレブ中心なので、ザグレブ#交通に詳述されている)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "国道には1号線(オーストリア国境〜ザグレブ〜スプリト)、3号線(ハンガリー国境〜ザグレブ〜リエカ)、8号線(リエカ〜ザダル〜スプリト〜ドブロブニク〜モンテネグロ国境)などがあり、高速道路はA1(ザグレブ〜ザダル〜スプリト〜プロツェ、E71)、A2(オーストリア国境〜ザグレブ、E59)、A3(スロベニア国境〜ザグレブ〜スラヴォンスキ・ブロド〜セルビア国境、E70)、A4(ザグレブ〜ハンガリー国境、E70=E65)などが近年急激に整備されてきた。 都市間の移動には中長距離バスが利用されていて、便利である。市内の移動には、バス、路面電車(ザグレブなど)、タクシーなどが利用できる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア鉄道が解体されたあとのクロアチア鉄道(国有鉄道)が運営している。主な路線にはザグレブ〜ヴィンコヴツィ、ザグレブ〜オシエク、ザグレブ〜リエカ、ザグレブ〜スプリトなどがあり、さらに隣国のオーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビアなどへの国際列車も多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "クロアチア航空がある。空港はザグレブ(ザグレブ国際空港)、リエカ、スプリト、ドブロヴニクなどにあり、各社の航空機が発着している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "リエカ、ザダル、スプリトに大きな港があり、アドリア海ではヤドロリニヤやブルーライン・インターナショナル(英語版)(スプリト〜アンコーナ)などの海運会社も活躍していて、アドリア海に面した有名観光都市(リエカ、ザダル、スプリト、ドブロヴニク、および諸島)へは各社の豪華客船の寄港も多い。ヴコヴァル(ドナウ川)、スラヴォンスキ・ブロド(サヴァ川)などでは河川も利用されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "住民は、クロアチア人が90.4%である。その他、セルビア人が4.36%、ボシュニャク人が0.7%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡した一方で、ボスニアからのクロアチア系難民が多く流入したものと見られている。民族浄化の最も成功した例といえる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "言語はクロアチア語のラテン文字が公用語であり、広く使われている (96%)。一部セルビア語を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字とラテン文字を使用)程度でほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の共通語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。実際、旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語という一つの言語として扱われていた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "婚姻時、改姓しない夫婦別姓も、配偶者の姓に改姓することも、複合姓とすることもいずれも選択が可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "宗教は、大部分がローマ・カトリック(中心はザグレブ大聖堂)である (86.3%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2014年現在、ザグレブ大学とザダル大学で日本語教育が行われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "クロアチアは、世界における平均余命で約50位にランクされており、男性は73歳、女性は79歳であり、乳児死亡率は出生1,000人あたり6人と低かった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "クロアチアの治安状況は、一般に中・東欧諸国の中で比較的安全とされている。しかし、観光シーズンである夏季を中心として、同国を訪れた日本人旅行者から「スリ被害に遭った」との情報が頻繁に寄せられているとの報告が続いている為、十分な注意が求められている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ネクタイは元々がクロアチア人の風習であったことから、ネクタイを指す言葉が各国語で「クロアチア」を語幹に使っている例がある(フランス語: cravateやスペイン語: corbataなど)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "同国の料理は主に以下のものが知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "クロアチアの民俗音楽は地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。男性合唱による「クラパ」はダルマチア地方ではいまでも盛んに行われていて、観光客もよく耳にする。 また、1919年に創立されたザグレブ四重奏団も名高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1954年に設立されたプーラ映画祭(英語版)や1999年に設立のモトヴン映画祭(英語版)が有名であり、2003年からは首都ザグレブにおいてザグレブ映画祭(英語版)(ZFF)が開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、「ZagrebDox」と呼ばれる国際ドキュメンタリー映画祭が毎年2月下旬から3月上旬にかけてザグレブで開催される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クロアチアはヨーロッパ諸国において建築の歴史が長い国の一国に数えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "クロアチア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "サッカーはクロアチア国内で圧倒的に1番人気のスポーツであり、旧ユーゴスラビア時代から数多くの世界的な名選手を輩出している。1992年にはサッカーリーグのプルヴァHNLが創設された。ディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリトのダービーマッチである『ヴィエチュニ・デルビ』は、地域主義に根差したライバル意識が強く、サポーター同士の衝突が頻繁に発生する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "クロアチアサッカー連盟(HNS)によって構成されるサッカークロアチア代表は、FIFAワールドカップには1998年大会で初出場を果たし、3位の好成績を収めた。さらに2018年大会では旧ユーゴ時代を通しても初となる決勝進出を果たし、フランス代表に2-4で敗れたものの準優勝に輝いた。キャプテンのルカ・モドリッチは、同大会でゴールデンボール(最優秀選手)を受賞し、さらに同年にはFIFA最優秀選手賞とバロンドールも獲得している。2022年大会では日本代表をPK戦で下した上で強豪ブラジル代表を破り、3位に入賞した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "クロアチアでは多くのNBA選手を輩出しており、クロアチア代表は独立後の1992年に結成された。初めてのオリンピックとなったバルセロナ五輪では、マイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンらを擁する初代ドリームチームを相手に決勝で敗れたものの、初出場で堂々の銀メダルを獲得した。また、1994年世界選手権でも銅メダルを獲得している。さらにユーロバスケットでは、1993年大会と1995年大会で銅メダルを獲得した。しかし、1996年のアトランタ五輪で7位に終わった後は長らく低迷が続いた。2008年の北京五輪でアトランタ大会以来の五輪出場を成し遂げ、再び復調の兆しをみせている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "クロアチアはテニスも盛んであり、世界ランク2位を記録したゴラン・イワニセビッチからイワン・リュビチッチ、イボ・カロビッチ、マリオ・アンチッチ、マリン・チリッチと、常に長身のビッグサーバーを輩出するテニス大国である。2005年には国別対抗戦であるデビスカップで、イワン・リュビチッチとマリオ・アンチッチの2人を中心に世界一に輝いた。", "title": "スポーツ" } ]
クロアチア共和国、通称クロアチアは、南ヨーロッパ、バルカン半島にある共和制国家である。首都はザグレブ。 本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。 ユーゴスラビアを構成していたが、1991年に独立した。
{{基礎情報 国 | 略名 =クロアチア | 日本語国名 =クロアチア共和国 | 漢字表記 =克羅地亜共和国 | 公式国名 ={{Lang|hr|'''Republika Hrvatska'''}} | 国旗画像 =Flag_of_Croatia.svg|130px | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Croatia.svg|105px|クロアチアの国章]] | 国章リンク =[[クロアチアの国章|(国章)]] | 標語 =なし | 位置画像 = EU-Croatia.svg | 公用語 =[[クロアチア語]] | 首都 =[[ザグレブ]] | 最大都市 =ザグレブ | 元首等肩書 =[[クロアチアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[ゾラン・ミラノヴィッチ]] | 首相等肩書 =[[クロアチアの首相|首相]] | 首相等氏名 =[[アンドレイ・プレンコビッチ]] | 面積順位 =124 | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =56,542 | 水面積率 =0.2% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =128 | 人口大きさ =1 E6 | 人口値 =410万5000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/hr.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-6}}</ref> | 人口密度値 =73.4<ref name=population/> | GDP統計年元 =2023 | GDP値元 =7315億1600万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2022/October/weo-report?c=960,&s=NGDPD,PPPGDP,NGDPDPC,PPPPC,&sy=2020&ey=2027&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2023-01-02}}</ref> | GDP統計年MER =2023 | GDP順位MER =79 | GDP値MER =734億900万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 =1万8451.271<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 =2023 | GDP順位 =82 | GDP値 =1612億460万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 =4万0484.514<ref name="imf2020" /> | 建国形態 =[[独立]] | 建国年月日 =[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]より<br />[[1991年]][[6月25日]] | 通貨 =[[ユーロ]] (€) | 通貨コード =EUR | 通貨追記 = {{efn|[[2022年]]以前の通貨は[[クーナ]]。[[クロアチアのユーロ硬貨]]も参照。}} | 時間帯 =+1 | 夏時間 =+2 | 国歌 =[[私たちの美しい故国|{{lang|hr|Lijepa naša domovino}}]]{{hr icon}}<br/>''私たちの美しい故国''<br/>{{center|[[ファイル:Lijepa nasa domovino instrumental.ogg]]}} | ISO 3166-1 = HR / HRV | ccTLD =[[.hr]] | 国際電話番号 =385 | 注記 = }} '''クロアチア共和国'''(クロアチアきょうわこく、{{Lang-hr|Republika Hrvatska}})、通称'''クロアチア'''は、[[南ヨーロッパ]]、[[バルカン半島]]にある[[共和制]][[国家]]である。首都は[[ザグレブ]]。<!--国民は[[カトリック教会|ローマ・カトリック教徒]]の[[南スラヴ人|南スラヴ系]]の[[クロアチア人]]がほとんどを占める<ref>{{Cite web |title=映画『灼熱』 公式サイト |url=http://www.magichour.co.jp/syakunetsu/ |website=www.magichour.co.jp |accessdate=2022-03-08 |language=ja}}</ref>。--> 本土では西に[[スロベニア]]、北に[[ハンガリー]]、東に[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[セルビア]]と国境を接している。南は[[アドリア海]]に面し、対岸は[[イタリア]]、[[飛び地]]の[[ドゥブロヴニク]]では東に[[モンテネグロ]]と接している。 [[ユーゴスラビア]]を構成していたが、[[1991年]]に独立した。 == 国名 == [[クロアチア語]]での正式名称は{{lang|hr|Republika Hrvatska}} {{Audio|Hr-Republika Hrvatska.oga|発音}}。通称 {{lang|hr|Hrvatska}} {{IPA-sh|xř̩ʋaːtskaː|}}(フルヴァツカ)。 公式の[[英語]]表記は {{lang|en|Republic of Croatia}}。通称 {{lang|en|Croatia}} {{IPA-en|kroʊˈeɪʃə||en-us-Croatia.ogg}}(クロエイシャ)。 [[日本語]]の表記は'''クロアチア共和国'''<ref>{{Cite web |title=クロアチア基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/croatia/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-10-02 |language=ja}}</ref>。通称'''クロアチア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''克羅地亜'''、'''呉呂茶'''など。[[クロアチア語]]による正式名称の発音は[[片仮名]]表記にするなら'''フルヴァツカ'''が近いが、フルヴァツカと表記されることはあまりない。「クロアティア」とは[[ラテン語]]読みである。 == 歴史 == {{main|クロアチアの歴史}} === クロアチアの統一 === [[9世紀]]になると、北方・西方から[[フランク王国]]、南方・東方から[[東ローマ帝国]]の圧力が強まった。[[カール大帝]]治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時に[[カトリック教会|カトリック]]を受容している。以降クロアチア([[:en:Duchy of Croatia|Duchy of Croatia]])はカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつ{{仮リンク|ヴラニミル|en|Branimir of Croatia}}がクロアチア統一を進め、879年に[[ローマ教皇]][[ヨハネス8世 (ローマ教皇)|ヨハネス8世]]から独立国家として認められた。その後、[[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]]のもとで[[クロアチア王国 (925年-1102年)|クロアチア王国]]は発展をとげるが、彼の死後しばらくして、後継者争いから内乱へ突入した。 === 同君連合 === このことが[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]の介入を招き、次のハンガリー王[[カールマーン (ハンガリー王)|カールマーン]]が、[[1102年]]クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)と[[スラボニア|スラヴォニア]]は[[ハンガリー王国]]との[[同君連合]]の枠組みの中に組み込まれた([[:en:Croatia in the union with Hungary|en]])。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)は[[バン (称号)|バン]](バーン)と呼ばれた。 === オーストリア=ハンガリー帝国 === [[ファイル:Austria-Hungary map.svg|thumb|[[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代の行政区分([[1910年]])]] この後[[15世紀]]には[[オスマン帝国]]に征服され([[:en:Ottoman wars in Europe|Ottoman wars in Europe]])、その領域に組み込まれた([[軍政国境地帯]]の内[[クロアチア軍政国境地帯]]と[[スラヴォニア軍政国境地帯]]にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。 [[18世紀]]末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている([[クロアチア王国 (1527年-1868年)|ハプスブルク領クロアチア王国]])。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、[[1848年]]の[[1848年革命|三月革命]]の際にはクロアチア人の軍人[[ヨシップ・イェラチッチ|イェラチッチ]]がハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー二重帝国]]が成立するが、ハンガリーが[[クロアチア=スラヴォニア王国]]に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する{{要出典|date=2017年7月}}。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。 一方で、[[アドリア海]]沿岸の[[ダルマチア]]は他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末に[[ヴェネツィア共和国]]の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。[[ラグサ共和国]]として半独立していた時期もあるが、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]期の[[フランス第一帝政|フランス帝国]]領[[イリュリア州]]([[1809年]] - [[1816年]])を経て、以降1815年の[[ウィーン会議]]において[[オーストリア帝国]]直轄領([[イリュリア王国|ハプスブルク領イリュリア王国]]、ハプスブルク領[[ダルマチア王国]])になるまでヴェネツィアの支配が続く。なお、オーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。 === ユーゴスラビア王国 === [[1918年]]に[[第一次世界大戦]]の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱した[[スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国]]は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言う[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の提案を受けて、'''[[ユーゴスラビア王国|セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国]]'''の成立に参加。[[1929年]]は国名を[[ユーゴスラビア王国]]に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく[[1939年]]にはこの不満を解消する目的で、広大な'''{{仮リンク|バノヴィナ・クロアチア|sh|Banovina Hrvatska|en|Banovina of Croatia|label=クロアチア自治州}}'''を設定したが、批判も多かった。 === クロアチア独立国 === クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、[[アンテ・パヴェリッチ]]を中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体[[ウスタシャ]]を設立。[[1941年]]反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻した[[ナチス・ドイツ]]の支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアと[[ヴォイヴォディナ]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]の一部に跨る[[クロアチア独立国]]を成立させる。それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とする[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]および旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心とした[[チェトニック]]との間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内には[[ヤセノヴァツ強制収容所]]などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる<ref>{{Cite web|url= http://www.jcas.jp/12-1-21_jcas_review_ishida.pdf |title= 旧ユーゴスラヴィア諸国と第二次世界大戦をめぐる歴史認識 |work= ヨーロッパ統合と国民国家の歴史認識 |author= 石田信一 |publisher= [[地域研究コンソーシアム]] |accessdate= 2020-03-23 }}</ref>。 <gallery widths="250px"> ファイル:Locator map Croatia Banovina in Yugoslavia 1939-1941.svg|1939年に設置されたクロアチア自治州(地図中、赤地の版図) ファイル:Ndh 1941.png|1941年に成立した[[クロアチア独立国]] </gallery> === ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 === ユーゴスラビアの混乱状態は、[[ユーゴスラビア共産党|ユーゴスラビア共産主義者同盟]]が指導する[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]によってユーゴスラビアが自力解放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導した[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]の巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばから[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]を中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。 === 独立 === [[File:Former Yugoslavia 2008.PNG|thumb|280px|独立した旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]諸国([[2008年]])]] [[東欧革命]]以降、旧東欧地域でそれまで[[一党独裁]]の地位にあった[[社会主義]][[政党]]が[[自由選挙]]を認め[[民主化]]の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め[[1990年]]に戦後初の[[複数政党制]]による自由選挙が実施された([[:en:Croatian parliamentary election, 1990|Croatian parliamentary election, 1990]])。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げる[[フラニョ・トゥジマン]]率いる[[クロアチア民主同盟]](HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。 [[1991年]][[3月2日]]には、スラヴォニアの帰属(西部に{{仮リンク|西スラヴォニア自治区|en|SAO Western Slavonia}}→{{仮リンク|クライナ・セルビア人自治区|en|SAO Krajina}}、東部に[[東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州]])をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍<!--ユーゴスラビア連邦軍-->と{{仮リンク|クロアチア警察軍|en|Law enforcement in Croatia}}の間でにらみ合う事態となり、[[3月31日]]には[[プリトヴィツェ湖群国立公園|プリトビツェ湖群]]で両者が衝突し、死者を出す事態となった({{仮リンク|プリトビツェ湖群事件|en|Plitvice Lakes incident}})。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた<ref group="注釈">セルビア系住民の大半は投票をボイコットした。</ref>。これを受けて[[6月25日]]、[[スロベニア|スロヴェニア]]と同日に独立を宣言した。 一方でクロアチア領内にも多く住む[[セルビア人]]は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→[[クライナ・セルビア人共和国]])として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突[[クロアチア紛争]]へと進む。結果[[1995年]]に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人[[難民]]を生み出した。 これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより[[民族浄化]]路線を完了させる。 なお、クロアチア政府は1992年以降、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。 === クロアチアのEU加盟 === クロアチアの[[欧州連合]](以下EUとする)加盟交渉は、[[2005年]]中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は[[2010年]]のEU加入を目標とした。 ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たっては[[オランダ]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]に設置されている[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]から訴追されているクロアチア軍退役将軍[[アンテ・ゴトヴィナ]]の同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年[[10月3日]]から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌[[10月4日|4日]]にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。 当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭に[[スペイン]]の[[カナリア諸島]]で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。 [[2008年]]、クロアチアのNATO([[北大西洋条約機構]])への加盟が認められ<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2373245 |title=NATO首脳会議が開幕、アルバニアとクロアチアの加盟を承認 |publisher=AFP |date=2008-04-03 |accessdate=2022-01-27}}</ref>(実際の加盟は[[2009年]]4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。 その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を[[2011年]]6月に固めた。 [[2012年]]1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、[[2013年]][[7月1日]]にクロアチアは正式にEUに加盟した<ref>{{cite news |title=クロアチアがEU加盟、28カ国体制に バルカン半島安定に前進 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-07-01 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130701/erp13070107390001-n1.htm |accessdate=2013-07-01}}</ref>。28番目のEU加盟国であり<ref group="注釈">当時はイギリスも加盟していたため。2020年1月の[[ブレグジット]]により、参加国数は27カ国となった。</ref>、旧ユーゴスラビア構成国家での中では[[スロベニア|スロヴェニア]]に続く2例目となった。 2023年1月1日に[[ユーロ]]通貨を導入し<ref>{{Cite web |title=クロアチアがユーロ導入 20カ国目、経済効果期待 | 共同通信 |url=https://nordot.app/982542020199219200 |website=共同通信 |date=2023-01-02 |access-date=2023-01-02 |language=ja-JP |last=共同通信}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/07/9a74f5f13dca9b00.html|title=ビジネス短信: クロアチア、2023年1月からのユーロ導入が正式決定、シェンゲン協定にも参加の見通し|publisher=日本貿易振興機構|date=2022-7-14|accessdate=2022-7-29}}</ref>、[[シェンゲン協定]]にも参加した<ref>{{Cite web|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/12/fd742225e7c03e60.html|title=ビジネス短信: EU理事会、2023年1月からのクロアチアのシェンゲン協定参加を正式決定|publisher=日本貿易振興機構|date=2022-12-12|accessdate=2022-12-13}}</ref>。 == 政治 == [[File:Vlada RH.jpg|thumb|[[バン (称号)|バン]]の宮殿]] {{main|{{仮リンク|クロアチアの政治|en|Politics of Croatia}}}} [[1990年]]の[[クロアチアの憲法|憲法]]制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から[[2000年]]までは[[半大統領制]]、それ以降は[[議院内閣制]]を採用している。[[国家元首]]である[[クロアチアの大統領|共和国大統領]]は国民の直接選挙による選出で、[[任期]]は5年、2期までと定められている。 大統領は軍の最高司令官であり、[[議会]]の同意のもと[[首相]]を任命し、[[国家元首]]として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす<ref>{{Cite web |date=2019-11-14 |url=https://jp.reuters.com/article/croatia-election-presidential-idJPKBN1XO1AF |title=クロアチア、来月22日に大統領選実施へ |publisher=ロイター |accessdate=2019-11-14}}</ref>。[[ザグレブ]]の大統領宮殿の他、避暑地の[[ブリユニ|ブリユニ島]]と[[フヴァル島]]に邸宅を所有している。 [[サボル (クロアチア議会)]]は[[2001年]]まで[[二院制]]を取っていたが、[[上院]](州議院)が廃止され、現在は[[一院制]]である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で[[比例代表制]]によって選出される。任期は4年。[[本会議]]は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。 2011年12月4日、議会(1院制、定数151)選挙が行われ、野党・[[クロアチア社会民主党|社会民主党]]を中心とする中道左派連合の獲得議席数は78で、政権交代が確実となった。一方、与党・中道右派48議席にとどまり、大敗した。<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1205/TKY201112050072.html クロアチア総選挙 野党連合が過半数の勢い] 朝日新聞 2011年12月5日</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2011/12/06/20111206ddm007030132000c.html クロアチア・スロベニア:バルカン2国で政権交代決まる 欧州債務危機影響] 毎日新聞 2011年12月6日</ref> 政府(ヴラダ)は[[副首相]]と14名の[[閣僚]]を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブの[[:en:Banski dvori]]([[バン (称号)|バン]]の宮殿、[[クロアチア社会主義共和国]]時代には大統領府)である。 {{See also|{{仮リンク|クロアチア政府|en|Government of Croatia}}}} == 地理 == [[ファイル:Hr-map.png|thumb|250px|クロアチアの地図]] {{main|クロアチアの地理}} クロアチアの国土は大まかに * [[中央クロアチア]] * [[スラヴォニア]]地方 * [[ダルマチア]]地方 * [[イストリア]] の4地方に分かれる。 [[ドゥブロヴニク]]地方は、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[ネウム]]によって分離され、[[飛び地]]となっている。そのためユーゴスラビアからの独立後は本土とドゥブロヴニクの間の移動の際に同国の検問所を通過するため不便さがあったが、2022年に両地域の間に、長大橋「[[ペリェシャツ橋]]」が開通したことでこれらの地域が直接行き来できるようになった。 == 地方行政区分 == {{main|クロアチアの地域区分|クロアチアの都市の一覧}} クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。 == 経済 == [[ファイル:Zagrzeb-centrum.JPG|thumb|首都[[ザグレブ]]]] [[ファイル:Korzo Night.png|thumb|[[リエカ]]]] {{main|{{仮リンク|クロアチアの経済|en|Economy of Croatia}}}} IMFによると、[[2013年]]の名目[[国内総生産|GDP]]は約574億ドルであり、[[日本]]の[[山口県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。一人当たりの名目GDPは13,401ドルで、旧[[ユーゴスラビア]]諸国の中では[[スロベニア]]に次いで2番目に高く、隣国[[ハンガリー]]を若干上回る。 === 鉱業 === クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|クロアチアの交通|en|Transport in Croatia}}}} 陸路、航空路、水路交通(ならびに[[河川舟運]])は次のように整備されている<ref>『地球の歩き方、クロアチア スロベニア』(ダイヤモンド・ビッグ社、2011年)</ref>(クロアチアの交通はザグレブ中心なので、[[ザグレブ#交通]]に詳述されている)。 === 道路 === 国道には1号線([[オーストリア]]国境〜[[ザグレブ]]〜[[スプリト]])、3号線([[ハンガリー]]国境〜ザグレブ〜[[リエカ]])、8号線(リエカ〜[[ザダル]]〜スプリト〜[[ドブロブニク]]〜[[モンテネグロ]]国境)などがあり、高速道路は[[A1号線 (高速道路)|A1]](ザグレブ〜ザダル〜スプリト〜プロツェ、[[:en:European route E71|E71]])、A2(オーストリア国境〜ザグレブ、[[:en:European route E59|E59]])、A3(スロベニア国境〜ザグレブ〜[[スラヴォンスキ・ブロド]]〜[[セルビア]]国境、[[:en:European route E70|E70]])、A4(ザグレブ〜ハンガリー国境、[[:en:European route E70|E70]]=[[:en:European route E65|E65]])などが近年急激に整備されてきた。<ref>"Auto Karte Trsat, Hrvatska" (Trsat Polo d.o.o., 2012)</ref> 都市間の移動には[[長距離バス|中長距離バス]]が利用されていて、便利である。市内の移動には、[[バス (交通機関)|バス]]、路面電車([[ザグレブ]]など)、[[タクシー]]などが利用できる。 {{See also|{{仮リンク|クロアチアの高速道路|en|Highways in Croatia}}}} === 鉄道 === [[ファイル:Zagreb, Main Station.JPG|thumb|right|ザグレブ中央駅]] [[ユーゴスラビア鉄道]]が解体されたあとの[[クロアチア鉄道]]([[国有鉄道]])が運営している。主な路線には[[ザグレブ]]〜[[ヴィンコヴツィ]]、ザグレブ〜[[オシエク]]、ザグレブ〜リエカ、ザグレブ〜スプリトなどがあり、さらに隣国のオーストリア、スロベニア、ハンガリー、[[セルビア]]などへの[[国際列車]]も多い。 {{See also|{{仮リンク|クロアチアにおける鉄道路線の一覧|en|List of railway lines in Croatia}}}} === 航空路 === [[クロアチア航空]]がある。空港はザグレブ([[ザグレブ国際空港]])、リエカ、スプリト、ドブロヴニクなどにあり、各社の航空機が発着している。 {{See also|クロアチアの空港の一覧}} === 水路 === リエカ、ザダル、スプリトに大きな港があり、アドリア海では[[ヤドロリニヤ]]や{{仮リンク|ブルーライン・インターナショナル|en|Blue Line International}}(スプリト〜[[アンコーナ]])などの[[海運会社]]も活躍していて、アドリア海に面した有名観光都市(リエカ、ザダル、スプリト、ドブロヴニク、および諸島)へは各社の[[豪華客船]]の寄港も多い。[[ヴコヴァル]]([[ドナウ川]])、[[スラヴォンスキ・ブロド]]([[サヴァ川]])などでは河川も利用されている。 == 国民 == {{main|クロアチアの人口統計}} === 民族 === {{bar box |title=民族構成(クロアチア) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[クロアチア人]]|blue|90.4}} {{bar percent|[[セルビア人]]|lightblue|4.4}} {{bar percent|[[ボシュニャク人]]|green|0.7}} {{bar percent|その他|red|4.5}} }} 住民は、[[クロアチア人]]が90.4%である。その他、[[セルビア人]]が4.36%、[[ボシュニャク人]]が0.7%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合は[[クロアチア紛争]]以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡した一方で、ボスニアからのクロアチア系難民が多く流入したものと見られている。民族浄化の最も成功した例といえる。 === 言語 === [[File:Croatian dialects-ja.svg|200px|thumb|left|クロアチアのクロアチア語の方言の地図]] 言語は[[クロアチア語]]の[[ラテン文字]]が公用語であり<ref group="注釈" name="official language" />、広く使われている (96%)。一部[[セルビア語]]を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語は[[キリル文字]]とラテン文字を使用)程度でほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の共通語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。実際、旧ユーゴスラビア時代は[[セルビア・クロアチア語]]という一つの言語として扱われていた。 === 婚姻 === 婚姻時、改姓しない[[夫婦別姓]]も、配偶者の姓に改姓することも、複合姓とすることもいずれも選択が可能である<ref>[https://www.zakon.hr/z/88/Obiteljski-zakon Obiteljski zakon] (Family Law), CROATIAN PARLIAMENT, 2015.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|クロアチアの宗教|en|Religion in Croatia}}}} 宗教は、大部分が[[カトリック教会|ローマ・カトリック]](中心は[[ザグレブ大聖堂]])である (86.3%)。残りは、[[セルビア正教会]]が4.4%、[[イスラム教]]が1.3%、[[プロテスタント]]が0.3%などである。 {{See also|{{仮リンク|クロアチアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Croatia}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|クロアチアの教育|en|Education in Croatia}}}} ==== 日本語教育 ==== [[2014年]]現在、[[ザグレブ大学]]と[[ザダル大学]]で日本語教育が行われている<ref>[http://www.hr.emb-japan.go.jp/documents_JP/2014-speech(3dec).pdf] 在クロアチア日本国大使館公式サイトにおける大使の挨拶、2014年12月22日閲覧。</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|クロアチアの医療|en|Healthcare in Croatia}}}} クロアチアは、世界における平均余命で約50位にランクされており、男性は73歳、女性は79歳であり、乳児死亡率は出生1,000人あたり6人と低かった<ref>{{Cite web|url= https://www.who.int/countries/hrv/|title=Croatia|newspaper=[[世界保健機関|WHO]] |date=2015-5-10|accessdate=2022-1-29}}</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|クロアチア保健省|en|Ministry of Health (Croatia)}}|{{仮リンク|クロアチアの病院の一覧|en|List of hospitals in Croatia}}}} == 治安 == クロアチアの治安状況は、一般に[[中東欧|中・東欧]]諸国の中で比較的安全とされている。しかし、観光シーズンである夏季を中心として、同国を訪れた日本人旅行者から「[[スリ]]被害に遭った」との情報が頻繁に寄せられているとの報告が続いている為、十分な注意が求められている<ref>{{Cite web|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_188.html|title=クロアチア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2022-1-29|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|クロアチアにおける人身売買|en|Human trafficking in Croatia}}}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|クロアチアにおける人権|en|Human rights in Croatia}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|クロアチアにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Croatia}}}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|クロアチアのメディア|en|Mass media in Croatia}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|クロアチアの通信|en|Telecommunications in Croatia}}|{{仮リンク|クロアチアのインターネット|en|Internet in Croatia}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|クロアチアの文化|en|Culture of Croatia}}}} [[ネクタイ]]は元々がクロアチア人の風習であったことから、ネクタイを指す言葉が各国語で「クロアチア」を[[語幹]]に使っている例がある({{lang-fr|cravate}}や{{lang-es|corbata}}など)。 === 食文化 === {{Right|<gallery widths="150px" heights="150px"> Struklji 2.jpg|[[シュトゥルクリ (クロアチア料理)|シュトゥルクリ]] Mlinci.jpg|{{仮リンク|ムリンツィ|en|Mlinci}} </gallery>}} {{main|クロアチア料理}} 同国の料理は主に以下のものが知られている。 * [[チェヴァプチチ]] * [[ブレク]] * [[シュトゥルクリ]] === 文学 === {{main|{{仮リンク|クロアチア文学|en|Croatian literature}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|クロアチア音楽|en|Music of Croatia}}}} クロアチアの[[民俗音楽]]は地域によって大きく異なる。北部では[[旋律]]や[[リズム]]がハンガリーと似ているが、[[タンブリツァ]]による伴奏がクロアチア的であるとされ、[[ヴァイオリン]]・[[ツィンバロム]]といった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のような[[シンコペーション]]は見られない。男性合唱による「[[クラパ]]」は[[ダルマチア]]地方ではいまでも盛んに行われていて、観光客もよく耳にする。<ref>『Lonely Planet, Croatia』 (Lonely Planet Publications, 2011)</ref> また、1919年に創立された[[ザグレブ四重奏団]]も名高い。 ==== ディスコグラフィー ==== * "Songs & Dances from Croatia"(Zagreb Folk Dance Ensemble / Dr.Ivan Ivančan - Mentor / EUCD 1500, dinaton & ®©1900, ARC Music Productions Int.Ltd.<ref>[http://www.arcmusic.co.uk ARC MUSIC]</ref>) * "Folk Music from Croatia"(Tamburaski Sastav "Veritas"([[:en:Tambura|Tambura]] Ensemble "Veritas") / EUCD 1078, ARC M.P.Int.Ltd.) === 映画 === {{main|{{仮リンク|クロアチアの映画|en|Cinema of Croatia}}}} 1954年に設立された{{仮リンク|プーラ映画祭|en|Pula Film Festival}}や1999年に設立の{{仮リンク|モトヴン映画祭|en|Motovun Film Festival}}が有名であり、2003年からは首都ザグレブにおいて{{仮リンク|ザグレブ映画祭|en|Zagreb Film Festival}}(ZFF)が開催されている。 また、「[[:en:ZagrebDox|ZagrebDox]]」と呼ばれる国際ドキュメンタリー映画祭が毎年2月下旬から3月上旬にかけてザグレブで開催される。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|スプリット映画祭|en|Split Film Festival}}}} {{See also|{{仮リンク|クロアチア映画の一覧|en|List of Croatian films}}|{{仮リンク|クロアチア映画アーカイブ|en|Croatian Film Archive}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|クロアチアの建築|en|Architecture of Croatia}}}} クロアチアはヨーロッパ諸国において建築の歴史が長い国の一国に数えられている。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === [[File:Dubrovnik-L04-1.jpg|thumb|right|世界遺産[[ドゥブロヴニク]]旧市街]] {{Main|クロアチアの世界遺産}} クロアチア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。 === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|クロアチアの祝日|en|Public holidays in Croatia}}}} {| class="wikitable" |+ 祝祭日 |- !日付 !日本語表記 !クロアチア語表記 !備考 |- | [[1月1日]] | [[元日]] | Nova Godina(ノヴァ・ゴディナ) | |- | ... | [[復活祭]]および復活祭後の月曜日 | Uskrs i Uskršnji ponedjeljak(ウスクルス・イ・ウスクルシニ・ポネディイェルイェヤク) | 変動あり |- | [[5月1日]] | [[メーデー]] | Međunarodni praznik rada(メジュナロドニー・プラズニク・ラダ) | |- | ''イースターより60日後'' | [[聖体の祝日]] | Tjelovo (ティイェロヴォー) | 移動祝日 |- | [[6月22日]] | 反ファシスト闘争記念日 | Dan antifašističke borbe(ダン・アンティファシスティチュケ・ボルベ) | |- | [[6月25日]] | [[国家]]の日 | Dan državnosti(ダン・ドルジャヴノスティ) | |- | [[8月5日]] | 解放の日 | Dan pobjede i Dan domovinske zahvalnosti(ダン・ポブイェデ・イ・ダン・ドモヴィンスケ・ザファルノスティ) | |- | [[8月15日]] | 聖母被昇天の祭日 | Velika Gospa(ヴェリカ・ゴースパ) | |- | [[10月8日]] | [[独立記念日]] | Dan nezavisnosti(ダン・ネザヴィスノスティ) | |- | [[11月1日]] | [[諸聖人の日]] | Dan svih svetih(ダン・スヴィ・スヴェーティー) | |- | [[12月25日]] | [[クリスマス]] | Božić(ボージチュ) | |- | [[12月26日]] | 聖[[ステファノ]]殉教者の祝日 | Sveti Stjepan(スヴェーティー・スティエパン) | |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|クロアチアのスポーツ|en|Sport in Croatia}}}} {{See also|オリンピックのクロアチア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|クロアチアのサッカー|en|Football in Croatia}}}} [[ファイル:England Croatia match 2018.jpg|thumb|right|240px|「[[2018 FIFAワールドカップ]]」準決勝での[[サッカークロアチア代表]]]] [[サッカー]]はクロアチア国内で圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]であり、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|旧ユーゴスラビア]]時代から数多くの世界的な名選手を輩出している。[[1992年]]にはサッカーリーグの[[プルヴァHNL]]が創設された。[[NKディナモ・ザグレブ|ディナモ・ザグレブ]]と[[HNKハイドゥク・スプリト|ハイドゥク・スプリト]]の[[ダービーマッチ]]である『[[ヴィエチュニ・デルビ]]』は、地域主義に根差した[[ライバル]]意識が強く、サポーター同士の衝突が頻繁に発生する。 [[クロアチアサッカー連盟]](HNS)によって構成される[[サッカークロアチア代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]で初出場を果たし、3位の好成績を収めた。さらに[[2018 FIFAワールドカップ|2018年大会]]では旧ユーゴ時代を通しても初となる決勝進出を果たし、[[サッカーフランス代表|フランス代表]]に2-4で敗れたものの準優勝に輝いた。[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]の'''[[ルカ・モドリッチ]]'''は、同大会で[[FIFAワールドカップにおける賞 #ゴールデンボール(大会最優秀選手)|ゴールデンボール]](最優秀選手)を受賞し<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/russia2018/news/201807160000024.html クロアチア・モドリッチ最優秀選手賞 ケーン得点王] - 日刊スポーツ、2018年7月16日</ref>、さらに同年には[[FIFA最優秀選手賞]]と[[バロンドール]]も獲得している<ref>{{Cite news|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20181204/872243.html|title=モドリッチがバロンドール初受賞で個人3冠!…メッシは12年連続トップ3逃す|publisher=サッカーキング|date=2018-12-04|accessdate=2020-02-26}}</ref>。[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]では[[サッカー日本代表|日本代表]]を[[PK戦]]で下した上で強豪[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]を破り、3位に入賞した。 === バスケットボール === [[File:Arena Zagreb 2009.jpg|thumb|[[アリーナ・ザグレブ]]]] クロアチアでは多くの[[NBA]]選手を輩出しており、[[バスケットボールクロアチア代表|クロアチア代表]]は独立後の[[1992年]]に結成された。初めての[[近代オリンピック|オリンピック]]となった[[1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技|バルセロナ五輪]]では、[[マイケル・ジョーダン]]や[[マジック・ジョンソン]]らを擁する初代[[ドリームチーム (バスケットボール)|ドリームチーム]]を相手に決勝で敗れたものの、初出場で堂々の[[銀メダル]]を獲得した。また、[[1994年バスケットボール世界選手権|1994年世界選手権]]でも[[銅メダル]]を獲得している。さらに[[バスケットボール欧州選手権|ユーロバスケット]]では、[[1993年バスケットボール男子欧州選手権|1993年大会]]と[[1995年バスケットボール男子欧州選手権|1995年大会]]で銅メダルを獲得した。しかし、[[1996年]]の[[1996年アトランタオリンピックのバスケットボール競技|アトランタ五輪]]で7位に終わった後は長らく低迷が続いた。[[2008年]]の[[2008年北京オリンピックのバスケットボール競技|北京五輪]]でアトランタ大会以来の五輪出場を成し遂げ、再び復調の兆しをみせている。 === テニス === クロアチアは[[テニス]]も盛んであり、世界ランク2位を記録した[[ゴラン・イワニセビッチ]]から[[イワン・リュビチッチ]]、[[イボ・カロビッチ]]、[[マリオ・アンチッチ]]、[[マリン・チリッチ]]と、常に長身のビッグサーバーを輩出するテニス大国である。[[2005年]]には国別対抗戦である[[デビスカップ]]で、[[イワン・リュビチッチ]]と[[マリオ・アンチッチ]]の2人を中心に世界一に輝いた。 == 著名な出身者 == {{Main|クロアチア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|refs= <ref name="official language">{{仮リンク|クロアチア共和国憲法|hr|Ustav Republike Hrvatske|en|Constitution of Croatia}}第12条で明確に定められている。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[クロアチア関係記事の一覧]] * [[日本とクロアチアの関係]] * [[クロアチアとセルビアの関係]] * [[クロトラム]] - クロアチアの車輌製造メーカー・コンソーシアム == 外部リンク == {{Commons&cat|Hrvatska|Croatia}} ; 政府 * [https://vlada.gov.hr/ クロアチア共和国政府] {{hr icon}}{{en icon}} * [https://www.predsjednik.hr/ クロアチア大統領府] {{hr icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/croatia/ 日本外務省 - クロアチア] * [https://www.hr.emb-japan.go.jp/itprtop_hr/index.html 在クロアチア日本国大使館] ; 観光 * [https://croatia.hr/ja-JP クロアチア政府観光局] {{ja icon}} * [http://croatia.jp/ クロアチア政府観光局(日本)] {{ja icon}} ; その他 * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くろあちあ}} [[Category:クロアチア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]]
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デンマーク王国
デンマーク王国(デンマークおうこく、デンマーク語: Kongeriget Danmark 発音 [ˈkɔŋəʁiːəð ˈdænmɑrɡ̊] ( 音声ファイル)、フェロー語: Kongsríki Danmarkar、グリーンランド語: Kunngeqarfik Danmarki)は、北ヨーロッパに位置するデンマーク本土と、2つの自治地域(北大西洋のフェロー諸島と北アメリカのグリーンランド)から構成される単一の立憲君主制による主権国家である。デンマークは王国内において中心的地位にあり、残りのフェロー諸島とグリーンランドに対して司法権、行政権および立法権を行使する。フェロー諸島自治法によれば、フェロー諸島は王国内における人民の共同体である。グリーンランド自治法は同様の定義を有しないが、その代わり、グリーンランド人民は国際法上の人民であり自己決定権を有するものとしている。 デンマーク王国は単一国家ではあるものの、グリーンランドおよびフェロー諸島にはそれぞれ外交の一部も含めた多大な自治権が与えられている。この連邦制に近い国家は「Rigsfællesskabet」と呼ばれる。そのため、1973年にデンマーク王国(本土)と欧州連合 (EU) へ加盟したグリーンランドは1985年に単独で脱退、フェロー諸島は当初から加盟していない。北欧理事会にはそれぞれが個別に加盟している。 8世紀から11世紀の間、ノース人がヘブリディーズ諸島、シェトランド諸島、オークニー諸島、フェロー諸島、アイスランド、グリーンランドを発見・定住し、ニューファンドランド島のランス・オ・メドーにあったと考えられているヴィンランドへの定住を試みた(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。彼らはイングランド(デーンロウ)、アイルランド、ノルマンディーの一部を征服し定住した。また、東方ではキエフ・ルーシを建国した。ノース人は北はグリーンランドから南はコンスタンティノープルまでロシアの河川を通って貿易路を築いた。1536年、デンマークとノルウェーの同君連合であるデンマーク=ノルウェーが国家として成立した。 デンマーク=ノルウェー連合は1814年にキール条約によって解消された。この条約ではデンマークはアイスランド、フェロー諸島、グリーンランドのノルウェー属領を保持している。デンマークはまた1620年から1869年までデンマーク領インド(トランケバル)、1658年から1850年までデンマーク領黄金海岸(ガーナ)、1671年から1917年までデンマーク領西インド諸島 (Danish West Indies) (アメリカ領バージン諸島)を植民地とした。 アイスランドは1874年に内政自治(英語版)権を獲得して、1918年には主権国家アイスランド王国として独立するが、元首はデンマーク王のままであった。その後、第二次大戦の混乱に乗じる形で1944年に君主制を廃止、自国の大統領を元首とする共和制に移行した。 フェロー諸島は、1948年に内政自治権を獲得した。フェロー諸島は欧州連合には加盟していない。フェロー諸島は領海域の北海油田開発を推進しており、2000年代以降は独立派が多数となっている。 グリーンランドは1979年に内政自治権を獲得しており、2009年にはさらに自治権を拡大する提案が住民投票(英語版)によって承認された。グリーンランドの独立派は、豊富な天然資源により独立が経済的であると考えている。グリーンランドは1973年、デンマーク王国と欧州経済共同体(現在の欧州連合)に加盟したが、1985年には漁業政策を主な理由に単独で脱退している。 フォルケティングはデンマークの議会である。フォルケティングは比例多数制によって選出された175人と、グリーンランドおよびフェロー諸島から選出されたそれぞれ2人の議員によって構成されている。総選挙は少くとも4年ごとに行われるが、首相は任期中に議会を解散することができる。 加えて、フェロー諸島およびグリーンランドはそれぞれ1948年、1979年に内政自治が認められている。デンマーク議会に2名の議員が選出されると共に、グリーンランドは31議席からなる議会「ランスティング Landsting」(あるいはグリーンランド語でInatsisartut)を有しており、フェロー諸島は固定された33名の議員によって構成される議会「レクティング Løgting」を有している。 デンマークにはグリーンランドおよびフェロー諸島の高等弁務官(デンマーク語: Rigsombudsmand)がおり、自治議会における議論をデンマークの首相に伝える。 1953年デンマーク王国憲法は単一国家の憲法であり、デンマークの3地域全てに適用される。内政自治に関する合意はこの憲法には正式に記されていない。フェロー諸島およびグリーンランドは共に内政問題のほとんどを自ら管理している。また、これらの地域はある問題が王国内の自地域のみに関することであれば、デンマーク王国の代わりに国際合意を結ぶ。 植物地理学的に、デンマーク、グリーンランド、フェロー諸島は全北植物区系界(英語版)に属し、周北植物区系区(英語版)の北極地方、大西洋ヨーロッパ地方、中央ヨーロッパ地方にまたがっている。世界自然保護基金 (WWF) によれば、デンマーク領土は大西洋混交森 (Atlantic mixed forests) リージョンとバルト海混交森リージョン (Baltic mixed forests) の2つのエコリージョンに分類できる。フェロー諸島はフェロー諸島北方草原リージョンに含まれるが、グリーンランドにはカラリット・ヌナート (Kalaallit Nunaat) 高緯度北極ツンドラとカラリット・ヌナート低緯度北極ツンドラエコリージョンが入っている。 デンマーク王国は国土の大半が北極圏の北に位置する世界で唯一の国家である。
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デンマーク王国は、北ヨーロッパに位置するデンマーク本土と、2つの自治地域(北大西洋のフェロー諸島と北アメリカのグリーンランド)から構成される単一の立憲君主制による主権国家である。デンマークは王国内において中心的地位にあり、残りのフェロー諸島とグリーンランドに対して司法権、行政権および立法権を行使する。フェロー諸島自治法によれば、フェロー諸島は王国内における人民の共同体である。グリーンランド自治法は同様の定義を有しないが、その代わり、グリーンランド人民は国際法上の人民であり自己決定権を有するものとしている。 デンマーク王国は単一国家ではあるものの、グリーンランドおよびフェロー諸島にはそれぞれ外交の一部も含めた多大な自治権が与えられている。この連邦制に近い国家は「Rigsfællesskabet」と呼ばれる。そのため、1973年にデンマーク王国(本土)と欧州連合 (EU) へ加盟したグリーンランドは1985年に単独で脱退、フェロー諸島は当初から加盟していない。北欧理事会にはそれぞれが個別に加盟している。
{{otheruseslist|主権国家としてのデンマーク王国(デンマーク王国共同体に該当する地域の事柄)|デンマーク王国の構成国のひとつである「デンマーク」|デンマーク|デンマーク王国共同体それ自体の説明|デンマーク王国共同体}} {{Infobox Country |自治領等 = |name= デンマーク |conventional_long_name =<span style="line-height:1.33em;">デンマーク王国</span> |native_name= {{lang|da|Kongeriget Danmark}}<small>{{da icon}}</small><br />{{lang|fo|Kongsríki Danmarkar}}<small>{{fo icon}}</small><br />{{lang|kl|Kunngeqarfik Danmarki}}<small>{{kl icon}}</small> |image_flag = Flag of Denmark.svg |国旗幅 = |国旗縁 = |image_symbol = National Coat of arms of Denmark.svg |国章リンク = |標語 = |標語追記 = |国歌 = |国歌追記 = |image_map = Kingdom of Denmark (orthographic projection).svg |位置画像キャプション = | coordinates = {{Coord|55|43|N|12|34|E|type:city}} | government_type = [[議会制民主主義]]・[[立憲君主制]] |official_languages= [[デンマーク語]]、[[フェロー語]]、[[グリーンランド語]] |capital = [[コペンハーゲン]] |largest_city= capital |leader_title1 = [[デンマーク君主一覧|女王]] |leader_name1 = [[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]] |area_rank= 12位 |面積大きさ = |area_km2= 2,210,579 | area_sq_mi = 1,370,000 |水面積率 = |面積追記 = | population_estimate = 5,709,940 | population_estimate_year = 2013 | population_estimate_rank = 110位 |population_density_rank = 236位 |population_density_km2 = 2.5 |人口追記 = |currency = [[デンマーク・クローネ]]、[[フェロー・クローネ]] |currency_code = DKK |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ISO 3166-1 = |ISO 3166-1追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |drives_on = 右 |calling_code = <nowiki>+</nowiki>45(デンマーク)、+298(フェロー諸島)、+299(グリーンランド) |国際電話番号追記 = |注記 = }} '''デンマーク王国'''(デンマークおうこく、{{lang-da|Kongeriget Danmark}} {{IPA-da|ˈkɔŋəʁiːəð ˈdænmɑrɡ̊|pron|Kongeriget Danmark.ogg}}、{{lang-fo|Kongsríki Danmarkar}}、{{lang-kl|Kunngeqarfik Danmarki}})は、北[[ヨーロッパ]]に位置する[[デンマーク]]本土と、2つの[[構成国|自治地域]]([[北大西洋]]の[[フェロー諸島]]と[[北アメリカ]]の[[グリーンランド]])から構成される単一の[[立憲君主制]]による[[主権国家体制|主権国家]]である。デンマークは王国内において中心的地位にあり、残りのフェロー諸島とグリーンランドに対して[[司法]]権、[[行政]]権および[[立法]]権を行使する<ref>Harhoff, Frederik (1993) ''Rigsfællesskabet'' (Realm) (in Danish with English summary). Århus: Klim, p. 498. ISBN 87-7724-335-8</ref>。フェロー諸島自治法によれば、フェロー諸島は王国内における人民の共同体である{{#tag:ref|The Faroese home rule §1: "The Faroe Islands constitute a self-governing community of a people within the Kingdom of Denmark within the framework of this law..."<ref>[https://www.retsinformation.dk/Forms/R0710.aspx?id=45897&exp=1 ''Lov om Færøernes Hjemmestyre''] {{da icon}}. Retsinformation.dk. "§ 1. Færøerne udgør inden for denne Lovs Rammer et selvstyrende Folkesamfund i det danske Rige. I Henhold hertil overtager det færøske Folk ved sin folkevalgte Repræsentation, Lagtinget, og en af dette oprettet Forvaltning, Landsstyret, inden for Rigsenheden Ordningen og Styrelsen af færøske Særanliggender som angivet i denne Lov."</ref>|group=註}}。グリーンランド自治法は同様の定義を有しないが、その代わり、グリーンランド人民は国際法上の人民であり自己決定権を有するものとしている{{#tag:ref|The Greenlandic self-government act: "In recognition of the fact that the people of Greenland constitutes a people in international law with the right to self-determination, the law builds on a wish to promote equality and mutual respect in the partnership between Denmark and Greenland."<ref>[https://www.retsinformation.dk:443/Forms/R0710.aspx?id=125052 ''Lov om Grønlands Selvstyre''] {{da icon}}. Retsinformation.dk. "I erkendelse af, at det grønlandske folk er et folk i henhold til folkeretten med ret til selvbestemmelse, bygger loven på et ønske om at fremme ligeværdighed og gensidig respekt i partnerskabet mellem Danmark og Grønland.</ref>|group=註}}。 デンマーク王国は[[単一国家]]ではあるものの、グリーンランドおよびフェロー諸島にはそれぞれ外交の一部も含めた多大な自治権が与えられている。この[[連邦#国名に連邦などの政体名を含まない連邦制国家|連邦制に近い国家]]は「[[デンマーク王国共同体|Rigsfællesskabet]]」と呼ばれる<ref>Skou, Kaare R. (2005) ''Dansk politik A-Å'' (in Danish). Aschehoug, p. 578. ISBN 87-11-11652-8</ref>。そのため、1973年にデンマーク王国(本土)と[[欧州連合]] (EU) へ加盟したグリーンランドは1985年に単独で脱退、フェロー諸島は当初から加盟していない。[[北欧理事会]]にはそれぞれが個別に加盟している。 {| class="wikitable sortable" |- bgcolor="#ececec" |'''地域''' || '''人口''' || '''面積''' (km²) || '''人口密度''' (人/km²)|| '''公用語'''|| '''通貨''' |- |{{flag|Denmark}}本土 || 5,602,536 || 43,094 || 130||[[デンマーク語]]||[[デンマーク・クローネ]] |- |{{flag|Faroe Islands}} || 49,709 || 1,399 || 35||[[フェロー語]]、デンマーク語||[[フェロー・クローネ]] |- |{{flag|Greenland}} || 57,695 || 2,175,600 || 0.026||[[グリーンランド語]]||デンマーク・クローネ |- |- class="sortbottom" style="background:#efefef;" |{{flagicon image|Flag of Denmark.svg}} '''デンマーク王国'''|| '''5,709,940''' || '''2,220,093''' || '''2.6'''||colspan="2"| |} == 歴史 == {{Main|デンマークの歴史|デンマークによるアメリカ大陸の植民地化}} 8世紀から11世紀の間、[[ノース人]]が[[ヘブリディーズ諸島]]、[[シェトランド諸島]]、[[オークニー諸島]]、[[フェロー諸島]]、[[アイスランド]]、[[グリーンランド]]を発見・定住し、[[ニューファンドランド島]]の[[ランス・オ・メドー]]にあったと考えられている[[ヴィンランド]]への定住を試みた([[ノース人によるアメリカ大陸の植民地化]])。彼らは[[イングランド]]([[デーンロウ]])、[[アイルランド]]、[[ノルマンディー]]の一部を征服し定住した。また、東方では[[キエフ大公国|キエフ・ルーシ]]を建国した。ノース人は北はグリーンランドから南は[[コンスタンティノープル]]までロシアの河川を通って貿易路を築いた。1536年、デンマークと[[ノルウェー]]の[[同君連合]]である[[デンマーク=ノルウェー]]が国家として成立した。 デンマーク=ノルウェー連合は1814年に[[キール条約]]によって解消された。この条約ではデンマークはアイスランド、フェロー諸島、グリーンランドのノルウェー属領を保持している。デンマークはまた1620年から1869年まで[[デンマーク領インド]]({{仮リンク|タランガンバディ|en|Tharangambadi|label=トランケバル}})、1658年から1850年まで[[デンマーク領黄金海岸]]([[ガーナ]])、1671年から1917年まで[[デンマーク領西インド諸島]]{{enlink|Danish West Indies}}([[アメリカ領バージン諸島]])を[[植民地]]とした。 アイスランドは1874年に{{仮リンク|内政自治|en|Home rule}}権を獲得して、1918年には主権国家[[アイスランド王国]]として独立するが、元首はデンマーク王のままであった。その後、第二次大戦の混乱に乗じる形で1944年に君主制を廃止、自国の大統領を元首とする共和制に移行した。 フェロー諸島は、1948年に内政自治権を獲得した。フェロー諸島は欧州連合には加盟していない。フェロー諸島は領海域の[[北海油田]]開発を推進しており、2000年代以降は独立派が多数となっている。 グリーンランドは1979年に内政自治権を獲得しており、2009年にはさらに自治権を拡大する提案が{{仮リンク|グリーンランドの自治権拡大を問う住民投票 2008|en|Greenlandic self-government referendum, 2008|label=住民投票}}によって承認された。グリーンランドの独立派は、豊富な天然資源により独立が経済的であると考えている。グリーンランドは1973年、デンマーク王国と[[欧州経済共同体]](現在の[[欧州連合]])に加盟したが、1985年には漁業政策を主な理由に単独で脱退している。 == 政府および政治 == [[ファイル:Kingdom of Denmark map.png|thumb|300px|left|デンマーク王国の3つの[[構成国]]: グリーンランド、フェロー諸島、デンマーク]] '''[[フォルケティング]]'''はデンマークの議会である。フォルケティングは比例多数制によって選出された175人と、グリーンランドおよびフェロー諸島から選出されたそれぞれ2人の議員によって構成されている。総選挙は少なくとも4年ごとに行われるが、首相は任期中に議会を解散することができる。 加えて、フェロー諸島およびグリーンランドはそれぞれ1948年、1979年に内政自治が認められている。デンマーク議会に2名の議員が選出されると共に、グリーンランドは31議席からなる議会「[[ランスティング]] ''Landsting''」(あるいはグリーンランド語で''Inatsisartut'')を有しており、フェロー諸島は固定された33名の議員によって構成される議会「レクティング ''Løgting''」を有している。 デンマークにはグリーンランドおよびフェロー諸島の[[高等弁務官]]({{lang-da|Rigsombudsmand}})がおり、自治議会における議論を[[デンマークの首相]]に伝える。 1953年[[デンマーク王国憲法]]は単一国家の憲法であり、デンマークの3地域全てに適用される。内政自治に関する合意はこの憲法には正式に記されていない。フェロー諸島およびグリーンランドは共に内政問題のほとんどを自ら管理している。また、これらの地域はある問題が王国内の自地域のみに関することであれば、デンマーク王国の代わりに国際合意を結ぶ。 == 地理 == [[植物地理学]]的に、デンマーク、グリーンランド、フェロー諸島は{{仮リンク|全北植物区系界|en|Boreal Kingdom}}に属し、{{仮リンク|周北植物区系区|en|Circumboreal Region}}の北極地方、大西洋ヨーロッパ地方、中央ヨーロッパ地方にまたがっている。[[世界自然保護基金]] (WWF) によれば、デンマーク領土は大西洋混交森 (Atlantic mixed forests) リージョンとバルト海混交森リージョン (Baltic mixed forests) の2つの[[エコリージョン]]に分類できる。フェロー諸島はフェロー諸島北方草原リージョンに含まれるが、グリーンランドには[[グリーンランド|カラリット・ヌナート]] (Kalaallit Nunaat) 高緯度北極ツンドラとカラリット・ヌナート低緯度北極ツンドラエコリージョンが入っている。 デンマーク王国は国土の大半が[[北極圏]]の北に位置する世界で唯一の国家である。 == 脚注 == {{reflist| group="註"}} == 参考文献 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[デンマーク王国共同体]]({{lang-da|Rigsfællesskabet}}) - より詳細なデンマーク、グリーンランド、フェロー諸島の関係について記述 *[[オランダ王国]] *[[ニュージーランド王国]] - ニュージーランドとその自由連合国、属領の総称 {{NATO}} <!--Categories--> [[Category:デンマーク王国|*]] [[Category:デンマークの国際関係|おうこく]] <!--Interwiki-->
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ネパール王国
ネパール王国(ネパール語: नेपाल अधिराज्यcode: ne is deprecated nepāla adhirājya、英語:Kingdom of Nepal)は、1768年12月21日から 2008年5月28日まで続いたネパールの王国。ネパールの王政時代全般を指す。前身はゴルカ王国。 1816年、イギリスにグルカ戦争で敗北し、その保護国となったが1923年に独立した。1846年には宰相のラナ家に実権を奪われるが、1951年に王政復古で実権を取り戻して立憲君主国となった。2008年、王政が廃止されネパール連邦民主共和国となった。 1484年にラーヤ・マッラのバクタプル・マッラ朝から、ラトナ・マッラのカトマンズ・マッラ朝が独立。1619年にシッディナラシンハ・マッラのパタン・マッラ朝が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。 16世紀、ヤショー・ブラフマ・シャハ(Yashobramha Shah)がカスキ王国(現カスキ郡)を征服した。 1559年、ヤショー・ブラフマの子、ドラヴィヤ・シャハ(Dravya Shah)がゴルカ王国を確立。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった。 1743年、プリトビ・ナラヤン・シャハがゴルカ王(第10代)を継承、ネパール統一に乗り出す。 1767年のキルティプルの戦い、1768年のカトマンズの戦いで、ネワール族のマッラ朝にゴルカ軍が勝利。同年9月、彼はネパール王に即位する。 プリトビ・ナラヤンが崩御するまで、チャウダンディー・セーナ王国やビジャイプル・セーナ王国を併合し、ブータン王国やシッキム王国と国境を接するまでその領土を拡大した。その後、プラタープ・シンハ、ラナ・バハドゥルが二二諸国、二四諸国を次々に併合した。 だが、18世紀末にチベットと貿易の諸問題で衝突したことから、チベットの宗主国である清の介入を招き、1788年から1792年にかけて清・ネパール戦争が勃発した。この戦争で首都カトマンズ近郊まで攻め入られ、その朝貢国となり、冊封体制に組み込まれた。以後、ネパールは5年に一度は朝貢使を北京に派遣せねばならず(五年一貢)、それは清が1912年に滅亡するまで続いた。 清軍との衝突後は再び国内における統一に力を注ぎ、1804年には二四諸国で最も強力であったパルパ・セーナ王国を計略で併合した。そののち、同年から遠征軍がアルモーラー地方を越えて、ガルワール、デヘラードゥーンなどを制圧し、1805年から1806年にかけてはサトレジ川を越えて西進した。 1814年、ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハの治世にネパールとイギリス東インド会社との間で勃発する(グルカ戦争)。この戦争に敗れたネパールは、1816年にスガウリ条約で国土の1/3を失った。とはいえ、イギリスの保護国となっただけであり、王政はそのまま存続した。 1846年、ラジェンドラ・ビクラム・シャハの治世、王国は宰相ジャンガ・バハドゥル・ラナのラナ家に実権を奪われ、名ばかりの王家となる。 1923年、イギリスと友好条約を締結し、ネパール王国は保護国ではなく独立国として認められた。 王家がその実権を取り戻したのは1951年のことである。亡命先から帰国したトリブバン国王は初めて立憲君主制を採用した。 1959年、マヘンドラ国王は憲法を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果ネパール会議派が大勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララ内閣が誕生する。 しかし、改革を進めようとする内閣と、権力を維持したい国王は次第に対立を深め、1960年、マヘンドラは憲法を停止して内閣・議会を解散、コイララ首相ら政党指導者を逮捕した(国王のクーデター)。 1962年、マヘンドラ国王は政党の禁止などを定めた新憲法を公布。パンチャーヤト制と呼ばれる国王にきわめて有利な間接民主制が行われた。また、首相の任免は国王が行った。 1972年1月31日、マヘンドラ国王が崩御。同日、マヘンドラの長男ビレンドラが跡を継ぎ、国王に即位する。 1990年、民主化運動であるジャナ・アンドランの高まりに押されて、ビレンドラ国王は民主的憲法を制定し、直接選挙による国会、国会から選ばれる内閣を復活する。この事により、ビレンドラは開明的君主として、国民の厚い信頼を得た。 2001年6月1日、ネパール王族殺害事件が発生し、ビレンドラ国王はじめ多くの王家の構成員が死亡した。昏睡状態のディペンドラ王太子が数日間王位についたが崩御し、叔父のギャネンドラが即位した。 2005年2月、ギャネンドラ国王は権力を握るために議会を解散し、政府の実権を掌握する。彼の親政はロクタントラ・アンドランによって2006年4月に終わり、ネパールの君主制と、シャハ王家はネパール制憲議会に委ねられることが決まる。2007年12月24日、王制は制憲議会開会とともに廃止されると発表される。 2008年5月28日、制憲議会の第一回の会議で、「連邦共和制」が宣言され、王政は廃止された。ここにネパール王国は終焉を告げ、ネパール連邦民主共和国が誕生した。
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ネパール王国は、1768年12月21日から 2008年5月28日まで続いたネパールの王国。ネパールの王政時代全般を指す。前身はゴルカ王国。 1816年、イギリスにグルカ戦争で敗北し、その保護国となったが1923年に独立した。1846年には宰相のラナ家に実権を奪われるが、1951年に王政復古で実権を取り戻して立憲君主国となった。2008年、王政が廃止されネパール連邦民主共和国となった。
{{単一の出典|date=2020年5月}}{{基礎情報 過去の国 |略名 = ネパール |日本語国名 = ネパール王国 |公式国名 = {{lang|ne|नेपाल अधिराज्य}}<br />{{ラテン翻字|ne|ISO|nepāla adhirājya}} |建国時期 = [[1768年]] |亡国時期 = [[2008年]] |先代1 = マッラ朝 |先旗1 = |先代2 = ゴルカ王国 |先旗2 = |次代1 = ネパール連邦民主共和国 |次旗1 = Flag of Nepal.svg |次旗1縁 = no |国旗画像 = Flag of Nepal.svg |国旗リンク = |国旗幅 = 90px |国旗縁 = no |国章画像 =Coat of arms of Nepal (1962–2008).svg |国章リンク = |国章幅 = |標語 = |標語追記 = |国歌 = [[Shreeman Gambhir]] (राष्ट्रिय गान्)<br>({{Lang-en|"May Glory Crown You, Courageous Sovereign"}})<br />[[File:Former national anthem of Nepal, 1962–2006.oga|center]] |国歌追記 = |位置画像 = LocationNepal.svg |位置画像説明 = |位置画像幅 = 300px |公用語 = [[ネパール語]] |首都 = [[カトマンズ]] |元首等肩書 = [[マハーラージャーディラージャ]]<br>([[ネパール王国の君主|国王]]) |元首等年代始1 = [[1768年]] |元首等年代終1 = [[1775年]] |元首等氏名1 = [[プリトビ・ナラヤン・シャハ]] |元首等年代始2 = [[2001年]] |元首等年代終2 = [[2008年]] |元首等氏名2 = [[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]] |首相等肩書 = [[ネパールの首相|首相]] |首相等年代始1 = [[1799年]] |首相等年代終1 = [[1804年]] |首相等氏名1 = [[ダモダル・パンデ]] |首相等年代始2 = [[2006年]] |首相等年代終2 = [[2008年]] |首相等氏名2 = [[ギリジャー・プラサード・コイララ]] |面積測定時期1 = [[2008年]] |面積値1 = 140,800 |人口測定時期1 = [[2008年]] |人口値1 = 29,331,000 |変遷1 = [[ネパールの統一]] |変遷年月日1 = [[1768年]][[12月21日]] |変遷2 = [[清・ネパール戦争]] |変遷年月日2 = [[1788年]] - [[1792年]] |変遷3 = [[イギリス帝国]]の[[保護国]]化 |変遷年月日3 = [[1816年]][[3月4日]] |変遷4 = [[ラナ家]]が実権を掌握 |変遷年月日4 = [[1846年]][[9月15日]] |変遷5 = [[清]]への[[朝貢]]を停止 |変遷年月日5 = [[1912年]] |変遷6 = [[国家の独立|独立]]回復 |変遷年月日6 = [[1923年]] |変遷7 = [[王政復古]] |変遷年月日7 = [[1951年]][[2月]] |変遷8 = [[君主制廃止|王制廃止]]、[[共和制]]へ |変遷年月日8 = [[2008年]][[5月28日]] |通貨 = [[ネパール・ルピー]] |通貨追記 = |現在 = {{NPL}} |時間帯 = +5:45 |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = [[.np]] |ccTLD追記 = |国際電話番号 = 977 |国際電話番号追記 = |注記 = }} '''ネパール王国'''({{lang-ne|नेपाल अधिराज्य}} {{ラテン翻字|ne|ISO|nepāla adhirājya}}、[[英語]]:Kingdom of Nepal)は、[[1768年]][[12月21日]]から [[2008年]][[5月28日]]まで続いた[[ネパール]]の[[王国]]。ネパールの王政時代全般を指す。前身はゴルカ王国。 [[1816年]]、[[イギリス]]に[[グルカ戦争]]で敗北し、その保護国となったが[[1923年]]に独立した。[[1846年]]には[[宰相]]のラナ家に実権を奪われるが、[[1951年]]に王政復古で実権を取り戻して[[立憲君主国]]となった。[[2008年]]、王政が廃止され'''[[ネパール|ネパール連邦民主共和国]]'''(2020年に「ネパール」に改名)となった。 == 歴史 == === 前史 === [[1484年]]に[[ラーヤ・マッラ]]の[[バクタプル・マッラ朝]]から、[[ラトナ・マッラ]]の[[カトマンズ・マッラ朝]]が独立。[[1619年]]に[[シッディナラシンハ・マッラ]]の[[パタン・マッラ朝]]が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。 === ゴルカ王国 === [[16世紀]]、[[ヤショー・ブラフマ・シャハ]](Yashobramha Shah)が[[カスキ王国]](現[[カスキ郡]])を征服した。 [[1559年]]、ヤショー・ブラフマの子、[[ドラヴィヤ・シャハ]](Dravya Shah)がゴルカ王国を確立<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.486</ref>。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは[[二四諸国]]にも数えられないほどの小国であった<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.487</ref>。 === 統一絶対王政期(1768年 - 1951年) === {{main|[[ネパールの統一]]}} [[1743年]]、[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]がゴルカ王(第10代)を継承、ネパール統一に乗り出す。 [[1767年]]の[[:en:Battle of Kirtipur|キルティプルの戦い]]、[[1768年]]の[[:en:Battle of Kathmandu|カトマンズの戦い]]で、[[ネワール族]]のマッラ朝にゴルカ軍が勝利。同年9月、彼は[[ネパール王国の君主|ネパール王]]に即位する<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.496</ref>。 プリトビ・ナラヤンが崩御するまで、[[チャウダンディー・セーナ王国]]や[[ビジャイプル・セーナ王国]]を併合し、[[ブータン王国]]や[[シッキム王国]]と国境を接するまでその領土を拡大した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.499</ref>。その後、[[プラタープ・シンハ・シャハ|プラタープ・シンハ]]、[[ラナ・バハドゥル・シャハ|ラナ・バハドゥル]]が[[二二諸国]]、二四諸国を次々に併合した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.503</ref>。 だが、18世紀末に[[チベット]]と貿易の諸問題で衝突したことから、チベットの[[宗主国]]である清の介入を招き、[[1788年]]から[[1792年]]にかけて[[清・ネパール戦争]]が勃発した<ref name="名前なし-1">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.505</ref>。この戦争で首都カトマンズ近郊まで攻め入られ、その[[朝貢]]国となり、[[冊封]]体制に組み込まれた。以後、ネパールは5年に一度は朝貢使を[[北京]]に派遣せねばならず(五年一貢)<ref name="名前なし-1"/>、それは清が[[1912年]]に滅亡するまで続いた。 清軍との衝突後は再び国内における統一に力を注ぎ、[[1804年]]には二四諸国で最も強力であった[[パルパ・セーナ王国]]を計略で併合した<ref name=":0">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.510</ref>。そののち、同年から遠征軍が[[アルモーラー]]地方を越えて、[[ガルワール]]、[[デヘラードゥーン]]などを制圧し、1805年から1806年にかけてはサトレジ川を越えて西進した<ref name=":0" />。 [[1814年]]、[[ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ]]の治世にネパールと[[イギリス東インド会社]]との間で勃発する(グルカ戦争)。この戦争に敗れたネパールは、[[1816年]]に[[スガウリ条約]]で国土の1/3を失った<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.515</ref>。とはいえ、イギリスの[[保護国]]となっただけであり、王政はそのまま存続した。 [[1846年]]、[[ラジェンドラ・ビクラム・シャハ]]の治世、王国は宰相[[ジャンガ・バハドゥル・ラナ]]の[[ラナ家]]に実権を奪われ、名ばかりの王家となる<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.543</ref>。 [[1923年]]、イギリスと友好条約を締結し、ネパール王国は保護国ではなく独立国として認められた<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.577-578</ref>。 === 立憲王政期(1951年 - 2008年) === 王家がその実権を取り戻したのは[[1951年]]のことである<ref name="名前なし-2">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.611</ref>。亡命先から帰国した[[トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ|トリブバン]]国王は初めて[[立憲君主制]]を採用した。 [[1959年]]、[[マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|マヘンドラ]]国王は[[憲法]]を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果[[ネパール会議派]]が大勝し、[[ビシュエシュワル・プラサード・コイララ]]内閣が誕生する<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.646</ref>。 しかし、改革を進めようとする内閣と、権力を維持したい国王は次第に対立を深め、[[1960年]]、マヘンドラは憲法を停止して内閣・議会を解散、コイララ首相ら政党指導者を逮捕した(国王の[[クーデター]])<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.648</ref>。 [[1962年]]、マヘンドラ国王は政党の禁止などを定めた新憲法を公布。[[パンチャーヤト制]]と呼ばれる国王にきわめて有利な[[間接民主制]]が行われた。また、首相の任免は国王が行った<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.650</ref>。 [[1972年]][[1月31日]]、マヘンドラ国王が崩御。同日、マヘンドラの長男[[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]が跡を継ぎ、国王に即位する<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.654</ref>。 [[1990年]]、[[民主化運動]]である[[ジャナ・アンドラン]]の高まりに押されて、[[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]国王は民主的憲法を制定し、直接選挙による国会、国会から選ばれる内閣を復活する<ref name="名前なし-2"/>。この事により、ビレンドラは開明的君主として、国民の厚い信頼を得た。 [[2001年]][[6月1日]]、[[ネパール王族殺害事件]]が発生し、ビレンドラ国王はじめ多くの王家の構成員が死亡した。昏睡状態の[[ディペンドラ]]王太子が数日間王位についたが崩御し、叔父の[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]が即位した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678</ref>。 [[2005年]]2月、ギャネンドラ国王は権力を握るために議会を解散し、政府の実権を掌握する。彼の[[親政]]は[[ロクタントラ・アンドラン]]によって[[2006年]]4月に終わり、ネパールの君主制と、シャハ王家は[[ネパール制憲議会]]に委ねられることが決まる。[[2007年]][[12月24日]]、王制は制憲議会開会とともに廃止されると発表される。 [[2008年]][[5月28日]]、制憲議会の第一回の会議で、「連邦共和制」が宣言され、王政は廃止された<ref name=abolish>{{cite news| title =Nepalese monarchy to be abolished| publisher =BBC| date =2007-12-24| url =http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/7158670.stm| accessdate =2007-12-25}}</ref>。ここにネパール王国は終焉を告げ、[[ネパール|ネパール連邦民主共和国]]が誕生した。 ==歴代君主== # [[プリトビ・ナラヤン・シャハ]](1768年 - 1775年)1769年王国統一 # [[プラタープ・シンハ・シャハ]](1775年 - 1777年) # [[ラナ・バハドゥル・シャハ]](1777年 - 1799年) # [[ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ]](1799年 - 1816年) # [[ラジェンドラ・ビクラム・シャハ]](1816年 - 1847年) 1846年[[ラナ家]]が実権掌握 # [[スレンドラ・ビクラム・シャハ]](1847年 - 1881年) # [[プリトビ・ビール・ビクラム・シャハ]](1881年 - 1911年) # [[トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ]](1911年 - 1950年、1951年 - 1955年) 1951年復位、[[王政復古]] # [[マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]](1955年 - 1972年) # [[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]](1972年 - 2001年6月1日) # [[ディペンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]](2001年6月1日 - 6月4日) # [[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]](1950年 - 1951年、2001年6月4日 - 2008年5月28日) 1951年即位取消、2008年王制廃止 ==脚注== {{脚注ヘルプ}}{{reflist}} ==参考文献== *{{Cite|和書|author =佐伯和彦|authorlink=佐伯和彦|translator=|title =世界歴史叢書 ネパール全史|publisher =明石書店|date =2003年|isbn =}} == 関連項目 == *[[ゴルカ王国]] *[[ゴルカ朝]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ねはあるおうこく}} [[Category:ネパール王国|*]] [[Category:ゴルカ朝]] [[Category:ネパールの王朝]] [[Category:ネパールの歴史]] [[Category:かつて存在した王国]] [[Category:冊封国]]
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スロベニア
スロベニア共和国(スロベニアきょうわこく、スロベニア語: Slovenija: [sloˈveːnija])、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国。首都はリュブリャナ。主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。 スロベニアは西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東でハンガリーとそれぞれ国境を接している。国土面積は20,273平方キロメートル (7,827 sq mi)で、人口は205万人を擁する。議会制共和国で、欧州連合や北大西洋条約機構の加盟国である。スロベニアではアルプス山脈とディナル・アルプス山脈、地中海のアドリア海に沿った少ない海岸部分のヨーロッパの4つの大きな地理的な部分が接している。 スロベニアの国土はモザイク状の構造で多様性に富んだ景観や、生物多様性があり、この多様性は自然の特質と長期の人間の存在による。主に丘陵地の気候 であるが、スロベニアの国土は大陸性気候の影響を受け、プリモルスカ地方は亜地中海性気候に恵まれており、スロベニア北西部では高山気候が見られる。スロベニアはヨーロッパの国の中でも水が豊かな国の一つで、密度が高い河川や豊かな帯水層、かなりのカルスト地形(クラス地方はカルストの語源)の地下水流がある。スロベニアの国土の半分以上は森林に覆われている。スロベニアの集落は分散しており、一様ではない。 スラヴ語派やゲルマン語派、ロマンス諸語、フィン・ウゴル語派などの言語や文化のグループはスロベニアで接し領域は均質でないが、人口数ではスロベニア人が優勢である。スロベニア語はスロベニアの唯一の公用語であるが、イタリア語やハンガリー語などは地域の少数言語となっている。スロベニアの大部分は宗教と分離しているが、文化やアイデンティティの面ではカトリック教会やルーテル教会の大きな影響を受けている。 スロベニアの経済(英語版)は小規模で、輸出志向型工業化の経済 でありその後の国際的な経済情勢に大きく影響を受けている。スロベニアの経済は2000年代後半に始まった欧州経済危機により厳しい痛手を負っている。経済の主要な分野は第三次産業で、工業や建設がそれに続く。 多くのスロベニア人がスポーツ界で成功しており、特にウィンタースポーツ、ウォータースポーツ、登山、耐久性が要求されるエンデュランススポーツで顕著である。 歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中にはローマ帝国や神聖ローマ帝国、それに続くハプスブルク帝国などが含まれる。1918年、スロベニアは国際的には認められていないものの自己決定権を行使し他民族と共同でスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を樹立し、後に1つとなりユーゴスラビアとなった。第二次世界大戦中、スロベニアはナチス・ドイツやイタリア王国、クロアチア独立国、ハンガリー王国に占領や併合されていた。戦後は新たに樹立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の一つとなった。1991年6月に複数政党制の間接民主制を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから独立した国となった。2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年には元共産主義国としては最初にユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟している。 正式な国号はスロベニア語で Republika Slovenija (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は Slovenija 。公式の英語表記は Republic of Slovenia 。通称 Slovenia 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「スロヴェニア共和国」。ただし、日本の外務省による日本語の公式表記は、「スロベニア共和国」。通称「スロベニア」。古くは斯洛文尼亜という漢字表記が用いられた事もあった。 語源については諸説ある。一つに、スロバキアと同じく「スラブ」(Slav)と同源であるとする説があり、両国名の類似の原因をこれに求める意見がある。「スラブ」は古スラブ語で「栄光」や「名声」を意味する sláva に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀ごろのスラブ民族は、自らを「スロヴェーネ」(slověne:同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる。現代英語でスロベニア人に対する総称(デモニム)は Slovenian と Slovene であるが、後者は上述の slověne に由来する。 6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラブ人地域と異なった歴史的性格をスロヴェニアにもたらすことになる。 15世紀にはハプスブルク家(オーストリア公国)の所領となり、以降オーストリア大公国、オーストリア帝国そして1867年にオーストリア=ハンガリー帝国領となった。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国による支配を受ける。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。1809年から1813年の間、リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。 その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、セルビア・クロアチア・スロベニア王国に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。 1941年4月にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアの首都リュブリャナは同年4月10日までにドイツ国防軍により占領された。ナチス・ドイツの同盟国のイタリア王国はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、後にリュブリャナはベニート・ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって統治され、北東の一部の地域はハンガリーが占領、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国亡命政府を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・チトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。 パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島(イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。 1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。 政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。 さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。 こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。 短期的、小規模な十日間戦争を経てスロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合理事会議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中で指導力を発揮した。 ユーゴスラビア末期の壊滅的な経済苦境、そして台頭するセルビア民族主義への反発から、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を志向するようになった。1989年9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したスロベニア共和国憲法の改正案が共和国議会を通過する。1990年4月、第二次世界大戦後初の自由選挙を実施。共産党政権は過半数の票を集めることができず、野党連合のデモスが勝利した。首相には第三党のスロベニアキリスト教民主党のロイゼ・ペテルレ党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だったミラン・クーチャンが大統領となった。 1991年6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユーゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7月には停戦に成功、同年10月には連邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、複数政党制と大統領制が確立する。 1992年12月には独立後、第1回となる大統領選挙を実施、ミラン・クーチャンが選ばれた。同氏は1997年11月にも再選されている。2000年10月の総選挙では自由民主主義党が第1党となったため、連立政権が発足した。2002年12月の大統領選挙ではヤネス・ドルノウシェク首相が当選した。2007年12月、リュブリャナ大学法学部副学部長のダニロ・テュルクが大統領に就任した。 国家元首の大統領は任期5年で、国民の直接選挙によって選出される。行政府の長である首相は議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任命される。 立法府は両院制をとっている。下院(国民議会)は定数90で、うち40議席を小選挙区で、残る50議席を比例代表で選出する(小選挙区比例代表併用制)。任期は4年。上院(国民評議会)は定数40で、各種団体による間接選挙で選出される。任期は5年。上院の立法権限は下院よりも弱く、諮問機関としての性格が強いが、国民投票を行うか否かの決断を下す権限を有する。 主要政党は中道左派の現代中央党(2015年3月7日にミロ・ツェラル党から改称)と中道右派のスロベニア民主党(英語版)である。 2014年7月に行われた国民議会議員選挙では、新党「ミロ・ツェラル党」が第一党、スロベニア民主党が第二党となった。これをうけて翌月、国民議会はミロ・ツェラル党の党首で法律家のミロ・ツェラルを首相として承認した。 司法権は、国民議会によって選出された裁判官によって執行されることが法律で定められている。スロベニアの司法権は、一般的な責任を負う裁判所と、特定の法的分野に関連する問題を扱う専門裁判所によって実施される。憲法裁判所は9年の任期で選出された9人の裁判官で構成されている。 また、国家検察庁は、刑事犯罪の容疑者に対して提起された事件を起訴する責任を負う独立した国家機関として機能している。 スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、ユーゴスラビア紛争が収束する中でセルビア人、クロアチア人労働者を受け入れてきた。しかし、EUではEU内の労働者の移動、就労は自由化されるが、一方でEU外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年のEU加盟に前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点になっている。 スロベニアが独立した一年後の1992年に、日本・スロベニア両国が国交を結んだ。翌1993年、東京に在日スロベニア大使館が設置された。2006年には、スロベニアで日本の在スロベニア大使館が開かれた。2013年には、ボルト・パホル大統領が訪日し、続いて日本の文仁親王・同妃がスロベニアを訪れた。さらに、2015年には武藤容治外務副大臣らがスロベニアを訪れた。また、2016年9月30日に、岸信夫外務副大臣とシモナ・レスコヴァル駐日スロベニア大使との間で、租税条約の署名が行われた。続く2016年10月にはミロ・ツェラル首相が日本を訪問し、安倍首相と共に二国間関係を確認した。 スロベニア軍は志願制であり、大統領を最高指揮官とし、国防省の管理下に陸軍、海軍、空軍及び防空軍が置かれている。2003年に徴兵制が廃止されて以来、プロフェッショナルによる完全な軍隊として編成されている。2004年に北大西洋条約機構に加盟した。 スロベニアは、アルプス山脈の南端、ジュリア・アルプス山脈の山々の麓に位置する山岳国である。特に北部は高峰が連なり、スロベニア最高峰トリグラウ山は山域全体がスロベニア領であること、特徴的な山容が首都リュブリャナからでも見えるため、国の象徴となっている。 登山や山岳スキーに世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスはオーストリアとの国境ともなっている。 また、イタリアのトリエステとクロアチアの世界遺産プーラに挟まれたアドリア海の最奥の海岸線の一部も国土であり、貿易港のコペルや、ポルトロシュなどヴァカンス向きのリゾート地がある。アルプスとアドリア海の両方を持つ風光明媚な国である。 これに対し、クロアチアへと続くスロベニアの内陸部は石灰岩からなるカルスト地形で荒涼とした風景が広がる不毛の土地である。もともと地理用語の「カルスト地形」はスロベニアの地名に由来しており、クロアチア国境に近いクラス地方(Kras、ドイツ語名:カルスト)が「カルスト」の語源である。カルスト地形の窪地・穴を表すドリーネも、スロベニア語の谷に由来する。スロベニアは鍾乳洞の宝庫で、リュブリャナの西には巨大なポストイナ鍾乳洞がある。延長24kmに及ぶ。 首都リュブリャナからハンガリーにかけてはハンガリー大平原の西の端でなだらかな地形が続き、穀倉地帯である。そして、スロベニアはハンガリーとともに隠れた温泉国でもある。 スロベニアは、193の市(自治体)に分かれる。そのうち、特に人口の多い11の市は特別の地位にある(日本の政令指定都市に相当)。以下にあげるのはその11の市で、カッコ内はドイツ語・イタリア語名である。 その他の都市: スロベニアは先進国に分類される。1991年10月のユーゴスラビア連邦からの離脱により、既存の連邦市場から切り離されたこと、連邦内の分業体制から外れたことにより、一時的に経済が不安定化した。独立時に導入した新通貨トラールの信用も高くはなかった。しかし連邦内の内戦からは距離を置くことができたため、交通輸送、エネルギーなどの社会的インフラを無傷で保持できた。このため、経済成長にもかげりが見えない。例えば、2000年のGDPは前年比4.6%成長しており、その後も3%、2.9%と順調に推移している。旧共産圏随一の生活水準を誇り、国民1人当たりのGDPはスペインを上回る。失業率は2000年時点で11.9%と、イタリアを含む周辺諸国と同水準である。近年は消費者物価の上昇に悩まされており、2000年以降、消費者物価の上昇率は8-9%と高い。リーマンショック後はスロベニア「史上最悪」の経済危機にあり、近いうちに国際的な救済措置を受ける事態に陥るのではないかという報道が出ていた。 ユーゴスラビア連邦内では工業を担っていた。繊維産業を筆頭に、組み立てを含む電気機器製造、金属加工業が充実している。農業国でもある。主食となる穀物栽培と商品作物の生産にバランスが取れていることが特徴。貿易では機械の加工貿易の比重が極めて高い。 一方で、観光業も主要産業の一つとして確立されている。 通貨については、インフレ率の低下などに伴い基準を満たしたため、EUの新規加盟国の先頭として2007年1月1日にユーロへ移行している。2010年には、 エストニア、イスラエルとともにOECDに加盟している。 なお、以下の統計資料はFAOのFAO Production Yearbook 2002などを用いた。 地下資源には恵まれておらず、石灰岩以外には天然ガスと品質の低い石炭を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める化石燃料の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、原油や天然ガスはプレクムリェ地方、水銀鉱山はイドリヤ(ただし1977年に廃止された)、石炭はトルボヴリェ、ザゴリェ・オプ・サヴィ、フラストニク、亜炭鉱山はノヴォ・メストである。 電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は火力が40%、水力が25%、原子力が35%である(1993年)。2018年の正味エネルギー生産は 12,262 GWh、消費は 14,501 GWh であった。水力発電所は 4,421 GWh を発電し、火力発電所は 4,049 GWh を発電し、クルシュコ原子力発電所(英語版)は 2,742 GWhを発電した。2018年末には、太陽光発電モジュールとバイオガス発電所(英語版)が設置されている。2017年と比較して、再生可能エネルギー源はエネルギー消費全体に 5.6 %ほど多く貢献している。スロベニアは太陽光および風力エネルギー源の分野でより多くの電力生産を追加することに関心を示しているものの、マイクロロケーションの決済手順が、この取り組みの効率に多大な影響を与える懸念を持つ為、同国においては自然保護とエネルギー生産施設のジレンマから問題視されている。 工業では、絹織物の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。 麻薬精製の原料である無水酢酸の押収量が世界で最も多い。 全土がケッペンの気候区分でいう温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に覆われているため、気候は農業に向いている。しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。 ビールの原料となるホップ生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン(ジャレツでの栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。漁業は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。穀倉地帯は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺やプレクムリェ地方である。またブドウの栽培とワインの醸造は古い歴史を持ち、ポドラヴェやポサヴェ、プリモルスカなどで年間8000万から9000万リットルのワインが製造されている。 牛や豚、羊などの家畜も飼育されており、そしてカルスト地方のリブニツァという村では昔からウィーンの宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。 2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。貿易依存度は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港はコペルである。他にもピランとイゾラに小さな港がある。 2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、自動車、電気機械の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対EUが60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。 主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。 2003年時点で、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、貿易赤字である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。リュブリャナ大学とマリボル大学その他の一般講座で日本語教育が実施されている。2010年からスロベニアの経済に投資している。日本では1998年にはトヨタ自動車株式会社の海外支部である、トヨタ・アドリアが成立し、輸出入に関する事業を行なっている。また、安川電機は2018年までにリブニツァに新たな工場を建設する予定である。現場では、170人の仕事場を作る予定であり、全投資予算数は2100万ユーロとされている。2016年には関西ペイント株式会社がヘリオスを買収し、新製品の開発を行う見通しがある。その他にも、パナソニック株式会社はゴレニェ(Gorenje)に投資しており、株式会社ダイヘンはポムリエ地方(プレクムリェ地方)でダイヘンヴァルストローイを建設した。未だスロベニアから日本経済への投資は著しくないが、2017年2月にはスラットナー・アジア社が日本に創設され、同社はスキー用品の販売を開始すると共に、日本を含むアジア各国のスキー場施設の幅広いビジネスを展開する予定である。 代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈(トリグラウ山(2864m)、ブレッド、ボーヒニなど)、アドリア海(コペル、ピラン)、カルスト地方の洞窟(シュコツィアン洞窟群、ポストイナ)、温泉である。 スロベニアは民族的に均質であると言われ、1981年までの国勢調査では9割以上がスロベニア人であったが、その後は旧ユーゴスラビア諸国を中心に世界から移民が流入し、2002年にはスロベニア人の割合が83%まで落ちた。 住民はスロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民(クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人など)が10%、マジャル人(ハンガリー人)やイタリア人が0.5%である。マジャル人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。ドイツ系住民は、他の国と比較すると多くない。 言語は、スロベニア語が公用語になっている。ユーゴスラビア時代、多くの国民は教育によってセルビア・クロアチア語を習得しており、一定以上の世代ではセルビア・クロアチア語の通用度が高い。独立後の教育では、第二言語としては、英語が最もよく教えられているが、ドイツ語も広く通用する。 スロベニアは、2017年2月24日付でシビル・ユニオンを法的に容認しており、2022年7月8日付で同性婚が合法化されている。 宗教は、ローマ・カトリックが2/3以上、その他は無神論者、東方正教(主にセルビア正教、マケドニア正教)、イスラム教などである。 2022年07月05日時点で外務省は、「スロベニアは、比較的治安が良いと言われていますが、人口あたりの犯罪発生率は日本の約4倍に上ります。旅行者を対象とした、スリや置き引きの被害が発生しており、注意が必要です。」としている。 但し、スロベニアの犯罪件数は2020年時点で 53,485件であり、2018年時点では 56,699件で、2019年時点では 55,120件であることから、発生は徐々に少なくなり始めている点が窺える。 代表的なWebメディアにはシオール(英語版)が挙げられている。 ドレンスカ地方のコステル地区には、チュースパイスという、シチューのような伝統料理がある。 スロベニア出身の特に著名な哲学者として、ラカン派精神分析とカントなどのドイツ観念論、ヘーゲル、映画を組み合わせてグローバル資本主義を分析するマルクス主義者スラヴォイ・ジジェクの名が挙げられる。ジジェクの他にラカンに影響を受けた哲学者としてはアレンカ・ジュパンチッチなどが存在する。 以下の著名人を輩出している。 スロベニアにおける近代建築はマックス・ファビアーニ(英語版)によって導入され、戦時中はヨジェ・プレチニックとイヴァン・ヴルニク(英語版)によって普及された。 20世紀後半、建築家のエドヴァルド・ラヴニカール(英語版)と彼の弟子たちの第一世代であるミラン・ミヘリチ、スタンコ・クリストル、サヴィン・セーバーによって、国民的かつ普遍的なスタイルが融合された。次世代は、主にマルコ・ムシッチ(英語版)、ヴォイテ・ラヴニカール(英語版)、ユリ・コービー、そして若い建築家グループが主に活動している。 スロベニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。 スロベニア国内でも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。元々国内ではマイナースポーツであったが、2000年以後サッカースロベニア代表の国際大会での飛躍により変化が訪れる。UEFA欧州選手権の2000年大会とFIFAワールドカップの2002年日韓大会に、相次いで出場したことは国内で大きな驚きと共に捉えられ、サッカーの認知度を一気に高めることに繋がった。さらに2010年南アフリカ大会にも出場を果たし、国中が大変な盛り上がりをみせた。 スロベニアは世界レベルのゴールキーパーを近年輩出しており、セリエAのインテル・ミラノで10年以上活躍し続けているハンダノヴィッチや、サモラ賞の歴代最小失点率(0.47)と歴代最多受賞(5回)を誇るアトレティコ・マドリード所属のヤン・オブラクがいる。なお日本との関係では、Jリーグで長年プレーしていたノヴァコヴィッチやズラタンなどが知られている。 スロベニアは人口わずか200万足らずにもかかわらず、多数のNBA選手を輩出している欧州でも有数のバスケットボールの強豪国である。国内には数多くのNBA選手や有名選手を輩出してきた、プレミアリーグのLiga Nova KBMと呼ばれるプロリーグを持つ。代表チームの課題は有力選手の多数がNBAに所属しているため、オフシーズンの代表招集で常にベストメンバーが揃わない事である。そんな中欧州選手権では2005年大会で6位入賞し、独立後初の世界選手権出場を掴んだ。2006年世界選手権では予選リーグを突破し、決勝トーナメントに進出しベスト16となり、最終順位は12位を獲得した。 2007年には北京五輪の欧州予選を兼ねた2007年ユーロバスケットの7位決定戦で、トニー・パーカー率いるフランスを破り世界最終予選の切符を獲得したが、この大会の決勝トーナメントでプエルトリコに破れ、独立後初の五輪出場の夢は叶わなかった。また、2017年ユーロバスケットでは初優勝した。さらに2021年東京五輪の出場権をかけた最終予選では、五輪の常連であり開催地でもあるリトアニアを、決勝で破って優勝し初の出場権を得た。なお本大会では4位となった。 2010年に名門ステージレースのクリテリウム・デュ・ドフィネをヤネス・ブライコヴィッチが総合優勝した他、第4のグランツールとも言われるツール・ド・スイスを2015年と2017年の2度総合優勝したシモン・シュピラック、2018年にビンクバンク・ツアーを総合優勝、2022年にミラノ〜サンレモを優勝したマテイ・モホリッチ、2019年にツアー・オブ・カリフォルニアを総合優勝し、2020年と2021年にツール・ド・フランスを2連覇したタデイ・ポガチャル、2019年から2021年にブエルタ・ア・エスパーニャを3連覇したプリモシュ・ログリッチなど、2010年代に入ってからはロードレースの世界第一線で活躍をする選手を多く輩出している。 国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることから、スロベニアではスキーをメインとしたスノースポーツが盛んである。アルペンスキーではティナ・マゼを輩出している。スロベニアの北西部ゴレンスカ地方にあるクランスカ・ゴーラのスキー場や、世界最大のジャンプ台を擁するプラニツァのスキージャンプは世界的に有名である。 スロベニアはオリンピックには1992年アルベールビル五輪で初参加を果たし、2021年東京五輪までに金メダル10個を含む通算45個のメダルを獲得している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スロベニア共和国(スロベニアきょうわこく、スロベニア語: Slovenija: [sloˈveːnija])、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国。首都はリュブリャナ。主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スロベニアは西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東でハンガリーとそれぞれ国境を接している。国土面積は20,273平方キロメートル (7,827 sq mi)で、人口は205万人を擁する。議会制共和国で、欧州連合や北大西洋条約機構の加盟国である。スロベニアではアルプス山脈とディナル・アルプス山脈、地中海のアドリア海に沿った少ない海岸部分のヨーロッパの4つの大きな地理的な部分が接している。 スロベニアの国土はモザイク状の構造で多様性に富んだ景観や、生物多様性があり、この多様性は自然の特質と長期の人間の存在による。主に丘陵地の気候 であるが、スロベニアの国土は大陸性気候の影響を受け、プリモルスカ地方は亜地中海性気候に恵まれており、スロベニア北西部では高山気候が見られる。スロベニアはヨーロッパの国の中でも水が豊かな国の一つで、密度が高い河川や豊かな帯水層、かなりのカルスト地形(クラス地方はカルストの語源)の地下水流がある。スロベニアの国土の半分以上は森林に覆われている。スロベニアの集落は分散しており、一様ではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スラヴ語派やゲルマン語派、ロマンス諸語、フィン・ウゴル語派などの言語や文化のグループはスロベニアで接し領域は均質でないが、人口数ではスロベニア人が優勢である。スロベニア語はスロベニアの唯一の公用語であるが、イタリア語やハンガリー語などは地域の少数言語となっている。スロベニアの大部分は宗教と分離しているが、文化やアイデンティティの面ではカトリック教会やルーテル教会の大きな影響を受けている。 スロベニアの経済(英語版)は小規模で、輸出志向型工業化の経済 でありその後の国際的な経済情勢に大きく影響を受けている。スロベニアの経済は2000年代後半に始まった欧州経済危機により厳しい痛手を負っている。経済の主要な分野は第三次産業で、工業や建設がそれに続く。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多くのスロベニア人がスポーツ界で成功しており、特にウィンタースポーツ、ウォータースポーツ、登山、耐久性が要求されるエンデュランススポーツで顕著である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中にはローマ帝国や神聖ローマ帝国、それに続くハプスブルク帝国などが含まれる。1918年、スロベニアは国際的には認められていないものの自己決定権を行使し他民族と共同でスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を樹立し、後に1つとなりユーゴスラビアとなった。第二次世界大戦中、スロベニアはナチス・ドイツやイタリア王国、クロアチア独立国、ハンガリー王国に占領や併合されていた。戦後は新たに樹立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の一つとなった。1991年6月に複数政党制の間接民主制を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから独立した国となった。2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年には元共産主義国としては最初にユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式な国号はスロベニア語で Republika Slovenija (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は Slovenija 。公式の英語表記は Republic of Slovenia 。通称 Slovenia 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「スロヴェニア共和国」。ただし、日本の外務省による日本語の公式表記は、「スロベニア共和国」。通称「スロベニア」。古くは斯洛文尼亜という漢字表記が用いられた事もあった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "語源については諸説ある。一つに、スロバキアと同じく「スラブ」(Slav)と同源であるとする説があり、両国名の類似の原因をこれに求める意見がある。「スラブ」は古スラブ語で「栄光」や「名声」を意味する sláva に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀ごろのスラブ民族は、自らを「スロヴェーネ」(slověne:同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる。現代英語でスロベニア人に対する総称(デモニム)は Slovenian と Slovene であるが、後者は上述の slověne に由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラブ人地域と異なった歴史的性格をスロヴェニアにもたらすことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "15世紀にはハプスブルク家(オーストリア公国)の所領となり、以降オーストリア大公国、オーストリア帝国そして1867年にオーストリア=ハンガリー帝国領となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国による支配を受ける。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。1809年から1813年の間、リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、セルビア・クロアチア・スロベニア王国に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1941年4月にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアの首都リュブリャナは同年4月10日までにドイツ国防軍により占領された。ナチス・ドイツの同盟国のイタリア王国はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、後にリュブリャナはベニート・ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって統治され、北東の一部の地域はハンガリーが占領、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国亡命政府を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・チトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島(イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "短期的、小規模な十日間戦争を経てスロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合理事会議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中で指導力を発揮した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア末期の壊滅的な経済苦境、そして台頭するセルビア民族主義への反発から、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を志向するようになった。1989年9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したスロベニア共和国憲法の改正案が共和国議会を通過する。1990年4月、第二次世界大戦後初の自由選挙を実施。共産党政権は過半数の票を集めることができず、野党連合のデモスが勝利した。首相には第三党のスロベニアキリスト教民主党のロイゼ・ペテルレ党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だったミラン・クーチャンが大統領となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1991年6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユーゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7月には停戦に成功、同年10月には連邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、複数政党制と大統領制が確立する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1992年12月には独立後、第1回となる大統領選挙を実施、ミラン・クーチャンが選ばれた。同氏は1997年11月にも再選されている。2000年10月の総選挙では自由民主主義党が第1党となったため、連立政権が発足した。2002年12月の大統領選挙ではヤネス・ドルノウシェク首相が当選した。2007年12月、リュブリャナ大学法学部副学部長のダニロ・テュルクが大統領に就任した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "国家元首の大統領は任期5年で、国民の直接選挙によって選出される。行政府の長である首相は議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任命される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "立法府は両院制をとっている。下院(国民議会)は定数90で、うち40議席を小選挙区で、残る50議席を比例代表で選出する(小選挙区比例代表併用制)。任期は4年。上院(国民評議会)は定数40で、各種団体による間接選挙で選出される。任期は5年。上院の立法権限は下院よりも弱く、諮問機関としての性格が強いが、国民投票を行うか否かの決断を下す権限を有する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "主要政党は中道左派の現代中央党(2015年3月7日にミロ・ツェラル党から改称)と中道右派のスロベニア民主党(英語版)である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2014年7月に行われた国民議会議員選挙では、新党「ミロ・ツェラル党」が第一党、スロベニア民主党が第二党となった。これをうけて翌月、国民議会はミロ・ツェラル党の党首で法律家のミロ・ツェラルを首相として承認した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "司法権は、国民議会によって選出された裁判官によって執行されることが法律で定められている。スロベニアの司法権は、一般的な責任を負う裁判所と、特定の法的分野に関連する問題を扱う専門裁判所によって実施される。憲法裁判所は9年の任期で選出された9人の裁判官で構成されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、国家検察庁は、刑事犯罪の容疑者に対して提起された事件を起訴する責任を負う独立した国家機関として機能している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、ユーゴスラビア紛争が収束する中でセルビア人、クロアチア人労働者を受け入れてきた。しかし、EUではEU内の労働者の移動、就労は自由化されるが、一方でEU外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年のEU加盟に前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点になっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "スロベニアが独立した一年後の1992年に、日本・スロベニア両国が国交を結んだ。翌1993年、東京に在日スロベニア大使館が設置された。2006年には、スロベニアで日本の在スロベニア大使館が開かれた。2013年には、ボルト・パホル大統領が訪日し、続いて日本の文仁親王・同妃がスロベニアを訪れた。さらに、2015年には武藤容治外務副大臣らがスロベニアを訪れた。また、2016年9月30日に、岸信夫外務副大臣とシモナ・レスコヴァル駐日スロベニア大使との間で、租税条約の署名が行われた。続く2016年10月にはミロ・ツェラル首相が日本を訪問し、安倍首相と共に二国間関係を確認した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スロベニア軍は志願制であり、大統領を最高指揮官とし、国防省の管理下に陸軍、海軍、空軍及び防空軍が置かれている。2003年に徴兵制が廃止されて以来、プロフェッショナルによる完全な軍隊として編成されている。2004年に北大西洋条約機構に加盟した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スロベニアは、アルプス山脈の南端、ジュリア・アルプス山脈の山々の麓に位置する山岳国である。特に北部は高峰が連なり、スロベニア最高峰トリグラウ山は山域全体がスロベニア領であること、特徴的な山容が首都リュブリャナからでも見えるため、国の象徴となっている。 登山や山岳スキーに世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスはオーストリアとの国境ともなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、イタリアのトリエステとクロアチアの世界遺産プーラに挟まれたアドリア海の最奥の海岸線の一部も国土であり、貿易港のコペルや、ポルトロシュなどヴァカンス向きのリゾート地がある。アルプスとアドリア海の両方を持つ風光明媚な国である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これに対し、クロアチアへと続くスロベニアの内陸部は石灰岩からなるカルスト地形で荒涼とした風景が広がる不毛の土地である。もともと地理用語の「カルスト地形」はスロベニアの地名に由来しており、クロアチア国境に近いクラス地方(Kras、ドイツ語名:カルスト)が「カルスト」の語源である。カルスト地形の窪地・穴を表すドリーネも、スロベニア語の谷に由来する。スロベニアは鍾乳洞の宝庫で、リュブリャナの西には巨大なポストイナ鍾乳洞がある。延長24kmに及ぶ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "首都リュブリャナからハンガリーにかけてはハンガリー大平原の西の端でなだらかな地形が続き、穀倉地帯である。そして、スロベニアはハンガリーとともに隠れた温泉国でもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スロベニアは、193の市(自治体)に分かれる。そのうち、特に人口の多い11の市は特別の地位にある(日本の政令指定都市に相当)。以下にあげるのはその11の市で、カッコ内はドイツ語・イタリア語名である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その他の都市:", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スロベニアは先進国に分類される。1991年10月のユーゴスラビア連邦からの離脱により、既存の連邦市場から切り離されたこと、連邦内の分業体制から外れたことにより、一時的に経済が不安定化した。独立時に導入した新通貨トラールの信用も高くはなかった。しかし連邦内の内戦からは距離を置くことができたため、交通輸送、エネルギーなどの社会的インフラを無傷で保持できた。このため、経済成長にもかげりが見えない。例えば、2000年のGDPは前年比4.6%成長しており、その後も3%、2.9%と順調に推移している。旧共産圏随一の生活水準を誇り、国民1人当たりのGDPはスペインを上回る。失業率は2000年時点で11.9%と、イタリアを含む周辺諸国と同水準である。近年は消費者物価の上昇に悩まされており、2000年以降、消費者物価の上昇率は8-9%と高い。リーマンショック後はスロベニア「史上最悪」の経済危機にあり、近いうちに国際的な救済措置を受ける事態に陥るのではないかという報道が出ていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア連邦内では工業を担っていた。繊維産業を筆頭に、組み立てを含む電気機器製造、金属加工業が充実している。農業国でもある。主食となる穀物栽培と商品作物の生産にバランスが取れていることが特徴。貿易では機械の加工貿易の比重が極めて高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方で、観光業も主要産業の一つとして確立されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "通貨については、インフレ率の低下などに伴い基準を満たしたため、EUの新規加盟国の先頭として2007年1月1日にユーロへ移行している。2010年には、 エストニア、イスラエルとともにOECDに加盟している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、以下の統計資料はFAOのFAO Production Yearbook 2002などを用いた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "地下資源には恵まれておらず、石灰岩以外には天然ガスと品質の低い石炭を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める化石燃料の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、原油や天然ガスはプレクムリェ地方、水銀鉱山はイドリヤ(ただし1977年に廃止された)、石炭はトルボヴリェ、ザゴリェ・オプ・サヴィ、フラストニク、亜炭鉱山はノヴォ・メストである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は火力が40%、水力が25%、原子力が35%である(1993年)。2018年の正味エネルギー生産は 12,262 GWh、消費は 14,501 GWh であった。水力発電所は 4,421 GWh を発電し、火力発電所は 4,049 GWh を発電し、クルシュコ原子力発電所(英語版)は 2,742 GWhを発電した。2018年末には、太陽光発電モジュールとバイオガス発電所(英語版)が設置されている。2017年と比較して、再生可能エネルギー源はエネルギー消費全体に 5.6 %ほど多く貢献している。スロベニアは太陽光および風力エネルギー源の分野でより多くの電力生産を追加することに関心を示しているものの、マイクロロケーションの決済手順が、この取り組みの効率に多大な影響を与える懸念を持つ為、同国においては自然保護とエネルギー生産施設のジレンマから問題視されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "工業では、絹織物の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "麻薬精製の原料である無水酢酸の押収量が世界で最も多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "全土がケッペンの気候区分でいう温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に覆われているため、気候は農業に向いている。しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ビールの原料となるホップ生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン(ジャレツでの栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。漁業は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。穀倉地帯は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺やプレクムリェ地方である。またブドウの栽培とワインの醸造は古い歴史を持ち、ポドラヴェやポサヴェ、プリモルスカなどで年間8000万から9000万リットルのワインが製造されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "牛や豚、羊などの家畜も飼育されており、そしてカルスト地方のリブニツァという村では昔からウィーンの宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。貿易依存度は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港はコペルである。他にもピランとイゾラに小さな港がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、自動車、電気機械の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対EUが60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2003年時点で、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、貿易赤字である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。リュブリャナ大学とマリボル大学その他の一般講座で日本語教育が実施されている。2010年からスロベニアの経済に投資している。日本では1998年にはトヨタ自動車株式会社の海外支部である、トヨタ・アドリアが成立し、輸出入に関する事業を行なっている。また、安川電機は2018年までにリブニツァに新たな工場を建設する予定である。現場では、170人の仕事場を作る予定であり、全投資予算数は2100万ユーロとされている。2016年には関西ペイント株式会社がヘリオスを買収し、新製品の開発を行う見通しがある。その他にも、パナソニック株式会社はゴレニェ(Gorenje)に投資しており、株式会社ダイヘンはポムリエ地方(プレクムリェ地方)でダイヘンヴァルストローイを建設した。未だスロベニアから日本経済への投資は著しくないが、2017年2月にはスラットナー・アジア社が日本に創設され、同社はスキー用品の販売を開始すると共に、日本を含むアジア各国のスキー場施設の幅広いビジネスを展開する予定である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈(トリグラウ山(2864m)、ブレッド、ボーヒニなど)、アドリア海(コペル、ピラン)、カルスト地方の洞窟(シュコツィアン洞窟群、ポストイナ)、温泉である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "スロベニアは民族的に均質であると言われ、1981年までの国勢調査では9割以上がスロベニア人であったが、その後は旧ユーゴスラビア諸国を中心に世界から移民が流入し、2002年にはスロベニア人の割合が83%まで落ちた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "住民はスロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民(クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人など)が10%、マジャル人(ハンガリー人)やイタリア人が0.5%である。マジャル人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。ドイツ系住民は、他の国と比較すると多くない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "言語は、スロベニア語が公用語になっている。ユーゴスラビア時代、多くの国民は教育によってセルビア・クロアチア語を習得しており、一定以上の世代ではセルビア・クロアチア語の通用度が高い。独立後の教育では、第二言語としては、英語が最もよく教えられているが、ドイツ語も広く通用する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "スロベニアは、2017年2月24日付でシビル・ユニオンを法的に容認しており、2022年7月8日付で同性婚が合法化されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "宗教は、ローマ・カトリックが2/3以上、その他は無神論者、東方正教(主にセルビア正教、マケドニア正教)、イスラム教などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2022年07月05日時点で外務省は、「スロベニアは、比較的治安が良いと言われていますが、人口あたりの犯罪発生率は日本の約4倍に上ります。旅行者を対象とした、スリや置き引きの被害が発生しており、注意が必要です。」としている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "但し、スロベニアの犯罪件数は2020年時点で 53,485件であり、2018年時点では 56,699件で、2019年時点では 55,120件であることから、発生は徐々に少なくなり始めている点が窺える。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "代表的なWebメディアにはシオール(英語版)が挙げられている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ドレンスカ地方のコステル地区には、チュースパイスという、シチューのような伝統料理がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "スロベニア出身の特に著名な哲学者として、ラカン派精神分析とカントなどのドイツ観念論、ヘーゲル、映画を組み合わせてグローバル資本主義を分析するマルクス主義者スラヴォイ・ジジェクの名が挙げられる。ジジェクの他にラカンに影響を受けた哲学者としてはアレンカ・ジュパンチッチなどが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "以下の著名人を輩出している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "スロベニアにおける近代建築はマックス・ファビアーニ(英語版)によって導入され、戦時中はヨジェ・プレチニックとイヴァン・ヴルニク(英語版)によって普及された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "20世紀後半、建築家のエドヴァルド・ラヴニカール(英語版)と彼の弟子たちの第一世代であるミラン・ミヘリチ、スタンコ・クリストル、サヴィン・セーバーによって、国民的かつ普遍的なスタイルが融合された。次世代は、主にマルコ・ムシッチ(英語版)、ヴォイテ・ラヴニカール(英語版)、ユリ・コービー、そして若い建築家グループが主に活動している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "スロベニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "スロベニア国内でも他のヨーロッパ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。元々国内ではマイナースポーツであったが、2000年以後サッカースロベニア代表の国際大会での飛躍により変化が訪れる。UEFA欧州選手権の2000年大会とFIFAワールドカップの2002年日韓大会に、相次いで出場したことは国内で大きな驚きと共に捉えられ、サッカーの認知度を一気に高めることに繋がった。さらに2010年南アフリカ大会にも出場を果たし、国中が大変な盛り上がりをみせた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "スロベニアは世界レベルのゴールキーパーを近年輩出しており、セリエAのインテル・ミラノで10年以上活躍し続けているハンダノヴィッチや、サモラ賞の歴代最小失点率(0.47)と歴代最多受賞(5回)を誇るアトレティコ・マドリード所属のヤン・オブラクがいる。なお日本との関係では、Jリーグで長年プレーしていたノヴァコヴィッチやズラタンなどが知られている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "スロベニアは人口わずか200万足らずにもかかわらず、多数のNBA選手を輩出している欧州でも有数のバスケットボールの強豪国である。国内には数多くのNBA選手や有名選手を輩出してきた、プレミアリーグのLiga Nova KBMと呼ばれるプロリーグを持つ。代表チームの課題は有力選手の多数がNBAに所属しているため、オフシーズンの代表招集で常にベストメンバーが揃わない事である。そんな中欧州選手権では2005年大会で6位入賞し、独立後初の世界選手権出場を掴んだ。2006年世界選手権では予選リーグを突破し、決勝トーナメントに進出しベスト16となり、最終順位は12位を獲得した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2007年には北京五輪の欧州予選を兼ねた2007年ユーロバスケットの7位決定戦で、トニー・パーカー率いるフランスを破り世界最終予選の切符を獲得したが、この大会の決勝トーナメントでプエルトリコに破れ、独立後初の五輪出場の夢は叶わなかった。また、2017年ユーロバスケットでは初優勝した。さらに2021年東京五輪の出場権をかけた最終予選では、五輪の常連であり開催地でもあるリトアニアを、決勝で破って優勝し初の出場権を得た。なお本大会では4位となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2010年に名門ステージレースのクリテリウム・デュ・ドフィネをヤネス・ブライコヴィッチが総合優勝した他、第4のグランツールとも言われるツール・ド・スイスを2015年と2017年の2度総合優勝したシモン・シュピラック、2018年にビンクバンク・ツアーを総合優勝、2022年にミラノ〜サンレモを優勝したマテイ・モホリッチ、2019年にツアー・オブ・カリフォルニアを総合優勝し、2020年と2021年にツール・ド・フランスを2連覇したタデイ・ポガチャル、2019年から2021年にブエルタ・ア・エスパーニャを3連覇したプリモシュ・ログリッチなど、2010年代に入ってからはロードレースの世界第一線で活躍をする選手を多く輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることから、スロベニアではスキーをメインとしたスノースポーツが盛んである。アルペンスキーではティナ・マゼを輩出している。スロベニアの北西部ゴレンスカ地方にあるクランスカ・ゴーラのスキー場や、世界最大のジャンプ台を擁するプラニツァのスキージャンプは世界的に有名である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スロベニアはオリンピックには1992年アルベールビル五輪で初参加を果たし、2021年東京五輪までに金メダル10個を含む通算45個のメダルを獲得している。", "title": "スポーツ" } ]
スロベニア共和国、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国。首都はリュブリャナ。主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。
{{混同|スロバキア}} {{基礎情報 国 |略名 = スロベニア |日本語国名 = スロベニア共和国 |公式国名 = '''{{Lang|sl|Republika Slovenija}}''' |国旗画像 = Flag of Slovenia.svg |国章画像 = [[ファイル:Coat of Arms of Slovenia.svg|85px|スロヴェニアの国章]] |国章リンク = ([[スロベニアの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[祝杯|{{lang|sl|Zdravljica}}]]{{sl icon}}<br>''祝杯''<br><center>[[ファイル:Slovenia's national anthem, performed by the United States Navy Band.oga]] |位置画像 = EU-Slovenia.svg |公用語 = [[スロベニア語]] |首都 = [[リュブリャナ]] |最大都市 = リュブリャナ |元首等肩書 = [[スロベニアの大統領|大統領]] |元首等氏名 = [[ナターシャ・ピルク・ムサール]] |首相等肩書 = [[スロベニアの首相|首相]] |首相等氏名 = [[ロベルト・ゴロブ]] |面積順位 = 150 |面積大きさ = 1 E10 |面積値 = 20,273 |水面積率 = 0.6% |人口統計年 = 2020 |人口順位 = 146 |人口大きさ = 1 E6 |人口値 = 2,079,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/si.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> |人口密度値 = 103.2<ref name=population/> |GDP統計年元 = 2020 |GDP値元 = 469億1800万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月16日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=961,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> |GDP統計年MER = 2020 |GDP順位MER = 83 |GDP値MER = 535億4700万<ref name="economy" /> |GDP MER/人 = 2万5548.766<ref name="economy" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = 97 |GDP値 = 825億3000万<ref name="economy" /> |GDP/人 = 3万9377.825<ref name="economy" /> |建国形態 = [[独立]] - [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]より |確立形態1 = 宣言 |確立年月日1 = [[1991年]][[6月25日]] |確立形態2 = 承認 |確立年月日2 = [[1992年]] |通貨 = [[ユーロ]] (&#8364;) |通貨コード = EUR |通貨追記 = <ref>[[2006年]]までの通貨は[[トラール]](SIT)。</ref><ref>[[スロベニアのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯 = +1 |夏時間 = なし |ISO 3166-1 = SI / SVN |ccTLD = [[.si]] |国際電話番号 = 386 |注記 = <references /> }} '''スロベニア共和国'''(スロベニアきょうわこく、{{lang-sl|Slovenija}}: {{audio-IPA|SI-Slovenija.ogg|[sloˈveːnija]||help=no}})、通称'''スロベニア'''、'''スロヴェニア'''は、[[中央ヨーロッパ]]に位置する国<ref name="Armstrong2007">{{cite book |url=https://books.google.si/books?id=FWA3ppuOgK4C&pg=PA165 |title=Geopolitics of European Union Enlargement: The Fortress Empire |page=165 |chapter=Borders in Central Europe: From Conflict to Cooperation |authors=Armstrong, Werwick. Anderson, James |publisher=Routledge |year=2007 |isbn=978-1-134-30132-4}}</ref>。首都は[[リュブリャナ]]<ref name=":0">[[スロベニア#柴、ベケシュ、山崎|柴、ベケシュ、山崎]]、p.16</ref>。主要な[[ヨーロッパ]]の[[文化]]や[[交易]]の交差路である<ref>{{cite journal |url=http://zgs.zrc-sazu.si/Portals/8/Slo_Geo_Over/23.pdf |title=Gateway to Western, Central, and Southeastern Europe |first=Andrej |last=Černe |page=127 |series=Slovenia: A Geographical Overview |editor=Orožen Adamič, Milan |publisher=Association of the Geographical Societies of Slovenia |year=2004 |isbn=961-6500-49-X}}</ref><ref>{{cite book |url=http://www.creativecitiesproject.eu/en/output/doc-23-2011/SWOT_Ljubljana_EN.pdf |title=Introducing the National Context: Brief Presentation of the National Context |page=5 |publisher=Inštitut za ekonomska raziskovanja [Institute for Economic Research] |place=Ljubljana |series=SWOT Analysis: Status of the Creative Industries in Ljubljana |authors=Murovec, Nika. Kavaš, Damijan |year=2010 |month=December}}</ref>。 == 概要 == {{wikify|date=2017-02|section=1}}<!--ref name="ARSO2001-IX"のpageが2回指定されています--> スロベニアは西は[[イタリア]]、北は[[オーストリア]]、南や南東は[[クロアチア]]、北東で[[ハンガリー]]とそれぞれ国境を接している<ref>{{cite book |url=https://books.google.co.jp/books?id=lZTsAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja |title=Europe beyond 2000: the enlargement of the European Union towards the East |first=Nicoll, William. Schoenberg, Richard |year=1998 |publisher=Whurr Publishers |isbn=978-1-86156-064-3 |page=121}}</ref>。国土面積は{{convert|20273|km2}}で、人口は205万人を擁する<ref>{{cite web |url=http://www.vlada.si/en/about_slovenia/ |title=About Slovenia: Republic of Slovenia |work=Vlada.si |publisher=Government of Slovenia, Republic of Slovenia|accessdate=2012-11-25}}</ref>。[[議会制共和国]]で、[[欧州連合]]や[[北大西洋条約機構]]の加盟国である<ref>{{cite web|url=http://www.scribd.com/fullscreen/58435305?access_key=key-1nubaf9el1axl8dq1b31|title=Slovenia First 20 Years|publisher=Slovenia: South Australia Newsletter|issue=58|date=Winter 2010/2011|issn=1448-8175|accessdate=2012-11-25}}</ref>。スロベニアでは[[アルプス山脈]]と[[ディナル・アルプス山脈]]、[[地中海]]の[[アドリア海]]に沿った少ない海岸部分のヨーロッパの4つの大きな地理的な部分が接している<ref name="Fallon2007" /><ref name="perko2008"/>。 スロベニアの国土は[[モザイク]]状の構造で多様性に富んだ景観や<ref name="perko2008">{{cite journal |url=http://www.theslovenian.com/articles/2008/perko.pdf |title=Slovenia at the Junction of Major European Geographical Units |first=Drago |last=Perko |year=2008 |newspaper=The Slovenian |publisher=Vse Slovenski Kulturni Odbor [The All Slovenian Cultural Committee] |place=Toronto}}</ref>、[[生物多様性]]があり<ref>{{cite web |url=http://kazalci.arso.gov.si/?data=indicator&ind_id=4&lang_id=94 |title=Endangered Species |uathors=Blažič, Mateja. Arih, Andrej. Nartnik, Irena. Turk, Inga |date=26 March 2008 |publisher=Environmental Agency of the Republic of Slovenia, Ministry of the Environment and Spatial Planning |accessdate=8 March 2012}}</ref><ref name="ARSO2001-IX">{{cite book |url=http://www.sycp.si/Portals/0/Files/filebroker.aspx@id=6237.pdf |chapter=Characteristics of Biological and Landscape Diversity in Slovenia |title=Biological and Landscape Diversity in Slovenia: An Overview |publisher=Environmental Agency of the Republic of Slovenia, Ministry of the Environment and Spatial Planning |year=2001 |editor=Hlad, Branka. Skoberne, Peter |page=IX |isbn=961-6324-17-9 |place=Ljubljana |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121125091811/http://www.sycp.si/Portals/0/Files/filebroker.aspx%40id%3D6237.pdf |archivedate=2012年11月25日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>、この多様性は自然の特質と長期の人間の存在による<ref>{{cite book |url=http://www.sycp.si/Portals/0/Files/filebroker.aspx@id=6237.pdf |page=15,103 |chapter=Characteristics of Biological and Landscape Diversity in Slovenia |title=Biological and Landscape Diversity in Slovenia: An Overview |publisher=Environmental Agency of the Republic of Slovenia, Ministry of the Environment and Spatial Planning |year=2001 |editor=Hlad, Branka. Skoberne, Peter |isbn=961-6324-17-9 |place=Ljubljana |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121125091811/http://www.sycp.si/Portals/0/Files/filebroker.aspx%40id%3D6237.pdf |archivedate=2012年11月25日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。主に[[丘陵地]]の気候<ref name="Fallon2007">{{cite book |url=https://books.google.si/books?id=Pb_eXmEyPvwC&pg=PA40 |title=Slovenia |chapter=Environment |first=Steve |last=Fallon |publisher=Lonely Planet |year=2007 |edition=5th |isbn=978-1-74104-480-5 |page=40}}</ref> であるが、スロベニアの国土は[[大陸性気候]]の影響を受け、[[プリモルスカ地方]]は亜[[地中海性気候]]に恵まれており、スロベニア北西部では[[高山気候]]が見られる<ref>{{cite book |url=http://zgds.zrc-sazu.si/glasgow/9.pdf |first=Darko |last=Ogrin |chapter=Modern Climate Change in Slovenia |page=45 |title=Slovenia: A Geographical Overview |editor=Orožen Adamič, Milan |publisher=Association of the Geographical Societies of Slovenia |year=2004 |isbn=961-6500-49-X}}</ref>。スロベニアはヨーロッパの国の中でも水が豊かな国の一つで<ref>{{cite web |url=http://www.stat.si/eng/novica_prikazi.aspx?id=3769 |title=World Water Day 2011 |date=18 March 2011 |publisher=Statistical Office of the Republic of Slovenia|language=en|archivedate=2011-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110427184229/http://www.stat.si:80/eng/novica_prikazi.aspx?id=3769|accessdate=2019-01-04|quote=Slovenia is rich in water resources and is therefore among the water-richest countries in Europe.}}</ref>、密度が高い河川や豊かな[[帯水層]]、かなりの[[カルスト地形]]([[クラス地方]]はカルストの語源)の地下水流がある<ref>{{cite web |url=http://www.arso.gov.si/en/soer/country_introduction.html |title=Country Introduction |work=European state of the environment 2010 - contributions from Slovenia |publisher=Environmental Agency of the Republic of Slovenia, Ministry of the Environment and Spatial Planning |accessdate=8 March 2012}}</ref>。スロベニアの国土の半分以上は[[森林]]に覆われている<ref>{{cite web |url=http://www.zgs.gov.si/eng/slovenian-forests/forests-in-slovenia/slovenian-forest-in-figures/index.html |title=Slovenian Forest in Figures |publisher=Slovenia Forest Service |year=2010 |month=February|accessdate=2019-01-04|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129155946/http://www.zgs.si/eng/slovenian-forests/forests-in-slovenia/slovenian-forest-in-figures/index.html|archivedate=2014-11-29}}</ref>。スロベニアの集落は分散しており、一様ではない<ref>{{cite book |url=http://zgs.zrc-sazu.si/Portals/8/Slo_Geo_Over/17.pdf |first=Drago |last=Kladnik |chapter=Modern Climate Change in Slovenia |page=93 |title=Slovenia: A Geographical Overview |editor=Orožen Adamič, Milan |publisher=Association of the Geographical Societies of Slovenia |year=2004 |isbn=961-6500-49-X}}</ref>。 [[スラヴ語派]]や[[ゲルマン語派]]、[[ロマンス諸語]]、[[フィン・ウゴル語派]]などの言語や文化のグループはスロベニアで接し領域は均質でないが<ref>{{cite web |url=http://www.arso.gov.si/en/soer/country_introduction.html |title=SOER: Country Introduction |accessdate=3 February 2011 |publisher=Environment Agency of the Republic of Slovenia}}</ref><ref>{{cite book |url=http://www.mk.gov.si/fileadmin/mk.gov.si/pageuploads/Ministrstvo/Medkulturni_dialog/Programska_knjizica-low.pdf |title=Medkulturni dialog kot temeljna vrednota EU |language=Slovene, English |trans-title=Intercultural Dialogue as the Fundamental Value of the EU |year=2008 |publisher=Faculty of Humanities Koper, University of Primorska |first=Jonatan |last=Vinkler |isbn=978-961-92233-2-1 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081010191129/http://www.mk.gov.si/fileadmin/mk.gov.si/pageuploads/Ministrstvo/Medkulturni_dialog/Programska_knjizica-low.pdf |archivedate=2008年10月10日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://sova.gov.si/en/media/resolution.pdf |title=Resolution on the National Security Strategy of the Republic of Slovenia |publisher=National Assembly of the Republic of Slovenia |date=21 June 2001 |accessdate=3 February 2011 |archiveurl=https://webcitation.org/60R7cxmYI?url=http://sova.gov.si/en/media/resolution.pdf |archivedate=2011年7月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、人口数では[[スロベニア人]]が優勢である<ref>{{cite book |url=http://zgs.zrc-sazu.si/Portals/8/Slo_Geo_Over/16.pdf |first=Jernej |last=Zupančič |chapter=Ethnic Structure of Slovenia and Slovenes in Neighbouring Countries |page=87 |title=Slovenia: A Geographical Overview |editor=Orožen Adamič, Milan |publisher=Association of the Geographical Societies of Slovenia |year=2004 |isbn=961-6500-49-X}}</ref>。[[スロベニア語]]はスロベニアの唯一の[[公用語]]であるが、[[イタリア語]]や[[ハンガリー語]]などは地域の少数言語となっている。スロベニアの大部分は宗教と分離しているが<ref>{{cite book |url=http://dk.fdv.uni-lj.si/diplomska/pdfs/martinsek-maja.pdf |title=Odnos med državo in religijo v Sloveniji |trans-title=The Relationship Between the State and Religion in Slovenia |first=Maja |last=Martinšek |year=2007 |publisher=Faculty of Humanities, University of Ljubljana}}</ref>、文化やアイデンティティの面では[[カトリック教会]]や[[ルーテル教会]]の大きな影響を受けている<ref name="Strubelj">{{cite book |url=http://geo.ff.uni-lj.si/pisnadela/pdfs/dipl_200610_dejan_strubelj.pdf |title=Primerjava narodne, verske in jezikovne sestave Slovenije: diplomsko delo |language=Slovene |trans-title=Comparison of Ethnic, Religious and Ethnic Structure of Slovenia: Diploma Thesis |first=Dejan |last=Štrubelj |publisher=Faculty of Arts, University of Ljubljana |year=2006 |accessdate=29 January 2011}}</ref>。 {{仮リンク|スロベニアの経済|en|economy of Slovenia}}は小規模で、[[輸出志向型工業化]]の経済<ref>{{cite journal |url=http://journals.cluteonline.com/index.php/JABR/article/download/910/894 |title=Corporate Strategies In The Post-Transition Economy: The Case Of Slovenian Companies |journal=The Journal of Applied Business Research |first=Matej |last=Lahovnik |volume=27 |issue=1 | date=January/February 2011 |issn=0892-7626 |id={{COBISS|ID=19878374}} |pages=61–68}}</ref> でありその後の国際的な経済情勢に大きく影響を受けている<ref>{{cite book |url=http://dk.fdv.uni-lj.si/magistrska/pdfs/mag_banutai-andreja.pdf |title=Analiza modela gospodarske diplomacije Republike Slovenije |language=Slovene, with a summary in Slovene and English |at=Analysis of the Economic Diplomacy Model of the Republic of Slovenia |first=Andreja |last=Banutai |year=2011 |place=Ljubljana |publisher=Faculty of Social Sciences, University of Ljubljana |page=5}}</ref>。スロベニアの経済は[[2000年代]]後半に始まった[[2010年欧州ソブリン危機|欧州経済危機]]により厳しい痛手を負っている<ref name="VE2012-03-15">{{cite web |url=http://dunaj.veleposlanistvo.si/index.php?id=4035&L=1 |title=Osnovni gospodarski podatki o Sloveniji |language=Slovene |trans-title=Basic Economic Data about Slovenia |publisher=Embassy of the Republic of Slovenia Vienna |accessdate=15 March 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120618170200/http://dunaj.veleposlanistvo.si/index.php?id=4035&L=1 |archivedate=2012年6月18日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。経済の主要な分野は[[第三次産業]]で、工業や建設がそれに続く<ref name="UMAR2011-09">{{cite book |url=http://www.umar.gov.si/fileadmin/user_upload/napovedi/jesen/2011/jngg_2011_1.pdf |chapter=Tabela 2b: Dodana vrednost po dejavnostih in bruto domači proizvod |language=Slovene |trans-chapter=Table 2b: Added Value by Activities and Gross Domestic Product |title=Jesenska napoved gospodarskih gibanj 2011: statistična priloga |trans-title=Autumn Prediction of Economic Movements 2011: Statistical Appendix |location=Ljubljana |month=September |year=2011 |editor=Fajić, Lejla |publisher=Institute for Macroeconomic Analysis and Development (UMAR/IMAD), Republic of Slovenia |page=45}}</ref>。 多くのスロベニア人がスポーツ界で成功しており、特に[[ウィンタースポーツ]]、[[ウォータースポーツ]]、[[登山]]、耐久性が要求される[[エンデュランススポーツ]]で顕著である<ref name="medjugorac4">{{cite book |url=http://www.ukom.gov.si/fileadmin/ukom.gov.si/pageuploads/dokumenti/Publikacije/SLOVENIA_SportsAndChampions_OI.pdf |chapter=Sports: The Competitive Gene |title=Sports&Champions: Magical Challenges, Inspiring Winners |pages=4–5 |publisher=Government Communication Office, Republic of Slovenia |year=2009 |month=November |first=Igor |last=Medjugorac |series=I Feel Slovenia |id={{COBISS|ID=7023646}}}}</ref>。 歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中には[[ローマ帝国]]や[[神聖ローマ帝国]]、それに続く[[ハプスブルク帝国]]などが含まれる。[[1918年]]、スロベニアは国際的には認められていないものの[[自己決定権]]を行使し他民族と共同で[[スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国]]を樹立し、後に1つとなり[[ユーゴスラビア]]となった。[[第二次世界大戦]]中、スロベニアは[[ナチス・ドイツ]]や[[イタリア王国]]、[[クロアチア独立国]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]に占領や併合されていた<ref name="sečen2005">{{cite news |url=http://www.dnevnik.si/tiskane_izdaje/dnevnik/121558 |title=Mejo so zavarovali z žico in postavili mine |language=Slovene |trans-title=They Protected the Border with Wire and Set up Mines |newspaper=Dnevnik.si |first=Ernest |last=Sečen |date=16 April 2005}}</ref>。戦後は新たに樹立した[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の[[共和国]]の一つとなった。[[1991年]]6月に[[複数政党制]]の[[間接民主制]]を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから[[独立]]した国となった<ref name="Škrk1999">{{cite book |url=https://books.google.si/books?id=AhwHHtwbhioC&pg=PA5 |title=Succession of States |editor-first=Mojmir |editor-last=Mrak |chapter=Recognition of States and Its (Non-)Implication on State Succession: The Case of Successor States to the Former Yugoslavia |page=5 |first=Mirjam |last=Škrk |publisher=Martinus Nijhoff Publishers |year=1999}}</ref>。[[2004年]]には[[北大西洋条約機構|NATO]]と[[欧州連合|EU]]に加盟し、2007年には元[[社会主義国|共産主義国]]としては最初に[[ユーロ圏]]に加わり、[[2010年]]には[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟している<ref>{{cite book |url=https://books.google.si/books?id=srZ6cuzQXcwC&pg=PA31 |title=The United States of Europe: European Union and the Euro Revolution |page=31 |chapter=Historical Progression of the EU |first=Manoranjan |last=Dutta |publisher=9781780523149 |year=2011}}</ref>。 == 国名 == 正式な国号は[[スロベニア語]]で ''Republika Slovenija'' (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は ''Slovenija'' 。公式の[[英語]]表記は ''Republic of Slovenia'' 。通称 ''Slovenia'' 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「'''スロヴェニア共和国'''」。ただし、日本の外務省による日本語の公式表記は、「'''スロベニア共和国'''」。通称「'''スロベニア'''」。古くは'''斯洛文尼亜'''という[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]が用いられた事もあった。 語源については諸説ある。一つに、[[スロバキア]]と同じく「[[スラヴ|スラブ]]」(''Slav'')と同源であるとする説があり、両国名の類似の原因をこれに求める意見がある<ref name=":0" />。「スラブ」は[[古スラブ語]]で「栄光」や「名声」を意味する ''sláva'' に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀ごろの[[スラブ民族]]は、自らを「スロヴェーネ」(''slověne'':同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる<ref>h[[:en:Slavic peoples#Origins]]</ref>。現代英語で[[スロベニア人]]に対する総称([[デモニム]])は ''Slovenian'' と ''Slovene'' であるが、後者は上述の ''slověne'' に由来する。 == 歴史 == {{main|スロベニアの歴史}} === 中世・近世 === [[File:Heiliges Römisches Reich 1400.png|thumb|250px|[[1400年]]の[[神聖ローマ帝国]]。スロベニアが領域に含まれている。]] [[6世紀]]ごろに[[南スラヴ人]]が定着する。[[7世紀]]には初の[[南スラヴ人|南スラヴ系]]の[[カランタン人]]による国家である[[カランタニア公国]]が成立する。カランタニアはその後、[[バイエルン人]]、ついで[[フランク王国]]の支配下にはいる。 <!--[[774年]][[カール大帝]]によってこの地域を支配していたイタリア北部の[[ランゴバルト王国]]が打ち滅ぼされると[[9世紀]]に[[フランク王国]]の支配下に入った。--> この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、[[14世紀]]以降、[[東フランク王国]]、すなわち後の[[神聖ローマ帝国]]に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在の[[チェコ]]ともども{{仮リンク|西洋文化|label=西方文化|en|Western culture}}と[[カトリック教会]]の影響を強く受け、他の[[南スラブ人]]地域と異なった歴史的性格をスロヴェニアにもたらすことになる。 [[15世紀]]には[[ハプスブルク家]]([[オーストリア公国]])の所領となり、以降[[オーストリア大公国]]、[[オーストリア帝国]]そして[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領となった。 [[19世紀]]初頭、[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[フランス帝国]]による支配を受ける。フランス統治下では[[イリュリア州]]が設置され、[[スロベニア語]]が州の[[公用語]]のひとつとなった。[[1809年]]から[[1813年]]の間、[[リュブリャナ]]はフランス第一帝政[[イリュリア州]]の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、[[ウィーン会議]]で締結された[[ウィーン議定書|議定書]]によって再び[[オーストリア帝国|オーストリア]]領となった。 === 近代 === [[File:Provincia di Lubiana1941-1943.jpg|thumb|250px|[[枢軸国]]により分割されたスロベニア。灰色が[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、緑が[[ハンガリー]]、残りが[[イタリア]]占領地で、後に縦縞の部分が[[クロアチア独立国]]統治下となる。]] その後[[1918年]]に[[第一次世界大戦]]が終了し[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が解体されると、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。'''セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国'''の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、[[住民投票]]が行われ、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]に帰属するか、[[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]]に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、[[1929年]]に[[ユーゴスラビア王国]]に改称した。 [[1941年]]4月にユーゴスラビアに[[枢軸国]]が[[ユーゴスラビア侵攻|侵入]]すると、スロベニアの首都リュブリャナは同年[[4月10日]]までに[[ドイツ国防軍]]により占領された<ref>独軍、[[ベオグラード]]に突入(『朝日新聞』昭和16年4月12日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387-p388 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。[[ナチス・ドイツ]]の同盟国の[[イタリア王国]]はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、後にリュブリャナは[[ベニート・ムッソリーニ]]指揮下の[[イタリア陸軍|イタリア軍]]によって統治され、北東の一部の地域は[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]が占領、さらに[[クロアチア独立国]]が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちは[[ロンドン]]に逃れた[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア王国亡命政府]]を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、[[共産主義者]]たちは[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]に加わり、[[ドイツ軍]]などと戦った。 パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていた[[イストリア半島]](イストラ半島)は[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア領]]となり、スロベニアは[[コペル]]周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアの[[ケルンテン州]]の一部も求めたが、この要求は認められなかった。 === 社会主義時代 === {{Main|スロベニア社会主義共和国|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国}} [[File:SocialistYugoslavia en.svg|thumb|left|250px|[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]とその構成国]] [[1945年]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|社会主義体制となったユーゴスラビア]]に復帰し、ユーゴスラビアの構成国の'''[[スロベニア社会主義共和国|スロベニア人民共和国]]'''となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。[[社会主義]]のユーゴスラビアは、[[ソビエト連邦]]の影響下に置かれた[[東側諸国]]とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と[[自主管理社会主義]]はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、[[西側諸国]]との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、[[1980年代]]になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。 政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的[[言論の自由]]が認められており、またその[[地方分権]]政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。[[1980年代]]にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、[[コソボ社会主義自治州|コソボ]]や[[マケドニア社会主義共和国|マケドニア]]などの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。 さらに、[[セルビア]]ではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者の[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]が台頭し、ミロシェヴィッチは[[モンテネグロ社会主義共和国|モンテネグロ]]、[[ヴォイヴォディナ社会主義自治州|ヴォイヴォディナ]]、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。 こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、[[1991年]]6月に[[ユーゴスラビア]]との連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。 === 独立後 === [[File:EU25-2004 European Union map enlargement.svg|thumb|200px|[[2004年]]の[[欧州連合|EU]]加盟国]] 短期的、小規模な[[十日間戦争]]を経てスロベニアは完全[[独立]]を果たした。[[1992年]]5月、連邦構成国だった隣国[[クロアチア]]、同じく連邦内にあった[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]と同時に[[国際連合]]に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、[[1991年]]から[[1992年]]にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。[[2004年]]3月にはNATOに、同年[[5月1日]]に[[欧州連合]]([[欧州連合|EU]])に加盟した。[[2008年]]には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて[[欧州連合理事会議長国]]を務め、同年2月に[[コソボ]]が独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中で指導力を発揮した。 == 政治 == [[File:Presidential Palace. Ljubljana.jpg|thumb|政府・大統領官邸]] {{main|{{仮リンク|スロベニアの政治|en|Politics of Slovenia}}}} === 独立後の政治 === ユーゴスラビア末期の壊滅的な経済苦境、そして台頭するセルビア民族主義への反発から、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を志向するようになった。[[1989年]]9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したスロベニア共和国憲法の改正案が共和国[[議会]]を通過する。[[1990年]]4月、[[第二次世界大戦]]後初の[[自由選挙]]を実施。共産党政権は過半数の票を集めることができず、[[野党]]連合の[[デモス]]が勝利した。首相には第三党の[[スロベニアキリスト教民主党]]の[[:en:Lojze Peterle|ロイゼ・ペテルレ]]党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だった[[ミラン・クーチャン]]が大統領となった。 [[1991年]]6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユーゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7月には停戦に成功、同年10月には連邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、[[複数政党制]]と[[大統領制]]が確立する。 [[1992年]]12月には独立後、第1回となる[[大統領選挙]]を実施、[[ミラン・クーチャン]]が選ばれた。同氏は[[1997年]]11月にも再選されている。[[2000年]]10月の総選挙では自由民主主義党が第1党となったため、連立政権が発足した。[[2002年]]12月の大統領選挙では[[ヤネス・ドルノウシェク]]首相が当選した。[[2007年]]12月、[[リュブリャナ大学]]法学部副学部長の[[ダニロ・テュルク]]が大統領に就任した。 === 政治制度 === [[元首|国家元首]]の大統領は[[任期]]5年で、[[国民]]の[[直接選挙]]によって選出される。行政府の長である首相は議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任命される。 {{See also|スロベニアの大統領|スロベニアの首相}} [[立法府]]は[[両院制]]をとっている。下院([[国民議会 (スロベニア)|国民議会]])は定数90で、うち40議席を小選挙区で、残る50議席を比例代表で選出する([[小選挙区比例代表併用制]])。任期は4年。上院([[国民評議会 (スロベニア)|国民評議会]])は定数40で、各種団体による[[間接選挙]]で選出される。任期は5年。上院の立法権限は下院よりも弱く、[[諮問機関]]としての性格が強いが、[[国民投票]]を行うか否かの決断を下す権限を有する。 主要政党は[[中道政治|中道]][[左派]]の[[現代中央党]]([[2015年]]3月7日にミロ・ツェラル党から改称)と中道[[右派]]の{{仮リンク|スロベニア民主党|en|Slovenian Democratic Party}}である<ref name="nenkan2016">「スロベニア共和国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)454頁。</ref>。 {{See also|スロベニアの政党}} 2014年7月に行われた国民議会議員選挙では、新党「ミロ・ツェラル党」が[[第一党]]、スロベニア民主党が[[第二党]]となった。これをうけて翌月、国民議会はミロ・ツェラル党の[[党首]]で[[法律家]]の[[ミロ・ツェラル]]を首相として承認した<ref name="nenkan2016"/>。 司法権は、国民議会によって選出された裁判官によって執行されることが法律で定められている。スロベニアの司法権は、一般的な責任を負う裁判所と、特定の法的分野に関連する問題を扱う専門裁判所によって実施される。憲法裁判所は9年の任期で選出された9人の裁判官で構成されている<ref>[https://culture.si/worldwide-events/slovenia-at-the-motovun-film-festival/ About Slovenia – Culture of Slovenia".] Culture.si. Retrieved 2 June 2012.</ref>。 また、国家検察庁は、刑事犯罪の容疑者に対して提起された事件を起訴する責任を負う独立した国家機関として機能している。 {{See also|{{仮リンク|スロベニアの司法|en|Judiciary of Slovenia}}}} === 政治問題 === スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、[[ユーゴスラビア紛争]]が収束する中で[[セルビア人]]、[[クロアチア人]][[労働者]]を受け入れてきた。しかし、[[欧州連合|EU]]ではEU内の労働者の移動、[[就労]]は自由化されるが、一方でEU外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年のEU加盟に前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点になっている。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|スロベニアの国際関係|en|Foreign relations of Slovenia}}}} === 日本との関係 === {{main|日本とスロベニアの関係}} スロベニアが独立した一年後の[[1992年]]に、[[日本]]・スロベニア両国が[[国交]]を結んだ。翌[[1993年]]、[[東京]]に[[駐日スロベニア大使館|在日スロベニア大使館]]が設置された。[[2006年]]には、スロベニアで日本の在スロベニア大使館が開かれた。[[2013年]]には、[[ボルト・パホル]]大統領が訪日し、続いて日本の[[文仁親王]]・[[文仁親王妃紀子|同妃]]がスロベニアを訪れた。さらに、[[2015年]]には[[武藤容治]][[外務副大臣]]らがスロベニアを訪れた。また、[[2016年]]9月30日に、[[岸信夫]][[外務副大臣]]とシモナ・レスコヴァル駐日スロベニア大使との間で、租税条約の署名が行われた。続く2016年10月には[[ミロ・ツェラル]]首相が日本を訪問し、[[安倍晋三|安倍]]首相と共に二国間関係を確認した。<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/slovenia/data.html スロベニア共和国(Republic of Slovenia)基礎データ]</ref> == 軍事 == [[File:AS AL 532 SLO.jpg|thumb|left|200px|スロベニア軍の保有する軍事ヘリコプター「[[AS 532 (航空機)|ユーロコプター AS532 クーガー]]」]] {{main|スロベニア軍}} スロベニア軍は[[志願制度|志願制]]であり、大統領を[[最高指揮官]]とし、国防省の管理下に陸軍、海軍、空軍及び防空軍が置かれている。2003年に徴兵制が廃止されて以来、[[職業軍人|プロフェッショナル]]による完全な軍隊として編成されている。2004年に[[北大西洋条約機構]]に加盟した。 == 地理 == [[File:Triglav.jpg|thumb|180px|最高峰[[トリグラウ山]]]] [[File:LogarskaDolina.JPG|thumb|left|180px|ロガースカ渓谷]] {{main|{{仮リンク|スロベニアの地理|en|Geography of Slovenia}}}} スロベニアは、[[アルプス山脈]]の南端、[[ジュリア・アルプス山脈]]の山々の麓に位置する山岳国である<ref name=":0" />。特に北部は高峰が連なり、スロベニア最高峰[[トリグラウ山]]は山域全体がスロベニア領であること、特徴的な山容が首都リュブリャナからでも見えるため、国の象徴となっている。<ref name=":1">[[スロベニア#柴、ベケシュ、山崎|柴、ベケシュ、山崎]]、p.17</ref> 登山や[[山岳スキー]]に世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスは[[オーストリア]]との[[国境]]ともなっている。 また、[[イタリア]]の[[トリエステ]]と[[クロアチア]]の[[世界遺産]][[プーラ (クロアチア)|プーラ]]に挟まれた[[アドリア海]]の最奥の海岸線の一部も国土であり、貿易港の[[コペル]]や<ref name=":1" />、ポルトロシュなど[[ヴァカンス]]向きのリゾート地がある<ref name=":1" />。アルプスとアドリア海の両方を持つ風光明媚な国である。 これに対し、クロアチアへと続くスロベニアの内陸部は[[石灰岩]]からなる[[カルスト地形]]で荒涼とした風景が広がる不毛の土地である。もともと[[地理学|地理]]用語の「カルスト地形」はスロベニアの地名に由来しており、クロアチア国境に近い[[クラス地方]](Kras、ドイツ語名:カルスト)が「カルスト」の語源である。カルスト地形の窪地・穴を表すドリーネも、スロベニア語の谷に由来する。スロベニアは[[鍾乳洞]]の宝庫で、リュブリャナの西には巨大な[[ポストイナ]]鍾乳洞がある。延長24kmに及ぶ。 首都リュブリャナから[[ハンガリー]]にかけては[[ハンガリー大平原]]の西の端でなだらかな地形が続き<ref name=":1" />、[[穀倉地帯]]である。そして、スロベニアはハンガリーとともに隠れた[[温泉]]国でもある。 {{See also|{{仮リンク|スロベニアの保護地域の一覧|en|List of protected areas of Slovenia}}}} {{節スタブ}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Si-map-ja.png|right|thumb|350px|スロベニアの地図]] [[画像:Lipica stud farm 4.JPG|thumb|[[リピッツァナー]]]] {{Main|スロベニアの地方行政区画|スロベニアの都市の一覧}} スロベニアは、193の[[市]]([[地方政府|自治体]])に分かれる。そのうち、特に人口の多い11の市は特別の地位にある(日本の[[政令指定都市]]に相当)。以下にあげるのはその11の市で、カッコ内は[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]名である。 * [[ヴェレニェ]](ヴェラン) - 旧ユーゴスラビア時代に[[ヴェレニェ|チトヴォ・ヴェレニエ]]と改称していたことがある。(1981-1991) * [[クラーニ]](クラインブルク) - かつて地方政権の首都だった古都。 * [[コペル]](カポディストリア) - 海に面する国土が少ないスロベニアの唯一の商業港。 * [[スロヴェン・グラデツ]](ヴィンディッシュグラーツ) * [[ツェリェ]](ツィリ) - スロヴェニア第三の都市。[[ハルシュタット文化|ハルシュタット文明]]時代から * [[ノヴァ・ゴリツァ]](ノイゲルツ) → 参照:イタリア領[[ゴリツィア]]と双子都市。 * [[ノヴォ・メスト]](ルドルフスヴェルト) - 先史時代より居住の歴史がある。 * [[プトゥイ]](ペッタウ) - スロベニア最古の都市の一つであり、[[石器時代]]から人の定着が見られる。 * [[マリボル]]([[マールブルク (曖昧さ回避)|マールブルク・アン・デア・ドラウ]])- スロベニアの第二の都市であり東部の中心都市でもある。人口は11万人(2002年) * [[ムルスカ・ソボタ]](オルスニッツ) * [[リュブリャナ]](ライバッハ)- 首都、人口26万人(2002年)はスロベニアの最大の都市。 その他の都市: * [[リピツァ]]:馬の品種「[[リピッツァナー]]」の名称由来 で知られる * [[コチェーヴィエ]](ゴットシェー) == 経済 == [[File:Ljubljana 24 (5756726108).jpg|thumb|left|首都[[リュブリャナ]]]] {{main|{{仮リンク|スロベニアの経済|en|Economy of Slovenia}}}} スロベニアは[[先進国]]に分類される。1991年10月のユーゴスラビア連邦からの離脱により、既存の連邦市場から切り離されたこと、連邦内の分業体制から外れたことにより、一時的に経済が不安定化した。独立時に導入した新通貨トラールの信用も高くはなかった。しかし連邦内の内戦からは距離を置くことができたため、交通輸送、エネルギーなどの社会的インフラを無傷で保持できた。このため、経済成長にもかげりが見えない。例えば、2000年のGDPは前年比4.6%成長しており、その後も3%、2.9%と順調に推移している。旧共産圏随一の生活水準を誇り、国民1人当たりのGDPは[[スペイン]]を上回る。失業率は2000年時点で11.9%と、イタリアを含む周辺諸国と同水準である。近年は消費者物価の上昇に悩まされており、2000年以降、消費者物価の上昇率は8-9%と高い。[[リーマン・ショック|リーマンショック]]後はスロベニア「史上最悪」の経済危機にあり、近いうちに国際的な救済措置を受ける事態に陥るのではないかという報道が出ていた<ref>http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M6KPRA6JTSE801.html</ref><ref>http://jp.reuters.com/article/domesticEquities4/idJPTK820964420121003</ref><ref>http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013022800157</ref>。 ユーゴスラビア連邦内では工業を担っていた。繊維産業を筆頭に、組み立てを含む電気機器製造、金属加工業が充実している。農業国でもある。主食となる穀物栽培と商品作物の生産にバランスが取れていることが特徴。貿易では機械の加工貿易の比重が極めて高い。<ref name="GCAB111-6">[[#カステラン・ベルナール|カステラン・ベルナール(2000)、pp.111-116]].</ref> {{See also|{{仮リンク|スロベニアの企業一覧|en|List of companies of Slovenia}}}} 一方で、観光業も主要産業の一つとして確立されている。<ref name=":2">[[スロベニア#柴、ベケシュ、山崎|柴、ベケシュ、山崎]]、p.19</ref> 通貨については、インフレ率の低下などに伴い基準を満たしたため、EUの新規加盟国の先頭として2007年1月1日にユーロへ移行している。2010年には、 [[エストニア]]、[[イスラエル]]とともに[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟している。 なお、以下の統計資料は[[国際連合食糧農業機関|FAO]]のFAO Production Yearbook 2002<!--2003はまだ入手できていません-->などを用いた。 {{Clearleft}} === 鉱工業 === [[File:Nuklearna elektrarna Krško.jpg|thumb|left|{{仮リンク|クルシュコ原子力発電所|en|Krško Nuclear Power Plant}}]] [[File:Termoelektrarna Šoštanj SV blok 6.jpg|thumb|240px|ショシュタンジ火力発電所]] [[地下資源]]には恵まれておらず、石灰岩以外には[[天然ガス]]と品質の低い[[石炭]]を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める[[化石燃料]]の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、[[原油]]や[[天然ガス]]は[[プレクムリェ地方]]、水銀鉱山は[[イドリヤ]](ただし1977年に廃止された)、石炭は[[トルボヴリェ]]、[[ザゴリェ・オプ・サヴィ]]、[[フラストニク]]、亜炭鉱山は[[ノヴォ・メスト]]である。 電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は[[火力発電|火力]]が40%、[[水力発電|水力]]が25%、[[原子力発電|原子力]]が35%である(1993年)。2018年の正味エネルギー生産は 12,262 GWh、消費は 14,501 GWh であった。水力発電所は 4,421 GWh を発電し、火力発電所は 4,049 GWh を発電し、{{仮リンク|クルシュコ原子力発電所|en|Krško Nuclear Power Plant}}は 2,742 GWhを発電した{{efn|電力供給は50% がスロベニアに、残りの 50% は共同所有によりクロアチアへ分配されることになっている。}}。2018年末には、[[太陽光発電]][[モジュール]]と{{仮リンク|嫌気性消化|label=バイオガス発電所|en|Anaerobic digestion}}が設置されている。2017年と比較して、再生可能エネルギー源はエネルギー消費全体に 5.6 %ほど多く貢献している。スロベニアは太陽光および風力エネルギー源の分野でより多くの電力生産を追加することに関心を示しているものの、マイクロロケーションの決済手順が、この取り組みの効率に多大な影響を与える懸念を持つ為、同国においては自然保護とエネルギー生産施設のジレンマから問題視されている<ref>[https://www.agen-rs.si/documents/10926/38704/Poro%25C4%258Dilo-o-stanju-v-energetiki-2018/f0ee7a7a-3b8d-48b3-8a29-8cdc258d2e69 "POROČILO O STANJU NA PODROČJU ENERGETIKE V SLOVENIJI (page 18)".] agen-rs.si/. Retrieved 1 November 2019.</ref>。 {{See also|{{仮リンク|スロベニアのエネルギー|en|Energy in Slovenia}}}} 工業では、[[絹織物]]の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。<!--スロベニアの統計資料はなかなか最新版が入手できません--> 麻薬精製の原料である[[無水酢酸]]の押収量が世界で最も多い。 === 農林水産業 === 全土が[[ケッペンの気候区分]]でいう[[温暖湿潤気候]]と[[西岸海洋性気候]]に覆われているため、気候は農業に向いている。しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。 [[ビール]]の原料となる[[ホップ]]生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン([[ジャレツ]]での栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。[[漁業]]は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。[[穀倉地帯]]は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺や[[プレクムリェ地方]]である。またブドウの栽培と[[スロベニアワイン|ワイン]]の醸造は古い歴史を持ち、[[ポドラヴェ]]や[[ポサヴェ]]、[[プリモルスカ地方|プリモルスカ]]などで年間8000万から9000万リットルのワインが製造されている。 牛や豚、羊などの家畜も飼育されており、そして[[カルスト地方]]の[[リブニツァ]]という村では昔から[[ウィーン]]の宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。 === 貿易 === [[File:Slovenia treemap.png|thumb|色と面積で示したスロベニアの輸出品目]] 2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。[[貿易依存度]]は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港は[[コペル]]である。他にも[[ピラン]]と[[イゾラ]]に小さな港がある。 ==== 輸入 ==== 2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、[[自動車]]、[[電気機械]]の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対[[欧州連合|EU]]が60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。 ==== 輸出 ==== 主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。 ==== 日本との関係 ==== 2003年時点で、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、[[貿易赤字]]である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。リュブリャナ大学とマリボル大学その他の一般講座で日本語教育が実施されている。2010年からスロベニアの経済に投資している。日本では1998年には[[トヨタ自動車|トヨタ自動車株式会社]]の海外支部である、トヨタ・アドリアが成立し、輸出入に関する事業を行なっている。また、[[安川電機]]は2018年までに[[リブニツァ]]に新たな工場を建設する予定である。現場では、170人の仕事場を作る予定であり、全投資予算数は2100万ユーロとされている。2016年には[[関西ペイント]]株式会社がヘリオスを買収し、新製品の開発を行う見通しがある。その他にも、[[パナソニック]]株式会社はゴレニェ(Gorenje)に投資しており、株式会社ダイヘンはポムリエ地方([[プレクムリェ地方]])でダイヘンヴァルストローイを建設した。未だスロベニアから日本経済への投資は著しくないが、2017年2月には[[スラットナー]]・アジア社が日本に創設され、同社はスキー用品の販売を開始すると共に、日本を含むアジア各国のスキー場施設の幅広いビジネスを展開する予定である。 === 観光 === [[Image:Burger Postojnska Koncertna dvorana.jpg|thumb|[[ポストイナ鍾乳洞]]のコンサートホールと呼ばれる広場]] {{Main|{{仮リンク|スロベニアの観光|en|Tourism in Slovenia}}}} 代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈([[トリグラウ山]](2864m)、[[ブレッド]]、[[ボーヒニ]]など)、アドリア海(コペル、ピラン)、[[カルスト地方]]の洞窟([[シュコツィアン洞窟群]]、[[ポストイナ]])、[[温泉]]である。 == 交通 == {{main|[[スロベニアの交通]]}} === 道路 === {{Main|Category:スロベニアの道路|{{仮リンク|スロベニアの高速道路|en|Highways in Slovenia}}}} === 鉄道 === {{main|[[スロベニア鉄道]]}} === 航空 === {{Main|スロベニアの空港の一覧}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|スロベニアの人口統計|en|Demographics of Slovenia}}}} {{bar box |title=民族構成(スロベニア) |titlebar=#ddd |float=left |bars= {{bar percent|[[スロベニア人]]|blue|89}} {{bar percent|[[クロアチア人]]他|lightblue|10}} {{bar percent|その他|red|1}} }} スロベニアは民族的に均質であると言われ、1981年までの国勢調査では9割以上が[[スロベニア人]]であったが、その後は旧ユーゴスラビア諸国を中心に世界から移民が流入し、2002年にはスロベニア人の割合が83%まで落ちた。<ref name=":2" /> 住民はスロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民([[クロアチア人]]、[[セルビア人]]、[[ボシュニャク人]]など)が10%、[[マジャル人]]([[ハンガリー人]])や[[イタリア人]]が0.5%である。マジャル人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。[[ドイツ人|ドイツ系]]住民は、他の国と比較すると多くない。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|スロベニアの言語|en|Languages of Slovenia}}}} 言語は、[[スロベニア語]]が公用語になっている。ユーゴスラビア時代、多くの国民は教育によって[[セルビア・クロアチア語]]を習得しており、一定以上の世代ではセルビア・クロアチア語の通用度が高い。独立後の教育では、第二言語としては、[[英語]]が最もよく教えられているが、[[ドイツ語]]も広く通用する。 === 婚姻 === {{節スタブ}} ==== 同性婚 ==== スロベニアは、2017年2月24日付で[[シビル・ユニオン]]を法的に容認しており、2022年7月8日付で[[同性婚]]が合法化されている。 {{See also|{{仮リンク|スロベニアにおける同性婚|en|Same-sex marriage in Slovenia}}|{{仮リンク|スロベニアにおける同性婚に関する国民投票 (2015年)|en|2015 Slovenian same-sex marriage referendum}}}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|スロベニアの宗教|en|Religion in Slovenia}}}} 宗教は、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が2/3以上、その他は[[無神論者]]、[[東方正教]](主に[[セルビア正教]]、[[マケドニア正教会|マケドニア正教]])、[[イスラム教]]などである。 {{See also|{{仮リンク|スロベニアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Slovenia}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|スロベニアの教育|en|Education in Slovenia}}}} {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|スロベニアの保健|en|Health in Slovenia}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|スロベニアの医療|en|Healthcare in Slovenia}}}} {{節スタブ}} == 治安 == 2022年07月05日時点で[[外務省]]は、「スロベニアは、比較的治安が良いと言われていますが、人口あたりの犯罪発生率は日本の約4倍に上ります。旅行者を対象とした、スリや置き引きの被害が発生しており、注意が必要です。」としている。 但し、スロベニアの犯罪件数は2020年時点で 53,485件であり、2018年時点では 56,699件で、2019年時点では 55,120件であることから、発生は徐々に少なくなり始めている点が窺える<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_162.html#ad-image-0|title=スロベニア 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-9-24|publisher=外務省}}</ref>。   {{節スタブ}} === 人権 === {{See also|{{仮リンク|スロベニアにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Slovenia}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|スロベニアのメディア|en|Mass media in Slovenia}}}} 代表的なWebメディアには{{仮リンク|シオール|en|Siol}}が挙げられている。 {{節スタブ}} == 文化 == [[File:Evangelicanska cerkev v Ljubljani s parka 1.jpg|thumb|[[リュブリャナ]]の[[カトリック教会]]]] {{main|{{仮リンク|スロベニアの文化|en|Culture of Slovenia}}}} === 食文化・伝統料理 === {{Main|スロベニア料理}} [[ドレンスカ地方]]の[[コステル]]地区には、[[チュースパイス]]という、[[シチュー]]のような伝統料理がある。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|スロベニア文学|en|Slovene literature}}}} === 哲学 === スロベニア出身の特に著名な哲学者として、[[ジャック・ラカン|ラカン]]派[[精神分析]]と[[カント]]などの[[ドイツ観念論]]、[[ヘーゲル]]、[[映画]]を組み合わせて[[グローバル資本主義]]を分析する[[マルクス主義者]][[スラヴォイ・ジジェク]]の名が挙げられる。ジジェクの他にラカンに影響を受けた哲学者としては[[アレンカ・ジュパンチッチ]]などが存在する。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|スロベニアの音楽|en|Music of Slovenia}}}} 以下の著名人を輩出している。 * [[アトミック・ハルモニク]] * [[アンサンベル・ロカ・ジュリンドレ]] * [[カラマリ (バンド)]] * [[カルティッシモ]] * [[ライバッハ (バンド)]] * [[ヴィンコ・グロボカール]] - 作曲家 * [[ラリッサ・ヴルハンク]] - 作曲家 * {{interlang|en|Devil Doll (Slovenian band)}} * {{interlang|en|Perpetuum Jazzile}} * {{interlang|en|Slavko Avsenik}} === 美術 === {{Main|{{仮リンク|スロベニアの芸術|en|Art of Slovenia}}}} {{節スタブ}} <!--=== 被服 ===--> === 建築 === {{Main|{{仮リンク|スロベニアの建築|en|Architecture of Slovenia}}}} スロベニアにおける[[近代建築]]は{{仮リンク|マックス・ファビアーニ|en|Max Fabiani}}によって導入され、戦時中は[[ヨジェ・プレチニック]]と{{仮リンク|イヴァン・ヴルニク|en|Ivan Vurnik}}によって普及された<ref>[http://www.delo.si/clanek/147475 "Vurnikova hiša na Miklošičevi: najlepša hiša v Ljubljani".] Delo.si (in Slovenian). Delo, d. d. ISSN 1854-6544.</ref>。 20世紀後半、建築家の{{仮リンク|エドヴァルド・ラヴニカール|en|Edvard Ravnikar}}と彼の弟子たちの第一世代であるミラン・ミヘリチ、スタンコ・クリストル、サヴィン・セーバーによって、国民的かつ普遍的なスタイルが融合された。次世代は、主に{{仮リンク|マルコ・ムシッチ|en|Marko Mušič}}、{{仮リンク|ヴォイテ・ラヴニカール|en|Vojteh Ravnikar}}、ユリ・コービー、そして若い建築家グループが主に活動している。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|スロベニアの世界遺産}} スロベニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 * [[シュコツィアン洞窟群]] (1986年登録) - 「[[#地理|地理]]」の章も参照。 === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|スロベニアの祝日|en|Public holidays in Slovenia}}}} {| border="1" frame="box" rules="all" align="center" cellpadding="2" cellspacing="0" |- style="background:#efefef" !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- | style="white-space:nowrap"|[[1月1日]]、[[1月2日]] |元日 |''Novo leto'' | |- |[[2月8日]] |[[プレシェレンの日]]、スロベニアの文化の祝日 |''Prešernov dan, slovenski kulturni praznik'' |スロベニアの詩人、[[フランツェ・プレシェーレン]]が死亡した日。 |- |移動祝日 |[[イースター]]および[[イースター・マンデー]] |''Velika noč in velikonočni ponedeljek'' | |- |[[4月27日]] |占領に対する反乱の日 |''Dan upora proti okupatorju'' |かつては、「解放戦線の日」(Dan Osvobodilne fronte)と呼ばれていた。[[1941年]]にドイツ、イタリア、ハンガリーのスロベニア支配に対する戦いの解放戦線が設立された日。 |- |[[5月1日]]、[[5月2日]] |[[労働者の日]] |''Praznik dela'' | |- |移動祝日 |[[ペンテコステ|ペンテコステ・サンデー]] |''Binkoštna nedelja'' | |- |[[6月25日]] |国家の日 |''Dan državnosti'' |[[1991年]]に独立宣言を行ったことを祝う日 |- |[[8月15日]] |[[聖母被昇天祭]] |''Marijino vnebovzetje (veliki šmaren)'' | |- |[[10月31日]] |[[宗教改革の日]] |''Dan reformacije'' | |- |[[11月1日]] |追悼の日 |''Dan spomina na mrtve'' |かつては、「死者の日」と呼ばれていた。 |- |[[12月25日]] |[[クリスマス]] |''Božič'' | |- |[[12月26日]] |[[独立記念日]] |''Dan neodvisnosti'' |[[1990年]]の国民投票の結果、独立が決まったことを祝う日。 |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|スロベニアのスポーツ|en|Sport in Slovenia}}}} {{See also|{{仮リンク|スロベンスキー・トップ・モデル (シーズン1)|en|Slovenski Top Model (season 1)}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|スロベニアのサッカー|en|Football in Slovenia}}}} スロベニア国内でも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。元々国内ではマイナースポーツであったが、[[2000年]]以後[[サッカースロベニア代表]]の国際大会での飛躍により変化が訪れる。[[UEFA欧州選手権]]の[[UEFA EURO 2000|2000年大会]]と[[FIFAワールドカップ]]の[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓大会]]に、相次いで出場したことは国内で大きな驚きと共に捉えられ、サッカーの認知度を一気に高めることに繋がった。さらに[[2010 FIFAワールドカップ|2010年南アフリカ大会]]にも出場を果たし、国中が大変な盛り上がりをみせた。 スロベニアは世界レベルの[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]を近年輩出しており、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]で10年以上活躍し続けている'''[[サミール・ハンダノヴィッチ|ハンダノヴィッチ]]'''や、[[サモラ賞]]の歴代最小失点率(0.47)と歴代最多受賞(5回)を誇る[[アトレティコ・マドリード]]所属の'''[[ヤン・オブラク]]'''がいる。なお[[日本]]との関係では、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]で長年プレーしていた[[ミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチ|ノヴァコヴィッチ]]や[[ズラタン・リュビヤンキッチ|ズラタン]]などが知られている。 === バスケットボール === {{Main|{{仮リンク|スロベニアのバスケットボール|en|Basketball in Slovenia}}}} スロベニアは[[人口]]わずか200万足らずにもかかわらず、多数の[[NBA]]選手を輩出している欧州でも有数の[[バスケットボール]]の強豪国である。国内には数多くのNBA選手や有名選手を輩出してきた、プレミアリーグの[[:en:Premier A Slovenian Basketball League|Liga Nova KBM]]と呼ばれるプロリーグを持つ。[[バスケットボールスロベニア代表|代表チーム]]の課題は有力選手の多数がNBAに所属しているため、オフシーズンの代表招集で常にベストメンバーが揃わない事である。そんな中[[バスケットボール欧州選手権|欧州選手権]]では[[2005年バスケットボール男子欧州選手権|2005年大会]]で6位入賞し、独立後初の[[バスケットボール世界選手権|世界選手権]]出場を掴んだ。[[2006年バスケットボール世界選手権|2006年世界選手権]]では予選リーグを突破し、決勝トーナメントに進出しベスト16となり、最終順位は12位を獲得した。 [[2007年]]には[[2008年北京オリンピックのバスケットボール競技|北京五輪]]の欧州予選を兼ねた[[2007年バスケットボール男子欧州選手権|2007年ユーロバスケット]]の7位決定戦で、[[トニー・パーカー]]率いる[[バスケットボールフランス代表|フランス]]を破り[[2008年北京オリンピックのバスケットボール競技・世界最終予選|世界最終予選]]の切符を獲得したが、この[[2008年北京オリンピックのバスケットボール競技・世界最終予選|大会]]の決勝トーナメントで[[バスケットボールプエルトリコ代表|プエルトリコ]]に破れ、独立後初の五輪出場の夢は叶わなかった。また、[[:en:EuroBasket 2017|2017年ユーロバスケット]]では初優勝した。さらに[[2020年東京オリンピック|2021年東京五輪]]の出場権をかけた最終予選では、五輪の常連であり開催地でもある[[バスケットボールリトアニア代表|リトアニア]]を、決勝で破って優勝し初の[[オリンピックのバスケットボール競技|出場権]]を得た。なお[[2020年東京オリンピックのバスケットボール競技|本大会]]では4位となった。 === 自転車ロードレース === [[File:2022 Tour of Slovenia (Stage 3, Tadej Pogačar celebrating victory on Celje Castle v2).jpg|[[ツール・ド・フランス]]を2連覇した[[タデイ・ポガチャル]]|thumb|200px]] 2010年に名門ステージレースの[[クリテリウム・デュ・ドフィネ]]を[[ヤネス・ブライコヴィッチ]]が総合優勝した他、第4の[[グランツール]]とも言われる[[ツール・ド・スイス]]を2015年と2017年の2度総合優勝した[[シモン・シュピラック]]、2018年に[[ビンクバンク・ツアー]]を総合優勝、[[2022年]]に[[ミラノ〜サンレモ]]を優勝した[[マテイ・モホリッチ]]、2019年に[[ツアー・オブ・カリフォルニア]]を総合優勝し、2020年と2021年に[[ツール・ド・フランス]]を2連覇した[[タデイ・ポガチャル]]、2019年から2021年に[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]を3連覇した[[プリモシュ・ログリッチ]]など、2010年代に入ってからは[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]の世界第一線で活躍をする選手を多く輩出している。 === ウィンタースポーツ === [[File:Tina Maze with Olympic silver medal 2010.jpg|thumb|140px|[[アルペンスキー]]選手の[[ティナ・マゼ]]]] 国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることから、スロベニアでは[[スキー]]をメインとした[[ウィンタースポーツ|スノースポーツ]]が盛んである<ref name=":1" />。[[アルペンスキー]]では[[ティナ・マゼ]]を輩出している。スロベニアの北西部ゴレンスカ地方にある[[クランスカ・ゴーラ]]のスキー場や、世界最大のジャンプ台を擁する[[プラニツァ]]の[[スキージャンプ]]は世界的に有名である。 === オリンピック === {{main|オリンピックのスロベニア選手団}} スロベニアは[[近代オリンピック|オリンピック]]には[[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル五輪]]で初参加を果たし、[[2020年東京オリンピック|2021年東京五輪]]までに金メダル10個を含む通算45個のメダルを獲得している。 == 著名な出身者 == {{main|スロベニア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=スロヴェニアを知るための60章|date=2017年9月10日|publisher=明石書店|author=柴宜弘|author2=アンドレイ・ベケシュ|author3=山崎信一編著|isbn=978-4-7503-4560-4|ref=柴、ベケシュ、山崎}} * {{Cite book |author= [[ジョルジュ・カステラン]]、[[アントニア・ベルナール]]、訳:[[千田善]] |date= 1999年8月20日 |title= スロヴェニア |publisher= 白水社 |location= 日本 |id= ISBN 978-4-560-05827-5 |ref= カステラン・ベルナール }} == 関連項目 == * [[スロベニア関係記事の一覧]] * [[スロベニア製のコンピュータ]] * [[スロベニア (小惑星)]] * [[シェンゲン圏]] * [[近藤常子]]([[:en:Tsuneko Kondo-Kavese]]) - 日本文化を伝えた。 * [[安西はぢめ]] - 日本で唯一(2020年3月現在)のスロベニア音楽ユニット「アンサンブルプラニーカ」の演奏者 == 外部リンク == {{Commons|Category:Slovenia}} {{Wiktionary|スロベニア}} ; 政府 * [https://www.gov.si/ スロベニア共和国政府] {{sl icon}}{{en icon}} * [http://www.up-rs.si/ スロベニア大統領府] {{sl icon}}{{en icon}} * [https://www.gov.si/drzavni-organi/vladne-sluzbe/kabinet-predsednika-vlade/ スロベニア首相府] {{sl icon}}{{en icon}} * [http://tokyo.embassy.si/ 駐日スロベニア共和国大使館] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/slovenia/ 日本外務省 - スロベニア] {{ja icon}} * 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アイルランド
アイルランド(愛: Éire、英: Ireland)は、北西ヨーロッパに位置し、北大西洋のアイルランド島の大部分を領土とする共和制国家。代替的な記述でアイルランド共和国(アイルランドきょうわこく、愛: Poblacht na hÉireann、英: Republic of Ireland)としても知られる。首都はダブリン。 人口490万人のうち約4割がダブリン近郊に住んでいる。主権国家であり、北アイルランド(イギリス領)との唯一の陸地国境を共有している。大西洋に囲まれており、南にはケルト海、南東にはセント・ジョージ海峡、東にはアイリッシュ海がある。単一国家であり、議会共和制である。立法府は、下院であるドイル・エアラン(Dáil Éireann)、上院であるシャナズ・エアラン(Seanad Éireann)、そして選挙で選ばれた大統領(Uachtarán)から構成されている。政府の長は議会で選出され、大統領によって任命された首相(Taoiseach、ティーショク、英語では「Prime Minister」とは呼ばれない)である。 1922年に英愛条約の結果、アイルランド自由国として誕生した。1937年に新しい憲法が採択されるまでは自治領の地位にあった。「アイルランド」と名づけられ、事実上の共和制となり、選出された非執行大統領が国家元首となる。1948年のアイルランド共和国法(Republic of Ireland Act 1948)により、1949年に正式に共和国と宣言された。1955年12月、アイルランドは国際連合に加盟した。1973年には欧州連合(EU)の前身である欧州経済共同体(EEC)に加盟した。20世紀のほとんどの間、北アイルランドとの正式な関係はなかったが、1980年代から1990年代にかけて、イギリス政府とアイルランド政府は「厄介事(愛: Na Trioblóidí、英: The Troubles)」と呼ばれている北アイルランド問題の解決に向けて北アイルランドの当事者と協力した。1998年にベルファスト合意が調印されて以来、アイルランド政府と北アイルランド政府執行部は、協定によって設立された南北閣僚協議会の下で、多くの政策分野で協力してきた。 アイルランドは一人当たりの国内総生産が世界で最も裕福な国のトップ10にランクされており、2015年のレガタム繁栄指数によると世界で10番目に繁栄している国である。EEC加盟後、アイルランドは一連の自由主義的な経済政策を実施し、急速な経済成長を遂げた。1995年から2007年までの間、ケルトの虎時代として知られるようになり、繁栄を達成した。2005年、『エコノミスト』の調査では最も住みやすい国に選出されている。しかし、2008年に発生した未曾有の金融危機と同時に世界的な経済危機に見舞われたことで、この時期の繁栄は途絶えた。2015年にはアイルランド経済がEU内で最も急速に成長したことから、アイルランドは国際的に富と繁栄を比較するリーグテーブルを再び急速に上昇させている。例えば、2019年には、アイルランドは国連の人間開発指数によって世界で3番目の先進国にランクされた。また、報道の自由、経済的自由、市民的自由など、数々の国の指標でも高く示されている。アイルランドは欧州連合(EU)に加盟しており、欧州評議会と経済協力開発機構の設立国でもある。アイルランド政府は第二次世界大戦の直前から非同盟による軍事的中立政策をとっており、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、平和のためのパートナーシップや常設軍事協力枠組み(PESCO)には加盟している。 アイルランドの32県のうち26県で構成される1922年の国家は、「アイルランド自由国」として知られていた。1937年のアイルランド憲法で定められた正式名称はアイルランド語で「Éire([ˈeːɾjə] ( 音声ファイル)、エール)」、英語では「Ireland([ˈaɪərlənd]、アイアランド)」。国際連合や欧州連合では「Ireland」として国名登録されているが、その一方で「1948年アイルランド共和国法(The Republic of Ireland Act, 1948)」は、憲法の規定を覆す効力は無いものの「アイルランド共和国(愛: Poblacht na hÉireann、英: Republic of Ireland)」を国の記述とする旨を定めている。 イギリス政府は、国家の名称として「Eire」(ダイアクリティカルマークなし)、1949年からは「Republic of Ireland(アイルランド共和国)」を使用していたが、1998年のベルファスト合意までは「Ireland(アイルランド)」という名称を使用していなかった。 「Ireland」、「Éire」、「Republic of Ireland」の他に、「the Republic(共和国)」、「Southern Ireland(南アイルランド)」、「the South(南部)」とも呼ばれることがある。アイルランド共和主義では、「the Free State(自由国家)」または「the 26 Counties(26県)」と呼ばれることが多い。 日本語では「アイルランド」と「アイルランド共和国」の両方が使われており、日本国外務省は公式名称である前者を用いている。アイルランド語読みの「エール」と呼ぶこともある。漢字による当て字は愛蘭土で、愛と略す。 アイルランドの原住民は中石器時代の狩猟採集民であり、石器を使用していた。紀元前3000年頃には青銅器時代へと進化し、穀物を育て、家畜を飼育し、武器や道具、青銅製の宝飾品を作っていた。紀元前2000年の初め、大きな石造りの神社や墓(巨石)を建て、今でもアイルランドの風景の中で見ることができる。紀元前1世紀には、ピクト人の支配下にあり、アイルランドの伝承ではフィル・ヴォルグとして記述されている新石器時代の人々のことである。 スコットランドの名前は、「アイルランド」を意味するラテン語の「Scotus」(複数形は「Scoti」)に由来している。これは、ローマ人が当初「スコティア(Scotia)」(「Scotus」から派生した形)と呼んでいたアイルランドのゲール人入植者のことを指す。現在のスコットランドを植民地化したアイルランド人は「スコティ(Scoti)」と呼ばれていた。帝国末期のローマ人は、現在のスコットランドを指して「カレドニア(Caledonia)」という名前を使っていた。 最初のケルト人は紀元前1600年頃に到着し、ゲーリック・アイルランド(英語版)を建国した。政治的にケルト人がアイルランドをレンスター、マンスター、アルスター、コノートの4つの地方に分けた。到着する前のアイルランド社会の基本行政区画はトゥア(Tuatha、小王国)であり、それぞれの王国は人口50万人未満の人口に対し約150トゥアと非常に小さいものだった。領土全体は上王と呼ばれる君主に支配されていた。 伝統的な「アイルランドの最高王」に任命された人々の伝統的な一覧は数千年前、紀元前2千年紀の半ばまでさかのぼるが、最初の部分は神話的なものである。どの時点で歴史上の人物に言及し始めたのかは定かではなく、これらの人物がどの時点で後の意味での「最高王」と呼ばれるようになったのかも定かではない。この社会構造は、ケルト人の生活様式に適応したもので、比較的小規模で自律的な部族単位で組織される傾向があった。 『四人の主人の年鑑(愛: Annala Rioghachta Éireann、英: Annals of the Four Masters)』または『四人の主人によるアイルランド王国の年鑑』は、アイルランドの歴史の年代記である。紀元前2242年から西暦1616年の間の日付が記録されているが、最も古い日付は紀元前550年頃だと考えられている。1632年から1636年にかけて、ドニゴール県のフランシスコ会修道院で収集された。 ベルティナ(愛: Beltane または Bealtaine、良い火)は、古代アイルランドの祝日で、5月1日に祝われていた。ケルト人にとってベルティナは夏の牧畜期の始まりで、牛の群れが夏の牧草地や山の牧草地に連れて行かれた。現代のアイルランド語では「Mi na Bealtaine」は、5月を意味する。多くの場合、5月のことを「Bealtaine」と略し、休日を「Là Bealtaine」として知られている。休日の主な活動の一つは、ベルティナの前夜(Oidhche Bhealtaine)の儀式と政治的な意味合いを持つ山や丘での焚き火の点火だった。現代のスコットランドのゲール語では、ベルティナの黄色の日(Oidhche Bhealtaine)だけが5月の初日を表すのに使われている。 スコットランドの大司教であり宣教師であった聖パトリック(384年 - 461年)は、キリスト教を布教するためにアイルランドに上陸した。王家の中で重要な改宗を行い、修道学校を通じ、文字(ラテン語)を導入した。聖パトリックの死亡時には、アイルランドのエリートはすでに識字率が高く、自分たちの歴史を文字で記録していた。アイルランドはほぼキリスト教圏のみならず、学問と文化の中心地となったが、この遺産のほとんどは9世紀と10世紀のヴァイキングの侵入で破壊された。 8世紀末頃からノルマン人(ヴァイキング)の侵入が始まった。10世紀末、ダルカッシャン(英語版)と呼ばれる小さな国の王ブライアン・ボルは、より大きな隣国を征服し、アイルランドの南半分で最も強力な王となった。しかし、レンスター王のモール・ モルダは、彼に反旗を翻すようになり、ダブリンのヴァイキング王のシトリック・シルケンベアード と同盟を結び、オークニー諸島やマン島のヴァイキングの助けを得た。1014年にダブリン近郊のクロンターフの戦い(英語版)ではヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束した。 1169年、リチャード・ド・クレア(ストロングボウとして知られている)は、ダーマット・マクモローやウェールズやイングランドからのカンブロ・ノルマン人の一団とともにウォーターフォード近郊に到着し、強制的に入植させられた。アイルランドで最も悪名高い裏切り者として知られるマクモローは、レンスター王として追放され、ヘンリー2世を招いて玉座奪還の手助けをしてもらった。その後の侵略により、ヘンリーがアイルランド卿となり、8世紀もののイギリス支配が始まった。1300年までにノルマン人は国の大部分を支配していたが、中央政府がなかったため、効果的に征服することができなかった。 1350年からは、カンブロ・ノルマン人が使用していた武器の多くを奪い取り、戦術の一部を学んだアイルランドの酋長らが領土を奪還し始めた。1360年までに、ノルマン人の入植者のほとんどはアイルランドの法律に避難し、島の原住民の習慣を、音楽、詩、文学、服装を採用し、アイルランド人よりもアイルランド人として知られるようになるまでになった(ラテン語の「Hibernis Ipsis Hiberniores」から) という事実は、イギリス議会が島の植民地化に対する将来の利益への潜在的な脅威であると考えた。 このため、1366年にアイルランド卿の衰退に対処するために、キルケニー憲章を批准した。この憲章では、イギリス人入植者とアイルランド人との間の族外婚を禁止し、ゲール語や習慣の使用を禁止した。 1534年、イングランドのヘンリー8世は教皇の権威を認めることを拒否し、イングランド議会を説得して教皇をイングランド国教会の長として認めさせた。 アイルランドにも同様の政策を課そうとし、1536年にはローマへのアピールやローマ教皇への支払いを禁止する側面が広がった。1537年から1541年にかけて、多くの僧院が弾圧され、その財産が没収された。しかし、国王が王権を持たないアイルランドの権限下にある地域では、ほとんどの住民はその変化を無視していた。1553年に王位を継承したヘンリーの娘、メアリー1世はイングランドとアイルランドの両国で古い宗教の復活に努めた熱烈なカトリック教徒で、アイルランドを支配するにはイングランドの植民地を導入するのが最善の方法だと確信していた。 1556年にアイルランドの領土を没収し、イギリス人入植者を招き、借地人や使用人をアイルランドに連れてきた。 1558年に後を継いだメアリー1世の異母妹エリザベス1世は、より宗派的な態度を示し、アイルランドの大司教や宗教者たちが処刑された。この迫害により、アイルランドは、そしてカトリックにとどまっていたアングロ・アイルランド人は、より団結するようになった。カトリックでありながら反英でもある新たな国民性の精神が芽生えた。 1641年のアイルランド反乱(英語版)から1649年のクロムウェルのアイルランド侵略(事実上の植民地化)までの間、島の3分の2はアイルランド・カトリック同盟によって統治されており、キルケニーで生まれたことからキルケニー同盟としても知られている。かつてひとつとして統治されていたアイルランド島と、32の県のうち26の県からなるアイルランド共和国との違いは、20世紀前半の複雑な憲法の発展の産物である。 1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで清教徒革命が起きた。これにより、1649年から1660年までの間アイルランド島を含むイングランド共和国が成立した。1660年にイングランド、スコットランド、アイルランドの王家がチャールズ2世のもとで復古した。 大陸で起こった大同盟戦争の一環として、1689年から1691年にかけてウィリアマイト戦争が発生した。 1801年1月1日から1922年12月6日まで、アイルランド島はグレートブリテン及びアイルランド連合王国に属していた。 1845年から1849年の間に、アイルランドの人口の大多数の人々にとってはほぼ唯一の食糧となっていた作物のジャガイモは、疫病菌の侵入によって壊滅状態に陥り、ジャガイモ飢饉につながった。約100万人が餓死し、そのほとんどが家賃を払えないために家を追い出された後、道路をさまよっていた。移民は死活問題となり、イギリス、カナダ、オーストラリアなど他の国へのアイルランド人の大量移民があったが、その多くはアメリカ合衆国へ移住した。飢饉により、アイルランドの人口は死亡と移民により、1841年の820万人から1901年には450万人に減少したと推定されている。 1916年のイースターマンデーに、イギリスからの独立を目指して共和党が国を支配しようとした、いわゆるイースター蜂起が起きた。この革命的な共和制の試みは1916年4月24日から4月29日の間に行われ、教師で弁護士であるパトリック・ピアースが率いるアイルランド義勇軍(英語版)の一部と、労働組合のリーダーであるジェームズ・コノリーが率いる小さなアイルランド市民軍がダブリンの街の要職に就き、そこでアイルランド共和国を宣言した。5日間の街頭戦の後、反乱軍の全面降伏が行われた。数百人が殺害され、3000人以上が逮捕され、15人が処刑された。この出来事は、アイルランド独立の転機と解釈されている。 1919年に1918年のイギリス総選挙で選出された国会議員の過半数がイギリス庶民院での議席を拒否した。その代わりに、アイルランドの独立と下院の非承認を主張することを目的とした「ドイル・エアラン(Dáil Éireann)」と呼ばれる非合法のアイルランド議会を設立した。共和国は国際的に認められず、アイルランド共和軍のイギリスに対する独立戦争につながった。1921年、イギリス政府の代表者とアイルランド共和国の内閣(Aireacht)が英愛条約の交渉を行い、「ドミニオンの地位(Dominion Status)」として知られる法的なアイルランド自治の新制度が誕生した。 新しいアイルランド国家は国際的に認められ、アイルランド自由国(愛: Saorstát Éireann、英: Irish Free State)と呼ばれるようになった。自由国は理論的には島全体を統治することになるが、北アイルランド(別個の組織として作られた)がイギリスの一部として残ることを選択できるという条件付きだった。その後、北アイルランドはイギリスの一部として残ることを選択した。アイルランドの残りの26の県は、アイルランド自由県に変換され、1927年からイギリスの君主がアイルランド国王の称号を持ち、立憲君主制が続いていた。総督、両院制議会、「執行評議会」と呼ばれる内閣、執行評議会議長と呼ばれる首相を擁していた。憲法は「アイルランド自由国憲法」と呼ばれていた。 英愛条約の調印は、エイモン・デ・ヴァレラを筆頭に、調印に反対する部門によるアイルランド内戦の勃発につながった。1922年4月13日、ダブリン中心部にあるフォーコートの建物は、協定に反対したアイルランド共和軍(IRA)に占領された。3月26日、議会(ドイル・エアラン)の権限を拒否し、独自の軍事執行機関を選出した。条約防衛派は6月28日、アイルランド南部での権限を強化する必要性と、イギリス政府から条約に武力抵抗する要素を排除するよう圧力を受け、反乱軍のIRA軍を攻撃した。ダブリンの戦いは1週間続き、条約を守る側にとって決定的な勝利となった。全国でのさらなる勝利は、条約賛成派の立場を強化した。内戦の最中、共和党運動の指導者の一人であり、親英アイルランド軍の司令官だったマイケル・コリンズが待ち伏せされ、殺害された。 1922年10月、新政府は軍隊に広範な権限を与え、武器を所持していたり、新国家の軍隊に反して行動している者は、軍法会議にかけられ、死刑判決を受けることを認める法律を導入した。報復として、IRA軍のリーアム・リンチ司令官は、合意を支持する主要指導者に向けて銃撃命令を出した。最初の殺害は12月7日に行われた。新政府の対応は、6月から投獄されていた4人の非正規陸軍将校の処刑を命じるものであり、これを前にして不屈部門は攻撃方針を放棄した。政府派閥の人員と資源の数的優位性と処刑の継続(計77人)が、1923年の初めに有利な戦争を決定し始めた。4月24日、非正規軍は武器を捨てた。1923年以来、イギリスとの共通旅行区域の一部となっている。 1937年12月29日、新しい憲法(Bunreacht na hÉireann)が採択され、アイルランド自由国に代わって、エール(愛: Éire、英: Ireland)と呼ばれる新しい国家が誕生した。新憲法構造は、王ではなく共和国大統領を必要としていたが、まだ共和制ではなかった。国家元首の主な役割は、他の国家の前に象徴的に代表することであり、制定法による体としての国王の帰属であることに変わりはない。1949年4月18日、アイルランド共和国法はエール(Éire)を共和制にすることを宣言し、それまで国王に与えられていた機能をアイルランド大統領に委任した。 正式名称は「エール」のままであったが、「アイルランド共和国」(正式には国の記述)という名称が採用された。共和国は自らを表現するためにアイルランドという言葉を使用するが、特に外交の場ではアイルランドという言葉を使用する。しかし、多くの国は第2のアイルランドである北アイルランドが存在することや、1937年の憲法では北部に対する南部の管轄権を主張していることから、この言葉を使うことを避けている。「アイルランド」という言葉の使用は、その発言を受け入れたものとして採用された。1937年の憲法第1条、第2条と呼ばれるようになったものにあるその記述は、1999年に削除された。 その年から、1949年4月に共和国が宣言されるまで、アイルランドは当時のイギリス連邦の加盟地域であり続けた。イギリス連邦の規則によると、共和国を宣言すれば自動的に脱退となる。これらの規則は1950年まで改正されず、共和国であるインドをイギリス連邦として含めることができるようになった。アイルランドは脱退し、更新しないことを選択したが、加盟国としての特権の多くを保持していた。今日では、例えばイギリスに居住するアイルランド人は、議会選挙での投票権をはじめとする市民権のすべての権利を享受し、さらにはイギリス軍に仕えているが、これらの権利を行使するアイルランド人の数はごくわずかである。 アイルランドは1955年に国際連合に加盟し、1973年には欧州経済共同体(現在の欧州連合)に加盟した。アイルランド政府はアイルランドの平和的な統一を目指し、「厄介事(愛: Na Trioblóidí、英: The Troubles)」と呼ばれる北アイルランドの準軍事組織間の暴力的な対立に対してイギリスと協力してきた。 1998年にアイルランドと北アイルランドの選挙で承認された「ベルファスト合意」と呼ばれる平和条約が結ばれ、アイルランドは北アイルランド6県の領有権を放棄した。 アイルランドは、第二次世界大戦中に中立的な立場をとり、連合国の大義を支持しないという理由で加盟を拒否されていたが、1955年12月に国際連合に加盟した。当時、国連に参加したのは、ある国家による他国への侵略を抑止するために武力を行使することを約束していたからである。1950年代にアイルランドで発展した欧州経済共同体(EEC)への加盟に関心があり、欧州自由貿易地域への加盟も考慮された。イギリスはEECへの加盟を目指していたが、アイルランドはイギリスとの経済的なつながりが大きいため、1961年7月に加盟を申請した。しかし、EEC創設時の加盟国は、アイルランドの経済力、中立性、魅力のない保護主義政策に懐疑的な姿勢を崩していなかった。多くのアイルランドの経済学者や政治家は、経済政策の改革が必要だと認識していた。1963年、フランスのシャルル・ド・ゴール将軍がイギリスの加盟に反対すると発言したことで、EEC加盟の見通しが疑わしくなり、他のすべての候補国との交渉を中止した。しかし、1969年には後継者のジョルジュ・ポンピドゥーがイギリスとアイルランドの加盟に反対していなかった。交渉が始まり、1972年には加盟条約が調印された。1972年に行われた国民投票でアイルランドの加盟が確定し、1973年にはついにEECに加盟した。 1970年代後半の経済危機は、共和党政府の予算、自動車税の廃止、過剰な借金、1979年の石油危機を含む世界的な経済の不安定さに煽られた。1989年以降、経済改革、減税、福祉改革、競争の激化、経常支出のための借入禁止など、大きな政策転換があった。この政策は、1989年から1992年にかけて共和党/進歩的民主党政権によって始まり、その後の共和党/労働党政権、統一アイルランド党/労働党/民主左派政権によって継続された。アイルランドは1990年代後半までに世界で最も急速に経済成長した国の一つとなり、2007から2008年の世界金融危機まで続いた「ケルトの虎」時代と呼ばれていた。2014年以降、アイルランドは経済活動が再び活発化している。 1949年以降、アイルランドは議会共和制をとっている。元首である大統領は、普通選挙による優先順位付投票制度で直接選出される。任期は7年で、再選は1回となる。大統領は基本的には名誉職であり、儀礼的な役割を主に務めるが、違憲立法審査の請求、首相による議会解散の拒否などの権限があり、国軍の最高司令官をつとめる。初代大統領は作家のダグラス・ハイドが就任した。1990年から2011年までメアリー・ロビンソン、メアリー・マッカリースと2代続けて女性が大統領に選出された。首相(ティーショク、Taoiseach)は国会の指名に基づき大統領に任命され、行政府の長となる。通常、総選挙で得た議席数が最も多い政党の党首である。政権連立がよく発生し、一党政権は1989年を最後に存在していない。 両院制議会であるアイルランド国民議会(Oireachtas)は、上院(Seanad Éireann)と下院(Dáil Éireann)で構成されている。元老院は60名の議員で構成されており、11名は首相によって任命され、6名は2つの大学によって選出され、43名は職業別に設置された候補者パネルから一般の代表者によって選出されている。議会は166名の議員(Teachta Dála)で構成されており、比例代表制の下、単記移譲式投票で複数の選挙区の代表に選出されている。憲法によれば、国会選挙は少なくとも7年ごとに行わなければならないが、法律で下限が定められている場合もある。法的には、現在5年間持続している。 政府は憲法上、15人の議員で構成されている。政府の議員は上院から2名まで選出することができず、首相、副首相(Tánaiste)、財務大臣は「必ず」議会議員でなければならない。 1973年には欧州共同体(現在の欧州連合)に加盟している。2008年6月12日、アイルランドは国民投票で欧州連合(EU)のリスボン条約を否決し、EU内で論争を巻き起こした。しかし、この決定は2009年の第2回国民投票で逆転した。 オリバー・クロムウェルの侵略以降、民族や領域としての自治が剥奪され、イギリス帝国(大英帝国)が形成されていく過程において、イギリスが最初に支配した植民地となった(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)。プロテスタントによるカトリック教徒への迫害があり、また植民地政策で工業化は遅れた。土地政策はイングランドのアイルランド支配にとって重要で、しばしば深刻な影響を与えた。 経済基盤は脆弱で、大規模地主による小作農を使役した商品作物栽培という典型的な植民地型農業であり、アイルランド人の2/3、6~7割は農業に従事していた。さらに羊毛のための囲い込み政策が追い討ちをかけ、これは1800年代前半に相次いで発生した「ジャガイモ飢饉」という惨事として現われた。市場において高く売買される農作物がイングランドに大量に移送される一方でアイルランドからは食物が枯渇し、不作に見舞われた小作農の大量餓死が発生したため社会問題となった。飢餓や貧困から逃避するために、生存した多くのアイルランド人もアメリカ合衆国へと移住することになる(アイルランド系アメリカ人)。これによって1840年は800万人を数えた人口は1911年に半数に迫る440万人にまで減少し、アイルランド語の話者人口も激減した。これ以降もアイルランドの総人口は回復しておらず、現在に至るまで最盛期には遠く及ばない。 ジャガイモ飢饉はイングランドにとっても、深刻な社会問題として衝撃をもって受け止められ、公共事業支援や食糧援助などが実施されたものの、貧困を原因としたアメリカ合衆国への移住など住民の離散を防止することは困難であった。イギリスでヴィクトリア朝の1840年代に沸騰していた鉄道バブル(鉄道狂時代)はこれにより崩壊した。カール・マルクスは資本論の叙述でこの惨事について言及した。この時期に受けた困難はアメリカ合衆国に移住したアイルランド人、アイルランド系アメリカ人の原点となり、のちのアイルランド独立闘争の際にしばしば言及された。また(帝国主義的植民地)経済システムが現実の災害をもたらした顕著な例として経済学や政治社会学で、しばしば論じられた。 第一次世界大戦終結後の1919年から1922年のアイルランド独立戦争では休戦協定が結ばれ英愛条約が締結された。アイルランド自由国が成立して独立戦争は終結したが、イギリス連邦下であることにも不満を抱く者はアイルランド内戦を引き起こした。 また、元インド総督のルイス・マウントバッテンは、アイルランド国内でボートに乗っている際にIRA暫定派によって仕掛けられた爆弾で暗殺されている。 しかし、イギリスはアイルランドにとって旧宗主国でなおかつ最隣国であり無視できない存在であり、経済的および人的交流は古くから盛んである。北アイルランドでは、アイルランド帰属を求めてテロ行為を繰り返すIRA暫定派などナショナリストとユニオニストとの紛争が起こっていたが、和平プロセスが進んでいる。北アイルランド和平が現実に近づくにつれ、さまざまな分野での南北の交流が広がっている。 1997年にトニー・ブレア首相が100万の餓死者・100万の移民を出した1845年から1849年のジャガイモ大飢饉について「今日それを反省してみるにつけ苦痛をもたらすものであった」とコメントした。1998年には北アイルランド和平合意であるベルファスト合意が成立した。殺し合いに嫌気がさした事、南の経済発展にあせりを感じた事が契機となる。しかし強硬派が納得せず失敗しさらに10年が経過する。2005年、イギリス在郷軍人会アイルランド支部主催の第一次世界大戦戦没者追悼行事にアイルランドメアリー・マッカリース大統領が出席。アイルランド人兵士の名誉回復と追悼を訴えた。彼らはアイルランド自治獲得促進の意志をもって参戦したのにそれまではイギリスへの協力者と非難されてきた。2007年2月、クローク・パーク競技場でのラグビー・シックス・ネイションズの試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行われる。イギリス国歌「女王陛下万歳」の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイングもなく、イギリスとアイルランドの歴史的和解の象徴となった。この競技場は1920年の独立戦争の時、イギリス軍がゲーリックフットボール観戦中のアイルランド人を虐殺した場所で反英闘争の聖地であった。アイルランドは伝統的に反英感情が強いものの、イギリス(イングランド)の国語かつ公用語である英語を使用しており、英語修学の外国留学先として人気である。2011年に、当初は小規模な抗議行動が起きたが、エリザベス2世が訪問した。女王は「アイルランドの自由のために命を捧げたすべての人々の記憶に捧げられた」追憶の庭を訪れ、花輪を捧げ、敬意を表しお辞儀をした。その後も何百人もの応援する子どもや店員らに挨拶をし、初の公式訪問を無事に終えた。 アイルランドと北アイルランドとの国境を区別することなく、島全体が一つの組織になっているものがある。 例えば、スポーツの分野では、ゲーリック・ゲームやラグビーなどのスポーツ(サッカーを除く)は、合同リーグを通じて行われている。同様に、大多数のキリスト教(カトリック教会、メソジスト教会、アイルランド聖公会、聖公会、アイルランド長老派教会)は、分離に関係なく組織されている。 一部の組合はダブリンを拠点とするアイルランド労働組合会議(ICTU)に共同で組織されているが、北アイルランドの他の組合はイギリスを拠点とする労働組合会議(TUC)に加盟、または両方に加盟している組合もある。アイルランド学生連合(USI)もアイルランド全域で活動しているが、北アイルランドではイギリスの全国学生連合(NUS)と関連しており、連名(NUS-USI)で活動している。 他では、島の2つの地域は、文化や習慣のほぼすべての要素を共有している。例えば、アイルランドの伝統音楽は、国境を越えても同じである。アイルランド語もその一例だが、アイルランドのみで教育が行われている。また、促進するために近年アイルランド政府のキャンペーンの対象ともなっている。 19世紀後半、イギリス植民地支配に苦しんだアイルランド人は、同じ英語圏の国へ移民を行わざるをえなかった。当時、同じくイギリス植民地であったカナダやオーストラリアにおいては、やはり支配層から差別される立場であったため、植民地からの独立を果たしていたアメリカ合衆国にその多くが渡った。そのためアイルランド系アメリカ人は今日でも多い。シカゴからルイジアナに至るいわゆるバイブルベルトではアイルランド系移民によるカトリックの影響が強く、聖パトリックの祝日を盛大に祝う風習がある。人口の多いニューヨークでもアイルランド系住民の絶対数は少なくなく、上記祝日は盛大に祝われる。しかし開拓当時のアメリカ人からは、アイルランド人移民の貧しい生活や異様と取れる風習、イギリスで被征服民として低くみられていた事、カトリック教徒であった事などにより、忌避感を持たれた。アイルランド人は人種的に見て「白人」に含まれるが、「アメリカ市民」には相応わしくないとされて、以降、偏見の目と差別に苦しめられた。しかし後にはその社会的地位は向上し、大統領となったジョン・F・ケネディ、そしてロナルド・レーガンは、祖先の故地アイルランドを訪問、暖かく歓迎された。 アイルランドは経済面でアメリカ依存が強い。一方で1990年代の「アイルランドの奇跡」といわれる経済成長の背景には、国内総生産の7%程に相当するEUからの援助金も無視できない。アメリカ、EUからの投資は特に教育制度と公共設備にあてられアイルランドの経済力を強化したが、より重要なのはEU諸国間では比較的低い法人税と安い賃金である。それに惹かれて外国企業、とりわけアメリカの多国籍企業が生産拠点とヨーロッパ事業本部をアイルランドに設立した。アイルランドの国語が英語であることもアメリカ企業にとって重要で、また、アメリカ本部とアイルランド支部との時差を利用した仕事分担の恩恵もある。エレクトロニクス、製薬のようなハイテク産業や、金融サービスなどにおける外国投資はアイルランド経済の原動力となっているが、その内訳の80%はアメリカによるもので、アイルランドで活躍しているアメリカ企業は600社、その従業員は10万人規模に及ぶ。アメリカからみてアイルランドはヨーロッパ市場を狙う前進基地であるが、一方でアイルランドでの収益率は、他のヨーロッパの国よりも2割から3割ほど高い。 アイルランド人は植民地支配の経緯によりイギリスに対し伝統的に敵対的であるが、かつてイギリス植民地から独立し、アイルランド人にとって苦難の時期には多くのアイルランド系移民を受け入れたアメリカ合衆国に対しては好意的である。旧宗主国が残していった英語を駆使して、第二次大戦後にイギリスに代わって世界一の経済大国となったアメリカと活発な取引を行っているが、これは同じくイギリスの植民地支配を受けたインドと同様の傾向である。 アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)は日本に移住し、日本についての本を書いている。 第二次世界大戦では、日本政府が中立国で活動している自国の外交官たちのため、スイスのアイルランド大使館を経由して送金していた。 1957年には日本との国交を樹立し、日本はダブリンに公使館を設置した。1964年には、公使館を大使館に昇格させ、在アイルランド日本国大使館となる。また、1973年にアイルランドが東京都千代田区に駐日アイルランド大使館を設置した。 1966年に査証相互免除となり、1974年に租税条約が結ばれた。 2007年に日本とアイルランドはワーキング・ホリデーの協定を結んだ。また、2010年には社会保障協定を結んだ。 2019年には、アイルランドは日本にとって、欧州連合内の輸出として第12位、輸入として第5位の国となっている。日本はコンタクトレンズなどの光学機器や医薬品を輸入しており、アイルランドは医薬品や日本と同じ対面交通の為、右ハンドル自動車などを輸入している。 アイルランドに在留している日本人数は、2021年現在、2,818人であり、日本に在留しているアイルランド人数は1,099人である。 アイルランドの軍隊は、アイルランド国防軍(Óglaigh na hÉireann)の下に組織化されている。アイルランド軍は、隣接する軍隊と比べ小さいが、兵員8,500人と予備役1万3,000人を擁している。その規模の大きさは、主に国の中立性によるものである。さらに、紛争への関与は、国際連合、政府、議会によって統治されている。 また、アイルランド空軍、海軍、予備防衛軍もある。アイルランド陸軍レンジャーは、陸軍に仕える特殊部隊の一部門でもある。4万人以上のアイルランドの軍人が、国際連合平和維持活動への派兵を行っている。 航空施設は、2003年のイラク侵攻時にアメリカ軍がシャノン空港を経由して軍人の輸送に使用していた。それまで空港は、2001年のアフガニスタン戦争や第一次湾岸戦争の際に使用されていた。キューバ危機時、ショーン・ルマスはシャノンを通過したキューバ機とチェコ機の捜索を許可し、その情報を中央情報局に伝えた。 第二次世界大戦中は連合国軍に支援を提供していたが、中立国であったため参戦していない。1999年から北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、NATOプログラム(平和のためのパートナーシップ)に参加している。 アイルランド島は、ヨーロッパの北西部に位置し、ブリテン諸島の一部を形成し、イギリスとアイスランドに次ぐヨーロッパで3番目の大きさを誇る島である(世界では20番目)。 島の面積は、北海道よりもやや広い84,421 kmで、そのうち83%(約6分の5)がアイルランド(70,273km)に属し、残りはイギリスの北アイルランドに属している。南北に約500km、東西に約300kmある。西に大西洋、北東にノース海峡に囲まれている。東にはアイリッシュ海があり、南西を経由してセント・ジョージ海峡やケルト海と結んでいる。内陸部は起伏に富んだ丘陵地帯と低山に囲まれた平野部、西海岸は断崖絶壁で構成されている。最高地点は南西部にある1041mのキャラントゥール山。 内陸部は比較的平坦で、内部の盆地が窪んでおり、海岸付近の標高が高い。領土はシャノン川などの河川に挟まれており、比較的大きく浅い湖(lough)が多い。国の中心部の一部はシャノン川に覆われており、広大な湿地帯があり、細長いインゴット状の泥炭を圧搾して生産するために使用されている。アイルランドには、ヨーロッパ最大の囲まれた都市公園のフェニックス・パークがあり、その面積は712ヘクタールで、周囲16kmの広大な緑地と並木道で構成されている。 西部は山地、丘陵、断崖の風景が広がる。主な山岳は、ドニゴール山地、ウィックロー山地、モーン山地、マギリカディーズ・リークス山地、最高峰のキャラントゥール山などがある。中央部は氷河によって堆積した粘土と砂を含む低地で、沼地や、ネイ湖、アーン湖、コリブ湖、ダーグ湖などの湖が多く存在する。主要な川はシャノン川、ブラックウォーター川、バロー川、バン川などがある。島を取り囲む海岸は、通常、河口やフィヨルドに似ている狭い湾を持つ、非常に切り立った高さのある海岸である。北東部に玄武岩台地があるほかはほとんどの地域が花崗岩に覆われている。 温暖なメキシコ湾流と、大西洋から吹く偏西風の影響で気候は安定した西岸海洋性気候となっており夏は涼しく、冬は緯度の高い割に寒くない。また、地域による気候の差もほとんどない。平均気温は、もっとも寒い1月と2月で4°Cから7°C程度、もっとも暖かい7月と8月では14°Cから17°C程度である。最低気温が-10°Cより下がることや、最高気温が30°Cを超えることはほとんどない。 年間の降水量は、平野では1000mm程度である。山岳部ではさらに多く2000mmを超えることもある。月ごとの降水量はほとんど変わらない。 主な都市は、東海岸にある首都ダブリン、南部にあるコーク、西海岸にあるリムリック、ゴールウェイ、南東海岸にあるウォーターフォードである。 地質学的には、島は区別された地域で構成されている。西部のゴールウェイとドニゴール周辺には、カレドニア造山運動に関連した中~高品位の変成岩と火成岩の複合体がある。アルスターの南東部、南西のロングフォードから南のナヴァンまで伸びている地域には、スコットランドのサザン・ハイランド地域に似た特徴を持つオルドビス紀とシルル紀の岩石の地域がある。さらに南下すると、ウェックスフォード海岸周辺には、オルドビス紀とシルル紀の岩石への花崗岩の侵入によって形成された地域があり、コーンウォールのものと非常によく似ている。南西部、バントリー湾とマギリカディーズ・リークス山地の周辺には、実質的に変形しているが、わずかに変成したデボン紀の岩石の地域があり、コーンウォールの岩石と非常によく似ている。 この部分的なリング状の硬岩は、島の中心部に向かって炭素質の石灰岩の層で覆われており、比較的肥沃で緑豊かな景観を生み出している。リスドゥーンバーナ周辺の西海岸にあるバレンは、カルスト地形がよく発達している。その他の地域では、銀鉱山とタイナ周辺の石灰岩に亜鉛と鉛の成層状鉱床が見られる。 探鉱は、炭化水素を求めて行っている。最初の重要な発見は、1970年代半ばにマラソン・オイル社によって発見されたコーク/コーヴのキンセールにあるアイルランド最大のガス田である。 2006年8月にはドニゴール県北部で計画されたフロンティアが完成し、アイリッシュ海とセント・ジョージ海峡で有望な掘削が行われるなど、新鉱区の探査が続いている。 アイルランドの気候は年間を通じて温暖だが、平均的な気候以外の極端な変化はほとんどない。最も気温が高かったのは1887年6月26日のキルケニー城(キルケニー県)で観測された33.3°C、最も低かったのは1881年1月16日のマークリー城(スライゴ県)で観測された-19.1°Cであった。 他の統計によると、記録された最高年間降水量は、1960年にバラビーナ・ギャップで3964.9mmであった。記録上最も乾燥した年は1887年で、グラスネヴィンでは357mmの雨しか降らなかったが、最長の干ばつ期間があったのはリムリックで、1938年4月から5月まで38日間連続して雨が降らなかった。 気候は一般的に島国的で、適度に湿った大西洋の風が吹くため、同緯度の他の地域に見られるような極端な温度差を避けている。降水量(主に雨)は年間を通じて規則的に分布しているが、一般的には東部を中心に軽い。しかし、国の西部は湿度が高く、特に晩秋から冬にかけて大西洋の暴風雨に見舞われやすい傾向にあり、雪や雹が降ることもある。ゴールウェイの北と5月の東の地域は、気温の温度差が顕著ではなく嵐の発達雲の形成しないのにも関わらず、雷の件数が最も多い(年間5日から10日)。長期間の降雪はまれである。 沿岸部と内陸部では気温に差がある。内陸部の夏は暖かく、冬は寒く、一般的に内陸部の気象台では氷点下の日が約40日、沿岸部の気象台では10日程度しかない。例えば、7月のオマーの1日の平均最高気温は23°Cだが、55km離れたデリー/ロンドンデリーでは18°Cしかない。これらの地域では1月の1日平均最低気温も異なり、オマーでは-3°C、デリー/ロンドンデリーでは0°Cとなっている。アイルランドは時々熱波の影響を受けることがあり、最近では2018年に熱波が発生している。島の平均気温は、2月 - 4月は最高気温8 - 12°C、5月 - 7月は最高気温18 - 20°C、8月 - 10月は最高気温14 - 18°Cとなっている。 メキシコ湾流によって緩和された温帯海洋性気候、比較的温暖な気候、高い湿度(豊富な泥炭湿地の存在も影響している)のため、島のほぼ全体が草原に覆われているため、アイルランドをさして「エメラルドの国」と呼ばれる。シャムロック(アイルランド文化の国と伝統的なシンボル)が非常に多く、泥炭はミズゴケ属などの植物の分解によって形成されている。近世までのアイルランドは、他のイギリスの島々と同様、オーク、ホルムオーク、ハンノキ、ニレなどの落葉樹林に覆われていたが、これらの森林のほとんどは、羊の放牧地を拡張したり、船を建造するためにイギリス人の侵略者によって伐採された。 最終氷期の末期以降、大陸部やイギリスから隔離されていたため、原住民の動物相は貧弱で、アカギツネ、フェレット、ウサギなどが生息し、シカの数は非常に少ない。爬虫類の不足は顕著であり、生息しているのはコモチカナヘビのみである。鳥類や両生類の哺乳類の動物相も捕食によって減少しているが、海岸の断崖にはイベリアウミガラス、ツノメドリ属、シロカツオドリ、ミズナギドリ、ウミツバメ科などの海鳥の大規模な群生がある。また、クロガチョウやホオジロガチョウの越冬個体数やヒラガチョウの越冬個体数も生息しており、最初にペンギンの名をもらった鳥であるオオウミガラスは17世紀に絶滅した。 アイルランドには6つの自然公園があり、植物や景観の多様性に富んだ独特の美しさを持っている。北西にドニゴール県のグレンヴェイ、そして少し南西にはメイヨー県のバリークロイ、ゴールウェイ市の北西と南にそれぞれコネマラ山地とバレンがある。また、西海岸を南下し、リムリックのシャノン川河口を過ぎると、街のすぐ南にキラーニー国立公園がある。最後に、ウィックローの西、ダブリンの南にあるウィックロー山地もある。 アイルランド島は歴史的な慣習から自治権のないコノート、マンスター、レンスター、アルスターの4つの地方(Province)に大別される。これらは32の県(County)で構成されるが、この内のアーマー、アントリム、ダウン、ティロン、デリー、ファーマナの6県がイギリスの統治下にある北アイルランドに属している。 2011年におけるアイルランドの5大都市は次の通り。 アイルランドは開放経済国であり(経済自由度指数では6位)、「価値の高い」外国直接投資(FDI)の流れでは第1位である。一人当り購買力平価の国内総生産を用いた場合、アイルランドは187カ国中5位(IMF)、175カ国中6位(世界銀行)にランクされている。別の指標である修正国民総所得(GNI)は、「国内経済の活動」をより正確に把握することを目的としている。これは、グローバル化が進むアイルランドの小規模な経済において、特に重要な意味を持っている。実際、外国の多国籍企業はアイルランド経済を牽引しており、民間部門の労働力の4分の1を雇用し、アイルランドの事業税の80%を支払っている。アイルランドの上位20社(2017年の売上高)のうち14社はアメリカ合衆国を拠点とする多国籍企業である(アイルランドの外国の多国籍企業の80%は米国系企業であり、売上高上位50社の中で、米国・英国以外の外国企業はなく、従業員数では1社のみで、ドイツの小売業であるリドルが41位にランクインしている)。 アイルランドは2002年に他の11の欧州連合加盟国とともにユーロ通貨を採用した。 アイルランド経済は他のヨーロッパ諸国と比べ小規模であり国際貿易に大きく依存している。かつては西欧でも長きにわたりポルトガルなどと並び最貧国のひとつに数えられたが、1990年代に入ってからEUの統合とアメリカを中心とした外資からの投資などにより急成長を遂げた。1995年から2000年の経済成長率は10%前後であり、世界において最も経済成長を遂げた国のひとつとなった。以前に経済の中心をなしていた農業は産業の工業化により重要度が低下した。現在では工業はGDPの46%、輸出額の80%、雇用の29%を担っている。近年のアイルランド経済の力強い成長は外資企業・多国籍企業や輸出が寄与するところが大きいが、国内における個人消費および建設、設備投資による影響も見逃せない。好調な経済に伴いここ数年のインフレ率は4%から5%で推移していたが、2005年度には2.3%に低下した。アイルランド国民の関心を集めている住居価格は2005年2月で251,281ユーロだった。失業率は低水準を維持しており収入も順調に増加している。世界の主要都市における調査によると、アイルランドの首都ダブリンは22番目に物価の高い都市であり、2003年度の調査から2位上昇している。アイルランドはEUの中でルクセンブルクに次いで1人あたりGDPが大きい国であり、これは世界においても4位に位置している。アイルランドとルクセンブルクはタックスヘイブンであるため、GDPは国民所得に対して過大評価されている。OECD統計によると、2020年の購買平価説に基づくアイルランドの一人当たり所得はおよそ22837米ドルである。 2007年度より、経済の急激な落ち込みが始まり、特に不動産価格の急激な下落が記録されている。同年より起きた世界的なサブプライム問題によって多くの銀行・証券会社などが巨額な損失を発表しており、また2008年には経済が2.5%程度縮小(見込み)、失業率が前年の5%から10.4%に上昇するなどユーロ圏でも特に深刻な不況に陥っている。 アイルランドは2010年に正式に不況から脱却したが、アイルランドの米国多国籍企業からの輸出の増加に助けられたからである。しかし、民間銀行の債務を政府が保証したことで公的な借入コストが上昇したため、アイルランド政府は、欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)、イギリス、スウェーデン、デンマークの二国間融資を受け、850億ユーロの支援プログラムを受け入れた。3年間の縮小に続き、2011年には0.7%、2012年には0.9%の経済成長となった。2012年の失業率は14.7%で、最近の移民の18.5%を含む。2016年3月の中央統計局の発表によると、失業率は8.6%で、2012年2月のピーク時の15.1%から低下した。アイルランド国勢調査(2011年)によると、2008年から2013年までのアイルランドからの純移民の総数は120,100人で、総人口の約2.6%を占めている。移住者の3分の1は15歳から24歳であった。 2013年12月15日、EU-IMFの支援プログラムを終了した。予算削減、改革、資産売却を実施したことで、アイルランドは再び債券市場にでるようになった。それ以来、アイルランドは記録的な金利で長期債を売却することができた。しかし、アイルランドの信用バブルの安定化には、民間部門のバランスシートから公的部門のバランスシートへ、銀行の救済措置や公的赤字支出を通じた多額の債務移転が必要となった。この債務の移転は、2017年のアイルランドの公共部門の債務と民間部門の債務の両方がEU-28/OECDの中で最も高いレベルにあることを意味している。 アイルランドはアメリカ合衆国の多国籍企業主導の経済を成長させながら、国内の民間部門のデレバレッジを継続している。2009年から2016年にかけて、米国の法人税の逆転取引(主に製薬企業)の主な取引先となり、ピーク時には1,600億ドルのアラガン/ファイザーの逆転取引(世界最大の逆転取引で、アイルランドのGNIの約85%を占める)が阻止された。アイルランドはまた、米国の「ビッグキャップ」テクノロジー多国籍企業(Apple、Google、マイクロソフト、Facebookなど)にとって最大の海外拠点となり、2015年の国内総生産成長率は26.3%(国民総所得成長率は18.7%)となった。 1987年には、国際金融サービスセンター(IFSC)と呼ばれる10%の低税率の「経済特区」が創設され、アイルランド経済は一変した。1999年には、アイルランドの法人税が32%から12.5%に引き下げられ、国全体が事実上「IFSC化」された(アイルランドの「低税モデル」の誕生)。これにより、アイルランドの魅力的な法人税率と独自の法人税制度を利用しようとするハイテク、ライフサイエンス、金融サービス産業から米国の多国籍企業を誘致し、農業経済から知識経済への移行を加速させた。 外国企業がアイルランドで使用している「多国籍税制」は、アイルランドの経済統計を大きく歪めており、2015年の「レプラコーン経済学」のGDP/GNP成長率で最高潮に達した(2015年にAppleがアイルランドの子会社をリストラしたため)。アイルランド中央銀行はこうした歪みを取り除くために、「修正GNI」(またはGNI*)という新しい統計を導入した。GNI*はGDPを30%下回っている(つまり、GDPはGNIの143%)。 国際金融サービスセンター(IFSC)が設立されてから、アイルランドは強力で持続的な経済成長を遂げ、消費者の借入と支出、建設と投資が劇的に増加し、ケルトの虎の時代として知られるようになった。2007年までに、アイルランドの民間部門の債務は経済協力開発機構(OECD)で最も高く、家計の可処分所得に対する債務の比率は190%に達していた。ケルトの虎時代にアイルランドの銀行が国内の預金ベース(ピーク時には180%以上)を上回る借入を可能にすることで、アイルランドの債務の積み上げを支援してきたグローバル資本市場は、世界金融危機の際に支援を撤回した。債務超過のアイルランドの信用システムからの撤退は、アイルランドの不動産の大幅な補正を引き起こし、その後アイルランドの銀行システムの崩壊につながることになる。 アイルランドの「低税」経済の成功は、「低課税地域」であるという非難に直面され、「ブラックリスト入り」につながった。深刻な課題は、アイルランドの多国籍企業の税制優遇を対象にしているアメリカ合衆国の2017年税制改革法の成立である。欧州連合の2018年デジタル販売税(DST)は、アメリカのテクノロジー企業によるアイルランドの多国籍企業の税制優遇を制限しようとしているとも見られている。 アイルランドの輸出部門は多国籍企業が大半を占めているが、それ以外の国からの輸出も国民所得に大きく貢献している。アイルランドに拠点を置く多国籍企業の活動により、アイルランドは医薬品、医療機器、ソフトウェア関連の商品やサービスの世界最大の輸出国のひとつとなっている。アイルランドの輸出は、ライアンエアー、ケリー・グループ、スマーフィット・カッパなどのアイルランドの大手企業の活動や鉱物資源の輸出にも関係している。アイルランドは亜鉛精鉱の生産量では第7位、鉛精鉱の生産量では第12位である。また、石膏、石灰岩、銅、銀、金、重晶石、苦灰石などの鉱床も多く存在している。アイルランドの観光産業は国内総生産の約4%を占め、重要な雇用源となっている。 その他の物品輸出は、農業用食品、家畜、牛肉、乳製品、アルミニウムなどがある。アイルランドの主な輸入品には、情報処理機器、化学品、石油、繊維品、衣料品などがある。アイルランド金融サービスセンターに拠点を置く多国籍企業が提供する金融サービスもアイルランドの輸出に貢献している。輸出(894億ユーロ)と輸入(455億ユーロ)の差により、2010年の年間貿易黒字は439億ユーロとなり、これは欧州連合加盟国の中で最も高い貿易黒字となっている。 欧州連合は、輸出の57.9%、輸入の60.7%を占め、最大の貿易相手国である。欧州連合域内で最も重要な貿易相手国はイギリスで、輸出額の15.4%、輸入額の32.1%を占めている。欧州連合域外では、2010年の輸出額で23.2%、輸入額で14.1%を占めている。 ESB、Bord Gáis Energy、SSE Airtricityはアイルランドの3大電力・ガス供給会社あり、ガスの実証埋蔵量は198億2,000万mである。天然ガスの採掘は以前、キンセール・ヘッドで枯渇するまで行われていた。コリブのガス田は2013/14年に稼働する予定であった。2012年には、バリーロー油田には最大16億バレルの石油が埋蔵されていることが確認されており、そのうち1億6000万~6億バレルが回収可能であるとされている。これは、2015/16 年に開発された場合、最大13年間、アイルランドの全エネルギー需要を賄うことができる。再生可能で持続可能なエネルギー、特に風力発電の利用を増やすために大きな努力がなされており、3,000メガワットの風力発電所が建設されており、中には輸出を目的としたものも存在する。アイルランド持続可能エネルギー庁(SEAI)は、アイルランドの2011年のエネルギー需要の6.5%が再生可能エネルギーで生産されていると推定している。また、SEAIはアイルランドのエネルギー効率の向上を報告しており、2005年から2013年までの間に一軒あたりの二酸化炭素排出量を28%削減している。 国土の16%が農地、47.7%が牧場並びに牧草地として利用されている。農業従事者は16万人であり、生産年齢人口(国民の67.5%)のうち、5.7%を占める(以上2003年時点の統計値)。アイルランド経済は貿易依存度が高く、同時に農業、特に牧畜業に依存している。しかし、貿易(輸出品目)の上位には農業生産物が登場せず、国内消費を満たす生産水準に留まっている。 主要穀物では、オオムギ(116万トン、以下2004年の統計値)、次いでコムギ(85万トン)、第三位に馬鈴薯(50万トン)が並ぶ。野菜類ではテンサイ(砂糖大根、150万トン)が飛び抜けており、次いでキャベツ(5万トン)の栽培が盛ん。畜産ではウシ(704万頭)が中核となり、次いで羊(485万頭)、ニワトリ(1280万羽)である。このため、畜産品である牛乳の生産(550万トン)は世界シェアの1.1%に達する。 アイルランドの鉱業は鉛と亜鉛を中核とする。2003年時点で鉛鉱の生産は5万トンで世界シェア9位、亜鉛鉱は25万トンで同8位である。ミーズ県ナヴァンに位置するタラ(Tara)鉱山はヨーロッパ最大の鉛・亜鉛鉱山。他にキルケニー県とティペラリー県にも鉱山が点在する。いずれも海水を起源とする層間水が石灰岩層にトラップされて形成されたアルパイン型鉱床の代表例である。これ以外の金属資源としては銀もわずかに産出する。天然ガスを生産しているが、消費量の数%をまかなうに過ぎない。無煙炭はほぼ枯渇している。 ダブリン、シャノン、コークの3つの主要国際空港からは、定期便やチャーター便が就航しており、ヨーロッパや大陸間を結んでいる。ロンドン - ダブリン間は世界で9番目に利用者が多い国際航空路線であり、2017年には14,500便が就航しており、ヨーロッパでも最も利用者が多い国際航空路線となっている。2015年には450万人がこの路線を利用し、当時は世界第2位だった。エアリンガスはアイルランドのフラッグキャリアであるが、ライアンエアーがアイルランド最大の航空会社であるとともにヨーロッパ最大の格安航空会社であり、旅客数では第2位、国際線旅客数では世界最大である。 鉄道はアイルランド国鉄が提供しており、国内の都市間鉄道、通勤鉄道、貨物鉄道のすべてを運営している。ダブリンは鉄道網の中心地で、ダブリン・ヒューストン駅とダブリン・コノリー駅の2つの主要駅があり、国内の都市や主要都市を結んでいる。北アイルランド鉄道と共同で運行しているエンタープライズは、ダブリンとベルファストを結んでいる。アイルランドの主要路線は、ヨーロッパでは少数派の1,600mmの軌間で運行されている。また、ダブリンの海岸沿いを北から南へ結んでいるダブリン高速輸送(DART)は、日本の東急車輛製造(現:総合車両製作所)が手掛けており、初めてヨーロッパへ輸出された日本企業製の電車である。他にも、大韓民国の現代ロテムと共同で高速鉄道の車両を手がけている。 高速道路、国道、国道二次道路はアイルランド交通インフラストラクチャー社が管理しており、地方道路はそれぞれの地域の地方自治体が管理している。道路網は主に首都に集中しているが、高速道路はコーク、リムリック、ウォーターフォード、ゴールウェイなどアイルランドの他の主要都市と接続している。 ダブリンには、イーストリンクやウェストリンクの有料道路、ダブリンポートトンネルなどが通っている。首都外ではコークのリー川の下にあるジャック・リンチ・トンネルとシャノン川の下にあるリムリック・トンネルなど主要なトンネルがある。 アイルランドの人口は2022年国勢調査の予備調査によると5,123,536人となり、前回の2016年から8%増加している。また人口が500万人を突破したのは1851年以来となる。2011年には、アイルランドの出生率は欧州連合で最も高かった(人口1,000人あたり16人)。2014年の36.3%の出生が未婚女性だった。2002年から2006年の間の年間人口増加率は2%を超えており、これは自然増加率と移民の増加率が高かったためである。出生率は、その後の2006年から2011年までの間に幾分低下し、年平均1.6%の変化率となった。2017年の合計特殊出生率は女性1人当たり1.8人と推定され、置換率2.1人を下回ったが、1850年に女性1人当たり4.2人という高水準の出生率を大幅に下回ったままである。2018年のアイルランド人の年齢の中央値は37.1歳だった。 遺伝学的研究によると、最古の入植者は、最近の氷河期に続いてイベリアから移住してきたと考えられている。 中石器時代、新石器時代、青銅器時代の後、移民はケルト語と文化を導入した。後者の2つの時代からの移民は、今でもほとんどのアイルランド人の遺伝的遺産を代表している。やがてゲール人の伝統が拡大し、時を経て支配的な形となった。 現在のアイルランド人は、ゲール人、ノルド人、アングロノルマン人、フランス人、イギリス人の祖先を組み合わせたものであると言っても良い。 2016年国勢調査の時点で、非アイルランド人の人口は535,475人と記録されている。これは2011年国勢調査の54万4,357人から2%の減少となっている。非アイルランド国籍者数の上位5位は、それぞれポーランド(122,515人)、イギリス(103,113人)、リトアニア(36,552人)、ルーマニア(29,186人)、ラトビア(19,933人)となっている。2011年と比較すると、イギリス国籍、ポーランド国籍、リトアニア国籍、ラトビア国籍は減少した。2016年のアイルランド以外の国籍の上位10位には、新たにブラジル(13,640人)、スペイン(12,112人)、イタリア(11,732人)、フランス(11,661人)の4つの国籍が加わった。また、2018年の日本国籍者の総人口は2,596人である。 憲法で第1公用語はアイルランド語、第2公用語は英語と規定されているが、一部を除くほとんどの地域では日常的には英語(アイルランド英語)が使われている。アイルランド固有の言語であるアイルランド語は、イギリスの植民地となった16世紀以降、約400年に渡る支配により英語にとって代わられ衰退した。その後、19世紀以降の独立運動の中でアイルランド語の復興が図られてきた。近年は政府による積極的なアイルランド語復興政策が実行されている。そのため、政府による文書や街中の標識などもアイルランド語と英語の二ヶ国語で表示され、2007年にはアイルランド語は欧州連合の公用語に追加され、登録された国の公用語も英語ではなくアイルランド語になった。 2006年の国勢調査では、国民の10%がアイルランド語を学校外においても日常的に使用し、15歳以上の39%が自らをアイルランド語話者であると分類している。日常的にアイルランド語が話されている数少ない地域であるゲールタハト地方においては、アイルランド語のコミュニティ保護のための強力な保護政策が取られている。アイルランド語復興政策の影響で、2011年には約94,000人がアイルランド語を日常的に用いており、130万人が学校外でアイルランド語を用いているという統計 があり、徐々にアイルランド語が復権してきている。テレビやラジオなどでもアイルランド語による放送が行われている。 移民の結果、アイルランドでは英語に次いでポーランド語が最も広く話されており、アイルランド語は3番目に多く話されている。その他の中央ヨーロッパの言語(チェコ語、ハンガリー語、スロバキア語)やバルト三国の言語(リトアニア語、ラトビア語)も日常的に話されている。アイルランドで話されている他の言語には、アイルランドの旅行者が話すシェルタ語や、ドニゴールのアルスター・スコットランド人が話すスコッツ語の方言などがある。ほとんどの中等教育学校の生徒は、1つまたは 2つの外国語を学ぶことを選択する。中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートと高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートでは、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を選択することができ、リービング・サーティフィケートではアラビア語、日本語、ロシア語も選択することができる。中等教育学校では、古代ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語を選択できる学校も存在する。リービング・サーティフィケートの生徒にはアイルランド語が必修であるが、学習上の問題や11歳以降の入国など、状況によっては免除される場合もある。また、アイルランド語のみで教育をする学校もあるほか、公務員試験でもアイルランド語の試験が課せられる。 婚姻の際には婚姻後の氏として、自己の氏を称すること(夫婦別姓)、配偶者の氏を称すること(夫婦同姓)、結合氏を称すること、自己の氏をミドルネームとし配偶者の氏を称すること、からの選択が可能である。 アイルランドは国家として宗教に中立な立場を取っており、宗教の自由が憲法で定められている。キリスト教が優勢な宗教で、アイルランドは依然としてカトリックが優勢な国だが、国勢調査でカトリックである人口の割合は、2011年の国勢調査では84.2%だったのが、直近の2016年国勢調査では78.3%にまで減少している。2016年国勢調査のその他の結果では、プロテスタントが4.2%、正教が1.3%、イスラム教が1.3%、無宗教が9.8%となっている。ジョージタウン大学の調査によると、2000年以前は欧米諸国の中でも特にミサの定期的な出席率が高い国だったという。1日の出席率が13%であったのに対し、1週間の出席率は1990年の81%から2006年には48%に減少しているが、減少は安定化していると報告されている。2011年には、ダブリンの毎週のミサの出席率はわずか18%と報告され、若い世代ではさらに低くなっている。 アイルランド聖公会は、人口の2.7%を占める第2位のキリスト教宗派である。20世紀を通して減少したが、他の小規模なキリスト教宗派と同様に、21世紀初頭には増加した。プロテスタントの主要な宗派は、長老派教会とメソジスト教会である。移民はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の人口増加に貢献しており、1996年にはダブリンのクロンスキーにモスクが出来た。割合で見ると、正統派キリスト教とイスラム教が最も早く成長した宗教で、それぞれ100%と70%の増加を記録している。 アイルランドの守護聖人は、聖パトリック、聖ブリギット、聖コルンバだが、一般的に守護聖人として認識されているのは聖パトリックだけである。聖パトリックの祝日はアイルランドの国慶節として3月17日にアイルランド国内外でも祝われ、パレードなどが行われている。 他のカトリック系欧州諸国と同様に、アイルランドも20世紀後半には合法的な世俗化の時代を迎えた。1972年、特定の宗教団体を名指ししていた憲法の条文は、修正第5条の国民投票で削除された。「国家は、公共の礼拝の敬礼が全能の神によるものであることを認める。国家は、神の御名を敬愛し、宗教を尊重し、尊重しなければならない」と定められている憲法第44条は残っている。また、同条は信教の自由を定め、いかなる宗教の寄進も禁止し、宗教的差別を禁止し、宗教学校と非宗教学校を非偏見的に扱うことを国家に要求している。 宗教学は2001年に中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートの選択科目として導入された。多くの学校は宗教団体によって運営されているが、若い世代の間では世俗主義的な傾向が生じている。 アイルランドには初等教育、中等教育、高等教育の3つのレベルの教育がある。教育制度の大部分は、教育・技能大臣を通じた政府の指導の下にある。認可された初等・中等教育機関は、関係当局が定めたカリキュラムを遵守しなければならない。6歳から15歳までは義務教育であり、18歳までは中等教育の最初の3年間を修了しなければならず、その中には中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートも含まれている。 アイルランドには約3,300の初等教育機関(小学校)がある。大多数(92%)はカトリック教会の保護下にある。宗教団体が運営する学校であっても、公的な資金と承認を受けている学校は、宗教やその欠如に基づいて生徒を差別することはできない。特定の宗教の生徒は、学校の定員に達している場合には、学校の理念を共有していない生徒よりも先に受け入れられる可能性がある。 高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートは、2年間の学習の後に受験される中等教育機関の最終試験である。高等教育を受けようとする者は通常この試験を受験するが、一般的には第3期の教育への入学は、受験する6つの科目の中で最も成績の良い科目の成績に応じて、競争制で行われる。第3期の教育は、少なくとも38の高等教育機関によって授与される。これには、総合大学10校に加え、高等教育・研修賞審議会が指定するその他の高等教育機関が含まれる。 経済協力開発機構(OECD)が調整している留学生評価プログラムでは、2012年の評価で、アイルランドはOECD加盟国の中で読解力が4番目に高く、理科が9番目に高く、数学が13番目に高いと評価されている。2012年には、アイルランドの15歳の学生の読み書き能力は、欧州連合で2番目に高い水準にあった。また、アイルランドの一人当たりの大学数は世界上位の500校中0.747校で、世界第8位にランクされている。アイルランドでは、初等教育、中等教育、高等教育(大学等)はすべてのEU市民に無料で提供されている。学生サービスや試験の費用はかかる。 また、2012年の時点でアイルランドの人口の37%が大学を含む高等教育の学位を持っており、世界で高い割合を誇っている。 アイルランドの医療は、公的医療機関と民間医療機関の両方から提供されている。一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されており、公的セクターがプライマリケア診療所を運営している。利用には自己負担が発生する。民間医療保険市場も存在し、加入率は44.6%であった(2013年)。保健大臣が保健サービス全般の政策を決定する責任を負っている。アイルランドの居住者は、保健サービス執行部が管理し、一般の税金で賄われている公的医療制度を利用して医療を受ける権利がある。特定の医療を受けるためには、所得、年齢、病気、障害の程度によっては、助成金を支払わなければならない場合がある。出産サービスは無料で、生後6ヶ月までの子どもの手当ても無料である。救急医療は、病院の救急部に来院した患者に提供されるが、緊急ではない状況で救急科を受診した場合、総合診療医からの紹介ではない場合は100ユーロの料金が発生することがある。状況によっては、この料金が支払われない場合や免除される場合もある。 欧州健康保険証を持っている者は誰でも、医療サービス執行機関で治療を無料で受けることができる。外来患者も無料である。しかし、中央値以上の所得を持つ患者の大多数は、補助的な入院費を支払わなければならない。 2016年のアイルランドの平均寿命は81.8歳(OECD)で、男性は79.9歳、女性は83.6歳となっている。アイルランドの出生率は欧州連合で最も高く(人口1,000人あたり16.8人、EU平均は10.7人)、乳幼児死亡率は非常に低く(出生数1,000人あたり3.5人)、またアイルランドの医療制度は、2012年には欧州34カ国中13位にランクされた。民間医療調査機関が作成した「欧州健康消費者指数」によると、アイルランドの医療制度は、2012年には欧州34カ国中13位にランクされている。同じ報告書では、アイルランドの医療制度は、健康面では8番目に優れているが、ヨーロッパでは21番目にアクセスしやすい制度にすぎないと評価されている。 2019年の年間犯罪発生総件数は、225,103件で前年比5%の増加となっている。2018年と比べ、強盗や侵入窃盗、スリやひったくりなどの財産犯は総じて減少傾向を示しているものの、車上狙い、自転車盗、強制性交、薬物・銃器犯罪、詐欺・横領等の犯罪は増加傾向を示している。 首都ダブリン市内及び近郊では、ギャング団同士の抗争とみられる銃撃・殺人事件が発生しており、警察は武装部隊による警戒活動を強化している。 1922年に創設されたガルダ・シーハーナ(Garda Síochána)と呼ばれているアイルランド警察は、アイルランドの国家警察機関である。通称は、単数形で「Garda(ガルダ)」、複数形で「Gardaí(ガルディー」)と呼ぶ部隊の長はアイルランド政府が任命するガルダ委員会が務めている。本部はダブリンのフェニックス・パーク(大統領邸もある)にある。 アイルランド放送協会 (RTÉ) は、アイルランドの公共放送局である。RTÉは、RTÉ OneとRTÉ2の2つの国営テレビ局を受信料および広告料で放送している。他の民営テレビ局は、ヴァージン・メディア・ワン、ヴァージン・メディア・ツー、ヴァージン・メディアー・スリー、TG4で、後者はアイルランド語話者向けの公共放送局である。これらのチャンネルはすべて、無料で視聴できる地上デジタル放送のSaorviewで視聴することができる。その他のチャンネルとしては、RTÉ News Now、RTÉjr、RTÉ One +1などがある。また、ヴァージン・メディアやSkyなどの有料放送局も放送されている。 全国には多くの地方局やローカルラジオ局がある。ある調査によると、成人の85%が、全国放送局、地方放送局、ローカル放送局の混合局を日常的に聞いていることが明らかになっている。RTÉラジオは、ラジオ1、2fm、Lyric fm、RnaGの4つの全国放送局を放送している。 アイルランドには伝統的に競争力のある活字メディアがあり、日刊の全国紙と週刊の地方紙、さらには日曜版の全国紙に分かれている。イギリスの出版物の強さはアイルランドの印刷メディアの特徴であり、イギリスが発行している新聞や雑誌を幅広く取り揃えている。 ユーロスタットの報告によると、欧州連合平均の79%に対し、2013年には82%のアイルランドの世帯がインターネットに接続していたが、ブロードバンドに接続していたのは67%にとどまっていた。 古くはケルト人による文化が栄えローマ時代の書物などにその一端が記されている。6世紀以後には『ケルズの書』に代表されるようなカトリック信仰に基づくキリスト教文化が広まった。 アイルランド料理は、伝統的に肉や乳製品をベースに、野菜や魚介類を加えたものだった。また、牧畜業が盛んなため、乳製品や肉、その加工食品が多く食されている。ジャガイモは多くの食事に添えられている。 人気のあるアイルランド料理の例としては、ボクスティ、コルカノン、コードル、アイリッシュシチュー、ベーコン・アンド・キャベツなどがある。アイルランドのフル・ブレックファストは、一般的にラッシャー(薄切りベーコン)、卵、ソーセージ、ホワイトプディング(英語版)、ブラックプディング、フライドトマト(英語版)などの揚げ物やグリル料理で構成されている。近年の経済発展と共に海外の食文化も取り入れられ、伝統料理と組み合わせた多くの創作料理で外食産業を賑わせている。 島国にもかかわらず魚の料理は少ないが、西部に行くと魚介類の料理が増え、新鮮な野菜や魚、牡蠣、ムール貝などの貝類を使った料理がある。特に貝類は、全国の海岸線から良質な貝類が手に入ることから人気が高まっている。最も人気のある魚はサーモンとタラである。最近では全国各地で作られるようになった手作りチーズの種類も豊富になってきている。伝統的なパンには、ソーダブレッドがある。バームブラックは、サルタナとレーズンを加えた酵母パンで、伝統的にハロウィンに食べられている。 アイルランド人の間で日常的に飲まれている飲み物には、紅茶やコーヒーがある。アルコール飲料には、ポティーンやアーサー・ギネスの醸造所であるダブリンのセント・ジェームズ・ゲートで生まれた辛口スタウトのギネスなどがある。アイリッシュ・ウイスキーも人気があり、シングル・モルト、シングル・グレーン、ブレンデッド ウイスキーなど、さまざまな形で提供されている。 現在の文字が導入される以前は、ケルト神話として残る神話・英雄伝説を扱う口承文学が栄えた。その後のアイルランドの文学にはアイルランド語で書かれたものと、英語で書かれたアングロ・アイリッシュ文学がある。イギリスの植民地時代、連合王国時代にはアイルランド出身の小説家により多くの優れた小説が英語で執筆された。この中には、1726年の小説『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、1890年の小説『ドリアン・グレイの肖像』、1891年の戯曲『サロメ』(仏語)のオスカー・ワイルドなどがいる。他にも18世紀に重要な作家で、最も注目された作品には、『トリストラム・シャンディ』のローレンス・スターンや、オリヴァー・ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』などがある。19世紀には、マリア・エッジワース、ジョン・バニム、ジェラルド・グリフィン、チャールズ・キッカム、ウィリアム・カールトン、ジョージ・ムーア、サマヴィル&ロスなど、多くのアイルランドの小説家が誕生した。ブラム・ストーカーは、1897年の小説『ドラキュラ』の作者として最もよく知られている。 ジェイムズ・ジョイス(1882年 - 1941年)は、ダブリンを舞台にしたオデュッセイアの解釈である最も有名な1922年の作品の『ユリシーズ』は、20世紀の欧米文学に大きな影響を与えた。 20世紀にはパトリシア・リンチが児童文学作家として活躍し、21世紀初頭にはオーエン・コルファーの作品がこのジャンルでニューヨーク・タイムズのベストセラーになった。多くのアイルランド人作家が好む短編小説のジャンルでは、フランク・オコナー、ウィリアム・トレヴァーなどがいた。アイルランドの詩人には、パトリック・カヴァナー、トーマス・マッカーシー、ダーモット・ボルジャー、ノーベル文学賞受賞者のウィリアム・バトラー・イェイツ、シェイマス・ヒーニー(北アイルランド生まれ、ダブリン在住)などがいる。 アイルランド演劇の歴史は17世紀初頭のダブリンでのイギリス統治の拡大に始まり、それ以来、アイルランドはイギリス演劇に大きく貢献してきた。初期の歴史では、アイルランドの演劇は政治的な目的のために上演される傾向があったが、多くの劇場が開場し、より多様な娯楽が上演されるようになった。ダブリンに本拠地を置く劇場の多くはロンドンの劇場とつながりを持ち、イギリスの作品がアイルランドの舞台に登場することもしばしばあった。しかし、ほとんどのアイルランド人劇作家は、自分たちの地位を確立するために海外に出ていった。18世紀には、オリヴァー・ゴールドスミスとリチャード・ブリンズリー・シェリダンが、当時ロンドンの舞台で最も成功した劇作家の一人だった。20世紀に入ると、アイルランド演劇の上演や作家、演出家、パフォーマーの育成を目的とした劇団が設立され、多くのアイルランド人劇作家がイギリスやアメリカ合衆国ではなく、アイルランドで学び、名声を確立することができるようになった。オスカー・ワイルド、ノーベル文学賞受賞者のジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)を中心とした高い評価を得ている作家たちの伝統を受け、ショーン・オケーシーなどの劇作家が人気を博している。その他、20世紀のアイルランドの劇作家にはフランク・マクギネスなどがいる。 アイルランド出身のノーベル文学賞の受賞者として、W・B・イェーツ(1923年)、ジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)、詩人のシェイマス・ヒーニー(1995年)がいる。 アイルランドの伝統音楽はダンスの舞曲、無伴奏の叙事詩歌や抒情詩歌、移民の歌、反戦歌などがある。 近年ではポピュラー音楽の分野において多くのアーティストが世界的な成功を収めている。また、多くのイギリスのロックバンドや、ハリウッドの戦前の監督や俳優の多くをアイリッシュ系移民(英語版)が占めていた。近年のポピュラー音楽のアーティストの中ではヴァン・モリソン、ロリー・ギャラガー、ゲイリー・ムーア、シン・リジィ及びフィル・ライノット、メアリー・ブラック、シネイド・オコナー、U2、クランベリーズ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、エンヤ、ウエストライフ、ケルティック・ウーマン、ボーイゾーン、ザ・コアーズなどが世界的に有名である。ロックバンドのU2は、1976年の結成以来、全世界で1億7000万枚のアルバムを販売している。また、ノーベル平和賞候補者にも選ばれた元ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフもアイルランド出身である。 アイルランド放送協会のRTÉパフォーミング・グループのようなクラシック音楽のアンサンブルも各地に存在し、3つのオペラ組織がある。オペラ・アイルランドはダブリンでオペラを制作しており、オペラ・シアター・カンパニーは室内楽形式のオペラを国内各地で上演している。毎年10月から11月にかけてウェックスフォード・オペラ・フェスティバルも開催されている。 アイルランドは1965年からユーロビジョン・ソング・コンテストに参加している。初優勝は1970年、『All Kinds of Everything』でダナ・ローズマリー・スカロンが優勝した。その後も6回の優勝を果たしており、競合国の中では最多の優勝回数を記録している。リバーダンスは1994年のコンテスト中に幕間のパフォーマンスとして生まれた現象である。 伝統的なアイリッシュ・ダンスは、大きく分けて社交ダンスとパフォーマンス・ダンスに分けられる。さらに社交ダンスは、ケーリーとカントリー・ダンスに分けられる。アイルランドのカントリー・ダンスは、正方形に4組のカップルが並んで踊る4角形のダンスで、ケーリーは2人から16人までの様々なフォーメーションで踊るダンスである。また、この2つの形式の間には、多くの様式的な違いがある。アイルランドの社交ダンスは生きた伝統であり、特定のダンスのバリエーションは国中で見られる。場所によっては、ダンスを意図的に修正したり、新しいダンスに振り付けを加えたりすることもある。パフォーマンス・ダンスは伝統的にステップ・ダンスと呼ばれている。また、アイリッシュ・ダンスを現代風にアレンジをした「リバーダンス」の公演の世界的大成功によって、アイルランド文化への再認識も進み、現在ではケルト音楽という懐古趣味的なポピュラー音楽が1つのジャンルとして人気を博すようになった。 渦巻・組紐・動物文様などが組み合わされたケルト美術はキリスト教と融合し『ケルズの書』、『ダロウの書』などの装飾写本を生み出した。また、ケルティック・クロスなどのキリスト教装飾もある。 演劇はアベイ座を中心とする文芸復興運動で、現代のアイルランド人のアイデンティティ形成に大きな役割を果たした。 アイルランドには、ブルー・ナ・ボーニャ、プルナブロン・ドルメン、キャッスルトレンジ・ストーン、トゥロエ・ストーン、ドロンベッグ・ストーン・サークルなどの新石器時代の建築物が豊富に残っており、様々な状態で保存されている。ローマ人がアイルランドを征服しなかったため、グレコ・ローマ時代の建築物は非常に稀である。その代わりに、鉄器時代の建築が長く続いていた。アイルランドの円形の塔は、中世前期の時代に生まれた。 キリスト教では、クロンマクノイズ、シュケリッグ・ヴィヒル、スカッタリー島などのシンプルな修道院が導入された。これらのダブル・モナステリーとエジプトのコプト教徒の修道院の間には、様式的な類似性が指摘されている。ゲール人の王や貴族らは、リングフォートや人工要塞島を占拠していた。12世紀の教会改革は、シトー会を経由して大陸の影響を刺激し、ロマネスク様式のメリフォント、ボイル、ティンテルンの修道院があった。ゲール人の集落は、ケルズのような修道院の前身の町に限定されていたが、現在の通りのパターンは、元々の円形の集落の輪郭をある程度保存している。大規模な都市部の集落が形成されたのは、ヴァイキングの侵略の時代になってからである。主要なヒベルノ=ノース・ロングフォートは海岸沿いにあったが、その名を冠したロングフォードのような内陸の河岸集落もあった。 12世紀後半にはアングロ=ノルマン人によってダブリン城やキルケニー城などが建設され、城壁で囲まれた計画的な交易都市の概念が導入され、封建制下では憲章の付与によって法的地位と数々の権利を得た。これらの憲章は、これらの町のデザインを具体的に規定していた。最初のものは16世紀と17世紀のプランテーション・タウンで、テューダー朝の英国王が地元の反乱を抑えるためのメカニズムとして使用されたもので、18世紀の地主タウンが続いた。現存するノルマン人が設立した計画的な町には、ドロヘダとヨールがあり、プランテーション・タウンにはポート・レーイシュとポーターリントンがあり、18世紀の計画的な町にはウェストポートとバリナスローがある。計画的な入植が、現在の国中の町の大部分を占めている。 聖パトリックのようなゴシック様式の大聖堂もまた、ノルマン人によって導入された。中世後期までには、フランシスコ会が修道院を支配し、バンラティ城のようなタワーハウスは、ゲール人やノルマン人の貴族によって建設された。多くの宗教的な建物は、修道院の解散とともに廃墟となった。維新後、エドワード・ロベット・ピアースの主導で、パッラーディオ建築とロココ、特にカントリー・ハウスがアイルランドを席巻し、国会議事堂が最も重要なものとなった。 カスタム・ハウス、フォー・コーツ、中央郵便局、キングズ・インズなどの建築物が建設され、特にダブリンでは新古典主義建築やジョージアン建築が盛んになった。カトリック解放後、聖コルマンズや聖フィンバーズなど、フランスのゴシック・リヴァイヴァル建築の影響を受けた大聖堂や教会が出現した。アイルランドといえば、長い間、茅葺き屋根のコテジが連想されてきたが、最近では趣のあるものとみなされている。 1927年にアメリカ合衆国でデザインされたターナーズ・クロスのアール・デコ教会を皮切りに、アイルランドの建築は20世紀以降、近代的で洗練された建築様式を求める国際的なトレンドに沿ったものとなっている。その他の開発には、バリーマンの再生やアダムスタウンのダブリンの都市拡張などがある。1997年にダブリン・ドックランズ開発局が設立されて以来、ダブリン・ドックランズ地区では大規模な再開発が行われ、ダブリン・コンベンション・センターやグランド・カナル劇場(現在のボード・ガシュ・エナジー劇場)などが建設された。アイルランド王立建築家協会は、国内での建築活動を規制している。 アイルランドの映画産業は、スクリーン・アイルランドによる映画産業の振興と、多額の減税措置の導入のおかげもあって、ここ数年で幾分か成長を見せている。アイルランド映画協会とプライスウォーターハウスクーパースが2008年に実施した「アイルランド視聴覚コンテンツ制作部門レビュー」によると、この部門の雇用者数は6~7年前の1,000人から6,000人を超え、その評価額は5億5,730万ユーロを超え、国内総生産の0.3%を占めている。アイルランドは英語圏であるため、ほとんどの映画は英語で製作されているが、一部または全部をアイルランド語で製作されている映画もある。 アイルランド映画委員会の支援を受け、同国の映画産業は1990年代以降、土着映画の振興や『ブレイブハート』や『プライベート・ライアン』のような国際的な作品の誘致などにより、大きく成長している。 大予算の国際的なプロダクションが国にとって貴重な存在である一方で、アイルランドのプロデューサー、監督、脚本家、クルーに技術と経験を与え、アイルランドを拠点とする才能から生まれる物語を伝える機会を創出する中心となっているのは、アイルランドの土着産業である。最も成功したアイルランド映画には、『麦の穂をゆらす風』(2006年)、『インターミッション 』(2003年)、『ドッグマン』(2004年)、『マイケル・コリンズ』(1996年)、『アンジェラの灰』(1999年)、『ザ・コミットメンツ』(1991年)、『ONCE ダブリンの街角で』(2007年)などがある。 過去には、カトリック教会の影響により、『独裁者』(1940年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)、『ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)など、多くの映画が検閲や上映禁止になっていたが、近年は上映禁止は行われていない。 アイルランドの被服文化はイギリスとの類似点が幾つか見受けられる面を持つ。同国はアラン・ジャンパー(英語版)やドニゴール・ツイード(英語版)発祥の地である。 伝統的なものにクロークの一種である「ブレイト」(brait)と呼ばれるマントなどがある。 アイルランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。ニューグレンジを含むボイン渓谷の遺跡群と、シュケリッグ・ヴィヒルである。 アイルランドではサッカーやラグビーが人気のスポーツとなっているが、ゲーリックフットボールやハーリングなどのゲーリック・ゲームズは、教育現場でも取り入れられて広く普及している。県によるゲーリックフットボールとハーリングの対抗戦は人気があり、県毎の連帯感を演出している。優勝クラブを決定する『オールアイルランド・ファイナル』は毎年大変な盛り上がりを見せる。ゲーリック・ゲームズはアマチュアスポーツであり、県代表の選手も全て職業を持っている。 アイルランド国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっている。1985年にプロサッカーリーグの『リーグ・オブ・アイルランド・プレミアディビジョン』が創設された。しかしイングランド・プレミアリーグがアイルランド国内で最も人気があるリーグとなっている。 1921年に設立されたアイルランドサッカー協会(FAI)によってサッカーアイルランド代表が構成されている。FIFAワールドカップには3度出場しており、1990年大会では初出場ながらベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権にも3度出場しており、2016年大会では初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。 アイルランド人サッカー選手の象徴としてロイ・キーンがおり、マンチェスター・ユナイテッドでは長年主将を務め非常に人気の高い選手であった。他にもロビー・キーンやダミアン・ダフ、シェイ・ギヴンなどイングランドのビッグクラブで活躍した選手は数多く存在する。 ラグビーアイルランド代表はアイルランドと北アイルランドとの合同チームとなっており、シックス・ネイションズの強豪国でもある。アイリッシュ海の両側の国で作ったラグビーのドリームチームのブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズで主将を務めたのはブライアン・オドリスコルだった。 アイリッシュダービーに代表されるアイルランドの競馬も盛んである。キルデア県のカラ競馬場とレパーズタウン競馬場で行われ、1860年代から行われているが1700年代には早くもレースが行われていた。人気のあるレース・ミーティングはゴールウェイでも開催されている。クールモアスタッドや、世界で最も成功した調教師の一人であるエイダン・オブライエンの本拠地であるバリードイル調教場などがある。アイルランドはガリレオ、モンジュー、シーザスターズなどのチャンピオン馬を輩出している。 アイルランドには全国に350以上のゴルフコースがあり、2006年のライダーカップはアイルランドで行われた。パドレイグ・ハリントン、シェーン・ローリー、ポール・マッギンリーのような国際的に成功したプロゴルファーを輩出している。 クリケットは人気スポーツの一つである。歴史は古く、18世紀後半にイギリス人によってクリケットが持ち込まれた。最初の試合は1792年に行われたという記録がある。国内競技連盟であるクリケットアイルランドは、1993年に国際クリケット評議会に加盟し、2017年には全12カ国の一つであるフルメンバーに昇格された。クリケットアイルランド代表はラグビーと同様にアイルランドと北アイルランドとの合同チームとなっている。アイルランド代表は長年による実績によって国際的な地位を獲得し、古くは1928年にインド諸島代表に勝利をしている。2007年のワールドカップでは、ジンバブエに引き分け、パキスタンに勝利し、ベスト8に進出する大躍進を遂げた。ワールドカップ後、若年層を中心にクリケット人気が爆発的に伸び、国内のクリケットクラブは300%増加したという報告もある。1999年にはワールドカップを4カ国の共催であるが、アイルランドで初開催となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アイルランド(愛: Éire、英: Ireland)は、北西ヨーロッパに位置し、北大西洋のアイルランド島の大部分を領土とする共和制国家。代替的な記述でアイルランド共和国(アイルランドきょうわこく、愛: Poblacht na hÉireann、英: Republic of Ireland)としても知られる。首都はダブリン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人口490万人のうち約4割がダブリン近郊に住んでいる。主権国家であり、北アイルランド(イギリス領)との唯一の陸地国境を共有している。大西洋に囲まれており、南にはケルト海、南東にはセント・ジョージ海峡、東にはアイリッシュ海がある。単一国家であり、議会共和制である。立法府は、下院であるドイル・エアラン(Dáil Éireann)、上院であるシャナズ・エアラン(Seanad Éireann)、そして選挙で選ばれた大統領(Uachtarán)から構成されている。政府の長は議会で選出され、大統領によって任命された首相(Taoiseach、ティーショク、英語では「Prime Minister」とは呼ばれない)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1922年に英愛条約の結果、アイルランド自由国として誕生した。1937年に新しい憲法が採択されるまでは自治領の地位にあった。「アイルランド」と名づけられ、事実上の共和制となり、選出された非執行大統領が国家元首となる。1948年のアイルランド共和国法(Republic of Ireland Act 1948)により、1949年に正式に共和国と宣言された。1955年12月、アイルランドは国際連合に加盟した。1973年には欧州連合(EU)の前身である欧州経済共同体(EEC)に加盟した。20世紀のほとんどの間、北アイルランドとの正式な関係はなかったが、1980年代から1990年代にかけて、イギリス政府とアイルランド政府は「厄介事(愛: Na Trioblóidí、英: The Troubles)」と呼ばれている北アイルランド問題の解決に向けて北アイルランドの当事者と協力した。1998年にベルファスト合意が調印されて以来、アイルランド政府と北アイルランド政府執行部は、協定によって設立された南北閣僚協議会の下で、多くの政策分野で協力してきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アイルランドは一人当たりの国内総生産が世界で最も裕福な国のトップ10にランクされており、2015年のレガタム繁栄指数によると世界で10番目に繁栄している国である。EEC加盟後、アイルランドは一連の自由主義的な経済政策を実施し、急速な経済成長を遂げた。1995年から2007年までの間、ケルトの虎時代として知られるようになり、繁栄を達成した。2005年、『エコノミスト』の調査では最も住みやすい国に選出されている。しかし、2008年に発生した未曾有の金融危機と同時に世界的な経済危機に見舞われたことで、この時期の繁栄は途絶えた。2015年にはアイルランド経済がEU内で最も急速に成長したことから、アイルランドは国際的に富と繁栄を比較するリーグテーブルを再び急速に上昇させている。例えば、2019年には、アイルランドは国連の人間開発指数によって世界で3番目の先進国にランクされた。また、報道の自由、経済的自由、市民的自由など、数々の国の指標でも高く示されている。アイルランドは欧州連合(EU)に加盟しており、欧州評議会と経済協力開発機構の設立国でもある。アイルランド政府は第二次世界大戦の直前から非同盟による軍事的中立政策をとっており、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、平和のためのパートナーシップや常設軍事協力枠組み(PESCO)には加盟している。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アイルランドの32県のうち26県で構成される1922年の国家は、「アイルランド自由国」として知られていた。1937年のアイルランド憲法で定められた正式名称はアイルランド語で「Éire([ˈeːɾjə] ( 音声ファイル)、エール)」、英語では「Ireland([ˈaɪərlənd]、アイアランド)」。国際連合や欧州連合では「Ireland」として国名登録されているが、その一方で「1948年アイルランド共和国法(The Republic of Ireland Act, 1948)」は、憲法の規定を覆す効力は無いものの「アイルランド共和国(愛: Poblacht na hÉireann、英: Republic of Ireland)」を国の記述とする旨を定めている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イギリス政府は、国家の名称として「Eire」(ダイアクリティカルマークなし)、1949年からは「Republic of Ireland(アイルランド共和国)」を使用していたが、1998年のベルファスト合意までは「Ireland(アイルランド)」という名称を使用していなかった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「Ireland」、「Éire」、「Republic of Ireland」の他に、「the Republic(共和国)」、「Southern Ireland(南アイルランド)」、「the South(南部)」とも呼ばれることがある。アイルランド共和主義では、「the Free State(自由国家)」または「the 26 Counties(26県)」と呼ばれることが多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語では「アイルランド」と「アイルランド共和国」の両方が使われており、日本国外務省は公式名称である前者を用いている。アイルランド語読みの「エール」と呼ぶこともある。漢字による当て字は愛蘭土で、愛と略す。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アイルランドの原住民は中石器時代の狩猟採集民であり、石器を使用していた。紀元前3000年頃には青銅器時代へと進化し、穀物を育て、家畜を飼育し、武器や道具、青銅製の宝飾品を作っていた。紀元前2000年の初め、大きな石造りの神社や墓(巨石)を建て、今でもアイルランドの風景の中で見ることができる。紀元前1世紀には、ピクト人の支配下にあり、アイルランドの伝承ではフィル・ヴォルグとして記述されている新石器時代の人々のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "スコットランドの名前は、「アイルランド」を意味するラテン語の「Scotus」(複数形は「Scoti」)に由来している。これは、ローマ人が当初「スコティア(Scotia)」(「Scotus」から派生した形)と呼んでいたアイルランドのゲール人入植者のことを指す。現在のスコットランドを植民地化したアイルランド人は「スコティ(Scoti)」と呼ばれていた。帝国末期のローマ人は、現在のスコットランドを指して「カレドニア(Caledonia)」という名前を使っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最初のケルト人は紀元前1600年頃に到着し、ゲーリック・アイルランド(英語版)を建国した。政治的にケルト人がアイルランドをレンスター、マンスター、アルスター、コノートの4つの地方に分けた。到着する前のアイルランド社会の基本行政区画はトゥア(Tuatha、小王国)であり、それぞれの王国は人口50万人未満の人口に対し約150トゥアと非常に小さいものだった。領土全体は上王と呼ばれる君主に支配されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "伝統的な「アイルランドの最高王」に任命された人々の伝統的な一覧は数千年前、紀元前2千年紀の半ばまでさかのぼるが、最初の部分は神話的なものである。どの時点で歴史上の人物に言及し始めたのかは定かではなく、これらの人物がどの時点で後の意味での「最高王」と呼ばれるようになったのかも定かではない。この社会構造は、ケルト人の生活様式に適応したもので、比較的小規模で自律的な部族単位で組織される傾向があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『四人の主人の年鑑(愛: Annala Rioghachta Éireann、英: Annals of the Four Masters)』または『四人の主人によるアイルランド王国の年鑑』は、アイルランドの歴史の年代記である。紀元前2242年から西暦1616年の間の日付が記録されているが、最も古い日付は紀元前550年頃だと考えられている。1632年から1636年にかけて、ドニゴール県のフランシスコ会修道院で収集された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ベルティナ(愛: Beltane または Bealtaine、良い火)は、古代アイルランドの祝日で、5月1日に祝われていた。ケルト人にとってベルティナは夏の牧畜期の始まりで、牛の群れが夏の牧草地や山の牧草地に連れて行かれた。現代のアイルランド語では「Mi na Bealtaine」は、5月を意味する。多くの場合、5月のことを「Bealtaine」と略し、休日を「Là Bealtaine」として知られている。休日の主な活動の一つは、ベルティナの前夜(Oidhche Bhealtaine)の儀式と政治的な意味合いを持つ山や丘での焚き火の点火だった。現代のスコットランドのゲール語では、ベルティナの黄色の日(Oidhche Bhealtaine)だけが5月の初日を表すのに使われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スコットランドの大司教であり宣教師であった聖パトリック(384年 - 461年)は、キリスト教を布教するためにアイルランドに上陸した。王家の中で重要な改宗を行い、修道学校を通じ、文字(ラテン語)を導入した。聖パトリックの死亡時には、アイルランドのエリートはすでに識字率が高く、自分たちの歴史を文字で記録していた。アイルランドはほぼキリスト教圏のみならず、学問と文化の中心地となったが、この遺産のほとんどは9世紀と10世紀のヴァイキングの侵入で破壊された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "8世紀末頃からノルマン人(ヴァイキング)の侵入が始まった。10世紀末、ダルカッシャン(英語版)と呼ばれる小さな国の王ブライアン・ボルは、より大きな隣国を征服し、アイルランドの南半分で最も強力な王となった。しかし、レンスター王のモール・ モルダは、彼に反旗を翻すようになり、ダブリンのヴァイキング王のシトリック・シルケンベアード と同盟を結び、オークニー諸島やマン島のヴァイキングの助けを得た。1014年にダブリン近郊のクロンターフの戦い(英語版)ではヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1169年、リチャード・ド・クレア(ストロングボウとして知られている)は、ダーマット・マクモローやウェールズやイングランドからのカンブロ・ノルマン人の一団とともにウォーターフォード近郊に到着し、強制的に入植させられた。アイルランドで最も悪名高い裏切り者として知られるマクモローは、レンスター王として追放され、ヘンリー2世を招いて玉座奪還の手助けをしてもらった。その後の侵略により、ヘンリーがアイルランド卿となり、8世紀もののイギリス支配が始まった。1300年までにノルマン人は国の大部分を支配していたが、中央政府がなかったため、効果的に征服することができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1350年からは、カンブロ・ノルマン人が使用していた武器の多くを奪い取り、戦術の一部を学んだアイルランドの酋長らが領土を奪還し始めた。1360年までに、ノルマン人の入植者のほとんどはアイルランドの法律に避難し、島の原住民の習慣を、音楽、詩、文学、服装を採用し、アイルランド人よりもアイルランド人として知られるようになるまでになった(ラテン語の「Hibernis Ipsis Hiberniores」から) という事実は、イギリス議会が島の植民地化に対する将来の利益への潜在的な脅威であると考えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このため、1366年にアイルランド卿の衰退に対処するために、キルケニー憲章を批准した。この憲章では、イギリス人入植者とアイルランド人との間の族外婚を禁止し、ゲール語や習慣の使用を禁止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1534年、イングランドのヘンリー8世は教皇の権威を認めることを拒否し、イングランド議会を説得して教皇をイングランド国教会の長として認めさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アイルランドにも同様の政策を課そうとし、1536年にはローマへのアピールやローマ教皇への支払いを禁止する側面が広がった。1537年から1541年にかけて、多くの僧院が弾圧され、その財産が没収された。しかし、国王が王権を持たないアイルランドの権限下にある地域では、ほとんどの住民はその変化を無視していた。1553年に王位を継承したヘンリーの娘、メアリー1世はイングランドとアイルランドの両国で古い宗教の復活に努めた熱烈なカトリック教徒で、アイルランドを支配するにはイングランドの植民地を導入するのが最善の方法だと確信していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1556年にアイルランドの領土を没収し、イギリス人入植者を招き、借地人や使用人をアイルランドに連れてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1558年に後を継いだメアリー1世の異母妹エリザベス1世は、より宗派的な態度を示し、アイルランドの大司教や宗教者たちが処刑された。この迫害により、アイルランドは、そしてカトリックにとどまっていたアングロ・アイルランド人は、より団結するようになった。カトリックでありながら反英でもある新たな国民性の精神が芽生えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1641年のアイルランド反乱(英語版)から1649年のクロムウェルのアイルランド侵略(事実上の植民地化)までの間、島の3分の2はアイルランド・カトリック同盟によって統治されており、キルケニーで生まれたことからキルケニー同盟としても知られている。かつてひとつとして統治されていたアイルランド島と、32の県のうち26の県からなるアイルランド共和国との違いは、20世紀前半の複雑な憲法の発展の産物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで清教徒革命が起きた。これにより、1649年から1660年までの間アイルランド島を含むイングランド共和国が成立した。1660年にイングランド、スコットランド、アイルランドの王家がチャールズ2世のもとで復古した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大陸で起こった大同盟戦争の一環として、1689年から1691年にかけてウィリアマイト戦争が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1801年1月1日から1922年12月6日まで、アイルランド島はグレートブリテン及びアイルランド連合王国に属していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1845年から1849年の間に、アイルランドの人口の大多数の人々にとってはほぼ唯一の食糧となっていた作物のジャガイモは、疫病菌の侵入によって壊滅状態に陥り、ジャガイモ飢饉につながった。約100万人が餓死し、そのほとんどが家賃を払えないために家を追い出された後、道路をさまよっていた。移民は死活問題となり、イギリス、カナダ、オーストラリアなど他の国へのアイルランド人の大量移民があったが、その多くはアメリカ合衆国へ移住した。飢饉により、アイルランドの人口は死亡と移民により、1841年の820万人から1901年には450万人に減少したと推定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1916年のイースターマンデーに、イギリスからの独立を目指して共和党が国を支配しようとした、いわゆるイースター蜂起が起きた。この革命的な共和制の試みは1916年4月24日から4月29日の間に行われ、教師で弁護士であるパトリック・ピアースが率いるアイルランド義勇軍(英語版)の一部と、労働組合のリーダーであるジェームズ・コノリーが率いる小さなアイルランド市民軍がダブリンの街の要職に就き、そこでアイルランド共和国を宣言した。5日間の街頭戦の後、反乱軍の全面降伏が行われた。数百人が殺害され、3000人以上が逮捕され、15人が処刑された。この出来事は、アイルランド独立の転機と解釈されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1919年に1918年のイギリス総選挙で選出された国会議員の過半数がイギリス庶民院での議席を拒否した。その代わりに、アイルランドの独立と下院の非承認を主張することを目的とした「ドイル・エアラン(Dáil Éireann)」と呼ばれる非合法のアイルランド議会を設立した。共和国は国際的に認められず、アイルランド共和軍のイギリスに対する独立戦争につながった。1921年、イギリス政府の代表者とアイルランド共和国の内閣(Aireacht)が英愛条約の交渉を行い、「ドミニオンの地位(Dominion Status)」として知られる法的なアイルランド自治の新制度が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新しいアイルランド国家は国際的に認められ、アイルランド自由国(愛: Saorstát Éireann、英: Irish Free State)と呼ばれるようになった。自由国は理論的には島全体を統治することになるが、北アイルランド(別個の組織として作られた)がイギリスの一部として残ることを選択できるという条件付きだった。その後、北アイルランドはイギリスの一部として残ることを選択した。アイルランドの残りの26の県は、アイルランド自由県に変換され、1927年からイギリスの君主がアイルランド国王の称号を持ち、立憲君主制が続いていた。総督、両院制議会、「執行評議会」と呼ばれる内閣、執行評議会議長と呼ばれる首相を擁していた。憲法は「アイルランド自由国憲法」と呼ばれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英愛条約の調印は、エイモン・デ・ヴァレラを筆頭に、調印に反対する部門によるアイルランド内戦の勃発につながった。1922年4月13日、ダブリン中心部にあるフォーコートの建物は、協定に反対したアイルランド共和軍(IRA)に占領された。3月26日、議会(ドイル・エアラン)の権限を拒否し、独自の軍事執行機関を選出した。条約防衛派は6月28日、アイルランド南部での権限を強化する必要性と、イギリス政府から条約に武力抵抗する要素を排除するよう圧力を受け、反乱軍のIRA軍を攻撃した。ダブリンの戦いは1週間続き、条約を守る側にとって決定的な勝利となった。全国でのさらなる勝利は、条約賛成派の立場を強化した。内戦の最中、共和党運動の指導者の一人であり、親英アイルランド軍の司令官だったマイケル・コリンズが待ち伏せされ、殺害された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1922年10月、新政府は軍隊に広範な権限を与え、武器を所持していたり、新国家の軍隊に反して行動している者は、軍法会議にかけられ、死刑判決を受けることを認める法律を導入した。報復として、IRA軍のリーアム・リンチ司令官は、合意を支持する主要指導者に向けて銃撃命令を出した。最初の殺害は12月7日に行われた。新政府の対応は、6月から投獄されていた4人の非正規陸軍将校の処刑を命じるものであり、これを前にして不屈部門は攻撃方針を放棄した。政府派閥の人員と資源の数的優位性と処刑の継続(計77人)が、1923年の初めに有利な戦争を決定し始めた。4月24日、非正規軍は武器を捨てた。1923年以来、イギリスとの共通旅行区域の一部となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1937年12月29日、新しい憲法(Bunreacht na hÉireann)が採択され、アイルランド自由国に代わって、エール(愛: Éire、英: Ireland)と呼ばれる新しい国家が誕生した。新憲法構造は、王ではなく共和国大統領を必要としていたが、まだ共和制ではなかった。国家元首の主な役割は、他の国家の前に象徴的に代表することであり、制定法による体としての国王の帰属であることに変わりはない。1949年4月18日、アイルランド共和国法はエール(Éire)を共和制にすることを宣言し、それまで国王に与えられていた機能をアイルランド大統領に委任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "正式名称は「エール」のままであったが、「アイルランド共和国」(正式には国の記述)という名称が採用された。共和国は自らを表現するためにアイルランドという言葉を使用するが、特に外交の場ではアイルランドという言葉を使用する。しかし、多くの国は第2のアイルランドである北アイルランドが存在することや、1937年の憲法では北部に対する南部の管轄権を主張していることから、この言葉を使うことを避けている。「アイルランド」という言葉の使用は、その発言を受け入れたものとして採用された。1937年の憲法第1条、第2条と呼ばれるようになったものにあるその記述は、1999年に削除された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その年から、1949年4月に共和国が宣言されるまで、アイルランドは当時のイギリス連邦の加盟地域であり続けた。イギリス連邦の規則によると、共和国を宣言すれば自動的に脱退となる。これらの規則は1950年まで改正されず、共和国であるインドをイギリス連邦として含めることができるようになった。アイルランドは脱退し、更新しないことを選択したが、加盟国としての特権の多くを保持していた。今日では、例えばイギリスに居住するアイルランド人は、議会選挙での投票権をはじめとする市民権のすべての権利を享受し、さらにはイギリス軍に仕えているが、これらの権利を行使するアイルランド人の数はごくわずかである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アイルランドは1955年に国際連合に加盟し、1973年には欧州経済共同体(現在の欧州連合)に加盟した。アイルランド政府はアイルランドの平和的な統一を目指し、「厄介事(愛: Na Trioblóidí、英: The Troubles)」と呼ばれる北アイルランドの準軍事組織間の暴力的な対立に対してイギリスと協力してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1998年にアイルランドと北アイルランドの選挙で承認された「ベルファスト合意」と呼ばれる平和条約が結ばれ、アイルランドは北アイルランド6県の領有権を放棄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アイルランドは、第二次世界大戦中に中立的な立場をとり、連合国の大義を支持しないという理由で加盟を拒否されていたが、1955年12月に国際連合に加盟した。当時、国連に参加したのは、ある国家による他国への侵略を抑止するために武力を行使することを約束していたからである。1950年代にアイルランドで発展した欧州経済共同体(EEC)への加盟に関心があり、欧州自由貿易地域への加盟も考慮された。イギリスはEECへの加盟を目指していたが、アイルランドはイギリスとの経済的なつながりが大きいため、1961年7月に加盟を申請した。しかし、EEC創設時の加盟国は、アイルランドの経済力、中立性、魅力のない保護主義政策に懐疑的な姿勢を崩していなかった。多くのアイルランドの経済学者や政治家は、経済政策の改革が必要だと認識していた。1963年、フランスのシャルル・ド・ゴール将軍がイギリスの加盟に反対すると発言したことで、EEC加盟の見通しが疑わしくなり、他のすべての候補国との交渉を中止した。しかし、1969年には後継者のジョルジュ・ポンピドゥーがイギリスとアイルランドの加盟に反対していなかった。交渉が始まり、1972年には加盟条約が調印された。1972年に行われた国民投票でアイルランドの加盟が確定し、1973年にはついにEECに加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1970年代後半の経済危機は、共和党政府の予算、自動車税の廃止、過剰な借金、1979年の石油危機を含む世界的な経済の不安定さに煽られた。1989年以降、経済改革、減税、福祉改革、競争の激化、経常支出のための借入禁止など、大きな政策転換があった。この政策は、1989年から1992年にかけて共和党/進歩的民主党政権によって始まり、その後の共和党/労働党政権、統一アイルランド党/労働党/民主左派政権によって継続された。アイルランドは1990年代後半までに世界で最も急速に経済成長した国の一つとなり、2007から2008年の世界金融危機まで続いた「ケルトの虎」時代と呼ばれていた。2014年以降、アイルランドは経済活動が再び活発化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1949年以降、アイルランドは議会共和制をとっている。元首である大統領は、普通選挙による優先順位付投票制度で直接選出される。任期は7年で、再選は1回となる。大統領は基本的には名誉職であり、儀礼的な役割を主に務めるが、違憲立法審査の請求、首相による議会解散の拒否などの権限があり、国軍の最高司令官をつとめる。初代大統領は作家のダグラス・ハイドが就任した。1990年から2011年までメアリー・ロビンソン、メアリー・マッカリースと2代続けて女性が大統領に選出された。首相(ティーショク、Taoiseach)は国会の指名に基づき大統領に任命され、行政府の長となる。通常、総選挙で得た議席数が最も多い政党の党首である。政権連立がよく発生し、一党政権は1989年を最後に存在していない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "両院制議会であるアイルランド国民議会(Oireachtas)は、上院(Seanad Éireann)と下院(Dáil Éireann)で構成されている。元老院は60名の議員で構成されており、11名は首相によって任命され、6名は2つの大学によって選出され、43名は職業別に設置された候補者パネルから一般の代表者によって選出されている。議会は166名の議員(Teachta Dála)で構成されており、比例代表制の下、単記移譲式投票で複数の選挙区の代表に選出されている。憲法によれば、国会選挙は少なくとも7年ごとに行わなければならないが、法律で下限が定められている場合もある。法的には、現在5年間持続している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "政府は憲法上、15人の議員で構成されている。政府の議員は上院から2名まで選出することができず、首相、副首相(Tánaiste)、財務大臣は「必ず」議会議員でなければならない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1973年には欧州共同体(現在の欧州連合)に加盟している。2008年6月12日、アイルランドは国民投票で欧州連合(EU)のリスボン条約を否決し、EU内で論争を巻き起こした。しかし、この決定は2009年の第2回国民投票で逆転した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オリバー・クロムウェルの侵略以降、民族や領域としての自治が剥奪され、イギリス帝国(大英帝国)が形成されていく過程において、イギリスが最初に支配した植民地となった(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)。プロテスタントによるカトリック教徒への迫害があり、また植民地政策で工業化は遅れた。土地政策はイングランドのアイルランド支配にとって重要で、しばしば深刻な影響を与えた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "経済基盤は脆弱で、大規模地主による小作農を使役した商品作物栽培という典型的な植民地型農業であり、アイルランド人の2/3、6~7割は農業に従事していた。さらに羊毛のための囲い込み政策が追い討ちをかけ、これは1800年代前半に相次いで発生した「ジャガイモ飢饉」という惨事として現われた。市場において高く売買される農作物がイングランドに大量に移送される一方でアイルランドからは食物が枯渇し、不作に見舞われた小作農の大量餓死が発生したため社会問題となった。飢餓や貧困から逃避するために、生存した多くのアイルランド人もアメリカ合衆国へと移住することになる(アイルランド系アメリカ人)。これによって1840年は800万人を数えた人口は1911年に半数に迫る440万人にまで減少し、アイルランド語の話者人口も激減した。これ以降もアイルランドの総人口は回復しておらず、現在に至るまで最盛期には遠く及ばない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ジャガイモ飢饉はイングランドにとっても、深刻な社会問題として衝撃をもって受け止められ、公共事業支援や食糧援助などが実施されたものの、貧困を原因としたアメリカ合衆国への移住など住民の離散を防止することは困難であった。イギリスでヴィクトリア朝の1840年代に沸騰していた鉄道バブル(鉄道狂時代)はこれにより崩壊した。カール・マルクスは資本論の叙述でこの惨事について言及した。この時期に受けた困難はアメリカ合衆国に移住したアイルランド人、アイルランド系アメリカ人の原点となり、のちのアイルランド独立闘争の際にしばしば言及された。また(帝国主義的植民地)経済システムが現実の災害をもたらした顕著な例として経済学や政治社会学で、しばしば論じられた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦終結後の1919年から1922年のアイルランド独立戦争では休戦協定が結ばれ英愛条約が締結された。アイルランド自由国が成立して独立戦争は終結したが、イギリス連邦下であることにも不満を抱く者はアイルランド内戦を引き起こした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、元インド総督のルイス・マウントバッテンは、アイルランド国内でボートに乗っている際にIRA暫定派によって仕掛けられた爆弾で暗殺されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし、イギリスはアイルランドにとって旧宗主国でなおかつ最隣国であり無視できない存在であり、経済的および人的交流は古くから盛んである。北アイルランドでは、アイルランド帰属を求めてテロ行為を繰り返すIRA暫定派などナショナリストとユニオニストとの紛争が起こっていたが、和平プロセスが進んでいる。北アイルランド和平が現実に近づくにつれ、さまざまな分野での南北の交流が広がっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1997年にトニー・ブレア首相が100万の餓死者・100万の移民を出した1845年から1849年のジャガイモ大飢饉について「今日それを反省してみるにつけ苦痛をもたらすものであった」とコメントした。1998年には北アイルランド和平合意であるベルファスト合意が成立した。殺し合いに嫌気がさした事、南の経済発展にあせりを感じた事が契機となる。しかし強硬派が納得せず失敗しさらに10年が経過する。2005年、イギリス在郷軍人会アイルランド支部主催の第一次世界大戦戦没者追悼行事にアイルランドメアリー・マッカリース大統領が出席。アイルランド人兵士の名誉回復と追悼を訴えた。彼らはアイルランド自治獲得促進の意志をもって参戦したのにそれまではイギリスへの協力者と非難されてきた。2007年2月、クローク・パーク競技場でのラグビー・シックス・ネイションズの試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行われる。イギリス国歌「女王陛下万歳」の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイングもなく、イギリスとアイルランドの歴史的和解の象徴となった。この競技場は1920年の独立戦争の時、イギリス軍がゲーリックフットボール観戦中のアイルランド人を虐殺した場所で反英闘争の聖地であった。アイルランドは伝統的に反英感情が強いものの、イギリス(イングランド)の国語かつ公用語である英語を使用しており、英語修学の外国留学先として人気である。2011年に、当初は小規模な抗議行動が起きたが、エリザベス2世が訪問した。女王は「アイルランドの自由のために命を捧げたすべての人々の記憶に捧げられた」追憶の庭を訪れ、花輪を捧げ、敬意を表しお辞儀をした。その後も何百人もの応援する子どもや店員らに挨拶をし、初の公式訪問を無事に終えた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アイルランドと北アイルランドとの国境を区別することなく、島全体が一つの組織になっているものがある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "例えば、スポーツの分野では、ゲーリック・ゲームやラグビーなどのスポーツ(サッカーを除く)は、合同リーグを通じて行われている。同様に、大多数のキリスト教(カトリック教会、メソジスト教会、アイルランド聖公会、聖公会、アイルランド長老派教会)は、分離に関係なく組織されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一部の組合はダブリンを拠点とするアイルランド労働組合会議(ICTU)に共同で組織されているが、北アイルランドの他の組合はイギリスを拠点とする労働組合会議(TUC)に加盟、または両方に加盟している組合もある。アイルランド学生連合(USI)もアイルランド全域で活動しているが、北アイルランドではイギリスの全国学生連合(NUS)と関連しており、連名(NUS-USI)で活動している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "他では、島の2つの地域は、文化や習慣のほぼすべての要素を共有している。例えば、アイルランドの伝統音楽は、国境を越えても同じである。アイルランド語もその一例だが、アイルランドのみで教育が行われている。また、促進するために近年アイルランド政府のキャンペーンの対象ともなっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "19世紀後半、イギリス植民地支配に苦しんだアイルランド人は、同じ英語圏の国へ移民を行わざるをえなかった。当時、同じくイギリス植民地であったカナダやオーストラリアにおいては、やはり支配層から差別される立場であったため、植民地からの独立を果たしていたアメリカ合衆国にその多くが渡った。そのためアイルランド系アメリカ人は今日でも多い。シカゴからルイジアナに至るいわゆるバイブルベルトではアイルランド系移民によるカトリックの影響が強く、聖パトリックの祝日を盛大に祝う風習がある。人口の多いニューヨークでもアイルランド系住民の絶対数は少なくなく、上記祝日は盛大に祝われる。しかし開拓当時のアメリカ人からは、アイルランド人移民の貧しい生活や異様と取れる風習、イギリスで被征服民として低くみられていた事、カトリック教徒であった事などにより、忌避感を持たれた。アイルランド人は人種的に見て「白人」に含まれるが、「アメリカ市民」には相応わしくないとされて、以降、偏見の目と差別に苦しめられた。しかし後にはその社会的地位は向上し、大統領となったジョン・F・ケネディ、そしてロナルド・レーガンは、祖先の故地アイルランドを訪問、暖かく歓迎された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アイルランドは経済面でアメリカ依存が強い。一方で1990年代の「アイルランドの奇跡」といわれる経済成長の背景には、国内総生産の7%程に相当するEUからの援助金も無視できない。アメリカ、EUからの投資は特に教育制度と公共設備にあてられアイルランドの経済力を強化したが、より重要なのはEU諸国間では比較的低い法人税と安い賃金である。それに惹かれて外国企業、とりわけアメリカの多国籍企業が生産拠点とヨーロッパ事業本部をアイルランドに設立した。アイルランドの国語が英語であることもアメリカ企業にとって重要で、また、アメリカ本部とアイルランド支部との時差を利用した仕事分担の恩恵もある。エレクトロニクス、製薬のようなハイテク産業や、金融サービスなどにおける外国投資はアイルランド経済の原動力となっているが、その内訳の80%はアメリカによるもので、アイルランドで活躍しているアメリカ企業は600社、その従業員は10万人規模に及ぶ。アメリカからみてアイルランドはヨーロッパ市場を狙う前進基地であるが、一方でアイルランドでの収益率は、他のヨーロッパの国よりも2割から3割ほど高い。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アイルランド人は植民地支配の経緯によりイギリスに対し伝統的に敵対的であるが、かつてイギリス植民地から独立し、アイルランド人にとって苦難の時期には多くのアイルランド系移民を受け入れたアメリカ合衆国に対しては好意的である。旧宗主国が残していった英語を駆使して、第二次大戦後にイギリスに代わって世界一の経済大国となったアメリカと活発な取引を行っているが、これは同じくイギリスの植民地支配を受けたインドと同様の傾向である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)は日本に移住し、日本についての本を書いている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では、日本政府が中立国で活動している自国の外交官たちのため、スイスのアイルランド大使館を経由して送金していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1957年には日本との国交を樹立し、日本はダブリンに公使館を設置した。1964年には、公使館を大使館に昇格させ、在アイルランド日本国大使館となる。また、1973年にアイルランドが東京都千代田区に駐日アイルランド大使館を設置した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1966年に査証相互免除となり、1974年に租税条約が結ばれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2007年に日本とアイルランドはワーキング・ホリデーの協定を結んだ。また、2010年には社会保障協定を結んだ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年には、アイルランドは日本にとって、欧州連合内の輸出として第12位、輸入として第5位の国となっている。日本はコンタクトレンズなどの光学機器や医薬品を輸入しており、アイルランドは医薬品や日本と同じ対面交通の為、右ハンドル自動車などを輸入している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アイルランドに在留している日本人数は、2021年現在、2,818人であり、日本に在留しているアイルランド人数は1,099人である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "アイルランドの軍隊は、アイルランド国防軍(Óglaigh na hÉireann)の下に組織化されている。アイルランド軍は、隣接する軍隊と比べ小さいが、兵員8,500人と予備役1万3,000人を擁している。その規模の大きさは、主に国の中立性によるものである。さらに、紛争への関与は、国際連合、政府、議会によって統治されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、アイルランド空軍、海軍、予備防衛軍もある。アイルランド陸軍レンジャーは、陸軍に仕える特殊部隊の一部門でもある。4万人以上のアイルランドの軍人が、国際連合平和維持活動への派兵を行っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "航空施設は、2003年のイラク侵攻時にアメリカ軍がシャノン空港を経由して軍人の輸送に使用していた。それまで空港は、2001年のアフガニスタン戦争や第一次湾岸戦争の際に使用されていた。キューバ危機時、ショーン・ルマスはシャノンを通過したキューバ機とチェコ機の捜索を許可し、その情報を中央情報局に伝えた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中は連合国軍に支援を提供していたが、中立国であったため参戦していない。1999年から北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、NATOプログラム(平和のためのパートナーシップ)に参加している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アイルランド島は、ヨーロッパの北西部に位置し、ブリテン諸島の一部を形成し、イギリスとアイスランドに次ぐヨーロッパで3番目の大きさを誇る島である(世界では20番目)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "島の面積は、北海道よりもやや広い84,421 kmで、そのうち83%(約6分の5)がアイルランド(70,273km)に属し、残りはイギリスの北アイルランドに属している。南北に約500km、東西に約300kmある。西に大西洋、北東にノース海峡に囲まれている。東にはアイリッシュ海があり、南西を経由してセント・ジョージ海峡やケルト海と結んでいる。内陸部は起伏に富んだ丘陵地帯と低山に囲まれた平野部、西海岸は断崖絶壁で構成されている。最高地点は南西部にある1041mのキャラントゥール山。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "内陸部は比較的平坦で、内部の盆地が窪んでおり、海岸付近の標高が高い。領土はシャノン川などの河川に挟まれており、比較的大きく浅い湖(lough)が多い。国の中心部の一部はシャノン川に覆われており、広大な湿地帯があり、細長いインゴット状の泥炭を圧搾して生産するために使用されている。アイルランドには、ヨーロッパ最大の囲まれた都市公園のフェニックス・パークがあり、その面積は712ヘクタールで、周囲16kmの広大な緑地と並木道で構成されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "西部は山地、丘陵、断崖の風景が広がる。主な山岳は、ドニゴール山地、ウィックロー山地、モーン山地、マギリカディーズ・リークス山地、最高峰のキャラントゥール山などがある。中央部は氷河によって堆積した粘土と砂を含む低地で、沼地や、ネイ湖、アーン湖、コリブ湖、ダーグ湖などの湖が多く存在する。主要な川はシャノン川、ブラックウォーター川、バロー川、バン川などがある。島を取り囲む海岸は、通常、河口やフィヨルドに似ている狭い湾を持つ、非常に切り立った高さのある海岸である。北東部に玄武岩台地があるほかはほとんどの地域が花崗岩に覆われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "温暖なメキシコ湾流と、大西洋から吹く偏西風の影響で気候は安定した西岸海洋性気候となっており夏は涼しく、冬は緯度の高い割に寒くない。また、地域による気候の差もほとんどない。平均気温は、もっとも寒い1月と2月で4°Cから7°C程度、もっとも暖かい7月と8月では14°Cから17°C程度である。最低気温が-10°Cより下がることや、最高気温が30°Cを超えることはほとんどない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "年間の降水量は、平野では1000mm程度である。山岳部ではさらに多く2000mmを超えることもある。月ごとの降水量はほとんど変わらない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "主な都市は、東海岸にある首都ダブリン、南部にあるコーク、西海岸にあるリムリック、ゴールウェイ、南東海岸にあるウォーターフォードである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "地質学的には、島は区別された地域で構成されている。西部のゴールウェイとドニゴール周辺には、カレドニア造山運動に関連した中~高品位の変成岩と火成岩の複合体がある。アルスターの南東部、南西のロングフォードから南のナヴァンまで伸びている地域には、スコットランドのサザン・ハイランド地域に似た特徴を持つオルドビス紀とシルル紀の岩石の地域がある。さらに南下すると、ウェックスフォード海岸周辺には、オルドビス紀とシルル紀の岩石への花崗岩の侵入によって形成された地域があり、コーンウォールのものと非常によく似ている。南西部、バントリー湾とマギリカディーズ・リークス山地の周辺には、実質的に変形しているが、わずかに変成したデボン紀の岩石の地域があり、コーンウォールの岩石と非常によく似ている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "この部分的なリング状の硬岩は、島の中心部に向かって炭素質の石灰岩の層で覆われており、比較的肥沃で緑豊かな景観を生み出している。リスドゥーンバーナ周辺の西海岸にあるバレンは、カルスト地形がよく発達している。その他の地域では、銀鉱山とタイナ周辺の石灰岩に亜鉛と鉛の成層状鉱床が見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "探鉱は、炭化水素を求めて行っている。最初の重要な発見は、1970年代半ばにマラソン・オイル社によって発見されたコーク/コーヴのキンセールにあるアイルランド最大のガス田である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2006年8月にはドニゴール県北部で計画されたフロンティアが完成し、アイリッシュ海とセント・ジョージ海峡で有望な掘削が行われるなど、新鉱区の探査が続いている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "アイルランドの気候は年間を通じて温暖だが、平均的な気候以外の極端な変化はほとんどない。最も気温が高かったのは1887年6月26日のキルケニー城(キルケニー県)で観測された33.3°C、最も低かったのは1881年1月16日のマークリー城(スライゴ県)で観測された-19.1°Cであった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "他の統計によると、記録された最高年間降水量は、1960年にバラビーナ・ギャップで3964.9mmであった。記録上最も乾燥した年は1887年で、グラスネヴィンでは357mmの雨しか降らなかったが、最長の干ばつ期間があったのはリムリックで、1938年4月から5月まで38日間連続して雨が降らなかった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "気候は一般的に島国的で、適度に湿った大西洋の風が吹くため、同緯度の他の地域に見られるような極端な温度差を避けている。降水量(主に雨)は年間を通じて規則的に分布しているが、一般的には東部を中心に軽い。しかし、国の西部は湿度が高く、特に晩秋から冬にかけて大西洋の暴風雨に見舞われやすい傾向にあり、雪や雹が降ることもある。ゴールウェイの北と5月の東の地域は、気温の温度差が顕著ではなく嵐の発達雲の形成しないのにも関わらず、雷の件数が最も多い(年間5日から10日)。長期間の降雪はまれである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "沿岸部と内陸部では気温に差がある。内陸部の夏は暖かく、冬は寒く、一般的に内陸部の気象台では氷点下の日が約40日、沿岸部の気象台では10日程度しかない。例えば、7月のオマーの1日の平均最高気温は23°Cだが、55km離れたデリー/ロンドンデリーでは18°Cしかない。これらの地域では1月の1日平均最低気温も異なり、オマーでは-3°C、デリー/ロンドンデリーでは0°Cとなっている。アイルランドは時々熱波の影響を受けることがあり、最近では2018年に熱波が発生している。島の平均気温は、2月 - 4月は最高気温8 - 12°C、5月 - 7月は最高気温18 - 20°C、8月 - 10月は最高気温14 - 18°Cとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "メキシコ湾流によって緩和された温帯海洋性気候、比較的温暖な気候、高い湿度(豊富な泥炭湿地の存在も影響している)のため、島のほぼ全体が草原に覆われているため、アイルランドをさして「エメラルドの国」と呼ばれる。シャムロック(アイルランド文化の国と伝統的なシンボル)が非常に多く、泥炭はミズゴケ属などの植物の分解によって形成されている。近世までのアイルランドは、他のイギリスの島々と同様、オーク、ホルムオーク、ハンノキ、ニレなどの落葉樹林に覆われていたが、これらの森林のほとんどは、羊の放牧地を拡張したり、船を建造するためにイギリス人の侵略者によって伐採された。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "最終氷期の末期以降、大陸部やイギリスから隔離されていたため、原住民の動物相は貧弱で、アカギツネ、フェレット、ウサギなどが生息し、シカの数は非常に少ない。爬虫類の不足は顕著であり、生息しているのはコモチカナヘビのみである。鳥類や両生類の哺乳類の動物相も捕食によって減少しているが、海岸の断崖にはイベリアウミガラス、ツノメドリ属、シロカツオドリ、ミズナギドリ、ウミツバメ科などの海鳥の大規模な群生がある。また、クロガチョウやホオジロガチョウの越冬個体数やヒラガチョウの越冬個体数も生息しており、最初にペンギンの名をもらった鳥であるオオウミガラスは17世紀に絶滅した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アイルランドには6つの自然公園があり、植物や景観の多様性に富んだ独特の美しさを持っている。北西にドニゴール県のグレンヴェイ、そして少し南西にはメイヨー県のバリークロイ、ゴールウェイ市の北西と南にそれぞれコネマラ山地とバレンがある。また、西海岸を南下し、リムリックのシャノン川河口を過ぎると、街のすぐ南にキラーニー国立公園がある。最後に、ウィックローの西、ダブリンの南にあるウィックロー山地もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アイルランド島は歴史的な慣習から自治権のないコノート、マンスター、レンスター、アルスターの4つの地方(Province)に大別される。これらは32の県(County)で構成されるが、この内のアーマー、アントリム、ダウン、ティロン、デリー、ファーマナの6県がイギリスの統治下にある北アイルランドに属している。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2011年におけるアイルランドの5大都市は次の通り。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "アイルランドは開放経済国であり(経済自由度指数では6位)、「価値の高い」外国直接投資(FDI)の流れでは第1位である。一人当り購買力平価の国内総生産を用いた場合、アイルランドは187カ国中5位(IMF)、175カ国中6位(世界銀行)にランクされている。別の指標である修正国民総所得(GNI)は、「国内経済の活動」をより正確に把握することを目的としている。これは、グローバル化が進むアイルランドの小規模な経済において、特に重要な意味を持っている。実際、外国の多国籍企業はアイルランド経済を牽引しており、民間部門の労働力の4分の1を雇用し、アイルランドの事業税の80%を支払っている。アイルランドの上位20社(2017年の売上高)のうち14社はアメリカ合衆国を拠点とする多国籍企業である(アイルランドの外国の多国籍企業の80%は米国系企業であり、売上高上位50社の中で、米国・英国以外の外国企業はなく、従業員数では1社のみで、ドイツの小売業であるリドルが41位にランクインしている)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アイルランドは2002年に他の11の欧州連合加盟国とともにユーロ通貨を採用した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アイルランド経済は他のヨーロッパ諸国と比べ小規模であり国際貿易に大きく依存している。かつては西欧でも長きにわたりポルトガルなどと並び最貧国のひとつに数えられたが、1990年代に入ってからEUの統合とアメリカを中心とした外資からの投資などにより急成長を遂げた。1995年から2000年の経済成長率は10%前後であり、世界において最も経済成長を遂げた国のひとつとなった。以前に経済の中心をなしていた農業は産業の工業化により重要度が低下した。現在では工業はGDPの46%、輸出額の80%、雇用の29%を担っている。近年のアイルランド経済の力強い成長は外資企業・多国籍企業や輸出が寄与するところが大きいが、国内における個人消費および建設、設備投資による影響も見逃せない。好調な経済に伴いここ数年のインフレ率は4%から5%で推移していたが、2005年度には2.3%に低下した。アイルランド国民の関心を集めている住居価格は2005年2月で251,281ユーロだった。失業率は低水準を維持しており収入も順調に増加している。世界の主要都市における調査によると、アイルランドの首都ダブリンは22番目に物価の高い都市であり、2003年度の調査から2位上昇している。アイルランドはEUの中でルクセンブルクに次いで1人あたりGDPが大きい国であり、これは世界においても4位に位置している。アイルランドとルクセンブルクはタックスヘイブンであるため、GDPは国民所得に対して過大評価されている。OECD統計によると、2020年の購買平価説に基づくアイルランドの一人当たり所得はおよそ22837米ドルである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2007年度より、経済の急激な落ち込みが始まり、特に不動産価格の急激な下落が記録されている。同年より起きた世界的なサブプライム問題によって多くの銀行・証券会社などが巨額な損失を発表しており、また2008年には経済が2.5%程度縮小(見込み)、失業率が前年の5%から10.4%に上昇するなどユーロ圏でも特に深刻な不況に陥っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "アイルランドは2010年に正式に不況から脱却したが、アイルランドの米国多国籍企業からの輸出の増加に助けられたからである。しかし、民間銀行の債務を政府が保証したことで公的な借入コストが上昇したため、アイルランド政府は、欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)、イギリス、スウェーデン、デンマークの二国間融資を受け、850億ユーロの支援プログラムを受け入れた。3年間の縮小に続き、2011年には0.7%、2012年には0.9%の経済成長となった。2012年の失業率は14.7%で、最近の移民の18.5%を含む。2016年3月の中央統計局の発表によると、失業率は8.6%で、2012年2月のピーク時の15.1%から低下した。アイルランド国勢調査(2011年)によると、2008年から2013年までのアイルランドからの純移民の総数は120,100人で、総人口の約2.6%を占めている。移住者の3分の1は15歳から24歳であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2013年12月15日、EU-IMFの支援プログラムを終了した。予算削減、改革、資産売却を実施したことで、アイルランドは再び債券市場にでるようになった。それ以来、アイルランドは記録的な金利で長期債を売却することができた。しかし、アイルランドの信用バブルの安定化には、民間部門のバランスシートから公的部門のバランスシートへ、銀行の救済措置や公的赤字支出を通じた多額の債務移転が必要となった。この債務の移転は、2017年のアイルランドの公共部門の債務と民間部門の債務の両方がEU-28/OECDの中で最も高いレベルにあることを意味している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "アイルランドはアメリカ合衆国の多国籍企業主導の経済を成長させながら、国内の民間部門のデレバレッジを継続している。2009年から2016年にかけて、米国の法人税の逆転取引(主に製薬企業)の主な取引先となり、ピーク時には1,600億ドルのアラガン/ファイザーの逆転取引(世界最大の逆転取引で、アイルランドのGNIの約85%を占める)が阻止された。アイルランドはまた、米国の「ビッグキャップ」テクノロジー多国籍企業(Apple、Google、マイクロソフト、Facebookなど)にとって最大の海外拠点となり、2015年の国内総生産成長率は26.3%(国民総所得成長率は18.7%)となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1987年には、国際金融サービスセンター(IFSC)と呼ばれる10%の低税率の「経済特区」が創設され、アイルランド経済は一変した。1999年には、アイルランドの法人税が32%から12.5%に引き下げられ、国全体が事実上「IFSC化」された(アイルランドの「低税モデル」の誕生)。これにより、アイルランドの魅力的な法人税率と独自の法人税制度を利用しようとするハイテク、ライフサイエンス、金融サービス産業から米国の多国籍企業を誘致し、農業経済から知識経済への移行を加速させた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "外国企業がアイルランドで使用している「多国籍税制」は、アイルランドの経済統計を大きく歪めており、2015年の「レプラコーン経済学」のGDP/GNP成長率で最高潮に達した(2015年にAppleがアイルランドの子会社をリストラしたため)。アイルランド中央銀行はこうした歪みを取り除くために、「修正GNI」(またはGNI*)という新しい統計を導入した。GNI*はGDPを30%下回っている(つまり、GDPはGNIの143%)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "国際金融サービスセンター(IFSC)が設立されてから、アイルランドは強力で持続的な経済成長を遂げ、消費者の借入と支出、建設と投資が劇的に増加し、ケルトの虎の時代として知られるようになった。2007年までに、アイルランドの民間部門の債務は経済協力開発機構(OECD)で最も高く、家計の可処分所得に対する債務の比率は190%に達していた。ケルトの虎時代にアイルランドの銀行が国内の預金ベース(ピーク時には180%以上)を上回る借入を可能にすることで、アイルランドの債務の積み上げを支援してきたグローバル資本市場は、世界金融危機の際に支援を撤回した。債務超過のアイルランドの信用システムからの撤退は、アイルランドの不動産の大幅な補正を引き起こし、その後アイルランドの銀行システムの崩壊につながることになる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "アイルランドの「低税」経済の成功は、「低課税地域」であるという非難に直面され、「ブラックリスト入り」につながった。深刻な課題は、アイルランドの多国籍企業の税制優遇を対象にしているアメリカ合衆国の2017年税制改革法の成立である。欧州連合の2018年デジタル販売税(DST)は、アメリカのテクノロジー企業によるアイルランドの多国籍企業の税制優遇を制限しようとしているとも見られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "アイルランドの輸出部門は多国籍企業が大半を占めているが、それ以外の国からの輸出も国民所得に大きく貢献している。アイルランドに拠点を置く多国籍企業の活動により、アイルランドは医薬品、医療機器、ソフトウェア関連の商品やサービスの世界最大の輸出国のひとつとなっている。アイルランドの輸出は、ライアンエアー、ケリー・グループ、スマーフィット・カッパなどのアイルランドの大手企業の活動や鉱物資源の輸出にも関係している。アイルランドは亜鉛精鉱の生産量では第7位、鉛精鉱の生産量では第12位である。また、石膏、石灰岩、銅、銀、金、重晶石、苦灰石などの鉱床も多く存在している。アイルランドの観光産業は国内総生産の約4%を占め、重要な雇用源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "その他の物品輸出は、農業用食品、家畜、牛肉、乳製品、アルミニウムなどがある。アイルランドの主な輸入品には、情報処理機器、化学品、石油、繊維品、衣料品などがある。アイルランド金融サービスセンターに拠点を置く多国籍企業が提供する金融サービスもアイルランドの輸出に貢献している。輸出(894億ユーロ)と輸入(455億ユーロ)の差により、2010年の年間貿易黒字は439億ユーロとなり、これは欧州連合加盟国の中で最も高い貿易黒字となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "欧州連合は、輸出の57.9%、輸入の60.7%を占め、最大の貿易相手国である。欧州連合域内で最も重要な貿易相手国はイギリスで、輸出額の15.4%、輸入額の32.1%を占めている。欧州連合域外では、2010年の輸出額で23.2%、輸入額で14.1%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ESB、Bord Gáis Energy、SSE Airtricityはアイルランドの3大電力・ガス供給会社あり、ガスの実証埋蔵量は198億2,000万mである。天然ガスの採掘は以前、キンセール・ヘッドで枯渇するまで行われていた。コリブのガス田は2013/14年に稼働する予定であった。2012年には、バリーロー油田には最大16億バレルの石油が埋蔵されていることが確認されており、そのうち1億6000万~6億バレルが回収可能であるとされている。これは、2015/16 年に開発された場合、最大13年間、アイルランドの全エネルギー需要を賄うことができる。再生可能で持続可能なエネルギー、特に風力発電の利用を増やすために大きな努力がなされており、3,000メガワットの風力発電所が建設されており、中には輸出を目的としたものも存在する。アイルランド持続可能エネルギー庁(SEAI)は、アイルランドの2011年のエネルギー需要の6.5%が再生可能エネルギーで生産されていると推定している。また、SEAIはアイルランドのエネルギー効率の向上を報告しており、2005年から2013年までの間に一軒あたりの二酸化炭素排出量を28%削減している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "国土の16%が農地、47.7%が牧場並びに牧草地として利用されている。農業従事者は16万人であり、生産年齢人口(国民の67.5%)のうち、5.7%を占める(以上2003年時点の統計値)。アイルランド経済は貿易依存度が高く、同時に農業、特に牧畜業に依存している。しかし、貿易(輸出品目)の上位には農業生産物が登場せず、国内消費を満たす生産水準に留まっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "主要穀物では、オオムギ(116万トン、以下2004年の統計値)、次いでコムギ(85万トン)、第三位に馬鈴薯(50万トン)が並ぶ。野菜類ではテンサイ(砂糖大根、150万トン)が飛び抜けており、次いでキャベツ(5万トン)の栽培が盛ん。畜産ではウシ(704万頭)が中核となり、次いで羊(485万頭)、ニワトリ(1280万羽)である。このため、畜産品である牛乳の生産(550万トン)は世界シェアの1.1%に達する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "アイルランドの鉱業は鉛と亜鉛を中核とする。2003年時点で鉛鉱の生産は5万トンで世界シェア9位、亜鉛鉱は25万トンで同8位である。ミーズ県ナヴァンに位置するタラ(Tara)鉱山はヨーロッパ最大の鉛・亜鉛鉱山。他にキルケニー県とティペラリー県にも鉱山が点在する。いずれも海水を起源とする層間水が石灰岩層にトラップされて形成されたアルパイン型鉱床の代表例である。これ以外の金属資源としては銀もわずかに産出する。天然ガスを生産しているが、消費量の数%をまかなうに過ぎない。無煙炭はほぼ枯渇している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ダブリン、シャノン、コークの3つの主要国際空港からは、定期便やチャーター便が就航しており、ヨーロッパや大陸間を結んでいる。ロンドン - ダブリン間は世界で9番目に利用者が多い国際航空路線であり、2017年には14,500便が就航しており、ヨーロッパでも最も利用者が多い国際航空路線となっている。2015年には450万人がこの路線を利用し、当時は世界第2位だった。エアリンガスはアイルランドのフラッグキャリアであるが、ライアンエアーがアイルランド最大の航空会社であるとともにヨーロッパ最大の格安航空会社であり、旅客数では第2位、国際線旅客数では世界最大である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "鉄道はアイルランド国鉄が提供しており、国内の都市間鉄道、通勤鉄道、貨物鉄道のすべてを運営している。ダブリンは鉄道網の中心地で、ダブリン・ヒューストン駅とダブリン・コノリー駅の2つの主要駅があり、国内の都市や主要都市を結んでいる。北アイルランド鉄道と共同で運行しているエンタープライズは、ダブリンとベルファストを結んでいる。アイルランドの主要路線は、ヨーロッパでは少数派の1,600mmの軌間で運行されている。また、ダブリンの海岸沿いを北から南へ結んでいるダブリン高速輸送(DART)は、日本の東急車輛製造(現:総合車両製作所)が手掛けており、初めてヨーロッパへ輸出された日本企業製の電車である。他にも、大韓民国の現代ロテムと共同で高速鉄道の車両を手がけている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "高速道路、国道、国道二次道路はアイルランド交通インフラストラクチャー社が管理しており、地方道路はそれぞれの地域の地方自治体が管理している。道路網は主に首都に集中しているが、高速道路はコーク、リムリック、ウォーターフォード、ゴールウェイなどアイルランドの他の主要都市と接続している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ダブリンには、イーストリンクやウェストリンクの有料道路、ダブリンポートトンネルなどが通っている。首都外ではコークのリー川の下にあるジャック・リンチ・トンネルとシャノン川の下にあるリムリック・トンネルなど主要なトンネルがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "アイルランドの人口は2022年国勢調査の予備調査によると5,123,536人となり、前回の2016年から8%増加している。また人口が500万人を突破したのは1851年以来となる。2011年には、アイルランドの出生率は欧州連合で最も高かった(人口1,000人あたり16人)。2014年の36.3%の出生が未婚女性だった。2002年から2006年の間の年間人口増加率は2%を超えており、これは自然増加率と移民の増加率が高かったためである。出生率は、その後の2006年から2011年までの間に幾分低下し、年平均1.6%の変化率となった。2017年の合計特殊出生率は女性1人当たり1.8人と推定され、置換率2.1人を下回ったが、1850年に女性1人当たり4.2人という高水準の出生率を大幅に下回ったままである。2018年のアイルランド人の年齢の中央値は37.1歳だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "遺伝学的研究によると、最古の入植者は、最近の氷河期に続いてイベリアから移住してきたと考えられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "中石器時代、新石器時代、青銅器時代の後、移民はケルト語と文化を導入した。後者の2つの時代からの移民は、今でもほとんどのアイルランド人の遺伝的遺産を代表している。やがてゲール人の伝統が拡大し、時を経て支配的な形となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "現在のアイルランド人は、ゲール人、ノルド人、アングロノルマン人、フランス人、イギリス人の祖先を組み合わせたものであると言っても良い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2016年国勢調査の時点で、非アイルランド人の人口は535,475人と記録されている。これは2011年国勢調査の54万4,357人から2%の減少となっている。非アイルランド国籍者数の上位5位は、それぞれポーランド(122,515人)、イギリス(103,113人)、リトアニア(36,552人)、ルーマニア(29,186人)、ラトビア(19,933人)となっている。2011年と比較すると、イギリス国籍、ポーランド国籍、リトアニア国籍、ラトビア国籍は減少した。2016年のアイルランド以外の国籍の上位10位には、新たにブラジル(13,640人)、スペイン(12,112人)、イタリア(11,732人)、フランス(11,661人)の4つの国籍が加わった。また、2018年の日本国籍者の総人口は2,596人である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "憲法で第1公用語はアイルランド語、第2公用語は英語と規定されているが、一部を除くほとんどの地域では日常的には英語(アイルランド英語)が使われている。アイルランド固有の言語であるアイルランド語は、イギリスの植民地となった16世紀以降、約400年に渡る支配により英語にとって代わられ衰退した。その後、19世紀以降の独立運動の中でアイルランド語の復興が図られてきた。近年は政府による積極的なアイルランド語復興政策が実行されている。そのため、政府による文書や街中の標識などもアイルランド語と英語の二ヶ国語で表示され、2007年にはアイルランド語は欧州連合の公用語に追加され、登録された国の公用語も英語ではなくアイルランド語になった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2006年の国勢調査では、国民の10%がアイルランド語を学校外においても日常的に使用し、15歳以上の39%が自らをアイルランド語話者であると分類している。日常的にアイルランド語が話されている数少ない地域であるゲールタハト地方においては、アイルランド語のコミュニティ保護のための強力な保護政策が取られている。アイルランド語復興政策の影響で、2011年には約94,000人がアイルランド語を日常的に用いており、130万人が学校外でアイルランド語を用いているという統計 があり、徐々にアイルランド語が復権してきている。テレビやラジオなどでもアイルランド語による放送が行われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "移民の結果、アイルランドでは英語に次いでポーランド語が最も広く話されており、アイルランド語は3番目に多く話されている。その他の中央ヨーロッパの言語(チェコ語、ハンガリー語、スロバキア語)やバルト三国の言語(リトアニア語、ラトビア語)も日常的に話されている。アイルランドで話されている他の言語には、アイルランドの旅行者が話すシェルタ語や、ドニゴールのアルスター・スコットランド人が話すスコッツ語の方言などがある。ほとんどの中等教育学校の生徒は、1つまたは 2つの外国語を学ぶことを選択する。中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートと高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートでは、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を選択することができ、リービング・サーティフィケートではアラビア語、日本語、ロシア語も選択することができる。中等教育学校では、古代ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語を選択できる学校も存在する。リービング・サーティフィケートの生徒にはアイルランド語が必修であるが、学習上の問題や11歳以降の入国など、状況によっては免除される場合もある。また、アイルランド語のみで教育をする学校もあるほか、公務員試験でもアイルランド語の試験が課せられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "婚姻の際には婚姻後の氏として、自己の氏を称すること(夫婦別姓)、配偶者の氏を称すること(夫婦同姓)、結合氏を称すること、自己の氏をミドルネームとし配偶者の氏を称すること、からの選択が可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "アイルランドは国家として宗教に中立な立場を取っており、宗教の自由が憲法で定められている。キリスト教が優勢な宗教で、アイルランドは依然としてカトリックが優勢な国だが、国勢調査でカトリックである人口の割合は、2011年の国勢調査では84.2%だったのが、直近の2016年国勢調査では78.3%にまで減少している。2016年国勢調査のその他の結果では、プロテスタントが4.2%、正教が1.3%、イスラム教が1.3%、無宗教が9.8%となっている。ジョージタウン大学の調査によると、2000年以前は欧米諸国の中でも特にミサの定期的な出席率が高い国だったという。1日の出席率が13%であったのに対し、1週間の出席率は1990年の81%から2006年には48%に減少しているが、減少は安定化していると報告されている。2011年には、ダブリンの毎週のミサの出席率はわずか18%と報告され、若い世代ではさらに低くなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "アイルランド聖公会は、人口の2.7%を占める第2位のキリスト教宗派である。20世紀を通して減少したが、他の小規模なキリスト教宗派と同様に、21世紀初頭には増加した。プロテスタントの主要な宗派は、長老派教会とメソジスト教会である。移民はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の人口増加に貢献しており、1996年にはダブリンのクロンスキーにモスクが出来た。割合で見ると、正統派キリスト教とイスラム教が最も早く成長した宗教で、それぞれ100%と70%の増加を記録している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "アイルランドの守護聖人は、聖パトリック、聖ブリギット、聖コルンバだが、一般的に守護聖人として認識されているのは聖パトリックだけである。聖パトリックの祝日はアイルランドの国慶節として3月17日にアイルランド国内外でも祝われ、パレードなどが行われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "他のカトリック系欧州諸国と同様に、アイルランドも20世紀後半には合法的な世俗化の時代を迎えた。1972年、特定の宗教団体を名指ししていた憲法の条文は、修正第5条の国民投票で削除された。「国家は、公共の礼拝の敬礼が全能の神によるものであることを認める。国家は、神の御名を敬愛し、宗教を尊重し、尊重しなければならない」と定められている憲法第44条は残っている。また、同条は信教の自由を定め、いかなる宗教の寄進も禁止し、宗教的差別を禁止し、宗教学校と非宗教学校を非偏見的に扱うことを国家に要求している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "宗教学は2001年に中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートの選択科目として導入された。多くの学校は宗教団体によって運営されているが、若い世代の間では世俗主義的な傾向が生じている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "アイルランドには初等教育、中等教育、高等教育の3つのレベルの教育がある。教育制度の大部分は、教育・技能大臣を通じた政府の指導の下にある。認可された初等・中等教育機関は、関係当局が定めたカリキュラムを遵守しなければならない。6歳から15歳までは義務教育であり、18歳までは中等教育の最初の3年間を修了しなければならず、その中には中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートも含まれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "アイルランドには約3,300の初等教育機関(小学校)がある。大多数(92%)はカトリック教会の保護下にある。宗教団体が運営する学校であっても、公的な資金と承認を受けている学校は、宗教やその欠如に基づいて生徒を差別することはできない。特定の宗教の生徒は、学校の定員に達している場合には、学校の理念を共有していない生徒よりも先に受け入れられる可能性がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートは、2年間の学習の後に受験される中等教育機関の最終試験である。高等教育を受けようとする者は通常この試験を受験するが、一般的には第3期の教育への入学は、受験する6つの科目の中で最も成績の良い科目の成績に応じて、競争制で行われる。第3期の教育は、少なくとも38の高等教育機関によって授与される。これには、総合大学10校に加え、高等教育・研修賞審議会が指定するその他の高等教育機関が含まれる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "経済協力開発機構(OECD)が調整している留学生評価プログラムでは、2012年の評価で、アイルランドはOECD加盟国の中で読解力が4番目に高く、理科が9番目に高く、数学が13番目に高いと評価されている。2012年には、アイルランドの15歳の学生の読み書き能力は、欧州連合で2番目に高い水準にあった。また、アイルランドの一人当たりの大学数は世界上位の500校中0.747校で、世界第8位にランクされている。アイルランドでは、初等教育、中等教育、高等教育(大学等)はすべてのEU市民に無料で提供されている。学生サービスや試験の費用はかかる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "また、2012年の時点でアイルランドの人口の37%が大学を含む高等教育の学位を持っており、世界で高い割合を誇っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "アイルランドの医療は、公的医療機関と民間医療機関の両方から提供されている。一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されており、公的セクターがプライマリケア診療所を運営している。利用には自己負担が発生する。民間医療保険市場も存在し、加入率は44.6%であった(2013年)。保健大臣が保健サービス全般の政策を決定する責任を負っている。アイルランドの居住者は、保健サービス執行部が管理し、一般の税金で賄われている公的医療制度を利用して医療を受ける権利がある。特定の医療を受けるためには、所得、年齢、病気、障害の程度によっては、助成金を支払わなければならない場合がある。出産サービスは無料で、生後6ヶ月までの子どもの手当ても無料である。救急医療は、病院の救急部に来院した患者に提供されるが、緊急ではない状況で救急科を受診した場合、総合診療医からの紹介ではない場合は100ユーロの料金が発生することがある。状況によっては、この料金が支払われない場合や免除される場合もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "欧州健康保険証を持っている者は誰でも、医療サービス執行機関で治療を無料で受けることができる。外来患者も無料である。しかし、中央値以上の所得を持つ患者の大多数は、補助的な入院費を支払わなければならない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2016年のアイルランドの平均寿命は81.8歳(OECD)で、男性は79.9歳、女性は83.6歳となっている。アイルランドの出生率は欧州連合で最も高く(人口1,000人あたり16.8人、EU平均は10.7人)、乳幼児死亡率は非常に低く(出生数1,000人あたり3.5人)、またアイルランドの医療制度は、2012年には欧州34カ国中13位にランクされた。民間医療調査機関が作成した「欧州健康消費者指数」によると、アイルランドの医療制度は、2012年には欧州34カ国中13位にランクされている。同じ報告書では、アイルランドの医療制度は、健康面では8番目に優れているが、ヨーロッパでは21番目にアクセスしやすい制度にすぎないと評価されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2019年の年間犯罪発生総件数は、225,103件で前年比5%の増加となっている。2018年と比べ、強盗や侵入窃盗、スリやひったくりなどの財産犯は総じて減少傾向を示しているものの、車上狙い、自転車盗、強制性交、薬物・銃器犯罪、詐欺・横領等の犯罪は増加傾向を示している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "首都ダブリン市内及び近郊では、ギャング団同士の抗争とみられる銃撃・殺人事件が発生しており、警察は武装部隊による警戒活動を強化している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "1922年に創設されたガルダ・シーハーナ(Garda Síochána)と呼ばれているアイルランド警察は、アイルランドの国家警察機関である。通称は、単数形で「Garda(ガルダ)」、複数形で「Gardaí(ガルディー」)と呼ぶ部隊の長はアイルランド政府が任命するガルダ委員会が務めている。本部はダブリンのフェニックス・パーク(大統領邸もある)にある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "アイルランド放送協会 (RTÉ) は、アイルランドの公共放送局である。RTÉは、RTÉ OneとRTÉ2の2つの国営テレビ局を受信料および広告料で放送している。他の民営テレビ局は、ヴァージン・メディア・ワン、ヴァージン・メディア・ツー、ヴァージン・メディアー・スリー、TG4で、後者はアイルランド語話者向けの公共放送局である。これらのチャンネルはすべて、無料で視聴できる地上デジタル放送のSaorviewで視聴することができる。その他のチャンネルとしては、RTÉ News Now、RTÉjr、RTÉ One +1などがある。また、ヴァージン・メディアやSkyなどの有料放送局も放送されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "全国には多くの地方局やローカルラジオ局がある。ある調査によると、成人の85%が、全国放送局、地方放送局、ローカル放送局の混合局を日常的に聞いていることが明らかになっている。RTÉラジオは、ラジオ1、2fm、Lyric fm、RnaGの4つの全国放送局を放送している。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "アイルランドには伝統的に競争力のある活字メディアがあり、日刊の全国紙と週刊の地方紙、さらには日曜版の全国紙に分かれている。イギリスの出版物の強さはアイルランドの印刷メディアの特徴であり、イギリスが発行している新聞や雑誌を幅広く取り揃えている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "ユーロスタットの報告によると、欧州連合平均の79%に対し、2013年には82%のアイルランドの世帯がインターネットに接続していたが、ブロードバンドに接続していたのは67%にとどまっていた。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "古くはケルト人による文化が栄えローマ時代の書物などにその一端が記されている。6世紀以後には『ケルズの書』に代表されるようなカトリック信仰に基づくキリスト教文化が広まった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "アイルランド料理は、伝統的に肉や乳製品をベースに、野菜や魚介類を加えたものだった。また、牧畜業が盛んなため、乳製品や肉、その加工食品が多く食されている。ジャガイモは多くの食事に添えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "人気のあるアイルランド料理の例としては、ボクスティ、コルカノン、コードル、アイリッシュシチュー、ベーコン・アンド・キャベツなどがある。アイルランドのフル・ブレックファストは、一般的にラッシャー(薄切りベーコン)、卵、ソーセージ、ホワイトプディング(英語版)、ブラックプディング、フライドトマト(英語版)などの揚げ物やグリル料理で構成されている。近年の経済発展と共に海外の食文化も取り入れられ、伝統料理と組み合わせた多くの創作料理で外食産業を賑わせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "島国にもかかわらず魚の料理は少ないが、西部に行くと魚介類の料理が増え、新鮮な野菜や魚、牡蠣、ムール貝などの貝類を使った料理がある。特に貝類は、全国の海岸線から良質な貝類が手に入ることから人気が高まっている。最も人気のある魚はサーモンとタラである。最近では全国各地で作られるようになった手作りチーズの種類も豊富になってきている。伝統的なパンには、ソーダブレッドがある。バームブラックは、サルタナとレーズンを加えた酵母パンで、伝統的にハロウィンに食べられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "アイルランド人の間で日常的に飲まれている飲み物には、紅茶やコーヒーがある。アルコール飲料には、ポティーンやアーサー・ギネスの醸造所であるダブリンのセント・ジェームズ・ゲートで生まれた辛口スタウトのギネスなどがある。アイリッシュ・ウイスキーも人気があり、シングル・モルト、シングル・グレーン、ブレンデッド ウイスキーなど、さまざまな形で提供されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "現在の文字が導入される以前は、ケルト神話として残る神話・英雄伝説を扱う口承文学が栄えた。その後のアイルランドの文学にはアイルランド語で書かれたものと、英語で書かれたアングロ・アイリッシュ文学がある。イギリスの植民地時代、連合王国時代にはアイルランド出身の小説家により多くの優れた小説が英語で執筆された。この中には、1726年の小説『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、1890年の小説『ドリアン・グレイの肖像』、1891年の戯曲『サロメ』(仏語)のオスカー・ワイルドなどがいる。他にも18世紀に重要な作家で、最も注目された作品には、『トリストラム・シャンディ』のローレンス・スターンや、オリヴァー・ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』などがある。19世紀には、マリア・エッジワース、ジョン・バニム、ジェラルド・グリフィン、チャールズ・キッカム、ウィリアム・カールトン、ジョージ・ムーア、サマヴィル&ロスなど、多くのアイルランドの小説家が誕生した。ブラム・ストーカーは、1897年の小説『ドラキュラ』の作者として最もよく知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "ジェイムズ・ジョイス(1882年 - 1941年)は、ダブリンを舞台にしたオデュッセイアの解釈である最も有名な1922年の作品の『ユリシーズ』は、20世紀の欧米文学に大きな影響を与えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "20世紀にはパトリシア・リンチが児童文学作家として活躍し、21世紀初頭にはオーエン・コルファーの作品がこのジャンルでニューヨーク・タイムズのベストセラーになった。多くのアイルランド人作家が好む短編小説のジャンルでは、フランク・オコナー、ウィリアム・トレヴァーなどがいた。アイルランドの詩人には、パトリック・カヴァナー、トーマス・マッカーシー、ダーモット・ボルジャー、ノーベル文学賞受賞者のウィリアム・バトラー・イェイツ、シェイマス・ヒーニー(北アイルランド生まれ、ダブリン在住)などがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "アイルランド演劇の歴史は17世紀初頭のダブリンでのイギリス統治の拡大に始まり、それ以来、アイルランドはイギリス演劇に大きく貢献してきた。初期の歴史では、アイルランドの演劇は政治的な目的のために上演される傾向があったが、多くの劇場が開場し、より多様な娯楽が上演されるようになった。ダブリンに本拠地を置く劇場の多くはロンドンの劇場とつながりを持ち、イギリスの作品がアイルランドの舞台に登場することもしばしばあった。しかし、ほとんどのアイルランド人劇作家は、自分たちの地位を確立するために海外に出ていった。18世紀には、オリヴァー・ゴールドスミスとリチャード・ブリンズリー・シェリダンが、当時ロンドンの舞台で最も成功した劇作家の一人だった。20世紀に入ると、アイルランド演劇の上演や作家、演出家、パフォーマーの育成を目的とした劇団が設立され、多くのアイルランド人劇作家がイギリスやアメリカ合衆国ではなく、アイルランドで学び、名声を確立することができるようになった。オスカー・ワイルド、ノーベル文学賞受賞者のジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)を中心とした高い評価を得ている作家たちの伝統を受け、ショーン・オケーシーなどの劇作家が人気を博している。その他、20世紀のアイルランドの劇作家にはフランク・マクギネスなどがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "アイルランド出身のノーベル文学賞の受賞者として、W・B・イェーツ(1923年)、ジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)、詩人のシェイマス・ヒーニー(1995年)がいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "アイルランドの伝統音楽はダンスの舞曲、無伴奏の叙事詩歌や抒情詩歌、移民の歌、反戦歌などがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "近年ではポピュラー音楽の分野において多くのアーティストが世界的な成功を収めている。また、多くのイギリスのロックバンドや、ハリウッドの戦前の監督や俳優の多くをアイリッシュ系移民(英語版)が占めていた。近年のポピュラー音楽のアーティストの中ではヴァン・モリソン、ロリー・ギャラガー、ゲイリー・ムーア、シン・リジィ及びフィル・ライノット、メアリー・ブラック、シネイド・オコナー、U2、クランベリーズ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、エンヤ、ウエストライフ、ケルティック・ウーマン、ボーイゾーン、ザ・コアーズなどが世界的に有名である。ロックバンドのU2は、1976年の結成以来、全世界で1億7000万枚のアルバムを販売している。また、ノーベル平和賞候補者にも選ばれた元ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフもアイルランド出身である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "アイルランド放送協会のRTÉパフォーミング・グループのようなクラシック音楽のアンサンブルも各地に存在し、3つのオペラ組織がある。オペラ・アイルランドはダブリンでオペラを制作しており、オペラ・シアター・カンパニーは室内楽形式のオペラを国内各地で上演している。毎年10月から11月にかけてウェックスフォード・オペラ・フェスティバルも開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "アイルランドは1965年からユーロビジョン・ソング・コンテストに参加している。初優勝は1970年、『All Kinds of Everything』でダナ・ローズマリー・スカロンが優勝した。その後も6回の優勝を果たしており、競合国の中では最多の優勝回数を記録している。リバーダンスは1994年のコンテスト中に幕間のパフォーマンスとして生まれた現象である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "伝統的なアイリッシュ・ダンスは、大きく分けて社交ダンスとパフォーマンス・ダンスに分けられる。さらに社交ダンスは、ケーリーとカントリー・ダンスに分けられる。アイルランドのカントリー・ダンスは、正方形に4組のカップルが並んで踊る4角形のダンスで、ケーリーは2人から16人までの様々なフォーメーションで踊るダンスである。また、この2つの形式の間には、多くの様式的な違いがある。アイルランドの社交ダンスは生きた伝統であり、特定のダンスのバリエーションは国中で見られる。場所によっては、ダンスを意図的に修正したり、新しいダンスに振り付けを加えたりすることもある。パフォーマンス・ダンスは伝統的にステップ・ダンスと呼ばれている。また、アイリッシュ・ダンスを現代風にアレンジをした「リバーダンス」の公演の世界的大成功によって、アイルランド文化への再認識も進み、現在ではケルト音楽という懐古趣味的なポピュラー音楽が1つのジャンルとして人気を博すようになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "渦巻・組紐・動物文様などが組み合わされたケルト美術はキリスト教と融合し『ケルズの書』、『ダロウの書』などの装飾写本を生み出した。また、ケルティック・クロスなどのキリスト教装飾もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "演劇はアベイ座を中心とする文芸復興運動で、現代のアイルランド人のアイデンティティ形成に大きな役割を果たした。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "アイルランドには、ブルー・ナ・ボーニャ、プルナブロン・ドルメン、キャッスルトレンジ・ストーン、トゥロエ・ストーン、ドロンベッグ・ストーン・サークルなどの新石器時代の建築物が豊富に残っており、様々な状態で保存されている。ローマ人がアイルランドを征服しなかったため、グレコ・ローマ時代の建築物は非常に稀である。その代わりに、鉄器時代の建築が長く続いていた。アイルランドの円形の塔は、中世前期の時代に生まれた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "キリスト教では、クロンマクノイズ、シュケリッグ・ヴィヒル、スカッタリー島などのシンプルな修道院が導入された。これらのダブル・モナステリーとエジプトのコプト教徒の修道院の間には、様式的な類似性が指摘されている。ゲール人の王や貴族らは、リングフォートや人工要塞島を占拠していた。12世紀の教会改革は、シトー会を経由して大陸の影響を刺激し、ロマネスク様式のメリフォント、ボイル、ティンテルンの修道院があった。ゲール人の集落は、ケルズのような修道院の前身の町に限定されていたが、現在の通りのパターンは、元々の円形の集落の輪郭をある程度保存している。大規模な都市部の集落が形成されたのは、ヴァイキングの侵略の時代になってからである。主要なヒベルノ=ノース・ロングフォートは海岸沿いにあったが、その名を冠したロングフォードのような内陸の河岸集落もあった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "12世紀後半にはアングロ=ノルマン人によってダブリン城やキルケニー城などが建設され、城壁で囲まれた計画的な交易都市の概念が導入され、封建制下では憲章の付与によって法的地位と数々の権利を得た。これらの憲章は、これらの町のデザインを具体的に規定していた。最初のものは16世紀と17世紀のプランテーション・タウンで、テューダー朝の英国王が地元の反乱を抑えるためのメカニズムとして使用されたもので、18世紀の地主タウンが続いた。現存するノルマン人が設立した計画的な町には、ドロヘダとヨールがあり、プランテーション・タウンにはポート・レーイシュとポーターリントンがあり、18世紀の計画的な町にはウェストポートとバリナスローがある。計画的な入植が、現在の国中の町の大部分を占めている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "聖パトリックのようなゴシック様式の大聖堂もまた、ノルマン人によって導入された。中世後期までには、フランシスコ会が修道院を支配し、バンラティ城のようなタワーハウスは、ゲール人やノルマン人の貴族によって建設された。多くの宗教的な建物は、修道院の解散とともに廃墟となった。維新後、エドワード・ロベット・ピアースの主導で、パッラーディオ建築とロココ、特にカントリー・ハウスがアイルランドを席巻し、国会議事堂が最も重要なものとなった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "カスタム・ハウス、フォー・コーツ、中央郵便局、キングズ・インズなどの建築物が建設され、特にダブリンでは新古典主義建築やジョージアン建築が盛んになった。カトリック解放後、聖コルマンズや聖フィンバーズなど、フランスのゴシック・リヴァイヴァル建築の影響を受けた大聖堂や教会が出現した。アイルランドといえば、長い間、茅葺き屋根のコテジが連想されてきたが、最近では趣のあるものとみなされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "1927年にアメリカ合衆国でデザインされたターナーズ・クロスのアール・デコ教会を皮切りに、アイルランドの建築は20世紀以降、近代的で洗練された建築様式を求める国際的なトレンドに沿ったものとなっている。その他の開発には、バリーマンの再生やアダムスタウンのダブリンの都市拡張などがある。1997年にダブリン・ドックランズ開発局が設立されて以来、ダブリン・ドックランズ地区では大規模な再開発が行われ、ダブリン・コンベンション・センターやグランド・カナル劇場(現在のボード・ガシュ・エナジー劇場)などが建設された。アイルランド王立建築家協会は、国内での建築活動を規制している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "アイルランドの映画産業は、スクリーン・アイルランドによる映画産業の振興と、多額の減税措置の導入のおかげもあって、ここ数年で幾分か成長を見せている。アイルランド映画協会とプライスウォーターハウスクーパースが2008年に実施した「アイルランド視聴覚コンテンツ制作部門レビュー」によると、この部門の雇用者数は6~7年前の1,000人から6,000人を超え、その評価額は5億5,730万ユーロを超え、国内総生産の0.3%を占めている。アイルランドは英語圏であるため、ほとんどの映画は英語で製作されているが、一部または全部をアイルランド語で製作されている映画もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "アイルランド映画委員会の支援を受け、同国の映画産業は1990年代以降、土着映画の振興や『ブレイブハート』や『プライベート・ライアン』のような国際的な作品の誘致などにより、大きく成長している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "大予算の国際的なプロダクションが国にとって貴重な存在である一方で、アイルランドのプロデューサー、監督、脚本家、クルーに技術と経験を与え、アイルランドを拠点とする才能から生まれる物語を伝える機会を創出する中心となっているのは、アイルランドの土着産業である。最も成功したアイルランド映画には、『麦の穂をゆらす風』(2006年)、『インターミッション 』(2003年)、『ドッグマン』(2004年)、『マイケル・コリンズ』(1996年)、『アンジェラの灰』(1999年)、『ザ・コミットメンツ』(1991年)、『ONCE ダブリンの街角で』(2007年)などがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "過去には、カトリック教会の影響により、『独裁者』(1940年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)、『ライフ・オブ・ブライアン』(1979年)など、多くの映画が検閲や上映禁止になっていたが、近年は上映禁止は行われていない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "アイルランドの被服文化はイギリスとの類似点が幾つか見受けられる面を持つ。同国はアラン・ジャンパー(英語版)やドニゴール・ツイード(英語版)発祥の地である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "伝統的なものにクロークの一種である「ブレイト」(brait)と呼ばれるマントなどがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "アイルランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。ニューグレンジを含むボイン渓谷の遺跡群と、シュケリッグ・ヴィヒルである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "アイルランドではサッカーやラグビーが人気のスポーツとなっているが、ゲーリックフットボールやハーリングなどのゲーリック・ゲームズは、教育現場でも取り入れられて広く普及している。県によるゲーリックフットボールとハーリングの対抗戦は人気があり、県毎の連帯感を演出している。優勝クラブを決定する『オールアイルランド・ファイナル』は毎年大変な盛り上がりを見せる。ゲーリック・ゲームズはアマチュアスポーツであり、県代表の選手も全て職業を持っている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "アイルランド国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっている。1985年にプロサッカーリーグの『リーグ・オブ・アイルランド・プレミアディビジョン』が創設された。しかしイングランド・プレミアリーグがアイルランド国内で最も人気があるリーグとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "1921年に設立されたアイルランドサッカー協会(FAI)によってサッカーアイルランド代表が構成されている。FIFAワールドカップには3度出場しており、1990年大会では初出場ながらベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権にも3度出場しており、2016年大会では初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "アイルランド人サッカー選手の象徴としてロイ・キーンがおり、マンチェスター・ユナイテッドでは長年主将を務め非常に人気の高い選手であった。他にもロビー・キーンやダミアン・ダフ、シェイ・ギヴンなどイングランドのビッグクラブで活躍した選手は数多く存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "ラグビーアイルランド代表はアイルランドと北アイルランドとの合同チームとなっており、シックス・ネイションズの強豪国でもある。アイリッシュ海の両側の国で作ったラグビーのドリームチームのブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズで主将を務めたのはブライアン・オドリスコルだった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "アイリッシュダービーに代表されるアイルランドの競馬も盛んである。キルデア県のカラ競馬場とレパーズタウン競馬場で行われ、1860年代から行われているが1700年代には早くもレースが行われていた。人気のあるレース・ミーティングはゴールウェイでも開催されている。クールモアスタッドや、世界で最も成功した調教師の一人であるエイダン・オブライエンの本拠地であるバリードイル調教場などがある。アイルランドはガリレオ、モンジュー、シーザスターズなどのチャンピオン馬を輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "アイルランドには全国に350以上のゴルフコースがあり、2006年のライダーカップはアイルランドで行われた。パドレイグ・ハリントン、シェーン・ローリー、ポール・マッギンリーのような国際的に成功したプロゴルファーを輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "クリケットは人気スポーツの一つである。歴史は古く、18世紀後半にイギリス人によってクリケットが持ち込まれた。最初の試合は1792年に行われたという記録がある。国内競技連盟であるクリケットアイルランドは、1993年に国際クリケット評議会に加盟し、2017年には全12カ国の一つであるフルメンバーに昇格された。クリケットアイルランド代表はラグビーと同様にアイルランドと北アイルランドとの合同チームとなっている。アイルランド代表は長年による実績によって国際的な地位を獲得し、古くは1928年にインド諸島代表に勝利をしている。2007年のワールドカップでは、ジンバブエに引き分け、パキスタンに勝利し、ベスト8に進出する大躍進を遂げた。ワールドカップ後、若年層を中心にクリケット人気が爆発的に伸び、国内のクリケットクラブは300%増加したという報告もある。1999年にはワールドカップを4カ国の共催であるが、アイルランドで初開催となった。", "title": "スポーツ" } ]
アイルランドは、北西ヨーロッパに位置し、北大西洋のアイルランド島の大部分を領土とする共和制国家。代替的な記述でアイルランド共和国としても知られる。首都はダブリン。 人口490万人のうち約4割がダブリン近郊に住んでいる。主権国家であり、北アイルランド(イギリス領)との唯一の陸地国境を共有している。大西洋に囲まれており、南にはケルト海、南東にはセント・ジョージ海峡、東にはアイリッシュ海がある。単一国家であり、議会共和制である。立法府は、下院であるドイル・エアラン、上院であるシャナズ・エアラン、そして選挙で選ばれた大統領(Uachtarán)から構成されている。政府の長は議会で選出され、大統領によって任命された首相である。 1922年に英愛条約の結果、アイルランド自由国として誕生した。1937年に新しい憲法が採択されるまでは自治領の地位にあった。「アイルランド」と名づけられ、事実上の共和制となり、選出された非執行大統領が国家元首となる。1948年のアイルランド共和国法により、1949年に正式に共和国と宣言された。1955年12月、アイルランドは国際連合に加盟した。1973年には欧州連合(EU)の前身である欧州経済共同体(EEC)に加盟した。20世紀のほとんどの間、北アイルランドとの正式な関係はなかったが、1980年代から1990年代にかけて、イギリス政府とアイルランド政府は「厄介事」と呼ばれている北アイルランド問題の解決に向けて北アイルランドの当事者と協力した。1998年にベルファスト合意が調印されて以来、アイルランド政府と北アイルランド政府執行部は、協定によって設立された南北閣僚協議会の下で、多くの政策分野で協力してきた。 アイルランドは一人当たりの国内総生産が世界で最も裕福な国のトップ10にランクされており、2015年のレガタム繁栄指数によると世界で10番目に繁栄している国である。EEC加盟後、アイルランドは一連の自由主義的な経済政策を実施し、急速な経済成長を遂げた。1995年から2007年までの間、ケルトの虎時代として知られるようになり、繁栄を達成した。2005年、『エコノミスト』の調査では最も住みやすい国に選出されている。しかし、2008年に発生した未曾有の金融危機と同時に世界的な経済危機に見舞われたことで、この時期の繁栄は途絶えた。2015年にはアイルランド経済がEU内で最も急速に成長したことから、アイルランドは国際的に富と繁栄を比較するリーグテーブルを再び急速に上昇させている。例えば、2019年には、アイルランドは国連の人間開発指数によって世界で3番目の先進国にランクされた。また、報道の自由、経済的自由、市民的自由など、数々の国の指標でも高く示されている。アイルランドは欧州連合(EU)に加盟しており、欧州評議会と経済協力開発機構の設立国でもある。アイルランド政府は第二次世界大戦の直前から非同盟による軍事的中立政策をとっており、北大西洋条約機構(NATO)には加盟していないが、平和のためのパートナーシップや常設軍事協力枠組み(PESCO)には加盟している。
{{混同|アイスランド}}{{Otheruses}} {{redirect|アイルランド共和国|[[アイルランド独立戦争]]期に独立が宣言された国家| アイルランド共和国 (1919年-1922年)}} {{基礎情報 国 |略名 = アイルランド |日本語国名 = アイルランド |公式国名 = '''{{lang|ga|Éire}}'''<small>(アイルランド語)</small><br/>'''{{lang|en|Ireland}}'''<small>(英語)</small> |国旗画像 = Flag of Ireland.svg |国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Ireland.svg|85px|アイルランドの国章]] |国章リンク = ([[アイルランドの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[兵士の歌|{{lang|ga|Amhrán na bhFiann}}]]{{ga icon}}<br/>[[兵士の歌|{{lang|en|The Soldier’s Song}}]]{{en icon}}<br/>''兵士の歌''<br />{{center|[[File:United States Navy Band - Amhrán na bhFiann.ogg]]}} |位置画像 = EU-Ireland.svg |公用語 = [[アイルランド語]]<br/>[[アイルランド英語|英語]] |首都 = [[ダブリン]] |最大都市 = ダブリン |元首等肩書 = [[アイルランドの大統領|大統領]] |元首等氏名 = [[マイケル・D・ヒギンズ]] |首相等肩書 = [[アイルランドの首相|首相]] |首相等氏名 = [[レオ・バラッカー]] |面積順位 = 118 |面積大きさ = 1 E10 |面積値 = 70,273 |水面積率 = 2% |面積追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/ireland/#geography |title=THE WORLD FACTBOOK Ireland#Geography |publisher=[[中央情報局]] |date=2022-06-21 |accessdate=2022-06-24}}</ref> |人口統計年 = 2022 |人口順位 = 122 |人口大きさ = 1 E6 |人口値 = 5,123,536 |人口密度値 = 73 |人口追記 = <ref name="PreliminaryCensus2022">{{Cite web |url=https://www.cso.ie/en/media/csoie/newsevents/presentations/2022/Census_Preliminary_Results_2022_-_23_June_2022_-_PDF.pdf |title=Census Preliminary Results 2022 |format=pdf |publisher=中央統計局 |date=2022-06-23 |accessdate=2022-06-24}}</ref> |GDP統計年元 = 2020 |GDP値元 = 3728億6900万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年11月5日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=178,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> |GDP統計年MER = 2020 |GDP順位MER = 28 |GDP値MER = 4255億4900万<ref name="economy" /> |GDP MER/人 = 85,205.496<ref name="economy" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = 59 |GDP値 = 4794億300万<ref name="economy" /> |GDP/人 = 95,993.821<ref name="economy" /> |建国形態 = 独立 |建国年月日 = [[1922年]][[12月6日]]([[アイルランド自由国]])<br />[[1937年]][[12月29日]]([[アイルランド憲法]]の施行)<br />[[1949年]][[4月18日]]([[イギリス連邦]]を離脱) |通貨 =[[ユーロ]] (&#8364;) |通貨コード = EUR |通貨追記 = <ref>[[1999年]]以前の通貨は[[アイルランド・ポンド]]。</ref><ref>[[アイルランドのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯 = ±0 |夏時間 = +1 |ISO 3166-1 = IE / IRL |ccTLD = [[.ie]] |国際電話番号 = 353 |注記 = <references /> }} '''アイルランド'''({{Lang-ga-short|Éire}}、{{lang-en-short|Ireland}})は、[[西ヨーロッパ|北西ヨーロッパ]]に位置し、[[大西洋|北大西洋]]の[[アイルランド島]]の大部分を領土とする[[共和制]][[国家]]。代替的な記述で'''アイルランド共和国'''(アイルランドきょうわこく、{{Lang-ga-short|Poblacht na hÉireann}}、{{lang-en-short|Republic of Ireland}})としても知られる<ref group="注釈">憲法上の正式名称は「'''アイルランド'''」であり、「アイルランド共和国」ではない。</ref>。[[首都]]は[[ダブリン]]。 人口490万人のうち約4割が[[ダブリン]]近郊に住んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=Population and Migration Estimates April 2018 - CSO - 中央統計局|url=https://www.cso.ie/en/releasesandpublications/er/pme/populationandmigrationestimatesapril2018/|website=www.cso.ie|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。[[主権国家体制|主権国家]]であり、[[北アイルランド]]([[イギリス|イギリス領]])との唯一の陸地国境を共有している。大西洋に囲まれており、南には[[ケルト海]]、南東には[[セント・ジョージ海峡]]、東には[[アイリッシュ海]]がある。[[単一国家]]であり、[[議会共和制]]である<ref>{{Cite book|edition=1st ed|title=Constitutional law of 15 EU member states|url=https://www.worldcat.org/oclc/55888245|location=Deventer|isbn=90-13-01255-8|oclc=55888245|others=Prakke, L.,, Kortmann, C. A. J. M.,, Brandhof, J. C. E. van den.|date=|year=|publisher=Kluwer|page=429}}</ref>。[[立法府]]は、[[下院]]である[[ドイル・エアラン]]({{Lang|ga|Dáil Éireann}})、[[上院]]である[[シャナズ・エアラン]]({{Lang|ga|Seanad Éireann}})、そして選挙で選ばれた[[アイルランドの大統領|大統領]]({{Lang|ga|Uachtarán}})から構成されている。[[政府の長]]は議会で選出され、大統領によって任命された首相({{Lang|ga|Taoiseach}}、ティーショク、英語では「{{En|Prime Minister}}」とは呼ばれない)である。 [[1922年]]に[[英愛条約]]の結果、[[アイルランド自由国]]として誕生した。[[1937年]]に新しい憲法が採択されるまでは[[自治領]]の地位にあった。「アイルランド」と名づけられ、事実上の共和制となり、選出された非執行大統領が国家元首となる。[[1948年]]の[[アイルランド共和国法]]({{En|Republic of Ireland Act 1948}})により、[[1949年]]に正式に共和国と宣言された。[[1955年]]12月、アイルランドは[[国際連合]]に加盟した。[[1973年]]には[[欧州連合]](EU)の前身である[[欧州経済共同体]](EEC)に加盟した。[[20世紀]]のほとんどの間、北アイルランドとの正式な関係はなかったが、[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて、[[イギリス政府]]と[[アイルランド政府]]は「厄介事({{Lang-ga-short|Na Trioblóidí}}、{{Lang-en-short|The Troubles}})」と呼ばれている[[北アイルランド問題]]の解決に向けて北アイルランドの当事者と協力した。[[1998年]]に[[ベルファスト合意]]が調印されて以来、アイルランド政府と北アイルランド政府執行部は、協定によって設立された南北閣僚協議会の下で、多くの政策分野で協力してきた。 アイルランドは一人当たりの[[国内総生産]]が世界で最も裕福な国のトップ10にランクされており<ref>{{Cite web|title=The World Factbook — Central Intelligence Agency|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2004rank.html?countryName=Ireland&countryCode=ei&regionCode=eur&rank=27#ei|website=www.cia.gov|accessdate=2020-07-15}}</ref>、2015年のレガタム繁栄指数によると世界で10番目に繁栄している国である<ref>[https://lif.blob.core.windows.net/lif/docs/default-source/publications/2015-legatum-prosperity-index-pdf.pdf?sfvrsn=2 Legatum Prosperity Index]. The Legatum Institute. 2020年7月15日閲覧。</ref>。EEC加盟後、アイルランドは一連の[[経済的自由主義|自由主義的な経済政策]]を実施し、急速な経済成長を遂げた。[[1995年]]から[[2007年]]までの間、[[ケルトの虎]]時代として知られるようになり、繁栄を達成した。2005年、『[[エコノミスト]]』の調査では最も住みやすい国に選出されている。しかし、[[2008年]]に発生した未曾有の金融危機と同時に世界的な[[世界金融危機 (2007年-2010年)|経済危機]]に見舞われたことで、この時期の繁栄は途絶えた<ref>"EU: Causes of Growth differentials in Europe", WAWFA think tank</ref><ref>{{Cite news|title=Ireland: As the Celtic Tiger roars its last, Ruaridh Nicoll reports on fear of an Exodus from Ireland|url=https://www.theguardian.com/world/2009/may/10/ireland-financial-crisis-emigration|work=The Observer|date=2009-05-09|accessdate=2020-07-15|issn=0029-7712|language=en-GB|first=Ruaridh|last=Nicoll}}</ref>。[[2015年]]にはアイルランド経済がEU内で最も急速に成長したことから、アイルランドは国際的に富と繁栄を比較するリーグテーブルを再び急速に上昇させている<ref>{{Cite web|title=Financial Times|url=https://www.ft.com/content/160b5652-e6bd-11e5-bc31-138df2ae9ee6|website=www.ft.com|accessdate=2020-07-15|publisher=}}</ref>。例えば、[[2019年]]には、アイルランドは国連の[[人間開発指数]]によって世界で3番目の先進国にランクされた<ref>[http://hdr.undp.org/sites/default/files/hdr2019.pdf Human Development Report 2019]. [[人間開発報告書]]. [[国際連合開発計画]]. p.300. 2020年7月15日閲覧。</ref>。また、[[報道の自由]]、[[経済的自由権|経済的自由]]、市民的自由など、数々の国の指標でも高く示されている。アイルランドは欧州連合(EU)に加盟しており、[[欧州評議会]]と[[経済協力開発機構]]の設立国でもある。アイルランド政府は[[第二次世界大戦]]の直前から非同盟による軍事的[[中立]]政策をとっており、[[北大西洋条約機構]](NATO)には加盟していないが<ref>{{Cite web|url=http://www.nato.int/cps/en/natolive/nato_countries.htm|title=NATO MEMBER COUNTRIES|accessdate=2020-07-15|publisher=}}</ref>、[[平和のためのパートナーシップ]]や常設軍事協力枠組み(PESCO)には加盟している。 == 国名 == {{main|{{仮リンク|アイルランドの国名|en|Names of the Irish state}}}} [[ファイル:Ei-map.svg|thumb|アイルランドの地図]] アイルランドの32県のうち26県で構成される[[1922年]]の国家は、「[[アイルランド自由国]]」として知られていた<ref>{{Cite book|title=The Irish Revolution, 1916-1923|url=https://www.worldcat.org/oclc/870544189|location=London|isbn=978-0-415-73687-9|oclc=870544189|last=Coleman, Marie.|date=|year=|publisher=Routledge|page=230}}</ref>。[[1937年]]の[[アイルランド憲法]]で定められた正式名称は[[アイルランド語]]で「'''{{lang|ga|Éire}}'''({{IPA-ga|ˈeːɾʲə||Eire_pronunciation.ogg}}、エール)」、[[英語]]では「'''{{lang|en|Ireland}}'''({{IPA-en|ˈaɪərlənd|}}、アイアランド)」。[[国際連合]]や[[欧州連合]]では「{{lang|en|Ireland}}」として国名登録されているが、その一方で「[[アイルランド共和国法|1948年アイルランド共和国法]]({{lang|en|The Republic of Ireland Act, 1948}})」は、憲法の規定を覆す効力は無いものの「アイルランド共和国('''{{Lang-ga-short|Poblacht na hÉireann}}'''、'''{{lang-en-short|Republic of Ireland}}''')」を国の記述とする旨を定めている<ref>{{Cite book|edition=5th ed|title=Politics in the Republic of Ireland|url=https://www.worldcat.org/oclc/316836079|publisher=Routledge|date=[2010]|location=London|isbn=978-0-415-47671-3|oclc=316836079|others=Coakley, John., Gallagher, Michael, 1951-}}</ref>。 [[イギリス政府]]は、国家の名称として「{{Lang|ga|Eire}}」([[ダイアクリティカルマーク]]なし)、[[1949年]]からは「{{En|Republic of Ireland}}(アイルランド共和国)」を使用していたが<ref>{{Cite book|title=Studies in the history of tax law|url=https://www.worldcat.org/oclc/55849557|publisher=Hart|date=2004-<2017>|location=Oxford|isbn=1-84113-473-2|oclc=55849557|others=Tiley, John., Harris, Peter, 1964-, De Cogan, Dominic., University of Cambridge. Centre for Tax Law.}}</ref>、[[1998年]]の[[ベルファスト合意]]までは「{{En|Ireland}}(アイルランド)」という名称を使用していなかった<ref>Oliver (2004), p. 178; Daly (2007), p. 80</ref>。 「{{En|Ireland}}」、「{{lang|ga|Éire}}」、「{{En|Republic of Ireland}}」の他に、「{{En|the Republic}}(共和国)」、「{{En|Southern Ireland}}(南アイルランド)」、「{{En|the South}}(南部)」とも呼ばれることがある<ref>{{Cite book|edition=7th ed.|title=Western Europe.|url=https://www.worldcat.org/oclc/57063987|publisher=Lonely Planet|date=2005|location=Footscray, Vic.|isbn=978-1-74059-927-6|oclc=57063987|others=Chilcoat, Loretta.|year=|page=616}}</ref>。アイルランド共和主義では、「{{En|the Free State}}(自由国家)」または「{{En|the 26 Counties}}(26県)」と呼ばれることが多い<ref>{{Cite book|title=Fighting for Ireland? : the Military Strategy of the Irish Republican Movement.|url=https://www.worldcat.org/oclc/437081176|publisher=Routledge|date=1997|location=London|isbn=978-0-203-44514-3|oclc=437081176|last=Smith, M. L. R.|year=|page=2}}</ref>。 日本語では「アイルランド」と「アイルランド共和国」の両方が使われており、[[外務省|日本国外務省]]は公式名称である前者を用いている<ref>{{Cite web|和書|title=アイルランド|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ireland/index.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2020-07-15|language=ja}}</ref>。アイルランド語読みの「'''エール'''」と呼ぶこともある。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は'''愛蘭土'''で、'''愛'''と略す。 == 歴史 == {{main|アイルランドの歴史|{{仮リンク|アイルランド共和国の歴史|en|History of the Republic of Ireland}}}} === 先史時代と古代 === [[ファイル:Poulnabrone dolmen-SteveFE.jpg|代替文=|サムネイル|新石器時代の[[支石墓]]]] アイルランドの原住民は[[中石器時代]]の[[狩猟採集民]]であり、石器を使用していた。[[紀元前3000年]]頃には[[青銅器時代]]へと進化し、[[穀物]]を育て、[[家畜]]を飼育し、[[武器]]や[[道具]]、青銅製の[[宝飾品]]を作っていた。[[紀元前2000年]]の初め、大きな[[石|石造り]]の神社や[[墓]]([[巨石記念物|巨石]])を建て、今でもアイルランドの風景の中で見ることができる。[[紀元前1世紀]]には、[[ピクト人]]の支配下にあり、アイルランドの[[伝承]]では[[フィル・ヴォルグ]]として記述されている[[新石器時代]]の人々のことである。 [[スコットランド]]の名前は、「アイルランド」を意味する[[ラテン語]]の「{{Lang|la|Scotus}}」(複数形は「{{Lang|la|Scoti}}」)に由来している<ref name="The Encyclopedia_1">The Encyclopedia Americana: A Library of Universal Knowledge: Volume 15, (1919) Encyclopedia Americana Corp., University of Winsconsin - Madison</ref>。これは、ローマ人が当初「スコティア({{Lang|la|Scotia}})」(「{{Lang|la|Scotus}}」から派生した形)と呼んでいたアイルランドの[[ゲール人]]入植者のことを指す。現在のスコットランドを植民地化したアイルランド人は「スコティ({{Lang|la|Scoti}})」と呼ばれていた。帝国末期のローマ人は、現在のスコットランドを指して「カレドニア({{Lang|it|Caledonia}})」という名前を使っていた<ref name="The Encyclopedia_1"/>。 最初の[[ケルト人]]は[[紀元前1600年]]頃に到着し、{{仮リンク|ゲーリック・アイルランド|en|Gaelic Ireland|label=}}を建国した。政治的にケルト人がアイルランドを[[レンスター]]、[[マンスター]]、[[アルスター]]、[[コノート]]の4つの地方に分けた。到着する前のアイルランド社会の基本行政区画はトゥア({{Lang|ga|Tuatha}}、小王国)であり、それぞれの王国は人口50万人未満の人口に対し約150トゥアと非常に小さいものだった。領土全体は[[アイルランド上王|上王]]と呼ばれる[[君主]]に支配されていた<ref>{{Cite web|title=The High Kings of Ireland|url=http://www.heraldry.ws/info/article12.html|website=www.heraldry.ws|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 伝統的な「[[アイルランド上王|アイルランドの最高王]]」に任命された人々の伝統的な一覧は数千年前、[[紀元前2千年紀]]の半ばまでさかのぼるが、最初の部分は[[神話|神話的]]なものである。どの時点で歴史上の人物に言及し始めたのかは定かではなく、これらの人物がどの時点で後の意味での「最高王」と呼ばれるようになったのかも定かではない。この社会構造は、ケルト人の生活様式に適応したもので、比較的小規模で自律的な部族単位で組織される傾向があった。 『四人の主人の年鑑({{Lang-ga-short|Annala Rioghachta Éireann}}、{{Lang-en-short|Annals of the Four Masters}})』または『四人の主人によるアイルランド王国の年鑑』は、アイルランドの歴史の[[年代記]]である。[[紀元前23世紀|紀元前2242年]]から[[1616年|西暦1616年]]の間の日付が記録されているが、最も古い日付は[[紀元前550年]]頃だと考えられている。[[1632年]]から[[1636年]]にかけて、[[ドニゴール県]]の[[フランシスコ会|フランシスコ会修道院]]で収集された<ref>{{Cite web|title=CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Annals of the Four Masters|url=https://www.newadvent.org/cathen/06163b.htm|website=www.newadvent.org|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 ベルティナ({{Lang-ga-short|Beltane または Bealtaine}}、良い火)は、古代アイルランドの祝日で、[[5月1日]]に祝われていた<ref>{{Cite web|title=WebCite query result|url=http://www.geocities.com/Athens/Forum/7280/beltane.html|website=www.geocities.com|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://webcitation.org/5komJcvfA?url=http://www.geocities.com/Athens/Forum/7280/beltane.html|archivedate=2009-10-26}}</ref>。ケルト人にとってベルティナは[[夏]]の[[牧畜]]期の始まりで、[[牛]]の群れが夏の牧草地や[[山]]の牧草地に連れて行かれた。現代のアイルランド語では「{{Lang|ga|Mi na Bealtaine}}」は、5月を意味する。多くの場合、5月のことを「{{Lang|ga|Bealtaine}}」と略し、休日を「{{Lang|ga|Là Bealtaine}}」として知られている。休日の主な活動の一つは、ベルティナの前夜({{Lang|ga|Oidhche Bhealtaine}})の儀式と政治的な意味合いを持つ山や[[丘]]での[[焚き火]]の点火だった<ref>Danaher, Kevin (1972) ''The Year in Ireland: Irish Calendar Customs'' Dublin, Mercier. [[Especial:FuentesDeLibros/1856350932|ISBN 1-85635-093-2]] pp.86-127</ref><ref>Chadwick, Nora (1970) ''The Celts'' London, Penguin. [[Especial:FuentesDeLibros/0140212116|ISBN 0-14-021211-6]] p. 181</ref>。現代の[[スコットランド]]の[[ゲール語]]では、ベルティナの黄色の日({{Lang|ga|Oidhche Bhealtaine}})だけが5月の初日を表すのに使われている。 スコットランドの[[大司教]]であり[[宣教師]]であった[[パトリキウス|聖パトリック]]([[384年]] - [[461年]])は、[[キリスト教]]を布教するためにアイルランドに上陸した。王家の中で重要な改宗を行い、修道学校を通じ、文字([[ラテン語]])を導入した。聖パトリックの死亡時には、アイルランドのエリートはすでに識字率が高く、自分たちの歴史を文字で記録していた。アイルランドはほぼキリスト教圏のみならず、学問と[[文化]]の中心地となったが、この遺産のほとんどは[[9世紀]]と[[10世紀]]の[[ヴァイキング]]の侵入で破壊された。 === ノルマン人の侵入 === 8世紀末頃から[[ノルマン人]](ヴァイキング)の侵入が始まった。[[10世紀]]末、{{仮リンク|ダルカッシャン|en|Dalcassians|label=}}と呼ばれる小さな国の王[[ブライアン・ボル]]は、より大きな隣国を征服し、アイルランドの南半分で最も強力な王となった。しかし、レンスター王のモール・ モルダは、彼に反旗を翻すようになり、ダブリンのヴァイキング王のシトリック・シルケンベアード と同盟を結び、[[オークニー諸島]]や[[マン島]]のヴァイキングの助けを得た。[[1014年]]にダブリン近郊の{{仮リンク|クロンターフの戦い|en|Battle of Clontarf|label=}}ではヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束した<ref>{{Cite web|title=CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Kerry and Aghadoe|url=https://www.newadvent.org/cathen/08627a.htm|website=www.newadvent.org|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 [[1169年]]、リチャード・ド・クレア(ストロングボウとして知られている)は、ダーマット・マクモローや[[ウェールズ]]や[[イングランド]]からのカンブロ・ノルマン人の一団とともに[[ウォーターフォード]]近郊に到着し、強制的に入植させられた。アイルランドで最も悪名高い裏切り者として知られるマクモローは、[[レンスター]]王として追放され、[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]を招いて[[玉座]]奪還の手助けをしてもらった<ref>{{Cite web|title=Dermot Macmurrough {{!}} king of Ireland|url=https://www.britannica.com/biography/Dermot-MacMurrough|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。その後の侵略により、ヘンリーが[[アイルランド卿]]となり、8世紀もののイギリス支配が始まった。[[1300年]]までにノルマン人は国の大部分を支配していたが、中央政府がなかったため、効果的に征服することができなかった。 [[1350年]]からは、カンブロ・ノルマン人が使用していた武器の多くを奪い取り、戦術の一部を学んだアイルランドの酋長らが領土を奪還し始めた。[[1360年]]までに、ノルマン人の入植者のほとんどはアイルランドの法律に避難し、島の原住民の習慣を、音楽、詩、文学、服装を採用し、アイルランド人よりもアイルランド人として知られるようになるまでになった(ラテン語の「{{Lang|la|Hibernis Ipsis Hiberniores}}」から) という事実は、イギリス議会が島の植民地化に対する将来の利益への潜在的な脅威であると考えた。 このため、[[1366年]]に[[アイルランド卿]]の衰退に対処するために、キルケニー憲章を批准した。この憲章では、イギリス人入植者とアイルランド人との間の[[族外婚]]を禁止し、[[ゲール語]]や習慣の使用を禁止した<ref>{{Cite web|title=eloihr.net :: Irlanda :: La invasión anglonormanda|url=http://www.eloihr.net/eire/index.php?page=norte_1|website=www.eloihr.net|date=|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081223090442/http://www.eloihr.net/eire/index.php?page=norte_1#|archivedate=2008-12-23}}</ref>。 === 宗教改革とプロテスタント支配の強化 === {{See also|アイルランド王国|宗教改革|三十年戦争|大同盟戦争}} [[1534年]]、イングランドの[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は[[教皇]]の権威を認めることを拒否し、[[イングランド]][[議会]]を説得して教皇を[[イングランド国教会]]の長として認めさせた。 アイルランドにも同様の政策を課そうとし、[[1536年]]には[[聖座|ローマ]]へのアピールやローマ教皇への支払いを禁止する側面が広がった。[[1537年]]から[[1541年]]にかけて、多くの[[僧院]]が弾圧され、その財産が没収された。しかし、国王が王権を持たないアイルランドの権限下にある地域では、ほとんどの住民はその変化を無視していた。[[1553年]]に王位を継承したヘンリーの娘、[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]はイングランドとアイルランドの両国で古い宗教の復活に努めた熱烈な[[カトリック教会|カトリック教徒]]で、アイルランドを支配するにはイングランドの植民地を導入するのが最善の方法だと確信していた。 [[1556年]]にアイルランドの領土を没収し、イギリス人入植者を招き、借地人や使用人をアイルランドに連れてきた。 [[1558年]]に後を継いだメアリー1世の異母妹[[エリザベス1世]]は、より宗派的な態度を示し、アイルランドの[[大司教]]や宗教者たちが処刑された。この迫害により、アイルランドは、そしてカトリックにとどまっていたアングロ・アイルランド人は、より団結するようになった。カトリックでありながら反英でもある新たな国民性の精神が芽生えた。 [[1641年]]の{{仮リンク|アイルランド反乱 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド反乱}}から[[1649年]]の[[クロムウェルのアイルランド侵略]](事実上の[[植民地]]化)までの間、島の3分の2は[[アイルランド・カトリック同盟]]によって統治されており、[[キルケニー]]で生まれたことからキルケニー同盟としても知られている<ref>{{Cite web|url=http://www.british-civil-wars.co.uk/glossary/confederation-kilkenny.htm|title=The Confederate Assembly of Kilkenny|accessdate=2020-07-15|publisher=}}</ref>。かつてひとつとして統治されていた[[アイルランド島]]と、32の県のうち26の県からなるアイルランド共和国との違いは、20世紀前半の複雑な憲法の発展の産物である。 [[1642年]]から[[1649年]]にかけて[[イングランド王国|イングランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[アイルランド王国|アイルランド]]で[[清教徒革命]]が起きた。これにより、[[1649年]]から[[1660年]]までの間アイルランド島を含む[[イングランド共和国]]が成立した。1660年に[[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王家が[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]のもとで復古した。 大陸で起こった[[大同盟戦争]]の一環として、[[1689年]]から[[1691年]]にかけて[[ウィリアマイト戦争]]が発生した。 === 植民地時代 === [[1801年]][[1月1日]]から[[1922年]][[12月6日]]まで、[[アイルランド島]]は[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]に属していた。 [[1845年]]から[[1849年]]の間に、アイルランドの人口の大多数の人々にとってはほぼ唯一の食糧となっていた作物の[[ジャガイモ]]は、疫病菌の侵入によって壊滅状態に陥り、[[ジャガイモ飢饉]]につながった。約100万人が[[餓死]]し、そのほとんどが家賃を払えないために家を追い出された後、道路をさまよっていた。移民は死活問題となり、[[イギリス]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]など他の国へのアイルランド人の大量移民があったが、その多くは[[アメリカ合衆国]]へ移住した。飢饉により、アイルランドの人口は死亡と移民により、[[1841年]]の820万人から[[1901年]]には450万人に減少したと推定されている<ref>{{Cite journal|和書|author=小西康雄 |title=アイルランドのジャガイモ飢饉--それがアイルランドと世界にもたらしたもの |url=https://hdl.handle.net/10291/5500 |journal=明治大学農学部研究報告 |publisher=明治大学農学部 |year=2003 |month=mar |issue=133 |pages=41-48 |naid=110004624299 |hdl=10291/5500 |issn=04656083|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 === アイルランド独立戦争と内戦 === [[ファイル:Easter Proclamation of 1916.png|サムネイル|共和国樹立宣言]] [[1916年]]の[[イースターマンデー]]に、[[イギリス]]からの独立を目指して共和党が国を支配しようとした、いわゆる[[イースター蜂起]]が起きた。この革命的な共和制の試みは1916年[[4月24日]]から[[4月29日]]の間に行われ、教師で弁護士である[[パトリック・ピアース]]が率いる{{仮リンク|アイルランド義勇軍|en|Irish Volunteers|label=}}の一部と、労働組合のリーダーである[[ジェームズ・コノリー]]が率いる小さな[[アイルランド市民軍]]が[[ダブリン]]の街の要職に就き、そこで[[アイルランド共和国 (1919-1922)|アイルランド共和国]]を宣言した。5日間の街頭戦の後、反乱軍の全面降伏が行われた。数百人が殺害され、3000人以上が逮捕され、15人が処刑された。この出来事は、アイルランド独立の転機と解釈されている。 [[1919年]]に[[1918年]]のイギリス総選挙で選出された国会議員の過半数が[[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]での議席を拒否した。その代わりに、アイルランドの独立と下院の非承認を主張することを目的とした「[[ドイル・エアラン]]({{Lang|ga|Dáil Éireann}})」と呼ばれる非合法のアイルランド議会を設立した。[[共和国]]は国際的に認められず、[[アイルランド共和軍]]のイギリスに対する[[アイルランド独立戦争|独立戦争]]につながった。[[1921年]]、[[イギリス政府]]の代表者とアイルランド共和国の内閣({{Lang|ga|Aireacht}})が[[英愛条約]]の交渉を行い、「ドミニオンの地位({{En|Dominion Status}})」として知られる法的なアイルランド自治の新制度が誕生した<ref>{{Cite journal|和書 |author=堀江洋文 |title=インド・アイルランド関係と大英帝国 |url=https://doi.org/10.34360/00009411 |journal=専修大学社会科学研究所月報 |publisher=専修大学社会科学研究所 |year=2014 |month=aug |issue=614 |pages=1-34 |naid=120006794056 |doi=10.34360/00009411 |issn=0286-312X|accessdate=2020-08-12}}</ref>。 新しいアイルランド国家は国際的に認められ、[[アイルランド自由国]]({{Lang-ga-short|Saorstát Éireann}}、{{Lang-en-short|Irish Free State}})と呼ばれるようになった。自由国は理論的には島全体を統治することになるが、[[北アイルランド]](別個の組織として作られた)がイギリスの一部として残ることを選択できるという条件付きだった。その後、北アイルランドはイギリスの一部として残ることを選択した。アイルランドの残りの26の県は、アイルランド自由県に変換され、[[1927年]]からイギリスの君主がアイルランド国王の称号を持ち、[[立憲君主制]]が続いていた。[[総督]]、[[両院制]]議会、「執行評議会」と呼ばれる内閣、執行評議会議長と呼ばれる[[首相]]を擁していた。[[憲法]]は「アイルランド自由国憲法」と呼ばれていた。 [[英愛条約]]の調印は、[[エイモン・デ・ヴァレラ]]を筆頭に、調印に反対する部門による[[アイルランド内戦]]の勃発につながった。[[1922年]][[4月13日]]、[[ダブリン]]中心部にあるフォーコートの建物は、協定に反対した[[アイルランド共和軍]](IRA)に占領された。[[3月26日]]、議会([[ドイル・エアラン]])の権限を拒否し、独自の軍事執行機関を選出した。条約防衛派は[[6月28日]]、アイルランド南部での権限を強化する必要性と、イギリス政府から条約に武力抵抗する要素を排除するよう圧力を受け、反乱軍のIRA軍を攻撃した。ダブリンの戦いは1週間続き、条約を守る側にとって決定的な勝利となった。全国でのさらなる勝利は、条約賛成派の立場を強化した。内戦の最中、共和党運動の指導者の一人であり、親英アイルランド軍の司令官だった[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]が待ち伏せされ、[[殺害]]された。 [[1922年]]10月、新政府は[[軍隊]]に広範な権限を与え、[[武器]]を所持していたり、新国家の軍隊に反して行動している者は、軍法会議にかけられ、[[死刑]]判決を受けることを認める法律を導入した。報復として、IRA軍の[[リーアム・リンチ]]司令官は、合意を支持する主要指導者に向けて銃撃命令を出した。最初の殺害は[[12月7日]]に行われた。新政府の対応は、6月から投獄されていた4人の非正規陸軍将校の処刑を命じるものであり、これを前にして不屈部門は攻撃方針を放棄した。政府派閥の人員と資源の数的優位性と処刑の継続(計77人)が、[[1923年]]の初めに有利な戦争を決定し始めた。[[4月24日]]、非正規軍は武器を捨てた。[[1923年]]以来、[[イギリス]]との[[共通旅行区域]]の一部となっている。 [[1937年]][[12月29日]]、新しい憲法({{Lang|ga|Bunreacht na hÉireann}})が採択され、[[アイルランド自由国]]に代わって、エール({{Lang-ga-short|Éire}}、{{Lang-en-short|Ireland}})と呼ばれる新しい国家が誕生した。新憲法構造は、王ではなく共和国大統領を必要としていたが、まだ共和制ではなかった。[[国家元首]]の主な[[役割]]は、他の国家の前に象徴的に代表することであり、制定法による体としての国王の帰属であることに変わりはない。[[1949年]][[4月18日]]、[[アイルランド共和国法]]はエール({{Lang|ga|Éire}})を共和制にすることを宣言し、それまで国王に与えられていた機能をアイルランド大統領に委任した。 正式名称は「エール」のままであったが、「アイルランド共和国」(正式には国の記述)という名称が採用された。共和国は自らを表現するためにアイルランドという言葉を使用するが、特に外交の場ではアイルランドという言葉を使用する。しかし、多くの国は第2のアイルランドである[[北アイルランド]]が存在することや、[[1937年]]の憲法では北部に対する南部の管轄権を主張していることから、この言葉を使うことを避けている。「アイルランド」という言葉の使用は、その発言を受け入れたものとして採用された。1937年の憲法第1条、第2条と呼ばれるようになったものにあるその記述は、[[1999年]]に削除された。 その年から、[[1949年]]4月に共和国が宣言されるまで、アイルランドは当時の[[イギリス連邦]]の加盟地域であり続けた。イギリス連邦の規則によると、共和国を宣言すれば自動的に脱退となる。これらの規則は[[1950年]]まで改正されず、共和国である[[インド]]をイギリス連邦として含めることができるようになった。アイルランドは脱退し、更新しないことを選択したが、加盟国としての特権の多くを保持していた。今日では、例えばイギリスに居住するアイルランド人は、議会選挙での投票権をはじめとする市民権のすべての権利を享受し、さらにはイギリス軍に仕えているが、これらの権利を行使するアイルランド人の数はごくわずかである。 アイルランドは[[1955年]]に[[国際連合]]に加盟し、[[1973年]]には[[欧州経済共同体]](現在の[[欧州連合]])に加盟した。アイルランド政府はアイルランドの平和的な統一を目指し、「[[北アイルランド問題|厄介事]]({{Lang-ga-short|Na Trioblóidí}}、{{Lang-en-short|The Troubles}})」と呼ばれる北アイルランドの[[準軍事組織]]間の暴力的な対立に対して[[イギリス]]と協力してきた。 [[1998年]]にアイルランドと[[北アイルランド]]の選挙で承認された「[[ベルファスト合意]]」と呼ばれる平和条約が結ばれ、アイルランドは[[北アイルランドのカウンティ|北アイルランド6県]]の領有権を放棄した。 === 近年 === [[ファイル:Tratado de Lisboa 13 12 2007 (08).jpg|サムネイル|1973年に[[イギリス]]、[[デンマーク]]とともに[[欧州経済共同体]]に加盟、2007年に[[リスボン条約]]に調印]] アイルランドは、[[第二次世界大戦中]]に中立的な立場をとり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の大義を支持しないという理由で加盟を拒否されていたが、[[1955年]]12月に[[国際連合]]に加盟した<ref>{{Cite web|title=Review: Ireland at the UN: Memories of the Early Years by Noel Dorr|url=https://www.independent.ie/entertainment/books/review-ireland-at-the-un-memories-of-the-early-years-by-noel-dorr-26673946.html|website=independent|accessdate=2020-09-15|language=en}}</ref>。当時、国連に参加したのは、ある国家による他国への侵略を抑止するために武力を行使することを約束していたからである<ref>{{Cite web|title=A frank account of Ireland's UN affairs|url=https://www.independent.ie/entertainment/books/a-frank-account-of-irelands-un-affairs-26663319.html|website=independent|accessdate=2020-09-15|language=en}}</ref>。1950年代にアイルランドで発展した[[欧州経済共同体]](EEC)への加盟に関心があり、欧州自由貿易地域への加盟も考慮された。[[イギリス]]はEECへの加盟を目指していたが、アイルランドはイギリスとの経済的なつながりが大きいため、[[1961年]]7月に加盟を申請した。しかし、EEC創設時の加盟国は、アイルランドの経済力、中立性、魅力のない[[保護貿易|保護主義政策]]に懐疑的な姿勢を崩していなかった<ref>{{Cite web|title=Topics: Guide to sources for Ireland and European Unity|url=https://www.nationalarchives.ie/topics/EU/eu.htm|website=www.nationalarchives.ie|accessdate=2020-09-15}}</ref>。多くのアイルランドの経済学者や政治家は、経済政策の改革が必要だと認識していた。[[1963年]]、[[フランス]]の[[シャルル・ド・ゴール]]将軍がイギリスの加盟に反対すると発言したことで、EEC加盟の見通しが疑わしくなり、他のすべての候補国との交渉を中止した。しかし、1969年には後継者の[[ジョルジュ・ポンピドゥー]]がイギリスとアイルランドの加盟に反対していなかった。交渉が始まり、1972年には加盟条約が調印された。1972年に行われた国民投票でアイルランドの加盟が確定し、[[1973年]]にはついにEECに加盟した<ref>{{Cite web|title=Ireland in the EU|url=https://ec.europa.eu/ireland/about-us/ireland-in-eu_en|website=Ireland - European Commission|date=2016-05-30|accessdate=2020-09-15|language=en|first=Laurent|last=BELLEC}}</ref>。 1970年代後半の経済危機は、[[共和党 (アイルランド)|共和党]]政府の予算、自動車税の廃止、過剰な借金、1979年の石油危機を含む世界的な経済の不安定さに煽られた<ref>{{Cite web|url=http://www.tcd.ie/Economics/TEP/1998/985.pdf|title=Taxation and Savings in Ireland|accessdate=2020-09-15|publisher=ダブリン大学トリニティ・カレッジ}}</ref>。1989年以降、経済改革、減税、福祉改革、競争の激化、経常支出のための借入禁止など、大きな政策転換があった。この政策は、[[1989年]]から[[1992年]]にかけて共和党/進歩的民主党政権によって始まり、その後の共和党/[[労働党 (アイルランド)|労働党]]政権、[[統一アイルランド党]]/労働党/民主左派政権によって継続された。アイルランドは1990年代後半までに世界で最も急速に経済成長した国の一つとなり、2007から2008年の世界金融危機まで続いた「[[ケルトの虎]]」時代と呼ばれていた。[[2014年]]以降、アイルランドは経済活動が再び活発化している<ref>{{Cite web|title=Summary - CSO - Central Statistics Office|url=https://www.cso.ie/en/releasesandpublications/ep/p-nie/nie2017/summary/|website=www.cso.ie|accessdate=2020-09-15|language=en}}</ref>。 === 年表 === * 紀元前265年頃、ヨーロッパ大陸より[[ケルト人]]の渡来が始まる。 * 5世紀ごろ、[[パトリキウス|聖パトリック]]らによる[[キリスト教]]の布教。 * 8世紀末頃、[[ノルマン人]](ヴァイキング)の侵入が始まる。 * 1014年、アイルランド上王({{Lang|en|High King}})[[ブライアン・ボル]]({{En|Brian Boru}})がクロンターフの戦いでヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束する。 * 1169年、ノルマン人の侵攻が始まる。 * 1171年、諸豪族がイングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の支配下におかれる。 * 1541年、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]がアイルランド王を自称する。これ以降、イングランドからの入植者が増える。しかしアイルランドの貴族はこれを認めずヘンリー8世と対立。<!-- * 1588年 イギリスが[[スペイン]]海軍を破る。これによりイギリスの海上帝国の時代が始まる。--> * [[清教徒革命]]([[1642年]] - [[1649年]])が起き、[[1649年]]から[[1660年]]までの間アイルランド島を含む[[イングランド共和国]]が成立。 * [[1649年]]、[[クロムウェルのアイルランド侵略]](事実上の[[植民地]]化) * 1660年、[[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王家が[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]のもとで復古。 * 大陸で起こった[[大同盟戦争]]の一環として、[[ウィリアマイト戦争]]が発生([[1689年]] - [[1691年]])。 * 1798年、{{仮リンク|アイルランド反乱 (1798年)|en|Irish Rebellion of 1798|label=ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱}}。 * 1800年、[[連合法 (1800年)|連合法]]が[[イギリスの議会|グレートブリテン議会]]および[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]の双方で可決。 * 1801年、[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]が合併する(実質的にはイギリスによるアイルランド併合)。 * 1829年、[[ダニエル・オコンネル|オコンネル]]の尽力により[[カトリック教徒解放令]]が施行される。 * 1840年代後半、[[ジャガイモ]]の不作が数年続き大飢饉となる([[ジャガイモ飢饉]])。この結果多くのアイルランド人が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ移住する([[:en:Irish diaspora|Irish diaspora]])。 * 1870年、[[第1次グラッドストン内閣]]による [https://www.y-history.net/appendix/wh1202-050.html アイルランド土地法] 制定。 * 1905年、[[シン・フェイン]]党が発足、アイルランド独立を掲げる。 * 1914年、{{仮リンク|1914年アイルランド統治法|en|Government of Ireland Act 1914|label=アイルランド自治法}}が成立するが、[[第一次世界大戦]]勃発を理由に自治は保留となる。 * 1916年、アイルランド民族主義者がダブリンで蜂起するが鎮圧される([[イースター蜂起]])。 * [[アイルランド独立戦争]]([[1919年]] - [[1921年]])が終わり、[[1921年]][[12月6日]][[英愛条約]]が締結され、[[1922年]][[12月6日]][[アイルランド自由国]]が成立、イギリスの自治領となる。ただし北部[[アルスター]]地方の6県は[[北アイルランド]]としてイギリスに留まる。これが[[アイルランド内戦]]へと発展する。 * 1931年、[[ウェストミンスター憲章]]が成立、イギリスと対等な主権国家([[英連邦王国]])となる。 * 1937年、[[アイルランド憲法]]を施行、国号をアイルランド([[アイルランド語|愛]]:エール)と改める。 * 1938年、イギリスが独立を承認。[[イギリス連邦]]内の共和国として、実質的元首の大統領と儀礼的君主の国王の双方を戴く。 * 1949年、[[イギリス連邦]]を離脱、完全な共和制に移行する。 * 1973年、[[欧州経済共同体]](後の[[欧州連合]])に加盟。 * 1998年、[[ベルファスト合意]]。直後の国民投票により[[北アイルランドのカウンティ|北アイルランド6県]]の領有権を放棄する。 * 2007年、[[ケルトの虎]]時代。 == 政治 == [[ファイル:Gbuildings.jpg|thumb|政府庁舎]] {{main|アイルランドの政治}} [[1949年]]以降、アイルランドは[[議会共和制]]をとっている。[[元首]]である[[アイルランドの大統領|大統領]]は、[[普通選挙]]による[[優先順位付投票制|優先順位付投票制度]]で直接選出される<ref>{{Cite web|title=Constitution of Ireland|url=https://www.gov.ie/en/publication/d5bd8c-constitution-of-ireland/?referrer=http://www.taoiseach.gov.ie/eng/Historical_Information/The_Constitution/|website=www.gov.ie|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。任期は7年で、再選は1回となる。大統領は基本的には名誉職であり、儀礼的な役割を主に務めるが、違憲立法審査の請求、首相による議会解散の拒否などの権限があり、国軍の最高司令官をつとめる。初代大統領は作家の[[ダグラス・ハイド]]が就任した。[[1990年]]から[[2011年]]まで[[メアリー・ロビンソン]]、[[メアリー・マッカリース]]と2代続けて女性が大統領に選出された。[[アイルランドの首相|首相]](ティーショク、{{lang|ga|Taoiseach}})は国会の指名に基づき大統領に任命され、行政府の長となる。通常、総選挙で得た議席数が最も多い政党の党首である。政権連立がよく発生し、一党政権は[[1989年]]を最後に存在していない。 [[両院制]]議会である[[アイルランド国民議会]]({{Lang|ga|Oireachtas}})は、[[シャナズ・エアラン|上院]]({{Lang|ga|Seanad Éireann}})と[[ドイル・エアラン|下院]]({{Lang|ga|Dáil Éireann}})で構成されている。[[元老院]]は60名の議員で構成されており、11名は首相によって任命され、6名は2つの大学によって選出され、43名は職業別に設置された候補者パネルから一般の代表者によって選出されている。議会は166名の議員({{Lang|ga|Teachta Dála}})で構成されており、[[比例代表制]]の下、[[単記移譲式投票]]で複数の選挙区の代表に選出されている。憲法によれば、国会選挙は少なくとも7年ごとに行わなければならないが、法律で下限が定められている場合もある。法的には、現在5年間持続している。 政府は憲法上、15人の議員で構成されている。政府の議員は上院から2名まで選出することができず、首相、副首相({{Lang|ga|Tánaiste}})、財務大臣は「必ず」議会議員でなければならない。 [[1973年]]には[[欧州共同体]](現在の[[欧州連合]])に加盟している。[[2008年]][[6月12日]]、アイルランドは国民投票で欧州連合(EU)の[[リスボン条約]]を否決し、EU内で論争を巻き起こした<ref>{{Cite journal|date=2008-06-13|title=Ireland rejects Lisbon Treaty|url=https://www.rte.ie/news/2008/0613/104482-eulisbon/|language=en}}</ref>。しかし、この決定は[[2009年]]の第2回国民投票で逆転した<ref>{{Cite news|title=Ireland backs EU's Lisbon Treaty|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/8288181.stm|date=2009-10-03|accessdate=2020-07-15|language=en-GB}}</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|アイルランドの国際関係|en|Foreign relations of the Republic of Ireland}}}} === イギリスとの関係 === [[ファイル:Ireland United Kingdom Locator.png|thumb|現代の {{flagicon|IRL}} アイルランド(緑)と {{flagicon|GBR}} [[イギリス]](橙)]] {{main|{{仮リンク|英愛関係|en|Ireland–United Kingdom relations}}}} [[オリバー・クロムウェル]]の侵略以降、民族や領域としての自治が剥奪され、[[イギリス帝国]](大英帝国)が形成されていく過程において、[[イギリス]]が最初に支配した[[植民地]]となった([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]])。[[プロテスタント]]による[[カトリック教会|カトリック教徒]]への迫害があり、また植民地政策で[[工業化]]は遅れた。土地政策は[[イングランド]]のアイルランド支配にとって重要で、しばしば深刻な影響を与えた。 経済基盤は脆弱で、大規模地主による小作農を使役した商品作物栽培という典型的な植民地型農業であり、アイルランド人の2/3、6~7割は農業に従事していた。さらに羊毛のための[[囲い込み]]政策が追い討ちをかけ、これは[[1800年代]]前半に相次いで発生した「'''[[ジャガイモ飢饉]]'''」という惨事として現われた。市場において高く売買される農作物がイングランドに大量に移送される一方でアイルランドからは食物が枯渇し、不作に見舞われた小作農の大量餓死が発生したため社会問題となった。飢餓や貧困から逃避するために、生存した多くのアイルランド人も[[アメリカ合衆国]]へと移住することになる([[アイルランド系アメリカ人]])。これによって[[1840年]]は800万人を数えた人口は[[1911年]]に半数に迫る440万人にまで減少し、[[アイルランド語]]の話者人口も激減した。これ以降もアイルランドの総人口は回復しておらず、現在に至るまで最盛期には遠く及ばない。 ジャガイモ飢饉はイングランドにとっても、深刻な社会問題として衝撃をもって受け止められ、公共事業支援や食糧援助などが実施されたものの、貧困を原因としたアメリカ合衆国への移住など住民の離散を防止することは困難であった。イギリスで[[ヴィクトリア朝]]の[[1840年代]]に沸騰していた[[鉄道狂時代|鉄道バブル]](鉄道狂時代)はこれにより崩壊した。[[カール・マルクス]]は資本論の叙述でこの惨事について言及した。この時期に受けた困難はアメリカ合衆国に移住したアイルランド人、[[アイルランド系アメリカ人]]の原点となり、のちのアイルランド独立闘争の際にしばしば言及された。また(帝国主義的植民地)経済システムが現実の災害をもたらした顕著な例として[[経済学]]や[[政治社会学]]で、しばしば論じられた。 [[第一次世界大戦]]終結後の[[1919年]]から[[1922年]]の[[アイルランド独立戦争]]では休戦協定が結ばれ[[英愛条約]]が締結された。[[アイルランド自由国]]が成立して独立戦争は終結したが、[[イギリス連邦]]下であることにも不満を抱く者は[[アイルランド内戦]]を引き起こした。 また、元インド総督の[[ルイス・マウントバッテン]]は、アイルランド国内でボートに乗っている際に[[IRA暫定派]]によって仕掛けられた爆弾で暗殺されている<ref name="onthisday">{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/august/27/newsid_2511000/2511545.stm|title=On This Day: 27 August 1979: IRA Bomb Kills Lord Mountbatten|work=BBC News|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref name="guardian">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/theguardian/2008/aug/28/3|title=IRA Bombs Kill Mountbatten and 17&nbsp;Soldiers|newspaper=The Guardian|location=London|date=28 August 1979|accessdate=20 September 2012}}</ref><ref>{{harvp|O'Brien|1995|p=55}}.</ref>。 しかし、イギリスはアイルランドにとって旧[[宗主国]]でなおかつ最隣国であり無視できない存在であり、経済的および人的交流は古くから盛んである。[[北アイルランド]]では、アイルランド帰属を求めてテロ行為を繰り返す[[IRA暫定派]]などナショナリストと[[ユニオニスト]]との紛争が起こっていたが、和平プロセスが進んでいる。北アイルランド和平が現実に近づくにつれ、さまざまな分野での南北の交流が広がっている。 [[1997年]]に[[トニー・ブレア]]首相が100万の餓死者・100万の移民を出した[[1845年]]から[[1849年]]のジャガイモ大飢饉について「今日それを反省してみるにつけ苦痛をもたらすものであった」とコメントした。[[1998年]]には北アイルランド和平合意である[[ベルファスト合意]]が成立した。殺し合いに嫌気がさした事、南の経済発展にあせりを感じた事が契機となる。しかし強硬派が納得せず失敗しさらに10年が経過する。[[2005年]]、イギリス在郷軍人会アイルランド支部主催の[[第一次世界大戦]]戦没者追悼行事にアイルランド[[メアリー・マッカリース]]大統領が出席。アイルランド人兵士の名誉回復と追悼を訴えた。彼らはアイルランド自治獲得促進の意志をもって参戦したのにそれまではイギリスへの協力者と非難されてきた。[[2007年]]2月、[[クローク・パーク|クローク・パーク競技場]]でのラグビー・[[シックス・ネイションズ]]の試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行われる。イギリス国歌「[[女王陛下万歳]]」の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイングもなく、イギリスとアイルランドの歴史的和解の象徴となった。この競技場は[[1920年]]の独立戦争の時、[[イギリス軍]]が[[ゲーリックフットボール]]観戦中のアイルランド人を虐殺した場所で反英闘争の聖地であった。アイルランドは伝統的に反英感情が強いものの、イギリス(イングランド)の国語かつ公用語である[[英語]]を使用しており、英語修学の外国留学先として人気である。[[2011年]]に、当初は小規模な抗議行動が起きたが<ref>{{Cite web|title=Protests at Queen's Ireland visit|url=https://www.bbc.com/news/av/world-europe-13423365/queen-in-ireland-protests-as-monarch-visits|website=BBC News|accessdate=2020-07-17|language=en}}</ref>、[[エリザベス2世]]が訪問した。女王は「アイルランドの自由のために命を捧げたすべての人々の記憶に捧げられた」追憶の庭を訪れ、花輪を捧げ、敬意を表し[[お辞儀]]をした。その後も何百人もの応援する子どもや店員らに挨拶をし、初の公式訪問を無事に終えた<ref>{{Cite news|title=Queen shaken and stirred as Irish tour concludes|url=https://www.theguardian.com/uk/2011/may/20/queen-irish-tour-cork|work=The Guardian|date=2011-05-20|accessdate=2020-07-17|issn=0261-3077|language=en-GB|first=Stephen|last=Bates}}</ref>。 ==== 北アイルランドとの関係 ==== [[ファイル:The Border on Killeen School Road - geograph.org.uk - 446719.jpg|サムネイル|[[北アイルランド]]から見たアイルランドとの[[国境]](北では[[マイル毎時|mph]]、アイルランドでは[[キロメートル毎時|km/h]]を使用しているため、速度制限の標識で分けている)]] アイルランドと[[北アイルランド]]との国境を区別することなく、島全体が一つの組織になっているものがある。 例えば、スポーツの分野では、ゲーリック・ゲームや[[ラグビーフットボール|ラグビー]]などのスポーツ(サッカーを除く)は、合同リーグを通じて行われている。同様に、大多数の[[キリスト教]]([[カトリック教会]]、[[メソジスト教会]]、[[アイルランド聖公会]]、[[聖公会]]、[[長老派教会|アイルランド長老派教会]])は、分離に関係なく組織されている。 一部の組合はダブリンを拠点とするアイルランド労働組合会議(ICTU)に共同で組織されているが、北アイルランドの他の組合はイギリスを拠点とする労働組合会議(TUC)に加盟、または両方に加盟している組合もある。アイルランド学生連合(USI)もアイルランド全域で活動しているが、北アイルランドではイギリスの全国学生連合(NUS)と関連しており、連名(NUS-USI)で活動している。 他では、島の2つの地域は、文化や習慣のほぼすべての要素を共有している。例えば、[[アイルランド音楽|アイルランドの伝統音楽]]は、国境を越えても同じである。[[アイルランド語]]もその一例だが、アイルランドのみで教育が行われている。また、促進するために近年アイルランド政府のキャンペーンの対象ともなっている。 === アメリカ合衆国との関係 === [[ファイル:President Reagan in Ballyporeen Ireland.jpg|thumb|right|祖先の故郷[[ティペラリー県|ティペラリー]]でスピーチをする[[ロナルド・レーガン|レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]([[1984年]])]] {{main|{{仮リンク|米愛関係|en|Ireland–United States relations}}}} 19世紀後半、イギリス植民地支配に苦しんだアイルランド人は、同じ英語圏の国へ移民を行わざるをえなかった。当時、同じくイギリス植民地であった[[カナダ]]や[[オーストラリア]]においては、やはり支配層から差別される立場であったため、植民地からの独立を果たしていた[[アメリカ合衆国]]にその多くが渡った。そのため[[アイルランド系アメリカ人]]は今日でも多い。[[シカゴ]]から[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]に至るいわゆる[[バイブルベルト]]ではアイルランド系移民によるカトリックの影響が強く、[[聖パトリックの祝日]]を盛大に祝う風習がある。人口の多いニューヨークでもアイルランド系住民の絶対数は少なくなく、上記祝日は盛大に祝われる。しかし開拓当時のアメリカ人からは、アイルランド人移民の貧しい生活や異様と取れる風習、イギリスで被征服民として低くみられていた事、カトリック教徒であった事などにより、忌避感を持たれた。アイルランド人は人種的に見て「白人」に含まれるが、「アメリカ市民」には相応わしくないとされて、以降、偏見の目と差別に苦しめられた。しかし後にはその社会的地位は向上し、大統領となった[[ジョン・F・ケネディ]]、そして[[ロナルド・レーガン]]は、祖先の故地アイルランドを訪問、暖かく歓迎された。 アイルランドは経済面でアメリカ依存が強い。一方で1990年代の「アイルランドの奇跡」といわれる経済成長の背景には、国内総生産の7%程に相当するEUからの援助金も無視できない。アメリカ、EUからの投資は特に教育制度と公共設備にあてられアイルランドの経済力を強化したが、より重要なのはEU諸国間では比較的低い法人税と安い賃金である。それに惹かれて外国企業、とりわけアメリカの多国籍企業が生産拠点とヨーロッパ事業本部をアイルランドに設立した。アイルランドの国語が英語であることもアメリカ企業にとって重要で、また、アメリカ本部とアイルランド支部との時差を利用した仕事分担の恩恵もある。エレクトロニクス、製薬のようなハイテク産業や、金融サービスなどにおける外国投資はアイルランド経済の原動力となっているが、その内訳の80%はアメリカによるもので、アイルランドで活躍しているアメリカ企業は600社、その従業員は10万人規模に及ぶ。アメリカからみてアイルランドはヨーロッパ市場を狙う前進基地であるが、一方でアイルランドでの収益率は、他のヨーロッパの国よりも2割から3割ほど高い。 アイルランド人は植民地支配の経緯によりイギリスに対し伝統的に敵対的であるが、かつてイギリス植民地から独立し、アイルランド人にとって苦難の時期には多くのアイルランド系移民を受け入れたアメリカ合衆国に対しては好意的である。旧宗主国が残していった英語を駆使して、第二次大戦後にイギリスに代わって世界一の経済大国となったアメリカと活発な取引を行っているが、これは同じくイギリスの植民地支配を受けた[[インド]]と同様の傾向である。 === 日本との関係 === {{main|日愛関係}} アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名:[[小泉八雲]])は日本に移住し、[[日本]]についての本を書いている<ref>{{Cite web|title=Discovering Irish-Japanese relations|url=https://www.ria.ie/news/documents-irish-foreign-policy/discovering-irish-japanese-relations|website=Royal Irish Academy|date=2017-10-05|accessdate=2020-07-17|language=en}}</ref>。 [[第二次世界大戦]]では、日本政府が中立国で活動している自国の外交官たちのため、スイスのアイルランド大使館を経由して送金していた<ref>{{cite news|url=https://www.ie.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000112.html#PAGETOP|title=日愛外交関係樹立50周年記念 (潮田哲,淑子ご夫妻に聞く) 「聞き語り日愛半世紀」 第2回:「太平洋戦争と2人のアイリッシュ」|publisher=|date=2014-10-23|accessdate=2017-02-06}}</ref>。 [[1957年]]には日本との国交を樹立し、日本は[[ダブリン]]に[[公使館]]を設置した。[[1964年]]には、公使館を[[大使館]]に昇格させ、[[在アイルランド日本国大使館]]となる<ref>[https://www.ie.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000110.html 日本アイルランド外交関係樹立50周年記念] - 在アイルランド日本国大使館</ref><ref name=":7">{{Cite web|和書|title=Japan-Ireland Relations (Overview)|url=https://www.mofa.go.jp/region/europe/ireland/data.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2020-07-16|language=en}}</ref>。また、[[1973年]]にアイルランドが[[東京都]][[千代田区]]に[[駐日アイルランド大使館]]を設置した<ref name=":7" />。 [[1966年]]に査証相互免除となり、[[1974年]]に[[租税条約]]が結ばれた<ref name=":6" />。 [[2007年]]に日本とアイルランドは[[ワーキング・ホリデー]]の協定を結んだ。また、[[2010年]]には社会保障協定を結んだ。 [[2019年]]には、アイルランドは日本にとって、[[欧州連合|欧州連合内]]の[[輸出]]として第12位、[[輸入]]として第5位の国となっている。日本は[[コンタクトレンズ]]などの[[光学機器]]や[[医薬品]]を輸入しており、アイルランドは医薬品や日本と同じ[[対面交通]]の為、[[対面交通|右ハンドル]]自動車などを輸入している<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=アイルランド基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ireland/data.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2020-08-28|language=ja}}</ref>。 アイルランドに在留している日本人数は、2021年現在、2,818人であり、日本に在留しているアイルランド人数は1,099人である<ref name=":6" />。 == 軍事 == {{main|アイルランド国防軍}} アイルランドの軍隊は、[[アイルランド国防軍]]({{Lang|ga|Óglaigh na hÉireann}})の下に組織化されている。アイルランド軍は、隣接する軍隊と比べ小さいが、兵員8,500人と予備役1万3,000人を擁している<ref>{{Cite web|title=Army - The Irish Defence Forces|url=http://www.military.ie/army/intro.htm|website=www.military.ie|date=|accessdate=2020-07-15|publisher=|archivedate=2007-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070228155444/http://www.military.ie/army/intro.htm}}</ref>。その規模の大きさは、主に国の[[中立]]性によるものである。さらに、紛争への関与は、[[国際連合]]、政府、[[ドイル・エアラン|議会]]によって統治されている<ref>{{Cite web|title=Battlegroup plans due before Cabinet|url=https://www.irishtimes.com/news/battlegroup-plans-due-before-cabinet-1.480337|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Liam|last=Reid}}</ref>。 また、アイルランド空軍、海軍、予備防衛軍もある。アイルランド陸軍レンジャーは、陸軍に仕える特殊部隊の一部門でもある。4万人以上のアイルランドの軍人が、[[国際連合平和維持活動]]への派兵を行っている。 航空施設は、2003年のイラク侵攻時に[[アメリカ軍]]が[[シャノン空港]]を経由して軍人の輸送に使用していた。それまで空港は、2001年の[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン戦争]]や[[第一次湾岸戦争]]の際に使用されていた<ref>{{Cite web|url=http://historical-debates.oireachtas.ie/D/0560/D.0560.200301300005.html|title=Private Members' Business. - Foreign Conflicts: Motion (Resumed)|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511091051/http://historical-debates.oireachtas.ie/D/0560/D.0560.200301300005.html|archivedate=2011年5月11日}}</ref>。[[キューバ危機|キューバ危機時]]、ショーン・ルマスはシャノンを通過したキューバ機とチェコ機の捜索を許可し、その情報を[[中央情報局]]に伝えた<ref>Irish Times, 28 Dec 2007 p. 1.</ref>。 [[第二次世界大戦|第二次世界大戦中]]は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国軍]]に支援を提供していたが、中立国であったため参戦していない。1999年から[[北大西洋条約機構]](NATO)には加盟していないが、NATOプログラム([[平和のためのパートナーシップ]])に参加している<ref>{{Cite web|title=State joins Partnership for Peace on Budget day|url=https://www.irishtimes.com/news/state-joins-partnership-for-peace-on-budget-day-1.255246|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Patrick|last=Smyth}}</ref><ref>{{Cite web|title=NATO PfP Signatures by country|url=https://www.nato.int/pfp/sig-cntr.htm|website=www.nato.int|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 == 地理 == [[ファイル:Ireland from space edit.jpg|thumb|[[アイルランド島]]の衛星写真]][[ファイル:Cliffs of Moher bei bestem Wetter (2007).jpg|サムネイル|[[モハーの断崖]]]] {{main|アイルランドの地理}} [[アイルランド島]]は、ヨーロッパの北西部に位置し、[[ブリテン諸島]]の一部を形成し、[[イギリス]]と[[アイスランド]]に次ぐヨーロッパで3番目の大きさを誇る島である(世界では20番目)。 島の面積は、[[北海道]]よりもやや広い84,421&nbsp;km<sup>2</sup>で、そのうち83%(約6分の5)がアイルランド(70,273km<sup>2</sup>)に属し、残りはイギリスの[[北アイルランド]]に属している。南北に約500km、東西に約300kmある。西に大西洋、北東に[[ノース海峡 (イギリス)|ノース海峡]]に囲まれている。東には[[アイリッシュ海]]があり、南西を経由して[[セント・ジョージ海峡]]や[[ケルト海]]と結んでいる。内陸部は起伏に富んだ[[丘陵|丘陵地帯]]と低山に囲まれた[[平野]]部、西海岸は[[断崖]]絶壁で構成されている。最高地点は南西部にある1041[[メートル|m]]の[[キャラントゥール山]]。 内陸部は比較的平坦で、内部の[[盆地]]が窪んでおり、海岸付近の標高が高い。領土は[[シャノン川]]などの河川に挟まれており、比較的大きく浅い湖({{En|lough}})が多い。国の中心部の一部はシャノン川に覆われており、広大な湿地帯があり、細長いインゴット状の[[泥炭]]を圧搾して生産するために使用されている。アイルランドには、ヨーロッパ最大の囲まれた都市公園の[[フェニックス・パーク]]があり、その面積は712[[ヘクタール]]で、周囲16[[キロメートル|km]]の広大な緑地と並木道で構成されている<ref>{{Cite web|title=Phoenix Park {{!}} park, Dublin, Ireland|url=https://www.britannica.com/place/Phoenix-Park|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 西部は山地、丘陵、断崖の風景が広がる。主な山岳は、ドニゴール山地、[[ウィックロー山地]]、[[モーン山地]]、マギリカディーズ・リークス山地、最高峰の[[キャラントゥール山]]などがある。中央部は[[氷河]]によって堆積した[[粘土]]と[[砂]]を含む低地で、[[沼|沼地]]や、[[ネイ湖]]、[[アーン湖]]、[[コリブ湖]]、[[ダーグ湖]]などの[[湖]]が多く存在する。主要な川は[[シャノン川]]、ブラックウォーター川、[[バロー川]]、[[バン川]]などがある。島を取り囲む海岸は、通常、河口や[[フィヨルド]]に似ている狭い湾を持つ、非常に切り立った高さのある海岸である。北東部に[[玄武岩]]台地があるほかはほとんどの地域が[[花崗岩]]に覆われている。 温暖な[[メキシコ湾流]]と、[[大西洋]]から吹く[[偏西風]]の影響で気候は安定した[[西岸海洋性気候]]となっており夏は涼しく、冬は緯度の高い割に寒くない。また、地域による気候の差もほとんどない。平均気温は、もっとも寒い1月と2月で4℃から7℃程度、もっとも暖かい7月と8月では14℃から17℃程度である。最低気温が-10℃より下がることや、最高気温が30℃を超えることはほとんどない。 年間の降水量は、平野では1000[[ミリメートル|mm]]程度である。山岳部ではさらに多く2000mmを超えることもある。月ごとの降水量はほとんど変わらない。 主な都市は、東海岸にある首都[[ダブリン]]、南部にある[[コーク (アイルランド)|コーク]]、西海岸にある[[リムリック]]、[[ゴールウェイ]]、南東海岸にある[[ウォーターフォード]]である。 === 地学 === [[ファイル:Irish diamond.JPG|サムネイル|アイリッシュ・ダイヤモンド]] 地質学的には、島は区別された地域で構成されている。西部の[[ゴールウェイ]]と[[ドニゴール県|ドニゴール]]周辺には、[[カレドニア造山運動]]に関連した中~高品位の[[変成岩]]と[[火成岩]]の複合体がある。アルスターの南東部、南西の[[ロングフォード]]から南の[[ナヴァン]]まで伸びている地域には、[[スコットランド]]のサザン・ハイランド地域に似た特徴を持つ[[オルドビス紀]]と[[シルル紀]]の岩石の地域がある。さらに南下すると、[[ウェックスフォード]]海岸周辺には、オルドビス紀とシルル紀の岩石への花崗岩の侵入によって形成された地域があり、[[コーンウォール]]のものと非常によく似ている。南西部、バントリー湾とマギリカディーズ・リークス山地の周辺には、実質的に変形しているが、わずかに変成した[[デボン紀]]の岩石の地域があり、[[コーンウォール]]の岩石と非常によく似ている。 この部分的なリング状の硬岩は、島の中心部に向かって炭素質の[[石灰岩]]の層で覆われており、比較的肥沃で緑豊かな景観を生み出している。[[リスドゥーンバーナ]]周辺の西海岸にある[[バレン]]は、[[カルスト地形]]がよく発達している。その他の地域では、銀鉱山とタイナ周辺の石灰岩に[[亜鉛]]と[[鉛]]の成層状鉱床が見られる。 探鉱は、[[炭化水素]]を求めて行っている。最初の重要な発見は、[[1970年代]]半ばにマラソン・オイル社によって発見された[[コーク (アイルランド)|コーク]]/[[コーヴ]]のキンセールにあるアイルランド最大の[[ガス田]]である。 [[2006年]]8月には[[ドニゴール県]]北部で計画されたフロンティアが完成し、[[アイリッシュ海]]と[[セント・ジョージ海峡]]で有望な[[掘削]]が行われるなど、新鉱区の探査が続いている<ref>{{Cite web|title=Oil and gas fields near ireland|url=https://www.google.com/maps?f=q&hl=en&geocode&q=oil+and+gas+fields+in+ireland&ie=UTF8&ll=53.592505,-9.030762&spn=6.274516,19.775391&z=6|website=Oil and gas fields near ireland|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 === 天候 === [[ファイル:Lough Leane (pixinn.net).jpg|サムネイル|306x306ピクセル|[[キラーニー国立公園]]]] アイルランドの気候は年間を通じて温暖だが、平均的な気候以外の極端な変化はほとんどない。最も気温が高かったのは[[1887年]][[6月26日]]のキルケニー城([[キルケニー県]])で観測された33.3[[℃]]、最も低かったのは[[1881年]][[1月16日]]のマークリー城([[スライゴ県]])で観測された-19.1℃であった<ref name=":0">{{Cite web|title=Weather Extreme Records for Ireland - Met Éireann - The Irish Meteorological Service|url=https://www.met.ie/climate/weather-extreme-records|website=www.met.ie|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 他の統計によると、記録された最高年間[[降水量]]は、[[1960年]]にバラビーナ・ギャップで3964.9[[ミリメートル|mm]]であった。記録上最も乾燥した年は1887年で、グラスネヴィンでは357mmの雨しか降らなかったが、最長の干ばつ期間があったのは[[リムリック]]で、[[1938年]]4月から5月まで38日間連続して雨が降らなかった<ref name=":0" />。 気候は一般的に島国的で、適度に湿った大西洋の風が吹くため、同緯度の他の地域に見られるような極端な温度差を避けている。降水量(主に雨)は年間を通じて規則的に分布しているが、一般的には東部を中心に軽い。しかし、国の西部は[[湿度]]が高く、特に晩[[秋]]から[[冬]]にかけて大西洋の[[暴風雨]]に見舞われやすい傾向にあり、[[雪]]や[[雹]]が降ることもある。[[ゴールウェイ]]の北と5月の東の地域は、気温の温度差が顕著ではなく嵐の発達雲の形成しないのにも関わらず、雷の件数が最も多い(年間5日から10日)。長期間の[[降雪]]はまれである<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=アイルランドの天気|url=https://www.ireland.com/ja-jp/about-ireland/discover-ireland/irelands-weather/|website=Ireland.com|accessdate=2020-07-17|language=ja}}</ref>。 沿岸部と内陸部では気温に差がある。内陸部の夏は暖かく、冬は寒く、一般的に内陸部の気象台では[[氷点下]]の日が約40日、沿岸部の気象台では10日程度しかない。例えば、7月の[[オマー]]の1日の平均最高気温は23℃だが、55[[キロメートル|km]]離れた[[ロンドンデリー|デリー/ロンドンデリー]]では18℃しかない。これらの地域では1月の1日平均最低気温も異なり、オマーでは-3℃、[[ロンドンデリー|デリー/ロンドンデリー]]では0℃となっている。アイルランドは時々[[熱波]]の影響を受けることがあり、最近では[[2018年]]に熱波が発生している<ref>{{Cite web|title=Major Weather Events - Met Éireann - The Irish Meteorological Service|url=https://www.met.ie/climate/major-weather-events|website=www.met.ie|accessdate=2020-07-17|language=en}}</ref>。島の平均気温は、2月 - 4月は最高気温8 - 12℃、5月 - 7月は最高気温18 - 20℃、8月 - 10月は最高気温14 - 18℃となっている<ref name=":5" />。 === 植物 === [[メキシコ湾流]]によって緩和された温帯海洋性気候、比較的温暖な気候、高い湿度(豊富な泥炭湿地の存在も影響している)のため、島のほぼ全体が[[草原]]に覆われているため、アイルランドをさして「エメラルドの国」と呼ばれる。[[シャムロック]](アイルランド文化の国と伝統的なシンボル)が非常に多く、[[泥炭]]は[[ミズゴケ属]]などの植物の分解によって形成されている。近世までのアイルランドは、他の[[イギリス]]の島々と同様、[[オーク]]、[[ホルムオーク]]、[[ハンノキ]]、[[ニレ]]などの[[落葉樹林]]に覆われていたが、これらの[[森林]]のほとんどは、[[羊]]の放牧地を拡張したり、船を建造するためにイギリス人の侵略者によって伐採された。 === 動物 === [[ファイル:Rød ræv (Vulpes vulpes).jpg|サムネイル|[[アカギツネ]]]] [[最終氷期]]の末期以降、大陸部や[[イギリス]]から隔離されていたため、原住民の動物相は貧弱で、[[アカギツネ]]、[[フェレット]]、[[ウサギ]]などが生息し、[[シカ]]の数は非常に少ない。[[爬虫類]]の不足は顕著であり、生息しているのは[[コモチカナヘビ]]のみである。[[鳥類]]や[[両生類]]の[[哺乳類]]の動物相も[[捕食]]によって減少しているが、海岸の断崖にはイベリアウミガラス、[[ツノメドリ属]]、[[シロカツオドリ]]、ミズナギドリ、[[ウミツバメ科]]などの海鳥の大規模な群生がある。また、クロガチョウやホオジロガチョウの越冬個体数やヒラガチョウの越冬個体数も生息しており、最初に[[ペンギン]]の名をもらった鳥である[[オオウミガラス]]は[[17世紀]]に[[絶滅]]した。 === 自然公園 === アイルランドには6つの[[自然公園]]があり、植物や景観の多様性に富んだ独特の美しさを持っている。北西に[[ドニゴール県]]のグレンヴェイ、そして少し南西には[[メイヨー県]]のバリークロイ、[[ゴールウェイ|ゴールウェイ市]]の北西と南にそれぞれ[[コネマラ山地]]と[[バレン]]がある。また、西海岸を南下し、[[リムリック]]の[[シャノン川]]河口を過ぎると、街のすぐ南に[[キラーニー国立公園]]がある。最後に、ウィックローの西、ダブリンの南にある[[ウィックロー山地]]もある。 == 地方行政区画 == [[ファイル:Ireland Counties Numbered.png|代替文=|サムネイル|305x305ピクセル|アイルランドの県]] {{main|アイルランドの地方行政区画}} [[アイルランド島]]は歴史的な慣習から自治権のない[[コノート]]、[[マンスター]]、[[レンスター]]、[[アルスター]]の[[アイルランドの地方|4つの地方]]({{En|Province}})に大別される。これらは[[アイルランドの地方行政区画|32の県]]({{En|County}})で構成されるが、この内の[[アーマー県|アーマー]]、[[アントリム県|アントリム]]、[[ダウン県|ダウン]]、[[ティロン県|ティロン]]、[[デリー州|デリー]]、[[ファーマナ県|ファーマナ]]の[[北アイルランドのカウンティ|6県]]がイギリスの統治下にある[[北アイルランド]]に属している。 # [[ダブリン県]] # [[ウィックロウ県]] # [[ウェックスフォード県]] # [[カーロウ県]] # [[キルデア県]] # [[ミース県]] # [[ラウス県]] # [[モナハン県]] # [[キャバン県]] # [[ロングフォード県]] # [[ウェストミース県]] # [[オファリー県]] # [[リーシュ県]] # [[キルケニー県]] # [[ウォーターフォード県]] # [[コーク県]] # [[ケリー県]] # [[リムリック県]] # [[ティペラリー県]] # [[クレア県]] # [[ゴールウェイ県]] # [[メイヨー県]] # [[ロスコモン県]] # [[スライゴ県]] # [[リートリム県]] # [[ドニゴール県]] === 主要都市 === {{Main|アイルランドの都市の一覧}} [[2011年]]におけるアイルランドの5大都市は次の通り。 {| class="wikitable" ! !都市 !県 !人口(urban areas) |- |1 |[[ダブリン]] |[[ダブリン県]] |align="right"|111万627人 |- |2 |[[コーク (アイルランド)|コーク]] |[[コーク県]] |align="right"|19万8582人 |- |3 |[[リムリック]] ||[[リムリック県]] |align="right"|9万1454人 |- |4 |[[ゴールウェイ]] |[[ゴールウェイ県]] |align="right"|7万6778人 |- |5 |[[ウォーターフォード]] |[[ウォーターフォード県]] |align="right"|5万1519人 |} == 経済 == [[ファイル:BlueEurozone.svg|サムネイル|アイルランドは[[EU]](紺色&水色)と[[ユーロ圏]](紺色)に属している]] {{main|アイルランドの経済|ケルトの虎|PIIGS}} {| class="wikitable" style="float: right; margin-left: 3.5em; padding-left: 2em; font-size: 90%;" ! colspan="2" |輸出 ! colspan="2" |輸入 |- !国 !比率 !国 !比率 |- |{{USA}} |18,6 % |{{GBR}} |37,1 % |- |{{GBR}} |17,4 % |{{USA}} |13,8 % |- |{{BEL}} |15,3 % |{{DEU}} |9,2 % |- |{{DEU}} |7,4 % |{{FRA}} |4,5 % |- |{{FRA}} |6,4 % |{{JAP}} |4 % |- |{{NLD}} |5,6 % |{{NLD}} |3,5 % |- |その他 |29,3 % |その他 |27,9 % |- |} アイルランドは開放経済国であり([[経済自由度指数]]では6位)、「価値の高い」[[外国直接投資]](FDI)の流れでは第1位である。[[国の国内総生産順リスト (一人当り購買力平価)|一人当り購買力平価の国内総生産]]を用いた場合、アイルランドは187カ国中5位(IMF)、175カ国中6位([[世界銀行]])にランクされている。別の指標である修正国民総所得(GNI)は、「国内経済の活動」をより正確に把握することを目的としている。これは、グローバル化が進むアイルランドの小規模な経済において、特に重要な意味を持っている。実際、外国の多国籍企業はアイルランド経済を牽引しており、民間部門の労働力の4分の1を雇用し、アイルランドの事業税の80%を支払っている。アイルランドの上位20社(2017年の売上高)のうち14社は[[アメリカ合衆国]]を拠点とする多国籍企業である(アイルランドの外国の多国籍企業の80%は米国系企業であり、売上高上位50社の中で、米国・英国以外の外国企業はなく、従業員数では1社のみで、ドイツの小売業である[[リドル]]が41位にランクインしている)。 アイルランドは[[2002年]]に他の11の[[欧州連合加盟国]]とともに[[ユーロ硬貨|ユーロ通貨]]を採用した。 アイルランド経済は他のヨーロッパ諸国と比べ小規模であり国際貿易に大きく依存している。かつては西欧でも長きにわたり[[ポルトガル]]などと並び最貧国のひとつに数えられたが、1990年代に入ってから[[欧州連合|EU]]の統合とアメリカを中心とした外資からの投資などにより急成長を遂げた。1995年から2000年の[[経済成長率]]は10%前後であり、世界において最も経済成長を遂げた国のひとつとなった。以前に経済の中心をなしていた農業は産業の[[工業化]]により重要度が低下した。現在では工業は[[国内総生産|GDP]]の46%、輸出額の80%、雇用の29%を担っている。近年のアイルランド経済の力強い成長は[[外資]]企業・[[多国籍企業]]や輸出が寄与するところが大きいが、国内における個人消費および建設、[[設備投資]]による影響も見逃せない。好調な経済に伴いここ数年の[[インフレーション|インフレ]]率は4%から5%で推移していたが、2005年度には2.3%に低下した。アイルランド国民の関心を集めている住居価格は2005年2月で251,281[[ユーロ]]だった。[[失業率]]は低水準を維持しており収入も順調に増加している。世界の主要都市における調査によると、アイルランドの首都[[ダブリン]]は22番目に物価の高い都市であり、2003年度の調査から2位上昇している。アイルランドはEUの中で[[ルクセンブルク]]に次いで1人あたりGDPが大きい国であり、これは世界においても4位に位置している。アイルランドとルクセンブルクはタックスヘイブンであるため、GDPは国民所得に対して過大評価されている。OECD統計によると、2020年の購買平価説に基づくアイルランドの一人当たり所得はおよそ22837米ドルである<ref>{{Cite web |title=OECD Statistics |url=https://stats.oecd.org/ |website=stats.oecd.org |access-date=2023-06-15}}</ref>。 2007年度より、経済の急激な落ち込みが始まり、特に不動産価格の急激な下落が記録されている。同年より起きた世界的なサブプライム問題によって多くの銀行・証券会社などが巨額な損失を発表しており、また2008年には経済が2.5%程度縮小(見込み)、失業率が前年の5%から10.4%に上昇するなどユーロ圏でも特に深刻な不況に陥っている<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/766 アイルランド経済:宴は完全に終わった 英エコノミスト誌 (The Economist) 2009年3月21日号 - JBpress2009年3月25日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090325185210/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/766|date=2009年3月25日}}2009年5月21日閲覧。英語版のオリジナル記事は [http://www.economist.com/world/europe/displaystory.cfm?story_id=13331143 Ireland's economy The party is definitely over | Mar 19th 2009 | DUBLIN From The Economist print edition - Economist.com] 2009年5月21日閲覧。{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090324095648/http://www.economist.com/world/europe/displaystory.cfm?story_id=13331143|date=2009年3月24日}}</ref>。 アイルランドは[[2010年]]に正式に不況から脱却したが、アイルランドの米国多国籍企業からの輸出の増加に助けられたからである<ref>{{Cite news|title=Ireland Officially Exits Recession|url=https://www.wsj.com/articles/SB10001424052748703426004575338433422665358|work=Wall Street Journal|date=2010-06-30|accessdate=2020-07-15|issn=0099-9660|language=en-US|first=Quentin|last=Fottrell}}</ref>。しかし、民間銀行の債務を政府が保証したことで公的な借入コストが上昇したため、アイルランド政府は、[[欧州連合]](EU)、[[国際通貨基金]](IMF)、[[イギリス]]、[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]の二国間融資を受け、850億ユーロの支援プログラムを受け入れた<ref>{{Cite web|title=Ireland to receive €85 billion bailout at 5.8% interest rate|url=https://www.irishtimes.com/news/ireland-to-receive-85-billion-bailout-at-5-8-interest-rate-1.868001|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=David|last=Labanyi}}</ref>。3年間の縮小に続き、[[2011年]]には0.7%、[[2012年]]には0.9%の経済成長となった<ref>{{Cite journal|date=2013-03-21|title=Irish economy grew by 0.9% in 2012 - CSO|url=https://www.rte.ie/news/business/2013/0321/377718-gdp-growth-cso/|language=en}}</ref>。2012年の失業率は14.7%で、最近の移民の18.5%を含む<ref>{{Cite web|title=Irish anti-immigrant attitudes growing, report shows|url=https://www.irishtimes.com/news/social-affairs/irish-anti-immigrant-attitudes-growing-report-shows-1.1442460|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Judith|last=Crosbie}}</ref>。[[2016年]]3月の[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]の発表によると、[[失業率]]は8.6%で、2012年2月のピーク時の15.1%から低下した<ref>{{Cite web|和書|title=Monthly Unemployment March 2016 - CSO - 中央統計局|url=https://www.cso.ie/en/releasesandpublications/er/mue/monthlyunemploymentmarch2016/|website=www.cso.ie|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。アイルランド国勢調査(2011年)によると、[[2008年]]から[[2013年]]までのアイルランドからの純移民の総数は120,100人で、総人口の約2.6%を占めている。移住者の3分の1は15歳から24歳であった<ref>{{Cite web|title=Subscribe to read {{!}} Financial Times|url=https://www.ft.com/content/d27e950a-10bf-11e3-b291-00144feabdc0|website=www.ft.com|accessdate=2020-07-15}}</ref>。 [[2013年]][[12月15日]]、EU-IMFの支援プログラムを終了した<ref>{{Cite web|title=Ireland becomes first country to exit eurozone bailout programme|url=http://www.theguardian.com/business/2013/dec/13/ireland-first-country-exit-eurozone-bailout|website=the Guardian|date=2013-12-13|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。予算削減、改革、資産売却を実施したことで、アイルランドは再び債券市場にでるようになった。それ以来、アイルランドは記録的な金利で長期債を売却することができた<ref>{{Cite web|title=Republic of Ireland raises €3.75 billion from sale of new 10-year benchmark bond|url=http://cbonds.com/news/item/696585|website=cbonds.com|accessdate=2020-07-15}}</ref>。しかし、アイルランドの信用バブルの安定化には、民間部門のバランスシートから公的部門のバランスシートへ、銀行の救済措置や公的赤字支出を通じた多額の債務移転が必要となった<ref>{{Cite web|title=Subscribe to read {{!}} Financial Times|url=https://www.ft.com/content/51a2e9bf-f654-333c-8ae8-b5155eea9ea0|website=www.ft.com|accessdate=2020-07-15}}</ref><ref>{{Cite web|title=42% of Europe’s banking crisis paid by Ireland|url=https://www.irishexaminer.com/ireland/42-of-europes-banking-crisis-paid-by-ireland-219703.html|website=www.irishexaminer.com|date=2013-01-16|accessdate=2020-07-15|language=en|last=Wednesday}}</ref>。この債務の移転は、[[2017年]]のアイルランドの公共部門の債務と民間部門の債務の両方がEU-28/OECDの中で最も高いレベルにあることを意味している<ref>{{Cite web|title=Who owes more money - the Irish or the Greeks?|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/who-owes-more-money-the-irish-or-the-greeks-1.2236034|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Fiona|last=Reddan}}</ref><ref>{{Cite web|title=Why do the Irish still owe more than the Greeks?|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/why-do-the-irish-still-owe-more-than-the-greeks-1.3001026|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Fiona|last=Reddan}}</ref><ref>{{Cite web|title=Ireland's colossal level of indebtedness leaves any new government with precious little room for manoeuvre|url=https://www.independent.ie/business/personal-finance/latest-news/irelands-colossal-level-of-indebtedness-leaves-any-new-government-with-precious-little-room-for-manoeuvre-34633087.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref><ref>[http://www.fiscalcouncil.ie/wp-content/uploads/2017/07/Fiscal-Assessment-Report-June-2017-Presentation.pdf "Irish public debt levels 4th highest in EU28 June 2017 FAR Slide 7"] (PDF). Irish Fiscal Advisory Council. June 2017.</ref><ref>{{Cite web|title=Irish household debt falls but still among highest in Europe|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/irish-household-debt-falls-but-still-among-highest-in-europe-1.3216828|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Eoin|last=Burke-Kennedy}}</ref><ref>{{Cite web|title=National debt now €44,000 per head|url=https://www.independent.ie/irish-news/politics/national-debt-now-44000-per-head-35904197.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 アイルランドはアメリカ合衆国の多国籍企業主導の経済を成長させながら、国内の民間部門のデレバレッジを継続している。[[2009年]]から[[2016年]]にかけて、米国の法人税の逆転取引(主に製薬企業)の主な取引先となり、ピーク時には1,600億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の[[アラガン]]/[[ファイザー]]の逆転取引(世界最大の逆転取引で、アイルランドのGNIの約85%を占める)が阻止された<ref>{{Cite web|title=Pfizer to Terminate $160 Billion Merger With Allergan|url=https://www.bloomberg.com/news/articles/2016-04-06/pfizer-allergan-plan-to-mutually-end-merger-cnbc-reports|website=www.bloomberg.com|accessdate=2023-09-22}}</ref><ref>{{Cite web|title=Pfizer pulls out of €140bn Irish Allergan merger|url=https://www.independent.ie/business/irish/pfizer-pulls-out-of-140bn-irish-allergan-merger-34603518.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。アイルランドはまた、米国の「ビッグキャップ」テクノロジー多国籍企業([[Apple]]、[[Google]]、[[マイクロソフト]]、[[Facebook]]など)にとって最大の海外拠点となり、[[2015年]]の[[国内総生産]]成長率は26.3%([[国民総所得]]成長率は18.7%)となった。 === 課税政策 === 1987年には、国際金融サービスセンター(IFSC)と呼ばれる10%の低税率の「[[経済特区]]」が創設され、アイルランド経済は一変した<ref>{{Cite web|title=Finance-Magazine.com - Dermot Desmond on the IFSC past and future|url=http://www.finance-magazine.com/display_article.php?i=2300&pi=142|website=www.finance-magazine.com|accessdate=2020-07-15}}</ref>。1999年には、アイルランドの法人税が32%から12.5%に引き下げられ、国全体が事実上「IFSC化」された(アイルランドの「低税モデル」の誕生)<ref>[http://www.budget.gov.ie/Budgets/2015/Documents/EY_Historical_Dev_International_Context_Irish_%20Corporation_Tax.pdf "History of the Irish Corporate Tax System"] (PDF). Ernst and Young. 2014.</ref><ref>[https://www.oireachtas.ie/parliament/media/committees/finance/Report---Global-Corporate-Taxation-Final.pdf "Report on Ireland's Relationship with Global Corporate Taxation Architecture"] (PDF). Department of Finance. 2014.</ref>。これにより、アイルランドの魅力的な法人税率と独自の法人税制度を利用しようとするハイテク、ライフサイエンス、金融サービス産業から米国の多国籍企業を誘致し、農業経済から知識経済への移行を加速させた。 外国企業がアイルランドで使用している「多国籍税制」は、アイルランドの経済統計を大きく歪めており、2015年の「レプラコーン経済学」の[[国内総生産|GDP]]/[[国民総所得|GNP]]成長率で最高潮に達した(2015年に[[Apple]]がアイルランドの子会社を[[リストラ]]したため)。[[アイルランド中央銀行・金融サービス機構|アイルランド中央銀行]]はこうした歪みを取り除くために、「修正GNI」(またはGNI*)という新しい統計を導入した。GNI*はGDPを30%下回っている(つまり、GDPはGNIの143%)<ref>{{Cite web|title=CSO paints a very different picture of Irish economy with new measure|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/cso-paints-a-very-different-picture-of-irish-economy-with-new-measure-1.3155462|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Eoin|last=Burke-Kennedy}}</ref><ref>{{Cite web|title=New economic Leprechaun on loose as rate of growth plunges|url=https://www.independent.ie/business/irish/new-economic-leprechaun-on-loose-as-rate-of-growth-plunges-35932663.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 国際金融サービスセンター(IFSC)が設立されてから、アイルランドは強力で持続的な経済成長を遂げ、消費者の借入と支出、建設と投資が劇的に増加し、[[ケルトの虎]]の時代として知られるようになった<ref name=":1">[https://www.socialeurope.eu/wp-content/uploads/2017/01/p_imk_wp_175_2017.pdf "Crisis Recovery in a Country with a High Presence of Foreign Owned Companies"] (PDF). IMK Institute, Berlin. January 2017.</ref><ref>{{Cite web|title=Irish Economy|url=http://www.esri.ie/irish_economy/|website=www.esri.ie|date=|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110624030442/http://www.esri.ie/irish_economy/|archivedate=2011-06-24}}</ref>。[[2007年]]までに、アイルランドの民間部門の債務は[[経済協力開発機構]](OECD)で最も高く、家計の可処分所得に対する債務の比率は190%に達していた。[[ケルトの虎]]時代にアイルランドの銀行が国内の預金ベース(ピーク時には180%以上<ref>{{Cite web|title=Banks continue to grow deposits as loan books shrink|url=https://www.irishexaminer.com/business/banks-continue-to-grow-deposits-as-loan-books-shrink-215666.html|website=www.irishexaminer.com|date=2012-12-01|accessdate=2020-07-15|language=en|last=Saturday}}</ref>)を上回る借入を可能にすることで、アイルランドの債務の積み上げを支援してきたグローバル資本市場は、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]の際に支援を撤回した。債務超過のアイルランドの信用システムからの撤退は、アイルランドの不動産の大幅な補正を引き起こし、その後アイルランドの銀行システムの崩壊につながることになる<ref name=":1" /><ref>[https://www.imf.org/external/pubs/ft/scr/2016/cr16258.pdf "Ireland Financial System Stability Assessment 2016"] (PDF). International Monetary Fund. July 2016.</ref>。 アイルランドの「低税」経済の成功は、「[[低課税地域]]」であるという非難に直面され<ref>{{Cite web|title=Ireland named world's 6th worst corporate tax haven|url=https://www.thejournal.ie/oxfam-tax-haven-3133714-Dec2016/|website=TheJournal.ie|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Michelle|last=Hennessy}}</ref><ref>{{Cite web|title=The United States’ new view of Ireland: ‘tax haven’|url=https://www.irishtimes.com/life-and-style/abroad/the-united-states-new-view-of-ireland-tax-haven-1.2896469|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=John|last=Holden}}</ref><ref>{{Cite web|title=Europe points finger at Ireland over tax avoidance|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/europe-points-finger-at-ireland-over-tax-avoidance-1.3417948|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Rochelle Toplensky in|last=Brussels}}</ref>、「ブラックリスト入り」につながった<ref>{{Cite news|title=Blacklisted by Brazil, Dublin funds find new ways to invest|url=https://www.reuters.com/article/ireland-brazil-funds-idUSL8N1MK2NX|work=Reuters|date=2017-10-20|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Ireland no tax haven, US authorities told|url=https://www.independent.ie/business/irish/ireland-no-tax-haven-us-authorities-told-35565554.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。深刻な課題は、アイルランドの多国籍企業の税制優遇を対象にしている[[アメリカ合衆国]]の[[2017年税制改革法 (アメリカ)|2017年税制改革法]]の成立である<ref>{{Cite web|title=Trump’s US tax reform a significant challenge for Ireland|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/trump-s-us-tax-reform-a-significant-challenge-for-ireland-1.3310866|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Cliff|last=Taylor}}</ref><ref>{{Cite web|title=US corporations could be saying goodbye to Ireland|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/us-corporations-could-be-saying-goodbye-to-ireland-1.3359050|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Donald Trump singles out Ireland in tax speech|url=https://www.irishtimes.com/business/donald-trump-singles-out-ireland-in-tax-speech-1.3310149|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Suzanne Lynch in|last=Washington}}</ref><ref>{{Cite news|title=Breaking Down the New U.S. Corporate Tax Law|url=https://hbr.org/podcast/2017/12/breaking-down-the-new-u-s-corporate-tax-law|work=Harvard Business Review|date=2017-12-26|accessdate=2020-07-15|issn=0017-8012}}</ref>。[[欧州連合]]の2018年デジタル販売税(DST)は、アメリカのテクノロジー企業によるアイルランドの多国籍企業の税制優遇を制限しようとしているとも見られている<ref>{{Cite web|title=MEPs approve new EU corporate tax plan which embraces “digital presence” {{!}} News {{!}} European Parliament|url=https://www.europarl.europa.eu/news/en/press-room/20180309IPR99422/meps-approve-new-eu-corporate-tax-plan-which-embraces-digital-presence|website=www.europarl.europa.eu|date=2018-03-15|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Why Ireland faces a fight on the corporate tax front|url=https://www.irishtimes.com/business/economy/why-ireland-faces-a-fight-on-the-corporate-tax-front-1.3426080|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Cliff|last=Taylor}}</ref><ref>{{Cite web|title=EU digital levy could hit tech FDI and tax revenue here|url=https://www.independent.ie/business/irish/eu-digital-levy-could-hit-tech-fdi-and-tax-revenue-here-36725944.html|website=independent|accessdate=2020-07-15|language=en}}</ref>。 === 貿易 === [[ファイル:La Touche House, Dublin ( DSC6350).jpg|サムネイル|[[ダブリン]]の国際金融サービスセンター]] アイルランドの輸出部門は多国籍企業が大半を占めているが、それ以外の国からの輸出も国民所得に大きく貢献している。アイルランドに拠点を置く多国籍企業の活動により、アイルランドは医薬品、医療機器、ソフトウェア関連の商品やサービスの世界最大の輸出国のひとつとなっている。アイルランドの輸出は、[[ライアンエアー]]、[[ケリー・グループ (アイルランドの企業)|ケリー・グループ]]、スマーフィット・カッパなどのアイルランドの大手企業の活動や[[鉱物資源]]の輸出にも関係している。アイルランドは亜鉛精鉱の生産量では第7位、鉛精鉱の生産量では第12位である。また、[[石膏]]、[[石灰岩]]、[[銅]]、[[銀]]、[[金]]、[[重晶石]]、[[苦灰石]]などの鉱床も多く存在している<ref>{{Cite web|title=Europe :: Ireland — The World Factbook - Central Intelligence Agency|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ei.html|website=www.cia.gov|accessdate=2020-07-15}}</ref>。アイルランドの観光産業は[[国内総生産]]の約4%を占め、重要な雇用源となっている。 その他の物品輸出は、農業用食品、[[家畜]]、[[牛肉]]、[[乳製品]]、[[アルミニウム]]などがある。アイルランドの主な輸入品には、情報処理機器、[[化学品]]、[[石油]]、[[繊維品]]、[[衣料品]]などがある。アイルランド金融サービスセンターに拠点を置く多国籍企業が提供する金融サービスもアイルランドの輸出に貢献している。輸出(894億ユーロ)と輸入(455億ユーロ)の差により、2010年の年間貿易黒字は439億ユーロとなり、これは[[欧州連合加盟国]]の中で最も高い貿易黒字となっている<ref name=":2">{{Cite web|url=https://www.cso.ie/statistics/botmaintrpartners.htm|title=CSO - Main Trading Partners 2010|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050211014837/http://www.cso.ie/statistics/botmaintrpartners.htm|archivedate=2005-2-11}}</ref>。 欧州連合は、輸出の57.9%、輸入の60.7%を占め、最大の貿易相手国である。欧州連合域内で最も重要な貿易相手国は[[イギリス]]で、輸出額の15.4%、輸入額の32.1%を占めている。欧州連合域外では、2010年の輸出額で23.2%、輸入額で14.1%を占めている<ref name=":2" />。 === 資源 === [[ファイル:IMG WindfarmKilmuck1920.jpg|サムネイル|[[ウェックスフォード県]]の[[風力発電所]]]] ESB、Bord Gáis Energy、SSE Airtricityはアイルランドの3大電力・ガス供給会社あり、ガスの実証埋蔵量は198億2,000万[[立方メートル|m<sup>3</sup>]]である<ref>{{Cite web|title=Natural Gas In Ireland - Bord Gáis|url=http://www.bgeuk.ie/corporate/index.jsp?1nID=93&2nID=97&3nID=354&nID=364|website=www.bgeuk.ie|date=|accessdate=2020-07-15|publisher=|archivedate=2012-02-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120227055815/http://www.bgeuk.ie/corporate/index.jsp?1nID=93&2nID=97&3nID=354&nID=364}}</ref>。[[天然ガス]]の採掘は以前、キンセール・ヘッドで枯渇するまで行われていた。コリブのガス田は2013/14年に稼働する予定であった。[[2012年]]には、バリーロー油田には最大16億[[バレル]]の石油が埋蔵されていることが確認されており、そのうち1億6000万~6億バレルが回収可能であるとされている<ref>{{Cite web|title=Providence hits high as potential oil yield revised - The Irish Times - Thu, Jul 26, 2012|url=http://www.irishtimes.com/newspaper/finance/2012/0726/1224320827565.html|website=web.archive.org|date=|accessdate=2020-07-15|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121221061641/http://www.irishtimes.com/newspaper/finance/2012/0726/1224320827565.html|archivedate=2012-12-21}}</ref>。これは、2015/16 年に開発された場合、最大13年間、アイルランドの全エネルギー需要を賄うことができる。再生可能で持続可能なエネルギー、特に風力発電の利用を増やすために大きな努力がなされており、3,000[[メガワット]]の風力発電所が建設されており、中には輸出を目的としたものも存在する<ref>{{Cite web|title=Ireland's state power supplier is planning a major leap into solar energy|url=https://www.thejournal.ie/solar-energy-ireland-2-2709329-Apr2016/|website=TheJournal.ie|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Fora|last=Staff}}</ref><ref>{{Cite journal|date=2012-07-17|title=Wind farm firm to create 2,000 jobs by 2018|url=https://www.rte.ie/news/2012/0717/329463-wind-farm-firm-to-create-2-000-jobs-by-2018/|language=en}}</ref>。アイルランド持続可能エネルギー庁(SEAI)は、アイルランドの[[2011年]]のエネルギー需要の6.5%が[[再生可能エネルギー]]で生産されていると推定している<ref>{{citation|author=Energy Policy Statistical Support Unit|title=Renewable Energy in Ireland 2011|work=2012 Report|page=3|publisher=Sustainable Energy Authority of Ireland|date=June 2012|url=http://www.seai.ie/Publications/Statistics_Publications/Renewable_Energy_in_Ireland_2011.pdf|accessdate=5 August 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131115181705/http://www.seai.ie/Publications/Statistics_Publications/Renewable_Energy_in_Ireland_2011.pdf|archivedate=15 November 2013|url-status=dead}}</ref>。また、SEAIはアイルランドのエネルギー効率の向上を報告しており、[[2005年]]から[[2013年]]までの間に一軒あたりの[[二酸化炭素]]排出量を28%削減している<ref>{{Cite web|title=Ireland on course to meet Kyoto emissions targets|url=http://www.irishtimes.com/business/sectors/energy-and-resources/Ireland-on-course-to-meet-Kyoto-emissions-target-1.1631207|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131219214200/http://www.irishtimes.com/business/sectors/energy-and-resources/ireland-on-course-to-meet-kyoto-emissions-targets-1.1631207|url-status=dead|author=Mark Paul|work=The Irish Times|date=December 18, 2013|accessdate=19 December 2013|archivedate=19 December 2013}}</ref>。 === 農業 === 国土の16%が[[農地]]、47.7%が[[牧場]]並びに[[牧草地]]として利用されている。農業従事者は16万人であり、生産年齢人口(国民の67.5%)のうち、5.7%を占める(以上2003年時点の統計値)。アイルランド経済は貿易依存度が高く、同時に農業、特に牧畜業に依存している。しかし、貿易(輸出品目)の上位には農業生産物が登場せず、国内消費を満たす生産水準に留まっている。 主要穀物では、[[オオムギ]](116万トン、以下2004年の統計値)、次いで[[コムギ]](85万トン)、第三位に[[馬鈴薯]](50万トン)が並ぶ。野菜類では[[テンサイ]](砂糖大根、150万トン)が飛び抜けており、次いで[[キャベツ]](5万トン)の栽培が盛ん。畜産では[[ウシ]](704万頭)が中核となり、次いで[[羊]](485万頭)、[[ニワトリ]](1280万羽)である。このため、畜産品である牛乳の生産(550万トン)は世界シェアの1.1%に達する。 === 鉱業 === アイルランドの鉱業は[[鉛]]と[[亜鉛]]を中核とする。2003年時点で鉛鉱の生産は5万トンで世界シェア9位、亜鉛鉱は25万トンで同8位である。[[ミーズ県]][[ナヴァン]]に位置するタラ({{En|Tara}})鉱山はヨーロッパ最大の鉛・亜鉛鉱山。他に[[キルケニー県]]と[[ティペラリー県]]にも鉱山が点在する。いずれも海水を起源とする層間水が石灰岩層にトラップされて形成されたアルパイン型鉱床の代表例である。これ以外の金属資源としては銀もわずかに産出する。天然ガスを生産しているが、消費量の数%をまかなうに過ぎない。[[無煙炭]]はほぼ枯渇している。 == 交通 == [[ファイル:Aer Lingus Airbus A330-302 EI-EDY approaching EWR Airport.jpg|サムネイル|[[エアリンガス]](アイルランドの[[フラッグ・キャリア]])]] {{main|{{仮リンク|アイルランドの交通|en|Transport in Ireland}}}} [[ダブリン空港|ダブリン]]、[[シャノン空港|シャノン]]、[[コーク空港|コーク]]の3つの主要[[国際空港]]からは、定期便やチャーター便が就航しており、[[ヨーロッパ]]や大陸間を結んでいる。[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン]] - ダブリン間は世界で9番目に利用者が多い国際航空路線であり、[[2017年]]には14,500便が就航しており、ヨーロッパでも最も利用者が多い国際航空路線となっている<ref name=":3">{{Cite web|title=Dublin-London second-busiest route in world|url=https://www.irishtimes.com/business/transport-and-tourism/dublin-london-second-busiest-route-in-world-1.2508617|website=The Irish Times|accessdate=2020-07-16|language=en|first=Barry|last=O'Halloran}}</ref><ref>{{Cite web|title=Irish air route named busiest in Europe|url=https://www.irishmirror.ie/news/irish-news/dublin-london-named-europes-busiest-11827578|website=irishmirror|date=2018-01-10|accessdate=2020-07-16|first=Anita|last=McSorley}}</ref>。[[2015年]]には450万人がこの路線を利用し、当時は世界第2位だった<ref name=":3" />。[[エアリンガス]]はアイルランドの[[フラッグキャリア]]であるが、[[ライアンエアー]]がアイルランド最大の航空会社であるとともにヨーロッパ最大の[[格安航空会社]]であり、旅客数では第2位、国際線旅客数では世界最大である<ref>{{Cite web|title=Ash makes Ryanair cancel most flights until Monday - Forbes.com|url=http://www.forbes.com/feeds/ap/2010/04/16/business-eu-iceland-volcano-ryanair_7521491.html?boxes=Homepagebusinessnews|website=www.forbes.com|date=|accessdate=2020-07-16|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100419141444/http://www.forbes.com/feeds/ap/2010/04/16/business-eu-iceland-volcano-ryanair_7521491.html?boxes=Homepagebusinessnews|archivedate=2010-04-19}}</ref><ref>{{Cite web|title=WATS Sample - Scheduled Passengers Carried|url=http://www.iata.org/ps/publications/wats-passenger-carried.htm|website=www.iata.org|date=|accessdate=2020-07-16|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100323213100/http://www.iata.org/ps/publications/wats-passenger-carried.htm|archivedate=2010-03-23}}</ref>。[[ファイル:Dart 8633.jpg|サムネイル|[[東急車輛製造]]の[[ダブリン高速輸送|DART]]]]鉄道は[[アイルランド国鉄]]が提供しており、国内の都市間鉄道、通勤鉄道、貨物鉄道のすべてを運営している。ダブリンは鉄道網の中心地で、[[ダブリン・ヒューストン駅]]と[[ダブリン・コノリー駅]]の2つの主要駅があり、国内の都市や主要都市を結んでいる。[[北アイルランド鉄道]]と共同で運行している[[エンタープライズ (列車)|エンタープライズ]]は、[[ダブリン]]と[[ベルファスト]]を結んでいる。アイルランドの主要路線は、ヨーロッパでは少数派の1,600[[ミリメートル|mm]]の軌間で運行されている。また、ダブリンの海岸沿いを北から南へ結んでいる[[ダブリン高速輸送]](DART)は、[[日本]]の[[東急車輛製造]](現:[[総合車両製作所]])が手掛けており、初めて[[ヨーロッパ]]へ輸出された日本企業製の[[電車]]である<ref name="Import">[https://www.jorsa.or.jp/ja/exports/detail.php?id=59 アイルランド国鉄向け 8500シリーズEMU] 2019年4月23日閲覧</ref>。他にも、[[大韓民国]]の[[現代ロテム]]と共同で[[高速鉄道]]の車両を手がけている。 [[高速道路]]、国道、国道二次道路はアイルランド交通インフラストラクチャー社が管理しており、地方道路はそれぞれの地域の地方自治体が管理している。道路網は主に首都に集中しているが、高速道路は[[コーク (アイルランド)|コーク]]、[[リムリック]]、[[ウォーターフォード]]、[[ゴールウェイ]]などアイルランドの他の主要都市と接続している<ref>{{Cite web|title=What is Transport 21|url=http://www.transport21.ie/What_Is_Transport_21/Transport_21/What_is_Transport_21.html|website=www.transport21|date=|accessdate=2020-07-16|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110628025059/http://www.transport21.ie/What_Is_Transport_21/Transport_21/What_is_Transport_21.html|archivedate=2011-06-28}}</ref>。 [[ダブリン]]には、イーストリンクやウェストリンクの有料道路、[[ダブリンポートトンネル]]などが通っている。首都外ではコークの[[リー川]]の下にあるジャック・リンチ・トンネルと[[シャノン川]]の下にあるリムリック・トンネルなど主要なトンネルがある<ref>{{Cite web|title=80 iconic Irish construction projects announced|url=https://constructionnews.ie/80-iconic-construction-projects-celebrate-cifs-eight-decades/|website=Construction|date=2015-09-06|accessdate=2020-07-16|language=en-US|first=Robbie|last=Cousins}}</ref>。 == 国民 == {{main|アイルランド人|{{仮リンク|アイルランドの人口統計|en|Demographics of the Republic of Ireland|redirect=1}}}} アイルランドの人口は[[2022年]][[国勢調査]]の予備調査によると5,123,536人となり、前回の[[2016年]]から8%増加している<ref name="PreliminaryCensus2022" />。また人口が500万人を突破したのは1851年以来となる<ref name="PreliminaryCensus2022" />。2011年には、アイルランドの出生率は[[欧州連合]]で最も高かった(人口1,000人あたり16人)<ref>[https://www.bbc.co.uk/news/world-europe-20797166 Ireland continues to have highest birth rate in the European Union]. ''BBC News''. (20 December 2012). Retrieved on 16 July 2013.</ref>。[[2014年]]の36.3%の出生が未婚女性だった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cso.ie/en/releasesandpublications/ep/p-vsys/vitalstatisticsyearlysummary2014/#.VWokvlJp1YA|title=Vital Statistics Yearly Summary 2014 - CSO - 中央統計局|website=www.cso.ie|accessdate=30 July 2017}}</ref>。[[2002年]]から[[2006年]]の間の年間人口増加率は2%を超えており、これは自然増加率と移民の増加率が高かったためである<ref>{{cite web|url=http://www.breakingnews.ie/ireland/mheykfauqlmh/|title=Ireland's population still fastest-growing in EU|publisher=Thomas Crosbie Media|date=18 December 2007|accessdate=9 July 2009}}</ref>。出生率は、その後の[[2006年]]から[[2011年]]までの間に幾分低下し、年平均1.6%の変化率となった。[[2017年]]の[[合計特殊出生率]]は女性1人当たり1.8人と推定され、置換率2.1人を下回ったが、[[1850年]]に女性1人当たり4.2人という高水準の出生率を大幅に下回ったままである<ref>{{citation|和書|url=https://ourworldindata.org/grapher/children-born-per-woman?tab=chart&year=1849&country=IRL|title=Total Fertility Rate around the world over the last centuries|first=Max|last=Roser|date=2014|work=Our World in Data, Gapminder Foundation|year=|publisher=|isbn=}}</ref>。2018年のアイルランド人の[[人口ピラミッド|年齢の中央値]]は37.1歳だった<ref>{{citation|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ei.html|title=World Factbook EUROPE : IRELAND|work=[[The World Factbook]]|date=12 July 2018}} {{PD-notice}}</ref>。 === 民族 === {{Double image aside|right|Irelandpop.svg|250|Irishpopulation.png|250|人口ピラミッド、および20世紀における人口変化}}遺伝学的研究によると、最古の入植者は、最近の[[氷河期]]に続いて[[イベリア半島|イベリア]]から移住してきたと考えられている<ref>[http://www.prospectmagazine.co.uk/magazine/mythsofbritishancestry/ "Myths of British ancestry"] ''Prospect'' magazine</ref>。 [[中石器時代]]、[[新石器時代]]、[[青銅器時代]]の後、移民は[[ケルト人|ケルト]]語と文化を導入した。後者の2つの時代からの移民は、今でもほとんどのアイルランド人の遺伝的遺産を代表している<ref>''Origins of the British'', Stephen Oppenheimer, 2006</ref><ref>{{cite journal|last1=McEvoy|first1=B|last2=Richards|first2=M|last3=Forster|first3=P|last4=Bradley|first4=DG|date=October 2004|title=The Longue Durée of genetic ancestry: multiple genetic marker systems and Celtic origins on the Atlantic facade of Europe|journal=Am. J. Hum. Genet.|volume=75|issue=4|pages=693-702|doi=10.1086/424697|pmid=15309688|pmc=1182057}}</ref>。やがて[[ゲール人]]の伝統が拡大し、時を経て支配的な形となった。 現在のアイルランド人は、ゲール人、ノルド人、アングロノルマン人、フランス人、イギリス人の祖先を組み合わせたものであると言っても良い。 ==== 人種間 ==== 2016年国勢調査の時点で、非アイルランド人の人口は535,475人と記録されている。これは2011年国勢調査の54万4,357人から2%の減少となっている。非アイルランド国籍者数の上位5位は、それぞれ[[ポーランド]](122,515人)、[[イギリス]](103,113人)、[[リトアニア]](36,552人)、[[ルーマニア]](29,186人)、[[ラトビア]](19,933人)となっている。2011年と比較すると、イギリス国籍、ポーランド国籍、リトアニア国籍、ラトビア国籍は減少した。2016年のアイルランド以外の国籍の上位10位には、新たに[[ブラジル]](13,640人)、[[スペイン]](12,112人)、[[イタリア]](11,732人)、[[フランス]](11,661人)の4つの国籍が加わった<ref>{{Cite web|url=https://www.cso.ie/en/releasesandpublications/ep/p-cpnin/cpnin/introduction/|title=Census 2016. Non-Irish Nationalities Living in Ireland|website=中央統計局|access-date=13 October 2018}}</ref>。また、[[2018年]]の日本国籍者の総人口は2,596人である<ref name=":6" />。 {| class="infobox" style="text-align:center; width:97%; margin-right:10px; font-size:90%" ! colspan="8" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;" | 人口別最大の都市中心部(2016年国勢調査) |- ! rowspan="30" | [[ファイル:Calatrava-bridge dublin.JPG|150px]]<br /><small>[[ダブリン]]</small> <br />[[ファイル:View_over_Cork_from_St._Anne's_Church,_Cork_-_panoramio_(5).jpg|150x150ピクセル]]<br /><small>[[コーク (アイルランド)|コーク]]</small> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;" |<small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;" | 都市名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;" | 人口 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;" |<small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;" | 都市名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;" | 人口 ! rowspan="21" | [[ファイル:Limerick_-_Shannon_River.JPG|150x150ピクセル]]<br /><small>[[リムリック]]</small> <br />[[ファイル:Galway_(6254037166).jpg|150x150ピクセル]]<br /><small>[[ゴールウェイ]]</small><br /> |- | style="background:#f0f0f0" | 1 || align="left" |'''[[ダブリン]]'''|| 1,173,179<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EED4C2E4-43BA-428E-96FC-1C65CC0A4340|title=Settlement Dublin City And Suburbs|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=21 July 2017}}</ref> || 11 || align="left" |'''[[キルケニー]]'''|| 26,512 |- | style="background:#f0f0f0" | 2 || align="left" |'''[[コーク (アイルランド)|コーク]]'''|| 208,669<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=2640ADAE-4EBB-460C-BBD4-D666DEBB3C8A|title=Settlement Cork City And Suburbs|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=21 July 2017}}</ref>|| 12 || align="left" |'''[[エニス]]'''|| 25,276 |- | style="background:#f0f0f0" | 3 || align="left" |'''[[リムリック]]'''|| 94,192<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=EFED8136-729D-43F0-BF74-FEFE83B62328|title=Settlement Limerick City And Suburbs|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=21 July 2017}}</ref>|| 13 || align="left" |'''[[カーロウ]]'''|| 24,272 |- | style="background:#f0f0f0" | 4 || align="left" |'''[[ゴールウェイ]]'''|| 79,934<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=4DB393A8-D39C-4EB9-9320-4B85F38C2A0E|title=Settlement Galway City And Suburbs|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=21 July 2017}}</ref>|| 14 || align="left" |'''[[トラリー]]'''|| 23,691 |- | style="background:#f0f0f0" | 5 || align="left" |'''[[ウォーターフォード]]'''|| 53,504<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=C133497F-81D6-44BA-9A82-1499D92E5428|title=Settlement Waterford City And Suburbs|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=21 July 2017}}</ref>|| 15 || align="left" |'''ニューブリッジ'''|| 22,742 |- | style="background:#f0f0f0" | 6 || align="left" |'''[[ドロヘダ]]'''|| 40,956<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=3322F7F8-96A1-450C-9703-23C4EDADFD3A|title=Settlement Drogheda|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=29 July 2017}}</ref>|| 16 || align="left" |'''[[ポート・レーイシュ]]'''|| 22,050 |- | style="background:#f0f0f0" | 7 || align="left" | '''ソーズ''' | 39,248<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=2B32F09A-1EA9-40C7-8EB5-9709E33C2983|title=Settlement Swords|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=29 July 2017}}</ref>|| 17 || align="left" | '''バルブリガン''' || 21,722 |- | style="background:#f0f0f0" | 8 || align="left" |'''[[ダンドーク]]'''|| 39,004<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=91DBC922-801B-421B-9D74-C2381BC684EC|title=Settlement Dundalk|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=29 July 2017}}</ref>|| 18 || align="left" |'''ナース '''|| 21,393 |- | style="background:#f0f0f0" | 9 || align="left" |'''[[ブレイ]]'''|| 32,600<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=3AFC3DCF-1161-44B7-BDAE-C56872CF18A9|title=Settlement Bray|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=29 July 2017}}</ref>|| 19 || align="left" |'''[[アスローン]]'''|| 21,349 |- | style="background:#f0f0f0" | 10 || align="left" |'''[[ナヴァン]]'''|| 30,173<ref>{{cite web|url=http://census.cso.ie/sapmap2016/Results.aspx?Geog_Type=ST2016&Geog_Code=B92C48CA-4722-499A-9F93-29015C461C3F|title=Settlement Navan (An Uaimh)|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2016|accessdate=29 July 2017}}</ref>|| 20 || align="left" |'''[[マリンガー]]'''|| 20,928 |} {{Clear}} === 言語 === [[ファイル:Percentage stating they speak Irish daily outside the education system in the 2011 census.png|thumb|200px|教育機関外で日常的にアイルランド語を話す人の割合(2011年国勢調査)]] [[ファイル:Giving way to Irish in the Baile Ghib Gaeltacht - geograph.org.uk - 704757.jpg|サムネイル|[[アイルランド語]]で書かれた[[道路標識]](訳:ゆずれ)]] {{main|{{仮リンク|アイルランドの言語|en|Languages of Ireland}}|アイルランド語|アイルランド英語}} 憲法で第1[[公用語]]は[[アイルランド語]]、第2公用語は[[英語]]と規定されているが、一部を除くほとんどの地域では日常的には英語([[アイルランド英語]])が使われている。アイルランド固有の言語であるアイルランド語は、イギリスの植民地となった16世紀以降、約400年に渡る支配により英語にとって代わられ衰退した。その後、19世紀以降の独立運動の中でアイルランド語の復興が図られてきた。近年は政府による積極的なアイルランド語復興政策が実行されている。そのため、政府による文書や街中の標識などもアイルランド語と英語の二ヶ国語で表示され、[[2007年]]にはアイルランド語は[[欧州連合]]の[[公用語]]に追加され、登録された国の公用語も英語ではなくアイルランド語になった<ref name=":4">{{Cite web|title=electronic Irish Statute Book (eISB)|url=http://www.irishstatutebook.ie/eli/1970/si/164/made/en/print|website=www.irishstatutebook.ie|accessdate=2020-07-16|language=en|first=electronic Irish Statute|last=Book (eISB)}}</ref>。 {{See also|アイルランド憲法}} [[2006年]]の国勢調査では、国民の10%がアイルランド語を学校外においても日常的に使用し、15歳以上の39%が自らをアイルランド語話者であると分類している。日常的にアイルランド語が話されている数少ない地域である[[ゲールタハト|ゲールタハト地方]]においては、アイルランド語のコミュニティ保護のための強力な保護政策が取られている。アイルランド語復興政策の影響で、[[2011年]]には約94,000人がアイルランド語を日常的に用いており、130万人が学校外でアイルランド語を用いているという統計<ref>[http://www.cso.ie/en/media/csoie/census/documents/census2011pdr/Pdf%208%20Tables.pdf Census 2011 - This is Ireland 中央統計局]</ref> があり、ある程度アイルランド語が復権している<ref name=":4" />。テレビやラジオなどでもアイルランド語による放送が行われている。 移民の結果、アイルランドでは英語に次いで[[ポーランド語]]が最も広く話されており、アイルランド語は3番目に多く話されている<ref>{{Cite journal|date=2012-03-29|title=Irish is third most used language - Census|url=https://www.rte.ie/news/2012/0329/315449-divorce-rate-up-150-since-2002-census/|language=en}}</ref>。その他の中央ヨーロッパの言語([[チェコ語]]、[[ハンガリー語]]、[[スロバキア語]])やバルト三国の言語([[リトアニア語]]、[[ラトビア語]])も日常的に話されている。アイルランドで話されている他の言語には、[[アイリッシュ・トラヴェラー]]と呼ばれる集団が話す[[シェルタ語]]や、[[ドニゴール県|ドニゴール]]の{{仮リンク|アルスター・スコッツ|en|Ulster Scots}}が話す[[スコットランド語]]の方言などがある<ref>{{Cite web|title=Ulster-Scots Language|url=https://www.ulsterscotsagency.com/what-is-ulster-scots/language/|website=www.ulsterscotsagency.com|accessdate=2020-07-16}}</ref>。ほとんどの[[中等教育]]学校の生徒は、1つまたは 2つの外国語を学ぶことを選択する。中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートと高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートでは、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[スペイン語]]を選択することができ、リービング・サーティフィケートでは[[アラビア語]]、[[日本語]]、[[ロシア語]]も選択することができる。中等教育学校では、[[古代ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]、[[ラテン語]]を選択できる学校も存在する。リービング・サーティフィケートの生徒にはアイルランド語が必修であるが、学習上の問題や11歳以降の入国など、状況によっては免除される場合もある。また、アイルランド語のみで教育をする学校もあるほか、公務員試験でもアイルランド語の試験が課せられる<ref>{{Cite web|title=EXEMPTIONS FROM THE STUDY OF IRISH: GUIDELINES FOR PRIMARY SCHOOLS (ENGLISH- MEDIUM)|url=https://www.education.ie/en/Parents/Information/Irish-Exemption/exemptions-from-the-study-of-irish-guidelines-for-primary-schools.pdf|website=www.education.ie|accessdate=2020-07-16|publisher=}}</ref>。 === 婚姻 === 婚姻の際には婚姻後の氏として、自己の氏を称すること([[夫婦別姓]])、配偶者の氏を称すること(夫婦同姓)、結合氏を称すること、自己の氏をミドルネームとし配偶者の氏を称すること、からの選択が可能である<ref>[http://www.irishweddingsonline.com/IrishWeddingsOnline/WeddingGuide/1273 Changing your name], Irish Weddings Online.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|アイルランドの宗教|en|Religion in the Republic of Ireland}}}} {{bar box |title= アイルランドの宗教<ref name="REL">{{cite press release | last = Smyth | first = Declan|date = 12 October 2017 | title = Profile 8 - Irish Travellers Ethnicity and Religion | url = http://www.cso.ie/en/csolatestnews/pressreleases/2017pressreleases/pressstatementcensus2016resultsprofile8-irishtravellersethnicityandreligion/ | publisher = CSO.ie | agency = 中央統計局 | access-date = 5 January 2018}}</ref> |titlebar=#ddd |left1=宗教 |right1=割合 |float=right |bars= {{bar percent|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|DodgerBlue|78.3}} {{bar percent|[[無宗教]]|DarkOrchid|10.1}} {{bar percent|[[プロテスタント]]|SlateGray|4.2}} {{bar percent|[[イスラム教|ムスリム]]|LimeGreen|1.3}} {{bar percent|その他|Magenta|6.1}} }} アイルランドは国家として宗教に中立な立場を取っており、宗教の自由が憲法で定められている。キリスト教が優勢な宗教で、アイルランドは依然としてカトリックが優勢な国だが、国勢調査でカトリックである人口の割合は、2011年の国勢調査では84.2%だったのが、直近の2016年国勢調査では78.3%にまで減少している。2016年国勢調査のその他の結果では、プロテスタントが4.2%、正教が1.3%、イスラム教が1.3%、無宗教が9.8%となっている<ref name="pop2016v2">{{cite web|url=https://static.rasset.ie/documents/news/census-2016-summary-results-part-1-full.pdf|title=Census 2016 Summary Results - Part 1|date=6 April 2017|accessdate=2020-07-17|publisher=}}</ref>。[[ジョージタウン大学]]の調査によると、[[2000年]]以前は欧米諸国の中でも特に[[ミサ]]の定期的な出席率が高い国だったという<ref>Weekly Mass Attendance of Catholics in Nations with Large Catholic Populations, 1980-2000 - [[World Values Survey]] (WVS)</ref>。1日の出席率が13%であったのに対し、1週間の出席率は[[1990年]]の81%から[[2006年]]には48%に減少しているが、減少は安定化していると報告されている<ref>[http://www.catholicculture.org/news/features/index.cfm?recnum=44521 Irish Mass attendance below 50%] ''Catholic World News'' 1 June 2006</ref>。2011年には、ダブリンの毎週のミサの出席率はわずか18%と報告され、若い世代ではさらに低くなっている<ref>{{cite news|url=http://www.irishtimes.com/news/fewer-than-one-in-five-attend-sunday-mass-in-dublin-1.585731|title=Fewer than one in five attend Sunday Mass in Dublin'|publisher=Irishtimes.com|date=30 May 2011|accessdate=30 June 2011|first=Jamie|last=Smyth}}</ref>。 [[ファイル:St_Patrick's_Cathedral_Exterior,_Dublin,_Ireland_-_Diliff.jpg|サムネイル|[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]](アイルランド国教会の国立大聖堂)]] [[アイルランド聖公会]]は、人口の2.7%を占める第2位のキリスト教宗派である。20世紀を通して減少したが、他の小規模なキリスト教宗派と同様に、[[21世紀]]初頭には増加した。プロテスタントの主要な宗派は、[[長老派教会]]と[[メソジスト教会]]である。移民は[[ヒンドゥー教徒]]と[[イスラム教徒]]の人口増加に貢献しており、[[1996年]]には[[ダブリン県|ダブリン]]のクロンスキーに[[モスク]]が出来た。割合で見ると、正統派キリスト教とイスラム教が最も早く成長した宗教で、それぞれ100%と70%の増加を記録している<ref>{{cite book|title=Final Principal Demographic Results 2006|url=http://www.cso.ie/census/documents/Final%20Principal%20Demographic%20Results%202006.pdf|accessdate=20 June 2010|year=2007|publisher=中央統計局|isbn=978-0-7557-7169-1|pages=31 (Table Q)|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090325005303/http://www.cso.ie/census/documents/Final%20Principal%20Demographic%20Results%202006.pdf|archivedate=25 March 2009}}</ref>。 アイルランドの[[守護聖人]]は、[[聖パトリック]]、[[聖ブリギッド|聖ブリギット]]、[[聖コルンバ]]だが、一般的に守護聖人として認識されているのは聖パトリックだけである。[[聖パトリックの祝日]]はアイルランドの[[国慶節]]として[[3月17日]]にアイルランド国内外でも祝われ、パレードなどが行われている。 他のカトリック系欧州諸国と同様に、アイルランドも20世紀後半には合法的な世俗化の時代を迎えた。[[1972年]]、特定の宗教団体を名指ししていた憲法の条文は、修正第5条の国民投票で削除された。「国家は、公共の礼拝の敬礼が全能の神によるものであることを認める。国家は、神の御名を敬愛し、宗教を尊重し、尊重しなければならない」と定められている憲法第44条は残っている。また、同条は信教の自由を定め、いかなる宗教の寄進も禁止し、宗教的差別を禁止し、宗教学校と非宗教学校を非偏見的に扱うことを国家に要求している。 [[宗教学]]は2001年に中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートの選択科目として導入された。多くの学校は宗教団体によって運営されているが、若い世代の間では世俗主義的な傾向が生じている<ref>{{cite news|last=Daniszewski|first=John|title=Catholicism Losing Ground in Ireland|url=https://latimes.com/news/la-fg-ireland17apr17-story.html#page=1|newspaper=LA Times|accessdate=29 August 2011|date=17 April 2005}} {{cite news|last=Lawler|first=Phil|title=Ireland threatened by secularism, Pope tells new envoy|url=http://www.catholicculture.org/news/features/index.cfm?recnum=53564|accessdate=29 August 2011|newspaper=Catholic World News|date=17 September 2007}} {{cite web|title=Irish poll shows parents no longer want to force religion on to children|url=http://www.secularism.org.uk/irishpollshowsparentsnolongerwan.html|publisher=National Secular Society|accessdate=29 August 2011|location=United Kingdom|date=13 April 2007}}</ref>。 === 教育 === [[ファイル:Long_Room_Interior,_Trinity_College_Dublin,_Ireland_-_Diliff.jpg|サムネイル|[[1592年]]設立の[[ダブリン大学トリニティ・カレッジ]]の[[トリニティ・カレッジ図書館|ロングルーム]]]] [[ファイル:National University of Galway, Ireland.jpg|サムネイル|[[ゴールウェイ大学]]]] {{Main|アイルランドの教育|アイルランドの高等教育}} アイルランドには[[初等教育]]、[[中等教育]]、[[高等教育]]の3つのレベルの教育がある。教育制度の大部分は、教育・技能大臣を通じた政府の指導の下にある。認可された初等・中等教育機関は、関係当局が定めたカリキュラムを遵守しなければならない。6歳から15歳までは義務教育であり、18歳までは中等教育の最初の3年間を修了しなければならず、その中には中学卒業国家統一試験のジュニア・サーティフィケートも含まれている<ref>Education (Welfare) Act, 2000 [http://193.178.1.79/ZZA22Y2000S17.html (Section 17)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070930015328/http://193.178.1.79/ZZA22Y2000S17.html|date=30 September 2007}}</ref>。 アイルランドには約3,300の初等教育機関(小学校)がある<ref name="DES">{{cite web|title=Minister Hanafin announces intention to pilot new additional model of Primary School Patronage|date=17 February 2007|accessdate=7 September 2010|url=http://www.education.ie/robots/view.jsp?pcategory=10861&language=EN&ecategory=41296&link=link001&doc=34229|publisher=Department of Education and Skills}}</ref>。大多数(92%)は[[カトリック教会]]の保護下にある。宗教団体が運営する学校であっても、公的な資金と承認を受けている学校は、宗教やその欠如に基づいて生徒を差別することはできない。特定の宗教の生徒は、学校の定員に達している場合には、学校の理念を共有していない生徒よりも先に受け入れられる可能性がある。 高校卒業国家統一試験のリービング・サーティフィケートは、2年間の学習の後に受験される中等教育機関の最終試験である。高等教育を受けようとする者は通常この試験を受験するが、一般的には[[第3期の教育]]への入学は、受験する6つの科目の中で最も成績の良い科目の成績に応じて、競争制で行われる<ref>{{cite web|url=http://www.educationireland.ie/irish-education/secondary-education/leaving-certificate.html|title=Education Ireland - Leaving Certificate|publisher=Educationireland.ie|accessdate=12 November 2010|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101029070824/http://educationireland.ie/irish-education/secondary-education/leaving-certificate.html|archivedate=29 October 2010}}</ref>。第3期の教育は、少なくとも38の高等教育機関によって授与される。これには、総合大学10校に加え、高等教育・研修賞審議会が指定するその他の高等教育機関が含まれる。 [[経済協力開発機構]](OECD)が調整している留学生評価プログラムでは、[[2012年]]の評価で、アイルランドはOECD加盟国の中で読解力が4番目に高く、理科が9番目に高く、数学が13番目に高いと評価されている<ref>{{cite news|title=Irish teens perform significantly above average in maths, reading and science - OECD|work=Education|publisher=[[RTÉ News]]|date=3 December 2013|url=http://www.rte.ie/news/2013/1203/490592-oecd|accessdate=27 August 2015}}</ref>。2012年には、アイルランドの15歳の学生の読み書き能力は、[[欧州連合]]で2番目に高い水準にあった<ref>{{cite web|url=http://www.cso.ie/en/releasesandpublications/ep/p-mip/measuringirelandsprogress2013/education/education-education/#d.en.75179|title=CSO - Measuring Ireland's Progress 2013|publisher=[[中央統計局 (アイルランド)|中央統計局]]|year=2014|accessdate=27 August 2015}}</ref>。また、アイルランドの一人当たりの大学数は世界上位の500校中0.747校で、世界第8位にランクされている<ref>{{cite web|url=http://www.nationmaster.com/graph/edu_uni_top_500_percap-universities-top-500-per-capita|title=World's top 500 Universities per capita|publisher=Nationmaster.com|accessdate=30 June 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110623192352/http://www.nationmaster.com/graph/edu_uni_top_500_percap-universities-top-500-per-capita|archivedate=23 June 2011}}</ref>。アイルランドでは、初等教育、中等教育、高等教育(大学等)はすべてのEU市民に無料で提供されている<ref>{{cite web|title=Third-level student fees|url=http://www.citizensinformation.ie/en/education/third_level_education/fees_and_supports_for_third_level_education/fees.html|work=Free fees|publisher=Citizens Information Board|accessdate=25 July 2010}}</ref>。学生サービスや試験の費用はかかる。 また、2012年の時点でアイルランドの人口の37%が大学を含む高等教育の[[学位]]を持っており、世界で高い割合を誇っている<ref>Michael B. Sauter and Alexander E. M. Hess, [http://247wallst.com/special-report/2012/09/21/the-most-educated-countries-in-the-world/ The Most Educated Countries in the World], 24/7 Wall St., 21 September 2012</ref><ref>Samantha Grossman, [http://newsfeed.time.com/2012/09/27/and-the-worlds-most-educated-country-is/ And the World's Most Educated Country Is...], ''Time'', 27 September 2012</ref>。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|アイルランドの保健|en|Health in the Republic of Ireland}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== [[ファイル:Mater Misericordiae University Hospital, Dublin.JPG|サムネイル|マター・ミゼリコルディア大学病院]] {{Main|アイルランドの医療}} アイルランドの医療は、公的医療機関と民間医療機関の両方から提供されている<ref>{{cite web|url=http://www.citizensinformation.ie/en/moving_country/moving_to_ireland/introduction_to_the_irish_system/health_care_in_ireland.html|title=Health care|publisher=Irish Citizens Information Board|accessdate=29 December 2014}}</ref>。一般税収を原資とした[[ユニバーサルヘルスケア]]が達成されており、公的セクターが[[プライマリケア]]診療所を運営している<ref name="OECDhg">{{Cite|publisher=OECD|date=2015-11|title=Health at a Glance 2015|doi=10.1787/19991312|isbn=9789264247680|at=Chapt.7.1}}</ref>。利用には自己負担が発生する。民間医療保険市場も存在し、加入率は44.6%であった(2013年)<ref name="OECDhg" />。保健大臣が保健サービス全般の政策を決定する責任を負っている。アイルランドの居住者は、保健サービス執行部が管理し、一般の税金で賄われている公的医療制度を利用して医療を受ける権利がある。特定の医療を受けるためには、所得、年齢、病気、障害の程度によっては、助成金を支払わなければならない場合がある。出産サービスは無料で、生後6ヶ月までの子どもの手当ても無料である。救急医療は、病院の救急部に来院した患者に提供されるが、緊急ではない状況で救急科を受診した場合、[[総合診療医]]からの紹介ではない場合は100[[ユーロ]]の料金が発生することがある。状況によっては、この料金が支払われない場合や免除される場合もある<ref>{{citation|title=Charges for hospital services|publisher=Citizens Information board|date=26 July 2011}}</ref>。 欧州健康保険証を持っている者は誰でも、医療サービス執行機関で治療を無料で受けることができる。外来患者も無料である。しかし、中央値以上の所得を持つ患者の大多数は、補助的な入院費を支払わなければならない。 [[2016年]]のアイルランドの[[平均寿命]]は81.8歳([[経済協力開発機構|OECD]])で、男性は79.9歳、女性は83.6歳となっている<ref>{{cite web|url=http://www.oecdbetterlifeindex.org/countries/Ireland/|title=OECD Better Life Index|website=www.oecdbetterlifeindex.org|accessdate=30 July 2017}}</ref>。アイルランドの[[出生率]]は[[欧州連合]]で最も高く(人口1,000人あたり16.8人、EU平均は10.7人)、[[乳幼児死亡率]]は非常に低く(出生数1,000人あたり3.5人)、またアイルランドの医療制度は、[[2012年]]には欧州34カ国中13位にランクされた。民間医療調査機関が作成した「欧州健康消費者指数」によると、アイルランドの医療制度は、2012年には欧州34カ国中13位にランクされている<ref>{{cite news|url=http://www.irishtimes.com/news/ireland-has-eu-s-highest-birth-rate-1.861676|title=Ireland has EU's highest birth rate|publisher=Irishtimes.com|date=7 July 2010|accessdate=30 June 2011}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.healthpowerhouse.com/files/Report-EHCI-2012.pdf|title=Euro Health Consumer Index 2012|publisher=民間医療調査機関|date=15 May 2012|accessdate=23 November 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20170525195728/http://www.healthpowerhouse.com/files/Report-EHCI-2012.pdf|archive-date=25 May 2017|url-status=dead}}</ref>。同じ報告書では、アイルランドの医療制度は、健康面では8番目に優れているが、ヨーロッパでは21番目にアクセスしやすい制度にすぎないと評価されている。 == 治安 == 2019年の年間[[犯罪]]発生総件数は、225,103件で前年比5%の増加となっている。2018年と比べ、[[強盗]]や[[侵入]][[窃盗]]、[[スリ]]や[[ひったくり]]などの財産犯は総じて減少傾向を示しているものの、[[車上狙い]]、自転車盗、[[性犯罪|強制性交]]、[[麻薬|薬物]]・[[銃器]]犯罪、[[詐欺]]・[[横領]]等の犯罪は増加傾向を示している。 首都ダブリン市内及び近郊では、[[ギャング]]団同士の[[抗争]]とみられる[[銃撃]]・[[殺人]]事件が発生しており、警察は武装部隊による警戒活動を強化している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_151.html|title=アイルランド 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-12-05|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 警察 === [[ファイル:Garda car.jpg|thumb|[[アイルランドの警察|警察車両]]]] [[1922年]]に創設されたガルダ・シーハーナ({{Lang|ga|Garda Síochána}})と呼ばれている[[アイルランド警察]]は、アイルランドの国家[[警察]]機関である。通称は、単数形で「{{lang|ga|Garda}}(ガルダ)」、複数形で「{{lang|ga|Gardaí}}(ガルディー」)と呼ぶ部隊の長はアイルランド政府が任命するガルダ委員会が務めている。本部は[[ダブリン]]の[[フェニックス・パーク]](大統領邸もある)にある<ref>{{Cite web|title=Welcome {{!}} President.ie {{!}} President of Ireland|url=https://president.ie/index.php/en|website=president.ie|accessdate=2020-07-15|language=en|first=Office of the President of|last=Ireland}}</ref>。 === 人権 === {{Main|{{仮リンク|アイルランドにおける人権|en|Human rights in Ireland}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|アイルランドのメディア|en|Mass media in the Republic of Ireland}}}} [[アイルランド放送協会]] (RTÉ) は、アイルランドの公共放送局である。RTÉは、RTÉ OneとRTÉ2の2つの国営テレビ局を受信料および広告料で放送している。他の民営テレビ局は、ヴァージン・メディア・ワン、ヴァージン・メディア・ツー、ヴァージン・メディアー・スリー、[[TG4]]で、後者はアイルランド語話者向けの公共放送局である。これらのチャンネルはすべて、無料で視聴できる地上デジタル放送のSaorviewで視聴することができる<ref>{{cite web|url=http://www.saorview.ie/what-is-saorview/|title=What is Saorview?|publisher=Saorview official website|accessdate=30 August 2011}}</ref>。その他のチャンネルとしては、RTÉ News Now、RTÉjr、RTÉ One +1などがある。また、[[ヴァージン・メディア]]や[[Sky (メディア企業)|Sky]]などの有料放送局も放送されている。 全国には多くの地方局やローカルラジオ局がある。ある調査によると、成人の85%が、全国放送局、地方放送局、ローカル放送局の混合局を日常的に聞いていることが明らかになっている<ref>{{cite web|url=http://www.bai.ie/wordpress/wp-content/uploads/2011.07.28-JNLR-Results-July-2010-Jun2011.pdf|title=Listenership 2011/1 Summary Results|publisher=JNLR/Ipsos MRB|date=28 July 2011|accessdate=30 August 2011}}</ref>。RTÉラジオは、ラジオ1、2fm、Lyric fm、RnaGの4つの全国放送局を放送している。 === 活字媒体 === アイルランドには伝統的に競争力のある活字メディアがあり、日刊の全国紙と週刊の地方紙、さらには日曜版の全国紙に分かれている。イギリスの出版物の強さはアイルランドの印刷メディアの特徴であり、イギリスが発行している新聞や雑誌を幅広く取り揃えている<ref name="Media Landscape" />。 === インターネット === [[ユーロスタット]]の報告によると、[[欧州連合]]平均の79%に対し、[[2013年]]には82%のアイルランドの世帯が[[インターネット]]に接続していたが、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]に接続していたのは67%にとどまっていた<ref>[http://www.irishtimes.com/business/sectors/technology/Ireland-still-lags-behind-eu-counterparts-in-access-to-broadband-1.1631826 Ireland still lags behind EU counterparts in access to broadband] The Irish Times, 18 December 2013 (accessed on 19 December 2013) {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131229050021/http://www.irishtimes.com/business/sectors/technology/Ireland-still-lags-behind-eu-counterparts-in-access-to-broadband-1.1631826|date=29 December 2013}}</ref>。 {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:KellsFol292rIncipJohn.jpg|thumb|upright|『[[ケルズの書]]』の[[ヨハネによる福音書]]のページ]] {{main|{{仮リンク|アイルランドの文化|en|Culture of Ireland}}}} 古くは[[ケルト人]]による文化が栄えローマ時代の書物などにその一端が記されている。6世紀以後には『[[ケルズの書]]』に代表されるような[[カトリック教会|カトリック]]信仰に基づく[[キリスト教]]文化が広まった。 === 食文化 === [[ファイル:A_pint_of_Guinness.jpg|right|サムネイル|1[[パイント]]の[[ギネス]]]] {{Main|アイルランド料理}} アイルランド料理は、伝統的に[[食肉|肉]]や[[乳製品]]をベースに、[[野菜]]や[[魚介類]]を加えたものだった。また、[[牧畜業]]が盛んなため、乳製品や肉、その加工食品が多く食されている。[[ジャガイモ]]は多くの食事に添えられている。 人気のあるアイルランド料理の例としては、[[ボクスティ]]、[[コルカノン]]、[[コードル]]、[[アイリッシュシチュー]]、[[ベーコン・アンド・キャベツ]]などがある。アイルランドの[[フル・ブレックファスト]]は、一般的にラッシャー(薄切り[[ベーコン]])、[[卵]]、[[ソーセージ]]、{{仮リンク|ホワイトプディング|en|White pudding}}、[[ブラックプディング]]、{{仮リンク|フライド・グリーン・トマト (料理)|label=フライドトマト|en|Fried green tomatoes}}などの揚げ物やグリル料理で構成されている。近年の経済発展と共に海外の食文化も取り入れられ、伝統料理と組み合わせた多くの創作料理で外食産業を賑わせている。 島国にもかかわらず魚の料理は少ないが、西部に行くと魚介類の料理が増え、新鮮な野菜や魚、[[牡蠣]]、[[ムール貝]]などの貝類を使った料理がある。特に貝類は、全国の海岸線から良質な貝類が手に入ることから人気が高まっている。最も人気のある魚は[[サーモン]]と[[タラ]]である。最近では全国各地で作られるようになった手作り[[チーズ]]の種類も豊富になってきている。伝統的なパンには、[[ソーダブレッド]]がある。[[バームブラック]]は、[[サルタナ]]と[[レーズン]]を加えた[[酵母]][[パン]]で、伝統的に[[ハロウィン]]に食べられている<ref>{{cite news|last1=McElwain|first1=Aoife|title=Now we know ... What's so spooky about barmbrack?|url=https://www.irishtimes.com/life-and-style/food-and-drink/now-we-know-what-s-so-spooky-about-barmbrack-1.3267009|accessdate=15 September 2018|newspaper=The Irish Times|date=28 October 2017}}</ref>。 アイルランド人の間で日常的に飲まれている飲み物には、[[紅茶]]や[[コーヒー]]がある。[[アルコール飲料]]には、ポティーンや[[アーサー・ギネス]]の醸造所であるダブリンのセント・ジェームズ・ゲートで生まれた辛口[[スタウト]]の[[ギネス]]などがある。[[アイリッシュ・ウイスキー]]も人気があり、シングル・モルト、シングル・グレーン、ブレンデッド ウイスキーなど、さまざまな形で提供されている<ref>{{cite web|url=http://www.irelandlogue.com/food-drink|title=Food & Drink in Ireland|accessdate=19 January 2011}}</ref>。 === 文学 === [[ファイル:Jonathan Swift by Charles Jervas detail.jpg|right|代替文=|サムネイル|181x181ピクセル|[[ジョナサン・スウィフト]]]] {{main|アイルランド文学}} 現在の文字が導入される以前は、[[ケルト神話]]として残る神話・英雄伝説を扱う[[口承文学]]が栄えた。その後のアイルランドの文学には[[アイルランド語]]で書かれたものと、英語で書かれた[[アングロ・アイリッシュ文学]]がある。イギリスの植民地時代、連合王国時代にはアイルランド出身の小説家により多くの優れた小説が英語で執筆された。この中には、1726年の小説『[[ガリヴァー旅行記]]』の[[ジョナサン・スウィフト]]、[[1890年]]の小説『[[ドリアン・グレイの肖像]]』、1891年の[[戯曲]]『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』([[仏語]])の[[オスカー・ワイルド]]などがいる。他にも18世紀に重要な作家で、最も注目された作品には、『[[トリストラム・シャンディ]]』の[[ローレンス・スターン]]や、[[オリヴァー・ゴールドスミス]]の『ウェイクフィールドの牧師』などがある。[[19世紀]]には、マリア・エッジワース、ジョン・バニム、ジェラルド・グリフィン、チャールズ・キッカム、ウィリアム・カールトン、[[ジョージ・ムーア (小説家)|ジョージ・ムーア]]、サマヴィル&ロスなど、多くのアイルランドの小説家が誕生した。[[ブラム・ストーカー]]は、1897年の小説『[[吸血鬼ドラキュラ]]』の作者として最もよく知られている。 [[ジェイムズ・ジョイス]]([[1882年]] - [[1941年]])は、[[ダブリン]]を舞台にした[[オデュッセイア]]の解釈である最も有名な[[1922年]]の作品の『[[ユリシーズ]]』は、20世紀の欧米文学に大きな影響を与えた。 [[ファイル:Yeats_Boughton.jpg|左|サムネイル|[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]|180x180px]] 20世紀にはパトリシア・リンチが児童文学作家として活躍し、21世紀初頭には[[オーエン・コルファー]]の作品がこのジャンルで[[ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト|ニューヨーク・タイムズのベストセラー]]になった<ref>{{cite news|url=https://www.irishtimes.com/culture/books/eoin-colfer-signs-artemis-fowl-spin-off-series-deal-1.3457107|newspaper=Irish Times|title=Eoin Colfer signs Artemis Fowl spin-off series deal|date=11 April 2018|accessdate=5 September 2018|quote=Colfer is The New York Times best-selling author of eight books in the Artemis Fowl series, with sales in excess of 25&nbsp;million copies}}</ref>。多くのアイルランド人作家が好む短編小説のジャンルでは、[[フランク・オコナー]]、[[ウィリアム・トレヴァー]]などがいた。アイルランドの詩人には、パトリック・カヴァナー、トーマス・マッカーシー、ダーモット・ボルジャー、[[ノーベル文学賞]]受賞者の[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、[[シェイマス・ヒーニー]]([[北アイルランド]]生まれ、ダブリン在住)などがいる。 アイルランド演劇の歴史は[[17世紀]]初頭のダブリンでのイギリス統治の拡大に始まり、それ以来、アイルランドはイギリス演劇に大きく貢献してきた。初期の歴史では、アイルランドの演劇は政治的な目的のために上演される傾向があったが、多くの劇場が開場し、より多様な娯楽が上演されるようになった。ダブリンに本拠地を置く劇場の多くは[[ロンドン]]の劇場とつながりを持ち、イギリスの作品がアイルランドの舞台に登場することもしばしばあった。しかし、ほとんどのアイルランド人劇作家は、自分たちの地位を確立するために海外に出ていった。[[18世紀]]には、[[オリヴァー・ゴールドスミス]]と[[リチャード・ブリンズリー・シェリダン]]が、当時ロンドンの舞台で最も成功した劇作家の一人だった。[[20世紀]]に入ると、アイルランド演劇の上演や作家、演出家、パフォーマーの育成を目的とした劇団が設立され、多くのアイルランド人劇作家がイギリスや[[アメリカ合衆国]]ではなく、アイルランドで学び、名声を確立することができるようになった。[[オスカー・ワイルド]]、ノーベル文学賞受賞者の[[ジョージ・バーナード・ショー]](1925年)、[[サミュエル・ベケット]](1969年)を中心とした高い評価を得ている作家たちの伝統を受け、[[ショーン・オケーシー]]などの劇作家が人気を博している<ref>{{cite book|last=Houston|first=Eugenie|title=Working and Living in Ireland|publisher=Working and Living Publications|year=2001|isbn=0-9536896-8-9|url-access=registration|url=https://archive.org/details/workinglivingini00euge}}</ref>。その他、20世紀のアイルランドの劇作家には[[フランク・マクギネス]]などがいる。 アイルランド出身の[[ノーベル文学賞]]の受賞者として、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェーツ]](1923年)、[[ジョージ・バーナード・ショー]](1925年)、[[サミュエル・ベケット]](1969年)、詩人の[[シェイマス・ヒーニー]](1995年)がいる。 === 音楽 === [[ファイル:U2_on_Joshua_Tree_Tour_2017_Brussels_8-1-17.jpg|right|サムネイル|[[ダブリン]]を拠点とする[[ロックバンド]]の[[U2]]]] [[ファイル:RTÉ Concert Orchestra NCH 2.jpg|サムネイル|RTÉコンサート]] {{Main|アイルランド音楽}} アイルランドの伝統音楽はダンスの舞曲、無伴奏の[[叙事詩歌]]や抒情詩歌、移民の歌、[[反戦歌]]などがある。 近年ではポピュラー音楽の分野において多くのアーティストが世界的な成功を収めている。また、多くの[[イギリス]]のロックバンドや、[[ハリウッド]]の戦前の監督や俳優の多くを{{仮リンク|アイリッシュ系移民|en|Irish diaspora}}が占めていた。近年のポピュラー音楽のアーティストの中では[[ヴァン・モリソン]]、[[ロリー・ギャラガー]]、[[ゲイリー・ムーア]]、[[シン・リジィ]]及び[[フィル・ライノット]]、[[メアリー・ブラック]]、[[シネイド・オコナー]]、[[U2]]、[[クランベリーズ]]、[[マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン]]、[[エンヤ]]、[[ウエストライフ]]、[[ケルティック・ウーマン]]、[[ボーイゾーン]]、[[ザ・コアーズ]]などが世界的に有名である。[[ロックバンド]]の[[U2]]は、[[1976年]]の結成以来、全世界で1億7000万枚のアルバムを販売している<ref name="170sales">{{cite news|url=http://www.cbsnews.com/news/u2-what-theyre-still-looking-for/3/|title=U2: What they're still looking for|work=[[CBS News]]|first=Anthony|last=Mason|date=24 May 2015|accessdate=25 May 2015}}</ref>。また、[[ノーベル平和賞]]候補者にも選ばれた元[[ブームタウン・ラッツ]]の[[ボブ・ゲルドフ]]もアイルランド出身である。 [[アイルランド放送協会]]のRTÉパフォーミング・グループのような[[クラシック音楽]]の[[アンサンブル]]も各地に存在し、3つのオペラ組織がある<ref>{{cite web|url=http://www.cmc.ie/links/index.html|title=Contemporary Music Ireland|publisher=Contemporary Music Centre - Links|accessdate=9 July 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090224073202/http://www.cmc.ie/links/index.html|archivedate=24 February 2009|df=}}</ref>。オペラ・アイルランドはダブリンで[[オペラ]]を制作しており、オペラ・シアター・カンパニーは室内楽形式のオペラを国内各地で上演している。毎年10月から11月にかけて[[ウェックスフォード・オペラ・フェスティバル]]も開催されている<ref>{{Cite web|title=About the Festival|url=https://www.wexfordopera.com/about-us/about-the-festival/|website=Wexford Festival Opera 2020|accessdate=2020-07-17|language=en}}</ref>。 アイルランドは[[1965年]]から[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]に参加している<ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/ten/2001/0404/mooreb.html|title=Showband legend Butch Moore dies|publisher=[[Raidió Teilifís Éireann|RTÉ]]|date=4 April 2001|accessdate=9 February 2012|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120811173736/http://www.rte.ie/ten/2001/0404/mooreb.html|archivedate=11 August 2012}}</ref>。初優勝は[[1970年]]、『{{En|All Kinds of Everything}}』でダナ・ローズマリー・スカロンが優勝した<ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/tv/thedailyshow/2011/0307/dana107.html|title=Dana|publisher=[[アイルランド放送協会]]|work=The Daily Show: Celebrity Guests|date=11 March 2011|accessdate=9 February 2012}}</ref>。その後も[[アイルランドのユーロビジョン・ソング・コンテスト|6回]]の優勝を果たしており、競合国の中では最多の優勝回数を記録している<ref>{{cite web|url=http://www.eurovisioncovers.co.uk/stats.htm|title=Eurovision Song Contest Statistics|publisher=eurovisioncovers.co.uk|year=2011|accessdate=9 February 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/tv/programmes/a_little_bit_eurovision.html|title=A Little Bit Eurovision|publisher=[[アイルランド放送協会]]|date=6 July 2011|accessdate=9 February 2012}}</ref>。[[リバーダンス]]は[[1994年]]のコンテスト中に幕間のパフォーマンスとして生まれた現象である<ref>{{cite web|url=http://www.rte.ie/radio1/stephensday/1030324.html|title=On The Road with Riverdance|publisher=[[アイルランド放送協会]]|date=1 December 2004|accessdate=9 February 2012|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121124221048/http://www.rte.ie/radio1/stephensday/1030324.html|archivedate=24 November 2012}}</ref>。 伝統的な[[アイリッシュ・ダンス]]は、大きく分けて[[社交ダンス]]とパフォーマンス・ダンスに分けられる。さらに社交ダンスは、ケーリーと[[カントリー・ダンス]]に分けられる。アイルランドのカントリー・ダンスは、正方形に4組のカップルが並んで踊る4角形のダンスで、ケーリーは2人から16人までの様々なフォーメーションで踊るダンスである。また、この2つの形式の間には、多くの様式的な違いがある。アイルランドの社交ダンスは生きた伝統であり、特定のダンスのバリエーションは国中で見られる。場所によっては、ダンスを意図的に修正したり、新しいダンスに振り付けを加えたりすることもある。パフォーマンス・ダンスは伝統的にステップ・ダンスと呼ばれている。また、[[アイリッシュ・ダンス]]を現代風にアレンジをした「[[リバーダンス]]」の公演の世界的大成功によって、アイルランド文化への再認識も進み、現在では[[ケルト音楽]]という懐古趣味的な[[ポピュラー音楽]]が1つのジャンルとして人気を博すようになった。 === 美術 === 渦巻・組紐・動物文様などが組み合わされた[[ケルト美術]]はキリスト教と融合し『[[ケルズの書]]』、『[[ダロウの書]]』などの装飾写本を生み出した。また、[[ケルト十字|ケルティック・クロス]]などのキリスト教装飾もある。 === 演劇 === 演劇は[[アベイ座]]を中心とする文芸復興運動で、現代のアイルランド人のアイデンティティ形成に大きな役割を果たした。 === 建築 === [[ファイル:Monasterboice_North_Church_and_West_Cross_West_Face_2013_09_27.jpg|左|サムネイル|[[ラウス県]]のモナスターボイスの遺跡は、初期のキリスト教の入植地のもの]] {{main|{{仮リンク|アイルランドの建築|en|Architecture of Ireland}}}} アイルランドには、[[ブルー・ナ・ボーニャ]]、プルナブロン・ドルメン、キャッスルトレンジ・ストーン、トゥロエ・ストーン、ドロンベッグ・ストーン・サークルなどの[[新石器時代]]の建築物が豊富に残っており、様々な状態で保存されている<ref>{{cite web|url=http://www.megalithomania.com/|publisher=Megalithomania|title=The Megalithic Monuments of Ireland|accessdate=19 November 2011}}</ref><ref>{{cite web|url=http://goireland.about.com/od/historyculture/qt/prehistoric.htm|publisher=About.com|title=The Prehistoric Monuments of Ireland|accessdate=19 October 2009}}</ref>。ローマ人がアイルランドを征服しなかったため、[[古代ギリシャ・ローマ世界|グレコ・ローマ時代]]の建築物は非常に稀である。その代わりに、[[鉄器時代]]の建築が長く続いていた<ref>{{cite web|url=http://www.worldtimelines.org.uk/world/british_isles/ireland/AD43-410|publisher=WorldTimelines.org.uk|title=AD 43-410 Roman Iron Age|accessdate=19 October 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101013012557/http://www.worldtimelines.org.uk/world/british_isles/ireland/AD43-410|archivedate=13 October 2010|df=}}</ref>。アイルランドの円形の塔は、[[中世前期]]の時代に生まれた。 キリスト教では、クロンマクノイズ、[[シュケリッグ・ヴィヒル]]、スカッタリー島などのシンプルな修道院が導入された。これらのダブル・モナステリーとエジプトの[[コプト教徒]]の修道院の間には、様式的な類似性が指摘されている<ref>{{harvnb|Meinardus|2002|p=130}}.</ref>。ゲール人の王や貴族らは、リングフォートや人工要塞島を占拠していた<ref name="vikperiod">{{cite web|url=http://www.worldtimelines.org.uk/world/british_isles/ireland/AD410-1066|publisher=WorldTimelines.org.uk|title=AD 410-1066 Early medieval|accessdate=19 October 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101012042003/http://www.worldtimelines.org.uk/world/british_isles/ireland/AD410-1066|archivedate=12 October 2010|df=}}</ref>。[[12世紀]]の教会改革は、[[シトー会]]を経由して大陸の影響を刺激し、[[ロマネスク様式]]のメリフォント、ボイル、ティンテルンの修道院があった<ref>{{harvnb|Moody|2005|p=735}}.</ref>。ゲール人の集落は、ケルズのような修道院の前身の町に限定されていたが、現在の通りのパターンは、元々の円形の集落の輪郭をある程度保存している<ref>{{cite web|url=http://udprism01.ucd.ie/TalisPrism/browseResults.do?&expandedWorkID=0.12&browse_action=9057&rootRSetId=12c1e70947c00000&browse_RootRSetId=12c1e70947c00000&displayRowPath=0&pageSize=10&displaySearchAsText=false&openRowPathSet=0:1|title=Altman 2007 Unpublished thesis|accessdate=5 November 2010|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110510022752/http://udprism01.ucd.ie/TalisPrism/browseResults.do?&expandedWorkID=0.12&browse_action=9057&rootRSetId=12c1e70947c00000&browse_RootRSetId=12c1e70947c00000&displayRowPath=0&pageSize=10&displaySearchAsText=false&openRowPathSet=0%3A1|archivedate=10 May 2011|df=}}</ref>。大規模な都市部の集落が形成されたのは、ヴァイキングの侵略の時代になってからである<ref name="vikperiod" />。主要なヒベルノ=ノース・ロングフォートは海岸沿いにあったが、その名を冠した[[ロングフォード]]のような内陸の河岸集落もあった。 [[ファイル:CustomHouseDublin.JPG|サムネイル|18世紀後半に建てられた[[ダブリン]]の新古典派の建物の[[カスタム・ハウス (ダブリン)|カスタム・ハウス]]]] 12世紀後半にはアングロ=ノルマン人によって[[ダブリン城]]やキルケニー城などが建設され、城壁で囲まれた計画的な交易都市の概念が導入され、[[封建制]]下では憲章の付与によって法的地位と数々の権利を得た<ref>{{cite web|url=http://www.ancientfortresses.org/irish-castles.htm|publisher=Castles.me.uk|title=Irish Castles|accessdate=19 October 2009}}</ref>。これらの憲章は、これらの町のデザインを具体的に規定していた<ref>Butlin RA (1977): ''The Development of the Irish Town'', Croom Helm</ref>。最初のものは16世紀と17世紀のプランテーション・タウンで、[[テューダー朝]]の英国王が地元の反乱を抑えるためのメカニズムとして使用されたもので、18世紀の地主タウンが続いた<ref>Butlin RA: ''op cit''</ref>。現存するノルマン人が設立した計画的な町には、[[ドロヘダ]]とヨールがあり、プランテーション・タウンには[[ポート・レーイシュ]]とポーターリントンがあり、18世紀の計画的な町には[[ウェストポート (アイルランド)|ウェストポート]]と[[バリナスロー]]がある。計画的な入植が、現在の国中の町の大部分を占めている。 [[ファイル:Buildings_on_Dame_Street,_Dublin_20150808_1.jpg|左|サムネイル|ダブリンのデイム通りにある複数階建ての建物のレンガ建築]] [[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック]]のような[[ゴシック様式]]の大聖堂もまた、[[ノルマン人]]によって導入された<ref>{{harvnb|Greenwood|2003|p=813}}.</ref>。[[中世後期]]までには、[[フランシスコ会]]が修道院を支配し、バンラティ城のようなタワーハウスは、ゲール人やノルマン人の貴族によって建設された<ref>{{cite web|url=http://www.askaboutireland.ie/reading-room/history-heritage/architecture/Architecture/historical-periods-1/the-later-middle-ages/|publisher=AskAboutIreland.ie|title=The Later Middle Ages: 1350 to 1540|accessdate=19 October 2009}}</ref>。多くの宗教的な建物は、修道院の解散とともに廃墟となった<ref>{{cite web|url=http://www.askaboutireland.ie/reading-room/history-heritage/architecture/Architecture/historical-periods-1/the-later-middle-ages/|publisher=AskAboutIreland.ie|title=Early Tudor Ireland: 1485 to 1547|accessdate=19 October 2009}}</ref>。維新後、エドワード・ロベット・ピアースの主導で、[[パッラーディオ建築]]と[[ロココ]]、特に[[カントリー・ハウス]]がアイルランドを席巻し、国会議事堂が最も重要なものとなった<ref name="greenwood">{{harvnb|Greenwood|2003|p=815}}.</ref>。 [[カスタム・ハウス (ダブリン)|カスタム・ハウス]]、[[フォー・コーツ]]、[[中央郵便局 (ダブリン)|中央郵便局]]、キングズ・インズなどの建築物が建設され、特にダブリンでは[[新古典主義建築]]やジョージアン建築が盛んになった<ref name="greenwood" />。[[カトリック解放]]後、聖コルマンズや聖フィンバーズなど、フランスの[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]の影響を受けた大聖堂や教会が出現した<ref name="greenwood" />。アイルランドといえば、長い間、[[茅葺き]]屋根の[[コテジ]]が連想されてきたが、最近では趣のあるものとみなされている<ref>{{cite web|url=http://www.ballybegvillage.com/thatching.html|publisher=BallyBegVillage.com|title=Thatching in Ireland|accessdate=19 October 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20171011005154/http://www.ballybegvillage.com/thatching.html|archive-date=11 October 2017|url-status=dead}}</ref>。 [[ファイル:Capital dock.jpg|代替文=|サムネイル|アイルランドで最も高い建物のカピタル・ドック(79[[メートル|m]]、[[アイルランド島]]では3番目)]] [[1927年]]に[[アメリカ合衆国]]でデザインされたターナーズ・クロスの[[アール・デコ]]教会を皮切りに、アイルランドの建築は20世紀以降、近代的で洗練された建築様式を求める国際的なトレンドに沿ったものとなっている<ref>{{cite web|title=Exterior of Church of Christ the King, Turner's Cross|publisher=Parish of Turner's Cross|url=http://turnerscross.com/architecture/building-description/|accessdate=9 November 2008}}</ref>。その他の開発には、バリーマンの再生やアダムスタウンのダブリンの都市拡張などがある<ref>{{cite web|url=http://www.sdcc.ie/services/planning/strategic-development-zones/adamstown?option=com_content&task=view&id=353&Itemid=203|title=About Adamstown|publisher=South Dublin County Council|accessdate=13 August 2010|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150903232010/http://www.sdcc.ie/services/planning/strategic-development-zones/adamstown?option=com_content&task=view&id=353&Itemid=203|archivedate=3 September 2015}}</ref>。[[1997年]]にダブリン・ドックランズ開発局が設立されて以来、ダブリン・ドックランズ地区では大規模な再開発が行われ、[[ダブリン・コンベンション・センター]]やグランド・カナル劇場(現在の[[ボード・ガシュ・エナジー劇場]])などが建設された<ref>{{cite web|url=http://www.ddda.ie/index.jsp?p=99&n=138|title=Docklands Authority - About Us|accessdate=31 August 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20110927154054/http://www.ddda.ie/index.jsp?p=99&n=138|archive-date=27 September 2011|url-status=dead}}</ref>。アイルランド王立建築家協会は、国内での建築活動を規制している<ref>{{cite web|url=http://www.riai.ie/about_the_riai|title=About the RIAI|accessdate=17 November 2010|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100928211424/http://www.riai.ie/about_the_riai|archivedate=28 September 2010}}</ref>。 === 映画 === {{main|アイルランドの映画}} アイルランドの[[映画産業]]は、スクリーン・アイルランドによる映画産業の振興と、多額の減税措置の導入のおかげもあって、ここ数年で幾分か成長を見せている。アイルランド映画協会とプライスウォーターハウスクーパースが2008年に実施した「アイルランド視聴覚コンテンツ制作部門レビュー」によると、この部門の雇用者数は6~7年前の1,000人から6,000人を超え、その評価額は5億5,730万ユーロを超え、[[国内総生産]]の0.3%を占めている<ref>{{cite web|title=Irish Audiovisual Content Production Sector Review|publisher=Irish Film Board|year=2009|url=http://www.irishfilmboard.ie/files/Irish%20Audiovisual%20Content%20Production%20Sector%20Review%20jan%2009.pdf|accessdate=2020-07-16|archiveurl=https://webcitation.org/68FXOakWA?url=http://www.irishfilmboard.ie/files/Irish%20Audiovisual%20Content%20Production%20Sector%20Review%20jan%2009.pdf|archivedate=2012-06-07}}</ref>。アイルランドは[[英語圏]]であるため、ほとんどの映画は英語で製作されているが、一部または全部をアイルランド語で製作されている映画もある。 アイルランド映画委員会の支援を受け、同国の映画産業は[[1990年代]]以降、土着映画の振興や『[[ブレイブハート]]』や『[[プライベート・ライアン]]』のような国際的な作品の誘致などにより、大きく成長している<ref name="Media Landscape">{{cite web|url=http://www.ejc.net/media_landscape/article/ireland|title=Media landscape: Ireland|publisher=European Journalism Centre|date=5 November 2010|accessdate=30 August 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110824215241/http://www.ejc.net/media_landscape/article/ireland/|archivedate=24 August 2011}}</ref>。 大予算の国際的なプロダクションが国にとって貴重な存在である一方で、アイルランドのプロデューサー、監督、脚本家、クルーに技術と経験を与え、アイルランドを拠点とする才能から生まれる物語を伝える機会を創出する中心となっているのは、アイルランドの土着産業である。最も成功したアイルランド映画には、『[[麦の穂をゆらす風]]』(2006年)、『インターミッション 』(2003年)、『ドッグマン』(2004年)、『[[マイケル・コリンズ (映画)|マイケル・コリンズ]]』(1996年)、『[[アンジェラの灰 (映画)|アンジェラの灰]]』(1999年)、『[[ザ・コミットメンツ]]』(1991年)、『[[ONCE ダブリンの街角で]]』(2007年)などがある。 過去には、カトリック教会の影響により、『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)、『[[時計じかけのオレンジ]]』(1971年)、『[[ライフ・オブ・ブライアン]]』(1979年)など、多くの映画が[[検閲]]や上映禁止になっていたが、近年は上映禁止は行われていない<ref>[http://irishpost.co.uk/ten-films-that-ireland-banned "Ten films that Ireland banned under the 1923 Censorship Act,"] ''The Irish Post'', 2015</ref>。 === 被服・ファッション === [[Image:Aran cardigan.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|アラン・ジャンパー|en|Aran jumper}}の一例。この服はアイルランド西海岸沖の[[アラン諸島]]にちなんで名付けられたものである]] {{main|{{仮リンク|アイルランドの民族衣装|en|Irish clothing}}}} アイルランドの被服文化はイギリスとの類似点が幾つか見受けられる面を持つ。同国は{{仮リンク|アラン・ジャンパー|en|Aran jumper}}や{{仮リンク|ドニゴール・ツイード|en|Donegal tweed}}発祥の地である。 伝統的なものに[[クローク]]の一種である「ブレイト」(brait)と呼ばれる[[マント]]などがある。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|アイルランドの世界遺産}} アイルランド国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が2件存在する。ニューグレンジを含む[[ボイン渓谷の遺跡群]]と、[[シュケリッグ・ヴィヒル]]である。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|アイルランドの祝日|en|Public holidays in the Republic of Ireland}}}} {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |+ '''アイルランドの祝祭日''' !日付 !日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | [[1月1日]] || [[元日]] || {{Lang-ga-short|Lá Caille または Lá Bliana Nua}} {{Lang-en-short|New Year's Day}} |元旦の祝日は[[大晦日]]から始まる |- | [[3月17日]] || [[聖パトリックの祝日|聖パトリックの日]] || {{Lang-ga-short|Lá ’le Pádraig または Lá Fhéile Pádraig}} {{Lang-en-short|St. Patrick's Day}} |建国記念日 1903年のアイルランドで最初の祝日 |- | [[移動祝日]](月) || [[イースターマンデー]] || {{Lang-ga-short|Luan Cásca}} {{Lang-en-short|Easter Monday}} |[[イースター]]の日曜日の次の日 |- | 移動祝日(月) || [[ヨーロッパの五月祭]] || {{Lang-ga-short|Lá Bealtaine}} {{Lang-en-short|May Day}} |5月の第1月曜日。(1994年以降) |- | 移動祝日(月) || 6月の祝日 | {{Lang-ga-short|Lá Saoire i mí an Mheithimh}} {{Lang-en-short|June Holiday}} | かつては[[聖霊降臨祭]]として祝っていた |- | 移動祝日(月) || 8月の祝日 | {{Lang-ga-short|Lá Saoire i mí Lúnasa}} {{Lang-en-short|August Holiday}} |8月の第1月曜日 |- | 移動祝日(月) || 10月の祝日 | {{Lang-ga-short|Lá Saoire i mí Dheireadh Fómhair}} {{Lang-en-short|October Holiday}} | 10月の最後の月曜日(1994年以降) |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] || {{Lang-ga-short|Lá Nollag}} {{Lang-en-short|Christmas Day}} |クリスマスの祝日は[[クリスマス・イヴ|イヴ]]から始まる |- | [[12月26日]] || [[聖スティーブンの日]] || {{Lang-ga-short|Lá Fhéile Stiofáin または Lá an Dreoilín}} {{Lang-en-short|St. Stephen's Day}} |クリスマスの翌日、[[聖ステファノの日]] {{Lang|ga|Lá an Dreoilín}}は「ささぎの日」の意 |} == スポーツ == {{main|[[アイルランドのスポーツ]]}} === ゲーリックゲームズ === {{main|ゲーリック体育協会}} [[ファイル:Gaelic Football.jpg|thumb|300px|[[ゲーリックフットボール]]の試合]] アイルランドでは[[サッカー]]や[[ラグビーフットボール|ラグビー]]が人気の[[スポーツ]]となっているが、[[ゲーリックフットボール]]や[[ハーリング]]などの[[ゲーリック・ゲームズ]]は、教育現場でも取り入れられて広く普及している。県によるゲーリックフットボールとハーリングの対抗戦は人気があり、県毎の連帯感を演出している。優勝クラブを決定する『オールアイルランド・ファイナル』は毎年大変な盛り上がりを見せる。ゲーリック・ゲームズは[[アマチュア]]スポーツであり、県代表の選手も全て職業を持っている。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|アイルランドのサッカー|en|Association football in the Republic of Ireland}}}} [[File:FIFA WC-qualification 2014 - Austria vs Ireland 2013-09-10 - Republic of Ireland national football team.jpg|thumb|upright|320px|[[2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選グループC|2014年W杯予選]]での[[サッカーアイルランド共和国代表|サッカーアイルランド代表]]]] アイルランド国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっている<ref>{{cite web|url=http://www.esri.ie/pdf/BKMNINT180_Main%20Text_Social%20and%20Economic%20Value%20of%20Sport.pdf|title=Social and Economic Value of Sport in Ireland|accessdate=5 February 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150712134834/http://www.esri.ie/pdf/BKMNINT180_Main%20Text_Social%20and%20Economic%20Value%20of%20Sport.pdf|archivedate=12 July 2015|df=}}</ref>。[[1985年]]にプロサッカーリーグの『[[リーグ・オブ・アイルランド・プレミアディビジョン]]』が創設された。しかし[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]がアイルランド国内で最も人気があるリーグとなっている<ref>{{cite book|last=Whelan|first=Daire|title=Who Stole Our Game?|publisher=Gill & Macmillan Ltd|year=2006|isbn=0-7171-4004-0}}</ref>。 [[1921年]]に設立された[[フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド|アイルランドサッカー協会]](FAI)によって[[サッカーアイルランド共和国代表|サッカーアイルランド代表]]が構成されている。[[FIFAワールドカップ]]には3度出場しており、[[1990 FIFAワールドカップ|1990年大会]]では初出場ながらベスト8の成績を収めた。[[UEFA欧州選手権]]にも3度出場しており、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]では初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。 [[アイルランド人]][[プロサッカー選手|サッカー選手]]の象徴として'''[[ロイ・キーン]]'''がおり、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]では長年[[主将]]を務め非常に人気の高い選手であった<ref>{{cite web|url=http://www.fai.ie/index.php?option=com_content&view=category&layout=blog&id=75&Itemid=139|title=About FAI|publisher=FAI official website|accessdate=28 August 2011}}</ref>。他にも[[ロビー・キーン]]や[[ダミアン・ダフ]]、[[シェイ・ギヴン]]などイングランドの[[ビッグクラブ]]で活躍した選手は数多く存在する。 === ラグビー === {{main|アイルランドのラグビーユニオン}} [[ファイル:Rugby World Cup 2019-3.jpg|サムネイル|アイルランド対日本([[ラグビーワールドカップ2019]])]] [[ラグビーアイルランド代表]]はアイルランドと[[北アイルランド]]との合同チームとなっており、[[シックス・ネイションズ]]の強豪国でもある。[[アイリッシュ海]]の両側の国で作ったラグビーのドリームチームの[[ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ]]で主将を務めたのは[[ブライアン・オドリスコル]]だった。 === 競馬 === {{main|アイルランドの競馬}} [[アイリッシュダービー]]に代表される[[アイルランドの競馬]]も盛んである。[[キルデア県]]の[[カラ競馬場]]と[[レパーズタウン競馬場]]で行われ、[[1860年代]]から行われているが[[1700年代]]には早くもレースが行われていた。人気のあるレース・ミーティングは[[ゴールウェイ]]でも開催されている。[[クールモアスタッド]]や、世界で最も成功した調教師の一人である[[エイダン・オブライエン]]の本拠地である[[バリードイル調教場]]などがある。アイルランドは[[ガリレオ (競走馬)|ガリレオ]]、[[モンジュー]]、[[シーザスターズ]]などのチャンピオン馬を輩出している。 === ゴルフ === [[ファイル:OldHeadGolfLinks.jpg|thumb|アイルランドのゴルフコース]] アイルランドには全国に350以上の[[ゴルフコース]]があり、[[2006年]]の[[ライダーカップ]]はアイルランドで行われた<ref>{{Cite web|title=Ireland|url=https://www.golfadvisor.com/course-directory/8422-ireland/|website=Golf Advisor|accessdate=2020-07-16|language=en}}</ref>。[[パドレイグ・ハリントン]]、[[シェーン・ローリー]]、ポール・マッギンリーのような国際的に成功した[[プロゴルファー]]を輩出している。 === クリケット === {{main|クリケットアイルランド代表}} [[クリケット]]は人気スポーツの一つである。歴史は古く、18世紀後半にイギリス人によってクリケットが持ち込まれた<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/europe/full/12 Cricket Ireland] 国際クリケット評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。最初の試合は1792年に行われたという記録がある<ref name="ICC"/>。[[国内競技連盟]]であるクリケットアイルランドは、1993年に[[国際クリケット評議会]]に加盟し、2017年には全12カ国の一つであるフルメンバーに昇格された<ref name="ICC"/>。[[クリケットアイルランド代表]]はラグビーと同様にアイルランドと[[北アイルランド]]との合同チームとなっている。アイルランド代表は長年による実績によって国際的な地位を獲得し、古くは1928年に[[クリケット西インド諸島代表|インド諸島代表]]に勝利をしている<ref name="ICC"/>。[[2007 クリケット・ワールドカップ|2007年]]のワールドカップでは、ジンバブエに引き分け、パキスタンに勝利し、ベスト8に進出する大躍進を遂げた<ref name="ICC"/>。ワールドカップ後、若年層を中心にクリケット人気が爆発的に伸び、国内のクリケットクラブは300%増加したという報告もある<ref name="ICC"/>。[[1999年]]には[[1999 クリケット・ワールドカップ|ワールドカップ]]を4カ国の共催であるが、アイルランドで初開催となった。 == 著名な出身者 == {{Main|アイルランド人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <ref name="PreliminaryCensus2022">{{Cite web |url=https://www.cso.ie/en/media/csoie/newsevents/presentations/2022/Census_Preliminary_Results_2022_-_23_June_2022_-_PDF.pdf |title=Census Preliminary Results 2022 |format=pdf |publisher=中央統計局 |date=2022-06-23 |accessdate=2022-06-24}}</ref> }} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite book|last=Gilland|first=Karin|title=Ireland: Neutrality and the International Use of Force|year=2001|publisher=Routledge|isbn=0-415-21804-7|ref=harv}} * {{Cite book|last=Greenwood|first=Margaret|title=Rough guide to Ireland|year=2003|publisher=Rough Guides|isbn=1-84353-059-7|ref=harv}} * {{Cite book|last=Mangan|first=James Clarence|title=James Clarence Mangan - His Selected Poems|year=2007|publisher=Read Books|isbn=978-1-4086-2700-6|ref=harv}} * {{Cite book|last=Meinardus|first=Otto Friedrich August|title=Two thousand years of Coptic Christianity|year=2002|publisher=American Univ in Cairo Press|isbn=977-424-757-4|ref=harv}} * {{Cite book|last=Moody|first=Theodore William|title=A New History of Ireland: Prehistoric and early Ireland|year=2005|publisher=Oxford University Press|isbn=0-19-821737-4|ref=harv}} {{refend}} == 関連項目 == * [[アイルランド関係記事の一覧]] <!-- * [[アイルランドの通信]] --> == 外部リンク == {{Sisterlinks}} '''アイルランド政府''' * {{URL|https://www.gov.ie/|アイルランド政府}}{{en icon}}{{Ga icon}} * {{URL|https://president.ie/|アイルランド大統領府}}{{en icon}}{{Ga icon}} * {{URL|https://www.taoiseach.gov.ie/|アイルランド首相府}}{{en icon}}{{Ga icon}} * {{URL|https://www.dfa.ie/ja/irish-embassy/japan/|駐日アイルランド大使館}}{{ja icon}} * {{URL|https://www.idaireland.jp|アイルランド政府産業開発庁}}{{ja icon}} * {{URL|https://www.enterprise-ireland.or.jp|アイルランド政府商務庁}}{{ja icon}} '''日本政府''' * {{URL|https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ireland/|日本外務省 - アイルランド}}{{ja icon}} * {{URL|https://www.ie.emb-japan.go.jp/|在アイルランド日本国大使館}}{{ja icon}} '''観光・その他''' * {{URL|https://www.ireland.com/ja-jp/|アイルランド政府観光庁}}{{ja icon}} * {{URL|https://www.ireland.ie/ja/|アイルランド外務・通商省|アイルランド}}{{ja icon}} * {{URL|https://www.jetro.go.jp/world/europe/ie/|日本貿易振興機構 - アイルランド}}{{ja icon}} * {{Kotobank}}<!-- 外部リンクに関しては、留学斡旋会社、旅行保険業、または広告収入や資料請求等による金銭収入その他営利が絡む情報サイトの追加は遠慮ください。--> {{アイルランド関連の項目}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{イギリス連邦}} {{Celtic nations}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あいるらんと}} [[Category:アイルランド|*]] [[Category:アイルランド島|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:島国]] [[Category:共和国]] [[Category:先進国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:過去のイギリス連邦加盟国]]
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ポーランド
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、波: Rzeczpospolita Polska [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔlita ˈpɔlska] ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称ポーランド(波: Polska、ポルスカ)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。 同国は該当地域が「分割と統合」を幾度も繰り返す形で歴史を紡いで来た。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。 第一次世界大戦後、1918年に独立を回復した。しかし第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された(ポーランド侵攻)。 戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させた。ただし、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。 1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立。現在のポーランド共和国となった。 冷戦時代は「東欧」に分類され、現在も国連は同様の分類である。国内および東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。 正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska() 発音 [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska] ( 音声ファイル)。通称 Polska。英語表記はPoland、国民はPolish、形容詞はPolish。日本語の正式表記はポーランド共和国、通称はポーランド。また、漢字表記は波蘭で、波と略記される。 ポーランドの国名の「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ族」「レック族」(Lechici)といい、また同時に「ポラン族」とも称した。「レフ」「レック」は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわち、ポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。 「共和国」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味するラテン語の「レス・プブリカ」の翻訳借用である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。 ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されていることや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化、ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実などが挙げられる。 ポーランド人の基幹部族となったレフ族・ポラン族については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(英語版)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつといえる(詳しくは、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、ヴィェルバルク文化の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元はひとつであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったため、この文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。バルト人、トルコ人もこの地域に住んでいた。 4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture)」を持つほかのスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが、中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、ほかのスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク」と「ポーレ」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキ、Palyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。 6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。 8世紀、それまでレフ族・ポラン族とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、のちに「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車や馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝(Piastowie)」を創始した。 966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。 992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ2世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(en)によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。 1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。 ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし、王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。 1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再びまとめ上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。 1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割し、そのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させた。そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。 1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえ、シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命してのちにフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。 1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年、クルシュヴィッツ条約に基づいてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利を認め、騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方殖民として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。 1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している。教皇にプロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、レグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い)。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破ったことは、東欧史上の大事件であった。 まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、クラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手がまったく足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった、ほかの事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていたためにユダヤ人にとって魅力があったため移民した)。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった)。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法であるマクデブルク法が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。 ドイツ騎士団の支配とともにドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌ともともと恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、のちにそれがポーランド文学の発展に役立った。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった。 ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。 14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族(ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。 王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。 1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。 1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。 1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。ヴァルミア司教の叙任をめぐって、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して異議を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教とし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。 1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名:ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。 1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。 ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。 1573年、すべてのシュラフタが1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性指向がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。 ヤン・ザモイスキは1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義(穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的な支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、すべての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事のすべての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度は、その後もザモイスキ家をはじめとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。 ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国とクリミア・タタール人のクリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家のひとつであったリトアニア大公国は、自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった。国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した。1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちでもっとも熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後、現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。 1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻し、モスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから、正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。度重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。 1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。 18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。 18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われたあと、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。 立憲君主制、民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド・ロシア戦争)。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793 - 94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(コシチュシュコの蜂起)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。その広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後、スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子とともに半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。 ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。 ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、その後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。ナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。 ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあったエミリア・プラテルはシュラフタ(士族、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。 1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった。 プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象とし、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。 ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあとも続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。 1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。 2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立したあともポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる。 1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。 1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が猛反撃を開始し、逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍のとった思い切った機動作戦が成功してポーランド軍が赤軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全軍に撤退を指示。結果的にポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。 この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。 1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソビエト連邦につけ込まれるようになった。 1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日には赤軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス地域を譲られたリトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。 独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月、ソ連側の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったために赤軍は故意に救援を行わず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。 1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定によりポーランド人民共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。 1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR)が寡頭政治を敷くポーランド人民共和国の社会主義体制時代であった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。カティンの森事件でポーランド亡命政府は、ソ連の発表の受け入れを拒否。スターリンは亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。 また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で、新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失った。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた(ポーランド人人口の移動 (1944-1946)(英語版))。 1952年、ポーランド人民共和国はPZPRの一党独裁制の政党となり、ソ連の最大でもっとも重要な衛星国となった。冷戦中、ワルシャワ条約機構や、1949年1月、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加した。社会主義体制への移行に伴い、密告、監視、言論統制を伴ったポーランドのソ連化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに構造改革された。ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ(英語版)。社会主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ソ連、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリーなどの同じ東側諸国のように集団農場と個人農地は国有化された。 ポーランド政府はおもに西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続いた。1973 - 74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補うため、さらなる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり欠乏経済(英語版)を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上でひどい悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し、力のなさを感じた。1979年6月にポーランド人ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、マルクス・レーニン主義無神論(英語版)の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。 1981年 - 1983年、ポーランドの戒厳令の期間に政府は反政府を潰すために戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、ほか100人ほどが抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行された。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した。戒厳令後も、市民の自由権はひどく制限された。 軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、おもな食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した。ヤルゼルスキのもと、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である64万人が1981年 - 1989年の間に難民となり他国へ移民した。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの時期に拡大していった。 1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。 共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化し、政治を不安定化させた。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった。ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。 1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。 2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これでほかのシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。 ここまで自由民主主義国家として進んできたが、2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義(PiS)」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。 ヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線をめぐってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。 この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないといわれるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会におけるすべての議席を喪失した。 最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任した。トゥスクは中道右派として中小企業保護政策などを打ち出す一方、対外的には宥和政策を採り、長年遺恨のあるドイツやロシアとも一定の歩み寄りも見せた。 2009年11月27日、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり民間では自由に使用できるため観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っており、共産主義のマークを問題なく使用している。 12月1日に、民主化以来初の首相再選も果たしたトゥスクがEU大統領に就任され、首相は辞任することとなった。 2014年3月にロシアによるクリミアの併合が起きると民族主義が高まり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源を依存するドイツも批判した(ただし、ポーランドもロシアに依存している)。 2015年の選挙ではPiSが勝利、、憲法違反の疑いのある法律を次々に制定し、違憲審査権を行使する憲法法廷(憲法裁判所)の掌握を進め、EUとの対立が深まった。 2022年11月16日、ロシアによるウクライナ侵攻中、ポーランドにロシア製のミサイルが着弾し、市民二人が死亡した。ミサイルによる被害はNATOの歴史、加盟国にとって初の事例となった。 政治体制は共和制。国家元首は大統領(任期5年)である。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は儀礼的な権限しか持たない。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的なものであり、実際の指揮権は首相が持つ。 行政は、1997年制定の憲法では閣僚評議会(内閣)が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する」(第146条3項)となっているため、閣僚評議会議長(首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う議院内閣制になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の下院に当たるセイム(sejm)の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相はマテウシュ・モラヴィエツキ。 立法はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。 ポーランドの法制度は、1,000年以上前の同国地域における歴史の最初の数世紀から発展して来た。ポーランドの公法および私法は成文化されている。傍ら、ポーランドにおける最高法はポーランド憲法(英語版)に基づいたものとなっている。 なお、ポーランドは民法の法的管轄権を有しており、ポーランド民法典という民法典が定められている。 国際連合(UN)、欧州連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。 中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)といった地域国際機関にも加盟し、国連では東ヨーロッパグループ(EEG)に属している。 古くから争乱を繰り返す関係で、幾度もポーランド・ロシア戦争が起こった。そのため、現在でもポーランド人は強い反露感情を抱いているとされる。 第二次世界大戦中には、ソ連はドイツと共に分割占領し、カティンの森事件などの虐殺事件をおこした。戦後はポーランド人民共和国として衛星国となっていたが、民主化後、特に2014年のウクライナ危機以降、ロシアの軍事力に対する警戒感が高まっている。2017年1月には、アメリカ軍がポーランドへの駐屯を開始し、西部ジャガンで歓迎式典が開かれた。在ポーランドアメリカ軍は最終的に兵員約3,500人、戦車87両の規模になる見通しである。 ロシアの大統領報道官は「私達の安全に対する脅威」と反対の表明をした。 2021年11月、ベラルーシとの国境付近に西アジアからの移民数千人が集結、ポーランドは軍を動員して移動を阻止した。同月9日、モラウィエツキ首相は国会で、ロシアが後ろ盾となっているとしてプーチン大統領を批判した。2022年2月に、ロシアによるウクライナ侵攻が起きると、国をあげてウォロディミル・ゼレンスキー政権支援に回り、最も多くの避難民受け入れや武器支援などを行った。ただし直接加勢はせず、武器も売却分もある。また、ロシアとのガス供給契約も打ち切ったが、実際はロシア産ガスをドイツを介して輸入することになる。 2022年11月、前年に発生した不法移民の流入がロシアの飛び地であるカリーニングラード州から生じる恐れがあるとして、ポーランド国防相は新たにカリーニングラード州との国境沿いにフェンスを構築することを発表した 1953年、ポーランドと東ドイツとの間で大戦中の補償請求権の放棄が行われたが、これはソ連の意向が強く働いたものと言われる。1990年、ドイツの再統一に向けてポーランドとドイツは国境条約に調印。1991年には善隣友好条約が結ばれた。2015年に右派政党「法と正義」が与党になると、1953年の請求権放棄はソ連の圧力下でなされたものとして、ドイツに対して戦後補償を求める議論が惹起し始めている。 1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科とともに学科は維持され、日本語が教えられている。 2002年には、同学科は天皇皇后の行幸啓を受けたほか、2008年には日本テレビ放送網の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の「世界日本語学校の旅」でポズナン大学日本語学科とともに、日本語を学ぶ大学生たちが紹介された。 さらに、ポーランド人による浮世絵のコレクションは質と量ともに世界屈指のもので、クラクフの日本美術技術博物館“マンガ”館には浮世絵を含む日本の文化財のコレクションが広く公開されている。 ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは、樺太に流刑になったことを契機に、樺太から北海道へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、アイヌの研究に業績を残した。 日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児をシベリアから助けたことがある。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。 カトリック教会聖職者で、後にホロコーストの犠牲となったマキシミリアノ・コルベは戦前に日本で布教活動を行い、「けがれなき聖母の騎士会」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、聖母の騎士高等学校は21世紀を迎えた現在も存続している。 コルベとともに布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー修道士は、長崎で原爆に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。 同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、東京では「世界最初の原子爆弾の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』というキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し、広島市と長崎市を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と世界に平和の構築を訴えた。 ポーランド軍は の五軍種と憲兵隊の合計6グループから構成され、5軍種では常時約14万人が活動し、予備役は約24万人。国防省が統括し、憲法で規定された最高司令官はポーランド大統領である。 このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(GROM)、第1奇襲部隊(1 PSK)、海兵隊(Formoza)、特別兵站部隊の4つから構成される。 徴兵制は廃止され、志願制が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。 2009年の予算は118億ドルで、これは世界第19位、国内総生産(GDP)の2%弱を占める。1989年の民主化後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構(NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。 2023年、マテウシュ・モラヴィエツキ首相はロシアによるウクライナ侵攻を受け、軍備拡大をさらに加速させてGDPの4%をポーランド軍に充てると表明した。 西でドイツ、南でチェコとスロバキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接しており、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海(Morze Bałtyckie)に面している。 南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173メートルである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドでもっとも高いリシ山(標高2,499メートル)がある。南部の国境近くにはカルパティア山脈(タトラ山脈、ベスキディ山脈(英語版)を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ(Sudety)がある。深い森が多く、国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9,300もの湖のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。 西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。 河川は以下の通り。 ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームからなる土壌によるものである。氷期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩からなる。 バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。 著名な経済学者イェジ・レグルスキの構想のもと、1999年にイェジ・ブゼク政権が行った地方自治の大改革において県(województwo)が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な地方分権が成立した。県の下位自治体として郡(powiat)が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織(gmina)が合計2,489ある。 (アルファベット順) ポーランド経済は、2004年EU加盟後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EU Structural Funds)の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている。 若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4 - 6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。 ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満)、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国のひとつであった。 その後、ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構(OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34か国においても、ポーランドのほかにプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対してさまざまな貸し出し規制策を導入していた。 2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた。ポーランド・ウクライナ開催のUEFAユーロカップ2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた。しかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。 2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。 2004年のEU加盟後、ポーランド国民はEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つために、支持政党も急激に右寄りになった。 EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。ほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。一部ではホワイトカラーとしての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているためである。政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これはおもに国営企業の民営化による新規株式公開(IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトはおもにEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、1万3,000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手がいるためである。 2010年、ECER-Banque Populaireが18か国37都市の4,500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に行った調査では、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラなどの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。評価がもっとも低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として、国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている。 2015年版、フォーブスの「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、財産権の保証、イノベーションの多寡、税率、テクノロジーの発展具合、汚職の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、官僚主義の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった。 2018年、国際連合は、平均余命、識字率、就学率、国内総生産により評価する人間開発指数 (HDI)、加盟193か国のうちで0.87につけた。 法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍などにかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。 EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。 小規模の手工業においては、琥珀製品やクリスマスツリーのガラスの飾り物の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。 国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には集団農場化と農地の国有化が行われた。 ヨーロッパの実に90%を占めるヤマドリタケ(本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴや日本向け馬肉および羽毛、ポーランドが世界の収穫高の半分を占め同時に世界最大の輸出国となっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴといったベリー類(ほかにラズベリーは世界4位、ビルベリーは欧州2位、その他セイヨウスグリ、クランベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどで世界トップクラスの生産高)などがある。 ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。 ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の3分の2をまかなう天然ガスなどを有する。ほかにも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。 西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。 近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆mに上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。 2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など約261社。そのほかのEU中東欧国への進出は、チェコ約186社、ハンガリー約140社、ルーマニア約100社。 公式な統計では、2009年には12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるため正確な規模は分からない。ワルシャワ大学の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計のすべてを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦や清掃婦、農産物の収穫などの単純労働に就いている。2007年にはポーランドの家庭の15%がウクライナ女性を正規のメイドとして雇ったという。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、モルドバの4か国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人。 ポーランドが近々ロシアのカリーニングラード州から、ロシア人の入国に対しビザなし渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃されたシェンゲン協定他国地域へもロシア人の不法入国や不法移民、不法就労が増加し、そしてロシアなどからの格安タバコの密輸により、EUは税金約85億ポンドを損失する。一方ポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザなし渡航許可をしている。ポーランド政府は「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない。彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアのウォッカを隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航実施によるロンドンやパリへの悪影響など微々たるものだ」と主張した。 2022年時点で人口約3,801万人、97%がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)。少数民族は、1番人口の多いシレジア人、おもに東部に在住するルーシ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人)、リトアニア人、リプカ・タタール人などがいる。 中世、ヤギェウォ朝やポーランド・リトアニア共和国などの東欧諸国の連合国時代には多民族国家であった。 ユダヤ人の本格的なポーランド移住は第1回十字軍の行われた11世紀初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。 ヨーロッパ各国や中東で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、13世紀に布告された「カリシュの法令」と、東方植民によるドイツ都市法のマクデブルク法によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。 ホロコーストまでは、ポーランドには世界の70%のユダヤ人がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコーストにより虐殺された。 多くはホロコーストや共産主義、反ユダヤ主義を避けてアメリカ大陸やイスラエルなどに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる。ポーランド人の多くは先祖にサルマタイ人がいる。 国民のほぼすべてが母語をポーランド語としている(ポーランド化)、併合した国の国民や多くの移民や政治難民を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人)、ルーシ族(ヴァリャーグ)、ユダヤ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり、互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。 約40万種類あるといわれるポーランド人の姓は、その語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。 そのため単一民族、実際は東・中欧では民族のるつぼでポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。 ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などとともにレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。 表記はロシア語などで用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベットである。 少数民族の語源には、イディッシュ語、ヘブライ語やシレジア語、カライム語、ルシン語、ロマ語、タタール語がある。 かつてのポーランドで広く話されていたルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ)のルーシ語は第二次世界大戦やホロコーストとヴィスワ作戦を経て国内ではほぼ消滅したとみられている。 外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。 歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。 旧ドイツ領土など南部オポーレ地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。 冷戦時代、ロシアの支配下でのソ連化の義務教育により、1960年代中期以前に生まれた世代のポーランド人はロシア語を解する人が多い。 1989年に東欧革命で共産主義が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。 ロシア語(東スラヴ語群)はポーランド語(西スラヴ語群)と同じくスラヴ語に属し、ポーランド語話者がロシア語を修得するのは比較的容易とされる。 リプカ・タタール人は、ポーランド化しタタール語を話さなくなっている。タタール人の家系でノーベル文学賞を受賞した小説家・叙事詩人のヘンリク・シェンキェヴィチはポーランド語の小説を書いた。 人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。 一般的には結婚申請の後、宣誓式を行ない、挙式日の決定後に挙式となる。 国際結婚の場合は民事婚と宗教婚の2種類があり、民事婚は戸籍局で行うが、宗教婚は教会での挙式後に戸籍局で登録を行なっている。ポーランドでは、同性カップルは結婚できない。 ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上に上る。ポーランドの人口は3,800万人程度であることから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人がもっとも多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。 同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい(夫婦別姓)し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない(1964年)。 ポーランド語の姓には-ski(/〜スキ、女性は-ska/〜スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞を形容詞のように「〜の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法である。 たとえばWiśnia(意味は「桜」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の〜」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon-やフランス語のde-などの使い方と同じであるため、中世には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた(アルベルト・ブルゼフスキの記事を参照)。 また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。 ポーランド国内の苗字人口上位25(2018年)は以下の通り(男女別)。 2020年の推計によるとカトリック85%、正教会1.3%、プロテスタント0.4%、その他の宗教0.3%、不明12.9%となっている。 1999年9月1日より、従来のソ連方式の8・4制を改め、6・3・3制に移行した。 ポーランドの特徴のひとつはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の経済協力開発機構OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の成績は総じて高い。また国際数学コンペティションで総合優勝を果たしたこともあった。 2017年には、就職難のために若者の68%が四年制大学へ進学していた(当時の日本は49%)。この数字はOECD加盟国では8位(日本は23位)である。近年では、若者の95%が高校を卒業した後にも、短大を含めた大学型高等教育を受けることを望む希望者が多いという調査結果もあり、教育熱が日本や韓国の受験戦争時代以前から伝統的に非常に高い。ポーランドの階級社会では、高卒は原則ホワイトカラー職に就けない。これは、大学の入試倍率が極めて高いからである。しかし、2020年代のポーランドは大学を卒業したところで多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である。国立大学の授業料は無料でも、少子化は進行中である。 IT教育に熱心な国のひとつで、2014年に開催された第1回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した。 平均寿命は77.1歳。かつてはユニバーサルヘルスケアが実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した。 世論調査会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで国境を接する7か国(ドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ロシア)すべての人々のうち、ポーランド人がもっとも親近感を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)。 2013年における経済協力開発機構(OECD)加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36か国中日本に次いで2位、3位はイギリス。 OECD加盟国内、人口10万人あたりの殺人発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件(日本、0.5件)。 国連、UNODCによる人口10万人あたりの発生率では、強盗率(2012年)70か国中37位、43.67件(日本は64位、2.87件)。 暴力行為の発生率も低く、OECD加盟国中でもっとも少ないほうから3位。 観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、アイルランド、イギリス、アイスランド、エストニア、オランダ、デンマーク、スイス、ベルギー、スウェーデン、ノルウェーといった、一般に「治安がいい」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半からの事実である。 このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている。 ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのをもっとも恐れる用心深い気質があるとされており、刑法では、他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけただけでも暴行罪が成立する。 ヨーロッパ人の間に定着した偏見やデマの類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率はイギリス、デンマーク、アイルランド、スペイン、ポルトガル、オランダ、アイスランド、イタリア、ノルウェーなどといった国々より低い。 カトリックの影響もあり、ヨーロッパで最も厳しい中絶制限を行っておりレイプ、近親姦、母体の生命危機を除いて禁止されている。 国内24の地方紙の内20が与党系の企業の支配下にあり、国会での取材制限、反政府的なメディアへの攻撃、販売店の資本制限などを通じた外国メディアへの圧力などが起こっている。報道の自由は2013年の22位から2020年には62位と低下した。 ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18 - 49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている。 既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄がついている。投稿欄の文字数の制限はないか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。 インターネット上のメディアで英語版がもっとも充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。 ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理はおもに東欧、そのほかドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的には、味付けは質素でも料理の量が多く、ほぼすべてが農耕国であった東ヨーロッパの伝統を逸脱していない。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、キャベツや根野菜、主食のイモを多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、おもにクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理である。 「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国における多民族社会を反映し、ポーランド語だけでなく、ラテン語、イディッシュ語、リトアニア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、ドイツ語、エスペラント語といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。 中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀の歴史家でクラクフ司教でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代記である。ポーランド語による記述で現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀半ばにドイツ人修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀のヴロツワフ公ボレスワフ1世が后にかけたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい("Day ut ia pobrusa, a ti poziwai")」という労わりの言葉である。このころから古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。 15世紀に入ると、カトリック司祭で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュの文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年ごろにはポーランドでもっとも初期の複数の印刷工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展にもっとも貢献したのは詩人のヤン・コハノフスキで、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀以前のスラヴ人世界におけるもっとも偉大なる詩人であると評価されている。 続くバロック時代や啓蒙時代を通じてポーランド語文学は発展したが、ポーランド分割によってポーランド=リトアニア共和国が消滅したあとは、他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民的叙事詩『パン・タデウシュ』は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年にアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語』(日本語題)として映画化された。ポーランド立憲王国と旧リトアニア大公国の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国復活運動である対ロシア帝国1月蜂起が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちもっとも広く知られているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督によってアメリカ合衆国のハリウッドで同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチと、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモントという、2人のノーベル文学賞受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会に多く存在したユダヤ人コミュニティーを中心にイディッシュ語文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツやイツホク・レイブシュ・ペレツなどは多くの人気作品を残した。 一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ(ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリスに定住して英語で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学の代表的文豪の1人として、ジョセフ・コンラッドの筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカ合衆国やイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』、リドリー・スコット監督の『デュエリスト/決闘者』の原作である。 第二次世界大戦を経て、共産主義時代から民主化までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュと、同じく詩人で日本の歌川広重の浮世絵に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人のノーベル文学賞受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名で映画化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想科学文学(サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レムが新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカ合衆国でスティーヴン・ソダーバーグによってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。 この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学の前衛的存在となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で『チャンス』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人のジャージ・コジンスキーとして知られるイェジ・コシンスキなどがいる。 またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション文学が勃興した。その代表としては、日本でも『サッカー戦争』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀のもっとも偉大なジャーナリスト」(英ガーディアン紙)、「世界でもっとも偉大な報道記者」(独シュピーゲル紙)、「現代のヘロドトス」(独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙)などと評価される、リシャルト・カプシチンスキがいる。 ポーランド音楽の理論的発展のもっとも初期は13世紀でノートルダム楽派の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『ボグロジツァ(英語版)(神の母)』の歌曲がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国がリトアニア大公国やプロイセン連合と同盟してドイツ騎士団を討った1410年のグルンヴァルトの戦いでも合戦の際に歌われたと伝えられる。『ブーク・シェン・ロージ(英語版)(神が生まれる)』は歴代のポーランド王が戴冠する時に演奏されたポロネーズの曲で、1792年にはフランチシェク・カルピンスキ(英語版)によってポーランドのクリスマス・キャロルとしての歌詞が作られた。 16世紀になるとポーランド音楽は急速に発展した。クラクフの王宮であるヴァヴェル城の宮廷音楽家たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化したディオメデス・カトー(英語版)は、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の首都がワルシャワに移された16世紀の終わりごろより多数のイタリア人音楽家がポーランドに来て長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会や講義をした。ポーランドの音楽家たちはバロック音楽のスタイル、最新の楽器、通奏低音といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀初頭からはイタリアの影響を受けてオペラが盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかし、ポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わりごろよりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。 ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。オスカル・コルベルク(英語版)はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、20世紀半ばにポーランドが共産主義体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ音楽・舞踊団とシロンスク音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとってはコンサートホールでポーランドの伝統音楽に触れる機会を提供している。現在のポーランド各地には各コミュニティーの自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。 フレデリック・ショパンは、マズルカやポロネーズを在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスはおもに北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズはもともとポーランド貴族の舞踏会で演奏されるもので、フランス語で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽である。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後、ポロネーズはポーランドにおいても国中に広まった。 ポーランド南部の街ザコパネを中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽の作曲家のカロル・シマノフスキはこの地方の住民である「グラル人(「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器やバグパイプを用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではヴァイオリンやチェロを多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれによく合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ(krzesany)は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスである。 19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスネルはフレデリック・ショパンとイグナツィ・ドブジンスキ(英語版)を育てた。カロル・クルピンスキ(英語版)とスタニスワフ・モニューシュコはポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設であるワルシャワ大劇場が完成し、こけら落としとしてジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』が演じられた。ヘンリク・ヴィエニャフスキやユリウシュ・ザレンプスキがおもな作曲家に挙げられ、テクラ・バダジェフスカはアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。 19世紀末から20世紀初頭にはヴワディスワフ・ジェレンスキ、ミェチスワフ・カルウォーヴィチ、カロル・シマノフスキ、伝説のピアニストイグナツィ・パデレフスキは第一次大戦後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ヨーゼフ・コフラーは十二音技法を開拓した。 第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジナ・バツェヴィチ、ジグムント・ミチェルスキ(英語版)、ミハウ・スピサック(ポーランド語版)、タデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト』の主人公として有名なウワディスワフ・シュピルマンは大衆音楽の作曲家、ジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』がある。 第二次大戦後の社会主義時代はタデウシュ・バイルト、ボグスワフ・シェッフェル、ヴウォジミェシュ・コトンスキ(英語版)、ヴィトルト・シャロネック(英語版)、クシシュトフ・ペンデレツキ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ヴォイチェフ・キラール、カジミェシュ・セロツキ、ヘンリク=ミコワイ・グレツキ、クシシュトフ・メイエル、パヴェウ・シマンスキ、クシェシミール・デンプスキ(英語版)、ハンナ・クルエンティ(英語版)、エウゲニウシュ・クナピック(英語版)、パヴェウ・ミキェティン(英語版)などが活躍した。ジャズではクシシュトフ・コメダは同国出身のユダヤ系のロマン・ポランスキー監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん』の映画音楽を担当した。 5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクール、ソポト国際音楽祭はもっともよく知られたポーランド音楽の例である。 また、プシスタネック・ウッドストック(英語版)(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベントである。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちがリサイクル品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録としてギネスブックに載ることになった。ヴロツワフのジミ・フェスティバル(Jimi Festival)では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックスのファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。2009年には6300人が参加し世界でもっとも多い人数によるギターの合奏としてギネスブックに登録されたジミ・フェスティバルが、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、2014年5月の大会では7,344人が「Hey Joe」を演奏し、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7,273人)を塗り替えている。オポーレ国民音楽祭(英語版)はおもにポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレに集まる、まだ共産主義であった1980年代のうちにすでに民俗音楽部門のほかにロック部門とヒップホップ部門がある。 現在も、ポーランドの若い作曲家の創作力は衰えておらず、アガタ・ズベル、マーチン・スタンチック、ドミニク・カルスキ、アルトゥール・ザガイェフスキらは国際的な認知がある。 ポーランドの芸術は、その独自の特徴を保持しながら、屡々ヨーロッパの傾向を反映して来た歴史を持つ。ヤン・マテイコによって生み出されたクラクフ学派の歴史絵画は、ポーランドの歴史全体に亘る重要な出来事や当時の習慣などの記述的描写を編み出している。 ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもので、戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こじんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、セントラルヒーティングシステムがついている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。 首都ワルシャワに関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。高度成長を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向けマンション・オフィス・ホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の高層ビルが新たに出現することになっている。 ポーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとに跨っているものが1件)。ベラルーシとに跨って1件の自然遺産が登録されている。 史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件(クラクフ歴史地区とヴィエリチカ岩塩坑)がポーランドにある。 現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。 ※(休)は休日 ポーランドでも他のヨーロッパ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2012年にはウクライナとの共催によってUEFA EURO 2012が開催された。 さらに近年では、自国の総合格闘技団体KSWの影響でMMAの人気が高まっており、UFCでは元ライトヘビー級王者であるヤン・ブラホヴィッチや元ストロー級王者のヨアナ・イェンジェイチックを輩出している。 他方で、アダム・マリシュやカミル・ストッフなどの活躍により、スキージャンプも盛り上がりをみせている。 ポーランドでは、1926年にプロサッカーリーグのエクストラクラサが創設された。ポーランドサッカー協会(PZPN)によって構成されるサッカーポーランド代表は、FIFAワールドカップには9度の出場歴があり、1974年大会と1982年大会では3位に輝いている。UEFA欧州選手権には4度の出場歴があり、2016年大会ではベスト8の成績を収めた。 ポーランドにおける最も著名なアスリートとして、ロベルト・レヴァンドフスキが挙げられる。レヴァンドフスキは、これまでドイツ・ブンデスリーガの得点王を7度受賞しゲルト・ミュラーを超え、同リーグにおける1シーズンでの最多得点記録(41点)保持者である。UEFAチャンピオンズリーグにおいても、2019-20シーズンに自身初の得点王に輝いている。 ポーランドではサッカーの他、バレーボールも人気のあるスポーツとなっており、中でも男子代表は東欧の古豪として知られ、[1976年モントリオールオリンピック]で金メダル、世界選手権では3回優勝、欧州選手権では1回の優勝を誇り、強豪国の一角をなしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、波: Rzeczpospolita Polska [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔlita ˈpɔlska] ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称ポーランド(波: Polska、ポルスカ)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。首都はワルシャワ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同国は該当地域が「分割と統合」を幾度も繰り返す形で歴史を紡いで来た。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、1918年に独立を回復した。しかし第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された(ポーランド侵攻)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させた。ただし、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立。現在のポーランド共和国となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "冷戦時代は「東欧」に分類され、現在も国連は同様の分類である。国内および東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska() 発音 [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska] ( 音声ファイル)。通称 Polska。英語表記はPoland、国民はPolish、形容詞はPolish。日本語の正式表記はポーランド共和国、通称はポーランド。また、漢字表記は波蘭で、波と略記される。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ポーランドの国名の「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ族」「レック族」(Lechici)といい、また同時に「ポラン族」とも称した。「レフ」「レック」は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわち、ポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「共和国」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味するラテン語の「レス・プブリカ」の翻訳借用である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されていることや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化、ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実などが挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ポーランド人の基幹部族となったレフ族・ポラン族については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(英語版)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつといえる(詳しくは、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、ヴィェルバルク文化の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元はひとつであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったため、この文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。バルト人、トルコ人もこの地域に住んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture)」を持つほかのスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが、中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、ほかのスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク」と「ポーレ」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキ、Palyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "8世紀、それまでレフ族・ポラン族とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、のちに「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車や馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝(Piastowie)」を創始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ2世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(en)によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし、王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再びまとめ上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割し、そのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させた。そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえ、シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命してのちにフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年、クルシュヴィッツ条約に基づいてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利を認め、騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方殖民として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している。教皇にプロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、レグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い)。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破ったことは、東欧史上の大事件であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、クラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手がまったく足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった、ほかの事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていたためにユダヤ人にとって魅力があったため移民した)。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった)。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法であるマクデブルク法が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ドイツ騎士団の支配とともにドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌ともともと恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、のちにそれがポーランド文学の発展に役立った。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族(ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。ヴァルミア司教の叙任をめぐって、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して異議を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教とし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名:ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1573年、すべてのシュラフタが1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性指向がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヤン・ザモイスキは1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義(穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的な支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、すべての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事のすべての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度は、その後もザモイスキ家をはじめとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国とクリミア・タタール人のクリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家のひとつであったリトアニア大公国は、自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった。国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した。1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちでもっとも熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後、現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻し、モスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから、正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。度重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われたあと、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "立憲君主制、民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド・ロシア戦争)。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793 - 94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(コシチュシュコの蜂起)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。その広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後、スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子とともに半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、その後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。ナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあったエミリア・プラテルはシュラフタ(士族、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象とし、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあとも続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立したあともポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が猛反撃を開始し、逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍のとった思い切った機動作戦が成功してポーランド軍が赤軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全軍に撤退を指示。結果的にポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソビエト連邦につけ込まれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日には赤軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス地域を譲られたリトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月、ソ連側の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったために赤軍は故意に救援を行わず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定によりポーランド人民共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR)が寡頭政治を敷くポーランド人民共和国の社会主義体制時代であった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。カティンの森事件でポーランド亡命政府は、ソ連の発表の受け入れを拒否。スターリンは亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で、新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失った。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた(ポーランド人人口の移動 (1944-1946)(英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1952年、ポーランド人民共和国はPZPRの一党独裁制の政党となり、ソ連の最大でもっとも重要な衛星国となった。冷戦中、ワルシャワ条約機構や、1949年1月、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加した。社会主義体制への移行に伴い、密告、監視、言論統制を伴ったポーランドのソ連化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに構造改革された。ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ(英語版)。社会主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ソ連、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリーなどの同じ東側諸国のように集団農場と個人農地は国有化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ポーランド政府はおもに西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続いた。1973 - 74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補うため、さらなる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり欠乏経済(英語版)を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上でひどい悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し、力のなさを感じた。1979年6月にポーランド人ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、マルクス・レーニン主義無神論(英語版)の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1981年 - 1983年、ポーランドの戒厳令の期間に政府は反政府を潰すために戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、ほか100人ほどが抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行された。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した。戒厳令後も、市民の自由権はひどく制限された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、おもな食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した。ヤルゼルスキのもと、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である64万人が1981年 - 1989年の間に難民となり他国へ移民した。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの時期に拡大していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化し、政治を不安定化させた。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった。ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これでほかのシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ここまで自由民主主義国家として進んできたが、2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義(PiS)」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線をめぐってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないといわれるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会におけるすべての議席を喪失した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任した。トゥスクは中道右派として中小企業保護政策などを打ち出す一方、対外的には宥和政策を採り、長年遺恨のあるドイツやロシアとも一定の歩み寄りも見せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2009年11月27日、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり民間では自由に使用できるため観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っており、共産主義のマークを問題なく使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "12月1日に、民主化以来初の首相再選も果たしたトゥスクがEU大統領に就任され、首相は辞任することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2014年3月にロシアによるクリミアの併合が起きると民族主義が高まり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源を依存するドイツも批判した(ただし、ポーランドもロシアに依存している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2015年の選挙ではPiSが勝利、、憲法違反の疑いのある法律を次々に制定し、違憲審査権を行使する憲法法廷(憲法裁判所)の掌握を進め、EUとの対立が深まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2022年11月16日、ロシアによるウクライナ侵攻中、ポーランドにロシア製のミサイルが着弾し、市民二人が死亡した。ミサイルによる被害はNATOの歴史、加盟国にとって初の事例となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "政治体制は共和制。国家元首は大統領(任期5年)である。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は儀礼的な権限しか持たない。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的なものであり、実際の指揮権は首相が持つ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "行政は、1997年制定の憲法では閣僚評議会(内閣)が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する」(第146条3項)となっているため、閣僚評議会議長(首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う議院内閣制になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の下院に当たるセイム(sejm)の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相はマテウシュ・モラヴィエツキ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "立法はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ポーランドの法制度は、1,000年以上前の同国地域における歴史の最初の数世紀から発展して来た。ポーランドの公法および私法は成文化されている。傍ら、ポーランドにおける最高法はポーランド憲法(英語版)に基づいたものとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "なお、ポーランドは民法の法的管轄権を有しており、ポーランド民法典という民法典が定められている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "国際連合(UN)、欧州連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)といった地域国際機関にも加盟し、国連では東ヨーロッパグループ(EEG)に属している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "古くから争乱を繰り返す関係で、幾度もポーランド・ロシア戦争が起こった。そのため、現在でもポーランド人は強い反露感情を抱いているとされる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中には、ソ連はドイツと共に分割占領し、カティンの森事件などの虐殺事件をおこした。戦後はポーランド人民共和国として衛星国となっていたが、民主化後、特に2014年のウクライナ危機以降、ロシアの軍事力に対する警戒感が高まっている。2017年1月には、アメリカ軍がポーランドへの駐屯を開始し、西部ジャガンで歓迎式典が開かれた。在ポーランドアメリカ軍は最終的に兵員約3,500人、戦車87両の規模になる見通しである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ロシアの大統領報道官は「私達の安全に対する脅威」と反対の表明をした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2021年11月、ベラルーシとの国境付近に西アジアからの移民数千人が集結、ポーランドは軍を動員して移動を阻止した。同月9日、モラウィエツキ首相は国会で、ロシアが後ろ盾となっているとしてプーチン大統領を批判した。2022年2月に、ロシアによるウクライナ侵攻が起きると、国をあげてウォロディミル・ゼレンスキー政権支援に回り、最も多くの避難民受け入れや武器支援などを行った。ただし直接加勢はせず、武器も売却分もある。また、ロシアとのガス供給契約も打ち切ったが、実際はロシア産ガスをドイツを介して輸入することになる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2022年11月、前年に発生した不法移民の流入がロシアの飛び地であるカリーニングラード州から生じる恐れがあるとして、ポーランド国防相は新たにカリーニングラード州との国境沿いにフェンスを構築することを発表した", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1953年、ポーランドと東ドイツとの間で大戦中の補償請求権の放棄が行われたが、これはソ連の意向が強く働いたものと言われる。1990年、ドイツの再統一に向けてポーランドとドイツは国境条約に調印。1991年には善隣友好条約が結ばれた。2015年に右派政党「法と正義」が与党になると、1953年の請求権放棄はソ連の圧力下でなされたものとして、ドイツに対して戦後補償を求める議論が惹起し始めている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科とともに学科は維持され、日本語が教えられている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2002年には、同学科は天皇皇后の行幸啓を受けたほか、2008年には日本テレビ放送網の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の「世界日本語学校の旅」でポズナン大学日本語学科とともに、日本語を学ぶ大学生たちが紹介された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "さらに、ポーランド人による浮世絵のコレクションは質と量ともに世界屈指のもので、クラクフの日本美術技術博物館“マンガ”館には浮世絵を含む日本の文化財のコレクションが広く公開されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは、樺太に流刑になったことを契機に、樺太から北海道へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、アイヌの研究に業績を残した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児をシベリアから助けたことがある。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "カトリック教会聖職者で、後にホロコーストの犠牲となったマキシミリアノ・コルベは戦前に日本で布教活動を行い、「けがれなき聖母の騎士会」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、聖母の騎士高等学校は21世紀を迎えた現在も存続している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "コルベとともに布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー修道士は、長崎で原爆に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、東京では「世界最初の原子爆弾の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』というキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し、広島市と長崎市を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と世界に平和の構築を訴えた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ポーランド軍は", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "の五軍種と憲兵隊の合計6グループから構成され、5軍種では常時約14万人が活動し、予備役は約24万人。国防省が統括し、憲法で規定された最高司令官はポーランド大統領である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(GROM)、第1奇襲部隊(1 PSK)、海兵隊(Formoza)、特別兵站部隊の4つから構成される。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "徴兵制は廃止され、志願制が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2009年の予算は118億ドルで、これは世界第19位、国内総生産(GDP)の2%弱を占める。1989年の民主化後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構(NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2023年、マテウシュ・モラヴィエツキ首相はロシアによるウクライナ侵攻を受け、軍備拡大をさらに加速させてGDPの4%をポーランド軍に充てると表明した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "西でドイツ、南でチェコとスロバキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接しており、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海(Morze Bałtyckie)に面している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173メートルである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドでもっとも高いリシ山(標高2,499メートル)がある。南部の国境近くにはカルパティア山脈(タトラ山脈、ベスキディ山脈(英語版)を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ(Sudety)がある。深い森が多く、国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9,300もの湖のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "河川は以下の通り。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームからなる土壌によるものである。氷期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩からなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "著名な経済学者イェジ・レグルスキの構想のもと、1999年にイェジ・ブゼク政権が行った地方自治の大改革において県(województwo)が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な地方分権が成立した。県の下位自治体として郡(powiat)が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織(gmina)が合計2,489ある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "(アルファベット順)", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ポーランド経済は、2004年EU加盟後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EU Structural Funds)の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4 - 6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満)、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国のひとつであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "その後、ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構(OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34か国においても、ポーランドのほかにプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対してさまざまな貸し出し規制策を導入していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた。ポーランド・ウクライナ開催のUEFAユーロカップ2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた。しかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2004年のEU加盟後、ポーランド国民はEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つために、支持政党も急激に右寄りになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。ほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。一部ではホワイトカラーとしての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているためである。政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これはおもに国営企業の民営化による新規株式公開(IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトはおもにEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、1万3,000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手がいるためである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2010年、ECER-Banque Populaireが18か国37都市の4,500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に行った調査では、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラなどの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。評価がもっとも低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として、国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2015年版、フォーブスの「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、財産権の保証、イノベーションの多寡、税率、テクノロジーの発展具合、汚職の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、官僚主義の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2018年、国際連合は、平均余命、識字率、就学率、国内総生産により評価する人間開発指数 (HDI)、加盟193か国のうちで0.87につけた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍などにかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "小規模の手工業においては、琥珀製品やクリスマスツリーのガラスの飾り物の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には集団農場化と農地の国有化が行われた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの実に90%を占めるヤマドリタケ(本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴや日本向け馬肉および羽毛、ポーランドが世界の収穫高の半分を占め同時に世界最大の輸出国となっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴといったベリー類(ほかにラズベリーは世界4位、ビルベリーは欧州2位、その他セイヨウスグリ、クランベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどで世界トップクラスの生産高)などがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の3分の2をまかなう天然ガスなどを有する。ほかにも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆mに上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など約261社。そのほかのEU中東欧国への進出は、チェコ約186社、ハンガリー約140社、ルーマニア約100社。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "公式な統計では、2009年には12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるため正確な規模は分からない。ワルシャワ大学の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計のすべてを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦や清掃婦、農産物の収穫などの単純労働に就いている。2007年にはポーランドの家庭の15%がウクライナ女性を正規のメイドとして雇ったという。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、モルドバの4か国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ポーランドが近々ロシアのカリーニングラード州から、ロシア人の入国に対しビザなし渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃されたシェンゲン協定他国地域へもロシア人の不法入国や不法移民、不法就労が増加し、そしてロシアなどからの格安タバコの密輸により、EUは税金約85億ポンドを損失する。一方ポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザなし渡航許可をしている。ポーランド政府は「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない。彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアのウォッカを隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航実施によるロンドンやパリへの悪影響など微々たるものだ」と主張した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2022年時点で人口約3,801万人、97%がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)。少数民族は、1番人口の多いシレジア人、おもに東部に在住するルーシ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人)、リトアニア人、リプカ・タタール人などがいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "中世、ヤギェウォ朝やポーランド・リトアニア共和国などの東欧諸国の連合国時代には多民族国家であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "ユダヤ人の本格的なポーランド移住は第1回十字軍の行われた11世紀初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ各国や中東で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、13世紀に布告された「カリシュの法令」と、東方植民によるドイツ都市法のマクデブルク法によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "ホロコーストまでは、ポーランドには世界の70%のユダヤ人がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコーストにより虐殺された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "多くはホロコーストや共産主義、反ユダヤ主義を避けてアメリカ大陸やイスラエルなどに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる。ポーランド人の多くは先祖にサルマタイ人がいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "国民のほぼすべてが母語をポーランド語としている(ポーランド化)、併合した国の国民や多くの移民や政治難民を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人)、ルーシ族(ヴァリャーグ)、ユダヤ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり、互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "約40万種類あるといわれるポーランド人の姓は、その語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "そのため単一民族、実際は東・中欧では民族のるつぼでポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などとともにレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "表記はロシア語などで用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベットである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "少数民族の語源には、イディッシュ語、ヘブライ語やシレジア語、カライム語、ルシン語、ロマ語、タタール語がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "かつてのポーランドで広く話されていたルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ)のルーシ語は第二次世界大戦やホロコーストとヴィスワ作戦を経て国内ではほぼ消滅したとみられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "旧ドイツ領土など南部オポーレ地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "冷戦時代、ロシアの支配下でのソ連化の義務教育により、1960年代中期以前に生まれた世代のポーランド人はロシア語を解する人が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "1989年に東欧革命で共産主義が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "ロシア語(東スラヴ語群)はポーランド語(西スラヴ語群)と同じくスラヴ語に属し、ポーランド語話者がロシア語を修得するのは比較的容易とされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "リプカ・タタール人は、ポーランド化しタタール語を話さなくなっている。タタール人の家系でノーベル文学賞を受賞した小説家・叙事詩人のヘンリク・シェンキェヴィチはポーランド語の小説を書いた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "一般的には結婚申請の後、宣誓式を行ない、挙式日の決定後に挙式となる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "国際結婚の場合は民事婚と宗教婚の2種類があり、民事婚は戸籍局で行うが、宗教婚は教会での挙式後に戸籍局で登録を行なっている。ポーランドでは、同性カップルは結婚できない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上に上る。ポーランドの人口は3,800万人程度であることから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人がもっとも多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい(夫婦別姓)し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない(1964年)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "ポーランド語の姓には-ski(/〜スキ、女性は-ska/〜スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞を形容詞のように「〜の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "たとえばWiśnia(意味は「桜」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の〜」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon-やフランス語のde-などの使い方と同じであるため、中世には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた(アルベルト・ブルゼフスキの記事を参照)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "ポーランド国内の苗字人口上位25(2018年)は以下の通り(男女別)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "2020年の推計によるとカトリック85%、正教会1.3%、プロテスタント0.4%、その他の宗教0.3%、不明12.9%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "1999年9月1日より、従来のソ連方式の8・4制を改め、6・3・3制に移行した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "ポーランドの特徴のひとつはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の経済協力開発機構OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の成績は総じて高い。また国際数学コンペティションで総合優勝を果たしたこともあった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "2017年には、就職難のために若者の68%が四年制大学へ進学していた(当時の日本は49%)。この数字はOECD加盟国では8位(日本は23位)である。近年では、若者の95%が高校を卒業した後にも、短大を含めた大学型高等教育を受けることを望む希望者が多いという調査結果もあり、教育熱が日本や韓国の受験戦争時代以前から伝統的に非常に高い。ポーランドの階級社会では、高卒は原則ホワイトカラー職に就けない。これは、大学の入試倍率が極めて高いからである。しかし、2020年代のポーランドは大学を卒業したところで多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である。国立大学の授業料は無料でも、少子化は進行中である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "IT教育に熱心な国のひとつで、2014年に開催された第1回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "平均寿命は77.1歳。かつてはユニバーサルヘルスケアが実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "世論調査会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで国境を接する7か国(ドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ロシア)すべての人々のうち、ポーランド人がもっとも親近感を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "2013年における経済協力開発機構(OECD)加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36か国中日本に次いで2位、3位はイギリス。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "OECD加盟国内、人口10万人あたりの殺人発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件(日本、0.5件)。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "国連、UNODCによる人口10万人あたりの発生率では、強盗率(2012年)70か国中37位、43.67件(日本は64位、2.87件)。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "暴力行為の発生率も低く、OECD加盟国中でもっとも少ないほうから3位。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、アイルランド、イギリス、アイスランド、エストニア、オランダ、デンマーク、スイス、ベルギー、スウェーデン、ノルウェーといった、一般に「治安がいい」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半からの事実である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのをもっとも恐れる用心深い気質があるとされており、刑法では、他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけただけでも暴行罪が成立する。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人の間に定着した偏見やデマの類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率はイギリス、デンマーク、アイルランド、スペイン、ポルトガル、オランダ、アイスランド、イタリア、ノルウェーなどといった国々より低い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "カトリックの影響もあり、ヨーロッパで最も厳しい中絶制限を行っておりレイプ、近親姦、母体の生命危機を除いて禁止されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "国内24の地方紙の内20が与党系の企業の支配下にあり、国会での取材制限、反政府的なメディアへの攻撃、販売店の資本制限などを通じた外国メディアへの圧力などが起こっている。報道の自由は2013年の22位から2020年には62位と低下した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18 - 49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄がついている。投稿欄の文字数の制限はないか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "インターネット上のメディアで英語版がもっとも充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理はおもに東欧、そのほかドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的には、味付けは質素でも料理の量が多く、ほぼすべてが農耕国であった東ヨーロッパの伝統を逸脱していない。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、キャベツや根野菜、主食のイモを多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、おもにクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国における多民族社会を反映し、ポーランド語だけでなく、ラテン語、イディッシュ語、リトアニア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、ドイツ語、エスペラント語といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。 中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀の歴史家でクラクフ司教でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代記である。ポーランド語による記述で現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀半ばにドイツ人修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀のヴロツワフ公ボレスワフ1世が后にかけたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい(\"Day ut ia pobrusa, a ti poziwai\")」という労わりの言葉である。このころから古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "15世紀に入ると、カトリック司祭で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュの文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年ごろにはポーランドでもっとも初期の複数の印刷工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展にもっとも貢献したのは詩人のヤン・コハノフスキで、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀以前のスラヴ人世界におけるもっとも偉大なる詩人であると評価されている。 続くバロック時代や啓蒙時代を通じてポーランド語文学は発展したが、ポーランド分割によってポーランド=リトアニア共和国が消滅したあとは、他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民的叙事詩『パン・タデウシュ』は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年にアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語』(日本語題)として映画化された。ポーランド立憲王国と旧リトアニア大公国の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国復活運動である対ロシア帝国1月蜂起が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちもっとも広く知られているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督によってアメリカ合衆国のハリウッドで同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチと、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモントという、2人のノーベル文学賞受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会に多く存在したユダヤ人コミュニティーを中心にイディッシュ語文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツやイツホク・レイブシュ・ペレツなどは多くの人気作品を残した。 一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ(ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリスに定住して英語で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学の代表的文豪の1人として、ジョセフ・コンラッドの筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカ合衆国やイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』、リドリー・スコット監督の『デュエリスト/決闘者』の原作である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦を経て、共産主義時代から民主化までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュと、同じく詩人で日本の歌川広重の浮世絵に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人のノーベル文学賞受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名で映画化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想科学文学(サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レムが新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカ合衆国でスティーヴン・ソダーバーグによってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学の前衛的存在となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で『チャンス』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人のジャージ・コジンスキーとして知られるイェジ・コシンスキなどがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション文学が勃興した。その代表としては、日本でも『サッカー戦争』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀のもっとも偉大なジャーナリスト」(英ガーディアン紙)、「世界でもっとも偉大な報道記者」(独シュピーゲル紙)、「現代のヘロドトス」(独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙)などと評価される、リシャルト・カプシチンスキがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "ポーランド音楽の理論的発展のもっとも初期は13世紀でノートルダム楽派の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『ボグロジツァ(英語版)(神の母)』の歌曲がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国がリトアニア大公国やプロイセン連合と同盟してドイツ騎士団を討った1410年のグルンヴァルトの戦いでも合戦の際に歌われたと伝えられる。『ブーク・シェン・ロージ(英語版)(神が生まれる)』は歴代のポーランド王が戴冠する時に演奏されたポロネーズの曲で、1792年にはフランチシェク・カルピンスキ(英語版)によってポーランドのクリスマス・キャロルとしての歌詞が作られた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "16世紀になるとポーランド音楽は急速に発展した。クラクフの王宮であるヴァヴェル城の宮廷音楽家たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化したディオメデス・カトー(英語版)は、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の首都がワルシャワに移された16世紀の終わりごろより多数のイタリア人音楽家がポーランドに来て長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会や講義をした。ポーランドの音楽家たちはバロック音楽のスタイル、最新の楽器、通奏低音といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀初頭からはイタリアの影響を受けてオペラが盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかし、ポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わりごろよりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。 ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。オスカル・コルベルク(英語版)はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、20世紀半ばにポーランドが共産主義体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ音楽・舞踊団とシロンスク音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとってはコンサートホールでポーランドの伝統音楽に触れる機会を提供している。現在のポーランド各地には各コミュニティーの自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "フレデリック・ショパンは、マズルカやポロネーズを在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスはおもに北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズはもともとポーランド貴族の舞踏会で演奏されるもので、フランス語で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽である。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後、ポロネーズはポーランドにおいても国中に広まった。 ポーランド南部の街ザコパネを中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽の作曲家のカロル・シマノフスキはこの地方の住民である「グラル人(「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器やバグパイプを用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではヴァイオリンやチェロを多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれによく合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ(krzesany)は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスネルはフレデリック・ショパンとイグナツィ・ドブジンスキ(英語版)を育てた。カロル・クルピンスキ(英語版)とスタニスワフ・モニューシュコはポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設であるワルシャワ大劇場が完成し、こけら落としとしてジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』が演じられた。ヘンリク・ヴィエニャフスキやユリウシュ・ザレンプスキがおもな作曲家に挙げられ、テクラ・バダジェフスカはアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "19世紀末から20世紀初頭にはヴワディスワフ・ジェレンスキ、ミェチスワフ・カルウォーヴィチ、カロル・シマノフスキ、伝説のピアニストイグナツィ・パデレフスキは第一次大戦後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ヨーゼフ・コフラーは十二音技法を開拓した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジナ・バツェヴィチ、ジグムント・ミチェルスキ(英語版)、ミハウ・スピサック(ポーランド語版)、タデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト』の主人公として有名なウワディスワフ・シュピルマンは大衆音楽の作曲家、ジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "第二次大戦後の社会主義時代はタデウシュ・バイルト、ボグスワフ・シェッフェル、ヴウォジミェシュ・コトンスキ(英語版)、ヴィトルト・シャロネック(英語版)、クシシュトフ・ペンデレツキ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ヴォイチェフ・キラール、カジミェシュ・セロツキ、ヘンリク=ミコワイ・グレツキ、クシシュトフ・メイエル、パヴェウ・シマンスキ、クシェシミール・デンプスキ(英語版)、ハンナ・クルエンティ(英語版)、エウゲニウシュ・クナピック(英語版)、パヴェウ・ミキェティン(英語版)などが活躍した。ジャズではクシシュトフ・コメダは同国出身のユダヤ系のロマン・ポランスキー監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん』の映画音楽を担当した。 5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクール、ソポト国際音楽祭はもっともよく知られたポーランド音楽の例である。 また、プシスタネック・ウッドストック(英語版)(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベントである。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちがリサイクル品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録としてギネスブックに載ることになった。ヴロツワフのジミ・フェスティバル(Jimi Festival)では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックスのファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。2009年には6300人が参加し世界でもっとも多い人数によるギターの合奏としてギネスブックに登録されたジミ・フェスティバルが、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、2014年5月の大会では7,344人が「Hey Joe」を演奏し、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7,273人)を塗り替えている。オポーレ国民音楽祭(英語版)はおもにポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレに集まる、まだ共産主義であった1980年代のうちにすでに民俗音楽部門のほかにロック部門とヒップホップ部門がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "現在も、ポーランドの若い作曲家の創作力は衰えておらず、アガタ・ズベル、マーチン・スタンチック、ドミニク・カルスキ、アルトゥール・ザガイェフスキらは国際的な認知がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "ポーランドの芸術は、その独自の特徴を保持しながら、屡々ヨーロッパの傾向を反映して来た歴史を持つ。ヤン・マテイコによって生み出されたクラクフ学派の歴史絵画は、ポーランドの歴史全体に亘る重要な出来事や当時の習慣などの記述的描写を編み出している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもので、戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こじんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、セントラルヒーティングシステムがついている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "首都ワルシャワに関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。高度成長を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向けマンション・オフィス・ホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の高層ビルが新たに出現することになっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "ポーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとに跨っているものが1件)。ベラルーシとに跨って1件の自然遺産が登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件(クラクフ歴史地区とヴィエリチカ岩塩坑)がポーランドにある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "※(休)は休日", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "ポーランドでも他のヨーロッパ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2012年にはウクライナとの共催によってUEFA EURO 2012が開催された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "さらに近年では、自国の総合格闘技団体KSWの影響でMMAの人気が高まっており、UFCでは元ライトヘビー級王者であるヤン・ブラホヴィッチや元ストロー級王者のヨアナ・イェンジェイチックを輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "他方で、アダム・マリシュやカミル・ストッフなどの活躍により、スキージャンプも盛り上がりをみせている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "ポーランドでは、1926年にプロサッカーリーグのエクストラクラサが創設された。ポーランドサッカー協会(PZPN)によって構成されるサッカーポーランド代表は、FIFAワールドカップには9度の出場歴があり、1974年大会と1982年大会では3位に輝いている。UEFA欧州選手権には4度の出場歴があり、2016年大会ではベスト8の成績を収めた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "ポーランドにおける最も著名なアスリートとして、ロベルト・レヴァンドフスキが挙げられる。レヴァンドフスキは、これまでドイツ・ブンデスリーガの得点王を7度受賞しゲルト・ミュラーを超え、同リーグにおける1シーズンでの最多得点記録(41点)保持者である。UEFAチャンピオンズリーグにおいても、2019-20シーズンに自身初の得点王に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "ポーランドではサッカーの他、バレーボールも人気のあるスポーツとなっており、中でも男子代表は東欧の古豪として知られ、[1976年モントリオールオリンピック]で金メダル、世界選手権では3回優勝、欧州選手権では1回の優勝を誇り、強豪国の一角をなしている。", "title": "スポーツ" } ]
ポーランド共和国、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。
{{Otheruses|ヨーロッパ東部にある国家|その他}} {{基礎情報 国 | 略名 = ポーランド | 日本語国名 = ポーランド共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|pl|Rzeczpospolita Polska}}''' | 国旗画像 = Flag of Poland.svg | 国章画像 = [[ファイル:Herb Polski.svg|100px|ポーランドの国章]] | 国章リンク = ([[ポーランドの国章|国章]]) | 標語 = なし{{sup|1}} | 国歌 = [[ドンブロフスキのマズルカ|{{lang|pl|Mazurek Dąbrowskiego}}]]{{pl icon}}<br />''ドンブロフスキのマズルカ''<br />{{center| [[File:Mazurek Dabrowskiego.ogg]]}} | 位置画像 = Poland (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ポーランド語]] | 首都 = [[ワルシャワ]] | 最大都市 = ワルシャワ | 元首等肩書 = [[ポーランドの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[アンジェイ・ドゥダ]] | 首相等肩書 = [[ポーランドの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ドナルド・トゥスク]] | 面積順位 = 70 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 312,679 | 水面積率 = 2.6% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 38 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 3784万7000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/pl.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-5}}</ref> | 人口密度値 = 123.6<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 2兆3238億5900万<ref name="imf2020">{{Cite web |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=964,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=World Economic Outlook Database |publisher=[[国際通貨基金|IMF]] |language=英語|accessdate=2021-10-14}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 22 | GDP値MER = 5959億1600万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 1万5699.296<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 24 | GDP値 = 1兆2968億4500万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 = 3万4165.133<ref name="imf2020" /> | 建国形態 = [[独立]] | 建国年月日 = [[ロシア帝国]]から<br />1918年11月11日 | 通貨 = [[ズウォティ]] | 通貨コード = PLN | 時間帯 = +1 | 夏時間 = +2 | ISO 3166-1 = PL / POL | ccTLD = [[.pl]] | 国際電話番号 = 48 | 注記 = 注1:ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、''Bóg, Honor, Ojczyzna''(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。 }} '''ポーランド共和国'''(ポーランドきょうわこく、{{Lang-pl-short|Rzeczpospolita Polska}} {{IPA-pl|ʐɛt͡ʂpɔˈspɔlita ˈpɔlska|}} ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称'''ポーランド('''{{Lang-pl-short|Polska}}、ポルスカ)は、[[中央ヨーロッパ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[欧州連合]](EU)、[[北大西洋条約機構]](NATO)の加盟国。首都は[[ワルシャワ]]。 北は[[バルト海]]に面し、北東は[[ロシア]]の[[飛地]][[カリーニングラード州]]と[[リトアニア]]、東は[[ベラルーシ]]と[[ウクライナ]]、南は[[チェコ]]と[[スロバキア]]、西は[[ドイツ]]と国境を接する。 == 概要 == 同国は該当地域が「'''分割と統合'''」を幾度も繰り返す形で歴史を紡いで来た。[[10世紀]]に国家として認知され、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけ[[ポーランド・リトアニア共和国]]を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。[[18世紀]]、3度にわたって他国に分割された末に消滅([[ポーランド分割]])、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた<ref name=date/>。 [[第一次世界大戦]]後、1918年に[[ポーランド第二共和国|独立を回復]]した。しかし[[第二次世界大戦]]時、[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された([[ポーランド侵攻]])。 戦後1952年、[[ポーランド人民共和国]]として[[主権|国家主権]]を復活させた。ただし、[[ポーランド統一労働者党]]([[共産党]])による一党独裁体制であり、[[ソビエト連邦|ソ連]]に従属する[[衛星国]]であった。 1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立<ref name=date/>。現在の'''ポーランド共和国'''となった。 [[冷戦]]時代は「[[東ヨーロッパ|東欧]]」に分類され、現在も国連は同様の分類である。国内および東側諸国の民主化([[東欧革命]])とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「[[中央ヨーロッパ|中欧]]」または「[[中東欧]]」として分類している。 == 国名 == {{Main|{{仮リンク|ポーランドの国名|en|Names of Poland}}}} {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:EC map of poland.png|thumb|200x200px|ポーランド]] 正式名称はポーランド語で {{読み仮名|{{lang|pl|Rzeczpospolita Polska}}|ジェチュポスポリタ・ポルスカ}} {{IPA-pl|ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska|pron|Pl-Rzeczpospolita_Polska.ogg}}。通称 {{audio|Pl-Polska.ogg|{{Lang|pl|Polska}}|help=no}}。英語表記はPoland、国民はPolish、形容詞はPolish。日本語の正式表記は'''ポーランド共和国'''、通称は'''ポーランド'''。また、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''波蘭'''で、'''波'''と略記される。 ポーランドの国名の「ポルスカ」<ref group="注釈">{{lang-pl|Polska}}</ref>は野原を意味する「ポーレ」<ref group="注釈">{{lang-pl|pole}}</ref>が語源と言われている。最初にポーランドを建国した[[部族]]は「レフ族」「レック族」<ref group="注釈">{{lang-pl|Lechici}}</ref>([[:en:Lechites|Lechici]])といい、また同時に「[[西ポラン族|ポラン族]]」<ref group="注釈">{{lang-pl|Polanie}}</ref>とも称した。「レフ」「レック」<ref group="注釈">{{lang-pl|Lech}}</ref>は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわち、ポルスカはこの'''「ポラン族の国」'''というのが元来の意味となる。 「[[共和国]]」に相当する「[[ジェチュポスポリタ]]」は、「公共のもの」を意味する[[ラテン語]]の「レス・プブリカ」<ref group="注釈">{{lang-la-short|res publica}}</ref>の[[翻訳借用]]である。レスには「物」や「財産」という意味があり、[[ポーランド語]]ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。 == 歴史 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{ポーランドの歴史}}{{Main|ポーランドの歴史|ポーランド王国}} === ポーランド王国成立以前 === [[ファイル:Przeworsk culture.png|thumb|プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)|200x200px]] ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため[[先史時代]]から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古の[[チーズ]]」製造の痕跡がポーランドで発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2916512?pid=9989394|title=7000年前にチーズ作り、土器に証拠発見 ネイチャー|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>http://mainichi.jp/feature/news/20121213reu00m030007000c.html</ref>ことや、[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる[[球状アンフォラ文化]]やそれを継承した[[戦斧文化|縄目文土器文化]]、[[ルサチア文化]](ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実などが挙げられる。 ポーランド人の基幹部族となったレフ族・ポラン族については、[[古代ローマ]]時代の歴史家[[タキトゥス]]の本『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「{{仮リンク|ルギイ人 (タキトゥス)|en|Rugii|label=ルギイ族}}」<ref group="注釈">Lugii</ref>との関連が指摘されている。彼らは「[[プシェヴォルスク文化]]」と呼ばれる、周辺の[[ゲルマン人|ゲルマン]]諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族は[[ヴァンダル族]]の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化は、当時[[ゴート族]]のものと推定される[[ヴィスワ川]]東岸付近一帯の[[ヴィェルバルク文化]]を挟んではるか東方にあった原[[スラヴ人]]の「[[ザルビンツィ文化]]」と似通っていることが[[考古学]]調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつといえる(詳しくは、[[プシェヴォルスク文化]]、[[ザルビンツィ文化]]、[[ヴィェルバルク文化]]の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元はひとつであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったため、この文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族の[[イラン系民族]]の[[サルマタイ人]]や[[スキタイ]]人が定住していた。[[バルト人]]、[[トルコ人]]もこの地域に住んでいた。 [[ファイル:Piastus.PNG|thumb|293x293px|レフ族(ポラン族)の長ピャスト]] [[4世紀]]、プシェヴォルスク文化の担い手は、西の[[オーデル川|オドラ川]](オーデル川)と東の[[ヴィスワ川]]が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由から[[フン族]]の侵入を免れ、[[ゲルマン民族の大移動]]の後に東方からやってきて[[中欧]]に定住した「プラハ・コルチャク文化([[:en:Early Slavs|Prague-Korchak culture]])」を持つほかの[[スラヴ]]諸部族と混交して拡大していったものが、中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、ほかの[[スラヴ語]]、たとえば[[ロシア語]]では今でも「ルーク」<ref group="注釈">ロシア語ラテン文字翻字:{{lang|ru-Latn|Lug}}</ref>と「ポーレ」<ref group="注釈">ロシア語ラテン文字翻字:{{lang|ru-Latn|Pole}}</ref>はどちらも「野原」を原義とする言葉である。[[ロシア人]]を含む[[東スラヴ人]]はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキ、Palyakhiと呼ぶ)。[[リトアニア語|リトアニア人]]はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、[[ハンガリー人]]はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。 [[6世紀]]までにはこの地に現在の[[スラヴ民族]]が定住し、一種の[[環濠集落]]を多数建設した。遅くとも[[8世紀]]までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が[[異教徒|異教]](非キリスト教)の諸国家を築いていた。 [[8世紀]]、それまでレフ族・ポラン族とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、のちに「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく[[荷車]]や[[馬車]]などを製造する原初的[[マニュファクチュア]]を経営していた人物(一説にはポピェリドの[[宮宰]]だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「[[ピャスト朝]](Piastowie)」を創始した。 <gallery> Origins 300BC.png|紀元前のポーランドとその周辺(Zarubinskyは正しくはZarubintsy) Origins 200 AD.png|3世紀ごろのポーランドとその周辺<br />チェルニャコヴォ文化(Chernyakhov)は原スラヴ人と[[サルマタイ人]]の混合文化 Origins 700.png|8世紀ごろのポーランドとその周辺 </gallery> === 王国の黎明期 === [[ファイル:Polska 992 - 1025.png|thumb|濃いピンクは992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国領、赤太線は1025年に確定したポーランド王国の国境線。<br />王国の国境線の外側にある濃いピンク、濃い黄色、青の地域はボレスワフ1世が治めていた王国外の属領|200x200px]] [[ファイル:Mieszko I of Poland.jpeg|thumb|建国の父ミェシュコ1世|251x251ピクセル]] [[ファイル:Matejko-chrobry at Kiev (Kijow).jpg|thumb|初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城|298x298px]] [[ファイル:Drzwi gnieznienskie widok ogolny.jpg|thumb|267x267px|グニェズノ大聖堂の扉]] [[ファイル:Lech 111.PNG|269x269px|サムネイル|10世紀、レフ族・レヒト人・レヒ人]] 966年、[[ピャスト朝]]レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長[[ミェシュコ1世|ミェシュコ]]が近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗して[[ミェシュコ1世]]公となり、国家は'''ポーランド公国'''として[[西欧]]キリスト教世界に認知された。 992年にミェシュコ1世の息子[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼は[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]や[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の[[神聖ローマ帝国]]、[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ2世]]の[[デンマーク]]と積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都[[ポズナニ]]近郊の[[グニェズノ]]へ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに[[大司教|大司教座]]を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも[[神聖ローマ皇帝]]の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南の[[ボヘミア]]へ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めて[[キエフ・ルーシ]]を攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和([[:en:Pokój w Budziszynie/Frieden von Bautzen|en]])により[[マイセン]](ポーランド語でミシニャ)と[[ラウジッツ]](ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果[[中欧]]に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世の[[イングランド王国|イングランド]]遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、[[北海帝国]]の建設を援助した。1020年には[[クラクフ]]のヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。 1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス19世 (ローマ教皇)|ヨハネス19世]]によってポーランド公国は王国として認知されて'''[[ポーランド王国]]'''となり、国境を確定した。王国領は[[西ポモージェ県|西ポモージェ地方]]を除く現在のポーランド、[[チェコ]]の[[モラヴィア]]地方、[[スロヴァキア]]のほぼ全域、[[オーストリア]]の一部、[[ハンガリー]]の一部、ドイツの[[ラウジッツ]]地方、[[ウクライナ]]の「[[赤ルーシ]]」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、[[ベラルーシ]](白ルーシ)の[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]地方、ドイツの[[ラウジッツ]]地方と[[マイセン]]地方となる。 ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の[[戴冠式]]を受けたのは息子の[[ミェシュコ2世]]である。しかし、王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。 1038年、時のポーランド公[[カジミェシュ1世]]は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、[[クラクフ]]へと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再びまとめ上げた。また、公は[[ヴァヴェル大聖堂]]を大改築し、クラクフと[[ヴロツワフ]]に[[司教|司教座]]を置いた。その長男で1058年に公位を継いだ[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた[[叙任権闘争]]をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。 === 長い分裂時代 === [[ファイル:TestamentKrzywoustego.png|thumb|ボレスワフ3世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド: {{legend|pink|クラクフ大公領}} {{legend|blue|シロンスク公領}} {{legend|cyan|マゾフシェ公領}} {{legend|green|ヴィエルコポルスカ公領}} {{legend|yellow|サンドミェシュ公領}} {{legend|gray|后の相続領}} {{legend|limegreen|ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領}}|200x200ピクセル]] 1138年、[[ボレスワフ3世 (ポーランド王)|ボレスワフ3世]]は王国の領土を7つに分割し、そのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させた。そのうちの長男[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド大公)|ヴワディスワフ2世]]にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな[[領邦]]に分裂していった。 1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]])からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「[[シロンスク・ピャスト家|シロンスク・ピャスト朝]]」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地の[[ピャスト朝|ピャスト家]]が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえ、シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から[[破門]]され、神聖ローマ帝国へ亡命してのちにフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた([[庶子]]の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。 1226年、ポーランドの[[コンラト1世 (マゾフシェ公)]]は隣国の異教徒[[プルーセン人]]に対する征討と教化に手を焼いて<ref>東欧史、山川出版社, 1977 p183</ref>、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団の[[プロイセン]]領有が認められ、1230年、クルシュヴィッツ条約に基づいてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利を認め、騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを[[東方殖民]]として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。 ==== モンゴル帝国の侵攻、ドイツ騎士団(東方殖民)、ユダヤ人移民 ==== [[ファイル:Henryk Pobozny.jpg|thumb|レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世|204x204ピクセル]] {{Main|モンゴルのポーランド侵攻}} 1241年にはモンゴルの[[バトゥ]]の軍の一部が[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド南部に来襲]]し、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}や[[クラクフ]]など南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。{{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}}は全ヨーロッパを震撼させた。[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世教皇]]は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している<ref>伝統思想と民衆、河原宏 成文堂, 1987. 174 ページ</ref>。教皇に[[プロイセン]]のドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていた[[ヘンリク2世]]はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、[[レグニツァ]]でモンゴル軍を迎え撃った([[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]])。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破ったことは、東欧史上の大事件であった。 まもなくモンゴル軍は{{要校閲範囲|[[アジア]]へ引き返した|date=2022年10月}}が、クラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手がまったく足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法の[[マクデブルク法]]、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった<ref>Oskar Halecki, W:F. Reddaway, J. H. Penson. "The Law of Magdeburg used in Poland". The Cambridge History of Poland. CUP (Cambridge University Press) Archive. pp. 133–136. ISBN 1001288025. Retrieved October 23, 2012.</ref>、ほかの事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていたためにユダヤ人にとって魅力があったため移民した<ref>{{cite web|url=https://jewishhistorylectures.org/2013/12/05/origins-of-polish-jewry-this-week-in-jewish-history/|title=Origins of Polish Jewry (This Week in Jewish History)|date=5 12月 2013|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>)。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された[[硬貨]]の発行などに携わった<ref name="auto">The Polish Jews Heritage – Genealogy Research Photos Translation". polishjews.org. 2009. Retrieved September 30, 2015.</ref>)。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの[[都市法]]である[[マクデブルク法]]が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。 ドイツ騎士団の支配とともにドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌ともともと恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、のちにそれがポーランド文学の発展に役立った。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された[[硬貨]]の発行などに携わった<ref name="auto" />。 ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。 === 黄金時代 === [[ファイル:CasimirtheGreat.jpg|thumb|名君カジミェシュ3世「大王」|250x250ピクセル]][[ファイル:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem.jpg|thumb|200x200px|グルンヴァルトの戦い<br />ポーランド軍の農民兵がドイツ騎士団総長[[ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン]](中央左の馬上の白黒の衣装の人物)を討つ瞬間]] [[ファイル:Unia Lubelska.JPG|thumb|ルブリン合同<br />ポーランド=リトアニア共和国の誕生|200x200ピクセル]] [[ファイル:Rzeczpospolita.png|thumb|200px|ポーランド王国の最大版図]] [[ファイル:Albert Brudzewski.jpg|thumb|221x221px|[[アルベルト・ブルゼフスキ]]教授]] {{Main|ポーランド・リトアニア共和国}} [[14世紀]]にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮した[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]])の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](西部[[ウクライナ]])を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王は[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]](ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。 ==== ヤギェウォ朝 ==== 王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]とリトアニア大公[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]](ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国と[[リトアニア大公国]]は[[同君連合|人的同君連合]]をした。[[ポーランド・リトアニア連合|ポーランド=リトアニア連合]]を形成した([[クレヴォの合同]])。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、[[ボヘミア王国]]および[[ハンガリー王国]]の王朝である[[ヤギェウォ朝]]がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合は[[グルンヴァルトの戦い]]で[[ドイツ騎士団]]を討った。 1414年、[[コンスタンツ公会議]]ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時[[異教徒]]の国であった[[リトアニア]]とキリスト教徒の国である[[ポーランド王国]]が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から[[絶滅]]されるべきである」と主張した。ポーランド[[全権]]で[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]]校長であった[[パヴェウ・ヴウォトコヴィツ]]([[ラテン語]]名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような[[異教徒]]であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利([[国家主権]])、平和に暮らす権利([[生存権]])、自らの財産に対する権利([[財産権]])を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの([[自衛権]])はまったく正当である」と述べた。教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]は異教徒の人権についての決定はしなかった。 1430年にリトアニア大公の[[ヴィータウタス]](ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所では[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、ある場所では[[プロテスタント]]、ある場所では[[正教会]]、ある場所([[リプカ・タタール人]]の[[共同体]])では[[イスラム教]]、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。[[ファイル:Polish-Lithuanian_Commonwealth_(1619).png|thumb|200x200px|'''巨大化した第1共和国'''<br />ポーランド王国(濃いピンク)/リトアニア(薄紫)/プロシア公領(肌色)/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄いグレー)/エストニア(黄緑)]] 1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王と[[プロイセン連合]]を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、[[第二次トルンの和約]]により[[ドイツ騎士団領]]は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を[[宗主国]]とする[[属国]]となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会([[セイム]])への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。[[ヴァルミア]]司教の叙任をめぐって、これをポーランドの[[グニェズノ]]の大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して異議を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教とし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。 [[ファイル:Sigismundus II Augustus of Poland.PNG|thumb|right|200px|名君ジグムント2世アウグスト]][[ファイル:Grottger Escape of Henry of Valois.jpg|thumb|200px|国王ヘンリク・ヴァレジの逐電(ワルシャワ国立博物館蔵)]] [[ファイル:Kober_Stephen_Bathory.jpg|thumb|200px|名君ステファン・バートリ]] 1543年、[[トルン]]出身で[[クラクフ大学]]卒業生のミコワイ・コペルニク([[ラテン語]]名:[[ニコラウス・コペルニクス]])は著書『[[天球の回転について]](De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、[[地動説]]を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父で[[ヴァルミア]]司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、[[クラクフ大学]]におけるコペルニクスの恩師である人気教授[[アルベルト・ブルゼフスキ]]は[[月の軌道]]計算で世界的に名を挙げ、月が[[楕円軌道]]を描いていること、そして常に同じ面を[[地球]]に向けていることを指摘している。 1569年、国王[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世アウグスト]]の幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合([[ルブリン合同]])してポーランド王を統一君主とする[[同君連合|物的同君連合]]で制限つきながらも[[議会制民主主義]]を採る「'''[[ポーランド=リトアニア共和国]]'''」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。 [[ファイル:Jan Zamoyski.jpg|thumb|200px|名宰相[[ヤン・ザモイスキ]]]] ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべての[[シュラフタ]](ポーランド貴族)が参加する選挙([[国王自由選挙]])によって国王を決定する「選挙王政」をとる[[貴族共和国]]になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に[[選挙権]]が付与されていた。[[アメリカ合衆国]]が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。 1573年、すべての[[シュラフタ]]が1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの[[国王自由選挙]]で選ばれた最初のポーランド国王は[[フランス王]][[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]と[[イタリア人]]の王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]の息子である[[フランス人]]ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]])であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「[[ヘンリク条項]]」によりポーランドで事実上の[[立憲君主制]]([[シュラフタ]]層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、[[両性愛|バイセクシュアル]]であった自身の[[性的指向|性指向]]がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていた[[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]を女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。 ==== ポーランド・リトアニア共和国 ==== [[ヤン・ザモイスキ]]は1578年に大法官([[内閣総理大臣]])に就任し、1580年にはクラクフ[[城代]]を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である[[ポーランドとリトアニアのヘトマン一覧|王冠領大ヘトマン]](大元帥)を兼任し、現在の[[立憲君主制]]の国家の[[首相]]に相当する強大な[[行政権]]を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な[[自由主義]](穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模の[[シュラフタ]]たちからは圧倒的な支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては[[農奴制]]を禁止し、すべての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱える[[ルネサンス]]思想にも同調し、[[イタリア]]から建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「[[ザモシチ]]」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事のすべての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「[[黄金の自由]]」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度は、その後もザモイスキ家をはじめとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法([[5月3日憲法]])を制定した基礎となっていった。 === 対外戦争の時代 === [[ファイル:Polish-Swedish union 1592-1599.PNG|left|thumb|ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合|200x200ピクセル]] [[ファイル:Kolumna Zygmunta statua 2006.jpg|thumb|200px|ジグムント3世<br />ワルシャワ王宮前の王柱頂上の立像]] [[ファイル:Polish-Lithuanian commonwealth 1619 map.png|left|thumb|1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線|200x200ピクセル]] [[ファイル:Sobieski Sending Message of Victory to the Pope.jpg|thumb|ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世|200x200ピクセル]] ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人の[[オスマン帝国]]と[[クリミア・タタール人]]の[[クリミア・ハン国]]と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そして[[モスクワ大公国]]と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家のひとつであったリトアニア大公国は、自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった。国は[[封建制]]となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「[[カピチュレーション|恒久平和]]」で侵略の脅威を免れることができた。この時期に[[シュラフタ]]が発展した<ref>Davies, Norman (2005a). God's Playground:A History of Poland, Volume I (2nd ed.). Oxford:Oxford University Press. ISBN 978-0-231-12817-9. pp. xxviii-xxix</ref>。1592年、ポーランド=リトアニア共和国は[[スウェーデン|スウェーデン王国]]と[[人的同君連合|同君連合]]となった。時の国王[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]](スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における[[対抗宗教改革]]の尖峰となっていた[[イエズス会]]によって教育され、歴代の王のうちでもっとも熱狂的な[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の闘士となった。戴冠した当初は当時の[[首都]]であった[[クラクフ]]に居を構えていたが、1596年には将来の[[スカンジナヴィア|スカンジナヴィア諸国]]、[[バルト諸国|バルト海沿岸地域]]、[[ルーシ|ルーシ諸国]]といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地として[[ワルシャワ]]に[[遷都]]した。以後、現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で[[摂政]]を務めていた[[プロテスタント]]教徒の[[カール9世 (スウェーデン王)|カールの反乱]]が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに[[簒奪]]され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。 1611年、ジグムント3世は[[モスクワ大公国]]の自由主義的な大公国貴族([[ボヤーレ]])たちの求めに応じて東方へと侵攻し、[[モスクワ|モスクワ市]]を占領した([[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]])。ジグムント3世が占領中に「[[ロシア皇帝]]位には[[カトリック教会|カトリック教徒]]のポーランド国王あるいはその[[皇太子|王太子]]のみが就く」という布告を出したことから、[[正教徒]]であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。度重なる戦争([[ポーランド・スウェーデン戦争]]、[[大洪水時代]])によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。 1683年に[[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]を撃退し、全ヨーロッパの英雄となった[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]王は以後、行き過ぎた地方分権による[[無政府状態]]化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため[[世襲制|世襲王政]]の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による[[立憲君主制]]の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、[[国庫]]は逼迫し、国力は衰退していった。 === 近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割 === [[ファイル:JPoniatowski.JPG|thumb|left|310x310px|プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ将軍]] [[ファイル:Tadeusz Kościuszko.PNG|thumb|left|267x267px|タデウシュ・コシチュシュコ将軍]] [[ファイル:Polish-Lithuanian Commonwealth 1789-1792.PNG|thumb|[[5月3日憲法|五月三日憲法]]時代のポーランド<br />[[グダンスク]](ダンツィヒ)が[[飛び地]]になっている|200x200ピクセル]] [[ファイル:Rzeczpospolita Rozbiory 3.png|thumb|ポーランド分割|200x200ピクセル]] {{Main|ポーランド分割}} 18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。 [[18世紀]]後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領([[ポーランド分割]])された。1772年に第一次ポーランド分割が行われたあと、[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世]]王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「[[5月3日憲法]]」)。この憲法によって[[王権]]の[[世襲制]](選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに[[立憲君主制]]が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて[[行政]]が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに[[国民教育委員会]](Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。 [[立憲君主制]]、[[民主主義]]の[[王政]]に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力は[[ロシア]]の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした([[ポーランド・ロシア戦争 (1792年)|ポーランド・ロシア戦争]])。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793 - 94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された([[コシチュシュコの蜂起]])。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。その広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域は[[ロシア帝国]]に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後、スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子とともに半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。 ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務する[[ポーランド立憲王国]]を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。 === 束の間の再興 === {{Main|ワルシャワ公国}} ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキは[[ナポレオン戦争]]にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドは[[ワルシャワ公国]]として再び独立した。しかし、その後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンの[[ライプツィヒ]]で敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の[[殿軍]]の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が失脚すると、1815年の[[ウィーン会議]]によって、ポーランドは[[ロシア皇帝]]を元首とする[[ポーランド立憲王国]](会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特に[[フランス]]に[[亡命]]した。 === 独立運動の時代 === [[ファイル:Chopin denkmal wwa.jpeg|thumb|ワルシャワ、ワジェンキ水上宮殿の庭園にあるショパン像|200x200ピクセル]] [[ファイル:Emilia Plater 2.PNG|thumb|272x272px|英雄[[エミリア・プラテル]]]] {{Main|ポーランド立憲王国}} ==== 十一月蜂起 ==== ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。[[フランス]]や[[ベルギー]]の革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指して「[[十一月蜂起]]」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあった[[エミリア・プラテル]]は[[シュラフタ]]([[士族]]、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。 ==== 一月蜂起 ==== [[ファイル:Rok 1863 Polonia.JPG|thumb|ロシアに鎮圧された一月蜂起<br />擬人化されたポーランド(手前の女性)とリトアニア(奥の女性)|200x200ピクセル]] 1856年にロシア帝国が[[クリミア戦争]]に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧[[ポーランド王国]]領と、旧[[リトアニア大公国]]領で同時に「[[一月蜂起]]」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が[[絞首刑]]にされ、十数万人が[[シベリア]]の[[イルクーツク]]などに[[流罪|流刑]]となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html|title=JOG(142) 大和心とポーランド魂|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 ==== ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国 ==== [[プロイセン王国]]内の旧[[ポーランド王国]]領である[[ポーゼン州]](旧[[ポズナン大公国]])では、1871年からは[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の[[文化闘争]]により、[[ポーランド人]]に対する抑圧政策が行われた。文化闘争は[[ドイツ人]]も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象とし、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。 ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策は[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]がビスマルクを解任したあとも続けられ、[[ドイツ帝国]]が[[第一次世界大戦]]で敗北した1918年に終了した。 [[ファイル:Polish Regents 1916.jpg|thumb|ポーランド王国の3人の摂政と衛兵|200x200ピクセル]] 1916年、第一次世界大戦の最中に[[ドイツ帝国]]によってその[[衛星国]]としての[[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド王国]]が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが[[総督]]となり、3人のポーランド人が[[摂政]]を務め、6人のポーランド人政治家が歴代[[首相]]となった。 2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドの[[ジヴィエツ]]に住み流暢な[[ポーランド語]]を話した[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族[[カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ|カール・シュテファン大公]](ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立したあともポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今も[[ガリツィア]]地方に住んでいる<ref>{{cite web|url=http://bielskobiala.naszemiasto.pl/wydarzenia/593159.html|title=Wydarzenia Bielsko-Biała|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 === 独立と第二共和国 === {{Main|ポーランド第二共和国}} 1918年11月11日に[[第一次世界大戦]]が終結すると、[[ヴェルサイユ条約]]の[[民族自決]]の原則により、旧[[ドイツ帝国]]と[[ソビエト連邦]]から領土が割譲され、[[ユゼフ・ピウスツキ]]を[[国家元首]]として[[共和制]]のポーランド国家が再生した。 [[ファイル:Polen-Karte-Heute-300x296.png|thumb|現ポーランド領におけるドイツ帝国領だった地域|200x200ピクセル]] [[ファイル:Jozef Pilsudski1.jpg|thumb|ユゼフ・ピウスツキ|277x277ピクセル]] 1920年には[[ソビエト連邦]]に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、[[ポーランド・ソビエト戦争]]が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、[[ミハイル・トゥハチェフスキー|トゥハチェフスキー]]率いる[[赤軍]]が猛反撃を開始し、逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍のとった思い切った機動作戦が成功してポーランド軍が赤軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全軍に撤退を指示。結果的にポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、「[[ヴィスワ川]]の[[奇跡]]」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。 この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいと[[ウラジオストク]]のポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった[[日本]]は、人道的な見地から救済に乗り出した<ref>[http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/polish-orhpans/polish-orhpans.html ポーランド孤児] 人道の港 敦賀ムゼウム</ref>。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。 1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年に[[クーデター]]を起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、[[開発独裁]]を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民の[[カリスマ]]であったピウスツキが1935年に死亡すると、[[ユゼフ・ベック]]を中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点を[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]につけ込まれるようになった。 === 第二次世界大戦 === [[ファイル:The Royal Castle in Warsaw - burning 17.09.1939.jpg|thumb|ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮|200x200ピクセル]] 1939年8月、[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]が締結した[[独ソ不可侵条約]]の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日、[[グダニスク]]近郊の[[ヴェステルプラッテ]]のポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍と[[独立スロバキア|スロヴァキア]]軍が、9月17日には赤軍が東部国境を越えて[[ポーランド侵攻]]を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内から[[ヴィリニュス]]地域を譲られた[[リトアニア]]の4か国で分割占領された。[[ポーランド亡命政府]]は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな[[ポーランドの反独闘争|反独闘争]]を展開した。 [[独ソ戦]]でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月、ソ連側の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起する[[ワルシャワ蜂起]]が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったために赤軍は故意に救援を行わず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。 1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。[[ポツダム会談]]の決定により[[ポーランド人民共和国]]に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。 === ポーランド人民共和国 === [[ファイル:Curzon line en.svg|thumb|旧国境と新国境|200x200ピクセル]] {{Main|ポーランド人民共和国}} 1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義の[[ポーランド統一労働者党|ポーランド統一労働者党('''PZPR''')]]が[[寡頭政治]]を敷くポーランド人民共和国の[[社会主義]]体制時代であった。1945年5月8日、[[ヨーロッパ戦勝記念日|ドイツ降伏]]によりポーランドは復活、その国の形は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・ソ連の[[ヤルタ会談]]によって定められた。[[カティンの森事件]]で[[ポーランド亡命政府]]は、ソ連の発表の受け入れを拒否。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導の[[ルブリン政権]]が新たなポーランド国家となった。 また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連は[[ポーランド侵攻]]以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年に[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で、新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失った。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた({{仮リンク|ポーランド人人口の移動 (1944-1946)|en|Polish population transfers (1944–1946)}})。 1952年、[[ポーランド人民共和国]]は'''PZPR'''の[[一党独裁制]]の政党となり、ソ連の最大でもっとも重要な衛星国となった。[[冷戦]]中、[[ワルシャワ条約機構]]や、1949年1月、西側の[[マーシャル=プラン]]に対抗するものとして設立された[[コメコン]](経済協力機構)に参加した。社会主義体制への移行に伴い、密告、監視、言論統制を伴ったポーランドのソ連化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに[[構造改革]]された<ref name="britannica.com">{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland|title=Poland - history - geography|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。{{仮リンク|ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ|en|Propaganda in the Polish People's Republic}}。[[社会主義]]政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した[[不動産]]も国有化された。ソ連、[[チェコスロバキア]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]などの同じ[[東側諸国]]のように[[集団農場]]と個人農地は[[国有化]]された<ref name="auto1">Davies, Norman (2005). God's Playground, a History of Poland:1795 to the Present. Columbia University Press. p. 435</ref>。 [[ファイル:Kolejka.jpeg|サムネイル|1950年代から1980年代の典型的なポーランドの様子、国営商店に並ぶ市民|200x200ピクセル]] ポーランド政府はおもに西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続いた。1973 - 74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補うため、さらなる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり{{仮リンク|欠乏経済|en|Shortage economy}}を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった<ref name="britannica.com" />。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上でひどい悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し、力のなさを感じた<ref>Magdalena Błędowska, Maciej Gdula, 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny [4 June 1989. How the Nation Did Not Overthrow the Commies]. 04 June 2014. 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny. krytykapolityczna.pl. Retrieved 28 December 2014.</ref>。1979年6月にポーランド人[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が故国ポーランドを訪れ、{{仮リンク|マルクス・レーニン主義無神論|en|Marxist–Leninist atheism}}の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には[[独立自主管理労働組合「連帯」]]が結成された。 [[ファイル:Pope John Paul II 11 06 1987 01.jpg|thumb|ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世|200x200ピクセル]] 1981年 - 1983年、[[ポーランドの戒厳令]]の期間に政府は反政府を潰すために[[戒厳]]を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され<ref name="bbc.co.uk">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6175517.stm|title=Poland marks communist crackdown|date=13 12月 2006|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=bbc.co.uk}}</ref>、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、ほか100人<ref name="bbc.co.uk" />ほどが抹殺された。[[夜間外出禁止令]]、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行された。[[軍法会議|軍裁判所]]は、偽造情報発信者達を逮捕した<ref>http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/special_report/1999/09/99/iron_curtain/timelines/poland_81.stm</ref>。戒厳令後も、市民の[[自由権]]はひどく制限された。 [[ファイル:Brama.glowna.may.1988.png|thumb|ワルシャワ大学前での「連帯」運動|200x200ピクセル]] 軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な[[経済危機]]となる。経済危機は、おもな食料・日用品・生活必需品・物資の[[配給制]]となり平均所得は40%下落した<ref>CIAs Historical Review (24 October 1997). "Cold War era analysis" (PDF file, direct download 12.2 MB). Soviet East European Military Relations in Historical Perspective Sources and Reassessments (The Historical Collections Division (HCD) of the Office of Information Management Services) 1 (1):18 of 44. Retrieved 26 May 2014.配給制と長蛇の列は日常化 Karolina Szamańska (2008). "Sklepy w czasach PRL" (PDF file, direct download). Portal Naukowy Wiedza i Edukacja. pp. 13, 22 23 / 25. Retrieved 15 October 2014.</ref>。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した<ref>Neier, Aryeh (2003). Taking Liberties:Four Decades in the Struggle for Rights. Public Affairs. pp. p. 251. ISBN 1-891620-82-7.</ref>。[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ|ヤルゼルスキ]]のもと、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった<ref>Hufbauer, Gary Clyde;Jeffrey J. Schott;Kimberly Ann Elliott (1990). Economic Sanctions Reconsidered:History and Current Policy. Institute for International Economics. pp. p. 193. ISBN 0-88132-136-2.</ref>。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である64万人が1981年 - 1989年の間に難民となり他国へ移民した<ref>ane Hardy, Poland's New Capitalism, pp. 26–27</ref>。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する[[ポーランド民主化運動|市民による民主化運動]]はこの時期に拡大していった。 === 第三共和国 === [[ファイル:Lech Walesa - 2009.jpg|thumb|[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)]]第三共和制初代大統領|264x264ピクセル]] {{main|[[ポーランド民主化運動|ポーランドの歴史(1989年〜現在)]]}} 1989年6月18日、[[円卓会議 (ポーランド)|円卓会議]]を経て実施された[[1989年ポーランド議会選挙|総選挙]](下院の35%と上院で自由選挙実施)により、[[ポーランド統一労働者党]]はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって[[ポーランド民主化運動|民主化]]が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、[[民主主義|民主]][[共和制|共和]]政体を敷く'''民主国家時代'''である。 共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化し、政治を不安定化させた<ref>Jane Hardy, Poland's New Capitalism, pp. 26–27</ref>。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった。ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。 1990年11月14日には統一[[ドイツ]]との間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧[[西ドイツ]]は、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]とポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していた[[ロシア連邦軍]](旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には[[憲法]]の大幅な改正が行われ、行政権が[[ポーランドの大統領|大統領]]から[[ポーランドの首相|首相]]へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟した。 2004年5月1日、ポーランドは'''[[欧州連合]](EU)に加盟'''した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃される[[シェンゲン協定]]に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これでほかのシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、[[ポーランド人]]ならば[[パスポート]]なしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。 [[ファイル:Lech_Kaczyński.jpg|thumb|242x242px|[[レフ・カチンスキ]]第三共和制第4代大統領]] ここまで自由民主主義国家として進んできたが、2005年、[[欧州連合]](EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強い[[キリスト教民主主義]]の[[カトリック教会|カトリック]]系[[保守主義]]政党「[[法と正義]](PiS)」が[[2005年ポーランド議会選挙|総選挙]]で勝利し、農村型の[[大衆主義]]政党「[[自衛 (ポーランド)|自衛]]」、カトリックの[[レデンプトール会]]系の[[国民保守主義]]の小政党「[[ポーランド家族同盟]]」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた[[2005年ポーランド大統領選挙|大統領選挙]]では最大のライバルである[[ドナルド・トゥスク]](「[[市民プラットフォーム]]」)との間で決選投票を行った、[[レフ・カチンスキ]](「[[法と正義]]」)が当選した。 [[ヤロスワフ・カチンスキ]]率いる連立政権は政治路線をめぐってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても[[欧州連合]]や[[ロシア]]と軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。 この解散を受けて2007年10月21日に行われた[[2007年ポーランド議会選挙|総選挙]]では、[[欧州連合]](EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い[[都市]]型[[中道右派]]政党「[[市民プラットフォーム]]」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないといわれる[[ドント方式]]の[[比例代表制]]の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「[[法と正義]]」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「[[自衛 (ポーランド)|自衛]]」と「[[ポーランド家族同盟]]」といった[[国民保守主義]]・[[大衆主義]]的な小政党は、この2007年選挙で議会におけるすべての議席を喪失した。 最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模[[専業農家]]の支持する[[農村]]型中道右派政党「[[ポーランド農民党]]」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首[[ドナルド・トゥスク]]が就任した。トゥスクは中道右派として中小企業保護政策などを打ち出す一方、対外的には宥和政策を採り、長年遺恨のあるドイツやロシアとも一定の歩み寄りも見せた<ref>{{Cite news|title=SPIEGEL Interview with Donald Tusk: Polish PM Calls for Unified European Crisis Strategy|url=https://www.spiegel.de/international/europe/spiegel-interview-with-donald-tusk-polish-pm-calls-for-unified-european-crisis-strategy-a-610726.html|work=Der Spiegel|date=2009-03-02|issn=2195-1349}}</ref>。 2009年11月27日、「[[鎌と槌]]」や「[[赤い星]]」など共産主義のマークを禁止する法律が可決<ref>{{cite web|url=http://www.foxnews.com/world/2009/11/27/poland-imposes-strict-ban-communist-symbols/|title=Poland Imposes Strict Ban on Communist Symbols - Fox News|date=27 11月 2009|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d93350.html|title=東欧国家、共産主義への取締を強化 - (大紀元)|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり民間では自由に使用できるため観光都市[[クラクフ]]では共産主義的な雰囲気の残っており、共産主義のマークを問題なく使用している<ref>{{cite web|url=http://www.crazyguides.com/|title=Crazy Krakow Tours of Nowa Huta District|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 12月1日に、民主化以来初の首相再選も果たしたトゥスクが[[EU大統領]]に就任され、首相は辞任することとなった。 2014年3月に[[ロシアによるクリミアの併合]]が起きると民族主義が高まり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源を依存するドイツも批判した(ただし、ポーランドもロシアに依存している)<ref>{{Cite web|和書|title=我々はプーチンのガス支配から解放されなければならない |url=https://www.huffingtonpost.jp/juergen-trittin/putin-gas_b_5032959.html |website=ハフポスト |access-date=2022-07-23}}</ref>。 2015年の選挙ではPiSが勝利、、憲法違反の疑いのある法律を次々に制定し、違憲審査権を行使する憲法法廷(憲法裁判所)の掌握を進め<ref>{{Cite journal|和書|author=小森田秋夫 |date=2019-06 |url=https://doi.org/10.5135/eusj.2019.44 |title=ポーランドにおける「法の支配」の危機と欧州連合 |journal=日本EU学会年報 |ISSN=1884-3123 |publisher=日本EU学会 |volume=2019 |issue=39 |pages=44-75 |doi=10.5135/eusj.2019.44 |CRID=1390569923316851584}}</ref>、EUとの対立が深まった<ref>{{Cite web|和書|title=ポーランドに制裁金命じる 「法の支配」侵害でEU司法裁判所 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/356207 |website=中日新聞Web |access-date=2022-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「法の支配」めぐり対立激化 EU資金停止も視野―欧州委とポーランド |url=https://web.archive.org/web/20211020221504/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102000931&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2022-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=EU司法裁、法の支配違反に対しEU予算の執行停止を認める規則を適法と判断(EU、ハンガリー、ポーランド) |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/02/d6d6bf8bb162337f.html |website=ジェトロ |access-date=2022-04-17}}</ref>。 2022年11月16日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻中]]、ポーランドにロシア製のミサイルが着弾し、市民二人が死亡した。ミサイルによる被害はNATOの歴史、加盟国にとって初の事例となった<ref>{{Cite web|和書|title=ポーランドにロシア製ミサイル着弾 2人死亡、NATO域内で初―G7首脳、緊急会合:時事ドットコム |url=https://web.archive.org/web/20221115223738/https://www.jiji.com/amp/article?k=2022111600172&g=int |website=www.jiji.com |access-date=2022-11-16}}</ref>。 == 政治 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{Main|{{仮リンク|ポーランドの政治|en|Politics of Poland}}}} === 基本制度 === [[ファイル:Koniecpolski palace warszawa.jpg|thumb|大統領宮殿([[ルボミルスキ]]・[[ラジヴィウ家]]旧邸)|200x200ピクセル]] [[ファイル:Uroczystość zaprzysiężenia Prezydenta RP Andrzeja Dudy przed Zgromadzeniem Narodowym (50194183773).jpg|thumb|ポーランド下院(セイム)|200x200ピクセル]] [[政治体制]]は[[共和制]]。[[元首|国家元首]]は[[ポーランドの大統領|大統領]](任期5年)である。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の[[憲法]]改正により政治の実権は[[ポーランドの首相|首相]]に移り、現在は儀礼的な権限しか持たない。下院で可決した法案の[[拒否権]]があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的なものであり、実際の指揮権は[[首相]]が持つ。 === 行政 === [[行政]]は、1997年制定の憲法では閣僚評議会([[内閣]])が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する」(第146条3項)となっているため<ref>[https://www.pl.emb-japan.go.jp/seiji/documents/kenpou.pdf (仮訳)ポーランド共和国憲法](駐ポーランド日本大使館公式サイト PDF)</ref>、[[ポーランドの首相|閣僚評議会議長]](首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う[[議院内閣制]]になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の[[下院]]に当たる[[ポーランド共和国下院|セイム]](sejm)の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相は[[マテウシュ・モラヴィエツキ]]。 === 議会 === [[立法]]はセイム(議会)とセナト(元老院)の[[両院制|二院制]][[議会]](Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。 ;[[ポーランド共和国下院|下院]](セイム、Sejm):「[[議会]]」の意。定数460名。下院は立法の役割が主体であり、政党の資質や能力が大事であるとの考えから[[ドント方式]]の[[非拘束名簿式]][[比例代表制]]。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。[[単一論点政治|シングルイシュー政党]](全体の政策や理念でなく特定の政策のみで集まった人々の政党)の出現や少数政党の乱立といった事態を未然に防止するためである。少数民族の大半を占める[[ドイツ人|ドイツ系住民]]の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。立法府として、セイムは日本の[[衆議院]]に相当し、上院より優先される。 :;各党の議席数(定数460)<ref name=clubs>{{cite web|url=https://sejmsenat2019.pkw.gov.pl/sejmsenat2019/en|language=pl|accessdate=2020-03-14|title=Polish Parliamentary Elections 2019}}</ref> ::*[[法と正義]](Prawo i Sprawiedliwość, PiS [[大衆主義]])- 235 ::*[[:pl:Koalicja Obywatelska|市民連合]](Koalicja Obywatelska, KO [[保守主義]])- [[市民プラットフォーム]](Platforma Obywatelska, PO)と小政党の連合- 134 ::*[[:pl:Lewica (2019)|統一左派]](Lewica , SLD [[社会民主主義]]) - [[民主左翼連合 (ポーランド)|民主左翼連合]]と{{仮リンク|ラゼム党|en|Lewica Razem}}および{{仮リンク|春 (ポーランド)|label=春|en|Spring (political party)}}によって結成された[[左翼|左派政党]]の連合。-49 ::*[[ポーランド農民党]](Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL [[保守主義]]・[[農民主義]])-[[クキズ'15]](Kukiz'15 大衆主義)とUEDとも連合- 30 ::*[[:pl:Konfederacja Wolność i Niepodległość|自由と独立]](Konfederacja Wolność i Niepodległość,KWN)- [[:en:KORWiN (Poland)|共和国を新たにするための連合-自由と希望(KORWiN)]]と[[:en:National Movement (Poland)|国民運動党]]の[[右翼|右翼政党]]の連合 - 11 ::*無所属 - 1(ドイツ少数民族) :: : ;[[ポーランド共和国上院|上院]](セナト、Senat):「[[元老院]]」の意。定数100名。上院は立法や行政の監査の役割が主体であり、政党よりも議員個人の資質や能力が重要であるとの考えから、完全[[小選挙区制]]。 :;各党の議席数(定数100)<ref name=senat-kluby-i-kolo>{{cite web|url=http://www.senat.gov.pl/sklad/senatorowie/kluby-i-kolo/|title=Senatorowie / Senatorowie / Kluby i koło / Senat Rzeczypospolitej Polskiej|first=ideo -|last=www.ideo.pl|website=www.senat.gov.pl|accessdate=18 5月 2017}}</ref> ::*法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 48 ::*[[市民連立]](Koalicja Obywatelska, KO [[保守主義]]) - 43 ::*[[ポーランド農民党]](Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL [[保守主義]]・[[農民主義]])- 3 ::*[[:pl:Lewica (2019)|統一左派]](Lewica , SLD [[社会民主主義]]) - 2 ::*無所属 - 4 === 政党 === {{Main|ポーランドの政党一覧}} === 司法 === {{Main|{{仮リンク|ポーランドの法律|en|Law of Poland}}}} ポーランドの法制度は、1,000年以上前の同国地域における歴史の最初の数世紀から発展して来た。ポーランドの公法および私法は成文化されている。傍ら、ポーランドにおける最高法は{{仮リンク|ポーランド憲法|en|Constitution of Poland}}に基づいたものとなっている。 なお、ポーランドは民法の法的管轄権を有しており、ポーランド民法典という民法典が定められている。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|ポーランドの国際関係|en|Foreign relations of Poland}}}} [[国際連合]](UN)、[[欧州連合]](EU)、[[シェンゲン協定]]、[[シェンゲン情報システム]](SIS)、[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[経済協力開発機構]](OECD)、[[世界貿易機関]](WTO)、[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)、[[欧州電気標準化委員会]](CENELEC)に加盟している。 中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、[[ヴァイマール三角連合]](Weimar Triangle)、[[ヴィシェグラード・グループ]](V4)、[[:en:Council of the Baltic Sea States|環バルト海諸国評議会]](CBSS)、[[:en:Central European Initiative|中欧イニシアティヴ]](CEI)といった地域国際機関にも加盟し、国連では[[東ヨーロッパグループ]](EEG)に属している。 {{also|{{仮リンク|ポーランド国際問題研究所|label=ポーランド国際問題研究所 (PISM)|en|Polish Institute of International Affairs}}}} === ロシアとの関係 === {{Main|{{仮リンク|ポーランドとロシアの関係|en|Poland–Russia relations}}}} 古くから争乱を繰り返す関係で、幾度も[[ポーランド・ロシア戦争]]が起こった。そのため、現在でもポーランド人は強い反露感情を抱いているとされる。 第二次世界大戦中には、ソ連はドイツと共に分割占領し、[[カティンの森事件]]などの虐殺事件をおこした。戦後は[[ポーランド人民共和国]]として[[衛星国]]となっていたが、民主化後、特に2014年のウクライナ危機以降、ロシアの軍事力に対する警戒感が高まっている<ref>{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/us-ukraine-crisis-poland-independence-idUSBREA3H0GW20140418|title=Poles most worried about their independence in at least 23 years:poll|date=18 4月 2014|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=Reuters}}</ref>。2017年1月には、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]がポーランドへの駐屯を開始し、西部[[ジャガン]]で歓迎式典が開かれた。在ポーランドアメリカ軍は最終的に兵員約3,500人、戦車87両の規模になる見通しである。 ロシアの大統領報道官は「私達の安全に対する脅威」と反対の表明をした<ref>{{Cite news|url=http://www.47news.jp/news/2017/01/post_20170113100713.html|title=米軍部隊、ポーランド配備 民主化後初、ロシアは反発|work=|publisher=[[共同通信]]|date=2017-01-13}}</ref>。 [[2021年]]11月、ベラルーシとの国境付近に[[西アジア]]からの移民数千人が集結、ポーランドは軍を動員して移動を阻止した。同月9日、モラウィエツキ首相は国会で、ロシアが後ろ盾となっているとしてプーチン大統領を批判した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20211110/k00/00m/030/209000c |title=ポーランド国境に移民数千人殺到 EU「ベラルーシが意図的に派遣」 |publisher=毎日新聞 |date=2021-11-10 |accessdate=2021-11-10}}</ref>。2022年2月に、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]が起きると、国をあげて[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]政権支援に回り、最も多くの避難民受け入れや武器支援などを行った<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ支援にポーランドが全力を尽くす理由 {{!}} ウクライナ侵攻、危機の本質 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/586352 |website=東洋経済オンライン |access-date=2022-07-23}}</ref>。ただし直接加勢はせず、武器も売却分もある<ref>{{Cite web|和書|title=930億円の武器売却契約 ポーランドとウクライナ |url=https://www.sankei.com/article/20220608-A5NAU53UUBLEVDMBBIUG6CPAUU/ |website=産経ニュース |date=2022-06-08 |access-date=2022-07-23}}</ref>。また、ロシアとのガス供給契約も打ち切ったが、実際はロシア産ガスをドイツを介して輸入することになる<ref>{{Cite web|和書|title=ポーランド、ロシアとのガス供給契約を打ち切り |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2022/05/post-98739.php |website=Newsweek日本版 |access-date=2022-07-23}}</ref>。 2022年11月、前年に発生した不法移民の流入がロシアの[[飛び地]]である[[カリーニングラード州]]から生じる恐れがあるとして、ポーランド国防相は新たにカリーニングラード州との国境沿いに[[分離壁|フェンス]]を構築することを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3432121?cx_part=latest |title=ポーランド、ロシア飛び地との国境沿いにフェンス設置へ |publisher=AFP |date=2022-11-02 |accessdate=2022-11-02}}</ref> === ドイツとの関係 === {{main|{{仮リンク|ドイツとポーランドの関係|en|Germany–Poland relations}}}} [[1953年]]、ポーランドと[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]との間で大戦中の補償請求権の放棄が行われたが、これはソ連の意向が強く働いたものと言われる。1990年、ドイツの再統一に向けてポーランドとドイツは国境条約に調印。1991年には善隣友好条約が結ばれた。2015年に右派政党「[[法と正義]]」が与党になると、1953年の請求権放棄はソ連の圧力下でなされたものとして、ドイツに対して戦後補償を求める議論が惹起し始めている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-02 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3242483 |title=ポーランド侵攻から80年、復活するドイツへの戦後賠償要求の動き |publisher=AFP |accessdate=2019-09-23}}</ref>。 === 近現代史における日本との関係 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{main|日本とポーランドの関係}} ==== 日本学 ==== 1919年に[[ワルシャワ大学]]に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科とともに学科は維持され、日本語が教えられている。 2002年には、同学科は[[明仁|天皇]][[上皇后美智子|皇后]]の行幸啓を受けたほか、2008年には[[日本テレビ放送網]]の「[[1億人の大質問!?笑ってコラえて!]]」の「世界[[日本語学校]]の旅」で[[ポズナン大学]]日本語学科とともに、[[日本語]]を学ぶ[[大学生]]たちが紹介された。 さらに、ポーランド人による[[浮世絵]]のコレクションは質と量ともに世界屈指のもので、[[クラクフ]]の[[日本美術技術博物館“マンガ”館]]には浮世絵を含む日本の文化財のコレクションが広く公開されている。 ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]は、[[樺太]]に[[流刑]]になったことを契機に、樺太から[[北海道]]へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、[[アイヌ]]の研究に業績を残した。 ==== 日本による戦間期のポーランド人孤児救出 ==== 日本は[[戦間期]]、765人のポーランド人の[[孤児]]をシベリアから助けたことがある<ref>{{Cite news|title=日本・ポーランド関係のエピソード|date=2012|url=http://www.pl.emb-japan.go.jp/kultura/j_rocznica_epizody.htm|accessdate=2018/03/16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140320151446/http://www.pl.emb-japan.go.jp:80/kultura/j_rocznica_epizody.htm |archivedate=2014/03/20|publisher=[[在ポーランド日本国大使館]]}}</ref>。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。 ==== ポーランド人聖職者の訪日 ==== [[カトリック教会]]聖職者で、後に[[ホロコースト]]の犠牲となった[[マキシミリアノ・コルベ]]は戦前に日本で布教活動を行い、「[[けがれなき聖母の騎士会]]」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、[[聖母の騎士高等学校]]は21世紀を迎えた現在も存続している。 コルベとともに布教のために訪日した[[ゼノ・ゼブロフスキー]]修道士は、[[長崎市への原子爆弾投下|長崎で原爆]]に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。 同じ[[ポーランド人]]の教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、[[東京]]では「世界最初の[[原子爆弾]]の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』というキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/john_paul_ii/popeinjp/224mass.htm 教皇ヨハネ・パウロ二世来日の記録 後楽園球場特設会場での教皇ミサの説教] カトリック中央協議会</ref>、[[広島市]]と[[長崎市]]を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と[[世界]]に[[平和]]の構築を訴えた。 == 軍事 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:F 16 Jastrzab.jpg|thumb|right|200px|ポーランド空軍主力[[制空戦闘機]]<br />[[F-16 (戦闘機)|F-16「ヤシュチュションプ」]]([[鷹]])]] {{Main|ポーランドの軍事}} {{also|{{仮リンク|ポーランドが関与した戦争一覧|en|List of wars involving Poland}}}} [[ポーランド軍]]は *[[ポーランド陸軍]](Wojska Lądowe) *[[ポーランド海軍]](Marynarka Wojenna) *[[ポーランド空軍]](Siły Powietrzne) *[[ポーランド特別軍]](Wojska Specjalne) *{{仮リンク|ポーランド領土防衛軍|pl|Wojska Obrony Terytorialnej|en|Territorial Defence Force (Poland)}}(Wojska Obrony Terytorialnej) *{{仮リンク|ポーランド憲兵隊|pl|Żandarmeria Wojskowa|en|Military Gendarmerie (Poland)}}(Żandarmeria Wojskowa) [[ファイル:Defilada z okazji Święta WP - 2014 (1).jpg|thumb|200px|ポーランド陸軍[[戦車|主力戦車]]<br />[[レオパルト2|レオパルト2A5]]]] の五軍種と[[憲兵|憲兵隊]]の合計6グループから構成され、5軍種では常時約14万人が活動し、[[予備役]]は約24万人。[[国防省]]が統括し、[[憲法]]で規定された最高司令官は[[ポーランドの大統領一覧|ポーランド大統領]]である。 このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(''[[:en:GROM|GROM]]'')、第1奇襲部隊(''[[:en:1st Special Commando Regiment|1 PSK]]'')、海兵隊(''[[:en:Formoza|Formoza]]'')、特別[[兵站]]部隊の4つから構成される。 [[徴兵制]]は廃止され、[[志願制]]が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。 2009年の予算は118億ドルで、これは世界第19位、[[国内総生産]](GDP)の2%弱を占める。1989年の[[東欧革命|民主化]]後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む[[北大西洋条約機構]](NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。 2023年、[[マテウシュ・モラヴィエツキ]]首相は[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]を受け、軍備拡大をさらに加速させて[[国内総生産|GDP]]の4%をポーランド軍に充てると表明した。<ref>https://www.bbc.com/japanese/64462148</ref> == 地理 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{Main|{{仮リンク|ポーランドの地理|en|Geography of Poland}}}} [[ファイル:Tatry - panorama z Polskiego Spiszu.jpg|thumb|[[タトラ山脈]]|200x200ピクセル]] [[ファイル:Ełk Zamkowa 30.09.2017 F-1s.jpg|thumb|マズールィ湖水地方|200x200ピクセル]] [[ファイル:Rozlewiska_Biebrzy.jpg|thumb|ヴィエブジャ大湿地帯の風景|200x200ピクセル]] [[ファイル:WhiteStorkFamily.jpg|thumb|ポーランドは[[シュバシコウ|コウノトリ]]の国<br />全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する|200x200ピクセル]] [[ファイル:Wisent.jpg|thumb|世界でも[[ビャウォヴィエジャの森]]にのみ生息する野生の[[ヨーロッパバイソン]]|200x200ピクセル]] 西で[[ドイツ]]、南で[[チェコ]]と[[スロバキア]]、東で[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]と接しており、北東では[[ロシア]]([[カリーニングラード]])とも国境を接している。北は[[バルト海]](Morze Bałtyckie)に面している。 南部を除き国土のほとんどが[[北ヨーロッパ平野]]であり、全体が非常に緩やかな[[丘陵]]地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173メートルである。南部は山岳地帯で、[[タトラ山脈]]にはポーランドでもっとも高い[[リシ山]](標高2,499メートル)がある。南部の国境近くには[[カルパティア山脈]]([[タトラ山脈]]、{{仮リンク|ベスキディ山脈|en|Beskids}}を含む)や[[ズデーテン山地|スデート山地]](ポーランド語およびチェコ語でスデーティ(Sudety)がある。深い[[森林|森]]が多く、国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部から[[ベラルーシ]]にかけて広がる「[[ビャウォヴィエジャの森]]」は「ヨーロッパ最後の[[原生林]]」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に[[広葉樹]]が生い繁る巨大な森で、[[ヨーロッパバイソン]](ポーランド語で「ジュブル」)や[[ヘラジカ]](ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9,300もの[[湖]]のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また[[湿原]]が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、[[釧路湿原]]の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。 西南部にはヨーロッパ最大の[[砂漠]]がある。 河川は以下の通り。 {{see also|ポーランドの河川の一覧}} *[[ヴィスワ川]](Wisła) *[[オドラ川]](Odra)(オーデル川) *[[ヴァルタ川]](Warta) *[[ブク川]](Bug) *ナレフ川(Narew) *サン川(San) *[[ノテチ川]](Noteć) *ピリツァ川(Pilica) *ヴィェプシュ川(Wieprz) *ブブル川(Bóbr) *ウィナ川(Łyna) *ヌィサ・ウジツカ川/[[ナイセ川]](Nysa Łużycka) *フクラ川(Wkra) *ドゥナイェツ川(Dunajec) *ブルダ川(Brda) *プロスナ川(Prosna) *ドゥルフェンツァ川(Drwęca) *ヴィスウォク川(Wisłok) *フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda) *ドラヴァ川(Drawa) *ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka) *ポプラト川(Poprad) *パスウェンカ川(Pasłęka) *レガ川(Rega) *ブズラ川(Bzura) *ヴィスウォカ川(Wisłoka) *ビェブジャ川(Biebrza) *ニーダ川(Nida) === 地質 === [[ファイル:Biała Ręka Ojcowski PN.jpg|thumb|クラクフ=チェンストホヴァ高原のオイツフ国立公園|200x200ピクセル]] ポーランドの地質構造は、[[暁新世|6000万年前]]に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの[[第四紀|第四]][[氷河|氷期]]によって形成された。このとき[[ズデーテン山地|スデート山地]]と[[カルパティア山脈]]が形作られている。北部ポーランドの[[モレーン]]の景観は主に[[砂]]と[[ローム (土壌)|ローム]]からなる土壌によるものである。[[氷期]]に形成された南部の河川の谷は[[黄土]]を含んでいる。[[:en:Polish Jura Chain|クラクフ=チェンストホヴァ高原]]、[[:en:Pieniny|ピェニヌィ山地]]、[[:en:Western Tatras|西タトラ山地]]は石灰岩で構成される。[[:en:High Tatras|高タトラ山地]]、[[:en:Beskids|ベスキド山地]]、[[:en:Karkonosze|カルコノシェ山地]]は[[花崗岩]]と[[玄武岩]]で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原は[[ジュラ紀]]の石灰岩からなる。 === 気候 === [[バルト海]]に面した北西部は[[温帯]]気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する[[亜寒帯]]気候となる。[[降水量]]は平均しており、季節による変動が少ない。 == 地方行政区分 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{Main|ポーランドの地方行政区画}} 著名な[[経済学者]][[:pl:Jerzy Regulski|イェジ・レグルスキ]]の構想のもと、1999年に[[イェジ・ブゼク]]政権が行った地方自治の大改革において県(województwo)が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な[[地方分権]]が成立した。県の下位自治体として郡(powiat)が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織(gmina)が合計2,489ある。 [[ファイル:Wojewodztwa.svg|thumb|200x200px|ポーランドの県区分図]] (アルファベット順) *[[ドルヌィ・シロンスク県]] *[[クヤヴィ・ポモージェ県]] *[[ルブリン県]] *[[ルブシュ県]] *[[ウッチ県]] *[[マウォポルスカ県]] *[[マゾフシェ県]] *[[オポーレ県]] *[[ポトカルパチェ県]] *[[ポドラシェ県]] *[[ポモージェ県]] *[[シロンスク県]] *[[シフィェンティクシシュ県]] *[[ヴァルミア・マズールィ県]] *[[ヴィエルコポルスカ県]] *[[西ポモージェ県]] === 主要都市 === {{main|ポーランドの都市の一覧}} [[ファイル:Map of Poland ja.png|thumb|215x215px]] {|class="wikitable" |- !style="width:30px;"|人口順!!都市!!県!!人口 |- !style="text-align:center;"|'''1''' |style="text-align:center;"|'''[[ワルシャワ]]''' |style="text-align:center;"|[[マゾフシェ県]] |align="right"|1,710,055 |- !style="text-align:center;"|'''2''' |style="text-align:center;"|'''[[クラクフ]]''' |style="text-align:center;"|[[マウォポルスカ県]] |align="right"|754,624 |- !style="text-align:center;"|'''3''' |style="text-align:center;"|'''[[ウッチ]]''' |style="text-align:center;"|[[ウッチ県]] |align="right"|747,152 |- !style="text-align:center;"|'''4''' |style="text-align:center;"|'''[[ヴロツワフ]]''' |style="text-align:center;"|[[ドルヌィ・シロンスク県]] |align="right"|633,000 |- !style="text-align:center;"|'''5''' |style="text-align:center;"|'''[[ポズナン]]''' |style="text-align:center;"|[[ヴィエルコポルスカ県]] |align="right"|556,022 |- |} *[[グダニスク]] *[[シュチェチン]] *[[ブィドゴシュチュ]] *[[ルブリン]] *[[ビャウィストック]] *[[カトヴィツェ]] *[[ジェシュフ]] *[[キェルツェ]] *[[オルシュティン]] *[[オポーレ]] *[[ジェロナ・グラ]] == 経済 == [[ファイル:Rondo 1 widok z ul. Twardej radek kołakowski.jpg|thumb|古い街並みの向こうに高層ビルが並ぶ首都[[ワルシャワ]]|299x299ピクセル]] [[ファイル:Wroclaw Uniwersytet Wroclawski przed switem.jpg|thumb|[[ヴロツワフ]]|200x200ピクセル]] [[ファイル:Szczecin town hall.jpg|thumb|[[シュチェチン]]|200x200ピクセル]] {{main|ポーランドの経済}} ポーランド経済は、2004年EU加盟後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EU Structural Funds)の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている<ref>{{cite web|url=http://www.forbes.com/places/poland/|title=Poland - Forbes|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 === 世界金融危機の余波 === [[ポーランド#世界金融危機の余波|若年人口の多さ]]に支えられて、近年{{いつ|date=2023-02-08}}は毎年4 - 6%前後の高成長を見せていたが、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界的な金融危機]]の余波を受けたため、2009年の成長率は、[[欧州委員会]](EC)の予測では-1.4%、[[国際通貨基金]](IMF)の予測では-0.7%、[[欧州復興開発銀行]](EBRD)の予測では0%、[[ロイター通信]]調査のポーランド国内外の民間[[金融機関]]の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。 ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満<ref>http://www3.keizaireport.com/jump.php?RID=90232&key=959</ref>)、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの[[景気後退]]をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国のひとつであった。 === 2009年の結果 === その後、ポーランドの2009年[[国内総生産|成長率]]については、[[経済協力開発機構]](OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34か国においても、ポーランドのほかにプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。[[中央銀行]]である[[ポーランド国立銀行]]が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対してさまざまな貸し出し規制策を導入していた<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:19269?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F</ref>。 2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた<ref>{{cite web|url=http://www.forbes.com/2009/04/14/poland-imf-funds-markets-economy-eastern-europe.html|title=Poland To IMF:Spare Some Change - Forbes|first=Javier|last=Espinoza|date=14 4月 2009|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。ポーランド・ウクライナ開催のUEFA[[ユーロカップ]]2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた<ref>{{cite web|url=http://www.businessinsider.com/what-euro-2012-means-for-the-polish-and-ukrainian-economies-2012-6|title=What The Euro 2012 Means For The Polish And Ukrainian Economies|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。しかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。 2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。 === 展望 === 2004年の[[ヨーロッパ連合|EU]]加盟後、ポーランド国民はEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つために、支持政党も急激に右寄りになった。 EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。ほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。一部では[[ホワイトカラー]]としての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと[[求人]]していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた<ref>http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/8032788.stm</ref>。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといった[[インフラ]]の整備を急ピッチで進めているため<ref>http://www.targikielce.pl/index.html?k=autostrada_en&s=index</ref>、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているためである。政府は2010年度より[[緊縮財政]]を行っているが、これはおもに[[国営企業]]の[[民営化]]による[[新規株式公開]](IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトはおもにEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、1万3,000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:20739?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F</ref>。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手がいるためである<ref>http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/poland-launches-campaign-to-lure-back-migrant-workers-814747.html</ref>。 === 評価順位 === 2010年、ECER-Banque Populaireが18か国37都市の4,500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に行った調査では、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位に[[ワルシャワ]]がランクインした(1位は[[フランクフルト]]、2位は[[マルメ]]、4位は[[ロンドン]]、5位は[[ブリュッセル]])。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラなどの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。評価がもっとも低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在の[[ドナルド・トゥスク]]政権と与党「[[市民プラットフォーム]]」の方針として、国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:23133?p=%2Flate%2F</ref><ref>http://ecer.fr/resultat.html</ref>。 2015年版、[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]の「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、[[財産権]]の保証、[[イノベーション]]の多寡、[[税率]]、[[テクノロジー]]の発展具合、[[汚職]]の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、[[官僚主義]]の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://forbesjapan.com/summary/2015-04/post_2763.html|title=ビジネスに理想的な国ランキング|date=20 3月 2015|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 2018年、[[国際連合]]は、平均余命、[[識字]]率、就学率、[[国内総生産]]により評価する[[人間開発指数|人間開発指数 (HDI)]]、加盟193か国のうちで0.87につけた<ref>{{Cite web |url = https://jp.knoema.com/atlas/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89/%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0|title = A composite index measuring average achievement in three basic dimensions of human development—a long and healthy life, knowledge and a decent standard of living. 1=the most developed.|website = jp.knoema.com|publisher = jp.knoema.com|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref>。 === 税制 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} 法人税は19%である。[[所得税]]は非常に簡単な2段階の[[累進課税]]方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、[[付加価値税]]は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍などにかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。 === 工業 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:ED161-002, PKP Intercity, Jelenia Góra, IC 61100 ASNYK.jpg|thumb|PESA(ペサ)社製ED-161型<br />[[インターシティー]]用の大型旅客電車|200x200ピクセル]] EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる[[第二次産業]]が行われている。特に[[パーソナルコンピュータ]]や[[テレビ]]などの[[情報家電]]の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。[[乗用車]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[路面電車]]、[[鉄道車両]]などの生産も盛んで、[[ソラリス (バス)|ソラリス]]、[[:en:PESA SA|PESA]]、[[:en:Newag|Newag]]などといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。 小規模の手工業においては、[[琥珀]]製品や[[クリスマスツリー]]のガラスの飾り物<ref>{{cite web|url=http://www.polamjournal.com/Library/Holidays/xmasindex/xmas-ornaments/xmas-ornaments.html|title=Polish Christmas Ornaments|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。 === 農業 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} ==== 付加価値の高い品目の生産 ==== 国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には[[集団農場]]化と農地の[[国有化]]が行われた<ref name="auto1" />。 ==== 特筆すべき農産品目 ==== ヨーロッパの実に90%を占める[[ヤマドリタケ]](本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇る[[ライムギ|ライ麦]]<ref>http://www.kuniguni.com/rye-production</ref>、それぞれ高いシェアを持つフランス向け[[エスカルゴ]]や日本向け[[馬肉]]および[[羽毛]]、ポーランドが世界の[[収穫]]高の半分を占め同時に世界最大の[[輸出]]国となっている[[カシス]](ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げる[[イチゴ]]といった[[ベリー]]類(ほかに[[ラズベリー]]は世界4位、[[ビルベリー]]は欧州2位、その他[[グースベリー|セイヨウスグリ]]、[[クランベリー]]、[[ブラックベリー]]、[[ブルーベリー]]などで世界トップクラスの生産高)などがある。 === 鉱業 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} ポーランドは鉱物資源が豊富であり、[[石炭]]を中心として多種多様の[[非鉄金属]]に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は[[琥珀]]の世界最大の産地で、[[グダンスク]]には世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。 ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の3分の2をまかなう[[天然ガス]]などを有する。ほかにも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術([[石炭ガス]])の研究開発にも熱心に取り組んでいる。 西南部[[ドルヌィ・シロンスク県]]のクレトノ鉱山などでは[[ウラン]]を豊富に埋蔵しており国内の[[原子力]]利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。 近年ポーランドで巨大な[[シェールガス]]埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆[[立方メートル|m<sup>3</sup>]]に上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。 === 日系企業の現地進出状況 === 2014年、ポーランドに進出している日系企業は[[トヨタ]]、[[ブリヂストン]]、[[味の素]]、[[シャープ]]、[[東芝]]など約261社。そのほかのEU[[中東欧]]国への進出は、[[チェコ]]約186社、[[ハンガリー]]約140社、[[ルーマニア]]約100社<ref>外務省「海外在留邦人数調査統計(平成26年要約版)</ref>。 === ポーランドへの移民労働者 === ==== ウクライナ人 ==== 公式な統計では、2009年には12万人の[[ウクライナ人]]がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるため正確な規模は分からない。[[ワルシャワ大学]]の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人[[女性]]で、彼女たちに家計のすべてを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは[[家政婦]]や[[清掃]]婦、[[農産物]]の[[収穫]]などの[[単純労働]]に就いている。2007年にはポーランドの家庭の15%がウクライナ女性を正規の[[メイド]]として雇ったという。[[ウクライナ]]、[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]、[[モルドバ]]の4か国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている<ref>{{cite web|url=http://www.thenews.pl/business/artykul123053_ukrainian-women---biggest-immigrant-group-in-poland-.html|title=Radio Poland::News from Poland|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人<ref name="auto2">{{cite web|url=http://www.ft.com/cms/s/0/f2bb320c-9b05-11e4-882d-00144feabdc0.html%20ukrainian-women---biggest-immigrant-group-in-poland&lr=&hl=ja&ie=EUC-JP&output=html&client=nttx-alternative|title=Poland:One-way traffic|first=Henry|last=Foy|date=14 1月 2015|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=Financial Times}}</ref>。 ポーランドが近々ロシアの[[カリーニングラード州]]から、ロシア人の入国に対し[[査証|ビザ]]なし渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃された[[シェンゲン協定]]他国地域へもロシア人の[[不法入国]]や[[不法移民]]、[[不法就労]]が増加し、そしてロシアなどからの格安[[タバコ]]の[[密輸]]により、EUは[[税金]]約85億ポンドを損失する。一方ポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザなし渡航許可をしている。ポーランド政府は「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない。彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアの[[ウォッカ]]を隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航実施による[[ロンドン]]や[[パリ]]への悪影響など微々たるものだ」と主張した<ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/poland/8227038/Poland-urges-visa-free-travel-for-Russian-enclave.html|title=Poland urges visa-free travel for Russian enclave|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 === 観光 === {{Main2|観光地|ポーランドの観光地}} == 交通 == {{Main|{{仮リンク|ポーランドの交通|en|Transport in Poland}}}} === 道路 === {{also|ポーランドの高速道路|{{仮リンク|ポーランドの道路標識|en|Road signs in Poland}}}} === 鉄道 === {{Main|ポーランドの鉄道}} {{also|ポーランド国鉄}} === 航空 === {{main|ポーランドの空港の一覧}} == 国民 == [[ファイル:Polandpop.svg|right|thumb|ポーランドの[[人口ピラミッド]]|200x200ピクセル]] {{Main|ポーランド人|{{仮リンク|ポーランドの人口統計|en|Demographics of Poland}}}} {{bar box |title=民族構成(ポーランド) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ポーランド人]]|blue|94}} {{bar percent|[[シレジア人]]他|red|6}} }} [[ファイル:43. TKB - Pilsko z Żywca 05.JPG|thumb|[[ポルカ]]を踊る女性|267x267ピクセル]] [[ファイル:Z krakowskie.jpg|thumb|伝統衣装を纏った人々|200x200ピクセル]] [[ファイル:43. TKB - Pilsko z Żywca 04.JPG|thumb|{{仮リンク|マズル (ダンス)|label=マズル|en|Mazur (dance)}}(Mazur)を踊る男女|275x275ピクセル]] === 民族 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} 2022年時点で人口約3,801万人、97%が[[ポーランド人]]([[カシュープ人]]や[[グラル人]]を含む)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/poland/data.html |title=ポーランド基礎データ |accessdate=2022年9月11日 |publisher=外務省}}</ref>。少数民族は、1番人口の多い[[シレジア人]]、おもに東部に在住する[[ルーシ人]]([[ウクライナ人]]、[[ベラルーシ人]]、[[ルシン人]])、[[リトアニア人]]、[[リプカ・タタール人]]などがいる。 中世、[[ヤギェウォ朝]]や[[ポーランド・リトアニア共和国]]などの[[東欧諸国]]の連合国時代には[[多民族国家]]であった。 [[アシュケナジム|ユダヤ人]]の本格的なポーランド移住は[[第1回十字軍]]の行われた[[11世紀]]初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。 ヨーロッパ各国や[[中東]]で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、[[13世紀]]に布告された「[[カリシュの法令]]」と、[[東方植民]]によるドイツ[[都市法]]の[[マクデブルク法]]によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。 [[ホロコースト]]までは、ポーランドには世界の70%のユダヤ人がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くは[[ホロコースト]]により虐殺された。 多くはホロコーストや[[ポーランド人民共和国|共産主義]]、[[反ユダヤ主義]]を避けて[[アメリカ大陸]]や[[イスラエル]]などに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる<ref>Berman Institute, World Jewish Population. North American Jewish Data Bank. (See Table 1:Jewish Population by Country, 1920s-1930s;PDF file, direct download 52.4 KB. https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:Rv2hLhme008J:www.jewishdatabank.org/Reports/World_Jewish_Population_2010.pdf+world+jewish+population+2010&hl=en&gl=us&pid=bl&srcid=ADGEEShFmlEo2XYeBjYVUGgz_STm8ZXvaFqIMHdpfxUC8uWpDuLqb9l7GvJbF2piXHqxgDaGkOY3jfCA_RkpUlKLSByoSQC3cLV-5LcpxgXggqUIYwzK9hdfmwVv4Sz0BdeFMxJ_-2To&sig=AHIEtbT5tVUek4PSi_N_5f0Dwe-11sBzMg)</ref>。ポーランド人の多くは先祖に[[サルマタイ人]]がいる<ref>Davis, Norman. ''God’s Playground''. ISBN 978-0-19-925340-1</ref>。 国民のほぼすべてが[[母語]]を[[ポーランド語]]としている([[ポーランド化]])、併合した国の国民や多くの[[移民]]や[[政治難民]]を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は[[西スラブ人]]系原ポーランド人(レフ人)、[[シレジア人]]、[[リトアニア人]]、[[ロシア人]]、[[ルーシ人]]([[ウクライナ人]]、[[ベラルーシ人]]、[[ルシン人]])、[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]])、[[ユダヤ人]]、[[サルマタイ人]]、[[タタール人]]、[[ラトビア人]]、[[バルト人]]、[[スウェーデン人]]、[[チェコ人]]、[[スロバキア人]]、[[ドイツ人]]、[[ハンガリー人]]、[[ロマ人]]、[[アルメニア人]]、[[モンゴル系民族]]や[[トルコ系民族]]など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり、互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。 約40万種類あるといわれるポーランド人の[[姓]]は、その語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。 そのため[[単一民族]]、実際は東・中欧では[[人種のるつぼ|民族のるつぼ]]でポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。 === 言語 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:Krosnica.jpg|thumb|「クロシニツァ町/クロシュニッツ町へようこそ!」の看板<br />ポーランド語とドイツ語の併記、[[オポーレ]]市近郊|200x200ピクセル]] {{Main|{{仮リンク|ポーランドの言語|en|Dialects of Polish}}}} ポーランド語は印欧語の[[スラヴ語派]][[西スラヴ語群]]に属する言語で、[[チェコ語]]、[[スロヴァキア語]]、[[上ソルブ語]]、[[下ソルブ語]]などと共通のグループに属し、そのうち、[[カシューブ語]]などとともに[[レヒト諸語]](レフ諸語)を構成する。 表記はロシア語などで用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベットである。 少数民族の語源には、[[イディッシュ語]]、[[ヘブライ語]]や[[シレジア語]]、[[カライム語]]、[[ルシン語]]、[[ロマ語]]、[[タタール語]]がある。 かつてのポーランドで広く話されていた[[ルーシ人]]・[[ルーシ族]]([[ヴァリャーグ]])の[[ルーシ語]]は[[第二次世界大戦]]や[[ホロコースト]]と[[ヴィスワ作戦]]を経て国内ではほぼ消滅したとみられている。 外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。 歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。 旧ドイツ領土など南部[[オポーレ]]地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。 [[冷戦]]時代、ロシアの支配下での[[ロシア化|ソ連化]]の義務教育により、1960年代中期以前に生まれた世代のポーランド人はロシア語を解する人が多い。 1989年に[[東欧革命]]で[[共産主義]]が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。 ロシア語([[東スラヴ語群]])はポーランド語([[西スラヴ語群]])と同じくスラヴ語に属し、ポーランド語話者がロシア語を修得するのは比較的容易とされる。 [[リプカ・タタール人]]は、ポーランド化し[[タタール語]]を話さなくなっている。タタール人の家系で[[ノーベル文学賞]]を受賞した小説家・叙事詩人の[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]はポーランド語の小説を書いた。 人工言語の[[エスペラント語]]は[[ワルシャワ]]で発祥した。 === 婚姻 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} 一般的には結婚申請の後、宣誓式を行ない、挙式日の決定後に挙式となる。 [[国際結婚]]の場合は民事婚と宗教婚の2種類があり、民事婚は戸籍局で行うが、宗教婚は教会での挙式後に戸籍局で登録を行なっている。ポーランドでは、同性カップルは結婚できない。 === ポーランド人の苗字 === {{See also|{{仮リンク|ポーランドの人名|en|Polish name}}}} ポーランド人の[[名字|苗字]]は非常に多く、総数40万以上に上る<ref>渡違克義 [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/thesis/watanabe.html 「ポーランド固有名詞学序説」]</ref>。ポーランドの人口は3,800万人程度であることから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人がもっとも多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。 同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい([[夫婦別姓]])し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)<ref>[http://isap.sejm.gov.pl/DetailsServlet?id=WDU19640090059 Dz. U. z 1964 r. Nr 9, poz. 59] Kodeks rodzinny i opiekuńczy(家族および保護者に関する法律)第25条2</ref>。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない<ref>[http://isap.sejm.gov.pl/DetailsServlet?id=WDU19640090059 Dz. U. z 1964 r. Nr 9, poz. 59] Kodeks rodzinny i opiekuńczy(家族および保護者に関する法律)第25条3</ref>(1964年)。 ポーランド語の姓には-ski(/〜スキ、女性は-ska/〜スカ)という語尾が多い。この-skiというのは[[名詞]]を[[形容詞]]のように「〜の」という意味で使う場合に付く[[接尾辞]]である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語がもともと共有する用法である。 たとえばWiśnia(意味は「[[桜]]」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の〜」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon-やフランス語のde-などの使い方と同じであるため、[[中世]]には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた([[アルベルト・ブルゼフスキ]]の記事を参照)。 また、[[アメリカ合衆国]]など[[英語]]圏の国家に[[移民|移住]]すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に[[同化政策|同化]]していく。 ポーランド国内の苗字人口上位25(2018年)は以下の通り(男女別)<ref>{{Cite web|title=Najpopularniejsze nazwiska w Polsce - styczeń 2018 r.|url=https://www.rp.pl/W-sadzie-i-urzedzie/303069964-Najpopularniejsze-nazwiska-w-Polsce---styczen-2018-r.html|website=www.rp.pl|accessdate=2020/06/07|language=pl|publisher=}}</ref>。 {| | {| class="wikitable sortable" !順位 !女性 !人数 |- |1 |Nowak |90488 |- |2 |Kowalska |63003 |- |3 |Wiśniewska |49968 |- |4 |Wójcik |45041 |- |5 |Kowalczyk |44756 |- |6 |Kamińska |43032 |- |7 |Lewandowska |42678 |- |8 |Zielińska |41143 |- |9 |Szymańska |40438 |- |10 |Woźniak |40269 |- |11 |Dąbrowska |39357 |- |12 |Kozłowska |34082 |- |13 |Jankowska |31234 |- |14 |Wojciechowska |30420 |- |15 |Kwiatkowska |30382 |- |16 |Mazur |30179 |- |17 |Krawczyk |28818 |- |18 |Kaczmarek |28205 |- |19 |Piotrowska |27894 |- |20 |Grabowska |26305 |- |21 |Pawłowska |25009 |- |22 |Michalska |24891 |- |23 |Zając |24731 |- |24 |Król |24540 |- |25 |Jabłońska |22997 |} | {| class="wikitable sortable" !順位 !男性 !人数 |- |1 |Nowak |92867 |- |2 |Kowalski |63635 |- |3 |Wiśniewski |50346 |- |4 |Wójcik |46052 |- |5 |Kowalczyk |45503 |- |6 |Kamiński |43473 |- |7 |Lewandowski |42170 |- |8 |Zieliński |41504 |- |9 |Woźniak |41101 |- |10 |Szymański |40648 |- |11 |Dąbrowski |39352 |- |12 |Kozłowski |34520 |- |13 |Jankowski |31405 |- |14 |Mazur |31271 |- |15 |Wojciechowski |30188 |- |16 |Kwiatkowski |30120 |- |17 |Krawczyk |29109 |- |18 |Kaczmarek |28620 |- |19 |Piotrowski |28035 |- |20 |Grabowski |26695 |- |21 |Zając |25955 |- |22 |Król |25395 |- |23 |Pawłowski |25315 |- |24 |Michalski |24790 |- |25 |Wróbel |23527 |} |} === 宗教 === {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:Altar_of_Veit_Stoss,_St._Mary's_Church,_Krakow,_Poland.jpg|thumb|聖マリア教会主祭壇([[クラクフ]])、1489年完成|208x208ピクセル]] [[ファイル:Licheń bazylika 2.JPG|thumb|リーヘン大聖堂(2004年完成)、世界最大級の[[教会]]建築となっている|200x200ピクセル]] {{Main|{{仮リンク|ポーランドの宗教|en|Religion in Poland}}}} 2020年の推計によると[[カトリック教会|カトリック]]85%、正教会1.3%、プロテスタント0.4%、その他の宗教0.3%、不明12.9%となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/poland/ |title=Religions |access-date=2023年1月21日 |publisher=CIA}}</ref>。 === 教育 === [[ファイル:6 Warszawa 407.jpg|thumb|[[ワルシャワ大学]]新図書館|200x200ピクセル]] [[ファイル:Kraków - Collegium Maius - Dziedziniec 01.JPG|thumb|[[クラクフ大学]]コレギウム・マイウス([[ラテン語]]:「大カレッジ」)、現在も使用されている15世紀の建築物である|200x200ピクセル]] {{Main|ポーランドの教育}} 1999年9月1日より、従来の[[ソビエト連邦|ソ連]]方式の8・4制を改め、6・3・3制に移行した。 ==== 教育水準 ==== ポーランドの特徴のひとつはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の[[経済協力開発機構]]OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の成績は総じて高い。また[[国際数学コンペティション]]で総合優勝<ref>{{Cite web |url = https://www.imc-math.org.uk/?year=2011&item=results|title = International Mathematics Competition for University Students 2011|website = www.imc-math.org.uk|publisher = www.imc-math.org.uk|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref>を果たしたこともあった。 ==== 大学進学率 ==== 2017年には、就職難のために若者の68%が四年制[[大学]]へ進学していた(当時の日本は49%)<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20201204235202/https://pdmagazine.jp/wp-content/uploads/2018/11/%E6%AD%BB%E3%81%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E5%8B%89%E5%BC%B7%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E%E6%96%87%E4%B8%AD%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%96-462x440.jpg|title = ポーランド政府は自国の四年制大学卒業率を開示しておらず、注意が必要。|website = pdmagazine.jp|publisher = pdmagazine.jp|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref>。この数字はOECD加盟国では8位(日本は23位)である。近年では、若者の95%が高校を卒業した後にも、短大を含めた大学型高等教育を受けることを望む希望者が多いという調査結果もあり、教育熱が日本や韓国の受験戦争時代以前から伝統的に非常に高い<ref>http://japanese.ruvr.ru/2012_09_14/roshia-sekai-de-mottomo-kyouiku-no-susunda-kuni</ref>。ポーランドの階級社会では、高卒は原則ホワイトカラー職に就けない。これは、大学の入試倍率が極めて高いからである。しかし、2020年代のポーランドは大学を卒業したところで多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である<ref name="auto2" />。国立大学の授業料は無料でも、[[少子化]]は進行中である。 IT教育に熱心な国のひとつで、2014年に開催された第1回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した<ref>{{cite web|url=http://www.nbcnews.com/tech/tech-news/hello-world-poland-wins-first-computer-coding-championship-n127751|title=Hello World!Poland Wins First Computer Coding Championship - NBC News|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ibtimes.co.uk/poland-crowned-first-ever-coding-world-champions-1452146|title=Poland Crowned First Ever Coding World Champions|date=10 6月 2014|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 [[ファイル:Polish_teenagers.jpg|thumb|ポーランドの街と子ども|200x200ピクセル]] === 保健 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの保健|en|Health in Poland}}}} [[平均寿命]]は77.1歳<ref name=OECDhg />。かつては[[ユニバーサルヘルスケア]]が実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した<ref name="OECDhg">{{Cite |publisher=OECD |date=2015-11 |title=Health at a Glance 2015 |doi=10.1787/19991312 |isbn=9789264247680 |at=Chapt.7.1}}</ref>。 ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|ポーランドの医療|en|Health care in Poland}}}} == 社会 == === 隣国に対する感情 === [[世論調査]]会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで[[国境]]を接する7か国([[ドイツ]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]、[[ロシア]])すべての人々のうち、ポーランド人がもっとも[[親近感]]を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)<ref>https://www.google.com/hostednews/epa/article/ALeqM5gsU9ndVK_s0uHUF3zYY9b6PzCBbQ?docId=10120510221602579</ref>。 #[[チェコ人]](39%) #[[スロバキア人]](32%) #[[ドイツ人]](23%) #[[リトアニア人]](21%) #[[ロシア人]](15%) #[[ウクライナ人]](14%) #[[ベラルーシ人]](10%) == 治安 == {{main|{{仮リンク|ポーランドにおける犯罪|en|Crime in Poland}}}} 2013年における[[経済協力開発機構]](OECD)加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36か国中[[日本]]に次いで2位、3位はイギリス<ref>{{cite web|url=http://www.oecdbetterlifeindex.org/#/00000000050|title=OECD Better Life Index|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 OECD加盟国内、人口10万人あたりの[[殺人]]発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件(日本、0.5件)<ref>http://www.civitas.org.uk/crime/crime_stats_oecdjan2012.pdf</ref>。 [[国連]]、[[UNODC]]による人口10万人あたりの発生率では、[[強盗]]率(2012年)70か国中37位、43.67件(日本は64位、2.87件)<ref>{{cite web|url=http://knoema.com/kvxptoc/robbery-rate-per-100-000-population|title=Robbery, rate per 100,000 population - knoema.com|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 [[暴力行為]]の発生率も低く、OECD加盟国中でもっとも少ないほうから3位<ref>{{cite web|url=http://www.oecdbetterlifeindex.org/countries/poland/|title=OECD Better Life Index|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、[[アイルランド]]、[[イギリス]]、[[アイスランド]]、[[エストニア]]、[[オランダ]]、[[デンマーク]]、[[スイス]]、[[ベルギー]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]といった、一般に「治安がいい」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半からの事実である<ref name="auto3">{{Cite web|和書|url=http://www.unicri.it/wwd/analysis/icvs/pdf_files/ICVS2004_05report.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081219195658/http://www.unicri.it/wwd/analysis/icvs/pdf_files/ICVS2004_05report.pdf |archivedate=2008年12月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }} J. van Dijk, J. van Kesteren, P. Smit, Criminal Victimisation in International Perspective, Key Findings from the 2004-2005 ICVS and EU ICS, WODC 2007</ref>。 このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い<ref>http://www.wbj.pl/article-52845-polands-overall-crime-rate-falls.html?typ=ise</ref>。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている<ref>https://www.osac.gov/pages/ContentReportDetails.aspx?cid=17806</ref>。 ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのをもっとも恐れる用心深い気質があるとされており<ref>[http://www.europeansafetyobservatory.eu/downloads/EUICS_The%20Burden%20of%20Crime%20in%20the%20EU.pdf J. van Dijk, R. Manchin, J. van Kesteren, S. Nevala, G. Hideg The Burden of Crime in the EU Research Report:A Comparative Analysis of the European Crime and Safety Survey (EU ICS) 2005]</ref>、刑法では、他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけただけでも[[暴行罪]]が成立する<ref>{{cite web|url=http://www.legislationline.org/documents/section/criminal-codes/country/10|title=Criminal codes - Legislationline|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 ヨーロッパ人の間に定着した[[偏見]]や[[デマゴギー|デマ]]の類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率は[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[アイルランド]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[オランダ]]、[[アイスランド]]、[[イタリア]]、[[ノルウェー]]などといった国々より低い<ref name="auto3" />。 === 法執行機関 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの法執行機関|en|Law enforcement in Poland}}}} ==== 警察 ==== {{main|{{仮リンク|ポーランドの警察|en|Police of Poland}}}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ポーランドにおける人権|en|Human rights in Poland}}}} カトリックの影響もあり、ヨーロッパで最も厳しい中絶制限を行っておりレイプ、近親姦、母体の生命危機を除いて禁止されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/54655170|title=ポーランド憲法裁、ほぼ全ての人工中絶を違憲に|accessdate=2021年9月15日|publisher=BBC}}</ref>。 国内24の地方紙の内20が与党系の企業の支配下にあり、国会での取材制限<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-19/2016121907_01_1.html|title=メディア規制に抗議|accessdate=2021年9月15日|publisher=日本共産党}}</ref>、反政府的なメディアへの攻撃<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/81e31801d9c10426e19e264e7e0ea973d07eeb99|title=ポーランド、言論の自由締め付け強化 政府の批判者は「反ポーランド的」、「外国のスパイ」と攻撃対象に|accessdate=2021年9月15日}}</ref>、販売店の資本制限などを通じた外国メディアへの圧力などが起こっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASJDL6418JDLUHBI01G.html|title=ポーランド政府が国会の取材制限、野党や市民団体が反発|accessdate=2021年9月15日|publisher=朝日新聞}}</ref>。報道の自由は2013年の22位から2020年には62位と低下した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210302-5A3L7WWYPRMXDP3VNAWLQEBBHU/2/|title=コロナ禍で強まる東欧の言論弾圧|accessdate=2021年9月15日|publisher=産経新聞}}</ref>。 == マスコミ == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{main|{{仮リンク|ポーランドのメディア|en|Mass media in Poland}}|{{仮リンク|ポーランドのテレビ|en|Television in Poland}}}} === インターネット === {{main|{{仮リンク|ポーランドのインターネット|en|Internet in Poland}}}} ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18 - 49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている<ref>{{cite web|url=http://www.pewresearch.org/2010/12/15/global-publics-embrace-social-networking/|title=Global Publics Embrace Social Networking|first1=1615 L.|last1=Street|first2=|last2=NW|first3=Suite 800|last3=Washington|first4=DC 20036 202 419 4300 |Main 202 419 4349 |Fax 202 419 4372 |Media|last4=Inquiries|date=15 12月 2010|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。 ==== ネット上のメディア ==== 既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄がついている。投稿欄の文字数の制限はないか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。 インターネット上のメディアで英語版がもっとも充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。 == 文化 == {{参照方法|date=2022年1月|section=1}} {{main|{{仮リンク|ポーランドの文化|en|Culture of Poland|preserve=1}}}} === 食文化 === {{main|ポーランド料理}} ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理はおもに東欧、そのほかドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる<ref>{{cite web|url=https://books.google.com/books?id=y6vTun3i4NQC|title=The Ethnic Food Lover's Companion|first=Eve|last=Zibart|date=1 1月 2001|publisher=Menasha Ridge Press|accessdate=2016-07-04|via=Google Books}}</ref>。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的には、味付けは質素でも料理の量が多く、ほぼすべてが農耕国であった[[東ヨーロッパ]]の伝統を逸脱していない。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、[[キャベツ]]や根野菜、主食の[[イモ]]を多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、おもにクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理である。 === 文学 === {{main|ポーランド文学|en:Polish literature}} 「ポーランド文学」といえば一般に[[ポーランド語]]文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつての[[ポーランド=リトアニア共和国]]における[[多民族国家|多民族社会]]を反映し、ポーランド語だけでなく、[[ラテン語]]、[[イディッシュ語]]、[[リトアニア語]]、[[ウクライナ語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ドイツ語]]、[[エスペラント語]]といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。 中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。[[ポーランド人]]によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうちもっとも古いものは、[[13世紀]]の[[歴史家]]で[[クラクフ]][[司教]]でもあった[[:en:Wincenty Kadłubek|ヴィンツェンティ・カドゥウベック]]による[[年代記]]である。ポーランド語による記述で現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀半ばに[[ドイツ人]]修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀の[[ヴロツワフ]]公[[ボレスワフ1世ヴィソキ|ボレスワフ1世]]が[[后]]にかけたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい(''"Day ut ia pobrusa, a ti poziwai"'')」という労わりの言葉である。このころから古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。 [[15世紀]]に入ると、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]で年代記作者でもある[[ヤン・ドゥウゴシュ]]の文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年ごろにはポーランドでもっとも初期の複数の[[印刷]]工場が業務を始めている。これに続いて[[ルネサンス]]時代がポーランドでも始まり、以後は[[書き言葉]]としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展にもっとも貢献したのは[[詩人]]の[[ヤン・コハノフスキ]]で、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは[[19世紀]]以前の[[スラヴ人]]世界におけるもっとも偉大なる詩人であると評価されている<ref name="Murray">[[Paul Murray]], [http://muse.jhu.edu/journals/logos/v008/8.3murray.html "The Fourth Friend:Poetry in a Time of Affliction]," ''[[Logos:A Journal of Catholic Thought and Culture]]'', vol. 8, no. 3 (Summer 2005), pp. 19-39.</ref>。 続く[[バロック|バロック時代]]や[[啓蒙時代]]を通じてポーランド語文学は発展したが、[[ポーランド分割]]によってポーランド=リトアニア共和国が消滅したあとは、他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特な[[ロマン派]]文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのが[[アダム・ミツキェヴィチ]]である。ポーランドの国民的叙事詩『パン・タデウシュ』は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年に[[アンジェイ・ワイダ]]によって『[[パン・タデウシュ物語]]』(日本語題)として映画化された。[[ポーランド立憲王国]]と旧[[リトアニア大公国]]の各地域で行われた、旧[[ポーランド=リトアニア共和国]]復活運動である[[1月蜂起|対ロシア帝国1月蜂起]]が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、[[実証主義]]の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちもっとも広く知られているのは『[[クオ・ヴァディス]]』(のちに[[マーヴィン・ルロイ]]監督によって[[アメリカ合衆国]]の[[ハリウッド]]で同名映画化)の作者[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]と、『農民』の作者[[ヴワディスワフ・レイモント]]という、2人の[[ノーベル文学賞]]受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会に多く存在した[[ユダヤ人]]コミュニティーを中心に[[イディッシュ語]]文学も多く発表されるようになり、[[ブルーノ・シュルツ]]や[[イツホク・レイブシュ・ペレツ]]などは多くの人気作品を残した。 一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落[[シュラフタ]](ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあと[[イギリス]]に定住して[[英語]]で小説を書いて次々と発表し、現代[[イギリス文学|英国文学]]の代表的文豪の1人として、[[ジョセフ・コンラッド]]の筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカ合衆国やイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれ[[フランシス・コッポラ]]監督の映画『[[地獄の黙示録]]』、[[リドリー・スコット]]監督の『[[デュエリスト/決闘者]]』の原作である。 [[第二次世界大戦]]を経て、[[共産主義]]時代から[[東欧革命|民主化]]までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「[[若きポーランド]]」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人の[[チェスワフ・ミウォシュ]]と、同じく詩人で[[日本]]の[[歌川広重]]の[[浮世絵]]に触発された詩作で世界的に有名となった[[ヴィスワヴァ・シンボルスカ]]という2人の[[ノーベル文学賞]]受賞者、さらに小説『[[灰とダイヤモンド]]』([[アンジェイ・ワイダ]]によって同名で[[映画]]化)の作者として有名な[[イェジ・アンジェイェフスキ]]、『尼僧ヨアンナ』 ([[イェジー・カヴァレロヴィチ]]監督によって同名映画化)の作者として知られる[[ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ]]などがいる。また[[サイエンス・フィクション|空想科学文学]](サイエンス・フィクション)の分野では[[スタニスワフ・レム]]が新地平を開き、代表作『[[ソラリスの陽のもとに]]』は『[[惑星ソラリス]]』として[[ソ連]]で[[アンドレイ・タルコフスキー]]よって、さらに『[[ソラリス (映画)|ソラリス]]』としてアメリカ合衆国で[[スティーヴン・ソダーバーグ]]によってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。 この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代[[アメリカ文学]]の[[前衛芸術|前衛的存在]]となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、[[ピーター・セラーズ]]主演で『[[チャンス (1979年の映画)|チャンス]]』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心に[[カルト]]的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人の[[ジャージ・コジンスキー]]として知られるイェジ・コシンスキなどがいる。 またこの時代よりポーランド現代文学の特色である[[ノンフィクション]]文学が勃興した。その代表としては、[[日本]]でも『[[サッカー戦争]]』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「''20世紀のもっとも偉大なジャーナリスト''」(英[[ガーディアン]]紙)<ref>{{cite web|url=http://www.theguardian.com/world/2010/mar/02/ryszard-kapuscinski-accused-fiction-biography|title=Poland's ace reporter Ryszard Kapuściński accused of fiction-writing|first=Luke|last=Harding|date=2 3月 2010|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.herald.ie/lifestyle/sorting-fact-from-fiction-2091128.html|title=Sorting fact from fiction - Herald.ie|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>、「''世界でもっとも偉大な報道記者''」(独[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]紙)、「''現代の[[ヘロドトス]]''」(独[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング]]紙)<ref name="FAZ">{{de icon}} {{cite news |author=F.A.Z. (corporate author) |coauthors= |title=Ein Herodot für unsere Zeit |url=http://www.faz.net/IN/INtemplates/faznet/default.asp?tpl=common/zwischenseite.asp&dx1={56C34E85-9E00-7DF2-6E43-98583EBF2A27}&rub={01345753-1D51-4A28-9550-C982F21BCDBF} |work=[[Frankfurter Allgemeine Zeitung]] |publisher= |date=2007-01-24 |accessdate=2007-01-25 }}</ref>などと評価される、[[リシャルト・カプシチンスキ]]がいる。 <gallery mode=packed> File:Bolezlaus dux Slezie.png|ヴロツワフ公ボレスワフ1世 File:Book of Henryków.PNG|ヴロツワフ公ボレスワフ1世が后にかけた言葉「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい(''"Day ut ia pobrusa, a ti poziwai."'')」 File:Jan Długosz.PNG|[[ヤン・ドゥウゴシュ]] File:Jan Kochanowski.png|[[ヤン・コハノフスキ]] File:Adam Mickiewicz.PNG|[[アダム・ミツキェヴィチ]] File:Stanisław Bizański-H.Sienkiewicz (cropped).jpg|[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]] File:Władysław Reymont.jpg|[[ヴワディスワフ・レイモント]] File:Joseph Conrad, Fotografie von George Charles Beresford, 1904.jpg|[[ジョゼフ・コンラッド|ジョセフ・コンラッド]] File:Bruno Schulz, portrait.jpg|[[ブルーノ・シュルツ]] File:Hanna Krall.jpg|ハンナ・クラール File:Ryszard Kapuscinski, author-writer, at PEN Congress.jpg|リチャード・カプシンスキ File:Szymborska 2011 (2) (cropped).jpg|ヴィスラワ・シンボルスカ File:Olga Tokarczuk-9739.jpg|[[オルガ・トカルチュク]] File:Szczepan Twardoch 2012 (cropped).jpg|シュチェパン・トワードク </gallery> === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの音楽|en|Music of Poland}}}} {{Main2|[[第二次世界大戦]]後のポーランド音楽の展開|ポーランドの現代音楽}} ポーランド音楽の理論的発展のもっとも初期は[[13世紀]]で[[ノートルダム楽派]]の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『{{仮リンク|ボグロジツァ|en|Bogurodzica}}(神の母)』の[[歌曲]]がこの時代に作られたものと推定されている。この曲は[[ポーランド王国]]が[[リトアニア大公国]]や[[プロイセン連合]]と同盟して[[ドイツ騎士団]]を討った1410年の[[グルンヴァルトの戦い]]でも合戦の際に歌われたと伝えられる。『{{仮リンク|ブーク・シェン・ロージ|en|Bóg się rodzi}}(神が生まれる)』は歴代の[[ポーランド王]]が戴冠する時に演奏された[[ポロネーズ]]の曲で、1792年には{{仮リンク|フランチシェク・カルピンスキ|en|Franciszek Karpiński}}によってポーランドの[[クリスマス・キャロル]]としての歌詞が作られた。 [[16世紀]]になるとポーランド音楽は急速に発展した。[[クラクフ]]の[[王宮]]であるヴァヴェル城の宮廷音楽家たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに[[帰化]]した{{仮リンク|ディオメデス・カトー|en|Diomedes Cato}}は、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の[[首都]]が[[ワルシャワ]]に移された[[16世紀]]の終わりごろより多数のイタリア人音楽家がポーランドに来て長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会や講義をした。ポーランドの音楽家たちは[[バロック音楽]]のスタイル、最新の[[楽器]]、[[通奏低音]]といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。[[17世紀]]初頭からはイタリアの影響を受けて[[オペラ]]が盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかし、ポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わりごろよりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。 ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。{{仮リンク|オスカル・コルベルク|en|Oskar Kolberg}}はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、[[20世紀]]半ばにポーランドが[[共産主義]]体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。[[マゾフシェ県|マゾフシェ]]音楽・舞踊団と[[ドルヌィ・シロンスク県|シロンスク]]音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとっては[[コンサートホール]]でポーランドの伝統音楽に触れる機会を提供している。現在のポーランド各地には各[[コミュニティー]]の自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。 [[フレデリック・ショパン]]は、[[マズルカ]]や[[ポロネーズ]]を在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスはおもに北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。[[ポロネーズ]]はもともと[[シュラフタ|ポーランド貴族]]の[[舞踏会]]で演奏されるもので、[[フランス語]]で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽である。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後、ポロネーズはポーランドにおいても国中に広まった。 ポーランド南部の街[[ザコパネ]]を中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、[[現代音楽]]の作曲家の[[カロル・シマノフスキ]]はこの地方の住民である「[[グラル人]](「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器や[[バグパイプ]]を用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代では[[ヴァイオリン]]や[[チェロ]]を多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれによく合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ(krzesany)は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスである。 19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。[[ユゼフ・エルスネル]]は[[フレデリック・ショパン]]と{{仮リンク|イグナツィ・ドブジンスキ|en|Ignacy Feliks Dobrzyński}}を育てた。{{仮リンク|カロル・クルピンスキ|en|Karol Kurpiński}}と[[スタニスワフ・モニューシュコ]]はポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設である[[ワルシャワ大劇場]]が完成し、[[こけら落とし]]として[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]のオペラ『[[セビリアの理髪師]]』が演じられた。[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]や[[ユリウシュ・ザレンプスキ]]がおもな作曲家に挙げられ、[[テクラ・バダジェフスカ]]はアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。 {|style="border:1px solid darkgrey;background:#eee;float:left;" |{{Audio|A Maiden's Prayer.mid|"乙女の祈り"}},<br />[[MIDI]], 3:05 minutes, 13 [[キロバイト|KB]] |} 19世紀末から20世紀初頭には[[ヴワディスワフ・ジェレンスキ]]、[[ミェチスワフ・カルウォーヴィチ]]、[[カロル・シマノフスキ]]、伝説のピアニスト[[イグナツィ・パデレフスキ]]は[[第一次大戦]]後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。[[ヨーゼフ・コフラー]]は[[十二音技法]]を開拓した。 第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、[[グラジナ・バツェヴィチ]]、{{仮リンク|ジグムント・ミチェルスキ|en|Zygmunt Mycielski}}、{{仮リンク|ミハウ・スピサック|pl|Michał Spisak}}、[[タデウシュ・シェリゴフスキ]]などが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『[[戦場のピアニスト]]』の主人公として有名な[[ウワディスワフ・シュピルマン]]は[[大衆音楽]]の作曲家、[[ジャズ]]調の[[歌謡曲]]『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』がある。 [[第二次世界大戦|第二次大戦]]後の[[社会主義]]時代は[[タデウシュ・バイルト]]、[[ボグスワフ・シェッフェル]]、{{仮リンク|ヴウォジミェシュ・コトンスキ|en|Włodzimierz Kotoński}}、{{仮リンク|ヴィトルト・シャロネック|en|Witold Szalonek}}、[[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]、[[ヴォイチェフ・キラール]]、[[カジミェシュ・セロツキ]]、[[ヘンリク=ミコワイ・グレツキ]]、[[クシシュトフ・メイエル]]、[[パヴェル・シマヌスキ|パヴェウ・シマンスキ]]、{{仮リンク|クシェシミール・デンプスキ|en|Krzesimir Dębski}}、{{仮リンク|ハンナ・クルエンティ|en|Hanna Kulenty}}、{{仮リンク|エウゲニウシュ・クナピック|en|Eugeniusz Knapik}}、{{仮リンク|パヴェウ・ミキェティン|en|Paweł Mykietyn}}などが活躍した。ジャズでは[[クシシュトフ・コメダ]]は同国出身のユダヤ系の[[ロマン・ポランスキー]]監督の映画『[[ローズマリーの赤ちゃん]]』の[[映画音楽]]を担当した。 5年に一度開かれるワルシャワの[[ショパンコンクール]]、[[:en:Sopot International Song Festival|ソポト国際音楽祭]]はもっともよく知られたポーランド音楽の例である。 また、{{仮リンク|プシスタネック・ウッドストック|en|Przystanek Woodstock}}(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベントである。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちが[[リサイクル]]品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に載ることになった<ref>http://muzyka.onet.pl/festiwal/7757,69623,galeria.html</ref><ref>https://www.google.com/hostednews/epa/article/ALeqM5g20isH7sNuQqEnFXK0QKtou0IfOw</ref>。[[ヴロツワフ]]の[[ジミ・フェスティバル]](Jimi Festival)<ref>{{cite web|url=http://en.heyjoe.pl/|title=HEY JOE::1.05.2016::Guitar Guinness Record::WROCŁAW/POLAND::|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>では毎年世界中から数千人の[[ジミー・ヘンドリックス]]のファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。2009年には6300人が参加し世界でもっとも多い人数によるギターの合奏として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録されたジミ・フェスティバルが、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、2014年5月の大会では7,344人が「Hey Joe」を演奏し、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7,273人)を塗り替えている。{{仮リンク|オポーレ国民音楽祭|en|National Festival of Polish Song in Opole}}はおもにポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団が[[オポーレ]]に集まる、まだ共産主義であった1980年代のうちにすでに民俗音楽部門のほかに[[ロック (音楽)|ロック]]部門と[[ヒップホップ]]部門がある。 現在も、ポーランドの若い作曲家の創作力は衰えておらず、[[アガタ・ズベル]]、[[マーチン・スタンチック]]、[[ドミニク・カルスキ]]、[[アルトゥール・ザガイェフスキ]]らは国際的な認知がある<ref>{{Cite web |url = https://www.operacity.jp/en/concert/award/result/result2013/|title = 1st Prize Marcin Stańczyk (Poland)|website = www.operacity.jp|publisher = www.operacity.jp|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.australianmusiccentre.com.au/artist/karski-dominik|title = Dominik Karski : Represented Artist|website = www.australianmusiccentre.com.au|publisher = オーストラリア音楽情報センター|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.musma.eu/composers/artur-zagajewski/|title = Artur Zagajewski|website = www.musma.eu|publisher = www.musma.eu|date = |accessdate = 2020-12-05}}</ref>。 <gallery mode=packed> File:Bogurodzica rekopis1407.png|『ボグロジツァ』の楽譜(1407年) File:Polonez Pod Gołym Niebem - Korneli Szlegel.jpg|ピクニックで踊るポーランド貴族たち File:Chopin portrait 1847.jpg|ショパン File:43. TKB - Fickowa Pokusa z Jeleśni 03.JPG|[[バグパイプ]]を演奏するグラル人の男性(右) File:Young Gorals of Zywiec 2008 10.jpg|踊るグラル人 File:Wanda_Wilkomirska_Polish_violinist.jpg|[[ワンダ・ウィウコミルスカ]] File:Theatre Square Warsaw about 1900.jpg|ワルシャワ大劇場 File:Gdańsk 66.JPG|[[ポーランドバルトフィルハーモニック|バルチック・フィルハーモニック]]([[グダンスク]]、[[ポモージェ県]]) File:2012-08 Woodstock 87.jpg|プシスタネック・ウッドストック2012 </gallery> === 美術 === {{main|{{仮リンク|ポーランド美術|en|Polish art}}}} ポーランドの芸術は、その独自の特徴を保持しながら、屡々ヨーロッパの傾向を反映して来た歴史を持つ。[[ヤン・マテイコ]]によって生み出されたクラクフ学派の歴史絵画は、ポーランドの歴史全体に亘る重要な出来事や当時の習慣などの記述的描写を編み出している。 {{See also|{{仮リンク|ポーランドの画家の一覧|en|List of Polish painters}}}} === 漫画 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの漫画|en|Polish comics}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの映画|en|Cinema of Poland}}}} {{also|{{仮リンク|ポーランド映画の一覧|en|Lists of Polish films}}}} === 被服・服飾 === {{main|ポーランドの民族衣装}} === 建築・住居 === {{main|{{仮リンク|ポーランドの建築|en|Architecture of Poland}}}} ポーランド国内の都市の中心部は[[中世]]の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもので、戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こじんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、[[セントラルヒーティング]]システムがついている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区の[[カトリック教会]]がある程度人々を結びつけている。 首都[[ワルシャワ]]に関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。[[高度成長]]を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向け[[マンション]]・[[オフィス]]・[[ホテル]]複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の[[高層ビル]]が新たに出現することになっている<ref>http://www.warsawvoice.pl/view/16781</ref>。 <gallery mode=packed> File:Wisla 007.jpg|田舎の木造住宅(ヴィスワ町) File:Ostrowiec Stawki 20071008 1025.jpg|ポーランドのアパート File:2007PolskaZako.jpg|[[ザコパネ]]の木造住宅 File:Widok na Lidzbark Warmiński.jpg|地方の街の住居(ヴァルミア地方) </gallery> === 世界遺産 === {{Main|ポーランドの世界遺産}} ポーランド国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとに跨っているものが1件)。[[ベラルーシ]]とに跨って1件の自然遺産が登録されている。 史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件([[クラクフ歴史地区]]と[[ヴィエリチカ岩塩坑]])がポーランドにある。 現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。 === 祝祭日・年間行事 === {{Main|{{仮リンク|ポーランドの祝日|en|Public holidays in Poland}}}} {|class="wikitable" |- !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |1月1日 |[[元日]] |Nowy Rok |新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休) |- |1月6日 |[[東方の三博士|3人の博士]]の日 |Trzech Króli |三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。 |- |1月21日・1月22日 |おばあちゃんの日・おじいちゃんの日 |Dzień Babci・Dzień Dziadka |21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日 |- |[[移動祝祭日]] |[[脂の木曜日]] |Tłusty Czwartek |脂っこいものを食べる日。2月中旬、[[謝肉祭]]直前の木曜。 |- |[[移動祝祭日]] |[[復活祭]] |Wielkanoc |春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。[[キリスト]]の復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休) |- |5月1日 |[[メーデー]] |Święto Pracy |(休) |- |5月3日 |「[[5月3日憲法]]」記念日 |Rocznica Konstytucji 3 maja |1791年に制定された憲法を記念する日。※ヨーロッパで初めての憲法 (休) |- |5月26日 |[[母の日]] |Dzień Matki | |- |移動祝祭日 |[[聖霊降臨]]の祝日 |Zielone Świątki |復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が[[使徒]]たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休) |- |6月1日 |[[子供の日]] |Dzień Dziecka | |- |[[移動祝祭日]] |[[聖体の祝日]] |Boże Ciało |聖霊降臨節の10日後の木曜日。[[最後の晩餐]]を記念する。2009年は6月11日(休) |- |6月23日 |[[父の日]] |Dzień Ojca | |- |8月15日 |聖母被昇天の祝日 |Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny |[[チェンストホーヴァ]] (Częstochowa) にあるヤスナ・グラ寺院 (Jasna Góra) へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休) |- |11月1日 |[[諸聖人の日]] |Wszystkich Świętych |諸[[聖人]]を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く(日本で言うお盆)。 (休) |- |11月2日 |[[死者の日]] |Zaduszki |祖先の霊を供養する日 |- |11月11日 |[[独立記念日]] |Narodowe Święto Niepodległości |[[ロシア]]と[[ドイツ]]、[[オーストリア]]からの独立を記念する日。(休) |- |12月6日 |[[サンタクロース]]の日 |Mikołajki |Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。 |- |12月24日 |キリスト降誕祭前夜([[クリスマス・イヴ]]) |Wigilia Bożego Narodzenia |教会で[[ミサ]]を行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす(日本のお正月のような雰囲気)。この日は肉を食べてはいけないという慣わしがあり、伝統的に鯉を食べる。 |- |12月25日〜12月26日 |キリスト降誕祭([[クリスマス]]) |Boże Narodzenie |クリスマスの日。親戚や家族で集まる。(休) |- |12月31日 |シルヴェスターの夜 |Sylwester |大晦日に当たるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。 |} ※(休)は休日 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ポーランドのスポーツ|en|Sport in Poland}}}} {{See also|オリンピックのポーランド選手団}} [[File:CZE-POL Euro 2012 (01).jpg|thumb|right|200px|[[UEFA EURO 2012]]の[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]対[[サッカーチェコ代表|チェコ]]]] ポーランドでも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、2012年には[[ウクライナ]]との共催によって[[UEFA EURO 2012]]が開催された。 さらに近年では、自国の[[総合格闘技]]団体'''[[Konfrontacja Sztuk Walki|KSW]]'''の影響で[[総合格闘技|MMA]]の人気が高まっており、[[UFC]]では元[[ライトヘビー級]]王者である[[ヤン・ブラホヴィッチ]]や元[[ストロー級]]王者の[[ヨアナ・イェンジェイチック]]を輩出している。 他方で、[[アダム・マリシュ]]や[[カミル・ストッフ]]などの活躍により、[[スキージャンプ]]も盛り上がりをみせている。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ポーランドのサッカー|en|Football in Poland}}}} [[File:JAP-POL (6) (cropped).jpg|180px|thumb|right|[[ロベルト・レヴァンドフスキ]] (2018年)]] ポーランドでは、[[1926年]]にプロサッカーリーグの[[エクストラクラサ]]が創設された。[[ポーランドサッカー協会]](PZPN)によって構成される[[サッカーポーランド代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には9度の出場歴があり、[[1974 FIFAワールドカップ|1974年大会]]と[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]では3位に輝いている。[[UEFA欧州選手権]]には4度の出場歴があり、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]ではベスト8の成績を収めた。 ポーランドにおける最も著名なアスリートとして、'''[[ロベルト・レヴァンドフスキ]]'''が挙げられる。レヴァンドフスキは、これまで[[ドイツ]]・[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]の得点王を7度受賞し[[ゲルト・ミュラー]]を超え、同リーグにおける1シーズンでの最多得点記録(41点)保持者である<ref>{{Cite web|和書|title=レヴァンドフスキがゲルト・ミュラー超え! 驚異の29試合41得点で6度目のブンデス得点王を戴冠|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/robert-lewandowski-bayern-202105222400/1l1v3xrkl56o1q3gaex1dy342|website=Goal.com|date=2021-05-23|accessdate=2022-09-19}}</ref>。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]においても、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20|2019-20シーズン]]に自身初の得点王に輝いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/08/24/post385939/|title=レバンドフスキが“得点王3冠”。決勝ではゴールならずも圧倒的得点力発揮|publisher=[[F.Chan TV]]|date=2020-08-24|accessdate=2020-08-24}}</ref>。 === バレーボール === {{Main|{{仮リンク|ポーランドのバレーボール|en|Volleyball in Poland}}}} ポーランドではサッカーの他、[[バレーボール]]も人気のあるスポーツとなっており、中でも[[バレーボールポーランド男子代表|男子代表]]は東欧の古豪として知られ、[1976年モントリオールオリンピック]で金メダル、[[バレーボール世界選手権|世界選手権]]では3回優勝、[[バレーボール欧州選手権|欧州選手権]]では1回の優勝を誇り、強豪国の一角をなしている。 == 著名な出身者 == {{Main|ポーランド人の一覧}} {{colbegin|2}} * [[アグニエシュカ・ラドワンスカ]]【女子テニス選手、WTAツアー通算20勝、元世界ランキング2位】 * ミコワイ・コペルニク(ラテン語名[[ニコラウス・コペルニクス]])【天文学者】 * ヤン・ヘヴェリウシュ(ラテン語名[[ヨハネス・ヘヴェリウス]])【天文学者】 * [[ステファン・バナッハ]]【数学者】 * [[アルフレッド・タルスキ]]【数学者】 * マリア・スクウォドフスカ=キュリー([[マリ・キュリー]]・通称キュリー夫人)【物理学者・化学者】 * カジミェシュ・フンク(英語名[[カシミール・フンク]])【生化学者・ビタミンの発見者】 * [[ヤン・マテイコ]]【画家】 * [[ズジスワフ・ベクシンスキー]]【画家】 * [[タデウシュ・コシチュシュコ]](コシューシコ)【軍人】 * [[アダム・ミツキェヴィチ|アダム・ミツキィェヴィッチ]]【詩人】 * [[フレデリック・ショパン|フレデリック=フランソワ・ショパン]]【作曲家・ピアニスト】 * [[テクラ・バダジェフスカ]]【作曲家・ピアニスト】 * [[イグナツィ・パデレフスキ]]【ピアニスト・政治家】 * [[アルトゥール・ルービンシュタイン]]【ピアニスト】 * [[カロル・シマノフスキ]]【作曲家】 * [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]【眼科医・言語学者-[[エスペラント]]創案者】 * [[ローザ・ルクセンブルク|ルジャ・ルクセンブルク]](ローザ・ルクセンブルク)【社会主義者】 * [[イレーナ・センドラー]]([[カトリック教会|カトリック]]教徒の慈善活動家) * [[ヤヌシュ・コルチャック]](通称コルチャック先生)【小児科医、孤児院院長、児童文学作家】 * [[マキシミリアノ・コルベ]](コルベ神父)【カトリック聖職者・[[アウシュビッツ]]の聖者】 * ゼノン・ジェブロフスキ(日本語名[[ゼノ・ゼブロフスキー]]、通称「ゼノ修道士」または「ゼノ神父」)【修道士・慈善活動家】 * [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](ポーランド名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ)【カトリック聖職者・第264代[[ローマ教皇]]】 * [[クシシュトフ・キェシロフスキ]]【映画監督】 * [[ロマン・ポランスキー|ロマン・ポランスキ]](ロマン・ポランスキー)【映画監督】 * [[アンジェイ・ワイダ|アンジェイ・ヴァイダ]](アンジェイ・ワイダ)【映画監督】 * [[ジョセフ・コンラッド]](ポーランド名テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキ)【作家(英国文学)】 * [[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]【小説家】 * [[スタニスワフ・レム]]【SF小説家】 * [[ユゼフ・ピウスツキ]]【政治家・初代元首・建国の父】 * [[ヴワディスワフ・ゴムウカ]] 【政治家・統一労働者党元第一書記】 * [[レフ・ヴァウェンサ]](レフ・ワレサ)【政治家・元大統領】 * [[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]【軍人・共産党元第一書記・元大統領】 * [[バーシア|バーシャ・チェチェレフスカ]]【シンガー】 * [[パウエル・ナツラ]]【柔道家、総合格闘家。アトランタオリンピック男子柔道95kg級金メダリスト】 * [[ロベルト・レヴァンドフスキ]]【サッカー選手】 * [[ヤクブ・ブワシュチコフスキ]]【サッカー選手】 * [[ウカシュ・ピシュチェク]]【サッカー選手】 * [[ヴォイチェフ・シュチェスニー]]【サッカー選手】 * [[ロバート・クビサ]]【F1ドライバー】 * [[アダム・マリシュ]]【スキージャンプ選手】 * [[カミル・ストッフ]]【スキージャンプ選手】 {{colend}} <gallery mode=packed> Nikolaus Kopernikus.jpg|[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]] Marie Curie (Nobel-Chem).jpg|[[マリ・キュリー|マリア・スクワォドフスカ(キュリー夫人)]] Irena Sendlerowa 1942.jpg|[[イレーナ・センドラー]] Matejko Self-portrait.jpg|[[ヤン・マテイコ]] Lawrence Alma-Tadema, Portret Ignacego Jana Paderewskiego (1860-1941).jpg|[[イグナツィ・パデレフスキ|パデレフスキ]] Olga Boznańska - Autoportret 1898.jpg|[[オルガ・ボズナンスカ]] Karol Szymanowski.jpg|[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]] PolaNegri(closeup).jpg|[[ポーラ・ネグリ]] Zamenhof portreto.jpg|[[ルドヴィコ・ザメンホフ|ザメンホフ]] Helena Rubinstein 2.jpg|[[ヘレナ・ルビンスタイン]] Janusz Korczak.PNG|[[コルチャック先生]] Rosa_Luxemburg.jpg|[[ローザ・ルクセンブルク]] Andrzej-Wajda-1963.jpg|[[アンジェイ・ワイダ|アンジェイ・ヴァイダ]] MJK32641 Agnieszka Holland (Pokot, Berlinale 2017) crop.jpg|[[アニエスカ・ホランド]] Roman Polanski 2011 2.jpg|[[ロマン・ポランスキー]] Stanislaw Lem 2.jpg|[[スタニスワフ・レム]] Adam Małysz at the 2010 Vancouver Winter Olympics.jpg|[[アダム・マリシュ]] Iga Swiatek (50498824617).jpg|[[イガ・シフィオンテク]] Robert Kubica 2010 Malaysia.jpg|[[ロバート・クビサ]] Anna Maria Jopek - 2011 (03).jpg|[[アナ・マリア・ヨペック|アナ=マリア・ヨペック]] Joanna Kulig 2.jpg|[[ヨアンナ・クーリク]] Magdalena_Abakanowicz_crop_3x4.jpg|[[マグダレーナ・アバカノヴィッチ]] Krzysztof Penderecki 20080706.jpg|[[クシシュトフ・ペンデレツキ|ペンデレツキ]] Henryk Mikołaj Górecki Polish composer.jpg|[[ヘンリク・グレツキ|グレツキ]] Jerzy_Popieluszko.jpg|[[イエジ・ポピエウシュコ]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=date>{{Cite web|和書|publisher=外務省|title=ポーランド基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/poland/data.html|accessdate=2020-7-26}}</ref> }} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=小谷賢|authorlink=小谷賢|title=日本軍のインテリジェンス - なぜ情報が活かされないのか |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ 386 |date=2007-04 |isbn=978-4-06-258386-2 |ref=小谷 2007年 }} {{参照方法|date=2015年11月14日 (土) 12:34 (UTC)}} *{{Cite book |和書 |author=山本俊朗 |author2=井内敏夫 |title=ポーランド民族の歴史 |publisher=[[三省堂]] |series=三省堂選書 75 |date=1980-07 |isbn=978-4-385-43075-1 |ref=}} *『[http://globalnewsview.org/archives/11908 優等生ポーランドの教育制度の行方は?]』(日本語),Ikumi Arata, Global News View.2020年5月 == 関連項目 == {{sisterlinks |commons=Polska |commonscat=Poland }} * [[ポーランド関係記事の一覧]] * [[ポーランド君主一覧]] * [[ポーランドの大統領一覧]] * [[ポーランドの都市の一覧]] * [[ポーランドの観光地]] * [[ポーランド・リトアニア共和国]] * [[ワルシャワ公国]] * [[フス戦争]] * [[カティンの森事件]] * [[ポロニウム]]:ポーランドに因む命名。 * [[ユニテリアン主義]]:思想的先駆者は{{仮リンク|ポーランド兄弟団|en|Polish Brethren}}。1556年1月22日に[[ポーランド王国]]で活動を開始、後にそれは[[ポーランド・リトアニア共和国]]で広範囲に伝道されて行った。 * [[ポーランドボール]]:同国をネタとしたネットミーム。 == 外部リンク == ;政府 * [https://www.gov.pl/ ポーランド共和国公式サイト] {{pl icon}}{{en icon}} * [https://www.prezydent.pl/ ポーランド大統領府] {{pl icon}}{{en icon}} * [https://www.gov.pl/web/premier ポーランド首相府] {{pl icon}}{{en icon}} ;日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/poland/ 日本外務省 - ポーランド] {{ja icon}} ;大使館 * [https://www.pl.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ポーランド日本国大使館]{{ja icon}} * [https://www.gov.pl/web/nippon/Embassy 在日ポーランド大使館]{{ja icon}}{{pl icon}} *[https://instytutpolski.pl/tokyo/ ポーランド広報文化センター]{{ja icon}}{{pl icon}} ;観光その他 * [https://www.poland.travel/ja ポーランド政府観光局] {{ja icon}} * {{Twitter|PolandTravel_jp|ポーランド政府観光局}}{{Ja icon}} * {{Facebook|poland.travel.jp|ポーランド政府観光局}}{{Ja icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/europe/pl/ JETRO - ポーランド] {{ja icon}} * {{Kotobank}} * {{Googlemap|ポーランド}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほおらんと}} [[Category:ポーランド|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]]
2003-04-09T08:13:37Z
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意味論
意味論(いみろん、Semantics)とは、意味について研究する学問である。 言語学、哲学、コンピューター科学、心理学など、いくつかの異なる分野の下位分野を指して使用される。
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意味論(いみろん、Semantics)とは、意味について研究する学問である。 言語学、哲学、コンピューター科学、心理学など、いくつかの異なる分野の下位分野を指して使用される。 意味論 (言語学) - 言語学における意味論。 意味論 (論理学) - 論理学・哲学における意味論。 意味 (哲学) - 哲学における「意味の理論」(theories of meaning) プログラム意味論 - コンピュータ科学での意味論。 オントロジー (情報科学) セマンティック・ウェブ OWL 公理的意味論 操作的意味論 意味ネットワーク 意味論 (心理学) 一般意味論 - A.コージブスキーが提唱した。
'''意味論'''(いみろん、Semantics)とは、意味について研究する学問である。 [[言語学]]、[[哲学]]、[[コンピューター科学]]、[[心理学]]など、いくつかの異なる分野の下位分野を指して使用される。 {{wikt}} *[[意味論 (言語学)]] - [[言語学]]における意味論。 *[[意味論 (論理学)]] - [[論理学]]・[[哲学]]における意味論。 **{{仮リンク|意味 (哲学)|en|Meaning (philosophy)|label=}} - 哲学における「意味の理論」(theories of meaning) *[[プログラム意味論]] - [[コンピュータ科学]]での意味論。 ** [[オントロジー (情報科学)]] ** [[セマンティック・ウェブ]] *** [[OWL]] *** [[公理的意味論]] *** [[操作的意味論]] *** [[意味ネットワーク]] *{{仮リンク|意味論 (心理学)|en|Semantics (psychology)|label=}} *[[一般意味論]] - [[アルフレッド・コージブスキー|A.コージブスキー]]が提唱した。 {{DEFAULTSORT:いみろん}} {{Aimai}} [[Category:意味論|*]]
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バーレーン
バーレーン王国(バーレーンおうこく、アラビア語: مملكة البحرين, ラテン文字: Mamlakat al-Baḥrayn, マムラカト・アル=バフライン)、通称バーレーンは、西アジア・中東に位置し、ペルシア湾のバーレーン島および大小33の島(ムハッラク島など)からなる立憲君主制国家。首都はマナーマ。 王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族(英語版)出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派が占める。 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって、絶対王政の首長制から立憲君主の王制へ移行と共に王国へ改名した。 正式名称はアラビア語で مملكة البحرين(ラテン文字: Mamlakat al-Baḥrayn マムラカト・アル=バフライン, 実際には一気読みによりマムラカトゥ・ル=バフラインとなる)、通称 البحرين( al-Baḥrayn / al-Baḥrain, アル=バフライン)。 2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。 公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。国民・形容詞は Bahraini。 日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある。正則アラビア語での発音に即した学術的なカタカナでは「バフライン」になるが、日本語のフは「f」の響きを持つため実際には「バハライン」の方がアラビア語での発音に近い。 なおラテン文字転写al-Baḥraynのay部分は実際には二重母音のaiであるため、al-Baḥrainという表記もあり、全く同じ発音となる。al-Baḥraynという転写とal-Baḥrainという転写の間に特に差異は無く、アラビア文字でのつづりも全く同一である。 さらに口語アラビア語(現地方言、周辺方言など)では二重母音の発音となるay(ai)部分がエイ、エーとなるためアル=バハレイン、アル=バハレーンと読まれる。これらが日本語カタカナ表記で見られるバハレーン、バハレインの根拠となっている。 日本で用いられているバーレーンでは英語における発音を経由したために「バー」となっており、アラビア語において本来バハレーンと聞こえる口語発音の語頭Bah-部分をバフやバハではなくバーと伸ばしたカタカナ表記としたものである。 国名の بحرين はアラビア語で「二つの海」という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。 なお、サウジアラビア東部からオマーンを含む広い範囲はアラビア語で同じく البحرين と呼ばれる(特に18世紀以前の同地域を指す時)。 かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明やシュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。 サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。主な島はバーレーン本島・ムハッラク島・シトラ島(英語版)で、バーレーンには計33の島がある。国土の大半が砂漠と石灰岩に覆われている。面積は日本の琵琶湖とほぼ同程度である。 ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)。 サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。 4つの県がある。2003年7月3日までは12の行政区に分けられていた。 かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002年より政体を立憲君主制とし、君主の称号を国王(マリク)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王に即位した。二院制の国民議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている。 外交面では中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとはハワール諸島に関する領土問題がある。イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている。 隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。 2020年8月26日、アメリカの国務長官マイク・ポンペオがバーレーンを訪問してハリファ国王と会談。同月にアラブ首長国連邦とイスラエルが国交を結んだことを受けて、アラブ諸国に追随を促すことを目的としたものであったが、ハリファ国王は「パレスチナ国家の樹立なくしてイスラエルとの和平は実現しない」として、言外に外交関係の変更を拒否した格好となった。しかし9月11日、一転してイスラエルとの国交正常化に合意した。 軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、第5艦隊の司令部がある。2015年には明治維新以降として初の多国籍国際合同艦隊の司令官職として、日本の海上自衛隊より任命された幹部自衛官が赴任し、当地バーレーン第5艦隊での国際協力任務を完遂した。南部の約25%がアメリカ軍基地となっている。 IMFの統計によると、2011年のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており、日本の島根県よりやや小さい経済規模である。 中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税は無かったが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、20年余りで完全に枯渇するという問題に直面していた。対策として給与の1%をザカートとして徴収するなど各種の税金が導入された。また資源探査を続けた結果、2018年4月1日、政府は西部沖合で国内で確認されていた埋蔵量を上回る規模の油田を発見したと発表している。 隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。加えて同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である。 古くから真珠採取業を行っており、高品質であるとされてきたものの、日本の真珠養殖業の発展に加え世界恐慌の影響によって徐々に衰退していった。(「バーレーンの真珠採取業」を参照) 観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。失業給付はザカートから捻出されている。 通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2020年7月27日現在) 国営航空会社のガルフ・エアがアジアやヨーロッパ、アフリカ、オセアニア諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社がバーレーン国際空港に乗り入れている。日本から行く場合は、ドバイやドーハなどで乗り換えていくのが一般的である。 島国ではあるが、1986年にキング・ファハド・コーズウェイが開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。 2008年にライトレールの建設計画が公表されたが、2009年からの建設予定が度々延期が繰り返されている。 2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%(568,390人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。 住民はアラブ人が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタンなど他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。 言語は公用語がアラビア語で、日常的にはバーレーン方言が話される。他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンディー語などが使われる。英語も広く使われている。 宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%に達し国教となっている。そのうちシーア派が75%、スンナ派が25%となっている。外国籍を含むと、イスラームが70.2%にまで下がり、残りはキリスト教が14%、ヒンドゥー教が10%などとなっている。近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。 全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイランなどの周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めて人々が集まって盛り上がる。また、女性もヒジャブどころか顔や姿を隠す必要はない。 欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。 女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る。 またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。 バーレーン国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1957年にプロサッカーリーグのバーレーン・プレミアリーグが創設された。バーレーンサッカー協会(BFA)によって構成されるサッカーバーレーン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。AFCアジアカップでは、2004年大会で初めてグループリーグを突破しベスト4の成績を収め、さらに2019年大会ではベスト16に進出した。また、ガルフカップでは2019年大会で初優勝し、西アジアサッカー選手権でも2019年大会で初優勝しており、近年は上昇基調にある。 クリケットも人気スポーツの一つである。バーレーンのクリケットは、1932年にイギリス海軍とイギリス空軍の間の試合で始まった。バーレーンクリケット連盟は、2001年に国際クリケット評議会に加盟した。バーレーンの国際試合デビュー戦は1979年に行われており、2006年にクウェートで開催された中東カップで伝統国のアフガニスタンを破って優勝した。バーレーンは初期の成功を経て、青少年育成プログラムを頼りに国際舞台に復帰しつつある。クリケットが最も人気の地域である南アジア出身の外国人労働者が、バーレーンの人口の多くを占めていることもクリケット人気の要因の一つである。100を超えるクリケットチームが国内のリーグでプレーしている。 バーレーン西部の港町であるザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設しており、F1開催の誘致に成功した。2004年からはバーレーンGPを開催している。 バーレーンでは2000年代以降、ケニアやエチオピアなどのアフリカ出身の選手を多数帰化させるなど陸上競技の強化を進めており、オリンピックや世界陸上、アジア競技大会などの国際大会において優勝者や上位入賞者を輩出している。
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"隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。加えて同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "古くから真珠採取業を行っており、高品質であるとされてきたものの、日本の真珠養殖業の発展に加え世界恐慌の影響によって徐々に衰退していった。(「バーレーンの真珠採取業」を参照)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。失業給付はザカートから捻出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2020年7月27日現在)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "国営航空会社のガルフ・エアがアジアやヨーロッパ、アフリカ、オセアニア諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社がバーレーン国際空港に乗り入れている。日本から行く場合は、ドバイやドーハなどで乗り換えていくのが一般的である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "島国ではあるが、1986年にキング・ファハド・コーズウェイが開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。", "title": "交通" }, { 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"paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイランなどの周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めて人々が集まって盛り上がる。また、女性もヒジャブどころか顔や姿を隠す必要はない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "バーレーン国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1957年にプロサッカーリーグのバーレーン・プレミアリーグが創設された。バーレーンサッカー協会(BFA)によって構成されるサッカーバーレーン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。AFCアジアカップでは、2004年大会で初めてグループリーグを突破しベスト4の成績を収め、さらに2019年大会ではベスト16に進出した。また、ガルフカップでは2019年大会で初優勝し、西アジアサッカー選手権でも2019年大会で初優勝しており、近年は上昇基調にある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "クリケットも人気スポーツの一つである。バーレーンのクリケットは、1932年にイギリス海軍とイギリス空軍の間の試合で始まった。バーレーンクリケット連盟は、2001年に国際クリケット評議会に加盟した。バーレーンの国際試合デビュー戦は1979年に行われており、2006年にクウェートで開催された中東カップで伝統国のアフガニスタンを破って優勝した。バーレーンは初期の成功を経て、青少年育成プログラムを頼りに国際舞台に復帰しつつある。クリケットが最も人気の地域である南アジア出身の外国人労働者が、バーレーンの人口の多くを占めていることもクリケット人気の要因の一つである。100を超えるクリケットチームが国内のリーグでプレーしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "バーレーン西部の港町であるザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設しており、F1開催の誘致に成功した。2004年からはバーレーンGPを開催している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "バーレーンでは2000年代以降、ケニアやエチオピアなどのアフリカ出身の選手を多数帰化させるなど陸上競技の強化を進めており、オリンピックや世界陸上、アジア競技大会などの国際大会において優勝者や上位入賞者を輩出している。", "title": "スポーツ" } ]
バーレーン王国、通称バーレーンは、西アジア・中東に位置し、ペルシア湾のバーレーン島および大小33の島(ムハッラク島など)からなる立憲君主制国家。首都はマナーマ。 王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派が占める。 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって、絶対王政の首長制から立憲君主の王制へ移行と共に王国へ改名した。
{{基礎情報 国 | 略名 = バーレーン | 日本語国名 = バーレーン王国 | 公式国名 = '''{{Lang|ar|مملكة البحرين}}''' | 国旗画像 = Flag of Bahrain.svg | 国章画像 = [[File:Coat of Arms of The Kingdom of Bahrain.svg|100px|バーレーンの国章]] | 国章リンク = ([[バーレーンの国章|国章]]) | 標語 = なし | 国歌 = [[我等のバーレーン|{{lang|ar|بحريننا}}]]{{ar icon}}<br />''我等のバーレーン''<br /><center>[[ファイル:Bahraini Anthem.ogg]] | 位置画像 = Bahrain on the globe (Bahrain centered).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[マナーマ]] | 最大都市 = マナーマ | 元首等肩書 = [[バーレーンの国王|国王(マリク)]] | 元首等氏名 = [[ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ]] | 首相等肩書 = [[バーレーンの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|サルマーン・ビン・ハマド・アール・ハリーファ|ar|سلمان بن حمد آل خليفة|en|Salman bin Hamad bin Isa Al Khalifa}} | 面積順位 = 177 | 面積大きさ = 1 E8 | 面積値 = 758 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 155 | 人口大きさ = 1 E5 | 人口値 = 1,540,558<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/bahrain/ |title=Bahrain |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月10日}}</ref> | 人口密度値 = 2,032.4 | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 130億5800万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月14日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=419,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 94 | GDP値MER = 347億2900万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 2万3589.957<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 96 | GDP値 = 744億4500万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 5万566.873<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 日付</td> | 建国年月日 = [[イギリス]]より<br />[[1971年]][[8月15日]] | 通貨 = [[バーレーン・ディナール]] | 通貨コード = BHD | 時間帯 = +3 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = BH / BHR | ccTLD = [[.bh]] | 国際電話番号 = 973 | 注記 = }} '''バーレーン王国'''(バーレーンおうこく、{{lang-ar|مملكة البحرين}}, [[ラテン文字]]: {{transl|ar|DIN|Mamlakat al-Baḥrayn}}, マムラカト・アル=バフライン)、通称'''バーレーン'''は、[[西アジア]]・[[中東]]に位置し、[[ペルシア湾]]の[[バーレーン島]]および大小33の島([[ムハッラク島]]など)からなる[[立憲君主制]][[国家]]。首都は[[マナーマ]]。 王家の[[ハリーファ家]]は[[クウェート]]の[[サバーハ家]]や[[サウジアラビア]]の[[サウード家]]と同じく{{仮リンク|アナイザ族|en|`Anizzah}}出身で[[スンナ派]]であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかった[[サファヴィー朝]]や[[アフシャール朝]]の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数を[[シーア派]]が占める。 [[1994年]]以後、シーア派による反政府運動が激化し、[[2001年]]2月に行われた[[国民投票]]によって、絶対王政の[[アミール|首長]]制から立憲君主の[[王制]]へ移行と共に王国へ改名した。 == 国名 == === つづりや発音 === 正式名称はアラビア語で {{lang|ar|مملكة البحرين}}([[ラテン文字]]: {{audio|Ar-Mamlakat al-Baḥrayn.oga|{{transl|ar|Mamlakat al-Baḥrayn}}|help=no}} マムラカト・アル=バフライン, 実際には一気読みによりマムラカトゥ・ル=バフラインとなる)、通称 {{lang|ar|البحرين}}({{audio|Ar-Bahrain-1.oga|{{transl|ar|al-Baḥrayn}}|help=no}} / al-Baḥrain, アル=バフライン)。 [[2002年]]、'''[[バーレーン国]]'''({{lang|en|State of Bahrain}})から現在の名称に変更した。 公式の英語表記は {{lang|en|Kingdom of Bahrain}}。通称 {{lang|en|Bahrain}}。国民・形容詞は {{lang|en|Bahraini}}。 日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。'''バハレーン'''、'''バハレイン'''と書かれることもある<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/バハレーン-361040 |title = 大辞林 第三版 バハレーンとは |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-06 }}</ref>。[[正則アラビア語]]での発音に即した学術的なカタカナでは「'''バフライン'''」になるが、日本語のフは「f」の響きを持つため実際には「バハライン」の方がアラビア語での発音に近い。 なおラテン文字転写al-Baḥraynのay部分は実際には二重母音のaiであるため、al-Baḥrainという表記もあり、全く同じ発音となる。al-Baḥraynという転写とal-Baḥrainという転写の間に特に差異は無く、アラビア文字でのつづりも全く同一である。 さらに口語アラビア語(現地方言、周辺方言など)では二重母音の発音となるay(ai)部分がエイ、エーとなるためアル=バハレイン、アル=バハレーンと読まれる。これらが日本語カタカナ表記で見られるバハレーン、バハレインの根拠となっている。 日本で用いられているバーレーンでは英語における発音を経由したために「バー」となっており、アラビア語において本来バハレーンと聞こえる口語発音の語頭Bah-部分をバフやバハではなくバーと伸ばしたカタカナ表記としたものである。 === 国名の意味 === 国名の {{lang|ar|بحرين}} はアラビア語で「二つの[[海]]」<ref group="注">[[定冠詞]] {{lang|ar|الـ}}(ラテン文字転写:{{lang|ar-latn|al}})を除いた形。一般名詞の[[双数形]]で[[属格]]。</ref>という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。 なお、[[サウジアラビア]]東部から[[オマーン]]を含む広い範囲はアラビア語で同じく {{lang|ar|البحرين}} と呼ばれる(特に18世紀以前の同地域を指す時)<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=bJLjAKH7-rIC&pg=PR16|title=Dialect, Culture, and Society in Eastern Arabia: Glossary|work=Clive Holes|year=2001|pages=XIX|isbn=9004107630|last1=Holes|first1=Clive}}</ref>。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|バーレーンの歴史|en|History of Bahrain}}}} かつては[[ディルムン]]文明と呼ばれる[[エジプト文明]]や[[シュメール文明]]に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは[[真珠]]の産地であった。 * [[16世紀]]、[[ペルシャ]]の圧力を受ける中、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]が進出 * [[1782年]] ハリーファ家が[[カタール]]から移住。支配が始まる * [[1867年]] {{仮リンク|カタール・バーレーン戦争|en|Qatari–Bahraini War}} * [[1868年]] {{仮リンク|イギリス・バーレーン合意 (1868年)|en|Qatari–Bahraini War#Anglo-Bahraini agreement of 1868|label=イギリス・バーレーン合意}} * [[1880年]] [[イギリス]]の[[保護国]]となる * [[1931年]] [[アメリカ]]の[[国際石油資本]]{{仮リンク|スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア|en|Standard Oil of California}}(通称SoCal。現:[[シェブロン]])の[[子会社]]である[[:en:Bahrain Petroleum Company|Bahrain Petroleum Company]](BAPCO)が[[:en:First Oil Well, Bahrain|石油を発見]] * [[1968年]] [[イギリス軍]]の[[スエズ]]以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ * [[1971年]] [[バーレーン国]]として独立 * [[1975年]] [[議会]]廃止 * [[1994年]] - [[1999年]] {{仮リンク|1990年代バーレーン蜂起|en|1990s uprising in Bahrain}} * [[2001年]] [[民主化]]推進に向け、[[国民投票]]を実施 * [[2002年]] [[絶対君主制]]から[[立憲君主制]]へ移行し、国名をバーレーン王国へ改称 * [[2011年]] [[2011年バーレーン騒乱|バーレーン騒乱]]。シーア派による反政府[[デモ活動|デモ]]が起こる == 地理 == [[ファイル:Bahrain-map-ja.jpeg|thumb|280px|バーレーンの地図]] {{main|{{仮リンク|バーレーンの地理|en|Geography of Bahrain}}}} サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。主な島はバーレーン本島・[[ムハッラク島]]・{{仮リンク|シトラ島|en|Sitra}}で、バーレーンには計33の島がある<ref name="emb-j-2016">{{Cite web|和書|date=2016-04-20 |title=バーレーン概観 |url=https://www.bh.emb-japan.go.jp/itpr_ja/bahrainoverview.html |publisher=外務省(在バーレーン日本国大使館) |accessdate=2019-10-20 }}</ref>。国土の大半が[[砂漠]]と[[石灰岩]]に覆われている。面積は日本の[[琵琶湖]]とほぼ同程度である。 [[ケッペンの気候区分]]は[[砂漠気候]](BW)。 サウジアラビアとは「[[キング・ファハド・コーズウェイ]]」という全長約24kmの橋によって結ばれている。 {{左|{{File clip | Bahrain Topography.png | width = 180 | 5 | 5 | 40 | 5 | w = 1069 | h = 1486 | 地形図}}}} {{Clearleft}} === 地方行政区分 === [[ファイル:Governorates of Bahrain 2014.png|200px|thumb|地方行政区分]] {{main|バーレーンの行政区画}} 4つの県がある。[[2003年]][[7月3日]]までは12の行政区に分けられていた。 # [[南部県 (バーレーン)|南部県]] # [[北部県 (バーレーン)|北部県]] # [[首都県]] # [[ムハッラク県]] === 都市 === {{main|バーレーンの都市の一覧}} == 政治 == {{main|{{仮リンク|バーレーンの政治|en|Politics of Bahrain}}}} === 政体 === かつては[[絶対君主制]]で、「[[クウェート]]より危うい国」とされていたが、[[湾岸戦争]]以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長([[アミール]])であるシャイフ・[[ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ|ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ]]の下で次々と民主化を実行し、[[2002年]]より政体を立憲君主制とし、君主の称号を国王([[マリク]])と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王に即位した。[[二院制]]の[[国民議会 (バーレーン)|国民議会]](国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される[[首相]]を置き、男女平等[[参政権]]や[[司法権]]の独立などの体制を整えている。 === 外交 === {{see|{{仮リンク|バーレーンの国際関係|en|Foreign relations of Bahrain}}}} 外交面では中東地域の国々や[[イギリス]]、[[フランス]]、[[日本]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を始め、多くの国と良好な関係を築いており、また[[親米]]国だが、[[カタール]]とは[[ハワール諸島]]に関する[[領土問題]]がある。[[イラク]]と関係が悪かったこともあり、[[湾岸戦争]]時にミサイルで狙われたこともある。またペルシア湾を挟んで向かい合う大国[[イラン]]とは、[[パフラヴィー朝]]が「バーレーンは歴史的にみてイラン([[ペルシア]])の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。[[イスラーム革命]]後は、イランが国内の[[シーア派]]を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教[[シーア派]]の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都[[テヘラン]]にあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている<ref>{{Cite news | url=https://jp.reuters.com/article/saudi-iran-bahrain-idJPKBN0UI11O20160104 | title=バーレーン、イランと国交断絶 | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2016-01-04 | accessdate=2016-01-04 }}</ref>。 隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な[[保護国]]となっている。[[2011年バーレーン騒乱]]の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。 2020年8月26日、アメリカの国務長官[[マイク・ポンペオ]]がバーレーンを訪問してハリファ国王と会談。同月に[[アラブ首長国連邦]]と[[イスラエル]]が国交を結んだことを受けて、アラブ諸国に追随を促すことを目的としたものであったが、ハリファ国王は「[[パレスチナ]]国家の樹立なくしてイスラエルとの和平は実現しない」として、言外に外交関係の変更を拒否した格好となった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-27 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3301362 |title= バーレーン国王、対イスラエル関係で米国務長官の要請を言外に拒否|publisher=AFP |accessdate=2020-08-27}}</ref>。しかし9月11日、一転してイスラエルとの国交正常化に合意した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/israel-bahrain-usa-idJPKBN2622YK|title=バーレーンもイスラエルと国交正常化、米仲介で合意|agency=[[ロイター]]|date=2020-09-12|accessdate=2020-09-14}}</ref>。 == 軍事 == {{Main|バーレーン国防軍}} 軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]が駐留しており、[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]の司令部がある。[[2015年]]には[[明治維新]]以降として初の多国籍国際合同艦隊の司令官職として、日本の[[海上自衛隊]]より任命された幹部自衛官が赴任し、当地バーレーン[[第5艦隊]]での国際協力任務を完遂した。南部の約25%が[[アメリカ軍]]基地となっている。 == 経済 == <!-- ''詳細は[[バーレーンの経済]]を参照'' --> [[ファイル:Modern Manama.jpg|thumb|バーレーンの首都、[[マナーマ]]]] [[ファイル:Al Bander Resort.jpg|thumb|バーレーンの観光]] {{main|{{仮リンク|バーレーンの経済|en|Economy of Bahrain}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2011年]]のバーレーンの[[国内総生産|GDP]]は約261億ドルと推計されており<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=45&pr.y=13&sy=2010&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=419&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMFによるバーレーンのGDP]</ref>、[[日本]]の[[島根県]]よりやや小さい経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 内閣府 県民経済計算]</ref>。 中東で最も早く[[石油]]採掘を行った国で、[[国内総生産|GDP]]の約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税は無かったが、[[1970年]]ごろから石油が枯渇し始め、20年余りで完全に枯渇するという問題に直面していた。対策として給与の1%を[[ザカート]]として徴収するなど各種の税金が導入された。また資源探査を続けた結果、[[2018年]][[4月1日]]、政府は西部沖合で国内で確認されていた埋蔵量を上回る規模の[[油田]]を発見したと発表している<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-04-02|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3169618?cx_recommend=popin |title=バーレーン、過去最大の油田発見 「既存の埋蔵量圧倒」|publisher= AFP|accessdate=2018-04-06}}</ref>。 隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。加えて同国が事実上の鎖国体制を敷いていることや[[ペルシャ湾]]の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、[[金融センター]]を目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、[[多国籍企業]]を始めとした外国資本が多数進出している。[[2010年]]9月、英国の[[シンクタンク]]のZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の[[金融センター]]と評価されており、[[中東]]では[[ドバイ]]、[[カタール]]に次ぐ第3位である<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%208.pdf The Global Financial Centres Index8]</ref>。 古くから真珠採取業を行っており、高品質であるとされてきたものの、[[日本]]の真珠[[養殖業]]の発展に加え[[世界恐慌]]の影響によって徐々に衰退していった。(「[[バーレーンの真珠採取業]]」を参照) [[観光]]にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、[[失業率]]が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。[[失業給付]]はザカートから捻出されている。 [[通貨]]単位は[[バーレーン・ディナール]]。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2020年7月27日現在) == 交通 == {{右|<gallery widths="180px" heights="120px"> BahrainInternationalAirport01.jpeg|[[バーレーン国際空港]] King Fahd Causeway (3206595761).jpg|[[キング・ファハド・コーズウェイ]] </gallery>}} {{main|{{仮リンク|バーレーンの交通|en|Transport in Bahrain}}}} 国営[[航空会社]]の[[ガルフ・エア]]が[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[オセアニア]]諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社が[[バーレーン国際空港]]に乗り入れている。[[日本]]から行く場合は、[[ドバイ国際空港|ドバイ]]やドーハなどで乗り換えていくのが一般的である。 {{see also|バーレーンの空港の一覧}} 島国ではあるが、1986年に[[キング・ファハド・コーズウェイ]]が開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。 2008年に[[バーレーンのライトレール網|ライトレール]]の建設計画が公表されたが、2009年からの建設予定が度々延期が繰り返されている。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|バーレーンの人口統計|en|Demographics of Bahrain}}}} [[File:Bahrain population pyramid 2012.jpg|thumb|250px|バーレーンの世代別人口分布]] {{bar box |title=国籍 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|バーレーン国籍|red|46}} {{bar percent|外国籍|silver|54}} }} 2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%(568,390人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。 住民は[[アラブ人]]が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他に[[イラン人]]が8%、アジア人([[印僑]]など)が19%などとなっている。シーア派多数の人口構成を変えるために、[[パキスタン]]など他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。 === 言語 === 言語は公用語が[[アラビア語]]で、日常的には[[アラビア語バーレーン方言|バーレーン方言]]が話される。他に[[ペルシア語]]、[[ウルドゥー語]]、[[ヒンディー語]]などが使われる。[[英語]]も広く使われている。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|バーレーンの宗教|en|Religion in Bahrain}}}} {{bar box |title=イスラム教の宗派 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|シーア派|yellow|75}} {{bar percent|スンニ派|green|25}} }} 宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、[[イスラーム]]が99.8%に達し[[国教]]となっている。そのうち[[シーア派]]が75%、[[スンナ派]]が25%となっている。外国籍を含むと、[[イスラーム]]が70.2%にまで下がり、残りは[[キリスト教]]が14%、[[ヒンドゥー教]]が10%などとなっている。近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、[[2011年バーレーン騒乱]]に繋がったと見る向きもある。 ; 世俗的な宗教的規制 全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、[[サウジアラビア]]や[[イラン]]などの周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えば[[アルコール]]は自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めて人々が集まって盛り上がる。また、女性も[[ヒジャブ]]どころか顔や姿を隠す必要はない。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|バーレーンの文化|en|Culture of Bahrain}}}} === 食文化 === {{see|バーレーン料理}} === 音楽 === {{see|{{仮リンク|バーレーンの音楽|en|Music of Bahrain}}}} 欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。 === 女性の社会進出 === 女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る<ref>[[駐日バーレーン大使館|駐日バーレーン王国大使館]]HPより</ref>。 またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。 === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|バーレーンの祝日|en|Public holidays in Bahrain}}}} {| class="wikitable" style="margin: 0 auto;" |+ style="font-weight:bold;font-size:120%"| !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||{{lang|ar|رأس السنة الميلادية}}|| |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]||{{lang|ar|يوم العمال}}|| |- |[[12月16日]]、[[12月17日|17日]]||バーレーン国祭日|| {{lang|ar|اليوم الوطني}}|| |- |[[ムハッラム]]月1日||イスラム暦新年|| {{lang|ar|رأس السنة الهجرية}}||[[イスラム暦]]による移動祝日 |- |ムハッラム月9,10日||[[アーシューラー]]祭||{{lang|ar|عاشوراء}}||イスラム暦による移動祝日 |- |[[ラビーウ・アル=アウワル|ラビーウ・アル=アウワル月]]12日||[[預言者生誕祭]]||{{lang|ar|المولد النبوي}}||イスラム暦による移動祝日 |- |シャウワール月1,2,3日||ラマダーン明け祭([[イード・アル=フィトル]])||{{lang|ar|عيد الفطر}}||イスラム暦による移動祝日 |- |ズー・アル=ヒッジャ9日||アラファト・デー|| {{lang|ar|يوم عرفة}}||イスラム暦による移動祝日 |- |ズー・アル=ヒッジャ月10,11,12日||犠牲祭([[イード・アル=アドハー]])|| {{lang|ar|عيد الأضحى}}||イスラム暦による移動祝日 |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|バーレーンのスポーツ|en|Sport in Bahrain}}}} {{See also|オリンピックのバーレーン選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|バーレーンのサッカー|en|Football in Bahrain}}}} バーレーン国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1957年]]にプロサッカーリーグの[[バーレーン・プレミアリーグ]]が創設された。[[バーレーンサッカー協会]](BFA)によって構成される[[サッカーバーレーン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。[[AFCアジアカップ]]では、[[AFCアジアカップ2004|2004年大会]]で初めてグループリーグを突破しベスト4の成績を収め、さらに[[AFCアジアカップ2019|2019年大会]]ではベスト16に進出した。また、[[ガルフカップ]]では2019年大会で初優勝し、[[西アジアサッカー選手権]]でも2019年大会で初優勝しており、近年は上昇基調にある。 === クリケット === [[クリケット]]も人気スポーツの一つである。バーレーンのクリケットは、1932年に[[イギリス海軍]]と[[イギリス空軍]]の間の試合で始まった<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/78 Bahrain Cricket Federation] 国際クリケット評議会 2023年9月30日閲覧。</ref>。バーレーンクリケット連盟は、2001年に[[国際クリケット評議会]]に加盟した<ref name="ICC"/>。バーレーンの国際試合デビュー戦は1979年に行われており、2006年にクウェートで開催された中東カップで伝統国のアフガニスタンを破って優勝した<ref name="ICC"/>。バーレーンは初期の成功を経て、青少年育成プログラムを頼りに国際舞台に復帰しつつある<ref name="ICC"/>。クリケットが最も人気の地域である[[南アジア]]出身の[[外国人労働者]]が、バーレーンの人口の多くを占めていることもクリケット人気の要因の一つである。100を超えるクリケットチームが国内のリーグでプレーしている<ref name="ICC"/>。 === モータースポーツ === [[ファイル:First lap 2008 Bahrain.jpg|thumb|バーレーンGP]] バーレーン西部の港町であるザラク近郊の[[砂漠|砂漠地帯]]である[[サヒール]]に[[バーレーンインターナショナルサーキット|サーキット]]を建設しており、[[フォーミュラ1|F1]]開催の誘致に成功した。[[2004年]]からは[[バーレーングランプリ|バーレーンGP]]を開催している。 === 陸上競技 === バーレーンでは[[2000年代]]以降、[[ケニア]]や[[エチオピア]]などの[[アフリカ]]出身の選手を多数[[帰化]]させるなど[[陸上競技]]の強化を進めており、[[近代オリンピック|オリンピック]]や[[世界陸上]]、[[アジア競技大会]]などの国際大会において優勝者や上位入賞者を輩出している。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:バーレーンの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[バーレーン国防軍]] * [[バーレーンの国旗]] * [[サッカーバーレーン代表]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Bahrain|Bahrain}} ; 政府 * [http://www.bahrain.gov.bh/ バーレーン王国政府] {{ar icon}}{{en icon}} * [http://www.bahrain-embassy.or.jp/ 駐日バーレーン王国大使館] {{en icon}}{{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bahrain/ 日本外務省 - バーレーン] {{ja icon}} * [https://www.bh.emb-japan.go.jp/japan/japanMain.htm 在バーレーン王国日本国大使館] {{ja icon}} ; その他 * [http://www.jccme.or.jp/japanese/08/08-07-17.cfm JCCME - バーレーン] {{アジア}} {{OIC}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあれえん}} [[Category:バーレーン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:王国]] [[Category:島国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:イスラム国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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交尾
交尾(、英: mating)、交接()とは、体内受精をする動物の生殖行動において、異個体間で配偶子をやり取りするために互いの体の一部をつなぎ合わせる行為のこと。生殖器を直接つなぎ合わせる生殖行為を交尾といい、それ以外の方法によるものを交接という(例:イカの腕を使った交接)。現在、化石で確認されている最古の交尾用の生殖器(交尾器・ペニス)はザトウムシのもの。 殆どの場合オスが自分の配偶子である精子(厳密には精子を含んだ精液)をメスの体内に送り込み、メスの体内で卵子と受精させる有性生殖を目的に行われるが、動物の種によってはタツノオトシゴのように逆の例(メスが卵をオスの体内に送り込む)もある。つなぎ合わせる部分は一般に、交尾器、交接器と呼ばれる特殊に分化した生殖器官で、配偶子を確実に送り込めるように、一方の交尾器が突起状、もう一方の交尾器がそれを受けるような窪みや筒状、穴状になっていることが多い。交尾器は体の後ろのほうにあることが多いので、交尾のときには体の後ろの部分を互いにくっつけ合っているように見えることから、「交尾」の名がある。哺乳類の大半は、後ろ足で立ち上がったオスがメスの尻に掴まる姿勢、もしくはうつ伏せのメスの体にオスが覆いかぶさる姿勢で、ペニスをメスの膣で動かす反復運動から射精に至って交尾の終了となる。なお、交尾開始からオスの射精までの時間は、生き物によってバラつきがある(→詳細は後述の”交尾にかかる時間”を参照)。 ヒトの場合には交尾という言葉を用いず、性交と呼ばれ、また性的興奮を伴うものはセックスと表現されることがほとんどである。多くの哺乳類と同様に、女性生殖器へ挿入した勃起状態の男性生殖器をピストン運動することで、膣内の圧迫と膣壁との摩擦で亀頭冠が刺激を受け、男性のオーガズムにより尿道外口から勢いよく膣内に精液が放出される。ヒトの性交には、体内受精の目的以外にも愛情の表現、性的快感を得る行為などの意味があるが、これは他の動物でも同様である。動物がオーガズムを感じているかは明らかではないが、いくつかの哺乳類ではオーガズムと見られる振る舞いが観察される。ネコ科の動物では交尾が刺激となって排卵する。マウスのように交尾の刺激によって妊娠が維持されたり、ボノボや一部のネズミのように交尾行動がつがいの絆を深めるように作用する例もある。このようにヒトでも他の動物でも交尾には複数の機能と直接的な動機があり、繁殖はその結果として起こる。多くの生物が子孫を遺す種の生存本能から交尾するのに対し、ヒト同士は繁殖目的以外でも性交を行なうため、男性が女性器から陰茎を抜いて射精する膣外射精といった、他の哺乳動物に見られない受精の回避行動も取る。また、最初から妊娠を目的とせず、女性器以外の開口部である肛門奥に陰茎を挿入し、オーガズムに達した男性が女性の直腸内で射精を迎える疑似性交もヒト特有の性行為である。 全ての動物の祖でもある水棲動物は、交尾を行わないことが多い。すなわち精子を体外に放出するのみで、あとは精子が自力で水中を泳ぎ、あるいは水流の助けで卵側までたどり着き受精する(体外受精)。しかし精子や卵子などの配偶子は、一般に乾燥には非常に弱く、また小型で(花粉や種子のように)空気中を移動する手段をもたない。そこで、配偶子を一方の体内に直接送り込む体内受精が発達したと考えられている。 生物群は大分して交尾行動を行うものと交接行動を行うものに分類できる。 交尾行動を行う主な生物群は下記の通り。 交接行動を行う主な生物群は下記の通り。 一回の交尾・交接にかける時間は生物の種類によって異なる。
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交尾(こうび、、交接とは、体内受精をする動物の生殖行動において、異個体間で配偶子をやり取りするために互いの体の一部をつなぎ合わせる行為のこと。生殖器を直接つなぎ合わせる生殖行為を交尾といい、それ以外の方法によるものを交接という。現在、化石で確認されている最古の交尾用の生殖器はザトウムシのもの。
{{Otheruses||[[梶井基次郎]]の小説|交尾 (小説)}} [[ファイル:Golden monkeys (Cercopithecus kandti) mating.jpg|サムネイル|270x270ピクセル|[[サル]]の交尾]] {{読み仮名|'''交尾'''|こうび|{{lang-en-short|mating}}}}、{{読み仮名|'''交接'''|こうせつ}}とは、[[体内受精]]をする[[動物]]の[[生殖|生殖行動]]において、異個体間で[[配偶子]]をやり取りするために互いの体の一部をつなぎ合わせる行為のこと。[[生殖器]]を直接つなぎ合わせる生殖行為を交尾といい、それ以外の方法によるものを交接という(例:[[イカ]]の腕を使った交接)。現在、化石で確認されている最古の交尾用の生殖器(交尾器・ペニス)は[[ザトウムシ]]のもの。 == 概要 == 殆どの場合[[雄|オス]]が自分の[[配偶子]]である[[精子]](厳密には精子を含んだ[[精液]])を[[雌|メス]]の体内に送り込み、メスの体内で[[卵子]]と[[受精]]させる[[有性生殖]]を目的に行われるが、動物の種によっては[[タツノオトシゴ]]のように逆の例(メスが卵をオスの体内に送り込む)もある。つなぎ合わせる部分は一般に、'''交尾器'''、'''交接器'''と呼ばれる特殊に分化した生殖器官で、[[配偶子]]を確実に送り込めるように、一方の交尾器が突起状、もう一方の交尾器がそれを受けるような窪みや筒状、穴状になっていることが多い。交尾器は体の後ろのほうにあることが多いので、交尾のときには体の後ろの部分を互いにくっつけ合っているように見えることから、「'''交尾'''」の名がある。[[哺乳類]]の大半は、後ろ足で立ち上がったオスがメスの尻に掴まる姿勢、もしくはうつ伏せのメスの体にオスが覆いかぶさる姿勢で、ペニスをメスの膣で動かす反復運動から[[射精]]に至って交尾の終了となる。なお、交尾開始からオスの射精までの時間は、生き物によってバラつきがある(→詳細は後述の”[[交尾#交尾・交接にかかる時間や回数|交尾にかかる時間]]”を参照)。 [[ヒト]]の場合には'''交尾'''という言葉を用いず、'''[[性行為#性交|性交]]'''と呼ばれ、また[[性的興奮]]を伴うものは'''[[セックス]]'''と表現されることがほとんどである。多くの哺乳類と同様に、[[膣|女性生殖器]]へ挿入した勃起状態の[[陰茎|男性生殖器]]を[[ピストン運動]]することで、膣内の圧迫と膣壁との摩擦で[[カリ首|亀頭冠]]が刺激を受け、男性のオーガズムにより[[尿道口|尿道外口]]から勢いよく膣内に[[精液]]が放出される。ヒトの性交には、[[体内受精]]の目的以外にも愛情の表現、性的快感を得る行為などの意味があるが、これは他の動物でも同様である。動物が[[オーガズム]]を感じているかは明らかではないが、いくつかの哺乳類ではオーガズムと見られる振る舞いが観察される<ref>マーリーン・ズック著 『性淘汰』</ref>。[[ネコ科]]の動物では交尾が刺激となって[[排卵]]する。[[ハツカネズミ|マウス]]のように交尾の刺激によって[[妊娠]]が維持されたり、[[ボノボ]]や一部の[[ネズミ]]のように交尾行動が[[つがい]]の絆を深めるように作用する例もある。このようにヒトでも他の動物でも交尾には複数の[[機能]]と直接的な[[動機]]があり、[[繁殖]]はその結果として起こる。多くの生物が子孫を遺す種の生存本能から交尾するのに対し、ヒト同士は繁殖目的以外でも性交を行なうため、男性が女性器から陰茎を抜いて射精する[[膣外射精]]といった、他の哺乳動物に見られない[[避妊|受精の回避]]行動も取る。また、最初から[[妊娠]]を目的とせず、女性器以外の[[開口部 (人体)|開口部]]である[[肛門]]奥に陰茎を挿入し、オーガズムに達した男性が女性の[[肛内射精|直腸内で射精]]を迎える[[アナルセックス|疑似性交]]もヒト特有の性行為である。 全ての動物の祖でもある水棲動物は、交尾を行わないことが多い。すなわち精子を体外に放出するのみで、あとは精子が自力で[[水中]]を泳ぎ、あるいは[[水流]]の助けで卵側までたどり着き受精する([[体外受精 (生物)|体外受精]])。しかし精子や卵子などの配偶子は、一般に[[乾燥]]には非常に弱く、また小型で([[花粉]]や[[種子]]のように)[[空気]]中を移動する手段をもたない。そこで、配偶子を一方の体内に直接送り込む体内受精が発達したと考えられている。 == 交尾・交接行動と各生物群 == 生物群は大分して交尾行動を行うものと交接行動を行うものに分類できる。 === 交尾行動を行う主な生物群 === 交尾行動を行う主な生物群は下記の通り。 * 主に陸上生活をする'''[[脊椎動物]]''' ** ヒトを含む[[哺乳類]]、[[鳥類]]、[[爬虫類]]では、オスの[[陰茎]]を通して、メスの体内に[[精子]]([[精液]])送り込む交尾が行われる。陰茎の挿入を受け入れるメスの器官は哺乳類([[単孔類]]を除く)では[[膣]]であるが、[[単孔類]]、鳥類、爬虫類では[[総排出腔]]であり、ここが[[産卵管]]につながっている。 ** [[クジラ]]などの主に水中生活をする哺乳類も体内受精を行う。 ** カエルなどの両生類は、ここでいう交尾は行わない。しかし、オスがメスを抱きかかえ、メスが体外に排出した直後の卵に[[精子]]をかけるという、'''抱接'''(ほうせつ)と呼ばれる、体内受精に比較的近い体外受精を行う種もいる。 * [[サメ]]などの'''[[軟骨魚綱|軟骨魚類]]'''のうち、[[胎生]]、[[卵胎生]]の種類 * [[昆虫]]などの主に陸上生活をする'''[[無脊椎動物]]''' ** オスが、精子の入った袋状のかたまり('''精包''')をメスの体内に送り込む交尾が多い。受精はその場では起こらず、メスは産卵時まで精子を保持し、産卵時に受精させる場合がある。 ** [[カタツムリ]]や[[ナメクジ]]などは[[雌雄同体]]で、二匹がお互いの雄の生殖器を相手の雌の生殖器に入れることになる。 === 交接行動を行う生物群 === 交接行動を行う主な生物群は下記の通り。 * [[タコ]]や[[イカ]]は腕の一部を生殖器として用いる * [[ウミウシ]]はナメクジと同じく雌雄同体でお互いの雌側生殖器もしくは体表に生殖器を差して精子を送り込む<ref>『ウミウシ学―海の宝石、その謎を探る』(東海大学出版会)。同書ではウミウシの生殖行為に交接の語を使っている</ref>。 * [[クモ]]の仲間は糸を使って精子の入れ物を作りメスに渡す === 特殊な例 === * [[ビワアンコウ]]や[[ミツクリエナガチョウチンアンコウ]]は雄が雌の個体を発見するとその体に噛み付いて酵素によって雌の体と血管レベルで一体化し、雌からの血液によって生きながらえる。その後ほとんどの臓器は退化して雌に吸収されたような状態になるが精囊は残り、生殖行為は一体化した状態で行われる。 === 交尾・交接にかかる時間や回数 === 一回の交尾・交接にかける時間は生物の種類によって異なる。 * チンパンジーやマーモセットの一部は一回にかかる平均時間が10秒にも満たないとされる。 * ガラガラヘビは一回に平均して22-23時間かけるとされる。 * [[オオカミ]]は一回の挿入している時間が約20-30分またはそれ以上になり、1日あたり1~数回の交尾を行う。 * [[ライオン]]は一回の挿入している時間が約10-20秒で、1日あたり約20-40回の交尾を行うことが知られている。 <gallery heights="150" widths="200"> Bagmati River, Pashupatinath, Nepal Animal sex バグマティ川とパシュパティナート火葬場 サルの交尾 5835.JPG|サル Korean wolves mating (cropped).jpg|オオカミ LionsMating.jpg|ライオン Snails mating.jpg|カタツムリ Tortoise mating.jpg|[[ケヅメリクガメ]] Borboleta px cp Sta crz 040206 D.JPG|[[チョウ]] Hoverflies mating midair.jpg|[[ハナアブ科]]ヒラタアブ亜科の一種(飛行中) ''Simosyrphus grandicornis'' Joined moths.JPG|[[ガ]] Ladybird-Coccinellidae-mating.jpg|[[テントウムシ]] Aphrophora alni mating.jpg|[[アワフキムシ]]の一種 ''Aphrophora alni'' </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |author1 = 上村佳孝 |author2 = 三本博之 |title = キイロショウジョウバエ種群における交尾器形態の進化--その機能研究に関するレビュー (生物進化研究のモデル生物群としてのショウジョウバエ) |year = 2011 |publisher = [[北海道大学低温科学研究所]] |journal = 低温科学 |volume = 69 |naid = 40018938267 |url= https://hdl.handle.net/2115/45188 |pages = 39-50 |ref = harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Animal sex}} * [[配偶システム]] * [[繁殖]] * [[動物の性行動]] * [[性行為]] * [[総排出腔]] {{biosci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうひ}} [[Category:有性生殖]] [[Category:動物の生殖]] [[Category:動物行動学]]
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ニュージーランド
ニュージーランド(英語: New Zealand、マオリ語: Aotearoa)は、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する立憲君主制国家。首都はウェリントンで、最大の都市はオークランドである。 島国であり、二つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れたオーストラリア大陸(オーストラリア連邦)と対する。南方の南極大陸とは2,600km離れている。北はトンガ、ニューカレドニア、フィジーがある。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。また、ニュージーランド王国を構成する最大の主体地域である。 正式名称は英語で New Zealand(ニュージーランド)、及びマオリ語で Aotearoa(アオテアロア)。略称は、NZ。 日本語の表記は、ニュージーランド。漢字による表記は新西蘭であり、略称は新。1980年代に当時の駐日大使が漢字表記を公募し、乳国とも表記するとした。ただし、21世紀現在はほとんど使われず、「NZ」の略記の方が多用されている。 New Zealand という国名は、直訳すると「新しいジーランド」となる。Zealandとは、オランダのゼーラントのこと。ニュージーランドに最初に到達したヨーロッパ人探検隊を率いたタスマンが、オランダ人であったことから、ラテン語でNova Zeelandia(新しいゼーランディア)と名付けられ、さらにそれをオランダ語訳し、Nieuw Zeeland と呼ばれるようになった。それが英語名のもとになった。 マオリ語のアオテアロアは、「白く長い雲(のたなびく地)」という意味(“ao”=「雲」、“tea”=「白」、“roa”=「長い」)。元々は、北島のみを指す語であり、かつてはニュージーランド全体を指す語として英語の New Zealand を音訳した Niu Tireni が使われていた。 なお、近年在、マオリの中から国名の正式名称をアオテアロアにすべきだという声が出ており、2021年9月よりマオリ党が国名変更のために運動を開始した。 ニュージーランドに関連するものを指す際、「キーウィ」(kiwi)という愛称がよく使われる。ニュージーランドに生息する鳥キーウィから名をとり「ニュージーランドの」という形容詞として用いられることがある。口語のキーウィは名詞で「ニュージーランド人」を指すこともある。こうしたキーウィの呼び名にニュージーランドやニュージーランド国民への侮蔑の意味はなく、ニュージーランド側も認めている呼称である。また外国為替のディーラーの間では、ニュージーランド・ドルを“kiwi”または“kiwi dollar”とも呼ぶ。 9世紀ごろ、ポリネシア人開拓者が島々にやってきていて、彼らの子孫は マオリ人と呼ばれる。ニュージーランドの東に位置するチャタム諸島に行った子孫はモリオリ人と呼ばれている。モリオリ人がチャタム諸島に、ニュージーランドを経由して来たのが、他のポリネシア地域から直接渡ったのかは今でも議論がある一方、言語学的には証明がなされている。マオリ人はニュージーランド北南島(特に北島)を「アオテアロア」(長い白い雲の土地)と呼んでいた。 最初の居住者はモアの狩猟者たちで、乱獲によりモアを15世紀までに絶滅させた。モアを餌としていたハルパゴルニスワシ(ハースト・イーグルとも。ワシの仲間で、羽を広げると3mもある史上最大の猛禽類)もモアと共に絶滅している。 民族 (iwi) の縄張り (rohe) に分かれていた。マオリは海産物、植物、動物、モア、ナンヨウネズミ、サツマイモ (kumara) を食べていた。 ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、1642年12月に Heemskerck 号と Zeehaen 号で、南島と北島の西海岸に投錨。マオリとの争いがあったために西岸をトンガへ北上し、北南島西岸のスケッチをした。彼は、最初、アントワープ出身の水夫ヤコブ・ル・メール (Jacob Le Maire) が1616年に「発見」したチリの南の土地だと思い、“Staaten Landt”(英:“Staten Island”)と地図に記した。 1643年にヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分かると、オランダの知識人はオランダのゼーラント州 (Zeeland) にちなみ、ラテン語で “Nova Zeelandia”(「新しい海の土地」という意味。英語の “New Sealand” にあたる)。と名付け、後にはオランダ語で “Nieuw Zeeland” と呼ばれた。 タスマンが訪れてから100年以上後、ジェームズ・クックがエンデバーで1769-1770年に訪れた時に、英語で “New Zealand” と呼んだ。クックが “Zeeland” を “Sea land” と直訳しなかったのは、オランダ語の発音の名残と、デンマークのシェラン島(“Zealand”。コペンハーゲンがある島)にもちなんだためといわれる。クックはその後の第2次・第3次航海でもニュージーランドを訪れた。その時に北島・中島・南島と名付けたが、中島が今の南島に、その時の南島が今のスチュアート島になった。 戦後のニュージーランドはイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け高福祉国家となる。しかし、1970年代にイギリスがECの一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化した。さらに、オイルショックが追い打ちをかけた。国民党政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど財政政策を行うもいずれも失敗し、財政状態はさらに悪化した。 1984年、労働党のデビッド・ロンギが政権を勝ち取ると、「国民の支持が得られなくともやるべきことは断行する」との固い決意のもと、政権主導の改革を押し進めた。ロンギ首相(当時)とダグラス財務大臣(当時)の改革は、ロジャーノミクスと呼ばれる経済改革につながる。主な事例としては、21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)を自国資本・外国資本を問わず民営化した。大学や国立研究所を法人化し実質無料であった学費を民間の大学と同様にした。各産業への保護と規制は撤廃され、外資のニュージーランド経済への資本参加を許可し、政府による許認可を極力なくし、官僚の数を半減した。規制撤廃、農業における補助金・優遇制度の撤廃、税制改革、競争原理の導入、行政部門の役割の見直しなど一連の改革は、一時的に倒産件数や失業率の悪化を招き、ロンギは首相を降ろされたが、結果として、ニュージーランド経済は成長軌道に乗り、福祉サービスも向上した。以降、これらの改革は労働党と国民党を問わず受け継がれ、現在のニュージーランドは極めて規制の少ない国となっている。 1990年代後半からとりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、外資に売却した鉄道会社を再購入するなど地球温暖化対策に積極的な姿勢を示している。国内各地でエコツーリズムを開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指している。映画産業の成長により広大な自然地形はロケーション撮影地として映画産業、海外メディアにも広く利用されニュージーランドの広報活動にも貢献している。 2020年3月、ニュージーランド政府は新型コロナウイルス感染者が国内で確認されると、いち早く外国人の入国を禁止し、都市のロックダウンを含む国民の行動制限を含む厳しい措置を採った。ニュージーランドの経済を支える観光業などは大きな打撃を受けることとなり、2020年第2四半期(4-6月期)の国内総生産は前期比12.2%減とニュージーランド史上最大の減少幅を記録した が爆発的な流行は抑え込むことに成功した。 同年10月17日に行われた総選挙では、与党であったニュージーランド労働党が国民からの支持を得て単独過半数を得て圧勝した。 2021年8月17日、新型コロナウイルスのデルタ株による市中感染が1件確認されたことを受け、全土で3日間のロックダウンを実施すると発表した。 ニュージーランドの政体は、ニュージーランド国王 (英: King/Queen of New Zealand) を国家元首とする立憲君主制である。ニュージーランド国王は連合王国国王(イギリス国王)と同一人物であるが、各々の王位は独立して存在する(いわゆる同君連合)。ニュージーランド政府(通例はニュージーランドの首相)の助言に基づき国王により任命されたニュージーランド総督が国王の職務を代行する。行政府の長は首相である。議会による選出に基づき、総選挙で最も多くの議席を獲得した政党の党首が選出され、ニュージーランド総督が任命する。また副首相および閣僚は、首相の推薦に基づきニュージーランド総督が任命する。 議会は一院制で、パーラメント (Parliament) と呼ばれる。国王と代議院で構成され、国王の代理を総督が務める。定数は120議席。任期は3年。かつては小選挙区制を採用していたが、現在は小選挙区比例代表併用制を採用している。投票者は小選挙区票と政党票の計2票を投じる。投票は18歳以上のニュージーランド国籍保有者と同国の永住権保有者により行われる。なお、小選挙区数は人口分布により変動する。例えば、2017年総選挙(定数120議席)では、64の選挙区に加え、マオリ市民の議席を保障するために設けられたマオリ選挙区7を加えた総数71の選挙区が設けられた。 2005年9月の総選挙で労働党のヘレン・クラーク党首(当時)はニュージーランドファースト党・統一未来党・緑の党からの協力を得て、革新党との連立政権を発足させた。中道の統一未来党からは閣外協力を得た。労働党・革新党の連立政権は、1999年の総選挙で、労働党と旧連合党の中道左派勢力が連立を組んだのがはじまり。労働党は3期連続して政権運営を担当した。 マオリ党は、ニュージーランドの先住民が海岸の波打ち際や領海内の大陸棚の国有化に対し、先祖から受け継いできたものと猛反発し、固有の権利を主張して結成され、2005年9月の総選挙で4議席を獲得し国政への影響力を強めた。 2008年の総選挙は11月8日に行われ、定数122で、ニュージーランド国民党が59議席(議席獲得率45%)を獲得し3期9年ぶりに政権を奪還した。ニュージーランド労働党は43議席(同34%)に減らし野党に転落した。以下、緑の党8議席(同6%)、ACTニュージーランド党5議席(同4%)、マオリ党5議席(同2%)、ジム・アンタートンズ革新党1議席(同1%)、統一未来党1議席(同1%)。ニュージーランド労働党と連立政権を組んだニュージーランドファースト党はピータース党首を含め議席獲得には至らなかった(2008年の総選挙は比例併用制により2005年総選挙より1議席増えて定数122議席、63の選挙区(人口分布により2005年総選挙より1選挙区増)、七つのマオリ選挙区により行われ即日開票された。人口分布により九つの選挙区で選挙区名の改名が行われた)。 2011年の総選挙は11月26日に行われ、暫定定数121で、与党国民党は60議席(単独過半数に届かなかった)獲得で第1党、ジョン・キー首相は2期目に入る。ACT党と統一未来党はそれぞれ1議席で1期目から与党に協力。マオリ党は3議席で1期目から閣外協力。労働党は34議席獲得。 2014年の総選挙は9月20日に行われ、定数121で与党国民党が61議席と単独過半数を獲得し、キー政権が3期目に入った。一方、野党第一党の労働党は32議席にとどまり、議席数を減らすことになった。ファースト党は11議席を獲得し、この選挙で躍進した。 2017年の総選挙は9月23日に行われ、定数120で総選挙での政党別議席獲得数は、中道右派のニュージーランド国民党56、中道左派のニュージーランド労働党46、ニュージーランド・ファースト党9、緑の党8、ACTニュージーランド党1であり、従前議席のあったマオリ党及び統一未来党は議席を失った。この結果を受けて労働党はニュージーランド・ファースト党との連立政権樹立に合意し、緑の党の閣外協力も得て2017年10月26日にジャシンダ・アーダーンが第40代首相に就任した。 2020年3月14日、アーダーン首相は記者会見に臨み、新型コロナウイルス感染症の拡大を阻止するため、入国者全員に14日間の自主隔離を義務付けると表明した。なお、感染症の発生が見られない太平洋の小国からの入国は例外としている。この時点でニュージーランドで確認された患者は6人、死者は0人であった。 2020年総選挙で、与党労働党は選挙前より19議席増やして65議席を獲得しアーダーン政権を継続した。2023年1月19日には目指すエネルギーは残っていないとしてアーダーン首相は辞任表明し、後任の労働党党首であるクリス・ヒプキンスが同年1月25日に首相に就任した。 ニュージーランドは、女性の政治的権利(女性参政権)を早くから保障してきたことで知られている。1893年に世界で初めて女性参政権を実現させたのはニュージーランドである(被選挙権は1919年から)。2005年3月には女性が初めて議会議長に任命され、2006年8月までの間、二人の国家元首(国王、総督)と三権の長(代議院議長、首相、首席判事)全てが女性で占められた。 ニュージーランドはイギリスと同様に成文憲法を持たないが、1986年建国法 (en) が国の基本法となっている。 ニュージーランドの対外関係は、主に先進国およびオセアニア諸国に向けられている。ニュージーランドは、GDPこそ大きくないものの、太平洋の中間に位置する人間開発指数の高い先進国として、複数の多国間組織(太平洋諸島フォーラムやアジア太平洋経済協力、太平洋共同体など)に属している。自由貿易も推し進め、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の初期メンバーである。一方、軍事面では軍備管理・非核とともに独立性を重んじている(後述)。 主要な貿易相手国は中国、オーストラリア、アメリカ、日本である。特に中国とオーストラリアの占める割合が大きく、輸出では40%、輸入では30%になる。近年、中国との貿易額が急増しており、2014年以降オーストラリアを抜き最大の物品貿易相手国となっている。主な輸出品目は乳製品や肉類といった第1次産品、輸入品は石油や工業製品である。貿易収支はマイナスであることが多い。 傍ら、1987年の非核地帯、軍縮および軍備管理法(New Zealand Nuclear Free Zone, Disarmament, and Arms Control Act 1987)の下で、ニュージーランドの領海、陸地、空域は非核地帯になっており、以降は原子力船(または核武装艦)が同国の湾港を使用したり、同国水域に入ることを禁止する現状が続いている。 軍事面では独立性を重んじている。ニュージーランド軍として陸海空の三軍を有する。直接的な脅威を受ける国家がないため、冷戦終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、国際連合の平和維持活動 (PKO) を重点活動とした。 第二次世界大戦後は軍事同盟であるANZUSに加盟していたが、1980年代に入ると核に対する態度(南太平洋非核地帯条約に参加、2018年には核兵器禁止条約を批准)の違いから、アメリカとの同盟関係に亀裂が生じ、85年にアメリカの安全保障義務から外れると、86年に脱退した。イラク戦争には反対し派兵しなかったが、対テロ戦争の一環でアフガニスタンやインド洋に兵力を派遣している。アメリカとの関係は2000年代後半から緩和しはじめ、2010年のウェリントン宣言と2012年のワシントン宣言で回復を見せた。 ただし、2020年代においても、参加しているUKUSA協定の役割拡大には不快感を示し、AUKUSでオーストラリアが原子力潜水艦を導入決定した際には領海侵入拒否を伝達した。 ニュージーランドの面積は、268,680 kmである。 ニュージーランド列島は環太平洋火山帯に属し、北島と南島の二つの主要な島と多くの小さな島々で構成される。北島と南島の間には、クック海峡がある。 北島(ノースアイランド)には、首都ウェリントンがあり、政府機関が集中している。同国最大の都市であるオークランドは、商業および経済の中心地となっている。オークランドは、オークランド市、マヌカウ市 (en)、ワイタケレ市、ノースショア市の4市によって構成されている。オークランドの年間降水日は100日以上で、雨の多い街である。近くの観光名所として、温泉地として有名なロトルア、タウポ、ワイトモ鍾乳洞 (グローワーム洞窟、en) の土蛍などが有名である。北島は、南島ほど険しい山脈はないが、火山活動が活発である。北島の中での最高峰は、2,797m のルアペフ山である。 南島(サウスアイランド)は、最も陸地面積の大きな島で、中心都市はクライストチャーチ。島の中央には「南半球のアルプス山脈」と呼ばれる南アルプス山脈がそびえる。最高峰は、3,724m のクック山(マオリ語ではアオラキ、「雲を貫く」という意味)で、その他に3,000m 以上の峰が18ある。他にもタスマン氷河、サザンアルプス、クック山、ミルフォード・サウンドのような豊かな自然も有名である。クイーンズタウンは世界的に有名な観光・保養地である。温泉地も各地に点在する。 風光明媚な地形、火山、温泉、地震は複雑な活動中の地質に起因する。北島の東側には北のトンガ海溝に続く海溝があり、ここでは太平洋プレートがオーストラリアプレートに沈み込み、西側の北島に火山・地震が多い原因となる。南島北部には5本の主要断層があり南のアルプス断層に集約する。この断層は南島を斜めに縦断する右ずれのトランスフォーム断層である。 気候は、ほぼ全土が西岸海洋性気候に含まれ、夏は涼しく冬の強烈な寒波もない。1年を通して温暖な気候であるが、北島・南島ともに多くのスキー場があり、世界中からスキーヤーが訪れる。南半球の地理的、気候的な条件も好まれ、世界各国のスキー連盟の冬季強化合宿地に選ばれている。 1世帯当りの敷地面積は約500m2、住宅床面積は約200m2である。 ニュージーランドの北島、南島およびスチュアート島は太古から大陸から切り離され孤立したため独特の生態系が形成された。 とりわけ、コウモリ類、クジラ類以外の哺乳類が全くいないことは特筆すべきであり、そのため、通常なら陸生哺乳類が担うべき役割を鳥類が担う形で適応放散し、すでに絶滅した巨鳥モアをはじめ、キーウィやフクロウオウム、タカヘなど飛べない鳥による生態系が発達した。 人類の到来以降(特にヨーロッパ系白人移民の入植以降)は、持ち込まれた哺乳類動物(イヌ、ネコ、ネズミ、シカなど)によってこうした生態系が大きく撹乱された。現在では、生物の持込には厳しい制限を敷く保護政策がとられている。 16地方に分かれる。 以上の他に、以下の地域がニュージーランドと特別の関係を有する。本記事中のデータは、これらの領土を含んでいない。 南極条約により棚上げされているが、1957年に南極ロス海周辺をロス海属領 (Ross Dependency) としてその領有を主張した。 ニュージーランド国王を元首とするニュージーランド王国は、これらの領土、自治領、自由連合国家、属領によって構成されている。 豊かな国土と地形から農業が盛ん。とくに酪農、畜産が盛んに行われ、およそ3割の輸出品目は農産品で占められる(乳製品19.5%、食肉13.8%(2007年6月)。近年では、国際市場での価格上昇を受け乳製品の輸出が好調。畜産を廃業し酪農へ進出する農家が増加傾向にある。人口の10倍以上家畜が多いため、国際的にも異色の地球温暖化対策を進める動きが出ている。羊や牛のげっぷ・おならに含まれるメタンガスを抑制するというもので、農家からは反発もある。メタンは二酸化炭素よりも21倍温室効果ガスが大きい 。 果樹・青果物栽培も行なっており、主にキウイフルーツやフェイジョア、キワノ、タマリロなどの果物やパースニップ、スウィード、ビートルート、ルバーブ、リーキなどの野菜が名産となっている。特にキウイフルーツは世界第2位の生産量があり、外貨獲得のために首相自らが販売PRを行っている。2012年5月8日、オークランドの郊外にあるMount Roskillという街で一匹のハエが発見・捕獲され、そのハエを巡って大騒動が巻き起こされている。政府は当時に発見されたハエがクイーンズランド・フルーツ・フライ(英語版)というオーストラリア原生種のハエであることを確認・発表しており、同時にこの種のハエが果樹園を壊滅させる恐れの強いものであることから非常事態宣言を発令し、その地域だけでなく周辺の地域においても一切の果物や野菜の収穫・出荷が禁止される事態となった。 フォンテラはニュージーランド最大の企業組織の一つであり生産者組合組織でもある。 林業、森林業が大変盛ん。対外輸出も好調。2006年度は、およそ31億5000万NZDを輸出し、全輸出額の10%を占める。主な輸出先はオーストラリア、日本、アメリカ、中国など。アメリカ原産の外来種であるマツの一種ラジアータマツ(ニュージーランド松)を主力としている。このマツは原産地であるアメリカでは林業用の樹種として用いられていないが、ニュージーランドでは徹底的に品種改良したうえで利用している。木板、繊維板 (MDF) の需要が高く、カーター・ホルト・ハーベイなどの林業多国籍企業が主要企業。 ニュージーランドの鉱業は小規模である。有機鉱物資源では、亜炭(20万トン、2002年)、石炭(371万トン)、原油(150万トン)、天然ガス(244千兆ジュール)が採掘されているが、国内需要と比較すると取るに足りない。幸い高低差の大きな地形を生かした水力発電が国内の総発電量の54%を占めているため、有機鉱物資源の輸入量を抑えることに成功している。例えば原油が総輸入額に占める割合は6.0%に過ぎない。 金属鉱物資源では、金(9.8トン)、銀(32トン)、鉄鉱(45万トン)が目立つ。金の採掘はニュージーランドへ移民をひきつけた最初の要因であった。1860年代に金が発見されると、一気にヨーロッパ系の人口が倍増し、主要輸出品目となったほどである。 ニュージーランドの工業は、畜産物の加工が主力である。例えば、世界第3位の羊皮生産(10万トン、世界シェア6.3%、2004年時点)、同第4位のバター(47万トン、5.7%)、同第5位の羊肉(51万トン、4.1%)、同第6位の毛糸(2.2万トン、2.1%)などが挙げられる。世界シェア1%を超える生産物は他に、チーズ(29万トン、1.6%)、牛肉(72万トン、1.2%)、アルミニウム(95万トン、1.2%)、製材(429万立方メートル、1.1%)、リン肥料(34万トン、1.0%)がある。アルミニウムはボーキサイトの主要産出国の一つであるオーストラリアに近く、水力発電が60%を占める豊富な電力が利用できることを生かしたものである。 年間260万人以上の旅行者が訪れる観光立国である(以下、数字は2010-2011統計)。2010-2011統計では、海外からの観光客による外貨獲得は97億NZDを記録し国内総生産(GDP) の9%を占める。広大な自然地形とロード・オブ・ザ・リングに代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っている。 国別統計では、オーストラリアからの観光客が全体の45%を占め年間115万人以上が訪れている。その他、主な観光客の出身国はイギリス(22.5万人)、アメリカ合衆国(18.4万人)、中華人民共和国(15.4万人)、日本(6.5万人)、ドイツ(6.3万人)、大韓民国(5.1万人)となっている。特に中華人民共和国からの観光客増加は毎年二桁成長を記録しており、観光省および政府観光局は日本や中華人民共和国などのアジア諸国からの観光客誘致に積極的である。 日本からニュージーランドへは、成田国際空港と関西国際空港の2空港からフラッグ・キャリアのニュージーランド航空が直行便を運行しているほか、シドニーやシンガポール、香港、バンコクなどから経由便を利用して入国できる。 1980年代後半より留学生の受け入れを積極的に行い、現在では輸出項目の5番目に教育ビジネス(留学生ビジネス)が入る。留学生により年間$23億NZドル(2008年)の外貨と教育分野で32,000人分の雇用が生み出される。留学生は2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生数は、中華人民共和国(20,579人)、大韓民国(17,189人)、日本(10,676人)となっている。 同国における科学機関ならび化学機関はニュージーランド化学研究所(英語版)(NZIC)やGNSサイエンス、クラウン研究所(英語版)、グラビダ(英語版)、テ・プナハ・マタティーニ(英語版)などが知られている。 また、NZICはアジア化学会連合(英語版)(FACS)の加盟組織でもある。 2020年時点での総人口は500万人超と推定されている。人口密度(1 km当たり)は約19人である。 ニュージーランドの合計特殊出生率は1.61人(2020年)である。 ニュージーランドは多民族国家である。2013年の国勢調査では、ヨーロッパ系74.0%、先住民族マオリ人14.9%、アジア系11.8%、太平洋諸島系7.4%、中東系・ラテン系・アフリカ系1.2%、その他1.7%である。2001年の国勢調査では、アジア系6.6%であったことから、近年アジア系の急増がうかがえる。 移民も多く、さまざまな名前がある。 2013年より、同性間の結婚(同性結婚)が認められるようになった。国会での議決の際、国民党の議員だったモーリス・ウィリアムソンが行ったスピーチは大きく注目され、ウィリアムソンは一躍時の人となった。 ニュージーランドはキリスト教が主な宗教であるが、人口の多くは世俗的である。2013年の国勢調査によると、キリスト教が約47%(内、カトリック教会 12.6%、聖公会 11.8%、長老派教会 8.5%、その他15.1%)、その他の宗教が6.0%、無宗教 が41.9%、無回答が4.4%だった。 義務教育の期間は6歳から16歳までとなっている。1980年代後半から留学生の受け入れが積極的に行われているが2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生の順位は、1位:中華人民共和国(20,579人)、2位:大韓民国(17,189人)、3位:日本(10,676人)となっている。 ユニバーサルヘルスケアが達成され、ニュージーランド保健省(英語版)配下の政府機関DHB(英語版)が医療保険を引き受けている。財源は一般税収を原資としており、NZには社会保険制度は存在しない。 ニュージーランドは、政策面では人種・性別・障害などへの差別撤廃に積極的で福祉の充実した観光立国であるというイメージから、「安全な国」というイメージが先行している。しかし他国同様に、軽犯罪から重犯罪も発生している。 2007年7月から2008年6月までのオークランド市における主な犯罪の発生認知件数は「殺人:7件」「強盗:545件」「性犯罪:352件」「麻薬犯罪:2,249件」「窃盗:17,945件」。 失業率は6%(2010年1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、所得・付加価値税率 (15%)が高く贈与相続税が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、社会保障は移住者に対しても充実していることで、移民への偏見、憎悪も起きている。これに対してニュージーランド警察は、ヘイトクライムや人種差別犯罪に対する特別なプログラムを用意しており、個別の事案に特別に対処する体制を用意している。 犯罪組織としてはバイカー・ギャングの比率が多く、「ブラック・パワー」や「モンゴレル・モブ」などのグループはマオリ族がメンバーの大多数を占めている。 補償金を払う政府機関ACCがある。資金は税金で、外国人にも支払われる。 一方でニュージーランドは、世界において汚職の発生率が最も低い国家の1つと見做されている。 ニュージーランド警察(英語版)が主体となっている。 ニュージーランドの食文化はイギリスのものが基盤となっている。また、同国が発足・設立する以前から様々な文化やコミュニティが存在していることから、その料理や独特の食材が豊富である。 都会と自然を兼ね添えた風光明媚な地であり、さらに英語圏であることや、政府や自治体の協力体制ができていること、南半球にあり主な映画製作会社がある北半球と季節が逆であることなどから、近年は映像撮影のロケーション地として需要が高い。多くのハリウッド映画がニュージーランドで製作されているほか、撮影地を訪問するツアーも開催されている。ニュージーランド出身の映画監督にジェーン・カンピオン、ピーター・ジャクソンらがいる。 過去に撮影された主な作品一覧 マオリの織物(英語版)はニュージーランドを代表する伝統的な服飾文化の一部となっている。 ニュージーランドにおける建築文化は、外部からの様々な文化の影響を受けている面があるが、主体となっているのはヨーロッパの建築文化である。 その傍らでポリネシアの文化の影響がいくつかの地域で現れている特徴点を持ち合わせている。 ニュージーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。 この他、地方により異なる日付で「Anniversary Day」が年に1日ずつある。 旧イギリス領の歴史から球技に力を入れている面があり、ニュージーランドではラグビー、クリケット、ネットボールにおいて有力な選手を多数輩出している。さらにヨットレースの強豪国としても知られており、1995年と2000年のアメリカスカップで優勝している。他方で、北島と南島にスキー場を抱えているところからウィンタースポーツも盛んであり、スノーボードやモーグルといった競技も頻繁に行われている。 ラグビーユニオンニュージーランド代表こと『オールブラックス』は、世界屈指の強豪チームであり、試合前にダンスの『ハカ』を踊ることでも知られる。国内ラグビーも世界屈指のクラブチームが揃い、スーパーラグビーに参加している。2009年10月31日には、オールブラックス対ワラビーズの公式戦が、史上初めて日本(東京)で開催された。さらにラグビーリーグニュージーランド代表は、ラグビーリーグ・ワールドカップでの優勝経験があり、「キウイ (Kiwi)」の愛称で親しまれている。オーストラリアのプロリーグであるナショナルラグビーリーグには、ニュージーランドのラグビーリーグチームも参加している。 ニュージーランドは、2005年にオーストラリアサッカー連盟がアジアサッカー連盟に転籍して以降、オセアニア地域では一強状態になっている。ニュージーランドフットボール(NZF)によって構成されるサッカーニュージーランド代表は、FIFAワールドカップには1982年大会で初出場し、2010年大会にも28年ぶり2度目の出場を果たした。オセアニアの大陸選手権であるOFCネイションズカップでは大会最多5度の優勝を誇る。さらにU-23代表は、2021年東京五輪で準々決勝でPK戦の末に日本代表に敗れたが、過去最高位となるベスト8の成績を収めている。 オセアニアのクラブ王者を決めるOFCチャンピオンズリーグでは、オークランド・シティが大会最多10度の優勝に輝いている。また、同クラブはFIFAクラブワールドカップでも2014年大会で3位になっており、名実ともにニュージーランドリーグを代表するクラブでもある。著名な選手としては、プレミアリーグで長年プレーしているクリス・ウッドが存在する。 ニュージーランド人初のNBA選手となったショーン・マークスが非常に有名である。国内にはNBLと呼ばれるプロリーグを持つ。代表チームはこれまでにオリンピック出場2回、世界選手権出場3回を誇る。2000年シドニー五輪ではアフリカ王者のアンゴラ代表相手に勝利を収めた。2002年世界選手権では、大方の予想を大きく上回る4位入賞と大健闘。これには世界中のバスケットボール関係者が驚かされ、大会最大の番狂わせと言われた。なお、この大会でベスト5に選ばれたペロ・キャメロンは唯一の非NBA選手だった。 2004年アテネ五輪では、前回大会に続き1勝を挙げるのみに終わるが、2002年世界選手権の優勝国だったセルビア・モンテネグロ代表を相手に90vs87で破り再び世界を驚かせた。2006年世界選手権では、地元日本代表に最大18点差つけられるも逆転勝利。その後、パナマ代表にも勝利しベスト16入りを果たした。 クリケットは非常に人気の高いスポーツである。ニュージーランドで1832年からプレーされており、ファーストクラス・クリケットは1906年に始まった。国内競技連盟であるニュージーランドクリケットは1894年に設立され、1926年に国際クリケット評議会に加盟し、正会員になった。最高峰の世界選手権大会であるクリケット・ワールドカップでは優勝経験はないものの、2015年大会と2019年大会で準優勝となった。1992年大会と2015年大会ではオーストラリアとの共催で開催国となっている。女子クリケットも盛んであり、1935年のイングランド戦が国際試合のデビューとなった。2000年の女子クリケット・ワールドカップで初優勝し、他にも3度の準優勝経験がある。過去3大会でニュージーランドが開催国となった。国内リーグではトゥエンティ20形式のスーパースマッシュがある。リチャード・ハドリーは同国の歴代最高選手の一人に挙げられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニュージーランド(英語: New Zealand、マオリ語: Aotearoa)は、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する立憲君主制国家。首都はウェリントンで、最大の都市はオークランドである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "島国であり、二つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れたオーストラリア大陸(オーストラリア連邦)と対する。南方の南極大陸とは2,600km離れている。北はトンガ、ニューカレドニア、フィジーがある。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。また、ニュージーランド王国を構成する最大の主体地域である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正式名称は英語で New Zealand(ニュージーランド)、及びマオリ語で Aotearoa(アオテアロア)。略称は、NZ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、ニュージーランド。漢字による表記は新西蘭であり、略称は新。1980年代に当時の駐日大使が漢字表記を公募し、乳国とも表記するとした。ただし、21世紀現在はほとんど使われず、「NZ」の略記の方が多用されている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "New Zealand という国名は、直訳すると「新しいジーランド」となる。Zealandとは、オランダのゼーラントのこと。ニュージーランドに最初に到達したヨーロッパ人探検隊を率いたタスマンが、オランダ人であったことから、ラテン語でNova Zeelandia(新しいゼーランディア)と名付けられ、さらにそれをオランダ語訳し、Nieuw Zeeland と呼ばれるようになった。それが英語名のもとになった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マオリ語のアオテアロアは、「白く長い雲(のたなびく地)」という意味(“ao”=「雲」、“tea”=「白」、“roa”=「長い」)。元々は、北島のみを指す語であり、かつてはニュージーランド全体を指す語として英語の New Zealand を音訳した Niu Tireni が使われていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、近年在、マオリの中から国名の正式名称をアオテアロアにすべきだという声が出ており、2021年9月よりマオリ党が国名変更のために運動を開始した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ニュージーランドに関連するものを指す際、「キーウィ」(kiwi)という愛称がよく使われる。ニュージーランドに生息する鳥キーウィから名をとり「ニュージーランドの」という形容詞として用いられることがある。口語のキーウィは名詞で「ニュージーランド人」を指すこともある。こうしたキーウィの呼び名にニュージーランドやニュージーランド国民への侮蔑の意味はなく、ニュージーランド側も認めている呼称である。また外国為替のディーラーの間では、ニュージーランド・ドルを“kiwi”または“kiwi dollar”とも呼ぶ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "9世紀ごろ、ポリネシア人開拓者が島々にやってきていて、彼らの子孫は マオリ人と呼ばれる。ニュージーランドの東に位置するチャタム諸島に行った子孫はモリオリ人と呼ばれている。モリオリ人がチャタム諸島に、ニュージーランドを経由して来たのが、他のポリネシア地域から直接渡ったのかは今でも議論がある一方、言語学的には証明がなされている。マオリ人はニュージーランド北南島(特に北島)を「アオテアロア」(長い白い雲の土地)と呼んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最初の居住者はモアの狩猟者たちで、乱獲によりモアを15世紀までに絶滅させた。モアを餌としていたハルパゴルニスワシ(ハースト・イーグルとも。ワシの仲間で、羽を広げると3mもある史上最大の猛禽類)もモアと共に絶滅している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "民族 (iwi) の縄張り (rohe) に分かれていた。マオリは海産物、植物、動物、モア、ナンヨウネズミ、サツマイモ (kumara) を食べていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、1642年12月に Heemskerck 号と Zeehaen 号で、南島と北島の西海岸に投錨。マオリとの争いがあったために西岸をトンガへ北上し、北南島西岸のスケッチをした。彼は、最初、アントワープ出身の水夫ヤコブ・ル・メール (Jacob Le Maire) が1616年に「発見」したチリの南の土地だと思い、“Staaten Landt”(英:“Staten Island”)と地図に記した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1643年にヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分かると、オランダの知識人はオランダのゼーラント州 (Zeeland) にちなみ、ラテン語で “Nova Zeelandia”(「新しい海の土地」という意味。英語の “New Sealand” にあたる)。と名付け、後にはオランダ語で “Nieuw Zeeland” と呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "タスマンが訪れてから100年以上後、ジェームズ・クックがエンデバーで1769-1770年に訪れた時に、英語で “New Zealand” と呼んだ。クックが “Zeeland” を “Sea land” と直訳しなかったのは、オランダ語の発音の名残と、デンマークのシェラン島(“Zealand”。コペンハーゲンがある島)にもちなんだためといわれる。クックはその後の第2次・第3次航海でもニュージーランドを訪れた。その時に北島・中島・南島と名付けたが、中島が今の南島に、その時の南島が今のスチュアート島になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦後のニュージーランドはイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け高福祉国家となる。しかし、1970年代にイギリスがECの一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化した。さらに、オイルショックが追い打ちをかけた。国民党政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど財政政策を行うもいずれも失敗し、財政状態はさらに悪化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1984年、労働党のデビッド・ロンギが政権を勝ち取ると、「国民の支持が得られなくともやるべきことは断行する」との固い決意のもと、政権主導の改革を押し進めた。ロンギ首相(当時)とダグラス財務大臣(当時)の改革は、ロジャーノミクスと呼ばれる経済改革につながる。主な事例としては、21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)を自国資本・外国資本を問わず民営化した。大学や国立研究所を法人化し実質無料であった学費を民間の大学と同様にした。各産業への保護と規制は撤廃され、外資のニュージーランド経済への資本参加を許可し、政府による許認可を極力なくし、官僚の数を半減した。規制撤廃、農業における補助金・優遇制度の撤廃、税制改革、競争原理の導入、行政部門の役割の見直しなど一連の改革は、一時的に倒産件数や失業率の悪化を招き、ロンギは首相を降ろされたが、結果として、ニュージーランド経済は成長軌道に乗り、福祉サービスも向上した。以降、これらの改革は労働党と国民党を問わず受け継がれ、現在のニュージーランドは極めて規制の少ない国となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1990年代後半からとりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、外資に売却した鉄道会社を再購入するなど地球温暖化対策に積極的な姿勢を示している。国内各地でエコツーリズムを開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指している。映画産業の成長により広大な自然地形はロケーション撮影地として映画産業、海外メディアにも広く利用されニュージーランドの広報活動にも貢献している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2020年3月、ニュージーランド政府は新型コロナウイルス感染者が国内で確認されると、いち早く外国人の入国を禁止し、都市のロックダウンを含む国民の行動制限を含む厳しい措置を採った。ニュージーランドの経済を支える観光業などは大きな打撃を受けることとなり、2020年第2四半期(4-6月期)の国内総生産は前期比12.2%減とニュージーランド史上最大の減少幅を記録した が爆発的な流行は抑え込むことに成功した。 同年10月17日に行われた総選挙では、与党であったニュージーランド労働党が国民からの支持を得て単独過半数を得て圧勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2021年8月17日、新型コロナウイルスのデルタ株による市中感染が1件確認されたことを受け、全土で3日間のロックダウンを実施すると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの政体は、ニュージーランド国王 (英: King/Queen of New Zealand) を国家元首とする立憲君主制である。ニュージーランド国王は連合王国国王(イギリス国王)と同一人物であるが、各々の王位は独立して存在する(いわゆる同君連合)。ニュージーランド政府(通例はニュージーランドの首相)の助言に基づき国王により任命されたニュージーランド総督が国王の職務を代行する。行政府の長は首相である。議会による選出に基づき、総選挙で最も多くの議席を獲得した政党の党首が選出され、ニュージーランド総督が任命する。また副首相および閣僚は、首相の推薦に基づきニュージーランド総督が任命する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "議会は一院制で、パーラメント (Parliament) と呼ばれる。国王と代議院で構成され、国王の代理を総督が務める。定数は120議席。任期は3年。かつては小選挙区制を採用していたが、現在は小選挙区比例代表併用制を採用している。投票者は小選挙区票と政党票の計2票を投じる。投票は18歳以上のニュージーランド国籍保有者と同国の永住権保有者により行われる。なお、小選挙区数は人口分布により変動する。例えば、2017年総選挙(定数120議席)では、64の選挙区に加え、マオリ市民の議席を保障するために設けられたマオリ選挙区7を加えた総数71の選挙区が設けられた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2005年9月の総選挙で労働党のヘレン・クラーク党首(当時)はニュージーランドファースト党・統一未来党・緑の党からの協力を得て、革新党との連立政権を発足させた。中道の統一未来党からは閣外協力を得た。労働党・革新党の連立政権は、1999年の総選挙で、労働党と旧連合党の中道左派勢力が連立を組んだのがはじまり。労働党は3期連続して政権運営を担当した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マオリ党は、ニュージーランドの先住民が海岸の波打ち際や領海内の大陸棚の国有化に対し、先祖から受け継いできたものと猛反発し、固有の権利を主張して結成され、2005年9月の総選挙で4議席を獲得し国政への影響力を強めた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2008年の総選挙は11月8日に行われ、定数122で、ニュージーランド国民党が59議席(議席獲得率45%)を獲得し3期9年ぶりに政権を奪還した。ニュージーランド労働党は43議席(同34%)に減らし野党に転落した。以下、緑の党8議席(同6%)、ACTニュージーランド党5議席(同4%)、マオリ党5議席(同2%)、ジム・アンタートンズ革新党1議席(同1%)、統一未来党1議席(同1%)。ニュージーランド労働党と連立政権を組んだニュージーランドファースト党はピータース党首を含め議席獲得には至らなかった(2008年の総選挙は比例併用制により2005年総選挙より1議席増えて定数122議席、63の選挙区(人口分布により2005年総選挙より1選挙区増)、七つのマオリ選挙区により行われ即日開票された。人口分布により九つの選挙区で選挙区名の改名が行われた)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2011年の総選挙は11月26日に行われ、暫定定数121で、与党国民党は60議席(単独過半数に届かなかった)獲得で第1党、ジョン・キー首相は2期目に入る。ACT党と統一未来党はそれぞれ1議席で1期目から与党に協力。マオリ党は3議席で1期目から閣外協力。労働党は34議席獲得。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2014年の総選挙は9月20日に行われ、定数121で与党国民党が61議席と単独過半数を獲得し、キー政権が3期目に入った。一方、野党第一党の労働党は32議席にとどまり、議席数を減らすことになった。ファースト党は11議席を獲得し、この選挙で躍進した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2017年の総選挙は9月23日に行われ、定数120で総選挙での政党別議席獲得数は、中道右派のニュージーランド国民党56、中道左派のニュージーランド労働党46、ニュージーランド・ファースト党9、緑の党8、ACTニュージーランド党1であり、従前議席のあったマオリ党及び統一未来党は議席を失った。この結果を受けて労働党はニュージーランド・ファースト党との連立政権樹立に合意し、緑の党の閣外協力も得て2017年10月26日にジャシンダ・アーダーンが第40代首相に就任した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2020年3月14日、アーダーン首相は記者会見に臨み、新型コロナウイルス感染症の拡大を阻止するため、入国者全員に14日間の自主隔離を義務付けると表明した。なお、感染症の発生が見られない太平洋の小国からの入国は例外としている。この時点でニュージーランドで確認された患者は6人、死者は0人であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2020年総選挙で、与党労働党は選挙前より19議席増やして65議席を獲得しアーダーン政権を継続した。2023年1月19日には目指すエネルギーは残っていないとしてアーダーン首相は辞任表明し、後任の労働党党首であるクリス・ヒプキンスが同年1月25日に首相に就任した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは、女性の政治的権利(女性参政権)を早くから保障してきたことで知られている。1893年に世界で初めて女性参政権を実現させたのはニュージーランドである(被選挙権は1919年から)。2005年3月には女性が初めて議会議長に任命され、2006年8月までの間、二人の国家元首(国王、総督)と三権の長(代議院議長、首相、首席判事)全てが女性で占められた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ニュージーランドはイギリスと同様に成文憲法を持たないが、1986年建国法 (en) が国の基本法となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの対外関係は、主に先進国およびオセアニア諸国に向けられている。ニュージーランドは、GDPこそ大きくないものの、太平洋の中間に位置する人間開発指数の高い先進国として、複数の多国間組織(太平洋諸島フォーラムやアジア太平洋経済協力、太平洋共同体など)に属している。自由貿易も推し進め、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の初期メンバーである。一方、軍事面では軍備管理・非核とともに独立性を重んじている(後述)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "主要な貿易相手国は中国、オーストラリア、アメリカ、日本である。特に中国とオーストラリアの占める割合が大きく、輸出では40%、輸入では30%になる。近年、中国との貿易額が急増しており、2014年以降オーストラリアを抜き最大の物品貿易相手国となっている。主な輸出品目は乳製品や肉類といった第1次産品、輸入品は石油や工業製品である。貿易収支はマイナスであることが多い。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "傍ら、1987年の非核地帯、軍縮および軍備管理法(New Zealand Nuclear Free Zone, Disarmament, and Arms Control Act 1987)の下で、ニュージーランドの領海、陸地、空域は非核地帯になっており、以降は原子力船(または核武装艦)が同国の湾港を使用したり、同国水域に入ることを禁止する現状が続いている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "軍事面では独立性を重んじている。ニュージーランド軍として陸海空の三軍を有する。直接的な脅威を受ける国家がないため、冷戦終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、国際連合の平和維持活動 (PKO) を重点活動とした。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は軍事同盟であるANZUSに加盟していたが、1980年代に入ると核に対する態度(南太平洋非核地帯条約に参加、2018年には核兵器禁止条約を批准)の違いから、アメリカとの同盟関係に亀裂が生じ、85年にアメリカの安全保障義務から外れると、86年に脱退した。イラク戦争には反対し派兵しなかったが、対テロ戦争の一環でアフガニスタンやインド洋に兵力を派遣している。アメリカとの関係は2000年代後半から緩和しはじめ、2010年のウェリントン宣言と2012年のワシントン宣言で回復を見せた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ただし、2020年代においても、参加しているUKUSA協定の役割拡大には不快感を示し、AUKUSでオーストラリアが原子力潜水艦を導入決定した際には領海侵入拒否を伝達した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの面積は、268,680 kmである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ニュージーランド列島は環太平洋火山帯に属し、北島と南島の二つの主要な島と多くの小さな島々で構成される。北島と南島の間には、クック海峡がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北島(ノースアイランド)には、首都ウェリントンがあり、政府機関が集中している。同国最大の都市であるオークランドは、商業および経済の中心地となっている。オークランドは、オークランド市、マヌカウ市 (en)、ワイタケレ市、ノースショア市の4市によって構成されている。オークランドの年間降水日は100日以上で、雨の多い街である。近くの観光名所として、温泉地として有名なロトルア、タウポ、ワイトモ鍾乳洞 (グローワーム洞窟、en) の土蛍などが有名である。北島は、南島ほど険しい山脈はないが、火山活動が活発である。北島の中での最高峰は、2,797m のルアペフ山である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "南島(サウスアイランド)は、最も陸地面積の大きな島で、中心都市はクライストチャーチ。島の中央には「南半球のアルプス山脈」と呼ばれる南アルプス山脈がそびえる。最高峰は、3,724m のクック山(マオリ語ではアオラキ、「雲を貫く」という意味)で、その他に3,000m 以上の峰が18ある。他にもタスマン氷河、サザンアルプス、クック山、ミルフォード・サウンドのような豊かな自然も有名である。クイーンズタウンは世界的に有名な観光・保養地である。温泉地も各地に点在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "風光明媚な地形、火山、温泉、地震は複雑な活動中の地質に起因する。北島の東側には北のトンガ海溝に続く海溝があり、ここでは太平洋プレートがオーストラリアプレートに沈み込み、西側の北島に火山・地震が多い原因となる。南島北部には5本の主要断層があり南のアルプス断層に集約する。この断層は南島を斜めに縦断する右ずれのトランスフォーム断層である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "気候は、ほぼ全土が西岸海洋性気候に含まれ、夏は涼しく冬の強烈な寒波もない。1年を通して温暖な気候であるが、北島・南島ともに多くのスキー場があり、世界中からスキーヤーが訪れる。南半球の地理的、気候的な条件も好まれ、世界各国のスキー連盟の冬季強化合宿地に選ばれている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1世帯当りの敷地面積は約500m2、住宅床面積は約200m2である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの北島、南島およびスチュアート島は太古から大陸から切り離され孤立したため独特の生態系が形成された。 とりわけ、コウモリ類、クジラ類以外の哺乳類が全くいないことは特筆すべきであり、そのため、通常なら陸生哺乳類が担うべき役割を鳥類が担う形で適応放散し、すでに絶滅した巨鳥モアをはじめ、キーウィやフクロウオウム、タカヘなど飛べない鳥による生態系が発達した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "人類の到来以降(特にヨーロッパ系白人移民の入植以降)は、持ち込まれた哺乳類動物(イヌ、ネコ、ネズミ、シカなど)によってこうした生態系が大きく撹乱された。現在では、生物の持込には厳しい制限を敷く保護政策がとられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "16地方に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "以上の他に、以下の地域がニュージーランドと特別の関係を有する。本記事中のデータは、これらの領土を含んでいない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "南極条約により棚上げされているが、1957年に南極ロス海周辺をロス海属領 (Ross Dependency) としてその領有を主張した。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ニュージーランド国王を元首とするニュージーランド王国は、これらの領土、自治領、自由連合国家、属領によって構成されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "豊かな国土と地形から農業が盛ん。とくに酪農、畜産が盛んに行われ、およそ3割の輸出品目は農産品で占められる(乳製品19.5%、食肉13.8%(2007年6月)。近年では、国際市場での価格上昇を受け乳製品の輸出が好調。畜産を廃業し酪農へ進出する農家が増加傾向にある。人口の10倍以上家畜が多いため、国際的にも異色の地球温暖化対策を進める動きが出ている。羊や牛のげっぷ・おならに含まれるメタンガスを抑制するというもので、農家からは反発もある。メタンは二酸化炭素よりも21倍温室効果ガスが大きい 。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "果樹・青果物栽培も行なっており、主にキウイフルーツやフェイジョア、キワノ、タマリロなどの果物やパースニップ、スウィード、ビートルート、ルバーブ、リーキなどの野菜が名産となっている。特にキウイフルーツは世界第2位の生産量があり、外貨獲得のために首相自らが販売PRを行っている。2012年5月8日、オークランドの郊外にあるMount Roskillという街で一匹のハエが発見・捕獲され、そのハエを巡って大騒動が巻き起こされている。政府は当時に発見されたハエがクイーンズランド・フルーツ・フライ(英語版)というオーストラリア原生種のハエであることを確認・発表しており、同時にこの種のハエが果樹園を壊滅させる恐れの強いものであることから非常事態宣言を発令し、その地域だけでなく周辺の地域においても一切の果物や野菜の収穫・出荷が禁止される事態となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "フォンテラはニュージーランド最大の企業組織の一つであり生産者組合組織でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "林業、森林業が大変盛ん。対外輸出も好調。2006年度は、およそ31億5000万NZDを輸出し、全輸出額の10%を占める。主な輸出先はオーストラリア、日本、アメリカ、中国など。アメリカ原産の外来種であるマツの一種ラジアータマツ(ニュージーランド松)を主力としている。このマツは原産地であるアメリカでは林業用の樹種として用いられていないが、ニュージーランドでは徹底的に品種改良したうえで利用している。木板、繊維板 (MDF) の需要が高く、カーター・ホルト・ハーベイなどの林業多国籍企業が主要企業。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの鉱業は小規模である。有機鉱物資源では、亜炭(20万トン、2002年)、石炭(371万トン)、原油(150万トン)、天然ガス(244千兆ジュール)が採掘されているが、国内需要と比較すると取るに足りない。幸い高低差の大きな地形を生かした水力発電が国内の総発電量の54%を占めているため、有機鉱物資源の輸入量を抑えることに成功している。例えば原油が総輸入額に占める割合は6.0%に過ぎない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "金属鉱物資源では、金(9.8トン)、銀(32トン)、鉄鉱(45万トン)が目立つ。金の採掘はニュージーランドへ移民をひきつけた最初の要因であった。1860年代に金が発見されると、一気にヨーロッパ系の人口が倍増し、主要輸出品目となったほどである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの工業は、畜産物の加工が主力である。例えば、世界第3位の羊皮生産(10万トン、世界シェア6.3%、2004年時点)、同第4位のバター(47万トン、5.7%)、同第5位の羊肉(51万トン、4.1%)、同第6位の毛糸(2.2万トン、2.1%)などが挙げられる。世界シェア1%を超える生産物は他に、チーズ(29万トン、1.6%)、牛肉(72万トン、1.2%)、アルミニウム(95万トン、1.2%)、製材(429万立方メートル、1.1%)、リン肥料(34万トン、1.0%)がある。アルミニウムはボーキサイトの主要産出国の一つであるオーストラリアに近く、水力発電が60%を占める豊富な電力が利用できることを生かしたものである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "年間260万人以上の旅行者が訪れる観光立国である(以下、数字は2010-2011統計)。2010-2011統計では、海外からの観光客による外貨獲得は97億NZDを記録し国内総生産(GDP) の9%を占める。広大な自然地形とロード・オブ・ザ・リングに代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "国別統計では、オーストラリアからの観光客が全体の45%を占め年間115万人以上が訪れている。その他、主な観光客の出身国はイギリス(22.5万人)、アメリカ合衆国(18.4万人)、中華人民共和国(15.4万人)、日本(6.5万人)、ドイツ(6.3万人)、大韓民国(5.1万人)となっている。特に中華人民共和国からの観光客増加は毎年二桁成長を記録しており、観光省および政府観光局は日本や中華人民共和国などのアジア諸国からの観光客誘致に積極的である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本からニュージーランドへは、成田国際空港と関西国際空港の2空港からフラッグ・キャリアのニュージーランド航空が直行便を運行しているほか、シドニーやシンガポール、香港、バンコクなどから経由便を利用して入国できる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1980年代後半より留学生の受け入れを積極的に行い、現在では輸出項目の5番目に教育ビジネス(留学生ビジネス)が入る。留学生により年間$23億NZドル(2008年)の外貨と教育分野で32,000人分の雇用が生み出される。留学生は2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生数は、中華人民共和国(20,579人)、大韓民国(17,189人)、日本(10,676人)となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "同国における科学機関ならび化学機関はニュージーランド化学研究所(英語版)(NZIC)やGNSサイエンス、クラウン研究所(英語版)、グラビダ(英語版)、テ・プナハ・マタティーニ(英語版)などが知られている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、NZICはアジア化学会連合(英語版)(FACS)の加盟組織でもある。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2020年時点での総人口は500万人超と推定されている。人口密度(1 km当たり)は約19人である。 ニュージーランドの合計特殊出生率は1.61人(2020年)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは多民族国家である。2013年の国勢調査では、ヨーロッパ系74.0%、先住民族マオリ人14.9%、アジア系11.8%、太平洋諸島系7.4%、中東系・ラテン系・アフリカ系1.2%、その他1.7%である。2001年の国勢調査では、アジア系6.6%であったことから、近年アジア系の急増がうかがえる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "移民も多く、さまざまな名前がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2013年より、同性間の結婚(同性結婚)が認められるようになった。国会での議決の際、国民党の議員だったモーリス・ウィリアムソンが行ったスピーチは大きく注目され、ウィリアムソンは一躍時の人となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ニュージーランドはキリスト教が主な宗教であるが、人口の多くは世俗的である。2013年の国勢調査によると、キリスト教が約47%(内、カトリック教会 12.6%、聖公会 11.8%、長老派教会 8.5%、その他15.1%)、その他の宗教が6.0%、無宗教 が41.9%、無回答が4.4%だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "義務教育の期間は6歳から16歳までとなっている。1980年代後半から留学生の受け入れが積極的に行われているが2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生の順位は、1位:中華人民共和国(20,579人)、2位:大韓民国(17,189人)、3位:日本(10,676人)となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ユニバーサルヘルスケアが達成され、ニュージーランド保健省(英語版)配下の政府機関DHB(英語版)が医療保険を引き受けている。財源は一般税収を原資としており、NZには社会保険制度は存在しない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは、政策面では人種・性別・障害などへの差別撤廃に積極的で福祉の充実した観光立国であるというイメージから、「安全な国」というイメージが先行している。しかし他国同様に、軽犯罪から重犯罪も発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2007年7月から2008年6月までのオークランド市における主な犯罪の発生認知件数は「殺人:7件」「強盗:545件」「性犯罪:352件」「麻薬犯罪:2,249件」「窃盗:17,945件」。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "失業率は6%(2010年1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、所得・付加価値税率 (15%)が高く贈与相続税が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、社会保障は移住者に対しても充実していることで、移民への偏見、憎悪も起きている。これに対してニュージーランド警察は、ヘイトクライムや人種差別犯罪に対する特別なプログラムを用意しており、個別の事案に特別に対処する体制を用意している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "犯罪組織としてはバイカー・ギャングの比率が多く、「ブラック・パワー」や「モンゴレル・モブ」などのグループはマオリ族がメンバーの大多数を占めている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "補償金を払う政府機関ACCがある。資金は税金で、外国人にも支払われる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "一方でニュージーランドは、世界において汚職の発生率が最も低い国家の1つと見做されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ニュージーランド警察(英語版)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの食文化はイギリスのものが基盤となっている。また、同国が発足・設立する以前から様々な文化やコミュニティが存在していることから、その料理や独特の食材が豊富である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "都会と自然を兼ね添えた風光明媚な地であり、さらに英語圏であることや、政府や自治体の協力体制ができていること、南半球にあり主な映画製作会社がある北半球と季節が逆であることなどから、近年は映像撮影のロケーション地として需要が高い。多くのハリウッド映画がニュージーランドで製作されているほか、撮影地を訪問するツアーも開催されている。ニュージーランド出身の映画監督にジェーン・カンピオン、ピーター・ジャクソンらがいる。 過去に撮影された主な作品一覧", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "マオリの織物(英語版)はニュージーランドを代表する伝統的な服飾文化の一部となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ニュージーランドにおける建築文化は、外部からの様々な文化の影響を受けている面があるが、主体となっているのはヨーロッパの建築文化である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その傍らでポリネシアの文化の影響がいくつかの地域で現れている特徴点を持ち合わせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ニュージーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "この他、地方により異なる日付で「Anniversary Day」が年に1日ずつある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "旧イギリス領の歴史から球技に力を入れている面があり、ニュージーランドではラグビー、クリケット、ネットボールにおいて有力な選手を多数輩出している。さらにヨットレースの強豪国としても知られており、1995年と2000年のアメリカスカップで優勝している。他方で、北島と南島にスキー場を抱えているところからウィンタースポーツも盛んであり、スノーボードやモーグルといった競技も頻繁に行われている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ラグビーユニオンニュージーランド代表こと『オールブラックス』は、世界屈指の強豪チームであり、試合前にダンスの『ハカ』を踊ることでも知られる。国内ラグビーも世界屈指のクラブチームが揃い、スーパーラグビーに参加している。2009年10月31日には、オールブラックス対ワラビーズの公式戦が、史上初めて日本(東京)で開催された。さらにラグビーリーグニュージーランド代表は、ラグビーリーグ・ワールドカップでの優勝経験があり、「キウイ (Kiwi)」の愛称で親しまれている。オーストラリアのプロリーグであるナショナルラグビーリーグには、ニュージーランドのラグビーリーグチームも参加している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ニュージーランドは、2005年にオーストラリアサッカー連盟がアジアサッカー連盟に転籍して以降、オセアニア地域では一強状態になっている。ニュージーランドフットボール(NZF)によって構成されるサッカーニュージーランド代表は、FIFAワールドカップには1982年大会で初出場し、2010年大会にも28年ぶり2度目の出場を果たした。オセアニアの大陸選手権であるOFCネイションズカップでは大会最多5度の優勝を誇る。さらにU-23代表は、2021年東京五輪で準々決勝でPK戦の末に日本代表に敗れたが、過去最高位となるベスト8の成績を収めている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "オセアニアのクラブ王者を決めるOFCチャンピオンズリーグでは、オークランド・シティが大会最多10度の優勝に輝いている。また、同クラブはFIFAクラブワールドカップでも2014年大会で3位になっており、名実ともにニュージーランドリーグを代表するクラブでもある。著名な選手としては、プレミアリーグで長年プレーしているクリス・ウッドが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ニュージーランド人初のNBA選手となったショーン・マークスが非常に有名である。国内にはNBLと呼ばれるプロリーグを持つ。代表チームはこれまでにオリンピック出場2回、世界選手権出場3回を誇る。2000年シドニー五輪ではアフリカ王者のアンゴラ代表相手に勝利を収めた。2002年世界選手権では、大方の予想を大きく上回る4位入賞と大健闘。これには世界中のバスケットボール関係者が驚かされ、大会最大の番狂わせと言われた。なお、この大会でベスト5に選ばれたペロ・キャメロンは唯一の非NBA選手だった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2004年アテネ五輪では、前回大会に続き1勝を挙げるのみに終わるが、2002年世界選手権の優勝国だったセルビア・モンテネグロ代表を相手に90vs87で破り再び世界を驚かせた。2006年世界選手権では、地元日本代表に最大18点差つけられるも逆転勝利。その後、パナマ代表にも勝利しベスト16入りを果たした。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "クリケットは非常に人気の高いスポーツである。ニュージーランドで1832年からプレーされており、ファーストクラス・クリケットは1906年に始まった。国内競技連盟であるニュージーランドクリケットは1894年に設立され、1926年に国際クリケット評議会に加盟し、正会員になった。最高峰の世界選手権大会であるクリケット・ワールドカップでは優勝経験はないものの、2015年大会と2019年大会で準優勝となった。1992年大会と2015年大会ではオーストラリアとの共催で開催国となっている。女子クリケットも盛んであり、1935年のイングランド戦が国際試合のデビューとなった。2000年の女子クリケット・ワールドカップで初優勝し、他にも3度の準優勝経験がある。過去3大会でニュージーランドが開催国となった。国内リーグではトゥエンティ20形式のスーパースマッシュがある。リチャード・ハドリーは同国の歴代最高選手の一人に挙げられる。", "title": "スポーツ" } ]
ニュージーランドは、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する立憲君主制国家。首都はウェリントンで、最大の都市はオークランドである。 島国であり、二つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れたオーストラリア大陸(オーストラリア連邦)と対する。南方の南極大陸とは2,600km離れている。北はトンガ、ニューカレドニア、フィジーがある。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国となっている。また、ニュージーランド王国を構成する最大の主体地域である。
{{otheruses}} {{基礎情報 国 | 略名 = ニュージーランド | 日本語国名 = ニュージーランド | 公式国名 = {{Lang|en|New Zealand}} {{Smaller|(英語)}}<br />{{Lang|mi|Aotearoa}} {{Smaller|(マオリ語)}} | 国旗画像 = Flag of New Zealand.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of New Zealand.svg|100px|ニュージーランドの国章]] | 国章リンク =([[ニュージーランドの国章|国章]]) | 標語 = なし <sup>1</sup> | 位置画像 = NZL orthographic NaturalEarth.svg | 公用語 = [[ニュージーランド英語|英語]]、[[マオリ語]]、[[ニュージーランド手話]] | 首都 = [[ウェリントン]] | 最大都市 = [[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]] | 元首等肩書 = [[ニュージーランド国王|国王]] | 元首等氏名 = [[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] | 首相等肩書 = [[ニュージーランドの総督|総督]] | 首相等氏名 = [[シンディ・キロ]] | 他元首等肩書1 = [[ニュージーランドの首相|首相]] | 他元首等氏名1 = [[クリストファー・ラクソン]] | 他元首等肩書2 = [[代議院 (ニュージーランド)|代議院議長]] | 他元首等氏名2 = {{ill2|ジェリー・ブラウンリー|en|Gerry Brownlee}} | 面積順位 = 73 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 270,467 | 水面積率 = ごくわずか | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 120 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 5,005,882<ref name="PPL">http://archive.stats.govt.nz/tools_and_services/population_clock.aspx</ref> | 人口密度値 = 18.2 | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 3221億1800万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月16日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=196,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 51 | GDP値MER = 2093億8400万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 4万1164.576<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 67 | GDP値 = 2158億9900万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 4万2445.496<ref name="economy" /> | 建国形態 = | 確立形態1 = [[ニュージーランド自治領|自治領]]として成立 |確立年月日1 = [[1907年]][[9月26日]] | 確立形態2 = [[ウェストミンスター憲章]]受諾<ref group="注釈">[[国家#国家の三要素|国家の三要素]]の[[人民]]を満たす</ref> | 確立年月日2 = [[1947年]][[11月25日]] | 確立形態3 = {{仮リンク|1986年憲法|en|Constitution Act 1986}}<ref group="注釈">[[国家#国家の三要素|国家の三要素]]の[[主権]]を満たし、3つ全てを備える</ref> | 確立年月日3 = [[1987年]][[1月1日]] | 通貨 = [[ニュージーランド・ドル]] | 通貨コード = NZD | 時間帯 = +12 | 夏時間 = +13 | 時間帯追記 = <sup>2</sup> | 国歌 = [[神よニュージーランドを守り給え|{{lang|en|God Defend New Zealand}}]]{{en icon}}<br>[[神よニュージーランドを守り給え|{{lang|mi|Aotearoa}}]]{{mi icon}}<br>''神よニュージーランドを守り給え(アオテアロア)''{{center|[[ファイル:God_Defend_New_Zealand_instrumental.ogg]]}}[[国王陛下万歳|{{lang|en|God Save the King}}]]{{en icon}}<br>''神よ国王を護り賜え''<br> {{center|[[file:God Save The Queen, Íslands minni, Oben am jungen Rhein, Kongesangen and Rufst du, mein Vaterland (1930s; instrumental).ogg]]}} | ISO 3166-1 = NZ / NZL | ccTLD = [[.nz]] | 国際電話番号 = 64 | 注記 = * 注1:かつての標語は、「Onward(英語:さらに先へ)」 * 注2:[[チャタム諸島]]は、ニュージーランド本土よりも45分進んでいる。 }} '''ニュージーランド'''({{lang-en|New Zealand}}、{{Lang-mi|Aotearoa}})は、南西[[太平洋]]の[[オセアニア]]の[[ポリネシア]]に位置する[[立憲君主制]][[国家]]。首都は[[ウェリントン]]で、最大の都市は[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]である。 [[島国]]であり、二つの主要な島と、多くの小さな島々からなる。北西に2,000km離れた[[オーストラリア大陸]]([[オーストラリア|オーストラリア連邦]])と対する。南方の[[南極大陸]]とは2,600km離れている。北は[[トンガ]]、[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]がある。[[イギリス連邦]]加盟国であり、[[英連邦王国]]の一国となっている。また、[[ニュージーランド王国]]を構成する最大の主体地域である。 == 国名 == [[ファイル:TeTuatahianui.jpg|thumb|left|150px|ニュージーランドの[[国鳥]]・[[キーウィ (鳥)|キーウィ]]]] {{main|en:New Zealand place names}} 正式名称は[[英語]]で {{lang|en|'''New Zealand'''}}(ニュージーランド)、及び[[マオリ語]]で {{lang|mi|'''Aotearoa'''}}(アオテアロア)。略称は、'''NZ'''。 日本語の表記は、'''ニュージーランド'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧#ニュージーランド|漢字による表記]]は'''新西蘭'''であり、略称は'''新'''。1980年代に当時の駐日大使が漢字表記を公募し、'''乳'''国とも表記するとした。ただし、21世紀現在はほとんど使われず、「NZ」の略記の方が多用されている。 {{lang|en|''New Zealand''}} という国名は、直訳すると「新しいジーランド」となる。Zealandとは、オランダの[[ゼーラント州|ゼーラント]]のこと。ニュージーランドに最初に到達したヨーロッパ人探検隊を率いた[[アベル・タスマン|タスマン]]が、オランダ人であったことから、ラテン語でNova Zeelandia(新しいゼーランディア)と名付けられ、さらにそれをオランダ語訳し、Nieuw Zeeland と呼ばれるようになった。それが英語名のもとになった。 マオリ語の'''アオテアロア'''は、'''「白く長い雲(のたなびく地)」'''という意味(“{{lang|mi|ao}}”=「雲」、“{{lang|mi|tea}}”=「白」、“{{lang|mi|roa}}”=「長い」)<ref>{{Cite book|和書 |author=片山一道|authorlink=片山一道 |year = 2016 |title = 身体が語る人間の歴史 人類学の冒険 |publisher = [[筑摩書房]] |page = 170 |isbn = 978-4-480-68971-9}}</ref>。元々は、北島のみを指す語であり、かつてはニュージーランド全体を指す語として英語の {{lang|en|''New Zealand''}} を音訳した {{lang|mi|''Niu Tireni''}} が使われていた。 なお、近年在、マオリの中から国名の正式名称をアオテアロアにすべきだという声が出ており、2021年9月よりマオリ党が国名変更のために運動を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=ニュージーランドの国名を「アオテアロア」に、先住民政党が署名運動|url=https://www.cnn.co.jp/world/35176725.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-10-03|language=ja}}</ref>。 ニュージーランドに関連するものを指す際、「'''キーウィ'''」(kiwi)という愛称がよく使われる。ニュージーランドに生息する鳥[[キーウィ (鳥)|キーウィ]]から名をとり「ニュージーランドの」という形容詞として用いられることがある。口語の[[キーウィ (人)|キーウィ]]は名詞で「ニュージーランド人」を指すこともある。こうしたキーウィの呼び名にニュージーランドやニュージーランド国民への[[侮蔑]]の意味はなく、ニュージーランド側も認めている呼称である。また[[外国為替]]のディーラーの間では、[[ニュージーランド・ドル]]を“kiwi”または“kiwi dollar”とも呼ぶ。 == 歴史 == {{main|ニュージーランドの歴史}} === ポリネシア人開拓者 === [[9世紀]]ごろ、ポリネシア人開拓者が島々にやってきていて、彼らの子孫は [[マオリ]]人と呼ばれる。ニュージーランドの東に位置する[[チャタム諸島]]に行った子孫は[[モリオリ人]]と呼ばれている。モリオリ人がチャタム諸島に、ニュージーランドを経由して来たのが、他のポリネシア地域から直接渡ったのかは今でも議論がある一方、[[言語学]]的には証明がなされている<ref>Clark, 1994, AUP</ref>。マオリ人はニュージーランド北南島(特に北島)を「[[アオテアロア]]」(長い白い雲の土地)と呼んでいた。 最初の居住者は[[モア]]の狩猟者たちで、乱獲によりモアを[[15世紀]]までに絶滅させた。モアを餌としていた[[ハルパゴルニスワシ]](ハースト・イーグルとも。[[ワシ]]の仲間で、羽を広げると3mもある史上最大の[[猛禽類]])もモアと共に絶滅している。 民族 ({{lang|mi|iwi}}) の縄張り ({{lang|mi|rohe}}) に分かれていた。マオリは[[海産物]]、植物、動物、モア、[[ナンヨウネズミ]]、[[サツマイモ]] ({{lang|mi|kumara}}) を食べていた。 === ヨーロッパの探検家 === [[ファイル:Endeavour replica in Cooktown harbour.jpg|thumb|250px|[[ジェームズ・クック|クック]]の[[エンデバー (帆船)|エンデバー号]]のレプリカ]] ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人の[[アベル・タスマン]]で、[[1642年]][[12月]]に {{lang|nl|Heemskerck}} 号と {{lang|nl|Zeehaen}} 号で、南島と北島の西海岸に投錨。マオリとの争いがあったために西岸を[[トンガ]]へ北上し、北南島西岸のスケッチをした。彼は、最初、[[アントウェルペン|アントワープ]]出身の水夫ヤコブ・ル・メール ({{lang|nl|Jacob Le Maire}}) が[[1616年]]に「発見」した[[チリ]]の南の土地だと思い、“{{lang|nl|Staaten Landt}}”(英:“{{lang|en|Staten Island}}”)と[[地図]]に記した。 [[1643年]]に[[ヘンドリック・ブラウエル]]によって改めて調査され、チリの南ではないと分かると、オランダの知識人はオランダの[[ゼーラント州]] ({{lang|nl|Zeeland}}) にちなみ、[[ラテン語]]で “{{lang|la|Nova Zeelandia}}”(「新しい海の土地」という意味。英語の “{{lang|en|New Sealand}}” にあたる)。と名付け、後には[[オランダ語]]で “{{lang|nl|Nieuw Zeeland}}” と呼ばれた。 タスマンが訪れてから100年以上後、[[ジェームズ・クック]]が[[エンデバー (帆船)|エンデバー]]で[[1769年|1769]]-[[1770年]]に訪れた時に、[[英語]]で “{{lang|en|New Zealand}}” と呼んだ。クックが “{{lang|nl|Zeeland}}” を “{{lang|en|Sea land}}” と直訳しなかったのは、オランダ語の発音の名残と、[[デンマーク]]の[[シェラン島]](“{{lang|en|Zealand}}”。[[コペンハーゲン]]がある島)にもちなんだためといわれる。クックはその後の第2次・第3次航海でもニュージーランドを訪れた。その時に北島・中島・南島と名付けたが、中島が今の南島に、その時の南島が今の[[スチュアート島]]になった。 === 経済改革と行政改革 === 戦後のニュージーランドはイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け[[福祉国家論|高福祉国家]]となる。しかし、1970年代にイギリスが[[欧州共同体|EC]]の一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化した。さらに、[[オイルショック]]が追い打ちをかけた。[[ニュージーランド国民党|国民党]]政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど[[財政政策]]を行うもいずれも失敗し、財政状態はさらに悪化した。 [[1984年]]、[[ニュージーランド労働党|労働党]]の[[デビッド・ロンギ]]が政権を勝ち取ると、「国民の支持が得られなくともやるべきことは断行する」との固い決意のもと、政権主導の改革を押し進めた。ロンギ首相(当時)と[[ロジャー・ダグラス|ダグラス]]財務大臣(当時)の改革は、[[ロジャーノミクス]]と呼ばれる経済改革につながる。主な事例としては、21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)を自国資本・外国資本を問わず民営化した。大学や国立研究所を法人化し実質無料であった学費を民間の大学と同様にした。各産業への保護と規制は撤廃され、外資のニュージーランド経済への資本参加を許可し、政府による許認可を極力なくし、[[官僚]]の数を半減した。規制撤廃、農業における補助金・優遇制度の撤廃、税制改革、競争原理の導入、行政部門の役割の見直しなど一連の改革は、一時的に倒産件数や失業率の悪化を招き、ロンギは首相を降ろされたが、結果として、ニュージーランド経済は成長軌道に乗り、[[ニュージーランドの医療|福祉サービスも向上した]]。以降、これらの改革は労働党と国民党を問わず受け継がれ、現在のニュージーランドは極めて規制の少ない国となっている。 1990年代後半からとりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、外資に売却した鉄道会社を再購入するなど[[地球温暖化]]対策に積極的な姿勢を示している。国内各地で[[エコツーリズム]]を開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指している。[[映画産業]]の成長により広大な自然地形は[[ロケーション撮影|ロケーション撮影地]]として映画産業、海外メディアにも広く利用されニュージーランドの広報活動にも貢献している。 ===2020年代=== 2020年3月、ニュージーランド政府は新型コロナウイルス感染者が国内で確認されると、いち早く外国人の入国を禁止し、都市のロックダウンを含む国民の行動制限を含む厳しい措置を採った。ニュージーランドの経済を支える[[観光業]]などは大きな打撃を受けることとなり、2020年第2四半期(4-6月期)の国内総生産は前期比12.2%減とニュージーランド史上最大の減少幅を記録した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-17 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3305055?cx_part=search |title=NZ4~6月期GDP、12.2%減 コロナで減少幅最大に |publisher= |accessdate=2020-10-17}}</ref> が爆発的な流行は抑え込むことに成功した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-10-05 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3308190?cx_part=search |title=NZ首相、再びコロナ勝利宣言 最大都市での規制緩和へ |publisher= |accessdate=2020-10-17}}</ref>。 同年10月17日に行われた総選挙では、与党であったニュージーランド労働党が国民からの支持を得て単独過半数を得て圧勝した<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3310460?cx_part=top_category&cx_position=1 |title=NZ総選挙、アーダーン首相の労働党圧勝 野党党首が敗北宣言 |publisher=AFP |accessdate=2020-10-17}}</ref>。 [[2021年]][[8月17日]]、新型コロナウイルスのデルタ株による市中感染が1件確認されたことを受け、全土で3日間のロックダウンを実施すると発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3362060 |title=NZ、3日間のロックダウン 半年ぶりに市中感染確認 |publisher=AFP |date=2021-08-17|accessdate=2021-08-18}}</ref>。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの政治|en|Politics of New Zealand}}|{{仮リンク|ニュージーランド政府|en|Government of New Zealand}}}} [[ファイル:SIF-Beehive-3-Cropped.jpg|thumb|left|200px|“蜂の巣”を意味する「{{仮リンク|ビーハイブ (ニュージーランド)|en|Beehive (New Zealand)|label=ビーハイブ}} ({{lang|en|Beehive}})」。首相や大臣などの執務塔。議事堂ではない。]] [[ファイル:LUXON,_Christopher_-_Botany_(cropped).png|thumb|right|150px|[[クリストファー・ラクソン]]首相。]] ニュージーランドの政体は、[[ニュージーランド国王]] ({{lang-en-short|King/Queen of New Zealand}})<ref>Royal Titles Act 1974, s. 2</ref> を国家元首とする立憲君主制である<ref>Department of the Prime Minister and Cabinet [http://www.dpmc.govt.nz/honours/overview/history.html “New Zealand Honours: History of Royal Honours”] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110804214234/http://www.dpmc.govt.nz/honours/overview/history.html |date=2011年8月4日 }}(2008年3月27日アクセス)</ref>。ニュージーランド国王は[[連合王国]]国王([[イギリス国王]])と同一人物であるが、各々の王位は独立して存在する(いわゆる[[同君連合]])<ref>Graham, D. (1997) ''Trick or Treaty'' (ISBN 978-0-908935-24-6) Institute of Policy Studies, Victoria University of Wellington, p. 2</ref>。ニュージーランド政府(通例はニュージーランドの首相)の助言に基づき国王により任命された[[ニュージーランドの総督|ニュージーランド総督]]が国王の職務を代行する<ref name="constofnz">The Governor-General of New Zealand [http://www.gov-gen.govt.nz/role/constofnz.htm “Constitution of New Zealand”](2008年3月27日確認)</ref>。行政府の長は首相である。議会による選出に基づき、総選挙で最も多くの議席を獲得した政党の党首が選出され、ニュージーランド総督が任命する。また副首相および閣僚は、首相の推薦に基づきニュージーランド総督が任命する。 {{See also|ニュージーランド国王|ニュージーランドの総督|ニュージーランドの首相|代議院 (ニュージーランド)}} [[議会]]は[[一院制]]で、[[ニュージーランドの議会|パーラメント]] (Parliament) と呼ばれる。国王と代議院で構成され、国王の代理を総督が務める。定数は120議席。任期は3年。かつては[[小選挙区制]]を採用していたが、現在は[[小選挙区比例代表併用制]]を採用している。投票者は小選挙区票と政党票の計2票を投じる。投票は18歳以上のニュージーランド国籍保有者と同国の[[永住権]]保有者により行われる。なお、小選挙区数は人口分布により変動する。例えば、[[2017年]]総選挙(定数120議席)では、64の選挙区に加え、マオリ市民の議席を保障するために設けられたマオリ選挙区7を加えた総数71の選挙区が設けられた。 2005年9月の総選挙で[[労働党]]の[[ヘレン・クラーク]]党首(当時)はニュージーランドファースト党・統一未来党・緑の党からの協力を得て、革新党との[[連立政権]]を発足させた。[[中道]]の統一未来党からは[[閣外協力]]を得た。労働党・革新党の連立政権は、[[1999年]]の総選挙で、労働党と旧連合党の中道左派勢力が連立を組んだのがはじまり。労働党は3期連続して政権運営を担当した。 [[マオリ党]]は、ニュージーランドの先住民が海岸の波打ち際や領海内の大陸棚の国有化に対し、先祖から受け継いできたものと猛反発し、固有の権利を主張して結成され、2005年9月の総選挙で4議席を獲得し国政への影響力を強めた。 [[2008年]]の総選挙は[[11月8日]]に行われ、定数122で、ニュージーランド国民党が59議席(議席獲得率45%)を獲得し3期9年ぶりに政権を奪還した。ニュージーランド労働党は43議席(同34%)に減らし野党に転落した。以下、緑の党8議席(同6%)、ACTニュージーランド党5議席(同4%)、マオリ党5議席(同2%)、ジム・アンタートンズ革新党1議席(同1%)、統一未来党1議席(同1%)。ニュージーランド労働党と連立政権を組んだニュージーランドファースト党はピータース党首を含め議席獲得には至らなかった(2008年の総選挙は[[小選挙区比例代表併用制|比例併用制]]により2005年総選挙より1議席増えて定数122議席、63の選挙区(人口分布により2005年総選挙より1選挙区増)、七つのマオリ選挙区により行われ即日開票された。人口分布により九つの選挙区で選挙区名の改名が行われた)。 [[2011年]]の総選挙は[[11月26日]]に行われ、暫定定数121で、与党国民党は60議席(単独過半数に届かなかった)獲得で第1党、ジョン・キー首相は2期目に入る。ACT党と統一未来党はそれぞれ1議席で1期目から与党に協力。マオリ党は3議席で1期目から閣外協力。労働党は34議席獲得。<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1126/TKY201111260338.html NZ総選挙、与党国民党が第一党 キー政権が続投] 朝日新聞 2011年11月26日</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/world/asia/archive/news/2011/11/27/20111127ddm007030144000c.html ニュージーランド総選挙:首相が勝利宣言 「実績を国民が評価」] 毎日新聞 2011年11月27日</ref> [[2014年]]の総選挙は[[9月20日]]に行われ、定数121で与党国民党が61議席と単独過半数を獲得し、キー政権が3期目に入った。一方、野党第一党の労働党は32議席にとどまり、議席数を減らすことになった。ファースト党は11議席を獲得し、この選挙で躍進した。 [[2017年]]の総選挙は[[9月23日]]に行われ、定数120で総選挙での政党別議席獲得数は、[[中道右派]]の[[ニュージーランド国民党]]56、[[中道左派]]の[[ニュージーランド労働党]]46、[[ニュージーランド・ファースト党]]9、[[緑の党 (ニュージーランド)|緑の党]]8、ACTニュージーランド党1であり、従前議席のあったマオリ党及び統一未来党は議席を失った。この結果を受けて労働党はニュージーランド・ファースト党との連立政権樹立に合意し、緑の党の閣外協力も得て2017年[[10月26日]]に[[ジャシンダ・アーダーン]]が第40代首相に就任した。 {{See also|[[ニュージーランドの政党]]}} [[2020年]][[3月14日]]、アーダーン首相は記者会見に臨み、[[国・地域毎の2019年コロナウイルス感染症流行状況|新型コロナウイルス感染症]]の拡大を阻止するため、入国者全員に14日間の自主隔離を義務付けると表明した。なお、感染症の発生が見られない太平洋の小国からの入国は例外としている。この時点でニュージーランドで確認された患者は6人、死者は0人であった<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://jp.reuters.com/article/coronavirus-health-newzealand-idJPKBN21109E |title=NZ、入国者全員に14日間の自主隔離義務付け 新型コロナ対応で |publisher=ロイター |accessdate=2020-03-07}} </ref>。 2020年総選挙で、与党労働党は選挙前より19議席増やして65議席を獲得しアーダーン政権を継続した。[[2023年]][[1月19日]]には目指すエネルギーは残っていないとしてアーダーン首相は辞任表明し、後任の労働党党首である[[クリス・ヒプキンス]]が同年1月25日に首相に就任した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/newzealand-politics-idJPKBN2U31Z7|title=ニュージーランドのヒプキンス新首相が就任、アーダーン氏後任|agency=[[ロイター]]|date=2023-01-25|accessdate=2023-01-25}}</ref>。 ニュージーランドは、女性の政治的権利([[女性参政権]])を早くから保障してきたことで知られている。[[1893年]]に世界で初めて[[女性参政権]]を実現させたのはニュージーランドである([[被選挙権]]は[[1919年]]から)。[[2005年]]3月には女性が初めて議会議長に任命され、[[2006年]]8月までの間、二人の国家元首(国王、総督)と三権の長(代議院議長、首相、首席判事)全てが女性で占められた。 ニュージーランドはイギリスと同様に[[成文法|成文]][[憲法]]を持たないが、[[1986年建国法]] ([[:en:Constitution Act 1986|en]]) が国の基本法となっている<ref name="constofnz" />。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの国際関係|en|Foreign relations of New Zealand}}}} [[ファイル:Diplomatic missions of New Zealand.png|thumb|472x472px|ニュージーランドが外交使節を派遣している諸国の一覧図。]] ニュージーランドの対外関係は、主に[[先進国]]および[[オセアニア]]諸国に向けられている。ニュージーランドは、GDPこそ大きくないものの、太平洋の中間に位置する[[人間開発指数]]の高い先進国として、複数の多国間組織([[太平洋諸島フォーラム]]や[[アジア太平洋経済協力]]、[[太平洋共同体]]など)に属している。自由貿易も推し進め、[[環太平洋パートナーシップ協定]](TPP)の初期メンバーである。一方、軍事面では[[軍備管理]]・[[非核兵器地帯|非核]]とともに独立性を重んじている(後述)。 主要な貿易相手国は中国、オーストラリア、アメリカ、日本である<ref>{{Cite web|和書|title=ニュージーランド基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nz/data.html |website=外務省 |access-date=2022-05-15}}</ref>。特に中国とオーストラリアの占める割合が大きく、輸出では40%、輸入では30%になる。近年、中国との貿易額が急増しており、2014年以降オーストラリアを抜き最大の物品貿易相手国となっている。主な輸出品目は乳製品や肉類といった第1次産品、輸入品は石油や工業製品である。貿易収支はマイナスであることが多い。 傍ら、1987年の非核地帯、軍縮および軍備管理法([[:en:New Zealand Nuclear Free Zone, Disarmament, and Arms Control Act 1987|New Zealand Nuclear Free Zone, Disarmament, and Arms Control Act 1987]])の下で、ニュージーランドの領海、陸地、空域は非核地帯になっており、以降は[[原子力船]](または核武装艦)が同国の湾港を使用したり、同国水域に入ることを禁止する現状が続いている。 {{See also|{{仮リンク|ニュージーランドにおける非核地帯|en|New Zealand nuclear-free zone}}}} === 日本との関係 === {{main|[[日本とニュージーランドの関係]]}} * 1985年より[[ワーキング・ホリデー]]協定(30歳以下の若年者が1年間海外生活を総合的に体験できる制度。2010年3月29日より1雇用主の元で労働できるのは3箇月以内という期間限定が解除された)を結んでいる。2004年の日本人への査証発給件数は3,789件(85年よりの累計45,257件)、NZ人への発給件数は211件(85年よりの累計8,769件)となっている。 * ニュージーランドは[[国際博覧会]]には参加しない方針を取っているが、2005年の[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]には日本との今後の関係の重要性を考慮し、特別参加した。期間中に、クラーク首相も来日している。ニュージーランド交響楽団による[[コンサート]]も開催された。 * ニュージーランドでは、1990年代に国内での[[自動車]]の生産を終了しており、日本は長らく同国1位の自動車の輸入先となるなど幅広い貿易活動が行われている。一方、貿易の拡大を通じて国内に日本からの[[外来種]]([[カメムシ]]など)が移入している事例もあり、国内農業への影響が懸念されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-02-22|url= https://www.cnn.co.jp/business/35115075.html?tag=mcol;relStories|title= 船内からカメムシ、日本の輸送船を入港拒否 |publisher= CNN|accessdate=2018-02-25}}</ref>。 == 軍事 == {{main|ニュージーランド軍}} 軍事面では独立性を重んじている<ref>{{Cite news|title=NZ首相、中国との見解の相違解決は「一段と困難になっている」|url=https://jp.reuters.com/article/china-newzealand-idJPKBN2CK08U|work=Reuters|date=2021-05-03|access-date=2022-05-15|language=ja}}</ref>。[[ニュージーランド軍]]として陸海空の三軍を有する。直接的な脅威を受ける国家がないため、[[冷戦]]終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、[[国際連合]]の[[国際連合平和維持活動|平和維持活動 (PKO)]] を重点活動とした。 第二次世界大戦後は軍事同盟である[[ANZUS]]に加盟していたが、1980年代に入ると核に対する態度([[南太平洋非核地帯条約]]に参加、2018年には[[核兵器禁止条約]]を批准)の違いから、アメリカとの同盟関係に亀裂が生じ、85年にアメリカの安全保障義務から外れると、86年に脱退した。[[イラク戦争]]には反対し派兵しなかったが、[[対テロ戦争]]の一環で[[アフガニスタン]]や[[インド洋]]に兵力を派遣している。アメリカとの関係は2000年代後半から緩和しはじめ、2010年のウェリントン宣言と2012年のワシントン宣言で回復を見せた<ref>{{Cite web |title=In Warming US-NZ Relations, Outdated Nuclear Policy Remains Unnecessary Irritant |url=https://fas.org/blogs/security/2012/09/newzealand/ |website=Federation Of American Scientists |access-date=2022-05-15}}</ref>。 ただし、2020年代においても、参加している[[UKUSA協定]]の役割拡大には不快感を示し<ref>{{Cite news|title=NZ、ファイブアイズの役割拡大に「不快感」表明|url=https://jp.reuters.com/article/china-new-zealand-idJPKBN2C60LN|work=Reuters|date=2021-04-19|access-date=2022-05-15|language=ja}}</ref>、[[AUKUS]]でオーストラリアが[[原子力潜水艦]]を導入決定した際には領海侵入拒否を伝達した<ref>{{Cite web|和書|title=原潜の領海への進入拒否、豪に伝達 NZ首相 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35176896.html |website=CNN.co.jp |access-date=2022-05-15}}</ref>。 == 地理 == {{main|ニュージーランドの地理}} [[ファイル:map new zealand volcanoes.gif|thumb|right|upright|火山は北島に集中する]] [[ファイル:MilfordSound.jpg|thumb|left|[[ミルフォード・サウンド]]]] ニュージーランドの面積は、268,680&nbsp;[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]である。 ニュージーランド列島は[[環太平洋火山帯]]に属し、[[北島 (ニュージーランド)|北島]]と[[南島 (ニュージーランド)|南島]]の二つの主要な島と多くの小さな島々で構成される。北島と南島の間には、[[クック海峡]]がある。 '''北島'''(ノースアイランド)には、[[首都]][[ウェリントン]]があり、政府機関が集中している。同国最大の都市である[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]は、商業および経済の中心地となっている。オークランドは、オークランド市、マヌカウ市 ([[:en:Manukau City|en]])、[[ワイタケレ]]市、[[ノースショア (ニュージーランド)|ノースショア]]市の4市によって構成されている。オークランドの年間降水日は100日以上で、雨の多い街である。近くの観光名所として、温泉地として有名な[[ロトルア]]、[[タウポ]]、[[ワイトモ鍾乳洞]] (グローワーム洞窟、[[:en:Waitomo Glowworm Caves|en]]) の[[ヒカリキノコバエ|土蛍]]などが有名である。北島は、南島ほど険しい山脈はないが、火山活動が活発である。北島の中での最高峰は、2,797m のルアペフ山である。 '''南島'''(サウスアイランド)は、最も陸地面積の大きな島で、中心都市は[[クライストチャーチ]]。島の中央には「南半球のアルプス山脈」と呼ばれる[[南アルプス山脈]]がそびえる。最高峰は、3,724m の[[クック山]](マオリ語では'''アオラキ'''、「雲を貫く」という意味)で、その他に3,000m 以上の峰が18ある。他にも[[タスマン氷河]]、[[サザンアルプス]]、[[クック山]]、[[ミルフォード・サウンド]]のような豊かな自然も有名である。[[クイーンズタウン (ニュージーランド)|クイーンズタウン]]は世界的に有名な観光・保養地である。温泉地も各地に点在する。 === 地質 === 風光明媚な地形、火山、温泉、地震は複雑な活動中の地質に起因する。北島の東側には北のトンガ海溝に続く海溝があり、ここでは太平洋プレートがオーストラリアプレートに沈み込み、西側の北島に火山・地震が多い原因となる。南島北部には5本の主要断層があり南のアルプス断層に集約する。この断層は南島を斜めに縦断する右ずれのトランスフォーム断層である。 === 環境 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの環境|en|Environment of New Zealand}}}} ==== 気候 ==== {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの気候|en|Climate of New Zealand}}}} 気候は、ほぼ全土が[[西岸海洋性気候]]に含まれ、夏は涼しく冬の強烈な寒波もない。1年を通して温暖な気候であるが、北島・南島ともに多くの[[スキー場]]があり、世界中から[[スキーヤー]]が訪れる。[[南半球]]の地理的、気候的な条件も好まれ、世界各国の[[国際スキー連盟|スキー連盟]]の冬季強化合宿地に選ばれている。 1世帯当りの敷地面積は約500m²、住宅床面積は約200m²である。 ==== 生態系 ==== [[ファイル:Takahe and chick.jpg|thumb|right|220px|ニュージーランド固有の種の一つ、[[タカヘ]]。[[飛べない鳥]]であり、絶滅が心配されている。]] {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの生物多様性|en|Biodiversity of New Zealand}}}} ニュージーランドの北島、南島およびスチュアート島は太古から大陸から切り離され孤立したため独特の生態系が形成された。 とりわけ、[[コウモリ]]類、[[クジラ]]類以外の[[哺乳類]]が全くいないことは特筆すべきであり、そのため、通常なら陸生哺乳類が担うべき役割を鳥類が担う形で[[適応放散]]し、すでに絶滅した巨鳥[[モア]]をはじめ、[[キーウィ (鳥)|キーウィ]]や[[フクロウオウム]]、[[タカヘ]]など[[飛べない鳥]]による生態系が発達した。 人類の到来以降(特にヨーロッパ系白人移民の入植以降)は、持ち込まれた哺乳類動物(イヌ、ネコ、ネズミ、シカなど)によってこうした生態系が大きく撹乱された。現在では、生物の持込には厳しい制限を敷く保護政策がとられている。 == 地方行政区分 == {{main|ニュージーランドの地方行政区画|ニュージーランドの都市の一覧}} [[ファイル:Regions of NZ Numbered.svg|right|300px|ニュージーランドの行政区画]] [[ファイル:New Zealand Cities.PNG|240px|right|主要都市]] 16地方に分かれる。 ; [[北島 (ニュージーランド)|北島]] : 1. [[ノースランド地方|ノースランド]] : 2. [[オークランド地方|オークランド]] : 3. [[ワイカト地方|ワイカト]] : 4. [[ベイ・オブ・プレンティ地方|ベイ・オブ・プレンティ]] : 5. [[ギズボーン地方|ギズボーン]] : 6. [[ホークス・ベイ地方|ホークス・ベイ]] : 7. [[タラナキ地方|タラナキ]] : 8. [[マナワツ・ワンガヌイ地方|マナワツ・ワンガヌイ]] : 9. [[ウェリントン地方|ウェリントン]] ; [[南島 (ニュージーランド)|南島]] : 10. [[タスマン地方|タスマン]] : 11. [[ネルソン地方|ネルソン]] : 12. [[マールボロ地方|マールボロ]] : 13. [[ウェスト・コースト地方|ウェスト・コースト]] : 14. [[カンタベリー地方|カンタベリー]] : 15. [[オタゴ地方|オタゴ]] : 16. [[サウスランド地方|サウスランド]] ; 特別領 : [[チャタム諸島]] (Chatham Islands) - 南島[[クライストチャーチ]]の東方約1000kmの太平洋上の島。 以上の他に、以下の地域がニュージーランドと特別の関係を有する。本記事中のデータは、これらの領土を含んでいない。 ; [[自治領]] : [[トケラウ]] (Tokelau) ; [[自由連合 (国家間関係)|自由連合]] : [[クック諸島]] (Cook Islands) : [[ニウエ]] (Niue) [[南極条約]]により棚上げされているが、[[1957年]]に[[南極]][[ロス海]]周辺を[[ロス海属領]] (Ross Dependency) としてその領有を主張した。 [[ニュージーランド国王]]を元首とする[[ニュージーランド王国]]は、これらの領土、自治領、自由連合国家、属領によって[[構成国|構成]]されている。 == 経済 == [[ファイル:Aucklandqueenmary2.jpg|thumb|right|240px|[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]はニュージーランド最大級の経済都市であり、[[オセアニア]]有数の[[世界都市]]である]] {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの経済|en|Economy of New Zealand}}}} === 第1次産業 === ==== 農業 ==== {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの農業|en|Agriculture in New Zealand}}}} 豊かな国土と地形から農業が盛ん。とくに[[酪農]]、[[畜産]]が盛んに行われ、およそ3割の輸出品目は農産品で占められる([[乳製品]]19.5%、食肉13.8%(2007年6月)。近年では、国際市場での価格上昇を受け乳製品の輸出が好調<ref group="注釈">FAO2010年推計では世界最大の乳製品輸出国で30.4%、2位EU24.5%、3位米国9.8%</ref>。畜産を廃業し酪農へ進出する[[農家]]が増加傾向にある。人口の10倍以上家畜が多いため、国際的にも異色の[[地球温暖化]]対策を進める動きが出ている。羊や牛のげっぷ・おならに含まれる[[メタンガス]]を抑制するというもので、農家からは反発もある。メタンは[[二酸化炭素]]よりも21倍[[温室効果ガス]]が大きい [http://nature.cc.hirosaki-u.ac.jp/lab/3/animsci/030902_NZ_gas.html]。 [[果樹]]・[[青果物]]栽培も行なっており、主に[[キウイフルーツ]]や[[フェイジョア]]、[[ツノニガウリ|キワノ]]、[[タマリロ]]などの果物や[[パースニップ]]、[[ルタバガ|スウィード]]、[[テーブルビート|ビートルート]]、[[ルバーブ]]、[[リーキ]]などの[[野菜]]が名産となっている。特にキウイフルーツは世界第2位の生産量があり、外貨獲得のために首相自らが販売PRを行っている<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191211/k10012210891000.html?utm_int=all_side_business-ranking_001 ビジネス特集 きのうフルーツ何食べた?] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。[[2012年]][[5月8日]]、オークランドの郊外にあるMount Roskillという街で一匹の[[ハエ]]が発見・捕獲され、そのハエを巡って大騒動が巻き起こされている。政府は当時に発見されたハエが{{仮リンク|クイーンズランド・フルーツ・フライ|en|Bactrocera tryoni}}というオーストラリア原生種のハエであることを確認・発表しており、同時にこの種のハエが[[果樹園]]を壊滅させる恐れの強いものであることから[[非常事態宣言]]を発令し、その地域だけでなく周辺の地域においても一切の果物や野菜の[[収穫]]・[[出荷]]が禁止される事態となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://nzlife.net/archives/4362|title=たった1匹のハエがNZの果樹園を壊滅の危機に|publisher=日刊ニュージーライフ|date=2012-5-11|accessdate=2018-01-07}}</ref>。 [[フォンテラ]]はニュージーランド最大の企業組織の一つであり生産者組合組織でもある。 ==== 林業 ==== {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの林業|en|Forestry in New Zealand}}}} 林業、森林業が大変盛ん。対外輸出も好調。2006年度は、およそ31億5000万NZDを輸出し、全輸出額の10%を占める。主な輸出先はオーストラリア、日本、アメリカ、中国など。アメリカ原産の外来種である[[マツ]]の一種[[ラジアータパイン|ラジアータマツ]](ニュージーランド松)を主力としている。このマツは原産地であるアメリカでは林業用の樹種として用いられていないが、ニュージーランドでは徹底的に品種改良したうえで利用している。木板、繊維板 (MDF) の需要が高く、[[カーター・ホルト・ハーベイ]]などの林業多国籍企業が主要企業。 === 第2次産業 === ==== 鉱業 ==== {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの鉱業|en|Mining in New Zealand}}}} ニュージーランドの鉱業は小規模である。有機鉱物資源では、亜炭(20万トン、2002年)、石炭(371万トン)、原油(150万トン)、天然ガス(244千兆ジュール)が採掘されているが、国内需要と比較すると取るに足りない。幸い高低差の大きな地形を生かした水力発電が国内の総発電量の54%を占めているため、有機鉱物資源の輸入量を抑えることに成功している。例えば原油が総輸入額に占める割合は6.0%に過ぎない。 金属鉱物資源では、金(9.8トン)、銀(32トン)、鉄鉱(45万トン)が目立つ。金の採掘はニュージーランドへ移民をひきつけた最初の要因であった。1860年代に金が発見されると、一気にヨーロッパ系の人口が倍増し、主要輸出品目となったほどである。 ==== 工業 ==== ニュージーランドの工業は、畜産物の加工が主力である。例えば、世界第3位の羊皮生産(10万トン、世界シェア6.3%、2004年時点)、同第4位のバター(47万トン、5.7%)、同第5位の羊肉(51万トン、4.1%)、同第6位の毛糸(2.2万トン、2.1%)などが挙げられる。世界シェア1%を超える生産物は他に、チーズ(29万トン、1.6%)、牛肉(72万トン、1.2%)、アルミニウム(95万トン、1.2%)、製材(429万立方メートル、1.1%)、リン肥料(34万トン、1.0%)がある。アルミニウムはボーキサイトの主要産出国の一つであるオーストラリアに近く、水力発電が60%を占める豊富な電力が利用できることを生かしたものである。 === 第3次産業 === ==== 観光 ==== [[ファイル:Air New Zealand, Boeing 787-9, ZK-NZG NRT (23681250756).jpg|thumb|right|240px|[[ニュージーランド航空]]の[[ボーイング787]]]] {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの観光|en|Tourism in New Zealand}}}} 年間260万人以上の旅行者が訪れる観光立国である(以下、数字は2010-2011統計)。2010-2011統計では、海外からの観光客による外貨獲得は97億[[ニュージーランド・ドル|NZD]]を記録し[[国内総生産]](GDP) の9%を占める。広大な自然地形と[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]に代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っている。 国別統計では、オーストラリアからの観光客が全体の45%を占め年間115万人以上が訪れている。その他、主な観光客の出身国はイギリス(22.5万人)、アメリカ合衆国(18.4万人)、[[中華人民共和国]](15.4万人)、[[日本]](6.5万人)、[[ドイツ]](6.3万人)、[[大韓民国]](5.1万人)となっている。特に中華人民共和国からの観光客増加は毎年二桁成長を記録しており、観光省および政府観光局は日本や中華人民共和国などの[[アジア]]諸国からの観光客誘致に積極的である。 日本からニュージーランドへは、[[成田国際空港]]と[[関西国際空港]]の2空港からフラッグ・キャリアの[[ニュージーランド航空]]が直行便を運行しているほか、[[シドニー]]や[[シンガポール]]、[[香港]]、[[バンコク]]などから経由便を利用して入国できる。 ==== 国際教育 ==== {{see|ニュージーランドの教育}} 1980年代後半より留学生の受け入れを積極的に行い、現在では輸出項目の5番目に教育ビジネス(留学生ビジネス)が入る。留学生により年間$23億NZドル(2008年)の外貨と教育分野で32,000人分の雇用が生み出される。留学生は2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生数は、中華人民共和国(20,579人)、大韓民国(17,189人)、日本(10,676人)となっている。 === 貿易 === * 輸出品目 - [[乳製品]]、[[肉]]、[[木材]]・[[木製品]]、[[魚]]、[[機械]]類 * 輸出国 - [[オーストラリア]] 19.5%、[[アメリカ合衆国]] 13.5%、[[日本]] 10.8%、[[中華人民共和国]] 5.7%、[[イギリス]] 4.5%、[[大韓民国]] 4.0%(2006年12月末) * 輸入品目 - [[機械]][[設備]]、[[自動車]]、[[航空機]]、[[石油]]、[[エレクトロニクス]]、[[織物]]、[[プラスチック]] * 輸入国 - オーストラリア 20.1%、中華人民共和国 12.2%、アメリカ合衆国 12.1%、日本 9.1%、[[ドイツ]] 4.4%、[[シンガポール]] 4.6%(2006年12月末) * [[1983年]]に[[オーストラリア]]との間で経済緊密化条約 (CER) を締結した。2000年に[[シンガポール]]と[[自由貿易協定]] (FTA) を締結した。[[2005年]]4月に[[タイ王国|タイ]]との間で経済緊密化協定 (CEP) を締結した。同年7月18日に太平洋横断戦略的経済連携協定 (TPSEP/P4)をシンガポール、[[ブルネイ]]、[[チリ]]との間で締結した(ブルネイは[[2006年]]8月に締結)。[[2008年]][[4月7日]]に[[中華人民共和国]]と包括的自由貿易協定 (FTA) を締結した。2009年2月27日に、オーストラリアと共同で[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) と包括的自由貿易協定 (FTA) を締結し同年7月より発行される。大韓民国(韓国)との包括的自由貿易協定 (FTA) も交渉入りが合意されている。2009年10月に[[マレーシア]]との間でFTAを締結した。同年11月2日に[[湾岸協力会議]] (GCC) との間でFTAを締結した。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの交通|en|Transport in New Zealand}}}} === 鉄道 === {{main|[[ニュージーランドの鉄道]]}} === 航空 === {{main|ニュージーランドの空港の一覧}} == 科学技術 == 同国における科学機関ならび化学機関は{{仮リンク|ニュージーランド化学研究所|en|New Zealand Institute of Chemistry}}(NZIC)や[[GNSサイエンス]]、{{仮リンク|クラウン研究所|en|Crown Research Institute}}、{{仮リンク|グラビダ|en|Gravida (organisation)}}、{{仮リンク|テ・プナハ・マタティーニ|en|Te Pūnaha Matatini}}などが知られている。 また、NZICは{{仮リンク|アジア化学会連合|en|Federation of Asian Chemical Societies}}(FACS)の加盟組織でもある。 {{see also|{{仮リンク|商法革新雇用省|en|Ministry of Business, Innovation and Employment}}}} == 国民 == [[ファイル:Population pyramid of New Zealand 2015.png|thumb|NZの[[人口ピラミッド]]]][[ファイル:NewZealandPopulationDensity.png|thumb|ニュージーランドの人口密度(色が赤いほど高い)]] {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの人口統計|en|Demographics of New Zealand}}}} === 人口 === 2020年時点での総人口は500万人超と推定されている<ref name="PPL"/>。[[人口密度]](1&nbsp;km<sup>2</sup>当たり)は約19人である。 ニュージーランドの[[合計特殊出生率]]は1.61人(2020年)である。 === 民族 === {{main|ニュージーランド人|{{仮リンク|ニュージーランドへの移民|en|Immigration to New Zealand}}}} ニュージーランドは[[多民族国家]]である。[[2013年]]の[[国勢調査]]では、[[:en:European New Zealanders|ヨーロッパ系]]74.0%、先住民族[[マオリ|マオリ人]]14.9%、[[アジア系ニュージーランド人|アジア系]]11.8%、[[:en:Pasifika New Zealanders|太平洋諸島系]]7.4%、[[中東の民族の一覧|中東]]系・[[ラテンアメリカ人|ラテン系]]・[[:en:African New Zealanders|アフリカ系]]1.2%、その他1.7%である。[[2001年]]の[[国勢調査]]では、アジア系6.6%であったことから、近年アジア系の急増がうかがえる。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの言語|en|Languages of New Zealand}}}} * [[英語]]([[ニュージーランド英語]]) 95.9%、[[マオリ語]] 4.1%、その他、[[ニュージーランド手話]] 0.63%、[[サモア語]] 2.23%、[[フランス語]] 1.40%、[[ヒンディー語]] 1.16%、[[広東語]] 1.15%、[[北京官話]] 1.08%、[[中国語]](細分されていない) 0.99%、[[ドイツ語]] 0.98%、[[トンガ語 (ポリネシア)|トンガ語]] 0.77%、[[オランダ語]] 0.70%、[[朝鮮語]] 0.70%、[[スペイン語]] 0.56%、[[アフリカーンス語]] 0.55%、[[日本語]] 0.55%など === 人名 === 移民も多く、さまざまな名前がある。 === 婚姻 === {{節スタブ}} ==== 同性婚 ==== {{Main|{{仮リンク|ニュージーランドの同性婚|en|Same-sex marriage in New Zealand}}}} 2013年より、同性間の結婚([[同性結婚]])が認められるようになった。国会での議決の際、[[ニュージーランド国民党|国民党]]の議員だった[[モーリス・ウィリアムソン]]が行ったスピーチは大きく注目され、ウィリアムソンは一躍時の人となった<ref>{{cite web|url=http://www.smh.com.au/world/the-sun-will-still-rise-tomorrow-nz-mp-hits-out-at-antigay-marriage-bullies-20130418-2i1rm.html|title='The sun will still rise tomorrow': NZ MP hits out at anti-gay marriage 'bullies' |date=2013-04-18|accessdate=2017-11-26|publisher=[[シドニー・モーニング・ヘラルド]]}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.newshub.co.nz/politics/maurice-williamson-an-unlikely-gay-icon-2013041909|title=Maurice Williamson: An unlikely gay icon|date=2013-04-18|publisher=NewsHub|accessdate=2017-11-26}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.news.com.au/entertainment/tv/new-zealand-mp-made-famous-by-gay-marriage-speech-to-parliament-to-appear-on-ellen/news-story/63664bcf884be7a27ee6f7ec59fa91b3|title=New Zealand MP made famous by gay marriage speech to parliament to appear on Ellen|date=2013-04-22|accessdate=2017-11-26|publisher={{仮リンク|news.com.au|en|news.com.au}}}}</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの宗教|en|Religion in New Zealand}}}} ニュージーランドは[[キリスト教]]が主な宗教であるが、人口の多くは世俗的である。2013年の国勢調査によると、キリスト教が約47%(内、[[カトリック教会]] 12.6%、[[聖公会]] 11.8%、[[長老派教会]] 8.5%、その他15.1%)、その他の宗教が6.0%、[[無宗教]] が41.9%、無回答が4.4%だった。 === 教育 === {{Main|ニュージーランドの教育}} [[義務教育]]の期間は6歳から16歳までとなっている。1980年代後半から留学生の受け入れが積極的に行われているが2002年の126,919人をピークに減少傾向が続き、2008年は88,557人となっている。2008年の主な地域別留学生の順位は、1位:中華人民共和国(20,579人)、2位:大韓民国(17,189人)、3位:日本(10,676人)となっている。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの保健|en|Health in New Zealand}}}} ==== 医療 ==== {{see also|ニュージーランドの医療}} [[ユニバーサルヘルスケア]]が達成され、{{仮リンク|ニュージーランド保健省|en|Ministry of Health (New Zealand)}}配下の政府機関{{仮リンク|ニュージーランド地域保健委員会|label=DHB|en|District health board}}が医療保険を引き受けている<ref name="health">{{Cite |publisher=OECD |date=2013-11-21 |title=Health at a Glance 2013 |doi=10.1787/health_glance-2013-en |isbn=9789264219984 }}</ref>。財源は一般税収を原資としており、NZには[[社会保険制度]]は存在しない<ref name=health />。 {{See also|{{仮リンク|テ・ファトゥ・オラ|en|Te Whatu Ora}}}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドにおける犯罪|en|Crime in New Zealand}}}} ニュージーランドは、[[政策]]面では[[人種]]・[[性別]]・[[障害]]などへの[[差別]]撤廃に積極的で福祉の充実した[[観光]]立国であるというイメージから、「[[安全]]な国」というイメージが先行している。しかし他国同様に、軽犯罪から重犯罪も発生している<ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/auckland.html][http://www.nz.emb-japan.go.jp/auckland/resources/whats_new/11March08_r.pdf][http://www.nz.emb-japan.go.jp/auckland/whats_new/past_info/anzen_past.pdf 在ニュージーランド日本国大使館治安情報]</ref>。 [[2007年]][[7月]]から[[2008年]][[6月]]までの[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]市における主な[[犯罪]]の発生認知件数は「[[殺人]]:7件」「[[強盗]]:545件」「[[性犯罪]]:352件」「[[麻薬]]犯罪:2,249件」「[[窃盗]]:17,945件」。 [[失業率]]は6%([[2010年]]1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、所得・[[付加価値税]]率 (15%)が高く[[贈与]][[相続税]]が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、[[社会保障]]は[[移住]]者に対しても充実していることで、移民への偏見、憎悪も起きている。これに対してニュージーランド[[警察]]は、[[ヘイトクライム]]や[[人種差別]][[犯罪]]に対する特別なプログラムを用意しており、個別の事案に特別に対処する体制を用意している。 犯罪組織としては[[バイカー]]・ギャングの比率が多く、「ブラック・パワー」や「モンゴレル・モブ」などのグループはマオリ族がメンバーの大多数を占めている。 補償金を払う政府機関[[ACC]]がある。資金は税金で、外国人にも支払われる<ref>[http://nzdaisuki.com/living/medical/acc.php ACC]</ref>。 一方でニュージーランドは、世界において[[汚職]]の発生率が最も低い国家の1つと見做されている<ref>{{cite web|url=https://www.victoria.ac.nz/__data/assets/pdf_file/0009/1286280/WP13-03-Assessing-good-governance.pdf|title=Assessing 'Good Governance' and Corruption in New Zealand: 'Scientific' Measurement, Political Discourse, and Historical Narrative|publisher=Institute for Governance and policy Studies|access-date=10 February 2023}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ニュージーランドにおける汚職|en|Corruption in New Zealand}}}} {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{仮リンク|ニュージーランド警察|en|New Zealand Police}}が主体となっている。 {{See also|{{仮リンク|ニュージーランドの法律|en|Law of New Zealand}}|{{仮リンク|ニュージーランドにおける終身刑|en|Life imprisonment in New Zealand}}|{{仮リンク|ニュージーランドにおける死刑|en|Capital punishment in New Zealand}}}} === 人権 === {{see|{{仮リンク|ニュージーランドにおける人権|en|Human rights in New Zealand}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドのメディア|en|Media of New Zealand}}}} === テレビメディア === {{see|{{仮リンク|ニュージーランドのテレビ|en|Television in New Zealand}}}} * [[テレビジョン・ニュージーランド]] * [[マオリ・テレビジョン]] * [[ザ・ショッピング・チャンネル (ニュージーランド)|ザ・ショッピング・チャンネル]] === ラジオメディア === {{see|{{仮リンク|ニュージーランドのラジオ局|en|Radio in New_Zealand}}}} * [[ラジオ・ニュージーランド]] * {{仮リンク|ラジオ・ニュージーランド・ナショナル|en|Radio New Zealand National}} * {{仮リンク|パシフィック・メディア・ネットワーク|en|Pacific Media Network}} * {{仮リンク|コミュニティアクセス放送者協会|en|Association of Community Access Broadcasters}}(ACAB) :この他には[[学生自治会|学生団体]]が運営するラジオ局が存在する。2011年のカンタベリー地震と自主的な学生会員の導入により、学生放送の将来についての新たな懸念が高まったが、放送局の役割は[[ニュージーランド航空]]と{{仮リンク|ニュージーランド文化遺産省|label=文化遺産省|en|Ministry for Culture and Heritage}}によって引き続き認められている。 === 報道機関 === * {{仮リンク|ニュージーランド書籍協議会|en|New Zealand Book Council}} * {{仮リンク|バウアーメディアグループ|en|Bauer Media Group}} * [[ハウリング・ザ・ムーン・パブリッシング・リミテッド]] (Howling at the Moon Publishing Limited)社 === 印刷・出版 === {{see|{{仮リンク|ニュージーランドの印刷媒体の一覧|en|List of print media in New Zealand}}}} *新聞 ** [[ニュージーランド・ヘラルド]] ** [[ニウエ・スター]] === 通信 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの通信|en|Telecommunications in New Zealand}}|{{仮リンク|ニュージーランドのインターネット|en|Internet in New Zealand}}}} * オンライン(インターネット)メディア == 文化 == {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの文化|en|Culture of New Zealand|fr|Culture de la Nouvelle-Zélande}}|{{仮リンク|マオリ文化|fr|Culture maorie}}}} {{節スタブ}} === 食文化・料理 === [[ファイル:Pavlova dessert.JPG|thumb|伝統的なケーキ「[[パヴロヴァ (ケーキ)|パブロバ]]」]] {{main|{{仮リンク|ニュージーランド料理|en|New Zealand cuisine|fr|Cuisine de la Nouvelle-Zélande}}}} ニュージーランドの食文化はイギリスのものが基盤となっている。また、同国が発足・設立する以前から様々な文化やコミュニティが存在していることから、その料理や独特の食材が豊富である。 {{節スタブ}} === 文学 === {{main|[[ニュージーランド文学]]}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの音楽|en|Music of New Zealand}}}} [[ファイル:FIL 2016 - The City Of Auckland Pipe Band - 4780.webm|thumb]] * [[ニュージーランド交響楽団]] * ニュージーランド出身のオペラ歌手に[[キリ・テ・カナワ]]、ソプラノ歌手[[ヘイリー・ウェステンラ]]らがいる。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|ニュージーランドの映画}} 都会と自然を兼ね添えた風光明媚な地であり、さらに英語圏であることや、政府や自治体の協力体制ができていること、南半球にあり主な映画製作会社がある北半球と季節が逆であることなどから、近年は映像撮影のロケーション地として需要が高い。多くのハリウッド映画がニュージーランドで製作されているほか、撮影地を訪問するツアーも開催されている。ニュージーランド出身の映画監督に[[ジェーン・カンピオン]]、[[ピーター・ジャクソン]]らがいる。 <br /> '''過去に撮影された主な作品一覧''' *[[アバター:ウェイ・オブ・ウォーター]]([[サム・ワーシントン]]主演、2023年) *[[ナルニア国物語/第1章: ライオンと魔女]] ([[ティルダ・スウィントン]]主演、2005年) *[[ラスト サムライ]] ([[トム・クルーズ]]主演、2004年) *[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)#ロード・オブ・ザ・リング三部作|ロード・オブ・ザ・リング]]([[イライジャ・ウッド]]主演、2001年、2002年、2003年) *[[クジラの島の少女]]([[ケイシャ・キャッスル=ヒューズ]]主演、2002年) *[[ピアノ・レッスン]]([[ホリー・ハンター]][[ハーヴェイ・カイテル]]主演、1993年) === 美術 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの芸術|en|New Zealand art}}}} *南半球では数少ないアダルトゲームメーカーである[[Q-Max]]が設立された。 {{節スタブ}} === 被服・服飾 === {{仮リンク|マオリの織物|en|Māori traditional textiles}}はニュージーランドを代表する伝統的な服飾文化の一部となっている。 {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの建築|en|Architecture of New Zealand}}}} ニュージーランドにおける[[建築]]文化は、外部からの様々な文化の影響を受けている面があるが、主体となっているのはヨーロッパの建築文化である。 その傍らでポリネシアの文化の影響がいくつかの地域で現れている特徴点を持ち合わせている。 {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|ニュージーランドにおける住宅|en|Housing in New Zealand}}|{{仮リンク|ニュージーランドの建築家の一覧|en|List of New Zealand architects}}|{{仮リンク|ニュージーランド登録建築家委員会|en|New Zealand Registered Architects Board}}}} === 世界遺産 === {{Main|ニュージーランドの世界遺産}} ニュージーランド国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ニュージーランドの祝日|en|Public holidays in New Zealand}}}} {| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-left:1em" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- | [[1月1日]]|| [[元日]]||lang="en"| New Year's Day||土日にあたる場合は、次の月曜日 |- | [[1月2日]]|| 元日翌日||lang="en"| Day after New Year's Day||土日にあたる場合は、次の火曜日か水曜日 |- | [[2月6日]]|| [[ワイタンギ・デー]]||lang="en"| Waitangi day||[[ワイタンギ条約]] |- | 3月-4月|| [[聖金曜日]]||lang="en"| Good Friday||移動祝祭日 |- | 3月-4月|| [[イースター・マンデー]] ||lang="en"| Easter Monday||移動祝祭日 |- | [[4月25日]]|| [[アンザック記念日]]||lang="en"| ANZAC Day||[[ガリポリの戦い]]における[[ANZAC|アンザック軍団]]を記念 |- | 6月第1月曜日|| [[女王公式誕生日]]||lang="en"| Queen's Birthday|| |- |6月から7月 |マタリキ |Matariki |マオリのお正月、2022年から祝日化<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220829141007/https://www.jiji.com/jc/article?k=000000024.000044304&g=prt |title=先住民マオリの新年の祝い「マタリキ」が、今年からニュージーランドの国民の祝日に |access-date=2022年8月29日 |publisher=時事通信社}}</ref> |- | 10月第4月曜日|| {{仮リンク|労働記念日|en|Labour Day}}||lang="en"| [[:en:Labour Day#New Zealand|Labour Day]]|| |- | [[12月25日]]|| [[クリスマス]]||lang="en"| Christmas Day ||週末にあたる場合は、次の月曜日 |- | [[12月26日]]|| [[ボクシング・デー]]||lang="en"| Boxing Day ||土日にあたる場合は、次の火曜日か水曜日 |} この他、地方により異なる日付で「Anniversary Day」が年に1日ずつある。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ニュージーランドのスポーツ|en|Sport in New Zealand}}}} {{See also|オリンピックのニュージーランド選手団}} 旧[[イギリス]]領の歴史から球技に力を入れている面があり、ニュージーランドでは[[ラグビーフットボール|ラグビー]]、[[クリケット]]、[[ネットボール]]において有力な選手を多数輩出している。さらに[[ヨット #ヨットレース|ヨットレース]]の強豪国としても知られており、1995年と2000年の[[アメリカスカップ]]で優勝している。他方で、北島と南島にスキー場を抱えているところから[[ウィンタースポーツ]]も盛んであり、[[スノーボード]]や[[モーグル]]といった競技も頻繁に行われている。 === ラグビー === [[ラグビーニュージーランド代表|ラグビーユニオンニュージーランド代表]]こと『'''オールブラックス'''』は、世界屈指の強豪チームであり、試合前にダンスの『'''[[ハカ (ダンス)|ハカ]]'''』を踊ることでも知られる。国内ラグビーも世界屈指のクラブチームが揃い、[[スーパーラグビー]]に参加している。2009年10月31日には、[[オールブラックス]]対[[ワラビーズ]]の公式戦が、史上初めて日本(東京)で開催された。さらに[[ラグビーリーグ]]ニュージーランド代表は、[[ラグビーリーグ・ワールドカップ]]での優勝経験があり、「[[キーウィ (鳥)|キウイ]] (Kiwi)」の愛称で親しまれている。オーストラリアのプロリーグである[[ナショナルラグビーリーグ]]には、ニュージーランドのラグビーリーグチームも参加している。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ニュージーランドのサッカー|en|Football in New Zealand}}}} ニュージーランドは、2005年に[[オーストラリアサッカー連盟]]が[[アジアサッカー連盟]]に転籍して以降、[[オセアニア]]地域では一強状態になっている。[[ニュージーランドフットボール]](NZF)によって構成される[[サッカーニュージーランド代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]で初出場し、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]にも28年ぶり2度目の出場を果たした<ref>[https://web.archive.org/web/20091115144345/http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20091114110.html ニュージーランドが7大会ぶりW杯出場] スポーツニッポン 2009年11月14日閲覧</ref>。オセアニアの大陸選手権である[[OFCネイションズカップ]]では大会最多5度の優勝を誇る。さらに[[U-23サッカーニュージーランド代表|U-23代表]]は、[[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子|2021年東京五輪]]で準々決勝で[[PK戦]]の末に[[U-23サッカー日本代表|日本代表]]に敗れたが<ref> [https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2021/07/31/kiji/20210731s00002014575000c.html GK谷晃生 「絶対にヒーローになれる」川口能活コーチの言葉に背中押され…PKストップで4強貢献]スポニチ(2021年7月31日)2021年8月1日閲覧。</ref>、過去最高位となるベスト8の成績を収めている。 オセアニアのクラブ王者を決める[[OFCチャンピオンズリーグ]]では、[[オークランド・シティFC|オークランド・シティ]]が大会最多10度の優勝に輝いている。また、同クラブは[[FIFAクラブワールドカップ]]でも[[FIFAクラブワールドカップ2014|2014年大会]]で3位になっており、名実ともに[[ニュージーランド・フットボールチャンピオンシップ|ニュージーランドリーグ]]を代表するクラブでもある。著名な選手としては、[[プレミアリーグ]]で長年プレーしている[[クリス・ウッド]]が存在する。 === バスケットボール === {{Main|バスケットボールニュージーランド代表}} ニュージーランド人初の[[NBA]]選手となった[[ショーン・マークス]]が非常に有名である。国内には[[ナショナル・バスケットボール・リーグ (ニュージーランド)|NBL]]と呼ばれるプロリーグを持つ。[[バスケットボールニュージーランド代表|代表チーム]]はこれまでに[[オリンピックのバスケットボール競技|オリンピック]]出場2回、[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ|世界選手権]]出場3回を誇る。[[2000年シドニーオリンピックのバスケットボール競技|2000年シドニー五輪]]ではアフリカ王者の[[バスケットボールアンゴラ代表|アンゴラ代表]]相手に勝利を収めた。[[2002年バスケットボール世界選手権|2002年世界選手権]]では、大方の予想を大きく上回る4位入賞と大健闘。これには世界中のバスケットボール関係者が驚かされ、大会最大の[[番狂わせ]]と言われた。なお、この大会でベスト5に選ばれたペロ・キャメロンは唯一の非[[NBA]]選手だった。 [[2004年アテネオリンピックのバスケットボール競技|2004年アテネ五輪]]では、前回大会に続き1勝を挙げるのみに終わるが、[[2002年バスケットボール世界選手権|2002年世界選手権]]の優勝国だった[[バスケットボールセルビア代表|セルビア・モンテネグロ代表]]を相手に90vs87で破り再び世界を驚かせた。[[2006年バスケットボール世界選手権|2006年世界選手権]]では、地元[[バスケットボール男子日本代表|日本代表]]に最大18点差つけられるも逆転勝利。その後、[[バスケットボールパナマ代表|パナマ代表]]にも勝利しベスト16入りを果たした。 === クリケット === [[クリケット]]は非常に人気の高いスポーツである。ニュージーランドで[[1832年]]からプレーされており、ファーストクラス・クリケットは[[1906年]]に始まった<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/east-asia-pacific/full/16 New Zealand Cricket] 国際クリケット評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。[[国内競技連盟]]であるニュージーランドクリケットは1894年に設立され、[[1926年]]に[[国際クリケット評議会]]に加盟し、正会員になった<ref name="ICC"/>。最高峰の世界選手権大会である[[クリケット・ワールドカップ]]では優勝経験はないものの、[[2015 クリケット・ワールドカップ|2015年大会]]と[[2019 クリケット・ワールドカップ|2019年大会]]で準優勝となった。[[1992 クリケット・ワールドカップ|1992年大会]]と[[2015 クリケット・ワールドカップ|2015年大会]]ではオーストラリアとの共催で開催国となっている。女子クリケットも盛んであり、1935年のイングランド戦が国際試合のデビューとなった<ref name="ICC"/>。2000年の[[女子クリケット・ワールドカップ]]で初優勝し、他にも3度の準優勝経験がある。過去3大会でニュージーランドが開催国となった。国内リーグでは[[トゥエンティ20]]形式のスーパースマッシュがある。[[リチャード・ハドリー]]は同国の歴代最高選手の一人に挙げられる。 == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|ニュージーランド人の一覧|en|Lists of New Zealanders}}}} * [[ヘイリー・ウェステンラ]] - [[ソプラノ]][[歌手]] * [[エイミー・ドナルド]] - [[ダンサー]][[子役]] * [[藤田ニコル]](出生地) - 日本の[[タレント]]、[[ファッションモデル]]、[[グラビアアイドル]]、[[YouTuber]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == * Koki Morita、「[https://globalnewsview.org/archives/16032 ニュージーランドにおけるマオリの歴史と現在]」、Global News View(GNV)、2021年10月21日 *Clark, Ross (1994). 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Auckland: Auckland University Press, pp.&nbsp;123–135. * 「ニュージーランドの郵政民営化:「失敗」についての再検証」家森信善、西垣鳴人(会計検査研究No.40 2009.9)[http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j40d03.pdf] * 「経済の発展・衰退・再生に関する研究会 第8章 ニュージーランド」宮尾龍蔵(財務総合政策研究所2001年6月)[http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/zk051/zk051a.htm][http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/zk051/zk051i.pdf] == 関連項目 == {{main|ニュージーランド関係記事の一覧}} * [[ラーナック城]] * [[オーストラリア区]] * [[シルバー・ファーン]](銀シダ)- ニュージーランドのシンボルの一つ * [[ワイポウア森林保護区]] * [[タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ]](国内にある丘に関する記事) * [[マオリ王]] * [[カンタベリー地震 (2010年)]] * [[ジーランディア]] <!-- * [[ニュージーランドの通信]] * [[ニュージーランドの交通]] --> *[[ニュージーランド自治領]] *[[イギリス領ニュージーランド]] == 外部リンク == {{Sisterlinks|commons=New_Zealand_/_Aotearoa|commonscat=New_Zealand|voy=New_Zealand|d=Q664|q=no|b=no|v=no}} {{osm box|r|556706}} <!-- 外部リンクに関しては、留学斡旋会社、旅行保険業、または広告収入や資料請求などによる金銭収入その他営利が絡む情報サイトの追加は遠慮ください。 --> ; 政府 *[https://www.govt.nz/ ニュージーランド政府] {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20070813175450/http://newzealand.govt.nz/ ニュージーランド政府]アーカイブ版 {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20110724200632/http://www.gov-gen.govt.nz/ ニュージーランド総督府] {{en icon}} * [https://dpmc.govt.nz/ ニュージーランド首相府] {{en icon}} * [https://www.mfat.govt.nz/jp/countries-and-regions/north-asia/japan/new-zealand-embassy 在日ニュージーランド大使館] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nz/ 日本外務省 - ニュージーランド] {{ja icon}} * [https://www.nz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ニュージーランド日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 * [https://www.newzealand.com/jp/ ニュージーランド政府観光局] {{ja icon}} * [https://www.airnewzealand.jp/ ニュージーランド航空] {{ja icon}} * [https://www.arukikata.co.jp/country/NZ/ 地球の歩き方 - ニュージーランド旅行・観光ガイド] {{ja icon}} * [https://www.hankyu-travel.com/guide/newzealand/ 阪急交通社 - ニュージーランド観光ガイド] {{ja icon}} * [https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/oceania/new_zealand/index.html JTB - ニュージーランド観光ガイド] {{ja icon}} ; その他 * [https://www.jetro.go.jp/world/oceania/nz/ JETRO - ニュージーランド] * {{CIA World Factbook link|nz|New Zealand}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Oceania/New_Zealand}} {{en icon}} * {{Kotobank}} * {{wikiatlas|New_Zealand}} {{en icon}} * {{Googlemap|ニュージーランド}} {{オセアニア}} {{ポリネシア}} {{イギリス連邦}} {{OECD}} {{東アジアサミット}} {{TPP}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{Coord|42|S|174|E|region:NZ_type:country|display=title|name=ニュージーランド}} {{デフォルトソート:にゆうしいらんと}} [[Category:ニュージーランド|*]] [[Category:オセアニアの国]] [[Category:島国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:英連邦王国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:先進国]]
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ジャマイカ
ジャマイカ(英語: Jamaica 英語発音: [dʒəˈmeɪkə] ( 音声ファイル))は、カリブ海地域に位置する立憲君主制国家である。首都はキングストン。 中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島にある島国で、英連邦王国の一国。また、イギリス連邦加盟国でもある。北にはキューバとケイマン諸島が、東にはジャマイカ海峡を隔ててイスパニョーラ島に位置するハイチとドミニカ共和国がある。 アメリカ州で、アメリカ合衆国、カナダの次に英語話者が多い。 正式名称はJamaica(英語での発音はカタカナ転記するならジャメイカに近い)。 日本語の表記は、ジャマイカ。 国名は、先住民だったアラワク人の言葉Xaymaca(ザイマカ)にちなむ。この言葉は、木と水の地あるいは泉の地を意味する。当初スペイン植民地となった際にスペイン語でJamaica(ハマイカ)と綴られ、後にイギリス植民地になると綴りは変えられずに読みだけが英語読みになり、Jamaica(ジャメイカ)と呼ばれるようになった。ジャマイカ英語ではJameeka、ジャマイカ・クレオール語ではJamieka、Jomieka、Jumiekaなどと呼ばれる。 ヨーロッパ人の到来する前のジャマイカには、南米のギアナ地方から渡ってきたとされるアラワク系のタイノ人や、カリブ人が存在していた。 1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」すると、多くのヨーロッパ人がジャマイカを訪れた。1494年にはコロンブス自身が第二回航海において、ジャマイカ島を「発見」した。その後1509年にスペイン領となった。スペインはこの地にサトウキビのプランテーションを設置して、アラワク族を容赦なく酷使したため、その数が著しく減少した。スペインは西アフリカから黒人奴隷の輸入によって労働力を確保した。 しかし1655年、イギリス護国卿オリヴァー・クロムウェルの命を受けてのイスパニョーラ島攻略に失敗したイギリス海軍提督ペン(アメリカ合衆国のペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ(英語版)将軍が、残存兵力を率いてジャマイカに侵攻し、ほぼ無血でこの島を占領した。 1670年にマドリード条約によって正式にイギリス領になった。イギリスは港町ポートロイヤルを首府とし、ジャマイカにはイギリス海軍の司令部が置かれ、海賊や私掠船の母港となった。1692年の大地震(英語版)で町が倒壊したため、北のキングストンに首府が移った。さらにイギリスはジャマイカを拠点にしてカリブ海への影響力を強め、ミスキート族の王国、モスキート海岸(英語版)(現ニカラグア、ホンジュラス)や、英領ホンジュラス(現ベリーズ)がイギリス領になったのもジャマイカからの圧力のためであった。 黒人奴隷や逃亡黒人(ジャマイカのマルーン(英語版))の反乱(1731年の第1次マルーン戦争、1795年の第2次マルーン戦争(英語版))は長い間続き、コロマンティ(英語版)(アカン族(英語版)の黒人奴隷)が蜂起したタッキーの反乱(英語版)(1760年)なども起こり、ハイチ革命(1791年 - 1804年)の際にはトゥーサン・ルーヴェルチュールによるジャマイカ侵攻の可能性もあったが、結局は実行されなかった。ラテンアメリカ諸国の独立時にも白人支配層によってジャマイカが独立するような動きは存在しなかった。バプテスト戦争(英語版)(1831年 - 1832年)は奴隷制度廃止法案 (1833年)の成立に大きな影響を与えた。1865年には英国の支配に対する大規模な黒人の反乱が起き、総督エアは召喚されてジャマイカは英国の直轄領となった(ジャマイカ事件、Morant Bay rebellion)。 1938年にジャマイカ労働党(JLP)が設立され、1958年から1961年まで西インド連邦が樹立された。1959年にはイギリスから自治権を獲得し、1962年にイギリス連邦加盟国として独立(ジャマイカの独立(英語版))。なお、独自の元首を持たず、イギリス国王を元首とした(英連邦王国)。その後、保守のジャマイカ労働党と非同盟・民主社会主義政党の人民国家党が交互に政権に携わっている。近年は親米路線を踏襲している。 政治体制はジャマイカ国王を国家元首とする立憲君主制。英連邦王国のため、ジャマイカ国王の地位は名目的にイギリス国王と同一人物となっており、首相の推薦に基づき国王が任命する総督がその権限を代行する。 議院内閣制のジャマイカでは、行政府の長たる首相が政治の実権を握る。総選挙の結果、下院で第一党となった政党の党首が総督によって首相に任命される。閣僚は首相の助言に基づき総督が任命する。 立法権を有する議会は両院制である。上院は全21議席。首相が13人を、下院の野党党首が8人を推薦し、総督が任命する。下院は、全63議席。議員は国民の選挙によって選出される。上下院とも任期は5年。 ジャマイカの政党(英語版)には自治権の拡大と民主社会主義を掲げる人民国家党(PNP)と労働条件の改善など現実的な社会改革を求める保守中道のジャマイカ労働党(JLP)があり、二大政党となっている。ほかに国民民主運動、統一人民党なども存在する。 前首相ポーシャ・シンプソン=ミラーは就任翌日の2012年1月6日、独立50周年である2012年中に独自の大統領を置き、共和制に移行する計画を発表した。 パトリック・アレン(英語版)総督が国家元首を国王から非常勤の大統領に変更する憲法の修正を2016年4月16日までに議会に提案した。 同じく英連邦王国であったバルバドスが独立55周年の節目に共和制へ移行したことに触発され、アンドリュー・ホルネス首相は2021年12月に共和制へ移行する計画を発表した。移行予定日は独立60周年を迎える2022年8月6日としていたが、憲法で定められた手続きを完了するには日程が足りないことから日付を見直すことが2022年4月に発表された。 日本とジャマイカは1964年に正式に国交を樹立した。 日本政府はジャマイカがイギリスから独立した1963年に国家承認を行ない、1964年3月に両国間における正式な国交を樹立し、2014年には、国交樹立50周年を迎えた。2015年現在、両国は互いの首都にそれぞれ、日本がキングストンに、ジャマイカが東京に大使館を開設している。特にコーヒーは両国のつながりを保つ役割を果たしてきた。 ジャマイカ国防軍は約2,800人(総人口の0.1%)の兵力規模で、ジャマイカ連隊を基幹に小規模な沿岸警備隊と航空団を有している。近年は麻薬密輸や凶悪犯罪対策のために警察支援活動を実施している。 ジャマイカは島国であり、キューバから160km 南に位置する。主体となるジャマイカ島は大アンティル諸島で三番目に大きい島であり、面積 10,991km と岐阜県ほどの広さとなっている。山がちな島で中央部には山脈が連なり、国内最高峰は首都キングストンの東部近郊にあるブルー・マウンテン山脈のブルーマウンテン山(2256m)である。ジョン・クロウ山脈(英語版)(1143m)はブルーマウンテン山脈のすぐ付近にあり、ブルーマウンテン山脈と共にブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ国立公園を構成している。モチョ山脈(英語版)、ドライハーバー山脈(英語版)などの山脈や、コクピット・カントリー(英語版)の様な緑に覆われた山岳地帯もある。 120にも及ぶ川が流れ、島は緑豊かな熱帯雨林に覆われた島である。本島から南、約50km から70km 離れた無人の珊瑚礁ペドロ諸島とモラント諸島はジャマイカ属領である。 モンテゴ・ベイの付近の海はモンテゴ・ベイ海洋公園となっている。メイ・ペンの南方の海岸付近のアリゲーター・ホール(Alligator Hole)と言うマングローブの湿地にはワニも生息している。また、ジャマイカ周辺には約49の小さな島が存在している。 ジャマイカの気候は熱帯で暑く湿っているが、内陸部ではやや穏やかな気候になる。南岸のリグアニア平原とペドロ平原のような地域では相対的に乾燥した雨陰の地域となる。ジャマイカは大西洋のハリケーン・ベルトに位置しており、そのためにかなりの被害を受けることがある。1951年のチャーリーと1988年のギルバートがジャマイカを直撃し、多くの被害と死者を出した。2000年代にはアイヴァンとディーンが、2010年代にはサンディが島に厳しい天候をもたらした。 ジャマイカは、3つの郡 (county) に分割され、さらに14の行政教区 (Parish) に分かれる。 コーンウォール郡(西部)は以下の行政教区を含む。 ミドルセックス郡(中部)は以下の行政教区を含む。 サリー郡(東部)は以下の行政教区を含む。 IMFによれば、2019年のジャマイカのGDPは158億ドル、一人当たりのGDPは推計5782ドルで、高中進国に分類される。経済成長率 は わずか1%台で推移し、今後も微増が続く見込みである OECDによれば、2009年の失業率は14.5%、特に24歳以下の若年層では3割超と世界で最も高い水準にある。 鉱業がジャマイカの経済を支えていると言える。ボーキサイトは世界第4位の生産量(1312万トン、2002年)である。ボーキサイト以外の鉱物資源は金、塩のみである。 農業には2002年時点で人口の10%が従事する。一人当たりの耕地面積は1.1haである。気候条件により、主食作物の栽培はサツマイモ(2万5000トン)、ついでキャッサバに偏っている。商品作物ではココナッツ、バナナである。畜産業はニワトリ、ヤギ、ついでウシを対象とする。高級コーヒー豆として有名なブルーマウンテンの80%は日本に輸出されている。コーヒー豆の生産は3000トンに留まり、世界生産量の0.04%に過ぎない。 工業は食品工業、繊維業に偏る。 観光も主要産業で、モンテゴ・ベイやオーチョ・リオスなどは、有名なリゾート地である。しかし、犯罪が多いため周囲に壁やフェンスを張りめぐらされたリゾート施設が増えてきている。ほか、軽工業とアメリカ企業へのデータの電算機処理は成長部門である。 先住民のアラワク人は、他の多くのインディヘナと同じようにヨーロッパから持ち込まれた疫病に対して免疫力が無く、植民地時代に絶滅した。 その後、砂糖プランテーションを支えるための労働力として、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系の諸部族民が住民となった。現在の国民はアフリカ系が大部分(90.9%)を占め、インド系1.3%、白人0.2%、中国系0.2%、ムラート7.3%である。現在は中国、南アジア、コロンビア、及びその他のカリブ海諸国から移民が流入している。 20世紀の後半に大規模な製糖業が行われたが、労働力不足のためインド人(印僑)や中国人(多くは客家人)の季節労働者がジャマイカに集まった。このため、現在のような多人種国家ができあがった。国家のモットーは「One Out Of Many」(多くの部族から一つの国民に)である。 イギリスの旧植民地であったこともあり、公用語はイギリス英語である。日本で出版されているガイドブックなどでは『ジャマイカではパトワ語が話されている』という記述を見ることがあるかもしれないが、そもそもパトワという名前はカリブ海諸国におけるヨーロッパ言語のクレオール言語の総称であり、ジャマイカの起伏が激しい地形も手伝って地域色も色濃い為必ずしも正しいとは言えない。なお、「ジャマイカ英語」は英語の方言の一つであり、クレオール言語であるパトワ語とは異なる。 ジャマイカのパトワにはrとl、bとvの区別をしない、ThatやThinkをDat,Tinkと発音するなど発音面での簡略化が見られる。これらの変化はパトワを表記する際にも現れることがある。パトワの語彙の中には英語だけでなくフランス語、スペイン語、ポルトガル語、アジアの諸言語(ヒンディー語、客家語)先住民の言語(アラワク語)なども混じっているが、英語以外の全ての要素を併せたよりもアフリカの諸言語(アカン語、イウェ語、ヨルバ語)の影響の方が多い。 しかし、ジャマイカ人は学校で標準英語の訓練を受けているため、英語が話せればジャマイカ人とのコミュニケーションで困ることはない。地名には、スペインの植民地時代を反映してオーチョ・リオスなどスペイン系のものも多い。 宗教はプロテスタントが 61.3%、ローマ・カトリックが4%、その他(ラスタファリ運動、イスラム教、ユダヤ教、無宗教者を含む)が34.7%である。ジャマイカのプロテスタントはヴードゥー教やサンテリアのように、ジャマイカで独自のアフリカ的発展を遂げたものもある。 その他の非キリスト教としては、バハイ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などがある。ユダヤ人の数は200人程と少ない。ジャマイカのユダヤ人は、15世紀にスペイン、ポルトガルで迫害されていたユダヤ人にルーツを持つ。 6歳から11歳までが義務教育期間となっている。2015年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は88.7%(男性:84.0%、女性:93.1%)である。 主な高等教育機関としては西インド諸島大学(1948年)、ジャマイカ工科大学(1958年)、北カリブ大学(1919年)などが挙げられる。 過去数十年の間に多くのジャマイカ人が、主にイギリス、アメリカ合衆国、カナダに移住した。これらの移民は最近では数が少なくなっている。しかし、海外に居住する膨大な数のジャマイカ人は「ジャマイカ人のディアスポラ」として知られるようになった。また、キューバへのジャマイカ人の移民もあった。 海外に居住するジャマイカ人の集住はニューヨーク市、バッファロー、マイアミ大都市圏、オーランド、タンパ、ワシントンD.C.、フィラデルフィア、ハートフォード、ロサンゼルスといったアメリカ合衆国の諸都市で多い。カナダではジャマイカ人はトロントに集中しており、モントリオールやオタワにも小さなコミュニティがある。イギリスでは、多くの都市にジャマイカ人のコミュニティがあり、そこで彼らはブリティッシュ・カリビアン共同体の大部分を占めている。 ジャマイカの殺人事件発生数は2015年以降増加を続け、 2017年はさらに前年を22%~25%上回る水準で推移している。 また、2009年の殺人事件は1660件であるなど、ジャマイカは長年に渡って世界で最も殺人事件発生率の高い国の一つであり、国連の調査によると、大抵コロンビア、南アフリカ共和国に次いで世界第三位となる。なお、国連薬物犯罪事務所の統計データによれば、2022年において人口10万人当たりの殺人事件発生数は53.34件(殺人既遂件数:1,508件)であり同年の統計データがある国・地域の中で最も高く、治安の悪さが指摘されている。 特に首都であるキングストン市では他の都市に比べると殺人、強盗などの凶悪犯罪の発生率が高い。 警察による殺人も多く、2010年にアルジャジーラが放送したドキュメンタリー番組「PEOPLE & POWER Island of music and murder」によると、2010年1月 - 4月間だけで警察による一般市民への銃撃は83件であり、2000年から2009年の10年間に1900人以上が警察に殺害されている。 2010年6月には麻薬王クリストファー・コークの逮捕を巡り、軍・警察とキングストン・チボリガーデン地区の住民及びギャングとの間で激しい銃撃戦が起き、乳幼児を含む76名が死亡するなど、ギャングや政党間の闘争も苛烈である。 ジャマイカの公安機関はジャマイカ警察隊(英語版)とジャマイカ地方警察(英語版)で構成されている。 同国を代表する新聞には「ジャマイカ・スター(英語版)」や「ジャマイカ・オブザーバー(英語版)」、「グリーナー(英語版)」が挙げられる。 ジャマイカでの調理方法は、主としてアフリカなど、イギリス、中国、インド、スペイン、アイルランド、スコットランド、マルーン、その他の多くの異なった文化の影響を受けている。 イギリスの作家イアン・フレミングはジャマイカに住んでいたことがあり、『007ジェームズ・ボンド』にはジャマイカから着想を得た話がある。セントルシア出身のノーベル賞作家デレック・ウォルコットは西インド諸島大学で学んだ。 ジャマイカ出身の作家としてはクロード・マッケイやルイス・シンプソンが挙げられる。 スカ以前においてメントはトリニダード・トバゴのカリプソと混同されながらも1950年代にアメリカ市場で成功し、ジャマイカ音楽の世界での成功の基盤を築いた。 1960年代初頭にジャズなどのアメリカ合衆国のポピュラー音楽の影響を受けてスカが誕生。その後ロックステディを経て1960年代後半にレゲエが誕生し、ダブやダンスホール・レゲエ、ラガマフィンなどの音楽ジャンルが生まれた。1970年代のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの世界的ヒット以降、レゲエとそのサブジャンルは世界的に認知を広げ、各地のポピュラー音楽に対して影響を与えている。 ジャマイカの芸術は先住民であるタイノ族の伝統芸術を源流としている。 ジャマイカ映画の知名度は高くはないが、キングストンのトレンチタウンでレゲエの生まれた時期を取り扱った『ハーダー・ゼイ・カム』(1972年)はジャマイカ初の長編映画として有名である。 ジャマイカにはジョージ王朝様式の建築物が現在も遺されている。 カリバ・スーツ(英語版)発祥の地である。また、国際的なブライダルフェアとしてキングストン・ブライダルウィーク(英語版)が2011年から開催されている。 2015年の第39回世界遺産委員会終了時点で、ジャマイカにはUNESCOの世界遺産リストに登録された物件が1件ある。 ジャマイカ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1973年にプロサッカーリーグのナショナルプレミアリーグが創設された。ジャマイカサッカー連盟(JFF)によって構成されるサッカージャマイカ代表はFIFAワールドカップには1998年大会で初出場し、グループリーグで日本代表と対戦して2-1で勝利しワールドカップ初勝利をあげた。CONCACAFゴールドカップでは、2015年大会と2017年大会で準優勝の成績を残している。著名な選手としてはウェズ・モーガン、マイケル・アントニオ、レオン・ベイリーなどが挙げられる。 陸上競技では、2000年代に入るとスプリント競技において義務教育からの徹底した訓練と、国による助成で人材の海外流出に歯止めがかかり、100m・200m・400mリレーの世界記録保持者でもあるウサイン・ボルトや、100m前世界記録保持者のアサファ・パウエルらを輩出している。なお、1990年代まではジャマイカ出身のスプリンターが他国に帰化することは珍しくなく、リンフォード・クリスティ(イギリス国籍)、マリーン・オッティ(スロベニア国籍)、ベン・ジョンソン(カナダ国籍)、ドノバン・ベイリー(カナダ国籍)らは全員ジャマイカ出身である。 クリケットはジャマイカで最も人気のあるスポーツの一つと評価されている。代表チームは多国籍ナショナルチームの西インド諸島代表に含まれている。クリス・ゲイルは代表的なジャマイカ出身のクリケット選手である。2007年に西インド諸島で開催されたクリケット・ワールドカップでは首都キングストンのクリケット場のサビナパーク(英語版)が会場の一つになった。2013年にカリブ海地域の6カ国が連合になったトゥエンティ20形式のプロリーグであるカリビアン・プレミアリーグが開幕し、ジャマイカ・タラワーズ(英語版)が参加している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジャマイカ(英語: Jamaica 英語発音: [dʒəˈmeɪkə] ( 音声ファイル))は、カリブ海地域に位置する立憲君主制国家である。首都はキングストン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島にある島国で、英連邦王国の一国。また、イギリス連邦加盟国でもある。北にはキューバとケイマン諸島が、東にはジャマイカ海峡を隔ててイスパニョーラ島に位置するハイチとドミニカ共和国がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ州で、アメリカ合衆国、カナダの次に英語話者が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称はJamaica(英語での発音はカタカナ転記するならジャメイカに近い)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、ジャマイカ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国名は、先住民だったアラワク人の言葉Xaymaca(ザイマカ)にちなむ。この言葉は、木と水の地あるいは泉の地を意味する。当初スペイン植民地となった際にスペイン語でJamaica(ハマイカ)と綴られ、後にイギリス植民地になると綴りは変えられずに読みだけが英語読みになり、Jamaica(ジャメイカ)と呼ばれるようになった。ジャマイカ英語ではJameeka、ジャマイカ・クレオール語ではJamieka、Jomieka、Jumiekaなどと呼ばれる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人の到来する前のジャマイカには、南米のギアナ地方から渡ってきたとされるアラワク系のタイノ人や、カリブ人が存在していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」すると、多くのヨーロッパ人がジャマイカを訪れた。1494年にはコロンブス自身が第二回航海において、ジャマイカ島を「発見」した。その後1509年にスペイン領となった。スペインはこの地にサトウキビのプランテーションを設置して、アラワク族を容赦なく酷使したため、その数が著しく減少した。スペインは西アフリカから黒人奴隷の輸入によって労働力を確保した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし1655年、イギリス護国卿オリヴァー・クロムウェルの命を受けてのイスパニョーラ島攻略に失敗したイギリス海軍提督ペン(アメリカ合衆国のペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ(英語版)将軍が、残存兵力を率いてジャマイカに侵攻し、ほぼ無血でこの島を占領した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1670年にマドリード条約によって正式にイギリス領になった。イギリスは港町ポートロイヤルを首府とし、ジャマイカにはイギリス海軍の司令部が置かれ、海賊や私掠船の母港となった。1692年の大地震(英語版)で町が倒壊したため、北のキングストンに首府が移った。さらにイギリスはジャマイカを拠点にしてカリブ海への影響力を強め、ミスキート族の王国、モスキート海岸(英語版)(現ニカラグア、ホンジュラス)や、英領ホンジュラス(現ベリーズ)がイギリス領になったのもジャマイカからの圧力のためであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "黒人奴隷や逃亡黒人(ジャマイカのマルーン(英語版))の反乱(1731年の第1次マルーン戦争、1795年の第2次マルーン戦争(英語版))は長い間続き、コロマンティ(英語版)(アカン族(英語版)の黒人奴隷)が蜂起したタッキーの反乱(英語版)(1760年)なども起こり、ハイチ革命(1791年 - 1804年)の際にはトゥーサン・ルーヴェルチュールによるジャマイカ侵攻の可能性もあったが、結局は実行されなかった。ラテンアメリカ諸国の独立時にも白人支配層によってジャマイカが独立するような動きは存在しなかった。バプテスト戦争(英語版)(1831年 - 1832年)は奴隷制度廃止法案 (1833年)の成立に大きな影響を与えた。1865年には英国の支配に対する大規模な黒人の反乱が起き、総督エアは召喚されてジャマイカは英国の直轄領となった(ジャマイカ事件、Morant Bay rebellion)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1938年にジャマイカ労働党(JLP)が設立され、1958年から1961年まで西インド連邦が樹立された。1959年にはイギリスから自治権を獲得し、1962年にイギリス連邦加盟国として独立(ジャマイカの独立(英語版))。なお、独自の元首を持たず、イギリス国王を元首とした(英連邦王国)。その後、保守のジャマイカ労働党と非同盟・民主社会主義政党の人民国家党が交互に政権に携わっている。近年は親米路線を踏襲している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "政治体制はジャマイカ国王を国家元首とする立憲君主制。英連邦王国のため、ジャマイカ国王の地位は名目的にイギリス国王と同一人物となっており、首相の推薦に基づき国王が任命する総督がその権限を代行する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "議院内閣制のジャマイカでは、行政府の長たる首相が政治の実権を握る。総選挙の結果、下院で第一党となった政党の党首が総督によって首相に任命される。閣僚は首相の助言に基づき総督が任命する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "立法権を有する議会は両院制である。上院は全21議席。首相が13人を、下院の野党党首が8人を推薦し、総督が任命する。下院は、全63議席。議員は国民の選挙によって選出される。上下院とも任期は5年。", 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"ジャマイカの気候は熱帯で暑く湿っているが、内陸部ではやや穏やかな気候になる。南岸のリグアニア平原とペドロ平原のような地域では相対的に乾燥した雨陰の地域となる。ジャマイカは大西洋のハリケーン・ベルトに位置しており、そのためにかなりの被害を受けることがある。1951年のチャーリーと1988年のギルバートがジャマイカを直撃し、多くの被害と死者を出した。2000年代にはアイヴァンとディーンが、2010年代にはサンディが島に厳しい天候をもたらした。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ジャマイカは、3つの郡 (county) に分割され、さらに14の行政教区 (Parish) に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "コーンウォール郡(西部)は以下の行政教区を含む。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ミドルセックス郡(中部)は以下の行政教区を含む。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サリー郡(東部)は以下の行政教区を含む。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "IMFによれば、2019年のジャマイカのGDPは158億ドル、一人当たりのGDPは推計5782ドルで、高中進国に分類される。経済成長率 は わずか1%台で推移し、今後も微増が続く見込みである", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "OECDによれば、2009年の失業率は14.5%、特に24歳以下の若年層では3割超と世界で最も高い水準にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鉱業がジャマイカの経済を支えていると言える。ボーキサイトは世界第4位の生産量(1312万トン、2002年)である。ボーキサイト以外の鉱物資源は金、塩のみである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "農業には2002年時点で人口の10%が従事する。一人当たりの耕地面積は1.1haである。気候条件により、主食作物の栽培はサツマイモ(2万5000トン)、ついでキャッサバに偏っている。商品作物ではココナッツ、バナナである。畜産業はニワトリ、ヤギ、ついでウシを対象とする。高級コーヒー豆として有名なブルーマウンテンの80%は日本に輸出されている。コーヒー豆の生産は3000トンに留まり、世界生産量の0.04%に過ぎない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "工業は食品工業、繊維業に偏る。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "観光も主要産業で、モンテゴ・ベイやオーチョ・リオスなどは、有名なリゾート地である。しかし、犯罪が多いため周囲に壁やフェンスを張りめぐらされたリゾート施設が増えてきている。ほか、軽工業とアメリカ企業へのデータの電算機処理は成長部門である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "先住民のアラワク人は、他の多くのインディヘナと同じようにヨーロッパから持ち込まれた疫病に対して免疫力が無く、植民地時代に絶滅した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後、砂糖プランテーションを支えるための労働力として、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系の諸部族民が住民となった。現在の国民はアフリカ系が大部分(90.9%)を占め、インド系1.3%、白人0.2%、中国系0.2%、ムラート7.3%である。現在は中国、南アジア、コロンビア、及びその他のカリブ海諸国から移民が流入している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "20世紀の後半に大規模な製糖業が行われたが、労働力不足のためインド人(印僑)や中国人(多くは客家人)の季節労働者がジャマイカに集まった。このため、現在のような多人種国家ができあがった。国家のモットーは「One Out Of Many」(多くの部族から一つの国民に)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イギリスの旧植民地であったこともあり、公用語はイギリス英語である。日本で出版されているガイドブックなどでは『ジャマイカではパトワ語が話されている』という記述を見ることがあるかもしれないが、そもそもパトワという名前はカリブ海諸国におけるヨーロッパ言語のクレオール言語の総称であり、ジャマイカの起伏が激しい地形も手伝って地域色も色濃い為必ずしも正しいとは言えない。なお、「ジャマイカ英語」は英語の方言の一つであり、クレオール言語であるパトワ語とは異なる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ジャマイカのパトワにはrとl、bとvの区別をしない、ThatやThinkをDat,Tinkと発音するなど発音面での簡略化が見られる。これらの変化はパトワを表記する際にも現れることがある。パトワの語彙の中には英語だけでなくフランス語、スペイン語、ポルトガル語、アジアの諸言語(ヒンディー語、客家語)先住民の言語(アラワク語)なども混じっているが、英語以外の全ての要素を併せたよりもアフリカの諸言語(アカン語、イウェ語、ヨルバ語)の影響の方が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし、ジャマイカ人は学校で標準英語の訓練を受けているため、英語が話せればジャマイカ人とのコミュニケーションで困ることはない。地名には、スペインの植民地時代を反映してオーチョ・リオスなどスペイン系のものも多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "宗教はプロテスタントが 61.3%、ローマ・カトリックが4%、その他(ラスタファリ運動、イスラム教、ユダヤ教、無宗教者を含む)が34.7%である。ジャマイカのプロテスタントはヴードゥー教やサンテリアのように、ジャマイカで独自のアフリカ的発展を遂げたものもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その他の非キリスト教としては、バハイ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などがある。ユダヤ人の数は200人程と少ない。ジャマイカのユダヤ人は、15世紀にスペイン、ポルトガルで迫害されていたユダヤ人にルーツを持つ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "6歳から11歳までが義務教育期間となっている。2015年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は88.7%(男性:84.0%、女性:93.1%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては西インド諸島大学(1948年)、ジャマイカ工科大学(1958年)、北カリブ大学(1919年)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "過去数十年の間に多くのジャマイカ人が、主にイギリス、アメリカ合衆国、カナダに移住した。これらの移民は最近では数が少なくなっている。しかし、海外に居住する膨大な数のジャマイカ人は「ジャマイカ人のディアスポラ」として知られるようになった。また、キューバへのジャマイカ人の移民もあった。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "海外に居住するジャマイカ人の集住はニューヨーク市、バッファロー、マイアミ大都市圏、オーランド、タンパ、ワシントンD.C.、フィラデルフィア、ハートフォード、ロサンゼルスといったアメリカ合衆国の諸都市で多い。カナダではジャマイカ人はトロントに集中しており、モントリオールやオタワにも小さなコミュニティがある。イギリスでは、多くの都市にジャマイカ人のコミュニティがあり、そこで彼らはブリティッシュ・カリビアン共同体の大部分を占めている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ジャマイカの殺人事件発生数は2015年以降増加を続け、 2017年はさらに前年を22%~25%上回る水準で推移している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、2009年の殺人事件は1660件であるなど、ジャマイカは長年に渡って世界で最も殺人事件発生率の高い国の一つであり、国連の調査によると、大抵コロンビア、南アフリカ共和国に次いで世界第三位となる。なお、国連薬物犯罪事務所の統計データによれば、2022年において人口10万人当たりの殺人事件発生数は53.34件(殺人既遂件数:1,508件)であり同年の統計データがある国・地域の中で最も高く、治安の悪さが指摘されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "特に首都であるキングストン市では他の都市に比べると殺人、強盗などの凶悪犯罪の発生率が高い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "警察による殺人も多く、2010年にアルジャジーラが放送したドキュメンタリー番組「PEOPLE & POWER Island of music and murder」によると、2010年1月 - 4月間だけで警察による一般市民への銃撃は83件であり、2000年から2009年の10年間に1900人以上が警察に殺害されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2010年6月には麻薬王クリストファー・コークの逮捕を巡り、軍・警察とキングストン・チボリガーデン地区の住民及びギャングとの間で激しい銃撃戦が起き、乳幼児を含む76名が死亡するなど、ギャングや政党間の闘争も苛烈である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ジャマイカの公安機関はジャマイカ警察隊(英語版)とジャマイカ地方警察(英語版)で構成されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "同国を代表する新聞には「ジャマイカ・スター(英語版)」や「ジャマイカ・オブザーバー(英語版)」、「グリーナー(英語版)」が挙げられる。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ジャマイカでの調理方法は、主としてアフリカなど、イギリス、中国、インド、スペイン、アイルランド、スコットランド、マルーン、その他の多くの異なった文化の影響を受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "イギリスの作家イアン・フレミングはジャマイカに住んでいたことがあり、『007ジェームズ・ボンド』にはジャマイカから着想を得た話がある。セントルシア出身のノーベル賞作家デレック・ウォルコットは西インド諸島大学で学んだ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ジャマイカ出身の作家としてはクロード・マッケイやルイス・シンプソンが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "スカ以前においてメントはトリニダード・トバゴのカリプソと混同されながらも1950年代にアメリカ市場で成功し、ジャマイカ音楽の世界での成功の基盤を築いた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1960年代初頭にジャズなどのアメリカ合衆国のポピュラー音楽の影響を受けてスカが誕生。その後ロックステディを経て1960年代後半にレゲエが誕生し、ダブやダンスホール・レゲエ、ラガマフィンなどの音楽ジャンルが生まれた。1970年代のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの世界的ヒット以降、レゲエとそのサブジャンルは世界的に認知を広げ、各地のポピュラー音楽に対して影響を与えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ジャマイカの芸術は先住民であるタイノ族の伝統芸術を源流としている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ジャマイカ映画の知名度は高くはないが、キングストンのトレンチタウンでレゲエの生まれた時期を取り扱った『ハーダー・ゼイ・カム』(1972年)はジャマイカ初の長編映画として有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ジャマイカにはジョージ王朝様式の建築物が現在も遺されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "カリバ・スーツ(英語版)発祥の地である。また、国際的なブライダルフェアとしてキングストン・ブライダルウィーク(英語版)が2011年から開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2015年の第39回世界遺産委員会終了時点で、ジャマイカにはUNESCOの世界遺産リストに登録された物件が1件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ジャマイカ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1973年にプロサッカーリーグのナショナルプレミアリーグが創設された。ジャマイカサッカー連盟(JFF)によって構成されるサッカージャマイカ代表はFIFAワールドカップには1998年大会で初出場し、グループリーグで日本代表と対戦して2-1で勝利しワールドカップ初勝利をあげた。CONCACAFゴールドカップでは、2015年大会と2017年大会で準優勝の成績を残している。著名な選手としてはウェズ・モーガン、マイケル・アントニオ、レオン・ベイリーなどが挙げられる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "陸上競技では、2000年代に入るとスプリント競技において義務教育からの徹底した訓練と、国による助成で人材の海外流出に歯止めがかかり、100m・200m・400mリレーの世界記録保持者でもあるウサイン・ボルトや、100m前世界記録保持者のアサファ・パウエルらを輩出している。なお、1990年代まではジャマイカ出身のスプリンターが他国に帰化することは珍しくなく、リンフォード・クリスティ(イギリス国籍)、マリーン・オッティ(スロベニア国籍)、ベン・ジョンソン(カナダ国籍)、ドノバン・ベイリー(カナダ国籍)らは全員ジャマイカ出身である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "クリケットはジャマイカで最も人気のあるスポーツの一つと評価されている。代表チームは多国籍ナショナルチームの西インド諸島代表に含まれている。クリス・ゲイルは代表的なジャマイカ出身のクリケット選手である。2007年に西インド諸島で開催されたクリケット・ワールドカップでは首都キングストンのクリケット場のサビナパーク(英語版)が会場の一つになった。2013年にカリブ海地域の6カ国が連合になったトゥエンティ20形式のプロリーグであるカリビアン・プレミアリーグが開幕し、ジャマイカ・タラワーズ(英語版)が参加している。", "title": "スポーツ" } ]
ジャマイカは、カリブ海地域に位置する立憲君主制国家である。首都はキングストン。
{{Otheruses|国|ニューヨーク市の地名|ジャマイカ地区}} {{基礎情報 国 | 略名 =ジャマイカ | 日本語国名 =ジャマイカ | 公式国名 ='''{{Lang|en|Jamaica}}''' | 国旗画像 =Flag of Jamaica.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Jamaica.svg|100px|ジャマイカの国章]] | 国章リンク =([[ジャマイカの国章|国章]]) | 標語 =''{{Lang|en|Out of Many, One People}}''<br> (英語: 多くの部族から一つの国民に) | 位置画像 =Jamaica (orthographic projection).svg | 公用語 =[[ジャマイカ英語|英語]] | 首都 =[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] | 最大都市 =キングストン | 元首等肩書 =[[ジャマイカ国王|国王]] | 元首等氏名 =[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] | 首相等肩書 =[[ジャマイカの総督|総督]] | 首相等氏名 ={{仮リンク|パトリック・アレン|en|Patrick Allen (politician)}} | 他元首等肩書1 =[[ジャマイカの首相|首相]] | 他元首等氏名1 =[[アンドリュー・ホルネス]] | 面積順位 =160 | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =10,991 | 水面積率 =1.5% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =136 | 人口大きさ =1 E6 | 人口値 =2,961,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/jm.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> | 人口密度値 =273.4<ref name=population/> | GDP統計年元 =2019 | GDP値元 =2兆1104億3300万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=343,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-10}}</ref> | GDP統計年MER =2019 | GDP順位MER =124 | GDP値MER =158億800万{{R|imf202110}} | GDP MER/人 =5,781.785{{R|imf202110}} | GDP統計年 =2019 | GDP順位 =131 | GDP値 =300億4700万{{R|imf202110}} | GDP/人 =10,989.634{{R|imf202110}} | 建国形態 =[[独立]]<br>&nbsp;- 日付 | 建国年月日 =[[イギリス]]より<br>[[1962年]][[8月6日]] | 通貨 =[[ジャマイカ・ドル]] | 通貨コード =JMD | 時間帯 =-5 | 夏時間 =なし | 国歌 =[[ジャマイカ、我々の愛する地|Jamaica, Land We Love]]{{en icon}}<br>''ジャマイカ、我々の愛する地''<br><center>[[file:"Jamaica, Land We Love", performed by the United States Navy Band.oga]]<center> | ISO 3166-1 = JM / JAM | ccTLD =[[.jm]] | 国際電話番号 =1-876 | 注記 = }} '''ジャマイカ'''({{lang-en|Jamaica}} {{IPA-en|dʒəˈmeɪkə|:|En-us-Jamaica.ogg}})は、[[カリブ海地域]]に位置する[[立憲君主制]]国家である。首都は[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]。 == 概要 == [[中央アメリカ]]、[[カリブ海]]の[[大アンティル諸島]]にある[[島国]]で、[[英連邦王国]]の一国。また、[[イギリス連邦]]加盟国でもある。北には[[キューバ]]と[[ケイマン諸島]]が、東には[[ジャマイカ海峡]]を隔てて[[イスパニョーラ島]]に位置する[[ハイチ]]と[[ドミニカ共和国]]がある。 [[アメリカ州]]で、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]の次に英語話者が多い。 == 国名 == 正式名称は''{{Lang|en|Jamaica}}''(英語での発音は[[カタカナ]]転記するならジャメイカに近い)。 日本語の表記は、'''ジャマイカ'''。 国名は、[[先住民]]だった[[アラワク人]]の言葉Xaymaca('''ザイマカ''')にちなむ。この言葉は、''木と水の地''あるいは''泉の地''を意味する。当初スペイン植民地となった際に[[スペイン語]]でJamaica(ハマイカ)と綴られ、後にイギリス植民地になると綴りは変えられずに読みだけが[[英語]]読みになり、Jamaica(ジャメイカ)と呼ばれるようになった。[[ジャマイカ英語]]ではJameeka、[[ジャマイカ・クレオール語]]ではJamieka、Jomieka、Jumiekaなどと呼ばれる<ref>[http://www.jumieka.com/aatagrafi.html Jumieka Langwij: Aatagrafi/Jamaican Language: Orthography] Jumieka Langwij/Jamaican Language</ref>。 == 歴史 == {{main|ジャマイカの歴史|ジャマイカ史年表}} === アラワク=== [[ヨーロッパ]]人の到来する前のジャマイカには、[[南アメリカ|南米]]の[[ギアナ地方]]から渡ってきたとされる[[アラワク族|アラワク]]系の[[タイノ人]]や、[[カリブ人]]が存在していた。 === スペイン統治時代 === [[1492年]]に[[クリストファー・コロンブス]]が[[アメリカ大陸]]を「発見」すると、多くのヨーロッパ人がジャマイカを訪れた。[[1494年]]にはコロンブス自身が第二回航海において、ジャマイカ島を「発見」した。その後[[1509年]]に[[スペイン]]領となった。スペインはこの地に[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]を設置して、[[アラワク族]]を容赦なく酷使したため、その数が著しく減少した。スペインは[[西アフリカ]]から[[ネグロイド|黒人]][[奴隷]]の輸入によって労働力を確保した。 しかし[[1655年]]、イギリス[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル|オリヴァー・クロムウェル]]の命を受けての[[イスパニョーラ島]]攻略に失敗した[[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|イギリス海軍提督ペン]]([[アメリカ合衆国]]の[[ペンシルベニア州]]を創設した[[ウィリアム・ペン]]の父)と{{仮リンク|ロバート・ベナブルズ|en|Robert Venables|label=ベナブルズ}}将軍が、残存兵力を率いてジャマイカに侵攻し、ほぼ無血でこの島を占領した。 === イギリス統治時代 === [[画像:Kingston (1907).jpg|サムネイル|左|1907年の[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]]] [[1670年]]に[[マドリード条約 (1670年)|マドリード条約]]によって正式にイギリス領になった。イギリスは港町[[ポートロイヤル]]を[[首都|首府]]とし、ジャマイカには[[イギリス海軍]]の司令部が置かれ、[[海賊]]や[[私掠船]]の母港となった。[[1692年]]の{{仮リンク|ジャマイカ大地震 (1692年)|en|1692 Jamaica earthquake|label=大地震}}で町が倒壊したため、北の[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]に首府が移った。さらにイギリスはジャマイカを拠点にしてカリブ海への影響力を強め、[[ミスキート族]]の王国、{{仮リンク|モスキート・コースト (国家)|en|Mosquito Coast|label=モスキート海岸}}(現[[ニカラグア]]、[[ホンジュラス]])や、[[英領ホンジュラス]](現[[ベリーズ]])がイギリス領になったのもジャマイカからの圧力のためであった。 黒人奴隷や逃亡黒人({{仮リンク|ジャマイカのマルーン|en|Jamaican Maroons}})の反乱([[1731年]]の[[第1次マルーン戦争]]、[[1795年]]の{{仮リンク|第2次マルーン戦争|en|Second Maroon War}})は長い間続き、{{仮リンク|コロマンティ|en|Coromantee}}({{仮リンク|アカン人|en|Akan people|label=アカン族}}の黒人奴隷)が蜂起した{{仮リンク|タッキーの反乱|en|Tacky's War}}([[1760年]])なども起こり、[[ハイチ革命]]([[1791年]] - [[1804年]])の際には[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]によるジャマイカ侵攻の可能性もあったが、結局は実行されなかった。[[近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立|ラテンアメリカ諸国の独立]]時にも[[コーカソイド|白人]]支配層によってジャマイカが独立するような動きは存在しなかった。{{仮リンク|バプテスト戦争|en|Baptist War}}([[1831年]] - [[1832年]])は[[奴隷制度廃止法案 (1833年)]]の成立に大きな影響を与えた。[[1865年]]には英国の支配に対する大規模な黒人の反乱が起き、総督[[エドワード・ジョン・エア|エア]]は召喚されてジャマイカは英国の直轄領となった([[ジャマイカ事件]]、{{lang|en|Morant Bay rebellion}})。 === 西インド連邦〜独立 === [[1938年]]に[[ジャマイカ労働党]](JLP)が設立され、[[1958年]]から[[1961年]]まで[[西インド連邦]]が樹立された。[[1959年]]にはイギリスから[[自治権]]を獲得し、[[1962年]]にイギリス連邦加盟国として独立({{仮リンク|ジャマイカの独立|en|Independence of Jamaica}})。なお、独自の[[元首]]を持たず、[[イギリスの君主|イギリス国王]]を元首とした(英連邦王国)。その後、[[保守]]のジャマイカ労働党と[[非同盟]]・[[民主社会主義]]政党の[[人民国家党]]が交互に政権に携わっている。近年は[[親米]]路線を踏襲している。 {{Clearleft}} == 政治 == [[画像:Parliament.jm.jpg|サムネイル|議会の内部]] {{main|ジャマイカの政治}} [[政治体制]]は[[ジャマイカ国王]]を[[国家元首]]とする[[立憲君主制]]。[[英連邦王国]]のため、ジャマイカ国王の地位は名目的に[[イギリス国王]]と同一人物となっており、[[首相]]の推薦に基づき国王が任命する[[総督]]がその権限を代行する。 [[議院内閣制]]のジャマイカでは、[[行政]]府の長たる首相が政治の実権を握る。総選挙の結果、下院で第一党となった政党の党首が総督によって首相に任命される。閣僚は首相の助言に基づき総督が任命する。 {{See also|ジャマイカ国王|ジャマイカの総督|ジャマイカの首相}} 立法権を有する議会は[[両院制]]である。上院は全21議席。首相が13人を、下院の野党党首が8人を推薦し、総督が任命する。下院は、全63議席。議員は国民の選挙によって選出される。上下院とも任期は5年<ref>「ジャマイカ」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)357頁。</ref>。 {{仮リンク|ジャマイカの政党の一覧|label=ジャマイカの政党|en|List of political parties in Jamaica}}には[[自治権]]の拡大と[[民主社会主義]]を掲げる[[人民国家党]](PNP)と労働条件の改善など現実的な社会改革を求める[[保守]][[中道政治|中道]]の[[ジャマイカ労働党]](JLP)があり、[[二大政党制|二大政党]]となっている。ほかに[[国民民主運動]]、[[統一人民党 (ジャマイカ)|統一人民党]]なども存在する。 === 君主制廃止の動き === {{see|{{仮リンク|ジャマイカの共和主義|en|Republicanism in Jamaica}}}} 前首相[[ポーシャ・シンプソン=ミラー]]は就任翌日の[[2012年]][[1月6日]]、独立50周年である2012年中に独自の[[大統領]]を置き、[[共和制]]に移行する計画を発表した<ref>[http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/06/jamaica-republic-prime-minister?INTCMP=ILCNETTXT3487 Jamaica to become a republic, prime minister pledges] [[ガーディアン]]、2012年1月6日、2012年1月8日閲覧</ref>。 {{仮リンク|パトリック・アレン|en|Patrick Allen (governor-general)}}総督が国家元首を国王から非常勤の大統領に変更する憲法の修正を[[2016年]][[4月16日]]までに議会に提案した<ref>{{cite news|title =「エリザベス女王を国家元首から外す」、ジャマイカ総督が提案 |url =http://www.cnn.co.jp/world/35081305.html|publisher = [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date = 2016-04-16| accessdate = 2016-04-16}}</ref>。 同じく英連邦王国であった[[バルバドス]]が独立55周年の節目に共和制へ移行したことに触発され、[[アンドリュー・ホルネス]]首相は2021年12月に共和制へ移行する計画を発表した<ref>{{Cite web |url=https://jamaica.loopnews.com/content/jamaica-has-become-republic-says-holness |title=Jamaica has to become a republic, says Holness |publisher=Loop news |date=2021-12-12 |accessdate=2022-04-28}}</ref>。移行予定日は独立60周年を迎える2022年8月6日としていたが、憲法で定められた手続きを完了するには日程が足りないことから日付を見直すことが2022年4月に発表された<ref>{{Cite web |url=https://www.nationnews.com/2022/04/07/jamaica-govt-minister-process-followed-transition-republic/ |title=Process to be followed for transition to republic, says Jamaica minister |publisher=nation news.com |date=2022-04-07 |accessdate=2022-04-28}}</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ジャマイカの国際関係|en|Foreign relations of Jamaica}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{see|日本とジャマイカの関係}} 日本とジャマイカは[[1964年]]に正式に国交を樹立した<ref>{{Cite web|和書|title=ジャマイカ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jamaica/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-11-05 |language=ja}}</ref>。 [[日本政府]]はジャマイカがイギリスから独立した[[1963年]]に国家承認を行ない、[[1964年]]3月に両国間における正式な国交を樹立し、[[2014年]]には、国交樹立50周年を迎えた<ref>{{Cite web|和書|title=日・カリブ交流年 2014年 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/kikan/caricom/j_caricom20.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-11-05 |language=ja}}</ref>。2015年現在、両国は互いの首都にそれぞれ、日本が[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]に、ジャマイカが[[東京]]に大使館を開設している。特に[[コーヒー]]は両国のつながりを保つ役割を果たしてきた。<ref>{{Cite web|和書|title=ジャマイカ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jamaica/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-11-05 |language=ja}}</ref> == 軍事 == {{main|ジャマイカの軍事}} ジャマイカ国防軍は約2,800人(総人口の0.1%)の兵力規模で、ジャマイカ連隊を基幹に小規模な沿岸警備隊と航空団を有している。近年は麻薬密輸や凶悪犯罪対策のために警察支援活動を実施している。 == 地理 == [[ファイル:Jm-map.png|280px|サムネイル|ジャマイカの地図]] [[ファイル:Jamaica Topography.png|280px|サムネイル|地形図]] [[画像:DoctorsCaveBeach.jpeg|thumb|right|280px|ジャマイカ湾]] {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの地理|en|Geography of Jamaica}}}} ジャマイカは島国であり、[[キューバ]]から160[[キロメートル|km]] 南に位置する。主体となるジャマイカ島は[[大アンティル諸島]]で三番目に大きい島であり、面積 10,991[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] と岐阜県ほどの広さとなっている<ref name=Geo>{{cite web|url=https://www.geonames.org/advanced-search.html?q=Island&country=JM&startRow=0|title=Islands of Jamaica|website=GeoNames|access-date= January 04, 2023}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/jamaica/|title= CIA World Factbook (Jamaica)|publisher= United States Government|access-date= 04 January 2023|archive-date= 11 January 2021|archive-url= https://web.archive.org/web/20210111023238/https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/jamaica|url-status= live}}</ref>。山がちな島で中央部には山脈が連なり、国内最高峰は首都キングストンの東部近郊にある[[ブルーマウンテン山脈 (ジャマイカ)|ブルー・マウンテン山脈]]の[[ブルー・マウンテン峰|ブルーマウンテン山]](2256m)である。{{仮リンク|ジョン・クロウ山脈|en|John Crow Mountains}}(1143m)はブルーマウンテン山脈のすぐ付近にあり、ブルーマウンテン山脈と共に[[ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ国立公園]]を構成している。{{仮リンク|モチョ山脈|en|Mocho Mountains}}、{{仮リンク|ドライハーバー山脈|en|Dry Harbour Mountains}}などの山脈や、{{仮リンク|コクピット・カントリー|en|Cockpit Country}}の様な緑に覆われた山岳地帯もある。{{See also|{{仮リンク|ジャマイカの地質|en|Geology of Jamaica}}}} 120にも及ぶ川が流れ、島は緑豊かな熱帯雨林に覆われた島である。本島から南、約50km から70km 離れた無人の珊瑚礁[[ペドロ諸島]]と[[モラント諸島]]はジャマイカ属領である。 モンテゴ・ベイの付近の海はモンテゴ・ベイ海洋公園となっている。メイ・ペンの南方の海岸付近の[[アリゲーター・ホール]](Alligator Hole)と言う[[マングローブ]]の湿地にはワニも生息している。また、ジャマイカ周辺には約49の小さな島が存在している。{{See also|{{仮リンク|ジャマイカの島の一覧|en|List of islands of Jamaica}}}} ジャマイカの気候は[[熱帯]]で暑く湿っているが、内陸部ではやや穏やかな気候になる。南岸のリグアニア平原とペドロ平原のような地域では相対的に乾燥した雨陰の地域となる。ジャマイカは[[大西洋]]の[[ハリケーン]]・ベルトに位置しており、そのためにかなりの被害を受けることがある。[[1951年]]の[[:en:Hurricane Charlie (1951)|チャーリー]]と[[1988年]]の[[ハリケーン・ギルバート|ギルバート]]がジャマイカを直撃し、多くの被害と死者を出した。2000年代には[[ハリケーン・アイバン|アイヴァン]]と[[ハリケーン・ディーン|ディーン]]が、2010年代には[[ハリケーン・サンディ|サンディ]]が島に厳しい天候をもたらした。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Jamaica parishes numbered2.png|サムネイル|300px|ジャマイカの地方行政区分]] [[画像:Lovers' Leap.jpg|サムネイル|[[セント・エリザベス教区]]の''ラヴァーズ・リープ'']] {{Main|ジャマイカの行政区画}} ジャマイカは、3つの郡 (county) に分割され、さらに14の[[行政教区]] (''Parish'') に分かれる。 [[コーンウォール郡]](西部)は以下の行政教区を含む。 * [[ハノーバー教区]] Hanover * [[セント・エリザベス教区]] Saint Elizabeth * [[セント・ジェームズ教区 (ジャマイカ)|セント・ジェームズ教区]] Saint James * [[トレローニー教区]] Trelawny * [[ウェストモアランド教区]] Westmoreland [[ミドルセックス郡 (ジャマイカ)|ミドルセックス郡]](中部)は以下の行政教区を含む。 * [[クラレンドン教区]] Clarendon * [[マンチェスター教区]] Manchester * [[セント・アン教区]] Saint Ann * [[セント・キャサリン教区]] Saint Catherine * [[セント・メアリー教区 (ジャマイカ)|セント・メアリー教区]] Saint Mary [[サリー郡 (ジャマイカ)|サリー郡]](東部)は以下の行政教区を含む。 * [[キングストン教区]] Kingston * [[ポートランド教区]] Portland * [[セント・アンドリュー教区 (ジャマイカ)|セント・アンドリュー教区]] Saint Andrew * [[セント・トーマス教区 (ジャマイカ)|セント・トーマス教区]] Saint Thomas === 主要都市 === {{Main|ジャマイカの都市の一覧}} * [[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] * [[モンテゴ・ベイ]] * {{仮リンク|ポート・アントニオ|en|Port Antonio}} * [[オーチョ・リオス]] * [[ネグリル]] == 経済 == {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの経済|en|Economy of Jamaica}}}} [[ファイル:PortofKingston.jpg|thumb|left|首都[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]]] [[国際通貨基金|IMF]]によれば、2019年のジャマイカの[[国内総生産|GDP]]は158億ドル、一人当たりのGDPは推計5782ドルで<ref name="imf202110" />、[[中進国|高中進国]]に分類される。経済成長率 は わずか1%台で推移し、今後も微増が続く見込みである [[OECD]]によれば、2009年の[[失業率]]は14.5%、特に24歳以下の若年層では3割超と世界で最も高い水準にある。 === 鉱業 === [[鉱業]]がジャマイカの経済を支えていると言える。[[ボーキサイト]]は世界第4位の生産量(1312万トン、2002年)である。ボーキサイト以外の[[鉱物]][[資源]]は[[金]]、[[塩]]のみである。 === 農業 === [[農業]]には2002年時点で人口の10%が従事する。一人当たりの耕地面積は1.1haである。気候条件により、主食作物の栽培は[[サツマイモ]](2万5000トン)、ついで[[キャッサバ]]に偏っている。商品作物では[[ココナッツ]]、[[バナナ]]である。[[畜産業]]は[[ニワトリ]]、[[ヤギ]]、ついで[[ウシ]]を対象とする。高級コーヒー豆として有名な[[ブルーマウンテン]]の80%は[[日本]]に輸出されている。[[コーヒー豆]]の生産は3000トンに留まり、世界生産量の0.04%に過ぎない。 {{also|ジャマイカにおけるコーヒー生産}} === 工業 === [[工業]]は[[食品工業]]、[[繊維業]]に偏る。 === 観光 === {{see|{{仮リンク|ジャマイカの観光地|en|Tourism in Jamaica}}}} [[観光]]も[[主要産業]]で、[[モンテゴ・ベイ]]や[[オーチョ・リオス]]などは、有名なリゾート地である。しかし、[[犯罪]]が多いため周囲に[[壁]]や[[フェンス]]を張りめぐらされた[[リゾート施設]]が増えてきている。ほか、[[軽工業]]とアメリカ企業へのデータの電算機処理は成長部門である。 {{Clearleft}} == 国民 == [[画像:Dreadlocked rasta.jpg|thumb|200px|right|ドレッドのラスタマン]] [[画像:Marcus Garvey 1924-08-05.jpg|thumb|200px|right|[[ラスタファリ運動]]の先駆者、[[マーカス・ガーヴェイ]]]] {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの人口統計|en|Demographics of Jamaica}}}} 先住民の[[アラワク人]]は、他の多くの[[インディヘナ]]と同じようにヨーロッパから持ち込まれた疫病に対して免疫力が無く、植民地時代に絶滅した。 その後、[[砂糖]][[プランテーション]]を支えるための労働力として、[[西アフリカ]]から[[奴隷]]として連れてこられた[[ネグロイド|アフリカ系]]の諸部族民が住民となった。現在の国民は[[アフリカ系ジャマイカ人|アフリカ系]]が大部分(90.9%)を占め、インド系1.3%、白人0.2%、中国系0.2%、[[ムラート]]7.3%である。現在は中国、南アジア、コロンビア、及びその他のカリブ海諸国から移民が流入している。 20世紀の後半に大規模な製糖業が行われたが、労働力不足のためインド人([[インド系移民と在外インド人|印僑]])や[[中国人]](多くは[[客家|客家人]])の季節労働者がジャマイカに集まった。このため、現在のような多人種国家ができあがった。国家のモットーは「One Out Of Many」(多くの部族から一つの国民に)である。 === 言語 === イギリスの旧植民地であったこともあり、[[公用語]]は[[イギリス英語]]である。日本で出版されているガイドブックなどでは『ジャマイカでは[[パトワ語]]が話されている』という記述を見ることがあるかもしれないが、そもそもパトワという名前はカリブ海諸国におけるヨーロッパ言語の[[クレオール言語]]の総称であり、ジャマイカの起伏が激しい地形も手伝って地域色も色濃い為必ずしも正しいとは言えない。なお、「[[ジャマイカ英語]]」は英語の方言の一つであり、クレオール言語であるパトワ語とは異なる。 [[ジャマイカ・クレオール語|ジャマイカのパトワ]]にはrとl、bとvの区別をしない、ThatやThinkをDat,Tinkと発音するなど発音面での簡略化が見られる。これらの変化はパトワを表記する際にも現れることがある。パトワの語彙の中には英語だけでなく[[フランス語]]、スペイン語、ポルトガル語、アジアの諸言語(ヒンディー語、客家語)先住民の言語(アラワク語)なども混じっているが、英語以外の全ての要素を併せたよりもアフリカの諸言語(アカン語、イウェ語、ヨルバ語)の影響の方が多い。 しかし、ジャマイカ人は学校で標準英語の訓練を受けているため、英語が話せればジャマイカ人とのコミュニケーションで困ることはない。地名には、スペインの植民地時代を反映して[[オーチョ・リオス]]などスペイン系のものも多い。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの宗教|en|Religion in Jamaica}}}} 宗教は[[プロテスタント]]が 61.3%、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が4%、その他([[ラスタファリ運動]]、[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]、[[無宗教]]者を含む)が34.7%である。ジャマイカのプロテスタントは[[ヴードゥー教]]や[[サンテリア]]のように、ジャマイカで独自のアフリカ的発展を遂げたものもある。 その他の非キリスト教としては、[[バハイ教]]、[[仏教]]、[[イスラム教]]、[[ヒンドゥー教]]などがある。[[ユダヤ人]]の数は200人程と少ない。ジャマイカのユダヤ人は、15世紀に[[スペイン]]、[[ポルトガル]]で迫害されていたユダヤ人にルーツを持つ。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの教育|en|Education in Jamaica}}}} 6歳から11歳までが[[義務教育]]期間となっている。2015年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は88.7%(男性:84.0%、女性:93.1%)である<ref>{{Cite web|author=CIA|authorlink=中央情報局|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/jamaica/#people-and-society|title=CIA World Factbook > Jamaica > People and Society > Literacy|date=2023-12-06|accessdate=2023-12-09 }}</ref>。 主な[[高等教育]]機関としては[[西インド諸島大学]](1948年)、[[ジャマイカ工科大学]](1958年)、[[北カリブ大学]](1919年)などが挙げられる。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの保健|en|Health in Jamaica}}}} {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|ジャマイカの病院の一覧|en|List of hospitals in Jamaica}}}} == 社会 == {{節スタブ}} === ジャマイカ人移民 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカ人のディアスポラ|en|Jamaican diaspora}}}} 過去数十年の間に多くのジャマイカ人が、主に[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]に移住した。これらの移民は最近では数が少なくなっている。しかし、海外に居住する膨大な数のジャマイカ人は「[[ジャマイカ人のディアスポラ]]」として知られるようになった。また、キューバへのジャマイカ人の移民もあった<ref>[http://encarta.msn.com/encyclopedia_761569844_2/Cuba.html Jamaicans to Cuba]</ref>。 海外に居住するジャマイカ人の集住は[[ニューヨーク市]]、[[バッファロー (ニューヨーク)|バッファロー]]、[[マイアミ大都市圏]]、[[オーランド]]、[[タンパ]]、[[ワシントンD.C.]]、[[フィラデルフィア]]、[[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]、[[ロサンゼルス]]といったアメリカ合衆国の諸都市で多い。カナダではジャマイカ人は[[トロント]]に集中しており、[[モントリオール]]や[[オタワ]]にも小さなコミュニティがある。イギリスでは、多くの都市にジャマイカ人のコミュニティがあり、そこで彼らは[[ブリティッシュ・カリビアン共同体]]の大部分を占めている。 == 治安 == {{Main|{{仮リンク|ジャマイカにおける犯罪|en|Crime in Jamaica}}}} ジャマイカの殺人事件発生数は2015年以降増加を続け、 2017年はさらに前年を22%~25%上回る水準で推移している。 また、2009年の殺人事件は1660件であるなど<ref name="Independent">[http://www.independent.co.uk/news/world/americas/jamaica-standoff-highlights-links-between-ruling-party-and-drug-gang-1982887.html Jamaica stand-off highlights links between ruling party and drug gang] - [[インデペンデント]]、2010年5月26日、2010年6月1日閲覧。</ref>、ジャマイカは長年に渡って世界で最も殺人事件発生率の高い国の一つであり<ref name="Aljazeera" />、[[国際連合|国連]]の調査によると、大抵[[コロンビア]]、[[南アフリカ共和国]]に次いで世界第三位となる。なお、[[国連薬物犯罪事務所]]の統計データによれば、2022年において人口10万人当たりの殺人事件発生数は53.34件(殺人既遂件数:1,508件)であり同年の統計データがある国・地域の中で最も高く、治安の悪さが指摘されている<ref name="Intentional Homicide by sex">{{Cite web|publisher=UNODC|title=Victims of intentional homicide|url=https://dataunodc.un.org/dp-intentional-homicide-victims|date=2023-07-12|accessdate=2023-12-09}}</ref>。 特に首都であるキングストン市では他の都市に比べると[[殺人]]、[[強盗]]などの凶悪犯罪の発生率が高い<ref name="Aljazeera">[http://english.aljazeera.net/programmes/peopleandpower/2010/04/2010427122334575952.html "PEOPLE & POWER Island of music and murder"] - english.aljazeera.net、2010年4月28日、2010年5月1日閲覧。</ref>。 警察による殺人も多く<ref name="Aljazeera" />、2010年に[[アルジャジーラ]]が放送した[[ドキュメンタリー番組]]「PEOPLE & POWER Island of music and murder」によると、2010年1月 - 4月間だけで警察による一般市民への銃撃は83件であり<ref>[http://www.jamaica-gleaner.com/gleaner/20100430/lead/lead4.html "Al Jazeera Turns Spotlight On Jamaican Police Killings"] - jamaica-gleaner.com、2010年4月30日、2010年5月1日閲覧。</ref>、2000年から2009年の10年間に1900人以上が警察に殺害されている<ref name="Aljazeera" /><ref>[http://www.jamaicaobserver.com/news/--Al-Jazeera-calls-Jamaica-the-island-of-music-and-murder "Al Jazeera calls Jamaica the island of music and murder"] - Jamaica Observer、2010年4月30日、2010年5月1日閲覧。</ref>。 2010年6月には麻薬王[[クリストファー・コーク]]の逮捕を巡り、軍・警察とキングストン・チボリガーデン地区の住民及びギャングとの間で激しい銃撃戦が起き、乳幼児を含む76名が死亡するなど<ref name="CNN3">[http://www.cnn.co.jp/usa/AIC201006250010.html ジャマイカのコーク被告引き渡し、ニューヨークに到着] - CNN、2010年06月25日、2010年7月8日閲覧。</ref><ref>[http://www.reuters.com/article/idUSTRE64Q6BP20100527 "Toll from crackdown on Jamaica slum climbs to 73"] Reuters, 27 May 2010.</ref>、ギャングや政党間の闘争も苛烈である。 === 法執行機関 === ジャマイカの[[治安|公安機関]]は{{仮リンク|ジャマイカ警察隊|en|Jamaica Constabulary Force}}と{{仮リンク|ジャマイカ地方警察|en|Jamaica Rural Police Force}}で構成されている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカにおける人権|en|Human rights in Jamaica}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|ジャマイカのメディア}} {{節スタブ}} === 新聞 === 同国を代表する[[新聞]]には「{{仮リンク|ジャマイカ・スター|en|The Jamaica Star}}」や「{{仮リンク|ジャマイカ・オブザーバー|en|Jamaica Observer}}」、「{{仮リンク|グリーナー (新聞)|label=グリーナー|en|The Gleaner}}」が挙げられる。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ジャマイカの新聞の一覧|en|List of newspapers in Jamaica}}|{{仮リンク|ジャマイカの新聞の歴史|en|History of Jamaican newspapers}}}} === 電気通信 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの通信|en|Telecommunications in Jamaica}}}} {{節スタブ}} == 文化 == [[画像:Bob-Marley-in-Concert Zurich 05-30-80.jpg|サムネイル|200px|ジャマイカ音楽の象徴、[[ボブ・マーリー]]]] [[画像:SeanPaul2005.jpg|サムネイル|200px|[[ショーン・ポール]]]] {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの文化|en|Culture of Jamaica}}}} === 食文化 === {{Main|ジャマイカ料理}} ジャマイカでの調理方法は、主としてアフリカなど<!--「など」ではなく「や」か?-->、イギリス、[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[スペイン]]、[[アイルランド]]、[[スコットランド]]、[[マルーン]]、その他の多くの異なった文化の影響を受けている。 === 文学 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカ文学|en|Jamaican literature}}}} イギリスの作家[[イアン・フレミング]]はジャマイカに住んでいたことがあり、『[[ジェームズ・ボンド|007ジェームズ・ボンド]]』にはジャマイカから着想を得た話がある。[[セントルシア]]出身のノーベル賞作家[[デレック・ウォルコット]]は[[西インド諸島大学]]で学んだ。 ジャマイカ出身の作家としては[[クロード・マッケイ]]や[[ルイス・シンプソン]]が挙げられる。 === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの音楽|en|Music of Jamaica}}}} {{See also|レゲエ}} スカ以前において[[メント]]は[[トリニダード・トバゴ]]の[[カリプソ (音楽)|カリプソ]]と混同されながらも1950年代にアメリカ市場で成功し、ジャマイカ音楽の世界での成功の基盤を築いた。 1960年代初頭にジャズなどのアメリカ合衆国のポピュラー音楽の影響を受けて[[スカ]]が誕生。その後[[ロックステディ]]を経て1960年代後半に[[レゲエ]]が誕生し、[[ダブ]]や[[ダンスホール・レゲエ]]、[[ラガマフィン]]などの音楽ジャンルが生まれた。1970年代の[[ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ]]の世界的ヒット以降、レゲエとそのサブジャンルは世界的に認知を広げ、各地のポピュラー音楽に対して影響を与えている<ref>北中 (2007, p.28)</ref>。 === 美術 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカ美術|en|Jamaican art}}}} ジャマイカの芸術は先住民であるタイノ族の伝統芸術を源流としている。 {{節スタブ}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの映画|en|Cinema of Jamaica}}}} ジャマイカ映画の知名度は高くはないが、キングストンの[[トレンチタウン]]でレゲエの生まれた時期を取り扱った『[[:en:The Harder They Come|ハーダー・ゼイ・カム]]』(1972年)はジャマイカ初の長編映画として有名である。 === 建築 === {{Main|ジャマイカの建築}} ジャマイカには[[ジョージ王朝]]様式の建築物が現在も遺されている。 {{See also|[[ジョージアン様式|ジョージ王朝の建築]]}} {{節スタブ}} === 被服 === {{Main|ジャマイカの被服}} {{仮リンク|カリバ・スーツ|en|Kariba suit}}発祥の地である。また、国際的な[[ブライダルフェア]]として{{仮リンク|キングストン・ブライダルウィーク|en|Kingston Bridal Week}}が2011年から開催されている。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ジャマイカの世界遺産}} 2015年の[[第39回世界遺産委員会]]終了時点で、ジャマイカには[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]リストに登録された物件が1件ある。 * [[ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ国立公園|ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ]] === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの祝日|en|Public holidays in Jamaica}}}} <center> {| class="wikitable" |+<span style="font-weight:bold;font-size:120%">祝祭日</span> |- style="background:#efefef" !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- ||1月1日||[[元日]]||New Year's Day|| |- ||2月21日||[[灰の水曜日]]||Ash Wednesday|| |- ||4月5日 - 10日||[[復活祭]]||Easter|| |- ||5月23日||労働者の日||Labour Day || |- ||8月1日||解放記念日||Emancipation Day||[[英領西インド諸島]]における1833年の黒人奴隷解放の日 |- ||8月6日||独立記念日||Independence Day|| |- ||10月16日||国民的英雄の日||National Hero's Day|| |- ||12月25日||[[クリスマス]]||Christmas Day|| |- ||12月26日||[[ボクシング・デー]]||Boxing Day|| |} </center> == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ジャマイカのスポーツ|en|Sport in Jamaica}}}} {{See also|オリンピックのジャマイカ選手団}} === クリケット === [[クリケット]]はジャマイカで最も人気のスポーツである<ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月19日閲覧。</ref>。中でも、[[クリス・ゲイル]]は代表的なジャマイカ出身のクリケット選手である。代表チームは多国籍ナショナルチームの[[クリケット西インド諸島代表|西インド諸島代表]]に含まれており、2007年に[[西インド諸島]]で開催された[[2007 クリケット・ワールドカップ|クリケット・ワールドカップ]]では首都[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]のクリケット場の{{仮リンク|サビナパーク|en|Sabina Park}}が会場の一つになった。2013年に[[カリブ海地域]]の6カ国が連合になった[[トゥエンティ20]]形式のプロリーグである[[カリビアン・プレミアリーグ]]が開幕し、{{仮リンク|ジャマイカ・タラワーズ|en|Jamaica Tallawahs}}が参加している。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカのサッカー|en|Football in Jamaica}}}} [[サッカー]]も人気スポーツであり、[[1973年]]にプロサッカーリーグの[[ジャマイカン・ナショナルプレミアリーグ|ナショナルプレミアリーグ]]が創設された。[[ジャマイカサッカー連盟]](JFF)によって構成される[[サッカージャマイカ代表]]は[[FIFAワールドカップ]]には[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]で初出場し、グループリーグで[[1998 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]]と対戦して2-1で勝利しワールドカップ初勝利をあげた。[[CONCACAFゴールドカップ]]では、[[2015 CONCACAFゴールドカップ|2015年大会]]と[[2017 CONCACAFゴールドカップ|2017年大会]]で準優勝の成績を残している。著名な選手としては[[ウェズ・モーガン]]、[[マイケル・アントニオ]]、[[レオン・ベイリー]]などが挙げられる。 === 陸上競技 === {{Main|{{仮リンク|ジャマイカの陸上競技|en|Athletics in Jamaica}}}} [[陸上競技]]では、[[2000年代]]に入ると[[短距離走|スプリント競技]]において[[義務教育]]からの徹底した訓練と、国による助成で人材の海外流出に歯止めがかかり、[[100メートル競走|100m]]・[[200メートル競走|200m]]・[[400メートルリレー走|400mリレー]]の[[陸上競技の世界記録一覧|世界記録保持者]]でもある'''[[ウサイン・ボルト]]'''や、[[100メートル競走|100m]]前世界記録保持者の'''[[アサファ・パウエル]]'''らを輩出している。なお、[[1990年代]]まではジャマイカ出身のスプリンターが他国に[[帰化]]することは珍しくなく、[[リンフォード・クリスティ]]([[イギリス]]国籍)、[[マリーン・オッティ]]([[スロベニア]]国籍)、[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]([[カナダ]]国籍)、[[ドノバン・ベイリー]](カナダ国籍)らは全員ジャマイカ出身である。 == 著名な出身者 == {{Main|ジャマイカ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=二村久則|authorlink1=二村久則|author2=野田隆|authorlink2=野田隆|author3=牛田千鶴|authorlink3=牛田千鶴|author4=志柿光浩|authorlink4=志柿光浩|date=2006年4月|title=ラテンアメリカ現代史III|series=世界現代史35|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42350-2|ref=二村、野田、牛田、志柿(2006)}} * {{Cite book|和書|author=福井英一郎編|authorlink=福井英一郎|year=1978|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}} * [[ステファニー・ブラック]]監督『ジャマイカ楽園の真実』LIFE&DEBT、2001年[DVD発売日は2005年12月]。 *{{Cite book|和書 |author = 北中正和監修|title = 世界は音楽でできている―中南米・北米・アフリカ編―|origdate = |url = https://books.google.co.jp/books?id=U2QFnhbtF8EC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|format = |accessdate = 2010-08-26|edition = |date = 2007|publisher = 音楽出版社|isbn = 978-4861710261}} == 関連項目 == * [[ジャマイカ関係記事の一覧]] * [[ジャマイカ・クレオール語]] * [[ジャマイカ・ドル]] * [[ルードボーイ]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no | v = no | d = Q766 }} '''政府''' * [https://cabinet.gov.jm ジャマイカ内閣] {{en icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/link/emblist/latinamerica.html#11 在日ジャマイカ大使館] {{ja icon}} '''日本政府''' * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jamaica/ 日本外務省 - ジャマイカ] {{ja icon}} * [https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ 在ジャマイカ日本国大使館] {{ja icon}} '''観光''' * {{Facebook|ジャマイカ政府観光局-160549250671605|ジャマイカ政府観光局}} {{ja icon}} * {{ウィキトラベル インライン|ジャマイカ|ジャマイカ}} {{ja icon}} '''その他''' * {{Osmrelation|555017}} * {{Kotobank}} {{アメリカ}} {{イギリス連邦}} {{ジャマイカの行政区分}} {{Normdaten}} 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アルメニア
アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)通称アルメニアは、ユーラシア大陸の南コーカサスの内陸国である。首都はエレバン。 西アジアのアルメニア高原に位置し 、西にトルコ、北にジョージア、東に事実上の独立した共和国アルツァフ共和国とアゼルバイジャン、南ではイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンに国境を接する。 同国の地域はウラルトゥを基盤に形成されている。ウラルトゥが成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・サトラピーに取って代わられた。アルメニア王国は紀元前1世紀にティグラネス大王のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めてキリスト教を公教として採用した国家となった。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年である。アルメニアは現在も世界最古の国教会であるアルメニア使徒教会を国の主要な宗教施設として認めている。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に東ローマ帝国とサーサーン朝の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジュークトルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。 16世紀から19世紀の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、オスマン帝国とペルシャ帝国の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアはロシア帝国に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、第一次世界大戦で組織的に絶滅させられた。1918年、ロシア革命後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、アルメニア第一共和国が成立した。1920年にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入され、1922年にはソビエト連邦の建国メンバーとなった。1936年には、アルメニア・ソビエト社会主義共和国を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。 アルメニアは単一・多政党制・民主主義の国民国家である。発展途上国であり、人間開発指数(2021年)では85位にランクされている。その経済は主に工業生産と鉱物採掘に基づいている。アルメニアは地理的には南コーカサスに位置しているが、一般的には地政学的には欧州と考えられている。アルメニアは地政学的に多くの点で欧州と連携しているため、欧州評議会、東方パートナーシップ、ユーロコントロール、欧州地域協議会、欧州復興開発銀行など、数多くの欧州組織に加盟している。アルメニアはまた、アジア開発銀行、集団安全保障条約機構、ユーラシア経済連合、ユーラシア開発銀行など、ユーラシア大陸の特定の地域グループにも加盟している。アルメニアは、国際的にアゼルバイジャンの一部と認められている地域であり、ロシアの軍事的後ろ盾があって1991年に一方的に独立が宣言された、事実上の独立国であるアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)を支持してきたが、2023年9月19日、トルコ、イスラエルからの支援を得たアゼルバイジャンからの軍事反攻を受けてナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人は全面降伏。アルメニアはアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)をわずか3日で失った。 正式名称はアルメニア語(アルメニア文字)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。 英語の公式表記は、Republic of Armenia。通称、Armenia。日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニア。 アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ。 正式名称Հայաստանの語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語スターンから来ている。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。 先史時代にはクラ・アラクセス文化(英語版)があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていた。 紀元前6世紀ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。 1世紀ごろにはキリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える。 紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とした。 405年 - 406年、アルメニア文字がメスロプ・マシュトツ(361年 - 440年)によって創始された。 古代アルメニア王国は、5世紀初頭ごろに東ローマ帝国とサーサーン朝の間で分裂した。その後、サーサーン朝の支配下に入り(サーサーン朝領アルメニア(英語版))、さらにイスラム帝国の侵攻を受けるが(アルメニア首長国(英語版))、9世紀半ばにはバグラト朝(英語版)が興り(バグラトゥニ朝アルメニア)、独立を回復した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジュークトルコの侵略を受けた。 しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia)、en:Zakarid Armenia、モンゴル帝国(en:Mongol Armenia)、ティムール朝(en:Turkmen Armenia)などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった。その中の一部は11世紀にトルコ南東部のキリキアに移住しキリキア・アルメニア王国を建国、14世紀末まで独立を保った。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。 1636年からは、オスマン帝国(en:Armenians in the Ottoman Empire)とサファヴィー朝ペルシア(en:Armenians in the Persianate)に分割統治され、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。 1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約であるトルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニア(東アルメニア)がロシア帝国に割譲された。 西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国は長く多民族が共存する帝国であったが、19世紀後半には多数派であるトルコ人とアルメニア人など帝国内諸民族でナショナリズムが高まった。アルメニア人は19世紀末から、オスマン帝国がロシアなどと戦った第一次世界大戦中とその直後にかけて多数が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。 第一次世界大戦中の1917年に起きたロシア革命でロシア帝国は消滅。帝国内主要民族は独立を目指し、アルメニア人もアルメニア第一共和国を成立させたが、革命でロシアの権力を握った赤軍の侵攻を受けて崩壊。1920年にはアルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立。1922年には同じく南カフカス(ザカフカース)にあるジョージア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入され、ソビエト連邦(ソ連)の建国メンバーとなった。1936年には再びアルメニアを領域とするアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった。 ソ連末期の1988年2月、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展した。 ソビエト連邦の崩壊に向かう中、アルメニアは1990年8月23日に主権宣言、1991年のソ連8月クーデター失敗直後の9月21日に独立宣言を発し、独立は国民投票で承認された。10月17日、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝した。 1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。同年12月25日付でソ連は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となった。しかし、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争は現在も続いている。 アルメニアの政体は共和制を採っている。 1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票が行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領のレヴォン・テル=ペトロシャンが再選される。1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い大統領選挙が行われ、ロベルト・コチャリャンが選出される。1999年10月、国会内で首相や国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった(アルメニア議会銃撃事件)。 その後、おおむね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど、政情が一時不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任。その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する改憲を成立させた。 2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発し、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に首相選出選挙が行われたが、最大野党のニコル・パシニャン党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対し、新首相の選出は否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都のエレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキが起こり、12月に総選挙が実施されパシニャン首相が率いる改革派が勝利した。 議院内閣制の国家。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。 一院制の国民議会があり、その任期は4年となっている。定数は131議席で、そのうち75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制(2012年時点)。 なお、州知事と大都市の市長は任命制である。 複数政党制で、独立後から多数の政党が存在している。 ナゴルノ・カラバフを巡りアゼルバイジャンと対立している。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争ではロシア連邦の仲介下で同年11月10日に停戦協定が発効した。しかし、2023年に起きたナゴルノ・カラバフ衝突により事実上の全面降伏。 独立以降一貫して集団安全保障条約(CSTO)という軍事同盟を結ぶ親露国家であるが、2018年に反汚職、反腐敗を掲げて欧米のNGOに支援されて成立したパシニャン政権の成立(ビロード革命(英語版))以降は親欧米路線に転換しつつあり、2020年以降のナゴルノ・カラバフ紛争の経過を受けて軍事同盟を結ぶ関係ながら支援を得られないとしてロシアを強く批判する一方、在外アルメニア人の多いアメリカ合衆国やフランスを中心とした欧米西側諸国に接近。現与党の市民契約党(英語版)も親欧米路線を掲げる。アメリカ合衆国はペロシ議長が訪問したり、アルメニア軍がアメリカ軍と共闘軍事訓練を行う等アルメニアに接近して取り込みを図っており、将来的なEU加盟、NATO加盟へと動く可能性も指摘されており、新たな火種となり兼ねない危険性もある。 トルコともアルメニア人虐殺の歴史認識をめぐって対立していたが、2009年10月10日にスイスでトルコとの国交調印式が行われた。2021年04月24日にアメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンがアルメニア人迫害を「ジェノサイド」と正式に認定する声明を発表した。これにより、今後トルコとの軋轢が激化する可能性が懸念されている。 現在の国際連合加盟国のうち、パキスタンだけはアルメニアを国家として認めていない。 ハンガリーとは、アゼルバイジャンの軍人ラミル・サファロフによるアルメニア軍人殺害事件を巡って、彼の身柄を母国に引き渡したことに抗議し、2012年より外交関係を停止している。 アルメニア人も多く住む隣国ジョージアとの関係は比較的平穏に保たれており、イランとの関係も比較的良好である。 国防組織としてアルメニア共和国軍が存在し、内陸国のために海軍は存在せず、アルメニア陸軍・アルメニア空軍の2軍種により構成される。また、国家保安局(英語版)によって管轄される形で国境警備隊(英語版)が存在している。 アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1,000 - 3,000メートルであり、3,000メートル級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4,090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。 国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通りアララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5,165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラス川(アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800メートル以上。1万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。 中央部にセヴァン湖(標高1,900メートル、深さは36 - 80メートル。高山の淡水湖である)が存在しており、ここで採れる魚はブラウントラウトの近縁種であるセヴァンマス(英語版)(「イシュハン・ヅーク(魚の王子さま)」と呼ばれる)やホワイトフィッシュが存在する。森林は少なく、急流となった小規模な河川が多い。森林地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。 隣国のトルコやイラン同様、地震が多い。1988年に発生したアルメニア地震では2万5,000人もの死者を出した。 鉱物資源に富み、鉄鉱石、ボーキサイト、銅、亜鉛、モリブデンが産出される。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布する。 気候の特徴としては、日照時間が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2,711時間で、40°Cを超える時もある。 ケッペンの気候区分によると、低地はステップ気候(BS)、高地は亜寒帯湿潤気候(Df)である。低地は雨が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200 - 900ミリである。 首都エレバンの平均気温は11.4°C、年降水量は318ミリ。1月の平均気温は氷点下5.5°C、8月は25.5°Cである。しかしながら高地に位置すること、冬季に前線が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても氷点下25°Cから40°Cまで気温が変化する。 アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。 IMFの統計によると、2013年のアルメニアの名目GDPは104億ドルである。1人当たりは3,173ドルで、南コーカサス3国の中では最も低く、世界平均の約30%の水準に留まっている。 主要産業は、農業、工業、宝飾品加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は国民の8%に過ぎない。農業では綿、ブドウ、野菜などの青果物栽培が盛ん。穀物としては小麦と大麦を産する。 アルメニアは新生代ならび中生代の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。この為、規模は小さいものの貴金属を産する。主な鉱物資源は金(2003年時点の採掘量は1.8トン)、銀(同4トン)、銅(同1.8万トン)である。 同国はエネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから、国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震のあと、独立後の1995年まで6年半にわたって閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されているロシア型加圧水型原子炉440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成をめどにロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。 住民の大半はアルメニア人(98.1%)。次いでクルド人(1.3%)、ロシア人(0.4%)、アッシリア人(0.1%)が居住している。 他には少数民族として、アゼルバイジャン人も存在する。 同国の賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外(特にアルメニアの3倍の賃金を得られるロシア連邦)へ、季節労働者として出稼ぎに行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて海外の国々へ赴く。 また就労先の国で国際結婚を果たして家庭を持つ男性も多く、それに伴う形で同国の人口が減って来ており、1991年のソビエト連邦の崩壊時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている。 公用語はアルメニア語。アルメニア語はインド・ヨーロッパ語族の一種に該当する言語で、印欧祖語から派生したといわれている。 かつては旧ソ連の構成国であったことも絡み、ロシア語が共通語として幅広く通用する。 宗教では、非カルケドン派正教会の一つであるアルメニア使徒教会の信者が大部分を占める。他にギリシャ正教やカトリック(東方典礼カトリックのアルメニア典礼カトリック教会(英語版))、改革派プロテスタントのアルメニア福音教会(英語版)の信徒がいる。301年に世界で初めてキリスト教を国教化したことで有名。 少数民族であるクルド人やアゼルバイジャン人の多くはイスラム教を信仰し、クルド人の中にはヤズディ教の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人であるヘムシン人と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。 教育制度は、5 - 6歳までの幼稚園や保育園、6 - 7歳から中等教育(10 - 11年制。小学校にあたるのが1 - 3年生、中学校にあたるのは4 - 8年生、高等学校にあたるのが9 - 10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は大学である。義務教育期間は中等教育の8年生まで。授業料は無料で、全国に1,439校ある(2003年現在)。 2011年には小学校でのチェス学習を義務化している。 アルメニアは従来からナゴルノ・カラバフ地域を巡って隣国アゼルバイジャンとの間に紛争を抱えており、両国の国境周辺地域では発砲事件などが散発的に発生している。また、首都エレバンをはじめとする各地域でも2013年2月以降、散発的に反政権デモが発生しており、同都では2015年6月に電気料金値上げに反対する大規模デモが発生する事態に陥っている。 さらに,2016年7月には反体制派武装集団による警察署占拠事件が発生しており,今後の政情により治安が悪化する可能性が高いとされている。 アルメニア共和国警察(英語版)が主体となっている。 アルメニア憲法(英語版)第27条では、言論の自由と報道の自由を保証しているとされている為、現時点で弾圧を受けている報道機関やマスコミは見受けられていない。 アルメニアでは料理に様々なハーブを多用している。ケルチク(kerchik)と呼ばれる粥のような料理には穀物と自生しているハーブが用いられている。 一般的に使用されるスパイスには、黒コショウやスマック、クミン、シナモンなどが挙げられる。 同国では羊肉や牛肉、山羊肉などの肉が食されているが、多く消費されるのは豚肉である。ゴチ(gochi)と呼ばれる伝統料理(英語版)は同国において最も人気のある郷土料理でもあり、新年の祝賀のために用意されることが多い。 野菜を使った料理にはガパマと呼ばれるカボチャをベースとした甘い味付けの詰め物料理が在り、これはクリスマスの時期によく食べられている。 また、ギリシャヨーグルトをはじめ、バターやクリームならびチーズなどの典型的な乳製品が料理に使われている点も特徴の一つとなっている。 一方で、伝統的な食品にはタルハナ(英語版)と呼ばれる乾燥食品やパストゥルマ(英語版)と呼ばれる肉の塩漬けがあり、古くから食されている。 古くからワインの製造が盛んであり、特にブランデーは世界的に有名となっていて、アルメニア・コニャックと呼ばれる。 石が古くから使われてきた。紀元前9 - 8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。エレバンのバザールやトゥマニヤン記念館はアルティクで産出した凝灰岩でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の花崗岩である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、ジェノサイド犠牲者碑のモニュメント、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の玄武岩でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な大理石で飾られている。 アルメニア語で「十字架の石」を意味するハチュカルという石碑が古来多く建てられ、石造の書物や年代記となっているほか、近年ではアルメニアと同じ地震国である日本で起きた東日本大震災(2011年3月11日)の犠牲者を追悼するハチュカルもある。 世界遺産として3か所の文化遺産が指定されている。991年に創建されたハフパット修道院とサナヒン修道院、4世紀に創立したゲガルド修道院とアザト川上流域、4世紀に建立されたエチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡がある。 アルメニアでは伝統的なアルメニア暦も使用される。 アルメニアでは多種多様なスポーツが行われており、人気の球技としてはサッカーやバスケットボールが挙げられる。オリンピックではレスリング、ウエイトリフティング、ボクシング、体操競技でメダルを獲得している。他方で、頭脳スポーツではチェス選手を多数輩出しており盛んである。 同国のスポーツ団体は最大組織となるものが2つ存在しており、その組織としてホメネテメン(英語版)とアルメニア慈善協会(英語版)が挙げられる。特にホメネテメンは世界中に支部を開設しており、アルメニア人コミュニティが存在する場所なら何処からでもアクセスが可能と言われるほど規模が大きいものとなっている。 アルメニア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのアルメニア・プレミアリーグが創設されている。アルメニアサッカー連盟(FFA)によって構成されるサッカーアルメニア代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。 アルメニアの英雄的な存在として、ヘンリク・ムヒタリアンが知られている。ドルトムント、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、ASローマ、インテルなど、数々のヨーロッパのビッグクラブにおいて顕著な実績を残してきた。なお、ムヒタリアンはアルメニア年間最優秀選手賞(英語版)を歴代最多となる10度受賞している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)通称アルメニアは、ユーラシア大陸の南コーカサスの内陸国である。首都はエレバン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西アジアのアルメニア高原に位置し 、西にトルコ、北にジョージア、東に事実上の独立した共和国アルツァフ共和国とアゼルバイジャン、南ではイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンに国境を接する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同国の地域はウラルトゥを基盤に形成されている。ウラルトゥが成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・サトラピーに取って代わられた。アルメニア王国は紀元前1世紀にティグラネス大王のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めてキリスト教を公教として採用した国家となった。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年である。アルメニアは現在も世界最古の国教会であるアルメニア使徒教会を国の主要な宗教施設として認めている。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に東ローマ帝国とサーサーン朝の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジュークトルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "16世紀から19世紀の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、オスマン帝国とペルシャ帝国の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアはロシア帝国に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、第一次世界大戦で組織的に絶滅させられた。1918年、ロシア革命後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、アルメニア第一共和国が成立した。1920年にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入され、1922年にはソビエト連邦の建国メンバーとなった。1936年には、アルメニア・ソビエト社会主義共和国を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アルメニアは単一・多政党制・民主主義の国民国家である。発展途上国であり、人間開発指数(2021年)では85位にランクされている。その経済は主に工業生産と鉱物採掘に基づいている。アルメニアは地理的には南コーカサスに位置しているが、一般的には地政学的には欧州と考えられている。アルメニアは地政学的に多くの点で欧州と連携しているため、欧州評議会、東方パートナーシップ、ユーロコントロール、欧州地域協議会、欧州復興開発銀行など、数多くの欧州組織に加盟している。アルメニアはまた、アジア開発銀行、集団安全保障条約機構、ユーラシア経済連合、ユーラシア開発銀行など、ユーラシア大陸の特定の地域グループにも加盟している。アルメニアは、国際的にアゼルバイジャンの一部と認められている地域であり、ロシアの軍事的後ろ盾があって1991年に一方的に独立が宣言された、事実上の独立国であるアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)を支持してきたが、2023年9月19日、トルコ、イスラエルからの支援を得たアゼルバイジャンからの軍事反攻を受けてナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人は全面降伏。アルメニアはアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)をわずか3日で失った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称はアルメニア語(アルメニア文字)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "英語の公式表記は、Republic of Armenia。通称、Armenia。日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニア。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "正式名称Հայաստանの語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語スターンから来ている。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "先史時代にはクラ・アラクセス文化(英語版)があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前6世紀ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1世紀ごろにはキリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "405年 - 406年、アルメニア文字がメスロプ・マシュトツ(361年 - 440年)によって創始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "古代アルメニア王国は、5世紀初頭ごろに東ローマ帝国とサーサーン朝の間で分裂した。その後、サーサーン朝の支配下に入り(サーサーン朝領アルメニア(英語版))、さらにイスラム帝国の侵攻を受けるが(アルメニア首長国(英語版))、9世紀半ばにはバグラト朝(英語版)が興り(バグラトゥニ朝アルメニア)、独立を回復した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジュークトルコの侵略を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia)、en:Zakarid Armenia、モンゴル帝国(en:Mongol Armenia)、ティムール朝(en:Turkmen Armenia)などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった。その中の一部は11世紀にトルコ南東部のキリキアに移住しキリキア・アルメニア王国を建国、14世紀末まで独立を保った。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1636年からは、オスマン帝国(en:Armenians in the Ottoman Empire)とサファヴィー朝ペルシア(en:Armenians in the Persianate)に分割統治され、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約であるトルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニア(東アルメニア)がロシア帝国に割譲された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国は長く多民族が共存する帝国であったが、19世紀後半には多数派であるトルコ人とアルメニア人など帝国内諸民族でナショナリズムが高まった。アルメニア人は19世紀末から、オスマン帝国がロシアなどと戦った第一次世界大戦中とその直後にかけて多数が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦中の1917年に起きたロシア革命でロシア帝国は消滅。帝国内主要民族は独立を目指し、アルメニア人もアルメニア第一共和国を成立させたが、革命でロシアの権力を握った赤軍の侵攻を受けて崩壊。1920年にはアルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立。1922年には同じく南カフカス(ザカフカース)にあるジョージア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入され、ソビエト連邦(ソ連)の建国メンバーとなった。1936年には再びアルメニアを領域とするアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ソ連末期の1988年2月、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦の崩壊に向かう中、アルメニアは1990年8月23日に主権宣言、1991年のソ連8月クーデター失敗直後の9月21日に独立宣言を発し、独立は国民投票で承認された。10月17日、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。同年12月25日付でソ連は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となった。しかし、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争は現在も続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アルメニアの政体は共和制を採っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票が行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領のレヴォン・テル=ペトロシャンが再選される。1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い大統領選挙が行われ、ロベルト・コチャリャンが選出される。1999年10月、国会内で首相や国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった(アルメニア議会銃撃事件)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後、おおむね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど、政情が一時不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任。その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する改憲を成立させた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発し、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に首相選出選挙が行われたが、最大野党のニコル・パシニャン党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対し、新首相の選出は否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都のエレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキが起こり、12月に総選挙が実施されパシニャン首相が率いる改革派が勝利した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "議院内閣制の国家。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一院制の国民議会があり、その任期は4年となっている。定数は131議席で、そのうち75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制(2012年時点)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、州知事と大都市の市長は任命制である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "複数政党制で、独立後から多数の政党が存在している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ナゴルノ・カラバフを巡りアゼルバイジャンと対立している。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争ではロシア連邦の仲介下で同年11月10日に停戦協定が発効した。しかし、2023年に起きたナゴルノ・カラバフ衝突により事実上の全面降伏。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "独立以降一貫して集団安全保障条約(CSTO)という軍事同盟を結ぶ親露国家であるが、2018年に反汚職、反腐敗を掲げて欧米のNGOに支援されて成立したパシニャン政権の成立(ビロード革命(英語版))以降は親欧米路線に転換しつつあり、2020年以降のナゴルノ・カラバフ紛争の経過を受けて軍事同盟を結ぶ関係ながら支援を得られないとしてロシアを強く批判する一方、在外アルメニア人の多いアメリカ合衆国やフランスを中心とした欧米西側諸国に接近。現与党の市民契約党(英語版)も親欧米路線を掲げる。アメリカ合衆国はペロシ議長が訪問したり、アルメニア軍がアメリカ軍と共闘軍事訓練を行う等アルメニアに接近して取り込みを図っており、将来的なEU加盟、NATO加盟へと動く可能性も指摘されており、新たな火種となり兼ねない危険性もある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "トルコともアルメニア人虐殺の歴史認識をめぐって対立していたが、2009年10月10日にスイスでトルコとの国交調印式が行われた。2021年04月24日にアメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンがアルメニア人迫害を「ジェノサイド」と正式に認定する声明を発表した。これにより、今後トルコとの軋轢が激化する可能性が懸念されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在の国際連合加盟国のうち、パキスタンだけはアルメニアを国家として認めていない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ハンガリーとは、アゼルバイジャンの軍人ラミル・サファロフによるアルメニア軍人殺害事件を巡って、彼の身柄を母国に引き渡したことに抗議し、2012年より外交関係を停止している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アルメニア人も多く住む隣国ジョージアとの関係は比較的平穏に保たれており、イランとの関係も比較的良好である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "国防組織としてアルメニア共和国軍が存在し、内陸国のために海軍は存在せず、アルメニア陸軍・アルメニア空軍の2軍種により構成される。また、国家保安局(英語版)によって管轄される形で国境警備隊(英語版)が存在している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1,000 - 3,000メートルであり、3,000メートル級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4,090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通りアララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5,165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラス川(アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800メートル以上。1万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "中央部にセヴァン湖(標高1,900メートル、深さは36 - 80メートル。高山の淡水湖である)が存在しており、ここで採れる魚はブラウントラウトの近縁種であるセヴァンマス(英語版)(「イシュハン・ヅーク(魚の王子さま)」と呼ばれる)やホワイトフィッシュが存在する。森林は少なく、急流となった小規模な河川が多い。森林地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "隣国のトルコやイラン同様、地震が多い。1988年に発生したアルメニア地震では2万5,000人もの死者を出した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鉱物資源に富み、鉄鉱石、ボーキサイト、銅、亜鉛、モリブデンが産出される。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "気候の特徴としては、日照時間が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2,711時間で、40°Cを超える時もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によると、低地はステップ気候(BS)、高地は亜寒帯湿潤気候(Df)である。低地は雨が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200 - 900ミリである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "首都エレバンの平均気温は11.4°C、年降水量は318ミリ。1月の平均気温は氷点下5.5°C、8月は25.5°Cである。しかしながら高地に位置すること、冬季に前線が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても氷点下25°Cから40°Cまで気温が変化する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2013年のアルメニアの名目GDPは104億ドルである。1人当たりは3,173ドルで、南コーカサス3国の中では最も低く、世界平均の約30%の水準に留まっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "主要産業は、農業、工業、宝飾品加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は国民の8%に過ぎない。農業では綿、ブドウ、野菜などの青果物栽培が盛ん。穀物としては小麦と大麦を産する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アルメニアは新生代ならび中生代の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。この為、規模は小さいものの貴金属を産する。主な鉱物資源は金(2003年時点の採掘量は1.8トン)、銀(同4トン)、銅(同1.8万トン)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "同国はエネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから、国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震のあと、独立後の1995年まで6年半にわたって閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されているロシア型加圧水型原子炉440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成をめどにロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "住民の大半はアルメニア人(98.1%)。次いでクルド人(1.3%)、ロシア人(0.4%)、アッシリア人(0.1%)が居住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "他には少数民族として、アゼルバイジャン人も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同国の賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外(特にアルメニアの3倍の賃金を得られるロシア連邦)へ、季節労働者として出稼ぎに行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて海外の国々へ赴く。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また就労先の国で国際結婚を果たして家庭を持つ男性も多く、それに伴う形で同国の人口が減って来ており、1991年のソビエト連邦の崩壊時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "公用語はアルメニア語。アルメニア語はインド・ヨーロッパ語族の一種に該当する言語で、印欧祖語から派生したといわれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "かつては旧ソ連の構成国であったことも絡み、ロシア語が共通語として幅広く通用する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "宗教では、非カルケドン派正教会の一つであるアルメニア使徒教会の信者が大部分を占める。他にギリシャ正教やカトリック(東方典礼カトリックのアルメニア典礼カトリック教会(英語版))、改革派プロテスタントのアルメニア福音教会(英語版)の信徒がいる。301年に世界で初めてキリスト教を国教化したことで有名。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "少数民族であるクルド人やアゼルバイジャン人の多くはイスラム教を信仰し、クルド人の中にはヤズディ教の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人であるヘムシン人と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "教育制度は、5 - 6歳までの幼稚園や保育園、6 - 7歳から中等教育(10 - 11年制。小学校にあたるのが1 - 3年生、中学校にあたるのは4 - 8年生、高等学校にあたるのが9 - 10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は大学である。義務教育期間は中等教育の8年生まで。授業料は無料で、全国に1,439校ある(2003年現在)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2011年には小学校でのチェス学習を義務化している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アルメニアは従来からナゴルノ・カラバフ地域を巡って隣国アゼルバイジャンとの間に紛争を抱えており、両国の国境周辺地域では発砲事件などが散発的に発生している。また、首都エレバンをはじめとする各地域でも2013年2月以降、散発的に反政権デモが発生しており、同都では2015年6月に電気料金値上げに反対する大規模デモが発生する事態に陥っている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "さらに,2016年7月には反体制派武装集団による警察署占拠事件が発生しており,今後の政情により治安が悪化する可能性が高いとされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アルメニア共和国警察(英語版)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アルメニア憲法(英語版)第27条では、言論の自由と報道の自由を保証しているとされている為、現時点で弾圧を受けている報道機関やマスコミは見受けられていない。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "アルメニアでは料理に様々なハーブを多用している。ケルチク(kerchik)と呼ばれる粥のような料理には穀物と自生しているハーブが用いられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "一般的に使用されるスパイスには、黒コショウやスマック、クミン、シナモンなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "同国では羊肉や牛肉、山羊肉などの肉が食されているが、多く消費されるのは豚肉である。ゴチ(gochi)と呼ばれる伝統料理(英語版)は同国において最も人気のある郷土料理でもあり、新年の祝賀のために用意されることが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "野菜を使った料理にはガパマと呼ばれるカボチャをベースとした甘い味付けの詰め物料理が在り、これはクリスマスの時期によく食べられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、ギリシャヨーグルトをはじめ、バターやクリームならびチーズなどの典型的な乳製品が料理に使われている点も特徴の一つとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "一方で、伝統的な食品にはタルハナ(英語版)と呼ばれる乾燥食品やパストゥルマ(英語版)と呼ばれる肉の塩漬けがあり、古くから食されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "古くからワインの製造が盛んであり、特にブランデーは世界的に有名となっていて、アルメニア・コニャックと呼ばれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "石が古くから使われてきた。紀元前9 - 8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。エレバンのバザールやトゥマニヤン記念館はアルティクで産出した凝灰岩でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の花崗岩である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、ジェノサイド犠牲者碑のモニュメント、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の玄武岩でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な大理石で飾られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アルメニア語で「十字架の石」を意味するハチュカルという石碑が古来多く建てられ、石造の書物や年代記となっているほか、近年ではアルメニアと同じ地震国である日本で起きた東日本大震災(2011年3月11日)の犠牲者を追悼するハチュカルもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "世界遺産として3か所の文化遺産が指定されている。991年に創建されたハフパット修道院とサナヒン修道院、4世紀に創立したゲガルド修道院とアザト川上流域、4世紀に建立されたエチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アルメニアでは伝統的なアルメニア暦も使用される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "アルメニアでは多種多様なスポーツが行われており、人気の球技としてはサッカーやバスケットボールが挙げられる。オリンピックではレスリング、ウエイトリフティング、ボクシング、体操競技でメダルを獲得している。他方で、頭脳スポーツではチェス選手を多数輩出しており盛んである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "同国のスポーツ団体は最大組織となるものが2つ存在しており、その組織としてホメネテメン(英語版)とアルメニア慈善協会(英語版)が挙げられる。特にホメネテメンは世界中に支部を開設しており、アルメニア人コミュニティが存在する場所なら何処からでもアクセスが可能と言われるほど規模が大きいものとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "アルメニア国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのアルメニア・プレミアリーグが創設されている。アルメニアサッカー連盟(FFA)によって構成されるサッカーアルメニア代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アルメニアの英雄的な存在として、ヘンリク・ムヒタリアンが知られている。ドルトムント、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、ASローマ、インテルなど、数々のヨーロッパのビッグクラブにおいて顕著な実績を残してきた。なお、ムヒタリアンはアルメニア年間最優秀選手賞(英語版)を歴代最多となる10度受賞している。", "title": "スポーツ" } ]
アルメニア共和国通称アルメニアは、ユーラシア大陸の南コーカサスの内陸国である。首都はエレバン。
{{Otheruses|国}} {{混同|アルバニア|アルメリア}} {{基礎情報 国 | 略名 = アルメニア | 日本語国名 = アルメニア共和国 | 公式国名 = {{Lang|hy|'''Հայաստանի Հանրապետություն'''}} | 国旗画像 = Flag of Armenia.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Armenia.svg|100px|アルメニアの国章]] | 国章リンク = ([[アルメニアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|hy|Մեկ Ազգ , Մեկ Մշակույթ}}''<br />(アルメニア語: 一つの国家、1つの文化) | 国歌 = [[アルメニアの国歌|{{lang|hy|Մեր Հայրենիք}}]]{{hy icon}}<br />''我が祖国''<br />{{center|[[ファイル:Mer Hayrenik instrumental.ogg]]}} | 位置画像 = Armenia_(orthographic_projection).svg | 公用語 = [[アルメニア語]]<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/data.html#section1 アルメニア共和国(Republic of Armenia)基礎データ] 日本国外務省(2022年7月25日閲覧)</ref> | 首都 = [[エレバン]]<ref name="日本国外務省" /> | 最大都市 = エレバン | 元首等肩書 = [[アルメニアの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[バアグン・ハチャトゥリアン]] | 首相等肩書 = [[アルメニアの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ニコル・パシニャン]] | 面積順位 = 138 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 29,800<ref name="日本国外務省" /> | 水面積率 = 4.7% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 135 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 296万3000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/am.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-11}}</ref> | 人口密度値 = 104.1 | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 6兆1816億6400万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=911,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-18}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 130 | GDP値MER = 126億4100万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 4267.487<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 130 | GDP値 = 394億8400<ref name="imf2020" /> | GDP/人 = 1万3329.316<ref name="imf2020" /> | 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[ソビエト連邦]]より<br />[[1991年]][[9月21日]] | 通貨 = [[ドラム (通貨)|ドラム]] | 通貨コード = AMD | 時間帯 = +4 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = AM / ARM | ccTLD = [[.am]] | 国際電話番号 = 374 | 注記 = }} '''アルメニア共和国'''(アルメニアきょうわこく、{{Lang-hy|Հայաստանի Հանրապետություն}})通称'''アルメニア'''は、[[ユーラシア|ユーラシア大陸の]][[南コーカサス]]の[[内陸国]]である。首都は[[エレバン]]。 == 概要 == [[西アジア]]の[[アルメニア高原]]に位置し<ref>{{Cite book |last=Central Intelligence Agency |title=The CIA World Factbook 2015 |url=https://books.google.com/books?id=xutfBgAAQBAJ&pg=PT5241 |year=2014 |publisher=Skyhorse Publishing |isbn=978-1-62914-903-5 |page=5241}}</ref> <ref>The [[国際連合|UN]] [http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm classification of world regions] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20020625192322/http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm|date=25 June 2002}} places Armenia in Western Asia; the [[中央情報局|CIA]] [[ザ・ワールド・ファクトブック|World Factbook]] {{Cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/am.html |title=Armenia |website=The World Factbook |publisher=[[CIA]] |accessdate=2 September 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101010101707/https://cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/am.html |archivedate=10 October 2010}} {{Cite web |url=http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/atlas/index.html?Parent=asia&Rootmap=armeni&Mode=d&SubMode=w |title=Armenia |publisher=[[National Geographic Society|National Geographic]] |accessdate=16 April 2009 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070808084113/http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/atlas/index.html?Parent=asia&Rootmap=armeni&Mode=d&SubMode=w |archivedate=8 August 2007}}, {{Cite encyclopedia |title=Armenia |encyclopedia=Britannica |url=https://www.britannica.com/place/Armenia}}, {{Cite book |title=Calendario Atlante De Agostini |date=2015 |publisher=Istituto Geografico De Agostini |location=Novara |language=Italian |isbn=9788851124908 |page=sub voce |edition=111}} and ''Oxford Reference Online'' {{Cite journal|year=2004|title=Oxford Reference|url=https://archive.org/details/worldencyclopedi00oxfo|publisher=Oxford Reference Online|DOI=10.1093/acref/9780199546091.001.0001|ISBN=9780199546091}} also place Armenia in Asia.</ref>、西に[[トルコ]]、北に[[ジョージア (国)|ジョージア]]、東に事実上の独立した共和国[[アルツァフ共和国]]と[[アゼルバイジャン]]、南では[[イラン]]とアゼルバイジャンの飛び地[[ナヒチェヴァン自治共和国|ナヒチェヴァン]]に国境を接する<ref>{{Cite book |title=The Oxford Encyclopedia of Economic History |publisher=Oxford University Press |year=2003 |isbn=978-0-19-510507-0 |page=[https://archive.org/details/oxfordencycloped0000unse/page/156 156] |url=https://archive.org/details/oxfordencycloped0000unse/page/156}}</ref>。 同国の地域は[[ウラルトゥ]]を基盤に形成されている。ウラルトゥが成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・[[サトラピー]]に取って代わられた。[[アルメニア王国]]は紀元前1世紀に[[ティグラネス2世|ティグラネス大王]]のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めて[[キリスト教]]を公教として採用した国家となった<ref>({{Cite book |last=Garsoïan |first=Nina |author-link=Nina Garsoïan |title=Armenian People from Ancient to Modern Times |editor=R.G. Hovannisian |publisher=[[Palgrave Macmillan]] |year=1997 |page=81 |volume=1}})</ref><ref>{{Cite book |last=Stringer |first=Martin D. |title=A Sociological History of Christian Worship |url=https://archive.org/details/sociologicalhist00stri |year=2005 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=978-0-521-81955-8 |page=[https://archive.org/details/sociologicalhist00stri/page/n101 92]}}</ref><ref>Smaller nations that have claimed a prior official adoption of Christianity include [[Osroene]], the [[Silures]], and [[San Marino]]. See [[Timeline of official adoptions of Christianity]].</ref>。国家がキリスト教を採用した正式な日付は[[301年]]である<ref>{{Cite book |first=René |last=Grousset |title=Histoire de l'Arménie |publisher=Payot |year=1947 |edition=1984 |page=122}}. Estimated dates vary from 284 to 314. Garsoïan (''op.cit.'' p. 82), following the research of Ananian, favours the latter.</ref>。アルメニアは現在も世界最古の国教会である[[アルメニア使徒教会]]を国の主要な宗教施設として認めている。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に[[東ローマ帝国]]と[[サーサーン朝]]の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活して[[バグラトゥニ朝アルメニア|アルメニア王国]]となった。東ローマとの戦争で衰退し、[[1045年]]に王国は陥落し、アルメニアはすぐに[[大セルジューク朝|セルジューク]]トルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後に[[キリキア・アルメニア王国]]は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。 [[16世紀]]から[[19世紀]]の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、[[オスマン帝国]]と[[ペルシア帝国|ペルシャ帝国]]の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアは[[ロシア帝国]]に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。[[第一次世界大戦]]中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、[[第一次世界大戦]]で組織的に絶滅させられた。[[1918年]]、[[ロシア革命]]後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、[[アルメニア第一共和国]]が成立した。[[1920年]]には[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]に編入され、[[1922年]]には[[ソビエト連邦]]の建国メンバーとなった。[[1936年]]には、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。[[1991年]]、[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。 アルメニアは単一・多政党制・民主主義の[[国民国家]]である。[[発展途上国]]であり、[[人間開発指数]](2021年)では85位にランクされている。その経済は主に工業生産と鉱物採掘に基づいている。アルメニアは地理的には[[南コーカサス]]に位置しているが、一般的には地政学的には[[ヨーロッパ|欧州]]と考えられている。アルメニアは地政学的に多くの点で欧州と連携しているため、[[欧州評議会]]、[[東方パートナーシップ]]、[[欧州航空航法安全機構|ユーロコントロール]]、欧州地域協議会、[[欧州復興開発銀行]]など、数多くの欧州組織に加盟している。アルメニアはまた、[[アジア開発銀行]]、[[集団安全保障条約機構]]、[[ユーラシア経済連合]]、ユーラシア開発銀行など、ユーラシア大陸の特定の地域グループにも加盟している。アルメニアは、国際的にアゼルバイジャンの一部と認められている地域であり、ロシアの軍事的後ろ盾があって1991年に一方的に独立が宣言された、事実上の独立国である[[アルツァフ共和国]]([[ナゴルノ・カラバフ]])を支持してきたが、2023年9月19日、トルコ、イスラエルからの支援を得たアゼルバイジャンからの軍事反攻を受けてナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人は全面降伏。アルメニアは[[アルツァフ共和国]]([[ナゴルノ・カラバフ]])をわずか3日で失った。 == 象徴 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの国の象徴|hy|Հայաստանի Հանրապետության խորհրդանիշներ}}}} {{節スタブ}} === 国果 === アルメニアの[[国果]]は[[アンズ]]である。アンズは同国では古くから栽培されて来ており、[[アルメニア高地]]の自然を反映するものとしての意味合いも強い。 == 国名 == 正式名称はアルメニア語([[アルメニア文字]])で、{{Lang|hy|Հայաստանի Հանրապետություն}}(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、{{Lang|hy|Հայաստան}}(Hayastan)。 [[英語]]の公式表記は、''Republic of Armenia''。通称、''Armenia''。[[日本語]]の表記は、'''アルメニア共和国'''<ref>1992年(平成4年)1月8日外務省告示第9号「アゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国、ウクライナ、ウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国、キルギスタン共和国、タジキスタン共和国、トルクメニスタン、ベラルーシ共和国及びモルドヴァ共和国を承認した件」</ref>。通称、'''アルメニア'''。 [[アルメニア人]]は自らを{{Lang|hy|հայ}}(hay)'''ハイ'''(複数形は{{Lang|hy|հայեր}}(hayer)'''ハイェル'''、または{{Lang|hy|հայք}}(hayk')'''ハイク''')、国を'''ハヤスタン'''、または{{Lang|hy|Հայք}}(Hayk')'''ハイク'''と呼ぶ<ref group="注釈">伝説ではこのハイ族の族長[[アルメナケ]]が一族を率い、自らを[[王]]と名乗り、一族をアルメニア族と名乗った事が、アルメニアの起源とされている。</ref><ref>[[造山運動]]に伴う[[噴火|火山活動]]でできた石が豊富であり、石の国=カラスタンとも呼ばれる。出典:中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』(明石書店 2009年)20ページ。</ref>。 正式名称{{Lang|hy|Հայաստան}}の語源は、アルメニア人の始祖[[ハイク・ナハペト]]と[[ペルシャ語]]で国を示す接尾語[[スターン (地名)|スターン]]から来ている<ref>[http://www.armenica.org/cgi-bin/armenica.cgi?959562624412686=1=2=0=999=nada=1=3=A Armenica.org:Chronology]</ref>。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。 == 歴史 == {{main|アルメニアの歴史}} 先史時代には{{仮リンク|クラ・アラクセス文化|en|Kura–Araxes culture}}があったことが知られており、文明の早い時期から[[車輪]]が使われていた。 [[紀元前6世紀]]ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、[[紀元前1世紀]]に[[アルメニア高原]]を中心に'''[[アルメニア王国|大アルメニア王国]]'''を築き繁栄した。しかし[[ローマ帝国]]と[[パルティア]]、[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。 [[1世紀]]ごろにはキリスト教の布教([[十二使徒]][[タダイ|聖タデヴォス]]、[[バルトロマイ|聖バルトゥロメウス]]が伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える<ref>カエサリアのエウセビウス(260年 - 339年)『教会史』</ref>。 紀元[[301年]]には世界で初めてキリスト教を[[国教]]とした<ref group="注釈">そのため、[[エルサレム]]の[[聖墳墓教会]]の塗油台の壷は特別に2個置くことが認められている。<br>他は、[[ローマ教皇庁]]、[[コンスタンティノープル総主教庁]]、[[アレクサンドリア総主教庁]]、[[アンティオキア総主教庁]]、[[エルサレム総主教庁]]の五大総主教座(ローマは[[カトリック教会]]、残りは東方[[正教会]])、及び、[[コプト正教会]]のアレクサンドリア総主教座が各1個。合計8個。</ref>。 [[405年]] - [[406年]]、[[アルメニア文字]]が[[メスロプ・マシュトツ]]([[361年]] - [[440年]])によって創始された。 古代アルメニア王国は、5世紀初頭ごろに[[東ローマ帝国]]とサーサーン朝の間で分裂した。その後、サーサーン朝の支配下に入り({{仮リンク|サーサーン朝領アルメニア|en|Sasanian Armenia}})、さらに[[イスラム帝国]]の侵攻を受けるが({{仮リンク|アルメニア首長国|en|Arminiya}})、[[9世紀]]半ばには{{仮リンク|バグラト朝|en|Bagratuni Dynasty}}が興り([[バグラトゥニ朝アルメニア]])、独立を回復した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活して[[バグラトゥニ朝アルメニア|アルメニア王国]]となった。東ローマとの戦争で衰退し、[[1045年]]に王国は陥落し、アルメニアはすぐに[[大セルジューク朝|セルジューク]]トルコの侵略を受けた。 しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝([[:en:Seljuq Armenia]])、[[:en:Zakarid Armenia]]、[[モンゴル帝国]]([[:en:Mongol Armenia]])、[[ティムール朝]]([[:en:Turkmen Armenia]])などの侵入が相次いで[[国土]]は荒廃。このため[[10世紀]]に多くのアルメニア人が故国を捨てる([[ディアスポラ]])ことになった。その中の一部は[[11世紀]]にトルコ南東部の[[キリキア]]に移住し[[キリキア・アルメニア王国]]を建国、[[14世紀]]末まで独立を保った。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に[[地中海]]の海岸に位置していた。 [[File:Ethnic map of Asia Minor and Caucasus in 1914.jpg|thumb|left|250px|[[20世紀]]初頭の[[アルメニア人]]の居住地域(濃い水色)]] [[1636年]]からは、[[オスマン帝国]]([[:en:Armenians in the Ottoman Empire]])と[[サファヴィー朝|サファヴィー朝ペルシア]]([[:en:Armenians in the Persianate]])に分割統治され、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。 [[1826年]]に始まった[[ロシア・ペルシャ戦争 (1826年-1828年)|第二次ロシア・ペルシア戦争]]の講和条約である[[トルコマーンチャーイ条約|トルコマンチャーイ条約]]([[1828年]])によってペルシア領アルメニア(東アルメニア)が[[ロシア帝国]]に割譲された<ref name="日本国外務省"/>。 西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国は長く[[多民族国家|多民族が共存する帝国]]であったが、19世紀後半には多数派である[[トルコ人]]とアルメニア人など帝国内諸民族で[[ナショナリズム]]が高まった。アルメニア人は19世紀末から、オスマン帝国がロシアなどと戦った[[第一次世界大戦]]中とその直後にかけて多数が虐殺され([[アルメニア人虐殺]])、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。 第一次世界大戦中の[[1917年]]に起きた[[ロシア革命]]でロシア帝国は消滅。帝国内主要民族は独立を目指し、アルメニア人も[[アルメニア第一共和国]]を成立させたが、革命でロシアの権力を握った[[赤軍]]の侵攻を受けて崩壊。[[1920年]]には[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]が成立<ref name="日本国外務省"/>。1922年には同じく[[南カフカス]](ザカフカース)にある[[ジョージア (国)|ジョージア]]、アゼルバイジャンとともに[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]に編入され、[[ソビエト連邦]](ソ連)の建国メンバーとなった<ref name="日本国外務省"/>。[[1936年]]には再びアルメニアを領域とするアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった<ref name="日本国外務省"/>。 ソ連末期の[[1988年]]2月<ref name="日本国外務省"/>、[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]]の[[ナゴルノ・カラバフ自治州]]でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発した[[アゼルバイジャン人]]との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争([[ナゴルノ・カラバフ戦争]])に発展した。 [[ソビエト連邦の崩壊]]に向かう中、アルメニアは1990年8月23日に[[国家主権|主権]]宣言、[[1991年]]の[[ソ連8月クーデター]]失敗直後の[[9月21日]]に独立宣言を発し<ref name="日本国外務省"/>、独立は[[国民投票]]で承認された。[[10月17日]]、大統領選挙で[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]が圧勝した。 1991年[[12月21日]]、[[独立国家共同体]](CIS)に加盟。同年[[12月25日]]付でソ連は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となった。しかし、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争は現在も続いている。 {{Clearleft}} == 政治 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの政治|en|Politics of Armenia}}}} アルメニアの[[政治体制|政体]]は[[共和制]]を採っている。 {{see also|{{仮リンク|アルメニア共和国議会|hy|Հայաստանի Ազգային ժողով}}}} 1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票が行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領の[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]が再選される。1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い大統領選挙が行われ、[[ロベルト・コチャリャン]]が選出される。[[1999年]]10月、国会内で首相や国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった([[アルメニア議会銃撃事件]])<ref>{{Cite journal|和書|author=[[吉村貴之]]|date=2002-04|title=アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か|journal=アジ研ワールド・トレンド|volume=8|issue=第4号(通巻第79号)|page=30|publisher=[[アジア経済研究所]]広報部|issn=13413406|naid=40005089033}}</ref>。 その後、おおむね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙で[[セルジ・サルキシャン]]が選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど、政情が一時不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任。その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する改憲を成立させた。 2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発し、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に首相選出選挙が行われたが、最大野党の[[ニコル・パシニャン]]党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対し、新首相の選出は否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都のエレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキが起こり、12月に総選挙が実施されパシニャン首相が率いる改革派が勝利した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38781420R11C18A2FF1000/ |title=アルメニア選挙、改革派が圧勝 対ロ関係維持が焦点 |date=2018年12月11日 |accessdate=2019年3月19日 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。 === 行政 === [[議院内閣制]]の国家。[[元首|国家元首]]は[[大統領]]で、任期は5年。[[大統領]]は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。 {{seealso|アルメニアの大統領一覧|アルメニアの首相}} === 立法 === [[一院制]]の[[国民議会 (アルメニア)|国民議会]]があり、その任期は4年となっている。定数は131議席で、そのうち75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制(2012年時点)。 なお、州知事と大都市の市長は任命制である。 === 政党 === [[複数政党制]]で、独立後から多数の政党が存在している。 {{see also|アルメニアの政党}} === 司法 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの司法|en|Judiciary of Armenia|hy|Հայաստանի դատական համակարգ}}}} 司法権は{{仮リンク|アルメニア憲法裁判所|label=憲法裁判所|en|Constitutional Court of Armenia}}と専門裁判所の2種類で管轄されており、副次的な立ち位置としては一般裁判所(第一審、控訴審、破毀院)も関わることがある。 また、最高司法評議会が設立されていて、この組織は司法制度における無制限の実施を保証する機関である。 {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|アルメニアの法律|en|Law of Armenia}}}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの国際関係|en|Foreign relations of Armenia|hy|Հայաստանի արտաքին քաղաքականություն}}}} [[File:Armenia Diplomatic Relations.svg|thumb|center |upright=3.2|アルメニアの国際関係(2018年時点):{{legend|#008000|国交がある国}}{{legend|#ACACAC|国交がない国}}{{legend|#ff0000|外交関係を停止した国}}]] ナゴルノ・カラバフを巡りアゼルバイジャンと対立している。[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]]では[[ロシア連邦]]の仲介下で同年11月10日に[[2020年ナゴルノ・カラバフ停戦協定|停戦協定]]が発効した。しかし、2023年に起きた[[2023年ナゴルノ・カラバフ衝突|ナゴルノ・カラバフ衝突]]により事実上の全面降伏。 独立以降一貫して[[集団安全保障条約]](CSTO)という軍事同盟を結ぶ親露国家であるが、[[2018年]]に反汚職、反腐敗を掲げて欧米のNGOに支援されて成立したパシニャン政権の成立({{仮リンク|ビロード革命 (アルメニア)|en|2018 Armenian revolution|label=ビロード革命}})以降は親欧米路線に転換しつつあり、2020年以降のナゴルノ・カラバフ紛争の経過を受けて軍事同盟を結ぶ関係ながら支援を得られないとしてロシアを強く批判する一方、在外アルメニア人の多い[[アメリカ合衆国]]や[[フランス]]を中心とした欧米西側諸国に接近。現与党の{{仮リンク|市民契約 (アルメニア)|en|Civil Contract (Armenia)|label=市民契約党}}も親欧米路線を掲げる。アメリカ合衆国は[[ナンシー・ペロシ|ペロシ議長]]が訪問したり、アルメニア軍がアメリカ軍と共闘軍事訓練を行う<ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2023/9/20/us-completes-joint-military-exercise-in-armeniat|title=US completes joint military exercise in Armenia|newspaper=[[アルジャジーラ]]|date=2023-09-20|accessdate=2023-09-25}}</ref>等アルメニアに接近して取り込みを図っており、将来的な[[欧州連合|EU]]加盟、[[NATO]]加盟へと動く可能性も指摘されており、新たな火種となり兼ねない危険性もある。 トルコとも[[アルメニア人虐殺]]の歴史認識をめぐって対立していたが、[[2009年]][[10月10日]]に[[スイス]]でトルコとの国交調印式が行われた。2021年04月24日に[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョー・バイデン]]がアルメニア人迫害を「[[ジェノサイド]]」と正式に認定する声明を発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/56876478|title=バイデン氏、アルメニア人大量殺害は「ジェノサイド」 米大統領の表明初めて|newspaper=[[英国放送協会|BBC News]]|date=2021-04-25|accessdate=2021-04-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/turkey-usa-armenia-idJPKBN2CC03J|title=米が虐殺と認定、オスマン帝国のアルメニア人殺害 トルコ反発|newspaper=[[ロイター]]|date=2021-04-25|accessdate=2021-04-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210424161916/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021042500043&g=int|title=アルメニア人迫害は「虐殺」 米大統領認定、トルコは反発|newspaper=[[時事通信]]|date=2021-04-25|accessdate=2021-04-25}}</ref>。これにより、今後トルコとの軋轢が激化する可能性が懸念されている。 現在の[[国際連合加盟国]]のうち、[[パキスタン]]だけはアルメニアを[[国家承認|国家として認めていない]]<ref>{{Cite web|title=Opinion: «Armenia can block the cooperation between Pakistan and the EEU»|url=https://rusarminfo.ru/2016/06/06/opinion-armenia-can-block-the-cooperation-between-pakistan-and-the-eeu/|website=Rusarminfo|accessdate=2021-03-26|language=ru-RU}}</ref>。 [[ハンガリー]]とは、アゼルバイジャンの軍人[[ラミル・サファロフ]]によるアルメニア軍人殺害事件を巡って、彼の身柄を母国に引き渡したことに抗議し、2012年より外交関係を停止している。 アルメニア人も多く住む隣国[[ジョージア (国)|ジョージア]]との関係は比較的平穏に保たれており、イランとの関係も比較的良好である。 == 軍事 == {{main|アルメニア共和国軍}} 国防組織として[[アルメニア共和国軍]]が存在し、[[内陸国]]のために[[海軍]]は存在せず、[[アルメニア陸軍]]・[[アルメニア空軍]]の2軍種により構成される。管轄は{{仮リンク|アルメニア国防省|label=国防省|en|Ministry of Defence of Armenia|hy|Հայաստանի պաշտպանության նախարարություն}}である。また、{{仮リンク|アルメニア国家保安局|label=国家保安局|hy|Հայաստանի ազգային անվտանգության ծառայություն|en|National Security Service (Armenia)}}によって管轄される形で{{仮リンク|アルメニア国境警備隊|label=国境警備隊|en|Armenian Border Guard|hy|ՀՀ Սահմանային պահպանություն}}が存在している。 == 情報機関 == {{仮リンク|アルメニア国家保安局|label=国家保安局|hy|Հայաստանի ազգային անվտանգության ծառայություն|en|National Security Service (Armenia)}}(NSS)が国内唯一の情報機関となっている。 == 地理 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの地理|en|Geography of Armenia}}}} [[ファイル:Armenia-map-ja.jpeg|right|thumb|280px|アルメニアの地図]] [[ファイル:Sevanavank-both.jpg|thumb|left|250x250px|[[セヴァン湖]]]] [[File:Armenien topo.jpg|thumb|250px|アルメニアの地形図]] アルメニア共和国は、[[黒海]]の南部、[[カスピ海]]の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において[[標高]]1,000 - 3,000メートルであり、3,000メートル級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4,090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。 国内最大の平地は首都エレバンが位置する[[アララト平野|アララト盆地]]で肥沃。名前の通り[[アララト山]](「[[ノアの方舟]]」で有名、高さ5,165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れる[[アラス川]](アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800メートル以上。1万年前から人が居住していたことが[[考古学]]的発掘で知られている。 中央部に[[セヴァン湖]](標高1,900メートル、深さは36 - 80メートル。高山の[[淡水湖]]である)が存在しており、ここで採れる魚は[[ブラウントラウト]]の近縁種である{{仮リンク|セヴァンマス|en|Sevan trout}}(アルメニアを代表する[[固有種]]の一つであり、「'''イシュハン・ヅーク'''(魚の王子さま)」と呼ばれる)や[[ホワイトフィッシュ]]が存在する。[[森林]]は少なく、急流となった小規模な[[河川]]が多い。[[森林]]地帯は国土の15%で、可耕地は17%、[[牧草]]地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。 隣国のトルコやイラン同様、[[地震]]が多い。1988年に発生した[[アルメニア地震 (1988年)|アルメニア地震]]では2万5,000人もの死者を出した。 鉱物資源に富み、[[鉄鉱石]]、[[ボーキサイト]]、[[銅]]、[[亜鉛]]、[[モリブデン]]が産出される。また、南部のシェニーク地方では[[ウラニウム]]鉱床も確認されている。[[石灰岩]]は全国に分布する。 === 気候 === 気候の特徴としては、[[日照時間]]が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2,711時間で、40℃を超える時もある。 [[ケッペンの気候区分]]によると、低地はステップ気候(BS)、高地は[[亜寒帯湿潤気候]](Df)である。低地は[[雨]]が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200 - 900ミリである。 首都エレバンの平均気温は11.4℃、年降水量は318ミリ。1月の平均気温は氷点下5.5℃、8月は25.5℃である。しかしながら高地に位置すること、冬季に[[前線 (気象)|前線]]が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても氷点下25℃から40℃まで気温が変化する。 == 地方行政区画 == {{Main|アルメニアの行政区画}} [[File:Armenia map numbered.svg|300px|thumb]] アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。 # [[アラガツォトゥン地方]] ({{Lang|hy|Արագածոտնի մարզ}}) # [[アララト地方]] ({{Lang|hy|Արարատի մարզ}}) # [[アルマヴィル地方]] ({{Lang|hy|Արմավիրի մարզ}}) # [[ゲガルクニク地方]] ({{Lang|hy|Գեղարքունիքի մարզ}}) # [[コタイク地方]] ({{Lang|hy|Կոտայքի մարզ}}) # [[ロリ地方]] ({{Lang|hy|Լոռու մարզ}}) # [[シラク地方]] ({{Lang|hy|Շիրակի մարզ}}) # [[シュニク地方]] ({{Lang|hy|Սյունիքի մարզ}}) # [[タヴシュ地方]] ({{Lang|hy|Տավուշի մարզ}}) # [[ヴァヨツ・ゾル地方]] ({{Lang|hy|Վայոց Ձորի մարզ}}) # [[エレバン]] ({{Lang|hy|Երևան}}) === 主な都市 === {{main|アルメニアの都市の一覧}} * [[エレバン]] - アルメニアの首都であり、世界最古の都市の一つでもある。北緯40度10分、東経44度31分に位置する。人口約106万人(2004年)。 * [[クマイリ]] - 第2の都市で、人口は21万人。 * [[ヴァナゾール]] - 人口17万人の第3の都市。 * [[エチミアジン]] - 人口5万人の第4の都市。[[アルメニア使徒教会]]の[[カトリコス]][[首座主教]]座がある宗教的中心地。 {{clear}} == 経済 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの経済|en|Economy of Armenia}}}} [[ファイル:Yerewan with Ararat.jpg|thumb|left|首都[[エレバン]]|250x250ピクセル]] [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のアルメニアの名目[[国内総生産|GDP]]は104億ドルである。1人当たりは3,173ドルで、[[南コーカサス]]3国の中では最も低く、世界平均の約30%の水準に留まっている。 主要産業は、[[農業]]、[[工業]]、[[宝飾品]]加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は国民の8%に過ぎない。農業では[[ワタ|綿]]、[[ブドウ]]、[[野菜]]などの[[青果物]][[栽培]]が盛ん。[[穀物]]としては[[小麦]]と[[大麦]]を産する。 アルメニアは[[新生代]]ならび[[中生代]]の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。この為、規模は小さいものの[[貴金属]]を産する。主な鉱物資源は[[金]](2003年時点の採掘量は1.8トン)、[[銀]](同4トン)、[[銅]](同1.8万トン)である。 同国は[[エネルギー資源]]を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから、国内電力需要の40%以上を老朽化した[[メツァモール原子力発電所]]に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年の[[アルメニア地震 (1988年)|アルメニア地震]]のあと、独立後の1995年まで6年半にわたって閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されている[[ロシア型加圧水型原子炉]]440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成をめどにロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。 {{Clearleft}} == 交通 == {{main|[[アルメニアの交通]]}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|アルメニアの道路|en|Roads in Armenia}}|アルメニアの鉄道|アルメニアの空港の一覧}} == 国民 == {{main|[[アルメニアの人口統計]]}} <!-- (住民の人種構成、言語、宗教など) --> {{bar box |width=250px |title=民族構成(アルメニア) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[アルメニア人]]|orange|98.1}} {{bar percent|[[クルド人]]|pink|1.3}} {{bar percent|[[ロシア人]]|blue|0.4}} {{bar percent|その他|red|0.2}} }} === 民族 === 住民の大半はアルメニア人(98.1%)。次いでクルド人(1.3%)、ロシア人(0.4%)、[[アッシリア人]](0.1%)が居住している。 他には[[少数民族]]として、[[アゼルバイジャン人]]も存在する。 {{also|{{仮リンク|アルメニアの少数民族|en|Ethnic minorities in Armenia}}}} 同国の賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外(特にアルメニアの3倍の賃金を得られる[[ロシア連邦]])へ、季節労働者として[[出稼ぎ]]に行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて海外の国々へ赴く。 また就労先の国で[[国際結婚]]を果たして[[家庭]]を持つ男性も多く、それに伴う形で同国の人口が減って来ており、1991年の[[ソビエト連邦の崩壊]]時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/data.html|title=アルメニア基礎データ|accessdate=2019年2月16日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite news |title=男だけが消えた 旧ソ連の小さな国 |newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2014-1-28 |author=Anaïs Coignac |url=http://www.newsweekjapan.jp/picture/126657.php|accessdate=2014-07-31}}</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの言語|en|Languages of Armenia}}}} [[公用語]]は[[アルメニア語]]。アルメニア語は[[インド・ヨーロッパ語族]]の一種に該当する言語で、印欧祖語から派生したといわれている。 かつては旧ソ連の構成国であったことも絡み、[[ロシア語]]が[[共通語]]として幅広く通用する。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの宗教|en|Religion in Armenia}}}} 宗教では、[[非カルケドン派正教会]]の一つである[[アルメニア使徒教会]]の信者が大部分を占める。他に[[正教会|ギリシャ正教]]や[[カトリック教会|カトリック]]([[東方典礼カトリック教会|東方典礼カトリック]]の{{仮リンク|アルメニア典礼カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}})、[[改革派教会|改革派]][[プロテスタント]]の{{仮リンク|アルメニア福音教会|en|Armenian Evangelical Church}}の信徒がいる。[[301年]]に世界で初めて[[キリスト教]]を国教化したことで有名。 少数民族である[[クルド人]]や[[アゼルバイジャン人]]の多くは[[イスラム教]]を信仰し、クルド人の中には[[ヤズディ教]]の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人である[[ヘムシン人]]と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの教育|en|Education in Armenia}}}} 教育制度は、5 - 6歳までの[[幼稚園]]や[[保育園]]、6 - 7歳から[[中等教育]](10 - 11年制。[[小学校]]にあたるのが1 - 3年生、[[中学校]]にあたるのは4 - 8年生、[[高等学校]]にあたるのが9 - 10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は[[大学]]である。義務教育期間は中等教育の8年生まで。授業料は無料で、全国に1,439校ある(2003年現在)<ref>メラニア・バグダサリヤン「教育問題」/ 中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店 2009年</ref>。 2011年には小学校での[[チェス]]学習を義務化している。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの保健|en|Health in Armenia}}}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|アルメニア保健省|en|Ministry of Health (Armenia)}}}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|アルメニアにおける犯罪|en|Crime in Armenia}}}} アルメニアは従来からナゴルノ・カラバフ地域を巡って隣国アゼルバイジャンとの間に紛争を抱えており、両国の国境周辺地域では発砲事件などが散発的に発生している。また、首都エレバンをはじめとする各地域でも2013年2月以降、散発的に反政権デモが発生しており、同都では2015年6月に電気料金値上げに反対する大規模デモが発生する事態に陥っている。 さらに,2016年7月には反体制派武装集団による警察署占拠事件が発生しており,今後の政情により治安が悪化する可能性が高いとされている。 {{節スタブ}} === 警察 === {{仮リンク|アルメニア共和国警察|en|Police of Armenia}}が主体となっている。 {{also|{{仮リンク|アルメニア共和国調査委員会|hy|Հայաստանի Հանրապետության քննչական կոմիտե}}}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|アルメニアにおける人権|en|Human rights in Armenia}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|アルメニアのメディア|en|Mass media in Armenia}}}} {{仮リンク|アルメニア共和国憲法|label=アルメニア憲法|en|Constitution of Armenia}}第27条では、[[言論の自由]]と報道の自由を保証しているとされている為、現時点で弾圧を受けている報道機関やマスコミは見受けられていない。 {{also|{{仮リンク|アルメニアの新聞|en|Armenian newspapers}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|アルメニアの文化|en|Culture of Armenia}}}} === 食文化 === [[File:Aşure (1).JPG|right|thumb|[[アシュレ|アヌシャブル]](Anushabur) <br> 「アルメニアの[[クリスマスプディング]]」や「ノアのプディング」とも呼ばれており、クリスマスと大晦日に食されている]] [[File:Ղափամա 2.JPG|right|thumb|バターナッツを使った[[ガパマ]] <br> この料理には[[ドライフルーツ]]や[[米]]が主な具材として用いられている]] [[File:Trahana.jpg|right|thumb|{{仮リンク|タルハナ|en|Tarhana}}]] {{main|{{仮リンク|アルメニア料理|en|Armenian cuisine}}}} アルメニアでは料理に様々な[[ハーブ]]を多用している。ケルチク(kerchik)と呼ばれる[[粥]]のような料理には穀物と自生しているハーブが用いられている。 一般的に使用されるスパイスには、[[黒コショウ]]や[[スマック (植物)|スマック]]、[[クミン]]、[[シナモン]]などが挙げられる。 同国では[[羊肉]]や[[牛肉]]、[[山羊]]肉などの肉が食されているが、多く消費されるのは[[豚肉]]である。ゴチ(gochi)と呼ばれる{{仮リンク|伝統料理|en|Traditional food}}は同国において最も人気のある[[郷土料理]]でもあり、[[新年]]の祝賀のために用意されることが多い。 野菜を使った料理には[[ガパマ]]と呼ばれる[[カボチャ]]をベースとした甘い味付けの詰め物料理が在り、これはクリスマスの時期によく食べられている。 また、[[ギリシャヨーグルト]]をはじめ、[[バター]]や[[クリーム (食品)|クリーム]]ならび[[チーズ]]などの典型的な[[乳製品]]が料理に使われている点も特徴の一つとなっている。 一方で、伝統的な食品には{{仮リンク|タルハナ|en|Tarhana}}と呼ばれる乾燥食品や{{仮リンク|パストゥルマ|en|Pastirma}}と呼ばれる肉の[[塩漬け]]があり、古くから食されている。 古くから[[ワイン]]の製造が盛んであり、特に[[ブランデー]]は世界的に有名となっていて、[[アララト (ブランデー)|アルメニア・コニャック]]と呼ばれる。 {{see Also|{{仮リンク|アルメニアワイン|en|Armenian wine|ru|Виноделие в Армении}}}} {{main2|ビールについては{{仮リンク|アルメニアのビール|en|Beer in Armenia}}を}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|アルメニア文学|en|Armenian literature}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === [[File:Armenian Musicians.jpg|left|thumb|200px|伝統音楽]] [[File:Armeniapedia dance2.jpg|left|thumb|伝統的な[[アルメニアンダンス]]]] {{main|{{仮リンク|アルメニアの音楽|hy|Հայկական երաժշտություն|en|Music of Armenia}}|{{仮リンク|アルメニアの舞踊|hy|Հայկական պար}}}} {{節スタブ}} === 美術 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの芸術|en|Armenian art}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|アルメニアの映画}} {{節スタブ}} === 被服 === [[ファイル:Armenian traditional clothing.jpg|thumb|民族衣装を纏ったアルメニア人の女性たち]] {{main|{{仮リンク|アルメニアの民族衣装|hy|Հայկական ազգային հագուստ (տարազ)|en|Armenian dress|ru|Армянский национальный костюм}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの建築|en|Armenian architecture}}}} ==== 石の建造物 ==== 石が古くから使われてきた。紀元前9 - 8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。[[エレバン]]の[[バザール]]やトゥマニヤン記念館はアルティクで産出した[[凝灰岩]]でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の[[花崗岩]]である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、[[ジェノサイド]]犠牲者碑の[[モニュメント]]、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の[[玄武岩]]でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な[[大理石]]で飾られている<ref>中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著『アルメニアを知るための65章』(明石書店 2009年)20–21ページ</ref>。 ==== ハチュカル ==== アルメニア語で「[[十字架]]の石」を意味するハチュカルという[[石碑]]が古来多く建てられ、石造の書物や[[年代記]]となっているほか、近年ではアルメニアと同じ地震国である日本で起きた[[東日本大震災]](2011年3月11日)の犠牲者を追悼するハチュカルもある<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/191609 地震多発国 紡いだ絆/アルメニア「3.11」を悼む十字架の石]『[[東京新聞]]』夕刊2022年7月25日3面(同日閲覧)</ref>。 === 世界遺産 === [[ファイル:Գեղարդ.jpg|thumb|[[ゲガルド修道院とアザト川上流域|ゲガルド修道院]]|250x250ピクセル]] {{main|アルメニアの世界遺産}} [[世界遺産]]として3か所の文化遺産が指定されている。991年に創建された[[ハフパット修道院]]と[[サナヒン修道院]]、4世紀に創立した[[ゲガルド修道院とアザト川上流域]]、4世紀に建立された[[エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡]]がある。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|アルメニアの祝日|en|Public holidays in Armenia|hy|Հայաստանի տոների և հիշատակի օրերի ցանկ}}}} アルメニアでは伝統的な[[アルメニア暦]]も使用される。 {| class="wikitable" |- ! style="background:#efefef;"| 日付 ! style="background:#efefef;"| 日本語表記 ! style="background:#efefef;"| 現地語表記 ! style="background:#efefef;"| 備考 |- | [[1月1日]] || [[元日]] || Ամանօր || |- | [[1月6日]] || [[クリスマス]]および[[神現祭]] || Սուրբ Ծնունդ || [[12月31日]]からクリスマス休暇。 |- | [[1月28日]]|| [[軍隊の日]]||Հայոց բանակի օր ||  |- | [[4月7日]] || 女性と母性の日 || || |- | [[4月24日]] || 虐殺の犠牲者の記念日 || Եղեռնի զոհերի հիշատակի օր || [[アルメニア人虐殺]]への追悼 |- | [[5月9日]] || [[戦勝記念日 (5月9日)|戦勝と平和の日]] || || |- | [[5月28日]] || 1918年の共和国の日 || I Հանրապետության օր || |- | [[7月5日]] || [[憲法記念日|憲法の日]] || Սահմանադրության օր || [[1995年]]に憲法が制定されたことを祝す。 |- | [[9月21日]] || 独立の日 || Անկախության օր || [[十字架挙栄祭]]と同一 |- | [[12月7日]] || [[アルメニア地震 (1988年)|1988年大地震]]、犠牲者の記念日<ref group="注釈">家屋などの倒壊により約2万5千人が死亡、被災地支援に向かった軍用輸送機[[Il-76 (航空機)|Il-76]]が墜落、兵士69人を含む78名全員死亡。</ref> || || |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|アルメニアのスポーツ|en|Sport in Armenia}}}} アルメニアでは多種多様な[[スポーツ]]が行われており、人気の[[球技]]としては[[サッカー]]や[[バスケットボール]]が挙げられる。[[近代オリンピック|オリンピック]]では[[オリンピックのレスリング競技|レスリング]]、[[オリンピックのウエイトリフティング競技|ウエイトリフティング]]、[[オリンピックのボクシング競技|ボクシング]]、[[オリンピックの体操競技|体操競技]]でメダルを獲得している。他方で、[[マインドスポーツ|頭脳スポーツ]]では[[チェス]]選手を多数輩出しており盛んである。 同国のスポーツ団体は最大組織となるものが2つ存在しており、その組織として{{仮リンク|ホメネテメン|en|Homenetmen}}と{{仮リンク|アルメニア慈善協会|en|Armenian General Benevolent Union}}が挙げられる。特にホメネテメンは世界中に支部を開設しており、アルメニア人[[共同体|コミュニティ]]が存在する場所なら何処からでもアクセスが可能と言われるほど規模が大きいものとなっている。 {{See also|オリンピックのアルメニア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|アルメニアのサッカー|en|Football in Armenia}}}} アルメニア国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1992年]]にプロサッカーリーグの[[アルメニア・プレミアリーグ]]が創設されている。[[アルメニアサッカー連盟]](FFA)によって構成される[[サッカーアルメニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]および[[UEFA欧州選手権]]には未出場である。 アルメニアの英雄的な存在として、[[ヘンリク・ムヒタリアン]]が知られている。[[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]]、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、[[アーセナルFC|アーセナル]]、[[ASローマ]]、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]など<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inter.it/jp/news/2022/07/02/henrikh-mkhitaryan-inter.html|title=ヘンリク・ムヒタリアンがインテルと契約|date=2022-7-2|accessdate=2022-7-5|website=FCインテルナツィオナーレ・ミラノ|language=ja}}</ref>、数々の[[ヨーロッパ]]の[[ビッグクラブ]]において顕著な実績を残してきた<ref>{{cite web|url=http://www.manutd.com/en/News-And-Features/Football-News/2017/May/Manchester-United-win-the-Europa-League-after-beating-Ajax-in-the-final-in-Stockholm-24-May-2017.aspx|website=manutd.com | title= United are Europa League Winners|date = 25 May 2017| access-date = 25 May 2017 | first = Adam| last = Higgins}}</ref>。なお、ムヒタリアンは{{仮リンク|アルメニア年間最優秀選手賞|en|Armenian Footballer of the Year}}を歴代最多となる10度受賞している。 == 著名な出身者 == {{main|アルメニア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[アルメニア関係記事の一覧]] * [[アルメニアの国歌]] * [[アルメニアの政党]] * [[アルメニアの大統領一覧]] * [[アルツァフ共和国]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Armenia|Armenia}} * [https://www.gov.am/am/ アルメニア共和国政府] {{Hy icon}}{{En icon}}{{Ru icon}} * [https://www.president.am/hy/ アルメニア大統領府] {{Hy icon}}{{En icon}}{{Ru icon}}{{Fr icon}} * [https://japan.mfa.am/en/ アルメニア駐日大使館] {{Hy icon}}{{En icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/ 日本外務省 - アルメニア] {{Ja icon}} * [https://www.am.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アルメニア大使館] {{Ja icon}} ; 観光 * [https://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/ アルメニアの建築] ; その他 * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-06-04-03.html 高度情報科学技術研究機構 - アルメニア大地震とアルメニア原子力発電所の閉鎖] {{Ja icon}} *「[https://globalnewsview.org/archives/5142 ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域]」(Hinako Hosokawa),Global News View /2017年7月{{Ja icon}} * [http://japanarmenia.com/ja/ JapanArmenia.com] {{En icon}}{{Hy icon}}{{Ja icon}} * {{Kotobank}} {{アジア}} {{ヨーロッパ}} {{独立国家共同体}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{Armenia-stub}} {{DEFAULTSORT:あるめにあ}} [[Category:アルメニア|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:独立国家共同体]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:ロシア語圏]] [[Category:フランコフォニー準加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]]
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性感帯
性感帯()とは、身体のうち、刺激を与える事によって性的興奮と快感を得やすい部分を指す。 性感帯は男女を問わず個人差があるが、粘膜が体外に出ている部分と、静脈が皮膚に近いところにある部分は性感帯であることが多い。 幼少期などそれまでに性的接触のない場合には、触られても特段快感を得られなかったり、くすぐったい、あるいは粘膜部分などを触られると痛みを伴うこともあるが、日常的に刺激を受けることによって徐々に性的快感を得られるようになる。これを性感帯の開発という。 陰核、陰唇、膣口、乳首、乳房、尿道口、肛門、Gスポット、耳、首など。 一般的ではないが、女性ではポルチオも性感帯と言われる場合がある。 その他、恥丘やAスポット(AGスポット)、Tスポット、Uスポット、カリナ、などもある。 亀頭、陰茎、陰茎小帯、尿道口、陰嚢、肛門、会陰、耳、首、頭などが一般的な性感帯である。 一般的ではないが、男性では前立腺も性感帯と言われる場合がある。
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性感帯とは、身体のうち、刺激を与える事によって性的興奮と快感を得やすい部分を指す。
{{性的}} {{読み仮名|'''性感帯'''|せいかんたい}}とは、身体のうち、刺激を与える事によって性的興奮と快感を得やすい部分を指す。 == 概要 == 性感帯は男女を問わず個人差があるが、粘膜が体外に出ている部分と、静脈が皮膚に近いところにある部分は性感帯であることが多い。 幼少期などそれまでに性的接触のない場合には、触られても特段快感を得られなかったり、くすぐったい、あるいは粘膜部分などを触られると痛みを伴うこともあるが、日常的に刺激を受けることによって徐々に性的快感を得られるようになる。これを性感帯の開発という。 [[ファイル:Erogenous zones-ja.svg|サムネイル|男女の性感帯]] == 女性の場合 == 陰核、陰唇、膣口、乳首、乳房、尿道口、肛門、Gスポット、耳、首など。 一般的ではないが、女性ではポルチオも性感帯と言われる場合がある。 その他、[[恥丘]]やAスポット(AGスポット)、Tスポット、Uスポット、カリナ、などもある。<ref>[https://www.lovecosmetic.jp/shc/seikantai/ 全身の性感帯の開発方法について]</ref> == 男性の場合 == [[陰茎亀頭|亀頭]]、[[陰茎]]、[[陰茎小帯]]、[[尿道口]]、[[陰嚢]]、[[肛門]]、[[会陰]]、耳、首、頭などが一般的な性感帯である。 一般的ではないが、男性では[[前立腺]]も性感帯と言われる場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[性行為|性交]] - [[オナニー|自慰]] * [[性感]] - [[性的快感]] * [[オーガズム]] {{DEFAULTSORT:せいかんたい}} [[Category:性感]] [[Category:性的興奮]] {{Sex-stub}}
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ノルウェー
ノルウェー王国(ノルウェーおうこく、ノルウェー語: Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロ・フィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロ。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。欧州連合(EU)には非加盟である。 地理としては国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。このほか、ノルウェー本土から約1,000キロ離れた北大西洋上のヤンマイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。南大西洋にブーベ島を属領として持つ。 古くからノルマン人が居住し、10世紀初めに統一王国が成立。14世紀からデンマークと同君連合を形成してデンマークの統治下に置かれた。ナポレオン戦争でのデンマークの敗戦で1814年に放棄されスウェーデンの下で同君連合を形成したが、自由主義的な憲法の制定と連合法により自治権を得た。1905年の国民投票によりスウェーデンから独立し、デンマークから王子を国王(ホーコン7世)に迎え独立した立憲君主国としてスタートした。 ノルディックモデルによる高負担高福祉の福祉国家として知られ、国連開発計画(UNDP)による国民の健康と繁栄を示す人間開発指数(HDI)は世界1位である(2020年度)。国連持続可能開発ソリューションネットワークによる世界幸福度報告は世界5位である(2020年度)。民主主義の成熟性も極めて高く評価されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界1位を記録しており「完全な民主主義」に分類されている(2022年度)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも世界1位に輝いている(2020年度)。国連開発計画(UNDP)による国民の健康と繁栄を示す人間開発指数(HDI)は世界一位である(2020年度)。経済平和研究所によるポジティブ平和指数(PPI)は世界一位である(2023年度)。 経済面では1人当たりの国内総生産(GDP)は、ルクセンブルク、スイス、アイスランドに続く世界第4位である(2019年度。国際通貨基金(IMF)による調べ)。独立前の19世紀には農業国だったが、20世紀になると豊富で安価な水力や天然資源を生かして工業化が進み、第二次世界大戦後は特に電気冶金、機械、造船などの分野で工業化が顕著となる。石炭、鉄、銅、ニッケルなど鉱物資源が豊富である。1970年代から北海油田による石油産業が発展して輸出の主品目となっている。沿岸は漁業が盛んであり日本やアイスランドと並ぶ数少ない捕鯨国の一つでもある。 人口は500万人ほどで約9割がキリスト教徒でルター福音派が大部分を占める。公用語はノルウェー語だが、ブークモールとニーノシュクという成立事情を異にする二つの書きことばが共存している。住民には金髪・碧眼・長身の所謂「北方人種」が多い。 正式名称はノルウェー語のブークモール (bokmål) では Kongeriket Norge、ニーノシュク (nynorsk) では Kongeriket Noreg、サーミ語ではNorga / Norgga gonagasriika。英語による表記は Kingdom of Norway。通称 Norway。形容詞はNorwegian。日本語による表記はノルウェー王国。通称はノルウェー。ノルウェイとも。古くはノールウヱーと表記された。漢字による表記は諾威で、諾と略される。 考古学上の発見が示すところによると、ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいた。彼らはおそらくもっと南の地域、ドイツ北部からやってきて、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。 9世紀から11世紀までのヴァイキング時代が国家形成の統一運動および拡大の元となった。1130年から1240年までは王位継承権をめぐる内戦が起こった(ノルウェー内戦)。黒死病などによりノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年より条約により従属化され、1536年には正式に独立を失った(デンマーク=ノルウェー)。デンマークがナポレオン1世側についたあとの1814年にスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこのとき独立を図ったが、列強の反対により実現できず、スウェーデン王国との同君連合(スウェーデン=ノルウェー)が形成され、スウェーデン王カール13世がノルウェー王に即位した。1818年にカール13世が死去すると、スウェーデン=ノルウェーはベルナドッテ王朝の支配下となった。 1750年ごろから第一次世界大戦とロシア革命が起こった1920年までは、ノルウェー北部とロシアのアルハンゲリスクの間でポモール貿易(英語版)と呼ばれる海上貿易が盛んに行われた。ノルウェーで捕れる魚とロシアの穀物を取引し、どちらの社会においても重要度が高かった。 20世紀初頭、スウェーデン=ノルウェーの連合を解消しようという運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークのカール王子に打診があった。その後、国民投票により君主国家を設立、議会は満場一致でカール王子をノルウェー王として選出した。彼は独立したノルウェーでホーコン7世として即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、オスカル2世と社民党政府の国民への説得により、ノルウェーの独立が認められた。 ノルウェーは第一次世界大戦では中立国だったが、第二次世界大戦ではドイツによる侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、集団安全保障国家となった。また、1945年7月6日には対日宣戦布告するが、ついに戦火を交えることはなかった。ノルウェーは国際連合設立メンバーであり、また北大西洋条約機構(NATO)原加盟国として、1949年に北大西洋条約に調印した。ノルウェーでは1972年と1994年の2度欧州連合への加盟に関する投票が行われたが2度とも否決され、現在も欧州自由貿易連合(EFTA)の成員に留まっている。 ノルウェーの政体は議院内閣制の議会制度を政治の中心とし、儀礼的な存在として王室を有する立憲君主制である。 政治体制は議院内閣制である。議会であるストーティングの議員のうち4分の1が第1院のラグティング(英語版)、それ以外が第2院オデルスティング(英語版)を構成するという変則的な二院制を長らく取っていたが、2009年から一院制に移行した。内閣は首相と閣僚16人から構成される。 国王は憲法上行政権を有するとされているが、実際にこれを行使することはなく、その権限は首相が握っている。大臣の副署がない国王の行為はすべて無効となる。国王の実際的な役割はおもに儀式や式典などに限られているが、国の象徴として国民意識の統一に重要な役割を果たしている。憲法上、国王の地位について次のような規定が置かれている。 スウェーデン=ノルウェー連合王国時代の1814年の法律で、「国王は、議会または首相を含む内閣を任命する」という重要な執行権が与えられたが、ほとんどの場合は議会が国王の名のもとに行使している。1884年には議院内閣制が成立し、内閣の発足には議会の承認が必要となった。これにより、国王による任命は事実上形式だけのものとなった。 ノルウェー議会(ストーティング)は一院制で169名の議員からなる。2007年の憲法改正以前には、単一の選挙で選出された議員たちがウーデルスティング(下院127名)とラーグティング(上院42名)に分かれ、憲法改正等を除いては二院制として機能する変則的な体制であった。解散はなく、総選挙は4年に1度行われる。19の県を単位とする比例代表制選挙で150議席が選ばれたのち、19議席が得票率と獲得議席との乖離を調整するために配分される。選挙権はその年に満18歳以上となる者に与えられている。 なお、ノーベル平和賞の受賞者を決定するノルウェー・ノーベル委員会の委員はノルウェー議会によって選出される。 1814年5月17日(英語版)にアイツヴォル(英語版)会議にて調印されたノルウェー憲法は、ノルウェーを絶対君主制から民主的な立憲君主制へと変化させた。アイツヴォル憲法は言論の自由(100条)、法治主義(96、97、99条)などを定めた。主要な憲法改正には次のようなものがある。 外交面ではデンマーク統治時代からの沿革で中立志向が強いが、第二次世界大戦でドイツ軍に中立を無視されて侵攻された経験から、戦後は中立志向を保ちつつも国際連合や北大西洋条約機構(NATO)に参加している。また、1959年には欧州自由貿易連合(EFTA)にも加盟した。欧州連合(EU)には参加していないが、欧州連合の市民はノルウェーで自由に働く権利を有している。 2023年5月30日より2年間の改修工事に伴い、下記住所にて仮事務所開設 大使館(改修中) ノルウェー軍は陸軍、海軍、空軍および郷土防衛隊の四軍からなる。沿岸警備隊も海軍の傘下にある。 徴兵制が布かれており、19歳から44歳の全国民は1年間の兵役義務がある。かつて女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性にも兵役義務が課せられるようになった。これにより、ノルウェーは欧州で、また北大西洋条約機構(NATO)で唯一、男女ともに徴兵対象とする国となった。男女ともに徴兵を行う国としてはほかにイスラエルが知られるが、きわめて稀な制度である。また必要な新兵の数は1万人弱であるのに対して、徴兵対象者は6万人もいるために、全員が徴兵されるわけではない。ただし、良心的兵役拒否を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。それでも2016年に徴兵された若者の3分の1は女性であり、男女同室の兵舎で生活する。男女同室の兵舎については、女性兵士の圧倒的多数が賛成している。ノルウェーでは兵士としての従軍経歴を持つことは、その後の社会活動において高く評価され、有利に作用するとされる。2016年まで女性の戦闘機パイロットや潜水艦艦長が誕生している。 スカンディナヴィア半島の西岸に位置し、北極海およびノルウェー海に面し、海岸にはフィヨルドが発達している。国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、北大西洋海流の分枝である暖流のノルウェー海流の影響により、不凍港であるほど温暖である。このため、バルト海沿岸よりもノルウェー北部は穏やかな気候となっている。また、陸地のほとんどをスカンディナヴィア山脈が占めるため、平地はないに等しい。最高地点はヨーツンハイム山地(英語版)にあるガルフピッゲンであり、標高は2,469メートル。 面積はスヴァールバル諸島などを含めて約38.5万kmで、日本よりわずかに広い。ただし、資料によってはスヴァールバル諸島を自治領とみなし国土面積に含めないことがあり、その場合は日本より狭い値となる。 南極大陸のクイーン・モード・ランドおよび南太平洋のペーター1世島の領有を主張しているが、両地は南極条約により領有権が凍結されている。ノルウェーとロシアの間でバレンツ海における領海の境界線の合意が得られていないことにより、当面の間両国によって共管される「グローソネン」(グレーゾーン)と呼ばれる海域があったが、2010年9月15日に両国は境界画定条約に調印した。 酸性雨が降り注ぎ、国連環境計画(UNEP)の1986年調査では、666万ヘクタールのうち26%にあたる171.2万ヘクタールが被害面積であった。 ノルウェーは、2020年以降は11のfylker(単数形: fylke)と呼ばれる県に分かれ、それぞれ番号がつけられている。県の下に356のkommuner(単数形: kommune)と呼ばれる基礎自治体がある2層制になっている。首都オスロは県であり基礎自治体でもある。 県番号のうち18番以下は、1919年より続く伝統的な順番(南から北の順に大きくなる)で割り当てられている。一方、30番以上は2018年および2020年に創設された新しい県であり、伝統的順番には基づいていない。 2009年のノルウェーのGDPは3,785億ドル(約32兆円)であり、神奈川県とほぼ同じ経済規模である。2016年の名目GDPは3,762億ドル(約42兆円)で、大阪府より大きく東京都より小さい経済規模である。人口は大阪府の5分の3弱であり、2015年の1人あたり国民総所得(GNI)は9万3,820ドルで世界第1位となっている。2021年の一人当たりの購買平価説に基づく国民総所得(GNI)は84,260米ドルで、ノルウェーは世界第4位だが、購買平価説に基づくノルウェーの一人当たりの所得は27,738米ドルとドイツよりも低い。 世界有数の原油輸出国であり、原油はノルウェーの輸出の35%(1999年)を占めていたこともあった。1969年に北海油田が発見されて以降、油田・ガス田の開発が進んだ。北海における石油採掘は国有割合の高い企業(たとえばエクイノールでは発行株式の約3分の2を国が保有)によって行われており、福祉国家ノルウェーの財政に大きく寄与している。さらに将来の石油・天然ガスの枯渇に備えて、原油売上による収益は原則として(2006年度予算では74%、2,571億クローネ)ノルウェー政府年金基金として積み立てられ(2006年1月に従来の石油基金と年金基金が統合改組)、国際的な金融市場に投資されている。国家財政収支は石油以外の歳入だけで均衡するよう、歳出抑制策を実施しているが、なお石油基金からの繰り入れが大きな割合を占めている(2006年度予算では歳入9,339億クローネ、うち石油から3,483億クローネ、石油以外から5,856億クローネ、歳出は6,768億クローネ)。 水資源が多く、水力発電は電源構成比で95.3%を占める。スマートグリッド構想の焦点である。漁業、林業、鉱業も盛んである。漁業では特にノルウェーサーモン(アトランティックサーモン)や大西洋サバが日本に多く輸出されている。漁業文化が日本と似ており捕鯨推進国のひとつである(ノルウェーの捕鯨を参照)。そのほか、牧畜などが行われている。 世界最大の特殊船舶の製造会社のアケル・ソリューションズ、国際的第三者機関DNV GLグループ、舶用通信機のNERA社、ソナーのSIMRAD社、潜水艇のArgus社、マリンファッションのヘリーハンセンなど、海運に関連する産業が盛んである。ウェブブラウザのVivaldiを作っているVivaldi Technologies社、Operaを作っているオペラ社もノルウェーの企業である。 ノルウェー中央銀行が中央銀行として金融システムの安定や物価の安定を目指しているほか、別部門のNorges Bank Investment Managementがノルウェー政府年金基金の運用を行っている。 税率が高く、ギネスブックでは「もっとも税金の高い国」として紹介されたことがある。追加個人税などで所得の100%を超える税金が課税されることがある。 2011年の統計によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、ほかに少数民族のサーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は55万2,000人と全人口の11.4%を占めている。その内訳はポーランド(60,610人)、スウェーデン(34,108人)パキスタン(31,884人)、イラク(27,827人)、ソマリア(27,523人)、ドイツ(24,394人)、ベトナム(20,452人)、デンマーク(19,522人)、イラン(16,957人)、トルコ(16,430人)の順となっている。 公用語はノルウェー語である。ノルウェー語には、オスロ周辺の方言をもとにしてデンマーク語の強い影響を受けたブークモール(書物の言葉)、およびデンマーク色を排しノルウェー各地域の方言をもとに言語の「純化」を行い人工的に作られたニーノシュク(新しいノルウェー語)の2種類がある。どちらも公用語として制定されているが、実際に広く話され理解されている言語の9割近くがブークモールである。また、公式にはニーノシュクの使用人口が1割以上いることになっているが、実際には彼らは各地のランスモール(土着の言葉)の話者であり、彼らを総称して「ニーノシュク話者」とされているというのが実態に近い。人工言語としてのニーノシュクを用いる話者は少なく、伝統的な共通語・権威語であるブークモールや外国語を使わずに地域をまたがるコミュニケーションを行うのは困難であるといわれる。 ほかにサーミ人がサーミ語を使っている。サーミ語人口は2万人程度である。カラショーク(Kárášjohka-Karasjok)、カウトケイノ(Guovdageaidnu-Kautokeino)、ネッセビィ(Unjárga-Nesseby)、ポルサンゲル(Porsanger)、ターナ(Deatnu-Tana)、コーフョルド(Gáivuotna-Kåfjord)といったサーミ人が多く居住する地区では、サーミ語も公用語である。 スヴァールバル諸島ではロシア語も公用語である。 また、イギリスに地理的にも歴史的にも深い関わりのあるノルウェーでは英語のテレビ番組が放送されていることもあり、(特に大都市圏では)多くの国民が英語に明るい。 ノルウェーでは、婚姻の際には、同姓婚姻と夫婦別姓、複合性のいずれかを選択できる。また、2008年より、同性同士の婚姻(同性結婚)が可能となっている。 キリスト教プロテスタントのルーテル教会が多数派であり、ノルウェー国教会の所属が78.0%を占めている(2010年現在)。1537年に創設されたノルウェー国教会は長らく国教の地位にあったが、2012年にその座を降りた。その他のプロテスタントやローマ・カトリックなどの団体所属は5.4%、キリスト教以外の宗教は2.7%(このうち80.1%がイスラム教)、世俗的ヒューマニズムの立場をとるノルウェーヒューマニスト協会に所属する人の割合は1.7%である。 平均寿命は80.8歳(2013年)。おもに一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されている。国民1人あたりの保健支出は、OECD各国において米国に次いで高い。 なお、アルコールは国営企業Vinmonopoletによる専売制となっている。 1人あたりのGDPや平均寿命、就学率、成人識字率ともに世界的に高く、人間開発指数 (HDI) で、世界トップクラスに位置している(2006年度1位)。 また世界でもっとも男女平等が浸透している国としても知られている。男女の就労率の差はわずか0.6%で、男女間の機会均等・社会参加・利益などでも男女の差がなく、社会的要素の利益が男女の垣根なくいかに自由で平等に行き渡っているかを数値化したジェンダー開発指数(GDI)、男女間の機会均等と社会参加の程度をあらわすジェンダー・エンパワーメント指数 (GEM) どちらも世界一である。かつて、徴兵は男性だけの義務となっていたが、2014年に女性も対象とする法案が可決したことから、2015年から女性の徴兵を開始した。 なおGDPに占める税収比は40.5%と上位国のひとつであり(2013年)、 付加価値税 (VAT) も25.0%と上位国のひとつである(2011年)。 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易すぎるとして、2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と、保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーではいまだに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやってくる移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数がもっとも激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、できる限りのことをしていかなければならない」とするなどデンマーク、フィンランドと同様に、昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っているとされている。厳密な2021年の学術誌『高等教育』によると、ノルウェーも人種差別がなくなったと思いたいが、人種差別が存在することは明らかで、その解消に取り組んでいる。同じく厳密な雑誌『社会経済的レビュー』の2022年の論文によると、ドイツは雇用に関して南欧人よりも地元の子孫を優先しないが、ノルウェーはそうしているようである。 ノルウェーでは、刑法第311条に従い、架空の形式も「子供を性的に描写する描写」として扱われる可能性があり、架空児童ポルノの所持であろうと違法である。法律は、芸術的・科学的および/または情報的であると見なされる作品を例外とする。 2023年度の積極的平和指数(他者の人権を受け入れること、汚職のレベルが低いこと、情報の流通が自由に行われること、ビジネス環境が良好であること、人的資本のレベルが高いこと、資源が公平に配分されること、隣国との関係が良好であること、政府が十分に機能していることによって決定される)で、ノルウェーは世界1位を獲得した。 ノルウェーは比較的治安が良い国と思われがちだが、日本と比較すると置き引きやスリなどの一般犯罪が多く発生している現状がある。特にオスロ市内の主要観光道路、空港や駅、公共交通機関の車内等での被害が多い。 2022年の『民族および人種研究ジャーナル』によると、ノルウェーの文化は、純粋、平和、無垢という3つの言葉に帰結される。 クラシック音楽においてはロマン派音楽の作曲家エドヴァルド・グリーグ、世界的に著名なピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネス、チェリストのトルルス・モルク、現代音楽作曲家のアルネ・ノールヘイムなどの音楽家を輩出している。 ポピュラー音楽に於いてはメイヘム、サテリコン、エンペラー、ディム・ボルギル、トーケ、リンボニック・アートなどに代表されるブラックメタルや、1980年代後半から1990年代初頭にかけて世界的ヒット曲を生み出したa-ha、ゴシック/EBM系シーンにおいて世界的成功を収めたAPOPTIGMA BERZERKなどのグループの成功は、近年の重要な輸出産業のひとつとなっている。そのほか、ヤン・ガルバレクに代表されるジャズや、伝統的な民謡の影響を受けたフォーク音楽も非常に盛んで世界的に高い評価を得ており、サーミ人のヨイクの歌い手、マリ・ボイネ(英語版)も知られている。 ノルウェー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件、あわせて8件存在する(2017年の第41回世界遺産委員会終了時点)。 ノルウェーではウィンタースポーツが盛んであり、冬季オリンピックではこれまでに数多くのメダリストを輩出する強豪国として知られており、1952年オスロ五輪と1994年リレハンメル五輪も開催されている。なお、これまでノルウェーでは夏季オリンピックが開かれた事は1度も無い。 ノルウェー国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1937年にサッカーリーグのエリテセリエンが創設された。近年では有力な選手を輩出しており「怪物」と呼ばれるアーリング・ハーランドは、2020-21シーズン、2022-23シーズンのUEFAチャンピオンズリーグで得点王に輝いた。ハーランド以外にも、アーセナルで活躍するマルティン・ウーデゴールも世界的に知られている。 ノルウェーサッカー協会(NFF)によって構成されるサッカーノルウェー代表は、FIFAワールドカップには1938年大会で初出場を果たした。さらに1998年大会では、1次リーグでブラジル代表に2-1で勝利するなど番狂わせを起こし初のベスト16に進出した。UEFA欧州選手権には2000年大会で初出場を果たしたが、グループリーグ敗退に終わった。また、サッカー女子代表は世界屈指の強豪国として知られており、FIFA女子ワールドカップやオリンピックでは優勝経験を有する。
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"ノルディックモデルによる高負担高福祉の福祉国家として知られ、国連開発計画(UNDP)による国民の健康と繁栄を示す人間開発指数(HDI)は世界1位である(2020年度)。国連持続可能開発ソリューションネットワークによる世界幸福度報告は世界5位である(2020年度)。民主主義の成熟性も極めて高く評価されており、エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界1位を記録しており「完全な民主主義」に分類されている(2022年度)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも世界1位に輝いている(2020年度)。国連開発計画(UNDP)による国民の健康と繁栄を示す人間開発指数(HDI)は世界一位である(2020年度)。経済平和研究所によるポジティブ平和指数(PPI)は世界一位である(2023年度)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "経済面では1人当たりの国内総生産(GDP)は、ルクセンブルク、スイス、アイスランドに続く世界第4位である(2019年度。国際通貨基金(IMF)による調べ)。独立前の19世紀には農業国だったが、20世紀になると豊富で安価な水力や天然資源を生かして工業化が進み、第二次世界大戦後は特に電気冶金、機械、造船などの分野で工業化が顕著となる。石炭、鉄、銅、ニッケルなど鉱物資源が豊富である。1970年代から北海油田による石油産業が発展して輸出の主品目となっている。沿岸は漁業が盛んであり日本やアイスランドと並ぶ数少ない捕鯨国の一つでもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "人口は500万人ほどで約9割がキリスト教徒でルター福音派が大部分を占める。公用語はノルウェー語だが、ブークモールとニーノシュクという成立事情を異にする二つの書きことばが共存している。住民には金髪・碧眼・長身の所謂「北方人種」が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称はノルウェー語のブークモール (bokmål) では Kongeriket Norge、ニーノシュク (nynorsk) では Kongeriket Noreg、サーミ語ではNorga / Norgga gonagasriika。英語による表記は Kingdom of Norway。通称 Norway。形容詞はNorwegian。日本語による表記はノルウェー王国。通称はノルウェー。ノルウェイとも。古くはノールウヱーと表記された。漢字による表記は諾威で、諾と略される。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "考古学上の発見が示すところによると、ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいた。彼らはおそらくもっと南の地域、ドイツ北部からやってきて、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "9世紀から11世紀までのヴァイキング時代が国家形成の統一運動および拡大の元となった。1130年から1240年までは王位継承権をめぐる内戦が起こった(ノルウェー内戦)。黒死病などによりノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年より条約により従属化され、1536年には正式に独立を失った(デンマーク=ノルウェー)。デンマークがナポレオン1世側についたあとの1814年にスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこのとき独立を図ったが、列強の反対により実現できず、スウェーデン王国との同君連合(スウェーデン=ノルウェー)が形成され、スウェーデン王カール13世がノルウェー王に即位した。1818年にカール13世が死去すると、スウェーデン=ノルウェーはベルナドッテ王朝の支配下となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1750年ごろから第一次世界大戦とロシア革命が起こった1920年までは、ノルウェー北部とロシアのアルハンゲリスクの間でポモール貿易(英語版)と呼ばれる海上貿易が盛んに行われた。ノルウェーで捕れる魚とロシアの穀物を取引し、どちらの社会においても重要度が高かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "20世紀初頭、スウェーデン=ノルウェーの連合を解消しようという運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークのカール王子に打診があった。その後、国民投票により君主国家を設立、議会は満場一致でカール王子をノルウェー王として選出した。彼は独立したノルウェーでホーコン7世として即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、オスカル2世と社民党政府の国民への説得により、ノルウェーの独立が認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ノルウェーは第一次世界大戦では中立国だったが、第二次世界大戦ではドイツによる侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、集団安全保障国家となった。また、1945年7月6日には対日宣戦布告するが、ついに戦火を交えることはなかった。ノルウェーは国際連合設立メンバーであり、また北大西洋条約機構(NATO)原加盟国として、1949年に北大西洋条約に調印した。ノルウェーでは1972年と1994年の2度欧州連合への加盟に関する投票が行われたが2度とも否決され、現在も欧州自由貿易連合(EFTA)の成員に留まっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ノルウェーの政体は議院内閣制の議会制度を政治の中心とし、儀礼的な存在として王室を有する立憲君主制である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "政治体制は議院内閣制である。議会であるストーティングの議員のうち4分の1が第1院のラグティング(英語版)、それ以外が第2院オデルスティング(英語版)を構成するという変則的な二院制を長らく取っていたが、2009年から一院制に移行した。内閣は首相と閣僚16人から構成される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国王は憲法上行政権を有するとされているが、実際にこれを行使することはなく、その権限は首相が握っている。大臣の副署がない国王の行為はすべて無効となる。国王の実際的な役割はおもに儀式や式典などに限られているが、国の象徴として国民意識の統一に重要な役割を果たしている。憲法上、国王の地位について次のような規定が置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "スウェーデン=ノルウェー連合王国時代の1814年の法律で、「国王は、議会または首相を含む内閣を任命する」という重要な執行権が与えられたが、ほとんどの場合は議会が国王の名のもとに行使している。1884年には議院内閣制が成立し、内閣の発足には議会の承認が必要となった。これにより、国王による任命は事実上形式だけのものとなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ノルウェー議会(ストーティング)は一院制で169名の議員からなる。2007年の憲法改正以前には、単一の選挙で選出された議員たちがウーデルスティング(下院127名)とラーグティング(上院42名)に分かれ、憲法改正等を除いては二院制として機能する変則的な体制であった。解散はなく、総選挙は4年に1度行われる。19の県を単位とする比例代表制選挙で150議席が選ばれたのち、19議席が得票率と獲得議席との乖離を調整するために配分される。選挙権はその年に満18歳以上となる者に与えられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、ノーベル平和賞の受賞者を決定するノルウェー・ノーベル委員会の委員はノルウェー議会によって選出される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1814年5月17日(英語版)にアイツヴォル(英語版)会議にて調印されたノルウェー憲法は、ノルウェーを絶対君主制から民主的な立憲君主制へと変化させた。アイツヴォル憲法は言論の自由(100条)、法治主義(96、97、99条)などを定めた。主要な憲法改正には次のようなものがある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "外交面ではデンマーク統治時代からの沿革で中立志向が強いが、第二次世界大戦でドイツ軍に中立を無視されて侵攻された経験から、戦後は中立志向を保ちつつも国際連合や北大西洋条約機構(NATO)に参加している。また、1959年には欧州自由貿易連合(EFTA)にも加盟した。欧州連合(EU)には参加していないが、欧州連合の市民はノルウェーで自由に働く権利を有している。", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2023年5月30日より2年間の改修工事に伴い、下記住所にて仮事務所開設", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大使館(改修中)", "title": "国際関係・外交" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ノルウェー軍は陸軍、海軍、空軍および郷土防衛隊の四軍からなる。沿岸警備隊も海軍の傘下にある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "徴兵制が布かれており、19歳から44歳の全国民は1年間の兵役義務がある。かつて女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性にも兵役義務が課せられるようになった。これにより、ノルウェーは欧州で、また北大西洋条約機構(NATO)で唯一、男女ともに徴兵対象とする国となった。男女ともに徴兵を行う国としてはほかにイスラエルが知られるが、きわめて稀な制度である。また必要な新兵の数は1万人弱であるのに対して、徴兵対象者は6万人もいるために、全員が徴兵されるわけではない。ただし、良心的兵役拒否を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。それでも2016年に徴兵された若者の3分の1は女性であり、男女同室の兵舎で生活する。男女同室の兵舎については、女性兵士の圧倒的多数が賛成している。ノルウェーでは兵士としての従軍経歴を持つことは、その後の社会活動において高く評価され、有利に作用するとされる。2016年まで女性の戦闘機パイロットや潜水艦艦長が誕生している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スカンディナヴィア半島の西岸に位置し、北極海およびノルウェー海に面し、海岸にはフィヨルドが発達している。国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、北大西洋海流の分枝である暖流のノルウェー海流の影響により、不凍港であるほど温暖である。このため、バルト海沿岸よりもノルウェー北部は穏やかな気候となっている。また、陸地のほとんどをスカンディナヴィア山脈が占めるため、平地はないに等しい。最高地点はヨーツンハイム山地(英語版)にあるガルフピッゲンであり、標高は2,469メートル。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "面積はスヴァールバル諸島などを含めて約38.5万kmで、日本よりわずかに広い。ただし、資料によってはスヴァールバル諸島を自治領とみなし国土面積に含めないことがあり、その場合は日本より狭い値となる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "南極大陸のクイーン・モード・ランドおよび南太平洋のペーター1世島の領有を主張しているが、両地は南極条約により領有権が凍結されている。ノルウェーとロシアの間でバレンツ海における領海の境界線の合意が得られていないことにより、当面の間両国によって共管される「グローソネン」(グレーゾーン)と呼ばれる海域があったが、2010年9月15日に両国は境界画定条約に調印した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "酸性雨が降り注ぎ、国連環境計画(UNEP)の1986年調査では、666万ヘクタールのうち26%にあたる171.2万ヘクタールが被害面積であった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ノルウェーは、2020年以降は11のfylker(単数形: fylke)と呼ばれる県に分かれ、それぞれ番号がつけられている。県の下に356のkommuner(単数形: kommune)と呼ばれる基礎自治体がある2層制になっている。首都オスロは県であり基礎自治体でもある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "県番号のうち18番以下は、1919年より続く伝統的な順番(南から北の順に大きくなる)で割り当てられている。一方、30番以上は2018年および2020年に創設された新しい県であり、伝統的順番には基づいていない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2009年のノルウェーのGDPは3,785億ドル(約32兆円)であり、神奈川県とほぼ同じ経済規模である。2016年の名目GDPは3,762億ドル(約42兆円)で、大阪府より大きく東京都より小さい経済規模である。人口は大阪府の5分の3弱であり、2015年の1人あたり国民総所得(GNI)は9万3,820ドルで世界第1位となっている。2021年の一人当たりの購買平価説に基づく国民総所得(GNI)は84,260米ドルで、ノルウェーは世界第4位だが、購買平価説に基づくノルウェーの一人当たりの所得は27,738米ドルとドイツよりも低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "世界有数の原油輸出国であり、原油はノルウェーの輸出の35%(1999年)を占めていたこともあった。1969年に北海油田が発見されて以降、油田・ガス田の開発が進んだ。北海における石油採掘は国有割合の高い企業(たとえばエクイノールでは発行株式の約3分の2を国が保有)によって行われており、福祉国家ノルウェーの財政に大きく寄与している。さらに将来の石油・天然ガスの枯渇に備えて、原油売上による収益は原則として(2006年度予算では74%、2,571億クローネ)ノルウェー政府年金基金として積み立てられ(2006年1月に従来の石油基金と年金基金が統合改組)、国際的な金融市場に投資されている。国家財政収支は石油以外の歳入だけで均衡するよう、歳出抑制策を実施しているが、なお石油基金からの繰り入れが大きな割合を占めている(2006年度予算では歳入9,339億クローネ、うち石油から3,483億クローネ、石油以外から5,856億クローネ、歳出は6,768億クローネ)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "水資源が多く、水力発電は電源構成比で95.3%を占める。スマートグリッド構想の焦点である。漁業、林業、鉱業も盛んである。漁業では特にノルウェーサーモン(アトランティックサーモン)や大西洋サバが日本に多く輸出されている。漁業文化が日本と似ており捕鯨推進国のひとつである(ノルウェーの捕鯨を参照)。そのほか、牧畜などが行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "世界最大の特殊船舶の製造会社のアケル・ソリューションズ、国際的第三者機関DNV GLグループ、舶用通信機のNERA社、ソナーのSIMRAD社、潜水艇のArgus社、マリンファッションのヘリーハンセンなど、海運に関連する産業が盛んである。ウェブブラウザのVivaldiを作っているVivaldi Technologies社、Operaを作っているオペラ社もノルウェーの企業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ノルウェー中央銀行が中央銀行として金融システムの安定や物価の安定を目指しているほか、別部門のNorges Bank Investment Managementがノルウェー政府年金基金の運用を行っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "税率が高く、ギネスブックでは「もっとも税金の高い国」として紹介されたことがある。追加個人税などで所得の100%を超える税金が課税されることがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2011年の統計によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、ほかに少数民族のサーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は55万2,000人と全人口の11.4%を占めている。その内訳はポーランド(60,610人)、スウェーデン(34,108人)パキスタン(31,884人)、イラク(27,827人)、ソマリア(27,523人)、ドイツ(24,394人)、ベトナム(20,452人)、デンマーク(19,522人)、イラン(16,957人)、トルコ(16,430人)の順となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "公用語はノルウェー語である。ノルウェー語には、オスロ周辺の方言をもとにしてデンマーク語の強い影響を受けたブークモール(書物の言葉)、およびデンマーク色を排しノルウェー各地域の方言をもとに言語の「純化」を行い人工的に作られたニーノシュク(新しいノルウェー語)の2種類がある。どちらも公用語として制定されているが、実際に広く話され理解されている言語の9割近くがブークモールである。また、公式にはニーノシュクの使用人口が1割以上いることになっているが、実際には彼らは各地のランスモール(土着の言葉)の話者であり、彼らを総称して「ニーノシュク話者」とされているというのが実態に近い。人工言語としてのニーノシュクを用いる話者は少なく、伝統的な共通語・権威語であるブークモールや外国語を使わずに地域をまたがるコミュニケーションを行うのは困難であるといわれる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ほかにサーミ人がサーミ語を使っている。サーミ語人口は2万人程度である。カラショーク(Kárášjohka-Karasjok)、カウトケイノ(Guovdageaidnu-Kautokeino)、ネッセビィ(Unjárga-Nesseby)、ポルサンゲル(Porsanger)、ターナ(Deatnu-Tana)、コーフョルド(Gáivuotna-Kåfjord)といったサーミ人が多く居住する地区では、サーミ語も公用語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "スヴァールバル諸島ではロシア語も公用語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、イギリスに地理的にも歴史的にも深い関わりのあるノルウェーでは英語のテレビ番組が放送されていることもあり、(特に大都市圏では)多くの国民が英語に明るい。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ノルウェーでは、婚姻の際には、同姓婚姻と夫婦別姓、複合性のいずれかを選択できる。また、2008年より、同性同士の婚姻(同性結婚)が可能となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "キリスト教プロテスタントのルーテル教会が多数派であり、ノルウェー国教会の所属が78.0%を占めている(2010年現在)。1537年に創設されたノルウェー国教会は長らく国教の地位にあったが、2012年にその座を降りた。その他のプロテスタントやローマ・カトリックなどの団体所属は5.4%、キリスト教以外の宗教は2.7%(このうち80.1%がイスラム教)、世俗的ヒューマニズムの立場をとるノルウェーヒューマニスト協会に所属する人の割合は1.7%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "平均寿命は80.8歳(2013年)。おもに一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されている。国民1人あたりの保健支出は、OECD各国において米国に次いで高い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、アルコールは国営企業Vinmonopoletによる専売制となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1人あたりのGDPや平均寿命、就学率、成人識字率ともに世界的に高く、人間開発指数 (HDI) で、世界トップクラスに位置している(2006年度1位)。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また世界でもっとも男女平等が浸透している国としても知られている。男女の就労率の差はわずか0.6%で、男女間の機会均等・社会参加・利益などでも男女の差がなく、社会的要素の利益が男女の垣根なくいかに自由で平等に行き渡っているかを数値化したジェンダー開発指数(GDI)、男女間の機会均等と社会参加の程度をあらわすジェンダー・エンパワーメント指数 (GEM) どちらも世界一である。かつて、徴兵は男性だけの義務となっていたが、2014年に女性も対象とする法案が可決したことから、2015年から女性の徴兵を開始した。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なおGDPに占める税収比は40.5%と上位国のひとつであり(2013年)、 付加価値税 (VAT) も25.0%と上位国のひとつである(2011年)。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易すぎるとして、2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と、保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーではいまだに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやってくる移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数がもっとも激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、できる限りのことをしていかなければならない」とするなどデンマーク、フィンランドと同様に、昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っているとされている。厳密な2021年の学術誌『高等教育』によると、ノルウェーも人種差別がなくなったと思いたいが、人種差別が存在することは明らかで、その解消に取り組んでいる。同じく厳密な雑誌『社会経済的レビュー』の2022年の論文によると、ドイツは雇用に関して南欧人よりも地元の子孫を優先しないが、ノルウェーはそうしているようである。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ノルウェーでは、刑法第311条に従い、架空の形式も「子供を性的に描写する描写」として扱われる可能性があり、架空児童ポルノの所持であろうと違法である。法律は、芸術的・科学的および/または情報的であると見なされる作品を例外とする。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2023年度の積極的平和指数(他者の人権を受け入れること、汚職のレベルが低いこと、情報の流通が自由に行われること、ビジネス環境が良好であること、人的資本のレベルが高いこと、資源が公平に配分されること、隣国との関係が良好であること、政府が十分に機能していることによって決定される)で、ノルウェーは世界1位を獲得した。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ノルウェーは比較的治安が良い国と思われがちだが、日本と比較すると置き引きやスリなどの一般犯罪が多く発生している現状がある。特にオスロ市内の主要観光道路、空港や駅、公共交通機関の車内等での被害が多い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2022年の『民族および人種研究ジャーナル』によると、ノルウェーの文化は、純粋、平和、無垢という3つの言葉に帰結される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クラシック音楽においてはロマン派音楽の作曲家エドヴァルド・グリーグ、世界的に著名なピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネス、チェリストのトルルス・モルク、現代音楽作曲家のアルネ・ノールヘイムなどの音楽家を輩出している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽に於いてはメイヘム、サテリコン、エンペラー、ディム・ボルギル、トーケ、リンボニック・アートなどに代表されるブラックメタルや、1980年代後半から1990年代初頭にかけて世界的ヒット曲を生み出したa-ha、ゴシック/EBM系シーンにおいて世界的成功を収めたAPOPTIGMA BERZERKなどのグループの成功は、近年の重要な輸出産業のひとつとなっている。そのほか、ヤン・ガルバレクに代表されるジャズや、伝統的な民謡の影響を受けたフォーク音楽も非常に盛んで世界的に高い評価を得ており、サーミ人のヨイクの歌い手、マリ・ボイネ(英語版)も知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ノルウェー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件、あわせて8件存在する(2017年の第41回世界遺産委員会終了時点)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ノルウェーではウィンタースポーツが盛んであり、冬季オリンピックではこれまでに数多くのメダリストを輩出する強豪国として知られており、1952年オスロ五輪と1994年リレハンメル五輪も開催されている。なお、これまでノルウェーでは夏季オリンピックが開かれた事は1度も無い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ノルウェー国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1937年にサッカーリーグのエリテセリエンが創設された。近年では有力な選手を輩出しており「怪物」と呼ばれるアーリング・ハーランドは、2020-21シーズン、2022-23シーズンのUEFAチャンピオンズリーグで得点王に輝いた。ハーランド以外にも、アーセナルで活躍するマルティン・ウーデゴールも世界的に知られている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ノルウェーサッカー協会(NFF)によって構成されるサッカーノルウェー代表は、FIFAワールドカップには1938年大会で初出場を果たした。さらに1998年大会では、1次リーグでブラジル代表に2-1で勝利するなど番狂わせを起こし初のベスト16に進出した。UEFA欧州選手権には2000年大会で初出場を果たしたが、グループリーグ敗退に終わった。また、サッカー女子代表は世界屈指の強豪国として知られており、FIFA女子ワールドカップやオリンピックでは優勝経験を有する。", "title": "スポーツ" } ]
ノルウェー王国、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロ・フィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロ。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。欧州連合(EU)には非加盟である。 地理としては国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。このほか、ノルウェー本土から約1,000キロ離れた北大西洋上のヤンマイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。南大西洋にブーベ島を属領として持つ。
{{基礎情報 国 | 略名 = ノルウェー | 日本語国名 = ノルウェー王国 | 公式国名 = '''{{Lang|no|Kongeriket Norge}}'''<span style="font-size: 90%;">(ブークモール)</span><br />'''{{Lang|nno|Kongeriket Noreg}}'''<span style="font-size: 90%;">(ニーノシュク)</span> | 国旗画像 = Flag of Norway.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of Arms of Norway.svg|70px|ノルウェーの国章]] | 国章リンク =([[ノルウェーの国章|国章]]) | 位置画像 = Norway in its region (+Antarctic claims hatched) (Bouvet Island special).svg | 地図画像 = Europe-Norway.svg | 公用語 = [[ノルウェー語]] ([[ブークモール]]と[[ニーノシュク]])、[[サーミ語]]<ref>[https://snl.no/spr%C3%A5k_i_Norge språk i Norge - STORE NORSKE LEKSIKON]</ref> | 首都 = [[オスロ]] | 最大都市 = オスロ | 元首等肩書 = [[ノルウェー国王の一覧|国王]] | 元首等氏名 = [[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]] | 首相等肩書 = [[ノルウェーの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ヨーナス=ガール・ストーレ]] |他元首等肩書1 = [[ストーティング|ストーティング議長]] |他元首等氏名1 = [[w:Masud Gharahkhani|マスド・ガラハニ]] | 面積順位 = 61 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 385,207<ref name="kart_2020">{{Cite web|url=https://www.kartverket.no/Kunnskap/Fakta-om-Norge/Arealstatistikk/Arealstatistikk-Norge/|title=Arealstatistics for Norway 2020|publisher=Kartverket, mapping directory for Norway|year=2020|accessdate=2020-03-01}}</ref> | 水面積率 = 5.7% | 人口統計年 = 2023 | 人口順位 = 117 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 5,488,984 <ref name="ssbf">{{Cite web|url=https://www.ssb.no/en/befolkning/statistikker/folkemengde/aar-per-1-januar|title=Population, 2023-01-01|publisher=Statistics Norway|date=2023-01-01|accessdate=2023-02-27|language=en}}</ref> | 人口追記 =(年初のデータ) | 人口密度値 = 14.3 | GDP統計年元 = 2022 | GDP値元 = 3兆4134億5000万<ref name="economy">{{Cite web |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=142,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database |publisher=IMF |accessdate=2021-10-16}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 32 | GDP値MER = 3625億2200万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 6万7326.071<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 47 | GDP値 = 3545億2600万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 6万5840.973<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br /><br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認 | 建国年月日 = [[スウェーデン=ノルウェー|スウェーデン=ノルウェー連合王国]]より<br />[[1905年]] [[6月7日]]<br />[[1905年]][[10月26日]] | 通貨 = [[ノルウェー・クローネ]] | 通貨コード = NOK | 時間帯 = +1 | 夏時間 = +2<br />[[ノルウェー時間]] | 国歌 = [[我らこの国を愛す|Ja, vi elsker dette landet]]{{no icon}}<br />(そうだ!我らはこの地を愛す)<center>[[ファイル:Norway (National Anthem).ogg]]</center> | ISO 3166-1 = NO / NOR | ccTLD = [[.no]] | 国際電話番号 = 47 | 注記 = 註1 : 6地区では、さらに[[サーミ語]]も[[公用語]]。 }} '''ノルウェー王国'''(ノルウェーおうこく、{{lang-no|Kongeriket Norge/Noreg}})、通称'''ノルウェー'''は、[[北ヨーロッパ]]の[[スカンディナヴィア半島]]西岸に位置する[[立憲君主制]][[国家]]である。[[首都]]は半島南端部に存在する[[オスロ・フィヨルド]]の奥に形成された[[港湾都市]]の[[オスロ]]。東に[[スウェーデン]]、[[ロシア]]、[[フィンランド]]と国境を接している。[[欧州連合]](EU)には非加盟である<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/norway/data.html ノルウェー王国(Kingdom of Norway)基礎データ]外務省</ref>。 地理としては国土は南北に細長く、海岸線は[[北大西洋]]の複数の海域、すなわち[[スカゲラック海峡]]、[[北海]]、[[ノルウェー海]]および[[バレンツ海]]に面している。海岸線には、多くの[[フィヨルド]]が発達する。このほか、ノルウェー本土から約1,000[[キロメートル|キロ]]離れた北大西洋上の[[ヤンマイエン島]]は固有の領土の一部として領有され、[[スヴァールバル条約]]により[[バレンツ海]]の[[スヴァールバル諸島]]を領有している。[[南大西洋]]に[[ブーベ島]]を属領として持つ。 == 概要 == 古くから[[ノルマン人]]が居住し、[[10世紀]]初めに統一王国が成立<ref name=mypedia>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC-112539#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア ノルウェー]</ref>。[[14世紀]]から[[デンマーク]]と[[同君連合]]を形成してデンマークの統治下に置かれた。[[ナポレオン戦争]]でのデンマークの敗戦で[[1814年]]に放棄され[[スウェーデン]]の下で同君連合を形成したが、[[自由主義]]的な{{仮リンク|ノルウェー憲法|label=憲法|en|Constitution of Norway}}の制定と連合法により自治権を得た。[[1905年]]の国民投票によりスウェーデンから独立し、デンマークから王子を国王([[ホーコン7世]])に迎え独立した立憲君主国としてスタートした<ref name=nipponica>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC-112539#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) ノルウェー]</ref>。 [[ノルディックモデル]]による高負担高福祉の[[福祉国家]]として知られ<ref name=OECDrevenue />、[[国連開発計画]](UNDP)による国民の健康と繁栄を示す[[人間開発指数]](HDI)は世界1位である(2020年度)<ref name=":0">[https://www.47news.jp/new_type_pneumonia/5607386.html 日本の「豊かさ」19位、国連 首位ノルウェー、目立つ欧州] - 共同通信</ref>。国連持続可能開発ソリューションネットワークによる[[世界幸福度報告]]は世界5位である(2020年度)<ref>[https://www.viet-jo.com/news/statistics/200326123550.html VIET JO 国連世界幸福度調査、ベトナムは153か国中83位―日本は62位]</ref>。[[民主主義]]の成熟性も極めて高く評価されており、[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、世界1位を記録しており「完全な民主主義」に分類されている(2022年度)<ref> https://www.eiu.com/n/campaigns/democracy-index-2022/</ref>。[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も世界1位に輝いている(2020年度)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58344020S0A420C2000000/ 日本経済新聞 報道自由度、日本66位 国境なき記者団、1つ上昇]</ref>。[[国連開発計画]](UNDP)による国民の健康と繁栄を示す[[人間開発指数]](HDI)は世界一位である(2020年度)<ref name=":0" />。経済平和研究所によるポジティブ平和指数(PPI)は世界一位である(2023年度)<ref name=":7">{{Cite web |url=https://www.visionofhumanity.org/wp-content/uploads/2023/05/Positive-Peace-2023-briefing.pdf |title=Positive Peace 2023 Briefing |access-date=2023-05-18}}</ref>。 経済面では1人当たりの[[国内総生産]](GDP)は、[[ルクセンブルク]]、[[スイス]]、[[アイスランド]]に続く世界第4位である(2019年度。[[国際通貨基金]](IMF)による調べ)<ref>[https://web.archive.org/web/20201224083950/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122400942&g=eco 時事通信 日本はOECD中19位 19年、1人当たりGDP]</ref>。独立前の[[19世紀]]には農業国だったが<ref name=nipponica/>、[[20世紀]]になると豊富で安価な水力や天然資源を生かして工業化が進み、第二次世界大戦後は特に電気冶金、機械、造船などの分野で工業化が顕著となる<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC-112539 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ノルウェー]</ref><ref name=nipponica/>。石炭、鉄、銅、ニッケルなど鉱物資源が豊富である<ref name=mypedia/>。[[1970年代]]から[[北海油田]]による[[石油産業]]が発展して輸出の主品目となっている<ref name=mypedia/>。沿岸は漁業が盛んであり[[日本]]や[[アイスランド]]と並ぶ数少ない[[捕鯨国]]の一つでもある<ref name=mypedia/>。 人口は500万人ほどで約9割がキリスト教徒で[[ルター派|ルター]][[福音派]]が大部分を占める。公用語は[[ノルウェー語]]だが、[[ブークモール]]と[[ニーノシュク]]という成立事情を異にする二つの書きことばが共存している。住民には[[金髪]]・[[碧眼]]・長身の所謂「[[北方人種]]」が多い<ref name=britanica/>。 == 国名 == 正式名称は[[ノルウェー語]]の[[ブークモール]] (bokmål) では {{Lang|no|Kongeriket }}{{audio|No-Norge.oga|Norge|help=no}}、[[ニーノシュク]] (nynorsk) では {{Lang|nno|Kongeriket }}{{audio|No-Noreg.oga|Noreg|help=no}}、サーミ語ではNorga / Norgga gonagasriika。英語による表記は Kingdom of Norway。通称 Norway。形容詞はNorwegian。日本語による表記は'''ノルウェー王国'''。通称は'''ノルウェー'''。'''ノルウェイ'''とも。古くは'''ノールウヱー'''と表記された<ref>青木節一[{{NDLDC|2390925/20}} 『国際聯盟年鑑 1929 昭和4年版』](国立国会図書館デジタルコレクション)、朝日新聞社、4頁</ref>。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による表記]]は'''諾威'''で、'''諾'''と略される。 == 歴史 == {{Main|ノルウェーの歴史}} [[考古学]]上の発見が示すところによると、ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいた。彼らはおそらくもっと南の地域、ドイツ北部からやってきて、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。 [[9世紀]]から[[11世紀]]までの[[ヴァイキング]]時代が国家形成の統一運動および拡大の元となった。[[1130年]]から[[1240年]]までは王位継承権をめぐる内戦が起こった([[:en:Civil war era in Norway|ノルウェー内戦]])。[[黒死病]]などにより[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王家]]が[[1387年]]に途絶え[[デンマーク]]配下となり、[[1450年]]より条約により従属化され、[[1536年]]には正式に独立を失った([[デンマーク=ノルウェー]])。デンマークが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]側についたあとの[[1814年]]に[[スウェーデン]]に引き渡された。[[ノルウェー人]]はこのとき独立を図ったが、列強の反対により実現できず、スウェーデン王国との[[同君連合]]([[スウェーデン=ノルウェー]])が形成され、スウェーデン王[[カール13世]]がノルウェー王に即位した。[[1818年]]にカール13世が死去すると、スウェーデン=ノルウェーは[[ベルナドッテ王朝]]の支配下となった。 1750年ごろから[[第一次世界大戦]]と[[ロシア革命]]が起こった1920年までは、ノルウェー北部とロシアの[[アルハンゲリスク]]の間で{{仮リンク|ポモール貿易|en|Pomor_trade}}と呼ばれる海上貿易が盛んに行われた。ノルウェーで捕れる魚と[[ロシア]]の穀物を取引し、どちらの社会においても重要度が高かった。 [[20世紀]]初頭、スウェーデン=ノルウェーの連合を解消しようという運動が高まり、[[1905年]]にノルウェー側からデンマークのカール王子に打診があった。その後、国民投票により君主国家を設立、議会は満場一致でカール王子をノルウェー王として選出した。彼は独立したノルウェーで[[ホーコン7世]]として即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]と社民党政府の国民への説得により、ノルウェーの独立が認められた。 ノルウェーは[[第一次世界大戦]]では中立国だったが、[[第二次世界大戦]]では[[ドイツ]]による侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、集団安全保障国家となった。また、[[1945年]][[7月6日]]には対日宣戦布告するが、ついに戦火を交えることはなかった。ノルウェーは[[国際連合]]設立メンバーであり、また[[北大西洋条約機構]](NATO)原加盟国として、[[1949年]]に[[北大西洋条約]]に調印した。ノルウェーでは[[1972年]]と[[1994年]]の2度[[欧州連合]]への加盟に関する投票が行われたが2度とも否決され、現在も[[欧州自由貿易連合]](EFTA)の成員に留まっている。 == 政治 == [[ファイル:Harald V Norge.jpg|thumb|right|150px|ハーラル5世国王]] [[ファイル:Jonas Gahr Støre - 25061469895 (cropped).jpg|thumb|right|150px|ガール・ストーレ首相]] [[ファイル:Storting Spring 2016.JPG|thumb|330px|[[ストーティング]](ノルウェー議会議事堂)]] {{Main|ノルウェーの政治}} ノルウェーの[[政体]]は[[議院内閣制]]の[[議会]]制度を政治の中心とし、儀礼的な存在として[[ノルウェー君主一覧|王室]]を有する[[立憲君主制]]である。 政治体制は[[議院内閣制]]である。議会である[[ストーティング]]の議員のうち4分の1が第1院の{{仮リンク|ラグティング (ノルウェー)|label=ラグティング|en|Lagting (Norway)}}、それ以外が第2院{{仮リンク|オデルスティング|en|Odelsting}}を構成するという変則的な二院制を長らく取っていたが、[[2009年]]から一院制に移行した。[[内閣]]は[[ノルウェーの首相|首相]]と閣僚16人から構成される<ref name=nipponica/>。 === 国王 === [[ノルウェー君主一覧|国王]]は憲法上行政権を有するとされているが、実際にこれを行使することはなく、その権限は[[ノルウェーの首相|首相]]が握っている。大臣の副署がない国王の行為はすべて無効となる<ref name=shugiin/>。国王の実際的な役割はおもに儀式や式典などに限られているが、国の象徴として[[国民意識]]の統一に重要な役割を果たしている。憲法上、国王の地位について次のような規定が置かれている。 *憲法第3条「行政権は、国王、又は、この憲法の第6条、第7条若しくは第48条の規定に従い女子が王位を継承した場合には、女王に属する。行政権が女王に属するときは、女王は、国の憲法及び法律において、国王が有する全ての権利及び義務を有する。」<ref name=shugiin >[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi036.pdf/$File/shukenshi036.pdf 衆憲資第36号 天皇制(皇室典範その他の皇族関連法に関する調査を含む)に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会]</ref> *憲法第5条「国王の身体は、神聖であり、国王は、処罰されることなく、また訴追されることもない。責任は、国王の内閣がこれを負う。」<ref name=shugiin/> *憲法第12条「国王は、選挙権を有するノルウェー国民の中から内閣を選任する。内閣は1人の総理大臣と少なくとも7人のその他の閣僚で組織する。 」<ref name=shugiin/> *憲法第25条「国王は、王国の陸海軍の総司令官である。陸軍及び海軍は、議会の承認がなければ、これを増員することも減員することもできない。陸海軍は、外国の役務に用いることはできず、また外国の役務に従事する軍隊は、敵襲に対する援兵を除くの外、議会の承認なくして王国内に入れることはできない。 」<ref name=shugiin/> *憲法第31条「国王の行うすべての決定は、有効となるためには、副署されなければならない。軍隊指揮に関する決定は、報告を提出する者がこれに副署する。その他の決定は、内閣総理大臣が、総理大臣が出席しなかったときは出席者中の第一閣僚が、これに副署する。」<ref name=shugiin/> === 行政 === {{Main|[[ノルウェーの首相]]}} [[スウェーデン=ノルウェー連合王国]]時代の[[1814年]]の法律で、「国王は、議会または[[首相]]を含む[[内閣]]を任命する」という重要な執行権が与えられたが、ほとんどの場合は議会が国王の名のもとに行使している。[[1884年]]には[[議院内閣制]]が成立し、内閣の発足には議会の承認が必要となった。これにより、国王による任命は事実上形式だけのものとなった。 {{See also|{{仮リンク|ノルウェー政府 (2013年~)|no|Erna Solbergs regjering}}}} === 立法 === {{Main|ストーティング}} ノルウェー議会([[ストーティング]])は[[一院制]]で169名<!-- 2005年9月12日実施の選挙以前は165名 -->の議員からなる。2007年の憲法改正以前には、単一の選挙で選出された議員たちがウーデルスティング(下院127名)とラーグティング(上院42名)に分かれ、憲法改正等を除いては[[二院制]]として機能する変則的な体制であった。解散はなく、総選挙は4年に1度行われる。19の県を単位とする[[比例代表制]]選挙で150議席が選ばれたのち、19議席が得票率と獲得議席との乖離を調整するために配分される。選挙権はその年に満18歳以上となる者に与えられている。 なお、[[ノーベル平和賞]]の受賞者を決定する[[ノルウェー・ノーベル委員会]]の委員はノルウェー議会によって選出される。 === 憲法 === {{Main|{{仮リンク|ノルウェー憲法|en|constitution of Norway}}}} [[ファイル:Eidsvoll riksraad 1814.jpeg|230x230px|thumb|1814年、{{仮リンク|アイツヴォルの集り|en|Norwegian Constituent Assembly}}]] [[ファイル:Flaggborg 17mai.jpg|thumb|200x200px|[[5月17日]]の[[憲法記念日]]のパレードで、[[ノルウェーの国旗]]を持って行進するボーイスカウトたち]] {{仮リンク|ノルウェー王国 (1814年)|en|Norway in 1814|label=1814年5月17日}}に{{仮リンク|アイツヴォル|en|Eidsvoll}}会議にて調印されたノルウェー憲法は、ノルウェーを[[絶対君主制]]から民主的な[[立憲君主制]]へと変化させた。{{仮リンク|アイツヴォル憲法|en|constitution of Norway}}は[[言論の自由]](100条)、[[法治主義]](96、97、99条)などを定めた。主要な[[憲法改正]]には次のようなものがある。 * 1814年11月4日 - [[スウェーデン王]]と[[同君連合]]を形成するために再制定された。 * 1851年 - [[ユダヤ人]]の入国禁止条項を撤廃した。 * 1884年 - [[議院内閣制]]が発足し、[[内閣]]は議会の過半数の反対があった場合存続できない慣例が確立した。この議会主義の原則は慣例であり、憲法の条項として明記されたものではなかった。 * 1887年 - [[イエズス会]]と[[修道会]]の禁止が撤廃された。 * 1898年 - 男性の[[普通選挙|普通選挙権]]が確立された。 * 1905年 - スウェーデンとの連合が解消された。 * 1913年 - 男女普通選挙権が確立された。 * 1956年 - [[信教の自由|宗教の自由]]が公認された。 * 2004年 - 表現の自由についての新しい条項、旧100条を置き換え。 * 2007年 - 議院内閣制の明記。一院制議会への移行。 * 2009年 - 同性者同士の婚姻法が執行される。同年同性婚者の養子縁組み法も執行される。 * 2012年 - [[ルーテル教会|福音ルーテル派]]の[[ノルウェー国教会|ノルウェー(国)教会]]が、[[国教]]の地位から外された。 == 国際関係・外交 == {{main|{{仮リンク|ノルウェーの国際関係|en|Foreign relations of Norway}}}} 外交面ではデンマーク統治時代からの沿革で[[中立]]志向が強いが、[[第二次世界大戦]]でドイツ軍に中立を無視されて侵攻された経験から、戦後は中立志向を保ちつつも[[国際連合]]や[[北大西洋条約機構]](NATO)に参加している。また、[[1959年]]には[[欧州自由貿易連合]](EFTA)にも加盟した<ref name=nipponica/>。[[欧州連合]](EU)には参加していないが<ref name="britanica" />、欧州連合の市民はノルウェーで自由に働く権利を有している<ref>{{Cite web |title=Employers: Employing someone who is an EU/EEA national |url=https://www.udi.no/en/word-definitions/employers-employing-someone-who-is-an-eueea-national-/ |website=UDI |access-date=2023-06-09 |language=en}}</ref>。 {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{main|日本とノルウェーの関係}} ;駐日ノルウェー大使館 2023年5月30日より2年間の改修工事に伴い、下記住所にて仮事務所開設<ref>[https://www.norway.no/ja/japan/norway-japan/news-events/news/office-relocation-june-2023/ 大使館仮移転のご案内 Office relocation notice - Norway in Japan]</ref> *住所:[[東京都]][[港区_(東京都)|港区]][[芝公園]]三丁目4-30 *アクセス: **[[東京メトロ日比谷線]][[神谷町駅]]3番出口 **[[都営地下鉄大江戸線]][[赤羽橋駅]]赤羽橋口 **[[都営地下鉄三田線]][[御成門駅]]A1出口 大使館(改修中) *住所:東京都港区[[南麻布]]五丁目12-2 *アクセス:東京メトロ日比谷線[[広尾駅]]3番出口 <gallery> File:ノルウェー大使館の前にスイス大使館と中国大使館商務部.jpg|ノルウェー大使館の前にスイス大使館 File:ノルウェー大使館全景.jpg|ノルウェー大使館全景 File:ノルウェー大使館表札.jpg|ノルウェー大使館表札 File:悲壮な顔をしてこの絵の前に立つ.jpg|悲壮な顔をして[[叫び (エドヴァルド・ムンク)|この絵]]の前に立ってください </gallery> ; 駐ノルウェー日本大使館 *住所:Haakon VIIs gate 9, 0161 Oslo <gallery> ファイル:Oslo, embassy of Japan.JPG|[[オスロ]]の旧日本大使館 </gallery> == 軍事 == {{Main|ノルウェー軍}} [[ノルウェー軍]]は[[ノルウェー陸軍|陸軍]]、[[ノルウェー海軍|海軍]]、[[ノルウェー空軍|空軍]]および[[ノルウェー郷土防衛隊|郷土防衛隊]]の四軍からなる。[[ノルウェー沿岸警備隊|沿岸警備隊]]も海軍の傘下にある。 [[徴兵制]]が布かれており、19歳から44歳の全国民は1年間の兵役義務がある。かつて女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性にも兵役義務が課せられるようになった。これにより、ノルウェーは欧州で、また[[北大西洋条約機構]](NATO)で唯一、男女ともに徴兵対象とする国となった<ref>「ノルウェー王国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)439頁</ref>。男女ともに徴兵を行う国としてはほかにイスラエルが知られるが、きわめて稀な制度である。また必要な新兵の数は1万人弱であるのに対して、徴兵対象者は6万人もいるために、全員が徴兵されるわけではない<ref name=AFP-BB20160906/>。ただし、[[良心的兵役拒否]]を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。それでも2016年に徴兵された若者の3分の1は女性であり<ref name=AFP-BB20160906/>、男女同室の兵舎で生活する<ref name=AFP-BB20160906/>。男女同室の兵舎については、女性兵士の圧倒的多数が賛成している<ref name=AFP-BB20160906/>。ノルウェーでは兵士としての従軍経歴を持つことは、その後の社会活動において高く評価され、有利に作用するとされる<ref name=AFP-BB20160906/>。2016年まで女性の戦闘機パイロットや潜水艦艦長が誕生している<ref name=AFP-BB20160906>[https://www.afpbb.com/articles/-/3098855 女性も徴兵のノルウェー軍、部屋も「男女混合」 AFP BB NEWS 2016年9月6日 13:19 発信地:セテルモエン基地/ノルウェー ヨーロッパ ノルウェー]</REF>。 == 地理 == {{Main|{{仮リンク|ノルウェーの地理|en|Geography of Norway}}}} [[スカンディナヴィア半島]]の西岸に位置し、[[北極海]]および[[ノルウェー海]]に面し、海岸には[[フィヨルド]]が発達している。国土は北緯57度以上という高緯度地帯に位置しているが、[[北大西洋海流]]の分枝である[[暖流]]の[[ノルウェー海流]]の影響により、[[不凍港]]であるほど温暖である。このため、[[バルト海]]沿岸よりもノルウェー北部は穏やかな気候となっている。また、陸地のほとんどを[[スカンディナヴィア山脈]]が占めるため、平地はないに等しい。最高地点は{{仮リンク|ヨーツンハイム山地|en|Jotunheimen}}にある[[ガルヘピッゲン|ガルフピッゲン]]であり、標高は2,469[[メートル]]。 面積はスヴァールバル諸島などを含めて約38.5万[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、[[日本]]よりわずかに広い。ただし、資料によってはスヴァールバル諸島を自治領とみなし国土面積に含めないことがあり、その場合は日本より狭い値となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/j/syakai.html#q2 |title=【東京書籍】会社案内 お問い合わせ よくあるご質問 Q&A 教科書・図書教材:中学校 社会 |publisher=東京書籍 |accessdate=2019-02-08}}</ref>。 [[南極大陸]]の[[ドロンニング・モード・ランド|クイーン・モード・ランド]]および[[南太平洋]]の[[ピョートル1世島|ペーター1世島]]の領有を主張しているが、両地は[[南極条約]]により領有権が凍結されている。ノルウェーとロシアの間でバレンツ海における領海の境界線の合意が得られていないことにより、当面の間両国によって共管される「グローソネン」(グレーゾーン)と呼ばれる海域があったが、2010年9月15日に両国は境界画定条約に調印した。 [[酸性雨]]が降り注ぎ、国連環境計画([[UNEP]])の1986年調査では、666万[[ヘクタール]]のうち26%にあたる171.2万ヘクタールが被害面積であった<ref>石弘之著『地球環境報告』岩波書店《岩波新書(新赤版33)》 1988年、218ページ</ref>。 {{gallery |ファイル:GaldhøpiggenFromFannaråki.jpg|ガルフピッゲン山 |ファイル:Norway-map.png|ノルウェーの地図 }} == 地方行政区分 == {{Main|ノルウェーの県}} [[ファイル:Nye fylker - regjeringen.no ISO 3166-2.svg|right|thumb|300px|ノルウェーの県]] ノルウェーは、2020年以降は11の''fylker''(単数形: ''fylke'')と呼ばれる県に分かれ、それぞれ番号がつけられている。県の下に356の''kommuner''(単数形: ''kommune'')と呼ばれる基礎自治体がある2層制になっている。首都オスロは県であり基礎自治体でもある。 県番号のうち18番以下は、1919年より続く伝統的な順番(南から北の順に大きくなる)で割り当てられている。一方、30番以上は2018年および2020年に創設された新しい県であり、伝統的順番には基づいていない。 * {{0}}3. {{Flagicon image|Oslo komm.svg}} [[オスロ]](Oslo) * 11. {{Flagicon image|Rogaland våpen.svg}} [[ローガラン県]](Rogaland) * 15. {{Flagicon image|Møre og Romsdal våpen.svg}} [[ムーレ・オ・ロムスダール県]](Møre og Romsdal) * 18. {{Flagicon image|Nordland våpen.svg}} [[ヌールラン県]](Nordland) * 30. {{Flagicon image|Viken våpen.svg}} [[ヴィーケン県]](Viken) * 34. {{Flagicon image|Innlandet våpen.svg}} [[インランデ県]](Innlandet) * 38. {{Flagicon image|Vestfold og Telemark våpen.svg}} [[ヴェストフォル・オ・テレマルク県]](Vestfold og Telemark) * 42. {{Flagicon image|Agder våpen.svg}} [[アグデル県]](Agder) * 46. {{Flagicon image|Vestland våpen.svg}} [[ヴェストラン県]](Vestland) * 50. {{Flagicon image|Trøndelag våpen.svg}} [[トロンデラーグ|トロンデラーグ県]](Trøndelag) * 54. {{Flagicon image|Troms og Finnmark våpen.svg}} [[トロムス・オ・フィンマルク県]](Troms og Finnmark / Romsa ja Finnmárku) === 主要都市 === {{main|ノルウェーの都市の一覧}} == 経済 == {{Main|ノルウェーの経済|ノルウェー政府年金基金|ノルウェー中央銀行}} [[ファイル:StatfjordA(Jarvin1982).jpg|180px|right|thumb|[[スタートフィヨルド油田]]]] [[ファイル:Boersen Oslo.jpg|thumb|right|250px|[[オスロ証券取引所]]。[[オスロ]]はノルウェー経済の中枢であり、[[北欧]]屈指の[[世界都市]]である]] [[2009年]]のノルウェーの[[国内総生産|GDP]]は3,785億ドル(約32兆円)であり<ref>[http://www.imf.org/external/ IMF]</ref>{{出典無効|date=2019年2月8日 (金) 09:54 (UTC)|title=このURLには載っていないと思われます。}}、[[神奈川県]]とほぼ同じ[[経済規模]]である<ref name="esri">{{Cite web|和書|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html#kenmin|title=国民経済計算 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100210185302/http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html |archivedate=2010-02-10 |publisher=内閣府 |accessdate=2019-02-08}}</ref>{{出典無効|date=2019年2月8日 (金) 09:54 (UTC)|title=このURLは目次のようなコンテンツしかなく、神奈川県やノルウェーに関する数字はここには直接載っていない。}}。[[2016年]]の名目GDPは3,762億ドル(約42兆円)で<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/norway/data.html |title=ノルウェー基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2019-02-08}}</ref>、[[大阪府]]より大きく[[東京都]]より小さい経済規模である<ref name="esri" />。人口は大阪府の5分の3弱であり、2015年の1人あたり[[国民総所得]](GNI)は9万3,820ドルで世界第1位となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/gnp_2.html |title=(キッズ外務省)1人あたりの国民総所得(GNI)の多い国・地域 |publisher=外務省 |accessdate=2019-02-08}}</ref>。2021年の一人当たりの購買平価説に基づく国民総所得(GNI)は84,260米ドルで、ノルウェーは世界第4位だが<ref>{{Cite web |title=World Bank Open Data |url=https://data.worldbank.org/ |website=World Bank Open Data |access-date=2023-06-15}}</ref>、購買平価説に基づくノルウェーの[[1人当たりの所得|一人当たりの所得]]は27,738米ドルとドイツよりも低い<ref>{{Cite web |title=OECD Statistics |url=https://stats.oecd.org/ |website=stats.oecd.org |access-date=2023-06-15}}</ref>。 世界有数の[[原油]]輸出国であり、原油はノルウェーの輸出の35%([[1999年]])を占めていたこともあった。[[1969年]]に[[北海油田]]が発見されて以降、油田・ガス田の開発が進んだ。[[北海]]における[[石油]]採掘は国有割合の高い企業(たとえば[[エクイノール]]では発行株式の約3分の2を国が保有<ref>{{cite web |url=http://www.statoil.com/en/InvestorCentre/Share/Shareholders/Top20/Pages/default.aspx |title=Top 20 shareholders |publisher=StatoilHydro |date=2010-04-20|accessdate=2010-05-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160919063257/http://www.statoil.com:80/en/InvestorCentre/Share/Shareholders/Top20/Pages/default.aspx |archivedate=2016-09-19}}</ref>)によって行われており、[[福祉国家]]ノルウェーの財政に大きく寄与している。さらに将来の[[石油]]・[[天然ガス]]の枯渇に備えて、原油売上による収益は原則として(2006年度予算では74%、2,571億クローネ)[[ノルウェー政府年金基金]]として積み立てられ([[2006年]]1月に従来の石油基金と年金基金が統合改組)、国際的な[[金融市場]]に投資されている。[[国家財政]]収支は石油以外の歳入だけで均衡するよう、歳出抑制策を実施しているが、なお石油基金からの繰り入れが大きな割合を占めている(2006年度予算では歳入9,339億クローネ、うち石油から3,483億クローネ、石油以外から5,856億クローネ、歳出は6,768億クローネ)。 [[水資源]]が多く、[[水力発電]]は電源構成比で95.3%を占める。[[スマートグリッド]]構想の焦点である。[[漁業]]、[[林業]]、[[鉱業]]も盛んである。漁業では特に[[タイセイヨウサケ|ノルウェーサーモン(アトランティックサーモン)]]や[[サバ|大西洋サバ]]が日本に多く輸出されている。漁業文化が日本と似ており[[捕鯨]]推進国のひとつである([[ノルウェーの捕鯨]]を参照)。そのほか、[[牧畜]]などが行われている。 世界最大の[[特殊船舶]]の製造会社の[[アケル・ソリューションズ]]、国際的第三者機関[[DNV GLグループ]]、[[舶用通信機]]の[[NERA]]社、[[ソナー]]の[[SIMRAD]]社、[[潜水艇]]の[[Argus]]社、[[マリンファッション]]の[[ヘリーハンセン]]など、[[海運]]に関連する産業が盛んである。[[ウェブブラウザ]]の[[Vivaldi (ウェブブラウザ)|Vivaldi]]を作っているVivaldi Technologies社、[[Opera]]を作っている[[オペラ]]社もノルウェーの企業である。 [[ノルウェー中央銀行]]が[[中央銀行]]として[[金融システム]]の安定や物価の安定を目指しているほか、別部門のNorges Bank Investment Managementがノルウェー政府年金基金の運用を行っている。 [[税率]]が高く<ref name=OECDrevenue />、[[ギネス世界記録|ギネスブック]]では「もっとも税金の高い国」として紹介されたことがある。追加個人税などで所得の100%を超える税金が課税されることがある。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ノルウェーの交通|en|Transport in Norway}}}} === 鉄道 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの鉄道|en|Rail transport in Norway}}}} === 航空 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの航空|en|Aviation in Norway}}|ノルウェーの空港の一覧}} == 国民 == [[ファイル:Norway population pyramid.svg |thumb|right|人口ピラミッド]] {{main|{{仮リンク|ノルウェーの人口統計|en|Demographics of Norway}}}} === 民族 === <!-- {{Main|ノルウェーの国民}} --> {{bar box |title=民族構成(ノルウェー) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ノルウェー人]]|gray|82}} {{bar percent|その他|red|18}} }} [[2011年]]の統計<ref>{{cite web |url=http://www.ssb.no/english/subjects/02/01/10/innvbef_en/tab-2011-04-28-04-en.html |title=Statistics Norway – Persons with immigrant background by immigration category and country background |publisher=Ssb.no |date=2011-01-01 |accessdate=2011-07-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110822123633/http://www.ssb.no/english/subjects/02/01/10/innvbef_en/tab-2011-04-28-04-en.html |archivedate=2011年8月22日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>によると[[ゲルマン]]系の[[ノルウェー人]]がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、ほかに少数民族の[[サーミ人]]約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は55万2,000人と全人口の11.4%を占めている<ref name="ssb">{{Cite web|url=http://www.ssb.no/innvbef/|title=Innvandrere fra 216 land |work=Statistics Norway|date=29 April 2010|accessdate=2011-07-25}}</ref>。その内訳は[[ポーランド]](60,610人)、[[スウェーデン]](34,108人)[[パキスタン]](31,884人)、[[イラク]](27,827人)、[[ソマリア]](27,523人)、[[ドイツ]](24,394人)、[[ベトナム]](20,452人)、[[デンマーク]](19,522人)、[[イラン]](16,957人)、[[トルコ]](16,430人)の順となっている。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|ノルウェーの言語|en|Languages of Norway}}}} [[公用語]]は[[ノルウェー語]]である。ノルウェー語には、[[オスロ]]周辺の方言をもとにして[[デンマーク語]]の強い影響を受けた[[ブークモール]](書物の言葉)、およびデンマーク色を排しノルウェー各地域の方言をもとに言語の「[[言語改革#言語純化|純化]]」を行い人工的に作られた[[ニーノシュク]](新しいノルウェー語)の2種類がある。どちらも公用語として制定されているが、実際に広く話され理解されている言語の9割近くがブークモールである。また、公式にはニーノシュクの使用人口が1割以上いることになっているが、実際には彼らは各地のランスモール(土着の言葉)の話者であり、彼らを総称して「ニーノシュク話者」とされているというのが実態に近い。人工言語としてのニーノシュクを用いる話者は少なく、伝統的な共通語・権威語であるブークモールや外国語を使わずに地域をまたがるコミュニケーションを行うのは困難であるといわれる。 ほかにサーミ人が[[サーミ語]]を使っている。サーミ語人口は2万人程度である。[[カラショーク]](Kárášjohka-Karasjok)、[[カウトケイノ]](Guovdageaidnu-Kautokeino)、ネッセビィ(Unjárga-Nesseby)、ポルサンゲル(Porsanger)、ターナ(Deatnu-Tana)、コーフョルド(Gáivuotna-Kåfjord)といったサーミ人が多く居住する地区では、サーミ語も公用語である。 [[スヴァールバル諸島]]ではロシア語も公用語である。 また、[[イギリス]]に地理的にも歴史的にも深い関わりのあるノルウェーでは[[英語]]のテレビ番組が放送されていることもあり、(特に大都市圏では)多くの国民が英語に明るい。 === 婚姻 === ノルウェーでは、婚姻の際には、同姓婚姻と[[夫婦別姓]]、複合性のいずれかを選択できる<ref>[http://www.newsinenglish.no/2016/06/28/more-brides-take-their-husbands-names/ More brides take on husbands’ names], News in English.no, June 28, 2016</ref>。また、2008年より、同性同士の婚姻([[同性結婚]])が可能となっている。 === 宗教 === [[ファイル:Santaandgoat.gif|thumb|upright|粥を持ち、ヤギにまたがった[[ニッセ]]([[サンタクロース]]の原型と言われる。ユールにお粥を炊いて、ニッセに供える習慣がある)]] {{main|{{仮リンク|ノルウェーの宗教|en|Religion in Norway}}}} [[キリスト教]][[プロテスタント]]の[[ルーテル教会]]が多数派であり、[[ノルウェー国教会]]の所属が78.0%を占めている(2010年現在)。[[1537年]]に創設されたノルウェー国教会は長らく[[国教]]の地位にあったが、[[2012年]]にその座を降りた。その他のプロテスタントや[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]などの団体所属は5.4%、キリスト教以外の宗教は2.7%(このうち80.1%が[[イスラム教]])、[[世俗的ヒューマニズム]]の立場をとる[[ノルウェーヒューマニスト協会]]に所属する人の割合は1.7%である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ssb.no/english/subjects/00/minifakta_en/jp/|title=ノルウェーデータ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120922213210/http://www.ssb.no/english/subjects/00/minifakta_en/jp/ |archivedate=2012-09-22 |website=Statistics Norway |accessdate=2019-02-08}}</ref>。 {{also|{{仮リンク|ノルウェーにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Norway}}}} === 教育 === {{main|[[ノルウェーの教育]]}} {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの保健|en|Health in Norway}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|ノルウェーの医療}} 平均寿命は80.8歳(2013年){{Sfn|OECD|2016|loc=Basic Statisticsof Norway}}。おもに一般税収を原資とした[[ユニバーサルヘルスケア]]が達成されている<ref name="emb">{{Cite press release|和書|title=ノルウェーの社会保障制度 |url= https://www.no.emb-japan.go.jp/Japanese/Nikokukan/nikokukan_files/noruweinoshakaihoshouseido.pdf |publisher=ノルウェー日本国大使館 |date=2013-06 |format=PDF}}</ref>。国民1人あたりの保健支出は、OECD各国において米国に次いで高い<ref name="OECD2013">{{Cite report|publisher=OECD |date=2013-11-21 |title=Health at a Glance 2013 |doi=10.1787/health_glance-2013-en }}</ref>。 なお、[[アルコール]]は国営企業[[:en:Vinmonopolet|Vinmonopolet]]による[[専売制]]となっている。 == 社会 == [[ファイル:OECD Tax revenue.svg|thumb|right|350px|OECD各国税収のタイプ別GDP比 (%)。<br />水色は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は社会保障基金<ref name="OECDrevenue">{{Cite report|publisher=OECD |title=Revenue Statistics |doi=10.1787/19963726}}</ref>。]] [[ファイル:OECD General Consumption Taxes.svg|thumb|right|350px|OECD諸国における[[付加価値税]] (VAT) 標準税率(2014年)<ref name=OECDrevenue />]] 1人あたりのGDPや平均寿命、就学率、成人[[識字率]]ともに世界的に高く{{Sfn|OECD|2016|loc=Basic Statisticsof Norway}}、[[人間開発指数]] (HDI) で、世界トップクラスに位置している(2006年度1位)<ref name="hdr">UNDP(国連開発計画)「人間開発報告書(HDR)」より</ref>。 また世界でもっとも男女平等が浸透している国としても知られている。男女の就労率の差はわずか0.6%で{{Sfn|OECD|2016|loc=Basic Statisticsof Norway}}、男女間の[[機会均等]]・[[社会参加]]・利益などでも男女の差がなく、社会的要素の利益が男女の垣根なくいかに自由で平等に行き渡っているかを数値化した[[ジェンダー開発指数]](GDI)、男女間の機会均等と社会参加の程度をあらわす[[ジェンダー・エンパワーメント指数]] (GEM) どちらも世界一である<ref name="hdr" />。かつて、[[徴兵制度|徴兵]]は男性だけの義務となっていたが、2014年に女性も対象とする法案が可決したことから、2015年から女性の徴兵を開始した。 なおGDPに占める[[税収]]比は40.5%と上位国のひとつであり(2013年)<ref name="OECDrevenue">{{Cite report|publisher=OECD |title=Revenue Statistics |doi=10.1787/19963726}}</ref>、 [[付加価値税]] (VAT) も25.0%と上位国のひとつである(2011年)<ref>{{Cite report|publisher=OECD |title=Consumption Tax Trends 2014 |date=2014 |doi=10.1787/ctt-2014-en }}</ref>。 === 移民制度 === {{Main|{{仮リンク|ノルウェーへの移民|en|Immigration to Norway}}}} 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている<ref name="ssb" />。[[ノルウェー労働党]]連立左派政権は移民受け入れは安易すぎるとして、2011年に[[ウトヤ島]]にて[[ノルウェー連続テロ事件]]で青年部を狙われた。[[2013年]]9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、[[進歩党 (ノルウェー)]]という安易な移民受け入れを批判する政党と、[[保守党 (ノルウェー)|保守党]]を中心とした中道右派連合に敗北して下野した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.norway.or.jp/norwayandjapan/policy_soc/policy/election2013result/#.UoZJjOIleLw|title=2013年ノルウェー総選挙結果 |publisher=駐日ノルウェー王国大使館 |accessdate=2019-02-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150610222433/http://www.norway.or.jp/norwayandjapan/policy_soc/policy/election2013result/ |archivedate=2015-07-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/419e5ff755f82b44c84b8551e3d829ec3f0da23b |title=ノルウェーで8年ぶり政権交代、右派政党が初の連立入り|author=木村正人 |work=Yahoo!ニュース|accessdate=2019-02-08}}</ref>。以後はノルウェーではいまだに寛容な受け入れ対策する[[スウェーデン]]を「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党の[[シルヴィ・リストハウグ]]移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやってくる移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格な[[デンマーク]]よりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数がもっとも激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、できる限りのことをしていかなければならない」とするなどデンマーク、[[フィンランド]]と同様に、昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っているとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/95232a24ae21b88f8b98ab666bf89bc51a66c49b |title=北欧諸国への難民申請者数が減少、最も激減したのはノルウェー。ポピュリズム効果?|author=鐙麻樹|work=Yahoo!ニュース |accessdate=2019-02-08}}</ref>。厳密な2021年の学術誌『高等教育』によると、ノルウェーも人種差別がなくなったと思いたいが、人種差別が存在することは明らかで、その解消に取り組んでいる<ref>{{Cite journal|last=Harlap|first=Yael|last2=Riese|first2=Hanne|date=2021-07-13|title=Race talk and white normativity: classroom discourse and narratives in Norwegian higher education|url=https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/13562517.2021.1940925|journal=Teaching in Higher Education|pages=1–17|language=en|doi=10.1080/13562517.2021.1940925|issn=1356-2517}}</ref>。同じく厳密な雑誌『社会経済的レビュー』の2022年の論文によると、ドイツは雇用に関して南欧人よりも地元の子孫を優先しないが、ノルウェーはそうしているようである<ref>{{Cite journal|last=Polavieja|first=Javier G|last2=Fischer-Souan|first2=Maricia|date=2023-06-07|title=The boundary within: Are applicants of Southern European descent discriminated against in Northern European job markets?|url=https://academic.oup.com/ser/article/21/2/795/6656554|journal=Socio-Economic Review|volume=21|issue=2|pages=795–825|language=en|doi=10.1093/ser/mwac047|issn=1475-1461}}</ref>。 === 法律 === ノルウェーでは、刑法第311条に従い、架空の形式も「子供を性的に描写する描写」として扱われる可能性があり、架空児童ポルノの所持であろうと違法である。法律は、芸術的・科学的[[および/または]]情報的であると見なされる作品を例外とする<ref>{{Cite web|title=The Penal Code - Chapter 26. Sexual offences - Lovdata|url=https://lovdata.no/dokument/NLE/lov/2005-05-20-28/KAPITTEL_2-11#KAPITTEL_2-11|website=lovdata.no|accessdate=2021-09-15}}</ref>。 === 平和 === 2023年度の[[経済平和研究所|積極的平和指数]](他者の人権を受け入れること、汚職のレベルが低いこと、情報の流通が自由に行われること、ビジネス環境が良好であること、人的資本のレベルが高いこと、資源が公平に配分されること、隣国との関係が良好であること、政府が十分に機能していることによって決定される)で、ノルウェーは世界1位を獲得した<ref name=":7" /><ref name=":042">{{Cite web|title=Research – Institute for Economics and Peace|url=https://www.economicsandpeace.org/research/|website=www.economicsandpeace.org|accessdate=2021-07-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=経済平和研究所|url=https://www.rotary.org/ja/institute-economics-and-peace|website=www.rotary.org|accessdate=2021-11-10|language=ja}}</ref>。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|ノルウェーにおける犯罪|en|Crime in Norway}}}} ノルウェーは比較的治安が良い国と思われがちだが、日本と比較すると[[置き引き]]や[[スリ]]などの一般[[犯罪]]が多く発生している現状がある。特にオスロ市内の主要観光道路、空港や駅、公共交通機関の車内等での被害が多い。 <!--また、オスロ中央駅周辺においては治安が良いといえず、特に夜間は危険であるため、その時間帯の外出や散策(特に一人歩き)は禁物である<ref>{{Cite web|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_166.html|title=ノルウェー 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-10-23|publisher=外務省}}</ref>。(こんな注意事項みたいなの、どうなの?)--> {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|ノルウェーにおける人権|en|Human rights in Norway}}}} {{節スタブ}} {{Seealso|{{仮リンク|ノルウェー人権センター|en|Norwegian Centre for Human Rights}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|ノルウェーのメディア|en|Mass media in Norway}}}} {{節スタブ}} === テレビ === {{main|{{仮リンク|ノルウェーのテレビ|en|Television in Norway}}}} === インターネット === {{main|{{仮リンク|ノルウェーのインターネット|en|Internet in Norway}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ノルウェーの文化|en|Culture of Norway}}}} {{Seealso|北欧美術#ノルウェー美術|北欧デザイン|ヒュッゲ}} 2022年の『民族および人種研究ジャーナル』によると、ノルウェーの文化は、純粋、平和、無垢という3つの言葉に帰結される<ref>{{Cite journal|last=Harlap|first=Yael|last2=Riese|first2=Hanne|date=2022-05-19|title=“We don’t throw stones, we throw flowers”: race discourse and race evasiveness in the Norwegian university classroom|url=https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/01419870.2021.1904146|journal=Ethnic and Racial Studies|volume=45|issue=7|pages=1218–1238|language=en|doi=10.1080/01419870.2021.1904146|issn=0141-9870}}</ref>。 === 食文化 === {{Main|ノルウェー料理}} {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|ノルウェー文学}} {{節スタブ}} === 音楽 === [[ファイル:Eilif Peterssen-Edvard Grieg 1891.jpg|180px|right|thumb|[[エドヴァルド・グリーグ]]]] {{main|{{仮リンク|ノルウェーの音楽|en|Music of Norway}}}} [[クラシック音楽]]においては[[ロマン派音楽]]の作曲家[[エドヴァルド・グリーグ]]、世界的に著名なピアニストの[[レイフ・オヴェ・アンスネス]]、チェリストの[[トルルス・モルク]]、[[現代音楽]]作曲家の[[アルネ・ノールヘイム]]などの音楽家を輩出している。 [[ポピュラー音楽]]に於いては[[メイヘム]]、[[サテリコン (バンド)|サテリコン]]、[[エンペラー (バンド)|エンペラー]]、[[ディム・ボルギル]]、[[トーケ]]、[[リンボニック・アート]]などに代表される[[ブラックメタル]]や、1980年代後半から1990年代初頭にかけて世界的ヒット曲を生み出した[[a-ha]]、ゴシック/EBM系シーンにおいて世界的成功を収めたAPOPTIGMA BERZERKなどのグループの成功は、近年の重要な輸出産業のひとつとなっている。そのほか、[[ヤン・ガルバレク]]に代表される[[ジャズ]]や、伝統的な[[民謡]]の影響を受けた[[フォークソング|フォーク音楽]]も非常に盛んで世界的に高い評価を得ており、[[サーミ人]]の[[ヨイク]]の歌い手、{{仮リンク|マリ・ボイネ|en|Mari Boine}}も知られている。 === 建築 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの建築|en|Architecture of Norway}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの映画|en|Cinema of Norway}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|ノルウェーの世界遺産}} ノルウェー国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が7件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件、あわせて8件存在する(2017年の[[第41回世界遺産委員会]]終了時点)。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ノルウェーの祝日|en|Public holidays in Norway}}}} {| class="wikitable" style="font-size:90%" |+ 祝祭日 |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | [[1月1日]] | [[元日|新年]] | Nyttårsdag | |- | 移動祝日 | [[聖枝祭|シュロの主日]] | Palmesøndag | [[復活祭]]の前の日曜日 |- | 移動祝日 | [[聖木曜日]] | Skjærtorsdag | 復活祭の前の木曜日 |- | 移動祝日 | [[聖金曜日]] | Langfredag | 復活祭の前の金曜日 |- | 移動祝日 | [[復活祭]]第1日 | Første påskedag | 前日の午後はPåskeaftenと言い、祝日ではないが半休になる |- | 移動祝日 | イースター・マンデー(復活祭第2日) | Andre påskedag | 復活祭の後の月曜日 |- | [[5月1日]] | [[メーデー]] | Arbeidernes dag | |- | [[5月17日]] | 憲法記念日 | Grunnlovsdagen | |- | 移動祝日 | [[キリストの昇天|昇天祭]] | Kristi Himmelfartsdag | 復活祭の39日後 |- | 移動祝日 | [[ペンテコステ|聖霊降臨祭第1日]] | Første pinsedag | 復活祭の49日後 |- | 移動祝日 | 聖霊降臨祭第2日 | Andre pinsedag | 聖霊降臨祭の翌日 |- | [[12月25日]] | [[ユール]]第1日([[クリスマス]]第1日) | Første juledag | 前日の午後はJuleaftenと言い、祝日ではないが半休になる |- | [[12月26日]] | ユール第2日(クリスマス第2日、[[ボクシング・デー]]) | Andre juledag | |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ノルウェーのスポーツ|en|Sport in Norway}}}} ノルウェーでは[[ウィンタースポーツ]]が盛んであり、[[冬季オリンピック]]ではこれまでに数多くのメダリストを輩出する強豪国として知られており、[[1952年オスロオリンピック|1952年オスロ五輪]]と[[1994年リレハンメルオリンピック|1994年リレハンメル五輪]]も開催されている。なお、これまでノルウェーでは[[夏季オリンピック]]が開かれた事は1度も無い。 {{See also|オリンピックのノルウェー選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ノルウェーのサッカー|en|Football in Norway}}}} ノルウェー国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1937年]]にサッカーリーグの[[エリテセリエン]]が創設された。近年では有力な選手を輩出しており「怪物」と呼ばれる'''[[アーリング・ハーランド]]'''は、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2020-21|2020-21シーズン]]、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2022-23|2022-23シーズン]]の[[UEFAチャンピオンズリーグ]]で得点王に輝いた。ハーランド以外にも、[[アーセナルFC|アーセナル]]で活躍する'''[[マルティン・ウーデゴール]]'''も世界的に知られている。 [[ノルウェーサッカー協会]](NFF)によって構成される[[サッカーノルウェー代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]で初出場を果たした。さらに[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]では、1次リーグで[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]に2-1で勝利するなど[[番狂わせ]]を起こし初のベスト16に進出した。[[UEFA欧州選手権]]には[[UEFA EURO 2000|2000年大会]]で初出場を果たしたが、グループリーグ敗退に終わった。また、[[サッカーノルウェー女子代表|サッカー女子代表]]は世界屈指の強豪国として知られており、[[FIFA女子ワールドカップ]]や[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]では優勝経験を有する。 == 著名な出身者 == {{Main|ノルウェー人の一覧}} <!-- * [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい。なお、追加する人物は既に記事がある人物に限ります。また、追加する場合はアイウエオ順(姓)でお願いします。 --> {{colbegin|2}} * [[ニールス・アーベル]] - [[数学者]] * [[エドヴァルド・ムンク]] - [[画家]]('''[[叫び (エドヴァルド・ムンク)|叫び]]の作者''') * [[ロアール・アムンセン]] - [[探検家]] * [[ヘンリック・イプセン]] - [[劇作家]] * [[エドヴァルド・グリーグ]] - [[作曲家]] * [[ロルフ・ラヴランド]] - [[作曲家]] * [[ヨースタイン・ゴルデル]] - [[作家]] * [[アルマウェル・ハンセン]] - [[医学者]]('''[[ハンセン病]]を発見''') * [[キルステン・フラグスタート]] - [[声楽家]] * [[リヴ・ウルマン]] - [[俳優#性別での分類|女優]] * [[シセル]] - [[歌手]] * [[ペター・ソルベルグ]] - 元[[ラリードライバー]] * [[ヘニング・ソルベルグ]] - 元[[ラリードライバー]] * [[ロアルド・ダール]] - [[作家]] * [[フリチョフ・ナンセン]] - [[探検家]] * [[クルト・ニルセン]] - [[歌手]] * [[ヨアキム・ハンセン]] - 元[[総合格闘家]] * [[ユノラフ・エイネモ]] - 元[[総合格闘家]] * [[ビョルンスティエルネ・ビョルンソン]] - [[詩人]] * [[トル・フースホフト]] - 元[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * [[アルフ・プリョイセン]] - [[作家|児童作家]] * [[モートン・ハルケット]] - [[歌手]]([[a-ha]]のボーカル) * [[ポール・ワークター=サヴォイ]] - [[ミュージシャン]]([[a-ha]]のギタリスト) * [[マグネ・フルホルメン]] - [[ミュージシャン]]([[a-ha]]のキーボーディスト) * [[トール・ヘイエルダール]] - [[探検家]] * [[オーレ・グンナー・スールシャール]] - 元[[サッカー選手]] * [[ヨン・アルネ・リーセ]] - 元[[サッカー選手]] * [[フローデ・ヨンセン]] - 元[[サッカー選手]] * [[ビョルン・ダーリ]] - 元[[クロスカントリースキー]]選手 * [[ヨハン・オラフ・コス]] - 元[[スピードスケート]]選手 * [[マリオン・レイヴン]] - [[歌手]] * [[マリット・ラーセン]] - [[歌手]] * [[フルダ・ガルボルク]] - [[作家]] * [[レネ・マーリン]] - [[ミュージシャン]] * [[マグヌス・カールセン]] - [[チェス]]([[2013年]]の世界王者) * [[ジョシュア・キング]] - [[サッカー選手]]([[ワトフォードFC]]所属) * [[アーリング・ハーランド]] - [[サッカー選手]]([[マンチェスター・シティFC]]所属) * [[マルティン・ウーデゴール]] - [[サッカー選手]]([[アーセナルFC]]所属) {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite |title=Economic Survey of Norway 2016 |publisher=OECD |date=2016 |isbn=9789264249554 |doi=10.1787/eco_surveys-nor-2016-en |ref=harv}} == 関連項目 == * [[ノルウェー関係記事の一覧]] * [[ノルウェー君主一覧]] * [[捕鯨問題]] * [[ルーン文字]] * [[ノルウェーの海外領土]] <!-- * [[ノルウェーの通信]] * [[ノルウェーの交通]] * [[ノルウェーの国際関係]] --> == 外部リンク == {{Wiktionary|ノルウェー}} {{Commons&cat|Norge|Norway}} ; 政府 * [https://www.regjeringen.no/no/id4/ ノルウェー王国政府公式サイト]{{no icon}}{{en icon}} * [https://www.kongehuset.no/ ノルウェー王国王室]{{no icon}}{{en icon}} * [https://www.regjeringen.no/no/dep/smk/id875/ ノルウェー王国首相府]{{no icon}}{{en icon}} * [https://www.norway.no/ja/japan/ 在日本国ノルウェー大使館]{{ja icon}} * [https://www.ssb.no/en/befolkning/artikler-og-publikasjoner/minifacts-about-norway ノルウェーデータ]{{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/norway/ 日本外務省 - ノルウェー]{{ja icon}} * [https://www.no.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ノルウェー日本国大使館]{{ja icon}} ; 観光 * [https://www.visitnorway.com/ ノルウェー政府観光局]{{en icon}} * [https://www.visitscandinavia.org/ja/Japan/Norway/ スカンジナビア政府観光局 - ノルウェー]{{リンク切れ|date=2022年2月}}{{ja icon}} ;その他 * [https://www.jetro.go.jp/reportstop/reports/europe/no/ ジェトロ - ノルウェー]{{ja icon}} * {{Googlemap|ノルウェー}} * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{北欧理事会}} {{OECD}} {{欧州自由貿易連合 (EFTA)}} {{Normdaten}} {{Coord|63||N|9||E|display=title}} {{デフォルトソート:のるうええ}} [[Category:ノルウェー|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:先進国]] [[Category:10世紀に成立した国家・領域]]
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トルクメニスタン
トルクメニスタン(トルクメン語: Türkmenistan)は、中央アジア南西部に位置する共和制国家。首都はアシガバートである。 カラクム砂漠が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な石油や天然ガスを埋蔵する。西側でカスピ海に面し、東南がアフガニスタン、西南にイラン、北東をウズベキスタン、北西はカザフスタンと国境を接する。旧ソビエト連邦の構成国の一つで、1991年に独立した。NIS諸国の一国。永世中立国。 2023年現在、自治領・海外領土含めて新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の罹患者が公式に確認されていない唯一の国である。 正式名称はトルクメン語で、Türkmenistan。「トルクメン人の土地」を意味する。公式の英語表記はTurkmenistan。国民・形容詞ともTurkmen。 日本語の表記は、トルクメニスタン。漢字による当て字は土庫曼斯坦。 首都であるアシガバードの郊外には人類最古の農耕集落遺跡の一つであるアナウ遺跡、および紀元前2世紀または紀元前3世紀ごろのパルティア王国(漢名「安息国」)の発祥地とされるニサ遺跡がある。この時代には、現在のアシガバードの位置に小さな集落があったがその後、サーサーン朝ペルシアの領土となった。6世紀には、遊牧民のテュルク系民族に、7世紀からはイスラム帝国(ウマイヤ朝およびアッバース朝)が支配した。9世紀からサーマーン朝、セルジューク朝、ガズナ朝、ホラズム王国などの領地となる。13世紀にはモンゴル帝国が侵攻し、イル・ハン国やティムール朝の統治下となった。 16世紀以降はヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、サファヴィー朝などに絶えず、侵略された。 1869年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸し、1873年にザカスピ軍区を設置。同年、ヒヴァ戦争(ロシア語版)。1880年にザ・カスピ鉄道が開通する。1881年にアレクサンドル2世治下のロシア帝国陸軍がアシガバートを占領し、基地を築く。 翌1882年、アレクサンドル3世治下の帝政ロシアにより、カフカス総督管区内のザカスピ州とされた。ロシア帝国への編入後、ロシア向け綿花栽培が拡大し、1910年ごろよりロシアの綿工業の原綿の供給地の役割を果たし、現在も繊維工業や綿花栽培は主要な産業となっている。 第一次世界大戦中の1916年から1918年にかけて反ロシア大暴動(バスマチ運動)が起きる。1924年にトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国を民族別の共和国に再編し、トルクメン・ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する国の一つとなった。ヨシフ・スターリンによる農業集団化に反発した遊牧民の抵抗が1936年ごろまで続いた。1948年にはアシガバート地震に見舞われ、11万人の犠牲者を出した。 ソ連時代末期の1990年8月22日に主権宣言を行い、10月27日には直接選挙による大統領選で単独候補のサパルムラト・ニヤゾフ最高会議議長が98.8%の得票率で当選した。1991年10月26日の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、翌10月27日に独立した。その2か月後の12月26日、ソ連が解体されたことで晴れて独立国家となる。1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を採択する。傍らで、同年5月にロシアや独立国家共同体(CIS)諸国との集団安全保障条約の署名を拒否した。 1992年6月、大統領選でニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選し、1995年12月、国連総会において「永世中立国」として承認された。なお、永世中立宣言はロシアの影響力の排除が目的と見られている。ニヤゾフ大統領は2002年8月には終身大統領とされ、国内ではニヤゾフ大統領は「テュルクメンバシュ(トルクメン人の長)」を姓としている。 その後、ニヤゾフ大統領は2006年12月21日未明、66歳で没した。その直後、同日中にオヴェズゲリドゥイ・アタエフ議会議長が刑事訴追を理由に大統領代行に選出されず、翌22日に議長を解任された。約2か月後の2007年2月14日に大統領選が行われ、89.23%の得票率を獲得したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が正式にトルクメニスタンの第2代大統領に就任した。その後、2022年3月19日に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男のセルダル・ベルディムハメドフが当選して就任した。 トルクメニスタンの国家元首である大統領は、憲法規定によれば任期は7年で国民の直接選挙により選出される。1992年から首相職が大統領職に統合されて以来、2006年末までサパルムラト・ニヤゾフが終身制の下で大統領職に就き、首相も兼任していた。ニヤゾフは2008年から2010年ごろに大統領選挙を実施すると表明していたが、実施する前にニヤゾフ大統領が没したため、死去後に大統領選挙が行われた。選挙の結果、得票率89.23%(出典:2007年2月14日『朝日新聞』)でほかの候補を圧倒したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が第2代大統領に就任し、2008年に憲法を改正した。 2016年に憲法改正が行われ、大統領の任期延長(5年から7年)と大統領選挙の出馬資格の緩和が行われた。6年後の2022年2月、ベルディムハメドフ大統領が次期大統領選挙を2年前倒しし翌月に実施するよう決定したとの発表が行われている。これは、前年に大統領選挙への立候補が可能となる法定年齢に達した長男セルダル・ベルディムハメドフへの権力移譲を意図したものと解釈された。そして、解釈通りに翌月19日に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男のセルダル・ベルディムハメドフが当選して第3代目として就任している。 国会はマジュリス(Mejlis)と呼ばれる。定数125。議員は単純小選挙区制に基づき国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。2021年1月に発効した改正憲法により、上院に相当する定数56議席の「人民評議会(ハルク・マスラハトイ)」が復活して二院制へと一時移行したが、2023年に廃止され一院制に戻った。議員全員は大統領の承認を得る必要がある。一方、人民評議会の議員は選挙人による間接選挙で48人、大統領による任命で8人が選出され、こちらも任期は5年である。 現在の「人民評議会」と同じ名前の組織がかつて国権の最高機関として存在し、大統領による主宰のもと、マジュリス代議員・閣僚・地方・司法権などの代表が入り、大統領不信任案を提出し、弾劾に関する国民投票を行う権限を有していた。しかし2008年の憲法改正により一度廃止され、権限は議会に移った。この際、それまで50議席だった議会定数は125議席に拡大された。 旧トルクメン共産党(ロシア語版、英語版)の後身であるトルクメニスタン民主党(Türkmenistanyň Demokratik Partiýasy, TDP)による事実上の一党独裁制で、かつてはニヤゾフ初代大統領が同党の議長を務めていた。 憲法では複数政党制が認められているものの、TDP以外の正式登録された合法政党において優位となっているのは、現時点で農業党(ロシア語版)と産業・企業家党の2つしかない。農業党はTDPの地方(農村)幹部により構成される衛星政党であるため、同国において複数政党制は実質には機能していないに等しい。 司法権は最高裁判所に属している。 トルクメニスタンはソビエト連邦崩壊時、アルマトイ宣言に合意したため独立国家共同体(CIS)加盟国となったが、その後に制定されたCIS憲章を批准していないため正式な加盟国とはならなかった。しかしながら脱退したわけではなく、正式加盟国では無いにもかかわらずCISの会議には参加を続けており、2007年には正式に準加盟国と定められた。旧ソ連の中央アジア諸国では唯一、上海協力機構の正式加盟国ではなく、ゲスト参加にとどまっている。一方で北大西洋条約機構(NATO)や日本など西側諸国とも対話や要人の往来を行う全方位外交を行っている。また南隣のイランとの友好関係も重視しており、各分野で協力する文書を2018年に結んだ。 アフガニスタンで2021年に成立したタリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)に対しても、2022年1月に代表団を受け入れるなど接近している。これには、アフガニスタン経由でパキスタンやインドに天然ガスパイプラインを敷設して、中華人民共和国(中国)に偏っている天然ガスの輸出先多角化と価格上昇を意図しているという観測がある。 永世中立国を掲げるものの、実態としては軍事的にも経済的にもロシアと中国の影響力が強い地域でもある。トルクメニスタン産の天然ガスはかつて、ロシア経由でヨーロッパへと輸出されていたが、トルクメニスタン側が値下げに応じなかったため2016年に中断し、2009年に完成した中国向けパイプラインを通じた輸出のみとなり、中国に接近して武器も購入した。ロシア国営企業ガスプロムは2019年にトルクメニスタン産天然ガスの輸入を再開する予定を表明しており、これには同国への影響力回復を目指すロシア政府の意図があると見られると報道されている。 2022年12月14日には、ベルドイムハメドフ大統領が首都アシガバートにトルコのエルドアン大統領、アゼルバイジャンのアリエフ大統領を迎えて会談し、トルクメニスタン産ガスを両国経由でヨーロッパへ輸出するための協力覚書を交わした。 トルクメニスタン軍は、陸軍、海軍、空軍の3軍から構成されている。 国境線の長さは3,736キロ。うち9割がカラクム砂漠で国土面積の多くを占めており、国土の北方はトゥラン低地で占められている。 ウズベキスタンとの国境付近に位置する北東地域にはキジルクム砂漠がある。その中にアムダリヤ川が流れており、そこからカラクム運河が分かれていて、灌漑農業などに利用されている。また、同じくウズベキスタン国境線上の北部地域にはサリカミシュ湖があり、アムダリヤ川の分流であるウズボイ川に通じている。貯水池にはカラクム湖(英語版、ロシア語版)が挙げられる。 一方で、国土に流れる河川にはムルガブ川やアトレク川(英語版)があり、ムルガブ川はマルを通りアフガニスタンの国境を越えて流れ、アトレク川はカスピ海沿いに流れてイランの国境付近の河川とつながっている。なお、国内の河川の多くは水無川(ワジ)である。 山地ならび峡谷はヤンギカラ峡谷(ドイツ語版)が有名であり、国の名所の1つに数えられている。最高地点は、東部のウズベキスタン国境にそびえるアイリババ山(英語版)(海抜3,139メートル)である。 ほぼ全域が砂漠気候である。トルクメニスタンの気候条件は非常に厳しく夏は40 - 50度、冬は0度以下まで寒くなるなど夏と冬の寒暖の差、日中と夜間の寒暖の差が激しい。昼と夜では、20度を超える温度差となることもある。年間降水量はかなり少なくコペト・ダヴ山脈では200 - 400ミリ、カラクム山脈中央部は40 - 50ミリと過酷な状況である。一方で、南・東辺のイランおよびアフガニスタンの国境地帯は降雨量が比較的多いため、国土はステップ気候と地中海性気候の二面を持つ。 夏季に雨はほとんど降らないが、その反面、冬季には国土一帯に雪が降り、この雪は一時的に積雪することがある。 上述の通り、トルクメニスタンは国土の殆どがカラクム砂漠で占められているため、植物の生息域は非常に狭められている状況である。森林面積は413万ヘクタールで、そのほとんどは天然林である。なお、山地の森林は7万9,000ヘクタールほど存在し、川沿いの森林は3万3,400ヘクタールほど存在している。天然林のおもな樹種は砂漠化領域がサクサウール(英語版)やタマリクスで、山地はアルチャ(ビャクシンの一種)、川沿いはコトカケヤナギ(ポプラの一種。現地では、トゥランガと呼ばれている。)が繁殖している。トルクメニスタンでは現在、国土の緑化に力を入れているが、違法伐採が続くために森林の減少傾向による環境破壊が問題となっており、水資源の乏しさも加わって非常に深刻なものとなっている。 5州(ベラヤト,Welaýat )と首都(シャヘル,şäher)のアシガバート市(Aşgabat)で構成される。 地方自治制度はゲンゲシュ(小会議)と地方公共自治機関が構成する。ゲンゲシュは小都市、町村の代表機関である。ゲンゲシュ議員は5年の任期で選出される。 国際通貨基金(IMF)の推計によると、2017年のトルクメニスタンの国内総生産(GDP)は379億ドルである。1人あたりのGDPは6,643ドルで、中央アジア5か国の中ではカザフスタンに次いで2番目、世界平均の約61%の水準にある。 ニヤゾフ時代には対外的には旧宗主国ロシアの影響力からの脱却が図られた。しかし、その手段となるはずだった天然ガスの供給ルートがロシアに限定されていたこともあり、経済的なロシア依存は強く残ることになる。それでも「永世中立国」となることで地政学上の脅威を和らげ、1997年にはイランとの天然ガス供給ルートを開拓するなどの多様化を図った。対露依存の転機は、ニヤゾフ大統領による2006年の中国との天然ガス供給合意だった。この合意によってトルクメニスタンからウズベキスタン、カザフスタンを経由して中国に至る中央アジア・中国天然ガスパイプラインの建設が始まる。さらに後継者のグルバングルィ・ベルディムハメドフ大統領は、翌2007年中国国営石油公社(CNPC)とバクチャールィク(Bagtyarlyk)鉱区での生産分与協定(PSA)を締結し、天然ガス売買契約に調印した。これを境に中国資金のトルクメニスタン進出は加速化し、ガス輸入国としても、2011年には中国がロシアを上回り、ロシアに代わって経済における中国への偏重が始まることになる。 後任のベルディムハメドフ大統領も天然ガス依存の経済からの転換を目指し、輸出産業として石油ガス化学部門を最優先としながらも農業や繊維などの製造業の発展を目標としている。なお、国内消費市場も輸入品依存を改善させるため民間ビジネスの育成にも乗り出している。消費市場では、独立当初のロシア製品の圧倒的シェアはトルコ製品の侵食を受けるようになり、2010年以降は首位の座を奪われた。一方で2012年に急増した中国からの輸入(2012年:輸入金額1,699,117千ドル 国別輸入先第1位、輸入シェア約18.1%)は抑制され、2017年時点で輸入金額は、2012年の約5分の1の368,117千ドル(国別輸入先第4位、輸入シェア約8.4%)となっている。 輸出は、独立後はロシアを中心とした旧ソ連が中心で輸出の9割以上、輸入の8割以上を構成していた。その後はドイツ、アメリカなど欧米の比率が高まるようになり、近年では中国、トルコの存在感が強まっている。2017年時点で輸出の約83.2%(65億7,512.6万ドル)を中国、約5.1%(4億355.3万ドル)をトルコが占めている。一方、輸入はトルコが約23.8%(10億3,798万ドル)を占めている。 主な産業は天然ガス・石油、綿花栽培、繊維工業である。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず、世界第4位の埋蔵量の資源国である。これらの資源の輸出により潤沢な資金流入があるため、経済が豊かで、政府による治安維持が行き届いている。現状では治安は非常によく、近隣諸国と違いテロ事件なども起こっていない。経済成長率は潤沢な資源のおかげで高成長を見せている。同国では、国営企業が経済活動のほぼ全てを押さえ、工業生産の多くを担っている。特に、オンショアの炭化水素生産、輸送、精製、発電、流通、化学、建築資材、教育、医療、メディア企業の分野は、国営で厳しく管理されている。また、国営企業は農業、食品加工、繊維、通信、建設、貿易、サービスの分野にも深く関与している。国営企業は多くの場合、旧態依然とした効率性の悪さが目立つが、戦略的に重要と考えられている。 さらに食料品・日用品や住居などの物価が低く抑えられているほか、教育・医療費が無料とされている。このため、国民生活は実質的な収入金額以上に安定しているといえる。しかし、電気、ガス、飲料水については1993年から、食卓塩については2003年からニヤゾフ前大統領により無償供給としていた制度をベルディムハメドフ大統領は2019年1月に廃止し、有償化した。有償化の理由をベルディムハメドフ大統領は「政府活動の持続的拡大、資源の合理的利用、社会的補助制度の発展のため」と説明している。 トルクメニスタンの主産物は小麦、ナッツ類(おもにピスタチオ)、ハーブ(薬草)類である。ピスタチオはもともと造林用として栽培され、その果実を食用として利用できるため積極的に植林されており、果実は豊作の年で20 - 30トン採取されることがある。同国特産のハーブはアルテミシアとエフェドラで、この2つは料理用や薬品の原材料として用いられることが多い。林業にも力を入れており、その主要となっているのは人工造林である。ただし、環境造林を基本としているので産業造林には特化しておらず、国内の林産業はあまりふるわない。 一方で、ソ連時代から綿花栽培を行っている。しかし灌漑農業での栽培であるために水資源に乏しいトルクメニスタンでは、綿花を主産物とすることに対し賛否両論となっている面を持つ。さらに、毎年の綿花の収穫作業に、教師や医師を含む1万人以上の公務員と10~15歳までの児童も従事させられており、2016年4月に「アリテルナチブニエ・ノボスチ・トルクメニスタナ(「トルクメニスタンの代替ニュース」の意、AHT)」と「国際労働権利フォーラム(ILRF)」がアメリカ合衆国国土安全保障省・関税国境警備局に告発状を提出した。その結果、2018年5月24日に引渡保留命令(WRO、5月18日付)を公開し、トルクメニスタン産綿と同製品のアメリカへの輸入を禁止した。トルクメニスタン政府は、2017年の綿花の収穫量を110万トンと発表している。作付面積は50万ヘクタール。トルクメニスタンから米国向け輸出額の最大シェア(52.0%、718万ドル)を綿・綿織物などが占める(2017年実績、アメリカ側統計、第三国経由を含まず)。 国内消費される食品の多くを輸入に依存しており、食料自給率の向上が大きな課題となっている。このためトルクメニスタン政府は生産プロセス技術の強化、農業生産システムの改革などによる生産性の向上を目指している。特に食肉および小麦、酪農製品の国内生産拡大を急務と位置づけている。主な輸入先は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、イラン、トルコ、アゼルバイジャン、インド、パキスタンといった周辺国である。 トルクメニスタンは他の中央アジア諸国と比較した場合、鉱物資源に乏しいと言える。たとえば、金属鉱物資源は採掘されていない。 ただし、その反面で有機鉱物資源、特に天然ガスに恵まれている。2018年版BP統計によると、埋蔵量はロシア(35.0兆m3、世界シェア約18.1%)、イラン(33.2兆m3、世界シェア約17.2%)、カタール(24.9兆m3世界、シェア約12.9%)に次ぐ世界第4位の19.5兆m3(世界シェア約10.1%)を誇る。2017年時点の天然ガス産出量は約620億m3であり、これは世界シェアの約1.7%に達する。2014年時点であるが、国内消費は277億m3、輸出総量は416億m3(2014年推計)とされる。輸出先は中国が最大で277億m3、次いでロシア(90億m3)、イラン(65億m3)、カザフスタン(5億m3)となっている。2011年、イギリスのGaffney, Cline and Associatesは、ガルクイヌシュ(旧南ヨロテン)ガス田の埋蔵量を13.1兆 - 21.2兆m3と評価し、世界第2位の規模と見立てた。さらに石油埋蔵量は、トルクメニスタン政府の公式統計では、オンショアで530億トン、カスピ海オフショアで182.1億トンの716.4億トンとなっている。しかし、BPは2017年末段階で、1億トンの石油埋蔵量を推計しているに過ぎない。なお、これら石油・ガス収入は同資源の開発管理を所管する大統領直轄の炭化水素資源管理利用庁に納められ、80%が大統領、20%が国庫に拠出される。また、石油生産量は、25.8万バレル/日であり、世界シェアの約0.3%である。 輸出額に占める天然ガスの割合は2017年時点で約83.0%(輸出金額:6,561,439千ドル)であり、原油の割合は約7.8%(輸出金額:615,109千ドル)である。したがって、輸出に占める鉱業セクターの割合は9割に達する。最大の天然ガス田はガルクヌシュ・ガス田(ロシア語版)であり、このガス田は2013年の夏に操業を開始した比較的新しい採掘場となっている。なお、石炭はほとんど採掘されていない。さらに、輸出の大部分を占める天然ガスの輸出先は約99.5%が中国であり、同国への依存がきわめて高い。 メルヴやニサといったシルクロードの遺跡が有名だが、全体として観光業はあまり発展していない。 観光ビザに関しては、海外の先進国や新興諸国に比べ処理のスピードなどが遅めであることからその取得手続きは煩雑である。 政策により物価は非常に安く、期間にかかわらず滞在しやすい。 日本からの観光については現在、シルクロードトラベルインフォメーションセンターとソフィア株式会社とオワダン観光が渡航の手配をしている。 2019年5月29日、ベルディムハメドフ大統領が日本人観光客向けの入国ビザ発給の手数料を軽減(もしくは免除)する決定に署名したとの報道が、政府関連ウェブサイト『トルクメニスタン・セボドニャ』(Туркмении сегодня)から発信されている。この他にも観光ビザ取得の手続きも簡略化を検討するなど、トルクメニスタンが日本との観光交流促進に意欲を示していることが明らかにされている。 トルクメニスタンは、インフラを近代化する取組みの一環として、テクノロジーパークを新規開発している。 ソビエト時代に設立された多くの国立研究機関は、新技術の開発ならび国家における優先事項の変化と共に時代遅れな代物となりつつあった。これにより同国は2009年以降、研究所の数を減らし、既存の研究センターをグループ化して設立する計画を打ち立てた。2011年、首都アシガバート付近の地域であるビクロバ(ロシア語版)にテクノロジーパークの建設が開始されており、様々な関連施設が統合される予定となっている。また、このテクノパークでは、代替エネルギー (太陽光、風力)とナノテクノロジーの開発に関する研究を実施する運びとされている。 最新の2022年国勢調査によると総人口は7,057,841人である。1989年ソ連国勢調査では約352万人であった。国立統計情報研究所が発表した公式推計によると、1995年に450万人、2000年に537万人、2003年4月に600万人、2006年3月に約679万人、2006年7月には約684万人と増加傾向にある。2006年12月のニヤゾフ死去後人口の公式発表は行われなくなり、2012年に実施された国勢調査は結果が公表されなかった。 だがトルクメニスタン政府が発表している人口統計は正確性に疑問を持たれている。外部機関では2005年の人口を約467万人と推定している。また政府に近い関係者によると2021年の予備調査の時点で人口は280万人にも満たなかったという。背景には出生率の低下と、抑圧的な政治体制と生活難による国民の脱出が指摘されている。アシガバードの情報筋によると2008年から2018年にかけて200万人が国外へ脱出し、深刻な人口減少に見舞われているという。 トルクメン人が人口の大半を占め、ロシア人やウズベク人も多い。現在、ロシア人の人口は減少傾向にある。2003年時点での民族ごとの人口比は、トルクメン人 が85%、ウズベク人が5%、ロシア人が4%、その他が6%である。 ソ連時代の名残りから、人名はロシア語風の姓名が多く見受けられる。 トルクメン語72%、 ロシア語12%、ウズベク語9%、その他7%。 ロシア語も通用するが、トルクメン人同士は主にトルクメン語で会話する。ただ、トルクメン人でも長く都市部に住んでいる者やエリートなどの中にはロシア語を母語とし、トルクメン語が満足に話せない者もいる。初代のニヤゾフ大統領もその一人だった。 婚姻時に、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)か、共通の姓(同姓)かを選択することができる。 イスラム教スンナ派が大多数。キリスト教正教会の信徒も一部存在する。 2015年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である。 2018年の推計によれば、国民の平均寿命は70.7歳(男性:67.6歳、女性:73.9歳)である。また、前大統領であったベルディムハメドフが歯科医師ということもあり、病院・医療関連へは個人的な思い入れが大きいという。医療機器に関してはドイツが先行している。また、医療分野でのITシステム導入は、医療に対する消費者への簡易アクセスを可能にするものとして重要視されている。 トルクメニスタンの治安は経済の項目欄でも記されている通り、比較的安定している面を持つが、犯罪統計を一切公表していないためか実際の犯罪発生状況を正確に把握することが困難な状態にあり、危険と判断されるレベルで捉えられていることが多い。国連薬物犯罪事務所(UNODC=United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、統計のある最新の2006年の数値では、10万人あたりの殺人(既遂)が約4.2件(認知件数:203件)、窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)は、約29.7件(認知件数:1,431件)である。殺人は中央アジア5か国の中ではカザフスタン(約11.3件[2008年]、2015年は減少して約4.8件)、キルギス(約8.3件[2006年]、2016年は減少して約4.5件)に次いで3番目であり、窃盗はウズベキスタンを除いた4か国の中では一番低い。 現在、海外からの訪問者が現地で盗難被害に遭う事件が後を絶たない。同地の警察は贈収賄が横行している問題も根強い。 両替を行うブラックマーケットも存在し、実際の為替レートとは違う金額で換金が行われるなどの被害も多発している。 さらに、売春を行っていると思わしき女性と一緒にいた外国人男性が現地の警察から嫌がらせを受けたという被害報告も出ている。 トルクメニスタンにおける法執行機関は3つの公的機関で構成されている。 トルクメニスタンでは、国内の少数民族に対する差別が今も続いている。一例として、同国に散在する世界的少数民族のバローチ人の文化やその言葉を教えることが禁じられている。 また、トルクメニスタンでは2003年にロシアとの二重国籍を廃止している。そこからロシアのパスポートを持たないトルクメニスタン生まれのロシア人は、トルクメン人に認定される形で自身のアイデンティティーを奪われ、ロシアへの出入国も永久に行えない可能性が高まっている。加えて数千人のロシア人がトルクメニスタンから財産などを放棄したままで出国するよう促されたという話もある。 トルクメニスタンは、世界で最も厳しくメディアを統制している国家の一つに数えられる。ニヤゾフ政権時代は極端な報道規制により海外から多くの批判を受けた。現在のベルディムハメドフ政権も前政権同様に独裁体制を一貫している点から、言論の自由と報道の自由を侵害する姿勢が強く、海外諸国ではその現状に対して今も批判が絶えない。 国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では最下位にランクづけされており、情報の統制が色濃い面が見受けられる。 アハル・テケというトルクメニスタン名産の馬はトルクメニスタンの誇りとされ、アレクサンダー大王もお気に入りだったという。このほか、トルクメン絨毯も名産品の一つ。 ペルシア(イラン)やインドの音楽の影響下にある独自の民族音楽がある。 また、ソ連時代からジャズや軽音楽のバンドの活動もあり、打楽器奏者 Rishad Shafi をリーダーとするバンド Гунеш(Gunesh Ensemble)のレコードがソ連国営レコード会社メロディアから発売されていた。同バンドは高度な演奏技術を持ち、トルクメニスタンを代表するバンドとして西側諸国でも高い評価を得ている。 トルクメニスタン国内には、UNESCOの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。 2002年、ニヤゾフ元大統領の独断により月の名称と曜日の名称が独自のものに変えられた。しかし国民には不評で2008年4月には元に戻す法案が提出され、2009年から元の月と曜日の名称に戻った。 トルクメニスタンのスポーツは多種多様なものとなっており、球技ではサッカー、バスケットボール、テニス、ハンドボールなど、ウィンタースポーツではアイスホッケー、格闘技においてはレスリング、柔道、ボクシング、ムエタイで能力の高い選手を輩出している。さらにオリンピックへの出場経験もあり、重量挙げや陸上競技にも力を入れている。 傍らで馬を用いたスポーツが国内各地で開催されており、特に競馬は専用の競技場のあるアシガバートで人気を博している。一方、頭脳スポーツではチェスに特化した面を持ち、これまで4人の選手を世界に送り出している。 トルクメニスタン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのトルクメニスタン・リーグが創設された。FKアルティン・アシルが圧倒的な強さを誇っており、2014年から2021年までにリーグ8連覇を達成している。 トルクメニスタンサッカー連盟(TFF)によって構成されるサッカートルクメニスタン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしAFCアジアカップでは、2004年大会と2019年大会で2度の出場を果たしている。AFCチャレンジカップでは2010年大会と続く2012年大会で準優勝に輝いており、近年は力をつけて来ている。 著名な人物として詩人のマフトゥムグル(英語版)がおり、トルクメニスタンの国民的詩人とも言われている。首都・アシガバートのメインストリートは「マフトゥムグル通り」と名づけられおり、バルカン州にはマフトゥムグル県(英語版)が置かれている。出身地は世界遺産の「ゴンバデ・カーブース」でも有名なゴンバデ・カーヴース(英語版)(現イラン・ゴレスターン州)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トルクメニスタン(トルクメン語: Türkmenistan)は、中央アジア南西部に位置する共和制国家。首都はアシガバートである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "カラクム砂漠が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な石油や天然ガスを埋蔵する。西側でカスピ海に面し、東南がアフガニスタン、西南にイラン、北東をウズベキスタン、北西はカザフスタンと国境を接する。旧ソビエト連邦の構成国の一つで、1991年に独立した。NIS諸国の一国。永世中立国。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2023年現在、自治領・海外領土含めて新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の罹患者が公式に確認されていない唯一の国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称はトルクメン語で、Türkmenistan。「トルクメン人の土地」を意味する。公式の英語表記はTurkmenistan。国民・形容詞ともTurkmen。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、トルクメニスタン。漢字による当て字は土庫曼斯坦。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "首都であるアシガバードの郊外には人類最古の農耕集落遺跡の一つであるアナウ遺跡、および紀元前2世紀または紀元前3世紀ごろのパルティア王国(漢名「安息国」)の発祥地とされるニサ遺跡がある。この時代には、現在のアシガバードの位置に小さな集落があったがその後、サーサーン朝ペルシアの領土となった。6世紀には、遊牧民のテュルク系民族に、7世紀からはイスラム帝国(ウマイヤ朝およびアッバース朝)が支配した。9世紀からサーマーン朝、セルジューク朝、ガズナ朝、ホラズム王国などの領地となる。13世紀にはモンゴル帝国が侵攻し、イル・ハン国やティムール朝の統治下となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "16世紀以降はヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、サファヴィー朝などに絶えず、侵略された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1869年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸し、1873年にザカスピ軍区を設置。同年、ヒヴァ戦争(ロシア語版)。1880年にザ・カスピ鉄道が開通する。1881年にアレクサンドル2世治下のロシア帝国陸軍がアシガバートを占領し、基地を築く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "翌1882年、アレクサンドル3世治下の帝政ロシアにより、カフカス総督管区内のザカスピ州とされた。ロシア帝国への編入後、ロシア向け綿花栽培が拡大し、1910年ごろよりロシアの綿工業の原綿の供給地の役割を果たし、現在も繊維工業や綿花栽培は主要な産業となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦中の1916年から1918年にかけて反ロシア大暴動(バスマチ運動)が起きる。1924年にトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国を民族別の共和国に再編し、トルクメン・ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する国の一つとなった。ヨシフ・スターリンによる農業集団化に反発した遊牧民の抵抗が1936年ごろまで続いた。1948年にはアシガバート地震に見舞われ、11万人の犠牲者を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ソ連時代末期の1990年8月22日に主権宣言を行い、10月27日には直接選挙による大統領選で単独候補のサパルムラト・ニヤゾフ最高会議議長が98.8%の得票率で当選した。1991年10月26日の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、翌10月27日に独立した。その2か月後の12月26日、ソ連が解体されたことで晴れて独立国家となる。1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を採択する。傍らで、同年5月にロシアや独立国家共同体(CIS)諸国との集団安全保障条約の署名を拒否した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1992年6月、大統領選でニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選し、1995年12月、国連総会において「永世中立国」として承認された。なお、永世中立宣言はロシアの影響力の排除が目的と見られている。ニヤゾフ大統領は2002年8月には終身大統領とされ、国内ではニヤゾフ大統領は「テュルクメンバシュ(トルクメン人の長)」を姓としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、ニヤゾフ大統領は2006年12月21日未明、66歳で没した。その直後、同日中にオヴェズゲリドゥイ・アタエフ議会議長が刑事訴追を理由に大統領代行に選出されず、翌22日に議長を解任された。約2か月後の2007年2月14日に大統領選が行われ、89.23%の得票率を獲得したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が正式にトルクメニスタンの第2代大統領に就任した。その後、2022年3月19日に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男のセルダル・ベルディムハメドフが当選して就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンの国家元首である大統領は、憲法規定によれば任期は7年で国民の直接選挙により選出される。1992年から首相職が大統領職に統合されて以来、2006年末までサパルムラト・ニヤゾフが終身制の下で大統領職に就き、首相も兼任していた。ニヤゾフは2008年から2010年ごろに大統領選挙を実施すると表明していたが、実施する前にニヤゾフ大統領が没したため、死去後に大統領選挙が行われた。選挙の結果、得票率89.23%(出典:2007年2月14日『朝日新聞』)でほかの候補を圧倒したグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行が第2代大統領に就任し、2008年に憲法を改正した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2016年に憲法改正が行われ、大統領の任期延長(5年から7年)と大統領選挙の出馬資格の緩和が行われた。6年後の2022年2月、ベルディムハメドフ大統領が次期大統領選挙を2年前倒しし翌月に実施するよう決定したとの発表が行われている。これは、前年に大統領選挙への立候補が可能となる法定年齢に達した長男セルダル・ベルディムハメドフへの権力移譲を意図したものと解釈された。そして、解釈通りに翌月19日に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男のセルダル・ベルディムハメドフが当選して第3代目として就任している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "国会はマジュリス(Mejlis)と呼ばれる。定数125。議員は単純小選挙区制に基づき国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。2021年1月に発効した改正憲法により、上院に相当する定数56議席の「人民評議会(ハルク・マスラハトイ)」が復活して二院制へと一時移行したが、2023年に廃止され一院制に戻った。議員全員は大統領の承認を得る必要がある。一方、人民評議会の議員は選挙人による間接選挙で48人、大統領による任命で8人が選出され、こちらも任期は5年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在の「人民評議会」と同じ名前の組織がかつて国権の最高機関として存在し、大統領による主宰のもと、マジュリス代議員・閣僚・地方・司法権などの代表が入り、大統領不信任案を提出し、弾劾に関する国民投票を行う権限を有していた。しかし2008年の憲法改正により一度廃止され、権限は議会に移った。この際、それまで50議席だった議会定数は125議席に拡大された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "旧トルクメン共産党(ロシア語版、英語版)の後身であるトルクメニスタン民主党(Türkmenistanyň Demokratik Partiýasy, TDP)による事実上の一党独裁制で、かつてはニヤゾフ初代大統領が同党の議長を務めていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "憲法では複数政党制が認められているものの、TDP以外の正式登録された合法政党において優位となっているのは、現時点で農業党(ロシア語版)と産業・企業家党の2つしかない。農業党はTDPの地方(農村)幹部により構成される衛星政党であるため、同国において複数政党制は実質には機能していないに等しい。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンはソビエト連邦崩壊時、アルマトイ宣言に合意したため独立国家共同体(CIS)加盟国となったが、その後に制定されたCIS憲章を批准していないため正式な加盟国とはならなかった。しかしながら脱退したわけではなく、正式加盟国では無いにもかかわらずCISの会議には参加を続けており、2007年には正式に準加盟国と定められた。旧ソ連の中央アジア諸国では唯一、上海協力機構の正式加盟国ではなく、ゲスト参加にとどまっている。一方で北大西洋条約機構(NATO)や日本など西側諸国とも対話や要人の往来を行う全方位外交を行っている。また南隣のイランとの友好関係も重視しており、各分野で協力する文書を2018年に結んだ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アフガニスタンで2021年に成立したタリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)に対しても、2022年1月に代表団を受け入れるなど接近している。これには、アフガニスタン経由でパキスタンやインドに天然ガスパイプラインを敷設して、中華人民共和国(中国)に偏っている天然ガスの輸出先多角化と価格上昇を意図しているという観測がある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "永世中立国を掲げるものの、実態としては軍事的にも経済的にもロシアと中国の影響力が強い地域でもある。トルクメニスタン産の天然ガスはかつて、ロシア経由でヨーロッパへと輸出されていたが、トルクメニスタン側が値下げに応じなかったため2016年に中断し、2009年に完成した中国向けパイプラインを通じた輸出のみとなり、中国に接近して武器も購入した。ロシア国営企業ガスプロムは2019年にトルクメニスタン産天然ガスの輸入を再開する予定を表明しており、これには同国への影響力回復を目指すロシア政府の意図があると見られると報道されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2022年12月14日には、ベルドイムハメドフ大統領が首都アシガバートにトルコのエルドアン大統領、アゼルバイジャンのアリエフ大統領を迎えて会談し、トルクメニスタン産ガスを両国経由でヨーロッパへ輸出するための協力覚書を交わした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "トルクメニスタン軍は、陸軍、海軍、空軍の3軍から構成されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国境線の長さは3,736キロ。うち9割がカラクム砂漠で国土面積の多くを占めており、国土の北方はトゥラン低地で占められている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ウズベキスタンとの国境付近に位置する北東地域にはキジルクム砂漠がある。その中にアムダリヤ川が流れており、そこからカラクム運河が分かれていて、灌漑農業などに利用されている。また、同じくウズベキスタン国境線上の北部地域にはサリカミシュ湖があり、アムダリヤ川の分流であるウズボイ川に通じている。貯水池にはカラクム湖(英語版、ロシア語版)が挙げられる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方で、国土に流れる河川にはムルガブ川やアトレク川(英語版)があり、ムルガブ川はマルを通りアフガニスタンの国境を越えて流れ、アトレク川はカスピ海沿いに流れてイランの国境付近の河川とつながっている。なお、国内の河川の多くは水無川(ワジ)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "山地ならび峡谷はヤンギカラ峡谷(ドイツ語版)が有名であり、国の名所の1つに数えられている。最高地点は、東部のウズベキスタン国境にそびえるアイリババ山(英語版)(海抜3,139メートル)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ほぼ全域が砂漠気候である。トルクメニスタンの気候条件は非常に厳しく夏は40 - 50度、冬は0度以下まで寒くなるなど夏と冬の寒暖の差、日中と夜間の寒暖の差が激しい。昼と夜では、20度を超える温度差となることもある。年間降水量はかなり少なくコペト・ダヴ山脈では200 - 400ミリ、カラクム山脈中央部は40 - 50ミリと過酷な状況である。一方で、南・東辺のイランおよびアフガニスタンの国境地帯は降雨量が比較的多いため、国土はステップ気候と地中海性気候の二面を持つ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "夏季に雨はほとんど降らないが、その反面、冬季には国土一帯に雪が降り、この雪は一時的に積雪することがある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上述の通り、トルクメニスタンは国土の殆どがカラクム砂漠で占められているため、植物の生息域は非常に狭められている状況である。森林面積は413万ヘクタールで、そのほとんどは天然林である。なお、山地の森林は7万9,000ヘクタールほど存在し、川沿いの森林は3万3,400ヘクタールほど存在している。天然林のおもな樹種は砂漠化領域がサクサウール(英語版)やタマリクスで、山地はアルチャ(ビャクシンの一種)、川沿いはコトカケヤナギ(ポプラの一種。現地では、トゥランガと呼ばれている。)が繁殖している。トルクメニスタンでは現在、国土の緑化に力を入れているが、違法伐採が続くために森林の減少傾向による環境破壊が問題となっており、水資源の乏しさも加わって非常に深刻なものとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "5州(ベラヤト,Welaýat )と首都(シャヘル,şäher)のアシガバート市(Aşgabat)で構成される。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "地方自治制度はゲンゲシュ(小会議)と地方公共自治機関が構成する。ゲンゲシュは小都市、町村の代表機関である。ゲンゲシュ議員は5年の任期で選出される。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国際通貨基金(IMF)の推計によると、2017年のトルクメニスタンの国内総生産(GDP)は379億ドルである。1人あたりのGDPは6,643ドルで、中央アジア5か国の中ではカザフスタンに次いで2番目、世界平均の約61%の水準にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ニヤゾフ時代には対外的には旧宗主国ロシアの影響力からの脱却が図られた。しかし、その手段となるはずだった天然ガスの供給ルートがロシアに限定されていたこともあり、経済的なロシア依存は強く残ることになる。それでも「永世中立国」となることで地政学上の脅威を和らげ、1997年にはイランとの天然ガス供給ルートを開拓するなどの多様化を図った。対露依存の転機は、ニヤゾフ大統領による2006年の中国との天然ガス供給合意だった。この合意によってトルクメニスタンからウズベキスタン、カザフスタンを経由して中国に至る中央アジア・中国天然ガスパイプラインの建設が始まる。さらに後継者のグルバングルィ・ベルディムハメドフ大統領は、翌2007年中国国営石油公社(CNPC)とバクチャールィク(Bagtyarlyk)鉱区での生産分与協定(PSA)を締結し、天然ガス売買契約に調印した。これを境に中国資金のトルクメニスタン進出は加速化し、ガス輸入国としても、2011年には中国がロシアを上回り、ロシアに代わって経済における中国への偏重が始まることになる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "後任のベルディムハメドフ大統領も天然ガス依存の経済からの転換を目指し、輸出産業として石油ガス化学部門を最優先としながらも農業や繊維などの製造業の発展を目標としている。なお、国内消費市場も輸入品依存を改善させるため民間ビジネスの育成にも乗り出している。消費市場では、独立当初のロシア製品の圧倒的シェアはトルコ製品の侵食を受けるようになり、2010年以降は首位の座を奪われた。一方で2012年に急増した中国からの輸入(2012年:輸入金額1,699,117千ドル 国別輸入先第1位、輸入シェア約18.1%)は抑制され、2017年時点で輸入金額は、2012年の約5分の1の368,117千ドル(国別輸入先第4位、輸入シェア約8.4%)となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "輸出は、独立後はロシアを中心とした旧ソ連が中心で輸出の9割以上、輸入の8割以上を構成していた。その後はドイツ、アメリカなど欧米の比率が高まるようになり、近年では中国、トルコの存在感が強まっている。2017年時点で輸出の約83.2%(65億7,512.6万ドル)を中国、約5.1%(4億355.3万ドル)をトルコが占めている。一方、輸入はトルコが約23.8%(10億3,798万ドル)を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "主な産業は天然ガス・石油、綿花栽培、繊維工業である。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず、世界第4位の埋蔵量の資源国である。これらの資源の輸出により潤沢な資金流入があるため、経済が豊かで、政府による治安維持が行き届いている。現状では治安は非常によく、近隣諸国と違いテロ事件なども起こっていない。経済成長率は潤沢な資源のおかげで高成長を見せている。同国では、国営企業が経済活動のほぼ全てを押さえ、工業生産の多くを担っている。特に、オンショアの炭化水素生産、輸送、精製、発電、流通、化学、建築資材、教育、医療、メディア企業の分野は、国営で厳しく管理されている。また、国営企業は農業、食品加工、繊維、通信、建設、貿易、サービスの分野にも深く関与している。国営企業は多くの場合、旧態依然とした効率性の悪さが目立つが、戦略的に重要と考えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "さらに食料品・日用品や住居などの物価が低く抑えられているほか、教育・医療費が無料とされている。このため、国民生活は実質的な収入金額以上に安定しているといえる。しかし、電気、ガス、飲料水については1993年から、食卓塩については2003年からニヤゾフ前大統領により無償供給としていた制度をベルディムハメドフ大統領は2019年1月に廃止し、有償化した。有償化の理由をベルディムハメドフ大統領は「政府活動の持続的拡大、資源の合理的利用、社会的補助制度の発展のため」と説明している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンの主産物は小麦、ナッツ類(おもにピスタチオ)、ハーブ(薬草)類である。ピスタチオはもともと造林用として栽培され、その果実を食用として利用できるため積極的に植林されており、果実は豊作の年で20 - 30トン採取されることがある。同国特産のハーブはアルテミシアとエフェドラで、この2つは料理用や薬品の原材料として用いられることが多い。林業にも力を入れており、その主要となっているのは人工造林である。ただし、環境造林を基本としているので産業造林には特化しておらず、国内の林産業はあまりふるわない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方で、ソ連時代から綿花栽培を行っている。しかし灌漑農業での栽培であるために水資源に乏しいトルクメニスタンでは、綿花を主産物とすることに対し賛否両論となっている面を持つ。さらに、毎年の綿花の収穫作業に、教師や医師を含む1万人以上の公務員と10~15歳までの児童も従事させられており、2016年4月に「アリテルナチブニエ・ノボスチ・トルクメニスタナ(「トルクメニスタンの代替ニュース」の意、AHT)」と「国際労働権利フォーラム(ILRF)」がアメリカ合衆国国土安全保障省・関税国境警備局に告発状を提出した。その結果、2018年5月24日に引渡保留命令(WRO、5月18日付)を公開し、トルクメニスタン産綿と同製品のアメリカへの輸入を禁止した。トルクメニスタン政府は、2017年の綿花の収穫量を110万トンと発表している。作付面積は50万ヘクタール。トルクメニスタンから米国向け輸出額の最大シェア(52.0%、718万ドル)を綿・綿織物などが占める(2017年実績、アメリカ側統計、第三国経由を含まず)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "国内消費される食品の多くを輸入に依存しており、食料自給率の向上が大きな課題となっている。このためトルクメニスタン政府は生産プロセス技術の強化、農業生産システムの改革などによる生産性の向上を目指している。特に食肉および小麦、酪農製品の国内生産拡大を急務と位置づけている。主な輸入先は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、イラン、トルコ、アゼルバイジャン、インド、パキスタンといった周辺国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンは他の中央アジア諸国と比較した場合、鉱物資源に乏しいと言える。たとえば、金属鉱物資源は採掘されていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ただし、その反面で有機鉱物資源、特に天然ガスに恵まれている。2018年版BP統計によると、埋蔵量はロシア(35.0兆m3、世界シェア約18.1%)、イラン(33.2兆m3、世界シェア約17.2%)、カタール(24.9兆m3世界、シェア約12.9%)に次ぐ世界第4位の19.5兆m3(世界シェア約10.1%)を誇る。2017年時点の天然ガス産出量は約620億m3であり、これは世界シェアの約1.7%に達する。2014年時点であるが、国内消費は277億m3、輸出総量は416億m3(2014年推計)とされる。輸出先は中国が最大で277億m3、次いでロシア(90億m3)、イラン(65億m3)、カザフスタン(5億m3)となっている。2011年、イギリスのGaffney, Cline and Associatesは、ガルクイヌシュ(旧南ヨロテン)ガス田の埋蔵量を13.1兆 - 21.2兆m3と評価し、世界第2位の規模と見立てた。さらに石油埋蔵量は、トルクメニスタン政府の公式統計では、オンショアで530億トン、カスピ海オフショアで182.1億トンの716.4億トンとなっている。しかし、BPは2017年末段階で、1億トンの石油埋蔵量を推計しているに過ぎない。なお、これら石油・ガス収入は同資源の開発管理を所管する大統領直轄の炭化水素資源管理利用庁に納められ、80%が大統領、20%が国庫に拠出される。また、石油生産量は、25.8万バレル/日であり、世界シェアの約0.3%である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "輸出額に占める天然ガスの割合は2017年時点で約83.0%(輸出金額:6,561,439千ドル)であり、原油の割合は約7.8%(輸出金額:615,109千ドル)である。したがって、輸出に占める鉱業セクターの割合は9割に達する。最大の天然ガス田はガルクヌシュ・ガス田(ロシア語版)であり、このガス田は2013年の夏に操業を開始した比較的新しい採掘場となっている。なお、石炭はほとんど採掘されていない。さらに、輸出の大部分を占める天然ガスの輸出先は約99.5%が中国であり、同国への依存がきわめて高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "メルヴやニサといったシルクロードの遺跡が有名だが、全体として観光業はあまり発展していない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "観光ビザに関しては、海外の先進国や新興諸国に比べ処理のスピードなどが遅めであることからその取得手続きは煩雑である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "政策により物価は非常に安く、期間にかかわらず滞在しやすい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本からの観光については現在、シルクロードトラベルインフォメーションセンターとソフィア株式会社とオワダン観光が渡航の手配をしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2019年5月29日、ベルディムハメドフ大統領が日本人観光客向けの入国ビザ発給の手数料を軽減(もしくは免除)する決定に署名したとの報道が、政府関連ウェブサイト『トルクメニスタン・セボドニャ』(Туркмении сегодня)から発信されている。この他にも観光ビザ取得の手続きも簡略化を検討するなど、トルクメニスタンが日本との観光交流促進に意欲を示していることが明らかにされている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンは、インフラを近代化する取組みの一環として、テクノロジーパークを新規開発している。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ソビエト時代に設立された多くの国立研究機関は、新技術の開発ならび国家における優先事項の変化と共に時代遅れな代物となりつつあった。これにより同国は2009年以降、研究所の数を減らし、既存の研究センターをグループ化して設立する計画を打ち立てた。2011年、首都アシガバート付近の地域であるビクロバ(ロシア語版)にテクノロジーパークの建設が開始されており、様々な関連施設が統合される予定となっている。また、このテクノパークでは、代替エネルギー (太陽光、風力)とナノテクノロジーの開発に関する研究を実施する運びとされている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "最新の2022年国勢調査によると総人口は7,057,841人である。1989年ソ連国勢調査では約352万人であった。国立統計情報研究所が発表した公式推計によると、1995年に450万人、2000年に537万人、2003年4月に600万人、2006年3月に約679万人、2006年7月には約684万人と増加傾向にある。2006年12月のニヤゾフ死去後人口の公式発表は行われなくなり、2012年に実施された国勢調査は結果が公表されなかった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "だがトルクメニスタン政府が発表している人口統計は正確性に疑問を持たれている。外部機関では2005年の人口を約467万人と推定している。また政府に近い関係者によると2021年の予備調査の時点で人口は280万人にも満たなかったという。背景には出生率の低下と、抑圧的な政治体制と生活難による国民の脱出が指摘されている。アシガバードの情報筋によると2008年から2018年にかけて200万人が国外へ脱出し、深刻な人口減少に見舞われているという。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "トルクメン人が人口の大半を占め、ロシア人やウズベク人も多い。現在、ロシア人の人口は減少傾向にある。2003年時点での民族ごとの人口比は、トルクメン人 が85%、ウズベク人が5%、ロシア人が4%、その他が6%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ソ連時代の名残りから、人名はロシア語風の姓名が多く見受けられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "トルクメン語72%、 ロシア語12%、ウズベク語9%、その他7%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ロシア語も通用するが、トルクメン人同士は主にトルクメン語で会話する。ただ、トルクメン人でも長く都市部に住んでいる者やエリートなどの中にはロシア語を母語とし、トルクメン語が満足に話せない者もいる。初代のニヤゾフ大統領もその一人だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "婚姻時に、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)か、共通の姓(同姓)かを選択することができる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イスラム教スンナ派が大多数。キリスト教正教会の信徒も一部存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2015年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2018年の推計によれば、国民の平均寿命は70.7歳(男性:67.6歳、女性:73.9歳)である。また、前大統領であったベルディムハメドフが歯科医師ということもあり、病院・医療関連へは個人的な思い入れが大きいという。医療機器に関してはドイツが先行している。また、医療分野でのITシステム導入は、医療に対する消費者への簡易アクセスを可能にするものとして重要視されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンの治安は経済の項目欄でも記されている通り、比較的安定している面を持つが、犯罪統計を一切公表していないためか実際の犯罪発生状況を正確に把握することが困難な状態にあり、危険と判断されるレベルで捉えられていることが多い。国連薬物犯罪事務所(UNODC=United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、統計のある最新の2006年の数値では、10万人あたりの殺人(既遂)が約4.2件(認知件数:203件)、窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)は、約29.7件(認知件数:1,431件)である。殺人は中央アジア5か国の中ではカザフスタン(約11.3件[2008年]、2015年は減少して約4.8件)、キルギス(約8.3件[2006年]、2016年は減少して約4.5件)に次いで3番目であり、窃盗はウズベキスタンを除いた4か国の中では一番低い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "現在、海外からの訪問者が現地で盗難被害に遭う事件が後を絶たない。同地の警察は贈収賄が横行している問題も根強い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "両替を行うブラックマーケットも存在し、実際の為替レートとは違う金額で換金が行われるなどの被害も多発している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "さらに、売春を行っていると思わしき女性と一緒にいた外国人男性が現地の警察から嫌がらせを受けたという被害報告も出ている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンにおける法執行機関は3つの公的機関で構成されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンでは、国内の少数民族に対する差別が今も続いている。一例として、同国に散在する世界的少数民族のバローチ人の文化やその言葉を教えることが禁じられている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、トルクメニスタンでは2003年にロシアとの二重国籍を廃止している。そこからロシアのパスポートを持たないトルクメニスタン生まれのロシア人は、トルクメン人に認定される形で自身のアイデンティティーを奪われ、ロシアへの出入国も永久に行えない可能性が高まっている。加えて数千人のロシア人がトルクメニスタンから財産などを放棄したままで出国するよう促されたという話もある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンは、世界で最も厳しくメディアを統制している国家の一つに数えられる。ニヤゾフ政権時代は極端な報道規制により海外から多くの批判を受けた。現在のベルディムハメドフ政権も前政権同様に独裁体制を一貫している点から、言論の自由と報道の自由を侵害する姿勢が強く、海外諸国ではその現状に対して今も批判が絶えない。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では最下位にランクづけされており、情報の統制が色濃い面が見受けられる。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "アハル・テケというトルクメニスタン名産の馬はトルクメニスタンの誇りとされ、アレクサンダー大王もお気に入りだったという。このほか、トルクメン絨毯も名産品の一つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ペルシア(イラン)やインドの音楽の影響下にある独自の民族音楽がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、ソ連時代からジャズや軽音楽のバンドの活動もあり、打楽器奏者 Rishad Shafi をリーダーとするバンド Гунеш(Gunesh Ensemble)のレコードがソ連国営レコード会社メロディアから発売されていた。同バンドは高度な演奏技術を持ち、トルクメニスタンを代表するバンドとして西側諸国でも高い評価を得ている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "トルクメニスタン国内には、UNESCOの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2002年、ニヤゾフ元大統領の独断により月の名称と曜日の名称が独自のものに変えられた。しかし国民には不評で2008年4月には元に戻す法案が提出され、2009年から元の月と曜日の名称に戻った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンのスポーツは多種多様なものとなっており、球技ではサッカー、バスケットボール、テニス、ハンドボールなど、ウィンタースポーツではアイスホッケー、格闘技においてはレスリング、柔道、ボクシング、ムエタイで能力の高い選手を輩出している。さらにオリンピックへの出場経験もあり、重量挙げや陸上競技にも力を入れている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "傍らで馬を用いたスポーツが国内各地で開催されており、特に競馬は専用の競技場のあるアシガバートで人気を博している。一方、頭脳スポーツではチェスに特化した面を持ち、これまで4人の選手を世界に送り出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "トルクメニスタン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にプロサッカーリーグのトルクメニスタン・リーグが創設された。FKアルティン・アシルが圧倒的な強さを誇っており、2014年から2021年までにリーグ8連覇を達成している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "トルクメニスタンサッカー連盟(TFF)によって構成されるサッカートルクメニスタン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしAFCアジアカップでは、2004年大会と2019年大会で2度の出場を果たしている。AFCチャレンジカップでは2010年大会と続く2012年大会で準優勝に輝いており、近年は力をつけて来ている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "著名な人物として詩人のマフトゥムグル(英語版)がおり、トルクメニスタンの国民的詩人とも言われている。首都・アシガバートのメインストリートは「マフトゥムグル通り」と名づけられおり、バルカン州にはマフトゥムグル県(英語版)が置かれている。出身地は世界遺産の「ゴンバデ・カーブース」でも有名なゴンバデ・カーヴース(英語版)(現イラン・ゴレスターン州)である。", "title": "著名な出身者" } ]
トルクメニスタンは、中央アジア南西部に位置する共和制国家。首都はアシガバートである。 カラクム砂漠が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な石油や天然ガスを埋蔵する。西側でカスピ海に面し、東南がアフガニスタン、西南にイラン、北東をウズベキスタン、北西はカザフスタンと国境を接する。旧ソビエト連邦の構成国の一つで、1991年に独立した。NIS諸国の一国。永世中立国。 2023年現在、自治領・海外領土含めて新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の罹患者が公式に確認されていない唯一の国である。
{{distinguish|トルキスタン}} {{基礎情報 国 |略名 =トルクメニスタン |日本語国名 =トルクメニスタン |公式国名 = {{native name|tk|'''Türkmenistan'''|italic=no}}<br>{{native name|ru|'''Туркменистан'''|italic=no}} |国旗画像 =Flag of Turkmenistan.svg |国章画像 =[[File:Coat of Arms of Turkmenistan.svg|100px|トルクメニスタンの国章]] |国章リンク =([[トルクメニスタンの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[独立、中立、トルクメニスタンの国歌|{{lang|tk|Garaşsyz, Bitarap, Türkmenistanyň Döwlet Gimni}}]]{{tk icon}}<br /> ''独立、中立、トルクメニスタンの国歌''<br>{{center|[[ファイル:National anthem of Turkmenistan, performed by the United States Navy Band.oga]]}} |位置画像 =Turkmenistan on the globe (Turkmenistan centered).svg |公用語 =[[トルクメン語]] |首都 =[[アシガバート]] |最大都市 =アシガバート | 元首等肩書 =[[トルクメニスタンの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[セルダル・ベルディムハメドフ]] | 首相等肩書 =首相 | 首相等氏名 =セルダル・ベルディムハメドフ(兼任)<ref group="注">トルクメニスタンでは{{仮リンク|トルクメニスタン憲法|label=憲法|en|Constitution of Turkmenistan}}規定により大統領自身が兼任している。</ref> | 他元首等肩書1 =[[人民評議会 (トルクメニスタン)|人民評議会議長]] | 他元首等氏名1 =[[グルバングル・ベルディムハメドフ]] | 他元首等肩書2 =[[トルクメニスタン議会|議会議長]] | 他元首等氏名2 ={{仮リンク|ドゥニャゴゼル・グルマノヴァ|en|Dünýägözel Gulmanowa}} |面積順位 =51 |面積大きさ =1 E11 |面積値 =488,000<ref name="日本国外務省">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkmenistan/data.html |title=トルクメニスタン(Turkmenistan)基礎データ |publisher=日本国外務省 |accessdate=2022-08-01 }}</ref> |水面積率 =極僅か |人口統計年 = 2022 |人口順位 = 115 |人口大きさ = 1 E6 |人口値 = 7,057,841 |人口密度値 = 14.5 |人口追記 = 公式統計<ref group="注">トルクメニスタンが発表している2022年国勢調査の結果による。なお国外メディアからは正確性に疑問が呈されている。([[#人口]]も参照)</ref> |GDP統計年元 =2020 |GDP値元 =1596億3000万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=925,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-10-31}}</ref> |GDP統計年MER =2020 |GDP順位MER =85 |GDP値MER =456億900万<ref name="imf202110" /> |GDP MER/人 =7,673.596(推計)<ref name="imf202110" /> |GDP統計年 =2020 |GDP順位 =83 |GDP値 =850億6600万<ref name="imf202110" /> |GDP/人 =14,312.318(推計)<ref name="imf202110" /> |建国形態 =[[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;- 日付 |建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より<br />[[1991年]][[10月27日]] |通貨 =[[トルクメニスタン・マナト]] |通貨コード =TMM |通貨追記 = (£) |時間帯 =+5 |夏時間 =なし |ISO 3166-1 = TM / TKM |ccTLD =[[.tm]] |国際電話番号 =993 | 注記 =<references group="注" /> }} '''トルクメニスタン'''({{lang-tk|Türkmenistan}})は、[[中央アジア]]南西部に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[アシガバート]]である。 [[カラクム砂漠]]が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な[[石油]]や[[天然ガス]]を埋蔵する。西側で[[カスピ海]]に面し、東南が[[アフガニスタン]]、西南に[[イラン]]、北東を[[ウズベキスタン]]、北西は[[カザフスタン]]と国境を接する。旧[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦構成共和国|構成国]]の一つで、[[1991年]]に[[国家の独立|独立]]した。[[NIS諸国]]の一国。[[永世中立国]]。 [[2023年]]現在、[[自治領]]・[[海外領土]]含めて[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の罹患者が公式に確認されていない<ref group="注釈">トルクメニスタン政府の発表に基づくが、国外の独立した団体やジャーナリスト、活動家らは、トルクメニスタンで感染症が猛威を振るっていると主張している。{{Cite web|和書|title=トルクメニスタン、コロナ感染者ゼロを主張 活動家らは虚偽と指摘 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35177116.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-02-26 |language=ja}}</ref>唯一の国である。 == 国名 == 正式名称は[[トルクメン語]]で、{{lang|tk|''Türkmenistan''}}。「[[トルクメン人]]の土地」を意味する。公式の英語表記は{{lang|en|''Turkmenistan''}}。国民・形容詞ともTurkmen。 [[日本語]]の表記は、'''トルクメニスタン'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は土庫曼斯坦。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの歴史|en|History of Turkmenistan|ru|История Туркменистана}}}} 首都であるアシガバードの郊外には人類最古の農耕集落遺跡の一つである[[アナウ|アナウ遺跡]]、および[[紀元前2世紀]]または[[紀元前3世紀]]ごろの[[パルティア]]王国(漢名「安息国」)の発祥地とされる[[ニサ (トルクメニスタン)|ニサ]]遺跡がある。この時代には、現在のアシガバードの位置に小さな集落があったがその後、[[サーサーン朝]][[ペルシア]]の領土となった。[[6世紀]]には、[[遊牧民]]の[[テュルク系民族]]に、[[7世紀]]からは[[イスラム帝国]]([[ウマイヤ朝]]および[[アッバース朝]])が支配した。[[9世紀]]から[[サーマーン朝]]、[[セルジューク朝]]、[[ガズナ朝]]、[[ホラズム王国]]などの領地となる。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]が侵攻し、[[イル・ハン国]]や[[ティムール朝]]の統治下となった。 [[16世紀]]以降は[[ヒヴァ・ハン国]]、[[ブハラ・ハン国]]、[[サファヴィー朝]]などに絶えず、侵略された。 [[1869年]]に[[ロシア帝国|帝政ロシア]]軍が[[カスピ海]]東岸に上陸し、[[1873年]]に[[ザカスピ州|ザカスピ軍区]]を設置。同年、{{仮リンク|ヒヴァ戦争 (1873年)|ru|Хивинский поход (1873)|label=ヒヴァ戦争}}。[[1880年]]に[[カスピ海横断鉄道|ザ・カスピ鉄道]]が開通する。[[1881年]]に[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]治下の[[ロシア帝国陸軍]]が[[アシガバート]]を占領し、基地を築く。 翌[[1882年]]、[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]治下の帝政ロシアにより、[[カフカス総督管区]]内の[[ザカスピ州]]とされた。ロシア帝国への編入後、ロシア向け[[木綿|綿花]]栽培が拡大し、[[1910年]]ごろよりロシアの[[綿工業]]の原綿の供給地の役割を果たし、現在も繊維工業や綿花栽培は主要な産業となっている。 [[ファイル:Turkmen_man_with_camel.jpg|左|サムネイル|200x200ピクセル|伝統的な衣装を着たトルクメン人の男性([[20世紀]]初頭)]] [[第一次世界大戦]]中の[[1916年]]から[[1918年]]にかけて反ロシア大暴動([[バスマチ蜂起|バスマチ運動]])が起きる。[[1924年]]に[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]を民族別の共和国に再編し、[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]としてソ連を構成する国の一つとなった。[[ヨシフ・スターリン]]による[[ソビエト連邦における農業集団化|農業集団化]]に反発した[[遊牧民]]の抵抗が[[1936年]]ごろまで続いた。[[1948年]]には[[アシガバート地震]]に見舞われ、11万人の犠牲者を出した。 [[ファイル:Saparmurat_Niyazov_in_2002.jpg|サムネイル|242x242ピクセル|初代大統領[[サパルムラト・ニヤゾフ]]]] [[ファイル:Gurbanguly_Berdimuhamedow_2012-09-11.jpg|サムネイル|208x208ピクセル|第2代大統領[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]]] [[ファイル:Serdar Berdimuhamedow (2022-06-10).jpg|サムネイル|208x208ピクセル|第3代大統領[[セルダル・ベルディムハメドフ]]]] ソ連時代末期の[[1990年]][[8月22日]]に[[主権]]宣言を行い、10月27日には[[直接選挙]]による大統領選で単独候補の[[サパルムラト・ニヤゾフ]]最高会議議長が98.8%の得票率で当選した。[[1991年]][[10月26日]]の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、翌[[10月27日]]に独立した。その2か月後の[[12月26日]]、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連が解体]]されたことで晴れて独立国家となる。[[1992年]]5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を採択する。傍らで、同年5月に[[ロシア]]や[[独立国家共同体]](CIS)諸国との[[集団安全保障条約]]の署名を拒否した。 1992年6月、大統領選でニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選し、[[1995年]]12月、[[国連総会]]において「永世中立国」として承認された。なお、永世中立宣言はロシアの影響力の排除が目的と見られている。ニヤゾフ大統領は[[2002年]]8月には終身大統領とされ、国内ではニヤゾフ大統領は「[[テュルクメンバシュ]](トルクメン人の長)」を姓としている。 その後、ニヤゾフ大統領は[[2006年]]12月21日未明、66歳で没した。その直後、同日中に[[オヴェズゲリドゥイ・アタエフ]]議会議長が刑事訴追を理由に大統領代行に選出されず、翌22日に議長を解任された。約2か月後の[[2007年]]2月14日に大統領選が行われ、89.23%の得票率を獲得した[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領代行が正式にトルクメニスタンの第2代大統領に就任した。その後、2022年[[3月19日]]に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男の[[セルダル・ベルディムハメドフ]]が当選して就任した<ref name="トルクメニスタン(Turkmenistan)基礎データ 一般事情">{{Cite web|和書|author=外務省|authorlink=外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkmenistan/data.html#section1|title=トルクメニスタン(Turkmenistan)基礎データ 一般事情|date=2023-06-13|accessdate=2023-08-23}}</ref>。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの政治|en|Politics of Turkmenistan}}}} === 行政 === トルクメニスタンの[[国家元首]]である[[トルクメニスタンの大統領|大統領]]は、憲法規定によれば任期は7年で[[国民]]の[[直接選挙]]により選出される。[[1992年]]から首相職が大統領職に統合されて以来、2006年末まで[[サパルムラト・ニヤゾフ]]が終身制の下で大統領職に就き、首相も兼任していた。ニヤゾフは[[2008年]]から[[2010年]]ごろに大統領選挙を実施すると表明していたが、実施する前にニヤゾフ大統領が没したため、死去後に大統領選挙が行われた。選挙の結果、得票率89.23%(出典:2007年2月14日『[[朝日新聞]]』)でほかの候補を圧倒した[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領代行が第2代大統領に就任し、2008年に憲法を改正した。 2016年に憲法改正が行われ、大統領の任期延長(5年から7年)と大統領選挙の出馬資格の緩和が行われた<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3117541 「独裁強化の現職勝利へ=中央アジアのトルクメン」][[フランス通信社|AFP]](2017年2月12日)2017年2月12日閲覧</ref>。6年後の2022年2月、ベルディムハメドフ大統領が次期大統領選挙を2年前倒しし翌月に実施するよう決定したとの発表が行われている。これは、前年に大統領選挙への立候補が可能となる法定年齢に達した長男[[セルダル・ベルディムハメドフ]]への権力移譲を意図したものと解釈された<ref>{{Cite news|url=https://www.rferl.org/a/turkmenistan-succession-berdymukhammedov-serdar/31700180.html|title=Turkmen President Hints At Succession, Announces Election For March 12|agency=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ]]|date=2022-02-12|accessdate=2022-02-13}}</ref>。そして、解釈通りに翌月[[3月19日|19日]]に権力移譲の意を受けた前倒し大統領選挙が実施され、第2代大統領長男のセルダル・ベルディムハメドフが当選して第3代目として就任している<ref name="トルクメニスタン(Turkmenistan)基礎データ 一般事情" />。 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタン憲法|en|Constitution of Turkmenistan}}}} === 議会 === {{main|トルクメニスタン議会}} 国会は[[マジュリス]](Mejlis)と呼ばれる。定数125。議員は[[単純小選挙区制]]に基づき国民の直接選挙で選出され<ref>[http://archive.ipu.org/parline-e/reports/2325_B.htm TURKMENISTAN Mejlis(Assembly)][[列国議会同盟]](IPU)</ref>、任期は5年である。2021年1月に発効した改正憲法により、上院に相当する定数56議席の「[[人民評議会 (トルクメニスタン)|人民評議会]](ハルク・マスラハトイ)」が復活して二院制へと一時移行したが、2023年に廃止され一院制に戻った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2308I0T20C23A1000000/|title=トルクメニスタンで憲法改正 前大統領「国の指導者」に|website=日本経済新聞|accessdate=2023-02-27}}</ref>。議員全員は大統領の承認を得る必要がある。一方、人民評議会の議員は選挙人による間接選挙で48人、大統領による任命で8人が選出され、こちらも任期は5年である。 現在の「人民評議会」と同じ名前の組織がかつて国権の最高機関として存在し、大統領による主宰のもと、マジュリス代議員・閣僚・地方・司法権などの代表が入り、大統領不信任案を提出し、弾劾に関する国民投票を行う権限を有していた。しかし2008年の憲法改正により一度廃止され、権限は議会に移った。この際、それまで50議席だった議会定数は125議席に拡大された。 === 政党 === {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンの政党の一覧|ru|Список политических партий Туркмении}}}} 旧{{仮リンク|トルクメン共産党|ru|Коммунистическая партия Туркменистана|en|Communist Party of Turkmenistan}}の後身である[[トルクメニスタン民主党]](''Türkmenistanyň Demokratik Partiýasy, TDP'')による事実上の[[一党独裁制]]で、かつてはニヤゾフ初代大統領が同党の議長を務めていた。 憲法では[[複数政党制]]が認められているものの、TDP以外の正式登録された合法[[政党]]において優位となっているのは、現時点で'''{{仮リンク|トルクメニスタン農業党|label=農業党|ru|Аграрная партия Туркменистана}}'''と'''{{仮リンク|トルクメニスタン産業・企業家党|label=産業・企業家党|ru|Союз промышленников и предпринимателей Туркменистана|en|Party of Industrialists and Entrepreneurs}}'''の2つしかない。農業党はTDPの地方(農村)幹部により構成される[[衛星政党]]であるため、同国において複数政党制は実質には機能していないに等しい。 === 司法 === [[司法]]権は最高裁判所に属している。 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタン最高裁判所|en|Supreme Court of Turkmenistan}}}} == 国際関係 == {{main|トルクメニスタンの国際関係|トルクメニスタンの在外公館の一覧}} トルクメニスタンはソビエト連邦崩壊時、アルマトイ宣言に合意したため[[独立国家共同体]](CIS)加盟国となったが、その後に制定されたCIS憲章を[[批准]]していないため正式な加盟国とはならなかった。しかしながら脱退したわけではなく、正式加盟国では無いにもかかわらずCISの会議には参加を続けており、2007年には正式に準加盟国と定められた。旧ソ連の中央アジア諸国では唯一、[[上海協力機構]]の正式加盟国ではなく、ゲスト参加にとどまっている。一方で[[北大西洋条約機構]](NATO)や[[日本]]など[[西側諸国]]とも対話や要人の往来を行う全方位外交を行っている<ref name="日本国外務省"/>。また南隣の[[イラン]]との友好関係も重視しており、各分野で協力する文書を2018年に結んだ<ref>[[イラン・イスラム共和国放送]](IRIB)系ニュースサイト「Pars Today」、[http://parstoday.com/ja/news/iran-i41608 イランとトルクメニスタンの間で、13の協力文書が調印](2018年3月28日)2018年11月21日閲覧</ref>。 アフガニスタンで[[2021年ターリバーン攻勢|2021年に成立したタリバン政権]]([[アフガニスタン・イスラム首長国]])に対しても、2022年1月に代表団を受け入れるなど接近している<ref name="東京新聞20220606">[https://www.tokyo-np.co.jp/article/181690 「男女が手をつなげば逮捕…「中央アジアの北朝鮮」トルクメン 新大統領、隣国のタリバンに同調示す?」]『[[東京新聞]]』夕刊2022年6月6日3面(2022年8月1日閲覧)</ref>。これには、アフガニスタン経由で[[パキスタン]]や[[インド]]に[[天然ガスパイプライン]]を敷設して、[[中華人民共和国]](中国)に偏っている天然ガスの輸出先多角化と価格上昇を意図しているという観測がある<ref name="東京新聞20220606"/>。 永世中立国を掲げるものの、実態としては軍事的にも経済的にもロシアと中国の影響力が強い地域でもある。トルクメニスタン産の天然ガスはかつて、ロシア経由で[[ヨーロッパ]]へと輸出されていたが、トルクメニスタン側が値下げに応じなかったため2016年に中断し、2009年に完成した中国向け[[パイプライン輸送|パイプライン]]を通じた輸出のみとなり、中国に接近して武器も購入した<ref>{{cite web |title=Turkmenistan Shows Off New Chinese Rockets|url=https://eurasianet.org/turkmenistan-shows-off-new-chinese-rockets |author= |publisher=Eurasianet|date=2016-04-02 |accessdate=2019-11-27}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.eastpendulum.com/turkmenistan-sequipe-made-in-china|publisher=East Pendulum|title=Le Turkménistan s’équipe en « Made in China »|date=2016-10-30|accessdate=2019-11-27}}</ref>。ロシア国営企業[[ガスプロム]]は2019年にトルクメニスタン産天然ガスの輸入を再開する予定を表明しており、これには同国への影響力回復を目指すロシア政府の意図があると見られると報道されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3794094019112018FF8000/ 「トルクメン産 輸入再開/ガスプロム 中国の影響排除狙う」]『日本経済新聞』朝刊2018年11月20日(国際面)2018年11月21日閲覧</ref>。 2022年12月14日には、ベルドイムハメドフ大統領が首都アシガバートに[[トルコ]]の[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]][[トルコの大統領|大統領]]、[[アゼルバイジャン]]の[[イルハム・アリエフ|アリエフ]][[アゼルバイジャンの大統領|大統領]]を迎えて会談し、トルクメニスタン産ガスを両国経由でヨーロッパへ輸出するための協力覚書を交わした<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR19CW50Z11C22A2000000/ トルクメニスタンのガス 欧州に輸出構想浮上 トルコなどと合意]」『日本経済新聞』朝刊2022年12月23日(国際面)2023年1月1日閲覧</ref>。 === 日本との関係 === {{Main|日本とトルクメニスタンの関係}} == 軍事 == {{main|トルクメニスタン軍}} [[トルクメニスタン軍]]は、[[トルクメニスタン陸軍|陸軍]]、[[トルクメニスタン海軍|海軍]]、[[トルクメニスタン空軍|空軍]]の3軍から構成されている。 == 地理 == [[ファイル:Turkmenistan-map.png|thumb|300px|トルクメニスタンの地図]] [[ファイル:Turkmenistan Topography.png|thumb|300px|left|トルクメニスタンの地形]] {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの地理|en|Geography of Turkmenistan}}}} === 地形 === [[国境]]線の長さは3,736キロ。うち9割が[[カラクム砂漠]]で国土面積の多くを占めており、国土の北方は[[トゥラン低地]]で占められている。 [[ウズベキスタン]]との国境付近に位置する北東地域には[[キジルクム砂漠]]がある。その中に[[アムダリヤ川]]が流れており、そこから[[カラクム運河]]が分かれていて、[[灌漑農業]]などに利用されている。また、同じくウズベキスタン国境線上の北部地域には[[サリカミシュ湖]]があり、アムダリヤ川の分流である[[ウズボイ川]]に通じている。[[貯水池]]には{{仮リンク|カラクム湖|en|Golden Age Lake|ru|Туркменское озеро}}が挙げられる。 一方で、国土に流れる河川には[[ムルガブ川]]や{{仮リンク|アトレク川|en|Atrek River}}があり、ムルガブ川は[[マル (都市)|マル]]を通りアフガニスタンの国境を越えて流れ、アトレク川はカスピ海沿いに流れてイランの国境付近の河川とつながっている。なお、国内の河川の多くは[[水無川]]([[ワジ]])である。 [[山地]]ならび[[峡谷]]は{{仮リンク|ヤンギカラ峡谷|de|Yangykala-Schlucht}}が有名であり、国の名所の1つに数えられている。最高地点は、東部のウズベキスタン国境にそびえる{{仮リンク|アイリババ山|en|Aýrybaba}}(海抜3,139メートル)である。 === 気候 === ほぼ全域が[[砂漠気候]]である。トルクメニスタンの気候条件は非常に厳しく[[夏]]は40 - 50[[セルシウス度|度]]、[[冬]]は[[氷点下|0度以下]]まで寒くなるなど[[年較差|夏と冬の寒暖の差]]、[[日較差|日中と夜間の寒暖の差]]が激しい。昼と夜では、20度を超える温度差となることもある。年間[[降水量]]はかなり少なく[[コペトダグ山脈|コペト・ダヴ山脈]]では200 - 400ミリ、[[カラクム山脈]]中央部は40 - 50ミリと過酷な状況である。一方で、南・東辺のイランおよびアフガニスタンの国境地帯は降雨量が比較的多いため、国土は[[ステップ気候]]と[[地中海性気候]]の二面を持つ。 夏季に雨はほとんど降らないが、その反面、冬季には国土一帯に雪が降り、この雪は一時的に積雪することがある。 === 環境 === 上述の通り、トルクメニスタンは国土の殆どがカラクム砂漠で占められているため、植物の生息域は非常に狭められている状況である。森林面積は413万[[ヘクタール]]で、そのほとんどは[[天然林]]である。なお、山地の森林は7万9,000ヘクタールほど存在し、川沿いの森林は3万3,400ヘクタールほど存在している。天然林のおもな樹種は[[砂漠化]]領域が{{仮リンク|サクサウール|en|Haloxylon}}や[[タマリクス]]で、山地は[[アルチャ]]([[ビャクシン]]の一種)、川沿いは[[コトカケヤナギ]]([[ポプラ]]の一種。現地では、'''トゥランガ'''と呼ばれている。)が繁殖している。トルクメニスタンでは現在、国土の緑化に力を入れているが、[[違法伐採]]が続くために森林の減少傾向による[[自然破壊|環境破壊]]が問題となっており、[[水資源]]の乏しさも加わって非常に深刻なものとなっている。 {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの環境問題|en|Environmental issues in Turkmenistan}}}} {{Clearleft}} == 地方行政区分 == {{main|トルクメニスタンの行政区画}} [[Image:TurkmenistanNumbered.png|right|thumb|320px|トルクメニスタンの地方行政区分]] 5州(ベラヤト,{{lang|tk|Welaýat}} )と首都(シャヘル,{{lang|tk|şäher}})の[[アシガバート]]市({{lang|tk|Aşgabat}})で構成される。 # [[アハル州]]({{lang|tk|Ahal}}) - 州都{{仮リンク|アルカダグ|en|Arkadag}}({{lang|tk|Arkadag}})<ref>{{Cite web |url=https://turkmenistan.gov.tm/ru/post/68829/postanovlenie-medzhlisa-milli-gengesha-turkmenistana-ob-otnesenii-k-kategorii-goroda-novogo-sovremennogo-administrativnogo-centra-ahalskogo-velayata-i-prisvoenii-emu-naimenovaniya |title=Постановление Меджлиса Милли Генгеша Туркменистана об отнесении к категории города нового современного административного центра Ахалского велаята и присвоении ему наименования |publisher=Туркменистан: Золотой век |date=2022-12-21 |accessdate=2023-09-11}}</ref> # [[バルカン州]]({{lang|tk|Balkan}}) - 州都[[バルカナバト]]({{lang|tk|Balkanabat}}、{{lang|tr|Nebitdag}} ネビトダグ) # [[ダショグズ州]]({{lang|tk|Daşoguz}}) - 州都[[ダショグズ]]({{lang|tk|Daşoguz}}) # [[レバプ州]]({{lang|tk|Lebap}}) - 州都[[テュルクメナバト]]({{lang|tk|Türkmenabat}}) # [[マル州]]({{lang|tk|Mary}}) - 州都[[マル (トルクメニスタン)|マル]]({{lang|tk|Mary}}) * 順番は地図の番号と対応させている。 地方自治制度はゲンゲシュ(小会議)と地方公共自治機関が構成する。ゲンゲシュは小都市、町村の代表機関である。ゲンゲシュ議員は5年の任期で選出される。 === 主要都市 === {{main|トルクメニスタンの都市の一覧}} == 経済 == [[ファイル:Turkmenistan Export Treemap.png|thumb|色と面積で示したトルクメニスタンの輸出品目]] {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの経済|en|Economy of Turkmenistan}}}} [[国際通貨基金]](IMF)の推計によると、[[2017年]]のトルクメニスタンの[[国内総生産]](GDP)は379億ドルである。1人あたりのGDPは6,643ドルで、[[中央アジア]]5か国の中ではカザフスタンに次いで2番目、世界平均の約61%の水準にある<ref name="imf201810" />。 ニヤゾフ時代には対外的には旧宗主国ロシアの影響力からの脱却が図られた。しかし、その手段となるはずだった天然ガスの供給ルートがロシアに限定されていたこともあり、経済的なロシア依存は強く残ることになる。それでも「[[永世中立国]]」となることで[[地政学]]上の脅威を和らげ、1997年にはイランとの天然ガス供給ルートを開拓するなどの多様化を図った。対露依存の転機は、ニヤゾフ大統領による2006年の中国との天然ガス供給合意だった。この合意によってトルクメニスタンからウズベキスタン、カザフスタンを経由して中国に至る[[中央アジア・中国天然ガスパイプライン]]の建設が始まる。さらに後継者のグルバングルィ・ベルディムハメドフ大統領は、翌2007年[[中国石油天然気集団|中国国営石油公社]](CNPC)とバクチャールィク(Bagtyarlyk)鉱区での生産分与協定(PSA)を締結し、天然ガス売買契約に調印した。これを境に中国資金のトルクメニスタン進出は加速化し、ガス輸入国としても、2011年には中国がロシアを上回り、ロシアに代わって経済における中国への偏重が始まることになる。 後任のベルディムハメドフ大統領も天然ガス依存の経済からの転換を目指し、輸出産業として石油ガス化学部門を最優先としながらも農業や繊維などの製造業の発展を目標としている。なお、国内消費市場も輸入品依存を改善させるため民間ビジネスの育成にも乗り出している。消費市場では、独立当初のロシア製品の圧倒的シェアは[[トルコ]]製品の侵食を受けるようになり、2010年以降は首位の座を奪われた。一方で2012年に急増した中国からの輸入(2012年:輸入金額1,699,117千ドル 国別輸入先第1位、輸入シェア約18.1%)は抑制され、2017年時点で輸入金額は、2012年の約5分の1の368,117千ドル(国別輸入先第4位、輸入シェア約8.4%)となっている<ref name="JETRO 2016.9" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trademap.org/Country_SelProductCountry_TS.aspx?nvpm=1%7c795%7c%7c%7c%7cTOTAL%7c%7c%7c2%7c1%7c2%7c1%7c2%7c1%7c2%7c1%7c1|title=List of supplying markets for a product imported by Turkmenistan (Mirror)Metadata Product: TOTAL All products(トルクメニスタンの国別輸入金額推移)|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-09}}</ref>。 輸出は、独立後はロシアを中心とした旧ソ連が中心で輸出の9割以上、輸入の8割以上を構成していた。その後は[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など欧米の比率が高まるようになり、近年では中国、トルコの存在感が強まっている<ref name="JETRO 2016.9">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/russia_cis/outline/turkmenistan_201609rev.pdf|title=トルクメニスタン概要|format=PDF|publisher=ジェトロ・イスタンブール事務所|date=2016-09|accessdate=2019-03-09}}</ref>。2017年時点で輸出の約83.2%(65億7,512.6万ドル)を中国、約5.1%(4億355.3万ドル)を[[トルコ]]が占めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trademap.org/Country_SelProductCountry.aspx?nvpm=1%7c795%7c%7c%7c%7cTOTAL%7c%7c%7c2%7c1%7c2%7c2%7c1%7c1%7c2%7c1%7c1|title=List of importing markets for the product exported by Turkmenistan in 2017 (Mirror)Metadata (2017年 トルクメニスタンの輸出先)|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-09}}</ref>。一方、輸入はトルコが約23.8%(10億3,798万ドル)を占めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trademap.org/Country_SelProductCountry.aspx?nvpm=1%7c795%7c%7c%7c%7cTOTAL%7c%7c%7c2%7c1%7c2%7c1%7c1%7c1%7c2%7c1%7c1|title=List of supplying markets for the product imported by Turkmenistan in 2017 (Mirror)(2017年 トルクメニスタンの輸入先)|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-09}}</ref>。 主な産業は[[天然ガス]]・[[石油]]、[[綿花]]栽培、[[繊維工業]]である。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず、世界第4位の埋蔵量の資源国である。これらの資源の輸出により潤沢な資金流入があるため、経済が豊かで、政府による治安維持が行き届いている。現状では治安は非常によく、近隣諸国と違い[[テロリズム|テロ]]事件なども起こっていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo.asp?id=202&infocode=2011T040|title=トルクメニスタンに対する渡航情報(危険情報)の発出|work=外務省海外渡航安全ページ|publisher=外務省|accessdate=2012-02-19}}</ref>。[[経済成長]]率は潤沢な資源のおかげで高成長を見せている。同国では、国営企業が経済活動のほぼ全てを押さえ、工業生産の多くを担っている。特に、オンショアの炭化水素生産、輸送、精製、発電、流通、化学、建築資材、教育、医療、メディア企業の分野は、国営で厳しく管理されている。また、国営企業は農業、食品加工、繊維、通信、建設、貿易、サービスの分野にも深く関与している。国営企業は多くの場合、旧態依然とした効率性の悪さが目立つが、戦略的に重要と考えられている<ref name="JETRO 2016.9" />。 さらに食料品・日用品や住居などの物価が低く抑えられているほか、教育・医療費が無料とされている。このため、国民生活は実質的な収入金額以上に安定しているといえる。しかし、電気、ガス、飲料水については1993年から、食卓塩については2003年からニヤゾフ前大統領により無償供給としていた制度をベルディムハメドフ大統領は2019年1月に廃止し、有償化した。有償化の理由をベルディムハメドフ大統領は「政府活動の持続的拡大、資源の合理的利用、社会的補助制度の発展のため」と説明している<ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/10/dd53a2271db356c2.html|title=電気、天然ガス、飲料水、食卓塩の無償供給が2018年末で終了(トルクメニスタン)|author=高橋淳|publisher=[[独立行政法人]][[日本貿易振興機構]](ジェトロ)|date=2018-10-02|accessdate=2019-03-09}}</ref>。 === 農業 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの農業|en|Agriculture in Turkmenistan}}}} トルクメニスタンの主産物は小麦、[[種実類|ナッツ]]類(おもに[[ピスタチオ]])、[[ハーブ]]([[薬草]])類である。ピスタチオはもともと[[造林]]用として栽培され、その果実を食用として利用できるため積極的に植林されており、果実は豊作の年で20 - 30トン採取されることがある。同国特産のハーブは[[ヨモギ属|アルテミシア]]と[[マオウ属|エフェドラ]]で、この2つは料理用や薬品の原材料として用いられることが多い。林業にも力を入れており、その主要となっているのは[[人工林|人工造林]]である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jofca.or.jp/_files/publication/C06.pdf|title=トルクメニスタン[PDF]|publisher=一般社団法人 海外林業コンサルタンツ協会|accessdate=2016-10-03}}</ref>。ただし、環境造林を基本としているので産業造林には特化しておらず、国内の林産業はあまりふるわない。 一方で、ソ連時代から綿花栽培を行っている。しかし[[灌漑農業]]での栽培であるために水資源に乏しいトルクメニスタンでは、綿花を主産物とすることに対し賛否両論となっている面を持つ。さらに、毎年の綿花の収穫作業に、教師や医師を含む1万人以上の公務員と[[児童労働|10~15歳までの児童]]も従事させられており、2016年4月に「アリテルナチブニエ・ノボスチ・トルクメニスタナ(「トルクメニスタンの代替ニュース」の意、AHT)」と「国際労働権利フォーラム([[:en:International Labor Rights Forum|ILRF]])」が[[アメリカ合衆国国土安全保障省]]・[[アメリカ合衆国税関・国境警備局|関税国境警備局]]に告発状を提出した。その結果、2018年5月24日に引渡保留命令(WRO、5月18日付)<ref>{{Cite news|url=https://www.cbp.gov/trade/trade-community/programs-outreach/convict-importations/detention-orders|title=Withhold Release Orders and Findings>TURKMENISTAN(引渡保留命令>トルクメニスタン)||publisher=U.S. Customs and Border Protection(アメリカ合衆国国土安全保障省・関税国境警備局)|date=2018-05-24|accessdate=2019-03-10}}</ref>を公開し、トルクメニスタン産綿と同製品のアメリカへの輸入を禁止した。トルクメニスタン政府は、2017年の綿花の収穫量を110万トンと発表している。作付面積は50万ヘクタール。トルクメニスタンから米国向け輸出額の最大シェア(52.0%、718万ドル)を綿・綿織物などが占める(2017年実績、アメリカ側統計、第三国経由を含まず)<ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/05/8e75c1b333f1e70c.html|title=米国政府、トルクメニスタン産綿製品の輸入を禁止(米国、トルクメニスタン))|author=高橋淳|publisher=独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)|date=2018-05-25|accessdate=2019-03-10}}</ref>。 国内消費される食品の多くを輸入に依存しており、[[食料自給率]]の向上が大きな課題となっている。このためトルクメニスタン政府は生産プロセス技術の強化、農業生産システムの改革などによる生産性の向上を目指している。特に食肉および小麦、酪農製品の国内生産拡大を急務と位置づけている。主な輸入先は、ロシア、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]、カザフスタン、イラン、トルコ、アゼルバイジャン、インド、パキスタンといった周辺国である<ref name="JETRO 2016.9" />。 === 鉱業 === トルクメニスタンは他の中央アジア諸国と比較した場合、鉱物資源に乏しいと言える。たとえば、金属鉱物資源は採掘されていない。 ただし、その反面で有機鉱物資源、特に天然ガスに恵まれている。2018年版[[BP (企業)|BP]]統計<ref name="BP Statistical">{{Cite news|url=https://www.bp.com/content/dam/bp/business-sites/en/global/corporate/pdfs/energy-economics/statistical-review/bp-stats-review-2018-full-report.pdf|title=BP Statistical Review of World Energy (BP統計 世界のエネルギー概要)|format=PDF|publisher=BP|date=2018-08|accessdate=2019-03-11}}</ref>によると、埋蔵量はロシア(35.0兆㎥、世界シェア約18.1%)、イラン(33.2兆㎥、世界シェア約17.2%)、[[カタール]](24.9兆㎥世界、シェア約12.9%)に次ぐ世界第4位の19.5兆[[立方メートル|㎥]](世界シェア約10.1%)を誇る。2017年時点の天然ガス産出量は約620億㎥であり、これは世界シェアの約1.7%に達する。2014年時点であるが、国内消費は277億㎥、輸出総量は416億㎥(2014年推計)とされる。輸出先は中国が最大で277億㎥、次いでロシア(90億㎥)、イラン(65億㎥)、カザフスタン(5億㎥)となっている。2011年、[[イギリス]]のGaffney, Cline and Associatesは、ガルクイヌシュ(旧南ヨロテン)ガス田の埋蔵量を13.1兆 - 21.2兆㎥と評価し、世界第2位の規模と見立てた。さらに石油埋蔵量は、トルクメニスタン政府の公式統計では、オンショアで530億トン、[[カスピ海]]オフショアで182.1億トンの716.4億トンとなっている。しかし、BPは2017年末段階で、1億トンの石油埋蔵量を推計しているに過ぎない。なお、これら石油・ガス収入は同資源の開発管理を所管する大統領直轄の炭化水素資源管理利用庁に納められ、80%が大統領、20%が国庫に拠出される<ref name="JETRO 2016.9" />。また、石油生産量は、25.8万バレル/日であり、世界シェアの約0.3%である<ref name="BP Statistical" />。 [[輸出]]額に占める天然ガスの割合は[[2017年]]時点で約83.0%(輸出金額:6,561,439千ドル)であり、原油の割合は約7.8%(輸出金額:615,109千ドル)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trademap.org/Product_SelProductCountry.aspx?nvpm=1%7c795%7c%7c%7c%7c27%7c%7c%7c4%7c1%7c2%7c2%7c1%7c1%7c1%7c1%7c1|title=List of products at 4 digits level exported by Turkmenistan in 2017 (Mirror)Metadata detailed products in the following category: 27 Mineral fuels, mineral oils and products of their distillation; bituminous substances; mineral waxes(2017年 トルクメニスタンの輸出 第27類 鉱物性燃料及び鉱物油並びにこれらの蒸留物、歴青物質並びに鉱物性ろう )|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-11}}</ref>。したがって、輸出に占める鉱業セクターの割合は9割に達する。最大の[[天然ガス田]]は{{仮リンク|ガルクヌシュ・ガス田|ru|Газовое месторождение Галкыныш}}であり、このガス田は2013年の夏に[[操業]]を開始した比較的新しい採掘場となっている。なお、[[石炭]]はほとんど採掘されていない。さらに、輸出の大部分を占める天然ガスの輸出先は約99.5%が中国であり、同国への依存がきわめて高い<ref>{{cite web|url=https://www.trademap.org/Country_SelProductCountry.aspx?nvpm=1%7c795%7c%7c%7c%7c2711%7c%7c%7c4%7c1%7c2%7c2%7c1%7c1%7c2%7c1%7c1|title=List of importing markets for the product exported by Turkmenistan in 2017 (Mirror)Metadata Product: 2711 Petroleum gas and other gaseous hydrocarbons(2017年 トルクメニスタンの国別輸先先 2711 石油ガスその他のガス状炭化水素)|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-11}}</ref>。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの観光|en|Tourism in Turkmenistan}}}} [[メルヴ]]や[[ニサ (トルクメニスタン)|ニサ]]といった[[シルクロード]]の[[遺跡]]が有名だが、全体として[[観光業]]はあまり発展していない。 [[査証|観光ビザ]]に関しては、海外の先進国や新興諸国に比べ処理のスピードなどが遅めであることからその取得手続きは煩雑である。 政策により物価は非常に安く、期間にかかわらず滞在しやすい。 日本からの観光については現在、シルクロードトラベルインフォメーションセンター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.silkroad-travel.com/travel/turkmenistan/|title=トルクメニスタン|publisher=シルクロードトラベルインフォメーションセンター|accessdate=2012-02-19}}</ref>とソフィア株式会社<ref>{{Cite web|和書|url=https://sophia-net.com/2017/12/01/turk/|title=自然の驚異と神秘のトルクメニスタン世界遺産3か所を訪ねる旅8日間|publisher=ソフィア株式会社|accessdate=2019-06-30}}</ref>とオワダン観光<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.owadan.net/jp/home|title=オワダン観光とトルクメニスタン発見の旅|publisher=オワダン観光|accessdate=2018-02-28}}</ref>が渡航の手配をしている。 [[2019年]][[5月29日]]、ベルディムハメドフ大統領が日本人観光客向けの入国ビザ発給の手数料を軽減(もしくは免除)する決定に署名したとの報道が、政府関連[[ウェブサイト]]『トルクメニスタン・セボドニャ』(Туркмении сегодня)から発信されている<ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/05/40afdbec734560a5.html|title=トルクメニスタン、日本人観光客へのビザ発給手数料を軽減へ|newspaper=日本貿易振興機構(ジェトロ)|date=2019-05-31|accessdate=2019-06-01}}</ref>。この他にも観光ビザ取得の手続きも簡略化を検討するなど、トルクメニスタンが日本との観光交流促進に意欲を示していることが明らかにされている<ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/08/c08d109f51a623c3.html|title=日本との観光交流促進に意欲、電子ビザ導入の動きも |newspaper=JETRO|date=2019-08-16|accessdate=2020-03-02}}</ref>。 {{See also|トルクメニスタンの査証政策|{{仮リンク|トルクメニスタンのパスポート|en|Turkmen passport}}}} == 交通 == {{main|トルクメニスタンの交通}} {{節スタブ}} === 鉄道 === {{Main|トルクメニスタンの鉄道}} === 航空 === {{Main|トルクメニスタン航空|トルクメニスタンの空港の一覧}} == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの科学技術|ru|Наука и технологии Туркмении}}}} トルクメニスタンは、[[インフラストラクチャー|インフラ]]を近代化する取組みの一環として、[[ハイテクパーク|テクノロジーパーク]]を新規開発している。 ソビエト時代に設立された多くの国立研究機関は、新技術の開発ならび国家における優先事項の変化と共に時代遅れな代物となりつつあった。これにより同国は2009年以降、研究所の数を減らし、既存の研究センターをグループ化して設立する計画を打ち立てた。2011年、首都アシガバート付近の地域である{{仮リンク|ビクロバ|ru|Бикрова}}にテクノロジーパークの建設が開始されており、様々な関連施設が統合される予定となっている。また、このテクノパークでは、代替エネルギー ([[太陽光発電|太陽光]]、[[風力発電|風力]])と[[ナノテクノロジー]]の開発に関する研究を実施する運びとされている<ref>{{книга|заглавие=Central Asia. In: UNESCO Science Report: towards 2030|издательство=UNESCO|год=2015|isbn=978-92-3-100129-1|место=Paris|страницы=365—387|ref=Mukhitdinova|язык=en|автор=Mukhitdinova, Nasiba}}</ref>。 {{節スタブ}} == 国民 == {{main|トルクメニスタンの人口統計}} === 人口 === 最新の2022年[[国勢調査]]によると総人口は7,057,841人である<ref>{{Cite web |url=https://turkmenistan.gov.tm/en/post/74165/international-experts-population-census-turkmenistan-meets-international-standards |title=International experts: population census of Turkmenistan meets international standards |publisher=Turkmenistan: Golden age |date=2023-07-19 |accessdate=2023-08-13}}</ref>。[[1989年ソ連国勢調査]]では約352万人であった<ref>{{Cite web |url=http://www.demoscope.ru/weekly/ssp/sng_nac_89.php?reg=14 |title=Всесоюзная перепись населения 1989 года. Национальный состав населения по республикам СССР |publisher=Demscope Weekly |accessdate=2023-08-13}}</ref>。国立統計情報研究所が発表した公式推計によると、1995年に450万人、2000年に537万人、2003年4月に600万人、2006年3月に約679万人、2006年7月には約684万人<ref name="eurasianet20120824">{{Cite web |url=https://eurasianet.org/turkmenistan-prepares-first-census-in-almost-a-generation |title=Turkmenistan Prepares First Census in Almost a Generation |publisher=[[ユーラシアネット]] |date=2012-08-24 |accessdate=2023-08-13}}</ref>と増加傾向にある。2006年12月のニヤゾフ死去後人口の公式発表は行われなくなり、2012年に実施された国勢調査は結果が公表されなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.rferl.org/a/how-many-people-live-in-turkmenistan-the-official-figure-is-hard-to-believe/30393686.html |title=How Many People Live In Turkmenistan? The Official Figure Is Hard To Believe |publisher=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ]] |date=2020-01-23 |accessdate=2023-08-13}}</ref>。 だがトルクメニスタン政府が発表している人口統計は正確性に疑問を持たれている。外部機関では2005年の人口を約467万人と推定している<ref name="eurasianet20120824" />。また政府に近い関係者によると2021年の予備調査の時点で人口は280万人にも満たなかったという<ref>{{Cite web |url=https://www.rferl.org/a/turkmenistan-census-fake-numbers-population-decline/32516559.html |title='Out Of Thin Air': Turkmen Unconvinced By New Census Results Amid Severe Population Decline |publisher=[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ]] |date=2023-07-24 |accessdate=2023-08-13}}</ref>。背景には[[出生率]]の低下と、抑圧的な政治体制と生活難による国民の脱出が指摘されている。アシガバードの情報筋によると2008年から2018年にかけて200万人が国外へ脱出し、深刻な人口減少に見舞われているという<ref>{{Cite web |url=https://www.rferl.org/a/escape-from-turkmenistan-almost-2-million-have-fled-but-the-president-won-t-hear-of-it/29987972.html |title= Escape From Turkmenistan: Almost 2 Million Have Fled, But The President Looks The Other Way |publisher=ラジオ・フリー・ヨーロッパ |date=2019-06-08 |accessdate=2023-08-13}}</ref>。 === 民族構成 === {{bar box |title=民族構成(トルクメニスタン)<2003年> |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[トルクメン人]]|yellowgreen|85}} {{bar percent|[[ウズベク人]]|green|5}} {{bar percent|[[ロシア人]]|blue|4}} {{bar percent|その他|red|6}} }} トルクメン人が[[人口]]の大半を占め、ロシア人やウズベク人も多い。現在、ロシア人の人口は減少傾向にある。2003年時点での民族ごとの人口比は、トルクメン人 が85%、ウズベク人が5%、ロシア人が4%、その他が6%である。 ソ連時代の名残りから、人名は[[ロシア語]]風の姓名が多く見受けられる。 === 言語 === [[トルクメン語]]72%、 [[ロシア語]]12%、[[ウズベク語]]9%、その他7%。 ロシア語も通用する<ref name="日本国外務省"/>が、トルクメン人同士は主にトルクメン語で会話する。ただ、トルクメン人でも長く都市部に住んでいる者やエリートなどの中にはロシア語を[[母語]]とし、トルクメン語が満足に話せない者もいる。初代のニヤゾフ大統領もその一人だった。 === 婚姻 === 婚姻時に、婚姻前の姓を保持する([[夫婦別姓]])か、共通の姓(同姓)かを選択することができる<ref>[https://www.global-regulation.com/translation/turkmenistan/5965330/family-code-of-turkmenistan.html Family Code Of Turkmenistan]</ref>。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの宗教|en|Religion in Turkmenistan|ru|Религия в Туркмении}}}} [[イスラム教]][[スンナ派]]が大多数<ref name="日本国外務省"/>。[[キリスト教]][[正教会]]の信徒も一部存在する。 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Turkmenistan}}}} === 教育 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの教育|en|Education in Turkmenistan}}}} 2015年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である<ref name=2018cia>{{Cite report|author=CIA|date=2018|title=CIA World Factbook "Turkmenistan"|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tx.html|accessdate=2019-03-09}}</ref>。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの保健|en|Health in Turkmenistan}}}} 2018年の推計によれば、国民の[[平均寿命]]は70.7歳(男性:67.6歳、女性:73.9歳)である<ref name=2018cia />。また、前大統領であったベルディムハメドフが歯科医師ということもあり、病院・医療関連へは個人的な思い入れが大きいという。医療機器に関してはドイツが先行している。また、医療分野でのITシステム導入は、医療に対する消費者への簡易アクセスを可能にするものとして重要視されている<ref name="JETRO 2016.9" />。 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンの医療|en|Healthcare in Turkmenistan}}}} == 治安 == トルクメニスタンの治安は経済の項目欄でも記されている通り、比較的安定している面を持つが、犯罪統計を一切公表していないためか実際の犯罪発生状況を正確に把握することが困難な状態にあり、危険と判断されるレベルで捉えられていることが多い<ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_202.html#ad-image-0 海外安全ホームページ: 危険・スポット・広域情報:トルクメニスタン] 日本国外務省</ref><ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_202.html 海外安全ホームページ: 安全対策基礎データ:トルクメニスタン] 日本国外務省</ref>。[[国連薬物犯罪事務所]](UNODC=United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、統計のある最新の2006年の数値では、10万人あたりの殺人(既遂)が約4.2件([[認知件数]]:203件)<ref>{{Cite web|publisher=UNODC|title=Statistics and Data>Crime data>Intentional Homicide>Intentional homicide victims|url=https://dataunodc.un.org/crime/intentional-homicide-victims|accessdate=2019-2-24}}</ref>、窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)は、約29.7件(認知件数:1,431件)<ref>{{Cite web|publisher=UNODC|title=Statistics and Data>Crime data>Other Crimes>Theft|url=https://dataunodc.un.org/crime/theft|accessdate=2019-2-24}}</ref>である。殺人は中央アジア5か国の中ではカザフスタン(約11.3件[2008年]、2015年は減少して約4.8件)、キルギス(約8.3件[2006年]、2016年は減少して約4.5件)に次いで3番目であり、窃盗はウズベキスタンを除いた4か国の中では一番低い。 現在、海外からの訪問者が現地で[[盗難]]被害に遭う事件が後を絶たない。同地の[[警察]]は[[贈収賄]]が横行している問題も根強い。 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンにおける汚職|en|Corruption in Turkmenistan|ru|Коррупция в Туркменистане}}}} [[両替]]を行う[[ブラックマーケット]]も存在し、実際の[[為替レート]]とは違う金額で換金が行われるなどの被害も多発している。 さらに、[[売春]]を行っていると思わしき女性と一緒にいた外国人男性が現地の警察から嫌がらせを受けたという被害報告も出ている。 === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの法執行機関|en|Law enforcement in Turkmenistan}}}} トルクメニスタンにおける[[法執行機関]]は3つの公的機関で構成されている。 * {{仮リンク|トルクメニスタン内務省|label=内務省|en|Ministry of Internal Affairs (Turkmenistan)|ru|Министерство внутренних дел Туркменистана}} * {{仮リンク|トルクメニスタン国家保安省|label=国家保安省|ru|Министерство национальной безопасности Туркменистана|en|Ministry for National Security (Turkmenistan)}} * トルクメン国家警察 {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタン刑法|ru|Уголовный кодекс Туркменистана}}}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンにおける人権|en|Human rights in Turkmenistan}}}} トルクメニスタンでは、国内の[[少数民族]]に対する差別が今も続いている。一例として、同国に散在する世界的少数民族の[[バローチ人]]の文化やその言葉を教えることが禁じられている<ref>[http://www.fidh.org/IMG/pdf/Alternative_report_Turk_UPR_eng.pdf "Alternative report on the Human Rights situation in Turkmenistan for the Universal Periodic Review"]</ref>。 また、トルクメニスタンでは2003年にロシアとの[[二重国籍]]を廃止している。そこからロシアのパスポートを持たないトルクメニスタン生まれのロシア人は、トルクメン人に認定される形で自身の[[自己同一性|アイデンティティー]]を奪われ、ロシアへの出入国も永久に行えない可能性が高まっている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3007598.stm "Asia-Pacific | Russians 'flee' Turkmenistan".][[英国放送協会|BBC News]]</ref>。加えて数千人のロシア人がトルクメニスタンから財産などを放棄したままで出国するよう促されたという話もある<ref>[http://www.irinnews.org/news/2004/02/18/unions-strike-successful Striking Zambian unions described their nationwide stayaway on Wednesday against tax hikes and wage freezes as "successful".] IRIN • humanitarian news and analysis from Africa, Asia and the Middle East - updated daily</ref>。 == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンのメディア|en|Mass media in Turkmenistan}}}} トルクメニスタンは、世界で最も厳しくメディアを統制している国家の一つに数えられる。ニヤゾフ政権時代は極端な報道規制により海外から多くの批判を受けた。現在のベルディムハメドフ政権も前政権同様に独裁体制を一貫している点から、[[言論の自由]]と報道の自由を侵害する姿勢が強く、海外諸国ではその現状に対して今も批判が絶えない。 [[国境なき記者団]]による「[[世界報道自由度ランキング]]」では最下位にランクづけされており、情報の統制が色濃い面が見受けられる<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/04/post-92959.php 人前で「コロナ」と言ったりマスクをするだけで逮捕される国とは] [[Newsweek]]日本版(2022年4月1日)</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンの通信|en|Telecommunications in Turkmenistan}}}} == 文化 == [[ファイル:Gorskii 04841u.jpg|thumb|200px|[[ゲル (家屋)|ユルト]]で寛ぐトルクメン人の家族。 <br> 撮影は[[セルゲイ・プロクディン・ゴルスキー]]]] {{Main|トルクメニスタンの文化}} [[アハルテケ|アハル・テケ]]というトルクメニスタン名産の[[ウマ|馬]]はトルクメニスタンの誇りとされ、[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]もお気に入りだったという。このほか、[[トルクメン絨毯]]も名産品の一つ。 === 食文化 === {{Main|トルクメニスタン料理}} {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタン文学|label=トルクメン文学|en|Turkmen literature}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{Main|トルクメニスタンの音楽}} [[ペルシア]](イラン)やインドの音楽の影響下にある独自の[[民族音楽]]がある。 また、ソ連時代から[[ジャズ]]や[[軽音楽]]の[[バンド (音楽)|バンド]]の活動もあり、[[打楽器]]奏者 [[:ru:Шафиев, Ришад Алексеевич|Rishad Shafi]] をリーダーとするバンド [[:ru:Гунеш (группа)|Гунеш]](Gunesh Ensemble)の[[レコード]]がソ連国営レコード会社[[メロディア]]から発売されていた。同バンドは高度な演奏技術を持ち、トルクメニスタンを代表するバンドとして[[西側諸国]]でも高い評価を得ている。 === 映画 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの映画|tk|Türkmen film|en|Cinema of Turkmenistan|ru|Кинематограф Туркмении}}}} {{節スタブ}} === 衣装 === [[ファイル:Turkman girl in national dress.jpg|thumb|200px|伝統的な衣装を身にまとった[[トルクメン人]]の女性。]] {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの民族衣装|ru|Туркменский национальный костюм}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの建築|ru|Архитектура Туркмении}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|トルクメニスタンの世界遺産}} トルクメニスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件存在する。 === 祝祭日 === [[ファイル:Independence Day Parade - Flickr - Kerri-Jo (215).jpg|thumb|300px|独立記念日のパレードの様子]] {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの祝日|en|Public holidays in Turkmenistan|ru|Праздники Туркменистана}}}} {{clear}} {| class="wikitable" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- ||1月1日||新年||lang="tk"| || |- ||1月12日||記憶の日||lang="tk"| || |- ||2月19日||[[トルクメニスタンの国旗|トルクメニスタン国旗]]の日||lang="tk"| ||ニヤゾフ初代大統領の誕生日でもある。 |- ||3月8日||トルクメニスタン[[国際女性デー|(国際)女性の日]]||lang="tk"| || |- ||3月21日、22日||[[春分]]の日||lang="tk"| || |- ||4月第1日曜日||「[[水の滴、金の粒]]」の日|| lang="tk" | || |- ||4月最終日曜日||トルクメニスタン[[競走馬]]の日||lang="tk"| || |- ||5月8日||1941-1945年[[独ソ戦|大祖国戦争]]戦死者追悼日||lang="tk"| || |- ||5月9日||[[戦勝記念日 (5月9日)|勝利の日]]||lang="tk"| || |- ||5月18日||再生、統一、[[マフトゥムグル]]の詩の日|| lang="tk" | || |- ||5月最終日曜日||[[トルクメン絨毯]]の日||lang="tk"| || |- ||7月第3日曜日||ガッラー・バイラマの日||lang="tk"| || |- ||8月第2日曜日||[[メロンの日]]||lang="tk"| ||ニヤゾフ初代大統領がメロン好きであった事から制定された記念日で、現在も引き継がれている。当日はメロンを称える様々なイベントが行われる。 |- ||9月第2土曜日||石油・ガス、エネルギー、地質産業職員の日||lang="tk"| || |- ||9月第2日曜日||トルクメン・バフシーの日||lang="tk"| ||バフシーとは、弾き語りをする音楽師。 |- ||10月6日||追悼、全国民服喪の日||lang="tk"| || |- ||10月27日、28日||{{仮リンク|トルクメニスタン独立記念日|en|Independence Day (Turkmenistan)|ru|День независимости Туркмении|tk|Türkmenistanyň garaşsyzlyk baýramy}}||lang="tk"| || |- ||11月第1土曜日||健康の日||lang="tk"| || |- ||11月17日||[[国際学生の日|学生の日]]||lang="tk"| || |- ||11月最終日曜日||収穫の日||lang="tk"| || |- ||12月第1日曜日||善隣の日||lang="tk"| || |- ||12月12日||中立の日||lang="tk"| || |- ||12月21日||初代トルクメニスタン大統領、偉大なるサパルムラト・テュルクメンバシュ記念日||lang="tk"| ||ニヤゾフ初代大統領の没日(2006年)で、2007年3月2日制定。 |- ||政府が決定||クルバン・バイラムの日||lang="tk"| || |- ||政府が決定||オラザ・バイラムの日||lang="tk"| || |} === 過去の月名と曜日名 === 2002年、ニヤゾフ元大統領の独断により月の名称と曜日の名称が独自のものに変えられた。しかし国民には不評で2008年4月には元に戻す法案が提出され、2009年から元の月と曜日の名称に戻った。 {| class="wikitable" |+トルクメニスタンの月 |- !月!!日本語表記!!現地語表記!!本来のトルクメン語!!備考 |- | 1月 || テュルクメンバシュ ||lang="tk"| Türkmenbaşy ||lang="tk"| Ýanwar || ニヤゾフ大統領の言葉によれば、ニヤゾフ大統領自身を賛美するためではなくトルクメン人にとっての最初の月だからだという。 |- | 2月 || バイダク ||lang="tk"| Baýdak ||lang="tk"| Fewral || 「旗」、2月に[[トルクメニスタンの国旗|国旗]]を制定したため。 |- | 3月 || [[ノウルーズ|ノヴルーズ]] ||lang="tk"| Nowruz ||lang="tk"| Mart || [[イラン暦]]新年 |- | 4月 || グルバンソルタン ||lang="tk"| Gurbansoltan ||lang="tk"| Aprel || ニヤゾフの母親の名前。これは議員からの「提案」。 |- | 5月 || [[マフトゥムグル]]|| lang="tk" | Magtymguly ||lang="tk"| Maý || トルクメニスタンの国民的詩人 |- | 6月 || オグズ ||lang="tk"| Oguz ||lang="tk"| Iýun || 歴史上の人物。トゥルクマーンによる国家を初めて築いたとされるオグズ・ハーン。 |- | 7月 || ゴルクート ||lang="tk"| Gorkut ||lang="tk"| Iýul || 歴史上の人物。トルクメンの[[叙事詩]]の英雄。 |- | 8月 || [[アルプ・アルスラーン]] ||lang="tk"| Alp Arslan ||lang="tk"| Awgust || 歴史上の人物。[[セルジューク朝]]を拡大させた[[スルタン]]。 |- | 9月 || [[ルーフナーマ]] ||lang="tk"| Ruhnama ||lang="tk"| Sentýabr || ニヤゾフが9月にルーフナーマを書き終えたから。 |- | 10月 || ガラシュスィズルィク ||lang="tk"| Garaşsyzlyk ||lang="tk"| Oktýabr || 「独立」。トルクメンが1991年に独立した月。 |- | 11月 || [[アフマド・サンジャル|サンジャール]] ||lang="tk"| Sanjar ||lang="tk"| Noýabr || 歴史上の人物。大セルジューク朝最後のスルタンであるサンジャール。 |- | 12月 || ビタラプルイク ||lang="tk"| Bitaraplyk ||lang="tk"| Dekabr || 「中立」。永世中立国となった月。 |} {| class="wikitable" |+トルクメニスタンの曜日 |- !曜日!!日本語表記!!現地語表記!!備考!!本来のトルクメン語 |- | 月曜日 || バシュギュン ||lang="tk"| Başgün || 主要な日 ||lang="tk"| Duşenbe |- | 火曜日 || ヤシュギュン ||lang="tk"| Ýaşgün || 若き日 ||lang="tk"| Sişenbe |- | 水曜日 || ホシュギュン ||lang="tk"| Hoşgün || 善の日 ||lang="tk"| Çarşenbe |- | 木曜日 || ソガプギュン ||lang="tk"| Sogapgün || 敬虔の日(死者に祈りを捧げる日 )||lang="tk"| Penşenbe |- | 金曜日 || アンナギュン ||lang="tk"| Annagün || 全国民が[[ルーフナーマ]]を読む日 ||lang="tk"| Anna |- | 土曜日 || ルフギュン ||lang="tk"| Ruhgün || 精神の日(読書や観劇で精神を高める日) ||lang="tk"| Şenbe |- | 日曜日 || ドゥインチギュン ||lang="tk"| Dynçgün || 休息の日 ||lang="tk"| Ýekşenbe |} == スポーツ == トルクメニスタンのスポーツは多種多様なものとなっており、球技では[[サッカー]]、[[バスケットボール]]、[[テニス]]、[[ハンドボール]]など、[[ウィンタースポーツ]]では[[アイスホッケー]]、[[格闘技]]においては[[レスリング]]、[[柔道]]、[[ボクシング]]、[[ムエタイ]]で能力の高い選手を輩出している。さらに[[近代オリンピック|オリンピック]]への出場経験もあり、[[重量挙げ]]や[[陸上競技]]にも力を入れている。 傍らで[[馬]]を用いたスポーツが国内各地で開催されており、特に[[競馬]]は専用の[[競技場]]のある[[アシガバート]]で人気を博している。一方、[[マインドスポーツ|頭脳スポーツ]]では[[チェス]]に特化した面を持ち、これまで4人の選手を世界に送り出している。 {{See also|オリンピックのトルクメニスタン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンのサッカー|en|Football in Turkmenistan}}}} トルクメニスタン国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1992年]]にプロサッカーリーグの[[トルクメニスタン・リーグ]]が創設された。[[FKアルティン・アシル]]が圧倒的な強さを誇っており、[[2014年]]から[[2021年]]までにリーグ8連覇を達成している。 [[トルクメニスタンサッカー連盟]](TFF)によって構成される[[サッカートルクメニスタン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。しかし[[AFCアジアカップ]]では、[[AFCアジアカップ2004|2004年大会]]と[[AFCアジアカップ2019|2019年大会]]で2度の出場を果たしている。[[AFCチャレンジカップ]]では[[AFCチャレンジカップ2010|2010年大会]]と続く[[AFCチャレンジカップ2012|2012年大会]]で準優勝に輝いており、近年は力をつけて来ている。 == 著名な出身者 == [[ファイル:1959 CPA 2364.jpg|thumb|200px|right|[[ソビエト連邦|ソ連]]時代の[[1959年]]に発行された{{仮リンク|マフトゥムグル・ファラージ|en|Magtymguly Pyragy|label=マフトゥムグル}}の[[切手]]。]] 著名な人物として[[詩人]]の{{仮リンク|マフトゥムグル・ファラージ|en|Magtymguly Pyragy|label=マフトゥムグル}}がおり、トルクメニスタンの'''国民的詩人'''とも言われている。首都・[[アシガバート]]のメインストリートは「マフトゥムグル通り」と名づけられおり、[[バルカン州]]には{{仮リンク|マフトゥムグル県|en|Magtymguly District}}が置かれている。出身地は[[世界遺産]]の「[[ゴンバデ・カーブース]]」でも有名な{{仮リンク|ゴンバデ・カーヴース|en|Gonbad-e Kāvus}}(現[[イラン]]・[[ゴレスターン州]])である。 {{Main|トルクメニスタン人の一覧}} * [[エルヌル・フュセイノフ]] - [[歌手]] * [[グヴァンチ・ヌルムハメドフ]] - [[柔道|柔道家]] * [[グルバダム・ババムラトワ]] - 柔道家 * [[ウラジミール・バイラモフ]] - 元[[プロサッカー選手|サッカー選手]] * [[スレイマン・ムハドフ]] - 元サッカー選手 * [[アルスランムラト・アマノフ]] - サッカー選手 * [[ルスラン・ミンガゾフ]] - サッカー選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="imf201810">{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/weorept.aspx?sy=2016&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=925&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=72&pr.y=3|title=World Economic Outlook Database, October 2018|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2018-10|accessdate=2019-03-09}}</ref> }} == 関連項目 == * [[トルクメニスタン関係記事の一覧]] * [[西気東輸]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Turkmenistan|Turkmenistan}} ; 政府 * [http://www.turkmenistan.gov.tm/ トルクメニスタン政府] {{tk icon}}{{en icon}}{{ru icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkmenistan/ 日本外務省 - トルクメニスタン] {{ja icon}} ; 大使館 * [https://www.tm.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在トルクメニスタン日本国大使館] {{ja icon}}{{ru icon}} * [https://japan.tmembassy.gov.tm/ja 在日トルクメニスタン大使館] {{ja icon}} * [http://www.turkmenistan.or.jp/ 駐日トルクメニスタン大使館] {{ja icon}} ; 観光 * [http://turkmenistan-japan.com/ トルクメニスタン政府観光局] {{ja icon}} ; その他 * [https://turkmenportal.com/ Turkmenportal (トルクメニスタン専門ニュースポータルサイト)] {{ru icon}} * [https://silkroadtm.jp/jp Türkmen-Ýapon (トルクメニスタン専門ニュースポータルサイト)] {{ja icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000106723.pdf 日・トルクメニスタン共同声明 (PDF)] * [http://www.jp-tr.org/ 日本トルクメニスタン投資環境整備ネットワーク] {{ja icon}} * [https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%BA%A4%E6%B5%81%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC-1524443241148917/ 日本トルクメニスタン交流センター | Facebook] * {{Kotobank}} {{アジア}} {{独立国家共同体}} {{OIC}} {{トルクメニスタン関連の項目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とるくめにすたん}} [[Category:トルクメニスタン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:トルキスタン]] [[Category:独立国家共同体]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:ロシア語圏]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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コロンビア
コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。 コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。 コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代には麻薬戦争による暴力が横行し、世界で最も危険な国の1つとなった。しかし、21世紀以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸における主要国と位置づけられている。 コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ、カーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ランは国花である。 コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである。2020年、フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした。 正式名称は、República de Colombia [reˈpuβlika ðe koˈlombja]. 通称Colombia。 公式の英語表記は、Republic of Colombia [rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə] . 通称Colombia。 日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア。漢字による当て字は、哥倫比亜、もしくは古倫比亜である。 国名は直接的にはアメリカ大陸の発見者クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペインのグラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてコロンビア共和国(後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。 紀元前1450年ごろに、ボゴタ近郊のエル・アブラ(スペイン語版、英語版)の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年、インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ(Cacique、Cacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制国家群を発展させた。その好例をチブチャ系 (Chibcha) のムイスカ、タイロナ、カリマ(スペイン語版、英語版)、キンバヤ(スペイン語版、英語版)、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。 西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)に率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストファー・コロンブスはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(英語版)(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタ(スペイン語版)を首都とするムイスカ連邦(スペイン語版)(1450年 - 1537年、Bogotá Kingdom - バカタ王国(スペイン語版)とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降、スペイン人の拠点となった。 スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。 1781年、ソコーロ(英語版)で増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱(英語版)を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。 19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。 1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してボゴタ県(スペイン語版)(サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国(スペイン語版、英語版)(1810年 - 1815年)の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県(スペイン語版)(カルタヘナ・デ・インディアスを中心)がカルタヘナ共和国(スペイン語版)(1811年 - 1815年)の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州(英語版)(1810年 - 1816年)として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。 ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 - 1812年)を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国(英語版)(1813年 - 1814年)を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年)(スペイン語版))、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。 再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ(英語版)(Llanero)の頭目だったホセ・アントニオ・パエス(英語版)の力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国(スペイン語版)(1817年 - 1819年)が再建され、グラン・コロンビア(Gran Colombia、1819年 - 1831年)が創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。 1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカスが解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia)を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に出征した。1824年にスクレ軍がアヤクーチョの戦い(英語版)で勝利し、全インディアス植民地の独立を勝ち取った。 ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争(英語版))。その後、ベネズエラが独立を要求した。1830年にエクアドル(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。 1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。 1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペス(英語版)はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ(英語版)将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。 1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス(英語版)が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合(1858年 - 1863年)が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ(英語版)が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。 モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国(1863年 - 1886年)が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェス(英語版)が自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。 1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。 1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版、英語版)将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争」(1899年 - 1902年)が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。 内戦終結後、保守党のラファエル・レイェス(英語版)が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。 1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラ(英語版)が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。 1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ(英語版)が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件(英語版)を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。 1946年以降の十年間はラ・ビオレンシア(英語版)(「暴力」の時代、1948年 - 1958年)と言われ、争いが頂点に達した。1946年に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(英語版)(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。 1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争に際して国連軍に軍隊を派遣した。 地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起(ビジャリカ戦争)。1956年、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件(スペイン語版)」(Incidentes en la plaza de toros)の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンのフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権(スペイン語版)(1957年 - 1958年)。 1958年、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線(スペイン語版、英語版)」体制(1958年 - 1974年)が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命(1953年 - 1959年)の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって進歩のための同盟が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟(スペイン語版、英語版)(ANAPO)が発足。 1964年からゲリラ活動は活発化し(コロンビア内戦)、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。 1974年、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し戒厳令を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が秘密警察による拉致や拷問を受け、その多くが失踪した。 1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス(英語版)大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟(英語版) (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19によるコロンビア最高裁占拠事件、ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ・バルガス大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争(英語版)」(プラン・コロンビア(スペイン語版、英語版)、麻薬戦争)が勃発し、大統領選挙中の8月18日にルイス・カルロス・ガラン・サルミエントが暗殺された。麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。 1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件(スペイン語版、英語版)」(西: Proceso 8.000)に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ合衆国連邦政府もサンペールに入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「プリメーロ・コロンビア(スペイン語版)」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「パラポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Parapolítica)が発覚。2008年、3月1日に国境のプトゥマヨ川を越えたエクアドル領内でコロンビア革命軍(FARC)掃討作戦を実施、ラウル・レジェス他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領ラファエル・コレアは領空侵犯として抗議(アンデス危機)。同年4月にウリベ大統領の「イディスポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Yidispolítica)が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めたフアン・マヌエル・サントスが当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの虐殺されたと思われる遺体が発見された。 現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。 コロンビア最大の左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。 ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)とキューバの首都ハバナで和平交渉を開始した。和平交渉自体は、紛争が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。 期日までに合意されなかったことから世論の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。 2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日にカルタヘナで署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。ノルウェー・ノーベル委員会は、サントス大統領による内戦の終結に導く努力を認め、2016年10月7日にノーベル平和賞を送ると発表した。 だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右とも言われるイバン・ドゥケが大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。 大統領を元首とする共和制国家であり、上下両院制の複数政党制議会を備える。現行憲法は1991年憲法である。 行政権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。2005年の憲法改正で連続一度までの再選が可能だったが、2015年に再選が禁止された。 立法権は上院と下院に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、比例代表制により選出される。 司法権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。 コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。イスパノ・アメリカ独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし中央集権派と連邦派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。 なお、「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタンが選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補ガブリエル・トゥルバイはレバノン移民の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児であり、下層階級出身である。また、自由党のベリサリオ・ベタンクール大統領(任1982年‐1986年)はバスク系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供のころは裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だったころは公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党のカルロス・レストレポ大統領(任1910年‐1914年)や、自由党のエドゥアルド・サントス大統領(任1938年‐1942年)は中産階級出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる」という言い方が流行ったこともあるという。 かつて左派の主要な政治勢力であった愛国同盟(UP)は1,500人以上の活動家が政府によって暗殺されたために壊滅し、清廉な議員・判事でも麻薬組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや右翼民兵による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きいなど、腐敗と暴力が横行している。 しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権与党が推薦した候補者が選挙で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代が行なわれており、1882年、1930年、1946年の選挙では政治的暴力は発生していない。 また、コロンビアでは1853年に憲法で男子の普通選挙権が認められており、世界の憲政史上でも最も古い国の一つである。1856年の普通選挙による初の大統領選では、有権者の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と投票所までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である。 奴隷制は独立後の1821年に奴隷から産まれた新生児を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは米国大統領エイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言より40年も早く、1826年のパナマ会議に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。1851年に全土の奴隷2万人が全員解放され、1852年1月には奴隷制そのものが全廃された。 コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、南北戦争と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している。 例えば、ベネズエラでは大コロンビアからの分離後25年間で11回反乱が起き、アルゼンチンでは1868年までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、メキシコや他の中米諸国、アルゼンチン、ペルー、ボリビアで長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリでさえ1829年、1851年、1859年、1891年に内戦が起き、国境の資源を巡り1879年に太平洋戦争が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、メキシコ革命や第一次世界大戦と第二次世界大戦の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる。 政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、リベラル派の「急進的変革」・社会主義勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。 なお、死刑制度は1991年の新憲法で全面廃止されている。 伝統的に隣国のベネズエラ、エクアドルからは再度、両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年ではベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、FARCにベネズエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となった。このため、一時はコロンビアによるベネズエラ侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、枯葉剤の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの国交が断交。エクアドルに同調し、ニカラグアも断交を発表した。2009年7月にはコロンビアが駐留米軍増強を計画していることについてベネズエラが反発、ベネズエラはロシア製戦車の調達を増やすことで対抗するとしており、コロンビア、ベネズエラ間の緊張が高まっている(アンデス危機)。 アメリカ合衆国との関係では、1903年にアメリカの援助を受けてパナマ地峡がパナマ共和国として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、パナマの独立はコロンビア政府によって承認された。パナマの独立承認後1920年代から合衆国資本により経済支配が進んだ。その後も親米路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を終結させようとする傾向を強くし、イラク戦争を支持するなど一層の同盟関係の強化が進んだ。現在はアメリカとの自由貿易協定締結を目指している。2009年8月14日には、アメリカとコロンビアとの間で軍事同盟が正式発効した。しかし、これにベネズエラが「宣戦布告」と反発している。 2010年7月22日、ベネズエラとの国交を断絶したが同年8月11日、国交を回復することで合意した。 ベネズエラ経済危機でベネズエラ難民がコロンビアに殺到しており、2018年9月時点でその数は100万人を超える。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題になっている。 2019年2月24日にコロンビアからベネズエラに運ばれる人道支援物資を国境のベネズエラ軍が妨害したことが原因で両国の緊張が高まり、ベネズエラのマドゥロ政権はコロンビアとの国交を断絶した。しかし2022年8月7日にコロンビア初の左派政権となるグスタボ・ペトロ大統領が就任したことをきっかけに、8月28日にベネズエラとの国交回復が行われた。 2010年、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加する意向を明らかにした。 1908年(明治41年)5月25日、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人は庭師の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人をコロンビアに連れて帰り、川口はボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口は日本で皇族の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信の下でも働いていた経験があり、大隈の推挙によりイスキエルドとともにコロンビアに渡ったとされる。渡航後の川口の消息は不明だが、ボゴタに墓碑があるとの未確認情報もある。 川口の次にコロンビアに入国した日本人は1915年(大正4年)、広島県竹原市出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャに移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人の源流となった。1921年(大正10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災で東京の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚。子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇崩御の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。1923年には島清、中村明ら5名が「安洋丸」でブエナベンツーラ港に入港。1926年、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。1929年(昭和4年)、主に福岡県などから入植が始まり、農業で成功した。ブラジルやペルーに比べて少ないが、現在もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人が存在し、南米の日系移民では最も成功したとされる。1941年の太平洋戦争で一時国交を断交したが、戦後の1952年に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本に米を送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒー、花卉が多く日本に輸出、自動車、電子機器がコロンビアに輸入されている。 現在は官民の各部門で両国の文化・人材交流事業を積極的に展開している。 国内はコロンビアの自然区分(英語版)によると、(I)アンデス地域(Andean Region)、(II)カリブ海岸低地地方(Caribbean Region)、(III)太平洋低地(Pacific Region)、東部の(IV)オリノコ地域(Orinoquía Region)・(V)アマゾン地域(Amazon Region)、及び(VI)島嶼(Insular Region)に分かれる。人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。 東部はそのままベネスエラの地形に続きオリノコ川流域平原にはリャノが、グアジャナ高地にはアマゾンの熱帯雨林が広がり、これらの地域は国土の2/3を占めている。東部にはブラジルのネグロ川に連なるグアビアーレ川が流れる。東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住していて、国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。エクアドル国境付近の海岸地帯ではマングローブの林が広がる。北部にはマグダレーナ川やカウカ川が南から北のカリブ海に流れる。 北部には国名と同様、カリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地(スペイン語版、英語版)には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰の北部海岸サンタ・マルタに近い独立峰クリストバル・コロン山(標高5775m)がある。ボゴタ西方のネバドデルルイス火山(標高5389m)は1985年の噴火で史上最悪の2万3千人という犠牲者を出した。太平洋側では、パナマからプエナベントゥラまで続くバウド山脈(スペイン語版、英語版)は中央アメリカの延長である。 エクアドルから続くアンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)と、中央のセントラル山脈(スペイン語版、英語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、トリマ山(5220メートル)、ルイス山(5321メートル) などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、メデジンを含むアンティオキア地方や、カリを含むバジェ・デル・カウカ(カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。中央山脈は430万年前の地殻変動・火山活動で隆起した。火山性堆積物(火山灰、軽石など)が多く、現在も多数の火山が存在する。溶岩流や土石流によって作られた平坦な地形も多く見られる。 オリエンタル山脈は首都のボゴタを含むクンディナマルカ地方を擁し、カリブ海に向かうペリハ山脈(スペイン語版、英語版)と、ベネスエラのメリダ山脈に続く。 全長1200メートルを超え最長であり、中央部は最大幅350キロメートルに達するクンディボヤセンセ高原がある 東部のこの山脈の西斜面は、南部と北部の地域に分けることができ、南部はアマゾン地方からの湿った空気で潤い、北部はやや乾燥しておりリャノと呼ばれる平原へと続いている東部斜面は一般に乾燥しており、河川を利用して農牧業は発達している。 アンデス山脈の高峰から生まれる河川は様々な景色を生み出し、複雑なものとなっている。 西部の山脈は、太平洋沿岸を南北に走り、全長1200キロメートルあり、太平洋の湿った空気が西斜面にぶつかり年間8000ミリの降水量を記録し、そこを流れる河川は、アトラト川をはじめ豊富な水量を誇っている。また、これらの河川の流域には熱帯雨林が形成され、森林資源となっている。 西部と中央山脈の谷間にはカウカ川、東部と中央山脈の間にはマグダレナ川が北へと流れ、カリブ海へと注いでいる。 コロンビアはその国土の全てが北回帰線と南回帰線の間にあり、基本的には熱帯性の気候だが、気候はアンデス山脈の高度によって変わる。また、自然環境の多様性ももたらしている。 コロンビアには33の県(departamento)が設けられている。また、首都ボゴタは特別区域である。「コロンビアは地域主導の国である」と言われる通り、各地域ごとの対立が激しい。 主要な都市はボゴタ(首都)の他、メデジン、サンティアゴ・デ・カリ、バランキージャ、カルタヘナ、ブカラマンガ、ククタがある。 コロンビア軍は3軍からなり、2004年の時点で国防予算は2,760,000,000米ドルである。徴兵制が敷かれており、総兵力232,700人を数える。それぞれの兵力は、 となっている。40年以上続くゲリラとの内戦のために特に陸軍の規模が大きく、またアメリカ合衆国からの潤沢な軍事援助を受けている。軍は主にコロンビア内のゲリラ組織との戦いに当たる。 ボゴタソ以降、1960年代から内戦が本格化し、現在までコロンビア内戦が継続している。 1980年代の和平によりm - 19が離脱し、現在敵対する左翼ゲリラ組織はコロンビア革命軍 (FARC) と民族解放軍 (ELN) だけになっており、近年ではウリベ政権はコロンビア自警軍連合などの極右民兵の武装解除をアピールしている。ベネスエラのウゴ・チャベス大統領がFARCに聖域を提供するなどの行為もあり、未だに予断を許さない状態である。ウリベ政権はアメリカ合衆国のコロンビア計画を履行し、同国の支援を受けて軍拡を行い、治安維持に全力をあげている。 国際通貨基金(IMF)の統計によると、2018年の国内総生産(GDP)は3,310億ドルである。世界39位であり、南米ではブラジル、アルゼンチンに次ぐ3位である。また、日本の大阪府の県内総生産(2016年度)の約94%の経済規模でもある。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、南米共同体の加盟国でもある。 コロンビアの経済は、繰り返される内戦という政治の不安定さとは裏腹に20世紀に入ってからはラテンアメリカ諸国の中でも最も安定した成長を続けた。「ラテンアメリカの失われた10年」である1980年代にも他の南米諸国が苦境に喘ぐのとは対照的に、ハイパー・インフレやマイナス成長を記録したことはなかった。例を挙げると、国連ラテンアメリカ経済委員会の報告では1981年から1990年までの国民総生産(GNP)総成長率は10年間で42.2%となり、一人当たり成長率でも16.2%となった。1999年には1932年以来初めてのマイナス成長を記録したが、その後は再び順調な成長を続けている。しかし、このような安定成長と引き換えに、他の南米諸国のようなダイナミックな高成長を記録することもあまりないのが特徴である。 また、貧富の格差はとても大きく、国民の約3分の1が貧困層にある。失業率も高い。経済協力開発機構(OECD)によると、2015~2018年において、労働者人口に占める自営業者の比率は50%を超えており、調査対象38カ国で2-3位のギリシャやブラジル(いずれも30%台)や29位の日本(10.3%)を大きく上回りトップクラスである。 現在はボゴタが最大の都市だが、内陸のため元々は経済の中心地ではなく、20世紀後半まではアンティオキア地方の中心地メデジンや、1960年代に入ってから急速に成長を遂げたカウカ地方のカリなどがコロンビア経済を牽引していた。 1980年代に大規模な油田が発見されるなど産業が拡大しつつある。 Facebook、Google、マイクロソフトなどが相次いで進出して、2007~12年に同国のIT(情報技術)産業は177%成長し、68億ドル規模となった。 コロンビアは労働環境が整備されておらず、世界的に見ても労働環境が良くない国である。2021年に経済開発協力機構(OECD)によって行われた年間労働時間ランキングでは、全就業者平均の1人当たりの年間実動時間が1,964時間であり、メキシコ、コスタリカに次ぐ第3位を記録している。 また、2021年に国際労働組合総連合グローバル権利指数(2021 ITUC Global Rights Index)が発表した「労働者にとって最悪な10カ国」にもコロンビアはランクインした。これは団体行動権や団体交渉権といった労働者が持つ権利がどの程度尊重されているかを指標化したものである。労働時間のみならず、労働者が持つ権利の観点からもコロンビアは労働環境が整備されていない国だということができる。 また、2020年から2021年にかけて行われたコロンビア政府の「国民生活時間調査」(ENUT:Encuesta Nacional de Uso del Tiempo)によると、有給労働を行っている男性が53.3%、女性が29.9%であり、無給労働を行っている男性が63.0%、女性が90.3%であった。このデータからも分かるように、コロンビアは労働時間が長いにもかかわらず、かなり高い割合で無給労働が行われている。また、男性と女性の労働に関する格差も問題である。 19世紀の終わりから熱帯の換金作物のプランテーションが導入され、特にコーヒーは20世紀を通して外貨の稼ぎ頭であり、産出量は世界で2番目であった。コロンビアのコーヒー産地の文化的景観は、世界遺産にも指定されている。ただし、21世紀になり2位の座を新興生産地の一つであるベトナムに明け渡したほか、2010年代には、コーヒー豆の国際価格が下落し、主要生産地であるウイラ県やアンティオキア県では立ち行かなくなる農家も見られるようになっている。なお、コロンビアの可耕地面積は国土の3.3%程(2005年)である。 切り花(特にバラやカーネーション)の輸出国でもあり、米国、欧州の他に日本へも輸出されている。 世界有数のコカ栽培国と知られており、生産されたコカインは欧米諸国を中心に密輸されている。コロンビア革命軍はコカインの密輸によって1990年代以降に組織の拡大に成功した。これを受けて、2000年代に政府はアメリカなどの支援を受けて、コカ農園に除草剤ラウンドアップの大規模な空中散布を行い一定の成果を上げた。しかし、政府の管理下に置かれていない地域が広く、農園の根絶は困難な状況が2020年代現在も続いている。 2019年に行われた全国農業調査(ENA:Encuesta Nacional Agropecuaria)によると、2019年に生産された農作物の総生産量は63億トンである。この66.7%に当たる4,220万トンが工芸作物であり、コロンビアで生産される農作物の中で最も高い割合を占めている。コロンビアにおいてはコーヒー、アブラヤシ、サトウキビなどがこの工芸作物に該当する。 コロンビアは1991年憲法により、全ての地下資源を国家が所有している。以前は地方の治安が悪かったために探鉱・油田開発が殆ど行われていなかったが、治安改善に従って欧米メジャーによる開発が進んでいる。石炭、石油、天然ガスを産し、全輸出額に占める原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は西半球に限定すれば3位に達する。品位の高い瀝青炭の比率も高い。 油田はベネズエラ国境に近いマグダレーナ川流域に分布する。最も重要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占めるニッケル鉱(7.1万トン、2003年)である。その他、鉄、銅、鉛、金、白金、銀、マグネシウムを産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位を占める。全ての金属鉱床はアンデス山脈に沿って点在する。このほか、リン鉱と塩も産出する。エメラルドの産出量は世界市場の約80%を占める。1990年時点では300万カラットに達した。 コロンビアの観光業は1940年代に始まり、現在も発展している。主な観光地としては首都ボゴタのほかカルタヘナ、サンタ・マルタ(シモン・ボリバルの没した町)、メデジン、カリ、バランキージャ、サン・アンドレス島などがあり、それぞれ異なる嗜好の観光客を惹きつけている。 日本国外務省をはじめとして各国が渡航中止勧告や要注意勧告を出しているにもかかわらず多くの旅行者がコロンビアに惹きつけられている。コロンビアには2006年に150万人の観光客が入国したが、これは前年比50%増であった。 治安に関しては郊外や観光客があまり訪れない場所にさえ行かなければ、危険な目に遭うことは少ないと考えられている。ウリベ政権発足後の劇的な治安回復が、今後の観光業の発展に良い影響を及ぼすことが期待されている。 地理や植生が多様で豊かであるため、エコ・ツーリズムも盛んである。カリブ海岸のカルタヘナはビーチ・リゾートとして有名である。 コロンビアの国民は、国の歴史の多様性と同じように様々な人々によって構成され、ヨーロッパ系移民、インディヘナ、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系などが主な構成要素となっている。インディヘナの多くはメスティーソに統合されたが、現在もメスティーソとははっきり異なるインディヘナの集団は存在する。 ヨーロッパからコロンビアに入国した移民のほとんどはスペイン人であったが、第一次世界大戦と第二次世界大戦では、多くのイタリア人、ドイツ人、ポルトガル人、ユダヤ人、オランダ人、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ハンガリー人、ギリシャ人、スイス人、ベルギー人が国に移住した。その後、冷戦はリトアニア人、ラトビア人、ロシア人、ウクライナ人、アルメニア人のさまざまなグループをコロンビアに移した。例を挙げれば、アンタナス・モックス前ボゴタ市長は、その名前が示すように、リトアニア系の子孫である。アフリカ系の住民は、16世紀と19世紀に奴隷として捕らえられた人々の子孫であり、ほとんどがカリブ海沿岸の熱帯低地に住んでいる。もう1つの大きな移民グループは、オスマン帝国に迫害され逃亡した中東出身のレバノン人、パレスチナ人、シリア人、ヨルダン人、イラク人であった。中国人、日本人、韓国人のようなアジアの移民は、国のいくつかの主要都市で見られる。近年、国への移民の最大数は、退職の一環として国に引っ越すアメリカ人とカナダ人である。 民族構成は、メスティソ45%、ヨーロッパ系42%、ムラート4%、インディヘナ4%、アフリカ系3%、その他(アジアまたはジプシーティコ)2%となっている。 コロンブスが到着する前は、この地域には先住民族が住んでおり、現在はインディヘナと呼ばれている。現在、インディヘナの人口は約1,900,000人と推定されており、102を超える部族に分かれている。彼らの多くはチブチャ語またはカリブ海の言語を話す。アル・ウアコス、ムイスカ、クナが登場。も大きなコミュニティを築いている。 移民の多くはカリブ海沿岸のバランキージャに定着した。移民の出身国としては、レバノン、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、中国、フランス、ポルトガル、そしてロマなどが挙げられる。カリブ海沿岸においてドイツ系と中国系の占める役割は大きい。南西部のカリを中心にカウカ地方には少数ながら日系人もいる。 世界のどのような類似の地域よりも多様性に富んでいて、ラテンアメリカの中でも極めて地域主義が強い国である。例を挙げるとアンティオキア人はコロンビア人であることよりもまずアンティオキア人(アンティオケーノ)であることを優先するといわれ、他のコロンビア人にない貯蓄や開拓の気風はこうした傾向を一層強めた。そのため19世紀中にコロンビア全地域の商業がドイツ人とシリア人のものになってしまったのにもかかわらず、アンティオキア地方だけはアンティオケーノだけが商業を担った。こうした事情があいまって、1920年代にコーヒー景気によって発達したアンティオキア経済は、1960年代にカウカ地方のカリに抜かれるまでメデジンを国内経済の中心地とするほどだった。 2018年に行われた国勢調査(CNPV:Censo Nacional de Población y Vivienda)によると、自らを先住民族と認識している人口が約190万人であった。前回の国勢調査(CG:Censo General・2005年実施)では約139万人であり、先住民族人口が13年の間に36.8%増加している。この変化の要因として、出生率以外の要因が2つ考えられる。まず1つ目は、先住民族が多い地域にも調査対象範囲が広がったことだ。そして2つ目は、先住民の民族的な自己認識が高まったことだ。 1950年代初頭に推定された人口は約1200万人で、1964年の国勢調査では約17,482万人、1974年の推定では約2395万人、1983年半ばの推定では約2752万人であった。 2020年の人口は約5,000万人で、ブラジルとメキシコに次ぐラテンアメリカで3番目に人口の多い国である。20世紀半ばには、農村部から都市への人口の大規模な移動があったが、徐々に減少している。人口は10万人を超える30の都市がある。国の土地の54%を占める東部の低地には人口の3%しか住んでおらず、人口密度は1人/ 1 km2未満である。コロンビアの総人口は2030年に5500万人を超えると予測されている。 人口の95%以上がキリスト教徒であり、その内カトリック教会が90%である。約1%がインディヘナの伝統宗教であり、ユダヤ教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教はそれぞれ1%以下となる。 1960年代初頭までのコロンビアは国家と教会が密着した信心深いカトリックの国であり、人々はカトリック的な倫理規範を重要なものと考えていた。しかし、エル・ティエンポ紙の行った世論調査によると、信者の数は多いにもかかわらず、人口の60%は熱心に信仰していないとのことであり、1960年代以降の都市化、工業化、世俗化の中で、カトリックに代わる新しい世俗的な倫理を生み出せていないことが近年の治安悪化の要因だとする説もある。 婚姻時に女性が改姓する必要はない(夫婦別姓で問題ない)が、父方の姓を夫の父方の姓に置き換えるか、de+夫の父方の姓を後置することができる。2016年からは同姓婚も可能となった。 コロンビアでは80以上の言語が話されており、50万人が先住民の言葉を今も話しているが、公用語はスペイン語であり、日常生活でも使われている。また、コロンビアのスペイン語は南米で最も正しくスペイン語のアンダルシア方言を残しているといわれている。 1580年にコロンビア初の大学である聖トマス・アクィナス大学が創設され、伝統的に植民地時代から北部南米の学問の中心地であったボゴタが「南米のアテネ」と呼ばれて多くの知識人を生み出したのとは対照的に、民衆への教育はあまり積極的に行われなかった。そのため、2011年の推計で15歳以上の国民の識字率は93.6%(CIA World Factbook)と域内でも低い部類に属する。 5年間の初等教育、及び4年間の前期中等教育は義務教育であり、無償となっている。前期中等教育を終えると、二年間の後期中等教育が任意であり、後期中等教育を終えると高等教育への道が開ける。80%以上の児童が小学校に入学し、60%以上の小学生は5年生の小学校を卒業すると6年制の中学校に入学する。小学校の多くは私立学校である。 コロンビアには24の国公立大学と多くの私立大学があり、多くはボゴタに集中している。主な高等教育機関としては、コロンビア国立大学(1867年創立)、ロス・アンデス大学(1948年創立)、アンティオキア大学(1803年創立)、バジェ大学(1945年創立)などが挙げられる。 サントス政権は2011年10月3日に公立大学に独立採算制を導入し、民間資本の参入を促し、大学向け予算を削減する教育改革法案を発表した。これに抗議して、各地で学生や教職員が大学の民営化法案に反対してデモ行進した。学生団体によると、11月10日、首都ボゴタではデモ参加者が20万人に達した。11月9日サントス大統領はスト中止を条件に法案を撤回する用意があると表明した。 社会学者のパウル・オキストによれば、16世紀から19世紀までの約300年間、コロンビアにおいては政治的暴力はほとんど発生しておらず、世界で最も治安の良い国のひとつであったという。1830年以降、内戦が起きていない期間の10万人あたりの殺人発生率は10人程度で極めて低い水準であった。ホセ・マリア・サンペール『コロンビア共和国の政治変革と社会状況』(1861年)によれば、「田舎者にとっては、政府は神話的人格であるが、われわれの間で政府とは、ひとりで武器を持たず徒歩で配達する郵便夫が、偶然に山賊に出会ったような予期せぬ場面でその危険を取り払うために三色旗を振れば十分であるほど敬意を払われている存在である。警察はどこにも存在しないし、犯罪を抑圧する手段は極めて限られている。しかし、それにもかかわらずこじ開けて侵入する泥棒や人を欺くような人間は非常に稀であり、また、職業的な盗賊はここでは例外的で、さらに刑罰制度には重大な欠陥があるにもかかわらず再犯者はめったにいない」。 19世紀のコロンビアの治安の良さの証拠として、コロンビアを旅行した米国人イサック・ホルトンの旅行記『アンデス地方の20ヵ月』(1857年)の記述「生命に対する犯罪に関していえば、ヌエバ・グラナダ全土の殺人は、ニューヨーク市だけの殺人件数の五分の一にも達していないと思われる」や、1884年のカトリック司祭のフェデリコ・アギラールによるコロンビアの犯罪統計と他国の比較検討で、チリ、メキシコ、ベネズエラ、エクアドル、スペイン、イタリアの殺人率はコロンビアよりも高く、「コロンビアでは、チリにおける日常的な山賊、メキシコにおける恐ろしい追いはぎ、グアテマラにおけるかなり頻繁な泥棒の心配をしないで旅行できる」などの記述が挙げられる。 19世紀以前のコロンビアはラテンアメリカ諸国の中で最も治安の良い国であり、内戦が絶えなかった19世紀後半において治安維持に関わる国家権力が弱く司法制度が十分機能していない状態であったにもかかわらず、一般犯罪は総じて少なかったことは正しく認識されるべきである。世界的に見ても20世紀前半まで治安の良い国であったとされる。 コロンビアはかつて誘拐と殺人の発生率が高い国であった。1960年代初頭の殺人事件発生数は3,000件ほどだったが、1990年代初頭にはこれが十倍の30,000件に達した。とりわけ国境付近のプトゥマヨ県、グアビアーレ県、アラウカ県のような地域では10万人当たりの殺人事件発生数は100人に達し、 1990年代には、発生した殺人事件のうち犯人の97%が処罰を受けなかった。こうした犯罪が1960年代以降急速に多発した原因としては、かつて国民の倫理的な規範に国家よりも遥かに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因であるともいう。 しかし、2002年に成立したウリベ政権と続く2010年に成立したサントス政権が治安対策に力を入れた結果、飛躍的な治安改善が成し遂げられつつある。1990年代初頭には殺人事件発生数が10万人当たり77.5人だったが、2020年現在は22.6人にまで減少している。誘拐事件発生数も2002年には2882件あったが、2010年には282件に激減している。とはいえ先進国と比較すればいまだ犯罪発生率が低いとは言えないので、犯罪被害防止を常日ごろから心掛けて行動すべきとされる。 治安改善後、同国は観光に力を入れており、ボゴタ、メデジン、カリ、バランキージャなどの大都市やカルタヘナなどの観光地では警備体制が比較的整っているため、その他の地方と比較すると安全といえる。 近年、隣国ベネズエラの経済危機により、コロンビアへ逃れてくるベネズエラ難民が急増しており、2018年9月時点でその数は100万人にも及ぶ。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題となっている。 コロンビアの文化はラテンアメリカの交差点に位置しておりインディヘナ、ヨーロッパ系、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系の伝統が複雑に織り交ざって構成された多文化的な社会によって特徴づけられている。アメリカ合衆国の文化と、メキシコの文化、アルゼンチンの文化(スペイン語版、英語版)、カリブ海の文化をはじめとするラテンアメリカの文化から強く影響を受けているが、独立以前から受け継がれているスペインの文化(スペイン語版、英語版)の影響が最も強い。コロンビアの複雑な地形と数十年続いた社会分断により、コロンビアの文化は五つの文化的な領域(それは地理的な領域でもある)に強く断片化された。地方から都市への国内移民、工業化、グローバル化、及び国際的な政治的、経済的、社会的問題はコロンビア人の生活のあり方を変えた。 コロンビアの主食はコメであるが、ジャガイモ、トウモロコシ、キャッサバ、プランテンもよく食べられている。トロピカルフルーツの種類も豊富である。 スペイン征服後のコロンビアの文学は、17世紀初頭のエルナンド・ドミンゲス・カマルゴに遡る。 独立後の文学はロマン主義と結びつけられ、傑出した存在としてアントニオ・ナリーニョ、ホセ・フェルナンデス・マドリード(スペイン語版、英語版)、カミーロ・トーレス・テノリオ(スペイン語版、英語版)、フランシスコ・アントニオ・セア(スペイン語版、英語版)が活躍した。19世紀半ばから20世紀はじめにかけてコンストゥンブリスモ文学が人気となり、この時期の作家としてはトマス・カラスキージャ(スペイン語版、英語版)、ホルヘ・イサークス(スペイン語版、英語版)、ラファエル・ポンボ(スペイン語版、英語版)が有名である。その後ホセ・アスンシオン・シルバ(スペイン語版、英語版)、ホセ・エウスタシオ・リベラ(スペイン語版、英語版)、レオン・デ・グレイフ(スペイン語版、英語版)、ポルフィリオ・バルバ=ハコブ(スペイン語版、英語版)、そしてホセ・マリア・バルガス・ビラ(スペイン語版、英語版)がモデルニスモ運動を展開した。1871年にはアメリカ大陸のスペイン語のプリメーラ・アカデメイアが設立された。 20世紀にはペドロ・ガルシアなどの詩人を生んだ。1939年から1940年にかけて詩人のホルヘ・ロハス(スペイン語版)が活躍した。「暴力」の時代にはゴンサロ・アランゴ(スペイン語版、英語版)がニヒリズムとダダイスムから生まれたコロンビアの文学運動ナダイスモ(スペイン語版)の担い手となった。ラテンアメリカ文学ブーム(スペイン語版、英語版)が始まると、魔術的リアリズムの担い手であり『百年の孤独』『族長の秋』などで知られるラテンアメリカの声を代表する大作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがノーベル文学賞を受賞し大活躍した。同時代の作家としてはエドゥアルド・カバジェーロ・カルデロン(スペイン語版、英語版)、マヌエル・メヒア・バジェーホ(スペイン語版、英語版)、アルバロ・ムティスが挙げられる。アルバロ・ムティスは2001年にセルバンテス賞を受賞した。その他の現代作家としてはフェルナンド・バジェーホ(スペイン語版、英語版)(ロムロ・ガジェーゴス賞受賞)と、ガルシア=マルケス以降、コロンビアで最も多くの本が買われている作家のヘルマン・カストロ・カイセード(スペイン語版、英語版)が挙げられる。 フォルクローレにおいては、20世紀初頭にバンブーコが発達した。カリブ海沿岸地方の伝統音楽クンビアは、ガイタ(スペインのガリシア地方のバグパイプ)や、黒人の太鼓など様々な要素から構成されている。クンビアはサルサ以前に汎ラテンアメリカ的な成功を収めてアメリカ合衆国にも進出し、今もラテンアメリカ諸国のポップスに大きな影響を与えている。クンビア以外に人気があるバジェナートはクンビアを基に発展しており、こちらはクンビアよりも洗練された雰囲気がある。また、ベネズエラで国民音楽とされているホローポも、ベネスエラとの国境付近のリャノで演奏されている。 米国ニューヨーク生まれのサルサも人気であり、コロンビア・サルサとしてカリを中心に発展している。 近年はコロンビアポップスの合衆国市場への進出も盛んであり、フアネス、シャキーラ、カミロ などが成功した音楽家として挙げられる。ラファエル・オロスコ・マエストレとディオメデス・ディアスは、バジェナートで成功したミュージシャンとしてリストされました。 また、コロンビアはかつてアルゼンチン、ウルグアイに次いでラテンアメリカで三番目にタンゴが好まれていた国でもある。 コロンビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。 コロンビア国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1948年にはプロサッカーリーグのカテゴリア・プリメーラAが創設された。主なクラブとしては、アトレティコ・ナシオナル、ミジョナリオス、アメリカ・デ・カリ、デポルティーボ・カリなどが挙げられる。コロンビア人の著名な選手としては、イバン・コルドバ、ラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲスなどが存在する。 コロンビアサッカー連盟(FCF)によって構成されるサッカーコロンビア代表は、これまでFIFAワールドカップに6度出場しており、2014年大会と2018年大会では連続して日本代表とグループリーグで同組となっている。なお、2014年大会は過去最高位のベスト8となった。さらにコパ・アメリカでは、自国開催となった2001年大会で初優勝を果たしている。 コロンビアは言語以外の面でも、ラテンアメリカ諸国の中で最もスペインから多くのものを引き継いでいる国であり、それゆえにスペイン本国と同じく闘牛が盛んである。ローラースケートも人気で、女子世界選手権で1位と2位を独占したこともある。陸上競技では、カテリーン・イバルグエンが三段跳で世界レベルの活躍をしている。 自転車競技もアンデス山脈中の高地では人気で、トップカテゴリーに所属するチームに数多くの選手が在籍している。レーシングドライバーであるファン・モントーヤも知られている。野球でもエドガー・レンテリアを筆頭にMLB選手を輩出している。バスケットボールでは、ハイメ・エチェニケが2021年にコロンビア人初のNBAプレイヤーとなった。ボクシングではアントニオ・セルバンテスが殿堂入りを果たした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代には麻薬戦争による暴力が横行し、世界で最も危険な国の1つとなった。しかし、21世紀以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸における主要国と位置づけられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ、カーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ランは国花である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである。2020年、フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称は、República de Colombia [reˈpuβlika ðe koˈlombja]. 通称Colombia。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of Colombia [rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə] . 通称Colombia。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア。漢字による当て字は、哥倫比亜、もしくは古倫比亜である。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国名は直接的にはアメリカ大陸の発見者クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペインのグラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてコロンビア共和国(後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "紀元前1450年ごろに、ボゴタ近郊のエル・アブラ(スペイン語版、英語版)の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年、インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ(Cacique、Cacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制国家群を発展させた。その好例をチブチャ系 (Chibcha) のムイスカ、タイロナ、カリマ(スペイン語版、英語版)、キンバヤ(スペイン語版、英語版)、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)に率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストファー・コロンブスはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(英語版)(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタ(スペイン語版)を首都とするムイスカ連邦(スペイン語版)(1450年 - 1537年、Bogotá Kingdom - バカタ王国(スペイン語版)とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降、スペイン人の拠点となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1781年、ソコーロ(英語版)で増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱(英語版)を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してボゴタ県(スペイン語版)(サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国(スペイン語版、英語版)(1810年 - 1815年)の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県(スペイン語版)(カルタヘナ・デ・インディアスを中心)がカルタヘナ共和国(スペイン語版)(1811年 - 1815年)の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州(英語版)(1810年 - 1816年)として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 - 1812年)を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国(英語版)(1813年 - 1814年)を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年)(スペイン語版))、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ(英語版)(Llanero)の頭目だったホセ・アントニオ・パエス(英語版)の力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国(スペイン語版)(1817年 - 1819年)が再建され、グラン・コロンビア(Gran Colombia、1819年 - 1831年)が創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカスが解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia)を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に出征した。1824年にスクレ軍がアヤクーチョの戦い(英語版)で勝利し、全インディアス植民地の独立を勝ち取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争(英語版))。その後、ベネズエラが独立を要求した。1830年にエクアドル(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペス(英語版)はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ(英語版)将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス(英語版)が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合(1858年 - 1863年)が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ(英語版)が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国(1863年 - 1886年)が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェス(英語版)が自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版、英語版)将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争」(1899年 - 1902年)が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "内戦終結後、保守党のラファエル・レイェス(英語版)が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラ(英語版)が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ(英語版)が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件(英語版)を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1946年以降の十年間はラ・ビオレンシア(英語版)(「暴力」の時代、1948年 - 1958年)と言われ、争いが頂点に達した。1946年に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(英語版)(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争に際して国連軍に軍隊を派遣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起(ビジャリカ戦争)。1956年、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件(スペイン語版)」(Incidentes en la plaza de toros)の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンのフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権(スペイン語版)(1957年 - 1958年)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1958年、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線(スペイン語版、英語版)」体制(1958年 - 1974年)が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命(1953年 - 1959年)の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって進歩のための同盟が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟(スペイン語版、英語版)(ANAPO)が発足。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1964年からゲリラ活動は活発化し(コロンビア内戦)、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1974年、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し戒厳令を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が秘密警察による拉致や拷問を受け、その多くが失踪した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス(英語版)大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟(英語版) (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19によるコロンビア最高裁占拠事件、ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ・バルガス大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争(英語版)」(プラン・コロンビア(スペイン語版、英語版)、麻薬戦争)が勃発し、大統領選挙中の8月18日にルイス・カルロス・ガラン・サルミエントが暗殺された。麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件(スペイン語版、英語版)」(西: Proceso 8.000)に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ合衆国連邦政府もサンペールに入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「プリメーロ・コロンビア(スペイン語版)」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「パラポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Parapolítica)が発覚。2008年、3月1日に国境のプトゥマヨ川を越えたエクアドル領内でコロンビア革命軍(FARC)掃討作戦を実施、ラウル・レジェス他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領ラファエル・コレアは領空侵犯として抗議(アンデス危機)。同年4月にウリベ大統領の「イディスポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Yidispolítica)が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めたフアン・マヌエル・サントスが当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの虐殺されたと思われる遺体が発見された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コロンビア最大の左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)とキューバの首都ハバナで和平交渉を開始した。和平交渉自体は、紛争が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "期日までに合意されなかったことから世論の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日にカルタヘナで署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。ノルウェー・ノーベル委員会は、サントス大統領による内戦の終結に導く努力を認め、2016年10月7日にノーベル平和賞を送ると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右とも言われるイバン・ドゥケが大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "大統領を元首とする共和制国家であり、上下両院制の複数政党制議会を備える。現行憲法は1991年憲法である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "行政権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。2005年の憲法改正で連続一度までの再選が可能だったが、2015年に再選が禁止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "立法権は上院と下院に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、比例代表制により選出される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。イスパノ・アメリカ独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし中央集権派と連邦派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタンが選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補ガブリエル・トゥルバイはレバノン移民の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児であり、下層階級出身である。また、自由党のベリサリオ・ベタンクール大統領(任1982年‐1986年)はバスク系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供のころは裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だったころは公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党のカルロス・レストレポ大統領(任1910年‐1914年)や、自由党のエドゥアルド・サントス大統領(任1938年‐1942年)は中産階級出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる」という言い方が流行ったこともあるという。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "かつて左派の主要な政治勢力であった愛国同盟(UP)は1,500人以上の活動家が政府によって暗殺されたために壊滅し、清廉な議員・判事でも麻薬組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや右翼民兵による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きいなど、腐敗と暴力が横行している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権与党が推薦した候補者が選挙で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代が行なわれており、1882年、1930年、1946年の選挙では政治的暴力は発生していない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、コロンビアでは1853年に憲法で男子の普通選挙権が認められており、世界の憲政史上でも最も古い国の一つである。1856年の普通選挙による初の大統領選では、有権者の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と投票所までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "奴隷制は独立後の1821年に奴隷から産まれた新生児を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは米国大統領エイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言より40年も早く、1826年のパナマ会議に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。1851年に全土の奴隷2万人が全員解放され、1852年1月には奴隷制そのものが全廃された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、南北戦争と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "例えば、ベネズエラでは大コロンビアからの分離後25年間で11回反乱が起き、アルゼンチンでは1868年までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、メキシコや他の中米諸国、アルゼンチン、ペルー、ボリビアで長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリでさえ1829年、1851年、1859年、1891年に内戦が起き、国境の資源を巡り1879年に太平洋戦争が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、メキシコ革命や第一次世界大戦と第二次世界大戦の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、リベラル派の「急進的変革」・社会主義勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、死刑制度は1991年の新憲法で全面廃止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "伝統的に隣国のベネズエラ、エクアドルからは再度、両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年ではベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、FARCにベネズエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となった。このため、一時はコロンビアによるベネズエラ侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、枯葉剤の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの国交が断交。エクアドルに同調し、ニカラグアも断交を発表した。2009年7月にはコロンビアが駐留米軍増強を計画していることについてベネズエラが反発、ベネズエラはロシア製戦車の調達を増やすことで対抗するとしており、コロンビア、ベネズエラ間の緊張が高まっている(アンデス危機)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国との関係では、1903年にアメリカの援助を受けてパナマ地峡がパナマ共和国として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、パナマの独立はコロンビア政府によって承認された。パナマの独立承認後1920年代から合衆国資本により経済支配が進んだ。その後も親米路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を終結させようとする傾向を強くし、イラク戦争を支持するなど一層の同盟関係の強化が進んだ。現在はアメリカとの自由貿易協定締結を目指している。2009年8月14日には、アメリカとコロンビアとの間で軍事同盟が正式発効した。しかし、これにベネズエラが「宣戦布告」と反発している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2010年7月22日、ベネズエラとの国交を断絶したが同年8月11日、国交を回復することで合意した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ベネズエラ経済危機でベネズエラ難民がコロンビアに殺到しており、2018年9月時点でその数は100万人を超える。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題になっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2019年2月24日にコロンビアからベネズエラに運ばれる人道支援物資を国境のベネズエラ軍が妨害したことが原因で両国の緊張が高まり、ベネズエラのマドゥロ政権はコロンビアとの国交を断絶した。しかし2022年8月7日にコロンビア初の左派政権となるグスタボ・ペトロ大統領が就任したことをきっかけに、8月28日にベネズエラとの国交回復が行われた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2010年、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加する意向を明らかにした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1908年(明治41年)5月25日、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人は庭師の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人をコロンビアに連れて帰り、川口はボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口は日本で皇族の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信の下でも働いていた経験があり、大隈の推挙によりイスキエルドとともにコロンビアに渡ったとされる。渡航後の川口の消息は不明だが、ボゴタに墓碑があるとの未確認情報もある。 川口の次にコロンビアに入国した日本人は1915年(大正4年)、広島県竹原市出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャに移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人の源流となった。1921年(大正10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災で東京の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚。子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇崩御の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。1923年には島清、中村明ら5名が「安洋丸」でブエナベンツーラ港に入港。1926年、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。1929年(昭和4年)、主に福岡県などから入植が始まり、農業で成功した。ブラジルやペルーに比べて少ないが、現在もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人が存在し、南米の日系移民では最も成功したとされる。1941年の太平洋戦争で一時国交を断交したが、戦後の1952年に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本に米を送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒー、花卉が多く日本に輸出、自動車、電子機器がコロンビアに輸入されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "現在は官民の各部門で両国の文化・人材交流事業を積極的に展開している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国内はコロンビアの自然区分(英語版)によると、(I)アンデス地域(Andean Region)、(II)カリブ海岸低地地方(Caribbean Region)、(III)太平洋低地(Pacific Region)、東部の(IV)オリノコ地域(Orinoquía Region)・(V)アマゾン地域(Amazon Region)、及び(VI)島嶼(Insular Region)に分かれる。人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "東部はそのままベネスエラの地形に続きオリノコ川流域平原にはリャノが、グアジャナ高地にはアマゾンの熱帯雨林が広がり、これらの地域は国土の2/3を占めている。東部にはブラジルのネグロ川に連なるグアビアーレ川が流れる。東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住していて、国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。エクアドル国境付近の海岸地帯ではマングローブの林が広がる。北部にはマグダレーナ川やカウカ川が南から北のカリブ海に流れる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "北部には国名と同様、カリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地(スペイン語版、英語版)には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰の北部海岸サンタ・マルタに近い独立峰クリストバル・コロン山(標高5775m)がある。ボゴタ西方のネバドデルルイス火山(標高5389m)は1985年の噴火で史上最悪の2万3千人という犠牲者を出した。太平洋側では、パナマからプエナベントゥラまで続くバウド山脈(スペイン語版、英語版)は中央アメリカの延長である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "エクアドルから続くアンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)と、中央のセントラル山脈(スペイン語版、英語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、トリマ山(5220メートル)、ルイス山(5321メートル) などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、メデジンを含むアンティオキア地方や、カリを含むバジェ・デル・カウカ(カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。中央山脈は430万年前の地殻変動・火山活動で隆起した。火山性堆積物(火山灰、軽石など)が多く、現在も多数の火山が存在する。溶岩流や土石流によって作られた平坦な地形も多く見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "オリエンタル山脈は首都のボゴタを含むクンディナマルカ地方を擁し、カリブ海に向かうペリハ山脈(スペイン語版、英語版)と、ベネスエラのメリダ山脈に続く。 全長1200メートルを超え最長であり、中央部は最大幅350キロメートルに達するクンディボヤセンセ高原がある 東部のこの山脈の西斜面は、南部と北部の地域に分けることができ、南部はアマゾン地方からの湿った空気で潤い、北部はやや乾燥しておりリャノと呼ばれる平原へと続いている東部斜面は一般に乾燥しており、河川を利用して農牧業は発達している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アンデス山脈の高峰から生まれる河川は様々な景色を生み出し、複雑なものとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "西部の山脈は、太平洋沿岸を南北に走り、全長1200キロメートルあり、太平洋の湿った空気が西斜面にぶつかり年間8000ミリの降水量を記録し、そこを流れる河川は、アトラト川をはじめ豊富な水量を誇っている。また、これらの河川の流域には熱帯雨林が形成され、森林資源となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "西部と中央山脈の谷間にはカウカ川、東部と中央山脈の間にはマグダレナ川が北へと流れ、カリブ海へと注いでいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "コロンビアはその国土の全てが北回帰線と南回帰線の間にあり、基本的には熱帯性の気候だが、気候はアンデス山脈の高度によって変わる。また、自然環境の多様性ももたらしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "コロンビアには33の県(departamento)が設けられている。また、首都ボゴタは特別区域である。「コロンビアは地域主導の国である」と言われる通り、各地域ごとの対立が激しい。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "主要な都市はボゴタ(首都)の他、メデジン、サンティアゴ・デ・カリ、バランキージャ、カルタヘナ、ブカラマンガ、ククタがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "コロンビア軍は3軍からなり、2004年の時点で国防予算は2,760,000,000米ドルである。徴兵制が敷かれており、総兵力232,700人を数える。それぞれの兵力は、", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "となっている。40年以上続くゲリラとの内戦のために特に陸軍の規模が大きく、またアメリカ合衆国からの潤沢な軍事援助を受けている。軍は主にコロンビア内のゲリラ組織との戦いに当たる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ボゴタソ以降、1960年代から内戦が本格化し、現在までコロンビア内戦が継続している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1980年代の和平によりm - 19が離脱し、現在敵対する左翼ゲリラ組織はコロンビア革命軍 (FARC) と民族解放軍 (ELN) だけになっており、近年ではウリベ政権はコロンビア自警軍連合などの極右民兵の武装解除をアピールしている。ベネスエラのウゴ・チャベス大統領がFARCに聖域を提供するなどの行為もあり、未だに予断を許さない状態である。ウリベ政権はアメリカ合衆国のコロンビア計画を履行し、同国の支援を受けて軍拡を行い、治安維持に全力をあげている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "国際通貨基金(IMF)の統計によると、2018年の国内総生産(GDP)は3,310億ドルである。世界39位であり、南米ではブラジル、アルゼンチンに次ぐ3位である。また、日本の大阪府の県内総生産(2016年度)の約94%の経済規模でもある。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、南米共同体の加盟国でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "コロンビアの経済は、繰り返される内戦という政治の不安定さとは裏腹に20世紀に入ってからはラテンアメリカ諸国の中でも最も安定した成長を続けた。「ラテンアメリカの失われた10年」である1980年代にも他の南米諸国が苦境に喘ぐのとは対照的に、ハイパー・インフレやマイナス成長を記録したことはなかった。例を挙げると、国連ラテンアメリカ経済委員会の報告では1981年から1990年までの国民総生産(GNP)総成長率は10年間で42.2%となり、一人当たり成長率でも16.2%となった。1999年には1932年以来初めてのマイナス成長を記録したが、その後は再び順調な成長を続けている。しかし、このような安定成長と引き換えに、他の南米諸国のようなダイナミックな高成長を記録することもあまりないのが特徴である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、貧富の格差はとても大きく、国民の約3分の1が貧困層にある。失業率も高い。経済協力開発機構(OECD)によると、2015~2018年において、労働者人口に占める自営業者の比率は50%を超えており、調査対象38カ国で2-3位のギリシャやブラジル(いずれも30%台)や29位の日本(10.3%)を大きく上回りトップクラスである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "現在はボゴタが最大の都市だが、内陸のため元々は経済の中心地ではなく、20世紀後半まではアンティオキア地方の中心地メデジンや、1960年代に入ってから急速に成長を遂げたカウカ地方のカリなどがコロンビア経済を牽引していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1980年代に大規模な油田が発見されるなど産業が拡大しつつある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "Facebook、Google、マイクロソフトなどが相次いで進出して、2007~12年に同国のIT(情報技術)産業は177%成長し、68億ドル規模となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "コロンビアは労働環境が整備されておらず、世界的に見ても労働環境が良くない国である。2021年に経済開発協力機構(OECD)によって行われた年間労働時間ランキングでは、全就業者平均の1人当たりの年間実動時間が1,964時間であり、メキシコ、コスタリカに次ぐ第3位を記録している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、2021年に国際労働組合総連合グローバル権利指数(2021 ITUC Global Rights Index)が発表した「労働者にとって最悪な10カ国」にもコロンビアはランクインした。これは団体行動権や団体交渉権といった労働者が持つ権利がどの程度尊重されているかを指標化したものである。労働時間のみならず、労働者が持つ権利の観点からもコロンビアは労働環境が整備されていない国だということができる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、2020年から2021年にかけて行われたコロンビア政府の「国民生活時間調査」(ENUT:Encuesta Nacional de Uso del Tiempo)によると、有給労働を行っている男性が53.3%、女性が29.9%であり、無給労働を行っている男性が63.0%、女性が90.3%であった。このデータからも分かるように、コロンビアは労働時間が長いにもかかわらず、かなり高い割合で無給労働が行われている。また、男性と女性の労働に関する格差も問題である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "19世紀の終わりから熱帯の換金作物のプランテーションが導入され、特にコーヒーは20世紀を通して外貨の稼ぎ頭であり、産出量は世界で2番目であった。コロンビアのコーヒー産地の文化的景観は、世界遺産にも指定されている。ただし、21世紀になり2位の座を新興生産地の一つであるベトナムに明け渡したほか、2010年代には、コーヒー豆の国際価格が下落し、主要生産地であるウイラ県やアンティオキア県では立ち行かなくなる農家も見られるようになっている。なお、コロンビアの可耕地面積は国土の3.3%程(2005年)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "切り花(特にバラやカーネーション)の輸出国でもあり、米国、欧州の他に日本へも輸出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "世界有数のコカ栽培国と知られており、生産されたコカインは欧米諸国を中心に密輸されている。コロンビア革命軍はコカインの密輸によって1990年代以降に組織の拡大に成功した。これを受けて、2000年代に政府はアメリカなどの支援を受けて、コカ農園に除草剤ラウンドアップの大規模な空中散布を行い一定の成果を上げた。しかし、政府の管理下に置かれていない地域が広く、農園の根絶は困難な状況が2020年代現在も続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2019年に行われた全国農業調査(ENA:Encuesta Nacional Agropecuaria)によると、2019年に生産された農作物の総生産量は63億トンである。この66.7%に当たる4,220万トンが工芸作物であり、コロンビアで生産される農作物の中で最も高い割合を占めている。コロンビアにおいてはコーヒー、アブラヤシ、サトウキビなどがこの工芸作物に該当する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "コロンビアは1991年憲法により、全ての地下資源を国家が所有している。以前は地方の治安が悪かったために探鉱・油田開発が殆ど行われていなかったが、治安改善に従って欧米メジャーによる開発が進んでいる。石炭、石油、天然ガスを産し、全輸出額に占める原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は西半球に限定すれば3位に達する。品位の高い瀝青炭の比率も高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "油田はベネズエラ国境に近いマグダレーナ川流域に分布する。最も重要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占めるニッケル鉱(7.1万トン、2003年)である。その他、鉄、銅、鉛、金、白金、銀、マグネシウムを産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位を占める。全ての金属鉱床はアンデス山脈に沿って点在する。このほか、リン鉱と塩も産出する。エメラルドの産出量は世界市場の約80%を占める。1990年時点では300万カラットに達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "コロンビアの観光業は1940年代に始まり、現在も発展している。主な観光地としては首都ボゴタのほかカルタヘナ、サンタ・マルタ(シモン・ボリバルの没した町)、メデジン、カリ、バランキージャ、サン・アンドレス島などがあり、それぞれ異なる嗜好の観光客を惹きつけている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "日本国外務省をはじめとして各国が渡航中止勧告や要注意勧告を出しているにもかかわらず多くの旅行者がコロンビアに惹きつけられている。コロンビアには2006年に150万人の観光客が入国したが、これは前年比50%増であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "治安に関しては郊外や観光客があまり訪れない場所にさえ行かなければ、危険な目に遭うことは少ないと考えられている。ウリベ政権発足後の劇的な治安回復が、今後の観光業の発展に良い影響を及ぼすことが期待されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "地理や植生が多様で豊かであるため、エコ・ツーリズムも盛んである。カリブ海岸のカルタヘナはビーチ・リゾートとして有名である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "コロンビアの国民は、国の歴史の多様性と同じように様々な人々によって構成され、ヨーロッパ系移民、インディヘナ、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系などが主な構成要素となっている。インディヘナの多くはメスティーソに統合されたが、現在もメスティーソとははっきり異なるインディヘナの集団は存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ヨーロッパからコロンビアに入国した移民のほとんどはスペイン人であったが、第一次世界大戦と第二次世界大戦では、多くのイタリア人、ドイツ人、ポルトガル人、ユダヤ人、オランダ人、ポーランド人、フランス人、イギリス人、ハンガリー人、ギリシャ人、スイス人、ベルギー人が国に移住した。その後、冷戦はリトアニア人、ラトビア人、ロシア人、ウクライナ人、アルメニア人のさまざまなグループをコロンビアに移した。例を挙げれば、アンタナス・モックス前ボゴタ市長は、その名前が示すように、リトアニア系の子孫である。アフリカ系の住民は、16世紀と19世紀に奴隷として捕らえられた人々の子孫であり、ほとんどがカリブ海沿岸の熱帯低地に住んでいる。もう1つの大きな移民グループは、オスマン帝国に迫害され逃亡した中東出身のレバノン人、パレスチナ人、シリア人、ヨルダン人、イラク人であった。中国人、日本人、韓国人のようなアジアの移民は、国のいくつかの主要都市で見られる。近年、国への移民の最大数は、退職の一環として国に引っ越すアメリカ人とカナダ人である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "民族構成は、メスティソ45%、ヨーロッパ系42%、ムラート4%、インディヘナ4%、アフリカ系3%、その他(アジアまたはジプシーティコ)2%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "コロンブスが到着する前は、この地域には先住民族が住んでおり、現在はインディヘナと呼ばれている。現在、インディヘナの人口は約1,900,000人と推定されており、102を超える部族に分かれている。彼らの多くはチブチャ語またはカリブ海の言語を話す。アル・ウアコス、ムイスカ、クナが登場。も大きなコミュニティを築いている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "移民の多くはカリブ海沿岸のバランキージャに定着した。移民の出身国としては、レバノン、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、中国、フランス、ポルトガル、そしてロマなどが挙げられる。カリブ海沿岸においてドイツ系と中国系の占める役割は大きい。南西部のカリを中心にカウカ地方には少数ながら日系人もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "世界のどのような類似の地域よりも多様性に富んでいて、ラテンアメリカの中でも極めて地域主義が強い国である。例を挙げるとアンティオキア人はコロンビア人であることよりもまずアンティオキア人(アンティオケーノ)であることを優先するといわれ、他のコロンビア人にない貯蓄や開拓の気風はこうした傾向を一層強めた。そのため19世紀中にコロンビア全地域の商業がドイツ人とシリア人のものになってしまったのにもかかわらず、アンティオキア地方だけはアンティオケーノだけが商業を担った。こうした事情があいまって、1920年代にコーヒー景気によって発達したアンティオキア経済は、1960年代にカウカ地方のカリに抜かれるまでメデジンを国内経済の中心地とするほどだった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2018年に行われた国勢調査(CNPV:Censo Nacional de Población y Vivienda)によると、自らを先住民族と認識している人口が約190万人であった。前回の国勢調査(CG:Censo General・2005年実施)では約139万人であり、先住民族人口が13年の間に36.8%増加している。この変化の要因として、出生率以外の要因が2つ考えられる。まず1つ目は、先住民族が多い地域にも調査対象範囲が広がったことだ。そして2つ目は、先住民の民族的な自己認識が高まったことだ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1950年代初頭に推定された人口は約1200万人で、1964年の国勢調査では約17,482万人、1974年の推定では約2395万人、1983年半ばの推定では約2752万人であった。 2020年の人口は約5,000万人で、ブラジルとメキシコに次ぐラテンアメリカで3番目に人口の多い国である。20世紀半ばには、農村部から都市への人口の大規模な移動があったが、徐々に減少している。人口は10万人を超える30の都市がある。国の土地の54%を占める東部の低地には人口の3%しか住んでおらず、人口密度は1人/ 1 km2未満である。コロンビアの総人口は2030年に5500万人を超えると予測されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "人口の95%以上がキリスト教徒であり、その内カトリック教会が90%である。約1%がインディヘナの伝統宗教であり、ユダヤ教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教はそれぞれ1%以下となる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1960年代初頭までのコロンビアは国家と教会が密着した信心深いカトリックの国であり、人々はカトリック的な倫理規範を重要なものと考えていた。しかし、エル・ティエンポ紙の行った世論調査によると、信者の数は多いにもかかわらず、人口の60%は熱心に信仰していないとのことであり、1960年代以降の都市化、工業化、世俗化の中で、カトリックに代わる新しい世俗的な倫理を生み出せていないことが近年の治安悪化の要因だとする説もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "婚姻時に女性が改姓する必要はない(夫婦別姓で問題ない)が、父方の姓を夫の父方の姓に置き換えるか、de+夫の父方の姓を後置することができる。2016年からは同姓婚も可能となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "コロンビアでは80以上の言語が話されており、50万人が先住民の言葉を今も話しているが、公用語はスペイン語であり、日常生活でも使われている。また、コロンビアのスペイン語は南米で最も正しくスペイン語のアンダルシア方言を残しているといわれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1580年にコロンビア初の大学である聖トマス・アクィナス大学が創設され、伝統的に植民地時代から北部南米の学問の中心地であったボゴタが「南米のアテネ」と呼ばれて多くの知識人を生み出したのとは対照的に、民衆への教育はあまり積極的に行われなかった。そのため、2011年の推計で15歳以上の国民の識字率は93.6%(CIA World Factbook)と域内でも低い部類に属する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "5年間の初等教育、及び4年間の前期中等教育は義務教育であり、無償となっている。前期中等教育を終えると、二年間の後期中等教育が任意であり、後期中等教育を終えると高等教育への道が開ける。80%以上の児童が小学校に入学し、60%以上の小学生は5年生の小学校を卒業すると6年制の中学校に入学する。小学校の多くは私立学校である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "コロンビアには24の国公立大学と多くの私立大学があり、多くはボゴタに集中している。主な高等教育機関としては、コロンビア国立大学(1867年創立)、ロス・アンデス大学(1948年創立)、アンティオキア大学(1803年創立)、バジェ大学(1945年創立)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "サントス政権は2011年10月3日に公立大学に独立採算制を導入し、民間資本の参入を促し、大学向け予算を削減する教育改革法案を発表した。これに抗議して、各地で学生や教職員が大学の民営化法案に反対してデモ行進した。学生団体によると、11月10日、首都ボゴタではデモ参加者が20万人に達した。11月9日サントス大統領はスト中止を条件に法案を撤回する用意があると表明した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "社会学者のパウル・オキストによれば、16世紀から19世紀までの約300年間、コロンビアにおいては政治的暴力はほとんど発生しておらず、世界で最も治安の良い国のひとつであったという。1830年以降、内戦が起きていない期間の10万人あたりの殺人発生率は10人程度で極めて低い水準であった。ホセ・マリア・サンペール『コロンビア共和国の政治変革と社会状況』(1861年)によれば、「田舎者にとっては、政府は神話的人格であるが、われわれの間で政府とは、ひとりで武器を持たず徒歩で配達する郵便夫が、偶然に山賊に出会ったような予期せぬ場面でその危険を取り払うために三色旗を振れば十分であるほど敬意を払われている存在である。警察はどこにも存在しないし、犯罪を抑圧する手段は極めて限られている。しかし、それにもかかわらずこじ開けて侵入する泥棒や人を欺くような人間は非常に稀であり、また、職業的な盗賊はここでは例外的で、さらに刑罰制度には重大な欠陥があるにもかかわらず再犯者はめったにいない」。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "19世紀のコロンビアの治安の良さの証拠として、コロンビアを旅行した米国人イサック・ホルトンの旅行記『アンデス地方の20ヵ月』(1857年)の記述「生命に対する犯罪に関していえば、ヌエバ・グラナダ全土の殺人は、ニューヨーク市だけの殺人件数の五分の一にも達していないと思われる」や、1884年のカトリック司祭のフェデリコ・アギラールによるコロンビアの犯罪統計と他国の比較検討で、チリ、メキシコ、ベネズエラ、エクアドル、スペイン、イタリアの殺人率はコロンビアよりも高く、「コロンビアでは、チリにおける日常的な山賊、メキシコにおける恐ろしい追いはぎ、グアテマラにおけるかなり頻繁な泥棒の心配をしないで旅行できる」などの記述が挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "19世紀以前のコロンビアはラテンアメリカ諸国の中で最も治安の良い国であり、内戦が絶えなかった19世紀後半において治安維持に関わる国家権力が弱く司法制度が十分機能していない状態であったにもかかわらず、一般犯罪は総じて少なかったことは正しく認識されるべきである。世界的に見ても20世紀前半まで治安の良い国であったとされる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "コロンビアはかつて誘拐と殺人の発生率が高い国であった。1960年代初頭の殺人事件発生数は3,000件ほどだったが、1990年代初頭にはこれが十倍の30,000件に達した。とりわけ国境付近のプトゥマヨ県、グアビアーレ県、アラウカ県のような地域では10万人当たりの殺人事件発生数は100人に達し、 1990年代には、発生した殺人事件のうち犯人の97%が処罰を受けなかった。こうした犯罪が1960年代以降急速に多発した原因としては、かつて国民の倫理的な規範に国家よりも遥かに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因であるともいう。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "しかし、2002年に成立したウリベ政権と続く2010年に成立したサントス政権が治安対策に力を入れた結果、飛躍的な治安改善が成し遂げられつつある。1990年代初頭には殺人事件発生数が10万人当たり77.5人だったが、2020年現在は22.6人にまで減少している。誘拐事件発生数も2002年には2882件あったが、2010年には282件に激減している。とはいえ先進国と比較すればいまだ犯罪発生率が低いとは言えないので、犯罪被害防止を常日ごろから心掛けて行動すべきとされる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "治安改善後、同国は観光に力を入れており、ボゴタ、メデジン、カリ、バランキージャなどの大都市やカルタヘナなどの観光地では警備体制が比較的整っているため、その他の地方と比較すると安全といえる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "近年、隣国ベネズエラの経済危機により、コロンビアへ逃れてくるベネズエラ難民が急増しており、2018年9月時点でその数は100万人にも及ぶ。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "コロンビアの文化はラテンアメリカの交差点に位置しておりインディヘナ、ヨーロッパ系、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系の伝統が複雑に織り交ざって構成された多文化的な社会によって特徴づけられている。アメリカ合衆国の文化と、メキシコの文化、アルゼンチンの文化(スペイン語版、英語版)、カリブ海の文化をはじめとするラテンアメリカの文化から強く影響を受けているが、独立以前から受け継がれているスペインの文化(スペイン語版、英語版)の影響が最も強い。コロンビアの複雑な地形と数十年続いた社会分断により、コロンビアの文化は五つの文化的な領域(それは地理的な領域でもある)に強く断片化された。地方から都市への国内移民、工業化、グローバル化、及び国際的な政治的、経済的、社会的問題はコロンビア人の生活のあり方を変えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "コロンビアの主食はコメであるが、ジャガイモ、トウモロコシ、キャッサバ、プランテンもよく食べられている。トロピカルフルーツの種類も豊富である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "スペイン征服後のコロンビアの文学は、17世紀初頭のエルナンド・ドミンゲス・カマルゴに遡る。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "独立後の文学はロマン主義と結びつけられ、傑出した存在としてアントニオ・ナリーニョ、ホセ・フェルナンデス・マドリード(スペイン語版、英語版)、カミーロ・トーレス・テノリオ(スペイン語版、英語版)、フランシスコ・アントニオ・セア(スペイン語版、英語版)が活躍した。19世紀半ばから20世紀はじめにかけてコンストゥンブリスモ文学が人気となり、この時期の作家としてはトマス・カラスキージャ(スペイン語版、英語版)、ホルヘ・イサークス(スペイン語版、英語版)、ラファエル・ポンボ(スペイン語版、英語版)が有名である。その後ホセ・アスンシオン・シルバ(スペイン語版、英語版)、ホセ・エウスタシオ・リベラ(スペイン語版、英語版)、レオン・デ・グレイフ(スペイン語版、英語版)、ポルフィリオ・バルバ=ハコブ(スペイン語版、英語版)、そしてホセ・マリア・バルガス・ビラ(スペイン語版、英語版)がモデルニスモ運動を展開した。1871年にはアメリカ大陸のスペイン語のプリメーラ・アカデメイアが設立された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "20世紀にはペドロ・ガルシアなどの詩人を生んだ。1939年から1940年にかけて詩人のホルヘ・ロハス(スペイン語版)が活躍した。「暴力」の時代にはゴンサロ・アランゴ(スペイン語版、英語版)がニヒリズムとダダイスムから生まれたコロンビアの文学運動ナダイスモ(スペイン語版)の担い手となった。ラテンアメリカ文学ブーム(スペイン語版、英語版)が始まると、魔術的リアリズムの担い手であり『百年の孤独』『族長の秋』などで知られるラテンアメリカの声を代表する大作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがノーベル文学賞を受賞し大活躍した。同時代の作家としてはエドゥアルド・カバジェーロ・カルデロン(スペイン語版、英語版)、マヌエル・メヒア・バジェーホ(スペイン語版、英語版)、アルバロ・ムティスが挙げられる。アルバロ・ムティスは2001年にセルバンテス賞を受賞した。その他の現代作家としてはフェルナンド・バジェーホ(スペイン語版、英語版)(ロムロ・ガジェーゴス賞受賞)と、ガルシア=マルケス以降、コロンビアで最も多くの本が買われている作家のヘルマン・カストロ・カイセード(スペイン語版、英語版)が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "フォルクローレにおいては、20世紀初頭にバンブーコが発達した。カリブ海沿岸地方の伝統音楽クンビアは、ガイタ(スペインのガリシア地方のバグパイプ)や、黒人の太鼓など様々な要素から構成されている。クンビアはサルサ以前に汎ラテンアメリカ的な成功を収めてアメリカ合衆国にも進出し、今もラテンアメリカ諸国のポップスに大きな影響を与えている。クンビア以外に人気があるバジェナートはクンビアを基に発展しており、こちらはクンビアよりも洗練された雰囲気がある。また、ベネズエラで国民音楽とされているホローポも、ベネスエラとの国境付近のリャノで演奏されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "米国ニューヨーク生まれのサルサも人気であり、コロンビア・サルサとしてカリを中心に発展している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "近年はコロンビアポップスの合衆国市場への進出も盛んであり、フアネス、シャキーラ、カミロ などが成功した音楽家として挙げられる。ラファエル・オロスコ・マエストレとディオメデス・ディアスは、バジェナートで成功したミュージシャンとしてリストされました。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "また、コロンビアはかつてアルゼンチン、ウルグアイに次いでラテンアメリカで三番目にタンゴが好まれていた国でもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "コロンビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "コロンビア国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1948年にはプロサッカーリーグのカテゴリア・プリメーラAが創設された。主なクラブとしては、アトレティコ・ナシオナル、ミジョナリオス、アメリカ・デ・カリ、デポルティーボ・カリなどが挙げられる。コロンビア人の著名な選手としては、イバン・コルドバ、ラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲスなどが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "コロンビアサッカー連盟(FCF)によって構成されるサッカーコロンビア代表は、これまでFIFAワールドカップに6度出場しており、2014年大会と2018年大会では連続して日本代表とグループリーグで同組となっている。なお、2014年大会は過去最高位のベスト8となった。さらにコパ・アメリカでは、自国開催となった2001年大会で初優勝を果たしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "コロンビアは言語以外の面でも、ラテンアメリカ諸国の中で最もスペインから多くのものを引き継いでいる国であり、それゆえにスペイン本国と同じく闘牛が盛んである。ローラースケートも人気で、女子世界選手権で1位と2位を独占したこともある。陸上競技では、カテリーン・イバルグエンが三段跳で世界レベルの活躍をしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "自転車競技もアンデス山脈中の高地では人気で、トップカテゴリーに所属するチームに数多くの選手が在籍している。レーシングドライバーであるファン・モントーヤも知られている。野球でもエドガー・レンテリアを筆頭にMLB選手を輩出している。バスケットボールでは、ハイメ・エチェニケが2021年にコロンビア人初のNBAプレイヤーとなった。ボクシングではアントニオ・セルバンテスが殿堂入りを果たした。", "title": "スポーツ" } ]
コロンビア共和国、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。 コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。 コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代には麻薬戦争による暴力が横行し、世界で最も危険な国の1つとなった。しかし、21世紀以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸における主要国と位置づけられている。 コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ、カーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ランは国花である。 コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである。2020年、フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした。
{{Otheruses|南米の国}} {{基礎情報 国 | 略名 = コロンビア | 日本語国名 = コロンビア共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|es|República de Colombia}}''' | 国旗画像 = Flag of Colombia.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Colombia.svg|100px|コロンビアの国章]] | 国章リンク = ([[コロンビアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|es|Libertad y Orden}}''<br/> ([[スペイン語]]: 自由と秩序) | 位置画像 = COL orthographic (San Andrés and Providencia special).svg | 公用語 = [[スペイン語]] | 首都 = [[ボゴタ]] | 最大都市 = ボゴタ | 元首等肩書 = [[コロンビアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[グスタボ・ペトロ]] | 首相等肩書 = [[コロンビアの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{ill2|フランシア・マルケス|en|Francia Márquez}} | 面積順位 = 25 | 面積大きさ =1 E12 | 面積値 = 1,141,000<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/colombia/data.html#section1 |title=裁判員制度 |publisher=コロンビア共和国基礎データ |accessdate=2018-11-05 }}</ref> | 水面積率 = 8.8% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 29 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 5088万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/co.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 45.9<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1002兆9230億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年11月7日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=233,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 World Economic Outlook Database, October 2021])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 44 | GDP値MER = 2715億5400万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 5,390.921<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 31 | GDP値 = 7290億6000万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 14,473.399<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br/>&nbsp;- 宣言<br/>&nbsp;- 認可 | 建国年月日 = [[スペイン]]から<br/>[[1810年]][[7月20日]]<br/>[[1819年]][[8月7日]] | 通貨 = [[コロンビア・ペソ]] (COL$) | 通貨コード = COP | 時間帯 = -5 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[コロンビアの国歌|{{lang|es|Himno Nacional de Colombia}}]]{{es icon}}<br />"コロンビアの国歌"<br />{{center|[[ファイル:United States Navy Band - ¡Oh, gloria inmarcesible!.ogg]]}} | ISO 3166-1 = CO / COL | ccTLD = [[.co]] | 国際電話番号 = 57 | 注記 = }} '''コロンビア共和国'''(コロンビアきょうわこく、{{Lang-es|República de Colombia}})、通称'''コロンビア'''は、[[南アメリカ]]北西部に位置する[[共和制]][[国家]]である。東に[[ベネズエラ]]、南東に[[ブラジル]]、南に[[ペルー]]、南西に[[エクアドル]]、北西に[[パナマ]]と国境を接しており、北は[[カリブ海]]、西は[[太平洋]]に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と[[大西洋]]の2つの大洋に面した国である。首都は[[ボゴタ]]。 コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、[[ヨーロッパ]]からの入植者、[[アフリカ]]人の[[奴隷]]の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの[[先住民|先住民族]]が混在している。ヨーロッパ、[[中東]]、[[アジア]]からの[[移民]]が[[19世紀]]から[[20世紀]]の間に多く移住した<ref>{{Cite journal|last=Tovar Pinzón|first=Hermes|date=2001-03-03|title=Emigración y éxodo en la historia de Colombia|url=http://journals.openedition.org/alhim/522|journal=Amérique Latine Histoire et Mémoire. Les Cahiers ALHIM. Les Cahiers ALHIM|issue=3|language=es|doi=10.4000/alhim.522|issn=1777-5175}}</ref>。 コロンビアでは[[1960年代]]から[[コロンビア軍|政府軍]]、[[コロンビア革命軍|左翼ゲリラ]]、[[コロンビア自衛軍連合|極右民兵]]の三つ巴の[[コロンビア内戦|内戦]]が50年以上も続いている。[[1980年代]]から[[1990年代]]には[[麻薬戦争]]による暴力が横行<ref group="注釈">1990年代は年間34,000人が[[殺人]]事件の犠牲になり、世界の[[誘拐]]事件の6割に相当する3600人が誘拐された。</ref>し、世界で最も危険な国の1つとなった<ref group="注釈">1990年代のコロンビアの殺人発生率(10万人当たりの殺人件数)は77.5人([[1991年]]は86人で世界最悪)を記録した。</ref>。しかし、[[21世紀]]以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、[[アメリカ大陸]]における主要国と位置づけられている<ref group="注釈">[[2002年]]に就任した[[アルバロ・ウリベ]]大統領が[[コロンビア革命軍|左翼ゲリラ]]や[[麻薬カルテル]]への取り締まりを強化し、全国の[[地方政府|自治体]]に[[警察署]]を設置した。[[2017年]]のコロンビアの殺人発生率は25.2人でラテンアメリカではブラジル(30.74人)やメキシコ(25.71人)より低い。</ref>。 コロンビアの人口は、ブラジル、[[メキシコ]]に続いて、[[ラテンアメリカ]]で第3位である。世界的な[[コーヒー豆]]の産地として知られるほか、[[エメラルド]]の産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かした[[バラ]]、[[カーネーション]]などの栽培と[[切り花]]の輸出にも力を入れている。[[ラン科|ラン]]は[[国花]]である。 コロンビアは[[北大西洋条約機構|NATO]]唯一のラテン系パートナーであり、38の[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国の1つである<ref>{{Cite web|title=COLOMBIA JOINS THE OECD AND NATO|url=https://www.relocationsrs.com.mx/colombia-joins-the-oecd-and-nato/|website=Staff Relocation Services México|date=2018-07-16|accessdate=2021-07-22|language=en-US}}</ref>。[[2020年]]、[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした<ref>{{Cite web|title=The Best Places To Retire Abroad In 2020|url=https://www.forbes.com/sites/williampbarrett/2019/11/27/the-best-places-to-retire-abroad-in-2020/|website=Forbes|accessdate=2021-07-22|language=en|first=William P.|last=Barrett}}</ref>。 == 国名 == 正式名称は、''República de Colombia'' {{IPA-es|reˈpuβlika ðe koˈlombja|}}. 通称''Colombia''。 公式の[[英語]]表記は、''Republic of Colombia'' {{IPA-en|rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə|}} . 通称''Colombia''。 [[日本語]]の表記は、'''コロンビア共和国'''。通称'''コロンビア'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は、'''哥倫比亜'''、もしくは'''古倫比亜'''である。 国名は直接的には[[アメリカ大陸の発見]]者[[クリストファー・コロンブス|クリストーバル・コロン(コロンブス)]]に由来し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が「[[アメリゴ・ヴェスプッチ|アメリゴ]]の土地」を意味するように、コロンビアは「[[コロンビア (古名)|コロンの土地]]」を意味する。[[植民地]]時代は[[スペイン]]の[[グラナダ]]に由来した[[ヌエバ・グラナダ副王領|ヌエバ・グラナダ]](新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのは[[ベネズエラ]]の独立指導者[[フランシスコ・デ・ミランダ]]であり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者[[シモン・ボリバル]]は南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称として[[大コロンビア|コロンビア共和国]](後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年に[[ヌエバ・グラナダ共和国]]として独立した後、1858年には[[グラナダ連合]]、1863年には[[コロンビア合衆国]]と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。 == 歴史 == {{main|コロンビアの歴史}} === 先コロンブス期 === [[ファイル:Muisca raft Legend of El Dorado Offerings of gold.jpg|thumb|200px|[[エル・ドラード]]伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏]] {{See also|先コロンブス期}} 紀元前1450年ごろに、[[ボゴタ]]近郊の{{仮リンク|エル・アブラ|es|El Abra|en|El Abra}}の[[遺跡]]で先史文化の萌芽が見られる。[[中央アメリカ]]から渡ってきた諸族の影響が大きく[[トウモロコシ]]も彼らによって持ち込まれた。[[サン・アグスティン]]の遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。[[紀元前1000年]]、[[インディオ]]のグループは南アメリカで[[インカ帝国]]に次いで最も優れていたといわれる行政システムであった[[カシケ]]({{lang|es|Cacique}}、{{lang|es|Cacicazgos}})と呼ばれる首長による一種の[[首長制]]{{要曖昧さ回避|date=2014年8月28日}}国家群を発展させた。その好例を[[ムイスカ人|チブチャ]]系 (Chibcha) の[[ムイスカ人|ムイスカ]]、[[タイロナ]]、{{仮リンク|カリマ文化|es|Cultura calima|en|Calima culture|label=カリマ}}、{{仮リンク|キンバヤ文明|es|Quimbaya (etnia)|en|Quimbaya civilization|label=キンバヤ}}、[[シヌー文化|シヌー]]などの部族とその文化に見ることができる。[[紀元前300年]]ごろ、現在の[[ニカラグア]]に相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシと[[ジャガイモ]]を栽培し、[[カピバラ]]の一種を家畜化して、生産物を低地民の[[コカ]]や[[木綿]]と交換することにより生計を立てていた。 === スペイン植民地時代 === {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化|{{仮リンク|スペインによるコロンビアの征服|es|Conquista de Colombia|en|Spanish conquest of the Chibchan Nations}}}} [[ファイル:Columbus Taking Possession.jpg|thumb|200px|[[クリストファー・コロンブス]]の[[アメリカ大陸]]上陸]] 西暦[[1500年]]に、{{仮リンク|ロドリーゴ・デ・バスティーダス|es|Rodrigo de Bastidas|en|Rodrigo de Bastidas}}に率いられた[[スペイン人]][[探検家]]が[[カリブ海]]沿岸を訪れるとそれに続いて[[1502年]]、[[クリストファー・コロンブス]]はカリブ海と[[チョコ県|チョコ]] (Choco) の西岸を航行する。[[1508年]]、それまでに[[パナマ地峡]]を征服していた[[バスコ・バルボア]]はウラバを征服し始める。[[1510年]]11月に{{仮リンク|サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン|en|Santa María la Antigua del Darién}}(Santa María la Antigua del Darién) が今の[[チョコ県]]に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の[[先住民族]]は、チブチャ系 (Chibcha) と[[カリブ族|カリブ]]系(Karib)が多数を占めていた。{{仮リンク|バカタ|es|Bacatá}}を首都とする{{仮リンク|ムイスカ連邦|es|Confederación muisca}}([[1450年]] - [[1537年]]、{{lang|en|Bogotá Kingdom}} - {{仮リンク|バカタ|es|Bacatá|label=バカタ王国}}とも)は[[ムイスカ人]]の最大の王国だったが、征服者{{仮リンク|ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ|en|Gonzalo Jiménez de Quesada}}により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタは[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]と改名され、以降、スペイン人の拠点となった。 スペイン人は[[16世紀]]になると [[アフリカ]]から[[奴隷]]を送り込み始める。その後、[[カルタヘナ・デ・インディアス]]はペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にした[[イギリス]]からの攻撃が激しくなった。[[スペイン]]はイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を [[ヌエバ・グラナダ副王領]]として、[[ペルー副王領]]から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米を[[ベネスエラ]]などと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]に首都を定めた。しかし、その後も [[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]などの都市に対して[[イギリス海軍]]や[[海賊]]の攻撃は続き、現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->も城壁が残っている。 1781年、{{仮リンク|ソコーロ (サンタンデール県)|en|Socorro, Santander|label=ソコーロ}}で増税に反対した[[クリオージョ]]達が{{仮リンク|コムネーロスの反乱|en|Revolt of the Comuneros (New Granada)}}を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。 === 独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊 === {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} [[ファイル:Antonio Narino.jpg|thumb|200px|left|[[アントニオ・ナリーニョ]]。]] [[ファイル:Congreso de Cúcuta.jpg|thumb|200px|right|{{仮リンク|ククタ議会|es|Congreso de Cúcuta|en|Congress of Cúcuta}}での[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]]と[[シモン・ボリバル]]をはじめとするコロンビア独立の志士たち。]] 19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、[[スペイン軍]]と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。 [[1806年]]から[[フランシスコ・デ・ミランダ]]に率いられた解放軍により、隣の{{仮リンク|ベネズエラ総督領|es|Capitanía General de Venezuela|en|Captaincy General of Venezuela}}から解放戦争が始まったことを受けて、''ヌエバ・グラナダ''でも独立戦争が始まった。[[1810年]]7月、[[アントニオ・ナリーニョ]]が副王を追放して{{仮リンク|プロビンシア・デ・ボゴタ|es|Provincia de Bogotá|label=ボゴタ県}}([[サンタフェ・デ・ボゴタ]]を中心)に{{仮リンク|クンディナマルカ共和国|es|Estado Libre de Cundinamarca|en|Free and Independent State of Cundinamarca}}([[1810年]] - [[1815年]])の独立を宣言した。翌年に{{仮リンク|プロビンシア・デ・カルタヘナ|es|Provincia marítima de Cartagena|label=カルタヘナ県}}([[カルタヘナ・デ・インディアス]]を中心)が{{仮リンク|カルタヘナ共和国|es|Estado Libre de Cartagena}}([[1811年]] - [[1815年]])の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタは{{仮リンク|ヌエバ・グラナダ連合州|en|United Provinces of New Granada}}([[1810年]] - [[1816年]])として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。 ナリーニョと[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]]は、1812年に崩壊した{{仮リンク|ベネズエラ第一共和国|en|First Republic of Venezuela}}([[1810年]] - [[1812年]])を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年には{{仮リンク|ベネスエラ第二共和国|en|Second Republic of Venezuela}}([[1813年]] - [[1814年]])を再び解放するが、本国での[[フェルナンド7世]]の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの({{仮リンク|カラボボの戦い (1814年)|es|Batalla de Carabobo (1814)}})、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領[[ジャマイカ]]に逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。 [[ファイル:AGHRC (1890) - Carta XI - División política de Colombia, 1824.jpg|thumb|left|250px|[[大コロンビア]]]] 再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年に{{仮リンク|ジャネーロ|en|Llanero}}({{lang|es|Llanero}})の頭目だった{{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez}}の力を借り、[[1819年]]には[[アンゴストゥーラ]]を臨時首都としての{{仮リンク|ベネスエラ第三共和国|es|Tercera República de Venezuela}}([[1817年]] - [[1819年]])が再建され、[[グラン・コロンビア]]({{lang|es|Gran Colombia}}、[[1819年]] - [[1831年]])が創設された。1819年8月の[[ボヤカの戦い]]に勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。 1821年に{{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}での勝利により[[カラカス]]が解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国({{lang|es|República de Colombia}})を形成した。1820年には解放された[[グアヤキル]]が、1822年には[[キト]]が併合され、このコロンビア共和国は現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及び[[ペルー]]、[[ガイアナ]]、[[ブラジル]]の一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後[[エクアドル]]、ペルー、[[アルト・ペルー]]方面の解放に出征した。1824年に[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ|スクレ]]軍が{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}で勝利し、全インディアス[[植民地]]の独立を勝ち取った。 ボリバルは新たに独立した[[ボリビア|ボリビア共和国]]の初代[[ボリビアの大統領|大統領]]となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する {{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez}}の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの[[暗殺]]を謀り[[亡命]]した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの[[戦争]]も起きた({{仮リンク|グラン・コロンビア=ペルー戦争|en|Gran Colombia–Peru War}})。その後、ベネズエラが独立を要求した。[[1830年]]に[[エクアドル]]([[キト]]と[[グアヤキル]]と[[クエンカ (エクアドル)|クエンカ]]が連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かって[[マグダレーナ川]]を下る中、[[サンタ・マルタ]]付近で失意の内に病死した。翌[[1831年]]に[[ラファエル・ウルダネータ]][[政権]]が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部が[[ヌエバ・グラナダ共和国]]として独立した。 === ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで === [[ファイル:CatedralPrimadaBogota2004-7.jpg|thumb|250px|首都[[ボゴタ]]のカテドラル]] [[1832年]]に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。[[保護貿易]]により産業が発展し、[[奴隷貿易]]が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代には[[コーヒー]]が栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く[[中央集権]]派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興[[ブルジョワジー]]、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、[[教会 (キリスト教)|教会]]などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く[[二大政党制]]が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。 1849年から1853年まで大統領を務めた{{仮リンク|ホセ・イラリオ・ロペス|en|José Hilario López}}はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、[[自由主義]]政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれた{{仮リンク|ホセ・マリア・メロ|en|José María Melo}}将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて[[自由貿易]]が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。 1857年には自由主義者{{仮リンク|マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス|en|Mariano Ospina Rodríguez}}が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手により[[グラナダ連合]]([[1858年]] - [[1863年]])が発足した。ロドリゲスは[[イエズス会]]の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど[[保守]]化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事の{{仮リンク|トマス・シプリアーノ・ド・モスケラ|en|Tomás Cipriano de Mosquera}}が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。 モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる[[連邦]]制国家、[[コロンビア合衆国]]([[1863年]] - [[1886年]])が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米の[[アテネ]]」と呼ばれた。1880年に保守派の{{仮リンク|ラファエル・ヌニェス|en|Rafael Núñez (politician)}}が自由党[[右翼|右派]]と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。[[ククタ]]周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、[[鉄道]]網も拡大していった。 1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育に[[カトリック教会]]が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの[[内戦]]に勝利すると、[[1886年]]にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。 === 党派対立の時代 === [[ファイル:Guerra_peru1_1932_d.jpg|thumb|215px|right|レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)]] {{See also|棍棒外交|第一次世界大戦|バナナ戦争}} 1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。{{仮リンク|ラファエル・ウリベ・ウリベ|es|Rafael Uribe Uribe|en|Rafael Uribe Uribe}}将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「[[千日戦争]]」([[1899年]] - [[1902年]])が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していた[[アメリカ合衆国]]の[[パナマ運河地帯]]永久[[租借]]案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカは[[パナマ地峡]]の独立派を援助し、[[1903年]]に地峡地帯が[[パナマ|パナマ共和国]]として独立した。 内戦終結後、保守党の{{仮リンク|ラファエル・レイェス|en|Rafael Reyes}}が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。[[1921年]]にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地の[[メデジン]]は、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。 [[1930年]]に{{仮リンク|エンリケ・エラヤ・エレーラ|en|Enrique Olaya Herrera}}が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月の[[コロンビア・ペルー戦争]]に勝利し、南部アマゾン国境の[[レティシア]]の領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。 [[1934年]]、自由党の{{仮リンク|アルフォンソ・ロペス・プマレホ|en|Alfonso López Pumarejo}}が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは[[1942年]]に再選されるが、政策に失敗して[[1945年]]辞任した。プマレホの政治は農民や[[労働者]]の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だった[[ホルヘ・エリエセル・ガイタン]]は1928年に[[ユナイテッド・フルーツ]]社による{{仮リンク|バナナ労働者虐殺事件|en|Banana massacre}}を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。 === 「暴力」の時代 === [[ファイル:Bogota Eje ambiental.JPG|right|200px|thumb|コロンビアの首都[[ボゴタ]]。標高2600メートルに800万人が住む。]] [[1946年]]以降の十年間は{{仮リンク|ラ・ビオレンシア|en|La Violencia}}(「暴力」の時代、[[1948年]] - [[1958年]])と言われ、争いが頂点に達した。[[1946年]]に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対する[[テロリズム|テロ]]を繰り広げ、[[1948年]]にボゴタでの[[米州機構|OAS]]会議中に、自由党党首の[[ホルヘ・エリエセル・ガイタン|ガイタン]]が当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の[[市民]]と保守党派の市民が衝突し、{{仮リンク|ボゴタ暴動|en|Bogotazo}}(ボゴタソ)が発生した。この一連の[[暴動]]により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。 1950年に保守党の超保守派[[ラウレアーノ・ゴメス]]大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは[[反共主義|反共]]を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを[[弾圧]]し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一[[朝鮮戦争]]に際して[[国連軍]]に軍隊を派遣した。 地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、[[1953年]][[6月14日]]、軍事[[クーデター]]により朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だった[[グスタボ・ロハス・ピニージャ]]将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の[[軍事政権]]が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 [[1955年]]、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起([[ビジャリカ戦争]])。[[1956年]]、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「{{仮リンク|牛の首輪事件|es|Gustavo Rojas Pinilla#Incidentes en la plaza de toros}}」({{lang|es|Incidentes en la plaza de toros}})の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れて[[アルゼンチン]]の[[フアン・ペロン]]のような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、[[1957年]]にロハスは辞任に追いやられた。{{仮リンク|コロンビア軍事政権|es|Junta Militar de Colombia}}([[1957年]] - [[1958年]])。 === 「国民戦線」体制 === [[1958年]]、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「{{仮リンク|国民戦線 (コロンビア)|es|Frente Nacional (Colombia)|en|National Front (Colombia)|label=国民戦線}}」体制([[1958年]] - [[1974年]])が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。[[キューバ革命]]([[1953年]] - [[1959年]])の影響を受けて、[[1961年]]にアメリカ合衆国の[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領主導によって[[進歩のための同盟]]が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、{{仮リンク|国家人民同盟|es|Alianza Nacional Popular|en|National Popular Alliance}}(ANAPO)が発足。 === コロンビア内戦 === [[1964年]]から[[ゲリラ]]活動は活発化し([[コロンビア内戦]])、[[1966年]]には[[コロンビア革命軍]] (FARC) が発足した。[[1968年]]にメデジン公会議で[[解放の神学]]が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした[[左翼]]ゲリラ[[4月19日運動]] (m - 19) が生まれた。 [[ファイル:V. DESDE COLPATRIA.JPG|right|200px|thumb| 首都ボゴタは[[南アメリカ|南米]]有数の[[世界都市]]である。]] [[1974年]]、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党の[[フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ]]大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した<ref>見えない内戦の傷跡 大統領訪問を歓迎 豊富な商品、物価も平静『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面</ref>。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し[[戒厳令]]を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が[[秘密警察]]による[[拉致]]や[[拷問]]を受け、その多くが失踪した。 [[1982年]]に就任した保守党の{{仮リンク|ベリサリオ・ベタンクール・クァルタス|en|Belisario Betancur}}大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、[[1985年]]にはFARCが合法政党である{{仮リンク|愛国同盟|en|Patriotic Union (Colombia)}} (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、[[1994年]]には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19による[[コロンビア最高裁占拠事件]]、[[ネバド・デル・ルイス火山]]の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。[[1986年]]に就任した自由党の[[ビルヒリオ・バルコ・バルガス]]大統領により、[[1989年]][[メデジン・カルテル]]との大規模ゲリラ戦闘「{{仮リンク|麻薬カルテル戦争|en|Paramilitarism in Colombia#Anti-paramilitary decrees of 1989}}」({{仮リンク|プラン・コロンビア|es|Plan Colombia|en|Plan Colombia}}、[[麻薬戦争]])が勃発し、大統領選挙中の[[8月18日]]に[[ルイス・カルロス・ガラン・サルミエント]]が暗殺された。[[麻薬]]カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。[[1990年]]、大統領に就任した自由党の[[セサル・ガビリア・トルヒージョ]]は[[野党]]を含む[[挙国一致内閣]]を組閣し、[[1991年]]に1886年憲法が全面改正され、施行された。 === 政治腐敗 === {{main|{{仮リンク|コロンビアの汚職|en|Corruption in Colombia}}}} [[1994年]]に就任した自由党の[[エルネスト・サンペール・ピサノ]]大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「{{仮リンク|プロセソ8000|es|Proceso 8.000|en|Proceso 8000|label=ナルコ・ゲート事件}}」({{lang-es-short|Proceso 8.000}})に発展した。議会はサンペールを[[弾劾]]する構えを見せ、[[アメリカ合衆国連邦政府]]もサンペールに入国[[査証|ビザ]]の発給を拒否するなど外交問題に発展した。[[1998年]]に就任した保守党の[[アンドレス・パストラーナ・アランゴ]]大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌[[1999年]]1月にはFARCとの和平対話を開始するも、[[2002年]]初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「{{仮リンク|プリメーロ・コロンビア|es|Primero Colombia}}」から就任した[[アルバロ・ウリベ]]大統領は[[治安]]回復を重点課題とし、[[2006年]]5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「{{仮リンク|パラポリティカ・スキャンダル|es|Parapolítica|en|Colombian parapolitics scandal}}」({{lang-es-short|Parapolítica}})が発覚。[[2008年]]、[[3月1日]]に国境の[[プトゥマヨ川]]を越えた[[エクアドル]]領内で[[コロンビア革命軍]](FARC)掃討作戦を実施、[[ラウル・レジェス]]他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領[[ラファエル・コレア]]は[[領空侵犯]]として抗議([[アンデス危機]])。同年4月にウリベ大統領の「{{仮リンク|イディスポリティカ・スキャンダル|es|Yidispolítica|en|Yidispolitics Scandal}}」({{lang-es-short|Yidispolítica}})が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めた[[フアン・マヌエル・サントス]]が当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの[[虐殺]]されたと思われる遺体が発見された<ref>http://www.asahi.com/international/update/0807/TKY201008070193.html</ref>。 現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。 === 左翼ゲリラ(FARC)との和平交渉 === コロンビア最大の左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。 ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)と[[キューバ]]の首都[[ハバナ]]で和平交渉を開始した。和平交渉自体は、[[紛争]]が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。 期日までに合意されなかったことから[[世論]]の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。 2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日に[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]で署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。[[ノルウェー・ノーベル委員会]]は、サントス大統領による[[内戦]]の終結に導く努力を認め、2016年10月7日に[[ノーベル平和賞]]を送ると発表した<ref>{{Cite web |title = The Nobel Peace Prize 2016 |url = http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/2016/ |publisher = Nobel Foundation |language = English |accessdate = 2016-10-07 }}</ref>。 だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右とも言われる[[イバン・ドゥケ]]が大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた<ref>{{cite news |url= https://www.asahi.com/articles/ASL6L43V0L6LUHBI00Y.html|title= コロンビア「ノーベル賞の和平」暗雲 大統領に見直し派 |author= |work= [[朝日新聞]] |date= 2018年6月19日 |accessdate=2019年1月27日}}</ref>。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|コロンビアの政治|en|Politics of Colombia}}}} [[ファイル:Casa presidencial de Bogotá.jpg|thumb|[[ナリーニョ宮殿|大統領官邸]]]] <!-- {{main|コロンビアの政治}} --> [[大統領]]を元首とする[[共和制]][[国家]]であり、上下[[両院制]]の[[複数政党制]][[議会]]を備える。現行憲法は1991年憲法である。 [[行政]]権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。[[2005年]]の憲法改正で連続一度までの再選が可能だったが、[[2015年]]に再選が禁止された。 [[立法]]権は[[上院]]と[[下院]]に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、[[比例代表制]]により選出される。 [[司法]]権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。 コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続く[[ボゴタソ]]以降の[[コロンビア内戦|内戦]]においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。[[イスパノ・アメリカ]]独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし[[中央集権]]派と[[連邦]]派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である<ref name="francisco"/>。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。 なお、「寡頭政治」という言葉は[[ホルヘ・エリエセル・ガイタン]]が選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補[[ガブリエル・トゥルバイ]]は[[レバノン]][[移民]]の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かった[[マルコ・フィデル・スアレス]]大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の[[私生児]]であり、下層階級出身である。また、自由党の[[ベリサリオ・ベタンクール]]大統領(任1982年‐1986年)は[[バスク]]系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供のころは裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だったころは公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党の[[カルロス・レストレポ]]大統領(任1910年‐1914年)や、自由党の[[エドゥアルド・サントス]]大統領(任1938年‐1942年)は[[中産階級]]出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「'''誰でも大統領になれる'''」という言い方が流行ったこともあるという<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』([[アジア経済研究所]]、2011年)92-94頁</ref>。 かつて左派の主要な政治勢力であった[[愛国同盟]](UP)は1,500人以上の活動家が政府によって[[暗殺]]されたために壊滅し<ref name="francisco"/>、清廉な議員・判事でも麻薬組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや[[右翼]][[民兵]]による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は[[政権]]を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい<ref name="francisco"/>など、腐敗と暴力が横行している。 しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権[[与党]]が推薦した[[候補者]]が[[選挙]]で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代が行なわれており、[[1882年]]、[[1930年]]、[[1946年]]の選挙では政治的暴力は発生していない<ref name="寺澤65">寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)65頁</ref>。 また、コロンビアでは[[1853年]]に憲法で男子の[[普通選挙]]権が認められており、世界の[[憲政]]史上でも最も古い国の一つである。[[1856年]]の普通選挙による初の大統領選では、[[有権者]]の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と[[投票所]]までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である<ref name="寺澤65"/>。 [[奴隷制]]は独立後の[[1821年]]に奴隷から産まれた[[新生児]]を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは[[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]][[エイブラハム・リンカーン]]による[[奴隷解放宣言]]より40年も早く、[[1826年]]の[[パナマ会議]]に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。[[1851年]]に全土の奴隷2万人が全員解放され、[[1852年]]1月には奴隷制そのものが全廃された<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)70頁</ref>。 コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)66頁</ref>。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、[[南北戦争]]と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している<ref name="寺澤272">寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)272頁</ref>。 例えば、[[ベネズエラ]]では[[大コロンビア]]からの分離後25年間で11回反乱が起き、[[アルゼンチン]]では[[1868年]]までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、[[メキシコ]]や他の[[中米]]諸国、アルゼンチン、[[ペルー]]、[[ボリビア]]で長期の内戦があり、最も内戦が少なかった[[チリ]]でさえ[[1829年]]、[[1851年]]、[[1859年]]、[[1891年]]に内戦が起き、国境の資源を巡り[[1879年]]に[[太平洋戦争]]が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた<ref name="寺澤272"/>。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、[[メキシコ革命]]や[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)273頁</ref>。 政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、[[自由主義|リベラル]]派の「急進的変革」・[[社会主義]]勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。 なお、[[コロンビアにおける死刑|死刑制度]]は[[1991年]]の新憲法で全面廃止されている。 * [[1991年]][[7月5日]]、新憲法公布される。新憲法下で初の総選挙が行われ、[[政教分離]]や連邦主義を主張する都市工業者に基盤を持つ自由党が勝利した。しかし、左翼ゲリラの攻撃は激化し、[[石油]]施設などへの攻撃が相次いでいる。 * [[2006年]][[8月7日]]、二期目となる[[アルバロ・ウリベ]]大統領が就任演説で反政府武装集団との和平への決意を示した。コロンビアでは40年以上内戦が続いている。 * [[2010年]][[6月20日]]、大統領選の決選投票が行われ、与党・全国統一社会党の[[フアン・マヌエル・サントス]]前国防相が当選した。全国登録庁(中央選管)の発表によると、サントス候補が69%、野党・緑の党のモクス候補は27.5%であった。投票率は44%<ref>[http://mainichi.jp/select/today/news/m20100621k0000e030040000c.html 「コロンビア:サントス氏が決選投票制す 大統領選」]{{リンク切れ|date=2017年9月}}『[[毎日新聞]]』2010年6月21日</ref>。 * 2014年6月15日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉継続を争点とし、与党・国民統一党のフアン・マヌエル・サントス大統領が僅差で再選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、サントス候補が50.95%、スルアガ候補が45%であった。 * 2018年6月17日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉合意を争点とし、合意見直し派の中央民主党の[[イバン・ドゥケ]]上院議員が元左翼ゲリラで合意遵守派の前ボゴタ市長の[[:en:Gustavo Petro|グスタボ・ペトロ]]を破り当選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、ドゥケ候補が53.98%、ペトロ候補が41.81%であった。右派が圧倒的に強いコロンビアにおいて左派候補が決選投票に残ったのは史上初の事であった。 * 2022年6月19日、大統領選決選投票で、中道左派で元ボゴタ市長の[[グスタボ・ペトロ]]が実業家で元[[ブカラマンガ]]市長の[[:en:Rodolfo Hernández Suárez|ロドルフォ・エルナンデス]]を破り当選した。伝統的に右派が政権を担ってきたコロンビアで史上初の左派政権が誕生することになる。南米随一の親米国家で親米路線を堅持してきたコロンビアの外交路線にも影響を与える可能性があり、「米国の裏庭」と揶揄される南米における米国の影響力低下が指摘されている。 * 2022年11月15日、グスタボ・ペトロが大統領に就任してから100日目を迎え、就任100日時点での支持率は49.7%だった。これは前イバン・ドゥケ大統領の就任100日時点での支持率である27.2%を22.5ポイント上回る支持率となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/11/895f5201cef7dfa9.html |title=ペトロ大統領就任100日、前任者より高い支持率、経済政策への支持は低調 |access-date=2023-01-12 |publisher=JETRO}}</ref>。 * 2023年7月29日、ペトロ大統領の長男が[[マネーロンダリング]](資金洗浄)容疑で逮捕され、[[麻薬カルテル]]から受け取った資金を選挙費用に流用していた疑惑が浮上した。8月3日、ペトロ大統領は疑惑を否定し政権続投を表明したが、議会が暫定調査を開始した。ペトロ連立政権から離脱する政党が相次ぎ、公約の医療・年金制度改革も進んでいないことから政権発足1年で支持率は低迷しており、大統領が[[弾劾]]され政局が流動化する可能性もある<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023080600227&g=int|title=大統領の選挙運動に「麻薬マネー」 息子が告白、政権に暗雲―コロンビア|work=|agency=[[時事ドットコム]]|date=2023-08-07|accessdate=2023-08-08}}</ref>。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|コロンビアの国際関係|en|Foreign relations of Colombia}}}} [[ファイル:Santos and Rousseff.jpg|thumb|第57代大統領[[フアン・マヌエル・サントス]](右)と[[ブラジル連邦共和国大統領|ブラジル大統領]][[ジルマ・ルセフ]]]] 伝統的に隣国の[[ベネズエラ]]、[[エクアドル]]からは再度、両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->ではベネズエラの[[ウゴ・チャベス]][[ベネズエラの大統領|大統領]]は、FARCにベネズエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となった。このため、一時はコロンビアによるベネズエラ侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、[[枯葉剤]]の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの[[国交]]が断交。エクアドルに同調し、[[ニカラグア]]も断交を発表した。2009年7月にはコロンビアが駐留[[アメリカ軍|米軍]]増強を計画していることについてベネズエラが反発、ベネズエラは[[ロシア]]製[[戦車]]の調達を増やすことで対抗するとしており、コロンビア、ベネズエラ間の緊張が高まっている([[アンデス危機]])。 [[アメリカ合衆国]]との関係では、1903年にアメリカの援助を受けてパナマ地峡が[[パナマ|パナマ共和国]]として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、パナマの独立はコロンビア政府によって[[国家の承認|承認]]された。パナマの独立承認後1920年代から合衆国資本により経済支配が進んだ。その後も[[親米]]路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を終結させようとする傾向を強くし、[[イラク戦争]]を支持するなど一層の同盟関係の強化が進んだ。現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->はアメリカとの[[自由貿易協定]]締結を目指している。2009年8月14日には、アメリカとコロンビアとの間で[[軍事同盟]]が正式発効した。しかし、これにベネズエラが「宣戦布告」と反発している。 [[2010年]][[7月22日]]、ベネズエラとの国交を断絶<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20110925005135/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072301000016.html|title=ベネズエラがコロンビアと断交 左翼ゲリラの活動めぐり対立|publisher=[[47NEWS]]|date=2010-7-23|accessdate=2010-7-23}}</ref>したが同年[[8月11日]]、国交を回復することで合意した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100811-OYT1T00323.htm 「ベネズエラとコロンビア、国交回復で合意」]『読売新聞』2010年8月11日{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。 ベネズエラ経済危機でベネズエラ難民がコロンビアに殺到しており、2018年9月時点でその数は100万人を超える。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題になっている<ref name=日経20180905>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35015560V00C18A9FF2000/|title= ベネズエラ難民、受け入れ国でトラブル 近隣国、国際会議で有効な対策打てず |agency=『[[日本経済新聞]]』|date=2018-09-05|accessdate=2019-03-02}}</ref>。 2019年2月24日にコロンビアからベネズエラに運ばれる人道支援物資を国境のベネズエラ軍が妨害したことが原因で両国の緊張が高まり、ベネズエラのマドゥロ政権はコロンビアとの国交を断絶した<ref name=CNN20190224>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35133180.html|title=ベネズエラ、コロンビアとの断交を発表 国境で支援物資搬入めぐり衝突 |agency=日[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2019-02-24|accessdate=2019-03-02}}</ref>。しかし2022年8月7日にコロンビア初の左派政権となる[[グスタボ・ペトロ]]大統領が就任したことをきっかけに、8月28日にベネズエラとの国交回復が行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3421054|title=ベネズエラとコロンビア、3年ぶり国交回復|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2022-08-29|accessdate=2022-08-29}}</ref>。 [[2010年]]、[[環太平洋戦略的経済連携協定]](TPP)に参加する意向を明らかにした<ref name="ishikawa">{{Cite web|和書|url=http://www.iti.or.jp/kikan81/81ishikawa.pdf|title=環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) の概要と意義|format=PDF|author=石川幸一|publisher=国際貿易投資研究所|date=2010-09-06|accessdate=2012-02-04}}</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日本とコロンビアの関係}} [[1908年]]([[明治]]41年)[[5月25日]]、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた[[日本人]]は[[庭師]]の川口友広とされている。1908年、商用目的で日本を訪れたコロンビア人アントニオ・イスキエルド(1862‐1922)が川口ら3名の日本人をコロンビアに連れて帰り、川口はボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、[[1910年]]に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口は日本で[[皇族]]の庭仕事をしていただけでなく、[[大隈重信]]の下でも働いていた経験があり、大隈の推挙によりイスキエルドとともにコロンビアに渡ったとされる。渡航後の川口の消息は不明だが、ボゴタに墓碑があるとの未確認情報もある<ref>イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』([[神奈川大学]]出版会、2014年)3、92、107頁</ref>。 川口の次にコロンビアに入国した日本人は[[1915年]]([[大正]]4年)、[[広島県]][[竹原市]]出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸の[[バランキージャ]]に移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが[[日系コロンビア人]]の源流となった<ref>寺澤辰麿『コロンビアの素顔』(かまくら春秋社、2016年)29-30頁</ref>。[[1921年]]([[大正]]10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の[[関東大震災]]で[[東京]]の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚。子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、[[昭和天皇]][[崩御]]の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。[[1923年]]には島清、中村明ら5名が「安洋丸」でブエナベンツーラ港に入港。[[1926年]]、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。[[1929年]]([[昭和]]4年)、主に[[福岡県]]などから入植が始まり、[[農業]]で成功した。[[ブラジル]]や[[ペルー]]に比べて少ないが、現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->もカリを中心に1800人ほどの[[日系コロンビア人]]が存在し、南米の[[日系人|日系移民]]では最も成功したとされる。[[1941年]]の[[太平洋戦争]]で一時国交を断交したが、[[戦後]]の[[1952年]]に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本に[[米]]を送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒー、花卉が多く日本に輸出、自動車、電子機器がコロンビアに輸入されている。 現在は官民の各部門で両国の文化・人材交流事業を積極的に展開している。 == 地理 == [[ファイル:Mapa de Colombia (regiones naturales).svg|thumb|220px|{{仮リンク|コロンビアの自然区分|en|Natural regions of Colombia}}<br>六つの地域に分かれる。]] [[ファイル:Colombia Topography.png|thumb|left|220px|コロンビアを中心とする北アンデスの地形]] [[ファイル:Los Llanos Colombia by David.png|thumb|220px|コロンビアの[[リャノ]]]] [[ファイル:Nevado del Ruiz by Edgar.png|thumb|220px|[[ネバド・デル・ルイス火山]]]] [[File:Caño Cristales (36895025205).jpg|thumb|{{ill2|マカレナ山地|en|Serranía de la Macarena}}から流れる川{{ill2|キャノ・クリスタレス|en|Caño Cristales}}の川底には様々な水草({{ill2|Rhyncholacis|en|Rhyncholacis}}など)が生えており、ピンク・緑など様々な色彩となる。]] {{Main|{{仮リンク|コロンビアの地理|es|Geografía de Colombia|en|Geography of Colombia}}}} 国内は{{仮リンク|コロンビアの自然区分|en|Natural regions of Colombia}}によると、(I)[[アンデス山脈|アンデス]]地域([[:en:Andean Natural Region, Colombia|Andean Region]])、(II)カリブ海岸低地地方([[:en:Caribbean Natural Region, Colombia|Caribbean Region]])、(III)[[太平洋]]低地([[:en:Pacific/Chocó Natural Region, Colombia|Pacific Region]])、東部の(IV)[[オリノコ川|オリノコ]]地域([[:en:Orinoquía Natural Region, Colombia|Orinoquía Region]])・(V)[[アマゾン川|アマゾン]]地域([[:en:Amazon Natural Region, Colombia|Amazon Region]])、及び(VI)島嶼([[:en:Insular Region (Colombia)|Insular Region]])に分かれる。人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。 東部はそのままベネスエラの地形に続き[[オリノコ川]]流域平原には[[リャノ]]が、[[グアジャナ高地]]にはアマゾンの[[熱帯雨林]]が広がり、これらの地域は国土の2/3を占めている。東部にはブラジルの[[ネグロ川]]に連なる[[グアビアーレ川]]が流れる。東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住していて、国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。エクアドル国境付近の海岸地帯では[[マングローブ]]の林が広がる。北部には[[マグダレーナ川]]や[[カウカ川]]が南から北の[[カリブ海]]に流れる。 === 山 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの山の一覧|en|List of mountains in Colombia}}}} 北部には国名と同様、カリブ海側の{{仮リンク|シエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地|es|Sierra Nevada de Santa Marta|en|Sierra Nevada de Santa Marta}}には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰の北部海岸サンタ・マルタに近い[[独立峰]][[クリストバル・コロン山]]([[標高]]5775m)がある。ボゴタ西方の[[ネバドデルルイス火山]](標高5389m)は1985年の噴火で史上最悪の2万3千人という犠牲者を出した。太平洋側では、[[パナマ]]からプエナベントゥラまで続く{{仮リンク|バウド山脈|es|Serranía del Baudó|en|Serranía del Baudó}}は[[中央アメリカ]]の延長である。 エクアドルから続くアンデス山脈は西部の{{仮リンク|オクシデンタル山脈 (コロンビア)|es|Cordillera Occidental (Colombia)|en|Cordillera Occidental (Colombia)|label=オクシデンタル山脈}}と、中央の{{仮リンク|セントラル山脈 (コロンビア)|es|Cordillera Central (Colombia)|en|Cordillera Central (Colombia)|label=セントラル山脈}}、東部の{{仮リンク|オリエンタル山脈 (コロンビア)|es|Cordillera Oriental (Colombia)|en|Cordillera Oriental (Colombia)|label=オリエンタル山脈}}に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、[[トリマ山]](5220メートル)、ルイス山(5321メートル){{efn|1985年の[[噴火]]により氷河が溶け出して土石流が生じ、アルメロ市を埋め尽くし、2万人もの犠牲者を出した。}} などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、[[メデジン]]を含む[[アンティオキア県|アンティオキア地方]]や、[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]を含む[[バジェ・デル・カウカ県|バジェ・デル・カウカ]](カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。中央山脈は430万年前の[[地殻変動]]・[[火山]]活動で隆起した。火山性堆積物([[火山灰]]、[[軽石]]など)が多く、現在も多数の火山が存在する。[[溶岩流]]や[[土石流]]によって作られた平坦な地形も多く見られる<ref name="andesu">二村久則編集『コロンビアを知るための60章』([[明石書店]]エリアスタディーズ90、2011年)20ページ</ref>。 オリエンタル山脈は首都のボゴタを含む[[クンディナマルカ県|クンディナマルカ]]地方を擁し、カリブ海に向かう{{仮リンク|ペリハ山脈|es|Serranía del Perijá|en|Serranía del Perijá}}と、ベネスエラの[[メリダ山脈]]に続く。 全長1200メートルを超え最長であり、中央部は最大幅350キロメートルに達するクンディボヤセンセ高原がある{{efn|この高原は、[[氷河]]が溶けて湖になり、堆積物が沈殿したことによってできたと考えられている。現在でも[[湿原]]があちこちにあり、その名残を留めている。}}<ref name="andesu" /> 東部のこの山脈の西斜面は、南部と北部の地域に分けることができ、南部はアマゾン地方からの湿った空気で潤い、北部はやや乾燥しており[[リャノ]]と呼ばれる平原へと続いている東部斜面は一般に乾燥しており、河川を利用して農牧業は発達している{{efn|この斜面の北部はクシアナ[[油田]]に代表される[[石油産業]]も発展している。}}<ref name="andesu" />。 === 川 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの河川の一覧|en|List of rivers of Colombia}}}} アンデス山脈の高峰から生まれる河川は様々な景色を生み出し、複雑なものとなっている<ref name="andesu2">二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)23ページ</ref>。 西部の山脈は、太平洋沿岸を南北に走り、全長1200キロメートルあり、太平洋の湿った空気が西斜面にぶつかり年間8000ミリの降水量を記録し、そこを流れる河川は、[[アトラト川]]をはじめ豊富な水量を誇っている。また、これらの河川の流域には熱帯雨林が形成され、森林資源となっている<ref>二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)218-19、23ページ</ref>。 西部と中央山脈の谷間には[[カウカ川]]、東部と中央山脈の間には[[マグダレナ川]]が北へと流れ、カリブ海へと注いでいる<ref name="andesu3">二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)22ページ</ref>。 === 気候 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの気候|en|Climate of Colombia}}}} コロンビアはその国土の全てが[[北回帰線]]と[[南回帰線]]の間にあり、基本的には[[熱帯]]性の気候だが、気候はアンデス山脈の高度によって変わる。また、自然環境の多様性ももたらしている<ref name="andesu3" />。 * 標高900mまでが熱帯のティエラ・カリエンテ(Tierra caliente)となり、年間降水量は1500mm - 2000mmに達し、年間平均気温は24℃以上で、バナナ、砂糖黍、米、大豆などが栽培されている。 * 標高900m - 2000mまでがティエラ・テンプラーダ(Tierra templada)となり、年間降水量は1500mm - 3000mmに達し、年間平均気温は17℃-24℃で、コーヒーは主にこの地域で栽培される。 * 標高2000m - 3000mまでがティエラ・フリア(Tierra fría)となり、[[雲霧林]](クラウド・フォレスト)が存在し、年間平均気温は12℃-16℃で、国土の15%はこの気候である。 * 標高3000m - 4500mまでがパラモ(páramos)となり、木の生えない[[草原]]地帯が広がる。パラモとは、コロンビア、ベネズエラ、エクアドルの赤道アンデスに固有な環境区分帯で、寒冷で湿潤な高地部を指す<ref name="andesu3" />。 * 標高4500mが雪線となり、ティアラ・エラーダという[[万年雪]]に覆われた世界となる。 == 地方行政区分 == {{main|コロンビアの行政区画}} [[ファイル:Colombia-departamentos.svg|thumb|300px|コロンビアの地方行政区分]] [[ファイル:Colombia.png|thumb|300px|コロンビアの地図]] コロンビアには33の県(''departamento'')が設けられている。また、[[首都]]ボゴタは特別区域である。「コロンビアは地域主導の国である」と言われる<ref name="francisco"/>通り、各地域ごとの対立が激しい。 # {{Flagicon|Amazonas (COL)}} [[アマソナス県 (コロンビア)|アマソナス県]]([[レティシア]]) # {{Flagicon|Antioquia}} [[アンティオキア県]]([[メデジン]]) # {{Flagicon|Arauca}} [[アラウカ県]]([[アラウカ]]) # {{Flagicon|Atlántico}} [[アトランティコ県]]([[バランキージャ]]) # {{Flagicon|Bolívar (COL)}} [[ボリーバル県 (コロンビア)|ボリーバル県]]([[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]) # {{Flagicon|Boyacá}} [[ボヤカ県]]([[トゥンハ]]) # {{Flagicon|Caldas}} [[カルダス県]]([[マニサーレス]]) # {{Flagicon|Caquetá}} [[カケタ県]]([[フロレンシア]]) # {{Flagicon|Casanare}} [[カサナレ県]]([[ヨパル]]) # {{Flagicon|Cauca}} [[カウカ県]]([[ポパヤン]]) # {{Flagicon|Cesar}} [[セサール県]]([[バジェドゥパル]]) # {{Flagicon|Chocó}} [[チョコ県]]([[キブド]]) # {{Flagicon|Córdoba (COL)}} [[コルドバ県 (コロンビア)|コルドバ県]]([[モンテリーア]]) # {{Flagicon|Cundinamarca}} [[クンディナマルカ県]]([[ボゴタ]]) # {{Flagicon|Guainía}} [[グアイニア県|グアイニーア県]]([[イニーリダ]]) # {{Flagicon|Guaviare}} [[グアビアーレ県]]([[サンホセ・デル・グアビアーレ]]) # {{Flagicon|Huila}} [[ウイラ県]]([[ネイバ]]) # {{Flagicon|La Guajira}} [[ラ・グアヒーラ県]]([[リオアチャ]]) # {{Flagicon|Magdalena}} [[マグダレーナ県]]([[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]) # {{Flagicon|Meta}} [[メタ県]]([[ビジャビセンシオ]]) # {{Flagicon|Nariño}} [[ナリーニョ県]]([[サンフアン・デ・パスト]]) # {{Flagicon|Norte de Santander}} [[ノルテ・デ・サンタンデール県]]([[ククタ]]) # {{Flagicon|Putumayo}} [[プトゥマヨ県]]([[モコア]]) # {{Flagicon|Quindío}} [[キンディオ県]]([[アルメニア (キンディオ県)|アルメニア]]) # {{Flagicon|Risaralda}} [[リサラルダ県]]([[ペレイラ (コロンビア)|ペレイラ]]) # {{Flagicon|San Andrés, Providencia y Santa Catalina}} [[サン・アンドレス・イ・プロビデンシア県]]([[サンアンドレス島|サンアンドレス]]) # {{Flagicon|Santander}} [[サンタンデール県 (コロンビア)|サンタンデール県]]([[ブカラマンガ]]) # {{Flagicon|Sucre (COL)}} [[スクレ県]]([[シンセレホ]]) # {{Flagicon|Tolima}} [[トリマ県]]([[イバゲ]]) # {{Flagicon|Valle del Cauca}} [[バジェ・デル・カウカ県]]([[カリ (都市)|カリ]]) # {{Flagicon|Vaupés}} [[バウペス県]]([[ミトゥー]]) # {{Flagicon|Vichada}} [[ビチャーダ県]]([[プエルト・カレーニョ]]) # {{Flagicon|Bogotá}} [[ボゴタ]](Distrito Capital 首都地域) === 主要都市 === {{Main|コロンビアの都市の一覧}} 主要な都市はボゴタ(首都)の他、[[メデジン]]、[[サンティアゴ・デ・カリ]]、[[バランキージャ]]、[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]、[[ブカラマンガ]]、[[ククタ]]がある。 == 軍事 == [[ファイル:ARC Gloria by Will White.png|thumb|コロンビア海軍の練習[[帆船]]「ARC グロリア」]] {{main|コロンビア軍}} コロンビア軍は3軍からなり、2004年の時点で[[国防]]予算は2,760,000,000[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]である。[[徴兵制]]が敷かれており、総兵力232,700人を数える。それぞれの兵力は、 * [[コロンビア陸軍]]: 兵員207,000人 * [[コロンビア海軍]]: 兵員28,800人 * [[コロンビア空軍]]: 兵員8,200人 となっている。40年以上続くゲリラとの内戦のために特に陸軍の規模が大きく、また[[アメリカ合衆国]]からの潤沢な軍事援助を受けている。軍は主にコロンビア内のゲリラ組織との戦いに当たる。 === 国家安全保障 === ボゴタソ以降、1960年代から内戦が本格化し、現在まで[[コロンビア内戦]]が継続している。 1980年代の和平によりm - 19が離脱し、現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->敵対する[[左翼]][[ゲリラ]]組織はコロンビア革命軍 (FARC) と[[民族解放軍 (コロンビア)|民族解放軍]] (ELN) だけになっており、近年{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->ではウリベ政権は[[コロンビア自警軍連合]]などの[[極右]]民兵の武装解除をアピールしている。[[ベネスエラ]]の[[ウゴ・チャベス]][[ベネズエラの大統領|大統領]]がFARCに聖域を提供するなどの行為もあり、未だに予断を許さない状態である。ウリベ政権はアメリカ合衆国のコロンビア計画を履行し、同国の支援を受けて軍拡を行い、[[治安]]維持に全力をあげている。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|コロンビアの経済|en|Economy of Colombia}}}} [[ファイル:Cafe Quimbaya 2005-08-27.jpg|thumb|220px|right|キンディオのコーヒー農園]] {{Vertical_images_list |幅=240px |字詰め=左 |画像1=Trendelasabana.jpg |説明1=[[ボゴタ]]から[[シパキラ]]までを行く列車([[2005年]]) |画像2=P1050225.JPG |説明2=[[ナリーニョ県]]のラス・ラハス大聖堂 }} [[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2018年]]の[[国内総生産]](GDP)は3,310億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]である<ref name="economy" />。世界39位であり、南米では[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]に次ぐ3位である。また、[[日本]]の[[大阪府]]の県内総生産(2016年度)の約94%の経済規模でもある<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou.pdf 平成28年度県民経済計算について(内閣府経済社会総合研究所国民経済計算部)]}}</ref>。[[アンデス共同体]]の加盟国、[[メルコスール]]の準加盟国であり、[[南米共同体]]の加盟国でもある。 コロンビアの経済は、繰り返される内戦という政治の不安定さとは裏腹に20世紀に入ってからは[[ラテンアメリカ]]諸国の中でも最も安定した成長を続けた。「ラテンアメリカの失われた10年」である1980年代にも他の南米諸国が苦境に喘ぐのとは対照的に、[[インフレーション|ハイパー・インフレ]]やマイナス成長を記録したことはなかった。例を挙げると、[[国際連合|国連]]ラテンアメリカ経済委員会の報告では1981年から1990年までの[[国民総生産]](GNP)総成長率は10年間で42.2%となり<ref name="francisco"/>、一人当たり成長率でも16.2%となった<ref name="francisco"/>。1999年には1932年以来初めてのマイナス成長を記録したが、その後は再び順調な成長を続けている。しかし、このような安定成長と引き換えに、他の南米諸国のようなダイナミックな高成長を記録することもあまりないのが特徴である。 また、貧富の格差はとても大きく、国民の約3分の1が貧困層にある。[[失業率]]も高い。[[経済協力開発機構]](OECD)によると、2015~2018年において、労働者人口に占める[[自営業]]者の比率は50%を超えており、調査対象38カ国で2-3位の[[ギリシャ]]やブラジル(いずれも30%台)や29位の日本(10.3%)を大きく上回りトップクラスである<ref>『[[日経ヴェリタス]]』2020年3月8日50面「Econo Graphics」</ref>。 現在はボゴタが最大の都市だが、内陸のため元々は経済の中心地ではなく、20世紀後半まではアンティオキア地方の中心地[[メデジン]]や、1960年代に入ってから急速に成長を遂げたカウカ地方の[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]などがコロンビア経済を牽引していた。 1980年代に大規模な油田が発見されるなど産業が拡大しつつある。 [[Facebook]]、[[Google]]、[[マイクロソフト]]などが相次いで進出して、2007~12年に同国のIT([[情報技術]])産業は177%成長し、68億ドル規模となった<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.cnn.co.jp/business/35062653.html| title =犯罪都市から南米のシリコンバレーへ 急成長のコロンビア| publisher =CNN| date= 2015-07-05| accessdate =2015-08-18}}</ref>。 === 労働 === コロンビアは労働環境が整備されておらず、世界的に見ても労働環境が良くない国である。2021年に経済開発協力機構(OECD)によって行われた年間労働時間ランキングでは、全就業者平均の1人当たりの年間実動時間が1,964時間であり、メキシコ、コスタリカに次ぐ第3位を記録している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-14269.html |title=年間労働時間(全就業者) |access-date=2023-01-12 |publisher=GLOBAL NOTE}}</ref>。 また、2021年に国際労働組合総連合グローバル権利指数(2021 ITUC Global Rights Index)が発表した「労働者にとって最悪な10カ国」にもコロンビアはランクインした。これは団体行動権や団体交渉権といった労働者が持つ権利がどの程度尊重されているかを指標化したものである。労働時間のみならず、労働者が持つ権利の観点からもコロンビアは労働環境が整備されていない国だということができる<ref>{{Cite web |url=https://www.ituc-csi.org/2021-global-rights-index?lang=en |title=2021 ITUC Global Rights Index: COVID-19 pandemic puts spotlight on workers’ rights |access-date=2023-01-12 |publisher=ITUC CSI IGB}}</ref>。 また、2020年から2021年にかけて行われたコロンビア政府の「国民生活時間調査」(ENUT:Encuesta Nacional de Uso del Tiempo)によると、有給労働を行っている男性が53.3%、女性が29.9%であり、無給労働を行っている男性が63.0%、女性が90.3%であった。このデータからも分かるように、コロンビアは労働時間が長いにもかかわらず、かなり高い割合で無給労働が行われている。また、男性と女性の労働に関する格差も問題である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dane.gov.co/files/investigaciones/boletines/ENUT/Bol_ENUT_2020_2021.pdf |title=全国時間利用調査(ENUT)-技術情報 |access-date=2023-01-12 |publisher=DANE(コロンビア国家統計局)}}</ref>。 === 農業 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの農業|en|Agriculture in Colombia}}}} 19世紀の終わりから熱帯の換金作物の[[プランテーション]]が導入され、特にコーヒーは20世紀を通して外貨の稼ぎ頭であり、産出量は世界で2番目であった。[[コロンビアのコーヒー産地の文化的景観]]は、[[世界遺産]]にも指定されている。ただし、21世紀になり2位の座を新興生産地の一つである[[ベトナム]]に明け渡したほか、2010年代には、コーヒー豆の国際価格が下落し、主要生産地である[[ウイラ県]]や[[アンティオキア県]]では立ち行かなくなる農家も見られるようになっている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-03 |url= https://toyokeizai.net/articles/-/295507?page=2|title=日本人が知らない「コーヒー」生産農家の悲哀 |publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン |accessdate=2019-11-19}}</ref>。なお、コロンビアの可耕地面積は国土の3.3%程(2005年)である。 切り花(特に[[バラ]]や[[カーネーション]])の輸出国でもあり、米国、[[ヨーロッパ|欧州]]の他に日本へも輸出されている。 世界有数の[[コカ]]栽培国と知られており、生産された[[コカイン]]は欧米諸国を中心に[[密輸]]されている。[[コロンビア革命軍]]はコカインの密輸によって1990年代以降に組織の拡大に成功した。これを受けて、2000年代に政府は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などの支援を受けて、コカ農園に除草剤[[ラウンドアップ]]の大規模な空中散布を行い一定の成果を上げた。しかし、政府の管理下に置かれていない地域が広く、農園の根絶は困難な状況が2020年代現在も続いている。 2019年に行われた全国農業調査(ENA:Encuesta Nacional Agropecuaria)によると、2019年に生産された農作物の総生産量は63億トンである。この66.7%に当たる4,220万トンが工芸作物であり、コロンビアで生産される農作物の中で最も高い割合を占めている。コロンビアにおいてはコーヒー、アブラヤシ、サトウキビなどがこの工芸作物に該当する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dane.gov.co/index.php/estadisticas-por-tema/agropecuario/encuesta-nacional-agropecuaria-ena |title=ENA(全国農業調査) |access-date=2023-01-12 |publisher=DANE(コロンビア国家統計局)}}</ref>。 === 鉱業 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの鉱業|en|Mineral industry of Colombia}}}} コロンビアは1991年憲法により、全ての地下資源を国家が所有している。以前は地方の治安が悪かったために探鉱・油田開発が殆ど行われていなかったが、治安改善に従って欧米メジャーによる開発が進んでいる。[[石炭]]、石油、[[天然ガス]]を産し、全輸出額に占める原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は[[西半球]]に限定すれば3位に達する。品位の高い[[瀝青炭]]の比率も高い。 油田はベネズエラ国境に近いマグダレーナ川流域に分布する。最も重要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占める[[ニッケル]]鉱(7.1万トン、2003年)である。その他、[[鉄]]、[[銅]]、[[鉛]]、[[金]]、[[白金]]、[[銀]]、[[マグネシウム]]を産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位を占める。全ての金属[[鉱床]]はアンデス山脈に沿って点在する。このほか、[[リン]]鉱と[[塩]]も産出する。[[エメラルド]]の産出量は世界市場の約80%を占める。1990年時点では300万[[カラット]]に達した。 === 観光 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの観光地|en|Tourism in Colombia}}}} コロンビアの観光業は1940年代に始まり、現在も発展している。主な観光地としては首都ボゴタのほか[[カルタヘナ]]、[[サンタ・マルタ]]([[シモン・ボリバル]]の没した町)、[[メデジン]]、[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]、[[バランキージャ]]、[[サン・アンドレス島]]などがあり、それぞれ異なる嗜好の観光客を惹きつけている。 日本国外務省をはじめとして各国が渡航中止勧告や要注意勧告を出しているにもかかわらず多くの旅行者がコロンビアに惹きつけられている。コロンビアには2006年に150万人の観光客が入国したが、これは前年比50%増であった。 治安に関しては郊外や観光客があまり訪れない場所にさえ行かなければ、危険な目に遭うことは少ないと考えられている。ウリベ政権発足後の劇的な治安回復が、今後の観光業の発展に良い影響を及ぼすことが期待されている。 地理や[[植生]]が多様で豊かであるため、[[エコ・ツーリズム]]も盛んである。カリブ海岸のカルタヘナは[[リゾート|ビーチ・リゾート]]として有名である。 {{wide image|67 - Carthagène - Décembre 2008.jpg|800 px|カルタヘナ}} == 国民 == {{Main|コロンビア人}} {{Vertical_images_list |字詰め=左 |幅=220px |画像1=Densidad pop col.png |説明1=北部アンデスの人口密度。赤い部分は特に人口が多い。 |画像2=Colombia-demography.png |説明2=コロンビアの人口増加グラフ。2005年の[[FAO]]のものにより、人口は千人単位である。 }} コロンビアの国民は、国の歴史の多様性と同じように様々な人々によって構成され、[[ヨーロッパ]]系移民、インディヘナ、[[アフリカ]]系、[[中東]]系をはじめとする[[アジア]]系などが主な構成要素となっている。インディヘナの多くは[[メスティーソ]]に統合されたが、現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->もメスティーソとははっきり異なるインディヘナの集団は存在する。 ヨーロッパからコロンビアに入国した移民のほとんどは[[スペイン人]]であったが、第一次世界大戦と第二次世界大戦では、多くの[[イタリア人]]、[[ドイツ人]]、[[ポルトガル人]]、[[ユダヤ人]]、[[オランダ人]]、[[ポーランド人]]、[[フランス人]]、[[イギリス人]]、[[ハンガリー人]]、[[ギリシャ人]]、[[スイス|スイス人]]、[[ベルギー人]]が国に移住した。その後、冷戦は[[リトアニア人]]、[[ラトビア人]]、[[ロシア人]]、[[ウクライナ人]]、[[アルメニア人]]のさまざまなグループをコロンビアに移した。例を挙げれば、アンタナス・モックス前ボゴタ市長は、その名前が示すように、リトアニア系の子孫である。アフリカ系の住民は、16世紀と19世紀に奴隷として捕らえられた人々の子孫であり、ほとんどがカリブ海沿岸の熱帯低地に住んでいる。もう1つの大きな移民グループは、オスマン帝国に迫害され逃亡した中東出身のレバノン人、パレスチナ人、シリア人、ヨルダン人、イラク人であった。中国人、日本人、韓国人のようなアジアの移民は、国のいくつかの主要都市で見られる。近年、国への移民の最大数は、退職の一環として国に引っ越すアメリカ人とカナダ人である。 民族構成は、メスティソ45%、[[コーカソイド|ヨーロッパ系]]42%、ムラート4%、インディヘナ4%、アフリカ系3%、その他(アジアまたはジプシーティコ)2%となっている<ref>{{Cite web|title=Geoportal del DANE - Geovisor CNPV 2018|url=https://geoportal.dane.gov.co/geovisores/sociedad/cnpv-2018/?lt=4.456007353293281&lg=-73.2781601239999&z=5|website=geoportal.dane.gov.co|accessdate=2021-07-22}}</ref>。 コロンブスが到着する前は、この地域には先住民族が住んでおり、現在はインディヘナと呼ばれている。現在、インディヘナの人口は約1,900,000人と推定されており、102を超える部族に分かれている。彼らの多くはチブチャ語またはカリブ海の言語を話す。アル・ウアコス、ムイスカ、クナが登場<ref>{{Cite web|title=Grupos Étnicos existentes en Colombia - Ministerio de Educación Nacional de Colombia|url=https://www.mineducacion.gov.co/1759/w3-article-378980.html?_noredirect=1#:~:text=%C2%BFCu%C3%A1ntos%20Grupos%20%C3%89tnicos%20existen%20en,parte%20de%20Ministerio%20del%20Interior.|website=www.mineducacion.gov.co|accessdate=2021-07-22}}</ref>。{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->も大きなコミュニティを築いている。 移民の多くはカリブ海沿岸の[[バランキージャ]]に定着した。移民の出身国としては、[[レバノン]]、[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[フランス]]、[[ポルトガル]]、そして[[ロマ]]などが挙げられる。カリブ海沿岸においてドイツ系と中国系の占める役割は大きい。南西部のカリを中心にカウカ地方には少数ながら日系人もいる。 世界のどのような類似の地域よりも多様性に富んでいて、ラテンアメリカの中でも極めて地域主義が強い国である。例を挙げるとアンティオキア人はコロンビア人であることよりもまずアンティオキア人(アンティオケーノ)であることを優先するといわれ、他のコロンビア人にない貯蓄や開拓の気風はこうした傾向を一層強めた。そのため19世紀中にコロンビア全地域の商業がドイツ人とシリア人のものになってしまったのにもかかわらず、アンティオキア地方だけはアンティオケーノだけが商業を担った。こうした事情があいまって、1920年代にコーヒー景気によって発達したアンティオキア経済は、1960年代にカウカ地方のカリに抜かれるまでメデジンを国内経済の中心地とするほどだった。 === 先住民族 === 2018年に行われた国勢調査(CNPV:Censo Nacional de Población y Vivienda)によると、自らを先住民族と認識している人口が約190万人であった。前回の国勢調査(CG:Censo General・2005年実施)では約139万人であり、先住民族人口が13年の間に36.8%増加している。この変化の要因として、出生率以外の要因が2つ考えられる。まず1つ目は、先住民族が多い地域にも調査対象範囲が広がったことだ。そして2つ目は、先住民の民族的な自己認識が高まったことだ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dane.gov.co/files/investigaciones/boletines/grupos-etnicos/presentacion-grupos-etnicos-2019.pdf |title=先住民族-結果の提示 |access-date=2023-01-12 |publisher=DANE(コロンビア国家統計局)}}</ref>。 === 人口 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの人口統計|en|Demographics of Colombia}}}} 1950年代初頭に推定された人口は約1200万人で、1964年の国勢調査では約17,482万人、1974年の推定では約2395万人、1983年半ばの推定では約2752万人であった。 2020年の人口は約5,000万人で、ブラジルとメキシコに次ぐラテンアメリカで3番目に人口の多い国である。20世紀半ばには、農村部から都市への人口の大規模な移動があったが、徐々に減少している。人口は10万人を超える30の都市がある。国の土地の54%を占める東部の低地には人口の3%しか住んでおらず、人口密度は1人/ 1 km2未満である。コロンビアの総人口は2030年に5500万人を超えると予測されている<ref>{{Cite web|title=Geoportal del DANE - Geovisor CNPV 2018|url=https://geoportal.dane.gov.co/geovisores/sociedad/cnpv-2018/?lt=4.456007353293281&lg=-73.2781601239999&z=5|website=geoportal.dane.gov.co|accessdate=2021-07-22}}</ref>。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの宗教|en|Religion in Colombia}}}} {{Vertical_images_list |字詰め=左 |幅=220px |画像1=Catedral de sal - Adan.JPG |説明1=[[クンディナマルカ県]]のシパキラの町にある [[塩の大聖堂 (シパキラ)|塩の大聖堂]] }} 人口の95%以上が[[キリスト教徒]]であり、その内[[カトリック教会]]が90%である。約1%がインディヘナの伝統宗教であり、[[ユダヤ教]]、[[コロンビアのイスラム教|イスラーム教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]はそれぞれ1%以下となる。 1960年代初頭までのコロンビアは国家と[[教会 (キリスト教)|教会]]が密着した信心深いカトリックの国であり、人々はカトリック的な倫理規範を重要なものと考えていた<ref name="francisco"/>。しかし、[[エル・ティエンポ紙]]の行った[[世論調査]]によると、信者の数は多いにもかかわらず、人口の60%は熱心に信仰していないとのことであり、1960年代以降の都市化、工業化、世俗化の中で、カトリックに代わる新しい世俗的な倫理を生み出せていないことが近年の治安悪化の要因だとする説もある<ref name="francisco"/>。 === 婚姻 === {{main|{{仮リンク|コロンビアの婚姻|en|Marriage in Cambodia}}}} 婚姻時に女性が改姓する必要はない([[夫婦別姓]]で問題ない)が、父方の姓を夫の父方の姓に置き換えるか、de+夫の父方の姓を後置することができる<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/colombian-culture/naming-4ad0be20-a64e-4505-aaa1-e4ade4c7ba05 Colombian Culture], Cultural Atlas.</ref>。2016年からは[[同姓婚]]も可能となった<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3085698 「コロンビアで同性婚合法化 南米で4か国目」][[フランス通信社|AFP BB News]](2016年4月29日)</ref>。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの言語|en|Languages of Colombia}}}} コロンビアでは80以上の言語が話されており、50万人が先住民の言葉を今も話しているが、[[公用語]]はスペイン語であり、日常生活でも使われている。また、コロンビアの[[スペイン語]]は南米で最も正しくスペイン語の[[アンダルシア方言]]を残しているといわれている。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|コロンビアの教育|en|Education in Colombia}}}} {{Vertical_images list |字詰め=左 |幅=220px |画像1=Plaza_Che,_Bogotá.jpg |説明1=ボゴタにある[[コロンビア国立大学]]の'''チェ広場'''、または'''サンタンデル広場''' }} 1580年にコロンビア初の大学である[[聖トマス・アクィナス大学]]が創設され、伝統的に植民地時代から北部南米の学問の中心地であったボゴタが「南米の[[アテネ]]」と呼ばれて多くの[[知識人]]を生み出したのとは対照的に、民衆への教育はあまり積極的に行われなかった。そのため、2011年の推計で15歳以上の国民の識字率は93.6%(CIA World Factbook)と域内でも低い部類に属する。 5年間の[[初等教育]]、及び4年間の[[前期中等教育]]は義務教育であり、無償となっている。前期中等教育を終えると、二年間の[[後期中等教育]]が任意であり、後期中等教育を終えると高等教育への道が開ける。80%以上の児童が小学校に入学し、60%以上の小学生は5年生の小学校を卒業すると6年制の中学校に入学する。小学校の多くは私立学校である。 コロンビアには24の国公立大学と多くの私立大学があり、多くはボゴタに集中している。主な高等教育機関としては、[[コロンビア国立大学]](1867年創立)、[[ロス・アンデス大学]](1948年創立)、[[アンティオキア大学]](1803年創立)、[[バジェ大学]](1945年創立)などが挙げられる。 [[フアン・マヌエル・サントス|サントス]][[政権]]は2011年[[10月3日]]に公立大学に[[独立採算制]]を導入し、民間資本の参入を促し、大学向け予算を削減する教育改革法案を発表した。これに抗議して、各地で学生や教職員が大学の民営化法案に反対してデモ行進した。学生団体によると、[[11月10日]]、首都[[ボゴタ]]ではデモ参加者が20万人に達した。[[11月9日]]サントス大統領はスト中止を条件に法案を撤回する用意があると表明した<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-11-12/2011111207_01_1.html 「大学民営化 20万人抗議 政府 法案撤回の意向表明」]『[[しんぶん赤旗]]』2011年11月12日(土)</ref>。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|コロンビアにおける犯罪|en|Crime in Colombia}}}} [[社会学者]]のパウル・オキストによれば、[[16世紀]]から[[19世紀]]までの約300年間、コロンビアにおいては政治的暴力はほとんど発生しておらず、世界で最も治安の良い国のひとつであったという<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い 』(アジア経済研究所、2011年)222頁</ref>。[[1830年]]以降、内戦が起きていない期間の10万人あたりの[[殺人]]発生率は10人程度で極めて低い水準であった。ホセ・マリア・サンペール『コロンビア共和国の政治変革と社会状況』(1861年)によれば、「田舎者にとっては、政府は神話的人格であるが、われわれの間で政府とは、ひとりで武器を持たず徒歩で配達する郵便夫が、偶然に[[山賊]]に出会ったような予期せぬ場面でその危険を取り払うために三色旗を振れば十分であるほど敬意を払われている存在である。[[警察]]はどこにも存在しないし、犯罪を抑圧する手段は極めて限られている。しかし、それにもかかわらずこじ開けて侵入する[[泥棒]]や人を欺くような人間は非常に稀であり、また、職業的な盗賊はここでは例外的で、さらに刑罰制度には重大な欠陥があるにもかかわらず再犯者はめったにいない」<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)224-225頁</ref>。 19世紀のコロンビアの治安の良さの証拠として、コロンビアを旅行した米国人イサック・ホルトンの旅行記『アンデス地方の20ヵ月』(1857年)の記述「生命に対する犯罪に関していえば、[[ヌエバ・グラナダ]]全土の殺人は、[[ニューヨーク]]市だけの殺人件数の五分の一にも達していないと思われる」や、[[1884年]]のカトリック[[司祭]]のフェデリコ・アギラールによるコロンビアの犯罪統計と他国の比較検討で、チリ、メキシコ、ベネズエラ、エクアドル、スペイン、[[イタリア]]の殺人率はコロンビアよりも高く、「コロンビアでは、チリにおける日常的な山賊、メキシコにおける恐ろしい追いはぎ、[[グアテマラ]]におけるかなり頻繁な泥棒の心配をしないで旅行できる」などの記述が挙げられる<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)225-226頁</ref>。 19世紀以前のコロンビアはラテンアメリカ諸国の中で最も治安の良い国であり、内戦が絶えなかった19世紀後半において治安維持に関わる国家権力が弱く司法制度が十分機能していない状態であったにもかかわらず、一般犯罪は総じて少なかったことは正しく認識されるべきである<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)226頁</ref>。世界的に見ても20世紀前半まで治安の良い国であったとされる。 コロンビアはかつて誘拐と殺人の発生率が高い国であった。1960年代初頭の殺人事件発生数は3,000件ほどだったが、1990年代初頭にはこれが十倍の30,000件に達した<ref name="francisco">フランシスコ・デ・ルー「コロンビア その社会・経済・政治的変化と障壁」『変動するラテンアメリカ社会 「失われた10年」を再考する』グスタボ・アンドラーデ、堀坂浩太郎:編(彩流社、1999年)</ref>。とりわけ国境付近の[[プトゥマヨ県]]、[[グアビアーレ県]]、[[アラウカ県]]のような地域では10万人当たりの殺人事件発生数は100人に達し、 1990年代には、発生した殺人事件のうち犯人の97%が処罰を受けなかった<ref name="francisco"/>。こうした犯罪が1960年代以降急速に多発した原因としては、かつて国民の倫理的な規範に国家よりも遥かに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因であるともいう<ref name="francisco"/>。 しかし、2002年に成立したウリベ政権と続く2010年に成立したサントス政権が治安対策に力を入れた結果、飛躍的な治安改善が成し遂げられつつある<ref name="外務省">{{Cite web|和書| publisher = [[外務省]]| title = 安全対策基礎データ | url =http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=248|date = 2012-11-27 | accessdate = 2014-7-5}}</ref>。1990年代初頭には殺人事件発生数が10万人当たり77.5人だったが<ref name="francisco"/>、2020年現在は22.6人にまで減少している。誘拐事件発生数も2002年には2882件あったが、2010年には282件に激減している<ref name="外務省"/>。とはいえ先進国と比較すればいまだ犯罪発生率が低いとは言えないので、犯罪被害防止を常日ごろから心掛けて行動すべきとされる<ref name="外務省"/>。 治安改善後、同国は観光に力を入れており、ボゴタ、メデジン、[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]、[[バランキージャ]]などの大都市や[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]などの観光地では[[警備]]体制が比較的整っているため、その他の地方と比較すると安全といえる。 近年、隣国ベネズエラの経済危機により、コロンビアへ逃れてくるベネズエラ難民が急増しており、2018年9月時点でその数は100万人にも及ぶ。ベネズエラ難民による犯罪が社会問題となっている<ref name=日経20180905/>。 === 人権 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアにおける人権|en|Human rights in Colombia}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|コロンビアの文化|es|Cultura de Colombia|en|Colombian culture}}}} [[ファイル:Totenmaske Berlin-Dahlem.jpg|thumb|180px|right|イラマ(カリマ)のトーテムマスク]] [[ファイル:Fiesta Palenque.jpg|thumb|180px|left|[[アフリカ系コロンビア人]] の伝統的なパレンケの祭り]] コロンビアの文化はラテンアメリカの交差点に位置しておりインディヘナ、[[ヨーロッパ]]系、アフリカ系、中東系をはじめとする[[アジア]]系の伝統が複雑に織り交ざって構成された多文化的な社会によって特徴づけられている。アメリカ合衆国の文化と、メキシコの文化、{{仮リンク|アルゼンチンの文化|es|Cultura de Argentina|en|Culture of Argentina}}、カリブ海の文化をはじめとするラテンアメリカの文化から強く影響を受けているが、独立以前から受け継がれている{{仮リンク|スペインの文化|es|Cultura de España|en|Culture of Spain}}の影響が最も強い。コロンビアの複雑な地形と数十年続いた社会分断により、コロンビアの文化は五つの文化的な領域(それは地理的な領域でもある)に強く断片化された。地方から都市への国内移民、工業化、グローバル化、及び国際的な政治的、経済的、社会的問題はコロンビア人の生活のあり方を変えた。 === 食文化 === {{main|[[コロンビア料理]]}} [[ファイル:Ajiaco.jpg|thumb|220px|right|[[アヒアコ]]]] コロンビアの[[主食]]は[[コメ]]であるが、[[ジャガイモ]]、[[トウモロコシ]]、[[キャッサバ]]、[[プランテン]]もよく食べられている。[[トロピカルフルーツ]]の種類も豊富である。 * [[アレパ]]…トウモロコシ粉の[[パン]] * [[パタコン]]…プランテンの[[フライ]] * [[エンパナーダ]]…南米風[[ミートパイ]]、[[餃子]] * [[アヒアコ]]…[[鶏肉]]とジャガイモの[[スープ]] * [[モンドンゴ]]…もつ煮込み * [[サンコチョ]]…[[チキンスープ]] * [[バンデハ・パイサ]]…(パイサ地方([[アンティオキア県]])の郷土料理。米、[[豆]]、[[食肉|肉]]、[[卵料理]]、[[アボカド]]の盛り合わせ) === 文学 === {{main|{{仮リンク|コロンビア文学|es|Literatura de Colombia|en|Colombian literature}}}} {{See also|ラテンアメリカ文学}} [[ファイル:Gabriel Garcia Marquez 1984.jpg|thumb|[[ノーベル文学賞]]作家 [[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]]] [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン征服]]後のコロンビアの文学は、17世紀初頭の[[エルナンド・ドミンゲス・カマルゴ]]に遡る。 独立後の文学は[[ロマン主義]]と結びつけられ、傑出した存在として[[アントニオ・ナリーニョ]]、{{仮リンク|ホセ・フェルナンデス・マドリード|es|José Fernández Madrid|en|José Fernández Madrid}}、{{仮リンク|カミーロ・トーレス・テノリオ|es|Camilo Torres Tenorio|en|Camilo Torres Tenorio}}、{{仮リンク|フランシスコ・アントニオ・セア|es|Francisco Antonio Zea|en|Francisco Antonio Zea}}が活躍した。19世紀半ばから20世紀はじめにかけてコンストゥンブリスモ文学が人気となり、この時期の作家としては{{仮リンク|トマス・カラスキージャ|es|Tomás Carrasquilla|en|Tomás Carrasquilla}}、{{仮リンク|ホルヘ・イサークス|es|Jorge Isaacs|en|Jorge Isaacs}}、{{仮リンク|ラファエル・ポンボ|es|Rafael Pombo|en|Rafael Pombo}}が有名である。その後{{仮リンク|ホセ・アスンシオン・シルバ|es|José Asunción Silva|en|José Asunción Silva}}、{{仮リンク|ホセ・エウスタシオ・リベラ|es|José Eustasio Rivera|en|José Eustasio Rivera}}、{{仮リンク|レオン・デ・グレイフ|es|León de Greiff|en|León de Greiff}}、{{仮リンク|ポルフィリオ・バルバ=ハコブ|es|Porfirio Barba Jacob|en|Porfirio Barba-Jacob}}、そして{{仮リンク|ホセ・マリア・バルガス・ビラ|es|José María Vargas Vila|en|José María Vargas Vila}}が[[モデルニスモ文学|モデルニスモ運動]]を展開した。1871年には[[アメリカ大陸]]の[[スペイン語]]のプリメーラ・アカデメイアが設立された。 20世紀には[[ペドロ・ガルシア]]などの詩人を生んだ。1939年から1940年にかけて詩人の{{仮リンク|ホルヘ・ロハス (詩人)|es|Jorge Rojas (poeta)|label=ホルヘ・ロハス}}が活躍した。「暴力」の時代には{{仮リンク|ゴンサロ・アランゴ|es|Gonzalo Arango|en|Gonzalo Arango}}が[[ニヒリズム]]と[[ダダイスム]]から生まれたコロンビアの文学運動{{仮リンク|ナダイスモ|es|Nadaísmo}}の担い手となった。{{仮リンク|ラテンアメリカ文学ブーム|es|Boom latinoamericano|en|Latin American Boom}}が始まると、[[マジック・リアリズム|魔術的リアリズム]]の担い手であり『[[百年の孤独]]』『[[族長の秋]]』などで知られるラテンアメリカの声を代表する大作家[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]がノーベル文学賞を受賞し大活躍した。同時代の作家としては{{仮リンク|エドゥアルド・カバジェーロ・カルデロン|es|Eduardo Caballero Calderón|en|Eduardo Caballero Calderón}}、{{仮リンク|マヌエル・メヒア・バジェーホ|es|Manuel Mejía Vallejo|en|Manuel Mejía Vallejo}}、[[アルバロ・ムティス]]が挙げられる。アルバロ・ムティスは2001年に[[セルバンテス賞]]を受賞した。その他の現代作家としては{{仮リンク|フェルナンド・バジェーホ|es|Fernando Vallejo|en|Fernando Vallejo}}(ロムロ・ガジェーゴス賞受賞)と、ガルシア=マルケス以降、コロンビアで最も多くの本が買われている作家の{{仮リンク|ヘルマン・カストロ・カイセード|es|Germán Castro Caycedo|en|Germán Castro Caycedo}}が挙げられる。 === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの音楽|en|Music of Colombia}}}} [[フォルクローレ]]においては、20世紀初頭にバンブーコが発達した。カリブ海沿岸地方の伝統音楽[[クンビア]]は、[[ガイタ]](スペインの[[ガリシア]]地方の[[バグパイプ]])や、[[黒人]]の[[太鼓]]など様々な要素から構成されている。クンビアはサルサ以前に汎ラテンアメリカ的な成功を収めてアメリカ合衆国にも進出し、今もラテンアメリカ諸国の[[ポピュラー音楽|ポップス]]に大きな影響を与えている。クンビア以外に人気がある[[バジェナート]]はクンビアを基に発展しており、こちらはクンビアよりも洗練された雰囲気がある。また、ベネズエラで国民音楽とされている[[ホローポ]]も、ベネスエラとの国境付近の[[リャノ]]で演奏されている。 米国ニューヨーク生まれの[[サルサ (音楽)|サルサ]]も人気であり、コロンビア・サルサとしてカリを中心に発展している。 近年{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->はコロンビアポップスの合衆国市場への進出も盛んであり、[[フアネス]]、[[シャキーラ]]、[[カミロ (歌手)|カミロ]] などが成功した音楽家として挙げられる。[[ラファエル・オロスコ・マエストレ]]と[[ディオメデス・ディアス]]は、[[バジェナート]]で成功したミュージシャンとしてリストされました。 また、コロンビアはかつてアルゼンチン、[[ウルグアイ]]に次いでラテンアメリカで三番目に[[タンゴ]]が好まれていた国でもある。 === 世界遺産 === {{Main|コロンビアの世界遺産}} コロンビア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件ある。 <div style="text-align:center"><gallery> ファイル:Cartagena - Fortaleza San Felipe de Barajas - 20050430bis.jpg|[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]の港、要塞と建造物群 - (1984年、文化遺産) ファイル:Rio_Atrato.JPG|[[ロス・カティオス国立公園]] - (1994年、自然遺産) ファイル:San Agustin parque arqueologic.jpg| [[サン・アグスティン]]遺跡公園 - (1995年、文化遺産) ファイル:Malpelo_Island.jpg| [[マルペロ動植物保護区]] - (2006年、自然遺産) </gallery></div> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|コロンビアの祝日|en|Public holidays in Colombia}}}} {| class="wikitable" style="margin:auto;" |+祝祭日 |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |1月1日 || [[元日]] || Año Nuevo || |- |1月6日 || [[東方の三博士]]の来訪 || Día de los Reyes Magos || 次週月曜移動 |- |3月21日 || [[ナザレのヨセフ|聖ホセ]]の祝日 || San José || 移動祝祭日 |- |3月24日 || [[聖木曜日]] || Jueves Santo || 移動祝祭日 |- |3月25日 || [[聖金曜日]] || Viernes Santo || 移動祝祭日 |- |5月1日 || [[メーデー]] || Día del Trabajo || |- |5月9日 || [[主の昇天]] || Ascención del Señor || 移動祝祭日 |- |5月30日 || [[聖体の祝日]] || Corpus Christi || 移動祝祭日 |- |6月29日 || [[ペトロ|聖ペドロ]]・[[パウロ|聖パブロ]]の祝日 || San Pedro y San Pablo || 移動祝祭日 |- |7月20日 || [[独立記念日]] || Día de la Independencia || |- |8月7日 || ボヤカ戦勝記念日 || Batalla de Boyacá || |- |8月15日 || [[聖母の被昇天]]の日 || Asunción de la Virgen || 次週月曜移動 |- |10月12日 || 民族の日 || Día de la Raza || |- |11月1日 || [[諸聖人の日]] || Todos los Santos || 次週月曜移動 |- |11月11日 || カルタヘナ[[独立記念日]] || Independencia de Cartagena || 次週月曜移動 |- |12月8日 || [[無原罪の聖母]]の日 || Inmaculada Concepción || |- |12月25日 || [[クリスマス]] || Navidad || |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|コロンビアのスポーツ|en|Sport in Colombia}}|{{仮リンク|テホ|en|Tejo (sport)}}}} {{See also|オリンピックのコロンビア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|コロンビアのサッカー|en|Football in Colombia}}}} [[File:James Rodriguez.jpg|150px|thumb|right|[[2014 FIFAワールドカップ]]での[[ハメス・ロドリゲス]]。]] コロンビア国内でも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1948年]]にはプロサッカーリーグの[[カテゴリア・プリメーラA]]が創設された。主なクラブとしては、[[アトレティコ・ナシオナル]]、[[ミジョナリオスFC|ミジョナリオス]]、[[アメリカ・デ・カリ]]、[[デポルティーボ・カリ]]などが挙げられる。[[コロンビア人]]の著名な選手としては、[[イバン・コルドバ]]、[[ラダメル・ファルカオ]]、[[ハメス・ロドリゲス]]などが存在する。 [[コロンビアサッカー連盟]](FCF)によって構成される[[サッカーコロンビア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]に6度出場しており、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]と[[2014 FIFAワールドカップ|2018年大会]]では連続して[[サッカー日本代表|日本代表]]とグループリーグで同組となっている<ref>{{cite web|author=|url=http://www.fifa.com/worldcup/matches/round=255931/match=300186457/match-report.html |title=2014 FIFA World Cup Brazil™: Japan-Colombia |publisher=FIFA.com |date= |accessdate=10 November 2015}}</ref>。なお、2014年大会は過去最高位のベスト8となった。さらに[[コパ・アメリカ]]では、自国開催となった[[コパ・アメリカ2001|2001年大会]]で初優勝を果たしている。 === その他の競技 === [[ファイル:J p montoya.jpg|200px|thumb|right|レーシングドライバーの[[ファン・パブロ・モントーヤ|モントーヤ]]。]] コロンビアは言語以外の面でも、ラテンアメリカ諸国の中で最も[[スペイン]]から多くのものを引き継いでいる国であり、それゆえにスペイン本国と同じく[[闘牛]]が盛んである。[[ローラースケート]]も人気で、[[ワールドスケート|女子世界選手権]]で1位と2位を独占したこともある。[[陸上競技]]では、[[カテリーン・イバルグエン]]が[[三段跳]]で世界レベルの活躍をしている。 [[自転車競技]]も[[アンデス山脈]]中の高地では人気で、トップカテゴリーに所属するチームに数多くの選手が在籍している。レーシングドライバーである[[ファン・パブロ・モントーヤ|ファン・モントーヤ]]も知られている。[[野球]]でも[[エドガー・レンテリア]]を筆頭にMLB選手を輩出している。[[バスケットボール]]では、[[ハイメ・エチェニケ]]が[[2021年]]にコロンビア人初の[[NBA]]プレイヤーとなった。[[ボクシング]]では[[アントニオ・セルバンテス]]が[[国際ボクシング名誉の殿堂博物館|殿堂入り]]を果たした。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|コロンビア人の一覧|en|List of Colombians}}}} {{colbegin|2}} * [[ガブリエル・ガルシア=マルケス]] - [[小説家]]([[ノーベル文学賞]]受賞) * [[フェルナンド・ボテロ]] - [[画家]]、[[彫刻家]] *[[シャキーラ]] - [[ミュージシャン]] *[[ラファエル・オロスコ・マエストレ]] - ミュージシャン *[[フアネス]] - ミュージシャン *[[マルーマ]] - ミュージシャン *[[J・バルヴィン]] - ミュージシャン *[[カロルG]] - ミュージシャン * [[マヌエル・トゥリソ]] - ミュージシャン。 *[[ディオメデス・ディアス]] - ミュージシャン *[[カミロ (歌手)|カミロ]] - ミュージシャン *[[ジョルゲ・オニャテ]] - ミュージシャン *[[ソフィア・ベルガラ]] - [[俳優#性別での分類|女優]] * [[ジョン・レグイザモ]] - [[俳優]]、[[コメディアン]] * [[イバン・コルドバ]] - 元[[サッカー選手]] * [[カルロス・バルデラマ]] - 元サッカー選手 * [[レネ・イギータ]] - 元サッカー選手 * [[アンドレス・エスコバル]] - 元サッカー選手(参照:'''[[サッカーコロンビア代表#エスコバルの悲劇|エスコバルの悲劇]]''')<ref>[http://sportsillustrated.cnn.com/soccer/world/2002/world_cup/hof/escobar/ World Cup Hall of Fame Andres Escobar (1967-1994)] -CNNSI.com: 2013年6月13日</ref> * [[ラダメル・ファルカオ]] - [[サッカー選手]] * [[ハメス・ロドリゲス]] - サッカー選手 * [[ダビンソン・サンチェス]] - サッカー選手([[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]]所属) * [[ルイス・フェルナンド・ディアス・マルランダ|ルイス・ディアス]] - サッカー選手([[リヴァプールFC|リヴァプール]]所属) * [[ハイメ・エチェニケ]] - [[バスケットボール]]選手 * [[オーランド・カブレラ]] - 元[[プロ野球選手]] * [[エドガー・レンテリア]] - 元プロ野球選手 * [[カミロ・ビジェガス]] - [[プロゴルファー]] * [[マリア・イサベル・ウルティア]] - [[陸上競技]]、[[重量挙げ]]選手 * [[カテリーン・イバルグエン]] - 陸上競技選手 * [[ロベルト・ゲレーロ]] - [[自動車競技|レーシングドライバー]] * [[ファン・パブロ・モントーヤ]] - レーシングドライバー * [[ルイス・エレラ]] - [[ロードレース (自転車競技)|ロードレース選手]] * [[エガン・ベルナル]] - ロードレース選手 * [[サンティアゴ・ボテーロ]] - ロードレース選手 * [[ナイロ・キンタナ]] - ロードレース選手 * [[リゴベルト・ウラン]] - ロードレース選手 * [[ファビオ・ドゥアルテ]] - ロードレース選手 * [[カルロス・ベタンクール]] - ロードレース選手 {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 中川文雄、[[松下洋]]、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテン・アメリカ現代史II』[[山川出版社]]、1985年 * [[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫:訳『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]』[[新評論]]、1986年 * [[増田義郎]]:編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 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[[コロンビア革命軍]] ** [[コロンビア海軍艦艇一覧]] * [[コロンビア料理]] * [[サッカーコロンビア代表]] {{colend}} == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Colombia|Colombia}} {{Wikivoyage|es:Colombia|コロンビア{{es icon}}}} {{Wikivoyage|Colombia|コロンビア{{en icon}}}} * 政府 ** [http://web.presidencia.gov.co/ コロンビア共和国大統領府] {{es icon}}{{en icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/colombia/ 日本外務省 - コロンビア] {{ja icon}} ** [https://www.colombia.emb-japan.go.jp/japanese/index_j.htm 在コロンビア日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.mincomercio.gov.co/eContent/home.asp コロンビア通商産業観光省]{{リンク切れ|date=2022年2月}}{{es icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|コロンビア|コロンビア}} {{ja icon}} * その他 ** [http://www.turismoconproposito.net Turismo con propósito] (スペイン語) ** [http://www.mokutekinoarutabi.org 目的のある旅] (日本語) ** [http://cafedecolombia.jp/ コロンビアコーヒー生産者連合会] {{ja icon}} ** [https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/co/ JETRO - コロンビア] {{ja icon}} ** {{Curlie|Regional/South_America/Colombia}} {{en icon}} ** {{CIA World Factbook link|co|Colombia}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Colombia}} {{en icon}} ** {{Osmrelation}} ** {{Googlemap|コロンビア共和国}} {{南米共同体}} {{アメリカ}} {{OECD}} {{Normdaten}} {{Coord|4|35|N|74|4|W|type:country_region:CO|display=title}} {{CO-stub}} {{DEFAULTSORT:ころんひあ}} [[Category:コロンビア|*]] [[Category:南アメリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]]
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チェコ
チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika)、通称チェコは、中央ヨーロッパにある共和制国家。首都はプラハである。 国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。 国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。かつてはチェコスロバキアと呼ばれた共産主義体制国家の構成地域であったが、1989年からの革命によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ分離して現在の同国が成立した。 NATO・EU・OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。 正式名称(チェコ語)は Česká republika。通称は Česko。 英語での公式名称は Czech Republicであった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechiaがあり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが、現在一般的に使われているとは言いがたく、Czech Republic をそのまま用いることが多い。 ドイツ語では Tschechische Republik。通称は Tschechien、Tschecheiである。 外務省統一表記はチェコ共和国である。通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された。 かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。 チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした Čechy、ブルノを中心とした Morava、さらにポーランド国境近くの Slezskoの3つの地方がチェコ共和国を形成している。 ボヘミア地方を示す Čechy(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、Česká republika、Czech republic を用いる。 現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける Česko は、チェコスロバキア時代の通称 Československo から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。 13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。 その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。 18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。 第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼすべてを支配し、スロバキア人と対立した。そのため、スロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となり、チェコスロバキアは地図から姿を消した(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体)。 第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんどの人が財産を奪われたうえ、チェコスロバキアから追放された。 1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン主義的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5か国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻(英語版))、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、正常化(英語版)路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自滅し、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。 1989年からのビロード革命によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。 1995年11月28日にOECDに加盟し、1999年3月12日にはNATOにも加盟した。 2002年8月には記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(2002年ヨーロッパ水害)、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。2004年5月1日、チェコは欧州連合(EU)に加盟した。 国家元首は議会によって選出される大統領であり、任期は5年で3選は禁止されている。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2021年に実施された総選挙の結果、中道派のANO 2011が第1党となったものの過半数には届かず、連立政権樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党とTOP 09、海賊党らとの間で連立政権を発足させることで合意し、首相には市民民主党党首のペトル・フィアラが任命された。 議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。 2020年3月28日時点で、92の政党と141の政治運動団体の登録が確認されている。 2020年8月30日、ミロシュ・ビストルチル上院議長率いる代表団が台湾・台北に到着した。 チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェシカ山である。 チェコには現在、4つの国立公園(シュマヴァ国立公園(英語版)、クルコノシェ国立公園(英語版)、チェスケー・シュヴィーツァルスコ国立公園(英語版)、ポディイー国立公園(英語版))と25の保護景観地域が設けられている。 2020年時点で、チェコは環境パフォーマンス指数(英語版)において「世界で21番目に環境に配慮した国家」としてランク付けされている。また、2018年の森林景観保全指数(英語版)の平均値は1.71/10で、172ヶ国中160位にランクされている。 チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライ(kraj)と呼ばれる行政区に区分されている。 国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は1万8,857ドルであり、EU平均の半分、世界水準の1.8倍である。 オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命などの混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリーなどと並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。 2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、ひとつの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。安くて良質な労働力を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向である。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。 主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。 チェコにおける電力の生産は原子力発電を始めとした旧来からの発電法によるものが主体となっている。生産される電気は消費量を年間約10TWh超えており、その超過分は国外へ輸出されている。 原子力発電は現在、総電力需要の約30%を供給しており、そのシェアは40%に増加すると予測されている。2005年には電力の65.4%が蒸気および燃焼発電所(主に石炭を利用したもの)によって生産されていて、30%は原子力発電によるもので、4.6%は水力発電を含む再生可能エネルギー源からのものであった。 現時点での最大の電力資源はテメリン原子力発電所である。なお、ドゥコヴァニにも原子力発電所が存在している。 チェコ人が2016年時点で64.3%と多数派であるが、次に多い分類は民族を主張しない人々である (25.3%)。少数派はモラヴィア人5%、スロバキア人1.4%、ウクライナ人1.0%のほか、ポーランド人、ドイツ人、シレジア人、マジャル人、ロマその他の人々が合計3%を占める。 かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後の追放によりそのほとんどが本国ドイツに戻された。また戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。 政府によって少数民族のための会議 (Rada vlády pro národnostní menšiny)が設けられており、認定された少数民族は法律などに影響を受ける場合、意見を述べることが認められ、また母語教育や政府の支援などの権利がある。 公認された少数民族はベラルーシ人、ブルガリア人、クロアチア人、ハンガリー人、ドイツ人、ポーランド人、ロマ、ルシン人、ロシア人、ギリシャ人、スロバキア人、セルビア人、ウクライナ人、ベトナム人。 言語はチェコ語が公用語である。公的に認められた言語としてスロバキア語、ドイツ語、ポーランド語、ギリシャ語、ハンガリー語、ロマ語、ロシア語、ルシン語、セルビア語、ウクライナ語があり、2013年以降はベトナム語とベラルーシ語が加わった。 婚姻時、夫婦同姓・夫婦別姓・結合姓が選択できる。 前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。そのほか、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。 キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い。 チェコの治安情勢は総じて安定的であり、犯罪件数は概ね漸減傾向にある。ただし、日本と比べた場合の犯罪発生率は依然高く、2017年の人口当たりの犯罪発生率は日本と比較すると約2.6倍の20万0,303件となっている。 犯罪の被害発生率が高いのはスリと置き引きであり、スリでの最も多い被害例は観光地域の路上や観光施設、土産物店、地下鉄、トラム(路面電車)、バスなどにおいて鞄のチャックを気付かない内に開けられたり刃物で鞄の側面を切られたりして貴重品を奪われるといったものが挙げられており、置き引きでの最も多い被害例は飲食店で椅子の背もたれに掛けていた鞄や座席の上や足下に置いていた荷物を持ち去られるといったものが挙げられている。 また、近年のチェコ国内では年間数件程度の誘拐事件が発生しているが、組織的に誘拐事件を繰り返す犯罪グループの存在は確認されていない。誘拐事件の主な背景としては、身代金目的や債権回収のための脅迫目的、離婚した夫婦間における子供の奪い合い、猥褻目的などが挙げられる。 かつてのチェコスロバキア時代には国家安全保障隊(チェコ語版)と呼ばれる軍事的に組織された保安機関が存在していたが、1990年2月1日付でチェコスロバキアにおける秘密警察の主体であった国家安全保障局(英語版)が解体されたことにより、1991年から独自の治安維持・保安組織の創設が求められ現在の共和国警察へと編成されるに至った。 2013年の調査では、チェコ人の68%がインターネットに接続していた事が報告されている。 飲み物 料理 チェコの劇場は、中世以来のヨーロッパ内における劇場の歴史の中で重要な役割を担って来た面を持ち合わせている。 チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。 チェコ国内で最も人気のあるスポーツはアイスホッケーであり、国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属しており、国内リーグでも首都プラハに本拠地を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは、1998年長野オリンピックでドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、2006年トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪でもある。2004年には、この長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。チェコ出身で長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68の背番号をつけている。さらにフィギュアスケートでも、トマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどの選手を輩出している。 チェコでも他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも非常に人気であり、チェコスロバキア時代にはFIFAワールドカップで1934年大会と1962年大会で、2度の準優勝に輝いている。さらにUEFA欧州選手権でも1976年大会で優勝を果たした。チェコ代表に分離して以降は、UEFA欧州選手権では1996年大会で準優勝の成績を収めているが、FIFAワールドカップには2006年大会に1度出場したのみで、大会もグループリーグ敗退に終わっている。 国内のプロリーグとしては、1993年にフォルトゥナ・リガが創設されている。主なクラブとしては、スパルタ・プラハ、スラヴィア・プラハ、ヴィクトリア・プルゼニなどが挙げられる。著名な選手としては2003年のバロンドールを受賞し、主にセリエAのラツィオやユヴェントスで活躍したパベル・ネドベドやチェルシーFCで長年活躍した、史上最高のゴールキーパーの1人であるペトル・チェフが存在する。 自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカがツール・ド・ポローニュで2度の総合優勝を果たし、UCIアワーレコードを長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーも2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。 チェコは人口わずか1000万人の国でありながらシュコダ・オート、プラガ、タトラ、CZといった著名な自動車・オートバイメーカーが多数あり、特にオフロード系の競技で輝かしい実績を残している。 シュコダはWRC(世界ラリー選手権)の下位クラスに古くから参戦しており、2010年代以降は低コスト四輪駆動ターボ車であるラリー2(旧称R5)規定のクラスで無類の強さを誇っている。またシュコダの躍進に合わせてチェコ人ドライバーも活躍し、2018年にヤン・コペッキー/パベル・ドレスラー組がWRC2チャンピオンとなっている。 ダカール・ラリーのトラック部門では90年代半ばから2000年代初頭にかけてタトラが一時代を築き、チェコ人ドライバーのカレル・ロプライスが通算6度優勝し「ムッシュ・ダカール」の異名を得た。2023年現在、甥のアレス・ロプライスはプラガのトラックでダカールに参戦中である。またヨセフ・マハチェクはATVとUTVという異なる2部門でダカールを制した。UTVを制したのは63歳の時で、史上最年長部門勝利記録となった。 なおプラガはトラック以外にもレーシングカートやレーシングカーの製造でも知られ、カートは年間7千台の規模を誇る。 CZのバイクは1960〜70年代のモトクロス世界選手権で7つのタイトルを、国際6日間エンデューロ(ISDE)で15回の優勝を獲得した。 チェコではチェコ・エクストラリーガなどの野球リーグが行われている。チェコ代表も欧州の中では強豪とされており、ヨーロッパ選手権やWBC予選などに参加している。2022年9月にドイツにて行われた2023年WBC予選をチェコ代表は全体2位で通過し、本大会への出場を決めている。2026年のwbcの予選免除対象国となっている。 2022年2月に自身のルーツであるチェコに帰化し、2023年2月9日に第5回WBC本戦のチェコ代表に初選出されたエリック・ソガードは、メジャーリーグでカルト的人気を誇り、2014年にMLBネットワークが行った「MLBの顔(Face of MLB)」と題したコンテストでは並みいる有名スター選手を退け準優勝まで勝ち進んだ。 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"古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼすべてを支配し、スロバキア人と対立した。そのため、スロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となり、チェコスロバキアは地図から姿を消した(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんどの人が財産を奪われたうえ、チェコスロバキアから追放された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン主義的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5か国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻(英語版))、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、正常化(英語版)路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自滅し、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1989年からのビロード革命によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1995年11月28日にOECDに加盟し、1999年3月12日にはNATOにも加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2002年8月には記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(2002年ヨーロッパ水害)、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。2004年5月1日、チェコは欧州連合(EU)に加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国家元首は議会によって選出される大統領であり、任期は5年で3選は禁止されている。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2021年に実施された総選挙の結果、中道派のANO 2011が第1党となったものの過半数には届かず、連立政権樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党とTOP 09、海賊党らとの間で連立政権を発足させることで合意し、首相には市民民主党党首のペトル・フィアラが任命された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2020年3月28日時点で、92の政党と141の政治運動団体の登録が確認されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2020年8月30日、ミロシュ・ビストルチル上院議長率いる代表団が台湾・台北に到着した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェシカ山である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "チェコには現在、4つの国立公園(シュマヴァ国立公園(英語版)、クルコノシェ国立公園(英語版)、チェスケー・シュヴィーツァルスコ国立公園(英語版)、ポディイー国立公園(英語版))と25の保護景観地域が設けられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2020年時点で、チェコは環境パフォーマンス指数(英語版)において「世界で21番目に環境に配慮した国家」としてランク付けされている。また、2018年の森林景観保全指数(英語版)の平均値は1.71/10で、172ヶ国中160位にランクされている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライ(kraj)と呼ばれる行政区に区分されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は1万8,857ドルであり、EU平均の半分、世界水準の1.8倍である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命などの混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリーなどと並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、ひとつの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。安くて良質な労働力を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向である。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "チェコにおける電力の生産は原子力発電を始めとした旧来からの発電法によるものが主体となっている。生産される電気は消費量を年間約10TWh超えており、その超過分は国外へ輸出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "原子力発電は現在、総電力需要の約30%を供給しており、そのシェアは40%に増加すると予測されている。2005年には電力の65.4%が蒸気および燃焼発電所(主に石炭を利用したもの)によって生産されていて、30%は原子力発電によるもので、4.6%は水力発電を含む再生可能エネルギー源からのものであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現時点での最大の電力資源はテメリン原子力発電所である。なお、ドゥコヴァニにも原子力発電所が存在している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "チェコ人が2016年時点で64.3%と多数派であるが、次に多い分類は民族を主張しない人々である (25.3%)。少数派はモラヴィア人5%、スロバキア人1.4%、ウクライナ人1.0%のほか、ポーランド人、ドイツ人、シレジア人、マジャル人、ロマその他の人々が合計3%を占める。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後の追放によりそのほとんどが本国ドイツに戻された。また戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "政府によって少数民族のための会議 (Rada vlády pro národnostní menšiny)が設けられており、認定された少数民族は法律などに影響を受ける場合、意見を述べることが認められ、また母語教育や政府の支援などの権利がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "公認された少数民族はベラルーシ人、ブルガリア人、クロアチア人、ハンガリー人、ドイツ人、ポーランド人、ロマ、ルシン人、ロシア人、ギリシャ人、スロバキア人、セルビア人、ウクライナ人、ベトナム人。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "言語はチェコ語が公用語である。公的に認められた言語としてスロバキア語、ドイツ語、ポーランド語、ギリシャ語、ハンガリー語、ロマ語、ロシア語、ルシン語、セルビア語、ウクライナ語があり、2013年以降はベトナム語とベラルーシ語が加わった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "婚姻時、夫婦同姓・夫婦別姓・結合姓が選択できる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。そのほか、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "チェコの治安情勢は総じて安定的であり、犯罪件数は概ね漸減傾向にある。ただし、日本と比べた場合の犯罪発生率は依然高く、2017年の人口当たりの犯罪発生率は日本と比較すると約2.6倍の20万0,303件となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "犯罪の被害発生率が高いのはスリと置き引きであり、スリでの最も多い被害例は観光地域の路上や観光施設、土産物店、地下鉄、トラム(路面電車)、バスなどにおいて鞄のチャックを気付かない内に開けられたり刃物で鞄の側面を切られたりして貴重品を奪われるといったものが挙げられており、置き引きでの最も多い被害例は飲食店で椅子の背もたれに掛けていた鞄や座席の上や足下に置いていた荷物を持ち去られるといったものが挙げられている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、近年のチェコ国内では年間数件程度の誘拐事件が発生しているが、組織的に誘拐事件を繰り返す犯罪グループの存在は確認されていない。誘拐事件の主な背景としては、身代金目的や債権回収のための脅迫目的、離婚した夫婦間における子供の奪い合い、猥褻目的などが挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "かつてのチェコスロバキア時代には国家安全保障隊(チェコ語版)と呼ばれる軍事的に組織された保安機関が存在していたが、1990年2月1日付でチェコスロバキアにおける秘密警察の主体であった国家安全保障局(英語版)が解体されたことにより、1991年から独自の治安維持・保安組織の創設が求められ現在の共和国警察へと編成されるに至った。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2013年の調査では、チェコ人の68%がインターネットに接続していた事が報告されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "飲み物", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "料理", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "チェコの劇場は、中世以来のヨーロッパ内における劇場の歴史の中で重要な役割を担って来た面を持ち合わせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "チェコ国内で最も人気のあるスポーツはアイスホッケーであり、国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属しており、国内リーグでも首都プラハに本拠地を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは、1998年長野オリンピックでドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、2006年トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪でもある。2004年には、この長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。チェコ出身で長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68の背番号をつけている。さらにフィギュアスケートでも、トマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどの選手を輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "チェコでも他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも非常に人気であり、チェコスロバキア時代にはFIFAワールドカップで1934年大会と1962年大会で、2度の準優勝に輝いている。さらにUEFA欧州選手権でも1976年大会で優勝を果たした。チェコ代表に分離して以降は、UEFA欧州選手権では1996年大会で準優勝の成績を収めているが、FIFAワールドカップには2006年大会に1度出場したのみで、大会もグループリーグ敗退に終わっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "国内のプロリーグとしては、1993年にフォルトゥナ・リガが創設されている。主なクラブとしては、スパルタ・プラハ、スラヴィア・プラハ、ヴィクトリア・プルゼニなどが挙げられる。著名な選手としては2003年のバロンドールを受賞し、主にセリエAのラツィオやユヴェントスで活躍したパベル・ネドベドやチェルシーFCで長年活躍した、史上最高のゴールキーパーの1人であるペトル・チェフが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカがツール・ド・ポローニュで2度の総合優勝を果たし、UCIアワーレコードを長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーも2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "チェコは人口わずか1000万人の国でありながらシュコダ・オート、プラガ、タトラ、CZといった著名な自動車・オートバイメーカーが多数あり、特にオフロード系の競技で輝かしい実績を残している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "シュコダはWRC(世界ラリー選手権)の下位クラスに古くから参戦しており、2010年代以降は低コスト四輪駆動ターボ車であるラリー2(旧称R5)規定のクラスで無類の強さを誇っている。またシュコダの躍進に合わせてチェコ人ドライバーも活躍し、2018年にヤン・コペッキー/パベル・ドレスラー組がWRC2チャンピオンとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ダカール・ラリーのトラック部門では90年代半ばから2000年代初頭にかけてタトラが一時代を築き、チェコ人ドライバーのカレル・ロプライスが通算6度優勝し「ムッシュ・ダカール」の異名を得た。2023年現在、甥のアレス・ロプライスはプラガのトラックでダカールに参戦中である。またヨセフ・マハチェクはATVとUTVという異なる2部門でダカールを制した。UTVを制したのは63歳の時で、史上最年長部門勝利記録となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なおプラガはトラック以外にもレーシングカートやレーシングカーの製造でも知られ、カートは年間7千台の規模を誇る。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "CZのバイクは1960〜70年代のモトクロス世界選手権で7つのタイトルを、国際6日間エンデューロ(ISDE)で15回の優勝を獲得した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "チェコではチェコ・エクストラリーガなどの野球リーグが行われている。チェコ代表も欧州の中では強豪とされており、ヨーロッパ選手権やWBC予選などに参加している。2022年9月にドイツにて行われた2023年WBC予選をチェコ代表は全体2位で通過し、本大会への出場を決めている。2026年のwbcの予選免除対象国となっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2022年2月に自身のルーツであるチェコに帰化し、2023年2月9日に第5回WBC本戦のチェコ代表に初選出されたエリック・ソガードは、メジャーリーグでカルト的人気を誇り、2014年にMLBネットワークが行った「MLBの顔(Face of MLB)」と題したコンテストでは並みいる有名スター選手を退け準優勝まで勝ち進んだ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年ではラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍も目覚ましい。", "title": "スポーツ" } ]
チェコ共和国、通称チェコは、中央ヨーロッパにある共和制国家。首都はプラハである。 国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
{{Otheruses}} {{出典の明記| date = 2020年11月}} {{基礎情報 国 | 略名 = チェコ | 日本語国名 = チェコ共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|cs|Česká republika}}''' | 国旗画像 = Flag of the Czech Republic.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of the Czech Republic.svg|100px|チェコの国章]] | 国章リンク =([[チェコの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|cs|Pravda vítězí}}''<br />(チェコ語:[[真実は勝つ]]) | 位置画像 = EU-Czech_Republic.svg | 公用語 = [[チェコ語]] | 首都 = [[プラハ]] | 最大都市 = プラハ | 元首等肩書 = [[チェコの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ペトル・パヴェル]] | 首相等肩書 = [[チェコの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ペトル・フィアラ]] | 面積順位 = 115 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 7万8,866 | 水面積率 = 0.87%(2015年時点<ref>{{cite web|title=Surface water and surface water change|access-date=2020-10-11|publisher=[[OECD]]|url=https://stats.oecd.org/Index.aspx?DataSetCode=SURFACE_WATER#|accessdate=2029-11-14}}</ref>) | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 85 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 1,070万9,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cz.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> | 人口密度値 = 138.6<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2008 | GDP値元 = 3兆7,058億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=87&pr.y=10&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=935&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref> | GDP統計年MER = 2008 | GDP順位MER = 38 | GDP値MER = 2,170億<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2008 | GDP順位 = 36 | GDP値 = 2,621億<ref name="economy" /> | GDP/人 = 2万5,395<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[ビロード離婚|チェコスロバキア解体]]<br />[[1993年]][[1月1日]] | 通貨 = [[チェコ・コルナ]] | 通貨コード = CZK | 時間帯 = +1 | 夏時間 = +2 | 国歌 = [[我が家何処や|{{lang|cs|Kde domov můj}}]]{{cs icon}}<br>''我が家何処や''<br>{{center|[[ファイル:Czech anthem.ogg]]}} | ISO 3166-1 = CZ / CZE | ccTLD = [[.cz]] <sup>※a</sup> | 国際電話番号 = 420 <sup>※b</sup> | 注記 =※a: 欧州連合加盟国として[[:.eu]]を共用。<br />※b: 1997年までは、[[スロバキア]]と共に42を採用。 }} {{読み仮名_ruby不使用|'''チェコ共和国'''|チェコきょうわこく|{{Lang-cs|Česká republika}}}}、通称'''チェコ'''は、[[中央ヨーロッパ]]{{efn|歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。[[ソビエト連邦|ソ連]]の侵攻後、政治的には[[東ヨーロッパ|東欧]]に分類されてきたが、[[ヨーロッパ]][[東側諸国|共産圏]]が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。}}にある[[共和制|共和制国家]]。首都は[[プラハ]]である。 国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北は[[ポーランド]]、東は[[スロバキア]]、南は[[オーストリア]]、西は[[ドイツ]]と国境を接する。 == 概要 == [[国体]]が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。かつては'''[[チェコスロバキア]]'''と呼ばれた[[共産主義]]体制国家の構成地域であったが、1989年からの[[ビロード革命|革命]]によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ[[ビロード離婚|分離]]して現在の同国が成立した。 [[北大西洋条約機構|NATO]]・[[欧州連合|EU]]・[[経済協力開発機構|OECD]]の加盟国で、中欧4か国からなる[[ヴィシェグラード・グループ]]の一員でもある。 == 国名 == 正式名称([[チェコ語]])は {{Lang|cs|'''Česká republika'''}}<ref>{{IPA-cs|ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka||Cs-Ceska Republika.oga}}(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)</ref>。通称は {{lang|cs|'''Česko'''}}<ref>{{IPA-cs|ˈt͡ʃɛsko||Cs-Česko.ogg}}(チェスコ)</ref>。 [[英語]]での公式名称は {{Lang|en|'''Czech Republic'''}}<ref>{{IPA-en|ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk||en-us-Czech Republic.ogg}}(チェック・リパブリック)</ref>であった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に[[ラテン語]]風の {{lang|en|'''Czechia'''}}<ref>{{IPA-en|ˈtʃɛkiə||Czechia.ogg}}(チェキア)</ref>があり、チェコ政府は[[2016年]][[4月14日]]に公式にこの略称を[[英語圏]]および[[国際連合|国連]]に向けて使用することを発表したが<ref>{{Cite news | url = http://www.cnn.co.jp/fringe/35081696.html| title = チェコ、英語略称を「チェキア」に 国連登録を申請へ| publisher = [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]].co.jp|date = 2016-04-24| accessdate = 2016-04-27}}</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.sankei.com/world/news/160416/wor1604160030-n1.html| title = チェコの英語の略称は「チェキア」に ロシア南部の「チェチニア」に似ているとの声も| publisher = [[産経新聞]]|date = 2016-04-16| accessdate = 2016-04-27}}</ref><ref>{{Cite news | url = https://www.afpbb.com/articles/-/3084108| title = 英語の国名は「チェキア」に、チェコ政府が声明| publisher = [[フランス通信社]]|date = 2016-04-15| accessdate = 2016-04-27}}</ref>、現在<!-- 本国においても・・・英語圏なのかチェコ共和国内なのかわからない -->一般的に使われているとは言いがたく、{{lang|en|Czech Republic}} をそのまま用いることが多い。 ドイツ語では {{lang|de|'''Tschechische Republik'''}}<ref>{{IPA-de|ˈt͡ʃɛçɪʃə ʁepuˈbliːk||De-Tschechische Republik.ogg}}</ref>。通称は {{lang|de|'''Tschechien'''}}<ref>{{IPA-de|ˈt͡ʃɛçi̯ən||De-Tschechien.ogg}}(チェヒエン)</ref>、{{lang|de|'''Tschechei'''}}<ref>{{IPA-de|t͡ʃɛˈçaɪ̯||De-Tschechei.ogg}}(チェヒャイ)</ref>である。 [[外務省]]統一表記は'''チェコ共和国'''である。通称'''チェコ'''。かつての外務省書類などでは'''チェッコ'''という表記が使用された{{efn|なお、「チェッコ」という場合は、[[日中戦争]]期のチェコスロバキア製[[軽機関銃]]を指すこともある(→[[ZB26 (機関銃)|ZB26軽機関銃]])}}。 かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは {{lang|en|'''Czechoslovakia'''}} である。これは1918年の建国時にチェコ民族と[[スロバキア]]民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。 チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした {{lang|cs|Čechy}}<ref>{{IPA-cs|ˈt͡ʃɛxɪ|}}(チェヒ、ラテン名「[[ボヘミア]]」)</ref>、ブルノを中心とした {{lang|cs|Morava}}<ref>{{IPA-cs|mɔˈrava|}}(モラーヴァ、ラテン名「[[モラヴィア]]」)</ref>、さらにポーランド国境近くの {{lang|cs|Slezsko}}<ref>{{IPA-cs|ˈslɛsskɔ}}、{{IPA-cs|ˈslɛskɔ|}}([[チェコ領スレスコ|スレスコ]]、ラテン名「[[シレジア]]」)</ref>の3つの地方がチェコ共和国を形成している。 ボヘミア地方を示す {{lang|cs|Čechy}}(チェヒ)を[[チェコスロバキア]]建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における {{lang|cs|Čechy}}、および英語の {{lang|en|Czech}} では、「[[ボヘミア|ボヘミア地方]]」のみを指す文献もある。そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、{{lang|cs|Česká republika}}、{{lang|en|Czech republic}} を用いる。 現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける {{lang|cs|Česko}} は、チェコスロバキア時代の通称 {{lang|cs|Československo}} から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。 == 歴史 == {{main|チェコの歴史}} === 古代〜中世まで === 古代には[[ケルト人]]がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後[[ゲルマン人]]が定住したが{{sfn|タキトゥス『ゲルマーニア』|1979|pages=201-203}}、6世紀までには[[スラヴ人]]が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀に[[フランク人]]サモの建設した王国がここを支配、続いて[[アバール人]]が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が[[大モラヴィア王国]]を建設した。大モラヴィア王国は[[ブルガリア帝国]]を通じて[[東ローマ帝国]]と交易を行い、[[ビザンツ文化]]を摂取した。 [[ファイル:Karte Böhmen unter Karl IV.png|thumb|left|[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル4世]]時代の[[ボヘミア王冠領]]]] 西部の[[ボヘミア]]、[[モラヴィア]]地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した({{仮リンク|チェヒ国|cs|České knížectví|en|Duchy of Bohemia}})。907年に[[マジャル人]]が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部[[スロバキア]]は[[ハンガリー]]の支配を受けることになった。10世紀後半から[[カトリック教会|カトリック]]が普及した。11世紀には[[ドイツ人]]の植民が行われ、[[ドイツ化]]が進んだ。12世紀の[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]が国王に即位した。 13世紀末には[[神聖ローマ帝国]][[選帝侯]]の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人の[[ルクセンブルク家]]による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝では[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]](カール4世)が[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]に即位し、[[ボヘミア王国]]は全盛期を迎えた。首都[[プラハ]]は中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年には[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]]が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 15世紀には[[ヤン・フス]]が[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]](カレル大学)学長になると、[[イングランド]]の[[ジョン・ウィクリフ]]の影響を受け、教会改革を実施、[[教会 (キリスト教)|教会]]の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から[[破門]]された。さらに[[コンスタンツ公会議]]でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた([[フス戦争]])。 その後、[[ハンガリー王国]]、[[ポーランド王国]]の支配を受け、16世紀前半には[[ハプスブルク家]]の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、[[1618年]]のボヘミアの反乱をきっかけに[[三十年戦争]]が勃発した。この戦争によってボヘミアの[[プロテスタント]]貴族は解体され、農民は[[農奴]]となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「[[暗黒時代]]」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権の[[プロパガンダ]]が多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。 === チェコスロバキア共和国建国 === [[File:Czechoslovakia01.png|thumb|300px|right|1938年当時のチェコスロバキアの区分。左から[[ボヘミア]]、[[モラビア]]・[[シレジア]]、[[スロバキア]]、[[カルパティア・ルテニア]]]] [[File:Münchner abkommen5+.svg|thumb|right|300px|チェコスロバキアの係争地域。1はドイツ要求地域であるズデーテン。2はポーランド要求地域のテッシェン、3は[[ウィーン裁定]]でハンガリー領になる南部スロバキアと南部カルパティア・ルテニア、4はカルパティア・ルテニア、5はチェコ、6はスロバキア]] 18世紀後半には[[啓蒙専制主義]]による、寛容な政策と農奴制廃止によって[[自由主義]]、[[民族主義]]の気運がチェコでも高まった。[[1848年]]に[[ヨーロッパ]]に広がった[[1848年革命]]が[[:en:Revolutions of 1848 in the Austrian Empire|チェコ革命]]を誘発し、[[フランティシェク・パラツキー|パラツキー]]がプラハで{{仮リンク|プラハ・スラヴ人会議 (1848年)|en|Prague Slavic Congress, 1848|label=スラヴ人会議}}を開催し、[[汎スラヴ主義]]が提唱された。[[1867年]]の[[アウスグライヒ]](和協)による[[オーストリア・ハンガリー帝国]]の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の[[汎スラヴ主義]]に接近させることになった。19世紀後半には[[炭田]]の多いボヘミアではその豊富な[[石炭]]を使いドイツ系[[資本家]]からの資本によって起こされた[[産業革命]]による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。 [[第一次世界大戦]]後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に[[民族自決]]の理念のもと[[チェコスロバキア|チェコスロバキア共和国]]の独立が宣言され、初代大統領には[[トマーシュ・マサリク]]が就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼすべてを支配し、スロバキア人と対立した。そのため、スロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。[[1935年]]から[[ナチス・ドイツ]]の圧迫が強まると、[[1938年]]に[[ミュンヘン会談]]で[[ズデーテン地方|ズデーテン]]地方をドイツに割譲し、[[1939年]]にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの[[保護国]]となり、チェコスロバキアは地図から姿を消した([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体]])。 {{Clearleft}} === 共産主義政権とその崩壊 === [[ファイル:Czechoslovakia.png|thumb|left|250px|共産党体制下の[[チェコスロバキア]](左・青色チェコ、右・水色スロバキア)]] [[第二次世界大戦]]後にチェコスロバキア共和国は復活した。[[1946年]]、1940年から1945年まで[[エドヴァルド・ベネシュ]]によって布告されていた一連の法案(いわゆる「[[ベネシュ布告]]」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これにより[[ズデーテン地方|ズデーテン]]に多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいた[[ハンガリー人]]のほとんどの人が財産を奪われたうえ、チェコスロバキアから追放された{{Refnest|group="注釈"|この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。[[1946年]]までチェコに領地を持っていた[[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン公国]]はこれを法律による重大な[[人権蹂躙|人権侵害]]だとして、[[2009年]]までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた<ref>{{Cite web|date=2009-07-12|url=http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/090713_PM_Beziehungen_CzFl_en.pdf|title=Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations|publisher=tabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit|format=PDF|language=英語|accessdate=2009-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511222932/http://88.82.102.51/fileadmin/_pm.liechtenstein.li/en/090713_PM_Beziehungen_CzFl_en.pdf|archivedate=2011年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。}}。 [[ファイル:Havla 1989.jpg|thumb|right|ヴァーツラフ広場で花束をささげる群集 ([[ビロード革命]])]] [[1946年]]の選挙で第一党となっていた共産党が[[ソビエト連邦|ソ連]]からの影響力なども背景に[[1948年]]に[[共産主義]][[政権]]を設立し、「[[人民民主主義]]」を宣言した([[1948年のチェコスロバキア政変|二月事件]])。[[1960年]]には「社会主義共和国」に改名した。しかし[[スターリン主義]]的抑圧に対する不満が爆発し、[[アントニーン・ノヴォトニー|ノヴォトニー]]政権に代わりスロバキア人の[[アレクサンデル・ドゥプチェク|ドゥプチェク]]率いる政権が誕生し、「[[プラハの春]]」と呼ばれる[[自由化]]・[[民主化]]路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含む[[ワルシャワ条約機構]]5か国の軍が介入([[ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻]])、スロバキア人の[[グスターフ・フサーク|フサーク]]政権が樹立され、[[正常化体制 (チェコスロヴァキア)|正常化]]路線を推し進めた。国内の[[秘密警察]]網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]と並んで[[東ヨーロッパ|東欧]]で最悪の[[警察国家]]となった。人々は相互不信に陥り、[[プロテスタント]]教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自滅し、信者は宗教不信から[[無神論]]者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の[[消費財]]の生産は活発化した。 [[1989年]]からの[[ビロード革命]]によって共産党体制は崩壊し、翌[[1990年]]には[[複数政党制]]による[[自由選挙]]が行われた。[[1992年]]6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。[[1993年]]1月にチェコスロバキアは'''チェコ'''と'''[[スロバキア]]'''に平和的に分離([[ビロード離婚]])した。 === ビロード離婚後から現在 === 1995年11月28日に[[OECD]]に加盟し、1999年3月12日には[[NATO]]にも加盟した。 2002年8月には記録的な豪雨によって[[ヴルタヴァ川]](モルダウ川)が氾濫し([[2002年ヨーロッパ水害]])、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。2004年5月1日、チェコは[[欧州連合]](EU)に加盟した。 == 政治 == [[ファイル:Petr Fiala (51940875566).jpg|サムネイル|第13代首相[[ペトル・フィアラ]]]] {{Main|{{仮リンク|チェコの政治|cs|Politický systém Česka|en|Politics of the Czech Republic}}|{{仮リンク|チェコ共和国政府|en|Government of the Czech Republic}}}} [[国家元首]]は[[チェコの議会|議会]]によって選出される[[大統領]]であり、任期は5年で3選は禁止されている。大統領は[[首相]]を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2021年に実施された[[2021年チェコ議会下院選挙|総選挙]]の結果、[[中道派]]の[[ANO 2011]]が第1党となったものの過半数には届かず、[[連立政権]]樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の[[市民民主党 (チェコ)|市民民主党]]と[[TOP 09]]、[[チェコ海賊党|海賊党]]らとの間で連立政権を発足させることで合意し、首相には市民民主党党首の[[ペトル・フィアラ]]が任命された。 === 議会 === {{Main|チェコの議会}} 議会は[[元老院 (チェコ)|元老院]]と[[代議院 (チェコ)|代議院]]によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、[[比例代表制]]による[[直接選挙]]で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の[[小選挙区制]]による元老院選挙が行われて[[両院制]]が整った。 === 政党 === {{Main|チェコの政党}} 2020年3月28日時点で、92の政党と141の政治運動団体の登録が確認されている。 {{See also|{{仮リンク|チェコの政党と政治運動団体の一覧|cs|Seznam politických stran a hnutí v Česku}}}} === 司法 === {{Main|{{仮リンク|チェコの司法|en|Judiciary of the Czech Republic}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|チェコ共和国憲法|en|Constitution of the Czech Republic}}}} ==== 法律 ==== {{Main|{{仮リンク|チェコの法律|en|Law of the Czech Republic}}}} == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|チェコの国際関係|cs|Zahraniční vztahy Česka|en|Foreign relations of the Czech Republic}}}} 2020年8月30日、ミロシュ・ビストルチル上院議長率いる代表団が台湾・台北に到着した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3301895|title=チェコ上院議長率いる代表団が訪台、 中国政府は批判|publisher=|date=2020-08-30|accessdate=2021-06-20}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|チェコ共和国外務省|en|Ministry of Foreign Affairs (Czech Republic)}}}} === 日本との関係 === {{Main|日本とチェコの関係}} ==== 在チェコ日本国大使館 ==== {{Main|在チェコ日本国大使館}} == 軍事 == {{Main|チェコ共和国の軍事}} {{節スタブ}} == 地理 == [[File:Satellite image of Czech Republic in September 2003.jpg|thumb|300px|チェコ共和国の衛星写真]] {{Main|{{仮リンク|チェコの地理|cs|Geografie Česka|en|Geography of the Czech Republic}}}} チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接する[[ドイツ]]との国境線から東の[[スロバキア]]まで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、[[エルベ川]]、[[ヴルタヴァ川]]、[[モラヴァ川 (中欧)|モラヴァ川]]、[[オーデル川]]。最高峰は[[ズデーテン山地]]にある[[スニェシカ山]]である。 === 環境 === チェコには現在、4つの国立公園({{仮リンク|シュマヴァ国立公園|en|Šumava National Park}}、{{仮リンク|クルコノシェ国立公園|en|Krkonoše National Park}}、{{仮リンク|ボヘミアン・スイス国立公園|label=チェスケー・シュヴィーツァルスコ国立公園|en|Bohemian Switzerland}}、{{仮リンク|ポディイー国立公園|en|Podyjí National Park}})と25の保護景観地域が設けられている。 {{See also|{{仮リンク|チェコの保護地域|en|Protected areas of the Czech Republic}}|{{仮リンク|チェコの動物相|en|Fauna of the Czech Republic}}}} 2020年時点で、チェコは{{仮リンク|環境パフォーマンス指数|en|Environmental Performance Index}}において「世界で21番目に環境に配慮した国家」としてランク付けされている<ref>{{cite web|url=http://epi.yale.edu/country-rankings|archive-url=https://web.archive.org/web/20160202142016/http://epi.yale.edu/country-rankings|url-status=dead|archive-date=2 February 2016|title=Country Rankings|date=2016|access-date=11 February 2022|publisher=Yale}}</ref>。また、2018年の{{仮リンク|森林景観保全指数|en|Forest Landscape Integrity Index}}の平均値は1.71/10で、172ヶ国中160位にランクされている<ref name="FLII-Supplementary">{{cite journal|last1=Grantham|first1=H. S.|last2=Duncan|first2=A.|last3=Evans|first3=T. D.|last4=Jones|first4=K. R.|last5=Beyer|first5=H. L.|last6=Schuster|first6=R.|last7=Walston|first7=J.|last8=Ray|first8=J. C.|last9=Robinson|first9=J. G.|last10=Callow|first10=M.|last11=Clements|first11=T.|last12=Costa|first12=H. M.|last13=DeGemmis|first13=A.|last14=Elsen|first14=P. R.|last15=Ervin|first15=J.|last16=Franco|first16=P.|last17=Goldman|first17=E.|last18=Goetz|first18=S.|last19=Hansen|first19=A.|last20=Hofsvang|first20=E.|last21=Jantz|first21=P.|last22=Jupiter|first22=S.|last23=Kang|first23=A.|last24=Langhammer|first24=P.|last25=Laurance|first25=W. F.|last26=Lieberman|first26=S.|last27=Linkie|first27=M.|last28=Malhi|first28=Y.|last29=Maxwell|first29=S.|last30=Mendez|first30=M.|last31=Mittermeier|first31=R.|last32=Murray|first32=N. J.|last33=Possingham|first33=H.|last34=Radachowsky|first34=J.|last35=Saatchi|first35=S.|last36=Samper|first36=C.|last37=Silverman|first37=J.|last38=Shapiro|first38=A.|last39=Strassburg|first39=B.|last40=Stevens|first40=T.|last41=Stokes|first41=E.|last42=Taylor|first42=R.|last43=Tear|first43=T.|last44=Tizard|first44=R.|last45=Venter|first45=O.|last46=Visconti|first46=P.|last47=Wang|first47=S.|last48=Watson|first48=J. E. M.|title=Anthropogenic modification of forests means only 40% of remaining forests have high ecosystem integrity - Supplementary Material|journal=Nature Communications|volume=11|issue=1|year=2020|page=5978|issn=2041-1723|doi=10.1038/s41467-020-19493-3|pmid=33293507|pmc=7723057}}</ref>。 == 地方行政区分 == {{main|チェコの地域区分}} チェコの地方行政区画は[[2000年]]に再編され{{要出典|date=2020年11月}}、プラハ首都特別区および13のクライ(kraj)と呼ばれる行政区に区分されている。 [[File:Czech Republic - Bohemia, Moravia and Silesia (jpn).png|thumb|400px|チェコ共和国の歴史的な領域と現代の行政区]] === 主要都市 === {{Main|チェコの都市の一覧}} [[File:Spilberk wiki.jpg|thumb|スピルバーグ城(シュピルベルク城 [[:w:Špilberk Castle|Špilberk Castle]]、於ブルノ)]] {|class=wikitable style="font-size:small" |+チェコの都市人口順位 ! !!都市!!州!!人口 (2010年) |- !1 |[[プラハ]] |{{N/A}} |style="text-align:right"|1,249,026 |- !2 |[[ブルノ]] |style="white-space:nowrap"|[[南モラヴィア州]] |style="text-align:right"|371,399 |- !3 |style="white-space:nowrap"|[[オストラバ]] |[[モラヴィア・スレスコ州]] |style="text-align:right"|306,006 |- !4 |[[プルゼニ]] |[[プルゼニ州]] |style="text-align:right"|169,935 |- !5 |[[リベレツ]] |[[リベレツ州]] |style="text-align:right"|101,625 |- !6 |[[オロモウツ]] |[[オロモウツ州]] |style="text-align:right"|100,362 |- !7 |[[チェスケー・ブジェヨヴィツェ]] |[[南ボヘミア州]] |style="text-align:right"|94,747 |- !8 |[[フラデツ・クラーロヴェー]] |[[フラデツ・クラーロヴェー州]] |style="text-align:right"|94,255 |- |} === 都市・村の一覧 === {|class="sortable wikitable" style="font-size:small" |+チェコの有名な市・村([[地方政府|地方自治体]]) !地名 !チェコ語名 !ドイツ語名 !備考 |- |[[ビーラー・ホラ]](白山) |{{lang|cs|[[:cs:Bílá Hora|Bílá Hora]]}} |{{lang|de|[[:de:Weißenberg|Weißenberg]]}} |width="400" |[[ビーラー・ホラの戦い]]([[1620年]]、[[三十年戦争]]) |- |[[ブランディース・ナド・ラベム]] |{{lang|cs|[[:cs:Brandýs nad Labem|Brandýs nad Labem]]}} |{{lang|de|[[:de:Brandeis|Brandeis]]}} an der Elbe |ユダヤ人街 |- |[[ブルノ]](ブリュン) |{{lang|cs|[[:cs:Brno|Brno]]}} |{{lang|de|[[:de:Brünn|Brünn]]}} |[[モラヴィア]]の中心地 |- |[[ブジェツラフ]] |{{lang|cs|[[:cs:Břeclav|Břeclav]]}} |{{lang|de|[[:de:Břeclav|Lundenburg]]}} | |- |[[ブジェゾヴァー]] |{{lang|cs|[[:cs:Březová (okres Karlovy Vary)|Březová]]}} |{{lang|de|[[:de:Březová u Karlových Var|Pirkenhammer]]}} |陶器ブランド |- |[[ツィーノヴェツ]]<br />(ツィンヴァルト) |{{lang|cs|[[:cs:Cínovec|Cínovec]]}} |{{lang|de|[[:de:Zinnwald|Zinnwald]]}}{{lang|de|[[:de:Zinnwald-Georgenfeld|(-Georgenfeld)]]}} |[[チンワルド雲母]]の産地。 |- |[[チェスケー・ブジェヨヴィツェ]]<br />(ブトヴァイス) |style="white-space:nowrap;" |{{lang|cs|[[:cs:České Budějovice|České Budějovice]]}} |{{lang|de|[[:de:Budweis|Budweis]]}} |[[バドワイザー]](ブジェヨヴィツキー・[[ブドヴァル]])。[[司教]]座。近郊に[[ホラショヴィツェ]]、{{仮リンク|フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ|cs|Hluboká nad Vltavou}}、{{仮リンク|トシェボニ|cs|Třeboň}}などがある |- |style="white-space:nowrap;" |[[チェスキー・クルムロフ]]<br />(ベーミッシュ・クルーマウ) |{{lang|cs|[[:cs:Český Krumlov|Český Krumlov]]}} |{{lang|de|[[:de:Český Krumlov|Krumau]]}} |世界遺産。近郊にホルニー・プラナー(Horní Planá)がある |- |[[ドマジュリツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Domažlice|Domažlice]]}} |{{lang|de|[[:de:Taus|Taus]]}} |[[ドマジュリツェの戦い]]([[1631年]]、[[フス戦争]]) |- |[[ドヴール・クラーロヴェー]]<br />(ラベ河畔の) |{{lang|cs|[[:cs:Dvůr Králové nad Labem|Dvůr Králové nad Labem]]}} |{{lang|de|[[:de:Königinhof|Königinhof]]}} | |- |[[フリードラント]] |{{lang|cs|[[:cs:Frýdlant|Frýdlant]]}} |{{lang|de|[[:de:Friedland|Fiedland]]}} |[[ヴァレンシュタイン]](ヴァルトシュタイン)家 |- |[[ホドニーン]] |{{lang|cs|[[:cs:Hodonín|Hodonín]]}} |{{lang|de|[[:de:Göding|Göding]]}} | |- |[[ホラショヴィツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Holašovice|Holašovice]]}} |{{lang|de|[[:de:Holašovice|Hollschowitz]]}} |歴史的集落が世界遺産 |- |[[ホレショフ]] |{{lang|cs|[[:cs:Holešov|Holešov]]}} |{{lang|de|[[:de:Holešov|Holleschau]]}} |ユダヤ人街 |- |[[フラデツ・クラーロヴェー]]<br />(ケーニヒグレーツ) |{{lang|cs|[[:cs:Hradec Králové|Hradec Králové]]}} |{{lang|de|[[:de:Königgrätz|Königgrätz]]}} |[[司教]]座。サドワの戦い([[ケーニヒグレーツの戦い]]) |- |[[フラニツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Hranice|Hranice]]}} |{{lang|de|[[:de:Mährisch-Weißkirchen|Mährisch-Weißkirchen]]}} |ユダヤ人街 |- |[[ヘプ]]([[エーガー]]) |{{lang|cs|[[:cs:Cheb|Cheb]]}} |{{lang|de|[[:de:Eger|Eger]]}} |[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン|ヴァレンシュタイン]]暗殺 |- |[[ホドフ]](ホーダウ) |{{lang|cs|[[:cs:Chodov|Chodov]]}} |{{lang|de|[[:de:Chodau|Chodau]]}} |陶器ブランド |- |[[イヴァンチツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Ivančice|Ivančice]]}} |{{lang|de|[[:de:Eibenschütz|Eibenschütz]]}}、{{lang|de|Eibenschitz}} |ユダヤ人街がある。[[グイード・アードラー]]、[[アルフォンス・ミュシャ|アルフォンス・ムハ]]らの生地。 |- |[[ヤーヒモフ]]<br />([[ザンクト・ヨアヒムスタール]]) |{{lang|cs|[[:cs:Jáchymov|Jáchymov]]}} |{{lang|de|[[:de:Jáchymov|Sankt Joachimsthal]]}} |トレル([[ドル]]の語源)貨幣鋳造 |- |ヤンコフ(ヤンカウ) |{{lang|cs|[[:cs:Jankov|Jankov]]}} |{{lang|de|[[:de:Jankau|Jankau]]}} |[[ヤンカウの戦い]] |- |[[イフラヴァ]](イグラウ) |{{lang|cs|[[:cs:Jihlava|Jihlava]]}} |{{lang|de|[[:de:Iglau|Iglau]]}} |[[銀鉱]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]] |- |[[カルロヴィ・ヴァリ]]<br />(カールスバート) |{{lang|cs|[[:cs:Karlovy Vary|Karlovy Vary]]}} |{{lang|de|[[:de:Karlsbad|Karlsbad]]}} |[[温泉]]町([[鉱泉]]、[[鉱塩]])、[[カールスバート決議]] |- |[[カルルシュテイン]] |{{lang|cs|[[:cs:Karlštejn|Karlštejn]]}} |{{lang|de|[[:de:Karlstein|Karlstein]]}} |[[カルルシュテイン城]] |- |[[クラドノ]] |{{lang|cs|[[:cs:Kladno|Kladno]]}} | |[[工業都市]] |- |[[コリーン]] |{{lang|cs|[[:cs:Kolín|Kolín]]}} |{{lang|de|[[:de:Kolín|Kolin]]}}、{{lang|de|Köln an der Elbe}} |[[コリーンの戦い]]([[1757年]]、[[七年戦争]]) |- |[[クルノフ]]<br />(イェーゲルンドルフ) |{{lang|cs|[[:cs:Krnov|Krnov]]}} |{{lang|de|[[:de:Jägerndorf|Jägerndorf]]}} |かつて一[[侯国]]。{{仮リンク|クルノフ・シナゴーグ|cs|Krnovská synagoga}}など。 |- |[[クロムニェジーシュ]] |{{lang|cs|[[:cs:Kroměříž|Kroměříž]]}} |{{lang|de|[[:de:Kroměříž|Kremsier]]}} |世界遺産 |- |[[クトナー・ホラ]]<br />([[クッテンベルク]]) |{{lang|cs|[[:cs:Kutná Hora|Kutná Hora]]}} |{{lang|de|[[:de:Kuttenberg|Kuttenberg]]}} |[[銀鉱]]、グロシュ 銀貨鋳造 |- |[[レドニツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Lednice|Lednice]]}} |{{lang|de|[[:de:Lednice|Eisgrub]]}} |世界遺産 |- |[[リベレツ]]<br />(ライヒェンベルク) |{{lang|cs|[[:cs:Liberec|Liberec]]}} |{{lang|de|[[:de:Reichenberg|Reichenberg]]}} | |- |[[リディツェ]]<br />([[リジツェ]],[[リヂツェ]]) |{{lang|cs|[[:cs:Lidice|Lidice]]}} |{{lang|de|[[:de:Lidice|Liditz]]}} |ナチス・ドイツによる虐殺 |- |[[リトムニェジツェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Litoměřice|Litoměřice]]}} |{{lang|de|[[:de:Litoměřice|Leitmeritz]]}} | |- |[[リトミシュル]] |{{lang|cs|[[:cs:Litomyšl|Litomyšl]]}} |{{lang|de|[[:de:Litomyšl|Leitomischl]]}} |[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]出生地。[[リトミシュル城]]が世界遺産 |- |[[ロヴォシツェ]]<br />(ロボジッツ) |{{lang|cs|[[:cs:Lovosice|Lovosice]]}} |{{lang|de|[[:de:Lovosice|Lobositz]]}}、{{lang|cs|Lovositz}} |[[ロボジッツの戦い]]([[1756年]]、[[七年戦争]]) |- |マレショフ |{{lang|cs|[[:cs:Malešov|Malešov]]}} |{{lang|de|[[:de:Maleschau|Maleschau]]}} |[[マレショフの戦い]]([[1424年]]、[[フス戦争]]) |- |[[マリアーンスケー・ラーズニェ]]<br />(マリエンバート) |{{lang|cs|[[:cs:Mariánské Lázně|Mariánské Lázně]]}} |{{lang|de|[[:de:Marienbad|Marienbad]]}} |温泉町、映画祭 |- |[[ミクロフ]]<br />(ニコルスブルク) |{{lang|cs|[[:cs:Mikulov|Mikulov]]}} |{{lang|de|[[:de:Nikolsburg|Nikolsburg]]}} |[[ニコルスブルク和約]]、ユダヤ人街。近郊に、[[レドニツェ]]&[[ヴァルチツェ]]がある。 |- |[[ムニホヴォ・フラジシチェ]] |{{lang|cs|[[:cs:Mnichovo Hradiště|Mnichovo Hradiště]]}} |{{lang|de|[[:de:Münchengrätz|Münchengrätz]]}} | |- |[[ナーホト]] |{{lang|cs|[[:cs:Náchod|Náchod]]}} |{{lang|de|[[:de:Náchod|Nachod]]}} |[[ナーホトの戦い]] |- |[[ヴルタヴァ川]]<br />(モルダウ川) |{{lang|cs|[[:cs:Vltava|Vltava]]}} |{{lang|de|[[:de:Moldau|Moldau]]}} |[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]の交響詩集『[[わが祖国 (スメタナ)|わが祖国]]』の第2曲で有名な川 |} == 経済 == [[File:Praha Pankrac.jpg|thumb|left|首都[[プラハ]]]] {{main|{{仮リンク|チェコの経済|cs|Ekonomika Česka|en|Economy of the Czech Republic}}}} [[国際通貨基金]](IMF)による統計ではチェコの[[国内総生産|GDP]]は1,985億ドル、[[国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)|一人あたりのGDP(為替レート)]]は1万8,857ドルであり、EU平均の半分、世界水準の1.8倍である{{いつ|date=2018年7月}}。 オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから[[産業革命]]が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての[[チェコスロバキア共産党|共産党]]政権下での[[中央集権]]的な[[計画経済]]から、[[市場経済]]への移行を遂げている。もともと[[チェコスロバキア]]は旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに[[民営化]]が推し進められた。1980年代から[[西側諸国|西側]]企業の進出が相次いでおり、[[ビロード革命]]などの混乱はあったが、[[1994年]]には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中では[[スロベニア]]や[[ハンガリー]]などと並んで高い水準を維持している。1995年に[[経済協力開発機構|OECD]]、2004年には[[欧州連合|EU]]加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している{{要出典|date=2020年11月}}。 [[File:SkodaSuperbII.jpg|thumb|right|シュコダオートは、中欧で最大の自動車メーカーのひとつである([[シュコダ・スペルブ]])]] [[2004年]]にチェコがEUに加盟してから[[2007年]]末までの[[経済成長]]により、チェコの平均[[給与]]は40%以上も上昇した{{要出典|date=2020年11月}}。このような状況で、チェコの[[労働者]]は高い給料を求めて次々と[[転職]]を繰り返し、ひとつの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。安くて良質な労働力を期待してチェコに殺到した外資系[[製造業|メーカー]]は深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の[[利益]]を急激に圧迫する要因となっている。打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、[[ベトナム]]や[[モンゴル国|モンゴル]]から安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向である<ref>{{Cite web|和書|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20080422/153929/|title=チェコ:模索する「外資依存型経済」の次|accessdate=2011-10-26|publisher=[[日経BP]]|deadlinkdate=2020-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111026220103/http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20080422/153929/|author=スティーブ・モリヤマ|date=2008年5月8日|work=アジア・国際 > 知られざる欧州の素顔|archivedate=2011-10-26}}</ref>。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。 主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国は[[ドイツ]]、[[スロバキア]]、[[ポーランド]]、[[オーストリア]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[イタリア]]である{{要出典|date=2020年11月}}。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国は[[ドイツ]]、[[ロシア]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[イタリア]]、[[フランス]]、[[オーストリア]]、[[オランダ]]、[[スロバキア]]、[[ポーランド]]である{{要出典|date=2020年11月}}。 {{Clearleft}} === 伝統産業 === [[File:BLW Bohemian Jug.jpg|thumb|140px|[[ボヘミアガラス]]]] {{Main2|[[ビール]]製造|チェコのビール|[[ガラス]]製造|ボヘミアガラス}} === 農業 === {{main|{{仮リンク|チェコの農業|cs|Zemědělství v Česku}}}} {{See also|{{仮リンク|チェコ農業省|en|Ministry of Agriculture (Czech Republic)}}}} {{節スタブ}} === エネルギー === [[File:Nuclear.power.plant.Dukovany.jpg|thumb|160px|{{仮リンク|ドゥコヴァニ原子力発電所|en|Dukovany Nuclear Power Station}}]] {{main|{{仮リンク|チェコのエネルギー|en|Energy in the Czech Republic}}}} チェコにおける電力の生産は[[原子力発電]]を始めとした旧来からの発電法によるものが主体となっている。生産される電気は消費量を年間約10TWh超えており、その超過分は国外へ輸出されている。 原子力発電は現在、総電力需要の約30%を供給しており、そのシェアは40%に増加すると予測されている。2005年には電力の65.4%が蒸気および燃焼発電所(主に[[石炭]]を利用したもの)によって生産されていて、30%は原子力発電によるもので、4.6%は[[水力発電]]を含む再生可能エネルギー源からのものであった。 現時点での最大の電力資源は[[テメリン原子力発電所]]である。なお、ドゥコヴァニにも原子力発電所が存在している。 {{節スタブ}} === 観光 === {{main|{{仮リンク|チェコの観光|en|Tourism in the Czech Republic}}}} {{節スタブ}} == 交通 == {{main|チェコ共和国の交通}} {{節スタブ}} === 道路 === {{Main|Category:チェコの道路|{{仮リンク|チェコの高速道路|en|Highways in the Czech Republic}}}} === 鉄道 === {{Main|{{仮リンク|チェコの鉄道|en|Rail transport in the Czech Republic}}|{{仮リンク|チェコの高速鉄道|en|High-speed rail in the Czech Republic}}}} === 航空 === {{Main|Category:チェコの航空|{{仮リンク|チェコの空港の一覧|en|List of airlines of the Czech Republic}}}} == 国民 == [[File:Kroj Kunovice - zenati 1.jpg|thumb|140px|伝統的な衣装をまとった男女]] {{main|{{仮リンク|チェコの人口統計|cs|Obyvatelstvo Česka|en|Demographics of the Czech Republic}}}} === 民族 === [[チェコ人]]が2016年時点で64.3%と多数派であるが、次に多い分類は民族を主張しない人々である (25.3%)。少数派は[[モラヴィア人]]5%、[[スロバキア人]]1.4%、[[ウクライナ人]]1.0%のほか、[[ポーランド人]]、[[ドイツ人]]、[[シレジア人]]、[[マジャル人]]、[[ロマ]]その他の人々が合計3%を占める<ref>{{Cite web|url=https://www.czso.cz/documents/10180/20551765/170223-14.pdf|title=Archived copy|access-date=2 September 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180809060237/https://www.czso.cz/documents/10180/20551765/170223-14.pdf|archive-date=9 August 2018|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.czso.cz/documents/11292/27914491/1612_c01t14.pdf/4bbedd77-c239-48cd-bf5a-7a43f6dbf71b?version=1.0|archive-url=https://web.archive.org/web/20180112214925/https://www.czso.cz/documents/11292/27914491/1612_c01t14.pdf/4bbedd77-c239-48cd-bf5a-7a43f6dbf71b?version=1.0|url-status=dead|archive-date=12 January 2018|title=Wayback Machine|author=|date=12 January 2018|accessdate=2020/11/14}}</ref>。 かつて[[ズデーテン地方]]で多数派であったドイツ人は、[[第二次世界大戦]]後の[[ドイツ人追放|追放]]によりそのほとんどが本国ドイツに戻された。また[[戦前]]に多かった[[ユダヤ人]]のコミュニティも消滅している(詳細は{{仮リンク|チェコのユダヤ人|cs|Židé v Česku}}を参照)。 政府によって少数民族のための会議 ({{Lang|cs|Rada vlády pro národnostní menšiny}})が設けられており、認定された少数民族は法律などに影響を受ける場合、意見を述べることが認められ、また母語教育や政府の支援などの権利がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.viet-jo.com/news/social/130705013146-pic1.html|title=チェコ政府、ベトナム出身者を少数民族に認定|accessdate=2020年9月26日|publisher=VITE JO}}</ref>。 公認された少数民族はベラルーシ人、ブルガリア人、クロアチア人、ハンガリー人、ドイツ人、ポーランド人、ロマ、ルシン人、ロシア人、ギリシャ人、スロバキア人、セルビア人、ウクライナ人、ベトナム人<ref>{{Cite web|url=https://www.vlada.cz/cz/pracovni-a-poradni-organy-vlady/rnm/mensiny/narodnostni-mensiny-15935/|title=Národnostní menšiny|accessdate=2020年9月26日|publisher=チェコ政府}}</ref>。 === 言語 === 言語は[[チェコ語]]が[[公用語]]である<ref>{{cite web |url=http://www.czech.cz/en/67019-czech-language |title=Czech language |work=Czech Republic – Official website |publisher=チェコ外務省([[:en:Ministry of Foreign Affairs (Czech Republic)|英語版]])|accessdate=14 November 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111106000422/http://www.czech.cz/en/67019-czech-language |archive-date=6 November 2011 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref>。公的に認められた言語{{efn|name="languages"|少数民族に属する国民で伝統的にまた長期間にわたりチェコの領土に居住する者は、公的機関ならびに法廷におけるやり取りに民族語を使うことが公認される。公認少数民族語の一覧は国家少数民族方針<ref name="nat_minorities">{{cite web|url=http://www.vlada.cz/en/pracovni-a-poradni-organy-vlady/rnm/historie-a-soucasnost-rady-en-16666/ |title=National Minorities Policy of the Government of the Czech Republic|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120607051111/http://www.vlada.cz/en/pracovni-a-poradni-organy-vlady/rnm/historie-a-soucasnost-rady-en-16666/ |archivedate=7 June 2012 |accessdate=2010-11-10}}</ref>を参照。また2013年7月4日付でベラルーシ語とベトナム語は条件付きで公認された<ref name="bel_viet">{{cite web|url=http://zpravy.idnes.cz/vietnamci-oficialni-narodnostni-mensinou-fiq-/domaci.aspx?c=A130703_133019_domaci_jj |title=Česko má nové oficiální národnostní menšiny. Vietnamce a Bělorusy|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130708074104/http://zpravy.idnes.cz/vietnamci-oficialni-narodnostni-mensinou-fiq-/domaci.aspx?c=A130703_133019_domaci_jj |archivedate=8 July 2013 |accessdate=2020-11-10|language=cz}}</ref>。チェコの根源的権利と基本的自由の憲章([[:en:Charter of Fundamental Rights and Basic Freedoms|英語版]])第25条の規定により、国民ならびに少数民族民に対してその個々の言語による教育と当局との意思疎通を保証する。法令第500/2004号 Coll.(''行政規則'')第16項(4)の規定では、伝統的かつ長期的に国内または少数民族に属するチェコ共和国の市民がチェコ共和国の領土に居住する場合は、行政機関への連絡において少数民族言語でその前に進む権利がある。行政機関に言語の知識を持った従業員がいない場合、行政機関は自費で翻訳者を得る義務を負う。法律第273/2001号(「少数民族の一員の権利に関して」)第9項(「当局との取引および法廷における少数民族言語を使用する権利」)によると同じことが出廷した少数民族の一員にも該当する。}}{{efn|チェコにおいてスロバキア語は一定の条件のもとで公認言語とされ、その規定は複数の法律に基づく。すなわち法律第500/2004号、同337/1992号など<ref name="slovak">{{cite web|url=http://portal.gov.cz |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050410043930/http://www.portal.gov.cz/ |archivedate=10 April 2005 |accessdate=2020-11-10|language=cz|quote="Například Správní řád (zákon č. 500/2004 Sb.) stanovuje: "V řízení se jedná a písemnosti se vyhotovují v českém jazyce. Účastníci řízení mohou jednat a písemnosti mohou být předkládány i v jazyce slovenském&nbsp;..." (§&nbsp;16, odstavec 1). Zákon o správě daní a poplatků (337/1992 Sb.) "Úřední jazyk: Před správcem daně se jedná v jazyce českém nebo slovenském. Veškerá písemná podání se předkládají v češtině nebo slovenštině&nbsp;..." (§&nbsp;3, odstavec 1)|title=gov.cz - Portal of the public administration}}</ref>。}}として[[スロバキア語]]<ref name="slovak" />、[[ドイツ語]]、[[ポーランド語]]、[[ギリシャ語]]、[[ハンガリー語]]、[[ロマ語]]、[[ロシア語]]、[[ルシン語]]、[[セルビア語]]、[[ウクライナ語]]があり、2013年以降は[[ベトナム語]]<ref name="bel_viet" />と[[ベラルーシ語]]<ref name="bel_viet" />が加わった。 === 婚姻 === {{Main|{{仮リンク|チェコの婚姻|en|Marriage in the Czech Republic}}}} 婚姻時、夫婦同姓・[[夫婦別姓]]・結合姓が選択できる<ref>{{Cite web|url=https://news.expats.cz/the-czech-republic/whats-in-a-name/|title=What’s in a name?|accessdate=2018-09-26|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180926170240/https://news.expats.cz/the-czech-republic/whats-in-a-name/|archivedate=2018-09-26|website=expats.cz|deadlinkdate=2020-11-13|date=7 August 2013}}</ref>。 === 宗教 === {{Main|チェコの宗教}} 前近代より[[フス戦争]]などの熾烈な[[宗教戦争]]が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から[[無宗教]]者が多く、[[無宗教#国別の調査|60%がこのグループに属する]]。そのほか、[[カトリック教会|カトリック]]が27.4%、[[プロテスタント]]1.2%、[[フス派]]が1%である{{Efn|2011年時点の調査によると無回答44.7%、無宗教者34.5%が占め、キリスト教徒と答えた人は12.6–38.6%でカトリックは10.5%、他の宗派2.1%、その他の宗教が0.7%であった<ref name="Czech Statistical Office">{{cite web|url=http://www.czso.cz/sldb2011/eng/redakce.nsf/i/tab_7_1_population_by_religious_belief_and_by_municipality_size_groups/$File/PVCR071_ENG.pdf|format=pdf |title=Population by religious belief and by municipality size groups |accessdate=23 April 2012 |publisher=Czech Statistical Office(チェコ統計局) |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221184947/http://www.czso.cz/sldb2011/eng/redakce.nsf/i/tab_7_1_population_by_religious_belief_and_by_municipality_size_groups/%24File/PVCR071_ENG.pdf |archivedate=21 February 2015 |df=dmy|language=en}}</ref>。}}。かわりに[[エスノセントリズム|自民族至上主義]]を掲げる排他的な[[民族主義]]が非常に強いという特徴がある{{要出典|date=2021年3月}}。 [[キリスト教]]圏ではあるが、[[1913年]]以来チェコのカトリック教会は[[火葬]]を容認しており、また、上述の通り無[[宗教]]者が多いこともあって、[[ヨーロッパ]]諸国のなかでは[[イギリス]]と並んで火葬率が高い{{要出典|date=2020年11月}}。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|チェコの教育|en|Education in the Czech Republic}}}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|チェコの保健|en|Health in the Czech Republic}}}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|チェコの医療|en|Healthcare in the Czech Republic}}}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|チェコにおける犯罪|en|Crime in the Czech Republic}}}} チェコの治安情勢は総じて安定的であり、[[犯罪]]件数は概ね漸減傾向にある。ただし、日本と比べた場合の犯罪発生率は依然高く、2017年の人口当たりの犯罪発生率は日本と比較すると約2.6倍の20万0,303件となっている。 犯罪の被害発生率が高いのは[[スリ]]と[[置き引き]]であり、スリでの最も多い被害例は観光地域の路上や観光施設、土産物店、地下鉄、トラム([[路面電車]])、[[バス (交通機関)|バス]]などにおいて[[鞄]]のチャックを気付かない内に開けられたり[[刃物]]で鞄の側面を切られたりして貴重品を奪われるといったものが挙げられており、置き引きでの最も多い被害例は[[飲食店]]で[[椅子]]の背もたれに掛けていた鞄や座席の上や足下に置いていた荷物を持ち去られるといったものが挙げられている。 また、近年のチェコ国内では年間数件程度の[[誘拐]]事件が発生しているが、組織的に誘拐事件を繰り返す犯罪グループの存在は確認されていない。誘拐事件の主な背景としては、[[身代金]]目的や[[債権]]回収のための[[脅迫]]目的、離婚した夫婦間における子供の奪い合い、[[猥褻]]目的などが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_163.html|title=チェコ 安全対策基礎データ|accessdate=2022-2-11|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|チェコの銃法案|en|Gun law in the Czech Republic}}|{{仮リンク|チェコにおける護身方法|en|Self-defence law (Czech Republic)}}}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|チェコの法執行機関|en|Law enforcement in the Czech Republic}}}} ==== 警察 ==== {{Main|{{仮リンク|チェコ共和国警察|cs|Policie České republiky|en|Police of the Czech Republic}}}} かつてのチェコスロバキア時代には{{仮リンク|国家安全保障隊|cs|Sbor národní bezpečnosti}}と呼ばれる軍事的に組織された保安機関が存在していたが、1990年2月1日付でチェコスロバキアにおける秘密警察の主体であった{{仮リンク|チェコスロバキア国家安全保障局|label=国家安全保障局|en|Státní bezpečnost}}が解体されたことにより、1991年から独自の治安維持・保安組織の創設が求められ現在の共和国警察へと編成されるに至った。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|チェコ警察博物館|en|Czech Police Museum}}}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|チェコにおける人権|cs|Lidská práva v Česku}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|チェコのメディア|cs|Média v Česku|en|Mass media in the Czech Republic}}}} {{節スタブ}} === インターネット === {{Main|{{仮リンク|チェコのインターネット|en|Internet in the Czech Republic}}}} 2013年の調査では、チェコ人の68%が[[インターネット]]に接続していた事が報告されている<ref>{{cite web|title=ČSÚ: Necelá třetina českých domácností ještě nemá PC a připojení k internetu|url=http://channelworld.cz/analyzy/csu-necela-tretina-ceskych-domacnosti-jeste-nema-pc-a-pripojeni-k-internetu-10282|publisher=[[International Data Group]]|access-date=11 February 2022}}</ref>。 {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:Kafka1906.jpg|thumb|140px|文学者、[[フランツ・カフカ]]]] [[ファイル:Smetana.jpg|thumb|140px|作曲家、[[ベドルジハ・スメタナ]]]] [[ファイル:Dvorak.jpg|thumb|140px|作曲家、[[アントニン・ドヴォルザーク]]]] {{Main|{{仮リンク|チェコの文化|en|Culture of the Czech Republic}}}} === 食文化 === {{Main|チェコ料理}} '''飲み物''' {{Main|チェコのビール}} * [[ビール]] - チェコはビールの国民1人あたりの年間消費量が世界一である。2005年統計では1人あたり161.5リットルで、日本の3.3倍の消費量にのぼる。[[ピルゼン]]地方を発祥の地とする[[ピルスナー]]タイプ([[ラガー (ビール)|ラガービール]]の一種)は、チェコをはじめとした欧州諸国のみならず、日本のような非ビール文化圏も含めた世界中に広がりを見せている。 ** [[ピルスナー・ウルケル]] ** [[ブドヴァル]](ブドヴァイゼル。英語読みは[[バドワイザー]]。ただし、バドワイザーは登録商標である) '''料理''' * [[クグロフ]]<!-- (?) --> * [[クネドリーキ]]([[クネーデル]]) * [[グラーシュ]] * スマジェニツェ(smaženice) ** スマジェニー・カプル({{lang|cs|Smažený kapr}})- コイの唐揚げ<ref name="roboraion">{{Cite web|和書|title=チェコのクリスマスディナー|url=http://www.roboraion.cz/articles/12-2013/チェコのクリスマスディナー/|website=www.roboraion.cz|accessdate=2020-11-14}}</ref>。クリスマスの行事食。 **[[スマジェニー・ジーゼック]]({{lang|cs|Smažený řízek}})- 薄くたたいた豚肉、鶏肉の唐揚げ<ref name="roboraion" />。[[シュニッツェル]]。 ** [[スマジェニー・スィール]] - チーズの[[揚げ物|衣揚げ]] * [[スヴィチュコヴァー]] - 野菜を煮込んだソース * トゥルデルニーク - チェコ風[[シナモンロール]]。[[砂糖]]を練りこんだ[[パン]]生地を太い鉄の棒にらせん状に巻きつけて筒状に焼き、内側に[[シナモン]]などをまぶした菓子パン。 * パーレック・フ・ロフリーク({{lang|cs|Párek v rohlíku}})- チェコ風ホットドッグ。「ロールの中のソーセージ」という意味で、ロールパンに[[マスタード]]・[[ソーセージ]]を入れたもの。 * [[ブランボラーク]] - じゃがいものパンケーキ<ref>{{Cite web|和書|title=チェコ風じゃがいものパンケーキ(ブランボラーク)|url=https://housefoods.jp/recipe/rcp_00004405.html|website=|accessdate=2020-11-14|language=ja|publisher=[[ハウス食品]]}}</ref>。 * リビー・ポレーフカ({{Lang|cs|Rybí polévka}})- 魚のスープ。クリスマスの行事食<ref name="roboraion" />。 === 文学 === {{main|チェコ文学}} {{div col|33em}} * [[フランツ・カフカ]] * [[アロイス・イラーセク]] * [[ボジェナ・ニェムツォヴァー]] * [[オタ・パヴェル]] * [[カレル・チャペック]] * [[ヤロスラフ・ハシェク]] * [[ヤロスラフ・サイフェルト]] * [[ミラン・クンデラ]] * [[イヴァン・ヴィスコチル]] * [[イヴァン・クリーマ]] * [[ボフミル・フラバル]] * [[ミハル・アイヴァス]] {{div col end}} * アニメーション作家 ** [[イジー・トルンカ]] ** [[カレル・ゼマン]] ** [[ヤン・シュヴァンクマイエル]] === 音楽 === {{main|チェコの音楽}} * [[ベドルジハ・スメタナ]](ベドジフ・スメタナ) * [[アントニン・ドヴォルザーク]](アントニーン・ドヴォジャーク) {{See also|{{仮リンク|モラヴィアの伝統音楽|en|Moravian folk music}}}} === 美術 === {{main|{{仮リンク|チェコ美術|en|Czech art}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|チェコの映画}} === 演劇 === チェコの劇場は、中世以来のヨーロッパ内における劇場の歴史の中で重要な役割を担って来た面を持ち合わせている。 {{See also|{{仮リンク|チェコの劇場|en|Theatre of the Czech Republic}}|{{仮リンク|チェコ国家復興|en|Czech National Revival}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|チェコの建築|en|Czech architecture}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|チェコのゴシック建築|en|Czech Gothic architecture}}}} === 衣装 === [[File:Girls in traditional costumes of Moravia.jpg|thumb|モラヴィアの伝統衣装を身に纏った少女達]] {{main|{{仮リンク|チェコの衣装|en|Czech clothing}}|チェコの民族衣装}} === 世界遺産 === [[ファイル:Hradschin Prag.jpg|thumb|世界遺産[[プラハ歴史地区]]([[プラハ城]])]] {{Main|チェコの世界遺産}} チェコ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が12件存在する。 === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|チェコの祝日|en|Public holidays in the Czech Republic}}}} {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !日付!!日本語表記!!チェコ語表記!!備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||{{lang|cs|Nový rok}}|| |- |変動祝日||[[復活祭|イースター]]マンデー||{{lang|cs|Velikonoční pondělí}}|| |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]||{{lang|cs|Svátek práce}}|| |- |[[5月8日]]||勝戦記念日||{{lang|cs|Den osvobození}}||[[1945年]]の[[ヨーロッパ戦勝記念日|ヨーロッパでの第二次世界大戦の終結]]を記念 |- |[[7月5日]]||[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|ツィリル]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトジェイ]]の日||{{lang|cs|Příchod Cyrila a Metoděje na Moravu}}|| |- |[[7月6日]]||ヤン・フスの日||{{lang|cs|Upálení Jana Husa}}||style="white-space:nowrap"|[[ヤン・フス]]の命日 |- |[[9月28日]]||チェコ国体記念日||{{lang|cs|Den české státnosti}}|| |- |[[10月28日]]||独立記念日||{{lang|cs|Vznik Československa}}||[[1918年]]の[[チェコスロバキア]]の独立記念日 |- |[[11月17日]]||自由と民主主義のための闘争の日||{{lang|cs|Den boje za svobodu a demokracii}}||[[1989年]]の[[ビロード革命]]を記念 |- |[[12月24日]]||[[クリスマス・イヴ]]||{{lang|cs|Štědrý den}}|| |- |[[12月25日]]||[[クリスマス]]||{{lang|cs|První svátek vánoční}}|| |- |style="white-space:nowrap"|[[12月26日]]||[[ボクシング・デー]]||{{lang|cs|Druhý svátek vánoční}}|| |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|チェコのスポーツ|en|Sport in the Czech Republic}}}} {{See also|オリンピックのチェコ選手団}} === アイスホッケー === チェコ国内で最も人気のある[[スポーツ]]は[[アイスホッケー]]であり、[[国技]]ともいわれる。[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]に多数の選手が所属しており、国内リーグでも首都プラハに[[本拠地]]を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは、[[1998年長野オリンピック]]で[[ドミニク・ハシェック]]などの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、[[2006年トリノオリンピック]]では銅メダルを獲得した強豪でもある。2004年には、この長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。チェコ出身で長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、[[ヤロミール・ヤーガー]]は移籍を重ねても常に68の背番号をつけている。さらに[[フィギュアスケート]]でも、[[トマシュ・ベルネル]]や[[ミハル・ブジェジナ]]などの選手を輩出している。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|チェコのサッカー|en|Football in the Czech Republic}}}} [[Image:Pavel Nedvěd.jpg|180px|thumb|[[2003年のバロンドール]]を受賞した[[パベル・ネドベド]]]] チェコでも他の[[ヨーロッパ]]諸国同様に[[サッカー]]も非常に人気であり、[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア時代]]には[[FIFAワールドカップ]]で[[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]と[[1962 FIFAワールドカップ|1962年大会]]で、2度の準優勝に輝いている。さらに[[UEFA欧州選手権]]でも[[UEFA欧州選手権1976|1976年大会]]で優勝を果たした。[[サッカーチェコ代表|チェコ代表]]に分離して以降は、[[UEFA欧州選手権]]では[[UEFA EURO '96|1996年大会]]で準優勝の成績を収めているが、[[FIFAワールドカップ]]には[[2006 FIFAワールドカップ|2006年大会]]に1度出場したのみで、大会もグループリーグ敗退に終わっている。 国内のプロリーグとしては、[[1993年]]に[[チェコ1部リーグ (サッカー)|フォルトゥナ・リガ]]が創設されている。主なクラブとしては、[[ACスパルタ・プラハ|スパルタ・プラハ]]、[[SKスラヴィア・プラハ|スラヴィア・プラハ]]、[[FCヴィクトリア・プルゼニ|ヴィクトリア・プルゼニ]]などが挙げられる。著名な選手としては[[2003年のバロンドール]]を受賞し、主に[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSラツィオ|ラツィオ]]や[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]で活躍した[[パベル・ネドベド]]や[[チェルシーFC]]で長年活躍した、史上最高のゴールキーパーの1人である[[ペトル・チェフ]]が存在する。 === ロードレース === [[自転車競技]]では[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]において[[ヤン・スヴォラダ]]が[[ツール・ド・フランス]]などの世界的レースで活躍したほか、[[オンドジェイ・ソセンカ]]が[[ツール・ド・ポローニュ]]で2度の総合優勝を果たし、UCI[[アワーレコード]]を長らく保持していた。[[ロマン・クロイツィガー]]も2008年の[[ツール・ド・スイス2008|ツール・ド・スイス]]に22歳で総合優勝したのち、その後も[[アムステルゴールドレース2013|アムステルゴールドレース]]で優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームが[[ジャパンカップサイクルロードレース|ジャパンカップ]]に参戦するなどしている。 === モータースポーツ === [[file:2022 Bohemia Rally Mladá Boleslav - Jirásek.jpg|200px|thumb|シュコダ・ファビアRS Rally2。スポンサーのプラガのロゴ付き。(2022年ボヘミア・ラリー)]] [[file:Tatra 815 4x4 Dakar 1992 (14).jpg|200px|thumb|ダカール・ラリーのLIAZ・100 55(左、1985年)とタトラ・815(右、1992年)]] チェコは人口わずか1000万人の国でありながら[[シュコダ・オート]]、[[プラガ]]、[[タトラ (自動車)|タトラ]]、[[CZ]]といった著名な自動車・オートバイメーカーが多数あり、特にオフロード系の競技で輝かしい実績を残している。 シュコダは[[WRC]]([[世界ラリー選手権]])の下位クラスに古くから参戦しており、2010年代以降は低コスト[[四輪駆動]][[ターボ]]車である[[グループRally|ラリー2(旧称R5)]]規定のクラスで無類の強さを誇っている。またシュコダの躍進に合わせてチェコ人ドライバーも活躍し、2018年にヤン・コペッキー/パベル・ドレスラー組がWRC2チャンピオンとなっている。{{main|シュコダ・オート#モータースポーツ}} [[ダカール・ラリー]]のトラック部門では90年代半ばから2000年代初頭にかけてタトラが一時代を築き、チェコ人ドライバーの[[カレル・ロプライス]]が通算6度優勝し「ムッシュ・ダカール」の異名を得た。2023年現在、甥のアレス・ロプライスはプラガのトラックでダカールに参戦中である。またヨセフ・マハチェクは[[全地形対応車|ATV]]と[[サイド・バイ・サイド・ビークル|UTV]]という異なる2部門でダカールを制した。UTVを制したのは63歳の時で、史上最年長部門勝利記録となった。 {{main|カレル・ロプライス}} なおプラガはトラック以外にも[[レーシングカート]]やレーシングカーの製造でも知られ、カートは年間7千台の規模を誇る<ref>[https://www.e15.cz/byznys/prumysl-a-energetika/praga-bohema-ceska-automobilka-uvede-na-trh-novy-supersport-za-desitky-milionu-1395078 Praga Bohema: Česká automobilka uvede na trh nový supersport za desítky milionů]</ref>。 CZのバイクは1960〜70年代の[[モトクロス世界選手権]]で7つのタイトルを、国際6日間エンデューロ(ISDE)で15回の優勝を獲得した。 === 野球 === チェコでは[[チェコ・エクストラリーガ (野球)|チェコ・エクストラリーガ]]などの野球リーグが行われている。[[野球チェコ代表|チェコ代表]]も欧州の中では強豪とされており、[[ヨーロッパ野球選手権大会|ヨーロッパ選手権]]や[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC予選]]などに参加している。2022年9月に[[アーミン・ウルフ・アレーナ|ドイツ]]にて行われた[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック 予選A組|2023年WBC予選]]を[[野球チェコ代表|チェコ代表]]は全体2位で通過し、[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|本大会]]への出場を決めている<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=0Y6DIpkAdP4 |title=Czech Republic qualifies for World Baseball Classic for FIRST TIME!|Small Country Big Dreams |accessdate=2023-02-02 |publisher=MLB}}</ref>。[[ワールド・ベースボール・クラシック|2026年のwbc]]の予選免除対象国となっている。 [[2022年の野球|2022年]]2月に自身のルーツであるチェコに帰化し、[[2023年の野球|2023年]]2月9日に[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|第5回WBC]]本戦の[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック・チェコ代表|チェコ代表]]に初選出された[[エリック・ソガード]]は、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]でカルト的人気を誇り、[[2014年のメジャーリーグベースボール|2014]]年に[[MLBネットワーク]]が行った「MLBの顔(Face of MLB)」と題したコンテストでは並みいる有名スター選手を退け準優勝まで勝ち進んだ。 === その他の競技 === [[テニス]]でも[[マルチナ・ナブラチロワ]]、[[ハナ・マンドリコワ]]、[[ヤナ・ノボトナ]]、[[イワン・レンドル]]、[[ペトル・コルダ]]などの名選手を輩出している。近年では[[ラデク・ステパネク]]、[[ニコル・バイディソバ]]、[[トマーシュ・ベルディハ]]、[[ペトラ・クビトバ]]などの若手の活躍も目覚ましい。 == 著名な出身者 == {{Main|チェコ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|33em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020年11月}} * {{cite book|和書|author=タキトゥス|authorlink=タキトゥス|title=ゲルマーニア|others=[[泉井久之助]](訳)|publisher=[[岩波書店]]|series=岩波文庫|year=1979|ref={{sfnref|タキトゥス『ゲルマーニア』|1979}}|pages=201-203}} * {{Cite book|和書|author=増田幸弘|authorlink=増田幸弘|year=2015|title=黒いチェコ|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779170409|ref=増田}} == 関連項目 == {{div col|33em}} * [[チェコ関係記事の一覧]] * [[日本とチェコの関係]] - 駐日チェコ大使館情報など * [[チェコの交通]] * [[ピルスナー]] * [[シュコダ]] - 自動車会社 * [[タトラ (自動車)|タトラ]] * [[メオプタ]] - 光学会社 * [[クルテク〜もぐらくんと森の仲間たち〜]] * [[ヤン・フス]] * [[宗教改革]] * [[フス派]] * [[フス戦争]] * [[モラヴィア兄弟団]] * [[フッター派]] * [[三十年戦争]] * [[ハプスブルク家]] * [[ハイフン戦争]] {{div col end}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Česko|Czech Republic}} ; 政府 :* チェコ共和国公式サイト:[https://www.mzv.cz/jnp/ Ministry of Foreign Affairs of the Czech Republic] {{cs icon}}{{en icon}} :* チェコ共和国政府:[https://www.vlada.cz Úvodní stránka | Vláda ČR] {{cs icon}}{{en icon}} :* チェコ大統領府:[https://www.hrad.cz/cs/prezident-cr Prezident ČR - Pražský hrad] {{cs icon}}{{en icon}} :* [https://www.mzv.cz/tokyo/ チェコ共和国大使館] {{ja icon}} ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/czech/ チェコ共和国 | 外務省] {{ja icon}} :* [https://www.cz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在チェコ共和国日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 :* チェコ政府観光局:[https://www.czechtourism.com/jp/home/ Czech Republic -] {{ja icon}} :* {{ウィキトラベル インライン|チェコ|チェコ}} ; その他 :* [https://www.jetro.go.jp/world/europe/cz/ JETRO - チェコ] {{ja icon}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{OIF}} {{CPLP}} {{チェコスロバキアの変遷}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちえこ}} [[Category:チェコ|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:先進国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]]
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ブータン
ブータン王国(ブータンおうこく、ゾンカ語: འབྲུག་ཡུལ་、英語: Kingdom of Bhutan)、通称ブータンは、南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はティンプー。北は中国、東西南はインドと国境を接する。 国教は仏教(ロ・ドゥク派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。 国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。 長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。 正式名称のラテン文字表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によればDruk Gyalkhap。Druk Yulという略称が使用されることが多い。 チベット語の表記はチベット文字では འབྲུག་ཡུལ་ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。 公式の英語表記はKingdom of Bhutan。通称、Bhutan。 日本語の表記はブータン王国。通称、ブータン。漢字では不丹と表記し、不と略す。 この国名の起源については様々な説がある。例えば、サンスクリット語で「高地」を意味する「ブーウッタン」説がある。これはインドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派に属するドゥク派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる。 ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教のドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。 ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。 第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。 ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。 両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。 ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。 1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデンを派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約)。 その後1906年にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→プナカ条約(英語版))。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシア帝国であった。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。 従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ・ラージャ(仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュクが世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となった。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュクが第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが1972年に崩御すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即いた。2005年に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。 ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政が成立するまで約300年間維持された。1907年のワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の四代国王主導の政治改革により議会制民主主義への移行準備を開始、代替わり後の2008年に憲法(英語版)が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。 1953年に第3代国王により設置された国民議会(下院に相当。英語: National Assembly、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された国家評議会(上院に相当。英語: National Council、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制である。2008年7月の新憲法制定までは議席数約150の一院制国会(国民議会)であった。旧国民議会の議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。 現在の国民議会は、普通選挙・単純小選挙区制により選出される47人の議員で構成される。一方の国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。 2007年12月31日と2008年1月29日に初の国家評議会(上院)選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会(下院)選挙が実施され、ブータン調和党 (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党 (PDP) は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。4月9日、DPT党首ジグメ・ティンレーが初代民選首相として選出された。 2013年7月13日に国民議会(下院)選挙が実施され、野党のPDPが32議席を獲得して与党のDPT(15議席)を破り、政権を奪取した。7月19日に、PDP党首ツェリン・トブゲが第2代首相として選出された。 1629年行政の中心となる最初のゾンがシムトカ・ゾンであった。 1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首ジグメ・ティンレーが同年4月9日に初の民選首相に任命された。 その他に、かつては王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Council、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割をになった。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は、国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は2007年にその役目を終えて廃止されている。 地方自治組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は地方議会へと改組された。 非同盟中立政策をとり、国際連合安全保障理事会常任理事国のいずれとも外交関係を持っていない。2016年の時点で52カ国、そして欧州連合との間に外交関係を有している。域内外交関係に注力し、南アジア地域協力連合の原加盟国であり、アジア協力対話や多面的技術経済協力のためのベンガル湾構想(英語版)に参加している。1971年には国際連合に加盟している。 2016年時点において国交は樹立していないが、事実上の領事館が香港とマカオにある。1971年にアルバニア決議に賛成しているように一つの中国政策の支持を明言しており、中華民国(台湾)とも国交を持っていない。1974年には中国政府の代表がジグミ・シンゲ・ワンチュク国王の戴冠式に出席した。1984年から定期的な協議を行い、ブータンの外務大臣も中国を度々訪問しており、1998年に中国とブータンは国境地帯の平和安定維持協定を締結している。 北部から西部にかけてのガサ・ティンプー・パロ・ハの4県で中華人民共和国(西蔵自治区日喀則市の亜東県・康馬県、山南市の浪卡子県・洛扎県)と接し、帯状の係争地がある。ドクラム高原は紛争地の最南端に位置する。1990年代以降、中国が係争地の内部に道路、基地の建設をすすめるなどの形で紛争が顕在化。2000年代に入り、ブータン領域内において中国が道路建設を行い、軍及び民間人の越境行為が行われたことから、ブータン政府が抗議を行っている。中国の越境行為は冬虫夏草の採集がその一因と見られている。ブータン政府は協定の遵守を求め、折衝を行っている。なお2014年9月時点での中国との関係について、首相のツェリン・トブゲはNHKの取材に対し、「両国関係は友好的であり良好」との見解を示している。また、国境画定作業が進行中であることも明らかにした。2017年6月28日、ブータンの駐インド大使ナムギャルは、「中国人民解放軍が最近、ドクラムにあるブータン陸軍の兵舎に向かう道路の建設を始めた」として、中国側に抗議した。 英領インドとの条約に、「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド・ブータン条約(英語版)にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。また、2007年3月の条約改定で、「外交への助言」についての文言が「相互協力関係の維持及び拡大」をうたうものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。 ブータンとインドは相互の国民が、互いの国を観光するときにビザなどは必要なく、身分証明書のみでよい。また、ブータン国民がインド国内で就労する際に法的規制はない。 国土面積は、従来約46,500kmであったが、2006年に発表した新国境線では、北部の多くが中国領と主張されているため、約38,400kmにまで減少した。国境線をめぐる問題が長期化している(領土問題も参照)。 志願制の陸軍であり、総兵力は約1万人(ブータン王国軍約7,000人、ブータン国王親衛隊約2,000人、警察官約1,000人も含む)。軍事費がGDPに占める割合は約2パーセント程度で、約1,700万ドル(2006年推計)。 陸軍の装備品は迫撃砲や分隊支援火器などの小火器のみである。砲兵戦力および機甲戦力は有さず、装甲兵員輸送車も一部の部隊に若干数が配備されるにとどまる。小火器は、84ミリ迫撃砲、AK-101、FN FAL、H&K G3、FN ブローニング・ハイパワーの装備が確認されている。 内陸国ゆえに海軍は存在せず、大きな河川も無いため河川軍も編成していない。空軍も存在せず、防空はインド軍に一任している。ブータン軍が保有している航空機はヘリコプターのMi-8(7機)と固定翼機のドルニエ 228(1機)のみである。 また、世界軍事力ランキング(world global fire)ではブータンは最下位となっている。 国内にインドの軍事顧問団と陸軍部隊が1000~1500人駐留している。また、インド政府はブータン軍人のインド留学を随時受け入れている。 2003年、ブータン軍はアッサム独立運動に参加するインド系ゲリラ集団3,000名と交戦。インド軍と連携し、ブータン軍の「大元帥」である第4代国王自ら前線で指揮を執り、国内の拠点をほぼ壊滅させている(オールクリア作戦(英語版))。 インドとは、東をアルナーチャル・プラデーシュ州と、西をシッキム州と、南を西ベンガル州・アッサム州と接しており、その国境線は605kmに達する。また、北の国境線470kmは中華人民共和国のチベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。 ヒマラヤ山脈南麓に位置し、ブータン最高峰は標高7,561mガンカー・プンスム。国土は、南部の標高100mから、北部の標高7,561mまで、7,400m以上の高低差がある。 気候は、標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・ツンドラ気候、標高1,200mから3,000mの中部のモンスーン気候、標高1,200m未満の南部タライ平原の亜熱帯性気候が並存する。 殺生を禁じている宗教上の理由と、資源保護の観点から、川で魚を取る事を禁じており、食用の魚は川の下流にあたるインドからの輸入に頼っている。 ブータン国内に鉄道は通っていない。地方には悪路が多く、自動車事故は衝突事故よりも崖下への転落事故が多い。転落事故に関しては、シートベルトを着用しているほうが救命率が低くなるという考えから、着用は法で強制されておらず、民間では着用を勧めていない。 20のゾンカク(英語版)(Dzongkhag、県)に分かれている。各県の県庁には基本的にゾン(城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクの下に205のゲオ(Gewog、郡)が設置されている。ただし、首都ティンプーなどの人口密集地にはトムデ(英語版)(Thromde)という独立した行政区分がある。複数のゲオをまとめたドゥンカク(英語版)、ゲオの下のチオ(英語版)といった単位もあるが、行政区画というよりも、ドゥンカクは司法区、チオは選挙区として機能している。 IMFの統計によると、ブータンの2020年のGDPは25億ドルであり、日本の人口6万人程度の市に相当する経済規模である。同年の一人当たりのGDPは3359ドルであり、世界平均の3割以下の水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国(最貧国)に分類されている。 主要産業はGDPの約35%を占める農業(米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は電力である。国土がヒマラヤの斜面にあることをいかし、豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ている。輸出品は電力、珪素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなどで、輸入品は高速ディーゼル、ポリマー、石油、米など。2007年統計では貿易総額は輸出入合わせて約10億ドルで貿易収支は若干黒字。 なお、2007年の一人あたりGNIは1,800ドル(2021年は3,040ドル)、経済成長率は19%であった。 観光業は有望だが、文化・自然保護の観点からハイエンドに特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズなどの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能。かならず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。ローシーズンは若干減額される)を前払いし、ガイドが同行する必要がある。ただし、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。 ブータン政府は、1961年以降は5年毎の開発計画に基づく社会経済開発を実施している。2002年7月からは新たに第9次5ヶ年計画が開始されている。国内経済では、農業がGDPの約36%、就労人口の約9割を占める最大の産業であり、対外経済では貿易をはじめインドとの関係が圧倒的に高い割合を占める。 1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として、特にGDP/GNP増加を主眼としている先進国から注目されている。日本も経済援助などを通じブータンのGNH発現と実現に貢献をしている。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、その概念の理解と導入への取り組みがみられる。ただしGNH達成はいまだ目標の段階にとどまっており、2010年の調査で示された平均幸福度は6.1と、日本の6.6を下回っている。 2012年からは国際連合が世界各国の幸福度をランキング化しており、当初ブータンは世界8位と「世界一幸せな国ブータン」を裏付ける結果となっていた。しかし、年を追うにつれて急激に順位が低下し、2010年代後半にはランキング圏外となった。これは国の経済発展とともに様々な情報が国外から入るようになり、国民が他国の生活水準と比較するようになったためと見られている。 ブータン経済において農業は非常に重要な基幹産業である。1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは国民経済計算の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実態よりも小さくみえる。国内総生産においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木、キノコ類である。マツタケは国内で食べる習慣が無かったが、1990年代からは日本向けに輸出されている。 ブータン農業の問題点は生産能力が向上しないことにある。人口が増え続けているにもかかわらず、労働人口に占める農業従事者の割合は高い数値で横ばいに推移しており、農民の数は増え続けている。一方、厳しい地形に阻まれて農地の拡大は望めない。小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されない。このため、1986年・1987年時点と、2003年・2005年時点を比較すると、農民が倍加しているにもかかわらず、生産量がかえって微減している。 具体的には、1986年時点の国土に占める農地の比率が2.2%、牧草地4.6%、森林70.1%だったものが、2003年に至ると、同2.7%、同8.8%、同68.0%に変化している。農地は約2割拡大した。 生産量が1万トンを超える農産物を比較すると、 となっており、主食のコメが半減している。2003年時点ではブータンの輸入品目に占める穀物の割合は7.6%に達した。この傾向は牧畜業にも及び、主力のウシは同じ期間に51万頭から37万頭に減少している。 失業率は4%(ブータン政府資料2009年)。 パロ空港、ヨンプラ空港(英語版)、バトパラタン空港(英語版)、ゲレフー空港(英語版)の4つが主要となっている。 ドゥクパ(ブータン民族)は、ガロン(英語版)(Ngalong)、ブムタンパ(Bumthangpa)、ツァンラ(英語版)(Tshangla/Sharchops)の3つに分けられる。南部低地地帯(タライ平原)には、ネパール系ローツァンパ(Lhotshampa)が居住している。 その他、北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。 ブータンでは、英語も含めると20以上の言語が話されている。公式には、チベット語系のゾンカ語が公用語である他、ネパール語と英語も広く使われている。その他、ツァンラ語、シッキム語、ザラ語、リンブー語、ケン語、バンタワ語などが話されている。国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。英語・ネパール語を除いたすべての言語はチベット・ビルマ語系の言語である。地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語やそれに類するネパール語である。これは近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。2006年の統計上は、ゾンカ語話者は全人口の25%、ネパール語話者は40%である。80年代まで政府は、南ブータンの学校でのネパール語教育に助成金を供出していたが、ゲリラ勢力の台頭以降、教授科目から外れる事となった。 1949年までの長い間イギリスの保護国であったことから政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。また、1980年代半ばにほぼ全ての教育機関で英語が教授言語となった。ゾンカ語は国語という科目名で教えられている。これは、英語を教授言語とすることで国際的に通用する国民になることを目指すことが理由ではない。ブータン人教員の不足のために隣国インドから英語を話す教員を大量に雇い入れた。また、ゾンカ語は国語として制定されたのが比較的最近であり、3割程度の国民にしか理解されない。長年口語として使われてきたものの、文語としては使われてこなかったために表記法などの整備が遅れていることや、仏教関係以外の語彙に乏しく、さらに教材などの点で圧倒的に不足しており教授言語にはなりえないという実情がある。 現在でもブータンの学校ではインド人をはじめとする多くの外国人教員が教鞭を執っている。最大の新聞である『クエンセル』は、英語、ゾンカ語、ネパール語で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。しかし、教授言語が英語でなくヒンディー語やネパール語であった中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた世代には、国語であるゾンカ語は話せても読み書き出来ない者もいるなどの問題も起きている。したがって近年では伝統文化を守るためにゾンカ語教育が強化されており、国語以外の教科でもゾンカ語で教育が行われるようになった。今後、ゾンカ語の教授言語としての整備と合わせ、順次ゾンカ語での教育の割合を増やし、共通語として確立させていく予定である。 ブータンでは一夫多妻制が合法とされているが、ブータンにおける民法(または慣習法)の下でこれまで一夫多妻の配偶者へ法的承認がなされた事例は存在していない。 また、一妻多夫制の存在も確認されているが、現在、一妻多夫制はラヤのような特定の地域にのみ通用している程度であり、さらにブータンでは一夫多妻制と一妻多夫制の両方が否定される傾向にあり消滅へ向かっている。 ブータンにおいては、氏は「家の名」ではなく個人それぞれに名付けられる。婚姻によって改姓することもなく夫婦別姓。 3つの宗教集団に大別される。 他には少数派としてキリスト教徒の存在が確認されている。 近代化の進むなか、チベット仏教は現在でも深くブータンの生活に根差している。ブータン暦の10日に各地で行われるツェチュ(英語版)という祭は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところにあふれ、男根信仰も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法(ディグラム・ナムザ(英語版))は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは正装が義務付けられる。 ブータンの大学はタシガン県にある王立ブータン大学(英語: The Royal University of Bhutan,通称:カンルン大学)が唯一の大学である。この大学には言語文化学部(英語版)(CLCS)と呼ばれる専門機関が設立されている。 また、王立舞台芸術学院(英語版)(RAPA)が存在しており、この教育機関はブータンの伝統文化の保存を支援する目的で国務省(英語版)によって設けられたものである。 ブータンでは1792年から煙草を取り締まる法律が存在した。理由は国民の大半が信仰する仏教上のものである(葉タバコは、女悪魔の血液で育つと考えられている)。2004年12月より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の禁煙国家となり、煙草の販売、製造、流通が禁止された。しかし、200%の関税が課されるが、国外からの一定量の輸入は許されたため、隣国インドからの輸入で闇市場が繁盛した。 2020年のパンデミックで政府がインドとの国境を封鎖したため、闇価格は4倍に跳ね上がった。その折、インドと往来していた行商人が新型コロナウイルスで陽性を示した。そのためロテ・ツェリン首相(週末に医師の仕事を続けている)は密輸品への需要を減らすための一時的な措置として、また、自宅待機中のヘビースモーカーから煙草を取り上げることによって家庭内の緊張が高まることを防ぐため、煙草の販売を解禁し、ロックダウン中の生活必需品に加えられた。 習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い・妻問婚」や「歌垣」などが比較的注目される。 1958年の国籍法を下敷きにして、1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。 その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。1988年以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放された。 この際に、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連 (UNHCR) により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。 ブータンにおける新聞には『クエンセル』が広く知られている。また、1999年まではTV放送が禁止されていた。 ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これはモンスーン気候に代表される照葉樹林地帯(ヒマラヤ山麓-雲南-江南-台湾-日本)に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見い出すことができる。 ブータンの主食は米である。食文化においてはトウガラシの常食と乳製品の多用という独自の面を有しつつ、ブータンで広く食される赤米たるブータン赤米を中心に、パロ米(日本米)、プタ(蕎麦)の栽培、リビイッパ(ブータン納豆)、酒文化(どぶろくに似た醸造酒「シンチャン」や焼酎に似た蒸留酒「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。 ブータン文学はかつて宗教的な教義に傾注されていたが、現在では民間伝承に焦点を当てているものが多い。 ブータンの音楽にはボエドラ(英語版)、ジャンドラ(英語版)と呼ばれる民俗音楽があり、この2つが古くから国民の音楽文化を支えて来た。 また、リグサール(英語版)と呼ばれる大衆音楽が1960年代に登場しており、電子楽器を用いる点やロックのように「より速いリズム」を追求する点から殆どの伝統的な音楽とは対照的な存在となっている。 ブータンを代表する音楽家にはジグメ・ドゥクパ(英語版)が挙げられる。ドゥクパはブータンにおける主要な音楽学者としても知られている。 ブータンの芸術はチベットの芸術(英語版)との類似点が多く、どちらもヴァジュラヤナ(英語版)に基づいている事が共通している。また、伝統工芸においては日本の漆器や織物などとの類似点もある。 ブータンの男性の民族衣装「ゴ」は日本の丹前やどてらに形状が類似していることから、呉服との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は中央アジアとされており、日本の呉服とは起源が異なる。 男性の民族衣装がチベット系統であるのに対して、女性の民族衣装「キラ」は巻き衣の形式を取り、インド・アッサム色が濃い。この点により、ブータンの服飾は北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。 また、ゴはカムニ(英語版)と呼ばれるスカーフ状の装飾品がセットとなっている点が最大の特徴である。 ブータンにおける建築はゾン建築(英語版)が主体となっている。ブータンでは法令により、全ての建物が色とりどりの木製の間口、小さなアーチ型の窓、傾斜のある屋根の3点を必ず取り入れる形で建設することが定められている。 ツェチュ(英語版)と呼ばれる祭りがブータン暦(12か月)の毎月10日に開催されている。ツェチュはチベット仏教における伝統的な祭礼の一つでもある。 この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。 近年、ブータン政府が打ち出している観光政策は「高品質な旅を少数の人に(High Value, Low Volume)」である。新型コロナで外国人旅行客を制限していたが、2022年9月に受け入れを再開。それに関して観光に関わる政策を大きく2点見直した。一つはいわゆる観光税の値上げで、これまで旅行者からは65ドルを徴収していたが、これを一人一泊200ドルに大幅に値上げした。二つ目は公定料金の見直しで、外国人観光客は公定料金と呼ばれる定額料金を支払うのが原則だった。これには、いわゆる観光税、ホテル代、ガイド料金、交通費、食費を含めて250ドル前後であった。この制度は廃止され個別に支払い、料金は業者側が設定できるようになった。 ブータンには国技の「ダツェ」と呼ばれる弓術があるが、他のアジア諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、特に2000年代よりケーブルテレビの普及によって爆発的に人気を獲得した。さらに2012年には、プロサッカーリーグのブータン・プレミアリーグ(英語版)も創設された。ブータンサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーブータン代表は、首都・ティンプーにあるチャンリミタン・スタジアムを本拠地としている。 2002年のFIFAワールドカップ・決勝(ブラジル対ドイツ)が行われる同じ日に、FIFAランキング202位のサッカーブータン代表は最下位203位の英領モントセラト代表との間で、最下位決定戦を行った。試合はティンプーのチャンリミタン・スタジアムで開催され、ブータン代表は4-0で勝利した。この試合のドキュメンタリー映画、『アザー・ファイナル』が、オランダ人のヨハン・クレイマーによって作られた。 クリケットも他の南アジア諸国同様に人気の高いスポーツである。1990年代にテレビが普及し、イングランドなどで開催された1999年クリケット・ワールドカップの影響で人気を高めた。その後、2003年に国内競技連盟のブータンクリケット委員会は国際クリケット評議会に加盟することが認められた。ブータンは2003年から国際大会に参加し、2004年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたACCトロフィーでイランに勝利し、国際試合においての初勝利となった。。ブータンはクリケットへの参入が後発であったが、その後中国、ブルネイ、サウジアラビアなどに勝利を重ね、名声を高めた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブータン王国(ブータンおうこく、ゾンカ語: འབྲུག་ཡུལ་、英語: Kingdom of Bhutan)、通称ブータンは、南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はティンプー。北は中国、東西南はインドと国境を接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国教は仏教(ロ・ドゥク派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称のラテン文字表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によればDruk Gyalkhap。Druk Yulという略称が使用されることが多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "チベット語の表記はチベット文字では འབྲུག་ཡུལ་ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式の英語表記はKingdom of Bhutan。通称、Bhutan。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記はブータン王国。通称、ブータン。漢字では不丹と表記し、不と略す。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この国名の起源については様々な説がある。例えば、サンスクリット語で「高地」を意味する「ブーウッタン」説がある。これはインドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派に属するドゥク派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教のドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデンを派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後1906年にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→プナカ条約(英語版))。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシア帝国であった。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ・ラージャ(仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュクが世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となった。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュクが第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが1972年に崩御すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即いた。2005年に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政が成立するまで約300年間維持された。1907年のワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の四代国王主導の政治改革により議会制民主主義への移行準備を開始、代替わり後の2008年に憲法(英語版)が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1953年に第3代国王により設置された国民議会(下院に相当。英語: National Assembly、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された国家評議会(上院に相当。英語: National Council、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制である。2008年7月の新憲法制定までは議席数約150の一院制国会(国民議会)であった。旧国民議会の議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在の国民議会は、普通選挙・単純小選挙区制により選出される47人の議員で構成される。一方の国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2007年12月31日と2008年1月29日に初の国家評議会(上院)選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会(下院)選挙が実施され、ブータン調和党 (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党 (PDP) は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。4月9日、DPT党首ジグメ・ティンレーが初代民選首相として選出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2013年7月13日に国民議会(下院)選挙が実施され、野党のPDPが32議席を獲得して与党のDPT(15議席)を破り、政権を奪取した。7月19日に、PDP党首ツェリン・トブゲが第2代首相として選出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1629年行政の中心となる最初のゾンがシムトカ・ゾンであった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首ジグメ・ティンレーが同年4月9日に初の民選首相に任命された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その他に、かつては王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Council、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割をになった。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は、国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は2007年にその役目を終えて廃止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "地方自治組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は地方議会へと改組された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "非同盟中立政策をとり、国際連合安全保障理事会常任理事国のいずれとも外交関係を持っていない。2016年の時点で52カ国、そして欧州連合との間に外交関係を有している。域内外交関係に注力し、南アジア地域協力連合の原加盟国であり、アジア協力対話や多面的技術経済協力のためのベンガル湾構想(英語版)に参加している。1971年には国際連合に加盟している。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2016年時点において国交は樹立していないが、事実上の領事館が香港とマカオにある。1971年にアルバニア決議に賛成しているように一つの中国政策の支持を明言しており、中華民国(台湾)とも国交を持っていない。1974年には中国政府の代表がジグミ・シンゲ・ワンチュク国王の戴冠式に出席した。1984年から定期的な協議を行い、ブータンの外務大臣も中国を度々訪問しており、1998年に中国とブータンは国境地帯の平和安定維持協定を締結している。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "北部から西部にかけてのガサ・ティンプー・パロ・ハの4県で中華人民共和国(西蔵自治区日喀則市の亜東県・康馬県、山南市の浪卡子県・洛扎県)と接し、帯状の係争地がある。ドクラム高原は紛争地の最南端に位置する。1990年代以降、中国が係争地の内部に道路、基地の建設をすすめるなどの形で紛争が顕在化。2000年代に入り、ブータン領域内において中国が道路建設を行い、軍及び民間人の越境行為が行われたことから、ブータン政府が抗議を行っている。中国の越境行為は冬虫夏草の採集がその一因と見られている。ブータン政府は協定の遵守を求め、折衝を行っている。なお2014年9月時点での中国との関係について、首相のツェリン・トブゲはNHKの取材に対し、「両国関係は友好的であり良好」との見解を示している。また、国境画定作業が進行中であることも明らかにした。2017年6月28日、ブータンの駐インド大使ナムギャルは、「中国人民解放軍が最近、ドクラムにあるブータン陸軍の兵舎に向かう道路の建設を始めた」として、中国側に抗議した。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "英領インドとの条約に、「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド・ブータン条約(英語版)にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。また、2007年3月の条約改定で、「外交への助言」についての文言が「相互協力関係の維持及び拡大」をうたうものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ブータンとインドは相互の国民が、互いの国を観光するときにビザなどは必要なく、身分証明書のみでよい。また、ブータン国民がインド国内で就労する際に法的規制はない。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国土面積は、従来約46,500kmであったが、2006年に発表した新国境線では、北部の多くが中国領と主張されているため、約38,400kmにまで減少した。国境線をめぐる問題が長期化している(領土問題も参照)。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "志願制の陸軍であり、総兵力は約1万人(ブータン王国軍約7,000人、ブータン国王親衛隊約2,000人、警察官約1,000人も含む)。軍事費がGDPに占める割合は約2パーセント程度で、約1,700万ドル(2006年推計)。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "陸軍の装備品は迫撃砲や分隊支援火器などの小火器のみである。砲兵戦力および機甲戦力は有さず、装甲兵員輸送車も一部の部隊に若干数が配備されるにとどまる。小火器は、84ミリ迫撃砲、AK-101、FN FAL、H&K G3、FN ブローニング・ハイパワーの装備が確認されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "内陸国ゆえに海軍は存在せず、大きな河川も無いため河川軍も編成していない。空軍も存在せず、防空はインド軍に一任している。ブータン軍が保有している航空機はヘリコプターのMi-8(7機)と固定翼機のドルニエ 228(1機)のみである。 また、世界軍事力ランキング(world global fire)ではブータンは最下位となっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "国内にインドの軍事顧問団と陸軍部隊が1000~1500人駐留している。また、インド政府はブータン軍人のインド留学を随時受け入れている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年、ブータン軍はアッサム独立運動に参加するインド系ゲリラ集団3,000名と交戦。インド軍と連携し、ブータン軍の「大元帥」である第4代国王自ら前線で指揮を執り、国内の拠点をほぼ壊滅させている(オールクリア作戦(英語版))。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "インドとは、東をアルナーチャル・プラデーシュ州と、西をシッキム州と、南を西ベンガル州・アッサム州と接しており、その国境線は605kmに達する。また、北の国境線470kmは中華人民共和国のチベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ヒマラヤ山脈南麓に位置し、ブータン最高峰は標高7,561mガンカー・プンスム。国土は、南部の標高100mから、北部の標高7,561mまで、7,400m以上の高低差がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "気候は、標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・ツンドラ気候、標高1,200mから3,000mの中部のモンスーン気候、標高1,200m未満の南部タライ平原の亜熱帯性気候が並存する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "殺生を禁じている宗教上の理由と、資源保護の観点から、川で魚を取る事を禁じており、食用の魚は川の下流にあたるインドからの輸入に頼っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ブータン国内に鉄道は通っていない。地方には悪路が多く、自動車事故は衝突事故よりも崖下への転落事故が多い。転落事故に関しては、シートベルトを着用しているほうが救命率が低くなるという考えから、着用は法で強制されておらず、民間では着用を勧めていない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "20のゾンカク(英語版)(Dzongkhag、県)に分かれている。各県の県庁には基本的にゾン(城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクの下に205のゲオ(Gewog、郡)が設置されている。ただし、首都ティンプーなどの人口密集地にはトムデ(英語版)(Thromde)という独立した行政区分がある。複数のゲオをまとめたドゥンカク(英語版)、ゲオの下のチオ(英語版)といった単位もあるが、行政区画というよりも、ドゥンカクは司法区、チオは選挙区として機能している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、ブータンの2020年のGDPは25億ドルであり、日本の人口6万人程度の市に相当する経済規模である。同年の一人当たりのGDPは3359ドルであり、世界平均の3割以下の水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国(最貧国)に分類されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "主要産業はGDPの約35%を占める農業(米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は電力である。国土がヒマラヤの斜面にあることをいかし、豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ている。輸出品は電力、珪素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなどで、輸入品は高速ディーゼル、ポリマー、石油、米など。2007年統計では貿易総額は輸出入合わせて約10億ドルで貿易収支は若干黒字。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、2007年の一人あたりGNIは1,800ドル(2021年は3,040ドル)、経済成長率は19%であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "観光業は有望だが、文化・自然保護の観点からハイエンドに特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズなどの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能。かならず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。ローシーズンは若干減額される)を前払いし、ガイドが同行する必要がある。ただし、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ブータン政府は、1961年以降は5年毎の開発計画に基づく社会経済開発を実施している。2002年7月からは新たに第9次5ヶ年計画が開始されている。国内経済では、農業がGDPの約36%、就労人口の約9割を占める最大の産業であり、対外経済では貿易をはじめインドとの関係が圧倒的に高い割合を占める。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として、特にGDP/GNP増加を主眼としている先進国から注目されている。日本も経済援助などを通じブータンのGNH発現と実現に貢献をしている。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、その概念の理解と導入への取り組みがみられる。ただしGNH達成はいまだ目標の段階にとどまっており、2010年の調査で示された平均幸福度は6.1と、日本の6.6を下回っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2012年からは国際連合が世界各国の幸福度をランキング化しており、当初ブータンは世界8位と「世界一幸せな国ブータン」を裏付ける結果となっていた。しかし、年を追うにつれて急激に順位が低下し、2010年代後半にはランキング圏外となった。これは国の経済発展とともに様々な情報が国外から入るようになり、国民が他国の生活水準と比較するようになったためと見られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ブータン経済において農業は非常に重要な基幹産業である。1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは国民経済計算の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実態よりも小さくみえる。国内総生産においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木、キノコ類である。マツタケは国内で食べる習慣が無かったが、1990年代からは日本向けに輸出されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ブータン農業の問題点は生産能力が向上しないことにある。人口が増え続けているにもかかわらず、労働人口に占める農業従事者の割合は高い数値で横ばいに推移しており、農民の数は増え続けている。一方、厳しい地形に阻まれて農地の拡大は望めない。小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されない。このため、1986年・1987年時点と、2003年・2005年時点を比較すると、農民が倍加しているにもかかわらず、生産量がかえって微減している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "具体的には、1986年時点の国土に占める農地の比率が2.2%、牧草地4.6%、森林70.1%だったものが、2003年に至ると、同2.7%、同8.8%、同68.0%に変化している。農地は約2割拡大した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "生産量が1万トンを超える農産物を比較すると、", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となっており、主食のコメが半減している。2003年時点ではブータンの輸入品目に占める穀物の割合は7.6%に達した。この傾向は牧畜業にも及び、主力のウシは同じ期間に51万頭から37万頭に減少している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "失業率は4%(ブータン政府資料2009年)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "パロ空港、ヨンプラ空港(英語版)、バトパラタン空港(英語版)、ゲレフー空港(英語版)の4つが主要となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ドゥクパ(ブータン民族)は、ガロン(英語版)(Ngalong)、ブムタンパ(Bumthangpa)、ツァンラ(英語版)(Tshangla/Sharchops)の3つに分けられる。南部低地地帯(タライ平原)には、ネパール系ローツァンパ(Lhotshampa)が居住している。 その他、北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ブータンでは、英語も含めると20以上の言語が話されている。公式には、チベット語系のゾンカ語が公用語である他、ネパール語と英語も広く使われている。その他、ツァンラ語、シッキム語、ザラ語、リンブー語、ケン語、バンタワ語などが話されている。国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。英語・ネパール語を除いたすべての言語はチベット・ビルマ語系の言語である。地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語やそれに類するネパール語である。これは近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。2006年の統計上は、ゾンカ語話者は全人口の25%、ネパール語話者は40%である。80年代まで政府は、南ブータンの学校でのネパール語教育に助成金を供出していたが、ゲリラ勢力の台頭以降、教授科目から外れる事となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1949年までの長い間イギリスの保護国であったことから政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。また、1980年代半ばにほぼ全ての教育機関で英語が教授言語となった。ゾンカ語は国語という科目名で教えられている。これは、英語を教授言語とすることで国際的に通用する国民になることを目指すことが理由ではない。ブータン人教員の不足のために隣国インドから英語を話す教員を大量に雇い入れた。また、ゾンカ語は国語として制定されたのが比較的最近であり、3割程度の国民にしか理解されない。長年口語として使われてきたものの、文語としては使われてこなかったために表記法などの整備が遅れていることや、仏教関係以外の語彙に乏しく、さらに教材などの点で圧倒的に不足しており教授言語にはなりえないという実情がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "現在でもブータンの学校ではインド人をはじめとする多くの外国人教員が教鞭を執っている。最大の新聞である『クエンセル』は、英語、ゾンカ語、ネパール語で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。しかし、教授言語が英語でなくヒンディー語やネパール語であった中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた世代には、国語であるゾンカ語は話せても読み書き出来ない者もいるなどの問題も起きている。したがって近年では伝統文化を守るためにゾンカ語教育が強化されており、国語以外の教科でもゾンカ語で教育が行われるようになった。今後、ゾンカ語の教授言語としての整備と合わせ、順次ゾンカ語での教育の割合を増やし、共通語として確立させていく予定である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ブータンでは一夫多妻制が合法とされているが、ブータンにおける民法(または慣習法)の下でこれまで一夫多妻の配偶者へ法的承認がなされた事例は存在していない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また、一妻多夫制の存在も確認されているが、現在、一妻多夫制はラヤのような特定の地域にのみ通用している程度であり、さらにブータンでは一夫多妻制と一妻多夫制の両方が否定される傾向にあり消滅へ向かっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ブータンにおいては、氏は「家の名」ではなく個人それぞれに名付けられる。婚姻によって改姓することもなく夫婦別姓。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "3つの宗教集団に大別される。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "他には少数派としてキリスト教徒の存在が確認されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "近代化の進むなか、チベット仏教は現在でも深くブータンの生活に根差している。ブータン暦の10日に各地で行われるツェチュ(英語版)という祭は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところにあふれ、男根信仰も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法(ディグラム・ナムザ(英語版))は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは正装が義務付けられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ブータンの大学はタシガン県にある王立ブータン大学(英語: The Royal University of Bhutan,通称:カンルン大学)が唯一の大学である。この大学には言語文化学部(英語版)(CLCS)と呼ばれる専門機関が設立されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、王立舞台芸術学院(英語版)(RAPA)が存在しており、この教育機関はブータンの伝統文化の保存を支援する目的で国務省(英語版)によって設けられたものである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ブータンでは1792年から煙草を取り締まる法律が存在した。理由は国民の大半が信仰する仏教上のものである(葉タバコは、女悪魔の血液で育つと考えられている)。2004年12月より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の禁煙国家となり、煙草の販売、製造、流通が禁止された。しかし、200%の関税が課されるが、国外からの一定量の輸入は許されたため、隣国インドからの輸入で闇市場が繁盛した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2020年のパンデミックで政府がインドとの国境を封鎖したため、闇価格は4倍に跳ね上がった。その折、インドと往来していた行商人が新型コロナウイルスで陽性を示した。そのためロテ・ツェリン首相(週末に医師の仕事を続けている)は密輸品への需要を減らすための一時的な措置として、また、自宅待機中のヘビースモーカーから煙草を取り上げることによって家庭内の緊張が高まることを防ぐため、煙草の販売を解禁し、ロックダウン中の生活必需品に加えられた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い・妻問婚」や「歌垣」などが比較的注目される。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1958年の国籍法を下敷きにして、1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。1988年以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放された。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "この際に、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連 (UNHCR) により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ブータンにおける新聞には『クエンセル』が広く知られている。また、1999年まではTV放送が禁止されていた。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これはモンスーン気候に代表される照葉樹林地帯(ヒマラヤ山麓-雲南-江南-台湾-日本)に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見い出すことができる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ブータンの主食は米である。食文化においてはトウガラシの常食と乳製品の多用という独自の面を有しつつ、ブータンで広く食される赤米たるブータン赤米を中心に、パロ米(日本米)、プタ(蕎麦)の栽培、リビイッパ(ブータン納豆)、酒文化(どぶろくに似た醸造酒「シンチャン」や焼酎に似た蒸留酒「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ブータン文学はかつて宗教的な教義に傾注されていたが、現在では民間伝承に焦点を当てているものが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ブータンの音楽にはボエドラ(英語版)、ジャンドラ(英語版)と呼ばれる民俗音楽があり、この2つが古くから国民の音楽文化を支えて来た。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、リグサール(英語版)と呼ばれる大衆音楽が1960年代に登場しており、電子楽器を用いる点やロックのように「より速いリズム」を追求する点から殆どの伝統的な音楽とは対照的な存在となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ブータンを代表する音楽家にはジグメ・ドゥクパ(英語版)が挙げられる。ドゥクパはブータンにおける主要な音楽学者としても知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ブータンの芸術はチベットの芸術(英語版)との類似点が多く、どちらもヴァジュラヤナ(英語版)に基づいている事が共通している。また、伝統工芸においては日本の漆器や織物などとの類似点もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ブータンの男性の民族衣装「ゴ」は日本の丹前やどてらに形状が類似していることから、呉服との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は中央アジアとされており、日本の呉服とは起源が異なる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "男性の民族衣装がチベット系統であるのに対して、女性の民族衣装「キラ」は巻き衣の形式を取り、インド・アッサム色が濃い。この点により、ブータンの服飾は北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、ゴはカムニ(英語版)と呼ばれるスカーフ状の装飾品がセットとなっている点が最大の特徴である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ブータンにおける建築はゾン建築(英語版)が主体となっている。ブータンでは法令により、全ての建物が色とりどりの木製の間口、小さなアーチ型の窓、傾斜のある屋根の3点を必ず取り入れる形で建設することが定められている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ツェチュ(英語版)と呼ばれる祭りがブータン暦(12か月)の毎月10日に開催されている。ツェチュはチベット仏教における伝統的な祭礼の一つでもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "近年、ブータン政府が打ち出している観光政策は「高品質な旅を少数の人に(High Value, Low Volume)」である。新型コロナで外国人旅行客を制限していたが、2022年9月に受け入れを再開。それに関して観光に関わる政策を大きく2点見直した。一つはいわゆる観光税の値上げで、これまで旅行者からは65ドルを徴収していたが、これを一人一泊200ドルに大幅に値上げした。二つ目は公定料金の見直しで、外国人観光客は公定料金と呼ばれる定額料金を支払うのが原則だった。これには、いわゆる観光税、ホテル代、ガイド料金、交通費、食費を含めて250ドル前後であった。この制度は廃止され個別に支払い、料金は業者側が設定できるようになった。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ブータンには国技の「ダツェ」と呼ばれる弓術があるが、他のアジア諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、特に2000年代よりケーブルテレビの普及によって爆発的に人気を獲得した。さらに2012年には、プロサッカーリーグのブータン・プレミアリーグ(英語版)も創設された。ブータンサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーブータン代表は、首都・ティンプーにあるチャンリミタン・スタジアムを本拠地としている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2002年のFIFAワールドカップ・決勝(ブラジル対ドイツ)が行われる同じ日に、FIFAランキング202位のサッカーブータン代表は最下位203位の英領モントセラト代表との間で、最下位決定戦を行った。試合はティンプーのチャンリミタン・スタジアムで開催され、ブータン代表は4-0で勝利した。この試合のドキュメンタリー映画、『アザー・ファイナル』が、オランダ人のヨハン・クレイマーによって作られた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "クリケットも他の南アジア諸国同様に人気の高いスポーツである。1990年代にテレビが普及し、イングランドなどで開催された1999年クリケット・ワールドカップの影響で人気を高めた。その後、2003年に国内競技連盟のブータンクリケット委員会は国際クリケット評議会に加盟することが認められた。ブータンは2003年から国際大会に参加し、2004年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたACCトロフィーでイランに勝利し、国際試合においての初勝利となった。。ブータンはクリケットへの参入が後発であったが、その後中国、ブルネイ、サウジアラビアなどに勝利を重ね、名声を高めた。", "title": "スポーツ" } ]
ブータン王国、通称ブータンは、南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はティンプー。北は中国、東西南はインドと国境を接する。 国教は仏教(ロ・ドゥク派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。 国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。 長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。
{{混同|ブーダン}} {{特殊文字|説明=[[チベット文字]]}} {{基礎情報 国 | 略名 = ブータン | 日本語国名 = ブータン王国 | 公式国名 = {{Lang|dz|'''འབྲུག་ཡུལ་'''}} | 国旗画像 = Flag of Bhutan.svg | 国旗リンク = ([[ブータンの国旗|国旗]]) | 国章画像 = [[ファイル:Emblem_of_Bhutan.svg|100px]] | 国章リンク = ([[ブータンの国章|国章]]) | 標語 = なし | 位置画像 = Bhutan (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ゾンカ語]] | 首都 = [[ティンプー]] | 最大都市 = ティンプー | 元首等肩書 = [[ブータンの国王一覧|龍王]] | 元首等氏名 = [[ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク]] | 首相等肩書 = [[ブータンの首相|暫定首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|チョギャル・ダゴ・リグジン|en|Chogyal Dago Rigdzin}} | 面積順位 = 128 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 38,400 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 165 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 867,775 | 人口密度値 = 22.6 | 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/bhutan/ |title=Bhutan |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月21日}}</ref> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1783億7000万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=514,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-10}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 161 | GDP値MER = 25億300万<ref name="imf202110"/> | GDP MER/人 = 3,358.961(推計)<ref name="imf202110"/> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 158 | GDP値 = 89億8700万<ref name="imf202110"/> | GDP/人 = 12,057.777(推計)<ref name="imf202110"/> | 建国形態 = [[独立]] | 建国年月日 = [[1907年]][[12月17日]] | 通貨 = [[ニュルタム|ヌルタム]]<br>[[インド・ルピー]]<ref>{{cite web |title=Frequently Asked Questions |url=https://www.rma.org.bt/FAQ.jsp#2 |publisher=[[Royal Monetary Authority of Bhutan]] |access-date=2021-04-18}}</ref> | 通貨コード = | 時間帯 = +6 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[雷龍の王国|{{lang|dz|འབྲུག་ཙན་དན་}}]]{{dz icon}}<br />(雷龍の王国) | ISO 3166-1 = BT / BTN | ccTLD = [[.bt]] | 国際電話番号 = 975 | 注記 = }} '''ブータン王国'''(ブータンおうこく、{{Lang-dz|འབྲུག་ཡུལ་}}、{{Lang-en|Kingdom of Bhutan}})、通称'''ブータン'''は、[[南アジア]]に位置する[[立憲君主制]][[国家]]。[[首都]]は[[ティンプー]]。北は[[中華人民共和国|中国]]、東西南は[[インド]]と[[国境]]を接する。 [[国教]]は[[仏教]]([[カギュ派#分派|ロ・ドゥク派]])。[[民族]]は[[チベット]]系8割、[[ネパール]]系2割。[[公用語]]は[[ゾンカ語]]。 [[ブータンの国旗|国旗]]はその模様が複雑で、[[竜]]の[[鱗|うろこ]]が細かく描かれている。[[国花]]は[[メコノプシス=ホリドゥラ]]、国樹は[[イトスギ]]、[[国獣]]は[[ターキン]]、[[国鳥]]は[[ワタリガラス]]、国蝶は[[ブータンシボリアゲハ]]。 長年[[鎖国]]政策をとっていたが、[[1971年]]に[[国際連合]]加盟。翌年に[[国民総幸福量]]という[[功利主義]]を採用した。 == 国名 == 正式名称の[[ラテン文字]]表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によれば''Druk Gyalkhap''。''Druk Yul''という略称が使用されることが多い。 チベット語の表記は[[チベット文字]]では {{Lang|dz|'''འབྲུག་ཡུལ་'''}}[[ワイリー方式|ワイリー拡張方式]]では'' 'brug yul''、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。 公式の[[英語]]表記は''Kingdom of Bhutan''。通称、''Bhutan''。 [[日本語]]の表記は'''ブータン王国'''。通称、'''ブータン'''。[[漢字]]では'''不丹'''と表記し、'''不'''と略す。 この国名の起源については様々な説がある。例えば、[[サンスクリット語]]で「高地」を意味する「ブーウッタン」説がある。これはインドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教の[[カギュ派]]に属するドゥク派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる<ref>[[#ブータン王国教育省教育部2008|ブータン王国教育省教育部 2008]] pp. 16-19.</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:Cloud-hidden, whereabouts unknown (Paro, Bhutan).jpg|thumb|left|200px|[[1646年]]建設の[[パロ県|パロ谷]]の[[ゾン]]]] {{main|{{仮リンク|ブータンの歴史|en|History of Bhutan}}}} ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によって[[チベット仏教]]の[[カギュ派#分派|ドゥク・カギュ派]]が伝えられ、以後、同地に定着していった。 ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より[[化身ラマ]]が同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。 第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫[[ガワン・ナムゲル]]を同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。 ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。 両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。 ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。 [[1772年]]、当時インドの[[クーチ・ビハール王国]]に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来[[イギリス]]との関係が始まる。この紛争は[[パンチェン・ラマ]]の調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人による[[:en:Dooars|ドゥアール]]地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使[[:en:Ashley Eden|イーデン]]を派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国[[インド総督]]が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは[[1864年]]にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが([[ブータン戦争|ドゥアール戦争]])、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、[[1865年]]にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→[[シンチュラ条約]]){{Sfn|朝日新聞社中央調査会|1942|p=276}}<ref name="雑纂 p5/8">JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、5頁</ref>。 その後[[1906年]]にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、[[1910年]]には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらに[[シッキム王国]]及びクーチ・ビハール侯国の[[ラージャ|マハ・ラージャ]]との抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→{{仮リンク|プナカ条約|en|Treaty of Punakha}})<ref name="雑纂 p5/8"/>。イギリスによるこの外交指導権買収は、[[イギリス領インド帝国|英領インド]]保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた[[清|清国]]と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていた[[ロシア帝国]]であった<ref name="雑纂 p6/8">JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、6頁</ref>。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に[[北京]]駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した{{Sfn|朝日新聞社中央調査会|1942|p=276}}。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。 [[ファイル:Ugyen Wangchuk, 1905.jpg|thumb|180px|初代国王[[ウゲン・ワンチュク]]]] 従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者である[[法 (仏教)|ダルマ]]・[[ラージャ]](仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし[[1885年]]に内乱が勃発して以来国内が安定しなかった{{Sfn|朝日新聞社中央調査会|1942|p=276}}ことから、[[1907年]]ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主[[ウゲン・ワンチュク]]が世襲の王位に選ばれ、初代[[ブータンの国王一覧|ブータン国王]]となった{{Sfn|朝日新聞社中央調査会|1942|p=277}}。次いで[[1926年]]にその子息[[ジグミ・ワンチュク]]が第2代国王となり、第3代国王[[ジグミ・ドルジ・ワンチュク]]が[[1972年]]に崩御すると、僅か16歳で即位した[[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]が永らく第4代国王の座に即いた。[[2005年]]に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、[[ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク]]が第5代国王に即位した。[[2008年]]7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに[[立憲君主国]]へと移行した。 === 年表 === [[ファイル:Takin_indický.jpg|thumb|ブータンの国獣、ターキン]] [[ファイル:Common_Raven_at_Byrce_National_Park.jpg|thumb|国鳥ワタリガラス]] * [[627年]] - パロのキチュ・ラカンとブムタンの[[ジャンパ・ラカン]]が[[ソンツェン・ガンポ]]によって建設される。 * [[747年]] - [[パドマサンバヴァ]]が[[チベット仏教]]の[[ニンマ派]]を伝える。 * [[1616年]] - [[ドゥク派]]([[チベット仏教]][[カギュ派]]の支派)座主職をめぐり内紛。座主職を相伝してきたギャ氏の[[ガワン・ナムゲル]]の継承に対し、反対派が「先代の[[化身ラマ]]」を擁して対抗。時のチベット中央政府の介入により座主職を追われたガワン・ナムゲルが南方モン地方の支持者に迎えられて政権を樹立。ブータン国家の起源。 * [[1617年]] - チベット・ツァンパ政権による第1回侵攻。 * [[1626年]] - [[イエズス会]]の[[ポルトガル]]人神父、エステヴァン・カセラ、ヨハン・カプラルがヨーロッパ人として初めてブータン入国。 * [[1634年]] - チベット・ツァンパ政権による第2回侵攻。 * [[1639年]] - チベット・ツァンパ政権による第3回侵攻。 * [[1644年]] - チベット・[[ガンデンポタン|ダライラマ政権]](1642年成立)による攻撃。 * [[1648年]] - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃。 * [[1649年]] - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃。 * [[1651年]] - ガワン・ナムゲル入寂。ドゥク派は東部地方を除くブータン全土に浸透していった。 *[[1694年]] - [[タクツァン僧院]]建立。1998年に寺院の大半を焼失。その後再建。 * [[1714年]] - チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃 * [[1825年]] - ジグミ・ナムゲル、クルテに誕生。(~1880年) * [[1864年]] - イギリス=ブータン戦争([[ブータン戦争|ドゥアール戦争]])勃発。 * [[1865年]] - [[ブータン戦争]](ドゥアール戦争)に敗北し、[[イギリス]]との間に[[シンチュラ条約]]を締結。イギリスは領土占領と引き換えにブータンに年5万[[ルピー]]を補償金として支払うことになった。ブータンは[[アッサム州|アッサム]]、[[ベンガル地方|ベンガル]]、{{仮リンク|ドゥアール|en|Dooars}}の7,122平方キロメートルの領土を喪失した。 * [[1870年]] - ジグミ・ナムゲルはデシに任命される。 * [[1882年]] - ウゲン・ワンチュクはトンサ・ペンロップとなった。 * [[1906年]] - 英国人のブータン入国が正式に承認される。 * [[1907年]] - [[ブータンの国王一覧|ワンチュク家]](現王朝)が支配権を確立する。[[12月17日]]、[[ウゲン・ワンチュク]]が初代世襲制国王に選出される。'''ブータン王国'''となる。 * [[1910年]] - {{仮リンク|プナカ条約|en|Treaty of Punakha}}締結。[[1949年]]まで[[イギリス]]の保護下に入る。 * [[1926年]] - [[ジグミ・ワンチュク]]が第2代国王になる。 * [[1947年]] - インド・[[ニューデリー]]で行われた[[アジア関係諸国会議]] (Asian Relations Coference) に参加。 * [[1949年]] - {{仮リンク|インド・ブータン条約|en|Bhutan–India relations#1949 Treaty}}調印。 * [[1952年]] - [[ジグミ・ドルジ・ワンチュク]]が第3代国王になる。 * [[1964年]] - {{仮リンク|ジグミ・パルデン・ドルジ首相|en|Jigme Palden Dorji}}が暗殺される。 * [[1971年]] - [[国際連合]]に加盟する。128番目の加盟国として国連への参加を認められた。 * [[1972年]] - [[ジグメ・シンゲ・ワンチュク|ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]が第4代国王になる。 * [[1973年]] - [[非同盟諸国会議]] (NAM) に出席。 * [[1974年]] - 第4代国王戴冠式。 * [[1985年]] - [[南アジア地域協力連合]] (SAARC) に参加。 * [[1990年]] - 反政府運動激化。南部居住の[[ネパール人|ネパール系住民]]が国外に脱出し難民化する([[ブータン難民]])。 * [[1999年]] - 国内テレビ放送開始([[ブータン国営放送]])。[[インターネット]]の利用を許可。 <!-- * [[2002年]]:[[6月30日]]、[[モントセラト]]と[[サッカー]][[FIFAランキング]]最下位決定戦[[アザー・ファイナル]]を行い快勝。--><!-- この節に記述する内容ではない --> * [[2003年]] - インドからの要求に従い、6年間ブータン国内に潜伏していた3000人の[[アッサム]]・ゲリラの追放作戦を行う({{仮リンク|オールクリア作戦|en|Operation All Clear}})<ref name="imaeda">{{Cite web|和書|author=[[今枝由郎]] |url=http://www.aa.tufs.ac.jp/documents/sympo_ws/BhutanLecture_20121017report_ja.pdf |format=PDF|title=仏教王と戦争 ---ブータン第四代国王による2003年アッサム・ゲリラ国外追撃作戦-- |publisher=[[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]] |accessdate=2019-04-17}}</ref>。 * [[2005年]] - ワンチュク国王、2008年の譲位と総選挙後の[[立憲君主制]]移行を表明。 * [[2006年]] - 当初の予定を繰り上げて、[[ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク]]が第5代国王に即位。 * [[2007年]] - 12月、初の普通国政選挙となる[[国家評議会 (ブータン)|国家評議会]](上院)選挙を実施。 * [[2008年]] - 3月、普通選挙による[[国民議会 (ブータン)|国民議会]](下院)選挙を実施。4月、初の民選[[首相]]として[[ジグメ・ティンレー]]が選任される。[[7月18日]]、新[[憲法]]が公布される。 * [[2011年]] - 日本の調査隊により、78年ぶりに再発見された[[ブータンシボリアゲハ]]を国蝶とする。 * [[2013年]] - 7月、普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。[[国民民主党 (ブータン)|国民民主党]] (PDP)が過半数を獲得し、政権交代がおこなわれる。 * [[2020年]] - [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の感染拡大に伴い、8月、12月の2回にわたり全土に[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]が行われる<ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-19 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/08/0d1e5b626c47be15.html |title=ブータン全土でロックダウン開始 |publisher=JETRO |accessdate=2020-12-29}}</ref>。 * [[2021年]] - [[ブータンの国会|国会]]でブータン刑法第213条が改正、「被告人が自然の秩序に反する性行為を行った場合、被告人は不自然な性行為で有罪となる。ただし、成人間の[[同性愛]]は不自然な性行為とはみなされない。」とされ同年[[2月17日]]施行。それまで犯罪であった同性愛の性交渉が、合法化された(「[[ブータンにおけるLGBTの権利]]」も参照)。 == 政治 == [[ファイル:King Jigme Khesar Namgyel Wangchuck (edit).jpg|thumb|180px|第5代国王[[ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク]]]] {{main|[[ブータンの政治]]}} ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に[[世襲君主制|世襲王政]]が成立するまで約300年間維持された<ref>[[#ブータン王国教育省教育部2008|ブータン王国教育省教育部 2008]] p. 123.</ref>。[[1907年]]の[[ブータンの国王一覧|ワンチュク朝]]成立以降、国王を中心とする[[絶対君主制]]だったが、近年の四代国王主導の政治改革により議会制民主主義への移行準備を開始、代替わり後の[[2008年]]に{{仮リンク|ブータンの憲法|en|Constitution of Bhutan|label=憲法}}が公布され、民選首相が選出されるなど[[立憲君主制]]に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳[[定年制]]が採用されている。 === 立法 === {{main|ブータンの政党|{{仮リンク|ブータンの法律|en|Law of Bhutan}}}} 1953年に第3代国王により設置された[[国民議会 (ブータン)|国民議会]](下院に相当。{{lang-en|National Assembly|links=no}}、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された[[国家評議会 (ブータン)|国家評議会]](上院に相当。{{lang-en|National Council|links=no}}、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による[[両院制]]である。2008年7月の新憲法制定までは議席数約150の[[一院制]]国会(国民議会)であった。旧国民議会の議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。 現在の国民議会は、[[普通選挙]]・単純[[小選挙区制]]により選出される47人の議員で構成される。一方の国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。 2007年12月31日と2008年1月29日に初の国家評議会(上院)選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会(下院)選挙が実施され、[[ブータン調和党]] (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の[[国民民主党 (ブータン)|国民民主党]] (PDP) は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。4月9日、DPT党首[[ジグメ・ティンレー]]が初代民選首相として選出された。 2013年7月13日に国民議会(下院)選挙が実施され、野党のPDPが32議席を獲得して与党のDPT(15議席)を破り、政権を奪取した。7月19日に、PDP党首[[ツェリン・トブゲ]]が第2代首相として選出された<ref>[http://www.bbs.bt/news/?p=29616 Tshering Tobgay unanimously elected as PM-elect]BBS、2013年7月19日(2014年1月5日閲覧)</ref>。 === 行政 === [[1629年]]行政の中心となる最初のゾン{{efn2|行政の中心として、また、宗教活動の中心であった。ゾンはあるものは非常に大きく、またあるものは小さいなど規模の面で多様であった。また、その建設立地は外敵からの攻撃に対して人々が防衛しやすいものであった。ゾンは谷に突き出していて一面の眺望を得られる場所や、片面が川になっている岸壁の上もしくは急峻な山腹、あるいは尾根に意図的に建設された<ref>[[#ブータン王国教育省教育部2008|ブータン王国教育省教育部 2008]] p. 76.</ref>。}}がシムトカ・ゾンであった。 [[1968年]]から採用された省制度により、[[2005年]]現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。[[1964年]]の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、[[1998年]]に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では[[議院内閣制]]が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首[[ジグメ・ティンレー]]が同年4月9日に初の民選首相に任命された。 その他に、かつては王立諮問委員会({{lang-en|Royal Advisory Council|links=no}}、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割をになった。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は、国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は[[2007年]]にその役目を終えて廃止されている。 [[地方自治]]組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会({{lang-en|Dzongkhag Development Committee|links=no}}、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会({{lang-en|Gewog Development Committee|links=no}}、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は地方議会へと改組された。 == 外交関係 == {{main|{{仮リンク|ブータンの国際関係|en|Foreign relations of Bhutan}}}} 非同盟中立政策をとり、[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]のいずれとも外交関係を持っていない<ref name=日本外務省>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bhutan/data.html|title=ブータン基礎データ |publisher= 外務省 |accessdate=2016年6月12日}}</ref>。2016年の時点で52カ国、そして[[欧州連合]]との間に外交関係を有している<ref name=日本外務省/>。域内外交関係に注力し、[[南アジア地域協力連合]]の原加盟国であり、[[アジア協力対話]]や{{仮リンク|多面的技術経済協力のためのベンガル湾構想|en|Bay of Bengal Initiative for Multi-Sectoral Technical and Economic Cooperation}}に参加している。1971年には国際連合に加盟している<ref name=日本外務省/>。 === 中国との関係 === {{main|中国とブータンの関係}} 2016年時点において国交は樹立していないが<ref name=日本外務省/>、事実上の領事館が[[香港]]と[[マカオ]]にある。1971年に[[アルバニア決議]]に賛成しているように[[一つの中国]]政策の支持を明言しており<ref>{{Cite web|author=Ananth Krishnan|date=2012-06-22 |url=http://www.thehindu.com/news/international/china-bhutan-ready-to-establish-diplomatic-ties/article3559058.ece|title=China, Bhutan 'ready' to establish diplomatic ties|publisher=The Hindu|language=英語|accessdate=2018-01-31}}</ref><ref>{{Cite web|author=Anuradha Sharma|date=2012-06-27 |url=https://www.worldpoliticsreview.com/articles/12100/india-keeps-close-eye-on-chinas-courtship-of-bhutan|title=India Keeps Close Eye on China's Courtship of Bhutan|publisher=World Politics Review|language=英語|accessdate=2018-01-31}}</ref><ref>{{Cite web|author=|date=2015-08-27 |url=http://www.fmprc.gov.cn/mfa_eng/wjbxw/t1292399.shtml|title=China and Bhutan Hold 23rd Round of Talks on Boundary Issue |publisher=中华人民共和国外交部|language=英語|accessdate=2018-01-31}}</ref>、[[中華民国]](台湾)とも国交を持っていない。1974年には中国政府の代表がジグミ・シンゲ・ワンチュク国王の戴冠式に出席した<ref>{{cite book |author=John W. Garver |title=Protracted Contest |url=https://books.google.de/books?id=TOVaMckcO0MC&pg=PA180&dq=%22Dong+Biwu,+the+acting+president+of+the+PRC%22&hl=en&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%22Dong%20Biwu%2C%20the%20acting%20president%20of%20the%20PRC%22&f=false|page=189 |publisher=UNIVERSITY OF WASHINGTON PRESS |date=2019-04-17}}</ref>。1984年から定期的な協議を行い<ref>{{Cite web | title = Bhutan can solve its border problem with China – if India lets it| first = | last = | work = [[サウスチャイナ・モーニング・ポスト]]| date = 2017-7-22| accessdate = 2018-01-31| url = http://www.scmp.com/week-asia/geopolitics/article/2103601/bhutan-can-solve-its-border-problem-china-if-india-lets-it| language = | quote = }}</ref>、ブータンの外務大臣も中国を度々訪問しており<ref>{{Cite web | title = Yang Jiechi Meets with Foreign Minister Rinzin Dorje of Bhutan| first = | last = | work = 中华人民共和国外交部| date = 2014-7-28| accessdate = 2018-01-31| url = http://www.fmprc.gov.cn/mfa_eng/zxxx_662805/t1178858.shtml| language = | quote = }}</ref><ref>{{Cite web | title = Establishing China-Bhutan ties benefits regional stability: Chinese FM| first = | last = | work = [[新華社]]| date = 2016-08-15| accessdate = 2018-01-31| url = http://www.xinhuanet.com/english/2016-08/15/c_135600401.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180131200936/http://www.xinhuanet.com/english/2016-08/15/c_135600401.htm |archivedate=2018-01-31}}</ref>、1998年に中国とブータンは国境地帯の平和安定維持協定を締結している<ref>{{Cite web|author=|date=2015-08-27 |url=http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-09/23/content_23477394_13.htm|title=2010年度「中国の国防」白書(全文)|publisher=[[中国網]]|language=|accessdate=2018-01-31}}</ref><ref>{{Cite web | title = In Bhutan, China and India collide| first = Mohan| last = Balaji | work = Asia Times Online| date = Jan 12, 2008| accessdate = 2018-01-31| url = http://www.atimes.com/atimes/China/JA12Ad02.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303182520/http://www.atimes.com/atimes/China/JA12Ad02.html |archivedate=2016-05-03}}</ref>。 北部から西部にかけてのガサ・ティンプー・パロ・ハの4県で中華人民共和国(西蔵自治区日喀則市の亜東県・康馬県、山南市の浪卡子県・洛扎県)と接し、帯状の係争地がある<ref name="名前なし-1">産経新聞2017年6月30日(金),朝刊</ref>。ドクラム高原は紛争地の最南端に位置する<ref name="名前なし-1"/>。1990年代以降、中国が係争地の内部に道路、基地の建設をすすめるなどの形で紛争が顕在化。2000年代に入り、ブータン領域内において中国が道路建設を行い、軍及び民間人の越境行為が行われたことから、ブータン政府が抗議を行っている。中国の越境行為は[[冬虫夏草]]の採集がその一因と見られている。ブータン政府は協定の遵守を求め、折衝を行っている<ref>{{Cite web|author=Ugyen Penjore|date=14 January 2010|url=http://kuenselonline.com/modules.php?name=News&file=article&sid=14485|title=Joint field survey next on agenda|publisher=Kuensel Newspaper|language=英語|accessdate=2011-10-08}}</ref><ref>{{Cite web|author=Rinzin Wangchuk; Ugyen Penjore|date=7 December 2009|url=http://www.kuenselonline.com/modules.php?name=News&file=article&sid=14160|title=Border talks proposed for January 2010|publisher=Kuensel Newspaper|language=英語|accessdate=2011-10-08}}</ref>。なお2014年9月時点での中国との関係について、首相のツェリン・トブゲはNHKの取材に対し、「両国関係は友好的であり良好」との見解を示している。また、国境画定作業が進行中であることも明らかにした<ref>{{Cite web|author=|date=11 September 2014|url=http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/tv/asianvoices/archives201409120300.html|title=Bhutan's Balancing Act: Tshering Tobgay, Prime Minister of Bhutan|publisher=NHK WORLD|language=英語|accessdate=2014-09-20 |archiveurl=https://archive.is/4OCkr |archivedate=2014-09-20}}</ref>。2017年6月28日、ブータンの駐インド大使ナムギャルは、「中国人民解放軍が最近、ドクラムにあるブータン陸軍の兵舎に向かう道路の建設を始めた」として、中国側に抗議した<ref name="名前なし-1"/>。 === インドとの関係 === {{main|{{仮リンク|ブータンとインドの関係|en|Bhutan–India relations}}}} 英領インドとの条約に、「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年の{{仮リンク|インド・ブータン条約|en|Bhutan–India relations#1949 Treaty}}にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの[[保護国]]的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。また、2007年3月の条約改定で、「外交への助言」についての文言が「相互協力関係の維持及び拡大」をうたうものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。 ブータンとインドは相互の国民が、互いの国を観光するときにビザなどは必要なく、身分証明書のみでよい。また、ブータン国民がインド国内で就労する際に法的規制はない。 === 日本との関係 === {{Main|日本とブータンの関係}} *1957年、大阪府立大学助教授(当時)の[[中尾佐助]]が、お忍びで京都を訪れていた当時の王妃に直談判し、翌1958年、日本人として初めて入国を許された<ref>{{Cite news |date=2011-11-15 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111115/asi11111502530002-n1.htm |title=【産経抄】11月15日 |newspaper=MSN産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111114194642/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111115/asi11111502530002-n1.htm |archivedate=2011-14 |accessdate=2019-04-17}}</ref>。 *1964年当時のブータンの農業の収穫は非常に少ないもので、状況を改善すべく、海外技術協力事業団(現・[[国際協力機構]])は農業技術者として[[西岡京治]]を派遣、彼はブータンの環境が日本の農業技術使用に適合している事を発見し、翌年の1965年には多くの収穫を得る事に成功。その後もブータン農業の改善に尽くした事から西岡は1980年に国王から「ダショー(最高の人)」の称号を授与され、1992年に没するまでブータンで仕事を続けた。外国人としては初の[[国葬]]で葬られ、現在も「ブータン農業の父」として敬われている。 *[[1971年]]のブータン国連加盟の際、日本は共同提案国となり黙示的な国家承認を行った<ref name=日本外務省/>。 *[[1986年]]の外交関係樹立以来、日本とブータンの関係は、皇室・王室間の交流、経済協力などを通じて友好関係にある。また、日本人とブータン人は、外見が非常に良く似ているとされる。ブータンは大の[[親日]]国として知られ、その為、国際機関での選挙・決議などにおいて常に日本を支持する重要な支援国でもある([[常任理事国改革|安保理改革]]に関するG4枠組み決議案の共同提案国、[[国連人権委員会]]など)<ref>{{Cite web|和書|author=外務省南西アジア課|date=2010-12|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/BHUTAN/kankei.html|title=最近のブータン情勢と日本・ブータン関係|publisher=[[外務省]]|accessdate=2011-10-08 |archiveurl=https://archive.is/a28k |archivedate=2012-09-04}}</ref>。 *[[1988年]]以降、[[青年海外協力隊]]が派遣されている。 *[[1989年]]2月24日、34歳の[[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]国王が、[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]参列のため、[[民族衣装]]「[[ゴ]]」の礼服姿で数人の供を連れて来日、自国も1ヶ月間喪に服した。 *[[2008年]]以降、感染症の蔓延防止のため、[[世界の子どもにワクチンを 日本委員会|認定NPO法人 世界の子どもにワクチンを 日本委員会]]から支援を受けている。ポリオやはしかなど5歳未満の子ども向けのワクチンやその保管・搬送のための機材が贈られている。90%台後半という非常に高い接種率を維持しており、2014年には国内でのポリオ根絶に成功した。 *[[2008年]]4月10日、[[日本サッカー協会]]は[[サッカーブータン代表]]監督として[[行徳浩二]]を派遣すると発表した。[[アジア]]各国・地域へ指導者らを派遣する貢献事業の一環で、ブータン協会から要請を受けた。契約期間は[[2009年]]1月末まで。[[2010年]]10月からは行徳に代わって[[松山博明]]が監督に就任した。 *2010年9月から1年間、ブータン政府のGNHコミッションに首相フェロー第1号として[[御手洗瑞子]]が就任した<ref>御手洗瑞子『ブータン、これでいいのだ』新潮社、2012年、65ページ。</ref>。 *[[2011年]][[3月12日]] [[東日本大震災]]の翌日に国王主催の「供養祭」が挙行され、18日には義援金100万ドルが、日本に贈られた。 *[[2011年]][[11月15日]]、[[ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク]]国王が結婚したばかりの[[ジェツン・ペマ・ワンチュク|ジェツン・ペマ]]王妃とともに震災後初の[[国賓]]として来日。被災地や[[京都]]などを訪れたほか、[[東京]]の[[国会議事堂]]の[[衆議院]][[本会議]]場で演説を行った。 === 領土問題 === [[ファイル:Bhutan districts english.png|thumb|北部が中国の領土にされる前のブータン。北部が北側に出ている。2006年より前の国境]] [[ファイル:Regions of bhutan labeled-roman script.svg|thumb|北部が中国の領土にされた後のブータン。2006年の新国境線]] 国土面積は、従来約46,500[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]であったが、2006年に発表した新国境線では、北部の多くが中国領と主張されているため、約38,400km<sup>2</sup>にまで減少した<ref>{{Cite journal|和書|author=河添恵子|authorlink=河添恵子|date=2010-11|title=中国に侵蝕されるブータン王国|journal=月刊[[WiLL (雑誌)|WiLL]]|publisher=[[ワック・マガジンズ]]}} {{要ページ番号|date=2014年8月6日}}</ref>。国境線をめぐる問題が長期化している([[領土問題]]も参照)。 {{節スタブ}} == 軍事 == {{Main|ブータン王国軍}} [[志願制度|志願制]]の[[陸軍]]であり、総兵力は約1万人(ブータン王国軍約7,000人、[[ブータン国王親衛隊]]約2,000人、[[警察官]]約1,000人も含む)。[[軍事費]]がGDPに占める割合は約2パーセント程度で、約1,700万ドル(2006年推計)。 陸軍の装備品は[[迫撃砲]]や[[分隊支援火器]]などの[[小火器]]のみである。[[砲兵]]戦力および[[装甲部隊|機甲]]戦力は有さず、[[装甲兵員輸送車]]も一部の部隊に若干数が配備されるにとどまる。[[小火器]]は、84ミリ迫撃砲、[[AK-101]]、[[FN FAL]]、[[H&K G3]]、[[FN ブローニング・ハイパワー]]の装備が確認されている{{要出典|date=2022-08}}。 [[内陸国]]ゆえに[[海軍]]は存在せず、大きな河川も無いため河川軍も[[編成 (軍事)|編成]]していない。[[空軍]]も存在せず、[[防空]]は[[インド軍]]に一任している。ブータン軍が保有している[[航空機]]は[[ヘリコプター]]の[[Mi-8]](7機)と[[固定翼機]]の[[ドルニエ 228]](1機)のみである。 また、世界軍事力ランキング(world global fire)ではブータンは最下位となっている。 国内にインドの[[軍事顧問|軍事顧問団]]と[[インド陸軍|陸軍部隊]]が1000~1500人駐留<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKASGM19H5B_Z10C17A7FF1000/|title=中印、「一帯一路」巡り摩擦 国境ドクラム高原、1カ月にらみ合い|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊|date=2017年7月20日}}</ref>している。また、[[インド政府]]はブータン軍人のインド留学を随時受け入れている。 2003年、ブータン軍はアッサム独立運動に参加するインド系ゲリラ集団3,000名と交戦。インド軍と連携し、ブータン軍の「[[大元帥]]」である第4代国王自ら前線で指揮を執り、国内の拠点をほぼ壊滅させている({{仮リンク|オールクリア作戦|en|Operation All Clear}})<ref name="imaeda" />。 == 地理 == [[ファイル:Satellite image of Bhutan in April 2002.jpg|thumb|250px|right|ブータンの衛星写真]] {{main|ブータンの地理}} インドとは、東を[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]と、西を[[シッキム州]]と、南を[[西ベンガル州]]・[[アッサム州]]と接しており、その[[国境線]]は605[[キロメートル|km]]に達する。また、北の国境線470kmは[[中華人民共和国]]の[[チベット自治区]]と接している。中華人民共和国との国境の大部分は[[ヒマラヤ山脈]]の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。 ヒマラヤ山脈南麓に位置し、ブータン最高峰は標高7,561m[[ガンカー・プンスム]]。国土は、南部の標高100[[メートル|m]]から、北部の標高7,561mまで、7,400m以上の高低差がある。 [[気候]]は、標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・[[ツンドラ]]気候、標高1,200mから3,000mの中部の[[モンスーン]]気候、標高1,200m未満の南部[[タライ平原]]の[[亜熱帯]]性気候が並存する。 殺生を禁じている宗教上の理由と、資源保護の観点から、川で魚を取る事を禁じており、食用の魚は川の下流にあたるインドからの輸入に頼っている。 ブータン国内に鉄道は通っていない。地方には悪路が多く、自動車事故は衝突事故よりも崖下への転落事故が多い。転落事故に関しては、[[シートベルト]]を着用しているほうが救命率が低くなるという考えから、着用は法で強制されておらず、民間では着用を勧めていない。 === 地方行政区分 === [[ファイル:Bhutan-divisions-numbered.png|thumb|300px|ブータンの[[ゾン|ゾンカク]]]] [[ファイル:Zones of Bhutan.svg|thumb|300px|''[[ゾン|ゾンカク]]''を4つの地方に分けた場合<br /><center>{{legend2|#A5FFD2|西部}} {{legend2|#FFFFAF|中部}} {{legend2|#FFABFF|南部}} {{legend2|#95C9FF|東部}}</center>]] {{main|ブータンの行政区画}} 20の{{仮リンク|ゾンカク|en|Districts of Bhutan}}(Dzongkhag、県)に分かれている。各県の県庁には基本的に[[ゾン]](城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクの下に205の[[ゲオ (ブータン)|ゲオ]](Gewog、郡)が設置されている。ただし、首都[[ティンプー]]などの人口密集地には{{仮リンク|トムデ|en|Thromde}}(Thromde)という独立した行政区分がある。複数のゲオをまとめた{{仮リンク|ドゥンカク|en|Dungkhag}}、ゲオの下の{{仮リンク|チオ|en|Chiwogs of Bhutan}}といった単位もあるが、行政区画というよりも、ドゥンカクは司法区、チオは選挙区として機能している<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.japan-bhutan.org/bhutan_info/dzongkhag/ | title = 地域と行政区 | publisher = 日本ブータン友好協会 | accessdate = 2022-03-30 }}</ref>。 {{colbegin|3}} * 1.[[ブムタン県]] * 2.[[チュカ県]] * 3.[[ダガナ県 (ブータン)|ダガナ県]] * 4.[[ガサ県]] * 5.[[ハ県]] * 6.[[ルンツェ県]] * 7.[[モンガル県]] * 8.[[パロ県]] * 9.[[ペマガツェル県]] * 10.[[プナカ県]] * 11.[[サムドゥプ・ジョンカル県]] * 12.[[サムツェ県]] * 13.[[サルパン県]] * 14.[[ティンプー県]] * 15.[[タシガン県]] * 16.[[タシ・ヤンツェ県]] * 17.[[トンサ県]] * 18.[[チラン県]] * 19.[[ワンデュ・ポダン県]] * 20.[[シェムガン県]] {{colend}} === 都市 === {{main|ブータンの都市の一覧}} {| class="wikitable sortable" |- ! 順位 !! 都市名 !! 人口([[2017年]])!! 県 |- !align=right | 1 | [[ティンプー]] || align=right | 114,551 || [[ティンプー県]] |- !align=right | 2 | [[プンツォリン]] || align=right | 27,658 || [[チュカ県]] |- !align=right | 3 | [[パロ (ブータン)|パロ]] || align=right | 11,448 || [[パロ県]] |- !align=right | 4 | [[ジェレフ]] || align=right | 9,858 || [[サルパン県]] |- !align=right | 5 | {{仮リンク|サムドゥプ・ジョンカル|en|Samdrup Jongkhar}} || align=right | 9,325 || [[サムドゥプ・ジョンカル県]] |- !align=right | 6 | {{仮リンク|ワンデュ・ポダン|en|Wangdue Phodrang}} || align=right | 8,954 || [[ワンデュ・ポダン県]] |- !align=right | 7 | [[プナカ]]|| align=right | 6,262 || [[プナカ県]] |- !align=right | 8 | {{仮リンク|ジャカル|en|Jakar}} || align="right" | 6,243 || [[ブムタン県]] |- !align=right | 9 | [[ナングラム]] || align=right | 5,418 || [[ペマガツェル県]] |- !align=right | 10 | [[サムツェ]] || align=right | 5,396 || [[サムツェ県]] |} <gallery> Thimpu Bazar 31.JPG|1.ティンプー Prayer wheel Phuntsholing, Bhutan.jpg|2.プンツォリン 'Paro Town'.JPG|3.パロ Gelephu Post Office 6 499kb LVDV.jpg|4.ジェレフ Samdrup Jonkhar - Gebetsmühle im Zentrum 02.JPG|5.サムドゥプ・ジョンカル </gallery> == 経済 == {{main|ブータンの経済}} [[ファイル:Thimphu from the south 080907.JPG|thumb|right|首都[[ティンプー]]の街並み]] [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、ブータンの[[2020年]]の[[国内総生産|GDP]]は25億ドルであり<ref name="imf202110" />、[[日本]]の人口6万人程度の市に相当する経済規模である。同年の一人当たりのGDPは3359ドルであり<ref name="imf202110" />、世界平均の3割以下の水準である。[[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている<ref>{{Cite web |url=http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |publisher=アジア開発銀行 |title=Poverty in Asia and the Pacific: An Update|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150318083921/http://adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |archivedate=2015年3月18日 |format=PDF |accessdate=2019-04-17}}</ref>。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]](最貧国)に分類されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html |title=後発開発途上国(LDC:Least Developed Country) |publisher= 外務省 |accessdate=2019-04-17}}</ref>。 主要産業は[[国内総生産|GDP]]の約35%を占める[[農業]](米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は[[電力]]である。国土が[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]の斜面にあることをいかし、豊富な[[水力]]による[[発電]]を行い、[[インド]]に電力を売却することにより外貨を得ている。輸出品は電力、珪素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなどで、輸入品は高速ディーゼル、ポリマー、石油、米など。2007年統計では貿易総額は輸出入合わせて約10億ドルで貿易収支は若干黒字。 なお、2007年の一人あたりGNIは1,800ドル(2021年は3,040ドル<ref>{{Cite web |url=https://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf |format=PDF|title=Gross national income per capita 2019, Atlas method and PPP |publisher=The World Bank |accessdate=2021-03-06}}</ref>)、経済成長率は19%であった。 [[観光]]業は有望だが、文化・自然保護の観点から[[ハイエンド]]に特化した観光政策を進めており、[[フォーシーズンズホテル|フォーシーズンズ]]などの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、[[バックパッカー]]としての入国は原則として不可能。かならず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。ローシーズンは若干減額される)を前払いし、ガイドが同行する必要がある。ただし、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。 ブータン政府は、1961年以降は5年毎の開発計画に基づく社会経済開発を実施している。2002年7月からは新たに第9次5ヶ年計画が開始されている。国内経済では、農業がGDPの約36%、就労人口の約9割を占める最大の産業であり、対外経済では貿易をはじめインドとの関係が圧倒的に高い割合を占める。 1972年代にワンチュク国王が提唱した[[国民総幸福量]](いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として、特にGDP/GNP増加を主眼としている先進国から注目されている。日本も経済援助などを通じブータンのGNH発現と実現に貢献をしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol79/ |publisher=外務省|title=ブータン~国民総幸福量(GNH)を尊重する国 |accessdate=2019-04-17}}</ref>。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、その概念の理解と導入への取り組みがみられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ishes.org/keywords/2013/kwd_id000756.html |title=国民総幸福量(GNH) |website=幸せ経済社会研究所 |accessdate=2019-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jica.go.jp/information/seminar/2013/20131205_01.html |title=ブータン王立研究所カルマ・ウラ所長がGNHについて講演 |publisher=独立行政法人国際協力機構 |accessdate=2019-04-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171030003135/https://www.jica.go.jp/information/seminar/2013/20131205_01.html |archivedate=2017-10-30}}</ref>。ただしGNH達成はいまだ目標の段階にとどまっており<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2952394?pid=10955957|title=「幸福の王国」ブータンで苦しむ若者たち |newspaper=AFPBB News|publisher=[[フランス通信社|AFPBB]]|date=2013-06-26|accessdate=2014-06-01}}</ref>、[[2010年]]の調査で示された平均幸福度は6.1と、日本の6.6を下回っている<ref name="dir_20120920">{{Cite web|和書|url=http://www.dir.co.jp/library/column/120920.html|title=幸福度は役に立つか?|author=市川正樹|publisher=[[大和総研]]|date=2012-09-20|accessdate=2014-06-01}}</ref>。 2012年からは国際連合が世界各国の幸福度をランキング化しており、当初ブータンは世界8位と「世界一幸せな国ブータン」を裏付ける結果となっていた。しかし、年を追うにつれて急激に順位が低下し、2010年代後半にはランキング圏外となった。これは国の経済発展とともに様々な情報が国外から入るようになり、国民が他国の生活水準と比較するようになったためと見られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moneypost.jp/844491 |title=ブータン「世界一幸せな国」の幸福度ランキング急落 背景に何が? |publisher=女性セブン |date=2021-10-26 |accessdate=2021-11-03}}</ref>。 === 農業 === [[ファイル:Tree map export 2009 Bhutan.jpeg|thumb|色と面積で示したブータンの輸出品目]] {{main|{{仮リンク|ブータンの農業|en|Agriculture in Bhutan}}}} ブータン経済において農業は非常に重要な基幹産業である。1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは[[国民経済計算]]の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実態よりも小さくみえる。[[国内総生産]]においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木、キノコ類である。[[マツタケ]]は国内で食べる習慣が無かったが、1990年代からは日本向けに輸出されている<ref>{{Cite web|和書|title=(みちのものがたり)マツタケ街道 ブータン あぁ!驚くほどの声が出た:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13166773.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>。 ブータン農業の問題点は生産能力が向上しないことにある。人口が増え続けているにもかかわらず、労働人口に占める農業従事者の割合は高い数値で横ばいに推移しており、農民の数は増え続けている。一方、厳しい地形に阻まれて農地の拡大は望めない。小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されない。このため、1986年・1987年時点と、2003年・2005年時点を比較すると、農民が倍加しているにもかかわらず、生産量がかえって微減している。 具体的には、1986年時点の国土に占める農地の比率が2.2%、牧草地4.6%、森林70.1%だったものが、2003年に至ると、同2.7%、同8.8%、同68.0%に変化している。農地は約2割拡大した。 生産量が1万トンを超える農産物を比較すると、 * 1987年時点 米8.5万トン、とうもろこし8.5万トン、ばれいしょ5.0万トン、コムギ1.9万トン、サトウキビ1.2万トン、オレンジ5.0万トン * 2005年時点 米4.5万トン、とうもろこし7.0万トン、ばれいしょ4.7万トン、コムギ0.5万トン、サトウキビ1.3万トン、オレンジ3.6万トン となっており、主食のコメが半減している。2003年時点ではブータンの輸入品目に占める穀物の割合は7.6%に達した。この傾向は牧畜業にも及び、主力のウシは同じ期間に51万頭から37万頭に減少している。 === 労働力 === 失業率は4%(ブータン政府資料2009年)。 == 交通 == [[File:Bhutan post bus.jpg|150px|thumb|ブータンの[[ポストバス]] <br> ティンプー - プンツォリン間を往復しており、[[路線バス]]としては最も重視されているものになる]] {{main|{{仮リンク|ブータンの交通|en|Transport in Bhutan}}}} === 道路 === {{main|{{仮リンク|東西高速道路 (ブータン)|en|Lateral Road}}}} === 鉄道 === {{main|ブータンの鉄道}} === 航空 === {{main|ブータンの空港の一覧}} [[パロ空港]]、{{仮リンク|ヨンプラ空港|en|Yongphulla Airport}}、{{仮リンク|バトパラタン空港|en|Bathpalathang Airport}}、{{仮リンク|ゲレフー空港|en|Gelephu Airport}}の4つが主要となっている。 == 国民 == [[File:Bhutanese people.jpg|300px|thumb|民族衣装を着たブータン国民]] {{main|ブータンの国民}} === 民族 === {{bar box |title=民族構成(ブータン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|ガロン族(チベット系)|orange|50}} {{bar percent|ローツァンパ(ネパール系)|blue|35}} {{bar percent|その他|red|15}} }} ドゥクパ(ブータン民族)は、{{仮リンク|ガロン (民族)|en|Ngalop|label=ガロン}}(Ngalong)、[[ブムタンパ]](Bumthangpa)、{{仮リンク|シャチョップ|en|Sharchops|label=ツァンラ}}(Tshangla/Sharchops)の3つに分けられる。南部低地地帯([[タライ平原]])には、[[ネパール]]系[[ローツァンパ]](Lhotshampa)が居住している。 その他、北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。 === 言語 === [[ファイル:Languages of Bhutan with labels.svg|thumb|right|260px|ブータンの言語分布]] {{main|{{仮リンク|ブータンの言語|en|Languages of Bhutan}}}} {{bar box |title=言語(ブータン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ゾンカ語]]|orange|25}} {{bar percent|[[ネパール語]]|blue|40}} {{bar percent|[[ツァンラ語]]|lightblue|25}} }} ブータンでは、英語も含めると20以上の言語が話されている<ref>{{cite journal|author=西田文信|title=ブータン王国の諸言語について|url=http://www.kyoto-bhutan.org/pdf/Himalayan/020/Himalayan-20-063.pdf|journal=ヒマラヤ学誌|accessdate=2020-5-13}}</ref>。公式には、[[チベット語]]系の[[ゾンカ語]]が公用語である他、[[ネパール語]]と[[英語]]も広く使われている。その他、[[ツァンラ語]]、[[シッキム語]]、[[ザラ語]]、[[リンブー語]]、[[ケン語]]、[[:en:Bantawa language|バンタワ語]]などが話されている。国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。英語・ネパール語を除いたすべての言語はチベット・ビルマ語系の言語である。地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのは[[ヒンディー語]]やそれに類するネパール語である。これは近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。2006年の統計上は、ゾンカ語話者は全人口の25%、ネパール語話者は40%である。80年代まで政府は、南ブータンの学校でのネパール語教育に助成金を供出していたが、ゲリラ勢力の台頭以降、教授科目から外れる事となった。 1949年までの長い間イギリスの保護国であったことから政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。また、1980年代半ばにほぼ全ての教育機関で英語が[[教授言語]]となった。ゾンカ語は国語という科目名で教えられている。これは、英語を教授言語とすることで国際的に通用する国民になることを目指すことが理由ではない。ブータン人教員の不足のために隣国[[インド]]から英語を話す教員を大量に雇い入れた。また、ゾンカ語は国語として制定されたのが比較的最近であり、3割程度の国民にしか理解されない。長年口語として使われてきたものの、文語としては使われてこなかったために表記法などの整備が遅れていることや、仏教関係以外の[[語彙]]に乏しく、さらに教材などの点で圧倒的に不足しており教授言語にはなりえないという実情がある。 現在でもブータンの学校ではインド人をはじめとする多くの外国人教員が教鞭を執っている。最大の新聞である『[[クエンセル]]』は、[[英語]]、[[ゾンカ語]]、[[ネパール語]]で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。しかし、教授言語が英語でなくヒンディー語やネパール語であった中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた世代には、国語であるゾンカ語は話せても読み書き出来ない者もいるなどの問題も起きている。したがって近年では伝統文化を守るためにゾンカ語教育が強化されており、国語以外の教科でもゾンカ語で教育が行われるようになった。今後、ゾンカ語の教授言語としての整備と合わせ、順次ゾンカ語での教育の割合を増やし、共通語として確立させていく予定である。 === 婚姻 === ブータンでは[[一夫多妻制]]が合法とされているが、ブータンにおける民法(または慣習法)の下でこれまで一夫多妻の配偶者へ法的承認がなされた事例は存在していない。 また、[[一妻多夫制]]の存在も確認されているが、現在、一妻多夫制はラヤのような特定の地域にのみ通用している程度であり、さらにブータンでは一夫多妻制と一妻多夫制の両方が否定される傾向にあり消滅へ向かっている<ref>{{cite web | title=The Disappearing Practice of Polyandry | work=New Bhutan Times | date= | url=http://bhutantimes.com/article/the-disappearing-practice-of-polyandry | archive-url=https://web.archive.org/web/20180102013425/http://bhutantimes.com/article/the-disappearing-practice-of-polyandry | archive-date=2 January 2018 | url-status=dead |accessdate= 2020-6-17}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ブータンにおける一夫多妻制|en|Polygamy in Bhutan}}}} === 人名 === ブータンにおいては、氏は「家の名」ではなく個人それぞれに名付けられる。婚姻によって改姓することもなく[[夫婦別姓]]<ref>[http://www.asiaone.com/travel/7-things-you-never-knew-about-bhutan 7 things you never knew about Bhutan]、Asia One, Sep 8, 2017.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ブータンの宗教|en|Religion in Bhutan}}}} 3つの宗教集団に大別される。 * [[チベット仏教]]([[カギュ派#分派|ドゥク派]])を信仰し[[ゾンカ語]]を主要言語とし、西部に居住する[[チベット]]系の{{仮リンク|ガロン (民族)|en|Ngalop|label=ガロン}}(Ngalong)と呼ばれる人々。 * チベット仏教(主に[[ニンマ派]])を信仰しツァンラ語(シャチョップカ語)を母語とし、東部に居住する[[アッサム地方]]を出自とするツァンラ(自称。以前は[[:en:Sharchop|シャーチョップ族]]と呼ばれた)と呼ばれる人々。 * [[ヒンドゥー教]]徒で[[ネパール語]]を話し、南部に居住する[[ローツァンパ]]と呼ばれる[[ネパール]]系住民(少数だが[[ムスリム]]も含む)。その多くは20世紀初頭に移住して来た人々で、[[1990年]]代には10万人以上が不法移民、反国民として国外追放された。 {{See also|{{仮リンク|ブータンの仏教|en|Buddhism in Bhutan}}}} 他には少数派として[[キリスト教]]徒の存在が確認されている。 {{See also|{{仮リンク|ブータンのキリスト教|en|Christianity in Bhutan}}}} [[近代化]]の進むなか、[[チベット仏教]]は現在でも深くブータンの生活に根差している。ブータン暦の10日に各地で行われる{{仮リンク|ツェチュ|en|Tshechu}}という[[祭]]は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところにあふれ、[[生殖器崇拝|男根信仰]]も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法({{仮リンク|ディグラム・ナムザ|en|Driglam namzha}})は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは正装が義務付けられる。 {{See also|{{仮リンク|ブータンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Bhutan}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|ブータンの教育|en|Education in Bhutan}}}} ブータンの[[大学]]は[[タシガン]]県にある[[王立ブータン大学]]({{lang-en|[http://www.rub.edu.bt/ The Royal University of Bhutan]}},通称:カンルン大学)が唯一の大学である。この大学には{{仮リンク|言語文化学部(ブータン)|label=言語文化学部|en|College of Language and Culture Studies (Bhutan)}}(CLCS)と呼ばれる専門機関が設立されている。 また、{{仮リンク|ブータン王立舞台芸術学院|label=王立舞台芸術学院|en|Royal Academy of Performing Arts}}(RAPA)が存在しており、この教育機関はブータンの伝統文化の保存を支援する目的で{{仮リンク|ブータン国務省|label=国務省|en|Ministry of Home and Cultural Affairs (Bhutan)}}によって設けられたものである。 === 保健 === [[File:Jdw.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|ジグメドルジ・ワンチャック国立紹介病院|en|Jigme Dorji Wangchuck National Referral Hospital}} <br> 首都ティンプーに設けられている同国の主要病院である]] {{main|{{仮リンク|ブータンの保健|en|Health in Bhutan}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ブータンにおける中絶|en|Abortion in Bhutan}}}} ==== 煙草規制 ==== ブータンでは[[1792年]]から煙草を取り締まる法律が存在した。理由は国民の大半が信仰する[[チベット仏教|仏教]]上のものである([[タバコ|葉タバコ]]は、女悪魔の血液で育つと考えられている)。[[2004年]][[12月]]より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の[[禁煙]]国家となり、[[煙草]]の販売、製造、流通が禁止された。しかし、200%の関税が課されるが、国外からの一定量の輸入は許されたため、隣国[[インド]]からの輸入で闇市場が繁盛した。 {{See also|{{仮リンク|2010年ブータン煙草規制法|en|Tobacco Control Act of Bhutan 2010}}}} [[2020年]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|パンデミック]]で政府がインドとの国境を封鎖したため、闇価格は4倍に跳ね上がった。その折、インドと往来していた行商人が新型コロナウイルスで陽性を示した。そのため[[:en:Lotay Tshering|ロテ・ツェリン]]首相(週末に医師の仕事を続けている)は[[密輸]]品への需要を減らすための一時的な措置として、また、自宅待機中の[[ヘビースモーカー]]から煙草を取り上げることによって家庭内の緊張が高まることを防ぐため、煙草の販売を解禁し、[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]中の生活必需品に加えられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3301786?cx_reffer=line-news&utm_source=line-news&utm_medium=news&utm_campaign=txt_link_0829|title=「禁煙国家」ブータン、コロナ対策でたばこ販売を解禁|accessdate=2020-8-31|publisher=AFPBB}}</ref>。 == 社会 == 習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「[[夜這い]]・[[妻問婚]]」や「[[歌垣]]」などが比較的注目される。 {{節スタブ}} === 南部問題 === [[ファイル:Lotshampa refugees in Beldangi Camp.jpg|thumb|ブータンのパスポートを提示する[[ベルダンギ難民キャンプ]]の人々]] {{main|ブータン難民}} [[1958年]]の国籍法を下敷きにして、[[1985年]]に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これは[[シッキム]]のような事態{{efn2|[[シッキム王国]]はもともとはチベット系民族が主導権を握る国家であったが、ネパール系の移民が急増した結果として両者の人口比率が逆転し、それが王国の崩壊と[[インド]]への併合の遠因となったとみなされている。}}を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。 その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、[[1989年]]、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。[[1988年]]以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放された。 この際に、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し[[拷問]]など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出([[難民]]の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連 ([[UNHCR]]) により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。 === 人権 === {{main|{{仮リンク|ブータンにおける人権|en|Human rights in Bhutan}}|{{仮リンク|ブータンにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Bhutan}}|{{仮リンク|ブータンの女性|en|Women in Bhutan}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ブータンにおける自殺|en|Suicide in Bhutan}}}} <!-- == 治安 == --><!-- [http://www.anzen.mofa.go.jp/attached2//2006T010_1.gif]ブータンは南部でネパール系住民が多く反政府活動をしているため治安が悪化していたが、現在は治安回復している。--><!-- 社会の項の南部問題に記述されています --> == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ブータンのメディア|en|Mass media in Bhutan}}}} ブータンにおける[[新聞]]には『[[クエンセル]]』が広く知られている。また、[[1999年]]までは[[テレビ|TV]]放送が禁止されていた。 {{See also|{{仮リンク|ブータンにおける検閲|en|Censorship in Bhutan}}}} === 通信 === {{main|{{仮リンク|ブータンの通信|en|Telecommunications in Bhutan}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|ブータンの文化}} ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これは[[モンスーン]]気候に代表される[[照葉樹林]]地帯([[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]山麓-[[雲南省|雲南]]-[[江南]]-[[台湾]]-[[日本]])に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見い出すことができる<ref>{{Cite book |和書|title=中尾佐助著作集 第Ⅵ巻 照葉樹林文化論 |pages=545-546 |author=中尾佐助 |publisher=北海道大学出版会 |date=2006年2月25日}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ディグラム・ナムザ|en|Driglam namzha}}}} === 食文化 === {{main|ブータン料理}} ブータンの主食は[[米]]である。食文化においては[[トウガラシ]]の常食と[[乳製品]]の多用という独自の面を有しつつ、ブータンで広く食される[[赤米]]たる[[ブータン赤米]]を中心に、パロ米(日本米)、プタ([[蕎麦]])の栽培、リビイッパ(ブータン[[納豆]])、酒文化([[どぶろく]]に似た[[醸造酒]]「シンチャン」や[[焼酎]]に似た[[蒸留酒]]「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。 {{See also|ダツィ料理}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|ブータン文学|en|Bhutanese literature}}}} ブータン文学はかつて宗教的な教義に傾注されていたが、現在では[[民間伝承]]に焦点を当てているものが多い。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ブータンにおけるネパール文学|en|Bhutanese Nepali literature}}}} === 音楽 === [[ファイル:Bhutan 10.jpg|thumb|250px|ブータンのミュージックパレード]] {{main|{{仮リンク|ブータンの音楽|en|Music of Bhutan}}}} ブータンの音楽には{{仮リンク|ボエドラ|en|Boedra}}、{{仮リンク|ジャンドラ|en|Zhungdra}}と呼ばれる[[民俗音楽]]があり、この2つが古くから国民の音楽文化を支えて来た。 また、{{仮リンク|リグサール|en|Rigsar}}と呼ばれる[[大衆音楽]]が1960年代に登場しており、[[電子楽器]]を用いる点や[[ロック (音楽)|ロック]]のように「より速い[[リズム]]」を追求する点から殆どの伝統的な音楽とは対照的な存在となっている。 ブータンを代表する[[音楽家]]には{{仮リンク|ジグメ・ドゥクパ|en|Jigme Drukpa}}が挙げられる。ドゥクパはブータンにおける主要な音楽学者としても知られている。 {{節スタブ}} === 美術 === {{main|{{仮リンク|ブータンの芸術|en|Bhutanese art}}}} ブータンの芸術は{{仮リンク|チベットの芸術|en|Tibetan art}}との類似点が多く、どちらも{{仮リンク|ヴァジュラヤナ|en|Vajrayana}}に基づいている事が共通している。また、伝統工芸においては日本の[[漆器]]や[[織物]]などとの類似点もある。 {{節スタブ}} === 衣類 === [[File:Gho.jpg|200px|thumb|[[ゴ]]の一例。<br> ゴは{{仮リンク|カムニ|en|Kabney}}との組み合わせで着用するのが一般的である]] ブータンの男性の[[民族衣装]]「[[ゴ]]」は日本の[[丹前]]や[[どてら]]に形状が類似していることから、[[呉服]]との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は[[中央アジア]]とされており、日本の呉服とは起源が異なる。 男性の民族衣装が[[チベット]]系統であるのに対して、女性の民族衣装「[[キラ (民族衣装)|キラ]]」は巻き衣の形式を取り、[[インド]]・[[アッサム]]色が濃い。この点により、ブータンの服飾は北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。 また、ゴは{{仮リンク|カムニ|en|Kabney}}と呼ばれる[[スカーフ]]状の装飾品がセットとなっている点が最大の特徴である。 === 建築 === [[File:Bhutanese_house,_Paro.jpg|200px|thumb|ブータンにおける伝統的な民家の一つ。 <br> パロにて撮影]] ブータンにおける建築は{{仮リンク|ゾン建築|en|Dzong architecture}}が主体となっている。ブータンでは法令により、全ての建物が色とりどりの木製の間口、小さなアーチ型の窓、傾斜のある屋根の3点を必ず取り入れる形で建設することが定められている。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ブータンの映画|en|Cinema of Bhutan}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ブータン映画の一覧|en|List of Bhutanese films}}}} === 祭礼 === {{仮リンク|ツェチュ|en|Tshechu}}と呼ばれる[[祭り]]がブータン暦(12か月)の毎月10日に開催されている。ツェチュはチベット仏教における伝統的な祭礼の一つでもある。 {{節スタブ}} === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ブータンの祝日|en|Public holidays in Bhutan}}}} {| class="wikitable" |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- ||2月21-23日||現国王誕生日||lang=""| || rowspan="7" |太陽暦 |- ||[[5月2日]]||第3代国王誕生日||lang=""| |- ||[[6月2日]]||現国王戴冠記念日||lang=""| |- ||[[7月30日]]||第3代国王逝去日||lang=""| |- ||[[9月22日]]||安雨居||lang=""|Blessed Rainy Day |- ||[[11月11日]]||第4代国王誕生日||lang=""| |- ||[[12月17日]]||建国記念日||lang=""| |- ||1月1日-2日||新年||lang=""|Losar|| rowspan="4" |ブータン暦 |- ||4月15日||花祭り ||lang=""|Lord Buddha’s Parinirvana |- ||5月10日||パドマサンババ生誕記念日||lang=""| |- ||6月4日||初転法輪 ||lang=""|The First Sermon of Lord Buddha |- ||||[[ダサイン]]||lang=""|Dashain||ネパール暦 |- ||9月22日|| 神降祭 ラパウトゥーチェン||lang=""|Decending Day of Lord Buddha|| rowspan="3" |ブータン暦 |- ||11月5日|| ||lang=""|Meeting of Nine Evils |- ||12月1日|| ||lang=""|Traditional Day of Offering |} この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。 == 観光 == 近年、ブータン政府が打ち出している観光政策は「高品質な旅を少数の人に(High Value, Low Volume)」である。新型コロナで外国人旅行客を制限していたが、2022年9月に受け入れを再開。それに関して観光に関わる政策を大きく2点見直した。一つはいわゆる観光税の値上げで、これまで旅行者からは65ドルを徴収していたが、これを一人一泊200ドルに大幅に値上げした。二つ目は公定料金の見直しで、外国人観光客は公定料金と呼ばれる定額料金を支払うのが原則だった。これには、いわゆる観光税、ホテル代、ガイド料金、交通費、食費を含めて250ドル前後であった。この制度は廃止され個別に支払い、料金は業者側が設定できるようになった。 == スポーツ == {{Main|ブータンのスポーツ}} {{See also|オリンピックのブータン選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ブータンのサッカー|en|Football in Bhutan}}}} ブータンには[[国技]]の「ダツェ」と呼ばれる[[弓術]]があるが、他の[[アジア]]諸国同様に[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、特に[[2000年代]]より[[ケーブルテレビ]]の普及によって爆発的に人気を獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.japan-bhutan.org/cultuer_bhutan.html |title=ブータン衣食住(日本ブータン友好協会) |accessdate=2011年6月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111120101759/http://www.japan-bhutan.org/cultuer_bhutan.html |archivedate=2011年11月20日 |deadlinkdate=2020年5月 }}</ref>。さらに[[2012年]]には、プロサッカーリーグの{{仮リンク|ブータン・プレミアリーグ|en|Bhutan Premier League}}も創設された。[[ブータンサッカー連盟]](BFF)によって構成される[[サッカーブータン代表]]は、[[首都]]・[[ティンプー]]にある[[チャンリミタン・スタジアム]]を[[本拠地]]としている。 [[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ・決勝|FIFAワールドカップ・決勝]]([[サッカーブラジル代表|ブラジル]]対[[サッカードイツ代表|ドイツ]])が行われる同じ日に、'''[[FIFAランキング]]202位'''の[[サッカーブータン代表]]は'''最下位203位'''の[[サッカーモントセラト代表|英領モントセラト代表]]との間で、最下位決定戦を行った。試合はティンプーのチャンリミタン・スタジアムで開催され、ブータン代表は4-0で勝利した。この試合の[[ドキュメンタリー映画]]、『[[アザー・ファイナル]]』が、[[オランダ人]]のヨハン・クレイマーによって作られた。 === クリケット === [[クリケット]]も他の[[南アジア]]諸国同様に人気の高いスポーツである<ref>[https://ocasia.org/noc/countries/5-bhu-bhutan.html Bhutan] Olympic council of Asia 2023年9月27日閲覧。</ref>。1990年代にテレビが普及し、イングランドなどで開催された[[1999 クリケット・ワールドカップ|1999年クリケット・ワールドカップ]]の影響で人気を高めた<ref name="ICC" />。その後、2003年に[[国内競技連盟]]のブータンクリケット委員会は[[国際クリケット評議会]]に加盟することが認められた<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/74 Bhutan Cricket Council Board] 国際クリケット評議会 2023年9月27日閲覧。</ref>。ブータンは2003年から国際大会に参加し、2004年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたACCトロフィーでイランに勝利し、国際試合においての初勝利となった。<ref name="ICC" />。ブータンはクリケットへの参入が後発であったが、その後中国、ブルネイ、サウジアラビアなどに勝利を重ね、名声を高めた<ref name="ICC" />。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:ブータン出身の人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == <!-- 本記事の出典として使われている文献のみご記入下さい。 --> {{参照方法|date=2019年4月17日 (水) 09:07 (UTC)|section=1|title=本林氏の文献は脚注がありません。}} * {{Cite book |和書 |editor=朝日新聞社中央調査会 |date=1942 |title=朝日東亜年報 1942 昭和17年版 |publisher=朝日新聞社 |ref={{SfnRef|朝日新聞社中央調査会|1942}} }} * {{Cite book|和書|editor=ブータン王国教育省教育部|others=[[平山修一]]監訳、[[大久保ひとみ]]訳|date=2008-04|title=ブータンの歴史――ブータン小・中学校歴史教科書|series=世界の教科書シリーズ18|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4-7503-2781-5|ref=ブータン王国教育省教育部2008}} *{{Cite book |和書|title=ブータンと幸福論 |author=本林靖久|authorlink=本林靖久|publisher=法藏館 |date=2006年12月 |isbn=4831856800}} == 関連文献 == *「ブータンのツェチュ祭り---神々との交感---」写真・永橋和雄 /文・[[今枝由郎]] 1994/03 [[平河出版社]] *「シャンバラ 勇者の道」ブータン国王の「龍」とは何か? [[チョギャム・トゥルンパ]] [[澤西康史]] [[めるくまーる]] 2001/6 *「サキャ格言集」[[サキャ・パンディタ]] /[[今枝由郎]] 2002/08 [[岩波書店]] *「ブータン中世史」[[今枝由郎]] 2003/02 [[大東出版社]] *「ブータン 地球の歩き方」2005/2 [[ダイヤモンド・ビッグ社]] *「ブータン仏教から見た日本仏教」[[今枝由郎]] 2005/06 [[NHKブックス]]  *「ブータンに魅せられて」[[今枝由郎]] 2008/03 [[岩波書店]] == 関連項目 == * [[ブータン関係記事の一覧]] * [[ブータンの政党]] * [[ブータン難民]] * [[ブータン料理]] * [[ブータンの文化]] * [[ブータンのスポーツ]] * [[ドゥク]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Bhutan}} {{Wikivoyage|Bhutan|ブータン{{en icon}}}} ; 政府 * [http://www.bhutan.gov.bt/ ブータン王国政府公式サイト] {{en icon}} * [http://bhutan-consulate.org/ 在日ブータン王国名誉領事館] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bhutan/ 日本外務省 - ブータン王国] {{ja icon}} * [https://www.in.emb-japan.go.jp/index-j.html 在インド日本国大使館] - 在ブータン大使館を兼轄 {{ja icon}} ; 観光 * [http://www.travel-to-bhutan.jp/ ブータン政府観光局] {{en icon}}{{ja icon}} * [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [http://wikitravel.org/ja/ブータン ブータン] {{ja icon}} ; その他 * {{CIA World Factbook link|bt|Bhutan}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Asia/Bhutan}} {{en icon}} * {{Wikiatlas|Bhutan}} {{en icon}} * {{Osmrelation|184629}} * {{Googlemap|ブータン}} * {{Kotobank}} {{アジア}} {{南アジア地域協力連合}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふうたん}} [[Category:ブータン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:王国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:内陸国]] [[Category:保護国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:13世紀に成立した国家・領域]] [[Category:後発開発途上国]]
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エストニア
エストニア共和国(エストニアきょうわこく、エストニア語: Eesti Vabariik)、通称エストニア(エストニア語: Eesti)は、北ヨーロッパの共和制国家。首都はタリン。人口約133万人。EU、NATO加盟国。通貨はユーロ。フィンランド、ラトビア、リトアニアなどとともにバルト海東岸に位置する国の一つである。国境は、南はラトビア、東はロシアと接する。北はフィンランド湾を挟みフィンランドと、西はバルト海を挟みスウェーデンと相対している。バルト三国の中では最も北に位置する。 フィンランド、ロシアとともにフィンランド湾に面する3つの国の一つで、フィンランドから湾を挟み約90km南に位置する。面積は日本の九州本島の1.23倍。地形は平坦で国土の最高標高は318m。国連の分類では北ヨーロッパの国である。 首都タリンは中世ハンザ都市として栄えた港湾都市であり、その旧市街は世界遺産「タリン歴史地区」に指定されている。またタリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクとともに、フィンランド湾に面する主要都市の一つである。特に85km北に位置する対岸のヘルシンキとの往来が活発である。 報道の自由度ランキングの上位国であり、公用語はエストニア語。複数の言語を話せる国民が多い。国民の半数以上が無宗教とされる。一方で、ロシア系住民にはロシア正教を信仰する者もいる。また、Skype(スカイプ)を産んだ国であり、外国のIT企業の進出も多く、ソフトウェア開発が盛んである。早期のIT教育や国際学力調査で欧州の上位国としても知られる。 13世紀以降、デンマーク、ドイツ騎士団、スウェーデン、モスクワ大公国、ロシア帝国などの支配を経て、第一次世界大戦末期の1918年にロシア帝国より独立。第二次世界大戦中の1940年にソビエト連邦により占領され(バルト諸国占領)、翌1941年に独ソ戦でナチス・ドイツが占領。1944年、ドイツ軍を押し返したソ連により再占領・併合されエストニア・ソビエト社会主義共和国となった。その後、ソビエト連邦の崩壊により、1991年に独立を回復。2004年EU・NATOに加盟、2008年NATOのサイバーテロ防衛機関の本部所在国となる。経済協力開発機構(OECD)にも加盟している。 なお、エストニア政府では建国年を1918年としており、1991年にソ連の占領から独立を「回復」したと見做しているため、自国は「旧ソ連構成国」ではないとしている。 エストニアはITを行政に活用する「電子政府」を構築しており、婚姻届と離婚届など倫理的な要因であえて除外されているものを除くほぼ全ての行政手続きがオンライン申請に対応している。エストニアの省庁や企業、個人は「X-Road」という基盤情報システムで個人情報を登録・利用している。個人情報の所有権は各個人にあると定めており、自分の情報へのアクセス履歴を閲覧できる。 国外の外国人にもインターネット経由で行政サービスを提供する「電子居住権」(E-Residency) 制度に5万人以上が登録している。この制度は投資を呼び込むとともに、エストニアに好意的な人を世界で増やし、ロシアに対する抑止力を高める狙いもある。戦争や災害に備えて、国民のデータを保管しておく「データ大使館」を2018年にルクセンブルクに設置した。 正式名称はエストニア語で、Eesti Vabariik([ˈeːsti ˈʋɑbɑriːk]、エースティ・ヴァバリーク)。略称は、Eesti([ˈeːsjti] ( 音声ファイル))。 日本語表記は、エストニア共和国。通称エストニア。 現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノース人などとの混血の過程を経て、10世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった。13世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し海上交易で栄えた。ただしその後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた。 1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊すると自治獲得の動きが高まり、まもなく独立運動へと転じた。1918年2月24日にエストニア共和国の独立を宣言。その後はソビエト・ロシアやドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定させた。1920年のタルトゥ条約でソビエト・ロシアから独立を承認され、1921年には国際連盟にも参加した。 1939年8月、ナチス・ドイツが、次いで同年9月にソ連がポーランドへ侵攻を行う中、エストニアは同年9月28日にソ連との間で相互援助条約、通商条約を締結した。相互援助条約では、国境や基地に直接的侵略が加えられたときなどは相互に軍事的援助を行うこと、ソ連がバルト海のサーレマー島、ヒーウマー島を租借して海軍基地、航空基地を建設することなどが取り決められた。 しかし、1940年6月16日、ソ連は相互援助条約の履行を確保するという名目でソ連軍の進駐を強要。事実上、ソ連に占領されることとなったが、独ソ戦が進行する中で1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領された。第二次世界大戦末期の1944年にはソ連に再占領され、併合された。ソビエト連邦の崩壊直前の1991年に独立回復を宣言し、同年に国際連合へ加盟した。 1994年8月31日にロシア軍が完全撤退したあと、西欧諸国との経済的、政治的な結びつきを強固にしていった。2004年3月29日、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。さらに、同年5月1日には欧州連合 (EU) に加盟している。ロシア連邦との間に国境問題が存在する(後述)。 2007年4月27日、タリン解放者の記念碑(英語版)撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動がタリンで起こり、ロシアとの関係が悪化した。同時にロシアから、世界初の大規模なサイバー攻撃(DDoS攻撃)が行われ、国全体で通常時の数百倍のトラフィックが発生し、エストニアのネット機能が麻痺した。 これを機に2008年、NATOのサイバーテロ防衛機関であるNATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設された。エストニアの電子政府は、改竄などがされにくいブロックチェーン技術を採用している。さらに、将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて、2018年、国民の情報のバックアップ・データを保管する「データ大使館」をNATO加盟国であるルクセンブルクに設置した。 ソ連とナチス・ドイツによる占領と抑圧を受けた経緯から、それぞれの象徴であった「鎌と槌」および「鉤十字」の使用と掲揚は、2007年施行の法律で禁止されている。 2014年2月18日、エストニアとロシアの領有権問題について両国外相は、ソ連時代の国境線を追認する(すなわち、エストニア側が領有権主張を放棄する)形での国境画定条約に署名した。これに従ってエストニア議会は国境条約批准プロセスを進めたが、その後はロシア側がエストニアの「反露感情」について抗議を繰り返し、2019年に至っても批准プロセスは停滞したままとなっている。 政体は共和制。議会(リーギコグ、Riigikogu)は一院制で、任期は4年である。大統領は議会によって選ばれ、任期は5年である。2007年2月26日から28日に世界で初めて議会選挙に関してインターネットを利用した電子投票を行った。 電子化が進んでおり、議会への出席時にノートパソコンなどの電子端末持ち込みが自由であり、かつ、インターネットでの議会出席も許可されているため、議論への参加や投票のとき以外は、議員が議会へ直接実際に出向く必要もない。政府が発行する個人IDカードは15歳以上のエストニア国民のほとんどが持っており、行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能である。また、このIDカードは運転免許証や、ショッピングの際のポイントカードとしても機能している。役所などでは人員や紙などのコストを4分の1、窓口の人員は10分の1ほどに減らすことが可能になった。 ロシア帝国とソ連の支配に苦しんだ歴史から、ロシアを警戒し、欧米と協調する政策をとっている。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、エストニア議会はラトビア議会とともに、ロシアによる戦争犯罪を非難した。 エストニアはフランスと同じく、欧州連合(EU)加盟国中で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と国交を結んでいない国である。 陸海空の三軍のほか、郷土防衛部隊としてのエストニア防衛連盟(エストニア語: Kaitseliit)を有する。NATOに加盟して欧米諸国と同盟関係にあり、サイバー防衛のほかNATO各国空軍による領空警備を提供されている。国際貢献としてアフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF)やイラク駐留軍にも人員を派遣した。また徴兵制度により18 - 28歳の男性は8 - 11か月の兵役を務める。 エストニア軍は第一次世界大戦後の独立に際して創設されたが、ナチス・ドイツによる占領時は反共義勇兵(第20SS武装擲弾兵師団)の募兵、第二次世界大戦以降はソ連への併合に伴う赤軍の駐留が行われていた。現在のエストニア軍は1991年の再独立に伴って再創設された。 南のラトビアとの国境線は267キロメートル、東のロシアとの国境線は290キロメートルあり、フィンランド湾に面する北の海岸は主に石灰岩からなる。 国土の最高標高地点はスールムナマギ(大きな卵の丘)で標高318メートル、1812年に最初の展望台が建設された。現在、展望台は5つあり、東にロシア領、南にラトビア領が望める(位置:左地図参照)。 首都タリンからフィンランド湾の北の対岸、フィンランドの首都ヘルシンキまでは85キロメートル、同じく湾の東奥、ロシアのサンクトペテルブルクまでは350キロメートルである。 エストニア最大の湖は東部のペイプシ湖で、面積は日本の琵琶湖の5.22倍、湖の中央にはロシアとの国境線がある。国土の50.5%は森林となっている。 ペイプシ湖から、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市ナルヴァ(ロシアとの国境の街)を経て、フィンランド湾に流れ込むナルヴァ川は、エストニアとロシアの国境線となっている。 2000以上の島がある。 15の県 (maakond) に分かれる。なお、括弧内はある程度流通していると思われる日本語の慣用読みである。 リヴォニア帯剣騎士団・ドイツ騎士団・スウェーデン・ロシアの支配を経験したため、市町村に複数の名称がある。 国際通貨基金(IMF)の統計によると、2018年のエストニアのGDPは303億ドルである。1人あたりのGDPは2万2,990ドルで、EU平均の3万6,735ドルの約62.6%ほどではあるが、バルト三国の中では最も高い。 エストニアの経済状況はバルト三国中で最も良好である。フィンランドから高速船で1時間半という立地と、世界遺産に登録されたタリン歴史地区を背景に、近年は観光産業が発達している。1年間の観光客数は500万人を超えるともいわれる。そのほかにもIT産業が堅調で、最近ではeストニアと呼ばれている。ヨーロッパのIT市場においてオフショア開発の拠点となっており、IT技術者が多い。ヨーロッパではハンガリーに次いでハッカー(単に高度なIT技術を有する人物を指す語であり、その技術を反社会的に利用するクラッカーとの違いに注意)が多いとも言われる。そして、2018年には同盟国のルクセンブルクにデータ大使館を開設。領土外に専用サーバーを置いてバックアップをとっておくことで、国が扱うあらゆるデータ、情報システムの破壊や紛失、盗難に備えることを目的としている。 また、アメリカ合衆国の大手シンクタンクであるヘリテージ財団による経済自由度指標では、世界第15位(2019年現在)にランク付けされており、政府による経済統制はほとんどないとされる。すなわち、エストニアの経済構造は、近隣の北欧諸国のような市場調整型ではなく、アングロ・サクソン諸国(アメリカやイギリス)のような市場放任寄りである。このような構造で好調な経済成長を遂げている小国の例に、アイルランドがある。 通貨は、2010年までクローンを用いていたが、1度の延期(2007年)を経て2011年1月1日にユーロへの移行が完了した。1999年のユーロ導入以来17か国目で、旧ソ連圏から初めてユーロ圏の一員となった。2010年には、イスラエル、スロベニアとともにOECD加盟国となった。 住民は、フィン・ウゴル系のエストニア人が69.7%、ロシア人が25.2%、ウクライナ人が1.7%、ベラルーシ人が1.0%、フィンランド人が0.6%、その他3.8%である(2011年)。1989年のソ連時代はエストニア人61.5%、ロシア人30.3%であった。 その他にはセトマーの先住民セト人がいる。 国語・公用語であるエストニア語は国民の68.54%の母語であり、フィンランド語と同じく、ウラル語族の言語である。 ロシア語を母語とする人は29.60%を占める。隣国の言語であるフィンランド語は同じウラル系言語として近接関係にあることと交流の活発化により理解度が高まっている。そのほか、ドイツ語、英語、スウェーデン語が比較的よく通じる。 婚姻の際は、婚前姓を保持する(夫婦別姓)も、共通の姓として夫婦いずれかの姓に統一する(同姓)ことも、配偶者の姓を後置する(複合姓)こともできる。 エストニアはキリスト教圏であり、主に正教会と福音ルター派が信仰されているが、歴史的な経緯から無宗教も多い。 伝統的にはドイツ系移民が多くルーテル教会信者が多かったが、その後ロシア系移民が多くなり、正教会信仰への素地ができた。2015年の調査では、国民全体の51%がクリスチャン、49%は無宗教であり、クリスチャンは25%が正教会(ほぼEstonian Orthodox Church )、20%がルーテル教会(ほぼEstonian Evangelical Lutheran Church)であった。 ソ連からの独立後、国内に残った残留ロシア人の問題を抱えている。2022年時点で64,297人の非市民(大多数は民族ロシア人)がいる。エストニア国籍を持たないものは地方行政区への投票権を持つが、リーギコグや欧州議会への投票権は持っていない。 ロシア語を母語とする人は、特に首都タリンでは46.7%と半数近く、ロシア国境に位置するナルヴァでは93.85%と大半がロシア語を母語とする住民で占められているなど、都市部では実質的なロシア語圏の様相を持っていると言えるが、公用語には制定されていない。看板・広告などでのロシア語表記は制限されているが、テレビやラジオなどではロシア語系住民のためのロシア語放送がある。 しかしながら、反露感情の強い国民性のうえに若年層のエストニア人の間では独立後にロシア語教育が必須でなくなったことと、2004年のEU加盟によりイギリスやアイルランドでの留学、労働経験者が急増したことで英語能力が急速に高まり、英語が話せてもロシア語を話すことができない若者が急増している。 一方、ソ連時代に教育を受けた40歳前後以上の世代ではロシア語はほぼ理解できるが英語は苦手である場合が多い。さらに、ロシア語系住民は若年層を除くとエストニア語が苦手であるなど、エストニア人とロシア語系住民の断絶が続いている。このように、ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっている。 エストニアの治安は、同国法務省が発表した2017年の犯罪統計によると同年の犯罪件数が26,929件で、2016年と比較すると全体で2,057件減少しており、治安状況は改善されて来ている。ただし、薬物犯罪(英語版)の件数が年々増加している為に引き続き注意が必要とされている。 犯罪の主な内訳は、殺人が45件、傷害が4,710件、婦女暴行が150件。窃盗が7,633件、強盗が201件、薬物犯罪が1,271件となっている。また、Obtshakと呼ばれるエストニア・マフィアとロシアンマフィアによる同盟の存在が問題となっている。 国際的に著名なクラシック音楽、現代音楽の作曲家にはエドゥアルド・トゥビン、ヴェリヨ・トルミス、アルヴォ・ペルト、レポ・スメラ、エリッキ=スヴェン・トゥールなどがいる。指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィが2015年からNHK交響楽団の首席指揮者を務めており、父のネーメ・ヤルヴィも国際的に著名である。 エストニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 バスケットボールはエストニアで最も人気のスポーツである。バスケットボールエストニア代表は、過去に1936年の夏季オリンピックに参加している。ユーロバスケットには4回出場しており、1937年大会と1939年大会では最高の5位入賞を果たしている。 エストニアはサッカーも盛んであり、1992年にサッカーリーグのメスタリリーガ(Meistriliiga)が創設された。2019年まではセミプロであったが、2020年よりプロリーグへと変更された。リーグはFCフローラ・タリンが圧倒的な強さを誇っており、3連覇を含むリーグ最多13度の優勝に輝いている。 エストニアサッカー協会(EJL)によって構成されるサッカーエストニア代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権への出場経験はない。UEFAネーションズリーグでは、2022-23シーズンはグループDに属した。エストニア人で最も成功したサッカー選手としては、アウクスブルクやリヴァプールなどで活躍したラグナル・クラヴァンが挙げられる。
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"エストニアの経済状況はバルト三国中で最も良好である。フィンランドから高速船で1時間半という立地と、世界遺産に登録されたタリン歴史地区を背景に、近年は観光産業が発達している。1年間の観光客数は500万人を超えるともいわれる。そのほかにもIT産業が堅調で、最近ではeストニアと呼ばれている。ヨーロッパのIT市場においてオフショア開発の拠点となっており、IT技術者が多い。ヨーロッパではハンガリーに次いでハッカー(単に高度なIT技術を有する人物を指す語であり、その技術を反社会的に利用するクラッカーとの違いに注意)が多いとも言われる。そして、2018年には同盟国のルクセンブルクにデータ大使館を開設。領土外に専用サーバーを置いてバックアップをとっておくことで、国が扱うあらゆるデータ、情報システムの破壊や紛失、盗難に備えることを目的としている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、アメリカ合衆国の大手シンクタンクであるヘリテージ財団による経済自由度指標では、世界第15位(2019年現在)にランク付けされており、政府による経済統制はほとんどないとされる。すなわち、エストニアの経済構造は、近隣の北欧諸国のような市場調整型ではなく、アングロ・サクソン諸国(アメリカやイギリス)のような市場放任寄りである。このような構造で好調な経済成長を遂げている小国の例に、アイルランドがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "通貨は、2010年までクローンを用いていたが、1度の延期(2007年)を経て2011年1月1日にユーロへの移行が完了した。1999年のユーロ導入以来17か国目で、旧ソ連圏から初めてユーロ圏の一員となった。2010年には、イスラエル、スロベニアとともにOECD加盟国となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "住民は、フィン・ウゴル系のエストニア人が69.7%、ロシア人が25.2%、ウクライナ人が1.7%、ベラルーシ人が1.0%、フィンランド人が0.6%、その他3.8%である(2011年)。1989年のソ連時代はエストニア人61.5%、ロシア人30.3%であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その他にはセトマーの先住民セト人がいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国語・公用語であるエストニア語は国民の68.54%の母語であり、フィンランド語と同じく、ウラル語族の言語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ロシア語を母語とする人は29.60%を占める。隣国の言語であるフィンランド語は同じウラル系言語として近接関係にあることと交流の活発化により理解度が高まっている。そのほか、ドイツ語、英語、スウェーデン語が比較的よく通じる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "婚姻の際は、婚前姓を保持する(夫婦別姓)も、共通の姓として夫婦いずれかの姓に統一する(同姓)ことも、配偶者の姓を後置する(複合姓)こともできる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "エストニアはキリスト教圏であり、主に正教会と福音ルター派が信仰されているが、歴史的な経緯から無宗教も多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "伝統的にはドイツ系移民が多くルーテル教会信者が多かったが、その後ロシア系移民が多くなり、正教会信仰への素地ができた。2015年の調査では、国民全体の51%がクリスチャン、49%は無宗教であり、クリスチャンは25%が正教会(ほぼEstonian Orthodox Church )、20%がルーテル教会(ほぼEstonian Evangelical Lutheran Church)であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ソ連からの独立後、国内に残った残留ロシア人の問題を抱えている。2022年時点で64,297人の非市民(大多数は民族ロシア人)がいる。エストニア国籍を持たないものは地方行政区への投票権を持つが、リーギコグや欧州議会への投票権は持っていない。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ロシア語を母語とする人は、特に首都タリンでは46.7%と半数近く、ロシア国境に位置するナルヴァでは93.85%と大半がロシア語を母語とする住民で占められているなど、都市部では実質的なロシア語圏の様相を持っていると言えるが、公用語には制定されていない。看板・広告などでのロシア語表記は制限されているが、テレビやラジオなどではロシア語系住民のためのロシア語放送がある。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかしながら、反露感情の強い国民性のうえに若年層のエストニア人の間では独立後にロシア語教育が必須でなくなったことと、2004年のEU加盟によりイギリスやアイルランドでの留学、労働経験者が急増したことで英語能力が急速に高まり、英語が話せてもロシア語を話すことができない若者が急増している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、ソ連時代に教育を受けた40歳前後以上の世代ではロシア語はほぼ理解できるが英語は苦手である場合が多い。さらに、ロシア語系住民は若年層を除くとエストニア語が苦手であるなど、エストニア人とロシア語系住民の断絶が続いている。このように、ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "エストニアの治安は、同国法務省が発表した2017年の犯罪統計によると同年の犯罪件数が26,929件で、2016年と比較すると全体で2,057件減少しており、治安状況は改善されて来ている。ただし、薬物犯罪(英語版)の件数が年々増加している為に引き続き注意が必要とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "犯罪の主な内訳は、殺人が45件、傷害が4,710件、婦女暴行が150件。窃盗が7,633件、強盗が201件、薬物犯罪が1,271件となっている。また、Obtshakと呼ばれるエストニア・マフィアとロシアンマフィアによる同盟の存在が問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "国際的に著名なクラシック音楽、現代音楽の作曲家にはエドゥアルド・トゥビン、ヴェリヨ・トルミス、アルヴォ・ペルト、レポ・スメラ、エリッキ=スヴェン・トゥールなどがいる。指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィが2015年からNHK交響楽団の首席指揮者を務めており、父のネーメ・ヤルヴィも国際的に著名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "エストニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "バスケットボールはエストニアで最も人気のスポーツである。バスケットボールエストニア代表は、過去に1936年の夏季オリンピックに参加している。ユーロバスケットには4回出場しており、1937年大会と1939年大会では最高の5位入賞を果たしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "エストニアはサッカーも盛んであり、1992年にサッカーリーグのメスタリリーガ(Meistriliiga)が創設された。2019年まではセミプロであったが、2020年よりプロリーグへと変更された。リーグはFCフローラ・タリンが圧倒的な強さを誇っており、3連覇を含むリーグ最多13度の優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "エストニアサッカー協会(EJL)によって構成されるサッカーエストニア代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権への出場経験はない。UEFAネーションズリーグでは、2022-23シーズンはグループDに属した。エストニア人で最も成功したサッカー選手としては、アウクスブルクやリヴァプールなどで活躍したラグナル・クラヴァンが挙げられる。", "title": "スポーツ" } ]
エストニア共和国、通称エストニアは、北ヨーロッパの共和制国家。首都はタリン。人口約133万人。EU、NATO加盟国。通貨はユーロ。フィンランド、ラトビア、リトアニアなどとともにバルト海東岸に位置する国の一つである。国境は、南はラトビア、東はロシアと接する。北はフィンランド湾を挟みフィンランドと、西はバルト海を挟みスウェーデンと相対している。バルト三国の中では最も北に位置する。
{{Redirect|エストニア共和国|ソ連時代の共和国|エストニア・ソビエト社会主義共和国|ソ連併合前の共和国|エストニア共和国 (1918年-1940年)}} {{Otheruses|国|その他}} {{基礎情報 国 | 略名 =エストニア | 日本語国名 =エストニア共和国 | 漢字表記 =漢字表記なし | 公式国名 ='''{{Lang|et|Eesti Vabariik}}''' | 国旗画像 =Flag of Estonia.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Estonia.svg|100px|エストニアの国章]] | 国章リンク =[[エストニアの国章|国章]] | 標語 =なし | 位置画像 =EU-Estonia.svg | 公用語 =[[エストニア語]] | 首都 =[[タリン]] | 最大都市 =[[タリン]] | 元首等肩書 =[[エストニアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[アラル・カリス]] | 首相等肩書 =[[エストニアの首相|首相]] | 首相等氏名 =[[カヤ・カッラス]] | 面積順位 =129 | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =45,226 | 水面積率 =4.5% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =151 | 人口大きさ =1 E6 | 人口値 = 132万6000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ee.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-4}}</ref> | 人口密度値 = 31.3<ref name=population/> | GDP統計年元 =2018 | GDP値元 =257億<ref name="imf201904">{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/01/weodata/weorept.aspx?sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=939&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=72&pr.y=10|title=World Economic Outlook Database, April 2019|publisher=[[国際通貨基金]](IMF)|language=英語|date=2019-04|accessdate=2019--5-11}}</ref> | GDP統計年MER =2018 | GDP順位MER =102 | GDP値MER =303億<ref name="imf201904" /> | GDP統計年 =2018 | GDP順位 =112 | GDP値 =450億<ref name="imf201904" /> | GDP/人 =34,096<ref name="imf201904" /> | 建国形態 =[[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認<br /><br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認 | 建国年月日 =[[ロシア帝国]]より<br />[[1918年]][[2月24日]]<br />[[1920年]][[2月2日]]<br />[[ソビエト連邦]]より<br />[[1991年]][[8月20日]]<br />[[1991年]][[9月6日]] | 通貨 =[[ユーロ]] (&#8364;) | 通貨コード =EUR | 時間帯 =+2 | 夏時間 =+3 | 国歌 =[[我が故国、我が誇りと喜び|{{lang|et|Mu isamaa, mu õnn ja rõõm}}]]{{et icon}}<br/>''我が故国、我が誇りと喜び''<br/>{{center|[[File:US Navy band - National anthem of Estonia.ogg]]}} | ISO 3166-1 = EE / EST | ccTLD =[[.ee]] | 国際電話番号 =372 | 注記 = }} '''エストニア共和国'''(エストニアきょうわこく、{{Lang-et|Eesti Vabariik}})、通称'''エストニア'''({{Lang-et|Eesti}})は、[[北ヨーロッパ]]の[[共和制]][[国家]]<ref name=north>国連の分類でエストニアは北ヨーロッパの国 [https://unstats.un.org/unsd/methodology/m49/ 「一覧表:UN,Geographic Regions,Northern Europe」] 、[[commons:File:Europe subregion map UN geoscheme.svg|「地図:国連の分類によるヨーロッパの区分け」]]</ref>。[[首都]]は[[タリン]]。人口約133万人。[[欧州連合加盟国|EU]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟国。[[通貨]]は[[ユーロ]]。[[フィンランド]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]などとともに[[バルト海]]東岸に位置する国の一つである。国境は、南は[[ラトビア]]、東は[[ロシア]]と接する。北は[[フィンランド湾]]を挟み[[フィンランド]]と、西は[[バルト海]]を挟み[[スウェーデン]]と相対している。[[バルト三国]]の中では最も北に位置する。 == 概要 == [[フィンランド]]、[[ロシア]]とともに[[フィンランド湾]]に面する3つの国の一つで、フィンランドから湾を挟み約90㎞南に位置する{{Refnest|group="注釈"|フィンランド湾、北岸のフィンランド首都[[ヘルシンキ]]、南岸のエストニア首都タリン、両首都間の距離は85km<ref name="大使館">[http://www.estemb.or.jp/jp/estonia 駐日エストニア共和国大使館HP]{{リンク切れ|date= 2019-03}}</ref>。}}。面積は日本の[[九州]]本島の1.23倍{{Refnest|group="注釈"|エストニアの面積45,226km²、九州本島の面積36,749.82km² (九州の面積42,194.75km²から[[屋久島]]、[[種子島]]、[[奄美大島]]、[[五島列島]]など離島除く)。}}。地形は平坦で国土の最高[[標高]]は318m{{Refnest|group="注釈"|国土の最高標高318mの地点は、タリンから南東に約250km、ロシアとラトビアとの国境近くの「[[スールムナマギ]]」(大きな卵の丘)。}}。[[国際連合|国連]]の分類では[[北ヨーロッパ]]の国である{{Refnest|group="注釈"|国際連合統計局の分類より<ref name=north/>。[[日本国外務省]]欧州局では[[西ヨーロッパ|西欧]]課が担当する<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/sosiki/oushu.html 外務省欧州局](2011年4月2日閲覧)</ref>}}。 首都[[タリン]]は[[ハンザ同盟|中世ハンザ都市]]として栄えた[[港湾都市]]であり、その旧市街は[[世界遺産]]「タリン歴史地区」に指定されている。またタリンは、フィンランドの首都[[ヘルシンキ]]、ロシアの[[サンクトペテルブルク]]とともに、[[フィンランド湾]]に面する主要都市の一つである。特に85㎞北に位置する対岸のヘルシンキとの往来が活発である<ref>[http://www.tourism.tallinn.ee/jp/fpage/travelplanning/arrival/by_sea タリン市観光局公式HP]、[http://www.tallinksilja.com/documents/10192/11964208/routemaps-all-routes-wo-cargo/be088631-fe41-45e0-b320-c9fefc1a9103?t=1370002988229 フィンランド・スウエーデン等との定期航路図]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ヘルシンキとは1日7便(85km 所要時間最短で90分)、バルト海西岸の[[ストックホルム]](スウェーデンの首都)とは1日1便(375km 所要時間15時間)など、2013年度<ref name="大使館"/>。}}。 [[世界報道自由度ランキング|報道の自由度ランキング]]の上位国であり{{Refnest|group="注釈"|{{要出典|範囲=[[国境なき記者団]]が毎年発表する。政府による報道への規制などを国別に数値化し、自由度の高い順にランキング化したもの。エストニアは2007年と2012年が第3位、2019年第11位。日本は、2019年第67位で、2011年第11位が過去最高である。|date=2023年1月}}}}、[[公用語]]は[[エストニア語]]。複数の言語を話せる国民が多い<ref name="大使館"/><ref>エストニアは「[http://www.efjapan.co.jp/epi/about-epi/ 英語能力指数(EF EPI)]」において、[http://www.efjapan.co.jp/epi/ 2020年時点で世界第25位で「高い」カテゴリーに属する](2021年5月8日閲覧)。</ref>。国民の半数以上が無宗教とされる。一方で、ロシア系住民には[[ロシア正教]]を信仰する者もいる<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/estonia/data.html#section1 日本 外務省サイト]「5 宗教」エストニア2011年国勢調査より、国民の半数以上が無宗教。ロシア正教、プロテスタント(ルター派)等。</ref>。また、[[Skype|Skype(スカイプ)]]を産んだ国であり、外国の[[情報技術|IT]]企業の進出も多く、[[ソフトウェア]]開発が盛んである<ref>[http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2004_10/east_europe_01.htm 海外労働情報・国別労働トピック]{{リンク切れ|date= 2018-12}}独立行政法人 [[労働政策研究・研修機構]]</ref>。早期のIT教育<ref>[http://wired.jp/2012/09/07/estonia-reprograms-first-graders-as-web-coders/ 小学1年生からプログラミング授業] WIRED news 2012.9.7</ref>や[[OECD生徒の学習到達度調査|国際学力調査]]で[[ヨーロッパ|欧州]]の上位国としても知られる{{Refnest|group="注釈"|2012年の調査結果では、ヨーロッパで「科学リテラシー」がフィンランドに次ぐ第2位(全体で6位)、「読解力」が第4位(全体で11位)、「数学的リテラシー」が第4位(全体で11位)<ref>OECD加盟国の生徒の学習到達度調査(PISA) [http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2012_result_outline.pdf 『~2012年調査国際結果の要約~』] P10表1より</ref>。}}。 [[13世紀]]以降、[[デンマーク]]、[[ドイツ騎士団]]、[[スウェーデン]]、[[モスクワ大公国]]、[[ロシア帝国]]などの支配を経て、[[第一次世界大戦]]末期の[[1918年]]にロシア帝国より独立。[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]]に[[ソビエト連邦]]により占領され([[バルト諸国占領]])、翌[[1941年]]に[[独ソ戦]]で[[ナチス・ドイツ]]が占領。[[1944年]]、ドイツ軍を押し返したソ連により再占領・併合され[[エストニア・ソビエト社会主義共和国]]となった。その後、[[ソビエト連邦の崩壊]]により、[[1991年]]に[[エストニアの独立回復|独立を回復]]。[[2004年]][[欧州連合加盟国|EU]]・[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟、[[2008年]][[北大西洋条約機構|NATO]]の[[サイバーテロ]]防衛機関の本部所在国となる<ref name="NATOdefence">機関名「[https://ccdcoe.org/index.html NATO Cooperative Cyber Defence Centre of Excellence]」、日本の外務省による訳語「NATOサイバー防衛協力センター」、参照:外務省サイト エストニアの外交・国防⇒ 3.国防⇒ (3)その他、より[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/estonia/data.html]</ref>。[[経済協力開発機構]](OECD)にも加盟している。 なお、エストニア政府では建国年を1918年としており、1991年にソ連の占領から独立を「回復」したと見做しているため、自国は「[[ソビエト連邦構成共和国|旧ソ連構成国]]」ではないとしている<ref>{{Twitter status2|estembassyjp|1496798387856834561|2022年2月24日|accessdate=2022-2-27}}</ref><ref>{{Cite news|title=TBSにエストニア大使館が抗議「旧ソビエトの国と呼ぶのはやめてもらえます?」|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/156593|publisher=[[東京スポーツ|東スポWeb]]|date=2022-2-26|accessdate=2022-2-27}}</ref>。 === 電子政府・電子国家 === エストニアはITを[[行政]]に活用する「[[電子政府]]」を構築しており、婚姻届と離婚届など倫理的な要因であえて除外されているものを除くほぼ全ての行政手続きがオンライン申請に対応している<ref>{{Cite web |title=婚姻届 はんこは不要 証人は必要 なぜ? {{!}} NHK {{!}} News Up |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220608/k10013661451000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-06-10 |last=日本放送協会}}</ref>。エストニアの省庁や企業、個人は「X-Road」という基盤[[情報システム]]で[[個人情報]]を登録・利用している。個人情報の所有権は各個人にあると定めており、自分の情報へのアクセス履歴を閲覧できる<ref>【奔流デジタル】#動揺する民主主義(5)最終回「電子先端国 透明性に腐心」『[[読売新聞]]』朝刊2021年5月4日1面</ref>。 国外の[[外国人]]にも[[インターネット]]経由で行政サービスを提供する「電子居住権」(E-Residency) 制度に5万人以上が登録している<ref>{{Cite news|url=https://medium.com/e-residency-blog/e-residency%E3%81%AE%E5%8F%96%E5%BE%97%E3%82%92%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AA%E3%82%89-%E3%81%BE%E3%81%9A%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84%E8%A8%98%E4%BA%8B-c7b80dd1f982|title=e-residencyの取得を検討しているなら-まず最初に読んでほしい記事 |work=|publisher=『[[Medium]]』|date=2018年9月7日}}</ref>。この制度は[[投資]]を呼び込むとともに、エストニアに好意的な人を世界で増やし、ロシアに対する抑止力を高める狙いもある<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12043610U7A120C1905E00/|title=エストニアの「電子居住権」、小国の生命線 |work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』|date=2017年1月24日}}</ref>。戦争や災害に備えて、国民のデータを保管しておく「データ大使館」を[[2018年]]に[[ルクセンブルク]]に設置した<ref>「デジタル国家」エストニア 学ぶべき発想随所に『[[日経産業新聞]]』2022年5月25日グローバル面</ref>。 == 国名 == 正式名称は[[エストニア語]]で、{{Lang|et|Eesti Vabariik}}({{IPA-et|ˈeːsti ˈʋɑbɑriːk|}}、エースティ・ヴァバリーク)。略称は、{{Lang|et|Eesti}}({{IPA-et|ˈeːsʲti||Et-Eesti.ogg}})。 日本語表記は、'''エストニア共和国'''。通称'''エストニア'''。 == 歴史 == [[ファイル:Baltics 1882.JPG|thumb|left|ロシア帝国領[[エストラント]]と[[リヴォニア|リーフラント]]]] [[画像:Declaration of Estonian independence in Pärnu.jpg|thumb|left|エストニア南西部の[[パルヌ]]での独立宣言(1918年2月23日)]] [[ファイル:Eesti haldusjaotus 1925.jpg|thumb|left|1925年のエストニア地図]] {{main|エストニアの歴史|{{仮リンク|古代エストニア|en|Ancient Estonia}}}} 現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族([[ウラル語族]])と、外から来た[[東スラヴ人]]、[[ノース人]]などとの混血の過程を経て、[[10世紀]]までには現在のエストニア民族が形成されていった。[[13世紀]]以降、[[デンマーク]]と[[ドイツ騎士団]]がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、[[タリン]]が[[ハンザ同盟]]に加盟し海上交易で栄えた。ただしその後も[[スウェーデンの歴史|スウェーデン]]、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた。 [[1917年]]の[[ロシア革命]]で[[ロシア帝国]]が崩壊すると自治獲得の動きが高まり、まもなく独立運動へと転じた。[[1918年]][[2月24日]]に[[エストニア共和国 (1918年-1940年)|エストニア共和国]]の独立を宣言。その後は[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]や[[ドイツ帝国]]の軍事介入を撃退して独立を確定させた。[[1920年]]の[[タルトゥ条約]]でソビエト・ロシアから[[国家の承認|独立を承認]]され、[[1921年]]には[[国際連盟]]にも参加した。 {{See also|{{仮リンク|エストニア独立戦争|en|Estonian War of Independence}}}} [[1939年]]8月、[[ナチス・ドイツ]]が、次いで同年9月にソ連がポーランドへ侵攻を行う中、エストニアは同年9月28日にソ連との間で相互援助条約、[[通商条約]]を締結した。相互援助条約では、国境や基地に直接的侵略が加えられたときなどは相互に軍事的援助を行うこと、ソ連が[[バルト海]]の[[サーレマー島]]、[[ヒーウマー島]]を[[租借]]して海軍基地、航空基地を建設することなどが取り決められた<ref>エストニアと相互援助条約を締結『東京朝日新聞』昭和14年9月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 しかし、[[1940年]][[6月16日]]、ソ連は相互援助条約の履行を確保するという名目でソ連軍の進駐を強要<ref>赤軍がエストニア、ラトビアに進駐『東京朝日新聞』昭和15年6月18日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p384)</ref>。事実上、ソ連に占領されることとなったが、[[独ソ戦]]が進行する中で[[1941年]]から[[1944年]]まではナチス・ドイツに占領された。[[第二次世界大戦]]末期の1944年にはソ連に再占領され、併合された。[[ソビエト連邦の崩壊]]直前の[[1991年]]に[[エストニアの独立回復|独立回復]]を宣言し、同年に[[国際連合]]へ加盟した。 [[1994年]][[8月31日]]に[[ロシア軍]]が完全撤退したあと、西欧諸国との経済的、政治的な結びつきを強固にしていった。[[2004年]][[3月29日]]、[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟した。さらに、同年[[5月1日]]には[[欧州連合]] (EU) に加盟している。[[ロシア連邦]]との間に国境問題が存在する([[エストニアとロシアの領有権問題|後述]])。 [[2007年]][[4月27日]]、{{仮リンク|タリン解放者の記念碑|en|Bronze Soldier of Tallinn}}撤去事件を機に「[[青銅の夜]]」と呼ばれるロシア系住民による暴動が[[タリン]]で起こり、ロシアとの関係が悪化した。同時にロシアから、世界初の大規模なサイバー攻撃([[DDoS攻撃]])が行われ<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/estonia/data.html エストニア共和国 外交・国防 3.国防] 日本国外務省</ref>、国全体で通常時の数百倍のトラフィックが発生し、エストニアのネット機能が麻痺した。 これを機に[[2008年]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]の[[サイバーテロ]]防衛機関であるNATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設された<ref name="NATOdefence" />。エストニアの電子政府は、改竄などがされにくい[[ブロックチェーン]]技術を採用している。さらに、将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて、2018年、国民の情報の[[バックアップ]]・データを保管する「データ大使館」をNATO加盟国である[[ルクセンブルク]]に設置した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42776850S9A320C1TL1000/ 【Disruption 断絶の先に】第1部 ブロックチェーンが変える未来(1)国土破れてもデータあり/エストニア 起業の花咲く]『日本経済新聞』朝刊2019年4月3日(11面)2019年4月3日閲覧</ref>。 [[File:Estonian Declaration of Independence.jpg|thumb|120px|upright|エストニア独立宣言書(1918年)]] {{Main|[[:en:2007 cyberattacks on Estonia|エストニアへのサイバー攻撃]]}} ソ連とナチス・ドイツによる占領と抑圧を受けた経緯から、それぞれの象徴であった「[[鎌と槌]]」および「[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]」の使用と掲揚は、2007年施行の法律で禁止されている。 [[2014年]][[2月18日]]、[[エストニアとロシアの領有権問題]]について両国外相は、ソ連時代の国境線を追認する(すなわち、エストニア側が領有権主張を放棄する)形での国境画定条約に署名した<ref name="BNS">{{lang|en|{{cite news|title= Moscow: Border treaty won't be ratified if Estonia doesn't change conduct|url= https://news.err.ee/833760/moscow-border-treaty-won-t-be-ratified-if-estonia-doesn-t-change-conduct|date= 2018-05-23|first= Aili|last= Vahtla|agency= {{仮リンク|バルチック・ニュース・サービス|label= BNS|en|Baltic News Service}}, [[エストニア公共放送|ERR]]|publisher= ERR|accessdate= 2019-03-30}}}}</ref>。これに従って[[リーギコグ|エストニア議会]]は国境条約批准プロセスを進めたが、その後はロシア側がエストニアの「[[反露]]感情」について抗議を繰り返し<ref name="BNS"/>、[[2019年]]に至っても批准プロセスは停滞したままとなっている<ref>{{lang|en|{{cite news|title= Budget cuts may be necessary this year, says Ratas|url= https://news.err.ee/922005/budget-cuts-may-be-necessary-this-year-says-ratas|date= 2019-03-21|first= Aili|last= Vahtla|publisher= ERR|accessdate= 2019-03-30}}}}</ref>。 {{Clearleft}} == 政治 == [[File:Estland parliament.jpg|right|thumb|[[トームペア城]]の国会議事堂]] {{main|{{仮リンク|エストニアの政治|en|Politics of Estonia}}}} [[政治体制|政体]]は共和制。議会([[リーギコグ]]、Riigikogu)は一院制で、任期は4年である。大統領は議会によって選ばれ、任期は5年である。[[2007年]][[2月26日]]から28日に世界で初めて議会選挙に関して[[インターネット]]を利用した[[電子投票]]を行った<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6407269.stm BBC NEWS | Europe | Estonia claims new e-voting first]</ref>。 電子化が進んでおり、議会への出席時にノートパソコンなどの電子端末持ち込みが自由であり、かつ、インターネットでの議会出席も許可されているため、議論への参加や投票のとき以外は、議員が議会へ直接実際に出向く必要もない。政府が発行する個人IDカードは15歳以上のエストニア国民のほとんどが持っており、行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能である。また、このIDカードは運転免許証や、ショッピングの際のポイントカードとしても機能している。役所などでは人員や紙などのコストを4分の1、窓口の人員は10分の1ほどに減らすことが可能になった<ref>[http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/newsl/post_147668/ エストニア「電子国家」で変わる生活]{{リンク切れ|date= 2018-12}}[[ワールドビジネスサテライト]](2018年1月16日放送)</ref>。 == 国際関係 == [[ファイル:Diplomatic missions of Estonia.png|right|thumb|350px|エストニアが外交使節を派遣している諸国の一覧図]] [[File:Foreign Ministers of Nordic and Baltic countries met in Helsinki, 30.08.2011 (Photographer Eero Kuosmanen).jpg|thumb|left|2011年8月ヘルシンキで、フィンランド、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]、[[デンマーク]]、[[アイスランド]]、エストニア、ラトビア、[[リトアニア]]の8カ国外相会談開催。会談後、バルト三国独立20周年を祝うセミナーが開催された。]] {{main|{{仮リンク|エストニアの国際関係|en|Foreign relations of Estonia}}}} ロシア帝国とソ連の支配に苦しんだ歴史から、ロシアを警戒し、欧米と協調する政策をとっている。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]では、[[リーギコグ|エストニア議会]]は[[サエイマ|ラトビア議会]]とともに、ロシアによる[[戦争犯罪]]を非難した<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20220423-OYT1T50129/ エストニアとラトビアの議会、ロシア軍の市民虐殺を「ジェノサイド」「戦争犯罪」と非難] 読売新聞オンライン(2022年4月23日)2022年6月5日閲覧</ref>。 エストニアは[[フランス]]と同じく、[[欧州連合]](EU)加盟国中で[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)と国交を結んでいない国である。 {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{main|日本とエストニアの関係}} {{節スタブ}} == 軍事 == [[File:Opening ceremony for Ex STEADFAST JAZZ (10643674296).jpg|thumb|right|NATOのオープニングセレモニーでのエストニア陸軍(2013年)]] {{Main|エストニア国防軍}} <!-- ''詳細は[[エストニアの軍事]]を参照'' --> 陸海空の三軍のほか、郷土防衛部隊としてのエストニア防衛連盟([[エストニア語]]: Kaitseliit)を有する。NATOに加盟して欧米諸国と同盟関係にあり、サイバー防衛のほか[[北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備|NATO各国空軍による領空警備]]を提供されている。国際貢献として[[アフガニスタン]][[国際治安支援部隊]](ISAF)や[[イラク駐留軍]]にも人員を派遣した。また[[徴兵制度]]により18 - 28歳の男性は8 - 11か月の兵役を務める。 エストニア軍は第一次世界大戦後の独立に際して創設されたが、ナチス・ドイツによる占領時は反共義勇兵([[第20SS武装擲弾兵師団]])の募兵、第二次世界大戦以降はソ連への併合に伴う[[ソビエト連邦軍|赤軍]]の駐留が行われていた。現在のエストニア軍は1991年の再独立に伴って再創設された。 == 地理 == [[ファイル:En-map-ja.png|thumb|left|エストニアの地図]] [[ファイル:Baltic Sea map2.png|right|thumb|200px|[地図上] '''[[バルト海]]'''<br>西岸に[[スウェーデン]]、東岸に北から順に[[フィンランド]]、[[ロシア]]、エストニア、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]<br>[地図下] '''[[フィンランド湾]]'''。<br>北岸に[[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]、南岸にエストニアの首都[[タリン]]、最東端に[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]。]] [[ファイル:Panga pank-2-mauricedb.jpg|left|thumb|200px|[[フィンランド湾]]に面する北の海岸]] {{main|{{仮リンク|エストニアの地理|en|Geography of Estonia}}}} 南の[[ラトビア]]との国境線は267キロメートル、東の[[ロシア]]との国境線は290キロメートルあり、[[フィンランド湾]]に面する北の海岸は主に[[石灰岩]]からなる。 国土の最高標高地点は[[スールムナマギ]](大きな卵の丘)で標高318メートル、1812年に最初の展望台が建設された。現在、展望台は5つあり{{Refnest|group="注釈"|「On the hill, there have been 5 towers. The first tower, built in 1812」 [[:en:Suur Munamägi#History]]}}、東にロシア領、南にラトビア領が望める<ref>[http://homepage2.nifty.com/kmatsum/essays/EstMado.html エストニア語への招待]{{リンク切れ|date= 2018-12}}</ref>(位置:左地図参照)。 首都タリンからフィンランド湾の北の対岸、[[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]までは85キロメートル、同じく湾の東奥、ロシアの[[サンクトペテルブルク]]までは350キロメートルである<ref name="大使館"/>。 エストニア最大の湖は東部の[[ペイプシ湖]]で、面積は日本の[[琵琶湖]]の5.22倍、湖の中央にはロシアとの国境線がある。国土の50.5%は森林となっている。 [[ペイプシ湖]]から、[[タルトゥ]]に次ぐエストニア第3の都市[[ナルヴァ]](ロシアとの国境の街)を経て、フィンランド湾に流れ込む[[ナルヴァ川]]は、エストニアとロシアの国境線となっている。 2000以上の島がある<ref name="visitestonia.com">{{Cite web|url=https://www.visitestonia.com/en/why-estonia/estonia-facts|title=Introduction to Estonia|date=2020-07-22|accessdate=2020-09-01}}</ref>。 === 地形 === * [[サーレマー島]](エーゼル) {{interlang|en|Saaremaa|{{lang|et|Saaremaa}}}} / {{lang|et|Ösel}} * [[ヒーウマー島]](ダーグエー) {{interlang|en|Hiiumaa|{{lang|et|Hiiumaa}}}} / {{lang|et|Dagö}} === 自然保護区 === [[File:Karula RP2.JPG|thumb|left|200px|[[カルラ国立公園]]]] ==== 国立公園 ==== * [[カルラ国立公園]] {{interlang|en|Karula National Park}} * [[ラヘマー国立公園]] {{interlang|en|Lahemaa National Park}} * [[マッツァル国立公園]] {{interlang|en|Matsalu National Park}} * [[ソーマー国立公園]] {{interlang|en|Soomaa National Park}} * [[ヴィルサンディ国立公園]] {{interlang|en|Vilsandi National Park}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Eesti maakonnad 2006 ja.svg|right|thumb|400px|[[エストニアの県]]]] {{Main|エストニアの県}} 15の県 ({{lang|et|maakond}}) に分かれる。なお、括弧内はある程度流通していると思われる日本語の慣用読みである。 * [[ハリュ県]](ハリウ県) {{interlang|et|Harju maakond}} * [[イダ=ヴィル県|イダ゠ヴィル県]] {{interlang|et|Ida-Viru maakond}} * [[レーネ=ヴィル県|レーネ゠ヴィル県]](ラーネ゠ヴィル県) {{interlang|et|Lääne-Viru maakond}} * [[ラプラ県]] {{interlang|et|Rapla maakond}} * [[ヒーウ県]] {{interlang|et|Hiiu maakond}} * [[イェルヴァ県]] {{interlang|et|Järva maakond}} * [[レーネ県]](ラーネ県) {{interlang|et|Lääne maakond}} * [[ヨゲヴァ県]] {{interlang|et|Jõgeva maakond}} * [[ペルヌ県]](パルヌ県) {{interlang|et|Pärnu maakond}} * [[ヴィリャンディ県]] {{interlang|et|Viljandi maakond}} * [[サーレ県]] {{interlang|et|Saare maakond}} * [[タルトゥ県]] {{interlang|et|Tartu maakond}} * [[ポルヴァ県]] {{interlang|et|Põlva maakond}} * [[ヴァルガ県]] {{interlang|et|Valga maakond}} === 都市 === [[リヴォニア帯剣騎士団]]・[[ドイツ騎士団]]・[[スウェーデン]]・[[ロシア]]の支配を経験したため、市町村に複数の名称がある<ref>以下のリンクなどを参照。[http://www.eelk.ee/~elulood/kohanim.html], [http://www.mois.ee/pikknima.shtml],[http://klaudyan.psomart.cz/hodit/pobalti.html]</ref>。 {{Main|エストニアの都市の一覧}} * [[クレッサーレ]](アレンスブルク) {{interlang|en|Kuressaare|{{lang|et|Kuressaare}}}} / {{lang|et|Arensburg}} * [[タリン]](レーファル) {{lang|et|Tallinn}} / {{lang|et|Reval}} * [[ペルヌ]](ペルナウ) {{interlang|en|Pärnu|{{lang|et|Pärnu}}}} / {{lang|et|Pernau}} * [[タルトゥ]](ドルパット) Tartu / {{lang|et|Dorpat, Derpt}} * [[ナルヴァ]] {{interlang|en|Narva|{{lang|et|Narva}}}} / {{lang|et|Narwa}} * [[ヴァルガ]](ヴァルク) {{interlang|en|Valga|{{lang|et|Valga}}}} / {{lang|et|Walk}} * [[コフトラ・ヤルヴェ]](コホテル゠テュルプザール) {{interlang|en|Kohtla Järve|{{lang|et|Kohtla Järve}}}} / {{lang|et|Kochtel-Türpsal}} * [[ヴィリャンディ]](フェリーン) {{interlang|en|Viljandi|{{lang|et|Viljandi}}}} / {{lang|et|Fellin}} * [[クンダ (エストニア)|クンダ]] {{interlang|de|Kunda|{{lang|et|Kunda}}}} * [[ムーガ]](ミュンケンホーフ) {{interlang|de|Muuga|{{lang|et|Muuga}}}} / {{lang|et|Münkenhof}} * [[パルディスキ]](ローガーヴィーク) {{interlang|de|Paldiski|{{lang|et|Paldiski}}}} / {{lang|et|Rogervik}} * [[ハープサル]](ハプザール) {{interlang|en|Haapsalu|{{lang|et|Haapsalu}}}} / {{lang|et|Hapsal}} * [[サク市|サク]] {{interlang|en|Saku Parish}} == 経済 == [[File:Ehitatakse Viru Keskust.jpg|thumb|right|首都[[タリン]]の旧市街地と港を望む]] [[File:Tln1.jpg|thumb|right|タリンのビジネス街]] {{main|{{仮リンク|エストニアの経済|en|Economy of Estonia}}}} {{See also|{{仮リンク|バルト諸国の経済|ru|Экономика Прибалтики}}}} [[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2018年]]のエストニアの[[国内総生産|GDP]]は303億ドルである。1人あたりのGDPは2万2,990ドルで、EU平均の3万6,735ドル<ref>{{Cite web|author=独立行政法人 日本貿易振興機構(ジェトロ)|authorlink=日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/world/europe/eu/stat_01.html|title =HP>国・地域別に見る>欧州>EU>基礎的経済指標|date=2019-04-26|accessdate=2019-05-11}}</ref>の約62.6%ほどではあるが、[[バルト三国]]の中では最も高い<ref name="imf201904" />。 エストニアの経済状況はバルト三国中で最も良好である。[[フィンランド]]から高速船で1時間半という立地と、[[世界遺産]]に登録された[[タリン歴史地区]]を背景に、近年は観光産業が発達している。1年間の観光客数は500万人を超えるともいわれる。そのほかにもIT産業が堅調で、最近では'''eストニア'''と呼ばれている<ref>[https://gendai.media/articles/-/14027 「またの名を「eストニア」バルトの小国はEU期待の星」][[講談社]]>現代メディア</ref>。ヨーロッパのIT市場において[[オフショア]]開発の拠点となっており{{Refnest|group="注釈"|[[Skype]]が開発されたのもタリン。}}、IT技術者が多い。ヨーロッパでは[[ハンガリー]]に次いで[[ハッカー]](単に高度なIT技術を有する人物を指す語であり、その技術を反社会的に利用する[[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]]との違いに注意)が多いとも言われる。そして、2018年には同盟国のルクセンブルクにデータ大使館を開設。領土外に専用サーバーを置いてバックアップをとっておくことで、国が扱うあらゆるデータ、情報システムの破壊や紛失、盗難に備えることを目的としている。 また、[[アメリカ合衆国]]の大手[[シンクタンク]]である[[ヘリテージ財団]]による経済自由度指標<ref>{{Cite web|author=ヘリテージ財団|url=https://www.heritage.org/index/country/estonia|title=経済自由度指標 エストニア|date=2019|accessdate=2019-05-11}}</ref>では、世界第15位(2019年現在)にランク付けされており、政府による経済統制はほとんどないとされる。すなわち、エストニアの経済構造は、近隣の北欧諸国のような市場調整型ではなく、[[アングロ・サクソン]]諸国(アメリカや[[イギリス]])のような市場放任寄りである。このような構造で好調な経済成長を遂げている小国の例に、[[アイルランド]]がある。 通貨は、2010年まで[[クローン (通貨)|クローン]]を用いていたが、1度の延期([[2007年]])を経て[[2011年]][[1月1日]]に[[ユーロ]]への移行が完了した。1999年のユーロ導入以来17か国目で、旧[[東側諸国|ソ連圏]]から初めて[[ユーロ圏]]の一員となった。2010年には、[[イスラエル]]、[[スロベニア]]とともに[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国となった。 === 農業 === {{main|{{仮リンク|エストニアの農業|en|Agriculture in estonia}}}} {{節スタブ}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|エストニアの交通|en|Transport in Estonia}}}} === 鉄道 === {{main|{{仮リンク|エストニアの鉄道|en|Rail transport in Estonia}}}} === 航空 === {{main|エストニアの空港の一覧}} == 国民 == [[File:Kaart eestlased.jpg|thumb|upright|200px|地域別エストニア人の割合]] {{main|{{仮リンク|エストニアの人口統計|en|Demographics of Estonia|redirect=1}}}} === 民族・人種 === {{bar box |title=民族構成(エストニア 2011) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[エストニア人]]|blue|69.7}} {{bar percent|[[ロシア人]]|red|25.2}} {{bar percent|[[ウクライナ人]]|yellow|1.7}} {{bar percent|[[ベラルーシ人]]|green|1.0}} {{bar percent|[[フィンランド人]]|pink|0.6}} }} {{bar box |title=母語(エストニア) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[エストニア語]]|blue|68.54}} {{bar percent|[[ロシア語]]|red|29.60}} }} 住民は、フィン・ウゴル系の[[エストニア人]]が69.7%、[[ロシア人]]が25.2%、[[ウクライナ人]]が1.7%、[[ベラルーシ人]]が1.0%、[[フィンランド人]]が0.6%、その他3.8%である(2011年)。1989年のソ連時代はエストニア人61.5%、ロシア人30.3%であった。 その他にはセトマーの先住民[[セトゥ人|セト人]]がいる<ref>{{Cite web |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/111500434/ |title=国境に分断され「王国」を宣言した先住少数民族 |access-date=2023年4月17日 |publisher=ナショナルジオグラフィック}}</ref>。 === 言語 === {{main|エストニアの言語}} [[国語]]・[[公用語]]である'''[[エストニア語]]'''は国民の68.54%の[[母語]]であり、[[フィンランド語]]と同じく、[[ウラル語族]]の[[言語]]である。 [[ロシア語]]を母語とする人は29.60%を占める。隣国の言語であるフィンランド語は同じウラル系言語として近接関係にあることと交流の活発化により理解度が高まっている。そのほか、[[ドイツ語]]、英語、[[スウェーデン語]]が比較的よく通じる<ref name="大使館" />。 === 婚姻 === 婚姻の際は、婚前姓を保持する([[夫婦別姓]])も、共通の姓として夫婦いずれかの姓に統一する(同姓)ことも、配偶者の姓を後置する(複合姓)こともできる<ref>[https://www.riigiteataja.ee/akt/832979?leiaKehtiv Nimeseadus], Riigi Teataja.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|エストニアの宗教|en|Religion in Estonia}}}} エストニアは[[キリスト教]]圏であり、主に[[正教会]]と福音[[ルター派]]が信仰されているが、歴史的な経緯から[[無宗教]]も多い。 伝統的には[[ドイツ人|ドイツ系]][[移民]]が多く[[ルーテル教会]]信者が多かったが、その後[[ロシア人|ロシア系]]移民が多くなり、[[正教会]]信仰への素地ができた。2015年の調査では、国民全体の51%がクリスチャン、49%は無宗教であり、クリスチャンは25%が正教会(ほぼ[[:en:Estonian Orthodox Church of the Moscow Patriarchate|Estonian Orthodox Church ]])、20%がルーテル教会(ほぼ[[:en:Estonian Evangelical Lutheran Church|Estonian Evangelical Lutheran Church]])であった。 === 教育 === {{main|エストニアの教育}} {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|エストニアの保健|en|Health in Estonia}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|エストニアの医療|en|Healthcare in Estonia}}}} {{節スタブ}} == 社会 == ; 非国籍者問題とロシア語話者の立場 ソ連からの独立後、国内に残った[[残留ロシア人]]の問題を抱えている。2022年時点で64,297人の非市民<ref>{{Cite web |url=https://andmed.stat.ee/en/stat/rahvastik__rahvastikunaitajad-ja-koosseis__rahvaarv-ja-rahvastiku-koosseis/RV069U/table/tableViewLayout2 |title=RV069U: POPULATION, 1 JANUARY. ADMINISTRATIVE DIVISION AS AT 01.01.2018 by Year, County, Age group, Country of birth/citizenship, Country and Sex |access-date=2023年9月3日}}</ref>(大多数は民族ロシア人)がいる<ref>{{Cite web |url=https://www.siseministeerium.ee/tegevusvaldkonnad/tohus-rahvastikuhaldus/kodakondsus |title=Kodakondsus |access-date=2022年9月6日}}</ref>。エストニア国籍を持たないものは地方行政区への投票権を持つが、[[リーギコグ]]や[[欧州議会]]への投票権は持っていない。 [[ロシア語]]を母語とする人は、特に首都タリンでは46.7%と半数近く、ロシア国境に位置する[[ナルヴァ]]では93.85%と大半がロシア語を母語とする住民で占められているなど、都市部では実質的な[[ロシア語圏]]の様相を持っていると言えるが、公用語には制定されていない。看板・広告などでのロシア語表記は制限されているが、テレビやラジオなどではロシア語系住民のためのロシア語放送がある。 しかしながら、反露感情の強い国民性のうえに若年層のエストニア人の間では独立後にロシア語教育が必須でなくなったことと、2004年のEU加盟によりイギリスやアイルランドでの留学、労働経験者が急増したことで[[英語]]能力が急速に高まり、英語が話せてもロシア語を話すことができない若者が急増している。 一方、ソ連時代に教育を受けた40歳前後以上の世代ではロシア語はほぼ理解できるが英語は苦手である場合が多い。さらに、ロシア語系住民は若年層を除くとエストニア語が苦手であるなど、エストニア人とロシア語系住民の断絶が続いている。このように、ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっている。 {{See also|エストニアの国籍}} == 治安 == エストニアの治安は、同国法務省が発表した2017年の[[犯罪]]統計によると同年の犯罪件数が26,929件で、2016年と比較すると全体で2,057件減少しており、治安状況は改善されて来ている。ただし、{{仮リンク|薬物犯罪|en|Drug-related crime}}の件数が年々増加している為に引き続き注意が必要とされている。 犯罪の主な内訳は、[[殺人]]が45件、[[傷害]]が4,710件、[[婦女暴行]]が150件。[[窃盗]]が7,633件、[[強盗]]が201件、薬物犯罪が1,271件となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_155.html|title=エストニア 安全対策基礎データ|accessdate=2021-12-19|publisher=外務省}}</ref>。また、[[:en:Obtshak|Obtshak]]と呼ばれるエストニア・マフィアと[[ロシアンマフィア]]による[[同盟]]の存在が問題となっている。 {{See also|{{仮リンク|エストニアにおける犯罪|en|Crime in Estonia}}}} {{節スタブ}} === 警察 === {{main|{{仮リンク|エストニア警察|en|Estonian Police}}}} {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|エストニアにおける人権|en|Human rights in Estonia}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|エストニアのメディア|en|Mass media in Estonia}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|エストニアの文化|en|Culture of Estonia}}}} {{節スタブ}} === 食文化 === [[ファイル:Sülze001.jpg|thumb|肉のゼリー寄せ]] {{main|エストニア料理}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|[[エストニア文学]]}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|エストニアの音楽|en|Music of Estonia}}}} 国際的に著名な[[クラシック音楽]]、[[現代音楽]]の作曲家には[[エドゥアルド・トゥビン]]、[[ヴェリヨ・トルミス]]、[[アルヴォ・ペルト]]、[[レポ・スメラ]]、[[エリッキ=スヴェン・トゥール]]などがいる。[[指揮者]]では[[パーヴォ・ヤルヴィ]]が[[2015年]]から[[NHK交響楽団]]の首席指揮者を務めており、父の[[ネーメ・ヤルヴィ]]も国際的に著名である。 === 美術 === {{main|{{仮リンク|エストニア美術|en|Estonian art}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|エストニア芸術家協会|en|Estonian Artists' Association}}}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|エストニアの映画|en|Cinema of Estonia}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|エストニアの映画の一覧|en|Lists of Estonian films}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|エストニアの建築|en|Architecture of Estonia}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|エストニアの民俗建築|en|Estonian vernacular architecture}}|{{仮リンク|エストニア建築博物館|en|Museum of Estonian Architecture}}|{{仮リンク|野外博物館 (エストニア)|en|Estonian Open Air Museum}}}} === 世界遺産 === {{Main|エストニアの世界遺産}} エストニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。 <gallery> ファイル:Tallinna vanalinn.jpg|[[タリン歴史地区]] - (1997年、文化遺産) ファイル:Tartu tähetorn 2006.jpg|[[シュトルーヴェの測地弧]] - (2005年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|エストニアの祝日|en|Public holidays in Estonia}}}} {| class="wikitable" ! 日付 !! 日本語表記 !! エストニア語表記 !! 備考 |- |{{0}}[[1月1日|1月{{0}}1日]] || [[元日]] || {{lang|et|Uusaasta}} || |- |{{0}}[[2月24日]] || [[独立記念日]] || {{lang|et|Iseseisvuspäev}} || |- |復活祭の前々日 || [[聖金曜日]] || {{lang|et|Suur reede}} || |- |移動祝日(日曜日) || [[復活祭]] || 1.{{lang|et|ülestõusmispüha}} || |- |復活祭の翌日 || 復活祭月曜日 || 2.{{lang|et|ülestõusmispüha}} || |- |{{0}}[[5月1日|5月{{0}}1日]] || [[メーデー]] || {{lang|et|Kevadpüha}} || |- |復活祭後の第7日曜日 || [[聖霊降臨祭]] || || |- |{{0}}[[6月14日]] || [[記念祭の全国日]]|| {{lang|et|Leinapäev}} || [[1941年]]のこの日にエストニア人の巨大追放が行われた。 |- |{{0}}[[6月23日]] || [[戦勝記念日]] || {{lang|et|Võidupüha}} || [[ドイツ軍]]を{{仮リンク|エストニア解放戦争|label=エストニア解放戦争|en|Estonian War of Independence}}で破ったことを記念。 |- |{{0}}[[6月24日]] || [[夏至祭]]・[[聖ヨハネ祭]] || {{lang|et|Jaanipäev}} || |- |{{0}}[[8月20日]] || 独立回復記念日 || {{lang|et|Taasiseseisvumispäev}} || |- |[[12月24日]] || [[クリスマスイブ]] || {{lang|et|Jõululaupäev}} || |- |[[12月25日]] || [[クリスマス]] || 1. {{lang|et|jõulupüha}} || |- |[[12月26日]] || [[ボクシング・デー]] || 2. {{lang|et|jõulupüha}} || |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|エストニアのスポーツ|en|Sport in Estonia}}}} === バスケットボール === [[バスケットボール]]はエストニアで最も人気の[[スポーツ]]である。[[バスケットボールエストニア代表]]は、過去に[[1936年ベルリンオリンピックのバスケットボール競技|1936年の夏季オリンピック]]に参加している。[[バスケットボール欧州選手権|ユーロバスケット]]には4回出場しており、1937年大会と1939年大会では最高の5位入賞を果たしている。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|エストニアのサッカー|en|Football in Estonia}}}} エストニアは[[サッカー]]も盛んであり、[[1992年]]にサッカーリーグの[[メスタリリーガ]](Meistriliiga)が創設された。[[2019年]]までは[[セミプロフェッショナルスポーツ|セミプロ]]であったが、[[2020年]]よりプロリーグへと変更された<ref>{{cite web|title=Eesti jalgpalli meistriliiga jätkub teisipäeval uue formaadiga|language=et|date=14 May 2020|access-date=20 May 2021|publisher=Postimees Sport|url=https://sport.postimees.ee/6973141/eesti-jalgpalli-meistriliiga-jatkub-teisipaeval-uue-formaadiga}}</ref>。リーグは[[FCフローラ・タリン]]が圧倒的な強さを誇っており、3連覇を含むリーグ最多13度の優勝に輝いている。 [[エストニアサッカー協会]](EJL)によって構成される[[サッカーエストニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]および[[UEFA欧州選手権]]への出場経験はない。[[UEFAネーションズリーグ]]では、[[UEFAネーションズリーグ2022-23|2022-23シーズン]]はグループDに属した。[[エストニア人]]で最も成功した[[プロサッカー選手|サッカー選手]]としては、[[FCアウクスブルク|アウクスブルク]]や[[リヴァプールFC|リヴァプール]]などで活躍した[[ラグナル・クラヴァン]]が挙げられる。 {{see also|オリンピックのエストニア選手団}} == 著名な出身者 == {{main|エストニア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 関連項目 == * [[エストニア関係記事の一覧]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | v = no }} * 政府 ** [https://www.eesti.ee/en/ Estonian government information portal | Eesti.ee]:エストニア政府公式サイト {{et icon}}{{en icon}}{{ru icon}} ** [https://www.valitsus.ee/et?lang=et Valitsus.ee | Eesti Vabariigi Valitsus]:エストニア共和国政府 {{et icon}}{{en icon}}{{ru icon}} ** [https://tokyo.mfa.ee/ja/ 駐日エストニア共和国大使館] {{ja icon}}{{et icon}}{{en icon}} ** [http://www.facebook.com/estonia.jp/ エストニア政府観光局] {{ja icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/estonia/ 日本外務省 - エストニア] {{ja icon}} ** [https://www.ee.emb-japan.go.jp/jp/ 在エストニア日本国大使館] {{ja icon}}{{et icon}}{{en icon}} * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えすとにあ}} [[Category:エストニア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]] [[Category:ロシア語圏]]
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モロッコ
モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位(英語版)を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km(うち、西サハラ部分が190,100 km)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。 正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。 公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。 公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。 日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など。 アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。 アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。 トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。 先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人(英語版)のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。 ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。 788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。 しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。 1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。 マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。 マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。 サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。 1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。 続くスライマーン(英語版)は、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い(英語版)で敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。 1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(英語版)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。 1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約(英語版)で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。 フランス領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ(フランス語版)将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。 1936年に駐モロッコスペイン軍がエミリオ・モラ・ビダル(英語版)将軍の指導下で共和国政府に対して反乱を起こし(1936年7月メリリャ軍事蜂起(スペイン語版))、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。 モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。 1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法(英語版)が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。 一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(英語版)将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部(英語版)の排除を行った(Years of Lead)。 1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている。 1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年にペレヒル島危機(英語版)が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。 世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。 2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。 2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された。 2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた。 2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した。 国家体制は国王を元首とする、立憲君主制を採っている。現国王として在位しているのはアラウィー朝のムハンマド6世である。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。 2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された。 議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である。2007年に行われた下院選では、保守系のイスティクラル党(独立党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟(英語版)は大きく議席を減らし、38議席になった。 2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。 合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやAQIMなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。 モロッコには18ヶ月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメから構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。 2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて、軍の派遣は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。 なお、赤道ギニアなど数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。 モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。 2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.5パーセントと低い。 モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300 km、南北1000 kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いた歪んだ長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタとメリリャは、スペイン本国の飛地である。南西側で陸続きの西サハラを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地(スペイン領サハラ)だった。 モロッコには大きな山脈が4つある。リーフ地方(エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400 mである。南方の3つの山脈はアトラス山脈に属する。アトラス山脈自体はチュニジア北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000 km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る褶曲山脈である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンティアトラス山脈)と呼ばれる。アンティアトラス山脈の南斜面が終わる付近に国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000 mを超え、国土のほぼ中央にそびえる標高4165 mのツブカル山(トゥブカル山)が国内最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。カサブランカなどのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。 ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う。スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に当たる。アフリカプレートが年間0.6 cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。 主要河川は、地中海に流れ込むムルーヤ川(英語版)、大西洋に流れ込むスース川(アラビア語版、英語版)、テンシフィット川(アラビア語版)など10本程度ある。ジス川(アラビア語版、英語版)とレリス川は、サハラ沙漠に向かって流れ降る。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。エジプト、スーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを水力発電でまかなってきた。 年間を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している。2023年の時点で、既にモロッコの総発電量の約7%( アフリカ第二位の割合)が風力発電で占められていた理由の1つが、ここにある。 モロッコ沿岸を北から南の方向へと、寒流のカナリア海流が流れる。さらに、モロッコの内陸部に連なるアトラス山脈が、海からの湿気を遮るために、山脈を境界として気候が変わる。 ケッペンの気候区分によると、アトラス山脈より北は地中海性気候 (Cs) に一部ステップ気候 (Bs)が混じる。基本的に夏に乾燥する気候である。アトラス山脈やリフ山脈の標高の高い場所では、冬季に積雪が見られる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ沙漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠と細分される。気候区分は、砂漠気候 (BW)である。 モロッコ最大の都市であるカサブランカの気候は、1月の気温が12.4 °C、7月が22.3 °Cで、年間降水量は379.7 mmである。冬季の降水量は100 (mm/月)に達するのに対し、夏季には1 mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。 大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのはコルクガシであり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈の北側斜面は、常緑樹林が広がる。植生は、オーク、セイヨウスギ、マツである。アトラス山中からさらに南のステップには、ナツメや低木などが疎らに見られる。ただし、栽培樹木であるオリーブは自然の樹木の分布に当てはまらず、国土全体に植えられている。固有種としてアカテツ科のアルガンノキ(Argania Spinosa)が知られ、アルガンオイルを採取する。ただし、アルガンノキの分布域は狭く、スース川流域に限られる。 国土の北部を中心に、約12パーセントを森林が占める。また国土の18パーセントを農耕地が占め、農耕地の5パーセントは灌漑によって維持されている。一方で、アトラス山脈の南側は、沙漠地帯が目立つ。 カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。 IMFの統計によると、2015年のモロッコの国内総生産(GDP)は、約1031億ドルである。国民1人当たりのGDPは3079ドルと、アフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの新興国に匹敵するレベルである。アフリカでは経済基盤も発達している方だとされる。 モロッコの主要な貿易相手国としては、地理的に近い先進国のフランスとスペインが挙げられる。モロッコ自身は先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて宗主国だったフランスだけでなく、欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定していると判断され、インフラストラクチャーが整備されており、50以上の国・地域と自由貿易協定(FTA)を締結していて輸出がし易いという背景がある。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。 なお、カサブランカやタンジールやケニトラには、加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある。 また、モロッコは羊毛の生産や、同じく繊維材料のサイザルアサの栽培でも知られ、繊維製品や衣料製品といった軽工業などの工業生産も見られる。また、皮革製品の製造も行われている。 さらに、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。 これらに加えて、大西洋岸は漁場として優れており、魚介類の輸出もモロッコにとっては主要な産業である。 観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに達する。 エネルギー資源に関しては、原油と天然ガスが少し産出する程度で、産油国とまでは言えない程度である。一方で、鉱業の分野では、合金として幅広い用途を有するコバルト、また亜鉛も産出するものの、それよりも亜鉛などの工業的な精製の際に不純物を取り除くためなどに用いるストロンチウム、さらに肥料などの原料として知られるリン鉱石の採掘が盛んである。また、鉛も比較的有力な鉱産資源である。これ以外にも、ニッケル、鉄、銅、銀、金の採掘も行われている。 モロッコの鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によって鉱脈が形成されたと考えられている。例えば、かつてはマラケシュの東で、マンガンの採掘も行われていた。また例えば、ウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。 なお、リンはカサブランカの南東の内陸部で採れる。 農業などに利用できない砂漠では、再生可能エネルギーによる発電を拡大している。太陽光発電所や太陽熱発電所、風力発電所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)を2030年に52%へ高めることを計画している。 アトラス山脈よりも北側の大西洋沿岸地域や地中海沿岸地域では、ある程度の降水量が見込めるため天水に頼った農業が可能である。農業従事者は429万人(2005年)である。国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強いコムギ(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、オオムギ(110万トン)である。 中南部ケアラ・ムグーナ(「バラの谷」)で栽培されているローズウォーター用のバラなど花卉農業も行われている。 畜産業はヒツジ(1703万頭)、ニワトリ(1億4000万羽)を主とする。 モロッコは世界的に見て硫酸の製造の盛んな地域であり、2004年の製造量は、950万トンであった。 さらに、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。また、ルノーが2つの自動車工場を、ボンバルディアが航空機部品工場を運営している他、PSA・プジョーシトロエンやボーイングなども現地生産計画を進めている。 モロッコの輸出額は238億ドル。品目は、 機械類 (15.9%) 、 衣類 (14.4%) 、化学肥料 (8.8%)、野菜・果実 (7.9%)、魚介類 (7.6%) である。(2011年) ここで言う電気機械とは、電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年) モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12.0%)、繊維 (11.9%)、電気機械 (11.7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、アメリカ合衆国、イギリスである。(2014年) 参考までに、モロッコにとって主要な貿易相手国ではないものの、日本との貿易では、輸出がタコ(61.1%)、モンゴウイカ (7.3%)、衣類 (5.1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.4%)、トラック (28.6%)、タイヤ (5.6%)である。 フェズ、カサブランカ、マラケシュといった都市部の旧市街地から、アイット=ベン=ハドゥなど集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、サハラ沙漠やトドゥラ峡谷といった自然が観光資源として利用されている。また、古い邸宅を利用したリヤドと呼ばれる「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている。 モロッコ政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に注力している。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた。 西サハラを放棄したモーリタニアとは異なり、西サハラを併合したいモロッコと、それを承認しない国際社会の利害対立は有る。 隣国で言えば、西サハラの支援をするアルジェリアとは対立してきた。 一方で、特に地理的に近いスペインやフランスとの関係は深く、貿易の上で重要な地位を占める。 またイスラム教以外を禁止してはいないものの、イスラム教を国教としており、イスラム教圏、特にアラブ諸国との関係も密接である。 隣国のアルジェリアとは互いに反政府勢力を支援しているとして、長年緊張関係が続いてきた。2021年8月にアルジェリア政府は国内で発生した山火事に、モロッコが関与していると発表した。2021年8月24日にアルジェリアは、モロッコとの国交断絶を宣言した。 モロッコはアラブ諸国の中でもユダヤ人に寛容な国の一つであるため、モロッコにはユダヤ人が多く暮らしていた歴史があり、現在も約2000人のユダヤ人がモロッコで生活している。2020年12月10日にはアメリカの仲介により、モロッコはイスラエルと国交正常化した。これによりモロッコはアラブ諸国でイスラエルと国交正常化した6カ国目の国となった。また、2023年7月17日にイスラエルはモロッコによる西サハラの主権を認めた。 2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、一夫多妻制についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教をフェミニズム的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するファーティマ・メルニーシーの名が挙げられる。新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性から離婚を請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった。 1999年にマイクロクレジット法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。 歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際は両者の混血が進んでいる。また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、モロッコ政府としては、あくまでも両者はモロッコ人であるという考え方の元で、敢えて民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。 モロッコのアラブ人には、イベリア半島でのレコンキスタや17世紀のモリスコ追放によってアンダルシアから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。 ユダヤ人はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、イスラエル建国以来イスラエルやカナダなどへの移住により減少傾向が続いており、1990年時点で1万人以下である。その他にもブラックアフリカに起源を持つ黒人などのマイノリティも存在する。 アラビア語とベルベル語が公用語である。国民の大半は学校教育で正則アラビア語を学習しつつも、日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。 なお、山岳地帯では、タマジグトと総称されるベルベル語が話され、これらは大別してタシュリヒート語(モワイヤン、オートアトラス地域)、タスーシッツ語(アガディール地方、アンチアトラス地域)、タアリフィート語(リーフ山脈地域)に分かれている。また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるのに対し、ベルベル人自身は自分達をイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つと、ベルベル語は全く理解できない事が多い。これはアラビア語とベルベル語とが、全く異なった言語のためである。 また、かつてモロッコはフランスの保護領であったためにフランス語も比較的有力であり、さらに現在でもモロッコにとっては貿易相手としてフランスが重要なため、第二言語としてフランス語が教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位にある。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。商品や案内表記などは、アラビア語とフランス語が併記されている場合が多い。 一方で、タンジェのようなモロッコの北端部の都市はスペインの影響が強く、スペイン語もよく通じる。 1961年にイスラム教が国教と定められ、イスラム教スンニ派が99パーセントを占める。しかしながら、キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない。 7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が、義務教育期間と定められているものの、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供が、未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。2004年の調査によれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。 主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)やムハンマド5世大学(英語版)(1957年)などが挙げられる。 医療機関の質は悪くないが、医療サービスの質はあまり良いとは言えない。 世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「性転換」手術をイメージする人々が、特に1970年産まれ以前の世代では少なからず存在している。 これは男性から女性への性転換手術、現在で言う性別適合手術の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーにより開発された事に起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名なキャバレー「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」がビュルーの手術を受けたため有名になり、一時期は世界中から「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性が大量にマラケシュのビュルーの所へと押し寄せた。 日本もその例外ではなく、1960年代に3回にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演が、この性転換手術の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、有名な例では、芸能タレントのカルーセル麻紀や、俳優の光岡優などが、モロッコに渡航しビュルーの執刀による手術を受けた。特に日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響で「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広まり、その影響は長らく残った。 なお、ビュルーは1987年に死亡し、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なタイ王国で受けるのが主流となっている。 モロッコで妊娠中絶は、法的に認可されていない。ウィミン・オン・ウェーブ(オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せて、公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返された。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた。 モロッコで主食としている作物は、コムギである地域が目立つ。ただし、地域によって特色も見られる。例えば、モロッコは漁業が重要な産業の1つであり、海岸部では魚介類を利用した料理が見られる。また、乾燥地帯の多い土地柄で、水が貴重な地域も有り、水を節約すべく蒸し煮を行うためのタジン鍋を多用する。モロッコでは牧畜も行われており、モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、モロッコ産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。特に沙漠地域では、食肉をタジン鍋で調理した料理を食べる頻度が比較的高い。 主なモロッコ料理としてはクスクス、タジン、ハリーラなどが挙げられる。 ただし、数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果として、モロッコの料理は多様である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、トルコ人によってもたらされたトルコ料理、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、ユダヤ料理の影響も同等である。 なお、香辛料はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニのサフラン、メクネスのオリーブとミント、フェスのオレンジとレモンなどの多くの材料はモロッコ産である。 モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、同時に書店を設立し、これが後世の者に「史上初の書籍市」とも評された。ムワッヒド朝のカリフであったアブー・ヤアクーブは、本の収集をこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身のイブン・バットゥータはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『大旅行記』(『三大陸周遊記』、1355年)を著した。 近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だった事は、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受による、文学作品の交換と執筆の余地を残した。 1950年代から1960年代にかけて、モロッコにはポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・S・バロウズのような作家が滞在して作品を仕上げていった。モロッコ文学はモハメド・ザフザフ(英語版)、モハメド・チョークリ(英語版)のようなアラビア語作家や、ドリス・シュライビ(英語版)、タハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者としてムハンマド・ハイル=エディン(英語版)、モハメド・シュクリ、ライラ・アブーゼイド(英語版)、アブデルケビル・ハティビ(英語版)、そして1987年に『聖なる夜(フランス語版)』でゴンクール賞を獲得したタハール・ベン=ジェルーンなどが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学は、モロッコの文化にとって不可欠の存在である。 モロッコ音楽は、アラブ起源の楽曲が支配的である。ただし、その他にもベルベル人のアッヒドゥース(英語版)やアフワーシュ、黒人のグナワ(英語版)(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、ヌーバ(英語版)と呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。 モロッコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件存在する。 モロッコには下記のモロッコの祝日に加えイスラム教の祝日も存在する。モロッコの祝日は毎年同じ日に祝られるが、イスラム教の祝日はイスラム暦によって決められるため移動祝日である。 モロッコ国内でも、他のアフリカ諸国同様サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、1956年にサッカーリーグのボトラが創設されている。王立モロッコサッカー連盟(FRMF)によって構成されるサッカーモロッコ代表は、FIFAワールドカップには6度出場しており2022年大会ではアフリカ勢初のベスト4に進出した。アフリカネイションズカップでは、1976年大会で初優勝を果たしている。 近年ではFIFAクラブワールドカップの2013年大会・2014年大会・2022年大会がモロッコで開催されており、開催国枠で出場したラジャ・カサブランカが2013年大会で準優勝に輝いている。ビッグクラブに在籍したモロッコ人選手としては、メディ・ベナティア、ハキム・ツィエク、ヌサイル・マズラウィ、アクラフ・ハキミが存在する。 男子テニスは、1986年に当時の国王ハサン2世の名を冠したモロッコ初のATPツアー大会、ハサン2世グランプリが開催されるようになってから、次第に同国でもテニスが盛り上がりを見せるようになった。1990年代に入るとユーネス・エル・アイナウイ、カリム・アラミ、ヒチャム・アラジという3人の男子選手が同時期に現れ、同国初の国際的なプロテニス選手として大活躍した。 1961年に参戦したデビスカップでも当初は長らく弱小国であったが、上記3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から2000年代前半には、最上位カテゴリのワールドグループに通算で5回の出場を果たし、テニス強豪国の一角を占めるまでになった。ただ3人の引退に伴う2000年代後半以降は低迷したものの、2010年代にシングルスランキングで100番台に乗せてきた、レダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。 女子テニスにおいても、2001年からラーラ・メリヤム王女の名を冠したWTAツアー大会、SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリを開催している。しかし、その一方で国内女子選手の育成は殆ど進んでおらず、2011年時点ではグランドスラム出場や、ツアーレベルに到達した女子選手は1人として現れておらず、世界レベルとは未だ隔たりがある。 フェドカップの同国代表も、大会参戦開始は1966年と中東諸国の中でも最も早かったが、この年の出場後の1995年に再び参加するまで、30年近く国際舞台の場に出なかった。その後も断続的な参加を続けた程度に過ぎず、2010年時点までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。 陸上競技のうち男子中距離走と長距離走は、同じアフリカ大陸のエチオピアやケニアと並んで世界屈指の強さを誇る。概してオリンピックや世界陸上においては、800 mと1500 mで世界一を輩出した事例が多い。さらに1980年代の男子中長距離界を席巻したサイド・アウィータとヒシャム・エルゲルージは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中で有名であり、エルゲルージの出した1500 mと1マイル、2000 mの世界記録は未だに破られていない。 モロッコの著名な格闘家では、K-1とIT'S SHOWTIMEの元ヘビー級王者であるバダ・ハリがおり、かつてK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できる物が無い国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に "モロッコ?ハリの母国だよね" と言ってもらえるようにしたい。"世界王者" という部分が重要なんだ」と語った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位(英語版)を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km(うち、西サハラ部分が190,100 km)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人(英語版)のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "続くスライマーン(英語版)は、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い(英語版)で敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(英語版)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約(英語版)で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "フランス領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ(フランス語版)将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1936年に駐モロッコスペイン軍がエミリオ・モラ・ビダル(英語版)将軍の指導下で共和国政府に対して反乱を起こし(1936年7月メリリャ軍事蜂起(スペイン語版))、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法(英語版)が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(英語版)将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部(英語版)の排除を行った(Years of Lead)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年にペレヒル島危機(英語版)が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国家体制は国王を元首とする、立憲君主制を採っている。現国王として在位しているのはアラウィー朝のムハンマド6世である。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である。2007年に行われた下院選では、保守系のイスティクラル党(独立党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟(英語版)は大きく議席を減らし、38議席になった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやAQIMなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "モロッコには18ヶ月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメから構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。 2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて、軍の派遣は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、赤道ギニアなど数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.5パーセントと低い。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300 km、南北1000 kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いた歪んだ長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタとメリリャは、スペイン本国の飛地である。南西側で陸続きの西サハラを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地(スペイン領サハラ)だった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "モロッコには大きな山脈が4つある。リーフ地方(エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400 mである。南方の3つの山脈はアトラス山脈に属する。アトラス山脈自体はチュニジア北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000 km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る褶曲山脈である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンティアトラス山脈)と呼ばれる。アンティアトラス山脈の南斜面が終わる付近に国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000 mを超え、国土のほぼ中央にそびえる標高4165 mのツブカル山(トゥブカル山)が国内最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。カサブランカなどのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う。スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に当たる。アフリカプレートが年間0.6 cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "主要河川は、地中海に流れ込むムルーヤ川(英語版)、大西洋に流れ込むスース川(アラビア語版、英語版)、テンシフィット川(アラビア語版)など10本程度ある。ジス川(アラビア語版、英語版)とレリス川は、サハラ沙漠に向かって流れ降る。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。エジプト、スーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを水力発電でまかなってきた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "年間を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している。2023年の時点で、既にモロッコの総発電量の約7%( アフリカ第二位の割合)が風力発電で占められていた理由の1つが、ここにある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "モロッコ沿岸を北から南の方向へと、寒流のカナリア海流が流れる。さらに、モロッコの内陸部に連なるアトラス山脈が、海からの湿気を遮るために、山脈を境界として気候が変わる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によると、アトラス山脈より北は地中海性気候 (Cs) に一部ステップ気候 (Bs)が混じる。基本的に夏に乾燥する気候である。アトラス山脈やリフ山脈の標高の高い場所では、冬季に積雪が見られる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ沙漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠と細分される。気候区分は、砂漠気候 (BW)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "モロッコ最大の都市であるカサブランカの気候は、1月の気温が12.4 °C、7月が22.3 °Cで、年間降水量は379.7 mmである。冬季の降水量は100 (mm/月)に達するのに対し、夏季には1 mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのはコルクガシであり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈の北側斜面は、常緑樹林が広がる。植生は、オーク、セイヨウスギ、マツである。アトラス山中からさらに南のステップには、ナツメや低木などが疎らに見られる。ただし、栽培樹木であるオリーブは自然の樹木の分布に当てはまらず、国土全体に植えられている。固有種としてアカテツ科のアルガンノキ(Argania Spinosa)が知られ、アルガンオイルを採取する。ただし、アルガンノキの分布域は狭く、スース川流域に限られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "国土の北部を中心に、約12パーセントを森林が占める。また国土の18パーセントを農耕地が占め、農耕地の5パーセントは灌漑によって維持されている。一方で、アトラス山脈の南側は、沙漠地帯が目立つ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2015年のモロッコの国内総生産(GDP)は、約1031億ドルである。国民1人当たりのGDPは3079ドルと、アフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの新興国に匹敵するレベルである。アフリカでは経済基盤も発達している方だとされる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "モロッコの主要な貿易相手国としては、地理的に近い先進国のフランスとスペインが挙げられる。モロッコ自身は先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて宗主国だったフランスだけでなく、欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定していると判断され、インフラストラクチャーが整備されており、50以上の国・地域と自由貿易協定(FTA)を締結していて輸出がし易いという背景がある。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なお、カサブランカやタンジールやケニトラには、加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、モロッコは羊毛の生産や、同じく繊維材料のサイザルアサの栽培でも知られ、繊維製品や衣料製品といった軽工業などの工業生産も見られる。また、皮革製品の製造も行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "さらに、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "これらに加えて、大西洋岸は漁場として優れており、魚介類の輸出もモロッコにとっては主要な産業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに達する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "エネルギー資源に関しては、原油と天然ガスが少し産出する程度で、産油国とまでは言えない程度である。一方で、鉱業の分野では、合金として幅広い用途を有するコバルト、また亜鉛も産出するものの、それよりも亜鉛などの工業的な精製の際に不純物を取り除くためなどに用いるストロンチウム、さらに肥料などの原料として知られるリン鉱石の採掘が盛んである。また、鉛も比較的有力な鉱産資源である。これ以外にも、ニッケル、鉄、銅、銀、金の採掘も行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "モロッコの鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によって鉱脈が形成されたと考えられている。例えば、かつてはマラケシュの東で、マンガンの採掘も行われていた。また例えば、ウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なお、リンはカサブランカの南東の内陸部で採れる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "農業などに利用できない砂漠では、再生可能エネルギーによる発電を拡大している。太陽光発電所や太陽熱発電所、風力発電所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)を2030年に52%へ高めることを計画している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "アトラス山脈よりも北側の大西洋沿岸地域や地中海沿岸地域では、ある程度の降水量が見込めるため天水に頼った農業が可能である。農業従事者は429万人(2005年)である。国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強いコムギ(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、オオムギ(110万トン)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "中南部ケアラ・ムグーナ(「バラの谷」)で栽培されているローズウォーター用のバラなど花卉農業も行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "畜産業はヒツジ(1703万頭)、ニワトリ(1億4000万羽)を主とする。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "モロッコは世界的に見て硫酸の製造の盛んな地域であり、2004年の製造量は、950万トンであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "さらに、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。また、ルノーが2つの自動車工場を、ボンバルディアが航空機部品工場を運営している他、PSA・プジョーシトロエンやボーイングなども現地生産計画を進めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "モロッコの輸出額は238億ドル。品目は、 機械類 (15.9%) 、 衣類 (14.4%) 、化学肥料 (8.8%)、野菜・果実 (7.9%)、魚介類 (7.6%) である。(2011年) ここで言う電気機械とは、電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12.0%)、繊維 (11.9%)、電気機械 (11.7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、アメリカ合衆国、イギリスである。(2014年)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "参考までに、モロッコにとって主要な貿易相手国ではないものの、日本との貿易では、輸出がタコ(61.1%)、モンゴウイカ (7.3%)、衣類 (5.1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.4%)、トラック (28.6%)、タイヤ (5.6%)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "フェズ、カサブランカ、マラケシュといった都市部の旧市街地から、アイット=ベン=ハドゥなど集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、サハラ沙漠やトドゥラ峡谷といった自然が観光資源として利用されている。また、古い邸宅を利用したリヤドと呼ばれる「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "モロッコ政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に注力している。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "西サハラを放棄したモーリタニアとは異なり、西サハラを併合したいモロッコと、それを承認しない国際社会の利害対立は有る。 隣国で言えば、西サハラの支援をするアルジェリアとは対立してきた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一方で、特に地理的に近いスペインやフランスとの関係は深く、貿易の上で重要な地位を占める。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "またイスラム教以外を禁止してはいないものの、イスラム教を国教としており、イスラム教圏、特にアラブ諸国との関係も密接である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "隣国のアルジェリアとは互いに反政府勢力を支援しているとして、長年緊張関係が続いてきた。2021年8月にアルジェリア政府は国内で発生した山火事に、モロッコが関与していると発表した。2021年8月24日にアルジェリアは、モロッコとの国交断絶を宣言した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "モロッコはアラブ諸国の中でもユダヤ人に寛容な国の一つであるため、モロッコにはユダヤ人が多く暮らしていた歴史があり、現在も約2000人のユダヤ人がモロッコで生活している。2020年12月10日にはアメリカの仲介により、モロッコはイスラエルと国交正常化した。これによりモロッコはアラブ諸国でイスラエルと国交正常化した6カ国目の国となった。また、2023年7月17日にイスラエルはモロッコによる西サハラの主権を認めた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、一夫多妻制についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教をフェミニズム的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するファーティマ・メルニーシーの名が挙げられる。新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性から離婚を請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1999年にマイクロクレジット法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際は両者の混血が進んでいる。また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、モロッコ政府としては、あくまでも両者はモロッコ人であるという考え方の元で、敢えて民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "モロッコのアラブ人には、イベリア半島でのレコンキスタや17世紀のモリスコ追放によってアンダルシアから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ユダヤ人はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、イスラエル建国以来イスラエルやカナダなどへの移住により減少傾向が続いており、1990年時点で1万人以下である。その他にもブラックアフリカに起源を持つ黒人などのマイノリティも存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "アラビア語とベルベル語が公用語である。国民の大半は学校教育で正則アラビア語を学習しつつも、日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "なお、山岳地帯では、タマジグトと総称されるベルベル語が話され、これらは大別してタシュリヒート語(モワイヤン、オートアトラス地域)、タスーシッツ語(アガディール地方、アンチアトラス地域)、タアリフィート語(リーフ山脈地域)に分かれている。また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるのに対し、ベルベル人自身は自分達をイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つと、ベルベル語は全く理解できない事が多い。これはアラビア語とベルベル語とが、全く異なった言語のためである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、かつてモロッコはフランスの保護領であったためにフランス語も比較的有力であり、さらに現在でもモロッコにとっては貿易相手としてフランスが重要なため、第二言語としてフランス語が教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位にある。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。商品や案内表記などは、アラビア語とフランス語が併記されている場合が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "一方で、タンジェのようなモロッコの北端部の都市はスペインの影響が強く、スペイン語もよく通じる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1961年にイスラム教が国教と定められ、イスラム教スンニ派が99パーセントを占める。しかしながら、キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が、義務教育期間と定められているものの、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供が、未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。2004年の調査によれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)やムハンマド5世大学(英語版)(1957年)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "医療機関の質は悪くないが、医療サービスの質はあまり良いとは言えない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「性転換」手術をイメージする人々が、特に1970年産まれ以前の世代では少なからず存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "これは男性から女性への性転換手術、現在で言う性別適合手術の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーにより開発された事に起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名なキャバレー「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」がビュルーの手術を受けたため有名になり、一時期は世界中から「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性が大量にマラケシュのビュルーの所へと押し寄せた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "日本もその例外ではなく、1960年代に3回にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演が、この性転換手術の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、有名な例では、芸能タレントのカルーセル麻紀や、俳優の光岡優などが、モロッコに渡航しビュルーの執刀による手術を受けた。特に日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響で「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広まり、その影響は長らく残った。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "なお、ビュルーは1987年に死亡し、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なタイ王国で受けるのが主流となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "モロッコで妊娠中絶は、法的に認可されていない。ウィミン・オン・ウェーブ(オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せて、公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返された。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "モロッコで主食としている作物は、コムギである地域が目立つ。ただし、地域によって特色も見られる。例えば、モロッコは漁業が重要な産業の1つであり、海岸部では魚介類を利用した料理が見られる。また、乾燥地帯の多い土地柄で、水が貴重な地域も有り、水を節約すべく蒸し煮を行うためのタジン鍋を多用する。モロッコでは牧畜も行われており、モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、モロッコ産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。特に沙漠地域では、食肉をタジン鍋で調理した料理を食べる頻度が比較的高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "主なモロッコ料理としてはクスクス、タジン、ハリーラなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ただし、数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果として、モロッコの料理は多様である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、トルコ人によってもたらされたトルコ料理、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、ユダヤ料理の影響も同等である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "なお、香辛料はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニのサフラン、メクネスのオリーブとミント、フェスのオレンジとレモンなどの多くの材料はモロッコ産である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、同時に書店を設立し、これが後世の者に「史上初の書籍市」とも評された。ムワッヒド朝のカリフであったアブー・ヤアクーブは、本の収集をこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身のイブン・バットゥータはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『大旅行記』(『三大陸周遊記』、1355年)を著した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だった事は、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受による、文学作品の交換と執筆の余地を残した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1950年代から1960年代にかけて、モロッコにはポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・S・バロウズのような作家が滞在して作品を仕上げていった。モロッコ文学はモハメド・ザフザフ(英語版)、モハメド・チョークリ(英語版)のようなアラビア語作家や、ドリス・シュライビ(英語版)、タハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者としてムハンマド・ハイル=エディン(英語版)、モハメド・シュクリ、ライラ・アブーゼイド(英語版)、アブデルケビル・ハティビ(英語版)、そして1987年に『聖なる夜(フランス語版)』でゴンクール賞を獲得したタハール・ベン=ジェルーンなどが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学は、モロッコの文化にとって不可欠の存在である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "モロッコ音楽は、アラブ起源の楽曲が支配的である。ただし、その他にもベルベル人のアッヒドゥース(英語版)やアフワーシュ、黒人のグナワ(英語版)(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、ヌーバ(英語版)と呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "モロッコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "モロッコには下記のモロッコの祝日に加えイスラム教の祝日も存在する。モロッコの祝日は毎年同じ日に祝られるが、イスラム教の祝日はイスラム暦によって決められるため移動祝日である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "モロッコ国内でも、他のアフリカ諸国同様サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、1956年にサッカーリーグのボトラが創設されている。王立モロッコサッカー連盟(FRMF)によって構成されるサッカーモロッコ代表は、FIFAワールドカップには6度出場しており2022年大会ではアフリカ勢初のベスト4に進出した。アフリカネイションズカップでは、1976年大会で初優勝を果たしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "近年ではFIFAクラブワールドカップの2013年大会・2014年大会・2022年大会がモロッコで開催されており、開催国枠で出場したラジャ・カサブランカが2013年大会で準優勝に輝いている。ビッグクラブに在籍したモロッコ人選手としては、メディ・ベナティア、ハキム・ツィエク、ヌサイル・マズラウィ、アクラフ・ハキミが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "男子テニスは、1986年に当時の国王ハサン2世の名を冠したモロッコ初のATPツアー大会、ハサン2世グランプリが開催されるようになってから、次第に同国でもテニスが盛り上がりを見せるようになった。1990年代に入るとユーネス・エル・アイナウイ、カリム・アラミ、ヒチャム・アラジという3人の男子選手が同時期に現れ、同国初の国際的なプロテニス選手として大活躍した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1961年に参戦したデビスカップでも当初は長らく弱小国であったが、上記3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から2000年代前半には、最上位カテゴリのワールドグループに通算で5回の出場を果たし、テニス強豪国の一角を占めるまでになった。ただ3人の引退に伴う2000年代後半以降は低迷したものの、2010年代にシングルスランキングで100番台に乗せてきた、レダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "女子テニスにおいても、2001年からラーラ・メリヤム王女の名を冠したWTAツアー大会、SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリを開催している。しかし、その一方で国内女子選手の育成は殆ど進んでおらず、2011年時点ではグランドスラム出場や、ツアーレベルに到達した女子選手は1人として現れておらず、世界レベルとは未だ隔たりがある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "フェドカップの同国代表も、大会参戦開始は1966年と中東諸国の中でも最も早かったが、この年の出場後の1995年に再び参加するまで、30年近く国際舞台の場に出なかった。その後も断続的な参加を続けた程度に過ぎず、2010年時点までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "陸上競技のうち男子中距離走と長距離走は、同じアフリカ大陸のエチオピアやケニアと並んで世界屈指の強さを誇る。概してオリンピックや世界陸上においては、800 mと1500 mで世界一を輩出した事例が多い。さらに1980年代の男子中長距離界を席巻したサイド・アウィータとヒシャム・エルゲルージは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中で有名であり、エルゲルージの出した1500 mと1マイル、2000 mの世界記録は未だに破られていない。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "モロッコの著名な格闘家では、K-1とIT'S SHOWTIMEの元ヘビー級王者であるバダ・ハリがおり、かつてK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できる物が無い国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に \"モロッコ?ハリの母国だよね\" と言ってもらえるようにしたい。\"世界王者\" という部分が重要なんだ」と語った。", "title": "スポーツ" } ]
モロッコ王国、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km2(うち、西サハラ部分が190,100 km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。
{{Otheruses|国|映画|モロッコ (映画)}} {{基礎情報 国 | 略名 = モロッコ | 日本語国名 = モロッコ王国 | 公式国名 = {{lang|ber|'''ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ'''}}</small>(ベルベル語)</small><br />{{lang|ar|'''المملكة المغربية'''}}</small>(アラビア語)</small> | 国旗画像 = Flag of Morocco.svg | 国章画像 = [[File:Coat of arms of Morocco.svg|100px|モロッコの国章]] | 国章リンク =([[モロッコの国章|国章]]) | 標語 = {{Rtl-lang|ar|الله، الوطن، الملك}}{{ar icon}}<br />{{lang|ber|ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ}}{{ber icon}}<br />(神、国、王)<sup>1</sup> | 位置画像 = Morocco (orthographic projection, WS de-facto, claimed).svg | 公用語 = [[アラビア語]]<ref name="mofa_japan">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/data.html モロッコ王国] 外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan</ref>、[[ベルベル語派|ベルベル語]]<ref name="mofa_japan" /> | 首都 = [[ラバト]] | 最大都市 = [[カサブランカ]] | 元首等肩書 = [[モロッコの君主一覧|国王]] | 元首等氏名 = [[ムハンマド6世 (モロッコ王)|ムハンマド6世]] | 首相等肩書 = [[モロッコの首相の一覧|首相]] | 首相等氏名 = [[アジズ・アハヌッシュ]] | 面積順位 = 57 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 446,550 | 面積追記 = <ref name=CIA>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mo.html |title=The World Factbook/Morocco |publisher=[[中央情報局]] |date=2017-05-09 |accessdate=2017-05-23}}</ref><sup>3</sup> | 水面積率 = 0.1% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 40 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 3691万1000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/br.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 82.7<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2018 | GDP値元 = 1兆1084億6300万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月16日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=686,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2016&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2018 | GDP順位MER = 58 | GDP値MER = 1180億9600万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 3353.1<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2018 | GDP順位 = 55 | GDP値 = 2790億4200万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 7922.828<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]] | 建国年月日 = [[フランス]]から<br />[[1956年]][[3月2日]] | 通貨 = [[モロッコ・ディルハム]] | 通貨コード = MAD | 時間帯 = +1 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = MA / MAR | ccTLD = [[.ma]] | 国際電話番号 = 212 | 注記 = <sup>1</sup> この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。<br /><sup>2</sup> モロッコ本土のみのデータ。<br /><sup>3</sup> 710,850 km<sup>2</sup>には、モロッコが主張する西サハラ全体が含まれる<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/morocco/#geography |title=The World Factbook/Morocco |publisher=[[中央情報局]] |date=2020-12-30 |accessdate=2021-09-01}}</ref>。 |国歌=[[国王万歳|{{lang|ar|النشيد الوطني المغربي}}]]{{ar icon}}<br>[[国王万歳|{{lang|ber|ⵉⵣⵍⵉ ⴰⵏⴰⵎⵓⵔ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ}}{{ber icon}}]]<br>''国王万歳''<br><center>[[ファイル:National Anthem of Morocco.ogg]]}} '''モロッコ王国'''(モロッコおうこく、{{lang-ar|المملكة المغربية}}、[[ベルベル語]]: {{lang|ber|ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ}})、通称'''モロッコ'''は、[[北アフリカ]]北西部の[[マグリブ]]に位置する[[立憲君主制]]の[[国家]]である。東で[[アルジェリア]]と、南で[[西サハラ]](紛争地域)と、北で[[スペイン]]の[[飛地]]([[セウタ]]と[[メリリャ]])と接し、西は[[大西洋]]に、北は[[地中海]]に面している。首都は[[ラバト]]である。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府である[[サハラ・アラブ民主共和国]]が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を[[実効支配]]しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない({{仮リンク|西サハラの法的地位|en|Political status of Western Sahara}}を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107&nbsp;km<sup>2</sup>(うち<ref>{{Cite web|和書| title = 国別インタラクティブマップ| publisher = AtlasBig |year=2021| url = https://www.atlasbig.com/ja/世界の国々 | accessdate = 2022-05-20}}</ref>、西サハラ部分が190,100&nbsp;km<sup>2</sup>)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査<ref>{{Cite web | title = Note sur les premiers résultats du Recensement Général de la Population et de l’Habitat 2014 | publisher = モロッコ王国 |year=2014 | url = http://www.rgph2014.hcp.ma/Note-sur-les-premiers-resultats-du-Recensement-General-de-la-Population-et-de-l-Habitat-2014_a369.html | accessdate = 2017-05-23}}</ref>)。 [[地中海世界]]と[[アラブ世界]]の一員であり、[[地中海連合]]と[[アラブ連盟]]と[[アラブ・マグリブ連合]]に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、[[独立国家]]として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国の[[アフリカ統一機構]](2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、[[アフリカ]]大陸唯一の[[アフリカ連合]](AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。 == 国名 == 正式名称はアラビア語で、'''{{lang|ar|المملكة المغربية}}'''(ラテン文字転写は、''Al-Mamlaka l-Maghribiya'':アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、'''{{lang|ar|المغرب}}'''(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「[[マグリブ]]の王国」を意味する。 公式のフランス語表記は、{{lang|fr|''Royaume du Maroc''}}(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、{{lang|fr|''Maroc''}}。 公式の英語表記は、{{lang|en|''Kingdom of Morocco''}}(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、{{lang|en|''Morocco''}}。 日本語の表記は、'''モロッコ王国'''。通称、'''モロッコ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字の当て字]]は、'''摩洛哥'''・'''馬羅哥'''・'''莫羅哥'''・'''茂禄子'''など<ref>「[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html#18 外務省: 外交史料 Q&A その他]」[[外務省]]、2010年4月21日閲覧。</ref>。 アラビア語の国名にある「[[マグリブ]]」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。 アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都[[マラケシュ]]に由来する。 [[トルコ語]]での国名は「Fas」で、1925年までの首都[[フェズ]]に由来する。 == 歴史 == {{Main|モロッコの歴史}} === アル=アンダルスのイスラーム化 === 先史時代に[[ベルベル人]]が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部に[[カルタゴ]]の[[フェニキア人]]によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系{{仮リンク|マウリ人|en|Mauri}}の[[マウレタニア王国]]が栄えた。紀元前146年に[[第三次ポエニ戦争]]でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアは[[ローマ帝国]]の属国となり、44年に[[クラウディウス]]帝の勅令によってローマの[[属州]]の[[マウレタニア・ティンギタナ]]となった。 [[File:Mauretania et Numidia.jpg|680px|thumb|left|[[マウレタニア]]の領域。]] ローマ帝国が衰退すると、429年に[[ゲルマン人|ゲルマン系]]の[[ヴァンダル人]]が[[ジブラルタル海峡]]を渡り、アフリカに入った。マウレタニアは[[ユスティニアヌス1世]]の時代には再び[[東ローマ帝国]]の支配下に置かれたが、8世紀初頭に[[イスラム帝国]]である[[ウマイヤ朝]]が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。[[アラブ人]]はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、[[イベリア半島]]の[[西ゴート王国]]を滅ぼし、[[アル=アンダルス]]のイスラーム化を進めた。 788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人[[イドリース1世 (イドリース朝)|イドリース1世]]が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、[[イドリース朝]]を建国した。また、サハラ交易で栄えた[[シジルマサ]]には[[ミドラール朝]]が成立した。その後、[[チュニジア]]から興った[[イスマーイール派]]の[[ファーティマ朝]]の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの[[後ウマイヤ朝]]に滅ぼされた。 しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域は[[タイファ]]と呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方の[[セネガル川]]の流域から興った[[ムラービト朝]]の領土となり、1070年には新都[[マラケシュ]]が建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年に{{仮リンク|クンビ=サレー|en|Koumbi Saleh}}を攻略して[[ガーナ帝国]]を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えて[[レコンキスタ]]軍と戦い、[[アル=アンダルス]]を統一した。 === 18世紀まで === [[File:Koutoubia Mosque,Marrakech,Morocco.jpg|260px|thumb|right|ムワッヒド朝の[[ヤアクーブ・マンスール]]の時代に造営された[[クトゥビーヤ・モスク]]。]] [[File:Batalla de las Navas de Tolosa, por Francisco van Halen.jpg|260px|thumb|right|[[ラス・ナーバス・デ・トローサの戦い]]の絵図。]] 1130年に[[ムワッヒド朝]]が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代[[ヤアクーブ・マンスール]]の時代にムワッヒド朝は東は[[リビア]]にまで勢力を伸ばし、[[マグリブ]]一帯を包括する最大版図を確立したが、続く[[ムハンマド・ナースィル]]は1212年に[[ラス・ナーバス・デ・トローサの戦い]]でレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年に[[マリーン朝]]によってマラケシュを攻略され、滅亡した。 マリーン朝は[[フェス]]に都を置き、しばしば[[ナスル朝]]を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、[[1415年]]には[[アヴィシュ王朝|アヴィシュ朝]][[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[エンリケ航海王子]]が[[ジブラルタル]]の対岸の[[セウタ]]を攻略した。セウタ攻略によって[[大航海時代]]が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|旅行記]]』を著した[[イブン=バットゥータ]]などの文化人が活躍した。 マリーン朝の滅亡後、1472年に[[ワッタース朝]][[フェス王国]]が成立したが、1492年に[[カトリック両王]]の下で誕生した[[スペイン|スペイン王国]]がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略された[[アガディール]]などを奪還した[[サアド朝]](サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。 サアド朝は、[[ザイヤーン朝]]を滅ぼして[[アルジェリア]]にまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、[[1578年]]に[[アルカセル・キビールの戦い]]で侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルは[[スペイン・ハプスブルク朝]]に併合された。さらに南方に転じて[[1591年]]に、内乱の隙を衝いて[[トンブクトゥ]]を攻略し、[[ソンガイ帝国]]を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。 [[1660年]]に現在まで続く[[アラウィー朝]]が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、[[デンマーク]]を皮切りに各国と通商協定を結び、[[1777年]]には世界で初めて[[アメリカ合衆国]]を承認した。 === フランス資本の定着まで === 続く{{仮リンク|スライマーン (モロッコ)|label=スライマーン|en|Slimane of Morocco}}は、[[鎖国]]政策を採った。しかし、1830年に[[フランス]]が[[アルジェリア侵略|アルジェを征服]]したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。[[1844年]]にアラウィー朝は[[フランス軍]]による[[アルジェリア侵攻]]の中で、[[アブデルカーデル]]を支援して軍を送ったが、{{仮リンク|イスーリーの戦い|en|Battle of Isly}}で敗れた。[[1856年]]には[[イギリス]]と[[不平等条約]]を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。[[1859年]]には[[スペイン軍]]の侵攻により[[テトゥワン]]を攻略された([[スペイン・モロッコ戦争]])。 [[1873年]]、新たなスルタンとして{{仮リンク|ムーラーイ・エル・ハッサン|en|Hassan I of Morocco}}が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出により[[クルップ]]砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子([[:en:Abdelaziz of Morocco|アブデルアジズ4世]])は未成年で即位し、[[ドイツ帝国]]が政治へ助言した。 [[1904年]]の[[英仏協商]]でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが[[1905年]]に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、[[タンジール事件]]を起こした原因であった。さらに[[1911年]]にドイツ帝国が再び[[アガディール事件]]を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。[[1912年]]の[[フェス条約]]で国土の大部分がフランスの保護領にされ、{{仮リンク|仏西条約|en|Treaty Between France and Spain Regarding Morocco}}で北部リーフ地域は[[スペイン保護領モロッコ|スペイン領モロッコ]]となった。 [[File:LYAUTEY3.jpg|180px|thumb|right|[[フランス保護領モロッコ|フランス領モロッコ]]初代総督、[[ウベール・リヨテ]]の写真。]] [[フランス保護領モロッコ|フランス領モロッコ]]の初代総督には、{{仮リンク|ウベール・リヨテ|fr|Hubert Lyautey}}将軍が就任した。将軍は政情不安な[[フェズ]]から、[[ラバト]]へと遷都した。[[1913年]]に[[ドイツ・オリエントバンク]]のモロッコ支店が、[[ソシエテ・ジェネラル]]に売却された。[[1919年]]に[[ダノン#北アフリカ総合会社|北アフリカ総合会社]](ONA Group)が設立された。[[1920年]]に[[アブド・アルカリーム]]が、[[スペイン保護領モロッコ|スペイン領モロッコ]]の[[リーフ地方|リーフ]]地方で反乱を起こし、[[第三次リーフ戦争]]が勃発した。アルカリームは[[リーフ共和国]]の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、[[1925年]]にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。 [[1936年]]に駐モロッコスペイン軍が{{仮リンク|エミリオ・モラ・ビダル|en|Emilio Mola}}将軍の指導下で[[スペイン第二共和政|共和国政府]]に対して反乱を起こし({{仮リンク|1936年7月メリリャ軍事蜂起|es|Sublevación_militar_del_17_de_julio_de_1936_en_Melilla}})、[[カナリア諸島]]の[[フランシスコ・フランコ]]司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間で[[スペイン内戦]]が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。[[第二次世界大戦]]中には[[自由フランス]]が[[ヴィシー政権|ヴィシーフランス]]からモロッコを奪回し、[[1943年]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[ウィンストン・チャーチル]]と[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・ルーズヴェルト]]によって[[カサブランカ会談]]が開かれた。 モロッコは[[1956年]]にフランスから独立した。スペインは[[セウタ]]、[[メリリャ]]、[[イフニ]]の飛地領とモロッコ南部保護領([[タルファヤ]]地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌[[1957年]]に[[スルターン]]・[[ムハンマド5世 (モロッコ王)|ムハンマド5世]]が国王に即位し、スルターン号が廃止された。[[1957年]]にイフニを巡ってスペインとの間で[[イフニ戦争]]が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。 === 外資と君主と実効支配 === [[File:DF-SC-83-08526.jpg|thumb|180px|[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]。親西側政策の下モロッコを統治した。]] {{See also|[[ダノン#北アフリカ総合会社|北アフリカ総合会社]]}} [[1961年]]に[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン皇太子]]が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に{{仮リンク|モロッコの憲法|en|Constitution of Morocco|label=憲法}}が制定され、モロッコは君主の権限の強い[[立憲君主制]]国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら[[外資]]導入を軸に経済発展を進め、対外的には[[アメリカ合衆国]]など[[西側諸国]]との協力関係を重視しながらも、[[パレスチナ問題]]ではアラブを支持した。[[1965年]]にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・[[メフディー・ベン・バルカ]]の失踪事件が、[[パリ]]で起こった。[[1967年]]の[[イスラエル]]と[[6日間戦争]]の結果、[[アラブ世界]]に復帰した。[[1969年]]にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領[[西サハラ]]はスペインの領有が続いた。 一方で、内政は安定しなかった。例えば、[[1971年]]7月に士官学校校長と[[士官]]らが、夏の宮殿を襲った[[クーデター]]が失敗に終わった<ref>「モロッコ軍部クーデーター失敗 国王殺害企てる 宮殿襲い銃撃戦」『中國新聞』 1971年7月12日 5面</ref>。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かった{{仮リンク|ムハンマド・ウフキル|en|Mohamed Oufkir}}将軍が、国王の搭乗していた[[ボーイング727]]旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍と{{仮リンク|マクゼン|en|Makhzen|label=エリート幹部}}の排除を行った([[:en:Years of Lead (Morocco)|Years of Lead]])。 1958年のシントラ協定で[[タルファヤ]]を、1969年のフェズ協定で[[イフニ|シディイフニ]]を回復した後、モロッコは[[スペイン]]が支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。[[1975年]]11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い([[緑の行進]])、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定で[[サギア・エル・ハムラ|サキアアルハムラ]]と[[リオ・デ・オロ|ウエドエダハブ]]地域を獲得した<ref>{{Cite web|和書| title = サハラ紛争 | accessdate = 2018-9-10 | url = https://morocco-emba.jp/ja/about-morocco/moroccan-sahara}}</ref>。1976年にはモロッコと[[モーリタニア]]によって西サハラの統治が始まったものの、同年[[アルジェリア]]に支援された[[ポリサリオ戦線]]が[[サハラ・アラブ民主共和国]]の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。[[1989年]]にはマグリブ域内の統合を図る[[アラブ・マグレブ連合]]条約が調印された。[[1991年]]には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、[[西サハラ問題]]は現在に至るまで未解決の問題として残っている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo_2021T088.html#ad-image-0 西サハラ地域の危険情報【危険レベル継続】(内容の更新)] 外務省 2021年09月21日</ref>。 [[1992年]]に憲法が改正された。[[1999年]]に国王[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子が[[ムハンマド6世 (モロッコ王)|ムハンマド6世]]として即位した。同年から[[直接投資]]受入額が急伸した。[[2002年]]に{{仮リンク|ペレヒル島危機|en|Perejil Island crisis}}が起こり、[[スペイン]]との間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。[[2003年]]5月16日に[[イスラーム主義]]組織によって、[[カサブランカ]]で自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、[[自由主義|自由主義的]]な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。 [[世界金融危機]]が最も顕在化した[[2008年]]10月に、モロッコは[[欧州連合|EU]]の近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した<ref group="注釈">EUによる国際経済に占める「優先的地位」は、[[欧州近隣政策]]における行動計画の成果に基いて、EU側が付与する。モロッコに付与されたそれは、[[FTA]]締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動の実現や、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容させる事などを、目標としている。</ref><ref>高崎春華 「EU広域経済圏の形成と金融FDI」 日本国際経済学会第70回全国大会</ref>。 [[2011年]]に起きた[[アラブの春]]の影響を受けた[[2011年-2012年モロッコ騒乱|騒乱]]により、7月に憲法改正を実施した。翌年初め[[アブデルイラーフ・ベン・キーラーン]]内閣が発足した(2017年4月まで)。 [[2016年]]7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した<ref>{{cite news | title = モロッコ、AUに復帰へ=西サハラ問題で30年前脱退 | newspaper = 時事通信社 |date= 2016-7-18 | url = http://www.jiji.com/jc/article?k=2016071800044&g=int |format=html | accessdate = 2016-7-24}}</ref><ref>{{cite news | title = アフリカ連合に復帰へ モロッコ国王が表明 | newspaper = 産経新聞 |date= 2016-7-18 | url = http://www.sankei.com/world/news/160718/wor1607180028-n1.html |format=html | accessdate= 2016-7-24}}</ref>。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした<ref>{{Cite web | title = Morocco Asks to Re-join African Union After 4 Decades | publisher = Voice of America | url = http://www.voanews.com/a/morocco-asks-to-rejoin-african-union-after-four-decades/3522308.html | accessdate=2016-09-24}}</ref>。そして[[2017年]]1月31日に、エチオピアの首都[[アディスアベバ]]で開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017013100909&g=int モロッコの加盟承認=西サハラ問題で30年超対立-AU] AFPBB News 2017年1月31日</ref>。 [[2018年]]5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、[[イラン]]との国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にある[[ヒズボラ]]([[レバノン]]のイスラム教[[シーア派]]組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30065580S8A500C1000000/ モロッコ、イランと断交]『日本経済新聞』夕刊2018年5月2日掲載の[[共同通信]]配信記事。</ref>。 2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した<ref name="AFP20210825" />。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|モロッコの政治|en|Politics of Morocco}}}} [[国家体制]]は[[国王]]を[[元首]]とする、[[立憲君主制]]を採っている。現国王として在位しているのは[[アラウィー朝]]の[[ムハンマド6世 (モロッコ王)|ムハンマド6世]]である。憲法によって議会の解散権や[[条約]]の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。 [[2011年]]の2月から4月にかけて、[[アラブの春]]の影響で[[2011年-2012年モロッコ騒乱|デモ]]が発生し、[[憲法改正]]が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された<ref>{{cite news | title = モロッコにおける憲法改正に係る国民投票について | website = mofa.go.jp | date=2011-7-19 | url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dga_0719.html | accessdate =2011-7-19}}</ref>。 {{See also|モロッコの君主一覧|モロッコの首相の一覧}} [[議会]]は1996年から[[両院制]]に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である<ref>「モロッコ王国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)272頁。</ref>。[[2007年]]に行われた下院選では、保守系の[[イスティクラル党]](独立党とも)が52議席を獲得して第1党、[[イスラーム主義]]の[[公正発展党 (モロッコ)|公正発展党]]が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の{{仮リンク|人民勢力社会主義同盟|en|Socialist Union of Popular Forces}}は大きく議席を減らし、38議席になった。 2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった<ref>[http://mainichi.jp/select/world/mideast/archive/news/2011/11/27/20111127ddm007030156000c.html NEWS25時:モロッコ 穏健派が勝利宣言] 毎日新聞 2011年11月27日</ref><ref>[http://www.asahi.com/international/update/1128/TKY201111280062.html モロッコ下院選、イスラム穏健派が勝利 初の第一党に] 朝日新聞 2011年11月28日。</ref>。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。 {{See also|モロッコの政党|モロッコ議会}} 合法イスラーム主義政党の[[公正発展党 (モロッコ)|公正発展党]]以外にも、[[モロッコ・アフガン]]や[[AQIM]]などの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。 == 軍事 == {{main|[[モロッコ王立軍]]}} モロッコには18ヶ月の[[徴兵]]期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立[[国家憲兵|ジャンダルメ]]から構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。 2003年の[[カサブランカ]]でのテロのような例外を除いて、軍の派遣は稀である。[[国際連合]]は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。 なお、[[赤道ギニア]]など数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。 == 地方行政区分 == [[File:Morocco Regions 2015 numbered.svg|300px|thumb|right|モロッコの行政区画]] {{Main|モロッコの行政区画}} モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよび[[サハラ・アラブ民主共和国]]の実効支配地域を含む。 === 主要都市 === {{Main|モロッコの都市の一覧}} 2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.5パーセントと低い<ref>モロッコ 都市人口(全体の%),1960-2020-knoema.com</ref>。 * [[カサブランカ]] - モロッコ最大の都市で、2021年時点での人口は、314万人である<ref name="Morroco">en.m.wikipedia.org>Morroco</ref>。[[カサブランカ (映画)|映画]]でも名を知られている。加工貿易のための特区が設けられている。さらに、金融業のための特区も設けられている。 * [[ケニトラ]] - 2021年の時点での人口は、36.7万人である<ref name="Morroco" />。加工貿易のための特区が設けられている。 * [[アル・ジャディーダ|エルジャディダ]] - 2021年の時点での人口は、14.8万人である<ref name="Morroco" />。 * [[マラケシュ]] - 2021年の時点での人口は、83.9万人である<ref name="Morroco" />。観光業が盛んである。かつては都が置かれ、モロッコの国名も、この都市名に由来する。 * [[フェズ]] - 2021年の時点での人口は、96.5万人である<ref name="Morroco" />。かつてはモロッコの首都であった。迷宮のような市街地が有名。 * [[タンジェ|タンジール]] - 2021年の時点での人口は、68.8万人である<ref name="Morroco" />。ジブラルタル海峡に面しており、スペインと近い。加工貿易のための特区が設けられている。 * [[ラバト]] - モロッコの首都である。2021年時点の人口は、166万人である<ref name="Morroco" />。{{仮リンク|ブー・レグレ川|en|Bou Regreg}}の河口は、ここに有る。 * [[テトゥワン]] - 2021年の時点での人口は、32.6万人である<ref name="Morroco" />。地中海に面する。 * [[アガディール]] - 2021年の時点での人口は、69.8万人である<ref name="Morroco" />。大西洋に面し、漁業も行われる。 * {{仮リンク|クーリブガ|en|Khouribga}} - 2021年の時点での人口は、16.8万人である<ref name="Morroco" />。リン鉱石の採掘で知られ、港町のカサブランカとは鉄道で結ばれている。 * [[ウジダ|ウジタ]] - 2021年の時点での人口は、40.5万人である<ref name="Morroco" />。アルジェリアとの国境付近の町で、アルジェリアの首都のアルジェ方面への鉄道も通る。鉛や亜鉛の主要な鉱山も存在する。 == 地理 == [[File:Modis morocco lrg.jpg|300px|thumb|right|モロッコの衛星画像。]] [[File:Birds and toubkal.jpg|220px|thumb|left|[[アトラス山脈]]。]] [[File:Chauen.jpg|220px|thumb|left|北部の[[リーフ地方]]。]] [[File:Dune sunrise.jpg|220px|thumb|left|南部の[[サハラ沙漠]]の砂丘。]] {{main|{{仮リンク|モロッコの地理|en|Geography of Morocco}}}} モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300&nbsp;km、南北1000&nbsp;kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いた歪んだ長方形に見える。モロッコの南西に分布する[[カナリア諸島]]はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸の[[セウタ]]と[[メリリャ]]は、スペイン本国の飛地である。南西側で陸続きの[[西サハラ]]を実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地([[スペイン領サハラ]])だった。 モロッコには大きな山脈が4つある。[[リーフ地方]](エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400&nbsp;mである。南方の3つの山脈は[[アトラス山脈]]に属する。アトラス山脈自体は[[チュニジア]]北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000&nbsp;km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る[[褶曲|褶曲山脈]]である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンティアトラス山脈)と呼ばれる。アンティアトラス山脈の南斜面が終わる付近に国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000&nbsp;mを超え、国土のほぼ中央にそびえる標高4165&nbsp;mの[[ツブカル山]](トゥブカル山)が国内最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。[[カサブランカ]]などのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。 ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う<ref group="注釈">最も狭い部分では幅14&nbsp;kmしかない。</ref>。スペイン=モロッコ間は、[[ユーラシアプレート]]と[[アフリカプレート]]の境界に当たる。アフリカプレートが年間0.6&nbsp;cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、[[1755年リスボン地震|リスボン大地震]]と同時期の[[1755年]]11月19日に発生した地震や[[1757年]]4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。[[1960年]]2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。 主要河川は、地中海に流れ込む{{仮リンク|ムルーヤ川|en|Moulouya River}}、大西洋に流れ込む{{仮リンク|スース川|ar|وادي سوس|en|Sous River|}}、{{仮リンク|テンシフィット川|ar|تانسيفت (نهر)|en||Tensift River}}など10本程度ある。{{仮リンク|ジス川|ar|نهر زيز|en|Ziz River}}と[[レリス川]]は、[[サハラ沙漠]]に向かって流れ降る。[[ドラア川]]もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。[[エジプト]]、[[スーダン]]を縦断する[[ナイル川]]を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを[[水力発電]]でまかなってきた。 === 気候 === 年間を通じて、大西洋上に[[海洋性熱帯気団]]が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している<ref group="注釈">いわゆる「[[貿易風|北東貿易風]]」と呼ばれる風である。</ref>。2023年の時点で、既にモロッコの総発電量の約7%<ref>{{cite news|url=https://fr.le360.ma/economie/la-part-des-energies-renouvelables-portee-a-195-du-mix-electrique-national-leolien-principal-273340/ |title=La part des énergies renouvelables portée à 19,5% du mix électrique national, l’éolien principal contributeur |publisher=le360 |accessdate=2023-06-05}}</ref>( アフリカ第二位の割合<ref>{{Cite web |title=Global Electricity Review 2023 |url=https://ember-climate.org/insights/research/global-electricity-review-2023/ |website=ember climate |access-date=2023-06-05 |language=en}}</ref>)が[[風力発電]]で占められていた理由の1つが、ここにある。 モロッコ沿岸を北から南の方向へと、寒流の[[カナリア海流]]が流れる。さらに、モロッコの内陸部に連なるアトラス山脈が、海からの湿気を遮るために、山脈を境界として気候が変わる。 [[ケッペンの気候区分]]によると、アトラス山脈より北は[[地中海性気候]] (Cs) に一部[[ステップ気候]] (Bs)が混じる。基本的に夏に乾燥する気候である。アトラス山脈やリフ山脈の標高の高い場所では、冬季に積雪が見られる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ沙漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠と細分される。気候区分は、[[砂漠気候]] (BW)である。 モロッコ最大の都市であるカサブランカの気候は、1月の気温が12.4&nbsp;℃、7月が22.3&nbsp;℃で、年間降水量は379.7&nbsp;[[ミリメートル|mm]]である。冬季の降水量は100&nbsp;(mm/月)に達するのに対し、夏季には1&nbsp;mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。 === 植生 === {{see|{{仮リンク|モロッコの植物相|en|Flora of Morocco}}}} 大西洋沿岸、地中海岸と内陸部の[[オアシス]]を除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのは[[コルク|コルクガシ]]であり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈の北側斜面は、常緑樹林が広がる。植生は、[[オーク]]、[[セイヨウスギ]]、[[マツ]]である。アトラス山中からさらに南のステップには、[[ナツメ]]や低木などが疎らに見られる。ただし、栽培樹木である[[オリーブ]]は自然の樹木の分布に当てはまらず、国土全体に植えられている。固有種として[[アカテツ科]]の[[アルガンノキ]](''[[:en:Argan|Argania Spinosa]]'')が知られ、[[アルガン油|アルガンオイル]]を採取する<ref group="注釈">モロッコの固有種のアルガンノキから採取するアルガンオイルは、'''モロッカンオイル'''、つまり「モロッコの油」といった意味の別名でも知られる。</ref>。ただし、アルガンノキの分布域は狭く、[[スース川]]流域に限られる。 国土の北部を中心に、約12パーセントを森林が占める。また国土の18パーセントを農耕地が占め、農耕地の5パーセントは灌漑によって維持されている。一方で、アトラス山脈の南側は、沙漠地帯が目立つ。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|モロッコの経済|en|Economy of Morocco}}}} カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の[[世界都市]]である。 [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、2015年のモロッコの[[国内総生産|国内総生産(GDP)]]は、約1031億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]である。国民1人当たりのGDPは3079ドルと、アフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの[[新興国]]に匹敵するレベルである。アフリカでは経済基盤も発達している方だとされる。 モロッコの主要な貿易相手国としては、地理的に近い先進国のフランスとスペインが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|title=モロッコ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/data.html#section3 |website=[[外務省]] |access-date=2023-06-05 |language=ja}}</ref>。モロッコ自身は先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて[[宗主国]]だったフランスだけでなく、欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定していると判断され、[[インフラストラクチャー]]が整備されており、50以上の国・地域と[[自由貿易協定|自由貿易協定(FTA)]]を締結していて輸出がし易いという背景がある<ref name="NSN_20161117">日経産業新聞「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日</ref>。その他[[ヨーロッパ連合]]諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。 なお、カサブランカやタンジールやケニトラには、加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある<ref>「【新興国ABC】モロッコの産業フリーゾーン 車・航空機の産業集積」 日経産業新聞 2018年5月14日(グローバル面)。</ref>。 また、モロッコは[[羊毛]]の生産や<ref name="DBW_2012_p317" />、同じく繊維材料の[[サイザルアサ]]の栽培でも知られ<ref name="DBW_2012_p317" />、繊維製品や衣料製品といった軽工業などの工業生産も見られる<ref name="DBW_2012_p316">二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.316 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6</ref>。また、皮革製品の製造も行われている<ref name="DBW_2012_p316" />。 さらに、生産量世界第6位の[[オリーブ]]栽培などの農業が経済に貢献している。 これらに加えて、大西洋岸は漁場として優れており、魚介類の輸出もモロッコにとっては主要な産業である<ref name="DBW_2012_p124">二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.124 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6</ref>。 観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに達する。 === 鉱業・電力 === {{see|{{仮リンク|モロッコの鉱業|en|Mining industry of Morocco}}}} エネルギー資源に関しては、原油と天然ガスが少し産出する程度で<ref group="注釈">原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。一方で、天然ガスは比較的多く産出する。</ref>、産油国とまでは言えない程度である。一方で、鉱業の分野では、合金として幅広い用途を有する[[コバルト]]<ref name="DBW_2012_p317">二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.317 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6</ref>、また[[亜鉛]]も産出するものの<ref name="DBW_2012_p317" />、それよりも亜鉛などの工業的な精製の際に不純物を取り除くためなどに用いる[[ストロンチウム]]<ref name="DBW_2012_p317" />、さらに肥料などの原料として知られる[[リン鉱石]]の採掘が盛んである<ref name="DBW_2012_p317" /><ref group="注釈">特に、リン鉱石は、採掘量は世界第2位ながら、埋蔵量世界1位と言われている。なお、[[リン酸肥料]]だけではなく、モロッコでは[[窒素肥料]]の製造も行っている。</ref>。また、[[鉛]]も比較的有力な鉱産資源である。これ以外にも、[[ニッケル]]、[[鉄]]、[[銅]]、[[銀]]、[[金]]の採掘も行われている<ref name="DBW_2012_p317" />。 モロッコの鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によって鉱脈が形成されたと考えられている。例えば、かつてはマラケシュの東で、[[マンガン]]の採掘も行われていた。また例えば、ウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。 なお、リンはカサブランカの南東の内陸部で採れる。 農業などに利用できない砂漠では、[[再生可能エネルギー]]による発電を拡大している。[[太陽光発電]]所や[[太陽熱発電]]所、[[風力発電]]所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)を[[2030年]]に52%へ高めることを計画している<ref>フェルダウス投資担当[[閣外大臣|閣外相]]によるコメント。『日経産業新聞』2018年5月29日(環境・素材・エネルギー面)掲載、モロッコ「再生エネ52%に」。</ref>。 === 農業 === {{see|{{仮リンク|モロッコの農業|en|Agriculture in Morocco}}}} アトラス山脈よりも北側の大西洋沿岸地域や地中海沿岸地域では、ある程度の降水量が見込めるため[[雨|天水]]に頼った農業が可能である。農業従事者は429万人(2005年)である。[[国際連合食糧農業機関]] (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位の[[オリーブ]](50万トン、世界シェア3.5%)、第9位の[[サイザルアサ]](2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、[[テンサイ]](456万トン、1.9%)、[[オレンジ]](124万トン、1.5%)、[[トマト]](120万トン、1.0%)、[[ナツメヤシ]](6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強い[[コムギ]](304万トン)、次いで[[ジャガイモ]](144万トン)、[[オオムギ]](110万トン)である。 中南部ケアラ・ムグーナ(「[[バラ]]の谷」)で栽培されている[[バラ水|ローズウォーター]]用のバラなど[[花卉]]農業も行われている<ref>【旅】ケラア・ムグーナ(モロッコ)砂漠の中の「バラの谷」香り芳潤 美容にも一役『読売新聞』夕刊2018年5月16日。</ref>。 畜産業は[[ヒツジ]](1703万頭)、[[ニワトリ]](1億4000万羽)を主とする。 === 工業 === モロッコは世界的に見て[[硫酸]]の製造の盛んな地域であり、2004年の製造量は、950万トンであった<ref name="DBW_2012_p317"/>。 さらに、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。また、[[ルノー]]が2つの自動車工場を、[[ボンバルディア]]が航空機部品工場を運営している他、[[PSA・プジョーシトロエン]]や[[ボーイング]]なども現地生産計画を進めている<ref name="NSN_20161117"/>。 === 貿易 === {{see|{{仮リンク|モロッコの貿易|en|Trade in Morocco}}}} モロッコの輸出額は238億ドル。品目は、 機械類 (15.9%) 、 衣類 (14.4%) 、化学肥料 (8.8%)、野菜・果実 (7.9%)、魚介類 (7.6%) である。(2011年) ここで言う電気機械とは、電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年) モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12.0%)、繊維 (11.9%)、電気機械 (11.7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、アメリカ合衆国、イギリスである。(2014年) 参考までに、モロッコにとって主要な貿易相手国ではないものの、日本との貿易では、輸出が[[タコ]](61.1%)、[[モンゴウイカ]] (7.3%)、衣類 (5.1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.4%)、トラック (28.6%)、タイヤ (5.6%)である。 === 観光業 === {{see|{{仮リンク|モロッコの観光地|en|Tourism in Morocco}}}} [[フェズ]]、[[カサブランカ]]、[[マラケシュ]]といった都市部の[[旧市街|旧市街地]]から、[[アイット=ベン=ハドゥの集落|アイット=ベン=ハドゥ]]など集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、サハラ沙漠や[[トドゥラ峡谷]]といった自然が観光資源として利用されている<ref>{{Cite web|和書 | title = モロッコで行くべき観光スポットTOP10とモロッコの基本情報 | publisher = ワンダーラスト |date=2016-01-15 | url = https://www.compathy.net/magazine/2016/01/15/attraction-top-10-in-morocco/ | accessdate = 2018-07-06}}</ref>。また、古い邸宅を利用した[[リヤド (モロッコ)|リヤド]]と呼ばれる「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている<ref>{{Cite web|和書 | title = モロッコのリヤドとは | author = 菅澤彰子 | url = http://www.sugesawa.com/morocco-riad.html | accessdate = 2018-07-06}}</ref>。 モロッコ政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に注力している<ref name="mofa_1">{{Cite web|和書 | title = モロッコ基礎データ | publisher = 外務省(日本) | url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/data.html#section1 | accessdate = 2018-07-06}}</ref>。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた<ref name="mofa_1" />。 == 交通 == {{main|モロッコの交通}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|モロッコの国際関係|en|Foreign relations of Morocco}}}} 西サハラを放棄したモーリタニアとは異なり、西サハラを併合したいモロッコと、それを承認しない国際社会の利害対立は有る。 隣国で言えば、西サハラの支援をするアルジェリアとは対立してきた。 一方で、特に地理的に近いスペインやフランスとの関係は深く、貿易の上で重要な地位を占める。 またイスラム教以外を禁止してはいないものの、イスラム教を国教としており、イスラム教圏、特にアラブ諸国との関係も密接である。 === アルジェリアとの関係 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアとモロッコの関係|en|Algeria–Morocco relations}}}} 隣国のアルジェリアとは互いに反政府勢力を支援しているとして、長年緊張関係が続いてきた<ref name="AFP20210825" />。2021年8月にアルジェリア政府は国内で発生した山火事に、モロッコが関与していると発表した<ref name="AFP20210825" />。2021年8月24日にアルジェリアは、モロッコとの国交断絶を宣言した<ref name="AFP20210825">{{Cite web|和書 | title = アルジェリア、モロッコと国交断絶 「敵対行為」めぐり | website = AFP | url = https://www.afpbb.com/articles/-/3363273 |language=ja | accessdate = 2021-08-25}}</ref>。 === イスラエルとの関係 === {{main|{{仮リンク|モロッコとイスラエルの関係|en|Israel–Morocco relations}}}} モロッコはアラブ諸国の中でもユダヤ人に寛容な国の一つであるため、モロッコにはユダヤ人が多く暮らしていた歴史があり、現在も約2000人のユダヤ人がモロッコで生活している<ref>{{Cite web |title=Jews in Islamic Countries: Morocco |url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/jews-of-morocco |websit=jewish virtual library |access-date=2023-12-13 |language=en}}</ref>。2020年12月10日にはアメリカの仲介により、モロッコはイスラエルと国交正常化した。これによりモロッコはアラブ諸国でイスラエルと国交正常化した6カ国目の国となった<ref>{{Cite news2|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN10CPO0Q0A211C2000000/ |title=イスラエル、モロッコと国交正常化 米仲介 |newspaper=日本経済新聞 |agency=[[日本経済新聞社]] |date=2020-12-11 |accessdate=2023-12-13}}</ref>。また、2023年7月17日にイスラエルはモロッコによる西サハラの主権を認めた<ref>{{Cite news2|url=https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_95363/ |title=イスラエル、西サハラに対するモロッコの主権を認める |newspaper=ARAB NEWS JAPAN |agency=[[ARAB NEWS]] |date=2023-07-18 |accessdate=2023-12-13}}</ref>。{{see also|イスラエルとモロッコの国交正常化}} === 日本との関係 === {{main|日本とモロッコの関係}} * 在留日本人数 - 350名(2018年10月,在留邦人統計)<ref name="外務省 モロッコ基礎データ">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/data.html#section6 外務省 モロッコ基礎データ]</ref> * 在日モロッコ人数 - 637名(2019年06月,在留外国人統計)<ref name="外務省 モロッコ基礎データ"/> == 国民 == {{main|{{仮リンク|モロッコの人口統計|en|Demographics of Morocco}}}} [[File:Morocco-demography.png|260px|thumb|right|1961年から2003年までのモロッコの人口増加グラフ。]] [[File:Morocco ethno 1973 all.svg|right|260px|thumb|モロッコの民族分布地図(1973)。]] 2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、[[一夫多妻制]]についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教を[[フェミニズム]]的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張する[[ファーティマ・メルニーシー]]の名が挙げられる。新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性から[[離婚]]を請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった<ref>2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」</ref>。 1999年に[[マイクロクレジット]]法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。 === 民族 === 歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心に[[アラブ人]]が暮らし、アトラス山脈の住民の大半が[[ベルベル人]]である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその[[混血]]がほとんどと言われる事が多いが、実際は両者の混血が進んでいる。また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり([[リーフ共和国]])、モロッコ政府としては、あくまでも両者はモロッコ人であるという考え方の元で、敢えて民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。 モロッコのアラブ人には、[[イベリア半島]]での[[レコンキスタ]]や17世紀の[[モリスコ追放]]によって[[アンダルス|アンダルシア]]から移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。 [[ユダヤ人]]はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、[[イスラエル]]建国以来イスラエルや[[カナダ]]などへの移住により減少傾向が続いており、[[1990年]]時点で1万人以下である。その他にも[[ブラックアフリカ]]に起源を持つ[[黒人]]などのマイノリティも存在する。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|モロッコの言語|en|Languages of Morocco}}}} [[アラビア語]]と[[ベルベル語]]が[[公用語]]である<ref name="mofa_japan" />。国民の大半は[[学校教育]]で[[フスハー|正則アラビア語]]を学習しつつも、日常生活ではモロッコ特有の[[アラビア語モロッコ方言]]を話しているため、他の[[アラビア語]]圏の住人とは意思の疎通が困難である。 なお、山岳地帯では、'''タマジグト'''と総称されるベルベル語が話され、これらは大別して[[タシュリヒート語]](モワイヤン、オートアトラス地域)、[[タスーシッツ語]](アガディール地方、アンチアトラス地域)、[[タアリフィート語]](リーフ山脈地域)に分かれている。また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるのに対し、ベルベル人自身は自分達をイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つと、ベルベル語は全く理解できない事が多い。これはアラビア語とベルベル語とが、全く異なった言語のためである。 また、かつてモロッコはフランスの保護領であったために[[フランス語]]も比較的有力であり、さらに現在でもモロッコにとっては貿易相手としてフランスが重要なため、[[第二言語]]としてフランス語が教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位にある。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。商品や案内表記などは、アラビア語とフランス語が併記されている場合が多い。 一方で、[[タンジェ]]のようなモロッコの北端部の都市はスペインの影響が強く、[[スペイン語]]もよく通じる。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|モロッコの宗教|en|Religion in Morocco}}}} [[1961年]]に[[イスラム教]]が[[国教]]と定められ、イスラム教[[スンニ派]]が99パーセントを占める。しかしながら、[[キリスト教]]と[[ユダヤ教]]も禁止されてはいない。 === 教育 === {{see|{{仮リンク|モロッコの教育|en|Education in Morocco}}}} 7歳から13歳までの7年間の[[初等教育]]期間が、義務教育期間と定められているものの、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供が、未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。2004年の調査によれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である<ref name=2009cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mo.html CIA World Factbook] 2009年12月26日閲覧。</ref>。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。 主な[[高等教育]]機関としては、[[カラウィーイーン大学|アル・カラウィーン大学]](859年)や{{仮リンク|ムハンマド5世大学|en|Mohammed V University}}(1957年)などが挙げられる。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|モロッコの保健|en|Health in Morocco}}}} {{節stub}} ==== 医療 ==== 医療機関の質は悪くないが、医療サービスの質はあまり良いとは言えない。<ref>{{Cite web|和書|title=世界の医療事情 モロッコ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/africa/morocco.html |website=外務省 |access-date=2022-11-10 |language=ja}}</ref> ==== 性転換手術 ==== 世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「[[性転換]]」手術をイメージする人々が、特に1970年産まれ以前の世代では少なからず存在している{{要出典|date=2013年2月}}。 これは男性から女性への性転換手術、現在で言う[[性別適合手術]]の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師[[ジョルジュ・ビュルー]]により開発された事に起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名な[[キャバレー]]「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」がビュルーの手術を受けたため有名になり、一時期は世界中から「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性が大量にマラケシュのビュルーの所へと押し寄せた。 日本もその例外ではなく、1960年代に3回にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演が、この性転換手術の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、有名な例では、芸能タレントの[[カルーセル麻紀]]や、俳優の[[光岡優]]などが、モロッコに渡航しビュルーの執刀による手術を受けた。特に日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響で「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広まり、その影響は長らく残った<ref group="注釈">例えばフィクションでは、1998年に[[ディレクTV]]で放映されたアニメ『[[BURN-UP#BURN-UP EXCESS|BURN-UP EXCESS]]』第8話で、登場した誘拐犯([[オカマバー]]の元店長と元従業員)が身代金の使い道の1つとして「モロッコに行って性転換」することを挙げた。</ref>。 なお、ビュルーは1987年に死亡し、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富な[[タイ王国]]で受けるのが主流となっている。 ==== 妊娠中絶 ==== モロッコで[[妊娠中絶]]は、法的に認可されていない。[[ウィミン・オン・ウェーブ]](オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せて、公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返された<REF NAME="MOR20121005">モロッコ海軍、「人工妊娠中絶船」の入港阻止 CNN.co.jp 2012年10月5日(金)12時53分配信</ref>。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた<REF NAME="MOR20121005"/>。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|モロッコの文化|en|Culture of Morocco}}}} === 食文化 === [[File:Spices1.jpg|180px|thumb|right|[[アガディール]]中央市場のスパイス。]] {{Main|モロッコ料理}} モロッコで主食としている作物は、コムギである地域が目立つ<ref name="Iwasaki_k_p7">石崎 まみ 『クスクスとモロッコの料理』 p.7 毎日コミュニケーションズ 2010年10月20日発行 ISBN 978-4-8399-3626-6</ref>。ただし、地域によって特色も見られる。例えば、モロッコは漁業が重要な産業の1つであり<ref name="DBW_2012_p124"/>、海岸部では魚介類を利用した料理が見られる<ref>石崎 まみ 『クスクスとモロッコの料理』 p.6、p.7 毎日コミュニケーションズ 2010年10月20日発行 ISBN 978-4-8399-3626-6</ref>。また、乾燥地帯の多い土地柄で、水が貴重な地域も有り、水を節約すべく蒸し煮を行うための[[タジン鍋]]を多用する<ref name="Iwasaki_k_p7" />。モロッコでは牧畜も行われており、モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、モロッコ産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。特に沙漠地域では、食肉をタジン鍋で調理した料理を食べる頻度が比較的高い<ref name="Iwasaki_k_p7" />。 主なモロッコ料理としては[[クスクス]]、[[タジン]]、[[ハリーラ]]などが挙げられる。 ただし、数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果として、モロッコの料理は多様である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放された[[モリスコ]]がもたらしたアラブ・アンダルシア料理、[[トルコ人]]によってもたらされた[[トルコ料理]]、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、[[ユダヤ料理]]の影響も同等である。 なお、[[香辛料]]はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニの[[サフラン]]、メクネスの[[オリーブ]]と[[ミント]]<ref group="注釈">ミントに関しては、[[アッツァイ]]と呼ばれるミント緑茶に、大量の[[砂糖]]を加えて飲む習慣が見られる。</ref>、フェスの[[オレンジ]]と[[レモン]]などの多くの材料はモロッコ産である。 === 文学 === [[File:Harîrî_Schefer_-_BNF_Ar5847_f.51.jpg|220px|thumb|right|『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』の著者[[イブン・バットゥータ]]。]] {{main|アラビア語文学|{{仮リンク|モロッコ文学|en|Moroccan literature}}}} モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。[[アル=アンダルス]]で発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、同時に書店を設立し、これが後世の者に「史上初の書籍市」とも評された。ムワッヒド朝のカリフであった[[アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世|アブー・ヤアクーブ]]は、本の収集をこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身の[[イブン・バットゥータ]]はアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』(『三大陸周遊記』、[[1355年]])を著した。 近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だった事は、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受による、文学作品の交換と執筆の余地を残した。 1950年代から1960年代にかけて、モロッコには[[ポール・ボウルズ]]、[[テネシー・ウィリアムズ]]、[[ウィリアム・S・バロウズ]]のような作家が滞在して作品を仕上げていった。モロッコ文学は{{仮リンク|モハメド・ザフザフ|en|Mohamed Zafzaf}}、{{仮リンク|モハメド・チョークリ|en|Mohamed Choukri}}のようなアラビア語作家や、{{仮リンク|ドリス・シュライビ|en|Driss Chraïbi}}、[[タハール・ベン=ジェルーン]]のようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者として{{仮リンク|ムハンマド・ハイル=エディン|en|Mohammed Khaïr-Eddine}}、[[モハメド・シュクリ]]、{{仮リンク|ライラ・アブーゼイド|en|Leila Abouzeid}}、{{仮リンク|アブデルケビル・ハティビ|en|Abdelkebir Khatibi}}、そして1987年に『{{仮リンク|聖なる夜|fr|La Nuit sacrée}}』で[[ゴンクール賞]]を獲得した[[タハール・ベン=ジェルーン]]などが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学は、モロッコの文化にとって不可欠の存在である。 === 音楽 === {{main|[[モロッコの音楽]]}} モロッコ音楽は、アラブ起源の楽曲が支配的である。ただし、その他にもベルベル人の{{仮リンク|アッヒドゥース|en|Ahidus}}や[[アフワーシュ]]、黒人の{{仮リンク|グナワ音楽|en|Gnawa music|label=グナワ}}(「[[ギニア]]」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、{{仮リンク|ヌーバ|en|Andalusi nubah}}と呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。 === 建築 === {{Main|モロッコの世界遺産|モロッコの建築}} モロッコ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の'''[[世界遺産]]'''リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が9件存在する。 <gallery mode="packed"> Fes.Dar el-Makhzen.jpg|[[フェズ|フェス旧市街]] - (1981年) Koutoubia Mosque,Marrakech,Morocco.jpg|[[マラケシュ|マラケシ旧市街]] - (1985年) Kasbahs in Aït Benhaddou.JPG|[[アイット=ベン=ハドゥの集落]] - (1987年) Bab Mansour.jpg|[[メクネス|古都メクネス]] - (1996年) Triumphal Arch in Volubilis.jpg|[[ヴォルビリス|ヴォルビリスの古代遺跡]] - (1997年) Tetuan vista desde un tejado.JPG|[[テトゥアン|テトゥアン旧市街]](旧名ティタウィン) - (1997年) Remparts medina Essaouira Luc Viatour.jpg|[[エッサウィラのメディナ]](旧名モガドール) - (2001年) Mazagan1-CCBY.jpg|[[アル・ジャディーダ|マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市]] - (2004年) Pedestrians and Kasbah Walls - Rabat - Morocco.jpg|[[ラバト|ラバト:近代的首都と歴史的都市]] -(2012年) </gallery> === 祝祭日 === モロッコには下記のモロッコの祝日に加えイスラム教の祝日も存在する。モロッコの祝日は毎年同じ日に祝られるが、イスラム教の祝日はイスラム暦によって決められるため移動祝日である。 {|class="wikitable" !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |style="white-space:nowrap"|1月1日 |style="white-space:nowrap"|[[元日]] |style="white-space:nowrap"|رأس السنة الميلادية | |- |style="white-space:nowrap"|1月11日 |style="white-space:nowrap"|独立宣言記念日 |style="white-space:nowrap"|ذكرى تقديم وثيقة الاستقلال | |- |style="white-space:nowrap"|1月14日 |style="white-space:nowrap"|アマジグ族元日 |style="white-space:nowrap"|ينّاير |[[ベルベル]]族の新年 |- |style="white-space:nowrap"|5月1日 |style="white-space:nowrap"|[[メーデー]] |style="white-space:nowrap"|عيد الشغل |国際労働者の日 |- |style="white-space:nowrap"|7月30日 |style="white-space:nowrap"|即位記念日 |style="white-space:nowrap"|عيد العرش |[[ムハンマド6世 (モロッコ王)|厶ハンマド6世]]が即位した日 |- |style="white-space:nowrap"|8月14日 |style="white-space:nowrap"|[[ダフラ=オウィド・エッ=ダハブ地方|ダフラ=オウィド・エッ=ダハブ]]日 |style="white-space:nowrap"|استرجاع إقليم وادي الذهب |ダフラ=オウィド・エッ=ダハブ地方の解放を記念する日 |- |style="white-space:nowrap"|8月20日 |style="white-space:nowrap"|革命記念日 |style="white-space:nowrap"|ثورة الملك والشعب |1953年にフランスの植民に対して勃発した抗議運動が発生した日。この抗議運動により独立を果す。 |- |style="white-space:nowrap"|8月21日 |style="white-space:nowrap"|ムハンマド6世国王誕生日 |style="white-space:nowrap"|عيد الشباب | |- |style="white-space:nowrap"|11月6日 |style="white-space:nowrap"|緑の行進記念日 |style="white-space:nowrap"|عيد المسيرة الخضراء |1957年のこの日、[[西サハラ]]の返却を求め35万人が[[緑の行進]]に参加しデモ活動行った |- |style="white-space:nowrap"|11月18日 |style="white-space:nowrap"|独立記念日 |style="white-space:nowrap"|عيد الاستقلال |1956年にフランスとスペインから独立した日 |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|モロッコのスポーツ|en|Sport in Morocco}}}} {{See also|オリンピックのモロッコ選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|モロッコのサッカー|en|Football in Morocco}}}} {{see also|[[王立モロッコサッカー連盟]]}} モロッコ国内でも、他の[[アフリカ]]諸国同様[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]であり、[[1956年]]にサッカーリーグの[[ボトラ]]が創設されている。[[王立モロッコサッカー連盟]](FRMF)によって構成される[[サッカーモロッコ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には6度出場しており[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]では'''アフリカ勢初のベスト4'''に進出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/morocco-portugal-world-cup-round8-20221210/bltdf0a4affd081d1e8|title=モロッコがアフリカ勢史上初のW杯ベスト4進出!ポルトガルの猛攻耐えきり、歴史的偉業を達成|website=Goal.com|date=2022-12-11|access-date=2022-12-12}}</ref>。[[アフリカネイションズカップ]]では、[[アフリカネイションズカップ1976|1976年大会]]で初優勝を果たしている。 近年では[[FIFAクラブワールドカップ]]の[[FIFAクラブワールドカップ2013|2013年大会]]・[[FIFAクラブワールドカップ2014|2014年大会]]・[[FIFAクラブワールドカップ2022|2022年大会]]がモロッコで開催されており、開催国枠で出場した[[ラジャ・カサブランカ]]が[[FIFAクラブワールドカップ2013・決勝|2013年大会で準優勝]]に輝いている。[[ビッグクラブ]]に在籍した[[モロッコ人]]選手としては、[[メディ・ベナティア]]、[[ハキム・ツィエク]]、[[ヌサイル・マズラウィ]]、[[アクラフ・ハキミ]]が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inter.it/jp/news/2021/07/06/インテル-移籍-ハキミ-パリ・サンジェルマン.html|title=アクラフ・ハキミ、パリ・サンジェルマン加入|website=FCインテルナツィオナーレ・ミラノ|date=2021年7月7日|accessdate=2021年7月7日}}</ref>。 === テニス === 男子[[テニス]]は、[[1986年]]に当時の国王[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]の名を冠したモロッコ初の[[ATPツアー]]大会、[[ハサン2世グランプリ]]が開催されるようになってから、次第に同国でもテニスが盛り上がりを見せるようになった。[[1990年代]]に入ると[[ユーネス・エル・アイナウイ]]、[[カリム・アラミ]]、[[ヒチャム・アラジ]]という3人の男子選手が同時期に現れ、同国初の国際的なプロ[[テニス選手]]として大活躍した。 [[1961年]]に参戦した[[デビスカップ]]でも当初は長らく弱小国であったが、上記3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から[[2000年代]]前半には、最上位カテゴリのワールドグループに通算で5回の出場を果たし、テニス強豪国の一角を占めるまでになった。ただ3人の引退に伴う2000年代後半以降は低迷したものの、[[2010年代]]にシングルスランキングで100番台に乗せてきた、レダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。 女子テニスにおいても、[[2001年]]から[[ラーラ・メリヤム]]王女の名を冠した[[WTAツアー]]大会、[[SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリ]]を開催している。しかし、その一方で国内女子選手の育成は殆ど進んでおらず、[[2011年]]時点では[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]出場や、ツアーレベルに到達した女子選手は1人として現れておらず、世界レベルとは未だ隔たりがある。 [[ビリー・ジーン・キング・カップ|フェドカップ]]の同国代表も、大会参戦開始は[[1966年]]と中東諸国の中でも最も早かったが、この年の出場後の[[1995年]]に再び参加するまで、30年近く国際舞台の場に出なかった。その後も断続的な参加を続けた程度に過ぎず、[[2010年]]時点までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。 === 陸上競技 === [[陸上競技]]のうち男子[[中距離走]]と[[長距離走]]は、同じアフリカ大陸の[[エチオピア]]や[[ケニア]]と並んで世界屈指の強さを誇る。概して[[近代オリンピック|オリンピック]]や[[世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]においては、800&nbsp;mと1500&nbsp;mで世界一を輩出した事例が多い。さらに[[1980年代]]の男子中長距離界を席巻した[[サイド・アウィータ]]と[[ヒシャム・エルゲルージ]]は、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中で有名であり、エルゲルージの出した[[1500メートル競走|1500&nbsp;m]]と[[1マイル競走|1マイル]]、[[2000メートル競走|2000&nbsp;m]]の世界記録は未だに破られていない。 === 格闘技 === モロッコの著名な[[格闘家]]では、[[K-1]]と[[IT'S SHOWTIME]]の元[[ヘビー級]]王者である'''[[バダ・ハリ]]'''がおり、かつてK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できる物が無い国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に "モロッコ?ハリの母国だよね" と言ってもらえるようにしたい。"世界王者" という部分が重要なんだ」と語った。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:モロッコの人物|{{仮リンク|モロッコ人の一覧|en|List of Moroccan people}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === <references/> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=川田順造|date=1971年1月|title=マグレブ紀行|series=中公新書246|publisher=中央公論社|location=東京||isbn=|ref=川田(1971)}} * {{Cite book|和書|author=私市正年、佐藤健太郎(編著)|date=2007年4月|title=モロッコを知るための65章|series=エリア・スタディーズ|publisher=明石書店|location=東京|isbn=978-4-7503-2519-4|ref=私市、佐藤(2007)}} * {{Cite book|和書|author=佐藤次高(編)|date=2002年3月|title=西アジア史I──アラブ|series=新版世界各国史8|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=4634413809|ref=佐藤(2002)}} * {{Cite book|和書|author=福井英一郎(編)|date=2002年9月|title=アフリカI|series=世界地理9|publisher=朝倉書店|location=東京|isbn=4-254-16539-0|ref=福井(2002)}} * {{Cite book|和書|author=宮治一雄|edition=2000年4月第2版|title=アフリカ現代史V|series=世界現代史17|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=4-634-42170-4|ref=宮治(2000)}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Morocco|Morocco}} {{wikivoyage|en:Morocco|モロッコ{{en icon}}}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[File:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} * [[モロッコ関係記事の一覧]] * [[モロッコの都市の一覧]] * [[大モロッコ]] == 外部リンク == * [https://www.maroc.ma/ar モロッコ王国政府] {{ar icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{en icon}} * [https://morocco-emba.jp/ 在日モロッコ大使館] {{ja icon}}{{en icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/morocco/ 日本外務省 - モロッコ] {{ja icon}} * [https://www.ma.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在モロッコ日本国大使館] {{ja icon}}{{ar icon}}{{fr icon}} * [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-20.html JCCME - モロッコ] * [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [https://wikitravel.org/ja/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3 モロッコ] * {{Osmrelation|3630439}} * {{Wikiatlas|Morocco}} {{en icon}} * {{Googlemap|モロッコ}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{OIF}} {{アラブ・マグレブ連合}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Coord|34|02|N|6|51|W|type:city|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もろつこ}} [[Category:モロッコ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] |}
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ソマリア
ソマリア連邦共和国(ソマリアれんぽうきょうわこく)、通称ソマリアは、東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域を領域とする国家。エチオピア、ケニアおよびジブチと国境を接し、インド洋とアデン湾に面する。 1991年勃発の内戦により国土は分断され、事実上の無政府状態が続いていた。のちにエチオピアの軍事支援を受けた暫定政権が発足し、現在では正式な政府が成立したが、依然として一部地域を他の国家であると主張する政府が統治している。現在の国土はソマリア連邦共和国政府が統治する中南部と、91年に独立宣言した旧英領のソマリランド共和国(首都ハルゲイサ、国際的に未承認、東部地域でプントランドと領土紛争)の北部、おもに南部に展開するイスラム急進派アッシャバーブ支配域に大きく3分割されている。 また連邦共和国政府内部も、北東部で1998年7月に自治宣言したプントランド(首都ガローウェ)、中部のガルムドゥグ、南部の南西ソマリア、最南のジュバランド(軍閥ラスカンボニが母体)といった自治地域を含有しており、統一はされていない。 正式名称はソマリ語で「Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya」。アラビア語で「جمهورية الصومال الفدرالية」、英語で「Federal Republic of Somalia」。通称Somalia、国民・形容詞ともSomali。日本語の表記は「ソマリア連邦共和国」。 ソマリアの公式国名を「ソマリア民主共和国(Somali Democratic Republic)」とする場合が多かったが、これはモハメド・シアド・バーレ政権下で「ソマリア民主共和国憲法」が有効であった時期の国名である。1991年に同政権が崩壊し憲法が廃止され、その後の暫定政府は「ソマリア共和国(Republic of Somalia)」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名とは見なされていなかった。2012年8月、暫定政権の統治終了を受けて公式国名がソマリア連邦共和国に改称された。 10 - 14世紀の間に、アラビア半島南部から遊牧民のソマリ族が移住してきた。彼らは早くからアラブやペルシャと交易していた。 ソマリ人は元々6つの氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦でイギリス軍がイタリア領ソマリランドを占領、またイタリアが占領していたエチオピアも41年に皇帝軍が奪還すると、東部のオガデン地方はイギリスが暫定統治することになり、ケニア北東部を含めイギリス支配の下にソマリ人居住地域は統一されることになった。その中で1943年にはソマリ青年クラブ(後にソマリ青年連盟=SYLに改称)が結成されると、居住区域で反発を続けた。独立直前には、イタリア領ではSYLが、イギリス領でもSYLの影響を受けたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党となった。 1960年4月にイタリア領とイギリス領の両リーダーが会談して統合を宣言すると、SYLのアデン・アブドラ・ウスマンが大統領に、SNLのイブラヒム・エガルが首相に就任した。しかしイーガルは半月足らずで国防相に格下げされ南部出身者に占められ、また植民地時代の定数を引き継いだ議席数は人口比でも南部優位であるなど、南部に優位な政治が取られるようになった。 バーレ政権時代の最盛期には、社会主義の名のもと強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、そのため大統領が「モガディシュ(モガディシオ)市長」とあだ名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。以後、ソマリアには2007年まで中央政府が存在しない状態が続いていた。 政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。 2000年に誕生した正統暫定政府はジブチ共和国の首都ジブチ市に設置されていたが、2003年に崩壊。2005年、周辺7か国で構成する政府間開発機構の仲介により、この暫定政府を継承する形で暫定連邦政府がケニアのナイロビにおいて発足し、新設された議会でユスフ初代大統領が選出されるとともに、本拠地を南西部のバイドアに移す。 2006年6月、イスラーム法学者(ウラマー)たちで運営する司法組織・イスラム法廷連合(のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、中・南部一帯を支配。イスラーム主義的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけていた。 国際連合安全保障理事会は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに国連平和維持軍の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定連邦政府軍がエチオピア軍の支援のもとでイスラム法廷会議に攻勢をかけ、モガディシュを奪取した。イスラム法廷会議は南部へと敗走。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だったキスマヨを制圧し、暫定政府軍はソマリランドを除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。 暫定政府は2007年7月に国民和解会議を開催して国内の各勢力の和解に乗り出す。2007年9月、エチオピア軍に駆逐されたイスラム法廷会議はエリトリアでソマリア再解放連盟(英語版)(ARS)を結成。2008年8月、暫定連邦政府とARSの穏健派グループがジブチ合意(停戦など)に署名するものの、2008年12月29日、暫定連邦政府内の対立からユスフ大統領が辞任する。2009年1月、エチオピア軍撤退終了後、反暫定連邦政府勢力アル・シャバーブがバイドアを掌握。1月31日、ジブチにおいて開催されたソマリア国会で大統領選挙が行われ、ARSの指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが新大統領に選出された。アフメド新大統領は2月20日にはオマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相に任命し、新政権を発足させた。 2009年4月18日、暫定議会は全会一致でイスラム法の導入を決定した。 2009年6月18日、反政府軍への掃討作戦を指揮していたオマル・ハシ・アデン国家安全保障相が自爆テロにより暗殺される。さらに同月22日、暫定政府軍に対して攻勢を強めるイスラム急進派アッシャバーブの部隊に大統領官邸が包囲される事態となり、アフマド大統領はソマリア全土に非常事態を宣言するとともに、ケニアやエチオピアなど周辺国に対して軍事介入を求めた。 2010年9月21日、暫定政府のシェルマルケ首相は、治安対策の失敗の責任をとり辞任した。背後にはイスラム強硬派(アルシャバブなど)武装勢力の攻勢が強くなるなかで、政府運営をめぐるアハメド暫定大統領との確執があると推測されている。こうしたなか、人口約800万人の40パーセント以上にあたる約320万人が人道援助に依拠し、約140万人が国内避難民、約59万人が近隣諸国に難民として生活している。 2012年8月20日に暫定政府は予定していた統治期間を終了。暫定議会により暫定憲法が採択されて新連邦議会が発足。9月10日に大統領選挙を実施し、ハッサン・シェイク・モハムドが選出され、就任した。ここにおいて、21年ぶりに統一政府が樹立されることとなる。 2012年世界汚職国家ランキングでは、ソマリア・北朝鮮・アフガニスタンが最悪という評価を受けている。 以前からソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域である。国際商業会議所(ICC)国際海事局(IMB)の調査によれば、2001年にインド洋側でも海賊による襲撃が報告されるようになり、2005年にいたって多発し、インドネシア周辺海域に次いで海賊行為が多い海域として急浮上した。以来2007年まで上位5海域に位置づけられ、沿岸から最遠で390海里まで達するソマリア拠点の海賊によってアデン湾も含むソマリア周辺海域は船舶航行にとって非常に危険なものとなっている。 ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ、イエメン、イラン、アフガニスタンなどと同様ブラジャーを着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。強盗犯に断手刑を執行した事例もある。9歳くらいでも婚約が認められる。 2012年の連邦制施行後、ソマリアは6つは構成国(Federal Member States (FMS)、自治国、自治州とも訳される)と首都地域の合計7つの連邦構成体から成る。ただしソマリランドは事実上独立しており、構成国に含まないことがある。 内戦前は地域(州)と地区(県)から成っていた。 首都モガディシュはバナディール州の州都でもある。ほかの主要都市ハルゲイサ、ベルベラ、キスマヨ、マルカなどがあるが、一部の都市はソマリランドの統治下にある。 沿岸部は高温多湿だが、内陸は砂漠である。アデン湾に沿って、グバンと呼ばれる幅2 - 12キロの海岸平野がある。北部に最高地点のシンビリス山(標高2,416メートル)がある。降雨量はきわめて少なく、エチオピア高原からインド洋沿岸のキスマユへ流れるジュバ川、同じくモガディシュへ至るシェベリ川以外に四季を通して水の流れる川はない。 内戦で経済は壊滅、崩壊状態である。世界最貧国の一つであり、IMFによると2020年度のソマリアの一人当たりGDPは332ドルで、世界195の国家・地域の内193位。平和基金会が発表した失敗国家ランキングでは2008年から2013年まで6年連続で第1位にランクづけされており、国際的に承認された政府が21年ぶりに発足したにもかかわらず2014年・2015年も2位に位置づけられた。2013年度のイギリス情報誌のエコノミスト治安ランキングワースト10では第2位。また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。 主産業はバナナを中心とする農業、ラクダ(飼育数世界1位)・羊・ヤギなどの畜産業。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革となっている。畜産業の経済に占める比率はGDPの40パーセント、輸出収入の65パーセントに達する。農産品の加工を軸とした小規模な軽工業はGDPの10パーセントに達する。このほか植民地時代から木炭の輸出を行っていたが、アル・シャバブに対する資金源とならないよう2012年に国連安保理より輸出が禁じられており、禁輸措置は2022年現在も継続している。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在するが、未開発である。 主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。 通貨はソマリア・シリング(SOS)。アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界でもっとも価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1ドル=1387.77ソマリアシリング。現在国内ではドルやユーロ、サウジアラビア・リヤルなどがおもに流通している。なお2004年よりソマリア名義の地金型銀貨が、2010年より地金型金貨が発行されているが、これはドイツのバイエルン州造幣局(英語版)が発行しているもので、像が描かれていることからエレファントコインとも呼称される。 ソマリアでは、多数の私営新聞、ラジオ、テレビ局がこの10年間で急速に発達し(モガディシュでは2つのテレビ局が熾烈な競争を行っている)、私営ラジオ局や新聞とともにほぼすべての主要都市に存在する。大きなメディア企業としてはShabelle Media Network、Radio Gaalkacyo、ガローウェ・オンライン傘下のRadio Garoweなどの名が挙げられる。 ソマリアにおけるインターネットの利用は、2000年から2007年までの間に44,900パーセント増加し、アフリカでもっとも高い成長を記録した。ソマリアの情報技術会社は、近年50万人以上のインターネット利用者を市場として競っている。22のインターネットサービスプロバイダが設立されており、年平均15.6パーセントで成長する234のネットカフェが存在する。衛星サービスによるインターネットも、また、特にダイアルアップやワイヤレスインターネットサービスが存在しない遠隔地や都市に存在している。国際連合やNGO、特に送金を行う金融機関、ネットカフェがおもな顧客である。近年ではヨーロッパやアジアのテレポートと結ばれている300以上の衛星ターミナルが国内各地で利用可能である。この種のサービスは年平均10 - 15パーセントの安定成長を見せている。 ソマリアはアフリカ大陸でもっとも整備された遠距離通信システムが存在し、Golis Telecom Group、Hormuud Telecom、Somafone、Nationlink、Netco、Telecom、Somali Telecom Groupのような複数の企業が明晰なサービスを提供しており、国際長距離電話も月額約10USドルである。ソマリアのダイアルアップインターネット回線はアフリカでもっとも急速に成長しており、地上回線が年平均12.5パーセント以上の成長を遂げ、略奪による深刻な衰退と、銅線ケーブルのコストが国際市場での高騰を経験しているアフリカの角、および東アフリカ地域とのほかの諸国と比較しても大きな発達を遂げた。地上回線の設置に必要な待機期間は、隣国のケニアでは年単位で長期間待たされる一方、ソマリアでは3日間である。ただし、これらは群雄割拠の状態により、通信事業に関する免許といった中央政府による許認可が事実上存在しないことが大きい。 暫定政府の総兵力は5,000人。2002年の国防予算は1,500万米ドル。国内の武装勢力がそれぞれ兵員を保持。 かつてはMiG15やMig17をそれぞれ20機以上 Mig218機、ホーカー ハンター8機 を保有していたが内戦で崩壊した。 2012年にソマリア暫定政権にイタリアの支援で国防軍傘下に空軍が創設した。 尚、An-242機が内戦の影響でジョモ・ケニヤッタ国際空港に放置されている 2013年現在、国内に鉄道の存在は確認されていない。植民地時代にはモガディシオ・ヴィラブルッチ鉄道が存在したが独立前に廃線となっている。その後、バーレー政権時代に鉄道再建が計画されたがこれは内戦で実現しなかった。 現在、ソマリアにはダーロ航空とジュッバ航空の2つの航空会社が存在すると言われている。また1991年のソマリア内戦により運航停止となったフラッグキャリアのソマリ航空も2012年より運行再開の準備が始まり、2013年12月に機材導入予定である。 ソマリアはおよそ983万2,017人の人口を有し、85パーセントがソマリ人(ハウィエ、イサック、ダロッド、ラハンウェイン、ディル(英語版)、イッサ族)である。その他の15パーセントは、en:Benadiri people、en:Somali Bantu、en:Bajuni people、en:Bravanese people、エチオピア人、インド人、パキスタン人、ペルシャ人、イタリア人、イギリス人などとなっている。 1990年代初頭の内戦により、ディアスポラ(ソマリ人ディアスポラ(en))の数が著しく増大することとなった。この際は国内でももっとも教育水準の高いソマリ人が大挙中東やヨーロッパ、北アメリカなどに逃れた。 ソマリアの都市化に関して信頼性の高い統計情報はほとんど存在しない。しかしながら、荒い推計によればソマリアの都市化率は年間5 - 8パーセントとみなすことができ、多くの町が急速に都市に成長している。現在のところ人口の34パーセントが町や都市に居住しており、この割合は急速に増加している。 公用語はソマリ語とアラビア語。ソマリ語はソマリ人の国語であり、少数のマイノリティとも同様に、ほぼすべてのソマリ人によって事実上全土で使用されている。政府機関やエリート層では欧米系言語が主流であるサブサハラアフリカ諸国の国の中では例外的に、エチオピアのアムハラ語やタンザニアのスワヒリ語とともに非欧米系言語の言語が共通語、作業言語として広く機能している国である。少数派言語は存在し、ソマリア中南部でラハンウェイン氏族によって話されるAf-Maayが挙げられる。なおラハンウェイン氏族が話すのはマイ・テレー(Mai Terreh)という方言という説もある。さまざまなスワヒリ語(Barawe)もまた沿岸部一帯でアラブ人によって話され、バントゥー語(Jareer)もまた話される。 多くのソマリ人はアラブのメディアや、宗教教育の遠大な影響によるアラブ世界との緊密な結びつきのため、アラビア語を話す。英語も旧植民地イギリス領ソマリランドであった現ソマリランドで広く用いられ、教えられている。イタリア語はかつて主要言語だったが、現在では内戦と教育の欠如により、流暢に話せるのは老人世代に限られる。 イスラム教が国教であり、国民の95パーセントがムスリムである。ムスリムのうち98パーセントはスンナ派である。その他の宗教が5パーセントである。 キリスト教の影響は1970年代に教会運営の学校が閉鎖され、宣教師が帰国すると著しく減少した。1989年からは国内のカトリック大聖堂でも大司教ら聖職者が1人もおらず、モガディシュの大聖堂は内戦中の1992年1月から2月にかけて深刻な打撃を受けた。 ソマリアの憲法はイスラーム以外の宗教の普及と伝達を妨げている。この措置は多くがキリスト教徒(特にアムハラ人とその他のエチオピア人)か土着の信仰を奉ずる近隣のアフリカ諸国から、ソマリアとの距離を広げている。 1991年の中央政府の崩壊により、教育システムは私営となっている。初等学校は、内戦前600校だったものが2005年には1,172校に達し、2005年までの3年間で初等学校の入学者は28パーセント増加した。2006年には、北東部のプントランド自治地域はソマリランド地域に続いてソマリアで2番目に無償の初等教育を導入した地域となり、今や教員は給与をプントランド政府から受け取っている。ベナディール大学、ソマリア国立大学、モガディシオ大学、キスマヨ大学、ゲド大学など、ソマリアの8つの大学のうちの機能している5つがソマリア南部に存在し、高等教育を提供している。 2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は37.8パーセント(男性:49.7パーセント、女性:25.8パーセント)である。 ソマリアはアフリカ全土においてきわめてHIV感染率の低い国家の一つである。これはソマリ社会のムスリムの性質と、ソマリ人のイスラーム的モラルの固守によると考えられている。1987年(観測初年度)に推定されたソマリアのHIV感染率は成人の1パーセントだったが、2007年になされた推定では内戦にもかかわらず、成人人口の0.5パーセントに過ぎない。 一方、政府がまともに機能していない以上、当然のことながら医療制度は崩壊状態にあり、ほとんどの国民はまともな医療を受けられない状態にある。長年に渡り国境なき医師団が活動していたが、職員の殺害・誘拐が相次いでいる。ソマリア国内の各勢力が、保護どころか積極的に医師団を攻撃対象にしてきたことも重なり、2013年、国境なき医師団はソマリアからの撤退を決定、22年間の活動に幕を下ろした。 ソマリ人は伝統的には結婚しても改姓しない(夫婦別姓)。一方、西洋系社会の家庭では、妻は夫の姓を用いる。 ソマリア国内では、女子割礼が現在でも行われている。 ソマリア料理は地域ごとにさまざまな変化があり、多様な調理法を包括する。ソマリ料理を結びつける一つの作法はハラールの存在である。それゆえ、豚肉料理やアルコールは出されておらず、勝手に死んだものは食べられず、血は含まれない。ソマリ人は夕食を午後6時以降に食べる。ラマダーンの間は、タラウィーの祈りのあとの、時に夜の11時以降に夕食が出される。 Cambuulo はソマリアのもっともポピュラーな料理のひとつであり、国中を通して夕食として享受されている。料理はよく料理された小豆と、バターと砂糖が混ぜられる。digir と呼ばれる豆は、レンジの上に弱火で5時間以上放置され、大変美味である。Barriss(米)とbasto(パスタ)は一般的な食材だが、季節によって独特のフレーバーと多くのスパイスが加えられる。 ソマリアは多くの文学作品を、前世紀のソマリアの知識人によるイスラーム詩やハディースを通して生み出してきた。現代も口承詩が盛んであり、「詩人の国」とも称される。 1973年のラテン文字の採用後には数年間で多くのソマリ人作家が本を出版し、それらは広範な成功を達成した。ヌルディン・ファラーはそのような人物のうちの一人である。『むきだしの針』(1976)や、From a Crooked Rib、Links のような小説は重要な文学的偉業とみなされ、それらは彼の1998年のノイシュタット国際文学賞受賞作品となった。その他の現代の文学者には、アリ・ジマール・アハメッドの名が挙げられる。 ソマリアはほぼまったく単一のエスニック・グループ(ソマリ人)で構成されている数少ないアフリカの国家である。伝統的なWaaberiや、Horseedのようなバンドは国外にも少数の支持者を得ている。その他に、Maryam Mursalはソマリの伝統的な音楽をロック、ボサノヴァ、ヒップ・ホップ、ジャズの影響を受けて融合させた。 大規模なソマリ人のコミュニティが存在するトロントは、不安定なモガディシュからソマリ音楽産業の中心と成り代わっており、ソマリ人のコミュニティはまたロンドン、ミネアポリス、コロンバスにも存在する。ソマリ人離散から生まれたポピュラー音楽家の一人に、トロント出身のラッパー、K'Naanがおり、彼の歌は内戦勃発以降のソマリアの生活の苦闘を語りかけている。 ソマリア国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1961年にサッカーリーグのソマリアリーグが創設された。ソマリアサッカー連盟(SFF)によって構成されるサッカーソマリア代表は、これまでFIFAワールドカップやアフリカネイションズカップには未出場となっている。 著名な選手としてはアユブ・ダウドが挙げられる。ダウドは、5歳の時に家族と共に内戦状態のソマリアからイタリアへと避難し、2000年にユヴェントスのユースチームに加入した。ユースでは際立った活躍を見せ、2009年のボローニャ戦にてセリエAデビューを果たしている。以後、スイスやハンガリーのクラブを渡り歩いたのち2017年に引退した。
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14世紀の間に、アラビア半島南部から遊牧民のソマリ族が移住してきた。彼らは早くからアラブやペルシャと交易していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ソマリ人は元々6つの氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦でイギリス軍がイタリア領ソマリランドを占領、またイタリアが占領していたエチオピアも41年に皇帝軍が奪還すると、東部のオガデン地方はイギリスが暫定統治することになり、ケニア北東部を含めイギリス支配の下にソマリ人居住地域は統一されることになった。その中で1943年にはソマリ青年クラブ(後にソマリ青年連盟=SYLに改称)が結成されると、居住区域で反発を続けた。独立直前には、イタリア領ではSYLが、イギリス領でもSYLの影響を受けたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1960年4月にイタリア領とイギリス領の両リーダーが会談して統合を宣言すると、SYLのアデン・アブドラ・ウスマンが大統領に、SNLのイブラヒム・エガルが首相に就任した。しかしイーガルは半月足らずで国防相に格下げされ南部出身者に占められ、また植民地時代の定数を引き継いだ議席数は人口比でも南部優位であるなど、南部に優位な政治が取られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バーレ政権時代の最盛期には、社会主義の名のもと強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、そのため大統領が「モガディシュ(モガディシオ)市長」とあだ名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。以後、ソマリアには2007年まで中央政府が存在しない状態が続いていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2000年に誕生した正統暫定政府はジブチ共和国の首都ジブチ市に設置されていたが、2003年に崩壊。2005年、周辺7か国で構成する政府間開発機構の仲介により、この暫定政府を継承する形で暫定連邦政府がケニアのナイロビにおいて発足し、新設された議会でユスフ初代大統領が選出されるとともに、本拠地を南西部のバイドアに移す。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2006年6月、イスラーム法学者(ウラマー)たちで運営する司法組織・イスラム法廷連合(のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、中・南部一帯を支配。イスラーム主義的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国際連合安全保障理事会は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに国連平和維持軍の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定連邦政府軍がエチオピア軍の支援のもとでイスラム法廷会議に攻勢をかけ、モガディシュを奪取した。イスラム法廷会議は南部へと敗走。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だったキスマヨを制圧し、暫定政府軍はソマリランドを除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "暫定政府は2007年7月に国民和解会議を開催して国内の各勢力の和解に乗り出す。2007年9月、エチオピア軍に駆逐されたイスラム法廷会議はエリトリアでソマリア再解放連盟(英語版)(ARS)を結成。2008年8月、暫定連邦政府とARSの穏健派グループがジブチ合意(停戦など)に署名するものの、2008年12月29日、暫定連邦政府内の対立からユスフ大統領が辞任する。2009年1月、エチオピア軍撤退終了後、反暫定連邦政府勢力アル・シャバーブがバイドアを掌握。1月31日、ジブチにおいて開催されたソマリア国会で大統領選挙が行われ、ARSの指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが新大統領に選出された。アフメド新大統領は2月20日にはオマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相に任命し、新政権を発足させた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2009年4月18日、暫定議会は全会一致でイスラム法の導入を決定した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2009年6月18日、反政府軍への掃討作戦を指揮していたオマル・ハシ・アデン国家安全保障相が自爆テロにより暗殺される。さらに同月22日、暫定政府軍に対して攻勢を強めるイスラム急進派アッシャバーブの部隊に大統領官邸が包囲される事態となり、アフマド大統領はソマリア全土に非常事態を宣言するとともに、ケニアやエチオピアなど周辺国に対して軍事介入を求めた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2010年9月21日、暫定政府のシェルマルケ首相は、治安対策の失敗の責任をとり辞任した。背後にはイスラム強硬派(アルシャバブなど)武装勢力の攻勢が強くなるなかで、政府運営をめぐるアハメド暫定大統領との確執があると推測されている。こうしたなか、人口約800万人の40パーセント以上にあたる約320万人が人道援助に依拠し、約140万人が国内避難民、約59万人が近隣諸国に難民として生活している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2012年8月20日に暫定政府は予定していた統治期間を終了。暫定議会により暫定憲法が採択されて新連邦議会が発足。9月10日に大統領選挙を実施し、ハッサン・シェイク・モハムドが選出され、就任した。ここにおいて、21年ぶりに統一政府が樹立されることとなる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2012年世界汚職国家ランキングでは、ソマリア・北朝鮮・アフガニスタンが最悪という評価を受けている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以前からソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域である。国際商業会議所(ICC)国際海事局(IMB)の調査によれば、2001年にインド洋側でも海賊による襲撃が報告されるようになり、2005年にいたって多発し、インドネシア周辺海域に次いで海賊行為が多い海域として急浮上した。以来2007年まで上位5海域に位置づけられ、沿岸から最遠で390海里まで達するソマリア拠点の海賊によってアデン湾も含むソマリア周辺海域は船舶航行にとって非常に危険なものとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ、イエメン、イラン、アフガニスタンなどと同様ブラジャーを着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。強盗犯に断手刑を執行した事例もある。9歳くらいでも婚約が認められる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2012年の連邦制施行後、ソマリアは6つは構成国(Federal Member States (FMS)、自治国、自治州とも訳される)と首都地域の合計7つの連邦構成体から成る。ただしソマリランドは事実上独立しており、構成国に含まないことがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "内戦前は地域(州)と地区(県)から成っていた。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "首都モガディシュはバナディール州の州都でもある。ほかの主要都市ハルゲイサ、ベルベラ、キスマヨ、マルカなどがあるが、一部の都市はソマリランドの統治下にある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "沿岸部は高温多湿だが、内陸は砂漠である。アデン湾に沿って、グバンと呼ばれる幅2 - 12キロの海岸平野がある。北部に最高地点のシンビリス山(標高2,416メートル)がある。降雨量はきわめて少なく、エチオピア高原からインド洋沿岸のキスマユへ流れるジュバ川、同じくモガディシュへ至るシェベリ川以外に四季を通して水の流れる川はない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "内戦で経済は壊滅、崩壊状態である。世界最貧国の一つであり、IMFによると2020年度のソマリアの一人当たりGDPは332ドルで、世界195の国家・地域の内193位。平和基金会が発表した失敗国家ランキングでは2008年から2013年まで6年連続で第1位にランクづけされており、国際的に承認された政府が21年ぶりに発足したにもかかわらず2014年・2015年も2位に位置づけられた。2013年度のイギリス情報誌のエコノミスト治安ランキングワースト10では第2位。また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "主産業はバナナを中心とする農業、ラクダ(飼育数世界1位)・羊・ヤギなどの畜産業。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革となっている。畜産業の経済に占める比率はGDPの40パーセント、輸出収入の65パーセントに達する。農産品の加工を軸とした小規模な軽工業はGDPの10パーセントに達する。このほか植民地時代から木炭の輸出を行っていたが、アル・シャバブに対する資金源とならないよう2012年に国連安保理より輸出が禁じられており、禁輸措置は2022年現在も継続している。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在するが、未開発である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "通貨はソマリア・シリング(SOS)。アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界でもっとも価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1ドル=1387.77ソマリアシリング。現在国内ではドルやユーロ、サウジアラビア・リヤルなどがおもに流通している。なお2004年よりソマリア名義の地金型銀貨が、2010年より地金型金貨が発行されているが、これはドイツのバイエルン州造幣局(英語版)が発行しているもので、像が描かれていることからエレファントコインとも呼称される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ソマリアでは、多数の私営新聞、ラジオ、テレビ局がこの10年間で急速に発達し(モガディシュでは2つのテレビ局が熾烈な競争を行っている)、私営ラジオ局や新聞とともにほぼすべての主要都市に存在する。大きなメディア企業としてはShabelle Media Network、Radio Gaalkacyo、ガローウェ・オンライン傘下のRadio Garoweなどの名が挙げられる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ソマリアにおけるインターネットの利用は、2000年から2007年までの間に44,900パーセント増加し、アフリカでもっとも高い成長を記録した。ソマリアの情報技術会社は、近年50万人以上のインターネット利用者を市場として競っている。22のインターネットサービスプロバイダが設立されており、年平均15.6パーセントで成長する234のネットカフェが存在する。衛星サービスによるインターネットも、また、特にダイアルアップやワイヤレスインターネットサービスが存在しない遠隔地や都市に存在している。国際連合やNGO、特に送金を行う金融機関、ネットカフェがおもな顧客である。近年ではヨーロッパやアジアのテレポートと結ばれている300以上の衛星ターミナルが国内各地で利用可能である。この種のサービスは年平均10 - 15パーセントの安定成長を見せている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ソマリアはアフリカ大陸でもっとも整備された遠距離通信システムが存在し、Golis Telecom Group、Hormuud Telecom、Somafone、Nationlink、Netco、Telecom、Somali Telecom Groupのような複数の企業が明晰なサービスを提供しており、国際長距離電話も月額約10USドルである。ソマリアのダイアルアップインターネット回線はアフリカでもっとも急速に成長しており、地上回線が年平均12.5パーセント以上の成長を遂げ、略奪による深刻な衰退と、銅線ケーブルのコストが国際市場での高騰を経験しているアフリカの角、および東アフリカ地域とのほかの諸国と比較しても大きな発達を遂げた。地上回線の設置に必要な待機期間は、隣国のケニアでは年単位で長期間待たされる一方、ソマリアでは3日間である。ただし、これらは群雄割拠の状態により、通信事業に関する免許といった中央政府による許認可が事実上存在しないことが大きい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "暫定政府の総兵力は5,000人。2002年の国防予算は1,500万米ドル。国内の武装勢力がそれぞれ兵員を保持。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "かつてはMiG15やMig17をそれぞれ20機以上 Mig218機、ホーカー ハンター8機 を保有していたが内戦で崩壊した。 2012年にソマリア暫定政権にイタリアの支援で国防軍傘下に空軍が創設した。 尚、An-242機が内戦の影響でジョモ・ケニヤッタ国際空港に放置されている", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2013年現在、国内に鉄道の存在は確認されていない。植民地時代にはモガディシオ・ヴィラブルッチ鉄道が存在したが独立前に廃線となっている。その後、バーレー政権時代に鉄道再建が計画されたがこれは内戦で実現しなかった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現在、ソマリアにはダーロ航空とジュッバ航空の2つの航空会社が存在すると言われている。また1991年のソマリア内戦により運航停止となったフラッグキャリアのソマリ航空も2012年より運行再開の準備が始まり、2013年12月に機材導入予定である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ソマリアはおよそ983万2,017人の人口を有し、85パーセントがソマリ人(ハウィエ、イサック、ダロッド、ラハンウェイン、ディル(英語版)、イッサ族)である。その他の15パーセントは、en:Benadiri people、en:Somali Bantu、en:Bajuni people、en:Bravanese people、エチオピア人、インド人、パキスタン人、ペルシャ人、イタリア人、イギリス人などとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1990年代初頭の内戦により、ディアスポラ(ソマリ人ディアスポラ(en))の数が著しく増大することとなった。この際は国内でももっとも教育水準の高いソマリ人が大挙中東やヨーロッパ、北アメリカなどに逃れた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ソマリアの都市化に関して信頼性の高い統計情報はほとんど存在しない。しかしながら、荒い推計によればソマリアの都市化率は年間5 - 8パーセントとみなすことができ、多くの町が急速に都市に成長している。現在のところ人口の34パーセントが町や都市に居住しており、この割合は急速に増加している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "公用語はソマリ語とアラビア語。ソマリ語はソマリ人の国語であり、少数のマイノリティとも同様に、ほぼすべてのソマリ人によって事実上全土で使用されている。政府機関やエリート層では欧米系言語が主流であるサブサハラアフリカ諸国の国の中では例外的に、エチオピアのアムハラ語やタンザニアのスワヒリ語とともに非欧米系言語の言語が共通語、作業言語として広く機能している国である。少数派言語は存在し、ソマリア中南部でラハンウェイン氏族によって話されるAf-Maayが挙げられる。なおラハンウェイン氏族が話すのはマイ・テレー(Mai Terreh)という方言という説もある。さまざまなスワヒリ語(Barawe)もまた沿岸部一帯でアラブ人によって話され、バントゥー語(Jareer)もまた話される。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "多くのソマリ人はアラブのメディアや、宗教教育の遠大な影響によるアラブ世界との緊密な結びつきのため、アラビア語を話す。英語も旧植民地イギリス領ソマリランドであった現ソマリランドで広く用いられ、教えられている。イタリア語はかつて主要言語だったが、現在では内戦と教育の欠如により、流暢に話せるのは老人世代に限られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イスラム教が国教であり、国民の95パーセントがムスリムである。ムスリムのうち98パーセントはスンナ派である。その他の宗教が5パーセントである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "キリスト教の影響は1970年代に教会運営の学校が閉鎖され、宣教師が帰国すると著しく減少した。1989年からは国内のカトリック大聖堂でも大司教ら聖職者が1人もおらず、モガディシュの大聖堂は内戦中の1992年1月から2月にかけて深刻な打撃を受けた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ソマリアの憲法はイスラーム以外の宗教の普及と伝達を妨げている。この措置は多くがキリスト教徒(特にアムハラ人とその他のエチオピア人)か土着の信仰を奉ずる近隣のアフリカ諸国から、ソマリアとの距離を広げている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1991年の中央政府の崩壊により、教育システムは私営となっている。初等学校は、内戦前600校だったものが2005年には1,172校に達し、2005年までの3年間で初等学校の入学者は28パーセント増加した。2006年には、北東部のプントランド自治地域はソマリランド地域に続いてソマリアで2番目に無償の初等教育を導入した地域となり、今や教員は給与をプントランド政府から受け取っている。ベナディール大学、ソマリア国立大学、モガディシオ大学、キスマヨ大学、ゲド大学など、ソマリアの8つの大学のうちの機能している5つがソマリア南部に存在し、高等教育を提供している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は37.8パーセント(男性:49.7パーセント、女性:25.8パーセント)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ソマリアはアフリカ全土においてきわめてHIV感染率の低い国家の一つである。これはソマリ社会のムスリムの性質と、ソマリ人のイスラーム的モラルの固守によると考えられている。1987年(観測初年度)に推定されたソマリアのHIV感染率は成人の1パーセントだったが、2007年になされた推定では内戦にもかかわらず、成人人口の0.5パーセントに過ぎない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、政府がまともに機能していない以上、当然のことながら医療制度は崩壊状態にあり、ほとんどの国民はまともな医療を受けられない状態にある。長年に渡り国境なき医師団が活動していたが、職員の殺害・誘拐が相次いでいる。ソマリア国内の各勢力が、保護どころか積極的に医師団を攻撃対象にしてきたことも重なり、2013年、国境なき医師団はソマリアからの撤退を決定、22年間の活動に幕を下ろした。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ソマリ人は伝統的には結婚しても改姓しない(夫婦別姓)。一方、西洋系社会の家庭では、妻は夫の姓を用いる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ソマリア国内では、女子割礼が現在でも行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ソマリア料理は地域ごとにさまざまな変化があり、多様な調理法を包括する。ソマリ料理を結びつける一つの作法はハラールの存在である。それゆえ、豚肉料理やアルコールは出されておらず、勝手に死んだものは食べられず、血は含まれない。ソマリ人は夕食を午後6時以降に食べる。ラマダーンの間は、タラウィーの祈りのあとの、時に夜の11時以降に夕食が出される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Cambuulo はソマリアのもっともポピュラーな料理のひとつであり、国中を通して夕食として享受されている。料理はよく料理された小豆と、バターと砂糖が混ぜられる。digir と呼ばれる豆は、レンジの上に弱火で5時間以上放置され、大変美味である。Barriss(米)とbasto(パスタ)は一般的な食材だが、季節によって独特のフレーバーと多くのスパイスが加えられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ソマリアは多くの文学作品を、前世紀のソマリアの知識人によるイスラーム詩やハディースを通して生み出してきた。現代も口承詩が盛んであり、「詩人の国」とも称される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1973年のラテン文字の採用後には数年間で多くのソマリ人作家が本を出版し、それらは広範な成功を達成した。ヌルディン・ファラーはそのような人物のうちの一人である。『むきだしの針』(1976)や、From a Crooked Rib、Links のような小説は重要な文学的偉業とみなされ、それらは彼の1998年のノイシュタット国際文学賞受賞作品となった。その他の現代の文学者には、アリ・ジマール・アハメッドの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ソマリアはほぼまったく単一のエスニック・グループ(ソマリ人)で構成されている数少ないアフリカの国家である。伝統的なWaaberiや、Horseedのようなバンドは国外にも少数の支持者を得ている。その他に、Maryam Mursalはソマリの伝統的な音楽をロック、ボサノヴァ、ヒップ・ホップ、ジャズの影響を受けて融合させた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "大規模なソマリ人のコミュニティが存在するトロントは、不安定なモガディシュからソマリ音楽産業の中心と成り代わっており、ソマリ人のコミュニティはまたロンドン、ミネアポリス、コロンバスにも存在する。ソマリ人離散から生まれたポピュラー音楽家の一人に、トロント出身のラッパー、K'Naanがおり、彼の歌は内戦勃発以降のソマリアの生活の苦闘を語りかけている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ソマリア国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1961年にサッカーリーグのソマリアリーグが創設された。ソマリアサッカー連盟(SFF)によって構成されるサッカーソマリア代表は、これまでFIFAワールドカップやアフリカネイションズカップには未出場となっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "著名な選手としてはアユブ・ダウドが挙げられる。ダウドは、5歳の時に家族と共に内戦状態のソマリアからイタリアへと避難し、2000年にユヴェントスのユースチームに加入した。ユースでは際立った活躍を見せ、2009年のボローニャ戦にてセリエAデビューを果たしている。以後、スイスやハンガリーのクラブを渡り歩いたのち2017年に引退した。", "title": "スポーツ" } ]
ソマリア連邦共和国(ソマリアれんぽうきょうわこく)、通称ソマリアは、東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域を領域とする国家。エチオピア、ケニアおよびジブチと国境を接し、インド洋とアデン湾に面する。 1991年勃発の内戦により国土は分断され、事実上の無政府状態が続いていた。のちにエチオピアの軍事支援を受けた暫定政権が発足し、現在では正式な政府が成立したが、依然として一部地域を他の国家であると主張する政府が統治している。現在の国土はソマリア連邦共和国政府が統治する中南部と、91年に独立宣言した旧英領のソマリランド共和国(首都ハルゲイサ、国際的に未承認、東部地域でプントランドと領土紛争)の北部、おもに南部に展開するイスラム急進派アッシャバーブ支配域に大きく3分割されている。 また連邦共和国政府内部も、北東部で1998年7月に自治宣言したプントランド(首都ガローウェ)、中部のガルムドゥグ、南部の南西ソマリア、最南のジュバランド(軍閥ラスカンボニが母体)といった自治地域を含有しており、統一はされていない。
{{脚注の不足|date=2023年8月}} {{更新|date=2023年8月}} {{基礎情報 国 | 略名 =ソマリア | 日本語国名 =ソマリア連邦共和国 | 公式国名 ='''{{Lang|so|Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya}}'''<small>(ソマリ語)</small><br/>'''{{Lang|ar|جمهورية الصومال الفدرالية}}'''<small>(アラビア語)</small> | 国旗画像 =Flag of Somalia.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Somalia.svg|100px|ソマリアの国章]] | 国章リンク =([[ソマリアの国章|国章]]) | 標語 =なし |国歌 =[[祖国を賛美せよ|{{lang|so|Qolobaa Calanked}}]]{{so icon}}<br>''祖国を賛美せよ''<br><center>[[ファイル:Somali national anthem, performed by the United States Navy Band.oga]] | 位置画像 =Somalia (orthographic projection) highlighted.svg | 公用語 =[[ソマリ語]](第一)<br/>[[アラビア語]](第二)<sup>1</sup> | 首都 =[[モガディシュ]]<sup>1</sup> | 最大都市 =モガディシュ | 元首等肩書 =[[ソマリアの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 =[[ハッサン・シェイク・モハムド]] | 首相等肩書 =[[ソマリアの首相|首相]] | 首相等氏名 =[[ハムザ・アブディ・バーレ]] | 面積順位 =45 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =637,657 | 水面積率 =1.6% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 78 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 12,386,248 | 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/somalia/ |title=Somalia |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月13日}}</ref> | 人口密度値 = 19.4 | GDP統計年MER =2017 | GDP順位MER = | GDP値MER =70.52億<ref name="economy">GDP(PPP)の値は2016年度の米ドルデータ。{{Cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/so.html |title=The World Factbook |publisher=[[中央情報局]] |date=2019-11-07 |accessdate=2019-11-10}}</ref> | GDP統計年 =2017 | GDP順位 = 148 | GDP値 =204.4億<ref name="economy" /> | GDP/人 =1,815 | 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 宣言<br/>&nbsp;- 承認 | 建国年月日 =[[イギリス]]と[[イタリア]]より<br/>[[1960年]][[7月1日]]<sup>2</sup> | 通貨 =[[ソマリア・シリング]] | 通貨コード =SOS | 時間帯 =+3 | 夏時間 =なし | ISO 3166-1 = SO / SOM | ccTLD =[[.so]] | 国際電話番号 =252 | 注記 =データには原則として[[ソマリランド]]を含む。<br/>注1 : 2012年制定の暫定憲法より<ref>{{Cite web |url=https://www.constitution.org/cons/somalia/120708_ENG_constitution.pdf |title=The Federal Republic of Somalia/Draft Constitution |format=pdf |date=2012-07-12 |accessdate=2019-11-10}}</ref><br/>注2 : ソマリア北部は、1960年6月26日に[[イギリス]]から独立し、ソマリア南部は、1960年7月1日に[[イタリア]]から独立し、同時に両者は合併してソマリア共和国となった。 |}} '''ソマリア連邦共和国'''(ソマリアれんぽうきょうわこく)、通称'''ソマリア'''は、[[東アフリカ]]の[[アフリカの角]]と呼ばれる地域を領域とする[[国家]]。[[エチオピア]]、[[ケニア]]および[[ジブチ]]と国境を接し、[[インド洋]]と[[アデン湾]]に面する。 [[1991年]]勃発の[[ソマリア内戦|内戦]]により国土は分断され、事実上の[[無政府状態]]が続いていた。のちにエチオピアの軍事支援を受けた暫定政権が発足し、現在では正式な政府が成立したが、依然として一部地域を他の国家であると主張する政府が統治している。現在の国土はソマリア連邦共和国政府が統治する中南部と、91年に独立宣言した旧英領の[[ソマリランド|ソマリランド共和国]](首都[[ハルゲイサ]]、国際的に未承認、東部地域でプントランドと領土紛争)の北部、おもに南部に展開するイスラム急進派[[アル・シャバブ (ソマリア)|アッシャバーブ]]支配域に大きく3分割されている。 また連邦共和国政府内部も、北東部で1998年7月に自治宣言した[[プントランド]](首都[[ガローウェ]])、中部の[[ガルムドゥグ]]、南部の[[南西ソマリア]]、最南の[[ジュバランド]](軍閥[[ラスカンボニ軍|ラスカンボニ]]が母体)といった自治地域を含有しており、統一はされていない。 == 国名 == 正式名称は[[ソマリ語]]で「{{lang|so|Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya}}」。[[アラビア語]]で「{{Lang|ar|جمهورية الصومال الفدرالية}}」、英語で「{{lang|en|Federal Republic of Somalia}}」。通称Somalia、国民・形容詞ともSomali。日本語の表記は「'''ソマリア連邦共和国'''」。 ソマリアの公式国名を「'''ソマリア民主共和国'''({{lang|en|Somali Democratic Republic}})」とする場合が多かったが、これは[[モハメド・シアド・バーレ]]政権下で「[[ソマリア民主共和国憲法]]」が有効であった時期の国名である。[[1991年]]に同政権が崩壊し憲法が廃止され、その後の暫定政府は「'''ソマリア共和国'''({{lang|en|Republic of Somalia}})」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名とは見なされていなかった。[[2012年]]8月、暫定政権の統治終了を受けて公式国名が'''ソマリア連邦共和国'''に改称された。 * [[1960年]] - [[1969年]]、ソマリア共和国 * 1969年 - [[1991年]]、ソマリア民主共和国 * 1991年 - 2012年、ソマリア(公式国名なし) * 2012年 - ソマリア連邦共和国 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ソマリアの歴史|en|History of Somalia|preserve=1}}|ソマリアの海事史}} === プント国 === {{main|プント国}} * [[紀元前26世紀]]、[[エジプト第4王朝]]の[[クフ]]王に[[プント国]]から黄金がもたらされたという記録がある。 * [[紀元前25世紀]]、[[エジプト第5王朝]]の[[サフラー]]王にプント国から[[没薬]]と[[白金]]がもたらされたという記録がある。 * [[紀元前21世紀]]、[[エジプト第11王朝]]の[[メンチュヘテプ2世]]がプント国に商隊を送ったという記録がある。 * [[紀元前15世紀]]、[[エジプト第18王朝]]の[[ハトシェプスト]]女王にプント国から[[乳香]]と[[没薬]]がもたらされたという記録がある。 * [[紀元前1500年]]ごろから香料の産地としてエジプト、近隣諸国に知れていた。 * [[紀元前1070年]]ごろ、[[エジプト第20王朝]]が滅亡するとプント国とエジプトの交易は途絶え、[[古代オリエント]]世界との交流が途絶えた。 === ソマリ族の到来とソマリアのイスラム化 === [[ファイル:Fakr Ud Din Mosque.jpg|thumb|[[13世紀]]の{{仮リンク|Fakr ad-Dinモスク|en|Fakr ad-Din Mosque}}]] {{main|ソマリ族|{{仮リンク|モガディシュ王国|en|Sultanate of Mogadishu}}|イファト・スルタン国|アダル・スルタン国|アジュラーン・スルタン国|en:Warsangali Sultanate}} 10 - 14世紀の間に、[[アラビア半島]]南部から[[遊牧民]]の[[ソマリ族]]が移住してきた。彼らは早くから[[アラブ]]や[[ペルシャ]]と交易していた。 === 植民地時代 === {{main|en:Geledi sultanate|en:Sultanate of Hobyo|en:Dervish state}} ソマリ人は元々6つの氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦でイギリス軍が[[イタリア領ソマリランド]]を占領、またイタリアが占領していたエチオピアも41年に皇帝軍が奪還すると、東部の[[オガデン]]地方はイギリスが暫定統治することになり、ケニア北東部を含めイギリス支配の下にソマリ人居住地域は統一されることになった。その中で1943年にはソマリ青年クラブ(後に[[ソマリ青年連盟]]=SYLに改称)が結成されると、居住区域で反発を続けた。独立直前には、イタリア領ではSYLが、イギリス領でもSYLの影響を受けたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党となった<ref>[[#吉田(2012)|吉田(2012:91)]]</ref>。 * [[1886年]]に[[イギリス]]が北部を[[イギリス領ソマリランド]]として領有。このころ、南部は[[イタリア]]の保護領であった。 * [[1908年]]までに[[イタリア]]が南部を[[イタリア領ソマリランド]]として領有。[[第二次世界大戦]]中、一時はイタリアが全土を占領、[[イタリア領東アフリカ]]の一部となったが、その後イギリスの施政下に。 * [[1948年]]に北部がイギリスの[[保護領]]に。 * [[1950年]]には南部が[[イタリア信託統治領ソマリア]]に。 === 独立後 === 1960年4月にイタリア領とイギリス領の両リーダーが会談して統合を宣言すると、SYLの[[アデン・アブドラ・ウスマン]]が大統領に、SNLの[[イブラヒム・エガル]]が首相に就任した。しかしイーガルは半月足らずで国防相に格下げされ{{要追加記述範囲|南部出身者に占められ|date=2020年5月|title=何が}}、また植民地時代の定数を引き継いだ議席数は人口比でも南部優位であるなど、南部に優位な政治が取られるようになった。<ref>[[#吉田(2012)|吉田(2012:92)]]</ref> {{Seealso|ソマリア内戦}} * [[1960年]][[6月26日]]、イギリス領がソマリランド国として独立。5日後の[[7月1日]]にはイタリア領も独立し、南北統合で'''ソマリア共和国'''が発足。 * [[1969年]]10月、[[クーデター]]で[[モハメド・シアド・バーレ]]少将が実権を握り、国名を'''ソマリア民主共和国'''に変更。 * [[1970年]]10月には[[社会主義]]国家を宣言、[[ソマリ社会主義革命党]]の一党独裁体制に。 * [[1977年]]、[[エチオピア]]のソマリ族による[[オガデン]]州分離独立運動に端を発してエチオピアとの間で[[オガデン戦争]]勃発(1988年の両国の停戦合意まで続く)。 * [[1977年]]10月、[[ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件]]。 * [[1980年]]1月、人民議会はバーレを[[大統領]]に選出。 * [[1982年]] 反バーレの反政府武装闘争が表面化。 === ソマリア内戦 === * [[1988年]] [[ソマリア内戦]]勃発。 * [[1991年]]1月、反政府勢力[[統一ソマリ会議]](USC)が首都を制圧しバーレを追放(バーレ政権崩壊)。暫定大統領に[[アリ・マフディ・ムハンマド]]が就任。 : しかし、USCの内部で、[[モハメッド・ファッラ・アイディード]]将軍派がアリ・マフディ暫定大統領派と対立。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂。 * [[1991年]]6月、北部の旧英国領地域が「[[ソマリランド共和国]]」として独立宣言。バーレ元大統領は[[ナイジェリア]]の[[ラゴス]]に亡命。 === 国連PKO介入後 === * [[1991年]] アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が[[国際連合]]に対し[[国際連合平和維持活動|PKO]]部隊派遣を要請。 * [[1992年]]6月、アイディード将軍がいくつかの軍閥を統合して{{仮リンク|ソマリ国民同盟|en|Somali National Alliance}}(SNA)が結成される。 * [[1992年]]12月、国連PKO部隊、[[多国籍軍]]を派遣。 * [[1993年]]5月、武力行使を認めた[[第二次国連ソマリア活動]]展開。アイディード将軍は国連に対して[[宣戦布告]]。 * [[1993年]]10月、[[モガディシュの戦闘]]。 * [[1994年]]3月、 [[アメリカ合衆国]]、ソマリアからの撤兵。 * [[1995年]]3月、国連PKO部隊撤退。SNAのアイディード派が{{仮リンク|オスマン・アリ・アト|en|Osman Ali Atto|label=アリ・アト}}派と内部分裂。 * [[1995年]]12月、[[ナイジェリア]]に亡命したバーレ元大統領が、同国[[ラゴス]]にて死去。 * [[1996年]]8月、アイディード将軍死去。 * [[1998年]]7月、ソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、[[ガローウェ]]を首都とする自治政府・[[プントランド|プントランド共和国]]を樹立。 * [[2000年]]5月、[[ハッサン]]暫定政権樹立。アイディード派やソマリランドなど独立勢力を排除したために内戦は続き、さらに国家の分裂が進む。これ以降、氏族・軍閥・宗派と、さまざまな勢力が対立する群雄割拠状態となる。 * [[2002年]]、[[ラハンウェイン]]が[[ベイ州]]と[[バコール州]]を中心とする地域で、[[バイドア]]を首都とする国家「[[南西ソマリア]]」([[2002年]] - [[2006年]])として独立宣言。 * [[2004年]]初頭に[[ヒズブル・シャバブ]](アル・シャバブの前身)が結成され、2004年の半ばに[[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]]が結成された。 * [[2006年]]6月、[[イスラム法廷会議]](ICU)が首都モガディシュを占領。イスラム教とキリスト教という宗教対立によって、対外戦争の火種となる。 * [[2006年]]12月、エチオピア軍が侵攻してソマリアを制圧。暫定政府が国権を掌握する。 * [[2007年]]1月、[[アメリカ軍]]がエチオピア軍支援のため空襲。暫定政府は法廷会議に対し勝利宣言を行う。イスラム法廷会議(ICU)は[[ケニア]]国境付近へ逃走し、国内の残党との連携でのちのデモやテロの根源となる。PKO再派遣が決定されるも、[[アフリカ連合]](AU)中心で、参加国数も内容も低調に終わった。 * [[2008年]]8月、イスラム法廷勢力との間の停戦協定。 * [[2008年]]12月、[[アブドゥラヒ・ユスフ]]大統領辞任。 * [[2009年]]1月、イスラム法廷会議の流れをくむ{{仮リンク|ソマリア再解放連盟|en|Alliance for the Re-liberation of Somalia}}(ARS)の指導者で穏健派の[[シェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマド]]が大統領に選出され、[[オマル・アブディラシド・アリ・シルマルケ|オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケ]]を首相とする内閣を発足させる。 === 東アフリカ大旱魃 === {{main|東アフリカ大旱魃 (2011年)}} * [[2010年]][[7月20日]]、[[国際連合|国連]]は[[南西ソマリア]]の2地域([[下部シェベリ州]]、[[バコール州]])で[[東アフリカ大旱魃 (2011年)|飢饉]]が起こっていることを公式に宣言。[[国連難民高等弁務官事務所]](UNHCR)は、難民流出の状況を発表した。それによると、ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6か月で約3万人。2009年同期の4万4,000人から3分の1近く減少した。アデン湾向岸のイエメンへの難民も2009年同期の1万3,000人から6,700人に減少した。事務所の報道官は、減少は安定でなく不安定さを増していると記者会見で語った。 * [[2011年]]11月、国連は、[[ベイ川]]、[[ベクール川]]、[[シェベリ川]]下流の3地域([[ベイ州]]、[[バコール州]]、[[下部シェベリ州]])に対する飢饉地域指定を解除した([[国連人道問題調整事務所]](OCHA)による)。 === ソマリア連邦共和国 === * [[2012年]]8月、暫定憲法を採択し連邦議会を招集。8月20日に暫定政府の統治期間が予定通り終了した。 * [[2012年]]9月、[[2012年ソマリア大統領選挙|大統領選挙]]を実施し、穏健派の[[ハッサン・シェイク・モハムド]]が選出された<ref name=cnn20120911>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/world/35021599.html |title=ソマリア大統領にモハムド氏選出、21年ぶりの安定政府樹立へ |work=CNN.co.jp |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2012-09-11 |accessdate=2012-09-11 }}</ref>。 * [[2012年]]10月、[[アブディ・ファラ・シルドン]]が首相に就任。 * [[2012年]]11月、シルドン首相が閣僚を指名。新内閣発足。 * [[2013年]]4月、[[国際通貨基金|IMF]]がソマリア連邦政府を22年ぶりに承認。これにより、IMFのソマリア支援の道が開けた<ref>IMF {{Cite web |author= |date=2013-4-12 |url=http://www.imf.org/external/np/sec/pr/2013/pr13119.htm |title=IMF Recognizes the Federal Government of Somalia After 22-year Interval |accessdate=2013-4-29}} </ref>。 * [[2017年]]2月、[[2017年ソマリア大統領選挙]]によって[[モハメド・アブドゥライ・モハメド]]が大統領に就任。過激派[[アル・シャバブ (ソマリア)|シャバブ]]の対策に注力することとなる<ref name="Asahi">{{cite news|title=ソマリア大統領に元首相 「過激派との闘いの始まり」|url=http://www.asahi.com/articles/ASK292HRSK29UHBI009.html|accessdate=2017-02-11|work=朝日新聞|date=2017-02-08}}</ref>。 * [[2018年]]9月5日 - エリトリアの首都アスマラで、ソマリア、エリトリア、エチオピアの3カ国による「包括協力協定」に署名<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-19 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/09/60a225af1876c55b.html |title=エチオピアとエリトリアが平和協定締結、国境も再開 |publisher=ジェトロ |accessdate=2020-11-27}}</ref>。 * [[2020年]]12月 - アメリカの[[ドナルド・トランプ]]大統領は、2021年1月の任期切れを前に駐留米軍700人の撤収を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-05 |url=https://www.asahi.com/articles/ASND53517ND5UHBI008.html |title=トランプ氏、ソマリア駐留の米軍撤収指示 近隣国に移動 |publisher=朝日新聞DIGITAL |accessdate=2020-12-04}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Somalia map states regions districts.png|thumb|300px|各勢力の勢力分布<!--その都度最新の状態に更新されている画像です-->]] {{main|{{仮リンク|ソマリアの政治|en|Politics of Somalia}}}} バーレ政権時代の最盛期には、[[社会主義]]の名のもと強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都[[モガディシュ]]を除くほぼすべての地域を掌握できておらず、そのため大統領が「モガディシュ(モガディシオ)市長」とあだ名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。以後、ソマリアには2007年まで中央政府が存在しない状態が続いていた。 政権崩壊後は地方[[豪族]]による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。 [[2000年]]に誕生した正統暫定政府は[[ジブチ|ジブチ共和国]]の首都[[ジブチ市]]に設置されていたが、[[2003年]]に崩壊。[[2005年]]、周辺7か国で構成する[[政府間開発機構]]の仲介により、この暫定政府を継承する形で暫定連邦政府が[[ケニア]]の[[ナイロビ]]において発足し、新設された議会でユスフ初代大統領が選出されるとともに、本拠地を南西部の[[バイドア]]に移す<ref>{{Cite web|和書|title=ソマリア基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/somali/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2022-09-04 |language=ja}}</ref>。 [[2006年]]6月、イスラーム法学者([[ウラマー]])たちで運営する司法組織・[[イスラム法廷連合]](のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、中・南部一帯を支配。[[イスラーム主義]]的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけていた。 [[国際連合安全保障理事会]]は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに[[平和維持軍|国連平和維持軍]]の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定連邦政府軍がエチオピア軍の支援のもとでイスラム法廷会議に攻勢をかけ、[[モガディシュ]]を奪取した。イスラム法廷会議は南部へと敗走。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だった[[キスマヨ]]を制圧し、暫定政府軍は[[ソマリランド]]を除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。 暫定政府は2007年7月に国民和解会議を開催して国内の各勢力の和解に乗り出す。2007年9月、エチオピア軍に駆逐されたイスラム法廷会議は[[エリトリア]]で{{仮リンク|ソマリア再解放連盟|en|Alliance for the Re-liberation of Somalia}}(ARS)を結成。2008年8月、暫定連邦政府とARSの穏健派グループがジブチ合意(停戦など)に署名するものの、2008年12月29日、暫定連邦政府内の対立からユスフ大統領が辞任する。2009年1月、エチオピア軍撤退終了後、反暫定連邦政府勢力アル・シャバーブがバイドアを掌握。1月31日、ジブチにおいて開催されたソマリア国会で大統領選挙が行われ、ARSの指導者で穏健派の[[シェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマド]]が新大統領に選出された。アフメド新大統領は2月20日には[[オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケ]]を首相に任命し、新政権を発足させた。 2009年4月18日、暫定議会は全会一致で[[イスラム法]]の導入を決定した。 2009年6月18日、反政府軍への掃討作戦を指揮していたオマル・ハシ・アデン国家安全保障相が自爆テロにより暗殺される。さらに同月22日、暫定政府軍に対して攻勢を強めるイスラム急進派[[アル・シャバブ (ソマリア)|アッシャバーブ]]の部隊に大統領官邸が包囲される事態となり、アフマド大統領はソマリア全土に非常事態を宣言するとともに、ケニアやエチオピアなど周辺国に対して軍事介入を求めた。 2010年9月21日、暫定政府のシェルマルケ首相は、治安対策の失敗の責任をとり辞任した。背後にはイスラム強硬派(アルシャバブなど)武装勢力の攻勢が強くなるなかで、政府運営をめぐるアハメド暫定大統領との確執があると推測されている。こうしたなか、人口約800万人の40パーセント以上にあたる約320万人が人道援助に依拠し、約140万人が国内避難民、約59万人が近隣諸国に難民として生活している<ref>[http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/100921-220706.html ソマリア首相辞任、暫定大統領と対立] The Sekai Nippo 2010/9/21</ref><ref>[http://www.sankei.jp.msn.com/world/mideast/100922/mds1009220107001-n1.htm ソマリア首相が辞任 数カ月前から大統領と対立] MNS:産経ニュース 2010.9.22</ref>。 2012年8月20日に暫定政府は予定していた統治期間を終了。暫定議会により暫定憲法が採択されて新連邦議会が発足。9月10日に[[2012年ソマリア大統領選挙|大統領選挙]]を実施し、[[ハッサン・シェイク・モハムド]]が選出され、就任した<ref name=cnn20120911 />。ここにおいて、21年ぶりに統一政府が樹立されることとなる。 2012年世界汚職国家ランキングでは、ソマリア・北朝鮮・アフガニスタンが最悪という評価を受けている<ref>[http://www.cnn.co.jp/business/35025451.html 世界汚職国家ランキング、北朝鮮とソマリアが今年も最悪]CNN.co.jp 2012年12月7日</ref>。 === 海賊行為の多発 === {{main|ソマリア沖の海賊}} 以前からソマリランドとプントランドが面する[[アデン湾]]は[[海賊]]行為の多発海域である。[[国際商業会議所]](ICC)[[国際海事局]](IMB)の調査によれば、[[2001年]]に[[インド洋]]側でも海賊による襲撃が報告されるようになり、[[2005年]]にいたって多発し、[[インドネシア]]周辺海域に次いで海賊行為が多い海域として急浮上した。以来2007年まで上位5海域に位置づけられ、沿岸から最遠で390[[海里]]まで達するソマリア拠点の海賊によってアデン湾も含むソマリア周辺海域は船舶航行にとって非常に危険なものとなっている。 === 人権 === ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ、イエメン、イラン、アフガニスタンなどと同様[[ブラジャー]]を着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。[[強盗]]犯に断手刑を執行した事例もある。9歳くらいでも婚約が認められる{{要出典|date=2023年8月}}。 == 地方行政区分 == [[File:Maamulgoboleedka Soomaaliya.png|250px|thumb|ソマリアの構成体]] {{Main|ソマリアの行政区画}} 2012年の連邦制施行後、ソマリアは6つは構成国(Federal Member States (FMS)、自治国、自治州とも訳される)と首都地域の合計7つの連邦構成体から成る<ref>{{Cite web |url=http://mop.gov.so/index.php/the-ministry/directorates/planning/federal-member-states-fms/ |title=Federal Member States (FMS) |publisher=計画・投資・経済開発省 |language=英語 |accessdate=2021-06-14}}</ref>。ただしソマリランドは事実上独立しており、構成国に含まないことがある。 * {{Flagicon|ソマリランド}}[[ソマリランド]] - 1991年成立、独立宣言。 * {{Flagicon|Puntland}}[[プントランド]] - 1998年成立、独立宣言。2004年以降はソマリア政府に協力的。 * {{Flagicon|Galmudug}}[[ガルムドゥグ]] - 2006年成立。 * {{Flagicon|Hirshabelle}}[[ヒーシェベリ]] - 2016年成立。 * {{Flagicon|Banadir}}[[バナディール州|バナディール首都地域]] - 2017年成立。 * {{Flagicon|Southwestern Somalia}}[[南西ソマリア]] - 2014年成立。 * {{Flagicon|Jubaland}}[[ジュバランド]] - 2013年成立。 内戦前は地域(州)と地区(県)から成っていた。 ===主要都市=== [[ファイル:So-map ja.png|thumb|right|250px|ソマリアの地図]] {{Main|ソマリアの都市の一覧}} 首都[[モガディシュ]]は[[バナディール州]]の州都でもある。ほかの主要都市[[ハルゲイサ]]、[[ベルベラ]]、[[キスマヨ]]、[[マルカ]]などがあるが、一部の都市は[[ソマリランド]]の統治下にある。 == 地理 == [[ファイル:Somalia Topography en.png|thumb|right|地形図]] [[ファイル:Juba river downstream Jamaame.jpg|thumb|right|ジュバ川]] {{main|{{仮リンク|ソマリアの地理|en|Geography of Somalia}}}} 沿岸部は高温多湿だが、内陸は[[砂漠]]である。アデン湾に沿って、グバンと呼ばれる幅2 - 12キロの海岸平野がある。北部に最高地点の[[シンビリス山]](標高2,416メートル)がある。降雨量はきわめて少なく、[[エチオピア高原]]からインド洋沿岸のキスマユへ流れる[[ジュバ川]]、同じくモガディシュへ至る[[シェベリ川]]以外に四季を通して水の流れる川はない。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|ソマリアの経済|en|Economy of Somalia}}}} [[ファイル:Pictures from an armed convoy trip in Mogadishu.jpg|thumb|left|首都[[モガディシュ]]([[1995年]])]] 内戦で経済は壊滅、崩壊状態である。世界[[最貧国]]の一つであり、[[IMF]]によると2020年度のソマリアの一人当たりGDPは332ドルで、世界195の国家・地域の内193位<ref>[https://www.globalnote.jp/post-1339.html/ GLOBAL NOTE]</ref>。[[平和基金会]]が発表した[[失敗国家]]ランキングでは[[2008年]]から[[2013年]]まで6年連続で第1位にランクづけされており、国際的に承認された政府が21年ぶりに発足したにもかかわらず[[2014年]]・[[2015年]]も2位に位置づけられた。2013年度のイギリス情報誌の[[エコノミスト]]治安ランキングワースト10では第2位。また、内戦で大量の[[難民]]が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。 主産業は[[バナナ]]を中心とする[[農業]]、[[ラクダ]](飼育数世界1位)・[[ヒツジ|羊]]・[[山羊|ヤギ]]などの[[畜産]]業。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革となっている。畜産業の経済に占める比率はGDPの40パーセント、輸出収入の65パーセントに達する。農産品の加工を軸とした小規模な[[第二次産業|軽工業]]はGDPの10パーセントに達する。このほか植民地時代から木炭の輸出を行っていたが、[[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]]に対する資金源とならないよう2012年に[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]より輸出が禁じられており、禁輸措置は2022年現在も継続している<ref>{{Cite news|url=http://english.news.cn/20220524/21874f00922b48578a345c14718f037d/c.html|title=Somali PM suspends foreign minister for abuse of power|agency=[[新華社]]|date=2022-05-24|accessdate=2022-05-26}}</ref>。{{要出典範囲|地下に[[石油]]・[[ボーキサイト]]などを含有する地層が存在するが、未開発である|date=2023年8月}}。 主要輸入品は[[原油]]、石油製品、食料品、機械類など。 通貨は[[ソマリア・シリング]](SOS)。アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、[[2007年]]調査時点で世界でもっとも価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1ドル=1387.77ソマリアシリング<ref>Foreign Policy:[http://www.foreignpolicy.com/story/cms.php?story_id=3880 The List: The World’s Worst Currencies]、GIGAZINE 2007年6月19日 [http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070619_worlds_worst_currencies/ 世界で最も価値の低い通貨トップ5]</ref>。現在国内では[[ドル]]や[[ユーロ]]、[[サウジアラビア・リヤル]]などがおもに流通している。なお2004年よりソマリア名義の[[地金]]型銀貨が、2010年より[[地金型金貨]]が発行されているが、これはドイツの{{ill2|バイエルン州造幣局|en|Bavarian State Mint}}が製造したもので、像が描かれていることからエレファントコインとも呼称される<ref>{{Cite web|url=https://cosmosofcollectibles.com/a-bullion-coin-from-germany-the-somalia-elephant/|title=A Bullion Coin from Germany: The Somalia Elephant|publisher=Cosmos Of Collectibles|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 === 通信とメディア === [[ファイル:Hormuud.jpg|thumb|150px|モガディシュの{{仮リンク|Hormuudテレコム|en|Hormuud Telecom}}]] {{main|{{仮リンク|ソマリアの通信|en|Communications in Somalia}}|{{仮リンク|ソマリアのメディア|en|Mass media in Somalia}}}} ソマリアでは、多数の私営[[新聞]]、[[ラジオ]]、[[テレビ局]]が{{いつ範囲|date=2023年12月|この10年間で}}急速に発達し(モガディシュでは2つのテレビ局が熾烈な競争を行っている)、私営ラジオ局や新聞とともにほぼすべての主要都市に存在する。大きなメディア企業としては[[:en:Shabelle Media Network|Shabelle Media Network]]、[[:en:Radio Gaalkacyo|Radio Gaalkacyo]]、[[ガローウェ・オンライン]]傘下の[[:en:Radio Garowe|Radio Garowe]]などの名が挙げられる。 ソマリアにおける[[インターネット]]の利用は、2000年から2007年までの間に44,900パーセント増加し、アフリカでもっとも高い成長を記録した<ref>{{cite web|url=http://www.internetworldstats.com/stats1.htm#africa |title=Internet Usage Statistics for Africa |publisher=Internetworldstats.com |date=2008-12-31 |accessdate=2009-02-25}}</ref>。ソマリアの[[情報技術]]会社は、近年50万人以上のインターネット利用者を市場として競っている。22の[[インターネットサービスプロバイダ]]が設立されており、年平均15.6パーセントで成長する234の[[ネットカフェ]]が存在する。[[衛星]]サービスによるインターネットも、また、特に[[ダイアルアップ]]や[[ワイヤレス]]インターネットサービスが存在しない遠隔地や都市に存在している。国際連合やNGO、特に送金を行う金融機関、ネットカフェがおもな顧客である。{{いつ範囲|date=2023年12月|近年では}}ヨーロッパやアジアのテレポートと結ばれている300以上の衛星ターミナルが国内各地で利用可能である。この種のサービスは年平均10 - 15パーセントの安定成長を見せている。 ソマリアはアフリカ大陸でもっとも整備された遠距離通信システムが存在し、[[:en:Golis Telecom Somalia|Golis Telecom Group]]、Hormuud Telecom、[[:en:Somafone|Somafone]]、[[:en:NationLink Telecom|Nationlink]]、[[:en:Netco (Somalia)|Netco]]、[[:en:Telecom|Telecom]]、[[:en:Somali Telecom Group|Somali Telecom Group]]のような複数の企業が明晰なサービスを提供しており、国際長距離電話も月額約10USドルである。ソマリアのダイアルアップインターネット回線はアフリカでもっとも急速に成長しており、地上回線が年平均12.5パーセント以上の成長を遂げ、略奪による深刻な衰退と、銅線ケーブルのコストが国際市場での高騰を経験している[[アフリカの角]]、および[[東アフリカ]]地域とのほかの諸国と比較しても大きな発達を遂げた。地上回線の設置に必要な待機期間は、隣国のケニアでは年単位で長期間待たされる一方、ソマリアでは3日間である。ただし、これらは群雄割拠の状態により、通信事業に関する免許といった中央政府による許認可が事実上存在しないことが大きい。 == 軍事 == {{main|{{仮リンク|ソマリア軍|en|Somali Armed Forces}}}} 暫定政府の総兵力は5,000人。2002年の国防予算は1,500万米ドル。国内の武装勢力がそれぞれ兵員を保持。 === ソマリア空軍 === かつては[[MiG15]]や[[Mig17]]をそれぞれ20機以上 [[Mig21]]8機、[[ホーカー ハンター]]8機 を保有していたが内戦で崩壊した。 [[2012年]]にソマリア暫定政権にイタリアの支援で国防軍傘下に空軍が創設した。 尚、[[An-24]]2機が内戦の影響で[[ジョモ・ケニヤッタ国際空港]]に放置されている == 交通 == {{main|{{仮リンク|ソマリアの交通|en|Transport in Somalia}}}} === 鉄道 === {{main|ソマリアの鉄道}} 2013年現在、国内に鉄道の存在は確認されていない。植民地時代には[[モガディシオ・ヴィラブルッチ鉄道]]が存在したが独立前に廃線となっている。その後、バーレー政権時代に鉄道再建が計画されたがこれは内戦で実現しなかった。 === 航空 === {{main|ソマリアの空港の一覧}} 現在、ソマリアには[[ダーロ航空]]と[[ジュッバ航空]]の2つの航空会社が存在すると言われている。また1991年のソマリア内戦により運航停止となったフラッグキャリアの[[ソマリ航空]]も2012年より運行再開の準備が始まり、2013年12月に機材導入予定である。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ソマリアの国際関係|en|Foreign relations of Somalia}}}} === 日本との関係 === {{main|[[日本とソマリアの関係]]}} *在留日本人数 - 4人(2022年10月現在:外務省在留邦人数統計)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/somali/data.html#section6 外務省 ソマリア基礎データ]</ref> *在日ソマリア人数 - 31人(2022年12月:法務省登録外国人統計)<ref>[https://www.moj.go.jp/isa/policies/statistics/toukei_ichiran_touroku.html 在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表]</ref> == 国民 == [[ファイル:Somalia pop 2002.jpg|thumb|300px|2002年のCIAによるソマリア全土の人口密度]] === 民族 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの人口統計|en|Demographics of Somalia}}}} {{bar box |title=民族構成(ソマリア) |titlebar=#ddd |float=left |bars= {{bar percent|[[ソマリ人]]|orange|85}} {{bar percent|その他|black|15}} }} ソマリアはおよそ983万2,017人の人口を有し、85パーセントが[[ソマリ人]]([[ハウィエ]]、[[イサック]]、[[ダロッド]]、[[ラハンウェイン]]、{{仮リンク|ディル (ソマリア)|en|Dir (clan)|label=ディル}}、[[イッサ族]])である<ref name=2009factbook>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/so.html|title=Somalia|accessdate=2009-05-31|date=2009-05-14|work=[[World Factbook]]|publisher=[[Central Intelligence Agency]]}}</ref>。その他の15パーセントは、[[:en:Benadiri people]]、[[:en:Somali Bantu]]、[[:en:Bajuni people]]、[[:en:Bravanese people]]、エチオピア人、[[インド人]]、[[パキスタン人]]、[[ペルシャ人]]、[[イタリア人]]、[[イギリス人]]などとなっている。 1990年代初頭の内戦により、[[ディアスポラ]]([[ソマリ人ディアスポラ]]([[:en:Somali diaspora|en]]))の数が著しく増大することとなった。この際は国内でももっとも教育水準の高いソマリ人が大挙[[中東]]や[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]などに逃れた。 ソマリアの都市化に関して信頼性の高い統計情報はほとんど存在しない。しかしながら、荒い推計によればソマリアの都市化率は年間5 - 8パーセントとみなすことができ、多くの町が急速に都市に成長している。現在のところ人口の34パーセントが町や都市に居住しており、この割合は急速に増加している<ref>[http://www.delken.ec.europa.eu/en/publications/Urban%20Programme%20Report_final.pdf An Urban Development Programme for the European Commission in Somalia]</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの言語|en|Languages of Somalia}}}} 公用語は[[ソマリ語]]と[[アラビア語]]。[[ソマリ語]]はソマリ人の[[国語]]であり、少数のマイノリティとも同様に、ほぼすべてのソマリ人によって事実上全土で使用されている。政府機関やエリート層では欧米系言語が主流である[[サブサハラアフリカ]]諸国の国の中では例外的に、エチオピアの[[アムハラ語]]や[[タンザニア]]の[[スワヒリ語]]とともに非欧米系言語の言語が[[共通語]]、作業言語として広く機能している国である。少数派言語は存在し、ソマリア中南部で[[ラハンウェイン]]氏族によって話される[[:en:Af-Maay|Af-Maay]]が挙げられる。なおラハンウェイン氏族が話すのはマイ・テレー(Mai Terreh)という方言という説もある。さまざまな[[スワヒリ語]]([[:en:Bravanese language|Barawe]])もまた沿岸部一帯でアラブ人によって話され、[[バントゥー語]]([[:en:Somali Bantu|Jareer]])もまた話される。 多くのソマリ人はアラブのメディアや、宗教教育の遠大な影響による[[アラブ世界]]との緊密な結びつきのため、[[アラビア語]]を話す。[[英語]]も旧植民地[[イギリス領ソマリランド]]であった現[[ソマリランド]]で広く用いられ、教えられている。[[イタリア語]]はかつて主要言語だったが、現在では内戦と教育の欠如により、流暢に話せるのは老人世代に限られる。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの宗教|en|Religion in Somalia}}}} [[イスラム教]]が[[国教]]であり、国民の95パーセントがムスリムである。ムスリムのうち98パーセントは[[スンナ派]]である。その他の宗教が5パーセントである。 [[キリスト教]]の影響は1970年代に教会運営の学校が閉鎖され、[[宣教師]]が帰国すると著しく減少した。1989年からは国内の[[カトリック教会|カトリック]][[大聖堂]]でも大司教ら聖職者が1人もおらず、モガディシュの大聖堂は内戦中の1992年1月から2月にかけて深刻な打撃を受けた。 ソマリアの憲法はイスラーム以外の宗教の普及と伝達を妨げている。この措置は多くがキリスト教徒(特に[[アムハラ人]]とその他のエチオピア人)か土着の信仰を奉ずる近隣のアフリカ諸国から、ソマリアとの距離を広げている。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの教育|en|Education in Somalia}}}} 1991年の中央政府の崩壊により、教育システムは私営となっている。[[初等教育|初等学校]]は、内戦前600校だったものが2005年には1,172校に達し、2005年までの3年間で初等学校の入学者は28パーセント増加した<ref>{{cite web| last =Ihebuzor| first =Noel| title =EC and UNICEF join hands to support education in Somalia| publisher =United Nations Children's Fund (UNICEF)| date = 2005 01 31| url =http://www.reliefweb.int/rw/RWB.NSF/db900SID/VBOL-696HBA?OpenDocument| accessdate = 2007-02-09 }}</ref>。2006年には、北東部の[[プントランド]]自治地域は[[ソマリランド]]地域に続いてソマリアで2番目に無償の初等教育を導入した地域となり、今や教員は給与をプントランド政府から受け取っている<ref>{{cite web| last =Staff writer| first =Staff writer| title =Puntland (Somalia) to introduce free primary schools| publisher =Afrol News| date = 2006 04 06| url =http://www.afrol.com/articles/16083| accessdate = 2007-02-09 }}</ref>。[[ベナディール大学]]、[[ソマリア国立大学]]、[[モガディシオ大学]]、[[キスマヨ大学]]、[[ゲド大学]]など、ソマリアの8つの大学のうちの機能している5つがソマリア南部に存在し、[[高等教育]]を提供している。 2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は37.8パーセント(男性:49.7パーセント、女性:25.8パーセント)である<ref name=2009cia>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/so.html 2009年11月14日閲覧。</ref>。 {{Clearleft}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの保健|en|Health in Somalia}}}} ソマリアはアフリカ全土においてきわめて[[HIV]]感染率の低い国家の一つである。これはソマリ社会のムスリムの性質と、ソマリ人のイスラーム的モラルの固守によると考えられている<ref name="RCTHIV">[http://ams.ac.ir/aim/07104/0012.pdf Religious and cultural traits in HIV/AIDS epidemics in sub-Saharan Africa] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080413173845/http://ams.ac.ir/aim/07104/0012.pdf |date=2008年4月13日 }}</ref>。1987年(観測初年度)に推定されたソマリアのHIV感染率は成人の1パーセントだったが<ref name="RCTHIV"/>、2007年になされた推定では内戦にもかかわらず、成人人口の0.5パーセントに過ぎない<ref name=2009cia/>。 一方、政府がまともに機能していない以上、当然のことながら医療制度は崩壊状態にあり、ほとんどの国民はまともな医療を受けられない状態にある。長年に渡り[[国境なき医師団]]が活動していたが、職員の殺害・誘拐が相次いでいる。ソマリア国内の各勢力が、保護どころか積極的に医師団を攻撃対象にしてきたことも重なり、2013年、国境なき医師団はソマリアからの撤退を決定、22年間の活動に幕を下ろした<ref>{{cite news |title=ソマリアから撤退する理由 |newspaper=[[ハフィントン・ポスト]] |date=2013-9-6 |url=http://www.huffingtonpost.jp/eric-ouannes/post_5580_b_3877743.html |accessdate=2013-9-7 |author=エリック・ウアネス国境なき医師団日本事務局長 }}</ref>。 === 婚姻 === ソマリ人は伝統的には結婚しても改姓しない([[夫婦別姓]])。一方、西洋系社会の家庭では、妻は夫の姓を用いる<ref name=guide2006>[https://www.fbiic.gov/public/2008/nov/Naming_practice_guide_UK_2006.pdf A Guide to Name and Naming Practices], March 2006.</ref>。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|ソマリアの文化|en|Culture of Somalia}}}} ソマリア国内では、[[女性器切除|女子割礼]]が現在でも行われている<ref>[[黒柳徹子]]のレポートに詳しい。[http://www.inv.co.jp/~tagawa/somalia/somalia.html www.inv.co.jp]。</ref>。 === 料理 === [[ファイル:Somali food.jpg|thumb|right|多種多様なソマリア料理]] {{main|ソマリ料理}} ソマリア料理は地域ごとにさまざまな変化があり、多様な調理法を包括する。[[ソマリ料理]]を結びつける一つの作法は[[ハラール]]の存在である。それゆえ、豚肉料理やアルコールは出されておらず、勝手に死んだものは食べられず、血は含まれない。ソマリ人は夕食を午後6時以降に食べる。[[ラマダーン]]の間は、タラウィーの祈りのあとの、時に夜の11時以降に夕食が出される。 ''Cambuulo'' はソマリアのもっともポピュラーな料理のひとつであり、国中を通して夕食として享受されている。料理はよく料理された小豆と、バターと砂糖が混ぜられる。''digir'' と呼ばれる豆は、レンジの上に弱火で5時間以上放置され、大変美味である。''Barriss''([[コメ|米]])と''basto''([[パスタ]])は一般的な食材だが、季節によって独特のフレーバーと多くのスパイスが加えられる。 === 文学 === [[ファイル:Nuruddin Farah 001.jpg|thumb|right|160px|[[ヌルディン・ファラー]]。[[1998年]]にアフリカ人として2人目に[[ノイシュタット国際文学賞]]を受賞した。]] {{main|{{仮リンク|ソマリ文学|en|Somali literature}}|アフリカ文学}} ソマリアは多くの文学作品を、前世紀のソマリアの知識人によるイスラーム詩や[[ハディース]]を通して生み出してきた。現代も口承詩が盛んであり、「詩人の国」とも称される<ref>小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12</ref>。 1973年の[[ラテン文字]]の採用後には数年間で多くのソマリ人作家が本を出版し、それらは広範な成功を達成した。[[ヌルディン・ファラー]]はそのような人物のうちの一人である。『むきだしの針』(1976)や、''From a Crooked Rib''、''Links'' のような小説は重要な文学的偉業とみなされ、それらは彼の[[1998年]]の[[ノイシュタット国際文学賞]]受賞作品となった。その他の現代の文学者には、アリ・ジマール・アハメッドの名が挙げられる。 === 音楽 === {{main|ソマリアの音楽}} ソマリアはほぼまったく単一のエスニック・グループ(ソマリ人)で構成されている数少ないアフリカの国家である。伝統的な[[:en:Waaberi|Waaberi]]や、[[:en:Horseed|Horseed]]のようなバンドは国外にも少数の支持者を得ている。その他に、[[:en:Maryam Mursal|Maryam Mursal]]はソマリの伝統的な音楽を[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ボサノヴァ]]、[[ヒップ・ホップ]]、[[ジャズ]]の影響を受けて融合させた。 大規模なソマリ人のコミュニティが存在する[[トロント]]は、不安定なモガディシュからソマリ音楽産業の中心と成り代わっており、ソマリ人のコミュニティはまた[[ロンドン]]、[[ミネアポリス]]、[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]にも存在する。ソマリ人離散から生まれたポピュラー音楽家の一人に、トロント出身のラッパー、[[K'Naan]]がおり、彼の歌は内戦勃発以降のソマリアの生活の苦闘を語りかけている。 === 祝日 === {{main|{{仮リンク|ソマリアの祝日|en|Public holidays in Somalia}}}} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ソマリアのスポーツ|en|Sports in Somalia}}}} {{See also|オリンピックのソマリア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ソマリアのサッカー|en|Football in Somalia}}}} ソマリア国内でも他の[[アフリカ]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1961年]]にサッカーリーグの[[ソマリアリーグ]]が創設された。[[ソマリアサッカー連盟]](SFF)によって構成される[[サッカーソマリア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]や[[アフリカネイションズカップ]]には未出場となっている。 著名な選手としては[[アユブ・ダウド]]が挙げられる。ダウドは、5歳の時に家族と共に[[ソマリア内戦|内戦状態のソマリア]]から[[イタリア]]へと避難し、[[2000年]]に[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]のユースチームに加入した。ユースでは際立った活躍を見せ、[[2009年]]の[[ボローニャFC|ボローニャ]]戦にて[[セリエA (サッカー)|セリエA]]デビューを果たしている。以後、[[スイス]]や[[ハンガリー]]のクラブを渡り歩いたのち[[2017年]]に引退した。 == 著名な出身者 == {{See also|{{仮リンク|ソマリア人の一覧|en|List of Somalis}}|Category:ソマリアの人物}} * [[アブドゥルカウィ・アハメド・ユスフ]] - [[国際司法裁判所]]判事、副所長。 * [[ザフラ・アブドゥラ]] - [[フィンランド]]の政治家 * [[イマン・アブドゥルマジド]] - アメリカ合衆国の[[モデル (職業)|モデル]] * [[ワリス・ディリー]] - 欧州在住の[[ファッションモデル]] * [[アヤーン・ヒルシ・アリ]] - [[オランダ]]の政治家、[[フェミニスト]] * [[ヌルディン・ファラー]] - 文学者、[[ノイシュタット国際文学賞]]受賞作家 * [[K'Naan ]] - 自身のアルバム「Troubadour」収録の「Wavin' Flag」が2010年[[2010 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ南アフリカ大会]]テーマ曲に選ばれたことがある歌手。 * [[イルハン・オマル]] - ムスリム女性初の[[アメリカ合衆国下院]]議員 * モハメド・ファラー-ソマリア出身の陸上選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[岡倉登志]]:編『ハンドブック現代アフリカ』[[明石書店]]、2002/12 * 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12 *{{Cite book |和書 |author=吉田一郎|authorlink=吉田一郎 |date=2012-11-30 |title=消滅した国々:第二次世界大戦以降崩壊した183ヵ国 |pages=89-94 |publisher=社会評論社 |location= |isbn=978-4-7845-0970-6|ref=吉田(2012)}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Soomaaliya|Somalia}} * [http://www.tfgsomalia.net/ ソマリア共和国政府] {{en icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/somali/ 日本外務省 - ソマリア] {{ja icon}} * [https://www.ke.emb-japan.go.jp/jointad/so/ja/index.html 在ソマリア日本大使館(在ケニア日本大使館が兼活)] {{ja icon}}{{en icon}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:そまりあ}} [[Category:ソマリア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]] [[Category:アラブ連盟]] [[Category:軍事政権]]
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スロバキア共和国 (曖昧さ回避)
スロバキア共和国( - きょうわこく)
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スロバキア共和国 スロバキア - 現在(1993年~)のスロバキア共和国 スロバキア共和国 (1939年-1945年) - ナチス・ドイツの傀儡政権だったスロバキア共和国 スロバキア社会主義共和国 - 1969年にチェコスロバキア社会主義共和国内のスロバキア地方に設置された共和国。 スロバキア共和国 (1990年-1992年) - 上記の共和国の後身。
'''スロバキア共和国'''( - きょうわこく) * [[スロバキア]] - 現在(1993年~)のスロバキア共和国 * [[スロバキア共和国 (1939年-1945年)]] - [[ナチス・ドイツ]]の[[傀儡政権]]だったスロバキア共和国 * [[スロバキア社会主義共和国]] - [[1969年]]に[[チェコスロバキア社会主義共和国]]内のスロバキア地方に設置された共和国。 * [[スロバキア共和国 (1990年-1992年)]] - 上記の共和国の後身。 {{aimai}} {{デフォルトソート:すろはきあきようわこく}}
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スロバキア
スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、スロバキア語: Slovenská republika、通称スロバキア)は、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。 国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。古代にはサモ王国(623年 - 658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下に置かれていた。ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。 第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。 正式名称(スロバキア語)はSlovenská republika、通称 Slovensko。 日本語の表記はスロバキア共和国、通称スロバキア。英語表記は Slovakia、国民・形容詞ともSlovak。漢字表記は斯拉仏克。 スロバキア語で「スロヴェンスコ」という国名は「スラヴ人の地」を意味する。スラヴに語源を持つのはスロベニア共和国やクロアチアのスラボニア地方とも同じであるため、これらは類似した国名になっている。 ケルト人のハルシュタット文化を受け入れたイリュリア人と、より古いプロト・スラブ人(イリュリア人系統)のルサチア文化が栄えていたが、鉄器時代末期にウーニェチツェ文化西部群の後継であるラ・テーヌ文化に属するケルト人(コティニ人(英語版)・ボイイ族)の侵略によって崩壊し、プコフ文化(英語版)に転換した。 1世紀ごろゲルマン人、ダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅した。マルコマンニ戦争のパンノニア遠征(168年 - 169年)。 2世紀および3世紀にフン族が、5 - 6世紀ごろにゲルマン人(東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人)がパンノニア平原に移住してきた。568年にはアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功してサモ王国(623年 - 658年)が樹立された。 9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方に大モラヴィア王国が成立。スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。また、この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などというように分類できない面があった。 10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。ただしハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。さらにオスマン帝国がハンガリーに侵入すると、王領ハンガリーの一部としてオーストリア大公国の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域とみなされるようになった。この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。この時期、チェコはハプスブルク家を皇帝とするドイツ人諸邦連合である神聖ローマ帝国の一員(首都が置かれたことすらある)であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルクの支配は受けつつもその枠外とされていた。すなわち、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア、チェコ、北イタリア)と外にまたがって版図を持っていたことになる。 19世紀半ば、オーストリア帝国時代、民族主義の流れによって周辺のスラヴ人がそれぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えていく中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分たちが話す言語をスロバキア語であると主張するようになった。またこのころ、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。 オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアはともに連邦国家構想を支持していたが、第一次世界大戦の終了とともにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。さらにハンガリーに侵入し、北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。しかしこの行動はハンガリーなどで領土回復運動が高まるきっかけとなった。 スロバキア国民議会で1992年に採択され、翌年1月の連邦制解消とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。 国家元首は任期5年の大統領である。当初は議会により選出されていたが、1999年に直接選挙による選出となった。 立法府であるスロバキア共和国国民議会は任期4年、定数150の一院制。首相は国民議会の獲得議席数がもっとも多い政党から大統領が指名し、与党が議席の過半数を占めることができない場合は、改めて次点の政党から指名する。 2010年国民議会選挙では、中道左派政党のスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)が議席数を伸ばして第一党の座を維持した一方、連立を組んでいた民族主義政党のスロバキア国民党(SNS)やポピュリスト政党の人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS)が惨敗し、ロベルト・フィツォ連立政権が崩壊。SMER-SD党首のフィツォは選挙後、ガシュパロヴィッチ大統領から最初に首相指名を受けたものの、過半数を占める連立政権を組むことができなかったため、第二党で中道右派政党のスロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS)選挙対策本部長を務めたラジチョヴァーが代わって首相指名を受け、中道右派の自由と連帯(SaS)、キリスト教民主運動(KDH)およびハンガリー人政党のモスト(橋、MOST-HÍD)による連立政権が発足した。 2011年11月の欧州金融安定ファシリティ機能拡充条約批准にSMER-SDが協力した際の合意に基づき、2012年3月に繰り上げ総選挙が実施された。その結果、SMER-SDが単独で議席の過半数を獲得し、政権を奪回。SMER-SD党首のロベルト・フィツォが首相となった。 2019年ズザナ・チャプトヴァーが同国初の女性大統領になる。 2020年国民議会選挙では、与党を担っていたスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)・スロバキア国民党(SNS)・「架け橋」(Most-Hid)が大敗し、中道右派の「普通の人々・独立した人達」(OLaNO)を第1党とする右派連立政権が誕生した。この政権交代は、スメル(方向)・社会民主主義党議員とマフィアの関係を追っていたジャーナリストのヤン・クツィアクが2018年2月に婚約者とともに殺害された事件により、国民の信頼が損なわれたことが背景にある。 歴史的に反露で知られるバルト三国やポーランド等の周辺東欧諸国とは異なり国民の間の対露関係は良好で親露的とされている。これはウクライナ西部からスロバキアにまたがって在住してきたルシン人やルテニア人が、ロシアとの一体を求める汎スラヴ主義であり、歴史的にウクライナ西部のザカルパッチャ州に多く住み、親ナチスの反共主義と共闘してきたウクライナ民族主義からの迫害を受け、スロバキアのナチスドイツ支配からの開放をもたらしたのはソ連赤軍であったという側面も大きい。 スロバキアの国土は東西400キロ、南北200キロという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは大陸性気候である。首都ブラチスラヴァの位置する西部はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候(Cfb)、中央部は温暖湿潤気候(Cfa)、東部は湿潤大陸性気候(Dfb)である。ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649ミリである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2,000ミリに達する。 このような気候を受け、国土の3分の1が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。 スロバキアでは150種以上の植物が絶滅の危機に瀕している。また、外来種は国内に自生する植物の24%を占めており、同国では平均して年間3〜5種類の外来植物が生息している状態となっている。 スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県(Kraj)が設けられている。 第二次世界大戦前のチェコスロバキア時代はkrajより上位のKrajina(州)区分があり、「スロバキア州」(krajina Slovenská)が設けられていた。戦後は6県、のち3県に再編されたあと、ブラチスラヴァ、西部スロバキア、中部スロバキア、東部スロバキアの4県体制が1990年まで続いた。 県の下位には78のOkres(郡)および138のMesto(市)と、4つのVojenský obvod(軍区)を含む2,883のObec(村)が設けられている。 工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国だったが、最近ではフランスのPSA・プジョーシトロエンや韓国の起亜自動車が工場を設立している。2009年1月1日に通貨をスロバキア・コルナからユーロに切り替えた。 スロバキアはマグネシウムを中心とした無機鉱物資源に恵まれている。マグネシウムの産出量は2016年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。鉄鉱、金鉱も採掘されている。有機鉱物資源は342万トンの亜炭・褐炭が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。 2001年の国勢調査による民族構成は、スロバキア人が85.8%、マジャル人が9.7%、ロマ人が1.7%、チェック人が0.8%である。このほか、チェック人ではなくモラヴィア人、シレジア人としてのメンタリティーを持っているもの、ルテニア人・ウクライナ人、ドイツ人、ポーランド人、クロアチア人がいるがその総数はおよそ2%である。ロマ人は、スロバキアの全人口の約9%を占めるという報道もあり、世界銀行による推計では、人口に占めるロマ人の割合は約9%から約11%に達するとみられている。 現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人(ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらにはユダヤ人のコミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。 マジャル人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとしてハンガリー王国の領域に完全に組み込まれていたためである。スロバキア人は元来山岳民族であり、特にハンガリー平原に連続する南部平地部の住民はほとんどすべてハンガリー系住民であった。またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)はさまざまである。1919年のサン=ジェルマン条約でオーストリア・ハンガリー帝国が、1920年のトリアノン条約でハンガリー王国の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった(ドナウ連邦構想))、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きくえぐり取り、チェコと合併した形で独立を果たした。この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいてもっとも大きいマイノリティー集団となっている。ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された。ユダヤ人については、ほかの中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼすべてが消滅した。 言語はスロバキア語が公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。またドイツ語が話せる世代も多い。英語は通じないことが多い。 2004年の調査によるとカトリックがもっとも多く60.3%を占める。次いで宗教的メンタリティを持たないものが9.7%、プロテスタントが8.4%、ギリシャ・カトリックが4.1%、東方正教会が4.1%などである。 義務教育は10年となっている。1990年代以降は教会所有の私立学校も増えて来ている。 スロバキアは伝染病に悩まされている面を持つ。伝染病による死亡率は2015年時点で、ヨーロッパにおいて4番目(人口10万人あたり35人)の高さを示している。 スロバキアはヨーロッパで17番目に汚職の多い国であり、海外諸国から「政治および司法制度が腐敗している」との激しい批判があった。特に、2011年12月に発生したゴリラ・スキャンダル(英語版)においては抗議運動が生起するほどの騒動となった。現在も、ヨーロッパにおいて汚職が目立つ国家の一つとして注視されている面がある。 スロバキアの治安は同国内務省の発表によれば、2019年中の犯罪件数が58,829件で、前年と比較して2,563件減少しているとされる。近年、スロバキアの犯罪件数は減少傾向にあり、近隣諸国と比べて治安情勢が悪いということはないものの、犯罪の類型としては、置き引きや集団スリ、車上荒らし、空き巣などの一般犯罪が目立っており、同国に滞在する際には特にこれらの犯罪に注意を払う必要が求められている。 スロバキアにおける公安任務は、現地警察(警察隊(スロバキア語版)と市町村警察)および憲兵によって実施されている。 リュドヴィート・シュトゥールは、オーストリア帝国出身のハンガリー人だが、スロバキアの言語学者として活動していた スロバキアの音楽は近隣国家地域の音楽文化の影響を受けている面を持っている。 また、歴史的に数々の音楽家や楽団を輩出して来ている。 スロバキア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、さらにウクライナにまたがって1件の自然遺産、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。 国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日、国民の休日は次の通り。 国家祝休日および記念日法に定める記念日(Pamätné dni)は次の通り。平日扱いとなる。 スロバキアではサッカーが国技であり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。さらにカヌー競技の強豪としても知られており、国際大会で主流の人工コースなどの練習環境が充実している。そのため、羽根田卓也のように自国から練習拠点を移す選手もいる。スキーやアイスホッケーなどのウィンタースポーツも盛んであり、近年はペーター・サガンの活躍から自転車競技の人気も高まるなどしている。 1993年にプロサッカーリーグのフォルトゥナ・リーガが創設された。サッカースロバキア代表はチェコとの分離独立後、FIFAワールドカップには2010年大会で初出場しベスト16の成績を収めた。UEFA欧州選手権でも2016年大会で初出場しベスト16となっている。同国ではセンターバックのポジションに世界的な選手を輩出しており、リヴァプールで長年活躍したマルティン・シュクルテルや、インテル・ミラノで活躍するミラン・シュクリニアルなどが非常に有名である。
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"text": "歴史的に反露で知られるバルト三国やポーランド等の周辺東欧諸国とは異なり国民の間の対露関係は良好で親露的とされている。これはウクライナ西部からスロバキアにまたがって在住してきたルシン人やルテニア人が、ロシアとの一体を求める汎スラヴ主義であり、歴史的にウクライナ西部のザカルパッチャ州に多く住み、親ナチスの反共主義と共闘してきたウクライナ民族主義からの迫害を受け、スロバキアのナチスドイツ支配からの開放をもたらしたのはソ連赤軍であったという側面も大きい。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スロバキアの国土は東西400キロ、南北200キロという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは大陸性気候である。首都ブラチスラヴァの位置する西部はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候(Cfb)、中央部は温暖湿潤気候(Cfa)、東部は湿潤大陸性気候(Dfb)である。ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649ミリである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2,000ミリに達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このような気候を受け、国土の3分の1が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スロバキアでは150種以上の植物が絶滅の危機に瀕している。また、外来種は国内に自生する植物の24%を占めており、同国では平均して年間3〜5種類の外来植物が生息している状態となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県(Kraj)が設けられている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": 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"paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人(ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらにはユダヤ人のコミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "マジャル人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとしてハンガリー王国の領域に完全に組み込まれていたためである。スロバキア人は元来山岳民族であり、特にハンガリー平原に連続する南部平地部の住民はほとんどすべてハンガリー系住民であった。またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)はさまざまである。1919年のサン=ジェルマン条約でオーストリア・ハンガリー帝国が、1920年のトリアノン条約でハンガリー王国の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった(ドナウ連邦構想))、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きくえぐり取り、チェコと合併した形で独立を果たした。この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいてもっとも大きいマイノリティー集団となっている。ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された。ユダヤ人については、ほかの中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼすべてが消滅した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "言語はスロバキア語が公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。またドイツ語が話せる世代も多い。英語は通じないことが多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2004年の調査によるとカトリックがもっとも多く60.3%を占める。次いで宗教的メンタリティを持たないものが9.7%、プロテスタントが8.4%、ギリシャ・カトリックが4.1%、東方正教会が4.1%などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "義務教育は10年となっている。1990年代以降は教会所有の私立学校も増えて来ている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スロバキアは伝染病に悩まされている面を持つ。伝染病による死亡率は2015年時点で、ヨーロッパにおいて4番目(人口10万人あたり35人)の高さを示している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スロバキアはヨーロッパで17番目に汚職の多い国であり、海外諸国から「政治および司法制度が腐敗している」との激しい批判があった。特に、2011年12月に発生したゴリラ・スキャンダル(英語版)においては抗議運動が生起するほどの騒動となった。現在も、ヨーロッパにおいて汚職が目立つ国家の一つとして注視されている面がある。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スロバキアの治安は同国内務省の発表によれば、2019年中の犯罪件数が58,829件で、前年と比較して2,563件減少しているとされる。近年、スロバキアの犯罪件数は減少傾向にあり、近隣諸国と比べて治安情勢が悪いということはないものの、犯罪の類型としては、置き引きや集団スリ、車上荒らし、空き巣などの一般犯罪が目立っており、同国に滞在する際には特にこれらの犯罪に注意を払う必要が求められている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スロバキアにおける公安任務は、現地警察(警察隊(スロバキア語版)と市町村警察)および憲兵によって実施されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "リュドヴィート・シュトゥールは、オーストリア帝国出身のハンガリー人だが、スロバキアの言語学者として活動していた", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スロバキアの音楽は近隣国家地域の音楽文化の影響を受けている面を持っている。 また、歴史的に数々の音楽家や楽団を輩出して来ている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "スロバキア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、さらにウクライナにまたがって1件の自然遺産、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日、国民の休日は次の通り。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国家祝休日および記念日法に定める記念日(Pamätné dni)は次の通り。平日扱いとなる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "スロバキアではサッカーが国技であり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。さらにカヌー競技の強豪としても知られており、国際大会で主流の人工コースなどの練習環境が充実している。そのため、羽根田卓也のように自国から練習拠点を移す選手もいる。スキーやアイスホッケーなどのウィンタースポーツも盛んであり、近年はペーター・サガンの活躍から自転車競技の人気も高まるなどしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1993年にプロサッカーリーグのフォルトゥナ・リーガが創設された。サッカースロバキア代表はチェコとの分離独立後、FIFAワールドカップには2010年大会で初出場しベスト16の成績を収めた。UEFA欧州選手権でも2016年大会で初出場しベスト16となっている。同国ではセンターバックのポジションに世界的な選手を輩出しており、リヴァプールで長年活躍したマルティン・シュクルテルや、インテル・ミラノで活躍するミラン・シュクリニアルなどが非常に有名である。", "title": "スポーツ" } ]
スロバキア共和国は、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。
{{Redirect|スロバキア共和国|その他歴史上の「スロバキア共和国」}} {{表記揺れ案内 |表記1 = スロバキア |表記2 = スロヴァキア }} {{基礎情報 国 |略名=スロバキア |日本語国名=スロバキア共和国 |公式国名='''{{Lang|sk|Slovenská republika}}''' |国旗画像=Flag of Slovakia.svg |国章画像=[[ファイル:Coat of Arms of Slovakia.svg|85px|スロバキアの国章]] |国章リンク=([[スロバキアの国章|国章]]) |標語=なし |国歌=[[稲妻がタトラの上を走り去り|{{lang|sk|Nad Tatrou sa blýska}}]]{{sk icon}}<br>''稲妻がタトラの上を走り去り''<br>{{center|[[ファイル:National anthem of Slovakia, performed by the United States Navy Band.ogg]]}} |位置画像=EU-Slovakia.svg |公用語=[[スロバキア語]] |首都=[[ブラチスラヴァ]] |最大都市=ブラチスラヴァ |元首等肩書=[[スロバキアの大統領|大統領]] |元首等氏名=[[ズザナ・チャプトヴァー]] |首相等肩書=[[スロバキアの首相|首相]] |首相等氏名=[[ロベルト・フィツォ]] |面積順位=126 |面積大きさ=1 E10 |面積値=49,036 |水面積率=0.1% |人口統計年=2020 |人口順位=115 |人口大きさ=1 E6 |人口値=5,460,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/sk.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> |人口密度値=113.5<ref name=population/> |GDP統計年元=2018 |GDP値元=902億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2020年5月23日閲覧([https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=936&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=44&pr.y=12])</ref> |GDP統計年MER=2018 |GDP順位MER=62 |GDP値MER=1,066億<ref name="economy" /> |GDP統計年=2018 |GDP順位=69 |GDP値=1,913億<ref name="economy" /> |GDP/人=35,136<ref name="economy" /> |建国形態=[[独立]] |建国年月日=1993年1月1日 |通貨=[[ユーロ]] (&#8364;) |通貨コード=EUR |通貨追記=<ref>[[スロバキアのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯=+1 |夏時間=+2 |ISO 3166-1=SK / SVK |ccTLD=[[.sk]] |国際電話番号=421 |国際電話番号追記=<ref>1997年までは[[チェコ]]と共に42。</ref> |注記=<references/> }} '''スロバキア共和国'''(スロバキアきょうわこく、{{Lang-sk|Slovenská republika}}、通称'''スロバキア''')は、[[中央ヨーロッパ]]の[[共和制]][[国家]]。首都は[[ブラチスラヴァ]]で、北西に[[チェコ]]、北に[[ポーランド]]、東に[[ウクライナ]]、南に[[ハンガリー]]、南西に[[オーストリア]]と隣接する。 == 概要 == [[国体]]が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。古代には[[サモ王国]]<ref group="注釈">7世紀の最初のスラブ人の政権のこと。</ref>(623年 - 658年)・[[モラヴィア王国]]として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間[[少数民族]]として[[ハンガリー王国]]の支配下に置かれていた。ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。 [[第一次世界大戦]]後、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー帝国]]からチェコと合併するかたちで独立し、1989年の[[ビロード革命]]による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日に[[チェコスロバキア]]から分離独立し現在に至る。 == 国名 == 正式名称([[スロバキア語]])は{{lang|sk|Slovenská republika}}<ref group="注釈">{{IPA-cs|ˈslovɛnskaː ˈrɛpublɪka|sk|Sk-Slovenská_republika.ogg}}(スロヴェンスカー・レプブリカ)</ref>、通称 {{Lang|sk|Slovensko}}<ref group="注釈">{{IPA-cs|ˈslovɛnsko|sk|Sk-Slovensko.ogg}}(スロヴェンスコ)</ref>。 日本語の表記は'''スロバキア共和国'''、通称'''スロバキア'''。英語表記は {{Lang|en|Slovakia}}、国民・形容詞とも{{Lang|en|Slovak}}。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''斯拉仏克'''。 スロバキア語で「スロヴェンスコ」という国名は「スラヴ人の地」を意味する。[[スラヴ人|スラヴ]]に語源を持つのは[[スロベニア]]共和国やクロアチアの[[スラヴォニア|スラボニア]]地方とも同じであるため、これらは類似した国名になっている<ref>[[スロバキア#柴、ベケシュ、山崎|柴、ベケシュ、山崎]]、p.16</ref>。 == 歴史 == {{Main|スロバキアの歴史}} === 先史時代 === [[ケルト人]]の[[ハルシュタット文化]]を受け入れた[[イリュリア人]]と、より古いプロト・スラブ人(イリュリア人系統)の[[ルサチア文化]]が栄えていたが、[[鉄器時代]]末期に[[ウーニェチツェ文化]]西部群の後継である[[ラ・テーヌ文化]]に属する[[ケルト人]]({{仮リンク|コティニ人|en|Gotini}}・[[ボイイ族]])の侵略によって崩壊し、{{仮リンク|プコフ文化|en|Púchov culture}}に転換した。 === 古代ローマ === [[1世紀]]ごろ[[ゲルマン人]]、[[ダキア人]]が侵略し、[[ローマ帝国]]の拡大でプコフ文化が消滅した。[[マルコマンニ戦争]]のパンノニア遠征(168年 - 169年)。 === 民族移動時代 === {{Seealso|民族移動時代}} 2世紀および3世紀に[[フン族]]が、5 - 6世紀ごろに[[ゲルマン人]]([[東ゴート人]]、[[ランゴバルド人]]、[[ゲピド人]]、[[ヘルール族|ヘルール人]])が[[パンノニア平原]]に移住してきた。568年には[[アヴァール人]]が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功して[[サモ王国]](623年 - 658年)が樹立された。 === 大モラヴィア王国 === [[ファイル:Central europe 9th century.png|thumb|[[モラヴィア王国]]の版図(緑、870年)。緑の線が[[スヴァトプルク1世]]による最盛期(894年)]] 9世紀に現在のスロバキア、[[モラヴィア]]、[[ボヘミア]]、[[シレジア]]地方に[[モラヴィア王国|大モラヴィア王国]]が成立。スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。また、この地域のスラブ人が現在のように簡単に[[チェコ人]]、[[スロバキア人]]などというように分類できない面があった。 === ハンガリー王国時代 === [[ファイル:Europe mediterranean 1190 cropped.jpg|thumb|left|200px|[[12世紀]]の[[ハンガリー王国]]]] [[File:Ciupaga.JPG|thumb|left|150px|マジャル人が用いていたとされる『{{仮リンク|羊飼いの斧|en|Shepherd's axe}}』と呼ばれる[[武器]]の木製[[レプリカ]]。<br> 独特の装飾が施されている。]] 10世紀になると[[マジャル人]]の侵入を受け、[[ハンガリー王国]]が成立すると、この地域は'''北部ハンガリー'''と呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。ただしハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。さらに[[オスマン帝国]]がハンガリーに侵入すると、[[王領ハンガリー]]の一部として[[オーストリア大公国]]の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域とみなされるようになった。この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。この時期、チェコはハプスブルク家を皇帝とするドイツ人諸邦連合である神聖ローマ帝国の一員(首都が置かれたことすらある)であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルクの支配は受けつつもその枠外とされていた。すなわち、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア、チェコ、北イタリア)と外にまたがって版図を持っていたことになる。 === オーストリア帝国時代 === 19世紀半ば、[[オーストリア帝国]]時代、[[民族主義]]の流れによって周辺のスラヴ人がそれぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えていく中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らを[[スロバキア人]]、自分たちが話す言語を[[スロバキア語]]であると主張するようになった。またこのころ、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。 {{Clearleft}} === チェコスロバキア独立 === [[ファイル:Czechoslovakia01.png|thumb|250px|[[戦間期]]の[[チェコスロバキア]]]] {{main|チェコスロバキア}} [[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下]]においてはチェコ、スロバキアはともに連邦国家構想を支持していたが、[[第一次世界大戦]]の終了とともにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。1918年、独立運動の指導者[[トマーシュ・マサリク]]は、チェコスロバキアは[[民族自決]]の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。さらにハンガリーに侵入し、北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。しかしこの行動はハンガリーなどで領土回復運動が高まるきっかけとなった。 === スロバキア共和国(1939年 - 1945年) === [[ファイル:Slovakia borderHungary.png|thumb|250px|[[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]]。赤がハンガリーに[[割譲]]された地域]] {{Main|スロバキア共和国 (1939年-1945年)}} *1938年9月29日、[[ミュンヘン会談]]。ハンガリーのスロバキア領要求が列強に確認される。 *1938年11月2日、[[第一次ウィーン裁定]]。南部スロバキアをハンガリーに[[割譲]]することが決まる。 *1938年11月9日、スロバキア自治政府が成立。 *1938年11月30日、チェコスロバキアの国名が{{仮リンク|チェコスロバキア第二共和国|en|Second Czechoslovak Republic|label=チェコ=スロバキア共和国|redirect=1}}に変更される。 *1939年3月14日、[[ナチス・ドイツ]]の支援により、[[ヨゼフ・ティソ]]を国家元首としてスロバキアはチェコ=スロバキアから独立([[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]])し、ドイツの保護国として[[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]]が成立した。ほぼ同時に東部の[[カルパト・ウクライナ]]地方も独立を宣言するが、ほどなく[[ハンガリー]]に占領される。 **3月23日、ハンガリーがスロバキアに侵攻({{仮リンク|スロバキア・ハンガリー戦争|en|Slovak–Hungarian War}})。ドイツの仲介により、南部スロバキアをハンガリーに割譲(ハンガリー領[[ザカルパッチャ州|カルパティア・ルテニア]])。第二次世界大戦後は[[ソビエト連邦]]領になる。現在は[[ウクライナ]]領[[ザカルパッチャ州]]。 *1939年9月1日、[[ポーランド侵攻]]に参加し、[[枢軸国]]として[[第二次世界大戦]]に参戦。 *1944年8月29日、[[スロバキア民衆蜂起]]。 *1945年4月4日、ブラチスラヴァを[[赤軍|ソ連赤軍]]が占領。{{See also|{{仮リンク|スロバキアにおける虐殺の一覧|en|List of massacres in Slovakia}}}} ** === 共産党体制下のチェコスロバキア(1945年 - 1989年) === [[ファイル:Czechoslovakia.png|thumb|250px|共産党体制下の[[チェコスロバキア]]]] {{main|チェコスロバキア}} *1945年[[チェコスロバキア亡命政府]]が帰国、チェコスロバキア共和国が再興される。 *1948年 共産党政権が成立([[1948年のチェコスロバキア政変|二月政変]])。 *1960年 国名を[[チェコスロバキア社会主義共和国]]に改称。 *1969年 「[[プラハの春]]」と[[ソビエト連邦|ソ連]]を含む[[ワルシャワ条約機構]]5か国の軍が介入([[ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻|チェコスロバキア侵攻]])後、分権化の要求に応えて連邦制が導入され、チェコスロバキア社会主義共和国(国名は変わらず)を構成する「[[スロバキア社会主義共和国]]」が発足。しかし、スロバキア人の[[グスターフ・フサーク|フサーク]]政権が推進した「[[正常化体制 (チェコスロヴァキア)|正常化]]」路線で連邦政府への再度の中央集権強化が行われたため、両共和国の権限は形骸化した。 === 民主化から連邦解体へ(1989年 - 1992年) === *1989年11月、[[ビロード革命]]。共産党政権が解体される。 *1990年3月、スロバキア社会主義共和国が国名を「[[スロバキア共和国 (1990年-1992年)|スロバキア共和国]]」に改称。 *1990年4月、[[ハイフン戦争]]の末、チェコスロバキア社会主義共和国が国名を[[チェコおよびスロバキア連邦共和国]]に改称。 *1992年11月、チェコスロバキア連邦議会でチェコ共和国とスロバキア共和国の連邦解消法が可決成立する。 === スロバキア共和国(1993年 - ) === *1993年1月1日、[[チェコ]]との連邦を解消([[ビロード離婚]])。 *2000年12月、[[経済協力開発機構]](OECD)加盟。 *2004年3月29日、[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟。 *2004年4月17日、新大統領に元国会議長の[[イヴァン・ガシュパロヴィッチ]]が当選。 *2004年5月1日、[[欧州連合]](EU)に加盟。 *2006年6月、総選挙が行われる。 *2006年7月5日、イラク派遣部隊を撤退させる方針を確認。2003年に地雷処理部隊など約100人をイラクに派遣していた。3人が死亡。 *2009年1月1日、[[ユーロ]]を導入。EUで16か国目。 == 政治 == [[ファイル:Grassalkovich Palace (2).jpg|thumb|350px|大統領宮殿]] {{main|{{仮リンク|スロバキアの政治|en|Politics of Slovakia}}|{{仮リンク|スロバキアの政党|en|List of political parties in Slovakia}}|{{仮リンク|スロバキアの憲法|en|Constitution of Slovakia}}}} {{Main2|歴代の国家元首に関しては、[[スロバキアの大統領の一覧]]を}} スロバキア国民議会で1992年に採択され、翌年1月の連邦制解消とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。 国家元首は任期5年の大統領である。当初は議会により選出されていたが、1999年に[[直接選挙]]による選出となった。<!-- 2009年大統領選挙では、決選投票で現職のガシュパロヴィッチが中道右派政党統一候補の元労働・家庭・社会問題相[[イヴェタ・ラジチョヴァー]]を破って再選された。 --> 立法府である[[スロバキア共和国国民議会]]は任期4年、定数150の[[一院制]]。首相は国民議会の獲得議席数がもっとも多い政党から大統領が指名し、与党が議席の過半数を占めることができない場合は、改めて次点の政党から指名する。 [[2010年スロバキア国民議会選挙|2010年国民議会選挙]]では、中道左派政党の[[方向・社会民主主義|スメル(方向)・社会民主主義]](SMER-SD)が議席数を伸ばして第一党の座を維持した一方、連立を組んでいた[[民族主義]]政党の[[スロバキア国民党]](SNS)や[[ポピュリスト]]政党の[[人民党・民主スロバキア運動]](ĽS-HZDS)が惨敗し、[[ロベルト・フィツォ]]連立政権が崩壊。SMER-SD党首のフィツォは選挙後、ガシュパロヴィッチ大統領から最初に首相指名を受けたものの、過半数を占める連立政権を組むことができなかったため、第二党で中道右派政党の[[スロバキア民主キリスト教連合・民主党]](SDKÚ-DS)選挙対策本部長を務めたラジチョヴァーが代わって首相指名を受け、中道右派の[[自由と連帯]](SaS)、[[キリスト教民主運動]](KDH)およびハンガリー人政党の[[モスト (スロバキアの政党)|モスト]](橋、MOST-HÍD)による連立政権が発足した。 2011年11月の[[欧州金融安定ファシリティ]]機能拡充条約批准にSMER-SDが協力した際の合意に基づき、2012年3月に[[2012年スロバキア国民議会選挙|繰り上げ総選挙]]が実施された。その結果、SMER-SDが単独で議席の過半数を獲得し、政権を奪回。SMER-SD党首の[[ロベルト・フィツォ]]が首相となった。 2019年[[ズザナ・チャプトヴァー]]が同国初の女性大統領になる<ref>京都新聞2019年4月1日朝刊</ref>。 [[:en:2020 Slovak parliamentary election|2020年国民議会選挙]]では、与党を担っていたスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)・スロバキア国民党(SNS)・「架け橋」(Most-Hid)が大敗し、中道右派の「普通の人々・独立した人達」(OLaNO)を第1党とする右派連立政権が誕生した。この政権交代は、スメル(方向)・社会民主主義党議員とマフィアの関係を追っていたジャーナリストの[[ヤン・クツィアク]]が2018年2月に婚約者とともに殺害された事件により、国民の信頼が損なわれたことが背景にある<ref>{{Cite web|和書|author=エッカート・デアシュミット|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/03/4ff38a3ac3eba15a.html|title=総選挙で連立与党が大敗、第1党の中道右派政党に組閣を委任へ(スロバキア)|date=2020-03-05|publisher=[[独立行政法人]][[日本貿易振興機構]](ジェトロ)|accessdate=2020-05-23}}</ref>。 == 国際関係 == {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの国際関係|en|Foreign relations of Slovakia}}}} 歴史的に[[反露]]で知られるバルト三国やポーランド等の周辺東欧諸国とは異なり国民の間の対露関係は良好で親露的とされている。これはウクライナ西部からスロバキアにまたがって在住してきた[[ルシン人]]や[[ルテニア人]]が、ロシアとの一体を求める[[汎スラヴ主義]]であり、歴史的にウクライナ西部の[[ザカルパッチャ州]]に多く住み、親[[ナチス]]の[[反共主義]]と共闘してきたウクライナ民族主義からの迫害を受け、スロバキアのナチスドイツ支配からの開放をもたらしたのはソ連赤軍であったという側面も大きい<ref>{{Cite journal|和書|author=石川晃弘 |date=2020-02 |url=https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/13327 |title=中欧諸国民のロシア観―最近の世論調査結果から― |journal=文学部紀要 社会学・社会情報学 |ISSN=0529-6803 |publisher=中央大学文学部 |volume=30 |pages=1-14 |CRID=1050571239993654016 |accessdate=2023-10-04}}</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日本とスロバキアの関係}} == 地理 == [[ファイル:Slovakia topo.jpg|thumb|250px|スロバキアの地形図]] [[ファイル:View of the High Tatra Mountains.jpg|thumb|ゴータトラ山]] {{main|{{仮リンク|スロバキアの地理|sk|Geografia Slovenska|en|Geography of Slovakia}}}} === 気候 === スロバキアの国土は東西400キロ、南北200キロという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは[[大陸性気候]]である。首都ブラチスラヴァの位置する西部は[[ケッペンの気候区分]]でいう[[西岸海洋性気候]](Cfb)、中央部は[[温暖湿潤気候]](Cfa)、東部は[[湿潤大陸性気候]](Dfb)である。ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649ミリである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2,000ミリに達する。 このような気候を受け、国土の3分の1が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。 === 生物多様性 === {{節スタブ}} スロバキアでは150種以上の[[植物]]が[[絶滅]]の危機に瀕している<ref>Viac ako 150 druhom rastlín na Slovensku hrozí. [[:en:Denník N|dennikn.sk]] (Bratislava: N Press),[https://dennikn.sk/minuta/2399229/ Dostupné online] [cit. 2021-05-26]. ISSN 1339-844X.</ref>。また、外来種は国内に自生する植物の24%を占めており、同国では平均して年間3〜5種類の外来植物が生息している状態となっている。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアの固有植物種|en|Endemic Plant Species in Slovakia}}|{{仮リンク|スロバキアの植物相|sk|Rastlinstvo Slovenska}}}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Slovakiakrajenumbers.png|thumb|300px|図中の番号は本文の括弧内のものと対応する]] {{Main|スロバキアの地方行政区画}} スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県<ref>佐藤雪野「増補スロバキア・地方行政」 『東欧を知る辞典』p797、平凡社、2001年</ref>('''Kraj''')が設けられている。 [[ファイル:Spis Castle 03.JPG|thumb|スピシュスキー城(スピシュスケー・ポドフラジエ)]] *西部スロバキア地方 **{{Flagicon|Bratislava}} [[ブラチスラヴァ県]](1) **{{Flagicon|Trnava}} [[トルナヴァ県]](2) **{{Flagicon|Trenčín}} [[トレンチーン県]](3) **{{Flagicon|Nitra}} [[ニトラ県]](4) *中部スロバキア地方 **{{Flagicon|Žilina}} [[ジリナ県]](5) **{{Flagicon|Banská Bystrica}} [[バンスカー・ビストリツァ県]](6) *東部スロバキア地方 **{{Flagicon|Prešov}} [[プレショフ県]](7) **{{Flagicon|Košice}} [[コシツェ県]](8) 第二次世界大戦前のチェコスロバキア時代はkrajより上位の'''Krajina'''(州)区分があり、「スロバキア州」(krajina Slovenská)が設けられていた。戦後は6県、のち3県に再編されたあと、ブラチスラヴァ、西部スロバキア、中部スロバキア、東部スロバキアの4県体制が1990年まで続いた。 県の下位には78の'''Okres'''(郡)および138の'''Mesto'''(市)と、4つの'''Vojenský obvod'''([[軍区 (チェコ、スロバキア)|軍区]])を含む2,883の'''Obec'''(村)が設けられている。 === 主要都市 === {{main|スロバキアの都市の一覧}} {|class="wikitable" style="font-size:small" !都市 !!県 !!人口(2019年)<ref>{{Cite web | title = Number of the Population by Sex - Municipalities (yearly) | url = http://datacube.statistics.sk/#!/view/en/VBD_DEM/om7101rr/v_om7101rr_00_00_00_en | url-status = live | publisher = Statistical Office of the Slovak Republic |accessdate=2023-10-04}}</ref> |- |[[ブラチスラヴァ]]||[[ブラチスラヴァ県]]||style="text-align:right"|437,725 |- |[[コシツェ]]||[[コシツェ県]]||style="text-align:right"|238,593 |- |[[プレショフ]]||[[プレショフ県]]||style="text-align:right"|88,464 |- |[[ジリナ]]||[[ジリナ県]]||style="text-align:right"|80,727 |- |[[バンスカー・ビストリツァ]]||[[バンスカー・ビストリツァ県]]||style="text-align:right"|78,084 |- |[[ニトラ]]||[[ニトラ県]]||style="text-align:right"|76,533 |- |[[トルナヴァ]]||[[トルナヴァ県]]||style="text-align:right"|65,033 |- |[[トレンチーン]]||[[トレンチーン県]]||style="text-align:right"|55,383 |- |[[マルチン (スロバキア)|マルチン]]||[[ジリナ県]]||style="text-align:right"|54,168 |- |[[ポプラト]]||[[プレショフ県]]||style="text-align:right"|51,235 |} == 経済 == [[ファイル:Bratislava Panorama R01.jpg|thumb|首都[[ブラチスラヴァ]]]] {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの経済|en|Economy of Slovakia}}}} 工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国だったが、最近では[[フランス]]の[[PSA・プジョーシトロエン]]や[[大韓民国|韓国]]の[[起亜自動車]]が工場を設立している。2009年1月1日に通貨を[[スロバキア・コルナ]]から[[ユーロ]]に切り替えた。 === 鉱業 === {{節スタブ}} スロバキアは[[マグネシウム]]を中心とした無機鉱物資源に恵まれている。マグネシウムの産出量は2016年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。鉄鉱、金鉱も採掘されている。有機鉱物資源は342万トンの亜炭・[[褐炭]]が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。 == 交通 == {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの交通|en|Transport in Slovakia}}}} {{See also|スロバキアの都市交通}} === 道路 === {{See also|{{仮リンク|スロバキアの高速道路|en|Highways in Slovakia}}|{{仮リンク|Road I/50 (スロバキア)|en|Road I/50 (Slovakia)}}|{{仮リンク|スロバキア道路管理局|sk|Slovenská správa ciest}}}} === 鉄道 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの鉄道|en|Rail transport in Slovakia}}|スロバキア国鉄}} {{See also|{{仮リンク|スロバキアの鉄道の歴史|sk|Dejiny železníc na Slovensku}}|ブラチスラヴァ-セレジュ市街間馬車鉄道}} === 空港 === {{See also|スロバキアの空港の一覧}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|スロバキアの人口統計|sk|Demografia Slovenska|en|Demographics of Slovakia}}}} === 住民 === [[File:Carpathian Bazaar of Tastes, Sanok 2010 97.JPG|thumb|180px|東スロバキアの民族衣装を着た人々 <br> 2010年に撮影]] [[File:Ceskoslovensko1929Books61.JPG|thumb|180px|スロバキアの民族衣装をまとった女性(1920年)]] 2001年の国勢調査による民族構成は、[[スロバキア人]]が85.8%、[[マジャル人]]が9.7%、[[ロマ|ロマ人]]が1.7%、[[チェコ人|チェック人]]が0.8%である。このほか、チェック人ではなく[[モラヴィア人]]、[[シレジア人]]としてのメンタリティーを持っているもの、[[ルテニア人]]・[[ウクライナ人]]、[[ドイツ人]]、[[ポーランド人]]、[[クロアチア人]]がいるがその総数はおよそ2%である。[[ロマ|ロマ人]]は、スロバキアの全人口の約9%を占めるという報道もあり<ref>{{Cite news |author=瀬能繁 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0505H_W1A400C1EB1000/ |title=EU、ロマ人の統合促進で国別戦略策定へ |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher= |date=2011-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210816141949/https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0505H_W1A400C1EB1000/ |archivedate=2021-08-16 }}</ref>、[[世界銀行]]による推計では、人口に占める[[ロマ|ロマ人]]の割合は約9%から約11%に達するとみられている<ref>{{Cite news |author=|url=http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/ECAEXT/EXTROMA/0,,contentMDK:20333806~menuPK:615999~pagePK:64168445~piPK:64168309~theSitePK:615987,00.html |title=About the Roma |newspaper= |publisher=[[世界銀行]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060824055025/http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/ECAEXT/EXTROMA/0,,contentMDK:20333806~menuPK:615999~pagePK:64168445~piPK:64168309~theSitePK:615987,00.html |archivedate=2006-08-24 }}</ref>。 現代のスロバキアは比較的均一性の高い[[国民国家]]としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、[[ドイツ人]]([[ドイツ植民]])、[[ルテニア人]](ハンガリー王国に流れ込んだ[[ウクライナ人]])、[[ロマ]](ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらには[[ユダヤ人]]の[[共同体|コミュニティ]]も多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外に[[ハンガリー語]]の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。 マジャル人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとして[[ハンガリー王国]]の領域に完全に組み込まれていたためである。スロバキア人は元来山岳民族であり、特に[[プスタ|ハンガリー平原]]に連続する南部平地部の住民はほとんどすべてハンガリー系住民であった。またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)はさまざまである。1919年の[[サン=ジェルマン条約]]で[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー帝国]]が、1920年の[[トリアノン条約]]で[[ハンガリー王国]]の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった([[ドナウ連邦構想]]))、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きくえぐり取り、チェコと合併した形で独立を果たした。この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいてもっとも大きいマイノリティー集団となっている。ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に[[ドイツ人追放|追放]]された。ユダヤ人については、ほかの中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼすべてが消滅した。 === 言語 === 言語は[[スロバキア語]]が[[公用語]]である。また、一部で[[ハンガリー語]]も使われている。また[[ドイツ語]]が話せる世代も多い。[[英語]]は通じないことが多い<ref name=hane>。[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081000211&g=spo 父に感謝の銅メダル=カヌー初の快挙、羽根田卓也選手〔五輪・カヌー〕:時事ドットコム]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|スロバキアの宗教|en|Religion in Slovakia}}}} 2004年の調査によると[[カトリック教会|カトリック]]がもっとも多く60.3%を占める。次いで宗教的メンタリティを持たないものが9.7%、[[プロテスタント]]が8.4%、[[東方典礼カトリック教会|ギリシャ・カトリック]]が4.1%、[[東方正教会]]が4.1%などである。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Slovakia}}}} === 教育 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの教育|sk|Národnostné školstvo v Slovenskej republike|en|Education in Slovakia}}}} [[義務教育]]は10年となっている。1990年代以降は教会所有の[[私立学校]]も増えて来ている。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアの大学の一覧|en|List of universities and colleges in Slovakia}}}} === 保健 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの保健|en|Health in Slovakia}}}} スロバキアは[[伝染病]]に悩まされている面を持つ。伝染病による死亡率は2015年時点で、ヨーロッパにおいて4番目(人口10万人あたり35人)の高さを示している。 ==== 医療 ==== {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの医療|en|Healthcare in Slovakia}}}} == 社会 == {{節スタブ}} スロバキアはヨーロッパで17番目に[[汚職]]の多い国であり、海外諸国から「政治および司法制度が腐敗している」との激しい批判があった。特に、2011年12月に発生した{{仮リンク|ゴリラ・スキャンダル|en|Gorilla scandal}}においては抗議運動が生起するほどの騒動となった。現在も、ヨーロッパにおいて汚職が目立つ国家の一つとして注視されている面がある。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアにおける汚職|en|Corruption in Slovakia}}}} === 法律 === {{main|{{仮リンク|スロバキアの法律|en|Law of Slovakia}}}} {{See also|{{仮リンク|スロバキアにおける終身刑|en|Life imprisonment in Slovakia}}}} == 治安 == {{節スタブ}} スロバキアの治安は同国内務省の発表によれば、2019年中の[[犯罪]]件数が58,829件で、前年と比較して2,563件減少しているとされる。近年、スロバキアの犯罪件数は減少傾向にあり、近隣諸国と比べて治安情勢が悪いということはないものの、犯罪の類型としては、[[置き引き]]や集団[[スリ]]、[[車上荒らし]]、[[空き巣]]などの一般犯罪が目立っており、同国に滞在する際には特にこれらの犯罪に注意を払う必要が求められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_184.html|title=スロバキア 安全対策基礎データ|accessdate=2021-12-19|publisher=外務省}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアにおける犯罪|en|Crime in Slovakia}}}} === 警察 === {{節スタブ}} スロバキアにおける公安任務は、現地警察({{仮リンク|スロバキア警察隊|label=警察隊|sk|Policajný zbor}}と市町村警察)および[[国家憲兵|憲兵]]によって実施されている。 === 人権 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアにおける人権|fr|Droits de l'homme en Slovaquie}}}} == マスコミ == {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアのメディア|en|Mass media in Slovakia}}}} {{See also|{{仮リンク|スロバキアの通信|en|Telecommunications in Slovakia}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|スロバキアの文化|en|Culture of Slovakia}}}} === 食文化 === {{節スタブ}} {{main|スロバキア料理}} * ワインについては[[スロバキアワイン]]、ビールについては{{仮リンク|スロバキアのビール|en|Beer in Slovakia}}を参照。 === 文学 === [[File:Bozetech Klemens Stur.jpg|thumb|right|150px|[[リュドヴィート・シュトゥール]]]] {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキア文学|en|Slovak literature}}}} [[リュドヴィート・シュトゥール]]は、[[オーストリア帝国]]出身の[[ハンガリー人]]だが、スロバキアの[[言語学者]]として活動していた === 音楽 === [[File:Hontianska parada 2003-DSC01328.JPG|right|thumb|スロバキア舞踊を披露する人々]] [[File:Fujaro ludado tuta bildo.jpg|right|thumb|[[フヤラ]]はスロバキアの伝統的な[[木管楽器]]であり、[[羊飼い]]の[[笛]]が基となっている]] {{main|{{仮リンク|スロバキアの音楽|en|Music of Slovakia}}}} スロバキアの音楽は近隣国家地域の音楽文化の影響を受けている面を持っている。 また、歴史的に数々の音楽家や楽団を輩出して来ている。 {{See also|{{仮リンク|スロバキアの民俗音楽|en|Slovak folk music}}}} ; 作曲家 *[[アレクサンデル・モイゼス]] *[[エウゲン・スホニュ]] *[[ヤーン・ツィケル]] *[[ヴラディミール・ゴダール]] *[[ペテル・マハイジック]] ; オーケストラ *[[スロバキア・フィルハーモニー管弦楽団]] *[[スロバキア放送交響楽団]] *[[スロヴァキア国立コシツェ・フィルハーモニー管弦楽団|スロバキア国立コシツェ・フィルハーモニー管弦楽団]] {{See also|{{仮リンク|スロバキアにおけるポピュラー音楽|en|Slovak popular music}}}} === 美術 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの芸術|sk|Slovenské umenie}}}} {{See also|{{仮リンク|スロバキアの美術館の一覧|en|List of museums in Slovakia}}}} === 映画 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの映画|en|Cinema of Slovakia}}}} === 建築 === [[ファイル:Bodruzal cerkov 1658 ZeliPVL.JPG|thumb|right|{{仮リンク|ボドルジャル|sk|Bodružal|cs|Bodružal}}に在る{{仮リンク|聖ニコラス教会 (ボドルジャル)|label=聖ニコラス教会|sk|Chrám svätého Mikuláša (Bodružal)|cs|Chrám svatého Mikuláše (Bodružal)}} <br> この木造教会は、[[ルシン]]の民俗建築の一例であり、世界遺産にも登録されている。]] {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スロバキアの建築|sk|Slovenská architektúra|en|Architecture of Slovakia}}}} {{See also|{{仮リンク|スロバキアの民俗建築|sk|Ľudová architektúra na Slovensku}}|{{仮リンク|スロバキアの木造建築|sk|Drevená sakrálna architektúra na Slovensku}}|{{仮リンク|野外博物館 (スロバキア)|sk|Skanzen}}}} === 世界遺産 === {{Main|スロバキアの世界遺産}} スロバキア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が4件、さらにウクライナにまたがって1件の[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。 <gallery> ファイル:Vlkolinec 2 Slovakia.jpg|[[ヴルコリニェツ]] ファイル:SK BS Trinity Square.PNG|[[バンスカー・シュチャヴニツァ]] ファイル:Spissky Hrad-LV-2.jpg|[[スピシュスキー城]] ファイル:Bardejov10Slovakia6.JPG|[[バルデヨフ]] ファイル:Tvrdošín - kostol.jpg|トゥヴルドシーンの諸聖人教会 ファイル:Domica Cave 20.jpg|[[アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群]] ファイル:Svydovec, zákopy.jpg|[[カルパティア山脈のブナ原生林]] </gallery> === 祝休日 === {{main|{{仮リンク|スロバキアの祝日|en|Public holidays in Slovakia|sk|Zoznam sviatkov na Slovensku}}}} 国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日<ref group="注釈">{{lang-sk|Štátne sviatky}}</ref>、国民の休日<ref group="注釈">{{lang-sk|Dni pracovného pokoja}}</ref>は次の通り。 ==== 国家の祝日 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" !日付!!日本語!!スロバキア語!!備考 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}1月{{0}}1日||スロバキア共和国記念日||{{lang|sk|Deň vzniku Slovenskej republiky}}||[[チェコスロバキア]][[ビロード離婚|連邦制解消]](1993年1月1日)にともなう主権国家スロバキア共和国の誕生を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}7月{{0}}5日||聖キュリロスと聖メトディオスの日||{{lang|sk|Sviatok svätého Cyrila a svätého Metoda}}||[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]が[[キリスト教]]と[[キリル文字]]をもたらしたことを記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}8月29日||[[スロバキア民衆蜂起|スロバキア国民蜂起]]記念日||{{lang|sk|Výročie Slovenského národného povstania}}||1944年8月29日にナチス・ドイツ傀儡政権([[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]])に対して蜂起したスロバキア国民蜂起(SNP)を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}9月{{0}}1日||{{仮リンク|スロバキア憲法記念日|label=憲法記念日|sk|Deň Ústavy Slovenskej republiky}}||{{lang|sk|Deň Ústavy Slovenskej republiky}}||スロバキア国民評議会(SNR)による1992年の同日のスロバキア共和国憲法の採択と制定を記念 |- |style="white-space:nowrap"|11月17日||自由と民主主義のための戦いの日||{{lang|sk|Deň boja za slobodu a demokraciu}}||1939年11月17日にナチス・ドイツに抵抗して殺害されたチェコ人学生と、1989年の同日に始まった[[ビロード革命]]を記念(旧・国際学生記念日) |} ; 過去の国家の祝日 {|class="wikitable" style="font-size:small" !日付!!日本語!!スロバキア語!!備考 |- |style="white-space:nowrap"|10月28日||チェコスロバキア国家独立記念日||{{lang|sk|Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu}}||1918年のチェコスロバキア第一共和国独立を記念。1993年以降、記念日として平日扱いに変更。 |- |style="white-space:nowrap"|11月1日||和解の日 - 政治的暴力犠牲者追悼の日||{{lang|sk|Deň zmierenia - Pamiatka obetiam politického násilia}}||2回の世界大戦における戦死者を追悼。1990年以降、「諸聖人の日」(Sviatok všetkých svätých)として国民の休日に変更。 |} ==== 国民の休日 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" !日付!!日本語!!スロバキア語!!備考 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}1月{{0}}6日||公現祭([[東方の三博士|三賢人]]の日)||{{lang|sk|Zjavenie Pána (Sviatok Troch kráľov)}}|| |- |style="white-space:nowrap"|3月 - 4月||大金曜日([[聖金曜日]])||{{lang|sk|Veľký piatok}}||ヴェリュカー・ノッツ({{lang|sk|Veľká noc}}、[[復活祭]]) |- |style="white-space:nowrap"|3月 - 4月||復活祭の月曜日||{{lang|sk|Veľkonočný pondelok}}||イースターマンデー(復活祭後最初の月曜日) |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}5月{{0}}1日||労働の休日||{{lang|sk|Sviatok práce}}||[[メーデー]] |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}5月{{0}}8日||対ファシズム勝利の日||{{lang|sk|Deň víťazstva nad fašizmom}}||1945年5月8日のナチス・ドイツ傀儡政権(スロバキア共和国)降伏と欧州戦線終結を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}9月15日||聖母マリアの日||{{lang|sk|Sedembolestná Panna Mária}}|| |- |style="white-space:nowrap"|11月{{0}}1日||諸聖人の日||{{lang|sk|Sviatok všetkých svätých}}||社会主義時代は「和解の日」({{lang|sk|Deň zmierenia}}) |- |style="white-space:nowrap"|12月24日||豊かな日||{{lang|sk|Štedrý deň}}||[[クリスマス・イヴ]] |- |style="white-space:nowrap"|12月25日||第一[[クリスマス]]休日||{{lang|sk|prvý sviatok vianočný}}||クリスマス |- |style="white-space:nowrap"|12月26日||第二クリスマス休日||{{lang|sk|druhý sviatok vianočný}}||[[ボクシング・デー]] |} === 記念日 === 国家祝休日および記念日法に定める記念日({{lang|sk|Pamätné dni}})は次の通り。平日扱いとなる。 {|class="wikitable" style="font-size:small" !日付!!日本語!!スロバキア語!!備考 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}3月25日||人権のための戦いの日||{{lang|sk|Deň zápasu za ľudské práva}}||1988年にブラチスラヴァ市でカトリック教徒が開いた反体制集会が強制的に排除解散させられた事件を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}4月13日||不当迫害の日||{{lang|sk|Deň nespravodlivo stíhaných}}||1950年に[[チェコスロバキア共産党]]によって国内の修道院の大半が強制的に廃止された事件を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}5月{{0}}4日||シュテファーニク追悼記念日||{{lang|sk|Výročie úmrtia M. R. Štefánika}}||チェコスロバキア独立運動の中心となったスロバキア人軍人[[ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク]](1919年事故死)を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}6月{{0}}7日||スロバキア民族の覚書記念日||{{lang|sk|Výročie Memoranda národa slovenského}}||1861年にスロバキア人の自治地域を要求して[[マルチン (スロバキア)|マルチン]]で宣言された「スロバキア民族の覚書」(Memorandum národa slovenského)を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}7月{{0}}5日||在外スロバキア人の日||{{lang|sk|Deň zahraničných Slovákov}}||国家祝日の「聖キュリロスと聖メトディオスの日」に合わせ、国外在住のスロバキア人移民をたたえる |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}7月17日||スロバキア共和国独立宣言記念日||{{lang|sk|Výročie deklarácie o zvrchovanosti SR}}||1992年にスロバキア国民議会(現・[[スロバキア共和国国民議会]])が行ったスロバキア共和国の国家主権宣言採択を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}8月{{0}}4日||マチツァ・スロベンスカーの日||{{lang|sk|Deň Matice Slovenskej}}||1863年に[[マルチン (スロバキア)|マルチン]]で設立された民族文化団体「マチツァ・スロベンスカー」(Matica slovenská)を記念 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}9月{{0}}9日||ホロコーストと人種差別暴力犠牲者の日||{{lang|sk|Deň obetí holokaustu a rasového násilia}}||1941年9月にナチス・ドイツが設置したガランタ郡セレジュ市の強制収容所におけるユダヤ人およびスロバキア人の犠牲者を追悼 |- |style="white-space:nowrap"|{{0}}9月19日||スロバキア国民議会の日||{{lang|sk|Deň vzniku Slovenskej národnej rady}}||スロバキア民族の独立を目指して1848年に設立された「スロバキア国民議会」(第一議会)を記念 |- |style="white-space:nowrap"|10月{{0}}6日||デュクラ峠犠牲者の日||{{lang|sk|Deň obetí Dukly}}||1944年にスロバキア解放を目的にスロバキア・ポーランド国境のデュクラ峠でソ連軍が行った対ドイツ戦の犠牲者を追悼 |- |style="white-space:nowrap"|10月27日||チェルノヴァーの悲劇の日||{{lang|sk|Deň černovskej tragédie}}||1907年にチェルノヴァー村(現・[[ルジョムベロク]]市チェルノヴァー街区)でスロバキア人神父が率いるデモ隊にハンガリー憲兵隊が銃撃し殺害された15人を追悼 |- |style="white-space:nowrap"|10月28日||チェコスロバキア国家独立記念日||{{lang|sk|Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu}}||1918年にプラハで行われたチェコスロバキア国家独立宣言を記念。1992年までは国家の祝日 |- |style="white-space:nowrap"|10月29日||シュトゥール誕生の日||{{lang|sk|Deň narodenia Ľ. Štúra}}||1843年にスロバキア語の文語を作り普及させた言語学者リュドヴィート・シュトゥールの誕生日を記念 |- |style="white-space:nowrap"|10月31日||[[宗教改革記念日|宗教改革の日]]||{{lang|sk|Deň reformácie}}||1517年に[[マルティン・ルター]]がローマ教会の堕落に抗議して[[95ヶ条の論題]]を公表したことを記念 |- |style="white-space:nowrap"|12月30日||スロバキア教会管区分離の日||{{lang|sk|Deň vyhlásenia Slovenska za samostatnú cirkevnú provinciu}}||1977年にローマ教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]がスロバキアの教会管区昇格を宣言したことを記念 |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|スロバキアのスポーツ|en|Sport in Slovakia}}}} スロバキアでは[[サッカー]]が[[国技]]であり、圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。さらに[[カヌー]]競技の強豪としても知られており、国際大会で主流の人工コースなどの練習環境が充実している。そのため、[[羽根田卓也]]のように自国から練習拠点を移す選手もいる<ref name=hane></ref>。[[スキー]]や[[アイスホッケー]]などの[[ウィンタースポーツ]]も盛んであり、近年は[[ペーター・サガン]]の活躍から[[自転車競技]]の人気も高まるなどしている。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|スロバキアのサッカー|en|Football in Slovakia}}}} [[1993年]]にプロサッカーリーグの[[フォルトゥナ・リーガ]]が創設された。[[サッカースロバキア代表]]は[[チェコ]]との[[ビロード離婚|分離独立]]後、[[FIFAワールドカップ]]には[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]で初出場しベスト16の成績を収めた。[[UEFA欧州選手権]]でも[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]で初出場しベスト16となっている。同国では[[ディフェンダー (サッカー)|センターバック]]のポジションに世界的な選手を輩出しており、[[リヴァプールFC|リヴァプール]]で長年活躍した[[マルティン・シュクルテル]]や、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]で活躍する[[ミラン・シュクリニアル]]などが非常に有名である。 == 著名な出身者 == {{Main|スロバキア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=スロヴェニアを知るための60章|date=2017年9月10日|publisher=明石書店|author=柴宜弘|author2=アンドレイ・ベケシュ|author3=山崎信一編著|ref=柴、ベケシュ、山崎|isbn=978-4-7503-4560-4}} == 関連項目 == *[[スロバキア関係記事の一覧]] *[[ハプスブルク家]] *[[鉱山]] *[[ブラチスラヴァ]] *[[フッガー家]] *[[ドイツ植民]] *[[ハイフン戦争]] == 外部リンク == {{Wiktionary|スロヴァキア|スロバキア}} {{Commons&cat|Slovensko|Slovakia}} {{Wikivoyage|Slovakia}} *[https://www.government.gov.sk/ スロバキア共和国政府] {{sk icon}}{{en icon}} *[https://www.prezident.sk/ スロバキア大統領府] {{sk icon}}{{en icon}} *[https://www.mzv.sk/web/tokio 在日スロバキア大使館] {{sk icon}}{{en icon}} *[https://slovakia.travel/en スロバキア政府観光局] {{sk icon}}{{en icon}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{OIF}} {{CPLP}} {{チェコスロバキアの変遷}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すろはきあ}} [[Category:スロバキア|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]]
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軌間可変電車
日本における軌間可変電車(きかんかへんでんしゃ)とは、電車軌間を線路軌間に変動可能な試験電車。フリーゲージトレイン(Free Gauge Train, FGT) ともいうが、これは和製英語であり、直訳すると「軌間が定まらない列車」となる。英語では Gauge Changeable Train または Gauge Convertible Train (共に直訳で「軌間可変列車」)と呼称される。日本では、主に標準軌(1,435 mm)と狭軌(1,067 mm)の両方の線路上を走行可能な車両を開発すべく、国土交通省の施策で日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の委託によりフリーゲージトレイン技術研究組合が開発を進めていた。 軌間可変は鉄道車両が異なる軌間の線路へ直通できる機構である。車輪を車軸方向にスライドさせる台車を搭載した車両を、軌間の異なる線路を接続するように設置された軌間変換装置を通過することで軌間を変更できる。この技術を用いれば、標準軌の新幹線と狭軌のままの在来線を直通運転する列車を運行できる。また、乗換えが不要となり、利用者の負担軽減を図れる。 全線フル規格新幹線に対しては所要時間の面で格段に劣るが、新規路線の建設用地確保が不要であるため建設コストや建設期間を大幅に抑えられる。また、ミニ新幹線のように改軌による在来線のネットワークの寸断も生じない。このため、実用化に至れば、新在直通乗り入れという同じ効用を得るためのコストとしては、軌間可変電車のほうが格段に低くなる。そのため新規のミニ新幹線が建設される可能性は低くなる。 しかし、1990年代の研究開始以来なお実用化のめどは立っておらず、開発費が嵩んでいる。これまでの試験車両の試験結果では、新幹線区間では目標を達成しているものの、在来線の曲線区間においては、既存の特急列車に比べて速度が最大で40 km/hも低い状態であった。その後新たに開発された新形台車も振動や速度に問題があり、台車の改良は断念された。国土交通省は、この問題の解決のために継ぎ目の少ないレールを導入するとしている。ただ、これはあくまでもレールの継ぎ目を溶接してロングレール化することである。 西九州新幹線(武雄温泉 - 諫早)は、軌間可変電車の実用化を前提として工事が進められていたが、開業予定の2022年度までに実用化できる目処が立たず、九州旅客鉄道は導入を断念した。全面開業のためには、根本的な計画見直しをする必要がある。 第一次試験車両はGCT01-1、GCT01-2、GCT01-3の3両編成。走行試験では新幹線区間でも200 km/hまでしか出せず、車輪が揺れる問題もあった。 この車両の試験にともない、新下関駅構内に直流1,500 V - 交流25 kV(60 Hz)のデッドセクションと軌間可変装置が設置された。また、GCT01は車籍を持っておらず、保守用のモーターカーと同じ扱いとなるため、試験時には線路閉鎖の必要があった。 2007年(平成19年)5月27日、鉄道建設・運輸施設整備支援機構により、JR九州小倉工場で、試験車両が報道公開された。GCT01-201、GCT01-202、GCT01-203の3両編成で、オール電動車(在来線区間交直両用)。車体はアルミニウム合金製。営業運転を意識し、中間車に座席が設けられた。駆動装置は、1次車で直接駆動方式とカルダン駆動方式と2種類設けられたものが、カルダン駆動方式に統一された。一方で、ブレーキシステムはディスクブレーキ(1、2号車)と、原動機内にブレーキを持つばね間ブレーキ(3号車)の2種類が設けられ、双方の有用性をはかる。高速性能を高めるために先頭形状をより抵抗の少ない流線型にし、各種機器の簡素化を図って車体が軽量化された。1、2号車に新在兼用の低騒音集電装置(パンタグラフ)が搭載された。空気ばねが利用された電子制御の車体傾斜装置が備えられた。新車両の開発費は1編成約30億円。 一次車両より軽量化された台車となり、振動、揺れが軽減され、乗り心地の改善が図られている。新幹線区間での最高速度は275km/h、在来線区間で130km/hが目標とされ、前者は270km/h運転を実現した が、在来線のカーブ区間では線路への高負荷のため80km/h程度と目標に及ばなかった。 新八代駅構内に新在直通試験線と交流25kV - 20kV(60 Hz)のデッドセクション、軌間可変装置が設置された。 小倉工場で基本的な安全性を確認したのち、8月までに日豊本線で走行試験が開始される予定であったが、機器類の調整で12月まで延期された。2009年(平成21年)6月に新八代駅構内の新在直通試験線での新在直通試験実施。2009年(平成21年)7月下旬からは九州新幹線鹿児島ルートの新水俣 - 川内間において新幹線区間の走行試験が実施され、最高速度は270km/hだった。しかし、台車に問題が多く、この台車での実用化は断念された。走行試験は2009年(平成21年)末で中断され、2010年(平成22年)現在新たな台車の開発に移行したものの、その「3代目」の台車でも車輪のぶれが発生し、改良が難航していた。9月7日に開かれた国の軌間可変技術評価委員会ではカーブでの走行試験結果について「台車の改良だけでは目標達成は難しい」とし、今後は台車の小型・軽量化と併せ、レールの継ぎ目を少なくする「ロングレール化」やレールの幅など誤差の管理を厳しくする「軌道整正」などの改良を検討し、目標達成を目指す考えを示した。一方、車輪の幅を変える軌間可変機構などの技術は一定の耐久性を確認し「確立のめどが立った」としている。 2011年(平成23年)3月に改良台車が完成し、四国へ送られる。当初は4月から試験走行を開始すると報じられたが、予定より遅れて6月28日に予讃線 多度津 - 坂出間で新しい台車を装着した試験走行がスタートした。8月22日からは多度津 - 多喜浜間でカーブ区間の走行試験を実施。これらの結果などが10月27日の軌間可変技術評価委員会で審議され、急カーブの走行試験は台車の軽量化、ロングレール化などで在来線カーブの目標速度である85 - 130 km/hを達成したことを確認。これにより、課題とされた在来線カーブでの走行試験で目標を達成し「実用化に向けた基本的な走行性能に関する技術は確立している」との評価をまとめた。 12月15日からは予讃線で在来線耐久試験が開始され、2013年9月21日に走行試験終了。それまで計10万kmを走行する。その他、新幹線高速走行試験なども行い、それらの結果を確認し実用化の最終判断を国が2013年度中に行う見通しとされた。 新たな試験用には第三次試験車両が新造されることになり、第二次試験車両は実験を終了した。先頭車の1両は2014年7月20日より、愛媛県西条市の四国鉄道文化館南館で保存展示されている。 営業車両となる三次車両による実用化は当初、2010年(平成22年)とされており遅れていたが、二次車両での結果をふまえ政府は、2012年(平成24年)度予算案に過去最多の61億8700万円を計上し、実用化に向けて二次車両より軽量化・長編成化した三次車両の設計製作に着手した。 2014年9月17日、JR西日本は金沢 - 敦賀間の開業に向けて開発を進めている「北陸ルート仕様」のフリーゲージトレインについて、2014年10月から模擬台車を使った軌間変換試験を始めると発表。2014年度中に北陸ルート仕様の6両編成の試験車両の設計と製作に着手。北陸本線敦賀駅構内に新設する約180メートルの実験線を用いて、模擬台車にけん引車を連結して軌間変換装置を通過させ、変換動作の確認などを行う。試験車両の走行試験は2016年度中に始める。この案は既に不採用決定によってJR西日本から取り下げている。 以下の理由により、九州新幹線(西九州ルート)での営業量産車両は不採用となった。 かつて計画があった都市圏の路線。
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日本における軌間可変電車(きかんかへんでんしゃ)とは、電車軌間を線路軌間に変動可能な試験電車。フリーゲージトレイン ともいうが、これは和製英語であり、直訳すると「軌間が定まらない列車」となる。英語では Gauge Changeable Train または Gauge Convertible Train (共に直訳で「軌間可変列車」)と呼称される。日本では、主に標準軌(1,435 mm)と狭軌(1,067 mm)の両方の線路上を走行可能な車両を開発すべく、国土交通省の施策で日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の委託によりフリーゲージトレイン技術研究組合が開発を進めていた。
{{Otheruses|日本の軌間可変電車(フリーゲイジトレイン)|各国の軌間可変電車およびシステム全般|軌間可変}} {{複数の問題 | 脚注の不足 = 2019年2月 | 出典の明記 = 2023年2月 | 更新 = 2023年2月 }} {{要説明|date=2023-05-11|title=このタグが張り付けられた場合、この記事の第三次試験車両の節の2018年以降の説明を書いてください。}} [[ファイル:Free Gauge Train GCT-01 at kamogawa.jpg|thumb|250px|第一次試験車両([[予讃線]] [[鴨川駅]]にて 2003年(平成15年)5月撮影)]] 日本における'''軌間可変電車'''(きかんかへんでんしゃ)とは、電車[[軌間]]を線路軌間に変動可能な[[試験車|試験電車]]。'''フリーゲージトレイン'''(Free Gauge Train, FGT)<ref>[http://www.jrtt.go.jp/02business/construction/const-fgauge.html フリーゲージトレイン] - [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](更新日不明/2017年9月21日閲覧)</ref> ともいうが、これは[[和製英語]]であり、直訳すると「軌間が定まらない列車」となる。[[英語]]では Gauge Changeable Train または Gauge Convertible Train (共に直訳で「軌間可変列車」)と呼称される。[[日本]]では、主に[[標準軌]](1,435&nbsp;mm)と[[狭軌]](1,067&nbsp;mm)の両方の[[線路 (鉄道)|線路]]上を走行可能な車両を開発すべく、[[国土交通省]]の施策で[[日本鉄道建設公団]](現・[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])の委託によりフリーゲージトレイン技術研究組合が開発を進めていた。 == 概要 == [[軌間可変]]は[[鉄道車両]]が異なる[[軌間]]の線路へ直通できる機構である。[[車輪]]を[[車軸]]方向にスライドさせる[[鉄道車両の台車|台車]]を搭載した車両を、軌間の異なる線路を接続するように設置された軌間変換装置を通過することで軌間を変更できる。この技術を用いれば、標準軌の[[新幹線]]と狭軌のままの[[在来線]]を[[直通運転]]する[[列車]]を運行できる。また、[[乗換駅|乗換え]]が不要となり、利用者の負担軽減を図れる。 全線[[フル規格]]新幹線に対しては所要時間の面で格段に劣るが、新規路線の建設用地確保が不要であるため建設コストや建設期間を大幅に抑えられる。また、[[ミニ新幹線]]のように改軌による在来線の[[鉄道路線|ネットワーク]]の寸断も生じない。このため、[[実用]]化に至れば、[[新幹線直行特急|新在直通乗り入れ]]という同じ効用を得るためのコストとしては、軌間可変電車のほうが格段に低くなる。そのため新規の[[ミニ新幹線]]が建設される可能性は低くなる。 しかし、1990年代の研究開始以来なお[[実用]]化のめどは立っておらず、開発費が嵩んでいる。これまでの試験車両の試験結果では、新幹線区間では目標を達成しているものの、在来線の曲線区間においては、既存の[[特別急行列車|特急列車]]に比べて速度が最大で40 km/hも低い状態であった。その後新たに開発された新形台車も[[振動]]や速度に問題があり、台車の改良は断念された。国土交通省は、この問題の解決のために継ぎ目の少ないレールを導入するとしている。ただ、これはあくまでもレールの継ぎ目を[[溶接]]して[[ロングレール]]化することである。 [[西九州新幹線]]([[武雄温泉駅|武雄温泉]] - [[諫早駅|諫早]])は、軌間可変電車の実用化を前提として工事が進められていたが<ref>{{Cite news|url=http://www.saga-s.co.jp/news/sinkansen.0.2236465.article.html|title=九州新幹線長崎ルート、着工認可 2022年一括開業|newspaper=[[佐賀新聞]]|publisher=佐賀新聞社|date=2012-06-30|accessdate=2017-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170921145459/http://www1.saga-s.co.jp/news/sinkansen.0.2236465.article.html |archivedate=2017-09-21}}</ref>、開業予定の2022年度までに実用化できる目処が立たず、[[九州旅客鉄道]]は導入を断念した<ref name="saga-s20151206">{{Cite news|url=http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/256616|title=22年度全面開業は困難 九州新幹線長崎ルート|newspaper=佐賀新聞|publisher=佐賀新聞社|date=2015-12-05|accessdate=2017-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180723212514/http://www.saga-s.co.jp/articles/-/38758 |archivedate=2018-07-23}}</ref>。全面開業のためには、根本的な計画見直しをする必要がある。 == 開発過程 == === 要素技術開発 === * [[1993年]]([[平成]]5年)3月、[[タルゴ]]社が、日本で台車をつくることについて[[住友金属工業]]に[[軌間可変車軸]]の[[ライセンス生産|ライセンス]]を与えた<ref>{{Cite web |url=https://www.talgo.com/our-history |title=Talgo-our history |access-date=2022/7/17 |publisher=Talgo}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)より[[鉄道総合技術研究所]]が台車や軌間変換の基礎技術開発を進めた。 === 第一次試験車両 === [[ファイル:Free Gauge Train GCT-01.JPG|thumb|200px|[[四国旅客鉄道多度津工場|JR四国多度津工場]]にて保管されている第一次試験車([[2008年]](平成20年)撮影)]] * [[1998年]](平成10年) ** 10月、第一次試験車両(GCT01)が製造された<ref name="交通981027">{{Cite news |title=軌間可変新車両が完成 山陰線で1月試験 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-27 |page=1 }}</ref>。所有は[[鉄道総合技術研究所]](鉄道総研) ** 11月2日、鉄道総研へ搬入され12月まで構内で試験走行{{R|交通981027}} * [[1999年]](平成11年) ** [[1月22日]] - [[1月31日]]、[[山陰本線]]([[米子駅|米子]] - [[安来駅|安来]])で走行試験(100&nbsp;km/h)<ref>{{Cite news |title=22日から山陰線で試験 軌間可変電車 狭軌での安定性見極め |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1999-01-19 |page=1 }}</ref> ** 4月 - [[2001年]](平成13年)1月、[[アメリカ合衆国]][[コロラド州]]にある[[運輸技術センター|運輸技術センター(TTCI)プエブロ実験線]]で、標準軌での[[ストレステスト|高速耐久試験]]を実施。最高速度246 km/h、累積走行距離600,000&nbsp;km、軌間変換回数2000回を達成 * [[2001年]](平成13年) ** 11月、[[日豊本線]]で基本走行試験 ** 12月 - [[2002年]](平成14年)1月、[[新下関駅#その他構内|新下関保守基地]]で軌間変換試験 * [[2002年]](平成14年) ** 2月、日豊本線で基本走行試験 ** 7月 - 9月、新下関保守基地で軌間変換試験 ** 10月 - 11月、日豊本線([[西小倉駅|西小倉]] - [[新田原駅|新田原]]、[[別府駅 (大分県)|別府]] - [[佐伯駅|佐伯]])で在来線の速度向上試験(130&nbsp;km/hを達成) * [[2003年]](平成15年)5月 - 6月、[[予讃線]]で走行試験 * [[2004年]](平成16年)[[8月23日]] - [[10月28日]]、[[山陽新幹線]]で[[新幹線]]での走行試験、[[新山口駅|新山口]] - [[新下関駅|新下関]]間を15回に渡って走行(最高速度210 km/hまでを試験) * [[2006年]](平成18年)までに試験が終了し、[[小倉総合車両センター|JR九州小倉工場]]内に留置されていたが、[[2007年]](平成19年)4月以降は[[四国旅客鉄道多度津工場|JR四国多度津工場]]内に移動。その後も留置されていたが、[[2013年]](平成25年)[[7月23日]]から[[解体]]が始まった<ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2013年7月25日 |url=http://railf.jp/news/2013/07/25/170000.html |title=フリーゲージトレイン1次車の解体が始まる |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018年2月11日}}</ref>。 第一次試験車両はGCT01-1、GCT01-2、GCT01-3の3両編成。走行試験では新幹線区間でも200 km/hまでしか出せず、車輪が揺れる問題もあった<ref name="nishinippon_20100820">[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/192047 九州新幹線長崎ルート フリーゲージ開発 また難航 新型台車にも不具合 開業に遅れる恐れ]{{リンク切れ|date=2014年10月}} - [[西日本新聞]] 2010年8月20日付</ref>。 この車両の試験にともない、新下関駅構内に直流1,500 V - 交流25 kV(60&nbsp;Hz)の[[デッドセクション]]と軌間可変装置が設置された。また、GCT01は車籍を持っておらず、[[保線|保守]]用の[[モーターカー]]と同じ扱いとなるため、試験時には[[線路閉鎖]]の必要があった。 === 第二次試験車両 === [[ファイル:FGT Kan-onji.jpg|thumb|200px|予讃線で在来線耐久試験を行う第二次試験車([[2012年]](平成24年)撮影)]] * 2002年(平成14年)8月、フリーゲージトレイン技術研究組合発足 * 2003年(平成15年)、二次車両開発着手 * 2006年(平成18年)10月、JR四国多度津工場にて二次車両の台車走行試験 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月5日]] - [[3月7日|7日]]深夜、[[東京都]][[国分寺市]]の鉄道総研から小倉工場へ[[車両輸送|輸送]] ** [[12月9日]] 小倉工場 - 西小倉駅間で在来線の走行試験を開始 * [[2009年]](平成21年) ** [[5月18日]] - [[5月19日|19日]]深夜、小倉工場から熊本操車場に[[回送]] ** 6月、不定期で[[新八代駅]]構内の軌間変換試験 ** [[6月22日]] - [[6月23日|23日]]深夜、熊本操車場から小倉工場に向けて回送 ** 7月、[[九州新幹線]]内で実験 * [[2010年]](平成22年)9月、軌間可変技術評価委員会で軌間可変機構などの技術確立をしたと評価 * [[2011年]](平成23年) ** 3月、JR四国多度津工場に回送・改良台車完成 ** 6月、予讃線での試験走行を開始 ** 10月、軌間可変技術評価委員会で急曲線目標達成確認・軌間可変電車の基本技術を確立したと評価 ** 12月、予讃線で在来線耐久試験を開始 * [[2013年]](平成25年) ** 2月、予讃線多度津 - 伊予三島間で実施されていた走行実験の区間が2月12日から多度津-松山間に延長された<ref name="ehimeshinbunonline">{{cite news |title = フリーゲージトレイン走行試験開始で式典 松山 |url = http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20130213/news20130213868.html |newspaper = [[愛媛新聞]] |date = 2013年2月13日 | accessdate = 2013年3月9日}}</ref><ref name="ehimekentyou">[https://web.archive.org/web/20130218043954/http://www.pref.ehime.jp/h12300/event/fgt-matsuyama.html フリーゲージトレイン試験車両 松山走行記念式典」の開催について]、愛媛県、2013年2月12日付。</ref>。 [[2007年]](平成19年)[[5月27日]]、[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]により、JR九州小倉工場で、試験車両が報道公開された。GCT01-201、GCT01-202、GCT01-203の3両編成で、オール電動車(在来線区間交直両用)。車体は[[アルミニウム]]合金製。営業運転を意識し、中間車に座席が設けられた。駆動装置は、1次車で[[ダイレクトドライブ|直接駆動方式]]と[[カルダン駆動方式]]と2種類設けられたものが、カルダン駆動方式に統一された。一方で、ブレーキシステムは[[ディスクブレーキ]](1、2号車)と、原動機内にブレーキを持つばね間ブレーキ(3号車)の2種類が設けられ、双方の有用性をはかる。高速性能を高めるために先頭形状をより抵抗の少ない流線型にし、各種機器の簡素化を図って車体が軽量化された。1、2号車に新在兼用の低騒音[[集電装置|集電装置(パンタグラフ)]]が搭載された。空気ばねが利用された電子制御の車体傾斜装置が備えられた。新車両の開発費は1編成約30億円。 一次車両より軽量化された台車となり、振動、揺れが軽減され、乗り心地の改善が図られている。新幹線区間での最高速度は275km/h、在来線区間で130km/hが目標とされ、前者は270km/h運転を実現した<ref name="nishinippon_20100820" /> が、在来線のカーブ区間では線路への高負荷のため80km/h程度と目標に及ばなかった<ref name="nishinippon_20100820" />。 新八代駅構内に新在直通試験線と交流25kV - 20kV(60&nbsp;Hz)のデッドセクション、軌間可変装置が設置された。 小倉工場で基本的な安全性を確認したのち、8月までに日豊本線で走行試験が開始される予定であったが、機器類の調整で12月まで延期された。[[2009年]](平成21年)6月に新八代駅構内の新在直通試験線での新在直通試験実施。[[2009年]](平成21年)7月下旬からは[[九州新幹線|九州新幹線鹿児島ルート]]の[[新水俣駅|新水俣]] - [[川内駅 (鹿児島県)|川内]]間において新幹線区間の走行試験が実施され、最高速度は270km/hだった。しかし、台車に問題が多く、この台車での実用化は断念された<ref name="nishinippon_20100820" />。走行試験は2009年(平成21年)末で中断され、[[2010年]](平成22年)現在新たな台車の開発に移行したものの、その「3代目」の台車でも車輪のぶれが発生し、改良が難航していた<ref name="nishinippon_20100820" />。[[9月7日]]に開かれた国の軌間可変技術評価委員会ではカーブでの走行試験結果について「台車の改良だけでは目標達成は難しい」とし、今後は台車の小型・軽量化と併せ、レールの継ぎ目を少なくする「ロングレール化」やレールの幅など誤差の管理を厳しくする「軌道整正」などの改良を検討し、目標達成を目指す考えを示した。一方、車輪の幅を変える軌間可変機構などの技術は一定の耐久性を確認し「確立のめどが立った」としている<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sinkansen/kiji/102.shtml フリーゲージトレイン実用化へはレールも改良必要 国交省技術評価委]{{リンク切れ|date=2014年10月}} [[長崎新聞]] [[2010年]]([[平成]]22年)[[9月8日]]</ref>。 [[2011年]](平成23年)3月に改良台車が完成し、四国へ送られる。当初は4月から試験走行を開始すると報じられたが<ref>[http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/social/article.aspx?id=20110310000210 フリーゲージトレイン四国上陸/4月に走行試験] [[四国新聞]] [[2011年]](平成23年)[[3月10日]]{{リンク切れ|date=2019年2月}}</ref>、予定より遅れて[[6月28日]]に[[予讃線]] [[多度津駅|多度津]] - [[坂出駅|坂出]]間で新しい台車を装着した試験走行がスタートした<ref name="shikoku110629">[https://archive.today/2013.05.01-142033/http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/economy/20110629000157 深夜の予讃線で走行試験/フリーゲージトレイン] 四国新聞 2011年(平成23年)[[6月29日]]</ref><ref name="nishinippon110704">[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/251826 フリーゲージ開発正念場 長崎ルート計画に影響も]{{リンク切れ|date=2014年10月}} [[西日本新聞]] 2011年(平成23年)[[7月4日]]</ref>。[[8月22日]]からは多度津 - 多喜浜間でカーブ区間の走行試験を実施<ref>[https://web.archive.org/web/20120131211505/http://www.nagasaki-np.co.jp/news/sinkansen/2011/09/22090400.shtml フリーゲージトレインの曲線走行試験が終了 11月、評価委に結果報告] 長崎新聞 2011年(平成23年)[[9月16日]]</ref>。これらの結果などが[[10月27日]]の軌間可変技術評価委員会で審議され、急カーブの走行試験は台車の軽量化、ロングレール化などで在来線カーブの目標速度である85 - 130&nbsp;km/hを達成したことを確認。これにより、課題とされた在来線カーブでの走行試験で目標を達成し「実用化に向けた基本的な走行性能に関する技術は確立している」との評価をまとめた<ref>[https://web.archive.org/web/20120131180827/http://www.nagasaki-np.co.jp/news/sinkansen/2011/10/28092428.shtml FGT「基本技術確立」 国交省評価委、経済性など今後検証] 長崎新聞 2011年(平成23年)[[10月28日]]</ref><ref>[http://www.mlit.go.jp/common/000170877.pdf 軌間可変技術評価委員会 別添資料] 2011年(平成23年)[[10月27日]]</ref>。 12月15日からは予讃線で在来線耐久試験が開始され、2013年9月21日に走行試験終了。それまで計10万kmを走行する<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20111214/04.shtml あすから予讃線でフリーゲージトレイン耐久試験 実用化へ最終関門]{{リンク切れ|date=2014年10月}} 長崎新聞 2011年(平成23年)[[12月14日]]</ref>。その他、新幹線高速走行試験なども行い、それらの結果を確認し実用化の最終判断を国が2013年度中に行う見通しとされた。 * [[2014年]](平成26年) ** [[2月26日]] - [[国土交通省|国交省]]の技術評価委員会は、約7万キロの耐久走行試験などの結果を踏まえ、「基本的な耐久性能の確保にめどがついた」と判断した<ref name="response20140227">{{cite news |title = フリーゲージトレイン技術開発評価委員会…「基本的な耐久性確保にメド」 |url = http://response.jp/article/2014/02/27/218126.html |publisher = [[Response.]] |date = 2014年2月27日 | accessdate = 2014年3月17日}}</ref><ref name="saga20140227">{{cite news |title = FGT耐久性めど 7万キロ走行で判断 |url = http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2639735.article.html |publisher = [[佐賀新聞]] |date = 2014年2月27日 | accessdate = 2014年3月17日}}</ref>。今後は新幹線軌道と在来線軌道を繰り返し走行する「3モード耐久走行試験」へと移り、実用化に向けた最終段階に入る<ref name="response20140227"/><ref name="saga20140227"/>。 新たな試験用には第三次試験車両が新造されることになり、第二次試験車両は実験を終了した。先頭車の1両は2014年7月20日より、[[愛媛県]][[西条市]]の[[四国鉄道文化館]]南館で保存展示されている<ref>[http://s-trp.lekumo.biz/info/2014/07/72011-8555.html 四国鉄道文化館南館 7月20日(日)11時オープン!] - 鉄道歴史パーク in SAIJO(2014年7月20日)</ref>。 === 第三次試験車両 === [[File:FGT-9000 Matsubase 20141118.jpg|thumb|200px|三代目フリーゲージトレイン([[松橋駅]])]] 営業車両となる三次車両による実用化は当初、2010年(平成22年)とされており遅れていたが、二次車両での結果をふまえ政府は、[[2012年]](平成24年)度予算案に過去最多の61億8700万円を計上し、実用化に向けて二次車両より軽量化・長編成化した三次車両の設計製作に着手した<ref>[https://web.archive.org/web/20140308175723/http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2107533.article.html 諫干開門関連に48億4千万円 政府予算案、県関係分] 佐賀新聞 2011年(平成23年)[[12月25日]]</ref>。 * 2014年2月21日、中間車1両が日立製作所笠戸事業所より川崎重工兵庫工場へ航送された。 * 2014年4月19日、JR九州[[熊本総合車両所]]にて三次車両が報道陣に公開された<ref>[http://response.jp/article/2014/04/19/221595.html フリーゲージトレイン新試験車両、熊本で報道公開] レスポンス2014年4月19日</ref>。「FGT-9001」(1号車)・「FGT-9002」(2号車)・「FGT-9003」(3号車)・「FGT-9004」(4号車)の4両編成で全電動車(直流区間は非対応)。製造メーカーは1・3・4号車が川崎重工業、2号車が日立製作所。外観は、「ディープレッド」と「シャンパンゴールド」の2色でまとめられている。先頭車はなめらかな流線形で、側面に「FGT」のロゴが入る。車内も赤を基調とした内装になった<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140419-a133/ 九州新幹線・在来線で走行可能、フリーゲージトレイン新試験車両を公開!] [[マイナビニュース]] 2014年(平成26年)[[4月19日]]</ref>。なお、座席は[[新幹線300系電車|300系]]からの廃車発生品(モケット張替)の流用である。[[炭素繊維]]強化プラスチックを使うなどして、これまでの車両より1両当たり約2トン(4%)軽くなり<ref name="nikkei20140420">{{cite news |title = フリーゲージトレイン新車両公開 JR九州、長崎導入へ準備 |url = http://www.nikkei.com/article/DGXNASJC1901H_Z10C14A4ACY000/ |publisher = [[日本経済新聞]] |date = 2014年4月20日 | accessdate = 2014年4月23日}}</ref>、通常の新幹線並みの43トンを実現<ref name="sankei20140502">{{cite news |title = 迷走するフリーゲージトレイン 長崎新幹線、地元から「ノー」の声 |url = http://sankei.jp.msn.com/region/news/140502/ngs14050202090001-n1.htm |publisher = [[産経新聞]] |date = 2014年5月2日 | accessdate = 2014年5月27日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141025084648/http://www.sankei.com/region/news/140502/rgn1405020054-n1.html |archivedate=2014-10-25}}</ref>(新幹線[[新幹線N700系電車|N700系]]の1両あたり平均重量は43トン、東北新幹線[[新幹線E5系電車|E5系]]は同45トン)<ref name="toyokeizai20140430">{{cite news |title = お目見えしたフリーゲージ車両の実力と課題 |url = http://toyokeizai.net/articles/-/36540?page=2 |publisher = [[東洋経済新報社]] |date = 2014年4月30日 | accessdate = 2014年5月27日}}</ref>、FGT最大の弱点といわれた重量問題を克服している<ref name="sankei20140502"/>。電機品は[[東芝]]が担当した<ref>{{PDFlink|[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2015/06/70_06pdf/f04.pdf 「フリーゲージトレイン新試験車両用電気品」]}} - 東芝レビュー2015年6月一般論文。</ref>。 * 2014年4月20日、[[熊本県]]内で走行試験を開始した<ref name="response20140421">{{cite news |title = 新しいフリーゲージトレイン試験車、そのスペックは? |url = http://response.jp/article/2014/04/21/221703.html |publisher = [[Response.]] |date = 2014年4月21日 | accessdate = 2014年4月23日}}</ref><ref name="asahi20140420">{{cite news |title = フリーゲージ走行試験 九州新幹線長崎ルート導入目指す |url = http://www.asahi.com/articles/ASG4K5FKYG4KTIPE017.html |publisher = [[朝日新聞]] |date = 2014年4月20日 | accessdate = 2014年4月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140420001728/http://www.asahi.com/articles/ASG4K5FKYG4KTIPE017.html |archivedate=2014-04-20}}</ref>。最高速度は新幹線区間が270km/h、在来線区間が130km/h、新幹線・在来線を結ぶ接続線では50km/h、軌間変換装置の通過時は10km/hで走行する<ref name="response20140421"/>。3年間で新幹線 - 軌間変換 - 在来線を繰り返し走行する「3モード耐久走行試験」を通常の新幹線の検査周期と同じ60万km分行う予定<ref name="response20140421"/><ref name="asahi20140420"/>。 * 2014年8月29日、国土交通省はフリーゲージトレインの開発費に2015年度予算の概算要求で前年度比35%増の28億9700万円を計上し、新たに耐雪・耐寒化の雪対策を施した寒冷地仕様車の開発も始めると発表<ref name="saga20140830">{{cite news |title = 整備新幹線、15年度概算要求 FGT開発に28億円 |url =http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/99319 |publisher = [[佐賀新聞]] |date = 2014年8月30日 | accessdate = 2014年10月25日}}</ref>。 * 2014年10月19日、4月から導入した試験車両が設計通りの性能を持つか確認していたが、結果が良好だったため、より営業運転に近い形での新幹線、軌間変換、在来線を繰り返す「3モード耐久走行試験」へ移行<ref name="saga20141020">{{cite news |title = FGT、直通走行試験開始 実用化へ最終段階 |url =http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/116518 |publisher = [[佐賀新聞]] |date = 2014年10月19日 | accessdate = 2014年10月25日}}</ref><ref name="asahi20141020">{{cite news |title = 熊本)フリーゲージトレインの耐久試験を報道陣に公開 |url =http://www.asahi.com/articles/ASGBM33QCGBMTLVB001.html |publisher = [[朝日新聞]] |date = 2014年10月20日 | accessdate = 2014年10月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141020164646/http://www.asahi.com/articles/ASGBM33QCGBMTLVB001.html |archivedate=2014-10-20}}</ref>。 * 2014年12月24日、耐久走行試験の一時休止を発表<ref name="mynavi20141224">{{cite news |title = 九州新幹線のフリーゲージトレイン、欠損が見つかり耐久走行試験を一時休止 |url =https://news.mynavi.jp/article/20141224-a335/ |publisher = [[マイナビニュース]] |date = 2014年12月24日 | accessdate = 2014年12月27日}}</ref>。2014年11月29日までに約400回の軌間変換を行い、約3万3,000kmを走り込んだが、一部の台車を確認した際に、スラスト軸受のオイルシールに部分的な欠損が発生し、すべり軸受と車軸の接触部に微細な磨耗痕も確認されたため、必要な対策の検討をはじめ、初期段階での部品点検のための詳細調査を実施することになり、その間の走行試験を見合わせることが決まった<ref name="mynavi20141224"/>。 * [[2015年]]8月28日、国土交通省はフリーゲージトレインの開発費に2016年度予算の概算要求で前年度比36%増の27億4600万円を計上<ref name="saga20150828">{{cite news |title = 長崎新幹線概算要求 FGT開発費27億円 |url =http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/223609 |publisher = [[佐賀新聞]] |date = 2015年8月28日 | accessdate = 2015年8月29日}}</ref>。 * 2015年11月27日、[[石井啓一]][[国土交通大臣]]が会見で、トラブルの検証に一定のめどがついたため専門家による検証結果の審議を近く始めると表明<ref name="saga20151127">{{cite news |title = FGT試験中断1年、トラブル検証にめど |url =http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/254331 |publisher = [[佐賀新聞]] |date = 2015年11月28日 | accessdate = 2015年12月27日}}</ref>。 * 2015年12月4日、国土交通省が、不具合の原因推定と対策案を技術評価委員会に報告、内容を公表<ref name="toyokeizai20151204">{{cite news |title = 「フリーゲージ」新幹線が抱えている根本問題 |url =http://toyokeizai.net/articles/-/95480 |publisher = [[東洋経済新報社]] |date = 2015年12月6日 | accessdate = 2015年12月27日}}</ref>。 * 2016年12月3日、車軸の摩耗具合や安定性の検証走行試験を開始<ref name="hokkaidou20161204">{{cite news |title =フリーゲージトレイン、検証走行 来年3月まで摩耗対策確認 |url =http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0344937.html |publisher = [[北海道新聞]] |date = 2016年12月4日 | accessdate = 2016年12月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220033732/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0344937.html |archivedate=2016-12-20}}</ref><ref name="nishinihon20161204">{{cite news |title =FGT走行試験を2年ぶりに再開 九州新幹線の軌道上で |url =http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/293448 |publisher = [[西日本新聞]] |date = 2016年12月4日 | accessdate = 2016年12月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220033020/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/293448 |archivedate=2016-12-20}}</ref>。試験走行再開は試験車両の車軸の不具合で中断してから約2年ぶり<ref name="hokkaidou20161204"/><ref name="nishinihon20161204"/>。2017年3月までレール幅の異なる九州新幹線熊本 - 鹿児島中央と在来線の熊本 - 八代で約1万キロを走らせ、車軸が摩耗しないよう改良した部品の効果を確認し、技術評価委員会が耐久走行試験を再開できるかを判断するとしている<ref name="hokkaidou20161204"/><ref name="nishinihon20161204"/>。 * [[2017年]]7月14日、国土交通省は、台車に改良を加えて2016年12月から実施した走行試験でも車軸に磨耗が見つかったことを明らかにし、2022年度の九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)暫定開業時には、FGTの先行車両導入は間に合わないとの見解を示した<ref name="toyo20170715">{{cite news |title =フリーゲージ、国の見方は「完成へあと一息」 |url =http://toyokeizai.net/articles/-/180747 |publisher = [[東洋経済新報社]] |date = 2017年7月15日 | accessdate = 2017年7月15日}}</ref>。一方で課題だった車軸の磨耗は「従来の100分の1」まで軽減させることに成功したことも明らかにされた<ref name="toyo20170715"/>。 * 2017年7月25日、JR九州の[[青柳俊彦]]社長は、[[与党]]の整備新幹線推進プロジェクトチーム(与党PT)の会合で、「フリーゲージトレインによる運営は困難」だとして、九州新幹線 (西九州ルート)へのフリーゲージトレイン導入を断念すると発表した。フリーゲージトレインは一般の新幹線より車両関連費が2倍前後かかり、全面導入すればJRにとっては年間約50億円の負担増につながると試算されたため「前提である収支採算性が成り立たない」とし、また安全性も「まだ確立できていない状態」であることを理由に述べた。同時に、[[九州新幹線 (西九州ルート)]]博多 - 長崎間全線のフル規格での整備を求める考えも示した<ref>[https://web.archive.org/web/20180612143109/https://www.asahi.com/articles/ASK7T5CR6K7TTIPE035.html?iref=comtop_list_biz_n05 "長崎新幹線、フリーゲージトレイン断念 JR九州が表明]、朝日新聞"(2017年7月25日)</ref>。 * [[2018年]]8月27日、国土交通省はフリーゲージトレインについて、北陸新幹線への導入を断念する方針を明らかにした<ref name="sankei20180828">{{cite news |title = 近鉄に逆風? 国交省が北陸新幹線のフリーゲージトレイン導入断念 開発コスト上昇も |url =https://www.sankei.com/article/20180827-VLTHQ63UBFIQLK2SQY756UU3EA/ |publisher = [[産経新聞]] |date = 2018年08月28日 | accessdate = 2018年09月18日}}</ref><ref name="ITmedia20180615">{{cite news |title = 近鉄のフリーゲージトレインは「第2の名阪特急」になる? |url =https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1806/15/news062.html |publisher = [[ITmedia]] |date = 2018年06月15日 | accessdate = 2018年09月18日}}</ref><ref name="fukuishimbun/684158">{{Cite news |date=2018年8月25日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/684158 |title=北陸新幹線にフリーゲージ断念へ 政府、与党とJR西日本 |publisher=福井新聞社|newspaper=[[福井新聞]]ONLINE |accessdate=2018年8月26日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180825141823/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/684158 |archivedate=2018-08-25 |deadlinkdate= }}</ref>。開発に関しては[[近畿日本鉄道]]が在来線での活用を検討しており、[[日本国政府]]は予算を縮小して開発を続ける<ref name="sankei20180828"/><ref name="ITmedia20180615"/>。 === 寒冷地仕様試験車両 === 2014年9月17日、JR西日本は金沢 - 敦賀間の開業に向けて開発を進めている「北陸ルート仕様」のフリーゲージトレインについて、2014年10月から模擬台車を使った軌間変換試験を始めると発表。2014年度中に北陸ルート仕様の6両編成の試験車両の設計と製作に着手<ref>{{Cite press release|和書|title=模擬台車による軌間変換試験を開始します!フリーゲージトレイン(FGT)の開発状況について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014-09-17 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2014/09/page_6164.html |language=日本語 |accessdate=2018-03-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140917102604/http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/09/page_6164.html |archivedate=2014-09-17}}</ref>。北陸本線敦賀駅構内に新設する約180メートルの実験線を用いて、模擬台車にけん引車を連結して軌間変換装置を通過させ、変換動作の確認などを行う。試験車両の走行試験は2016年度中に始める<ref>{{Cite web|和書|title = 「北陸仕様」のフリーゲージトレイン、2016年度中に走行試験開始へ|url =http://www.nikkan.co.jp/news/nkx1120140923caax.html|publisher = [[日刊工業新聞]]|date = 2014年9月23日| accessdate = 2014年9月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141027133311/http://www.nikkan.co.jp/news/nkx1120140923caax.html |archivedate=2014-10-27|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。この案は既に不採用決定によってJR西日本から取り下げている。 == 実用化に際しての課題 == 以下の理由により、九州新幹線(西九州ルート)での営業量産車両は不採用となった。 * 軌間可変装置の通過時間 ** 軌間可変装置の通過速度向上にも重点が置かれている。開発当初は極端な低速でしか通過できず、1両通過するのに1分以上掛かる状況であった。その場合だと長編成の列車になれば軌間変更に時間が掛かることになり、結局は[[新八代駅]]で行われたような[[対面乗り換え]](当時は九州新幹線の開業区間が新八代以南のみであったため、博多 - 新八代の在来線特急と新八代 - 鹿児島中央の新幹線列車との乗換が必要だった)の方が所要時間(約3分)の面では短いということになる。2009年(平成21年)5月現在、10&nbsp;km/h程度まで通過速度が向上しており(分速166 m程度)単純計算すると20 m級車両なら1分で8両通過できることになるが、実際には様々な要因を含めて通過に要する時間は5分程度とされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/574/271/sankousiryou,0.pdf |title=直通運転化の手法(ミニ新幹線、フリーゲージトレイン)について |format=PDF |publisher=新潟県 |accessdate=2018年2月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053513/http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/574/271/sankousiryou,0.pdf |archivedate=2013-09-21 |deadlinkdate=}}</ref>。 * ダイヤ組成の影響・山陽新幹線の保線負担 ** 九州新幹線(西九州ルート)の運営予定の[[九州旅客鉄道|JR九州]]は「関西からの直通列車が長崎まで来る」ことを計画していた。しかし、山陽新幹線を保有する[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]はダイヤ組成に影響がある点に加えて、台車の重さによって線路の傷みが早くなって線路保守費が増大するなどの問題点からフリーゲージトレインの山陽新幹線乗り入れに難色を示す発言をしていた<ref>{{Cite news |date=2008年11月28日 |url=http://www.asahi.com/national/update/1128/TKY200811280238.html |title=新幹線、山陽と長崎「直通困難」 会見でJR西社長 |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]|agency=asahi.com |accessdate=2017年4月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081201044217/http://www.asahi.com/national/update/1128/TKY200811280238.html |archivedate=2008年12月1日}}</ref><ref>{{Cite news |date=2012年4月12日 |url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/296692 |title=フリーゲージ 山陽乗り入れ JR西日本が難色 |publisher=西日本新聞社 |newspaper=[[西日本新聞]] |accessdate=2017年4月27日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120609172011/http://nishinippon.co.jp/nnp/item/296692 |archivedate=2012年6月9日}}</ref>。[[2022年]]に予定される西九州ルート(長崎ルート)の開業までにこれらの問題点を解決して山陽区間を300 km/hで走行できる車両が実用化できるかが注目されていたが、こちらも第三次試験車両では解決できず、新幹線区間は270 km/hのままとなった<ref name="toyokeizai20151111" /><ref name="toyokeizai/168292">{{Cite web|和書|work=[[鉄道ジャーナル#鉄道ジャーナル社|鉄道ジャーナル社]] |date=2017年4月24日 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/168292 |title=フリーゲージトレイン「試乗」で見えた問題点 |publisher=東洋経済新報社 |accessdate=2017年4月27日<!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170424061941/http://toyokeizai.net/articles/-/168292 |archivedate=2017年4月24日 |deadlinkdate=-->}}</ref>。 * 保安上の問題 ** 新幹線には踏切がないが、在来線には踏切が存在し、2本のレールの間に微弱な電流を流し列車検知を行っている(軌道回路)。しかしながら2008年から2009年にかけて日豊本線で行われた2次車での試験において、踏切接近時に検知できないトラブルが確認された。一般的な列車は車輪と車軸が電気的にも接続されているが、フリーゲージトレインは車軸の間を車輪が動く構造のため、車輪と車軸は別になり、一般の列車と比べると電気が伝わりにくくなり不検知が発生したと考えられる。これは保安上重大な問題であり、鉄道・運輸機構は対策を講じようとしたが、問題を十分に解決することができなかった<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/182392?page=2 フリーゲージで「信号トラブル」も起きていた新幹線だけでなく在来線にも問題があった]</ref>。 * 駅整備の負担 ** 狭軌対応の軌間可変車両は車両長や車体断面などの寸法が在来線規格となる。このため、一部の[[ホームドア]]設置駅では客用扉の位置が合わなくなるため、[[ホームドア]]の改修が必要となる<ref name="toyokeizai20151111" />。 * 過大な車両重量によるメンテナンスコストの増大 ** 標準軌の[[新幹線車両]]に比べ台車が数割重く、軌道や[[分岐器|ポイント]]に与える影響が大きい<ref name="toyokeizai20151111">{{cite news|title = 「長崎新幹線は「全線フル規格」で進めるべきだ」|url =http://toyokeizai.net/articles/-/91837 | publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2015年11月11日|accessdate=2015年12月7日}}</ref>。また、高速走行の際の[[騒音]]や[[振動]]が問題ともなる。 ** 軌間可変用の特殊な機構以外にも、新在共用走行のための運転保安設備を2系統備えるため、車両重量が増加する<ref name="toyokeizai/168292" />。 ** 比較対象として、スペインの[[タルゴ]]は機関車が客車を牽引する[[動力集中方式]]で、客車は左右の車輪が車軸で結ばれていないため、軌間可変装置を置くスペースが確保できている。また、機関車には客を乗せない分、車輪や台車を大きくすることで重量の問題を解決している。一方、日本の新幹線は[[動力分散方式]]の電車であり、全ての台車にモーターを設置するため、台車が重くなってしまう。また、広軌 - 標準軌(1668mm⇔1435mm)で軌間可変するタルゴと異なり、日本では標準軌 - 狭軌(1435mm⇔1067mm)で軌間可変するため、狭軌の限界寸法に合わせて機器類を設置しなければならず、軌間差(変換幅)もタルゴの15%に対し日本は26 %と大きいため、軌間可変装置を置くスペースがない<ref>{{Cite web|和書|website=ITmedia ビジネスオンライン |date=2017年07月28日 |url=http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1707/28/news025_3.html |title=フリーゲージトレインと長崎新幹線の「論点」 (3/5) |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2019年2月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170730042750/http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1707/28/news025_3.html |archivedate=2017年07月30日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=さかい もとみ |website=東洋経済オンライン |date=2017-06-16 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/175844?page=2 |title=フリーゲージ列車がスペインで成功したワケ |publisher=[[東洋経済新報社]] |accessdate=2019年2月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170623005913/http://toyokeizai.net/articles/-/175844?page=2 |archivedate=2017-06-23}}</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/6359a1647778cfbbc95f4fd3f36b1127637bea3b?page=2 フリーゲージトレインまだやるの? JRも拒否した30年払拭できぬデメリット 計画は存在]</ref><ref>[https://merkmal-biz.jp/post/16870/3 結局理想が高すぎた? 異なる軌間を行く「フリーゲージトレイン」、約四半世紀たっても実用化されないワケ]</ref>。 ** フリーゲージトレイン(FGT)第3次試験車は、車両軽量化対策として、高価な部品を用いることで、270&nbsp;km/h走行を行う一般の新幹線電車と同じ重量を実現<ref name="toyokeizai/168292" />。 ** 軌間可変台車は可動部を有していることから点検箇所が増え、摺動部品、摩耗部品は交換周期自体も短いため、メンテナンスコストが増大する。軌間可変技術評価委員会は、フリーゲージトレイン(FGT)第3次試験車の検証走行試験での車軸の不具合から、車軸の定期的交換を想定して一般の新幹線車両と経済性の比較を行った結果、車軸を240万 kmごとに交換する場合で一般の新幹線車両の2.5倍程度、台車検査周期の60万 kmで交換する場合は3倍程度のメンテナンスコストになると試算している<ref name="toyokeizai/168292" />。 == 導入が検討されている路線 == * [[蒲蒲線]]([[東急多摩川線]]と[[京急空港線]])<ref name=oota20150119>{{Cite web|和書|date=2015-01-19 |url=http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/kamakamasen/kama_kyogikai/h26kaisaihoukoku.files/katudouhoukoku.pdf |title=平成26年活動状況『新空港線「蒲蒲線」整備案説明資料』 |format=PDF |publisher=[[大田区]] |work=大田区新空港線「蒲蒲線」整備促進区民協議会 |page=6 |accessdate=2018-05-15}}</ref><ref>{{Cite news |date=2018-1-26 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26185890W8A120C1EA4000/ |title=都予算案、鉄道新設へ基金 財政需要25年で15兆円増 |publisher=[[日本経済新聞社]] |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2019年2月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180126111222/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26185890W8A120C1EA4000/ |archivedate=2018-1-26}}</ref> * [[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]と[[近鉄吉野線|吉野線]]<ref>{{Cite press release|和書|title=フリーゲージトレイン開発推進に向けて |publisher=[[近畿日本鉄道]] |date=2018-05-15 |url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/freegauge.pdf |format=PDF |accessdate=2018-05-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/06870/|title=フリーゲージトレインの開発継続判明、新技術が続々「鉄道技術展」|publisher=日経XTECH|date=2022-05-27|accessdate=2022-06-07}}</ref> == かつて検討された路線 == {{出典の明記|section=1|date=2015-1}} === 整備新幹線 === * 1998年(平成10年)、政府の与党整備新幹線検討委員会で[[北陸新幹線]] 長野 - 上越間について、上越以西にフリーゲージトレインを導入した場合の需要予測及び収支改善効果が試算された。 * 1999年(平成11年)、[[自自政権]]の自自協議会や[[自自公政権]]の整備新幹線建設促進協議会で九州新幹線鹿児島ルート、西九州ルート(長崎ルート)、及び北陸新幹線敦賀以西でフリーゲージトレインの検討案(その後鹿児島ルート及び北陸新幹線はフル規格による整備と決定)。 * 2004年(平成18年)、政府与党合意で九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)へ導入を目指すとされた。 * 2012年(平成24年)、国土交通省は、北陸新幹線の敦賀-大阪間について、当初は2025年予定だった敦賀延伸開業後も新線を建設せずにフリーゲージトレインによる在来線の湖西線への直通によるものとする案を提案した<ref name="turu">{{Cite news |date=2012年2月27日 |url=http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201202260048.html |title=「乗り換えなし」期待と不安 北陸新幹線にFGT導入案 |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |accessdate=2018年3月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140420051227/http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201202260048.html |archivedate=2014-04-20}}</ref>。 * 2018年(平成30年)8月27日の政府与党とJR西日本の会合で、[[2023年]]春に前倒し予定となった敦賀延伸開業においては不採用となった<ref name="sankei20180828"/><ref name="ITmedia20180615"/><ref name="fukuishimbun/684158" />。 === 新在直通 === * 1999年(平成11年) ** 6月から[[日本鉄道建設公団]]の専門委員会で調査された5路線。[[高山本線]]、[[関西本線]] - [[紀勢本線]](名古屋接続)、[[伯備線]]、[[瀬戸大橋線]](岡山接続)、日豊本線(小倉接続)。 ** 10月から2年間[[運輸省]]の新幹線直通運転化調査委員会で調査された7路線10区間。[[羽越本線]](新潟接続 - 酒田)、高山本線(名古屋接続 - 高山)、関西本線 - 紀勢本線(名古屋接続 - 近鉄名古屋線経由 - 津 - 新宮及び四日市 - 奈良)、[[阪和線]] - 紀勢本線(新大阪接続 - 和歌山-新宮)、伯備線(岡山接続 - 米子-松江 - 出雲市)、瀬戸大橋線(岡山接続 - 高松-徳島、松山、高知)、日豊本線(小倉接続 - 大分-宮崎)。 * 2001年(平成13年)7月、[[秋田新幹線]]能代延伸をミニ新幹線ではなくフリーゲージトレインで行い、積雪地での実験線とする構想{{要出典|date=2023年1月}}。 * 新潟 - 山形両県による[[羽越本線高速化]]調査。 * 新潟県による[[信越本線高速化]]調査。 * 2006年(平成18年) ** 4月 *** [[北海道旅客鉄道|JR北海道]]会長が[[北海道新幹線]]からフリーゲージトレインで[[道東]]方面へ向かう構想を発表。JR北海道はそれを拒否{{要出典|date=2023年1月}}。 *** 4月、[[弘前市|弘前市長]]がフリーゲージトレインで秋田新幹線を[[弘前駅|弘前]]まで乗りいれる構想を公約にして当選。JR東日本はそれを拒否{{要出典|date=2023年1月}}。 ** 8月、[[苫小牧市|苫小牧市長]]が記者会見で[[北海道新幹線]][[長万部駅|長万部]]からフリーゲージトレインで苫小牧方面へ向かう構想を発表。2007年(平成19年)度に苫小牧市など胆振管内の自治体による広域研究組織発足予定([[北海道南回り新幹線]]も参照)。JR北海道はそれを拒否{{要出典|date=2023年1月}}。 ** 10月、福島県鉄道活性化対策協議会が、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]に[[磐越西線]]へのフリーゲージトレイン導入等によるスピードアップを要望したが{{Refnest|group="注釈"|要望自体は1994年(平成6年)度から行われていた<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.aizu-kouiki.jp/kaisokyo/doc/yobosho-kuni_20.pdf |page=33 |title=JR磐越西線の複線化とミニ新幹線等の導入について |format=PDF |publisher=会津総合開発協議会 |accessdate=2018年9月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180907111230/http://www.aizu-kouiki.jp/kaisokyo/doc/yobosho-kuni_20.pdf |archivedate=2018年9月7日 |deadlinkdate=}}</ref>。}}、実用化の状態にないと回答。 === 通勤 - 近郊路線 === かつて計画があった都市圏の路線。 * '''一般鉄道''' ** [[京阪電気鉄道]]と[[江若鉄道]]<ref>奥田行男「京阪電車と私(3)」、『[[鉄道ピクトリアル]]』[[1984年]]1月増刊号、pp.120。[[京阪60型電車#京津間直通運転をめぐるその他の構想]]も参照。</ref>(江若鉄道は1969年11月1日に廃止。) == 整備新幹線に関する政府与党合意 == * 1996年(平成8年)[[12月25日]]「整備新幹線の取り扱いについて」政府 - 与党合意において、「新幹線鉄道の高速化効果を他の地域に均てんするための軌間自由可変電車の技術開発等の事業等を推進する」との文言が掲げられた。 * 2000年(平成12年)[[12月18日]]「整備新幹線の取り扱いについて」政府 - 与党申合せにおいて、「軌間可変電車の技術開発を推進し、早期実用化を図る」との文言が掲げられた。 * 2004年(平成16年)[[12月16日]]「整備新幹線の取り扱いについて」政府 - 与党申合せにおいて同様の文言が掲げられるとともに、九州新幹線西九州ルート(長崎ルート) 武雄温泉 - 諫早間につき「軌間可変電車方式による整備を目指す」とされた。 ** [https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html 整備新幹線関連文書] 国土交通省。より == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[軌間可変]] * [[タルゴ]] ‐ 実用化されているフリーゲージトレイン(客車列車) * [[レンフェ120系電車]] - BRAVAを採用したフリーゲージトレイン * [[中国中車]] - 傘下の中車唐山が国際高速列車用フリーゲージトレインを開発 * [[三線軌条]] * [[ミニ新幹線]] * [[新幹線鉄道規格新線]] * [[日本の改軌論争]] * [[交渉人 真下正義]] - 作品中に開発中の軌間可変電車(クモE4-600、架空)が登場する。 * [[蓄電池電車]] - 蓄電池駆動式の電車 * [[近畿日本鉄道]] * [[近鉄特急]] * [[三重新幹線構想]] == 外部リンク == {{commons|Category:Gauge Changing Train (Japan)}} * [https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_fr1_000015.html 国土交通省軌間可変技術評価委員会] * 編集長敬白アーカイブ:[https://web.archive.org/web/20200520005312/http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2007/05/post_541.html フリーゲージトレイン第二次試作車が完成。 - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) * 編集長敬白:[https://web.archive.org/web/20160818171649/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2014/04/24_13.html 走行試験を開始したフリーゲージトレイン。 - 鉄道ホビダス](インターネットアーカイブ) *{{YouTube|GMmwWPfeN4Q|フリーゲージトレインの耐久走行試験を公開 熊本}}(朝日新聞社提供、2014年10月20日公開) {{日本の新幹線}} {{rail-stub}} {{DEFAULTSORT:きかんかへんてんしや}} [[Category:鉄道車両の台車]] [[Category:新幹線車両]] [[Category:鉄道総合技術研究所]]
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サラーフッディーン
サラーフッディーン(サラディン)(ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー、アラビア語: يوسف بن أيوب بن شاذي, Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝であるアイユーブ朝の創始者である。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド人一族の出自である。エジプトとシリアを支配し、エルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破ったことから、イスラム世界の英雄とされる。 彼個人の名をユースフ(・イブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。出生時の全名は يوسف بن أيوب بن شاذي بن مروان بن يعقوب الدُويني التكريتي:Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī ibn Marwān ibn Yaʿqūb al-Duwaynī al-Tikrītī であり、彼の父や祖父、曽祖父また先祖のラカブや種族の出身地が含まれている。個人を区別するためサラーフッディーン Ṣalāḥ al-Dīn という「信教(Dīn)の高潔(Ṣalāḥ)」(righteousness of the religion)を意味するラカブを名乗るようになり、さらに数々の武勲から称号を含んだ新たな名が組まれていった。 肩書きなどを添えた名前は الملك الناصر أبو المظفر صلاح الدين والدنيا يوسف بن أيّوب:Al-Maliku N-Nāṣiru abū l-Muẓaffarī Ṣalāḥ D-Dīnu waD-Dunyā Yūsuf bin Ayyūbである。Al-Malikuは「支配者、王」、aN-Nāṣiru は「援助者、勝利をもたらす者」。abū l-Muẓaffarī は「勝利者の父」を意味する。 同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。 ヒジュラ暦532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町ティクリート(タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり、母親についての情報もほとんど残されていない。 父のナジムッディーン・アイユーブはセルジューク朝治下ティクリートのクルド人代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった。アイユーブはかつてザンギー朝の創始者、ザンギーがバグダードでの戦に敗れモースルへ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシール・クーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらにはバールベックに領地を与えられた。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラーフッディーンに仕え伝記『サラーフッディーン伝』を著したイブン・シャッダード (Baha ad-Din ibn Shaddad) は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている。 1146年にザンギーが手下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、ダマスクス総督でブーリー朝のアタベク・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いとダマスクス近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。 1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラーフッディーン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、シリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーン・マフムードの許に伺候した。ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢でイクターを授与された。 1154年にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした。このダマスクス開城には、エルサレム王国に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。サラーフッディーンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラーフッディーンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。 青少年時代のサラーフッディーンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う。また。若い頃から智勇に長け、特に1164年以降のエジプト遠征では、叔父シール・クーフが「サラーフッディーンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」とされるほど重用された。 1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラーフッディーンもこれらの遠征に参戦している。 1163年9月にエルサレム王アモーリー1世はスエズを越境しファーティマ朝治下の下エジプトに侵攻した。しかしちょうどナイルの増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切ってナイルデルタ東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。 この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトのナーイブ(君主の地方代理人=総督職)であったシャーワル(Shā'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捉え、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。 この時サラーフッディーンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラーフッディーンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。 1164年5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラーフッディーンの活躍は伝えられていない。 シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる) 1167年初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シール・クーフ麾下のシリア軍が勝利した。 この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラーフッディーンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラーフッディーンの最初の歴史的軍功となった。 1168年にアモーリー率いるエルサレム王国軍が再度エジプト侵攻を行ったため、ファーティマ朝カリフのアーディドがヌールッディーンに救援を要請した。これを受けシール・クーフは3度目のエジプト遠征を行い、サラーフッディーンも帯同した。エルサレム王国軍のカイロ接近を知った宰相シャーワルはカイロに隣接する経済都市フスタートを焼き払い、これによってエルサレム王国軍は撤退した。敵のいなくなったシール・クーフ軍は1169年1月8日にカイロへの入城を果たし、エジプト遠征は3度目にして成功した。 カイロ入城後、シール・クーフは宰相に就任して事実上ファーティマ朝の実権を握ったが、約2ヶ月後の1169年3月23日に大食漢であったことが原因で死去した。シール・クーフ死後、サラーフッディーンはその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝の宰相にも就任した。これが事実上のアイユーブ朝の創設とみなされている。宰相に就任するとサラーフッディーンはまずシリア軍を再編して直属軍団を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍にイクターとして供与することで軍事・権力基盤を確立した。このことは旧ファーティマ朝軍、特にその主力をなしていた黒人奴隷兵を刺激し、宮廷を統括していた黒人宦官であるムウタミン・アル=ヒラーファが反乱を企てたものの、実行前に発覚して殺害された。これによって黒人奴隷兵は暴発し武力蜂起に踏み切ったが、サラーフッディーンはカイロ市街地での8月22日のバイナル・カスラインの戦い(英語版)によって黒人奴隷勢力を殲滅し、エジプトの実権を完全に握った。またこの戦い以後、エジプト軍から黒人奴隷兵は完全に排除され、変わってマムルークと呼ばれる白人奴隷兵がアイユーブ朝軍で重要な地位を占めるようになった。 事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、カーディーをスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した。1171年9月15日にはカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した。またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャー(英語版)をイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる。 ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世がアレッポ近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラーフッディーンに援軍を要請して来た。かくしてサラーフッディーンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死してボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている。その後、アレッポに撤退したサーリフやマスヤーフのイスマーイール派との抗争があったものの1176年に講和が成立し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を制圧することが出来た。同年、ダマスクスでヌールッディーンの寡婦であるイスマトゥッディーン・アーミナと結婚したのち数年ぶりにエジプトへと帰還し、検地やカイロ市壁および城塞の建設を行って内政に専念した。また、1176年にはシーア派色の払拭を目的としてダール・アル=イルム(知識の家)を解体してその蔵書を売り払っている。 1181年にアレッポのサーリフが死去すると同族であるモースルのマスウード王がアレッポに入ったが、シンジャールにいたイマードゥッディーン・ザンギー2世の要求を受けてアレッポを譲り渡し、自らはモースルへと撤退した。この動きを警戒したサラーフッディーンは1182年にシリアから北イラクへと入りモースルを囲んだが落とすことができなかった。翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した。 1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する十字軍国家とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年にはモンジザールの戦いでサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主であるルノー・ド・シャティヨンはメディナ侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城であるカラクを包囲したが、攻め落とすことができなかった。 1187年1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月にジハード(聖戦)を宣告し、エルサレム王国への本格的侵攻を開始した。5月にクレッソン泉の戦いでテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンを捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に奪還(英語版)することに成功した。このとき、サラーフッディーンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。 エルサレム占領後、アイユーブ朝軍は地中海岸各都市の占領を引き続き進めたものの、降伏した各都市の敗残兵が十字軍側に残されているティールへと集結し、解放されたギー王に率いられたエルサレム軍は1189年にアッコンへ向かい、アッコン包囲戦を開始した。サラーフッディーンはこれを迎え撃ったものの、戦線は2年間膠着したままだった。 一方、サラーフッディーンによる聖地陥落のニュースは、聖地への「関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂」で、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世 バルバロッサ・フランス王 フィリップ2世・イングランド王リチャード1世獅子心王率いる、十字軍史上最大規模の第3回十字軍の遠征をもたらした。 フランス軍とイギリス軍による第3回十字軍は1191年にアッコンに到着して7月にこれを陥落させ、フィリップ2世は同月帰国の途につくものの、リチャード1世はさらに戦闘を続行した。サラーフッディーンはアルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫するが、エルサレムへの侵攻は許さず、双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり1192年、十字軍と休戦条約を締結した。この結果海岸沿いに十字軍勢力は残存し、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した。 翌1193年、サラーフッディーンはダマスカスにて病死した。彼の死後、アイユーブ朝の領地は長子アル=アフダルをはじめとする彼の一族によって分割統治されることとなった。 若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。 かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。 上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。 中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、サラーフッディーンの気前良さは君主の目標とされた。ドイツ中世盛期の詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、1198年9月8日マインツでドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者はサラーフッディーンを手本に「快く施しを」すべきと説き、「王の手は孔だらけでなければならぬ」、「かくしてその手は畏れられ又愛されることだろう」というサラーフッディーンの言葉を引用している。 ヨーロッパ文学における「高貴な異教徒」のイメージ(中世ドイツ文学では、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』において、愛する貴婦人のために戦う異教徒の騎士)を決定づけたのは、残酷な宗教としてとらえるヨーロッパのイスラム像に当てはまらないサラーフッディーンの行動(例えば、1187年 エルサレム占領時)である。 アラビア語では2語から成る称号を息継ぎ無しで読み、主格では صَلَاحُ الدِّينِ(Ṣalāḥu-d-dīn, サラーフッディーン)と発音する。口語では格母音脱落と補助母音再挿入が起こり صَلَاحَ الدِّينِ(Ṣalāḥa-d-dīn, サラーハッディーン)と発音されることが多い。 原語ではサラーフ・アッ=ディーンのように区切って読むことは通常しないが、ラテン文字転写は実際の発音とは関係無く分かち書きをし、同化が起こりad-dīn(アッ=ディーン)と促音化するはずの定冠詞部分の発音変化を反映させずal-Dīnとすることが一般的である。 そのためラテン文字転写ではṢalāḥ al-Dīnとなり、アラビア語における実際の発音との乖離が生じる。一方Ṣalāḥ ad-Dīnのように定冠詞部分の「al-」を発音同化後の「ad-」に置き換えた転写が用いられることもある。 日本語のカタカナ表記ではサラーフ・アッ=ディーンという分かち書きではなくサラーフッディーンの方が標準的である。またラテン文字転写のように本来起こるはずの促音化を反映させず、元の形のままで定冠詞を表記したサラーフ・アル=ディーンというつづりも用いられることがある。(ただしサラーフ・アル=ディーンのようにアッ=ディーンではなくアル=ディーンと読むことはアラビア語では誤りとなる。) アラビア語は定冠詞は1語と数えないため、サラーフ、アル、ディーンの3語に分解されるのではなく、サラーフとアル+ディーンの2語に分け間にスペースを1つ入れる扱いとなる。そのため分かち書きをする場合はサラーフ・アッ・ディーンやサラーフ・アル・ディーンではなく、サラーフ・アッ=ディーンとなる。 なお英語発音のSaladin(sǽlədin, サラディン)はサラーハに近く聞こえるサラーフ(Ṣalāḥ)の語末「āḥ」に含まれる咽頭摩擦音「ح(ḥ)」部分が英単語の「ah(アー)」のように読まれた上に言語に含まれていた長母音部分がいずれも短母音化しサラーフッディーン→サラーッディーン→サラディンとなったものである。 シリアで流通している200シリア・ポンド紙幣には、1993年がサラーフッディーンの没後800年に当たることを記念してダマスカス市内に建てられたサラーフッディーンの騎馬像が描かれている。 『صلاح الدين الأيوبي(サラーフッディーン・アル=アイユービー)』 2001年、シリア制作のラマダーン向け連続ドラマ。全30話。誕生前そして幼少期から聖地解放までを描く。宰相アル=カーディー・アル=ファーディルの執務室でサラーフッディーンが自らの思い出を語るという回想シーンをはさみながら物語が進められる形式。 アル=カーディー・アル=ファーディル役は映画『キングダム・オブ・ヘブン』でサラディン(サラーフッディーン)、الظاهر بيبرس(アッ=ザーヒル・バイバルス、2005年放映、シリア制作)で後代の人物でアイユーブ朝第7代スルターン ナジュムッディーン・アイユーブ(アル=マリク・アッ=サーリフ)を演じたシリア人俳優 غَسَّان مَسْعُود(Ghassan Massoud, ガッサーン・マスウード)。異なる作品でサラーフッディーン(サラディン)、彼の宰相、後代のスルターンアッ=サーリフという3人のアイユーブ朝関係者を演じたこととなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サラーフッディーン(サラディン)(ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー、アラビア語: يوسف بن أيوب بن شاذي, Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝であるアイユーブ朝の創始者である。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド人一族の出自である。エジプトとシリアを支配し、エルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破ったことから、イスラム世界の英雄とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "彼個人の名をユースフ(・イブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。出生時の全名は يوسف بن أيوب بن شاذي بن مروان بن يعقوب الدُويني التكريتي:Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī ibn Marwān ibn Yaʿqūb al-Duwaynī al-Tikrītī であり、彼の父や祖父、曽祖父また先祖のラカブや種族の出身地が含まれている。個人を区別するためサラーフッディーン Ṣalāḥ al-Dīn という「信教(Dīn)の高潔(Ṣalāḥ)」(righteousness of the religion)を意味するラカブを名乗るようになり、さらに数々の武勲から称号を含んだ新たな名が組まれていった。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "肩書きなどを添えた名前は الملك الناصر أبو المظفر صلاح الدين والدنيا يوسف بن أيّوب:Al-Maliku N-Nāṣiru abū l-Muẓaffarī Ṣalāḥ D-Dīnu waD-Dunyā Yūsuf bin Ayyūbである。Al-Malikuは「支配者、王」、aN-Nāṣiru は「援助者、勝利をもたらす者」。abū l-Muẓaffarī は「勝利者の父」を意味する。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ヒジュラ暦532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町ティクリート(タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり、母親についての情報もほとんど残されていない。 父のナジムッディーン・アイユーブはセルジューク朝治下ティクリートのクルド人代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった。アイユーブはかつてザンギー朝の創始者、ザンギーがバグダードでの戦に敗れモースルへ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシール・クーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらにはバールベックに領地を与えられた。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラーフッディーンに仕え伝記『サラーフッディーン伝』を著したイブン・シャッダード (Baha ad-Din ibn Shaddad) は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1146年にザンギーが手下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、ダマスクス総督でブーリー朝のアタベク・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いとダマスクス近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラーフッディーン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、シリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーン・マフムードの許に伺候した。ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢でイクターを授与された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1154年にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした。このダマスクス開城には、エルサレム王国に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。サラーフッディーンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラーフッディーンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "青少年時代のサラーフッディーンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う。また。若い頃から智勇に長け、特に1164年以降のエジプト遠征では、叔父シール・クーフが「サラーフッディーンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」とされるほど重用された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラーフッディーンもこれらの遠征に参戦している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1163年9月にエルサレム王アモーリー1世はスエズを越境しファーティマ朝治下の下エジプトに侵攻した。しかしちょうどナイルの増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切ってナイルデルタ東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。 この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトのナーイブ(君主の地方代理人=総督職)であったシャーワル(Shā'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捉え、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この時サラーフッディーンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラーフッディーンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1164年5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラーフッディーンの活躍は伝えられていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1167年初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シール・クーフ麾下のシリア軍が勝利した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラーフッディーンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラーフッディーンの最初の歴史的軍功となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1168年にアモーリー率いるエルサレム王国軍が再度エジプト侵攻を行ったため、ファーティマ朝カリフのアーディドがヌールッディーンに救援を要請した。これを受けシール・クーフは3度目のエジプト遠征を行い、サラーフッディーンも帯同した。エルサレム王国軍のカイロ接近を知った宰相シャーワルはカイロに隣接する経済都市フスタートを焼き払い、これによってエルサレム王国軍は撤退した。敵のいなくなったシール・クーフ軍は1169年1月8日にカイロへの入城を果たし、エジプト遠征は3度目にして成功した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "カイロ入城後、シール・クーフは宰相に就任して事実上ファーティマ朝の実権を握ったが、約2ヶ月後の1169年3月23日に大食漢であったことが原因で死去した。シール・クーフ死後、サラーフッディーンはその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝の宰相にも就任した。これが事実上のアイユーブ朝の創設とみなされている。宰相に就任するとサラーフッディーンはまずシリア軍を再編して直属軍団を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍にイクターとして供与することで軍事・権力基盤を確立した。このことは旧ファーティマ朝軍、特にその主力をなしていた黒人奴隷兵を刺激し、宮廷を統括していた黒人宦官であるムウタミン・アル=ヒラーファが反乱を企てたものの、実行前に発覚して殺害された。これによって黒人奴隷兵は暴発し武力蜂起に踏み切ったが、サラーフッディーンはカイロ市街地での8月22日のバイナル・カスラインの戦い(英語版)によって黒人奴隷勢力を殲滅し、エジプトの実権を完全に握った。またこの戦い以後、エジプト軍から黒人奴隷兵は完全に排除され、変わってマムルークと呼ばれる白人奴隷兵がアイユーブ朝軍で重要な地位を占めるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、カーディーをスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した。1171年9月15日にはカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した。またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャー(英語版)をイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世がアレッポ近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラーフッディーンに援軍を要請して来た。かくしてサラーフッディーンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死してボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている。その後、アレッポに撤退したサーリフやマスヤーフのイスマーイール派との抗争があったものの1176年に講和が成立し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を制圧することが出来た。同年、ダマスクスでヌールッディーンの寡婦であるイスマトゥッディーン・アーミナと結婚したのち数年ぶりにエジプトへと帰還し、検地やカイロ市壁および城塞の建設を行って内政に専念した。また、1176年にはシーア派色の払拭を目的としてダール・アル=イルム(知識の家)を解体してその蔵書を売り払っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1181年にアレッポのサーリフが死去すると同族であるモースルのマスウード王がアレッポに入ったが、シンジャールにいたイマードゥッディーン・ザンギー2世の要求を受けてアレッポを譲り渡し、自らはモースルへと撤退した。この動きを警戒したサラーフッディーンは1182年にシリアから北イラクへと入りモースルを囲んだが落とすことができなかった。翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する十字軍国家とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年にはモンジザールの戦いでサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主であるルノー・ド・シャティヨンはメディナ侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城であるカラクを包囲したが、攻め落とすことができなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1187年1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月にジハード(聖戦)を宣告し、エルサレム王国への本格的侵攻を開始した。5月にクレッソン泉の戦いでテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンを捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に奪還(英語版)することに成功した。このとき、サラーフッディーンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "エルサレム占領後、アイユーブ朝軍は地中海岸各都市の占領を引き続き進めたものの、降伏した各都市の敗残兵が十字軍側に残されているティールへと集結し、解放されたギー王に率いられたエルサレム軍は1189年にアッコンへ向かい、アッコン包囲戦を開始した。サラーフッディーンはこれを迎え撃ったものの、戦線は2年間膠着したままだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、サラーフッディーンによる聖地陥落のニュースは、聖地への「関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂」で、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世 バルバロッサ・フランス王 フィリップ2世・イングランド王リチャード1世獅子心王率いる、十字軍史上最大規模の第3回十字軍の遠征をもたらした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "フランス軍とイギリス軍による第3回十字軍は1191年にアッコンに到着して7月にこれを陥落させ、フィリップ2世は同月帰国の途につくものの、リチャード1世はさらに戦闘を続行した。サラーフッディーンはアルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫するが、エルサレムへの侵攻は許さず、双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり1192年、十字軍と休戦条約を締結した。この結果海岸沿いに十字軍勢力は残存し、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "翌1193年、サラーフッディーンはダマスカスにて病死した。彼の死後、アイユーブ朝の領地は長子アル=アフダルをはじめとする彼の一族によって分割統治されることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、サラーフッディーンの気前良さは君主の目標とされた。ドイツ中世盛期の詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、1198年9月8日マインツでドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者はサラーフッディーンを手本に「快く施しを」すべきと説き、「王の手は孔だらけでなければならぬ」、「かくしてその手は畏れられ又愛されることだろう」というサラーフッディーンの言葉を引用している。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ文学における「高貴な異教徒」のイメージ(中世ドイツ文学では、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』において、愛する貴婦人のために戦う異教徒の騎士)を決定づけたのは、残酷な宗教としてとらえるヨーロッパのイスラム像に当てはまらないサラーフッディーンの行動(例えば、1187年 エルサレム占領時)である。", "title": "サラーフッディーンの施政とその人となり" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アラビア語では2語から成る称号を息継ぎ無しで読み、主格では صَلَاحُ الدِّينِ(Ṣalāḥu-d-dīn, サラーフッディーン)と発音する。口語では格母音脱落と補助母音再挿入が起こり صَلَاحَ الدِّينِ(Ṣalāḥa-d-dīn, サラーハッディーン)と発音されることが多い。", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "原語ではサラーフ・アッ=ディーンのように区切って読むことは通常しないが、ラテン文字転写は実際の発音とは関係無く分かち書きをし、同化が起こりad-dīn(アッ=ディーン)と促音化するはずの定冠詞部分の発音変化を反映させずal-Dīnとすることが一般的である。", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "そのためラテン文字転写ではṢalāḥ al-Dīnとなり、アラビア語における実際の発音との乖離が生じる。一方Ṣalāḥ ad-Dīnのように定冠詞部分の「al-」を発音同化後の「ad-」に置き換えた転写が用いられることもある。", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本語のカタカナ表記ではサラーフ・アッ=ディーンという分かち書きではなくサラーフッディーンの方が標準的である。またラテン文字転写のように本来起こるはずの促音化を反映させず、元の形のままで定冠詞を表記したサラーフ・アル=ディーンというつづりも用いられることがある。(ただしサラーフ・アル=ディーンのようにアッ=ディーンではなくアル=ディーンと読むことはアラビア語では誤りとなる。)", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アラビア語は定冠詞は1語と数えないため、サラーフ、アル、ディーンの3語に分解されるのではなく、サラーフとアル+ディーンの2語に分け間にスペースを1つ入れる扱いとなる。そのため分かち書きをする場合はサラーフ・アッ・ディーンやサラーフ・アル・ディーンではなく、サラーフ・アッ=ディーンとなる。", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお英語発音のSaladin(sǽlədin, サラディン)はサラーハに近く聞こえるサラーフ(Ṣalāḥ)の語末「āḥ」に含まれる咽頭摩擦音「ح(ḥ)」部分が英単語の「ah(アー)」のように読まれた上に言語に含まれていた長母音部分がいずれも短母音化しサラーフッディーン→サラーッディーン→サラディンとなったものである。", "title": "名称「サラーフッディーン」「サラディン」について" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "シリアで流通している200シリア・ポンド紙幣には、1993年がサラーフッディーンの没後800年に当たることを記念してダマスカス市内に建てられたサラーフッディーンの騎馬像が描かれている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『صلاح الدين الأيوبي(サラーフッディーン・アル=アイユービー)』", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2001年、シリア制作のラマダーン向け連続ドラマ。全30話。誕生前そして幼少期から聖地解放までを描く。宰相アル=カーディー・アル=ファーディルの執務室でサラーフッディーンが自らの思い出を語るという回想シーンをはさみながら物語が進められる形式。", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "アル=カーディー・アル=ファーディル役は映画『キングダム・オブ・ヘブン』でサラディン(サラーフッディーン)、الظاهر بيبرس(アッ=ザーヒル・バイバルス、2005年放映、シリア制作)で後代の人物でアイユーブ朝第7代スルターン ナジュムッディーン・アイユーブ(アル=マリク・アッ=サーリフ)を演じたシリア人俳優 غَسَّان مَسْعُود(Ghassan Massoud, ガッサーン・マスウード)。異なる作品でサラーフッディーン(サラディン)、彼の宰相、後代のスルターンアッ=サーリフという3人のアイユーブ朝関係者を演じたこととなった。", "title": "映像作品" } ]
サラーフッディーン(サラディン)は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝であるアイユーブ朝の創始者である。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド人一族の出自である。エジプトとシリアを支配し、エルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破ったことから、イスラム世界の英雄とされる。
{{Otheruses|イスラームの将軍・君主|イラクの県|サラーフッディーン県}} {{Redirect|サラディン|イギリス製装甲車|FV601 サラディン}} {{Infobox royalty | name = サラーフッディーン | title = | succession = エジプトとシリアのスルタン | image = Portrait of Saladin (before A.D. 1185; short).jpg|right|thumb|250px | caption = サラーフッディーンと考えられる肖像画 | reign = 1174年 – 1193年3月4日 | coronation = 1174年、[[カイロ]] | full name = ユースフ・イブン=アイユーブ・イブン・シャージー・イブン=マルワーン・イブン=ヤクブ・アル=ドゥワイニ・アル=ティクリーティー | predecessor = [[アーディド]] (ファーティマ朝) | successor = {{plainlist| *[[アル=アジーズ]] (エジプト) *[[アル=アフダル]] (シリア)}} | spouse = [[イスマトゥッディーン・アーミナ|イスマトゥッディーン・アーミナ・ビント・ウヌル]] | issue = [[アル=アフダル]]、[[アル=アジーズ]]、[[アル=マリク・アル=ザーヒル|アル=ザーヒル]]、アル=ムイッズ・イスハーク、ナジムッディーン・マスウード、ムーニサ・ハトゥン、ズムッルド・ハトゥン | dynasty = [[アイユーブ朝]] (初代) | father = [[ナジムッディーン・アイユーブ]] | birth_date = 1137年頃 | birth_place = [[ティクリート]]、[[ジャズィーラ]]、[[アッバース朝]] | death_date = {{death year and age|1193|1137}}3月4日 | death_place = [[ダマスカス]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[アイユーブ朝]] | burial_place = サラーフッディーン廟、[[ウマイヤ・モスク]]、ダマスカス | religion = [[スンナ派]][[イスラーム]] }} '''サラーフッディーン(サラディン)'''<ref>{{Cite book|和書|author= |year=2002 |title=岩波 イスラーム辞典 |publisher=[[岩波書店]] |isbn= |pages=418-419 |ref=}}</ref>('''ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー'''、{{lang-ar|يوسف بن أيوب بن شاذي}}, Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī、[[クルド語]]:Selaheddînê Eyûbî、[[1137年]]または[[1138年]] - [[1193年]][[3月4日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/サラディン-69964 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-04 }}</ref>)は、[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて[[エジプト]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[イエメン]]などの地域を支配した[[スンナ派]]の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]である[[アイユーブ朝]]の創始者である。現[[イラク]]北部の[[ティクリート]]出身で、[[アルメニア]]の[[クルド人]]一族の出自である。[[エジプト]]と[[シリア]]を支配し、[[エルサレム王国]]を1187年に破り、さらに[[第3回十字軍]]を破ったことから、[[イスラム世界]]の英雄とされる。 == 名前 == 彼個人の名を'''ユースフ'''('''・イブン・アイユーブ''')(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフは[[ヨセフ (人名)|ヨセフ]]の、アイユーブは[[ヨブ (人名)|ヨブ]]のアラビア語形。)。出生時の全名は يوسف بن أيوب بن شاذي بن مروان بن يعقوب الدُويني التكريتي:Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī ibn Marwān ibn Yaʿqūb al-Duwaynī al-Tikrītī であり、彼の父や祖父、曽祖父また先祖のラカブや種族の出身地が含まれている。個人を区別するため'''サラーフッディーン''' {{unicode|''Ṣalāḥ al-Dīn''}} という「信教({{unicode|''Dīn''}})の高潔({{unicode|''Ṣalāḥ''}})<ref>{{Cite web |title=معنى إسم صلاح الدين في قاموس معاني الأسماء صفحة 1 |url=https://www.almaany.com/ar/name/%D8%B5%D9%84%D8%A7%D8%AD-%D8%A7%D9%84%D8%AF%D9%8A%D9%86/ |website=www.almaany.com |access-date=2023-02-08 |language=en |first=Almaany |last=Team}}</ref>」(righteousness of the religion)を意味する[[人名#イスラム教圏の名前|ラカブ]]<ref group="注釈">当時の[[ムスリム]]成人男性が帯びた尊称で、中国史上の人物の[[字]](あざな)に相当する</ref>を名乗るようになり、さらに数々の武勲から称号を含んだ新たな名が組まれていった。 肩書きなどを添えた名前は الملك الناصر أبو المظفر صلاح الدين والدنيا يوسف بن أيّوب:Al-Maliku N-Nāṣiru abū l-Muẓaffarī Ṣalāḥ D-Dīnu waD-Dunyā Yūsuf bin Ayyūbである。Al-Malikuは「支配者、王」、aN-Nāṣiru は「援助者、勝利をもたらす者」。abū l-Muẓaffarī は「勝利者の父」を意味する。 同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin('''サラディン''')と呼ばれる。 == 生涯 == === 生い立ち === [[ヒジュラ暦]]532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町[[ティクリート]](タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた<ref name="sato25">[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.25</ref>。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり<ref name="sato25"/>、母親についての情報もほとんど残されていない<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.26</ref>。 父の[[ナジムッディーン・アイユーブ]]は[[セルジューク朝]]治下[[ティクリート]]の[[クルド人]]代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟の[[シール・クーフ|アサドゥッディーン・シール・クーフ]]がキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.32</ref>。アイユーブはかつて[[ザンギー朝]]の創始者、[[ザンギー]]が[[バグダード]]での戦に敗れ[[モースル]]へ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシール・クーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらには[[バールベック]]に領地を与えられた<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.32-33, 48-49</ref>。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラーフッディーンに仕え伝記『サラーフッディーン伝』を著したイブン・シャッダード {{enlink|Baha ad-Din ibn Shaddad}}は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.51</ref>。 1146年にザンギーが手下の[[マムルーク]](奴隷兵)に暗殺されると、[[ダマスクス]]総督で[[ブーリー朝]]の[[アタベク]]・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した<ref name="sato54">[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.54</ref>。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いと[[ダマスクス]]近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した<ref name="sato54"/>。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった<ref name="sato54"/>。この時ユースフは8歳ほどであり、[[エジプト]]で権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。 === ヌールッディーンへの伺候 === [[ファイル:SaladinRexAegypti.jpg|thumb|right|220px|[[15世紀]]の[[装飾写本]]中の「エジプトの王、サラディン」]] 1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラーフッディーン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、[[シリア]]に勢力を持つ[[アレッポ]]の君主[[ヌールッディーン|ヌールッディーン・マフムード]]の許に伺候した<ref name="sato63">[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.63</ref>。ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢で[[イクター]]を授与された<ref name="sato63"/>。 [[1154年]]にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした<ref name="sato59">[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.59</ref>。このダマスクス開城には、[[エルサレム王国]]に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.59-60</ref>。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。サラーフッディーンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.64-65</ref>。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラーフッディーンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである<ref name="sato65">[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], p.65</ref>。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。 青少年時代のサラーフッディーンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う<ref name="sato65"/>。また。若い頃から智勇に長け、特に1164年以降のエジプト遠征では、叔父シール・クーフが「サラーフッディーンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」とされるほど重用された<ref>[[#sato2011|佐藤『サラディン』(2011)]], pp.70-71</ref>。 === エジプト遠征とその獲得 === 1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラーフッディーンもこれらの遠征に参戦している。 ==== 第一回エジプト遠征 ==== [[1163年]]9月にエルサレム王[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]はスエズを越境し[[ファーティマ朝]]治下の下[[エジプト]]に侵攻した。しかしちょうど[[ナイル]]の増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切って[[ナイルデルタ]]東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。 この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトの'''ナーイブ'''(君主の地方代理人=総督職)であった'''シャーワル'''(Shā'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捉え、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。 この時サラーフッディーンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラーフッディーンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。 [[1164年]]5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラーフッディーンの活躍は伝えられていない<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.62-63</ref>。 ==== 第二回エジプト遠征 ==== シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる) [[1167年]]初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シール・クーフ麾下のシリア軍が勝利した。 この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市[[アレクサンドリア]]へ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラーフッディーンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラーフッディーンの最初の歴史的軍功となった。 ==== 第三回エジプト遠征 ==== 1168年にアモーリー率いるエルサレム王国軍が再度エジプト侵攻を行ったため、ファーティマ朝カリフの[[アーディド]]がヌールッディーンに救援を要請した。これを受けシール・クーフは3度目のエジプト遠征を行い、サラーフッディーンも帯同した。エルサレム王国軍のカイロ接近を知った宰相シャーワルはカイロに隣接する経済都市[[フスタート]]を焼き払い、これによってエルサレム王国軍は撤退した。敵のいなくなったシール・クーフ軍は1169年1月8日にカイロへの入城を果たし、エジプト遠征は3度目にして成功した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.65-70</ref>。 === アイユーブ朝の創設 === [[ファイル:Saladin and Guy.jpg|right|thumb|250px|[[ヒッティーンの戦い]]の後のサラーフッディーン]] カイロ入城後、シール・クーフは宰相に就任して事実上ファーティマ朝の実権を握ったが、約2ヶ月後の[[1169年]]3月23日に大食漢であったことが原因で死去した。シール・クーフ死後、サラーフッディーンはその軍権を引継ぎ、さらに[[ファーティマ朝]]の宰相にも就任した。これが事実上の[[アイユーブ朝]]の創設とみなされている<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.71-73</ref>。宰相に就任するとサラーフッディーンはまずシリア軍を再編して直属軍団を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍に[[イクター]]として供与することで軍事・権力基盤を確立した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.79</ref>。このことは旧ファーティマ朝軍、特にその主力をなしていた黒人奴隷兵を刺激し、宮廷を統括していた黒人[[宦官]]であるムウタミン・アル=ヒラーファが反乱を企てたものの、実行前に発覚して殺害された。これによって黒人奴隷兵は暴発し武力蜂起に踏み切ったが、サラーフッディーンはカイロ市街地での8月22日の{{仮リンク|バイナル・カスラインの戦い|en|Battle of the Blacks}}によって黒人奴隷勢力を殲滅し、エジプトの実権を完全に握った<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.80-84</ref>。またこの戦い以後、エジプト軍から黒人奴隷兵は完全に排除され<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p79 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷発行</ref>、変わって[[マムルーク]]と呼ばれる白人奴隷兵がアイユーブ朝軍で重要な地位を占めるようになった<ref>「イスラームの歴史」p130 カレン・アームストロング著 小林朋則訳 中公新書 2017年9月25日初版</ref>。 事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.74-75</ref>。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、[[カーディー]]をスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造し[[フトバ]]を唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.86-87</ref>。[[1171年]]9月15日にはカリフ・[[アーディド]]が世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.87</ref>。またその一方で1174年2月兄の{{仮リンク|トゥーラーン・シャー (サラディンの兄)|en|Turan-Shah|label=トゥーラーン・シャー}}を[[イエメン]]へ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降[[ラスール朝]]が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.97-103</ref>。 === シリア獲得 === ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ[[親征]]を自ら企図していたようだが、その矢先の[[1174年]]5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子[[アッサリフ・イスマイル・アルマリク|サーリフ]]が即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもある[[モスル]]のアタベク・[[サイフッディーン・ガーズィー2世]]が[[アレッポ]]近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラーフッディーンに援軍を要請して来た。かくしてサラーフッディーンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死して[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.104-108</ref>。その後、アレッポに撤退したサーリフや[[マスヤーフ]]の[[イスマーイール派]]との抗争があったものの1176年に講和が成立し<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.110-114</ref>、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を制圧することが出来た。同年、ダマスクスでヌールッディーンの寡婦である[[イスマトゥッディーン・アーミナ]]と結婚したのち数年ぶりにエジプトへと帰還し、検地やカイロ市壁および城塞の建設を行って内政に専念した。また、1176年にはシーア派色の払拭を目的として[[ダール・アル=イルム]](知識の家)を解体してその蔵書を売り払っている<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.119-126</ref>。 1181年にアレッポのサーリフが死去すると同族である[[モースル]]のマスウード王がアレッポに入ったが、[[シンジャール]]にいたイマードゥッディーン・ザンギー2世の要求を受けてアレッポを譲り渡し、自らはモースルへと撤退した。この動きを警戒したサラーフッディーンは1182年にシリアから北イラクへと入りモースルを囲んだが落とすことができなかった。翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.151-155</ref>。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.158-159</ref>。 [[ファイル:Ayyubids1189.png|left|200px|thumb|アイユーブ朝の版図(1189年)]] === エルサレム王国との戦い === 1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する[[十字軍国家]]とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年には[[モンジザールの戦い]]でサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主である[[ルノー・ド・シャティヨン]]は[[メディナ]]侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城である[[カラク (ヨルダン)|カラク]]を包囲したが、攻め落とすことができなかった<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.155-157</ref>。 [[1187年]]1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月に[[ジハード]](聖戦)を宣告し、[[エルサレム王国]]への本格的侵攻を開始した。5月に[[クレッソン泉の戦い]]で[[テンプル騎士団]]および[[聖ヨハネ騎士団]]を殲滅し、7月に[[ヒッティーンの戦い]]で十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王[[ギー・ド・リュジニャン]]を捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に{{仮リンク|エルサレム攻囲戦 (1187年)|en|Siege of Jerusalem (1187)|label=奪還}}することに成功した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.167-174</ref>。このとき、サラーフッディーンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。 {{clear}} === 第3回十字軍との戦い === [[ファイル:Damascus-SaladinTomb.jpg|right|thumb|200px|サラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。]] エルサレム占領後、アイユーブ朝軍は地中海岸各都市の占領を引き続き進めたものの、降伏した各都市の敗残兵が十字軍側に残されている[[ティルス|ティール]]へと集結し、解放されたギー王に率いられたエルサレム軍は1189年に[[アッコン]]へ向かい、[[アッコ包囲戦 (1189年-1191年)|アッコン包囲戦]]を開始した。サラーフッディーンはこれを迎え撃ったものの、戦線は2年間膠着したままだった<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.183-188</ref>。 一方、サラーフッディーンによる聖地陥落のニュースは、聖地への「関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂」で、[[神聖ローマ皇帝]] [[フリードリヒ1世]] [[バルバロッサ]]・[[フランス王]] [[フィリップ2世]]・[[イングランド王]]リチャード1世[[獅子心王]]率いる、十字軍史上最大規模の[[第3回十字軍]]の遠征をもたらした<ref>フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士の時代 ドイツ中世の王家の興亡』(柳井尚子訳)法政大学出版局 1992 (叢書・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)、217頁。 - ''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 1280.- 出口治明『人類5000年史III――1001年~1500年』ちくま新書 2020 (ISBN 978-4-480-07266-5)、 111頁。</ref>。 フランス軍とイギリス軍による第3回十字軍は1191年にアッコンに到着して7月にこれを陥落させ、フィリップ2世は同月帰国の途につくものの、リチャード1世はさらに戦闘を続行した。サラーフッディーンはアルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫するが、エルサレムへの侵攻は許さず、双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり[[1192年]]、十字軍と[[ヤッファ条約 (1192年)|休戦条約]]を締結した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.189-195</ref>。この結果海岸沿いに十字軍勢力は残存し、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した<ref>出口治明『人類5000年史III――1001年~1500年』ちくま新書 2020 (ISBN 978-4-480-07266-5)、 111-116頁。</ref>。 翌1193年、サラーフッディーンは[[ダマスカス]]にて病死した<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.201-202</ref>。彼の死後、アイユーブ朝の領地は長子[[アル=アフダル]]をはじめとする彼の一族によって分割統治されることとなった<ref>[[#sato1996|佐藤『サラディン』(1996)]], pp.203-204</ref>。 == サラーフッディーンの施政とその人となり == 若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。 かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮した[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている<ref group="注釈">支払能力のない貧民はまとめて安値で解放し、老人や女子供は無条件に解放した。残った壮健かつ支払いを拒む者も、殺されず恩赦を与えられるか奴隷にされたという。</ref><ref group="注釈">ただし、リチャード1世が捕虜を虐殺した際には、報復として捕虜としたキリスト教徒を全員処刑している。</ref>。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にある[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。 上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲った[[ルノー・ド・シャティヨン]]に対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。 中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、サラーフッディーンの気前良さは君主の目標とされた。ドイツ中世盛期の詩人[[ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ]]は、[[1198年]]9月8日[[マインツ]]でドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者はサラーフッディーンを手本に「快く施しを」すべきと説き、「王の手は孔だらけでなければならぬ」、「かくしてその手は畏れられ又愛されることだろう」というサラーフッディーンの言葉を引用している<ref>村尾喜夫訳注『ワルターの歌』(''Die Sprüche und der Leich Walthers von der Vogelweide '')三修社、1969年8月、16-17頁。</ref>。 ヨーロッパ文学における「高貴な異教徒」のイメージ(中世ドイツ文学では、[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]の『ヴィレハルム』において、愛する貴婦人のために戦う異教徒の騎士)を決定づけたのは、残酷な宗教としてとらえるヨーロッパのイスラム像に当てはまらないサラーフッディーンの行動(例えば、[[1187年]] [[エルサレム]]占領時)である<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 1280/81.</ref>。 == 名称「サラーフッディーン」「サラディン」について == アラビア語では2語から成る称号を息継ぎ無しで読み、主格では <span lang="ar" dir="rtl">صَلَاحُ الدِّينِ</span>(Ṣalāḥu-d-dīn, サラーフッディーン)と発音する。口語では格母音脱落と補助母音再挿入が起こり <span lang="ar" dir="rtl">صَلَاحَ الدِّينِ</span>(Ṣalāḥa-d-dīn, サラーハッディーン)と発音されることが多い。 原語ではサラーフ・アッ=ディーンのように区切って読むことは通常しないが、ラテン文字転写は実際の発音とは関係無く分かち書きをし、同化が起こりad-dīn(アッ=ディーン)と促音化するはずの定冠詞部分の発音変化を反映させずal-Dīnとすることが一般的である。 そのためラテン文字転写ではṢalāḥ al-Dīnとなり、アラビア語における実際の発音との乖離が生じる。一方Ṣalāḥ ad-Dīnのように定冠詞部分の「al-」を発音同化後の「ad-」に置き換えた転写が用いられることもある。 日本語のカタカナ表記ではサラーフ・アッ=ディーンという分かち書きではなくサラーフッディーンの方が標準的である。またラテン文字転写のように本来起こるはずの促音化を反映させず、元の形のままで定冠詞を表記したサラーフ・アル=ディーンというつづりも用いられることがある。(ただしサラーフ・アル=ディーンのようにアッ=ディーンではなくアル=ディーンと読むことはアラビア語では誤りとなる。) アラビア語は定冠詞は1語と数えないため、サラーフ、アル、ディーンの3語に分解されるのではなく、サラーフとアル+ディーンの2語に分け間にスペースを1つ入れる扱いとなる。そのため分かち書きをする場合はサラーフ・アッ・ディーンやサラーフ・アル・ディーンではなく、サラーフ・アッ=ディーンとなる。 なお英語発音のSaladin(sǽlədin, サラディン)はサラーハに近く聞こえるサラーフ(Ṣalāḥ)の語末「āḥ」に含まれる咽頭摩擦音「ح(ḥ)」部分が英単語の「ah(アー)」のように読まれた上に言語に含まれていた長母音部分がいずれも短母音化しサラーフッディーン→サラーッディーン→サラディンとなったものである。 == その他 == シリアで流通している200[[シリア・ポンド]]紙幣には、[[1993年]]がサラーフッディーンの没後800年に当たることを記念してダマスカス市内に建てられたサラーフッディーンの騎馬像が描かれている。 == 映像作品 == === 大河ドラマ === '''『[https://www.youtube.com/watch?v=nh-GKfpzbtg&list=PLFACjqFct-LLn6oEeqNZUEpNJy_5oXtDr صلاح الدين الأيوبي](サラーフッディーン・アル=アイユービー)』''' 2001年、シリア制作のラマダーン向け連続ドラマ。全30話。誕生前そして幼少期から聖地解放までを描く。宰相[[アル=カーディー・アル=ファーディル]]の執務室でサラーフッディーンが自らの思い出を語るという回想シーンをはさみながら物語が進められる形式。 アル=カーディー・アル=ファーディル役は映画『[[キングダム・オブ・ヘブン]]』でサラディン(サラーフッディーン)、<span lang="ar" dir="rtl">الظاهر بيبرس</span>(アッ=ザーヒル・バイバルス、2005年放映、シリア制作)で後代の人物でアイユーブ朝第7代スルターン ナジュムッディーン・アイユーブ([[サーリフ|アル=マリク・アッ=サーリフ]])を演じたシリア人俳優 <span lang="ar" dir="rtl">غَسَّان مَسْعُود</span>(Ghassan Massoud, ガッサーン・マスウード<ref>日本ではハッサン・マスードと書かれていることが多いが、ハッサン、ハサン、ハッサーンの類ではなくガッサーンがファーストネーム。ラストネームのマスウードは非アラビア語圏ではしばしばマスードと発音されるため、日本語カタカナ表記も英語発音風のマスードが多用されている。英語発音に則した表記であればガッサン・マスードが適切だと思われる。</ref>)。異なる作品でサラーフッディーン(サラディン)、彼の宰相、後代のスルターン[[サーリフ|アッ=サーリフ]]という3人のアイユーブ朝関係者を演じたこととなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== *[[サイイド・アミール・アリ|アミール・アリ]]『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社) *{{Cite book|和書|author=佐藤次高|authorlink=佐藤次高 |year=2011-11 |title=イスラームの「英雄」サラディン |publisher=[[講談社]] |series=講談社学術文庫 |isbn=978-4-06-292083-4 |ref=sato2011}} *{{Cite book|和書|author=佐藤次高|authorlink=佐藤次高 |year=1996-05 |title=イスラームの「英雄」サラディン |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |ref=sato1996}} == 関連項目 == {{commonscat|Saladin}} * [[クルド人]] * [[アル=アフダル]](長男) * [[アル=アジーズ]](次男) * [[アル=マリク・アル=ザーヒル|アル=ザーヒル]](三男) * [[アル=アーディル]](弟) * [[ムイーヌッディーン・ウヌル]](舅) * [[アル=ファーディル]](宰相) * [[イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー]](側近・書記官) * [[キングダム・オブ・ヘブン]](映画。サラディンは有能で寛大な人物と描かれている) == 外部リンク == * {{Kotobank|サラディン}} {{アイユーブ朝}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さらあふつていいん}} [[Category:サラーフッディーン|*]] [[Category:アイユーブ朝の君主|あらふつていん]] [[Category:12世紀アジアの君主]] [[Category:12世紀アフリカの君主]] [[Category:クルド人]] [[Category:シリア人]] [[Category:LGBTの王族]] [[Category:両性愛の人物]] [[Category:イスラム史の人物]] [[Category:シリアの紙幣の人物]] [[Category:ティクリート出身の人物]] [[Category:1138年生]] [[Category:1193年没]]
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富士見書房
富士見書房()は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。 1972年に株式会社富士見書房(初代)として設立され、その後の4度の組織再編を経て現在に至っているが、本項では一体的に解説する。 なお、辰巳出版傘下の「富士美出版」とは何の関係もない。 1972年、角川書店(現・KADOKAWA)の教科書の自習書の編集・出版を目的として株式会社富士見書房が設立された。社名は、角川グループの拠点である東京都千代田区富士見に由来する。 1986年に俳句雑誌『俳句研究』を買収し2007年まで刊行していた経緯から、俳句関係の書籍も発行していた。 1976年にWILD COMICSというレーベルからつのだじろうによるコミカライズ版『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』を刊行。1977年に官能小説の『富士見ロマン文庫』を創刊。1980年に『ポップティーン』を創刊。1981年に『時代小説文庫』を創刊。1988年に『ドラゴンマガジン』を創刊。 昭和末期から平成初頭にかけてアダルトアニメ『くりいむレモン』シリーズのノベライズを数多く手がけた『富士見文庫』(富士見美少女文庫)を刊行し、平成期以降に発展したジュブナイルポルノというジャンル自体の端緒を開いたといわれているが、現在このジャンルには展開していない。 1991年に角川書店へ吸収合併され、同社富士見事業部となる。「富士見書房」はその通称となる(社内カンパニー)。以降は、富士見ファンタジア文庫を中心とするライトノベル関係の書籍とそのメディアミックス展開が売上の中心となっている。1997年より『モンスター・コレクション』等のトレーディングカードゲーム事業に着手し、市場にコンテンツを提供している。 2005年10月1日、合併前と同じく株式会社富士見書房(FUJIMI SHOBO CO., LTD.)として独立会社となる。ただし販売機能は変わらず角川書店にあり、後述の漫画雑誌から出される単行本は富士見書房発行、発売は2006年までは角川書店、2007年以降は角川グループパブリッシング(KGP)名義となっている。営業部門も独自には持たずKGPに委託しているが、広告上では富士見のみでKGPの名前は表記していない。しかし、2008年から『角川コミックスドラゴンJr.(ジュニア)』(現 ドラゴンコミックエイジ)のカバー裏では、「発行 富士見書房 販売元 角川グループパブリッシング」と表記されるようになった。 2012年に創立40周年を迎えた。 2013年10月1日、KADOKAWAに吸収合併され、ブランドカンパニーとなった。この時点で各種カバー裏にあった「富士見書房」の表記が消滅し、単に「KADOKAWA」のみとなる。 その後2015年4月1日にブランドカンパニーが廃止され、富士見書房はKADOKAWAのブランドとなった。自前の電子配信サイトの終了が相次ぐ。 2019年8月7日、ドラゴンエイジのサイトが開設し、富士見書房が持つレーベルは全て独自のドメインが入ったサイトに移行(リニューアル)した。これに伴い、富士見書房のサイトは各レーベルのリンクが記載されているだけの状態となり事実上閉鎖した。 2021年8月17日、KADOKAWAオフィシャルサイト内の富士見書房のブランドページが閉鎖。 以下のゲームは展開を終了している。
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富士見書房は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。 1972年に株式会社富士見書房(初代)として設立され、その後の4度の組織再編を経て現在に至っているが、本項では一体的に解説する。 なお、辰巳出版傘下の「富士美出版」とは何の関係もない。
{{混同|富士見出版社|富士美出版}} {{Pathnav|[[KADOKAWA]]|frame=1}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2009年4月5日 (木) 17:20 (UTC) | 独自研究 = 2009年4月5日 (木) 17:20 (UTC) }} {{Infobox publisher2 | 外観またはロゴ = [[File:Fujimi Shobo.png|250px]] | 正式名称 = | 英文名称 = | 前身 = 株式会社富士見書房 | 現況 = [[KADOKAWA]]の[[ブランド]] | 種類 = | 市場情報 = | 出版者記号 = | 取次会社 = | 取次コード = | 設立日 = [[2013年]](平成25年)[[10月1日]] | 代表者 = | 本社郵便番号 = | 本社所在地 = | 資本金 = | 売上高 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = | ネット販売 = | 主要出版物 = [[富士見ファンタジア文庫]]<br />[[富士見L文庫]]<br/>[[ドラゴンノベルス]] | 定期刊行物 = [[月刊ドラゴンエイジ]]<br />[[ドラゴンマガジン]] | 電子書籍 = | 出版以外の事業 = | 得意ジャンル = | 関係する人物 = | 外部リンク = | Twitterurl = | 特記事項 = }} {{読み仮名|'''富士見書房'''|ふじみしょぼう}}は、[[日本]]の[[出版社]]・[[KADOKAWA]]の[[ブランド]]の一つ。 [[1972年]]に'''株式会社富士見書房'''(初代)として設立され、その後の4度の組織再編を経て現在に至っているが、本項では一体的に解説する。 なお、[[辰巳出版]]傘下の「富士美出版」とは何の関係もない<ref>[http://www.syoji-sc.com/reader/q&a/q&a_0006.html 庄司卓完全攻略本 リーダーズルーム Q&A 0006]</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:KADOKAWA関連会社の統廃合図.png|thumb|right|関連会社の統廃合図]] === 株式会社富士見書房(初代法人) === [[1972年]]、[[角川書店]](現・[[KADOKAWA]])の教科書の自習書の編集・出版を目的として'''株式会社富士見書房'''が設立された。社名は、角川グループの拠点である[[東京都]][[千代田区]][[富士見 (千代田区)|富士見]]に由来する。 [[1986年]]に[[俳句]]雑誌『[[俳句研究]]』を買収し[[2007年]]まで刊行していた経緯から、俳句関係の書籍も発行していた<ref group="注">めぼしいものはない。『俳句研究』は一度休刊した後、[[角川・エス・エス・コミュニケーションズ]]を経て[[角川マガジンズ]]より刊行されているが、再度休刊となる。</ref>。 [[1976年]]にWILD COMICSというレーベルから[[つのだじろう]]によるコミカライズ版『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』を刊行。[[1977年]]に[[官能小説]]の『[[富士見ロマン文庫]]』を創刊。[[1980年]]に『[[ポップティーン]]』を創刊。[[1981年]]に『時代小説文庫』を創刊。[[1988年]]に『[[ドラゴンマガジン]]』を創刊。 [[昭和]]末期から[[平成]]初頭にかけて[[アダルトアニメ]]『[[くりいむレモン]]』シリーズのノベライズを数多く手がけた『富士見文庫』(富士見美少女文庫)を刊行し、平成期以降に発展した[[ジュブナイルポルノ]]というジャンル自体の端緒を開いたといわれている<ref name=kyokasho>[http://eternalsisters.web.fc2.com/diary/diarylog_070501-070507.html#200705-05 『教科書が教えない富士見書房の歴史』]</ref>が、現在このジャンルには展開していない。 === 角川書店 富士見事業部(通称:富士見書房) === [[1991年]]に角川書店へ[[合併 (企業)#吸収合併・新設合併|吸収合併]]され、同社富士見事業部となる。「富士見書房」はその通称となる([[社内カンパニー]])。以降は、富士見ファンタジア文庫を中心とする[[ライトノベル]]関係の書籍とその[[メディアミックス]]展開が売上の中心となっている。[[1997年]]より『[[モンスター・コレクション]]』等の[[トレーディングカードゲーム]]事業に着手し、市場にコンテンツを提供している。 === 株式会社富士見書房(2代目法人) === <div class="NavFrame" style="clear:both; border:0;float:right;width:24em;"> <div class="NavHead" style="text-align:center;">旧会社情報</div> <div class="NavContent" style="text-align:left; font-size:small;"> {{Pathnav|角川グループホールディングス|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社富士見書房 |英文社名 = FUJIMI SHOBO CO., LTD. |ロゴ = [[File:Fujimi Shobo.png|250px]] |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 102-0071 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[富士見 (千代田区)|富士見]]二丁目13番3号<br />角川第2本社ビル |設立 = [[2005年]](平成17年)[[10月3日]] |業種 = 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 出版・編集業 |代表者 = 山下直久(代表取締役社長) |資本金 = 2億5000万円 |発行済株式総数 = |売上高 = 43億1500万円<br />([[2012年]](平成24年)3月期実績) |営業利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = 41名<br />(2012年4月現在) |支店舗数 = |決算期 = |主要株主 = [[角川グループホールディングス]] 100% |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = |特記事項 = 2013年にKADOKAWAへ吸収合併、ブランドカンパニー化。 }} </div></div> [[2005年]][[10月1日]]、合併前と同じく'''株式会社富士見書房'''(''FUJIMI SHOBO CO., LTD.'')として独立会社となる。ただし販売機能は変わらず角川書店にあり、後述の漫画雑誌から出される[[単行本]]は富士見書房発行、発売は[[2006年]]までは角川書店、[[2007年]]以降は[[角川グループパブリッシング|角川グループパブリッシング(KGP)]]名義となっている。営業部門も独自には持たずKGPに委託しているが、広告上では富士見のみでKGPの名前は表記していない。しかし、[[2008年]]から『[[カドカワコミックス|角川コミックスドラゴンJr.(ジュニア)]]』<ref group="注">月刊ドラゴンエイジ等に連載されている作品の単行本にあたる。</ref>(現 ドラゴンコミックエイジ)のカバー裏では、「'''発行 富士見書房'''<ref group="注">実質的な発行元は角川書店。</ref> '''販売元 角川グループパブリッシング'''」<ref group="注">2013年6月にKADOKAWAに社名変更されてからは表記なし。</ref>と表記されるようになった。 [[2012年]]に創立40周年を迎えた。 === 株式会社KADOKAWA 富士見書房 === [[2013年]][[10月1日]]、KADOKAWAに吸収合併され、[[社内カンパニー|ブランドカンパニー]]となった<ref>{{PDFlink|[https://group.kadokawa.co.jp/documents/topics/20130328_csmch.pdf 【東証開示】連結子会社の吸収合併並びに商号及び定款の一部変更に関するお知らせ]}} - 角川グループホールディングス、2013年3月28日</ref>。この時点で各種カバー裏にあった「富士見書房」の表記が消滅し、単に「'''KADOKAWA'''」のみとなる。 その後[[2015年]][[4月1日]]にブランドカンパニーが廃止され、富士見書房はKADOKAWAのブランドとなった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1504/16/news115.html KADOKAWA社内カンパニー制廃止 「角川書店」「富士見書房」、組織名から消える] - ITmedia、2015年4月16日</ref>。自前の電子配信サイトの終了が相次ぐ。 [[2019年]][[8月7日]]、ドラゴンエイジのサイトが開設し、富士見書房が持つレーベルは全て独自のドメインが入ったサイトに移行(リニューアル)した。これに伴い、富士見書房のサイトは各レーベルのリンクが記載されているだけの状態となり事実上閉鎖した<ref group="注">「富士見書房公式TRPG ONLINE」へのリンクはこの跡地にないが、富士見書房の名のついたままその後も独自に更新が続いている。</ref>。 [[2021年]][[8月17日]]、KADOKAWAオフィシャルサイト内の富士見書房のブランドページが閉鎖<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/topics/6247 |title=KADOKAWAオフィシャルサイト内 各ブランドページについてのお知らせ |publisher=KADOKAWA |date=2021-08-17 |accessdate=2021-08-31}}</ref>。 == 主な雑誌 == === ライトノベル雑誌 === * [[ドラゴンマガジン]] : 月刊[[ライトノベル]]雑誌であったが、[[2008年]]に隔月刊化。 === 漫画雑誌 === * [[月刊ドラゴンエイジ]] : [[月刊コミックドラゴン]]、[[月刊ドラゴンジュニア]]を統合して[[2003年]]4月に創刊。 * [[別冊ドラゴンエイジ]]→[[ヤングドラゴンエイジ]] :月刊ドラゴンエイジの増刊として[[2017年]]9月創刊。[[2019年]]12月に現在の誌名に改称・リニューアルしている。 : 3月・6月・9月・12月発売の雑誌。誌名ロゴには「DAEX(DRAGON AGE EXTRA)」も併記されている。 === かつて発行していた雑誌 === * [[Popteen]] - [[1980年]]創刊され、その後、同雑誌の編集業務を請け負っていた[[飛鳥新社]]が買い取り、[[1994年]]に[[角川春樹事務所]]に譲渡。 * [[俳句研究|月刊俳句研究]] - [[1986年]]より角川書店に買収された当雑誌を引き継ぎ、[[2007年]]に[[角川SSコミュニケーションズ]]に譲渡。 * [[月刊コミックドラゴン]] - ドラゴンマガジンの増刊として[[1992年]]に刊行後、[[1993年]]に月刊誌として創刊。2003年に[[月刊ドラゴンエイジ]]に統合。 * [[RPGドラゴン]] - ドラゴンマガジンの増刊として、[[1995年]]から[[1997年]]まで刊行。 * [[月刊ドラゴンジュニア]] - 1997年に創刊。2003年に[[月刊ドラゴンエイジ]]に統合。 *ファンタジアバトルロイヤル - ドラゴンマガジンの増刊として、[[2000年]]から[[2007年]]まで刊行。 * [[ドラゴンエイジピュア]] - [[2006年]]創刊の月刊ドラゴンエイジの増刊誌。[[2009年]]に刊行終了。 * [[エイジプレミアム]] - 電子書籍雑誌。[[2011年]]8月に創刊。[[2015年]]8月に休刊。 * [[ミルフィ (富士見書房)|ミルフィ]] - 電子書籍雑誌。[[2013年]]8月に創刊。2015年4月に休刊。 == 主なサイト == * 富士見書房公式TRPG ONLINE : [[テーブルトークRPG|TRPG]]のオンラインセッション支援用[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]。2012年11月6日開設<ref group="注">当初は[[ファンプラス|Fan+]]をプラットフォームとしていたが、2013年6月28日より独立した。</ref>。なお、富士見やKADOKAWAが関与していない「TRPG Online」という名前のサイトが既に存在しており、混同を避けるためこちらでは富士見書房の冠が付く。 : 2014年8月31日にプレミアム会員とセッション機能が終了したものの、新たに[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]とシナリオ投稿機能が追加された。2017年8月31日にSNSは終了し、以降は富士見ドラゴンブックを中心とした、富士見書房ブランド刊行のTRPGの紹介サイトとなる。 * ファンタジアBeyond : [[オンライン小説]]サイト。2014年3月7日開設。2016年6月30日最終更新。以降は[[カクヨム]]の富士見ファンタジア文庫ページにて引き継がれる。 == 主な書籍 == === レーベル === * [[富士見ファンタジア文庫]] - 1988年創刊 ** [[風の大陸]](1992年アニメ映画) ** [[宇宙一の無責任男]]シリーズ(1993年アニメ放送・1994年、1995年OVA化) ** [[スレイヤーズ]](1995年、1996年、1997年、2008年、2009年アニメ放送・1995年、1996年、1997年、1998年、2001年アニメ映画・1996年、1998年OVA化) ** [[セイバーマリオネットJ]](1996年、1998年アニメ放送) ** [[ロスト・ユニバース]](1998年アニメ放送) ** [[魔術士オーフェン]](1998年、1999年アニメ放送) ** [[星方天使エンジェルリンクス]](1999年アニメ放送) ** [[それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ]](1999年アニメ放送) ** [[召喚教師リアルバウトハイスクール]](2001年アニメ放送) ** [[フルメタル・パニック!]](2002年、2003年、2005年、2018年アニメ放送) ** [[スクラップド・プリンセス]](2003年アニメ放送) ** [[まぶらほ]](同) ** [[ザ・サード]](2006年アニメ放送) ** [[BLACK BLOOD BROTHERS]](同) ** [[ロケットガール]](2007年アニメ放送) ** [[風の聖痕]](同) ** [[ご愁傷さま二ノ宮くん]](同) ** [[鋼殻のレギオス]](2009年アニメ放送) ** [[生徒会の一存]](2009年、2013年アニメ放送) ** [[伝説の勇者の伝説]](2010年アニメ放送) ** [[これはゾンビですか?]](2011年、2012年アニメ放送) ** [[いつか天魔の黒ウサギ]](2011年アニメ放送) ** [[ハイスクールD×D]](2012年、2013年、2015年、2018年アニメ放送) ** [[だから僕は、Hができない。]](2012年アニメ放送) ** [[デート・ア・ライブ (アニメ)|デート・ア・ライブ]](2013年、2014年、2019年、2022年アニメ放送・2015年アニメ映画・2020年OVA化) ** [[神さまのいない日曜日]](2013年アニメ放送) ** [[東京レイヴンズ]](同) ** [[勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。]](同) ** [[棺姫のチャイカ]](2014年アニメ放送) ** [[甘城ブリリアントパーク]](同) ** [[冴えない彼女の育てかた (アニメ)|冴えない彼女の育てかた]](2015年、2017年アニメ放送・2019年アニメ映画) ** [[空戦魔導士候補生の教官]](2015年アニメ放送) ** [[対魔導学園35試験小隊]](同) ** [[クオリディア・コード]](2016年アニメ放送)※メディアミックス企画「[[プロジェクト・クオリディア]]」の1つ。 ** [[ロクでなし魔術講師と禁忌教典]](2017年アニメ放送) ** [[ゲーマーズ!]](同) ** [[グランクレスト戦記]](2018年アニメ放送) ** [[俺が好きなのは妹だけど妹じゃない]](同) ** [[通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?]](2019年アニメ放送) ** [[アサシンズプライド]](同) ** [[キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦]](2020年アニメ放送) ** [[史上最強の大魔王、村人Aに転生する]](2022年アニメ放送) ** [[新米錬金術師の店舗経営]](同) ** [[転生王女と天才令嬢の魔法革命]](2023年アニメ放送) ** [[スパイ教室]](同) ** [[異世界でチート能力を手にした俺は、現実世界をも無双する]](同) ** [[経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。]](同) * [[カドカワコミックス・ドラゴンJr.]]→[[ドラゴンコミックスエイジ]] - 1994年12月創刊→2009年12月移行。 ** [[かりん (漫画)|かりん]](2005年アニメ放送) ** [[京四郎と永遠の空]](2007年アニメ放送) ** [[仮面のメイドガイ]](2008年アニメ放送) ** [[おまもりひまり]](2010年アニメ放送) ** [[学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD]](2010年アニメ放送) ** [[異国迷路のクロワーゼ]](2011年アニメ放送) ** [[マケン姫っ!]](2011年、2014年アニメ放送) ** [[最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。]](2014年アニメ放送・2014年実写映画) ** [[トリニティセブン 7人の魔書使い]](2014年アニメ放送・2017年、2019年アニメ映画) ** [[トリアージX]](2015年アニメ放送) ** [[異種族レビュアーズ]](2020年アニメ放送) ** [[宇崎ちゃんは遊びたい!]](2020年、2022年アニメ放送) * [[富士見ドラゴンブック]] - 1985年創刊。 * [[富士見L文庫]] - 2014年6月創刊。 ** [[かくりよの宿飯]](2018年アニメ放送) ** [[わたしの幸せな結婚]](2023年実写映画) * [[ドラゴンノベルス]] - 2019年2月創刊。 === 絶版 === ; 小説 * 富士見文庫 * [[富士見ロマン文庫]] - [[1977年]]から[[1991年]]にかけて刊行。 * 富士見時代小説文庫 - [[1981年]]から[[1996年]]にかけて刊行。 * 団鬼六文庫 - [[1985年]]から[[1987年]]にかけて刊行。 * 富士見美少女文庫 - [[1986年]]から[[1993年]]にかけて刊行。 * [[富士見ドラゴンノベルズ]] - 1987年から[[1995年]]にかけて刊行。 * [[富士見ミステリー文庫]] - [[2000年]]から[[2009年]]にかけて刊行。 * [[Style-F]] - [[2007年]]から[[2008年]]にかけて刊行。 * 富士見新時代小説文庫 - [[2013年]]から[[2015年]]にかけて刊行。 * FUJIMI SHOBO NOVELS - [[2014年]]3月創刊。[[2015年]]9月休刊。一部の作品は[[カドカワBOOKS]]が引き継ぐ。 ; 漫画 * [[富士見ファンタジアコミックス]]→[[ドラゴンコミックス]] - 1988年創刊→1993年移行 ** [[ドラゴンハーフ]](1993年OVA) ** [[でたとこプリンセス]](1997年OVA化) ** [[はいぱーぽりす]](1997年アニメ放送) ** [[魔法遣いに大切なこと]](2003年アニメ放送) ** [[クロノクルセイド]](2003年アニメ放送) * [[♂BL♂らぶらぶコミックス]] - 電子書籍。当初は携帯電話のみ。2010年8月創刊。新作が2016年6月、既存の作品の分冊版が2019年1月にかけて刊行。ただし、既刊の取り扱いは続いている。 * [[TL濡恋コミックス]] - 電子書籍。2014年6月創刊。2016年11月にかけて刊行。ただし、既刊の取り扱いは続いている。 == 主なゲーム == 以下のゲームは展開を終了している。 * [[モンスター・コレクション]]([[1997年]]9月〜[[2011年]]7月。以降は[[ブシロード]]に移行) * [[メイジナイト]]([[2001年]]10月〜[[2004年]]3月) * [[ドラゴン☆オールスターズ]]([[2003年]]9月〜[[2006年]]7月) * [[プロジェクト レヴォリューション]]([[2007年]]4月〜2011年12月。[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]との共同企画) * [[サイキックハーツ]]([[2012年]]8月〜[[2018年]]12月。[[トミーウォーカー]]とのコラボ) * [[アンジュ・ヴィエルジュ]]([[2013年]]10月〜[[2017年]]4月。[[メディアファクトリー]]との共同企画) == ラジオ番組 == * [[仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック]]([[文化放送]]、[[2004年]][[3月31日]]〜[[2006年]][[3月29日]]放送) * [[富士見ティーンエイジファンクラブ]]([[大阪放送|ラジオ大阪]]、[[2006年]][[4月9日]]〜[[2008年]][[3月30日]]放送) == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://fujimishobo.jp/ 公式サイト](現在は各レーベルのリンクが貼られているのみ) * [https://fujimi-trpg-online.jp/ 富士見書房公式TRPG ONLINE] * {{YouTube|user = FUJIMISHOBO01|FUJIMISHOBO01}}(2010年から2015年までのPV公開先) * {{Mediaarts-db|C46730}} * {{Mediaarts-db|C46685}} {{角川書店}} {{KADOKAWAグループ}} {{ダンジョンズ&ドラゴンズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふしみしよほう}} [[Category:富士見書房|*]] [[Category:KADOKAWAのブランド]] [[Category:テーブルトークRPGに関係する企業]] [[Category:1972年設立の企業]] [[Category:2005年設立の企業]] [[Category:かつて存在した日本の出版社]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]]
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ソノラマ文庫
ソノラマ文庫()は、1975年創刊のライトノベルを中心とした文庫レーベル。朝日ソノラマが出版していたが、同社が2007年9月末を以て廃業、会社清算手続きに入ったため現在は朝日新聞出版刊の朝日文庫・ソノラマセレクションやソノラマノベルスレーベルに引き継がれている。 レーベルとしての発売第1巻目は1975年11月10日に刊行された豊田有恒原案、石津嵐著の「宇宙戦艦ヤマト」である(宇宙戦艦ヤマトシリーズ#石津嵐版を参照)。緑色の装丁の時代には、背の上部に「SF」や「推理」といったようにジャンルが書かれていた(最初期には無い)。SFや推理小説が多かったが、怪奇などもあった。 高千穂遙の『クラッシャージョウ』や、菊地秀行の『吸血鬼ハンターD』、笹本祐一の『ARIEL』などの人気シリーズを擁した。後にライトノベルと呼ばれるような作品をメインとしたレーベルは以前にもあったが、ライトノベル時代まで継続したレーベルとしては最古参のグループに属する。 派生レーベルとして、仁賀克雄監修の海外シリーズや、朝日ソノラマ航空戦史シリーズ・スパイ戦史シリーズ等がある。ミリタリ系は、だいたい現在の光人社NF文庫乃至学研M文庫に似た方向性であった。 ソノラマ文庫海外シリーズは全35冊が出版された。シリーズの前半はSF的要素が強い内容だったが、途中からはマイナーなホラーアンソロジー・シリーズを中心に据えていた。当時あまり話題にならなかったためか現在は古書店に出回ることが少ない。1冊数千円で売買されることもある。 航空戦史シリーズ、新戦史シリーズ(カバーが青)、スパイ戦史シリーズ(カバーが薄緑)については現在の光人社NF文庫や学研M文庫と同様の客層で、大井篤、吉田俊雄、奥宮正武、三野正洋らを執筆陣に擁した。学研M文庫などから復刻されているものもある。 1985年から1994年までは「獅子王」(1992年には「グリフォン」と改名しリニューアル)という朝日ソノラマの小説誌が存在し、同誌の連載作品の多くがソノラマ文庫で単行本化されていた。 以下に作品を追加するときには、作品を五十音順に並べ、著者名の他、完結済みかどうかも出来る限り併記してください。また、新たに記事を作るときはリンクをつけてください。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ソノラマ文庫()は、1975年創刊のライトノベルを中心とした文庫レーベル。朝日ソノラマが出版していたが、同社が2007年9月末を以て廃業、会社清算手続きに入ったため現在は朝日新聞出版刊の朝日文庫・ソノラマセレクションやソノラマノベルスレーベルに引き継がれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "レーベルとしての発売第1巻目は1975年11月10日に刊行された豊田有恒原案、石津嵐著の「宇宙戦艦ヤマト」である(宇宙戦艦ヤマトシリーズ#石津嵐版を参照)。緑色の装丁の時代には、背の上部に「SF」や「推理」といったようにジャンルが書かれていた(最初期には無い)。SFや推理小説が多かったが、怪奇などもあった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高千穂遙の『クラッシャージョウ』や、菊地秀行の『吸血鬼ハンターD』、笹本祐一の『ARIEL』などの人気シリーズを擁した。後にライトノベルと呼ばれるような作品をメインとしたレーベルは以前にもあったが、ライトノベル時代まで継続したレーベルとしては最古参のグループに属する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "派生レーベルとして、仁賀克雄監修の海外シリーズや、朝日ソノラマ航空戦史シリーズ・スパイ戦史シリーズ等がある。ミリタリ系は、だいたい現在の光人社NF文庫乃至学研M文庫に似た方向性であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ソノラマ文庫海外シリーズは全35冊が出版された。シリーズの前半はSF的要素が強い内容だったが、途中からはマイナーなホラーアンソロジー・シリーズを中心に据えていた。当時あまり話題にならなかったためか現在は古書店に出回ることが少ない。1冊数千円で売買されることもある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "航空戦史シリーズ、新戦史シリーズ(カバーが青)、スパイ戦史シリーズ(カバーが薄緑)については現在の光人社NF文庫や学研M文庫と同様の客層で、大井篤、吉田俊雄、奥宮正武、三野正洋らを執筆陣に擁した。学研M文庫などから復刻されているものもある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1985年から1994年までは「獅子王」(1992年には「グリフォン」と改名しリニューアル)という朝日ソノラマの小説誌が存在し、同誌の連載作品の多くがソノラマ文庫で単行本化されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下に作品を追加するときには、作品を五十音順に並べ、著者名の他、完結済みかどうかも出来る限り併記してください。また、新たに記事を作るときはリンクをつけてください。", "title": "主な作品" } ]
ソノラマ文庫は、1975年創刊のライトノベルを中心とした文庫レーベル。朝日ソノラマが出版していたが、同社が2007年9月末を以て廃業、会社清算手続きに入ったため現在は朝日新聞出版刊の朝日文庫・ソノラマセレクションやソノラマノベルスレーベルに引き継がれている。
{{読み仮名|'''ソノラマ文庫'''|ソノラマぶんこ}}は、[[1975年]]創刊の[[ライトノベル]]を中心とした文庫レーベル。[[朝日ソノラマ]]が出版していたが、同社が[[2007年]]9月末を以て廃業、[[会社清算]]手続きに入ったため現在は[[朝日新聞出版]]刊の'''朝日文庫・ソノラマセレクション'''や'''[[ソノラマノベルス]]'''レーベルに引き継がれている。 == 沿革 == レーベルとしての発売第1巻目は[[1975年]]11月10日に刊行された[[豊田有恒]]原案、[[石津嵐]]著の「[[宇宙戦艦ヤマト]]」である([[宇宙戦艦ヤマトシリーズ#石津嵐版]]を参照)。緑色の装丁の時代には、背の上部に「SF」や「推理」といったようにジャンルが書かれていた(最初期には無い)。SFや推理小説が多かったが、怪奇などもあった。 [[高千穂遙]]の『[[クラッシャージョウ]]』や、[[菊地秀行]]の『[[吸血鬼ハンターD]]』、[[笹本祐一]]の『[[ARIEL]]』などの人気シリーズを擁した。後にライトノベルと呼ばれるような作品をメインとしたレーベルは以前にもあったが、ライトノベル時代まで継続したレーベルとしては最古参のグループに属する。 派生レーベルとして、[[仁賀克雄]]監修の海外シリーズや、朝日ソノラマ航空戦史シリーズ・スパイ戦史シリーズ等がある。ミリタリ系は、だいたい現在の[[光人社NF文庫]]乃至[[学研M文庫]]に似た方向性であった。 ソノラマ文庫海外シリーズは全35冊が出版された。シリーズの前半はSF的要素が強い内容だったが、途中からはマイナーなホラーアンソロジー・シリーズを中心に据えていた。当時あまり話題にならなかったためか現在は古書店に出回ることが少ない。1冊数千円で売買されることもある。 航空戦史シリーズ、新戦史シリーズ(カバーが青)、スパイ戦史シリーズ(カバーが薄緑)については現在の光人社NF文庫や[[学研M文庫]]と同様の客層で、[[大井篤]]、[[吉田俊雄]]、[[奥宮正武]]、[[三野正洋]]らを執筆陣に擁した。学研M文庫などから復刻されているものもある。 1985年から1994年までは「獅子王」(1992年には「グリフォン」と改名しリニューアル)という朝日ソノラマの小説誌が存在し、同誌の連載作品の多くがソノラマ文庫で単行本化されていた。 == 主な作品 == * シリーズタイトル(著者、原作者、編集者など/イラスト、デザインなど) ''以下に作品を追加するときには、作品を五十音順に並べ、著者名の他、完結済みかどうかも出来る限り併記してください。また、新たに記事を作るときはリンクをつけてください。'' === あ === * 宇宙戦艦ヤマト([[豊田有恒]]/[[石津嵐]]/箕輪宗廣(原作:[[西崎義展]]、[[松本零士]])) * 宇宙潜航艇ゼロ(石津嵐/箕輪宗廣) * 宇宙海賊船シャークシリーズ(石津嵐/[[石黒昇]]) * 宇宙巨艦フリーダム([[石ノ森章太郎]]/吉野貢) * [[青の騎士ベルゼルガ物語]]([[はままさのり]]、全4巻) ※2017年に朝日文庫ソノラマセレクションにて全巻再刊行。 * アドナ妖戦記シリーズ([[嵩峰龍二]]、全6巻) * [[アプサラス]]シリーズ([[吉岡平]]) * アベニールをさがして([[富野由悠季]]) * [[ARIEL]]([[笹本祐一]]/[[鈴木雅久]])(本編は完結、外伝2冊。[[ソノラマノベルス]]に移籍) * [[大神伝]]([[六道慧]]/横井良輔・[[小林智美]])(全9巻、外伝1冊。完結) === か === * 怪獣男爵([[横溝正史]]) * 風の名はアムネジア([[菊地秀行]]) * ガッチャマン(柿沼秀樹、梅津泰臣、全3巻) * 株式学園の伝説シリーズ([[辻真先]]、全3巻) * 機械獣ヴァイブ(山田正紀) * [[機甲猟兵メロウリンク]]([[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]/[[谷口守泰]](原作:[[矢立肇]]))(第1巻のみで未完。続刊予定無し) * [[機動戦士ガンダム]](富野由悠季(原作:矢立肇、富野由悠季))(全3巻。[[角川スニーカー文庫]]に移籍) * [[キマイラ・吼]] シリーズ([[夢枕獏]]、[[ソノラマノベルス]]に移籍) * 逆宇宙シリーズ([[朝松健]] 「逆宇宙ハンターズ」全5巻 「逆宇宙レイザース」全6巻 外伝 ベルバランの鬼火/修羅鏡 各1巻) * [[吸血鬼ハンターD]] シリーズ([[菊地秀行]])([[朝日文庫]]に移籍) * 薩次&キリコシリーズ(スーパー&ポテトのシリーズ)(辻真先、ソノラマ文庫としては全6巻) * [[クトゥルー・オペラ|クトゥルー・オペラ シリーズ]]([[風見潤]]、全4巻) * [[クラッシャージョウ]] シリーズ([[高千穂遙]]/[[安彦良和]])([[ハヤカワ文庫]]に移籍) * [[「クレイジー・リー」シリーズ|クレージーリー シリーズ]]([[渡邉由自]] 「クレイジー・リー」シリーズ全4巻 外伝1巻 「ダーティプリンス」全5巻) * 黄金の竜騎兵(児島冬樹 続刊「黄金の一角獣」全1巻) === さ === * 私闘学園シリーズ([[朝松健]] 全9巻) * [[戦闘メカザブングル]]([[鈴木良武]]、 全2巻) * スター・ハンドラー シリーズ([[草上仁]]) * 真・デビルマン([[永井泰宇]]、全4巻) * ソルジャー・クイーン シリーズ(嵩峰龍二、本編6巻、外伝3巻。未完) * [[重戦機エルガイム]]([[渡邉由自]]、全3巻) * 修羅の大空([[吉岡平]]) === た === * タイムパトロールJ・Jシリーズ(風見潤) * <!--「けん」ではなく「つるぎ」-->[[ワースブレイド|剣の聖刻年代記]] シリーズ([[日下部匡俊]]) ** {{マンガ図書館Z作品|121871|剣の聖刻年代記}}(外部リンク) * [[超攻合神サーディオン]]([[苑崎透]]) * 罪深い神々の惑星(児島冬樹 「辺境パトロールシリーズ」) * [[伝説巨神イデオン]](富野由悠季(原作:矢立肇、富野由悠季))(全3巻。[[角川スニーカー文庫]]に移籍) * [[倒凶十将伝]] シリーズ([[庄司卓]]/[[結賀さとる]])完結済 * トレジャーハンター・八頭大 シリーズ(エイリアン・シリーズ)(菊地秀行、[[ソノラマノベルス]]に移籍) === な === * [[二等陸士物語]]([[吉岡平]]) * 猫の尻尾も借りてきて([[久米康之]]) === は === * [[破嵐万丈シリーズ]](富野由悠季(原作:矢立肇、富野由悠季)) * ピニェルの振り子([[野尻抱介]]) * 吹け、南の風([[秋山完]]) * ペリペティアの福音(秋山完) * [[星のパイロット]] シリーズ(笹本祐一) ** {{マンガ図書館Z作品|43031|星のパイロット}}(外部リンク) * [[星虫]] シリーズ([[岩本隆雄]]) === ま === * 魔界都市〈新宿〉(菊地秀行) * 魔聖界ロードシリーズ(渡邉由自 全4巻 完結) === や === * 幽霊鉄仮面([[横溝正史]]) * ゆらぎの森のシエラ([[菅浩江]]) * 妖神グルメ(菊地秀行) * [[妖精作戦]]シリーズ(笹本祐一 全4巻 完結) === ら === * [[竜の七部族]]([[ひかわ玲子]]、全5巻。朝日ノベルズにて全3巻に改訂再版) === わ === * [[聖刻1092|聖刻1092(ワース1092)]] シリーズ([[千葉暁]])(本編19冊、外伝2冊。未完。[[ソノラマノベルス]]に移籍) == 関連項目 == * [[文庫レーベル一覧]] == 外部リンク == * [http://publications.asahi.com/sonorama/ 朝日ソノラマより引き継いだ本](朝日新聞出版) * [http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/sonoramam.html ソノラマ文庫戦史シリーズの部屋] {{book-stub}} {{朝日新聞社}} {{デフォルトソート:そのらまふんこ}} [[Category:朝日新聞出版の出版物]] [[Category:ソノラマ文庫|*]] [[Category:廃刊したライトノベルレーベル]] [[Category:廃刊した文庫]] [[Category:1975年刊行開始の刊行物]] [[Category:2007年刊行終了の刊行物]]
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素粒子
素粒子(、英: elementary particle)とは、物質を構成する最小の単位のことである。基本粒子とほぼ同義語である。 素粒子はそれが従う統計によって二種類に分類され、フェルミ統計に従う粒子をフェルミ粒子、ボース統計に従う粒子をボース粒子と呼ぶ。現時点で存在が知られているフェルミ粒子はクォークとレプトンとに分類される。一方、現時点で知られているボース粒子には、素粒子間の相互作用を伝達するゲージ粒子と、素粒子に質量を与えるヒッグス機構に関連して現れるヒッグス粒子とがある。ゲージ粒子のうち、重力を媒介するとされる重力子(グラビトン)は未発見である。 素粒子の大きさは分かっておらず、大きさが無い(点粒子)とする理論と、非常に小さいがある大きさを持つとする理論がある。 標準模型(標準理論)では素粒子には大きさが無い(点粒子)ものとして扱っており、現時点では実験結果と矛盾が生じていない。ただし、点粒子は空間が最小単位の存在しない無限に分割可能な連続体であることを前提としているが、標準模型で扱うスケールより15桁以上小さいスケール(プランク長スケール)においては、空間が連続的であるか離散的であるかは判明していない。離散的である場合には点粒子として扱えない。 超弦理論においては全ての素粒子は有限の大きさを持つひもの振動状態であるとされる。 我々が普段目にする物質は(微小な、あるいは大きさが無い)素粒子からできているにもかかわらず、有限の大きさを持っている。それは、複数の素粒子が運動する有限の領域が、ハドロンや原子などの大きさを持つ粒子を構成することによる。 素粒子のうちほとんどのものは、自然界に単独で安定的に存在しているわけではないので、宇宙線の観測や加速器による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学の研究目的である。 素粒子に限らない粒子の分類としては、ローレンツ変換の下での変換性を表すスピンによって大きく分類され、スピン0でスカラーとして変換するスカラー粒子、スピン1でベクトルとして変換するベクトル粒子、スピン1/2でスピノルとして変換するスピノル粒子などがある。スピン統計定理により、整数スピンの粒子はボース統計に従うボース粒子であり、半整数スピンの粒子はフェルミ統計に従うフェルミ粒子である。 素粒子の分類としては、理論における役割に基づいて大別され、素粒子間のゲージ相互作用を媒介するゲージ粒子、ヒッグス機構に関連したヒッグス粒子、物質を構成する物質粒子(matter particle, matter fermion)がある。 超対称性を持つ理論においては、超対称粒子(super partner)が導入される。 素粒子間のゲージ相互作用を媒介する粒子であり、理論の持つゲージ対称性に対応した粒子が導入される。標準模型におけるゲージ粒子はベクトル粒子である。 ヒッグス機構によりゲージ対称性が自発的に破れた後に残る粒子がヒッグス粒子である。単にヒッグス粒子と呼ぶ場合はグラショウ=ワインバーグ=サラム模型において電弱対称性を破るヒッグス二重項を指す場合が多いが、これに限らずヒッグス三重項や、大統一理論のゲージ対称性を破るヒッグス粒子なども考えられている。 物質を構成する粒子であり、ゲージ変換の下での変換性を表すチャージにより大別される。標準模型の範囲では、カラーチャージと電荷が同一の粒子が3世代ずつ発見されており、世代数が大きいほど質量が大きい傾向にある。ただし、ニュートリノについては現在の標準模型を超える物理であり、未解明な部分がある。
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素粒子(そりゅうし、とは、物質を構成する最小の単位のことである。基本粒子とほぼ同義語である。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2013年12月}} [[File:Standard Model of Elementary Particles-ja.svg|thumb|300px|[[標準模型]]に含まれる17の素粒子]] {{読み仮名|'''素粒子'''|そりゅうし|{{lang-en-short|elementary particle}}}}とは、[[物質]]を構成する最小の単位のことである。[[基本粒子]]とほぼ同義語である。 == 概要 == [[File:Elementary particle interactions.svg|300px|thumb|right|標準模型による素粒子の相互作用の説明]] 素粒子はそれが従う統計によって二種類に分類され、フェルミ統計に従う[[粒子]]を[[フェルミ粒子]]、ボース統計に従う粒子を[[ボース粒子]]と呼ぶ。現時点で存在が知られているフェルミ粒子は[[クォーク]]と[[レプトン (素粒子)|レプトン]]とに分類される。一方、現時点で知られているボース粒子には、素粒子間の相互作用を伝達する[[ゲージ粒子]]と、素粒子に質量を与えるヒッグス機構に関連して現れる[[ヒッグス粒子]]とがある。[[ゲージ粒子]]のうち、[[重力]]を媒介するとされる[[重力子]](グラビトン)は未発見である。 素粒子の大きさは分かっておらず、大きさが無い(点粒子)とする理論と、非常に小さいがある大きさを持つとする理論がある。 [[標準模型]](標準理論)では素粒子には大きさが無い(点粒子)ものとして扱っており、現時点では実験結果と矛盾が生じていない。ただし、点粒子は空間が最小単位の存在しない無限に分割可能な連続体であることを前提としているが、標準模型で扱うスケールより15桁以上小さいスケール([[プランク長]]スケール)においては、空間が連続的であるか離散的であるかは判明していない。離散的である場合には点粒子として扱えない。 [[超弦理論]]においては全ての素粒子は有限の大きさを持つひもの振動状態であるとされる。 我々が普段目にする物質は(微小な、あるいは大きさが無い)素粒子からできているにもかかわらず、有限の大きさを持っている。それは、複数の素粒子が運動する有限の領域が、[[ハドロン]]や[[原子]]などの大きさを持つ粒子を構成することによる。 素粒子のうちほとんどのものは、自然界に単独で安定的に存在しているわけではないので、[[宇宙線]]の観測や[[加速器]]による生成反応により発見・研究された。素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、[[素粒子物理学]]の研究目的である。 == 素粒子の分類 == 素粒子に限らない粒子の分類としては、[[ローレンツ変換]]の下での変換性を表す[[スピン角運動量|スピン]]によって大きく分類され、スピン0でスカラーとして変換する[[スカラー粒子]]、スピン1でベクトルとして変換する[[ベクトル粒子]]、スピン1/2でスピノルとして変換する[[スピノル粒子]]などがある。[[スピン統計定理]]により、整数スピンの粒子は[[ボース統計]]に従う[[ボース粒子]]であり、半整数スピンの粒子は[[フェルミ統計]]に従う[[フェルミ粒子]]である。 素粒子の分類としては、理論における役割に基づいて大別され、素粒子間の[[ゲージ理論|ゲージ相互作用]]を媒介する'''[[ゲージ粒子]]'''、[[ヒッグス機構]]に関連した'''[[ヒッグス粒子]]'''、物質を構成する'''物質粒子'''({{en|matter particle, matter fermion}})がある。 [[超対称性]]を持つ理論においては、[[超対称粒子]]({{en|super partner}})が導入される。 === ゲージ粒子 === 素粒子間のゲージ相互作用を媒介する粒子であり、理論の持つゲージ対称性に対応した粒子が導入される。標準模型におけるゲージ粒子はベクトル粒子である。 ; [[光子]](フォトン) : [[電磁相互作用]]を媒介するゲージ粒子で、[[ガンマ線]]の正体であり {{math|&gamma;}} で表されることが多い。 ; [[ウィークボソン]] : [[弱い相互作用]]を媒介するゲージ粒子で、質量を持つ。 :; Wボソン :: 電荷±1をもつウィークボソンで、[[ベータ崩壊]]を起こすゲージ粒子である。W<sup>+</sup>, W<sup>&minus;</sup>で表され、互いに反粒子の関係にある。 :; Zボソン :: 電荷をもたないウィークボソンで、[[ワインバーグ=サラム理論]]により予言され、後に発見された。{{math|Z{{sup|0}}}} と書かれることもある。 ; [[グルーオン]] : [[強い相互作用]]を媒介するゲージ粒子で、[[カラーチャージ|カラーSU(3)]]の下で8種類存在する(8重項)。 ; [[XボソンとYボソン]] : [[大統一理論|ジョージ=グラショウ模型]]において導入される未発見のゲージ粒子である。 ; [[重力子]](グラビトン) : [[重力]]を媒介する未発見のゲージ粒子で、スピン2のテンソル粒子と考えられている。 === ヒッグス粒子 === [[ヒッグス機構]]によりゲージ対称性が自発的に破れた後に残る粒子が[[ヒッグス粒子]]である。単にヒッグス粒子と呼ぶ場合はグラショウ=ワインバーグ=サラム模型において電弱対称性を破るヒッグス二重項を指す場合が多いが、これに限らずヒッグス三重項や、大統一理論のゲージ対称性を破るヒッグス粒子なども考えられている。 === 物質粒子 === 物質を構成する粒子であり、ゲージ変換の下での変換性を表す[[チャージ (物理学)|チャージ]]により大別される。標準模型の範囲では、[[カラーチャージ]]と[[電荷]]が同一の粒子が3世代ずつ発見されており、世代数が大きいほど質量が大きい傾向にある。ただし、ニュートリノについては現在の標準模型を超える物理であり、未解明な部分がある。 ; [[クォーク]] : カラーチャージを持ち、強い相互作用をする物質粒子である。[[カラーの閉じ込め]]により[[ハドロン]]を構成する。 :; 上系列クォーク({{en|up-type quark}}) :: 電荷 +2/3 を持つクォークで、それぞれに[[反粒子]]が存在する。 ::* [[アップクォーク]](u) ::* [[チャームクォーク]](c) ::* [[トップクォーク]](t) :; 下系列クォーク({{en|down-type quark}}) :: 電荷 &minus;1/3 を持つクォークで、それぞれに反粒子が存在する。 ::* [[ダウンクォーク]](d) ::* [[ストレンジクォーク]](s) ::* [[ボトムクォーク]](b) ; [[レプトン (素粒子)|レプトン]] : カラーチャージを持たず、強い相互作用をしない物質粒子である。 :; 荷電レプトン({{en|charged-lepton}}) :: 電荷 &minus;1 を持つレプトンで、それぞれに反粒子が存在する。 ::* [[電子]] (e) ::: [[原子]]の構成要素として一般によく知られる。電子の反粒子は[[陽電子]]と呼ばれる。 ::* [[ミュー粒子]](&mu;) ::* [[タウ粒子]](τ) :; [[ニュートリノ]] :: 電荷を持たないレプトンで、標準模型の範囲では反粒子の存在が必然ではない。 ::*[[電子ニュートリノ]](&nu;<sub>e</sub>) ::* [[ミューニュートリノ]](&nu;<sub>&mu;</sub>) ::* [[タウニュートリノ]](&nu;<sub>τ</sub>) <!-- ==== クォークとレプトンの分類表 ==== [[クォーク]]と[[レプトン (素粒子)|レプトン]]は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数が大きいほど質量が大きいとされている。 {| class="wikitable" ! !! 電荷 !! 第1世代 !! 第2世代 !! 第3世代 |- ! rowspan="2" | [[クォーク]] | +2/3 || [[アップクォーク]] (u) || [[チャームクォーク]] (c) || [[トップクォーク]] (t) |- | &minus;1/3 || [[ダウンクォーク]] (d) || [[ストレンジクォーク]] (s) || [[ボトムクォーク]] (b) |- ! rowspan="2" | [[レプトン]] | 0 || [[電子ニュートリノ]] (&nu;<sub>e</sub>) || [[ミューニュートリノ]] (&nu;<sub>&mu;</sub>) || [[タウニュートリノ]] (&nu;<sub>τ</sub>) |- | &minus;1 || [[電子]] (e) || [[ミュー粒子]] (&mu;) || [[タウ粒子]] (τ) |} --> == 関連項目 == * [[標準模型]] * [[基本粒子]] * [[亜原子粒子]] * [[素粒子物理学]] *[[電子]] *[[原子]] *[[原子核]] {{粒子の一覧}} {{物質構造}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:そりゆうし}} [[Category:素粒子|*]] [[Category:素粒子物理学]]
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6,404
阪鶴鉄道
阪鶴鉄道()は、尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社である。 尼ヶ崎(後の尼崎港) - 池田(現在の川西池田近傍)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西業茂(小西新右衛門)らが大阪財界人と結んで、軍港として発展が見込め、日本海側の主要都市の一つであった舞鶴と大阪を結ぶ鉄道を計画。1893年(明治26年)8月に大阪 - 神崎 - 池田 - 三田 - 福知山 - 舞鶴間の鉄道敷設免許を出願。12月には福知山 - 和田山 - 八鹿間の支線敷設免許も出願した。1895年(明治28年)、正式に会社組織として設立、本社は大阪市北区曾根崎に置かれた。しかし、同じく舞鶴への鉄道敷設を競っていた京都鉄道に京都 - 綾部 - 舞鶴間の仮免許が下りたため、阪鶴鉄道には福知山 - 舞鶴間は下りなかった。また、神崎(現JR尼崎) - 大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で仮免許が下りなかった。その結果、仮免許を得たのは神崎 - 福知山間だけであった。1897年(明治30年)2月に摂津鉄道を合併し、12月に池田-宝塚間が開業。1898年(明治31年)6月に塚口 - 官鉄線神崎間が開業し、9月に官鉄線に乗り入れて大阪まで直通運行。1899年(明治32年)には宝塚以北が1月に三田、3月に篠山(現在の篠山口駅)、5月に柏原と順次延伸され、7月に福知山南口(のちに廃止)まで開通した。この頃本社を伊丹町(現伊丹市)、次いで登記上の本社を川西市寺畑村8番地の1に移転。 ところが、阪鶴鉄道が接続するはずの京都鉄道は保津峡区間の難工事で資金不足に陥り、園部 - 舞鶴間が開業していなかった。このため阪鶴鉄道は1899年(明治32年)12月に改めて福知山 - 八田 - 舞鶴および宮津間の鉄道敷設を申請したが、却下された。このため阪鶴鉄道は宮津まで由良川による舟運を計画する。1901年(明治34年)12月(諸説あり)に福知山南駅より人力車を使い蛇ヶ端(じゃがはな)乗船場まで行き、そこから川船で河守まで、さらに由良までは「由良汽船」を設立し、第一由良川丸と第二由良川丸を建造し、輸送。舞鶴方面は途中の藤津から、宮津方面は由良よりそれぞれ人力車で連絡した。 1901年(明治34年)10月1日には海軍舞鶴鎮守府が開庁するが、京都鉄道による舞鶴延伸が望めないことから1902年(明治35年)4月に免許は取消となり、政府が官設鉄道として敷設することとなった。1904年(明治37年)11月に新舞鶴 - 福知山間が開通すると、あわせて阪鶴鉄道も福知山南口 - 福知山間を開通させ、官鉄線福知山 - 新舞鶴間を借り受け、ついに大阪 - 舞鶴間の直通運行が実現した。そして、 丹波・若狭地方との連絡のため、舞鶴より宮津、境、小浜などへの鉄道連絡船の運営を開始した。 なお、神崎 - 大阪間の将来の輸送量の増加を予想し、支線として池田 - 大阪間の鉄道敷設免許を受けた。 1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎 - 福知山間の営業を譲渡して庁線となり、JR福知山線の原型となった。また、池田 - 大阪間の鉄道敷設免許は国有化直前に失効したが、計画は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となった。 東京都品川区の東品川公園には、アメリカ合衆国のピッツバーグ・ロコモーティブ・アンド・カー・ワークス社から輸入され、阪鶴鉄道12、13として使われていた機関車が保存されている。 国有鉄道に引継がれた車両は機関車17両、客車44両、貨車265両である 木製2軸車 木製ボギー車 製造所は池田は阪鶴鉄道会社池田工場、福岡は大阪福岡工場、日車は日本車輌製造 リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』 『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)
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阪鶴鉄道は、尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社である。
{{基礎情報 会社 |社名 = 阪鶴鉄道 |ロゴ = [[File:HankakuRyLogo.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[兵庫県]][[河辺郡]][[伊丹町]]<ref name="NDLDC780119-356"/> |設立 = [[1896年]](明治29年)4月<ref name="NDLDC780119-356"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |代表者 = 取締役社長 [[田艇吉]]<ref name="NDLDC780119-356"/> |資本金 = 4,000,000円(払込額)<ref name="NDLDC780119-356"/> |特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-356">[{{NDLDC|780119/356}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} {{読み仮名|'''阪鶴鉄道'''|はんかくてつどう}}は、[[尼崎市|尼崎]]から[[福知山市|福知山]]を経て[[舞鶴市|舞鶴]]を結んでいた[[鉄道路線]]、およびその路線を運行していた[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。 == 概要 == 尼ヶ崎(後の[[尼崎港駅|尼崎港]]) - 池田(現在の[[川西池田駅|川西池田]]近傍)間で営業していた[[摂津鉄道]]に出資していた[[小西業茂]](小西新右衛門)らが大阪財界人と結んで、[[軍港]]として発展が見込め、[[裏日本|日本海側]]の主要都市の一つであった舞鶴と大阪を結ぶ鉄道を計画。[[1893年]](明治26年)8月に大阪 - [[尼崎駅 (JR西日本)|神崎]] - 池田 - [[三田市|三田]] - [[福知山市|福知山]] - 舞鶴間の鉄道敷設免許を出願。12月には福知山 - [[和田山町|和田山]] - [[八鹿町|八鹿]]間の[[支線]]敷設免許も出願した。[[1895年]](明治28年)、正式に会社組織として設立、本社は[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[曾根崎]]に置かれた。しかし、同じく舞鶴への鉄道敷設を競っていた[[京都鉄道]]に[[京都市|京都]] - [[綾部市|綾部]] - 舞鶴間の仮免許が下りたため、阪鶴鉄道には福知山 - 舞鶴間は下りなかった。また、神崎(現JR[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]]) - [[大阪駅|大阪]]間も、[[官設鉄道|官鉄線]]と並行しているという理由で仮免許が下りなかった。その結果、仮免許を得たのは神崎 - 福知山間だけであった。[[1897年]](明治30年)2月に摂津鉄道を合併し、12月に池田-[[宝塚駅|宝塚]]間が開業。[[1898年]](明治31年)6月に[[塚口駅 (JR西日本)|塚口]] - 官鉄線神崎間が開業し、9月に官鉄線に乗り入れて大阪まで[[直通運転|直通運行]]。[[1899年]](明治32年)には宝塚以北が1月に[[三田駅 (兵庫県)|三田]]、3月に篠山(現在の[[篠山口駅]])、5月に[[柏原駅 (兵庫県)|柏原]]と順次延伸され、7月に福知山南口(のちに[[廃駅|廃止]])まで開通した。この頃本社を[[伊丹町]](現[[伊丹市]])、次いで[[登記]]上の本社を[[川西市]]寺畑村8番地の1に移転。 ところが、阪鶴鉄道が接続するはずの京都鉄道は[[保津峡]]区間の難工事で資金不足に陥り、[[園部駅|園部]] - 舞鶴間が開業していなかった。このため阪鶴鉄道は[[1899年]](明治32年)12月に改めて福知山 - [[八田村 (兵庫県)|八田]] - 舞鶴および[[宮津市|宮津]]間の鉄道敷設を申請したが、却下された。このため阪鶴鉄道は宮津まで[[由良川]]による[[水運|舟運]]を計画する。1901年(明治34年)12月(諸説あり<ref>1901年(明治34年)3月に福知山宮津間の由良川を利用し鉄船2艘を建造[{{NDLDC|1257403/79}} 『速水太郎伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>1902年(明治35年)5月29日に小型[[蒸気船]]を運航せしめ福知山舞鶴間由良川により旅客の連絡開始[{{NDLDC|805310/180}} 『帝国鉄道要鑑. 第3版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>第二由良川丸の製造日が1902年(明治35年)7月(船舶番号8391所有者速水太郎)(第一由良川丸は未掲載)[{{NDLDC|805516/112}} 『日本船名録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>1901年(明治34年)3月に航路開設当初は全行程を川船で上下し、1902年(明治35年)に第一・第二由良川丸を建造し、福知山 - 河守は川船で、河守 - 由良間を第一・第二由良川丸で運航『鉄道連絡船100年の航跡』8-9頁</ref>)に福知山南駅より[[人力車]]を使い蛇ヶ端(じゃがはな)[[係留施設|乗船場]]まで行き、そこから川船で河守まで、さらに[[由良村|由良]]までは「由良汽船」を設立し、第一由良川丸<ref>写真[{{NDLDC|1833988/128}} 『明治工業史. 〔第3〕』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>と第二由良川丸<ref>写真[{{NDLDC|900918/62}} 『第五回内国勧業博覧会審査報告. 第8部』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>を建造し、輸送。舞鶴方面は途中の藤津から、宮津方面は由良よりそれぞれ[[人力車]]で連絡した<ref>1904年11月まで続けられた田中真人ほか『京都滋賀鉄道の歴史』京都新聞社、1998年、277頁</ref>。 [[1901年]](明治34年)10月1日には海軍[[舞鶴鎮守府]]が開庁するが、京都鉄道による舞鶴延伸が望めないことから1902年(明治35年)4月に免許は取消となり、政府が官設鉄道として敷設することとなった<ref>[{{NDLDC|2948941/9}} 「私設鉄道株式会社線路中免許取消」『官報』1902年4月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[1904年]](明治37年)11月に[[東舞鶴駅|新舞鶴]] - [[福知山駅|福知山]]間が開通すると、あわせて阪鶴鉄道も福知山南口 - 福知山間を開通させ、官鉄線福知山 - 新舞鶴間を借り受け、ついに大阪 - 舞鶴間の直通運行が実現した。そして、 [[丹波国|丹波]]・[[若狭国|若狭]]地方との連絡のため、舞鶴より[[宮津市|宮津]]、[[境港市|境]]、[[小浜市|小浜]]などへの[[鉄道連絡船#その他の鉄道連絡航路|鉄道連絡船]]の運営を開始した。 なお、神崎 - 大阪間の将来の輸送量の増加を予想し、支線として池田 - 大阪間の鉄道敷設免許を受けた。 [[1907年]](明治40年)[[8月1日]]に、[[鉄道国有法]]により[[帝国鉄道庁]]に尼ヶ崎 - 福知山間の営業を譲渡して庁線となり、JR[[福知山線]]の原型となった。また、池田 - 大阪間の鉄道敷設免許は国有化直前に失効したが、計画は[[阪急電鉄]]の前身である[[箕面有馬電気軌道]]に継承され、[[阪急宝塚本線]]の原型となった。 [[東京都]][[品川区]]の東品川公園<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shisetsu/shisetsu-bunka/shisetsu-bunka-kouen/hpg000022822.html |title=東品川公園 |publisher=品川区 |accessdate=2023-06-14}}</ref>には、[[アメリカ合衆国]]の[[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ・ロコモーティブ・アンド・カー・ワークス]]社から輸入され、阪鶴鉄道'''12'''、'''13'''として使われていた機関車が保存されている。 == 歴史 == [[File:Kyoto Railway and Hankaku Railway Linemap 1907.svg|thumb|right|400px|京都鉄道・阪鶴鉄道路線図(1907年7月31日)]] * 1893年(明治26年) ** 8月1日 - 阪鶴鉄道鉄道敷設免許出願<ref name="tetusi332">[{{NDLDC|2127166/332}} 『日本鉄道史. 中篇』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 12月12日 - 摂津鉄道運輸開業(尼崎-伊丹間、伊丹-小戸村間)<ref>[{{NDLDC|2946403/5}} 「運輸開業免状下付」『官報』1893年12月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|805397/26}} 『鉄道局年報. 明治26年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1894年(明治27年)7月 - 鉄道敷設仮免状下付(官設鉄道神崎停車場-天田郡福知山町間 発起人総代[[住友友純|住友吉左衛門]])<ref>[{{NDLDC|2946580/3}} 「私設鉄道仮免状下付」『官報』1894年7月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1895年(明治28年)10月18日 - 創業総会。[[土居通夫]]<ref>[[大阪電灯]]社長のちに[[大阪商工会議所|大阪商業会議所]]会頭、[[南和鉄道]]、[[紀和鉄道]]、[[北越鉄道]]役員、[[阪堺電気軌道|大阪馬車鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]社長</ref>が社長に選出<ref>[{{NDLDC|1920400/182}} 1895年10月22日時事新報『新聞集成明治編年史. 第九卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1896年(明治29年)4月30日 - 阪鶴鉄道に対し鉄道敷設免許状下付(官設鉄道神崎停車場-京都鉄道福知山停車場間)<ref>[{{NDLDC|2947134/6}} 「私設鉄道仮免状及免許状下付」『官報』1896年5月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1897年(明治30年) ** 2月16日 - 摂津鉄道鉄道敷設権を阪鶴鉄道に譲渡<ref>摂津鉄道解散2月15日[{{NDLDC|805398/152}} 『鉄道局年報. 明治29年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>和久田康雄『鉄道ファンのための私鉄史研究資料』電気車研究会、2014年、134頁</ref><ref name="teikok3"/>。資本金24万円の摂津鉄道に対し31万3673円で買収<ref>『宝塚市史』第三巻、1977年、183頁</ref> ** 12月27日 - 運輸開業(池田-宝塚間)<ref>[{{NDLDC|2947644/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1898年(明治31年) ** 1月 - [[ポーター (鉄道)|赤帽]]を配置<ref name="teikoku">[{{NDLDC|805310/180}} 『帝国鉄道要鑑. 第3版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 6月8日 - 運輸開業(宝塚-有馬口間、神崎-塚口間)<ref>[{{NDLDC|2947776/3}} 「運輸営業開始」『官報』1898年6月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 9月1日 - 大阪-有馬口間直通列車運転開始<ref name="tetuds574">[{{NDLDC|2127166/335}} 『日本鉄道史. 中篇』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1899年(明治32年) ** 1月25日 - 運輸開業(有馬口-三田間)<ref>[{{NDLDC|2947964/13}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年2月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 3月25日 - 運輸開業(篠山-三田間)及び有馬口駅を生瀬駅に改称<ref>[{{NDLDC|2948010/7}} 「運輸開業免許状下付」「停車場改称」『官報』1899年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 5月25日 - 運輸開業(篠山-柏原間)<ref>[{{NDLDC|2948062/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年5月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 5月25日 - ボギー客車使用開始<ref name="teikoku"/> ** 7月15日 - 運輸開業(柏原-福知山南口間)<ref>[{{NDLDC|2948107/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年7月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 7月17日 - 大阪-福知山間直通列車運転開始<ref name="tetuds574"/> * 1900年(明治33年) ** 2月 - 列車ボーイを乗車(後廃止)<ref name="teikoku"/> ** 5月15日 - 京都-福知山間直通列車運転開始<ref name="tetuds574"/> ** 9月14日 - 鉄道敷設免許状下付(川辺郡川西村-官設鉄道大阪停車場)<ref>[{{NDLDC|2948458/8}} 「私設鉄道株式会社免許状下付」『官報』1900年9月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1901年(明治34年) ** 4月1日 - 池田停車場移転<ref>[{{NDLDC|2948624/10}} 「停車場移転」『官報』1901年4月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 10月10日 - 松茸狩列車運転開始(大阪-藍本間)<ref name="teikoku"/><ref>[{{NDLDC|1257403/78}} 『速水太郎伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 11月4日 - 観楓列車運転開始<ref name="teikoku"/> ** 12月 - 由良汽船を設立し福知山-由良間の運航を開始。舞鶴との連絡を図る * 1903年(明治36年) ** 4月30日 - 池田駅-中山駅間に4月30日より7月31日まで花畑仮停車場設置<ref>[{{NDLDC|2949258/7}} 「仮停車場開始」『官報』1903年5月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 11月1日 - 福知山南口駅を福知駅に改称<ref>[{{NDLDC|2949396/3}} 「停車場改称」『官報』1903年10月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 12月5日 - 客車[[蒸気暖房 (鉄道)|スチームヒータ]]使用開始<ref name="teikoku"/> * 1904年(明治37年) ** 11月3日 - 運輸開始(福地-福知山間)、官設鉄道舞鶴線(福知山-新舞鶴間)<ref>[{{NDLDC|2949729/8}} 「運輸開始」『官報』1904年11月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> **11月24日 - 航路開設(舞鶴-宮津間)<ref name="rrk">古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、1988年、19頁</ref><ref name="teikoku"/> * 1905年(明治38年) ** 2月18日 - 列車給仕を乗車<ref name="teikoku"/> ** 4月 - 航路開設(舞鶴-境間)<ref name="rrk"/> ** 4月5日 - 鉄道敷設免許失効(川西-大阪間)<ref>[{{NDLDC|2949857/21}} 「私設鉄道株式会社免許失効」『官報』1905年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 4月15日 - 天橋立遊覧切符発売<ref name="teikoku"/><ref name="teikok3"/> ** 7月13日 - 運輸開始(塚口-尼崎間、貨物運輸)。長洲、大物両停車場廃止<ref>[{{NDLDC|2949956/11}} 「運輸開始並停車場廃止」『官報』1905年7月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1906年(明治39年) ** 1月27日 - 鉄道敷設仮免許状下付(官設鉄道大阪停車場-川辺郡川西村間)<ref>[{{NDLDC|2950112/14}} 「私設鉄道株式会社仮免許状下付」『官報』1906年1月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 7月1日 - 航路開設(舞鶴-小浜間)<ref name="rrk"/><ref name="teikoku2">帝国鉄道要鑑は1月19日[{{NDLDC|805310/180}} 『帝国鉄道要鑑. 第3版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * 1907年(明治40年) ** 1月16日 - 鉄道敷設仮免許状返納を株主総会で決議<ref>[{{NDLDC|2950426/7}} 「私設鉄道株式会社仮免許状返納」『官報』1907年2月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 8月1日 - 国有化 == 路線・駅一覧 == ;神崎-福知山(67.0M≒107.83km) :(官設鉄道[[大阪駅]]まで直通運転 - )[[尼崎駅 (JR西日本)|神崎駅]] - [[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]] - [[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]] - [[川西池田駅|池田駅]] - [[中山寺駅|中山駅]] - [[宝塚駅]] - [[生瀬駅]] - [[武田尾駅]] - [[道場駅]] - [[三田駅 (兵庫県)|三田駅]] - [[広野駅 (兵庫県)|広野駅]] - [[相野駅]] - [[藍本駅]] - [[古市駅 (兵庫県)|古市駅]] - [[篠山口駅|篠山駅]] - [[丹波大山駅|大山駅]] - [[下滝駅]] - [[谷川駅]] - [[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]] - [[石生駅]] - [[黒井駅 (兵庫県)|黒井駅]] - [[市島駅]] - [[丹波竹田駅|竹田駅]] - 福知駅 - [[福知山駅]]( - 官設鉄道[[東舞鶴駅|新舞鶴駅]]まで直通運転) ;塚口-尼ヶ崎(2.9M≒4.67km・貨物線) :塚口駅 - [[尼崎港駅|尼ヶ崎駅]] == 役員 == * 土居通夫 初代社長 1896年(明治28年)10月10日就任<ref name="teikok3">[{{NDLDC|805310/175}} 『帝国鉄道要鑑. 第3版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[南清]] 第2代社長 1897年(明治30年)4月23日就任<ref name="teikok3"/>在職中に死亡 * [[田艇吉]] 第3代社長 1904年(明治37年)10月15日就任<ref name="teikok3"/> *[[小林一三]] 国有化時監査役 *[[速水太郎]] 取締役 == 輸送・収支実績 == {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;" |- !年度 !乗客(人) !貨物量(トン) !営業収入(円) !営業費(円) !益金(円) |- |1896||88,321||1,379||8,502||4,445||4,057 |- |1897||1,029,048||37,171||79,048||38,942||40,106 |- |1898||1,114,617||92,503||153,833||70,048||83,785 |- |1899||1,510,983||113,174||355,527||220,573||134,954 |- |1900||1,502,301||136,291||481,919||245,928||235,991 |- |1901||1,382,704||125,171||506,306||215,950||290,356 |- |1902||1,320,849||132,687||497,035||229,118||267,917 |- |1903||1,340,376||160,832||538,801||230,420||308,381 |- |1904||1,329,399||184,754||536,452||244,227||292,225 |- |1905||1,791,933||237,764||670,813||311,834||358,979 |- |1906||2,002,295||327,860||783,575||362,041||421,534 |- |1907||796,381||117,404||337,507||178,707||158,800 |- |} *「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より == 車両 == 国有鉄道に引継がれた車両は機関車17両、客車44両、貨車265両である<ref>[{{NDLDC|805387/375}} 『鉄道国有始末一斑』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> === 蒸気機関車(762mm軌間) === ;[[摂津鉄道1号形蒸気機関車|Nos. 1 - 4]] :摂津鉄道からの譲受車。1893年[[スイス|瑞]][[スイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|SLM]]製・[[車軸配置]]0-6-0 (C) タンク機 :改軌まで使用後、3, 4は関西採炭松浦炭坑に譲渡。1両は、佐世保鉄道14を経て鉄道省ケ215となる。 === 蒸気機関車(1,067mm軌間) === ;A1形 Nos. 1 - 3 :1897年[[アメリカ合衆国|米]][[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ]]社製・車軸配置0-6-0 (C) [[タンク機関車|タンク機]] :1, 3は1904年、[[南海高野線|高野鉄道]]に譲渡。3は庄川水力電気専用線、[[新宮鉄道]]を経て国有化、[[国鉄1350形蒸気機関車|1255形]] 1255となる。2は国有化後[[国鉄1350形蒸気機関車|1350形]] 1350 ;A2形 Nox. 4, 5 :1897年[[ドイツ|独]][[クラウス=マッファイ|クラウス]]社製・車軸配置0-6-0 (C) タンク機→鉄道院[[国鉄1400形蒸気機関車|1400形]] 1419, 1420 ;A3形 Nos. 6, 7 :1898年米[[ブルックス・ロコモティブ・ワークス|ブルックス]]社製・車軸配置2-6-2 (1C1) タンク機→[[国鉄3450形蒸気機関車|3450形]] 3450, 3451 ;A4形 Nos. 8 - 10 :1898年米ブルックス社製・車軸配置4-4-0 (2B) [[テンダー機関車|テンダ機]]→[[国鉄5860形蒸気機関車|5860形]] 5860-5862 ;11 :1897年[[イギリス|英]][[ナスミス・ウィルソン]]社製・車軸配置0-6-0 (C) タンク機 :[[河陽鉄道]]の注文流れ。1902年日本鉄道に譲渡。国有化後[[国鉄1100形蒸気機関車|1100形]] 1105 ;A5形 Nos. 12, 13 [[ファイル:JGR-2850SL.jpg|thumb|240px|right|13]] :1897年米ピッツバーグ社製・車軸配置2-6-0 (1C) タンク機 :伊賀鉄道の注文流れ。→[[国鉄2850形蒸気機関車|2850形]] 2850, 2851 ;A6形 Nos. 14, 15 :1899年独[[ハノマーク|ハノーバー]]社製・車軸配置0-6-0 (C) タンク機 :金辺鉄道の注文流れ。→[[国鉄2040形蒸気機関車|2040形]] 2040, 2041 ;A7形 Nos. 1, 3(2代) :1897年米ブルックス社製・車軸配置2-6-2 (1C1) タンク機 :1904年、高野鉄道から譲受→鉄道院[[国鉄3350形蒸気機関車|3350形]] 3350, 3351 ;A8形 Nos. 16 - 18 :1906年米[[アメリカン・ロコモティブ|アルコ社]]([[スケネクタディ・ロコモティブ・ワークス|スケネクタディ工場]])製・車軸配置2-6-0 (1C) テンダ機→[[国鉄8300形蒸気機関車|8300形]] 8300-8302 === 客車(1,067mm軌間) === 木製2軸車 *5-8 4両 福岡、日車製 定員一等14人二等16人 国有化後イロ352-355(形式352) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/82}} 形式図] *1.2.4-12 11両 福岡、日車製 定員50人 国有化後フハ3373-3383(形式3373) 三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/280}} 形式図] *1 1両 日車製 定員13人 国有化後ハユ3476(形式3476) 三等郵便車 [{{NDLDC|2942239/290}} 形式図]廊下付 *1 1両 日車製 定員13人 国有化後ハユニ3525(形式3525) 三等郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/311}} 形式図] *1-4 4両 福岡、日車製 定員25人 国有化後ハニ3691-3694(形式3691) 三等手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/347}} 形式図] *2 1両 福岡製 国有化後ユニ3971(形式3971) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/411}} 形式図]廊下付 木製ボギー車 *1-4、9 5両 池田、福岡、日車製 定員一等18人二等40人 国有化後ホイロ5310-5314(形式5310) 一二等車 [{{NDLDC|2942240/31}} 形式図] *13-20 8両 池田、福岡、日車製 定員100人 国有化後ホハ6740-6747(形式6740) 三等車 [{{NDLDC|2942240/94}} 形式図] *21.22 2両 福岡製 定員100人 国有化後ホハ6750.6751(形式6750) 三等車 [{{NDLDC|2942240/95}} 形式図]中央の大扉は後年の形式図にはない *3-5 3両 池田、福岡、日車製 定員40人 国有化後ホハユニ8240-8242(形式8240) 三等郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942240/135}} 形式図] 廊下付き *5-8 4両 池田、福岡、日車製 定員50人 国有化後ホハユニ8400-8403(形式8400) 三等手荷物緩急車車 [{{NDLDC|2942240/147}} 形式図] 製造所は池田は阪鶴鉄道会社池田工場、福岡は大阪福岡工場、日車は[[日本車輌製造]] リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』 === 貨車(1,067mm軌間) === * 1-46 山陽鉄道、阪鶴鉄道、朝日商社製 有蓋貨車 鉄道院ワ7626形(7626-7669・9733・9734) * 47-81・83-112 [[汽車製造]]、阪鶴鉄道製 有蓋貨車 鉄道院ワ7670形(7670・7671・15288-15349) * 113-154 阪鶴鉄道製 有蓋貨車 鉄道院ワ7670形(7672-7712・15350) * 82 不明製 有蓋貨車 鉄道院ワ7670形(9735) * 1-8 阪鶴鉄道、汽車製造、朝日商社製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ3276形(3276-3282・3481) * 9-13 [[梅鉢鉄工場]]製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ3283形(3283-3287) * 14-16 阪鶴鉄道製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ3283形(3288-3290) * 17-21 阪鶴鉄道製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ3291形(3291-3295) * 1-7 阪鶴鉄道製 家畜車 鉄道院カ536形(536-542) * 1・2 阪鶴鉄道製 魚運車 鉄道院ウ351形(351・352) * 22-34・36-41 汽車製造製 無蓋貨車 鉄道院ト9998形(15882-15900) * 35・42-51 汽車製造、朝日商社、阪鶴鉄道製 無蓋貨車 鉄道院ト9998形(9998-10008) * 52-61 阪鶴鉄道製 無蓋貨車 鉄道院ト10009形(10009-10018) * 1-21 阪鶴鉄道、朝日商社、山陽鉄道製 土運車 鉄道院ツ2214形(2214-2234) * 1-20 山陽鉄道、朝日商社製 材木車 鉄道院チ601形(601-620) 『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年) === 車両数の推移 === {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;" |- ! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車 |- |1896||4||20||20 |- |1897||4||22||43 |- |1898||11||22||92 |- |1899||13||40||162 |- |1900||13||44||163 |- |1901||14||44||200 |- |1902||14||44||200 |- |1903||14||44||205 |- |1904||14||44||205 |- |1905||14||44||238 |- |1906||17||44||255 |} *「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より == 船舶 == ;橋立丸 :木造(58トン)、1904年(明治37年)[[日立造船#沿革|大阪鉄工所]]製、船舶番号9210<ref>[{{NDLDC|901338/126}} 『日本船名録. 明治39年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、52人乗り。舞鶴-宮津間の航路開始に用意されたが小型でありしばしば欠航した<ref>『鉄道連絡船100年の航跡』20頁</ref> ;第二橋立丸 :木造(170トン)、1906年(明治39年)製、船舶番号10152<ref name="seme40141">[{{NDLDC|901339/141}} 『日本船名録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、舞鶴-小浜間の航路開始に用意された<ref>『鉄道連絡船100年の航跡』21-22頁</ref> ;阪鶴丸 :鋼体(760トン)、1906年(明治39年)大阪鉄工所製、船舶番号10154<ref name="seme40141"/>、1905年(明治38年)4月より開設した舞鶴-境間用。竣功するまでは他より客船をチャータしていた<ref>『鉄道連絡船100年の航跡』20-21頁</ref>。また、定期的に[[米子市|米子町]]の深浦にも寄港していた<ref>{{Cite book|和書|title=新修米子市史第三巻 通史編 近代|year=2007|publisher=米子市史|pages=343}}</ref>。 ;[[第二阪鶴丸]] :阪鶴鉄道より大阪鉄工所に発注されたが竣功時には国有化されていた<ref>『鉄道連絡船100年の航跡』33頁</ref><ref>[{{NDLDC|901341/149}} 『日本船名録. 明治42年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[舞鶴港]] *[[摂津鉄道]] *[[京都鉄道]] *[[舞鶴線]] *[[福知山線]] *[[小西酒造]] *[[鴻池財閥]] *[[箕面有馬電気軌道]] **[[阪急電鉄]] ***[[阪急宝塚本線]] {{鉄道国有法被買収私鉄}} {{DEFAULTSORT:はんかくてつとう}} [[Category:阪鶴鉄道|*]] [[Category:阪急阪神東宝グループの歴史]] [[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]] [[Category:国有化された日本の鉄道事業者]] [[Category:かつて存在した兵庫県の企業]] [[Category:かつて存在した日本の海運会社]]
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日本橋
日本橋
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日本橋 東京都中央区にある町丁・広域名称 ⇒ 日本橋 (東京都中央区)(にほんばし) その由来となった日本橋川にかかる橋。重要文化財。日本国道路元標が設置され、五街道の起点。⇒ 日本橋 (東京都中央区の橋) 福島県本宮市と郡山市に跨る五百川にかかる国道4号あさか野バイパスの橋 ⇒ 日本橋 (福島県)(ひもとばし) 埼玉県加須市戸川にある中川に架かる橋 ⇒ 日本橋 (中川) 大阪府大阪市中央区にある道頓堀川にかかる橋、および町名 ⇒ 日本橋 (大阪市)(にっぽんばし) 神奈川県横浜市中区にかつて存在した運河にかかっていた橋。大通り公園を参照。 ベトナムの南中部にあるクアンナム省ホイアンにある橋、1593年に日本人の商人が架けたとされる ⇒ 来遠橋 泉鏡花の小説および本人脚色による戯曲 ⇒ 日本橋 (泉鏡花) 同作を原作とした1929年の溝口健二監督の映画 ⇒ 日本橋 (泉鏡花)#1929年版 同作を原作とした1956年の市川崑監督の映画 ⇒ 日本橋 (泉鏡花)#1956年版 日本橋 (花街)
[[File:Nihonbashi 12.jpg|thumb|[[日本橋 (東京都中央区の橋)|東京都中央区でかけられた橋]](下側)]] '''日本橋''' * 東京都中央区にある町丁・広域名称 ⇒ [[日本橋 (東京都中央区)]](にほんばし) ** その由来となった[[日本橋川]]にかかる橋。重要文化財。日本国道路元標が設置され、[[五街道]]の起点。⇒ [[日本橋 (東京都中央区の橋)]] * 福島県本宮市と郡山市に跨る[[五百川]]にかかる[[国道4号]][[郡山西環状道路|あさか野バイパス]]の橋 ⇒ [[日本橋 (福島県)]](ひもとばし) * 埼玉県加須市戸川にある[[中川]]に架かる橋 ⇒ [[日本橋 (中川)]] * 大阪府大阪市中央区にある[[道頓堀川]]にかかる橋、および町名 ⇒ [[日本橋 (大阪市)]](にっぽんばし) * 神奈川県横浜市中区にかつて存在した運河にかかっていた橋。[[大通り公園]]を参照。 * [[ベトナム]]の南中部にある[[クアンナム省]][[ホイアン]]にある[[橋]]、[[1593年]]に日本人の商人が架けたとされる ⇒ [[来遠橋]] * [[泉鏡花]]の小説および本人脚色による戯曲 ⇒ [[日本橋 (泉鏡花)]] ** 同作を原作とした1929年の[[溝口健二]]監督の映画 ⇒ [[日本橋 (泉鏡花)#1929年版]] ** 同作を原作とした1956年の[[市川崑]]監督の映画 ⇒ [[日本橋 (泉鏡花)#1956年版]] * [[日本橋 (花街)]] == 関連項目 == * [[日本橋駅 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:にほんはし}} [[Category:同名の橋]] [[Category:日本の地名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:同名の作品]]
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アラブ首長国連邦
アラブ首長国連邦(アラブしゅちょうこくれんぽう、アラビア語: الإمارات العربية المتحدة、英: United Arab Emirates)略称UAEは、中東に位置し、7つの首長国からなる連邦制国家。首都はアブダビ市。 1959年に石油発見以降、「オイルマネー」で急速な経済発展を果たした国である。絶対君主制の下で、他国への軍事介入や内政干渉、外交的圧力などの積極的な外交政策を取っている。アラビア半島の、ペルシア湾南岸およびオマーン湾西岸にあり、対岸のイランと向かい合う。東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと陸上国境を接する。カタールとは国境を接していないが、カタールとの間のサウジアラビアの一部地域の領有権をめぐる論争が発生している。 正式名称はアラビア語で、الإمارات العربية المتحدة (ラテン文字転写 : al-Imārāt al-ʿArabīya al-Muttaḥida, アル=イマーラートゥ・ル=アラビーヤ(トゥ)・ル=ムッタヒダ)。略称は إمارات (イマーラート)で、これはアラビア語で「首長国」を意味する、「إمارة(イマーラ)」という単語の複数形である。 公式の英語表記は、United Arab Emirates。略称は、UAE。国民・形容詞ともEmirati。 日本語の表記は、アラブ首長国連邦。日本語名称をアラブ首長国連合としている場合が見受けられるが、日本国外務省ではアラブ首長国連邦としている。行政機関では略称としてア首連を使用することが多いが、近年では英字で略したUAEの使用も見られる。また、サッカーなどスポーツ競技内ではUAEを使用することが多い。 日本では口語や俗称として単に「アラブ」と呼ばれていたが、アラブ世界との混同があるため上述のUAEという事が多い。 現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろにはアブダビ周辺に国家が成立した。メソポタミアの資料でマガンと呼ばれるこの国は、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。 紀元前6世紀ごろには現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。 7世紀にイスラム帝国の支配を受けイスラム教が広がる。その後、オスマン帝国の支配を受ける。 16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を発見し、ポルトガルが来航。オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。 その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀ごろにアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラアス・アル=ハイマやシャルジャを支配するカワーシム家(英語版)と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族(英語版)とに2分された。 18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ人達に対立する海上勢力「アラブ海賊」と呼ばれるようになり、その本拠地「海賊海岸(英語版)」(英語: Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァ(英語版)を拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。 1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト (Trucial Coast:休戦海岸とも) 。 1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。 1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、ペルシャ湾岸諸国中の有力国家へと成長した。 1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北西のカタールやバーレーンも合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。 アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。 アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は世襲の首長による絶対君主制に基づき統治されている。現行の連邦憲法は1971年発布の期限付き暫定憲法が、1996年に恒久化されたものである。 連邦の最高意思決定機関は連邦最高評議会(英語版)(FSC、Federal Supreme Council)で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。結党は禁止されており、UAEには政党が存在しない。議決にはアブダビ(首都アブダビ市がある)、ドバイ(最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、国家元首である大統領、および首相を兼任する副大統領はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長のナヒヤーン家、副大統領はドバイ首長のマクトゥーム家が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会(内閣相当)評議員は、大統領が任命する。 議会は一院制の連邦国民評議会で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高司法機関は連邦最高裁判所である。 連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によって賄われており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。 国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数のソブリン・ウエルス・ファンドであるアブダビ投資庁(ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。 一般国民には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、2005年12月1日、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の参政権が認められ、2006年12月、最初のアラブ首長国連邦議会選挙が行われた。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、有権者は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。 とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である税金に拠らずして国家財政を成立させうる典型的なレンティア国家であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民は「ゆりかごから墓場まで」の手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的なマジュリスなどの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。2011年にアラブ世界全域に広がった民主化運動(アラブの春)においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きは全く起きなかった。 外交は多くの国と幅広い関係を持つと同時に、湾岸協力会議の創設メンバーであるように諸国近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線である。ほとんどの国は首都アブダビに外交使節団があり、領事館はアラブ首長国連邦最大の都市ドバイにある。ほとんどの国と良好な関係を築いているものの、外交のバランスを重視し、特定の陣営には所属しない。親米国家として知られるが、中華人民共和国とも友好関係にある。アメリカからの再三の警告でハリファ港での中国の軍事施設建設は中止されたと報じられたものの、F-35戦闘機の購入でも中国を念頭にアメリカから多くの制限を要求されると交渉中断を通告し、中国のL-10戦闘機の購入を決定した。また、ドバイで秘密刑務所を中国が運営していると報じられたことがある。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、敵対行為事態を否定する一方、ロシアを罰する安保理決議案で棄権し、ロシア産原油禁輸を決定したアメリカのバイデン大統領から、原油価格抑制協力を求める電話会談は拒否したが、直後に駐米大使が増産意向を表明し、対立しているわけではないことを示した。 隣接するサウジアラビアとの関係を重視している。ラアス・アル=ハイマ領に属するペルシア湾のアブー・ムーサー島、大トンブ島、小トンブ島にはイラン軍が駐留している。また、サウジアラビアとの国境問題は1974年にジッダ条約(英語版)を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。 湾岸諸国の中でも欧米との関係が密接で、湾岸戦争時はアメリカ軍に基地使用を認め、イラク戦争でもその駐留を許可した。イギリスは旧宗主国であり、現在も関係が深いが、アメリカ合衆国はじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきた。特にフランス軍は恒久的に駐留している。 アフリカの角にも影響力も持ち、特にイエメン内戦に参戦してからはエリトリアに海外で初の駐留拠点を置き、2017年にはソマリランドとも同様の協定を結んだ。2018年7月のエチオピアとエリトリアの歴史的和解にはエリトリアに軍の基地を持つUAEの働きかけもあったとされる。 アラブ首長国連邦とインドとは季節風に乗れば非常に近いため帆船時代より関係があり、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を南アジア出身者が占める。 アメリカの仲介を受け、2020年8月にはイスラエルとの国交正常化に合意した。同年9月15日にはイスラエルとの国交正常化の覚書に署名し(バーレーンと同日)、イスラエルが進める中東・北アフリカのイスラム圏諸国との国交樹立の先駆けとなった。その後、互いに大使館や航空機直行便を開設して、イスラエルからのダイヤモンド輸入など貿易を拡大。イスラエル国民の多くを占めるユダヤ教徒の戒律に則った食事(カシュルート)に対応するレストランがドバイに開店し、ホロコーストについての展示会が中東イスラム圏では初めて開催され、関係が深化している。ただし、パレスチナ問題でのイスラエルの行動に対する批判は根強い。 在アラブ首長国連邦日本人が企業関係者を中心に4,000人弱いるほか、少ないながらも在日アラブ首長国連邦人がいる。 駐日アラブ首長国連邦大使館は東京都渋谷区にある。 アラブ首長国連邦軍は陸軍、海軍、空軍の三軍を有する。このほかに沿岸警備隊がある。湾岸戦争の際はクウェート奪還に戦力を提供した。 アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。複数の都市で構成されるアブダビなど(ただし、いずれも首都が圧倒的人口比率を占める)と、単独都市がそのまま首長国となっているドバイなどの、二つのタイプの構成国がある。 アラビア半島の南東部にあり、ペルシア湾とオマーン湾に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がるルブアルハリ砂漠の一部であり、リワなどのオアシスがある。ホルムズ海峡(海峡に臨むムサンダム半島北端はオマーン領)に近いということで、地政学上、原油輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(ペルシア湾)に、フジャイラは東海岸(オマーン湾)に位置する。砂漠気候(BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。ペルシア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11~3月は冬季で、平均気温も20°C前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6~9月の夏季には気温が50°C近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4°C(1月)、42.3°C(7月)で、年降水量は60mm。 アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部のオマーン国境にあるアル・アインとオマーン領のブライミは隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。 南部の油田地帯を含むサウジアラビアとの国境は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 住民は、在来のアラブ人からなるアラブ首長国連邦国籍の国民(英語でエミラティス(英語版)と呼ばれる)は全体の13%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他のアラブ諸国から来た人々や、イラン人、南アジア系50%(インド人140万人、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人)、東南アジア系(フィリピン人)、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、石油収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。 外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である公務員への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の8分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。 また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事を全ての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に対するUAE国民雇用義務を導入し、「労働力の自国民化」を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、高福祉を頼みに厳しい仕事を嫌って無職のままでいる国民も多い。 UAE政府はあくまでも、現時点におけるUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、旧来UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。 アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く帰化市民には選挙権は与えられない。 2004年にアラブ世界で初めてとなるダイヤモンド取引所がUAE政府によって認可され、ダイヤモンドは歴史的にユダヤ人業者が得意としてきた産業として知られ、世界に散らばるユダヤ人の一部が、ドバイに移住する一つのきっかけになった。 言語はアラビア語が公用語である。日常会話は湾岸方言となる。ただし、イギリスの植民地であったことと、外国人労働者が大半を占めるために、共通語として英語もよく用いられるほか、ペルシャ語、ヒンディー語、ウルドゥー語、マラヤーラム語やタガログ語なども広く使われている。 イスラム教を国教とする。しかし、他の湾岸諸国と違って戒律規制は緩く、信教の自由が認められており、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。外国人労働者が多いため、ヒンドゥー教、キリスト教、仏教なども信仰されている。一方、イスラム教の戒律に関しては、最も自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国に至るまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性はアバヤなどを着ずともよく、肌を露出させた服装でも良く、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。ただし、過激ではなく、女性の教育や就労も認められている。大学進学率は女性のほうが高く、学業を終えると多くの女性が就職し、公務員は半分以上が女性である。 2015年のGDPは約3391億ドルであり、九州よりやや小さい経済規模である。一人当たりGDPは3万5392ドルである。2016年のGDPは約3487億ドルであり、大阪府よりやや大きい経済規模である。同年の一人当たり国民総所得(GNI)は4万480ドルでベルギーに次ぐ世界第19位となっている。 かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな中継貿易、それに北部諸首長国で行われた切手の発行(コレクター向けに発行されたもの。現地の郵便に使用可能ではあったが、郵便規模に比べてあまりに種類が多かったためコレクターからの顰蹙を買い、土侯国切手と称されている)がわずかな収入源であった。その真珠採集も1920年代の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、1960年代後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。 GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億mで、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。 石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。1983年にジュベル・アリ港が建設され、1985年にはその地域にジュベル・アリ・フリーゾーンが設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。オイルショック後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外にアルミニウムや繊維の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているため極めて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品の一つとなっている。また、貿易、特にインド、イラク、イランに向けての中継貿易の拠点となっている。 数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。 なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、東南アジアにおける香港やシンガポールのような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルであるブルジュ・アル・アラブの建設、「パーム・アイランド」と呼ばれる人工島群、2010年に完成した高さ828メートルと世界一高い建造物であるブルジュ・ハリーファなど、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャールジャなど他首長国も観光に力を入れ始め、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。 また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。デーツなどを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している。 ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は第二次世界大戦後の航空網の発達に併せて、特に1990年代以降においてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港及びアブダビ国際空港は中東のハブ空港としての地位にある。 また、近代的な高速道路がこれらの都市間を結んでいるほか、海運やヘリコプターによる地域内航空も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄であるドバイ・メトロが開通した。 アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。 イスラム教の法で禁じられる豚肉は使用せず、羊肉や鶏肉がよく使われる。 料理 マチュブース(マクブース) フムス ケバブ 教育制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。義務教育は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学としてアラブ首長国連邦大学がアル・アインに創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。 義務教育の期間の間は日本人学校でもインターナショナルスクールでもアラビア語を習うことが義務とされているが例外も存在する。 連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、幼稚園のみは男女共学となっている。 UAEでは、『すべての教徒は知識を得るべき』というイスラムの教えから、女性の教育も奨励されている。大学進学率も女性のほうが高く、高校3年生の実に9割以上が大学に出願し、現今では国内の全大学卒業生のうち70%が女性だという。 アラブ首長国連邦(UAE)ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1973年にプロサッカーリーグのUAEプロリーグが創設された。国内屈指の名門クラブであるアル・アインは、3連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。さらに同クラブは、AFCチャンピオンズリーグでは2003年大会で優勝し、FIFAクラブワールドカップでも2018年大会で準優勝に輝いている。元サッカー日本代表の塩谷司も2017年から2021年まで所属しており、中島翔哉も2021年1月にレンタル移籍し半年間在籍していた。 アラブ首長国連邦サッカー協会(UAEFA)によって構成されるサッカーアラブ首長国連邦代表は、FIFAワールドカップには1990年大会で1度出場を果たしたが、グループステージで敗退している。AFCアジアカップには10度の出場歴があり、1996年大会では準優勝の成績を収めた。また、UAEはサッカーの国際大会の誘致に積極的な国としても知られており、AFCアジアカップは1996年大会と2019年大会の開催国となり、FIFAクラブワールドカップは2009年大会、2010年大会、2017年大会、2018年大会、2021年大会と、最多8回の日本に次いで5回の開催実績をもつ。 クリケットはサッカーに次いで2番目に人気のスポーツとなっている。ドバイにはクリケットの国際競技連盟である国際クリケット評議会の本部が所在する。2021年にはオマーンとの共催でICC T20ワールドカップが開催された。国内の代表的なクリケットスタジアムとして、アブダビのシェイク・ザイード・クリケットスタジアム(英語版)やドバイのドバイ国際クリケットスタジアム(英語版)が挙げられる。アラブ首長国連邦はクリケットパキスタン代表チームの事実上の本拠地として機能していたこともあり、トゥエンティ20方式のプロリーグであるパキスタン・スーパーリーグも同国で開催されていた。また、2020年には新型コロナウイルス感染症の影響により、世界最大のプロクリケットリーグであるインドのインディアン・プレミアリーグ(IPL)の試合を同国で開催していた。2023年には、トゥエンティ20方式のプロリーグであるインターナショナルリーグT20(英語版)が開幕した。 競馬はドバイ首長家であるマクトゥーム家が特に力を入れており、ドバイのメイダン競馬場で3月下旬に開催されるドバイワールドカップは、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。 UAEはブラジリアン柔術も盛んで、ヨーロピアン柔術の国際競技連盟であるJJIFの本部はアブ・ダビにある。2019年の世界柔術選手権では、寝技柔術の男子7階級中3階級で優勝者を輩出した。なお、伝統的な競技としてラクダレースや鷹狩りも人気である。 ドバイにはメディアのフリーゾーンである「ドバイ・メディア・シティ」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局アル・アラビーヤの本部やBBCやCNNの支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。
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"日本語の表記は、アラブ首長国連邦。日本語名称をアラブ首長国連合としている場合が見受けられるが、日本国外務省ではアラブ首長国連邦としている。行政機関では略称としてア首連を使用することが多いが、近年では英字で略したUAEの使用も見られる。また、サッカーなどスポーツ競技内ではUAEを使用することが多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では口語や俗称として単に「アラブ」と呼ばれていたが、アラブ世界との混同があるため上述のUAEという事が多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろにはアブダビ周辺に国家が成立した。メソポタミアの資料でマガンと呼ばれるこの国は、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元前6世紀ごろには現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "7世紀にイスラム帝国の支配を受けイスラム教が広がる。その後、オスマン帝国の支配を受ける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を発見し、ポルトガルが来航。オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀ごろにアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラアス・アル=ハイマやシャルジャを支配するカワーシム家(英語版)と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族(英語版)とに2分された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ人達に対立する海上勢力「アラブ海賊」と呼ばれるようになり、その本拠地「海賊海岸(英語版)」(英語: Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァ(英語版)を拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト (Trucial Coast:休戦海岸とも) 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、ペルシャ湾岸諸国中の有力国家へと成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北西のカタールやバーレーンも合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は世襲の首長による絶対君主制に基づき統治されている。現行の連邦憲法は1971年発布の期限付き暫定憲法が、1996年に恒久化されたものである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "連邦の最高意思決定機関は連邦最高評議会(英語版)(FSC、Federal Supreme Council)で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。結党は禁止されており、UAEには政党が存在しない。議決にはアブダビ(首都アブダビ市がある)、ドバイ(最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、国家元首である大統領、および首相を兼任する副大統領はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長のナヒヤーン家、副大統領はドバイ首長のマクトゥーム家が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会(内閣相当)評議員は、大統領が任命する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "議会は一院制の連邦国民評議会で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高司法機関は連邦最高裁判所である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によって賄われており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数のソブリン・ウエルス・ファンドであるアブダビ投資庁(ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一般国民には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、2005年12月1日、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の参政権が認められ、2006年12月、最初のアラブ首長国連邦議会選挙が行われた。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、有権者は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。 とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である税金に拠らずして国家財政を成立させうる典型的なレンティア国家であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民は「ゆりかごから墓場まで」の手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的なマジュリスなどの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。2011年にアラブ世界全域に広がった民主化運動(アラブの春)においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きは全く起きなかった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "外交は多くの国と幅広い関係を持つと同時に、湾岸協力会議の創設メンバーであるように諸国近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線である。ほとんどの国は首都アブダビに外交使節団があり、領事館はアラブ首長国連邦最大の都市ドバイにある。ほとんどの国と良好な関係を築いているものの、外交のバランスを重視し、特定の陣営には所属しない。親米国家として知られるが、中華人民共和国とも友好関係にある。アメリカからの再三の警告でハリファ港での中国の軍事施設建設は中止されたと報じられたものの、F-35戦闘機の購入でも中国を念頭にアメリカから多くの制限を要求されると交渉中断を通告し、中国のL-10戦闘機の購入を決定した。また、ドバイで秘密刑務所を中国が運営していると報じられたことがある。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、敵対行為事態を否定する一方、ロシアを罰する安保理決議案で棄権し、ロシア産原油禁輸を決定したアメリカのバイデン大統領から、原油価格抑制協力を求める電話会談は拒否したが、直後に駐米大使が増産意向を表明し、対立しているわけではないことを示した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "隣接するサウジアラビアとの関係を重視している。ラアス・アル=ハイマ領に属するペルシア湾のアブー・ムーサー島、大トンブ島、小トンブ島にはイラン軍が駐留している。また、サウジアラビアとの国境問題は1974年にジッダ条約(英語版)を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "湾岸諸国の中でも欧米との関係が密接で、湾岸戦争時はアメリカ軍に基地使用を認め、イラク戦争でもその駐留を許可した。イギリスは旧宗主国であり、現在も関係が深いが、アメリカ合衆国はじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきた。特にフランス軍は恒久的に駐留している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アフリカの角にも影響力も持ち、特にイエメン内戦に参戦してからはエリトリアに海外で初の駐留拠点を置き、2017年にはソマリランドとも同様の協定を結んだ。2018年7月のエチオピアとエリトリアの歴史的和解にはエリトリアに軍の基地を持つUAEの働きかけもあったとされる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦とインドとは季節風に乗れば非常に近いため帆船時代より関係があり、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を南アジア出身者が占める。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アメリカの仲介を受け、2020年8月にはイスラエルとの国交正常化に合意した。同年9月15日にはイスラエルとの国交正常化の覚書に署名し(バーレーンと同日)、イスラエルが進める中東・北アフリカのイスラム圏諸国との国交樹立の先駆けとなった。その後、互いに大使館や航空機直行便を開設して、イスラエルからのダイヤモンド輸入など貿易を拡大。イスラエル国民の多くを占めるユダヤ教徒の戒律に則った食事(カシュルート)に対応するレストランがドバイに開店し、ホロコーストについての展示会が中東イスラム圏では初めて開催され、関係が深化している。ただし、パレスチナ問題でのイスラエルの行動に対する批判は根強い。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "在アラブ首長国連邦日本人が企業関係者を中心に4,000人弱いるほか、少ないながらも在日アラブ首長国連邦人がいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "駐日アラブ首長国連邦大使館は東京都渋谷区にある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦軍は陸軍、海軍、空軍の三軍を有する。このほかに沿岸警備隊がある。湾岸戦争の際はクウェート奪還に戦力を提供した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。複数の都市で構成されるアブダビなど(ただし、いずれも首都が圧倒的人口比率を占める)と、単独都市がそのまま首長国となっているドバイなどの、二つのタイプの構成国がある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アラビア半島の南東部にあり、ペルシア湾とオマーン湾に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がるルブアルハリ砂漠の一部であり、リワなどのオアシスがある。ホルムズ海峡(海峡に臨むムサンダム半島北端はオマーン領)に近いということで、地政学上、原油輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(ペルシア湾)に、フジャイラは東海岸(オマーン湾)に位置する。砂漠気候(BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。ペルシア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11~3月は冬季で、平均気温も20°C前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6~9月の夏季には気温が50°C近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4°C(1月)、42.3°C(7月)で、年降水量は60mm。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部のオマーン国境にあるアル・アインとオマーン領のブライミは隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "南部の油田地帯を含むサウジアラビアとの国境は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "住民は、在来のアラブ人からなるアラブ首長国連邦国籍の国民(英語でエミラティス(英語版)と呼ばれる)は全体の13%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他のアラブ諸国から来た人々や、イラン人、南アジア系50%(インド人140万人、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人)、東南アジア系(フィリピン人)、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、石油収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である公務員への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の8分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事を全ての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に対するUAE国民雇用義務を導入し、「労働力の自国民化」を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、高福祉を頼みに厳しい仕事を嫌って無職のままでいる国民も多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "UAE政府はあくまでも、現時点におけるUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、旧来UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。 アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く帰化市民には選挙権は与えられない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2004年にアラブ世界で初めてとなるダイヤモンド取引所がUAE政府によって認可され、ダイヤモンドは歴史的にユダヤ人業者が得意としてきた産業として知られ、世界に散らばるユダヤ人の一部が、ドバイに移住する一つのきっかけになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "言語はアラビア語が公用語である。日常会話は湾岸方言となる。ただし、イギリスの植民地であったことと、外国人労働者が大半を占めるために、共通語として英語もよく用いられるほか、ペルシャ語、ヒンディー語、ウルドゥー語、マラヤーラム語やタガログ語なども広く使われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イスラム教を国教とする。しかし、他の湾岸諸国と違って戒律規制は緩く、信教の自由が認められており、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。外国人労働者が多いため、ヒンドゥー教、キリスト教、仏教なども信仰されている。一方、イスラム教の戒律に関しては、最も自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国に至るまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性はアバヤなどを着ずともよく、肌を露出させた服装でも良く、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。ただし、過激ではなく、女性の教育や就労も認められている。大学進学率は女性のほうが高く、学業を終えると多くの女性が就職し、公務員は半分以上が女性である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2015年のGDPは約3391億ドルであり、九州よりやや小さい経済規模である。一人当たりGDPは3万5392ドルである。2016年のGDPは約3487億ドルであり、大阪府よりやや大きい経済規模である。同年の一人当たり国民総所得(GNI)は4万480ドルでベルギーに次ぐ世界第19位となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな中継貿易、それに北部諸首長国で行われた切手の発行(コレクター向けに発行されたもの。現地の郵便に使用可能ではあったが、郵便規模に比べてあまりに種類が多かったためコレクターからの顰蹙を買い、土侯国切手と称されている)がわずかな収入源であった。その真珠採集も1920年代の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、1960年代後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億mで、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。1983年にジュベル・アリ港が建設され、1985年にはその地域にジュベル・アリ・フリーゾーンが設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。オイルショック後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外にアルミニウムや繊維の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているため極めて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品の一つとなっている。また、貿易、特にインド、イラク、イランに向けての中継貿易の拠点となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、東南アジアにおける香港やシンガポールのような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルであるブルジュ・アル・アラブの建設、「パーム・アイランド」と呼ばれる人工島群、2010年に完成した高さ828メートルと世界一高い建造物であるブルジュ・ハリーファなど、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャールジャなど他首長国も観光に力を入れ始め、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。デーツなどを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は第二次世界大戦後の航空網の発達に併せて、特に1990年代以降においてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港及びアブダビ国際空港は中東のハブ空港としての地位にある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、近代的な高速道路がこれらの都市間を結んでいるほか、海運やヘリコプターによる地域内航空も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄であるドバイ・メトロが開通した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "イスラム教の法で禁じられる豚肉は使用せず、羊肉や鶏肉がよく使われる。 料理 マチュブース(マクブース) フムス ケバブ", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "教育制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。義務教育は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学としてアラブ首長国連邦大学がアル・アインに創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "義務教育の期間の間は日本人学校でもインターナショナルスクールでもアラビア語を習うことが義務とされているが例外も存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、幼稚園のみは男女共学となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "UAEでは、『すべての教徒は知識を得るべき』というイスラムの教えから、女性の教育も奨励されている。大学進学率も女性のほうが高く、高校3年生の実に9割以上が大学に出願し、現今では国内の全大学卒業生のうち70%が女性だという。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦(UAE)ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1973年にプロサッカーリーグのUAEプロリーグが創設された。国内屈指の名門クラブであるアル・アインは、3連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。さらに同クラブは、AFCチャンピオンズリーグでは2003年大会で優勝し、FIFAクラブワールドカップでも2018年大会で準優勝に輝いている。元サッカー日本代表の塩谷司も2017年から2021年まで所属しており、中島翔哉も2021年1月にレンタル移籍し半年間在籍していた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦サッカー協会(UAEFA)によって構成されるサッカーアラブ首長国連邦代表は、FIFAワールドカップには1990年大会で1度出場を果たしたが、グループステージで敗退している。AFCアジアカップには10度の出場歴があり、1996年大会では準優勝の成績を収めた。また、UAEはサッカーの国際大会の誘致に積極的な国としても知られており、AFCアジアカップは1996年大会と2019年大会の開催国となり、FIFAクラブワールドカップは2009年大会、2010年大会、2017年大会、2018年大会、2021年大会と、最多8回の日本に次いで5回の開催実績をもつ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "クリケットはサッカーに次いで2番目に人気のスポーツとなっている。ドバイにはクリケットの国際競技連盟である国際クリケット評議会の本部が所在する。2021年にはオマーンとの共催でICC T20ワールドカップが開催された。国内の代表的なクリケットスタジアムとして、アブダビのシェイク・ザイード・クリケットスタジアム(英語版)やドバイのドバイ国際クリケットスタジアム(英語版)が挙げられる。アラブ首長国連邦はクリケットパキスタン代表チームの事実上の本拠地として機能していたこともあり、トゥエンティ20方式のプロリーグであるパキスタン・スーパーリーグも同国で開催されていた。また、2020年には新型コロナウイルス感染症の影響により、世界最大のプロクリケットリーグであるインドのインディアン・プレミアリーグ(IPL)の試合を同国で開催していた。2023年には、トゥエンティ20方式のプロリーグであるインターナショナルリーグT20(英語版)が開幕した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "競馬はドバイ首長家であるマクトゥーム家が特に力を入れており、ドバイのメイダン競馬場で3月下旬に開催されるドバイワールドカップは、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "UAEはブラジリアン柔術も盛んで、ヨーロピアン柔術の国際競技連盟であるJJIFの本部はアブ・ダビにある。2019年の世界柔術選手権では、寝技柔術の男子7階級中3階級で優勝者を輩出した。なお、伝統的な競技としてラクダレースや鷹狩りも人気である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ドバイにはメディアのフリーゾーンである「ドバイ・メディア・シティ」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局アル・アラビーヤの本部やBBCやCNNの支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。", "title": "メディア" } ]
アラブ首長国連邦略称UAEは、中東に位置し、7つの首長国からなる連邦制国家。首都はアブダビ市。 1959年に石油発見以降、「オイルマネー」で急速な経済発展を果たした国である。絶対君主制の下で、他国への軍事介入や内政干渉、外交的圧力などの積極的な外交政策を取っている。アラビア半島の、ペルシア湾南岸およびオマーン湾西岸にあり、対岸のイランと向かい合う。東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと陸上国境を接する。カタールとは国境を接していないが、カタールとの間のサウジアラビアの一部地域の領有権をめぐる論争が発生している。
{{基礎情報 国 | 略名 = アラブ首長国連邦 | 日本語国名 = アラブ首長国連邦 | 公式国名 = {{lang|ar|'''الإمارات العربية المتحدة'''}} | 国旗画像 = Flag of the United Arab Emirates.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of the United Arab Emirates.svg|100px]] | 国章リンク = ([[アラブ首長国連邦の国章|国章]]) | 標語 = なし | 国歌 = [[アラブ首長国連邦の国歌|{{lang|ar|عيشي بلادي}}]]{{ar icon}}<br />''アラブ首長国連邦国歌''<br />{{center|[[ファイル:"Ishy Bilady" performed by the United States Navy Band.oga]]}} | 位置画像 = United Arab Emirates (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[アブダビ市]] | 最大都市 = [[ドバイ|ドバイ市]] | 元首等肩書 = [[アラブ首長国連邦の大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン]] | 首相等肩書 = [[アラブ首長国連邦の首相|首相兼副大統領]] | 首相等氏名 = [[ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム]] | 面積順位 = 113 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 83,600 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 91 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 9,365,000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ae.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-13 }}</ref> | 人口密度値 = 118.3<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1兆3179億4600万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月13日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=466,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 34 | GDP値MER = 3588億6900万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 3万8661.176<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 32 | GDP値 = 6603億4200万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 7万1139.081<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]] | 確立形態1 = [[イギリス]]から | 確立年月日1 = [[1971年]][[12月2日]] | 通貨 = [[UAEディルハム]] | 通貨コード = AED | 時間帯 = +4 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = AE / ARE | ccTLD = [[.ae]] | 国際電話番号 = 971 | 注記 = }} '''アラブ首長国連邦'''(アラブしゅちょうこくれんぽう、{{lang-ar|الإمارات العربية المتحدة}}、{{lang-en-short|United Arab Emirates}})略称'''UAE'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211211-YC3M6LITMNPHDGXK3ZM2IN4D7I/|title=変異株に水差された大阪万博PR デジタル活用カギ|publisher=産経ニュース|date=2021-12-11|accessdate=2021-12-11}}</ref>は、[[中東]]に位置し、7つの[[首長国]]からなる[[連邦制]][[国家]]。[[首都]]は[[アブダビ市]]<ref>{{Cite web|和書|title=アラブ首長国連邦基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-02-20 |language=ja}}</ref>。 1959年に[[石油]]発見以降、「[[オイルマネー]]」で急速な経済発展を果たした国である。[[絶対君主制]]の下で、他国への軍事介入や内政干渉、外交的圧力などの積極的な外交政策を取っている<ref>{{Cite web|和書|title=UAEに輝く夜景 |url=https://globalnewsview.org/archives/10470 |website=GNV |date=2019-09-28 |access-date=2023-07-01 |language=ja |last=GNV管理者 |publisher=大阪大学}}</ref>。[[アラビア半島]]の、[[ペルシア湾]]南岸および[[オマーン湾]]西岸にあり、対岸の[[イラン]]と向かい合う。東部では[[オマーン]]と、南部および西部では[[サウジアラビア]]と陸上[[国境]]を接する。[[カタール]]とは国境を接していないが、カタールとの間のサウジアラビアの一部地域の領有権をめぐる論争が発生している。 == 国名 == 正式名称は[[アラビア語]]で、{{lang|ar|الإمارات العربية المتحدة}} (ラテン文字転写 : {{Unicode|al-Imārāt al-ʿArabīya al-Muttaḥida}}, アル=イマーラートゥ・ル=アラビーヤ(トゥ)・ル=ムッタヒダ)。略称は {{lang|ar|إمارات}} (イマーラート)で、これはアラビア語で「[[首長国]]」を意味する、「إمارة(イマーラ)」という単語の複数形である。 公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|United Arab Emirates}}。略称は、{{lang|en|'''UAE'''}}。国民・形容詞ともEmirati。 [[日本語]]の表記は、'''アラブ首長国連邦'''。日本語名称を'''アラブ首長国連合'''としている場合が見受けられるが、[[日本国外務省]]では'''アラブ首長国連邦'''としている。行政機関では略称として'''ア首連'''を使用することが多いが、近年では英字で略した'''UAE'''の使用も見られる。また、[[サッカー]]などスポーツ競技内では'''UAE'''を使用することが多い。 日本では口語や俗称として単に「アラブ」と呼ばれていたが、[[アラブ世界]]との混同があるため上述のUAEという事が多い。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の歴史|en|History of the United Arab Emirates|redirect=1}}}} === マガン === {{see also|アル・アインの文化的遺跡群#歴史}} 現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろには[[アブダビ]]周辺に国家が成立した。[[メソポタミア]]の資料で[[マガン (古代オリエント)|マガン]]と呼ばれるこの国は、[[メソポタミア文明]]と[[インダス文明]]との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。 === アケメネス朝ペルシア === 紀元前6世紀ごろには現在の[[イラン]]に興った[[アケメネス朝]][[ペルシア]]の支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。 === イスラム帝国 === [[7世紀]]に[[イスラム帝国]]の支配を受け[[イスラム教]]が広がる。その後、[[オスマン帝国]]の支配を受ける。 === ポルトガル === [[16世紀]]、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[インド洋]]航路を発見し、[[ポルトガル]]が来航。オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。 === オスマン帝国 === その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は[[17世紀]]から[[18世紀]]ごろにアラビア半島南部から移住してきた[[アラブ人|アラブ]]の部族によってそれぞれ形成され、北部のラアス・アル=ハイマやシャルジャを支配する{{仮リンク|カワーシム家|en|Al Qasimi}}と、アブダビやドバイを支配する{{仮リンク|バニヤース族|en|Bani Yas}}とに2分された。 === トルーシャル首長国 === [[ファイル:Hatta 01.jpg|thumb|left|150px|{{仮リンク|ハッタ (アラブ首長国連邦)|en|Hatta, United Arab Emirates|label=ハッタ}}の見張り塔([[18世紀]])]] 18世紀から[[19世紀]]にかけてはペルシア湾を航行する[[ヨーロッパ]]人達に対立する海上勢力「アラブ[[海賊]]」と呼ばれるようになり、その本拠地「{{仮リンク|海賊海岸|en|Pirate Coast}}」({{lang-en|Pirate Coast}}、現[[ラアス・アル=ハイマ]])として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあった[[オマーン王国]]ならびにその同盟者である[[イギリス東インド会社]]と激しく対立し、[[1809年]]には[[イギリス]]艦船{{仮リンク|HMSミネルヴァ|en|HMS Minerva}}を拿捕して([[:en:Persian Gulf campaign of 1809|Persian Gulf campaign]])、海賊団の[[旗艦]]とするに至る。イギリスは[[インド]]への航路を守るために[[1819年]]に海賊退治に乗り出し、[[ムンバイ|ボンベイ]]艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。 [[1820年]]、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来[[トルーシャル首長国]]となった)と[[休戦協定]]を結び、'''[[休戦オマーン|トルーシャル・オマーン]]''' ({{lang|en|''Trucial Oman''}}:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト ({{lang|en|''Trucial Coast''}}:休戦海岸とも) 。 [[1835年]]までイギリスは航海防衛を続け、[[1835年]]、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国({{lang-ar|الإمبراطورية العمانية}})との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は[[東アフリカ]]への勢力拡大を行い、[[ザンジバル]]を中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と[[真珠]]採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、[[1892年]]までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。 [[ファイル:Mid-20th century Dubai.JPG|thumb|[[20世紀]]中ごろの[[ドバイ]]]] [[1950年代]]中盤になると、この地域でも[[石油]]探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの[[浚渫]]を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟の[[ザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン]]が宮廷[[クーデター]]を起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、ペルシャ湾岸諸国中の有力国家へと成長した。 [[1968年]]にイギリスが[[スエズ]]以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北西のカタールや[[バーレーン]]も合わせた9首長国からなる'''アラブ首長国連邦''' (Federation of Arab Emirates:'''FAE''') の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。 === アラブ首長国連邦 === {{更新|date=2022年12月|section=1}} [[ファイル:Zayed bin Al Nahayan.jpg|thumb|150px|left|ザーイド初代大統領]] アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 [[1971年]]に[[アブダビ]]、[[ドバイ]]、[[シャールジャ]]、[[アジュマーン]]、[[ウンム・アル=カイワイン]]、[[フジャイラ]]の各首長国が集合して、連邦を建国。 翌[[1972年]]、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていた[[ラアス・アル=ハイマ]]が加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。 {{-}} == 政治 == === 内政 === {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の政治|en|Politics of the United Arab Emirates}}}} [[ファイル:Khalifa Bin Zayed Al Nahyan-CROPPED.jpg|thumb|180px|[[ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン|ハリーファ]]大統領]] アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は[[世襲]]の首長による[[絶対君主制]]に基づき統治されている。現行の連邦[[憲法]]は[[1971年]]発布の期限付き暫定憲法が、[[1996年]]に恒久化されたものである。 ====連邦議会と制限==== 連邦の最高意思決定機関は'''{{仮リンク|連邦最高評議会|en|Federal Supreme Council}}'''(FSC、{{lang|en|Federal Supreme Council}})で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。結党は禁止されており、UAEには[[政党]]が存在しない。議決には[[アブダビ]](首都アブダビ市がある)、[[ドバイ]](最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、[[元首|国家元首]]である[[アラブ首長国連邦の大統領|大統領]]、および[[アラブ首長国連邦の首相|首相]]を兼任する[[副大統領]]はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長の[[ナヒヤーン家]]、副大統領はドバイ首長の[[マクトゥーム家]]が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会([[内閣]]相当)評議員は、大統領が任命する。 [[議会]]は[[一院制]]の'''[[連邦国民評議会]]'''で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高[[司法]]機関は連邦[[最高裁判所]]である。 連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によって賄われており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。 国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数の[[ソブリン・ウエルス・ファンド]]である[[アブダビ投資庁]](ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。 ====選挙権と被選挙権の制限==== 一般[[国民]]には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、[[2005年]][[12月1日]]、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の[[参政権]]が認められ、[[2006年]]12月、最初の[[2006年アラブ首長国連邦議会選挙|アラブ首長国連邦議会選挙]]が行われた<ref>[http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2006/12/200852514471900747.html Poll opens for first UAE elections] Al Jazeera, 16 December 2006</ref>。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、[[有権者]]は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。 とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である[[税金]]に拠らずして国家財政を成立させうる典型的な[[レンティア国家]]であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民は「[[ゆりかごから墓場まで]]」の手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的な[[マジュリス]]などの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。[[2011年]]にアラブ世界全域に広がった民主化運動([[アラブの春]])においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きは全く起きなかった<ref group="注">ただし、必ずしも民主化や人権問題と無縁ではない。{{cite news |title=「アラブの春」 無縁ではないUAE |newspaper=[[産経新聞]] |date=2011-11-12 |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111112/mds11111212000002-n1.htm |accessdate=2011-12-01}}。</ref>。 === 外交 === {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の国際関係|en|Foreign relations of the United Arab Emirates}}}} 外交は多くの国と幅広い関係を持つと同時に、[[湾岸協力会議]]の創設メンバーであるように諸国近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線である。ほとんどの国は首都アブダビに外交使節団があり、領事館はアラブ首長国連邦最大の都市ドバイにある。ほとんどの国と良好な関係を築いているものの、外交のバランスを重視し、特定の陣営には所属しない。親米国家として知られるが、[[中華人民共和国]]とも友好関係にある<ref>{{Cite web|和書|title=中国、親米UAEと急接近 米に代わり中東で存在感 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM27AE10X20C21A5000000/ |website=日本経済新聞 |accessdate=2022-03-12}}</ref>。アメリカからの再三の警告でハリファ港での中国の軍事施設建設は中止されたと報じられたものの<ref>{{Cite news|title=UAEの港、中国が軍事用施設を秘密裏に建設…米が懸念伝え作業停止に|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20211122-OYT1T50176/|work=[[読売新聞]]|date=2021-11-22}}</ref>、[[F-35]]戦闘機の購入でも中国を念頭にアメリカから多くの制限を要求されると交渉中断を通告し<ref>{{Cite web|和書|title=UAE、F35調達交渉中断を通告 米アラブ同盟関係に溝 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB1536M0V11C21A2000000/ |website=日本経済新聞 |accessdate=2022-03-12}}</ref>、中国の[[JL-10 (航空機)|L-10]]戦闘機の購入を決定した<ref>{{Cite news|title=UAEが中国製戦闘機を12機購入 米中対立の舞台に|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ2X5TK9Q2SUHBI06D.html|work=[[朝日新聞]]|date=2022-03-01}}</ref>。また、ドバイで秘密刑務所を中国が運営していると報じられたことがある<ref>{{Cite news|title=A detainee says China has a secret jail in Dubai. China’s repression may be spreading.|url=https://www.washingtonpost.com/opinions/2021/08/22/detainee-says-china-has-secret-jail-dubai-chinas-repression-may-be-spreading/|work=[[ワシントン・ポスト]]|date=2022-06-10}}</ref>。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年のロシアによるウクライナ侵攻]]の際には、敵対行為事態を否定する一方、ロシアを罰する[[国際連合安全保障理事会決議2623|安保理決議]]案で棄権し<ref>{{Cite web|和書|title=米の採決直前までの説得工作実らず、UAEまで棄権…理事国の結束にはつながらず |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220226-OYT1T50087/ |website=読売新聞オンライン |accessdate=2022-03-12}}</ref>、ロシア産原油禁輸を決定したアメリカの[[ジョー・バイデン|バイデン]]大統領から、原油価格抑制協力を求める電話会談は拒否したが<ref>{{Cite web|和書|title=サウジとUAEの首脳、バイデン氏との電話会談を拒否 |url=https://jp.wsj.com/articles/saudi-emirati-leaders-decline-calls-with-biden-during-ukraine-crisis-11646784732 |website=WSJ Japan |accessdate=2022-03-12}}</ref>、直後に駐米大使が増産意向を表明し、対立しているわけではないことを示した<ref>{{Cite news|title=焦点:原油急落させたUAE声明、存在感誇示の裏に対米不信も|url=https://www.reuters.com/article/ukraine-crisis-gulf-usa-idJPKCN2L80JC|work=Reuters|date=2022-03-11}}</ref>。 隣接する[[サウジアラビア]]との関係を重視している。ラアス・アル=ハイマ領に属するペルシア湾の[[アブー・ムーサー島]]、大トンブ島、小トンブ島には[[イラン軍]]が駐留している。また、サウジアラビアとの[[サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境|国境]]問題は1974年に{{仮リンク|ジッダ条約 (1974年)|en|Treaty of Jeddah (1974)|label=ジッダ条約}}を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。 湾岸諸国の中でも欧米との関係が密接で、[[湾岸戦争]]時は[[アメリカ軍]]に基地使用を認め、[[イラク戦争]]でもその駐留を許可した。イギリスは旧[[宗主国]]であり、現在も関係が深いが、[[アメリカ合衆国]]はじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきた。特に[[フランス軍]]は恒久的に駐留している。 [[アフリカの角]]にも影響力も持ち、特に[[イエメン内戦 (2015年-)|イエメン内戦]]に参戦してからは[[エリトリア]]に海外で初の駐留拠点を置き、2017年には[[ソマリランド]]とも同様の協定を結んだ。2018年7月の[[エチオピア]]とエリトリアの歴史的和解にはエリトリアに軍の基地を持つUAEの働きかけもあったとされる<ref>{{Cite news |title=In peace between Ethiopia and Eritrea, UAE lends a helping hand |newspaper=[[ロイター]] |date=2018-08-08 |url=https://af.reuters.com/article/topNews/idAFKBN1KT1TP-OZATP |accessdate=2019-07-06}}</ref>。 アラブ首長国連邦とインドとは[[季節風]]に乗れば非常に近いため[[帆船]]時代より関係があり、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を[[南アジア]]出身者が占める。 ==== イスラエルとの関係 ==== {{main|{{仮リンク|イスラエルとアラブ首長国連邦の関係|en|Israel–United Arab Emirates relations}}}} アメリカの仲介を受け、2020年8月には[[イスラエル]]との国交正常化に合意した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62630790U0A810C2000000/|title=イスラエル・UAE、国交正常化に合意 米発表|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-08-14|accessdate=2020-08-14}}</ref>。同年9月15日にはイスラエルとの国交正常化の覚書に署名し(バーレーンと同日)、イスラエルが進める中東・[[北アフリカ]]の[[イスラム圏]]諸国との国交樹立の先駆けとなった。その後、互いに[[大使館]]や航空機直行便を開設して、イスラエルからの[[ダイヤモンド]]輸入など貿易を拡大。イスラエル国民の多くを占める[[ユダヤ教徒]]の戒律に則った食事([[カシュルート]])に対応するレストランが[[ドバイ]]に開店し、[[ホロコースト]]についての展示会が中東イスラム圏では初めて開催され、関係が深化している。ただし、[[パレスチナ問題]]でのイスラエルの行動に対する批判は根強い<ref>イスラエル「和解」道半ば アラブ諸国と国交1年/進む経済交流■「パレスチナ」はしこり『[[読売新聞]]』朝刊2021年9月22日(国際面)</ref>。 ==== 日本との関係 ==== {{main|日本とアラブ首長国連邦の関係}} [[在アラブ首長国連邦日本人]]が企業関係者を中心に4,000人弱いるほか、少ないながらも[[在日アラブ首長国連邦人]]がいる。 [[駐日アラブ首長国連邦大使館]]は東京都渋谷区にある。 *住所:[[東京都]][[渋谷区]][[南平台町]]9-10 *アクセス:[[山手線|JR山手線]][[渋谷駅]]南口 {{main|駐日アラブ首長国連邦大使館}} <gallery> File:UAE大使館全景.jpg|UAE大使館全景 File:UAE国旗と玄関.jpg|UAE国旗と玄関 </gallery> == 軍事 == {{Main|アラブ首長国連邦軍}} [[アラブ首長国連邦軍]]は[[アラブ首長国連邦陸軍|陸軍]]、[[アラブ首長国連邦海軍|海軍]]、[[アラブ首長国連邦空軍|空軍]]の三軍を有する。このほかに[[アラブ首長国連邦沿岸警備隊|沿岸警備隊]]がある。湾岸戦争の際は[[クウェート]]奪還に戦力を提供した。 === 軍事協定先 === *[[湾岸協力理事会]] - アラブ首長国連邦のほかサウジアラビア、バーレーン、オマーン、カタール、クウェート。 *[[フランス]] - 1995年、防衛協定を締結。2009年、[[アラブ首長国連邦フランス軍敷地]]が開設された。 *[[大韓民国]] - 2009年、アラブ首長国連邦が有事になった際に韓国が参戦する自動介入条項のある秘密軍事協定が締結された<ref>{{Cite news|url=http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29457.html |title=李明博政権、UAEと秘密軍事条約…「憲法違反」の波紋 |work=|publisher=[[ハンギョレ]]|date=2018-01-10|accessdate=2019-07-07}}</ref>。 *[[エリトリア]] - 2015年、アラブ首長国連邦初の海外軍事基地を[[アッサブ]]に開設した<ref>{{Cite news|url=https://www.tesfanews.net/uae-building-naval-base-eritrea/ |title=UAE Building its First Naval Base in Eritrea? |work=|publisher=TesfaNews|date=2016-04-15|accessdate=2019-07-05}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.janes.com/article/82382/uae-deploys-wing-loong-ii-uav-to-eritrea |title=UAE deploys Wing Loong II UAV to Eritrea |work=|publisher=[[ジェーン・ディフェンス・ウィークリー]]|date=2018-08-15|accessdate=2019-07-05}}</ref><ref name=justsecurity>{{Cite news|url=https://www.justsecurity.org/41450/uaes-military-naval-reliance-eritrea-war-yemen-riskier-u-s/ |title=The UAE’s Military and Naval Reliance on Eritrea Makes the War in Yemen Even Riskier for the U.S. |work=|publisher=Just Security|date=2017-05-31|accessdate=2019-07-05}}</ref>。 *[[ソマリランド]] - 2017年に軍事基地の開設が合意された<ref name=justsecurity/>。 == 地方行政区分 == [[ファイル:UAE ja-map.png|thumb|450px|アラブ首長国連邦の各首長国。黄色の部分が[[アブダビ]]で、突出して面積が広い。茶色の部分は[[ドバイ]]である。]] {{Main|アラブ首長国連邦の首長国}} アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、'''政治のアブダビ、経済のドバイ'''と言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。複数の都市で構成されるアブダビなど(ただし、いずれも首都が圧倒的人口比率を占める)と、単独都市がそのまま首長国となっているドバイなどの、二つのタイプの構成国がある。 === 連邦を構成する7首長国 === * {{ABU}} * {{DUB}} * {{SHA}} * {{AJM}} * {{UAQ}} * {{FUJ}} * {{RAK}} === 主要都市 === {{main|アラブ首長国連邦の都市の一覧}} {{節スタブ}} == 地理 == {{Main|アラブ首長国連邦の地理}} [[ファイル:UAE Regions map.png|right|thumb|300px|アラブ首長国連邦の地図]] [[ファイル:Dunebashing group Dubai.jpg|thumb|right|200px|[[ドバイ]]近郊の砂漠地帯]] [[アラビア半島]]の南東部にあり、ペルシア湾と[[オマーン湾]]に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がる[[ルブアルハリ砂漠]]の一部であり、[[リワ・オアシス|リワ]]などの[[オアシス]]がある。[[ホルムズ海峡]](海峡に臨む[[ムサンダム半島]]北端はオマーン領)に近いということで、[[地政学]]上、[[原油]]輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(ペルシア湾)に、[[フジャイラ]]は東海岸(オマーン湾)に位置する。[[砂漠気候]](BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。ペルシア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11~3月は冬季で、平均気温も20℃前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6~9月の夏季には気温が50℃近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4℃(1月)、42.3℃(7月)で、年降水量は60mm。 アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部の[[オマーン=アラブ首長国連邦国境|オマーン国境]]にある[[アル・アイン]]とオマーン領の[[ブライミ特別行政区|ブライミ]]は隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。 南部の油田地帯を含む[[サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境|サウジアラビアとの国境]]は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の人口統計|en|Demographics of the United Arab Emirates}}}} <!-- {{main|アラブ首長国連邦の国民}} --> <!-- (住民の人種構成、言語、宗教など) --> {{bar box |title=国籍 2010年 |titlebar=#ddd |float=left |bars= {{bar percent|アラブ首長国連邦国籍|green|13}} {{bar percent|外国籍|silver|87}} }} {{Historical populations |align=right |1950|70000 |1960|90000 |1970|232000 |1980|1016000 |1990|1809000 |2000|3033000 |2010|7512000 |footnote = 出展:国連 世界人口推計<ref>[http://esa.un.org/unpd/wpp/unpp/Panel_profiles.htm World Population Prospects: The 2010 Revision]</ref> }} 住民は、在来の[[アラブ人]]からなるアラブ首長国連邦国籍の国民(英語で{{仮リンク|エミラティス|en|Emiratis}}と呼ばれる)は全体の13%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他の[[アラブ世界|アラブ諸国]]から来た人々や、[[イラン人]]、南アジア系50%([[印僑|インド人]]140万人、[[パキスタン人]]、[[ベンガル人|バングラデシュ人]]、[[スリランカ#国民|スリランカ人]])、[[東南アジア]]系([[フィリピン人]])、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、[[石油]]収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。 ===UAEナショナル関連=== 外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である[[公務員]]への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の8分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。 また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事を全ての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に対するUAE国民雇用義務を導入し、「労働力の自国民化」を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、高福祉を頼みに厳しい仕事を嫌って無職のままでいる国民も多い。 ====帰化関連==== UAE政府はあくまでも、現時点におけるUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、旧来UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。 アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く[[帰化]]市民には選挙権は与えられない<ref>松尾昌樹『湾岸産油国 レンティア国家のゆくえ』([[講談社]] 2010年8月10日第1刷発行)pp.122-124</ref>。 === ユダヤ人 === 2004年にアラブ世界で初めてとなるダイヤモンド取引所がUAE政府によって認可され、ダイヤモンドは歴史的にユダヤ人業者が得意としてきた産業として知られ、世界に散らばるユダヤ人の一部が、ドバイに移住する一つのきっかけになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://globe.asahi.com/article/14172722|title=「歴史的」と言われたイスラエルとUAEの急接近、トランプ氏だけの成果ではなかった|publisher=|date=2021-02-12|accessdate=2021-02-28}}</ref>。 === 言語 === 言語は[[アラビア語]]が[[公用語]]である。日常会話は[[アラビア語湾岸方言|湾岸方言]]となる。ただし、イギリスの植民地であったことと、外国人労働者が大半を占めるために、共通語として[[英語]]もよく用いられるほか、[[ペルシャ語]]、[[ヒンディー語]]、[[ウルドゥー語]]、[[マラヤーラム語]]や[[タガログ語]]なども広く使われている。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の宗教|en|Religion in the United Arab Emirates}}}} [[イスラム教]]を[[国教]]とする。しかし、他の湾岸諸国と違って[[戒律]]規制は緩く、信教の自由が認められており、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。外国人労働者が多いため、[[ヒンドゥー教]]、[[キリスト教]]、[[仏教]]なども信仰されている。一方、イスラム教の戒律に関しては、最も自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国に至るまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性は[[アバヤ]]などを着ずともよく、肌を露出させた服装でも良く、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。ただし、過激ではなく、女性の教育や就労も認められている。大学進学率は女性のほうが高く<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jasso.go.jp/ryugaku/related/kouryu/2013/__icsFiles/afieldfile/2021/02/18/201309matsubaranaomi.pdf |title=アラブ首長国連邦(UAE)の高等教育事情 -教育に多額を投資して国民の高学歴化を実現- |access-date=2022-07-31 |publisher=日本学生支援機構}}</ref>、学業を終えると多くの女性が就職し、公務員は半分以上が女性である。 == 経済 == {{main|アラブ首長国連邦の経済}} [[ファイル:Dubai night skyline.jpg|thumb|240px|[[ドバイ]]はビジネス、人材、文化などを総合した[[世界都市#研究調査|世界都市格付け]]で、世界27位の都市と評価された<ref name="IMF2">[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>。]] [[2015年]]の[[国内総生産|GDP]]は約3391億ドルであり<ref>[https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/02/weodata/weorept.aspx?sy=2013&ey=2020&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=466&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a=&pr.x=44&pr.y=16 IMF]2016年1月2日閲覧。</ref>、[[九州]]よりやや小さい経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 県民経済計算]内閣府 2016年1月2日閲覧。</ref>。一人当たりGDPは3万5392ドルである<ref name="IMF2"/>。[[2016年]]のGDPは約3487億ドルであり<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/data.html 「アラブ首長国連邦」]外務省</ref>、[[大阪府]]よりやや大きい経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou.pdf 「都道府県別県内総生産(名目、10 億円) 」]内閣府</ref>。同年の一人当たり[[国民総所得]](GNI)は4万480ドルで[[ベルギー]]に次ぐ世界第19位となっている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000018853.pdf 「1.2 名目GDP(国内総生産)及び一人当たりGNI(国民総所得)順位」]外務省</ref>。 かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな[[中継貿易]]、それに北部諸首長国で行われた切手の発行(コレクター向けに発行されたもの。現地の郵便に使用可能ではあったが、郵便規模に比べてあまりに種類が多かったためコレクターからの顰蹙を買い、[[土侯国切手]]と称されている)がわずかな収入源であった。その真珠採集も[[1920年代]]の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、[[1960年代]]後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。 GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億m<sup>3</sup>で、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。 石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。[[1983年]]に[[ジュベル・アリ]]港が建設され、[[1985年]]にはその地域に[[ジュベル・アリ・フリーゾーン]]が設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。[[オイルショック]]後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外に[[アルミニウム]]や[[繊維]]の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているため極めて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品の一つとなっている。また、貿易、特に[[インド]]、[[イラク]]、[[イラン]]に向けての[[中継貿易]]の拠点となっている。 数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。 なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、[[東南アジア]]における[[香港]]や[[シンガポール]]のような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルである[[ブルジュ・アル・アラブ]]の建設、「[[パーム・アイランド]]」と呼ばれる人工島群、[[2010年]]に完成した高さ828メートルと世界一高い建造物である[[ブルジュ・ハリファ|ブルジュ・ハリーファ]]など、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャールジャなど他首長国も観光に力を入れ始め、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。 また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。[[デーツ]]などを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している<ref>細井長編著『アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章』(明石書店 2011年3月18日初版第1刷発行)p.263</ref>。 ; アラブ首長国連邦の企業一覧 * [[エティハド航空]] * [[エミレーツ航空]] * [[ジュメイラ・インターナショナル]] * [[マスダール (企業)|マスダール]] == 交通 == {{main|アラブ首長国連邦の交通}} [[ファイル:Emirates_Boeing_777_fleet_at_Dubai_International_Airport_Wedelstaedt.jpg|thumb|240px|[[ドバイ国際空港]]]] [[ファイル:Metro Dubai 002.jpg|thumb|240px|[[ドバイ・メトロ]]]] ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は[[第二次世界大戦]]後の航空網の発達に併せて、特に[[1990年代]]以降においてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港及びアブダビ国際空港は中東の[[ハブ空港]]としての地位にある。 また、近代的な[[高速道路]]がこれらの都市間を結んでいるほか、海運や[[ヘリコプター]]による地域内航空も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄である[[ドバイ・メトロ]]が開通した。 {{also|アラブ首長国連邦の鉄道}} === 空港 === {{see|Category:アラブ首長国連邦の航空|アラブ首長国連邦の空港の一覧}} * [[アブダビ]] ** [[アブダビ国際空港]] ** [[アルアイン国際空港]] * [[ドバイ]] ** [[ドバイ国際空港]] ** [[アール・マクトゥーム国際空港]] * [[シャールジャ]] ** [[シャールジャ国際空港]] * [[アジュマーン]] ** [[アジュマーン国際空港]] * [[フジャイラ]] ** [[フジャイラ国際空港]] * [[ラアス・アル=ハイマ]] ** [[ラアス・アル=ハイマ国際空港]] == 文化 == {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の文化|en|Culture of the United Arab Emirates}}}} [[ファイル:Deira Souk on 9 May 2007 Pict 2.jpg|thumb|250px|ドバイの伝統的な[[スーク (市)|スーク]]]] アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。 === グルメ === {{main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の料理|en|Emirati cuisine}}|{{仮リンク|アラブ料理|en|Arab cuisine}}}} {{節スタブ}} イスラム教の法で禁じられる豚肉は使用せず、羊肉や鶏肉がよく使われる。 料理 マチュブース(マクブース) フムス ケバブ === 教育 === {{see|{{仮リンク|アラブ首長国連邦の教育|en|Education in the United Arab Emirates}}}} 教育制度は[[小学校]]6年、[[中学校]]3年、[[高等学校|高校]]3年、[[大学]]4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。[[義務教育]]は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学として[[アラブ首長国連邦大学]]が[[アル・アイン]]に創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。 [[義務教育]]の期間の間は[[日本人学校]]でも[[インターナショナルスクール]]でも[[アラビア語]]を習うことが[[義務]]とされているが例外も存在する。 連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、[[幼稚園]]のみは男女共学となっている。 UAEでは、『すべての教徒は知識を得るべき』というイスラムの教えから、女性の教育も奨励されている<ref>{{Cite web|和書|title=女性のほうが高いUAEの大学進学率。仕事もオシャレも楽しんでます! |url=https://online.sbcr.jp/2014/04/003716.html |website=online.sbcr.jp |access-date=2022-07-30}}</ref>。大学進学率も女性のほうが高く、高校3年生の実に9割以上が大学に出願し、現今では国内の全大学卒業生のうち70%が女性だという<ref name=":0" />。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦のスポーツ|en|Sport in the United Arab Emirates}}}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦のサッカー|en|Football in the United Arab Emirates}}}} アラブ首長国連邦(UAE)では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1973年]]にプロサッカーリーグの[[UAEプロリーグ]]が創設された。国内屈指の名門クラブである[[アル・アインFC|アル・アイン]]は、3連覇を含むリーグ最多14度の優勝を達成している。さらに同クラブは、[[AFCチャンピオンズリーグ]]では[[AFCチャンピオンズリーグ2002-2003|2003年大会]]で優勝し、[[FIFAクラブワールドカップ]]でも[[FIFAクラブワールドカップ2018|2018年大会]]で準優勝に輝いている。元[[サッカー日本代表]]の[[塩谷司]]も2017年から2021年まで所属しており、[[中島翔哉]]も2021年1月に[[期限付き移籍|レンタル移籍]]し半年間在籍していた。 [[アラブ首長国連邦サッカー協会]](UAEFA)によって構成される[[サッカーアラブ首長国連邦代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1990 FIFAワールドカップ|1990年大会]]で1度出場を果たしたが、グループステージで敗退している。[[AFCアジアカップ]]には10度の出場歴があり、[[AFCアジアカップ1996|1996年大会]]では準優勝の成績を収めた。また、UAEはサッカーの国際大会の誘致に積極的な国としても知られており、AFCアジアカップは[[AFCアジアカップ1996|1996年大会]]と[[AFCアジアカップ2019|2019年大会]]の開催国となり、FIFAクラブワールドカップは[[FIFAクラブワールドカップ2009|2009年大会]]、[[FIFAクラブワールドカップ2010|2010年大会]]、[[FIFAクラブワールドカップ2017|2017年大会]]、[[FIFAクラブワールドカップ2018|2018年大会]]、[[FIFAクラブワールドカップ2021|2021年大会]]と、最多8回の[[日本]]に次いで5回の開催実績をもつ。 === クリケット === [[クリケット]]はサッカーに次いで2番目に人気のスポーツとなっている<ref>[https://neoprimesport.com/top-10-popular-sports-in-united-arab-emirates-u-a-e/ Top 10 Popular Sports in United Arab Emirates (U.A.E)] neoprimesport.com 2019年7月18日閲覧。</ref>。ドバイにはクリケットの[[国際競技連盟]]である[[国際クリケット評議会]]の本部が所在する。2021年には[[オマーン]]との共催で[[ICC T20ワールドカップ]]が開催された。国内の代表的なクリケットスタジアムとして、アブダビの{{仮リンク|シェイク・ザイード・クリケットスタジアム|en|Sheikh Zayed Cricket Stadium}}やドバイの{{仮リンク|ドバイ国際クリケットスタジアム|en|Dubai International Cricket Stadium}}が挙げられる。アラブ首長国連邦は[[クリケットパキスタン代表]]チームの事実上の本拠地として機能していたこともあり、[[トゥエンティ20]]方式のプロリーグである[[パキスタン・スーパーリーグ]]も同国で開催されていた。また、2020年には[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症]]の影響により、世界最大のプロクリケットリーグであるインドの[[インディアン・プレミアリーグ]](IPL)の試合を同国で開催していた。2023年には、トゥエンティ20方式のプロリーグである{{仮リンク|インターナショナルリーグT20|en|International League T20}}が開幕した。 === その他の競技 === {{See also|オリンピックのアラブ首長国連邦選手団}} [[競馬]]はドバイ首長家である[[マクトゥーム家]]が特に力を入れており、ドバイの[[メイダン競馬場]]で3月下旬に開催される[[ドバイワールドカップ]]は、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。 UAEは[[ブラジリアン柔術]]も盛んで、[[ヨーロピアン柔術]]の国際競技連盟である[[国際柔術連盟|JJIF]]の本部はアブ・ダビにある。2019年の[[世界柔術選手権]]では、[[ブラジリアン柔術|寝技柔術]]の男子7階級中3階級で優勝者を輩出した。なお、伝統的な競技として[[ラクダ]]レースや[[鷹狩り]]も人気である。 == メディア == {{Main|{{仮リンク|アラブ首長国連邦のメディア|en|Mass media in the United Arab Emirates}}}} ドバイにはメディアのフリーゾーンである「'''[[ドバイ・メディア・シティ]]'''」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局[[アル・アラビーヤ]]の本部や[[BBC]]や[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]の支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:アラブ首長国連邦の人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == *[[アラブ首長国連邦関係記事の一覧]] *[[アラブ首長国連邦海軍艦艇一覧]] *[[アラブ首長国連邦の首長国]] * [[アラブ首長国連邦の外交使節団のリスト]] == 外部リンク == {{Commons&cat|الإمارات العربية المتحدة|United Arab Emirates}} {{Wikivoyage|en:United Arab Emirates|アラブ首長国連邦{{en icon}}}} ; 政府 :* [https://www.government.ae/ アラブ首長国連邦政府] {{ar icon}}{{en icon}} ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/ 日本外務省 - アラブ首長国連邦] {{ja icon}} :* [https://www.uae.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アラブ首長国連邦日本国大使館] {{ja icon}} ; その他 :* [https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/ae/ JETRO - アラブ首長国連邦] {{ja icon}} :* [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-02.html JCCME - アラブ首長国連邦] {{ja icon}} :* {{Googlemap|アラブ首長国連邦}} {{アジア}} {{OIC}} {{OPEC}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あらふしゆちようこくれんほう}} [[Category:アラブ首長国連邦|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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1536年
1536年(1536 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1536年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1536}} {{year-definition|1536}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天文 (元号)|天文]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2196年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]31年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3869年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[大正 (莫朝)|大正]]7年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2078年 - 2079年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 942年 - 943年 * [[ユダヤ暦]] : 5296年 - 5297年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1536|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[シャルル・エチエンヌ]]が"''Seminarium, et Plantarium fructiferarum praesertim arborum quae post hortos conseri solent, Denuo auctum & locupletatum. Huic accessit alter libellus de conserendis arboribus in seminario: deque iis in plantarium transserendis atque inserendis in Paris''"を出版した{{要出典|date=2021-04}}。 * [[ジャン・リュエル]]が『植物の本性について』("''De natura stirpium''")を出版した。 * [[ジャック・カルティエ]]が第二回のカナダの沿海部を調査航海から帰還した。 * スペインの[[アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカ]]のアメリカ探検旅行。 * [[アダム・リース (数学者)|アダム・リース]]が"''Ein Gerechent Büchlein auff den Schöffel Eimer vnd Pfundtgewicht…''"を出版した。 *[[パラケルスス]]が外科書、"''Die grosse Wundartzney''"を出版した。 *[[谷野一栢]]が『勿聴子俗解八十一難経』を出版した。 == 誕生 == {{see also|Category:1536年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月10日]] - [[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10300.htm#i102995 |title=Henry Howard, Earl of Surrey|accessdate= 2021-04-27 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/norfolk1483.htm|title=Norfolk, Duke of (E, 1483)|accessdate=2021-04-27|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/Norfolk1483.htm|archivedate=2011年8月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[イングランド王国|イングランド]]貴族(+ [[1572年]]) * [[3月31日]](天文5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[足利義輝]]、[[室町幕府]]第13代[[征夷大将軍]](+ [[1565年]]) * [[天海]]、[[天台宗]]の僧(+ [[1646年]]) == 死去 == {{see also|Category:1536年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1536}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1536ねん}} [[Category:1536年|*]]
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1590年
1590年(1590 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1590年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1590}} {{year-definition|1590}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天正]]18年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2250年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]18年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3923年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[興治]]3年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]13年 * [[仏滅紀元]] : 2132年 - 2133年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 998年 - 999年 * [[ユダヤ暦]] : 5350年 - 5351年 * [[ユリウス暦]] : 1589年12月22日 - 1590年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1590}} == できごと == * [[明]]代中国の[[寧夏]]で[[哱拝の乱]]が起きる{{要出典|date=2021-04}}。 === 日本 === * [[豊臣秀吉]]が西国の諸大名を率いて[[小田原城]]を包囲し[[後北条氏]]を降し、[[北条氏政]]を切腹させ、[[北条氏直]]を[[高野山]]に追放する([[小田原征伐]])、日本統一が成る{{Sfn|ファータド|2013|p=323|ps=「豊臣秀吉、天下統一 豊臣秀吉が小田原征伐に勝利し、日本の天下統一を果たす。」}} * [[徳川氏]]の[[関東]][[移封]]<ref>[https://adeac.jp/joso-city/text-list/d600030/ht300020  石下町史 第三編 近世 第一章 江戸時代の幕あけ 第一節 進駐してきた領主たち 徳川氏の関東入国]常総市 デジタルミュージアム </ref>。 * [[住友金属鉱山]]創業([[住友家]]の業祖、[[蘇我理右衛門]]が[[京都]]に銅吹所を設ける{{要出典|date=2021-03}})。 * [[10月 (旧暦)|10月]] - [[奥州]]で[[大崎・葛西一揆]]が発生する。 == 誕生 == {{see also|Category:1590年生}} * [[3月13日]](天正18年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[勢多治卿]]、[[江戸時代]]前期の[[地下官人]](+ [[1670年]]) *[[4月14日]](天正18年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[小野宗昌]]、江戸時代前期の地下官人(+ [[1662年]]) * [[5月16日]](天正18年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]) - [[聖興女王]]、[[後陽成天皇]]第一皇女(+ [[1595年]]) * [[5月17日]](天正18年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]) - [[鷹司信尚]]、[[鷹司家]]14代当主(+ [[1621年]]) * [[12月9日]](万暦18年11月13日) - [[尚豊王]]、[[第二尚氏王統]]8代[[琉球国王]](+ [[1640年]]) === 月日不明 === *[[狩野山雪]] - 京狩野2代絵師(+ [[1651年]])<ref group="注">1589年生まれとする説もある。</ref> *[[甘露寺豊長]] - [[甘露寺家]]22代当主(+ [[1606年]]) {{節スタブ}} == 死去 == {{see also|Category:1590年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月6日]] - [[フランシス・ウォルシンガム]]、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家(* [[1532年]]頃) *[[6月6日]](天正18年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[岩崎氏定]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の地下官人(* [[1523年]]) *[[6月28日]](天正18年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[堀秀政]]、戦国時代の武将・[[大名]](* [[1553年]]) *[[7月7日]](天正18年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[戸沢盛安]]、[[安土桃山時代]]の[[大名]]、[[戸沢氏]]18代当主(* [[1566年]]) * [[7月17日]](天正18年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[松田憲秀]]、後北条氏の[[家老]](* [[1530年]]?) *[[7月23日]](天正18年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[西園寺公朝]]、戦国時代から安土桃山時代の公卿(* [[1515年]]) * [[8月10日]](天正18年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[北条氏政]]、[[相模国|相模]]の[[武将]]・[[戦国大名|大名]]。[[後北条氏|北条氏]]の第4代当主(* [[1538年]]) * 8月10日(天正18年7月11日) - [[北条氏照]]、戦国時代の武将、北条氏政の弟(* [[1540年]]) * [[8月18日]](天正18年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[大道寺政繁]]、後北条氏の家臣(* [[1533年]]) * [[10月12日]](天正18年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[狩野永徳]]、[[狩野派]]の絵師(* [[1543年]]) *[[10月19日]](天正18年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]) - [[山形光政]]、戦国時代から安土桃山時代の地下官人(* [[1541年]]) *[[12月1日]](天正18年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - 安禅寺宮、[[誠仁親王]]第七王子(* [[1580年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1590}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1590ねん}} [[Category:1590年|*]]
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1568年
1568年(1568 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1568年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1568}} {{year-definition|1568}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永禄]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2228年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[隆慶 (明)|隆慶]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3901年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[崇康]]3年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]11年 * [[仏滅紀元]] : 2110年 - 2111年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 975年 - 976年 * [[ユダヤ暦]] : 5328年 - 5329年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1568|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[尾張国]]の[[大名]]の[[織田信長]]が[[上洛]]を開始する。{{Sfn|ファータド|2013|p=309|ps=「織田信長、天下統一に乗り出す 織田信長が上洛を開始し、天下統一に大きく動き出す。」}}[[日本史]]において、この出来事を[[中世]]と[[近世]]の区切りとする。 * [[足利義昭]]が[[室町幕府]]15代将軍に就任する。 * [[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリ]]が[[イングランド]]に亡命。 * 5月23日:[[オランダ]]が[[フローニンゲン州]]の[[ハイリハレー]]で[[スペイン軍]]に勝利する。{{Sfn|ファータド|2013|p=308|ps=「オランダ独立戦争の始まり スペイン軍に勝利したオランダは、つかの間独立の希望を抱く。」}}([[八十年戦争]]の勃発) == 誕生 == {{see also|Category:1568年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月9日]] - [[アロイシウス・ゴンザーガ]]、16世紀の[[イエズス会]]員、[[聖人]](+ [[1591年]]) * [[4月]] - [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]、第235代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1644年]]) * [[5月29日]] - [[ヴィルジニア・デ・メディチ]]、モデナ公[[チェーザレ・デステ]]の妃(+ [[1615年]]) * [[9月5日]] - [[トマソ・カンパネッラ]]、[[イタリア]]の聖職者・哲学者(+ [[1639年]]) * [[12月21日]](永禄11年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[黒田長政]]、[[武将]]・[[大名]]、[[福岡藩]]初代藩主(+ [[1623年]]) * [[愛姫]]、[[伊達政宗]]の[[正室]](+ [[1653年]]) * [[豊臣秀次]]、[[豊臣秀吉]]の[[甥]]。天下人。(+[[1595年]]) == 死去 == {{see also|Category:1568年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月7日]]([[永禄]]11年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[色部勝長]]、[[武将|戦国武将]] [[越後国|越後]]の国人領主、[[上杉氏|上杉家]]の家臣(* [[1493年]]?) * [[4月11日]](永禄11年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[寿桂尼]]、[[駿河国]]の[[戦国大名]][[今川氏親]]の正室で[[今川義元]]の母(* 生年不詳) * [[6月3日]] - [[アンドレス・デ・ウルダネータ]]、[[修道士]]・[[探検家]](* [[1498年]]) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1568}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1568ねん}} [[Category:1568年|*]]
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1683年
1683年(1683 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1683年(1683 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1683年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1683}} {{year-definition|1683}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[癸亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天和 (日本)|天和]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2343年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]]:[[康熙]]22年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]37年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4016年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]]:[[正和 (黎朝)|正和]]4年 * [[仏滅紀元]]:2225年 - 2226年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1094年 - 1095年 * [[ユダヤ暦]]:5443年 - 5444年 * [[ユリウス暦]]:1682年12月22日 - 1683年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1683}} == できごと == * [[1月25日]](天和2年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[江戸]]で[[火災]]([[天和の大火]]){{要出典|date=2021-02}} * [[6月12日]] - [[ライハウス陰謀事件]]:[[イングランド]]で国王暗殺未遂事件。 * [[6月23日]] - ウィリアム・ペンがペンシルベニアのレナペ族と友好協定を結ぶ。 * [[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]。 * [[ブランデンブルク=プロイセン]]、[[アフリカ]]の[[ギニア湾]]岸に植民。 * [[鄭氏政権 (台湾)|東寧王国]]が清に降伏し、[[台湾]]が清の領土となる。 * [[グレートブリテン島|ブリテン島]]に生息していた[[イノシシ]]が狩猟のため[[絶滅]]。 == 誕生 == {{see also|Category:1683年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月13日]] - [[クリストフ・グラウプナー]]、[[作曲家]]、[[チェンバロ]]奏者(+ [[1760年]]) * [[1月14日]] - [[ゴットフリート・ジルバーマン]]、[[オルガン]]製作者(+ [[1753年]]) * [[2月28日]] - [[ルネ・レオミュール]]、[[昆虫学者]](+ [[1757年]]) * [[3月1日]] - [[キャロライン・オブ・アーンズバック]]、イギリス王ジョージ2世の[[王妃]](+ [[1737年]]) * [[3月12日]] - [[ジョン・デサグリエ]]、[[科学者]]、[[発明家]](+ [[1744年]]) * [[4月17日]] - [[ヨハン・ダーフィト・ハイニヒェン]]、作曲家、[[音楽理論家]](+ [[1729年]]) * [[9月7日]] - [[マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)|マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]の王妃(+ [[1754年]]) * [[9月25日]] - [[ジャン=フィリップ・ラモー]]、作曲家、音楽理論家(+ [[1764年]]) * [[11月10日]] - [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]、[[イギリス君主一覧|イギリス王]](+ [[1760年]]) * [[11月12日]]([[天和 (日本)|天和]]3年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[服部南郭]]、[[儒学者]]、[[漢詩人]]、[[画家]](+ [[1759年]]) * [[12月19日]] - [[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]、[[スペイン]]王(+ [[1746年]]) * [[12月23日]](天和3年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[松平信祝]]、[[老中]](+ [[1744年]]) * 月日不明 - [[ファッルフシヤル]]、[[ムガル帝国]][[皇帝]](+ [[1719年]]) * 月日不明 - [[ダライ・ラマ6世|ツァンヤン・ギャツォ]]、[[ダライ・ラマ]]6世(+ [[1706年]]) == 死去 == {{see also|Category:1683年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月21日]] - [[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー]]、[[イングランド]]の[[政治家]](* [[1621年]]) * [[4月25日]]([[天和 (日本)|天和]]3年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]) - [[八百屋お七]] 、江戸[[本郷 (文京区)|本郷]]の八百屋太郎兵衛の娘(* [[1668年]]?) * [[6月19日]](天和3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[中山弥次右衛門]]、[[越後国]][[新発田藩]]士、[[堀部武庸]]の父(* 生年不詳) * [[7月19日]](天和3年[[5月25日 (旧暦)|閏5月25日]]) - [[土井利房]]、老中(* [[1631年]]) * [[7月22日]](天和3年[[5月28日 (旧暦)|閏5月28日]]) - [[徳川徳松]]、[[徳川綱吉]]の長男(* [[1679年]]) * [[7月30日]] - [[マリー・テレーズ・ドートリッシュ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の王妃(* [[1638年]]) * [[8月24日]](天和3年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[松平忠輝]]、[[徳川家康]]の六男(* [[1592年]]) * [[9月6日]] - [[ジャン=バティスト・コルベール]]、フランスの[[重商主義]]者(* [[1619年]]) * [[9月12日]] - [[アフォンソ6世 (ポルトガル王)|アフォンソ6世]]、ポルトガル王(* [[1643年]]) * [[9月19日]](天和3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[順性院|お夏(順性院)]]、[[徳川家光]]の[[側室]]、[[徳川家宣]]の祖母(* [[1622年]]) * [[11月18日]] - [[ルイ・ド・ブルボン (ヴェルマンドワ伯)|ルイ・ド・ブルボン]]、フランス王ルイ14世の嫡子(* [[1667年]]) * [[12月14日]] - [[ヴォワチュール・アンテルム]]、[[修道士]]、[[天文学者]](* [[1618年]]頃) * [[12月27日]] - [[マリー・フランソワーズ・ド・サヴォワ=ヌムール]]、ポルトガル王[[アフォンソ6世 (ポルトガル王)|アフォンソ6世]]および[[ペドロ2世 (ポルトガル王)|ペドロ2世]]の王妃(* [[1646年]]) * 月日不明 - [[万斯大]]、[[清]]の儒学者(* [[1633年]]) * 月日不明 - [[ベンジャミン・ウィチカット]]、[[哲学者]]、[[神学者]](* [[1609年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1683}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1683ねん}} [[Category:1683年|*]]
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お金
お金(おかね)とは、現代の日本において、通貨あるいは貨幣のことを指す。一般的に、各国の政府は自国のお金の価値を保護・保証しながら、租税や歳入や歳出を算定したり外国と交渉したりする(管理通貨制度⇔ハイパーインフレーション)。英語ではmoney(マネー)にあたる。通貨単位は円(えん) 「金(かね)」は、基本的な意味としては金や銀、鉄など金属の総称や金具など金属製品を指すが、貨幣としての黄金なども指す(「お銀」、江戸時代の三貨制度#流通状況)。
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お金(おかね)とは、現代の日本において、通貨あるいは貨幣のことを指す。一般的に、各国の政府は自国のお金の価値を保護・保証しながら、租税や歳入や歳出を算定したり外国と交渉したりする(管理通貨制度⇔ハイパーインフレーション)。英語ではmoney(マネー)にあたる。通貨単位は円(えん) 「金(かね)」は、基本的な意味としては金や銀、鉄など金属の総称や金具など金属製品を指すが、貨幣としての黄金なども指す(「お銀」、江戸時代の三貨制度#流通状況)。
'''お金'''(おかね)とは、現代の[[日本]]において、[[通貨]]あるいは[[貨幣]]のことを指す。一般的に、各国の政府は自国のお金の価値を保護・保証しながら、[[租税]]や[[歳入]]や[[歳出]]を算定したり外国と交渉したりする([[管理通貨制度]]⇔[[ハイパーインフレーション]])。[[英語]]ではmoney(マネー)にあたる。通貨単位は円(えん) 「[[wikt:金|金]]([[wikt:かね|かね]])」は、基本的な意味としては[[金]]や[[銀]]、[[鉄]]など金属の総称や金具など金属製品を指すが、貨幣としての[[金貨|黄金など]]も指す<ref name="kojien">広辞苑 第七版 p.592 かね【金】 [[近世]]の[[上方]]では、貨幣として銀を用いたので「銀」の字をあてた</ref>(「お銀」、[[江戸時代の三貨制度#流通状況]])。 {{Wiktionary|お金|money}} == 出典 == <references /> {{Aimai}}
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金 (曖昧さ回避)
金(きん、かね 他) 日中韓それぞれの姓に歴史的な関連はないとされる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金(きん、かね 他)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日中韓それぞれの姓に歴史的な関連はないとされる。", "title": "固有名詞" } ]
{{Wiktionary|金}} {{TOCright}} '''金'''(きん、かね 他) == 一般名詞 == === きん === * 金属の一種。ゴールド。⇒ '''[[金]]''' **[[元素鉱物]]としての「金」については[[自然金]]を参照のこと。 * 金(金属)の純度の単位。[[カラット]] (karat) の訳語。 * 以下のものの略。 ** [[金曜日]] - 曜日の一つ。 ** [[金色]] - 色の一種。 ** [[金将]] - 将棋の駒の一つ。 ** [[金メダル]] - 近代オリンピックのメダルの一つ。 ** [[小判]] - [[砂金]]、判金など中世から近世における日本の金貨。金一両などと表示。 === かね === * [[貨幣]]・[[お金]]。マネー (money)。⇒ '''[[現金]]''' ** ひいては現金・貨幣を含む[[資産]]全体を指す。 * [[金属]]全体。[[メタル]] (metal)。 * [[漢字]]の[[部首]]の一つ。⇒ '''[[金部]]''' === その他 === *('''きん'''、'''こん''')[[五行思想|五行]](木・火・土・金・水)の一つ。 * 店名に“金”(カネ)が使われる場合、┐の字が[[屋号]]として代用される場合がある。 == 固有名詞 == === 国名 === * 中国の王朝名 (きん、{{lang|zh|Jīn}}) ** '''[[金 (王朝)]]''' - 12〜13世紀、中国北部にあった[[女真族]]の国の名前。 ** '''[[後金]]''' - 17世紀に[[ヌルハチ]]が興した女真族の王朝。後金王朝。後の[[清]]。 === 人名 === 日中韓それぞれの姓に歴史的な関連はないとされる。 * [[日本]]の氏(こん、こんの、きん、きんの) ** '''[[金氏]]'''(曖昧さ回避) * [[中国]]の姓 (ヂン、{{lang|zh|Jīn}}) ** '''[[金 (姓)]]''' - [[満洲民族|満族]]、[[漢民族|漢族]]、[[回族]]、[[モンゴル族]]などに見られる姓。 * [[朝鮮]]の姓 (キム、{{lang|ko|김}}。まれにクム、{{lang|ko|금}}) ** '''[[金 (朝鮮人の姓)]]''' - 朝鮮最多の人口を持つ姓。 === 地名 === * 日本の地名 ** 金 (こがね) - [[中世]]に[[下総国]][[葛飾郡]]に見える地名、「金領」・「金宿」。現在の[[千葉県]][[松戸市]][[小金]]。 *** 中世後期には「小金」の字が当てられ、「[[小金城|小金]][[領]]」・「[[小金宿]]」と表記されるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * {{Prefix|金}} {{aimai}} {{デフォルトソート:きん}}
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6,418
ニュートン
ニュートン (Newton) は、イギリスをはじめとする英語圏に見られる人名・地名。
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ニュートン (Newton) は、イギリスをはじめとする英語圏に見られる人名・地名。
'''ニュートン''' (''Newton'') は、[[イギリス]]をはじめとする[[英語圏]]に見られる[[人名]]・[[地名]]。 == 単位 == * [[ニュートン (単位)]] - 力の単位。[[アイザック・ニュートン]]が由来。 == 姓 == === 学問 === * [[アイザック・ニュートン]] - 17世紀後半から18世紀前半の[[イギリス]]の[[自然哲学者]]、[[数学者]]。[[万有引力]]の発見などの多数の業績で知られる。 *:[[ニュートン力学]]、[[ニュートン式望遠鏡]]、[[ニュートン環]]、[[ニュートン線]]、[[ニュートン法]]などの由来。 * [[アルフレッド・ニュートン]] - 19世紀イギリスの生物学者、鳥類学者。 * [[ヒューバート・ニュートン]] - 19世紀のアメリカの数学者、天文学者。流星の研究。 * [[ギルバート・ルイス|ギルバート・ニュートン・ルイス]] - 19世紀後半から20世紀前半のアメリカの[[化学者]]。酸[[塩基]]の定義を作った。 * [[リリー・ニュートン]] - 20日世紀のイギリスの植物学者。 === 政治・軍事・宗教 === * [[ジョン・ニュートン]](1725年生) - イギリスの聖職者。賛美歌『[[アメイジング・グレイス]]』の作詞者。 * [[ジョン・ニュートン (宣教師)|ジョン・カールドウェル・カルホウン・ニュートン]](1830年生) - 日本で活躍したメソジスト派の宣教師。 * [[ジョージ・ニュートン]](1830年生) - イギリスの軍医、日本で最初の[[梅毒]]専門病棟を設置する。1874年に死去した。 * [[ヒューイ・P・ニュートン]](1942年生) - 20世紀後半のアメリカの黒人解放運動の指導者。[[ブラックパンサー党]]を創設。 === 文化・芸術・芸能 === * [[アイヴァー・ニュートン]](1892年生) - イギリスの[[ピアニスト]]。 * [[ヘルムート・ニュートン]](1920年生) - ユダヤ系ドイツ人の[[写真家]]。20世紀中頃以降、特にファッション写真家として活躍。 * [[ウェイン・ニュートン]](1942年生) - アメリカのポピュラー音楽の歌手、俳優。 * [[タンディ・ニュートン]](1972年生) - イギリスの女優。 * [[ベッキー・ニュートン]](1978年生) - アメリカの女優。 * [[ミカ・ニュートン]](1996年生) - [[ウクライナ]]の女性歌手。 === スポーツ === * [[アーサー・ニュートン]](1883年生) - アメリカの陸上選手。 * [[クリス・ニュートン]](1973年生) - イングランドの自転車競技選手。 * [[カーロス・ニュートン]](1976年生) - カナダの[[総合格闘家]]。 * [[リー=ロイ・ニュートン]](1978年生) - 南アフリカの陸上競技選手。 * [[ジェフ・ニュートン]](1981年生) - アメリカのバスケットボール選手。本名ジェフリー・ハッサン・ニュートン。 * [[タイラー・ニュートン]](1982年生) - アメリカのバスケットボール選手。 * [[ハワード・ニュートン]](1982年生) - イングランド出身のサッカー選手。ジェイクの兄。[[サッカーガイアナ代表|ガイアナ代表]]。 * [[ジェイク・ニュートン]](1984年生) - イングランド出身のサッカー選手。ハワードの弟。ガイアナ代表。 * [[キャム・ニュートン]](1989年生) - [[アメリカンフットボール]]選手。 == 名 == * [[ニュウトン・メンドンサ]](1927年生) - ブラジルの[[作曲家]]。[[アントニオ・カルロス・ジョビン]]の共作者 * [[ホレイス・ニュートン・アレン]](1858年生) - アメリカ出身のプロテスタント宣教師、医師、外交官。 * [[ニュートン・ローウェル]](1867年生) - カナダの法律家、政治家。 * [[ニュートン・ディール・ベイカー]](1871年生) - アメリカの政治家 * [[ニュートン・ヘンリー・メイソン]](1918年生) - アメリカ海軍の軍人。 * [[ロバート・ニュートン・ペック]](1928年生) - アメリカの[[ジュブナイル]]作家。 * [[ニュートン・タットリー]](1931年生) - カナダ出身のプロレスラー。 * [[オリビア・ニュートン=ジョン]](1948年生) - イギリス生まれ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に活動の拠点を置く[[オーストラリア]]在住の[[歌手]]、[[俳優|女優]]。[[グラミー賞]]受賞歴、複数。 * [[ニュートン・トーマス・サイジェル]](1955年生) - アメリカの[[撮影監督]] * [[ジェームズ・ニュートン・ハワード]](1958年生) - アメリカの映画音楽作曲家。 == 地名 == * [[ニュートン (マサチューセッツ州)]] - [[ボストン]]の西に隣接する小都市。[[ボストンマラソン]]の「心臓破りの丘」 * [[ニュートン (ノースカロライナ州)]] - 西部カトーバ郡の都 * その他イギリス、アメリカ各地に「ニュートン」という地名が存在する(''英語版の[[:en:Newton|Newton]]も参照'')。 **アメリカの郡 - [[ニュートン郡 (アーカンソー州)]]、[[ニュートン郡 (ジョージア州)]]、[[ニュートン郡 (インディアナ州)]]、[[ニュートン郡 (ミシシッピ州)]]、[[ニュートン郡 (ミズーリ州)]]、[[ニュートン郡 (テキサス州)]] **アメリカの郡区 - [[ニュートン郡区 (アイオワ州キャロル郡)]] * {{仮リンク|ニュートン (シエラレオネ)|en|Newton, Sierra Leone}} - [[西アフリカ]]の[[シエラレオネ]]に存在する解放奴隷の村。 == 商品名 == * [[ニュートン (雑誌)]] - 株式会社ニュートンプレスから発売されている一般向け科学雑誌。 * [[Apple Newton]] (Newton) - Apple Computer(現・[[Apple]])が発売していた[[携帯情報端末]]。ニュートンはその技術 (Newton Technology)、もしくは[[オペレーティングシステム]] (OS) の名前であるが、一般には製品の通称 (Newton MessagePad/eMate) として用いられていた。 * [[エレットロニカ・ニュートン]] - システム * [[ニュートン (ワイン)]] - [[LVMH]]グループの{{仮リンク|ニュートン・ヴィンヤード|en|Newton Vineyard}}が製造するカリフォルニアワインのブランド * [[ニュートン (ビール)]] - ベルギーの{{仮リンク|ルフェーブル醸造所|en|Lefebvre Brewery}}が製造する{{仮リンク|フルーツ・ビール|en|Adjuncts#Fruit_or_vegetable}}、ホワイトビール * [[NEWTON (アルバム)]] - [[RADIO FISH]](2019年) == 企業 == * [[ニュートン・コンサルティング]]株式会社 - リスクマネジメントのコンサルティング会社。 * [[ウィンザー・アンド・ニュートン]] - イギリスの[[画材]][[商社]]。 * [[パセラ|ニュートン (企業)]] - [[カラオケボックス|カラオケ店]]「[[パセラ]]」および[[リゾートホテル]]、[[飲食店]]などを運営する企業。 * [[ニュートンアベニュー]] - テレビ番組に関する事業、制作、プロデュースを行う日本の株式会社。 == その他 == * [[コパ・ニュートン]] - サッカーの国際親善試合。 * [[ニュートン・ファミリー]] - [[ハンガリー]]の[[ロック (音楽)|ロック]]バンド。 * [[マイク・ニュートン (架空の人物)]] - [[ステファニー・メイヤー]]の小説『[[トワイライト (小説)|トワイライト]]』シリーズの登場人物 * ニュートンの一族 - 漫画『[[テラフォーマーズ]]』に登場するジョセフ・G・ニュートンの一族。 == 関連項目 == * [[ニュートン郡]] - 地名(アメリカの郡)の曖昧さ回避 * [[マイク・ニュートン]] - 人名の曖昧さ回避 * [[ロバート・ニュートン]] - 人名の曖昧さ回避 * [[ニュート]] {{aimai}} {{デフォルトソート:にゆうとん}} [[Category:英語の姓]] [[Category:英語の地名]] [[Category:同名の地名]]
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1668年
1668年(1668 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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1668年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1668}} {{year-definition|1668}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2328年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]7年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]22年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4001年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2210年 - 2211年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1078年 - 1079年 * [[ユダヤ暦]] : 5428年 - 5429年 * [[ユリウス暦]] : 1667年12月22日 - 1668年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1668}} == できごと == * [[4月13日]](寛文8年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]])- [[宇都宮興禅寺刃傷事件]]起こる{{要出典|date=2021-03}}。 * [[7月25日]](康熙7年6月17日) - [[郯廬大地震 (1668年)|郯廬大地震]]が発生。 * [[12月22日]](寛文8年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[井伊直澄]]が[[大老]]に就任{{要出典|date=2021-04}}。 * [[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]締結、[[ネーデルラント継承戦争|南ネーデルラント継承戦争]]([[1667年]] - )終結。 * [[イエズス会]]、布教のために[[グアム|グアム島]]や[[北マリアナ諸島]]の島々に上陸。 * [[北アメリカ]]に[[コーヒー]]が持ち込まれる。 == 誕生 == {{see also|Category:1668年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月14日]] - [[マグヌス・ユリウス・デ・ラ・ガーディ]]([[w:Magnus Julius De la Gardie|Magnus Julius De la Gardie]])、[[スウェーデン]]の[[軍人]](+ [[1741年]]) * [[5月8日]] - [[アラン=ルネ・ルサージュ]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1747年]]) * [[6月23日]] - [[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[哲学者]](+ [[1744年]]) * [[6月26日]](寛文8年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[雨森芳洲]]、[[儒学者]](+ [[1755年]]) * [[10月18日]] - [[ヨハン・ゲオルク4世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク4世]]、[[ザクセン選帝侯]](+ [[1694年]]) * [[11月10日]] - [[フランソワ・クープラン]]、[[作曲家]](+ [[1733年]]) *11月10日 - [[ルイ3世 (コンデ公)|ルイ3世]]、[[コンデ公]](+ [[1710年]]) * [[11月11日]] - [[ヨハン・アルベルト・ファブリシウス]]([[w:Johann Albert Fabricius|Johann Albert Fabricius]])、[[西洋古典学|古典学]]者(+ [[1736年]]) * [[11月14日]] - [[ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント]]([[w:Johann Lukas von Hildebrandt|Johann Lukas von Hildebrandt]])、[[建築家]](+ [[1745年]]) * [[11月27日]] - [[アンリ・フランソワ・ダゲッソー]]、[[大法官]](+ [[1751年]]) * [[12月31日]] - [[ヘルマン・ブールハーフェ]]、[[人文主義者]]、[[医師]](+ [[1738年]]) * [[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]、日本へ潜入した[[宣教師]](+ [[1714年]]) * [[ジョン・エクルズ (作曲家)|ジョン・エクルズ]]([[w:John Eccles|John Eccles]])、作曲家(+ [[1735年]]) == 死去 == {{see also|Category:1668年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月7日]] - [[ウィリアム・ダヴナント]]([[w:William Davenant|William Davenant]])、[[詩人]](* [[1606年]]) * [[8月9日]] - [[ヤコブ・バルデ]]([[w:Jakob Balde|Jakob Balde]])、[[イエズス会]]士(* [[1604年]]) * [[9月19日]] - [[ウィリアム・ウォラー]]、軍人(* [[1597年]]頃) * [[10月7日]](寛文8年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[山田有栄]]、[[島津家]][[家老]](* [[1578年]]) * [[10月12日]](寛文8年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[片山良庵]]、[[軍学者]](* [[1601年]]) * [[11月23日]](寛文8年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[岡部宣勝]]、<!--[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]の第2代藩主。[[播磨国|播磨]][[龍野藩]]藩主。[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]藩主。-->[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]初代[[藩主]](* [[1597年]]) * 11月23日(寛文8年10月19日) - [[松平定行]]、[[伊予松山藩]]初代藩主(* [[1584年]]) * [[尚質王]]、[[琉球王国]][[国王]](* [[1629年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1668}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1668ねん}} [[Category:1668年|*]]
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将棋棋士一覧
将棋棋士一覧(しょうぎきしいちらん)は、日本将棋連盟の将棋の棋士の一覧である。現役・引退・物故を問わず、棋士のすべてを棋士番号順に記す。 ただし、棋士番号制定以前(棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日)や日本将棋連盟発足以前の棋士も本記事の後半に記す。 江戸時代の棋士については、江戸時代の将棋棋士一覧、将棋の家元(大橋家、大橋分家、伊藤家)の記事を参照。 下記も参照。 棋士番号のある将棋棋士の一覧。 現役棋士は174名(2023年12月12日現在) 棋士番号のない棋士(棋士番号制度以前に死去または退会)の一覧。なお、現在のように「四段昇段=プロ入り」ではなかった時代(三段以下のプロも存在した時代)の棋士が大半であるが、ここでは便宜上、四段昇段年を表記している。
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将棋棋士一覧(しょうぎきしいちらん)は、日本将棋連盟の将棋の棋士の一覧である。現役・引退・物故を問わず、棋士のすべてを棋士番号順に記す。 ただし、棋士番号制定以前(棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日)や日本将棋連盟発足以前の棋士も本記事の後半に記す。 江戸時代の棋士については、江戸時代の将棋棋士一覧、将棋の家元(大橋家、大橋分家、伊藤家)の記事を参照。 下記も参照。 将棋棋士の在籍クラス - 現役棋士の竜王戦・順位戦でのクラスの一覧 カテゴリ「将棋棋士」 - Wikipedia内に人物記事がある将棋棋士などの一覧(五十音順) 将棋の女流棋士一覧 - 女流棋士の一覧
{{Pathnav|将棋|棋士 (将棋)|frame=1}} '''将棋棋士一覧'''(しょうぎきしいちらん)は、[[日本将棋連盟]]の[[棋士 (将棋)|将棋の棋士]]の一覧である。現役・[[棋士 (将棋)#引退|引退]]<ref group="注">棋士は現役引退をしても、退会しない限りは依然として「棋士」(現役と区別するときは「引退棋士」という)であり正会員である。</ref>・物故を問わず、棋士のすべてを[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]順に記す。 ただし、棋士番号制定以前(棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日)や日本将棋連盟発足以前の棋士も本記事の後半に記す。 江戸時代の棋士については、[[江戸時代の将棋棋士一覧]]、将棋の家元([[大橋家]]、[[大橋分家]]、[[伊藤家]])の記事を参照。 下記も参照。 *''[[将棋棋士の在籍クラス]]'' - 現役棋士の[[竜王戦]]・[[順位戦]]でのクラスの一覧 *''[[:Category:将棋棋士|カテゴリ「将棋棋士」]]'' - Wikipedia内に人物記事がある将棋棋士などの一覧(五十音順) *''[[将棋の女流棋士一覧]]'' - [[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の一覧 == 棋士番号のある棋士 == [[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]のある将棋棋士の一覧。 {| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" | *'''太字の棋士番号'''は現役棋士。 *<span style="background-color: #ccf;">青色</span>の行は元棋士(日本将棋連盟退会者)。 *引退者は最終対局日または引退期日を引退日としている。 *「氏名」は棋士としての登録活動名義を表記。旧姓・本名が活動名義と異なる場合は「備考」に記載。 |} 現役棋士は174名(2023年12月12日現在) {| class="sortable wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;white-space:nowrap;line-height:135%;" |- style="font-size:100%;line-height:120%;" !棋士<br>番号 !よみ<br>氏 名 !colspan="2"|{{align|left|段位等}}<br>{{align|right| / 現役時}} !出身!!師匠 !style="border-right:none;" colspan="2"|{{align|left|生年月日}}<br/>{{align|right|(誕生日順)}} !style="border-left:none;" colspan="2"|{{align|left|年齢{{small|(歳)}}}}<br>{{align|left|(享年) 没年月日}} !colspan="3"|四段昇段{{font|size=60%|(プロ入り)}}<br>昇段日 / 年齢 / 昇段理由 !現役<br/>年数 !引退年 !colspan="2" |タイトル戦<br/>獲得/登場 !rowspan="2" class="unsortable" |備考・永世称号・<br>将棋界の親族等 |- style="line-height:2.0em; font-size:89%; border-top:hidden;" !{{0}} !! !! !! !! !! !! !!style="width:0"| !! !! !! !! !! !! !! !! !! |- |1 |こん やすじろう<br>[[金易二郎]] |{{display none|9}}名誉<br>九段 |{{display none|8}}八段 |秋田 |{{display none|せきねきん}}[[関根金次郎|関根<br/>金]]<br>{{small|<ref group="注">[[井上義雄]]八段門下から移籍。</ref>}} |style="border-right:none;"|{{sort|18901010|}}1890年{{00}}<br>[[10月10日]] |style="border-left :none;text-align:right"|{{sort|1010|}} |(89) |1980年{{00}}<br>{{0}}[[6月23日]] |{{display none|10001}}1912年 |22歳? |推薦 |{{#expr:1947-1912}}年 |1947年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |[[高柳敏夫]](義子) |- |2 |きむら よしお<br>[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]] |{{display none|c14}}[[名人 (将棋)|十四世<br>名人]] |{{display none|8}}八段<br>{{small|<ref group="注">2度目の名人失冠後に現役を引退して十四世名人に襲位しており、引退前の肩書は「前名人」の扱いとなる。</ref>}} |東京 |{{display none|せきねきん}}関根<br/>金 |style="border-right:none;"|{{sort|19050221|}}1905年{{00}}<br>{{0}}[[2月21日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0221|}} |(81) |1986年{{00}}<br>[[11月17日]] |{{display none|10002}}1920年 |15歳? |推薦 |{{年数|1920|1|1|1952|8|24}}年 |1952年 |8 |11 | style="text-align:left" |[[名人 (将棋)#実力制に移行後の名人|十四世名人]]。<br/>[[木村義徳]](子) |- |3 |かねこ きんごろう<br>[[金子金五郎]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |東京 |{{display none|とい}}[[土居市太郎|土居]] |style="border-right:none;"|{{sort|19020106|}}1902年{{00}}<br>{{0}}[[1月6日|1月{{0}}6日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0106|}} |(88) |1990年{{00}}<br>{{0}}[[1月6日|1月{{0}}6日]] |{{display none|10003}}1920年 |18歳? |推薦 |{{#expr:1950-1920}}年 |1950年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |4 |わたなべ とういち<br>[[渡辺東一]] |{{display 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(将棋)|永世棋聖]]、[[王将戦|永世王将]]。うち、永世王将と十五世名人は現役中に名乗る。</ref> |- |27 |やまもと たけお<br>[[山本武雄]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|7}}七段 |富山 |{{display none|こん}}[[金易二郎|金]] |style="border-right:none;"|{{sort|19170105|}}1917年{{00}}<br>{{0}}[[1月5日|1月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0105|}} |(77) |1994年{{00}}<br>{{0}}[[7月25日]] |{{display none|10027}}1941年 |24歳? |推薦 |{{#expr:1968-1920}}年 |1968年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |28 |やまなか かずまさ<br>[[山中和正]] |{{display none|8}}八段 |{{display none|7}}七段 |岡山 |{{display none|きみ}}木見 |style="border-right:none;"|{{sort|19141215|}}1914年{{00}}<br>[[12月15日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1215|}} |(80) |1994年{{00}}<br>[[12月15日]] |{{display none|10028}}1941年 |27歳? |推薦 |{{#expr:1986-1941}}年 |1986年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |29 |いたや しろう<br>[[板谷四郎]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |三重 |{{display none|きむらよしお}}[[木村義雄 (棋士)|木村<br>雄]] |style="border-right:none;"|{{sort|19130610|}}1913年{{00}}<br>{{0}}[[6月10日]] |style="border-left 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|colspan="2"|{{display none|9}}九段 |福岡 |{{display none|はなた}}花田 |style="border-right:none;"|{{sort|19230226|}}1923年{{00}}<br>{{0}}[[2月26日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0226|}} |(85) |2008年{{00}}<br>{{0}}[[4月16日]] |{{display none|10032}}1943年 |20歳? |推薦 |{{#expr:1968-1943}}年 |1988年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |33 |よしだ むつひこ<br>[[吉田六彦]] |{{display none|7}}七段 |{{display none|6}}六段 |東京 |{{display none|とい}}土居 |style="border-right:none;"|{{sort|19100301|}}1910年{{00}}<br>{{0}}[[3月1日|3月{{0}}1日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0301|}} |(81) |1991年{{00}}<br>[[10月7日|10月{{0}}7日]] |{{display none|10033}}1943年 |33歳? |推薦 |{{#expr:1956-1943}}年 |1956年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |34 |とみざわ みきお<br>[[富沢幹雄]] |colspan="2"|{{display none|8}}八段 |福島 |{{display none|やまもとくす}}山本<br>樟 |style="border-right:none;"|{{sort|19200420|}}1920年{{00}}<br>{{0}}[[4月20日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0420|}} |(77) |1998年{{00}}<br>{{0}}[[1月10日]] |{{display none|10034}}1943年 |23歳? |推薦 |{{#expr:1994-1943}}年 |1994年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |旧名・富沢伝助 |- |35 |はらだ やすお<br>[[原田泰夫]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |新潟 |{{display none|かとうし}}[[加藤治郎 (棋士)|加藤<br>治]] |style="border-right:none;"|{{sort|19230301|}}1923年{{00}}<br>{{0}}[[3月1日|3月{{0}}1日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0301|}} |(81) |2004年{{00}}<br>{{0}}[[7月11日]] |{{display none|10035}}1944年 |21歳? |推薦 |{{#expr:1982-1944}}年 |1982年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |36 |ほしだ けいぞう<br>[[星田啓三]] |{{display none|8}}八段 |{{display none|7}}七段 |大阪 |{{display none|さかた}}[[坂田三吉|坂田<br>{{small|(阪田)}}]] |style="border-right:none;"|{{sort|19170108|}}1917年{{00}}<br>{{0}}[[1月8日|1月{{0}}8日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0108|}} |(78) |1995年{{00}}<br>{{0}}[[7月20日]] |{{display none|10036}}1944年 |27歳? |推薦 |{{#expr:1986-1944}}年 |1986年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |37 |みなみぐち しげかず<br>[[南口繁一]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |京都 |{{display none|むらかみ}}[[村上真一|村上]] 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style="text-align:left" |異例の五段編入試験合格 |- |40 |やまかわ つぎひこ<br>[[山川次彦]] |{{display none|8}}八段 |{{display none|7}}七段 |東京 |{{display none|かねこ}}金子 |style="border-right:none;"|{{sort|19200118|}}1920年{{00}}<br>{{0}}[[1月18日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0118|}} |(74) |1994年{{00}}<br>[[12月10日]] |{{display none|10040}}1944年 |24歳? |推薦 |{{#expr:1970-1944}}年 |1970年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |41 |させ ゆうじ<br>[[佐瀬勇次]] |{{display none|9}}名誉<br>九段 |{{display none|8}}八段 |千葉 |{{display none|いしいひて}}石井<br>秀 |style="border-right:none;"|{{sort|19190317|}}1919年{{00}}<br>{{0}}[[3月17日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0317|}} |(75) |1994年{{00}}<br>{{0}}[[3月25日]] |{{display none|10041}}1944年 |25歳? |推薦 |{{#expr:1980-1944}}年 |1990年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |[[沼春雄]](義子) |- |42 |かとう ひろじ<br>[[加藤博二]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |愛知 |{{display none|とい}}土居 |style="border-right:none;"|{{sort|19230915|}}1923年{{00}}<br>{{0}}[[9月15日]] |style="border-left 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none|さいとうきん}}[[斎藤銀次郎|斎藤<br>銀]] |style="border-right:none;"|{{sort|19150905|}}1915年{{00}}<br>{{0}}[[9月5日|9月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0905|}} |(73) |1989年{{00}}<br>{{0}}[[1月15日]] |{{display none|10045}}1947年 |32歳? |推薦 |{{#expr:1965-1947}}年 |1965年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |46 |いがらし とよいち<br>[[五十嵐豊一]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |北海道 |{{display none|せきねきん}}関根<br/>金 |style="border-right:none;"|{{sort|19240927|}}1924年{{00}}<br>{{0}}[[9月27日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0927|}} |(83) |2008年{{00}}<br>{{0}}[[8月30日]] |{{display none|10046}}1947年 |23歳? |推薦 |{{#expr:1988-1947}}年 |1988年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |47 |せいの しずお<br>[[清野静男]] |colspan="2"|{{display none|8}}八段 |新潟 |{{display none|きむらよしお}}木村<br>雄 |style="border-right:none;"|{{sort|19220814|}}1922年{{00}}<br>{{0}}[[8月14日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0814|}} |(55) |1977年{{00}}<br>{{0}}[[8月28日]] |{{display none|10047}}1950年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |27歳{{0}}<br>{{00}}7月 |推薦<br/>(六段) |{{年数|1950|4|1|1977|8|28}}年 |1977年<br>{{small|(現役死去)}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |三段から飛び昇段<ref group="注" name="dai4ki">第4期(1949年度)順位戦では、東のC級乙組(現在のC級2組に相当)に清野静男三段(棋士番号47)・浅沼一二段(同56)、西のC級乙組に神田静男三段・増田敏二二段の参加が許された。清野と神田は1位の成績でC級甲組に昇級。1950年{{00}}<br>{{0}}4月付けで清野と神田は六段へ、浅沼と増田は四段へ、それぞれ飛び昇段。</ref> |- |48 |さとう ゆたか<br>[[佐藤豊 (棋士)|佐藤豊]] |{{display none|6}}六段 |{{display none|4}}四段 |東京 |{{display none|みやまつ}}[[宮松関三郎|宮松]] |style="border-right:none;"|{{sort|19140705|}}1914年{{00}}<br>{{0}}[[7月5日|7月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0705|}} |(86) |2001年{{00}}<br>{{0}}[[5月16日]] |{{display none|10048}}1948年 |34歳? |推薦 |{{#expr:1956-1948}}年 |1956年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |49 |きがわ きいち<br>[[木川貴一]] |{{display none|6}}六段 |{{display none|5}}五段 |東京 |{{display none|かとうし}}加藤<br>治 |style="border-right:none;"|{{sort|19200114|}}1920年{{00}}<br>{{0}}[[1月14日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0114|}} |(74) |1994年{{00}}<br>{{0}}[[8月30日]] |{{display none|10049}}1948年 |28歳? |推薦 |{{#expr:1968-1948}}年 |1968年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |50 |しもだいら ゆきお<br>[[下平幸男]] |colspan="2"|{{display none|8}}八段 |東京 |{{display none|わたなへとう}}[[渡辺東一|渡辺<br>東]] |style="border-right:none;"|{{sort|19241116|}}1924年{{00}}<br>[[11月16日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1116|}} |(68) |1993年{{00}}<br>{{0}}[[5月25日]] |{{display none|10050}}1948年 |24歳? |推薦 |{{#expr:1985-1948}}年 |1985年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |51 |ふたみ けいぞう<br>[[二見敬三]] |colspan="2"|{{display none|7}}七段 |大阪 |{{display none|きみ}}木見 |style="border-right:none;"|{{sort|19320220|}}1932年{{00}}<br>{{0}}[[2月20日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0220|}} |(48) |1980年{{00}}<br>{{0}}[[8月2日|8月{{0}}2日]] |{{display none|10051}}1948年 |16歳? |推薦 | 年 |1980年<br>{{small|(現役死去)}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |52 |にしもと かおる<br>[[西本馨]] |{{display none|7}}七段 |{{display none|4}}四段 |大阪 |{{display none|きみ}}木見 |style="border-right:none;"|{{sort|19230810|}}1923年{{00}}<br>{{0}}[[8月10日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0810|}} |(88) |2012年{{00}}<br>{{0}}[[1月14日]] |{{display none|10052}}1948年 |25歳? |推薦 | 年 |1973年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |53 |かんだ しずお<br>[[神田鎮雄]] |{{display none|7}}七段 |{{display none|6}}六段 |兵庫 |{{display none|なた}}[[灘蓮照|灘]] |style="border-right:none;"|{{sort|19300313|}}1930年{{00}}<br>{{0}}[[3月13日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0313|}} |(67) |1997年{{00}}<br>{{0}}[[8月30日]] |{{display none|10053}}1950年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |20歳{{0}}<br>{{00}}0月 |推薦<br/>(六段) | 年 |1972年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |三段から飛び昇段<ref group="注" name="dai4ki"/><br/>[[神田辰之助]](父) |- |54 |くまがい みちひと<br>[[熊谷達人]] |{{display none|9}}追贈<br>九段 |{{display none|8}}八段 |大阪 |{{display none|のむら}}[[野村慶虎|野村]] |style="border-right:none;"|{{sort|19301207|}}1930年{{00}}<br>[[12月7日|12月{{0}}7日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1207|}} |(46) |1977年{{00}}<br>{{0}}[[4月12日]] |{{display none|10054}}1949年 |19歳? |推薦 | 年 |1977年<br>{{small|(現役死去)}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |55 |ますだ としじ<br>[[増田敏二]] |{{display none|6}}六段 |{{display none|5}}五段 |東京 |{{display none|おかさきふみ}}[[岡崎史明|岡崎<br>史]] |style="border-right:none;"|{{sort|19150814|}}1915年{{00}}<br>{{0}}[[8月14日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0814|}} |(65) |1980年{{00}}<br>[[10月26日]] |{{display none|10055}}1950年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |35歳? |推薦 | 年 |1958年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |二段から飛び昇段<ref group="注" name="dai4ki"/> |- |56 |あさぬま はじめ<br>[[浅沼一]] |{{display none|7}}七段 |{{display none|4}}四段 |東京<br>八丈島 |{{display none|こいすみ}}小泉 |style="border-right:none;"|{{sort|19241218|}}1924年{{00}}<br>[[12月18日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1218|}} |(86) |2011年{{00}}<br>{{0}}[[8月10日]] |{{display none|10056}}1950年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |25歳{{0}}<br>{{00}}3月 |推薦 | 年 |1958年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | style="text-align:left" |二段から飛び昇段<ref group="注" name="dai4ki"/> |- |57 |ふたかみ たつや<br>[[二上達也]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |北海道 |{{display none|わたなへとう}}渡辺<br>東 |style="border-right:none;"|{{sort|19320102|}}1932年{{00}}<br>{{0}}[[1月2日|1月{{0}}2日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0102|}} |(84) |2016年{{00}}<br>[[11月1日|11月{{0}}1日]] |{{display none|10057}}1950年 |18歳? |推薦 | 年 |1990年 |5 |26 | |- |58 |はしもと さんじ<br>[[橋本三治]] |{{display none|8}}八段 |{{display none|6}}六段 |兵庫 |{{display none|きみ}}木見 |style="border-right:none;"|{{sort|19251212|}}1925年{{00}}<br>[[12月12日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1212|}} |(76) |2002年{{00}}<br>{{0}}[[2月3日|2月{{0}}3日]] |{{display none|10058}}1951年 |26歳? |推薦 | 年 |1985年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |59 |つむら つねよし<br>[[津村常吉]] |{{display none|7}}追贈<br>七段 |{{display none|5}}五段 |神奈川 |{{display none|こほり}}[[小堀清一|小堀]] |style="border-right:none;"|{{sort|19230728|}}1923年{{00}}<br>{{0}}[[7月28日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0728|}} |(70) |1993年{{00}}<br>[[11月3日|11月{{0}}3日]] |{{display none|10059}}1952年 |29歳? |推薦 | 年 |1970年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |60 |きたむら まさお<br>[[北村昌男]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |北海道 |{{display none|わたなへとう}}渡辺<br>東 |style="border-right:none;"|{{sort|19341030|}}1934年{{00}}<br>[[10月30日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1030|}} |({{年数|1934|10|30|2023|7|9}}) |2023年{{00}}<br>{{0}}[[7月9日|7月{{0}}9日]] |{{display none|10060}}1953年 |19歳? |推薦 | 年 |1994年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |61 |せきね しげる<br>[[関根茂]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |東京 |{{display none|やまかわ}}[[山川次彦|山川]] |style="border-right:none;"|{{sort|19291105|}}1929年{{00}}<br>[[11月5日|11月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1105|}} |(87) |2017年{{00}}<br>{{0}}[[2月22日]] |{{display none|10061}}1953年{{00}}<br>10月19日 |23歳{{0}}<br>{{0}}11月 |推薦 | 年 |2002年 |0 |1 | style="text-align:left" |[[関根紀代子]](妻) |- |62 |おおとも のぼる<br>[[大友昇]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |宮城 |{{display none|いいつかかん}}飯塚<br>勘 |style="border-right:none;"|{{sort|19310806|}}1931年{{00}}<br>{{0}}[[8月6日|8月{{0}}6日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0806|}} |(69) |2000年{{00}}<br>{{0}}[[8月8日|8月{{0}}8日]] |{{display 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style="text-align:left" |中学生棋士(史上初)<ref group="注" name="chuugakusei">中学生棋士としては、加藤一二三は中学3年(14歳7か月)、谷川浩司は中学2年(14歳8ヶ月)、羽生善治は中学3年(15歳2か月)でそれぞれ四段昇段(前述3名はプロ入り決定日に即時プロ入り)。三段リーグ制度導入後はプロ入り決定直後の4月1日付または10月1日付での昇段となるが、渡辺明の場合は四段昇段決定日が卒業前の3月中のため、中学卒業直後の4月1日付で四段昇段、記録上は4人目の中学生棋士とされる。藤井聡太は中学2年の10月に(14歳2か月)史上最年少で四段昇段。{{Cite web|和書|url =https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/post_1449.html|title =新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸/将棋ニュース |publisher=[[日本将棋連盟]] |date=2016-09-03|accessdate = 2017-10-31}}</ref><br />{{bgcolor|#fdd|現役期間62年は史上最長}}<br />{{bgcolor|#fdd|引退時77歳は史上最年長}} |- |65 |みやさか ゆきお<br>[[宮坂幸雄]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |東京 |{{display none|つかたまさ}}[[塚田正夫|塚田<br>正]] |style="border-right:none;"|{{sort|19291130|}}1929年{{00}}<br>[[11月30日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1130|}} |{{年数|1929|11|30}}歳 | |{{display none|10065}}1955年{{00}}<br>{{0}}1月10日 |25歳{{0}}<br>{{00}}1月 |推薦 | 年 |1999年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |66 |ありよし みちお<br>[[有吉道夫]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |岡山 |{{display none|おおやま}}[[大山康晴|大山]] |style="border-right:none;"|{{sort|19350727|}}1935年{{00}}<br>{{0}}[[7月27日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0727|}} | (87) |2022年{{00}}<br />{{0}}[[9月27日]] |{{display none|10066}}1955年{{00}}<br>{{0}}5月15日 |19歳{{0}}<br>{{00}}9月 |推薦 | {{年数|1955|5|15|2010|5|24}}年 |title="有吉道夫 2010年5月24日引退"|2010年 |1 |9 | |- |67 |はせべ ひさお<br>[[長谷部久雄]] |{{display none|9}}九段 |{{display none|8}}八段 |千葉 |{{display none|おおわく}}[[大和久彪|大和<br>久]] |style="border-right:none;"|{{sort|19330717|}}1933年{{00}}<br>{{0}}[[7月17日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0717|}} |(84) |2017年{{00}}<br>[[12月27日]] |{{display none|10067}}1955年{{00}}<br>{{0}}6月14日 |21歳{{0}}<br>{{0}}10月 |推薦 | 年 |1993年 |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |68 |せりざわ ひろぶみ<br>[[芹沢博文]] |colspan="2"|{{display none|9}}九段 |静岡 |{{display none|たかやなき}}[[高柳敏夫|高柳]] |style="border-right:none;"|{{sort|19361023|}}1936年{{00}}<br>[[10月23日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1023|}} |(51) |1987年{{00}}<br>[[12月9日|12月{{0}}9日]] |{{display 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style="text-align:left" |{{bgcolor|#fdd|永世七冠(資格)}}<ref group="注">内訳は、十九世名人、永世竜王、永世王位、名誉王座、[[棋王戦 (将棋)|永世棋王]]、永世棋聖、永世王将の資格を保持。その他に[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|名誉NHK杯選手権者]]の称号者でもある。</ref><br/>中学生棋士(3人目)<ref group="注" name="chuugakusei"/><br/>{{bgcolor|#fdd|史上初の六冠・七冠獲得者}} |- !176 |なかた いさお<br>[[中田功]] |{{display none|8}}八段 |{{display none|8}} |福岡 |{{display none|おおやま}}大山 |style="border-right:none;"|{{sort|19670727|}}1967年{{00}}<br>{{0}}[[7月27日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0727|}} |{{年数|1967|7|27}}歳 | |{{display none|10176}}1986年{{00}}<br>{{0}}4月30日 |18歳{{0}}<br>{{00}}9月 |三段<br/>規定成績 |{{年数|1986|4|30}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- |177 |いしかわ あきお<br>[[石川陽生]] |colspan="2"|{{display none|7}}七段 |東京 |{{display none|たかたたけ}}[[高田丈資|高田<br>丈]] |style="border-right:none;"|{{sort|19630305|}}1963年{{00}}<br>{{0}}[[3月5日|3月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0305|}} |{{年数|1963|3|5}}歳 | |{{display none|10177}}1986年{{00}}<br>{{0}}5月14日 |23歳{{0}}<br>{{00}}2月 |三段<br/>規定成績 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style="text-align:left" |東大出身プロ(2人目) |- !324 |いとう たくみ<br>[[伊藤匠]] |{{display none|7}}七段 |{{display none|6}} |東京 |{{display none|みやたとし}}宮田<br>利 |style="border-right:none;"|{{sort|20021010|}}2002年{{00}}<br>[[10月10日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1010|}} |{{年数|2002|10|10}}歳 | |{{display none|10324}}2020年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |17歳{{0}}<br>{{0}}11月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2020|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |0 |2 | |- !325 |とみた せいや<br>[[冨田誠也]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |兵庫 |{{display none|こはやしけん}}小林<br>健 |style="border-right:none;"|{{sort|19960213|}}1996年{{00}}<br>[[2月13日|{{0}}2月13日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0213|}} |{{年数|1996|2|13}}歳 | |{{display none|10325}}2020年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |24歳{{0}}<br>{{00}}7月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2020|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !326 |こが ゆうせい<br>[[古賀悠聖]] |{{display none|5}}五段 |{{display none|5}} |福岡 |{{display none|なかたいさお}}中田<br>功 |style="border-right:none;"|{{sort|20010101|}}2001年{{00}}<br>[[1月1日|{{0}}1月{{0}}1日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0101|}} |{{年数|2001|1|1}}歳 | |{{display none|10326}}2020年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |19歳{{0}}<br>{{00}}9月 |{{small|三段リーグ}}<br/>次点2回 |{{年数|2020|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !327 |いだ あきひろ<br>[[井田明宏]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |京都 |{{display none|こはやしけん}}小林<br>健 |style="border-right:none;"|{{sort|19961206|}}1996年{{00}}<br>[[12月6日|12月{{0}}6日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1206|}} |{{年数|1996|12|6}}歳 | |{{display none|10327}}2021年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |24歳{{0}}<br>{{00}}3月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2021|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !328 |たかだ あきひろ<br>[[高田明浩]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |岐阜 |{{display none|もりのふ}}森 信 |style="border-right:none;"|{{sort|20020620|}}2002年{{00}}<br>[[6月20日|{{0}}6月20日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0620|}} |{{年数|2002|6|20}}歳 | |{{display none|10328}}2021年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |18歳{{0}}<br>{{00}}9月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2021|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !329 |よこやま ともき<br>[[横山友紀]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |兵庫 |{{display none|いのうえけい}}井上<br>慶 |style="border-right:none;"|{{sort|20000126|}}2000年{{00}}<br>[[1月26日|{{0}}1月26日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0126|}} |{{年数|2000|1|26}}歳 | |{{display none|10329}}2021年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |21歳{{0}}<br>{{00}}9月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2021|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !330 |かりやま みきお<br>[[狩山幹生]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |岡山 |{{display none|いのうえけい}}井上<br>慶 |style="border-right:none;"|{{sort|20011112|}}2001年{{00}}<br>[[11月12日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1112|}} |{{年数|2001|11|12}}歳 | |{{display none|10330}}2021年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |19歳{{0}}<br>{{0}}11月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2021|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !331 |おかべ れお<br>[[岡部怜央]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |山形 |{{display none|かせ}}加瀬 |style="border-right:none;"|{{sort|19990408|}}1999年{{00}}<br>[[4月8日|{{0}}4月{{0}}8日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0408|}} |{{年数|1999|4|8}}歳 | |{{display none|10331}}2022年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |22歳{{0}}<br>{{00}}0月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2022|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !332 |とくだ けんし<br>[[徳田拳士]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |山口 |{{display none|こはやしけん}}小林<br>健 |style="border-right:none;"|{{sort|19971209|}}1997年{{00}}<br>[[12月9日|12月{{0}}9日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1209|}} |{{年数|1997|12|9}}歳 | |{{display none|10332}}2022年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |24歳{{0}}<br>{{00}}4月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2022|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !333 |ふじもと なぎさ<br>[[藤本渚]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |香川 |{{display none|いのうえけい}}井上<br>慶 |style="background-color:#fdd; border-right:none;"|{{sort|20050718|}}2005年{{00}}<br>[[7月18日|{{0}}7月18日]] |style="background-color:#fdd; border-left :none;"|{{sort|0718|}} |style="background-color:#fdd"|{{年数|2005|7|10}}歳 | |{{display none|10333}}2022年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |17歳{{0}}<br>{{00}}2月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2022|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} |{{align|left|{{bgcolor|#fdd|現役最年少棋士}}}} |- !334 |さいとう ゆうや<br>[[齊藤裕也]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |三重 |{{display none|すきもとまさ}}杉本<br>昌 |style="border-right:none;"|{{sort|19970529|}}1997年{{00}}<br>[[5月29日|{{0}}5月29日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0529|}} |{{年数|1997|5|29}}歳 | |{{display none|10334}}2022年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |25歳{{0}}<br>{{00}}4月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2022|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !335 |こやま れお<br>[[小山怜央]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |岩手 |{{display none|きたしま}}[[北島忠雄|北島]] |style="border-right:none;"|{{sort|19930702|}}1993年{{00}}<br>[[7月2日|{{0}}7月{{0}}2日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0702|}} |{{年数|1993|7|2}}歳 | |{{display none|10335}}2023年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |29歳{{0}}<br>{{00}}9月 |棋士編入<br>試験合格 |{{年数|2023|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} |{{align|left|戦後初の[[奨励会]]未経験棋士}} |- !336 |こやま なおき<br>[[小山直希]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |東京 |{{display none|とへ}}[[戸辺誠|戸辺]] |style="border-right:none;"|{{sort|19991007|}}1999年{{00}}<br>[[10月7日|10月{{0}}7日]] |style="border-left :none;"|{{sort|1007|}} |{{年数|1999|10|7}}歳 | |{{display none|10336}}2023年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |23歳{{0}}<br>{{00}}5月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2023|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !337 |もりもと さいと<br>[[森本才跳]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |兵庫 |{{display none|こはやしけん}}小林<br>健 |style="border-right:none;"|{{sort|20010531|}}2001年{{00}}<br>[[5月31日|{{0}}5月31日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0531|}} |{{年数|2001|5|31}}歳 | |{{display none|10337}}2023年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |21歳{{0}}<br>{{0}}10月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2023|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !338 |ませぎ かんた<br>[[柵木幹太]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |愛知 |{{display none|ますたゆう}}[[増田裕司|増田<br>裕]] |style="border-right:none;"|{{sort|19980218|}}1998年{{00}}<br>[[2月18日|{{0}}2月18日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0218|}} |{{年数|1998|2|18}}歳 | |{{display none|10332}}2023年{{00}}<br>{{0}}4月{{0}}1日 |25歳{{0}}<br>{{00}}1月 |{{small|三段リーグ}}<br/>次点2回 |{{年数|2023|4|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !339 |みやじま けんた<br>[[宮嶋健太]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |岐阜 |{{display none|おおのや}}[[大野八一雄|大野<br>八]] |style="border-right:none;"|{{sort|19990813|}}1999年{{00}}<br>[[8月13日|{{0}}8月13日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0813|}} |{{年数|1999|8|13}}歳 | |{{display none|1033}}2023年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |24歳{{0}}<br>{{00}}1月 |{{small|三段リーグ}}<br/>1位 |{{年数|2023|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |- !340 |うえの ひろとし<br>[[上野裕寿]] |{{display none|4}}四段 |{{display none|4}} |兵庫 |{{display none|いのうえけい}}井上<br>慶 |style="border-right:none;"|{{sort|20030505|}}2003年{{00}}<br>[[5月5日|{{0}}5月{{0}}5日]] |style="border-left :none;"|{{sort|0505|}} |{{年数|2003|5|5}}歳 | |{{display none|1033}}2023年{{00}}<br>10月{{0}}1日 |20歳{{0}}<br>{{00}}4月 |{{small|三段リーグ}}<br/>2位 |{{年数|2023|10|1}}年 |{{small|【現役】}} |{{sort|-0|-}} |{{sort|0|-}} | |} ==棋士番号のない棋士== 棋士番号のない棋士([[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号制度]]以前に死去または退会)の一覧。なお、現在のように「四段昇段=プロ入り」ではなかった時代(三段以下のプロも存在した時代)の棋士が大半であるが、ここでは便宜上、四段昇段年を表記している。 {| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" | *[[日本将棋連盟]]発足以前の棋士も含む。 |} {| class="sortable wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;white-space:nowrap;" !よみ<br />氏名!!colspan="2"|{{align|left|段位等}}<br>{{align|right| / 現役時}}!!出身!!師匠!! colspan="3" |生年月日 /(享年)/ 没年月日!! colspan="2" |四段昇段<br>年度 / 年齢!!引退!! colspan="2" |タイトル<br>獲得/挑戦!!備考 |-style="line-height:1em; white-space:nowrap;" ! style="border-top:hidden; font-size:89%; line-height:0.75em;" |&nbsp;!! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" | !! style="border-top:hidden;" class="unsortable" | |- |あまの そうほ?<ref group="注">「そうほ」と「そうふ」の二説がある。</ref><br />[[天野宗歩]]||colspan="2"|七段(棋聖)<br /><ref group="注">関根金次郎によって棋聖の称号が贈られたが、日本将棋連盟では公認されていない。</ref>||?||(11代宗桂)<br />([[大橋柳雪|大橋柳]])<ref group="注" name="両説があり、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。">両説があり、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">1816</span>1816年||(44)||1859年{{00}}<br>[[6月13日]]||<span style="display:none">A000</span>|||||||| || |- |おの ごへい<br />[[小野五平]]||colspan="2"|[[名人 (将棋)|十二世名人]]||徳島||([[天野宗歩|天野]])→<br />(11代宗桂)<ref group="注">当初は天野の指導を仰いだがその後宗桂の元に身を寄せる。両説があり、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">18311109</span>1831年{{00}}<br>[[11月9日]]||(89)||1921年{{00}}<br>[[1月29日]]||<span style="display:none">A000</span>|||||||| || style="text-align:left" |十二世名人(推挙制) |- |さいとう まさお<br />[[斎藤雅雄]]||八段||八段?||高知||[[小野五平|小野五]]||<span style="display:none">?</span>?||?||?||<span style="display:none">A002</span>|||||||| || |- |みぞろぎ みつはる<br />[[溝呂木光治]]||追贈<br />八段||七段||東京||小野五||<span style="display:none">1891</span>1891年||(50)||1940年{{00}}<br>[[1月13日]]||<span style="display:none">A002</span>1912年||<span style="display:none">1912</span>21歳?||1940年<br />{{small|(現役死去)}}|||| ||| |- |こすげ けんのすけ<br />[[小菅剣之助]]||名誉名人<br /><ref group="注">小菅に名誉名人の称号が贈られた経緯については、記事「[[神田事件 (将棋)]]」を参照。</ref>||八段||愛知||([[伊藤宗印 (8代)|8代宗印]])<br /><ref group="注">八代伊藤宗印門下とする資料もあるが、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">18650219</span>1865年{{00}}<br>[[2月19日]]||(79)||1944年{{00}}<br>[[3月6日]]||<span style="display:none">A004</span>1884年||<span style="display:none">1900</span>19歳?||1893年|||| || style="text-align:left" |引退後<wbr/>[[実業家]]・[[国会議員]]となる |- |せきね きんじろう<br />[[関根金次郎]]||colspan="2"|[[名人 (将棋)|十三世名人]]||千葉||(8代宗印)→<br />(12代宗金)<ref group="注">元は8代伊藤宗印門下だったが、伊藤家断絶後に12代大橋宗金門下となった。</ref>||<span style="display:none">18680423</span>1868年{{00}}<br>[[4月23日]]||(77)||1946年{{00}}<br>[[3月12日]]||<span style="display:none">A006</span>1890年||<span style="display:none">2200</span>22歳?|||||| || style="text-align:left" |十三世名人(推挙制) |- |はなだ ちょうたろう<br />[[花田長太郎]]||追贈<br />九段||八段||北海道||[[関根金次郎|関根金]]||<span style="display:none">18970706</span>1897年{{00}}<br>[[7月6日]]||(50)||1948年{{00}}<br>[[2月28日]]||<span style="display:none">A008</span>||||1948年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |こばやし とうはくさい<br />[[小林東伯斎]]||colspan="2"|八段||和歌山||7代宗与<br />→(天野)||?||?||1898年|| |||||||| || |- |さかた さんきち<br />[[坂田三吉|坂田三吉<br>(阪田三吉)]]<ref group="注">生前は免状の署名、著書の名義、新聞での記載などいずれにおいても「坂田三吉」と表記されていたが、死後に作成された日本将棋連盟の系図での表記は「阪田三吉」となっている。</ref>||追贈<br />名人<br />王将||八段||大阪||([[小林東伯斎|小林東]])<br />→(小野五)<ref group="注">若い頃に小林から助言を受けており、小野から八段の免状を与えられて以降は小野門下を自称していた。日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">18700701</span>1870年{{00}}<br>[[7月1日]]||(76)||1946年{{00}}<br>[[7月23日]]||<span style="display:none">A010</span>|||||||| || |- |きみ きんじろう<br />[[木見金治郎]]||追贈<br />九段||八段||岡山||(関根金)<ref group="注">関根金次郎門下とする資料もあるが、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">18780624</span>1878年{{00}}<br>[[6月24日]]||(72)||1951年{{00}}<br>[[1月7日]]||<span style="display:none">A012</span>|||||||| || |- |いのうえ よしお<br />[[井上義雄]]||colspan="2"|八段||京都||(小林東)<ref group="注">小林東伯斎門下とする資料もあるが日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。</ref>||<span style="display:none">18660401</span>1866年||(54?)||1920年{{00}}<br>[[8月4日]]||<span style="display:none">A014</span>|||||||| || |- |おおさき くまお<br />[[大崎熊雄]]||追贈<br />九段||八段||高知||(関根金)<br />→[[井上義雄|井上義]]<ref group="注">移籍。日本将棋連盟は井上門下としている。</ref>||<span style="display:none">18840401</span>1884年||(55?)||1939年{{00}}<br>[[4月25日]]||<span style="display:none">A016</span>|||||||| || |- |みやまつ せきさぶろう<br />[[宮松関三郎]]||追贈<br />八段||七段||大阪||井上義||<span style="display:none">18860114</span>1886年{{00}}<br>[[1月14日]]||(61)||1947年{{00}}<br>[[9月26日]]||<span style="display:none">A018</span>|||||||| || |- |かわい ふさくに<br />[[川井房郷]]||七段||六段||愛知||(8代宗印?)||<span style="display:none">18530101</span>1853年||(63)||1915年{{00}}<br>[[7月14日]]||<span style="display:none">A020</span>|||||||| || |- |いしい ひでよし<br />[[石井秀吉]]||追贈<br />七段||六段||東京||[[川井房郷|川井]]||<span style="display:none">18820101</span>1882-83<br>{{0000}}年頃||(59)||1941年{{00}}<br>11月2日||<span style="display:none">A022</span>||||1941年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |かんだ たつのすけ<br />[[神田辰之助]]||追贈<br />九段||八段?||兵庫||(坂田(阪田))<br />→([[木見金治郎|木見]])<ref group="注" name="両説があり、日本将棋連盟の公式な資料では師匠が記載されていない。"/>||<span style="display:none">18930222</span>1893年{{00}}<br>[[2月22日]]||(50)||1943年{{00}}<br>[[9月6日]]||<span style="display:none">A026</span>||||||0||title="第3期名人戦 挑戦者"|1|| style="text-align:left" |タイトル戦登場:名人 1(第3期)<br/>[[神田鎮雄]](子) |- |どい いちたろう<br />[[土居市太郎]]||名誉<br />名人||八段||愛媛||関根金||<span style="display:none">18871120</span>1887年{{00}}<br>[[11月20日]]||(85)||1973年{{00}}<br>[[2月28日]]||<span style="display:none">A028</span>1910年||<span style="display:none">2300</span>23歳?||1949年||0||title="第2期名人戦 挑戦者"|1|| style="text-align:left" |タイトル戦登場:名人 1(第2期)<br/>[[梶一郎]](義子) |- |やまもと くすお<br />[[山本樟郎]]||八段||八段?||三重||[[小菅剣之助|小菅]]||<span style="display:none">18900906</span>1890年{{00}}<br>[[9月6日]]||(74)||1965年{{00}}<br>[[2月28日]]||<span style="display:none">A030</span>1916年||<span style="display:none">2600</span>26歳?||1946年|||| || |- |こいずみ まさのぶ<br />[[小泉雅信]]<ref group="注">「小泉雅信」は改名後の氏名である。四段昇段当時の氏名は「小泉兼吉」。</ref>||colspan="2"|八段||東京||関根金||<span style="display:none">19000608</span>1900年{{00}}<br>[[6月8日]]||(64)||1964年{{00}}<br>[[9月3日]]||<span style="display:none">A032</span>1918年||<span style="display:none">1800</span>18歳?||1952年|||| || |- |ひらの しんすけ<br />[[平野信助]]||七段||六段||青森||[[大崎熊雄|大崎]]||<span style="display:none">18910519</span>1891年{{00}}<br>[[5月19日]]||(74)||1965年{{00}}<br>[[12月12日]]||<span style="display:none">A034</span>1918年||<span style="display:none">2700</span>27歳?||1947年|||| || |- |ふじうち きんご<br />[[藤内金吾]]||八段||六段||愛媛||[[坂田三吉|坂田(阪田)]]||<span style="display:none">18930320</span>1893年{{00}}<br>[[3月20日]]||(74)||1968年{{00}}<br>[[2月11日]]||<span style="display:none">A036</span>1920年||<span style="display:none">2700</span>27歳?||1951年|||| || |- |いいづか かんいちろう<br />[[飯塚勘一郎]]||八段||七段||茨城||大崎||<span style="display:none">18950107</span>1895年{{00}}<br>[[1月7日]]||(71)||1966年{{00}}<br>[[1月10日]]||<span style="display:none">A038</span>1921年||<span style="display:none">2600</span>26歳?||1950年|||| || |-style="background-color: #ccf;" |さいとう ぎんじろう<br />[[斎藤銀次郎]]||-||八段||東京||[[石井秀吉|石井秀]]||<span style="display:none">19041007</span>1904年{{00}}<br>[[10月7日]]||(75)||1979年{{00}}<br>[[12月15日]]||<span style="display:none">A040</span>1929年||<span style="display:none">2500</span>25歳?||1965年<ref>{{Cite journal |和書|author=日本将棋連盟調査室編 |title=近代将棋史年表 (十六) 山田道美棋聖の誕生 昭和四十一年~昭和四十二年 |journal=将棋世界 |volume=46 |issue=3 |date=1982年3月 |publisher=日本将棋連盟 |page=60}}</ref><br />{{small|(1966年退会)}}|||| || |- |すずき さだかず<br />[[鈴木禎一]]||colspan="2"|五段||東京||大崎||<span style="display:none">18991016</span>1899年{{00}}<br>[[10月16日]]||(55)||1955年{{00}}<br>[[1月7日]]||<span style="display:none">A042</span>1930年<br/>{{align|right|頃}}||<span style="display:none">3100</span>31歳?||1954年|||| || |- |たけべ わかお<br />[[建部和歌夫]]||colspan="2"|八段||東京||[[土居市太郎|土居]]||<span style="display:none">19090725</span>1909年{{00}}<br>[[7月25日]]||(65)||1974年{{00}}<br>[[9月4日]]||<span style="display:none">A044</span>1930年||<span style="display:none">2100</span>21歳?||1958年|||| || |- |うえだ さんぞう<br />[[上田三三]]||七段||五段||大阪||木見||<span style="display:none">18930125</span>1893年{{00}}<br>[[1月25日]]||(79)||1972年{{00}}<br>[[8月26日]]||<span style="display:none">A046</span>1931年||<span style="display:none">3800</span>38歳?||1947年|||| || |- |うね みよきち<br />[[畝美与吉]]||七段||六段||広島||神田辰||<span style="display:none">19001115</span>1900年{{00}}<br>[[11月15日]]||(70)||1971年{{00}}<br>[[9月7日]]||<span style="display:none">A048</span>1932年||<span style="display:none">3200</span>32歳?||1958年|||| || |- |まつだ たつお<br />[[松田辰雄]]||colspan="2"|八段||大阪||神田辰||<span style="display:none">19160401</span>1916年{{00}}<br>[[10月8日]]||(38)||1955年{{00}}<br>[[1月14日]]||<span style="display:none">A050</span>1935年||<span style="display:none">1900</span>19歳?||1955年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |おおわく たけし<br />[[大和久彪]]||追贈<br />八段||七段||千葉||石井秀||<span style="display:none">19140123</span>1914年{{00}}<br>[[1月23日]]||(42)||1956年{{00}}<br>[[8月25日]]||<span style="display:none">A052</span>1936年||<span style="display:none">2200</span>22歳?||1956年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |はしづめ としたろう<br />[[橋爪敏太郎]]||七段||六段||東京||[[宮松関三郎|宮松]]||<span style="display:none">19090317</span>1909年{{00}}<br>[[3月17日]]||(64)||1973年{{00}}<br>[[10月25日]]||<span style="display:none">A054</span>1936年||<span style="display:none">2700</span>27歳?||1959年|||| || |- |のむら よしとら<br />[[野村慶虎]]||七段||六段||高知||[[神田辰之助|神田辰]]||<span style="display:none">18991212</span>1899年{{00}}<br>[[12月12日]]||(77)||1977年{{00}}<br>[[1月10日]]||<span style="display:none">A056</span>1936年||<span style="display:none">3700</span>37歳?||1957年|||| || |- |むらかみ しんいち<br />[[村上真一]]||colspan="2"|八段||広島||木見||<span style="display:none">18970616</span>1897年{{00}}<br>[[6月16日]]||(59)||1956年{{00}}<br>[[7月2日]]||<span style="display:none">A058</span>1937年||<span style="display:none">4000</span>40歳?||1956年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |せきぐち しんご<br />[[関口慎吾]]||追贈<br />七段||六段||東京||斎藤銀||<span style="display:none">19180225</span>1918年{{00}}<br>[[2月25日]]||(26)||1945年{{00}}<br>[[2月18日]]||<span style="display:none">A059</span>1938年||<span style="display:none">2000</span>20歳?||1945年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || style="text-align:left" |[[太平洋戦争]]の<wbr/>[[ニューギニア戦線]]で<wbr/>戦病死<ref>{{Cite news|和書|title=将棋の関口慎吾杯 戦火に消えた幻の天才しのぶ おいに橋渡し 大会に刻まれた名|newspaper=[[北海道新聞]]|edition=全道夕刊|date=2021-3-13|author=渡辺大助|publisher=[[北海道新聞社]]|page=5|language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=渡辺大助 |title=戦火に消えた幻の天才棋士 関口慎吾六段(7) |journal=[[将棋世界]] |publisher=[[日本将棋連盟]] |issue=2019年7月号 |pages=96-99}}</ref> |-style="background-color: #ccf;" |はせがわ せいじろう<br />[[長谷川清二郎]]||-||七段||千葉||[[石井秀吉|石井秀]]||<span style="display:none">19180401</span>1918年||?||没年不詳||<span style="display:none">A060</span>1938年||<span style="display:none">2000</span>20歳?||1948年休場<br />{{small|(のち退会)}}|||| ||style="text-align:left" |1977年12月時点で故人{{Efn2|『[[近代将棋]]』1977年12月号192ページに掲載されている町田進のエッセイ<ref name="町田進">{{Cite journal|和書|author=町田進 |title=続 将棋万華鏡 井野金蔵氏の巻 一 |journal=[[近代将棋]] |volume=28 |issue=12号(通巻333号)|pages=190-192|date=1977年12月}}([https://dl.ndl.go.jp/pid/6047044/1/99 国立国会図書館デジタルコレクション]、デジタル化資料送信サービス限定公開)</ref>に「''長谷川七段はもうこの世にはいない。'' {{small|(中略)}} ''ごめい福を祈る。''」{{R|町田進}}とある。}} |- |かねたか せいきち<br />[[金高清吉]]||追贈<br />八段||七段||千葉||[[木村義雄 (棋士)|木村雄]]||<span style="display:none">19190309</span>1919年{{00}}<br>[[3月9日]]||(40)||1960年{{00}}<br>[[2月16日]]||<span style="display:none">A061</span>1941年||<span style="display:none">2200</span>22歳?||1960年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |-style="background-color: #ccf;" |まみや じゅんいち<br />[[間宮純一]]||-||六段||静岡||[[溝呂木光治|溝呂木]]||<span style="display:none">19080825</span>1908年{{00}}<br>[[8月25日]]||(73)||1981年{{00}}<br>[[11月19日]]||<span style="display:none">A062</span>1941年||<span style="display:none">3300</span>33歳||1957年<ref name="将棋世界198109">{{Cite journal |和書|author=日本将棋連盟調査室編 |title=近代将棋史年表 (十一) 大山、三冠を奪還 昭和三十三年~三十五年 |journal=将棋世界 |volume=45 |issue=9 |date=1981年9月 |publisher=日本将棋連盟 |page=61}}</ref><br />{{small|(1959年退会)}}|||| || |- |ふじかわ よしお<br />[[藤川義夫]]||追贈<br />八段||七段||熊本||大崎||<span style="display:none">19081002</span>1908年{{00}}<br>[[10月2日]]||(56)||1965年{{00}}<br>[[3月13日]]||<span style="display:none">A064</span>1941年||<span style="display:none">3300</span>33歳?||1965年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |のぐち ただお<br />[[野口忠雄]]||-||四段||上海<ref name="将棋世界198012">{{Cite journal|和書|author=日本将棋連盟調査室|title=近代将棋史年表(四) 戦火受難 昭和十五年~同二十年 |journal=将棋世界 |publisher=日本将棋連盟 |volume=44 |issue=12 |date=1980年12月 |page=107}}([https://dl.ndl.go.jp/pid/6074250/1/54 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><br />九州<ref name="加藤久弥">{{Cite news|和書|title=歴史スポット 戦前編45 太平洋戦争と将棋界 |author=加藤久弥 |newspaper=週刊将棋 |date=1989-5-24 |publisher=日本将棋連盟 |page=17}}</ref>||神田辰||<span style="display:none">19140000</span>1914年?<br />{{Refnest|group="注"|本間爽悦の回想<ref name="本間1963">{{Cite journal|和書|title=随筆 十階の頃 |author=本間爽悦 |journal=[[近代将棋]] |volume=14 |issue=10号(通巻164号) |date=1963年10月 |page=122}}([https://dl.ndl.go.jp/pid/6046876/1/64 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>によると野口忠雄は本間(1919年生まれ)よりも4歳年上。一方、『将棋世界』の四段昇段報道{{R|将棋世界194303}}によると野口は1943年3月時点で29歳。}}||(30)<br />{{R|将棋世界198012}}||1945年{{00}}<br />5月{{R|将棋世界198012}}||<span style="display:none">A065</span>1943年<br /><ref name="将棋世界194303">{{Cite journal|和書|title=関西だより 野口忠雄氏四段へ |journal=将棋世界 |volume=7 |issue=3 |publisher=日本将棋連盟 |date=1943年3月 |page=36}}([https://dl.ndl.go.jp/pid/6073862/1/21 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>||<span style="display:none">2900</span>29歳||1945年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || style="text-align:left" | 太平洋戦争の<wbr/>[[沖縄戦]]で<wbr/>戦死{{R|将棋世界198012|加藤久弥|本間1963}} |- |きょうす ゆきお<br />[[京須行男]]||追贈<br />八段||七段||千葉||宮松||<span style="display:none">19140123</span>1914年{{00}}<br>[[1月23日]]||(46)||1960年{{00}}<br>[[5月2日]]||<span style="display:none">A066</span>1943年||<span style="display:none">2900</span>29歳?||1959年|||| || style="text-align:left" |[[森内俊之]](孫) |- |まつうら たくぞう<br />[[松浦卓造]]||colspan="2"|八段||広島||神田辰||<span style="display:none">19150122</span>1915年{{00}}<br>[[1月22日]]||(62)||1977年{{00}}<br>[[3月11日]]||<span style="display:none">A068</span>1944年||<span style="display:none">2900</span>29歳?||1977年<br />{{small|(現役死去)}}|||| || |- |やまだ みちよし<br />[[山田道美]]||追贈<br />九段||八段||愛知||[[金子金五郎|金子]]||<span style="display:none">19331211</span>1933年{{00}}<br>[[12月11日]]||(36)||1970年{{00}}<br>[[6月18日]]||<span style="display:none">A070</span>1951年||<span style="display:none">1800</span>18歳?||1970年<br />{{small|(現役死去)}}||title="棋聖2期(10-11期)"|2||title="名人戦 1回(第10期)、王将戦 1回(第15期)、棋聖戦 4回(第10-12,14期)"|6||style="text-align:left" |獲得:棋聖2期(10-11期)<br/>登場:名人 1/王将 1/棋聖 4 |-style="background-color: #ccf;" |いちかわ しん<br />[[市川伸]]||-||五段||鳥取||大山||<span style="display:none">19351008</span>1935年{{00}}<br>[[10月18日]]||-||-||<span style="display:none">A072</span>1954年||<span style="display:none">1800</span>18歳<br /><ref>{{Cite journal|和書|title=新人紹介 市川伸 |journal=[[将棋世界]] |publisher=[[日本将棋連盟]] |volume=18 |issue=11 |pages=103 |date=1954年11月}}([https://dl.ndl.go.jp/pid/6073954/1/57 国立国会図書館デジタルコレクション]、館内限定公開)「(昭和)''29年6月三段、同年8月四段(18才)''」とある。</ref>||1967年<br />{{small|(退会)}}<ref name="将棋年鑑1968-p293">{{Cite book|和書|title=将棋年鑑 昭和43年版 |chapter=43年の引退棋士 |page=293 |publisher=日本将棋連盟 |year=1968}}「''五段 市川 伸''……''昭和10年10月18日、鳥取県米子市に生れ''……''29年四段''……''42年一身上の都合により退会''」とある。</ref>|||| || |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== *[[日本将棋連盟]] *[[棋士 (将棋)]] *[[棋戦 (将棋)]] *[[名人 (将棋)]] *[[将棋の女流棋士一覧]] ==外部リンク== *[https://www.shogi.or.jp/player/ 現役棋士一覧|棋士データベース|日本将棋連盟] {{日本将棋連盟所属棋士}} {{将棋}} {{デフォルトソート:しようききしいちらん}} [[Category:将棋棋士|*いちらん]] [[Category:将棋界]] [[Category:職業別人名一覧]] [[Category:将棋関連の一覧]]
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ニコラウス・コペルニクス
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者。 晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。 コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。 コペルニクスは、1473年2月19日にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは当時十三年戦争の結果として王領プロイセンの一部になっていたが、1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。 彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik)」となる。この語はゲルマン系の「銅」を意味する語にスラブ系の接尾辞 -nik がついたもので、ポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) に由来する。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。 10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ(英語版)が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に王領プロイセンのヴァルミア司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス は王領プロイセンのフロムボルク(英語版)(ドイツ語名フラウエンブルク)のカノンとなり、姉妹バルバラはベネディクト修道院の修道女となった。他の姉妹カタリーナは市の評議委員だったバルテル・ゲルトナーと結婚した。 コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で、従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにコペルニクスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年にフェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった。 戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年ごろと推定されており、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼はギリシア語も独習しており、1509年にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。 1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な副助祭(第二ヴァチカン公会議以前の制度で行われていた品級)として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる。1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウル(en:Paul of Middelburg)がコペルニクスに意見を求めている。 1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。 しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランド国王ジグムント1世に臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。 ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年にマルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。 1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。 1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。1539年にはレティクスが自らの天文学の師であったヨハネス・シェーナーに長い手紙を送り、このなかでコペルニクスの理論の要約を載せている。この手紙の写しをレティクスはグダニスクの出版業者に持ち込み、1540年には「最初の報告」との名で出版された。この書物の中でレティクスはコペルニクスの理論の要約を広めるとともに、完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天球の回転について』草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるヨハネス・ペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダーに校正を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。 死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、シュチェチン大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。 コペルニクスの時代まで、惑星の位置を計算するのに最も普通のやり方は、1270年代にアルフォンソ10世が作らせたアルフォンソ天文表を用いるものだった。これによってそれぞれの惑星が特定の時点にどの位置にあるかということと、一日にどれだけ進むかという情報が示された。当時は古代ローマ帝国時代の西暦150年頃成立したアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスが作った天文体系『アルマゲスト』に基づいた天文計算が行われていた。アルフォンソ10世には、天文学者の仕事を見て「惑星の運動は複雑すぎる」と述べたという伝説があり、そこから当時の天文学者がそれぞれの惑星に周転円を複数用いたという神話が生まれ、天動説の複雑さの例として通俗書に書かれたが、実際にはアルフォンソ表の体系全体は「それぞれの惑星に独立した周転円は1つしかない」という考えで計算されていた。もしも惑星の周転円を2つにしたら中世の数学者には複雑すぎて計算できなかったためである。従って、コペルニクスが地動説を考えた理由として「プトレマイオスの天文学が複雑すぎると考えた」とすることはできない。 1498年にコペルニクスはヴェネツィアで印刷されたばかりのレギオモンタヌスとゲオルク・プールバッハによる『アルマゲストの要約』を手に入れた。本書は「要約」以上の著作で、バッターニーやジャービル・ブン・アフラフなどその後の発展も大いに取り入れ、時に『アルマゲスト』の誤りを正した。構成はユークリッド的に論理の流れを重視しており、『アルマゲスト』の体系をより簡潔かつ明瞭に紹介していた。コペルニクスはこの本で、プトレマイオス天文学の理解を深めた。 また、ラテン語世界に『アルマゲスト』が入ってほどない13世紀前半、イブン・ルシュドやアル・ビトゥルージのプトレマイオス批判とその代替案が知られることになった。彼らはプトレマイオスの惑星軌道モデルが、アリストテレスの「天空は完璧な円を描いて動き続ける」という原則から相当ずれており、「今の天文学は、計算には合うが、存在するものには合わない」と批判し、物理的な原則に合致する天文学の必要を訴え、同心球体説を工夫した。コペルニクスがクラクフ、ボローニャ、パドゥアで学んだころ、イブン・ルシュドの議論への関心は高まっており、例えばアルベルト・ブルゼフスキ(クラクフ)、アレッサンドロ・アキリーニ(ボローニャ)、Agostino Nifo(パドヴァ)といった論者らイブン・ルシュドを論じ、パドヴァでは同心球体説が研究されていた。のちにコペルニクスも『天球の回転について』でこの二人の議論を引用することになる。 古代メソポタミアにおいて既に四季の長さが等しくないことは知られていた。1年は4等分されるのではなく、冬の部分の方が短いのだ。これは太陽が冬は軌道上を速く動いているか、太陽の円軌道の中心が地球からずれていて、太陽が冬の部分では速く動いて見えるかのどちらかだった。ヒッパルコスは太陽の円軌道を地球からずれた場所に置いて、この見かけの非一様さを解決し、プトレマイオスもそれを継承した。 しかし、惑星の運動は太陽のように簡単には解決できなかった。たとえば火星の運動はずっと複雑で、火星は平均より速く動くこともあれば、遅く動くこともあった。そして通常は恒星の間を東に進む火星の動きは、およそ2年に一度遅くなり、止まって、数か月にわたって逆行してからまた東向きに進みはじめるのだった。この逆行現象を説明するためにプトレマイオスは火星を反時計回りで回る2つの円の組み合わせとした。一つは地球のまわりを回る大きな円で、その円の上を小さな円が回ることによって、逆行を説明した。しかし火星の観測結果を説明するにはさらに、大きい方の円の中心を地球から外し、さらに別の1点(エカント)を設定し、火星の大きな円はエカントから見て「一様な角度で動く(角速度一定)」ことが必要だった。プトレマイオスはこの単純な仕組みで、惑星の変化する速さと逆行の様々な長さにとても近い予測が出せることを発見した。しかしプトレマイオス天文学を受け継いだ中世アラビアには、エカントは一様な円運動の原則からはずれたごまかしと考えるものもいた。特に「マラーガ学派」とも称される一群の天文学者らは、エカントを避けて小周転円の導入で等速円運動の原則を維持しながら、プトレマイオスの理論と同じ予言を再現してみせた。特にイブン・シャーティルとコペルニクスの理論の類似は著しく、コペルニクスが彼らの研究に気が付いていた可能性が指摘される。 コペルニクスはプトレマイオスのモデルをアリストテレスの原則に合うように修正しなければならないと考え、ボローニャ大学での法学の勉強のかたわら、ひまさえあれば『アルマゲストの要約』を読んで惑星モデルについての理解を深めていった。コペルニクスは1504年に火星を観測し、「火星は表より2度進んでおり、土星は1度と2分の1遅れている」と書き残している。 コペルニクスに転機が訪れたのは1508 - 1510年の間と考えられている。この間の経緯は、史料には現れない点が多く、以下に述べるのは科学史家スワードローによる推測である。 スワードローによると、コペルニクスが『要約』で、周転円(逆行を説明するための小さな円)と従円(地球を回る大きな惑星の円軌道)が入れ替え可能であることを知ったことは決定的に重要だった。プトレマイオスは「地球から見える惑星の方向(視線)」を計算するために、2つの円(従円〈導円〉とその上を動く周転円)を用いたが、この円は入れ替えが可能だった。プトレマイオス『アルマゲスト』はこの入れ替えの可能性について混乱した記述をしており、それを正して明快な説明を与えたのは、クシュチー(en:Ali Qushji)やレギオモンタヌス『要約』であった。 『アルマゲスト』では、外惑星(火星、木星、土星)の周転円(小さな円)の回転は、全て太陽の平均的な運動と同じだった。そこで、上記の従円と周転円を入れ替えると、それらと太陽を一つにまとめることができる。こうして、地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを外惑星が回る、後のティコ・ブラーエのものに似たモデルが得られる。コペルニクスは地球のまわりを回る太陽の軌道の半径を25と置き、惑星の円の大きさを計算して、火星の円の半径は38、木星は130、土星は231とした。これは現在の地球-太陽間を1天文単位としたときの外惑星の距離と大変近い値である。プトレマイオスの体系では惑星の軌道の大きさは伸縮自在であったが、コペルニクスは惑星が回る円の大きさを決めることができたのである。 コペルニクスは、次に内惑星(金星、水星)に目を向ける。プトレマイオスの理論では、内惑星の理論の太陽の運行を反映する部分は、単純な等速円運動ではなかったが、コペルニクスはこれを等速円運動の組み合わせで書き直していて、平均的な運動を担う円を分離していた。ここに外惑星と同様の変換をすると、今度は平均的な太陽が中心の理論が得られた。 ここでコペルニクスは選択を迫られた。外惑星の理論の変形で得られた、ティコの理論に似た体系を選ぶか、あるいは内惑星の理論の変形で得られた太陽中心の理論を選ぶかである。もし、前者を選ぶと、どうしても火星の軌道と太陽の軌道が交錯する。コペルニクスはその当時の通説に従って、惑星は透明な殻(天球)に貼りついていると考えていた。コペルニクスには天球が何らかの物質的存在である限り、物体が相互に浸透して自由に回転しうるとはとても考えられなかったのであろう。そこでこれを避けるために地球も太陽のまわりを回るとした。 コペルニクスは惑星の軌道の大きさが公転周期の順序にも当てはまることに気がついた。もっとも大きな円を描く土星は30年で1周し、最も内側にある水星は3か月しかかからなかった。太陽は365日で地球のまわりを回る。これは火星の687日と金星の225日の間である。そこでコペルニクスは地球の円軌道を火星と金星の間に置いてみた。こうしてすべての惑星が太陽のまわりを回ることになった。コペルニクスは後に『天球の回転について』で「他のどんな配置にも、軌道の大きさと周期の間にこれほどの調和に満ちた確かな関係を見いだすことはない」と、この発見について書いている。 コペルニクスにはプトレマイオスが明確にできなかった「火星、木星、土星が逆行するときはなぜいつも惑星が太陽のちょうど反対側にあるのか」が説明できるようになった。これらの惑星は地球に最も近いときに地球に追い越される。その時の太陽は惑星の反対側にある。1510年頃コペルニクスは惑星運動の新しい体系を小冊子にまとめた。コペルニクスはその小冊子の写しをクラクフにいた友人の数学者たちに送った。その写しは『コメンタリオルス(小さな注釈)』と呼ばれた。その中でコペルニクスは7つの原理を述べている。 コペルニクスは太陽中心の体系によって、不可解だった逆行運動をそれまでの考えよりはるかに自然に論理的に説明できたうえ、なぜ土星と木星と火星で逆行の大きさが異なるかも説明できた。コペルニクスのもう一つの論拠は、惑星の距離と回転周期の順序が規則的になるということだった。「こうして初めて私たちは軌道の大きさと惑星の公転周期の間に調和に満ちた確かな関係を見いだす」とコペルニクスは書いている。そのほかにコペルニクスは月の問題を改良した。プトレマイオスのモデルでは月が見える角度を正確に出すために、月と地球の距離が大幅に変わるようになっていた。プトレマイオスのモデルでは月と地球の距離はおよそ地球半径の60倍だったが、ひと月の間に月の距離は地球半径の34倍でしかなくなる。もしこれが本当なら月は2倍近くも大きさが変化するように見えるはずである。コペルニクスはずっと前にイブン・シャーティルが行ったのと同じ方法を用いて月の軌道を修正した。 1515年にレギオモンタヌスによって『アルマゲスト』の全文の翻訳が印刷本として出版された。コペルニクスはそれまで研究していた『要約』と全文の違いを知った。『アルマゲスト』には太陽、月、惑星の位置を計算するための表がたくさん載っていた。また1000以上の恒星の位置が記された恒星目録があった。コペルニクスは16世紀に自分の表が役立つようにするには、惑星の運動をすべて記述するために必要な数字を一つ一つ再確認しなければならなくなった。コペルニクスは合わせて34個の円を組み合わせて惑星の運動モデルを作り、調整すれば高い精度で観測と合うモデルを手にしているという自信があった。それにはそれぞれの円の中心の位置、半径、回転の速さなど、100を越えるパラメーターの明示が必要だった。コペルニクスは実際に観測し、計算をして、モデルをチェックすることにそれから20年以上の余暇を費やすことになった。コペルニクスは幾何学的な条件が適しているときはいつも惑星の位置を記録し、格別に注意して食を観測した。1529年になって、ようやくプトレマイオス天文学を修正するための『天球の回転について』を書き始めた。1543年のコペルニクスの死の間際にようやくその本は印刷出版された。 コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを突き止めたことである。これは、当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された。この理論はほぼ半世紀後、1560年に彼とは別に独自にこのことに気付いたイギリス国王財政顧問のトーマス・グレシャムによって知られるようになり、「グレシャムの法則」の名で知られるようになった。 作家のアーサー・ケストラーは「『天球の回転について』は、本として、どんな時代においてももっとも売れ行きの悪い、ワースト・セラーだった。」と「読者の付かない本」と評している。しかし、天文学者で科学史家のギンガリッチはこの説に疑問を持ち、現存する初版と第2版601冊を調査し、当時の著名な天文学者エラスムス・ラインホルト所有の本に詳細な書き込みがあって専門的な検討がなされていたことや、ティコ・ブラーエや、ケプラーの師であるミハエル・メストリンが詳細な書き込みをしていることなどを確認した。ギンガリッチはコペルニクスの本は多くの専門家によって読まれ、検討されていたことを証明した。またガリレオが所有していた本は、宗教裁判の後教会から要求された部分の文章を修正していて、出版後の『天球の回転について』がさまざまな人物に買われ、書き込みを通して知的ネットワークができて読み継がれていたことを証明した。 16世紀には観測手段の限界から、古代に知られていなかった新しい観測結果があったわけではないため、直ちに大きく天文学を変革するといったことはなかった。コペルニクスの時代の観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。1551年にはエラスムス・ラインホルトが『天球の回転について』に基づいて『プロイセン表』を作成したが、これも従来の星表の精度を改善するものではなかった。コペルニクスの地動説の普及に努めたトマス・ディッグズは恒星の天球を取り除いたものの、残りの惑星についてはいまだ天球上に存在するものであるとした。この状況が大きく変わるのは、ティコ・ブラーエが観測精度を飛躍的に向上させた長期の観測データを得ることに成功し、そのデータを引き継いだヨハネス・ケプラーが1619年に惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発見し、これによって1627年にはケプラーが地動説に基づいて『ルドルフ表』を完成させ、予測精度を飛躍的に向上させてからである。これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そしてアイザック・ニュートンが1687年に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)の中で、ケプラーの法則が成り立つための万有引力の法則を発表し、これによって古代の力学は完全に否定され、惑星の運動と太陽系の構造を高精度に説明できる理論として地動説が完成した。 コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、コペルニクスの「実体論的方法」は、宇宙の真の構造を求める研究の始まりとなり、プトレマイオスの理論の矛盾を明らかにし、最終的にはコペルニクスの説は古代から中世の世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。 上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁は特に反対意見を表明しなかった。コペルニクスも存命中にこの考えを公表したが、この考えがキリスト教に反するものだとは捉えていなかった。積極的に考えを広めてはいなかったものの、すでに1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていること、そしてコペルニクス自身がローマ教皇パウルス3世へと『天球の回転について』を献呈していることからも、ローマ教皇庁が当初反対の立場ではなかったことは明らかである。またプロテスタント、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派も、明確にこの考えに関して反対してはいなかった。しかしマルティン・ルター本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も初期のものである。しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持する者は多かった。『天球の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわった者の多くをルター派が占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において、『天球の回転について』は、おおむね受け入れられていたと言える。 しかし、1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、『天球の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。「ヨシュア記」か「士師記」にイスラエル人が戦っている間神は太陽を天空に留めた=ふつうは動いている、という記事がある。)ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。 アメリカ合衆国の科学関連のゴンゾー・ジャーナリズム雑誌『オムニ』の創設者の一人であるアマチュア科学研究者ディック・テレシによると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている。 前述のようにコペルニクスの地動説は、プトレマイオスの理論より高精度になったわけでもなく、計算に必要な円の数を減らしたのでもなかった。コペルニクスは天の一様な円運動のためにエカントを取り除いたが、計算精度を保つためにはまだ多くの円を必要としていた。作家のアーサー・ケストラーは「コペルニクスは実質的に48個の周転円を使用している(略)コペルニクスは周転円の数を減らさなかったばかりか、増やすことさえしている」と述べている。 プトレマイオスは地球の運動の可能性について、『アルマゲスト』第I巻7で検討している。まず場所を変える運動はないとした後、「これらの議論に反対しない人々の中にも、天が静止して地球が、または天と地球の両方が、ほぼ24時間周期で回転すると考えても差し支えないとする人々がいる」とし、「その仮説は天の現象の説明に支障を来さない」としながらも、「地上と大気で起こることを考えると、滑稽である」とする。すなわち、地球が動くとすると「24時間で地球の円を突破する運動は非常に猛烈である」ので、その影響が感じられないはずはなく、「地球上に支えられない物体は、常に地球と反対の運動をするように見えるだろう」「雲や投げられた物体、飛ぶ物体は東へ行くことはないだろう。何となれば地球はこの方向では常に他を追い越すから」、すなわち天体の日周運動を説明するほどの猛烈な速度で地球が自転するなら、上空のものは全て後方に取り残されてしまうはずだと述べた。つまりプトレマイオスも、地球の自転による日周運動の説明は検討し、地上の物体への影響から「滑稽」であるとしている。コペルニクスの説が天体のみかけの運動の説明を根拠とするなら、それはプトレマイオスによって「滑稽である」と指摘されているのである。 プトレマイオス以降も、地球の運動の可能性をとしてとりあげ、(論理的な厳密さのために)一応の検討をすることは少なからずあった。例えばあるアリストテレス『天体論』への注釈では、猛烈な地球の回転は地球や地上のものを破壊するであろうとしている。 コペルニクスは後者の議論に対して「もし誰かが地球は動くと考えるならば、その運動は自然的なものであって、無理なものではないと言うだろう。自然にかなったものは無理にされるものとは異なった作用を生じる。力あるいは無理が働いている物体は必ず破壊され、長く続けることはできないが、自然の働きを受けるものは、ふさわしい仕方で受けるのであり、より位置に留まることができる。そこでプトレマイオスは人工から生するものとは非常に異なっている自然の働きで生ずる回転によって、地球や地上のものが破壊されることを心配する必要はなかった。」と反論した。ただし、この反論も慣性の法則に基づいた近代的な議論ではなく、「自然な運動と強制的な運動の区別」に依存しており、プトレマイオスらと同様、アリストテレス的な自然学の枠内にとどまっている。また、自らの運動論を実験などで合理化したわけではない。 このようなコペルニクスの反論は、現代の科学史家にはまったく神秘的に見えた。科学史家の森島恒雄は「もしもコペルニクスが近代的な経験主義者であったならば、彼はおそらく彼自身の説より、プトレマイオス説を支持しただろう。なぜなら経験的であり、実際的である点においては、プトレマイオス説の方が却って優れていたからである」と言っている。「科学とは経験を重んじ、これを出てはならないものだ」とのみ考え、「誤謬・迷信と闘うには事実を重んじさえすれば良い」と考える限り、プトレマイオスの方が科学的だとしなければならなくなる。プトレマイオスが地動説を否定したのは慣性の法則を知らなかったからであって、その限りではまったく科学的であるとしなければならない。コペルニクスが褒められるのは運良く現代の学説と同じものを主張した限りであって、プトレマイオスが悪く言われるのは、事実を重んじたために現代の学説と一致しなかっただけだとしなければならない。本当はプトレマイオスの方が科学的だという評価が成り立つとする科学史家もいた。 それでは、プトレマイオスは当時としても充分科学的であったのであろうか。コペルニクスはこう反論している「プトレマイオスは回転によって地球や地上のものが破壊されることを心配した。しかし、天よりもずっと運動が速く、地球よりずっと大きい宇宙に関して、なぜ彼は同じことを心配しないのであろうか」。プトレマイオスは地上の力学によって地球の運動を否定した。プトレマイオスは地球の運動を他の天体の運動と分離したのである。そのことをコペルニクスは批判している。こうなると「当時の目から見るとどちらも難点がつきまとっていた」ということになり、「実証的な科学者」はどちらにも与しない態度を取るべきであったということにもなりかねない。判決は「慣性の法則の発見」を待つべきだったということになる。ところが、地動説はその後教会の圧迫を受けながらも支持者を増やしていった。「どういう理由で賛成者が増えたのか不思議なこと」と書く科学史家も現れた。 科学史家の板倉聖宣はアリストテレスの強制的運動と自然的運動は摩擦と慣性の客観的矛盾を表現しているとした。地上の運動の非慣性的運動も天体の慣性的運動もどちらも経験的事実として認めるしかない。慣性を発見できない限り、この2つの運動は現実に存在する矛盾として認めるしかない。プトレマイオスが地球の運動を否定したのは、それが地上の強制的運動に従うはずだという常識的見方をしたところにあった。しかし、コペルニクスは地球もその仲間であるはずの太陽や月や惑星が自然的運動をしているのだから、なぜ地球だけが自然的運動をしないのか、なぜ自然的運動は地球上の何物も攪乱するものではないとしてはいけないのか? と反論した。部分的な真理(地上の摩擦のある運動)を度外れに拡大する機械的考え方に導かれてアリストテレスやプトレマイオスは地球が静止していなければならないと考えた。板倉は「その結果、嫌でも認めなければならない天体の運動において神秘主義に陥った」とする。それに対してコペルニクスは天体運動に認められていた慣性運動を地球にも認め、地上の力学と対決させた。それが後にガリレオによる「地上の力学での慣性の発見」につながったのだと板倉は述べている。板倉は、コペルニクスがつかんだプトレマイオス説の矛盾を(1)その現象論的限界性に基づく絶えざる理論の修正と混乱。(2)根本仮説としている円運動と一様円運動を暗黙のうちに捨て、離心円、疑心などという逃げ道を考えざるを得なかったという理論内部の矛盾。(3)実体論的考察を拒否したことによって最初から持っていた矛盾。の3つとしている。 板倉はコペルニクスが矛盾を客観的に認めて、毎日の経験を元にした常識的な機械論的な考え方に反対できた理由として、彼の実体論的方法論をあげている。前述したようにコペルニクスが『アルマゲスト』の研究をした動機は「エカントを実在のものと認められなかった」ためであった。コペルニクスの目的が宇宙の真実の構造を明らかにすることにあったなら、天動説と地動説のどちらが決定的に正しいかを問題にせざるを得ない。現代の目から見ると天動説も地動説も原点の取り方の相違に過ぎないので、簡単か複雑か以外に優劣が付かないように思えるが、コペルニクスは幾何学的な作図の問題以上のものを発見している。コペルニクスは「地球がすべての回転の中心ではないことは、惑星の見かけの不等の運動および地球からの距離の変化によって証明されている。」と述べている。惑星の明るさが変化することは古代ギリシャ人の時代から知られていた。しかし天動説はもっぱら天体の運行を詳しく計算しようとして、星の方位のみに注目して周転円を積み重ねていった。ところがひとたび宇宙の構造が問題になると、「天体間の距離の問題」は極めて重要なものとなってくる。 コペルニクスは「惑星は夕方昇ってくるとき、すなわち太陽と衝にあって、地球が太陽と惑星の間にあるとき、いつも地球に最も近いのは確かである。反対に夕方沈むとき、すなわち惑星が太陽の近くにあるとき、いいかえると我々が太陽を惑星と地球の間に見るとき最も遠い。このことはそれらの回転の中心がむしろ太陽と関係している」ことや「金星と水星が太陽から一定角度以上離れることがないということを充分に証明している」と述べている。天動説でもこれらの観測事実を何とか説明していたが、コペルニクスの弟子のレティクスは「火星の明るさの変化はどんな周転円を取っても説明するのに不十分」と記した。 コペルニクスは幾何学的作図に満足できず、宇宙の真の構造を究めようとして地動説を立てて、天動説の誤っていることを明瞭にすることができた。その結果、コペルニクスの理論では惑星間の距離が観測結果によって具体的に考察され、観測によって惑星間の距離を測定することが可能となり、惑星間の距離と太陽からの順序を決めることができた。 コペルニクスの事例は「科学理論の交代が起こる原因」に示唆を与える。「理論選択の基準はその単純性にある」というマッハ主義の解釈は、プトレマイオスが既に地動説の単純性を知っていたにもかかわらず、それを否定して天動説を作ったことからあてはまらない。また、「基本理論の交代は理論外の契機によって起こる」、例えば新事実の発見とか他の理論の影響で生じるという説も当てはまらない。コペルニクスにはプトレマイオスが持っていなかった新事実など何もなかったからである。「理論は事実に合わせて変わるという実証主義」も、プトレマイオスの天動説は観測事実の説明において大いに実証的であったので当てはまらない。またトーマス・クーンの「パラダイム論」も「科学者による理論の選択は、もともと合理的な説明はできない宗教的回心のようなもの」と指摘するに留まり、理論の交代については何も説明していない。 これに対して、基本理論の交代における矛盾の重要性を科学史家の板倉聖宣は古くから具体的に明らかにしている。板倉は「新理論は旧理論の内部矛盾の検討を通して誕生する」と主張した。コペルニクスはアルマゲストの理論に首尾一貫性の欠如による矛盾が生じていることに着目し、それを乗り越える過程で地動説に到達した。そのため新理論の提唱者はしばしば古めかしい概念を引きずっている。コペルニクスもアリストテレスの運動論や一様円運動の概念を使っていた。そのため新理論と旧理論はしばしば「どっちもどっち」のように見られ、相対主義に陥ることがある。それは理論内部の矛盾に着目することによって初めて乗り越えられる。板倉は「このような矛盾の分析がこの歴史を解明する鍵であるが故に「矛盾」を真に理解し得ない科学史家はコペルニクスを評価し得なかった」と指摘した。 ドイツでナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人かドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(すなわち国籍はポーランド人)であり、クラクフの大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。 超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 "copernicium" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。 コペルニクスはポーランドでもっとも有名な偉人の一人であり、ポーランドには彼にちなむ事物が多く存在する。コペルニクスの生家はトルンの旧市街に現在も残っており、コペルニクス博物館となっている。また、彼が観測を続けたフロムボルク城内のコペルニクスの塔にも1948年に同じくコペルニクス博物館が開設されている。上記の2つはコペルニクスが実際に暮らした場所であるが、それ以外にもコペルニクスの名がつけられたものは数多い。ポーランドにおいて1965年10月29日より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。この紙幣は1996年まで発行されていた。1945年にはコペルニクスの生地であるトルンに大学が設置されたが、大学名は彼の名を取りニコラウス・コペルニクス大学とされた。2005年にワルシャワに建てられたポーランド最大の科学館は、コペルニクス科学センターと名付けられている。1972年にはコペルニクス生誕500周年を祝うため、ヘンリク・グレツキにより交響曲第2番『コペルニクス党』が作曲された。 天文学関係においても彼にちなんで名付けられたものは多い。月面の嵐の大洋の東部にある最も目立つクレーターにコペルニクスの名が与えられている。また、1972年に打ち上げられ1981年2月まで運用されたOAO3号にもコペルニクスの名が与えられていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コペルニクスは、1473年2月19日にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは当時十三年戦争の結果として王領プロイセンの一部になっていたが、1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik)」となる。この語はゲルマン系の「銅」を意味する語にスラブ系の接尾辞 -nik がついたもので、ポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) に由来する。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ(英語版)が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に王領プロイセンのヴァルミア司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス は王領プロイセンのフロムボルク(英語版)(ドイツ語名フラウエンブルク)のカノンとなり、姉妹バルバラはベネディクト修道院の修道女となった。他の姉妹カタリーナは市の評議委員だったバルテル・ゲルトナーと結婚した。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で、従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにコペルニクスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年にフェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年ごろと推定されており、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼はギリシア語も独習しており、1509年にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な副助祭(第二ヴァチカン公会議以前の制度で行われていた品級)として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる。1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウル(en:Paul of Middelburg)がコペルニクスに意見を求めている。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランド国王ジグムント1世に臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年にマルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。1539年にはレティクスが自らの天文学の師であったヨハネス・シェーナーに長い手紙を送り、このなかでコペルニクスの理論の要約を載せている。この手紙の写しをレティクスはグダニスクの出版業者に持ち込み、1540年には「最初の報告」との名で出版された。この書物の中でレティクスはコペルニクスの理論の要約を広めるとともに、完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天球の回転について』草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるヨハネス・ペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダーに校正を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、シュチェチン大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。", "title": "人物伝" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コペルニクスの時代まで、惑星の位置を計算するのに最も普通のやり方は、1270年代にアルフォンソ10世が作らせたアルフォンソ天文表を用いるものだった。これによってそれぞれの惑星が特定の時点にどの位置にあるかということと、一日にどれだけ進むかという情報が示された。当時は古代ローマ帝国時代の西暦150年頃成立したアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスが作った天文体系『アルマゲスト』に基づいた天文計算が行われていた。アルフォンソ10世には、天文学者の仕事を見て「惑星の運動は複雑すぎる」と述べたという伝説があり、そこから当時の天文学者がそれぞれの惑星に周転円を複数用いたという神話が生まれ、天動説の複雑さの例として通俗書に書かれたが、実際にはアルフォンソ表の体系全体は「それぞれの惑星に独立した周転円は1つしかない」という考えで計算されていた。もしも惑星の周転円を2つにしたら中世の数学者には複雑すぎて計算できなかったためである。従って、コペルニクスが地動説を考えた理由として「プトレマイオスの天文学が複雑すぎると考えた」とすることはできない。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1498年にコペルニクスはヴェネツィアで印刷されたばかりのレギオモンタヌスとゲオルク・プールバッハによる『アルマゲストの要約』を手に入れた。本書は「要約」以上の著作で、バッターニーやジャービル・ブン・アフラフなどその後の発展も大いに取り入れ、時に『アルマゲスト』の誤りを正した。構成はユークリッド的に論理の流れを重視しており、『アルマゲスト』の体系をより簡潔かつ明瞭に紹介していた。コペルニクスはこの本で、プトレマイオス天文学の理解を深めた。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、ラテン語世界に『アルマゲスト』が入ってほどない13世紀前半、イブン・ルシュドやアル・ビトゥルージのプトレマイオス批判とその代替案が知られることになった。彼らはプトレマイオスの惑星軌道モデルが、アリストテレスの「天空は完璧な円を描いて動き続ける」という原則から相当ずれており、「今の天文学は、計算には合うが、存在するものには合わない」と批判し、物理的な原則に合致する天文学の必要を訴え、同心球体説を工夫した。コペルニクスがクラクフ、ボローニャ、パドゥアで学んだころ、イブン・ルシュドの議論への関心は高まっており、例えばアルベルト・ブルゼフスキ(クラクフ)、アレッサンドロ・アキリーニ(ボローニャ)、Agostino Nifo(パドヴァ)といった論者らイブン・ルシュドを論じ、パドヴァでは同心球体説が研究されていた。のちにコペルニクスも『天球の回転について』でこの二人の議論を引用することになる。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "古代メソポタミアにおいて既に四季の長さが等しくないことは知られていた。1年は4等分されるのではなく、冬の部分の方が短いのだ。これは太陽が冬は軌道上を速く動いているか、太陽の円軌道の中心が地球からずれていて、太陽が冬の部分では速く動いて見えるかのどちらかだった。ヒッパルコスは太陽の円軌道を地球からずれた場所に置いて、この見かけの非一様さを解決し、プトレマイオスもそれを継承した。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、惑星の運動は太陽のように簡単には解決できなかった。たとえば火星の運動はずっと複雑で、火星は平均より速く動くこともあれば、遅く動くこともあった。そして通常は恒星の間を東に進む火星の動きは、およそ2年に一度遅くなり、止まって、数か月にわたって逆行してからまた東向きに進みはじめるのだった。この逆行現象を説明するためにプトレマイオスは火星を反時計回りで回る2つの円の組み合わせとした。一つは地球のまわりを回る大きな円で、その円の上を小さな円が回ることによって、逆行を説明した。しかし火星の観測結果を説明するにはさらに、大きい方の円の中心を地球から外し、さらに別の1点(エカント)を設定し、火星の大きな円はエカントから見て「一様な角度で動く(角速度一定)」ことが必要だった。プトレマイオスはこの単純な仕組みで、惑星の変化する速さと逆行の様々な長さにとても近い予測が出せることを発見した。しかしプトレマイオス天文学を受け継いだ中世アラビアには、エカントは一様な円運動の原則からはずれたごまかしと考えるものもいた。特に「マラーガ学派」とも称される一群の天文学者らは、エカントを避けて小周転円の導入で等速円運動の原則を維持しながら、プトレマイオスの理論と同じ予言を再現してみせた。特にイブン・シャーティルとコペルニクスの理論の類似は著しく、コペルニクスが彼らの研究に気が付いていた可能性が指摘される。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "コペルニクスはプトレマイオスのモデルをアリストテレスの原則に合うように修正しなければならないと考え、ボローニャ大学での法学の勉強のかたわら、ひまさえあれば『アルマゲストの要約』を読んで惑星モデルについての理解を深めていった。コペルニクスは1504年に火星を観測し、「火星は表より2度進んでおり、土星は1度と2分の1遅れている」と書き残している。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コペルニクスに転機が訪れたのは1508 - 1510年の間と考えられている。この間の経緯は、史料には現れない点が多く、以下に述べるのは科学史家スワードローによる推測である。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "スワードローによると、コペルニクスが『要約』で、周転円(逆行を説明するための小さな円)と従円(地球を回る大きな惑星の円軌道)が入れ替え可能であることを知ったことは決定的に重要だった。プトレマイオスは「地球から見える惑星の方向(視線)」を計算するために、2つの円(従円〈導円〉とその上を動く周転円)を用いたが、この円は入れ替えが可能だった。プトレマイオス『アルマゲスト』はこの入れ替えの可能性について混乱した記述をしており、それを正して明快な説明を与えたのは、クシュチー(en:Ali Qushji)やレギオモンタヌス『要約』であった。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "『アルマゲスト』では、外惑星(火星、木星、土星)の周転円(小さな円)の回転は、全て太陽の平均的な運動と同じだった。そこで、上記の従円と周転円を入れ替えると、それらと太陽を一つにまとめることができる。こうして、地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを外惑星が回る、後のティコ・ブラーエのものに似たモデルが得られる。コペルニクスは地球のまわりを回る太陽の軌道の半径を25と置き、惑星の円の大きさを計算して、火星の円の半径は38、木星は130、土星は231とした。これは現在の地球-太陽間を1天文単位としたときの外惑星の距離と大変近い値である。プトレマイオスの体系では惑星の軌道の大きさは伸縮自在であったが、コペルニクスは惑星が回る円の大きさを決めることができたのである。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "コペルニクスは、次に内惑星(金星、水星)に目を向ける。プトレマイオスの理論では、内惑星の理論の太陽の運行を反映する部分は、単純な等速円運動ではなかったが、コペルニクスはこれを等速円運動の組み合わせで書き直していて、平均的な運動を担う円を分離していた。ここに外惑星と同様の変換をすると、今度は平均的な太陽が中心の理論が得られた。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここでコペルニクスは選択を迫られた。外惑星の理論の変形で得られた、ティコの理論に似た体系を選ぶか、あるいは内惑星の理論の変形で得られた太陽中心の理論を選ぶかである。もし、前者を選ぶと、どうしても火星の軌道と太陽の軌道が交錯する。コペルニクスはその当時の通説に従って、惑星は透明な殻(天球)に貼りついていると考えていた。コペルニクスには天球が何らかの物質的存在である限り、物体が相互に浸透して自由に回転しうるとはとても考えられなかったのであろう。そこでこれを避けるために地球も太陽のまわりを回るとした。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "コペルニクスは惑星の軌道の大きさが公転周期の順序にも当てはまることに気がついた。もっとも大きな円を描く土星は30年で1周し、最も内側にある水星は3か月しかかからなかった。太陽は365日で地球のまわりを回る。これは火星の687日と金星の225日の間である。そこでコペルニクスは地球の円軌道を火星と金星の間に置いてみた。こうしてすべての惑星が太陽のまわりを回ることになった。コペルニクスは後に『天球の回転について』で「他のどんな配置にも、軌道の大きさと周期の間にこれほどの調和に満ちた確かな関係を見いだすことはない」と、この発見について書いている。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "コペルニクスにはプトレマイオスが明確にできなかった「火星、木星、土星が逆行するときはなぜいつも惑星が太陽のちょうど反対側にあるのか」が説明できるようになった。これらの惑星は地球に最も近いときに地球に追い越される。その時の太陽は惑星の反対側にある。1510年頃コペルニクスは惑星運動の新しい体系を小冊子にまとめた。コペルニクスはその小冊子の写しをクラクフにいた友人の数学者たちに送った。その写しは『コメンタリオルス(小さな注釈)』と呼ばれた。その中でコペルニクスは7つの原理を述べている。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "コペルニクスは太陽中心の体系によって、不可解だった逆行運動をそれまでの考えよりはるかに自然に論理的に説明できたうえ、なぜ土星と木星と火星で逆行の大きさが異なるかも説明できた。コペルニクスのもう一つの論拠は、惑星の距離と回転周期の順序が規則的になるということだった。「こうして初めて私たちは軌道の大きさと惑星の公転周期の間に調和に満ちた確かな関係を見いだす」とコペルニクスは書いている。そのほかにコペルニクスは月の問題を改良した。プトレマイオスのモデルでは月が見える角度を正確に出すために、月と地球の距離が大幅に変わるようになっていた。プトレマイオスのモデルでは月と地球の距離はおよそ地球半径の60倍だったが、ひと月の間に月の距離は地球半径の34倍でしかなくなる。もしこれが本当なら月は2倍近くも大きさが変化するように見えるはずである。コペルニクスはずっと前にイブン・シャーティルが行ったのと同じ方法を用いて月の軌道を修正した。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1515年にレギオモンタヌスによって『アルマゲスト』の全文の翻訳が印刷本として出版された。コペルニクスはそれまで研究していた『要約』と全文の違いを知った。『アルマゲスト』には太陽、月、惑星の位置を計算するための表がたくさん載っていた。また1000以上の恒星の位置が記された恒星目録があった。コペルニクスは16世紀に自分の表が役立つようにするには、惑星の運動をすべて記述するために必要な数字を一つ一つ再確認しなければならなくなった。コペルニクスは合わせて34個の円を組み合わせて惑星の運動モデルを作り、調整すれば高い精度で観測と合うモデルを手にしているという自信があった。それにはそれぞれの円の中心の位置、半径、回転の速さなど、100を越えるパラメーターの明示が必要だった。コペルニクスは実際に観測し、計算をして、モデルをチェックすることにそれから20年以上の余暇を費やすことになった。コペルニクスは幾何学的な条件が適しているときはいつも惑星の位置を記録し、格別に注意して食を観測した。1529年になって、ようやくプトレマイオス天文学を修正するための『天球の回転について』を書き始めた。1543年のコペルニクスの死の間際にようやくその本は印刷出版された。", "title": "コペルニクス地動説の成立過程" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを突き止めたことである。これは、当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された。この理論はほぼ半世紀後、1560年に彼とは別に独自にこのことに気付いたイギリス国王財政顧問のトーマス・グレシャムによって知られるようになり、「グレシャムの法則」の名で知られるようになった。", "title": "グレシャムの法則" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "作家のアーサー・ケストラーは「『天球の回転について』は、本として、どんな時代においてももっとも売れ行きの悪い、ワースト・セラーだった。」と「読者の付かない本」と評している。しかし、天文学者で科学史家のギンガリッチはこの説に疑問を持ち、現存する初版と第2版601冊を調査し、当時の著名な天文学者エラスムス・ラインホルト所有の本に詳細な書き込みがあって専門的な検討がなされていたことや、ティコ・ブラーエや、ケプラーの師であるミハエル・メストリンが詳細な書き込みをしていることなどを確認した。ギンガリッチはコペルニクスの本は多くの専門家によって読まれ、検討されていたことを証明した。またガリレオが所有していた本は、宗教裁判の後教会から要求された部分の文章を修正していて、出版後の『天球の回転について』がさまざまな人物に買われ、書き込みを通して知的ネットワークができて読み継がれていたことを証明した。", "title": "死後の影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "16世紀には観測手段の限界から、古代に知られていなかった新しい観測結果があったわけではないため、直ちに大きく天文学を変革するといったことはなかった。コペルニクスの時代の観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。1551年にはエラスムス・ラインホルトが『天球の回転について』に基づいて『プロイセン表』を作成したが、これも従来の星表の精度を改善するものではなかった。コペルニクスの地動説の普及に努めたトマス・ディッグズは恒星の天球を取り除いたものの、残りの惑星についてはいまだ天球上に存在するものであるとした。この状況が大きく変わるのは、ティコ・ブラーエが観測精度を飛躍的に向上させた長期の観測データを得ることに成功し、そのデータを引き継いだヨハネス・ケプラーが1619年に惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発見し、これによって1627年にはケプラーが地動説に基づいて『ルドルフ表』を完成させ、予測精度を飛躍的に向上させてからである。これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そしてアイザック・ニュートンが1687年に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)の中で、ケプラーの法則が成り立つための万有引力の法則を発表し、これによって古代の力学は完全に否定され、惑星の運動と太陽系の構造を高精度に説明できる理論として地動説が完成した。", "title": "死後の影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、コペルニクスの「実体論的方法」は、宇宙の真の構造を求める研究の始まりとなり、プトレマイオスの理論の矛盾を明らかにし、最終的にはコペルニクスの説は古代から中世の世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。", "title": "死後の影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁は特に反対意見を表明しなかった。コペルニクスも存命中にこの考えを公表したが、この考えがキリスト教に反するものだとは捉えていなかった。積極的に考えを広めてはいなかったものの、すでに1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていること、そしてコペルニクス自身がローマ教皇パウルス3世へと『天球の回転について』を献呈していることからも、ローマ教皇庁が当初反対の立場ではなかったことは明らかである。またプロテスタント、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派も、明確にこの考えに関して反対してはいなかった。しかしマルティン・ルター本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も初期のものである。しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持する者は多かった。『天球の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわった者の多くをルター派が占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において、『天球の回転について』は、おおむね受け入れられていたと言える。", "title": "『天球の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、『天球の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。「ヨシュア記」か「士師記」にイスラエル人が戦っている間神は太陽を天空に留めた=ふつうは動いている、という記事がある。)ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。", "title": "『天球の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の科学関連のゴンゾー・ジャーナリズム雑誌『オムニ』の創設者の一人であるアマチュア科学研究者ディック・テレシによると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている。", "title": "『天球の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "前述のようにコペルニクスの地動説は、プトレマイオスの理論より高精度になったわけでもなく、計算に必要な円の数を減らしたのでもなかった。コペルニクスは天の一様な円運動のためにエカントを取り除いたが、計算精度を保つためにはまだ多くの円を必要としていた。作家のアーサー・ケストラーは「コペルニクスは実質的に48個の周転円を使用している(略)コペルニクスは周転円の数を減らさなかったばかりか、増やすことさえしている」と述べている。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プトレマイオスは地球の運動の可能性について、『アルマゲスト』第I巻7で検討している。まず場所を変える運動はないとした後、「これらの議論に反対しない人々の中にも、天が静止して地球が、または天と地球の両方が、ほぼ24時間周期で回転すると考えても差し支えないとする人々がいる」とし、「その仮説は天の現象の説明に支障を来さない」としながらも、「地上と大気で起こることを考えると、滑稽である」とする。すなわち、地球が動くとすると「24時間で地球の円を突破する運動は非常に猛烈である」ので、その影響が感じられないはずはなく、「地球上に支えられない物体は、常に地球と反対の運動をするように見えるだろう」「雲や投げられた物体、飛ぶ物体は東へ行くことはないだろう。何となれば地球はこの方向では常に他を追い越すから」、すなわち天体の日周運動を説明するほどの猛烈な速度で地球が自転するなら、上空のものは全て後方に取り残されてしまうはずだと述べた。つまりプトレマイオスも、地球の自転による日周運動の説明は検討し、地上の物体への影響から「滑稽」であるとしている。コペルニクスの説が天体のみかけの運動の説明を根拠とするなら、それはプトレマイオスによって「滑稽である」と指摘されているのである。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "プトレマイオス以降も、地球の運動の可能性をとしてとりあげ、(論理的な厳密さのために)一応の検討をすることは少なからずあった。例えばあるアリストテレス『天体論』への注釈では、猛烈な地球の回転は地球や地上のものを破壊するであろうとしている。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "コペルニクスは後者の議論に対して「もし誰かが地球は動くと考えるならば、その運動は自然的なものであって、無理なものではないと言うだろう。自然にかなったものは無理にされるものとは異なった作用を生じる。力あるいは無理が働いている物体は必ず破壊され、長く続けることはできないが、自然の働きを受けるものは、ふさわしい仕方で受けるのであり、より位置に留まることができる。そこでプトレマイオスは人工から生するものとは非常に異なっている自然の働きで生ずる回転によって、地球や地上のものが破壊されることを心配する必要はなかった。」と反論した。ただし、この反論も慣性の法則に基づいた近代的な議論ではなく、「自然な運動と強制的な運動の区別」に依存しており、プトレマイオスらと同様、アリストテレス的な自然学の枠内にとどまっている。また、自らの運動論を実験などで合理化したわけではない。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このようなコペルニクスの反論は、現代の科学史家にはまったく神秘的に見えた。科学史家の森島恒雄は「もしもコペルニクスが近代的な経験主義者であったならば、彼はおそらく彼自身の説より、プトレマイオス説を支持しただろう。なぜなら経験的であり、実際的である点においては、プトレマイオス説の方が却って優れていたからである」と言っている。「科学とは経験を重んじ、これを出てはならないものだ」とのみ考え、「誤謬・迷信と闘うには事実を重んじさえすれば良い」と考える限り、プトレマイオスの方が科学的だとしなければならなくなる。プトレマイオスが地動説を否定したのは慣性の法則を知らなかったからであって、その限りではまったく科学的であるとしなければならない。コペルニクスが褒められるのは運良く現代の学説と同じものを主張した限りであって、プトレマイオスが悪く言われるのは、事実を重んじたために現代の学説と一致しなかっただけだとしなければならない。本当はプトレマイオスの方が科学的だという評価が成り立つとする科学史家もいた。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "それでは、プトレマイオスは当時としても充分科学的であったのであろうか。コペルニクスはこう反論している「プトレマイオスは回転によって地球や地上のものが破壊されることを心配した。しかし、天よりもずっと運動が速く、地球よりずっと大きい宇宙に関して、なぜ彼は同じことを心配しないのであろうか」。プトレマイオスは地上の力学によって地球の運動を否定した。プトレマイオスは地球の運動を他の天体の運動と分離したのである。そのことをコペルニクスは批判している。こうなると「当時の目から見るとどちらも難点がつきまとっていた」ということになり、「実証的な科学者」はどちらにも与しない態度を取るべきであったということにもなりかねない。判決は「慣性の法則の発見」を待つべきだったということになる。ところが、地動説はその後教会の圧迫を受けながらも支持者を増やしていった。「どういう理由で賛成者が増えたのか不思議なこと」と書く科学史家も現れた。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "科学史家の板倉聖宣はアリストテレスの強制的運動と自然的運動は摩擦と慣性の客観的矛盾を表現しているとした。地上の運動の非慣性的運動も天体の慣性的運動もどちらも経験的事実として認めるしかない。慣性を発見できない限り、この2つの運動は現実に存在する矛盾として認めるしかない。プトレマイオスが地球の運動を否定したのは、それが地上の強制的運動に従うはずだという常識的見方をしたところにあった。しかし、コペルニクスは地球もその仲間であるはずの太陽や月や惑星が自然的運動をしているのだから、なぜ地球だけが自然的運動をしないのか、なぜ自然的運動は地球上の何物も攪乱するものではないとしてはいけないのか? と反論した。部分的な真理(地上の摩擦のある運動)を度外れに拡大する機械的考え方に導かれてアリストテレスやプトレマイオスは地球が静止していなければならないと考えた。板倉は「その結果、嫌でも認めなければならない天体の運動において神秘主義に陥った」とする。それに対してコペルニクスは天体運動に認められていた慣性運動を地球にも認め、地上の力学と対決させた。それが後にガリレオによる「地上の力学での慣性の発見」につながったのだと板倉は述べている。板倉は、コペルニクスがつかんだプトレマイオス説の矛盾を(1)その現象論的限界性に基づく絶えざる理論の修正と混乱。(2)根本仮説としている円運動と一様円運動を暗黙のうちに捨て、離心円、疑心などという逃げ道を考えざるを得なかったという理論内部の矛盾。(3)実体論的考察を拒否したことによって最初から持っていた矛盾。の3つとしている。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "板倉はコペルニクスが矛盾を客観的に認めて、毎日の経験を元にした常識的な機械論的な考え方に反対できた理由として、彼の実体論的方法論をあげている。前述したようにコペルニクスが『アルマゲスト』の研究をした動機は「エカントを実在のものと認められなかった」ためであった。コペルニクスの目的が宇宙の真実の構造を明らかにすることにあったなら、天動説と地動説のどちらが決定的に正しいかを問題にせざるを得ない。現代の目から見ると天動説も地動説も原点の取り方の相違に過ぎないので、簡単か複雑か以外に優劣が付かないように思えるが、コペルニクスは幾何学的な作図の問題以上のものを発見している。コペルニクスは「地球がすべての回転の中心ではないことは、惑星の見かけの不等の運動および地球からの距離の変化によって証明されている。」と述べている。惑星の明るさが変化することは古代ギリシャ人の時代から知られていた。しかし天動説はもっぱら天体の運行を詳しく計算しようとして、星の方位のみに注目して周転円を積み重ねていった。ところがひとたび宇宙の構造が問題になると、「天体間の距離の問題」は極めて重要なものとなってくる。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "コペルニクスは「惑星は夕方昇ってくるとき、すなわち太陽と衝にあって、地球が太陽と惑星の間にあるとき、いつも地球に最も近いのは確かである。反対に夕方沈むとき、すなわち惑星が太陽の近くにあるとき、いいかえると我々が太陽を惑星と地球の間に見るとき最も遠い。このことはそれらの回転の中心がむしろ太陽と関係している」ことや「金星と水星が太陽から一定角度以上離れることがないということを充分に証明している」と述べている。天動説でもこれらの観測事実を何とか説明していたが、コペルニクスの弟子のレティクスは「火星の明るさの変化はどんな周転円を取っても説明するのに不十分」と記した。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コペルニクスは幾何学的作図に満足できず、宇宙の真の構造を究めようとして地動説を立てて、天動説の誤っていることを明瞭にすることができた。その結果、コペルニクスの理論では惑星間の距離が観測結果によって具体的に考察され、観測によって惑星間の距離を測定することが可能となり、惑星間の距離と太陽からの順序を決めることができた。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コペルニクスの事例は「科学理論の交代が起こる原因」に示唆を与える。「理論選択の基準はその単純性にある」というマッハ主義の解釈は、プトレマイオスが既に地動説の単純性を知っていたにもかかわらず、それを否定して天動説を作ったことからあてはまらない。また、「基本理論の交代は理論外の契機によって起こる」、例えば新事実の発見とか他の理論の影響で生じるという説も当てはまらない。コペルニクスにはプトレマイオスが持っていなかった新事実など何もなかったからである。「理論は事実に合わせて変わるという実証主義」も、プトレマイオスの天動説は観測事実の説明において大いに実証的であったので当てはまらない。またトーマス・クーンの「パラダイム論」も「科学者による理論の選択は、もともと合理的な説明はできない宗教的回心のようなもの」と指摘するに留まり、理論の交代については何も説明していない。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "これに対して、基本理論の交代における矛盾の重要性を科学史家の板倉聖宣は古くから具体的に明らかにしている。板倉は「新理論は旧理論の内部矛盾の検討を通して誕生する」と主張した。コペルニクスはアルマゲストの理論に首尾一貫性の欠如による矛盾が生じていることに着目し、それを乗り越える過程で地動説に到達した。そのため新理論の提唱者はしばしば古めかしい概念を引きずっている。コペルニクスもアリストテレスの運動論や一様円運動の概念を使っていた。そのため新理論と旧理論はしばしば「どっちもどっち」のように見られ、相対主義に陥ることがある。それは理論内部の矛盾に着目することによって初めて乗り越えられる。板倉は「このような矛盾の分析がこの歴史を解明する鍵であるが故に「矛盾」を真に理解し得ない科学史家はコペルニクスを評価し得なかった」と指摘した。", "title": "コペルニクスの革新性とは何か" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ドイツでナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人かドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(すなわち国籍はポーランド人)であり、クラクフの大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。", "title": "ナチス政権下での国籍論争" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで \"copernicium\"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 \"copernicium\" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。", "title": "記念" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "コペルニクスはポーランドでもっとも有名な偉人の一人であり、ポーランドには彼にちなむ事物が多く存在する。コペルニクスの生家はトルンの旧市街に現在も残っており、コペルニクス博物館となっている。また、彼が観測を続けたフロムボルク城内のコペルニクスの塔にも1948年に同じくコペルニクス博物館が開設されている。上記の2つはコペルニクスが実際に暮らした場所であるが、それ以外にもコペルニクスの名がつけられたものは数多い。ポーランドにおいて1965年10月29日より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。この紙幣は1996年まで発行されていた。1945年にはコペルニクスの生地であるトルンに大学が設置されたが、大学名は彼の名を取りニコラウス・コペルニクス大学とされた。2005年にワルシャワに建てられたポーランド最大の科学館は、コペルニクス科学センターと名付けられている。1972年にはコペルニクス生誕500周年を祝うため、ヘンリク・グレツキにより交響曲第2番『コペルニクス党』が作曲された。", "title": "記念" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "天文学関係においても彼にちなんで名付けられたものは多い。月面の嵐の大洋の東部にある最も目立つクレーターにコペルニクスの名が与えられている。また、1972年に打ち上げられ1981年2月まで運用されたOAO3号にもコペルニクスの名が与えられていた。", "title": "記念" } ]
ニコラウス・コペルニクスは、ポーランド出身の天文学者。 晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。 コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。
{{redirect|コペルニクス|その他|コペルニクス (曖昧さ回避)}} {{Infobox scientist | name = ニコラウス・コペルニクス<br />(Nicolaus Copernicus) | image = Nikolaus Kopernikus.jpg | caption = | birth_date = {{birth date|df=yes|1473|2|19}} | birth_place = {{nowrap|[[トルン]]、[[王領プロイセン]]、<br/>[[ヤギェウォ朝]][[ポーランド王国]]}} | death_date = {{death date and age|df=yes|1543|5|24|1473|2|19}} | death_place = {{nowrap|[[フロムボルク]]、<br/>[[ヴァルミア]]司教領、<br/>王領プロイセン、ヤギェウォ朝ポーランド王国}} | field = {{hlist|[[天文学]]|[[教会法]] |[[経済学]] |[[数学]] |[[医学]] |[[政治]]}} | alma_mater = {{ublist|class=nowrap |[[クラクフ大学]] |[[ボローニャ大学]] |[[パドヴァ大学]] |[[フェラーラ大学]]}} | known_for = {{ublist|class=nowrap |[[地動説]] |[[グレシャムの法則]]}} | religion = [[ローマ・カトリック]] | signature = Nicolaus Copernicus signature (podpis Mikołaja Kopernika).svg | influences = [[アリスタルコス]]、[[マルティアヌス・ミンネウス・フェリクス・カペッラ]] | influenced = }} '''ニコラウス・コペルニクス'''([[ラテン語]]名: Nicolaus Copernicus、[[ポーランド語]]名: '''ミコワイ・コペルニク''' {{Audio|Pl-Mikołaj Kopernik.ogg|Mikołaj Kopernik}}、[[1473年]][[2月19日]] - [[1543年]][[5月24日]]<ref>{{Kotobank|コペルニクス}}</ref>)は、[[ポーランド]]出身の[[天文学者]]。 晩年に『[[天球の回転について]]』を著し、当時主流だった地球中心説([[天動説]])を覆す太陽中心説([[地動説]])を唱えた。これは[[天文学史]]上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスの[[アリスタルコス]]である)。また[[経済学]]においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[グレシャムの法則|悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。 コペルニクスはまた、[[教会 (キリスト教)|教会]]では司教座聖堂参事会員([[カノン (宗教)|カノン]])であり、[[知事]]、[[長官]]、[[法学者]]、[[占星術師]]であり、[[医師|医者]]でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。 == 人物伝 == [[ファイル:CopernicusHouse.jpg|thumb|150px|コペルニクスの生家]] [[ファイル:Łukasz Watzenrode.jpeg|thumb|150px|母方の叔父ルーカス]] === 幼少期 === コペルニクスは、[[1473年]]2月19日に[[トルン]]で生まれた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=13}}。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは当時[[十三年戦争]]の結果として[[王領プロイセン]]の一部になっていたが、[[1772年]]の[[ポーランド分割]]によって[[プロイセン|プロイセン王国]]領となり、現在は[[ポーランド]]の一部に復帰している。19世紀後半から第二次世界大戦までの[[ナショナリズム]]の時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが<ref>{{citation|url=https://southerncrossreview.org/50/rudnicki1.htm|author=Konrad Rudnicki|title=The Cosmological Principle|year=1995|publisher=Jagiellonian University|page=43注2|isbn=8323308985}}</ref>、[[国民国家]]の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。王国内の共通言語は[[ラテン語]]と[[ポーランド語]]であり、[[クラクフ大学]]で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。 彼の[[姓]]の「コペルニクス」はラテン語表記の ''Copernicus'' を[[日本語]]で読み下したもので、[[ポーランド語]]では「コペルニク (Kopernik)」となる。この語はゲルマン系の「銅」を意味する語にスラブ系の接尾辞 -nik がついたもので、ポーランドの[[シレジア|シレジア地方]][[オポーレ県]]にある古い[[銅山]]の街[[コペルニキ]] ([[:en:Koperniki|Koperniki]]) に由来する。[[シレジア]]地方は13世紀の[[モンゴルのポーランド侵攻|モンゴルによるポーランド侵攻]]で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人[[移民]]を招いている([[東方植民|ドイツ人の東方殖民]])。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族が[[ドイツ語]]を母語としていたものと推測される。 10歳の時、[[銅]]を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父である{{仮リンク|ルーカス・ヴァッツェンローデ|en|Lucas Watzenrode}}が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=22}}。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に[[王領プロイセン]]の[[ヴァルミア]][[司教]]となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス は王領プロイセンの{{仮リンク|フロムボルク|en|Frombork}}(ドイツ語名フラウエンブルク)のカノンとなり、姉妹バルバラは[[ベネディクト会|ベネディクト修道院]]の[[修道女]]となった。他の姉妹カタリーナは[[トルニ|市]]の評議委員だったバルテル・ゲルトナーと結婚した。 === 学生時代 === [[ファイル:Collegium Maius 04.JPG|thumb|left|150px|クラクフ大学コレギウム・マイウス(大カレッジ)]] <!--ファイル:Collegium maius、 Aula Jagiellońska.jpg|同左、ヤギェウォ教室<br />ここでコペルニクスが学んだ--> [[ファイル:Albert Brudzewski.jpg|thumb|left|150px|恩師のブルゼフスキ教授]] <!--ファイル:Università di bologna、 interno.JPG|ボローニャ大学--> コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が[[司祭]]になることを望んでおり、[[1491年]]にコペルニクスは[[クラクフ大学]]に入学し、[[自由七科]]を学んだ。この過程で[[月]]の精密な[[軌道 (力学)|軌道]]計算を史上はじめて行った著名な天文学者で、従来より定説とされていた[[天動説]]に懐疑的な見解を持っていた[[アルベルト・ブルゼフスキ]]教授によってはじめて[[天文学]]に触れた。さらにコペルニクスが[[化学]]に引き込まれていたことが、[[ウプサラ]]の図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。[[1495年]]に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの[[律修司祭]]の職につき生活の保障を得、1年ほど[[バルト海]]沿岸にあるフロムボルクにいたあと、[[1496年]]には[[イタリア]]の[[ボローニャ大学]]に留学し、[[法律]]([[カノン法]])について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者である[[ドメニコ・マリア・ノヴァーラ|ドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ]]と出会い、その弟子となった。[[1500年]]にはボローニャ大学での学業を終え、[[ローマ]]を見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って[[1501年]]に再びイタリアに留学した。今度の留学先は[[パドヴァ大学]]であり、ここでコペルニクスは今度は[[医学]]を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた[[占星術]]も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には[[1503年]]に[[フェラーラ大学]]でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=60}}。 === 地動説の完成 === 戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは[[1508年]]から1510年ごろと推定されており{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=84}}、天動説では[[周転円]]により説明されていた[[順行・逆行#見かけの逆行運動|天体の逆行運動]]を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼は[[ギリシア語]]も独習しており、[[1509年]]にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。[[1510年]]にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「[[コメンタリオルス]]」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説([[地動説]])をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。 === 副助祭として === [[ファイル:Katedra we Fromborku.jpg|thumb|150px|フロムボルク大聖堂(フロムボルク城内)]] [[ファイル:Copernicus Tower in Frombork.jpg|thumb|150px|コペルニクスの塔(フロムボルク城内)<br />司教座聖堂参事会員として赴任してきたコペルニクスの住居兼執務室<br />第二次大戦で破壊され、戦後に復元された]] [[1511年]]には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な副助祭(第二ヴァチカン公会議以前の制度で行われていた品級)として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる<ref>「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p107 ニュートンプレス 2009年5月15日発行</ref>{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=130}}。[[1512年]]にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、[[1515年]]には開催中の[[第5ラテラン公会議]]において改暦が議題に上がる中、[[フォッソンブローネ]]司教であるミデルブルクのパウル([[:en:Paul of Middelburg]])がコペルニクスに意見を求めている。 [[1516年]]には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で[[貨幣]]の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、[[1517年]]に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[グレシャムの法則|悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=121}}。この論文は[[1519年]]には[[ラテン語]]から[[ドイツ語]]に翻訳され、[[1522年]]には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。 しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在する[[ドイツ騎士団国]]が[[ポーランド王領プロイセン]]内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、[[1520年]]にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部の[[オルシュティン]]へと逃れ、同地の防衛にあたった。[[1521年]]にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。[[1523年]]にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。[[1525年]]にはドイツ騎士団国の最後の総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク]]がポーランド国王[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]に臣従し、プロイセン公を称して[[プロシア公領]]を創設したため抗争は完全に終結した。 ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、[[1523年]]には隣接するドイツ騎士団国が[[ルター派]]に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。[[1526年]]にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の[[先輩]]で[[親友]]の[[地図学|地図学者]]ベルナルド・ヴァポフスキ ([[:en:Bernard Wapowski|Bernard Wapowski]]) が[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]の版図全体の[[地図]]を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った<ref>{{Cite web|url=http://www.frombork.art.pl/Ang11.htm|title=Life of Nicolaus Copernicus|publisher=Nicolaus Copernicus Museum in Frombork|accessdate=2010-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060617213632/http://www.frombork.art.pl/Ang11.htm|archivedate=2006年6月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。 === 地動説の発表と死 === [[1529年]]ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、[[1533年]]には教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]にこの考えが伝えられている。[[1535年]]にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。[[1536年]]には[[枢機卿]]の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころには[[ヘウムノ]]の司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。 [[ファイル:K0nigl+herzoglPreussen.png|thumb|150px|[[第二次トルンの和約]]で成立した王領プロイセンの区分。黄色が[[ヴァルミア]]司教領(エルムラント)であり、コペルニクスはこの黄色の地域で生涯の大半を過ごした]] [[File:KOS sarkofag ze szczątkami Kopernika.jpg|thumb|150px|コペルニクスの遺物<br />[[オルシュティン]]の聖ヤコブ大聖堂]] [[1539年]]、[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]の教授である[[ゲオルク・レティクス]]がコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。[[1539年]]にはレティクスが自らの天文学の師であった[[ヨハネス・シェーナー]]に長い手紙を送り、このなかでコペルニクスの理論の要約を載せている。この手紙の写しをレティクスは[[グダニスク]]の出版業者に持ち込み、[[1540年]]には「最初の報告」との名で出版された。この書物の中でレティクスはコペルニクスの理論の要約を広めるとともに、完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、[[1542年]]にはコペルニクスの主著となるであろう『[[天球の回転について]]』草稿が完成し、[[ニュルンベルク]]の印刷業者であるヨハネス・ペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスが[[ライプツィヒ大学]]の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者[[アンドレアス・オジアンダー]]に[[校正]]を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは[[脳卒中]]で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=144}}。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。 死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、[[シュチェチン]]大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で[[2004年]]から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から[[2005年]]夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。[[2008年]]11月、シュチェチン大学と[[スウェーデン]]の[[ウプサラ大学]]との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の[[毛髪]]との[[DNA鑑定]]を行い、両者の[[DNA]]の一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2541338 「コペルニクスの遺骸、DNA鑑定で確認される 2世紀にわたる墓探しに終止符」] - AFPBB 2008年11月23日 2016年1月28日閲覧</ref>。 == 著作 == * 1510年頃 「[[コメンタリオルス]]」(''Comentariolus''、同人誌) *:太陽中心説([[地動説]])をはじめて公にした。 * 1517年『貨幣鋳造の方法』(''Monetae Cudendae Ratio'') *:経済学でいう[[グレシャムの法則]]を提唱した。もともとは[[ラテン語]]で書かれていたが、[[1519年]]には[[ドイツ語]]にみずから翻訳している。 * 1543年 『[[天球の回転について]]』{{Sfn|矢島祐利|1953}}{{Sfn|高橋憲一|1993}}{{refnest|group="注"|矢島は「天体の回転」としている{{Sfn|矢島祐利|1953}}が、コペルニクスの著書のタイトル ''De Revolutionibus Orbium Caelestium'' の ''orbs'' は惑星そのものではなく、そこに惑星が埋め込まれている同心球の殻を意味するので、コペルニクスの意図は「天球の回転」であろう{{Sfn|トーマス・クーン|1989|p=94}}{{Sfn|高橋憲一|1993}}。}} *:コペルニクスの主著。地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った。 == コペルニクス地動説の成立過程 == ===コペルニクス当時の天文学=== コペルニクスの時代まで、惑星の位置を計算するのに最も普通のやり方は、1270年代に[[アルフォンソ10世]]が作らせた[[アルフォンソ天文表]]を用いるものだった。これによってそれぞれの惑星が特定の時点にどの位置にあるかということと、一日にどれだけ進むかという情報が示された{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=67}}。当時は[[古代ローマ帝国]]時代の西暦150年頃成立した[[アレキサンドリア]]の天文学者[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]が作った天文体系『[[アルマゲスト]]』に基づいた天文計算が行われていた。[[アルフォンソ10世]]には、天文学者の仕事を見て「惑星の運動は複雑すぎる」と述べたという伝説があり、そこから当時の天文学者がそれぞれの惑星に周転円を複数用いたという神話が生まれ、天動説の複雑さの例として通俗書に書かれたが、実際にはアルフォンソ表の体系全体は「それぞれの惑星に独立した周転円は1つしかない」という考えで計算されていた。もしも惑星の周転円を2つにしたら中世の数学者には複雑すぎて計算できなかったためである{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=68}}。従って、コペルニクスが地動説を考えた理由として「プトレマイオスの天文学が複雑すぎると考えた」とすることはできない{{refnest|group="注"|にもかかわらず、この話は現代の科学界に広まっていて、物理学者や天文学者はときどき、自分の科学上の説明が込み入っていることをわびて「けれども私の理論には周転円が多すぎる」という表現を用いることがある{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=68}}。}}。 ===コペルニクスのアルマゲストの研究=== [[File:Ptolemy Muller.jpg|thumb|レギオモンタヌスによって1496年にベネチアで出版されたアルマゲスト。]] 1498年にコペルニクスはヴェネツィアで印刷されたばかりの[[レギオモンタヌス]]と[[ゲオルク・プールバッハ]]による『[[アルマゲスト]]の要約』を手に入れた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=47}}。本書は「要約」以上の著作で、[[バッターニー]]や[[ジャービル・ブン・アフラフ]]などその後の発展も大いに取り入れ、時に『[[アルマゲスト]]』の誤りを正した。構成はユークリッド的に論理の流れを重視しており、『アルマゲスト』の体系をより簡潔かつ明瞭に紹介していた。コペルニクスはこの本で、プトレマイオス天文学の理解を深めた。 また、ラテン語世界に『[[アルマゲスト]]』が入ってほどない13世紀前半、[[イブン・ルシュド]]や[[アルペトラギウス|アル・ビトゥルージ]]のプトレマイオス批判とその代替案が知られることになった。彼らはプトレマイオスの惑星軌道モデルが、アリストテレスの「天空は完璧な円を描いて動き続ける」という原則から相当ずれており、「今の天文学は、計算には合うが、存在するものには合わない」と批判し、物理的な原則に合致する天文学の必要を訴え、同心球体説を工夫した。コペルニクスがクラクフ、ボローニャ、パドゥアで学んだころ、[[イブン・ルシュド]]の議論への関心は高まっており、例えば[[アルベルト・ブルゼフスキ]](クラクフ)、アレッサンドロ・アキリーニ(ボローニャ)、Agostino Nifo(パドヴァ)といった論者ら[[イブン・ルシュド]]を論じ<ref>Hasse, Dag Nikolaus. “AVERROES’ CRITIQUE OF PTOLEMY AND ITS RECEPTION BY JOHN OF JANDUN AND AGOSTINO NIFO.” ''Averroes’ Natural Philosophy and Its Reception in the Latin West'', edited by Paul J.J.M. Bakker, vol. 50, Leuven University Press, Leuven (Belgium), 2015, pp. 69–88. ''J''</ref>、パドヴァでは同心球体説が研究されていた<ref>{{Cite journal|last=Swerdlow|first=Noel|date=1972-02-01|title=Aristotelian Planetary Theory in the Renaissance: Giovanni Battista Amico's Homocentric Spheres|url=https://doi.org/10.1177/002182867200300105|journal=Journal for the History of Astronomy|volume=3|issue=1|pages=36–48|language=en|doi=10.1177/002182867200300105|issn=0021-8286}}</ref>。のちにコペルニクスも『天球の回転について』でこの二人の議論を引用することになる。 古代メソポタミアにおいて既に四季の長さが等しくないことは知られていた。1年は4等分されるのではなく、冬の部分の方が短いのだ。これは太陽が冬は軌道上を速く動いているか、太陽の円軌道の中心が地球からずれていて、太陽が冬の部分では速く動いて見えるかのどちらかだった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=49}}。[[ヒッパルコス]]は太陽の円軌道を地球からずれた場所に置いて、この見かけの非一様さを解決し、プトレマイオスもそれを継承した。 [[File:Almagest-planets.svg|thumb|アルマゲストによる惑星の軌道。⊕のところに地球があり。角度θはエカントによる角速度一定の回転角。Φは周転円の回転角。Mは惑星の平均の位置。周転円で平均からのずれを表す。]] しかし、惑星の運動は太陽のように簡単には解決できなかった。たとえば火星の運動はずっと複雑で、火星は平均より速く動くこともあれば、遅く動くこともあった。そして通常は恒星の間を東に進む火星の動きは、およそ2年に一度遅くなり、止まって、数か月にわたって逆行してからまた東向きに進みはじめるのだった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=50}}。この逆行現象を説明するためにプトレマイオスは火星を反時計回りで回る2つの円の組み合わせとした。一つは地球のまわりを回る大きな円で、その円の上を小さな円が回ることによって、逆行を説明した{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=52}}。しかし火星の観測結果を説明するにはさらに、大きい方の円の中心を地球から外し、さらに別の1点([[エカント]])を設定し、火星の大きな円は[[エカント]]から見て「一様な角度で動く(角速度一定)」ことが必要だった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=52}}。プトレマイオスはこの単純な仕組みで、惑星の変化する速さと逆行の様々な長さにとても近い予測が出せることを発見した{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=65}}。しかしプトレマイオス天文学を受け継いだ中世アラビアには、エカントは一様な円運動の原則からはずれたごまかしと考えるものもいた。特に「マラーガ学派」とも称される一群の天文学者らは、[[エカント]]を避けて小周転円の導入で等速円運動の原則を維持しながら、プトレマイオスの理論と同じ予言を再現してみせた。特に[[イブン・シャーティル]]とコペルニクスの理論の類似は著しく、コペルニクスが彼らの研究に気が付いていた可能性が指摘される{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=53}}。 コペルニクスはプトレマイオスのモデルをアリストテレスの原則に合うように修正しなければならないと考え、ボローニャ大学での法学の勉強のかたわら、ひまさえあれば『アルマゲストの要約』を読んで惑星モデルについての理解を深めていった。コペルニクスは1504年に火星を観測し、「火星は表より2度進んでおり、土星は1度と2分の1遅れている」と書き残している{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=62}}。 ===惑星を太陽中心に置き換える=== コペルニクスに転機が訪れたのは1508 - 1510年の間と考えられている{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=84}}。この間の経緯は、史料には現れない点が多く、以下に述べるのは科学史家スワードローによる推測である。 スワードローによると、コペルニクスが『要約』で、周転円(逆行を説明するための小さな円)と従円(地球を回る大きな惑星の円軌道)が入れ替え可能であることを知った{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=78}}ことは決定的に重要だった。プトレマイオスは「地球から見える惑星の方向(視線)」を計算するために、2つの円([[従円と周転円|従円]]〈導円〉とその上を動く[[従円と周転円|周転円]])を用いたが、この円は入れ替えが可能だった。プトレマイオス『アルマゲスト』はこの入れ替えの可能性について混乱した記述をしており、それを正して明快な説明を与えたのは、クシュチー([[:en:Ali Qushji]])やレギオモンタヌス『要約』であった。 『アルマゲスト』では、外惑星(火星、木星、土星)の周転円(小さな円)の回転は、全て太陽の平均的な運動と同じだった。そこで、上記の従円と周転円を入れ替えると、それらと太陽を一つにまとめることができる{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=79}}{{refnest|group="注"|コペルニクスにこの変換ができたのは、もともとプトレマイオスとコペルニクスの体系は互いに座標変換可能な幾何学的等価性があるからである。このことは科学史家の渡邊正雄{{Sfn|渡邊正雄|1978|pp=56-57}}や高橋憲一{{Sfn|高橋憲一|1993|pp=132-133}}が詳しく解説している。}}。こうして、地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを外惑星が回る、後の[[ティコ・ブラーエ]]のものに似たモデルが得られる。コペルニクスは地球のまわりを回る太陽の軌道の半径を25と置き、惑星の円の大きさを計算して、火星の円の半径は38、木星は130、土星は231とした。これは現在の地球-太陽間を1天文単位としたときの外惑星の距離と大変近い値である{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=80}}。プトレマイオスの体系では惑星の軌道の大きさは伸縮自在であったが、コペルニクスは惑星が回る円の大きさを決めることができたのである{{Sfn|高橋憲一|1993|p=184}}。 ===内惑星の変換と太陽中心説への転換=== [[File:Copernican heliocentrism theory diagram.svg|thumb|『天球の回転について』に描かれているコペルニクスの宇宙]] コペルニクスは、次に内惑星(金星、水星)に目を向ける。プトレマイオスの理論では、内惑星の理論の太陽の運行を反映する部分は、単純な等速円運動ではなかった<ref>太陽(地球)はケプラーの法則によって等速円運動からずれている。</ref>が、コペルニクスはこれを等速円運動の組み合わせで書き直していて、平均的な運動を担う円を分離していた。ここに外惑星と同様の変換をすると、今度は平均的な太陽が中心の理論が得られた<ref>太陽(地球)の等速円運動からのずれを説明する部分は、惑星の太陽周りの運動に組み込まれることになった。</ref>。 ここでコペルニクスは選択を迫られた。外惑星の理論の変形で得られた、[[ティコ・ブラーエ|ティコ]]の理論に似た体系を選ぶか、あるいは内惑星の理論の変形で得られた太陽中心の理論を選ぶかである{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=83}}。もし、前者を選ぶと、どうしても火星の軌道と太陽の軌道が交錯する。コペルニクスはその当時の通説に従って、惑星は透明な殻(天球)に貼りついていると考えていた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=90}}。コペルニクスには天球が何らかの物質的存在である限り、物体が相互に浸透して自由に回転しうるとはとても考えられなかったのであろう{{Sfn|高橋憲一|1993|p=186}}。そこでこれを避けるために地球も太陽のまわりを回るとした{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=92}}<ref>ただし、これはスワードローによる再現であって、コペルニクス自身の説明ではない。なお、後に[[ティコ・ブラーエ]]は透明な天球の存在を否定して、地球以外の惑星が太陽の周りをまわるモデルを採用する。</ref>。 コペルニクスは惑星の軌道の大きさが公転周期の順序にも当てはまることに気がついた。もっとも大きな円を描く土星は30年で1周し、最も内側にある水星は3か月しかかからなかった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=83}}。太陽は365日で地球のまわりを回る。これは火星の687日と金星の225日の間である。そこでコペルニクスは地球の円軌道を火星と金星の間に置いてみた。こうしてすべての惑星が太陽のまわりを回ることになった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=83}}。コペルニクスは後に『天球の回転について』で「他のどんな配置にも、軌道の大きさと周期の間にこれほどの調和に満ちた確かな関係を見いだすことはない」と、この発見について書いている{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=84}}。 ===コメンタリオルスを書く=== コペルニクスにはプトレマイオスが明確にできなかった「火星、木星、土星が逆行するときはなぜいつも惑星が太陽のちょうど反対側にあるのか」が説明できるようになった。これらの惑星は地球に最も近いときに地球に追い越される。その時の太陽は惑星の反対側にある{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=84}}。1510年頃コペルニクスは惑星運動の新しい体系を小冊子にまとめた。コペルニクスはその小冊子の写しをクラクフにいた友人の数学者たちに送った。その写しは『コメンタリオルス(小さな注釈)』と呼ばれた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=88}}。その中でコペルニクスは7つの原理を述べている{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=95}}。 #すべての天球には共通の中心があるわけではない(惑星の運動の中心は太陽だが、月の運動の中心は地球である)。 #地球は宇宙の中心ではなく、重さの中心および月の天球の中心でしかない。 #天球はすべて太陽のまわりを回るので、宇宙の中心は太陽の近くにある。 #恒星天球の高さと比べて地球と太陽の距離は小さいので目立たない。 #恒星天球は動いているように見えるが、それは現実に動いているからではなく、地球が動いている結果である。地球は固定された軸を中心に回転し、星々がちりばめられた恒星天球、空の一番高いところは動かない。 #太陽は動いているように見えるが、それは現実に動いているのではなく、地球を担う球形の殻が動いているからである。地球は他の惑星と同じく太陽のまわりを回っている。従って地球の運動は一つだけではない。 #惑星に見られる逆行運動は現実のものではなく、地球の運動の結果である。したがって地球の運動によって、天空に見られる不規則に見える多くの運動が説明される。 コペルニクスは太陽中心の体系によって、不可解だった逆行運動をそれまでの考えよりはるかに自然に論理的に説明できたうえ、なぜ土星と木星と火星で逆行の大きさが異なるかも説明できた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=99}}。コペルニクスのもう一つの論拠は、惑星の距離と回転周期の順序が規則的になるということだった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=99}}。「こうして初めて私たちは軌道の大きさと惑星の公転周期の間に調和に満ちた確かな関係を見いだす」とコペルニクスは書いている{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=100}}。そのほかにコペルニクスは月の問題を改良した。プトレマイオスのモデルでは月が見える角度を正確に出すために、月と地球の距離が大幅に変わるようになっていた。プトレマイオスのモデルでは月と地球の距離はおよそ地球半径の60倍だったが、ひと月の間に月の距離は地球半径の34倍でしかなくなる。もしこれが本当なら月は2倍近くも大きさが変化するように見えるはずである{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=101}}。コペルニクスはずっと前に[[イブン・シャーティル]]が行ったのと同じ方法を用いて月の軌道を修正した{{refnest|group="注"|これについてはイタリアにいた間にイスラム天文学者のモデルについて知ったのか、独自にこれを発明したのかは分からない{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=101}}。}}。 ===アルマゲスト全文の出版とモデルの改良=== [[File:Nicolaicopernici00cope 0189.jpg|thumb|『天球の回転』で解説されている惑星の軌道。コペルニクスは惑星を太陽中心の円軌道に変更し、小周転円で微調整をおこなった。]] 1515年にレギオモンタヌスによって『アルマゲスト』の全文の翻訳が印刷本として出版された。コペルニクスはそれまで研究していた『要約』と全文の違いを知った。『アルマゲスト』には太陽、月、惑星の位置を計算するための表がたくさん載っていた。また1000以上の恒星の位置が記された恒星目録があった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=103}}。コペルニクスは16世紀に自分の表が役立つようにするには、惑星の運動をすべて記述するために必要な数字を一つ一つ再確認しなければならなくなった。コペルニクスは合わせて34個の円を組み合わせて惑星の運動モデルを作り、調整すれば高い精度で観測と合うモデルを手にしているという自信があった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=104}}。それにはそれぞれの円の中心の位置、半径、回転の速さなど、100を越えるパラメーターの明示が必要だった。コペルニクスは実際に観測し、計算をして、モデルをチェックすることにそれから20年以上の余暇を費やすことになった{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=105}}。コペルニクスは幾何学的な条件が適しているときはいつも惑星の位置を記録し、格別に注意して食を観測した{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=130}}。1529年になって、ようやくプトレマイオス天文学を修正するための『天球の回転について』を書き始めた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=130}}。1543年のコペルニクスの死の間際にようやくその本は印刷出版された{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=144}}。 == グレシャムの法則 == コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「[[グレシャムの法則|悪貨は良貨を駆逐する]]」) ことを突き止めたことである。これは、当時[[ドイツ騎士団]]が粗悪な[[銀貨]]を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|p=121}}。この理論はほぼ半世紀後、[[1560年]]に彼とは別に独自にこのことに気付いた[[イギリス]]国王財政顧問の[[トーマス・グレシャム]]によって知られるようになり、「[[グレシャムの法則]]」の名で知られるようになった。 == 死後の影響 == 作家の[[アーサー・ケストラー]]は「『天球の回転について』は、本として、どんな時代においてももっとも売れ行きの悪い、ワースト・セラーだった。」と「読者の付かない本」と評している{{Sfn|アーサー・ケストラー|1977|p=159}}。しかし、天文学者で科学史家のギンガリッチはこの説に疑問を持ち、現存する初版と第2版601冊{{refnest|group="注"|ギンガリッチは初版が400~500部、第2版が500~550部印刷されたと見積もり、現存している本を約60%と推定している{{Sfn|O.ギンガリッチ|2005|p=172}}。}}を調査し、当時の著名な天文学者[[エラスムス・ラインホルト]]所有の本に詳細な書き込みがあって専門的な検討がなされていたことや、[[ティコ・ブラーエ]]や、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]の師である[[ミヒャエル・メストリン|ミハエル・メストリン]]が詳細な書き込みをしていることなどを確認した{{refnest|group="注"|ラインホルトとメストリンは、本の後半の技術的・専門的な部分に特に多くの書き込みをしている。また、メストリンは序文に対する論評を書き込んで「この序文は誰とは特定できないが、何者かによって付け加えられた」と、コペルニクスが書いた序文ではないことを見破っている{{Sfn|O.ギンガリッチ|2005|p=207}}。}}。ギンガリッチはコペルニクスの本は多くの専門家によって読まれ、検討されていたことを証明した{{Sfn|O.ギンガリッチ|2005}}。またガリレオが所有していた本は、宗教裁判の後教会から要求された部分の文章を修正していて、出版後の『天球の回転について』がさまざまな人物に買われ、書き込みを通して知的ネットワークができて読み継がれていたことを証明した{{Sfn|O.ギンガリッチ|2005|pp=191-192}}。 16世紀には観測手段の限界から、古代に知られていなかった新しい観測結果があったわけではないため、直ちに大きく天文学を変革するといったことはなかった。コペルニクスの時代の観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。[[1551年]]には[[エラスムス・ラインホルト]]が『天球の回転について』に基づいて『[[プロイセン表]]』を作成したが、これも従来の[[星表]]の精度を改善するものではなかった。コペルニクスの地動説の普及に努めた[[トマス・ディッグズ]]は恒星の天球を取り除いたものの、残りの惑星についてはいまだ天球上に存在するものであるとした。この状況が大きく変わるのは、[[ティコ・ブラーエ]]が観測精度を飛躍的に向上させた長期の観測データを得ることに成功し、そのデータを引き継いだ[[ヨハネス・ケプラー]]が[[1619年]]に惑星は楕円軌道を描いているという[[ケプラーの法則]]を発見し、これによって[[1627年]]にはケプラーが地動説に基づいて『[[ルドルフ表]]』を完成させ、予測精度を飛躍的に向上させてからである。これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そして[[アイザック・ニュートン]]が[[1687年]]に『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(プリンキピア)の中で、ケプラーの法則が成り立つための[[万有引力|万有引力の法則]]を発表し、これによって古代の力学は完全に否定され、惑星の運動と太陽系の構造を高精度に説明できる理論として地動説が完成した。 コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、コペルニクスの「実体論的方法」は、宇宙の真の構造を求める研究の始まりとなり、プトレマイオスの理論の矛盾を明らかにし、最終的にはコペルニクスの説は古代から中世の世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者[[イマヌエル・カント]]が「[[コペルニクス的転回]]」という言葉を作り、やがてこの言葉が[[パラダイム]]転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。 == 『天球の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教 == 上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁は特に反対意見を表明しなかった。コペルニクスも存命中にこの考えを公表したが、この考えがキリスト教に反するものだとは捉えていなかった。積極的に考えを広めてはいなかったものの、すでに1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていること、そしてコペルニクス自身が[[ローマ教皇]][[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]へと『天球の回転について』を献呈していることからも、ローマ教皇庁が当初反対の立場ではなかったことは明らかである。また[[プロテスタント]]、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派も、明確にこの考えに関して反対してはいなかった。しかし[[マルティン・ルター]]本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も初期のものである。しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持する者は多かった。『天球の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわった者の多くをルター派が占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において、『天球の回転について』は、おおむね受け入れられていたと言える。 [[File:Jan Matejko-Astronomer Copernicus-Conversation with God.jpg|thumb|200px|『コペルニクス: 神との対話』<br />[[ヤン・マテイコ]]・1872年作]] しかし、[[1616年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する裁判が始まる直前に、『[[天球の回転について]]』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『[[聖書]]』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。「ヨシュア記」か「士師記」にイスラエル人が戦っている間神は太陽を天空に留めた=ふつうは動いている、という記事がある。)ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。 [[アメリカ合衆国]]の科学関連の[[ゴンゾー・ジャーナリズム]]雑誌『[[オムニ (雑誌)|オムニ]]』の創設者の一人であるアマチュア科学研究者[[ディック・テレシ]]によると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている<ref>{{Cite book|和書|author=ディック・テレシ|authorlink=ディック・テレシ|date=2005-06|title=失われた発見 : バビロンからマヤ文明にいたる近代科学の源泉|publisher=大月書店|isbn=4-272-44033-0}}</ref>。 ==コペルニクスの革新性とは何か== ===減らない円の数=== 前述のようにコペルニクスの地動説は、プトレマイオスの理論より高精度になったわけでもなく、計算に必要な円の数を減らしたのでもなかった。コペルニクスは天の一様な円運動のためにエカントを取り除いたが、計算精度を保つためにはまだ多くの円を必要としていた。作家の[[アーサー・ケストラー]]は「コペルニクスは実質的に48個の周転円を使用している(略)コペルニクスは周転円の数を減らさなかったばかりか、増やすことさえしている」と述べている{{Sfn|ケストラー|1977|p=162}}。 ===地球の可動性と力学 === プトレマイオスは地球の運動の可能性について、『アルマゲスト』第I巻7で検討している。まず場所を変える運動はないとした後、「これらの議論に反対しない人々の中にも、天が静止して地球が、または天と地球の両方が、ほぼ24時間周期で回転すると考えても差し支えないとする人々がいる」とし、「その仮説は天の現象の説明に支障を来さない」としながらも、「地上と大気で起こることを考えると、滑稽である」とする<ref>Toomer訳 pp.44-45.</ref>。すなわち、地球が動くとすると「24時間で地球の円を突破する運動は非常に猛烈である」ので、その影響が感じられないはずはなく、「地球上に支えられない物体は、常に地球と反対の運動をするように見えるだろう」「雲や投げられた物体、飛ぶ物体は東へ行くことはないだろう。何となれば地球はこの方向では常に他を追い越すから」、すなわち天体の日周運動を説明するほどの猛烈な速度で地球が自転するなら、上空のものは全て後方に取り残されてしまうはずだと述べた{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=17}}。つまりプトレマイオスも、地球の自転による日周運動の説明は検討し、地上の物体への影響から「滑稽」であるとしている{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=17}}。コペルニクスの説が天体のみかけの運動の説明を根拠とするなら、それはプトレマイオスによって「滑稽である」と指摘されているのである{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=18}}{{refnest|group="注"|たとえばダンネマンは「コペルニクスはまだ自分の世界説の正しさに決定的な証明を与えることができず、単に非常に簡単になるという点を押し出しただけだった。」としたし、鈴木政岐は『地学概論』で「コペルニクスの太陽中心説は今日の学説と同じであるが、それは地球を中心とするよりも太陽を中心として他の天体の運動を論ずる方が簡単であるというものに過ぎないのであって...」と書き、高木純一は「何よりも有力に彼の考えを動かしたものは、トレミーの地球中心の考えに基づく運行よりも、太陽を中心とした星の運行の方がはるかに簡単な姿となるからであった」と書いた。科学史家の[[板倉聖宣]]はこれらの例を挙げて「かかる見解の論者は極めて多いが、プトレマイオスによると諸君の見方はまさに「滑稽」そのものなのである!」と批判している{{Sfn|板倉聖宣|1969|pp=100-102}}。また[[パラダイム論]]を提唱した科学史家の[[トーマス・クーン]]も「時が経つにつれて、天文学者たちの通常科学(プトレマイオスの体系)的研究の努力の結果として、天文学はおそろしく複雑になり、一方を直せば他のほうに食い違いがまた現れるという有様になったことに気がついた(略)。16世紀初期までには、ヨーロッパ最良の天文学者の多くは、天文学のパラダイムが昔からある問題にさえもうまく当てはまらなくなってきた、ということを認識するに至った。その認識が、コペルニクスをしてプトレマイオスのパラダイムを捨てさせ、新しいものを求める前提となったのである。{{Sfn|トーマス・クーン|1971|pp=76-77}}」と「天動説の複雑さ」をコペルニクスの地動説の動機としている。}}。 プトレマイオス以降も、地球の運動の可能性をとしてとりあげ、(論理的な厳密さのために)一応の検討をすることは少なからずあった。例えばあるアリストテレス『天体論』への注釈では、猛烈な地球の回転は地球や地上のものを破壊するであろうとしている<ref>Langermann, Y. Tzvi. “Arabic Cosmology.” ''Early Science and Medicine'', vol. 2, no. 2, 1997, pp. 185–213. ,p.188, 注10</ref>。 コペルニクスは後者の議論に対して「もし誰かが地球は動くと考えるならば、その運動は自然的なものであって、無理なものではないと言うだろう。自然にかなったものは無理にされるものとは異なった作用を生じる。力あるいは無理が働いている物体は必ず破壊され、長く続けることはできないが、自然の働きを受けるものは、ふさわしい仕方で受けるのであり、より位置に留まることができる。そこでプトレマイオスは人工から生するものとは非常に異なっている自然の働きで生ずる回転によって、地球や地上のものが破壊されることを心配する必要はなかった。」と反論した{{Sfn|矢島祐利|1953|p=36}}。ただし、この反論も慣性の法則に基づいた近代的な議論ではなく、「自然な運動と強制的な運動の区別」に依存しており、プトレマイオスらと同様、アリストテレス的な自然学の枠内にとどまっている。また、自らの運動論を実験などで合理化したわけではない。 ===科学的という問題=== このようなコペルニクスの反論は、現代の科学史家にはまったく神秘的に見えた。科学史家の[[森島恒雄]]は「もしもコペルニクスが近代的な経験主義者であったならば、彼はおそらく彼自身の説より、プトレマイオス説を支持しただろう。なぜなら経験的であり、実際的である点においては、プトレマイオス説の方が却って優れていたからである」と言っている{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=20}}。「科学とは経験を重んじ、これを出てはならないものだ」とのみ考え、「誤謬・迷信と闘うには事実を重んじさえすれば良い」{{refnest|group="注"|このような考えは19世紀にオーストリアの科学者エルンスト・マッハ(1838-1916)が主張したので、マッハ主義とか経験主義と呼ばれている。マッハは当時の原子論の発展に対して「実在するのは直接に経験される感覚の要素だ」「科学の目的はもっとも単純な仕方で感覚を整理し記述することである」と主張して、原子論は空想的で科学的ではないとした。{{Sfn|唐木田健一|1995|p=37}}}}と考える限り、プトレマイオスの方が科学的だとしなければならなくなる{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=20}}。プトレマイオスが地動説を否定したのは慣性の法則を知らなかったからであって、その限りではまったく科学的であるとしなければならない。コペルニクスが褒められるのは運良く現代の学説と同じものを主張した限りであって、プトレマイオスが悪く言われるのは、事実を重んじたために現代の学説と一致しなかっただけだとしなければならない。本当はプトレマイオスの方が科学的だという評価が成り立つとする科学史家もいた{{Sfn|板倉聖宣|1973|pp=20-21}}。 ===科学史の著者たちによる評価の混乱=== それでは、プトレマイオスは当時としても充分科学的であったのであろうか。コペルニクスはこう反論している「プトレマイオス<ref>上述の通り、実際には後世のアリストテレス『天体論』への注釈。『アルマゲスト』にはこのような主張は見られない。プトレマイオス自身の反論は、『アルマゲスト』H24-H26。</ref>は回転によって地球や地上のものが破壊されることを心配した。しかし、天よりもずっと運動が速く、地球よりずっと大きい宇宙に関して、なぜ彼は同じことを心配しないのであろうか{{Sfn|矢島祐利|1953|p=36}}」。プトレマイオスは地上の力学によって地球の運動を否定した。プトレマイオスは地球の運動を他の天体の運動と分離したのである。そのことをコペルニクスは批判している{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=21}}。こうなると「当時の目から見るとどちらも難点がつきまとっていた」ということになり、「実証的な科学者」はどちらにも与しない態度を取るべきであったということにもなりかねない{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=21}}。判決は「慣性の法則の発見」を待つべきだったということになる{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=21}}。ところが、地動説はその後教会の圧迫を受けながらも支持者を増やしていった。「どういう理由で賛成者が増えたのか不思議なこと」と書く科学史家も現れた{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=21}}。 ===コペルニクスの矛盾の捉え方=== 科学史家の[[板倉聖宣]]はアリストテレスの強制的運動と自然的運動は摩擦と慣性の客観的矛盾を表現しているとした{{Sfn|板倉聖宣|1973|pp=24}}。地上の運動の非慣性的運動も天体の慣性的運動もどちらも経験的事実として認めるしかない。慣性を発見できない限り、この2つの運動は現実に存在する矛盾として認めるしかない。プトレマイオスが地球の運動を否定したのは、それが地上の強制的運動に従うはずだという常識的見方をしたところにあった{{Sfn|板倉聖宣|1973|pp=24-25}}。しかし、コペルニクスは地球もその仲間であるはずの太陽や月や惑星が自然的運動をしているのだから、なぜ地球だけが自然的運動をしないのか、なぜ自然的運動は地球上の何物も攪乱するものではないとしてはいけないのか? と反論した{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=25}}。部分的な真理(地上の摩擦のある運動)を度外れに拡大する機械的考え方に導かれてアリストテレスやプトレマイオスは地球が静止していなければならないと考えた{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=25}}。板倉は「その結果、嫌でも認めなければならない天体の運動において神秘主義に陥った」とする{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=25}}。それに対してコペルニクスは天体運動に認められていた慣性運動を地球にも認め、地上の力学と対決させた。それが後にガリレオによる「地上の力学での慣性の発見」につながったのだと板倉は述べている{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=25}}。板倉は、コペルニクスがつかんだプトレマイオス説の矛盾を(1)その現象論的限界性に基づく絶えざる理論の修正と混乱。(2)根本仮説としている円運動と一様円運動を暗黙のうちに捨て、離心円、疑心などという逃げ道を考えざるを得なかったという理論内部の矛盾。(3)実体論的考察を拒否したことによって最初から持っていた矛盾。の3つとしている{{Sfn|板倉聖宣|1969|p=108}}。{{refnest|group="注"|板倉は「現代の科学史家でさえもこの矛盾を矛盾として気がついていないが、コペルニクスが偉大であるのは何よりもこの時代の天文学の中に見出された矛盾を、根本的矛盾としてつかみ取ったことにある」と評価した{{Sfn|板倉聖宣|1969|p=108}}。}} ===コペルニクスの実体論的方法=== 板倉はコペルニクスが矛盾を客観的に認めて、毎日の経験を元にした常識的な機械論的な考え方に反対できた理由として、彼の実体論的方法論をあげている{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=26}}。前述したようにコペルニクスが『アルマゲスト』の研究をした動機は「エカントを実在のものと認められなかった」ためであった。コペルニクスの目的が宇宙の真実の構造を明らかにすることにあったなら、天動説と地動説のどちらが決定的に正しいかを問題にせざるを得ない{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=27}}。現代の目から見ると天動説も地動説も原点の取り方の相違に過ぎないので、簡単か複雑か以外に優劣が付かないように思えるが、コペルニクスは幾何学的な作図の問題以上のものを発見している{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=27}}。コペルニクスは「地球がすべての回転の中心ではないことは、惑星の見かけの不等の運動および地球からの距離の変化によって証明されている。」と述べている{{Sfn|矢島祐利|1953|p=41}}。惑星の明るさが変化することは古代ギリシャ人の時代から知られていた。しかし天動説はもっぱら天体の運行を詳しく計算しようとして、星の方位のみに注目して周転円を積み重ねていった{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=27}}。ところがひとたび宇宙の構造が問題になると、「天体間の距離の問題」は極めて重要なものとなってくる。 コペルニクスは「惑星は夕方昇ってくるとき、すなわち太陽と[[衝]]にあって、地球が太陽と惑星の間にあるとき、いつも地球に最も近いのは確かである。反対に夕方沈むとき、すなわち惑星が太陽の近くにあるとき、いいかえると我々が太陽を惑星と地球の間に見るとき最も遠い。このことはそれらの回転の中心がむしろ太陽と関係している」ことや「金星と水星が太陽から一定角度以上離れることがないということを充分に証明している」と述べている{{Sfn|矢島祐利|1953|p=45}}。天動説でもこれらの観測事実を何とか説明していたが、コペルニクスの弟子の[[ゲオルク・レティクス|レティクス]]は「火星の明るさの変化はどんな周転円を取っても説明するのに不十分」と記した{{Sfn|ポール・クーデール|1952|p=89}}。 コペルニクスは幾何学的作図に満足できず、宇宙の真の構造を究めようとして地動説を立てて、天動説の誤っていることを明瞭にすることができた{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=28}}。その結果、コペルニクスの理論では惑星間の距離が観測結果によって具体的に考察され、観測によって惑星間の距離を測定することが可能となり、惑星間の距離と太陽からの順序を決めることができた{{Sfn|O.ギンガリッチ他|2008|pp=99-100}}{{refnest|group="注"|ホワイトの『科学と宗教の闘争』によれば、コペルニクスには次のような話が伝わっているという。 -「コペルニクスの敵は彼にこう言った。〈もしもお前の説が正しいならば金星は月と同じように満ち欠けするであろう〉と。コペルニクスは答えた。〈君のいうとおりだ。私にはいうべき言葉がない。しかし神は善である。やがてこの反対に対する答を神は見いだし給うだろう。〉とそれは後にガリレオ・ガリレイの望遠鏡による「金星の大きさの変化と満ち欠け」の発見で神の答えは与えられた{{Sfn|ホワイト|1939|p=49}}。ホワイトの原著の注釈{{Sfn|A.D.White|1877|p=33}}によれば、この逸話の出典はCAsar Cantuの''Histoire Universelle'',vol.15,p.473 となっている。板倉聖宣はこの逸話から「コペルニクスがいかに自説に自信を持っていたかということを示す」と論じた{{Sfn|板倉聖宣|1969|p=127}}{{Sfn|板倉聖宣|1973|p=28}}。しかしギンガリッチは、この話は「コペルニクスも彼の敵対者も、そのような実証のことなどまったく念頭になかった。」として「この話はイングランドの天文学者ジョン・キールが1718年に出版したラテン語の教本の中に書いた話が元で、それが語られるたびに粉飾され、ホワイトの本の見事な逸話に仕上がった」と架空の逸話であると述べている{{Sfn|O.ギンガリッチ|2005|p=182}}。}}。 ===理論の交代はなぜおこるのか=== コペルニクスの事例は「[[科学理論]]の交代が起こる原因」に示唆を与える。「理論選択の基準はその単純性にある」という[[マッハ主義]]の解釈は、プトレマイオスが既に地動説の単純性を知っていたにもかかわらず、それを否定して天動説を作ったことからあてはまらない{{Sfn|唐木田健一|1995|p=36}}。また、「基本理論の交代は理論外の契機によって起こる」、例えば新事実の発見とか他の理論の影響で生じるという説も当てはまらない。コペルニクスにはプトレマイオスが持っていなかった新事実など何もなかったからである{{Sfn|唐木田健一|1995|p=37}}。「理論は事実に合わせて変わるという実証主義」も、プトレマイオスの天動説は観測事実の説明において大いに実証的であったので当てはまらない{{Sfn|唐木田健一|1995|p=37}}。またトーマス・クーンの「パラダイム論」も「科学者による理論の選択は、もともと合理的な説明はできない宗教的回心のようなもの」と指摘するに留まり、理論の交代については何も説明していない{{Sfn|唐木田健一|1995|p=10}}{{refnest|group="注"|クーンは「ある個人が、いかにして集積された全てのデータに秩序を与える新しい方法を発明するか--は、ここでは測り知れないものであり、永遠に不可知にとどまるであろう」と述べている{{Sfn|トーマス・クーン|1971|p=102}}}}。 これに対して、基本理論の交代における矛盾の重要性を科学史家の[[板倉聖宣]]は古くから具体的に明らかにしている{{Sfn|唐木田健一|1995|p=24}}。板倉は「新理論は旧理論の内部矛盾の検討を通して誕生する」と主張した{{Sfn|唐木田健一|1995|p=24}}。コペルニクスはアルマゲストの理論に首尾一貫性の欠如による矛盾が生じていることに着目し、それを乗り越える過程で地動説に到達した{{Sfn|唐木田健一|1995|p=38}}。そのため新理論の提唱者はしばしば古めかしい概念を引きずっている。コペルニクスもアリストテレスの運動論や一様円運動の概念を使っていた。そのため新理論と旧理論はしばしば「どっちもどっち」のように見られ、相対主義に陥ることがある{{refnest|group="注"|たとえば宮本正太郎は「当時の目から見るとそのいずれも難点がつきまとっていた。プトレマイオスは地球を回転せしめる時の難点の方を重しとみて、天動説を採ったが、コペルニクスはこれと反対の結論に達したのである」と書いた{{Sfn|板倉聖宣|1969|p=121}}。}}。それは理論内部の矛盾に着目することによって初めて乗り越えられる{{Sfn|唐木田健一|1995|pp=37-38}}。板倉は「このような矛盾の分析がこの歴史を解明する鍵であるが故に「矛盾」を真に理解し得ない科学史家はコペルニクスを評価し得なかった」と指摘した{{Sfn|板倉聖宣|1969|p=125}}。{{see also|板倉聖宣#科学思想}} == ナチス政権下での国籍論争 == [[ドイツ]]で[[ナチス]]が勢力を誇っていた時代は、彼が[[ポーランド人]]か[[ドイツ人]]かが大きな論争の的となった([[コペルニクスの国籍論争]])が、現在は「[[多民族国家]][[ポーランド王国]]の国民(すなわち[[国籍]]はポーランド人)であり、[[クラクフ]]の大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方の[[ドイツ語]]の方言を母語とする家系([[民族]]はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。 == 記念 == === 元素名 === [[超アクチノイド元素]]のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"([[コペルニシウム]])と命名された。この新元素名 "copernicium" は2009年に発見者であるドイツの[[重イオン研究所]] (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC([[国際純正・応用化学連合]])から正式名として発表された<ref>{{Cite web|date=2010-02-20|url=http://www.iupac.org/web/nt/2010-02-20_112_Copernicium|title=News: Element 112 is Named Copernicium|publisher=IUPAC|accessdate=2010-11-23}}</ref>。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、[[ニールス・ボーア]]による[[ボーアの原子模型|原子モデル]]に通じると述べられている。 === その他 === コペルニクスはポーランドでもっとも有名な偉人の一人であり、ポーランドには彼にちなむ事物が多く存在する。コペルニクスの生家はトルンの旧市街に現在も残っており、コペルニクス博物館となっている<ref>[http://www.poland.travel/ja/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0%EF%BC%86%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8 コペルニクス博物館] - ポーランド政府観光局 2016年9月13日閲覧</ref>。また、彼が観測を続けたフロムボルク城内のコペルニクスの塔にも[[1948年]]に同じくコペルニクス博物館が開設されている<ref>[http://frombork.art.pl/pl/ フロムボルク・ミコワイ・コペルニク博物館]、2016年9月13日閲覧</ref>。上記の2つはコペルニクスが実際に暮らした場所であるが、それ以外にもコペルニクスの名がつけられたものは数多い。ポーランドにおいて[[1965年]]10月29日より発行されていた1000[[ズウォティ]]紙幣に彼の肖像が使用されていた。この紙幣は[[1996年]]まで発行されていた。[[1945年]]にはコペルニクスの生地であるトルンに大学が設置されたが、大学名は彼の名を取りニコラウス・コペルニクス大学とされた。[[2005年]]に[[ワルシャワ]]に建てられたポーランド最大の[[科学館]]は、[[コペルニクス科学センター]]と名付けられている。[[1972年]]にはコペルニクス生誕500周年を祝うため、[[ヘンリク・グレツキ]]により[[交響曲第2番 (グレツキ)|交響曲第2番『コペルニクス党』]]が作曲された。 天文学関係においても彼にちなんで名付けられたものは多い。[[月]]面の[[嵐の大洋]]の東部にある最も目立つ[[クレーター]]に[[コペルニクス (クレーター)|コペルニクス]]の名が与えられている。また、[[1972年]]に打ち上げられ[[1981年]]2月まで運用された[[OAO (人工衛星)|OAO]]3号にもコペルニクスの名が与えられていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} == 出典 == {{Reflist|2}} ==参考文献== *{{Cite book|author=Andrew Dickson White|title=WARFARE OF SCIENCE|publisher=NY:D.Appleton & Company|year=1877|ref={{Sfnref|A.D.White|1877}}}} * {{Cite book|和書|author=ホワイト|translator=森島恒雄|authorlink=|title=科学と宗教との闘争|publisher=岩波新書 |journal=|pages=|isbn=|year=1939|ref={{Sfnref|ホワイト|1939}} }}{{全国書誌番号|47035766}} * {{Cite book|和書|author=ポール・クーデール|translator=[[石田五郎]]|authorlink=|title=天文学の歩み|publisher=白水社 |journal=|pages=|isbn=|year=1952|ref={{Sfnref|ポール・クーデール|1952}} }}{{全国書誌番号|52009075}} * {{Cite book|和書|author=コペルニクス|translator=[[矢島祐利]]|authorlink=|title=天体の回転について|publisher=岩波書店 |journal=|pages=|isbn=|year=1953|ref={{Sfnref|矢島祐利|1953}} }}{{全国書誌番号|53003961}} * {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=天動説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析|publisher=季節社|journal=科学と方法|volume=|issue=|pages=81-133|year=1969|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1969}} }}(初出は、東大自然弁証法研究会『科学と方法』別冊2、1953年6月){{全国書誌番号|69000102}} * {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=コペルニクスから何を学ぶか -科学としての科学史の研究学風の建設のために|publisher=季節社|journal=科学の形成と論理|volume=|issue=|pages=11-30|year=1973|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1973}} }}(初出は、日本科学史学会『科学史研究』第27号、1953年11月){{全国書誌番号|77018901}} *{{Cite book|和書|author=トーマス・クーン|authorlink=トーマス・クーン|translator=[[常石敬一]]|title=コペルニクス革命|publisher=講談社学術文庫|year=1989|isbn=4-06-158881-8|ref={{Sfnref|トーマス・クーン|1989}} }}(初版1957年) * {{Cite book|和書|author=トーマス・クーン|translator=[[中山茂]]|title=科学革命の構造|publisher=みすず書房 |journal=|pages=|isbn=4-622-01667-2|year=1971|ref={{Sfnref|トーマス・クーン|1971}} }}{{全国書誌番号|69002536}} * {{Cite book|和書|author=唐木田健一|translator=|authorlink=|title=理論の創造と創造の理論|publisher=朝倉書店 |journal=|pages=|isbn=|year=1995|ref={{Sfnref|唐木田健一|1995}} }}{{全国書誌番号|95060086}} * {{Cite book|和書|author=コペルニクス|translator=[[高橋憲一 (科学史家)|高橋憲一]]|authorlink=|title=コペルニクス 天球回転論|publisher=みすず書房 |journal=|pages=|isbn=|year=1993|ref={{Sfnref|高橋憲一|1993}} }}{{全国書誌番号|95060086}} *{{Cite book|和書|author=アーサー・ケストラー|translator=有賀寿|title=コペルニクス|publisher=すぐ書房|year=1977|ref={{Sfnref|ケストラー|1977}}}}{{全国書誌番号|78004277}} *{{Cite book|和書|author=渡邊正雄|author2=石川孝夫|author3=笠耐|translator=|title=プロジェクト物理2 -天体の運動|publisher=コロナ社|year=1978|ref={{Sfnref|渡邊正雄|1978}}}}{{全国書誌番号|78034569}} * A.アーミティジ『太陽よ、汝は動かず コペルニクスの世界』 奥住喜重訳 岩波新書、1962. * [[広瀬秀雄]] 『コペルニクス』牧書店 1965. 世界思想家全書 * 広瀬秀雄 等『コペルニクスと現代』 時事通信社、1973. * ヤン・アダムチェフスキ『ニコラウス・コペルニクス その人と時代』 小町真之、坂元多訳、日本放送出版協会、1973. のち恒文社 * [[フレッド・ホイル]]『コペルニクス その生涯と業績』 中島竜三訳、法政大学出版局、1974. * {{Cite book|和書|author=オーウェン・ギンガリッチ|translator=柴田裕之|title=誰も読まなかったコペルニクス:科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険|publisher=早川書房|year=2005|isbn=4-15-208673-4||ref={{Sfnref|O.ギンガリッチ|2005}}}}{{全国書誌番号|20879037}} * {{Cite book|和書|author=O.ギンガリッチ|author2=J.マクラクラン|translator=林大|authorlink=|title=コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ(オックスフォード科学の肖像)|publisher=大月書店 |journal=|pages=|isbn=|year=2008|ref={{Sfnref|O.ギンガリッチ他|2008}}}}{{全国書誌番号|21519349}} == 関連項目 == * [[コペルニクス的転回]] * [[イブン・シャーティル]] - コペルニクスに影響を与えたとされるイスラム科学者 * [[ナスィールッディーン・トゥースィー]] - コペルニクスに影響を与えたとされるイスラム科学者 * [[コペル21]] - コペルニクスの名に因んだ子供向け科学雑誌。かつて[[くもん出版]]から出版されていた。 * [[ベルテル・トルバルセン]] - ポーランドにある『コペルニクス像』を手がけた彫刻家。 * [[天文学者の一覧#15世紀生まれの天文学者|15世紀生まれの天文学者]] * [[科学的認識の成立条件]] == 外部リンク == {{commons|Nicolaus Copernicus}} * [http://www.frombork.art.pl/ Muzeum Mikolaja Kopernika](コペルニクス博物館) * {{Kotobank|コペルニクス}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こへるにくす にこらうす}} [[Category:ニコラウス・コペルニクス|*]] [[Category:15世紀ポーランドの人物]] [[Category:16世紀ポーランドの人物]] [[Category:15世紀ドイツの科学者]] [[Category:16世紀ドイツの科学者]] [[Category:15世紀の天文学者]] [[Category:16世紀の天文学者]] [[Category:15世紀の学者]] [[Category:16世紀の学者]] [[Category:ドイツの天文学者]] [[Category:ドイツの数学者]] [[Category:ポーランドの天文学者]] [[Category:ポーランドのカトリック教会の信者]] [[Category:ポーランドの占星術師]] [[Category:カトリック聖職者の科学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:ルネサンスの科学者]] [[Category:ポーランド・ズウォティ紙幣の人物]] [[Category:ドイツ系ポーランド人]] [[Category:トルン出身の人物]] [[Category:ボローニャ大学出身の人物]] [[Category:パドヴァ大学出身の人物]] [[Category:天文学に関する記事|にこらうすこへるにくす]] [[Category:1473年生]] [[Category:1543年没]]
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